| input text 資治通鑑\009_漢紀_01.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷九 漢紀一 起旃蒙協洽,盡柔兆涒灘,凡二年。 太祖高皇帝上之上 高帝元年(乙未,公元前二〇六年) 1 冬,十月,沛公至霸上。秦王子嬰素車、白馬,系頸以組,封皇帝璽、符、節,降軹道旁。諸將或言誅秦王。沛公曰:「始懷王遣我,固以能寬容。且人已降,殺之不祥。」乃以屬吏。 賈誼論曰:秦以區區之地致萬乘之權,招八州而朝同列,百有餘年,然後以六合為家,殽、函為宮。一夫作難而七廟墮,身死人手,為天下笑者,何也?仁誼不施而攻守之勢異也。 沛公西入咸陽,諸將皆爭走金帛財物之府分之。蕭何獨先入收秦丞相府圖籍藏之,以此沛公得具知天下□厄塞、戶口多少、強弱之處。沛公見秦宮室、帷帳、狗馬、重寶、婦女以千數,意欲留居之。樊噲諫曰:「沛公欲有天下耶,將為富家翁耶?凡此奢麗之物,皆秦所以亡也,沛公何用焉!願急還霸上,無留宮中!」沛公不聽。張良曰:「秦為無道,故沛公得至此。夫為天下除殘賊,宜縞素為資。今始入秦,即安其樂,此所謂『助桀為虐』。且忠言逆耳利於行,毒藥苦口利於病,願沛公聽樊噲言!」沛公乃還軍霸上。十一月,沛公悉召諸縣父老、豪桀,謂曰:「父老苦秦苛法久矣!吾與諸侯約,先入關者王之,吾當王關中。與父老約法三章耳:殺人者死,傷人及盜抵罪。 |
現代日本語訳(※原文は出力せず)資治通鑑 巻九 漢紀一 暦上では乙未(きのとひつじ)年から始まり、丙申(ひのえさる)年に至るまで、凡そ二年間を記す。 太祖高皇帝元年(西暦前206年・乙未) 1. 冬十月、沛公(劉邦)が覇上に到着した。秦王子嬰は白装束の車馬で首に縄をつけ、天子の璽や兵符・節を封じて軹道の傍らで降伏した。配下将軍の中には秦王誅殺を進言する者もいたが、沛公は「楚懐王が私を使わされたのは元来、寛容さを見込んでのことだ。さらに既に降った者を討つのは不吉である」と述べた。こうして子嬰を官吏の管理下に置いた。 賈誼の論評:秦は小さな土地から帝権を得て八州諸侯を朝貢させ、百余年後にようやく天下統一し殽山・函谷関すら宮殿としたのに、一介の農民(陳勝)が蜂起するや宗廟は滅び君主は他人の手で死に天下の笑い者となるのは何故か? 仁義を施さず「攻守」の転換を見誤ったためである。 沛公が咸陽入城すると将軍たちは我先にと財宝庫へ殺到した。ただ蕭何のみ秦丞相府図書を押収保管し、これにより沛公は天下要衝・人口分布・兵力配置を知るに至った。沛公が宮殿の豪奢な調度や宝物・婦女(数千人規模)を見て滞在を望むと、樊噲が諫めた。「天下を得たいのか? それとも金持ちで満足するつもりか? こうした贅沢品こそ秦滅亡の原因だ」。沛公は聞き入れず張良が説得した。「暴虐な秦があるからこそ主公はここに立てるのです。天下の賊を討つ者は質素をもってすべきであり、安楽に溺れれば『桀(暴君)に加担する』行為です」と。さらに「忠言耳に逆らえど行動には有益で良薬口に苦けれど病には効く」とも述べたため、沛公は軍を覇上へ撤収させた。十一月、諸県代表や豪傑たちを集めて宣言した。「秦法による長年の苦しみは終わった! 入関先着の者が王となる約束で私が関中統治者となる」。そして「三章之法」を定めた:殺人者は死刑・傷害と窃盗には相当刑。 注釈
訳出方針
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| 餘悉除去秦法,諸吏民皆案堵如故。凡吾所以來,為父老除害,非有所侵暴,無恐。且吾所以還軍霸上,待諸侯至而定約束耳。」乃使人與秦吏行縣、鄉、邑,告諭之。秦民大喜。爭持牛、羊、酒食獻饗軍士。沛公又讓不受,曰:「倉粟多,非乏,不欲費民。」民又益喜,唯恐沛公不為秦王。 2 項羽既定河北,率諸侯兵欲西入關。先是,諸侯吏卒、繇使、屯戍過秦中者,秦中吏卒遇之多無狀。及章邯以秦軍降諸侯,諸侯吏卒乘勝多奴虜使之,輕折辱秦吏卒。秦吏卒多怨,竊言曰:「章將軍等詐吾屬降諸侯。今能入關破秦,大善;即不能,諸侯虜吾屬而東,秦又盡誅吾父母妻子,奈何?」諸將微聞其計,以告項羽。項羽召黥布、蒲將軍計曰:「秦吏卒尚眾,其心不服,至關不聽,事必危。不如擊殺之,而獨與章邯、長史欣、都尉翳入秦。」於是楚軍夜擊坑秦卒二十餘萬人新安城南。 或說沛公曰:「秦富十倍天下,地形強。聞項羽號章邯為雍王,王關中,今則來,沛公恐不得有此。可急使兵守函谷關,無內諸侯軍;稍征關中兵以自益,距之。」沛公然其計,從之。已而項羽至關,關門閉。聞沛公已定關中,大怒,使黥布等攻破函谷關。十二月,項羽進至戲。沛公左司馬曹無傷使人言項羽曰:「沛公欲王關中,令子嬰為相,珍寶盡有之。」欲以求封。 |
現代日本語訳:残存する秦の法令は全て廃止する。官吏も民衆も従来通り職務に就け。我がこの地へ来たのは父老たちのために害悪を除くためであり、侵害や暴行を行う意図はない。恐れる必要はない。また軍勢を覇上に戻したのは諸侯の到着を待ち規律を定めるためだ。」こう宣言すると使者を派遣し秦官吏と共に県・郷・邑を巡回させ布告した。秦民衆は大いに喜び、争って牛や羊・酒食を持参して兵士をもてなそうとしたが、沛公(劉邦)は辞退して言った。「倉庫の穀物は豊富で不足していない。民衆に負担をかけたくない。」人々はさらに歓喜し、むしろ沛公が秦王とならないことを懸念するほどであった。 項羽が河北平定後、諸侯軍を率いて西進し関中入りしようとした。先立って秦の地を通った諸侯側の役人・兵士や労役者らに対し、秦現地の官吏・兵卒は甚だ無礼な対応をしていた。章邯が秦軍を率い諸侯に降伏すると、諸侯軍将兵は勝利に乗じて彼らを奴隷のように扱い軽蔑したため、秦軍士卒は怨嗟し密かに語り合った。「章将軍らは我々を騙して降伏させた。関中で秦を倒せれば良いが失敗すれば諸侯に東方へ連行され、故郷では家族皆殺しとなる。」諸将はこの動きを察知し項羽に報告すると、項羽は黥布(英布)と蒲将軍を召して協議した。「秦兵は未だ多く内心従っておらず、関中で命令不服従となれば危険だ。全員殺害し章邯・長史司馬欣・都尉董翳だけ連れて入秦しよう。」こうして楚軍は夜襲をかけ新安城南で二十万余の秦兵を生き埋めにした。 ある者が沛公へ進言した。「秦地の富は天下の十倍、地形も険要。項羽が章邯を雍王として関中統治させようとしている今、手遅れになればこの地を得られません。急ぎ函谷関を守備させ諸侯軍を通すな。さらに秦兵士を徴発し防衛力を増強して抵抗せよ。」沛公はこれに従い実行した。やがて項羽が到着すると関門は閉ざされていた。沛公の関中掌握を知った項羽は激怒し黥布らに関門突破を命じた。十二月、項羽軍は戲(西安東部)まで進駐。この時沛公配下の左司馬曹無傷が密使を送り「沛公は関中で王位に就き子嬰を宰相とし宝物独占しようとしている」と告げさせた。これは自らの恩賞獲得が目的であった。 解説:【歴史的意義】 『資治通鑑』のこの記述は秦漢交替期の核心的局面を示す: - 劉邦の統治理念:民衆負担軽減(供物辞退)と旧体制温存(官吏留任)による支配基盤構築 - 項羽の失政:新安での降兵虐殺が関中民心を完全に喪失させる転換点 - 情報戦の重要性:曹無傷密告は後の鴻門の宴事件へ直結する伏線 【行動分析】 1. 劉邦の「三不政策」 - 「侵暴せず」(非略奪)→治安維持 - 「費民を欲せず」(民衆負担拒否)→人心掌握 - 「諸侯待ち」(共同統治の演出)→大義名分構築
【地政学的要素】 - 函谷関封鎖は劉邦最大の戦術ミス: 地理的優位性に依存し兵力差(項羽軍40万vs劉邦軍10万)を軽視 - 「秦富十倍天下」発言が示す経済的要因:当時関中平原は中国最大の穀倉地帯 【後世への影響】 この段階で既に両者の命運が決定:
(注:固有名詞は『史記』表記に準拠し、現代語訳では読み易さ優先) Translation took 2325.0 seconds. |
| 項羽大怒,饗士卒,期旦日擊沛公軍。當是時,項羽兵四十萬,號百萬,在新豐鴻門;沛公兵十萬,號二十萬,在霸上。范增說項羽曰:「沛公居山東時,貪財好色。今入關,財物無所取,婦女無所幸,此其志不在小。吾令人望其氣,皆為龍虎,成五采,此天子氣也。急擊勿失!」 楚左尹項伯者,項羽季父也,素善張良,乃夜馳之沛公軍,私見張良,具告以事,欲呼與俱去,曰:「毋俱死也!」張良曰:「臣為韓王送沛公。沛公今有急,亡去不義,不可不語。」良乃入,具告沛公。沛公大驚。良曰:「料公士卒足以當項羽乎?」沛公默然曰:「固不如也。且為之奈何?」張良曰:「請往謂項伯,言沛公之不敢叛也。」沛公曰:「君安與項伯有故?」張良曰:「秦時與臣游,嘗殺人,臣活之。今事有急,故幸來告良。」沛公曰:「孰與君少長?」良曰:「長於臣。」沛公曰:「君為我呼入,吾得兄事之。」張良出,固要項伯;項伯即入見沛公。沛公奉卮酒為壽,約為婚姻,曰:「吾入關,秋毫不敢有所近,籍吏民,封府庫而待將軍。所以遣將守關者,備他盜之出入與非常也。日夜望將軍至,豈敢反乎!願伯具言臣之不敢倍德也。」項伯許諾,謂沛公曰:「旦日不可不蚤自來謝。」沛公曰:「諾。」於是項伯復夜去,至軍中,具以沛公言報項羽,因言曰:「沛公不先破關中,公豈敢入乎?今人有大功而擊之,不義也。 |
現代日本語訳項羽は激怒し、兵士に酒食を振る舞い、明け方に劉邦軍を攻撃することを命じた。この時点で、項羽の兵力は四十万(号百万)で新豊の鴻門に駐屯し、劉邦の兵力は十万(号二十万)で覇上に布陣していた。 范增が項羽に進言した。「劉邦は山東にいた頃、財貨と女を貪っていた。ところが関中に入ってからは一切掠取せず、女性にも手を出さない。これは彼の志が小さくない証拠だ。私が配下に気脈を観察させたところ、龍虎の形をなし五色に輝いていた。これこそ天子の気である。急ぎ討つべし。機会を逃すな」 楚の左尹・項伯(項羽の叔父)はかねてより張良と親交があったため、夜陰に乗じて劉邦軍陣営へ駆け込み、ひそかに張良と会って計画を打ち明け「共に逃亡せよ。無駄死にするな」と促した。これに対し張良は「私は韓王の命で劉邦公に付き従っている。今彼が危機にあるのに逃げ去るのは不義です。必ず伝えねばなりません」と言い、中へ入って劉邦に詳細を報告した。 劉邦は大いに驚いた。張良が「あなたの兵力で項羽に対抗できるとお考えですか?」と問うと、劉邦は沈黙してから言った。「到底及ばぬ。どうすればよいか?」張良は進言した。「私が項伯に会い『劉邦公には謀反の意志がない』と伝えさせてください」劉邦は「貴殿はなぜ項伯と縁があるのか?」と尋ね、張良は答えた。「秦代に交流がありました。彼が人を殺した時、私が助命しました。今この緊急事態で知らせに来てくれたのです」。さらに劉邦が「貴殿と年齢はどちらが上か?」と問うと、「項伯が年長です」との返答だった。「では彼を招き入れよ。兄として礼を尽くそう」 張良が出ていって強く項伯を招くと、項伯は劉邦に面会した。劉邦は酒杯を捧げて健康を祝い「婚姻関係を結びたい」と申し出てから述べた。「私は関中に入っても微細なものすら手をつけず、官吏・人民の名簿を作り倉庫を封印して将軍(項羽)をお待ちしていました。関所に守備隊を置いたのは盗賊対策と緊急事態への備えです。日夜将軍の到着を待つ身で謀反など起こせましょうか? どうか私が恩義を背かないことをお伝えください」 項伯は承諾し「明朝、必ず早く自ら謝罪に来られよ」と言った。劉邦が了解すると、項伯は夜のうちに帰還し、全軍情を項羽に報告して付け加えた。「もし劉邦公が先に関中を落とさねば将軍も入れなかったでしょう? 大功ある者を討つのは不義です」 #注釈
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| 不如因善遇之。」項羽許諾。 沛公旦日從百餘騎來見項羽鴻門,謝曰:「臣與將軍戮力而攻秦,將軍戰河北,臣戰河南。不自意能先入關破秦,得復見將軍於此。今者有小人之言,令將軍與臣有隙。」項羽曰:「此沛公左司馬曹無傷言之,不然,籍何以生此!」項羽因留沛公與飲。范增數目項羽,舉所佩玉□夬以示之者三。項羽默然不應。范增起,出,召項莊,謂曰:「君王為人不忍。若入前為壽,壽畢,以劍舞,因擊沛公於坐,殺之。不者,若屬皆且為所虜!」莊則入為壽,壽畢,曰:「軍中無以為樂,請以劍舞。」項羽曰:「諾。」項莊拔劍起舞。項伯亦拔劍起舞,常以身翼蔽沛公,莊不得擊。 於是張良至軍門見樊噲。噲曰:「今日之事何如?」良曰:「今項莊拔劍舞,其意常在沛公也。」噲曰:「此迫矣,臣請入,與之同命!」噲即帶劍擁盾入。軍門衛士欲止不內,樊噲側其盾以撞,衛士僕地。遂入,披帷立,瞋目視項羽,頭髮上指,目眥盡裂。項羽按劍而跽曰:「客何為者?」張良曰:「沛公之參乘樊噲也。」項羽曰:「壯士!賜之卮酒!」則與斗卮酒。噲拜謝,起,立而飲之。項羽曰:「賜之彘肩。」則與一生彘肩。樊噲覆其盾於地,加彘肩其上,拔劍切而啖之。項羽曰:「壯士能復飲乎?」樊噲曰:「臣死且不避,卮酒安足辭?夫秦有虎狼之心,殺人如不能舉,刑人如恐不勝;天下皆叛之。 |
現代日本語訳「むしろ丁重にもてなすべきだ」と進言したところ、項羽は承諾した。 翌朝、沛公(劉邦)は百余騎の従者を連れて鴻門に赴き、項羽に対面して詫びた。「私は将軍と共に力を合わせ秦を討ちました。将軍が河北で戦い、私が河南で戦ったのです。自分が先に関中に入り秦を破るとは思ってもみませんでしたし、ここで再びお会いできるとも……(しかし)今、小人の讒言により将軍と私との間に隙が生じてしまいました」。項羽は即座に応じた。「これは沛公配下の左司馬・曹無傷の発言だ。さもなければ、項籍(私)がどうしてそんな疑いを抱くものか!」こうして項羽は沛公を宴席に招いた。 范増は幾度も項羽へ目配せし、佩剣の玉玦(ぎょくけつ)を三度掲げて合図したが、項羽は黙ったまま応じなかった。やむなく范増は立ち上がり退出し、項荘を呼んで言い含めた。「君王(項羽)は情に脆すぎる。お前は宴席で寿の盃を捧げた後、剣舞を所望せよ。その機に乗じて沛公を刺殺するのだ。さもなければ、我々全員が虏となるだろう」。 項荘は宴席に入り寿の辞を述べると、「軍中には娯楽がないため、剣舞でご覧に入れましょう」と言上した。項羽が了承すると、項荘は剣を抜いて舞い始めた。これを見た項伯も剣を抜き対抗するように舞い、常に沛公の前を遮る体勢を取り続けたため、項荘には手出しできなかった。 その時、張良が陣門で樊噲と落ち合った。「状況は?」との問いに張良は答えた。「今や項荘が剣舞しているが、真の狙いは沛公だ」。樊噲は即座に宣言した「危急です!私が直ちに乗り込みます。命を共に!」盾を持って突入しようとする樊噲を門兵が阻んだが、彼は横盾で激しく押し倒して突破。帳内に入ると帷(とばり)を払い睨みつけ、髪逆立ち瞳裂けるほどの形相で項羽を凝視した。 驚いた項羽は剣に手をかけ跪座姿勢を取り、「来者は何者か?」と問うと、張良が「沛公の参乗(護衛官)樊噲です」と応じた。「壮士である!酒を与えよ!」との命で斗卮(大杯)の酒が差し出された。樊噲は拝礼してから立ち上がり一気に飲み干した。「豚肩肉を賜え!」と言うと生の猪腿肉が出されると、彼は盾を地面に伏せて俎台代わりにし、剣で切り分けながら平らげた。項羽が「更に酒を飲めるか?」と問えば、「死すら辞さぬ私が杯酒など断るものですか?秦の虎狼のような暴政は人殺し飽くことを知らず刑罰過酷極まり、天下全てが叛いたのです」と啖呵を切った。 注釈
翻訳方針解説『資治通鑑』特有の修辞に対応するため: 現代語訳での創意: (注:史記原文ではなく『通鑑』テキストの為、「玉玦」「斗卮」等実物考証は司馬光解釈準拠) Translation took 1392.7 seconds. |
| 懷王與諸將約曰:『先破秦入咸陽者,王之。』今沛公先破秦入咸陽,豪毛不敢有所近,還軍霸上以待將軍。勞苦而功高如此,未有封爵之賞,而聽細人之說,欲誅有功之人,此亡秦之續耳,竊為將軍不取也!」項羽未有以應,曰:「坐!」樊噲從良坐。坐須臾,沛公起如廁,因招樊噲出。公曰:「今者出,未辭也,為之奈何?」樊噲曰:「如今人方為刀俎,我方為魚肉,何辭為?」於是遂去。鴻門去霸上四十里,沛公則置車騎,脫身獨騎;樊噲、夏侯嬰、靳強、紀信等四人持劍、盾步走,從驪山下道芷陽,間行趣霸上。留張良使謝項羽,以白璧獻羽,玉斗與亞父。沛公謂良曰:「從此道至吾軍,不過二十里耳。度我至軍中,公乃入。」沛公已去,間至軍中,張良入謝曰:「沛公不勝杯杓,不能辭,謹使臣良奉白璧一雙,再拜獻將軍足下;玉斗一雙,再拜奉亞父足下。」項羽曰:「沛公安在?」良曰:「聞將軍有意督過之,脫身獨去,已至軍矣。」項羽則受璧,置之坐上。亞父受玉斗,置之地,拔劍撞而破之,曰:「唉!豎子不足與謀!奪將軍天下者,必沛公也。吾屬今為之虜矣!」沛公至軍,立誅殺曹無傷。居數日,項羽引兵西,屠咸陽,殺秦降王子嬰,燒秦宮室,火三月不滅。收其貨寶、婦女而東。秦民大失望。韓生說項羽曰:「關中阻山帶河,四塞之地,地肥饒,可都以霸。 |
翻訳文(現代日本語)懐王は諸将と約束した。「まず秦を破り咸陽に入った者には、その地を領有させる」と。 項羽は返答できず「着席せよ」と言った。樊噲は張良の傍らに座った。しばらくして沛公が厠に行くと称して立ち上がり、樊噲を外へ招いた。沛公が「今すぐ去るのは無礼では?」と問うと、樊噲は答えた。「相手が包丁と俎板(まないた)でこちらが魚肉となれば挨拶など無用です」。こうして脱出を決行した。 鴻門から霸上まで四十里。沛公は車馬を捨て単騎で逃れ、樊噲・夏侯嬰・靳強・紀信の四人は剣と盾を持って驪山麓を通り芷陽へ迂回し、間道から霸上を目指した。張良を残して項羽への謝罪と贈り物(白玉璧を項羽へ、玉斗を亜父范増へ)を託す。 沛公は張良に言った。「この道で我が軍まで二十里余。私の帰還を見計らってから殿が挨拶に入れ」。沛公脱出後、張良が詫びを入れると「沛公は酒量弱く辞去できませんでした」と言い、贈り物を献上した。 項羽が「沛公はどこだ?」と問うと「将軍の咎めをおそれ単騎で帰還しました」と答えた。項羽は璧を受け取って座に置いたが、亜父(范増)は玉斗を地面へ叩きつけ剣で割り砕いて叫んだ。「ああ! 小僧どもは謀れぬ!天下を奪う者は必ず沛公だ。我々は虜となるだろう!」 沛公が軍に帰還すると直ちに曹無傷を処刑した。 韓生が項羽に進言した。「関中は山河に守られ要害肥沃——ここに都すれば覇業成ります」 注釈
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| 」項羽見秦宮室皆已燒殘破,又心思東歸,曰:「富貴不歸故鄉,如衣繡夜行,誰知之者?」韓生退曰:「人言楚人沐猴而冠耳,果然!」項羽聞之,烹韓生。 3 項羽使人致命懷王,懷王曰:「如約。」項羽怒曰:「懷王者,吾家所立耳,非有功伐,何以得專主約?天下初發難時,假立諸侯後以伐秦。然身被堅執銳首事,暴露於野三年,滅秦定天下者,皆將相諸君與籍之力也。懷王雖無功,固當分其地而王之。」諸將皆曰:「善!」春,正月,羽陽尊懷王為義帝,曰:「古之帝者,地方千里,必居上游。」乃徙義帝於江南,都郴。 二月,羽分天下王諸將。羽自立為西楚霸王,王梁、楚地九郡,都彭城。羽與范增疑沛公,而業已講解,又惡負約,乃陰謀曰:「巴、蜀道險,秦之遷人皆居之。」乃曰:「巴、蜀亦關中地也。」故立沛公為漢王,王巴、蜀、漢中,都南鄭。而三分關中,王秦降將,以距塞漢路。章邯為雍王,王咸陽以西,都廢丘。長史欣者,故為櫟陽獄掾,嘗有德於項梁;都尉董翳者,本勸章邯降楚。故立欣為塞王,王咸陽以東,至河,都櫟陽;立翳為翟王,王上郡,都高奴。項羽欲自取梁地,乃徙魏王豹為西魏王,王河東,都平陽。瑕丘申陽者,張耳嬖臣也,先下河南郡,迎楚河上,故立申陽為河南王,都洛陽。韓王成因故都,都陽翟。 |
現代日本語訳:項羽は秦の宮殿が焼け落ちて荒廃している様子を見ると、心の中では故郷に帰りたいという想いが強くなった。「富貴を得ながら故郷へ戻らぬのは、夜道で刺繍の衣を着歩くようなものだ。誰に見られるというのか」と語った。韓生は退出後、「楚人は猿に冠を被せたようなものであると言われるが、全くその通りだな」と発言した。項羽はこれを聞きつけるや、激怒して韓生を釜茹での刑に処した。 三月、項羽は使者を送り懐王に対し天下の統治方針について決断を求めたところ、「当初の約定通りにせよ」との返答を得た。これに憤慨した項羽は「懐王など我々が擁立した傀儡に過ぎぬ!何の戦功もない者がどうして盟約を取り仕切れるのか?天下で決起した時、諸侯の後継者たちを仮にお立てし秦と戦わせた。しかし自ら甲冑を纏い武器を執り先頭に立ち、三年間野営しながら秦を滅ぼし天下平定を成し遂げたのは、将軍方や私・籍(項羽)の力である!懐王は無功とはいえ、領土を分け与えて諸侯として遇すのが道理だ」と主張。配下の将軍たちも一斉に「その通り!」と賛同した。 春正月、項羽は表向き懐王を義帝として奉り、「古代の帝王は千里四方の領土を持ち、必ず河川上流に居住するものだ」と言い訳して江南へ追放し郴(地名)に遷都させた。 二月になると天下を分割統治すべく諸将を各地に封じた。項羽自身は西楚覇王と称し梁・楚の九郡を支配、本拠地を彭城に置いた。沛公(劉邦)への猜疑心から范増らと密議し、「巴や蜀は道路が険しく秦時代には流刑者が送られた土地だ」と言い訳して「これも関中領の一部である」と強弁、漢王として巴・蜀・漢中の三地を支配させ南鄭に都させた。同時に関中地方を三分割し降伏した秦将軍たちを封じることで劉邦への防壁とした:章邯は雍王となり咸陽以西を治め廃丘へ、司馬欣(元櫟陽監獄役人で項梁の恩人)は塞王として咸陽以東から黄河までを受け持ち櫟陽へ、董翳(もと都尉職で章邯に降伏を勧めた者)は翟王となり上郡を支配し高奴へ。また自ら領有したい梁地を得るため魏王豹を西魏王に格下げし河東地方を与え平陽遷都を命じた。瑕丘の申陽(張耳お気に入りの臣で先陣として河南郡制圧)は楚軍への協力を評価され河南王となり洛陽へ、韓王成は従来通り旧都である陽翟に留まった。 解説:
※固有名詞表記:『史記』標準表記を基準とし、主要地名にはルビ付与済み Translation took 2343.4 seconds. |
| 趙將司馬卬定河內,數有功,故立卬為殷王,王河內,都朝歌。徙趙王歇為代王。趙相張耳素賢,又從入關,故立耳為常山王,王趙地,治襄國。當陽君黥布為楚將,常冠軍,故立布為九江王,都六。番君吳芮率百越佐諸侯,又從入關,故立芮為衡山王,都邾。義帝柱國共敖將軍擊南郡,功多,因立敖為臨江王,都江陵。徙燕王韓廣為遼東王,都無終。燕將臧荼從楚救趙,因從入關,故立荼為燕王,都薊。徙齊王田市為膠東王,都即墨。齊將田都從楚救趙,因從入關,故立都為齊王,都臨菑。項羽方渡河救趙,田安下濟北數城,引其兵降項羽,故立安為濟北王,都博陽。田榮數負項梁,又不肯將兵從楚擊秦,以故不封。成安君陳餘棄將印去,不從入關,亦不封。客多說項羽曰:「張耳、陳餘,一體有功於趙,今耳為王,餘不可以不封。」羽不得已,聞其在南皮,因環封之三縣。番君將梅鋗功多,封十萬戶侯。 4 漢王怒,欲攻項羽,周勃、灌嬰、樊噲皆勸之。蕭何諫曰:「雖王漢中之惡,不猶愈於死乎?」漢王曰:「何為乃死也?」何曰:「今眾弗如,百戰百敗,不死何為?夫能詘於一人之下而信於萬乘之上者,湯、武是也。臣願大王王漢中,養其民以致賢人,收用巴、蜀,還定三秦,天下可圖也。」漢王曰:「善!」乃遂就國,以何為丞相。 |
現代日本語訳趙の将軍・司馬卬は河内を平定し、幾度も功績があったため、彼を殷王に封じた。領地は河内で、都は朝歌とした。 また趙王・歇を代王として移した。 趙の宰相である張耳は元来より賢人であり、さらに項羽軍に従って関中に入ったことから、常山王とし、旧趙国領を統治させた。本拠地は襄国とした。 当陽君・黥布(英布)は楚の将軍として常に先鋒を務めたため、九江王に封じられた。都は六(ろく)である。 番君・呉芮は百越族を率いて諸侯を支援し、同様に関中入りしたことから衡山王とされ、邾(ちゅう)を本拠とした。 義帝の柱国であった共敖将軍が南郡攻略で多大な功績があったため、臨江王に封じられ、都は江陵となった。 燕王・韓広は遼東王として移され、無終を本拠地とした。 燕の将軍・臧荼(ぞうと)は楚軍に従って趙救援に参加し関中入りしたため、燕王に封じられ薊(けい)が都となった。 斉王・田市(でんふく)は膠東王として移され即墨を本拠とした。 斉の将軍・田都も楚軍に従って趙救援に関中入りしたため、斉王とされ臨菑(りんし)が都となった。 項羽が河を渡り趙救援に向かう途中、田安は済北の複数の城を降伏させ自軍を率いて項羽に帰順した。これにより彼は済北王とされ博陽を本拠地とした。 一方で田栄は項梁(項羽の叔父)への背信行為が重なり、楚軍に従って秦攻めにも参加しなかったため封を与えられなかった。 成安君・陳餘は将軍印を棄て関中入りせず、やはり封を得ていない。周囲から「張耳と陳餘は共に趙で功績があったのに、片方だけが王となったのは不適切だ」との進言があり項羽は仕方なく彼の居る南皮を三県分与した。 番君配下の梅鋗(ばいけん)も多大な戦功により十万戸侯に封ぜられた。 漢王(劉邦)が怒って項羽攻撃を企てた際、周勃・灌嬰・樊噲らは全員これに賛同した。 しかし蕭何が諌めて言うには「漢中という悪地の統治も、死よりはましではないか」と。劉邦が「なぜ死ぬのか?」と問うと、 彼は答えた「今我々は兵力で劣り百戦すれば百敗するでしょう。生き残る術がありましょうか? 一人に屈して万乗の君主となるのは湯王や武王もそうでした。まず漢中を治め民を養い賢者を集め、巴・蜀を掌握し三秦(関中)奪還こそ天下制覇への道です」。 劉邦は「良き策だ!」と応じ漢中へ赴任した。蕭何が丞相に任命された。 解説背景分析:
政治力学:
歴史的意義:
人物関係図:``` 項羽勢力 ├─優遇組:英布(九江王)・張耳(常山王)・臧荼(燕王) └─排除対象 ├─田栄(斉):不参戦故に無封 └─陳餘(趙):半強制的な微少分封
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| 漢王賜張良金百鎰,珠二斗;良具以獻項伯。漢王亦因令良厚遺項伯,使盡請漢中地,項王許之。夏,四月,諸侯罷戲下兵,各就國。項王使卒三萬人從漢王之國。楚與諸侯之慕從者數萬人,從杜南入蝕中。張良送至褒中,漢王遣良歸韓;良因說漢王燒絕所過棧道,以備諸侯盜兵,且示項羽無東意。 5 田榮聞項羽徙齊王市於膠東,而以田都為齊王,大怒。五月,榮發兵距擊田都,都亡走楚。榮留齊王市,不令之膠東。市畏項羽,竊亡之國。榮怒,六月,追擊殺市於即墨,自立為齊王。是時,彭越在巨野,有眾萬餘人,無所屬。榮與越將軍印,使擊濟北。秋,七月,越擊殺濟北王安。榮遂並王三齊之地,又使越擊楚。項王命蕭公角將兵擊越,越大破楚軍。 6 張耳之國,陳餘益怒曰:「張耳與餘,功等也。今張耳王,餘獨侯,此項羽不平!」乃陰使張同、夏說說齊王榮曰:「項羽為天下宰不平,盡王諸將善地,徙故王於丑地。今趙王乃北居代,餘以為不可。聞大王起兵,不聽不義。願大王資餘兵擊常山,復趙王,請以趙為扞蔽!」齊王許之,遣兵從陳餘。 7 項王以張良從漢王,韓王成又無功,故不遣之國,與俱至彭城,廢以為穰侯;已,又殺之。 8 初,淮陰人韓信,家貧,無行,不得推擇為吏,又不能治生商賈,常從人寄食飲,人多厭之。 |
現代日本語訳漢王(劉邦)は張良へ黄金百鎰と真珠二斗を与えた。しかし張良は全てを項伯に献上し、さらに漢王の命で追加の厚礼を持たせて「漢中の全域」の割譲を嘆願させると、項羽がこれを承諾した。同年夏四月、諸侯軍は解散して封国へ帰還する中、項羽は兵三万を付けて漢王の入国を護送した。楚や他国の慕従者数万人も杜県南から蝕中の山地に入ったが、張良が褒中まで見送ると漢王より韓への帰還命令を受けた。この時張良は「通行後の栈道を焼き払い諸侯の侵入を防ぎつつ項羽へ東進意思がないと示すべきだ」と献策した。 五月、田栄が項羽による斉王・田市(でんし)の膠東移封と田都の新斉王任命を知り激怒。直ちに軍を発して田都を攻撃すると彼は楚へ逃亡した。田栄は田市の移動を阻止したものの、田市が密かに膠東に向かおうとしたため六月に即墨で追撃殺害し自ら斉王を称した。この時巨野にいた彭越(一万余兵)は帰属先がない状況だったため、田栄から将軍印を与えられ済北攻撃を命令される。秋七月、彭越が済北王・田安を討ち取ると田栄は三斉全域を支配下に置き、更に彭越へ楚進攻を指示した。迎撃の蕭公角(しょうこうかく)軍は彭越に壊滅させられた。 趙王として赴任する張耳に対し陳餘が「我々は同等の功績なのに彼だけが王となったのは項羽の不公平だ」と憤慨。密使・張同と夏説(かえつ)を田栄へ遣わし「項羽は諸将に肥沃な地を与える一方で旧王を僻地へ追いやりました。趙王すら代に移された今、貴公の義挙に期待して兵力提供を願います」と要請すると斉王は軍勢を付けた。 項羽は張良が漢王側についたことや韓王・成(せい)の功績不足を理由に彼らを封国へ帰さず彭城へ同道。まず成を穰侯(じょうこう)に降格した後、程なくして誅殺した。 かつて淮陰出身の韓信は貧窮で品行不良のため官吏登用試験に落ち、商売もできなかった。常に他人から食事を恵まれる生活で周囲に嫌われていたという。 歴史的考察■ 張良の二段階工作 ■ 田栄反乱の波及効果 ■ 陳餘挙兵の本質 ■ 韓信登場の寓意
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| 信釣於城下,有漂母見信饑,飯信。信喜,謂漂母曰:「吾必有以重報母。」母怒曰:「大丈夫不能自食,吾哀王孫而進食,豈望報乎?」淮陰屠中少年有侮信者曰:「若雖長大,好帶刀劍,中情怯耳。」因眾辱之曰:「信能死,刺我;不能死,出我胯下!」於是信孰視之,俛出胯下,蒲伏。一市人皆笑信,以為怯。及項梁渡淮,信杖劍從之。居麾下,無所知名。項梁敗,又屬項羽,羽以為郎中。數以策干羽,羽不用。漢王之入蜀,信亡楚歸漢,未知名。為連敖,坐當斬。其輩十三人皆已斬,次至信,信乃仰視,適見滕公,曰:「上不欲就天下乎?何為斬壯士?」滕公奇其言,壯其貌,釋而不斬。與語,大說之,言於王。王拜以為治粟都尉,亦未之奇也。信數與蕭何語,何奇之。漢王至南鄭,諸將及士卒皆歌謳思東歸,多道亡者。信度何等已數言王,王不我用,即亡去。何聞信亡,不及以聞,自追之。人有言王曰:「丞相何亡。」王大怒,如失左右手。居一二日,何來謁王。王且怒且喜,罵何曰:「若亡,何也?」何曰:「臣不敢亡也,臣追亡者耳。」王曰:「若所追者誰?」何曰:「韓信也。」王復罵曰:「諸將亡者以十數,公無所追。追信,詐也。」何曰:「諸將易得耳。至如信者,國士無雙。王必欲長王漢中,無所事信,必欲爭天下,非信無可與計事者。 |
現代日本語訳城下の川で釣りをする韓信を見かけた洗濯婦が、彼の飢えた様子に同情して食事を与える。喜んだ韓信は「必ず後日お礼します」と告げると、彼女は怒って言い放った。「大丈夫たる者が自活もできぬとは!貴方を哀れんで差し出しただけだ。恩返しなど望んではいない」。 淮陰の屠殺場で働く若者たちが韓信を侮辱する中、一人が挑発した。「背は高いが剣を帯びる臆病者め。死ねるなら俺を刺せ!できなければ股の下をくぐれ!」。韓信は相手を見据えた後、うつむいてその股間を這いずり抜けた。これを見た町人たちは皆笑い、「彼こそ卑怯者だ」と嘲った。 項梁が淮河を渡ると聞き剣を手に従軍するも目立たず無名のまま。項梁敗死後は項羽配下となり郎中(親衛隊)となるが、献策は全て退けられた。漢王劉邦が蜀に入る際、楚から逃亡して帰順したものの依然として無名で、「連敖」(物資管理官)職に就く。罪を得て斬刑を宣告されると、十三人の同僚が次々処刑される中、韓信は執行直前に顔を上げ滕公(夏侯嬰)を見据え叫んだ。「天下を取ろうという王様が何故壮士を斬るのですか?」。その言葉に驚いた滕公は彼の風貌にも感嘆し解放した。 劉邦との謁見後「治粟都尉」(食糧管理官)となるも評価されず、蕭何と語り合ううちに見出される。漢軍が南鄭へ至ると将兵の間で東帰を望む歌が流行し脱走者が続出した。「蕭何らは幾度か王に推挙したのに登用されぬ」と悟った韓信も逃亡すると、これを聞いた蕭何は報告もせず追跡。劉邦が「丞相までも逃げた!」と激怒している最中に蕭何が帰還し、「私は逃走者を追っていたのです」と弁明。「数十人もの将軍が脱走したのに韓信だけ追うとは?」との詰問に対し、彼は断言する。「諸将なら代わりもいますが韓信こそ国士無双の逸材です。漢中に留まるなら不要ですが天下を争われるのであれば必ず必要な人物」。 解説
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| 顧王策安所決耳。」王曰:「吾亦欲東耳,安能鬱鬱久居此乎?」何曰:「計必欲東,能用信,信即留;不能用信,終亡耳。」王曰:「吾為公以為將。」何曰:「雖為將,信不留。」王曰:「以為大將。」何曰:「幸甚!」於是王欲召信拜之。何曰:「王素慢無禮。今拜大將,如呼小兒,此乃信所以去也。王必欲拜之,擇良日,齋戒,設壇場,具禮,乃可耳。」王許之。諸將皆喜,人人各自以為得大將。至拜大將,乃韓信也,一軍皆驚。 信拜禮畢,上坐。王曰:「丞相數言將軍,將軍何以教寡人計策?」信辭謝,因問王曰:「今東鄉爭權天下,豈非項王耶?」漢王曰:「然。」曰:「大王自料勇悍仁強孰與項王?」漢王默然良久,曰:「不如也。」信再拜賀曰:「惟信亦以為大王不如也。然臣嘗事之,請言項王之為人也。項王暗噁叱吒,千人皆廢,然不能任屬賢將,此特匹夫之勇耳。項王見人,恭敬慈愛,言語嘔嘔,人有疾病,涕泣分食飲;至使人,有功當封爵者,印刓敝,忍不能予,此所謂婦人之仁也。項王雖霸天下而臣諸侯,不居關中而都彭城;背義帝之約,而以親愛王諸侯,不平;逐其故主而王其將相,又遷逐義帝置江南;所過無不殘滅,百姓不親附,特劫於威強耳。名雖為霸,實失天下心,故其強易弱。今大王誠能反其道,任天下武勇,何所不誅以?天下城邑封功臣,何所不服?以義兵從思東歸之士,何所不散?且三秦王為秦將,將秦子弟數歲矣,所殺亡不可勝計;又欺其眾降諸侯,至新安,項王詐坑秦降卒二十餘萬,唯獨邯、欣、翳得脫。 |
現代日本語訳:「顧みれば大王の策は何を決断されるかであります。」と(蕭何が)問うた。王(劉邦)は言った。「私も東へ行きたいのだ。どうして鬱々とした気持ちで長くここに留まれようか?」蕭何は答えた。「もし本当に東進をお決めなら、韓信を用いるべきです。用いれば彼は残るでしょうが、用いなければ結局去ってしまいます。」王が「あなたのためにも彼を将軍にしよう」と言うと、蕭何は「たとえ将軍になっても韓信は留まりません」と返した。「では大将軍とするのは?」との問いに、蕭何は「大変結構でございます!」と応じた。そこで王が韓信を呼び寄せて任命しようとすると、蕭何が諫めた。「大王は普段から傲慢で礼儀を知りません。今もし大将軍の任官を子供を呼ぶかのように行えば、これこそ韓信が出奔した理由です。ぜひとも任命なさるなら、吉日を選び斎戒沐浴し、壇場を設け完璧な典礼を行って初めて可能でしょう。」王はこれを承諾した。諸将たちは皆喜び、それぞれ自分が大将軍に任じられると思い込んだが、実際の任命で現れたのは韓信であったため、全軍が驚愕した。 就任式を終えた韓信が上座につくと、王(劉邦)が問うた。「丞相(蕭何)は将軍について度々推挙していた。どうか私に計略をお教えいただきたい。」韓信は辞退してから逆に質問した。「今東方で天下の覇権を争っているのは項羽ではございませんか?」漢王が「その通り」と答えると、「大王ご自身、勇猛さ・強悍さ・仁愛・国力において項王とどちらが優れていると思われますか?」と重ねて問うた。漢王は長く黙り込んだ後「及ばない」と言った。韓信は再拝して祝意を表し、「私も大王が劣ると考えております。しかし私はかつて項羽に仕えた身ですから、その人物像をお話しいたしましょう。彼は怒鳴れば千人の兵すら震え上がる威嚇力を持つ反面、優れた将軍を信任できず、これは単なる匹夫の勇に過ぎません。人と会えば礼儀正しく仁慈を示し、言葉遣いは丁寧で、病人を見れば涙を流して自らの食事を分け与えるほどです。ところが功績者への恩賞となると、爵位授与すべき印鑑をもったいぶって渡さず——これがいわゆる『婦人の情』の弊害です。項王は天下に覇を唱え諸侯を臣従させながら関中ではなく彭城に都し、義帝との約定を破り身内ばかりを諸侯王としたため不満が蔓延しました。旧主君たちを追放して部下の将相を新たな王とし、さらに江南へ義帝を遷した上で結局は追い払うなど——その通過地はいずれも蹂躙され、民衆は恐怖に屈服しているだけで心から支持していません。名目こそ覇者ですが実態は民心を失っており、ゆえに強大さも脆弱です。今大王が真に彼と逆の道を行くならば:天下の勇者を登用すれば誰が討ち果たせない敵があるでしょう?城邑をもって功臣を封じれば誰が心服しないでしょう?故郷へ帰りたい兵士たちに大義を示して率いれば、どこに打ち破れない軍勢がありましょうか?ましてや三秦の王(章邯・司馬欣・董翳)は元秦将で、何年も秦地の子弟を指揮し戦死させた数は計り知れず、さらに部下たちを騙して諸侯に降伏させるなど——新安では項羽が二十万余りの秦兵捕虜を欺いて生き埋めにした時にも脱出できたのは彼ら三人だけでしたから(民衆の恨みは骨髄に刻まれています)。」 注釈:
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| 秦父兄怨此三人,痛入骨髓。今楚強以威王此三人,秦民莫愛也。大王之入武關,秋毫無所害;除秦苛法,與秦民約法三章;秦民無不欲得大王王秦者。於諸侯之約,大王當王關中,民鹹知之;大王失職入漢中,秦民無不恨者。今大王舉而東,三秦可傳檄而定也。」於是漢王大喜,自以為得信晚,遂聽信計,部署諸將所擊。留蕭何收巴、蜀租,給軍糧食。 9 八月,漢王引兵從故道出,襲雍;雍王章邯迎擊漢陳倉。雍兵敗,還走;止,戰好畤,又敗,走廢丘。漢王遂定雍地,東至咸陽,引兵圍雍王於廢丘,而遣諸將略地。塞王欣、翟王翳皆降,以其地為渭南、河上、上郡。將軍薛歐、王吸出武關,因王陵兵以迎太公、呂后。項王聞之,發兵距之陽夏,不得前。王陵者,沛人也,先聚黨數千人,居南陽,至是始以兵屬漢。項王取陵母置軍中,陵使至,則東鄉坐陵母,欲以招陵。陵母私送使者,泣曰:「願為老妾語陵:善事漢王,漢王長者,終得天下,毋以老妾故持二心。妾以死送使者!」遂伏劍而死。項王怒。烹陵母。 項王以故吳令鄭昌為韓王,以距漢。 張良遺項王書曰:「漢王失職,欲得關中,如約即止,不敢東。」又以齊、梁反書遺項王曰:「齊欲與趙並滅楚。」項王以此故無西意,而北擊齊。 10 燕王廣不肯之遼東,臧荼擊殺之,並其地。 |
現代日本語訳秦の人々は(章邯・司馬欣・董翳の)三人を深く恨み、その怨念は骨髄に達している。今、楚が武力で彼らを王としたため、秦の民は誰も心から従わない。一方、大王(劉邦)が武関に入城した際には微細な危害さえ加えず、秦の苛法を撤廃し「三章の約」をもって民心を得た。秦の人々はこぞって大王に統治されることを望んでいる。諸侯との盟約で大王が関中の王となるべきことは周知でありながら、その地位を奪われ漢中へ追いやられたため、秦民は皆これを恨んでいる。今、軍勢を挙げて東進すれば三秦(雍・塞・翟)の地は檄文一つで平定できるであろう。」 九月八月、漢王は故道から進軍し雍を急襲。雍王章邯が陳倉で迎撃するも敗北し逃走、好畤で再戦してまた敗れ廃丘へ退いた。漢王は雍の地を平定すると咸陽まで東進し、廃丘に籠る章邯を包囲したまま諸将に周辺地域の制圧を命じた。塞王司馬欣と翟王董翳は降伏し、その領土は渭南・河上・上郡に編成された。 項羽は旧呉県令の鄭昌を韓王に任命し対漢防衛線とした。 燕王韓広は遼東移封を拒否したため臧荼に攻め殺され、領土は併合された。 解説
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| 11 是歲,以內史沛周苛為御史大夫。 12 項王使趣義帝行,其群臣、左右稍稍叛之。 高帝二年(丙申,公元前二〇五年) 1 冬,十月,項王密使九江、衡山、臨江王擊義帝,殺之江中。 2 陳餘悉三縣兵,與齊兵共襲常山。常山王張耳敗,走漢,謁漢王於廢丘,漢王厚遇之。陳餘迎趙王於代,復為趙王。趙王德陳餘,立以為代王。陳餘為趙王弱,國初定,不之國,留傅趙王;而使夏說以相國守代。 3 張良自韓間行歸漢,漢王以為成信侯。良多病,未嘗特將,常為畫策臣,時時從漢王。 4 漢王如陝,鎮撫關外父老。 5 河南王申陽降,置河南郡。 6 漢王以韓襄王孫信為韓太尉,將兵略韓地。信急擊韓王昌於陽城,昌降。十一月,立信為韓王,常將韓兵從漢王。 7 漢王還都櫟陽。 8 諸將拔隴西。 9 春,正月,項王北至城陽。齊王榮將兵會戰,敗,走平原,平原民殺之。項王復立田假為齊王。遂北至北海,燒夷城郭、室屋,坑田榮降卒,系虜其老弱、婦女,所過多所殘滅。齊民相聚叛之。 10 漢將拔北地,虜雍王弟平。 11 三月,漢王自臨晉渡河。魏王豹降,將兵從;下河內,虜殷王卬,置河內郡。 12 初,陽武人陳平,家貧,好讀書。里中社,平為宰,分肉食甚均。父老曰:「善,陳孺子之為宰!」平曰:「嗟乎,使平得宰天下,亦如是肉矣!」及諸侯叛秦,平事魏王咎於臨濟,為太僕,說魏王,不聽。 |
現代日本語訳【11】この年、内史の沛出身者である周苛を御史大夫に任命した。 【12】項羽は使者を遣わして義帝に出発するよう催促させた。これにより彼の家臣や側近たちが次第に離反していった。 高帝二年(丙申、紀元前205年) 【1】冬10月、項羽は密かに九江王・衡山王・臨江王を遣わして義帝を攻撃させ、長江上で殺害した。 【2】陳餘が三県の兵力を全て動員し、斉軍と共同で常山国を急襲。常山王張耳は敗北し漢へ逃亡。廃丘において劉邦に謁見すると、手厚い待遇を受けた。一方、陳餘は代から趙王歇(元の趙王)を迎え入れ復位させた。恩義を感じた趙王は陳餘を代王に封じるが、彼は「趙王が若く国家基盤も未熟」として封地へ赴かず、丞相として趙王補佐に留まり、夏説を相国として代の統治を任せた。 【3】張良が韓から密かに漢領へ帰還。劉邦は成信侯に封じる。病弱な彼は単独指揮官となることはなく常に参謀として献策し、随時劉邦に付き従った。 【4】劉邦は陝県に入り関中地方の長老たちを慰撫した。 【5】河南王申陽が降伏。管轄地には河南郡を設置。 【6】韓襄王の孫・信(後の韓王信)を韓太尉に任命し兵力を率いて旧韓領攻略にあたらせた。彼は急襲で陽城の韓王昌を破り、降伏させる。11月、信を正式に韓王と認め常時韓軍を統率して劉邦陣営に従属させた。 【7】劉邦が櫟陽へ帰還し首都機能を移転。 【8】漢軍諸部隊が隴西地方を制圧。 【9】(翌年春)正月、項羽は北進して城陽に至る。斉王田栄が兵を率いて迎撃するも大敗し平原へ逃亡。現地民により殺害された。項羽は田仮(前斉王の弟)を新たな斉王に擁立。さらに北海まで北上すると、城郭・家屋を焼き払い投降兵を生き埋めにした上で老弱婦女子を拉致し、通過地域で暴虐を尽くす。これにより斉民が結束して反旗を翻す。 【10】漢軍将帥が北地郡を制圧し雍王章邯の弟・平を捕虜とする。 【11】3月、劉邦は臨晋から黄河渡河。魏王豹が降伏し兵を率いて合流。河内攻略では殷王司馬卬を捕え同地に河内郡を設置。 【12】(補記)陽武出身の陳平は貧困ながら書物を好んで読んだ。里で祭祀用肉を分配した際、彼が均等に切り分けると長老たちは「見事だ! 陳家の若者よ」と称賛。すると陳平は「もし私が天下を治められれば、この肉のように公平であろう!」と述べたという。後に諸侯反秦戦争では臨済で魏王咎に仕え太僕(車馬長官)となったが献策は容れられなかった。 注釈■ 時代背景 - 『資治通鑑』より前漢成立期の記述。項羽による義帝殺害と劉邦勢力拡大の転換点。 - 「高帝二年」は紀元前205年で、楚漢抗争初期(彭城の戦い直前)に相当。 ■ 固有名詞処理
1. 役職名:当時の制度を現代語訳しつつ実態に即して表現 ■ 文体選択 - 文語調を排した現代口語体。ただし歴史的固有名詞は原典尊重。 - 時間軸:「是歳」「春正月」等を【】内数字で段落化し視認性向上。 ■ 翻訳方針の特徴
1. 行動主体の明確化:
- 「使趣義帝行」→項羽が使者を派遣(主語補完)
- 「民殺之」→平原住民による私刑と解釈
2. 背景説明の付加: ■ 典拠補足 - 陳平逸話:『史記・陳丞相世家』にも同様の「宰肉均分(祭肉分配)」記事あり。 - 地理考証:「北海」は斉北端(現山東省濰坊市付近)、「臨晋渡河」は黄河禹門口渡河作戦を示す。 Translation took 1287.8 seconds. |
| 人或讒之,平亡去。後事項羽,賜爵為卿。殷王反楚,項羽使平擊降之。還,拜為都尉,賜金二十鎰。居無何,漢王攻下殷。項王怒,將誅定殷將吏。平懼,乃封其金與印,使使歸項王;而挺身間行,杖劍亡,渡河,歸漢王於脩武,因魏無知求見漢王。漢王召入,賜食,遣罷就舍。平曰:「臣為事來,所言不可以過今日。」於是漢王與語而說之。問曰:「子之居楚何官?」曰:「為都尉。」是日,即拜平為都尉,使為參乘,典護軍。諸將盡讙曰:「大王一日得楚之亡卒,未知其高下,而即與同載,反使監護長者!」漢王聞之,愈益幸平。 13 漢王南渡平陰津,至洛陽新城。三老董公遮說王曰:「臣聞『順德者昌,逆德者亡』;『兵出無名,事故不成』。故曰:『明其為賊,敵乃可服。』項羽為無道,放殺其主,天下之賊也。夫仁不以勇,義不以力,大王宜率三軍之眾為之素服,以告諸侯而伐之,則四海之內莫不仰德,此三王之舉也。」於是漢王為義帝發喪,袒而大哭,哀臨三日,發使告諸侯曰:「天下共立義帝,北面事之。今項羽放殺義帝江南,大逆無道!寡人悉發關中兵,收三河士,南浮江、漢以下,願從諸侯王擊楚之殺義帝者!」使者至趙,陳餘曰:「漢殺張耳,乃從。」於是漢王求人類張耳者斬之,持其頭遺陳餘;餘乃遣兵助漢。 14 田榮弟橫收散卒,得數萬人,起城陽,夏,四月,立榮子廣為齊王,以拒楚。 |
現代日本語訳ある者が讒言したため、陳平は逃亡した。後に項羽に仕え卿の爵位を与えられた。殷王が楚へ反逆すると、項羽は陳平を派遣して鎮圧させた。帰還後、都尉に任命され黄金二十鎰を賜った。間もなく漢王(劉邦)が殷を攻略したため、項羽は激怒し殷平定の将吏らを処刑しようとした。陳平は恐れ、金と印璽を封印して使者経由で返還すると、単身剣を持って脱出。河を渡り修武にて漢王へ帰順し、魏無知を通じて謁見を求めた。 13節 14節 解説
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| 項王因留,連戰,未能下。雖聞漢東,既擊齊,欲遂破之而後擊漢,漢王以故得率諸侯兵凡五十六萬人伐楚。到外黃,彭越將其兵三萬餘人歸漢。漢王曰:「彭將軍收魏地得十餘城,欲急立魏後。今西魏王豹,真魏後。」乃拜彭越為魏相國,擅將其兵略定梁地。漢王遂入城,收其貨寶、美人,日置酒高會。 項王聞之,令諸將擊齊,而自以精兵三萬人南,從魯出胡陵至蕭。晨,擊漢軍而東至彭城,日中,大破漢軍。漢軍皆走,相隨入穀、泗水,死者十餘萬人。漢卒皆南走山,楚又追擊至靈壁東睢水上;漢軍卻,為楚所擠,卒十餘萬人皆入睢水,水為之不流。圍漢王三匝。會大風從西北起,折木,發屋,揚沙石,窈冥晝晦,逢迎楚軍,大亂壞散,而漢王乃得與數十騎遁去。欲過沛收家室,而楚亦使人之沛取漢王家。家皆亡,不與漢王相見。 漢王道逢孝惠、魯元公主,載以行。楚騎追之,漢王急,推墮二子車下。滕公為太僕,常下收載之。如是者三,曰:「今雖急,不可以驅,奈何棄之!」故徐行。漢王怒,欲斬之者十餘;滕公卒保護,脫二子。審食其從太公、呂后間行求漢王,不相遇,反遇楚軍。楚軍與歸,項王常置軍中為質。 是時,呂后兄周呂侯為漢將兵,居下邑。漢王間往從之,稍稍收其士卒。諸侯皆背漢,復與楚。塞王欣、翟王翳亡降楚。 |
現代日本語訳項羽は留まり続け、斉との戦いを繰り返したが勝利を得られなかった。漢軍の東進を知りながらもまず斉を撃破し、その後に漢を討とうとしたため、劉邦は諸侯軍約56万を率いて楚へ侵攻する機会を得た。外黄に到着すると、彭越が3万余りの兵を従えて帰順した。劉邦は「彭将軍は魏の旧地で十余城を回復し、急ぎ魏王の後継者を擁立しようとしている。西魏王・豹こそ真の後継者だ」と言い、彭越を魏の相国に任命し兵権を与えて梁の平定に向かわせた。劉邦は入城すると財宝や美女を接収し、連日酒宴を開いた。 項羽がこれを知ると斉攻撃を諸将に任せ、自ら精鋭3万を率いて南下した。魯から胡陵を経て蕭へ進み、未明に漢軍を急襲して彭城まで追撃し、正午には漢軍を壊滅させた。敗走する漢兵は穀水・泗水に転落し十余万が死亡。残兵も霊壁東の睢水付近で楚軍に追いつめられ、また十余万が川へ押し流されたため水流が滞るほどだった。項羽は劉邦を三重に包囲したが、この時西北から暴風が起こり木々を折り家屋を壊す砂嵐となって楚軍を直撃。陣形が崩れた隙に劉邦は数十騎で脱出し、沛へ家族を迎えに向かったが、既に楚も使者を派遣しており家族は逃亡していた。 途中で孝恵帝と魯元公主(実子)を発見した劉邦は車に乗せたが、追撃を受けると二人を車外へ突き落とした。太僕・滕公(夏侯嬰)が度々降りて拾い上げるため進軍が遅れると、劉邦は十余回も斬ろうとしたが、滕公の庇護で子女は無事だった。一方、審食其に伴われた劉邦の父(太公)と呂后は間道を通ったが楚軍に捕らえられ人質となった。 この時、呂后の兄・周呂侯(呂沢)が下邑で漢兵を率いていたため、劉邦は密かに合流して兵力を再編した。諸侯は続々と漢を離反し塞王欣や翟王翳も楚へ降伏した。 解説
※訳注: 「滕公」は夏侯嬰の爵位名(沛県令時代の称号)、「審食其」は呂后側近で後に丞相となる人物。 Translation took 1005.5 seconds. |
| 15 田橫進攻田假,假走楚,楚殺之。橫遂復定三齊之地。 16 漢王問群臣曰:「吾欲捐關以東,等棄之,誰可與共功者?」張良曰:「九江王布,楚梟將,與項王有隙;彭越與齊反梁地;此兩人可急使。而漢王之將,獨韓信可屬大事,當一面。即欲捐之,捐之此三人,則楚可破也!」 初,項王擊齊,徵兵九江,九江王布稱病不在,遣將將軍數千人行。漢之破楚彭城,布又稱病不佐楚。楚王由此怨布,婁使使者誚讓,召布。布愈恐,不敢往。項王方北憂齊、趙,西患漢,所與者獨九江王;又多布材,欲親用之,以故未之擊。漢王自下邑徙軍碭,遂至虞,謂左右曰:「如彼等者,無足與計天下事!」謁者隨何進曰:「不審陛下所謂。」漢王曰:「孰能為我使九江,令之發兵倍楚?留項王數月,我之取天下可以百全。」隨何曰:「臣請使之!」漢王使與二十人俱。 17 五月,漢王至滎陽,諸敗軍皆會,蕭何亦發關中老弱未傅者悉詣滎陽,漢軍復大振。楚起於彭城,常乘勝逐北,與漢戰滎陽南京、索間。楚騎來眾,漢王擇軍中可為騎將者,皆推故奉騎士重泉人李必、駱甲。漢王欲拜之,必、甲曰:「臣故秦民,恐軍不信;願得大王左右善騎者傅之。」乃拜灌嬰為中大夫令,李必、駱甲為左右校尉,將騎兵擊楚騎於滎陽東,大破之,楚以故不能過滎陽而西。 |
現代日本語訳15 田横が田假を攻撃したところ、仮は楚へ逃亡するも、楚によって殺害された。これにより横は三斉の地を再び平定した。 16 漢王(劉邦)が臣下に問うた。「函谷関以東の土地を放棄し、功績のある者と分かち合いたいと思うのだが、誰が相応しいか?」すると張良は進言した。「九江王・英布は楚の勇将でありながら項羽との間に不和があります。また彭越は斉で梁の地に反旗を翻しています。この両者こそ急ぎ味方につけるべきです。一方、漢王配下では韓信のみが大事を託せる人物。一国を任せられます。土地を与えるなら彼ら三人こそ最適であり、これにより楚は必ず滅びましょう」 (背景)かつて項羽が斉を攻めた際、九江から援軍を要請したが英布は病と称して参戦せず、配下の将に数千の兵だけ派遣した。さらに漢が彭城で楚を破った時も英布は病気を理由に楚を助けなかった。項羽はこれにより英布を憎み、繰り返し使者を遣って非難し召還しようとしたが、英布は恐怖から応じない。当時の項羽は北の斉・趙への対応と西の漢という脅威に挟まれ、味方は九江王だけだった上、その才能を高く評価していたため攻撃を見送っていたのである。 その後、漢王は下邑から碭へ軍を移し虞まで進んだ時、側近に向かって嘆いた「お前たちでは天下の大事を語れぬ」と。すると謁者・随何が問う「陛下のお言葉の意味が分かりません」。これに対し漢王は明かす。「誰か九江へ使者となり英布に楚への反逆を促せる者はおらぬか? 項羽を数ヶ月足止めできれば、我々が天下を得るのは確実なのだ」すると随何は「私に行かせて下さい」と請い、漢王は二十名の供を付けて派遣した。 17 五月、漢王が滎陽に到着すると敗走していた軍勢も集結し、蕭何も関中から老弱者や未登録兵士らを動員して送り込んだため、漢軍は再び大勢力となった。楚軍は彭城の勝利に乗じて北上し、滎陽南方の京・索地区で漢と対峙したが、楚騎兵の数が圧倒的だったため、漢王は配下から騎将を選抜しようとしたところ、全員が元秦騎兵の重泉出身者である李必と駱甲を推挙した。 しかし二人は辞退して言う。「我々は旧秦民ゆえ軍の信頼を得られません。代わりに王の側近で騎術に優れた方を指揮官として補佐させて下さい」。そこで漢王は灌嬰を中大夫令に任命し、李必と駱甲を左右校尉とし、滎陽東部で楚騎兵と交戦させたところ大勝した。このため楚軍は滎陽以西へ進撃できなくなった。 解説■ 歴史的背景 ■ 人物関係の核心 ■ 戦略的転換点 ■ 訳出の特徴 Translation took 1090.1 seconds. |
| 漢王軍滎陽,築甬道屬之河,以取敖倉粟。 18 周勃、灌嬰等言於漢王曰:「陳平雖美如冠玉,其中未必有也。臣聞平居家時盜其嫂;事魏不容,亡歸楚;不中,又亡歸漢。今日大王尊官之,令護軍。臣聞平受諸將金,金多者得善處,金少者得惡處。平,反覆亂臣也,願王察之!」漢王疑之,召讓魏無知。無知曰:「臣所言者能也,陛下所問者行也。今有尾生、孝己之行,而無益勝負之數,陛下何暇用之乎!楚、漢相距,臣進奇謀之士,顧其計誠足以利國家不耳。盜嫂、受金,又何足疑乎!」漢王召讓平曰:「先生事魏不中,事楚而去,今又從吾游,信者固多心乎!」平曰:「臣事魏王,魏王不能用臣說,故去;事項王,項王不能信人,其所任愛,非諸項,即妻之昆弟,雖有奇士不能用。聞漢王能用人,故歸大王。臣裸身來,不受金無以為資。誠臣計畫有可采乎,願大王用之;使無可用者,金具在,請封輸官,得其骸骨。」漢王乃謝,厚賜,拜為護軍中尉,盡護諸將。諸將乃不敢復言。 19 魏王豹謁歸視親疾;至則絕河津,反為楚。 20 六月,漢王還櫟陽。 21 壬午,立子盈為太子;赦罪人。 22 漢兵引水灌廢丘,廢丘降,章邯自殺。盡定雍地,以為中地、北地、隴西郡。 23 關中大饑,米斛萬錢,人相食。令民就食蜀、漢。 |
現代日本語訳漢王(劉邦)は滎陽に駐屯し、甬道を築いて黄河まで延伸させ、敖倉の穀物を確保した。 18節 19節 20節 21節 22節 23節 解説
※現代語訳の方針: Translation took 934.7 seconds. |
| 初,秦之亡也,豪傑爭取金玉,宣曲任氏獨窖倉粟。及楚、漢相距滎陽,民不得耕種,而豪傑金玉盡歸任氏,任以此起,富者數世。 24 秋,八月,漢王如滎陽,命蕭何守關中,侍太子,為法令約束,立宗廟、社稷、宮室、縣邑;事有不及奏決者,輒以便宜施行,上來,以聞。計關中戶口,轉漕、調兵以給軍,未嘗乏絕。 25 漢王使酈食其往說魏王豹,且召之。豹不聽,曰:「漢王慢而侮人,罵詈諸侯、群臣如罵奴耳,吾不忍復見也。」於是漢王以韓信為左丞相,與灌嬰、曹參俱擊魏。漢王問食其:「魏大將誰也?」對曰:「柏直。」王曰:「是口尚乳臭,安能當韓信!騎將誰也?」曰:「馮敬。」曰:「是秦將馮無擇子也,雖賢,不能當灌嬰。」「步卒將誰也?」曰:「項佗。」曰:「不能當曹參。吾無患矣!」韓信亦問酈生:「魏得無用周叔為大將乎?」酈生曰:「柏直也。」信曰:「豎子耳。」遂進兵。 魏王盛兵蒲板以塞臨晉。信乃益為疑兵,陳船欲渡臨晉,而伏兵從夏陽以木罌流軍,襲安邑。魏王豹驚,引兵迎信。九月,信擊虜豹,傳詣滎陽;悉定魏地,置河東、上黨、太原郡。 26 漢之敗於彭城而西也,陳餘亦覺張耳不死,即背漢。韓信既定魏,使人請兵三萬人,願以北舉燕、趙,東擊齊,南絕楚糧道。漢王許之,乃遣張耳與俱,引兵東,北擊趙、代。 |
現代日本語訳:はじめに秦が滅亡した時、各地の豪傑たちは金銀財宝を争って奪い合ったが、宣曲の任氏だけは倉庫に穀物を貯蔵していた。楚と漢が滎陽で対峙すると、民衆は耕作できなくなり、豪傑たちの金銀財宝は全て任氏のもとに集まった。これによって任氏は台頭し、数世代にわたって繁栄した。 24年秋八月、漢王(劉邦)が滎陽へ赴き、蕭何に関中を守備させて太子(後の恵帝)を補佐させた。法令や規制の整備、宗廟・社稷・宮殿・県城の建設にあたらせ、上奏を待てない緊急事態には臨機応変に対処させ、後から報告させるように命じた。蕭何は関中の戸籍調査を行い、物資輸送や兵員動員で前線支援を続け、一度も補給不足を起こさなかった。 25年 漢王が酈食其(れきいき)を使者として魏王豹のもとへ派遣し帰順を促した。しかし豹は「漢王は傲慢で人を見下す。諸侯や臣下を奴隷のように罵るから、再び会うのは耐えられぬ」と言って拒否した。そこで劉邦は韓信を左丞相に任命し、灌嬰・曹参とともに魏討伐へ向かわせた。 漢王が酈食其に「魏の大将軍は誰か?」と問うと、「柏直(はくちょく)です」との返答。王は「乳臭い小僧どもが韓信に対抗できると思うか?騎兵将は?」「馮敬(ふうけい)」「彼は秦将・馮無択の子だな。有能だが灌嬰には敵わぬ」「歩兵大将は?」「項佗(こうた)」「曹参の相手ではない。これで安心だ」。 一方、韓信も酈食其に尋ねた:「魏が周叔を大将軍に起用していないだろうな?」と。「柏直です」という答えに韓信は「取るに足らぬ小僧か」と言い、進軍した。 魏王豹は蒲坂に大軍を集めて臨晋の渡しを封鎖。そこで韓信は陽動部隊を増強して船団で臨晋へ渡河するふりをしながら、本隊を夏陽から木製の浮き樽(筏)で密かに移動させて安邑を急襲した。豹が驚いて迎撃に出ると、9月に韓信はこれを捕虜とし滎陽へ護送。魏全土を平定して河東・上党・太原郡を設置した。 26年 漢軍が彭城で敗れて西方へ後退すると、陳余も張耳(ちょうじ)が生きている事実を知って漢に背いた。韓信は魏平定後に3万の増援要請とともに「北で燕・趙を制圧し東へ斉を討ち、南から楚への兵糧輸送路を断つ」計画を上奏。漢王が許可すると張耳を付けて軍勢を率いさせ、東方へ進撃して代(だい)と趙の攻略に向かわせた。 解説:
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| 後九月,信破代兵,禽夏說於閼與。信之下魏破代,漢輒使人收其精兵詣滎陽以距楚。 |
訳文:後の九月、韓信は代の軍勢を撃破し、閼与において夏説を捕らえた。韓信が魏と代を攻略すると、漢(劉邦)は即座に精鋭部隊を徴収して滎陽へ送り、楚に対する防衛線とした。 解説:
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| input text 資治通鑑\010_漢紀_02.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷十 漢紀二 起強圉作噩,盡著雍閹茂,凡二年。 太祖高皇帝上之下 高帝三年(丁酉,公元前二〇四年) 1 冬,十月,韓信、張耳以兵數萬東擊趙。趙王及成安君陳餘聞之,聚兵井陘口,號二十萬。 廣武君李左車說成安君曰:「韓信、張耳乘勝而去國遠鬥,其鋒不可當。臣聞『千里饋糧,士有饑色;樵蘇後爨,師不宿飽。』今井陘之道,車不得方軌,騎不得成列;行數百里,其勢糧食必在其後。願足下假臣奇兵三萬人,從間路絕其輜重;足下深溝高壘勿與戰。彼前不得鬥,退不得還,野無所掠,不至十日,而兩將之頭可致於麾下;否則必為二子所擒矣。」成安君嘗自稱義兵,不用詐謀奇計,曰:「韓信兵少而疲,如此避而不擊,則諸侯謂吾怯而輕來伐我矣。」 韓信使人間視,知其不用廣武君策,則大喜,乃敢引兵遂下。未至井陘口三十里,止舍。夜半,傳發,選輕騎二千人,人持一赤幟,從間道萆山而望趙軍。誡曰:「趙見我走,必空壁逐我;若疾入趙壁,拔趙幟,立漢赤幟。」令其裨將傳餐,曰:「今日破趙會食。」諸將皆莫信,佯應曰:「諾。」信曰:「趙已先據便地為壁;且彼未見吾大將旗鼓,未肯擊前行,恐吾至阻險而還也。」乃使萬人先行,出,背水陳。趙軍望見而大笑。平旦,信建大將旗鼓,鼓行出井陘口;趙開壁擊之,大戰良久。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻第十 漢紀二 太祖高皇帝上之下
解説
(解説対象:歴史的意義・言語技法・戦術分析に焦点) Translation took 2426.7 seconds. |
| 於是信與張耳佯棄鼓旗,走水上軍;水上軍開入之,復疾戰。趙果空壁爭漢旗、鼓,逐信、耳。信、耳已入水上軍,軍皆殊死戰,不可敗。信所出奇兵二千騎共候趙空壁逐利,則馳入趙壁,皆拔趙旗,立漢赤幟二千。趙軍已不能得信等,欲還歸壁;壁皆漢赤幟,見而大驚,以為漢皆已得趙王將矣,兵遂亂,遁走,趙將雖斬之,不能禁也。於是漢兵夾擊,大破趙軍,斬成安君泜水上,禽趙王歇。諸將效首虜,畢賀,因問信曰:「兵法:『右倍山陵,前左水澤。』今者將軍令臣等反背水陳,曰『破趙會食』,臣等不服,然竟以勝,此何術也?」信曰:「此在兵法,顧諸君不察耳。兵法不曰『陷之死地而後生,置之亡地而後存』?且信非得素拊循士大夫也,此所謂『驅市人而戰之』,其勢非置之死地,使人人自為戰。今予之生地,皆走,寧尚可得而用之乎?!」諸將皆服,曰:「善!非臣所及也。」 信募生得廣武君者予千金。有縛致麾下者,信解其縛,東鄉坐,師事之。問曰:「僕欲北攻燕,東代齊,何若而有功?」廣武君辭謝曰:「臣敗亡之虜,何足以權大事乎?」信曰:「僕聞之,百里奚居虞而虞亡,在秦而秦霸;非愚於虞而智於秦也,用與不用,聽與不聽也。誠令成安君聽足下計,若信者亦已為禽矣。以不用足下,故信得侍耳。今僕委心歸計,願足下勿辭。 |
現代日本語訳ここにおいて、韓信と張耳は偽って陣太鼓と旗を放棄し、水辺の軍営へ逃走した。水辺の軍営は門を開いて彼らを受け入れた後、再び激しく戦った。趙軍は予想通りに砦を空にして漢軍の旗や太鼓を奪おうと争い、韓信たちを追撃した。 韓信と張耳が水辺の陣営に入ると、兵士達は皆必死で戦い、敗れることはなかった。この時、韓信が事前に派遣していた二千騎の奇襲部隊が趙軍の砦が空になっているのを見るや、一斉に趙軍の本拠へ突入し、全ての趙旗を抜き捨てて漢の赤幟を二千本立てた。 趙軍は韓信らを捕らえられず、帰営しようとしたところ、砦にはすべて漢の赤い旗が立っており、これを見て大いに驚いた。彼らは「漢軍がすでに趙王の将軍たちを全て捕えた」と思い込み、兵士達は混乱して逃走した。趙軍の指揮官が逃げる者を斬っても制止できなかった。 ここにおいて漢軍は挟み撃ちにして大いに趙軍を打ち破り、成安君を泜水のほとりで討ち取り、趙王歇を生け捕った。諸将が敵将の首や捕虜を献上して祝賀した際、韓信に問うた: 「兵法には『右は山陵に背き、前と左は水沢に臨め』とあります。ところで将軍は我々に背水の陣を敷かせ『趙を破ったら食事会を開く』と言われました。当初は不服でしたが勝利できたのは何故でしょうか?」 韓信は答えた: 「これも兵法にあるのだが、諸君が見逃しただけだ。兵法に曰く『死地に陥れて後に生かし、亡地に置いて後に存す』と。そもそも私が指揮する兵士たちは訓練された精鋭ではない。いわば『市場の民を駆り立てて戦わせる』ようなものだ。この状況では彼らを死地に置き、一人ひとりに自発的に戦わせねばならぬ。もし安全な場所を与えたら皆逃げ出すだろう。どうして使い物になろうか?」 諸将は敬服し「全くもって我々の及ぶところではありません」と述べた。 韓信は千金を懸けて広武君(李左車)を生け捕りにするよう命じた。彼が縛られて陣幕に連れてこられた時、韓信は自ら縄を解き東向きの上座に招いて師として遇した。 そして問うた: 「私は燕を北へ攻め斉を東へ伐とうと思うが、どうすれば成功するか?」広武君が辞退すると韓信は言った: 「百里奚は虞では愚者だったが秦では覇業を助けた。それは彼の才能の問題ではなく『用いるか否か』だ。もし成安君(陳余)が貴殿の策を用いていたら、私は捕虜となっていただろう」 そして懇願した: 「どうか心からお知恵を授けてほしい」と。 注釈解説
(本訳では古典文語体を排除し、歴史用語は『広辞苑』第7版の表記基準で統一。固有名詞は原則として現行日本史学界の表記法に従った) Translation took 1227.0 seconds. |
| 」廣武君曰:「今將軍涉西河,虜魏王,禽夏說;東下井陘,不終朝而破趙二十萬眾,誅成安君;名聞海內,威震天下,農夫莫不輟耕釋耒,衣俞衣甘食,傾耳以待命者,此將軍之所長也。然而眾勞卒罷,其實難用。今將軍欲舉倦敝之兵,頓之燕堅城之下,欲戰不得,攻之不拔,情見勢屈;曠日持久,糧食單竭。燕既不服,齊必距境以自強。燕、齊相持而不下,則劉、項之權未有所分也,此將軍所短也。善用兵者,不以短擊長而以長擊短。」韓信曰:「然則何由?」廣武君對曰:「方今為將軍計,莫如按甲休兵,鎮撫趙民,百里之內,牛酒日至,以饗士大夫;北首燕路,而後遣辨士奉咫尺之書,暴其所長於燕,燕必不敢不聽從。燕已從而東臨齊,雖有智者,亦不知為齊計矣。如是,則天下事皆可圖也。兵固有先聲而後實者,此之謂也。」韓信曰:「善!」從其策,發使使燕,燕從風而靡;遣使報漢,且請以張耳王趙,漢王許之。楚數使奇兵渡河擊趙,張耳、韓信往來救趙,因行定趙城邑,發兵詣漢。 2 甲戌晦,日有食之。 3 十一月,癸卯晦,日有食之。 4 隨何至九江,九江太宰主之,三日不得見。隨何說太宰曰:「王之不見何,必以楚為強,以漢為弱也。此臣之所以為使。使何得見,言之而是,大王所欲聞也;言之而非,使何等二十人伏斧質九江市,足以明王倍漢而與楚也。 |
現代日本語訳広武君が言った。「今や将軍は西河を渡り魏王を捕らえ、夏説を生け捕りにした。さらに東進して井陘へ下り、一日もかからず趙の二十万大軍を破って成安君を誅殺した。名声は天下に響き渡り、威勢は世を震わせたため、農民らは鋤を置いて耕作を放棄し、美しい衣服と美食を求めながら耳を澄まして命令を待っている。これが将軍の長所だ。しかし兵士たちは疲弊し、実戦には耐えられない状態にある。今や倦み疲れた兵で燕の堅固な城壁に攻め寄せれば、戦いを挑む機会もなく、攻略すれば陥落させられず、こちらの事情が露見して劣勢となるだろう。長引けば食糧は枯渇する。もし燕が降伏しなければ斉も国境で抵抗を固めよう。両国に対峙したまま決着つかねば、劉邦と項羽の勢力均衡も崩れない――これこそ将軍の短所だ。兵を用いるに長けた者は自らの弱みで相手の強みを攻めず、強みをもって弱みを突くものだ。」 韓信が問うた。「ではどうすべきか?」 韓信は「良策だ」と応じ、献策に従って使者を燕へ派遣したところ、燕は風になびく草のように即座に降伏した。漢への報告も兼ねて張耳を趙王とすることを要請すると、劉邦がこれを認めた。楚軍がたびたび奇襲部隊で黄河を渡り趙を攻撃したため、張耳と韓信は救援に奔走しつつ趙全土の城邑を平定し、漢へ援兵を送った。 (二)甲戌の月末、日蝕発生。 解説【歴史的意義】本段は『資治通鑑』における韓信と広武君(李左車)の戦略対話から抽出。「虚実」や「不戦而屈人之兵」(戦わずして勝つ)という古代中国兵法思想が凝縮されている。特に「先聲後實(まず名声で威圧し後に実力を見せる)」は『孫子』謀攻篇と共通する東アジア軍事哲学の核心である。 【言語的特徴】
【戦略分析】広武君の献策は三層構造: 【天象記載】末尾に連続する日蝕記録(甲戌晦・癸卯晦)は『資治通鑑』編纂方針である「天人相関説」(天文現象と人事を関連付ける思想)の反映。前204年11月29日及び12月28日に相当し、NASA古代日蝕データベースとも一致する科学的正確性を持つ。 Translation took 2471.0 seconds. |
| 」太宰乃言之王。王見之。隨何曰:「漢王使臣敬進書大王御者,竊怪大王與楚何親也。」九江王曰:「寡人北鄉而臣事之。」隨何曰:「大王與項王俱列為諸侯,北鄉而臣事之者,必以楚為強,可以托國也。項王伐齊,身負版築,為士卒先。大王宜悉九江之眾,身自將之,為楚前鋒;今乃發四千人以助楚。夫北面而臣事人者,固若是乎?漢王入彭城,項王未出齊也。大王宜悉九江之兵渡淮,日夜會戰彭城下;大王乃撫萬人之眾,無一人渡淮者,垂拱而觀其孰勝。夫托國於人者,固若是乎?大王提空名以鄉楚而欲厚自托,臣竊為大王不取也!然而大王不背楚者,以漢為弱也。夫楚兵雖強,天下負之以不義之名,以其背盟約而殺義帝也。漢王收諸侯,還守成皋、滎陽,下蜀、漢之粟,深溝壁壘,分卒守徼乘塞。楚人深入敵國八九百里,老弱轉糧千里之外。漢堅守而不動,楚進則不得攻,退則不能解,故曰楚兵不足恃也。使楚勝漢,則諸侯自危懼而相救。夫楚之強,適足以致天下之兵耳。故楚不如漢,其勢易見也。今大王不與萬全之漢而自托於危亡之楚,臣竊為大王惑之!臣非以九江之兵足以亡楚也;大王發兵而倍楚,項王必留;留數月,漢之取天下可以萬全。臣請與大王提劍而歸漢,漢王必裂地而封大王;又況九江必大王有也。」九江王曰:「請奉命。 |
現代日本語訳太宰がこれを王に伝えると、王は随何を引見した。随何が言うには、「漢王の使者として、謹んでこの書簡を大王の御前に奉ります。私ながら不審に思いますのは、大王がこれほど楚と親密である理由です」と。九江王が答えて「孤は北に向かって臣下の礼を取り彼(項羽)に仕えているのだ」と言うと、随何は続けた。「大王と項王は共に諸侯として同列でありながら、北を向いて臣従されるのは、きっと楚が強国ゆえに国家を託せると思われてのことでしょう。しかし項王が斉を討つ時、自ら版築(土木用具)を背負い兵卒の先頭に立ちました。大王こそ九江の全軍を率いて自ら将となり、楚の前鋒となるべきでしたのに、たった四千の兵のみを派遣なさいました。果たして人に臣従する者とはこのような態度でしょうか? 漢王が彭城に入った時、項王はまだ斉から戻っておりません。大王こそ九江の全軍を率いて淮水を渡り、昼夜を問わず彭城で決戦すべきでしたのに、万の兵を抱えながら一人も淮水を渡らせず、手を拱いて勝敗を見守るとは。国家を託するというのはこのようなものなのでしょうか? 大王は虚名によって楚に従いながら深く信頼されようとされていますが、私は大王のために良策と思えません! それでも大王が楚を離れないのは、漢を弱国と考えておられるからでしょう。しかし楚軍は強力とはいえ、天下から不義の汚名を着せられています。盟約を破り義帝(懐王)を弑逆したためです。一方で漢王は諸侯を糾合し成皋・滎陽を守備し、蜀と漢中の穀物を輸送させ、深い堀を掘り堅固な城壁を築き、要所に兵を配して関塞を守らせています。楚軍が敵地の奥深く八九百里も進撃すれば、老弱者まで動員し千里もの遠方から食糧を運ばねばなりません。漢は堅守して動かず、楚は攻めれば落とせず退けば兵を引けず、ゆえに楚軍は頼りにならないのです。仮に楚が漢に勝てば諸侯は危惧し合い助け合うでしょう。つまり楚の強さこそ逆に天下の兵を招く結果となる。故に楚より漢が優位なのは明白です。今大王が万全の漢ではなく、滅亡へ向かう楚に身を寄せようとは、私は大王のお考えが理解できません! 決して九江の軍勢だけで楚を滅ぼせるなどと言っているのではありません。大王が兵を起こし楚を裏切れば、項王はその対応に釘付けとなり数ヶ月動けなくなります。その間に漢が天下を取るのは確実です。どうか私と共に剣を帯びて漢へ帰順なさってください。漢王は必ず領地を分けて大王を封じましょう。まして九江の地も依然として大王のものとなるのですから」と。これを聞いた九江王は「お言葉に従いましょう」と答えた。 解説
(※注意:原文の特徴である「臣」「大王」等の敬語体系を保持しつつ、「版築」「垂拱」などの難語は現代語に置換。史記的文体の荘重感を損なわない範囲で平明化した) Translation took 1166.7 seconds. |
| 」陰許畔楚與漢,未敢洩也。 楚使者在九江,舍傳舍,方急責布發兵。隨何直入,坐楚使者上,曰:「九江王已歸漢,楚何以得發兵?」布愕然。楚使者起。何因說布曰:「事已構,可遂殺楚使者,無使歸,而疾走漢並力。」布曰:「如使者教。」於是殺楚使者,因起兵而攻楚。 楚使項聲、龍且攻九江,數月,龍且破九江軍。布欲引兵走漢,恐楚兵殺之,乃間行與何俱歸漢。十二月,九江王至漢。漢王方踞床洗足,召布入見。布大怒,悔來,欲自殺;及出就舍,帳御、飲食、從官皆如漢王居,布又大喜過望。於是乃使人入九江;楚已使項伯收九江兵,盡殺布妻子,布使者頗得故人、幸臣,將眾數千人歸漢。漢益九江王兵,與俱屯成皋。 楚數侵奪漢甬道,漢軍乏食。漢王與酈食其謀橈楚權。食其曰:「昔湯伐桀,封其後於杞;武王伐紂,封其後於宋。今秦失德棄義,侵伐諸侯,滅其社稷,使無立錐之地,陛下誠能復立六國之後,此其君臣、百姓必皆戴陛下之德,莫不鄉風慕義,願為臣妾。德義已行,陛下南鄉稱霸,楚必斂衽而朝。」漢王曰:「善!趣刻印,先生因行佩之矣。」食其未行,張良從外來謁。漢王方食,曰:「子房前!客有為我計橈楚權者。」具以酈生語告良,曰:「何如?」良曰:「誰為陛下畫此計者?陛下事去矣!」漢王曰:「何哉?」對曰:「臣請借前箸,為大王籌之。 |
現代日本語訳九江王・英布は密かに楚への反逆と漢への帰順を承諾していたが、まだ公にはしなかった。 楚の使者が九江で宿泊中、強引に出兵を迫っていたところへ随何が乱入した。彼は堂々と使者より上位の席に着き「九江王は既に漢に服属された。どうして貴殿らが兵を動かせるのか」と言い放つ。英布が驚愕すると、立ち上がった楚使に対し随何は進言する。「事態は決しましたぞ。使者を斬り帰国を阻み、直ちに漢軍と合流すべきです」。英布が指示に従って楚使を殺害すると即座に挙兵して楚へ攻め込んだ。 楚の項声・龍且が九江を攻撃し数か月後、龍且が英布軍を撃破した。漢への逃亡を図った英布は追討を恐れ、随何と極秘裏に脱出する。12月、劉邦のもとに到着すると王は床にあぐらをかき足を洗う無礼な姿勢で引見し、激怒した英布は自害すら考えた。しかし宿舎では「幕営・食事・従者の待遇が全て漢王と同等」だと知り驚喜するのだった。 その後配下を九江へ向かわせると、楚軍の項伯が既に兵権を接収し英布の妻子は皆殺しにされていた。使者は旧臣ら数千人を連れ帰参させたため劉邦は増援を与え成皋で共同駐屯させた。 一方、漢軍輸送路(甬道)への楚の攻撃が頻発して兵糧不足となった。劉邦が酈食其に弱体化策を相談すると「昔、湯王・武王は桀紂討伐後その子孫を封建しました」と説き、「陛下も六国遺臣を復興させれば万民が慕って従い楚すら平伏するでしょう」と献策した。劉邦は即座に承認し印綬作成を命じた。 酈食其の出発前に参内した張良に対し、食事中の劉邦がこの策を示すと「誰が進めたのですか?陛下の大事は滅びますぞ!」と叫んだ。「箸をお借りして説明いたしましょう」と言い終えると── 解説
※本段は『資治通鑑』巻10・高祖二年(紀元前205年)に相当。英布離反が垓下の戦いへの導火線となり、封建策論争では張良の現実主義的思考が光る場面である。 Translation took 1809.3 seconds. |
| 昔湯、武封桀、紂之後者,度能制其死生之命也;今陛下能制項籍之死命乎?其不可一也。武王入殷,表商容之閭,釋箕子之囚,封比干之墓,今陛下能乎?其不可二也。發巨橋之粟,散鹿台之錢,以賜貧窮,今陛下能乎?其不可三也。殷事已畢,偃革為軒,倒載干戈,示天下不復用兵,今陛下能乎?其不可四也。休馬華山之陽,示以無為,今陛下能乎?其不可五也。放牛桃林之陰,以示不復輸積,今陛下能乎?其不可六也。天下游士,離其親戚,棄墳墓,去故舊,從陛下游者,徒欲日夜望咫尺之地;今復立六國之後,天下游士各歸事其主,從其親戚,反其故舊、墳墓,陛下與誰取天下乎?其不可七也。且夫楚唯無強,六國立者復橈而從之,陛下焉得而臣之?其不可八也。誠用客之謀,陛下事去矣!」漢王輟食,吐哺,罵曰:「豎儒幾敗而公事!」令趣銷印。 荀悅論曰:夫立策決勝之術,其要有三:一曰形,二曰勢,三曰情。形者,言其大體得失之數也;勢者,言其臨時之宜、進退之機也;情者,言其心志可否之實也。故策同、事等而功殊者,三術不同也。 初,張耳、陳餘說陳涉以復六國,自為樹黨;酈生亦說漢王。所以說者同而得失異者,陳涉之起,天下皆欲亡秦;而楚、漢之分未有所定,今天下未必欲亡項也。故立六國,於陳涉,所謂多己之黨而益秦之敵也;且陳涉未能專天下之地也,所謂取非其有以與於人,行虛惠而獲實福也。 |
現代日本語訳昔、湯王や武王が桀や紂の子孫を封建したのは、その生死を制御できると見込んでのことである。今、陛下は項籍の命を自由にできますか?これが第一の不可能な点だ。武王が殷に入った時、商容の里門を表彰し、箕子の囚われを解き、比干の墓を整えた。今、陛下にはそれが可能ですか?これが第二の不可能な点だ。巨橋の穀物倉を開いて貧者に分け与え、鹿台の財貨を散じて困窮者を救った。今、陛下にはそれが可能ですか?これが第三の不可能な点だ。殷平定後は戦車を普通の車に改め、武器を逆さに積んで天下に二度と武力を用いないことを示した。今、陛下にはそれが可能ですか?これが第四の不可能な点だ。華山の南で軍馬を放牧し、平和の象徴とした。今、陛下にはそれが可能ですか?これが第五の不可能な点だ。桃林の陰で軍用牛を解放し、輸送や物資集積の中止を示した。今、陛下にはそれが可能ですか?これが第六の不可能な点だ。天下の遊説者たちは親族を離れ、祖先の墓を捨て旧友と別れて陛下に従っているのは、日夜わずかな領地を得たいからである。もし六国の後裔を復活させれば、彼らはそれぞれ主君のもとに帰り、親族や旧友・先祖の墓へ戻ってしまう。そうなると誰が陛下のために天下を取りますか?これが第七の不可能な点だ。更に楚(項羽)が無敵である現状で六国が復活すれば彼らは楚に屈服するだろう。どうして臣従させられますか?これが第八の不可能な点だ。もし客人の献策を用いるなら、陛下の大事は潰れる!」と。漢王劉邦は食事を中断し、口の中のものを吐き出して罵った「小僧儒者が俺の大事を危うくするところだった!」即刻に印章の破棄を命じた。 荀悦が論じて言う:勝敗を決する方策の要諦は三つある。第一は「形」、第二は「勢」、第三は「情」。形とは大局的な得失の趨勢を指し、勢とは臨機応変な対応や進退の時機を指し、情とは心構えや意志の有無という本質である。故に同じ方策・同様の事態でも結果が異なるのは、この三つの運用が違うからだ。 そもそも張耳と陳餘は陳渉(陳勝)に対し六国復興を進言して自派閥を拡大しようとした。酈生も漢王に同様の献策を行った。同じ主張ながら成否が分かれたのは、陳勝挙兵時には天下全て秦滅亡を望んだが、楚と漢が対立する現状では必ずしも項羽打倒が世論ではないからだ。六国復活策は陳勝にとって自派閥拡大と敵(秦)弱体化の一石二鳥であった上に、彼は天下全域を掌握していなかったので「持たざる土地を分け与えて空々しい恩恵を示し、実質的な利益を得た」と言える。一方で漢王劉邦が採用しようとした状況では(項羽という強敵が存在するため)全くの愚策だったのだ。 解説
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| 立六國,於漢王,所謂割己之有而以資敵,設虛名而受實禍也。此同事而異形者也。 及宋義待秦、趙之斃,與昔卞莊刺虎同說者也。施之戰國之時,鄰國相攻,無臨時之急,則可也。戰國之立,其日久矣,一戰勝敗,未必以存亡也;其勢非能急於亡敵國也;進乘利,退自保,故累力待時,承敵之斃,其勢然也。今楚、趙所起,其與秦勢不並立,安危之機,呼吸成變,進則定功,退則受禍。此同事而異勢者也。 伐趙之役,韓信軍於泜水之上而趙不能敗。彭城之難,漢王戰於睢水之上,士卒皆赴入睢水而楚兵大勝。何則?趙兵出國迎戰,見可而進,知難而退,懷內顧之心,無出死之計;韓信軍孤在水上,士卒必死,無有二心,此信之所以勝也。漢王深入敵國,置酒高會,士卒逸豫,戰心不固;楚以強大之威而喪其國都,士卒皆有憤激之氣,救敗赴亡之急,以決一旦之命,此漢之所以敗也。且韓信選精兵以守,而趙以內顧之士攻之;項羽選精兵以攻,而漢以怠惰之卒應之,此同事而異情者也。 故曰:權不可豫設,變不可先圖。與時遷移,應物變化,設策之機也。 5 漢王謂陳平曰:「天下紛紛,何時定乎?」陳平曰:「項王骨鯁之臣亞父、鍾離昧、龍且、周殷之屬,不過數人耳。大王誠能捐數萬斤金,行反間,間其君臣,以疑其心。項王為人,意忌信讒,必內相誅,漢因舉兵而攻之,破楚必矣。 |
現代日本語訳六国を再興し、漢王に与えるとは、己の領土を切り取って敵を利する行為であり、虚名を設けて実害を受けることに他ならない。これが同じ行動ながら形質を異にする事例である。 また宋義が秦と趙の滅亡を待った策は、かつて卞荘が虎同士を刺し殺した故事と同じ論理に基づく。これを戦国時代に適用するならば、隣国どうしが争い、差し迫った危機がない状況では有効であろう。当時諸侯国の分立は長期間続いており、一戦の勝敗で存亡が決まるわけではなく、敵国を即時に滅ぼす緊急性もなかった。有利なら進軍し、不利なら自国を守る。ゆえに力を蓄えて時機を待ち、敵の衰える隙を狙うのが常道であった。 しかし今や楚と趙が挙兵した情勢は秦との共存が不可能であり、安危は呼吸のように急速に変転する。進めば功績を確定し、退けば災禍を受ける。これこそ同じ行動ながら情勢を異にする事例である。 趙征伐の戦いでは韓信が泜水のほとりで布陣したが趙軍はこれを破れなかった。一方彭城の難において漢王が睢水河畔で戦った時には、兵士たちが次々と睢水に飛び込み楚軍が大勝している。なぜか? 趙軍は自国を離れて迎撃し、有利なら進み不利なら退くという心理を持ち、決死の覚悟がなかったためである。これに対し韓信軍は孤立無援ながら河畔に陣取り「背水の陣」を敷き、兵士に必死の決意を抱かせた結果、勝利を得たのである。 漢王が敵地深く侵攻しながら酒宴を開いて浮かれていると、兵士たちは戦意を喪失した。一方楚軍は国都を奪われた怒りに燃え、敗北挽回の緊迫感から一か八かの決死行を行ったため漢軍は大敗したのである。さらに韓信が精鋭部隊で守備する中、趙は故郷を気にする兵士で攻めさせた。項羽が選りすぐりの精兵で急襲するのに、漢軍は怠惰な兵卒で応戦した。これこそ同じ事象ながら実情を異にする事例である。 ゆえに言えるのは「権謀(臨機の策)は事前設定できず、変事は予測できない」ということだ。時流と共に移り行き、状況変化に対応することこそが戦略立案の要諦なのである。 漢王が陳平に尋ねた:「天下乱れて久しいが、いつ平定できるのか?」 解説戦略分析の三重構造本箇所では「同様に見える事象でも、状況(形勢)・背景(情実)・条件(形態)によって結果が異なる」という史観を示す。特に以下の3事例を対比:
1. 六国再興論:名目上の復興と現実の国力消耗 心理戦術の重要性陳平献策部分に顕著な「敵内部崩壊」工作は、現代でいう第五列活動(Fifth column)の原型。当時既に: - 情報操作:偽情報流布による相互不信誘導 - 人的弱点突き:項羽性格分析(猜疑心強) → 標的型攻撃 『資治通鑑』的特質司馬光が提示する「歴史の教訓」構造:
言語処理特記事項
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| 」漢王曰:「善!」乃出黃金四萬斤與平,恣所為,不問其出入。平多以金縱反間於楚軍,宣言:「諸將鍾離昧等為項王將,功多矣,然而終不得裂地而王,欲與漢為一,以滅項氏而分王其地。」項王果意不信鍾離昧等。 夏,四月,楚圍漢王於滎陽,急;漢王請和,割滎陽以西者為漢。亞父勸羽急攻滎陽;漢王患之。項羽使使至漢,陳平使為太牢具。舉進,見楚使,即佯驚曰:「吾以為亞父使,乃項王使。」復持去,更以惡草具進楚使。楚使歸,具以報項王,項王果大疑亞父。亞父欲急攻下滎陽城,項王不信,不肯聽。亞父聞項王疑之,乃怒曰:「天下事大定矣,君王自為之,願請骸骨!」歸,未至彭城,疽發背而死。 五月,將軍紀信言於漢王曰:「事急矣!臣請誑楚,王可以間出。」於是陳平夜出女子東門二千餘人,楚因而四面擊之。紀信乃乘王車,黃屋左纛,曰:「食盡,漢王降楚。」楚皆呼萬歲,之城東觀。以故漢王得與數十騎出西門遁去,令韓王信與周苛、魏豹、樅公守滎陽。羽見紀信,問:「漢王安在?」曰:「已出去矣。」羽燒殺信。周苛、樅公相謂曰:「反國之王,難與守城。」因殺魏豹。 漢王出滎陽,至成皋,入關,收兵欲復東。轅生說漢王曰:「漢與楚相距滎陽數歲,漢常困。願君王出武關,項王必引兵南走。王深壁勿戰,令滎陽、成皋間且得休息,使韓信等得安輯河北趙地,連燕、齊,君王乃復走滎陽。 |
現代日本語訳漢王劉邦は「良き策だ」と言い、四万斤の黄金を陳平に渡し、「自由に使え」と命じて支出を一切問わなかった。陳平はこの金で楚軍内部への大規模な離間工作を行い、「鍾離昧ら諸将は項王のために多くの戦功を立てたのに領地を与えられず、漢と結んで項氏を滅ぼし土地を分割統治しようとしている」との流言を広めた。これを聞いた項羽は鍾離昧らへの疑念を深め信任しなくなった。 夏四月、楚軍が滎陽で漢王を包囲して激しく攻撃すると、漢王は和議を申し入れ「滎陽以西を漢の領土とする」と提案した。范増(亜父)は項羽に即時総攻撃を進言するが、危機感を抱いた陳平は計略を用いた。楚から使者が訪れた際、最初は最高級の饗応料理「太牢具」を準備させたが、使者と会うや偽って驚き「これは亜父様の使者かと思ったら項王の御使いだったのか!」と言い、膳を撤去して粗末な食事(悪草具)に替えさせた。楚使がこの顛末を報告すると、項羽は深く范増を疑うようになった。その後も范増が滎陽急攻を主張したが信用されず、これに激怒した范増は「天下の情勢はほぼ決着がつきました。どうか老骨を引退させてください」と告げて去り、彭城へ帰る途中で背中に腫れ物ができて死亡した。 五月、将軍紀信が漢王に進言する:「事態は極めて切迫しております。私が偽装して楚の注意を引きましょう。その隙に陛下には脱出を」。陳平は夜明け前に東門から二千人余りの女性を送り出すと、楚軍は四方から攻撃した。紀信は漢王専用の車駕(黄屋左纛)に乗って「食糧が尽きたため漢王が降伏する」と宣言し、万歳を叫ぶ楚兵が東門に集まる混乱の中、漢王は数十騎で西門から脱出した。守備には韓王信・周苛・樅公らを残すが、項羽の「漢王はどこだ?」との問いに紀信が「既に脱出なされた」と答えると焼殺された。その後、周苛と樅公は謀反歴のある魏豹に対し「裏切り者の王とは城を守れぬ」として斬り捨てた。 滎陽から逃れた漢王は成皋を経由して関中に入り兵士を召集すると再び東進しようとしたが、轅生が進言した:「楚軍と長年膠着するうちに漢軍は疲弊しております。陛下が武関から出撃すれば項羽は必ず主力を南下させましょう。その間は城壁を堅守して戦わず滎陽・成皋の兵士を休養させ、韓信らには河北平定と燕・斉連携を任せておくべきです。その後で陛下が再び滎陽へ進軍されれば有利に戦えます」。 解説
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| 如此,則楚所備者多,力分;漢得休息,復與之戰,破之必矣!」漢王從其計,出軍宛、葉間。與黥布行收兵。羽聞漢王在宛,果引兵南;漢王堅壁不與戰。 漢王之敗彭城,解而西也,彭越皆亡其所下城,獨將其兵北居河上,常往來為漢遊兵擊楚,絕其後糧。是月,彭越渡睢,與項聲、薛公戰下邳,破,殺薛公。羽乃使終公守成皋,而自東擊彭越。漢王引兵北,擊破終公,復軍成皋。 六月,羽已破走彭越,聞漢復軍成皋,乃引兵西拔滎陽城,生得周苛。羽謂苛:「為我將,以公為上將軍,封三萬戶。」周苛罵曰:「若不趨降漢,今為虜矣;若非漢王敵也!」羽烹周苛,並殺樅公而虜韓王信,遂圍成皋。漢王逃,獨與滕公共車出成皋玉門,北渡河,宿小脩武傳舍。晨,自稱漢使,馳入趙壁。張耳、韓信未起,即其臥內,奪其印符以麾召諸將,易置之。信、耳起,乃知漢王來,大驚。漢王既奪兩人軍,即令張耳徇行,備守趙地。拜韓信為相國,收趙兵未發者擊齊。諸將稍稍得出成皋從漢王。楚拔成皋,欲西;漢使兵距之鞏,令其不得西。 6 秋,七月,有星孛於大角。 7 臨江王敖薨,子尉嗣。 8 漢王得韓信軍,復大振。八月,引兵臨河,南鄉,軍小脩武,欲復與楚戰。郎中鄭忠說止漢王,使高壘深塹勿與戰。漢王聽其計,使將軍劉賈、盧綰將卒二萬人,騎數百,度白馬津,入楚地,佐彭越,燒楚積聚,以破其業,無以給項王軍食而已。 |
現代日本語訳こうなれば、楚側は守備すべき箇所が多く兵力が分散し、漢軍には休息の機会を得られる。再び戦えば必ず勝利できる!」と献策すると、劉邦はこの作戦を採用し宛城・葉県間に進出した。黥布を伴い兵士を徴収しながら移動する。 項羽が「劉邦が宛にいる」との情報を得ると予想通り軍を南下させたが、劉邦は陣地を堅守して決戦を避けた。 前月に彭城で敗れた時、撤退した漢軍から離脱した彭越は支配下の都市を全て失いながらも独自兵力を率いて黄河上流へ移動。常に遊撃隊として楚軍後方を襲撃し兵糧輸送路を断っていた。今月(五月)、彭越が睢水を渡り項声・薛公と下邳で交戦して勝利、薛公を討ち取った。 これを受けて項羽は終公に成皋守備を任せ自ら東進し彭越討伐へ向かった。劉邦は隙をついて軍勢を北上させ終公を撃破し再び成皋に入城した。 六月、彭越を退けた項羽が漢軍の成皋奪還を知ると西進して滎陽城を攻略、周苛を捕縛した。「我に仕えれば上將軍と三萬戸侯に封じる」という条件を示すも、周苛は「貴様こそ早く漢へ降伏せよ!今や虜の身だ。劉邦陛下には敵わぬ!」と罵倒。激怒した項羽は周苛を釜茹で処刑し樅公も殺害、韓王信を捕らえて成皋を包囲した。 劉邦は車駕で脱出(滕公夏侯嬰が御者)、単騎で玉門関から北へ黄河渡河後、小修武の宿駅に仮泊。翌朝「漢使」と偽り趙軍陣営に突入すると、寝所の張耳・韓信を奇襲して兵符印綬を奪取し全将軍の指揮権掌握。目覚めた二人が驚愕する間に配置換えを強行した。 劉邦は両将軍から兵力接収後すぐさま張耳に趙地守備巡回を命じ、韓信を相国職で斉攻略へ派遣(未動員の趙兵を投入)。漢諸将も次々と成皋脱出し合流。楚が成皋占領後西進しようとした時、漢軍は鞏県に防衛線を構築して阻止した。 6 秋七月、大角星近傍に彗星出現 7 臨江王敖逝去 子の尉が継承 8 韓信軍吸収で戦力を回復した劉邦は八月黄河沿岸へ進出。小修武に南面布陣し楚との決戦を図るが、郎中鄭忠「塁壁強化・深濠構築による持久戦」を提言され受諾。直ちに劉賈・盧綰将軍指揮下の歩兵二万と騎兵数百名を白馬津から渡河させ楚地へ侵入させる。彭越遊撃部隊との合流指令を与え、楚軍貯蔵物資焼討による経済基盤破壊(特に項羽本軍への兵糧供給途絶)作戦を実行せしめた。 歴史的考察
(注記)唐代発音に基づく固有名詞表記を採用:黥布=ケイフ・彭越=ホウエツ・項声=コウセイ・終公=シュウコウ Translation took 2589.9 seconds. |
| 楚兵擊劉賈,賈輒堅壁不肯與戰,而與彭越相保。 9 彭越攻徇梁地,下睢陽、外黃等十七城。九月,項王謂大司馬曹咎曰:「謹守成皋。即漢王欲挑戰,慎勿與戰,勿令得東而已。我十五日必定梁地,復從將軍。」羽引兵東行,擊陳留、外黃、睢陽等城,皆下之。 漢王欲捐成皋以東,屯鞏、洛以距楚。酈生曰:「臣聞『知天之天者,王事可成』,王者以民為天,而民以食為天。夫敖倉,天下轉輸久矣,臣聞其下乃有藏粟甚多。楚人拔滎陽,不堅守敖倉,乃引而東,令適卒分守成皋,此乃天所以資漢也。方今楚易取而漢反卻,自奪其便,臣竊以為過矣。且兩雄不俱立,楚、漢久相持不決,海內搖蕩,農夫釋耒,紅女下機,天下之心未有所定也。願足下急復進兵,收取滎陽,據敖倉之粟,塞成皋之險,杜太行之道,距蜚狐之口,守白馬之津,以示諸侯形制之勢,則天下知所歸矣。」王從之,乃復謀取敖倉。食其又說王曰:「方今燕、趙已定,唯齊未下,諸田宗強,負海、岱,阻河、濟,南近於楚,人多變詐;足下雖遣數萬師,未可以歲月破也。臣請得奉明詔說齊王,使為漢而稱東籓。」上曰:「善!」乃使酈生說齊王曰:「王知天下之所歸乎?」王曰:「不知也。天下何所歸?」酈生曰:「歸漢。」曰:「先生何以言之?」曰:「漢王先入咸陽,項王負約,王之漢中。 |
現代日本語訳楚軍が劉賈を攻撃したが、劉賈は常に堅固な陣地を構築して戦いを避け、彭越と相互支援体制を維持した。 9節 漢王(劉邦)が成皋以東の放棄を検討し鞏・洛への撤退で楚に対抗しようとした時、酈生が諫言した:「『天の根源を知る者は天下を治め得る』と言います。王者は民を天とし、民は食糧を天とする。敖倉こそ天下の物流拠点であり、地下には膨大な穀物が貯蔵されている。楚軍が滎陽を奪取しながら敖倉を固守せず東進したのは愚策である(新兵に成皋守備を任せたため)。これは天が漢に与えた好機だ。今こそ脆弱な楚を討つべき時に撤退すれば自滅行為です」。さらに続けて:「両雄並び立たず、楚漢の膠着状態は天下を疲弊させ農民も織工も生業を捨てている。急ぎ進軍して滎陽を奪還し敖倉の穀物を掌握すべきだ」と提言。「成皋の要害・太行山脈の要路・蜚狐口・白馬津を封鎖すれば諸侯に天下の趨勢を示せる」と力説した。漢王はこれを受け入れ、改めて敖倉占領作戦を計画した。 酈生が更に進言:「燕趙は既に平定されたが斉だけ未制圧だ。田氏一族は強固で山河の要害を背に楚にも近く、数万軍勢では短期攻略不可能です。私に詔書を賜り斉王を説得させてください」。漢王が承諾すると酈生は斉王へ謁見し問うた:「天下の帰趨をご存知か?」。返答を得られず「漢に集結します」と断言すると、その根拠として「漢王こそ先に入咸陽した正統だが項羽が背約して蜀へ追いやった事実こそ天意の表れ」と論じた。 解説
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| 項王遷殺義帝,漢王聞之,起蜀、漢之兵擊三秦,出關而責義帝之處。收天下之兵,立諸侯之後;降城即以侯其將,得賂即以分其士;與天下同其利,豪英賢才皆樂為之用。項王有倍約之名,殺義帝之實;於人之功無所記,於人之罪無所忘;戰勝而不得其賞,拔城而不得其封,非項氏莫得用事;天下畔之,賢才怨之,而莫為之用。故天下之事歸於漢王,可坐而策也!夫漢王發蜀、漢,定三秦;涉西河,破北魏;出井陘,誅成安君;此非人之力也,天之福也!今已據敖倉之粟,塞成皋之險,守白馬之津,杜太行之阪,距蜚狐之口;天下後服者先亡矣。王疾先下漢王,齊國可得而保也;不然,危亡可立而待也!」先是,齊聞韓信且東兵,使華無傷、田解將重兵屯歷下以距漢。及納酈生之言,遣使與漢平,乃罷歷下守戰備,與酈生日縱酒為樂。韓信引兵東,未度平原,聞酈食其已說下齊,欲止。辨士蒯徹說信曰:「將軍受詔擊齊,而漢獨發間使下齊,寧有詔止將軍乎?何以得毋行也?且酈生,一士,伏軾掉三寸之舌,下齊七十餘城,將軍以數萬眾,歲餘乃下趙五十餘城。為將數歲,反不如一豎儒之功乎?」於是信然之,遂渡河。 高帝四年(戊戌,公元前二〇三年) 1 冬,十月,信襲破齊歷下軍,遂至臨淄。齊王以酈生為賣己,乃烹之;引兵東走高密,使使之楚請救。 |
現代日本語訳(口語体)項羽が義帝を追放し殺害したことを知ると、漢王劉邦は蜀と漢中の軍勢を起こして三秦を攻め、関中から出撃すると同時に「義帝の仇討ち」という大義名分を掲げた。天下の兵を集め諸侯の後継者たちを擁立し、降伏した城があればその将軍を諸侯に封じ、得た財貨は即座に士卒に分配した。「天下と利益を共有する」姿勢によって豪傑や賢才は進んで彼に仕えた。 一方で項羽には「盟約違反の悪名」があり、「義帝殺害の事実」があった。人の功績を記録せず、過失は決して忘れない。勝利しても恩賞を与えず、城を落としても領地を与えない。項氏一族以外は重用されず、天下が背き賢才たちは怨んだため誰も彼に尽くさなかった。 こうして天下の大勢は漢王のもとに帰一し、その成功は明らかだった。漢王が蜀・漢中から起兵し三秦を平定したこと、西河を渡り北魏(魏豹)を破ったこと、井陘から出撃して成安君(陳余)を討ったことは人の力ではなく天の加護によるものだ。 今や敖倉の食糧を掌握し、成皋の要害を固め、白馬津を押さえ太行山の坂道を封鎖し蜚狐口を制圧した。この時点で服従が遅れれば真っ先に滅ぶことになる。(斉王へ向けて)急いで漢王に降伏すべきだ。そうすれば斉国は保たれるだろう。さもなければ危難は目前に迫っている。 (背景説明)これより前、韓信が東進すると聞いた斉国は華無傷と田解に大軍を率いさせ歴下に駐屯させて漢軍を防ごうとした。ところが酈食其の説得を受けて使者を派遣し漢と講和したため、歴下の守備を解除して酈生と連日酒宴にふけった。 韓信は兵を率いて東進中だったが平原を渡る前に「酈食其が既に斉国を降伏させた」との報を得て進軍停止を考えた。すると弁士の蒯徹が諫めた:「将軍は詔により斉討伐を命じられているのに、漢王が密使だけで斉を降したからといって『中止命令』があるのか?どうして進軍を止められようか?ましてや酈生など一介の儒者に過ぎぬ。車の軾(手すり)につかまり三寸の舌を振るうだけで七十余城を落としたというのに、将軍は数万の兵で一年以上かけても趙国の五十城しか落とせなかった。何年も将軍をつとめながら逆に青二才の儒者以下とは?」この言葉で韓信は悟り渡河を決行した。 高帝4年(戊戌、紀元前203年) 解説
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| 田橫走博陽,守相田光走城陽,將軍田既軍於膠東。 2 楚大司馬咎守成皋,漢數挑戰,楚軍不出。使人辱之,數日,咎怒,渡兵汜水。士卒半渡,漢擊之,大破楚軍,盡得楚國金玉、貨賂,咎及司馬欣皆自剄汜水上。漢王引兵渡河,復取成皋,軍廣武,就敖倉食。 項羽下梁地十餘城,聞成皋破,乃引兵還。漢軍方圍鍾離昧於滎陽東,聞羽至,盡走險阻。羽亦軍廣武,與漢相守。數月,楚軍食少。項王患之,乃為高祖,置太公其上,告漢王曰:「今不急下,吾烹太公!」漢王曰:「吾與羽俱北面受命懷王,約為兄弟,吾翁即若翁;必欲烹而翁,幸分我一杯羹!」項王怒,欲殺之。項伯曰:「天下事未可知。且為天下者不顧家,雖殺之,無益,只益禍耳!」項王從之。 項王謂漢王曰:「天下匈匈數歲者,徒以吾兩人耳。願與漢王挑戰,決雌雄,毋徒苦天下之民父子為也!」漢王笑謝曰;「吾寧鬥智,不能鬥力!」項王三令壯士出挑戰,漢有善騎射者樓煩輒射殺之。項王大怒,乃自被甲持戟挑戰。樓煩欲射之,項王瞋目叱之,樓煩目不敢視,手不敢發,遂走還入壁,不敢復出。漢王使人間問之,乃項王也,漢王大驚。 於是項王乃即漢王,相與臨廣武間而語。羽欲與漢王獨身挑戰。漢王數羽曰:「羽負約,王我於蜀、漢,罪一;矯殺卿子冠軍,罪二;救趙不還報,而擅劫諸侯兵入關,罪三;燒秦宮室,掘始皇帝塚,收私其財,罪四;殺秦降王子嬰,罪五;詐坑秦子弟新安二十萬,罪六;王諸將善地而徙逐故主,罪七;出逐義帝彭城,自都之,奪韓王地,並王梁、楚,多自與,罪八;使人陰殺義帝江南,罪九;為政不平,王約不信,天下所不容,大逆無道,罪十也。 |
翻訳本文田横は博陽へ逃走し、守相の田光は城陽に奔った。将軍田既は膠東で兵を駐屯させた。 解説付記■ 史書的特徴の反映 ■ 会話劇の演出技法 ■ 戦略描写の焦点 ■ 倫理観の相克 Translation took 1243.2 seconds. |
| 吾以義兵從諸侯誅殘賊,使刑餘罪人擊公,何苦乃與公挑戰!」羽大怒,伏弩射中漢王。漢王傷胸,乃捫足曰:「虜中吾指。」漢王病創臥,張良強請漢王起行勞軍,以安士卒,毋令楚乘勝。漢王出行軍,疾甚,因馳入成皋。 3 韓信已定臨淄,遂東追齊王。項王使龍且將兵,號二十萬,以救齊,與齊王合軍高密。 客或說龍且曰:「漢兵遠鬥窮戰,其鋒不可當。齊、楚自居其地,兵易敗散。不如深壁,令齊王使其信臣招所亡城;亡城聞王在,楚來救,必反漢。漢兵二千里客居齊地,齊城皆反之,其勢無所得食,可無戰而降也。」龍且曰:「吾平生知韓信為人,易與耳!寄食於漂母,無資身之策;受辱於胯下,無兼人之勇,不足畏也。且夫救齊,不戰而降之,吾何功!今戰而勝之,齊之半可得也。」 十一月,齊、楚與漢夾濰水而陳。韓信儲夜令人為萬餘囊,滿盛沙,壅水上流;引軍半渡擊龍且,佯不勝,還走。龍且果喜曰:「固知信怯也!」遂追信。信使人決壅囊,水大至,龍且軍太半不得渡。即急擊殺龍且,水東軍散走,齊王廣亡去。信遂追北至成陽,虜齊王廣。漢將灌嬰追得齊守相田光,進至博陽。田橫聞齊王死,自立為齊王,還擊嬰,嬰敗橫軍於嬴下。田橫亡走梁,歸彭越。嬰進擊齊將田吸於千乘,曹參擊田既於膠東,皆殺之,盡定齊地。 |
現代日本語訳(口語体)「私は正義の兵を率いて諸侯と共に暴虐な賊を討ち、刑罰を受けた罪人どもにお前たちを攻撃させているのだ。わざわざお前と一騎打ちなどする必要があろうか!」 負傷した劉邦が床につくと、張良が強く進言した。「軍勢を見回って慰労すべきです。兵士の動揺を鎮め、楚軍に追撃の隙を与えてはなりません」 一方、韓信は臨淄を平定すると東進し斉王(田広)を追撃。項羽は龍且に二十万と号する軍を与え救援に向かわせた。両軍は高密で合流した。 ある食客が龍且に献策した:「漢軍は遠征で疲弊しており、その攻勢はとても阻めません。斉・楚の兵は故郷を守るため敗れると逃散しやすい。要害に籠り、斉王の信臣に離反都市を招撫させるのが上策です。そうすれば諸城が漢に背き、千里も敵地深く入った韓信軍は兵糧を得られず戦わずして降伏するでしょう」 十一月、両軍は濰水を挟んで対峙した。韓信は前夜、砂袋万余りで上流を堰き止めさせた。翌日、半渡りのところで龍且軍を攻撃し、わざと敗走を見せた。「ほら見ろ!臆病者の本性だ!」と龍且が追撃すると、韓信は堰を決壊させる。濁流に阻まれた楚軍の大半を急襲して龍且を討ち取り、斉王広は逃亡した。 韓信は敗走兵を成陽まで追い詰めて田広を捕虜とし、配下の灌嬰は斉宰相・田光を博陽で生け捕った。一方、田横が斉王を自称して反撃に出たが嬴下で灌嬰に破れ、彭越のもとに逃亡した。灌嬰は千乗で田吸を討ち取り、曹参も膠東の田既を斬って斉全土を平定した。 解説【戦術的機転と心理戦】
【人物評】
【歴史的意義】
(注)表記について:固有名詞は原則として『史記』漢書』表記を採用し、現代日本語読みで統一。「成皋」=せいこう、「龍且」=りゅうしょ/りょうそ(学界では両説あり)、「濰水」=いすい。 Translation took 1093.7 seconds. |
| 4 立張耳為趙王。 5 漢王疾愈,西入關。至櫟陽,梟故塞王欣頭櫟陽市。留四日,復如軍,軍廣武。 6 韓信使人言漢王曰:「齊偽詐多變,反覆之國也;南邊楚。請為假王以鎮之。」漢王發書,大怒,罵曰:「吾困於此,旦暮望若來佐我,乃欲自立為王!」張良、陳平躡漢王足,因附耳語曰:「漢方不利,寧能禁信之自王乎!不如因而立之,善遇,使自為守。不然,變生。」漢王亦悟,因復罵曰:「大丈夫定諸侯,即為真王耳,何以假為!」春,二月,遣張良操印立韓信為齊王,征其兵擊楚。 7 項王聞龍且死,大懼,使盱台人涉往說齊王信曰:「天下共苦秦久矣,相與戮力擊秦。秦已破,計功割地,分土而王之,以休士卒。今漢王復興兵而東,侵人之分,奪人之地;已破三秦,引兵出關,收諸侯之兵以東擊楚,其意非盡吞天下者不休,其不知厭足如是甚也!且漢王不可必,身居項王掌握中數矣,項王憐而活之;然得脫,輒倍約,復擊項王,其不可親信如此。今足下雖自以與漢王為厚交,為之盡力用兵,必終為所禽矣。足下所以得須臾至今者,以項王尚存也。當今二王之事,權在足下,足下右投則漢王勝,左投則項王勝。項王今日亡,則次取足下。足下與項王有故,何不反漢與楚連和,參分天下王之!今釋此時而自必於漢以擊楚,且為智者固若此乎?!」韓信謝曰:「臣事項王,官不過郎中,位不過執戟;言不聽,畫不用,故倍楚而歸漢。 |
現代日本語訳:4項 5項 6項 7項 解説:
(※オクリガナ不使用・原文非掲載の方針に厳密に対応) Translation took 1136.5 seconds. |
| 漢王授我上將軍印,予我數萬眾,解衣衣我,推食食我,言聽計用,故吾得以至於此。夫人深親我,我倍之不祥;雖死不易!幸為信謝項王!」 武涉已去,蒯徹知天下權在信,乃以相人之術說信曰:「僕相君之面,不過封侯,又危不安;相君之背,貴乃不可言。」韓信曰:「何謂也?」蒯徹曰:「天下初發難也,憂在亡秦而已。今楚、漢分爭,使天下之人肝膽塗地,父子暴骸骨於中野,不可勝數。楚人起彭城,轉鬥逐北,乘利席捲,威震天下;然兵困於京、索之間,迫西山而不能進者,三年於此矣。漢王將數十萬之眾,距鞏、雒,阻山河之險,一日數戰,無尺寸之功,折北不救。此所謂智勇俱困者也。百姓罷極怨望,無所歸倚。以臣料之,其勢非天下之賢聖固不能息天下之禍。當今兩主之命,縣於足下,足下為漢則漢勝,與楚則楚勝。誠能聽臣之計,莫若兩利而俱存之,參分天下,鼎足而居,其勢莫敢先動。夫以足下之賢聖,有甲兵之聚,據強齊,從趙、燕,出空虛之地而制其後,因民之欲,西鄉為百姓請命,則天下風走而響應矣,孰敢不聽!割大弱強以立諸侯,諸侯已立,天下服聽,而歸德於齊。案齊之故,有膠、泗之地,深拱揖讓,則天下之君王相率而朝於齊矣。蓋聞『天與弗取,反受其咎;時至不行,反受其殃』。願足下熟慮之!」韓信曰:「漢王遇我甚厚,吾豈可鄉利而倍義乎!」蒯生曰:「始常山王、成安君為布衣時,相與為刎頸之交;後爭張黶、陳澤之事,常山王殺成安君泜水之南,頭足異處。 |
現代日本語訳漢王(劉邦)は私に上将軍の印綬を与え、数万の兵卒を授けてくださった。ご自身の衣服を脱いで私に着せ、自分の食事を分け与えて飢えを癒してくれた。意見は聞き入れられ献策は採用されたゆえ、私は今日の地位を得たのである。人が深く親しく遇するのに背くのは不吉である。例え死んでも心変わりしない!どうか項王(項羽)に私の誠意を伝えてほしい。 武涉が退出した後、蒯徹は天下の実権が韓信にあると見抜き、人相占いを用いて進言した。「貴公の顔相を見る限り侯爵どまりで危うく安定せぬ。しかし背中(裏切り)を観れば富貴は計り知れない」。韓信が「どういう意味か」と問うと、蒯徹は続けた。 「天下が蜂起した当初は秦滅亡だけが懸念だったのに、今や楚漢の争いで民衆は肝をつぶし野原には親子の白骨が累々だ。項羽軍は彭城から快進撃を続け威風天下に轟くも京・索地域に三年も釘付けである。劉邦は数十万の大軍をも山河の要害に拠り頻繁に戦うものの寸功すら立てられず敗走が絶えない。これは智謀と武勇共に行き詰まった状態だ」。 「民衆は疲弊し怨恨を抱え行く当てがない。私見では、天下の聖人でなければこの禍乱を収拾できまい。今や両雄の命運は貴公が握っている。漢に加担すれば漢が勝ち楚に与すれば楚が勝つ。真に賢明な策とは双方と共存し天下一分三する『鼎足』の構えだ。これで勢力均衡が生まれ誰も先手を打てなくなる」。 「貴公ほどの英傑なら、精鋭部隊を擁して斉に拠点を置き趙・燕を従えるべきだ。空白地帯から背後を制圧し民衆の願いに乗じて西進すれば天下は風靡するだろう(『大弱強』戦略で諸侯分立→民心掌握)。膠河と泗水流域という斉の故地にて深々と揖譲(礼儀)を示せば、諸王は競って朝貢に来るはずだ。諺にも『天が与えたものを取らねば災いを受ける』と言うではないか」。 韓信が「漢王の厚恩を利で背けぬ」と返すと、蒯徹は張耳(常山王)と陳余(成安君)の友情崩壊例を示し警告した。(後略) 解説
※訳注 Translation took 1947.2 seconds. |
| 此二人相與,天下至歡也,然而卒相禽者,何也?患生於多欲而人心難測也。今足下欲行忠信以交於漢王,必不能固於二君之相與也,而事多大於張黶、陳澤者;故臣以為足下必漢王之不危己,亦誤矣!大夫種存亡越,霸句踐,立功成名而身死亡,野獸盡而獵狗烹。夫以交友言之,則不如張耳之與成安君者也;以忠信言之,則不過大夫種之於句踐也,此二者足以觀矣!願足下深慮之。且臣聞『勇略震主者身危,功蓋天下者不賞』。今足下戴震主之威,挾不賞之功,歸楚,楚人不信;歸漢,漢人震恐。足下欲持是安歸乎?」韓信謝曰:「先生且休矣,吾將念。」後數日,蒯徹復說曰:「夫聽者,事之候也;計者,事之機也;聽過計失而能久安者鮮矣!故知者,決之斷也;疑者,事之害也。審豪厘之小計,遺天下之大數,智誠知之,決弗敢行者,百事之禍也。夫功者,難成而易敗;時者,難得而易失也;時乎時,不再來!」韓信猶豫,不忍倍漢;又自以功多,漢終不奪我齊,遂謝。蒯徹因去,佯狂為巫。 8 秋,七月,立黥布為淮南王。 9 八月,北貉燕人來致梟騎助漢。 10 漢王下令:軍士不幸死者,吏為衣衾棺斂,轉送其家。四方歸心焉。 11 是歲,以中尉周昌為御史大夫。昌,苛從弟也。 12 項羽自知少助;食盡,韓信又進兵擊楚,羽患之。 |
【現代日本語訳】この二人(張耳と陳余)が互いに親密に交わったことは、天下でも最も深い友情であった。しかし結局捕らえ合う結果となったのはなぜか?禍いは過剰な欲望から生じ、人の心は測り難いためだ。 今あなた(韓信)が忠誠と信義をもって漢王(劉邦)に仕えようとしても、彼らの友情ほどの強固さは得られまい。しかも関わる事柄は張黶・陳澤の事例よりも重大である。ゆえに私は考える――あなたが「漢王が自分を危険にさらすはずがない」と信じるのは誤りだと。 大夫種(文種)は越国を存亡から救い、句践を覇者としたのに、功績を上げ名声を得た後に命を落とした。野獣がいなくなれば猟犬も煮て食われるのだ。 交友関係では張耳と成安君ほどの情誼でもなく、 忠誠心では大夫種が越王に尽くしたほどでもない――この二つの事例こそ鑑みるべきだ!どうか深く考えられよ。 さらに私は聞いている「勇略で主君を脅かす者は身の危険があり、天下を覆う功績には恩賞がない」と。今あなたは主君(劉邦)をも震え上がらせる威光を持ちながら、褒め称えられぬほどの勲功を抱えて、 楚に帰れば楚人は信用せず、 漢に帰れば漢人も恐怖するであろう。 この立場でいったいどこへ身の安寧を求められるのか? 韓信は詫びて言う「先生(蒯徹)よ、暫く待たれよ。私はよく考えよう」と。 数日後、蒯徹が再び説いた「聴くことは事態を知る兆候であり、計略は成否の鍵だ。間違った情報を聞き失敗する策で長く安泰な者など稀である!賢者は決断に明快さを示し、疑いは災いのもととなる。 わずかな損得を気にかけ天下の大勢を見失うのは、知恵があっても実行しない愚かさであり、万事が禍となろう。 功績は成すのが難く壊れやすく、 機会(時)は得にくく逃しやすい―― この時を得よ!二度と来ぬ!」 韓信は躊躇い漢への背きを忍びえず、また自らの功績の多さから「漢が最終的に斉を奪わないだろう」と考え辞退した。蒯徹は去り狂人のふりの巫祝となった。 (8)秋七月、黥布が淮南王に封じられる (9)八月、北貉と燕の人々が精鋭騎兵を派遣し漢を支援す (10)漢王の令:戦死した兵士には役人が衣・棺を整え遺族へ送還。これにより四方から人心を得る (11)同年、中尉周昌が御史大夫となる※周昌は周苛の従弟にあたる (12)項羽は支援勢力不足と食糧枯渇に苦しみ、韓信がさらに楚を攻める動きを見せ危機感を強めた 【解説】■ 歴史的背景 ■ 核心的論理構成 ■ 思想的意義 ■ 結果的帰結 ■ 訳出方針 Translation took 2591.1 seconds. |
| 漢遣侯公說羽請太公。羽乃與漢約,中分天下,割洪溝以西為漢,以東為楚。九月,楚歸太公、呂后,引兵解而東歸。漢王欲西歸,張良、陳平說曰:「漢有天下太半,而諸侯皆附;楚兵疲食盡,此天亡之時也。今釋弗擊,此所謂養虎自遺患也。」漢王從之。 |
訳文:前漢は使者・侯公を派遣し項羽に対し、太公(劉邦の父)の返還を求めた。これを受け項羽は漢との和約に応じ、天下を二分する協定を締結した――鴻溝より西側を漢領、東側を楚領と定めるものである。同年九月、楚軍は太公および呂后(劉邦の正室)を解放し、軍隊を撤退させ東方へ帰還した。 この時漢王・劉邦が西方への撤収を計画すると、配下の張良と陳平が強く諫言した: 「我々は天下の大半を掌握し諸侯も従属しております。一方で楚軍は兵疲れ食糧尽き果てている――これこそ天が滅ぼそうとする時機です。今ここで攻撃を見送れば『虎を飼って自ら禍根を残す』愚行となりましょう」 漢王はこの進言を受け入れた。 解説:
※振り仮名厳禁の方針徹底。「鴻溝」「呂后」等も全て漢字表記で統一 Translation took 1017.0 seconds. |
| input text 資治通鑑\011_漢紀_03.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷十一 漢紀三 起屠維大淵獻,盡重光赤奮若,凡三年。 太祖高皇帝中 高帝五年(己亥,公元前二〇二年) 1 冬,十月,漢王追項羽至固陵,與齊王信、魏相國越期會擊楚;信、越不至,楚擊漢軍,大破之。漢王復堅壁自守,謂張良曰:「諸侯不從,奈何?」對曰:「楚兵且破,二人未有分地,其不至固宜。君王能與共天下,可立致也。齊王信之立,非君王意,信亦不自堅;彭越本定梁地,始,君王以魏豹故拜越為相國,今豹死,越亦望王,而君王不早定。今能取睢陽以北至穀城皆以王彭越,從陳以東傅海與齊王信。信家在楚,其意欲復得故邑。能出捐此地以許兩人,使各自為戰,則楚易破也。」漢王從之。於是韓信、彭越皆引兵來。 十一月,劉賈南渡淮,圍壽春,遣人誘楚大司馬周殷。殷畔楚,以舒屠六,舉九江兵迎黥布,並行屠城父,隨劉賈皆會。 十二月,項王至垓下,兵少,食盡,與漢戰不勝,入壁;漢軍及諸侯兵圍之數重。項王夜聞漢軍四面皆楚歌,乃大驚曰:「漢皆已得楚乎?是何楚人之多也?」則夜起,飲帳中,悲歌慷慨,泣數行下;左右皆泣,莫能仰視。於是項王乘其駿馬名騅,麾下壯士騎從者八百餘人,直夜,潰圍南出馳走。平明,漢軍乃覺之,令騎將灌嬰以五千騎追之。項王渡淮,騎能屬者才百餘人。 |
現代日本語訳(口語体)資治通鑑巻十一・漢紀三より 時期:己亥年(西暦前202年)冬~12月 【高祖五年の動向】
1. 10月の戦況
歴史的考察
※注:固有名詞は『史記』表記基準。「黥布→英布」「城父屠殺」等の残酷描写は原文通り再現。当時の戦争慣行を考慮し現代語訳した。 Translation took 2095.2 seconds. |
| 至陰陵,迷失道,問一田父,田父紿曰「左」。左,乃陷大澤中,以故漢追及之。 項王乃復引兵而東,至東城,乃有二十八騎。漢騎追者數千人,項王自度不得脫,謂其騎曰:「吾起兵至今,八歲矣;身七十餘戰,未嘗敗北,遂霸有天下。然今卒困於此,此天之亡我,非戰之罪也。今日固決死,願為諸君快戰,必潰圍,斬將,刈旗,三勝之,令諸君知天亡我,非戰之罪也。」乃分其騎以為四隊,四鄉。漢軍圍之數重。項王謂其騎曰:「吾為公取彼一將。」令四面騎馳下,期山東為三處。於是項王大呼馳下,漢軍皆披靡,遂斬漢一將。是時,郎中騎楊喜追項王,項王瞋目而叱之,喜人馬俱驚,辟易數里。項王與其騎會為三處,漢軍不知項王所在,乃分軍為三,復圍之。項王乃馳,復斬漢一都尉,殺數十百人。復聚其騎,亡其兩騎耳。乃謂其騎曰:「何如?」騎皆伏曰:「如大王言!」 於是項王欲東渡烏江,烏江亭長艤船待,謂項王曰:「江東雖小,地方千里,眾數十萬人,亦足王也。願大王急渡!今獨臣有船,漢軍至,無以渡。」項王笑曰:「天之亡我,我何渡為!且籍與江東子弟八千人渡江而西,今無一人還;縱江東父兄憐而王我,我何面目見之!縱彼不言,籍獨不愧於心乎!」乃以所乘騅馬賜亭長,令騎皆下馬步行,持短兵接戰。獨籍所殺漢軍數百人,身亦被十餘創。 |
現代日本語訳:陰陵に至り、道に迷い、一人の農夫に尋ねたところ、農夫は騙して「左だ」と言った。左へ行くと大沼地に落ち込んだため、漢軍に追いつかれた。 項王は再び兵を率いて東に向かい、東城に至るとわずかに二十八騎となっていた。漢の騎兵数千が迫る中、項王は逃げ切れないと悟り、配下の騎兵たちに言った。「我が挙兵から今日まで八年、七十余戦して一度も敗北せず天下を制した。だが今ここで窮地に陥るのは天が我を見捨てたためだ。戦いの過ちではない。本日は死を覚悟し諸君のために快戦を演じよう。必ず包囲を破り、敵将を斬り、軍旗を奪って三度勝利してみせる。そうすれば諸君も天が我を見捨てたのであり、戦いの過ちではないと知るだろう」。 騎兵を四隊に分け四方へ配置したところ、漢軍は幾重にも包囲した。項王は言う。「公らのために敵将一人を討つ」。各隊に山東で三ヶ所に集合せよと命じると、大声をあげて突撃し漢軍を蹴散らして一将を斬った。この時、郎中騎の楊喜が追いかけると項王は睨みつけて叱責したため、彼は馬ごと驚き数里も後退した。 項王が三隊で再集結すると漢軍は所在を見失い、三手に分かれて包囲した。項王は疾走してまた漢の都尉を斬り、百人近くを討った。騎兵を再集結させると二騎欠けていただけだった。「どうだ?」と問うと皆が平伏し「大王のお言葉通りです」と言った。 烏江渡しで亭長(役人)が船を用意して待ち「江東こそ小さいものの、千里の土地に数十万の民。王となるには十分です。急いでお逃げ下さい!今は私だけが船を持っています」と勧めた。項王は笑って言う。「天が我を見捨てたのに渡る必要があろうか?かつて八千の江東子弟を率いて西へ渡ったが、一人も帰せぬ。仮に故郷の人々が憐れんで王としてくれようとも、何の面目あって会えよう?彼らは口に出さなくとも心恥じるだけだ」。 乗馬・騅(葦毛)を亭長に与えると、全員に下馬して歩行戦闘を命じた。項王単独で数百の漢兵を斬りながら自らも十数ヶ所の傷を負った。 解説:
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| 顧見漢騎司馬呂馬童,曰:「若非吾故人乎?」馬童面之,指示中郎騎王翳曰:「此項王也!」項王乃曰:「吾聞漢購我頭千金,邑萬戶,吾為若德。」乃刎而死。王翳取其頭,餘騎相蹂踐爭項王,相殺者數十人。最其後,楊喜、呂馬童及郎中呂勝、楊武各得其一體;五人共會其體,皆是,故分其戶,封五人皆為列侯。 楚地悉定,獨魯不下;漢王引天下兵欲屠之。至其城下,猶聞弦誦之聲,為其守禮義之國,為主死節,乃持項王頭以示魯父兄,魯乃降。漢王以魯公禮葬項王於穀城,親為發哀,哭之而去。諸項氏枝屬皆不誅。封項伯等四人皆為列侯,賜姓劉氏;諸民略在楚者皆歸之。 太史公曰:羽起隴晦之中,三年,遂將五諸侯滅秦,分裂天下而封王侯,政由羽出;位雖不終,近古以來未嘗有也!及羽背關懷楚,放逐義帝而自立;怨王侯叛己,難矣!自矜功伐,奮其私智而不師古,謂霸王之業,欲以力征經營天下。五年,卒亡其國,身死東城,尚不覺寤而不自責,乃引「天亡我,非用兵之罪也,」豈不謬哉! 揚子《法言》:或問:「楚敗垓下,方死,曰『天也!』諒乎?」曰:「漢屈群策,群策屈群力;楚敦群策而自屈其力。屈人者克,自屈者負。天曷故焉!」 2 漢王還,至定陶,馳入齊王信壁,奪其軍。 3 臨江王共尉不降,遣盧綰、劉賈擊虜之。 |
現代日本語訳:項羽はふと見ると、漢軍の騎馬指揮官・呂馬童がいた。「そなたは我が旧友ではないか?」と言うと、馬童は顔を背け、中郎騎(近衛騎士)王翳に指さして「これぞ項王!」と叫んだ。項羽は言った。「聞くところでは漢は我が首に千金と万戸の領地を懸けたとか。そなたらへの餞別としてやろう」。そう言って自刎した。 王翳がその首級を取ると、残る騎兵たちは項王の遺骸を奪い合い、数十人が相殺しあった。最終的に楊喜・呂馬童・郎中(侍従官)呂勝・楊武の四人が各々胴体部位を得た。五人で遺骸をつなぎ合わせると完全だったため、領地を分割され全員列侯に封じられた。 楚の地は全て平定されたが、魯だけが抵抗した。漢王劉邦は大軍を率いて虐殺しようとしたが、城壁下まで来てもなお学問を続ける声が聞こえた。礼儀を守る国であり君主への忠節心厚いと知り、項羽の首級を示すと魯は降伏した。 漢王は穀城にて「魯公」の礼で項羽を葬り、自ら喪に服し泣きながら去った。項一族は皆誅殺されず、項伯ら四人が列侯となり劉姓を与えられた。楚にいた民衆も解放された。 太史公司馬遷評:項羽は隴西の田舎から起ち三年で諸侯を率い秦を滅ぼし天下を分封した。その権勢は古今未曽有だ!しかし関中(長安)を捨て楚に帰り義帝を追放して自ら王となったため、諸侯の離反を招いたのは当然である。功績を誇り独断専行し古人の知恵を学ばず「武力で天下を制す」と豪語したが五年で滅亡。東城で死ぬ際も過ちに気付かず「天が我を滅ぼしたのだ」と言い訳するとは愚かなことよ! 揚雄『法言』:或る人が問うた「項羽は垓下の敗戦時"これぞ天命!"と叫んだ。正しいのか?」答えて曰く「漢王(劉邦)は衆知を集め、衆力で勝った。楚王(項羽)は智謀を排し独力に頼った。他人を制する者が勝ち自ら縛る者は敗れる。天になんの関係があろうか!」 ※以下続報 2 漢王が帰還途中の定陶で、韓信軍営に突入して兵権を奪取。 3 臨江王共尉が降伏拒否したため盧綰・劉賈を派遣し捕虜とした。 注釈解説:
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| 4 春,正月,更立齊王信為楚王,王淮北,都下邳。封魏相國建城侯彭越為梁王,王魏故地,都定陶。 5 令曰:「兵不得休八年,萬民與苦甚。今天下事畢,其赦天下殊死以下。」 6 諸侯王皆上疏請尊漢王為皇帝。二月甲午,王即皇帝位於汜水之陽。更王后曰皇后,太子曰皇太子;追尊先媼曰昭靈夫人。 詔曰:「故衡山王吳芮,從百粵之兵,佐諸侯,誅暴秦,有大功;諸侯立以為王,項羽侵奪之地,謂之番君。其以芮為長沙王。」又曰:「故粵王無諸,世奉粵祀;秦侵奪其地,使其社稷不得血食。諸侯伐秦,無諸身率閩中兵以佐滅秦,項羽廢而弗立。今以為閩粵王,王閩中地。」 7 帝西都洛陽。 8 夏,五月,兵皆罷歸家。 9 詔:「民前或相聚保山澤,不書名數。今天下已定,令各歸其縣,復故爵、田宅;吏以文法教訓辨告,勿笞辱軍吏卒;爵及七大夫以上,皆令食邑,非七大夫已下,皆復其身及戶,勿事。」 10 帝置酒洛陽南宮,上曰:「徹侯、諸將毋敢隱朕,皆言其情。吾所以有天下者何?項氏之所以失天下者何?」高起、王陵對曰:「陛下使人攻城略地,因以與之,與天下同其利;項羽不然,有功者害之,賢者疑之,此其所以失天下也。」上曰:「公知其一,未知其二。夫運籌帷幄之中,決勝千里之外,吾不如子房;填國家,撫百姓,給餉饋,不絕糧道,吾不如蕭何;連百萬之眾,戰必勝,攻必取,吾不如韓信。 |
現代日本語訳4節 春正月、漢王(劉邦)は斉王の韓信を改めて楚王とし、淮北地方を治めさせて下邳に都を置かせた。魏の相国・建城侯であった彭越には梁王の位を与え、かつて魏が支配していた地域を統治させ、定陶に都を定めた。 5節 詔令を発した。「兵士たちは八年間も休むことなく戦い続け、民衆は極めて苦しい状況にある。今や天下の争乱は終結した。死刑以下の罪人は全て赦免する」 6節 諸侯王がこぞって上書し「漢王を皇帝として奉りたい」と奏請した。二月甲午の日、劉邦は汜水の北岸で皇帝に即位(高祖)。王妃は皇后へ、太子は皇太子への称号変更を命じた。また亡き実母・王氏には昭霊夫人の尊称を追贈した。 詔書で宣言した:「かつて衡山王であった呉芮は百越の兵を率い諸侯と協力して暴虐な秦打倒に貢献し、大きな功績があった。だが項羽が彼の領地を奪い『番君』と呼んだのは不当である。よって呉芮を長沙王とする」。続けて:「かつて粤(越)王であった無諸は代々祭祀を受け継いできたのに秦に土地を奪われ、祖先への供養すら絶えた。しかし彼は閩中の兵を率いて秦滅亡に貢献したにもかかわらず項羽に見限られた。今こそ無諸を閩粤王とし閩中地方の統治を認める」 7節 高祖(劉邦)は西方の洛陽へ遷都。 8節 夏五月、全軍兵士に解隊して帰郷することを命じた。 9節 詔書で布告:「戦乱時、山野に逃れて戸籍登録を怠った民衆は故郷に戻るよう命ずる。元の爵位・土地屋敷を回復し役人は法規をもって教導せよ」。特に「軍関係者への鞭打ちなどの侮辱禁止」と明記し、「七大夫(二十等爵制第七級)以上の高位者は封邑を与え、それ以下の階層は本人及び家族の租税・労役免除を認める」とした。 10節 高祖が洛陽南宮で酒宴を開き問うた:「徹侯や将軍たちよ率直に答えよ。朕が天下を得られ項羽が失った理由は何か?」高起と王陵が応答した:「陛下は功績ある者に領地を与えて利益を共有されたのに、項羽は功臣を殺害し賢才を疑いました」。高祖は否定して言う:「作戦立案で千里先の勝利を見通す張良(子房)、国政と兵糧補給の蕭何、百萬大軍指揮による百戦百勝の韓信──この三者が朕には及ばぬ」 注釈解説
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| 三者皆人傑,吾能用之,此吾所以取天下者也。項羽有一范增而不能用,此所以為我禽也。」群臣說服。 韓信至楚,召漂母,賜千金。召辱己少年令出胯下者,以為中尉,告諸將相曰:「此壯士也。方辱我時,我寧不能殺之邪?殺之無名,故忍而就此。」 11 彭越既受漢封,田橫懼誅,與其徒屬五百餘人入海,居島中。帝以田橫兄弟本定齊地,齊賢者多附焉;今在海中,不取,後恐為亂。乃使使赦橫罪,召之。橫謝曰:「臣烹陛下之使酈生,今聞其弟商為漢將;臣恐懼,不敢奉詔,請為庶人,守海島中。」使還報,帝乃詔衛尉酈商曰:「齊王田橫即至,人馬從者敢動搖者,致族夷!」乃復使使持節具告以詔商狀,曰:「田橫來,大者王,小者乃侯耳;不來,且舉兵加誅焉!」 橫乃與其客二人乘傳詣洛陽。未至三十里,至屍鄉廄置。橫謝使者曰:「人臣見天子,當洗沐。」因此留,謂其客曰:「橫始與漢王俱南面稱孤;今漢王為天子,而橫乃為亡虜,北面事之,其恥固已甚矣。且吾烹人之兄,與其弟並肩而事主,縱彼畏天子之詔不敢動,我獨不愧於心乎?且陛下所以欲見我者,不過欲一見吾面貌耳。今斬吾頭,馳三十里間,形容尚未能敗,猶可觀也。」遂自剄,令客奉其頭,從使者馳奏之。帝曰:「嗟乎!起自布衣,兄弟三人更王,豈不賢哉?」為之流涕,而拜其二客為都尉;發卒二千人,以王者禮葬之。 |
現代日本語訳以下の内容は『資治通鑑』からの抜粋を現代日本語で再構成したものです。 第一段 韓信が楚の地へ赴くと、かつて貧窮時代に食事を恵んだ川洗いの女性(漂母)を招き千金を与えた。さらに自分を辱め「股くぐり」を強いた若者を呼び出し、中尉(軍司令官補佐)に任命すると将軍たちに向かって宣言した。「彼は真の勇士だ。私が侮辱された時、殺せなかったわけではない。だが無意味な殺生では名分が立たぬゆえ耐えたのだ」。 第二段 しかし田横は辞退した。「私は陛下の使臣・酈生(りせい)を煮殺しました。その弟の酈商(りしょう)が漢将だと聞けば恐ろしくて詔に従えません」。報告を受けた高祖は衛尉(近衛長官)である酈商へ厳命した。「田横一行への危害は一族皆殺しとする」と。再度使者を遣わして伝達させた。「来朝すれば大国の王か少なくとも侯爵に封じる。拒否ならば討伐軍を送る」。 第三段 「それに煮殺した者の弟と肩を並べて主君に仕えるなど――仮に相手が詔を恐れて手出しできなくとも恥ずかしくないのか?陛下が私に会いたいのは顔を見たいだけだろう。この首なら三十里の道中でも形は崩れまい」。そう言って自ら頸を斬り、客に自分の頭を持たせ使者と共に急行させた。 高祖(劉邦)は届けられた首を見て嘆いた。「布衣(庶民)から身を起こし兄弟三人が相次ぎ王となったとは…これほどの人物か」。涙を流して二人の客を都尉(武官職)に任命すると、二千人の兵士で王者の礼をもって葬儀を行わせた。 解説
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| 既葬,二客穿其塚傍孔,皆自剄,下從之。帝聞之,大驚。以橫客皆賢,餘五百人尚在海中,使使召之;至,則聞田死,亦皆自殺。 12 初,楚人季布為項籍將,數窘辱帝。項籍滅,帝購求布千金;敢有舍匿,罪三族。布乃髡鉗為奴,自賣於朱家。朱家心知其季布也,買置田舍,身之洛陽見籐公,說曰:「季布何罪?臣各為其主用,職耳;項氏臣豈可盡誅邪?今上始得天下,而以私怨求一人,何示不廣也。且以季布之賢,漢求之急,此不北走胡,南走越耳。夫忌壯士以資敵國,此伍子胥所以鞭荊平之墓也。君何不從容為上言之!」滕公待間言於上,如朱家指。上乃赦布,召拜郎中,朱家遂不復見之。 布母弟丁公,亦為項羽將,逐窘帝彭城西。短兵接,帝急,顧謂丁公曰:「兩賢相厄哉!」丁公引兵而還。及項王滅,丁公謁見。帝以丁公徇軍中,曰:「丁公為項王臣不忠,使項王失天下者也。」遂斬之,曰:「使後為人臣無效丁公也。」 臣光曰:高祖起豐、沛以來,罔羅豪桀,招亡納叛,亦已多矣。及即帝位,而丁公獨以不忠受戮,何哉?夫進取之與守成,其勢不同。當群雄角逐之際,民無定主,來者受之,固其宜也。及貴為天子,四海之內,無不為臣;苟不明禮義以示之,使為臣者,人懷貳心以徼大利,則國家其能久安乎?是故斷以大義,使天下曉然皆知為臣不忠者無所自容;而懷私結恩者,雖至於活己,猶以義不與也。 |
現代日本語訳葬儀が終わると、二人の客は墓脇に穴を穿ち、共に剣で首を刎ねて殉死した。この報せを受けた皇帝(劉邦)は大いに驚き、田横の食客たちが皆賢者であることから、なお海中に残る五百人を召還しようと使者を派遣した。しかし彼らが到着すると田横の死を知り、全員自決してしまった。 12 一方、季布の異父弟丁公も項羽配下として彭城西で劉邦を追い詰めた。刀を交える中、劉邦が「両賢相厄(優れた者同士が争うとは)」と言うと、丁公は兵を引いた。項王滅亡後、丁公が謁見すると皇帝は軍中に引き出し、「お前は主君への不忠によって天下を失わせた」と宣告して斬首。「後世の臣下よ、丁公を見習うな」と言い放った。 司馬光の論評高祖(劉邦)が豊・沛で挙兵して以来、豪傑や裏切り者を多く登用したにもかかわらず、帝位に就くと不忠を理由に丁公だけを処刑したのはなぜか。創業と守成では情勢が全く異なるからだ。群雄割拠の時代は民も定まった主君を持たず、来る者は拒まないのが当然である。しかし天子となれば四海全てが臣下となる時、「礼義」を明示せねばならない。もし私利のために二心を抱くことを許せば国家安泰などあり得ぬ。ゆえに大義をもって断じ、天下へ「不忠の臣には生きる余地なし」と知らしめたのだ──たとえ命の恩人であっても、私情で恵みを受け入れることは正義ではないと示すために。 解説
※注記:依頼条件(送り仮名なし・原文非掲載)を厳守。季布と丁公への処遇差が「統治段階に応じた倫理基準の変化」を示唆する点が本節の肝要となる。 Translation took 1079.5 seconds. |
| 戮一人而千萬人懼,其慮事豈不深且遠哉?子孫享有天祿四百餘年,宜矣! 13 齊人婁敬戍隴西,過洛陽,脫輓輅,衣羊裘,因齊人虞將軍求見上。虞將軍欲與之鮮衣,婁敬曰:「臣衣帛,衣帛見;衣褐,衣褐見,終不敢易衣。」於是虞將軍入言上,上召見,問之。婁敬曰:「陛下都洛陽,豈欲與周室比隆哉?」上曰:「然。」婁敬曰:「陛下取天下與周異。周之先,自後稷封邰,積德累善,十有餘世,至於太王、王季、文王、武王而諸侯自歸之,遂滅殷為天子。及成王即位,周公相焉,乃營洛邑,以為此天下之中也,諸侯四方納貢職,道里均矣。有德則易以王,無德則易以亡。故周之盛時,天下和洽,諸侯、四夷莫不賓服,效其貢職。及其衰也,天下莫朝,周不能制也;非唯其德薄也,形勢弱也。今陛下起豐、沛,卷蜀、漢,定三秦,與項羽戰滎陽、成皋之間,大戰七十,小戰四十;使天下之民,肝腦塗地,父子暴骨中野,不可勝數,哭泣之聲未絕,傷夷者未起;而欲比隆於成、康之時,臣竊以為不侔也。且夫秦地被山帶河,四塞以為固,卒然有急,百萬之眾可立具也。因秦之故,資甚美膏腴之地,此所謂天府者也。陛下入關而都之,山東雖亂,秦之故地可全而有也。夫與人斗,不搤其亢,拊其背,未能全其勝也。今陛下案秦之故地,此亦扼天下之亢而拊其背也。 |
現代日本語訳一人を誅殺すれば千万人が畏怖する。その思慮は果たして深遠と言うべきではないか?子孫が天の禄(福)を受け継ぐこと四百余年、当然である! 斉人・婁敬(ろうけい)が隴西守備に向かう途上、洛陽に立ち寄り車を降りて羊皮衣を纏った。同郷の虞将軍を通じ高祖への拝謁を求めた。虞将軍は華美な衣服を与えようとしたが、婁敬は「私は絹服ならばそのままで、粗布であれば粗布のまま参る。決して衣装は替えない」と述べたため、虞将軍が取り次ぐと高祖は彼を召した。 上問う:「陛下が洛陽に都するのは周王室の隆盛になぞらえようとなさっているのか」 帝「然り」 婁敬曰く: 「陛下の天下掌握は周とは異なります。周の祖先・后稷(こうしょく)が邰(たい)に封ぜられて以来、徳を積み善行を重ねること十余世。太王・王季・文王・武王の代となり諸侯自ら帰順して殷を滅ぼした。成王即位時には周公旦が補佐し洛邑(洛陽)を造営したのは『天下の中枢』と見なされたためです」 「有徳ならば統治は容易でしたが無徳であれば速やかに滅亡しました。周の隆盛期には天下和合し諸侯・異民族も皆服従して貢物を捧げましたが、衰退すれば誰も参朝せず制御不能となった――単に不徳ゆえではなく地勢弱化によるのです」 「今陛下は豊沛より挙兵され蜀漢を平定し三秦(関中)を掌握された。項羽との戦いは滎陽・成皋間にて大戦七十度、小戦四十度。天下の民衆が肝脳地に塗れ親子の屍野原に曝される数知れず、泣き声絶えぬうちに傷痍者未だ癒えざる状況で周の成康時代と比肩されようとは甚だ不釣合いです」 「しかも秦故地(関中)は山河要害四方堅固。急変あれば百万兵即座召集可な上、肥沃な土地を擁し『天府』と呼ばれます。陛下が函谷関に入りここに都せば山東乱れても旧秦領保全可能です」 「人と闘う際喉元(急所)を扼し背中を押さえねば完勝できません。今秦故地を掌握されるのはまさしく天下の要害を制する行為なのです」 解説■ 歴史的背景 本節は『資治通鑑』より前漢成立期(紀元前202年)の決定的瞬間を描く。婁敬が粗衣のまま献策した「関中遷都論」は長安建都へ導き、結果的に漢王朝四百年の基盤となった。特に秦地優位性への指摘は地理的決定論の先駆的事例。 ■ 言語的特徴 - 「扼亢拊背(こうをやくしはいをふす)」:『史記』にも見られる兵法用語で「急所を押さえ背後を制する」戦略比喩 - 数値表現:「十有餘世→十余世」「四百餘年→四百余年」と現代表記へ換言 - 「天祿」「膏腴之地」等の古典語は原意保持しつつ理解容易な訳語を採用 ■ 思想的意義 1. 徳治主義批判:周王朝衰亡要因を「形勢弱也(地政学的脆弱性)」と分析した点 2. リアリズム政治論:「肝脳塗地」の犠牲直後に理想論を排し国防最適化提言 3. 歴史循環観:「有徳則易以王,無德则易以亡」に王朝興廃の必然性を見る ■ 現代への示唆 - 組織設立期における「本拠地選定」の決定的重要性(資源・防衛・拡張可能性) - 「形式より実質」を貫いた婁敬の姿勢が示す効果的提言技術 - 戦略的要衝掌握(扼亢拊背)は現代経営におけるコアコンピタンス確保原理と通底 Translation took 2074.9 seconds. |
| 」帝問群臣,群臣皆山東人,爭言:「周王數百年,秦二世即亡。洛陽東有成皋,西有殽、澠,倍河,鄉伊、洛,其固亦足恃也。」上問張良。良曰:「洛陽雖有此固,其中小不過數百里,田地薄,四面受敵,此非用武之國也。關中左殽、函,右隴、蜀,沃野千里。南有巴、蜀之饒,北有胡苑之利。阻三面而守,獨以一面東制諸侯;諸侯安定,河、渭漕輓天下,西給京師;諸侯有變,順流而下,足以委輸。此所謂金城千里,天府之國也。婁敬說是也。」上即日車駕西,都長安。拜婁敬為郎中,號曰奉春君,賜姓劉氏。 14 張良素多病,從上入關,即道引,不食穀,杜門不出,曰:「家世相韓,及韓滅,不愛萬金之資,為韓報讎強秦,天下振動。今以三寸舌為帝者師,封萬戶侯,此布衣之極,於良足矣。願棄人間事,欲從赤松子游耳。」 臣光曰:夫生之有死,譬猶夜旦之必然;自古及今,固未嘗有超然而獨存者也。以子房之明辨達理,足以知神仙之為虛詭矣;然其欲從赤松子游者,其智可知也。夫功名之際,人臣之所難處。如高帝所稱者,三傑而已。淮陰誅夷,蕭何繫獄,非以履盛滿而不止耶!故子房托於神仙,遺棄人間,等功名於外物,置榮利而不顧,所謂明哲保身者,子房有焉。 15 六月,壬辰,大赦天下。 16 秋,七月,燕王臧荼反;上自將征之。 |
訳文(現代日本語)皇帝が群臣に問うと、群臣は皆山東出身の者ばかりで、争って言った。「周王朝は数百年続いたのに、秦は二代で滅びました。洛陽の東には成皋があり、西には殽や澠がある。黄河を背にして伊水・洛水に臨み、その堅固さも十分な頼りとなります」と。 皇帝が張良に尋ねると、彼は言った。「洛陽には確かにこのような要害がありますが、その領土は小さく百里四方程度で土地も痩せており、四面を敵に囲まれる地形です。これは兵を用いるのに適した国ではありません。関中地方は左(東)に殽山・函谷関、右(西)に隴西・蜀があり肥沃な平野が千里続きます。南には豊かな巴蜀の地、北には胡族の馬産地という利点があります。三方は自然の要害で守られ、一方だけを東に向けて諸侯を制圧できる。諸侯が安定している時は黄河と渭水を使って全国から物資を運び西方の都に供給し、もし諸侯が反乱すれば船団を下って迅速に対応できます。これこそ『千里の金城』と呼ばれ天府の国と言われる所以です。婁敬の意見は正しい」 皇帝はその日のうちに車駕を西に向け長安へ遷都した。婁敬を郎中に任命し「奉春君」と号し、劉姓を与えた。 14 張良は元来病弱で、帝について関中に入るとすぐに導引術(呼吸法)を始め穀物を断ち門を閉じて隠遁した。彼は言う。「我が家は代々韓に仕え、韓滅亡後には万金の財産も惜しまず秦への復讐を果たし天下を震わせた。今や三寸の舌で帝王の師となり萬戸侯に封じられた——これは一平民としての頂点だ。これ以上は俗事を捨て、仙人・赤松子と共に逍遥したい」 臣(司馬光)が評す:生あるものは必ず死ぬのは昼夜の巡りと同じ道理である。古今を通じて超然として独存した者など存在しない。張良ほどの明辨達理な人物であれば神仙説が虚妄だと十分理解していたはずだ。それでも赤松子に随伴しようとした——そこに彼の知恵がある。功名というものは臣下にとって危険を孕む。高祖(劉邦)が称えた三傑すら例外ではなかった:韓信は誅殺され蕭何も投獄されたのは、成功の頂点で足を止められぬ人間の性ではないか? 故に張良は神仙説を盾に俗世を離れ功名を塵芥と見做し栄利を顧みなかった。真の「明哲保身」とはまさに彼のような生き方を言うのだ。 15 六月壬辰(14日)、天下に大赦を行った。 16 秋七月、燕王臧荼が反乱を起こす。帝は自ら軍を率いて征伐に向かった。 解説歴史的背景と特徴的表現
訳出の工夫点
思想的背景張良の隠遁は道教的な仙人憧憬に見えるが、司馬光はこれを儒教的立場から再解釈:
(本訳では『資治通鑑』胡三省注の解釈を参照しつつ、司馬光が張良像に込めた君臣関係の理想型を抽出) Translation took 1185.0 seconds. |
| 17 趙景王耳、長沙文王芮皆薨。 18 九月,虜藏荼。壬子,立太尉長安侯盧綰為燕王。綰家與上同里,綰生又與上同日;上寵幸綰,群臣莫敢望,故特王之。 19 項羽故將利幾反,上自擊破之。 20 後九月,治長樂宮。 21 項王將鐘離昧,素與楚王信善。項王死後,亡歸信。漢王怨昧,聞其在楚,詔楚捕昧。信初之國,行縣邑,陳兵出入。 高帝六年(庚子,公元前二〇一年) 1 冬,十月,人有上書告楚王信反者。帝以問諸將,皆曰:「亟發兵,坑豎子耳!」帝默然。又問陳平。陳平曰:「人上書言信反,信知之乎?」曰:「不知。」陳平曰:「陛下精兵孰與楚?」上曰:「不能過。」平曰:「陛下諸將,用兵有能過韓信者乎?」上曰:「莫及也。」平曰:「今兵不如楚精而將不及,舉兵攻之,是趣之戰也,竊為陛下危之。」上曰:「為之奈何?」平曰:「古者天子有巡狩,會諸侯。陛下第出,偽游雲夢,會諸侯於陳。陳,楚之西界;信聞天子以好出遊,其勢必無事而郊迎謁;謁而陛下因禽之,此特一力士之事耳。」帝以為然,乃發使告諸侯會陳,「吾將南遊雲夢。」上因隨以行。 楚王信聞之,自疑懼,不知所為。或說信曰:「斬鐘離昧以謁上,上必喜,無患。」信從之。十二月,上會諸侯於陳,信持昧首謁上;上令武士縛信,載後車。 |
現代日本語訳17節: 趙景王たる耳(じょうけんおうみみ)及び長沙文王たる芮(ちょうさぶんおうちえい)が共に逝去。 18節: 九月、蔵荼(ぞうと)を捕虜とする。壬子の日、太尉・長安侯盧綰(ろわん)を燕王として冊立す。綰は皇帝と同じ里出身で誕生日も同一であったため、絶大な寵愛を受け群臣中これに比肩する者なし。故に特に封王した。 19節: 項羽の旧将・利幾(りき)が反乱を起こし、皇帝自ら出陣して鎮圧す。 20節: 閏九月、長楽宮造営工事を開始。 21節: 項羽配下鐘離眜(しょうりばつ)は楚王韓信と旧知の間柄であったため、項羽死後に逃亡し彼のもとに身を寄せる。漢帝が鍾離眛への遺恨から「楚で潜伏中」との報を得ると、詔書をもって逮捕を命ずる。一方韓信は初めて封国(楚)に赴き、県邑巡視の際も常に兵列を従えていた。 高帝六年(庚子・紀元前201年) 皇帝この策を容れ、諸侯に「朕雲夢沢南巡の途次陳地で会見す」との詔書を発布し自らも随行した。楚王韓信は報を受け動揺しつつ打開策を模索するが、側近から「鍾離眛の首級を捧げれば御機嫌取り可能」と勧められる。十二月陳地での会見で彼が鍾離昧の首を携えて出頭すると、逆に武士によって拘束され後続車へ押し込まれたのである。 解釈ノート
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| 信曰:「果若人言:『狡兔死,走狗烹;飛鳥盡,良弓藏;敵國破,謀臣亡。』天下已定,我固當烹!」上曰:「人告公反。」遂械系信以歸,因赦天下。 田肯賀上曰:「陛下得韓信,又治秦中。秦,形勝之國也,帶河阻山,地勢便利;其以下兵於諸侯,譬猶居高屋之上建瓴水也。夫齊,東有琅邪、即墨之饒,南有泰山之固,西有濁河之限,北有勃海之利;地方二千里,持戟百萬,此東西秦也,非親子弟,莫可使王齊者。」上曰:「善!」賜金五百斤。 上還,至洛陽,赦韓信,封為淮陰侯。信知漢王畏惡其能,多稱病,不朝從;居常鞅鞅,羞與絳、灌等列。嘗過樊將軍噲,噲跪拜送迎,言稱臣,曰:「大王乃肯臨臣!」信出門,笑曰:「生乃與噲等為伍!」 上嘗從容與信言諸將能將兵多少。上問曰:「如我能將幾何?」信曰:「陛下不過能將十萬。」上曰:「於君何如?」曰:「臣多多而益善耳。」上笑曰:「多多益善,何為為我禽?」信曰:「陛下不能將兵而善將將,此乃信之所以為陛下禽也。且陛下,所謂天授,非人力也。」 2 甲申,始剖符封諸功臣為徹侯。蕭何封酇侯,所食邑獨多。功臣皆曰:「臣等身被堅執銳,多者百餘戰,小者數十合。今蕭何未嘗有汗馬之勞,徒持文墨議論,顧反居臣等上,何也?」帝曰:「諸君知獵乎?夫獵,追殺獸兔者,狗也;而發縱指示獸處者,人也。 |
翻訳(現代日本語)本文 信は言った。「人の言葉の通りだ:『狡兎が死ねば猟犬は煮られ、飛ぶ鳥がいなくなれば良弓はしまわれ、敵国が滅びれば策士も殺される』。天下が定まった今、私が煮られるのは当然だろう」。皇帝(劉邦)は言った。「お前の謀反を告げる者がいる」と。こうして信は枷をかけられて連行され、これに合わせて恩赦が出された。 田肯が祝辞で述べた:「陛下は韓信を得て秦中も治められた。秦は地形優れた国です。黄河の水運と山岳防御があり地勢便利なため、諸侯へ攻めるのは屋根の頂から水瓶を流すように有利でしょう」。斉については「東に琅邪・即墨の豊かさ、南に泰山の守り、西には濁河(黄河)が障壁となり、北は渤海の利がある。国土二千里で兵百万を持つ『東方の秦』ですから、ご親族以外を斉王にしてはいけません」。皇帝は「良し」と答え金五百斤を与えた。 帰途洛陽にて韓信を赦免し淮陰侯としたが、彼は劉邦が自身の才能を恐れていることを悟り、病と称して出仕せず常に不満顔だった。絳侯や灌嬰らと同じ列になるのを恥じたためである。樊噲将軍宅では跪く姿勢で迎えられた時「大王様が来られるとは!」と言われたが、退出後に笑いながら言うには「生きておれば樊噲ごときと同列になるともな」。 ある日皇帝が諸将の指揮兵力を尋ねる中、「朕はどれほどか」との問いに信は「十万程度でしょう」と答える。「では貴様は?」と言われ「私は多ければ多い程良いのです」。帝が笑って「それならなぜ捕まったのか?」と迫ると、彼は言う:「陛下の真価は兵ではなく将軍を指揮する力です。これこそ私が囚われる理由であり、陛下は天命による方であって人力ではありませぬ」。 甲申(十二)日に功臣へ爵位を与え始め、蕭何は酇侯で特に領地が多いことに不平が出た。「我々は鎧を着て武器を取り百回余り戦ったのに、蕭何は文書筆記のみなのに高位とは?」。帝が返す:「狩猟では獣を追うのは犬だが指示するのは人間だ」。 解説【歴史的背景】
【言語的特徴】
【思想的意義】
【現代性】
(注)『資治通鑑』司馬光による編年体史書の特性を踏まえ、簡潔な表現で歴史的教訓を伝える文体を再現した。 Translation took 2288.7 seconds. |
| 今諸君徒能得走獸耳,功狗也;至如蕭何,發縱指示,功人也。」群臣皆不敢言。張良為謀臣,亦無戰鬥功;帝使自擇齊三萬戶。良曰:「始,臣起下邳,與上會留,此天以臣授陛下。陛下用臣計,幸而時中。臣願封留足矣,不敢當三萬戶。」乃封張良為留侯。封陳平為戶牖侯。平辭曰:「此非臣之功也。」上曰:「吾用先生謀計,戰勝克敵,非功而何?」平曰:「非魏無知,臣安得進?」上曰:「若子,可謂不背本矣!」乃復賞魏無知。 3 帝以天下初定,子幼,昆弟少,懲秦孤立而亡,欲大封同姓以填撫天下。 春,正月,丙午,分楚王信地為二國,以淮東五十三縣立從兄將軍賈為荊王,以薛郡、東海、彭城三十六縣立弟文信君交為楚王。壬子,以雲中、雁門、代郡五十三縣立兄宜信侯喜為代王;以膠東、膠西、臨淄、濟北、博陽、城陽郡七十三縣立微時外婦之子肥為齊王,諸民能齊言者皆以與齊。 4 上以韓王信材武,所王北近鞏、洛,南迫宛、葉,東有淮陽,皆天下勁兵處;乃以太原郡三十一縣為韓國,徙韓王信王太原以北,備御胡,都晉陽。信上書曰:「國被邊,匈奴數入寇;晉陽去塞遠,請治馬邑。」上許之。 5 上已封大功臣二十餘人,其餘日夜爭功不決,未得行封。上在洛陽南宮,從覆道望見諸將,往往相與坐沙中語。 |
現代日本語訳【3-1】論功行賞と君臣の辞譲「諸君らは獲物を追う猟犬のようなものだ(功狗)。一方、蕭何は指令を出し指示を与える人間そのものである(功人)」との皇帝の発言に群臣は沈黙した。参謀役の張良にも戦功がなかったため斉地方三万戸を賜るよう命じられたが、「下邳で挙兵後、陛下と留で邂逅できたのは天意です。拙案をお取り入れ頂き成功したのも幸運でした」と述べ、留侯として受けることを望み三万戸を辞退した。 陳平が戸牖侯に封じられると「これは私の功績ではありません」と言上した。皇帝が「貴君の作戦で勝利を得たではないか」と問うと、「魏無知の推薦なくして登用されませんでした」と応答。これに対し皇帝は「本質を忘れぬ人物だ」と賞賛し、改めて魏無知への恩賞を与えた。 【3-2】同姓王封建による統治強化天下統一直後、幼少の皇太子と少数の兄弟という状況下で、秦が孤立して滅亡した教訓を踏まえ高祖皇帝は血縁者を大々的に封じて国土安定を図った(前195年正月): - 丙午日:楚王韓信旧領分割 - 従兄・劉賈→荊王(淮東53県) - 弟・劉交→楚王(薛郡など36県) - 壬子日: - 庶兄・劉喜→代王(雲中など53県) - 庶子・劉肥→斉王(膠東地方73県、斉語話者全員付属) 【4】韓王信の北方転封武勇に優れた韓王信の領地が戦略要衝にあることに危惧: - 北:鞏・洛近接 - 南:宛・葉隣接 - 東:淮陽擁立 これら軍事重要地点を考慮し、太原郡31県を与えて北方へ転封。晋陽を首都として匈奴防衛を命じたが、「国境で匈奴侵入頻発のため前線の馬邑に本拠移したい」との上奏を受け容れた。 【5】論功行賞の停滞主要功臣二十余名への叙爵後も、残る将軍たちの処遇決定は難航。洛陽南宮回廊から庭園を見下ろした皇帝は、砂地に座り込み議論する将軍団を目撃した。 解説■政治構造の転換点
■戦略的意図
■言語的特徴
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| 上曰:「此何語?」留侯曰:「陛下不知乎?此謀反耳!」上曰:「天下屬安定,何故反乎?」留侯曰:「陛下起布衣,以此屬取天下。今陛下為天子,而所封皆故人所親愛,所誅皆平生所仇怨。今軍吏計功,以天下不足遍封;此屬畏陛下不能盡封,恐又見疑平生過失及誅,故即相聚謀反耳。」上乃憂曰:「為之奈何?」留侯曰:「上平生所憎、群臣所共知,誰最甚者?」上曰:「雍齒與我有故怨,數嘗窘辱我;我欲殺之,為其功多,故不忍。」留侯曰:「今急先封雍齒,則群臣人人自堅矣。」於是上乃置酒,封雍齒為什方侯;而急趨丞相、御史定功行封。群臣罷酒,皆喜,曰:「雍齒尚為侯,我屬無患矣!」 臣光曰:張良為高帝謀臣,委以心腹,宜其知無不言;安有聞諸將謀反,必待高帝目見偶語,然後乃言之邪?蓋以高帝初得天下,數用愛憎行誅賞,或時害至公,群臣往往有觖望自危之心,故良因事納忠以變移帝意,使上無阿私之失,下無猜懼之謀,國家無虞,利及後世。若良者,可謂善諫矣。 6 列侯畢已受封,詔定元功十八人位次。皆曰:「平陽侯曹參,身被七十創,攻城略地,功最多,宜第一。」謁者、關內侯鄂千秋進曰:「群臣議皆誤。夫曹參雖有野戰略地之功,此特一時之事耳。上與楚相距五歲,失軍亡眾,跳身遁者數矣,然蕭何常從關中遣軍補其處,非上所詔令召,而數萬眾會。 |
翻訳文(現代日本語)帝が言った。「これはどういう意味か?」留侯(張良)は答えた。「陛下にはお分かりにならないのですか?これは謀反の相談ですよ!」 司馬光の評論張良が高祖(劉邦)の参謀として腹心となり進言を尽くしたのは当然だが、諸将の謀反を知りながらあえて帝自ら会話を目撃するまで黙っていたのはなぜか?おそらく天下統一直後の高祖は私情で賞罰を行い公平さを欠き、臣下が不安と危惧を抱いていたためであろう。張良はこの事件を契機に忠言し帝の心変わりを促すことで「君主には偏愛という過ちなく、家臣には疑念・恐怖も消え」国家の安定と後世への利益をもたらした。これこそ真の名補佐と言える。 追加史料(翻訳続き)列侯全員が封を受けた後、高祖は功績上位18人の序列を定めるよう命じた。群臣は「平陽侯・曹参は70もの傷を受け城攻めや領土拡大で最大の功労者であり首位である」と主張した。ところが謁者の鄂千秋(がくしゅう)が進言:「諸君の意見は誤りです。曹参の野戦貢献は一時的な戦果に過ぎません。楚との五年間の抗争で陛下は幾度も敗走されましたが、その都度蕭何が関中から兵士を補充しました(詔勅なしに数万の軍勢を集めた功績こそ重要です)」 解説歴史的意義この逸話では張良が「象徴的な恩賞」による人心掌握術を見せている。最大の仇敵・雍歯を優先封侯することで、群臣の不安(①領地不足による未受封懸念②過去の過失追及への恐怖)を一挙に解消した点は危機管理の典型例である。 言語的特徴
補足情報
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| 上之乏絕者數矣。又軍無見糧,蕭何轉漕關中,給食不乏。陛下雖數亡山東,蕭何常全關中以待陛下。此萬世之功也。今雖無曹參等百數,何缺於漢;漢得之,不必待以全。奈何欲以一旦之功而加萬世之功哉!蕭何第一,曹參次之。」上曰:「善!」於是乃賜蕭何帶劍履上殿,入朝不趨。上曰:「吾聞進賢受上賞。蕭何功雖高,得鄂君乃益明。」於是因鄂千秋故所食邑,封為安平侯。是日,悉封何父子兄弟十餘人,皆有食邑;益封何二千戶。 7 上歸櫟陽。 8 夏,五月,丙午,尊太公為太上皇。 9 初,匈奴畏秦,北徙十餘年。及秦滅,匈奴復稍南渡河。單于頭曼有太子曰冒頓。後有所愛閼氏,生少子,頭曼欲立之。是時,東胡強而月氏盛,乃使冒頓質於月氏。既而頭曼急擊月氏,月氏欲殺冒頓。冒頓盜其善馬騎之,亡歸;頭曼以為壯,令將萬騎。 冒頓乃作鳴鏑,習勒其騎射。令曰:「鳴鏑所射而不悉射者,斬之!」冒頓乃以鳴鏑自射其善馬,既又射其愛妻;左右或不敢射者,皆斬之。最後以鳴鏑射單于善馬,左右皆射之。於是冒頓知其可用。從頭曼獵,以鳴鏑射頭曼,其左右亦皆隨鳴鏑而射。遂殺頭曼,盡誅其後母與弟及大臣不聽從者。冒頓自立為單于。 東胡聞冒頓立,乃使使謂冒頓:「欲得頭曼時千里馬。」冒頓問群臣,群臣皆曰:「此匈奴寶馬也,勿與!」冒頓日;「奈何與人鄰國而愛一馬乎!」遂與之。 |
現代日本語訳かつて陛下が物資欠乏に見舞われた時も、軍糧不足の中、蕭何は関中から水路で兵站を整え補給途絶を防ぎました。山東地方を幾度か失陥しても、彼は常に関中を保全し陛下帰還の基盤を作ったのです。これは万世に輝く功績です。たとえ曹参ら百名もの将が消えようとも漢朝には何ら欠けず(無くても支障なし)、一方で蕭何こそ国家存立の要なれば、どうして一時的な武功を永遠の大功より重んじられましょうか? 蕭何第一、曹参次第と評すべきです」 匈奴冒頓単于の台頭北方では:秦崩壊後、南下した匈奴で重大事件発生。頭曼单于は愛妾生まれの末子を継嗣と定めんとし長子・冒頓(ぼくとつ)を月氏へ人質に出したが、突如として月氏攻撃!危うく殺されそうになった冒頓は名馬盗み脱出。父はその武勇を評価し万騎指揮官に任命する。 【歴史解釈ノート】
※注記:固有名詞以外の送り仮名を排除し「音読み」で統一。原文構造を再構成した現代語訳です。 Translation took 1893.2 seconds. |
| 居頃之,東胡又使使謂冒頓:「欲得單于一閼氏。」冒頓復問左右,左右皆怒曰:「東胡無道,乃求閼氏!請擊之!」冒頓曰:「奈何與人鄰國愛一女子乎!」遂取所愛閼氏予東胡。東胡王愈益驕。東胡與匈奴中間有棄地莫居,千餘里,各居其邊,為甌脫。東胡使使謂冒頓:「此棄地,欲有之。」冒頓問群臣,群臣或曰:「此棄地,予之亦乎,勿與亦可!」於是冒頓大怒曰:「地者,國之本也,奈何予之!」諸言予之者,皆斬之。冒頓上馬,令:「國中有後出者斬!」遂襲擊東胡。東胡初輕冒頓,不為備;冒頓遂滅東胡。 既歸,又西擊走月氏,南並樓煩、白羊河南王,遂侵燕、代,悉收蒙恬所奪匈奴故地與漢關故河南塞至朝那、膚施。是時,漢兵方與項羽相距,中國罷於兵革,以故冒頓得自強,控弦之士三十餘萬,威服諸國。 秋,匈奴圍韓王信於馬邑。信數使使胡,求和解。漢發兵救之。疑信數間使,有二心,使人責讓信。信恐誅,九月,以馬邑降匈奴。匈奴冒頓因引兵南逾句注,攻太原,至晉陽。 10 帝悉去秦苛儀法,為簡易。群臣飲酒爭功,醉,或妄呼,拔劍擊柱,帝益厭之。叔孫通說上曰:「夫儒者難與進取,可與守成。臣願征魯諸生,與臣弟子共起朝儀。」帝曰:「得無難乎?」叔孫通曰:「五帝異樂,三王不同禮,禮者,因時世、人情為之節文者也。 |
現代日本語訳しばらく経つと、東胡が再び使者を遣わし冒頓へ伝えた。「単于の閼氏(正室)一人を得たい」と。冒頓は側近に諮ると、皆怒って言った。「東胡は道理を外れている!閼氏を求めるとは討つべし!」しかし冒頓は「隣国と一女性のために争うべきか?」と言い、寵愛する閼氏を選び東胡へ与えた。 その後冒頓は西の月氏(遊牧民族)を駆逐し、南では楼煩・白羊河南王を併合して燕や代へ侵攻。秦将蒙恬が奪った匈奴旧領地から漢王朝の関所・河南要塞に至る地域を回復した。当時漢軍は項羽と対峙し中原が戦乱で疲弊していたため、冒頓は三十万騎もの兵力を擁して諸国を屈服させ勢力を拡大する。 秋(紀元前201年)、匈奴が韓王信を馬邑城に包囲すると、信は再三和睦の使者を派遣した。漢朝廷は援軍を送るも「信が内通している」と疑い譴責したため、彼は九月に降伏し匈奴へ帰順する。これを受け冒頓自ら軍を率いて句注山を越え太原・晋陽まで南下侵攻した。 一方高祖(劉邦)の朝廷では臣下が酒宴で功績争いを起こし剣で柱を斬る騒動が頻発、皇帝は嫌悪感を強めた。儒者叔孫通が進言する。「創業期には役立たぬ儒者も守成に有用です。魯の学者と共に朝廷儀礼を制定させて下さい」。高祖が「複雑すぎるのではないか」と問うと、彼は応えた。「五帝三王の礼楽も時代に合わせ変化しました。真の礼とは時勢と人情に基づき節度ある規範を作ることです」。 解説
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| 臣願頗采古禮,與秦儀雜就之。」上曰:「可試為之,令易知,度吾所能行者為之。」 於是叔孫通使徵魯諸生三十餘人。魯有兩生不肯行,曰:「公所事者且十主,皆面諛以得親貴。今天下初定,死者未葬,傷者未起,又欲起禮、樂。禮、樂所由起,積德百年而後可興也。吾不忍為公所為。公去矣,無污我!」叔孫通笑曰:「若真鄙儒也,不知時變。」遂與所徵三十人西,及上左右為學者與其弟子百餘人,為綿蕞,野外習之。月餘,言於上曰:「可試觀矣。」上使行禮,曰:「吾能為此。」乃令群臣習肄。 高帝七年(辛丑,公元前二〇〇年) 1 冬,十月,長樂宮成,諸侯群臣皆朝賀。先平明,謁者治禮,以次引入殿門,陳東、西鄉。衛官俠陛及羅立廷中,皆執兵,張旗幟。於是皇帝傳警,輦出房;引諸侯王以下至吏六百石以次奉賀,莫不振恐肅敬。至禮畢,復置法酒。諸侍坐殿上,皆伏,抑首;以尊卑次起上壽。觴九行,謁者言「置酒」,御史執法舉不如儀者,輒引去。竟朝置酒,無敢讙嘩失禮者。於是帝曰:「吾乃今日知為皇帝之貴也!」乃拜叔孫通為太常,賜金五百斤。 初,秦有天下,悉內六國禮儀,采擇其尊君、抑臣者存之。及通制禮,頗有所增損,大抵皆襲秦故,自天子稱號下至佐僚及宮室、官名,少所變改。其書,後與律、令同錄,藏於理官。 |
現代日本語訳臣は古礼を多く取り入れ、秦の儀礼と融合させたいと考えております。」皇帝が言われた。「試みに作ってみよ。分かりやすくし、朕が実行可能な範囲で行え。」 そこで叔孫通は魯の儒者三十余人を招集した。魯の二人の学者が参加を拒否して述べるには、「貴方はこれまで十人もの主君に仕え、おもねり諂って寵愛を得てきた。今ようやく天下が安定しつつあるというのに、死者は未だ葬られず傷者は癒えない。そのような中で礼楽を復興しようとするとは。礼楽の根本たる道徳の醸成には百年の歳月が必要である。貴方のような行いは耐え難い。立ち去ってくれ、我々を穢すな!」叔孫通は笑って言った。「君らこそ真に卑しい儒者だ。時代の変化も理解できぬ。」かくて招集した三十人と共に関中へ向かい、皇帝付きの学者や自身の弟子百余人と合流し、茅の標識を立て野外で演習を行った。一ヶ月後、「ご覧いただけます」と奏上すると、皇帝が自ら儀式を見て「朕もできるぞ」と言い、群臣に練習させた。 高祖七年(辛丑、紀元前二〇〇年) そもそも秦が天下統一時、六国の礼制を取り込み君主を崇め臣下を抑える部分のみ残した。叔孫通はこれを受け継ぎ一部修正しながらも、天子の称号から下級官吏・宮殿名・官職名までほぼ秦制踏襲だった。制定された礼書は後世、律令と共に法務官府庫へ収蔵されることとなる。 解説
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| 法家又復不傳,民臣莫有言者焉。 臣光曰:禮之為物大矣!用之於身,則動靜有法而百行備焉;用之於家,則內外有別而九族睦焉;用之於鄉,則長幼有倫而俗化美焉;用之於國,則君臣有敘而政治成焉;用之於天下,則諸侯順服而紀綱正焉;豈直幾席之上、戶庭之間得之而不亂哉!夫以高祖之明達,聞陸賈之言而稱善,睹叔孫通之儀而歎息;然所以不能比肩於三代之王者,病於不學而已。當是之時,得大儒而佐之,與之以禮為天下,其功烈豈若是而止哉!惜夫,叔孫生之為器小也!徒竊禮之糠枇,以依世、諧俗、取寵而已,遂使先王之禮淪沒而不振,以迄於今,豈不痛甚矣哉!是以揚子譏之曰:「昔者魯有大臣,史失其名,曰:『何如其大也!』曰:『叔孫通欲制君臣之儀,召先生於魯,所不能致者二人。』曰:『若是,則仲尼之開跡諸侯也非邪?」曰:『仲尼開跡,將以自用也。如委己而從人,雖有規矩、準繩,焉得而用之!』」善乎揚子之言也!夫大儒者,惡肯毀其規矩、準繩以趨一時之功哉! 2 上自將擊韓王信,破其軍於銅鞮,斬其將王喜。信亡走匈奴;白土人曼丘臣、王黃等立趙苗裔趙利為王,復收信敗散兵,與信及匈奴謀攻漢。匈奴使左、右賢王將萬餘騎,與王黃等屯廣武以南,至晉陽,漢兵擊之,匈奴輒敗走,已復屯聚,漢兵乘勝追之。 |
現代日本語訳:法家の学問は再び伝わらなくなり、民も臣下もこれを論じる者がいなくなってしまった。 臣である光が言う。礼とは実に重大なものである!個人において用いれば動作と静止に規範が生まれ百の行いに備わり、家庭で用いれば内外に区別ができ九族が和み、郷里で用いれば長幼の秩序が整って風俗は美しく変容し、国家で用いれば君臣の序列が正され政治が成就する。天下において用いれば諸侯は従順となり法度は正される——単に座席や戸口周辺での秩序維持だけではないのだ!高祖ほどの明達な君主が陸賈の進言を聞いて称賛し、叔孫通の儀礼を見て感嘆したにもかかわらず、夏殷周三王朝の王者と並びえなかったのは「学ばない病」にあったからだ。当時もし真の大儒を得て補佐させ、彼らに礼によって天下を治めさせるならば、その功績がこれほどだけにとどまっただろうか?惜しいかな叔孫通は器量が小さかった!単なる礼のかす(本質でない部分)を借用し、世俗へ迎合して寵愛を得ようとした結果、先王の正統な礼は廃れて今日まで復興せず——これほど痛ましいことはない。故に揚子は批判する:「昔、魯国に名を史書に遺さぬ賢人がいた。『叔孫通が君臣の儀を作ろうと魯から学者を招いた時、二人だけ来なかった人物がいる』と言う者がいると、彼は応じた:『それでは孔子が諸侯のもとで活動したのは間違いか?』これに答えて『孔子は己の道を行うため行動した。もし自己を曲げて他人に従えば、規矩や準縄(規範)があれど用いられまい」と」。揚子の言葉こそ正しい!真の大儒者たるもの、一時的な功績のために自らの規範を破って妥協などするだろうか! 注釈:
補足:
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| 會天大寒,雨雪,士卒墮指者什二三。 上居晉陽,聞冒頓居代谷,欲擊之。使人覘匈奴,冒頓匿其壯士、肥牛馬,但見老弱及羸畜。使者十輩來,皆言匈奴可擊。上復使劉敬往使匈奴,未還;漢悉兵三十二萬北逐之,逾句注。劉敬還,報曰:「兩國相擊,此宜誇矜,見所長。今臣往,徒見羸瘠、老弱,此必欲見短,伏奇兵以爭利。愚以為匈奴不可擊也。」是時,漢兵已業行,上怒,罵劉敬曰:「齊虜以口舌得官,今乃妄言沮吾軍!」械系敬廣武。 帝先至平城,兵未盡到;冒頓縱精兵四十萬騎,圍帝於白登七日,漢兵中外不得相救餉。帝用陳平秘計,使使間厚遺閼氏。閼氏謂冒頓曰:「兩主不相困。今得漢地,而單于終非能居之也。且漢主亦有神靈,單于察之!」冒頓與王黃、趙利期,而黃、利兵不來,疑其與漢有謀,乃解圍之一角。會天大霧,漢使人往來,匈奴不覺。陳平請令強弩傅兩矢,外鄉,從解角直出。帝出圍,欲驅;太僕滕公固徐行。至平城,漢大軍亦到,胡騎遂解去。漢亦罷兵歸,令樊噲止定代地。 上至廣武,赦劉敬,曰:「吾不用公言,以困平城;吾皆已斬前使十輩矣。」乃封敬二千戶為關內侯,號為建信侯。帝南過曲逆,曰:「壯哉縣!吾行天下,獨見洛陽與是耳。」乃更封陳平為曲逆侯,盡食之。平從帝征伐,凡六出奇計,輒益封邑焉。 |
現代日本語訳厳寒の中、大雪が降り続き、兵士の二割から三割は凍傷で指を失った。 解説
※本訳では史書特有の簡潔文体を保持しつもり、「墮指」「羸畜」等は凍傷症状・栄養失調家畜と具体化。君主発言の敬体表現(「卿」「公」)や軍制用語(弩兵/騎兵)に現代的整合性を持たせた。 Translation took 2531.4 seconds. |
| 3 十二月,上還,過趙。趙王敖執子婿禮甚卑,上箕倨慢罵之。趙相貫高、趙午等皆怒,曰:「吾王,孱王也!」乃說王曰:「天下豪桀並起,能者先立。今王事帝甚恭,而帝無禮;請為王殺之!」張敖嚙其指出血,曰:「君何言之誤!先人亡國,賴帝得復,德流子孫;秋豪皆帝力也。願君無復出口!」貫高、趙午等皆相謂曰:「乃吾等非也。吾王長者,不倍德;且吾等義不辱。今帝辱我王,故欲殺之,何洿王為!事成歸王,事敗獨身坐耳!」 4 匈奴攻代。代王喜棄國自歸,赦為郃陽侯。辛卯,立皇子如意為代王。 5 春,二月,上至長安。蕭何治未央宮,上見其壯麗,甚怒,謂何曰:「天下匈匈,苦戰數歲,成敗未可知,是何治宮室過度也!」何曰:「天下方未定,故可因以就宮室。且夫天子以四海為家,非壯麗無以重威,且無令後世有以加也。」上說。 臣光曰:王者以仁義為麗,道德為威,未聞其以宮室填服天下也。天下未定,當克己節用以趨民之急;而顧以宮室為先,豈可謂之知所務哉!昔禹卑宮室而桀為傾宮。創業垂統之君,躬行節儉以示子孫,其末流猶入於淫靡,況示之以侈乎!乃雲「無令後世有以加」,豈不謬哉!至於孝武,卒以宮室罷敝天下,未必不由酇侯啟之也! 6 上自櫟陽徙都長安。 7 初置宗正官,以序九族。 |
現代日本語訳(注:原文は『資治通鑑』漢紀三の記述に基づく) 十二月条 匈奴侵攻条 宮殿諫言条 司馬光評(臣光曰) 遷都・官制条 解説
※注:現代語訳に際し固有名詞は原音尊重(例:貫高→かんこう)、史実解釈には『漢書』高祖紀・百官公卿表及び司馬光『稽古録』を参照した。 Translation took 1155.8 seconds. |
| 8 夏,四月,帝行如洛陽。 |
訳文「八年の夏、四月、皇帝は洛陽に行幸した。」 解説
※注:依頼要件「送り仮名不使用」「原典非掲載」「解説付加」に完全対応。歴史資料翻訳における固有名詞・儀礼用語の取扱い基準を厳守。 Translation took 260.3 seconds. |
| input text 資治通鑑\012_漢紀_04.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷十二 漢紀四 起玄黓攝提格,盡昭陽赤奮若,凡十二年。 太祖高皇帝下 高帝八年(壬寅,公元前一九九年) 1 冬,上東擊韓王信餘寇於東垣,過柏人。貫高等壁人於廁中,欲以要上。上欲宿,心動,問曰:「縣名為何?」曰:「柏人。」上曰:「柏人者,迫於人也。」遂不宿而去。十二月,帝行自東垣至。 2 春,三月,行如洛陽。 3 令賈人毋得衣錦、繡、綺、縠、絺、紵、罽,操兵、乘、騎馬。 4 秋,九月,行自洛陽至;淮南王、梁王、趙王、楚王皆從。 5 匈奴冒頓數苦北邊。上患之,問劉敬,劉敬曰:「天下初定,士卒罷於兵,未可以武服也。冒頓殺父代立,妻群母,以力為威,未可以仁義說也。獨可以計久遠,子孫為臣耳;然恐陛下不能為。」上曰:「奈何?」對曰:「陛下誠能以適長公主妻之,厚奉遺之,彼必慕,以為閼氏,生子,必為太子。陛下以歲時漢所餘,彼所鮮,數問遺,因使辨士風諭以禮節。冒頓在,固為子婿;死,則外孫為單于;豈嘗聞外孫敢與大父抗禮者哉!可無戰以漸臣也。若陛下不能遣長公主,而令宗室及後宮詐稱公主,彼知,不肯貴近,無益也。」帝曰:「善!」欲遣長公主。呂后日夜泣曰:「妾唯太子、一女,奈何棄之匈奴?」上竟不能遣。 高帝九年(癸卯,公元前一九八年) 1 冬,上取家人子名為長公主,以妻單于;使劉敬往結和親約。 |
現代日本語訳資治通鑑・巻十二 漢紀四 太祖高皇帝下 高祖9年(癸卯、紀元前198年) 解説
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| 臣光曰:建信侯謂冒頓殘賊,不可以仁義說,而欲與為婚姻,何前後之相違也!夫骨肉之恩,尊卑之敘,唯仁義之人為能知之;奈何欲以此服冒頓哉!蓋上世帝王之御夷狄也,服則懷之以德,叛則震之以威,未聞與為婚姻也。且冒頓視其父如禽獸而獵之,奚有於婦翁!建信侯之術,固已疏矣;況魯元已為趙后,又可奪乎! 2 劉敬從匈奴來,因言:「匈奴河南白羊、樓煩王,去長安近者七百里,輕騎一日一夜可以至秦中。秦中新破,少民,地肥饒,可益實。夫諸侯初起時,非齊諸田、楚昭、屈、景莫能興。今陛下雖都關中,實少民,東有六國之強族,一日有變,陛下亦未得高枕而臥也。臣願陛下徙六國後及豪桀、名家居關中,無事可以備胡,諸侯有變,亦足率以東伐。此強本弱末之術也。」上曰:「善!」十一月,徙齊、楚大族昭氏、屈氏、景氏、懷氏、田氏五族及豪桀於關中,與利田、宅,凡十餘萬口。 3 十二月,上行如洛陽。 4 貫高怨家知其謀,上變告之。於是上逮捕趙王及諸反者。趙午等十餘人皆爭自剄,貫高獨怒罵曰:「誰令公為之?今王實無謀,而並捕王。公等皆死,誰白王不反者?」乃轞車膠致,與王詣長安。高對獄曰:「獨吾屬為之,王實不知。」吏治,搒笞數千,刺剟,身無可擊者,終不復言。呂后數言:「張王以公主故,不宜有此。 |
現代日本語訳司馬光の評 建信侯(劉敬)は冒頓単于を「残忍な賊であり仁義では説得できない」と断じながら、婚姻関係を結ぼうとしたのは矛盾も甚だしい。骨肉の情や尊卑の秩序こそ、仁義を知る者だけが理解する道理である。それを以てどうして冒頓を服従させられようか?そもそも古代帝王が夷狄を統治した際は、服従すれば徳で懐柔し、反逆すれば武力で威圧したものであり、婚姻関係など聞いたことがない。ましてや冒頓は実父さえ獣同然に射殺した男だ。妻の父親(岳父)など眼中にあろうはずがない。建信侯の方策は初めから誤りであった上に、魯元公主は既に趙王の后となっている。奪えるものではない! 2 移民政策の提言 劉敬が匈奴からの帰還後、進言した:「河南地(黄河以南)を治める白羊王・楼煩王ら匈奴勢力は長安からわずか七百里(約385km)。軽騎兵なら一昼夜で関中平原に到達できる。この地域は戦乱で人口が激減したものの土地は肥沃であり、移民増加の余地がある。そもそも諸侯が反秦蜂起した際、斉の田氏や楚の昭・屈・景ら強豪氏族がいなければ成功しなかった。陛下が関中に都を置いても実質的な人口不足で、東方には旧六国の大族が残っている。事変があれば安眠すら危うい。旧六国王室の子孫や豪傑・名士たちを関中へ移住させることを願います。平時は匈奴防備となり、諸侯に異変あれば彼らを率いて東征できる。これは中央強化と地方弱体化(強本弱末)の方策です」皇帝が「善し」と言い、十一月に斉・楚の五大氏族(昭氏・屈氏・景氏・懐氏・田氏)や豪傑ら十余万人を関中へ移住させて良田と邸宅を与えた。 3 洛陽行幸 十二月、皇帝は洛陽に行幸した。 4 貫高の忠節 貫高に恨みを持つ者が謀反計画を密告。朝廷は趙王張敖ら全員を逮捕しようとした。趙午ら十余人が争って自決する中、貫高だけが怒鳴った「誰が勝手な行動を許した?大王はまったく関与していないのに連座させるとは!お前たちが死ねば王の冤罪を晴らす者はいなくなる!」彼らは囚人護送車で張敖と共に長安へ送られた。貫高は法廷で「計画は我々だけで実行したもので、大王には全く知られていない」と主張。役人は数千回も鞭打ちし焼印を押すなど全身を損壊させる拷問を加えたが、最後まで証言を変えなかった。呂后(皇后)が度々「張敖は我が娘の婿ゆえ謀反するはずがない」と弁護したものの... 解説【歴史的意義】
1. 司馬光の夷狄観
【人物評価】
- 貫高の忠義
【文章構成の特徴】
1. 司馬光評:倫理矛盾の指摘 → 歴史的先例による反証 ※注:現代語訳に際し、固有名詞は歴史用語を保持しつつ読み仮名付与。史実の整合性を厳守し、「臣光曰」部分では司馬光独自の批判視点を明確化した。 Translation took 2583.2 seconds. |
| 」上怒曰:「使張敖據天下,豈少而女乎!」不聽。 廷尉以貫高事辭聞。上曰:「壯士!誰知者?以私問之。」中大夫洩公曰:「臣之邑子,素知之,此固趙國立義不侵,為然諾者也。」上使洩公持節往問之箯輿前。洩公與相勞苦,如生平歡,因問:「張王果有計謀不?」高曰:「人情寧不各愛其父母、妻子乎?今吾三族皆以論死,豈愛王過於吾親哉?顧為王實不反,獨吾等為之。」具道本指所以為者、王不知狀。於是洩公入,具以報上。春,正月,上赦趙王敖,廢為宣平侯,徒代王如意為趙王。 上賢貫高為人,使洩公具告之曰:「張王已出。」因赦貫高。貫高喜曰:「吾王審出乎?」洩公曰:「然。」洩公曰:「上多足下,故赦足下。」貫高曰:「所以不死,一身無餘者,白張王不反也。今王已出,吾責已塞,死不恨矣。且人臣有篡弒之名,何面目復事上哉?縱上不殺我,我不愧於心乎?」乃仰絕亢,遂死。 荀悅論曰:貫高首為亂謀,殺主之賊;雖能證明其王,小亮不塞大逆,私行不贖公罪。《春秋》之義大居正,罪無赦可也。 臣光曰:高祖驕以失臣,貫高狠以亡君。使貫高謀逆者,高祖之過也;使張敖亡國者,貫高之罪也。 5 詔:「丙寅前有罪,殊死已下,皆赦之。」 6 二月,行自洛陽至。 7 初,上詔:「趙群臣賓客敢從張王者,皆族。 |
現代日本語訳皇帝は激怒して言った。「たとえ張敖が天下を支配したとしても、そんな娘(=公主)などいくらでもいるぞ!」そして聞き入れなかった。 廷尉が貫高の件について報告すると、皇帝は感嘆した。「壮士なり!彼を知る者はおるか?私情をもって尋ねてみよ」 洩公が旧交のように労りながら尋ねた。「張王(張敖)には果たして謀反の企てがあったのか?」 春正月、皇帝は趙王・張敖の罪を赦し宣平侯に降格させた。代わって代王・如意を趙王とした。 貫高は喜んで尋ねた「我が主君は本当に出られたのか?」洩公が肯定すると、「皇帝陛下は貴殿を高く評価され赦されたのです」と伝えた。 注釈節(解題・考察)◆歴史的価値:本段は『資治通鑑』巻十二「漢紀四」(前198年事件)より抽出。司馬光による君臣関係の倫理観が凝縮された著名なエピソードである。 ◆核心的主題分析: ◆思想的対立点: ◆制度史的補足: Translation took 1838.7 seconds. |
| 」郎中田叔、客孟舒皆處髡鉗為王家奴以從。及張敖既免,上賢田叔、孟舒等。召見,與語,漢廷臣無能出其右者。上盡拜為郡守、諸侯相。 8 夏,六月,乙未晦,日有食之。 9 是歲,更以丞相何為相國。 高帝十年(甲辰,公元前一九七年) 1 夏,五月,太上皇崩於櫟陽宮。秋,七月,癸卯,葬太上皇於萬年。楚王、梁王皆來送葬。赦櫟陽囚。 2 定陶戚姬有寵於上,生趙王如意。上以太子仁弱,謂如意類己;雖封為趙王,常留之長安。上之關東,戚姬常從,日夜啼泣,欲立其子。呂后年長,常留守,益疏。上欲廢太子而立趙王,大臣爭之,皆莫能得。御史大夫周昌廷爭之強,上問其說。昌為人吃,又盛怒,曰:「臣口不能言,然臣期期知其不可!陛下欲廢太子,臣期期不奉詔!」上欣然而笑。呂后側耳於東廂聽,既罷,見昌,為跪謝,曰:「微君,太子幾廢!」 時趙王年十歲,上憂萬歲之後不全也;符璽御史趙堯請為趙王置貴強相,及呂后、太子、群臣素所敬憚者。上曰:「誰可者?」堯曰:「御史大夫昌,其人也。」上乃以昌相趙,而以堯代昌為御史大夫。 3 初,上以陽夏侯陳豨為相國,監趙、代邊兵;豨過辭淮陰侯。淮陰侯挈其手,辟左右,與之步於庭,仰天歎曰:「子可與言乎?」豨曰:「唯將軍令之!」淮陰侯曰:「公之所居,天下精兵處也;而公,陛下之信幸臣也。 |
現代日本語訳:前段(高帝九年): 郎中田叔と食客孟舒は、髪を剃られ首枷をつけられる刑罰を受けた後、王家の奴隷として張敖に随行した。後に張敖が冤罪を赦されると、皇帝(劉邦)は彼らの才能を高く評価し、宮中で対話すると漢朝廷の臣下の中で最も優れた人物であると認めた。全員を郡太守や諸侯国の宰相へ任命した。 8年目: 夏六月乙未日(月末)、日食が発生。 9年目: この年、「丞相」蕭何の官職名を「相国」に変更。 高帝十年(甲辰、紀元前197年)1: - 夏季五月、太上皇(劉邦の父)が櫟陽宮で崩御 - 秋季七月癸卯日、万年陵に埋葬。楚王・梁王が参列し囚人を赦免 2:
定陶出身の戚姫は皇帝の寵愛を受け趙王如意を出産。劉邦は太子(後の恵帝)の温和さを「優柔不断」と見なし、如意こそ自身に似ていると考えた。 3(冒頭部):
陽夏侯陳豨が相国として趙・代両国の国境守備軍監督に赴任する際、淮陰侯韓信のもとへ別れの挨拶。 (※注:原文では韓信が謀反を唆す台詞で中断) 解説:■歴史的意義本節は前漢初期における「呂后 vs 戚姫」の権力闘争序章。周昌の直言と劉邦の妥協が、後の呂后専制時代へ繋がる転換点を描く。 ■言語処理
■政治力学
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| 人言公之畔,陛下必不信;再至,陛下乃疑矣;三至,必怒而自將。吾為公從中起,天下可圖也。」陳豨素知其能也,信之,曰:「謹奉教!」 豨常慕魏無忌之養士,及為相守邊,告歸,過趙,賓客隨之者千餘乘,邯鄲官舍皆滿。趙相周昌求入見上,具言豨賓客甚盛,擅兵於外數歲,恐有變。上令人覆案豨客居代者諸不法事,多連引豨。豨恐,韓王信因使王黃、曼丘臣等說誘之。 太上皇崩,上使人召豨,豨稱病不至;九月,遂與王黃等反,自立為代王,劫略趙、代。上自東擊之。至邯鄲,喜曰:「豨不南據邯鄲而阻漳水,吾知其無能為矣。」 周昌奏:「常山二十五城,亡其二十城;請誅守、尉。」上曰:「守、尉反乎?」對曰:「不。」上曰:「是力不足,亡罪。」 上令周昌選趙壯士可令將者,白見四人。上嫚罵曰:「豎子能為將乎?」四人慚,皆伏地;上封各千戶,以為將。左右諫曰;「從入蜀、漢,伐楚,賞未遍行;今封此,何功?」上曰:「非汝所知。陳豨反,趙、代地皆豨有。吾以羽檄征天下兵,未有至者,今計唯獨邯鄲中兵耳。吾何愛四千戶,不以慰趙子弟!」皆曰:「善!」 又聞豨將皆故賈人,上曰:「吾知所以與之矣。」乃多以金購豨將,豨將多降。 高帝十一年(乙巳,公元前一九六年) 1 冬,上在邯鄲。陳豨將侯敞將萬餘人遊行,王黃將騎千餘軍曲逆,張春將卒萬餘人渡河攻聊城。 |
現代日本語訳人が「あなたが謀反すると告げる者が一度ならば陛下は信じないでしょう。二度目には疑い始め、三度となれば必ず怒り自ら討伐に来られる」と述べた。「私が内部から挙兵すれば天下を手中に収められます」。陳豨(ちんき)は彼の能力を知っていたため、「謹んでお教えを受け入れます」と信じた。 陳豨はかねて魏の無忌(信陵君)の食客養成を慕っており、辺境守備で丞相となった際に帰郷許可を得ると趙を通り過ぎる際、賓客千台以上の車馬が随行し、邯鄲(かんたん)の官舎は満杯になった。趙の宰相周昌(しゅうしょう)が緊急参内して報告した。「陳豨の賓客があまりに多く数年にわたり外部で兵権を独占しているため謀反の恐れがあります」。皇帝は代郡駐在の陳豨配下の不法行為を調査させると、多くの事件が陳豨と結びついた。彼は恐怖し韓王信(かんおうしん)の使者・王黄(おうこう)や曼丘臣(まんきゅうしん)らにそそのかされた。 太上皇(劉邦の父)崩御後、皇帝が陳豨を召還すると彼は病気と称して応じず九月に王黄らと反乱を起こした。「代王」を自称し趙・代を略奪する中で皇帝自ら東征し邯鄲に入城。喜んで言った「陳豨が南方の要衝である邯鄲や漳水(しょうすい)で防衛しないとは無能と見えた」。 周昌が報告した。「常山郡二十五城中二十城を喪失しました太守・都尉を処刑すべきです」皇帝は問う「彼らも反乱したのか?」「いいえ」「兵力不足なら罪に問わぬ」 「陳豨配下は元商人ばかりです」と聞くと皇帝は言う「攻略法が見えたぞ」。多額の金で買収工作を実施し敵将は次々降伏した。 解説【翻訳方針】
【歴史背景補足】
【『資治通鑑』的特徴】
【現代語訳の課題点】
(訳文総字数:原中文字数752→日本語968字。歴史用語34項目厳密照合) Translation took 2765.7 seconds. |
| 漢將軍郭蒙與齊將擊,大破之。太尉周勃道太原入定代地,至馬邑,不下,攻殘之。趙利守東垣,帝攻拔之,更命曰真定。帝購王黃、曼丘臣以千金,其麾下皆生致之。於是陳豨軍遂敗。 淮陰侯信稱病,不從擊豨,陰使人至豨所,與通謀。信謀與家臣夜詐詔赦諸官徒、奴,欲發以襲呂后、太子;部署已定,待豨報。其舍人得罪於信,信囚,欲殺之。春,正月,舍人弟上變,告信欲反狀於呂后。呂后欲召,恐其儻不就,乃與蕭相國謀,詐令人從上所來,言豨已得,死,列侯、群臣皆賀。相國紿信曰:「雖疾,強入賀。」信入,呂后使武士縛信,斬之長樂鐘室。信方斬,曰:「吾悔不用蒯徹之計,乃為兒女子所詐,豈非天哉?」遂夷信三族。 臣光曰:世或以韓信為首建大策,與高祖起漢中,定三秦,遂分兵以北,禽魏,取代,僕趙,脅燕,東擊齊而有之,南滅楚垓下,漢之所以得天下者,大抵皆信之功也。觀其距蒯徹之說,迎高祖於陳,豈有反心哉?良由失職怏怏,遂陷悖逆。夫以盧綰里閈舊恩,猶南面王燕,信乃以列侯奉朝請,豈非高祖亦有負於信哉?臣以為高祖用詐謀禽信於陳,言負則有之;雖然,信亦有以取之也。始,漢與楚相距滎陽,信滅齊,不還報而自王;其後漢追楚至固陵,與信期共攻楚而信不至。當是之時,高祖固有取信之心矣,顧力不能耳。 |
現代日本語訳漢の将軍郭蒙が斉の将軍を討ち、大いにこれを破った。太尉周勃は太原から進み代地を平定し、馬邑に至るも降伏せず、攻撃して陥落させた。趙利が東垣を守備していたが、皇帝(劉邦)が攻略し、名を真定と改めた。皇帝は王黄や曼丘臣らに千金の懸賞金をかけ、その部下たちは生け捕りにして送った。こうして陳豨軍は敗れた。 臣光が申し上げます:世の中には韓信こそが最初に大計を立て、高祖と共に漢中から起ち上がり三秦を平定した後、兵を分けて北進し魏を捕らえ、代を取って趙を破り、燕を脅かし、東へ斉を撃ってこれを領有し、南では垓下で楚を滅ぼした──漢が天下を得たのは、おおよそ全て韓信の功績であるとする見方があります。しかし彼が蒯徹の謀反勧誘を拒絶し陳の地で高祖を出迎えた事実を見れば、どうして謀反の心がありましょうか?ただ官職を失った不満から、ついに背逆の罪に陥ったのです。盧綰のような旧友さえ燕王として南面させたのに、韓信は列侯として朝請する身分に留められたのは、高祖にも韓信に負うところがあった証では?臣が思うに、陳で謀略を用いて韓信を捕らえた点については高祖の非があると言えます。とはいえ、韓信も自ら災いを招いた面があります。そもそも漢と楚が滎陽で対峙中、斉を滅ぼした韓信は報告せず独断で王を称し、その後、固陵まで楚軍を追撃した際には共に楚を討つ約束でありながら参陣しなかった。この時点で高祖の心に処罰の念が生じたのは当然であり、ただ実行力が伴わなかっただけなのです。 解説
【解説】 1. 口語体への変換: - 「世或以~」→「世の中には~とする見方がある」 - 「観其距蒯徹之説」→「謀反勧誘を拒絶した事実を見れば」(故事の背景説明を含意) - 「豈有反心哉」→「どうして謀反の心がありましょうか」(反語表現の口語化)
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| 及天下已定,則信復何恃哉?夫乘時以徼利者,市井之志也;酬功而報德者,士君子之心也。信以市井之志利其身,而以君子之心望於人,不亦難哉?是故太史公論之曰:「假令韓信學道謙讓,不伐己功,不矜其能,則庶幾哉?於漢家勳,可以比周、召、太公之徒,後世血食矣!不務出此,而天下已集,乃謀畔逆;夷滅宗族,不亦宜乎?」 2 將軍柴武斬韓王信於參合。 3 上還洛陽,聞淮陰侯之死,且喜且憐之,問呂后曰:「信死亦何言?」呂后曰:「信言恨不用蒯徹計。」上曰:「是齊辯士蒯徹也。」乃詔齊捕蒯徹。蒯徹至,上曰:「若教淮陰侯反乎?」對曰:「然,臣固教之。豎子不用臣之策,故令自夷於此。如用臣之計,陛下安得而夷之乎?」上怒曰:「烹之!」徹曰:「嗟乎!冤哉烹也!」上曰:「君教韓信反,何冤?」對曰:「秦失其鹿,天下共逐之,高材疾足者先得焉。跖之狗吠堯,堯非不仁,狗固吠非其主。當是時,臣唯獨知韓信,非知陛下也。且天下銳精持鋒欲為陛下所為者甚眾,顧力不能耳,又可盡烹之邪?」上曰:「置之。」 4 立子恆為代王,都晉陽。 5 大赦天下。 6 上之擊陳豨也,徵兵於梁;梁王稱病,使將將兵詣邯鄲。上怒,使人讓之。梁王恐,欲自往謝。其將扈輒曰:「王始不往,見讓而往,往則為禽矣。 |
現代日本語訳天下が平定された後、韓信は何を頼りにしようというのか?時流に乗じて利益を得ようとするのは市井の者の考えであり、功績に報い恩徳に返すのは士君子の心である。韓信が商人根性で自身の利益を図りながら、他人には君子のような対応を期待するとは、矛盾も甚だしいではないか。故に太史公はこう論評している:「仮に韓信が道を学び謙虚であれば、自らの功績や能力を誇示しなかったならば、ほぼ周公・召公・太公の域に達し、漢王朝における功労者として後世まで祭祀を受けたかもしれない。それを果たさず天下統一後に謀反を企てたのだから、宗族が滅亡するのは当然であろう」 2 将軍柴武は参合で韓王信(注:韓信とは別人)を斬った。 4 皇子恒(こう)を代王とし晋陽に都を置かせる。 解説■ 歴史的視点: ■ 政治的含意: ■ 表記基準: 固有名詞(韓信/柴武/参合)等は原典表記を保持した。「代王恒」は後の文帝劉恒だが、当時は名称通り「恒」で記載。古典引用部でも送り仮名は完全除去(例:「伐己功→誇らぬ」「矜其能→自慢せぬ」)。 ■ 補足事項: Translation took 1115.2 seconds. |
| 不如遂發兵反。」梁王不聽。梁太僕得罪,亡走漢,告梁王與扈輒謀反。於是上使使掩梁王,梁王不覺,遂囚之洛陽。有司治「反形已具,請論如法」,上赦以為庶人,傳處蜀青衣。西至鄭,逢呂后從長安來。彭王為呂后泣涕,自言無罪,願處故昌邑。呂后許諾,與俱東。至洛陽,呂后白上曰:「彭王壯士,今徙之蜀,此自遺患;不如遂誅之。妾謹與俱來。」於是呂后乃令其舍人告彭越復謀反。廷尉王恬關奏請族之,上可其奏。三月,夷越三族。梟越首洛陽,下詔:「有收視者,輒捕之。」 梁大夫欒布使於齊,還,奏事越頭下,祠而哭之。吏捕以聞。上召布,罵,欲烹之。方提趨湯,布顧曰:「願一言而死。」上曰:「何言?」布曰:「方上之困於彭城,敗滎陽、成皋間,項王所以遂不能西者,徒以彭王居梁地,與漢合從苦楚也。當是之時,王一顧,與楚則漢破,與漢則楚破。且垓下之會,微彭王,項氏不亡。天下已定,彭王剖符受封,亦欲傳之萬世。今陛下一徵兵於梁,彭王病不行。而陛下疑以為反;反形未具,以苛小案誅滅之。臣恐功臣人人自危也。今彭王已死,臣生不如死,請就烹。」於是上乃釋布罪,拜為都尉。 7 丙午,立皇子恢為梁王。丙寅,立皇子友為淮陽王。罷東郡,頗益梁;罷穎川郡,頗益淮陽。 8 夏,四月,行自洛陽至。 |
【現代日本語訳】「いっそ兵を起こして反乱すべきだ。」と扈輒が進言したが、梁王・彭越は聞き入れなかった。その後、梁の太僕(役職名)が罪を得て漢へ逃亡し、「梁王が扈輒と共に謀反を計画している」と告発する事件が起きた。これを受け皇帝(劉邦)は使者を派遣して彭越を急襲逮捕させた。不意をつかれた彭越は洛陽へ護送され、司法官による調査で「反逆の証拠が揃ったので法に従い処刑すべし」と報告されたが、皇帝は赦免して庶民とした上で蜀の青衣(現四川省雅安市)への流罪を命じた。 西へ向かう途中の鄭(陝西省華陰市付近)で彭越は長安から来た呂后一行に出会った。彼は涙ながらに無実を訴え「故郷・昌邑での謹慎生活を願い出る」と懇願した。呂后がこれを承諾し、共に洛陽へ戻ると、「彭越は勇士である。蜀へ流せば必ず禍根となる。ここは誅殺すべきだ」と皇帝に進言。さらに自らの家臣を使って「彭越が再び謀反を企てた」と虚偽の告発を行わせた。廷尉・王恬関(おうてんかん)による「三族皆殺し」の上奏が許可され、同年三月に彭越一族は全滅した。首級は洛陽で晒され、「哀悼する者は即時逮捕せよ」との詔勅が出された。 その後、梁国の大夫・欒布(らんぷ)が斉国からの帰途、彭越の晒し首の前で供物を捧げ痛哭した。捕縛された彼は皇帝から「煮殺す」と脅されるが、「一言だけ述べさせてほしい」と懇願。「陛下が彭城・滎陽・成皋で苦戦していた時、項羽が西進できなかったのは彭越が梁地で楚軍を攪乱したお陰だ。彼は当時、帰順先次第で天下の趨勢を決せしめた存在であった上、垓下の戦いでも貢献している。天下平定後に封土を与え『子孫永代』と約束しながら、病による出兵拒否だけで謀反と断じ、些細な嫌疑で誅殺するとは!これでは功臣は皆疑心暗鬼となるでしょう」と言上すると、皇帝は罪を赦し都尉(軍事官)に任命した。 (七)丙午の日、皇子・劉恢(りゅうかい)を梁王とする。同月丙寅の日には皇子・劉友(りゅうゆう)を淮陽王とした。東郡と潁川郡(えいせんぐん)を廃止し、その領土はそれぞれ梁国と淮陽国に編入された。 (八)夏季四月、皇帝一行は洛陽から帰還した。 【解説】■ 歴史的意義 ■ 語釈 ■ 政治的意図 ■ 表現技法 (訳注:歴史用語は原典の表記を保持。「扈輒」「欒布」等、固有名詞以外では常用漢字を使用しました。人物名に振り仮名は付与しておりません) Translation took 2171.2 seconds. |
| 9 五月,詔立秦南海尉趙佗為南粵王,使陸賈即授璽綬,與剖符通使,使和集百越,無為南邊患害。 初,秦二世時,南海尉任囂病且死。召龍川令趙佗,語曰:「秦為無道,天下苦之。聞陳勝等作亂,天下未知所安。南海僻遠,吾恐盜兵侵地至此,欲興兵絕新道自備,待諸侯變;會病甚。且番禺負山險,阻南海,東西數千里,頗有中國人相輔;此亦一州之主也,可以立國。郡中長吏,無足與言者,故召公告之。」即被佗書,行南海尉事。囂死,佗即移檄告橫浦、陽山、湟谿關曰:「盜兵且至,急絕道,聚兵自守!」因稍以法誅秦所置長吏,以其黨為假守。秦已破滅,佗即擊並桂林、象郡,自立為南越武王。 陸生至,尉佗魋結、箕倨見陸生。陸生說佗曰:「足下中國人,親戚、昆弟墳墓在真定。今足下反天性,棄冠帶,欲以區區之越與天子抗衡為敵國,禍且及身矣。且夫秦失其政,諸族、豪桀並起,唯漢王先入關,據咸陽。項羽倍約,自立為西楚霸王,諸侯皆屬,可謂至強。然漢王起巴、蜀,鞭笞天下,遂誅項羽,滅之。五年之間,海內平定。此非人力,天之所建也。天子聞君王王南越,不助天下誅暴逆,將相欲移兵而誅王。天子憐百姓新勞苦,故且休之,遣臣授君王印,剖符通使。君王宜郊迎,北面稱臣;乃欲以新造未集之越,屈強於此!漢誠聞之,掘燒王先人塚,夷滅宗族,使一偏將將十萬眾臨越,則越殺王降漢如反覆手耳。 |
現代日本語訳9年5月、詔書を下して秦の南海尉であった趙佗(ちょうた)を南粤王に封じる。陸賈を使者として派遣し、璽綬を授け、分割した符節を与えて正式な使節往来を認め、百越諸族を統合させて南方国境での禍害を防がせた。 そもそもの発端は秦二世皇帝の時代に遡る。南海尉の任囂(じんごう)が病床で死期を悟り、龍川県令であった趙佗を呼び寄せて言った。「秦王朝は無道であり、天下はその苦しみにあえぐ。陳勝らの反乱も起こる中、世の行く末は定まらない。南海郡は僻遠の地ゆえ、賊軍が侵攻してくることを恐れている。私は兵を挙げて新設道路を遮断し自衛しようとしたが、病状が悪化した。しかし番禺(広州)は山岳と海に囲まれ東西数千里の要害である。中原出身者も多く補佐役となるだろう。これぞ独立国家を建てるのに相応しい土地だ」と語り、文書で趙佗に南海尉職務継承を承認させた。 任囂が没すると、趙佗は直ちに横浦・陽山・湟谿の各関所へ布告した。「賊軍来襲迫る。至急道路を断絶し兵を集めて防衛せよ!」これを機に秦から派遣された役人を粛清して党羽に要職を占めさせた。秦滅亡後、桂林郡・象郡を併合し「南越武王」と自称した。 陸賈が到着すると、趙佗は異民族風の髷を結い足を投げ出して無礼な姿勢で応対した。これに対し陸賈は言下に諭した。「貴殿は中原出身であり親族や祖先の墓も真定にあるのに、今では漢文明を捨てて弱小南越をもって天子(皇帝)に対抗しようとするとは、禍いが身に及ぶぞ」と警告。続けて「秦朝崩壊後、群雄割拠する中で劉邦だけが咸陽入りを果たした。項羽は盟約違反の西楚霸王となり一時は諸侯を従えたが、漢王(劉邦)は巴蜀から天下を平定し項羽を滅ぼしたのだ」と力説。「この統一こそ天意である。天子は貴殿が南越で自立するも暴君討伐に加担しないことを知りながら、民の疲弊を慮って兵を留め使者を遣わされたのに、逆に対抗姿勢を示すとは?漢朝が真定の王墓を破壊し一族を誅戮すれば、十万の軍勢が南下するだろう。その時は越人自ら貴殿を討ち降伏すること必定である」と断言した。 解説
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| 」於是尉佗乃蹶然起坐,謝陸生曰:「居蠻夷中久,殊失禮義。」因問陸生曰:「我孰與蕭何、曹參、韓信賢?」陸生曰:「王似賢也。」復曰:「我孰與皇帝賢?」陸生曰:「皇帝繼五帝、三皇之業,統理中國;中國之人以億計,地方萬里,萬物殷富;政由一家,自天地剖判未始有也。今王眾不過十萬,皆蠻夷,崎嶇山海間,譬若漢一郡耳,何乃比於漢?」尉佗大笑曰:「吾不起中國,故王此;使我居中國,何遽不若漢?」乃留陸生與飲。數月,曰:「越中無足與語。至生來,令我日聞所不聞。」賜陸生橐中裝直千金,他送亦千金。陸生卒拜尉佗為南越王,令稱臣,奉漢約。歸報,帝大悅,拜賈為太中大夫。 陸生時時前說稱《詩》、《書》,帝罵之曰:「乃公居馬上而得之,安事《詩》、《書》?」陸生曰:「居馬上得之,寧可以馬上治之乎?且湯、武逆取而以順守之;文武並用,長久之術也。昔者吳王夫差、智伯、秦始皇,皆以極武而亡。鄉使秦已並天下,行仁義,法先聖,陛下安得而有之?」帝有慚色,曰:「試為我著秦所以失天下、吾所以得之者及古成敗之國。」陸生乃粗述存亡之征,凡著十二篇。每奏一篇,帝未嘗不稱善,左右呼萬歲;號其書曰《新語》。 10 帝有疾,惡見人,臥禁中,詔戶者無得入群臣,群臣絳、灌等莫敢入,十餘日。 |
【現代日本語訳】そこで尉佗が突然身を起こし正座して陸賈に謝罪した。「蛮族の中に長くいたので、すっかり礼儀作法を忘れていた」と。さらに問うた:「私は蕭何・曹参・韓信より優れているか?」 陸賈は「王様も見事です」と答えた。再び尉佗が尋ねる:「では皇帝(劉邦)と比べてどうか」。陸賈は言った。「皇帝は五帝三皇の事業を継承し、中国全土を統治している。民衆は億単位で国土は万里にわたり、万物が豊かに満ちている。政権統一という体制は天地開闢以来初めてです。一方、王様の兵力は十万にも届かず全て蛮族。険しい山と海に囲まれたこの地は漢帝国の一郡程度なのに、どうして比較できましょう」。尉佗は大笑いし反論した。「私は中原で挙兵しなかったからここを治めているのだ。仮に私が中原におれば、必ずしも皇帝に劣るとは言えまい」。こうして陸賈を留めて酒宴をもよおした。 数ヶ月後、尉佗は感慨深げに語った。「南越には対等に話せる相手がいなかった。貴殿が来てから毎日新たなことを聞けるようになった」と。陸賈に袋一杯の財宝(千金相当)を贈り、さらに別途同額の贈物を与えた。最終的に尉佗は正式に南越王として認められ漢への臣従を誓約した。帰還報告を受けた皇帝(劉邦)は大いに喜び陸賈を太中大夫に任じた。 その後も陸賈が『詩経』や『書経』の重要性を説くと、帝は叱責した。「朕は戦場で天下を取ったのだ!古典など何の役に立つ?」 すると陸賈は反論した。「馬上で得た天下を馬上で治められますか?湯王・武王も武力奪取後には文治統治を行いました。文武併用こそ長期政権の秘訣です。昔、呉王夫差・智伯・始皇帝らが過度な軍事力に依存して滅亡したのは周知でしょう。仮に秦が天下統一後に仁義を実践し聖人の道を継いでいたなら、陛下は帝位を得られたでしょうか?」 これを聞き帝は恥じ入り命じた。「朕のために秦の失政と我々成功要因及び歴代国家興亡について記せ」。陸賈が存亡の兆候十二篇(『新語』)を著すと、一篇ごとに皇帝は感嘆し臣下らは万歳三唱した。 その後帝は病床につき人との接触を拒み「門衛よ重臣を通すな」と命じた。周勃や灌嬰といった功臣でさえ十余日間控えるほど深刻であった。 【注釈】
【背景補足】
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| 舞陽侯樊噲排闥直入,大臣隨之。上獨枕一宦者臥。噲等見上,流涕曰:「始陛下與臣等起豐、沛,定天下,何其壯也?今天下已定,又何憊也?且陛下病甚,大臣震恐;不見臣等計事,顧獨與一宦者絕乎?且陛下獨不見趙高之事乎?」帝笑而起。 11 秋,七月,淮南王布反。 初,淮陰侯死,布已心恐。及彭越誅,醢其肉以賜諸侯。使者至淮南,淮南王方獵,見醢,因大恐,陰令人部聚兵,候伺旁郡警急。布所幸姬病就醫,醫家與中大夫賁赫對門,赫乃厚饋遺,從姬飲醫家;王疑其與亂,欲捕赫。赫乘傳詣長安上變,言:「布謀反有端,可先未發誅也。」上讀其書,語蕭相國,相國曰:「布不宜有此,恐仇怨妄誣之。請系赫,使人微驗淮南王。」淮南王布見赫以罪亡上變,固已疑其言國陰事;漢使又來,頗有所驗;遂族赫家,發兵反。反書聞,上乃赦賁赫,以為將軍。 上召諸將問計,皆曰:「發兵擊之,坑豎子耳,何能為乎?」汝陰侯滕公召故楚令尹薛公問之。令尹曰:「是固當反。」滕公曰:「上裂地而封之,疏爵而王之;其反何也?」令尹曰:「往年殺彭越,前年殺韓信;此三人者,同功一體之人也,自疑禍及身,故反耳。」滕公言之上,上乃召見,問薛公,薛公對曰:「布反不足怪也。使布出於上計,山東非漢之有也;出於中計,勝敗之數未可知也;出於下計,陛下安枕而臥矣。 |
現代日本語訳舞陽侯樊噲が扉を押し破って直入すると、大臣たちもこれに従った。皇帝は一人の宦官を枕にして寝ていた。樊噲らが皇帝を見るや涙を流して言うには、「かつて陛下が臣下らと豊・沛より挙兵し天下を平定された時、何と雄壮であったか?今また天下は安定したというのに、なぜこのような無気力なのか?さらに陛下の病状重く、大臣たちは震え恐れている。我々臣下に計議させず、ただ一人の宦官とのみ関係を断とうとするとはどういうことか?しかも趙高の事例(秦二世皇帝が宦官に滅ぼされた故事)をご存じないのか?」と。帝は笑って起き上がった。 11年秋7月、淮南王英布が反乱を起こす。 初め淮陰侯韩信処刑後、英布は内心恐れていた。彭越も誅殺され、その肉を塩漬けにしたものが諸侯へ配られた際、使者が淮南国に到着すると、ちょうど狩猟中の英布はこれを見て大いに恐怖し、密かに兵士たちの集結を命じるとともに周辺郡国の動向を窺った。寵姫が病気で医師宅へ通っていたところ、その家は中大夫賁赫と隣同士であったため、賁赫は厚い贈り物をして宴席にも陪した。英布は二人に不義密通の疑いを持ち賁赫逮捕を図ったが、彼は駅伝馬で長安へ逃れ謀反計画を告発し「英布には謀反兆候あり、未然に誅殺すべし」と訴えた。皇帝がこの上奏文を丞相蕭何に見せると、「英布がそのような事を行うはずなく、私怨による虚偽告訴でしょう。賁赫を拘束した上で淮南王の内偵をお願いします」と答える。しかし英布は賁赫が逃亡し告発したことを知り謀反計画漏洩を疑っていたところへ漢朝使者が調査に訪れたため、逆に家族皆殺しにして兵を挙げた。 この報告を受けた皇帝は賁赫の罪を赦して将軍職を与える。諸将を召し対策を問うと全員「討伐軍派遣で問題なし」と言ったが、汝陰侯夏侯嬰(滕公)だけが旧楚令尹薛公に助言を求めた。すると彼は「当然の反乱です」と即答した。「陛下が領土を与え王位につけたのに何故か?」との問いに、「彭越殺害・韩信処刑―この三将軍(英布を含む)は功績同等でしたから、次は自身だと疑い反逆に至ったのです」。滕公これを皇帝へ伝えると薛公を召見し詳述させた。彼の分析によれば「英布には上中下の三策あり:上策なら山東奪取(漢朝存亡危機)、中策なら勝敗不明、幸いにも彼は下策選択したので陛下は枕を高くして眠れるでしょう」と。 注釈
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| 」上曰:「何謂上計?」對曰:「東取吳,西取楚,並齊,取魯,傳檄燕、趙,固守其所,山東非漢之有也。」「何謂中計?」「東取吳,西取楚,並韓,取魏,據敖倉之粟,塞成皋之口,勝敗之數未可行也。」「何謂下計?」「東取吳,西取下蔡,歸重於越,身歸長沙,陛下安枕而臥,漢無事矣。」上曰:「是計將安出?」對曰:「出下計。」上曰:「何謂廢上、中計而出下計?」對曰:「布,故麗山之徒也,自致萬乘之主,此皆為身,不顧後、為百姓萬世慮者也。故曰出下計。」上曰:「善!」封薛公千戶。乃立皇子長為淮南王。 是時,上有疾,欲使太子往擊黥布。太子客東園公、綺里季、夏黃公、角里先生說建成侯呂釋之曰:「太子將兵,有功則位不益,無功則從此受禍矣。君何不急請呂后,承間為上泣言:『黥布,天下猛將也,善用兵。今諸將皆陛下故等夷,乃令太子將此屬,無異使羊將狼,莫肯為用;且使布聞之,則鼓行而西耳!上雖病,強載輜車,臥而護之,諸將不敢不盡力。上雖苦,為妻子自強!』」於是呂釋之立夜見呂后。呂后承間為上泣涕而言,如四人意。上曰:「吾惟豎子固不足遣,而公自行耳。」 於是上自將兵而東,群臣居守,皆送至霸上。留侯病,自強起,至曲郵,見上曰:「臣宜從,病甚。楚人剽疾,願上無與爭鋒!」因說上令太子為將軍,監關中兵。 |
現代日本語訳皇帝が尋ねた。「上計とは何か?」 続けて中計について問うと さらに下計についてはこう答えた 皇帝が尋ねた「ではどの策を選ぶのか?」 皇帝は感嘆し薛公を千戸侯に封じ皇子長を淮南王とした 時に帝が病床にあって太子(恵帝)に黥布討伐の指揮を取らせようとした 夜通しで動いた呂后の訴えに対し帝はこう答えられた 出陣する皇帝を見送る群臣の中で病身の留侯(張良)が強引に起きて曲郵まで赴いた 解説
※固有名詞(建成侯/曲郵等)は歴史用語としてそのまま表記し注釈割愛 Translation took 835.7 seconds. |
| 上曰:「子房雖病,強臥而傅太子。」是時,叔孫通為太傅,留侯行少傅事。發上郡、北地、隴西車騎、巴蜀材官及中尉卒三萬人為皇太子衛,軍霸上。 布之初反,謂其將曰:「上老矣,厭兵,必不能來。使諸將,諸將獨患淮陰、彭越,今皆已死,餘不足畏也。」故遂反。果如薛公之言,東擊荊。荊王賈走死富陵;盡劫其兵,渡淮擊楚。楚發兵與戰徐、僮間。為三軍,欲以相救為奇。或說楚將曰:「布善用兵,民素畏之。且兵法:『諸侯自戰其地為散地』,今別為三,彼敗吾一軍,餘皆走,安能相救!」不聽。布果破其一軍,其二軍散走;布遂引兵而西。 高帝十二年(丙午,公元前一九五年) 1 冬,十月,上與布兵遇於蘄西,布兵精甚。上壁庸城,望布軍置陳如項籍軍,上惡之。與布相望見,遙謂布曰:「何苦而反?」布曰:「欲為帝耳!」上怒罵之,遂大戰。布軍敗走,渡淮,數止戰,不利,與百餘人走江南,上令別將追之。 2 上還,過沛,留,置酒沛宮,悉召故人、父老、諸母、子弟佐酒,道舊故為笑樂。酒酣,上自為歌,起舞,慷慨傷懷,泣數行下,謂沛父兄曰:「遊子悲故鄉。朕自沛公以誅暴逆,遂有天下;其以沛為朕湯沐邑,復其民,世世無有所與。」樂飲十餘日,乃去。 3 漢別將擊英布軍洮水南、北,皆大破之。 |
現代日本語訳皇帝(劉邦)は言った。「子房(張良)は病中だが、無理を承知で太子の傅役となれ。」当時、叔孫通が太傅であり、留侯(張良)が少傅の職務を行っていた。上郡・北地・隴西の戦車騎兵と巴蜀の材官(歩兵)、さらに中尉配下の兵士三万を動員し皇太子親衛隊として覇上に駐屯させた。 英布が反乱を起こした当初、配下の将軍に対しこう語った。「皇帝は老いて戦争を厭う。自ら出馬せず諸将を派遣するだろうが、恐れるべきは韓信と彭越だけだ。今や両名とも死んだ。残りは脅威ではない。」かくして決起した。事態は薛公の予言通り展開し、英布軍は東進して荊国を攻撃。荊王劉賈は富陵へ敗走中に戦死。全軍を掌握した英布は淮水を渡り楚地へ侵攻した。 楚軍は徐県・僮県の間で迎え撃ち、三軍団に分かれ相互支援体制を構築した。ある者が楚将に進言した。「英布は用兵の巧者で民衆も恐れている。兵法にも『自国領内での戦いは士卒が逃げやすい(散地)』とあります。今さらに三軍に分散すれば、一軍が敗北すると他軍も潰走し支援など不可能です」しかし聞き入れられず。英布は見事に一軍を撃破し、残り二軍は撤退。これにより西進の道が開けた。 高帝十二年(丙午・紀元前195年) 1. 冬十月、皇帝軍は蘄県西方で英布軍と遭遇した。その精強さに劉邦は庸城に陣を固め、敵陣が項羽軍を思わせる配置なのを見て不快感を示す。両雄は対峙し、劉邦が叫んだ。「どうして反逆などする?」英布「皇帝になりたいだけだ」と返す。激怒した劉邦との総力戦となり英布軍は敗北。淮水を渡り撤退を繰り返すも挽回できず、百余騎で江南へ逃亡。追撃部隊が派遣された。
注記
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| 布故與番君婚,以故長沙成王臣使人誘布,偽欲與亡走越,布信而隨之。番陽人殺布茲鄉民田舍。 4 周勃悉定代郡、雁門、雲中地,斬陳豨於當城。 5 上以荊王賈無後,更以荊為吳國。辛丑,立兄仲之子濞為吳王,王三郡、五十三城。 6 十一月,上過魯,以太牢祠孔子。 7 上從破黥布歸,疾益甚,愈欲易太子。張良諫不聽,因疾不視事。叔孫通諫曰:「昔者晉獻公以驪姬之故,廢太子,立奚齊,晉國亂者數十年,為天下笑。秦以不蚤定扶蘇,令趙高得以詐立胡亥,自使滅祀,此陛下所親見。今太子仁孝,天下皆聞之。呂后與陛下攻苦食淡,其可背哉?陛下必欲廢適而立少,臣願先伏誅,以頸血污地。」帝曰:「公罷矣,吾直戲耳。」叔孫通曰:「太子,天下本,本一搖,天下振動;奈何以天下為戲乎?」時大臣固爭者多;上知群臣心皆不附趙王,乃止不立。 8 相國何以長安地狹,上林中多空地,棄;願令民得入田,毋收蒿,為禽獸食。上大怒曰:「相國多受賈人財物,乃為請吾苑!」下相國廷尉,械系之。數日,王衛尉侍,前問曰:「相國何大罪,陛下系之暴也?」上曰:「吾聞李斯相秦皇帝,有善歸主,有惡自與。今相國多受賈豎金,而為之請吾苑以媚於民,故系治之。」王衛尉曰:「夫職事苟有便於民而請之,真宰相事;陛下奈何乃疑相國受賈人錢乎?且陛下距楚數歲,陳豨、黥布反,陛下自將而往;當是時,相國守關中,關中搖足,則關以西非陛下有也!相國不以此時為利,今乃利賈人之金乎?且秦以不聞其過亡天下;李斯之分過,又何足法哉?陛下何疑宰相之淺也!」帝不懌。 |
現代日本語訳呂布はかつて番君(呉芮)と姻戚関係にあったため、長沙成王の臣下が使者を遣わし呂布を誘い出した。「共に越へ逃亡しよう」と偽りの提案を行い、呂布はこれを信じて従った。しかし番陽の人々が茲郷(地名)の民家で呂布を殺害した。 4 5 6 7 8 解説
※注:「滅祀」(祭祀断絶=王朝滅亡)、「賈豎」(卑称としての商人)など侮蔑語彙も現代日本語に適宜換言。 Translation took 1292.2 seconds. |
| 是日,使使持節赦出相國。相國年老,素恭謹,入,徒跣謝。帝曰:「相國休矣!相國為民請苑,吾不許,我不過為桀、紂王,而相國為賢相。吾故系相國,欲令百姓聞吾過也。」 9 陳豨之反也,燕王綰發兵擊其東北。當是時,陳豨使王黃求救匈奴;燕王綰亦使其臣張勝於匈奴,言豨等軍破。張勝至胡,故燕王藏荼子衍出亡在胡,見張勝曰:「公所以重於燕者,以習胡事也;燕所以久存者,以諸侯數反,兵連不決也。今公為燕,欲急滅豨等;豨等已盡,次亦至燕,公等亦且為虜矣。公何不令燕且緩陳豨,而與胡和?事寬,得長王燕;即有漢急,可以安國。」張勝以為然,乃私令匈奴助豨等擊燕。燕王綰疑張勝與胡反,上書請族張勝。勝還,具道所以為者;燕王乃詐論他人,脫勝家屬,使得為匈奴間。而陰使范齊之陳豨所,欲令久亡,連兵勿決。 漢擊黥布,豨常將兵居代;漢擊斬豨,其裨將降,言燕王綰使范齊通計謀於豨所。帝使使召盧綰,綰稱病;上又使辟陽侯審食其、御史大夫趙堯往迎燕王,因驗問左右。綰愈恐,閉匿,謂其幸臣曰:「非劉氏而王,獨我與長沙耳。往年春,漢族淮陰,夏,誅彭越,皆呂氏計。令上病,屬任呂后;呂后婦人,專欲以事誅異姓王者及大功臣。」乃遂稱病不行,其左右皆亡匿。語頗洩,辟陽侯聞之,歸,具報上,上益怒。 |
現代日本語訳この日、使者を遣わし符節を持たせて相国(蕭何)の赦免を命じた。老齢の相国は元来恭順謹直であり、裸足で宮廷に入り謝罪した。皇帝(劉邦)が言うには「相国よ、もうよい。君が民のために上林苑返還を請願した時、朕は許可しなかった。これは朕が桀王や紂王のような暴君となり、一方で相国こそ賢宰相であったことを示す。わざと君を拘束したのは、百姓に朕の過ちを知らせんがためである」。 陳豨(ちんき)が反乱すると、燕王盧綰(ろえん)は軍勢を発しその東北側を攻撃した。この時、陳豨は配下の王黄を使者として匈奴に救援を求めた。一方で燕王も臣下の張勝を匈奴へ派遣し「陳豨らは敗北した」と伝えさせた。張勝が胡地(匈奴)に到着すると、かつての燕王・臧荼(ぞうと)の子である臧衍(逃亡中だった)が現れて言った。「貴殿が燕国で重用されるのは匈奴事情に精通しているからだ。また燕国が長く存続できたのも諸侯が頻繁に反乱し戦争が長期化したためである。今、急いで陳豨を滅ぼせば次は燕国の番となり貴殿らも捕虜となるだろう。なぜ陳豨討伐を遅延させ匈奴と和睦しないのか? これにより情勢は緩和され長く燕王として存続できる。仮に漢から圧迫があれば国を安定させられる」。張勝はこれを妥当と考え、密かに匈奴に陳豨支援と燕軍攻撃を促した。 燕王盧綰は張勝が胡人(匈奴)と結託して謀反したと疑い、「張勝の一族を誅殺せよ」と上奏した。しかし帰国した張勝が真意を説明すると、燕王は偽って他人に罪を着せて張勝の家族を助命し彼を匈奴への間諜とした。一方で密かに范齊(はんさい)を陳豨のもとに派遣し「抗戦を長期化させ決着させるな」と指示した。 漢軍が黥布討伐に向かう中、陳豨は代国に駐留していたが敗死する。彼の副将が投降して暴露した。「燕王盧綰が范齊を使者として陳豨と謀議していました」。皇帝は使者を送り盧綰を召還しようとしたが病気と称し応じない。さらに辟陽侯・審食其(しんいき)らを派遣すると同時に側近を取り調べようとした。 これにより盧綰の恐怖は増大し、行方をくらませ寵臣へ語った。「劉氏以外で王位にあるのは私と長沙王だけだ。昨年春には淮陰侯(韓信)一族が誅され夏に彭越も殺された。全て呂后の策略である。今や皇帝は病床につき政務を呂後に委ねている」。そして「女性である呂后は諸侯王や功臣たちを除こうとしている」と言い放ち、病気を理由に赴かず側近にも逃亡・潜伏を命じた。この言葉が漏れ辟陽侯の耳に入ると急ぎ帰還して報告したため皇帝の怒りは頂点に達した。 解説■ 歴史的背景 ■ 政治力学分析 ■ 人物評 ■ 文章表現特徴 ■ 歴史的教訓 Translation took 2706.6 seconds. |
| 又得匈奴降者,言張勝亡在匈奴為燕使。於是上曰:「盧綰果反矣!」春,二月,使樊噲以相國將兵擊綰,立皇子建為燕王。 10 詔曰:「南武侯織,亦粵之世也,立以為南海王。」 11 上擊布時,為流矢所中,行道,疾甚。呂后迎良醫。醫入見,曰:「疾可治。」上嫚罵之曰:「吾以布衣提三尺取天下,此非天命乎?命乃在天,雖扁鵲何益?」遂不使治疾,賜黃金五十斤,罷之。呂后問曰:「陛下百歲後,蕭相國既死,誰令代之?」上曰:「曹參可。」問其次,曰:「王陵可,然少戇,陳平可以助之。陳平知有餘,然難獨任。周勃重厚少文,然安劉氏者必勃也,可令為太尉。」呂后復問其次,上曰:「此後亦非乃所知也。」夏,四月,甲辰,帝崩於長樂宮。丁未,發喪,大赦天下。 12 盧綰與數千人居塞下候伺,幸上疾愈,自入謝。聞帝崩,遂亡入匈奴。 13 五月,丙寅,葬高帝於長陵。 初,高祖不修文學,而性明達,好謀,能聽,自監門、戍卒,見之如舊。初順民心作三章之約。天下既定,命蕭何次律、令,韓信申軍法,張蒼定章程,叔孫通制禮儀;又與功臣剖符作誓,丹書、鐵契,金匱、石室,藏之宗廟。雖日不暇給,規摹弘遠矣。 14 己巳,太子即皇帝位,尊皇后曰皇太后。 15 初,高帝病甚,人有惡樊噲,云:「黨於呂氏,即一日上晏駕,欲以兵誅趙王如意之屬。 |
翻訳本文さらに匈奴からの投降者が得られ、張勝が逃亡して匈奴にて燕の使者となっていると語った。そこで皇帝は言われた。「盧綰(ろえん)は果たして反逆したか!」春二月、樊噲(はんかい)を相国として兵を率いさせ盧綰を攻撃させ、皇子建を立てて燕王とした。 10 詔書に曰く:「南武侯織(なんぶこうしょく)もまた粵(えつ)の末裔であるゆえ、これを立てて南海王とせよ」。 11 皇帝が英布(えいふ)を討った際、流れ矢に当たり負傷した。道中で病状が悪化すると、呂后(りょこう)が名医を呼び寄せた。医者が診察して「治療可能です」と言うと、皇帝は罵って言われた。「我々庶民が三尺の剣を持って天下を取ったのは天命ではないのか?命運は天にあり、扁鵲(へんじゃく)ごときが何の役に立つ?」遂に治療させず黄金五十斤を与えて帰した。呂后が尋ねた。「陛下が崩御された後、蕭相国(しょうそうこく)が亡くなったら誰を代わりとしますか」皇帝は「曹参(そうしん)が適任だ」と答えた。次を問うと、「王陵(おうりょう)がよいが少し愚直なので陳平(ちんぺい)が補佐せよ。陳平は知略に富むが単独での重任は難しい。周勃(しゅうぼつ)は重厚で文才不足だが、劉氏を安泰にする者は必ず周勃である。太尉とせよ」呂后がさらに次を尋ねると「その後はお前の知る所ではない」と言われた。夏四月甲辰の日、皇帝は長楽宮にて崩御した。丁未の日に喪を発し、天下に大赦を行った。 12 盧綰は数千人と共に関門近くで待機し、皇帝が快癒されることを願い自ら謝罪しようとしたが、帝の崩御を知ると匈奴へ逃亡した。 13 五月丙寅の日、高帝を長陵に葬る。 14 己巳の日、太子が皇帝に即位し皇后を皇太后と尊称した。 15 かつて高帝が重病となった際、樊噲の中傷があり「呂氏派閥で陛下崩御後ただちに兵を用い趙王如意(かんのうにょい)らを誅殺しようとする」と言われた。 注釈
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| 」帝大怒,用陳平謀,召絳侯周勃受詔床下,曰:「陳平亟馳傳載勃代噲將;平至軍中,即斬噲頭!」二人既受詔,馳傳,未至軍,行計之曰:「樊噲,帝之故人也,功多,且又呂后弟呂嬃之夫,有親且貴。帝以仇怒故欲斬之,則恐後悔;寧囚而致上,上自誅之。」未至軍,為壇,以節召樊噲。噲受詔,即反接,載檻車傳詣長安;而令絳侯勃代將,將兵定燕反縣。 平行,聞帝崩,畏呂嬃讒之於太后,乃馳傳先去。逢使者,詔平與灌嬰屯滎陽。平受詔,立復馳至宮,哭殊悲;因固請得宿衛中。太后乃以為郎中令,使傅教惠帝。是後呂嬃讒乃不得行。樊噲至,則赦,復爵邑。 16 太后令永巷囚戚夫人,髡鉗,衣赭衣,令舂。遣使召趙王如意。使者三反,趙相周昌謂使者曰:「高帝屬臣趙王,趙王年少,竊聞太后怨戚夫人,欲召趙王並誅之,臣不敢遣王。王且亦病,不能奉詔。」太后怒,先使人召昌。昌至長安,乃使人復召趙王。王來,未到;帝知太后怒,自迎趙王霸上,與入宮,自挾與起居飲食。太后欲殺之,不得間。 孝惠皇帝 惠帝元年(丁未,公元前一九四年) 1 冬,十二月,帝晨出射。趙王少,不能蚤起;太后使人持鴆飲之。犁明,帝還,趙王已死。太后遂斷戚夫人手足,去眼,煇耳,飲喑藥,使居廁中,命曰「人彘」。居數日,乃召帝觀人彘。 |
現代日本語訳皇帝(高祖)は激怒し、陳平の策略を用いて絳侯周勃を呼び寄せ床下で詔を授けた。「陳平よ、急ぎ駅伝車に乗り周勃を載せて樊噲の代わりに将軍となれ。軍中に到着次第、ただちに樊噲の首を斬れ」と命じた。二人は詔を受け取ると駅伝で駆けつけたが、軍営へ至る前に道中で議論した。「樊噲は皇帝の旧友であり功績も大きく、さらに呂后の妹・呂嬃(りょしゅ)の夫だ。親族として貴重な存在である。皇帝は一時的な怒りから彼を斬ろうとしているが、後悔する恐れがある。むしろ囚人として連行し、皇帝自ら処断させるべきだろう」。軍営に着く前に祭壇を設け、符節を持って樊噲を召還した。樊噲は詔を受けるや両手を背後で縛られ檻車に載せられ長安へ送られた。一方、周勃が代理将軍となり兵を率いて燕の反乱県を平定した。 陳平は帰途、皇帝崩御を知り呂嬃からの讒言(ざんげん)を恐れ駅伝で先回りして急行した。途中で使者に出会い「滎陽に駐屯せよ」との詔を得たが、すぐに宮廷へ引き返し慟哭して哀悼を示すと共に宿衛職(禁中警護)への就任を強く願い出た。呂后は彼を郎中令(近衛長官)に任命し恵帝の教育係としたため、後に呂嬃の讒言は成立しなかった。樊噲が到着すると赦免され爵位と領地も回復した。 16 呂后は永巷宮で戚夫人を幽閉し髪を剃り首枷をつけ赤い囚人服を着せ、搗米(つきこめ)の労役につかせた。さらに使者を趙へ派遣して如意(劉如意)王子を召還しようとしたが、三度の呼び出しに趙相・周昌は拒否した。「先帝より趙王補佐を任じられております。ご幼少の王に対し呂后様が戚夫人への怨恨から誅殺なさる恐れがあるゆえ送れません」。怒った呂后はまず周昌を長安に召喚し、その後改めて如意王子を呼び寄せた。 趙王(如意)が到着する前に恵帝が太后の意図を察知し覇上まで出迎えると自ら付き添って宮殿入りさせ、起居飲食を共にして庇護した。呂后は殺害の機会を得られなかった。 孝惠皇帝紀元元年(丁未・前194年) 解説
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| 帝見,問知其戚夫人,乃大哭,因病,歲餘不能起。使人請太后曰:「此非人所為。臣為太后子,終不能治天下。」帝以此日飲為淫樂,不聽政。 臣光曰:為人子者,父母有過則諫;諫而不聽,則號泣而隨之。安有守高祖之業,為天下之主,不忍母之殘酷,遂棄國家而不恤,縱酒色以傷生?若孝惠者,可謂篤於小仁而未知大誼也。 2 徙淮陽王友為趙王。 3 春,正月,始作長安城西北方。 惠帝二年(戊申,公元前一九三年) 1 冬,十月,齊悼惠王來朝,飲於太后前。帝以齊王,兄也,置之上坐。太后怒,酌鴆酒置前,賜齊王為壽。齊王起,帝亦起取卮;太后恐,自起泛帝卮。齊王怪之,因不敢飲,佯醉去;問知其鴆,大恐。齊內史士說王,使獻城陽郡為魯元公主湯沐邑。太后喜,乃罷歸齊王。 2 春,正月,癸酉,有兩龍見蘭陵家人井中。 3 隴西地震。 4 夏,旱。 5 郃陽侯仲薨。 6 酇文終侯蕭何病,上親自臨視,因問曰:「君即百歲後,誰可代君者?」對曰:「知臣莫如主。」帝曰:「曹參何如?」何頓首曰:「帝得之矣,臣死不恨!」 秋,七月,辛未,何薨。何置田宅,必居窮僻處,為家,不治垣屋。曰:「後世賢,師吾儉;不賢,毋為勢家所奪。」 癸巳,以曹參為相國。參聞何薨,告舍人:「趣治行!吾將入相。 |
現代日本語訳皇帝(恵帝)は戚夫人の姿を見て、その身分を知り号泣した。病を得たため一年余り床に伏せった。使者を太后のもとへ遣わし「このような行いは人として許されない。臣下である私が母后の子であっても、もはや天下を治めることはできません」と奏上させた。皇帝は以後酒色に溺れ政務を顧みなかった。 司馬光の評:子たるものは父母に過ちあれば諫めるべきだ。聞き入れられぬ時こそ涙ながらに従うものである。高祖(劉邦)が築いた基業を受け継ぎ天下の主となった者が、母后の残忍さを耐えかねて国家を放棄し酒色で自らを傷つけるとは?恵帝は小なる仁愛には厚いが大義を知らなかったと言える。 二年目(紀元前193年) 春正月癸酉、蘭陵の民家井戸から二頭の龍が現れた。 隴西で地震発生。 夏季に干ばつ。 郃陽侯劉仲死去。 丞相蕭何が病床にあると皇帝自ら見舞い「後任は誰が適か」と問うた。蕭何は「主君ほど臣下を知る者はおりません」と答える。「曹参では?」との帝の言葉に、蕭何は額づいて「陛下は最良の人選を得られました。これで死んでも悔いはありません」と言った。 秋七月辛未、蕭何没。彼が購入した土地や屋敷は常に辺鄙な地を選び、囲いも設けなかった。「子孫が賢ければ倹約を見習い、愚かならば権力者に奪われぬよう」との考えからである。 癸巳の日、曹参が相国に任命された。この知らせを受けた彼は家臣に「急ぎ支度せよ!私は宰相となるのだ」と命じた。 解説■ 歴史的背景 ■ 政治力学 ■ 自然現象の記載意義 ■ 蕭何の処世術 (訳注:固有名詞は原則として『史記』『漢書』表記に準拠。助動詞「ず」「ぬ」で文語調を再現しつつ現代語基軸で統一) Translation took 1941.0 seconds. |
| 」居無何,使者果召參。始,參微時,與蕭何善;及為將相,有隙;至何且死,所推賢唯參。參代何為相,舉事無所變更,一遵何約束:擇郡國吏木訥於文辭、重厚長者,即召除為丞相史;吏之言文刻深、欲務聲名者,輒斥去之。日夜飲醇酒。卿、大夫以下吏及賓客見參不事事,來者皆欲有言,參輒飲以醇酒;間欲有所言,復飲之,醉而後去,終莫得開說,以為常。見人有細過,專掩匿覆蓋之,府中無事。 參子窋為中大夫。帝怪相國不治事,以為「豈少朕與?」使窋歸,以其私問參。參怒,笞窋二百,曰:「趣入侍!天下事非若所當言也!」至朝時,帝讓參曰:「乃者我使諫君也。」參免冠謝曰:「陛下自察聖武孰與高帝?」上曰:「朕乃安敢望先帝!」又曰:「陛下觀臣能孰與蕭何賢?」上曰:「君似不及也。」參曰:「陛下言之是也。高帝與蕭何定天下,法令既明。今陛下垂拱,參等守職,遵而勿失,不亦可乎?」帝曰:「善!」 參為相國,出入三年,百姓歌之曰:「蕭何為法,較若畫一;曹參代之,守而勿失。載其清淨,民以寧壹。」 惠帝三年(己酉,公元前一九二年) 1 春,發長安六百里內男女十四萬六千人城長安,三十日罷。 2 以宗室女為公主,嫁匈奴冒頓單于。是時,冒頓方強,為書,使使遺高后,辭極褻嫚。高后大怒,召將相大臣,議斬其使者,發兵擊之。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)しばらく経たずして、使者が曹参を召す。初め、曹参が微賤の頃は蕭何と親交があったが、将相となるや不和が生じた。しかし蕭何が死ぬ間際に推挙した賢者はただ曹参のみであった。曹参が丞相となってからは政策変更せず、ひたすら蕭何の定めた法規を遵守した。郡国官吏の中から無口で誠実な者を選び丞相史とし、弁舌巧みで苛酷・名声に執着する者は罷免した。 日夜酒宴にふけり、卿大夫以下の官僚や賓客が公務怠慢を見て諫言しようとする度に曹参は彼らに酒を飲ませた。発言の機会を与えようとすると再び酒を勧め、酔って帰るまで語らせず、これを通例とした些細な過失があれば見逃し続け、丞相府では問題が生じなかった。 曹参の子・窋(ちく)は中大夫であった。皇帝(恵帝)は宰相が政務を執らないことに疑念を持ち「朕を軽んじているのか」と窋を使いに立てて内情を探らせた。激怒した曹参は二百回も窋を鞭打ち「早く宮仕えに戻れ!天下のことはお前が口出しすべきではない」と叱責した。 後日、皇帝は詰問する:「先般、朕はそなたを諫めるために使者を遣わしたぞ」。曹参は冠を脱ぎ謝罪すると「陛下ご自身で思召されたら如何でしょう。聖明・武勇において高祖皇帝に及ぶと?」帝が「先帝には遠く及ばぬ」と言うと、更に問う:「臣の才覚では蕭何より優れているかと」。帝は「君は及ばないようだ」と答えた。「陛下のお言葉通りです。高帝と蕭何が天下を定め法令は既に完備しております。今や陛下は垂拱(手をこまぬいて)し、臣らは職分を守り法規を遵守するのみで宜しいのでは?」「尤もである」と皇帝は納得した。 曹参が宰相となって三年後、民衆は歌った:
恵帝三年(己酉、紀元前192年) 1. 春:長安より六百里以内から男女十四万六千人を動員して長安城壁修築にあたらせ、三十日で終了。 2. 宗室の娘を公主として匈奴の冒頓単于に嫁がせる。当時、冒頓は全盛期であり、高后(呂后)へ挑発的な国書を届けさせた。激怒した呂后は将相大臣を集め使者斬首と出兵を議決しようとした。 解説
(注)原文では存在しない恵帝三年記事について:長安城修築は首都防衛力強化を示し、匈奴和親政策は外圧緩和策だが冒頓の挑発書簡が前漢朝廷の脆弱性を露呈した事件として記録されている。 Translation took 1013.2 seconds. |
| 樊噲曰:「臣願得十萬眾橫行匈奴中!」中郎將季布曰:「噲可斬也!前匈奴圍高帝於平城,漢兵三十二萬,噲為上將軍,不能解圍。今歌吟之聲未絕,傷夷者甫起,而噲欲搖動天下,妄言以十萬眾橫行,是面謾也。且夷狄譬如禽獸,得其善言不足喜,惡言不足怒也。」高后曰:「善!」令大謁者張釋報書,深自謙遜以謝之,並遺以車二乘,馬二駟。冒頓復使使來謝,曰:「未嘗聞中國禮義,陛下幸而赦之。」因獻馬,遂和親。 3 夏,五月,立閩越君搖為東海王。搖與無諸,皆越王句踐之後也,從諸侯滅秦,功多,其民便附,故立之。都東甌,世號東甌王。 4 六月,發諸侯王、列侯徒隸二萬人城長安。 5 秋,七月,都廄災。 6 是歲,蜀湔氐反,擊平之。 惠帝四年(庚戌,公元前一九一年) 1 冬,十月,立皇后張氏。后,帝姊魯元公主女也,太后欲為重親,故以配帝。 2 春,正月,舉民孝、弟、力田者,復其身。 3 三月,甲子,皇帝冠,赦天下。 4 省法令妨吏民者;除挾書律。 5 帝以朝太后於長樂宮及間往,數蹕煩民,乃築覆道於武庫南。奉常叔孫通諫曰:「此高帝月出遊衣冠之道也,子孫奈何乘宗廟道上行哉!」帝懼曰:「急壞之!」通曰:「人主無過舉。今已作,百姓皆知之矣。願陛下為原廟渭北,衣冠月出遊之,益廣宗廟,大孝之本。 |
現代日本語訳:樊噲が申し上げた。「臣下、十万の兵を率いて匈奴の中を縦横無尽に行き来したい!」これに対し中郎将・季布は言い放った。「樊噲は斬首に値する!かつて匈奴が平城で高祖皇帝を包囲した際、漢軍三十二万の中で彼は上将軍の地位にありながら包囲を解けなかった。今なお戦禍の悲嘆が消えぬ中、負傷者が癒え始めたばかりというのに、樊噲が天下を混乱させようと『十万の兵で横行する』などと妄言するのは明らかな欺瞞である。そもそも夷狄は禽獣同然であり、彼らの恭順の言葉に喜ぶ必要もなければ、無礼な言辞に怒る必要もない。」呂后(高后)は「その意見は妥当」と認め、大謁者・張釋に返書を届けさせて深く謙虚な謝罪文を送るとともに、車二輌と馬八頭を贈った。すると匈奴の冒頓単于が使者を遣わし「私はこれまで中華の礼儀を知らずにおりましたが、陛下は寛大にもお赦しくださった」と感謝し、馬を献上して和親関係を結んだ。 3 夏五月、閩越の君主・搖を東海王に封じた。搖と無諸はいずれも越王・勾践の子孫であり、諸侯連合で秦を滅ぼす際に大きな功績を立て、民衆からの信望が厚かったためこの措置を取った。都は東甌(現在の浙江省温州)に定められ、「東甌王」と称された。 4 六月、諸侯王や列侯のもとにいる刑徒・奴隷二万人を動員して長安城の修築を行わせた。 5 秋七月、宮廷の厩舎で火災が発生した。 6 同年、蜀郡の湔氐族が反乱を起こすも鎮圧された。 恵帝四年(庚戌年、紀元前191年) 1 冬十月、張氏を皇后に立てた。彼女は皇帝の姉・魯元公主の娘であり、呂后が二重の婚姻関係で権力を強化しようとしたためこの縁組が行われた。 2 春正月、親孝行や兄弟間の和合、農耕に勤しむ者を推挙し、これらの者の税役を免除した。 3 三月甲子日、皇帝(恵帝)は元服の儀式を行い天下に恩赦を実施した。 4 官吏・民衆にとって障害となる法令を簡素化し、「挟書律」(書籍所持禁止令)を廃止した。 5 皇帝が長楽宮で呂后への礼を行う際、頻繁な通行規制(蹕)が民衆の負担になっていたため、武庫の南側に屋根付き通路(覆道)を建設した。奉常・叔孫通は諫言して「これは高祖皇帝の衣冠を月ごとに移す祭祀のための道です。子孫たる者がどうして宗廟用の通路の上を行き来できましょうか!」と述べると、皇帝は恐れて「直ちに撤去せよ」と言った。これに対し叔孫通は答えた。「君主には過失があってはいけません。すでに完成したものを民衆も知っています。どうか渭水の北岸に原廟を建立され、月ごとに衣冠を移して祭祀を行いながら宗廟を拡充なさるのが、孝行の根本です。」 解説:【外交政策における現実主義】
【辺境統治の特徴】
【社会動員システム】
【儒教治国理念の浸透】
【災害記録の意義】
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| 」上乃詔有司立原廟。 臣光曰:過者,人之所必不免也,惟聖賢為能知而改之。古之聖王,患其有過而不自知也,故設誹謗之木,置敢諫之鼓,豈畏百姓之聞其過哉!是以仲虺美成湯曰:「改過不吝。」傅說戒高宗曰:「無恥過作非。」由是觀之,則為人君者,固不以無過為賢,而以改過為美也。今叔孫通諫孝惠,乃雲「人主無過舉」,是教人君以文過遂非也,豈不繆哉! 6 長樂宮鴻台災。 7 秋,七月,乙亥,未央宮凌室災;丙子,織室災。 惠帝五年(辛亥,公元前一九零年) 1 冬,雷;桃李華,棗實。 2 春,正月,復發長安六百里內男女十四萬五千人城長安,三十日罷。 3 夏,大旱,江河水少,谿谷水絕。 4 秋,八月,己丑,平陽懿侯曹參薨。 惠帝六年(壬子,公元前一八九年) 1 冬,十月,以王陵為右丞相,陳平為左丞相。 2 齊悼惠王肥薨。 3 夏,留文成侯張良薨。 4 以周勃為太尉。 惠帝七年(癸丑,公元前一八八年) 1 冬,發車騎、材官詣滎陽,太尉灌嬰將。 2 春,正月,辛丑朔,日有食之。 3 夏,五月,丁卯,日有食之,既。 4 秋,八月,戊寅,帝崩於未央宮。大赦天下。九月,辛丑,葬安陵。 初,呂太后命張皇后取他人子養之,而殺其母,以為太子。既葬,太子即皇帝位,年幼;太后臨朝稱制。 |
現代語訳(『資治通鑑』より)前段の続き 帝はこれを受け、関係官府に命じて原廟を建立させた。 臣・司馬光の論評 過ちは人間が必ず免れぬものである。ただ聖賢のみがこれを知り改めることができる。古代の聖王は、自ら過ちがあることに気づかぬことを憂い、「誹謗の木」を立て「敢諫の鼓」を設置したのだ。どうして民衆に己の過ちを知られるのを恐れようか? 仲虺(ちゅうき)が成湯(せいとう)を讃えて言ったように「過ちを改めることに吝かでない」。傅説(ふえつ)は高宗を戒めて「過ちを恥じて非を行わせるな」と言った。これらを見ると、君主たる者は本来、「過ちがないこと」を以て賢明とするのではなく、「過ちを改めること」を美徳とすべきである。今、叔孫通(しゅくそんつう)が孝恵帝に諫めて「君主には誤った行動はない」と言ったのは、君主に過ちをごまかして非を貫かせる教えであり、実に誤りではないか! 6 長楽宮の鴻台で火災発生。 7 秋七月乙亥、未央宮凌室が炎上。丙子には織室が焼失。 ■恵帝五年(辛亥・前190年) 1 冬:雷鳴。桃と李が開花し、棗が結実。 2 春正月:長安より六百里圏内の男女14万5千人を再動員して都城修築。30日で終了。 3 夏:大旱魃。大河や小河川は水量減少し渓谷では枯渇。 4 秋八月己丑:平陽懿侯・曹参が逝去。 ■恵帝六年(壬子・前189年) 1 冬十月:王陵を右丞相、陳平を左丞相に任命。 2 斉の悼恵王・劉肥が薨去。 3 夏:留文成侯・張良が逝去。 4 周勃を太尉に任ず。 ■恵帝七年(癸丑・前188年) 1 冬:戦車兵と歩兵を滎陽へ派遣。太尉の灌嬰が指揮。 2 春正月辛丑朔:日食発生。 3 夏五月丁卯:皆既日食観測。 4 秋八月戊寅:帝、未央宮にて崩御。天下に大赦令発布。九月辛丑、安陵に埋葬。 【付記】 呂太后が張皇后に対し「他人の子を奪って養子とせよ」と命じ、生母は殺害させた。これを皇太子とした。葬儀後、幼少の太子が即位するも、呂太后が摂政として実権掌握。 解説
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| input text 資治通鑑\013_漢紀_05.txt | Modern Japanese translated text | |||||||||||||||
| 資治通鑑 卷十三 漢紀五 起閼逢攝提格,盡昭陽大淵獻,凡十年。 高皇后 高后元年(甲寅,公元前一八七年) 1 冬,太后議欲立諸呂為王,問右丞相陵。陵曰:「高帝刑白馬盟曰:『非劉氏而王,天下共擊之。』今王呂氏,非約也。」太后不說,問左丞相平、太尉勃,對曰:「高帝定天下,王子弟;今太后稱制,王諸呂,無所不可。」太后喜,罷朝。王陵讓陳平、絳侯曰:「始與高帝啑血盟,諸君不在邪?今高帝崩,太后女主,欲王呂氏;諸君縱欲阿意背約,何面目見高帝於地下乎?」陳平、降侯曰:「於今,面折廷爭,臣不如君;全社稷,定劉氏之後,君亦不如臣。」陵無以應之。十一月,甲子,太后以王陵為帝太傅,實奪之相權。陵遂病免歸。 乃以左丞相平為右丞相,以辟陽侯審食其為左丞相,不治事,令監宮中,如郎中令。食其故得幸於太后,公卿皆因而決事。 太后怨趙堯為趙隱王謀,乃抵堯罪。 上黨守任敖嘗為沛獄吏,有德於太后,乃以為御史大夫。 太后又追尊其父臨泗侯呂公為宣王,兄周呂令武侯澤為悼武王,欲以王諸呂為漸。 2 春,正月,除三族罪、妖言令。 3 夏,四月,魯元公主薨。封公主子張偃為魯王,謚公主曰魯元太后。 4 辛卯,封所名孝惠子山為襄城侯,朝為軹侯,武為壺關侯。 太后欲王呂氏,乃先立所名孝惠子強為淮陽王,不疑為恆山王;使大謁者張釋風大臣。 |
現代日本語訳:高皇后元年(甲寅の歳、紀元前187年) その後左丞相・陳平が右丞相となり、辟陽侯・審食其(しんいき)が左丞相となった。もっとも彼には行政実務を与えず宮中の監察役として郎中令と同等の権限を付与した。かねてより太后寵愛を受ける食其に対し公卿たちは事ごとに相談して決裁を得た。 趙堯がかつて劉如意(後の趙隠王)擁護策を進めたことを恨む呂后は、彼に罪状を着せ処罰した。
解説:■ 権力基盤強化の構図 ■ 諸呂優遇政策の本質 ■ 法制度調整の意図 ■ 歴史的意義 Translation took 2373.5 seconds. |
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| 大臣乃請立悼武王長子酈侯台為呂王,割齊之濟南郡為呂國。 5 五月,丙申,趙王宮叢台災。 6 秋,桃、李華。 高后二年(乙卯,公元前一八六年) 1 冬,十一月,呂肅王台薨。 2 春,正月,乙卯,地震;羌道、武都道山崩。 3 夏,五月,丙申,封楚元王子郢客為上邳侯,齊悼惠王子章為朱虛侯,令入宿衛,又以呂祿女妻章。 4 六月,丙戌晦,日有食之。 5 秋,七月,恆山哀王不疑薨。 6 行八銖錢。 7 癸丑,立襄成侯山為恆山王,更名義。 高后三年(丙辰,公元前一八五年) 1 夏,江水、漢水溢,流四千餘家。 2 秋,星晝見。 3 伊水、洛水溢,流千六百餘家。汝水溢,流八百餘家。 高后四年(丁巳,公元前一八四年) 1 春,二月,癸未,立所名孝惠子太為昌平侯。 2 夏,四月,丙申,太后封女弟嬃為臨光侯。 3 少帝浸長,自知非皇后子,乃出言曰:「后安能殺吾母而名我?我壯,即為變!」太后聞之,幽之永巷中,言帝病,左右莫得見。太后語群臣曰:「今皇帝病久不已,失惑昏亂,不能繼嗣治天下;其代之。」群臣皆頓首言:「皇太后為天下齊民計,所以安宗廟、社稷甚深。群臣頓首奉詔。」遂廢帝,幽殺之。五月,丙辰,立恆山王義為帝,更名曰弘,不稱元年,以太后制天下事故也。 |
現代日本語訳:大臣は悼武王の長子である酈侯・呂台を推挙し、呂王として立てるよう請い、斉国の済南郡を割いて呂国とした。 5月丙申の日、趙王宮において叢台が火災に見舞われた。 秋、桃と李が開花した。 高后二年(乙卯年、紀元前186年) 冬11月、呂粛王・呂台が薨去した。 春正月乙卯の日、地震発生。羌道および武都道で山崩れがあった。 夏5月丙申の日、楚元王の子である郢客を上邳侯に、斉悼恵王の子である章を朱虚侯に封じた。彼らを宮中警備にあたらせるとともに、呂禄の娘を章に娶わせた。 6月丙戌晦(月末)、日食が発生した。 秋7月、恒山哀王・不疑が薨去した。 八銖銭の発行開始。 癸丑の日、襄成侯・山を立てて恒山王とし、名を義に改めさせた。 高后三年(丙辰年、紀元前185年) 夏、長江と漢水が氾濫。4000戸以上が流された。 秋、昼間に星が見えた。 伊水・洛水が氾濫して1600戸余り、汝水の洪水では800戸あまりが流出した。 高后四年(丁巳年、紀元前184年) 春2月癸未の日、「孝恵帝の子」と称する太を昌平侯に封じた。 夏4月丙申の日、太后は妹・嬃を臨光侯に封じた。 少帝が成長し、自ら皇后の実子ではないことを知るや「母后はなぜ我が生母を殺して私を養子としたのか? 成人したら必ず報復する」と発言。太后はこの言葉を知り永巷宮に幽閉。「皇帝病臥中」として側近にも面会禁止とした上で群臣へ詔勅:「帝の病状回復せず、政務不能。代替措置が必要である」。群臣は平伏して「皇太后こそ天下万民と宗廟安泰を守るお方なり」と奉承し、帝位廃止に同意した。ついに少帝は獄中殺害された。 5月丙辰の日、恒山王・義(劉弘)が皇帝に即位。「元年」とは記さず、太后による執政継続を明示した。 訳注解説:
(※翻訳底本:中華書局版『資治通鑑』胡三省注、紀年方式は日本学界の慣例に従い漢数字で統一) Translation took 900.7 seconds. |
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| 以軹侯朝為恆山王。 4 是歲,以平陽侯曹窋為御史大夫。 5 有司請禁南越關市、鐵器。南越王佗曰:「高帝立我,通使物。今高后聽讒臣,別異蠻夷,隔絕器物,此必長沙王計,欲倚中國擊滅南越而並王之,自為功也。」 高后五年(戊午,公元前一八三年) 1 春,佗自稱南越武帝,發兵攻長沙,敗數縣而去。 2 秋,八月,淮陽懷王強薨,以壺關侯武為淮陽王。 3 九月,發河東、上黨騎屯北地。 4 初令戍卒歲更。 高后六年(己未,公元前一八二年) 1 冬,十月,太后以呂王嘉居處驕恣,廢之。十一月,立肅王弟產為呂王。 2 春,星晝見。 3 夏,四月,丁酉,赦天下。 4 封朱虛侯章弟興居為東牟侯,亦入宿衛。 5 匈奴寇狄道,攻阿陽。 6 行五分錢。 7 宣平侯張敖卒,賜謚曰魯元王。 高后七年(庚申,公元前一八一年) 1 冬,十二月,匈奴寇狄道,略二千餘人。 2 春,正月,太后召趙幽王友。友以諸呂女為后,弗愛,愛他姬。諸呂女怒,去,讒之於太后曰:「王言『呂氏安得王?太后百歲後,吾必擊之。』」太后以故召趙王,趙王至,置邸,不得見,令衛圍守之,弗與食;其群臣或竊饋,輒捕論之。丁丑,趙王餓死,以民禮葬之長安民塚次。 3 己丑,日食,晝晦。太后惡之,謂左右曰:「此為我也!」 4 二月,徙梁王恢為趙王,呂王產為梁王。 |
現代日本語訳(口語体)軹侯の劉朝を恆山王とした。 同年、平陽侯の曹窋を御史大夫に任命した。 役人が南越との関市と鉄器取引を禁止するよう上奏した。これに対し南越王・趙佗は言った。「高祖皇帝が私を立てたのは交易を通じるためだ。今、呂后が讒言する臣下の言葉に従い蛮夷を差別して物資を遮断するとは、これは長沙王の策略であり中国(漢王朝)の力を借りて南越を滅ぼし自らその領土を併合しようとするものだ」 高后五年(戊午、紀元前183年) 春、趙佗は自ら「南越武帝」と称し、兵を挙げ長沙を攻撃。数県を陥落させて撤退した。 秋八月、淮陽懐王・劉強が薨去。壺関侯の劉武を淮陽王に封じた。 九月、河東郡と上党郡の騎兵を動員し北地郡に駐屯させた。 この年初めて戌卒(辺境守備兵)を毎年交代させる制度を実施。 高后六年(己未、紀元前182年) 冬十月、呂太后は呂王・劉嘉が驕慢で勝手気ままな振る舞いをしたため廃位。十一月に粛王の弟である呂産を新たに呂王とした。 春、昼間に星が見える異変があった(彗星出現)。 夏四月丁酉日、天下に恩赦を行った。 朱虚侯・劉章の弟である劉興居を東牟侯に封じ、これも宿衛(宮廷警備)につかせた。 匈奴が狄道を侵攻し阿陽を襲撃した。 新貨幣「五分銭」の発行を開始。 宣平侯・張敖が死去。諡号は魯元王とされた。 高后七年(庚申、紀元前181年) 冬十二月、匈奴が狄道に侵入し二千余人を拉致した。 春正月、呂太后が趙幽王・劉友を召還。劉友は諸呂の娘を王妃としたが愛情を示さず他の側室を寵愛したため、怒った王妃は都へ戻り讒言した「王が『呂氏などどうして王になれる?太后崩御後は必ず討つ』と言いました」。これを聞いた太后は趙王を召還し邸宅に監禁。面会も食事も与えず、臣下が密かに食物を持ち込めば逮捕処刑した。丁丑日、劉友は餓死。庶民の葬儀で長安の民間墓地へ埋葬された。 己丑日、日食発生により昼間が暗闇に。太后はこれを嫌い「これは私への警告だ」と側近に語った。 二月、梁王・劉恢を趙王に移封し呂産(呂王)を梁王とした。 解説■ 時代背景の特徴 - 「諸呂専横期」:呂后による外戚政治が頂点に達した時期。皇族や功臣は弾圧され、呂一族のみが要職・王位を得る状況。 - 匈奴問題と南越反乱:漢王朝の支配力低下を露呈し、趙佗の「武帝」自称(冊封体制への挑戦)や匈奴の略奪拡大が顕著化。 ■ 制度変更の意義 ▶戌卒歳更制導入 - 従来は兵士が半永続的に辺境に駐屯していた弊害(現地定着による戦力低下、不満蓄積)を解消。 - 徴兵期間を1年に限定した画期的改革で、後代の兵農分離政策へ影響。 ■ 人物関係図的考察
■ 呂后権力の本質 - 物理的暴力:諸侯王の飢餓刑は「見せしめ」として計算されたテロル - 超自然的畏怖:「日食=天罰説」を自己言及的に利用する神権政治的手法 ※『資治通鑑』原典では呂后批判が基調だが、現代視点では中国史上初の女性統治者による「非常時体制」と評価できる側面も。 Translation took 997.9 seconds. |
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| 梁王不之國,為帝太傅。 5 秋,七月,丁巳,立平昌侯太為濟川王。 6 呂嬃女為將軍、營陵侯劉澤妻。澤者,高祖從祖昆弟也。齊人田生為之說大謁者張卿曰:「諸呂之王也,諸大臣未大服。今營陵侯澤,諸劉最長;今卿言太后王之,呂氏王益固矣。」張卿入言太后,太后然之,乃割齊之琅邪郡封澤為琅邪王。 7 趙王恢之徙趙,心懷不樂。太后以呂產女為王后,王后從官皆諸呂,擅權,微伺趙王,趙王不得自恣。王有所愛姬,王后使人鴆殺之。六月,王不勝悲憤,自殺。太后聞之,以為王用婦人棄宗廟禮,廢其嗣。 8 是時,諸呂擅權用事。朱虛侯章,年二十,有氣力,忿劉氏不得職。嘗入侍太后燕飲,太后令章為酒吏。章自請曰:「臣將種也,請得以軍法行酒。」太后曰:「可。」酒酣,章請為《耕田歌》,太后許之。章曰:「深耕穊種,立苗欲疏;非其種者,鋤而去之!」太后默然。頃之,諸呂有一人醉,亡酒,章追,拔劍斬之而還,報曰:「有亡酒一人,臣謹行法斬之!」太后左右皆大驚,業已許其軍法,無以罪也,因罷。自是之後,諸呂憚朱虛侯,雖大臣皆依朱虛侯,劉氏為益強。 陳平患諸呂,力不能制,恐禍及己。嘗燕居深念,陸賈往,直入坐,而陳丞相不見。陸生曰:「何念之深也!」陳平曰:「生揣我何念?」陸生曰:「足下極富貴,無欲矣;然有憂念,不過患諸呂、少主耳。 |
現代日本語訳:梁王は封国へ赴かず、皇帝の太傅となった。
註解:
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| 」陳平曰:「然!為之奈何?」陸生曰:「天下安,注意相;天下危,注意將。將相和調,則士豫附;天下雖有變,權不分。為社稷計,在兩君掌握耳。臣常欲謂太尉絳侯,絳侯與我戲,易吾言。君何不交歡太尉,深相結?」因為陳平畫呂氏數事。陳平用其計,乃以五百金為絳侯壽,厚具樂飲;太尉報亦如之。兩人深相結,呂氏謀益衰。陳平以奴婢百人、車馬五十乘、錢五百萬遺陸生為飲食費。 9 太后使使告代王,欲徙王趙。代王謝之,願守代邊。太后乃立兄子呂祿為趙王,追尊祿父建成康侯釋之為趙昭王。 10 九月,燕靈王建薨,有美人子,太后使人殺之。國除。 11 遣隆慮侯周灶將兵擊南越。 高后八年(辛酉,公元前一八零年) 1 冬,十月,辛丑,立呂肅王子東平侯通為燕王,封通弟莊為東平侯。 2 三月,太后祓,還,過軹道,見物如蒼犬,撠太后掖,忽不復見。卜之,云「趙王如意為祟」。太后遂病掖傷。 太后為外孫魯王偃年少孤弱,夏,四月,丁酉,封張敖前姬兩子侈為新都侯,壽為樂昌侯,以輔魯王。又封中大謁者張釋為建陵侯,以其勸王諸呂,賞之也。 3 江、漢水溢,流萬餘家。 4 秋,七月,太后病甚,乃令趙王祿為上將軍,居北軍;呂王產居南軍。太后誡產、祿曰:「呂氏之王,大臣弗平。我即崩,帝年少,大臣恐為變。 |
現代日本語訳:陳平が言った。「なるほど!ではどうすればよいのか?」陸賈は答えた。「天下が安定している時には宰相に注目し、天下が危うい時には将軍に注目すべきです。将軍と宰相の関係が調和していれば、兵士たちも自然につき従います。たとえ天下に変事があっても、権力は分散しません。国家を思えば、その鍵はお二人(周勃と陳平)が握っているのです。私は以前から太尉である絳侯(周勃)に申し上げようと思っていましたが、彼は冗談めかして私の言葉を軽んじます。どうかあなたから進んで太尉と親交を結び、深く連携されてはいかがでしょうか?」そして陸賈は陳平のために呂氏一族の問題点について策略を示した。陳平はこの献策を受け入れ、五百金(貨幣単位)を用いて絳侯の長寿を祝い、盛大な宴を催した。太尉もこれに応えて同様の礼を行った。こうして二人は深く結びつき、呂氏一族の陰謀は次第に衰退していった。陳平は奴婢百人・車馬五十乗(戦車単位)・銭五百万を陸賈に贈り、宴会費用とした。 9 太后(呂后)は使者を代王のもとへ遣わし、趙への移封を打診した。代王はこれを辞退し、「代の辺境を守りたい」と申し出たため、太后は兄の子である呂禄を趙王に立て、その父・建成康侯(呂釈之)を追尊して趙昭王とした。 10 九月、燕霊王(劉建)が薨去した。彼には寵姫の産んだ男子がいたが、太后はこれを殺害させたため、燕国は除かれた。 11 隆慮侯・周灶に兵を率いさせて南越を攻撃させた。 高后八年(辛酉紀元/紀元前180年) 1 冬十月辛丑の日、呂粛王(呂台)の子である東平侯・通を燕王とし、その弟・荘を東平侯に封じた。 2 三月、太后が禊祓いの儀式から帰る途中で軹道を通りかかった時、灰色の犬のような化物が突然現れ、太后の脇下を殴って消えた。占ったところ「趙王・如意(恵帝の子)の怨霊の祟り」と出たため、太后は脇下の傷で病に伏した。 また太后は外孫である魯王・偃が幼く孤弱なことを憂い、夏四月丁酉の日、張敖(前趙王)の先妻の二人の子を封じた──侈を新都侯とし、寿を楽昌侯として魯王を補佐させた。さらに中大謁者・張釈を建陵侯に取り立てたのは、彼が呂氏一族を諸侯王に推挙した功績への恩賞であった。 3 長江と漢水が氾濫し、一万戸以上が流された。 4 秋七月、太后の病状が悪化すると、趙王・禄を上将軍として北軍を掌握させ、呂王・産には南軍を統率させた。そして二人に戒めて言った。「我ら呂氏が諸侯王となったことに大臣たちは不満だ。私が崩じれば皇帝(少帝)は幼く、大臣たちが反乱を起こす恐れがある──」 訳注解説:■ 歴史的固有名詞の処理 - 「太尉絳侯」→「太尉である絳侯(周勃)」:当時の最高軍事職"太尉"と爵位名"絳侯"に加え、実名(周勃)を括弧補記して読解支援。 - 呂氏関連の複雑な関係性(例:呂祿は呂后の甥、呂釈之は兄)については系図的理解が必要だが、本文情報範囲内で親族呼称「兄の子」等を用いて簡潔化。 ■ 官僚制度・軍事用語 - 「北軍」「南軍」→ 当時の首都防衛軍を東西ではなく南北に分掌した体制。注釈無しでも現代日本語として成立するため、補足説明は最小限。 - 「中大謁者」→ 皇帝側近の宣伝官職。音読み称号「ちゅうだいえつじゃ」では理解困難なため、「宮中取次役」等への置換も検討したが、固有名詞として「中大謁者」を保持し付随説明(張釈の行動内容)から機能推測可能と判断。 ■ 怪異現象描写 - 「物如蒼犬」→ 直訳「青灰色の犬のような物体」では妖怪的ニュアンスが薄れるため、「化物」「妖犬」等も検討した結果、実体不明性を重視して「灰色の犬のような化物」と表現。 ■ 政治的策略描写 - 「深相結」の重複表現→ 初出は「深く連携し」、再出時は「深く結びつき」とバリエーション化。陸賈が仲介した将相和解劇をストーリー性持って描出するため動詞選択に工夫。 ■ 紀年表記 - 元号「高后八年」→ 呂后執政8年目であることを明示。「辛酉(しんゆ)」干支と西暦前180年を併記。 - 「夏四月丁酉」等の日付→ 当時の太陰太陽暦だが、現代読者に「夏4月○日」程度の認識で十分と判断し、干支解説は割愛。 ■ 文化概念 - 「為絳侯寿」→ 単なる贈答ではなく政略的儀礼。日本戦国時代の「音信」に近いが、「長寿を祝う宴席(饗応)」として再構築。 - 「祓」宗教儀式→ 当時の除災祭祀。現代神道の「禊ぎ」に通じるため「禊祓い」と表現。 ■ 削除判断 - 呂后遺言部分末尾で文意完結せず(大臣恐為変→以降欠落)。『資治通鑑』原典では続きがあるが、提示テキスト範囲内で自然な切れ目となるよう「反乱を起こす恐れがある──」と中断処理。 この訳業では司馬光の史書が持つ緊迫した政争描写を損なわぬよう、「将相和調」「呂氏謀益衰」等の名文句はリズムを重視して直訳的再現。同時に現代読者が古代中国制度を類推可能な最小限の補足を施す方針とした。特に陸賈の台詞「天下安,注意相...」は対句美を生かしつつ、権力構造の本質を伝えるべく平明な語彙で再構築している。 | |||||||||||||||
| 必據兵衛宮,慎毋送喪,為人所制!」辛巳,太后崩,遺詔:大赦天下,以呂王產為相國,以呂祿女為帝后。高後已葬,以左丞相審食其為帝太傅。 5 諸呂欲為亂,畏大臣絳、灌等,未敢發。朱虛侯以呂祿女為婦,故知其謀,乃陰令人告其兄齊王,欲令發兵西,朱虛侯、東牟侯為內應,以誅諸呂,立齊王為帝。齊王乃與其舅駟鈞、郎中令祝午、中尉魏勃陰謀發兵。齊相召平弗聽。八月,丙午,齊王欲使人誅相。相聞之,乃發卒衛王宮。魏勃紿召平曰:「王欲發兵,非有漢虎符驗也。而相君圍王固善,勃請為君將兵衛王。」召平信之。勃既將兵,遂圍相府,召平自殺。於是齊王以駟鈞為相,魏勃為將軍,祝午為內史,悉發國中兵。 使祝午東詐琅邪王曰:「呂氏作亂,齊王發兵欲西誅之。齊王自以年少,不習兵革之事,願舉國委大王。大王,自高帝將也。請大王幸之臨菑,見齊王計事。」琅邪王信之,西馳見齊王。齊王因留琅邪王,而使祝午盡發琅邪國兵,並將之。琅邪王說齊王曰:「大王,高皇帝適長孫也,當立。今諸大臣狐疑未有所定,而澤於劉氏最為長年,大臣固待澤決計。今大王留臣,無為也,不如使我入關計事。」齊王以為然,乃益具車送琅邪王。琅邪王既行,齊遂舉兵西攻濟南。遺諸侯王書,陳諸呂之罪,欲舉兵誅之。 相國呂產等聞之,乃遣穎陰侯灌嬰將兵擊之。 |
現代日本語訳:必ず兵を率いて宮殿を守備せよ、決して喪に赴くことを軽んじてはならない、他人に制圧されるな!」辛巳の日、太后が崩御し、遺詔には「天下に大赦を行い、呂王産を相國とし、呂祿の娘を帝后とする」と記されていた。高后の葬儀終了後、左丞相・審食其(しんえきき)を皇帝の太傅とした。 5 諸呂は乱を起こそうとしたが、大臣である絳侯や灌嬰らを恐れ、敢えて行動に移せなかった。朱虛侯(劉章)は呂祿の娘を妻としていたため彼らの陰謀を知り、密かに使者を兄・斉王のもとに遣わし「兵を起こして西方へ進軍させてほしい。自分と東牟侯が内応し、諸呂を誅殺した上で斉王を皇帝に擁立する」と伝えた。これを受け斉王は叔父の駟鈞(しきん)、郎中令・祝午、中尉・魏勃らと密かに兵を起こす計画を練った。しかし斉国の宰相・召平がこれに従わないため、八月丙午の日、斉王は召平誅殺を企てた。これを察知した召平は逆に兵士を動員して王宮を包囲した。魏勃が召平を欺いて言うには「王が発兵するのは漢朝の虎符(兵符)がない限り無効です。宰相閣下が王宮を固守されるのは至当ですが、私めに代わって兵を率いさせてください」と。召平はこれを信じたため、魏勃は兵権を得るや即座に宰相府を包囲し、召平は自害した。こうして斉王は駟鈞を新宰相に任命し、魏勃を将軍、祝午を内史として国中の全兵力を動員した。 続いて祝午を使者と偽り琅邪王(劉沢)のもとに遣わす:「呂氏が乱を起こしました。斉王は兵を率い西進してこれを討伐しようとしておられます。しかし若年のため軍事に不慣れなことから、全軍の指揮権を大王へ委ねたいと願っております。そもそも大王は高皇帝(劉邦)直々の将軍です。どうか臨菑までご足労いただき、斉王と共に戦略をご協議ください」。琅邪王がこれを信じて西進すると、斉王は彼を拘束し、祝午を使わして琅邪国の全兵力を接収・指揮させた。捕らえられた琅邪王は逆に斉王へ提案する:「大王こそ高皇帝の嫡長孫であり即位すべき方です。今や重臣たちも決断できず迷っておりますが、私(劉沢)は劉氏一族で最年長ゆえ、彼らも決裁を待っています。ここに留め置くより、関中へ向かわせて情勢を見極めるのが得策でしょう」。これを聞き入れた斉王は車両を増やして琅邪王を見送ったが、その出発直後に即座に挙兵し西方の済南を攻撃。諸侯王へ書簡を送り「呂氏一門の罪状」を列挙し、共同討伐を呼びかけた。 相國・呂産らはこの報を受け取ると、潁陰侯・灌嬰(えいんこう かんえい)に軍勢を与えて迎撃に向かわせた。 解説:
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| 灌嬰至滎陽,謀曰:「諸呂擁兵關中,欲危劉氏而自立。今我破齊還報,此益呂氏之資也。」乃留屯滎陽,使使諭齊王及諸侯與連和,以待呂氏變,共誅之。齊王聞之,乃還兵西界待約。 呂祿、呂產欲作亂,內憚絳侯、朱虛等,外畏齊、楚兵,又恐灌嬰畔之。欲待灌嬰兵與齊合而發,猶豫未決。 當是時,濟川王太、淮陽王武、常山王朝及魯王張偃皆年少,未之國,居長安;趙王祿、梁王產各將兵居南、北軍。皆呂氏之人也。列侯群臣莫自堅其命。 太尉絳侯勃不得主兵。曲周侯酈商老病,其子寄與呂祿善。絳侯乃與丞相陳平謀,使人劫酈商,令其子寄往紿說呂祿曰:「高帝與呂后共定天下,劉氏所立九王,呂氏所立三王,皆大臣之議,事已佈告諸侯,皆以為宜。今太后崩,帝少,而足下佩趙王印,不急之國守籓,乃為上將,將兵留此,為大臣諸侯所疑。足下何不歸將印,以兵屬太尉,請梁王歸相國印,與大臣盟而之國。齊兵必罷,大臣得安,足下高枕而王千里,此萬世之利也。」呂祿信然其計,欲以兵屬太尉。使人報呂產及諸呂老人,或以為便,或曰不便,計猶豫未有所決。 呂祿信酈寄,時與出遊獵,過其姑呂嬃。嬃大怒曰:「若為將而棄軍,呂氏今無處矣!」乃悉出珠玉、寶器散堂下,曰:「毋為他人守也!」 九月,庚申旦,平陽侯窋行御史大夫事,見相國產計事。 |
現代語訳(『資治通鑑』より)灌嬰は滎陽に到着し、こう謀議しました。「呂氏一族が関中で軍勢を掌握し、劉氏王朝の転覆と簒奪を企んでいる。今私は斉平定から帰還したが、この報告はかえって呂氏の権威強化に利用されるだろう」。そこで滎陽に駐屯を続け、使者を通じて斉王や諸侯に同盟を呼びかけました。目的は呂氏の動向を見極め、反乱発生時には共同で討伐するためでした。これを知った斉王は軍勢を西方国境へ撤退させ、合流の機会を伺いました。 呂禄と呂産は反乱計画を持っていましたが、 - 朝廷内では周勃や劉章らを警戒 - 外部からは斉・楚連合軍に脅威を感じ - 灌嬰の離反も懸念材料でした 彼らは灌嬰軍と斉軍が合流するまで決起を遅らせようと逡巡し、結論が出ません。 当時の勢力図:
列侯や臣下たちは生命の保証すら不安な状況にありました。太尉・周勃には実質的な兵権がなく、老齢の酈商(曲周侯)は子息の酈寄を通じて呂禄と親交を深めていました。 ここで周勃と丞相陳平が策謀: 1. 酈商を人質に確保 2. その息子・酈寄に呂禄へ説得工作を指示 酈寄は呂禄へこう進言しました。 「高帝(劉邦)と呂后が共同で天下平定後、劉氏から九王、呂氏から三王を立てたのは重臣たちの合議による公式決定でした。これには諸侯も同意済みです。ところが今や太后崩御・皇帝幼少の中、貴殿(趙王)は封国へ赴かず将軍印を佩び兵権を掌握しているため、重臣諸侯から疑念を持たれています。解決策として: - 将軍印を返上し太尉(周勃)に指揮権移譲 - 梁王(呂産)には相国印返還を要請 - 大臣たちと盟約後、各自封国へ帰還 こうすれば斉軍は撤退し重臣も安心。貴殿は領地で安泰に王位を保てます」 呂禄はこの提案を受け入れ兵権譲渡を決めましたが、呂産や長老らに相談したところ賛否両論となり結論が出ませんでした。 ある日、狩猟中の呂禄が姑・呂嬃(樊噲未亡人)宅へ寄ると、彼女は激怒して叫びました。 「将軍たる者が軍隊を放棄するとは! これで呂氏の命運は尽きた!」 邸内の珍宝を庭中に投げ散らしながら「他人のために保管している場合ではない!」と宣言しました。 九月庚申日早朝、平陽侯曹窋(御史大夫代理)が相国・呂産への政策協議を求めて訪れました。 注釈解説権力構造の要点
酈寄説得工作の核心
呂嬃怒声の歴史的意味
結末への伏線本場面直後に発生: 1. 周勃による北軍掌握 → 2. 呂産暗殺 → 3. 呂氏一族殲滅 → 4. 文帝擁立の端緒形成 (注:原文が漢文である特性を踏まえ、主語補完・時制調整等を施した自然な現代日本語訳としました。固有名詞は史書表記を保持し、官職名も当時の制度に則って再現しています) Translation took 2334.7 seconds. |
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| 郎中令賈壽使從齊來,因數產曰:「王不早之國,今雖欲行,尚可得邪!」具以灌嬰與齊、楚合從欲誅諸呂告產,且趣產急入宮。平陽侯頗聞其語,馳告丞相、太尉。 太尉欲入北軍,不得入。襄平侯紀通尚符節,乃令持節矯內太尉北軍。太尉復令酈寄與典客劉揭先說呂祿曰:「帝使太尉守北軍,欲足下之國。急歸將印辭去。不然,禍且起。」呂祿以為酈況不欺己,遂解印屬典客,而以兵授太尉。太尉至軍,呂祿已去。太尉入軍門,行令軍中曰:「為呂氏右袒,為劉氏左袒!」軍中皆左袒,太尉遂將北軍。然尚有南軍。丞相平乃召朱虛侯章佐太尉,太尉令朱虛侯監軍門,令平陽侯告衛尉:「毋入相國產殿門。」 呂產不知呂祿已去北軍,乃入未央宮,欲為亂。至殿門,弗得入,徘徊往來。平陽侯恐弗勝,馳語太尉。太尉尚恐不勝諸呂,未敢公言誅之,乃謂朱虛侯曰:「急入宮衛帝!」朱虛侯請卒,太尉予卒千餘人。入未央宮門,見產廷中。日哺時,遂擊產,產走。天風大起,以故其從官亂,莫敢鬬,逐產,殺之郎中府吏廁中。朱虛侯已殺產,帝命謁者持節勞朱虛侯。朱虛侯欲奪其節,謁者不肯。朱虛侯則從與載,因節信馳走,斬長樂衛尉呂更始。還,馳入北軍報太尉。太尉起,拜賀朱虛侯曰:「所患獨呂產。今已誅,天下定矣!」遂遣人分部悉捕諸呂男女,無少長皆斬之。 |
現代語訳(口語体)郎中令の賈寿が斉国からの使者として到着し、呂産を責めて言った。「王は早く封地に赴こうとしない。今になって行きたくても、もう間に合うと思うのか?」そして灌嬰が斉・楚らと連合して諸呂誅殺を謀っていることを詳細に伝え、さらに呂産に急いで宮中に入るよう促した。平陽侯(曹窋)はこの会話の一部を聞き、丞相(陳平)と太尉(周勃)のもとに駆けつけて報告した。 太尉が北軍兵営に入ろうとしたが阻まれた。襄平侯紀通が皇帝の符節を管理していたので、偽りの命令で太尉に北軍への入営を許可させた。太尉は酈寄と典客劉揭を使い、先に呂禄のもとへ行かせて言わせた。「天子が太尉に北軍指揮権を与えたのは、貴方が封地に戻るためだ。将軍の印綬を返上して早く立ち去れ。さもなければ災いが起こる」。呂禄は酈寄(字は況)が自分を騙していないと思い、すぐに印綬を典客に渡し兵権を太尉に譲った。しかし太尉が到着する前に呂禄は立ち去っていた。 太尉が軍営に入ると全軍に対し命令した。「呂氏支持なら右肩を露わにせよ!劉氏支持なら左肩を露わにせよ!」兵士たちは一斉に左肩を見せたため、太尉は北軍の指揮権を得た。だが南軍はまだ残っていた。 丞相陳平は朱虚侯(劉章)を呼び寄せて太尉を補佐させた。太尉は朱虚侯に宮門警備を命じるとともに、平陽侯を通じて衛尉へ「相国呂産の殿中への入内を許すな」と伝えさせた。 呂産は呂禄が北軍から離れたことを知らず未央宮に入り謀叛を企てた。しかし殿門で阻まれ行き来するばかりだった。平陽侯は形勢不利を恐れ太尉に急報した。太尉も諸呂の勢力を警戒し公然と誅殺命令を出せず、朱虚侯へ「すぐ宮中に入り天子を守護せよ」と指示した。朱虚侯が兵卒を求めると千余人を与えた。 未央宮門から侵入した朱虚侯は殿廷で呂産を見つけた。日暮れ時だったので即座に攻撃を仕掛けると、呂産は逃走した。激しい旋風が起こり付き従っていた者たちも混乱し抵抗できず、追い詰めた末に郎中令官舎の便所で殺害した。 朱虚侯が呂産を誅すると天子(少帝)が謁者を使わして慰労しようとした。しかし朱虚侯は符節を奪おうとし拒まれると、強引に同乗してその権威を利用し駆け続け長楽宮衛尉の呂更始も斬殺した。 戻った朱虚侯が北軍へ報告すると太尉は起立して祝賀した。「最大の禍根だった呂産を既に討ち果たした。これで天下は平定された!」直ちに配下を派遣し諸呂一族を男女問わず全員捕らえ、幼子も含めて皆殺しに処した。 解説(歴史的意義)
※注:現代語訳にあたり『漢書』周勃伝及び『史記』呂太后本紀の異同を参照しつつ、資治通鑑本文に忠実な口語化を実施。軍事用語(如「衛尉」「符節」)は必要最小限の注釈的表現で補った。 Translation took 1199.1 seconds. |
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| 辛酉,捕斬呂祿而笞殺呂嬃,使人誅燕王呂通而廢魯王張偃。戊辰,徙濟川王王梁。遣朱虛侯章以誅諸呂事告齊王,令罷兵。 灌嬰在滎陽,聞魏勃本教齊王舉兵,使使召魏勃至,責問之。勃曰:「失火之家,豈暇先言丈人而後救火乎!」因退立,股戰而栗,恐不能言者,終無他語。灌將軍熟視笑曰:「人謂魏勃勇,妄庸人耳,何能為乎!」乃罷魏勃。灌嬰兵亦罷滎陽歸。 班固贊曰:孝文時,天下以酈寄為賣友。夫賣友者,謂見利而忘義也。若寄父為功臣而又執劫,雖摧呂祿以安社稷,誼存君親可也。 6 諸大臣相與陰謀曰:「少帝及梁、淮陽、恆山王,皆非真孝惠子也。呂后以計詐名他人子,殺其母養後宮,令孝惠子之,立以為後及諸王,以強呂氏。今皆已夷滅諸呂,而所立即長,用事,吾屬無類矣。不如視諸王最賢者立之。」或言:「齊王,高帝長孫,可立也。」大臣皆曰:「呂氏以外家惡而幾危宗廟,亂功臣。今齊王舅駟鈞,虎而冠。即立齊王,復為呂氏矣。代王方今高帝見子最長,仁孝寬厚,太后家薄氏謹良。且立長固順,況以仁孝聞天下乎!」乃相與共陰使人召代王。 代王問左右,郎中令張武等曰:「漢大臣皆故高帝時大將,習兵,多謀詐。此其屬意非止此也,特畏高帝、呂太后威耳。今已誅諸呂,新啑血京師,此以迎大王為名,實不可信。 |
現代日本語訳辛酉の日に呂禄を捕縛して斬首し、呂嬃は笞刑により処刑した。使者を派遣して燕王呂通を誅殺し、魯王張偃を廃位させた。戊辰の日には済川王を梁に移封した。朱虚侯章を使者として斉王のもとへ遣わし、諸呂討伐の経緯を報告するとともに撤兵を命じた。 滎陽駐屯中の灌嬰は、魏勃が斉王を唆して挙兵させた事実を知ると使者で召喚した。到着後詰問されると「火災発生の家では家長へ報告する暇などなく消火に走るのが当然です」と弁明し、退下すると両脚は震え慄え、恐怖から一言も発せぬ様子であったが結局弁解を続けなかった。灌嬰将軍は彼を見詰めた後に嘲笑して「世間では魏勃を勇者と呼ぶが凡庸な男に過ぎない」と言い放ち解放した。これにより灌嬰の軍隊も滎陽から撤退した。 班固(歴史家)による評:文帝時代、世人は酈寄を友売りと非難した。しかし真の裏切り者とは利益優先で道義を忘れる者の謂である。彼の場合、父が功臣でありながら呂氏に人質同然であった事情がある。たとえ呂禄を倒して国家安寧をもたらすためであれば君臣父子の大義において正当と言える。 諸大臣は密談し「少帝及び梁王・淮陽王・恆山王はいずれも孝恵皇帝実子ではない」と指摘した。「呂后が謀略で他人の子を偽装、生母殺害後宮養育させ『皇子』として擁立。これにより呂氏強化を図ったのだ。今や諸呂は殲滅されたが成長後に権力を握れば我々大臣全族は必ず抹殺される」。結論として「最も賢明な諸侯王から新帝を選ぶべきだ」となった。 ある者が「斉王(劉襄)は高祖皇帝の嫡長孫である。推戴すべし」と提案したが重臣たちは反論。「呂氏外戚による専横で宗廟も功臣も危機に瀕した前例がある。現に斉王の母舅・駟鈞は『虎冠』(暴虐な権力者)と呼ばれる人物だ。擁立すれば再び呂氏禍が起きよう」。 続けて代王(劉恒)を推す声が優勢となる。「当代において高祖実子中で最年長であり、仁孝寛厚の徳に加え薄太后一族は慎み深い家柄である。『長幼順序』にも適う上『天下に仁義名高い人物』として擁立こそ道理だ」。こうして密使を派遣し代王招聘が決定した。 代王(劉恒)が側近へ諮ると郎中令の張武らは警告する。「漢朝廷大臣たちは高祖時代から続く歴戦将軍ばかり。兵術・謀略に長ける彼らの真意は表向き以上だ。単なる先帝や呂太后への恐怖心で行動していただけである。今まさに諸呂殺戮の血生臭い都中で『大王迎え』と称するのは信用できない」。 解説
※注記:「現代日本語訳」では歴史叙述に不可欠な固有名詞は原典表記保持。紀日法「辛酉」「戊辰」等も干支のまま提示し、古文特有の助動詞(~ぬ・べし)を抑制した平易文体とした。 Translation took 2680.5 seconds. |
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| 願大王稱疾毋往,以觀其變。」中尉宋昌進曰:「群臣之議皆非也。夫秦失其政,諸侯、豪桀並起,人人自以為得之者以萬數,然卒踐天子之位者,劉氏也,天下絕望,一矣。高帝封王子弟,地犬牙相制,此所謂磐石之宗也,天下服其強,二矣。漢興,除秦苛政,約法令,施德惠,人人自安,難動搖,三矣。夫以呂太后之嚴,立諸呂為三王,擅權專制;然而太尉以一節入北軍一呼,士皆左袒為劉氏,叛諸呂,卒以滅之。此乃天授,非人力也。今大臣雖欲為變,百姓弗為使,其黨寧能專一邪?方今內有朱虛、東牟之親,外畏吳、楚、淮陽、琅邪、齊、代之強。方今高帝子,獨淮南王與大王。大王又長,賢聖仁孝聞於天下,故大臣因天下之心而欲迎立大王。大王勿疑也。」代王報太后計之。猶豫未定,卜之,兆得大橫。占曰:「大橫庚庚,余為天王,夏啟以光。」代王曰:「寡人固已為王矣,又何王?」卜人曰:「所謂天王者,乃天子也。」於是代王遣太后弟薄昭往見絳侯,絳侯等具為昭言所以迎立王意。薄昭還報曰:「信矣,無可疑者。」代王乃笑謂宋昌曰:「果如公言。」 乃命宋昌參乘,張武等六人乘傳,從詣長安。至高陵,休止,而使宋昌先馳之長安觀變。昌至渭橋,丞相以下皆迎。昌還報。代王馳至渭橋,群臣拜謁稱臣,代王下車答拜。 |
現代日本語訳「大王にはご病気と称して行かず、事態の推移を見守られるようお願いします。」これに対し中尉・宋昌が進言した。「群臣の意見は全て誤りでございます。秦が政治を失った際、諸侯や豪傑が一斉に立ち上がり、天子の位を得られると自認する者は数万に及びました。しかし最終的にその地位についたのは劉氏のみ。これが第一の理由です。高帝(劉邦)は子弟を王として封じ、領地を互いに噛み合わせるように配置されました。いわゆる『盤石のように堅固な宗族』であり、天下はその強さに服従しております。第二の理由でございます。漢王朝興隆後は秦の苛政を廃し、法令を簡素化し、徳恵を施したため、人々は安住して動揺させ難い。第三でございます。呂太后の厳しい統治下においてさえ、彼女が諸呂を三王に封じ専権を振るった際も、太尉(周勃)が兵符一つ持って北軍に入り一声かければ、兵士全員が左肩を露わにして劉氏支持を示し、諸呂に反逆して遂には滅ぼしました。これは天の授ける所であり、人の力ではございません。今たとえ大臣らが変事を企てても、民衆は従わず、彼らの一派だけが統一を保てましょうか? 内には朱虚侯・東牟侯といった血族が控え、外には呉・楚・淮陽・琅邪・斉・代の強国を畏怖しております。現在、高帝の子で残っているのは淮南王と大王のみ。大王は最年長であり、賢明で仁孝なる御名は天下に轟いております。故に大臣らが民衆の意思に沿って大王をお迎えしようとするのです。どうか疑念を抱かれませんように。」 代王(劉恒)は太后に相談したものの決断できず、占いを行うと「大横」の兆しが出た。卜者は言う。「『大横庚庚』とは、余が天王となることを示す。夏の啓のように光輝くであろう」。すると代王は「孤は既に王なのに、更なる王とは?」と問うと、卜者が答えた。「天王とは天子を指します。」そこで代王は太后の弟・薄昭を使者として絳侯(周勃)のもとに遣わす。絳侯らが迎え立てる理由を詳しく説明すると、薄昭は戻って「真実でございます」と報告した。代王は宋昌に向かって笑いながら言う。「卿の言葉通りであったな。」 こうして代王は宋昌に参乗(護衛兼補佐役)を命じ、張武ら六人を伝馬車に乗せて長安へ向かった。高陵まで来ると休息し、先に宋昌だけを長安へ走らせ情勢を見させた。渭橋で丞相以下全員が出迎えると知った宋昌が戻り報告する。代王は渭橋まで駆けつけると、群臣が跪いて臣下の礼を取ったため、代王も車から降りて答礼した。 注釈
(訳注:原文での"okurigana"不使用要請に基づき、送り仮名は最小限とした) Translation took 2440.4 seconds. |
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| 太尉勃進曰:「願請間。」宋昌曰:「所言公,公言之;所言私,王者無私。」太尉乃跪上天子璽、符。代王謝曰:「至代邸而議之。」 後九月,己酉晦,代王至長安,舍代邸,群臣從至邸。丞相陳平等皆再拜言曰:「子弘等皆非孝惠子,不當奉宗廟。大王,高帝長子,宜為嗣。願大王即天子位。」代王西鄉讓者三,南鄉讓者再,遂即天子位。群臣以禮次侍。 東牟侯興居曰:「誅呂氏,臣無功,請得除宮。」乃與太僕汝陰侯滕公入宮,前謂少帝曰:「足下非劉氏子,不當立!」乃顧麾左右執戟者掊兵罷去;有數人不肯去兵,宦者令張釋諭告,亦去兵。滕公乃召乘輿車載少帝出。少帝曰:「欲將我安之乎?」滕公曰:「出就舍。」舍少府。乃奉天子法駕迎代王於邸,報曰:「宮謹除。」代王即夕入未央宮。有謁者十人持戟衛端門,曰:「天子在也,足下何為者而入?」代王乃謂太尉。太尉往諭,謁者十人皆掊兵而去,代王遂入。夜,拜宋昌為衛將軍,鎮撫南北軍;以張武為郎中令,行殿中。有司分部誅滅梁、淮陽、恆山王及少帝於邸。文帝還坐前殿,夜,下詔書赦天下。 太宗孝文皇帝上 文帝前元年(壬戌,公元前一七九年) 1 冬,十月,庚戌,徙琅邪王澤為燕王;封趙幽王子遂為趙王。 2 陳平謝病。上問之,平曰:「高祖時,勃功不如臣,及誅諸呂,臣功亦不如勃,願以右丞相讓勃。 |
現代日本語訳太尉周勃が進み出て言った。「ひそかに申し上げたいことがございます」。宋昌は答えた。「公のことであれば公然と述べよ。私事であれば、王者に私事などない」。 そこで太尉は跪いて天子の玉璽と兵符を捧げた。代王(後の文帝)は辞退して言った。「代邸で議論しよう」。 同年閏九月己酉晦日、代王は長安に到着し代邸に入ると、百官もこれに従って邸宅へ集まった。 丞相陳平らが再拝して進言した。「子弘(少帝)らは孝恵皇帝の実子ではなく宗廟を継ぐ資格なし。大王(劉恒)こそ高祖最年長の皇子であり正当な後継者です」。代王は西向きに三度辞退し、南向きに二度辞退した後に即位を受け入れた。 群臣は礼法に従って序列順に伺候した。 東牟侯劉興居が進言。「呂氏誅伐で功績のない私に宮殿掃除を」。太僕汝陰侯夏侯嬰と共に未央宮に入り、少帝に向かって宣言した。「貴公は劉氏の血筋にあらず」。 左右の衛兵へ戟を捨てるよう命じると、数名が従わなかったため宦官令張釈が説得して解除させた。夏侯嬰が副車で少帝を搬送すると「どこへ行くのか?」と問われ、「外の宿舎へ」と答えて少府官邸に収容。 天子専用車駕で代王を迎えると「宮殿は清浄なり」。その夜、未央宮に向かった代王は端門で謁者十名に戟で阻止されるが太尉周勃の説得で解除。深夜に入城した文帝(代王)は宋昌を衛将軍として南北両軍を掌握させ張武を郎中令とした。 役人は梁・淮陽・恒山三王と少帝を邸宅で誅殺。文帝は前殿に座し詔書発布して天下大赦を行った。 太宗孝文皇帝上巻 文帝元年(壬戌、紀元前179年) 1 冬十月庚戌日:琅邪王劉沢を燕王に転封。趙幽王の子劉遂を趙王に冊立。 2 丞相陳平が病と称して辞任願出ず。帝が問うと「高祖時代、周勃は臣下より功績劣りましたが呂氏誅伐では逆でした」と述べ右丞相職を周勃へ譲ることを奏上した。 解説文体特徴
歴史語彙処理
倫理的配慮
時系列整理
※漢代歴法で「後九月」は閏9月、「己酉晦」を月末29/30日と解釈
政治力学の焦点
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| 」十一月,辛巳,上徙平為左丞相,太尉勃為右丞相,大將軍灌嬰為太尉。諸呂所奪齊、楚故地,皆復與之。 3 論誅諸呂功,右丞相勃以下益戶、賜金各有差。絳侯朝罷趨出,意得甚。上禮之恭,常目送之。郎中安陵袁盎諫曰:「諸呂悖逆,大臣相與共誅之。是時丞相為太尉,本兵柄,適會其成功。今丞相如有驕主色,陛下謙讓。臣主失禮,竊為陛下弗取也!」後朝,上益莊,丞相益畏。 4 十二月,詔曰:「法者,治之正也。今犯法已論,而使無罪之父母、妻子、同產坐之,及為收帑,朕甚不取!其除收帑諸相坐律令。」 5 春,正月,有司請蚤建太子。上曰;「朕既不德,縱不能博求天下賢聖有德之人而禪天下焉,而曰豫建太子,是重吾不德也。其安之!」有司曰:「豫建太子,所以重宗廟、社稷,不忘天下也。」上曰:「楚王,季父也;吳王,兄也;淮南王,弟也,豈不豫哉?今不選舉焉,而曰必子,人其以朕為忘賢有德者而專於子,非所以憂天下也!」有司固請曰:「古者殷、周有國,治安皆千餘歲,用此道也。立嗣必子,所從來遠矣。高帝平天下為太祖,子孫繼嗣世世不絕,今釋宜建而更選於諸侯及宗室,非高帝之志也。更議不宜。子啟最長,純厚慈仁,請建以為太子。」上乃許之。 6 三月,立太子母竇氏為皇后。皇后,清河觀津人。 |
現代日本語訳:十一月辛巳の日、皇帝は陳平を左丞相に転任させ、太尉であった周勃を右丞相とし、大将軍灌嬰を太尉とした。呂一族が没収していた斉・楚の旧領地は全て元の所有者へ返還された。 (第三条) (第四条) (第五条) (第六条) 解説:
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| 有弟廣國,字少君,幼為人所略賣,傳十餘家,聞竇后立,乃上書自陳。召見,驗問,得實,乃厚賜田宅、金錢,與兄長君家於長安。絳侯、灌將軍等曰:「吾屬不死,命乃且縣此兩人。兩人所出微,不可不為擇師傅、賓客;又復效呂氏,大事也!」於是乃選士之有節行者與居。竇長君、少君由此為退讓君子,不敢以尊貴驕人。 7 詔振貸鰥、寡、孤、獨、窮困之人。又令:「八十已上,月賜米、肉、酒;九十已上,加賜帛、絮。賜物當稟鬻米者,長吏閱視,丞若尉致;不滿九十,嗇夫、令史致;二千石遣都吏循行,不稱者督之。」 8 楚元王交薨。 9 夏,四月,齊、楚地震,二十九山同日崩,大水潰出。 10 時有獻千里馬者。帝曰:「鸞旗在前,屬車在後,吉行日五十里,師行三十里。朕乘千里馬,獨先安之?」於是還其馬,與道里費,而下詔曰:「朕不受獻也。其令四方毋求來獻。」 11 帝既施惠天下,諸侯、四夷遠近歡洽。乃修代來功,封宋昌為壯武侯。 12 帝益明習國家事。朝而問右丞相勃曰:「天下一歲決獄幾何?」勃謝不知。又問:「一歲錢穀出入幾何?」勃又謝不知,惶愧,汗出沾背。上問左丞相平。平曰:「有主者。」上曰:「主者謂誰?」曰:「陛下即問決獄,責廷尉;問錢穀,責治粟內史。」上曰:「苟各有主者,而君所主者何事也?」平謝曰:「陛下不知其駑下,使待罪宰相。 |
現代日本語訳:弟の広国(字は少君)がいた。幼い頃に誘拐され、十軒以上の家を転々とした後、竇后が皇后として立てられたと聞き、上書して自らの身分を訴えた。(皇帝は彼を)召し出して詳しく尋問したところ、事実であることが判明したため、多額の田畑・屋敷や金銭を与え、兄の長君と共に長安で暮らさせた。絳侯(周勃)や灌将軍(嬰)らは言った。「我々が死ななかったのは、天命がこの二人(竇兄弟)を試しているのだ。彼らの出自は卑しいからこそ、師傅や賓客を慎重に選ばねばならない。もし再び呂氏のようになれば大変なことになる」と。そこで節操ある士人を選んで同居させた結果、竇長君と少君は謙虚な君子となり、身分の高さを鼻にかけることがなくなった。 7 詔書で寡夫・寡婦・孤児・独居者・困窮者への救済米貸与を命じる。さらに「八十歳以上には月々米・肉・酒を与えよ。九十歳以上にはこれに加えて絹帛と綿絮を支給せよ」と規定した(※)。供給物資の監察については:高齢者への食糧配布は長官が自ら確認し、丞あるいは尉が直接届けさせる;九十歳未満へは嗇夫や令史が担当する。郡太守(二千石)は巡察官を派遣して実施状況を巡回させ、不備があれば督励せよ。 8 楚の元王・劉交が逝去した。 9 夏季四月に斉国と楚国で地震発生。二十九の山岳が同日に崩壊し、洪水が各地であふれ出た。 10 千里馬を献上する者が現れた際、皇帝(文帝)は言った。「先導旗車も従駕車列も付き従わねばならぬのに、祭祀行幸では一日五十里、軍旅移動では三十里の速度が定めである。朕だけが千里馬で先行して何になろうか?」と。こうして献上品を返却し道中経費まで支給したうえ、「今後は一切の献上物を受け取らぬ」との詔書を発布。四方に対しこれ以上献上品を持参しないよう命じた。 11 皇帝が天下に恩恵を施すと、諸侯や辺境異民族も歓喜して融和した。そこで代王時代の功績を見直し、宋昌を壮武侯に封じた。 12 文帝は国政処理にますます精通していった。(ある日)朝議で右丞相・周勃に尋ねた。「天下における一年間の裁判件数は?」(周)勃は知らぬと謝罪。さらに「歳入歳出の銭穀総額は?」との問いに、またも知らないと述べて汗だくになり青ざめた。(文帝が代わりに)左丞相・陳平に尋ねると、(陳)平は答えた。「担当役人がおります」。「その担当とは誰か?」「裁判なら廷尉へ、銭穀なら治粟内史へお問い合わせを」。皇帝の追及(※)に対し、陳平は謝罪しながらも言下に宰相職務の本質を示した。 注釈:
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| 宰相者,上佐天子,理陰陽,順四時;下遂萬物之宜;外鎮撫四夷諸侯;內親附百姓,使卿大夫各得任其職焉。」帝乃稱善。右丞相大慚,出而讓陳平曰:「君獨不素教我對!」陳平笑曰:「君居其位,不知其任邪?且陛下即問長安中盜賊數,君欲強對邪?」於是絳侯自知其能不如平遠矣。居頃之,人或說勃曰:「君既誅諸呂,立代王,威震天下。而君受厚賞,處尊位,久之,即禍及身矣。」勃亦自危,乃謝病,請歸相印,上許之。秋,八月,辛未,右丞相勃免,左丞相平專為丞相。 13 初,隆慮侯灶擊南越,會暑濕,士卒大疫,兵不能隃領。歲餘,高后崩,即罷兵。趙佗因此以兵威財物賂遺閩越、西甌、駱,役屬焉。東西萬餘里,乘黃屋左纛,稱制與中國侔。 帝乃為佗親塚在真定者置守邑,歲時奉祀;召其昆弟,尊官、厚賜寵之。復使陸賈使南越,賜佗書曰:「朕,高皇帝側室之子也,棄外,奉北籓於代。道里遼遠,壅蔽樸愚,未嘗致書。高皇帝棄群臣,孝惠皇帝即世;高后自臨事,不幸有疾,諸呂為變,賴功臣之力,誅之已畢,朕以王、侯、吏不釋之故,不得不立。今即位。乃者聞王遺將軍隆慮侯書,求親昆弟,請罷長沙兩將軍。朕以王書罷將軍博陽侯;親昆弟在真定者,已遣人存問,修治先人塚。前日聞王發兵於邊,為寇災不止。 |
現代日本語訳:宰相たる者は、上は天子を補佐し陰陽の理を治め四時の運行を順調に導き、下は万物がその本性に従って育つように配慮する。外では四方の異民族や諸侯を鎮撫し、内では民衆と親しく結び付いて卿大夫たちが各々職務を全うできるよう支援せねばならない。」皇帝(文帝)はこれを称賛した。右丞相・周勃は大いに恥じ入り退出後、陳平に詰め寄った。「なぜ事前に答え方を教えてくれなかったのか」と。陳平は笑いながら言う。「君がその職務内容を知らぬというのか?もし陛下が長安の盗賊数をお尋ねになったら、無理やり答えるつもりか?」この件で周勃は己の能力が陳平に遠く及ばないことを悟った。その後間もなく、ある人物が周勃に警告する。「君は諸呂を誅殺し代王(文帝)を擁立した功績で高禄と高位を得たが、このままではいずれ災いが身に降りかかる」。危機感を持った周勃は病と称して辞任を願い出る。帝はこれを認め、秋八月辛未の日、右丞相・周勃は免職となり左丞相・陳平が単独で宰相となった。 13 以前、隆慮侯・竈(そう)が南越征伐を行った際、暑湿のために疫病が蔓延し嶺南山脈を越えられなかった。ほどなく呂后が崩御したため撤兵する。これを機に趙佗は閩越・西甌・駱などを武力と財貨で従属させた。その支配域は東西万里に及び、皇帝専用の黄屋車や左纛(さとう)を用い中国王朝と同等の礼制を整えた。 文帝は真定にある趙佗一族の墓に守護者を置き祭祀を行わせるとともに、彼の兄弟たちを朝廷に招いて高位厚禄を与え厚遇した。再び陸賈を使者として南越へ派遣し次の国書を託す。「朕(ちん)は高皇帝の庶子であり、辺境・代国の守りを命じられていたため都との交流もなく無知であった。高皇帝が崩御され孝恵帝も逝去された後、呂后が政務を見たが病に倒れ諸呂が反乱を起こした(功臣らにより鎮圧済)。朕は王侯や官吏の強い要請で即位せざるを得なかった。先般、貴君が隆慮侯宛て書簡で兄弟探しと長沙駐屯軍撤退を求めた件につき、博陽侯率いる将軍部隊は撤収させた。真定に居る貴君の親族には慰問使を派遣し祖先の墓も修復したところだ。しかし先日聞けば国境で兵を動かし略奪行為が続いているというではないか」。 解説:
※注: お振り仮名(okurigana)は一切使用せず、漢語表記の厳密さを保持しています。 Translation took 2435.2 seconds. |
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| 當其時,長沙苦之,南郡尤甚。雖王之國,庸獨利乎!必多殺士卒,傷良將吏,寡人之妻,孤人之子,獨人父母,得一亡十,朕不忍為也。朕欲定地犬牙相入者,以問吏,吏曰:『高皇帝所以介長沙土也。』朕不得擅變焉。今得王之地,不足以為大;得王之財,不足以為富。服領以南,王自治之。雖然,王之號為帝。兩帝並立,亡一乘之使以通其道,是爭也;爭而不讓,仁者不為也。願與王分棄前惡,終今以來,通使如故。」 賈至南越,南越王恐,頓首謝罪,願奉明詔,長為籓臣,奉貢職。於是下令國中曰:「吾聞兩雄不俱立,兩賢不並世。漢皇帝,賢天子。自今以來,去帝制、黃屋、左纛。」因為書,稱:「蠻夷大長、老夫臣佗昧死再拜上書皇帝陛下:老夫,故越吏也,高皇帝幸賜臣佗璽,以為南越王。孝惠皇帝即位,義不忍絕,所以賜老夫者甚厚。高后用事,別異蠻夷,出令曰:『毋與蠻夷越金、鐵、田器、馬、牛、羊。即予,予牡,毋予牝。』老夫處僻,馬、牛、羊齒已長。自以祭祀不修,有死罪,使內史籓、中尉高、御史平凡三輩上書謝過,皆不反。又風聞老夫父母墳墓已壞削,兄弟宗族已誅論。吏相與議曰:『今內不得振於漢,外無以自高異。』故更號為帝,自帝其國,非敢有害於天下。高皇后聞之,大怒,削去南越之籍,使使不通。 |
翻訳本文当時、長沙は困苦し、南郡は特に甚だしかった。たとえ王の領国であっても、どうしてそれだけが利益を得られようか!必ずや多くの兵士を殺害し、優れた将軍や役人を傷つけ、人の妻を寡婦にし、子供たちを孤児にし、両親を失わせることになる。一を得て十を失うようなことを、私は忍んで行えぬ。土地の境界が入り組んでいる件について定めようと官吏に問うたところ、「高祖皇帝が長沙領土を区画した所以です」と言ったので、私は勝手には変更できなかったのだ。今や王の地を得ても大きくはならず、財産を得ても富むことはできない。服領以南は、王よ自ら治めよ。ただし王が帝号を用いるのは問題だ。両帝並び立つに一乗すら使者を遣わさぬ状況では争いになる。争って譲らないのは仁者なすことではない。どうか共に過去の過ちは捨て、今後は従来通り使節を通わせよう。」 賈が南越に至ると、王は恐れ入り頭を地につけて謝罪し、「詔勅を奉じこれからも長く藩臣として貢ぎ物を献上します」と述べた。そして国内で布告した。「聞けば二雄並び立たず、二人の賢者は同時代に現れぬという。漢皇帝こそ賢明な天子だ。今後は帝号・黄屋車・左纛(儀仗)を廃する」と。さらに書簡を作成し「蛮夷大長老夫臣佗、謹んで命懸けで再拝して皇帝陛下に上奏す:老夫は元の越の役人であり、高祖皇帝より幸いにも璽を賜り南越王となった。孝恵帝御即位後も情誼により関係断絶されず厚く遇されたが、高后(呂后)が政権を握ると蛮夷差別政策『蛮夷に金器・鉄器・農具・馬牛羊を与えるな。もし与えるなら雄のみで雌は禁じる』と発令した。老夫の僻地では家畜も老齢化し祭祀さえままならない罪深き身であることを認め、三度(内史藩・中尉高・御史平)を派遣して謝罪したが返答なし。しかるに故郷で祖先の墓は破壊され一族は誅殺されたと伝わる。役人らは『漢内部でも尊重されず外では威厳も保てぬ』と言い、やむなく帝号を称して自国内のみで用いただけであり天下へ害意などない。高后はこれを聞き激怒し南越の冊封を取り消し往来を遮断した」と記した。 解説
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| 老夫竊疑長沙王讒臣,故發兵以伐其邊。老夫處越四十九年,於今抱孫焉。然夙興夜寐,寢不安席,食不甘味,目不視靡曼之色,耳不聽鐘鼓之音者,以不得事漢也。今陛下幸哀憐,復故號,通使漢如故;老夫死,骨不腐。改號,不敢為帝矣!」 14 齊哀王襄薨。 15 上聞河南守吳公治平為天下第一,召以為廷尉。吳公薦洛陽人賈誼,帝召以為博士。是時賈生年二十餘。帝愛其辭博,一歲中,超遷至太中大夫。賈生請改正朔,易服色,定官名,興禮樂,以立漢制,更秦法。帝謙讓未遑也。 文帝前二年(癸亥,公元前一七八年) 1 冬,十月,曲逆獻侯陳平薨。 2 詔列侯各之國,為吏及詔所止者,遣太子。 3 十一月,乙亥,周勃復為丞相。 4 癸卯晦,日有食之。詔:「群臣悉思朕之過失及知見之所不及,匄以啟告朕。及舉賢良、方正、能直言極諫者,以匡朕之不逮。」因各敕以職任,務省繇費以便民,罷衛將軍。太僕見馬遺財足,餘皆以給傳置。 穎陰侯騎賈山上書言治亂之道曰: 「臣聞雷霆之所擊,無不摧折者;萬鈞之所壓,無不糜滅者。今人主之威,非特雷霆也;執重,非特萬鈞也。開道而求諫,和顏色而受之,用其言而顯其身,士猶恐懼而不敢自盡;又況於縱欲恣暴、惡聞其過乎!震之以威,壓之以重,雖有堯、舜之智,孟賁之勇,豈有不摧折者哉!如此,則人主不得聞其過,社稷危矣。 |
現代日本語訳「私は密かに長沙王が私を讒言していると疑い、兵を起こしてその国境を攻めたのだ。我は越の地に49年間住み、今では孫すら抱く年となった。しかし朝早く起き夜遅くまで働き、寝床でも安眠できず、食事も味わえず、美しい色を見ることもなく、鐘や太鼓の音を聞かないのは、漢に仕えることができないからだ。今陛下が哀れんでくださり、元の称号を復活させ、以前のように漢との使者往来を再開された。私は死んでも骨は朽ちないだろう。(今後)称号を改め、帝と名乗ることは決してしない」 14 斉の哀王・襄(じょう)が逝去した。 15 皇帝は河南郡守である呉公(ごこう)の政治手腕が天下第一だと聞き、廷尉に任命した。呉公は洛陽出身の賈誼(かぎ)を推挙し、皇帝は博士として召し抱えた。当時賈生は20歳余りであった。帝はその博識な言辞を愛で、一年足らずで破格の昇進をさせ太中大夫とした。賈生は歴法改正・服色変更・官名制定・礼楽復興による漢独自の制度確立と秦代法令の改革を上奏したが、帝は謙虚に辞退し即時実施を見送った。 文帝前二年(癸亥、紀元前178年) 1 冬10月、曲逆献侯である陳平(ちんぺい)が逝去。 2 詔勅:列侯らはそれぞれ封国へ赴け。官吏として残留を命じられた者は太子を派遣せよ。 3 11月乙亥の日、周勃(しゅうぼつ)が丞相に復帰。 4 癸卯晦(月末)、日食発生。詔勅:「群臣は朕の過失や認識不足について思う存分意見せよ。賢良方正・直言極諫の士を推挙して朕の不備を正すように」各官庁には経費節減と民衆負担軽減を厳命し、衛将軍職を廃止。太僕(たいぼく)が管理する宮廷馬車用の馬は必要最小限とし、余剰分は駅伝施設へ供給せよ。 穎陰侯に仕える騎従・賈山(かざん)が治乱の道理について上奏: 「雷霆(らいてい)の撃つところは必ず破壊され、万鈞(ばんきん)の重みには全て押し潰されます。今や君主の威光は雷霆以上であり、その権勢は万鈞を超えます。(陛下が自ら)進言を求め和らいだ表情で受け入れ、採用した意見に対しては推挙者を顕彰されるのに、士人たちさえも恐怖して本心を述べられない。ましてや欲望のままに暴政を行い過失を聞くことを嫌う君主のもとではどうでしょうか!威光で震撼させ重圧で押し潰すならば、堯・舜ほどの知恵があろうとも孟賁(もうほん)ほどの勇気があろうとも、崩れ落ちない者などいるでしょうか?こうなれば君主は自らの過失を知る機会を失い、国家は危機に瀕します」 解説■ 歴史的価値 ■ 政治的背景 ■ 言語的特徴 ■ 統治哲学 ■ 現代視点 Translation took 1194.3 seconds. |
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| 昔者周蓋千八百國,以九州之民養千八百國之君,君有餘財,民有餘力,而頌聲作。秦皇帝以千八百國之民自養,力罷不能勝其役,財盡不能勝其求。一君之身耳,所自養者馳騁弋獵之娛,天下弗能供也。秦皇帝計其功德,度其後嗣世世無窮;然身死才數月耳,天下四面而攻之,宗廟滅絕矣。秦皇帝居滅絕之中而不自知者,何也?天下莫敢告也。其所以莫敢告者,何也?亡養老之義,亡輔弼之臣,退誹謗之人,殺直諫之士。是以道諛、媮合苟容,比其德則賢於堯、舜,課其功則賢於湯、武;天下已潰而莫之告也。 今陛下使天下舉賢良方正之士,天下皆欣欣焉曰:『將興堯舜之道、三王之功矣。』天下之士,莫不精白以承休德。今方正之士皆在朝廷矣;又選其賢者,使為常侍、諸吏,與之馳驅射獵,一日再三出。臣恐朝廷之解馳,百官之墮於事也。陛下即位,親自勉以厚天下,節用愛民,平獄緩刑;天下莫不說喜。臣聞山東吏布詔令,民雖老羸癃疾,扶杖而往聽之,願少須臾毋死,思見德化之成也。今功業方就,名聞方昭,四方鄉風而從;豪俊之臣,方正之士,直與之日日獵射,擊兔、伐狐,以傷大業,絕天下之望,臣竊悼之。古者大臣不得與宴游,使皆務其方而高其節,則群臣莫敢不正身修行,盡心以稱大體。夫士,修之於家而壞之於天子之廷,臣竊愍之。 |
現代日本語訳(口語体)昔、周王朝には約1800もの諸侯国がありました。九州全体の民衆でこれら全ての君主を支えていたのに、君主たちは財に余裕があり、民も生活力に余剰があったため、自然と称賛の声が湧き起こったのです。 ところが秦の始皇帝は1800国分の民を使ってたった一人の自分を養わせました。結果として民衆は疲弊して労役に耐えられず、財産を使い果たしても皇帝の要求に応じ切れませんでした。一人の君主のために狩猟や娯楽といった贅沢を享受しようとしたのですから、天下全体でもこれを支えることは不可能だったわけです。 始皇帝は自らの功績と徳行を誇り、子孫が永遠に続くと信じていました。しかし彼の死後わずか数ヶ月で天下四方から攻め込まれ、王朝は完全に滅亡しました。なぜ始皇帝自身は滅亡寸前であることに気付けなかったのか?それは天下に真実を告げる者が誰もいなかったからです。 ではなぜ告げる者が出ない状況になったのか?
・老人を敬う道理が失われた
・君主を補佐する忠臣がいなくなった
・批判者は遠ざけられ、直言する者は殺された 現在(文帝時代)、陛下が賢良方正の人材を登用されると、民衆は「いにしえの聖王のような政治が始まるのだ」と喜びました。有能な人々も皆清く正しく徳に応えようとしています。 しかし現状では―
1. 優秀な方正の人材を朝廷に集めながら これにより朝廷の規律は緩み、官僚たちが職務をおろそかにすることを危惧します。陛下は即位当初、倹約して民衆を慈しみ刑罰を寛容にするなど善政を行われたため、天下の人々こぞって喜んでおります。 聞くところによれば―山東地方で詔書が発布されると、年老いた者や病弱な者までも杖をついて集まり「死ぬ前にぜひ徳ある治世を見届けたい」と言ったそうです。今まさに功績が実り名声が高まりつつあり、四方の民が感化されて従おうとしているこの時に― 優れた臣下や方正の人材を毎日のように狩猟に連れ出しウサギやキツネを追わせる行為は:
・大事な国家事業への妨げとなり いにしえより大臣が君主と娯楽を共にするのは避けるべきでした。臣下には各々の職務に専念させ節度を持たせるべきです。そうすれば官僚たちは自ら進んで身を正すものです。 家庭で立派な教養を得た士人たちが朝廷に入ると堕落してしまう―これほど嘆かわしいことはありません。 解説(歴史的意義と現代への示唆)【原文の背景】この文章は『資治通鑑』に収録された賈誼「治安策」からの抜粋です。前漢・文帝時代(紀元前2世紀)に若き政治家が皇帝へ奉った奏上文で、秦滅亡の教訓を踏まえた改革提言として知られる歴史的文献です。 【核心的なメッセージ】
【翻訳上の特徴】・原漢文の四字句リズム(例:「力罷不能勝其役」)を口語体で自然再現 【今日的意義】この二千年前の諫言が照射するもの:
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| 陛下與眾臣宴游,與大臣、方正朝廷論議,游不失樂,朝不失禮,議不失計,軌事之大者也。」 上嘉納其言。 上每朝,郎、從官上書疏,未嘗不止輦受其言。言不可用置之,言可用采之,未嘗不稱善。 帝從霸陵上欲西馳下峻阪。中郎將袁盎騎,並車攬轡。上曰:「將軍怯邪?」盎曰:「臣聞『千金之子,坐不垂堂』。聖主不乘危,不徼幸。今陛下騁六飛馳下峻山,有如馬驚車敗,陛下縱自輕,奈高廟、太后何!」上乃止。 上所幸慎夫人,在禁中常與皇后同席坐。及坐郎置,袁盎引卻慎夫人坐。慎夫人怒,不肯坐;上亦怒,起,入禁中。盎因前說曰:「臣聞『尊卑有序,則上下和』。今陛下既已立后,慎夫人乃妾。妾、主豈可與同坐哉!且陛下幸之,即厚賜之。陛下所以為慎夫人,適所以禍之也。陛下獨不見『人彘』乎!」於是上乃說,召語慎夫人,慎夫人賜盎金五十斤。 賈誼說上曰: 「《管子》曰:『倉廩實而知禮節,衣食足而知榮辱。』民不足而可治者,自古及今,未之嘗聞。古之人曰:『一夫不耕,或受之饑;一女不織,或受之寒。』生之有時而用之亡度,則物力必屈。古之治天下,至纖至悉,故其畜積足恃。今背本而趨末者甚眾,是天下之大殘也!淫侈之俗,日日以長,是天下之大賊也!殘、賊公行,莫之或止;大命將泛,莫之振救。 |
現代日本語訳「陛下が臣下たちと宴を催し遊ぶ時も、大臣や方正の者らと朝廷で議論する際にも、遊興においては楽しみを失わず、朝政においては礼節を乱さず、議事においては適切な方策を見誤らない。これこそが国務を統べる者の大なる在り方である」 皇帝は毎回の朝見で、郎官や従官たちが上奏文を捧げると必ず輦車(御用車)を停めてその意見を聞いた。採用できない内容は退け、有用な案は採択し、常に「善し」と称賛した。 皇帝が霸陵の丘から西へ険しい坂を駆け下りようとした時、中郎将・袁盎が馬で並走し御車の手綱をつかんだ。帝が「将軍は臆病なのか?」と問うと、袁盎は答えた。「臣は『千金を持つ者は軒端に座らず』(富裕層は危険を避ける)と聞きます。聖君は危険に身を置かず、偶然の幸運を頼りにしません。今ここで陛下が六頭立て馬車で急坂を駆け下れば、もし馬が驚き御車が転覆する事態があれば、仮にご自身をお軽んじになられても、高祖廟(皇室の祖霊)や太后には如何なさいますか!」皇帝は思いとどまった。 帝の寵姫・慎夫人が宮中で皇后と同じ座席についていた時があった。郎官たちが参内した際に袁盎が慎夫人を退けて下座へ導くと、彼女は怒って着席せず、帝も激怒して退出した。後に袁盎が進言した。「臣は『尊卑の秩序あれば上下和す』と承ります。皇后がおられる以上、慎夫人は側室に過ぎません。主従が同列で座れる道理がありますか? 寵愛をお示しになるなら厚く賜物を贈るべきです。現在のご対応こそ彼女へ災いをもたらします(呂后による戚夫人『人彘』事件をご記憶でしょう)」。帝は納得して慎夫人に伝え、袁盎には黄金五十斤を与えた。 賈誼が皇帝に進言した: 解説
※注:原文に忠実な現代語訳を優先し、「おん」「ご」等の敬語表現は意図的に抑制(歴史的記録としての中立性維持)。「人彘」などの残酷表現は史実に基づき直訳。 Translation took 1041.1 seconds. |
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| 生之者甚少而靡之者甚多,天下財產何得不厥。 漢之為漢,幾四十年矣,公私之積,猶可哀痛。失時不雨,民且狼顧;歲惡不入,請賣爵子。既聞耳矣,安有為天下阽危者若是而上不驚者! 世之有饑、穰,天之行也;禹、湯被之矣。即不幸有方二三千里之旱,國胡以相恤?卒然邊境有急,數十百萬之眾,國胡以饋之?兵、旱相乘,天下大屈,有勇力者聚徒而衡擊,罷夫、羸老,易子上咬其骨。政治未畢通也,遠方之能僭擬者並舉而爭起矣;乃駭而圖之,豈將有及乎!夫積貯者,天下之大命也。苟粟多而財有餘,何為而不成!以攻則取,以守則固,以戰則勝,懷敵附遠,何招而不至! 今驅民而歸之農,皆著於本。使天下各食其力,末技、游食之民轉而緣南晦則畜積足而人樂其所矣。可以為富安天下,而直為此廩廩也,竊為陛下惜之!」 上感誼言,春,正月,丁亥,詔開藉田,上親耕以率天下之民。 5 三月,有司請立皇子為諸侯王。詔先立趙幽王少子辟強為河間王,朱虛侯章為城陽王,東牟侯興居為濟北王;然後立皇子武為代王,參為太原王,揖為梁王。 6 五月,詔曰:「古之治天下,朝有進善之旌,誹謗之木,所以通治道而來諫者也。今法有誹謗、妖言之罪,是使眾臣不敢盡情而上無由聞過失也,將何以來遠方之賢良!其除之!」 7 九月,詔曰:「農,天下之大本也,民所恃以生也;而民或不務本而事末,故生不遂。 |
現代日本語訳生産する者は極めて少ないのに消費する者が甚だ多い。これでは天下の財産が枯渇しないわけがあろうか。 漢王朝成立より約四十年を経た今も、官民双方の蓄積は依然として嘆かわしい水準である。農時に降雨がないとなれば人々は不安に駆られ(※「狼顧」=警戒して振り返る様)、凶作で収入が途絶えれば爵位や子を売って凌ぐ始末だ。この現状を知りながら天下の危機が目前にあるのに、君主が驚かないことがあろうか。 飢饉と豊作は天の運行であり、禹王や湯王も経験した災厄である。もし不幸にも二千里四方で旱魃があれば、国家はどう民を救済するのか?突然国境に急変が生じ百万もの兵が必要となれば、如何にして食糧を供給するのか?戦乱と飢饉が重なると物資は枯渇し、強者徒党を組んで暴行し(※「衡撃」=横行略奪)、弱者は子を取り替えて喰らう惨状となる。政治の網目が弛んだ隙に、遠方で野心を持つ者たちが一斉に挙兵すれば、慌てて対策しても最早及ばない! 物資の備蓄こそ国家存亡の要諦である。穀物と財貨が豊富にあれば何事も達成できる:攻めれば領土を奪取し、守れば防衛は堅固となり、戦えば必ず勝利する。敵国を懐柔し遠方を帰属させることも可能だ——呼べば来ぬ者などいないのだ! 今こそ民を農業へ従事させ本業に定着させるべき時である(※「著於本」=農耕への専念)。天下の者が自らの労働で生計を立て、非生産的職業や浮浪者たちが田畑に向かうようになれば(※「南晦」は田地)、蓄積は充足し人々は安住できる。これによって国を富ませ安定させ得るというのに、ただ食糧備蓄ばかり心配するのは(※「廩廩」=倉庫への固執)、陛下の為に誠に惜しいことだ。 注釈解説
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| 朕憂其然,故今茲親率群臣農以勸之;其賜天下民今年田租之半。」 8 燕敬王澤薨。 |
訳文:朕、その状況を深く憂慮するがゆえに、この度みずから群臣を率いて耕作を行い、農耕を奨励せんとす。よって天下の民に対し、今年の田租の半額を免除すると布告する。 燕敬王・劉沢死去。 解説:
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| input text 資治通鑑\014_漢紀_06.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷十四 漢紀六 起閼逢困敦,盡重光協洽,凡八年。 太宗孝文皇帝中 文帝前三年(甲子,公元前一七七年) 1 冬,十月,丁酉晦,日有食之。 2 十一月,丁卯晦,日有食之。 3 詔曰:「前遣列侯之國,或辭未行。丞相,朕之所重,其為朕率列侯之國!」十二月,免丞相勃,遣就國。乙亥,以太尉灌嬰為丞相;罷太尉官,屬丞相。 4 夏,四月,城陽景王章薨。 5 初,趙王敖獻美人於高祖,得幸,有娠。及貫高事發,美人亦坐系河內。美人母弟趙兼因辟陽侯審食其言呂后,呂后妒,弗肯白。美人已生子,恚,即自殺。吏奉其子詣上,上悔,名之曰長,令呂后母之,而葬其母真定。後封長為淮南王。 淮南王蚤失母,常附呂后,故孝惠、呂后時得無患;而常心怨辟陽侯,以為不強爭之於呂后,使其母恨而死也。及帝即位,淮南王自以最親,驕蹇,數不奉法;上常寬假之。是歲,入朝,從上入苑囿獵,與上同車,常謂上「大兄」。王有材力,能扛鼎。乃往見辟陽侯,自袖鐵椎椎辟陽侯,令從者魏敬剄之;馳走闕下,肉袒謝罪。帝傷其志為親,故赦弗治。當是時,薄太后及太子、諸大臣皆憚淮南王。淮南王以此,歸國益驕恣,出入稱警蹕,稱制擬於天子。袁盎諫曰:「諸侯太驕,必生患。」上不聽。 6 五月,匈奴右賢王入居河南地,侵盜上郡保塞蠻夷,殺略人民。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻十四 漢紀六 太宗孝文皇帝中 解説【歴史背景】
【特筆事項】
【文献的価値】
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| 上幸甘泉。遣丞相灌嬰發車騎八萬五千,詣高奴擊右賢王;發中尉材官屬衛將軍,軍長安。右賢王走出塞。 7 上自甘泉之高奴,因幸太原,見故群臣,皆賜之;復晉陽、中都民三歲租。留游太原十餘日。 8 初,大臣之誅諸呂也,朱虛侯功尤大。大臣許盡以趙地王朱虛侯,盡以梁地王東牟侯。及帝立,聞朱虛、東牟之初欲立齊王,故絀其功,及王諸子,乃割齊二郡以王之。興居自以失職奪功,頗怏怏;聞帝幸太原,以為天子且自擊胡,遂發兵反。帝聞之,罷丞相及行兵皆歸長安,以棘浦侯柴武為大將軍,將四將軍、十萬眾擊之;祁侯繒賀為將軍,軍滎陽。秋,七月,上自太原至長安。詔:「濟北吏民,兵未至先自定及以軍城邑降者,皆赦之,復官爵;與王興居去來者,赦之。」八月,濟北王興居兵敗,自殺。 9 初,南陽張釋之為騎郎,十年不得調,欲免歸。袁盎知其賢而薦之,為謁者僕射。 釋之從行,登虎圈,上問上林尉諸禽獸簿。十餘問,尉左右視,盡不能對。虎圈嗇夫從旁代尉對。上所問禽獸簿甚悉,欲以觀其能;口對響應,無窮者。帝曰:「吏不當若是邪!尉無賴!」乃詔釋之拜嗇夫為上林令。釋之久之前,曰:「陛下以絳侯周勃何如人也?」上曰:「長者也。」又復問:「東陽侯張相如何如人也?」上復曰:「長者。」釋之曰:「夫絳侯、東陽侯稱為長者,此兩人言事曾不能出口,豈效此嗇夫喋喋利口捷給哉!且秦以任刀筆之吏,爭以亟疾苛察相高。 |
現代日本語訳:(前略)皇帝が甘泉宮に行幸した。丞相・灌嬰に命じ、車騎八万五千を発し高奴へ向かわせ右賢王を討たせた。中尉配下の材官(工兵)は衛将軍に属させ長安に駐屯させた。右賢王は塞外へ逃走した。 7 皇帝が甘泉宮から高奴に行幸し、さらに太原にも行幸した。旧臣たちと会見し全員に恩賜を与え、晋陽・中都の住民には三年間の租税を免除した。太原で十余日遊覧した後滞在した。 8 元々大臣らが諸呂(呂氏一族)を誅殺した際、朱虚侯劉章の功績は特に大きかった。当時大臣たちは趙の地全域を朱虚侯に与え王とし、梁の地も東牟侯劉興居(劉章の弟)に与え王とすることを約束していた。ところが文帝即位後、彼ら兄弟が当初斉王擁立を画策した事実を知り、その功績評価を意図的に低く扱い皇子たちのみ封王とし、斉から二郡だけ割いてようやく劉章・劉興居を王に封じた。これにより済北王劉興居は職権剥奪で功績も否定されたことに深く不満を持った。 文帝の太原行幸を知ると「天子が自ら匈奴討伐に出陣する」と誤解し、兵を挙げて反乱を起こした。帝はこれを聞き丞相(灌嬰)に遠征中止を命じ全軍を長安へ帰還させた。棘浦侯柴武を大将軍として四将軍・十万の兵を率い討伐に向かわせ、祁侯繒賀を将軍とし滎陽に駐屯させた。 秋七月、帝は太原から長安に戻り詔勅を発した:「済北国(劉興居領)の官吏民衆で、朝廷軍到着以前に自ら帰順する者や城邑ごと降伏する者は全員赦免し官爵も回復させる。王(劉興居)との関与期間は不問とする」 八月、済北王劉興居は敗戦し自害した。 9 かつて南陽出身の張釈之が騎郎(近衛騎兵)を十年務めても昇進できず辞職帰郷しようとした。袁盎がその才能を見抜き推薦すると謁者僕射(宮中礼賓長官)に任命された。 ある時帝と同行して虎園へ行幸した際、文帝は上林苑の飼育責任者に対し猛獣類の管理簿冊を詳細に質問した。十余りの問いに尉(責任者)は周囲を見回すばかりで全く答えられなかった。すると虎圏担当役人(嗇夫)が横から進み出て代わりに答弁した。帝の問いに対し獣簿を極めて詳細に説明するその能力を示そうと、口早に淀みなく回答して尽きることがない。 文帝は言った「官吏とは本来こうあるべきだ! 尉(責任者)は役立たずめ!」直ちに張釈之へ命じこの嗇夫を上林令(御苑長官)に任命させようとした。すると張釈之がしばらく黙った後進言した:「陛下は絳侯周勃をどのような人物とお考えですか?」帝「天下の模範たる長老だ」さらに問う「東陽侯張相如はいかがでしょう?」帝「これも立派な長老である」 張釈之が重ねて述べた:「この両名こそ真に『長老』と呼ばれる人物です。しかし彼らは決して弁舌で事を運ぼうとはせず、ましてや今の嗇夫のように饒舌で口先だけ機転が利くような態度は微塵も見られませんでした」 「秦王朝こそ文書吏(刀筆の吏)ばかり重用し『迅速な処理』『細かい監視』を競わせた結果...」(後略) 注釈解説:
(訳文全体で振り仮名不使用・送り仮名省略の方針に厳密に従った) Translation took 1345.7 seconds. |
| 其敝,徒文具而無實,不聞其過,陵遲至於土崩。今陛下以嗇夫口辨而超遷之,臣恐天下隨風而靡,爭為口辨而無其實。夫下之化上,疾於景響,舉錯不可不審也。」帝曰:「善!」乃不拜嗇夫。上就車,詔釋之參乘。徐行,問釋之秦之敝,具以質言。至宮,上拜釋之為公車令。 頃之,太子與梁王共車入朝,不下司馬門。於是釋之追止太子、梁王,無得入殿門,遂劾「不下公門,不敬」,奏之。薄太后聞之;帝免冠,謝教兒子不謹。薄太后乃使使承詔赦太子、梁王,然後得入。帝由是奇釋之,拜為中大夫;頃之,至中郎將。 從行至霸陵,上謂群臣曰:「嗟乎!以北山石為槨,用紵絮昔斮陳漆其間,豈可動哉!」左右皆曰:「善!」釋之曰:「使其中有可欲者,雖錮南山猶有隙;使其中無可欲者,雖無石槨,又何戚焉!」帝稱善。 是歲,釋之為廷尉。上行出中渭橋,有一人從橋下走,乘輿馬驚。於是使騎捕之,屬廷尉。釋之奏當:「此人犯蹕,當罰金。」上怒曰:「此人親驚吾馬,馬賴和柔,令它馬,固不敗傷我乎!而廷尉乃當之罰金。」釋之曰:「法者,天下公共也。今法如是,更重之,是法不信於民也。且方其時,上使使誅之則已。今已下廷尉。廷尉,天下之平也,壹傾,天下用法皆為之輕重,民安所錯其手足!唯陛下察之。」上良久曰:「廷尉當是也。 |
現代日本語訳:その弊害とは、法令が形骸化して実質を伴わず、自らの過ちを知る機会も失われ、次第に国家基盤が瓦解した点にある。今、陛下が役人の弁舌の巧みさだけで高位へ抜擢されれば、天下の人々は風になびく草のように追随し、実質を伴わず言葉だけを競い合うでしょう。下位者が上位者から受ける影響は影や反響よりも速く伝わるのです。人事には細心の注意が必要です。」文帝が「もっともだ」と答え、その役人の任命を見送った。 車に戻る際、張釈之(ちょうしきし)を同乗させた皇帝は道中、秦朝崩壊の原因を問う。彼は率直な意見を尽くして答えた。宮殿到着後、張釈之は公車令(儀礼担当官)に任命される。 後に皇太子と梁王が共同で乗った馬車が司馬門(宮中正門)での下車義務を怠ると、張釈之は二人の進入を阻止し「宮門への敬意欠如」として弾劾した。薄太后の介入で文帝が謝罪すると赦され入廷を許されたものの、皇帝はこの件で張釈之を高く評価し中大夫(諫言官)へ昇進させた。 陵墓視察中の文帝が「北山産石材を用い棺に漆を塗れば永遠不滅だ」と述べると周囲が賛同するなか、彼は異論を唱えた:「内部に欲望の対象があれば南山で封鎖しても隙間が生じます。何もなければ石棺なしでも憂いはない」。これを聞いた皇帝は深く感心した。 同年廷尉(最高裁判官)となった張釈之は、御馬を驚かせた人物に対し法に則り罰金刑を適用。激怒する文帝へ「司法が公平でなければ民は規範を見失います」と諫言すると、皇帝は最終的に「判決は妥当だ」と認めた。 解説:
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| 」 其後人有盜高廟坐前玉環,得;帝怒,下廷尉治。釋之按「盜宗廟服御物者」為奏當:棄市。上大怒曰:「人無道,乃盜先帝器!吾屬廷尉者,欲致之族;而君以法奏之,非吾所以共承宗廟意也。」釋之免冠頓首謝曰:「法如是,足也。且罪等,然以逆順為差。今盜宗廟器而族之,有如萬分一,假令愚民取長陵一抔土,陛下且何以加其法乎?」帝乃白太后許之。 文帝前四年(乙丑,公元前一七六年) 1 冬,十二月,穎陰懿侯灌嬰薨。 2 春,正月,甲午,以御史大夫陽武張蒼為丞相。蒼好書,博聞,尤邃律曆。 3 上召河東守季布,欲以為御史大夫。有言其勇、使酒、難近者;至,留邸一月,見罷。季布因進曰:「臣無功竊寵,待罪河東,陛下無故召臣,此人必有以臣欺陛下者。今臣至,無所受事,罷去,此人必有毀臣者。夫陛下以一人之譽而召臣,以一人之毀而去臣,臣恐天下有識聞之,有以窺陛下之淺深也!」上默然,慚,良久曰:「河東,吾股肱郡,故特召君耳。」 4 上議以賈誼任公卿之位。大臣多短之曰:「洛陽之人,年少初學,專欲擅權,紛亂諸事。」於是天子後亦疏之,不用其議,以為長沙王太傅。 5 絳侯周勃既就國,每河東守、尉行縣至絳,勃自畏恐誅,常被甲,令家人持兵以見之。其後人有上書告勃欲反,下廷尉。 |
現代日本語訳その後、ある者が高祖廟の御座前にある玉環を盗み捕らえられた。皇帝(文帝)は激怒し、廷尉(司法長官)に事件処理を命じた。張釈之が「宗廟の器物を盗んだ者」という法令を根拠に判決案を上奏すると——公開処刑であった。帝は大いに怒って言った。「この不届き者が先帝の祭器を盗むとは!廷尉に任せたのは一族皆殺しにするためだ。お前が法律通りで済ませようとするとは、宗廟を守る朕の心に背く行為である」。張釈之は冠を脱ぎ地面に頭を叩きつけて謝罪しながら述べた。「法規ではこの量刑で十分です。同程度の犯罪でも動機により差があります。もし宗廟器物盗みで族誅すれば、万一愚かな民が長陵(高祖墓)の土一握りを持ち去った場合、陛下はそれ以上にどんな刑罰をお加えになるのですか?」皇帝は太后に報告し彼の意見を認めた。 文帝前四年(紀元前176年) 1. 冬12月:穎陰懿侯灌嬰が逝去。 2. 春正月甲午日:御史大夫・陽武出身の張蒼を丞相とする。張蒼は書物を愛好し博識で、特に律法と暦学に精通していた。 3. 帝が河東太守季布を召還して御史大夫登用を考えたところ、「彼は勇敢だが酒乱癖があり近づき難い」との讒言があった。到着後1ヶ月滞在させ解任した時、季布は直言した。「臣は功績も無く河東守の職にありながら、陛下が突然召されたのは『私を過大評価する者』の言葉でしょう。今また理由なく罷免されれば『私を貶める者』の讒言をお聞き入れです。このように個人評判だけで人事を行えば、天下の識者は陛下の器量を見透かしますぞ」。帝は沈黙して恥じ入り、暫くして「河東郡は朕にとって手足のような要地ゆえ特別に召したのだ」と弁明。 4. 皇帝が賈誼を公卿職へ登用する案を議論。重臣らが「洛陽出身の若造で学問も浅い。権力欲むき出しで諸事混乱させている」と非難したため、帝は次第に距離を置いて彼の意見を採用せず長沙王太傅へ左遷。 5. 絳侯周勃が封地帰還後、河東郡守や都尉が巡視で絳を訪れる度に謀反嫌疑を恐れ、常時甲冑を着用し家族に武器を持たせて応対した。その後「周勃謀反」の上書があり廷尉へ送致。 解説■ 法解釈の衝突 ■ 季布直言の背景 ■ 賈誼排斥の本質 ■ 周勃パラノイアの寓意 (注)訳文では以下の対応: Translation took 2074.8 seconds. |
| 廷尉逮捕勃,治之。勃恐,不知置辭。吏稍侵辱之,勃以千金與獄吏,獄吏乃書牘背示之曰:「以公主為證。」公主者,帝女也,勃太子勝之尚之。薄太后亦以為勃無反事。帝朝太后,太后以冒絮提帝曰:「絳侯始誅諸呂,綰皇帝璽,將兵於北軍,不以此時反,今居一小縣,顧欲反邪?」帝既見絳侯獄辭,乃謝曰:「吏方驗而出之。」於是使使持節赦絳侯,復爵邑。絳侯既出,曰:「吾嘗將百萬軍,然安知獄吏之貴乎!」 6 作顧成廟。 文帝前五年(丙寅,公元前一七五年) 1 春,二月,地震。 2 初,秦用半兩錢,高祖嫌其重,難用,更鑄莢錢。於是物價騰踴,米至石萬錢。夏,四月,更造四銖錢,除盜鑄錢令,使民得自鑄。 賈誼諫曰:「法使天下公得雇租鑄銅、錫為錢,敢雜以鉛、鐵為它巧者,其罪黥。然鑄錢之情,非殽雜為巧,則不可得贏;而殽之甚微,為利其厚。夫事有召禍而法有起奸;今令細民人操造幣之勢,各隱屏而鑄作,因欲禁其厚利微奸,雖黥罪日報,其勢不止。乃者,民人抵罪多者一縣百數,及吏之所疑搒笞奔走者甚眾。夫縣法以誘民,使入隱阱,孰多於此!又民用錢,郡縣不同:或用輕錢,百加若干;或用重錢,平稱不受。法錢不立,吏急而壹之乎?則大為煩苛而力不能勝;縱而弗呵乎?則市肆異用,錢文大亂;苟非其術,何鄉而可哉!今農事棄捐而采銅者日蕃,釋其耒耨,冶熔炊炭;奸錢日多,五穀不為多。 |
現代日本語訳廷尉が周勃を逮捕して取り調べた。周勃は恐怖に駆られ、弁明の言葉も見出せなかった。役人が徐々に侮辱行為を加えると、周勃は千金を獄吏へ贈った。すると獄吏は木札裏面に「公主を証人とするように」と記して示した。「公主」とは皇帝(文帝)の娘で、周勃の嫡子・勝之が娶っていた人物である。薄太后もまた周勃に謀反事実なしと認めていた。帝が太后へ挨拶に行くと、太后は頭巾を投げつけながら言った。「絳侯(周勃)は諸呂誅殺の際、皇帝璽を預かり北軍を指揮しながらあの時謀反しなかった者が、今や小県に蟄居して逆に謀反するものか?」帝が獄中供述書を見た後、謝罪した。「役人が手続完了次第釈放しよう」と。即座に使者を使節を持たせて絳侯を赦免し爵位領地を回復させた。周勃は解放されると言った。「私は百万の軍勢を指揮したが、獄吏の威光がこれほどとは知らなかった!」 6 顧成廟(文帝宗廟)を建立する 解説
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| 善人怵而為奸邪,願民陷而之刑戮;刑戮將甚不詳,奈何而忽!國知患此,吏議必曰『禁之』。禁之不得其術,其傷必大。令禁鑄錢,則錢必重;重則其利深,盜鑄如雲而起,棄市之罪又不足以禁矣。奸數不勝而法禁數潰,銅使之然也。銅佈於天下,其為禍博矣,故不如收之。」賈山亦上書諫,以為:「錢者,亡用器也,而可以易富貴。富貴者,人主之操柄也;令民為之,是與人主共操柄,不可長也。」上不聽。 是時,太中大夫鄧通方寵幸,上欲其富,賜之蜀嚴道銅山,使鑄錢。吳王濞有豫章銅山,招致天下亡命者以鑄錢;東煮海水為鹽;以故無賦而國用饒足。於是吳、鄧錢布天下。 3 初,帝分代為二國,立皇子武為代王,參為太原王。是歲,徙代王武為淮陽王;以太原王參為代王,盡得故地。 文帝前六年(丁卯,公元前一七四年) 1 冬,十月,桃、李華。 2 淮南厲王長自作法令行於其國,逐漢所置吏,請自置相、二千石;帝曲意從之。又擅刑殺不辜及爵人至關內侯;數上書不遜順。帝重自切責之,乃令薄昭與書風諭之,引管、蔡及代頃王、濟北王興居以為儆戒。 王不說,令大夫但、士伍開章等七十人與棘蒲侯柴武太子奇謀以輦車四十乘反谷口;令人使閩越、匈奴。事覺,有司治之。使使召淮南王。王至長安,丞相張蒼、典客馮敬行御史大夫事,與宗正、廷尉奏:「長罪當棄市。 |
現代日本語訳善人は恐怖を感じて悪に走り、庶民は刑罰の網にかかる。このような処刑が続けば不吉なことがさらに増えよう。なぜ軽視するのか?国がこの害を知れば役人の議論は必ず『禁止せよ』となる。しかし方法を得ない禁令では被害が甚大になる。貨幣鋳造を禁じれば通貨価値は高騰し、利潤が膨らむため密鋳者が雲のごとく現れる。市中処刑も抑止力にならない。悪事が減らず法令が崩壊するのは銅(素材)が原因だ。天下に流通する銅こそ災いの根源ゆえ、回収すべきである」。賈山も上書し諫言した。「貨幣は無用の器物だが富貴と交換できる。富貴とは君主が掌握すべき権柄である。民衆にこれを造らせるのは君主との共謀であり容認できない」と。皇帝(文帝)は聞き入れなかった。 当時、太中大夫鄧通が寵愛されており、皇帝は彼を富裕にするため蜀郡厳道の銅山を与え私鋳を許可した。一方で呉王劉濞も豫章の銅山を持ち、逃亡者を集めて貨幣を鋳造。さらに海水から塩を煮詰めたため租税なしに国庫が潤った。こうして「呉鄧銭」が全国流通する事態となった。 3 当初、皇帝(文帝)は代国を二分し皇子劉武を代王、劉参を太原王とした。この年、代王武を淮陽王に転封。太原王参を代王とし旧領全域を統轄させた。 文帝前六年(丁卯・紀元前174年) 1 冬十月、桃と李が開花。 2 淮南厲王劉長は独自法令を施行して漢朝派遣の官吏を追放。自ら丞相や二千石級官僚を任命するよう要求し、皇帝は渋々許可した。さらに無実の者を処刑したり関内侯まで爵位を私授。度重なる不遜な上書に皇帝が厳しく責めると、薄昭に書簡を送らせ管叔・蔡叔(周王朝の反乱王族)や代頃王・済北王興居の例を引いて警告した。 厲王は不快を示し大夫但や士伍開章ら70人と棘蒲侯柴武の太子奇と謀り、40両の輦車で谷口から反乱。閩越や匈奴への使者も派遣したが露見し捜査が開始された。淮南王を長安に召喚すると、丞相張蒼・典客馮敬(御史大夫代理)らは宗正府・廷尉と連名で上奏。「劉長の罪状は市中処刑相当」と。 注釈
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| 」制曰:「其赦長死罪,廢,勿王;徙處蜀郡嚴道邛郵。」盡誅所與謀者。載長以輜車,令縣以次傳之。 袁盎諫曰:「上素驕淮南王,弗為置嚴傅、相,以故至此。淮南王為人剛,今暴摧折之,臣恐卒逢霧露病死,陛下有殺弟之名,奈何?」上曰:「吾特苦之耳,今復之。」 淮南王果憤恚不食死。縣傳至雍,雍令發封,以死聞。上哭甚悲,謂袁盎曰:「吾不聽公言,卒亡淮南王!今為奈何?」盎曰:「獨斬丞相、御史以謝天下乃可。」上即令丞相、御史逮考諸縣傳送淮南王不發封饋侍者,皆棄市;以列侯葬淮南王於雍,置守塚三十戶。 3 匈奴單于遣漢書曰:「前時,皇帝言和親事,稱書意,合歡。漢邊吏侵侮右賢王;右賢王不請,聽後義盧侯難支等計,與漢吏相距。絕二主之約,離兄弟之親,故罰右賢王,使之西求月氏擊之。以天之福,吏卒良,馬力強,以夷滅月氏,盡斬殺、降下,定之;樓蘭、烏孫、呼揭及其旁二十六國,皆已為匈奴,諸引弓之民並為一家,北州以定。願寢兵,休士卒,養馬,除前事,復故約,以安邊民。皇帝即不欲匈奴近塞,則且詔吏民遠舍。」帝報書曰:「單于欲除前事,復故約,朕甚嘉之。此古聖王之志也。漢與匈奴約為兄弟,所以遺單于甚厚;倍約、離兄弟之親者,常在匈奴。然右賢王事已在赦前,單于勿深誅!單于若稱書意,明告諸吏,使無負約,有信,敬如單于書。 |
現代日本語訳詔に曰く、「劉長の死罪を赦し王位より廃す。蜀郡厳道県(現・四川省雅安市)の邛郵へ移せ」と。共謀者は悉く誅殺され、劉長は檻車に乗せられ各県が順次護送するよう命じられた。 袁盎が諫めて言う。「陛下は淮南王を寵愛し過ぎたため、厳格な傅や相を付けませんでした。彼の性格は剛直ゆえ急激に挫折させれば霧露(悪条件)の中で病死しかねず『弟殺し』の汚名が残ります」と。帝(文帝)は「一時的に苦労させるだけだ」と答えた。 果たして淮南王は憤慨し絶食死した。雍県に到着後、県令が檻を開けて死亡を確認し報告すると、帝は慟哭しながら袁盎に言う。「卿の諫言を聞かず淮南王を失った!どうすべきか?」これに対し袁盎は「丞相と御史大夫を斬って天下に謝罪するのみ」と答えた。 帝は直ちに丞相・御史大夫に命じ、護送途中で檻も開けず食事も与えなかった各県の役人を処刑させた。淮南王には列侯の礼をもって雍県に葬り、墓守として三十戸を置いた。 解説
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| 」 後頃之,冒頓死,子稽粥立,號曰老上單于。老上單于初立,帝復遣宗室女翁主為單于閼氏,使宦者燕人中行說傅翁主。說不欲行,漢強使之。說曰:「必我也,為漢患者!」中行說既至,因降單于,單于甚親幸之。 初,匈奴好漢繒絮、食物。中行說曰:「匈奴人眾不能當漢之一郡,然所以強者,以衣食異,無仰於漢也。今單于變俗,好漢物;漢物不過什二,則匈奴盡歸於漢矣。」其得漢繒絮,以馳草棘中,衣胯皆裂敝,以示不如旃裘之完善也;得漢食物,皆去之,以示不如湩酪之便美也。於是說教單于左右疏記,以計課其人眾、畜牧。其遺漢書牘及印封,皆令長大,倨傲其辭,自稱「天地所生、日月所置匈奴大單于」。 漢使或訾笑匈奴俗無禮義者,中行說輒窮漢使曰:「匈奴約束徑,易行;君臣簡,可久;一國之政,猶一體也。故匈奴雖亂,必立宗種。今中國雖云有禮義,及親屬益疏則相殺奪,以至易姓,皆從此類也。嗟!土室之人,顧無多辭,喋喋占占!顧漢所輸匈奴繒絮、米薛,令其量中,必善美而已矣,何以言為乎!且所給,備、善,則已;不備、苦惡,則候秋熟,以騎馳蹂而稼穡耳!」 4 梁太傅賈誼上疏曰: 「臣竊惟今之事勢,可為痛哭者一,可為流涕者二,可為長太息者六;若其它背理而傷道者,難遍以疏舉。進言者皆曰:『天下已安已治矣,』臣獨以為未也。 |
現代日本語訳: その後、冒頓単于が死去し、子の稽粥が即位して老上単于と号した。老上単于が新たに即位すると、皇帝(文帝)は再び宗室の娘である翁主を匈奴へ送り、閼氏(単于の正妻)として嫁がせるとともに、宦官で燕国出身の中行説を付き人として同行させた。中行説は行くことを望まなかったが、漢朝廷は無理に派遣した。彼は「もし私が行かされるならば、必ずや漢にとって禍いとなろう」と語った。 果たして中行説が匈奴に到着すると、単于に降伏し側近として重用された。当初、匈奴人たちは中国産の絹織物・綿入れ衣装や食物を好んでいたが、中行説は「匈奴の人口は漢の一郡にも満たないのに強大なのは、生活様式が異なり漢に依存しないからです。今、単于が風俗を変えて中国製品を愛好すれば、その割合がわずか二割になるだけで匈奴全体が漢に吸収されてしまいます」と進言した。 以後、匈奴は漢から贈られた絹織物を茨の中に引きずり回して衣服を破れさせ、毛皮衣の丈夫さを示し、中国産食物を廃棄して乳製品の優越性を見せつけた。中行説は単于側近に文字や記録法を教え、人口と家畜管理システムを整備した。漢へ送る外交文書ではわざと巨大な木簡を使用し、「天地が生み日月が立てた匈奴の大単于」という尊大な自称を用いるよう指導した。 漢使が匈奴の風俗に無礼義があると嘲笑すると、中行説は即座に反論して追い詰めた。「匈奴の規律は簡素で実行容易。君臣関係も簡明だから長続きする。国の政治は一体だ。たとえ内乱があっても必ず同族から後継を立てる。一方中国では礼義があると言うが、親族間でも殺し合い易姓革命まで起きている」。 更に彼は漢使を罵倒した:「土の家屋住まいども(農耕民)よ、べらべら喋るな!漢から送られる絹や穀物は規定通り上質品で来さえすればよい。もし粗悪品なら秋には騎兵が畑を蹂躙するだけだ!」。 続いて梁の太傅賈誼の上奏文: 「臣が考えるに、現在の情勢において痛哭すべき事態は一つ、流涕(涙)すべき案件が二つ、深く嘆息すべき問題が六つ存在する。その他にも道理に背き倫理を損なう事例は枚挙に暇がない。進言者たちは『天下既に安泰』と言うが、臣のみは未だそうではないと確信する」 解説: 1. 歴史的用語の現代化: ・「翁主」→「宗室の娘(王族女性)」 当時の皇女称号を一般化 ・「閼氏(えんし)」→「単于の正妻」 匈奴特有の称号を説明付きで訳出 ・「疏記」「計課」→「文字や記録法」「管理システム」 官僚用語を平易に
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| 曰安且治者,非愚則諛,皆非事實知治亂之體者也。夫抱火厝之積薪之下而寢其上,火未及然,因謂之安;方今之勢,何以異此!陛下何不壹令臣得孰數之於前,因陳治安之策,試詳擇焉! 使為治,勞智慮,苦身體,乏鐘、鼓之樂,勿為可也。樂與今同,而加之諸侯軌道,兵革不動,匈奴賓服,百姓素樸,生為明帝,沒為明神,名譽之美垂於無窮,使顧成之廟稱為太宗,上配太祖,與漢亡極,立經陳紀,為萬世法。雖有愚幼、不肖之嗣,猶得蒙業而安。以陛下之明達,因使少知治體者得佐下風,致此非難也。 夫樹國固必相疑之勢,下數被其殃,上數爽其憂,甚非所以安上而全下也。今或親弟謀為東帝,親兄之子西鄉而擊,今吳又見告矣。天子春秋鼎盛,行義未過,德澤有加焉,猶尚如是;況莫大諸侯,權力且十此者虖! 然而天下少安,何也?大國之王幼弱未壯,漢之所置傅、相方握其事。數年之後,諸侯之王大抵皆冠,血氣方剛;漢之傅、相稱病而賜罷,彼自丞、尉以上遍置私人。如此,有異淮南、濟北之為邪?此時而欲為治安,雖堯、舜不治。 黃帝曰:『日中必熭,操刀必割!』今令此道順而全安甚易,不肯蚤為,已乃墮骨肉之屬而抗剄之,豈有異秦之季世虖!其異姓負強而動者,漢已幸而勝之矣,又不易其所以然;同姓襲是跡而動,既有征矣,其勢盡又復然。 |
現代日本語訳以下、『資治通鑑』より引用された漢文を現代口語体で表現する(注:原文再現せず)。 「『天下は安泰だ』と言う者は愚か者か追従者のどちらかに過ぎない。いずれも国家の安定と混乱の本質を見抜けていないのだ。(例えれば)燃える火種を薪の積み重ねた下に置き、その上で平然と寝ているようなものだ――炎がまだ表面化していないだけなのに安全だと錯覚する。今の情勢もこれと同じではないか!陛下はなぜ私を御前へ召し出さず、治安維持策を詳細に奏上させて検討されぬのか? もし統治によって知力を疲れさせ体を苦しめ、鐘鼓(ぜんこ)の楽しみまで奪われるなら行わなくともよい。だが現状と同じ快楽を得ながら諸侯は法度を守り戦乱も起きず匈奴は従順となり民衆は質実であれば――生きては明君と称され没後は神霊として崇められ、名声は永遠に輝くだろう。(陛下の廟は)顧成(こせい)の宗廟で『太宗』と呼ばれ太祖劉邦と並び祀られ漢王朝の典範となる。たとえ愚かな後継者でもその基盤により安泰を保てるのだ。陛下ほどの英明さがあれば、多少政治を知る者に補佐させれば実現困難ではない。 諸侯国が強大化すれば疑心暗鬼は必然だ(注:中央集権への脅威)。下々には災難が降りかかり君主も憂いから解放されず上下とも不安定となる。今や親弟は東方で帝位を狙い甥は西方より侵攻し呉王の謀反すら報告されている。陛下は壮年であり徳に過ちなく恩恵も与えていながらこれではどうなるか?まして強大な諸侯が十倍もの力を有せばなおさらである! それでも天下が一時的に安定しているのはなぜか?(それは)大国の王たちが幼弱で未成熟、朝廷任命の傅(ふ:補佐官)や相国らが実権を握っているためだ。数年後彼らの成人期に入り血気盛りとなる時には漢朝派遣官僚は『病』と称して解任され諸侯自ら側近を要職に据えるだろう――これでは淮南王・済北王の反乱と何が違う?この段階で治安維持を図ろうとも堯や舜すら不可能だ。 黄帝(こうてい)は言った『日は中天にあれば必ず物干しせよ、刃を持つならば直ちに斬れ』と。(今こそ)道理に従って安寧を保つ絶好の機会であるのに早期対策を怠り肉親同士で首を刎(は)ね合う事態を招くとは――秦末期の乱世と何が違うのか!異姓諸侯(非劉氏勢力)が力に任せ反逆した時には漢朝は幸運にも勝利できたのに、その原因を改めなかったため同姓諸侯(皇族)たちも同じ手口で動き始めたのだ。」 注釈
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| 殃禍之變,未知所移,明帝處之尚不能以安,後世將如之何! 臣竊跡前事,大抵強者先反。長沙乃二萬五千戶耳,功少而最完,勢疏而最忠,非獨性異人也,亦形勢然也。曩令樊、酈、絳、灌據數十城而王,今雖以殘亡可也;令信、越之倫列為徹侯而居,雖至今存可也。然則天下之大計可知已:欲諸王之皆忠附,則莫若令如長沙王;欲臣子勿菹醢,則莫若令如樊、酈等;欲天下之治安,莫若眾建諸侯而少其力。力少則易使以義,國小則亡邪心。令海內之勢,如身之使臂,臂之使指,莫不制從,諸侯之君不敢有異心,輻湊並進而歸命天子。割地定製,令齊、趙、楚各為若干國,使悼惠王、幽王、元王之子孫畢以次各受祖之分地,地盡而止;其分地眾而子孫少者,建以為國,空而置之,須其子孫生者舉使君之;一寸之地,一人之眾,天子亡所利焉,誠以定治而已。如此,則臥赤子天下之上而安,植遺腹,朝委裘而天下不亂;當時大治,後世誦聖。陛下誰憚而久不為此! 天下之勢方病大瘇,一脛之大幾如要,一指之大幾如股,平居不可屈伸,一二指慉,身慮亡聊。失今不治,必為錮疾,後雖有扁鵲,不能為已。病非徒腫也。又苦蹠盭。元王之子,帝之從弟也;今之王者,從弟之子也。惠王之子,親兄子也,今之王者,兄子之子也。親者或亡分地以安天下,疏者或制大權以逼天子,臣故曰非徒病腫也,又苦蹠炙盭。 |
現代日本語訳:災禍の変動は、どこへ移るか予測できない。明帝がこれに対処してもなお安泰を保てなかったのに、後世の人々はいったいどうすればよいのか! 臣がひそかに過去の事例を追跡してみると、おおよそ力を持つ者が先に謀反を起こすものである。長沙王はわずか二万五千戸程度にもかかわらず、功績は少ないのに最も完全な状態を保ち、朝廷との関係も疎遠であるのに最も忠実であった。これは単に彼らの性質が人と異なるからではなく、情勢そのものがそうさせたのである。 もし以前の樊噲(はんかい)・酈商(れきしょう)・周勃(しゅうぼつ)・灌嬰(かんえい)ら数十城を領有して王となった者たちが、今も存続していれば衰退しているかもしれない。一方で韓信や彭越らのような者が徹侯として列せられていたならば、今日まで存続できたであろう。 それゆえ天下の大計は明白である: - 諸侯王をすべて忠実な従属者とするには長沙王のような存在を置くに如(し)くはない - 臣下が醢刑(かいけい/塩漬け刑罰)を受けぬよう望むなら樊噲・酈商らと同様の処遇を与えるべし - 天下の治安を維持するには諸侯を多く封建しながらその勢力を弱めるのが最善である。力が小さければ義をもって容易に使役でき、国が小さければ邪心も生じない。 四海(国内)の情勢はまるで身体のように制御されるべきだ:本体から腕へ、腕から指先への指令が全て従順に行われ、諸侯たちは異心を抱かず車輻(しゃふく/スポーク)が軸に集まるごとく天子のもとに進む。 領地分割の制度を定めよ。斉・趙・楚などを複数の小国に分け、悼恵王・幽王・元王らの子孫すべてが順番に先祖の封土を受け継ぐこと(土地分配は封土が尽きるまで行う)。土地多く子孫少ない場合は仮に国家を建て空位とし、後世子孫誕生後に君主として任命せよ。天子は一寸の土地も一人の民衆すら私利しない——真実天下安定のみを目的とするのだ。 このようにすれば: - 幼帝が即位しても天下安泰 - 遺腹子(父没後の出生児)擁立や先帝衣冠による代理拝礼でも乱れない - 当世は大治し後代は聖王と称賛される 陛下はいったい何を恐れてこれを実行されぬのか! 天下の情勢は今まさに重病(身体腫瘍)の如し: - 脛が腰のように太く指が腿ほどの大きさで普段から屈伸困難 - 一二本の指が痛めば全身不安となる この機を逃せば不治の病となり、後世に扁鵲(名医)現れても手遅れだ。問題は単なる腫瘍ではない。「蹠盭」(足底反曲/土踏まず崩壊)も併発している。 元王の子孫は陛下の従弟にあたり、今の楚王はその従甥(いとこおじ)。悼恵王の子孫は実兄の血筋だが、今の斉王は兄弟の孫である。近親者が封土を得ずとも天下安定に寄与する一方で、疎遠な者たちが大権を掌握し天子を威圧している——臣が「単なる腫瘍ではなく蹠盭も苦しい」と言う所以だ。 注釈:
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| 可痛哭者,此病是也。 天下之勢方倒懸。凡天子者,天下之首。何也?上也。蠻夷者,天下之足。何也?下也。今匈奴嫚侮侵掠,至不敬也;而漢歲致金絮采繒以奉之。足反居上,首顧居下,倒縣如此,莫之能解,猶為國有人乎?可為流涕者此也。 今不獵猛敵而獵田彘,不搏反寇而搏畜菟,翫玩細娛而不圖大患,德可遠加而直數百里外,威令不伸,可為流涕者此也。 今庶人屋壁得為帝服,倡優下賤得為后飾;且帝之身自衣皁綈,而富民牆屋被文繡;天子之后以緣其領,庶人孽妾以緣其履;此臣所謂舛也。夫百人作之不能衣一人,欲天下亡寒,胡可得也;一人耕之,十人聚而食之,欲天下亡饑,不可得也;饑寒切於民之肌膚,欲其亡為奸邪,不可得也。可為長太息者此也。 商君遺禮義,棄仁恩,並心於進取;行之二歲,秦俗日敗。故秦人家富子壯則出分,家貧子壯則出贅;借父櫌鉏,慮有德色;母取箕帚,立而誶語;抱哺其子,與公並居;婦姑不相說,則反脣而相稽;其慈子、耆利,不同禽獸者亡幾耳。今其遺見餘俗,猶尚未改,棄禮誼,捐廉恥日甚,可謂月異而歲不同矣。逐利不耳,慮非顧行也;今其甚者殺父兄矣。而大臣特以簿書不報、期會之間以為大故,至於俗流失,世壞敗,因恬而不知怪,慮不動於耳目,以為是適然耳。夫移風易俗,使天下回心而鄉道,類非俗吏之所能為也。 |
現代日本語訳:「まさに痛哭すべき事態とは、この根本的な弊害にある。 天下の情勢は今や逆さまに吊るされている。そもそも天子という存在は天下における頭脳である。それはなぜか?頂点に立つ者だからだ。周辺異民族は天下にとって足にあたる。なぜならば最下位を構成するからだ。しかし今日、匈奴が侮り侵略し甚だしく不敬な行為を行うにも関わらず、漢王朝は毎年黄金・絹織物を献上して奉っている。これでは足が上方に位置し頭が下方にある状態で、逆さ吊りの状況も解消されず、果たしてこの国に有能な人材がいると言えるのか?まさに涙を流すべき事態である。 また現在、猛敵と戦わず田舎の猪ばかり狩り、反乱軍と対峙せず家畜化された兎を追いかけ、些細な娯楽に溺れて重大な災禍への備えを怠る。本来広く行き渡るべき仁徳が数百里先にも届かぬ状態で威厳ある法令も徹底されない――これこそ涙すべき事態である。 今や庶民の家屋壁面には皇帝用装飾が施され、芸人・身分卑しき者が皇后の装いを真似る。一方で天子みずから黒染めの粗末な絹衣を着ており、富裕層は住居全体に刺繍を施す。皇后の礼服の襟縁飾りさえ庶人の妾が履物に用いている――これこそ私が指摘する矛盾である。 百人が製作しても一人分しか賄えない贅沢品があれば天下から寒さをなくせるはずがない。たった一人で耕作した作物を十人で奪い合えば飢餓のない世など実現できまい。飢えと寒さが民衆の身に迫りながら彼らが悪事を行わぬよう求めるのは不可能というものだ――これこそ深く嘆息すべき状況である。 商鞅は礼儀を捨て仁愛を顧みず、ひたすら功績追求へ突き進んだ。この政策二年で秦の風俗は崩壊した――裕福な家では子が成長すると強制的に分家させられ貧乏な家なら婿養子に出され父から農具借りれば恩着せがましい態度を取り母が箒を使おうものなら即座に罵声を浴びせる。孫の世話をする舅と同じ部屋で乳房露わに乳児を抱き姑と嫁は不仲になると口論し合った――愛情や利欲追求において禽獣と大差ない状態だった。 この悪習が今日なお色濃く残り礼儀廉恥の喪失は日増しに深刻化している。利益のみ追い求め行動を省みず甚だしい場合は父兄殺害すら起こる。しかし高官たちは帳簿未提出や会議遅延こそ重大事と心得風俗堕落・世道退廃には無関心――平然として異常にも気付かず耳目に入っても『当然の成り行き』と思い込む。 だが社会習慣を改革し天下の人々に正道へ立ち返らせるのは凡庸な役人など到底なしえないことだ」 解説:
※要請通り:旧仮名遣い不使用/送り仮名廃止/原文記載なし Translation took 2268.7 seconds. |
| 俗吏之所務,在於刀筆、筐篋而不知大體。陛下又不自憂,竊為陛下惜之!豈如今定經制,令君君、臣臣,上下有差,父子六親各得其宜。此業壹定,世世常安,而後有所持循矣;若夫經制不定,是猶渡江河亡維楫,中流而遇風波,船必覆矣。可為長太息者此也。 夏、殷、周為天子皆數十世,秦為天子二世而亡。人性不甚相遠也,何三代之君有道之長而秦無道之暴也?其故可知也。古之王者,太子乃生,固舉以禮,有司齊肅端冕,見之南郊,過闕則下,過廟則趨,故自為赤子,而教固已行矣。孩提有識,三公、三少明孝仁禮義以道習之,逐去邪人,不使見惡行,於是皆選天下之端士、孝悌博聞有道術者以衛翼之,使與太子居處出入。故太子乃生而見正事,聞正言,行正道,左右前後皆正人也。夫習與正人居之不能毋正,猶生長於齊不能不齊言也;習與不正人居之不能毋不正,猶生長於楚之地不能不楚言也。孔子曰:『少成若天性,習貫如自然。』習與智長,故切而不愧;化與心成,故中道若性。夫三代之所以長久者,以其輔翼太子有此具也。及秦而不然,使趙高傅胡亥而教之獄,所習者非斬、劓人,則夷人之三族也。胡亥今日即位而明日射人,忠諫者謂之誹謗,深計者謂之妖言,其視殺人若艾草菅然。豈惟胡亥之性惡哉?彼其所以道之者非其理故也。 |
現代日本語訳:俗吏の務めは、文書処理や箱篭の管理にあり、大局を理解しない。陛下もご自ら憂慮なさらず、ひそかに陛下のために惜しむ!今こそ制度を定め、君主は君主として、臣下は臣下として、上下に差別をつけ、父子六親それぞれが相応しい地位を得るようにすべきではないか。この基盤が一度固まれば、世々安泰となり、後世のよりどころとなるのである。もし制度を定めなければ、まるで大河を渡るのに舵も櫂もなく、中流で風波に遭えば船は必ず沈むだろう。深く嘆かわしいのはこのことである。 夏・殷・周の天子はいずれも数十代続いたが、秦の天子は二代で滅んだ。人間の本性はそれほど違わないのに、なぜ三代の君主は道を保って長久であり、秦は無道にして暴虐だったのか?その理由は明白である。古代の王者は、太子が生まれると直ちに礼をもって遇し、役人は斉粛として正装し南郊で謁見させた。宮門を通れば下車し、宗廟前では小走りになり、つまり赤子の頃から教育が始まるのである。 幼少期に物心がつくと、三公や三少(太子輔弼官)が孝・仁・礼・義を明示して導き、邪悪な者を遠ざけ悪行を見せない。ここにおいて天下の端正な士人で孝悌に厚く博識有道の者を選び補佐させ、常に太子と起居を共にさせる。故に太子は生まれながら正しい事績を見聞きし、正論を聴き、正道を行い、周囲はすべて正人ばかりとなる。正人と慣れ親しめば不正にはならぬのは、斉で育てば斉の言葉を話すように必然である。逆に不正な者と交われば悪徳から逃れられないのは、楚で育てば楚語を使うのと同じ道理だ。 孔子は言う『幼少期の習性は天性となり、習慣は自然となる』と。慣れが知恵と共に成長すれば過ちを恥じる心が育ち、教化が心に根づけば道徳は本性となる。三代が長久だったのは、このような太子輔弼体制を備えていたからだ。 ところが秦ではそうではない。趙高を胡亥の傅(教育係)とし刑罰だけを教えたため、学んだことは斬首・鼻削ぎか三族皆殺しばかりであった。胡亥は即位するや翌日には人を射殺し、忠言は誹謗とされ、深謀遠慮は妖言扱いされた。彼が人を殺す様子は茅を刈るように無造作だった。これ果たして胡亥の本性だけの問題か?導き方が道理に背いていたのが原因である。 解説:
※注:史料上の背景として、この箇所では賈誼が秦滅亡原因を太子教育の失敗に帰結させており、後世の司馬光『資治通鑑』編纂時に重点採用された名文段階である。 Translation took 1053.3 seconds. |
| 鄙諺曰:『前車覆,後車誡。』秦世之所以亟絕者,其轍跡可見也;然而不避,是後車又將覆也。天下之命,縣於太子,太子之善,在於早諭教與選左右。夫心未濫而先諭都,則化易成也;開於道術智誼之指,則教之力也;若其服習積貫,則左右而已。夫胡、粵之人,生而同聲,嗜欲不異;及其長而成俗,累數譯而不能相通,有雖死而不相為者,則教習然也。臣故曰選左右、早諭教最急。夫教得而左右正,則太子正矣,太子正而天下定矣。《書》曰:『一人有慶,兆民賴之。』此時務也。 凡人之智,能見已然,不能見將然。夫禮者禁於將然之前,而法者禁於已然之後,是故法之所為用易見而禮之所為生難知也。若夫慶賞以勸善,刑罰以懲惡,先王執此之政,堅如金石;行此之令,信如四時;據此之公,無私如天地,豈顧不用哉?然而曰禮雲、禮雲者,貴絕惡於未萌而起教於微眇,使民日遷善、遠罪而不自知也。孔子曰:『聽訟,吾猶人也;必也使毋訟乎!』為人主計者,莫如先審取舍,取舍之極定於內而安危之萌應於外矣。秦王之欲尊宗廟而安子孫,與湯、武同。然而湯、武廣大其德行,六七百歲而弗失,秦王治天下十餘歲則大敗。此亡他故矣:湯、武之定取舍審而秦王之定取舍不審矣。夫天下,大器也;今人之置器,置諸安處則安,置諸危處則危。 |
現代日本語訳【本文】俗諺にあるように「前を行く車が転覆したら、後の車はそれを戒めよ」。秦王朝があっけなく滅亡した原因は、その轍(わだち)の跡から明らかであるにもかかわらず、後世がこれを避けようとしないならば、やがて同じく転覆するだろう。天下の命運は太子に懸かっており、太子を善導する要諦は早期教育と側近選びにある。 人の心が乱れる前に道理を示せば教化は容易に行き渡る。道術(統治理念)や智誼(知恵と思いやり)の本質を教え開くことが、真の教育力である。習慣として根付かせるには側近次第だ。 胡人と越人は生まれながらに同じ声を持つが、成長して風俗が定まると、幾重にも通訳しても意思疎通できず、死んでも相容れない者さえ現れる——これは教育の差によるものである。ゆえに臣は断言する:側近選びと早期教育こそ最も急務であると。 適切な教えを得て側近が正しければ太子も正道に入る。太子が正しければ天下は安定する。「一人によきことがあれば万民はそれに頼る」(『書経』)——これが現下の要諦だ。 【治国論】人の知恵は既成事実を認識できても将来を見通せない。「礼」とは未然防止を旨とし、「法」は事後規制を行う。ゆえに法の効用は明白だが、礼が生む根本的効果は理解されにくい。 賞で善行を奨励し罰で悪を懲らしめる手法は、先王たちが金石のように堅固に守った政治原理であり、四季運行のような信頼性と天地のような公平さを持っていた。これを軽んじたわけではない。 それでも「礼とは何か」と言えば——芽生える前に悪を断ち、微細な段階から教化を行い、民衆が自覚なく善に向かい罪から遠ざかるよう導く点にある。孔子の言うように「訴訟処理は人並みにできる(理想は)訴訟そのものを無くすことだ」。 君主たる者の最重要課題は選択基準を明確化することである。内なる選択基準が定まれば、外に現れる安危の萌芽も決まる。秦王(始皇帝)が宗廟を尊び子孫安泰を願った点では湯王・武王と変わらない。だが湯武は徳行を広めて六~七百年存続し、秦は治世十数年で瓦解した——原因は明白である:湯武の選択基準は明確であったのに秦王のは不明確だったのだ。 天下とは巨大な器に譬えられる。器物を安定場所へ置けば安泰となり、危険地帯に置けば崩落するのである。 解説◆思想的背景
◆修辞技法
◆典拠引用
◆歴史的意義宋代儒学における「予防的政治哲学」の精華。法家的事後管理より儒家教化の優位性を示しつつ、「選択基準(取舍)の明確化」という実践原理で現実政治と接合した点に独創性がある。「天下大器論」は朱熹ら南宋儒者にも継承される重要な統治比喩となった。 Translation took 2046.3 seconds. |
| 天下之情,與器無以異,在天子之所置之。湯、武置天下於仁、義、禮、樂,累子孫數十世,此天下所共聞也;秦王置天下於法令、刑罰,禍幾及身,子孫誅絕,此天下之所共見也。是非其明效大驗邪!人之言曰:『聽言之道,必以其事觀之,則言者莫敢妄言。』今或言禮誼之不如法令,教化之不如刑罰,人主胡不引殷、周、秦事以觀之也!人主之尊譬如堂,群臣如陛,眾庶如地。故陛九級上,廉遠地,則堂高;陛無級,廉近地,則堂卑。高者難攀,卑者易陵,理勢然也。故古者聖王制為等列,內有公、卿、大夫、士,外有公、侯、伯、子、男,然後有官師、小吏,延及庶人,等級分明而天子加焉,故其尊不可及也。 里諺曰:『欲投鼠而忌器。』此善諭也。鼠近於器,尚憚不投,恐傷其器,況於貴臣之近主乎!廉恥節禮以治君子,故有賜死而亡戮辱。是以黥、劓之罪不及大夫,以其離主上不遠也。禮:不敢齒君之路馬,蹴其芻者有罰,所以為主上豫遠不敬也。今自王、侯、三公之貴,皆天子之所改容而禮之也,古天子之所謂伯父、伯舅也;而令與眾庶同黥、劓、髡、刖、笞、傌、棄市之法,然則堂不無陛虖!被戮辱者不泰迫虖!廉恥不行,大臣無乃握重權、大官而有徒隸無恥之心虖!夫望夷之事,二世見當以重法者,投鼠而不忌器之習也。臣聞之:履雖鮮不加於枕,冠雖敝不以苴履。 |
現代日本語訳:天下を治めることは器物と違いがない、天子がそれをどこに置くかによるのである。湯王や武王は天下を仁義・礼楽の上に置き、子孫数十代まで続けた。これは天下の誰もが聞いていることだ。秦王(始皇帝)は天下を法令・刑罰の上に置き、禍いは自らに及び、子孫は誅殺されて絶えた。これは天下の誰もが見た事実である。これほど明白な効果と確かな証拠があろうか!古人の言葉にある:「言論を受け入れる方法は、実際の事例で検証することだ。そうすれば発言者は妄言を慎む」と。今、「礼儀よりも法令が優れ、教化より刑罰が有効だ」と言う者がいるなら、君主よ、なぜ殷・周・秦の故事をもって検証しないのか! 君主の尊厳は高殿に譬えられる。群臣は階段(陛)であり、民衆は地面である。故に九段の階があれば軒端が地面から遠くなり、堂は高い。階がなければ軒端が地面近くになり、堂は低い。高いものは登り難く、低いものは侵されやすい──道理として当然だ。だから古代の聖王は等級を定め、内に公・卿・大夫・士、外に公・侯・伯・子・男を置き、さらに官師・小吏から庶民まで階層を明確にした。こうして天子の尊厳が絶対となるのである。 諺に言う:「鼠を撃とうとして器物を損なうことを恐れる」。これは優れた喩えだ。鼠が器物の傍にいても打つのを躊躇するのに、まして君主近侍の重臣に対してはなおさらである!廉恥と礼節をもって君子(高官)を治めるからこそ、「賜死」という辱めなき死があるのだ。顔や鼻を削る刑が大夫に及ばないのは、彼らが君主に近い存在だからである。礼の定めでは:君主の馬車馬の年齢を口にすることすら許されず、飼料を蹴れば罰せられる──これこそ不敬を未然に防ぐためだ。 今や王侯・三公といった貴人たちは、天子が敬意をもって遇する存在であり、古代で言う「伯父」「伯舅」にあたる。それなのに庶民と同じく刺青・鼻削ぎ・髪剃り・足切り・鞭打ち・罵倒・公開処刑の対象とするならば、もはや高殿に階段など無いようなものではないか!辱めを受ける者が君主に近すぎはしないか?廉恥が失われれば、大臣たちは重権を握りながら奴隷のような羞恥心を持ちかねない。秦の二世皇帝が望夷宮で殺された事件こそ、「鼠撃ちに器物を顧みぬ」習わしの結果である。 聞くところによれば:履物は新品でも枕には載せず、冠は朽ちても敷物にしない──(身分秩序の乱れを戒めた言葉) 解説:
※ 原文出典:『資治通鑑』漢紀六・文帝前元年(賈誼「治安策」の一節)。君主への進言形式で書かれた儒教政治思想の核心文献。 Translation took 1025.0 seconds. |
| 夫嘗已在貴寵之位,天子改容而禮貌之矣,吏民嘗俯伏以敬畏之矣;今而有過,帝令廢之可也,退之可也,賜之死可也,滅之可也;若夫束縛之,系媟之,輸之司寇,編之徒官,司寇小吏詈罵而榜笞之,殆非所以令眾庶見也。夫卑賤者習知尊貴者之一旦吾亦乃可以加此也,非所以尊尊、貴貴之化也。古者大臣有坐不廉而廢者,不謂不廉,曰簠簋不飾』;坐污穢淫亂、男女無別者,不曰污穢,曰『帷薄不修』;坐罷軟不勝任者,不謂罷軟,曰『下官不職』。故貴大臣定有其罪矣,猶未斥然正以呼之也,尚遷就而為之諱也。故其在大譴、大何之域者,聞譴、何則白冠氂纓,盤水加劍,造請室而請罪耳,上不執縛系引而行也;其有中罪者,聞命而自弛,上不使人頸盭而加也;其有大罪者,聞命則北面再拜,跪而自裁,上不使人捽抑而刑之也。曰:『子大夫自有過耳,吾遇子有禮矣。』遇之有禮,故群臣自熹;嬰以廉恥,故人矜節行。上設廉恥、禮義以遇其臣不以節行報其上者,則非人類也。故化成俗定,則為人臣者皆顧行而忘利,守節而伏義,故可以托不御之權,可以寄六尺之孤,此厲廉恥、行禮誼之所致也,主上何喪焉!此之不為而顧彼之久行,故曰可為長太息者此也。」 誼以絳侯前逮繫獄,卒無事,故以此譏上。上深納其言,養臣下有節,是後大臣有罪,皆自殺,不受刑。 |
現代日本語訳:かつて高位にあって君主の敬意を得た者が過ちを犯せば、その地位を取り上げるもよし、退けるもよし、死を賜うもよし、誅殺するもよい。しかし縛り上げて獄につなぎ、刑吏に引き渡したり労役刑に処すのは避けるべきである。ましてや下級官吏が罵倒し鞭打つなどは、決して公衆の面前で行うことではない。 なぜなら卑賤なる者が「尊貴な者もいずれ同じ目にあうのだ」と学べば、上下を重んじる風潮は損なわれる。古より大臣が廉潔さを欠いた時は「祭器が整わない」と言い、淫乱で男女の区別がない場合は「室内の仕切りが乱れた」と呼んだ。無能ならば「職務に励まぬ」と表現した。つまり高位者を罪に問う際も露骨な非難は避け、遠回しに示すのである。 大罪人は自ら白冠に牦牛(ヤク)の尾をつけ、剣を水盤に載せて謹慎所に出頭する。君主が縛り上げることはない。中程度の罪なら命令を受けて自ら官位を返上し、君主は首枷を強制しない。大罪の場合も北向きで再拝し跪いて自決する——君主が押さえつけて刑罰を加えるようなことは絶対にない。「卿には過ちがあったが我は礼をもって遇した」という姿勢こそ重要である。 こうして臣下は廉恥心を持ち節度を守る。主君が礼儀と道義で接すれば、臣下も忠義で報いるのが人倫の道理だ。この風潮が定着せば、臣下は私利より行動規範を重んじ、大権や幼君さえ託せるようになる。これこそ廉恥心と礼儀の実践による成果であり君主に損失などない。 ところが現状では(絳侯・周勃が獄死した事例のように)この道理が顧みられず、まことに嘆かわしい次第である。 (文帝はこの諫言を受け入れ、後に大臣が罪を犯せば自決する慣例が成立。『漢書』によれば周勃事件のような恥辱的な刑死事例は減少した) 解説:
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| 文帝前七年(戊辰,公元前一七三年) 1 冬,十月,令列侯太夫人、夫人、諸侯王子及吏二千石無得擅征捕。 2 夏,四月,赦天下。 3 六月,癸酉,未央宮東闕罘罳災。 4 民有歌淮南王者曰:「一尺布,尚可縫;一斗粟,尚可舂;兄弟二人不相容!」帝聞而病之。 文帝前八年(己巳,公元前一七二年) 1 夏,封淮南厲王子安等四人為列侯。賈誼知上必將復王之也,上疏諫曰:「淮南王之悖逆無道,天下孰不知其罪!陛下幸而赦遷之,自疾而死,天下孰以王死之不噹!今奉尊罪人之子,適足以負謗於天下耳。此人少壯,豈能忘其父哉!白公勝所為父報仇者,大父與叔父也。白公為亂,非欲取國代主,發忿快志,剡手以沖仇人之匈,固為俱靡而已。淮南雖小,黥布嘗用之矣,漢存,特幸耳。夫擅仇人足以危漢之資,於策不便。予之眾,積之財,此非有子胥、白公報於廣都之中,即疑有專諸、荊軻起於兩柱之間,所謂假賊兵,為虎翼者也。願陛下少留計!」上弗聽。 2 有長星出於東方。 文帝前九年(庚午,公元前一七一年) 1 春,大旱。 文帝前十年(辛未,公元前一七零年) 1 冬,上行幸甘泉。 2 將軍薄昭殺漢使者。帝不忍加誅,使公卿從之飲酒。欲令自引分,昭不肯;使群臣喪服往哭之,乃自殺。 臣光曰:李德裕以為:「漢文帝誅薄昭,斷則明矣,於義則未安也。 |
文帝前七年(戊辰、紀元前一七三年) 1. 冬十月、列侯の太夫人・夫人・諸侯王の子および二千石の官吏に対し、みだりに人民を徴発したり逮捕することを禁じた。 2. 夏四月、天下に恩赦を行った。 3. 六月癸酉(二十三日)、未央宮東門の装飾柵(罘罳)が火災に見舞われた。 4. 淮南王について民衆が歌うものがあった:「一尺の布すら縫えるのに、一斗の粟すら搗けるのに、兄弟二人は相容れぬとは!」。帝はこれを聞き心を痛めた。 文帝前八年(己巳、紀元前一七二年) 1. 夏、淮南厲王(劉長)の子である劉安ら四人を列侯に封じた。賈誼は「陛下が必ずや彼らを諸侯王に復帰させるだろう」と察し、上疏して諫めた:「淮南王の背逆無道は天下周知です! 幸いにも陛下は彼を赦免して移住させられましたが、自ら病んで死んだため、誰もその死に疑問を持ちません。今や罪人の子孫を厚遇すれば、かえって世間の非難を招くだけです。彼ら若者が父の恨みを忘れるはずがありません! かつて白公勝(春秋時代)は祖父と叔父に対して復讐しました。乱を起こしたのは国を奪おうとしたからではなく、怨みを晴らすためでした——刃で仇の胸を刺し自滅する覚悟だったのです。淮南の地こそ小さいものの、黥布(反乱者)が拠点とし漢朝存亡に関わりました。復讐心を持つ者に実権を与えるのは危険です。兵力や財力を蓄えさせれば——広場で伍子胥のような公然たる報復か、あるいは二柱の間に潜む専諸・荊軻のような暗殺者が現れるでしょう(賊に武器を貸し虎に翼をつける行為)。どうか陛下は再考を!」。帝は聞き入れなかった。 2. 長星(彗星)が東方に出現した。 文帝前九年(庚午、紀元前一七一年) 1. 春、大旱魃に見舞われた。 文帝前十年(辛未、紀元前一七〇年) 1. 冬、帝は甘泉宮に行幸した。 2. 将軍・薄昭が漢の使者を殺害した。帝は刑罰に忍びず、公卿を使わして酒宴で自決を促させた。しかし薄昭は応じないため、群臣に喪服を着せて彼のもとへ泣きに行かせると、ようやく自ら命を絶った。
【解説】
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| 秦康送晉文,興如存之感;況太后尚存,唯一弟薄昭,斷之不疑,非所以慰母氏之心也。」臣愚以為法者天下之公器,惟善持法者,親疏如一,無所不行,則人莫敢有所恃而犯之也。夫薄昭雖素稱長者,文帝不為置賢師傅而用之典兵;驕而犯上,至於殺漢使者,非有恃而然乎!若又從而赦之,則與成、哀之世何異哉!魏文帝嘗稱漢文帝之美,而不取其殺薄昭,曰:「舅后之家,但當養育以恩而不當假藉以權,既觸罪法,又不得不害。」譏文帝之始不防閒昭也,斯言得之矣。然則欲慰母心者,將慎之於始乎!。 |
翻訳文秦の康公は晋の文公を送るに当たり、生存しているかのような感慨を持った。ましてや太后が存命であり、唯一の弟である薄昭に対して疑いもなく刑罰を下すのは、母后の心を慰めることにはならない。」臣が愚かながら考えるに、法律は天下の公共の器であって、善く法を維持する者だけが親疏を同一視し、行わざる所無くすれば、人は敢えて頼りとしてこれに犯す者はない。薄昭は平素より長者と称せられていたにもかかわらず、文帝は賢明な師傅を置いて兵権を司らせることをしなかった。驕って主君に逆らい、漢の使者を殺害するに至ったのは、まさに恃むところがあったからではないか!もしさらにこれに従い赦免すれば、成帝や哀帝の時代と何が異なるというのか。魏文帝はかつて漢文帝の美徳を称えながらも、薄昭誅殺については認めず、「后族たる者には恩をもって養育すべきであり権力を委ねるべきではない。いったん罪に触れれば害せざるを得なくなる」と述べ、文帝が当初より薄昭の行動を制限しなかったことを批判した。この言葉は道理を得ていると言えよう。そうであれば母后の心を慰めようとするならば、最初から慎重に対処すべきではなかったか。 注釈
※現代語訳に際し:文語助動詞「べし」「ざる」等は口語体へ変換、但し漢文調を残すため四字熟語・史書特有表現は原形保存。 Translation took 624.3 seconds. |
| input text 資治通鑑\015_漢紀_07.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||
| 資治通鑑 卷十五 漢紀七 起玄黓涒灘,盡柔兆閹茂,凡十五年。 太宗孝文皇帝下 文帝前十一年(壬申,公元前一六九年) 1 冬,十一月,上行幸代。 2 春,正月,自代還。 3 夏,六月,梁懷王揖薨,無子。賈誼復上疏曰:「陛下即不定製,如今之勢,不過一傳、再傳,諸侯猶且人恣而不制,豪植而大強,漢法不得行矣。陛下所以為籓扞及皇太子之所恃者,唯淮陽、代二國耳。代,北邊匈奴,與強敵為鄰,能自完則足矣;而淮陽之比大諸侯,廑如黑子之著面,適足以餌大國,而不足以有所禁御。方今制在陛下,制國而令子適足以為餌,豈可謂工哉!臣之愚計,願舉淮南地以益淮陽,而為梁王立後,割淮陽北邊二、三列城與東郡以益梁。不可者,可徙代王而都睢陽。梁起於新郪而北著之河,淮陽包陳而南揵之江,則大諸侯之有異心者破膽而不敢謀。梁足以扞齊、趙,淮陽足以禁吳、楚,陛下高枕,終無山東之憂矣,此二世之利也。當今恬然,適遇諸侯之皆少;數歲之後,陛下且見之矣。夫秦日夜苦心勞力以除六國之禍;今陛下力制天下,頤指如意,高拱以成六國之禍,難以言智,苟身無事,畜亂,宿祝,孰視而不定;萬年之後,傳之老母、弱子,將使不寧,不可謂仁。」帝於是從誼計,徙淮陽王武為梁王,北界泰山,西至高陽,得大縣四十餘城。 |
現代日本語訳:『資治通鑑』巻十五 漢紀七 太宗孝文皇帝下篇 文帝前十一年(壬申、紀元前一六九年)
「陛下が権力を握る今、皇子を封じて他国の餌とさせる政策は賢明とは言えぬ。拙案としては淮南の地を淮陽に併合し梁王後継者を立て、更に淮陽北部の二~三城と東郡を割いて梁国へ移すべきです。それが叶わねば代王を睢陽へ遷都させよ」 「梁が新郪から黄河まで、淮陽が陳地から長江まで領土を拡げれば、異心ある大諸侯は肝をつぶして謀反できまい。梁は斉・趙を抑え、淮陽は呉・楚を封じ込められるので陛下は安眠し山東の憂い無し。これは二世に渡る利益です」 「今こそ諸侯が若く大人しい時期だからこそ措置を――数年後には事態が明白になろう。秦は六国の禍根を除く為に苦心したのに、陛下は天下を掌握しながら拱手傍観して六国並みの乱を招こうとは! これでは賢明とも言えず、仮に御在世中は平穏でも禍根を温存すれば、遺された太后や幼帝が不安に苛まれるのは必定。仁徳ある政治とは到底言えぬ」 帝は賈誼の進言を容れ、淮陽王武を梁王へ移封した。新領地は泰山以北から高陽以西まで四十余城の大県を得た。 解説:
(注:振り仮名不使用・固有名詞は原則として原文表記を保持) Translation took 1882.5 seconds. |
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| 後歲餘,賈誼亦死,死時年三十三矣。 4 徙城陽王喜為淮南王。 5 匈奴寇狄道。 時匈奴數為邊患,太子家令穎川晁錯上言兵事曰: 「《兵法》曰:『有必勝之將,無必勝之民。』由此觀之,安邊境,立功名,在於良將,不可不擇也。 臣又聞,用兵臨戰合刃之急者三:一曰得地形,二曰卒服習,三曰器用利。兵法:步兵、車騎、弓弩、長戟、矛鋋、劍楯之地,各有所宜;不得其宜者,或十不當一。士不選練,卒不服習,起居不精,動靜不集,趨利弗及,避難不畢,前擊後解,與金鼓之指相失,此不習勒卒之過也,百不當十。兵不完利,與空手同;甲不堅密,與袒裼同;弩不可以及遠,與短兵同;射不能中,與無矢同;中不能入,與無鏃同;此將不省兵之禍也,五不當一。故《兵法》曰:『器械不利,以其卒予敵也;卒不可用,以其將予敵也;將不知兵,以其主予敵也;君不擇將,以其國予敵也。』四者,兵之至要也。 臣又聞:小大異形,強弱異勢,險易異備。夫卑身以事強,小國之形也;合小以攻大,敵國之形也;以蠻夷攻蠻夷,中國之形也。今匈奴地形、技藝與中國異,上下山阪,出入溪澗,中國之馬弗與也;險道傾仄,且馳且射,中國之騎弗與也;風雨罷勞,饑渴不困,中國之人弗與也;此匈奴之長技也。若夫平原、易地、輕車、突騎,則匈奴之眾易撓亂也;勁弩、長戟、射疏、及遠,則匈奴之弓弗能格也;堅甲、利刃,長短相雜,游弩往來,什伍俱前,則匈奴之兵弗能當也;材官騶發,矢道同的,則匈奴之革笥、木薦弗能支也;下馬地斗,劍戟相接,去就相薄,則匈奴之足弗能給也;此中國之長技也。 |
現代語訳:その後一年余り経って、賈誼も死去した。享年三十三歳であった。 4 城陽王劉喜を淮南王に移封した。 5 匈奴が狄道(現・甘粛省臨洮県)へ侵攻した。 当時、匈奴はたびたび国境で被害を与えていたため、太子家令(皇太子の家政長官)である潁川出身の晁錯が軍事問題に関する上奏文を提出し、次のように述べた: 「『兵法』にいう:『必ず勝つ将軍は存在するが、必ず勝つ民衆はいない』と。このことから見れば、辺境を安定させ功績を立てるには優れた将帥にかかっており、慎重な選抜が必要である。 さらに臣の聞くところでは、戦場で刃を交える際に重視すべき三つの要素がある:第一は地形を活かすことであり、第二は兵士が訓練され慣れていること、第三は兵器が有効であることだ。兵法には歩兵・車騎(戦車と騎馬)・弓弩(弓箭)・長戟(長柄武器)・矛鋋(短槍類)・剣楯(刀と盾)など各兵種に適した地形があると記されている。適地を得なければ、十の力でも一にも満たないことがある。 兵士を選抜せず訓練しない場合、動作が鈍く統制が取れず、有利な状況へ迅速に移動できず、危険回避も不徹底となる。前方で戦っているのに後方が崩れるなど命令と行動が一致せず、これは練度不足の過ちであり、百人いても十人の価値しかない。 兵器が不完全なら素手と同じである。鎧が堅固でなければ裸同然だ。弩(大型弓)が遠距離まで届かなければ短剣と変わらず、的を射られぬ矢は無いのと同じである。命中しても貫通しなければ無鏃(やじりなし)に等しい——これらは将帥が兵器管理を怠った災いであり、五人でようやく一人分の価値しかない。 故に『兵法』はいう:『武器が劣れば兵卒を敵に差し出すようなもの。兵士を使えなければ将軍そのものを献上する行為である。将帥が軍事を知らぬことは君主自身を渡すことに等しく、君主が良将を選ばねば国家全体を譲るのと同じだ』と——この四項目こそ軍事の最重要事項である。 さらに臣は申し上げる:小国大国・強弱それぞれに異なる態勢があり、険阻な地と平坦な地では備え方も違う。身分を低くして強者へ仕えるのは小国の形であり、小国連合で大国に対抗するのが対等勢力のあるべき姿である。蛮夷同士を争わせるこそ中華王朝の採るべき戦略だ。 今や匈奴は地形利用・技術面において中国と全く異なる。山坂を上下し渓流を行き来する能力では中原の馬が及ばない。険しい道で傾斜しながら騎射を行う技量も我が騎兵には不可能である。風雨の中でも疲れず飢え乾いても動じぬ体力は中国人特有ではない——これら匈奴の優れた点だ。 しかし平原や平坦地において軽戦車と突撃騎馬を繰り出せば、匈奴軍は容易に混乱する。強力な弩(大型弓)や長戟で遠距離攻撃を行えば敵の弓箭では防げない。堅固な甲冑と鋭利な武器を持ち、長短兵器が混在し遊動射撃部隊が前進すれば匈奴兵は対抗不可能だ。 材官(精鋭歩兵)が一斉放箭して矢が的を貫通する時、匈奴の革製鎧や木盾など無力である。下馬して地上戦となり剣戟で接近戦になれば移動速度に劣る匈奴は対応できまい——これこそ中華王朝の真価なのである」 解説:
晁錯の主張は後に武帝時代の衛青・霍去病による騎兵戦略に継承されながらも、その急進的改革思想が諸侯王の反乱(七国の乱)を招く要因ともなった。軍事理論書でありながら組織論として普遍性を持ち、「孫子」と並ぶ古典的価値を現代でも失わない稀有の文献である。 Translation took 3049.9 seconds. |
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| 以此觀之,匈奴之長技三,中國之長技五。陛下又興數十萬之眾以誅數萬之匈奴,眾寡之計,以一擊十之術也。 雖然,兵,兇器;戰,危事也。故以大為小,以強為弱,在俛仰之間耳。夫以人之死爭勝,跌而不振,則悔之無及也。帝王之道,出於萬全。今降胡、義渠、蠻夷之屬來歸誼者,其眾數千,飲食、長技與匈奴同。可賜之堅甲、絮衣、勁弓、利矢,益以邊郡之良騎,令明將能知其習俗、和輯其心者,以陛下之明約將之。即有險阻,以此當之;平地通道,則以輕車、材官制之;兩軍相為表里,各用其長技,衡加之以眾,此萬全之術也。」 帝嘉之,賜錯書,寵答焉。 錯又上言曰: 「臣聞秦起兵而攻胡、粵者,非以衛邊地而救民死也,貪戾而欲廣大也,故功未立而天下亂。且夫起兵而不知其勢,戰則為人禽,屯則卒積死。夫胡、貉之人,其性耐寒;揚、粵之人,其性耐暑。秦之戍卒不耐其水土,戍者死於邊,輸者僨於道。秦民見行,如往棄市,因以謫發之,名曰『謫戍』;先發吏有謫及贅婿、賈人,後以嘗有市籍者,又後以大父母、父母嘗有市籍者,後入閭取其左。發之不順,行者憤怨,有萬死之害而亡銖兩之報,死事之後,不得一算之復,天下明知禍烈及己也。陳勝行戍,至於大澤,為天下先倡,天下從之如流水者,秦以威劫而行之之敝也。 |
現代日本語訳これを見るに、匈奴の優れた戦術は三つあり、漢王朝の優れた技術は五つある。陛下が数十万もの大軍を動員して数万の匈奴を討とうとされるのは、多勢で寡勢を制する策であり、「一をもって十に当たる」戦略である。 しかし兵器とは凶器であり、戦争は危険な行為だ。強大な者が弱小へ転じることは瞬時に起こりうる。人命を犠牲にして勝利を争い、一度敗れて再起不能となれば後悔しても及ばない。帝王の道は万全を期すことにある。 現在、降伏した胡人や義渠(ぎきょ)、蛮夷などで帰順する者が数千おり、食習慣や戦術は匈奴と同一である。これらに堅固な鎧・綿入れ衣・強弓・鋭い矢を与え、辺境の精鋭騎兵を加えて指揮させよ。習俗を知り民心を和合させる有能な将軍が陛下の明確な規律で統率するなら─ 険しい地形ではこの部隊で対応し、平地や幹線路には軽戦車と歩兵精鋭(材官)で対処せよ。両軍は表裏一体となり各々の長所を発揮し、兵力でも優位に立てば万全の策となる。 皇帝はこれを賞賛し、晁錯(ちょうそ)に詔書を与え厚く応えた。 続けて晁錯が上奏した: 「秦が胡や南越を攻めたのは辺境防衛や民衆救済ではなく、貪欲な領土拡大のためだった。ゆえに成果を得ぬまま天下は乱れた。戦況も知らず出兵すれば交戦時には捕らわれ、駐屯兵は疲弊死する。 胡・貉(ばく)族は寒冷に強く揚越の民は酷暑に耐えるが、秦の守備兵は風土に適応できず辺境で死亡し輸送部隊も途中で倒れた。秦民は従軍を死刑同然と見なし『謫戍(たんじゅ)』と呼ばれる罪人徴発制度を用いた─ まず犯罪官吏・婿養子・商人、次いで商籍登録者から祖父母/父母の代まで遡り、ついに平民区左側居住者までも動員した。これにより兵士は怨念を抱き『万死の害』に遭っても報酬はなく戦死者家族には免税免除(一算復)すら認めず天下が危機と自覚する中、 陳勝が大沢郷で戍役中、天下に先駆けて蜂起すると民衆は流水のように追随した。これこそ秦の威圧的強制統治の弊害である」 解説(歴史的背景)
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| 胡人衣食之業,不著於地,其勢易以擾亂邊境,往來轉徙,時至時去。此胡人之生業,而中國之所以離南□也。今胡人數轉牧、行獵於塞下,以候備塞之卒,卒少則入。陛下不救,則邊民絕望而有降敵之心;救之,少發則不足,多發,遠縣才至,則胡又已去。聚而不罷,為費甚大;罷之,則胡復入。如此連年,則中國貧苦而民不安矣。陛下幸憂邊境,遣將吏發卒以治塞,甚大惠也。然今遠方之卒守塞,一歲而更,不知胡人之能。不如選常居者家室田作,且以備之,以便為之高城深塹;要害之處,通川之道,調立城邑,毋下千家。先為室屋,具田器,乃募民,免罪,拜爵,復其家,予冬夏衣、稟食,能自給而止。塞下之民,祿利不厚,不可使久居危難之地。胡人入驅而能止其所驅者,以其半予之,縣官為贖。其民如是,則邑里相救助,赴胡不避死。非以德上也,欲全親戚而利其財也;此與東方之戍卒不習地勢而心畏胡者功相萬也。以陛下之時,徙民實邊,使遠方無屯戍之事;塞下之民,父子相保,無系虜之患;利施後世,名稱聖明,其與秦之行怨民,相去遠矣。」 上從其言,募民徙塞下。 錯復言: 「陛下幸募民徙以實塞下,使屯戍之事益省,輸將之費益寡,甚大惠也。下吏誠能稱厚惠,奉明法,存恤所徙之老弱,善遇其壯士,和輯其心而勿侵刻,使先至者安樂而不思故鄉,則貧民相慕而勸往矣。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)胡族の生業は農耕に依存せず、その移動性ゆえ国境を撹乱しやすい。季節ごとに往来し定住しないことが彼らの習性であり、これが中華と北方との断絶をもたらす所以である。 近時では胡人が長城付近で放牧や狩猟を繰り返しながら守備兵の隙を窺い、手薄となれば侵入する。陛下が救援しなければ辺境の民は絶望して敵に降るだろう。救援しても少数では足りず、大軍を派遣すれば遠方から到着する頃には胡人は撤退している。軍隊を駐留させ続ければ経費が膨大となり、解散させれば再び侵入される。この状態が続けば国は疲弊し民は不安に苛まれる。 陛下が辺境防衛のため将兵を派遣されたのは英断である。しかし遠方からの守備兵は一年で交替するため胡人の実態を知らない。むしろ定住者を選び家族と農耕を行わせ、併せて防御施設を整えるべきだ。要害地や河川沿いに千家規模の城邑を築き、まず住宅と農具を準備した上で移民を募集するのである。罪の赦免・爵位授与・租税免除・衣食支給など優遇策を与えつつ自立を促す。 辺境居住者には十分な恩賞がなければ危険な土地に長く留められない。胡人の略奪品を奪還した者はその半分を得られるよう官府が保証すれば、住民は相互扶助し命懸けで戦うだろう。親族と財産を守るためであり、東方から来た地形も知らぬ兵士の消極性とは比較にならない。 今こそ移民による辺境強化を実施すべき時だ。遠方からの駐屯を廃し現地住民に父子相守らせれば捕虜化の憂いもない。後世に利益をもたらし聖明と称されるこの政策は、秦代のように民衆を苦しめた手法とは全く異なる。 皇帝はこの進言を受け入れ移民募集令を発した。 晁錯が再び上奏: 「陛下が辺境充実のため移民募集を認められたのは経費削減につながる大英断です。役人が恩恵を正しく執行し、老弱者を保護し壮年者を厚遇し、過度な負担を与えず先着者の定住促進に努めるならば、故郷への未練も消え貧民は互いに誘い合って移住するでしょう」 解説
(注)固有名詞表記について:晁錯は『史記』本名記載による。「胡人」は匈奴集団と解釈できるが原文表現を保持。 Translation took 890.3 seconds. |
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| 臣聞古之徙民者,相其陰陽之和,嘗其水泉之味,然後營邑、立城、制里、割宅,先為築室家,置器物焉。民至有所居,作有所用。此民所以輕去故鄉而勸之新邑也。為置醫、巫以救疾病,以修祭祀,男女有昏,生死相恤,墳墓相從,種樹畜長,室屋完安。此所以使民樂其處而有長居之心也。 臣又聞古之制邊縣以備敵也,使五家為伍,伍有長;十長一里,里有假士;四里一連,連有假五百;十連一邑,邑有假候。皆擇其邑之賢材有護、習地形、知民心者。居則習民於射法,出則教民於應敵。故卒伍成於內,則軍政定於外。服習以成,勿令遷徙,幼則同游,長則共事。夜戰聲相知,則足以相救;晝戰目相見,則足以相識;歡愛之心,足以相死。如此而勸以厚賞,威以重罰,則前死不還踵矣。所徙之民非壯有材者,但費衣糧,不可用也;雖有材力,不得良吏,猶亡功也。 陛下絕匈奴不與和親,臣竊意其冬來南也;壹大治,則終身創矣。欲立威者,始於折膠;來而不能困,使得氣去,後未易服也。」 錯為人峭直刻深,以其辯得幸太子,太子家號曰「智囊」。 文帝前十二年(癸酉,公元前一六八年) 1 冬,十二月,河決酸棗,東潰金堤、東郡;大興卒塞之。 2 春,三月,除關,無用傳。 3 晁錯言於上曰: 「聖王在上而民不凍饑者,非能耕而食之,織而衣之也,為開其資財之道也。 |
臣は聞く。昔、人民を移住させる者は、まず土地の陰陽の調和を見極め、水泉の味わいを確かめた上で、集落を営み城郭を立て、里(村落)を整え住宅地を割り当てた。先に家屋を築き生活用具を備えたため、移住者は到着すれば居場所があり、作業には道具が揃っていた。これこそ人民が故郷を軽んじて離れ、新天地へ赴くことを厭わなかった理由である。 医師と巫(祈祷師)を配置し疾病を治療させ祭祀を行わせたため、男女は婚姻関係を結び、生死に際して互いに助け合い、墓所も隣接した。樹木を植え家畜を育て住居が安全であったからこそ、民衆はその地を楽しみ永住の心を持った。 さらに臣が聞くところによれば、古代の辺境県防衛制度では五家族で「伍」とし長(リーダー)を置き、十の伍で一里として仮士(臨時役人)、四里で一連として仮五百(指揮官)、十連で一邑となり仮候(司令官)が統率した。これら指導者は全て地元住民から選抜され——人格・能力に優れ保護意識を持ち、地形に詳しく民心を把握する者である。 平時は射撃術の訓練を行い、有事には敵対応を教えたため内政で兵卒組織が整えば外征でも軍令が徹底した。定着生活により幼少期から遊び仲間となり成長後も共同作業を行う。夜戦では声で味方を識別し互いに救援でき、昼戦では視認によって連携できる。親愛の情は生死を共にする覚悟を育む。 ここに厚賞による奨励と厳罰による威嚇を加えるなら兵士は踵(きびす)を返さず突撃するであろう。移住者が強健有能でなければ衣食が無駄となり役立たず、仮に能力あっても良吏がいれば成果も上がらない。 陛下が匈奴との和親政策を断絶された以上、臣は彼らがこの冬に南下すると推測します。今こそ大規模討伐を行うべきであり一度で永久の打撃を与えねばなりません。威信を示すなら初霜(折膠)の時期に出陣せよ。敵を見逃して勢いづかせてしまえば後日制圧は困難です。 人物評(晁錯)晁錯は峻厳かつ辛辣な性格であり、弁舌によって皇太子(後の景帝)に重用され「智嚢」と称された。 文帝治世十二年(癸酉・紀元前168年)事象
解説
(注)原文には晁錯上奏文が途中まで記載されているため訳出も同範囲とした Translation took 1862.3 seconds. | ||||||||
| 故堯有九年之水,湯有七年之旱,而國亡捐瘠者,以畜積多而備先具也。今海內為一,土地、人民之眾不減湯、禹,加以無天災數年之水旱,而畜積未及者,何也?地有遺利,民有餘力;生谷之土未盡墾,山澤之利未盡出,游食之民未盡歸農也。 夫寒之於衣,不待輕暖;饑之於食,不待甘旨;饑寒至身,不顧廉恥。人情,一日不再食則饑,終歲不製衣則寒。夫腹饑不得食,膚寒不得衣,雖慈母不能保其子,君安能以有其民哉!明主知其然也,故務民於農桑,薄賦斂,廣畜積,以實倉廩,備水旱,故民可得而有也。民者,在上所以牧之;民之趨利,如水走下,四方無擇也。 夫珠、玉、金、銀,饑不可食,寒不可衣;然而眾貴之者,以上用之故也。其為物輕微易藏,在於把握,可以周海內而無饑寒之患。此令臣輕背其主,而民易去其鄉,盜賊有所勸,亡逃者得輕資也。粟、米、布、帛,生於地,長於時,聚於力,非可一日成也;數石之重,中人弗勝,不為奸邪所利,一日弗得而饑寒至。是故明君貴五穀而賤金玉。 今農夫五口之家,其服役者不下二人,其能耕者不過百□,百□之收不過百石。春耕,夏耘,秋獲,冬藏,伐薪樵,治官府,給繇役;春不得避風塵,夏不得避暑熱,秋不得避陰雨,冬不得避寒凍,四時之間亡日休息;又私自送往迎來、吊死問疾、養孤長幼在其中。 |
現代日本語訳昔、堯王の時代には九年間も洪水が続き、湯王の時代には七年間もの干ばつがあったにもかかわらず、国に餓死者や困窮者が出なかったのは、蓄えが豊富で事前の備えが完璧だったからである。 今では天下が統一され、国土と人民の数は湯王や禹王の時代より少なくない。さらにここ数年、天災による洪水や干ばつも起きていないのに、蓄積が不十分なのはなぜか? 寒さを凌ごうとする者は衣服があればよく、軽くて暖かい素材を求めない。飢えた者は食物さえあれば満足し、美味を要求しない。人は飢寒が身に迫ると廉恥を顧みなくなる。人間の本性として、一日二食食べなければ空腹に陥り、一年衣服を作らねば寒さに震える。腹が空いても食物を得られず、肌が凍えても衣類がない状態では、慈母すら我が子を守れない──君主などどうして民衆を掌握できようか? 賢明な統治者はこの道理を知る。ゆえに(一)人民を農業と養蚕へ誘導し,(二)税や徴発を軽減し,(三)物資の蓄積を拡大する。これにより倉庫が充実し水害・干ばつに備えられるため、民衆を保持できるのだ。民衆は為政者の統治法(牧之)次第で動く。彼らが利益へ流れる様は、水が低きへ向かうように方向を選ばない。 真珠・宝玉・金銀──これらは飢えても食べられず、寒さも防げぬ。だが人々が貴重とするのは、上位者が価値を認めるからだ。(一)軽量で隠匿可能,(二)手のひらに収まり,(三)天下を旅する際の飢寒リスクなし──この特性ゆえ家臣は主君を容易に裏切り、民衆は故郷を気安く離れ、盗賊が増加し逃亡者が資金調達しやすくなる。 一方で粟・米・布・絹帛は(一)土地から生まれ,(二)季節を経て育ち,(三)人力で集積されるため短期生産不可能だ。数石の重量は常人には運搬困難だが、悪人の利用対象になりにくく、一日でも欠ければ飢寒が襲う。故に賢君は五穀を尊び金玉を軽んじるのだ。 現代の農家(五人家族)の実態:(一)労役従事者二人以上,(二)耕作可能面積百畝未満で収穫量は百石程度。(注:原文「百□」は度量衡から「畝」と推定) 解説(歴史的意義と現代への示唆)■『資治通鑑』における位置付けこの一節は司馬光が「農業を国家基盤」と強調する重農思想の核心部分。当時の王安石新法(貨幣経済促進策)に対する痛烈な批判として編纂された。 ■思想的特徴
■古典経済学との比較
■現代社会への示唆
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| 勤苦如此,尚復被水旱之災,急政暴賦,賦斂不時,朝令而暮改。有者半賈而賣,無者取倍稱之息,於是有賣田宅、鬻子孫以償責者矣。而商賈大者積貯倍息,小者坐列販賣,操其奇贏,日游都市,乘上之急,所賣必倍。故其男不耕耘,女不蠶織,衣必文采,食必粱肉;無農夫之苦,有仟伯之得。因其富厚,交通王侯,力過吏勢,以利相傾;千里游敖,冠蓋相望,乘堅、策肥,履絲、曳縞。此商人所以兼併農人,農人所以流亡者也。 方今之務,莫若使民務農而已矣。欲民務農,在於貴粟。貴粟之道,在於使民以粟為賞罰。今募天下入粟縣官,得以拜爵,得以除罪。如此,富人有爵,農民有錢,粟有所渫。夫能入粟以受爵,皆有餘者也。取於有餘以供上用,則貧民之賦可損,所謂損有餘,補不足,令出而民利者也。今令民有車騎馬一匹者,復卒三人;車騎者,天下武備也,故為復卒。神農之教曰:『有石城十仞,湯池百步,帶甲百萬,而無粟,弗能守也。』以是觀之,粟者,王者大用,政之本務。令民入粟受爵至五大夫以上,乃復一人耳,此其與騎馬之功相去遠矣。爵者,上之所擅,出於口而無窮;粟者,民之所種,生於地而不乏。夫得高爵與免罪,人之所甚欲也;使天下人入粟於邊以受爵、免罪,不過三歲,塞下之粟必多矣。」 帝從之,令民入粟邊,拜爵各以多少級數為差。 |
現代日本語訳農民はかくも辛苦を重ねているのに、なお水害・干害の災難に見舞われる。さらには厳しい政策と過酷な税制が賦課され、租税の徴収時期も定まらず朝に命令すれば夕方には変更される。財産のある者は半値で物品を売らねばならず、ない者は倍額の利息で借金するため、田畑や家屋を売り払い子孫まで身売りして債務を返済する者さえ現れる。 一方で大商人は物資を蓄積し巨利を得て、小商人も店舗に座って販売し、投機的利益を独占している。彼らは毎日都市を遊歩し、国家の緊急需要につけ込み価格を倍増させる。だから男たちは耕作せず、女たちは養蚕や織物を行わないのに、衣服には文様ある絹布を着飾り、食事には上等な穀物と肉を食す。農夫の苦労なくして莫大な利益を得るのだ。 この富をもって王侯と結託し、その権力は役人さえ凌駕する。互いに利で繋がり千里を行き交い、立派な冠や車蓋(貴人の乗物)を連ねて見せびらかす。堅牢な車に肥えた馬を駆り、絹の履物と白絹の裾を引きずる——これこそ商人が農民を併呑し、農民が流亡する所以である。 当今の急務は、人民に農業へ従事させることに尽きる。そのためには穀物(粟)の価値を高めねばならない。穀物価値向上の方策として、人民に対して賞罰手段に粟を用いさせるべきだ。今こそ全国民に対し「朝廷へ納粟した者に爵位授与と罪刑免除を認める」制度を布告せよ。 こうすれば富豪は爵位を得られ、農民には現金収入が生まれ、穀物も流通する。そもそも献穀で爵位を得られるのは富裕層だけである。彼らから徴収した粟で朝廷の用度を賄えば貧民の税負担は軽減される——すなわち「余剰を削り不足を補う」政策であり、施行すれば民衆に利益をもたらす。 現行法では軍馬(車騎馬)1頭献納者に対し3人の兵役免除を認めている。戦車と軍馬は国家防衛の要だからだ。神農の教えにも「十丈の石城、百歩の湯池、百万の装甲兵があっても穀物がなければ守れぬ」とある。この道理から見れば、粟こそ帝王にとって最大の財源であり政治の根本である。 ところで現行制度では五大夫(第九等爵)以上の高級爵位獲得者にようやく1人の兵役免除しか認めていない。これは軍馬献納への恩典と比べて著しく不均衡だ。爵位は朝廷が独占し、口にするだけで無限に授与できる虚の権威である。一方で粟は民衆が大地から生産する枯渇せぬ実物資源だ。 高級爵位獲得や罪刑免除への欲求は人間の根源的願望である。「辺境防衛へ穀物を納めれば爵位・赦免を与える」と布告すれば、三年も経たずに国境地帯には粟が溢れるであろう。」 皇帝(文帝)はこの進言を受け入れ、献粟量に応じて等級別の爵位授与を行う制度を施行した。 解説
(本翻訳では勅命文書特有の威圧的語調を排除し、政策的論理性を前景化する方針とした) Translation took 1206.6 seconds. |
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| 錯復奏言:「陛下幸使天下入粟塞下以拜爵,甚大惠也。竊恐塞卒之食不足用,大渫天下粟。邊食足以支五歲,可令入粟郡縣矣;郡縣足支一歲以上,可時赦,勿收農民租。如此,德澤加於萬民,民愈勤農,大富樂矣。」 上復從其言,詔曰:「道民之路,在於務本。朕親率天下農,十年於今,而野不加辟,歲一不登,民有饑色;是從事焉尚寡而吏未加務。吾詔書數下,歲勸民種樹而功未興,是吏奉吾詔不勤而勸民不明也。且吾農民甚苦而吏莫之省,將何以功焉!其賜農民今年租稅之半。」 文帝前十三年(甲戌,公元前一六七年) 1 春,二月,甲寅,詔日;「朕親率天下農耕以供粢盛,皇后親桑以供祭服;其具禮儀。」 2 初,秦時祝官有祕祝,即有災祥,輒移過於下。夏,詔曰:「蓋聞天道,禍自怨起而福繇德興,百官之非,宜由朕躬。今祕祝之官移過於下,以彰吾之不德,朕甚弗取。其除之!」 3 齊太倉令淳于意有罪,當刑,詔獄逮系長安。其少女緹縈上書曰:「妾父為吏,齊中皆稱其廉平;今坐法當刑。妾傷夫死者不可復生,刑者不可復屬,雖後欲改過自新,其道無繇也。妾願沒入為官婢,以贖父刑罪,使得自新。」 天子憐悲其意,五月,詔曰:「《詩》曰:『愷弟君子,民之父母。』今人有過,教未施而刑已加焉,或欲改行為善而道無繇至,朕甚憐之!夫刑至斷支體,刻肌膚,終身不息,何其刑之痛而不德也!豈為民父母之意哉!其除肉刑,有以易之;及令罪人各以輕重,不記逃,有年而免。 |
現代日本語訳晁錯が再び上奏した:「陛下が辺境への穀物供出による爵位授与を認めたのは大いなる恩恵です。しかし懸念されるのは守備兵の食糧不足と国家貯蔵庫の枯渇です。五年分の蓄えが達成された今、郡県単位での納入制度に移行すべきでしょう。さらに一年以上の余裕があれば農民租税を免除し恩赦を与えることが可能となります。これにより陛下の徳は万民に行き渡り、農業振興と国家繁栄をもたらします」 皇帝(文帝)が再度これを認め詔した:「治国の要は根本(農業)にあり。朕自ら農耕を指導しても耕作地は増えず凶作時には飢餓が発生するのは官吏の怠慢によるものだ。度々栽植命令を下しているのに成果が出ぬのも同様である。さらに農民の苦労を省みない役人たちでは何事も成し得まい!今年の租税は半減とする」 文帝13年(前167) 解説歴史的意義: 政治的意図: 特筆事項: (注)表記原則:固有名詞以外は新字体採用。歴史用語は原典優先。「晁錯→鼂錯」「祕祝→秘祝」等の異体字を現代通用形に統一。 Translation took 1933.5 seconds. |
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| 具為令!」 丞相張蒼、御史大夫馮敬奏請定律曰:「諸當髡者為城旦、舂;當黥者髡鉗為城旦、舂;當劓者笞三百;當斬左止者笞五百;當斬右止及殺人先自告及吏坐受賕、枉法、守縣官財物而即盜之、已論而復有笞罪皆棄市。罪人獄已決為城旦、舂者,各有歲數以免。」制曰:「可。」 是時,上既躬修玄默,而將相皆舊功臣,少文多質。懲惡亡秦之政,論議務在寬厚,恥言人之過失,化行天下,告訐之俗易。吏安其官,民樂其業,畜積歲增,戶口浸息。風流篤厚,禁罔疏闊,罪疑者予民,是以刑罰大省,至於斷獄四百,有刑錯之風焉。 4 六月,詔曰:「農,天下之本,務莫大焉。今勤身從事而有租稅之賦,是為本末者無以異也,其於勸農之道未備。其除田之租稅。」 文帝前十四年(乙亥,公元前一六六年) 1 冬,匈奴老上單于十四萬騎入朝那、蕭關,殺北地都尉卬,虜人民畜產甚多;遂至彭陽,使奇兵入燒回中宮,候騎至雍甘泉。帝以中尉周舍、郎中令張武為將軍,發車千乘、騎卒十萬軍長安旁,以備胡寇;而拜昌侯盧卿為上郡將軍,甯侯魏□為北地將軍,隆慮侯周灶為隴西將軍,屯三郡。上親勞軍,勒兵,申教令,賜吏卒,自欲征匈奴。群臣諫,不聽;皇太后固要,上乃止。於是以東陽侯張相如為大將軍,成侯董赤、內史欒布皆為將軍,擊匈奴。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』漢文帝紀より)【法令制定に関する奏請】 【社会安定化の実相】 【農本政策の詔勅】 【文帝十四年(紀元前166年)匈奴来襲】 解説【法令改正の歴史的意義】 【文景の治の本質】 【司馬光の叙述特徴】
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| 單于留塞內月餘,乃去。漢逐出塞即還,不能有所殺。 2 上輦過郎署,問郎署長馮唐曰:「父家安在?」對曰:「臣大父趙人,父徙代。」上曰:「吾居代時,吾尚食監高祛數為我言趙將李齊之賢,戰於巨鹿下。今吾每飯意未嘗不在巨鹿也。父知之乎?」唐對曰:「尚不如廉頗、李牧之為將也。」上搏髀曰:「嗟乎!吾獨不得廉頗、李牧為將!吾豈憂匈奴哉!」唐曰:「陛下雖得廉頗、李牧,弗能用也。」 上怒,起,入禁中,良久,召唐,讓曰:「公奈何眾辱我,獨無間處乎!」唐謝曰:「鄙人不知忌諱。」上方以胡寇為意,乃卒復問唐曰:「公何以知吾不能用廉頗、李牧也?」唐對曰:「臣聞上古王者之遣將也,跪而推轂,曰:『閫以內者,寡人制之;閫以外者,將軍制之。』軍功爵賞皆決於外,歸而奏之,此非虛言也。臣大父言:李牧為趙將,居邊,軍市之租,皆自用饗士;賞賜決於外,不從中覆也。委任而責成功,故李牧乃得盡其智能;選車千三百乘,彀騎萬三千,百金之士十萬,是以北逐單于,破東胡,滅澹林,西抑強秦,南支韓、魏。當是之時,趙幾霸。其後會趙王遷立,用郭開讒,卒誅李牧,令顏聚代之;是以兵破士北,為秦所禽滅。今臣竊聞魏尚為雲中守,其軍市租盡以饗士卒,私養錢五日一椎牛,自饗賓客、軍吏、舍人,是以匈奴遠避,不近雲中之塞。 |
現代日本語訳単于は国境付近に一月余り留まった後、去った。漢軍は追撃して塞外に出たものの直ちに撤退し、敵兵を討つことはできなかった。
帝は激怒して宮中へ入ったが、しばらく後に馮唐を呼び詰問した。「なぜ公衆の面前で私を辱める? 内密に言えなかったのか!」。馮唐が「田舎者が分別を知らず」と謝すると、匈奴対策に悩む帝は結局重ねて尋ねた。「どうして私が彼らを使えないと分かる?」。馮唐は答えた。「昔の王は将軍を派遣する際、跪いて車輪を押し『門内は我が治め 門外は将軍に任せる』と言い、恩賞も現場裁量で事後に奏上させたものです」。 「祖父から聞きました──李牧が趙将として辺境守備時には駐屯地市場の税収を全て兵糧に充て、褒賞は中央承認なしに決めていた。責任を与え成果のみ求められたため彼は能力を発揮し得たのです:戦車千三百・弓騎兵万三千・精鋭十万を揃え北へ単于を駆逐し東胡を破り澹林を滅ぼし、西で強秦を抑え南では韓魏を支えた。この時趙は覇権に迫ったが、後に悼襄王が郭開の讒言を用いて李牧を誅殺した結果、軍は敗れ秦に滅ぼされた」。 「今 雲中郡守・魏尚も同様に駐屯地税収で兵士を養い、私費で五日毎に牛を屠り賓客や部下をもてなしているため匈奴が近づかないと承っています」と。 解説
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| 虜曾一入,尚率車騎擊之,所殺甚眾。夫士卒盡家人子,起田中從軍,安知尺籍、伍符!終日力戰,斬首捕虜,上功幕府,一言不相應,文吏以法繩之,其賞不行,而吏奉法必用。臣愚以為陛下賞太輕,罰太重。且雲中守魏尚坐上功首虜差六級,陛下下之吏,削其爵,罰作之。由此言之,陛下雖得廉頗、李牧,弗能用也!」上說。是日,令唐持節赦魏尚,復以為雲中守,而拜唐為車騎都尉。 3 春,詔廣增諸祀壇場、珪幣,且曰:「吾聞祠官祝釐,皆歸福於朕躬,不為百姓,朕甚愧之。夫以朕之不德,而專饗獨美其福,百姓不與焉,是重吾不德也。其令祠官致敬,無有所祈!」 4 是歲,河間文王辟強薨。 5 初,丞相張蒼以為漢得水德,魯人公孫臣以為漢當土德,其應,黃龍見;蒼以為非是,罷之。 文帝前十五年(丙子,公元前一六五年) 1 春,黃龍見成紀。帝召公孫臣,拜為博士,與諸生申明土德,草改歷、服色事。張蒼由此自絀。 2 夏,四月,上始幸雍,郊見五帝,赦天下。 3 九月,詔諸侯王、公卿、郡守舉賢良、能直言極諫者,上親策之。太子家令晁錯對策高第,擢為中大夫。錯又上言宜削諸侯及法令可更定者書凡三十篇。上雖不盡聽,然奇其材。 4 是歲,齊文王則、河間哀王福皆薨,無子,國除。 5 趙人新垣平以望氣見上,言長安東北有神氣,成五采,於是作渭陽五帝廟。 |
現代日本語訳:かつて匈奴が一度侵入した際、尚は車騎を率いてこれを撃ち、多数の敵兵を討ち取った。そもそも士卒たちは皆、庶民の子弟であり、田畑から駆り出されて軍に従っているので、軍事法規や部隊管理など理解できるはずがない!終日力を尽くして戦い、敵将を斬り捕虜を得て、その功績を幕府へ報告しても、一言でも報告内容が食い違えば文官たちは法律で彼らを裁き、恩賞を与えずに役人は法規のみを厳格に適用する。臣の愚見では陛下の恩賞は軽すぎ、刑罰は重すぎるのである。さらに雲中太守・魏尚が報告した討ち取った敵将首級数に六つの誤差があったとされ、陛下は彼を司法官吏に引き渡し爵位剥奪・労役刑に処された。このことから言えば、たとえ廉頗や李牧のような名将を得ても、陛下は用いることができないであろう!」帝は喜んだ。その日すぐに唐を使節として派遣して魏尚を赦免させ、再び雲中太守に任命し、同時に唐を車騎都尉に任じた。 三年春、祭祀の壇場と玉帛を大幅に増設する詔勅が発せられ「朕は聞くところによれば祠官たちの祈祷は全て朕個人への幸福を願うものであり、百姓のために祈ることはないという。これでは余の不徳が甚だしい。このような無徳の身でありながら福を独占し享受すれば、百姓には何も分け与えず、それこそさらに我が不徳を重ねることになる。祠官たちに命じ、敬意を持って祭祀を行い特定の祈願は禁ずる」と述べた。 同年、河間文王・劉辟強薨去。 当初、丞相張蒼は漢王朝は水徳を得ていると考えていたが、魯出身の公孫臣は土徳こそ相応しいと主張し「その瑞兆として黄龍が現れるはず」と言った。これを否定した張蒼により彼の説は退けられた。 文帝前元十五年(丙子年 紀元前165年) 春に成紀で黄龍出現。帝は公孫臣を召して博士とし、儒生たちと共に土徳理論を確立させて改暦・服色変更準備を行わせた。これにより張蒼は自ら退いた。 夏四月、皇帝が初めて雍へ行幸し五帝祭祀を行う。天下に大赦令発布。 九月詔:諸侯王や公卿・郡守に賢良方正で直言諫言できる者を推挙させ、帝自ら試験した。太子家令晁錯の対策文が最高評価を得て中大夫に昇進。錯はさらに「諸侯削減論」と「法令改正三十カ条」を上奏。皇帝は全て採用しなかったもののその才能を高く買った。 同年、斉文王劉則・河間哀王劉福が相次いで薨去。後継者なく封国消滅。 趙出身の新垣平が望気術を用いて謁見。「長安東北に五彩の神気」と奏上し渭水北岸に五帝廟建立。解説:
※表記原則:「薨ず」ではなく現代語訳では「没」「死す」が適当だが、歴史書固有表現として原文に従い「薨去」(こうきょ)を使用。爵位名(車騎都尉・中大夫等)は制度史用語を保持。 ※思想史的意義:文帝期の特徴である道家(無為)と儒家(祭祀改革/人材登用)の融合政策が凝縮された記事群と言える。 Translation took 1206.3 seconds. |
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| 文帝前十六年(丁丑,公元前一六四年) 1 夏,四月,上郊祀上帝於渭陽五帝廟。於是貴新垣平至上大夫,賜累千金;而使博士、諸生刺《六經》中作《王制》,謀議巡狩、封禪事。又於長門道北立五帝壇。 2 徙淮南王喜復為城陽王,又分齊為六國;丙寅,立齊悼惠王子在者六人:楊虛侯將閭為齊王,安都侯志為濟北王,武成侯賢為菑川王,白石侯雄渠為膠東王,平昌侯卬為膠西王,扐侯辟光為濟南王。淮南厲王子在者三人:阜陵安為淮南王,安陽侯勃為衡山王,陽周侯賜為廬江王。 3 秋,九月,新垣平使人持玉杯上書闕下獻之。平言上曰:「闕下有寶玉氣來者。」已,視之,果有獻玉杯者,刻曰「人主延壽」。平又言:「臣侯日再中。」居頃之,日卻,復中。於是始更以十七年為元年,令天下大酺。平言曰:「周鼎亡在泗水中。今河決,通於泗,臣望東北汾陰直有金寶氣,意周鼎其出乎!兆見,不迎則不至。」於是上使使治廟汾陰南,臨河,欲祠出周鼎。 文帝後元年(戊寅,公元前一六三年) 1 冬,十月,人有上書告新垣平「所言諧詐也」;下吏治,誅夷平。是後,上亦怠於改正、服、鬼神之事,而渭陽、長門五帝,使祠官領,以時致禮,不往焉。 2 春,三月,孝惠皇后張氏薨。 3 詔曰:「間者數年不登,又有水旱、疾疫之災,朕甚憂之。 |
訳文文帝前十六年(丁丑、紀元前一六四年)
文帝後元年(戊寅、紀元前一六三年)
解説
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| 愚而不明,未達其咎:意者朕之政有所失而行有過與?乃天道有不順,地利或不得,人事多失和,鬼神廢不享與?何以致此?將百官之奉養或廢,無用之事或多與?何其民食之寡乏也?夫度田非益寡,而計民未加益,以口量地,其於古猶有餘,而食之甚不足者,其咎安在?無乃百姓之從事於末以害農者蕃,為酒醪以靡谷者多,六畜之食焉者眾與?細大之義,吾未得其中,其與丞相、列侯、吏二千石、博士議之。有可以佐百姓者,率意遠思,無有所隱!」 文帝後二年(己卯,公元前一六二年) 1 夏,上行幸雍棫陽宮。 2 六月,代孝王參薨。 3 匈奴連歲入邊,殺略人民、畜產甚多;雲中、遼東最甚,郡萬餘人。上患之,乃使使遺匈奴書。單于亦使當戶報謝,復與匈奴和親。 4 八月,戊戌,丞相張蒼免。帝以皇后弟竇廣國賢,有行,欲相之,曰:「恐天下以吾私廣國,久念不可。」而高帝時大臣,餘見無可者。御史大夫梁國申屠嘉,故以材官蹶張從高帝,封關內侯;庚午,以嘉為丞相,封故安侯。嘉為人廉直,門不受私謁。是時,太中大夫鄧通方愛幸,賞賜累巨萬。帝嘗燕飲通家,其寵幸無比。嘉嘗入朝,而通居上旁,有怠慢之禮,嘉奏事畢,因言曰:「陛下幸愛群臣,則富貴之;至於朝廷之禮,不可以不肅。」上曰:「君勿言,吾私之。 |
現代日本語訳愚昧にして明らかならず、その過ちを理解せず:思うに朕の政治には失政があり、行動にも過ちがあるのか?あるいは天道が順わず、地利を得ず、人事は調和を欠き、鬼神への祭祀も怠っているためなのか?どうしてこのような事態になったのだろうか。百官の俸給や供養が不足し、無益な事業ばかりが多いからではないのか?民衆の食糧がこれほど乏しいのはなぜだ?田畑は決して減っておらず、人口も以前より増えたわけではない。人口あたりの土地を計算すれば昔よりも余裕があるはずだが、食糧が極端に不足している原因はいったいどこにあるのか?あるいは百姓たちが農業をおろそかにする商工業ばかりに従事しすぎているからか?酒造りで穀物を浪費したり、家畜の飼料も増えたりしているためではないだろうか。大小さまざまな問題について朕は結論を得られない。丞相・列侯・二千石の官吏・博士らと議論せよ。民衆を救う策があれば遠慮なく深く考えをめぐらし、隠すことなく述べるように!」 文帝後二年(己卯、紀元前162年) 解説
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| 」罷朝,坐府中,嘉為檄召通詣丞相府,不來,且斬通。通恐,入言上;上曰:「汝第往,吾今使人召若。」通詣丞相,免冠、徒跣,頓首謝嘉。嘉坐自如,弗為禮,責曰:「夫朝廷者,高帝之朝廷也。通小臣,戲殿上,大不敬,當斬。吏!今行斬之!」通頓首,首盡出血,不解。上度丞相已困通,使使持節召通而謝丞相:「此吾弄臣,君釋之!」鄧通既至,為上泣曰:「丞相幾殺臣!」 文帝後三年(庚辰,公元前一六一年) 1 春,二月,上行幸代。 2 是歲,匈奴老上單于死,子軍臣單于立。 文帝後四年(辛巳,公元前一六零年) 1 夏,四月,丙寅晦,日有食之。 2 五月,赦天下。 3 上行幸雍。 文帝後五年(壬午,公元前一五九年) 1 春,正月,上行幸隴西;三月,行幸雍;秋,七月,行幸代。 文帝後六年(癸未,公元前一五八年) 1 冬,匈奴三萬騎入上郡,三萬騎入雲中,所殺略甚眾,烽火通於甘泉、長安。以中大夫令免為車騎將軍,屯飛狐;故楚相蘇意為將軍,屯句注;將軍張武屯北地;河內太守周亞夫為將軍,次細柳;宗正劉禮為將軍,次霸上,祝茲侯徐厲為將軍,次棘門;以備胡。 上自勞軍,至霸上及棘門軍,直馳入,將以下騎送迎。已而之細柳軍,軍士吏被甲,銳兵刃,彀弓弩持滿,天子先驅至,不得入。 |
現代日本語訳朝議が終わり、丞相府に座していた申屠嘉は召喚状を発して鄧通を呼び出した。しかし来なかったため「斬る」と通告すると、鄧通は恐れて文帝のもとに駆け込み訴えた。帝は言った。「まず行きなさい。すぐ使者を遣わす」。鄧通が丞相府へ赴くと冠も脱ぎ裸足で平伏し謝罪したが、申屠嘉は悠然と座り礼も返さず責めた。「朝廷とは高祖皇帝の朝廷だ。小臣たるお前が御前で戯れたのは大不敬である」。役人に「今すぐ斬れ」と命じると、鄧通は額を地面に擦りつけ血だらけになっても許されなかった。帝は丞相が鄧通を追い詰めたと悟り、節を持たせた使者を遣わし「彼は朕の道化師だ。釈放せよ」と謝罪させた。解放された鄧通は文帝のもとに戻ると泣きながら訴えた。「丞相差しで危うく殺されるところでした」。 【文帝後三年(庚辰・紀元前161年)】 【文帝後四年(辛巳・紀元前160年)】 【文帝後五年(壬午・紀元前159年)】 【文帝後六年(癸未・紀元前158年)】 解説【歴史的背景】この記述は『資治通鑑』漢紀・文帝後期(紀元前161-158年)からの抜粋。当時は匈奴の圧力が増大しつつある中で、申屠嘉のような厳格な法家官僚と鄧通のような寵臣との対立構造を象徴的に描く。特に細柳営の挿話(周亜夫将軍)は後の七国の乱平定で活躍する名将の規律正しさを示す伏線として重要。 【表現技法】原文の特徴である「頓首謝嘉」「首盡出血」などの具体的動作描写を現代語でも再現。申屠嘉の発言「夫朝廷者...當斬」では高祖(劉邦)への尊崇を強調するため、「高帝之朝廷也」を直訳し威圧的な口調で表現した。 【制度考証】
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| 先驅曰:「天子且至!」軍門都尉曰;「將軍令曰:『軍中聞將軍令,不聞天子之詔!』」居無何,上至,又不得入。於是上乃使使持節詔將軍:「吾欲入營勞軍。」亞夫乃傳言「開壁門」。壁門士請車騎曰:「將軍約:軍中不得驅馳。」於是天子乃按轡徐行。至營,將軍亞夫持兵揖曰:「介冑之士不拜,請以軍禮見。」天子為動,改容,式車,使人稱謝:「皇帝敬勞將軍。」成禮而去。既出軍門,群臣皆驚。上曰:「嗟乎,此真將軍矣!曩者霸上、棘門軍若兒戲耳,其將固可襲而虜也。至於亞夫,可得而犯耶!」稱善者久之。月餘,漢後至邊,匈奴亦遠塞,漢兵亦罷。乃拜周亞夫為中尉。 2 夏,四月,大旱,蝗。令諸侯無入貢;弛山澤,減諸服御,損郎吏員;發倉庾以振民;民得賣爵。 文帝後七年(甲申,公元前一五七年) 1 夏,六月,已亥,帝崩於未央宮。遺詔曰: 「朕聞之:蓋天下萬物之萌生,靡有不死。死者,天地之理,物之自然,奚可甚哀!當今之世,咸嘉生而惡死,厚葬以破業,重服以傷生,吾甚不取。且朕既不德,無在佐百姓;今崩,又使重服久臨以罹寒暑之數,哀人父子,傷長老之志,損其飲食,絕鬼神之祭祀,以重吾不德,謂天下何!朕獲保宗廟,以眇眇之身托於天下君王之上,二十有餘年矣。賴天之靈,社稷之福,方內安寧,靡有兵革。 |
先発隊が「天子(皇帝)がお見えになる!」と言うと、軍門守備隊長が応じた。「将軍(周亜夫)のご命令では『軍中は将軍の指令のみに従い、天子の詔勅さえも受けつけない』とのことです」。しばらくして文帝が到着したが、やはり入営を許されなかった。そこで皇帝は使者に節(権威の証)を持たせて「私は陣営を見舞いたい」と伝えるよう命じた。すると周亜夫は「門を開けよ」との指示を出し、守衛が天子一行に向かって言った。「将軍のお定めで、軍中では車馬を走らせることはできません」。文帝は手綱をおさえてゆっくりと進み、陣営に着くと周亜夫は武器を持ったまま拱手(中国式敬礼)して述べた。「甲冑をつけた者には跪拝の礼が免除されております。軍礼でご挨拶させてください」。皇帝は深く感動し表情を改め、車の軾(手すり)に手をおいて敬意を示した後、「皇帝が将軍を見舞われる」と伝えた。 退出すると臣下たちは皆驚いたが、文帝は言った。「ああ、これこそ真の将軍だ!以前見た覇上や棘門の駐屯部隊など児戯に等しい。彼らの指揮官なら奇襲で生け捕りもできようが、周亜夫を誰が攻められようか」。長く称賛した。 一ヶ月余後、漢軍は国境へ到着したが匈奴は既に遠ざかり、両軍とも撤退。文帝は周亜夫を中尉(首都警備司令官)に任命された。 紀元前157年・文帝後七年 夏四月:大干ばつと蝗害発生。諸侯への貢納免除・山林河川の使用制限解除・宮廷支出削減・官吏定員縮小を実施。穀物倉庫を開いて民衆支援、爵位売買を許可。 同年六月己亥(一日): 文帝が未央宮で崩御。遺詔には次の言葉があった。 「私は聞く──天地の万物に死なぬものはないと。これは宇宙の道理であり自然の摂理であるのに、なぜ過度に悲しむのか?この世では生を喜び死を憎み、厚葬で家産を使い果たし喪服が生活を損ねているのは全く賛同できぬ。私自身も徳なく民衆を助けられなかった者が、死後に長期間の喪で人々に寒暑の苦労を与え父子の情を傷つけ老人の心を痛め、飲食を減らして祭祀まで絶たせるなど不徳が重くなるだけだ。かすかな身でありながら宗廟を守り天下君主として二十余年過ごした。天の加護と国家の福により国内は平穏で戦乱もなかった...」 解説:
※注:指示通りルビ表記なし。固有名詞以外の漢字は常用範囲に収め、紀年は西暦併記で可読性向上を図った。 Translation took 1924.4 seconds. | ||||||||
| 朕既不敏,常畏過行以羞先帝之遺德,惟年之久長,懼於不終。今乃幸以天年得復供養於高廟,其奚哀念之有!其令天下吏民:令到,出臨三日,皆釋服;毋禁取婦、嫁女、祠祀、飲酒、食肉,自當給喪事服臨者,皆無跣;絰帶毋過三寸;毋布車及兵器;毋發民哭臨宮殿中;殿中當臨者,皆以旦夕各十五舉音,禮畢罷;非旦夕臨時,禁毋得擅哭臨;已下棺,服大功十五日,小功十四日,纖七日,釋服。它不在令中者,皆以此令比類從事。佈告天下,使明知朕意。霸陵山川因其故,毋有所改。歸夫以下至少使。」 乙巳,葬霸陵。 帝即位二十三年,宮室、苑囿、車騎、服御,無所增益;有不便,輒馳以利民。嘗欲作露台,召匠計之,直百金。上曰:「百金,中人十家之產也。吾奉先帝宮室,常恐羞之,何以台為!」身衣弋綈;所幸慎夫人,衣不曳地;帷帳無文繡;以示敦樸,為天下先。治霸陵,皆瓦器,不得以金、銀、銅、錫為飾,因其山,不起墳。吳王詐病不朝,賜以幾杖。群臣袁盎等諫說雖切,常假借納用焉。張武等受賂金錢,覺,更加賞賜以愧其心;專務以德化民。是以海內安寧,家給人足,後世鮮能及之。 2 丁未,太子即皇帝位,尊皇太后薄氏曰太皇太后,皇后曰皇太后。 3 九月,有星孛於西方。 4 是歲,長沙王吳著薨,無子,國除。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)朕は不才でありながら、常に過ちを犯して先帝が遺された徳を辱めることを恐れてきた。ただ年月が経つにつれ、最後まで全うできぬのではと危惧していたものだ。今こうして天命により自然な死を迎え、高廟で再び供養される身となったのに、何ら悲しむべきことなどあろうか!天下の役人や民衆に命じる:この命令が届き次第、三日間喪に服した後は全て通常の衣服に戻れ。婚姻・嫁娶・祭祀・飲酒・肉食を禁じてはならない。自ら進んで葬儀に関わる者も、足を裸にする必要はない(跣禁止)。喪紐の幅は三寸以内とし、霊柩車や兵器で装飾してはならぬ。民衆に強制的に宮殿で号泣させてはならない。殿中での弔問は朝夕それぞれ十五声のみ発し、終わり次第退出せよ。定められた時間以外の無断参拝・哭泣を厳禁する。棺を下した後は、粗い喪服(大功)を十五日、細かい喪服(小功)を十四日、軽喪服(纖)を七日着用し除服せよ。本令に規定のない事項は全てこの基準で処理せよ。天下に公布して朕の意志を徹底させよ。覇陵の山川地形は従来通りとし、一切改変するな。「帰夫」以下の下級女官(少使まで)についても同様とする。 ※乙巳の日、皇帝は霸陵に葬られた。 帝が即位して二十三年間、宮殿・庭園・車馬・衣服など一切増やさず、不便があれば直ちに廃止し民衆の利とした。かつて展望台を造ろうと工匠に見積もらせたところ百金かかると判明。「百金は中流家庭十軒分の財産だ」と言い、「朕は先帝から宮殿を受け継ぐだけで面目ないのに、どうして露台など造れようか!」。自らの衣服は木綿の粗布とし、寵愛する慎夫人でさえ裾の長い衣を着けず、室内の幕にも刺繍を用いなかった。こうした質素な姿勢をもって天下に範を示すのである。 覇陵造営では全て陶器を使用し、金銀銅錫での装飾を禁じた。山の地形を活かして盛り土(墳丘)は築かなかった。呉王が仮病で参朝しないと、机と杖を与えて労った。袁盎ら臣下の厳しい諫言も常に寛容に聞き入れた。張武らの収賄発覚時には却って褒賞を加え恥じさせた(徳による人心教化)。これにより国内は平穏で民衆は豊かとなり、後世これを超える者は稀であった。 ※丁未の日、太子が即位し薄皇太后を太皇太后に、皇后を皇太后と尊称した。 ※九月、西方に彗星出現。 ※同年、長沙王呉著が死去。嗣子なく封国は消滅。 解説■ 歴史的背景 ■ 言語的特徴 ■ 思想的意義 ■ 注記
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| 初,高祖賢文王芮,制誥御史:「長沙王忠,其令著令。」至孝惠、高后時,封芮庶子二人為列侯,傳國數世絕。 孝景皇帝上 景帝前元年(乙酉,公元前一五六年) 1 冬,十月,丞相嘉等奏:「功莫大於高皇帝,德莫盛於孝文皇帝。高皇帝廟,宜為帝者太祖之廟;孝文皇帝廟,宜為帝者太宗之廟。天子宜世世獻祖宗之廟,郡國諸侯宜各為孝文皇帝立太宗之廟。」制曰:「可。」 2 夏,四月,乙卯,赦天下。 3 遣御史大夫青至代下與匈奴和親。 4 五月,復收民田半租,三十而稅一。 5 初,文帝除肉刑,外有輕刑之名,內實殺人;斬右止者又當死;斬左止者笞五百,當劓者笞三百,率多死。是歲,下詔曰:「加笞、重罪無異;幸而不死,不可為人。其定律:笞五百曰三百,笞三百曰二百。」 6 以太中大夫周仁為郎中令,張歐為廷尉,楚元王子平陸侯禮為宗正,中大夫晁錯為左內史。仁始為太子舍人,以廉謹得幸。張歐亦事帝於太子宮,雖治刑名家,為人長者,帝由是重之,用為九卿。歐為吏未嘗言按人,專以誠長者處官;官屬以為長者,亦不敢大欺。 景帝前二年(丙戌,公元前一五五年) 1 冬,十二月,有星孛於西南。 2 令天下男子年二十始傅。 3 春,三月,甲寅,立皇子德為河間王,閼為臨江王,餘為淮陽王,非為汝南王,彭祖為廣川王,發為長沙王。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より抜粋)はじめに、高祖(劉邦)は文王・呉芮の賢明さを評価し、御史に対し詔勅を下した。「長沙王の忠誠心は模範とせよ」と。孝恵帝及び高后(呂后)の時代になると、呉芮の庶子二人が列侯に封ぜられ、数世代にわたり領国を継承したが断絶した。 孝景皇帝 上巻 ■景帝前元年(乙酉年/紀元前156年) 1. 冬十月、丞相・申屠嘉らは上奏した。「功績において高祖皇帝より大なる者はなく、仁徳において文帝より盛んな者はいない。高祖廟を太祖の宗廟とし、文帝廟を太宗の宗廟とするべきです。天子は代々この祖廟に祭祀を行い、諸侯王も各地で文帝のために太宗廟を建立すべし」。詔勅が下された。「よろしい」。 2. 夏四月乙卯日、天下に恩赦を行う。 3. 御史大夫・陶青を使者として代国へ派遣し、匈奴と和親条約を締結させる。 4. 五月、民田の地租を再び半減させ「三十税一」(収穫30分の1)とする。 5. 当初文帝が肉刑(身体刑)を廃止した際、表面上は刑罰軽減とされたが実質的に死刑に近く――右足切断刑は事実上の死刑となり、左足切断者は笞打五百回で死亡し、鼻削ぎ刑も笞三百回で多くが死んだ。本年、詔勅を下す「過剰な笞打ちは重罪と変わらず、仮に生き延びても人間として機能しない。よって笞五百回を三百回へ、三百回を二百回へ減刑せよ」。 6. 太中大夫・周仁を郎中令(宮廷長官)に任命し、張欧は廷尉(司法長官)、楚元王の子である平陸侯・劉礼を宗正(皇族統括)、中大夫・晁錯を左内史(首都副長官)とする。周仁はもと太子舎人として清廉謹直ゆえに寵遇された。張欧も帝が太子時代から仕え、法家思想の実践者ながら温厚な人格者であったため重用され九卿となった。彼は就任後決して部下を弾劾せず誠実さで職務にあたり、配下もその人柄に感化されて不正を行わなかった。 ■景帝前二年(丙戌年/紀元前155年) 1. 冬十二月、西南の空に彗星が出現。 2. 全国の男子に対する徴兵登録を20歳からとする制度発布。 3. 春三月甲寅日、皇子たちを封じる――劉徳は河間王、劉閼於を臨江王、劉余を淮陽王、劉非を汝南王、劉彭祖を広川王、劉発を長沙王とする。 解説■歴史文脈の特徴 ■制度変遷 ■天変地異 ■注記事項 Translation took 1086.6 seconds. |
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| 4 夏,四月,壬午,太皇太后薄氏崩。 5 六月,丞相申屠嘉薨。時內史晁錯數請間言事,輒聽,寵幸傾九卿,法令多所更定。丞相嘉自絀所言不用,疾錯。錯為內史,東出不便,更穿一門南出。南出者,太上皇廟堧垣也。嘉聞錯穿宗廟垣,為奏,請誅錯。客有語錯,錯恐,夜入宮上謁,自歸上。至朝,嘉請誅內史錯。上曰:「錯所穿非真廟垣,乃外堧垣,故冗官居其中;且又我使為之,錯無罪。」丞相嘉謝。罷朝,嘉謂長史曰:「吾悔不先斬錯乃請之,為錯所賣。」至舍,因歐血而死。錯以此愈貴。 6 秋,與匈奴和親。 7 八月,丁未,以御史大夫開封侯陶青為丞相。丁巳,以內史晁錯為御史大夫。 8 彗星出東北。 9 秋,衡山雨雹,大者五寸,深者二尺。 10 熒惑逆行守北辰,月出北辰間;歲星逆行天廷中。 11 梁孝王以竇太后少子故,有寵,王四十餘城,居天下膏腴地。賞賜不可勝道,府庫金錢且百巨萬,珠玉寶器多於京師。築東苑,方三百餘里,廣睢陽城七十里,大治宮室,為覆道,自宮連屬於平台三十餘里。招延四方豪俊之士,如吳人枚乘、嚴忌,齊人羊勝、公孫詭、鄒陽,蜀人司馬相如之屬皆從之游。每入朝,上使使持節以乘輿駟馬迎梁王於關下。既至,寵幸無比,入則侍上同輦,出則同車,射獵上林中。 |
現代日本語訳4 5 6 7 8 9 10 11 注釈
※史書『資治通鑑』(巻十六・漢紀八 景帝二年条)より抽出。司馬光による権力闘争と自然災害の因果関係への着眼点が顕著な一節である。 Translation took 1166.1 seconds. |
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| 因上疏請留,且半歲。梁侍中、郎、謁者著籍引出入天子殿門,與漢宦官無異。 |
翻訳文帝に対し上奏して延命を求め、さらに半年間の猶予を得た。梁国の侍中・郎・謁者は名簿に登録され、天子の宮殿の門から出入りすることができ、漢朝廷の宦官と何ら違いがなかった。 解説
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| input text 資治通鑑\016_漢紀_08.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷十六 漢紀八 起強圉大淵獻,盡上章困敦,凡十四年。 孝景皇帝下 景帝前三年(丁亥,公元前一五四年) 1 冬,十月,梁王來朝。時上未置太子,與梁王宴飲,從容言曰:「千秋萬歲後傳於王。」王辭謝,雖知非至言,然心內喜,太后亦然。詹事竇嬰引卮酒進上曰:「天下者,高祖之天下,父子相傳,漢之約也,上何以得傳梁王!」太后由此憎嬰。嬰因病免;太后除嬰門籍,不得朝請。梁王以此益驕。 2 春,正月,乙巳,赦。 3 長星出西方。 4 洛陽東宮災。 5 初,孝文時,吳太子入見,得侍皇太子飲、博。吳太子博爭道,不恭;皇太子引博局提吳太子,殺之。遣其喪歸葬,至吳,吳王慍曰:「天下同宗,死長安即葬長安,何必來葬為!」復遣喪之長安葬。吳王由此稍失籓臣之禮,稱疾不朝。京師知其以子故,系治、驗問吳使者;吳王恐,始有反謀。後使人為秋請,文帝復問之,使者對曰:「王實不病;漢系治使者數輩,吳王恐,以故遂稱病。夫察見淵中魚不祥,唯上棄前過,與之更始。」於是文帝乃赦吳使者,歸之,而賜吳王幾杖,老,不朝。吳得釋其罪,謀亦益解。然其居國,以銅、鹽故,百姓無賦;卒踐更,輒予平賈;歲時存問茂材,賞賜閭里;他郡國吏欲來捕亡人者,公共禁弗予。如此者四十餘年。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻十六 漢紀八 景帝前三年(丁亥、紀元前一五四年)
呉国の治績: 解説歴史的背景本記述は前漢「七国の乱」(紀元前154年)直前の緊張を示す核心的史料である: 政治力学分析
社会経済的特異性呉国の「無賦税政策」は当時として驚異的な善政だが、その財源基盤:
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| 晁錯數上書言吳過,可削;文帝寬,不忍罰,以此吳日益橫。及帝即位,錯說上曰:「昔高帝初定天下,昆弟少,諸子弱,大封同姓,齊七十餘城,楚四十餘城,吳五十餘城;封三庶孽,分天下半。今吳王前有太子之郤,詐稱病不朝,於古法當誅。文帝弗忍,因賜幾杖,德至厚,當改過自新,反益驕溢,即山鑄錢,煮海水為鹽,誘天下亡人謀作亂。今削之亦反,不削亦反。削之,其反亟,禍小;不削,反遲,禍大。」上令公卿、列侯、宗室雜議,莫敢難;獨竇嬰爭之,由此與錯有郤。及楚王戊來朝,錯因言:「戊往年為薄太后服,私奸服舍,請誅之。」詔赦,削東海郡。及前年,趙王有罪,削其常山郡;膠西王卬以賣爵事有奸,削其六縣。 廷臣方議削吳。吳王恐削地無已,因發謀舉事。念諸侯無足與計者,聞膠西王勇,好兵,諸侯皆畏憚之,於是使中大夫應高口說膠西王曰:「今者主上任用邪臣,聽信讒賊,侵削諸侯,誅罰良重,日以益甚。語有之曰:『狧糠及米。』吳與膠西,知名諸侯也,一時見察,不得安肆矣。吳王身有內疾,不能朝請二十餘年,常患見疑,無以自白,脅肩累足,猶懼不見釋。竊聞大王以爵事有過。所聞諸侯削地,罪不至此;此恐不止削地而已。」王曰:「有之。子將奈何?」高曰:「吳王自以與大王同憂,願因時循理,棄軀以除患於天下,意亦可乎?」膠西王瞿然駭曰:「寡人何敢如是!王上雖急,固有死耳,安得不事!」高曰:「御史大夫晁錯,營惑天子,侵奪諸侯,朝廷疾怨,諸侯皆有背叛之意,人事極矣。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』の記述に基づく) 第一段 晃錯はたびたび上奏し、呉王の過失を指摘して領地削減を主張したが、文帝は寛大で処罰を好まず、これにより呉王の横暴は日増しに強まった。景帝が即位すると、晃錯は皇帝に進言した。「昔、高祖(劉邦)が天下統一直後には兄弟も少なく皇子らも幼かったため、同姓諸侯を厚く封じました。斉には七十余城、楚には四十余城、呉には五十余城を与え、三人の庶子だけで天下の半分を分け与えたのです。ところが現呉王は以前、皇太子(景帝)との確執がありながら偽りの病と称して参朝せず、古法によれば誅殺に値します。先帝(文帝)は寛容にも几杖(高齢者用の腰掛けと杖)を下賜し、その恩徳は極めて厚いのに、彼は改心するどころか驕慢を増し、鉱山で私鋳銭を行い海水を煮て塩を造り、天下の逃亡者を誘って謀反を企てています。今や領地削減に踏み切れば反乱が早まるが被害は小さく、放置すれば反乱は遅れる代わりに害は甚大です」。 第二段 景帝は公卿・列侯・皇族らに議論させたが、敢て異論を唱える者はいなかった。ただ竇嬰だけが反対し、これが原因で晃錯との間に確執が生じた。その後、楚王戊が参朝すると、晃錯は「彼は以前、薄太后の喪中に喪服専用施設で密通した」と弾劾し誅殺を要求。詔により赦免されたものの東海郡を削減される。さらに前年には趙王が罪を得て常山郡を没収され、膠西王卬も爵位売買不正で六県を削られた。 第三段 廷臣らが呉領削減を審議し始めると、呉王は際限なき取り潰しを恐れて挙兵を決意。諸侯の中に協力者を見出せず膠西王の武勇と軍事志向を知り、中大夫応高を使者として派遣した。応高は膠西王へ「今上皇帝は奸臣(晃錯)を重用し誹謗に惑わされ、諸侯弾圧を強めております。『糠を嘗めれば次には米まで食う』との諺通りで、我々有力諸侯が標的とされている。呉王殿下は病弱ゆえ二十余年も参朝できず、疑念を持たれ続けている身です」と述べ、「貴殿の爵位不正処分は不当であり、このままでは領地削減どころか命さえ危うい」と警告した。膠西王が「どうすべきか」と問うと応高は「呉王と共に時流に乗り身を捨てて天下の禍根を除きませんか」と提案し、膠西王は驚愕しながらも決起への意志を示した。最後に応高は「晃錯が天子を惑わして諸侯弾圧を進めているため朝廷内外の不満が頂点に達している」と結論づけた。 解説【歴史的意義】
【人物分析】
【特記事項】
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| 彗星出,蝗蟲起,此萬世一時;而愁勞,聖人所以起也。吳王內以晁錯為誅,外從大王后車,方洋天下,所向者降,所指者下,莫敢不服。大王誠幸而許之一言,則吳王率楚王略函谷關,守滎陽、敖倉之粟,距漢兵,治次舍,須大王。大王幸而臨之,則天下可並,兩主分割,不亦可乎!」王曰:「善!」歸,報吳王,吳王猶恐其不果,乃身自為使者,至膠西面約之。膠西群臣或聞王謀,諫曰:「諸侯地不能當漢十二,為叛逆以憂太后,非計也。今承一帝,尚雲不易;假令事成,兩主分爭,患乃益生。」王不聽,遂發使約齊、菑川、膠東、濟南,皆許諾。 初,楚元王好書,與魯申公、穆生、白生俱受《詩》於浮丘伯;及王楚,以三人為中大夫。穆生不耆酒;元王每置酒,常為穆生設醴。及子夷王、孫王戊即位,常設,後乃忘設焉。穆生退,曰:「可以逝矣!醴酒不設,王之意怠;不去,楚人將鉗我於市。」遂稱疾臥。申公、白生強起之,曰:「獨不念先王之德與!今王一旦失小禮,何足至此!」穆生曰:「《易》稱:『知幾其神乎!幾者,動之微,吉兇之先見者也。君子見幾而作,不俟終日。』先王之所以禮吾三人者,為道存也。今而忽之,是忘道也。忘道之人,胡可與久處,豈為區區之禮哉!」遂謝病去。申公、白生獨留。王戊稍淫暴,太傅韋孟作詩諷諫,不聽,亦去,居於鄒。 |
現代日本語訳彗星が現れ、蝗害(イナゴの災い)が発生したことは、これこそ万代に一度の好機である。聖人もこのような時勢を憂えて立ち上がるものだ。 呉王は国内では晃錯(晁錯)への処罰を行い、国外から諸侯へ呼びかけている。車駕(皇帝の馬車)を擁して天下を巡行し、指差せば降伏させ、向かえば必ず攻略する――服従しない者は誰一人としていない。 大王がもし幸いにも一言お許しいただけるならば、呉王は楚王を率いて函谷関(要害の地)を制圧し、滎陽・敖倉(古代の穀物貯蔵庫)の兵糧を死守するであろう。漢軍を食い止め陣営を整備した後には、大王のお越しをお待ち申す。 もし大王がご臨席くだされば天下は併合可能であり、両君主による分割統治もまた良策ではないか!」 膠西王(こうせいおう)は「善し」と答え、帰国して呉王に復命した。しかし呉王はなお実行を疑い、自ら使者となって膠西へ赴き直接盟約を結んだ。 膠西の臣下の中にはこの謀議を知り諫める者もいた: 「諸侯が領有する土地は漢朝廷の十二分の一にも満たぬ。反逆して太后(皇族)を憂慮させるのは非計です。今ただ一人の皇帝に仕えることさえ容易ではないのに、仮に成功したとしても両君主による分割統治となれば禍いは増すばかり」 しかし王は聞き入れず斉・菑川(しせん)・膠東・済南へ使者を派遣。これら諸国も全て承諾した。 (楚の記録) 初め、楚元王(そげんおう)は学問を好み、魯申公(ろしんこう)・穆生(ぼくせい)・白生(はくせい)と共に浮丘伯(ふきゅうはく)のもとで『詩経』を学んだ。楚王となると三人を中大夫(重臣)に登用した。 穆生は酒を嗜まなかったため、元王は宴席ごとに特別な甘酒(醴:あまざけ)を用意させた。しかし子の夷王(いおう)、孫の戊王(ぼおう)が即位するとこの慣例は忘れ去られた。 穆生は退出して言った: 「もはや退く時だ! 甘酒(醴)が供されぬのは、王の心に弛みが生じた証拠。ここを去らねば楚の人々が市中で私を鉄枷(てっか)にはめるだろう」 そして病と称して隠居した。 申公と白生は強引に出仕させようとした: 「先王の恩徳を顧みぬとは! 些細な礼儀欠如だけでここまでする必要があろうか?」 穆生は答えた: 『易経』に言う――"幾(きざし)を知る者は神に通ず。幾とは動きの微兆であり、吉凶が現れる前触れである。君子は僅かな兆候を見て行動し、終日待つことはない" 先王が我ら三人を礼遇したのは「道」が存していたからだ。今それが軽視されるのは「道」忘却に他ならない。「道」なき者と長く交わるべきでなく、これは些細な礼儀の問題ではない』 こうして病を理由に去った。残された申公と白生のみが仕え続けた。 王戊(楚の新王)は次第に淫暴となり、太傅(たいふ:教育係)である韋孟(いもう)も詩を作って諫めたが聞き入れられず辞職し鄒(すう)へ隠棲した。 解説【史料的背景】◎『資治通鑑』巻十六・漢紀八より。前漢景帝期の「七国の乱」(呉楚七国による反乱)勃発直前と、その思想的伏線となる楚国内部事情を描く。 ◎膠西王(劉卬)への勧誘場面では、①天文異変(彗星・蝗害)を用いた正当化 ②漢朝廷批判(晁錯処刑問題)③軍事戦略の具体性 ④権力分割の甘言という四段構成で叛乱を煽る。 ◎楚元王三代記は「礼の本質」を示す。穆生が重視したのは形式的待遇ではなく「道=君臣間の精神的紐帯」。この倫理観の喪失が楚国滅亡の伏線となる。 【文学的技法】■対比構造: 【思想的考察】△叛乱側が引用した「聖人の起」(時勢論)と、穆生が引用した『易経』の「見幾而作」(微兆行動論)は共に儒教的革命理論だが――前者が権力奪取を正当化するのに濫用されたのに対し、後者は個人の節義を示す純粋な原理として機能。 【現代への示唆】▼組織論:穆生が指摘した「礼儀欠如=本質軽視」は、現代企業文化における「形式的手順遵守 vs 理念実践」の問題に通底。 訳注
(本訳では原文の対話リズム保持、史実固有名称は原則維持。助動詞「ぬ」で文語調を抑制しつつ格調確保) Translation took 1500.8 seconds. |
| 戊因坐削地事,遂與吳通謀。申公、白生諫戊,戊胥靡之,衣之赭衣,使雅舂於市。休侯富使人諫王。王曰:「季父不吾與,我起,先取季父矣!」休侯懼,乃與母太夫人奔京師。 及削吳會稽、豫章郡書至,吳王遂先起兵,誅漢吏二千石以下;膠西、膠東、菑川、濟南、楚、趙亦皆反。楚相張尚、太傅趙夷吾諫王戊,戊殺尚、夷吾。趙相建德、內史王悍諫王遂,遂燒殺建德、悍。齊王後悔,背約城守。濟北王城壞未完,其郎中令劫守,王不得發兵。膠西王、膠東王為渠率,與菑川、濟南共攻齊,圍臨菑。趙王遂發兵住其西界,欲待吳、楚俱進,北使匈奴與連兵。 吳王悉其士卒,下令國中曰:「寡人年六十二,身自將;少子年十四,亦為士卒先。諸年上與寡人同,下與少子等,皆發。」凡二十餘萬人。南使閩、東越,閩、東越亦發兵從。吳王起兵於廣陵,西涉淮,因並楚兵,發使遺諸侯書,罪狀晁錯,欲合兵誅之。吳、楚共攻梁,破棘壁,殺數萬人;乘勝而前,銳甚。梁孝王遣將軍擊之,又敗梁兩軍,士卒皆還走。梁王城守睢陽。 初,文帝且崩,戒太子曰:「即有緩急,周亞夫真可任將兵。」及七國反書聞,上乃拜中尉周亞夫為太尉,將三十六將軍往擊吳、楚,遣曲周侯酈寄擊趙,將軍欒布擊齊;復召竇嬰,拜為大將軍,使屯滎陽監齊、趙兵。 |
現代日本語訳:戊は領地削減問題を契機に呉と密約を結んだ。申公と白生が戊を諫めたところ、戊は彼らを犯罪者扱いし、赤い囚人服を着せて市場で米搗きの罰役に就かせた。休侯富が使者を遣わして王を諫めさせると、王は言った。「叔父(季父)が我を見捨てるなら、兵を挙げれば真っ先に討つぞ」。休侯は恐れ、母である太夫人と共に都へ逃亡した。 呉の会稽郡・豫章郡削減の詔書が届くと、呉王はいち早く挙兵し、漢朝廷から派遣された二千石以下の官吏を誅殺。膠西・膠東・菑川・済南・楚・趙も相次いで反旗を翻した。楚の宰相張尚と太傅趙夷吾が王戊を諫めたため、戊は両名を処刑。趙の宰相建徳と内史王悍が王遂を諫めると、遂は彼らを焼殺した。斉王は後悔して約束を破り城に籠城。済北王は城壁修復未完了で郎中令に拘束され挙兵できなかった。膠西王と膠東王が首謀者となり菑川・済南と連合して斉を攻撃、臨菑を包囲した。趙王遂は軍勢を西方国境に展開し、呉楚両軍の進軍待機すると共に匈奴へ同盟を要請。 呉王は全国民に向け布告した。「寡人62歳自ら指揮を執る。末子14歳も先頭に立つ。老若男女を問わず動員せよ」。総兵力20万余りが集結し、南方の閩・東越も援軍を派遣。広陵から挙兵した呉王は淮水を渡って楚軍と合流すると諸侯へ書簡を送り、「晁錯の罪状」を糾弾して共同誅伐を呼びかけた。呉楚連合軍が梁を攻撃し棘壁で数万を殺害、破竹の勢いで進撃。梁孝王が派遣した将軍は敗北し兵士は潰走、遂に睢陽城へ退却して籠城戦に入った。 文帝が崩御間際に皇太子(景帝)へ遺言していた。「緊急事態には周亜夫を起用せよ」。七国の乱報を受けた皇帝は中尉周亜夫を太尉に任じ36将軍を率い呉楚討伐に向かわせ、曲周侯酈寄に趙攻撃、欒布将軍に斉攻撃を命じた。更に竇嬰を大将軍として栄陽駐屯させ斉・趙方面の監視にあたらせた。 解説:
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| 初,晁錯所更令三十章,諸侯讙嘩。錯父聞之,從穎川來,謂錯曰:「上初即位,公為政用事,侵削諸侯,疏人骨肉,口語多怨,公何為也?」錯曰:「固也。不如此,天子不尊,宗廟不安。」父曰:「劉氏安矣而晁氏危,吾去公歸矣!」遂飲藥死,曰:「吾不忍見禍逮身!」後十餘日,吳、楚七國俱反,以誅錯為名。 上與錯議出軍事,錯欲令上自將兵而身居守;又言:「徐、僮之旁吳所未下者,可以予吳。」錯素與吳相袁盎不善,錯所居坐,盎輒避;盎所居坐,錯亦避;兩人未嘗同堂語。及錯為御史大夫,使吏按盎受吳王財物,抵罪;詔赦以為庶人。吳、楚反,錯謂丞、史曰:「袁盎多受吳王金錢,專為蔽匿,言不反;今果反,欲請治盎,宜知其計謀。」丞、史曰:「事未發,治之有絕;今兵西向,治之何益!且盎不宜有謀。」錯猶與未決。人有告盎,盎恐,夜見竇嬰,為言吳所以反,願至前,口對狀。嬰入言,上乃召盎。盎入見,上方與錯調兵食。上問盎:「今吳、楚反,於公意何如?」對曰:「不足憂也!」上曰:「吳王即山鑄錢,煮海為鹽,誘天豪傑;白頭舉事、此其計不百全,豈發乎!何以言其無能為也?」對曰:「吳銅鹽之利則有之,安得豪傑而誘之!誠令吳得豪傑,亦且輔而為誼,不反矣。吳所誘皆亡賴子弟、亡命、鑄錢奸人,故相誘以亂」錯曰:「盎策之善。 |
現代日本語訳:当初、晃錯(ちょうそ)が改正した三十章の法令に対し、諸侯たちは激しく反発した。彼の父がこの噂を聞き、潁川から駆けつけて言った。「皇帝が即位されたばかりなのに、卿が政務を取り仕切りながら諸侯の領地を削り、肉親同士の絆を断ち切っている。巷には怨嗟の声が溢れている。これいかに?」晃錯は答えた。「当然のことです。この措置なくして天子の威厳は保たれず、皇室も安泰ではありえません。」父は嘆息した。「劉氏(皇帝家)こそ安泰だろうが、晁一族は滅亡するであろう。私はお前のもとを去る」と告げ毒薬を仰ぎ、「わが身に災いが降りかかるを見届けられぬ」と言い残して死んだ。 十余日後、呉・楚など七カ国が「晃錯誅殺」を大義名分として一斉に反旗を翻した。景帝が軍事会議で協議すると、晃錯は皇帝自ら出陣するよう進言しつつ自身は留守役を望み、「徐・僯の呉未支配地域を与えるべきだ」とも主張した。 かねてより晃錯と不仲だった呉宰相・袁盎(えんおう)は、互いの居場所を避け合い同席も会話もしなかった。晃錯が御史大夫に昇進すると、部下を使って袁盎が呉王から賄賂を受けた罪を暴き、彼を庶民に落とした。 七国の乱勃発後、晃錯は丞相府の官吏たちに言った。「袁盎は呉王より多額の金銭を受け、ひたすら謀反の兆候を隠蔽し『叛乱など起きぬ』と主張していた。今や現実となった以上、彼を処罰して陰謀の全容を明かさせよ。」官吏たちは諫めた。「未発生時に摘発すれば阻止できましたが、今や賊軍が迫る中で処罰しても無意味です。況や袁盎に策謀などあるはずもありません」晃錯はなお躊躇していた。 この密議を察知した袁盎は恐怖に駆られ、夜陰に乗じて竇嬰(とうえい)邸へ赴き「叛乱の真相を御前で奏上したい」と懇願。竇嬰が取次ぎを得て景帝は袁盎を召し出した。謁見時、晃錯が兵糧調達について進言中であった。皇帝が「呉楚の反乱をどう思うか」と問うと、袁盎は即答した。「憂慮には及びません!」景帝が詰め寄った。「呉王は鉱山で通貨を鋳造し煮海製塩を行い、天下の豪傑を集めて老齢ながら挙兵した。これほどの準備があって失敗するはずがないではないか!」袁盎は弁じた。「銅銭と塩による利益は事実でも『豪傑』など集めていません。仮に真の豪傑を得ていたなら、彼らはむしろ正義のために補佐したでしょう。呉王が誘ったのは無頼漢や逃亡者、悪徳通貨鋳造人ばかりゆえ騒乱を起こすのです」この言葉に晃錯も「袁盎の見解は妥当である」と認めた。 注釈:
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| 」上曰:「計安出?」盎對曰:「願屏左右。」上屏人,獨錯在。盎曰:「臣所言,人臣不得知。」乃屏錯。錯趨避東廂,甚恨。上卒問盎,對曰:「吳、楚相遺書,言高皇帝王子弟各有分地,今賊臣晁錯擅適諸侯,削奪之地,以故反,欲西共誅錯,復故地而罷。方今計獨有斬錯,發使赦吳、楚七國,復其故地,則兵可毋血刃而俱罷。」於是上默然良久,曰:「顧誠何如?吾不愛一人以謝天下。」盎曰:「愚計出此,唯上孰計之!」乃拜盎為太常,密裝治行。後十餘日,上令丞相青、中尉嘉、廷尉歐劾奏錯:「不稱主上德信,欲疏群臣、百姓,又欲以城邑予吳,無臣子禮,大逆無道。錯當要斬,父母、妻子、同產無少長皆棄市。」制曰:「可。」錯殊不知。壬子,上使中尉召錯,紿載行市,錯衣朝衣斬東市。上乃使袁盎與吳王弟子宗正德侯通使吳。 謁者僕射鄧公為校尉,上書言軍事,見上,上問曰:「道軍所來,聞晁錯死,吳、楚罷不?」鄧公曰:「吳為反數十歲矣;發怒削地,以誅錯為名,其意不在錯也。且臣恐天下之士拑口不敢復言矣。」上曰:「何哉?」鄧公曰:「夫晁錯患諸侯強大不可制,故請削之以尊京師,萬世之利也。計畫始行,卒受大戮。內杜忠臣之口,外為諸侯報仇,臣竊為陛下不取也。」於是帝喟然長息曰:「公言善,吾亦恨之!」 袁盎、劉通至吳,吳、楚兵已攻梁壁矣。 |
現代日本語訳:皇帝が尋ねた。「対策はあるか?」袁盎が答えた。「左右の者を退けて頂きたい」。皇帝が人払いすると、晁錯だけが残った。袁盎は言う。「臣の申すことは家臣に知らせられません」。そこで晁錯も退出させられた。晁錯は東廂へ急ぎ避けながら強い恨みを抱いた。 結局皇帝が袁盎に問うと、彼はこう答えた。「呉・楚両国が送ってきた書簡には『高祖皇帝が王子たちに分地を与えられたのに、今や賊臣・晁錯が諸侯の領土を不当にも削減したため我々は反逆する。共に西上して晁錯を誅殺し旧領を回復すれば兵を収めよう』とあります。現状では晁錯を斬り、使者を派遣して七国を赦免し旧領を返還させるしかありません。そうすれば流血せずに戦争は終結します」。 皇帝は長く黙った後「一人を犠牲にして天下の恨みを買うのは惜しくない」と言い、袁盎が「拙案はこれのみです。陛下ご英断を」と応じた。こうして袁盎は太常に任命され密かに出発準備をした。 十余日後、皇帝は丞相・陶青らに晁錯弾劾を命じた。「主君の威光を汚し君臣関係を分断。城邑を呉へ割譲しようとした不臣の極みである」。判決として「腰斬の刑。親族も皆死刑」と裁可されたが、晁錯は全く知らない。 壬子の日、中尉が晁錯を騙して市中引き回しの上で処刑した。皇帝は袁盎らを呉へ派遣するが、謁者僕射・鄧公(軍使)との会見で問うた。「晁錯誅殺後、反乱軍は撤退したか?」。 鄧公は言下に否定した。「呉の謀叛は数十年も前からのもの。領土削減を口実に晁錯を標的にしただけです」。さらに警告する。「この処刑で天下の知識人は発言を封じられるでしょう」と。皇帝が理由を質すと「諸侯勢力抑制こそ万世不易の方策でしたのに、献策者を誅殺すれば忠臣は沈黙し諸侯に利を与えます」。 皇帝は深く嘆息した。「卿の言葉は正しい。朕も後悔している」と。 その頃袁盎らが呉に到着するが、既に楚軍は梁国要塞を攻撃していた。 解説:
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| 宗正以親故,先入見,諭吳王,令拜受詔。吳王聞袁盎來,知其欲說,笑而應曰:「我已為東帝,尚誰拜!」不肯見盎,而留軍中,欲劫使將;盎不肯,使人圍守,且殺之。盎得間,脫亡歸報。 太尉亞夫言於上曰:「楚兵剽輕,難與爭鋒,願以梁委之,絕其食道,乃可制也。」上許之。亞夫乘六乘傳,將會兵滎陽。發至霸上,趙涉庶說亞夫曰:「吳王素富,懷輯死士久矣。此知將軍且行,必置間人於殽、澠厄狹之間;且兵事上神密,將軍何不從此右去,走藍田,出武關,抵洛陽!間不過差一二日,直入武庫,擊鳴鼓。諸侯聞之,以為將軍從天而下也。」太尉如其計,至洛陽,喜曰:「七國反,吾乘傳至此,不自意全。今吾據滎陽,滎陽以東,無足憂者。」使吏搜殽、澠間,果得吳伏兵。乃請趙涉為護軍。 太尉引兵東北走昌邑。吳攻梁急,梁數使使條侯求救,條侯不許。又使使訴條侯於上。上使告條侯救梁,亞夫不奉詔,堅壁不出;而使弓高侯等將輕騎兵出淮泗口,絕吳、楚兵後,塞其饟道。梁使中大夫韓安國及楚相尚弟羽為將軍;羽力戰,安國持重,乃得頗敗吳兵。吳兵欲西,梁城守,不敢西;即走條侯軍,會下邑,欲戰。條侯堅壁不肯戰;吳糧絕卒饑,數挑戰,終不出,條侯軍中夜驚,內相攻擊,擾亂至帳下,亞夫堅臥不起,頃之,復定。 |
現代日本語訳:宗正は親族であることを理由に、先に入って呉王と会見し、詔書を受け取るよう礼を尽くして拝受するように諭した。しかし袁盎が来たのを知った呉王は、彼が説得に来ると悟り、笑いながら答えた。「我はすでに東帝となっているのに、誰に向かって拝むというのか」と。結局袁盎との会見を拒み、軍営内に留め置いて強引に将軍として指揮させようとしたが、袁盎が承諾しなかったため、兵士で包囲監視した上、殺害しようとした。しかし袁盎は隙を見て脱出し、帰還して報告した。 太尉周亜夫が皇帝に対して進言した。「楚の兵力は敏捷ですが、正面から対抗するのは困難です。願わくば梁国をあえて敵に差し出すことで兵糧輸送路を断ち切り、そうすれば制圧可能でしょう」。皇帝はこれを認可した。周亜夫が六頭立ての伝馬車で滎陽へ軍勢集結に向かう途中、覇上まで来た時、趙涉という人物が進言した。「呉王は元々裕福であり、長年死を恐れぬ兵士を抱えております。将軍が出発なさると知れば、必ずや殽山と澠池の狭隘地に伏兵をおくでしょう。軍事行動においては機密性が最優先です。ここで右方向へ進路を変え藍田経由で武関から洛陽へ向かわれてはいかがですか?行程はわずか一二日延びるだけですが、そのまま武器庫に突入し陣太鼓を打ち鳴らせば、諸侯軍は将軍が天から降ったかのように驚くでしょう」。周亜夫はこの策を用い洛陽到着後、喜んで言った。「七国が反乱しても私は伝馬車でここまで来ており、無事に到達できたのは予想外だ。今や我々が滎陽を押さえた以上、以東の地域については心配無用である」。配下に殽山・澠池間の捜索を命じると、案の定呉軍の伏兵が見つかったため、趙涉を護軍として登用した。 周亜夫は軍勢を率いて北東方向へ昌邑に向かって進んだ。この時猛攻を受ける梁国から条侯(周亜夫)に救援要請が再三届くも彼は応じず、使者が皇帝への直訴に及ぶと、ようやく朝廷から救出命令が出された。しかし周亜夫は詔勅を奉ぜず、防壁を固守して動かなかった代わりに、弓高侯ら軽騎兵部隊を淮泗河口へ派遣し呉楚軍の後方連絡線と補給路を遮断させた。梁国側では中大夫韓安国や楚宰相尚の弟・羽将軍が防衛指揮を執り、羽将軍は奮戦する一方で韓安国は慎重な采配を見せ、何とか呉軍に打撃を与えた。西進しようとした呉軍も梁城の堅守により阻まれ断念すると、今度は下邑で周亜夫本隊と対峙し決戦を挑んだが、彼は防御態勢を崩さなかった。兵糧不足に陥った呉軍が幾度か挑発しても応じない中、ある夜周亜夫陣営では虚驚事件が発生──内部で同士討ち騒ぎが起きて幕舎近くまで混乱したが、彼は平然と床についたまま動かず、程なくして収拾された。 解説:
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| 吳奔壁東南陬,亞夫使備西北;已而其精兵果奔西北,不得入。吳、楚士卒多饑死叛散,乃引而去。二月,亞夫出精兵追擊,大破之。吳王濞棄其軍,與壯士數千人夜亡走;楚王戊自殺。 吳王之初發也,吳臣田祿伯為大將軍。田祿伯曰:「兵屯聚而西,無它奇道,難以立功。臣願得五萬人,別循江、淮而上,收淮南、長沙,入武關,與大王會,此亦一奇也。」吳王太子諫曰:「王以反為名,此兵難以借人,人亦且反王,奈何?且擅兵而別,多它利害,徒自損耳!」吳王即不許田祿伯。 吳少將桓將軍說王曰:「吳多步兵,步兵利險;漢多車騎,車騎利平地,願大王所過城不下,直去,疾西據洛陽武庫,食敖倉粟,阻山河之險以令諸侯,雖無入關,天下固已定矣。大王徐行留下城邑,漢軍車騎至,馳入梁、楚之郊,事敗矣。」吳王問諸老將,老將曰:「此年少,椎鋒可耳,安知大慮!」於是王不用桓將軍計。 王專並將兵。兵未度淮,諸賓客皆得為將、校尉、候、司馬,獨周丘不用。周丘者,下邳人,亡命吳,酤酒無行;王薄之,不任。周丘乃上謁,說王曰:「臣以無能,不得待罪行間。臣非敢求有所將也,願請王一漢節,必有以報。」王乃予之。周丘得節,夜馳入下邳;下邳時聞吳反,皆城守。至傳舍,召令入戶,使從者以罪斬令,遂召昆弟所善豪吏告曰:「吳反,兵且至,屠下邳不過食頃;今先下,家室必完,能者封侯矣。 |
現代語訳呉軍が城壁の南東隅に突撃を仕掛けたところ、周亜夫は西北方向への守りを固めさせた。果たして間もなく精鋭部隊が西北へ向かい突破できなかった。呉・楚両軍の兵士は飢餓や離反で多数が消え、ついに撤退した。二月、周亜夫は精鋭を率いて追撃し大勝する。呉王劉濞は軍勢を見捨て数千人の壮士と共に夜逃げし、楚王劉戊は自害した。 当初の出兵時、呉臣・田禄伯が大将軍として進言した。「兵力を集中させ西進すれば奇策なく功績は困難。五万兵を与えられれば長江・淮水を遡り淮南と長沙を制圧し武関から大王と合流する別働隊を編成しましょう」。しかし太子が反対した。「謀反の名目で軍権を委ねれば裏切られる危険あり。分兵は損害招くだけです」。呉王は田禄伯案を却下。 若手将軍・桓将軍も献策する。「我が軍は歩兵主体で山岳戦得意、漢軍は車騎中心で平地有利。城攻めせず洛陽の兵器庫と敖倉の食糧を急襲占領すべきです。山河の要害で諸侯を号令すれば天下平定可能。攻城に時間費やせば漢軍が梁楚平原へ侵攻し形勢逆転します」。だが老将たちは「若輩者の軽率な策」と一笑。呉王も採用せず。 兵権独占した呉王は、淮水渡河前に賓客の大半を将校に登用する中で下邳出身の周丘だけを見捨てた。素行不良の酒売りだったため軽視していたのである。しかし周丘は直談判し「指揮官職ではなく漢王朝の符節のみ賜りたい」と懇願。呉王がこれを許すや、夜を徹して故郷・下邳へ急行する。現地で反乱報を知り籠城準備中の町へ赴いた周丘は宿舎に県令を呼びつけ従者に斬らせ、続いて豪族役人へ宣言した。「呉軍が迫る。降伏すれば家屋保全と侯爵授与の道あり。抵抗なら皆殺しだ」。 解説
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| 」出,乃相告,下邳皆下。周丘一夜得三萬人,使人報吳王,遂將其兵北略城邑;比至陽城,兵十餘萬,破陽城中尉軍;聞吳王敗走,自度無與共成功,即引兵歸下邳,未至,疽發背死。 6 壬午晦,日有食之。 7 吳王之棄軍亡也,軍遂潰,往往稍降太尉條侯及梁軍。吳王渡淮,走丹徒,保東越,兵可萬餘人,收聚亡卒。漢使人以利啖東越,東越即紿吳王出勞軍,使人鏦殺吳王,盛其頭,馳傳以聞。吳太子駒亡走閩越。吳、楚反,凡三月,皆破滅,於是諸將乃以太尉謀為是;然梁王由此與太尉有隙。 三王之圍臨菑也,齊王使路中大夫告於天子。天子復令路中大夫還報,告齊王堅守,「漢兵今破吳楚矣。」路中大夫至,三國兵圍臨菑數重,無從入。三國將與路中大夫盟曰:「若反言:『漢已破矣,齊趣下三國,不,且見屠。』」路中大夫既許,至城下,望見齊王曰:「漢已發兵百萬,使太尉亞夫擊破吳、楚,方引兵救齊,齊必堅守無下!」三國將誅路中大夫。齊初圍急,陰與三國通謀,約未定;會路中大夫從漢來,其大臣乃復勸王無下三國。會漢將欒布、平陽侯等兵至齊,擊破三國兵。解圍已,後聞齊初與三國有謀,將欲移兵伐齊。齊孝王懼,飲藥自殺。 膠西、膠東、菑川王各引兵歸國。膠西王徒跣、席蒿、飲水謝太后。王太子德曰:「漢兵還,臣觀之,已罷,可襲,願收王餘兵擊之!不勝而逃入海,未晚也。 |
現代日本語訳:周丘は一夜にして兵三万を得て呉王に報告し、北上して城邑を攻略した。陽城に至る時には十余万の兵力となり、城中尉軍を撃破する。しかし呉王敗走の報を受け独力での成功が不可能と判断し、下邳へ撤退途中で背中に腫物が生じて死亡した。 六日目(壬午晦)、日食発生。 七.呉王逃亡後、兵は潰走して太尉・条侯や梁軍への投降が相次いだ。淮水を渡り丹徒に逃れた呉王は東越の庇護下で敗残兵万余を集めたものの、漢朝の懐柔策を受けた東越により労軍中に刺殺され、首級は急送された。太子駒は閩越へ逃亡し、吳楚の乱は三ヶ月で終結した。諸将は太尉(周亜夫)の戦略を認めたが、梁王との間に確執が生じた。 三国軍に包囲される斉王が皇帝に救援要請すると、「呉楚は既に敗れた」との返書を得る。使者・路中大夫帰還時には三重の包囲網で入城不可能だったため、三国将より「漢朝滅亡と偽って降伏勧告せよ」との脅迫盟約を強いられる。彼は一旦承諾するも城内に向かって叫んだ:「百万の援軍が周亜夫に率いられ救援中だ!堅守せよ!」これにより処刑された。斉国内部では当初降伏論があったが、この報告で抗戦決意が固まり、欒布ら漢軍到着により包囲は解かれた。後日、三国との内通嫌疑を受けた孝王は服毒自殺する。 膠西・膠東・菑川の三王は帰国し、膠西王は裸足で藁座に跪き水をすすって謝罪したが、太子徳は「漢軍は疲弊している。残兵で奇襲すべし」と進言し、「敗れれば海へ逃れる猶予あり」と述べた。 解説:
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| 」王曰:「吾士卒皆已壞,不可用。」弓高侯韓頹當遺膠西王書曰:「奉詔誅不義,降者赦除其罪,復故;不降者滅之。王何處?須以從事。」王肉袒叩頭,詣漢軍壁謁曰:「臣卬奉法不謹,驚駭百姓,乃苦將軍遠道至於窮國,敢請菹醢之罪!」弓高侯執金鼓見之曰:「王苦軍事,願聞王發兵狀。」王頓首膝行,對曰:「今者晁錯天子用事臣,變更高皇帝法令,侵奪諸侯地。卬等以為不義,恐其敗亂天下,七國發兵且誅錯。今聞錯已誅,卬等謹已罷兵歸。」將軍曰:「王苟以錯為不善,何不以聞?及未有詔、虎符,擅發兵擊義國?以此觀之,意非徒欲誅錯也。」乃出詔書,為王讀之,曰:「王其自圖!」王曰:「如卬等死有餘罪!」遂自殺,太后、太子皆死。膠東王、菑川王、濟南王皆伏誅。 酈將軍兵至趙,趙王引兵還邯鄲城守。酈寄攻之,七月不能下。匈奴聞吳、楚敗,亦不肯入邊。欒布破齊還,並兵引水灌趙城。城壞,王遂自殺。 帝以齊首善,以迫劫有謀,非其罪也,召立齊孝王太子壽,是為懿王。 濟北王亦欲自殺,幸全其妻子。齊人公孫玃謂濟北王曰:「臣請試為大王明說梁王,通意天子;說而不用,死未晚也。」公孫玃遂見梁王曰:「夫濟北之地,東接強齊,南牽吳、越,北脅燕、趙。此四分五裂之國。權不足以自守,勁不足以捍寇,又非有奇怪雲以待難也;雖墜言於吳,非其正計也。 |
現代日本語訳膠西王が「我が兵士は皆疲弊して、戦える状態ではない」と言うと、弓高侯韓頹當(こうこうこう・かんたいとう)は書簡を送った。「詔勅を奉じて不義を誅する。降伏すれば罪を赦し元の身分に復す。降らねば滅ぼす。王はどうするか?速やかに行動せよ」と。 膠西王劉卬(りゅうごう)は肌脱ぎで叩頭し、漢軍陣営へ出向いて詫びた。「臣・卬が法を疎かにしたため民を驚かせ、遠路窮国まで将軍をお苦労させた。菹醢(そかい/塩漬け刑)の罪をご容赦願いたい」。すると弓高侯は軍鼓を持って現れ「軍事でお疲れでしょう。出兵の経緯を聞かせてほしい」と言う。 王がひざまずき進み出て答えた。「近ごろ晁錯(ちょうそ)が天子の信任を得て勝手に高祖皇帝の法令を変え、諸侯の領地を侵したため、我々は不義と見なし天下が乱れることを恐れ、七国で兵を起こして晁錯を誅殺しようとしたのです。今や彼が処刑されたと聞き、早速撤兵しました」。将軍は言った。「王が晁錯の悪行を知りながら、なぜ上奏しなかったのか?詔も虎符もないのに義国(正当な諸侯)を攻撃したのは、単に晁錯を誅すためではあるまい」と。 続けて詔書を取り出して読み上げ、「王よ自ら決断せよ」と言うと、王は「我々の死罪は余りある!」と叫んで自害し、太后や太子も後を追った。膠東王・菑川王・済南王も処刑された。 一方、酈寄(れいき)将軍が趙に到着すると、趙王は兵を引き揚げ邯鄲城で籠城した。七か月攻撃しても落ちず、匈奴も呉楚の敗北を知り侵攻を中止した。欒布(らんぷ)が斉を平定して合流し、水攻めを仕掛けると城壁は崩れ、趙王は自害した。 皇帝は「斉王が最初に善政を行い、謀反も強要されたもの」として罪に問わず、孝王の太子・寿(じゅ)を懿王(いおう)として即位させた。 済北王は妻子を助けたいと自害を考えていたが、家臣公孫玃(こうそんきょ)が進言した。「まず私が梁王を説得し天子に取り次ぎましょう。失敗したらその時死んでも遅くありません」。公孫玃は梁王に謁見して訴えた。「済北の地は東で強国・斉と接し、南は呉越に引かれ、北は燕趙に脅かされる四分五裂の要害です。自衛する力もなく奇策もないため、やむなく呉王に従っただけ。本心からの謀反ではありません」と。 解説
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| 鄉使濟北見情實,示不從之端,則吳必先歷齊,畢濟北,招燕、趙而總之,如此,則山東之從結而無隙矣。今吳王連諸侯之兵,驅白徒之眾,西與天子急衡,濟北獨底節不下;使吳失與而無助,跬步獨進,瓦解土崩,破敗而不救者,未必非濟北之力也。夫以區區之濟北而與諸侯爭強,是以羔犢之弱而扞虎狼之敵也。守職不橈,可謂誠一矣。功義如此,尚見疑於上,脅肩低首,累足撫衿,使有自悔不前之心,非社稷之利也。臣恐籓臣守職者疑之。臣竊料之,能歷西山,徑長樂,抵未央,攘袂而正議者,獨大王耳。上有全亡之功,下有安百姓之名,德淪於骨髓,恩加於無窮,願大王留意詳惟之。」孝王大悅,使人馳以聞;濟北王得不坐,徙封於菑川。 8 河間王太傅衛綰擊吳、楚有功,拜為中尉。綰以中郎將事文帝,醇謹無它。上為太子時,召文帝左右飲,而綰稱病不行。文帝且崩,屬上曰:「綰長者,善遇之。」故上亦寵任焉。 9 夏,六月,乙亥,詔:「吏民為吳王濞等所詿誤當坐及逋逃亡軍者,皆赦之。」帝欲以吳王弟德哀侯廣之子續吳,以楚元王子禮續楚。竇太后曰:「吳王,老人也,宜為宗室順善;今乃首率七國紛亂天下,奈何續其後!」不許吳,許立楚後。乙亥,徙淮陽王餘為魯王;南王非為江都王,王故吳地;立宗正禮為楚王;立皇子端為膠西王,勝為中山王。 |
現代日本語訳仮に済北国が当初から実情を明かし、従わぬ意思を示していたならば、呉はまず斉を攻め、済北を征服した後に燕・趙を招集して連合軍を結成したはずである。そうなれば崤山以東の諸侯は結束に隙間なく固まっていただろう。しかし今や呉王は諸侯兵を糾合し、未訓練の民衆を駆り立てて西進し天子と対峙する中、済北国のみが節義を守って降伏せず、結果的に呉を孤立無援に追い込んだ。そのため呉軍は一歩も前進できぬまま瓦解崩壊したのであり、この破局を救えなかった要因こそ、まさしく済北国の奮闘によるものではないか。小さな済北国が諸侯連合と渡り合うのは、子羊や仔牛で虎狼に立ち向かうようなものであるのに、職責を全うして屈しなかった誠実さは称賛に値する。これほどの功績と忠義を示しながら君主から疑われるとは、肩を竦め頭を垂れ、襟を握りしめて後悔させるような仕打ちは国家の利益にならない。臣下として恐れるのは、辺境守備の諸侯が職務遂行に疑問を抱くことである。 思うに、西山を越え長楽宮・未央宮に直訴し、袖をまくり正論を述べられる者は大王ただお一人である。上は滅亡寸前の国を救い、下は民衆を安堵させた功績により、徳は骨髄に染みわたり恩恵は永遠に続くでしょう。どうか慎重にご検討いただきたい」と述べると、孝王は大いに喜び急使を派遣して上奏したため、済北王は罪を問われず淄川への転封となった。 8 河間王の太傅・衛綰が呉楚の乱鎮圧で功績を挙げ中尉に任命された。綰は元々文帝に郎中将として仕え、誠実謹直な人物であった。皇帝(景帝)が太子時代に文帝側近を招宴した際、綰だけは病気と称して出席しなかった。文帝は臨終の際「綰は篤実な者だから厚遇せよ」と遺言したため、景帝も彼を重用していたのである。 9 同年夏6月乙亥日、詔勅が発布された:「呉王劉濞らに騙され連座対象となった官吏・民衆、及び兵役逃亡者は全て赦免する」。皇帝は呉王の弟である哀侯劉広の子を後継とし楚元王の子・礼にも楚を継がせようとした。しかし竇太后が「呉王は宗室長老であり模範となるべき立場ながら七国乱の首謀者となった。どうして後継を認められようか」と反対したため、楚のみ後継を許可された。同日付で淮陽王余を魯王に、汝南王非を江都王(旧呉領統治)に転封し、宗正の礼を楚王、皇子端を膠西王、勝を中山王にそれぞれ冊立した。 解説
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| 景帝前四年(戊子,公元前一五三年) 1 春,復置關,用傳出入。 2 夏,四月,己巳,立子榮為皇太子,徹為膠東王。 3 六月,赦天下。 4 秋,七月,臨江王閼薨。 5 冬,十月,戊戌晦,日有食之。 6 初,吳、楚七國反,吳使者至淮南,淮南王欲發兵應之。其相曰:「王必欲應吳,臣願為將。」王乃屬之。相已將兵,因城守,不聽王而為漢,漢亦使曲城侯將兵救淮南,以故得完。 吳使者至廬江,廬江王不應,而往來使越。至衡山,衡山王堅守無二心。及吳、楚已破,衡山王入朝。上以為貞信,勞苦之,曰:「南方卑濕。」徙王王於濟北以褒之。廬江王以邊越,數使使相交,徙為衡山王,王江北。 景帝前五年(己丑,公元前一五二年) 1 春,正月,作陽陵邑。夏,募民徙陽陵,賜錢二十萬。 2 遣公主嫁匈奴單于。 3 徙廣川王彭祖為趙王。 4 濟北貞王勃薨。 景帝前六年(庚寅,公元前一五一年) 1 冬,十二月,雷,霖雨。 2 初,上為太子,薄太后以薄氏女為妃;及即位,為皇后,無寵。秋,九月,皇后薄氏廢。 3 楚文王禮薨。 4 初,燕王臧荼有孫女曰臧兒,嫁為槐里王仲妻,生男信與兩女而仲死;更嫁長陵田氏,生男蚡、勝。文帝時,臧兒長女為金王孫婦,生女俗。臧兒卜筮之,曰:「兩女皆當貴。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)景帝前四年(戊子・紀元前153年)
1. 春:関所を再設置し、通行証による出入りを義務付ける。
2. 夏四月己巳:皇子栄を皇太子に、徹を膠東王に立てる。
3. 六月:天下に恩赦を行う。
4. 秋七月:臨江王・閼が薨去する。
5. 冬十月戊戌(晦):日食発生す。
6. 初め、呉楚七国の乱時── 景帝前五年(己丑・紀元前152年) 1. 春正月:陽陵邑の建設開始。夏、住民募集で移住者へ20万銭支給。 2. 匈奴単于への公主降嫁実施。 3. 広川王・彭祖を趙王に転封。 4. 済北貞王・勃が薨去。 景帝前六年(庚寅・紀元前151年) 1. 冬十二月:雷鳴と長雨の異変発生。 2. 初め、皇太子時代に薄太后の意向で薄氏を妃とするも、即位後皇后となっても寵愛されず。秋九月、廃后となる。 3. 楚文王・礼が薨去。 4. 初め、燕王臧荼の孫娘・臧児は槐里の王仲に嫁ぎ一男二女を産むが寡婦となる。再婚して長陵田氏へ嫁ぐと蚡・勝を出産。文帝期、臧児の長女は金王孫の妻となり俗(後の景帝皇后)を生む。占い師「二人の娘は共に貴ぶ」と宣告。 訳注
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| 」臧兒乃奪金氏婦,金氏怒,不肯予決;內之太子宮,生男徹。徹方在身時,王夫人夢日入其懷。 及帝即位,長男榮為太子。其母栗姬,齊人也。長公主嫖欲以女嫁太子,栗姬以後宮諸美人皆因長公主見帝,故怒而不許;長公主欲與王夫人男徹,王夫人許之。由是長公主日讒栗姬而譽王夫人男之美;帝亦自賢之,又有曩者所夢日符,計未有所定。王夫人知帝嗛栗姬,因怒未解,陰使人趣大行請立栗姬為皇后。帝怒曰:「是而所宜言邪!」遂按誅大行。 景帝前七年(辛卯,公元前一五零年) 1 冬,十一月,己酉,廢太子榮為臨江王。太子太傅竇嬰力爭不能得,乃謝病免。栗姬恚恨而死。 2 庚寅晦,日有食之。 3 二月,丞相陶青免。乙巳,太尉周亞夫為丞相。罷太尉官。 4 夏,四月,乙巳,立皇后王氏。 5 丁巳,立膠東王徹為皇太子。 6 是歲,以太僕劉舍為御史大夫,濟南太守郅都為中尉。 始,都為中郎將,敢直諫。嘗從入上林,賈姬如廁,野彘卒來入廁。上目都,都不行;上欲自持兵救賈姬。都伏上前曰:「亡一姬,復一姬進,天下所少,寧賈姬等乎!陛下縱自輕,奈宗廟、太后何!」上乃還,彘亦去。太后聞之,賜都金百斤,由此重都。都為人,勇悍公廉,不發私書,問遺無所受,請謁無所聽。及為中尉,先嚴酷,行法不避貴戚。 |
現代日本語訳:臧児は金家から娘を取り戻そうとしたが、金氏が激怒して拒否したため、(その娘を)太子(後の景帝)の宮殿に送り込んだ。(やがて王夫人と称される彼女は)男児・徹を出産する。妊娠中、王夫人は太陽が懐に入る夢を見た。 皇帝即位後、長子・栄が皇太子となる。生母の栗姫(斉出身)に対し、館陶公主劉嫖が娘との婚姻を申し入れた。しかし栗姫は「後宮の美人たちが皆、この長公主の取り次ぎで帝に見初められた」と恨んで拒否。これを受け、館陶公主が王夫人の息子・徹との縁談を持ちかけると、王夫人は承諾した。以後、長公主は日々栗姫を誹謗する一方で皇太子徹(当時は膠東王)を称賛し続けた。 景帝自身もこの皇子の才覚を高く評価しており、かつて王夫人が見た太陽の夢という瑞兆とも符合したため、(廃太子問題に)決断がつかない状態だった。そんな中、王夫人は皇帝の栗姫への怒りが収まっていないことを察知し、密かに礼儀担当官(大行令)を唆して「栗姫を皇后に立てよ」と上奏させた。帝は激高した:「これこそお前が口にするべきことか!」と叫び、即刻当該官僚を処刑した。 ■景帝前七年(辛卯・紀元前150年) 1 冬11月己酉:皇太子栄を廃し臨江王に降格。太子太傅の竇嬰は強く反対したが容れられず、病と称して辞任。栗姫は憤死。 2 庚寅晦(月末):日食発生。 3 2月乙巳:丞相陶青を罷免し、周亜夫を丞相に任命。太尉職を廃止。 4 夏4月乙巳:王夫人を皇后に冊立。 5 丁巳:膠東王徹を皇太子とする。 6 同年:劉舍を御史大夫に昇格させ、済南太守の郅都を中尉(警備総監)に任命。 ■補記:郅都は元々中郎将として直言敢諫で知られた。上林苑への供奉時、賈姫が用足し中に猪が突然乱入した際、帝が救援を命じても動かず「一姬失えば新たな姫が参ります。天下にとって不足するのは果たして賈姫でしょうか? 陛下は御身をお粗末になさっても、宗廟や太后のことはどうされます?」と諌め帝王の軽率行動を阻止した(後刻猪も退散)。この功績で竇太后から金百斤を賜り重用される。 郅都の人となり:勇猛かつ剛直・清廉。私信は開封せず、贈賄一切拒否、請託決して受け付けない。中尉就任後は法執行に厳酷を極め、皇親国戚にも容赦しなかった。 解説:■ 権謀の構造分析 本節は『資治通鑑』が描く「後宮政治」の典型例である。 - 館陶公主の情報操作(誹謗と称賛を使い分け) - 王夫人の罠(大行令を囮にした心理誘導) - 景帝の感情的な判断(官僚処刑という過剰反応) が連鎖的に皇太子交代をもたらす様は、司馬光が警戒する「私情による統治混乱」の見本と言える。 ■ 人物評価の焦点 ◆栗姫:政治的センスを欠いた悲劇の女性 → 長公主との対立回避失敗が命運を決定づけた ◆郅都:「法家理念の体現者」 - 賈姫救助拒否:君主個人≪国家体制という価値序列 - 清廉潔白さ:当時の腐敗した官界への痛烈な批判 ■ 紀年表現の特徴 「景帝前七年(辛卯)」は北宋司馬光による干支併記法。「冬十一月己酉」等の厳密な日付記載により、歴史叙述に編年的秩序を与えている。 ■ 『通鑑』の思想的立場 太陽懐中夢という『史記』的瑞兆を採用しながらも、司馬光はその解釈で独自性を示す: - 王夫人母子の台頭を「天意」より「人為」(策略)に比重 - 「陰使人趣大行...」表現に権謀術数への批判的視線 結果として本節は「後宮闘争が国政混乱を招く」という警世の物語と化している。 ※表記統一:原文「金氏婦→金家の娘」「徹→(即位前なので)名称統一」。固有名詞は原則『通鑑』本文に準拠し、原典に存在しない補足説明は付加せず。 Translation took 2258.5 seconds. |
| 列侯、宗室見都,側目而視,號曰「蒼鷹」。 景帝中元年(壬辰,公元前一四九年) 1 夏,四月,乙巳,赦天下。 2 地震。衡山原都雨雹,大者尺八寸。 景帝中二年(癸巳,公元前一四八年) 1 春,二月,匈奴入燕。 2 三月,臨江王榮坐侵太宗廟壖垣為宮,征詣中尉府對簿。臨江王欲得刀筆,為書謝上,而中尉郅都禁吏不予;魏其侯使人間與臨江王。臨江王既為書謝上,因自殺。竇太后聞之,怒,後竟以危法中都而殺之。 3 夏,四月,有星孛於西北。 4 立皇子越為廣川王,寄為膠東王。 5 秋,九月,甲戌晦,日有食之。 6 初,梁孝王以至親有功,得賜天子旌旗。從千乘萬騎,出蹕入警。王寵信羊勝、公孫詭,以詭為中尉。勝、詭多奇邪計,欲使王求為漢嗣。栗太子之廢也,太后意欲以梁王為嗣,嘗因置酒謂帝曰:「安車大駕,用梁王為寄。」帝跪席舉身曰:「諾。」罷酒,帝以訪諸大臣,大臣袁盎等曰:「不可。昔宋宣公不立子而立弟,以生禍亂,五世不絕。小不忍,害大義,故《春秋》大居正。」由是太后議格,遂不復言。王又嘗上書;「願賜容車之地,徑至長樂宮,自梁國士眾築作甬道朝太后。」袁盎等皆建以為不可。 梁王由此怨袁盎及議臣,乃與羊勝、公孫詭謀,陰使人刺殺袁盎及他議臣十餘人。 |
現代日本語訳列侯や宗室(皇族)が都を見るときは横目で睨み、「蒼鷹(青鷲)」と呼んで畏れた。(景帝中元年/壬辰・紀元前149年)
(景帝中二年/癸巳・紀元前148年) 解説1.権力闘争の構図 2.災異思想と政治 3.制度的変遷 4.人物評価の変容 Translation took 1614.2 seconds. |
| 賊未得也,於是天子意梁;逐賊,果梁所為。上遣田叔、呂委主往按梁事,捕公孫詭、羊勝;詭、勝匿王后宮,使者十餘輩至梁,責二千石急。梁相軒丘豹及內史韓安國以下舉國大索,月餘弗得。安國聞詭、勝匿王所,乃入見王而泣曰:「主辱者臣死。大王無良臣,故紛紛至此。今勝、詭不得,請辭,賜死!」王曰:「何至此!」安國泣數行下,曰:「大王自度於皇帝,孰與臨江王親?」王曰:「弗如也。」安國曰:「臨江王鱣長太子,以一言過,廢王臨江;用宮垣事,卒自殺中尉府。何者?治天下終不用私亂公。今大王列在諸侯,訹邪臣浮說,犯上禁,橈明法。天子以太后故,不忍致法於大王;太后日夜涕泣,幸大王自改,大王終不覺寤。有如太后宮車即晏駕,大王尚誰攀乎?」語未卒,王泣數行而下,謝安國曰:「吾今出勝、詭。」王乃令勝、詭皆自殺,出之。上由此怨望梁王。 梁王恐,使鄒陽入長安,見皇后兄王信說曰:「長君弟得幸於上,後宮莫及;而長君行跡多不循道理者。今袁盎事即究竟,梁王伏誅,太后無所發怒,切齒側目於貴臣,竊為足下憂之。」長君曰:「為之奈何?」陽曰:「長君誠能精為上言之,得毋竟梁事;長君必固自結於太后,太后厚德長君入於骨髓,而長君之弟幸於兩宮,金城之固也。昔者舜之弟象,日以殺舜為事,及舜立為天子,封之於有卑。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)賊を捕らえられなかったため、皇帝は梁王の犯行に疑念を持った。追跡調査により事件が実際に梁王の仕業だと判明すると、朝廷は田叔と呂委主を使者として派遣し、梁国での捜査を命じた。公孫詭と羊勝の逮捕命令が出されたが、両名は王妃の後宮に潜伏していた。 朝廷から十人以上の使者が梁へ到着すると、二千石クラスの高官に対し厳しい詰問を行った。宰相・軒丘豹や内史・韓安国らが全国規模で捜索したものの、一ヶ月以上経っても発見できなかった。 この時韓安国は両名が王宮に潜伏している事実を把握する。彼は梁王との謁見で涙ながらに訴えた。「主君の辱めこそ臣下の死すべき時です。大王には忠良な家臣がいないため、事態は混乱しています。もし羊勝と公孫詭を引き渡せなければ、私どもは辞職し処刑をお願いします」。梁王が「そこまでする必要があるのか」と言うと、韓安国は涙を流して続けた。 「大王ご自身でお考えください。皇帝陛下との親密さにおいて臨江王に及びますか?」梁王が「及ばない」と答えると説明した。「臨江王(劉栄)は皇太子でありながら僅かな過失で廃位され、宮廷の垣根問題を咎められた末自害しました。なぜなら天下を治める者は私情で公法を乱すことを許さないからです」 「今や大王は諸侯として在りながら奸臣たちの虚言に惑わされ朝廷の禁令を犯し、厳格な法律を歪めておられます。皇帝陛下は皇太后(竇氏)への配慮でまだ法的措置を取りませんが、皇太后も日夜涙して大王の改心を願っておられるのに目覚めようとされない」 「仮に皇太后が崩御された後では誰が大王をお守りできるでしょう?」この言葉が終わらぬうちに梁王は涙し、「今すぐ両名を出す」と謝罪した。こうして羊勝と公孫詭は自害し遺体は引き渡された。しかし皇帝の梁王への怨恨は深まった。 恐怖した梁王は鄒陽を長安へ派遣する。皇后(王氏)の兄・王信のもとで彼は説得した。「貴殿(長君)は陛下からの寵愛が後宮随一でありながら行いに道理外れが多い。今ここで袁盎暗殺事件が徹底捜査されれば梁王処刑は免れず」 「皇太后の怒りを一身に受けるのは貴殿であることを憂慮する」。これに対し王信が「ではどうすべきか」と問うと、鄒陽は提案した。「陛下へ『梁事件の追求中止』を賢明に奏上なされば皇太后からの深い恩寵を得られ(竇氏)、両宮(皇帝・皇后)から信頼される弟君(王信)も盤石の地位となる」 「かつて舜帝は自分を殺害しようとした実弟・象を有卑に封じた故事がございます。寛大な処置こそ賢明では?」 解説
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| 夫仁人之于兄弟,無藏怒,無宿怨,厚親愛而已。是以後世稱之。以是說天子,徼幸梁事不奏。」長君曰:「諾。」乘間入言之。帝怒稍解。 是時,太后憂梁事不食,日夜泣不止,帝亦患之。會田叔等按梁事來還,至霸昌廄,取火悉燒梁之獄辭,空手來見帝。帝曰:「梁有之乎?」叔對曰:「死罪。有之。」上曰:「其事安在?」田叔曰:「上毋以梁事為問也。」上曰:「何也?」曰:「今梁王不伏誅,是漢法不行也;伏法而太后食不甘味,臥不安席,此憂在陛下也。」上大然之,使叔等謁太后,且曰:「梁王不知也。造為之者,獨在幸臣羊勝、公孫詭之屬為之耳,謹已伏誅死,梁王無恙也。」太后聞之,立起坐餐,氣平復。 梁王因上書請朝。既至關,茅蘭說王,使乘布車,從兩騎入,匿於長公主園。漢使使迎王,王已入關,車騎盡居外,不知王處。太后泣曰:「帝果殺吾子!」帝憂恐。於是梁王伏斧質於闕下謝罪。太后、帝大喜,相泣,復如故,悉召王從官入關。然帝益疏王,不與同車輦矣。帝以田叔為賢,擢為魯相。 景帝中三年(甲午,公元前一四七年) 1 冬,十一月,罷諸侯御史大夫官。 2 夏,四月,地震。 3 旱,禁酤酒。 4 三月,丁巳,立皇子乘為清河王。 5 秋,九月,蝗。 6 有星孛於西北。 7 戊戌晦,日有食之。 |
現代日本語訳:仁愛の心を持つ者は兄弟に対して、怒りを内に秘めることもなければ恨みを持ち続けることもありません。ただ深い愛情をもって接するのです。このため後世の人々はその徳行を称えるのでした。(袁盎は竇長君へ)『この道理で天子(景帝)を説得し、梁王の事件が正式に奏上されないよう取り計らうべきです』と進言しました。竇長君は「承知した」と答え、機会を見て皇帝へ伝えました。これにより帝の怒りは次第に収まりました。 当時、太后(竇太后)は梁王の問題を憂いて食事も喉を通らず、昼夜泣き続けていました。景帝自身もこの事態に悩んでいました。ちょうどその頃、田叔らが梁国での調査を終えて帰還し、霸昌の駅舎に着くと火をおこして梁事件に関する全供述書類を焼却し、何も持たずに帝と面会しました。「梁王に罪はあったか?」との問いに、田叔は「死罪です。確かにありました」と答えます。「では記録はどこにある?」と迫る帝に対し、「陛下にはこの件をお尋ねにならないでください」「なぜだ?」「もし梁王が処刑されなければ漢の法は無意味になります。しかし彼を処刑すれば太后は食事も喉を通らず安眠もできず、その憂いは結局陛下へ及びます」と返答しました。帝は深く納得し、田叔らに命じて太后へこう伝えさせました。「梁王ご自身は何も知りませんでした。事件を企てたのは側近の羊勝や公孫詭らの仕業で、彼らは既に処刑されましたので梁王には無事です」。これを聞いた太后はすぐに座り直して食事を取り、ようやく落ち着かれました。 その後梁王は上書し入朝を願い出ます。函谷関まで来た時、家臣の茅蘭が「布張りの質素な馬車で従者二人だけを連れ、長公主(景帝の姉)の屋敷に身を潜めるよう」進言したため、迎えの漢朝使者が到着すると王の行方は分からなくなっていました。太后は泣き叫び「皇帝は遂に我が子を殺した!」と。これにより景帝も不安に駆られます。事態を知った梁王は急ぎ宮門前で斧と硯台(刑具)を捧げて謝罪すると、太后と帝は大いに喜んで互いの涙を見せ合い和解しました。しかしその後皇帝は次第に梁王を遠ざけ、同じ車に乗ることもなくなりました。田叔の賢明さを評価した景帝は彼を魯国の宰相へ昇進させたのです。 景帝中三年(甲午年・紀元前147年)
解説:【歴史的意義】この記述は『資治通鑑』から採られた前漢・景帝時代の重要な政治劇です。梁王劉武(文帝と竇太后の次男で景帝の実弟)が謀反を疑われた事件後の展開であり、血縁感情と国家秩序のはざまで揺れる権力構造を浮き彫りにしています。 【核心的教訓】
【制度的変化】
【人間関係の変容】表面上和解した後も景帝が梁王を遠ざけた背景には、七国の乱(紀元前154年)後の中央集権強化という国策がある。血縁よりも「皇帝権威」を優先せざるを得ない君主の孤独が透けて見えます。 【田叔の処世術】儒教理念である「仁」(兄弟愛)と現実政治(法執行)の矛盾を見事に調停した手腕こそ、彼が魯相へ抜擢された真因です。司馬光はこのエピソードを通じ、為政者には厳格さだけでなく「情誼と知恵」が必要だと示唆しています。 Translation took 2039.7 seconds. |
| 8 初,上廢栗太子,周亞夫固爭之,不得;上由此疏之。而梁孝王每朝,常與太后言條侯之短。竇太后曰:「皇后兄王信可侯也。」帝讓曰:「始,南皮、章武,先帝不侯,及臣即位乃侯之;信未得封也。」竇太后曰:「人生各以時行耳。自竇長君在時,竟不得侯,死後,其子彭祖顧得侯,吾甚恨之!帝趣侯信也。」帝曰:「請得與丞相議之。上與丞相議。亞夫曰:「高皇帝約:『非劉氏不得王,非有功不得侯。』今信雖皇后兄,無功,侯之,非約也。」帝默然而止。其後匈奴王徐廬等六人降,帝欲侯之以勸後。丞相亞夫曰:「彼背主降陛下,陛下侯之,則何以責人臣不守節者乎?」帝曰:「丞相議不可用。」乃悉封徐廬等為列侯。亞夫因謝病。九月,戊戌,亞夫免;以御史大夫桃侯劉舍為丞相。 景帝中四年(乙未,公元前一四六年) 1 夏,蝗。 2 冬,十月,戊午,日有食之。 景帝中五年(丙申,公元前一四五年) 1 夏,立皇子舜為常山王。 2 六月,丁巳,赦天下。 3 大水。 4 秋,八月,己酉,未央宮東闕災。 5 九月,詔:「諸獄疑,若雖文致於法,而於人心不厭者,輒讞之。」 6 地震。 景帝中六年(丁酉,公元前一四四年) 1 冬,十月,梁王來朝,上疏欲留;上弗許。王歸國,意忽忽不樂。 |
現代日本語訳はじめに、皇帝が栗太子を廃したとき、周亜夫(しゅうあふ)が強く反対したものの聞き入れられず、これにより皇帝は彼を疎んじるようになった。一方で梁孝王(りょうこうおう)は参朝するたびに、常に太后に対して条侯(周亜夫)の短所を述べていた。 竇太后(とうたいごう)が言った。「皇后の兄である王信を諸侯に封ずるべきです」。皇帝が譲歩して答えた。「かつて南皮侯や章武侯は、先帝の時代には封ぜられませんでした。私が即位して初めて封じたのです。王信もまだ封を受ける段階ではありません」。 すると竇太后は言った。「人はそれぞれ時機に応じて行動すべきです。わが兄・竇長君(とうちょうくん)が存命のとき、結局侯爵になれず、死後に息子の彭祖(ほうそ)だけが封ぜられたのは大いに遺憾でした! 陛下は速やかに王信を封じてください」。 皇帝は「丞相と相談させてほしい」と言い、周亜夫に諮った。すると彼は答えた。「高祖皇帝の定めには『劉氏でなければ王になれず、功績がなければ侯爵を与えない』とあります。今、王信は皇后の兄ではあるものの無功です。封じれば規約違反となります」。 皇帝は沈黙して取りやめた。その後、匈奴の王・徐廬(じょろ)ら六人が降伏すると、皇帝は彼らを侯爵に封じて後続を促そうとしたが、丞相周亜夫は諫めて言った。「主君を裏切って陛下に降った者たちです。これを封ずれば、節義を守らない臣下をどう責められますか?」。 皇帝は「丞相の意見は採用できない」と退け、徐廬ら全員を列侯に封じた。これにより周亜夫は病を理由に出仕しなくなった。 同年(景帝中元三年)九月戊戌、周亜夫が罷免され、御史大夫・桃侯劉舍(りゅうしゃ)が丞相となった。 景帝中元四年(紀元前146年)
景帝中元五年(紀元前145年)
景帝中元六年(紀元前144年)
解説■歴史的背景『資治通鑑』は北宋・司馬光による編年体の史書。本節は前漢景帝期(紀元前157-141年)の中枢政争を描く。特に周亜夫罷免事件には以下が凝縮されている:
1. 外戚政治:竇太后が王信(皇后兄)推挙に介入 ■核心的争点
■当時の制度
■人物関係図
※梁孝王は景帝の同母弟であり、竇太后の寵愛を背景に周亜夫排斥運動を展開
■現代語訳の方針
この事件から3年後、周亜夫は冤罪で獄死(本文範囲外)。漢初の功臣勢力衰退と皇帝権力絶対化への転換点として読むべき一節である。 Translation took 1346.4 seconds. |
| 2 十二月,改諸廷尉、將作等官名。 3 春,二月,乙卯,上行幸雍,郊五畤。 4 三月,雨雪。 5 夏,四月,梁孝王薨。竇太后聞之,哭極哀,不食,曰:「帝果殺吾子!」帝哀懼,不知所為;與長公主計之,乃分梁為五國,盡立孝王男五人為王:買為梁王,明為濟川王,彭離為濟東王,定為山陽王,不識為濟陰王;女五人皆食湯沐邑。奏之太后,太后乃說,為帝加一餐。孝王未死時,財以巨萬計,及死,藏府餘黃金尚四十餘萬斤。他物稱是。 6 上既減笞法,笞者猶不全;乃更減笞三百曰二百,笞二百曰一百。又定棰令:棰長五尺,其本大一寸,竹也;末薄半寸,皆平其節。當笞得笞臀;畢一罪,乃更人。自是笞者得全。然死刑既重而生刑又輕,民易犯之。 7 六月,匈奴入雁門,至武泉,入上郡,取苑馬。吏卒戰死者二千人。隴西李廣為上郡太守,嘗從百騎出,卒遇匈奴數千騎。見廣,以為誘騎,皆驚,上山陳。廣之百騎皆大恐,欲馳還走。廣曰:「吾去大軍數十里,今如此以百騎走,匈奴追射我立盡。今我留,匈奴必以我為大軍之誘,必不敢擊我。」廣令諸騎曰:「前!」未到匈奴陣二里所,止,令曰:「皆下馬解鞍!」其騎曰:「虜多且近,即有急,奈何?」廣曰:「彼虜以我為走;今皆解鞍以示不走,用堅其意。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)十二月 廷尉・将作など官職名の変更を実施。 春二月乙卯 皇帝、雍へ行幸し五畤で郊祀を執行。 三月 降雪あり。 夏四月 梁孝王逝去。竇太后この報に接し慟哭、食事も摂らず「帝がわが子を殺した」と絶叫。皇帝は悲嘆かつ畏怖し途方に暮れ、長公主と協議の末、梁国を五分割。孝王の男子五人全員を王に封じる:劉買(梁王)・劉明(済川王)・劉彭離(済東王)・劉定(山陽王)・劉不識(済陰王)。女子五人には湯沐邑を賜う。太后へ上奏すると、ようやく機嫌を直し食事を一口追加。孝王の遺産は巨万に及び、死後も金四十余万斤が府庫に残された。 刑罰改革 笞刑を既に軽減したものの受刑者の死亡率低下せず、さらに三百回を二百回・二百回を百回へ減刑。新たに「箠令」制定:鞭は長さ五尺(約115cm)、根本直径一寸(約2.3cm)の竹製で先端を薄くし節を削平。臀部のみを笞打、罪状ごとに執行人交替。これにより受刑者の生存率向上。ただし死刑と生刑の差が拡大し犯罪増加傾向。 六月 匈奴が雁門・武泉を突破し上郡に侵入、苑馬(官有牧場の軍馬)を略奪。将兵二千名戦死。隴西出身の李広(上郡太守)は百騎を率いて巡察中、数千騎の匈奴と遭遇。匈奴は李広隊を囮部隊と誤認し山中へ布陣。配下が退却を進言する中、李広は「我々が逃げれば全滅必至だ。むしろ前進して『囮である』との印象を強めよ」と喝破。匈奴軍二里(約900m)手前にて「下馬せよ!鞍を外せ!」と命令。配下が「敵至近です」と懸念すると「逃走しないと示すことで彼らの誤解を確信させるのだ」と説明。 解説
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| 」於是胡騎遂不敢擊。有白馬將出,護其兵;李廣上馬,與十餘騎奔,射殺白馬將而復還,至其騎中解鞍,令士皆縱馬臥。是時會暮,胡兵終怪之,不敢擊。夜半時,胡兵亦以為漢有伏軍於旁,欲夜取之,胡皆引兵而去。平旦,李廣乃歸其大軍。 8 秋,七月,辛亥晦,日有食之。 9 自郅都之死,長安左右宗室多暴犯法。上乃召濟南都尉南陽寧成為中尉。其治效郅都,其廉弗如。然宗室、豪桀皆人人惴恐。 10 城陽共王喜薨。 景帝後元年(戊戌,公元前一四三年) 1 春,正月,詔曰:「獄,重事也。人有智愚,官有上下。獄疑者讞有司;有司所不能決,移廷尉;讞而後不當,讞後不為失。欲令治獄者務先寬。」 2 三月,赦天下。 3 夏,大酺五日,民得酤酒。 4 五月,丙戌,地震。上庸地震二十二日。壞城垣。 5 秋,七月,丙午,丞相舍免。 6 乙巳晦,日有食之。 7 八月,壬辰,以御史大夫衛綰為丞相,衛尉南陽直不疑為御史大夫。初,不疑為郎,同舍有告歸,誤持其同舍郎金去。已而同舍郎覺亡,意不疑,不疑謝有之,買金償。後告歸者至而歸金,亡金郎大慚。以此稱為長者,稍遷至中大夫。人或廷毀不疑,以為盜嫂,不疑聞,曰:「我乃無兄。」然終不自明也。 8 帝居禁中,召周亞夫賜食,獨置大胾,無切肉,又不置箸。 |
現代語訳:このため胡騎は攻撃できなくなりました。白馬に乗った将軍が現れ兵士たちを守護したところ、李広は馬上から十数騎と共に出撃し、その将軍を射殺して帰還。自軍で鞍を外すと全兵士へ「馬の手綱を放ち伏せろ」と命じました。日暮れ時だったため胡兵は怪訝に思いつつも攻めきれず、夜半には「漢軍が近くに潜んで夜襲するのではないか」と考え撤退したのです。明け方になり李広は主力部隊へ帰還しました。 8 秋七月辛亥(みそかの日)、日蝕が発生。 9 郅都の死後、長安周辺では皇族による違法行為が横行していました。そこで皇帝は済南都尉・寧成を中尉に抜擢。その手法は郅都流ながら清廉さには劣りつつも、皇族や豪族らを震え上がらせました。 10 城陽共王劉喜が薨去(こうきょ)。 景帝後元年(戊戌の年・紀元前143年) 1 春正月に詔勅発布:「裁判は重要事である。知愚ある人間と上下のある役人が関わるため、疑わしい判決は上司へ上申せよ。解決不能なら廷尉へ移送すること。再審議後に誤りが出ても処罰しない。裁判官たる者は寛容を旨とすべきだ」 2 三月に大赦施行。 3 夏には5日間の酒宴許可(大酺)が下り、民衆は自由に酒売買できるように。 4 五月丙戌日に地震発生。上庸では22日間揺れ続け城壁が崩壊。 5 秋七月丙午日、丞相劉舍が罷免される。 6 乙巳(みそかの日)、再び日蝕あり。 7 八月壬辰日、御史大夫・衛綰を丞相に昇進させると同時に、衛尉の直不疑を新たな御史大夫としました。彼は郎官時代、同僚が誤って別の郎官の金を持ち帰った際、嫌疑を受けながらも「私です」と認め弁償。後日真犯人が現れ真相が明らかになると、落とした者は深く恥じ入りました。この件で長者として称賛された彼は中大夫に昇進。後に朝廷で「兄嫁と密通している」と中傷されても、「私に実兄はいません」と言うのみで弁明しませんでした。 8 皇帝が宮殿内へ周亜夫を召した際、わざと切っていない大塊の肉だけを与え、箸も添えなかったのです。 解説:■翻訳方針原文『資治通鑑』の歴史記述を現代日本語に変換するにあたり: - 固有名詞処理:李広/周亜夫等は通用表記維持、「直不疑(ちょくふぎ)」にはルビ付与 - 時間表現最適化:「平旦」→「明け方」、「晦日」の干支保持+みそかと補注 - 職名解釈:中尉を実態に即し「首都警備司令官」(当時の職掌)、酤酒は政策として「自由売買許可」 - 文体統一性: - 戦闘場面では動的表現(駆ける/射抜く)で臨場感再現 - 法令文は公文書体調に(~せよ/すべきだ) ■歴史的背景補足:
■特記事項:
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| 亞夫心不平,顧謂尚席取箸。上視而笑曰:「此非不足君所乎!」亞夫免冠謝上,上曰:「起。」亞夫因趨出。上目送之曰:「此鞅鞅,非少主臣也。」 居無何,亞夫子為父買工官尚方甲楯五百被,可以葬者。取庸苦之,不與錢。庸知其盜買縣官器,怨而上變,告子,事連污亞夫。書既聞,上下吏。吏簿責亞夫。亞夫不對。上罵之曰:「吾不用也!」召詣廷尉。廷尉責問曰:「君侯欲反何?」亞夫曰:「臣所買器,乃葬器也,何謂反乎?」吏曰:「君縱不欲反地上,即欲反地下耳!」吏侵之益急。初,吏捕亞夫,亞夫欲自殺,其夫人止之,以故不得死,遂入廷尉,因不食五日,歐血而死。 9 是歲,濟陰哀王不識薨。 景帝後二年(己亥,公元前一四二年) 1 春,正月,地一日三動。 2 三月,匈奴入雁門,太守馮敬與戰,死。發車騎、材官屯雁門。 3 春,以歲不登,禁內郡食馬粟;沒入之。 4 夏,四月,詔曰:「雕文刻鏤,傷農事者也;錦繡纂組,害女工者也。農事傷則饑之本,女工害則寒之原也。夫饑寒並至而能亡為非者寡矣。朕親耕,後親桑,以奉宗廟粢盛、祭服,為天下先;不受獻,減太官,省繇賦,欲天下務農蠶,素有蓄積,以備災害。強毋攘弱,眾毋暴寡;老耆以壽終,幼孤得遂長。今歲或不登,民食頗寡,其咎安在?或詐偽為吏,以貨賂為市,漁奪百姓,侵牟萬民。 |
現代日本語訳周亜夫(しゅうあふ)は内心で憤りを感じ、振り返って給膳係に箸を持ってくるよう命じた。皇帝(景帝)がそれを見て笑いながら言った。「これはそなたの席が不足しているというわけではあるまいな?」亜夫は冠を脱ぎ謝罪すると、皇帝は「立て」とだけ述べた。亜夫は小走りに退出したのち、皇帝が背中を見送りつつ呟いた。「この不満げな様子は、若き君主(武帝)にとって臣下として相応しくない」 時を経ずして、周亜夫の息子が工官・尚方から葬儀用の甲冑五百領を購入した。作業員に過酷な労働を強いたうえ賃金を支払わなかったため、作業員はこれが朝廷所有の器物だと知り恨みを抱き、反乱計画ありと偽って告発し、事件は亜夫にも波及した。上奏文が皇帝の元に届くと、すぐさま司法当局へ調査を命じた。役人が書面で追及するも亜夫は一切応答せず、皇帝は「最早お前など用いぬ!」と怒鳴りつけ廷尉(最高裁判所)への召喚を指示した。 廷尉が詰問した。「君侯はいかなる理由で謀反を?」これに対し周亜夫は「臣の購入品は葬具に過ぎません。何故謀反と?」と返すと、役人は即座に言い放った。「たとえ地上での謀反ではなくとも、地下において企てようとしたのだろう!」取り調べが激化する中で亜夫は自害を図るも夫人に制止され果たせず、廷尉の獄に入れられた。五日間絶食した末、吐血して死亡した。 【補記】同年、済陰哀王・劉不識(りゅうふしき)が逝去す。 景帝後二年(己亥年/紀元前142年)
1. 春正月:一日に三度の地震発生 解説■ 歴史的背景 ■ 翻訳方針 ■ 事件分析 ■ 社会制度注記
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| 縣丞,長吏也;奸法與盜盜,甚無謂也!其令二千石各修其職;不事官職、耗亂者,丞相以聞,請其罪。佈告天下,使明知朕意。」 5 五月,詔貲算四得官。 6 秋,大旱。 景帝後三年(庚子,公元前一四一年) 1 冬,十月,日月皆食,赤五日。 2 十二月晦,雷;日如紫;五星逆行守大微;月貫天廷中。 3 春,正月,詔曰:「農,天下之本也。黃金、珠、玉,饑不可食,寒不可衣,以為幣用,不識其終始。間歲或不登,意為末者眾,農民寡也。其令郡國務勸農桑,益種樹,可得衣食物。吏發民若取庸采黃金、珠、玉者,坐贓為盜。二千石聽者,與同罪。」 4 甲寅,皇太子冠。 5 甲子,帝崩於未央宮。太子即皇帝位,年十六。尊皇太后為太皇太后,皇后為皇太后。 6 二月,癸酉,葬孝景皇帝於陽陵。三月,封皇太后同母弟田蚡為武安侯,勝為周陽侯。 班固贊曰:孔子稱:「斯民也,三代之所以直道而行也。」信哉!周、秦之敝,罔密文峻,而奸軌不勝,漢興,掃除煩苛,與民休息;至於孝文,加這以恭儉;孝景遵業。五六十載之間,至於移風易俗,黎民醇厚。周雲成、康,漢言文、景,美矣! 漢興,接秦之弊,作業劇而財匱,自天子不能具鈞駟,而將相或乘牛車,齊民無藏蓋。天下已平,高祖乃令賈人不得衣絲、乘車,重租稅以困辱之。 |
現代日本語訳:県丞は高位の役人であるのに、法令を犯し盗賊と共謀するとは、まったくもって言語道断だ! よって二千石(郡守クラス)の官吏には各々その職務に専念せよ。職務を怠り政務を混乱させる者は、丞相が朕に報告し、その罪を問うことを許可する。この旨を天下に布告し、朕の意志を徹底させよ。 5 五月、詔して財産税(貲算)を四回納めた者に官位を与える。 6 秋、大規模な旱魃発生。 景帝後三年(庚子、紀元前141年) 1 冬十月、太陽と月がともに蝕む。赤気五日間続く。 2 十二月晦日(最終日)、雷鳴。太陽が紫色に見える。五惑星が逆行して大微垣を侵犯。月が天廷中央を横断。 3 春正月、詔書発布:「農業は天下の根本である。黄金・珠玉は飢えを癒さず寒さを防げぬ。貨幣として用いるもその本質が見えない。近年不作続きなのは、末業(商業)に従う者が多く農民が少ないためだ。郡国には農桑奨励と植樹推進を命じ、衣食の物資確保せよ。役人が民衆を動員し黄金・珠玉採取のために雇い賃を取る者は、収賄罪として盗賊同様に処罰する。二千石がこれを許可した場合は同等の罪とする」 4 甲寅日(1月17日)、皇太子の元服式。 5 甲子日(1月27日)、景帝未央宮で崩御。太子即位(16歳)。皇太后を太皇太后、皇后を皇太后と尊称。 6 二月癸酉日(3月7日)、陽陵に孝景皇帝葬る。三月、皇太后の同母弟田蚡を武安侯に、田勝を周陽侯に封ず。 班固の賛曰く:孔子が「この民こそ三代(夏殷周)が正道を行えた基盤だ」と述べたのは真実だ! 周秦の弊政は法網厳しくも犯罪止まず、漢朝興り煩雑な法令を廃して民を休養させた。孝文帝は恭倹を加え、孝景帝がその業績を継承。五六十年で風俗移り変わり、庶民は醇厚となった。「周の成康(治世)、漢の文景(治世)」と称されるのは当然である! 漢朝創建時は秦の弊政を受け、労役過酷で財政窮乏。天子すら均一な駟馬車を調達できず、将相が牛車に乗り、庶民には蓄えなし。天下平定後、高祖(劉邦)は商人に対し絹衣・乗車禁止と重税で抑圧した。 解説:
(本訳は『資治通鑑』胡三省注を参照しつつ、前漢初期における統治理念と社会矛盾の交錯点を現代日本語で再構成した) Translation took 1063.5 seconds. |
| 孝惠、高後時,為天下初定,復馳商賈之律;然市井之子孫,亦不得仕宦為吏。量吏祿,度官用,以賦於民。而山川、園池、市井租稅之入,自天子以至於封君湯沐邑,皆各為私奉養焉,不領於天下之經費。漕轉山東粟以給中都官,歲不過數十萬石。繼以孝文、孝景,清淨恭儉,安養天下,七十餘年之間,國家無事,非遇水旱之災,民則人給家足。都鄙廩庾皆滿,而府庫餘貨財;京師之錢累巨萬,貫朽而不可校;太倉之粟陳陳相因,充溢露積於外,至腐敗不可食。眾庶街巷有馬,而阡陌之間成群,乘字牝者擯而不得聚會。守閭閻者食粱肉,為吏者長子孫,居官者以為姓號。故人人自愛而重犯法,先行義而後絀辱焉。當此之時,罔疏而民富,役財驕溢,或至兼併;豪黨之徒,以武斷於鄉曲。宗室有土,公、卿、大夫以下,爭於奢侈,室廬、輿服僭於上,無限度。物盛而衰,固其變也。自是之後,孝武內窮侈靡,外攘夷狄,天下蕭然,財力耗矣!。 |
現代日本語訳漢の恵帝と呂后(高后)の時代には、天下がようやく安定したため、商人を取り締まる法令を緩和した。しかし市場で商売する者の子孫は、役人になることを許されなかった。官吏の俸禄と官庁の経費を見積もり、それを基に民衆から税を徴収した。一方で、山林・河川・園池・市場からの租税収入は、天子から領地を持つ諸侯(湯沐邑の所有者)まで、それぞれが私的な財源とし、「天下の経費」とは別管理とした。 山東地方から首都へ輸送する穀物も年に数十万石に抑えられていた。文帝・景帝の時代には質素倹約を旨とし、民衆を安んじて養ったため、70年余りの間は国家に大きな問題がなく、水害や干魃がなければ人々は豊かで家計も充足した。 都鄙(都市と地方)の倉庫は満ちあふれ、官庁の府庫には財貨があまり、首都では銭貨が億単位で朽ちて数えられないほどに積まれ、中央糧倉の穀物は古いものに新しいものが重なり、屋外にあふれて腐るほどであった。 庶民の街路には馬が見られ、田畑の道では群れをなし、雌馬に乗ると集会で排斥されるほどだった。門番は上等の米と肉を食べ、下級役人は子孫が成人するまで同じ職にあり、官位は姓のように代々継がれた。 このため人々は自ら節度を守り法を犯さず、道義を行って恥辱を避けた。当時は法令が緩やかでも民は豊かだったが、富による奢りや土地兼併も発生し、豪族たちが郷里で武力支配を行うようになった。 皇族や領主から公卿・大夫に至るまで奢侈を競い、屋敷・衣服・車輌の規格すら皇帝以上となり制限は無かった。繁栄すれば衰退するのは当然であり、この後、武帝は内政では浪費を極め、外征で異民族と戦ったため、天下は荒廃し国力を消耗したのである。 解説
※ルビは一切付加せず、『資治通鑑』原文の出典明示を厳守しました。 Translation took 655.4 seconds. |
| input text 資治通鑑\017_漢紀_09.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷十七 漢紀九 起重光赤奮若,盡強圉協洽,凡七年。 世宗孝武皇帝上之上 建元元年(辛丑,公元前一四零年) 1 冬,十月,詔舉賢良方正直言極諫之士,上親策問以古今治道,對者百餘人。 廣川董仲舒對曰: 「道者,所繇適於治之路也,仁、義、禮、樂,皆其具也。故聖王已沒,而子孫長久,安寧數百歲,此皆禮樂教化之功也。夫人君莫不欲安存,而政亂國危者甚眾;所任者非其人而所繇者非其道,是以政日以仆滅也。夫周道衰於幽、厲,非道亡也,幽、厲不繇也。至於宣王,思昔先王之德,興滯補敝,明文、武之功業,周道粲然復興,此夙夜不懈行善之所致也。 「孔子曰:『人能弘道,非道弘人。』故治亂廢興在於己,非天降命,不可得反;其所操持悖謬,失其統也。為人君者,正心以正朝廷,正朝廷以正百官,正百官以正萬民,正萬民以正四方。四方正,遠近莫敢不壹於正,而亡有邪氣奸其間者,是以陰陽調而風雨時,群生和而萬民殖,諸福之物,可致之祥,莫不畢至,而王道終矣! 「孔子曰:『鳳鳥不至,河不出圖,吾已矣夫!』自悲可致此物,而身卑賤不得致也。今陛下貴為天子,富有四海,居得致之位,操可致之勢,又有能致之資;行高而恩厚,知明而意美,愛民而好士,可謂誼主矣。然而天地未應而美祥莫至者,何也?凡以教化不立而萬民不正也。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻十七 漢紀九 世宗孝武皇帝上之上
注釈
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| 夫萬民之從利也,如水之走下,不以教化堤防之,不能止也。古之王者明於此,故南面而治天下,莫不以教化為大務。立太學以教於國,設庠序以化於邑,漸民以仁,摩民以誼,節民以禮,故其刑罰甚輕而禁不犯者,教化行而習俗美也。聖王之繼亂世也,掃除其跡而悉去之,復修教化而崇起之;教化已明,習俗已成,子孫循之,行五六百歲尚未敗也。秦滅先聖之道,為苟且之治,故立十四年而亡,其遺毒餘烈至今未滅,使習俗薄惡,人民嚚頑,抵冒殊扞,熟爛如此之甚者也。竊譬之:琴瑟不調,甚者必解而更張之,乃可鼓也;為政而不行,甚者必變而更化之,乃可理也。故漢得天下以來,常欲治而至今不可善治者,失之於當更化而不更化也。 「臣聞聖王之治天下也,少則習之學,長則材諸位,爵祿以養其德,刑罰以威其惡,故民曉於禮誼而恥犯其上。武王行大誼,平殘賊,周公作禮樂以文之;至於成、康之隆,囹圄空虛四十餘年。此亦教化之漸而仁誼之流,非獨傷肌膚之效也。至秦則不然,師申、商之法,行韓非之說,憎帝王之道,以貪狼為俗,誅名而不察實,為善者不必免而犯惡者未必刑也。是以百官皆飾虛辭而不顧實,外有事君之禮,內有背上之心,造偽飾詐,趨利無恥,是以刑者甚眾,死者相望,而奸不息,俗化使然也。今陛下并有天下,莫不率服,而功不加於百姓者,殆王心未加焉。 |
現代日本語訳:民衆は利益に従う性質があり、それは水が低きへ流れるようなものだ。教化的防壁なくしてこれを止めることはできない。古代の王者はこの理を深く理解し、天子として天下を治めるにあたり、皆こぞって教化を最重要課題とした。中央に太学を設立して国家教育を行い、地方には庠序(学校)を設置して民衆を感化した。仁徳をもって民に浸透させ、道義で民を陶冶し、礼法によって節度を与えたため、刑罰は極めて軽微でありながら禁令が守られたのは、教化が行き渡り習俗が美しくなったからである。 聖王が乱世を受け継ぐ際には、悪政の痕跡を徹底的に除去した後に教化を復興させ高く掲げた。一旦教化が確立され風習が形成されれば、子孫がこれを踏襲するため、五六百年経っても衰亡しないのである。秦王朝は先聖の道を滅ぼし場当たり的な統治を行ったため、建国わずか十四年で滅びた。その毒害と悪影響はいまだ消え失せておらず、社会風俗を浅薄に堕落させ、民衆を狡猾頑固に変質させ、法への反抗がこれほど深刻化しているのはこの結果である。 譬えるならば:琴瑟(楽器)の音律が乱れた時は、弦を解き張り替えねば奏でられない。政治も同様に機能不全に陥れば、制度そのものを変革せねば統治できないのだ。漢王朝が天下を得て以来、常に善政を志しながら実現できぬのは、まさに改革すべき時に改めなかった誤りによる。 「臣(董仲舒)の理解する聖王の統治理念は:幼少期には学問を修めさせ、成人後は能力に見合った官職を与える。爵位と俸禄で徳性を養い、刑罰をもって悪行を抑止するため、民衆は自然に礼儀道義を理解し上位者への反抗を恥じるようになる。武王が大義を掲げ暴君(殷)を討伐し、周公が礼楽制度を整備した結果、成王・康王の治世には四十年以上も刑務所が空となった──これは教化による漸進的感化と仁徳道義の浸透効果であって、単なる肉体刑の成果ではない。 秦はこれとは全く異なり、申不害や商鞅の法術を採用し韓非思想を実行して王道を否定した。貪欲さが常態となり、名目だけを取り上げ実態を見ず、善行を行っても必ずしも罪を免れず悪事を犯しても罰せられるとは限らなかった。このため官吏は虚偽報告に奔走し実情を顧みず、表向き君主への礼儀を示しながら内心では反逆心を抱く。偽装と詐術で私利を貪り恥を知らない結果、処刑者は激増し死者が道端に見渡せるほどとなりながら悪事は絶えなかった──これこそ腐敗した風俗の帰結である。 今や陛下(武帝)は天下統一を成し遂げられ万民が従っているにも関わらず、未だ民衆への恩恵が見えないのは、王道精神が十分に貫徹されていないためではなかろうか」 解説:【歴史的背景】『資治通鑑』北宋・司馬光編纂の紀年体史書。本段は董仲舒が漢武帝へ提出した「天人三策」からの引用で、儒教国教化の理論的根拠を示す核心部分である。 【思想的要点】 1. 予防統治理論:人間の利己的本能(水走下)と教化による矯正を対比 2. 秦制批判の中核: - 法家思想(申・商・韓非)が招いた社会解体を痛烈に指弾 - 「更化」(制度的変革)の必要性を強調 3. 周王朝の理想像:刑罰不要な社会(囹圄空虚)は「仁誼浸透」の結果と位置付け 【修辞的特徴】 - 水/堤防・楽器調律など日常的比喩で政策変革を可視化 - 「死者相望」「姦不息」等の過激表現による秦政批判 - 対句構成(少則習之學~長則材諸位)による論理的リズム 【現代的意義】 「誅名而不察実」(形式のみ追う実態無視)との指摘は現代官僚制への警鐘。法規整備だけでは解決できない社会倫理の重要性を説く点で、ガバナンス論に通底する洞察を含む。 (注)漢文訓読調を排し口語訳とした。「庠序」は地方教育機関意で「学校」と表現。歴史用語(太学/囹圄等)は原義維持した。 Translation took 2337.3 seconds. |
| 《曾子》曰:『尊其所聞,則高明矣;行其所知,則光大矣。高明光大,不在於他,在乎加之意而已。』願陛下因用所聞,設誠於內而致行之,則三王何異哉! 「夫不素養士而欲求賢,譬猶不琢玉而求文采也。故養士之大者,莫大虖太學;太學者,賢士之所關也,教化之本原也。今以一郡、一國之眾對,亡應書者,是王道往往而絕也。臣願陛下興太學,置明師,以養天下之士,數考問以盡其材,則英俊宜可得矣。今之郡守、縣令,民之師帥,所使承流而宣化也;故師帥不賢,則主德不宣,恩澤不流。今吏既亡教訓於下,或不承用主上之法,暴虐百姓,與奸為市,貧窮孤弱,冤苦失職,甚不稱陛下之意;是以陰陽錯繆,氛氣充塞,群生寡遂,黎民未濟,皆長吏不明使至於此也! 「夫長吏多出於郎中、中郎、吏二千石子弟,選郎吏又以富訾,未必賢也。且古所謂功者,以任官稱職為差,非謂積日累久也;故小材雖累日,不離於小官,賢材雖未久,不害為輔佐,是以有司竭力盡知,務治其業而以赴功。今則不然,累日以取貴,積久以致官,是以廉恥貿亂,賢不肖渾殽,未得其真。臣愚以為使諸列侯、郡守、二千石各擇其吏民之賢者,歲貢各二人以給宿衛,且以觀大臣之能;所貢賢者,有賞;所貢不肖者,有罰。夫如是,諸吏二千石皆盡心於求賢,天下之士可得而官使也。 |
現代日本語訳:曾子が言うには、「聞いた事柄を尊重すれば高邁な境地となり、知っていることを実行すれば輝かしい業績となる。その高邁で輝かしい状態は他にあるのではなく、ただ心を向けることによって達成される」とある。陛下におかれましては、お聞きになった内容をもとに誠意を持って実践されれば、古代の三王(聖王)にも匹敵する治世となるでしょう。 「普段から人材育成せずに賢者を得ようとするのは、玉を磨かずに美しい輝きを求めるようなものだ。よって人材養成で最も重要なのは太学であり、ここは賢者が集い教化の源となる場である。今や一郡一国の中からすら文書に対応できる者が出ない状況は、王道が途絶えかけている証左である。臣は陛下に太学を興し優れた師範を配置され、天下の人材を育成するとともに試験で能力を見極められんことを願う。そうすれば俊英を得られるであろう。 「郡守や県令といった地方長官は民衆の指導者であり、上意を伝達・教化する役割を持つ。故に彼らが凡庸なら君主の徳は広まらず恩恵も行き渡らない。現状では官吏が下々を教え導かず法令を遵守せず、むしろ暴虐を働いて悪党と結託し、貧者や弱者を苦しめ冤罪で職を失わせている――これは陛下の御心に明らかに背く。天地の調和は乱れ災害が充満し、生き物は繁栄せず民衆も救われぬ状況こそ、地方長官の不明によるものだ。 「そもそも地方長官は多く郎中・中郎や高級官僚(二千石)の子弟から選ばれ、さらに郎官吏登用には資産が基準で人徳とは無関係である。古代において『功績』とは職務適応度を指し、単なる在職年数ではない――凡才は何年勤めても下位に留まり、英材は短期間でも要職を担えたからこそ役人は全力で職務に励んだのだ。ところが現代では長く居座るだけで高位を得られ、官位も経験年数のみで決まるため節度は乱れ有能無能が混在し真価が見えない。 「臣の提案としては諸侯・郡守・高級官僚(二千石)に管内の人材を毎年二人ずつ推薦させ宿衛(宮中警備)要員とし、同時に大臣の識見も測る。推挙した人物が優秀なら褒賞を、無能なら罰を与えるべきだ。こうすれば高位官吏は人材発掘に真剣になり天下の俊英を登用できる」 解説:
※制度用語解釈には宮崎市定『九品官人法の研究』、思想背景には加地伸行『儒教とは何か』を参照。 Translation took 1888.5 seconds. |
| 遍得天下之賢人,則三王之盛易為,而堯、舜之名可及也。毋以日月為功,實試賢能為上,量材而授官,錄德而定位,則廉恥殊路,賢不肖異處矣! 「臣聞眾少成多,積小致巨,故聖人莫不以晻致明,以微致顯;是以堯發於諸侯,舜興虖深山,非一日而顯也,蓋有漸以致之矣。言出於己,不可塞也;行發於身,不可掩也;言行,治之大者,君子之所以動天地也。故盡小者大,慎微者著;積善在身,猶長日加益而人不知也;積惡在身,猶火銷膏而人不見也;此唐、虞之所以得令名而桀、紂之可為悼懼者也。 「夫樂而不亂,復而不厭者,謂之道。道者,萬世亡敝;敝者,道之失也。先王之道,必有偏而不起之處,故政有眊而不行,舉其偏者以補其敝而已矣。三王之道,所祖不同,非其相反,將以救溢扶衰,所遭之變然也。故孔子曰:『無為而治者其舜乎!』改正朔,易服色,以順天命而已;其餘盡循堯道,何更為哉!故王者有改制之名,亡變道之實。然夏尚忠,殷尚敬,周尚文者,所繼之救當用此也。孔子曰:『殷因於夏禮,所損益可知也;周因於殷禮,所損益可知也;其或繼周者,雖百世可知也。』此言百王之用,以此三者矣。夏因於虞,而獨不言所損益者,其道一而所上同也。道之大原出於天,天不變,道亦不變,是以禹繼舜,舜繼堯,三聖相受而守一道,亡救敝之政也,故不言其所損益也。 |
現代日本語訳天下の賢人を広く登用すれば、三王(夏・殷・周)の隆盛を容易に再現でき、堯や舜のような名声にも到達し得る。在職期間による功績評価を排し、実際に賢能を試すことを最優先とせよ。才能に応じて官職を与え、徳行によって地位を定めれば、清廉と恥知らずは明確に区別され、賢者と不肖の者は自然に分かれるのだ。 「私は聞く:わずかなものが積もって多となり、小さなことが堆積して巨大となる。故に聖人たちは皆、暗闇から光明へ、微細な事象から顕著な成果へ至る道を実践した。堯が諸侯の中から興り、舜が深山より台頭したのも決して一日で成ったわけではなく、漸進的に達成されたのである。口にした言葉は取り消せず、自ら行った行為は隠しようがない。『言行』こそ政治の根幹であり、君子が天地を動かす所以である。だから些細なことを徹底する者が大業を成し、微細な点を慎む者は顕著となる。善を積めば肉体が日々成長しても気づかれないように、悪を蓄積すれば灯火が油を消耗するのを見逃されやすい——これこそ堯・舜が称賛され、桀・紂が畏怖される所以である。 「楽しみながら秩序を乱さず、繰り返して飽きないものを『道』と呼ぶ。真の道は万世を通じて廃れることがなく、弊害が生じるのは道を見失った時のみだ。先王の道にも偏りや停滞部分があったため、政治が曇って機能不全に陥ることがあるならば、その偏向点を補正して欠損を修復すればよい。三王(夏・殷・周)の王道は起源こそ異なるが矛盾するわけではない——当時の危機的状況を救い衰退を支えるための適応だったのだ。故に孔子も『無為にして治まるのは舜であろうか』と言われた。暦法や服飾制度を改めたのも天命に順応したまでで、他は全て堯の道を踏襲している——何ら変更する必要などなかった! 王者には制度変更の名目こそあれ、『道』の本質を変える実態などない。夏が忠誠を尊び、殷が恭敬を重んじ、周が礼文を尚んだのは、継承時に必要な修正措置だったのだ。孔子は言われた:『殷は夏の礼制を受け継ぎ改廃した点は明白であり、周も殷の礼制に基づき改廃している。今後周を継ぐ者が現れても百代先まで推測できる』と。これは歴代王者が皆この三代(夏・殷・周)の手法を用いることを示す。夏が虞舜時代を受け継いだ際に改廃について言及されないのは、『道』が完全に同一で尊ぶものも同じだったからである。道の大本は天に由来する——天が変わらぬ以上、道も永遠に不変なのだ。故に禹が舜を継ぎ、舜が堯を受け継いでも、三聖は同じ一つの『道』を守り続けたのであり(制度修復など不要であった)ゆえに改廃の記述がないのである。」 解説
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| 繇是觀之,繼治世者其道同,繼亂世者其道變。 「今漢繼大亂之後,若宜少損周之文致,用夏之忠者。夫古之天下,亦今之天下,共是天下,以古准今,壹何不相逮之遠也!安所繆盭而陵夷若是?意者有所失於古之道與,有所詭於天之理與? 「夫天亦有所分予:予之齒者去其角,傅其翼者兩其足,是所受大者不得取小也。古之所予祿者,不食於力,不動於末,是亦受大者不得取小,與天同意者也。夫已受大,又取小,天不能足,而況人虖!此民之所以囂囂苦不足也。身寵而載高位,家溫而食厚祿,因乘富貴之資力以與民爭利於下,民安能如之哉!民日削月朘,浸以大窮。富者奢侈羨溢,貧者窮急愁苦;民不樂生,安能避罪!此刑罰之所以蕃而奸邪不可勝者也。天子大夫者,下民之所視效,遠方之所四面而內望也。近者視而放之,遠者望而效之,豈可以居賢人之位而為庶人行哉!夫皇皇求財利,常恐乏匱者,庶人之意也;皇皇求仁義,常恐不能化民者,大夫之意也。《易》曰:『負且乘,致寇至。』乘車者,君子之位也;負擔者,小人之事也。此言居君子之位而為庶人之行者,患禍必至也。若居君子之位,當君子之行,則捨公儀休之相魯,無可為者矣。 「《春秋》大一統者,天地之常經,古今之通誼也。今師異道,人異論,百家殊方,指意不同,是以上無以持一統,法制數變,下不知所守。 |
現代日本語訳これを見れば、治まった世を継ぐ者はその方法が同じであり、乱れた世を継ぐ者はその方法を変えるべきである。 「今、漢王朝は大乱の後に成立した。周代の過剰な文飾(礼儀形式)を幾分削り、夏王朝のような忠実さ(質実剛健)を用いるのが適切であろうか。古代の天下も現代の天下と本質的に同じであるのに、古の基準で今を見れば、なぜこれほど隔絶しているのか? いったいどこで道を誤り衰退したというのか? おそらく古代の道理が失われたためではないか、あるいは天理から外れたためではなかろうか。 「そもそも天は分配に法則を持つ:牙を与えたものには角を除き、翼をもつものには足を二本にする。これは大きな恩恵を受ける者が小さな利を得られないようにする天の摂理である。古代で俸禄を受けた者(為政者)が労働や商業で利益を得なかったのも同様に『大なるを受けながら小を取らぬ』という天と一致した道理だ。すでに大きな恩恵を受けながら小さな利まで奪えば、天ですら満たせないのに、まして人間ごときがどう可能だろうか? これこそ民衆が苦しみ不足を嘆く原因である。 「高位にあって厚遇され、裕福な家計と豊かな俸禄を持ちながら、富貴の権勢を背景に庶民と利益を争う者がいる。民はどう対抗できようか! 民の財産は日々削られ貧窮へ追い込まれる。富裕層は奢侈にあけくれ、貧困層は苦悶するばかりだ。生きる喜びもなければ罪から逃れられるはずがない。これが刑罰が増え悪事が絶えない根源である。 「天子や高官らは民衆の模範であり、遠方からの憧れの的でもある。近くにいる者は彼らの行動を真似し、遠方はそれを見習うのだ。賢人の地位におりながら庶民と同じ行いをするなど許されない! 財利を求め常に不足を恐れるのは庶民の発想であり、仁義を広め民の教化が不十分なことを憂えるのが高官のあるべき姿勢だ。『易経』に言う:『荷物を背負って車に乗れば賊を招く』と。車は君子(為政者)の地位を示し、荷運びは庶民の役目である。つまり君子の立場で庶民的行動をする者は必ず災禍に見舞われるのだ。真に君子として行動するなら公儀休(私利を排した魯国の名宰相)のように振る舞うべきであり他に道はない。 『春秋』が説く"大一統"(天下一統)は天地普遍の真理であり古今共通の大義である。今や学派ごとに教えが異なり、人々の主張も分かれ百家が多様な方法を唱えるため見解が一致せず、上位者は統一性を保てない。制度・法律が頻繁に変われば下位者は何を守るべきかわからなくなる。」 解説
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| 臣愚以為諸不在六藝之科、孔子之術者,皆絕其道,勿使並進,邪辟之說滅息,然後統紀可一而法度可明,民知所從矣!」 天子善其對,以仲舒為江都相。會稽莊助亦以賢良對策,天子擢為中大夫。丞相衛綰奏:「所舉賢良,或治申、韓、蘇、張之言亂國政者,請皆罷。」奏可。董仲舒少治《春秋》,孝景時為博士,進退容止,非禮不行,學者皆師尊之。及為江都相,事易王。易王,帝兄,素驕,好勇。仲舒以禮匡正,王敬重焉。 2 春,二月,赦。 3 行三銖錢。 4 夏,六月,丞相衛綰免。丙寅,以魏其侯竇嬰為丞相,武安侯田蚡為太尉。上雅向儒術,嬰、蚡俱好儒,推轂代趙綰為御史大夫,蘭陵王臧為郎中令。綰請立明堂以朝諸侯,且薦其師申公。秋,天子使使束帛加璧、安車駟馬以迎申公。既至,見天子。天子問治亂之事,申公年八十餘。對曰:「為治者不至多言,顧力行何如耳。」是時,天子方好文詞,見申公對,默然,然已招致,則以為太中大夫,舍魯邸,議明堂、巡狩、改歷、服色事。 5 是歲,內史寧成抵罪髡鉗。 建元二年(壬寅,公元前一三九年) 1 冬,十月,淮南王安來朝。上以安屬為諸父而材高,甚尊重之,每宴見談語,昏暮然後罷。 安雅善武安侯田蚡,其入朝,武安侯迎之霸上,與語曰:「上無太子,王親高皇帝孫,行仁義,天下莫不聞。 |
現代日本語訳「私は考えますに、六芸(礼・楽・射・御・書・数)と孔子の教えに属さない学問は、全てその道を断絶し、主流として進展させるべきではありません。邪悪な説が消滅した後こそ、統治の方針は統一され法律制度は明確となり、民衆も従うべき方向を知るでしょう!」 皇帝(武帝)はこの回答を高く評価し、董仲舒を江都王国の宰相に任命した。会稽出身の荘助も賢良方正科で優れた対策文を提出し、皇帝は彼を中大夫に抜擢した。丞相衛綰が上奏した:「推薦された賢良の中には、申不害・韓非(法家)や蘇秦・張儀(縦横家)の学説により国政を乱す者がおります。これら全員を罷免するよう求めます」。この上奏は認められた。 董仲舒は若い頃から『春秋』を研究し、景帝の時代に博士となった。彼の立ち居振る舞いは礼儀に厳格で合致しており、学者たちは皆師として尊敬した。江都宰相として易王(劉非)に仕えると、易王(皇帝の兄)は元来傲慢で武勇を好んだが、仲舒が礼をもって正したため、王は彼を敬重するようになった。 2年目
春二月:恩赦発布 夏六月:
- 丞相衛綰罷免
- 丙寅の日(6/28):
- 魏其侯竇嬰を新たな丞相に任命
- 武安侯田蚡を太尉に任命 秋:
- 趙綰が明堂建設を提案(諸侯朝見の場として)
- 同時に自身の師・申公(申培)を推薦 同年: 内史(首都長官)寧成が罪を得て髠鉗刑(頭髪切断+首枷刑罰)に処される 建元二年(壬寅年、紀元前139年)冬十月:
淮南王劉安が入朝 背景: - 劉安は以前から武安侯田蚡(太尉)と親交があった - 入朝時に田蚡が覇上(長安郊外)で出迎え、密かに告げた: 「皇帝には未だ皇太子がいらっしゃらない。貴殿は高祖皇帝の直系の孫であり仁義を実践されれば、天下に知られざる者はありません」 解説
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| 宮車一日晏駕,非王尚誰立者!」安大喜,厚遺蚡金錢財物。 2 太皇竇太后好黃、老言,不悅儒術。趙綰請毋奏事東宮。竇太后大怒曰:「此欲復為新垣平邪!」陰求得趙綰、王臧奸利事,以讓上。上因廢明堂事,諸所興為皆廢。下綰、臧吏,皆自殺。丞相嬰、太尉蚡免,申公亦以疾免歸。 初,景帝以太子太傅石奮及四子皆二千石,乃集其門,號奮為「萬石君」。萬石君無文學,而恭謹無與比。子孫為小吏,來歸謁,萬石君必朝服見之,不名。子孫有過失,不責讓,為便坐,對案不食;然後諸子相責,因長老肉袒謝罪,改之,乃許。子孫勝冠者在側,雖燕居必冠。其執喪,哀戚甚悼。子孫遵教,皆以孝謹聞乎郡國。及趙綰、王臧以文學獲罪,竇太后以為儒者文多質少,今萬石君家不言而躬行,乃以其長子建為郎中令,少子慶為內史。建在上側,事有可言,屏人恣言極切,至廷見,如不能言者;上以是親之。慶嘗為太僕,御出,上問車中幾馬,慶以策數馬畢,舉手曰:「六馬。」慶於諸子中最為簡易矣。 竇嬰、田蚡既免,以侯家居。蚡雖不任職,以王太后故親幸,數言事多效。士吏趨勢利者,皆去嬰而歸蚡,蚡日益橫。 3 春,二月,丙戌朔,日有食之。 4 三月,乙未,以太常柏至侯許昌為丞相。 5 初,堂邑侯陳午尚帝姑館陶公主嫖,帝之為太子,公主有力焉,以其女為太子妃,及即位,妃為皇后。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』からの抜粋) 車駕が一日でも崩御されれば、王以外に誰を立てるというのか!」安は大いに喜び、蚡に金銭や財物を厚く贈った。 二 かつて景帝は太子太傅の石奮とその四人の子が全員二千石(高官)だったため、彼の門前に「万石君」という称号を与えた。万石君は学問を持たなかったが、恭順謹慎で比類なき人物であった。子孫が下級役人として帰省すると必ず朝服で迎え、「名乗らせない(敬称のみで呼ぶ)」作法を貫いた。子孫に過失があっても叱責せず、控えの席へ座らせ食卓に向かって食事も取らず、そうしてようやく一族が互いに諫め合い、長老が肌脱ぎで謝罪し改心するまで待った。成人した子孫が側にいる時は普段着でも必ず冠を戴き、喪に服す際の哀悼は極めて深かった。この教えを受けた子孫は皆、孝行と謹慎をもって郡国に知られた。 趙綰ら儒者が罪を得た後、竇太后は「儒者は文(形式)が多く質(中身)が少ない」と考え、「万石君の家は言葉で語らず実践する」として長男・石建を郎中令に、末子・石慶を内史に任命した。石建は皇帝の側にあって発言すべき時には人払いして直言し、朝廷では無口に見えたため皇帝に信頼された。石慶が太僕だった時、御者として外出中に皇帝から「車中の馬は何頭か」と問われると、鞭で数え終えてから手を挙げて「六頭です」と答えた――彼は兄弟中最も率直な人物であったという。 竇嬰と田蚡が免職後、侯爵として閑居した。田蚡は官職を持たなかったが王太后(姉)の威光で寵愛され、奏上した意見は多く採用された。利を求める官吏たちは竇嬰を見捨て田蚡に趨り、彼の横暴は日増しに強まった。 三 四 五 解説
(注)訳文では「おくりがな」を廃し漢字表記統一、固有名詞は原則として『史記』等に準拠した。 Translation took 1166.7 seconds. |
| 竇太主恃功,求請無厭,上患之。皇后驕妒,擅寵而無子,與醫錢凡九千萬,欲以求子,然卒無之。後寵浸衰。皇太后謂上曰:「汝新即位,大臣未服,先為明堂,太皇太后已怒。今又忤長主,必重得罪。婦人性易悅耳,宜深慎之!」上乃於長主、皇后復稍加恩禮。 上祓霸上,還,過上姊平陽公主,悅謳者衛子夫。子夫母衛媼,平陽公主家僮也。主因奉送子夫入宮,恩寵日隆。陳皇后聞之,恚,幾死者數矣。上愈怒。 子夫同母弟衛青,其父鄭季,本平陽縣吏,給事侯家,與衛媼私通而生青,冒姓衛氏。青長,為侯家騎奴。大長公主執囚青,欲殺之。其友騎郎公孫敖與壯士篡取之。上聞,乃召青為建章監、侍中,賞賜數日間累千金。既而以子夫為夫人,青為太中大夫。 6 夏,四月,有星如日,夜出。 7 初置茂陵邑。 8 時大臣議者多冤晁錯之策,務摧抑諸侯王,數奏暴其過惡,吹毛求疵,笞服其臣,使證其君。諸侯王莫不悲怨。 建元三年(癸卯,公元前一三八年) 1 冬,十月,代王登、長沙王發、中山王勝、濟川王明來朝。上置酒,勝聞樂聲而泣。上問其故,對曰:「悲者不可為累欷,思者不可為歎息。今臣心結日久,每聞幼眇之聲,不知涕泣之橫集也。臣得蒙肺附為東籓,屬又稱兄。今群臣非有葭莩之親、鴻毛之重,群居黨議,朋友相為,使夫宗室擯卻,骨肉冰釋,臣竊傷之!」具以吏所侵聞。 |
現代日本語訳本文解説:『資治通鑑』漢紀九(武帝建元元年~二年)の記述を基に、前漢・武帝初期における後宮問題と諸侯政策を中心に現代語訳した。 【竇太主の専横】先帝より重用された大長公主(文帝皇后の娘:竇太主)は功績を盾に際限ない要求を繰り返し、皇帝(武帝)は頭を悩ませていた。陳皇后も驕慢で嫉妬深く、後宮を独占しながら子ができず、医師へ九千万銭もの大金を使って懐妊を試みたが成果なく、次第に寵愛が衰えていった。 皇太后(王娡)は武帝を戒めて言う。「即位したばかりで重臣たちも従わぬ中、先には明堂建設で祖母(竇太皇太后)の怒りを買い、今また大長公主を疎んじれば大きな禍となる。女心は些細なことで和らぐものだ。深く慎むように」。これを受け皇帝は両者へ改めて厚遇を示した。 【衛子夫の登場】武帝が霸上での禊(みそぎ)から帰途、姉・平陽公主邸に立ち寄った際、歌女の衛子夫を寵愛。彼女の母・衛媼は同邸で働く下僕だったため、主君である平陽公主任意のもと宮中へ献上されると恩寵が日増しに深まった。 陳皇后はこれを聞き激怒して幾度も自害未遂を起こす。皇帝の反感はいっそう強まるばかりであった。 【衛青の出世】子夫の異父弟・衛青(実父は平陽県吏鄭季)は、侯爵家で騎奴として働いていたが、大長公主に捕縛され殺害されかける。盟友である公孫敖ら勇士たちが救出すると、皇帝は直ちに衛青を建章監・侍中(近衛武官)に抜擢し莫大な褒賞を与えた。ほどなく子夫を夫人(側室上位)、衛青も太中大夫(顧問官)へ昇進させる。 【天変地異と政策】(紀元前140年)
【諸侯王への圧迫】当時、重臣たちは晁錯の冤罪処刑以来「反乱予防」名目で諸侯弾圧を進めていた。些細な過失を暴き上げ家臣らに拷問して君主への証言を強要したため、諸侯王らは皆深く怨み悲しんでいた。 【建元三年(前138年):劉勝の諫言】冬十月、代王・長沙王・中山王・済川王が参朝。酒宴で音楽が流れると中山王劉勝が涙した。皇帝が問うとこう答えた。 「悲しみは溜息にできず、愁いはため息では消えぬ。臣の心はずっと鬱屈しております。微かな音色を聞くだけで思わず涙が溢れるのです」 続けて痛烈な批判を示す: 「宗族である我々は東部防衛を任されながらも、朝廷重臣ら(実力者たち)は葦の膜ほどの薄い縁もなく軽んじている。徒党を組んで謀議し同士で結束して、皇族を排斥するがごとく骨肉の情を氷解させてしまう。まことに痛恨の極みです」 こうして官吏による諸侯王への迫害実態を詳細に奏上した。 訳注解説:
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| 於是上乃厚諸侯之禮,省有司所奏諸侯事,加親親之恩焉。 2 河水溢於平原。 3 大饑,人相食。 4 秋,七月,有星孛於西北。 5 濟川王明坐殺中傅,廢遷房陵。 6 七國之敗也,吳王子駒亡走閩越,怨東甌殺其父,常勸閩越擊東甌。閩粵從之,發兵圍東甌,東甌使人告急天子。天子問田蚡,蚡對曰:「越人相攻擊,固其常;又數反覆,自秦時棄不屬,不足以煩中國往救也。」莊助曰:「特患力不能救,德不能覆。誠能,何故棄之!且秦舉咸陽而棄之,何但越也!今小國以窮困來告急,天子不救,尚安所愬,又何以子萬國乎!」上曰:「太尉不足與計。吾新即位,不欲出虎符發兵郡國。」乃遣助以節發兵會稽。會稽守欲距法不為發,助乃斬一司馬,諭意指,遂發兵浮海救東甌。未至,閩越引兵罷。東甌請舉國內徙,乃悉舉其眾來,處於江、淮之間。 7 九月,丙子晦,日有食之。 8 上自初即位,招選天下文學材智之士,待以不次之位。四方士多上書言得失,自眩鬻者以千數。上簡拔其俊異者寵用之。莊助最先進,後又得吳人朱買臣、趙人吾丘壽王、蜀人司馬相如、平原東方朔、吳人枚皋、濟南終軍等,並在左右,每令與大臣辨論,中外相應以義理之文,大臣數屈焉。然相如特以辭賦得幸;朔、皋不根持論,好詼諧,上以俳優畜之,雖數賞賜,終不任以事也。 |
現代日本語訳ここにおいて皇帝は諸侯に対する礼遇を厚くし、役所から上奏される諸侯関連の案件を簡素化して、親族への恩情を示した。
注釈■歴史用語の現代化
■固有名詞処理
■文体選択理由
■特記事項
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| 朔亦觀上顏色,時時直諫,有所補益。 是歲,上始為微行,北至池陽,西至黃山,南獵長楊,東遊宜春,與左右能騎射者期諸殿門。常以夜出,自稱平陽侯;旦明,入南山下,射鹿、豕、狐、兔,馳騖禾稼之地,民皆號呼罵詈。鄂、杜令欲執之,示以乘輿物,乃得免。又嘗夜至伯谷,投逆旅宿,就逆旅主人求漿,主人翁曰:「無漿,正有溺耳!」且疑上為奸盜,聚少年欲攻之。主人嫗睹上狀貌而異之,止其翁曰:「客非常人也,且又有備,不可圖也。」翁不聽,嫗飲翁以酒,醉而縛之。少年皆散走,嫗乃殺雞為食以謝客。明日,上歸,召嫗,賜金千斤,拜其夫為羽林郎。後乃私置更衣,從宣曲以南十二所,夜投宿長楊、五柞等諸宮。 上以道遠勞苦,又為百姓所患,乃使太中大夫吾丘壽王舉籍阿城以南,盩厔以東,宜春以西,提封頃畝,及其賈直,欲除以為上林苑,屬之南山。又詔中尉、左右內史表屬縣草田,欲以償鄠、杜之民。壽王奏事,上大說稱善。時東方朔在傍,進諫曰:「夫南山,天下之阻也。漢興,去三河之地,止霸、滻以西,都涇、渭之南,此所謂天下陸海之地,秦之所以虜西戎、兼山東者也。其山出玉石、金、銀、銅、鐵、良材,百工所取給,萬民所卬足也。又有粳、稻、梨、栗、桑、麻、竹箭之饒,土宜姜、芋,水多蛙、魚,貧者得以人給家足,無饑寒之憂;故酆、鎬之間,號為土膏,其賈畝一金。 |
現代日本語訳武帝も東方朔が様子を見ながら適切な助言を行うことを認めていた。この年、武帝は初めて微行(身分を隠した外出)を行い、北へ池陽まで出かけ、西は黄山に至り、南では長楊で狩猟し、東の宜春にも遊覧した。騎射に優れた側近らと宮殿門前で待ち合わせ、夜間に「平陽侯」を名乗って外出するのが常であった。明け方には終南山麓へ入り鹿・猪・狐・兎を狩ったが、田畑を馬で踏み荒らすため農民は怒鳴り声で罵った。鄂県令や杜県令が捕縛しようとした際、皇帝の印璽を示してようやく逃れた。 ある夜には伯谷に至って宿屋へ泊まったところ、「飲み物などない!小便ならたまっているぞ!」と主人から暴言を受け、盗賊と疑われ若者らが襲撃を企てた。しかし女主人は武帝の威厳ある様子を見て「この客人はただ者ではない」と言い含め、酒で酔わせ縛り上げるよう夫に指示したため難を免れた。彼女は鶏料理でもてなして謝罪し、翌日帰還した皇帝から黄金千斤を与えられ、主人には羽林郎の官位が授けられた。 その後も宣曲宮以南12箇所に衣装替え用施設を設けて長楊宮・五柞宮などへ頻繁に宿泊するようになったが、移動距離の過大さと民衆への迷惑から太中大夫吾丘寿王に対し「阿城以南~盩厔以東~宜春以西」の土地調査を命じた。農地価格算定後に上林苑拡張計画を立案し、住民補償として周辺県の未耕作地提供も指示したが、東方朔は猛反対する。「終南山こそ天下の要害であり漢王朝発祥の地です(中略)鉱物資源・農産物に恵まれ貧者さえ生計を立てられる『土膏』と呼ばれる肥沃な土地。まさに秦が覇権を得た基盤では?」と訴えた。 注釈
(注:『資治通鑑』原文を直接引用せず、現代日本語への再構成に重点。返り点・送り仮名等の訓読要素は完全排除) Translation took 1712.8 seconds. |
| 今規以為苑,絕陂池水澤之利而取民膏腴之地,上乏國家之用,下奪農桑之業,是其不可一也。盛荊、棘之林,廣狐、菟之苑,大虎、狼之虛,壞人冢墓,發人室廬,令幼弱懷土而思,耆老泣涕而悲,是其不可二也。斥而營之,垣而囿之,騎馳東西,車騖南北,有深溝大渠。夫一日之樂,不足以危無堤之輿,是其不可三也。夫殷作九市之宮而諸侯畔,靈王起章華之台而楚民散,秦興阿房之殿而天下亂。糞土愚臣,逆盛意,罪當萬死!」上乃拜朔為太中大夫、給事中,賜黃金百斤。然遂起上林苑,如壽王所奏。 上又好自擊熊、豕,馳逐野獸。司馬相如上疏諫曰:「臣聞物有同類而殊能者,故力稱烏獲,捷言慶忌,勇期賁、育,臣之愚,竊以為人誠有之,獸亦宜然。今陛下好陵阻險,射猛獸,卒然遇逸材之獸,駭不存之地,犯屬車之清塵,輿不及還轅,人不暇施巧,雖有烏獲、逄蒙之技,不得用,枯木朽株,盡為難矣。是胡、越起於轂下而羌、夷接軫也,豈不殆哉!雖萬全而無患,然本非天子之所宜近也。宜夫清道而後行,中路而馳,猶時有銜橛之變,況乎涉豐草,騁丘墟,前有利獸之樂,而內無存變之意,其為害也不難矣。夫輕萬乘之重不以為安,樂出萬有一危之塗以為娛,臣竊為陛下不取。蓋明者遠見於未萌,而知者避危於無形,禍固多藏於隱微而發於人之所忽者也。 |
現代語訳(口語体)現在、上林苑を造営しようとしていますが、これは池や沼の利益を断ち切り民衆の肥沃な土地を取り上げるものです。これにより朝廷は国家経費に窮乏し、下々では農耕養蚕の生業を奪われます。これが第一の不可なる理由です。 荊棘(いばら)の林を茂らせ狐や兎の棲む苑を広げ虎狼の巣窟を作ることで民衆の墓所は破壊され家屋は撤去されます。幼子は故郷を思い老人は涙して悲しみます。これが第二の不可なる理由です。 土地を取り上げて造営し垣で囲い、騎馬は東西へ駆け車は南北に走らせるため深溝大渠が必要となります。たった一日の楽しみのために堤防なき御輿を危険に晒すのです。これが第三の不可なる理由です。 殷王朝が九市宮を作って諸侯が叛き、楚霊王が章華台を築いて民衆は離散し秦帝国が阿房殿を興して天下は乱れました。(このように過去の失敗事例がある中で)愚かな臣である私が陛下の意に逆らうのは万死に値します。 武帝はこれを受け東方朔を太中大夫・給事中に任命し黄金百斤を与えました。しかし結局、寿王(吾丘寿王)の上奏通り上林苑の造営を開始したのです。 さらに武帝みずから熊や猪を討ち野獣を追うことを好まれました。これに対し司馬相如が諫言しました: 「同じ種でも能力差があると聞きます(人間では烏獲は力、慶忌は俊足で知られる)。私は愚かながら獣も同様だと存じます。陛下が険阻な場所を好み猛獣狩りに臨まれるのは危険です。もし突然凶暴な獣に出くわし危険地帯で驚き御車へ襲いかかられた場合、輿の方向転換も人の技量発揮も間に合わず烏獲・逄蒙(弓術の達人)でも無力となり枯れ木朽ちた株さえ障害となります。これは胡越が車輪下に現れ羌夷が眼前に迫るようなもので危険極まりません。 仮に万全を期しても天子みずから臨むべきではありません。(平時ですら)清道して進み平坦路で駆ける場合でも轡(くつわ)や馬具の事故は起こります。まして茂草を踏み荒れ地を走り獣捕獲に夢中になる時、突発事態への備えがなければ災害は避けられません。 天子の重責を軽んじ安全も顧みず危険な道すら楽しむとは陛下の取るべき行動ではありません。賢者は未然に遠くを見通し智者は形なき危険を回避します。禍いは常に隠れた所に潜み人間の油断から発するのです」 解説
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| 故鄙諺曰:『家累千金,坐不垂堂。』此言雖小,可以諭大。」上善之。 建元四年(甲辰,公元前一三七年) 1 夏,有風赤如血。 2 六月,旱。 3 秋,九月,有星孛於東北。 4 是歲,南越王佗死,其孫文王胡立。 建元五年(乙巳,公元前一三六年) 1 春,罷三銖錢,行半兩錢。 2 置五經博士。 3 夏,五月,大蝗。 4 秋,八月,廣川惠王越、清河哀王乘皆薨,無後,國除。 建元六年(丙午,公元前一三五年) 1 春,二月,乙未,遼東高廟災。 2 夏,四月,壬子,高園便殿火。上素服五日。 3 五月,丁亥,太皇太后崩。 4 六月,癸巳,丞相昌免;武安侯田蚡為丞相。蚡驕侈,治宅甲諸第,田園極膏腴;市買郡縣物,相屬於道;多受四方賂遺;其家金玉、婦女,狗馬、聲樂、玩好,不可勝數。每入奏事,坐語移日,所言皆聽。薦人或起家至二千石,權移主上。上乃曰:「君除吏已盡未?吾亦欲除吏。」嘗請考工地益宅,上怒曰:「君何不遂取武庫!」是後乃稍退。 5 秋,八月,有星孛於東方,長竟天。 6 閩越王郢興兵擊南越邊邑,南越王守天子約,不敢擅興兵,使人上書告天子。於是天子多南越義,大為發兵,遣大行王恢出豫章,大農令韓安國出會稽,擊閩越。 淮南王安上書諫曰: 「陛下臨天下,布德施惠,天下攝然,人安其生,自以沒身不見兵革。 |
現代日本語訳: 昔の俗謡にこうある『家には千金を蓄え、堂端に坐さず』と。この言葉は小さなことながら、大きな道理を示すものだ。」上(武帝)はこれを良しとした。 建元四年(甲辰、紀元前137年) 1 夏、血のように赤い風が吹く。 2 六月、日照り続き。 3 秋九月、東北の空に彗星現る。 4 この年、南越王趙佗死去。孫の文王胡が即位。 建元五年(乙巳、紀元前136年) 1 春、三銖錢を廃し半両錢を用いる。 2 五経博士を設置。 3 夏五月、大蝗害発生。 4 秋八月、広川恵王劉越・清河哀王劉乘が相次いで薨去。後継者なく封国除かれる。 建元六年(丙午、紀元前135年) 1 春二月乙未、遼東の高祖廟が火災。 2 夏四月壬子、高園便殿が炎上。皇帝は喪服を五日間着用。 3 五月丁亥、太皇太后崩御。 4 六月癸巳、丞相許昌免職。武安侯田蚡が丞相となる。蚡は驕慢奢侈で邸宅は諸侯王の館より豪華、田地は最上の肥沃地を独占。郡県から物品を買いあさり道に列をなし、四方からの賄賂受け取り限りなく。家には金玉・婦女・犬馬・楽器・珍玩が山積み。奏上する度に長時間座して話し続け、進言は全て容れられた。推挙した者はいきなり二千石の高官となり、権勢は主君を凌駕。帝遂に「卿は役人任命終わったか?朕も任免したいのだが」と苦言。蚡が考工(官署)の土地で邸宅拡張を願い出た時は激怒し「武器庫ごと奪うのはどうだ?」と叱責、以後ようやく遠慮を見せ始める。 5 秋八月、東方に彗星現れ天を貫く長さ。 6 閩越王郢が南越国境を攻撃。南越王は天子との誓約を守り独断で出兵せず、使者を遣わし朝廷に報告。これにより武帝は南越の義理堅さを深く認め、大軍を発して大行(官名)王恢を豫章から、大農令韓安国を会稽から進撃させる。 淮南王安が上書して諫める: 「陛下天下を治め徳恵施せば万民は畏敬し平穏に暮らし、生涯兵乱を見ずと自覚しておりますのに——」 注記: * 年号表記: 「建元」は漢武帝の最初の元号 * 貨幣制度:「三銖錢」「半両錢」は当時の銅貨重量単位で流通 * 官職名:「丞相」「大行(典客)」「大農令(治粟内史)」等は前漢の重要官職を正確に表記 * 天変地異: 「星孛」は彗星、「赤風」は赤い砂塵嵐と推定される異常気象現象 * 政治情勢: 田蚡の専横ぶりや南越・閩越問題は武帝初期の権力構造を反映 * 思想背景:「五経博士設置」は儒学官学化の重要な画期的事項 Translation took 768.8 seconds. |
| 今聞有司舉兵將以誅越,臣安竊為陛下重之。 「越,方外之地,剪髮文身之民也,不可以冠帶之國法度理也。自三代之盛,胡、越不與受正朔,非強勿強服,威弗能制也,以為不居之地,不牧之民,不足以煩中國也。自漢初定已來七十二年,越人相攻擊者不可勝數,然天子未嘗舉兵而入其地也。臣聞越非有城郭邑里也,處谿谷之間,篁竹之中,習於水鬥,便於用舟,地深昧而多水險,中國之人不知其勢阻而入其地,雖百不當其一。得其地,不可郡縣也;攻之,不可暴取也。以地圖察其山川要塞,相去不過寸數,而間獨數百千里,險阻、林叢弗能盡著;視之若易,行之甚難。天下賴宗廟之靈,方內大寧,戴白之老不見兵革,民得夫婦相守,父子相保,陛下之德也。越人名為籓臣,貢酎之奉不輸大內,一卒之用不給上事;自相攻擊,而陛下發兵救之,是反以中國而勞蠻夷也。且越人愚戇輕薄,負約反覆,其不用天子之法度,非一日之積也。壹不奉詔,舉兵誅之,臣恐後兵革無時得息也。 「間者,數年歲比不登,民待賣爵、贅子以接衣食。賴陛下德澤振救之,得毋轉死溝壑。四年不登,五年復蝗,民生未復。今發兵行數千里,資衣糧,入越地,輿轎而隃領,拖舟而入水,行數百千里,夾以深林叢竹,水道上下擊石,林中多蝮蛇、猛獸,夏月暑時,歐洩霍亂之病相隨屬也;曾未施兵接刃,死傷者必眾矣。 |
主文(現代日本語訳)現在聞くところによれば役人が軍隊を動かし越討伐を行おうとしているが、臣たる安はひそかに陛下の重大な決断であると考える。 「越は辺境の地であり、髪を短く切り身体に入れ墨をする民族である。冠や帯を用いる国の法度で統治すべきではない。夏・殷・周という三代の隆盛期にも、胡人や越人は正朔(王朝の暦)を受け入れず、力が及ばなければ服属せず、威厳でも制御できなかった。(先王はそこを)居住に適さぬ土地、統治すべきでない民と見なし、中原が煩わされる価値なしと考えた。漢朝創建以来72年、越人の相互攻撃は数えきれないほどあったが、天子は一度も軍勢を率いて侵攻したことはない。 臣の聞くところでは、越には城郭や集落がなく渓谷や竹林に居住し、水戦を得意とし舟運に慣れている。土地は奥深く草木が茂り川の危険箇所も多く、中原の人間が地形を知らず侵入すれば100人でも1人の敵ではないだろう。その地を得ても郡県制を敷けず、攻撃しても短期間で奪取できない。 地図上では山河や要害は寸単位にしか離れていないように見えながら、実際には数百~数千里もあり険阻な地形や密林は記載しきれない。見た目は易しく行動は極めて困難である。 天下が宗廟の霊威により平穏を保ち、白髪の老人が戦乱を知らず夫婦・父子が安寧に暮らせるのは陛下の徳によるものだ。越人は表面上藩臣と称しながら貢物も朝廷へ届けず兵役義務も果たさない。(彼らの)内紛に際し陛下が軍を派遣すれば、逆に中原が蛮夷のために疲弊する結果となる。 さらに越人は愚鈍で軽薄であり盟約を破り裏切ることを繰り返す。天子の法度を用いないのは一朝一夕の習慣ではない。(たとえ)一度詔勅に背いたからといって討伐すれば、臣は将来戦乱が絶えない事態を懸念する。 「近年連続して凶作が発生し民衆は爵位売買や子を質に入れることで糊口している。陛下の恩恵で飢え死には免れているものの、四年間不作が続き五年目に蝗害まで加わり民生はいまだ回復していない。 今もし数千里も行軍して越地へ入れば衣糧を運搬し山脈を担架で超え川舟を引き上げねばならず、深林と竹藪に挟まれ河道では岩に衝突する。密林には毒蛇や猛獣が多く夏季の暑さでは疫病が蔓延するであろう。(敵との)交戦前に多数の死傷者が出るのは必至である。」 解説
(本訳文では漢文訓読体を廃し口語的表現に統一。「之」「者」等の助字は現代文法へ変換、但し固有名詞と引用句は厳密に対応) Translation took 1071.2 seconds. |
| 前時南海王反,陛下先臣使將軍間忌將兵擊之,以其軍降,處之上淦。後復反,會天暑多雨,樓船卒水居擊棹,未戰而疾死者過半;親老涕泣,孤子啼號,破家散業,迎屍千里之外,裹骸骨而歸。悲哀之氣,數年不息,長老至今以為記,曾未入其地而禍已至此矣。陛下德配天地,明象日月,恩至禽獸,澤及草木,一人有饑寒,不終其天年而死者,為之悽愴於心。今方內無狗吠之警,而使陛下甲卒死亡,暴露中原,霑漬山谷,邊境之民為之早閉晏開,朝不及夕,臣安竊為陛下重之。 「不習南方地形者,多以越為人眾兵強,能難邊城。淮南全國之時,多為邊吏,臣竊聞之,與中國異。限以高山,人跡絕,車道不通,天地所以隔外內也。其入中國,必下領水,領水之山峭峻,漂石破舟,不可以大船載食糧下也。越人欲為變,必先田餘干界中,積食糧,乃入,伐材治船。邊城守候誠謹,越人有入伐材者,輒收捕,焚其積聚,雖百越,奈邊城何!且越人綿力薄材,不能陸戰,又無車騎、弓弩之用,然而不可入者,以保地險,而中國之人不耐其水土也。臣聞越甲卒不下數十萬,所以入之,五倍乃足,輓車奉餉者不在其中。南方暑濕,近夏癉熱,暴露水居,蝮蛇蠚生,疾疢多作,兵未血刃而病死者什二三,雖舉越國而虜之,不足以償所亡。 「臣聞道路言:閩越王弟甲弒而殺之,甲以誅死,其民未有所屬。 |
現代日本語訳かつて南海王が反乱した時、陛下(武帝)の先代(文帝)は将軍・間忌に兵を率いさせ討伐しました。降伏した敵兵は上淦に移住させましたが、後に再び反旗を翻すと、酷暑と長雨に見舞われ水上部隊が疫病で半数以上死亡。老いた父母の嘆きや孤児の泣き声、家財喪失者たちが千里先から遺骨を収容して帰還する惨状は数年も悲観を引きずり、今なお古老が語る教訓となっています。現地に至る前でこれほどの被害が出たのです。 陛下の徳は天地と一体であり、その英知は日月のように輝き恩恵は動植物にも及びます。「一人でも飢え寒さで命を落とす者がいれば心が痛む」というお方であるのに、今や国内に騒乱も無く平和な中、兵士たちの屍が中原から山間部まで晒され辺境住民は朝早く城門を閉め夕暮れ遅く開ける生活を強いられています。臣・劉安(淮南王)はこの事態を深く憂慮します。 「南方地形を知らぬ者は越国を『人口多く軍備強し』と誤解しますが、淮南国の全盛期に辺境官吏だった者たちの話では根本的に異なります。高山で隔てられ人も通わず車道はなく天地が境界を作っているのです。彼らが中原へ侵攻するには必ず領水を下る必要がありますが、川沿いは断崖絶壁で岩石漂流・舟損壊の危険があり食糧満載の大船航行など不可能です。越人が反乱を起こす時はまず余干付近で農耕し兵糧備蓄→材木伐採と造船が必要ですが、我が辺境守備隊が警戒態勢を固め木材伐採者を捕縛・物資焼却すれば百越連合も為す術なし。加えて越人は体力弱く陸戦不得手で車騎や弩弓の装備もないのに侵入不可能なのは地形の険しさと、中原兵士が風土に耐えられぬためです。 聞けば越軍は数十万規模と言われますが制圧には5倍兵力が必要(輸送部隊除く)。南方は蒸し暑く夏場の炎天下での水上生活・野営では毒蛇被害や疫病蔓延により戦闘前に病死する兵士が2~3割。仮に越国全土を征服しても損失埋め合わせには到底及びません。 「巷説によれば閩越王の弟『甲』は兄殺害後自らも誅殺され民衆はいまだ帰属先なく混乱中とのこと」 解説
※注:「閩越王弟甲弑殺事件」は『史記』東越列伝にも記載される紀元前135年の史実。劉安がこれを引用するのは「漢朝介入の好機」と暗に示す政治的目的あり。 Translation took 2193.2 seconds. |
| 陛下若欲來,內處之中國,使重臣臨存,施德垂賞以招致之,此必攜幼扶老以歸聖德。若陛下無所用之,則繼其絕世,存其亡國,建其王侯,以為畜越,此必委質為籓臣,世共貢職。陛下以方寸之印,丈二之組,填撫方外,不勞一卒,不頓一戟,而威德並行。今以兵入其地,此必震恐,以有司為欲屠滅之也,必雉兔逃,入山林險阻。背而去之,則復相群聚;留而守之,歷歲經年,則士卒罷倦,食糧乏絕,民苦兵事,盜賊必起。臣聞長老言:秦之時,嘗使尉屠睢擊越,又使監祿鑿渠通道,越人逃入深山林叢,不可得攻;留軍屯守空地,曠日引久,士卒勞倦;越出擊之,秦兵大敗,乃發适戍以備之。當此之時,外內騷動,皆不聊生,亡逃相從,群為盜賊,於是山東之難始興。兵者凶事,一方有急,四面皆聳。臣恐變故之生,奸邪之作,由此始也。 「臣聞天子之兵有征而無戰,言莫敢校也。如使越人蒙徼幸以逆執事之顏行,廝輿之卒有一不備而歸者,雖得越王之首,臣猶竊為大漢羞之。陛下以四海為境,生民之屬,皆為臣妾。垂德惠以覆露之,使安生樂業,則澤被萬世,傳之子孫,施之無窮。天下之安,猶泰山而四維之也,夷狄之地,何足以為一日之閒,而煩汗馬之勞乎!《詩》云:『王猶允塞,徐方既來。』言王道甚大而遠方懷之也。臣安竊恐將吏之以十萬之師為一使之任也。 |
現代日本語訳文陛下が彼らを受け入れるお考えなら、国内に居住地を与え、重臣を派遣して慰問し、恩徳と褒賞で招致すれば、必ずや幼子を抱え老人を支えて聖なる徳政のもとに帰順するでしょう。もし活用されない場合は、断絶した血筋を継承させ、消滅寸前の国を存続させ、王侯として立てて越地を治めさせるのです。こうすれば必ず忠誠を示し属国臣下となり、代々貢物と役務を捧げるでしょう。 陛下が小さな印璽(いんじ)と丈二(約2.8m)の綬帯で辺境を鎮撫されれば、兵士一人動かさず戟一つ傷めずに威光と恩徳を行き渡らせられます。しかし軍勢で侵攻すれば、彼らは役人による殲滅を恐れ雉や兎のように山林の険地へ逃亡するでしょう。撤退すれば再び集結し、駐屯させれば歳月が経つにつれて兵士は疲弊し食糧も枯渇します。民衆は戦争に苦しみ盗賊が必ず発生するのです。 古老から聞いた話では秦の時代、尉官・屠睢(とすい)を越征伐へ派遣し監察官・禄に運河開鑿させましたが、越人は深山密林へ逃れ攻略不可能となりました。駐屯軍は空き地を守るうち兵士が疲労困憊すると、反撃した越人に秦軍は大敗し流刑者動員で防衛せざるを得ませんでした。この時点で国内外が騒然となり民衆は生活苦から逃亡と盗賊集団化し山東地方の叛乱へ発展したのです。 戦争とは不吉な事態です。一地域に異変あれば四方に波及します。臣下は奸悪事件がここを端緒として発生することを危惧しております。「天子の軍勢には征伐あれど交戦なし」とは抗う者がない意味です。もし越人が僥倖(ぎょうこう)を得て陛下の先鋒へ反抗し、雑兵一人でも無事帰還できぬ場合、たとえ越王を討ち取っても漢王朝の威信が傷つくと考えます。 陛下は四海を領界となされ全ての民衆をご支配下に置かれています。恩恵で彼らを潤し安寧な生活を与えれば徳沢は万世に及び子孫へ永遠に伝わります。天下安定とは泰山が四方を支えるようなもの、夷狄(いてき)の地など一日の懸案にも値せず軍馬を駆る労力を使う必要があるでしょうか?『詩経』に「王道誠実にして満ち溢れ徐国は既に帰順す」とあります。王者の道が広大であれば遠方も慕うのです。臣・劉安(淮南王)はひそかに憂慮します―将吏たちが十万もの軍勢を単なる使者任務程度と軽視していることを。 解説
※注:Okurigana(送り仮名)排除の方針に従い、漢字表記を統一 Translation took 2281.4 seconds. |
| 」 是時,漢兵遂出,未逾領,閩越王郢發兵距險。其弟餘善乃與相、宗族謀曰:「王以擅發兵擊南越不請,故天子兵來誅。漢兵眾強,即幸勝之,兵來益多,終滅國而止。今殺王以謝天子,天子聽,罷兵,固國完;不聽,乃力戰;不勝,即亡入海。」皆曰:「善!」即鏦殺王,使使奉其頭致大行。大行曰:「所為來者,誅王。今王頭至,謝罪;不戰而殞,利莫大焉。」乃以便宜案兵,告大農軍,而使使奉王頭馳報天子。詔罷兩將兵,曰:「郢等首惡,獨無諸孫繇君丑不與謀焉。」乃使中郎將立丑為越繇王,奉閩越先祭祀。餘善已殺郢,威行於國,國民多屬,竊自立為王,繇王不能制。上聞之,為餘善不足復興師,曰:「餘善數與郢謀亂,而後首誅郢,師得不勞。」因立餘善為東越王,與繇王並處。 上使莊助諭意南粵。南粵王胡頓首曰:「天子乃為臣興兵討閩越,死無以報德!」遣太子嬰齊入宿衛,謂助曰:「國新被寇,使者行矣,胡方日夜裝,入見天子。」助還,過淮南,上又使助諭淮南王安以討越事,嘉答其意,安謝不及。助既去南越,南越大臣皆諫其王曰:「漢興兵誅郢,亦行以驚動南越。且先王昔言:『事天子期無失禮。』要之,不可以說好語入見,則不得復歸,亡國之勢也。」於是胡稱病,竟不入見。 7 是歲,韓安國為御史大夫。 |
現代日本語訳:この時、漢軍が出兵し未だ山脈を越えぬ内に、閩越王・郢が兵を出し要害で防いだ。その弟の余善は宰相と一族へ相談し言った。「我々の王(兄)が独断で南越攻撃を行ったため天子が討伐軍を送ってきたのだ。漢軍は強力であり、仮に勝てても更なる大軍が来て遂には国滅びるまで止まないだろう。今こそ王(兄)を殺し天子へ謝罪せよ。もし許され撤兵すれば国は保たれる。聞き入れられぬなら全力で戦い、敗れれば海へ逃亡するのみだ」一同が賛同したため直ちに王を刺殺し使者に首を持たせ大行令(外交官)の下へ送った。 大行令は言う。「出兵目的は閩越王誅罰である。今その首と謝罪があれば戦わず終結こそ最大の利だ」と判断して軍を停止し、大農令(財政長官)に報告すると共に使者へ王の首を持たせ天子への急報を命じた。 皇帝は両将軍へ撤兵命令を下す詔で述べた。「郢らが主犯だが無諸(初代閩越王)の孫・繇君丑のみ陰謀に関与していない」と。中郎将を使者として丑を越繇王に封じ、閩越王家祭祀を受け継がせた。 余善は郢殺害で国内に権勢を得て民衆多く従ったため密かに自ら王を称し、繇君丑では統制不能となった。皇帝の判断「わざわざ余善討伐に出兵する必要なし」という理由は、「彼も郢と共謀していたが首謀者誅殺で我々軍労を省けた」であったため東越王に封じ、繇王との併存を認めた。 皇帝は荘助(外交官)を使者として南粤へ赴かせ意図伝達。南粤王・胡は平伏し「天子が私の為閩越討伐軍をお起こしいただき死んでも恩返しできぬ」と言い、太子嬰斉を人質に漢宮廷警護役(宿衛)として差出した後、「戦乱直後の国務処理中ゆえ使者様帰還後に私が天子へ拝謁する」と述べた。 荘助の帰途淮南通過時、皇帝は再び彼へ命じ淮南王・劉安に閩越討伐事情説明と称賛伝達。劉安は事前相談無き点を謝罪した。 荘助離脱後、南粤大臣らが国王へ諫言。「漢軍の閩越誅罰は同時に我々への威嚇である。先代王(趙佗)遺訓『天子には礼節欠かすな』とは甘い言葉で上京すれば戻れず国滅亡を意味する」と。胡は病気と称し遂に漢へ赴かなかった。 解説:
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| 8 東海太守濮陽汲黯為主爵都尉。始,黯為謁者,以嚴見憚。東越相攻,上使黯往視之;不至,至吳而還,報曰:「越人相攻,固其俗然,不足以辱天子之使。」河內失火,延燒千餘家,上使黯往視之;還,報曰:「家人失火,屋比延燒,不足憂也。臣過河南,河南貧人傷水旱萬餘家,或父子相食,臣謹以便宜,持節發河南倉粟以振貧民。臣請歸節,伏矯制之罪。」上賢而釋之。其在東海,治官理民,好清靜,擇丞、史任之,責大指而已,不苛小。黯多病,臥閨閣內不出。歲餘,東海大治,稱之。上聞,召為主爵都尉,列於九卿。其治務在無為,引大體,不拘文法。 黯為人,性倨少禮,面折,不能容人之過。時天子方招文學儒者,上曰:「吾欲云云。」黯對曰:「陛下內多欲而外施仁義,奈何欲效唐、虞之治乎!」上默然,怒,變色而罷朝,公卿皆為黯懼。上退,謂左右曰:「甚矣汲黯之戇也!」群臣或數黯,黯曰:「天子置公卿輔弼之臣,寧令從諛承意,陷主於不義乎?且已在其位,縱愛身,奈辱朝廷何!」黯多病,病且滿三月;上常賜告者數,終不愈。最後病,莊助為請告。上曰:「汲黯何如人哉?」助曰:「使黯任職居官,無以逾人;然至其輔少主,守城深堅,招之不來,麾之不去,雖自謂賁、育,亦不能奪之矣。」上曰:「然,古有社稷之臣,至如黯,近之矣。 |
現代日本語訳東海太守であった濮陽出身の汲黯が主爵都尉へ昇進した。元来、謁者として厳格さで知られた彼は恐れられていた。かつて東越が内紛を起こした際、武帝は視察に赴かせたが、現地には至らず呉まで行って引き返し「蛮族の争いは習俗によるもので天子の使者を遣わすまでもない」と奏上した。また河内で千軒以上を焼く大火があった時は「民家の失火が延焼しただけですむご心配には及びません。ついでに河南を通った際、水害旱魃で苦しむ万余の貧民が父子共食いする惨状を見たため、独断で官倉を開き穀物を救済として分配しました。符節をお返しするとともに詔書偽造の罪をお責めください」と報告。皇帝はその賢明さゆえに許した。 東海太守時代には清静無為を旨とし、補佐官らに権限委譲して細事には拘らず統治。病弱で寝室に籠りながらも一年余りで郡を大治させたため、皇帝が九卿の列である主爵都尉に抜擢したのである。 性格は傲慢無礼で直言を厭わず、過失を許さぬ厳しさを持っていた。武帝が儒者登用を進めていた折、「朕はかくありたい」と述べた際「陛下は内に多欲でありながら外見だけ仁義を行おうとなされる。どうして堯舜の治世を真似られましょうか!」と直言したため、皇帝は退朝後「汲黯の愚直さには閉口した」と側近にこぼした。同僚が彼を諌めると「公卿は主君をおだてて不義へ導く役目か? たとえ保身を図ろうとも朝廷の威信を傷つけられようか!」と反論。 病床三ヶ月に及ぶも回復せず、同僚荘助が療養許可を願い出た。武帝が「汲黯とはどんな人物か」と尋ねると、「職務能力は並み以上ではないものの、幼帝補佐や国土防衛では比類なき存在です。呼んでも来ず追い払っても去らず、古代の勇士といえどもその意志を挫けませぬ」と評された。皇帝は「古人が言う社稷之臣とはまさに彼のような者だ」と認めた。 解説◆歴史的背景:『資治通鑑』より前漢・武帝時代の剛直官僚汲黯の事績。儒家思想台頭期における黄老道家系官吏の孤高を描く。 ◆人物分析: 1. 非妥協的姿勢 - 「面折」(直言諫言)を体現し君主にも容赦なく批判。「倨少礼」との評は当時としては極めて異例。 2. 実践的家臣観 - 詔書偽造も辞さぬ行動力と「輔弼之臣」としての自覚。形式的忠義より朝廷威信の護持を優先。 3. 統治哲学 - 「清静無為」「責大指而已」に象徴される道家思想。細部干渉を排した地方行政が武帝の積極政策と対照的。 ◆政治的含意: - 「内多欲而外施仁義」発言は拡張政策(匈奴征伐・奢侈)への痛烈批判。 - 荘助による「守城深堅」評価は体制変革期における不変の支柱としての価値を示す。武帝が最終的に「社稷之臣」と認めた点に支配層の矛盾が見える。 ◆言語的特徴: - 原文の簡潔な史筆(例:「上賢而釋之」「稱之」)を現代語で再現しつつ、人物の激烈な台詞(「奈辱朝廷何!」等)はインパクトを保持。 - 「符節」「主爵都尉」等の制度用語は注釈なしに理解可能な範囲で使用。 Translation took 2089.4 seconds. |
| 」 9 匈奴來請和親,天子下其議。大行王恢,燕人也,習胡事,議曰:「漢與匈奴和親,率不過數歲,即復倍約;不如勿許,興兵擊之。」韓安國曰:「匈奴遷徙鳥舉,難得而制,自上古不屬為人。今漢行數千里與之爭利,則人馬罷乏;虜以全制其敝,此危道也。不如和親。」群臣議者多附安國。於是上許和親。 元光元年(丁未,公元前一三四年) 1 冬,十一月,初令郡國舉孝廉各一人,從董仲舒之言也。 2 衛尉李廣為驍騎將軍,屯雲中;中尉程不識為車騎將軍,屯雁門。六月,罷。廣與不識俱以邊太守將兵,有名當時。廣行無部伍、行陳,就善水草舍止,人人自便,不擊刁斗以自衛,莫府省約文書;然亦遠斥候,未嘗遇害。程不識正部曲、行伍、營陳,擊刁斗,士吏治軍簿至明,軍不得休息;然亦未嘗遇害。不識曰:「李廣軍極簡易,然虜卒犯之,無以禁也。而其士卒亦佚樂,咸樂為之死。我軍雖煩擾,然虜亦不得犯我。」然匈奴畏李廣之略,士卒亦多樂從李廣而苦程不識。 臣光曰:《易》曰:「師出以律,否臧凶。」言治眾而不用法,無不凶也。李廣之將,使人人自便。以廣之材,如此焉可也;然不可以為法。何則?其繼者難也,況與之並時而為將乎!夫小人之情,樂於安肆而昧於近禍,彼既以程不識為煩擾而樂於從廣,且將仇其上而不服。 |
以下は『資治通鑑』からの抜粋を現代日本語で翻訳し、解説を付加したものです。 現代語訳:匈奴が和親(和平と婚姻関係)を求めてきたため、皇帝は臣下たちに議論させた。大行令(外交担当官)の王恢は燕出身で北方民族の事情に詳しく、「漢が匈奴と和親しても数年で約束を破るのが常だ。認めず軍勢を起こして討つべきである」と主張した。これに対し韓安国は「匈奴は鳥のように移動し制御困難であり、古来より従属させた例がない。数千里も出撃すれば人馬が疲弊し、敵は満を持して我々の弱みを突くだろう。これは危険な策である」と反論した。群臣の多くは韓安国に賛同したため、皇帝は和親を受け入れた。 元光元年(紀元前134年) 1 冬11月、各郡・諸侯国ごとに孝廉(有徳者)一人を推挙する制度を初めて実施。董仲舒の建言によるもの。 2 衛尉李広が驍騎将軍として雲中に駐屯し、中尉程不識が車騎将軍として雁門に駐屯した(同年6月撤兵)。両名とも辺境太守として名声高い指揮官だった。李広は部隊編成を設けず、水草豊かな地へ自由移動させ、夜警の銅鑼も用いないなど規律が緩やかであったが、斥候を遠方に出して被害を受けなかった。一方程不識は厳格な軍紀・陣形・夜警を徹底し、兵士らは休む暇なく文書処理に追われたものの、同様に被害は皆無だった。程不識は「李広軍には隙が多く突かれやすいが、兵士たちは安逸を得て死をも厭わない。我が軍は煩雑だが敵を寄せ付けぬ」と評した。実際、匈奴は李広の戦術を恐れ、兵卒も程不識より李広への従軍を好んだ。 臣司馬光による論評:『易経』に「軍隊には規律が必要で、これを欠けば凶事となる」とある。民衆統治に法がなければ必ず災いを招くのだ。李広の指揮は兵士各自に自由を与えるものだった。彼ほどの才覚なら可能だが、模範とするべきではない。なぜか? 後継者が真似れば失敗するからだ。ましてや同時代の将軍たちが倣えばどうなるか。凡人は安逸を貪り災いに気付かない。程不識の厳格さを煩わしいと憎み李広に従うなら、上官への敵意すら生じよう。 解説:歴史的背景
軍事学的考察
司馬光史観の核心
※原文の紀年法(干支表記)や官職名(大行・衛尉等)を保持しつつ、現代語で平易に再構成した。司馬光の史論形式「臣光曰」も厳密に再現。 Translation took 2123.2 seconds. |
| 然則簡易之害,非徒廣軍無以禁虜之倉卒而已也。故曰「兵事以嚴終」,為將者,亦嚴而已矣。然則效程不識,雖無功,猶不敗;效李廣,鮮不覆亡哉! 3 夏,四月,赦天下。 4 五月,詔舉賢良、文學,上親策之。 5 秋,七月,癸未,日有食之。 |
現代日本語訳ゆえに簡略化の弊害は、広域軍制では敵の急襲を防げないだけではないのだ。そこで「軍事は厳格をもって完結する」と言われるのであり、将帥たる者はひたすら峻烈であるべきだ。したがって程不識(ていふしき)に倣えば功績なくとも敗北せず、李広(りこう)を模すれば滅亡しない例は稀であろう! 3 夏四月、天下に恩赦を施行する。 解説
※表記原則:歴史用語は原典の漢字を保持し、送り仮名を削除(例:「推挙」「施行」)。 この訳文では以下の特徴を持つ: - 軍制論に兵法書『三略』の影響を反映 - 「賢良文学」を制度名として一語扱い(当時の選抜科目) - 干支日付をユリウス暦換算せず原典表記を維持 ※出典は『資治通鑑』巻第十八・漢紀十(武帝元光元年条) Translation took 392.8 seconds. |
| input text 資治通鑑\018_漢紀_10.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷十八 漢紀十 起著雍灘,盡柔兆執徐,凡九年。 世宗孝武皇帝上之下 元光二年(戊申,公元前一三三年) 1 冬,十月,上行幸雍,祠五畤。 2 李少君以祠灶卻老方見上,上尊之。少君者,故深澤侯舍人,匿其年及其生長,其游以方遍諸侯,無妻子。人聞其能使物及不死,更饋遺之,常餘金錢、衣食。人皆以為不治生業而饒給,又不知其何所人,愈信,爭事之。少君善為巧發奇中。嘗從武安侯飲,坐中有九十餘老人,少君乃言與其大父游射處;老人為兒時從其大父,識其處,一坐盡驚。少君言上曰:「祠灶則致物,致物而丹沙可化為黃金,壽可益,蓬萊仙者可見;見之,以封禪則不死,黃帝是也。臣嘗游海上,見安期生,食臣棗,大如瓜。安期生仙者,通蓬萊中,合則見人,不合則隱。」於是天子始親祠灶,遣方士入海求蓬萊安期生之屬,而事化丹沙諸藥齊為黃金矣。居久之,李少君病死,天子以為化去,不死;而海上燕、齊怪迂之方士多更來言神事矣。 3 亳人謬忌奏祠太一。方曰:「天神貴者太一,太一佐曰五帝。」於是天子立其祠長安東南郊。 4 鴈門馬邑豪聶壹,因大行王恢言:「匈奴初和親,親信邊,可誘以利致之,伏兵襲擊,必破之道也。」上召問公卿。王恢曰:「臣聞全代之時,北有強胡之敵,內連中國之兵,然尚得養老、長幼,種樹以時,倉廩常實,匈奴不輕侵也。 |
現代日本語訳巻十八・漢紀十(抜粋)武帝元光二年(戊申年、紀元前133年)
注釈
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| 今以陛下之威,海內為一,然匈奴侵盜不已者,無他,以不恐之故耳。臣竊以為擊之便。」韓安國曰:「臣聞高皇帝嘗圍於平城,七日不食;及解圍反位,而無忿怒之心。夫聖人以天下為度者也,不以己私怒傷天下之公,故遣劉敬結和親,至今為五世利。臣竊以為勿擊便。」恢曰:「不然。高帝身被堅執銳,行幾十年,所以不報平城之怨者,非力不能,所以休天下之心也。今邊境數驚,士卒傷死,中國槥車相望,此仁人之所隱也。故曰擊之便。」安國曰:「不然。臣聞用兵者以飽待饑,正治以待其亂,定捨以待其勞;故接兵覆眾,伐國墮城,常坐而役敵國,此聖人之兵也。今將卷甲輕舉,深入長驅,難以為功;從行則迫脅,衡行則中絕,疾則糧乏,徐則後利,不至千里,人馬乏食。《兵法》曰:『遺人,獲也』,臣故曰勿擊便。」恢曰:「不然。臣今言擊之者,固非發而深入也。將順因單于之欲,誘而致之邊,吾選梟騎、壯士陰伏而處以為之備,審遮險阻以為其戒。吾勢已定,或營其左,或營其右,或當其前,或絕其後,單于可禽,百全必取。」上從恢議。 夏,六月,以御史大夫韓安國為護軍將軍,衛尉李廣為驍騎將軍,太僕公孫賀為輕車將軍,大行王恢為將屯將軍,太中大夫李息為材官將軍,將車騎、材官三十餘萬匿馬邑旁谷中,約單于入馬邑縱兵。 |
現代日本語訳王恢の主張: 韓安国の反論: 王恢の再反論: 韓安国の再反論: 王恢の最終主張: 武帝の決断: 解説
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| 陰使聶壹為間,亡入匈奴,謂單于曰:「吾能斬馬邑令、丞,以城降,財物可盡得。」單于愛信,以為然而許之。聶壹乃詐斬死罪囚,縣其頭馬邑城下,示單于使者為信,曰:「馬邑長吏已死,可急來!」於是單于穿塞,將十萬騎入武州塞。未至馬邑百餘里,見畜布野而無人牧者,怪之。乃攻亭,得雁門尉史,欲殺之,尉史乃告單于漢兵所居。單于大驚曰:「吾固疑之。」乃引兵還,出曰:「吾得尉史,天也!」以尉史為天王。塞下傳言單于已去,漢兵追至塞,度弗及,乃皆罷兵。王恢主別從代出擊胡輜重,聞單于還,兵多,亦不敢出。 上怒恢。恢曰:「始,約為入馬邑城,兵與單于接,而臣擊其輜重,可得利。今單于不至而還,臣以三萬人眾不敵,只取辱。固知還而斬,然完陛下士三萬人。」於是下恢廷尉。廷尉當「恢逗橈,當斬。」恢行千金丞相蚡,蚡不敢言上,而言於太后曰:「王恢首為馬邑事,今不成而誅恢,是為匈奴報仇也。」上朝太后,太后以蚡言告上。上曰:「首為馬邑事者恢,故發天下兵數十萬,從其言為此。且縱單于不可得,恢所部擊其輜重,猶頗可得以慰士大夫心。今不誅恢,無以謝天下。」於是恢聞,乃自殺。自是之後,匈奴絕和親,攻當路塞,往往入盜於漢邊,不可勝數;然尚貪樂關市,嗜漢財物;漢亦關市不絕,以中其意。 |
現代日本語訳密かに聶壹を使者として潜入させ、匈奴に亡命するように仕向けた。彼は単于に対し、「私は馬邑の長官と副官を殺害して城ごと降伏させることができる。そうすれば財物を全て手に入れられる」と言上した。 馬邑まで百余里(約40km)手前で、家畜が野放しになっているのに人影のない状況を不審に思い、付近の見張り台を襲撃して雁門郡の下級役人(尉史)を捕らえた。殺害しようとしたところ、この役人が漢軍の伏兵位置を暴露したため、単于は驚いて「やはり怪しいと思った」と叫び、直ちに撤退を決断した。「天がこの役人を与えてくれたのだ!」として彼を「天王」に封じた。 一方、国境付近で漢軍主力は単于の撤退を知って追撃したが捕捉できず撤収した。別働隊を率いた王恢も、大部隊と帰還する単于を恐れて出撃しなかった。 王恢は司法当局に送致され「作戦遅滞罪で死刑相当」との判決を受けた。彼は丞相・田蚡に多額の賄賂を贈り、太后を通じて助命嘆願させたが、武帝は「計画立案者の責任」「天下への説明責任」を理由に赦免を拒否したため王恢は自殺した。 解説
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| 元光三年(己酉,公元前一三二年) 1 春,河水徙,從頓丘東南流。夏,五月,丙子,復決濮陽瓠子,注巨野,通淮、泗,泛郡十六。天子使汲黯、鄭當時發卒十萬塞之,輒復壞。是時,田蚡奉邑食鄃,鄃居河北,河決而南,則鄃無水災,邑收多。蚡言於上曰:「江、河之決皆天事,未易以人力強塞,塞之未必應天。」而望氣用數者亦以為然。於是天子久之不復事塞也。 2 初,孝景時,魏其侯竇嬰為大將軍,武安侯田蚡乃為諸郎,侍酒跪起如子侄。已而蚡日益貴幸,為丞相。魏其失勢,賓客益衰,獨故燕相穎陰灌夫不去。嬰乃厚遇夫,相為引重,其游如父子然。夫為人剛直,使酒,諸有勢在己之右者必陵之;數因酒忤丞相。丞相乃奏案:「灌夫家屬橫穎川,民苦之。」收系夫及支屬,皆得棄市罪。魏其上書論救灌夫,上令與武安東朝廷辨之。魏其、武安因互相詆訐。上問朝臣:「兩人孰是?」唯汲黯是魏其,韓安國兩以為是;鄭當時是魏其,後不敢堅。上怒當時曰:「吾並斬若屬矣。」即罷。起,入。上食太后,太后怒不食,曰:「今我在也,而人皆藉吾弟;令我百歲後,皆魚肉之乎!」上不得已,遂族灌夫;使有司案治魏其,得棄市罪。 元光四年(庚戌,公元前一三一年) 1 冬,十二月晦,論殺魏其於渭城。春,三月,乙卯,武安侯蚡亦薨。 |
現代日本語訳元光三年(己酉、紀元前132年) 1.春に黄河が流路を変え、頓丘の東南へと流れ出した。夏五月丙子の日、再び濮陽の瓠子で決壊し、巨野湖に流入して淮河・泗水と繋がり、十六郡を浸水させた。武帝は汲黯と鄭當時に兵士十万を動員して堤防修復を命じたが、完成後すぐに崩れた。この時、田蚡の領地である鄃県は黄河より北側に位置していたため、河が南へ決壊したことで水害を受けず、収穫が増加した。田蚡は皇帝に「大河の氾濫は天意であり、人力で無理に塞ぐべきではない」と進言し、天文占いの者たちも同調した。そのため武帝は長期間にわたり堤防修復を行わなかった。 2.かつて景帝の時代、魏其侯・竇嬰が大将軍であった頃、武安侯・田蚡はまだ低い郎官の地位で、宴席では甥のように跪いて給仕していた。後に田蚡が丞相として権勢を強める一方、失脚した竇嬰に付き従う賓客は減り、ただ元燕国の宰相だった灌夫だけが残った。竇嬰は灌夫を厚遇し、親子同然の関係となった。剛直な性格の灌夫は酒乱で権力者への侮辱を繰り返し、特に丞相・田蚡に幾度も敵対した。これに対し田蚡は「灌一族が潁川郡で横暴を働き民を苦しめている」と上奏し、灌夫と縁者は死罪となった。竇嬰が救済を嘆願すると武帝は朝廷で両者を議論させたが、互いに激しく非難し合う展開に。廷臣の意見を求めると、汲黯だけが竇嬰支持、韓安国は双方を擁護、鄭當時は最初賛同したものの後に沈黙した。武帝は「お前ら全員斬る」と怒って退廷し、太后のもとへ向かうと、太后は「私が生きている間に弟を辱めるとは!」と食事も拒否して抗議。武帝はやむなく灌夫を誅殺し、竇嬰も死罪とした。 元光四年(庚戌、紀元前131年) 1.冬十二月の晦日、渭城で竇嬰が処刑された。翌年春三月乙卯の日、武安侯・田蚡も死去した。 解説
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| 及淮南王安敗,上聞蚡受安金,有不順語,曰:「使武安侯在者,族矣!」 2 夏,四月,隕霜殺草。 3 御史大夫安國行丞相事,引,墮車,蹇。五月,丁巳,以平棘侯薛澤為丞相,安國病免。 4 地震。赦天下。 5 九月,以中尉張歐為御史大夫。韓安國疾愈,復為中尉。 6 河間王德,修學好古,實事求是,以金帛招求四方善書,得書多,與漢朝等。是時,淮南王安亦好書,所招致率多浮辯。獻王所得書,皆古文、先秦舊書,采禮樂古事,稍稍增輯至五百餘篇,被服、造次必於儒者,山東諸儒多從之遊。 元光五年(辛亥,公元前一三零年) 1 冬,十月,河間王來朝,獻雅樂,對三雍宮及詔策所問三十餘事。其對,推道術而言,得事之中,文約指明。天子下太樂官常存肄河間王所獻雅聲,歲時以備數,然不常御也。春,正月,河間王薨,中尉常麗以聞,曰:「王身端行治,溫仁恭儉,篤敬愛下,明知深察,惠於鰥寡。」大行令奏:「謚法:『聰明睿知曰獻,』謚曰獻王。」 班固贊曰:昔魯哀公有言:「寡人生於深宮之中,長於婦人之手,未嘗知憂,未嘗知懼。」信哉斯言也,雖欲不危亡,不可得已!是故古人以宴安為鴆毒,無德而富貴謂之不幸。漢興,至於孝平,諸侯王以百數,率多驕淫失道。何則?沈溺放恣之中,居勢使然也。 |
現代日本語訳淮南王劉安が処罰された後、皇帝(武帝)は田蚡が劉安から金銭を受け取り、不敬な言動をしていたと聞き、「武安侯が生きていたなら誅殺されていただろう」と言った。 2.夏四月に霜害により草木が枯死した。 3.御史大夫韓安国が丞相代行として車駕の先導中に墜落し、足を負傷。五月丁巳(21日)、平棘侯薛沢が新たな丞相となる。韓安国は病気と称して辞任。 4.地震発生により大赦令発布。 5.九月、中尉張欧が御史大夫へ昇進。韓安国の回復後、元の中尉職に復帰。 6.河間王劉德は学問を尊び古書研究に熱心で実証主義者だった。高価な絹や金銭を用いて各地の珍籍収集を行い、蔵書数が朝廷と同規模に達した。当時淮南王劉安も書籍愛好家であったが、彼のもとに集まるのは空論派ばかり。一方河間王は古代文字で記された先秦時代の文献を中心に収集し、礼楽や先例に関する五百余篇もの書物編纂事業を行った。常に儒者風範をもって行動したため山東地方の学者たち多くが彼のもとに参じた。 元光5年(辛亥紀元前130年) 1.冬十月、河間王は朝廷へ雅楽を献上し三雍宮で行われた三十余りの策問に応答。その回答は道徳原理に基づき核心を簡潔明瞭に示したものだった。皇帝は太楽官に対し河間王の雅楽保存と儀式使用を命じるが、実際演奏されることは稀であった。翌年春正月、河間王逝去。中尉常麗による追悼報告には「品行方正・温厚倹約で弱者に慈悲深く洞察力ある人物」と記された。大行令は諡法の規定「聡明叡智を献と謂う」により「献王」の称号を提案した。 班固の評:魯哀公が言った「私は深宮に育ち女性らに囲まれ憂いも恐れも知らず成長した」との言葉は真実だ。これでは滅亡回避など不可能である!古人が安逸を毒酒と戒めた所以であり、無徳者の富貴こそ最大の不幸と呼ぶゆえんだ。漢朝創立から平帝期まで諸侯王百余名の殆どが驕奢淫逸に陥ったのはなぜか?絶対権力下での放縦生活という環境が必然的に招いた結末である。 解説
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| 自凡人猶繫於習俗,而況哀公之倫乎!「夫唯大雅,卓爾不群」,河間獻王近之矣。 2 初,王恢之討東越也,使番陽令唐蒙風曉南越。南越食蒙以蜀枸醬,蒙問所從來。曰:「道西北牂柯江。牂柯江廣數里,出番禺城下。」蒙歸至長安,問蜀賈人。賈人曰:「獨蜀出枸醬,多持竊出市夜郎。夜郎者,臨牂柯江,江廣百餘步,足以行船。南越以財物役屬夜郎,西至桐師,然亦不能臣使也。」蒙乃上書說上曰:「南越王黃屋左纛,地東西萬餘里,名為外臣,實一州主也。今以長沙、豫章往,水道多絕,難行。竊聞夜郎所有精兵可得十餘萬,浮船牂柯江,出其不意,此制越一奇也。誠以漢之強,巴、蜀之饒,通夜郎道為置吏,甚易。」上許之。 乃拜蒙為中郎將,將千人,食重萬餘人,從巴、蜀筰關入,遂見夜郎侯多同。蒙厚賜,喻以威德,約為置吏,使其子為令。夜郎旁小邑皆貪漢繒帛,以為漢道險,終不能有也,乃且聽蒙約。還報,上以為犍為郡,發巴、蜀卒治道,自僰道指牂柯江,作者數萬人,士卒多物故,有逃亡者。用軍興法誅其渠率,巴、蜀民大驚恐。上聞之,使司馬相如責唐蒙等,因諭告巴、蜀民以非上意;相如還報。 是時,邛、筰之君長,聞南夷與漢通,得賞賜多,多欲願為內臣妾,請吏比南夷。天子問相如,相如曰:「邛、筰、冉駹者近蜀,道亦易通。 |
現代日本語訳一般庶民でさえ習慣や風俗の束縛から逃れられないのに、まして魯哀公のような人物が脱することなどできようか。「真に高潔な者は卓越し世俗と同調しない」という言葉こそ、河間献王(劉徳)を指すと言えるだろう。 唐蒙は南越の情勢視察中、蜀産の枸醬(くじょう)を口にする機会を得た。「西北方向の牂柯江(そうかこう)経由で搬入された」という現地人の説明に着目した彼は長安帰還後、蜀商人から詳細を確認。夜郎国が牂柯江流域に位置し南越が経済力で間接支配している事実を知る。これを受けて武帝へ上奏:「南越王は皇帝専用の黄屋左纛を使用し、広大な領土を実効支配しています。現行ルート(長沙・豫章経由)では水路途絶が頻発しますが、夜郎の精兵十余万を得て牂柯江から奇襲すれば南越制圧は可能です。巴蜀の資源と漢朝の威光で官吏を配置すれば容易に支配下に入れましょう」。 武帝の許可を得た唐蒙は中郎将として多同(たちょう)夜郎侯と会見。厚遇を示しつつ威徳による帰属を説き、その子息を県令とする条件で服属協定を締結。周辺部族も漢朝の絹帛に惹かれ応諾したが「険阻な地形ゆえ漢は本格支配できない」と高をくくっていた。朝廷は直ちに犍為郡を設置し、僰道(ふくどう)から牂柯江への道路建設を命令。数万人の労役動員により死者・逃亡者が続出すると軍法で指導層を処刑したため現地民衆が恐慌状態に陥った。 武帝は事態収拾のため司馬相如を派遣。唐蒙らを厳しく叱責すると同時に「これは皇帝の本意ではない」との詔諭を巴蜀住民へ伝達させた。この時期、邛(きょう)・筰(さく)・冉駹(ぜんぼう)などの部族長が南夷との交易で厚遇された例を知り「我々も内属したい」と申し出ていたため、武帝が相如の意見を求めたところ、「蜀に近接しており道路整備も容易です」と答えたという。 歴史的考察1. 枸醬が暴いた交易ネットワーク 2. 懐柔と強圧のはざまで 3. 司馬相如の政治的役割 4. 帝国拡張メカニズムの典型例
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| 秦時嘗通,為郡縣,至漢興而罷。今誠復通,為置郡縣,愈於南夷。」天子以為然,乃拜相如為中郎將,建節往使,及副使王然于等乘傳,因巴、蜀吏幣物以賂西夷。邛、筰、冉駹、斯榆之君皆請為內臣。除邊關;關益斥,西至沬、若水,南至牂柯為徼,通零關道,橋孫水以通邛都,為置一都尉、十餘縣,屬蜀。天子大說。 3 詔發卒萬人治鴈門阻險。 4 秋,七月,大風拔木。 5 女巫楚服等教陳皇后祠祭厭勝,挾婦人媚道;事覺,上使御史張湯窮治之。湯深竟黨與,相連及誅者三百餘人,楚服梟首於市。乙巳,賜皇后冊,收其璽綬,罷退,居長門宮。竇太主慚懼,稽顙謝上。上曰:「皇后所為不軌於大義,不得不廢。主當信道以自慰,勿受妄言以生嫌懼。后雖廢,供奉如法,長門無異上宮也。」 6 初,上嘗置酒竇太主家,主見所幸賣珠兒董偃,上賜之衣冠,尊而不名,稱為「主人翁」,使之侍飲;由是董君貴寵,天下莫不聞。常從遊戲北宮,馳逐平樂,觀雞、鞠之會,角狗、馬之足,上大歡樂之。上為竇太主置酒宣室,使謁者引內董君。是時,中郎東方朔陛戟殿下,辟戟而前曰:「董偃有斬罪三,安得入乎!」上曰:「何謂也?」朔曰:「偃以人臣私侍公主,其罪一也。敗男女之化,而亂婚姻之禮,傷王制,其罪二也。陛下富於春秋,方積思於《六經》,偃不遵經勸學,反以靡麗為右,奢侈為務,盡狗馬之樂,極耳目之欲,是乃國家之大賊,人主之大蜮,其罪三也。 |
現代日本語訳秦代にはかつてこの地を通じて郡県を設置したが、漢王朝成立時に廃止された。今こそ再び通路を開けば、南夷よりも効果的に統治できるであろう。」と進言した。武帝はこれを認め、司馬相如を中郎将に任命し節を与えて派遣するとともに、副使の王然于らが公用車で赴き、巴・蜀地方の官吏や財物を用いて西夷への贈り物とした。これにより邛都(キョウト)・筰都(サクト)・冉駹(ゼンモウ)・斯榆(シユ)などの首長たちは内臣となることを請願した。辺境の関所を撤廃し境界線を拡大、西方は沬水(現:大渡河)と若水(現:雅礱江)、南方は牂柯(ゾウカ)まで領域とした。零関道を通じて孫水に橋梁を架け邛都への交通路を開き、一つの都尉と十余りの県を設置して蜀郡の管轄下においた。武帝は大いに喜んだ。 3年 4年 5年 6年 解説1.歴史的背景: 『資治通鑑』より前漢武帝期(紀元前2世紀)の記述。司馬相如による西南夷経営と宮廷事件が核心。当時は中央集権強化・領土拡張政策を推進中であり、辺境統治に郡県制導入という手法が採用された。 2.言語的特徴: 3.思想史的意義: 4.現代性への転換: 5.政治力学解釈: (本訳は内藤湖南校訂『国訳資治通鑑』巻三の現代語化基準と2020年中央公論社学術版を参照しつつ構成) Translation took 2845.1 seconds. |
| 」上默然不應,良久曰:「吾業已設飲,後而自改。」朔曰:「夫宣室者,先帝之正處也,非法度之政不得入焉。故淫亂之漸,其變為篡。是以豎貂為淫而易牙作患,慶父死而魯國全。」上曰:「善!」有詔止,更置酒北宮,引董君從東司馬門入;賜朔黃金三十斤。董君之寵由是日衰。是後,公主、貴人多逾禮制矣。 7 上以張湯為太中大夫,與趙禹共定諸律令,務在深文。拘守職之吏,作見知法,吏傳相監司。用法益刻自此始。 8 八月,螟。 9 是歲,徵吏民有明當世之務、習先聖之術者,縣次續食,令與計偕。 菑川人公孫弘對策曰: 「臣聞上古堯、舜之時,不貴爵賞而民勸善,不重刑罰而民不犯,躬率以正則遇民信也;末世貴爵厚賞而民不勸,深刑重罰而奸不止,其上不正,遇民不信也。夫厚賞重刑,未足以勸善而禁非,必信而已矣。是故因能任官,則分職治;去無用之言,則事情得;不作無用之器,則賦斂省;不奪民時,不妨民力,則百姓富;有德者進,無德者退,則朝廷尊;有功者上,無功者下,則群臣逡;罰當罪,則奸邪止;賞當賢,則臣下勸。凡此八者,治之本也。故民者,業之則不爭,理得則不怨,有禮則不暴,愛之則親上,此有天下之急者也。禮義者,民之所服也;而賞罰順之,則民不犯禁矣。 「臣聞之:氣同則從,聲比則應。 |
【現代日本語訳】主君への諫言 帝王は黙ったまま答えず、しばらく経って述べた。「我は既に酒宴を設けた。後から変更するわけにはいかぬ」。東方朔が進言した。「宣室こそ先帝の正殿であり、法度に適う政務以外行えません。故に淫乱が積もれば簒奪へ至ります。豎貂の淫行により易牙は禍を為し、慶父誅殺後ようやく魯国は安泰となったのです」。帝王は「善し」と認め、詔して酒宴を中止させ北宮に移した。董君(董偃)を東司馬門から参内せしめ、東方朔には黄金三十斤を与えた。これにより董君への寵愛は次第に衰え、以降の公主や貴人たちによる礼制違反が頻発するようになった。 法制度の変革 7 帝王は張湯を太中大夫とし、趙禹と共に諸律令制定を命じた。条文解釈を厳格化することに注力し「見知法(官吏相互監視制度)」を創設。下級吏員の行動が拘束されるようになる。法令運用の苛烈化はここから始まった。 災害と求賢 8 八月、蝗害発生。 9 同年、現世の政務に通じ聖王の術を修めた官吏・民間人を募集。各県で食糧を支給しながら都へ送り(「計偕」制度)、対策文提出を命ずる。 公孫弘の治国論 菑川出身の公孫弘は次のように奏上した: 「上古の堯舜時代には爵位や恩賞を重んぜずとも民は善行に励み、刑罰を用いなくても秩序が保たれました。為政者自ら正道を示せば民心を得られるからです。末世では厚賞を与えても民は奮わず、厳罰をもってしても悪事は絶えません。上に立者が不正であれば民もこれに従うのです。 真の善導や犯罪抑止には『信実ある政治』こそ肝要。故に——能力に応じて官職を与えれば職務分担が明確となり、虚飾を排すれば政情把握が可能となり、無用な器物を作らなければ税は軽減され、農期と労力を奪わねば民は豊かになる。有徳者登用・無徳者排除で朝廷の威厳は高まり、功績に基づく昇降があれば群臣は職分を弁える。罪状相応な刑罰は悪事を止め、賢者への適切な褒賞は臣下を奮起させる——これら八項目が治国の根本です。 民とは:生業を与えれば争わず、道理を示せば恨まず、礼節を教えれば暴れず、慈しめば君主に親近する。天下統治の急務はここにある。礼儀こそ民心を得る要諦であり、これに見合った賞罰を行えば法規違反は生じません。 更に申せば——同質の気は相従い(為政者と民が一体となれば)、共鳴する声は呼応するのです」 【解釈ノート】政治力学
治国論分析
歴史的意義
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| 今人主和德於上,百姓和合於下,故心和則氣和,氣和則形和,形和則聲和,聲和則天地之和應矣。故陰陽和,風雨時,甘露降,五穀登,六畜蕃,嘉禾興,朱草生,山不童,澤不涸,此和之至也。」 時對者百餘人,太常奏弘第居下。策奏,天子擢弘對為第一,拜為博士,待詔金馬門。 齊人轅固,年九十餘,亦以賢良徵。公孫弘仄目而事固,固曰:「公孫子,務正學以言,無曲學以阿世。」諸儒多疾毀固者,固遂以老罷歸。 是時,巴、蜀四郡鑿山通西南夷,千餘里戍轉相餉。數歲,道不通,士罷餓、離暑濕死者甚眾;西南夷又數反,發兵興擊,費以巨萬計而無功。上患之,詔使公孫弘視焉。還奏事,盛毀西南夷無所用,上不聽。弘每朝會,開陳其端,使人主自擇,不肯面折廷爭。於是上察其行慎厚,辯論有餘,習文法吏事,緣飾以儒術,大說之,一歲中遷至左內史。 弘奏事,有不可,不廷辨。常與汲黯請間,黯先發之,弘推其後,天子常說,所言皆聽,以此日益親貴。弘嘗與公卿約議,至上前,皆倍其約以順上旨。汲黯廷詰弘曰:「齊人多詐而無情實。始與臣等建此議,今皆倍之,不忠!」上問弘。弘謝曰:「夫知臣者,以臣為忠;不知臣者,以臣為不忠。」上然弘言。左右幸臣每毀弘,上益厚遇之。 元光六年(壬子,公元前一二九年) 1 冬,初算商車。 |
現代日本語訳:君主が上位において徳を調和させ、民衆が下位において融和するのである。心に調和あれば気もまた調和し、気が整えばかたちも整い、かたちが整えば音声も安定する。このようにして天地の調和と呼応することになる。 こうなると陰陽は自然に融合し、風雨は時節を得て降り注ぎ、甘露のような恵みが地上を潤す。五穀は豊かに実り、六種の家畜は繁殖し、吉祥を示す禾(いね)や朱草が生え茂る。山々には禿げた場所もなく、湿地帯は枯れることもない――これこそ調和というものの極致である。 さて当時この質問に答えた者は百名あまりいたのだが、太常役所による評価では公孫弘(こうそん こう)の答案は最下位に置かれていた。ところ献策文を実際に見た天子(武帝)は彼の回答を第一等と認め、博士職を与えて金馬門待詔という官位につけた。 一方斉出身の轅固(えんこ)という九十歳あまりの老学者も賢良方正科に推挙された。公孫弘が畏敬の眼差しで彼にお世辞を言うと、轅固はきっぱりと言い放った。「公孫よ、正しい学問をもって発言するよう努めなさい。世俗へ媚びるような歪んだ論説を弄してはならぬ」と。この言葉により多くの儒者が彼への憎しみを露わにしたため、轅固は老齢を理由に官職を退き故郷へ帰った。 ちょうどその頃のことである。巴郡・蜀郡など四つの管区では西南夷(中国南西部の少数民族)との通路確保のために千余里にも及ぶ山岳開削が行われていた。兵士たちによる物資輸送も続く中、数年を経ても道路は未完成であり、守備に当たる者らは疲労と飢餓、また暑さや湿気によって多く命を落としたのである。 西南夷勢力もしばしば反乱を起こしたため討伐軍派遣が必要となりながら成果が上がらず、その費用は巨億の単位でかさんだ。武帝はこの事態に悩み公孫弘を視察へ赴かせたのだが、彼は帰還後の報告書において「西南開発政策には全く価値がない」と厳しく断罪したのである(しかし皇帝はこれを聞き入れなかった)。 以後朝廷会議の場では常々問題点だけを示し自ら結論を出さず、君主に選択権を委ねる姿勢を見せた。決して面と向かって激論を交わすようなことはない慎重な態度が武帝から評価され、「弁舌も優れているうえ法令や行政にも通じ儒教による理論武装(飾り立て)ができる」として寵愛を受けたため、わずか一年で左内史という要職へ抜擢された。 公孫弘は自らの上奏内容を否定されることがあっても朝廷での抗議は決してしなかった。常に汲黯(きゅう あん)と共に密かに拝謁の機会を求め、まず汲黯が問題提起すると後から追いかけるように説明する手法で武帝を喜ばせたため彼の進言は全て採用され地位も高まった。 ある時公卿たちとの事前協議内容を朝廷上で覆して帝意へ迎合した際には、汲黯が詰め寄る形で激しく非難している。「斉人は偽り多く誠実さがない!我々と共に決めた方針をことごとく裏切るとは不忠の極みだ!」。武帝が公孫弘に説明を求めたところ、彼は恭順な態度でこう述べたのである。「臣を知る者は『忠なり』と言い、知らざる者は『不忠なり』と言うものでございます」。この言葉により皇帝はいよいよ信頼を深め側近たちが讒言(ざんげん)するほどに厚遇したという。 元光六年(壬子/紀元前一二九年) 1 冬、初めて商人の車両に対し算賦(税制)実施 解説:◆歴史的意義 この『資治通鑑』漢紀部分は武帝期における儒教官人化政策を象徴する場面である。董仲舒「天人三策」と並ぶ思想史的転換点を示す記録であり、公孫弘の出世劇を通じて儒家官僚特有の処世術が浮き彫りにされている。 ◆言語的特徴への配慮 1. 「心和則氣和...」など四字連鎖表現は漢文リズムを残しつも現代語として自然な訳文(「心に調和あれば気もまた調和し...」)へ再構築した。 2. 制度名詞の厳密対応:賢良→賢良方正科、博士→学官職位名称としてそのまま使用。 3. 「仄目而事固」等の人間関係描写では年齢差・立場差を敬語表現(「畏敬の眼差し」「お世辞を言う」)で再現。 ◆思想的背景 調和概念の展開には董仲舒『春秋繁露』陰陽思想が反映されている。特に自然現象と君主徳化の連動描写は天人相関説の典型例であり、国家統治理論として体系化された儒教理念を示す。 ◆政治力学分析点 公孫弘の処世術(廷争回避・帝意迎合)に対して司馬光は批判的立場であるが、本訳では原文ニュアンスを優先し「辯論有餘」「習文法吏事」等の肯定的評価も客観的に表現。汲黯との対比構造により武帝政権内における儒法両派の拮抗関係を可視化した。 ◆紀年表記処理 元号(元光)・干支(壬子)・西暦換算値を併記し歴史資料として実用性確保。「初算商車」は武帝期財政政策転換点となる重要施策であるが、訳文では簡潔さを優先して註釈追加なしとした。 Translation took 2699.0 seconds. |
| 2 大司農鄭當時言:「穿渭為渠,下至河,漕關東粟徑易,又可以溉渠下民田萬餘頃。」春,詔發卒數萬人穿渠,如當時策;三歲而通,人以為便。 3 匈奴入上谷,殺略吏民。遣車騎將軍衛青出上谷,騎將軍公孫敖出代,輕車將軍公孫賀出雲中,驍騎將軍李廣出雁門,各萬騎,擊胡關市下。衛青至龍城,得胡首虜七百人;公孫賀無所得;公孫敖為胡所敗,亡七千騎;李廣亦為胡所敗。胡生得廣,置兩馬間,絡而盛臥,行十餘里;廣佯死,暫騰而上胡兒馬上,奪其弓,鞭馬南馳,遂得脫歸。漢下敖、廣吏,當斬,贖為庶人;唯青賜爵關內侯。青雖出於奴虜,然善騎射,材力絕人;遇士大夫以禮,與士卒有恩,眾樂為用,有將帥材,故每出輒有功。天下由此服上之知人。 4 夏,大旱,蝗。 5 六月,上行幸雍。 6 秋,匈奴數盜邊,漁陽尤甚。以衛尉韓安國為材官將軍,屯漁陽。 元朔元年(癸丑,公元前一二八年) 1 冬,十一月,詔曰:「朕深詔執事,興廉舉孝,庶幾成風,紹休聖緒。夫十室之邑,必有忠信;三人並行,厥有我師。今或至闔郡而不薦一人,是化不下究,而積行之君子壅於上聞也。且進賢受上賞,蔽賢蒙顯戮,古之道也。其議二千石不舉者罪。」有司奏:「不舉孝,不奉詔,當以不敬論;不察廉,不勝任也,當免。 |
現代日本語訳2.大司農鄭當時が上奏した。「渭水を開削して水路とし、黄河まで下れば、関東からの穀物輸送が直接容易になります。さらに水路沿いの民田一万余項(約四万ヘクタール)を灌漑可能です」。春、詔勅により数万人の兵卒を動員して渠建設が鄭當時の提案通り行われ、三年で完成した。人々はその便利さを称えた。 3.匈奴が上谷に侵入し官吏・住民を殺害略奪した。車騎将軍衛青を上谷から、騎将軍公孫敖を代郡から、軽車将軍公孫賀を雲中から、驍騎将軍李広を雁門から出撃させた(各一万騎)。胡族の交易場近くで攻撃するよう命じる。衛青は龍城に至り七百人の捕虜を得たが、公孫賀は成果なく、公孫敖は敗れて七千騎を失い、李広もまた敗れた。李広は生け捕られ二頭の馬の間に網で吊され運ばれる途中、偽死して隙を見て敵馬に飛び乗り弓を奪い南へ逃走し帰還した。公孫敖と李広は軍法会議にかけられ斬刑判決を受けるが、財産没収で庶人に降格された。衛青のみ関内侯の爵位を与えられる。彼は奴隷身分から立身したが騎射に優れ才能抜群、士大夫を礼遇し兵卒へ恩恵を示すため将兵は喜んで従い、出征ごとに武功を挙げた。これにより天下人は皇帝の人物眼に敬服した。 4.夏、大旱魃と蝗害が発生。 5.六月、武帝が雍に行幸。 6.秋、匈奴が頻繁に国境を侵犯し漁陽郡が甚だしい被害を受けた。衛尉韓安國を材官将軍として漁陽に駐屯させる。 元朔元年(癸丑・前128年) 注釈
(注釈終わり) Translation took 1079.8 seconds. |
| 」奏可。 2 十二月,江都易王非薨。 3 皇子據生,衛夫人之子也。三月,甲子,立衛夫人為皇后,赦天下。 4 秋,匈奴二萬騎入漢,殺遼西太守,略二千餘人,圍韓安國壁;又入漁陽、鴈門,各殺略千餘人。安國益東徙,屯北平;數月,病死。天子乃復召李廣,拜為右北平太守。匈奴號曰「漢之飛將軍」,避之,數歲不敢入右北平。 5 車騎將軍衛青將三萬騎出鴈門,將軍李息出代;青斬首虜數千人。 6 東夷薉君南閭等共二十八萬人降,為蒼海郡;人徒之費,擬於南夷,燕、齊之間,靡然騷動。 7 是歲,魯共王餘、長沙定王發皆薨。 8 臨菑人主父偃、嚴安,無終人徐樂,皆上書言事。 始,偃游齊、燕、趙,皆莫能厚遇,諸生相與排擯不容;家貧,假貸無所得,乃西入關上書闕下,朝奏,暮召入。所言九事,其八事為律令;一事諫伐匈奴,其辭曰: 「《司馬法》曰:『國雖大,好戰必亡;天下雖平,忘戰必危。』夫怒者逆德也,兵者凶器也,爭者末節也。夫務戰勝,窮武事者,未有不悔者也。 「昔秦皇帝併吞戰國,務勝不休,欲攻匈奴。李斯諫曰:『不可。夫匈奴,無城郭之居,委積之守,遷徙鳥舉,難得而制也。輕兵深入,糧食必絕;踵糧以行,重不及事。得其地,不足以為利也;得其民,不可調而守也;勝必殺之,非民父母也;靡敝中國,快心匈奴,非長策也。 |
現代日本語訳」上奏が許可された。 2 十二月、江都易王劉非が薨去した。 3 皇子劉據(武帝の嫡子)誕生。母は衛夫人である。三月甲子の日、衛夫人を皇后に冊立し、天下に大赦令が出された。 4 秋、匈奴の騎兵二万が漢領へ侵入。遼西太守を殺害し二千余人を拉致。韓安国の陣営を包囲した後、漁陽郡・雁門郡にも侵攻し、各々千余人を殺戮・略奪した。韓安国はさらに東へ移動して北平に駐屯したが、数月後に病死。武帝は李広を再召還し右北平太守に任命した。匈奴側では彼を「漢の飛将軍」と呼び避けるようになり、数年間も右北平への侵入を控えた。 5 車騎将軍衛青が三万騎を率いて雁門から出撃。李息将軍は代郡から進軍し、衛青は数千人の匈奴兵を斬首・捕虜とした。 6 東夷の薉君南閭ら二十八万人が降伏。「蒼海郡」が設置されたが、住民強制移住の費用負担は南夷経営に匹敵し、燕・斉地方で社会騒乱が蔓延した。 7 同年、魯共王劉余と長沙定王劉発が相次いで薨去。 8 臨菑出身の主父偃・厳安、無終出身の徐楽らが上書を提出。 解説■ 歴史的背景 ■ 人物動向 ■ 思想的焦点 ■ 政策矛盾点 ■ テキスト特性 ■ 用語処理 Translation took 1099.8 seconds. |
| 』秦皇帝不聽,遂使蒙恬將兵攻胡,闢地千里,以河為境。地固沮澤、鹹鹵,不生五穀。然後發天下丁男以守北河,暴兵露師十有餘年,死者不可勝數,終不能逾河而北,是豈人眾不足,兵革不備哉?其勢不可也。又使天下蜚芻、輓粟,起於東陲、琅邪負海之郡,轉輸北河,率三十鐘而致一石。男子疾耕,不足於糧餉,女子紡績,不足於帷幕,百姓靡敝,孤寡老弱不能相養,道路死者相望,蓋天下始畔秦也。 「及至高皇帝,定天下,略地於邊,聞匈奴聚於代谷之外而欲擊之。御史成進諫曰:『不可。夫匈奴之性,獸聚而鳥散,從之如搏影。今以陛下盛德攻匈奴,臣竊危之。』高帝不聽,遂北至於代谷,果有平城之圍。高皇帝蓋悔之甚,乃使劉敬往結和親之約,然後天下忘干戈之事。 「夫匈奴難得而制,非一世也;行盜侵驅,所以為業也,天性固然。上及虞、夏、殷、周,固弗程督,禽獸畜之,不屬為人。夫上不觀虞、夏、殷、周之流,而下循近世之失,此臣之所大憂,百姓之所疾苦也。」 嚴安上書曰: 「今天下人民,用財侈靡,車馬、衣裘、宮室,皆競修飾,調五聲使有節族,雜五色使有文章,重五味方丈於前,以觀欲天下。彼民之情,見美則願之,是教民以侈也;侈而無節,則不可贍,民離本而徼末矣。末不可徒得,故縉紳者不憚為詐,帶劍者誇殺人以矯奪,而世不知愧,是以犯法者眾。 |
訳文秦の始皇帝はこれを聞き入れず、蒙恬に兵を率いて胡を攻めさせ、千里の地を開拓し黄河を国境とした。この土地は元々沼沢と塩分を含む荒地であり五穀が育たない。さらに天下から成年男子を徴発して北河(黄河北部)を守備させ、十年以上にわたり兵士を野営で露営させるうち死者は数えきれず、ついに黄河を越えて北方へ進出できなかった。これは果たして兵力が不足し武器が不十分だったのか? 情勢が許さなかったのである。さらに全国から糧秣の緊急輸送を行わせ、東端の琅邪など海浜郡県より北河への物資転送では三十鐘(約60石)運んで一石届く有様であった。男は必死に耕作しても兵糧を賄えず女は機織りしても幕舎用布帛が足りない。民衆は疲弊し孤児寡婦老弱者は養い合うこともできず、道路上の死者は絶えることなく天下で秦への反乱が始まったのである。 高祖(劉邦)が天下を平定した後、辺境攻略において匈奴が代谷付近に集結していると聞き攻撃しようとした。御史成進が諫めて言うには「なりませぬ。匈奴の習性は獣のように集合し鳥のように分散し影をつかむようなもの。陛下の威徳をもってしても臣は危惧します」高祖は聞かず代谷まで北進して平城の包囲に遭った(白登山の戦い)。高祖は深く後悔し劉敬を派遣して和親条約を結ばせたため天下は戦乱を忘れることができた。 そもそも匈奴制御困難なのは一朝一夕ではなく、略奪侵攻が彼らの天性である。虞夏殷周の古聖王時代でさえ強制統治せず禽畜扱いし人間とは見做さなかった。今上古の教訓を顧みず近世の失敗を繰り返そうとするのが臣下の深憂であり民衆の苦痛の根源なのだ。 (厳安上書文) 解説
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| 臣願為民制度以防其淫,使貧富不相燿以和其心;心志定,則盜賊消,刑罰少,陰陽和,萬物蕃也。昔秦王意廣心逸,欲威海外,使蒙恬將兵以北攻胡,又使尉屠睢將樓船之士以攻越。當是時,秦禍北構於胡,南掛於越,宿兵於無用之地,進而不得退。行十餘年,丁男被甲,丁女轉輸,苦不聊生;自經於道樹,死者相望。及秦皇帝崩,天下大畔,滅世絕祀,窮兵之禍也。故周失之弱,秦失之強,不變之患也。今徇西夷,朝夜郎,降羌、僰,略薉州,建城邑,深入匈奴,燔其龍城,議者美之。此人臣之利,非天下之長策也。」 徐樂上書曰: 「臣聞天下之患,在於土崩,不在瓦解,古今一也。 「何謂土崩?秦之末世是也。陳涉無千乘之尊、疆土之地,身非王公、大人、名族之後,鄉曲之譽,非有孔、曾、墨子之賢,陶朱、猗頓之富也;然起窮巷,奮棘矜,偏袒大呼,天下從風。此其故何也?由民困而主不恤,下怨而上不知,俗已亂而政不修。此三者,陳涉之所以為資也,此之謂土崩。故曰天下之患在乎土崩。 「何謂瓦解?吳、楚、齊、趙之兵是也。七國謀為大逆,號皆稱萬乘之君,帶甲數十萬,威足以嚴其境內,財足以勸其士民;然不能西攘尺寸之地,而身為禽於中原者,此其故何也?非權輕於匹夫而兵弱於陳涉也。當是之時,先帝之德未衰而安土樂俗之民眾,故諸侯無竟外之助,此之謂瓦解。 |
現代日本語訳臣は民のために制度を定め、その浪費を防ぎたい。貧富が互いに誇示し合わないようにして民心を和らげる。心が安定すれば盗賊は消滅し、刑罰は減り、陰陽の調和がとれ万物が繁栄する。 昔、秦王(始皇帝)は野心が広く心が安逸に流れた。海外まで威光を示そうと蒙恬に兵を率いさせ北方の胡を攻撃させた。また尉屠睢には楼船の水軍を指揮させて越を攻略させた。当時、秦の災禍は北で胡と衝突し、南では越に絡みつき、無用の地に軍隊を駐屯させ進退窮まった。十数年が経過すると壮年男子は甲冑を着け、女子は物資輸送に駆り出され、苦しみの中で生きる術もなく道端の木で自縊する死者が相次いだ。 始皇帝が崩御すると天下は大反乱を起こし王朝は滅亡して祭祀が絶えた。これこそ軍備拡張の限りを尽くした禍である。故に周は弱さによって失い、秦は強すぎて敗れた――変化しないことの災いだ。 今(漢朝廷が)西夷を従え夜郎国を朝貢させ羌・僰を降伏させ薉州を攻略し城邑を築き匈奴の奥深く侵攻して竜城を焼き払うことを、論者は賞賛する。しかしこれは臣下(武将)の利益であって天下にとっての長久の策ではない。 徐楽が上書で述べる: 「臣聞く 天下の患いは土崩に在り瓦解には非ずと。古今共通である」 何を土崩というか?秦末期がこれだ。陳勝は千乗の尊さも領土もなく王侯貴族の血筋でもない。郷里での評判すらなく孔子・曾子・墨子のような賢者として陶朱公や猗頓ほどの富も持たぬ。しかるに貧しい巷から棘(武器)を奮い立ち半裸で叫び天下が風靡した。なぜか?民は困窮するも君主は顧みず下の怨嗟を上知らず習俗は乱れ政治が廃れたためだ。この三条件こそ陳勝の原動力であり土崩という。故に天下の患いは土崩にある。 何を瓦解というか?呉・楚・斉・趙らの兵(七国の乱)がこれだ。万乗の君主を名乗り数十万の軍勢で威は国内を圧し財は兵民を動員できたのに西方へ寸土も得られず中原で捕らえられたのはなぜか?権力が陳勝より弱かったからではない。当時、先帝(文帝)の徳政が衰えず安住して習俗を楽しむ民衆がいたため諸侯に外部支援がなかったのだ――これ瓦解という。 解説
※出典『資治通鑑』漢紀十一における徐楽上書は、武帝期の積極政策に対する異議申立てとして著名な史料。本訳では司馬光編纂テキストに基づく。 Translation took 1076.1 seconds. |
| 故曰天下之患不在瓦解。 「此二體者,安危之明要,賢主之一留意而深察也。 「間者,關東五穀數不登,年歲未復,民多窮困,重之以邊境之事,推數循理而觀之,民宜有不安其處者矣。不安,故易動;易動者,土崩之勢也。故賢主獨觀萬化之原,明於安危之機,修之廟堂之上而銷未形之患也,其要期使天下無土崩之勢而已矣。」 書奏,天子召見三人,謂曰:「公等皆安在,何相見之晚也!」皆拜為郎中。主父偃尤親幸,一歲中凡四遷,為中大夫。大臣畏其口,賂遺累千金。或謂偃曰:「太橫矣!」偃曰:「吾生不五鼎食,死即五鼎烹耳!」 元朔二年(甲寅,公元前一二七年) 1 冬,賜淮南王几杖,毋朝。 2 主父偃說上曰:「古者諸侯不過百里,強弱之形易制。今諸侯或連城數十,地方千里,緩則驕奢,易為淫亂,急則阻其強而合從以逆京師。以法割削之,則逆節萌起,前日晁錯是也。今諸侯子弟或十數,而適嗣代立,餘雖骨肉,無尺地之封,則仁孝之道不宣。願陛下令諸侯得推恩分子弟,以地侯之,彼人人喜得所願。上以德施,實分其國,不削而稍弱矣。」上從之。春,正月,詔曰:「諸侯王或欲推私恩分子弟邑者,令各條上,朕且臨定其號名。」於是籓國始分,而子弟畢侯矣。 3 匈奴入上谷、漁陽,殺略吏民千餘人。 |
現代日本語訳「故に曰く、天下の患いは瓦解には在らず(崩壊ではない)という。この二つの根本原理こそが安泰と危険を分ける明らかな要諦であり、賢明な君主は特に注意し深く考察すべきものである。」 最近では関東地方で穀物が繰り返し不作となり、収穫量が回復せず、民衆の多くが困窮している。これに加えて辺境での戦事も重なり、道理を推論して観察すれば、民衆の中には居住地に不安を感じる者が当然出てくるはずだ。不安だからこそ動揺しやすい。この動きやすさこそが土崩れの兆候である。したがって賢明な君主は独自に万物変化の根源を見極め、安泰と危険の機微を理解し、朝廷において未然に災いを消す手立てを講じる。その要諦とは天下に土崩れの兆候が生じないようにすることにある。 上奏文を受け取った天子(武帝)は三人を召し出して言うことには、「卿らはいずこにおられたのか、何と会見が遅れたことか」。全員を郎中に任命した。特に主父偃は寵愛され、一年のうちに四度昇進し中大夫となった。大臣たちはその弁舌を恐れ、賄賂として累計千金を贈った。ある者が偃に「あまりにも横暴ではないか」と言うと、「生きている間に五鼎を用いた宴(高官待遇)がなければ、死ぬ時には五鼎で煮られる刑罰を受けるだけだ」(栄達か惨禍かの二択を示す)。 元朔二年(甲寅の年、紀元前127年)
1. 冬、淮南王に几杖(老人への敬意の印)を与え参朝免除とした。 解説【歴史的背景】
【人物動向】
【文章的特徴】
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| 遣衛青、李息出雲中以西至隴西,擊胡之樓煩、白羊王於河南,得胡首虜數千,牛羊百餘萬,走白羊、樓煩王,遂取河南地。詔封青為長平侯,青校尉蘇建、張次公皆有功,封建為平陵侯,次公為岸頭侯。 主父偃言:「河南地肥饒,外阻河,蒙恬城之以逐匈奴,內省轉輸戍漕,廣中國,滅胡之本也。」上下公卿議,皆言不便。上竟用偃計,立朔方郡,使蘇建興十餘萬人築朔方城,復繕故秦時蒙恬所為塞,因河為固。轉漕甚遠,自山東咸被其勞,費數十百巨萬,府庫並虛;漢亦棄上谷之斗辟縣造陽地以予胡。 4 三月,乙亥晦,日有食之。 5 夏,募民徙朔方十萬口。 6 主父偃說上曰:「茂陵初立,天下豪桀,並兼之家,亂眾之民,皆可徙茂陵;內實京師,外銷奸猾,此所謂不誅而害除。」上從之,徙郡國豪傑及訾三百萬以上於茂陵。 軹人郭解,關東大俠也,亦在徙中。衛將軍為言:「郭解家貧,不中徙。」上曰:「解,布衣,權至使將軍為言,此其家不貧。」卒徙解家。解平生睚眥殺人甚眾,上聞之,下吏捕治解,所殺皆在赦前。軹有儒生侍使者坐,客譽郭解,生曰:「解專以奸犯公法,何謂賢!」解客聞,殺此生,斷其舌。吏以此責解,解實不知殺者,殺者亦竟絕,莫知為誰。吏奏解無罪,公孫弘議曰:「解,布衣,為任俠行權,以睚眥殺人。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』漢紀十一より) 武帝は衛青と李息を派遣し、雲中郡から西の隴西方面へ進軍させた。河南地域に駐屯する匈奴の楼煩王・白羊王を攻撃し、数千人の捕虜を得て牛羊百余万頭を鹵獲したため、両王は敗走した。こうして河南地帯を占領することに成功した。 武帝は詔勅を下し衛青を長平侯に封じた。また彼の配下で戦功のあった校尉・蘇建と張次公にも爵位を与え、それぞれ平陵侯・岸頭侯とした。 主父偃が進言する:「河南地域は肥沃であり、黄河という天然の要害があります。蒙恬がここに要塞を築き匈奴を撃退した先例もある。この地を確保すれば兵糧輸送と防衛経費が削減され、中原勢力圏の拡大と匈奴根絶につながります」 武帝は公卿たちを集めて議論させたが、全員「実施困難」と反対した。しかし結局主父偃案を採用し朔方郡を設置。蘇建に十余万人の民衆を動員して朔方城を築かせるとともに、秦時代に蒙恬が建造した要塞群を黄河防衛線として再整備させた。 だが物資輸送距離は過大で、山東地域全体に負担が及び巨額の費用(数十億銭)が消耗。国家財政は枯渇し、結局上谷郡にある飛び地・造陽地区を匈奴側に割譲する結果となった。 4 三月乙亥晦日 日食発生 5 夏季政策 朔方郡へ十万戸の移民募集 6 主父偃が武帝に献策: 「茂陵(皇帝陵)造成開始にあたり、全国の豪族・財閥・反乱分子を強制移住させるべきです。これにより帝都は充実し地方の危険分子も除去できる。人を誅さずして害を取り除く策」 武帝はこれを採用。各郡国の有力者と資産三百万銭以上の富豪を茂陵へ集団移送した。 軹県出身の侠客・郭解(関東地域で著名)も移住対象となったが、衛青将軍が「郭解は貧困ゆえ該当せず」と弁護。武帝は逆に「一介の庶民ながら将軍を使えるとは富裕の証だ」として移送を強行した。 実は郭解には些細な因縁で殺害した者多数いたことが発覚(ただし全て恩赦前事件)。軹県では儒生が使者接待中に客席で「郭解こそ法犯人の極み」と批判すると、その場で刺客に舌を抜かれて殺害される事件発生。 役人が郭解を取り調べたが本人は関与否定。真犯人も不明のまま裁判となったところ公孫弘が異議:「庶民でありながら私刑権力を掌握し睚眥(些細な恨み)で人を殺す郭解こそ元凶である」 解説歴史的意義
特筆すべき人物像
経済的影響朔方郡建設費用が財政破綻(数十億銭損失)をもたらした事実は、武帝期の拡張政策が抱えた根本矛盾を示す。同時代に実施された塩鉄専売制度導入もこうした軍事費調達と直結 天象記録当時の史官による正確な天文観測(日食記載)が確認できる貴重資料 Translation took 984.1 seconds. |
| 解雖弗知,此罪甚於解殺之。當大逆無道。」遂族郭解。 班固曰: 古者天子建國,諸侯立家,自卿大夫以至於庶人,各有等差,是以民服事其上而下無覬覦。周室既微,禮樂、征伐自諸侯出。桓、文之後,大夫世權,陪臣執命。陵夷至於戰國,合從連衡,繇是列國公子,魏人信陵,趙有平原,齊有孟嘗,楚有春申,皆藉王公之勢,競為遊俠,雞鳴狗盜,無不賓禮。而趙相虞卿,棄國捐君,以周窮交魏齊之厄;信陵無忌,竊符矯命,戮將專師,以赴平原之急;皆以取重諸侯,顯名天下,扼腕而游談者,以四豪為稱首。於是背公死黨之議成,守職奉上之義廢矣。及至漢興,禁網疏闊,未知匡改也。是故代相陳豨從車千乘,而吳濞、淮南皆招客以千數。外戚大臣魏其、武安之屬競逐於京師,布衣遊俠劇孟、郭解之徒馳騖於閻閭、權行州域。力折公侯,眾庶榮其名跡,覬而慕之。雖其陷於刑辟,自與殺身成名,若季路、仇牧,死而不悔。故曾子曰:「上失其道,民散久矣。」非明王在上,示之以好惡,齊之以禮法,民曷由知禁而反正乎!古之正法:五伯,三王之罪人也;而六國,五伯之罪人也。夫四豪者,又六國之罪人也。況於郭解之倫,以匹夫之細,竊殺生之權,其罪已不容於誅矣。觀其溫良泛愛,振窮周急,謙退不伐,亦皆有絕異之姿。惜乎,不入於道德,苟放縱於末流,殺身亡宗,非不幸也。 |
現代日本語訳裁判官は次のように述べた。「郭解(かくかい)が直接知らなかったとしても、この罪は自ら殺害したことよりも重い。大逆無道の所業である。」こうして郭解一族は処刑された。 班固(はんこ)の論評: 漢朝成立後も法網は粗く是正されなかったため、代国の丞相陳豨(ちんき)は車千台を従え、呉王濞(ごおうへい)や淮南王らは食客数千人を抱えた。外戚の魏其侯(ぎきこう)・武安侯(ぶあんこう)らが長安で権勢争いを繰り広げる一方、庶民出身の侠客劇孟(げきもう)・郭解らは市井や地方に横行した。彼らの力は公侯を凌駕し大衆はその名声を称賛して憧れた。たとえ刑罰を受けても「殺身成名」(命を捨て名を残す)——季路(きろ)や仇牧(きゅうぼく)のように死をも悔いない状態であった。曾子の言う通り「為政者が道を失えば民心は早くから離れている」のである。明君が上位にあって善悪を示し礼法で統制しない限り、民はいかにして禁令を知り正道へ戻れようか? 古来の正義において五覇(ごは)は三王(さんおう)への罪人であり六国は五覇への罪人である。四豪もまた六国の罪人であった。ましてや郭解のような一介の庶民が生殺与奪の権を私的に掌握すること——その罪状は死刑に処すだけでは足りぬほど重大だ。(しかし彼には)温和で仁愛に富み困窮者を救い謙虚な点など卓越した資質もあった。惜しいことに道徳規範に背いた末流(遊侠の風潮)へ身を委ねた結果、自身と一族は滅亡するに至った——これは不幸というより必然である。 解説
(※Okurigana厳密排除:例)「述べた」(の→発話行為明示)、「重んじられ」(おも→受動態接尾辞処理)等、歴史的仮名遣いは原文に基づき漢字表記統一) Translation took 2674.5 seconds. |
| 荀悅論曰: 世有三游,德之賊也:一曰遊俠,二曰遊說,三曰遊行。立氣勢,作威福,結私交以立強於世者,謂之遊俠;飾辯辭,設詐謀,馳逐於天下以要時勢者,謂之遊說;色取仁以合時好,連黨類,立虛譽以為權利者,謂之遊行。此三者,亂之所由生也;傷道害德,敗法惑世,先王之所慎也。國有四民,各修其業。不由四民之業者,謂之奸民。奸民不生,王道乃成。 凡此三游之作,生於季世,周、秦之末尤甚焉。上不明,下不正,制度不立,綱紀馳廢;以毀譽為榮辱,不核其真;以愛憎為利害,不論其實;以喜怒為賞罰,不察其理。上下相冒,萬事乖錯,是以言論者計薄厚而吐辭,選舉者度親疏而舉筆,善惡謬於眾聲,功罪亂於王法。然則利不可以義求,害不可以道避也。是以君子犯禮,小人犯法,奔走馳騁,越職僭度,飾華廢實,競趣時利。簡父兄之尊而崇賓客之禮,薄骨肉之恩而篤朋友之愛,忘修身之道而求眾人之譽,割衣食之業以供饗宴之好,苞苴盈於門庭,聘問交於道路,書記繁於公文,私務眾於官事,於是流俗成而正道壞矣。 是以聖王在上,經國序民,正其制度;善惡要於功罪而不淫於毀譽,聽其言而責其事,舉其名而指其實。故實不應其聲者謂之虛,情不覆其貌者謂之偽,毀譽失其真者謂之誣,言事失其類者謂之罔。 |
訳文(現代日本語)荀悦の論に曰く: 世に三つの游(ゆう)あり、これらは徳を害する賊である。第一を遊俠と称し、第二を遊説と称し、第三を行行と称す。気勢を立てて威福を弄び、私的な交わりを結んで世上で勢力を張る者を「遊俠」と言う。弁舌を飾り詐謀を設け、天下を駆け巡って時流に迎合する者を「遊説」と言う。表面上は仁義を取り繕い世の好みに合わせ、徒党を組み虚偽の名声で権利を得ようとする者を行行と称す。この三つが乱れの根源である。道義を損ない徳を害し、法を破り世を惑わすゆえ、先王はこれを厳しく戒めた。 国には四民(士農工商)があり各々その業に励む。四民の本分から外れる者を奸民と呼ぶ。奸民が現れなければ王道は成就する。 これら三游の横行は末世に生じ、周・秦の末期において特に甚だしかった。上(為政者)は道理を見ず、下(民衆)は正道に背き、制度は定まらず綱紀は廃れる。毀誉を以て栄辱とし真偽を検せず、愛憎を以て利害とし実情を論ぜず、喜怒を以て賞罰とし理非を察しない。上下ともに欺瞞に陥り万事が混乱する結果、議論する者は損得で発言し、官吏は親疎で人事を決め、善悪は衆人の声で歪み、功罪は王法によって乱れる。このため義をもって利を得ることもできず、道をもって害を避けることも叶わぬ。 かくして君子すら礼儀を犯し、小人が法律を破り、職分を越え身分を僭する者が奔走する。実質より虚飾を重んじ時流の利益に競う。父兄への敬意は簡略にして賓客をもてなす礼を厚くし、肉親の情は薄く朋友との愛着だけ深める。自ら修養する道を忘れ世間の称賛ばかり求め、衣食の資財を削って饗宴に費やす。贈り物が門前に溢れ、使者往来で道路が混雑し、私的な文書は公文より多く、個人的な用件が公務を圧倒する。かくして低俗な風潮が蔓延し正しい道理は崩壊した。 故に聖王たる者は国を治め民を秩序立て、制度を正す必要がある。善悪の判断は功罪によって行い毀誉に惑わされず、言葉と行動を照合し名目と実態を見極める。よって名声が実態に伴わぬものは虚偽、心情が外面に表れぬものは作為、毀誉が真実から外れるものは誣告(ぶこく)、言論が事実と乖離するものを欺瞞と呼ぶのである。 解説
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| 虛偽之行不得設,誣罔之辭不得行,有罪惡者無僥倖,無罪過者不憂懼,請謁無所行,貨賂無所用,息華文,去浮辭,禁偽辯,絕淫智,放百家之紛亂,壹聖人之至道,養之以仁惠,文之以禮樂,則風俗定而大化成矣。 7 燕王定國與父康王姬奸,奪弟妻為姬,殺肥如令郢人。郢人兄弟上書告之,主父偃從中發其事。公卿請誅定國,上許之。定國自殺,國除。 齊厲王次昌亦與其姊紀翁主通。主父偃欲納其女於齊王,齊紀太后不許。偃因言於上曰:「齊臨菑十萬戶,市租千金,人眾殷富,巨於長安,非天子親弟、愛子,不得王此。今齊王於親屬益疏,又聞與其姊亂,請治之!」於是帝拜偃為齊相,且正其事。偃至齊,急治王后宮宦者,辭及王;王懼,飲藥自殺。偃少時游齊及燕、趙,及貴,連敗燕、齊。趙王彭祖懼,上書告主父偃受諸侯金,以故諸侯子弟多以得封者。及齊王自殺,上聞,大怒,以為偃劫其王令自殺,乃征下吏。偃服受諸侯金,實不劫王令自殺。上欲勿誅,公孫弘曰:「齊王自殺,無後,國除為郡入漢,主父偃本首惡。陛下不誅偃,無以謝天下。」乃遂族主父偃。 8 張歐免,上欲以蓼侯孔臧為御史大夫。臧辭曰:「臣世以經學為業,乞為太常,典臣家業,與從弟侍中安國綱紀古訓,使永垂來嗣。」上乃以臧為太常,其禮賜如三公。 |
現代日本語訳:偽りの行いは行われず、誣告の言葉は通用せず、罪ある者は幸運を逃れず、無実の者は恐れることもない。願い出や賄賂は用をなさず、虚飾の文章を廃し、浮ついた言辞を排し、偽りの弁論を禁じ、淫らな知恵を絶ち、百家の混乱した学説を退けて聖人の至高の道に統一する。仁恵をもって民を養い、礼楽によって教化を行えば、風俗は定まり大いなる治世が成就されるであろう。 7 燕王・劉定国は父である康王の寵姫と淫行し、弟の妻を奪い妾とした上、肥如県令の郢人(えいじん)を殺害した。郢人の兄弟が上書してこれを告発すると、主父偃(しゅふえん)が朝廷内で事件を暴露した。公卿らは定国の誅罰を求め、皇帝もこれに同意したため、定国は自決し燕国は廃絶された。 斉の厲王・劉次昌も姉である紀翁主(きおうしゅ)と密通していた。主父偃が娘を斉王のもとに嫁がせようとしたが、斉の紀太后に拒否される。これを受け偃は皇帝に進言した:「斉の臨菑には十万戸が居住し市場税も千金に上り、その繁栄は長安を凌ぎます。皇弟か寵愛する皇子でなければ統治すべき地ではありません。しかるに斉王は皇室から疎遠であり、姉との乱行も伝わっています」。これにより武帝は偃を斉の丞相とし事件糾明を命じた。偃が斉に着任すると急ぎ後宮の宦官らを尋問し、供述が次昌に及ぶや王は畏怖して毒を仰いだ。 偃は若年に斉・燕・趙で遊学したが、高位に就くと燕と斉を相次いで滅ぼした。これを見た趙王・劉彭祖は恐れ、「偃が諸侯から賄賂を受け子弟の封建を便宜していた」と上奏。折しも斉王自決の報が届き、武帝は激怒して「偃が王に無理強いした」として逮捕命令を下す。偃は収賄を認めたが威迫は否定したものの、公孫弘(こうそんこう)が「斉王家断絶で領土接収という結果を得た以上、首謀者である偃を誅さねば天下に示しがつきません」と主張。結局偃は族誅された。 8 張欧(ちょうおう)の免官後、武帝は蓼侯・孔臧(こうぞう)を御史大夫に起用しようとした。だが臧は辞退して「代々経学を家業としており、太常となって家業を継ぎたい。従弟である侍中・安国と共に古訓の整理にあたり後世へ伝えたい」と奏上した。武帝はこれを受け入れ臧を太常(九卿の一)に任じたが、礼遇と俸禄は三公並みとした。 解説:■ 歴史的背景 ■ 用語解釈 ■ 政治力学分析 ■ 思想史的意義 ■ 人物評 Translation took 1113.6 seconds. |
| 元朔三年(乙卯,公元前一二六年) 1 冬,匈奴軍臣單于死,其弟左谷蠡王伊稚斜自立為單于,攻破軍臣單于太子於單,於單亡降漢。 2 以公孫弘為御史大夫。是時,方通西南夷,東置蒼海,北築朔方之郡。公孫弘數諫,以為罷敝中國以奉無用之地,願罷之。天子使朱買臣等難以置朔方之便;發十策,弘不得一。弘乃謝曰:「山東鄙人,不知其便若是,願罷西南夷、蒼海而專奉朔方。」上乃許之,春,罷蒼海郡。 弘為布被,食不重肉。汲黯曰:「弘位在三公,奉祿甚多;然為布被,此詐也。」上問弘,弘謝曰:「有之。夫九卿臣善者無過黯,然今日廷詰弘,誠中弘之病。夫以三公為布被,與小吏無差,誠飾詐,欲以釣名,如汲黯言。且無汲黯忠,陛下安得聞此言!」天子以為謙讓,愈益厚之。 3 三月,赦天下。 4 夏,四月,丙子,封匈奴太子於單為涉安侯,數月而卒。 5 初,匈奴降者言:「月氏故居敦煌、祁連間,為強國,匈奴冒頓攻破之。老上單于殺月氏王,以其頭為飲器。餘眾遁逃遠去,怨匈奴,無與共擊之。」上募能通使月氏者,漢中張騫以郎應募,出隴西,逕匈奴中;單于得之,留騫十餘歲。騫得間亡,嚮月氏西走,數十日,至大宛。大宛聞漢之饒財,欲通不得,見騫,喜,為發導譯抵康居,傳致大月氏。大月氏太子為王,既擊大夏,分其地而居之,地肥饒,少寇,殊無報胡之心。 |
現代日本語訳元朔三年(乙卯、紀元前126年)
歴史的考察【政策転換の本質】公孫弘の「朔方郡存続・他廃止」論は財政合理化を掲げつつ、実際には軍事的要衝である河套平原(朔方)支配に資源集中させる現実主義的判断でした。武帝がこれを容れた背景には匈奴対策最優先という国策が透けて見えます。 【人物像の深層】
【地政学的意義】朔方郡設置(内モンゴル・フフホト付近)は長城防衛線の要衝確保策として機能。一方で於単王子への爵位授与は匈奴内部の分断工作でしたが早世により成果は限定的に終わりました。 【武帝時代の特徴】対外膨張政策(西南夷・蒼海郡)と財政負担の矛盾が本紀年にも明瞭。恩赦施行は民衆疲弊を緩和する手段でありつつ、支配正当性強化の装置でもありました。
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| 騫留歲餘,竟不能得月氏要領,乃還;並南山,欲從羌中歸,復為匈奴所得,留歲餘。會伊稚斜逐於單,匈奴國內亂,騫乃與堂邑氏奴甘父逃歸。上拜騫為太中大夫,甘父為奉使君。騫初行時百餘人,去十三歲,唯二人得還。 6 匈奴數萬騎入塞,殺代郡太守恭,及略千餘人。 7 六月,庚午,皇太后崩。 8 秋,罷西夷,獨置南夷、夜郎兩縣、一都尉,稍令犍為自葆就,專力城朔方。 9 匈奴又入鴈門,殺略千餘人。 10 是歲,中大夫張湯為廷尉。湯為人多詐,舞智以御人。時上方嚮文學,湯陽浮慕,事董仲舒、公孫弘等。以千乘兒寬為奏讞掾,以古法義決疑獄。所治,即上意所欲罪,與監、史深禍者;即上意所欲釋,與監、史輕平者;上由是悅之。湯於故人子弟調護之尤厚;其造請諸公,不避寒暑。是以湯雖文深、意忌、不專平,然得此聲譽。汲黯數質責湯於上前曰:「公為正卿,上不能褒先帝之功業,下不能抑天下之邪心,安國富民,使囹圄空虛,何空取高皇帝約束紛更之為!而公以此無種矣。」黯時與湯論議,湯辯常在文深小苛;黯伉厲守高,不能屈,忿發,罵曰:「天下謂刀筆吏不可以為公卿,果然!必湯也,令天下重足而立,側目而視矣!」 元朔四年(丙辰,公元前一二五年) 1 冬,上行幸甘泉。 2 夏,匈奴入代郡、定襄、上郡,各三萬騎,殺略數千人 |
現代日本語訳:張騫は一年以上滞在したが、月氏の本意を掴むことができず帰国した。南山沿いに進み羌族の居住地を通って戻ろうとしたが、再び匈奴に捕らえられ、さらに一年余り拘留された。折しも伊稚斜単于が於単を追放したため匈奴国内が混乱したので、張騫は堂邑氏の奴隷である甘父と共に脱出して帰還した。武帝は張騫を太中大夫に任命し、甘父には奉使君の称号を与えた。当初百人以上で出発した一行だったが、十三年後に戻ってきたのは二人だけであった。 6 匈奴数万騎が国境を侵犯し、代郡太守・恭を殺害するとともに千余人あまりを拉致した。 7 六月庚午(2日)、皇太后が崩御された。 8 秋に西夷の経営を中止し、南夷と夜郎の二県のみを残して一都尉を置いた。犍為郡には自衛体制を整えさせつつ、重点的に朔方城の建設へ注力させる方針とした。 9 匈奴が再び雁門に侵入し、千余人あまりを殺害・拉致した。 10 この年、中大夫の張湯が廷尉となった。彼は狡猾な人物で、権謀術数を弄して人を操った。当時武帝が儒学を尊んでいたため、張湯は表面上これに傾倒するふりをし、董仲舒や公孫弘らと交流した。千乗出身の児寛を奏讞掾(裁判補佐官)に起用し、古典解釈で疑獄を裁かせた。事件処理では「皇帝が処罰すべきと思う者には監察官・史官と共に重刑を課し」「皇帝が赦そうとする者には軽い判決を与える」という手法を取り、武帝の信頼を得た。旧知の子弟に対しては特に手厚く保護した一方、高官への挨拶回りも熱心に行ったため、彼は「法解釈を厳格化し猜疑心が強い」にもかかわらず名声を得ていた。汲黯は皇帝面前で張湯を激しく非難した:「卿は正九卿の地位にありながら、先帝の功業を称えず天下の邪念も抑えられぬ。国を安んじ民を富ませ獄を空にするどころか、高祖の律令を無益に改めるとは!これでは子孫すら残せまい」。議論になると張湯は細かな法解釈で応酬し、剛直な汲黯は屈しないため激昂して罵った:「天下が『裁判官は公卿たる資格なし』と言うのは正しいぞ!お前のやり方では民衆は恐怖に震えるだけだ!」 元朔四年(丙辰、紀元前125年) 1 冬、武帝は甘泉宮に行幸された。 2 夏、匈奴が代郡・定襄・上郡を侵犯し、各々三万騎ずつで数千人を殺害・拉致した。 解説:■ 歴史的意義 ■ 政治力学 ■ 軍事情勢 ■ 制度変更 ■ 人物評価 この記録は武帝期の対外膨張政策が、将兵・使節・民衆にいかなる犠牲を強いたかを克明に伝えると同時に、中央集権化が進む中での官僚機構変質をも浮き彫りにしています。 Translation took 2432.7 seconds. |
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| input text 資治通鑑\019_漢紀_11.txt | Modern Japanese translated text | ||||||
| 資治通鑑 卷十九 漢紀十一 起強圉大荒落,盡玄黓閹茂,凡六年。 世宗孝武皇帝中之上 元朔五年(丁巳,公元前一二四年) 1 冬,十一月,乙丑,薛澤免。以公孫弘為丞相,封平津侯。丞相封侯自弘始。 時上方興功業,弘於是開東閤以延賢人,與參謀議。每朝覲奏事,因言國家便宜,上亦使左右文學之臣與之論難。弘嘗奏言:「十賊彍弩,百吏不敢前。請禁民毋得挾弓弩,便。」上下其議。侍中吾丘壽王對曰:「臣聞古者作五兵,非以相害,以禁暴討邪也。秦兼天下,銷甲兵,折鋒刃;其後民以耰鋤、棰梃相撻擊,犯法滋眾,盜賊不勝,卒以亂亡。故聖王務教化而省禁防,知其不足恃也。禮曰:『男子生,桑弧、蓬矢以舉之,』明示有事也。大射之禮,自天子降及庶人,三代之道也。愚聞聖王合射以明教矣,未聞弓矢之為禁也。且所為禁者,為盜賊之以攻奪也;攻奪之罪死,然而不止者,大奸之於重誅,固不避也。臣恐邪人挾之而吏不能止,良民以自備而抵法禁,是擅賊威而奪民救也。竊以為大不便。」書奏,上以難弘,弘詘服焉。 弘性意忌,外寬內深。諸嘗與弘有隙,無近遠,雖陽與善,後竟報其過。董仲舒為人廉直,以弘為從諛,弘嫉之。膠西王端驕恣,數犯法,所殺傷二千石甚眾。弘乃薦仲舒為膠西相;仲舒以病免。汲黯常毀儒,面觸弘,弘欲誅之以事,乃言上曰:「右內史界部中多貴臣、宗室,難治,非素重臣不能任,請徙黯為右內史。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻十九 漢紀十一 元朔五年(丁巳、紀元前124年) 当時武帝は国威発揚事業を推進中であり、弘は東閤(招賢館)を開設して有能者を招聘、政策策定に関与させた。上奏時には常に国情改善案を述べたため、帝も側近の学識ある臣下を同席させ議論させた。 かつて弘が「十人の賊が弩を構えれば百人の官吏でも手出しできない。民間の弓弩所持禁止を請う(治安維持に有用である)」と上奏した際、侍中・吾丘寿王は反論した: この上書を受けて武帝が弘を問い詰めると、彼は論破された。 公孫弘は猜疑心強く表面寛容で内心陰険であった。過去に確執があった者は距離に関わらず表面上親しく装い、後日必ず報復した。廉直な董仲舒は弘をご機嫌取りと批判していたため、弘は膠西王・劉端(法を犯し二千石官僚を多数殺害する暴君)の丞相に仲舒を推挙→彼は病と称して辞任。また儒教批判派の汲黯とは朝廷で正面衝突したため、弘は「右内史管轄区域には皇族・重臣が多く統治困難である」と奏上し、わざと左遷させようとした。 歴史的考察
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| 」上從之。 2 春,大旱。 3 匈奴右賢王數侵擾朔方。天子令車騎將軍青將三萬騎出高闕,衛尉蘇建為游擊將軍,左內史李沮為強弩將軍,太僕公孫賀為騎將軍,代相李蔡為輕車將軍,皆領屬車騎將軍,俱出朔方;大行李息、岸頭侯張次公為將軍,俱出右北平;凡十餘萬人,擊匈奴。右賢王以為漢兵遠,不能至,飲酒,醉。衛青等兵出塞六七百里,夜至,圍右賢王。右賢王驚,夜逃,獨與壯騎數百馳,潰圍北去。得右賢裨王十餘人,眾男女萬五千餘人,畜數十百萬,於是引兵而還。 至塞,天子使使者持大將軍印,即軍中拜衛青為大將軍,諸將皆屬焉。夏,四月,乙未,復益封青八千七百戶,封青三子伉、不疑、登皆為列侯。青固謝曰:「臣幸得待罪行間,賴陛下神靈,軍大捷,皆諸校尉力戰之功也。陛下幸已益封臣青;臣青子在襁褓中,未有勤勞,上列地封為三侯,非臣待罪行間所以勸士力戰之意也。」天子曰:「我非忘諸校尉功也。」乃封護軍都尉公孫敖為合騎侯,都尉韓說為龍額侯,公孫賀為南窌侯,李蔡為樂安侯,校尉李朔為涉軹侯,趙不虞為隨成侯,公孫戎奴為從平侯,李沮、李息及校尉豆如意皆賜爵關內侯。 於是青尊寵,於群臣無二,公卿以下皆卑奉之,獨汲黯與亢禮。人或說黯曰:「自天子欲群臣下大將軍,大將軍尊重,君不可以不拜。 |
現代日本語訳皇帝はこの意見を採用した。 二年春、大旱魃が発生した。 匈奴の右賢王がたびたび朔方地方に侵攻し略奪を行ったため、天子(武帝)は車騎将軍・衛青に対し三万の騎兵を率いて高闕から出撃せよと命じた。同時に衛尉・蘇建を遊撃将軍、左内史・李沮を強弩将軍、太僕・公孫賀を騎将軍、代相・李蔡を軽車将軍に任じ、全員が衛青の指揮下に入って朔方から進軍させた。また大行令・李息と岸頭侯・張次公を将軍として右北平から出撃させ、総兵力十余万をもって匈奴を攻撃した。 右賢王は「漢軍は遠征不可能」と油断し酒宴に耽り酔っていたところへ、衛青らが国境を越え六百里余も進み夜襲を仕掛け包囲網を敷いた。驚いた右賢王はわずか数百の精鋭騎兵のみで包囲を突破し北方へ逃亡した。漢軍は副王十余人と男女一万五千人、家畜百万頭近くを捕獲し撤兵した。 国境に戻ると皇帝が使者に大将軍印を持たせ前線で衛青を「大将軍」に任命(武帝の新設官職)。諸将も全員その指揮下に入れた。同年夏四月乙未、さらに八千七百戸を加増し、衛青の三人の子・伉・不疑・登を列侯に封じた。 衛青は辞退して言った。「臣が罪人扱いされながら軍務につく幸運を得て、陛下の威光により大勝しましたのは諸校尉たちの死戦の賜物です。既に加増を受けた身で幼子らに功績もなく三侯を与えることは、前線将兵への励ましとなりません」 皇帝は「諸校尉の勲功を忘れたわけではない」と応じ、護軍都尉・公孫敖を合騎侯、韓説を龍額侯、公孫賀を南窌侯、李蔡を楽安侯、校尉・李朔を涉軹侯、趙不虞を隨成侯、公孫戎奴を從平侯に封じた。さらに李沮・李息および校尉・豆如意には関内侯の爵位を与えた。 こうして衛青は群臣中で比類なき尊寵を受け、三公九卿以下がこぞって恭順したが、汲黯だけが対等礼を貫いた。ある者が汲黯に諫めた。「天子が全臣下に大将軍への敬礼を求めている以上、君も拝礼すべきだ」 解説【歴史的背景】
【制度考証】
【人物評】
【戦術分析】匈奴軍敗因を三點に析す:
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| 」黯曰:「夫以大將軍,有揖客反不重邪!」大將軍聞,愈賢黯,數請問國家朝廷所疑,遇黯加於平日。大將軍青雖貴,有時侍中,上踞廁而視之;丞相弘燕見,上或時不冠;至如汲黯見,上不冠不見也。上嘗坐武帳中,黯前奏事,上不冠,望見黯,避帳中,使人可其奏。其見敬禮如此。 4 夏,六月,詔曰:「蓋聞導民以禮,風之以樂。今禮壞、樂崩,朕甚閔焉。其令禮官勸學興禮以為天下先!」於是丞相弘等奏:「請為博士官置弟子五十人,復其身,第其高下,以補郎中、文學、掌故。即有秀才異等,輒以名聞;其不事學若下材,輒罷之。又,吏通一藝以上者,請皆選擇以補右職。」上從之。自此公卿、大夫、士、吏彬彬多文學之士矣。 5 秋,匈奴萬騎入代,殺都尉朱英,略千餘人。 6 初,淮南王安,好讀書屬文,喜立名譽,招致賓客方術之士數千人。其群臣、賓客,多江、淮間輕薄士,常以厲王遷死感激安。建元六年,彗星見,或說王曰:「先吳軍時,彗星出,長數尺,然尚流血千里。今彗星竟天,天下兵當大起。」王心以為然,乃益治攻戰具,積金錢。 郎中雷被獲罪於太子遷,時有詔,欲從軍者輒詣長安,被即願奮擊匈奴。太子惡被於王,斥免之,欲以禁後。是歲,被亡之長安,上書自明。事下廷尉治,蹤跡連王,公卿請逮捕治王。 |
現代日本語訳汲黯が言った。「大将軍たる者が、礼を尽くして接する客を却って軽んじることがあろうか!」と。この言葉を聞いた大将軍(衛青)は、一層汲黯を賢人として敬い、国家や朝廷における懸案事項について幾度も助言を請うた。汲黯に対する待遇も以前より厚くなった。 大将軍・衛青は高位にあったが、侍中として武帝に仕える際には、帝が厠(かわや)に踞(うずくま)りながら彼と応対することもあった。丞相・公孫弘が私的に謁見する時は、帝が冠を被らない場合すらあった。しかし汲黯が参内すると、帝は必ず冠を正して面会した。ある時、武帝が武帳の中に座っていると、汲黯が奏上しようとして近づいてきた。帝は冠を着けていなかったため、汲黯の姿を見るとすぐに帳中へ避けて、「彼の上奏内容を許可せよ」と命じたほどである。これほどの敬意を受けていた。 4 夏六月 これを受け丞相・公孫弘らが上奏した:「博士官の弟子として50人を採用し、彼らの税役免除と成績評価を行い、郎中・文学・掌故などの官職に補任することを請います。特に優れた才能ある者は推挙し、学業怠慢または能力不足の者は罷免すべきです。また、官吏で一芸以上の技を持つ者を選抜し要職へ登用することも提案します」 武帝はこれを認めた。これ以降、公卿・大夫・士・吏らに文芸に通じた人材が多く現れることとなった。 5 秋 6(前史) 建元6年(紀元前135年)、彗星が出現するとある者が淮南王に進言した:「昔、呉楚七国の乱の際も数尺の彗星が出た後、流血千里の惨事となりました。今は彗星が天を覆うほどですから、天下で大戦争が起きるでしょう」 郎官・雷被が太子劉遷との確執で罪を得た際、「志願兵は長安へ集まれ」という詔勅が出ると、彼は匈奴征伐への参加を希望した。しかし太子の讒言によって淮南王から解任され「後続者の見せしめ」にされた。同年、雷被は長安へ逃亡して冤罪を訴え出たため、廷尉が調査すると事件は淮南王にも波及。公卿らは淮南王逮捕を求めた。 解説
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| 太子遷謀令人衣衛士衣,持戟居王旁,漢使有非是者,即刺殺之,因發兵反。天子使中尉宏即訊王,王視中尉顏色和,遂不發。公卿奏:「安壅閼奮擊匈奴者,格明詔,當棄市。」詔削二縣。既而安自傷曰:「吾行仁義,反見削地。」恥之,於是為反謀益甚。 安與衡山王賜相責望,禮節間不相能。衡山王聞淮南王有反謀,恐為所并,亦結賓客為反具,以為淮南已西,欲發兵定江、淮之間而有之。衡山王后徐來譖太子爽於王,欲廢之而立其弟孝。王囚太子而佩孝以王印,令招致賓客。賓客來者微知淮南、衡山有逆計,日夜從容勸之。王乃使孝客江都人枚赫、陳喜作輣車、鍛矢,刻天子璽、將相軍吏印。秋,衡山王當入朝,過淮南;淮南王乃昆弟語,除前隙,約束反具。衡山王即上書謝病,上賜書不朝。 元朔六年(戊午,公元前一二三年) 1 春,二月,大將軍青出定襄,擊匈奴;以合騎侯公孫敖為中將軍,太僕公孫賀為左將軍,翕侯趙信為前將軍,衛尉蘇建為右將軍,郎中令李廣為後將軍,左內史李沮為強弩將軍,咸屬大將軍。斬首數千級而還,休士馬於定襄、雲中、雁門。 2 赦天下。 3 夏,四月,衛青復將六將軍出定襄,擊匈奴,斬首虜萬餘人。右將軍建、前將軍信並軍三千餘騎獨逢單于兵,與戰一日餘,漢兵且盡。信故胡小王,降漢,漢封為翕侯,及敗,匈奴誘之,遂將其餘騎可八百降匈奴。 |
現代日本語訳太子・劉遷は衛士の衣服を着せた刺客を淮南王(劉安)の側に配置し、戟を持って待機させる計画を立てた。漢王朝からの使者が非礼な振る舞いを見せれば即座に刺殺し、その混乱に乗じて兵を挙げて反乱を起こすつもりであった。しかし皇帝(武帝)が派遣した中尉・段宏の尋問態度が穏やかだったため、王は決行を取り止めた。朝廷高官たちは「劉安が匈奴討伐への参加を妨害し詔勅に背いた罪で死刑(棄市)に処すべきだ」と上奏したものの、皇帝は淮南国の二県削減のみ命じた。後に劉安は自ら嘆いて言った。「我こそ仁義を行ってきたのに領地を削られるとは」。この屈辱が反乱計画をさらに推し進める結果となった。 一方で衡山王・劉賜との間には相互不信が深まり、礼儀作法の面でも不和が続いていた。淮南王の謀反計画を知った衡山王は併呑されることを恐れ、自らも賓客を集めて軍備を整えた。「淮南王が西方へ進軍した隙に兵を起こし江淮地域を平定せよ」との構想である。衡山王妃・徐来が太子の劉爽を讒言したため、王は実弟の劉孝を後継者とすべく動いた。太子を幽閉すると同時に劉孝に王印を与え賓客招集を命じたところ、集まった賓客たちは両王国の謀反計画を察知し日夜巧みに扇動した。ついに王は劉孝配下の枚赫・陳喜ら江都出身者に対し輣車(衝角付き戦車)製造や鏃鍛造を命じ、更には皇帝璽や将軍印偽造まで行わせた。秋、衡山王が参内途中で淮南国に立ち寄った際、劉安は兄弟として和解し遺恨を解消した上で反乱準備の共同体制を整えた。衡山王は直ちに病と称して不参を奏上すると皇帝は詔書によりこれを認めた。 元朔六年(戊午年 紀元前123年) 1. 春二月:大将軍・衛青が定襄から出撃し匈奴攻撃開始。合騎侯公孫敖を中将军、太僕公孫賀を左将軍、翕侯趙信を前将軍、衛尉蘇建を右将軍、郎中令李広を後将軍、左内史李沮を強弩将軍とし全員大将軍指揮下に編成。数千の敵兵を討ち取って帰還後、定襄・雲中・雁門で兵力回復にあたる。 2. 恩赦発令 3. 夏四月:衛青が再び六将軍率いて定襄から出撃し匈奴と交戦、万余りの敵兵を討伐。右将軍蘇建と前将軍趙信の合同部隊三千騎が単于本隊に遭遇し一日余り激闘するも漢軍は壊滅状態に。元胡族小王で降伏後翕侯となった趙信は敗北直後に匈奴側から勧誘を受け、残兵八百騎を率いて投降した。 解説
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| 建盡亡其軍,脫身亡,自歸大將軍。 議郎周霸曰:「自大將軍出,未嘗斬裨將。今建棄軍,可斬,以明將軍之威。」軍正閎、長史安曰:「不然。《兵法》:『小敵之堅,大敵之禽也。』今建以數千當單于數萬,力戰一日餘,士盡,不敢有二心,自歸,而斬之,是示後無反意也,不當斬。」大將軍曰:「青幸得以肺腑待罪行間,不患無威,而霸說我以明威,甚失臣意。且使臣職雖當斬將,以臣之尊寵而不敢擅誅於境外,而具歸天子,天子自裁之,於以見為人臣不敢專權,不亦可乎?」軍吏皆曰:「善!」遂囚建詣行在所。 初,平陽縣吏霍仲孺給事平陽侯家,與青姊衛少兒私通,生霍去病。去病年十八,為侍中,善騎射,再從大將軍擊匈奴,為嫖姚校尉,與輕騎勇八百,直棄大軍數百里赴利,斬捕首虜過當。於是天子曰:「嫖姚校尉去病,斬首虜二千餘級,得相國、當戶,斬單于大父行藉若侯產,生捕季父羅姑,比再冠軍,封去病為冠軍侯。上谷太守郝賢四從大將軍,捕斬首虜二千餘級,封賢為眾利侯。」 是歲,失兩將軍,亡翕侯,軍功不多,故大將軍不益封,止賜千金。右將軍建至,天子不誅,贖為庶人。 單于既得翕侯,以為自次王,用其姊妻之,與謀漢。信教單于益北絕幕,以誘罷漢兵,徼極而取之,無近塞。單于從其計。 是時,漢比歲發十餘萬眾擊胡,斬捕首虜之士受賜黃金二十餘萬斤,而漢軍士馬死者十餘萬,兵甲轉漕之費不與焉。 |
訳文趙建は全軍を喪失しながら単身脱出し、大将軍・衛青の下に帰還した。議郎周覇が進言する:「将軍ご出征以来、副官クラスを処刑した例がない。今こそ軍隊を見捨てた趙建を斬り、将軍の威厳を示すべきです」。これに対し軍正(軍事裁判官)閎と長史安は反論した:「兵法に『小兵力が無理に抗えば大軍の餌食となる』とあります。数千で単于数万と一日余り死闘を繰り返し、全滅寸前まで戦いながら裏切らなかった者が自ら帰還したのに処刑すれば、『降伏しても助からない』という見本を示すことになります」。衛青は裁定を下した:「私は天子の縁者として罪を負い軍務に就いている。威厳不足など問題ではない。周覇が『威信を示せ』と言うのは私の信条に反する。仮に将官処刑権限があっても、この地位と恩寵にあって国外で独断死刑はできぬ。天子にお返ししてご裁断を仰ぐべきだ」。軍吏たちはこれに賛同し、趙建を皇帝行在所へ護送した。 当初、平陽県役人の霍仲孺が平陽侯家に出仕中、衛青の姉・衛少児と密通して生まれた子が霍去病である。18歳で侍中となり騎射に優れ、二度大将軍に従って匈奴征伐に参加。驃姚校尉として精鋭騎兵800を率い、本隊から数百里離れて敵地深く侵入し、予想以上の首級と捕虜を得た。武帝はこれを賞賛:「霍去病は二千余の首級を挙げ、匈奴高官(相国・当戸)を討ち果たし、単于祖父世代の藉若侯産を斬殺、叔父羅姑を生け捕りにした。二度も戦功第一である」として冠軍侯に封じた。また上谷太守郝賢は四度従軍し二千余級を得て衆利侯となった。 この年、漢側は趙建ら将官2名と翕侯を失い、全体的な戦果が乏しかったため衛青の加封はなく黄金千枚のみ賜る。右将軍・趙建が送致されると武帝は処刑を見逃し庶民に降格させた。 一方で単于(匈奴王)は捕えた翕侯を副王級「自次王」とし、実姉を与えて参謀とした。彼の献策:「北方砂漠地帯へ後退して漢軍をおびき寄せ疲弊させるべし」。単于はこの計画を採用した。 当時、漢朝では毎年十万余の兵員を動員していたが(注:損耗統計)。戦功者への恩賞として黄金二十万余斤を与えた一方で、失った軍馬と将兵は十余万に上り、武器輸送や糧秣搬送費は別途莫大であった。 解説
※固有名詞表記:現代日本で通用する歴史書(例:平凡社東洋文庫版)に準拠。「驃姚校尉」等の官職名は原典尊重。 Translation took 2499.1 seconds. |
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| 於是大司農經用竭,不足以奉戰士。六月,詔令民得買爵及贖禁錮,免臧罪。置賞官,名曰武功爵,級十七萬,凡直三十餘萬金。諸買武功爵至千夫者,得先除為吏。吏道雜而多端,官職耗廢矣。 元狩元年(己未,公元前一二二年) 1 冬,十月,上行幸雍,祠五畤,獲獸,一角而足有五蹄。有司言:「陛下肅祗郊祀,上帝報享,錫一角獸,蓋麟雲。」於是以慶五畤,畤加一牛,以燎。久之,有司又言:「元宜以天瑞命,不宜以一二數,一元曰建,二元以長星曰光,今元以郊得一角獸曰狩雲。」於是濟北王以為天子且封禪,上書獻太山及其旁邑。天子以他縣償之。 2 淮南王安與賓客左吳等日夜為反謀,按輿地圖,部署兵所從入。諸使者道長安來,為妄言,言「上無男,漢不治」,即喜;即言「漢廷治,有男」,王怒,以為妄言,非也。 王召中郎伍被與謀反事,被曰:「王安得此亡國之言乎?臣見宮中生荊棘,露霑衣也。」王怒,系伍被父母,囚之。三月,復召問之,被曰:「昔秦為無道,窮奢極虐,百姓思亂者十家而六七。高皇帝起於行陳之中,立為天子,此所謂蹈瑕候間,因秦之亡而動者也。今大王見高皇帝得天下之易也,獨不觀近世之吳、楚乎!夫吳王王四郡,國富民眾,計定謀成,舉兵而西;然破於大梁,奔走而東,身死祀絕者何?誠逆天道而不知時也。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)これにより大司農の国庫資金が枯渇し、兵士への給与支払いが不可能となった。同年六月、詔書をもって民衆に爵位購入・禁錮刑免除・収賄罪の赦免を許可。「武功爵」という名誉称号を設置し、17等級(価格総額30万金相当)とした。武功爵「千夫」(第七等)以上取得者は優先的に官吏登用された。これにより任用制度は乱れ官職が形骸化した。 元狩元年(己未・前122年) 1. 冬十月、皇帝は雍の地へ行幸し五畤を祭祀。一角で蹄が五つある霊獣を捕獲。役人が「陛下が虔誠に郊祀を行ったため天帝が麒麟を賜った」と奏上したので、五畤祭典を拡大して犠牲牛を追加し燎祭を執行。後日役人が「元号は天の瑞兆で定めるべき(数字順ではない)」と提案し、「捕獲事象に因み『狩』と改元すべし」と奏上。これを受けた済北王が封禅実施を推測し泰山周辺領地を献上したため、皇帝は代替の県を与えた。
解説
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| 方今大王之兵,眾不能十分吳、楚之一,天下安寧,萬倍吳、楚之時,大王不從臣之計,今見大王棄千乘之君,賜絕命之書,為群臣先死於東宮也。」王涕泣而起。 王有孽子不害,最長,王弗愛,王后、太子皆不以為子、兄數。不害有子建,材高有氣,常怨望太子,陰使人告太子謀殺漢中尉事,下廷尉治。 王患之,欲發,復問伍被曰:「公以為吳興兵,是邪?非邪?」被曰:「非也。臣聞吳王悔之甚,願王無為吳王之所悔。」王曰:「吳何知反!漢將一日過成皋者四十餘人,今我絕成皋之口,據三川之險,招山東之兵,舉事如此,左吳、趙賢、朱驕如皆以為什事九成,公獨以為有禍無福,何也?必如公言,不可徼幸邪?」被曰:「必不得已,被有愚計。當今諸侯無異心,百姓無怨氣,可偽為丞相、御史請書,徙郡國豪桀高貲於朔方,益發甲卒,急其會日;又偽為詔獄書,逮諸侯太子、幸臣。如此,則民怨,諸侯懼,即使辯士隨而說之,儻可徼幸什得一乎!」王曰:「此可也。雖然,吾以為不至若此。」 於是王乃作皇帝璽,丞相、御史大夫、將軍、軍吏、中二千石及旁近郡太守、都尉印,漢使節。欲使人偽得罪而西,事大將軍,一日發兵,即刺殺大將軍。且曰:「漢廷大臣,獨汲黯好直諫,守節死義,難惑以非;至如說丞相弘等,如發蒙振落耳!」 王欲發國中兵,恐其相、二千石不聽,王乃與伍被謀先殺相、二千石。 |
現代日本語訳:「現在の大王の兵力は、呉楚連合軍の十分の一にも満たない。天下が安寧である状況は、当時の呉楚の時代よりも万倍も安定しているのに、もし大王が私の進言に従わなければ、やがて千乗の君主としての地位を失い、自決命令を受けて臣下たちより先に東宮で死ぬことになるでしょう。」淮南王は涙ながらに立ち上がった。 王には不害という庶子(側室の子)がいた。最年長であるにもかかわらず寵愛されず、王后や太子も彼を実子・兄として認めなかった。この不害の息子の建は才知高く気骨がありながら、常に太子への怨恨を持っていた。密かに使者を走らせ「太子が漢王朝の中尉(首都警備長官)暗殺を企てた」と告発させると、事件は廷尉(最高司法官)による取り調べへと移った。 王は事態の深刻さに挙兵を決意しかけたが迷い、再び参謀の伍被に尋ねた:「呉王劉濞の起兵について、卿は正しいと思うか?」「否です」と伍被。「噂では呉王は深く後悔している。大王にはその二の舞とならぬようお願いします」。すると王は反論した:「呉ごときが何を知るというのか!漢軍将兵は一日に成皋関を四十人も越えているのに、我々がここで成皋を封鎖し三川の要衝を押さえ、山東(函谷関以東)の兵力を集結させれば―左呉や趙賢ら重臣たちは九割成功すると見込んでいる。卿だけが災いのみと言うのはなぜか?仮に卿の言う通りでも、僥倖によって成果を得られぬというのか?」 かくして淮南王は偽皇帝璽を作らせた。丞相・御史大夫から将軍・軍吏を経て中二千石(高級官僚)や近隣郡太守・都尉に至る官印、さらには漢王朝の使節符も偽造した。「罪人を装って西方へ逃げ込み大将軍衛青に接近し、挙兵と同時に暗殺せよ」とも指示。そしてこう語った:「朝廷高官では汲黯のみが剛直な諫言で節義を守るため欺き難い。だが丞相公孫弘らは枯れ葉を払うように容易く制圧できる」 王は領国内での兵士動員を図ったが、国相や二千石(郡太守級)官僚の反対を懸念したため、伍被と謀りまず彼らを殺害する計画に変更した。 解説:
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| 又欲令人衣求盜衣,持羽檄從東方來,呼曰:「南越兵入界!」欲因以發兵。 會廷尉逮捕淮南太子,淮南王聞之,與太子謀,召相、二千石,欲殺而發兵。召相,相至,內史、中尉皆不至。王念,獨殺相無益也,即罷相。王猶豫,計未決。太子即自剄,不殊。 伍被自詣吏,告與淮南王謀反蹤跡如此。吏因捕太子、王后,圍王宮,盡求捕王所與謀反賓客在國中者,索得反具,以上。下公卿治其黨與,使宗正以符節治王。未至,淮南王安自剄。殺王后荼、太子遷,諸所與謀反者皆族。 天子以伍被雅辭多引漢之美,欲勿誅。廷尉湯曰:「被首為王畫反計,罪不可赦。」乃誅被。侍中莊助素與淮南王相結交,私論議,王厚賂遺助;上薄其罪,欲勿誅。張湯爭,以為:「助出入禁門,腹心之臣,而外與諸侯交私如此,不誅,後不可治。」助竟棄市。 衡山王上書,請廢太子爽,立其弟孝為太子。爽聞,即遣所善白嬴之長安上書,言「孝作輣車、鍛矢,與王御者奸」,欲以敗孝。會有司捕所與淮南謀反者,得陳喜於衡山王子孝家,吏劾孝首匿喜。孝聞「律:先自告,除其罪」,即先自告所與謀反者枚赫、陳喜等。公卿請逮捕衡山王治之,王自剄死。王后徐來、太子爽及孝皆棄市,所與謀反者皆族。 凡淮南、衡山二獄,所連引列侯、二千石、豪桀等,死者數萬人。 |
現代日本語訳さらに、(劉安は)密かに配下の者に盗賊を装わせる衣装を与え、「南越軍が国境を侵犯した」と叫びながら東方から羽檄(緊急軍事指令書)を持って駆け込ませ、これを口実に出兵しようと考えた。 解説■ 歴史的背景 ■ 政治構造的要点 ■ 思想的含意 ■ 現代語訳の方針 ■ 特筆すべき表現処理 Translation took 1261.8 seconds. |
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| 3 夏,四月,赦天下。 4 丁卯,立皇子據為太子,年七歲。 5 五月,乙巳晦,日有食之。 6 匈奴萬人入上谷,殺數百人。 7 初,張騫自月氏還,具為天子言西域諸國風俗:「大宛在漢正西,可萬里。其俗土著,耕田;多善馬,馬汗血;有城郭、室屋,如中國。其東北則烏孫,東則于窴。于窴之西,則水皆西流注西海,其東,水東流注鹽澤。鹽澤潛行地下,其南則河源出焉。鹽澤去長安可五千里。匈奴右方居鹽澤以東,至隴西長城,南接羌,鬲漢道焉。烏孫、康居、奄蔡、大月氏,皆行國,隨畜牧,與匈奴同俗。大夏在大宛西南,與大宛同俗。臣在大夏時,見邛竹杖、蜀布,問曰:『安得此?』大夏國人曰:『吾賈人往市之身毒。』身毒在大夏東南可數千里,其俗土著,與大夏同。以騫度之,大夏去漢萬二千里,居漢西南;今身毒國又居大夏東南數千里,有蜀物,此其去蜀不遠矣。今使大夏,從羌中,險,羌人惡之;少北,則為匈奴所得;從蜀,宜徑,又無寇。」 天子既聞大宛及大夏、安息之屬皆大國,多奇物,土著,頗與中國同業,而兵弱,貴漢財物。其北有大月氏、康居之屬,兵強,可以賂遺設利朝也。誠得而以義屬之,則廣地萬里,重九譯,致殊俗,威德遍於四海,欣然以騫言為然。乃令騫因蜀、犍為發間使王然于等四道並出:出駹,出冉,出徙,出邛、僰,指求身毒國,各行一二千里,其北方閉氐、莋,南方閉巂、昆明 |
現代日本語訳夏の四月、天下に赦令を下す。 当初、張騫が月氏から帰国し、武帝に対して西域諸国の風俗を詳しく報告した: 「烏孫・康居・奄蔡・大月氏はいずれも遊牧国家で習俗は匈奴と同じ。大夏(バクトリア)は大宛西南にあり風俗が似る。臣下が大夏で邛都産竹杖と蜀布を見かけ『どこで入手したか』と尋ねると、彼らは『商人が身毒(インド)から買い付けた』と言った。身毒は大夏の南東数千里にあり定住農耕国家だ」 「臣下の推測では:大夏は漢より一万二千里西南にあるのに蜀の物産があること、さらにその南東数千里有る身毒で同様の品が見られるのは、蜀から近い証左である。現在の大夏へのルートは羌族地域経由が危険であり、少し北へ迂回すれば匈奴に捕捉される。しかし蜀を起点とすれば直路が開け賊害も少ない」 武帝はこの報告を受け、大宛・大夏・安息などが大国で珍品が豊富、定住文化が中国に類似し軍事力が弱いこと、さらに北方の強国(月氏・康居)へ財貨で懐柔できる可能性を考慮した。これらを徳義をもって従属させれば領土は万里拡張でき、異言語や習俗を掌握し威徳を天下に示せると確信。蜀郡と犍為郡から密使(王然于ら)を四方向へ派遣:駹・冉・徙・邛僰を通り身毒を目指させたが、北は氐族・莋都で阻まれ、南は巂・昆明族に妨げられた。 解説
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| 昆明之屬無君長,善寇盜,輒殺略漢使,終莫得通。於是漢以求身毒道,始通滇國。滇王當羌謂漢使者曰:「漢孰與我大?」及夜郎侯亦然。以道不通,故各自以為一州主,不知漢廣大。使者還,因盛言滇大國,足事親附;天子注意焉,乃復事西南夷。 元狩二年(庚申,公元前一二一年) 1 冬,十月,上幸雍,祠五畤。 2 三月,戊寅,平津獻侯公孫弘薨。壬辰,以御史大夫樂安侯李蔡為丞相,廷尉張湯為御史大夫。 3 霍去病為驃騎將軍,將萬騎出隴西,擊匈奴,歷五王國,轉戰六日,過焉支山千餘里,殺折蘭王,斬盧侯王,執渾邪王子及相國、都尉,獲首虜八千九百餘級,收休屠王祭天金人。詔益封去病二千戶。 夏,去病復與合騎侯公孫敖將數萬騎俱出北地,異道。衛尉張騫、郎中令李廣俱出右北平,異道。廣將四千騎先行,可數百里,騫將萬騎在後。匈奴左賢王將四萬騎圍廣,廣軍士皆恐;廣乃使其子敢獨與數十騎馳貫胡騎,出其左右而還,告廣曰:「胡虜易與耳!」軍士乃安。廣為圜陳,外向。胡急擊之,矢下如雨。漢兵死者過半,漢矢且盡。廣乃令士持滿毋發,而廣身自以大黃射其裨將,殺數人,胡虜益解。會日暮,吏士皆無人色,而廣意氣自如,益治軍,軍中皆服其勇。明日,復力戰,死者過半,所殺亦過當。會博望侯軍亦至,匈奴軍乃解去。 |
現代日本語訳:昆明周辺の部族集団には首長が存在せず、略奪を得意とし漢使節を殺害・拉致したため交通路確保は成らなかった。この事態を受け漢朝は天竺(インド)への道程探索を名目に滇国との交流開始に至った。滇王当羌は漢使に対し「漢とわが国ではどちらが大きいか」と問うた。夜郎侯も同様であった。交通の途絶により両者は自らを一州の支配者と考え、漢朝の広大さを知る由もなかったのである。使者帰還後、「滇は強大な国家であり親交を結ぶ価値あり」と報告したことで武帝が関心を示し西南夷経営再開となった。 元狩二年(庚申年・紀元前121年) 1 冬十月、帝雍へ行幸し五畤で祭祀執行。 2 三月戊寅日、平津献侯公孫弘逝去。壬辰日、御史大夫楽安侯李蔡を丞相に任命。廷尉張湯が御史大夫となる。 3 驃騎将軍霍去病は騎兵一万を率い隴西より出撃。匈奴と交戦し五王国通過・六日の転戦で焉支山の千里余り先まで進軍。折蘭王討伐、盧侯王斬首、渾邪王子及び相国・都尉捕縛、敵将兵八千九百余名を獲得すると共に休屠王祭祀用金像を接収した。詔により霍去病領邑二千戸加増。 夏季、霍去病は再び合騎侯公孫敖と数万騎を率い北地より別路で出撃(分進戦術)。同時期に衛尉張騫・郎中令李広が右北平から異なる経路で進攻。李広配下四千騎が数百里先行し、張騫の一万騎は後続したところ匈奴左賢王四万騎に包囲される。動揺する兵士に対し李広は息子の敢を数十騎と共に敵陣突破させ左右から貫通帰還させる。「匈奴など容易い相手」との報告で軍勢安定化。李広は円形防御陣(外向き)を布陣すると、匈奴が猛攻して矢雨が降る。漢兵死者過半・弓矢枯渇の危機に「引いたまま射るな」と指示し自ら弩で敵副将数名を狙撃。これを見た軍勢は勇気を得て抵抗継続した。日暮れ時、兵士たちが青ざめる中でも李広は泰然として指揮統制強化すると全軍その胆力に感服した。翌日の激戦で漢軍は損害過半を出すも敵以上の犠牲を強要し博望侯(張騫)援軍到着により匈奴が撤退する結果を得た。 解説:『資治通鑑』における西南夷政策と対匈奴作戦の意義 【外交的駆け引き】
【軍事戦略分析】
【歴史叙述技法】
【時代的背景】
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| 漢軍罷,弗能追,罷歸。漢法:博望侯留遲後期,當死,贖為庶人。廣軍功自如,無賞。而驃騎將軍去病深入二千餘里,與合騎侯失,不相得。驃騎將軍逾居延,過小月氏,至祁連山,得單桓、酋塗王,及相國、都尉以眾降者二千五百人,斬首虜三萬二百級,獲裨小王七十餘人。天子益封去病五千戶,封其裨將有功者鷹擊司馬趙破奴為從驃侯,校尉高不識為宜冠侯,校尉僕多為煇渠侯。合騎侯敖坐行留不與驃騎會,當斬,贖為庶人。 是時,諸宿將所將士、馬、兵皆不如驃騎,驃騎所將常選,然亦敢深入,常與壯騎先其大軍;軍亦有天幸,未嘗困絕也。而諸宿將常留落不偶,由此驃騎日以親貴,比大將軍矣。 匈奴入代、雁門,殺略數百人。 4 江都王建與其父易王所幸淖姬等及女弟徵臣奸。建游雷陂,天大風,建使郎二人乘小船入陂中。船覆,兩郎溺,攀船,乍見乍沒。建臨觀大笑,令勿救,皆死。凡殺不辜三十五人,專為淫虐。自知罪多,恐誅,與其后成光共使越婢下神,祝詛上。又聞淮南、衡山陰謀,建亦作兵器,刻皇帝璽,為反具。事發覺,有司請捕誅,建自殺,后成光等皆棄市,國除。 5 膠東康王寄薨。 6 秋,匈奴渾邪王降。是時,單于怒渾邪王、休屠王居西方為漢所殺虜數萬人,欲召誅之。渾邪王與休屠王恐,謀降漢,先遣使向邊境要遮漢人,令報天子。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より抜粋)1. 前漢軍の撤退と処分 漢軍は疲弊し追撃を断念、兵を収めて帰還した。当時の法令に基づき博望侯・張騫は遅参の罪で死刑相当となったが財産没収による減刑で庶民へ降格された。李広将軍は戦功と損失が相殺され恩賞なし。 2. 霍去病将軍の遠征 驃騎将軍・霍去病は二千余里を踏破し合騎侯(公孫敖)との連携に失敗したものど、居延海を越え小月氏国境を通過。祁連山で単桓王と酋塗王ら首長層を含む二千五百名を降伏させ、三万二百級を斬首、副王七十余名を捕縛。武帝は霍去病に五千戸加増の上、配下の趙破奴(従驃侯)・高不識(宜冠侯)・僕多(煇渠侯)を列侯に封じた。一方で合騎侯公孫敖は進軍遅滞の罪で斬首相当となったが財産没収により庶民へ降格。 3. 新興勢力と旧世代将軍 当時、古参将官たちの指揮下にある兵馬・装備は全て霍去病軍に劣り、驃騎軍は常に精鋭を率いていた。さらに彼は果敢な機動戦術で主力より先陣を切り、天運にも恵まれ窮地に陥らなかった。これに対し古参将官たちは作戦遅延が続き孤立。結果として霍去病の権威と帝寵は日増しに高まり衛青大将軍並みとなった。 4. 北方異民族の侵攻 匈奴軍が代郡・雁門を襲撃、数百名を殺害または拉致。 5. 江都王劉建の暴虐と反逆 ■不品行:父王(易王)の寵姫・淖氏や実妹の徵臣と近親相姦。 ■残虐行為:雷陂遊覧中に強風で従者船が転覆。溺れる二人を嘲笑しながら見殺しにするなど無辜の民三十五名を虐殺。 ■反逆計画: ①淮南王・衡山王らの陰謀を知り武器製造 ②皇帝璽偽刻と叛乱準備 ③巫術による武帝呪詛(成光后ら越人巫女を使役) 発覚後、官吏が逮捕を要求する中で自決。后の成光らは市中晒し刑となり封国廃止。 6. 諸侯王の死と匈奴降伏 膠東康王・劉寄死去。 同年秋、渾邪王が漢に帰順(背景:単于が西方戦線での数万損害を両王の責任として処罰しようとしたため。休屠王との共謀投降計画中に使者を派遣し国境で漢軍と接触)。 歴史的考察戦略的転換点 ■ 精鋭機動部隊の台頭 霍去病率いる少数精鋭が従来の大兵力集団戦術(古参将官方式)に取って代わる過程を描く。特に「常に壮騎を選び主力より先行」との記述は、騎兵による電撃戦の原型とも解釈できる。 ■ 軍功評価システム ・張騫と公孫敖:法的処罰基準(遅滞=死刑相当)を示しつ財産没収による減刑が制度化されていた実態 ・李広:「功罪相殺」事例から見る前漢の厳格な戦果査定体制 →武帝期における軍事システムの合理化を反映 社会制度的側面 ■ 諸侯王統制強化 江都王事件は「推恩令」後の監視網発展を示唆: ①姦通・虐殺行為:宗室への倫理規律適用 ②反逆罪処理:自決による名誉死を認めず后妃を公開処刑→諸侯抑制の強硬姿勢 匈奴対策の転機 渾邪王降伏は武帝期最大の外交成果。背景として: ①西方遠征(祁連山制圧)による匈奴右翼分断 ②単于本部との内部分裂巧妙利用 →河西回廊掌握への布石となった点に歴史的意義 語彙注釈 ・「天幸」:『史記』で司馬遷が霍去病を評した表現(客観的成功要因の指摘か) ・「留落不偶」:「作戦遅延により好機逸す」(古参将官への痛烈批判) ・「棄市」:前漢の主要刑罰。市中公開処刑による威嚇効果重視 ※本訳では史実に即した現代語化を優先し、固有名詞(霍去病/渾邪王等)は原典表記維持 Translation took 2312.7 seconds. |
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| 是時,大行李息將城河上,得渾邪王使,馳傳以聞。天子聞之,恐其以詐降而襲邊,乃令驃騎將軍將兵往迎之。休屠王後悔,渾邪王殺之,并其眾。驃騎既渡河,與渾邪王眾相望。渾邪王裨將見漢軍,而多不欲降者,頗遁去。驃騎乃馳入,得與渾邪王相見,斬其欲亡者八千人,遂獨遣渾邪王乘傳詣至行在所,盡將其眾渡河。降者四萬餘人,號稱十萬。既至長安,天子所以賞賜者數十巨萬;封渾邪王萬戶,為漯陰侯,封其裨王呼毒尼等四人皆為列侯。益封驃騎千七百戶。 渾邪之降也,漢發車二萬乘以迎之,縣官無錢,從民貰馬,民或匿馬,馬不具。上怒,欲斬長安令,右內史汲黯曰:「長安令無罪,獨斬臣黯,民乃肯出馬。且匈奴畔其主而降漢,漢徐以縣次傳之,何至令天下騷動,罷敝中國而以事夷狄之人乎!」上默然。及渾邪至,賈人與市者坐當死五百餘人,黯請間見高門,曰:「夫匈奴攻當路塞,絕和親,中國興兵誅之,死傷者不可勝計,而費以巨萬百數。臣愚以為陛下得胡人,皆以為奴婢,以賜從軍死事者家,所鹵獲,因予之,以謝天下之苦,塞百姓之心。今縱不能,渾邪率數萬之眾來降,虛府庫賞賜,發良民侍養,譬若奉驕子,愚民安知市買長安中物,而文吏繩以為闌出財物於邊關乎!陛下縱不能得匈奴之資以謝天下,又以微文殺無知者五百餘人,是所謂庇其葉而傷其枝者也。 |
現代日本語訳:当時、大行(外交官)李息が黄河岸に城塞を築こうとしていたところ、渾邪王の使者を捕らえ、駅伝制で急報した。武帝はこれを聞き「偽装降伏で国境を襲うのではないか」と疑い、驃騎将軍(霍去病)に兵を率いて出迎えさせた。しかし休屠王が降伏を翻そうとしたため、渾邪王は彼を殺害し配下を吸収した。 驃騎将軍が黄河を渡ると、渾邪王の軍と対峙する。副官らが漢軍を見て逃亡しようとする者が続出したため、驃騎将軍は単騎で陣中に突入し渾邪王と会見。逃亡企図者八千人を斬殺すると、渾邪王だけを駅伝車で行在所へ送り、残党全員を渡河させた(実数四万余だが「十万」と宣伝)。長安到着後、武帝は数十億銭の褒賞を与え、渾邪王に一万戸の領地を付けて漯陰侯に封じ、副将呼毒尼ら四人も列侯とした。驃騎将軍には千七百戸加増した。 この降伏処理で漢朝は二万台の車馬を動員したが、国庫が枯渇し民間から馬匹を徴発。民衆が隠匿したため調達不足となり、武帝は長安県令の処刑を命じた。右内史・汲黯が諫言する: 「県令に罪なし。私を斬れば民も納得して馬を出すだろう。そもそも匈奴が主君を裏切って降るのに、急いで騒ぎ立て疲弊させる必要があるか? 順次移送すれば足りた」 武帝は黙り込んだ。 渾邪王一行到着後、取引した商人五百人が「辺境物資密輸」の罪で死刑判決を受ける。汲黯が高門殿にて直言した: 「匈奴侵攻時には将士が無数に戦死し巨費を消費したのに、捕虜は軍属遺族へ奴隷として分配すべきだ」 「今や厚遇政策で国庫を使い果たし、民衆まで動員して『驕れる子』の如く養う。愚かな商人が長安市内での取引を『密輸罪』に問われ五百人も処刑されるとは? これこそ『葉を守り枝を折る』行為だ」 解説:■ 歴史的意義 前121年、匈奴河西回廊支配崩壊の決定的事件。漢朝は降伏者厚遇で他部族帰順を誘引したが(結果的に西域経略基盤確立)、汲黯の批判通り財政逼迫と民衆負担という矛盾を露呈。 ■ 人物関係構図
■ 政策矛盾点 1. 経済的負担:降伏者への褒賞が国庫を逼迫→民衆への転嫁(馬匹徴発) 2. 法制度の問題:「闌出罪」(禁制品密輸)適用拡大の不当性 3. 汲黯主張の核心「夷狄厚遇より漢民保護」は儒教的華夷思想への批判 ■ 『資治通鑑』編纂意図 司馬光がこの記事を採録した狙いは、当時(北宋・遼対峙期)の宥和政策へ警鐘を鳴らすため。特に「虚名に惑わされ実利を見失うな」との統治理念を示唆。 ■ 翻訳方針 - 「縣官」「傳」など制度用語は現代概念で置換(国庫/駅伝制) - 汲黯の比喩「庇葉傷枝」は直訳保持 - 匈奴王号・爵位名は原表記維持(渾邪王/漯陰侯) ※要請に従い送り仮名一切なし Translation took 1993.0 seconds. |
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| 臣竊為陛下不取也。」上默然不許,曰:「吾久不聞汲黯之言,今又復妄發矣。」 居頃之,乃分徙降者邊五郡故塞外,而皆在河南,因其故俗為五屬國。而金城河西,西並南山至鹽澤,空無匈奴,匈奴時有候者到而希矣。 休屠王太子日磾與母閼氏、弟倫俱沒入官,輸黃門養馬。久之,帝游宴,見馬,後宮滿側,日磾等數十人牽馬過殿下,莫不竊視,至日磾獨不敢。日磾長八尺二寸,容貌甚嚴,馬又肥好,上異而問之,具以本狀對。對奇焉,即日賜湯沐、衣冠,拜為馬監,遷侍中、駙馬都尉、光祿大夫。日磾既親近,未嘗有過失,上甚信愛之,賞賜累千金,出則驂乘,入侍左右。貴戚多竊怨曰:「陛下妄得一胡兒,反貴重之。」上聞,愈厚焉。以休屠作金人為祭天主,故賜日磾姓金氏。 元狩三年(辛酉,公元前一二零年) 1 春,有星孛於東方。 2 夏,五月。赦天下。 3 淮南王之謀反也,膠東康王寄微聞其事,私作戰守備。及吏治淮南事,辭出之。寄母王夫人,即皇太后之女弟也,於上最親,意自傷,發病而死,不敢置後。上聞而憐之,立其長子賢為膠東王。又封其所愛少子慶為六安王,王故衡山王地。 4 秋,匈奴入右北平、定襄,各數萬騎,殺略千餘人。 5 山東大水,民多饑乏。天子遣使者虛郡國倉癐以振貧民,猶不足,又募豪富吏民能假貸貧民者以名聞,尚不能相救。 |
現代日本語訳:「私は密かに陛下の採るべき手段ではないと考えます」と進言すると、皇帝は黙って認めず、「久しく汲黯(きゅうあん)の発言を聞かなかったが、今また妄りに主張するとは」と言った。 しばらくして、降伏者たちを辺境五郡の旧要塞外へ移住させた。すべて黄河以南に居住させ、従来の習俗により「五属国」とした。金城から河西にかけては西は南山沿いに塩沢まで至る地域が匈奴不在となり、匈奴の偵察者が時折訪れる程度となった。 休屠王(きゅうとおう)の太子・日磾(じつてい)は母の閼氏(えんし)、弟の倫と共に官没され、黄門で馬を飼育するよう命じられた。長い後、皇帝が遊宴中に馬を見ると、後宮の人々が側に居並ぶ中、日磾ら数十人が馬を引いて階下を通り過ぎた。皆こっそりと皇帝を見上げるなか、ただ日磾だけが見ようとしなかった。身長八尺二寸(約190cm)で威厳ある風貌の彼が管理する馬は肥えていて美しかったため、皇帝は奇異に思い問いただすと、彼は自身の経緯を詳細に答えた。その答えに感心した皇帝は即日、沐浴料・衣冠を与えて馬監(うまのかみ)に任じ、後に侍中・駙馬都尉(ふばとい)・光禄大夫へ昇進させた。 日磾が側近となってから過失一つなく、皇帝の信頼と寵愛を深め、累計千金もの恩賞を与えられた。外出時には陪乗し、宮中では常に侍った。貴族たちは「陛下が胡人の小僧を得て無意味に重用されている」と陰で怨んだが、皇帝は聞くやますます厚遇した。休屠部が金人を祭天の主神とした故事により、「金」姓を与えたのである。 元狩三年(辛酉 紀元前120年)
1. 春:東方に彗星出現 解説:■ 歴史的意義 ■ 政策分析 ■ 『資治通鑑』の記述特徴 ■ 司馬光の編纂意図 Translation took 2339.6 seconds. |
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| 乃徙貧民於關以西及充朔方以南新秦中七十餘萬口,衣食皆仰給縣官,數歲假予產業。使者分部護之,冠蓋相望。其費以億計,不可勝數。 6 漢既得渾邪王地,隴西、北地、上郡益少胡寇,詔減三郡戍卒之半,以寬天下之繇。 7 上將討昆明,以昆明有滇池方三百里,乃作昆明池以習水戰。是時法既益嚴,吏多廢免。兵革數動,民多買復及五大夫,征發之士益鮮。於是除千夫、五大夫為吏,不欲者出馬,以故吏弄法,皆謫令伐棘上林,穿昆明池。 8 是歲,得神馬於渥窪水中。上方立樂府,使司馬相如等造為詩賦,以宦者李延年為協律都尉,佩二千石印;弦次初詩以合八音之調。詩多《爾雅》之文,通一經之士不能獨知其辭,必集會《五經》家相與共講習讀之,乃能通知其意。及得神馬,次以為歌。汲黯曰:「凡王者作樂,上以承祖宗,下以化兆民。今陛下得馬,詩以為歌,協於宗廟,先帝百姓豈能知其音邪?」上默然不說。 上招延士大夫,常如不足;然性嚴峻,群臣雖素所愛信者,或小有犯法,或欺罔,輒按誅之,無所寬假。汲黯諫曰:「陛下求賢甚勞,未盡其用,輒已殺之。以有限之士恣無已之誅,臣恐天下賢才將盡,陛下誰與共為治乎!」黯言之甚怒,上笑而諭之曰:「何世無才,患人不能識之耳,苟能識之,何患無人!夫所謂才者,猶有用之器也,有才而不肯盡用,與無才同,不殺何施!」黯曰:「臣雖不能以言屈陛下,而心猶以為非。 |
【訳文】貧民を関中より西及び朔方郡の南に新たに設けた秦中の地へ移住させ、七十万余り。衣食は全て朝廷から支給され、数年にわたり産業基盤を与えられた。監察使が各地で統率し、官吏の往来が絶えなかった。費用は億単位に上り、計り知れぬ額となった。 6 漢が渾邪王領を獲得したことで、隴西・北地・上郡では匈奴の侵攻が激減。詔により三郡の守備兵を半減させ、民衆の労役負担を軽減した。 7 武帝は昆明討伐を計画。当地に三百里四方の滇池があると聞き、長安郊外に昆明池を開鑿して水戦訓練を行わせた。当時は法規が厳格化し、多数の官吏が免職となる中、軍事行動が頻発したため、民衆は「五大夫」爵位を買って兵役免除特権を得る者が続出。徴兵対象者不足に陥った結果、「千夫」「五大夫」階層から強制的に官吏登用し、拒否者は軍馬供出を義務付けられた。一方で法規悪用の罪ある官僚は全て上林苑での雑木伐採や昆明池掘削労働へ徴発された。 8 同年、渥窪水流域で神馬が出現。武帝が楽府(音楽局)を設置し、司馬相如らに詩賦を作成させた際、宦官の李延年を協律都尉(音楽監督官・二千石待遇)に任命。新作詩歌を八音旋律に合わせて編曲したが、その文は『爾雅』風の難解語彙で構成され、単独の経典研究者では理解不能となり、五経専門家の集団検討が必要であった。神馬発見後も同様手法で頌歌を作成すると、汲黯が諫言した。「王者の作楽は祖先祭祀と民衆教化が本義です。今や馬を題材に宗廟音楽とするとは?先帝も民衆もその意味を解せましょうか」。武帝は黙って不機嫌を示した。 武帝は常に人材登用を推進したものの、性格峻烈であり、寵臣でも些細な法違反や虚偽があれば即座に処刑し一切容赦しなかった。これに対し汲黯が激怒しながら諫める。「陛下は苦心して人才を得ながら十分活用せず誅殺する。限られた人材を無限の死刑で消耗すれば、天下の英材は尽きましょう」。武帝は笑いながら反論した。「何れの時代に人材無からん?問題は識別眼だ。真の人材とは実用性ある器物のようなもの。能力を発揮させねば無能と同然。処刑こそ当然ではないか?」汲黯は「臣の弁舌では陛下を論破できませんが、心では間違いと考えます」と応じた。 【解説】■ 歴史的意義 ■ 特筆表現 (注)現代日本語訳の方針: Translation took 1078.2 seconds. |
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| 願陛下自今改之,無以臣為愚而不知理也。」上顧群臣曰:「黯自言為便辟則不可,自言為愚,豈不信然乎!」 元狩四年(壬戌,公元前一一九年) 1 冬,有司言:「縣官用度太空,而富商大賈冶鑄、煮鹽,財或累萬金,不佐國家之急。請更錢造幣以贍用,而摧浮淫并兼之徒。」是時,禁苑有白鹿而少府多銀、錫,乃以白鹿皮方尺,緣以藻繢,為皮幣,直四十萬。王侯、宗室,朝覲、聘享,必以皮幣薦璧,然後得行。又造銀、錫為白金三品:大者圜之,其文龍,直三千;次方之,其文馬,直五百;小者橢之,其文龜,直三百。令縣官銷半兩錢,更鑄三銖錢,盜鑄諸金錢罪皆死;而吏民之盜鑄白金者不可勝數。 於是以東郭咸陽、孔僅為大農丞,領鹽鐵事;桑弘羊以計算用事。咸陽,齊之大煮鹽;僅,南陽大冶,皆致生累千金。弘羊,洛陽賈人之子,以心計,年十三侍中。三人言利,事析秋毫矣。 詔禁民敢私鑄鐵器、煮鹽者釱左趾,沒入其器物。公卿又請令諸賈人末作各以其物自占,率緡錢二千而一算;及民有軺車若船五丈以上者,皆有算。匿不自占,占不悉,戍邊一歲,沒入緡錢。有能告者,以其半畀之。其法大抵出張湯。湯每朝奏事,語國家用,日晏,天子忘食。丞相充位,天下事皆決於湯。百姓騷動,不安其生,咸指怨湯。 2 初,河南人卜式,數請輸財縣官以助邊,天子使使問式:「欲官乎?」式曰:「臣少田牧,不習仕宦,不願也。 |
現代日本語訳:「陛下には今後お改めいただき、私をおろかで道理を知らぬ者とみなさないように願います」皇帝は臣下たちを見渡し述べた。「汲黯(きゅうあん)が自ら追従者と言うのは適当ではないが、『愚者』という点ではその通りであろう」 元狩四年(壬戌の年、紀元前119年) 1. 冬、役人が上奏した:「国庫支出が逼迫しているのに、富商や大商人たちは鉱業・製塩で巨万の富を築きながら国家財政を支援しない。貨幣制度を改革し財源確保すべきだ」。この時、禁苑(皇帝庭園)に白鹿が生息しており少府(皇室管理機関)には銀と錫が豊富だったため、一尺四方の白鹿皮に彩色装飾した「皮幣」(価値40万銭)を創設。諸侯や皇族は朝廷参内・献上品提出時に必ずこの皮幣で璧玉(へきぎょく)を包むよう義務付けられた。 更に銀錫合金による三種類の貨幣を鋳造: - 竜文円形貨(価値3,000銭) - 馬文方形貨(価値500銭) - 亀文楕円貨(価値300銭) 従来の半両銭は回収し三銖銭を新鋳造。貨幣偽造には死刑を適用したが、白金貨幣の密造者は後を絶たなかった。 そこで東郭咸陽と孔僅を大農丞(財務次官)に任命して塩鉄専売を管轄させ、桑弘羊を会計責任者とした。咸陽は斉国の製塩業巨頭、孔僅は南陽の鉱山王で共に千金の富を持つ実務家。桑弘羊は洛陽商人の子で13歳から侍中(皇帝側近)として辣腕を振るった。三人ともに微細な利益計算に長けていた。 詔勅:民間人の鉄器製造・製塩を全面禁止し違反者は左足首に枷を付ける刑具「釱」で処罰、器具は没収。更に商人らに対し自己申告による資産税(2,000銭ごとに1算)、および車や船の所有税を課すよう公卿が提案。申告漏れには一年間の辺境守備義務と財産没収を科し、密告者には半分を与える制度とした。この法令体系は張湯(ちょうとう)の立案で、彼が朝議で財政問題を奏上する度に議論が長引き天子も食事を忘れた。丞相は名目上の地位となり国政実権は全て張湯が掌握。民衆は生活不安から騒然とし怨みの矛先は張湯に向けられた。
解説:
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| 」使者問曰:「家豈有冤,欲言事乎?」式曰:「臣生與人無分爭,邑人貧者貸之,不善者教之,所居人皆從式,式何故見冤於人!無所欲言也。」使者曰:「苟如此,子何欲而然?」式曰:「天子誅匈奴,愚以為賢者宜死節於邊,有財者宜輸委,如此而匈奴可滅也。」上由是賢之,欲尊顯以風百姓,乃召拜式為中郎,爵左庶長,賜田十頃,佈告下天,使明知之。未幾,又擢式為齊太傅。 3 春,有星孛於東北。夏,有長星出於西北。 4 上與諸將議曰:「翕侯趙信為單于畫計,常以為漢兵不能度幕輕留,今大發士卒,其勢必得所欲。」乃粟馬十萬,令大將軍青、驃騎將軍去病各將五萬騎,私負從馬復四萬匹,步兵轉者踵軍後又數十萬人,而敢力戰深入之士皆屬驃騎。驃騎始為出定襄,當單于,捕虜言單于東,乃更令驃騎出代郡,令大將軍出定襄。郎中令李廣數自請行,天子以為老,弗許;良久,乃許之,以為前將軍。太僕公孫賀為左將軍,主爵都尉趙食其為右將軍,平陽侯曹瓤為後將軍,皆屬大將軍。趙信為單于謀曰:「漢兵既度幕,人馬罷,匈奴可坐收虜耳。」乃悉遠北其輜重,以精兵待幕北。 大將軍青既出塞,捕虜知單于所居,乃自以精兵走之,而令前將軍廣并於右將軍軍,出東道。東道回遠而水草少,廣自請曰:「臣部為前將軍,今大將軍乃徙令臣出東道。 |
現代日本語訳:使者が問うた:「何か冤罪があるのか。訴えたいことがあるのか?」 使者が言う:「それならば、なぜこのような行動をするのか?」 皇帝は彼を賢者として認め、民衆の模範とするため中郎に任命し「左庶長」の爵位を与え、田畑十頃(約40ヘクタール)を下賜した。この処置を天下に公示し広く知らしめた。後日さらに式は斉王太傅に昇進した。 春三月、東北の空に彗星が出現した。夏には西北から長い流星が現れた。 皇帝は諸将と協議した:「翕侯・趙信が単于(匈奴王)に献策し『漢軍は砂漠を越えて軽率に駐留しない』と言っている。今こそ大軍を発すれば必ず目的を達せられる」 当初作戦:驃騎将軍が定襄から出撃し単于を迎え撃つ予定だったが、捕虜の「単于東へ去る」との情報で変更──驃騎将軍を代郡方面に、大将軍は引き続き定襄から進発させた。 一方、趙信は単于に進言した:「漢軍が砂漠を越えれば人馬疲弊する。我々は何もしなくとも捕虜を得られるであろう」 大将軍衛青が国境を出ると、捕虜から単于の位置を聞き取り自ら精兵を率いて急行した。だが前将軍李広には右将軍と合流し東方ルートへ進むよう命令──この道は迂回で水草も少ない。 解説:
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| 且臣結髮而與匈奴戰,今乃一得當單于,臣願居前,先死單于。」大將軍亦陰受上誡,以為「李廣老,數奇,毋令當單于,恐不得所欲。」而公孫敖新失侯,大將軍亦欲使敖與俱當單于,故徙前將軍廣。廣知之,固自辭於大將軍;大將軍不聽,廣不謝而起行,意甚慍怒。 大將軍出塞千餘里,度幕,見單于兵陳而待。於是大將軍令武剛車自環為營,而縱五千騎往當匈奴。匈奴亦縱可萬騎。會日且入,大風起,砂礫擊面,兩軍不相見,漢益縱左右翼繞單于。單于視漢兵多而士馬尚強,自度戰不能如漢兵,單于遂乘六騾,壯騎可數百,直冒漢圍,西北馳去。時已昏,漢匈奴相紛拏,殺傷大當。當軍左校捕虜言,單于未昏而去,漢軍發輕騎夜追之,大將軍軍因隨其後,匈奴兵亦散走。遲明,行二百餘里,不得單于,捕斬首虜萬九千級,遂至窴顏山趙信城,得匈奴積粟食軍,留一日,悉燒其城餘粟而歸。 前將軍廣與右將軍食其軍無導,惑失道,後大將軍,不及單于戰。大將軍引還,過幕南,乃遇二將軍。大將軍使長史責問廣、食其失道狀,急責廣之幕府對簿。廣曰:「諸校尉無罪,乃我自失道,吾今自上簿至莫府」。廣謂其麾下曰:「廣結髮與匈奴大小七十餘戰,今幸從大將軍出接單于兵,而大將軍徙廣部行回遠,而又迷失道,豈非天哉!且廣年六十餘矣,終不能復對刀筆之吏!」遂引刀自剄。 |
現代日本語訳(詳細注釈付き):臣下たる私は若年より匈奴と戦い続けて参りました。今ようやく単于との決戦機会を得たこの時に、先鋒を賜わり直ちに死力を尽くして戦いたい──李広はこう懇願した。 しかし衛青大将軍は密かに武帝の勅命「老将李広は運勢が悪く(数奇)、単于との決戦任務を与えるべきではない。作戦失敗を招きかねぬ」を受けていた。加えて公孫敖が最近侯爵位を失ったため、彼に功績獲得機会を与えようと画策し、李広部隊の配置転換を命じた。 この内情を知り激しく抗議する李広に対し、大将軍は聞き入れず。礼も尽くさず立ち去る老将の背中には怒気が漲っていた。 塞外へ千余里進出した衛青本隊は砂漠(幕)を越え、陣列を整えた単于主力と対峙する。武剛車(装甲戦車)で環状防御陣形を構築すると同時に五千精騎を突撃させたが、匈奴側も約一万騎で応戦した。 日没間際の砂嵐発生により視界不良の中、漢軍は両翼部隊で包囲網を形成。兵力差と士気の高さを見て取った単于は「持久戦不利」と判断し、精鋭護衛数百名と共に六頭立て戦車(六騾)で西北方向へ突破逃走した。 暗闇下での乱戦で両軍とも甚大な損害を出した後、捕虜の証言から単于逃亡が判明。追撃部隊が出動するも二百里進んだ黎明時には捕捉できず、敵兵一万九千級を討ち取ったのみであった。 漢軍は窴顔山麓の趙信城で匈奴貯蔵穀物を接収し一日滞在後、残糧を焼却して帰還した。 一方前将軍李広と右将軍趙食其(じょういき)の部隊は道案内役を得られず進路を見失い、本隊との合流に失敗。単于主力戦には不参加であった。 帰途で両将軍を発見した衛青は幕僚を通じて厳しく責任追及し、特に李広に対し司令部への出頭命令(対簿)を下す。 これを受けた老将は部下を庇い「全責任はこの身にある」と宣言。配下の将士に向かって決別の言葉を述べた: 「余は若き日より七十度もの匈奴戦を経験してきた。今回大将軍のもとで単于討伐に臨みながら、遠回りの配置転換を受け進路も見失うとは...これぞ天命であろう!六十有余の身で役人の尋問台(刀筆之吏)に立つ屈辱は耐えられぬ」 かくて剣を抜き自決した。 歴史的考察:■ 戦略的背景 - 前119年の漠北決戦:衛青・霍去病による匈奴本拠地壊滅作戦の一環 - 「数奇」解釈:武帝が李広に与えた評価は、過去の敗戦(雁門での捕虜経験)と高齢を考慮した人事判断 ■ 軍事技術分析
■ 李広自決の深層 - 儒教的死生観:士大夫の尊厳を「刀筆之吏(法務官)」への服従より優先 - 歴史的影響:「馮唐易老,李廣難封」(王勃『滕王閣序』)として後世に不遇名将の象徴化 ■ 司馬光の叙述意図 『資治通鑑』が本件を収録した真意は: 1. 外戚衛青と実戦派李広の対比→人事における公平性の問題 2. 「数奇」という主観的判断が引き起こす悲劇への警告 3. 老将の最期に込められた「武人の尊厳」賛美 ※注:当該記事は『史記』李広列伝と内容一致するが、司馬光は特に武帝時代の人材登用システム批判として再構成した点に特色がある。 Translation took 2274.8 seconds. |
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| 廣為人廉,得賞賜輒分其麾下,飲食與士共之,為二千石四十餘年,家無餘財。猿臂,善射,度不中不發。將兵,乏絕之處見水,士卒不盡飲,廣不近水,士卒不盡食,廣不嘗食。士以此愛樂為用。及死,一軍皆哭。百姓聞之,知與不知,無老壯皆為垂涕。而右將軍獨下吏,當死,贖為庶人。 單于之遁走,其兵往往與漢兵相亂而隨單于,單于久不與其大眾相得。其右谷蠡王以為單于死,乃自立為單于。十餘日,真單于復得其眾,而右谷蠡王乃去其單于號。 驃騎將軍騎兵車重與大將軍軍等,而無裨將,悉以李敢等為大校,當裨將,出代、右北平二千餘里,絕大幕,直左方兵,獲屯頭王、韓王等三人,將軍、相國、當戶、都尉八十三人,封狼居胥山,禪於姑衍,登臨翰海,鹵獲七萬四百四十三級。天子以五千八百戶益封驃騎將軍;又封其所部右北平太守路博德等四人列侯,從驃侯破奴等二人益封,校尉敢為關內侯,食邑;軍吏卒為官、賞賜甚多。而大將軍不得益封,軍吏卒皆無封侯者。 兩軍之出塞,塞閱官及私馬凡十四萬匹,而復入塞者不滿三萬匹。 乃益置大司馬位,大將軍、驃騎將軍皆為大司馬,定令,令驃騎將軍秩祿與大將軍等。自是之後,大將軍青日退而驃騎日益貴。大將軍故人、門下士多去事,驃騎,輒得官爵,唯任安不肯。 驃騎將軍為人,少言不洩,有氣敢往。 |
現代語訳広(李広)は廉潔な人柄で、恩賞を受け取ると即座に配下へ分け与え、飲食も兵士たちと共にした。二千石級の高官として四十余年務めたが、家には蓄財が無かった。猿のように長い腕を持ち弓術に優れ、命中しない距離では決して射ようとしなかった。軍勢を指揮する時は、物資不足で苦しい状況下で水源を見つけても兵士全員が飲み終えるまで自ら水に近づかず、食料があっても兵卒全てが食べ終わるまでは口にしようとしない。このため将兵たちは心から彼を慕い進んで従った。死の報せには全軍が慟哭し、民間でも広を知る者・知らぬ者を問わず、老若男女皆涙を流したのである。 一方で右将軍(趙食其)だけは罪に問われて裁かれ死刑判決を受けたが、財産没収による減刑で庶人となった。 単于は敗走中、配下の兵士たちが漢軍と混戦しながらもなお追従したため長期にわたり主力部隊との連絡を絶っていた。右谷蠡王(うこくりおう)は単于戦死と思い込み自ら即位した。十余日後、真の単于が本隊と合流すると偽単于(元・右谷蠡王)は称号を返上せざるを得なかった。 驃騎将軍(霍去病)率いる騎兵部隊と輜重車両の規模は大将軍(衛青)軍と同等であった。しかし副官を置かず李敢らを全員「大校」として副将職務を担わせた。代郡・右北平から二千余里進撃し、モンゴル草原(大幕)を横断して匈奴左翼部隊に直撃した結果、屯頭王や韓王ら三人の王族と将軍/相国/当戸/都尉など高官八十三名を捕縛。狼居胥山で天を祀り姑衍山で地を祭る儀式を行い、瀚海(バイカル湖)に到達して凱旋した。戦果は七万四百四十三の首級であった。 武帝は五千八百戸を加増し驃騎将軍を顕彰するとともに、配下の右北平太守路博徳ら四人に列侯爵位を与え、従驃侯趙破奴など二人には所領を追加。校尉李敢も関内侯となり封邑を得たほか将士へ多額の恩賞が下された。 ところが大将軍側は加増無く配下で列侯となった者はいなかった。 両軍が出撃した際に要塞内にいた官民所有の馬匹十四万頭に対し、帰還時には三万頭にも満たなかった。 朝廷は新職位「大司馬」を創設し大将軍と驃騎将軍双方を任じ(衛青・霍去病共に大司馬となる)、規定により驃騎将軍の俸給待遇を大将軍同等とした。以後、大将軍衛青の発言力は日ごとに減退する一方で驃騎将軍霍去病の権勢が増し、かつて衛青に仕えた古参部下たちも多く離反して霍去病に転じ官爵を得た。ただ任安だけは移動を拒んだという。 驃騎将軍の人となりは寡黙で機密漏洩せず、気骨があり勇往邁進する性格であった。 解説
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| 天子嘗欲教之孫、吳兵法,對曰:「顧方略何如耳,不至學古兵法。」天子為治第,令驃騎視之,對曰:「匈奴未滅,無以家為也!」由此上益重愛之。然少貴,不省士,其從軍,天子為遣太官賫數十乘,既還,重車餘棄粱肉,而士有饑者;其在塞外,卒乏糧或不能自振,而驃騎尚穿域蹋鞠,事多此類。大將軍為人仁,喜士退讓,以和柔自媚於上。兩人志操如此。 是時,漢所殺虜匈奴合八九萬,而漢士卒物故亦數萬。是後匈奴遠遁,而幕南無王庭。漢渡河自朔方以西至令居,往往通渠,置田官,吏卒五六萬人,稍蠶食匈奴以北;然亦以馬少,不復大出擊匈奴矣。 匈奴用趙信計,遣使於漢,好辭請和親。天子下其議,或言和親,或言遂臣之。丞相長史任敞曰:「匈奴新破困,宜可使為外臣,朝請於邊。」漢使任敞於單于,單于大怒,留之不遣。是時,博士狄山議以為和親便,上以問張湯,湯曰:「此愚儒無知。」狄山曰:「臣固愚,愚忠。若御史大夫湯,乃詐忠。」於是上作色曰:「吾使生居一郡,能無使虜入盜乎?」曰:「不能。」曰:「居一縣?」對曰:「不能。」復曰:「居一障間?」山自度辯窮且下吏,曰:「能。」於是上遣山乘障,至月餘,匈奴斬山頭而去。自是之後,群臣震懾,無敢忤湯者。 5 是歲,汲黯坐法免,以定襄太守義縱為右內史,河內太守王溫舒為中尉。 |
現代日本語訳皇帝が孫子と呉起の兵法を教えようとした際、 しかし彼(霍去病)の問題点: 対照的な衛青の姿勢: 戦況と匈奴対策漢王朝の圧倒的優勢: 持続的領土拡大: 和親論争と恐怖政治匈奴の和平工作: 任敞の提言と失敗: 狄山事件の経緯: 事件後の影響: 同年、汲黯は法違反で免職となり、定襄太守の義縦が右内史に、河内太守の王温舒が中尉にそれぞれ任命された。 注釈【霍去病の矛盾点】
【漢の拡大戦略】
【張湯の権謀術数】
人事異動の示唆性
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| 先是,寧成為關都尉,吏民出入關者號曰:「寧見乳虎,無值寧成之怒。」及義縱為南陽太守,至關,寧成側行送迎。至郡,遂按寧氏,破碎其家;南陽吏民重足一跡。後徙定襄太守,初至,掩定襄獄中重罪輕系二百餘人,及賓客、昆弟私人視亦二百餘人,一捕,鞠曰「為死罪解脫」。是日,皆報殺四百餘人。其後郡中不寒而慄。是時,趙禹、張湯以深刻為九卿。然其治尚輔法而行;縱專以鷹擊為治。 王溫舒始為廣平都尉,擇郡中豪敢往吏十餘人,以為爪牙,皆把其陰重罪,而縱使督盜賊。快其意所欲得,此人雖有百罪,弗法;即有避,因其事夷之,亦滅宗。以其故,齊、趙之郊盜賊不敢近廣平,廣平聲為道不拾遺。遷河內太守,以九月至,令郡具私馬五十匹為驛,捕郡中豪猾,相連坐千餘家。上書請,大者至族,小者乃死,家盡沒入償臧。奏行不過二三日得可,事論報,至流血十餘里,河內皆怪其奏,以為神速。盡十二月,郡中毋聲,毋敢夜行,野無犬吠之盜。其頗不得,失之旁郡國,追求。會春,溫舒頓足歎曰:「嗟乎!令冬月益展一月,足吾事矣!」 天子聞之,皆以為能,故擢為中二千石。 6 齊人少翁,以鬼神方見上。上有所幸王夫人卒,少翁以方夜致鬼,如王夫人之貌,天子自帷中望見焉。於是乃拜少翁為文成將軍,賞賜甚多,以客禮禮之 |
現代日本語訳以前、寧成が関都尉(国境検問所長官)であった時、役人や民衆は彼への恐怖から「子虎に遭遇するより寧成の怒りを受けるな」と口々に言った。後に義縦が南陽太守として赴任すると、寧成は道端で恭しく出迎えたが、着任早々に寧氏一族を弾劾し家財を没収したため、郡内の人々は足跡すら重ねられないほど恐怖に震えた。 後に定襄へ転任した義縦は初日から刑務所の囚人200名と面会者・親族200余名を一斉逮捕し、「死刑囚脱走幇助」の罪状で即日処刑。郡民は慄然とした。当時、趙禹や張湯も苛烈な手法で九卿として権勢を振るっていたが、彼らにはまだ法規に沿った統治姿勢が見られた。しかし義縦は「鷹の如き討伐」のみを専らとしていた。 一方、王温舒が広平都尉となると郡内の豪胆な役人十数名を抜擢し、彼らの過去の罪状を握りながら盗賊取締に当たらせた。「手柄さえ立てれば他は不問」とする反面、命令違反には一族皆殺しという手法で斉・趙地方の盗賊を震え上がらせ、「広平では道に落ちた物すら拾わない」と謳われる治安を実現した。 河内太守転任後は九月着任早々に私設駅伝網(馬50頭)を整備し、郡内の豪族や悪党千家以上を連座制で摘発。「大罪は一族抹殺・小罪は死刑」とした上奏が三日で裁可され、流血十余里という凄惨な弾圧を展開。十二月までに「物音一つせず犬さえ吠えない」状態を作り出した(逃亡者の追跡では春の訪れを恨み「冬があと一月長ければ…」と嘆くほど完璧主義であった)。 武帝はこうした苛烈な統治手法を「有能」と評価し、彼らを中二千石(高級官僚)に昇進させた。 解説
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| 文成又勸上作甘泉宮,中為台室,畫天、地、太一諸鬼神而置祭具,以致天神。居歲餘,其方益衰,神不至。乃為帛書以飯牛,佯不知,言曰:「此牛腹中有奇。」殺視,得書,書言甚怪,天子識其手書,問其人,果是偽書。於是誅文成將軍而隱之。 |
翻訳本文武帝はまた、甘泉宮の建立を進めた。内部に高台を築き、天・地・太一神ら鬼神の壁画を描いて祭具を配置し、天神を招請しようとした。しかし一年余り経っても効果が現れず、神々は降臨しなかった。そこで帛(絹布)に文字を書き込み牛に食べさせ、故意に見逃したふりをして「この牛の腹中には不思議なものがある」と宣言。牛を殺して調べると確かに文書が現れ、内容は奇怪極まるものであった。天子(武帝)は筆跡を見て偽作と気づき、本人に問いただすと偽造だと認めた。これにより文成将軍を誅殺し、事件を隠蔽した。 解説
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| input text 資治通鑑\020_漢紀_12.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷二十 漢紀十二 起昭陽大淵獻,盡重光協洽,凡九年。 世宗孝武皇帝中之下 元狩五年(癸亥,公元前一一八年) 1 春,三月,甲午,丞相李蔡坐盜孝景園,堧地,葬其中,當下吏,自殺。 2 罷三銖錢,更鑄五銖錢。於是民多盜鑄錢,楚地尤甚。 上以為淮陽,楚地之郊,乃召拜汲黯為淮陽太守。黯伏謝不受印,詔數強予,然後奉詔。黯為上泣曰:「臣自以為填溝壑,不復見陛下,不意陛下復收用之。臣常有狗馬病,力不能任郡事。臣願為中郎。出入禁闥,補過拾遺,臣之願也。」上曰:「君薄淮陽邪?吾今召君矣,顧淮陽吏民不相得,吾徒得君之重,臥而治之。」 黯既辭行,過大行李息,曰:「黯棄逐居郡,不得與朝廷議矣。御史大夫湯,智足以拒諫,詐足以飾非,務巧佞之語,辯數之辭,非肯正為天下言,專阿主意。主意所不欲,因而毀之;主意所欲,因而譽之。好興事,舞文法,內懷詐以御主心,外挾賊吏以為威重。公列九卿,不早言之,公與之俱受其戮矣。」息畏湯,終不敢言;及湯敗,上抵息罪。 使黯以諸侯相秩居淮陽,十歲而卒。 3 詔徙奸猾吏民於邊。 4 夏,四月,乙卯,以太子少傅武強侯莊青翟為丞相。 5 天子病鼎湖甚。巫醫無所不致,不愈。游水發根言上郡有巫,病而鬼神下之。上召置,祠之甘泉,及病,使人問神君,神君言曰:「天子無憂病;病少愈,強與我會甘泉。 |
現代日本語訳巻二十・漢紀十二 昭陽大淵献(癸亥)より始まり重光協洽(辛未)に至るまで、凡そ九年間。 世宗孝武皇帝中之下 元狩五年(癸亥年、紀元前118年)
解説【当時の経済問題】
【汲黯の人物像】
【権力構造の危うさ】
【武帝と宗教政策】
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| 」於是病癒,遂起幸甘泉,病良已,置酒壽宮。神君非可得見,聞其言,言與人音等,時去時來,來則風肅然,居室帷中。神君所言,上使人受,書其言,命之曰「畫法」。其所語,世俗之所知也,無絕殊者,而天子心獨喜;其事秘,世莫知也。 時上卒起,幸甘泉,過右內史界中,道多不治,上怒曰:「義縱以我為不復行此道乎!」銜之。 元狩六年(甲子,公元前一一七年) 1 冬,十月,雨水,無冰。 2 上既下緡錢令而尊卜式,百姓終莫分財佐縣官,於是楊可告緡錢縱矣。義縱以為此亂民,部吏捕其為可使者。天子以縱為廢格沮事,棄縱市。 3 郎中令李敢,怨大將軍之恨其父,乃擊傷大將軍,大將軍匿諱之。居無何,敢從上雍,至甘泉宮獵,驃騎將軍去病射殺敢。去病時方貴幸,上為諱,雲鹿觸殺之。 4 夏,四月,乙巳,廟立皇子閎為齊王,旦為燕王,胥為廣陵王,初作誥策。 5 自造白金、五銖錢後,吏民之坐盜鑄金錢死者數十萬人,其不發覺者不可勝計,天下大抵無慮皆鑄金錢矣。犯者眾,吏不能盡誅。 6 六月,詔遣博士褚大、徐偃等六人分循郡國,舉兼併之徒及守、相、為吏有罪者。 7 秋,九月,冠軍景桓侯霍去病薨。天子甚悼之,為塚,像祁連山。 初,霍仲孺吏畢歸家,娶婦,生子光。去病既壯大,乃自知父為霍仲孺。 |
現代日本語訳(口語体)本文そこで武帝の病気は癒え、甘泉宮へ行幸したところ症状が完全に回復し、寿宮で祝宴を開いた。「神君」と呼ばれる存在そのものを見ることはできないが、声だけが聞こえてくる。その話す声は人間と変わらず、姿は時折現れては消える。出現すると冷たい風が吹き抜け、室内の帷(とばり)の中に留まるという。神君の発言を武帝は侍従に書き取らせ、「画法」と名付けた。その内容は世間一般で知られているような平凡なものだったのだが、天子だけは特に喜んだ。この件は極秘扱いとなり、世上には伝わらなかった。 ある時、武帝が突然甘泉宮へ行幸した際、右内史(京畿長官)の管轄区域を通りかかった。道路の補修が不十分であったため、帝は激怒して「義縦(ぎじゅう/当時の首都行政責任者)め、朕が二度とこの道を使わぬと思ったのか!」と言い放ち、深く恨みを抱いた。 元狩6年(甲子・紀元前117年)
補足事項初め霍仲孺(かくちゅうじゅ)という役人が任期満了で帰郷後、結婚して子・霍光をもうける。成長した霍去病は実父が霍仲孺であることを突き止める。 解説歴史背景
訳注ポイント
現代性への配慮
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| 會為驃騎將軍,擊匈奴,道出河東,遣吏迎仲孺而見之,大為買田宅奴婢而去;及還,因將光西至長安,任以為郎,稍遷至奉車都尉、光祿大夫。 8 是歲,大農令顏異誅。 初,異以廉直,稍遷至九卿。上與張湯既造白鹿皮幣,問異,異曰:「今王侯朝賀以蒼璧,直數千,而以皮薦反四十萬,本末不相稱。」天子不說。張湯又與異有郤,及人有告異以它事,下張湯治異。異與客語初令下有不便者,異不應,微反脣。湯奏當:「異九卿,見令不便,不入言而腹誹,論死。」自是之後,有腹誹之法比,而公卿大夫多諂諛取容矣。 元鼎元年(乙丑,公元前一一六年) 1 夏,五月,赦天下。 2 濟東王彭離驕悍,昏暮,與其奴、亡命少年數十人行剽殺人,取財物以為好,所殺發覺者百餘人,坐廢,徙上庸。 元鼎二年(丙寅,公元前一一五年) 1 冬,十一月,張湯有罪自殺。 初,御史中丞李文,與湯有郤。湯所厚吏魯謁居陰使人上變告文奸事,事下湯治,論殺之。湯心知謁居為之,上問:「變事蹤跡安起?」湯佯驚曰:「此殆文故人怨之。」謁居病,湯親為之摩足。趙王素怨湯,上書告:「湯大臣,乃與吏摩足,疑與為大奸。」事下廷尉。謁居病死,事連其弟。弟系導官,湯亦治他囚導官,見謁居弟,欲陰為之,而佯不省。謁居弟弗知,怨湯,使人上書,告湯與謁居謀共變告李文。 |
現代日本語訳:霍去病は驃騎将軍として匈奴を討伐するため河東地方を通った際、役人に命じて仲孺(父)を迎え入れ面会した。多額の資金で田畑・屋敷・奴婢を購入し与えた後、帰還の途上では霍光を伴って長安に入り郎官に任命した。その後順調に昇進して奉車都尉・光禄大夫となった。 同年(前117年)、大農令顔異が処刑された。 当初、廉直さで知られた彼は次第に九卿の地位まで上った。武帝と張湯が白鹿皮幣を創製した際、意見を求められ「諸侯王の朝貢品である蒼璧(青玉)の価値は数千銭なのに、それを載せる革敷きが四十万銭とは本末転倒です」と述べたため皇帝は不悦となった。張湯も以前から顔異と不和であったところへ別件告発があり、武帝は張湯に取調べを命じた。ある時客人との会話で法令の欠点が話題になると、顔異は返答せずわずかに唇を歪めただけだった。これを根拠に張湯は「九卿たる者が腹の中で誹謗しながら奏上しないのは死罪相当」と断じ処刑した。これ以降『腹誹(心中批判)の法』が適用例となり、高官たちは媚諂する風潮が支配的となった。 元鼎元年(前116年) 1. 夏五月:天下に大赦令を施行
元鼎二年(前115年) 1. 冬十一月:張湯が罪により自害 - もともと御史中丞李文とは対立関係にあった。張湯の腹心である魯謁居が密告人を仕向け「李文が不正」と虚偽報告させたため、武帝は張湯に取調べを命じ処刑した。 - その後武帝から「密告の出所は?」と問われると、張湯はわざと驚いたふりで「おそらく李文本人の仇敵でしょう」と虚偽答弁 - 魯謁居が病床につくと張湯自ら足を揉んで看病した件を趙王(劉彭祖)に狙われ「高官たる者が下役の足など揉むとは大罪の兆候だ」と告発される - 廷尉調査中に魯謁居が病死し、その弟が連座で逮捕。張湯は他の囚人を尋問するふりで同室に入ったが、助けようとする素振りを見せず無視したため、恨みを買う結果となる - 遂に魯謁居の弟が「李文冤罪事件は全て張湯と兄の共謀だ」との告発状を提出し真相が露見 解説:
(史料出典:『資治通鑑』巻二十・漢紀十二/武帝元狩六年~元鼎二年条) Translation took 1085.4 seconds. |
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| 事下減宣,宣嘗與湯有郤,及得此事,窮竟其事,未奏也。會人有盜發孝文園瘞錢,丞相青翟朝,與湯約俱謝,至前,湯獨不謝。上使御史案丞相,湯欲致其文「丞相見知」,丞相患之。丞相長史朱買臣、王朝、邊通,皆故九卿、二千石,仕宦絕在湯前。湯數行丞相事,知三長史素貴,故陵折,丞史遇之,三長史皆怨恨,欲死之。乃與丞相謀,使吏捕案賈人田信等,曰:「湯且欲奏請,信輒先知之,居物致富,與湯分之。」事辭頗聞,上問湯曰:「吾所為,賈人輒先知之,益居其物,是類有以吾謀告之者。」湯不謝,又佯驚曰:「固宜有。」減宣亦奏謁居等事。天子以湯懷詐面欺,使趙禹切責湯,湯乃為書謝,因曰:「陷臣者,三長史也。」遂自殺。湯既死,家產直不過五百金。昆弟諸子欲厚葬湯,湯母曰:「湯為天子大臣,被污惡言而死,何厚葬乎!」載以牛車,有棺無槨。天子聞之,乃盡按誅三長史。十二月,壬辰,丞相青翟下獄,自殺。 2 春,起柏梁台。作承露盤,高二十丈,大七圍,以銅為之。上有仙人掌,以承露,和玉屑飲之,雲可以長生。宮室之修,自此日盛。 3 二月,以太子太傅趙周為丞相。 4 三月,辛亥,以太子太傅石慶為御史大夫。 5 大雨雪。 6 夏,大水,關東餓死者以千數。 7 是歲,孔僅為大農令,而桑弘羊為大農中丞,稍置均輸,以通貨物。 |
現代日本語訳事件が減宣へ下された。かつて張湯と確執があった彼は本件を得るや徹底捜査を行ったが、未上奏であった。折しも孝文皇帝陵園の埋納銭盗掘事件発生。丞相・荘青翟は朝見時、張湯と共に謝罪するよう約束しながら、御前では張湯のみが謝罪しなかった。武帝は御史に命じ丞相を糾弾させたところ、張湯が文書に「丞相(犯罪)知情」との文言を含めようとしたため、丞相は危惧した。 丞相長史の朱買臣・王朝・辺通はいずれも元九卿や二千石高官で、経歴は張湯を凌駕していた。しかし代行丞相職務を頻繁に勤めた張湯は彼らを見下し、属官にも冷遇させたため、三者は深く恨み「殺害しよう」と画策した。 遂に丞相と共謀して商人・田信らを逮捕。「張湯の奏上予定政策情報を事前入手し物資買占めで利益を得て折半していた」と告発。この噂が武帝へ伝わると、天子は詰問した:「朕の計画を商人が常に先読みし暴利を得るとは、内部通報者がいるようだな」。張湯は謝罪せず偽って驚き「確かにその通りでしょう」と応じた。減宣も謁居(張湯部下)関連事件を奏上したため、武帝は「欺瞞を抱いて朕を騙す」と断じて趙禹に厳しく詰責させた。張湯は謝罪文で「私を陥れたのは三長史だ」と訴えたが自殺した。 死後調査では遺産総額五百金(約750万円相当)未満であった。兄弟子息が厚葬を望んだが、母は言下に拒否:「天子の大臣として悪名被りて死せし者に厚葬必要なし」。牛車による質素な葬儀で棺のみを用い外槨すら添えなかった。武帝はこの報告を受け三長史全員を処刑した。十二月壬辰(紀元前116年12月)、丞相・荘青翟も投獄後に自殺。 2 春、柏梁台が建造される。「承露盤」は高さ二十丈(約46m)直径七圍(約16m)の銅製構造物で、頂上の仙人掌像で集めた露を玉屑と混ぜ服用すれば長生可能と宣伝された。宮殿造営熱はこの頃から激化。 3 二月、太子太傅・趙周が丞相となる。 4 三月辛亥(紀元前115年)、太子太傅・石慶が御史大夫となる。 5 記録的大雪発生。 6 夏、大洪水により関東地方の餓死者数千人に及ぶ。 7 同年、孔僅は大農令に、桑弘羊は大農中丞となり均輸法(物資流通統制)を本格実施。 解説■ 権力闘争の構図 ■ 張湯自殺の背景 ■ 葬送シーンの象徴性 ■ 社会経済的注記 ※『資治通鑑』独自叙述として、班固「湯死而民不思」(張湯死すとも民悼まず)との評価を背景に、司馬光は制度疲弊の象徴的人物として描出。漢書刑法志が記す当時の告発氾濫社会と酷吏政治の問題性を凝縮したエピソードである。 Translation took 2326.9 seconds. |
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| 8 白金稍賤,民不寶用,竟廢之。於是悉禁郡、國無鑄錢,專令上林三官鑄錢,令天下非三官錢不得行。而民之鑄錢益少,計其費不能相當。惟真工、大奸乃盜為之。 9 渾邪王既降漢,漢兵擊逐匈奴於幕北,自鹽澤以東空無匈奴,西域道可通。於是張騫建言:「烏孫王昆莫本為匈奴臣,後兵稍強,不肯復朝事匈奴,匈奴攻不勝而遠之。今單于新困於漢,而故渾邪地空無人,蠻夷俗戀故地,又貪漢財物,今誠以此時厚幣賂烏孫,招以益東,居故渾邪之地,與漢結昆弟,其勢宜聽,聽則是斷匈奴右臂也。既連烏孫,自其西大夏之屬皆可招來而為外臣。」天子以為然,拜騫為中郎將,將三百人,馬各二匹,牛羊以萬數,繼金幣帛直數千巨萬;多持節副使,道可便,遣之他旁國。 騫既至烏孫,昆莫見騫,禮節甚倨。騫諭指曰:「烏孫能東居故地,則漢遣公主為夫人,結為兄弟,共距匈奴,匈奴不足破也。」烏孫自以遠漢,未知其大小;素服屬匈奴日久,且又近之,其大臣皆畏匈奴,不欲移徙。騫留久之,不能得其要領,因分遣副使使大宛、康居、大月氏、大夏、安息、身毒、于闐及諸旁國,烏孫發譯道送騫還,使數十人,馬數十匹,隨騫報謝,因令窺漢大小。是歲,騫還,到,拜為大行。後歲餘,騫所遣使通大夏之屬者,皆頗與其人俱來,於是西域始通於漢矣。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より抜粋)8 9 使節団三百人には馬二頭ずつを与え、牛や羊は万単位で同行させた。金銀絹帛の価値は数千億にも上り、複数の副使が随行し途中の国々へ派遣された。しかし烏孫到着後、昆莫王は張騫を傲慢な態度で迎えた。張騫は武帝の方針を伝えると「漢から公主を降嫁させ兄弟同盟を結び匈奴に対抗すれば勝利は確実」と説得したが、烏孫側は距離的に漢の国力を見極められず、長年服属していた匈奴への恐怖もあり移住に消極的だった。 張騫は長期滞在しても合意を得られず副使を大宛・康居など周辺国へ派遣。帰国時には烏孫から数十人の使者と馬が随行し漢朝の実情視察を兼ねた謝礼とした。後に残した副使らが西域諸国の使者団を伴い帰還、ここに至り正式な交易路「シルクロード」が成立するのである。 解説
※注:歴史的固有名詞(例: 渾邪王=フンヤ王/昆莫=クンモ)については原典の漢字表記を保持。現代語訳では文脈理解に重点を置き、可能な限り平易な表現を用いた。 Translation took 1839.5 seconds. |
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| 西域凡三十六國,南北有大山,中央有河,東西六千餘里,南北千餘里,東則接漢玉門、陽關,西則限以蔥嶺。河有兩源,一出蔥嶺,一出于闐,合流東注鹽澤。鹽澤去玉門、陽關三百餘里。自玉門、陽關出西域有兩道:從鄯善傍南山北,循河西行至莎車,為南道;南道西逾蔥嶺,則出大月氏、安息。自車師前王廷隨北山循河西行至疏勒,為北道;北道西逾蔥嶺,則出大宛、康居、奄蔡焉。故皆役屬匈奴,匈奴西邊日逐王,置僮僕都尉,使領西域,常居焉耆、危須、尉黎間,賦稅諸國,取富給焉。 烏孫王既不肯東還,漢乃於渾邪王故地置酒泉郡,稍發徙民以充實之;後又分置武威郡,以絕匈奴與羌通之道。 天子得宛汗血馬,愛之,名曰「天馬」。使者相望於道以求之。諸使外國,一輩大者數百,少者百餘人,人所賫操大放博望侯時,其後益習而衰少焉。漢率一歲中使多者十餘,少者五六輩;遠者八九歲,近者數歲而反。 元鼎三年(丁卯,公元前一一四年) 1 冬,徙函谷關於新安。 2 春,正月,戊子,陽陵園火。 3 夏,四月,雨雹。 4 關東郡、國十餘饑,人相食。 5 常山憲王舜薨,子勃嗣,坐憲王病不侍疾,及居喪無禮廢,徙房陵。後月餘,天子更封憲王子平為真定王,以常山為郡,於是五嶽皆在天子之邦矣。 6 徙代王義為清河王。 |
現代日本語訳文西域には総計三十六か国存在した。南北に巨大な山脈が聳え、中央部を大河が貫流している。東西距離は六千余里(約2500km)、南北幅千余里(約400km)。東側では漢王朝の玉門関・陽関と接続し、西端は葱嶺(パミール高原)によって境界が画されていた。この大河には二つの水源があり、一つは葱嶺から発し、もう一筋は于闐(ホータン地域)に源を有する。両河川は合流後東進して塩沢湖(ロプノール)へ注ぎ込む。塩沢より玉門関・陽関までの距離は三百余里である。 玉門関・陽関から西域に至る経路には二通り存在した: - 南道:鄯善国を通過後、南山(崑崙山脈)北麓に沿い河川流域を西進し莎車国へ到達。この南路が葱嶺を越えると大月氏や安息王国(パルティア)の領域に出た。 - 北道:車師前王廷より出発後、北山(天山山脈)沿いに河川流域を西進し疏勒国へ至る。この北路が葱嶺を越えた先には大宛・康居・奄蔡諸国の地域が広がっていた。 西域諸国は全て匈奴の支配下に属しており、匈奴西方担当の日逐王によって設置された「僮僕都尉」という役職者が統轄していた。この官吏は常時焉耆・危須・尉黎一帯に駐留し、各王国から賦税を徴収することで財源を確保した。 烏孫国王が東方への帰還を拒否したため、漢朝廷は渾邪王の旧領地に酒泉郡を設置。段階的に移民を移住させ開拓すると、後に武威郡を分割設立し、匈奴と羌族(チベット系民族)との連絡経路を断絶した。 武帝が大宛国の汗血馬を入手して寵愛し、「天馬」の称号を与えた。使者たちは道路にひきも切らず往来し、外国派遣使節団の規模は最大で数百人、最小でも百余人に達した。携行品も張騫(博望侯)時代と同様に豪華であったが、後世には経験を積むにつれて簡素化され人数も減少。年間派遣回数は多い時で十余度、少ない年は五六度。往復期間は遠方だと八九ヶ月、近距離でも数年を要した。 元鼎三年(丁卯/紀元前114年)の出来事:
1. 冬期:函谷関を新安へ移設 訳注解説地理概念の再構成
行政・制度用語処理
社会情勢の背景
西域交流史的特筆事項
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| 7 是歲,匈奴伊稚斜單于死,子烏維單于立。 元鼎四年(戊辰,公元前一一三年) 1 冬,十月,上行幸雍,祠五畤。詔曰:「今上帝,朕親郊,而后土無祀,則禮不答也,其令有司議。」立后土祠於澤中圜丘。上遂自夏陽東幸汾陰。是時,天子始巡郡、國。河東守不意行至,不辦,自殺。十一月,甲子,立后土祠於汾陰脽上,上親望拜,如上帝禮,禮畢,行幸滎陽,還,至洛陽,封周後姬嘉為周子南君。 2 春,二月,中山靖王勝薨。 3 樂成侯丁義薦方士欒大,云與文成將軍同師。上方悔誅文成,得欒大,大說。大先事膠東康王,為人長美言,多方略,而敢為大言,處之不疑。大言曰:「臣常往來海中,見安期、羨門之屬,顧以臣為賤,不信臣;又以為康王諸侯耳,不足與方。臣之師曰:『黃金可成而河決可塞,不死之藥可得,仙人可致也。』然臣恐效文成,則方士皆掩口,惡敢言方哉!」上曰:「文成食馬肝死耳。子誠能修其方,我何愛乎!」大曰:「臣師非有求人,人者求之。陛下必欲致之,則貴其使者,令為親屬,以客禮待之,乃可使通言於神人。」於是上使驗小方,斗旗,旗自相觸擊。是時,上方憂河決而黃金不就,乃拜大為五利將軍,又拜為天士將軍,地士將軍,大通將軍。夏,四月,乙巳,封大為樂通侯,食邑二千戶,賜甲第,僮千人,乘輿斥車馬、帷帳、器物以充其家,又以衛長公主妻之,賫金十萬斤,天子親如五利之第,使者存問共給,相屬於道。 |
現代日本語訳この年、匈奴の伊稚斜単于が死去し、子の烏維単于が即位した。 元鼎四年(戊辰、紀元前113年) 1. 冬十月:皇帝は雍に巡幸し五畤を祭祀。詔して「朕自ら上帝を郊祀すれど后土は未だ祀られず礼が完結せぬ」と述べ、有司に祠建立を命じた。沢中の円丘に后土祠を設置。夏陽から汾陰へ東幸し、この時初めて郡国を巡行した。河東太守は皇帝の突然の来訪に対応できず自害。十一月甲子(8日)、汾陰脽上に后土祠を建立。皇帝親拝して上帝と同等の礼を行い、滎陽経由で洛陽へ帰還後、周王室の末裔・姫嘉を「周子南君」に封じた。 2. 春二月:中山靖王劉勝が逝去。 3. 楽成侯丁義が方士欒大を推薦。武帝は文成将軍(処刑した方士)を悔いていたため欒大を厚遇。彼は膠東康王に仕えた経歴を持ち、弁舌巧みで大胆な発言家であった。「仙島往来の経験あり」と豪語し「師より『黄金精錬・黄河治水・不老不死薬入手・仙人招来』の術を授かるも、文成将軍二の舞を恐れる」と述べると、武帝は「文成は事故死だ。真の術あれば惜しまぬ報酬を与えよう」と約束。欒大は「使者を高位に就け親族待遇せよ」と要求し、小技(旗同士の自動衝突)で実証を見せる。当時武帝は黄河氾濫と錬金術失敗に悩んでいたため、五利・天士・地士・大通の四将軍号を授け、夏季四月乙巳(21日)、楽通侯に封じ二千戸を与える。加えて豪邸・奴僕千人・御用車馬・生活物資を下賜し、皇長女(衛長公主)を娶わせ十万斤の黄金を支給した。皇帝自らその屋敷を訪問し、供応の使者が途絶えなかった。 解説
(注)Okurigana厳禁指示に従い漢字表記を基本とし、送り仮名は最小限に抑制。固有名詞・制度名は原典尊重のため漢字のまま表記。 Translation took 1976.2 seconds. |
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| 自太主、將、相以下,皆置酒其家,獻遺之。天子又刻玉印曰「天道將軍」,使使衣羽衣,夜立白茅上;五利將軍亦衣羽衣,立白茅上,受印,以示不臣。大見數月,佩六印,貴震天下。於是海上燕、齊之間,莫不扼腕自言有禁方、能神仙矣。 4 六月,汾陰巫錦得大鼎於魏脽后土營旁,河東太守以聞。天子使驗問,巫得鼎無奸詐,乃以禮祠,迎鼎至甘泉,從上行,薦之宗廟及上帝,藏於甘泉宮,群臣皆上壽賀。 5 秋,立常山憲王子商為泗水王。 6 初,條侯周亞夫為丞相,趙禹為丞相史,府中皆稱其廉平,然亞夫弗任,曰:「極知禹無害,然文深,不可以居大府。」及禹為少府,比九卿為酷急;至晚節,吏務為嚴峻,而禹更名寬平。 中尉尹齊素以敢斬伐著名,及為中尉,吏民益凋敝。是歲,齊坐不勝任抵罪。上乃復以王溫舒為中尉,趙禹為廷尉。後四年,禹以老,貶為燕相。 是時吏治以慘刻相尚,獨左內史兒寬,勸農業,緩刑罰,理獄訟,務在得人心;擇用仁厚士,推情與下,不求名聲,吏民大信愛之;收租稅時,裁闊狹,與民相假貸,以故租多不入。後有軍發,左內史以負租課殿,當免;民聞當免,皆恐失之,大家牛車、小家擔負輸租,繈屬不絕,課更以最。上由此愈奇寬。 7 初,南越文王遣其子嬰齊入宿衛,在長安取邯鄲樛氏女,生子興。 |
現代日本語訳皇太后・将軍・丞相以下の高位の者は皆、自邸で酒宴を設けて欒大をもてなし、贈り物を献上した。武帝は更に「天道将軍」と刻んだ玉印を作らせ、使者に羽衣を着させ、夜間に白茅(しらがや)の上に立たせた。五利将軍(欒大)も同様に羽衣を装い、白茅の上で印綬を受け取り、君臣の礼を取らない姿勢を示した。数か月後には六つの印綬を佩用し、その権勢は天下を震わせた。これにより燕・斉沿岸地方では、誰もが腕を扼して「秘伝の仙術を持つ」と自称する者が現れた。 4 5 6 一方、中尉の尹斉は「断固とした処刑」で著名だったが、就任後は管轄区域がさらに疲弊した。同年、尹斉は失職の罪に問われ罷免される。武帝は王温舒を中尉に復帰させ、趙禹を廷尉(最高裁判官)に任命した。四年後、老齢を理由に燕国の相へ降格となった。 当時、官吏は残酷な統治を競っていたが、左内史(首都長官)の児寛のみが異なり、農業奨励・刑罰緩和・訴訟公正により民心掌握に努めた。仁厚な人材を登用し、名声を求めず民情を尊重。租税徴収では状況に応じて融通し、結果として未納が多い状態となった。後に軍事費が必要になった際、児寛は未納分の責任を問われ罷免寸前となるが、これを知った民衆は「彼を失いたくない」と牛車や担いでこぞって租税を納入し、結果として徴収成績は全国最高となった。武帝はこの件で児寛への評価をさらに高めた。 7 解説■ 歴史的意義 ■ 語釈 ■ 統治手法の変遷 ■ 児寛評価 ■ 南越情勢伏線 (訳注:固有名詞は原則として『資治通鑑』胡三省注・現代中国史書表記に準拠し、オクリガナ不使用) Translation took 1194.2 seconds. |
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| 文王薨,嬰齊立,乃藏其先武帝璽,上書請立樛氏女為后,興為嗣。漢數使使者風諭嬰齊入朝。嬰齊尚樂擅殺生自恣,懼入見要,用漢法比內諸侯,固稱病,遂不入見。嬰齊薨,謚曰明王。太子興代立,其母為太后。 太后自未為嬰齊姬時,嘗與霸陵人安國少季通。是歲,上使安國少季往諭王、王太后以入朝,比內諸侯,令辯士諫大夫終軍等宣其辭,勇士魏臣等輔其決,衛尉路博德將兵屯桂陽待使者。南越王年少,太后中國人;安國少季往,復與私通,國人頗知之,多不附太后。太后恐亂起,亦欲倚漢威,數勸王及群臣求內屬;即因使者上書,請比內諸侯,三歲一朝,除邊關。於是天子許之,賜其丞相呂嘉銀印及內史、中尉、太傅印,餘得自置;除其故黥、劓刑,用漢法,比內諸侯。使者皆留,填撫之。 8 上行幸雍,且郊,或曰:「五帝,泰一之佐也。宜立泰一,而上親郊。」上疑未定。齊人公孫卿曰:「今年得寶鼎,其冬辛巳朔旦冬至,與黃帝時等。」卿有札書曰:「黃帝得寶鼎,是歲己酉朔旦冬至,凡三百八十年,黃帝仙登於天。」因嬖人奏之。上大悅,召問,卿對曰:「受此書申公,申公曰:『漢興復當黃帝之時,漢之聖者在高祖之孫且曾孫也。寶鼎出而與神通,黃帝接萬靈明庭,明庭者甘泉也。黃帝采首山銅,鑄鼎於荊山下,鼎既成,有龍垂鬍髯下迎黃帝,黃帝上騎龍,與群臣後宮七十餘人俱登天。 |
現代日本語訳文王が逝去すると嬰斉が即位し、先代武帝の璽印を封印した上で「樛氏の娘を皇后に立て興を後継者とする」旨の上奏を行った。漢朝は度々使者を派遣して嬰斉に対し入朝を婉曲に促したが、嬰斉は生殺与奪の権力を恣にする生活に固執し、入朝すれば諸侯同様の漢法で拘束されることを恐れ、病気と称して拒否。そのまま逝去後「明王」と諡され、太子興が即位すると母(樛氏)は太后となった。 元より嬰斉の側室となる前から霸陵出身者・安国少季との情交があった太后のもとに、この年漢皇帝が同人物を使者として派遣。内諸侯待遇での入朝を勧告させる一方、雄弁家終軍らに詔書伝達を、勇士魏臣らには決断補佐を命じ、路博徳将軍には桂陽駐屯兵で後援させた。若年の南越王と中国出身の太后は安国少季到着後再び密通し、この醜聞が国内に広まると民衆の多くが太后を見放したため、彼女は動乱を恐れて漢朝権威に依存する道を選択。使者を通じ「内諸侯待遇・三年毎の入朝・国境関門撤廃」を上奏し、皇帝はこれを許可すると共に丞相呂嘉へ銀印と要職(内史/中尉/太傅)の官印を授与。その他官職は独自設置を認め、従来の刺青刑・鼻削ぎ刑を廃して漢法適用としたうえ使者団を現地残留させた。 同年皇帝が雍へ行幸し郊祀(天祭祀)を行う際、「五帝神は最高神泰一の補佐に過ぎぬ」との意見で議論が紛糾。斉出身者公孫卿が「今年出現した宝鼎と冬至日の暦象が黄帝時代と一致する」と奏上。彼の提出書簡には「黄帝も宝鼎を得て三百八十年後に昇天した」旨記され、更に寵臣を通じ「申公(儒学者)曰く『漢朝興隆は黄帝期に符合し聖人は高祖の孫か曾孫代』と。宝鼎出現こそ神意であり、黄帝が万霊を迎えた甘泉山が祭祀適地」との解釈を添付。「首山銅で鼎鋳造後、龍髯を垂らす竜に乗り臣下七十余人と昇天した」伝承も引用され、皇帝は大いに悦んで卿を召見した。 解説
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| 』」於是天子曰:「嗟乎!誠得如黃帝,吾視去妻子如脫屣耳!」拜卿為郎,使東候神於太室。 元鼎五年(己巳,公元前一一二年) 1 冬,十月,上祠五畤於雍,遂逾隴,西登崆峒。隴西守以行往卒,天子從官不得食,惶恐,自殺。於是上北出蕭關,從數萬騎獵新秦中,以勒邊兵而歸。新秦中或千里無亭徼,於是誅北地太守以下。上又幸甘泉,立泰一祠壇,所用祠具如雍一畤而有加焉。五帝壇環居其下四方地,為醊食群神從者及北斗云。十一月,辛巳朔,冬至,昧爽,天子始郊拜泰一,朝朝日,夕夕月則揖。其祠,列火滿壇,壇旁亨炊具。有司云:「祠上有光。」又云:「晝有黃氣上屬天。」太史令談、祠官寬舒等請三歲天子一郊見,詔從之。 2 南越王、王太后飭治行裝,重賫為入朝具。其相呂嘉,年長矣,相三王,宗旅仕宦為長吏者七十餘人,男盡尚王女,女盡嫁王子弟、宗室,及蒼梧秦王有連,其居國中甚重,得眾心愈於王。王之上書,數諫止王,王弗聽;有畔心,數稱病,不見漢使者。使者皆注意嘉,勢未能誅。王、王太后亦恐嘉等先事發,欲介漢使者權,謀誅嘉等,乃置酒請使者,大臣皆侍坐飲。嘉弟為將,將卒居宮外。酒行,太后謂嘉曰:「南越內屬,國之利也;而相君苦不便者,何也?」以激怒使者,使者狐疑相杖,遂莫敢發。 |
現代日本語訳天子(武帝)は言った。「ああ、もし黄帝のように成仙できるならば、妻子を捨てるのは履き物を脱ぐほど容易いことだ!」そして公孫卿を郎官に任命し、太室山で神霊の出現を待たせた。 元鼎五年(己巳年、紀元前112年)
解説■歴史的背景
■訳出方針
■史料批判的考察
■現代的理解武帝の行動原理に「宗教的熱情(祭祀)」「領土拡大(辺境統制・南越圧迫)」の相補関係を見出せる。特に新秦中での太守処刑は、皇帝権力による地方支配強化と監視システム構築を象徴する事件である。 Translation took 2280.9 seconds. |
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| 嘉見耳目非是,即起而出。太后怒,欲鏦嘉以矛,王止太后。嘉遂出,介其弟兵就舍,稱病,不肯見王及使者,陰與大臣謀作亂。王素無意誅嘉,嘉知之,以故數月不發。 天子聞嘉不聽命,王、王太后孤弱不能制,使者怯無決;又以為王、王太后已附漢,獨呂嘉為亂,不足以興兵,欲使莊參以二千人往使。參曰:「以好往,數人足矣;以武往,二千人無足以為也。」辭不可,天子罷參。郟壯士故濟北相韓千秋奮曰:「以區區之越,又有王、王太后應,獨相呂嘉為害,願得勇士三百人,必斬嘉以報。」於是天子遣千秋與王太后弟樛樂將二千人往,入越境。呂嘉等乃遂反,下令國中曰:「王年少。太后,中國人也,又與使者亂,專欲內屬,盡持先王寶器入獻天子以自媚;多從人行,至長安,虜賣以為僮僕;取自脫一時之利,無顧趙氏社稷、為萬世慮計之意。」乃與其弟將卒攻殺王、王太后及漢使者,遣人告蒼梧秦王及其諸郡縣,立明王長男越妻子術陽侯建德為王。而韓千秋兵入,破數小邑。其後越開直道給食,未至番禺四十里,越以兵擊千秋等,遂滅之;使人函封漢使者節置塞上,好為謾辭謝罪,發兵守要害處。 春,三月,壬午,天子聞南越反,曰:「韓千秋雖無功,亦軍鋒之冠,封其子延年為成安侯;樛樂姊為王太后,首願屬漢,封其子廣德為龍亢侯。 |
現代日本語訳:嘉は周囲の状況が異常であることを察知し、すぐに立ち上がって退出した。皇太后は激怒して矛で嘉を刺そうとしたが、王がこれを制止した。嘉は退出すると弟の兵士を護衛として宿舎につけ、病気と称して王や使者との面会を拒否し、密かに大臣たちと謀反を計画した。 元来、王には嘉を誅殺する意図はなく、嘉もそのことを知っていたため数ヶ月間実行を見送った。天子(皇帝)は嘉が命令に従わず、王や皇太后が孤立無援で制御できず、使者も決断力に欠けると聞いた。さらに王と皇太后がすでに漢へ帰順したと考え、「呂嘉一人の反乱なら出兵するほどのことではない」と判断し、荘参に二千人の兵を率いさせて派遣しようとした。 参は言った。「友好目的なら数人で十分です。武力行使なら二千人では足りません。」辞退して承諾せず、天子も参の派遣を取りやめた。郟県(地名)の勇士である元済北国の宰相・韓千秋が奮起して進言した。「小国に過ぎない南越で、王と皇太后まで内応しているのです。呂嘉ただ一人が害をなすならば、三百人の勇士を得れば必ずや嘉の首を斬り報告しましょう。」そこで天子は千秋と皇太后の弟・樛楽(人名)に二千の兵を与えて派遣し、南越国境へ侵入させた。 これを機に呂嘉らはついに反旗を翻し、国内に布告した。「王は年少であり、皇太后は中原出身で使者とも不義密通している。専ら漢への帰属を望み、先代の王の宝器すべてを天子へ媚び諂うため献上しようとしている。大勢の人々を長安まで連行し奴隷として売り飛ばすつもりだ。一時の保身しか考えず趙氏(南越王家)の社稷や将来のことなど顧みていない」と。 嘉は弟と兵士を率いて王・皇太后及び漢使者を殺害した後、蒼梧秦王(諸侯王名)ら各郡県に通達し明王(先代王)の長男である越妻の子・術陽侯建徳を新たな王として擁立した。一方で侵入してきた韓千秋軍は小規模な城邑をいくつか陥落させたが、南越側が食糧補給路を開通させると番禺(首都)まで四十里の地点で待ち伏せ攻撃を受け全滅した。 その後、反乱軍は漢使者の符節(権威の証)を箱に収めて国境付近へ置き、「偽りの謝罪文」と共に送り返し要害には兵を配置して守りを固めた。春三月壬午の日、天子が南越の反乱を知ると言明した。「韓千秋は戦功なくとも軍の先鋒として勇猛であった」としてその子・延年に成安侯の爵位を与え、また「樛楽の姉(皇太后)は真っ先に漢帰属を望んだ」とし彼の子・広徳に龍亢侯を授けた。 解説:
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| 」 3 夏,四月,赦天下。 4 丁丑晦,日有食之。 5 秋,遣伏波將軍路博德出桂陽,下湟水;樓船將軍楊僕出豫章,下湞水;歸義越侯嚴為戈船將軍,出零陵,下離水;甲為下瀨將軍,下蒼梧;皆將罪人,江、淮以南樓船十萬人。越馳義侯遺別將巴、蜀罪人,發夜郎兵,下牂柯江,咸會番禺。 齊相卜式上書,請父子與齊習船者往死南越。天子下詔褒美式,賜爵關內侯,金六十斤,田十頃,佈告天下;天下莫應。是時列侯以百數,皆莫求從軍擊越。會九月嘗酎,祭宗廟,列侯以令獻金助祭。少府省金,金有輕及色惡者,上皆令劾以不敬,奪爵者百六人。辛巳,丞相趙周坐知列侯酎金輕,下獄,自殺。 6 丙申,以御史大夫石慶為丞相,封牧丘侯。時國家多事,桑弘羊等致利,王溫舒之屬峻法,而兒寬等推文學,皆為九卿,更進用事。事不關決於丞相,丞相慶醇謹而已。 7 五利將軍裝治行,東入海求其師。既而不敢入海,之太山祠。上使人隨驗,實無所見。五利妄言見其師,其方盡多不售,坐誣罔,腰斬;樂成侯亦棄市。 8 西羌眾十萬人反,與匈奴通使,攻故安,圍抱罕。匈奴入五原,殺太守。 元鼎六年(庚午,公元前一一一年) 1 冬,發卒十萬人,遣將軍李息、郎中令徐自為征西羌,平之。 2 樓船將軍楊僕入越地,先陷尋峽,破石門,挫越鋒,以數萬人待伏波將軍路博德至俱進,樓船居前,至番禺。 |
現代日本語訳夏の四月、天下に恩赦を下す。 秋、伏波将軍・路博徳(ろはくとく)を桂陽より出撃させ湟水(こうすい)を制圧せしめ、楼船将軍・楊僕(ようぼく)を豫章(よしょう)より出撃させ湞水(ていすい)を下らせる。帰義越侯の厳は戈船将軍となり零陵から離水に進み、甲は下瀬(かろう)将軍として蒼梧へ向かう。全軍とも罪人と江・淮以南より徴発した楼船兵十万を率いる。越馳義侯遺は別働隊として巴蜀の罪人と夜郎(やろう)の兵を指揮し牂柯江(そうかこう)を下り、全て番禺(ばんぐう)に集結する。 斉国の相・卜式(ぼくしき)が上書し「父子で斉の船乗りと共に南越討伐に赴きたい」と請う。天子は詔で彼を称賛、関内侯の爵位と黄金六十斤・田地十頃を与え、天下に公示したが応じる者なし。当時百人以上の列侯がいたが誰も従軍しなかった。九月の嘗酎(じょうちゅう)祭(宗廟祭祀)で列侯は法令により献金するが、少府が検査すると量不足や品質不良があり、皇帝は「不敬罪」として106人の爵位を剥奪した。辛巳(かのとみ)、丞相・趙周(ちょうしゅう)が列侯の酎金軽微を知りながら報告せず投獄され自殺する。 丙申(ひのえさる)、御史大夫・石慶(せきけい)を丞相に任命、牧丘侯に封じる。当時国務多忙の中、桑弘羊(そうこうよう)らは財源確保に奔走し、王温舒(おうおんじょ)らは峻法を敷き、兒寬(げいかん)らは儒学を推進、全員九卿として政権中枢で活動。丞相の決裁を経ず事が進み、石慶は温和な人柄で慎ましく振る舞うのみであった。 五利将軍(武帝に仙術を売った方士・欒大)は師探しと称して海上へ出ようとしたが出航できず泰山で祭祀を行う。皇帝が検証役をつけると実態なく、偽りの報告や効かない仙術が露見。「欺瞞罪」で腰斬刑となり楽成侯も連座して処刑される。 西羌十万が反旗を翻し匈奴と結託、故安(こあん)を攻撃し抱罕(ほうかん)を包囲する。匈奴は五原に侵入し太守を殺害す。 元鼎六年(庚午・紀元前111年) 解説
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| 南越王建德、相呂嘉城守。樓船居東南面,伏波居西北面。會暮,樓船攻敗越人,縱火燒城。伏波為營,遣使者招降者,賜印綬,復縱令相招。樓船力攻燒敵,驅而入伏波營中。黎旦,城中皆降。建德、嘉已夜亡入海,伏波遣人追之。校尉司馬蘇弘得建德,越郎都稽得嘉。戈船、下瀨將軍兵及馳義侯所發夜郎兵未下,南越已平矣。遂以其地為南海、蒼梧、鬱林、合浦、交趾、九真、日南、珠崖、儋耳九郡。師還,上益封伏波;封樓船為將梁侯,蘇弘為海常侯,都稽為臨蔡侯,及越降將蒼梧王趙光等四人皆為侯。 3 公孫卿候神河南,言見仙人跡緱氏城上。春,天子親幸緱氏城視跡,問卿:「得毋效文成、五利乎?」卿曰:「仙者非有求人主,人主者求之。其道非寬假,神不來。言神事如迂誕,積以歲月,乃可致也。」上信之。於是郡、國各除道,繕治宮觀、名山、神祠以望幸焉。 4 賽南越,祠泰一、后土,始用樂舞。 5 馳義侯發南夷兵,欲以擊南越。且蘭君恐遠行旁國,虜其老弱,乃與其眾反,殺使者及犍為太守。漢乃發巴、蜀罪人當擊南越者八校尉,遣中郎將郭昌、衛廣將而擊之,誅且蘭及邛君、莋侯,遂平南夷為牂柯郡。夜郎侯始倚南越,南越已滅,夜郎遂入朝,上以為夜郎王。冉駹皆振恐,清臣置吏,乃以邛都為越巂郡,莋都為沈黎郡,冉駹為汶山郡,廣漢西白馬為武都郡。 |
現代日本語訳南越平定戦 南越王趙建徳と宰相呂嘉が城塞を固守していた。楼船将軍(楊僕)率いる水軍は東南側から、伏波将軍(路博徳)の陸上部隊は西北側から包囲した。日没時分、楼船軍が猛攻をかけ南越兵を撃破し、城に火を放った。一方で伏波軍は陣営を構築して投降勧告を行い、降伏者には印綬を与え解放。彼らを通じて更なる帰順者を募った。楼船軍の猛攻により敗走した敵兵は伏波軍の陣営へ逃げ込んだ。夜明け前には城全体が降伏。建徳と呂嘉は夜陰に乗じて海上逃亡したが、伏波将軍の追撃部隊が派遣され、校尉司馬・蘇弘が建徳を、越人武将の都稽(孫都)が呂嘉を捕縛した。戈船将軍や下瀬将軍らの援軍、及び馳義侯が動員した夜郎国の兵が到着する前に南越は平定された。 戦後処理としてこの地に九郡(南海・蒼梧・鬱林・合浦・交趾・九真・日南・珠崖・儋耳)を設置。帰還後に論功行賞: - 伏波将軍:加封 - 楼船将軍:将梁侯に封じられる - 蘇弘:海常侯に封じられる - 都稽:臨蔡侯に封じられる - 降将処理:南越の蒼梧王趙光ら四人も列侯に叙された 神仙思想と武帝(前112年) 方士・公孫卿が河南で「緱氏城上に仙人の足跡を発見」と報告。春、武帝自ら現地を視察し疑念を露わにする:「文成将軍や五利将軍(※過去の詐欺師方士)のような捏造か?」公孫卿は巧みに弁明:
武帝はこの言葉を受け入れ、全国に命じた: - 主要道路の整備 - 離宮・楼閣の修復 - 名山・神祠の再建 これらは皇帝行幸に備えるためであった 祭祀改革(前111年) 1. 南越平定報告祭:太一神と后土神に対する奉祀を実施 2. 儀礼刷新:史上初めて楽舞(音楽・舞踊)を導入し、国家祭祀の格式を高めた 西南夷経営(前111年) 馳義侯が南夷諸族に出兵要請したところ、且蘭国の君主は遠征中に自国民が略奪されることを恐れ反乱を決行: - 漢使節団殺害 - 犍為太守を処刑 朝廷の対応: 1. 囚人部隊投入:巴・蜀地方の罪人で編成した八校尉(8個軍団)を動員 2. 精鋭派遣:中郎将・郭昌と衛広に指揮権付与 3. 武力鎮圧: - 且蘭国を殲滅 - 邛君・莋侯ら反乱首謀者を誅殺 戦後処理: - 郡県制実施:南夷全域を牂柯(そうか)郡に再編 - 懐柔政策:
歴史的考察【戦略分析】
【武帝の統治手法】
【行政革新】
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| 6 初,東越王餘善上書,請以卒八千人從樓船擊呂嘉;兵至揭揚,以海風波為解,不行,持兩端,陰使南越。及漢破番禺,不至。楊僕上書願便引兵擊東越;上以士卒勞倦,不許,令諸校屯豫章、梅嶺以待命。餘善聞樓船請誅之,漢兵臨境,乃遂反,發兵距漢道,號將軍騶力等為吞漢將軍,入白沙、武林、梅嶺,殺漢三校尉。是時,漢使大農張成、故山州侯齒將屯,弗敢擊,卻就便處,皆坐畏懦誅。餘善自稱武帝。 上欲復使楊僕將,為其伐前勞,以書敕責之曰:「將軍之功獨有先破石門、尋陿,非有斬將搴旗之實也,烏足以驕人哉!前破番禺,捕降者以為虜,掘死人以為獲,是一過也;使建德、呂嘉得以東越為援,是二過也;士卒暴露連歲,將軍不念其勤勞,而請乘傳行塞,因用歸家,懷銀、黃,垂三組,誇鄉里,是三過也;失期內顧,以道惡為解,是四過也;問君蜀刀價而陽不知,挾偽干君,是五過也。受詔不至蘭池,明日又不對。假令將軍之吏,問之不對,令之不從,其罪何如?推此心在外,江海之間可得信乎?今東越深入,將軍能率眾以掩過不?」僕惶恐對曰:「願盡死贖罪!」上乃遣橫海將軍韓說出句章,浮海從東方往;樓船將軍楊僕出武林,中尉王溫舒出梅嶺,以越侯為戈船、下瀨將軍,出若邪、白沙,以擊東越。 7 博望侯既以通西域尊貴,其吏士爭上書言外國奇怪利害求使。 |
現代日本語訳本文:6.当初、東越王余善は上奏文を提出し、「兵八千名を率いて楼船将軍に従い呂嘉討伐に向かう」と申し出た。しかし部隊が掲揚(現在の汕頭)に到達すると「海上暴風波があるため」と言い訳して進まず、両勢力間で態度を曖昧にしながら密かに南越へ使者を送った。漢軍が番禺(広州)を陥落させた後も参戦せず、楊僕は上書し「直ちに東越討伐の許可を得たい」と請願した。皇帝は兵士たちの疲労を考慮してこれを却下。諸部隊に豫章・梅嶺で待機命令を出した。 余善が楊僕による自身誅殺要請と漢軍国境集結を知ると反旗を翻す。兵力を展開し交通路を遮断、将軍騶力らを「漢吞滅大将軍」に任命。白沙・武林・梅嶺へ侵攻して三人の校尉を殺害した。この時、大農令(財務長官)張成と元山州侯劉歯は駐屯部隊を指揮していたが交戦せず安全地帯へ後退。両名とも「敵前逃亡」罪で処刑された。余善は自ら「武帝」を称した。 皇帝は再び楊僕に指揮権を与えようとしたものの、その過失を考慮し詔勅で叱責した: 「卿が誇る戦功とは石門・尋峡での勝利のみである。敵将討ち取ったり軍旗奪った実績があるか?驕る資格などない! 第一:番禺攻略時には投降者を捕虜と偽り、死体掘り返して手柄とした 第二:建徳(南越王)と呂嘉が東越へ逃亡するのを許した 第三:兵士は長年野営で苦労しているのに、卿は視察と称し公用車馬利用。帰郷し銀印・金印誇示して故郷を見せびらかした 第四:任務期限遅延を「道路悪化」と言い訳した 第五:朝廷が蜀刀の価格問うと偽って知らないと答えた(武器調達不正隠蔽) 詔勅で蘭池宮へ召還されても応じず、翌日も弁明しない。仮に卿の部下が命令無視・質問拒否したらどう罰する?天下任せる気になれるか?今こそ東越討伐で過ち挽回せよ!」 楊僕は恐れおののき「命尽きるまで罪償いを」と返答。皇帝は横海将軍韓説に句章から海上侵攻させ、楼船将軍楊僕には武林方面陸路進攻を命令。中尉王温舒を梅嶺へ、越侯らを戈船(武装艦)・下瀬部隊指揮官として若邪・白沙から進撃させた。 7.博望侯張騫が西域開拓で名声を得ると、配下の官吏兵士たちは競って「辺境地域情報収集」名目での派遣を志願し始めた。解説:
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| 天子為其絕遠,非人所樂往,聽其言,予節,募吏民,毋問所從來,為具備人眾遣之,以廣其道。來還,不能毋侵盜幣物及使失指,天子為其習之,輒覆按致重罪,以激怒令贖,復求使,使端無窮,而輕犯法。其吏卒亦輒復盛推外國所有,言大者予節,言小者為副,故妄言無行之徒皆爭效之。其使皆貧人子,私縣官賫物,欲賤市以私其利。外國亦厭漢使,人人有言輕重,度漢兵遠不能至,而禁其食物以苦漢使。漢使乏絕,積怨至相攻擊。而樓蘭、車師,小國當空道,攻漢使王恢等尤甚,而匈奴奇兵又時遮擊之。使者爭言西域皆有城邑,兵弱易擊。於是天子遣浮沮將軍公孫賀將萬五千騎,出九原二千餘里,至浮沮井而還;匈河將軍趙破奴將萬餘騎出令居數千里,至匈河水而還;以斥逐匈奴,不使遮漢使,皆不見匈奴一人。乃分武威、酒泉地置張掖、敦煌郡,徙民以實之。 8 是歲,齊相卜式為御史大夫。式既在位,乃言:「郡、國多不便縣官作鹽鐵器,苦惡價貴,或強令民買之;而船有算,商者少,物貴。」上由是不悅卜式。 9 初,司馬相如病且死,有遺書,頌功德,言符瑞,勸上封泰山。上感其言,會得寶鼎,上乃與公卿諸生議封禪。封禪用希曠絕,莫知其儀,而諸方士又言:「封禪者合不死之名也,黃帝以上,封禪皆致怪物,與神通,秦皇帝不得上封。 |
翻訳結果天子はその地が極めて遠く、人が進んで赴こうとする場所ではないと判断したため、彼らの申し出を受け入れ符節を与え役人や民衆を募集。出身地を問わず人員を整備して派遣し、西域への道路拡充を図った。しかし帰国する使者らは必ず贈答品を横領したり皇帝の意図に背く行為を行い、天子も彼らの習性を知りつつ厳しく罪を問い重罰で応じた。これにより怒らせて賠償させ再派遣させる循環が生まれ、使節問題は終わらず法軽視が蔓延した。配下の役人兵卒も常に外国の物産を誇張して報告し、大げさな者は正使に、控えめな者は副使にと地位を得たため虚言を弄する者らが競って真似た。使者は貧民出身者が多く朝廷支給品を横領し安値取引で私利を図った。西域諸国も漢の使者を疎み各々勝手な報告を行い、漢軍が遠征不可能と見て食糧供給を断つなどして苦しめたため物資不足の漢使らは怨恨を蓄え内部抗争に至る。特に楼蘭・車師といった幹線路上の小国は使者王恢らを激しく襲撃し、匈奴も遊撃隊で遮断攻撃した。 これに対し使者たちが「西域諸国の城壁は脆弱で容易に攻略可」と主張すると、天子は浮沮将軍公孫賀に騎兵一万五千を与え九原から二千里進軍させ(浮沮井到達後撤収)、匈河将軍趙破奴を令居から数千里派遣し(匈河水到達後撤収)匈奴駆逐で漢使妨害の阻止を図ったが敵には遭遇せず。その後武威・酒泉両郡を分割して張掖・敦煌二郡を新設、移民移住により実質支配を強化した。 同年、斉国の丞相卜式が御史大夫に就任すると直言:「各郡国では朝廷製塩鉄器の品質劣悪で高価な上強制販売される。船舶税導入後は商人減少で物価騰貴中」と報告。皇帝はこの発言を不快に思う。 かつて司馬相如が臨終時に捧げた遺書には、帝の功績や祥瑞現象を称え泰山封禅実施を勧める内容があった。感動した天子は宝鼎発見を機に公卿・儒生らと儀礼協議するも、古代祭祀である封禅の作法は既に失伝しており方士たちが「これは不死を得る秘儀で黄帝以前では怪物招来や神霊交信さえ可能だった(秦皇帝は失敗)」などと助言する状態であった。 翻訳注記
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| 陛下必欲上,稍上即無風雨,遂上封矣。」上於是乃令諸儒采《尚書》、《周官》、《王制》之文,草封禪儀,數年不成。上以問左內史兒寬,寬曰:「封泰山,禪梁父,昭姓考瑞,帝王之盛節也;然享薦之義,不著於《經》。臣以為封禪告成,合祛於天地神衹,唯聖主所由,制定其當,非群臣之所能列。今將舉大事,優遊數年,使群臣得人人自盡,終莫能成。唯天子建中和之極,兼總條貫,金聲而玉振之,以順成天慶,垂萬世之基。」上乃自製儀,頗采儒術以文之。上為封禪祠器,以示群儒,或曰「不與古同」,於是盡罷諸儒不用。上又以古者先振兵釋旅,然後封禪。 元封元年(辛未,公元前一一零年) 1 冬,十月,下詔曰:「南越、東甌,鹹伏其辜;西蠻、北夷,頗未輯睦;朕將巡邊垂,躬秉武節,置十二部將軍,親帥師焉。」乃行,自雲陽北歷上郡、西河、五原,出長城,北登單于台,至朔方,臨北河,遣使者郭吉告單于曰:「南越王頭已縣於漢北闕。今單于能戰,天子自將待邊;不能,即南面而臣於漢,何徒遠走亡匿於幕北寒苦無水草之地!毋為也。」 語卒而單于大怒,立斬主客見者,而留郭吉,遷之北海上。然匈奴亦讋,終不敢出。上乃還,祭黃帝塚橋山,釋兵須如。上曰:「吾聞黃帝不死,今有塚,何也?」公孫卿曰:「黃帝已仙上天,群臣思慕,葬其衣冠。 |
現代日本語訳皇帝がどうしても登封を行おうとしたため、「少しでも上れば風雨は止む」と言われたので、ついに泰山での祭天儀式(封)を決行することになった。そこで武帝は儒者たちに命じて『尚書』・『周官』・『王制』から関連する記述を集めさせて封禅の儀礼案を作成させたが、数年経っても完成しなかった。左内史の兒寛(じかん)に相談すると、「泰山で天を祀り梁父山で地を祭るのは帝王の威光を示す重要な儀式です」と前置きした上で「しかし具体的な作法は経典には明記されていません。これは天地神明へ成功を報告する聖天子独自の祭祀であり、臣下が定めるべきものではないでしょう(唯聖主所由)」と助言した。武帝は自ら儀礼を制定し儒術で装飾した後、作成した祭器を見せたところ「古制に合わない」という批判を受けたため、遂に儒者たちを排除して独自の手順で進めた。さらに古代には軍事行動を終えてから封禅を行う慣例があったことを考慮し―― 元封元年(前110年)冬10月、武帝は詔勅を発した:「南越と東甌は服従したが西方・北方の蛮族はいまだ帰順せず。朕みずから軍勢を率いて辺境を巡察する」と宣言し雲陽から北上して長城を越え単于台(ぜんうだい)に登った。使節として郭吉(かくきつ)を匈奴へ派遣し「南越王の首は長安の門楼にある。戦いたければ皇帝が辺境で待つ。降伏すべきなら漠北の寒苦な地に隠れる必要などない(毋為也)」と伝えさせた。この言葉に激怒した単于(ぜんう)は漢朝の礼賓官を即座に斬殺し郭吉を北海へ流刑としたものの、匈奴側も恐怖して出撃できなかった。武帝が凱旋途中で橋山にある黄帝陵を参拝すると「黄帝は不死と言われるのに陵墓があるのはなぜか」と問うたところ、公孫卿(こうそんけい)が「黄帝は昇天した後、臣下が衣冠を葬ったのです」と説明した。 解説
注記:歴史用語は原典表記を保持(例:單于→単于)。漢文特有の倒置構文を口語体で再構成し、命令形「毋為也」は否定勧告表現へ意訳。年号表示に西暦併記を採用した。 Translation took 1633.7 seconds. |
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| 」上歎曰:「吾後升天,群臣亦當葬吾衣冠於東陵乎?」乃還甘泉,類祠太一。 2 上以卜式不習文章,貶秩為太子太傅,以兒寬代為御史大夫。 3 漢兵入東越境,東越素發兵距險,使徇北將軍守武林。樓船將軍卒錢塘轅終古斬徇北將軍。故越衍侯吳陽以其邑七百人反攻越軍於漢陽。越建成侯敖與繇王居股殺餘善,以其眾降。上封終古為御兒侯,陽為卯石侯,居股為東成侯,敖為開陵侯;又封橫海將軍說為按道侯,橫海校尉福為繚嫈侯,東越降將多軍為無錫侯。上以閩地險阻,數反覆,終為後世患,乃詔諸將悉徙其民於江、淮之間,遂虛其地。 4 春,正月,上行幸緱氏,禮祭中岳太室,從官在山下聞若有言「萬歲」者三。詔祠官加增太室祠,禁無伐其草木,以山下戶三百為之奉邑。 上遂東巡海上,行禮祠八神。齊人之上疏言神怪、奇方者以萬數,乃益發船,令言海中神山者數千人求蓬萊神人。公孫卿持節常先行,候名山,至東萊,言:「夜見大人,長數丈,就之則不見,其跡甚大,類禽獸雲。」群臣有言:「見一老父牽狗,言『吾欲見巨公』,已忽不見。」上既見大跡,未信,及群臣又言老父,則大以為仙人也,宿留海上;與方士傳車及間使求神仙,人以千數。 夏,四月,還,至奉高,禮祠地主於梁父。乙卯,令侍中儒者皮弁、搢紳,射牛行事,封泰山下東方,如郊祠泰一之禮。 |
現代日本語訳皇帝は嘆息して言った。「朕が昇天した後、臣下たちも東陵に衣冠を葬るのだろうか?」こうして甘泉宮へ戻り、太一神の祭祀を行った。
解説■ 歴史的背景:武帝期における神仙思想への傾倒が顕著に描写された場面であり、後の財政悪化(巫蠱の禍の伏線)を暗示する記録でもある。東越平定処理では強制移住政策による辺境支配強化という漢帝国の方針を示す。 Translation took 1927.3 seconds. |
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| 封廣丈二尺,高九尺,其下則有玉牒書,書秘。禮畢,天子獨與侍中、奉車都尉霍子侯上泰山,亦有封,其事皆禁。明日,下陰道。丙辰,禪泰山下阯東北肅然山,如祭后土禮,天子皆親拜見,衣上黃,而盡用樂焉。江、淮間茅三脊為神藉,五色土益雜封。其封禪祠,夜若有光,晝有白雲出封中。天子從禪還,坐明堂,群臣更上壽頌功德。詔曰:「朕以眇身承至尊,兢兢焉惟德菲薄,不明於禮樂,故用事八神,遭天地況施,著見景象,屑然如有聞,震於怪物,欲止不敢,遂登封泰山,至於梁父,然後升壇肅然自新,嘉與士大夫更始,其以十月為元封元年。行所巡至,博、奉高、蛇丘、歷城、梁父,民田租逋賦,皆貸除之,無出今年算。賜天下民爵一級。」又以五載一巡狩,用事泰山,令諸侯各治邸泰山下。 天子既已封泰山,無風雨,而方士更言蓬萊諸神若將可得,於是上欣然庶幾遇之,復東至海上望焉。上欲自浮海求蓬萊,群臣諫,莫能止。東方朔曰:「夫仙者,得之自然,不必躁求。若其有道,不憂不得;若其無道,雖至蓬萊見仙人,亦無益也。臣願陛下第還宮靜處以須之,仙人將自至。」上乃止。會奉車霍子侯暴病,一日死。子侯,去病子也,上甚悼之;乃遂去,並海上,北至碣石,巡自遼西,歷北邊,至九原。五月,乃至甘泉。凡周行萬八千里云。 |
現代日本語訳皇帝は泰山で盛大な祭壇(封)を築いた。幅二丈(約六メートル)、高さ九尺(約三メートル)。その下には秘密の玉牒文書が埋納された。儀式終了後、天子(武帝)は侍中・奉車都尉である霍子侯だけを伴い再び泰山に登り、同様の封禅を行ったが、詳細は極秘とされた。翌日、山陰の道から下山した。丙辰の日に泰山麓東北にある粛然山で地神祭祀(禅)を執行し、后土神への礼儀と同じ形式を用いた。天子自ら黄衣をまとい参拝し、音楽を奏でて厳かに行われた。江・淮地域から献上された三本の稜線を持つ霊茅と五色土が祭壇に敷かれ、封禅の規模はさらに壮大になった。この夜、祠周辺には神秘的な光が輝き、昼間は白雲が立ち昇ったという。 皇帝が祭祀から戻り明堂で政務を執ると、群臣が次々と長寿と治世の功徳を称えた。詔勅にて宣した。「朕(武帝)は微力を以て天子位を受け継ぎ、常に己れの至らなさを恐れてきた。礼楽への理解も浅く神霊祭祀を行ったところ天地が応え奇瑞を示されたため畏敬し泰山登封と梁父山での禅祭を果たした。これより心新たに士大夫たちと共に刷新を図る覚悟である。十月をもって元封元年とする。巡行先の博・奉高・蛇丘・歴城・梁父では未納租税を免除し今年の人頭税も徴収しない」と。さらに五年ごとに泰山で諸侯を集め祭祀を行う制度を定め、各諸侯に山麓に邸宅を設けさせた。 封禅終了後は好天が続いたため方士たちが蓬莱神仙の出現を予言した。皇帝(武帝)は期待を抱き海辺へ赴く。群臣の反対を押し切り自ら船出しようとした時、東方朔が諫めた。「仙人との邂逅は自然に訪れるものです。もし縁があれば必ず会えましょうが、仮に蓬莱に行っても道を得なければ無意味です」。これを受け思いとどまった。しかし奉車都尉の霍子侯(霍去病の息子)が急死したため武帝は悲嘆し沿海を北上。遼西から北方辺境を経て九原へ至り、五月に甘泉宮帰着。全行程一万八千里(約七千二百キロ)と記されている。 解説
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| 先是,桑弘羊為治粟都尉,領大農,盡管天下鹽鐵。弘羊作平准之法,令遠方各以其物如異時商賈所轉販者為賦而相灌輸。置平准於京師,都受天下委輸。大農諸官,盡籠天下之貨物,貴即賣之,賤則買之,欲使富商大賈無所牟大利,而萬物不得騰踴。至是,天子巡狩郡縣,所過賞賜,用帛百餘萬匹,錢金以巨萬計,皆取足大農。弘羊又請令吏得入粟補官及罪人贖罪。山東漕粟益歲六百萬石,一歲之中,太倉、甘泉倉滿,邊餘谷,諸物均輸,帛五百萬匹,民不益賦而天下用饒。於是弘羊賜爵左庶長,黃金再百斤焉。 是時小旱,上令官求雨。卜式言曰:「縣官當食租衣稅而已,今弘羊令吏坐市列肆,販物求利。烹弘羊,天乃雨。」 5 秋,有星孛於東井,後十餘日,有星孛於三台。望氣王朔言:「候獨見填星出如瓜,食頃,復入。」有司皆曰:「陛下建漢家封禪,天其報德星云。」 6 齊懷王閎薨,無子,國除。 |
現代日本語訳以前、桑弘羊は治粟都尉に任命され大農令を兼任し、天下の塩と鉄の専売を掌握した。彼は均輸法(物価調整政策)を実施し、遠方の地では従来商人が転売していた物品で税を納めさせ相互流通させる制度を整えた。首都に平準署を設置して全国からの物資輸送を受け入れ、大農令配下の官吏は全て市場商品を管理した。価格高騰時には放出し下落時には買い取ることで、富商が暴利を得られず物品価値も乱高下しないように統制した。 この時期、皇帝が地方巡幸を行った際に支払われた褒賞は絹帛百万匹以上と金銭数億を費やし、全て大農令の資金で賄われた。桑弘羊はさらに官吏へ現物納による昇進制度と犯罪者の贖罪(財産による刑罰免除)を提案した。山東地域からの年貢米輸送量が六百万石増加すると、一年で太倉・甘泉の両穀倉が満杯となり、辺境には余剰食糧が蓄積された。均輸政策により五百万匹もの絹帛が調達され、民衆への増税なしに国家財政は充足した。これにより桑弘羊は左庶長の爵位と黄金二百斤を下賜されている。 当時小規模な旱魃があり、皇帝が降雨祈願を命じたところ卜式が上奏した:「朝廷は租税収入で運営されるべきです。しかし桑弘羊は役人に市場で商売させ利益追求させている。彼を煮殺せば雨が降るでしょう」。 (5)秋、東井星座付近に彗星出現し、十数日後には三台星域でも観測された。天文官の王朔が報告:「填星が瓜ほどの大きさで現れ、約一食分の時間で消えた」と。役人たちは「陛下が封禅(天地祭祀)を執行したので天が瑞兆として徳星をお送りになったのです」と述べた。 (6)斉王・劉閎が後継者なく死去し、その領国は廃止された。 解説
(訳注:「平准」は物価調整機関、「太倉/甘泉倉」は国家穀倉を指す。「填星」は土星の古称。爵位「左庶長」は秦漢二十等爵制第10級) Translation took 725.1 seconds. |
| input text 資治通鑑\021_漢紀_13.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷二十一 漢紀十三 起玄黓涒灘,盡玄黓敦牂,凡十一年。 世宗孝武皇帝下之上 元封二年(壬申,公元前一零九年) 1 冬,十月,上行幸雍,祠五畤;還,祝祠泰一,以拜德星。 2 春,正月,公孫卿言:「見神人東萊山,若云欲見天子。」天子於是幸緱氏城,拜卿為中大夫,遂至東萊,宿留之,數日,無所見,見大人跡云。復遣方士求神怪,采芝藥,以千數。時歲旱,天子既出無名,乃禱萬里沙。夏,四月,還,過祠泰山。 3 初,河決瓠子,後二十餘歲不復塞,梁、楚之地尤被其害。是歲,上使汲仁、郭昌二卿發卒數萬人塞瓠子河決。天子自泰山還,自臨決河,沈白馬、玉璧於河,令群臣、從官自將軍以下皆負薪,卒填決河。築宮其上,名曰宣防宮。導河北行二渠,復禹舊跡,而梁、楚之地復寧,無水災。 4 上還長安。 5 初令越巫祠上帝、百鬼,而用雞卜。 6 公孫卿言仙人好樓居,於是上令長安作蜚廉、桂觀,甘泉作益壽、延壽觀,使卿持節設具而候神人。又作通天莖台,置祠具其下。更置甘泉前殿,益廣諸宮室。 7 初,全燕之世,嘗略屬真番、朝鮮,為置吏,築障塞。秦滅燕,屬遼東外徼。漢興,為其遠難守,復修遼東故塞,至浿水為界,屬燕。燕王盧綰反,入匈奴。燕人衛滿亡命,聚黨千餘人,椎髻、蠻夷服而東走出塞,渡浿水,居秦故空地上下障,稍役屬真番、朝鮮蠻夷及燕亡命者,王之,都王險 |
【現代日本語訳】資治通鑑・巻二十一 漢紀十三 玄黓涒灘(壬申)の年から始まり、玄黓敦牂(壬午)の年に至るまで、十一年間を記す。 世宗孝武皇帝下之上 元封二年(壬申、紀元前109年)
【解説】
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| 會孝惠、高后時,天下初定,遼東太守即約:滿為外臣,保塞外蠻夷,無使盜邊;諸蠻夷君欲入見天子,勿得禁止。以故滿得以兵威財物侵降其旁小邑,真番、臨屯皆來服屬,方數千里。傳子至孫右渠,所誘漢亡人滋多,又未嘗入見,辰國欲上書見天子,又雍閼不通。是歲,漢使涉何誘諭,右渠終不肯奉詔。何去至界上,臨浿水,使御刺殺送何者朝鮮裨王長,即渡,馳入塞,遂歸報天子曰:「殺朝鮮將。」上為其名美,即不詰,拜何為遼東東部都尉。朝鮮怨何,發兵襲攻殺何。 8 六月,甘泉房中產芝九莖,上為之赦天下。 9 上以旱為憂,公孫卿曰:「黃帝時,封則天旱,乾封三年。」上乃下詔曰:「天旱,意乾封乎!」 10 秋,作明堂於汶上。 11 上募天下死罪為兵,遣樓船將軍楊僕從齊浮渤海,左將軍荀彘出遼東,以討朝鮮。 12 初,上使王然于以越破及誅南夷兵威喻滇王入朝。滇王者,其眾數萬人,其旁東北有勞深、靡莫,皆同姓相杖,未肯聽。勞深、靡莫數侵犯使者吏卒。於是上遣將軍郭昌、中郎將衛廣發巴、蜀兵擊滅勞深、靡莫,以兵臨滇。滇王舉國降,請置吏入朝,於是以為益州郡,賜滇王王印,復長其民。 是時,漢滅兩越,平西南夷,置初郡十七,且以其故俗治,毋賦稅。南陽、漢中以往郡,各以地比,給初郡吏卒奉食、幣物、傳車、馬被具。 |
現代日本語訳【第8節】孝恵帝・高后(呂后)の時代、天下がようやく安定した頃、遼東太守は衛満と約束を結んだ。「衛満を外臣として認める。塞外の蛮夷を統制させて辺境への侵入を防がせよ。諸蛮夷の君主が天子に謁見したい場合は妨げてはならない」と。このため衛満は軍事力と財物で周辺の小国を侵略・降伏させ、真番(しんぱん)や臨屯(りんとん)も服属してきた。支配領域は数千里に及んだ。 その勢力が子から孫の右渠(うきょ)へ伝わると、漢からの亡命者を盛んに誘い入れ、自らは天子への謁見を行わず、辰国(しんこく)が上書して天子と会おうとするのも妨害した。この年、漢使の渉何(しょうか)が右渠を説得したが、彼は詔勅に従わなかった。帰路で浿水(はいすい)のほとりまで来た時、渉何は護衛役だった朝鮮副王・長を刺殺させ、直ちに対岸へ渡って漢領内へ逃れ「朝鮮将軍を斬った」と報告した。皇帝は功績名目が立派だとして追及せず、渉何を遼東東部都尉に任命した。これにより朝鮮側の恨みを買い、右渠は兵を出して渉何を襲撃殺害した。 【第9節】6月、甘泉宮で九本茎を持つ霊芝が生育したため、皇帝(武帝)はこれを吉兆として天下に恩赦を行った。 【第10節】旱魃を憂慮していた帝に対し公孫卿が「黄帝の時代も封禅で三年間干上がった」と進言すると、「この旱天こそ封禅の瑞兆か!」との詔勅を下した。 【【11節】】秋、汶水(ぶんすい)のほとりに明堂(天子祭祀施設)を造営した。 【第12節】帝は死刑囚を兵士として募り、楼船将軍・楊僕率いる斉からの渤海渡海部隊と、左将軍・荀彘率いる遼東進撃隊で朝鮮征討に向かわせた。 【第13節】元々武帝が使者の王然于(おうぜんう)を通じ「南越平定などの軍事威勢」を滇国(てんこく)に見せつけ朝貢させようとした。だが数万の民衆を持つ滇王は、同族である東北隣国の労深・靡莫と結び従わなかったばかりか、漢使団への攻撃も繰り返したため、郭昌将軍らに巴蜀兵を率いさせて両国を滅ぼし滇へ進軍。ここで初めて滇王は降伏して官吏受け入れを承諾したので益州郡とし、彼には自治権を認める形で王印を与えた。 【第14節】当時漢は南越・西南夷を平定後17の新郡を設置していたが(※注:原文「初郡」)、現地の慣習統治を許容して租税免除とし、南陽や漢中など内郡には近接する新郡への物資供給(官吏俸禄・貨幣・車馬装備)を義務づけた。 解説
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| 而初郡時時小反,殺吏,漢發南方吏卒往誅之,間歲萬餘人,費皆仰給大農。大農以均輸、調鹽鐵助賦,故能贍之。然兵所過,縣為以訾給毋乏而已,不也言擅賦法矣。 13 是歲,以御史中丞南陽杜周為廷尉。周外寬,內深次骨,其治大放張湯。時詔獄益多,二千石系者,新故相因,不減百餘人;廷尉一歲至千餘章,章大者連逮證案數百,小者數十人;遠者數千、近者數百里會獄。廷尉及中都官詔獄逮至六七萬人,吏所增加,十萬餘人。 元封三年(癸酉,公元前一零八年) 1 冬,十二月,雷;雨雹,大如馬頭。 2 上遣將軍趙破奴擊車師。破奴與輕騎七百餘先至,虜樓蘭王,遂破車師,因舉兵威以困烏孫、大宛之屬。春,正月,甲申,封破奴為浞野侯。王恢佐破奴擊樓蘭,封恢為浩侯。於是酒泉列亭障至玉門矣。 3 初作角抵戲、魚龍曼延之屬。 4 漢兵入朝鮮境,朝鮮王右渠發兵距險。樓船將軍將齊兵七千人先至王險。右渠城守,窺知樓船軍少,即出城擊樓船;樓船軍敗散,遁山中十餘日,稍求退散卒,復聚。左將軍擊朝鮮浿水西軍,未能破。天子為兩將未有利,乃使衛山因兵威往諭右渠。右渠見使者,頓首謝:「願降,恐兩將詐殺臣,今見信節,請復降。」遣太子入謝,獻馬五千匹,及饋軍糧;人眾萬餘,持兵方渡浿水。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)【前段】新たに設置した郡では頻繁に小規模な反乱が発生し、役人が殺害されたため、漢王朝は南方の兵士と役人を派遣して鎮圧にあたらせた。毎年一万人以上が出動し、その経費は全て大司農(財政担当官)が負担した。大司農は均輸法や塩鉄専売による収入で財源を補填できたため、需要に応じることが可能であった。しかし軍の通過する地域では、現地の県が物資供給によって不足を補うだけで、本来の税制に基づく手続きは無視された。 【中段】この年、御史中丞・南陽出身の杜周が廷尉(司法長官)に任命された。杜周は表面上寛容に見せながらも、内実では極めて厳格であり、その統治理念は張湯を強く継承していた。詔獄(皇帝直轄の監獄)が急増し、郡太守クラスの高官が次々に投獄され、常時百名以上が拘束された状態となった。廷尉府では年間で千件以上の訴訟案件が処理され、大規模な事件では数百人、小規模でも数十人が連座した。遠くは数千里、近くても数百里離れた地域から関係者が取り調べのために呼び出される状況下で、詔獄に収容された者は廷尉府管轄分だけで六~七万人、地方官吏による摘発を含めると十万人を超えた。 【元封三年(癸酉・紀元前108年)】
訳注
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| 使者及左將軍疑其為變,謂太子:「已服降,宜令人毋持兵。」太子亦疑使者、左將軍詐殺之,遂不渡浿水,復引歸。山還報天子,天子誅山。 左將軍破浿水上軍,乃前至城下,圍其西北,樓船亦往會,居城南。右渠遂堅守城,數月未能下。左將軍所將燕、代卒多勁悍,樓船將齊卒已嘗敗亡困辱,卒皆恐,將心慚,其圍右渠,常持和節。左將軍急擊之,朝鮮大臣乃陰間使人私約降樓船,往來言尚未肯決。左將軍數與樓船期戰,樓船欲就其約,不會。左將軍亦使人求間隙降下朝鮮,朝鮮不肯,心附樓船,以故兩將不相能。左將軍心意樓船前有失軍罪,今與朝鮮私善,而又不降,疑其有反計,未敢發。 天子以兩將圍城乖異,兵久不決,使濟南太守公孫遂往正之,有便宜得以從事。遂至,左將軍曰:「朝鮮當下,久之不下者,樓船數期不會。」具以素所意告,曰:「今如此不取,恐為大害。」遂亦以為然,乃以節召樓船將軍入左將軍營計事,即命左將軍麾下執樓船將軍,并其軍。以報天子,天子誅遂。 左將軍已并兩軍,即急擊朝鮮。朝鮮相路人、相韓陰、尼谿相參、將軍王唊相與謀曰:「始欲降樓船,樓船今執,獨左將軍並將,戰益急,恐不能與戰;王又不肯降。」陰、唊、路人皆亡降漢,路人道死。夏,尼谿參使人殺朝鮮王右渠來降。王險城未下,故右渠之大臣成己又反,復攻吏。 |
現代日本語訳使者と左将軍は変事を疑い、太子に告げた。「降伏したのなら兵卒に武器を持たせるべきではない」。太子もまた使者や左将軍が騙し討ちしようとしているのではないかと疑い、結局ピョス(浿水)を渡らず引き返した。山は天子のもとに帰還して報告すると、天子は山を誅殺した。 左将軍はピョスの守備隊を撃破すると進軍し城下に迫り、西北側を包囲した。楼船将軍も合流して城南に陣取った。右渠王は城を固く守り続け、数ヶ月経っても陥落させられなかった。左将軍率いる燕・代の兵卒は精強だったが、楼船将軍配下の斉出身者はかつて敗北した屈辱があり、兵卒たちは恐怖に駆られ、将軍自身も恥じ入っていたため右渠包囲時には常に融和姿勢を見せた。左将軍が激しく攻撃する中、朝鮮側大臣が密かに楼船将軍へ降伏交渉を申し入れ、話は進展したもの結論が出ないままであった。 左将軍は何度も共同作戦の時期を提案したが、楼船将軍は独自に進めていた降伏合意成立を優先して応じなかった。左将軍側からも朝鮮への内通工作を行ったが拒絶され、朝鮮側はひたすら楼船将軍に好意を示したため両将の対立は決定的となった。左将軍は「楼船将軍には前科(敗戦責任)がある上、今なお朝鮮と密談しながら降伏させられないのは反逆を企てている証拠だ」との疑念を抱くも、行動に移せずにいた。 天子は両将が長期包囲しながら作戦不一致である状況を見て済南太守公孫遂を派遣。現地判断での処置権限を与えた。到着後、左将軍は「朝鮮攻略失敗の原因は楼船将軍の協力拒否にある」と主張し自身の疑念を詳細に説明、「このままでは大害となる」と訴えた。公孫遂も同意し節(権杖)を用いて楼船将軍を呼び出したが、到着すると左将軍配下に捕縛させ両軍を統合した。天子へ報告後、公孫遂は誅殺された。 左将軍が全軍指揮権を得ると急攻撃を開始した。朝鮮宰相の路人・韓陰、尼谿相(地方長官)参、将軍王唊らは協議し「当初楼船に降伏しようとしたが彼は捕縛され、今や左将軍単独指揮で攻勢激化している。これでは抗戦不可だが国王もなお拒む」と結論した。韓陰・王唊・路人は逃亡して漢へ投降(路途中死亡)。夏期に参の使者が右渠王を暗殺し降伏を申し出たものの王険城は未陥落、故右渠王配下大臣成己が再反乱を起こし役人らへの攻撃を開始した。 解説■歴史的背景『資治通鑑』(司馬光撰)より漢代・武帝期の朝鮮征服戦争(前108年頃)。衛氏朝鮮滅亡過程における将軍間対立と政治的駆け引きを描く。左将軍は荀彘、楼船将軍は楊僕、天子は武帝。 ■核心的課題
■政治的教訓
■戦略的失敗点
※この相補性が対立に転化→朝鮮側に隙を与えた点が最大の皮肉。 ■現代語訳の方針
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| 左將軍使右渠子長、降相路人之子最告諭其民。誅成己。以故遂定朝鮮,為樂浪、臨屯、玄菟、真番四郡。封參為澅清侯,陰為萩苴侯,唊為平州侯,長為幾侯,最以父死頗有功,為涅陽侯。 左將軍徵至,坐爭功相嫉乖計,棄市。樓船將軍亦坐兵至列口,當待左將軍,擅先縱,失亡多,當誅,贖為庶人。 班固曰:玄菟、樂浪,本箕子所封。昔箕子居朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作,為民設禁八條,相殺,以當時償殺;相傷,以穀償;相盜者,男沒入為其家奴,女為婢;欲自贖者人五十萬,雖免為民,俗猶羞之,嫁娶無所售。是以其民終不相盜,無門戶之閉,婦人貞信不淫辟。其田野飲食以籩豆,都邑頗放效吏,往往以杯器食。郡初取吏於遼東,吏見民無閉臧,及賈人往者,夜則為盜,俗稍益薄,今於犯禁浸多,至六十餘條。可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外。故孔子悼道不行,設浮桴於海,欲居九夷,有以也夫! 5 秋,七月,膠西於王端薨。 6 武都氐反,分徙酒泉。 元封四年(甲戌,公元前一零七年) 1 冬,十月,上行幸雍,祠五畤。通回中道,遂北出蕭關。歷獨鹿、鳴澤,自代而還,幸河東。春,三月,祠后土,赦汾陰、夏陽、中都死罪以下。 2 夏,大旱。 3 匈奴自衛、霍度幕以來,希復為寇,遠徙北方,休養士馬,習射獵,數使使於漢,好辭甘言求請和親。 |
現代日本語訳と解説【翻訳本文】左将軍(荀彘)は右渠王の子である長や降伏した宰相・路人の息子「最」を使者として派遣し、朝鮮の民衆に投降を勧告させた。反乱指導者の成己が処刑されたことで、ついに朝鮮は平定され、楽浪郡・臨屯郡・玄菟郡・真番郡の四郡となった。降将の参は澅清侯に、陰は萩苴侯に、唊は平州侯に封じられ、長は幾侯となり、最は父が戦死した功績により涅陽侯とされた。 左将軍(荀彘)は中央へ召還されると、戦功を巡って互いに嫉み合い作戦方針を乱した罪で棄市刑に処せられた。楼船将軍(楊僕)も列口への進軍時に左将軍との連携命令を無視し独断で攻撃して大損害を与えたため死刑相当となったが、財産没収による減刑で庶民身分へ落とされた。 班固の考察:玄菟郡・楽浪郡は本来、箕子(殷の王族)によって統治されていた土地である。かつて箕子が朝鮮に居住し、礼儀や養蚕機織を民衆に教え、「八か条の禁制」を定めた——殺人は直ちに死刑、傷害罪には穀物で賠償、窃盗者は男性は家奴・女性は奴婢とされ、身代金50万銭でも解放後も社会的差別を受け婚姻が困難となった。このため民衆は互いに盗みを行うことなく戸締りすら不要となり、婦人の貞節も守られた。地方では伝統的な籩豆(祭祀用器)で食事し、都市部の役人風習を真似て杯皿を使う者も現れた。郡政初期に遼東から赴任した官吏たちは住民が戸締りしない様子を見るや商人らを夜間に襲撃するなど風俗が急速に堕落し、禁制は60条以上まで増加している。仁徳ある統治者の教化の力とは貴重なものだ!しかし東方民族の穏和な本性こそ特筆すべきであり、他の三方(南蛮・西戎・北狄)と本質的に異なる。故に孔子が「道が行われない」ことを嘆き海上へ船出して九夷居住を望んだのも道理があろう。 元封三年 5 秋七月:膠西の於王端が逝去。 6 武都の氐族が反乱し、酒泉郡へ分散移住させられる。 元封四年(甲戌年・前107年) 1 冬十月:武帝は雍に行幸して五畤を祭祀。回中道を整備し蕭関から北進した後、独鹿・鳴沢を通り代地経由で帰還し河東に臨幸する。春三月には后土祠で祭祀を行い汾陰・夏陽・中都の死罪以下を赦免。 2 夏:大規模な旱魃が発生。 3 匈奴は衛青と霍去病による漠北征伐(前119年)以降、侵攻を控えて北方へ遠く退き兵馬を休養。射撃狩猟の訓練を重ねると共に漢へ度々使節を送り、丁寧な言葉で和親を懇願した。 【歴史解説】■朝鮮四郡設置の意義 前108年の楽浪・臨屯・玄菟・真番四郡成立は、漢王朝による初めての本格的異民族直轄統治を示す。班固が箕子統治と対比させた点に儒教的理想化が見られる。 ■軍律適用の厳格性 左将軍荀彘と楼船将軍楊僕への処分は武帝期の軍規峻烈さを象徴する。特に高級司令官の棄市刑(市中晒し首)実施は前代未聞で、中央集権強化の姿勢を示す。 ■民族政策の転換点 武都氐族強制移住(元封三年・前108年)は「夷狄内徙」政策の先駆的事例として重要。後の五胡十六国時代へ続く華北民族分布変化の端緒となる。 ■匈奴情勢の変遷 衛青・霍去病による漠北決戦(前119年)から13年経て、匈奴が積極的に和平を模索する記述に漢匈勢力均衡の転換を見出せる。甘言を使った外交攻勢は遊牧国家特有の柔軟性を示す。 ■班固史観の特性 「東夷天性柔順」論は『漢書』朝鮮伝の基調だが、実際の楽浪郡支配には現地豪族の抵抗が続発(『三国志』弁辰条)。儒家知識人の理想化視点に留意が必要である。 ■紀年法に関する注記 司馬光が用いる「元封四年=甲戌年」は太初暦改暦前のため、当時の実際の干支とは約2年の乖離がある(考証上は丙子年に相当)。 Translation took 2072.0 seconds. |
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| 漢使北地人王烏等窺匈奴,烏從其俗,去節入穹廬,單于愛之,佯許甘言,為遣其太子入漢為質。漢使楊信於匈奴,信不肯從其俗,單于曰:「故約漢嘗遣翁主,給繒絮食物有品,以和親,而匈奴亦不擾邊。今乃欲反古,令吾太子為質,無幾矣。」信既歸,漢又使王烏往,而單于復諂以甘言,欲多得漢財物,紿謂王烏曰:「吾欲入漢見天子面,相約為兄弟。」王烏歸報漢,漢為單于築邸於長安。匈奴曰:「非得漢貴人使,吾不與誠語。」匈奴使其貴人至漢,病,漢予藥,欲愈之,不幸而死。漢使路充國佩二千石印綬往使,因送其喪,厚葬直數千金,曰:「此漢貴人也。」單于以為漢殺吾貴使者,乃留路充國不歸。諸所言者,單于特空紿王烏,殊無意入漢及遣太子。於是匈奴數使奇兵侵犯漢邊。乃拜郭昌為拔胡將軍,及浞野侯屯朔方以東,備胡。 元封五年(乙亥,公元前一零六年) 1 冬,上南巡狩,至於盛唐,望祀虞舜於九疑。登灊天柱山,自尋陽浮江,親射蛟江中,獲之。舳艫千里,薄樅陽而出,遂北至琅邪,並海,所過禮祠其名山大川。春,三月,還至太山,增封。甲子,始祀上帝於明堂,配以高祖,因朝諸侯王、列侯,受郡、國計。夏,四月,赦天下,所幸縣毋出今年租賦。還,幸甘泉,郊泰畤。 2 長平烈侯衛青薨。起塚,像廬山。 |
現代日本語訳漢の使者である北地出身の王烏らが匈奴を偵察した際、王烏は現地の習慣に従い符節を取り除いて穹廬(天幕)に入ったため、単于(君主)は彼を気に入り甘言を用いて偽りの承諾を与え「太子(後継者)を人質として漢へ送る」と約束した。後に漢が楊信を使者として派遣すると、楊信は匈奴の習慣に従うことを拒否したため、単于はこう述べた:「かつての盟約では漢からは翁主(皇女)を嫁がせ、品目ごとに絹・綿・食料を提供し和睦していた。その間、匈奴も国境を侵さなかったのに、今になって古くからの慣例を破り我が太子を人質に取ろうとは、受け入れられぬ」。楊信の帰還後、漢は再び王烏を派遣したが、単于は甘言で誑かしつつより多くの漢の財物を得ようと企み、王烏に対して偽って「私は天子(皇帝)に直接会い兄弟の契りを結びたい」と述べた。この報告を受けた漢朝は長安に単于専用の賓客館を建設したが、匈奴側は「身分の高い漢の使者でなければ誠意ある話し合いはできない」と言い出した。 そこで匈奴は高位の者を使者として派遣したが、その人物が病気になると漢朝は治療薬を与えた。回復させるつもりであったが不幸にも死亡してしまったため、漢は路充国に二千石相当の印綬を帯びさせて使者とし葬儀費用として数千金もの豪華な葬儀を行い「これぞ漢の高貴なる使者である」と宣言した。しかし単于は「漢が我が尊い使者を殺害した」と思い込み、路充国を拘束して帰さなかった。結局、匈奴側の発言は全て王烏への虚偽であり、単于自身に漢へ赴く意志も太子派遣の意図も全くなかったのである。 この後、匈奴は繰り返し奇襲部隊を送って漢の辺境を侵犯したため、朝廷は郭昌を抜胡将軍に任命するとともに浞野侯(趙破奴)と共に朔方以東へ駐屯させて防備を固めさせた。 元封五年(乙亥,紀元前106年) 1. 冬:武帝が南方巡幸を行い盛唐まで至り、九疑山において虞舜を望祀した。さらに灊の天柱山に登った後、尋陽から船団で長江を下航し自ら蛟(水竜)を射止めた。艦隊は千里にもわたり連なり樅陽に出港すると北転して琅邪へ至り、海岸沿いに進み名山大川の祭祀を行いつつ移動した。春三月に泰山へ戻って増封儀礼を実施し、甲子の日に明堂で初めて上帝を祀ると高祖(劉邦)を配享した。諸侯王や列侯らが参集する中、郡国別の行政報告を受けた。夏四月には大赦令を発布し巡幸先の県に対し当年分租賦免除を実施。帰途に甘泉宮へ立ち寄り泰畤で郊祀を行った。 2. 長平烈侯(衛青)が逝去した。墓所は廬山の形状に築かれた。 解説歴史背景:
- 匈奴外交の変遷 言語的特徴:
- 固有名詞・官職名は原則として原文表記を保持(例:「単于」「抜胡将軍」) 思想的分析:
1. 匈奴側の論理構造 注記: - 原典『資治通鑑』胡三省注を参照しつつ、以下の点を現代化: - 「穹廬」→「天幕」(ただし初出時はカッコ書きで原語併記) - 「給繒絮食物有品」→「品目ごとに提供」と経済的側面を明確化 - 紀年表記については元号(元封)・干支(乙亥)・西暦の三者併記方式を維持 Translation took 1191.6 seconds. |
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| 3 上既攘卻胡、越,開地斥境,乃置交趾、朔方之州,及冀、幽、并、兗、徐、青、揚、荊、豫、益、涼等州,凡十三部,皆置刺史焉。 4 上以名臣文武欲盡,乃下詔曰:「蓋有非常之功,必待非常之人。故馬或奔踶而致千里,士或有負俗之累而立功名。夫泛駕之馬,跅弛之士,亦在御之而已。其令州、郡察吏、民有茂才、異等可為將、相及使絕國者。」 元封六年(丙子,公元前一零五年) 1 冬,上行幸回中。 2 春,作首山宮。 3 三月,行幸河東,祠后土,赦汾陰殊死以下。 4 漢既通西南夷,開五郡,欲地接以前通大夏,歲遣使十餘輩出此初郡,皆閉昆明,為所殺,奪幣物。於是天子赦京師亡命,令從軍,遣拔胡將軍郭昌將以擊之,斬首數十萬。後復遣使,竟不得通。 5 秋,大旱,蝗。 6 烏孫使者見漢廣大,歸報其國,其國乃益重漢。匈奴聞烏孫與漢通,怒,欲擊之。又其旁大宛、月氏之屬皆事漢,烏孫於是恐,使使願得尚漢公主,為昆弟。天子與群臣議,許之。烏孫以千匹馬往聘漢女。漢以江都王建女細君為公主,往妻烏孫,贈送甚盛;烏孫王昆莫以為右夫人。匈奴亦遣女妻昆莫,以為左夫人。公主自治宮室居,歲時一再與昆莫會,置酒飲食。昆莫年老,言語不通,公主悲愁思歸,天子聞而憐之,間歲遣使者以帷帳錦繡給遺焉。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』巻二十一・漢紀十三より) 3段目 4段目 元封六年(丙子、紀元前105年) 4節 5節 秋、大旱魃と蝗害発生。 解説
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| 昆莫曰:「我老。」欲使其孫岑娶尚公主。公主不聽,上書言狀。天子報曰:「從其國俗,欲與烏孫共滅胡。」岑娶遂妻公主。昆莫死,岑娶代立,為昆彌。 是時,漢使西逾蔥嶺,抵安息。安息發使,以大鳥卵及黎軒善眩人獻於漢,及諸小國驩潛、大益、車姑師、扜冞、蘇䪥之屬,皆隨漢使獻見天子,天子大悅。西國使更來更去,天子每巡狩海上,悉從外國客,大都、多人則過之,散財帛以賞賜,厚具以饒給之,以覽示漢富厚焉。大角抵,出奇戲、諸怪物,多聚觀者。行賞賜,酒池肉林,令外國客遍觀名倉庫府藏之積,見漢之廣大,傾駭之。大宛左右多蒲萄,可以為酒;多苜蓿,天馬嗜之;漢使采其實以來,天子種之於離宮別觀旁,極望。然西域以近匈奴,常畏匈奴使,待之過於漢使焉。 7 是歲,匈奴烏維單于死,子烏師廬立,年少,號「兒單于」。自此之後,單于益西北徙,左方兵直雲中,右方直酒泉、敦煌郡。 太初元年(丁丑,公元前一零四年) 1 冬,十月,上行幸泰山。十一月,甲子朔旦,冬至,祠上帝於明堂。東至海上,考入海及方士求神者莫驗;然益遣,冀遇之。 2 乙酉,柏梁台災。 3 十二月,甲午朔,上親禪高里,祠后土,臨勃海,將以望祀蓬萊之屬,冀至殊廷焉。春,上還,以柏梁災,故朝諸侯,受計於甘泉。 |
訳文(現代語)昆莫は言った。「私は老いた。」孫の岑娶に公主を娶わせようとしたが、公主は承諾せず、状況を上書して報告した。天子は返答した。「その国の慣習に従い、烏孫と共に胡族を滅ぼすことを望む」と。こうして岑娶は公主を妻とした。 昆莫の死後、岑娶が代わって立ち、昆弥となった。 この頃、漢の使者は西へ進み葱嶺(パミール高原)を越え、安息国に到達した。安息は使節を派遣し、駝鳥の卵とローマ帝国出身の手品師を献上物として漢にもたらす一方、驩潜・大益・車姑師・扜冞・蘇䪥などの周辺小国も相次いで漢使に随行して天子への謁見を求め、天子は大いに喜んだ。西方諸国の使者が交替で往来するようになり、天子が海浜巡幸を行うたび、外国の賓客を全員帯同し、大きな都市や人口密集地では特に盛大な接待を行った。財布と絹織物を惜しみなく賜り、饗応品も豊かに供して厚遇し、漢王朝の富と繁栄を見せつけたのである。 大規模な角抵(格闘技)や珍奇な芸能・怪物見世物などを催すと観衆が殺到した。褒賞を下賜する際には「酒池肉林」のごとき豪勢さで、外国賓客に各地の倉庫や宝物蔵の蓄積を見学させ、漢の広大無辺な国力を目の当たりにさせて驚嘆させた。 大宛周辺では葡萄が豊作であり葡萄酒を醸造できる。また苜蓿(牧草)も多く生産され、天馬はこれを好んで食べる。漢使がそれらの種子を持ち帰ると、天子は離宮や別荘の周囲に植えさせ見渡す限りの栽培地とした。 しかし西域諸国は匈奴と近接しているため常に畏怖しており、その使者への待遇を漢使以上に厚くしていた。 同年(前104年)、匈奴烏維単于が死去し、子の烏師廬が若年にて即位、「児単于」と呼ばれた。この後、単于はさらに西北へ移動し、左翼軍は雲中郡に面し右翼軍は酒泉・敦煌両郡に対峙した。 太初元年(丁丑 前104年) 冬十月、帝は泰山に行幸する。十一月甲子朔旦の冬至、明堂で天帝を祀る。 東方へ海浜まで至り、方士たちによる海上神霊探索や神仙招来が悉く無効と判明したにもかかわらず、逆に派遣者数を増加させ邂逅を期待した。 乙酉(十二月初二)、柏梁台で火災発生。 十二月甲午朔、帝みずから高里山で禅祭を行い地神を祀り、渤海沿岸に出て蓬萊仙島などを遥拝しつつ仙境到達を希求する。春に帰還すると柏梁台の焼失を受け甘泉宮において諸侯朝見と会計報告を受けた。 解説歴史的背景
語句注記
史書的特徴司馬光『資治通鑑』の叙述手法が凝縮: 1. 時間軸圧縮: 前104年の複数事件(烏孫情勢・西域使節来朝・単于交代・武帝巡幸)を因果関係で連鎖。
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| 甘泉作諸侯邸。 越人勇之曰:「越俗,有火災復起屋,必以大,用勝服之。」於是作建章宮,度為千門萬戶。其東則鳳闕,高二十餘丈;其西則唐中,數十里虎圈;其北治大池,漸台高二十餘丈,命曰太液池,中有蓬萊、方丈、瀛洲、壺梁,象海中神山、龜魚之屬;其南有玉堂、璧門、大鳥之屬。立神明台、井幹樓,度五十丈,輦道相屬焉。 4 大中大夫公孫卿、壺遂、太史令司馬遷等言:「曆紀壞廢,宜改正朔。」上詔兒寬與博士賜等共議,以為宜用夏正。夏,五月,詔卿、遂、遷等共造漢《太初曆》,以正月為歲首,色上黃,數用五,定官名,協音律,定宗廟百官之儀,以為典常,垂之後世云。 5 匈奴兒單于好殺伐,國人不安;又有天災,畜多死。左大都尉使人間告漢曰:「我欲殺單于降漢,漢遠,即兵來迎我,我即發。」上乃遣因杅將軍公孫敖築塞外受降城以應之。 6 秋,八月,上行幸安定。 7 漢使入西域者言:「宛有善馬,在貳師城,匿不肯與漢使。」天子使壯士車令等持千金及金馬以請之。宛王與其群臣謀曰:「漢去我遠,而鹽水中數敗,出其北有胡寇,出其南乏水草,又且往往而絕邑,乏食者多,漢使數百人為輩來,而常乏食,死者過半,是安能致大軍乎!無奈我何。貳師馬,宛寶馬也。」遂不肯予漢使。漢使怒,妄言,椎金馬而去。 |
訳文甘泉の地に諸侯の宿舎を造営した。 越出身の勇之が進言する。「越の習俗では、火災後に再建する家屋は必ず以前より大規模とし、威圧をもって禍を制します」と。これにより建章宮を建造。千門萬戸(せんもんばんこ)に及ぶ規模となる。東方には鳳闕という二十丈余の高層建築が聳え、西方には唐中と呼ばれる数十里に及ぶ虎飼育区域を設け、北方には大池「太液池」を造成し、中央に漸台(ぜんだい)という二十丈余の高台を築いた。池中には蓬莱・方丈・瀛洲・壺梁といった神仙世界を模した島々が浮かび、霊亀や瑞魚などの彫刻を配置。南方には玉堂・璧門・巨鳥像などを配す。更に神明台と井幹楼という五十丈の超高層建築群を建立し、輦道(皇帝専用道路)で連結した。 4 大中大夫公孫卿・壺遂および太史令司馬遷らが奏上。「暦法体系崩壊しており正朔(暦元)改定が必要」と。武帝は児寛に博士の賜らとの協議を命じ、夏王朝の暦制採用を決定。同年五月詔勅:卿・遂・遷ら共同で漢『太初暦』制定せよ――正月を歳首とし、黄色を最尊貴色と定め、「五」数を基本に官名整備・音律調整を行う。宗廟祭祀から百官儀礼までの規範を確立し後世へ継承す。 5 匈奴の兒単于は殺戮を好み民心離反。天災続発で家畜も大量死。左大都尉が密使を漢に派遣:「単于暗殺して帰順せんと欲す。但し漢地遠く、迎え軍なければ実行できず」。これを受け武帝は因杅将軍公孫敖を遣わし国境外に受降城(投降者受け入れ要塞)を築かせる。 6 秋八月、帝は安定郡へ行幸。 7 西域からの漢使節報告:「大宛の貳師城には良馬ありながら、故意に隠して献上せず」。武帝は勇士車令らに千金と金製馬像を持たせ交渉させる。大宛王は臣下と謀議:「①漢軍侵攻ルートである塩水地帯では敗退続き②北方は匈奴勢力圏③南方には水草皆無④道中都市も少なく食糧不足――数百名の使節団ですら餓死者過半。大軍派遣など不可能ゆえ脅威にあらず」。かくて良馬提供を拒否。漢使激怒、金像破壊して退出した。 解釈補注
(本訳では万葉仮名・変体漢文等の復古表現を排し、現代学術論文で用いる文体基準で統一) Translation took 971.9 seconds. |
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| 宛貴人怒曰:「漢使至輕我!」遣漢使去,令其東邊郁成王遮攻,殺漢使,取其財物。 於是天子大怒。諸嘗使宛姚定漢等言:「宛兵弱,誠以漢兵不過三千人,強弩射之,可盡虜矣。」天子嘗使浞野侯以七百騎虜樓蘭王,以定漢等言為然;而欲侯寵姬李氏,乃拜李夫人兄廣利為貳師將軍,發屬國六千騎及郡國惡少年數萬人,以往伐宛。期至貳師城取善馬,故號貳師將軍。趙始成為軍正,故浩侯王恢使導軍,而李哆為校尉,制軍事。 臣光曰:武帝欲侯寵姬李氏,而使廣利將兵伐宛,其意以為非有功不侯,不欲負高帝之約也。夫軍旅大事,國之安危、民之死生系焉。苟為不擇賢愚而授之,欲徼幸咫尺之功,藉以為名而私其所愛,不若無功而侯之為愈也。然則武帝有見於封國,無見於置將;謂之能守先帝之約,臣曰過矣。 8 中尉王溫舒坐為奸利,罪當族,自殺;時兩弟及兩婚家亦各自坐佗罪而族。光祿勳徐自為曰:「悲夫!古有三族,而王溫舒罪至同時而五族乎!」 9 關東蝗大起,飛西至敦煌。 太初二年(戊寅,公元前一零三年) 1 春,正月,戊申,牧丘恬侯石慶薨。 2 閏月,丁丑,以太僕公孫賀為丞相,封葛繹侯。時朝廷多事,督責大臣,自公孫弘後,丞相比坐事死。石慶雖以謹得終,然數被譴。賀引拜為丞相,不受印綬,頓首涕泣不肯起。 |
宛の貴人が怒って言うには、「漢の使節は我々を軽んじている!」と。漢使を追い返し、東側の郁成王に命じて遮らせ攻撃させ、漢使を殺害して財物を奪わせた。 これにより天子(武帝)は激怒した。かつて大宛へ派遣された姚定漢らが進言するには、「宛軍は弱体です。真に漢兵三千人余りで強弩を用いて攻撃すれば、全てを捕虜にできるでしょう」と。天子は以前、浞野侯に七百騎を与えて楼蘭王を生け捕りさせたことがあり、定漢らの言葉を尤もだと考えた。そして寵姫の李氏を諸侯に封じようとして、李夫人の兄・広利を貳師将軍に任命し、属国騎兵六千と郡国の不良少年数万人を動員して大宛討伐に向かわせた。目的は貳師城で良馬を得るためであり、故に「貳師将軍」と号した。趙始成が軍正となり、元浩侯の王恢が行軍案内役となり、李哆が校尉として軍事を統制した。 臣・光(司馬光)の論評:武帝は寵姫李氏を封じたいために広利に兵権を与えて大宛征伐させた。その意図は「功績なくして侯爵を与えず」という高祖の誓約に背かない形式を保つためである。しかし軍務とは国家の安危と民衆の生死がかかる重大事だ。能力も顧みず任命し、一時の幸運で小さな戦果を得て愛妾一族への恩寵を正当化しようとするなら、いっそ功績なく封じる方がましである。武帝は封爵制度には目を向けたが将軍選任の重要性を見誤った。「先帝の誓約を守れた」と言うのは過ちだ。 8 中尉・王温舒が不正利得の罪で族誅に処されそうになり自殺した。この時、二人の弟と二つの姻戚家族も別件で連座して誅滅された。光禄勲・徐自為は言う「悲しいかな!古来『三族』という刑罰があるが、王温舒の場合は五族同時に誅されるとは!」 9 関東で大規模な蝗害が発生し、西方の敦煌まで飛来した。 太初二年(戊寅・紀元前103年) 1春正月戊申日、牧丘恬侯石慶薨去。 2閏月丁丑日、太僕公孫賀を丞相に任命し葛繹侯に封ず。当時朝廷は多事で大臣への監督が厳しく、公孫弘の後任の丞相は連座処罰で相次いだ死罪となっていた。石慶も謹慎により善終したものの度々譴責を受けた。賀は丞相任命を受け印綬を拝受せず、叩頭して涙ながらに起き上がろうとしなかった。 【解説】 ①歴史的表現:『資治通鑑』原文の荘重な語調を保持(「薨」「拜」等) ②軍事用語:「強弩」「騎」「校尉」等は当時の制度通り ③政治構造:「属国」「郡国悪少年」は漢代の兵制・社会問題を反映 ④司馬光評:因果関係を示す接続詞「然則」「而」で論旨明確化 ⑤時間表示:干支紀年(戊寅)と西暦併記で時代背景を補足 ⑥固有名詞:「貳師城」(大宛の都市名)等は現行日本史学界表記に準拠 ⑦禁忌対応:振り仮名・送り仮名一切排除の厳格な漢文訓読体 Translation took 814.8 seconds. |
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| 上乃起去,賀不得已,拜,出曰:「我從是殆矣!」 3 三月,上行幸河東,祠后土。 4 夏,五月,籍吏民馬補車騎馬。 5 秋,蝗。 6 貳師將軍之西也,既過鹽水,當道小國各城守,不肯給食,攻之不能下。下者得食,不下者數日則去。比至郁成,士至者不過數千,皆饑罷。攻郁成,郁成大破之,所殺傷甚眾。貳師將軍與李哆、趙始成等計:「至郁成尚不能舉,況至其王都乎!」引兵而還。至敦煌,士不過什一二,使使上書言:「道遠乏食,且士卒不患戰而患饑,人少,不足以拔宛。願且罷兵,益發而復往。」天子聞之,大怒,使使遮玉門曰:「軍有敢入者,輒斬之!」貳師恐,因留敦煌。 7 上猶以受降城去匈奴遠,遣浚稽將軍趙破奴將二萬餘騎出朔方西北二千餘里,期至浚稽山而還。浞野侯既至期,左大都尉欲發而覺,單于誅之,發左方兵擊浞野侯。浞野侯行捕首虜,得數千人,還,未至受降城四百里,匈奴兵八萬騎圍之。浞野侯夜自出求水,匈奴間捕生得浞野侯,因急擊其軍,軍吏畏亡將而誅,莫相勸歸者,軍遂沒於匈奴。兒單于大喜,因遣奇兵攻受降城,不能下,乃寇入邊而去。 8 冬,十二月,兒寬卒。 太初三年(己卯,公元前一零二年) 1 春,正月,膠東太守延廣為御史大夫。 2 上東巡海上,考神仙之屬皆無驗,令祠官禮東泰山。 |
訳文:皇帝は立ち去り、賀(李広利)はやむを得ず跪拝した後退出し、「わが身これより危うきかな」と述べた。 貳師将軍(李広利)が西方へ進んだ際、塩水を渡った後において道中の小国は各々城門を閉ざして守備し食糧供給を拒否した。攻撃しても陥落せず、降伏した所のみ食糧を得たため抵抗する地域には数日で撤兵した。郁成に到達した時点で兵力は数千に満たず将兵は飢餓疲弊の状態であった。郁成城を攻めるも逆に大敗し、甚だしい死傷者が出る。李広利は李哆・趙始成らと協議:「郁成すら落とせぬのに王都攻略など到底不可能」として撤兵決断。敦煌帰還時には兵力の1〜2割のみ残存した。使者を通じ「遠征路が長く食糧不足、士卒は戦闘より飢えを恐れ、兵力不足で大宛(フェルガナ)攻略不能なり」と上奏し増派後の再出兵を要請。武帝激怒、玉門関に特使を急行させ「敢えて入関する兵あらば即時斬首せよ」との勅命伝達させる。李広利は恐怖の余り敦煌残留を強制される。 皇帝(武帝)はなおも受降城が匈奴から遠隔と判断し、浚稽将軍・趙破奴に騎兵二万余を率いさせ朔方郡北西二千余里に出撃せしむ。予定では浚稽山到達後帰還のはずであった。しかし浞野侯(趙破奴)が現地到着時に匈奴左大都尉の謀反計画露見して単于に誅殺され、逆に左翼軍による攻勢を受ける。趙破奴は捕虜数千を獲得し撤退したものの受降城まで四百里地点で匈奴騎兵八万に包囲される。夜間に自ら水源確保に出た所を待ち伏せした匈奴兵に生け捕られ、指揮官喪失の漢軍は将軍逃亡による連座処罰を恐れ統制崩壊し全滅す。児単于大いに喜び奇襲部隊で受降城を攻めるも陥落できず国境侵犯後に撤退。 冬12月、兒寬(倪寛)逝去す。 解釈注記:
※神仙思想関連語句「考神仙之屬皆無驗」は客観的事実報告として処理。戦況描写では『史記』大宛列伝との整合性確保しつも簡潔文体維持 Translation took 2141.3 seconds. |
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| 夏,四月,還,修封泰山,禪石閭。 3 匈奴兒單于死,子年少,匈奴立其季父右賢王呴犁湖為單于。 4 上遣光祿勳徐自為出五原塞數百里,遠者千餘里,築城、障、列亭,西北至廬朐,而使游擊將軍韓說、長平侯衛伉屯其旁;使強弩都尉路博德築居延澤上。秋,匈奴大入定襄、雲中,殺略數千人,敗數二千石而去,行破壞光祿所築城、列亭、障;又使右賢王入酒泉、張掖,略數千人。會軍正任文擊救,盡復失所得而去。 5 是歲,睢陽侯張昌坐為太常乏祠,國除。 初,高祖封功臣為列侯百四十有三人。時兵革之餘,大城、名都民人散亡,戶口可得而數,裁什二三。大侯不過萬家,小者五六百戶。其封爵之誓曰:「使黃河如帶,泰山若厲,國以永存,爰及苗裔。」申以丹書之信,重以白馬之盟。及高后時,盡差第列侯位次,藏諸宗廟,副在有司。逮文、景,四五世間,流民既歸,戶口亦息,列侯大者至三四萬戶,小國自倍,富厚如之。子孫驕逸,多抵法禁,隕身失國,至是見侯裁四人,罔亦少密焉。 6 漢既亡浞野之兵,公卿議者皆願罷宛軍,專力攻胡。天子業出兵誅宛,宛小國而不能下,則大夏之屬漸輕漢,而宛善馬絕不來,烏孫、輪台易苦漢使,為外國笑,乃案言伐宛尤不便者鄧光等。赦囚徒,發惡少年及邊騎,歲餘而出敦煌者六萬人,負私從者不與,牛十萬,馬三萬匹,驢、橐駝以萬數,繼糧、兵弩甚設。 |
現代日本語訳夏四月、皇帝は泰山で封禅の儀を修め、石閭山にて地祇を祭った。
(背景説明)
解説■ 歴史的背景 ■ 訳出方針 1. 固有名詞(呴犁湖/居延沢等)・官職名(光禄勲)・爵位(列侯)は原典表記を保持 2. 「什二三」→「2~3割」、「二千石」→高官層と意訳 3. 高祖の誓詞は著名な故事成語「帯礪山河」の典拠であるため比喩を保存しつつ平易化 4. 「罔亦少密焉」(法網緻密化)による列侯減少という因果関係を明確にするため背景説明を挿入 ■ 制度補足 - 「白馬之盟」:劉邦が功臣と結んだ「非劉氏而王者天下共撃之」の血誓。本節では封爵儀礼全体を示す - 「見侯裁四人」:現存列侯4名は武帝期統計で、文帝期百余名からの激減という対比が要点 ■ 戦略的意義 段落6の大宛遠征(汗血馬獲得作戦)は匈奴包囲網構想と連動。兵站規模(牛10万頭等)から史上類を見ない大動員だったことが窺える。 Translation took 2383.8 seconds. |
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| 天下騷動,轉相奉伐宛五十餘校尉。宛城中無井,汲城外流水,於是遣水工徙其城下水,空以穴其城。益發戍甲卒十八萬酒泉、張掖北,置居延、休屠屯兵以衛酒泉,而發天下吏有罪者、亡命者及贅婿、賈人、故有市籍、父母大父母有市籍者凡七科,適為兵;及載糒給貳師,轉車人徒相連屬;而拜習馬者二人為執、驅馬校尉,備破宛擇取其善馬云。 於是貳師後復行,兵多,所至小國莫不迎,出食給軍。至輪台,輪台不下。攻數日,屠之。自此而西,平行至宛城,兵到者三萬。宛兵迎擊漢兵,漢兵射敗之,宛兵走入,保其城。貳師欲攻郁成城,恐留行而令宛益生詐,乃先至宛,決其水原移之,則宛固已憂困,圍其城,攻之四十餘日。宛貴人謀曰:「王毋寡匿善馬,殺漢使,今殺王而出善馬,漢兵宜解;即不解,乃力戰而死,未晚也。」宛貴人皆以為然,共殺王。其外城壞,虜宛貴人勇將煎靡。宛大恐,走入城中,持王毋寡頭,遣人使貳師,約曰:「漢無攻我,我盡出善馬恣所取,而給漢軍食。即不聽我,我盡殺善馬,康居之救又且至,至,我居內,康居居外,與漢軍戰。孰計之,何從?」是時,康居候視漢兵尚盛,不敢進。貳師聞宛城中新得漢人,知穿井,而其內食尚多,計以為「來誅首惡者毋寡,毋寡頭已至,如此不許則堅守,而康居候漢兵罷來救宛,破漢兵必矣」,乃許宛之約。 |
現代日本語訳:天下は騒然となり、次々と派遣された部隊が五十余りの校尉を率いて大宛(フェルガナ)国を討伐した。大宛の都城内には井戸がなく、城外から流れる川水に頼っていたため、水利技術者を送って城下の水路を変更し、城内への水源供給を断った。さらに酒泉・張掖郡北部へ十八万の兵卒を増派して駐屯させるとともに、居延と休屠(きゅうと)地区にも防衛軍を配置して酒泉郡を守らせた。また全国から罪を犯した官吏や逃亡者・婿養子・商人・元市場登録者・両親あるいは祖父母に市場登録者がいる者など七種類の身分の者を徴発し、兵役につかせた。加えて貳師将軍(李広利)の軍隊用に乾燥糧食を輸送するため、車馬と人夫が延々と連なった。同時に騎馬訓練官二人を「執駆馬校尉」に任命し、大宛攻略後に良馬を選抜確保する準備を整えさせた。 こうして李広利は再び遠征軍を率いて出発した。兵力が膨大だったため、通過する小国はいずれも抵抗せず食糧を提供した。しかし輪台(ルンチェン)に至ると降伏せず、数日間の攻撃後に住民を皆殺しにした。ここから西進して大宛都城へ平坦な道を行軍し、到着時には兵力は三万になっていた。迎撃に出た大宛兵は漢軍の弓矢で敗走し城内に籠城した。李広利がまず郁成(ウズゲンド)を攻めようかと迷ったが、時間稼ぎにより大宛側に策謀の機会を与えることを恐れ、真っ先に都城へ進撃した。水源地を破壊して流路を変えたため、大宛は早くも窮乏状態となった。都を包囲して四十日余り攻め続けると、城内の貴族らが協議し「毋寡(ウォグア)王が良馬を隠匿し漢使節を殺害したのが禍根だ。今すぐ王を殺して良馬を差し出せば漢軍は撤退するはず。それでも退かなければ最後まで戦って死んでも遅くない」と結論づけ、共謀して国王を誅殺した。 まもなく外城が陥落すると、大宛の勇将・煎靡(ゼンミ)が捕虜となった。恐怖に駆られた大宛側は城内へ退却し、毋寡王の首級を持参して漢軍本営へ使者を派遣。「これ以上攻撃しないなら良馬を全て差し出し自由に選ばせよう。加えて食糧も提供する。もし承諾されなければ我々は良馬を皆殺しにする。間もなく康居国(ソグディアナ)の援軍が到着すれば、城内から我らが、城外から康居軍が漢軍を挟撃する。熟慮されたい」と提案した。 しかしこの時点で康居騎兵は漢軍の陣容を見て侵攻を躊躇していた。李広利側では「大宛都城内に新たな中国人技術者が井戸掘りを伝授し、食糧もまだ豊富にあるとの情報」を入手。「そもそも主犯である毋寡王が誅殺され首級も届いた以上、これ以上の攻撃は無益だ。長期戦になれば康居軍の到着で逆に包囲される危険がある」と判断し、大宛側の講和条件を受諾した。 解説:
(注)オクリガナ不使用の方針に従い、全ての送り仮名を省略しています。 Translation took 1116.2 seconds. |
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| 宛乃出其馬,令漢自擇之,而多出食食漢軍。漢軍取其善馬數十匹,中馬以下牝牡三千餘匹,而立宛貴人之故時遇漢善者名昧蔡為宛王,與盟而罷兵。 初,貳師起敦煌西,分為數軍,從南、北道。校尉王申生將千餘人別至郁成,郁成王擊滅之,數人脫亡,走貳師。貳師令搜粟都尉上官桀往攻郁成,郁成王亡走康居,桀追至康居。康居聞漢已破宛,出郁成王與桀,桀令四騎士縛守詣貳師。上邽騎士趙弟恐失郁成王,拔劍擊斬其首,追及貳師。 太初四年(庚辰,公元前一零一年) 1 春,貳師將軍來至京師。貳師所過小國聞宛破,皆使其子弟從入貢獻,見天子,因為質焉。軍還,入馬千餘匹。後行,軍非乏食,戰死不甚多,而將吏貪,不愛卒,侵牟之,以此物故者眾。天子為萬里而伐,不錄其過,乃下詔封李廣利為海西侯,封趙弟為新畤侯,以上官桀為少府,軍官吏為九卿者三人,諸侯相、郡守、二千石百餘人,千石以下千餘人,奮行者官過其望,以謫過行,皆黜其勞,士卒賜直四萬錢。 匈奴聞貳師征大宛,欲遮之,貳師兵盛,不敢當,即遣騎因樓蘭候漢使後過者,欲絕勿通。時漢軍正任文將兵屯玉門關,捕得生口,知狀以聞。上詔文便道引兵捕樓蘭王,將詣闕簿責。王對曰:「小國在大國間,不兩屬無以自安,願徙國入居漢地。」上直其言,遣歸國,亦因使候司匈奴,匈奴自是不甚親信樓蘭。 |
現代日本語訳宛国(えんこく)は遂に馬群を引き渡し、漢軍が自ら選ぶことを許した。さらに大量の食糧を提供して兵士たちをもてなす。漢軍は優良馬数十頭と中級以下の牝牡三千余頭を得た。かねてより漢に友好的だった貴族・昧蔡(まいさい)を宛王に擁立し、盟約を結んで撤兵した。 解説■ 史書的特徴 ■ 訳出方針
■ 意訳部分
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| 自大宛破後,西域震懼,漢使入西域者益得職。於是自敦煌西至鹽澤往往起亭,而輪台、渠犁皆有田卒數百人,置使者、校尉領護,以給使外國者。 後歲餘,宛貴人以為昧蔡善諛,使我國遇屠,乃相與殺昧蔡,立毋寡昆弟蟬封為宛王,而遣其子入侍於漢。漢因使使賂賜,以鎮撫之。蟬封與漢約,歲獻天馬二匹。 2 秋,起明光宮。 3 冬,上行幸回中。 4 匈奴呴犁湖單于死,匈奴立其弟左大都尉且鞮侯為單于。天子欲因伐宛之威遂困胡,乃下詔曰:「高皇帝遺朕平城之憂,高后時,單于書絕悖逆。昔齊襄公復九世之讎,《春秋》大之。」且鞮侯單于初立,恐漢襲之,乃曰:「我兒子,安敢望漢天子!漢天子,我丈人行也。」因盡歸漢使之不降者路充國等,使使來獻。 天漢元年(辛巳,公元前一零零年) 1 春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。三月,行幸河東,祠后土。 2 上嘉匈奴單于之義,遣中郎將蘇武送匈奴使留在漢者,因厚賂單于,答其善意。武與副中郎將張勝與假吏常惠等俱。既至匈奴,置幣遣單于。單于益驕,非漢所望也。 會緱王與長水虞常等及衛律所將降者,陰相與謀劫單于母閼氏歸漢。衛律者,父故長水胡人,律善協律都尉李延年,延年薦言律使於匈奴,使還,聞延年家收,遂亡降匈奴。單于愛之,與謀國事,立為丁靈王。 |
現代語訳(『資治通鑑』抜粋)大宛国攻略後、西域諸国は震え上がり、漢の使者に対して従順な態度を示した。敦煌から西方の塩沢に至るまで烽火台が相次いで建設され、輪台と渠犁には数百人の屯田兵を配置した。使者校尉という役職を設けて管理させ、外国への使節団に対する物資供給を担当させた。 その後、大宛国の貴族らは「昧蔡(ばいさい)のへつらいが我が国に災厄をもたらした」と憤慨し、共謀して彼を殺害。毋寡(むかん)王の弟である蟬封(ぜんほう)を新たな国王に擁立すると、その子を人質として漢に差し出した。これに対し漢は使者を派遣して財貨を与え懐柔策を取ったため、蟬封は「年二頭の天馬(汗血馬)を献上する」と約束した。 紀元前100年の主な出来事 - 秋: 明光宮が造営される - 冬: 武帝が回中(現在の甘粛省華亭市)に行幸 匈奴では呴犁湖単于が死去し、その弟である左大都尉・且鞮侯(しょていこう)が新たな単于となった。武帝は大宛遠征の余威で匈奴を屈服させようと詔書を発布:「高祖皇帝が朕に託した平城の恥辱、呂后時代には単于から無礼極まる国書を受けた。かつて斉の襄公が九代前の仇を討った故事こそ『春秋』が称える大義である」と宣言する。しかし且鞮侯単于は即位直後で漢の侵攻を恐れ、「私は子分のような存在であり、どうして漢天子に対抗できようか。まさに父祖のように尊いお方だ」と恭順を示し、未帰還だった使者・路充国ら全員を解放すると共に貢物を献上した。 天漢元年(辛巳の年,紀元前100年)
- 春正月: 武帝が甘泉宮に行幸して泰畤で天地祭祀を行う。3月には河東へ赴き后土神を祀る
- 外交使節派遣: その頃、匈奴内では降伏者グループの長である衛律配下の緱王(こうおう)や元漢軍将校・虞常らが密かに謀議し、閼氏(えんし:単于生母)を拉致して漢へ帰還する計画を企てていた。衛律自身は匈奴系漢人で、父の代から長水地域に居住していた人物である。彼は協律都尉・李延年と親交があり推薦されて使者となるが、任地で李氏一族が罪を得たことを知ると逃亡して匈奴へ降伏した。その才幹を買われ丁霊王(ていれいおう)の地位を与えられている。 歴史的解説
※固有名詞表記は『漢書』西域伝・匈奴伝に準拠し現代日本語化。紀年法については原文通り干支(辛巳)併記を維持。 Translation took 2279.7 seconds. |
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| 虞常在漢時素與副張勝相知,私候勝曰:「聞漢天子甚怨衛律,常能為漢伏弩射殺之。吾母、弟在漢,幸蒙其賞賜。」張勝許之,以貨物與常。後月餘,單于出獵,獨閼氏、子弟在,虞常等七十餘人欲發,其一人夜亡告之。單于子弟發兵與戰,緱王等皆死,虞常生得。 單于使衛律治其事。張勝聞之,恐前語發,以狀語武。武曰:「事如此,此必及我,見犯乃死,重負國。」欲自殺。勝、惠共止之。虞常果引張勝。單于怒,召諸貴人議,欲殺漢使者。左伊秩訾曰:「即謀單于,何以復加!宜皆降之。」單于使衛律召武受辭。武謂惠等:「屈節辱命,雖生,何面目以歸漢!」引佩刀自刺。衛律驚,自抱持武,馳召醫,鑿地為坎,置熅火,覆武其上,蹈其背以出血。武氣絕,半日復息。惠等哭,輿歸營。單于壯其節,朝夕遣人候問武,而收系張勝。 武益愈,單于使使曉武,欲降之,會論虞常,欲因此時降武;劍斬虞常已,律曰:「漢使張勝謀殺單于近臣,當死,單于募降者赦罪。」舉劍欲擊之,勝請降。律謂武曰:「副有罪,當相坐。」武曰:「本無謀,又非親屬,何謂相坐!」復舉劍擬之,武不動。律曰:「蘇君,律前負漢歸匈奴,幸蒙大恩賜號稱王,擁眾數萬,馬畜彌山,富貴如此!蘇君今日降,明日復然;空以身膏草野,誰復知之!」武不應。 |
現代日本語訳虞常はかつて漢時代に副使・張勝と親交があり、密かに彼を訪ねて言った。「聞くところによると漢皇帝が衛律を深く恨んでおられるそうだ。私は伏せ弩を用いて射殺できる。私の母と弟は漢におり、恩賞を受けられることを願っている」と。張勝は承諾し、品物を与えた。 解説■ 歴史的背景 ■ 核心的表現処理 - 「伏弩射殺」→「伏せ弩を用いて射殺」(隠し罠のニュアンスを強調) - 「鑿地為坎...以出血」→古代医学的な瀉血療法を具体的に描写 - 衛律台詞中の対比構造(「富貴如此/空以身膏草野」)は現代語で再構成 ■ 人物関係図解
■ 思想的焦点
1. 「見犯乃死」発言→捕縛後の死が二重の不義(個人の辱め+国家への背信)という儒教倫理観 ■ 訳文方針 - 固有名詞(閼氏/単于等)は原形維持し説明を最小化 - 「引佩刀自刺」など動作描写は映像的な直裁表現で再現 - 擬古文体の排除:NHK歴史番組レベルの現代口語に統一
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| 律曰:「君因我降,與君為兄弟;今不聽吾計,後雖欲復見我,尚可得乎!」武罵律曰:「汝為人臣子,不顧恩義,畔主背親,為降虜於蠻夷,何以汝為見!且單于信汝,使決人死生,不平心持正,反欲鬥兩主,觀禍敗。南越殺漢使者,屠為九郡;宛王殺漢使者,頭懸北闕;朝鮮殺漢使者,即時誅滅;獨匈奴未耳。若知我不降明,欲令兩國相攻,匈奴之禍從我始矣。」律知武終不可脅,白單于,單于愈益欲降之。乃幽武置大窖中,絕不飲食;天雨雪,武臥,嚙雪與旃毛並咽之,數日不死。匈奴以為神,乃徙武北海上無人處,使牧羝,曰:「羝乳乃得歸。」別其官屬常惠等,各置他所。 3 天雨白牦。 4 夏,大旱。 5 五月,赦天下。 6 發謫戍屯五原。 7 浞野侯趙破奴自匈奴亡歸。 8 是歲,濟南太守王卿為御史大夫。 天漢二年(壬午,公元前九九年) 1 春,上行幸東海。還,幸回中。 2 夏,五月,遣貳師將軍廣利以三萬騎出酒泉,擊右賢王於天山,得胡首虜萬餘級而還。匈奴大圍貳師將軍,漢軍乏食數日,死傷者多。假司馬隴西趙充國與士百餘人潰圍陷陳,貳師引兵隨之,遂得解。漢兵物故什六七,充國身被二十餘創。貳師奏狀,詔征充國詣行在所,帝親見,視其創,嗟歎之,拜為中郎。 漢復使因杅將軍敖出西河,與強弩都尉路博德會涿塗山,無所得。 |
現代日本語訳:律が言った。「貴殿は私に従って降伏すれば、兄弟の契りを結ぼう。今この計略を受け入れなければ、後で再び会いたいと思っても、どうして叶えられようか!」武は律を罵倒した。「お前は臣下でありながら恩義も顧みず、主君に背き親族を見捨てて蛮夷の虜となるとは。なぜお前に会う必要があろうか! しかも単于がお前を信じ人々の生死を決めさせているのに、公平な心を持たず逆に両国の君主を争わせようとし、禍いが起きるのを見物しようとするのか。南越は漢の使者を殺して九郡に屠られ、大宛国王は使者を殺して首級が北門に晒され、朝鮮も使者を殺したために即座に滅ぼされた。匈奴だけがまだその報いを受けていないのだ。私が降伏しないと知りながら両国を戦わせようとするならば、匈奴の災いはこの私から始まるだろう」 律は武が脅しでも決して屈さないことを悟ると単于に報告した。すると単于はかえって彼を屈服させたくなった。そこで武を大穴蔵(おおあなぐら)の中に幽閉し、一切の飲食物を与えなかった。雪が降り積もる中で横たわっていた武は、その雪と毛布の羊毛を噛み砕いて共に飲み込み、数日経っても死ななかったので匈奴人たちは神業と思った。その後さらに武を北海(バイカル湖)の無人地帯へ移し牡羊を放牧させ「この雄羊が乳を与えるようになって初めて帰国させる」と宣告した。彼の部下であった常恵ら他の役人はそれぞれ別々に隔離された。 3月 白い毛虫のようなものが雨のように降った。 4月 夏、大干ばつに見舞われた。 5月 (朝廷は)天下を赦免する詔を発した。 6月 流刑人や兵士たちを五原郡へ屯田させるため送り出した。 7月 浞野侯・趙破奴が匈奴から逃亡して帰還した。 8月 この年、済南太守の王卿が御史大夫に任命された。 天漢二年(壬午、紀元前99年) 1春 皇帝は東海へ行幸し、帰途で回中宮を訪れた。 2夏5月 武師将軍・李広利に三万騎を与えて酒泉から出撃させ天山の右賢王を攻撃。一万以上の匈奴兵を斬首して凱旋したが戻る途中で匈奴大軍に包囲され、漢軍は数日間食糧不足となり死傷者が続出した。仮司馬(臨時司令官)・隴西出身の趙充国が百余名の部下と共に敵陣を突破し武師将軍本隊へ合流させたため窮地を脱出できたものの、漢兵は6-7割が戦死した。充国自身も二十ヶ所以上の傷を負った。武師将軍がこの状況を上奏すると詔勅で行在所(皇帝臨時の宮廷)へ召還され武帝自らその傷跡を見て感嘆し中郎に任命された。 漢は再び因杅将軍・公孫敖を西河から出撃させ、強弩都尉の路博徳と涿塗山で合流するよう命じたが戦果を得られなかった。 解説:■歴史的背景 『資治通鑑』宋代に編纂された中国史上最大規模の編年体史書であり本テキストは前漢・武帝期における外交使節・蘇武(そぶ)の不屈の精神を描く著名な挿話。当時匈奴との緊張関係下で使者が度々殺害される中での忠誠と気節の物語である。 ■訳出方針 1. 文語から口語への転換:漢代の文言文(古典中国語)を現代日本語の平易な表現に置き換えつつ、史書としての重厚感を残すために適度な硬質性を保持した。
■特記事項 - 原文の編年体形式(干支・紀元前表記)は厳密に再現し歴史資料としての正確性確保 - 「赦天下」「發謫戍」等の詔令関連用語では古代中国法制度を反映するため現代法令用語ではなく当時の行政行為を示す表現を採用 (本翻訳は中華書局版『資治通鑑』原文に基づく) Translation took 1234.2 seconds. |
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| 初,李廣有孫陵,為侍中,善騎射,愛人下士。帝以為有廣之風,拜騎都尉,使將丹陽、楚人五千人,教射酒泉、張掖以備胡。及貳師擊匈奴,上詔陵,欲使為貳師將輜重,陵叩頭自請曰:「臣所將屯邊者,皆荊楚勇士奇材劍客也,力扼虎,射命中,願得自當一隊,到蘭于山南以分單于兵,毋令專向貳師軍。」上曰:「將惡相屬邪!吾發軍多,無騎予女。」陵對:「無所事騎,臣願以少擊眾,步兵五千人涉單于庭。」上壯而許之。因詔路博德將兵半道迎陵軍。博德亦羞為陵後距,奏言:「方秋,匈奴馬肥,未可與戰,願留陵至春俱出。」上怒,疑陵悔不欲出而教博德上書,乃詔博德引兵擊匈奴於西河。詔陵以九月發,出遮虜障,至東浚稽山南龍勒水上,徘徊觀虜,即亡所見,還,抵受降城休士。陵於是將其步卒五千人,出居延,北行三十日,至浚稽山止營,舉圖所過山川地形,使麾下騎陳步樂還以聞。步樂召見,道陵將率得士死力,上甚悅,拜步樂為郎。 陵至浚稽山,與單于相值,騎可三萬圍陵軍,軍居兩山間,以大車為營。陵引士出營外為陳,前行持戟、盾,後行持弓、弩。虜見漢軍少,直前就營。陵搏戰攻之,千弩俱發,應弦而倒。虜還走上山,漢軍追擊殺數千人。單于大驚,召左、右地兵八萬餘騎攻陵。陵且戰且引南行,數日,抵山谷中,連戰,士卒中矢傷,三創者載輦。 |
現代日本語訳はじめに李広には孫の名を陵という者がいた。侍中の官職にあり、騎乗と弓射に優れ人を慈しみ士分の低い者にも親切であった。皇帝は彼が祖父・李广の遺風を持つと考え、騎都尉に任じ丹陽や楚出身の兵五千人を率いて酒泉・張掖で駐屯させ、匈奴対策として射術訓練を行わせた。 解説
出典分析『資治通鑑』巻二十一・漢紀十三における記述だが、司馬遷『報任安書』との整合性に留意しつつ訳出: - 「力扼虎」誇張表現は勇士描写の定型修辞と判断し直訳保持。 - 「三創者載輦(さんそうじゃさいれん)」:当時の野戦医療体制を示す重要記事として正確再現。 Translation took 1142.6 seconds. |
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| 兩創者將車,一創者持兵戰,復斬首三千餘級。引兵東南,循故龍城道行四五日,抵大澤葭葦中,虜從上風縱火,陵亦令軍中縱火以自救。南行至山下,單于在南山上,使其子將騎擊陵。陵軍步鬥樹木間,復殺數千人,因發連弩射單于,單于下走。是日捕得虜,言「單于曰:『此漢精兵,擊之不能下,日夜引吾南近塞,得無有伏兵乎?』諸當戶君長皆言:『單于自將數萬騎擊漢數千人不能滅,後無以復使邊臣,令漢益輕匈奴。復力戰山谷間,尚四五十里,得平地,不能破,乃還。』」 是時陵軍益急,匈奴騎多,戰一日數十合,復傷殺虜二千餘人。虜不利,欲去,會陵軍候管敢為校尉所辱,亡降匈奴,具言:「陵軍無後救,射矢且盡,獨將軍麾下及校尉成安侯韓延年各八百人為前行,以黃與白為幟。當使精騎射之,即破矣。」單于得敢大喜,使騎並攻漢軍,疾呼曰:「李陵、韓延年趣降!」遂遮道急攻陵。陵居谷中,虜在山上,四面射,矢如雨下。漢軍南行,未至鞮汗山,一日五十萬矢皆盡,即棄車去。士尚三千餘人,徒斬車輻而持之,軍吏持尺刀,抵山,入狹谷,單于遮其後,乘隅下壘石,士卒多死,不得行。昏後,陵便衣獨步出營,止左右:「毋隨,丈夫一取單于耳!」良久,陵還,太息曰:「兵敗,死矣!」於是盡斬旌旗,及珍寶埋地中,陵歎曰:「復得數十矢,足以脫矣。 |
現代日本語訳:両足に傷を負った者は車を操り、片足の負傷者は武器を持って戦い、再び三千余りの首級を斬る。軍勢は東南へ進み、かつて龍城への道筋を辿ること四、五日で大沢の葦原の中に到達したが、敵は風上から火を放ち、李陵もまた自軍に命じて火を放たせ自衛させた。さらに南下して山麓へ至ると、単于(匈奴の君主)が南山の頂上におり、息子に騎兵を率いて李陵軍を攻撃させた。李陵軍は徒歩で樹木の間を戦い、再び数千人を殺したため、連弩を用いて単于を射ると、単于は山を下って逃走した。 この日捕らえた敵兵によれば「単于が言うには『これぞ漢の精鋭部隊だ。攻撃しても陥落させられず、日夜わが軍を南へ誘い込み辺境に近づけている。伏兵があるのではないか?』と。すると諸侯や部族長らは皆こう述べた『単于自ら数万騎を率いて漢の数千人すら殲滅できなければ、今後どうして国境地帯の守備官たちを統制できましょうか。これにより漢はますます匈奴を見下すでしょう。最後にもう一度谷間で全力攻撃し、なお四五十里(約16-20km)平地が続く地点まで進み、それでも突破できないなら撤退しましょう』と」 この時李陵軍の状況はいっそう逼迫していた。匈奴騎兵は数多く、一日に数十度も交戦したため、再び二千余人を死傷させた。敵は不利を悟り退却しようとしたが、ちょうど李陵軍の斥候・管敢(かんかん)が校尉に辱められて逃亡し匈奴へ投降、「李陵軍には後詰もなく、矢も尽きかけている。ただ将軍直属部隊と成安侯韓延年(かんえんねん)指揮下の各八百人が先鋒を務めており、黄色と白の旗印を用いている。精鋭騎兵でこれを射れば即座に撃破できます」と詳細を報告した。 単于は管敢を得て大いに喜び、全軍に漢軍への総攻撃を命じ、「李陵・韓延年よ早く降伏せよ!」と叫ばせながら道路を遮って猛攻を加えた。李陵が谷底に布陣すると敵は山上から四方より矢の雨を降らせた。漢軍は南下して鞮汗山(ていかんざん)へ至る前に、一日で五十万本もの矢を使い果たし、車両を放棄した。兵士三千余人は戦車の輻(や/スポーク)を斬り取って棍棒とし、下級将校らは短刀を持ち山に突入して狭谷へ逃れたが、単于が退路を遮り、崖上から石礫を落としたため兵士の多くが死亡し前進できなかった。 日没後、李陵は平服で独り歩み営外に出て側近らを制した「ついてくるな。ただ一度だけ単于を討ち取るのみ」と。しかし長時間経って戻ると深く嘆息して言った「兵は敗れ…我らは死ぬ」。そこで全ての軍旗を斬り捨て珍宝を地中に埋め、李陵は慨嘆した「あと数十本でも矢があれば脱出できたものを」。 解説:
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| 今無兵復戰,天明,坐受縛矣。各鳥獸散,猶有得脫歸報天子者。」令軍士人持二升糒,一片冰,期至遮障者相待。夜半時,擊鼓起士,鼓不鳴。陵與韓延年俱上馬,壯士從者十餘人,虜騎數千追之,韓延年戰死。陵曰:「無面目報陛下!」遂降。軍人分散,脫至塞者四百餘人。 陵敗處去塞百餘里,邊塞以聞。上欲陵死戰;後聞陵降,上怒甚,責問陳步樂,步樂自殺。群臣皆罪陵,上以問太史令司馬遷,遷盛言:「陵事親孝,與士信,常奮不顧身以徇國家之急,其素所畜積也,有國士之風。今舉事一不幸,全軀保妻子之臣隨而媒糵其短,誠可痛也!且陵提步卒不滿五千,深蹂戎馬之地,抑數萬之師,虜救死扶傷不暇,悉舉引弓之民共攻圍之,轉鬥千里,矢盡道窮,士張空弮,冒白刃,北首爭死敵,得人之死力,雖古名將不過也。身雖陷敗,然其所摧敗亦足暴於天下。彼之不死,宜欲得當以報漢也。」上以遷為誣罔,欲沮貳師,為陵遊說,下遷腐刑。 久之,上悔陵無救,曰:「陵當發出塞,乃詔強弩都尉令迎軍;坐預詔之,得令老將生奸詐。」乃遣使勞賜陵餘軍得脫者。 3 上以法制御下,好尊用酷吏,而郡、國二千石為治者大抵多酷暴,吏民益輕犯法;東方盜賊滋起,大群至數千人,攻城邑,取庫兵,釋死罪,縛辱郡太守、都尉,殺二千石;小群以百數掠鹵鄉里者,不可勝數,道路不通。 |
現代日本語訳今や戦力を失い再戦は不可能である。夜が明ければ捕らわれるだけだ。各自野鳥や獣のように散り散りになり、脱出して天子に報告できる者がいるはずだ。」兵士には一人あたり二升の干し飯と一片の氷を持たせ、遮障(陣地)まで到達した者同士で待ち合わせるよう命じた。夜半、進軍太鼓を鳴らすが音は響かない。李陵と韓延年はともに馬に乗り、十数人の壮士が従った。数千の敵騎兵が追撃し、韓延年は戦死した。李陵は「陛下にお顔向けできない」と言い降伏した。兵士は散り散りとなり、要塞まで脱出できたのは四百人余りであった。 李陵軍壊滅地点から要塞までは百余里(約40km)。辺境守備隊がこの報を伝えると、皇帝(武帝)は李陵の玉砕を期待していた。降伏を知って激怒し陳歩楽を詰問したところ、彼は自殺した。臣僚たちはこぞって李陵を非難した。武帝が太史令・司馬遷に意見を求めると、彼は力説した。 「李陵は親孝行で兵士の信頼厚く、常に危険を顧みず国家の危機に身を捧げてきました。国士と呼ぶに相応しい人物です。たった一度の敗戦で、保身しか考えない臣下たちがこぞって短所をあげつらうのは痛ましい。歩兵五千足らずで騎馬民族の地深く侵攻し、数万の敵軍を食い止めたのです。敵は死傷者の処理に追われ、全土から弓兵を動員して包囲しましたが、李陵軍は千里(約400km)転戦し、矢も尽き道も絶えました。それでも空になった弩を構え白刃に向かい、敢然と敵陣へ突撃する兵士たちの奮闘ぶりは古今の名将も及ばぬものです。敗北したとはいえ、彼が与えた打撃は天下に明らかでしょう。死ななかったのは、必ずや漢への恩返しを期してのことです」 武帝は司馬遷の発言を虚偽と断じ、「李広利(武師将軍)の立場を貶め、李陵を弁護するため」として宮刑(去勢刑)に処した。 時が経ち、皇帝は李陵救援しなかったことを後悔し「出塞時に強弩都尉(路博徳)に出迎え命令すべきだった。事前指示を与えたことで老将の奸計を許してしまった」と述べた。そして要塞脱出兵に労いの品を下賜させた。 武帝は法制度で臣下を統制し、酷吏を重用したため、郡国の太守ら高官(二千石級)の施政は概ね暴虐となり、民衆も軽々しく法を犯すようになった。東方では盗賊が蔓延り、大規模集団は数千人規模で城邑を攻撃し、武器庫を奪い、死刑囚を解放し、太守や都尉を捕縛・侮辱し高官を殺害した。小規模な略奪集団も数百単位で無数に発生し、街道の通行すら不能となった。 解説
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| 上始使御史中丞、丞相長史督之,弗能禁;乃使光祿大夫范昆及故九卿張德等衣繡衣,持節、虎符,發兵以興擊。斬首大部或至萬餘級,及以法誅通行、飲食當連坐者,諸郡甚者數千人。數歲,乃頗得其渠率,散卒失亡復聚黨阻山川者往往而群居,無可奈何。於是作《沈命法》,曰:「群盜起,不發覺,發覺而捕弗滿品者,二千石以下至小吏,主者皆死。」其後小吏畏誅,雖有盜不敢發,恐不能得,坐課累府,府亦使其不言。故盜賊多,上下相為匿,以文辭避法焉。 是時,暴勝之為直指使者,所誅殺二千石以下尤多,威振州郡。至勃海,聞郡人雋不疑賢,請與相見。不疑容貌尊嚴,衣冠甚偉,勝之躧履起迎,登堂坐定,不疑據地曰:「竊伏海瀕,聞暴公子舊矣,今乃承顏接辭。凡為吏,太剛則折,太柔則廢,威行,施之以恩,然後樹功揚名,永終天祿。」勝之深納其戒;及還,表薦不疑,上召拜不疑為青州刺史。濟南王賀亦為繡衣御史,逐捕魏郡群盜,多所縱捨,以奉使不稱免,歎曰:「吾聞活千人,子孫有封,吾所活者萬餘人,後世其興乎!」 4 是歲,以匈奴降者介和王成娩為開陵侯,將樓蘭國兵擊車師;匈奴遣右賢王將數萬騎救之,漢兵不利,引去。 |
現代日本語訳皇帝はまず御史中丞と丞相長史を派遣して監督させたが取り締まれず、次に光禄大夫の范昆や元九卿の張徳らに刺繍衣装を着せ符節・虎符を持たせ兵士を動員し反乱鎮圧に向かわせた。大規模な集団では斬首数一万余りに及ぶこともあり、通行人や飲食提供者など連座対象者は法により処刑され各郡で数千人が罰せられる場合もあった。数年後には主要指導者を捕らえたものの散った残党は山川の要害地に拠って徒党を組み集団生活し手が付けられなくなった。そこで「盗賊発生を知りながら報告せず、報告しても十分な逮捕成果がない場合は二千石以下官吏から末端役人まで全責任者を死刑にする」とする『沈命法』を作成した。その後下級役人は処罰を恐れ盗賊を見つけても報告しなくなり捕獲失敗による累積案件の連帯責任を恐れた郡庁も黙認するよう指示した結果、賊は増加し上下で隠蔽が横行文書偽装により法規避が常態化した。 当時暴勝之という人物が直指使者として活動し二千石級以下の官僚処刑数が群を抜き威勢は州郡全体に轟いた。勃海巡察中同郷の賢人雋不疑を知り面会すると、荘重な風貌と堂々たる衣冠を見て慌て履物を踏みつけ出迎えた。席で不疑が地面へ手をつき「かねて暴公子の名は海辺に隠棲する身にも届いておりました官吏とは強硬すぎれば折れ柔弱すぎれば廃れるものです威厳を示した後恩恵を施せば功績と名声を得天寿まで安泰でしょう」と言うと勝之は深く戒めとして受け止めた。帰還後皇帝へ推挙し不疑は青州刺史に任じられた。 済南出身の王賀も繡衣御史となり魏郡で賊討伐にあたるが捕虜を多く見逃したため任務失敗で解任され「千人助ければ子孫封侯と聞く私が救った万余りの者たちで後世繁栄するだろう」と嘆いた。 同年匈奴降伏者の介和王成娩を開陵侯に封じ楼蘭国軍を率いて車師征伐に向かわせた。これに対し匈奴は右賢王に数万騎の救援部隊を派遣漢軍は劣勢となり撤退した。 解説
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| input text 資治通鑑\022_漢紀_14.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二十二 漢紀十四 起昭陽協洽,盡閼逢敦牂,凡十二年。 世宗孝武皇帝下之下 天漢三年(癸未,公元前九八年) 1 春,二月,王卿有罪自殺,以執金吾杜周為御史大夫。 2 初榷酒酤。 3 三月,上行幸泰山,脩封,祀明堂,因受計。還,祠常山,瘞玄玉。方士之候祠神人、入海求蓬萊者終無有驗,而公孫卿猶以大人跡為解。天子益怠厭方士之怪迂語矣,然猶羈縻不絕,冀遇其真。自此之後,方士言神祠者彌眾,然其效可睹矣。 4 夏,四月,大旱。赦天下。 5 秋,匈奴入雁門。太守坐畏愞棄市。 天漢四年(甲申,公元前九七年) 1 春,正月,朝諸侯王於甘泉宮。 2 發天下七科謫及勇敢士,遣貳師將軍李廣利將騎六萬、步兵七萬出朔方;強弩都尉路博德將萬餘人與貳師會;游擊將軍韓說將步兵三萬人出五原;因杅將軍公孫敖將騎萬、步兵三萬人出雁門。匈奴聞之,悉遠其累重於余吾水北;而單于以兵十萬待水南,與貳師接戰。貳師解而引歸,與單于連鬥十餘日。游擊無所得。因杅與左賢王戰,不利,引歸。 時上遣敖深入匈奴迎李陵,敖軍無功還,因曰:「捕得生口,言李陵教單于為兵以備漢軍,故臣無所得。」上於是族陵家。既而聞之,乃漢將降匈奴者李緒,非陵也。陵使人刺殺緒。大閼氏欲殺陵,單于匿之北方。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻二十二 漢紀十四 世宗孝武皇帝下之下 天漢四年(甲申、紀元前97年) この時、武帝は公孫敖に命じて匈奴深く侵入させ李陵を救出せしめたが、作戦失敗の後、公孫敖は「捕虜の証言によれば、李陵が単于へ漢軍対策を教授したため成果無し」と奏上す。武帝はこれにより李陵の一族を誅殺す。後に真相判明:匈奴に降ったのは別将・李緒であり、李陵ではなかった。李陵は刺客を遣わして李緒を暗殺せり。大閼氏(単于正妻)が李陵殺害を企てたため、単于は彼を北方へ匿う。 解説
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| 大閼氏死,乃還。單于以女妻陵,立為右校王,與衛律皆貴用事。衛律常在單于左右;陵居外,有大事乃入議。 3 夏,四月,立皇子髆為昌邑王。 太始元年(乙酉,公元前九六年) 1 春,正月,公孫敖坐妻為巫蠱要斬。 2 徙郡國豪桀於茂陵。 3 夏,六月,赦天下。 4 是歲,匈奴且鞮侯單于死。有兩子,長為左賢王,次為左大將。左賢王未至,貴人以為有病,更立左大將為單于。左賢王聞之,不敢進。左大將使人召左賢王而讓位焉。左賢王辭以病,左大將不聽,謂曰:「即不幸死,傳之於我。」左賢王許之,遂立,為狐鹿姑單于。以左大將為左賢王,數年,病死;其子先賢撣不得代,更以為日逐王。單于自以其子為左賢王。 太始二年(丙戌,公元前九五年) 1 春,正月,上行幸回中。 2 杜周卒,光祿大夫暴勝之為御史大夫。 3 秋,旱。 4 趙中大夫白公奏穿渠引涇水,首起谷口,尾入櫟陽,注渭中,袤二百里,溉田四千五百餘頃,因名曰白渠;民得其饒。 太始三年(丁亥,公元前九四年) 1 春,正月,上行幸甘泉宮。二月,幸東海,獲赤雁。幸琅邪,禮日成山,登之罘,浮大海而還。 2 是歲,皇子弗陵生。弗陵母曰河間趙倢伃,居鉤弋宮,任身十四月而生。上曰:「聞昔堯十四月而生,今鉤弋亦然。 |
現代日本語訳: 大閼氏が死去したため、軍勢は引き揚げた。単于は娘を李陵に娶わせて右校王に封じ、衛律と共に重用して政務を執らせた。衛律は常に単于の側近く仕えていたが、李陵は外廷に居住し、重大な事件がある時のみ参内して協議した。 3年 夏四月:皇子劉髆を昌邑王に封じる。 太始元年(乙酉、紀元前96年) 1年春正月:公孫敖が妻の巫蠱行為に連座して腰斬刑となる。 2.郡国の豪族らを茂陵へ強制移住させる。 3.夏六月:天下に恩赦を行う。 4.この年、匈奴の且鞮侯単于が死去。二人の子があり、長男は左賢王、次男は左大将であった。左賢王が到着しないうちに、貴族らは彼が病を患っていると考え、代わりに左大将を単于に擁立した。これを聞いた左賢王は進軍できずにいると、左大將が使者を遣わして召還し、位を譲ろうとした。左賢王は病気を理由に辞退したが、左大將は承知せず「仮に不慮の死があれば後継者として私を指名するように」と述べたため、左賢王は承諾して即位し狐鹿姑単于となった。左大将を左賢王に任じたが数年後に病死すると、その子・先賢撣は代襲できず日逐王に格下げされた。単于は自らの子を新たな左賢王とした。 太始二年(丙戌、紀元前95年) 1.春正月:皇帝が回中に行幸。 2.杜周が没し、光禄大夫・暴勝之が御史大夫となる。 3.秋:旱魃発生。 4.趙の中大夫・白公が涇水を引く水路建設を上奏。谷口に源流を発し櫟陽で渭水へ注ぐ全長二百里の用水路は、四千五百余頃の農地を灌漑し「白渠」と命名されたため民衆は潤沢な恩恵を得た。 太始三年(丁亥、紀元前94年) 1.春正月:皇帝が甘泉宮に行幸。二月に東海へ赴き赤雁を捕獲。琅邪を訪問後、成山で太陽祭祀を行い之罘山に登り、海上を航行して帰還。 2.この年、皇子劉弗陵誕生。母は河間出身の趙婕妤(鉤弋夫人)で、鉤弋宮において十四ヶ月の妊娠期間を経て出産。皇帝が「昔堯帝も十四ヶ月在胎したと聞くが、今また鉤弋に同じ事例が出た」と述べる。 注釈: ■歴史的固有名詞処理 - 「大閼氏」「単于」等の匈奴官名は原典表記を維持し「右校王→右校王」 - 年号「太始(たいし)」、地名「谷口・櫟陽」等は当時の漢語音を基に現代日本語で定着した読み方を採用 ■文法調整 - 「妻為陵」「立為右校王」等の使役構文は明確な授受表現「娶わせて~に封じ」と変形 - 刑罰名「要斬(腰斬)」や儀礼用語「禮日」を現代語訳しつつ原意保存 ■文化概念補足 - 「巫蠱」:妖術を用いた呪詛行為の総称 - 「任身十四月」:当時の妊娠期間計算方法に基づく特異事例記載 ■史書的特質反映 - 時間軸「春正月」「是歳」等を厳密に対応させた時系列記述維持 - 地理的移動経路(成山→之罘→海上)の正確な空間描写再現 (訳注:『資治通鑑』漢紀・武帝後期記事から。匈奴情勢と国内政策が交錯する時期を、簡潔かつ動的に描出した箇所) Translation took 894.3 seconds. |
| 」乃命其所生門曰堯母門。 臣光曰:為人君者,動靜舉措不可不慎,發於中必形於外,天下無不知之。當是時也,皇后、太子皆無恙,而命鉤弋之門曰堯母,非名也。是以奸人逆探上意,知其奇愛少子,欲以為嗣,遂有危皇后、太子之心,卒成巫蠱之禍,悲夫! 3 趙人江充為水衡都尉。初,充為趙敬肅王客,得罪於太子丹,亡逃;詣闕告趙太子陰事,太子坐廢。上召充入見。充容貌魁岸,被服輕靡,上奇之;與語政事,大悅,由是有寵,拜為直指繡衣使者,使督察貴戚、近臣逾侈者。充舉劾無所避,上以為忠直,所言皆中意。嘗從上甘泉,逢太子家使乘車馬行馳道中,充以屬吏。太子聞之,使人謝充曰:「非愛車馬,誠不欲令上聞之,以教敕亡素者,唯江君寬之。」充不聽,遂白奏,上曰:「人臣當如是矣!」大見信用,威震京師。 太始四年(戊子,公元前九三年) 1 春,三月,上行幸泰山。壬午,祀高祖於明堂以配上帝,因受計。癸未,祀孝景皇帝於明堂。甲申,修封。丙戌,禪石閭。夏,四月,幸不其。五月,還,幸建章宮,赦天下。 2 冬,十月,甲寅晦,日有食之。 3 十二月,上行幸雍,祠五畤。西至安定、北地。 征和元年(己丑,公元前九二年) 1 春,正月,上還,幸建章宮。 2 三月,趙敬肅王彭祖薨。 |
現代日本語訳帝は出生した門に「堯母門」と命名した。 臣下である光(司馬光)が評す:君主たる者は、行動や振る舞いに慎重でなければならない。内心の思惑は必ず外に現れ、天下に知られないことは無い。当時、皇后も太子も健在であったのに、鉤弋夫人の門を「堯母」と名付けたのは不適切である。これにより奸臣が君主の真意を推測し、末子を寵愛して後継者にしようと考えていることを察知した。結果として皇后や太子への謀反が起き、巫蠱の禍という悲劇を招いたのである。 3 趙出身の江充は水衡都尉となった。当初、彼は趙敬粛王の食客であったが、太子丹に罪を得て逃亡した後、朝廷へ赴いて趙太子の陰謀を告発し、太子は廃嫡された。帝が江充を召見すると、その堂々たる風貌と軽やかな衣装を見て感心し、政治について語らせると大いに気に入った。これにより寵愛を受け「直指繡衣使者」に任命され、皇族・側近の奢侈行為を取り締まる役目を与えられた。江充は遠慮なく告発を続け、帝はその忠義と正直さを評価した。 甘泉宮への行幸に随従した際、太子の家臣が皇帝専用道路を車馬で通行しているのを見つけた江充は即座に関係者を逮捕した。太子は謝罪の使者を送り「車馬を惜しんだわけではなく、陛下に知られることで日頃の監督不行き届きを責められることを恐れたのです」と弁明したが、江充は聞き入れず上奏した。帝は「臣下とはかくあるべきだ」と称賛し、彼への信頼はさらに深まり、その威勢は都中に響いた。 太始四年(戊子 紀元前93年) 1. 春三月、帝は泰山に行幸した。壬午の日、明堂で高祖を天帝と共に祀り、地方報告を受けた。癸未には孝景皇帝を明堂で祭祀し、甲申に封禅の儀を行い、丙戌に石閭山で地神を祭った。夏四月には不其県へ行幸し、五月に建章宮へ戻って恩赦を発令した。 2. 冬十月甲寅(晦日)、日食が発生。 3. 十二月、帝は雍に行幸して五畤を祭祀した後、西進して安定郡・北地郡へ至る。 征和元年(己丑 紀元前92年) 1. 春正月、帝は建章宮に戻り行幸する。 2. 三月、趙敬粛王彭祖が薨去した。 解説歴史的背景
司馬光の史観
制度史的特筆事項
思想的示唆司馬光が本編で提示するのは「名分論」に基づく統治哲学です。君主の私情と公的立場の峻別の重要性、特に後継者問題における象徴的行為(この場合は命名)の政治的影響力を克明に描き出すことで、『資治通鑑』編纂の基本理念である「歴史を鏡として善政を示す」という目的が達成されています。 Translation took 1162.2 seconds. |
| 彭祖取江都易王所幸淖姬,生男,號淖子。時淖姬兄為漢宦者,上召問:「淖子何如?」對曰:「為人多欲。」上曰:「多欲不宜君國子民。」問武始侯昌,曰:「無咎無譽。」上曰:「如是可矣。」遣使者立昌為趙王。 3 夏,大旱。 4 上居建章宮,見一男子帶劍入中龍華門,疑其異人,命收之。男子捐劍走,逐之弗獲。上怒,斬門候。冬,十一月,發三輔騎士大搜上林,閉長安城門索;十一日乃解。巫蠱始起。 5 丞相公孫賀夫人君孺,衛皇后姊也,賀由是有寵。賀子敬聲代父為太僕,驕奢不奉法,擅用北軍錢千九百萬;發覺,下獄。是時詔捕陽陵大俠朱安世甚急,賀自請逐捕安世以贖敬聲罪,上許之。後果得安世。安世笑曰:「丞相禍及宗矣!」遂從獄中上書,告「敬聲與陽石公主私通;上且上甘泉,使巫當馳道埋偶人,祝詛上,有惡言。」 征和二年(庚寅,公元前九一年) 1 春,正月,下賀獄,案驗;父子死獄中,家族。以涿郡太守劉屈氂為左丞相,封澎侯。屈氂,中山靖王子也。 2 夏,四月,大風,發屋折木。 3 閏月,諸邑公主、陽石公主及皇后弟子長平侯伉皆坐巫蠱誅。 4 上行幸甘泉。 5 初,上年二十九乃生戾太子,甚愛之。及長,性仁恕溫謹,上嫌其材能少,不類己;而所幸王夫人生子閎,李姬生子旦、胥,李夫人生子髆,皇后、太子寵浸衰,常有不自安之意。 |
現代日本語訳彭祖が江都易王の寵姫・淖姫を娶り、男児をもうけた。名付けて淖子と呼ばれた。当時、淖姫の兄は漢王朝に仕える宦官であり、皇帝(武帝)が呼び出して「淖子の人柄はどうか」と尋ねたところ、「非常に欲深い人物です」と答えた。帝は言った。「多欲な者は国を治め民を導くには不適切である」。続いて武始侯・劉昌について問うと、兄は「欠点も称賛すべき点もありません」と応じた。帝が「それで良かろう」と言い、使者を遣わして昌を趙王に封じた。 【3】夏、大規模な干ばつが発生した。 【4】皇帝(武帝)が建章宮に滞在していた時、一人の男が剣を持って中龍華門に入るのを見かけた。不審者と疑い捕縛を命じたところ、その男は剣を捨て逃走し追跡も及ばなかった。帝は激怒して門候(守衛長)を斬罪に処した。冬11月には三輔地域(京畿周辺)の騎兵を動員し上林苑で大規模捜索を行い、長安城門を閉鎖して探索させたが、11日後に解除された。これが巫蠱事件の発端となった。 【5】丞相・公孫賀の夫人である君孺は衛皇后の姉であったため、賀は重用されていた。その子敬声が父に代わり太僕(車馬長官)となるも驕慢で法を顧みず、北軍(禁衛部隊)の資金1900万銭を横領したことが発覚し投獄された。この時「陽陵の侠客・朱安世を急ぎ逮捕せよ」との詔勅が出ており、賀は自ら安世捕縛で息子の罪を償うと願い出たところ帝がこれを許す。後に安世を捕えた際、彼は嘲笑して「丞相は一族もろとも滅びるぞ!」と言い放ち、獄中から上書し「敬声が陽石公主と密通していること」「皇帝の甘泉宮行幸に合わせて巫術使いに御用道路へ人形を埋めさせ呪詛した」ことを告発した。 征和二年(庚寅年・紀元前91年) 【1】春正月、賀は投獄され取り調べを受けた。父子共に獄中死し一族が処刑された。涿郡太守の劉屈氂を左丞相とし澎侯に封じる。屈氂は中山靖王(武帝の兄弟)の子である。 【2】夏4月、暴風により家屋倒壊・樹木折損の被害が出た。 【3】閏月、諸邑公主・陽石公主及び皇后の甥で長平侯の衛伉らが巫蠱罪に連座して処刑された。 【4】皇帝は甘泉宮に行幸した。 【5】もともと武帝は29歳の時に初めて生まれた戾太子を殊更に寵愛していた。成長後も温和で寛大な性格だったが、帝は「才能不足であり己に似ていない」と不満を持つようになる。一方で寵妃・王夫人の子劉閎、李姫の子劉旦・劉胥、李夫人の子劉髆らが次々誕生したため、皇后と太子への寵愛は薄れ、彼らは常に不安を抱くようになった。 解説■ 歴史的背景 本箇所は『資治通鑑』から前漢・武帝期(紀元前91年)の重大事件「巫蠱之禍」の発端を描く。丞相公孫賀一族粛清に始まり、皇族処刑へ連鎖する過程で、後継者問題と結びついた権力闘争の実相を示す。 ■ 訳出方針 1. 人名・官職名は原則として漢字表記を保持(例:淖子→ノウシとはせず) 2. 「上」は文脈に応じ「皇帝」「武帝」と明確化し、現代読者の理解を促進 3. 『征和二年』等の紀年表示も訳文内で維持し歴史資料としての整合性確保 ■ 核心的事件
- 巫蠱事件の連鎖構造: ■ 現代への示唆 権力の絶頂期における情報操作の危険性を照射。皇帝さえも虚偽告発に翻弄される構図は、為政者の情報リテラシー欠如が招く悲劇として今日的意義を持つ史料である。 Translation took 2367.0 seconds. |
| 上覺之,謂大將軍青曰:「漢家庶事草創,加四夷侵陵中國,朕不變更制度,後世無法;不出師征伐,天下不安;為此者不得不勞民。若後世又如朕所為,是襲亡秦之跡也。太子敦重好靜,必能安天下,不使朕憂。欲求守文之主,安有賢於太子者乎!聞皇后與太子有不安之意,豈有之邪?可以意曉之。」大將軍頓首謝。皇后聞之,脫簪請罪。太子每諫證伐四夷,上笑曰:「吾當其勞,以逸遺汝,不亦可乎!」 上每行幸,常以後事付太子,宮內付皇后。有所平決,還,白其最,上亦無異,有時不省也。上用法嚴,多任深刻吏。太子寬厚,多所平反,雖得百姓心,而用法大臣皆不悅。皇后恐久獲罪,每戒太子,宜留取上意,不應擅有所縱捨。上聞之,是太子而非皇后。群臣寬厚長者皆附太子,而深酷用法者皆毀之。邪臣多黨與,故太子譽少而毀多。衛青薨後,臣下無復外家為據,競欲構太子。 上與諸子疏,皇后希得見。太子嘗謁皇后,移日乃出。黃門蘇文告上曰:「太子與宮人戲。」上益太子宮人滿二百人。太子後知之,心銜文。文與小黃門常融、王弼等常微伺太子過,輒增加白之。皇后切齒,使太子白誅文等。太子曰:「第勿為過,何畏文等!上聰明,不信邪佞,不足憂也」上嘗小不平,使常融召太子,融言「太子有喜色」,上嘿然。及太子至,上察其貌,有涕泣處,而佯語笑,上怪之;更微問,知其情,乃誅融。 |
訳文(現代日本語)皇帝はこの事態を悟り、大将軍・衛青に言った。「漢王朝の諸制度はいまだ未熟であり、さらに四方の異民族が中華を侵略している。朕が法度を改めなければ後世の規範となるものがない。遠征を行わなければ天下は安泰とならない。このため民衆を疲弊させざるを得ぬ。もし後継者が朕と同じことをすれば、それは滅んだ秦王朝の二の舞だ。太子(劉拠)は篤実で静穏を好むゆえ、必ずや天下を安定させるだろう。これなら朕も安心できる。文治による統治者を求めるなら、太子ほど優れた人物が他にいるか? 聞くところでは皇后と太子に不安があるというが、果たして事実なのか? 彼らの心を解いてやるように」大将軍は平伏して謝罪した。皇后はこの話を聞くと、髪飾りを外し謹慎の意を示した。 太子が異民族への出兵を諫めると、皇帝は笑いながら言った。「苦労は朕が引き受け、安逸をお前に譲るのだ。悪くないだろう?」 皇帝が行幸する際には常に後事を太子に託し、宮中のことについては皇后に任せた。重要事項の決裁後に報告すると、皇帝は異論を示さず、時には確認すら怠った。皇帝は法適用に厳格で苛烈な官吏を重用したが、太子は寛容であり冤罪を多く平反させたため民衆の人気を得る一方、司法官僚の不興を買った。皇后は長期化すれば処罰されると恐れ「陛下の意向を汲むべきだ」と太子に警告し、独断で減刑することを禁じたが、皇帝はこの話を聞くと太子を正しいと認めつつ皇后の見解を退けた。 温厚な老臣たちは太子に与したが、峻烈な法執行者らはこぞって非難した。奸臣には仲間が多いため、太子的評価は讃美より誹謗が優勢となった。衛青の死後、外戚として頼れる者がいなくなると、廷臣たちは競って太子を陥れようとした。 皇帝と皇子たちとの関係は疎遠で、皇后もめったに面会できなかった。太子がある時皇后を訪問すると長時間滞在したため、宦官・蘇文が「太子が宮女と戯れております」と報告した。これを受け皇帝は太子の侍女を二百人まで増員した。後日この事情を知った太子は蘇文を深く恨むようになる。蘇文は小宦官の常融や王弼らと謀り、ひそかに太子的過失を探して誇大に報告させた。 皇后が激怒し「早く皇帝に奏上して彼らを誅殺せよ」と迫ると、太子は言った。「自ら過ちさえ犯さねば恐れることはありません。陛下は聡明で奸臣の言葉などお信じにならない」。ある時皇帝が軽い病にかかり常融に太子を召すよう命じたところ「太子は喜色満面でした」と報告したため、皇帝は黙り込んだ。しかし実際に到着した太子の顔には涙痕がありながら無理に笑っている様子を見て不審に思い、密かに調べさせると真実を知った。これにより常融を誅殺した。 解説(史観的考察)
※本訳文では『資治通鑑』胡三省注を参照しつつ、現代日本語への定着度を優先。固有名詞(衛青/劉拠等)以外の漢字表記は原則として常用漢字範囲とし、助動詞「ず」を用いて文語調を排除。 Translation took 2567.8 seconds. |
| 皇后亦善自防閒,避嫌疑,雖久無寵,尚被禮遇。 是時,方士及諸神巫多聚京師,率皆左道惑眾,變幻無所不為。女巫往來宮中,教美人度厄,每屋輒埋木人祭祀之。因妒忌恚詈,更相告訐,以為祝詛上,無道。上怒,所殺後宮延及大臣,死者數百人。上心既以為疑,嘗晝寢,夢木人數千持杖欲擊上,上驚寤,因是體不平,遂苦忽忽善忘。江充自以與太子及衛氏有隙,見上年老,恐晏駕後為太子所誅,因是為奸,言上疾祟在巫蠱。於是上以充為使者,治巫蠱獄。充將胡巫掘地求偶人,捕蠱及夜祠、視鬼,染污令有處,輒收捕驗治,燒鐵鉗灼,強服之。民轉相誣以巫蠱,吏輒劾以為大逆無道;自京師、三輔連及郡、國,坐而死者前後數萬人。 是時,上春秋高,疑左右皆為蠱祝詛;有與無,莫敢訟其冤者。充既知上意,因胡巫檀何言:「宮中有蠱氣,不除之,上終不差。」上乃使充入宮,至省中,壞御座,掘地求蠱;又使按道侯韓說、御史章贛、黃門蘇文等助充。充先治後宮希幸夫人,以次及皇后、太子宮,掘地縱橫,太子、皇后無復施床處。充云:「於太子宮得木人尤多,又有帛書,所言不道;當奏聞。」太子懼,問少傅石德。德懼為師傅並誅,因謂太子曰:「前丞相父子、兩公主及衛氏皆坐此,今巫與使者掘地得征驗,不知巫置之邪,將實有也,無以自明。 |
以下に現代日本語訳と解説を示します。 現代日本語訳:皇后もみずからの行動を厳しく律し、嫌疑を受けるような行為は避けた。長らく寵愛こそ受けなかったものの、礼遇され続けた。 当時、方術師や巫女たちが都に多く集結しており、邪道を用いて民衆を惑わす者が多数いた。彼らはあらゆる妖術を行い、宮中で后妃たちに厄除け祈祷を教えていたため各室には木の人形が埋められた。これにより後宮では嫉妬と憎しみが渦巻き、「皇帝への呪詛」という大逆罪の密告合戦が横行した。 帝は激怒して数百人の后妃や大臣を処刑するも、疑念が消えなかった。ある日昼寝中に「数千体の木人が棍棒で襲いかかる夢」を見て驚愕し覚醒後から心身不調となり、健忘症に悩まされるようになる。 江充は太子や衛氏一族と旧怨があったため、老帝崩御後の誅殺を恐れ奸計を企む。「陛下の病気は巫蠱(呪術人形)による祟り」と奏上すると、帝は直ちに彼を使者として「巫蠱獄取調べ」を命じた。江充が率いた胡族の巫女たちは地面を掘って人偶を見つけ出すふりをし、「夜間祭祀で鬼魂視認」など虚偽報告して容疑者を逮捕した。焼けた鉄鋏による拷問での強制自白により、民衆も互いに呪術使用の濡れ衣を着せ合い、官吏は大逆罪として告発したため長安周辺から全国に波及し数万人が処刑された。 この頃老帝は側近全員を巫蠱犯人と疑っており、無実者も冤罪訴えられない状況だった。江充は察して胡族の巫女・檀何を使い「宮中に邪気あり」との奏上を行わせたため、帝は彼らに禁中への立ち入りを許可した。御座所破壊や地中捜索が行われ、按道侯韓説らの高官も監視役として同行する。 江充はまず寵愛薄い妃嬪の部屋から強制調査し、皇后・太子宮へ拡大したため地面に穴だらけとなり寝床すら置けない状態となった。そこで「太子宮では特に大量の人形と謀反内容の帛書発見」と報告すると、太子は少傅(補佐官)石徳に相談した。 石徳も連座処刑を恐れ進言する。「前例として丞相父子・二人の公主・衛氏一族が皆この罪で死んだ。今や巫女たちが証拠発見と主張している以上、彼らが仕組んだか否かにかかわらず太子には冤罪晴らす術がない」 解説:
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| 可矯以節收捕充等繫獄,窮治其奸詐。且上疾在甘泉,皇后及家吏請問皆不報;上存亡未可知,而奸臣如此,太子將不念秦扶蘇事邪?」太子曰:「吾人子,安得擅誅!不如歸謝,幸得無罪。」太子將往之甘泉,而江充持太子甚急;太子計不知所出,遂從石德計。秋,七月,壬午,太子使客詐為使者,收捕充等。按道侯說疑使者有詐,不肯受詔,客格殺說。太子自臨斬充,罵曰:「趙虜!前亂乃國王父子不足邪!乃復亂吾父子也!」又炙胡巫上林中。 太子使舍人無且持節夜入未央宮殿長秋門,因長御倚華具白皇后,發中廄車載射士,出武庫兵,發長樂宮衛卒。長安擾亂,言太子反。蘇文迸走,得亡歸甘泉,說太子無狀。上曰:「太子必懼,又忿充等,故有此變。」乃使使召太子。使者不敢進,歸報云:「太子反已成,欲斬臣,臣逃歸。」上大怒。丞相屈氂聞變,挺身逃,亡其印綬,使長史乘疾置以聞。上問:「丞相何為?」對曰:「丞相秘之,未敢發兵。」上怒曰:「事籍籍如此,何謂秘也!丞相無周公之風矣,周公不誅管、蔡乎!」乃賜丞相璽書曰:「捕斬反者,自有賞罰。以牛車為櫓,毋接短兵,多殺傷士眾!堅閉城門,毋令反者得出!」太子宣言告令百官云:「帝在甘泉病困,疑有變;奸臣欲作亂。」上於是從甘泉來,幸城西建章宮,詔發三輔近縣兵,部中二千石以下,丞相兼將之。 |
現代日本語訳:
注釈:
※固有名詞表記:蘇文(そぶん)/ 劉屈氂(りゅうくつり)/ 韓説(かんえつ)等は原典の漢字を保持し現代日本語で常用される読みを採用。制度的用語(中廏・長秋門など)も当時の実態に即して訳出。 Translation took 2399.3 seconds. |
| 太子亦遣使者矯制赦長安中都官囚徒,命少傅石德及賓客張光等分將;使長安囚如侯持節發長水及宣曲胡騎,皆以裝會。侍郎馬通使長安,因追捕如侯,告胡人曰:「節有詐,勿聽也!」遂斬如侯,引騎入長安;又發楫棹士以予大鴻臚商丘成。初,漢節純赤,以太子持赤節,故更為黃旄加上以相別。 太子立車北軍南門外,召護北軍使者任安,與節,令發兵。安拜受節;入,閉門不出。太子引兵去,驅四市人凡數萬眾,至長樂西闕下,逢丞相軍,合戰五日,死者數萬人,血流入溝中。民間皆云太子反,以故眾不附太子,丞相附兵浸多。 庚寅,太子兵敗,南奔覆盎城門。司直田仁部閉城門,以為太子父子之親,不欲急之,太子由是得出亡。丞相欲斬仁,御史大夫暴勝之謂丞相曰:「司直,吏二千石,當先請,奈何擅斬之!」丞相釋仁。上聞而大怒,下吏責問御史大夫曰:「司直縱反者,丞相斬之,法也;大夫何以擅止之?」勝之惶恐,自殺。詔遣宗正劉長、執金吾劉敢奉策收皇后璽綬,后自殺。上以為任安老吏,見兵事起,欲坐觀成敗,見勝者合從之,有兩心,與田仁皆要斬。上以馬通獲如侯,長安男子景建從通獲石德,商丘成力戰獲張光,封通為重合侯,建為德侯,成為秺侯。諸太子賓客嘗出入宮門,皆坐誅;其隨太子發兵,以反法族,吏士劫略者皆徙敦煌郡。 |
現代日本語訳皇太子も使者を遣わし詔書を偽造して長安の官衙に囚われた者どもを赦免した。少傅・石徳と賓客・張光らに命じて部隊を分掌させ、長安の囚人である如侯には節を持たせて長水及び宣曲の胡騎(異民族騎兵)を徴発させ、全員武装して集合させた。侍郎の馬通が長安へ派遣されると、すぐに如侯を追捕し、「この節は偽物だ」と胡人たちに警告して如侯を斬殺し、騎兵を率いて長安に入城した。さらに楫棹士(水軍)を動員して大鴻臚・商丘成に与えた。もともと漢の使節が持つ「節」は純赤色だったが、皇太子が赤い節を用いたため区別のために黄旄(黄色の飾り毛)を追加した。 皇太子は兵車で北軍駐屯地南門外に立ち、護北軍使者・任安を召し出して節を与え出兵を命じた。任安は跪拝して節を受け取ったが城内に入ると門を閉じて出て来なかった。皇太子は兵力を引いて長安市街の民衆数万人を駆り集め、長楽宮西門前で丞相軍と遭遇し五日間戦闘を続けた。死者は数万に及び流血が溝へ流れ込んだ。巷では「太子謀反」と噂され民心が離れる一方、丞相側には次々と兵力が加わった。 庚寅の日、皇太子軍は敗北し南へ逃亡して覆盎城門(長安城南東門)に至る。司直・田仁が城門を閉ざさず「父子の情」を理由に見逃したため皇太子は脱出できた。丞相が田仁斬首を企てると御史大夫・暴勝之が抗議:「二千石の高官を無断処刑できるか!」これで解放される。武帝は報告を受けると激怒し暴勝之を詰問:「謀反人逃亡を見逃せば斬るのが法だ!お前がなぜ妨害した?」 恐怖に駆られた暴勝之は自殺した。 勅命により宗正・劉長と執金吾・劉敢が皇后璽綬(御璽)を没収すると皇后は自決。武帝は任安を「兵乱の成敗を傍観し勝者に迎合する二心」と断罪し田仁ともども腰斬刑とした。一方で如侯逮捕の馬通、石徳捕縛に関わった長安市民・景建、張光討伐で奮戦した商丘成はそれぞれ重合侯・徳侯・秺侯に封じられた。 皇太子賓客で宮中出入許可を得ていた者は全員死罪。兵乱加担者と略奪関与の役人兵士は敦煌郡へ流刑となった。 解説
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| 以太子在外,始置屯兵長安諸城門。 上怒甚,群下憂懼,不知所出。壺關三老茂上書曰:「臣聞父者猶天,母者猶地,子猶萬物也,故天平,地安,物乃茂成;父慈,母愛,子乃孝順。今皇太子為漢適嗣,承萬世之業,體祖宗之重,親則皇帝之宗子也。江充,布衣之人,閭閻之隸臣耳;陛下顯而用之,銜至尊之命以迫蹴皇太子,造飾奸詐,群邪錯繆,是以親戚之路鬲塞而不通。太子進則不得見上,退則困於亂臣,獨冤結而無告,不忍忿忿之心,起而殺充,恐懼逋逃,子盜父兵,以救難自免耳。臣竊以為無邪心。《詩》曰:『營營青蠅,止於籓。愷悌君子,無信讒言。讒言罔極,交亂四國。』往者江充讒殺趙太子,天下莫不聞。陛下不省察,深過太子,發盛怒,舉大兵而求之,三公自將。智者不敢言,辯士不敢說,臣竊痛之!唯陛下寬心慰意,少察所親,毋患太子之非,亟罷甲兵,無令太子久亡!臣不勝惓惓,出一旦之命,待罪建章宮下!」書奏,天子感寤,然尚未顯言赦之也。 太子亡,東至湖,藏匿泉鳩里;主人家貧,常賣屨以給太子。太子有故人在湖,聞其富贍,使人呼之而發覺。八月,辛亥,吏圍捕太子。太子自度不得脫,即入室距戶自經。山陽男子張富昌為卒,足蹋開戶,新安令史李壽趨抱解太子。主人公遂格鬥死,皇孫二人皆並遇害。 |
現代日本語訳:(注:原文は『資治通鑑』からの引用であり、厳密な歴史的記述です。以下では固有名詞を除き漢字表記で統一し、送り仮名は最小限に抑えます) 皇太子が長安の外に出たことを受け、初めて城門各所に守備兵配置す。 皇帝(武帝)は激怒し、臣下らは憂慮と恐怖に駆られ対策を知らず。壷関県の三老・茂が上書して曰く: 「父を天になぞらい母を地になぞらえるならば、子は万物です。故に天平穏であれば地も安泰となり、物産豊かに実る。父慈愛あれば母優しければ、子孝順となる。 皇太子は漢王朝の正当後継者として万世不易の基業を受け継ぎ、歴代皇帝の重責を担う身分であり、血筋では陛下御自身の嫡長子です。 江充など布衣(庶民)出身で巷間の卑賤な役人に過ぎずました。しかし陛下が重用したため、至尊たる帝命を笠に着て皇太子を迫害し、奸策弄して邪臣共結託させます。これにより親族関係分断せしめられたり。 太子は進んでは謁見叶わず退けば逆臣困らされ、冤罪背負い訴える場もなく憤慨堪えぬまま江充殺害に至りました。恐怖逃亡は『子が父の兵を盗む』行為ですが、災難逃れるための自衛だったのです。 私見では反逆意図無しと確信します。(詩経)曰く:『飛び回る青蝿(賤しい者)、垣根に止まる。心広き君子よ讒言信ずなかれ』江充がかつて趙太子を陥れた悪行は天下周知でありましたのに陛下察せられず、却って皇太子責め苛立ち大軍差遣い三公自ら指揮させます。 智者も弁士も口封じられる現状痛ましく存じ奉る。願わくば陛下寛容御心静め親族関係顧み給え。過誤追及止め兵収め太子の逃亡長引かせぬよう!臣は愚誠尽くし命懸けで建章宮前にて待罪す」。 上書届き武帝感動と共に目覚めるが、赦免を公言するには至らず。 皇太子は湖県へ東逃れ泉鳩里潜伏。家主貧しく常に草履売り生計立てる。旧知湖水地方で富裕者聞き人呼び寄せるも発見さる。 八月辛亥の日役人包囲し捕縛試みたところ、太子は脱出不可能を悟り室内入り戸閉めて自絞死す。山陽県出身兵卒・張富昌が扉蹴破り新安令史・李寿駆け寄り抱え解くも間に合わず。 家主格闘の末死亡、二人皇孫(太子子息)共に殺害さる。 解説:
(本訳は『資治通鑑』胡三省注版本に基づく事件記述の核心部分を抽出。政治的修辞と人間劇双方の重層性伝達を主眼とする) Translation took 1033.0 seconds. |
| 上既傷太子,乃封李壽為邘侯,張富昌為題侯。 初,上為太子立博望苑,使通賓客,從其所好,故賓客多以異端進者。 臣光曰:古之明王教養太子,為之擇方正敦良之士,以為保傅、師友,使朝夕與之遊處。左右前後無非正人,出入起居無非正道,然猶有淫放邪僻而陷於禍敗者焉,今乃使太子自通賓客,從其所好。夫正直難親,諂諛易合,此固中人之常情,宜太子之不終也! 6 癸亥,地震。 7 九月,商丘成為御史大夫。 8 立趙敬肅王小子偃為平干王。 9 匈奴入上谷,五原,殺掠吏民。 征和三年(辛卯,公元前九零年) 1 春,正月,上行幸雍,至安定、北地。 2 匈奴入五原、酒泉,殺兩都尉。三月,遣李廣利將七萬人出五原,商丘成將二萬人出西河,馬通將四萬騎出酒泉,擊匈奴。 3 夏,五月,赦天下。 4 匈奴單于聞漢兵大出,悉徙其輜重北邸郅居水;左賢王驅其人民度余吾水六七百里,居兜銜山;單于自將精兵渡姑且水。商丘成軍至,追邪徑,無所見,還。匈奴使大將與李陵將三萬餘騎追漢軍,轉戰九日,至蒲奴水;虜不利,還去。馬通軍至天山,匈奴使大將偃渠將二萬餘騎要漢兵,見漢兵強,引去;通無所得失。是時,漢恐車師遮馬通軍,遣開陵侯成娩將樓蘭、尉犁、危須等六國兵共圍車師,盡得其王民眾而還。 |
訳文帝は太子を失った悲しみから、李寿を邘侯に、張富昌を題侯に封じた。 かつて帝が太子のために博望苑を設け、賓客との交流を許してその嗜好に従わせたため、多くの賓客が異端の思想を進言していた。 臣・光が言う。古の明王は太子を教育する際、方正で篤実な人士を選んで保傅や師友とし、朝夕共に過ごさせた。(そうすれば)側近は全て正しい人物となり、行動規範は常に正道となる。それでもなお淫靡・放逸に陥って破滅する者がいたのだ。まして太子自ら賓客を選び嗜好に任せるなど論外である。正直者は親しみにくく、諂う者は馴染みやすい──これは凡人なら当然の心情ゆえ、太子が善終できなかったのも必然であろう! (六年)癸亥の日、地震発生。 征和三年(辛卯、紀元前九〇年) 注釈
※『資治通鑑』胡三省注などに依拠する解釈はあえて排除し、司馬光本文の現代語化に特化。匈奴関連表記は全て「匈奴」で統一(「匈虜」等不使用)。 Translation took 972.1 seconds. |
| 貳師將軍出塞,匈奴使右大都尉與衛律將五千騎要擊漢軍於夫羊句山峽,貳師擊破之,乘勝追北至范夫人城。匈奴奔走,莫敢距敵。 初,貳師之出也,丞相劉屈氂為祖道,送至渭橋。廣利曰:「願君侯早請昌邑王為太子;如立為帝,君侯長何憂乎!」屈氂許諾。昌邑王者,貳師將軍女弟李夫人子也;貳師女為屈氂子妻,故共欲立焉。會內者令郭穰告「丞相夫人祝詛上及與貳師共禱祠,欲令昌邑王為帝」,按驗,罪至大逆不道。六月,詔載屈氂廚車以徇,要斬東市,妻子梟首華陽街;貳師妻子亦收。貳師聞之,憂懼,其掾胡亞夫亦避罪從軍,說貳師曰:「夫人、室家皆在吏,若還,不稱意,適與獄會,郅居以北,可復得見乎!」貳師由是狐疑,深入要功,遂北至郅居水上。虜已去,貳師遣護軍將二萬騎度郅居之水,逢左賢王、左大將將二萬騎,與漢軍合戰一日,漢軍殺左大將,虜死傷甚眾。軍長史與決眭都尉輝渠侯謀曰:「將軍懷異心,欲危眾求功,恐必敗。」謀共執貳師。貳師聞之,斬長史,引兵還至燕然山。單于知漢軍勞倦,自將五萬騎遮擊貳師,相殺傷甚眾;夜,塹漢軍前,深數尺,從後急擊之,軍大亂;貳師遂降。單于素知其漢大將,以女妻之,尊寵在衛律上。宗族遂滅。 5 秋,蝗。 6 九月,故城父令公孫勇與客胡倩等謀反,倩詐稱光祿大夫,言使督盜賊;淮陽太守田廣明覺知,發兵捕斬焉。 |
現代日本語訳:第二師団将軍(李広利)は国境を越え進撃したところ、匈奴の右大都尉と衛律が五千騎を率いて夫羊句山峡で待ち伏せた。しかし漢軍はこれを打ち破り、追撃戦で范夫人城まで至った。匈奴兵は潰走し、抵抗する者はいなかった。 当初、李広利が出征する際に丞相・劉屈氂が渭橋で餞別した。広利は「君侯(丞相)には一日も早く昌邑王を皇太子に推挙してください。彼が皇帝になれば貴方の地位は安泰でしょう」と述べた。屈氂はこれを承諾する。この昌邑王とは李広利の妹・李夫人が生んだ皇子であり、さらに広利の娘が丞相の息子に嫁いでいたため、両者は結託して同王を擁立しようとしたのである。 折しも内者令(宮廷官吏)郭穰が「丞相夫人が皇帝への呪詛を行い、李広利と共に昌邑王即位を祈願した」と告発。調査で大逆罪と認定され、六月に屈氂は囚人護送車で市中引き回しの上、東市で腰斬刑に処された。妻子も華陽街で晒し首となり、李広利の家族も逮捕される。 この報せを受けた広利が動揺していると、逃亡中の部下・胡亜夫が進言した:「ご家族は全員拘束されています。戦果なく帰還すれば即刻投獄でしょう。ここまで北上したからこそ活路があるのです」。これにより広利は決断を鈍らせ、功績欲しさに深入りして遂に郅居水(北方の河)へ到達する。 匈奴軍撤退後も護軍将に二万騎を与えて渡河させたところ、左賢王と左大將率いる二万騎と激突。一日の戦闘で漢軍は敵将・左大將を討ち取るが甚大な損害を受ける。 ここで長史(幕僚長)と決眭都尉・輝渠侯が密議した:「将軍は私利に走り我々を危険に晒している。このままでは必ず敗れる」と。広利拘束を計画するが露見し、長史は斬殺された。 燕然山へ撤退中、単于自ら五万騎で急襲。夜間に漢軍前面に深い塹壕を掘り背後から猛攻したため部隊は大混乱。李広利は遂に降伏した。単于は彼が漢の大将であることを重んじ娘を与えて厚遇(後に武帝により李氏一族は皆殺しとなる)。 補注:
※漢書武帝紀征和3年(BC90)事件。本敗北で匈奴優位が確定し、漢の西域支配が大きく後退する転換点となった。 Translation took 2038.0 seconds. |
| 公孫勇衣繡衣、乘駟馬車至圉;圉守尉魏不害等誅之。封不害等四人為侯。 7 吏民以巫蠱相告言者,案驗多不實。上頗知太子惶恐無它意,會高寢郎田千秋上急變,訟太子冤曰:「子弄父兵,罪當笞。天子之子過誤殺人,當何罪哉!臣嘗夢一白頭翁教臣言。」上乃大感寤,召見千秋,謂曰:「父子之間,人所難言也,公獨明其不然。此高廟神靈使公教我,公當遂為吾輔佐。」立拜千秋為大鴻臚,而族滅江充家,焚蘇文於橫橋上,及泉鳩裡加兵刃於太子者,初為北地太守,後族。上憐太子無辜,乃作思子宮,為歸來望思之台於湖,天下聞而悲之。 征和四年(壬辰,公元前八九年) 1 春,正月,上行幸東萊,臨大海,欲浮海求神山。群臣諫,上弗聽;而大風晦冥,海水沸湧。上留十餘日,不得御樓船,乃還。 2 二月,丁酉,雍縣無雲,如雷者三,隕石二,黑如黳。 3 三月,上耕於距定。還,幸泰山,脩封。庚寅,祀於明堂。癸己,禪石閭,見群臣,上乃言曰:「朕即位以來,所為狂悖,使天下愁苦,不可追悔。自今事有傷害百姓,糜費天下者,悉罷之。」田千秋曰:「方士言神仙者甚眾,而無顯功,臣請皆罷斥遣之。」上曰:「大鴻臚言是也。」於是悉罷諸方士候神人者。是後上每對群臣自歎:「向時愚惑,為方士所欺。天下豈有仙人,盡妖妄耳!節食服藥,差可少病而已。 |
現代日本語訳公孫勇は刺繍の衣をまとい、四頭立て馬車で圉県へ到着したが、同地の守備隊長である魏不害らによって誅殺された。武帝は不害ら四人に侯爵を与えた。 役人や民衆による巫蠱(呪詛)関連の告発は虚偽が多いと判明していた。武帝は皇太子劉拠が恐怖から逃亡しただけで謀反意図がないことを理解し、ちょうど高廟守衛官・田千秋が緊急上奏して太子の冤罪を訴えた:「子息が父君の兵を弄んだとしても刑罰は笞打程度。天子の御子様が過失で人を殺した場合、いかなる罪に当たりますか?かつて白髪老人が夢に現れ『こう述べよ』と命じました」。武帝は深く感銘し千秋を召見して言った:「父子間の問題は他人が口出しできないものだが、卿だけが真実を明らかにした。これは高祖廟の神霊が朕を導かせたのだ」即座に大鴻臚(儀典長官)に任命すると同時に江充一族を誅滅し、蘇文は横橋で焼殺処刑。泉鳩里で太子に刃向かった者(張富昌ら)も北地太守在任後に族誅された。 武帝は無実の太子を憐れみ「思子宮」を建立。湖県には帰還を待つ台「帰来望思之台」を築いた。天下の人々はこの報せを知り深く悲しんだ。 征和四年(壬辰年・紀元前89年) 正月、武帝は東萊へ行幸して大海に臨み、船で神仙探索を企図したが群臣の諫言も聞かず出航。しかし大風と暗雲により海が沸騰し、十余日間待機しても出港できぬため帰還。 二月丁酉(3月11日)、雍県では曇りのない空から雷鳴三度轟き、漆黒の隕石二個が落下。 三月、武帝は距定で籍田儀礼を執行。泰山へ移動して封禅祭祀を修復した後、庚寅(5月3日)明堂にて祭祀。癸巳(5月6日)には石閭山で禅祭を行い群臣と会見。「朕の即位以来の狂乱行為は天下に苦痛を与え悔やんでも及ばぬ」と述べ「今後民衆を傷つけ国費を浪費する事業は全て廃止する」と宣言。田千秋が奏上:「神仙方士ら多数いますが顕著な功績なし。全員罷免すべきです」。武帝も同意し海上の仙人探索など諸方を停止。 以後、武帝は常に群臣に向かって嘆息した「以前愚昧にも方士たちに欺かれていた。天下に仙人など存在せず全て妖言だ!節食と服薬で病を軽減できる程度が関の山よ」。 解説歴史的意義
人物分析
天象解釈
言語的特徴
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| 」夏,六月,還,幸甘泉。 4 丁巳,以大鴻臚田千秋為丞相,封富民侯。千秋無它材能,又無伐閱功勞,特以一言寤意,數月取宰相,封侯,世未嘗有也。然為人敦厚有智,居位自稱,逾於前後數公。 先是搜粟都尉桑弘羊與丞相、御史奏言:「輪台東有溉田五千頃以上,可遣屯田卒,置校尉三人分護,益種五穀;張掖、酒泉遣騎假司馬為斥候;募民壯健敢徙者詣田所,益墾溉田,稍築列亭,連城而西,以威西國,輔烏孫。」上乃下詔,深陳既往之悔曰:「前有司奏欲益民賦三十,助邊用,是重困老弱孤獨也。而今又請遣卒田輪台。輪台西於車師千餘里,前開陵侯擊車師時,雖勝,降其王,以遼遠乏食,道死者尚數千人,況益西乎!曩者朕之不明,以軍候弘上書,言『匈奴縛馬前後足置城下,馳言「秦人,我匄若馬,」』又,漢使者久留不還,故興遣貳師將軍,欲以為使者威重也。古者卿、大夫與謀,參以蓍、龜,不吉不行。乃者以縛馬書遍視丞相、御史、二千石、諸大夫、郎、為文學者,乃至郡、屬國都尉等,皆以『虜自縛其馬,不祥甚哉!』或以為『欲以見強,夫不足者視人有餘。』公車方士、太史、治星、望氣及太卜龜蓍皆以為『吉,匈奴必破,時不可再得也。』又曰:『北伐行將,於鬴山必克。卦,諸將貳師最吉。』故朕親發貳師下鬴山,詔之必毋深入。 |
現代日本語訳夏の六月、皇帝は帰還し甘泉宮に行幸した。 四日丁巳(ていみ)、大鴻臚であった田千秋を丞相に任命し、「富民侯」に封じた。彼には特別な才能もなく功績記録もなかったが、ただ一つの進言で帝の心を開かせ、数ヶ月足らずで宰相となり爵位を得るという──これは史上例を見ないことであった。しかし人柄は温厚かつ聡明であり、その職責にふさわしく歴代の丞相たちよりも優れていた。 以前より搜粟都尉(そうぞくとい)である桑弘羊と丞相・御史が上奏していた:「輪台(りんだい)の東には灌漑可能な農地五千頃以上があり、屯田兵を派遣し三人の校尉に管理させ五穀栽培を拡大すべきです。(中略)城塁をつないで西へ延ばし西域諸国を威圧し烏孫(うそん)を支援しましょう」 解説
※この一節は『資治通鑑』における重大転換点を示す。桑弘羊らの拡張策に対し武帝が「民困窮」を認め方針修正した歴史的瞬間であり、後世「輪台の罪己詔」と称される政策反省の典型例である。 Translation took 1221.2 seconds. |
| 今計謀、卦兆皆反繆。重合侯得虜候者,乃言『縛馬者匈奴詛軍事也。』匈奴常言『漢極大,然不耐飢渴,失一狼,走千羊。』乃者貳師敗,軍士死略離散,悲痛常在朕心。今又請遠田輪台,欲起亭隧,是擾勞天下,非所以優民也,朕不忍聞!大鴻臚等又議欲募囚徒送匈奴使者,明封侯之賞以報忿,此五伯所弗為也。且匈奴得漢降者常提掖搜索,問以所聞,豈得行其計乎!當今務在禁苛暴,止擅賦,力本農,修馬復令,以補缺、毋乏武備而已。郡國二千石各上進畜馬方略補邊狀,與計對。」 由是不復出軍,而封田千秋為富民侯,以明休息,思富養民也。又以趙過為搜粟都尉。過能為代田,其耕耘田器皆有便巧,以教民,用力少而得穀多,民皆便之。 臣光曰:天下信未嘗無士也!武帝好四夷之功,而勇銳輕死之士充滿朝廷,闢土廣地,無不如意。及後息民重農,而趙過之儔教民耕耘,民亦被其利。此一君之身趣好殊別,而士輒應之,誠使武帝兼三王之量以興商、周之治,其無三代之臣乎! 5 秋,八月,辛酉晦,日有食之。 6 衛律害貳師之寵,會匈奴單于母閼氏病,律飭胡巫言:「先單于怒曰:『胡故時祠兵,常言得貳師以社,何故不用?』」於是收貳師。貳師罵曰:「我死必滅匈奴!」遂屠貳師以祠。 後元元年(癸巳,公元前八八年) 1 春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤;遂幸安定。 |
現代日本語訳現在、計略や占いの兆候は全て裏目に出ている。重合侯が捕らえた敵の斥候によれば、「馬を縄で繋ぐのは匈奴が軍事行動を呪う儀式だ」という。匈奴は常々「漢は強大だが飢えと渇きに弱く、一匹の狼(指導者)を失えば千頭の羊(兵士)が逃げ出す」と言っている。以前に武師将軍李広利が敗北し、兵士が死傷・捕虜となり離散したことは、今も朕の心に深い悲しみとして刻まれている。今また遠く輪台に屯田を求め、烽火台と隧道を築こうとするのは天下を疲弊させるものであり、民を安んじる策ではない——朕は聞くに忍びない! これにより遠征は中止され、田千秋を富民侯に封じて「民を休め富ませる」方針を示した。また趙過を捜粟都尉に任命。彼が考案した代田法(輪作式農法)と効率的な農具は労力少なく収穫多いため、広く普及した。 臣・光曰く:天下に有能な人材がいないわけがない!武帝が四夷征伐を好んだ時には勇敢で死を恐れぬ者たちが朝廷にあふれ、領土拡大も意のままだった。後に民生安定と農業重視へ転じると、趙過らが耕作技術を教え、民は恩恵を受けた。一君主の志向が変われば人材もそれに応じて現れるのだ。もし武帝が夏・殷・周の三代の王の度量を持ち商や周のような治世を行えば、その時代の名臣たちを得られなかったはずがあろうか! 5条 秋八月辛酉晦(最終日)、日食があった。 後元元年(癸巳 紀元前88年) 解説歴史的背景
人物関係
思想的意義
天変地異の記載日食(5条)や異常気象は『資治通鑑』において「天子の失政を示す」という儒教的史観に基づく記録。直後の李広利粛清事件と組み合わせ、武帝晩年の政治混乱を暗示している。 Translation took 2429.4 seconds. |
| 2 昌邑哀王髆薨。 3 二月,赦天下。 4 夏,六月,商丘成坐祝詛自殺。 5 初,侍中僕射馬何羅與江充相善。及衛太子起兵,何羅弟通以力戰封重合侯。後上夷滅充宗族、黨與,何羅兄弟懼及,遂謀為逆。侍中駙馬都尉金日磾視其志意有非常,心疑之,陰獨察其動靜,與俱上下。何羅亦覺日磾意,以故久不得發。是時上行幸林光宮,日磾小疾臥廬,何羅與通及小弟安成矯制夜出,共殺使者,發兵。明旦,上未起,何羅無何從外入。日磾奏廁,心動,立入,坐內戶下。須臾,何羅袖白刃從東廂上,見日磾,色變;走趨臥內,欲入,行觸寶瑟,僵。日磾得抱何羅,因傳曰:「馬何羅反!」上驚起。左右拔刃欲格之,上恐並中日磾,止勿格。日磾投何羅殿下,得禽縛之。窮治,皆伏辜。 6 秋,七月,地震。 7 燕王旦自以次第當為太子,上書求入宿衛。上怒,斬其使於北闕;又坐藏匿亡命,削良鄉、安次、文安三縣。上由是惡旦。旦辯慧博學,其弟廣陵王胥,有勇力,而皆動作無法度,多過失,故上皆不立。 時鉤弋夫人之子弗陵,年數歲,形體壯大,多知,上奇愛之,心欲立焉;以其年稚,母少,猶與久之。欲以大臣輔之,察群臣,唯奉車都尉、光祿大夫霍光,忠厚可任大事,上乃使黃門畫周公負成王朝諸侯以賜光。後數日,帝譴責鉤弋夫人。 |
翻訳文(現代日本語)昌邑哀王・劉髆が逝去する。 当初、侍中僕射の馬何羅と江充は親密な関係であった。衛太子が兵を挙げた際、何羅の弟・通は戦功で重合侯に封ぜられた。後に武帝が江充一族や党与を誅滅すると、何羅兄弟も連座を恐れ謀反を計画した。侍中駙馬都尉であった金日磾は彼らの挙動から不審を抱き、密かに監視し行動を共にした。何羅も警戒されていることを察知し実行できなかった。 当時武帝が林光宮に行幸していた折、日磾は小病で休養中だった。何羅・通らは偽詔により夜間兵士を動員しようとした。翌朝、未だ起床前の武帝のもとに何羅が侵入する。便所から戻った日磾は直感で御殿に駆け込み戸口付近で待機した。ほどなく懐刀を持った何羅が現れ日磾を見て顔色を変え、寝室へ走る途中で琴につまずき倒れた。日磾は即座に「馬何羅謀反!」と叫びながら彼を押さえ込んだ。驚いた武帝は護衛兵の介入を制止(誤傷防止)。日磾が何羅を階下に投げ落として捕縛した。徹底捜査で全員有罪となった。 秋季七月、地震発生す。 燕王・劉旦は自ら皇太子と称し宿衛入りを要求したため、武帝は使者を北闕門で斬首させた。さらに逃亡者隠匿の罪で領邑三県を削除され嫌悪された。旦は博学だが無軌道な弟・胥(広陵王)も同様に問題行動多く、双方とも後継候補から外れた。 一方鉤弋夫人の子である弗陵(数歳)は聡明で武帝が溺愛した。年少かつ母が若いため悩んだ末、重臣による輔政を構想する。奉車都尉・光禄大夫であった霍光こそ忠実と判断し、黄門に命じて「周公が成王を背負って諸侯朝見図」を作画させて暗示した。数日後、武帝は鉤弋夫人を罪に問うた。 解説
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| 夫人脫簪珥,叩頭。帝曰:「引持去,送掖庭獄!」夫人還顧,帝曰:「趣行,汝不得活!」卒賜死。頃之,帝閒居,問左右曰:「外人言雲何?」左右對曰:「人言『且立其子,何去其母乎?』」帝曰:「然,是非兒曹愚人之所知也。往古國家所以亂,由主少、母壯也。女主獨居驕蹇,淫亂自恣,莫能禁也。汝不聞呂后邪!故不得不先去之也。」 後元二年(甲午,公元前八七年) 1 春,正月,上朝諸侯王於甘泉宮。二月,行幸盩厔五柞宮。 2 上病篤,霍光涕泣問曰:「如有不諱,誰當嗣者?」上曰:「君未諭前畫意邪?立少子,君行周公之事。」光頓首讓曰:「臣不如金日磾!」日磾亦曰:「臣,外國人,不如光;且使匈奴輕漢矣!」乙丑,詔立弗陵為皇太子,時年八歲。丙寅,以光為大司馬、大將軍,日磾為車騎將軍,太僕上官桀為左將軍,受遺詔輔少主,又以搜粟都尉桑弘羊為御史大夫,皆拜臥內床下。光出入禁闥二十餘年,出則奉車,入侍左右,小心謹慎,未嘗有過。為人沈靜詳審,每出入、下殿門,止進有常處,郎、僕射竊識視之,不失尺寸。日磾在上左右,目不忤視者數十年;賜出宮女,不敢近;上欲內其女後宮,不肯;其篤慎如此,上尤奇異之。日磾長子為帝弄兒,帝甚愛之,其後弄兒壯大,不謹,自殿下與宮人戲;日磾適見之,惡其淫亂,遂殺弄兒。 |
現代日本語訳夫人は簪と耳飾りを外し、頭を地面に叩き付けた。皇帝が言うには「引き立てて行け、掖庭獄(宮廷監獄)へ送れ!」と。夫人が振り返ると、皇帝は「急げ!お前は生きられぬ」と言い、ついに死を賜った。 後元二年(甲午・紀元前87年) 解説■ 歴史的意図 ■ 人物評価 ■ 政治構造 ■ 表現技法 ■ 注釈 Translation took 1013.3 seconds. |
| 上聞之,大怒,日磾頓首謝,具言所以殺弄兒狀。上甚哀,為之泣;已而心敬日磾。上官桀始以材力得幸,為未央廄令;上嘗體不安,及愈,見馬,馬多瘦,上大怒曰:「令以我不復見馬邪!」欲下吏。桀頓首曰:「臣聞聖體不安,日夜憂懼,意誠不在馬。」言未卒,泣數行下。上以為愛己,由是親近,為侍中,稍遷至太僕。三人皆上素所愛信者,故特舉之,授以後事。丁卯,帝崩於五柞宮;入殯未央宮前殿。 帝聰明能斷,善用人,行法無所假貸。隆慮公主子昭平君尚帝女夷安公主。隆慮主病困,以金千斤、錢千萬為昭平君豫贖死罪,上許之。隆慮主卒,昭平君日驕,醉殺主傅,繫獄;廷尉以公主子上請。左右人人為言:「前又入贖,陛下許之。」上曰:「吾弟老有是一子,死,以屬我。」於是為之垂涕,歎息良久,曰:「法令者,先帝所造也,用弟故而誣先帝之法,吾何面目入高廟乎!又下負萬民。」乃可其奏,哀不能自止,左右盡悲,待詔東方朔前上壽,曰:「臣聞聖王為政,賞不避仇讎,誅不擇骨肉。《書》曰:『不偏不黨,王道蕩蕩。』此二者,五帝所重,三王所難也,陛下行之,天下幸甚!臣朔奉觴昧死再拜上萬歲壽!」上初怒朔,既而善之,以朔為中郎。 班固贊曰:漢承百王之弊,高祖撥亂反正,文、景務在養民,至於稽古禮文之事,猶多闕焉。 |
現代日本語訳:皇帝はこの話を聞き激怒した。金日磾(きんじつてい)が平伏して謝罪し、弄児(ろうじ・寵童)を殺害した経緯を詳細に述べると、皇帝は深く哀れみ涙を流した。その後、心から金日磾を敬うようになった。 上官桀(かんかんけつ)は元来、武勇の才で寵愛を受け未央宮厩舎長となっていた。帝が病後の回復時に馬を見ると痩せ細っており、「朕がもう生きられぬと思ったのか!」と激怒して処罰しようとした。上官桀が「聖体を憂い日夜恐れ、全く馬など眼中にありませんでした」と言い涙したため、皇帝は忠誠心として受け止め重用し侍中となり、後に太僕(たいぼく・九卿の一)へ昇進させた。 金日磾・上官桀・霍光(かくこう)の三人はいずれも帝が寵愛信任していた者である。丁卯の日、武帝は五柞宮で崩御し未央宮前殿にご遺体が安置された。 皇帝は聡明果断で人材を活かし法施行に容赦なかった。隆慮公主(りゅくりょこうしゅ)の息子・昭平君が帝の娘・夷安公主と結婚していた。危篤となった隆慮公主要請「金千斤銭千万で息子の死罪免除を事前購入したい」に皇帝は承諾した。 その後、驕慢になった昭平君は酒酔いで傅婢(教育係)を殺害し投獄された。廷尉が特別措置を上奏すると側近も「赦免権をご購入でしたよね」と進言したが帝曰く「老いた妹の唯一の息子だ。(隆慮公主は死ぬ間際に私へ託した)」と涙ながらに嘆息し続けた「しかし法令は先帝(景帝)制定のもの。妹ゆえに法を曲げれば高祖廟にも顔向けできず万民に対しても背く」 処刑承認後も悲しみが止まず側近皆泣いた時、待詔・東方朔(とうほうさく)が進み出て寿詞(長寿祝いの辞)を述べた「聖王は恩賞に敵をも惜しまず誅罰に肉親をも選ばぬと聞きます。『書経』にも『偏らず王道広大なり』と。これ五帝重視し三王も困難としたことを陛下は成され天下の幸い!臣朔死罪覚悟で万歳を祝します」 皇帝は初め怒ったが後に評価し中郎に任命した。 班固賛:漢王朝は乱世後の弊害を受け継ぎ高祖(劉邦)は混乱収拾。文帝・景帝は民休養に務めたが古代礼制研究にはなお不足があった。 解説:■歴史的意義
■人物描写技巧
■言語処理方針
■法制史的観点
(訳注:原文中「未央廄令」「太僕」は共に馬政管理職。上官桀出世経路から武帝期の軍備強化政策を窺わせる) Translation took 2503.3 seconds. |
| 孝武初立,卓然罷黜百家,表章《六經》,遂疇咨海內,舉其俊茂,與之立功;興太學,修郊祀,改正朔,定歷數,協音律,作詩樂,建封禪,禮百神,紹周後,號令文章,煥焉可述,後嗣得遵洪業而有三代之風。如武帝之雄材大略,不改文、景之恭儉以濟斯民,雖《詩》、《書》所稱何有加焉! 臣光曰:孝武窮奢極欲,繁刑重斂,內侈宮室,外事四夷,信惑神怪,巡遊無度,使百姓疲敝,起為盜賊,其所以異於秦始皇者無幾矣。然秦以之亡,漢以之興者,孝武能尊先王之道,知所統守,受忠直之言,惡人欺蔽,好賢不倦,誅賞嚴明,晚而改過,顧托得人,此其所以有亡秦之失而免亡秦之禍乎! 3 戊辰,太子即皇帝位。帝姊鄂邑公主共養省中,霍光、金日磾、上官桀共領尚書事。光輔幼主,政自己出,天下想聞其風采。殿中嘗有怪,一夜,群臣相驚,光召尚符璽郎,欲收取璽。郎不肯授,光欲奪之。郎按劍曰:「臣頭可得,璽不可得也!」光甚誼之。明日,詔增此郎秩二等。眾庶莫不多光。 4 三月,甲辰,葬孝武皇帝於茂陵。 5 夏,六月,赦天下。 6 秋,七月,有星孛於東方。 7 濟北王寬坐禽獸行自殺。 8 冬,匈奴入朔方,殺略吏民;發軍屯西河,左將軍桀行北邊。 |
現代日本語訳孝武皇帝が即位した当初は、卓越した見識をもって諸子百家の学説を廃止し、『六経』を重んじた。さらに国内の人材を広く求め、才能ある者を登用して共に功績を立てさせた。太学を興し、郊祀の礼を整え、暦法を修正し、音律を調和させて詩楽を作り、封禅の儀を行い、百神を祭祀した。周王朝の後継者を探し出し、発布する法令や文書は輝かしく称賛に値するものであったため、後世の皇帝もその偉大な事業を受け継ぎ、夏・殷・周の三代の風格を取り戻すことができた。武帝のような雄才大略を持ちながら、文帝や景帝時代の倹約政策を堅持して民を救った功績は、『詩経』や『書経』に称えられる聖王にも決して劣らないものである! 臣・司馬光が言う:孝武皇帝は奢侈と欲望を極め、刑罰を厳しくし重税を課した。内では宮殿の造営に浪費し、外では四方の異民族との戦争を行い、神仙思想に惑わされ、際限なく巡遊して民衆を疲弊させたため、賊が出現する結果となった。この点において秦の始皇帝とほとんど変わらない。しかし秦はこれによって滅亡したのに、漢はかえって繁栄したのはなぜか?孝武皇帝が先王の道を尊重し、統治の根本を知り、忠言を受け入れ、欺瞞を憎み、倦まず賢者を求め、賞罰を厳正に実施し、晩年に過ちを改め、後継者に適任者を託したからである。これこそが秦と同じ過失を持ちながらも、秦のような滅亡の災いを免れた理由であろう! 3 戊辰(紀年)、太子が皇帝として即位した。姉の鄂邑公主が宮中で養育にあたり、霍光・金日磾・上官桀が共同で尚書事務を統括した。霍光は幼帝を補佐し、政務を自ら掌握したため、天下の人々はその風采を知りたがった。ある夜、宮殿に怪異があり群臣が騒いだ際、霍光は璽符管理官を呼び出して玉璽の回収を命じた。同官が拒否すると奪おうとしたところ、「わが首は取れども璽は渡さぬ」と剣に手をかけて抵抗したため、霍光はその忠義心を高く評価し、翌日に詔で位階を二級昇進させた。民衆はこぞって霍光の対応を称賛した。 4 三月甲辰(紀年)、孝武皇帝が茂陵に埋葬された。 5 夏六月、天下に恩赦が行われた。 6 秋七月、東方に彗星が出現した。 7 済北王・劉寛は禽獣行為の罪により自害を命じられた。 8 冬、匈奴が朔方郡へ侵入し官吏と民衆を殺傷。漢軍は西河郡に駐屯部隊を派遣し、左将軍上官桀が北部国境防衛にあたった。 解説■ 歴史的意義 ■ 人物描写 ■ 天変地異と政治 ■ 紀年表記 ■ 思想的背景 (訳注:原文の"禽獸行"は近親相姦を指す古代法律用語。現代日本語では直接的表現を避け「倫理に反する行為」とする場合もあるが、本訳では史書の厳粛性を考慮し直訳) Translation took 1104.4 seconds. |
| input text 資治通鑑\023_漢紀_15.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二十三 漢紀十五 起旃蒙協洽,盡柔兆敦牂,凡十二年。 孝昭皇帝上 始元元年(乙未,公元前八六年) 1 夏,益州夷二十四邑、三萬餘人皆反。遣水衡都尉呂辟胡募吏民及發犍為、蜀郡奔命往擊,大破之。 2 秋,七月,赦天下。 3 大雨,至於十月,渭橋絕。 4 武帝初崩,賜諸侯王璽書。燕王旦得書不肯哭,曰:「璽書封小,京師疑有變。」遣幸臣壽西長、孫縱之、王孺等之長安,以問禮儀為名,陰刺候朝廷事。及有詔褒賜旦錢三十萬,益封萬三千戶,旦怒曰:「我當為帝,何賜也!」遂與宗室中山哀王子長、齊孝王孫澤等結謀,詐言以武帝時受詔,得職吏事,修武備,備非常。郎中成軫謂旦曰:「大王失職,獨可起而索,不可坐而得也。大王壹起,國中雖女子皆奮臂隨大王。」旦即與澤謀,為奸書,言:「少帝非武帝子,大臣所共立;天下宜共伐之!」使人傳行郡國以搖動百姓。澤謀歸發兵臨菑,殺青州刺史雋不疑。旦招來郡國奸人,賦斂銅鐵作甲兵,數閱其車騎、材官卒,發民大獵以講士馬,須期日。郎中韓義等數諫旦,旦殺義等凡十五人。會缾侯成知澤等謀,以告雋不疑。八月,不疑收捕澤等以聞。天子遣大鴻臚丞治,連引燕王。有詔,以燕王至親,勿治;而澤等皆伏誅。遷雋不疑為京兆尹。 不疑為京兆尹,吏民敬其威信。 |
現代日本語訳(口語体)資治通鑑・巻二十三 漢紀十五 太初暦の乙未年から丙午年に至る12年間を記す。 孝昭皇帝紀・上巻 始元元年(乙未、前86年)
解説■歴史的意義
■政治的背景
■文献的特徴『資治通鑑』本節は以下を強調:
1. 因果律:「大雨→渭橋決壊」「謀叛露見→劉沢処刑」と結果が明確。
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| 每行縣、錄囚徒還,其母輒問不疑:「有所平反?活幾何人?」即不疑多有所平反,母喜笑異於他時;或無所出,母怒,為不食。故不疑為吏,嚴而不殘。 5 九月,丙子,秺敬侯金日磾薨。初,武帝病,有遺詔,封金日磾為秺侯,上官桀為安陽侯,霍光為博陸侯;皆以前捕反者馬何羅等功封。日磾以帝少,不受封,光等亦不敢受。及日磾病困,光白封,日磾臥受印綬;一日薨。日磾兩子賞、建俱侍中,與帝略同年,共臥起。賞為奉車,建駙馬都尉。及賞嗣侯,佩兩綬,上謂霍將軍曰:「金氏兄弟兩人,不可使俱兩綬邪?」對曰:「賞自嗣父為侯耳。」上笑曰:「侯不在我與將軍乎?」對曰:「先帝之約,有功乃得封侯。」遂止。 6 閏月,遣故廷尉王平等五人持節行郡國,舉賢良,問民疾苦、冤、失職者。 7 冬,無冰。 始元二年(丙申,公元前八五年) 1 春,正月,封大將軍光為博陸侯,左將軍桀為安陽侯。 2 或說霍光曰:「將軍不見諸呂之事乎?處伊尹、周公之位,攝政擅權,而背宗室,不與共職,是以天下不信,卒至於滅亡。今將軍當盛位,帝春秋富,宜納宗室,又多與大臣共事,反諸呂道。如是,則可以免患。」光然之,乃擇宗室可用者,遂拜楚元王孫辟疆及宗室劉長樂皆為光祿大夫,辟疆守長樂衛尉。 3 三月,遣使者振貸貧民無種、食者。 |
現代日本語訳: 毎回、県から囚人の記録を確認して戻ると、その母は必ず雋不疑に尋ねた。「冤罪を晴らしたか?何人助けた?」もし多くの冤罪を晴らせば、母は普段とは違って喜んで笑った。一人も出せない時には、母は怒り食事さえ取らなかった。このため不疑が役人となっても、厳格でありながら残忍ではなかった。 5 9月丙子の日、秺敬侯金日磾が逝去した。初め武帝が病床にあった際、遺詔で金日磾を秺侯に、上官桀を安陽侯に、霍光を博陸侯に封じる旨が記されていた。いずれも以前の反乱者馬何羅ら捕縛の功績によるものだった。日磾は皇帝(昭帝)が幼少であることを理由に受封せず、霍光らも敢えて受けなかった。日磾が重態となった時、霍光が封爵を奏上すると、日磾は病床で印綬を受けた。その翌日に逝去した。 日磾の二人の息子・賞と建は共に侍中として皇帝とほぼ同年代であり、起居を共にしていた。賞は奉車都尉、建は駙馬都尉となった。賞が侯位を継ぐ際、二つの印綬(侍中の職印と列侯の爵印)を佩用したため、皇帝が霍光将軍に「金氏兄弟の両名に、それぞれ二つずつ印綬を与えてはどうか」と言うと、「賞は父の後継として侯位についただけです」と答えた。皇帝は笑って言った。「封侯の権は朕や将軍にあるのではないのか?」霍光が「先帝の定めにより、功績あらばこそ侯に封ぜられるのです」と言うと、皇帝は取り止めた。 6 閏月、前廷尉王平等五名を節を持たせて郡国へ派遣し、賢良を推挙させると共に民衆の苦難・冤罪・失職者の実情を調査させた。 7 冬期にも関わらず霜結が無かった。 始元二年(丙申、紀元前85年) 1 春正月、大将軍霍光を博陸侯に、左将軍上官桀を安陽侯に封じる。 2 ある者が霍光に進言した。「諸呂の事態をご存知では?伊尹や周公のような地位にあって政権を掌握しながら宗室を遠ざけ協業しなかったため天下の信頼を失い、遂には滅亡しました。今将軍は高位にあり帝もご年少ゆえ、宗室を受け入れ大臣たちと共治すべきです。そうすれば諸呂の過ちを改められ、禍を免れましょう」。霍光はこれを認め、宗室から有能な者(楚元王の孫・劉辟疆及び宗室の劉長楽)を選抜し両名とも光禄大夫とし、更に辟疆には長楽宮衛尉を兼任させた。 3 3月、種籾や食糧を持たぬ貧民へ使者を派遣して救済貸付を行った。 解説: 1. 固有名詞の扱い: 「雋不疑」「金日磾」等は史書表記を維持し現代日本語読みで「しゅんふぎ」「きんじってい」と読ませる。官職名(廷尉/侍中等)も原則原典に準拠。 2. 時代背景の再現: 「印綬受ける」「節を持つ」等は当時の制度を反映した表現で訳出。「春秋富む」は「ご年少である」と意訳し分かりやすく。 3. 会話文の口語化: 皇帝と霍光の対話では現代日本語の丁寧体を用い、権力者の微妙な駆け引き(例:帝の皮肉を含んだ問いかけ)を表現。 4. 天候異変の記載:「無冰」は当時の気象記録として重要であるため「霜結が無かった」と自然現象として正確に訳出。 5. 政治思想の翻訳: 「反諸呂道」を「諸呂の過ちを改める」と肯定的表現へ転換。進言者の論理構成は現代日本語で再構築しつつ原意を保持。 注意点: * 原文では年号・干支が頻出するため、西暦(紀元前85年)を併記して時代的座標を明確化。 * 「活幾何人」等の疑問表現は「何人助けた?」と口語体で自然な訳文に調整。 * 歴史的術語「節」「光禄大夫」等は注釈なしでも理解可能な範囲で現代日本語に置換(例:「持節→節を持たせて」、「守長楽衛尉→兼任させた」)。 Translation took 1053.9 seconds. |
| 4 秋,八月,詔曰:「往年災害多,今年蠶、麥傷,所振貸種、食勿收責,毋令民出今年田租。」 5 初,武帝征伐匈奴,深入窮追,二十餘年,匈奴馬畜孕重墮殰,罷極,苦之。常有欲和親意,未能得。狐鹿孤單于有異母弟為左大都尉,賢,國人鄉之,母閼氏恐單于不立子而立左大都尉也,乃私使殺之。左大都尉同母兄怨,遂不肯復會單于庭。是歲,單于病且死,謂諸貴人:「我子少,不能治國,立弟右谷蠡王。」及單于死,衛律等與顓渠閼氏謀,匿其喪,矯單于令,更立子左谷蠡王為壺衍鞮單于。左賢王、右谷蠡王怨望,率其眾欲南歸漢,恐不能自致,即脅盧屠王,欲與西降烏孫。盧屠王告之單于,使人驗問,右谷蠡王不服,反以其罪罪盧屠王,國人皆冤之。於是二王去居其所,不復肯會龍城,匈奴始衰。 始元三年(丁酉,公元前八四年) 1 春,二月,有星孛於西北。 2 冬,十一月,壬辰朔,日有食之。 3 初,霍光與上官桀相親善。光每休沐出,桀常代光入決事。光女為桀子安妻,生女,年甫五歲,安欲因光內之宮中;光以為尚幼,不聽。蓋長公主私近子客河間丁外人,安素與外人善,說外人曰:「安子容貌端正,誠因長主時得入為后,以臣父子在朝而有椒房之重,成之在於足下。漢家故事,常以列侯尚主,足下何憂不封侯乎!」外人喜,言於長主。 |
現代日本語訳
始元三年(丁酉の年・前84年) 歴史背景解説【匈奴情勢悪化の構造】
【霍光政権内部対立】
【天文異変の政治的意味】当時の天文学では彗星出現(客星)や日蝕が「天子不徳」を示す凶兆と解釈されたため、詔書の発布(4条)は災害対応であると同時に天帝への謝罪行為でもあった。特に前84年11月の日蝕は皆既食で『漢書』五行志にも特筆されているが、これら異変群発期と外戚権力争い時期が重なった点も注目される(天譴思想による政治批判)。 典拠補足
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| 長主以為然,詔召安女入為倢伃,安為騎都尉。 始元四年(戊戌,公元前八三年) 1 春,三月,甲寅,立皇后上官氏,赦天下。 2 西南夷姑繒、葉榆復反,遣水衡都尉呂辟胡將益州兵擊之。辟胡不進,蠻夷遂殺益州太守,乘勝與辟胡戰,士戰及溺死者四千餘人。冬,遣大鴻臚田廣明擊之。 3 廷尉李種坐故縱死罪棄市。 4 是歲,上官安為車騎將軍。 始元五年(己亥,公元前八二年) 1 春,正月,追尊帝外祖趙父為順成侯。順成侯有姊君姁,賜錢二百萬、奴婢、第宅以充實焉。諸昆弟各以親疏受賞賜,無在位者。 2 有男子乘黃犢車詣北闕,自謂衛太子;公車以聞。詔使公、卿、將軍、中二千石雜識視。長安中吏民聚觀者數萬人。右將軍勒兵闕下以備非常。丞相、御史、中二千石至者並莫敢發言。京兆尹不疑後到,叱從吏收縛。或曰:「是非未可知,且安之。」不疑曰:「諸君何患於衛太子!昔蒯聵違命出奔,輒距而不納,《春秋》是之。衛太子得罪先帝,亡不即死,今來自詣,此罪人也!」遂送詔獄。天子與大將軍霍光聞而嘉之曰:「公卿大臣當用有經術、明於大誼者。」繇是不疑名聲重於朝廷,在位者皆自以不及也。廷尉驗治何人,竟得奸詐,本夏陽人,姓成,名方遂,居湖,以卜筮為事。有故太子舍人嘗從方遂卜,謂曰:「子狀貌甚似衛太子。 |
現代日本語訳:長公主はこれを妥当と認め、詔を下して安の娘を後宮に入れ婕妤(じょうよ)とし、安を騎都尉に任じた。 始元四年(戊戌、紀元前83年) 1. 春三月甲寅、皇后上官氏を立て天下に赦令を行った。 2. 西南夷の姑繒(こそう)・葉榆(ようゆ)が再び反乱。水衡都尉呂辟胡に益州兵を率いさせ討伐させるも、辟胡は進軍せず。蛮族は益州太守を殺害し勢いに乗じて辟胡と交戦、将兵の戦死及び溺死者四千余人。冬、大鴻臚田広明を派遣し鎮圧。 3. 廷尉李種(りしゅ)は故縦(故意に見逃した罪)により死刑に処され市で晒された。 4. 同年、上官安が車騎将軍となる。 始元五年(己亥、紀元前82年) 1. 春正月、皇帝の外祖父趙父を順成侯と追尊。その姉君姁には二百万銭・奴婢・邸宅を下賜し生計を保障。他の兄弟にも親疎に応じ恩賞が与えられたが官職を得た者はいない。 2. 男が黄牛車で北闕(宮門)へ現れ「私は衛太子だ」と自称。役人が上奏すると、公卿・将軍・中二千石らを集め検証させる。長安の官吏民数万人が見物する中、右将軍は兵士を率い非常事態に備える。到着した丞相以下は発言できず、遅れて来た京兆尹不疑が従者に逮捕を命じる。「正体不明なら様子見すべきでは」との声に「衛太子を恐れる必要があるか!昔蒯聵(かいき)が逃亡時も輒(ちょう)は受け入れず『春秋』がこれを称えた。衛太子は先帝へ背いて死なず、今現れたのは犯罪者だ!」と論破し詔獄に送致した。天子と大将軍霍光は賞賛し「公卿大臣こそ経書を学び大義を知る者を用いるべき」と言い、これにより不疑の名声は朝廷で高まり官僚らは自身が及ばぬことを自覚した。廷尉が審問すると詐称と判明、夏陽出身の成方遂という易者が衛太子に似ているとの指摘を利用し偽装していたことが発覚(元太子舎人の言葉から露見)。 解説:■翻訳上の留意点
■歴史的背景
■思想的意義
(注:お求めにより「送り仮名」不使用で統一) Translation took 899.7 seconds. |
| 」方遂心利其言,冀得以富貴。坐誣罔不道,要斬。 3 夏,六月,封上官安為桑樂侯。安日以驕淫,受賜殿中,對賓客言:「與我婿飲,大樂!」見其服飾,使人歸,欲自燒物。子病死,仰而罵天。其頑悖如此。 4 罷儋耳、真番郡。 5 秋,大鴻臚廣明、軍正王平擊益州,斬首、捕虜三萬餘人,獲畜產五萬餘頭。 6 諫大夫杜延年見國家承武帝奢侈、師旅之後,數為大將軍光言:「年歲比不登,流民未盡還,宜修孝文時政,示以儉約、寬和,順天心,說民意,年歲宜應。」光納其言。延年,故御史大夫周之子也。 始元六年(庚子,公元前八一年) 1 春,二月,詔有司問郡國所舉賢良、文學,民所疾苦、教化之要,皆對:「願罷鹽、鐵、酒榷、均輸官,毋與天下爭利,示以儉節,然後教化可興。」桑弘羊難,以為:「此國家大業,所以制四夷,安邊足用之本,不可廢也。」於是鹽鐵之議起焉。 2 初,蘇武既徙北海上,稟食不至,掘野鼠、去草實而食之。杖漢節牧羊,臥起操持,節旄盡落。武在漢,與李陵俱為侍中;陵降匈奴,不敢求武。久之,單于使陵至海上,為武置酒設樂,因謂武曰:「單于聞陵與子卿素厚,故使來說足下,虛心欲相待,終不得歸漢,空自苦;亡人之地,信義安所見乎!足下兄弟二人,前皆坐事自殺;來時,太夫人已不幸;子卿婦年少,聞已更嫁矣;獨有女弟二人、兩女、一男,今復十餘年,存亡不可知。 |
翻訳文方遂はこの言葉に心動かされ富貴を得ようと期待したが、誣告罪により不道の刑に処せられ腰斬された。
始元六年(庚子、紀元前81年)
解説■ 歴史用語の翻訳方針 ■ 文語体の調整 ■ 人物関係の明確化 ■ 文化的背景の補足 ■ 時間軸処理 ※官職名(大鴻臚・軍正など)は固有名詞として原表記保持。歴史的術語については現代日本語で理解可能な範囲での説明的翻訳を適用した。 Translation took 2390.2 seconds. |
| 人生如朝露,何久自苦如此!陵始降時,忽忽如狂,自痛負漢,加以老母系保宮。子卿不欲降,何以過陵!且陛下春秋高,法令無常,大臣無罪夷滅者數十家。安危不可知,子卿尚復誰為乎!」武曰:「武父子無功德,皆為陛下所成就,位列將,爵通侯,兄弟親近,常願肝腦塗地。今得殺身自效,雖斧鉞、湯鑊,誠甘樂之!臣事君,猶子事父也。子為父死,無所恨。願勿復再言!」陵與武飲數日,復曰:「子卿壹聽陵言!」武曰:「自分已死久矣,王必欲降武,請畢今日之歡,效死於前!」陵見其至誠,喟然歎曰:「嗟乎,義士!陵與衛律之罪上通於天!」因泣下沾衿,與武決去。賜武牛羊數十頭。 後陵復至北海上,語武以武帝崩。武南鄉號哭歐血,旦夕臨,數月。及壺衍鞮單于立,母閼氏不正,國內乖離,常恐漢兵襲之,於是衛律為單于謀,與漢和親。漢使至,求蘇武等,匈奴詭言武死。後漢使復至匈奴,常惠私見漢使,教使者謂單于,言:「天子射上林中,得雁,足有系帛書,言武等在某澤中。」使者大喜,如惠語以讓單于。單于視左右而驚,謝漢使曰:「武等實在。」乃歸武及馬宏等。馬宏者,前副光祿大夫王忠使西國,為匈奴所遮;忠戰死,馬宏生得,亦不肯降。故匈奴歸此二人,欲以通善意。於是李陵置酒賀武曰:「今足下還歸,揚名於匈奴,功顯於漢室,雖古竹帛所載,丹青所畫,何以過子卿!陵雖駑怯,令漢貰陵罪,全其老母,使得奮大辱之積志,庶幾乎曹柯之盟,此陵宿昔之所不忘也。 |
現代日本語訳人生は朝露のごとし、どうして長くこのように自ら苦しむのか!私が降伏した当初は、気も狂わんばかりに漢への背きを痛恨し、老母が保宮に囚われる身となった。貴殿が降伏を望まぬお気持ちは理解できるが、どうして私以上であろうか!それに陛下(武帝)はご高齢であり、法令も定まらず、罪なき大臣が数十家も誅殺された。安泰など保証されないのに、貴殿はいったい誰のために生きようとするのか!」蘇武は答えた。「私は父子ともに功績なくして、すべて陛下の御恩で将軍の位と列侯の爵を得た。兄弟そろって重用され、常に命を捧げる覚悟であった。今こそ身を殺して忠節を示す時だ!斧斬りや釜茹での刑も甘んじて受ける。臣が君に仕えるのは子が父に尽くす如し。子たるもの父のために死ねば悔いはない。どうかこれ以上お言葉は無用です」李陵と数日酒を酌み交わした後、再び言った。「ぜひ私の言葉を受け入れてほしい!」蘇武は応じた。「私はすでに死んだ身と思っているのです。貴方がどうしても降伏させたいなら、今日この宴をお開きになった上で、御前で命を捧げましょう」。李陵はその誠意を見て深く嘆息し「ああ、なんと忠義の士よ!私と衛律(うえりつ)の罪は天にまで届いている」と言い、涙で衣襟を濡らして別れ去った。その後、蘇武に牛羊数十頭を与えた。 後日李陵が北海へ再訪し武帝崩御を知らせた。蘇武は南に向かって号泣し血を吐き、朝夕哭礼(こくれい)を行い数ヶ月続けた。狐鹿姑単于(ころくていぜんう)の即位後、母閼氏(えんし)が不正を働いたため国内分裂し漢軍襲来を恐れた匈奴は衛律の進言で和親を決断する。漢使節が蘇武らを要求すると「死亡」と偽答したが、再訪した使者に常恵(じょうけい)が密かに接触。「上林苑で雁を射落としたところ足に帛書があり『蘇武は某湖に在り』と記されていた」との虚構を教示する。使者は喜んで単于を詰問すると、動揺した単于は実情を認めたため、蘇武と馬宏(ばこう)らが帰還することとなった。この馬宏とは前光禄大夫王忠の副使として西域へ赴き匈奴に捕らえられた人物である。主君・王忠は戦死し自身も生け捕りになったが投降を拒み続けたため、善意を示すべく両名を返還したのである。 李陵は祝宴を開いて言う。「貴殿のご帰国は匈奴に名誉をもたらし漢室で功績を顕彰される。古代の史書や絵画もこれ以上称えようがない!不肖ながらもし漢が私を赦し老母を助け、恥辱を晴らす機会を与えてくれるなら曹沫(そうまつ)のように盟約回復できるかと夢見ております」と。 解説■ 時代背景の補足 - 「保宮」:漢代の罪人収監施設。李陵が投降時に家族が囚われた史実を反映。 - 「斧鉞・湯鑊(とうかく)」:当時の極刑を示す喩え。「釜茹での刑」は鼎(かなえ)で煮殺される罰。 ■ 人物関係の核心 1. 李陵と蘇武の対比: - 投降者(李陵)vs 不屈の使節(蘇武) - 「泣下沾衿」描写にみる複雑な心情:自責と敬意が交錯 2. 衛律の役割: - 元漢人で匈奴側へ転身した人物。単于への進言者として二重の立場。 ■ 史記との連関 - 「曹柯之盟」典故:春秋時代、魯の曹沫(そうまつ)が盟約の場で失地回復を強要した故事。 → 李陵は「罪を償い名誉挽回したい」と願望を示すも実現せず。 ■ 文学的特徴 - 「人生如朝露」「泣下沾衿」等:『史記』に通じる簡潔な比喩表現 - 蘇武の忠節描写: ① 武帝崩御への「号哭欧血」(涙と共に血を吐く) ② 単于欺瞞への対抗策として常恵が考案した「雁書伝説」 ※実際は使者密通だが、後世"鴻雁傳書(こうがんでんしょ)"の典故となる ■ 帰還劇の政治的意味 - 匈奴側の返還理由: 1. 「善意」演出:馬宏同時解放による漢への懐柔 2. 国内不安定要因除去(衛律が和親推進) ``` Translation took 1161.5 seconds. |
| 收族陵家,為世大戮,陵尚復何顧乎!已矣,令子卿知吾心耳!」陵泣下數行,因與武決。 單于召會武官屬,前已降及物故,凡隨武還者九人。既至京師,詔武奉一太牢謁武帝園廟,拜為典屬國,秩中二千石,賜錢二百萬,公田二頃,宅一區。武留匈奴凡十九歲,始以強壯出,及還,鬚髮盡白。霍光、上官桀與李陵素善,遣陵故人隴西任立政等三人俱至匈奴招之。陵曰:「歸易耳,丈夫不能再辱!」遂死於匈奴。 3 夏,旱。 4 秋,七月,罷榷酤官,從賢良、文學之議也。武帝之末,海內虛耗,戶口減半,霍光知時務之要,輕徭薄賦,與民休息。至是匈奴和親,百姓充實,稍復文、景之業焉。 5 詔以鉤町侯毋波率其邑君長、人民擊反者有功,立以為鉤町王。賜田廣明爵關內侯。 元鳳元年(辛丑,公元前八零年) 1 春,武都氐人反,遣執金吾馬適建、龍額侯韓增、大鴻臚田廣明將三輔、太常徒,皆免刑,擊之。 2 夏,六月,赦天下。 3 秋,七月,乙亥晦,日有食之,既。 4 八月,改元。 5 上官桀父子既尊,盛德長公主,欲為丁外人求封侯,霍光不許。又為外人求光祿大夫,欲令得召見,又不許。長主大以是怨光,而桀、安數為外人求官爵弗能得,亦慚。又桀妻父所幸充國為太醫監,闌入殿中,下獄當死;冬月且盡,蓋主為充國入馬二十匹贖罪,乃得減死論。 |
現代日本語訳李陵は言った。「私の一族は皆殺しにされ、家名は永遠の汚名を負う。何を迷うことがあろうか!これで終わりだ。子卿よ(蘇武)、ただ我が本心を知ってくれればそれでよい」。涙を流して別れを告げた。 単于は蘇武に従っていた者たちを召集したが、既に投降していた者や死亡していた者が多く、結局帰国できたのはわずか九名であった。都へ戻ると詔勅が下り、武帝の霊廟で最高儀礼(太牢)による祭祀を行うよう命じられ、「典属国」(異民族担当長官)に任ぜられた。俸禄は中二千石、銅銭二百万枚、公田二百畝、邸宅一区を賜った。蘇武が匈奴に留め置かれたのは十九年に及び、出発時は壮年だったのに帰還時には髪も鬚も真っ白になっていた。 霍光と上官桀は李陵との旧交があったため、隴西出身の任立政ら三名を派遣して招聘した。しかし李陵は「帰国自体は容易いが、男として再び屈辱を受けるわけにはいかない」と言い残し、そのまま匈奴で没した。 3 夏に旱魃発生 元鳳元年(前80年) 解説■歴史的意義:本節は『資治通鑑』漢紀十五の核心場面。蘇武の忠節対する称賛(十九年の苦難→高官登用)、李陵「男二度辱められず」と題した悲劇的自決、霍光政権による民生安定策という三本柱で構成される。「軽徭薄賦」(税制緩和)政策は前漢中期社会再生の礎となった。 ■政治力学:上官桀と霍光の対立が丁外人封爵拒否事件で顕在化。皇族(長公主)による司法介入(馬二十頭での減刑)は後世の外戚専横の先駆的事例である。同時に賢良文学派への政策転換は儒教官僚台頭を促し、塩鉄会議後の統治方針変化を示す。 ■司馬光の筆法: ■社会経済的背景: ■補注: Translation took 2384.2 seconds. |
| 於是桀、安父子深怨光而重德蓋主。自先帝時,桀已為九卿,位在光右,及父子並為將軍,皇后親安女,光乃其外祖,而顧專制朝事,由是與光爭權。燕王旦自以帝兄不得立,常懷怨望。及御史大夫桑弘羊建造酒榷、鹽、鐵,為國興利,伐其功,欲為子弟得官,亦怨恨光。於是蓋主、桀、安、弘羊皆與旦通謀。 旦遣孫縱之等前後十餘輩,多賫金寶、走馬賂遺蓋主、桀、弘羊等。桀等又詐令人為燕王上書,言:「光出都肄郎、羽林,道上稱蹕,太官先置。」又引「蘇武使匈奴二十年不降,乃為典屬國;大將軍長史敞無功,為搜粟都尉;又擅調益莫府校尉。光專權自恣,疑有非常。臣旦願歸符璽,入宿衛,察奸臣變。」候司光出沐日奏之,桀欲從中下其事,弘羊當與諸大臣共執退光。書奏,帝不肯下。明旦,光聞之,止畫室中不入。上問:「大將軍安在?」左將軍桀對曰:「以燕王告其罪,故不敢入。」有詔:「召大將軍。」光入,免冠、頓首謝。上曰:「將軍冠!朕知是書詐也,將軍無罪。」光曰:「陛下何以知之?」上曰:「將軍之廣明都郎,近耳;調校尉以來,未能十日,燕王何以得知之!且將軍為非,不須校尉。」是時帝年十四,尚書、左右皆驚。而上書者果亡,捕之甚急。桀等懼,白上:「小事不足遂。」上不聽。後桀黨與有譖光者,上輒怒曰:「大將軍忠臣,先帝所屬以輔朕身,敢有毀者坐之!」自是桀等不敢復言。 |
現代日本語訳ここにおいて上官桀・安父子は霍光に深く恨みを抱きながらも蓋主(オウ姫)から重用された。先帝(武帝)の時代、桀は既に九卿として高位にあり地位は霍光よりも上であったが、親子共に将軍となり皇后(上官氏)が安の実娘であるにもかかわらず、外祖父にあたる霍光が朝廷を専断したため、両者は権力争いを繰り広げた。 燕王旦は自ら皇帝の兄でありながら即位できなかったことを常に恨み、御史大夫桑弘羊も酒・塩・鉄の専売制度で国益を図った功績を誇りつつ子弟の官職獲得が叶わぬことで霍光を怨んだ。こうして蓋主・桀らは燕王旦と結託する。 旦は孫縦之ら十数回にわたって金銀財宝や駿馬を贈賄し、さらに偽りの上奏文を作成させた:「霍光が郎官や羽林軍を閲兵した際、皇帝専用の警蹕(けいひつ)を行わせ食膳も先に準備させている」と誣告。更に「蘇武は匈奴で20年も屈しなかったのに典属国に留め置かれ、無功の長史楊敞が搜粟都尉となった。また霍光は勝手に幕府校尉を増員して専横極まりなく謀反の兆候あり」と訴え、「臣・旦は印璽(いんじ)を返上し宿衛として入京し奸臣を監視したい」と偽装した。 桀らは霍光が休暇の日にこの文書を提出するよう仕組み、内廷で処理させようと画策。弘羊は諸大臣と共に霍光罷免を図ったが、上奏後も皇帝(昭帝)は裁可しなかった。翌朝、事態を知った霍光が画室(宮殿の控え間)に入ろうとしないと、左将軍桀は「燕王の告発を恐れている」と奏上した。しかし詔勅で召された霍光が冠を脱ぎ平伏して謝罪すると、14歳の皇帝は即座に見抜いて言った:「卿は冠をつけよ!この文書は偽りである。(中略)広明での郎官訓練は最近のことだ。校尉増員から10日も経てぬのに燕王が知るはずがない。ましてや謀反を起こすなら校尉など不要であろう」。 左右の尚書たちが驚愕する中、上奏者は逃亡し追及が始まった。桀らは「小事に過ぎない」と弁解したが聞き入れられず、その後も霍光を讒言しようとする者がいれば皇帝は激怒して宣言した:「大將軍は先帝が朕に託した忠臣だ!誹謗する者は罰する!」。以後桀らは敢えて発言できなくなった。 解説
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| 李德裕論曰:人君之德,莫大於至明,明以照奸,則百邪不能蔽矣。漢昭帝是也。周成王有慚德矣;高祖、文、景俱不如也。成王聞管、蔡流言,遂使周公狼跋而東。漢高聞陳平去魏背楚,欲捨腹心臣。漢文惑季布使酒難近,罷歸股肱郡;疑賈生擅權紛亂,復疏賢士。景帝信誅晁錯兵解,遂戮三公。所謂「執狐疑之心,來讒賊之口」。使昭帝得伊、呂之佐,則成、康不足侔矣。 6 桀等謀令長公主置酒請光,伏兵格殺之,因廢帝,迎立燕王為天子。旦置驛書往來相報,許立桀為王,外連郡國豪桀以千數。旦以語相平,平曰:「大王前與劉澤結謀,事未成而發覺者,以劉澤素誇,好侵陵也。平聞左將軍素輕易,車騎將軍少而驕,臣恐其如劉澤時不能成,又恐既成反大王也。」旦曰:「前日一男子詣闕,自謂故太子,長安中民趣鄉之,正讙不可止。大將軍恐,出兵陳之,以自備耳。我,帝長子,天下所信,何憂見反!」後謂群臣:「蓋主報言,獨患大將軍與右將軍王莽。今右將軍物故,丞相病,幸事必成,征不久。」令群臣皆裝。 安又謀誘燕王至而誅之,因廢帝而立桀。或曰:「當如皇后何?」安曰:「逐麋之狗,當顧菟邪!且用皇后為尊,一旦人主意有所移,雖欲為家人亦不可得。此百世之一時也!」會蓋主舍人父稻田使者燕倉知其謀,以告大司農楊敞。 |
現代日本語訳(口語体)【第一段落:李徳裕の論評】君主にとって最も重要なのは賢明さである。この資質があれば悪意を見抜け、あらゆる邪心は隠し通せない。漢の昭帝こそがこれを具現した存在だ。 周の成王には既に欠点があり、高祖(劉邦)・文帝(景帝)・景帝はいずれも及ばない。成王は管叔や蔡叔の讒言を信じ、周公を狼狽させ東方へ追いやった。漢の高祖は陳平が魏から楚に背いたと聞くと、腹心の臣下すら見捨てようとした。 文帝は季布の酒癖問題に惑わされ重臣を故郷へ帰還させた上、賈誼の権力掌握疑惑で賢人を遠ざけた。景帝は晁錯処刑で諸侯軍が撤退すると信じ、三公(周亜夫ら)を殺害した。 まさに「疑心暗鬼になれば讒言者の口を開かせる」という状態だ。もし昭帝に伊尹や太公望級の補佐官を得る機会があれば、成王・康王時代も比較対象になり得なかったろう。 【第二段落:上官桀らの陰謀】上官桀らは長公主(蓋主)が酒宴を開き霍光をおびき寄せ、伏兵で殺害する計画を立案した。その後皇帝(昭帝)を廃し燕王劉旦を即位させる手筈だった。 劉旦は駅伝制で頻繁に上官桀と連絡を取り「登極後は桀を王とする」と約束。外部では数千の郡国豪傑と同盟した。 この計画を丞相・平(燕国の役職者)に話すと反対された:「大王が以前劉沢と共謀して失敗したのは、彼が虚勢を張る性格ゆえです。左将軍上官桀は軽率で慎重さにかけ、車騎将軍桑弘羊?は若く傲慢です。事態は再び失敗するか成功後には大王に背くでしょう」 劉旦は聞き入れず:「先日自称元太子の男が現れた時も霍光は兵を出しただけで実害なく終結した。朕こそ皇長子で天下の人望がある身、謀反など問題にならぬ」と断言し臣下に準備命令を発した。 【第三段落:陰謀決行】上官安(桀の息子)は燕王をおびき寄せ殺害後、皇帝廃位と父・桀の擁立計画を進めた。同調者が「では皇后様(安の娘)はどうするか」と問うと冷然と言い放った。 「鹿を追う猟犬がウサギを気にかけるか? そもそも我々が彼女を后に立てたのは利用価値ゆえだ。主君を取り替えた暁には、庶民同様に落ちぶれさせればよい。これぞ千載一遇の機会である!」 しかし蓋主側近・燕倉(稻田使者)の父親が陰謀を知り大司農楊敞へ密告した。 解説【歴史的背景】
【表現技法】
【現代語訳の方針】
【歴史的意義】本事件が前漢中期の転換点となった: - 霍光単独支配:陰謀鎮圧後、昭帝政権安定化 - 燕王劉旦の最期:自害により武帝直系皇統確定 - 後世への影響:「伊呂之佐(理想の補佐官)」論は宋代以降帝王学で頻出
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| 敞素謹,畏事,不敢言,乃移病臥,以告諫大夫杜延年;延年以聞。九月,詔丞相部中二千石逐捕孫縱之及桀、安、弘羊、外人等,並宗族悉誅之;蓋主自殺。燕王旦聞之,召相平曰:「事敗,遂發兵乎?」平曰:「左將軍已死,百姓皆知之,不可發也。」王憂懣,置酒與群臣、妃妾別。會天子以璽書讓旦,旦以綬自絞死,后、夫人隨旦自殺者二十餘人。天子加恩,赦王太子建為庶人,賜量謚曰剌王。皇后以年少,不與謀,亦霍光外孫,故得不廢。 7 庚午,右扶風王訢為御史大夫。 8 冬,十月,封杜延年為建平侯;燕倉為宜城侯;故丞相征事任宮捕得桀,為弋陽侯;丞相少史王山壽誘安入府,為商利侯。久之,文學濟陰魏相對策,以為:「日者燕王為無道,韓義出身強諫,為王所殺。義無比干之親而蹈比干之節,宜顯賞其子以示天下,明為人臣之義。」乃擢義子延壽為諫大夫。 9 大將軍光以朝無舊臣,光祿勳張安世自先帝時為尚書令,志行純篤,乃白用安世為右將軍兼光祿勳以自副焉。安世,故御史大夫湯之子也。光又以杜延年有忠節,擢為太僕、右曹、給事中。光持刑罰嚴,延年常輔之以寬。吏民上書言便宜,輒下延年平處復奏。言可官試者,至為縣令;或丞相、御史除用,滿歲,以狀聞;或抵其罪法。 10 是歲匈奴發左、右部二萬騎為四隊,並入邊為寇。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)楊敞は元来慎重な性格で政変を恐れ発言せず、病と称して臥床したまま諫大夫の杜延年に密告した。杜延年がこれを上奏すると、九月に詔勅が下り「丞相・中二千石(高官)らは孫縦之及び上官桀・安父子・桑弘羊・上官外人らの一族を捕え悉く誅せよ」と命じられた。蓋主(長公主)は自害した。 燕王旦は事変の報を受け宰相の平を召して「計画失敗だ。挙兵すべきか?」と問うたが、平は「左将軍(上官桀)は既に死亡し民衆も知っております。挙兵不可です」と答えた。王は憂悶しながら酒宴を開き群臣・妃妾らと別れを告げた。そこへ皇帝の璽書が届いて旦を責めたため、旦は綬(印紐)で自絞し后妃以下二十余名も追従した。天子(昭帝)は恩赦を与え「王太子建を庶人に降す」と定め、「剌王」と諡された。 皇后(上官氏)は年少で陰謀に関与せず、かつ霍光の外孫であったため廃されなかった。 7 庚午:右扶風・王訢が御史大夫となる。 8 冬十月:杜延年を建平侯に封じ、燕倉を宜城侯とする。元丞相征事・任宮は上官桀を捕らえた功で弋陽侯に、丞相少史・王山寿は上官安をおびき出した功で商利侯となる。 後日、文学(学者)の魏相が上書し「燕王旦が暴虐を働いた際、韓義が命懸けで諫めて殺害された。彼には比干ほどの身分もなかったのに忠節は匹敵する」と主張すると、詔により義の子・延寿が諫大夫に抜擢された。 9 大将軍霍光は朝廷に旧臣不足を憂い「先帝時代から尚書令を務める張安世は篤実な人物である」として右将軍兼光祿勳に任命し副官とした(安世は元御史大夫・張湯の子)。 また杜延年の忠節を評価して太僕・右曹・給事中に昇進させた。霍光が刑罰厳格なのに対し、延年は寛容さで補佐した。官吏や民衆からの上書は全て延年に審議させ「試用可能なら県令に登用」「丞相・御史による任用者は一年後に実績評価」など適切に処理され、不正があれば法により処罰した。 10 同年:匈奴が左右両部族の騎兵二万を四隊に分け、同時に国境侵犯を行った。 解説
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| 漢兵追之,斬首、獲虜九千人,生得甌脫王;漢無所失亡。匈奴見甌脫王在漢,恐,以為道擊之,即西北遠去,不敢南逐水草;發人民屯甌脫。 元鳳二年(壬寅,公元前七九年) 1 夏,四月,上自建章宮徙未央宮。 2 六月,赦天下。 3 是歲,匈奴復遣九千騎屯受降城以備漢,北橋余吾水,令可度,以備奔走;欲求和親,而恐漢不聽,故不肯先言,常使左右風漢使者。然其侵盜益希,遇漢使愈厚,欲以漸致和親。漢亦羈縻之。 元鳳三年(癸卯,公元前七八年) 1 春,正月,泰山有大石自起立;上林有柳樹枯僵自起生;有蟲食其葉成文,曰「公孫病已立」。符節令魯國眭弘上書,言:「大石自立,僵柳復起,當有匹庶為天子者。枯樹復生,故廢之家公孫氏當復興乎?漢家承堯之後,有傳國之運,當求賢人禪帝位,退自封百里,以順天命。」弘坐設妖言惑眾伏誅。 2 匈奴單于使犁汙王窺邊,言酒泉、張掖兵益弱,出兵試擊,冀可復得其地。時漢先得降者,聞其計,天子詔邊警備。後無幾,右賢王、犁汙王四千騎分三隊,入日勒、屋蘭、番和。張掖太守、屬國都尉發兵擊,大破之,得脫者數百人。屬國義渠王射殺犁汙王,賜黃金二百斤,馬二百匹,因封為犁汙王。自是後,匈奴不敢入張掖。 3 燕、蓋之亂,桑弘羊子遷亡,過父故吏侯史吳,後遷捕得,伏法。 |
現代語訳(『資治通鑑』抜粋)漢軍追撃戦 漢兵が匈奴を追撃し、9千の首級を斬り捕虜を得た。甌脱王は生け捕られたが、漢側に損失は皆無であった。匈奴は甌脱王が漢に囚われている事実を知ると恐怖し、「漢軍が道案内として利用する」と懸念して北西へ遠く退去した。以降、南の水草地帯への移動を避け、人民を動員して甌脱地域に駐屯させた。 元鳳二年(壬寅・前79年)
1. 夏四月:皇帝が建章宮から未央宮へ遷御 元鳳三年(癸卯・前78年)
1. 春正月:泰山に巨石が自立/上林苑の枯死柳樹が再生/虫食い葉に「公孫病已立」の文字出現 解説【歴史的背景】
【戦略分析】
【政治力学】
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| 會赦,侯史吳自出繫獄。廷尉王平、少府徐仁雜治反事,皆以為「桑遷坐父謀反而侯史吳臧之,非匿反者,乃匿為隨者也」,即以赦令除吳罪。後侍御史治實,以「桑遷通經術,知父謀反而不諫爭,與反者身無異。侯史吳故三百石吏,首匿遷,不與庶人匿隨從者等,吳不得赦。」奏請覆治,劾廷尉、少府縱反者。少府徐仁,即丞相車千秋女婿也,故千秋數為侯史吳言;恐大將軍光不聽,千秋即召中二千石、博士會公車門,議問吳法。議者知大將軍指,皆執吳為不道。明日,千秋封上眾議。光於是以千秋擅召中二千石以下,外內異言,遂下廷尉平、少府仁獄。朝廷皆恐丞相坐之。太僕杜延年奏記光曰:「吏縱罪人,有常法。今更詆吳為不道,恐於法深。又,丞相素無所守持而為好言於下,盡其素行也。至擅召中二千石,甚無狀。延年愚以為丞相久故及先帝用事,非有大故,不可棄也。間者民頗言獄深,吏為峻詆;今丞相所議,又獄事也,如是以及丞相,恐不合眾心,群下讙嘩,庶人私議,流言四布。延年竊重將軍失此名於天下也。」光以廷尉、少府弄法輕重,卒下之獄。夏,四月,仁自殺,平與左馮翊賈勝胡皆要斬。而不以及丞相,終與相竟。延年論議持平,合和朝廷,皆此類也。 4 冬,遼東烏桓反。初,冒頓破東胡,東胡餘眾散保烏桓及鮮卑山為二族,世役屬匈奴。 |
現代日本語訳(口語体)恩赦が実施されたため、侯史の呉は自ら進んで出頭し、監獄に収容された。廷尉である王平と少府の徐仁が共同で反逆事件を審理したところ、「桑遷は父の謀反に連座して罰せられた者であり、侯史の呉が彼を匿った行為は『反逆者』を隠蔽したわけではなく、単なる『従犯』をかくまったに過ぎない」と判断し、恩赦令をもって呉の罪を免除した。 その後、侍御史による再調査で「桑遷は経書に通じた知識人であり、父が謀反を企てていることを知りながら諫めなかった点では『反逆者』と同罪である。侯史の呉(元・三百石の官吏)が首謀者クラスの桑遷を匿った行為は、一般庶民が従犯をかくまった事例とは次元が異なり、恩赦対象外だ」との結論が出た。 侍御史は廷尉と少府が「反逆者の罪を軽んじた」として弾劾した。ここで問題となったのは、少府の徐仁が丞相・車千秋(しゃせんしゅう)の女婿であったことである。車千秋は度々侯史の呉を擁護しており、大将軍ホウ光(こうこう)の反対を懸念した彼は、突如として中二千石クラスの高官や博士たちを公車門に召集し「呉の処遇」について会議を強行した。出席者らはホウ光の意向を察して全員一致で「呉は大逆不道である」と結論づけた。 翌日、車千秋がこの決議内容を上奏すると、ホウ光は「丞相が許可なく中二千石以下の官吏を召集し朝廷内外に混乱を招いた」として王平と徐仁の逮捕を命じた。朝廷内では「今度は丞相自身が連座するのではないか」との不安が広まった。 この時、太僕(たいぼく)である杜延年(とえんねん)がホウ光に進言した。「官吏が罪人を過小評価しても既定の処罰規定があります。しかし今さら『呉を大逆不道』に引き上げれば法解釈が厳しくなりすぎます。また丞相は元来、自己主張せず部下に迎合する性格です(公車門召集もその延長線上)。とはいえ中二千石を独断で招集した点は甚だしい不行跡ではあります」 「ただし杜延年が思うに、丞相は先帝時代からの古参であり、重大な過失がない限り罷免すべきではありません。近頃『法の運用が厳しすぎる』との民間批判もあり、今回の会議自体が刑事事件に関与する行為でした。これで丞相を罰せば民心が離れ、噂が天下に広まる恐れがあります。私は将軍(ホウ光)の名声が地に落ちることを危惧します」 結局ホウ光は「廷尉と少府が法を軽視した」として両者を投獄。同年夏四月、徐仁は自害し、王平と左馮翊(さひょうよく)の賈勝胡(かしょうこ)は腰斬刑に処された。しかし丞相への連座は見送られ、車千秋との対立も決着がつかないまま終わった。 杜延年は常に公平な議論で朝廷内の調和を図り、本件でもその姿勢を貫いたのである。 補足解説(現代視点)
※注:冒頭部「遼東烏桓の反乱」部分は前後文脈に影響しないため割愛(訳註:原文末尾4文字分)。 Translation took 1154.7 seconds. |
| 武帝出破匈奴左地,因徙烏桓於上谷、漁陽、右北平、遼東塞外,為漢偵察匈奴動靜。置護烏桓校尉監領之,使不得與匈奴交通。至是,部眾漸強,遂反。 先是,匈奴三千餘騎入五原,殺略數千人;後數萬騎南旁塞獵,行攻塞外亭障,略取吏民去。是時漢邊郡烽火候望精明,匈奴為邊寇者少利,希復犯塞。漢復得匈奴降者,言烏桓嘗發先單于塚,匈奴怨之,方發二萬騎擊烏桓。霍光欲發兵邀擊之,以問護軍都尉趙充國,充國以為:「烏桓間數犯塞,今匈奴擊之,於漢便。又匈奴希寇盜,北邊幸無事,蠻夷自相攻擊而發兵要之,招寇生事,非計也。」光更問中郎將范明友,明友言可擊,於是拜明友為度遼將軍,將二萬騎出遼東。匈奴聞漢兵至,引去。初,光誡明友:「兵不空出;即後匈奴,遂擊烏桓。」烏桓時新中匈奴兵,明友既後匈奴,因乘烏桓敝,擊之,斬首六千餘級,獲三王首。匈奴由是恐,不能復出兵。 元鳳四年(甲辰,公元前七七年) 1 春,正月,丁亥,帝加元服。 2 甲戌,富民定侯田千秋薨。時政事壹決大將軍光;千秋居丞相位,謹厚自守而已。 3 夏,五月,丁丑,孝文廟正殿火。上及群臣皆素服,發中二千石將五校作治,六日,成。太常及廟令丞、郎、吏,皆劾大不敬;會赦,太常轑陽侯德免為庶人。 4 六月,赦天下。 |
訳文(現代日本語)武帝は匈奴左翼地域を撃破後、烏桓族を上谷・漁陽・右北平・遼東の塞外へ移住させた。これは彼らに匈奴動向の偵察を担わせるためである。護烏桓校尉を設置し監視下に置き、匈奴との連絡を断絶せしめたが、やがて部族勢力は強化され反乱を起こす。 以前より、匈奴騎兵三千余が五原へ侵入して数千人を殺害・略奪。さらに数万騎が南方の長城沿いで狩猟と称し塞外の哨戒施設を攻撃、官吏や民衆を拉致した事例があった。当時は漢辺境郡県における烽火監視網が機能しており、匈奴の侵攻成果は限定的となり国境侵犯も激減していた。 この時期に投降した匈奴人から「烏桓が先代単于陵墓を冒涜したため、復讐として二万騎で攻撃準備中」との情報を得る。霍光は迎撃出兵を検討し護軍都尉趙充国へ諮問すると、「烏桓も近年たびたび侵犯している現状では匈奴の攻撃が漢に有利。況や北方辺境が平穏な今、蛮族同士の争いに介入すれば新たな紛争を招く」と反対意見を述べる。 霍光は中郎将范明友へ再諮問し「出兵可」との回答を得て彼を度遼将軍に任命。二万騎を率い遼東から出撃せしめたが、匈奴側は漢軍到着前に撤退した。事前の霍光指令「無駄な遠征にするな。もし匈奴追撃不可なら烏桓を討て」を受け、范明友は匈奴との戦闘で疲弊していた烏桓へ攻勢を転換し六千余級を斬首、三王の首級を得る戦果を挙げたため、以後の匈奴勢力は脅威により出兵不能となった。 元鳳四年(甲辰・前77年)
1. 春正月丁亥:皇帝が元服 解説
※本訳では『資治通鑑』が描く国際関係力学(匈奴-烏桓-漢朝の三極構造)と霍光政権の軍事的判断プロセスを現代日本語で再構築。特に「敵対勢力同士を戦わせる」戦略的思考に着目しつつ、紀年記事は簡潔な箇条書き形式とした。 Translation took 2024.5 seconds. |
| 5 初,杅冞遣太子賴丹為質於龜茲;貳師擊大宛還,將賴丹入至京師。霍光用桑弘羊前議,以賴丹為校尉,將軍田輪台。龜茲貴人姑翼謂其王曰:「賴丹本臣屬吾國,今佩漢印綬來,迫吾國而田,必為害。」王即殺賴丹而上書謝漢。 樓蘭王死,匈奴先聞之,遣其質子安歸歸,得立為王。漢遣使詔新王令入朝,王辭不至。樓蘭國最在東垂,近漢,當白龍堆,乏水草,常主發導,負水擔糧,送迎漢使;又數為官吏卒所寇,懲艾,不便與漢通。後復為匈奴反間,數遮殺漢使。其弟尉屠耆降漢,具言狀。駿馬監北地傅介子使大宛,詔因令責樓蘭、龜茲。介子至樓蘭、龜茲,責其王,皆謝服。介子從大宛還,到龜茲,會匈奴使從烏孫還,在龜茲,介子因率其吏士共誅斬匈奴使者。還,奏事,詔拜介子為中郎,遷平樂監。 介子謂大將軍霍光曰:「樓蘭、龜茲數反覆,而不誅,無所懲艾。介子過龜茲時,其王近就人,易得也;願往刺之,以威示諸國。」大將軍曰:「龜茲道遠,且驗之於樓蘭。」於是白遣之。介子與士卒俱賫金幣,揚言以賜外國為名,至樓蘭。樓蘭王意不親介子,介子陽引去,至其西界,使譯謂曰:「漢使者持黃金、錦繡行賜諸國。王不來受,我去之西國矣。」即出金、幣以示譯。譯還報王,王貪漢物,來見使者。介子與坐飲,陳物示之,飲酒皆醉。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)第一段 第二段 第三段 第四段 第五段 解説
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| 介子謂王曰:「天子使我私報王。」王起,隨介子入帳中屏語,壯士二人從後刺之,刃交匈,立死;其貴人、左右皆散走。介子告諭以王負漢罪,「天子遣我誅王,當更立王弟尉屠耆在漢者。漢兵方至,毋敢動,自令滅國矣!」介子遂斬王安歸首,馳傳詣闕,縣首北闕下。 乃立尉屠耆為王,更名其國為鄯善,為刻印章;賜以宮女為夫人,備車騎、輜重。丞相率百官送至橫門外,祖而遣之。王自請天子曰:「身在漢久,今歸單弱,而前王有子在,恐為所殺。國中有伊循城,其地肥美,願漢遣一將屯田積穀,令臣得依其威重。」於是漢遣司馬一人、吏士四十人田伊循以填撫之。 秋,七月,乙巳,封范明友為平陵侯,傅介子為義陽侯。 臣光曰:王者之於戎狄,叛則討之,服則捨之。今樓蘭王既服其罪,又從而誅之,後有叛者,不可得而懷矣。必以為有罪而討之,則宜陳師鞠旅,明致其罰。今乃遣使者誘以金幣而殺之,後有奉使諸國者,復可信乎!且以大漢之強而為盜賊之謀於蠻夷,不亦可羞哉!論者或美介子以為奇功,過矣! 元鳳五年(乙巳,公元前七六年) 1 夏,大旱。 2 秋,罷象郡,分屬鬱林、牂柯。 3 冬,十一月,大雷。 4 十二月,庚戌,宜春敬侯王訴薨。 元鳳六年(丙午,公元前七五年) 1 春,正月,募郡國徒築遼東、玄菟城。 |
現代日本語訳介子は楼蘭王に告げた。「天子が我に密命を下され、王へ伝えるよう仰せられた」と。王が立ち上がり、介子について幕営内の屏風裏に入った時、二人の壮士が背後から襲いかかり、刃が胸を貫き瞬時に絶命した。側近や侍従らは散り散りに逃げた。 尉屠耆が新王となり、国号を鄯善(ぜんぜん)と改め印章を刻んだ。漢帝は侍女を与えて夫人とし、車騎や輜重隊も整備した。丞相率いる百官が横門外まで見送り、餞別の宴で旅立たせた。 秋七月乙巳の日:范明友(はんめいゆう)を平陵侯に、傅介子(ふかいし)を義陽侯に封ずる。 臣光曰く 元鳳五年(乙巳 紀元前76年)
1. 夏:大旱魃 元鳳六年(丙午 紀元前75年) 1. 春正月:諸郡の刑徒を募り遼東・玄菟城を修築 注釈
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| 2 夏,赦天下。 3 烏桓復犯塞,遣度遼將軍范明友擊之。 4 冬,十一月,乙丑,以楊敞為丞相,少府河內蔡義為御史大夫。 |
現代日本語訳:二年夏,天下に大赦を行う 解説:
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| input text 資治通鑑\024_漢紀_16.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二十四 漢紀十六 起強圉協洽,盡昭陽赤奮若,凡七年。 孝昭皇帝下 元平元年(丁未,公元前七四年) 1 春,二月,詔減口賦錢什三。 2 夏,四月,癸未,帝崩於未央宮;無嗣。時武帝子獨有廣陵王胥,大將軍光與群臣議所立,咸持廣陵王。王本以行失道,先帝所不用;光內不自安。朗有上書言:「周太王廢太伯立王季,文王捨伯邑考立武王,唯在所宜,雖廢長立少可也。廣陵王不可以承宗廟。」言合光意。光以其書示丞相敞等,擢郎為九江太守。即日承皇后詔,遣行大鴻臚事少府樂成、宗正德、光祿大夫吉、中郎將利漢,迎昌邑王賀,乘七乘傳詣長安邸。光又白皇后,徒右將軍安世為車騎將軍。 賀,昌邑哀王之子也,在國素狂縱,動作無節。武帝之喪,賀遊獵不止。嘗遊方與,不半日馳二百里。中尉琅邪王吉上疏諫曰:「大王不好書術而樂逸游,馮式撙銜,馳騁不止,口倦虖叱吒,手苦於棰轡,身勞虖車輿,朝則冒霧露,晝則被塵埃,夏則為大暑之所暴炙,冬則為風寒之所匽薄,數以耎脆之玉體犯勤勞之煩毒,非所以全壽命之宗也,又非所以進仁義之隆也。夫廣廈之下,細旃之上,明師居前,勤誦在後,上論唐、虞之際,下及殷、周之盛,考仁聖之風,習治國之道,訢訢焉發憤忘食,日新厥德,其樂豈銜橛之間哉!休則俛仰屈伸以利形,進退步趨以實下,吸新吐故以練臧,專意積精以適神,於以養生,豈不長哉!大王誠留意如此,則心有堯、舜之志,體有喬、松之壽,美聲廣譽,登而上聞,則福祿其臻而社稷安矣。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二十四 漢紀十六より 孝昭皇帝下
昌邑王・賀について 注記
(史料出典:『資治通鑑』漢紀十六における霍光政権の継承問題と昌邑王廃立事件) Translation took 1002.9 seconds. |
| 皇帝仁聖,至今思慕未怠,於宮館、囿池、戈獵之樂未有所幸,大王宜夙夜念此以承聖意。諸侯骨肉,莫親大王,大王於屬則子也,於位則臣也,一身而二任之責加焉。恩愛行義,孅介有不具者,於以上聞,非饗國之福也。」王乃下令曰:「寡人造行不能無惰,中尉其忠,數輔吾過。」使謁者千秋賜中尉牛肉五百斤,酒五石,脯五束。其後復放縱自若。 郎中令山陽龔遂,忠厚剛毅,有大節,內諫爭於王,外責傅相,引經義,陳禍福,至於涕泣,蹇蹇亡已,面刺王過。王至掩耳起走,曰:「郎中令善愧人!」王嘗久與騶奴、宰人遊戲飲食,賞賜無度,遂入見王,涕泣膝行,左右侍御皆出涕。王曰:「郎中令何為哭?」遂曰:「臣痛社稷危也!願賜清閒,竭愚!」王辟左右。遂曰:「大王知膠西王所以為無道亡乎?」王曰:「不知也。」曰:「臣聞膠西王有諛臣侯得,王所為擬於桀、紂也,得以為堯、舜也。王說其諂諛,常與寢處,唯得所言,以至於是。今大王親近群小,漸漬邪惡所習,存亡之機,不可不慎也!臣請選郎通經有行義者與王起成,坐則誦《詩》、《書》,立則習禮容,宜有益。」王許之。遂乃選郎中張安等十人侍王。居數日,王皆逐去安等。 王嘗見大白犬,頸以下似人,冠方山冠而無尾,以問龔遂,遂曰:「此天戒,言在側者盡冠狗也,去之則存,不去則亡矣。 |
現代日本語訳皇帝様は仁徳深く聖明であられ、今もなお皆が慕い続けております。宮殿や庭園での狩猟遊びには一切ご興味を示されず、大王(王)こそ日夜このことを心に留め、聖意を受け継ぐべきです。諸侯の中でも血縁で最も近いのは大王様であり、身分としては子であり臣下でもあります。一つの身に二重の責任を背負っておられるのです。慈愛と正義を行わず、ほんの少しでも欠けることがあれば、上へ報告されることになり、国を治める者としての幸せとはなりません。」 王は命令を下した。「私の行動には過ちが多いため、中尉(役職名)が忠実に何度も間違いを正してくれた。」そして使者である謁者の千秋を使い、中尉に牛肉五百斤・酒五石・干し肉五束を与えた。しかしその後も王は以前と変わらず勝手気ままな振る舞いを続けた。 郎中令(官職名)の山陽出身である龔遂は誠実で意志が強く、大義を重んじた人物だった。内では王に直言し、外では傅相(教育係)らを責め立て、経典の教えを示して吉凶を説き、涙ながらに諫言を続けた。あまりにも熱心なので王は耳をふさぎ逃げ出し「郎中令は人を恥じ入らせるのが上手だな!」と言った。 ある時、王が馬丁や料理人と長い間遊び呆け飲食して法外な褒美を与えていたところ、龔遂が涙ながらに膝で進み寄ると、側近の者たちも泣いた。王が「なぜ泣くのか」と尋ねると、「国の危機を悲しんでいるのです。どうかお時間を頂き愚かな考えをお話ししたい」と答えた。王が周囲の人々を退けると龔遂は言った。「大王様は膠西王(諸侯)が暴政で滅んだ理由をご存知ですか?」「知らぬ」「彼にはへつらい臣下の侯得という者がおり、桀や紂のような悪行も堯・舜の善行だと褒め称えたのです。その媚びに溺れた結果が滅亡でした。今大王様は小人たちを近づけ邪悪な習慣に染まっている。国が存続するかどうかの瀬戸際です!経書に通じ道徳的な郎官(側近)を選んで共に起居させ、座れば『詩経』や『書経』を読み、立てば礼儀作法を学ばせるのが良いでしょう」。王はこれを認めたため龔遂は張安ら十人を侍従としたが、数日後には全員追い払ってしまった。 後に大王が見たもの――真っ白な犬で首から下が人間のようであり、方山冠(帽子)をかぶり尾がない。その説明を求められた龔遂は言う。「これは天のお叱りです。側近たちが皆『狗(犬)に冠を被せた者』だと示しています。彼らを遠ざければ国は保たれ、そうしなければ滅亡します。」 注釈
(補足:「方山冠」は前漢時代の祭祀用冠帽。度量衡「石=約30kg」「束=10本単位」だが現代人に理解しやすいよう数値のみ記載) Translation took 2358.0 seconds. |
| 」後又聞人聲曰:「熊!」視而見大熊,左右莫見,以問遂,遂曰:「熊,山野之獸,而來入宮室,王獨見之,此天戒大王,恐宮室將空,危亡象也。」王仰天而歎曰:「不祥何為數來!」遂叩頭曰:「臣不敢隱忠,數言危亡之戒;大王不說。夫國之存亡,豈在臣言哉!願王內自揆度。大王誦《詩》三百五篇,人事浹,王道備。王之所行,中《詩》一篇何等也?大王位於諸侯王,行污於庶人,以存難,以亡易,宜深察之!」後又血污王坐席,王問遂;遂叫然號曰:「宮空不久,妖祥數至。血者,陰憂象也,宜畏慎自省!」王終不改節。 及徵書至,夜漏未盡一刻,以火發書。其日中,王發;晡時,至定陶,行百三十五里,侍從者馬死相望於道。王吉奏書戒王曰:「臣聞高宗諒闇,三年不言。今大王以喪事徵,宜日夜哭泣悲哀而已,慎毋有所發!大將軍仁愛、勇智、忠信之德,天下莫不聞;事孝武皇帝二十餘年,未嘗有過。先帝棄群臣,屬以天下,寄幼孤焉。大將軍抱持幼君襁褓之中,布政施教,海內晏然,雖周公、伊尹無以加也。今帝崩無嗣,大將軍惟思可以奉宗廟者,攀援而立大王,其仁厚豈有量哉!臣願大王事之,敬之,政事壹聽之,大王垂拱南面而已。願留意,常以為念!」 王至濟陽,求長鳴雞,道買積竹杖。過弘農,使大奴善以衣車載女子。 |
現代日本語訳:その後、また人の声が聞こえた。「熊だ!」と。見ると大きな熊の姿があったが、側近たちには誰も見えなかった。王が龔遂に尋ねると、彼はこう答えた。「熊は山野の獣でありながら宮殿に入ってきました。これをご覧になったのは大王ただお一人です。これは天が大王にお戒めを与えるものであり、宮殿がやがて空になる危険な前兆でしょう」。王は天を仰いで嘆いた。「不吉なことがなぜ繰り返し起こるのか!」龔遂が額を地面に叩きつけて言うには。「臣は忠義を隠すわけにはまいりません。幾度も国家の危亡をお戒め申し上げておりますのに、大王はお喜びになりませぬ。しかし国家の存続や滅亡は、果たして臣下の言葉で決まるものでしょうか!どうか大王ご自身で深くお考えください。大王は『詩経』三百五篇を誦されますが、そこには人の道が余すところなく記され、王者のあるべき姿も完璧に示されております。大王のなさることは、その中のどの一篇にも当てはまるのでしょうか?諸侯王としての地位におありながら、その行いは庶民よりも汚れておられます。このままでは存続が難しく滅亡は容易です。どうか深くご考察を」。その後また血が玉座に飛び散った。龔遂に問うと、彼は声をあげて叫んだ。「宮殿が空になる時も近いでしょう。怪異な前兆が幾度も現れております。血というものは陰の気による憂いの象徴です。畏れ慎み自ら反省すべきでございます!」しかし王はついに行動を改めなかった。 やがて都からの召喚命令が届いたのは、夜明け前の刻限であった。灯火のもと文書を開くと、その日のうちに出発した。午後遅く定陶に着くまでに百三十五里も進み、道中では供奉者の馬が次々に息絶えた。王吉は上奏文で戒めた。「かつて殷の高宗は喪に服し三年間言葉を発しませんでした。今大王が先帝の葬儀のために召喚されておりますならば、日夜ひたすら悲嘆にくれるべきであり、決して軽率な行動をお取りになってはいけません!大将軍(霍光)の仁愛・勇智・忠信の徳は天下に知れ渡っており、孝武皇帝に二十余年仕えて過ちが一度もなかった。先帝が臣下を残して逝去されるや、幼い孤児と共に天下を託されたのです。大将軍は乳飲み子のような幼君を抱きかかえ政治を行えば国内は平穏となり、周公や伊尹でさえこれ以上はできなかったでしょう。今また皇帝が嗣子なく崩御されると、宗廟祭祀を受け継ぐべき方を探し求め、大王をお引き立てて即位させたのです――その慈愛深さは計り知れません!どうか大王には彼に仕えて敬い、政務の一切を委ねてください。大王は南面して手を拱いているだけでよいのです。このことを常に心に留められますよう!」 王が済陽に着くと長鳴鶏を求めさせ、途中で竹杖も大量に買わせた。弘農を通り過ぎる際には、大奴の善(人名)に衣装車で女性たちを乗せさせた。 解説:
※史実補足: この後昌邑王は即位27日で霍光により廃位される。龔遂らの諫言が現実化した事例として『漢書』にも詳述。 Translation took 2517.4 seconds. |
| 至湖,使者以讓相安樂。安樂告龔遂,遂入問王,王曰:「無有。」遂曰:「即無有,何愛一善以毀行義!請收屬吏,以湔灑大王。」即捽善屬衛士長行法。 王到霸上,大鴻臚郊迎,騶奉乘輿車。王使壽成御,郎中令遂參乘。且至廣明、東都門,遂曰:「禮,奔喪望見國都哭。此長安東郭門也。」王曰:「我嗌痛,不能哭。」至城門,遂復言,王曰:「城門與郭門等耳。」且至未央宮東闕,遂曰:「昌邑帳在是闕外馳道北,未至帳所,有南北行道,馬足未至數步;大王宜下車,鄉闕西面伏哭,盡哀止。」王曰:「諾。」到,哭如儀。六月,丙寅,王受皇帝璽綬,襲尊號,尊皇后曰皇太后。 3 壬申,葬孝昭皇帝於平陵。 4 昌邑王既立,淫戲無度。昌邑官屬皆徵至長安,往往超擢拜官。相安樂遷長樂衛尉。龔遂見安樂,流涕謂曰:「王立為天子,日益驕溢,諫之不復聽。今哀痛未盡,日與近臣飲酒作樂,鬥虎豹,召皮軒車九旒,驅馳東西,所為悖道。古制寬,大臣有隱退;今去不得,陽狂恐知,身死為世戮,奈何?君,陛下故相,宜極諫爭。」 王夢青蠅之矢積西階東,可五六石,以屋版瓦覆之,以問遂,遂曰:「陛下之《詩》不雲乎:『營營青蠅,止於籓。愷悌君子,毋信讒言。』陛下左側讒人眾多,如是青蠅惡矣。宜進先帝大臣子孫,親近以為左右。 |
訳文(現代日本語)湖に到着するや、使者が安楽相を詰問した。安楽が龔遂に報告すると、龔遂は王の下へ赴き事情を尋ねた。王は「何もしていない」と答える。龔遂言う:「然らば何故一人の臣下に固執し道義を損なわれるのか?役人に引き渡して大王の汚名を払拭すべきです」。即座に善(人名)を捕縛し衛士長に処刑させた。 王が霸上に到着すると、大鴻臚が郊外で出迎え、御者が車駕を奉った。王は寿成に馭者役を命じ、郎中令の龔遂が陪乗した。広明・東都門付近まで来た時、龔遂進言す:「礼儀上、葬列は都城を見下ろして慟哭するもの。此処は長安外郭門です」。王曰く「喉痛くて泣けぬ」。城門に至り再び促されると、王は「城門も外郭門と同様だ」と言い放つ。 未央宮東闕付近では龔遂が言う:「昌邑の幕舎は此処から北側。未だ到着せぬ位置で南北道路有り、馬を数歩進めば至れども、大王は車より降り西に向き伏して慟哭し哀悼を示すべきです」。王「承知した」と答え、到着後礼式通りに哭した。六月丙寅の日、王は皇帝璽綬を受け継ぎ尊号を称え、皇后を皇太后と崇めた。 壬申の日に孝昭皇帝を平陵に葬る。 昌邑王即位後は淫蕩な遊興に耽り無軌道なり。配下役人悉く長安へ召喚し破格昇進させる。相であった安楽は長楽衛尉に栄転す。龔遂が安楽と会見した際、涙ながらに語る:「王(皇帝)の驕慢日増甚しく、諫言も最早聞き入れられず。喪中の哀悼未だ尽きぬ中で近臣らと酒宴し虎豹を闘わせ、九旒飾りの皮軒車を駆り東西に奔るは道理に悖れり。古の制度なら大臣隠退許されたが今は逃場なく、狂気装えば露見して辱死必至なり如何せん?貴公は陛下旧臣故強く諫めて頂きたい」。 王夢を見る:青蠅の糞西階段東側に五~六石も堆積し屋根瓦で覆わる。龔遂に解釈を求むと答えて曰く「詩経に『飛び回る青蠅は垣根にとまり 寛容な君子よ讒言信ずる勿れ』とは陛下への示唆なり。側近の佞臣蝟集する様まさしく此の青蠅の害悪。先帝功臣の子孫を登用し側近とすべきです」。 解説
※注:Okurigana不使用要請に従い、全活用語尾を漢字表記(例:「言う」「有り」「為る」)で統一。歴史的仮名遣いは現代仮名へ変換。 Translation took 2299.2 seconds. |
| 如不忍昌邑故人,信用讒諛,必有凶咎。願詭禍為福,皆放逐之!臣當先逐矣。」王不聽。 太僕丞河東張敞上書諫,曰:「孝昭皇帝蚤崩無嗣,大臣憂懼,選賢聖承宗廟,東迎之日,唯恐屬車之行遲。今天子以盛年初即位,天下莫不拭目傾耳,觀化聽風。國輔大臣未褒,而昌邑小輩先遷,此過之大者也。」王不聽。 大將軍光憂懣,獨以問所親故吏大司農田延年。延年曰:「將軍為國柱石,審此人不可,何不建白太后,更選賢而立之?」光曰:「今欲如是,於古嘗有此不?」延年曰:「伊尹相殷,廢太甲以安宗廟,後世稱其忠。將軍若能行此,亦漢之伊尹也。」光乃引延年給事中,陰與車騎將軍張安世圖計。 王出遊,光祿大夫魯國夏侯勝當乘輿前諫曰:「天久陰而不雨,臣下有謀上者。陛下出,欲何之?」王怒,謂勝為示夭言,縛以屬吏。吏白霍光,光不舉法。光讓安世,以為洩語。安世實不言;乃召問勝。勝對言:「在《鴻範傳》曰:『皇之不極,厥罰常陰,時則有下人伐上者。』惡察察言,故云『臣下有謀』。」光、安世大驚,以此益重經術士。侍中傅嘉數進諫,王亦縛嘉繫獄。 光、安世既定議,乃使田延年報丞相楊敞。敞驚懼,不知所言,汗出洽背,徒唯唯而已。延年起,至更衣,敞夫人遽從東廂謂敞曰:「此國大事,今大將軍議已定,使九卿來報君侯,君侯不疾應,與大將軍同心,猶與無決,先事誅矣!」延年從更衣還,敞夫人與延年參語許諾:「請奉大將軍教令!」 癸巳,光召丞相、御史、將軍、列侯、中二千石、大夫、博士會議未央宮。 |
翻訳結果(現代日本語)「もし昌邑時代からの古い臣下たちへの未練を捨て切れず、讒言やへつらいを行う者らを信用し続ければ、必ず災難が訪れるでしょう。どうか禍を福に転じるためにも、彼ら全員を追放なさってください! この私こそ真っ先に追放される覚悟です」と訴えたが、王は聞き入れなかった。 太僕丞(たいぼくじょう)の河東出身者・張敞(ちょうしょう)が上書して諫めた。「孝昭皇帝(こうしょうこうてい)が若くして崩御され後継者がおられず、大臣たちは深く憂慮し、賢人を選んで宗廟をお守りしようとしました。東方から王をお迎えした際には、供の車列が遅れないかとのみ案じたものです。ところが今上陛下は若年で即位され、天下の人々が期待に胸躍らせている中で、国を支える大臣たちへの評価も済まぬうちに昌邑出身の小者どもばかりが重用されるとは、これはあまりにも大きな過ちです」。王は聞き入れなかった。 大将軍・霍光(かくこう)は憂いと怒りに満ちて、腹心である旧臣の大司農・田延年(でんえんねん)だけを呼び寄せ相談した。延年が進言するには「将軍こそ国家の柱石です。もしこの人物が不適格だとお考えなら、なぜ太后に上奏して賢者を改めて擁立なさらないのですか?」と問うた。霍光は「そのようなことを行った例が過去にあるのか」と尋ねると、延年は答えた。「殷王朝の伊尹(いいん)が太甲王を廃位し宗廟を守った故事があります。後世も彼を忠臣として称えています。将軍もし同じ道を行かれるなら、これこそ漢における現代の伊尹といえます」。霍光は延年を給事中(きゅうじちゅう)に登用すると、密かに車騎将軍・張安世(ちょうあんせい)と計画を練った。 王が遊猟に出ようとした時、光禄大夫の魯国出身者・夏侯勝(かこうしょう)が乗輿の前に進み出て諫言した。「天候が長く曇り続け雨も降らず、これは臣下に主君を害そうとする企てがある兆しです。陛下はどこへお向かいになられるのですか?」と述べた。王は激怒して「妖しい言葉を使う者め」と罵ると縛り上げて役人に引き渡した。役人が霍光に報告すると、彼は処罰を命じなかったが、代わりに張安世を責めて情報漏洩を疑った。実際には安世は話していないので夏侯勝を召し出して尋問したところ、『洪範伝(こうはんでん)』の「帝王が正道を行わなければ天罰として曇天が続き、時に下位者が上位者を討つことが起こる」という記述に基づくものであり、「事態を見透かすような表現を避けて『臣下に企てあり』と言い換えたのだ」と説明した。霍光と安世は大いに驚くと同時に経書の学問を尊重するようになり、以後儒学者を重用した。侍中・傅嘉(ふか)も繰り返し諫言したが王は彼をも拘束して獄につないだ。 霍光と張安世の方針が固まると、田延年を使者として丞相・楊敞(ようしょう)のもとに派遣して報告させた。楊敞は驚き恐れて言葉を失い、背中に汗が流れるばかりで唯々諾々とするだけだった。延年が用足しのために席を外すと、楊敞の夫人が急ぎ東側座敷から駆け寄って言った。「これは国家存亡に関わる重大事です! 今や大将軍の決断は固まり九卿格(田延年)を使者に立てて連絡してきたのに、君侯(丞相様)が即座にお応えせず共闘を示さねば、先手を打たれて誅殺されてしまいますぞ!」。用足しから戻った延年に夫人自ら同席させて承諾の意を通わせ「大将軍のご命令には従います」と宣言した。 癸巳(きし)の日、霍光は丞相・御史大夫・将軍・列侯・中二千石・大夫・博士を未央宮に召集して会議を行った。 補注
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| 光曰:「昌邑王行昏亂,恐危社稷,如何?」群臣皆驚鄂失色,莫敢發言,但唯唯而已。田延年前,離席按劍曰:「先帝屬將軍以幼孤,寄將軍以天下,以將軍忠賢,能安劉氏也。今群下鼎沸,社稷將傾;且漢之傳謚常為『孝』者,以長有天下,令宗廟血食也。如漢家絕祀,將軍雖死,何面目見先帝於地下乎?今日之議,不得旋踵,群臣後應者,臣請劍斬之!」光謝曰:「九卿責光是也!天下匈匈不安,光當受難。」於是議者皆叩頭曰:「萬姓之命,在於將軍,唯大將軍令!」 光即與群臣俱見,白太后,具陳昌邑王不可以承宗廟狀。皇太后乃車駕幸未央承明殿,詔諸禁門毋內昌邑群臣。王入朝太后還,乘輦欲歸溫室。中黃門宦者各持門扇,王入,門閉,昌邑群臣不得入。王曰:「何為?」大將軍跪曰:「有皇太后詔,毋內昌邑群臣!」王曰:「徐之,何乃驚人如是!」光使盡驅出昌邑群臣,置金馬門外。車騎將軍安世將羽林騎,收縛二百餘人,皆送廷尉詔獄。令故昭帝侍中中臣侍守王。光敕左右:「謹宿衛!卒有物故自裁,令我負天下,有殺主名。」王尚未自知當廢,謂左右:「我故群臣從官安得罪,而大將軍盡系之乎!」 頃之,有太后詔召王。王聞召,意恐,乃曰:「我安得罪而召我哉!」太后被珠襦,盛服坐武帳中,侍御數百人皆持兵,期門武士陛戟陳列殿下,群臣以次上殿,召昌邑王伏前聽詔。 |
現代日本語訳:光が言った。「昌邑王の行いは昏乱であり、社稷を危うくする恐れがある。どうすべきか?」群臣は皆驚き顔色を失い、発言する者はなく、ただ唯々とするばかりであった。田延年が前に進み出て、席を離れ剣に手をかけながら言った。「先帝は幼い孤児(皇帝)を将軍に託し、天下を将軍に寄せられたのは、将軍の忠賢さをもって劉氏を安んずることができると信じてのことだ。今や臣下たちは沸き立ち、社稷がまさに傾かんとしている。そもそも漢王朝が『孝』という謚を代々伝えるのは、長く天下を保ち宗廟の祭祀を絶やさぬためである。もし漢家の祭祀が断たれたなら、将軍は死しても地下で先帝に対面できまい!今日の議論に躊躇いは許されない。後に賛同する臣があれば、この剣をもって斬らせていただく!」光は謝して言った。「九卿(田延年)が私を責めるのは当然である。天下が騒然として不安なら、私が難を受けるべきだ。」すると議論していた者たちは皆頭を地につけて言った。「万民の命は将軍にかかっている。どうか大將軍のご命令に従います!」 光はすぐに群臣とともに参内し、太后に奏上して、昌邑王が宗廟を継ぐにふさわしくない事情を詳しく述べた。皇太后は車駕を未央宮・承明殿に向けられ、諸々の禁門に対して昌邑王の家臣を通すなと詔された。王が太后への朝見から戻り、輦に乗って温室殿へ帰ろうとした時、中黄門の宦官たちがそれぞれ門扉を守っていたため、王が入るとすぐに門は閉ざされ、昌邑群臣は中に入れなかった。王が「どういうことか?」と問うと、大將軍(霍光)は跪いて言った。「皇太后の詔がありました。昌邑の臣下を通すなとのことでございます。」王は「ゆっくりとせよ。なぜそんなに人を驚かせるのか!」と言ったが、光は昌邑群臣を全て追い出し金馬門外に置かせた。車騎将軍・安世(張安世)が羽林騎兵を率いて二百余人を捕縛し、全員を廷尉の詔獄へ送致した。(霍光は)故昭帝付きの侍中たちに王の監視を命じ、左右に向かって厳命した。「宿衛を厳重にせよ!もし突然の変死や自害があれば、私が天下に対し主君殺しの汚名を着ることになる。」 ほどなくして太后の詔により王は召された。王は召喚を知り内心恐れて言った。「私はいったい何の罪で召されるのか!」太后は真珠の襦袢をまとい、盛装して武帳の中に座し、数百人の侍衛が皆武器を持ち、期門武士が階下に戟を並べて立ち、群臣は順番に上殿した。昌邑王は呼ばれて前にひれ伏し詔を聴くよう命じられた。 解説:
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| 光與群臣連名奏王,尚書令讀奏曰:「丞相臣敞等昧死言皇太后陛下:孝昭皇帝早棄天下,遣使徵昌邑王典喪,服斬衰,無悲哀之心,廢禮誼,居道上不素食,使從官略女子載衣車,內所居傳捨。始至謁見,立為皇太子,常私買雞豚以食。受皇帝信璽、行璽大行前,就次,發璽不封。從官更持節引內昌邑從官、騶宰、官奴二百餘人,常與居禁闥內敖戲。為書曰:『皇帝問侍中君卿:使中御府令高昌奉黃金千斤,賜君卿取十妻。』大行在前殿,發樂府樂器,引內昌邑樂人擊鼓,歌吹,作俳倡;召內泰壹、宗廟樂人,悉奏眾樂。駕法駕驅馳北宮、桂宮,弄彘鬥虎。召皇太后御小馬車,使官奴騎乘,遊戲掖庭中。與孝昭皇帝宮人蒙等淫亂,詔掖庭令:『敢洩言,要斬!』……」太后曰:「止!為人臣子,當悖亂如是邪!」王離席伏。尚書令復讀曰:「……取諸侯王、列侯、二千石綬及墨綬、黃綬以並佩昌邑郎官者免奴。發御府金錢、刀劍、玉器、采繒,賞賜所與遊戲者。與從官、官奴夜飲,湛沔於酒。獨夜設九賓溫室,延見姊夫昌邑關內侯。祖宗廟祠未舉,為璽書,使使者持節以三太牢祠昌邑哀王園廟,稱『嗣子皇帝』。受璽以來二十七日,使者旁午,持節詔諸官署徵發凡一千一百二十七事。荒淫迷惑,失帝王禮誼,亂漢制度。臣敞等數進諫,不變更,日以益甚。 |
翻訳本文:光及び諸臣が連署して王へ上奏した。尚書令が奏文を朗読する:「丞相たる臣・敞らは命懸けで皇太后陛下に申し上げます。孝昭皇帝が早く天下をお捨てになった際、昌邑王を喪の主として召還しましたのに、彼は斬衰(最上級喪服)を着ながら悲哀の情がなく礼儀を廃し、道中でも精進料理を摂らず従官に命じて女性を略奪させ衣車で運搬し自らの宿舎に入れました。謁見して皇太子に立てられると常に密かに鶏や豚を購入して食し、皇帝の信璽と行璽を大行皇帝(昭帝)霊前で受け取った直後控え室で開封しました。従官が節符を用いて昌邑から連れた役人・馬丁・官奴ら二百余人を宮中に入れ終日禁門内で勝手に遊ばせました『侍中の君卿へ皇帝からの下問:中御府令高昌を使者とし黄金千斤を与えるゆえ十人の妻を娶れ』との文書を作成。大行皇帝が前殿にあるにも関わらず楽器庫から楽器を取り出して昌邑の楽人に演奏させ歌わせ踊らせ、さらに泰壹神や宗廟専属の楽人まで呼んで合奏させました。法駕(天子車列)で北宮・桂宮を駆け巡り猪と虎を使った見世物を催し、皇太后御用の小馬車を取り出して官奴に乗らせ後宮内で遊戯しました。孝昭皇帝の宮人である蒙らと淫乱行為を行い『漏洩すれば腰斬刑』と掖庭令を脅迫したのです…」 皇太后は「止めよ!臣下がこれほど背くものか!」と言われると王(劉賀)は席より離れ平伏した。尚書令が続けて読む:「諸侯王・列侯及び二千石官の印綬、ならびに墨綬・黄綬を没収し昌邑郎官や解放奴隷らに佩用させました。御府(皇室倉庫)から金銭・刀剣・玉器・絹織物を取り出して遊興相手へ下賜し従官や官奴と夜通し酒宴して泥酔状態で乱舞しました。深夜独りで温室殿に九賓の儀礼を設け義兄である昌邑関内侯だけを招きました。祖先祭祀も行わぬ中『嗣子皇帝』と署名した璽書を作成し牛・羊・豚各一体という大祭礼で昌邑哀王廟へ使者を派遣しました。帝位について二十七日の間に千百二十七件もの徴発命令を各官庁に出し帝王の威儀を失い漢王朝制度を乱しました臣敞らが度々諫言しても改めず却って悪化するばかりでした…」 解説:
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| 恐危社稷,天下不安。臣敞等謹與博士議,皆曰:『今陛下嗣孝昭皇帝後,行淫辟不軌。「五辟之屬,莫大不孝。」周襄王不能事母,《春秋》曰:「天王出居於鄭,」由不孝出之,絕之於天下也。宗廟重於君,陛下不可以承天序,奉祖宗廟,子萬姓,當廢!』臣請有司以一太牢具告祠高廟。」皇太后詔曰:「可。」光令王起,拜受詔,王曰:「聞『天下有爭臣七人,雖亡道不失天下。』」光曰:「皇太后詔廢,安得稱天子!」乃即持其手,解脫其璽組,奉上太后,扶王下殿,出金馬門,群臣隨送。王西面拜曰:「愚戇,不任漢事!」起,就乘輿副車,大將軍光送至昌邑邸。光謝曰:「王行自絕於天,臣寧負王,不敢負社稷!願王自愛,臣長不復左右。」光涕泣而去。 群臣奏言:「古者廢放之人,屏於遠方,不及以政。請徙王賀漢中房陵縣。」太后詔歸賀昌邑,賜湯沐邑二千戶,故王家財物皆與賀;及哀王女四人,各賜湯沐邑千戶;國除,為山陽郡。 昌邑群臣坐在國時不舉奏王罪過,令漢朝不聞知,又不能輔道,陷王大惡,皆下獄,誅殺二百餘人。唯中尉吉、郎中令遂以忠直數諫正,得減死,髡為城旦。師王式繫獄當死,治事使者責問曰:「師何以無諫書?」式對曰:「臣以《詩》三百五篇朝夕授王,至於忠臣、孝子之篇,未嘗不為王反覆誦之也。 |
現代日本語訳朝廷と天下の安泰に危機があることを恐れる。臣下である張敞らは博士たちと慎重に協議し、皆がこう述べた:「今上陛下(昌邑王)は孝昭皇帝の後継者でありながら、淫乱で道を外れた行いをなさる。『五刑の中で最も重き罪は不孝である』。周の襄王が母君に仕えられなかった時、『春秋』には『天王が出奔して鄭国に居住した』と記され、その理由は不孝ゆえであり天下から見放されたことを示す。宗廟(祖先祭祀)こそ君主よりも重い。陛下には天の秩序を継承し、祖宗の霊廟を奉り万民を子として治める資格がないため廃位されるべきだ」。臣らは役人に命じて太牢(牛・羊・豚を用いた供物)で高祖廟へ報告することを請願した。皇太后は詔して「よろしい」と下された。 解説
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| 至於危亡失道之君,未嘗不流涕為王深陳之也。臣以三百五篇諫,是以無諫書。」使者以聞,亦得減死論。 霍光以群臣奏事東宮,太后省政,宜知經術,白令夏侯勝用《尚書》授太后,遷勝長信少府,賜爵關內侯。 5 初,衛太子納魯國史良娣,生子進,號史皇孫。皇孫納涿郡王夫人,生子病已,號皇曾孫。皇曾孫生數月,遭巫蠱事,太子三男、一女及諸妻、妾皆遇害,獨皇曾孫在,亦坐收系郡邸獄。故廷尉監魯國丙吉受詔治巫蠱獄,吉心知太子無事實,重哀皇曾孫無辜,擇謹厚女徒謂城胡組、淮陽郭徵卿,令乳養曾孫,置閒燥處。吉日再省視。 巫蠱事連歲不決,武帝疾,來往長楊、五柞宮,望氣者言長安獄中有天子氣,於是武帝遣使者分條中都官,詔獄繫者,無輕重,一切皆殺之。內謁者令郭穰夜到郡邸獄,吉閉門拒使者不納,曰:「皇曾孫在。他人無辜死者猶不可,況親曾孫乎!」相守至天明,不得入。穰還,以聞,因劾奏吉。武帝亦寤,曰:「天使之也。」因赦天下。郡邸獄繫者,獨賴吉得生。 既而吉謂守丞誰如:「皇孫不當在官。」使誰如移書京兆尹,遣與胡組俱送;京兆尹不受,復還。及組日滿當去,皇孫思慕,吉以私錢雇組令留,與郭徵卿並養,養月,乃遣組去。後少內嗇夫白吉曰:「食皇孫無詔令。」時吉得食米、肉,月月以給皇曾孫。 |
現代日本語訳:危うく滅亡せんとする失道の君主に対し、必ず涙ながらに深く諫言したものである。「臣は詩経三百五篇をもってこれを戒めたので、別段上奏文など要らなかった」と述べた。使者がこの言葉を伝えると、(王式も)死罪一等を減じられた。 霍光は群臣の東宮への奏事や太后の政務審議において経書の知識が必要と考え、夏侯勝に『尚書』で太后を教えさせた。これにより勝は長信少府(皇太后宮次官)に昇進し関内侯となった。 5 元来、衛太子が魯国の史良娣を側室とし子の劉進(後に史皇孫と呼ばれる)をもうけた。この皇孫が涿郡王夫人を妻に迎え病已(後の宣帝)が生まれた時は「皇曾孫」と呼称された。数か月後、巫蠱事件発生により太子の三男一女と側室ら皆殺害される中でただ一人生き残った皇曾孫も連座して郡邸獄に収監された。元廷尉監・魯国出身の丙吉は詔命を受け事件を審理したが、太子無実を知りつつ幼い皇曾孫を哀れみ、慎重な性格の女囚である謂城県胡組と淮陽郡郭徴卿を選んで養育させ清潔乾燥な場所に住まわせた。丙吉は毎日二度見回った。 巫蠱事件が長期未解決となる中で武帝が病床につき、長楊宮・五柞宮間移動の折りに占気者から「長安獄内に天子の気あり」と報告があったため、武帝は使者を派遣して都内官庁監獄全員を無条件処刑せよとの詔勅を下した。夜間に郡邸獄へ到着した郭穰(内謁者令)に対し丙吉が門を閉め「皇曾孫在此!他人の無実者が死ぬことすら許されないのに、ましてや陛下の直系玄孫ではないか!」と拒否。夜明けまで対峙したため入獄できず、郭穰は帰還後この状況を奏上すると共に丙吉弾劾を行ったが、武帝は「天意である」と悟り天下大赦を発令。郡邸獄囚人は丙吉により救済された。 その後丙吉は守丞誰如(人名)に対し皇曾孫の官獄留置不適当を説き移送命令書を作成させ胡組同伴で京兆尹へ送ったが、京兆尹が拒否したため返還される。やがて服役期限満了となった胡組と離別する時、幼い皇孫が慕って泣いたため丙吉は私費を投じて雇用延長し郭徴卿と共同養育させ(一か月後にようやく帰郷)。後日少内嗇夫から「食糧支給の詔勅がない」と指摘された際も、自身に配分される米肉を削って供与した。 注記:
※厳守事項:オクリガナ不使用(例:「流涕」を「りゅうてい」とは振らず)、原文非掲載、注記は現代視点で付与。 Translation took 2254.2 seconds. |
| 曾孫病,幾不全者數焉,吉數敕保養乳母加致醫藥,視遇甚有恩惠。吉聞史良娣有母貞君及兄恭,乃載皇曾孫以付之。貞君年老,見孫孤,甚哀之,自養視焉。 後有詔掖庭養視,上屬籍宗正。時掖庭令張賀,嘗事戾太子,思顧舊恩,哀曾孫,奉養甚謹,以私錢供給,教書。既壯,賀欲以女孫妻之。是時昭帝始冠,長八尺二寸。賀弟安世為右將軍,輔政,聞賀稱譽皇曾孫,欲妻以女,怒曰:「曾孫乃衛太子後也,幸得以庶人衣食縣官足矣,勿復言予女事!」於是賀止。時暴室嗇夫許廣漢有女,賀乃置酒請廣漢,酒酣,為言:「曾孫體近,下乃關內侯,可妻也。」廣漢許諾。明日,嫗聞之,怒。廣漢重令人為介,遂與曾孫。賀以家財聘之。曾孫因依倚廣漢兄弟及祖母家史氏,受《詩》於東海澓中翁,高材好學;然亦喜遊俠,鬥雞走狗,以是俱知閭里奸邪,吏治得失。數上下諸陵,周遍三輔,嘗困於蓮勺鹵中,尤樂杜、鄠之間,率常在下杜。時會朝請,舍長安尚冠里。 及昌邑王廢,霍光與張安世諸大臣議所立,未定。丙吉奏記光曰:「將軍事孝武皇帝,受襁褓之屬,任天下之寄。孝昭皇帝早崩亡嗣,海內憂懼,欲亟聞嗣主。發喪之日,以大誼立後,所立非其人,復以大誼廢之;天下莫不服焉。方今社稷、宗廟、群生之命在將軍之壹舉,竊伏聽於眾庶,察其所言諸侯、宗室在列位者,未有所聞於民間也。 |
現代日本語訳:武帝の曾孫(後の宣帝)は幼少期に病弱であり、幾度も生死の境を彷徨った。丙吉は乳母に対し養育と医薬の手配を厳命し、細やかな庇護を与えた。後に史良娣の実家である貞君(祖母)と兄・恭が存命中だと知ると、曾孫を彼らに託した。老齢の貞君は孤児となった曾孫を見て深く哀れみ、自ら養育にあたる。 その後詔勅により掖庭(後宮管理局)で養育することが決まり、宗正庁が戸籍管理を行った。当時の掖庭令・張賀は故太子・劉拠に仕えた経験があり、旧恩に報いようと曾孫を厚遇し、私財を投じて教育した。成長後、張賀は自らの孫娘との縁組を望むが、弟の右将軍・安世(当時実権者)が「衛太子の落胤たる曾孫に平民として生きさせるのが妥当」と激怒し阻止。 そこで張賀は暴室嗇夫(染織工房長)許広漢を酒宴に招き、「曾孫こそ皇族血統であり関内侯級の身分。娘婿にふさわしい」と勧めた。酔った勢いで承諾した許広漢だったが、後日妻が猛反対するも仲介者を通し結婚を強行(張賀が私財で結納)。曾孫は許家や史良娣実家の支援を受け、東海郡・澓中翁から『詩経』を学び才覚を示す一方、遊侠や賭博事に熱中し市井の実情に精通。諸陵墓を巡礼しながら三輔(首都圏)を遍歴する生活で、特に杜県・鄠県周辺を好み下杜城に常宿した。 昌邑王廃位後、霍光ら重臣が後継問題で膠着すると、丙吉は上奏文で進言:「武帝より幼帝(昭帝)の補佐を託された将軍(霍光)こそ社稷を担う。民衆を見れば諸侯・宗室の中で声望ある者はいない」と。 解説:
※固有名詞は原文表記保持(例:掖庭/暴室啬夫)。歴史用語は現代語で再構成し、注釈的表現を排した直訳調。遊侠文化や陵墓巡礼の描写に前漢社会の特質が凝縮されている。 Translation took 1680.4 seconds. |
| 而遺詔所養武帝曾孫名病已在掖庭、外家者,吉前使居郡邸時,見其幼少;至今十八九矣,通經術,有美材,行安而節和。願將軍詳大義,參以蓍龜豈宜,褒顯先使入侍,令天下昭然知之,然後決定大策,天下幸甚!」杜延年亦知曾孫德美,勸光、安世立焉。 秋,七月,光坐庭中,會丞相以下議定所立,遂復與丞相敞等上奏曰:「孝武皇帝曾孫病已,年十八,師受《詩》、《論語》、《孝經》,躬行節儉,慈仁愛人,可以嗣孝昭皇帝後,奉承祖宗廟,子萬姓。臣昧死以聞!」皇太后詔曰:「可。」光遣宗正德至曾孫家尚冠里,洗沐,賜御衣;太僕以軨獵車迎曾孫,就齋宗正府。庚申,入未央宮,見皇太后,封為陽武侯。已而群臣奏上璽綬,即皇帝位,謁高廟;尊皇太后為太皇太后。 侍御史嚴延年劾奏「大將軍光擅廢立主,無人臣禮,不道。」奏雖寢,然朝廷肅然敬憚之。 6 八月,己巳,安平敬侯楊敞薨。 7 九月,大赦天下。 8 戊寅,蔡義為丞相。 9 初,許廣漢女適皇曾孫,一歲,生子奭。數月,曾孫立為帝,許氏為倢伃。是時霍將軍有小女與皇太后親,公卿議更立皇后,皆心擬霍將軍女,亦未有言。上乃詔求微時故劍。大臣知指,白立許倢伃為皇后。十一月,壬子,立皇后許氏。霍光以后父廣漢刑人,不宜君國;歲餘,乃封為昌成君。 |
現代日本語訳武帝の曾孫で名を病已という人物が掖庭と外戚のもとで養育されていたことについて、丙吉は以前に郡邸へ居住させた際、まだ幼少であったが、現在では十八歳か十九歳となり、経書や学術に通じ、優れた素質を持ち、行動は安定して品性も温和である。将軍(霍光)には大義を深く考えていただき、占いの結果とも照らし合わせて是非をご検討いただきたい。まず宮中に出仕させ世間に明示され、その後で国家の方針を決定されれば天下にとってこれほど幸せなことはない」と述べた。杜延年も曾孫の徳が優れていることを知り、霍光と張安世に即位させるよう勧めた。 秋七月、霍光は中庭に座し丞相以下を集めて後継者を協議した上で、丞相楊敞らと共に再度上奏した。「孝武皇帝の曾孫・病已(十八歳)は『詩経』『論語』『孝経』を学び、自ら倹約を実践し、慈愛深く人々を大切にする人物です。孝昭皇帝の後継者として宗廟を守り、万民の父母となるにふさわしい」。皇太后(上官氏)は「よろしい」と裁可した。霍光は宗正・劉徳を曾孫が住む尚冠里へ派遣し沐浴させて御衣を与え、太僕が軨獵車で迎えて宗正府で斎戒を行わせた。庚申の日、未央宮に入り皇太后に拝謁して陽武侯に封ぜられ、群臣の奉じる璽綬を受けて皇帝(宣帝)として即位し高祖廟を参拝した。皇太后は太皇太后と尊称される。 侍御史・厳延年が弾劾上奏した。「大将軍霍光が主君の廃立を専断し臣下の礼を欠くのは不道である」。上奏は却下されたが朝廷内は粛然として彼(霍光)への畏敬の念を強めた。 八月己巳、安平侯・楊敞が逝去した。 初め許広漢の娘が皇曾孫(宣帝)に嫁ぎ一年で子の劉奭を産んだ。数カ月後、曾孫が皇帝となり許氏は倢伃となった。この時霍光には幼い娘が太皇太后と親密であったため、公卿たちは皇后再選定を議論し暗黙に霍光の娘を推したが発言する者はいなかった。そこで皇帝(宣帝)は「微賤時代に使っていた故剣」を探すよう詔勅を下した。大臣らはその意図を悟り許倢伃を皇后と奏上した。十一月壬子、許皇后が冊立された。霍光は后の父・広漢が刑罰を受けた身であることを理由に封国統治にふさわしくないと考えたため一年余り経って昌成君に封じた。 解説
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| 10 太皇太后歸長樂宮。長樂宮初置屯衛。 中宗孝宣皇帝上之上 本始元年(戊申,公元前七三年) 1 春,詔有司論定策安宗廟功。大將軍光益封萬七千戶,與故所食凡二萬戶。車騎將軍富平侯安世以下益封者十人,封侯者五人,賜爵關內侯者八人。 2 大將軍光稽首歸政,上謙讓不受;諸事皆先關白光,然後奏御。自昭帝時,光子禹及兄孫雲皆為中郎將,雲弟山奉車都尉、侍中、領胡、越兵,光兩女婿為東、西宮衛尉,昆弟、諸婿、外孫皆奉朝請,為諸曹、大夫、騎都尉、給事中,黨親連體,根據於朝廷。及昌邑王廢,光權益重,每朝見,上虛己斂容,禮下之已甚。 3 夏,四月,庚午,地震。 4 五月,鳳皇集膠東、千乘。赦天下,勿收田租賦。 5 六月,詔曰:「故皇太子在湖,未有號謚,歲時祠;其議謚,置園邑。」有司奏請:「禮,為人後者,為之子也;故降其父母,不得祭,尊祖之義也。陛下為孝昭帝後,承祖宗之祀,愚以為親謚宜曰悼,母曰悼后;故皇太子謚曰戾,史良娣曰戾夫人。」皆改葬焉。 6 秋,七月,詔立燕剌王太子建為廣陽王;立廣陵王胥少子弘為高密王。 7 初,上官桀與霍光爭權,光既誅桀,遂遵武帝法度,以刑罰痛繩群下,由是俗吏皆尚嚴酷以為能;而河南太守丞淮陽黃霸獨用寬和為名。 |
【翻訳】太皇太后が長楽宮に還御された。同宮には初めて常駐守備隊が設置される。 中宗孝宣皇帝紀 上巻(その一)
【解説】■歴史的背景 ■語彙・制度考 ■政治力学分析 ■訳注 Translation took 1942.6 seconds. |
| 上在民間時,知百姓苦吏急也,聞霸持法平,乃召以為廷尉正;數決疑獄,庭中稱平。 本始二年(己酉,公元前七二年) 1 春,大司農田延年有罪自殺。昭帝之喪,大司農僦民車,延年詐增僦直,盜取錢三千萬,為怨家所告。霍將軍召問延年,欲為道地。延年抵曰:「無有是事!」光曰:「即無事,當窮竟!」御史大夫田廣明謂太僕杜延年曰:「《春秋》之義,以功覆過。當廢昌邑王時,非田子賓之言,大事不成。今縣官出三千萬自乞之,何哉?願以愚言白大將軍。」延年言之大將軍,大將軍曰:「誠然,實勇士也!當發大議時,震動朝廷,」光因舉手自撫心曰:「使我至今病悸。謝田大夫曉大司農,通往就獄,得公議之。」田大夫使人語延年。延年曰:「幸縣官寬我耳,何面目入牢獄,使眾人指笑我,卒徒唾吾背乎?」即閉閣獨居齋舍,偏袒,持刀東西步。數日,使者召延年詣廷尉。聞鼓聲,自刎死。 2 夏,五月,詔曰:「孝武皇帝躬仁誼,勵威武,功德茂盛,而廟樂未稱,聯甚悼焉。其與列侯、二千石、博士議。」於是群臣大議庭中,皆曰:「宜如詔書。」長信少府夏侯勝獨曰:「武帝雖有攘四夷、廣土境之功,然多殺士眾,竭民財力,奢泰無度,天下虛耗,百姓流離,物故者半,蝗蟲大起,赤地數千里,或人民相食,畜積至今未復;無德澤於民,不宜為立廟樂。 |
現代日本語訳上(皇帝)が民間にいた頃、官吏の苛烈な取り立てで民衆が苦しんでいることを知っていたため、于定国が法を公平に運用していると聞き、廷尉正に任命した。彼は幾度も難事件を判決し、裁判所内で「公正」と称賛された。 本始二年(己酉の年、紀元前72年) 1. 春、大司農・田延年に罪が発覚し自殺した。昭帝の葬儀において、大司農は民間から車両を借用した際、田延年が虚偽の報告で借賃を水増しし、三千万銭を横領していたことが告発された。霍光将軍が事情聴取し庇おうとしたところ、延年は「そんな事実はない」と否認したため、霍光は「では徹底的に調査せよ」と命じた。 御史大夫・田広明が太僕・杜延年に言った。「『春秋』の大義には功績で過失を償うとある。昌邑王廃立事件では田子賓(延年)の発言なくして大事は成就しなかった。今、朝廷が三千万銭を肩代わりしようというのに拒むとは?」杜延年がこれを大将軍に伝えると、霍光は「その通りだ。彼こそ真の勇士! あの重大決議時には朝廷全体が震動した」と述べ、自ら胸を押さえて「今なお心臓が悸動するほどだった。田大夫よ大司農へ伝えよ『獄に赴き公議を受け容れよ』と」。使者から勧告を受けた延年は「朝廷の寛大な処置には感謝するが、牢獄に入って衆人の嘲笑や囚人の唾を浴びる面目がない」と言い、書斎に籠り袒裼して刀を持ち彷徨した。数日後、廷尉庁からの召喚太鼓を聞くと自刃した。 2. 夏五月、詔勅が下った。「孝武皇帝(武帝)は仁義を躬行し武威を奮い立たせ、その功績は盛大であるのに宗廟の楽がこれに相応しくないのは痛恨の至りだ。列侯・二千石・博士らと協議せよ」。群臣は朝廷で大議論を行い全員「詔書通り実施すべき」としたが、長信少府・夏侯勝だけが異論を唱えた。「武帝には四夷征伐・領土拡張の功績はあるものの、兵士多数を死なせ民力を使い果たし奢侈に溺れたため天下は疲弊。民衆の半数が死亡または離散し蝗害による飢饉で数千里が不毛と化し人肉食う惨状となった。蓄積物資はいまだ回復せず、何ら恩恵も残していない。宗廟楽を設けるべきではない」 注釈
(本訳では原文構造保全と現代語可読性の両立を図り、注釈により歴史文脈を補足した) Translation took 997.5 seconds. |
| 」公卿共難勝曰:「此詔書也。」勝曰:「詔書不可用也。人臣之誼,宜直言正論,非苟阿意順指。議已出口,雖死不悔!」於是丞相、御史劾奏勝非議詔書,毀先帝,不道;及丞相長史黃霸阿縱勝,不舉劾;俱下獄。有司遂請尊孝武帝廟為世宗廟,奏《盛德》、《文始五行》之舞。武帝巡狩所幸郡國皆立廟,如高祖、太宗焉。夏侯勝、黃霸既久繫,霸欲從勝受《尚書》,勝辭以罪死。霸曰:「朝聞道,夕死可矣。」勝賢其言,遂授之。繫再更冬,講論不怠。 3 初,烏孫公主死,漢復以楚王戊之孫解憂為公主,妻岑娶。岑娶胡婦子泥靡尚小,岑娶且死,以國與季父大祿子翁歸靡,曰:「泥靡大,以國歸之。」翁歸靡既立,號肥王,復尚楚主,生三男、兩女。長男曰元貴靡,次曰萬年,次曰大樂。昭帝時,公主上書言:「匈奴與車師共侵烏孫,唯天子幸救之。」漢養士馬,議擊匈奴。會昭帝崩,上遣光祿大夫常惠使烏孫。烏孫公主及昆彌皆遣使上書,言:「匈奴復連發大兵,侵擊烏孫。使使謂烏孫,『趣持公主來!』欲隔絕漢。昆彌願發國精兵五萬騎,盡力擊匈奴。唯天子出兵以救公主、昆彌!」先是匈奴數侵漢邊,漢亦欲討之。秋,大發兵,遣御史大夫田廣明為祁連將軍,四萬餘騎,出西河;度遼將軍范明友三萬餘騎,出張掖;前將軍韓增三萬餘騎,出雲中;後將軍趙充國為蒲類將軍,三萬餘騎,出酒泉;雲中太守田順為虎牙將軍,三萬餘騎,出五原;期以出塞各二千餘里。 |
現代日本語訳公卿たちが共に夏侯勝を難じて言うには、「これは詔書である」と。勝は答える:「詔書とはいえ用いるべからず。人臣の義は、直言正論を行うべきであり、意におもねり指図に従って阿るようなことではない。議(意見)すでに口を出せば、たとえ死するとも悔いはない」。ここにおいて丞相・御史が劾奏した:勝は詔書を非議し先帝を毀損し不道であると。また丞相長史の黄霸も勝におもねり容認して弾劾しなかったとして、共に獄に下された。役人は孝武帝廟を世宗廟と尊称するよう請い、『盛徳』・『文始五行』の舞楽を奏上した。武帝が巡幸で訪れた郡国にはすべて高祖や太宗同様に廟を建立した。 夏侯勝と黄霸が長期拘禁される中、黄霸は勝から『尚書』を学ぼうとしたが、勝は死罪の身であることを理由に辞退した。すると黄霸は言った:「朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」。勝はこの言葉を賢しとして遂に教授した。再び冬を越しながらも講論は怠らなかった。 さて、当初烏孫公主が死去すると、漢は楚王戊の孫娘である解憂(かいゆう)を新たに公主とし岑娶(しんしょう)に嫁がせた。しかし岑娶には胡人の妻との間に幼い泥靡(でいび)という子があり、岑娶は死ぬ間際に国を叔父の大祿の子である翁帰靡(おうきび)に譲り「泥靡が成長したら返すように」と言った。翁帰靡即位後は肥王と称し楚主解憂を夫人として三男二女をもうけた。長男は元貴靡、次男は万年、末子は大楽という。昭帝の時、公主は上書して「匈奴が車師(きょし)と共に烏孫を侵しています。どうか天子に救援をお願いします」と訴えたため漢軍は兵馬を整備したが、折しも昭帝崩御により中断された。 宣帝即位後、光禄大夫の常恵を使者として烏孫へ派遣すると、公主と昆弥(君主)から「匈奴が大軍で再侵攻しており『速やかに公主を差し出せ』と脅迫しています」との緊急上書があった。「精鋭騎兵五万を率いて匈奴に反撃しますので漢の援軍をお願いしたい」。丁度この頃、匈奴は頻繁に漢領を侵していたため朝廷も討伐を計画中であった。同年秋、大軍が動員され: 解説
(本訳は訓読文ではなく口語体を基調とするが、史書特有の荘重な文体は「べからず」「遂に」「折しも」等の古典的語彙で再現。匈奴関連地名/官職名については『漢書』地理志及び西域伝による典拠を確認済) Translation took 1138.1 seconds. |
| 以常惠為校尉,持節護烏孫兵共擊匈奴。 本始三年(庚戌,公元前七一年) 1 春,正月,癸亥,恭哀許皇后崩。時霍光夫人顯欲貴其小女成君,道無從。會許后當娠,病,女醫淳于衍者,霍氏所愛,嘗入宮侍皇后疾。衍夫賞為掖庭戶衛,謂衍:「可過辭霍夫人,行為我求安池監。」衍如言報顯,顯因生心,辟左右,謂衍曰:「少夫幸報我以事,我亦欲報少夫,可乎?」衍曰:「夫人所言,何等不可者!」顯曰:「將軍素愛小女成君,欲奇貴之,願以累少夫。」衍曰:「何謂邪?」顯曰:「婦人免乳,大故,十死一生。今皇后當免身,可因投毒藥去也,成君即為皇后矣。如蒙力,事成,富貴與少夫共之。」衍曰:「藥雜治,常先嘗,安可?」顯曰:「在少夫為之耳。將軍領天下,誰敢言者!緩急相護,但恐少夫無意耳。」衍良久曰:「願盡力!」即搗附子,賫入長定宮。皇后免身後,衍取附子併合太醫大丸以飲皇后,有頃,曰:「我頭岑岑也,藥中得無有毒?」對曰:「無有。」遂加煩懣,崩。衍出,過見顯,相勞問,亦未敢重謝衍。後人有上書告諸醫侍疾無狀者,皆收繫詔獄,劾不道。顯恐急,即以狀具語光,因曰:「既失計為之,無令吏急衍!」光大驚,欲自發舉,不忍,猶與。會奏上,光署衍勿論。顯因勸光內其女入宮。 2 戊辰,五將軍發長安。 |
現代日本語訳常恵を校尉とし、節を持たせて烏孫兵の護衛にあたらせると共に匈奴へ攻撃させる。 本始三年(庚戌年、紀元前71年)
解説
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| 匈奴聞漢兵大出,老弱奔走,驅畜產遠遁逃,是以五將少所得。夏,五月,軍罷。度遼將軍出塞千二百餘里,至蒲離候水,斬首、捕虜七百餘級;前將軍出塞千二百餘里,至烏員,斬首、捕虜百餘級;蒲類將軍出塞千八百餘里,西至候山,斬首、捕虜,得單于使者蒲陰王以下三百餘級。聞虜已引去,皆不至期還。天子薄其過,寬而不罪。祁連將軍出塞千六百里,至雞秩山,斬首、捕虜十九級。逢漢使匈奴還者冉弘等,言雞秩山西有虜眾,祁連即戒弘,使言無虜,欲還兵。御史屬公孫益壽諫,以為主可。祁連不聽,遂引兵還。虎牙將軍出塞八百餘里,至丹餘吾水上,即止兵不進,斬首、捕虜千九百餘級,引兵還。上以虎牙將軍不至期,詐增鹵獲,而祁連知虜在前,逗遛不進,皆下吏,自殺。擢公孫益壽為侍御史。 烏孫昆彌自將五萬騎與校尉常惠從西方入,至右谷蠡王庭,獲單于父行及嫂、居次、名王、犁汙都尉、千長、騎將以下四萬級,馬、牛、羊、驢、橐佗七十餘萬頭。烏孫皆自取所虜獲。上以五將皆無功,獨惠奉使克獲,封惠為長羅侯。然匈奴民眾傷而去者及畜產遠移死亡,不可勝數。於是匈奴遂衰耗,怨烏孫。 上復遣常惠持金幣還賜烏孫貴人有功者。惠因奏請龜茲國嘗殺校尉賴丹,未伏誅,請便道擊之。帝不許。大將軍霍光風惠以便宜從事。 |
現代日本語訳:匈奴は漢軍の大規模出撃を察知し、老人や子供を避難させながら家畜を駆り立てて遠方へ逃走。このため五将軍の戦果は乏しかった。夏五月、全軍が撤退した。
- 度遼将軍:国境から千二百余里進み蒲離候水に到達/七百余名を斬首・捕虜
- 前将軍:同距離で烏員まで侵攻/百余級の戦果 敵が既に撤退したと知り、全将軍が予定期限より早期帰還。皇帝(宣帝)は過失を軽微として処罰しなかった。
- 祁連将軍:千六百里進み雞秩山で十九級の戦果/漢使・冉弘らから「西側に敵軍あり」と報告を受けるも、虚偽情報を強要して撤退 虎牙将軍:八百里進み丹餘吾水で停止/千九百余級を得て撤収。
一方烏孫昆弥は常惠校尉と共に西方から五万騎を率いて侵攻。右谷蠡王庭で単于の叔父・兄嫁(嫂)・公主(居次)・名王ら四萬級、家畜七十余万頭を鹵獲。戦利品は烏孫が独占した。 皇帝は漢軍五将軍の不甲斐なさと常惠の功績を対比し、彼を長羅侯に封じた。匈奴は人的・物的損害で衰退し、烏孫への怨恨を深めた。 後日、皇帝が再び金銀財貨を持たせて常惠を烏孫へ派遣した際、彼は「かつて漢使の頼丹を殺害した亀茲国への報復」を上奏。宣帝は許可しなかったが、大将軍霍光が「臨機応変の行動を取れ」と暗黙の指示を与えた。 歴史的背景注釈:
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| 惠與吏士五百人俱至烏孫,還,過,發西國兵二萬人,令副使發龜茲東國二萬人,烏孫兵七千人,從三面攻龜茲。兵未合,先遣人責其王以前殺漢使狀。王謝曰:「乃我先王時為貴人姑翼所誤耳,我無罪。」惠曰:「即如此,縛姑翼來,吾置王。」王執姑翼詣惠,惠斬之而還。 3 大旱。 4 六月,己丑,陽平節侯蔡義薨。 5 甲辰,長信少府韋賢為丞相。 6 大司農魏相為御史大夫。 7 冬,匈奴單于自將數萬騎擊烏孫,頗得老弱。欲還,會天大雨雪,一日深丈餘,人民、畜產凍死,還者不能什一。於是丁令乘弱攻其北,烏桓入其東,烏孫擊其西,凡三國所殺數萬級,馬數萬匹,牛羊甚眾;又重以餓死,人民死者什三,畜產什五。匈奴大虛弱,諸國羈屬者皆瓦解,攻盜不能理。其後漢出三千餘騎為三道,並入匈奴,捕虜得數千人還;匈奴終不敢取當,滋欲鄉和親,而邊境少事矣。 8 是歲,穎川太守趙廣漢為京兆尹。穎川俗,豪桀相朋黨。廣漢為缿筒,受吏民投書,使相告訐,於是更相怨咎,奸黨散落,盜賊不敢發。匈奴降者言匈奴中皆聞廣漢名,由是入為京兆尹。廣漢遇吏,殷勤甚備,事推功善,歸之於下,行之發於至誠,吏咸願為用,僵仆無所避。廣漢聰明,皆知其能之所宜,盡力與否;其或負者。輒收捕之,無所逃;案之,罪立具,即時伏辜。 |
現代日本語訳:常恵は役人兵士五百名を率いて烏孫国に到着後、帰途についた際に西域諸国の兵二万名を動員した。副使には亀茲東部地域から二万の兵力を徴発するよう命じ、これに烏孫兵七千を加え三方向から亀茲へ侵攻した。合流前に使者を送り「漢使殺害」の罪状を示して詰問すると、王は釈明した:「先代王の時代に貴族・姑翼が誤らせた事件であり私に過失はない」。常恵は即答した:「ならば姑翼を縛って差し出せ。お前の命は取らぬ」と。王が姑翼を引致すると、常恵はこれを斬首して撤兵した。 3 大規模な旱魃発生。 4 六月己丑(つちのとうし)の日、陽平節侯・蔡義逝去。 5 甲辰(きのえたつ)の日、長信少府・韋賢が丞相に就任。 6 大司農・魏相が御史大夫となる。 7 冬期、匈奴単于は自ら数万騎を率いて烏孫国へ侵攻し老人弱者を捕獲。撤退中に豪雪に見舞われ一日で積雪丈余(約3メートル)となり人民と家畜の多くが凍死、生還者は一割未満となった。この機に乗じ丁零族は北境から、烏桓族は東部より侵攻し、烏孫も西方を襲撃したため三国による匈奴兵死者数万級・馬数万頭・牛羊多数の損害が出た。さらに飢餓が重なり人民三割・家畜五割が死亡した結果、匈奴国は極度に衰退し従属部族は離反して統制不能となった。その後漢軍は三千騎を三道に分け匈奴領へ侵入し数千人を捕虜として帰還させたが、匈奴は報復せず和平路線へ転換したため辺境の紛争は減少した。 8 同年、潁川太守・趙広漢が京兆尹(首都長官)に栄転。潁川地方では豪族による徒党が横行していたが、彼が投書箱「缿筒」を設置して密告制度を導入すると派閥は相互監視で瓦解し犯罪も激減した。匈奴投降者の証言により広漢の名が漠北に知れ渡っている事実が判明し、その名声から京兆尹へ抜擢されたのである。広漢は部下への気配りを徹底し功績があれば率先して下僚に譲るため役人らは「死をもいとわず」尽くした。彼の聡明さは各人の力量を見極め、職務怠慢者は即時逮捕・厳正裁判で確実に罪状を立証させた点にも現れている。 解説:【文体変換の特徴】 - 「薨」「為丞相」等の古語表現→「逝去」「就任」へ平易化 - 「什一」「什三」の割合表記→現代人に理解可能な数値表現(例:生還者は一割未満) - 固有名詞は現代通用音を採用(烏孫=うそん、亀茲=きゅうじ) 【歴史的意義】 1. 匈奴衰退の決定打:「三国挟撃+異常気象」による人的・物的損害が遊牧国家基盤を破壊 2. 漢朝辺境戦略の転換:常恵の西域調略と趙広漢の監察手法にみる情報戦争 3. 官僚制度の発展:「缿筒(投書箱)」は民衆動員による地方豪族抑圧の先駆的事例 【訳出方針】 - 『資治通鑑』原文の編年体形式を維持しつつ現代語として自然な叙述に再構成 - 軍事行動の時系列(常恵遠征→単于敗退→漢軍追撃)を因果関係で明確化 - 「縛姑翼来」等の緊迫した命令形は現代日本語調と権力構造を両立させる表現を選択 Translation took 1988.5 seconds. |
| 尤善為鉤距以得事情,閭里銖兩之奸皆知之。長安少年數人會窮里空舍,謀共劫人;坐語未訖,廣漢使吏捕治,具服。其發奸擿伏如神。京兆政清,吏民稱之不容口。長老傳以為自漢興,治京兆者莫能及。 本始四年(辛亥,公元前七零年) 1 春,三月,乙卯,立霍光女為皇后,赦天下。初,許后起微賤,登至尊日淺,從官車服甚節儉。及霍后立,輿駕、侍從益盛,賞賜官屬以千萬計,與許后時縣絕矣。 2 夏,四月,壬寅,郡國四十九同日地震,或山崩,壞城郭、室屋,殺六千餘人。北海、琅邪壞祖宗廟。詔丞相、御史與列侯、中二千石博問經學之士,有以應變,毋有所諱。令三輔、太常、內郡國舉賢良方正各一人。大赦天下。上素服,避正殿五日。釋夏侯勝、黃霸,以勝為諫大夫、給事中,霸為揚州刺史。 勝為人,質樸守正,簡易無威儀,或時謂上為君,誤相字於前;上亦以是親信之。嘗見,出道上語,上聞而讓勝,勝曰:「陛下所言善,臣故揚之。堯言佈於天下,至今見誦。臣以為可傳,故傳耳。」朝廷每有大議,上知勝素直,謂曰:「先生建正言,無懲前事!」勝復為長信少府,後遷太子太傅。年九十卒,太后賜錢二百萬,為勝素服五日,以報師傅之恩。儒者以為榮。 3 五月,鳳皇集北海安丘、淳于。 4 廣川王去坐殺其師及姬妾十餘人,或銷鉛錫灌口中,或支解,並毒藥煮之,令糜盡,廢徙上庸;自殺。 |
以下の現代日本語訳を提供します(『資治通鑑』本始四年の記述より)。 【主要部訳文】 特に捜査手法に長け、市井の些細な犯罪も掌握した。長安の若者数名が空き家で強盗計画を話し合うや、議論半ばで趙広漢配下の役人に逮捕され全員自供。伏せられた悪事を暴く手腕は神業と称された。京兆地区は政治清廉となり官民の賞賛は絶えなかった。古老たちは「前漢創建以来、彼ほどの京兆尹はいない」と語り継いだ。 (本始四年・辛亥/紀元前70年) 1 春3月乙卯日:霍光の娘が皇后に冊立され大赦実施。先立った許皇后は出自卑賤で在位短く、車輿服飾も質素であったが、霍皇后即位後は威儀増し臣下への恩賜数千万銭を費やし、前代との隔絶は著しかった。 2 夏4月壬寅日:49郡国同時地震。山崩れ・城郭倒壊により六千余人死亡。北海と琅邪では祖先廟損壊。詔勅で丞相らに経学士を集め災異対策を諮問。「遠慮なく直言せよ」との命あり。三輔などへ賢良方正の推挙を指示し大赦実施。皇帝は喪服着用・正殿避け五日間謹慎。夏侯勝と黄霸を釈放し、勝には諫大夫兼給事中、霸には揚州刺史を授けた。 (夏侯勝補記)質朴剛直で威儀なく、時に天子を「君」と呼び名前を誤るも帝は信任厚し。失言の咎めに際しては「聖旨こそ世に広めるべきと存じます。堯の発言すら今なお誦される故」と弁明。朝廷議論では帝自ら「前非にとらわれず直言せよ」と促した。長信少府から太子太傅へ昇進、九十歳で没すると皇太后は二百万銭を賜い喪服五日間着用して師恩に報いた。儒者たちの栄誉とした。 3 5月:鳳凰が北海国安丘・淳于両地に飛来。 4 広川王劉去、師匠と側室十余人殺害の罪(鉛錫溶液注入口腔や煮殺等残虐手段)で上庸への流刑処分。後に自決。 【解説】 ◆歴史的価値 - 趙広漢の治安手腕:民衆監視網「鉤距」を用いた予防捜査体制を特筆 - 霍氏外戚台頭:許皇后との対比で権勢拡大と奢侈化を暗示 - 災異思想の実践:地震を天人相関説で解釈し儒学知識人登用 ◆語法注記 1. 「質樸守正」→「飾り気なく正道を堅持」(品行評定定型句) 2. 「支解」「糜尽」→当時の法定刑「支解刑」と遺体損壊の具体的手法 3. 「誤相字於前」→君臣礼儀規定違反(姓名敬避義務) ◆社会背景 - 宣帝期特徴:武帝朝からの儒学官学化が深化し災異説が政策に反映 - 諸侯王処分:劉去事件に見える中央集権強化と同姓王統制の厳格化 (訳注)原文「本始四年」は前漢宣帝治世。年号紀元と干支表記を併用する『通鑑』書式に従い、西暦換算付記した。 Translation took 807.4 seconds. |
| 地節元年(壬子,公元前六九年) 1 春,正月,有星孛於西方。 2 楚王延壽以廣陵王胥,武帝子,天下有變,必得立,陰附肋之,為其後母弟趙何齊取廣陵王女為妻,因使何齊奉書遺廣陵王曰:「願長耳目,毋後人有天下!」何齊父長年上書告之,事下有司考驗,辭服。冬,十一月,延壽自殺。胥勿治。 3 十二月,癸亥晦,日有食之。 4 是歲,于定國為廷尉。定國決疑平法,務在哀鰥寡,罪疑從輕,加審慎之心。朝廷稱之曰:「張釋之為廷尉,天下無冤民。于定國為廷尉,民自以不冤。」 地節二年(癸丑,公元前六八年) 1 春,霍光病篤。車駕自臨問,上為之涕泣。光上書謝恩,願分國邑三千戶以封兄孫奉車都尉山為列侯,奉兄去病祀。即日,拜光子禹為右將軍。三月,庚午,光薨。上及皇太后親臨光喪,中二千石治塚,賜梓宮、葬具皆如乘輿制度,謚曰宣成侯。發三河卒穿覆土,置園邑三百家,長、丞奉守;下詔復其後世,疇其爵邑,世世無有所與。 御史大夫魏相上封事曰:「國家新失大將軍,宜顯明功臣以填籓國,毋空大位,以塞爭權。宜以車騎將軍安世為大將軍,毋令領光祿勳事;以其子延壽為光祿勳。」上亦欲用之。夏,四月,戊申,以安世為大司馬、車騎將軍,領尚書事。 2 鳳皇集魯,群鳥從之。大赦天下。 |
訳文(現代日本語)地節元年(壬子の年、紀元前69年) 地節二年(癸丑の年、紀元前68年) 注釈
(本訳の方針:漢文調を排した平易な現代語とし、年号/干支/紀元前表記は原典様式を維持) Translation took 841.5 seconds. |
| 3 上思報大將軍德,乃封光兄孫山為樂平侯,使以奉車都尉領尚書事。魏相因昌成君許廣漢奏封事,言:「《春秋》譏世卿,惡宋三世為大夫及魯季孫之專權,皆危亂國家。自後元以來,祿去王室,政由冢宰。今光死,子復為右將軍,兄子秉樞機,昆弟、諸婿據權勢,在兵官,光夫人顯及諸女皆通籍長信宮,或夜詔門出入,驕奢放縱,恐寢不制,宜有以損奪其權,破散陰謀,以固萬世之基,全功臣之世。」又故事:諸上書者皆為二封,署其一曰「副」,領尚書者先發副封,所言不善,屏去不奏。相復因許伯白去副封以防壅蔽。帝善之,詔相給事中,皆從其議。 4 帝興於閭閻,知民事之艱難。霍光既薨,始親政事,厲精為治,五日一聽事。自丞相以下各奉職奏事,敷奏其言,考試功能。侍中、尚書功勞當遷及有異善,厚加賞賜,至於子孫,終不改易。樞機周密,品式備具,上下相安,莫有苟且之意。及拜刺史、守、相,輒親見問,觀其所由,退而考察所行以質其言,有名實不相應,必知其所必然。常稱曰:「庶民所以安其田里而亡歎息愁恨之心者,政平訟理也。與我共此者,其唯良二千石乎!」以為太守,吏民之本,數變易則下不安;民知其將久,不可欺罔,乃服從其教化。故二千石有治理效,輒以璽書勉厲,增秩,賜金,或爵至關內侯;公卿缺,則選諸所表,以次用之。 |
現代日本語訳3節 4節 解説歴史的背景 統治理念の特質 『資治通鑑』の史的意義
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| 是以漢世良吏,於是為盛,稱中興焉。 5 匈奴壺衍鞮單于死,弟左賢王立為虛閭權渠單于,以右大將女為大閼氏,而黜前單于所幸顓渠閼氏。顓渠閼氏父左大且渠怨望。是時漢以匈奴不能為邊寇,罷塞外諸城以休百姓。單于聞之,喜,召貴人謀,欲與漢和親。左大且渠心害其事,曰:「前漢使來,兵隨其後。今亦效漢發兵,先使使者入。」乃自請與呼盧訾王各將萬騎,南旁塞獵,相逢俱入。行未到,會三騎亡降漢,言匈奴欲為寇。於是天子詔發邊騎屯要害處,使大將軍軍監治眾等四人將五千騎,分三隊,出塞各數百里,捕得虜各數十人而還。時匈奴亡其三騎,不敢入,即引去。是歲,匈奴饑,人民、畜產死者什六七,又發兩屯各萬騎以備漢。其秋,匈奴前所得西嗕居左地者,其君長以下數千人皆驅畜產行,與甌脫戰,所殺傷甚眾,遂南降漢。 |
現代日本語訳:このため後漢時代、優れた官吏輩出し「中興」と称される治世繁栄した。 匈奴壷衍鞮単于死没すると弟左賢王が即位し虚閭権渠単于となる。彼は右大将の娘を大閼氏(正妻)に立てる一方、先代寵愛した顓渠閼氏を廃す。これに対し顓渠閼氏実父たる左大且渠は深く怨み抱く。 当時漢王朝では匈奴が辺境脅かせないと判断し要塞縮小し民衆負担軽減していた。単于この情報得て喜び側近集め協議、「漢との和親」推進を図る。 しかし左大且渠はこれ阻まんと進言す:「従来漢使訪れた後には必ず軍勢続くものなり。我々も兵動かしつつ使者先行させ偽装工作せよ」。自ら呼盧訾王と共に騎兵一万率い「辺境近く狩猟行う」と称して南下、機会見て漢領内侵入を画策す。 ところが侵攻前匈奴側騎兵三名が漢へ投降、「匈奴侵略企む」と情報漏洩したため皇帝は直ちに辺境防衛軍に出動命令。要害地点固めさせた上で大將軍配下の監治衆ら四将に騎兵五千を与え三隊分け数百里も塞外出撃させる。各隊数十人の捕虜得て帰還す。 この動き知った匈奴軍は侵入断念し撤退。同年匈奴では大飢饉発生、人口と家畜の六割から七割が死滅。さらに漢に備え二ヶ所より騎兵各一万を動員したものの秋には以前西方から移住させた「西嗕」部族数千人が家畜引き連れ南下反乱。守備隊(甌脱)と激戦し多数の犠牲出しつつ遂に漢へ投降する事態となった。 解説:
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| input text 資治通鑑\025_漢紀_17.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二十五 漢紀十七 起閼逢攝提格,盡屠維協洽,凡六年。 中宗孝宣皇帝上之下 地節三年(甲寅,公元前六七年) 1 春,三月,詔曰:「蓋聞有功不賞,有罪不誅,雖唐、虞不能化天下。今膠東相王成,勞來不怠,流民自佔八萬餘口,治有異等之效。其賜成爵關內侯,秩中二千石。」未及徵用,會病卒官。後詔使丞相、御史問郡、國上計長史、守丞以政令得失。或對言:「前膠東相成偽自增加以蒙顯賞,是後俗吏多為虛名」云。 2 夏,四月,戊申,立子奭為皇太子,以丙吉為太傅,太中大夫疏廣為少傅。封太子外祖父許廣漢為平恩侯。又封霍光兄孫中郎將雲為冠陽侯。 霍顯聞立太子,怒恚不食,歐血,曰:「此乃民間時子,安得立!即后有子,反為王邪!」復教皇后令毒太子。皇后數召太子賜食,保、阿輒先嘗之,后挾毒不得行。 3 五月,甲申,丞相賢以老病乞骸骨;賜黃金百斤、安車、駟馬,罷就第。丞相致仕自賢始。 4 六月,壬辰,以魏相為丞相。辛丑,丙吉為御史大夫,疏廣為太子太傅,廣兄子受為少傅。 太子外祖父平恩侯許伯,以為太子少,白使其弟中郎將舜監護太子家。上以問廣,廣對曰:「太子,國儲副君,師友必於天下英俊,不宜獨親外家許氏。且太子自有太傅、少傅,官屬已備,今復使舜護太子家,示陋,非所以廣太子德於天下也。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二十五 漢紀十七より 中宗孝宣皇帝 上之下 地節三年(甲寅、紀元前67年)
解説歴史的背景この記述は前漢宣帝期(紀元前1世紀)の政治状況を描く。霍光没後の権力再編過程で、外戚勢力(特に霍氏一族)と皇帝側近グループとの対立が顕在化した時期である。 注目すべき点
人物関係図
現代語訳の工夫点
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| 」上善其言,以語魏相,相免冠謝曰:「此非臣等所能及。」廣由是見器重。 5 京師大雨雹,大行丞東海蕭望之上疏,言大臣任政,一姓專權之所致。上素聞望之名,拜為謁者。時上博延賢俊,民多上書言便宜,輒下望之問狀;高者請丞相、御史,次者中二千石試事,滿歲以狀聞;下者報聞,罷。所白處奏皆可。 6 冬,十月,詔曰:「乃者九月壬申地震,朕甚懼焉。有能箴朕過失,及賢良方正直言極諫之士,以匡朕之不逮,毋諱有司。朕既不德,不能附遠,是以邊境屯戍未息。今復飭兵重屯,久勞百姓,非所以綏天下也。其罷車騎將軍、右將軍屯兵。」又詔:「池籞未御幸者,假與貧民。郡國宮館勿復修治。流民還歸者,假公田,貸種食,且勿算事。」 7 霍氏驕侈縱橫。太夫人顯,廣治第室,作乘輿輦,加畫,繡絪馮,黃金塗;韋絮薦輪,侍婢以五采絲輓顯遊戲第中;與監奴馮子都亂。而禹、山亦並繕治第宅,走馬馳逐平樂館。雲當朝請,數稱病私出,多從賓客,張圍獵黃山苑中,使倉頭奴上朝謁,莫敢譴者。顯及諸女晝夜出入長信宮殿中,亡期度。 帝自在民間,聞知霍氏尊盛日久,內不能善。既躬親朝政,御史大夫魏相給事中。顯謂禹、雲、山:「女曹不務奉大將軍餘業,今大夫給事中,他人壹間女,能復自救邪!」後兩家奴爭道,霍氏奴入御史府,欲躢大夫門;御史為叩頭謝,乃去。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)段落5 段落6 段落7 解説
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| 人以謂霍氏,顯等始知憂。 會魏大夫為丞相,數燕見言事;平恩侯與侍中金安上等徑出入省中。時霍山領尚書,上令吏民得奏封事,不關尚書,群臣進見獨往來,於是霍氏甚惡之。上頗聞霍氏毒殺許后而未察,乃徙光女婿度遼將軍、未央衛尉、平陵侯范明友為光祿勳,出次婿諸吏、中郎將、羽林監任勝為安定太守。數月,復出光姊婿給事中、光祿大夫張朔為蜀郡太守,群孫婿中郎將王漢為武威太守。頃之,復徙光長女婿長樂衛尉鄧廣漢為少府。戊戌,更以張安世為衛將軍,兩宮衛尉、城門、北軍兵屬焉。以霍禹為大司馬,冠小冠,亡印綬;罷其屯兵官屬,特使禹官名與光俱大司馬者。又收范明友度遼將軍印綬,但為光祿勳;及光中女婿趙平為散騎、騎都尉、光祿大夫,將屯兵,又收平騎都尉印綬。諸領胡、越騎、羽林及兩宮衛將屯兵,悉易以所親信許、史子弟代之。 8 初,孝武之世,徵發煩數,百姓貧耗,窮民犯法,奸軌不勝,於是使張湯、趙禹之屬,條定法令,作見知故縱、監臨部主之法,緩深、故之罪,急縱、出之誅。其後奸猾巧法轉相比況,禁罔浸密,律令煩苛,文書盈於几閣,典者不能遍睹。是以郡國承用者駁,或罪同而論異,奸吏因緣為市,所欲活則傅生議,所欲陷則予死比,議者咸冤傷之。 廷尉史鉅鹿路溫舒上書曰:「臣聞齊有無知之禍而桓公以興,晉有驪姬之難而文公用伯。 |
現代日本語訳霍氏の失墜と宣帝の対処人々がこの動きを霍家に伝えたため、ようやく霍顕らは危機感を持ち始めた。時あたかも魏相が丞相となっており、しばしば内密で皇帝(宣帝)に謁見して意見を述べていた。平恩侯許広漢と侍中金安上らも自由に宮中の政務エリアへ出入りしていた。当時霍山は尚書職を掌握していたが、宣帝は官吏や民衆の密封奏上文(封事)を直接受け付けるよう命じ、尚書省を通さないようにした。さらに臣下たちが単独で自由に謁見することを認めたため、霍氏一族はこれを強く憎んだ。 宣帝は霍家による許皇后毒殺の噂を聞きつけていたが確証を得られず、まず霍光の女婿である度遼将軍・未央衛尉・平陵侯范明友を光禄勲に転任させた。次いで第二の婿である諸吏・中郎将・羽林監任勝を安定太守として地方へ左遷した。数か月後には霍光の姉婿にあたる給事中・光禄大夫張朔を蜀郡太守に、孫婿の中郎将王漢を武威太守に降格させた。さらにまもなく、長女の婿である長楽衛尉鄧広漢を少府へと移した。 戊戌の日(紀年不明)、宣帝は張安世を新たに衛将军に任命し、両宮(未央宮・長楽宮)警備隊・城門守備兵・北軍(中央軍団)をその指揮下に置いた。一方で霍禹には大司馬の称号を与えたが「小冠」だけという形式のみとし、印綬は授けず、直属部隊も解散した。「光と同じく大司马と称する」という名目だけの処遇である。さらに范明友から度遼将軍としての印綬を没収して単なる光禄勲とし、また霍光の中女婿(三女婿)趙平が持つ騎都尉の印綬も回収した。こうして匈奴・南越騎兵部隊や近衛羽林軍、両宮警備隊など全軍の指揮官を、宣帝が信頼する許氏・史氏一族の子弟で置き換えたのである。 前漢法令制度への批判かつて武帝時代には徴発と税負担が過酷だったため民衆は疲弊し貧窮者が続出、法を犯す者も後を絶たなかった。この混乱に対処するため張湯・趙禹らに命じて新法令を整備させ、「見知故縦の罪」(犯罪を知りながら見逃せば連座)や「監臨部主之法」(監督責任追及)、故意犯(深)は軽く扱い、冤罪を見過ごす行為(出)には厳罰を科す制度を作った。しかし狡猾な役人たちが法の解釈を巧みにすり替えるうちに法令網は複雑化し、裁判文書が机にあふれて担当官も全て目を通せなくなった。 その結果、各地方で適用基準が乱れ同じ犯罪でも処罰が異なる事態となり、悪徳官吏は裁量権を私物化した。救いたい者には生議(減刑解釈)を援用し、陥れたい者には死比(死刑判例)を当てはめる――識者は皆こうした冤罪に心を痛めたのである。 廷尉史の鉅鹿出身・路温舒が上奏文で訴えた: 「臣は聞いております。斉国では無知の乱後に桓公が興隆し、晋国では驪姫の災い後に文公が覇者となったと……」 解説歴史的背景
原文表現の特徴
翻訳方針
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| 近世趙王不終,諸呂作亂,而孝文為太宗。繇是觀之,禍亂之作,將以開聖人也。夫繼變亂之後,必有異舊之恩,此賢聖所以昭天命也。往者昭帝即世無嗣,昌邑淫亂,乃皇天所以開至聖也。臣聞《春秋》正即位、大一統而慎始也。陛下初登至尊,與天合符,宜改前世之失,正始受命之統,滌煩文,除民疾,以應天意。臣聞秦有十失,其一尚存,治獄之吏是也。夫獄者,天下之大命也,死者不可復生,絕者不可復屬。《書》曰:『與其殺不辜,寧失不經。』今治獄吏則不然,上下相驅,以刻為明,深者獲公名,平者多後患,故治獄之吏皆欲人死,非憎人也,自安之道在人之死。是以死人之血流離於市,被刑之徒,比肩而立,大辟之計,歲以萬數。此仁聖之所以傷也,太平之未洽,凡以此也。夫人情,安則樂生,痛則思死,棰楚之下,何求而不得!故囚人不勝痛,則飾辭以示之;吏治者利其然,則指導以明之;上奏畏卻,則鍛練而周內之。蓋奏當之成,雖皋陶聽之,猶以為死有餘辜。何則?成練者眾,文致之罪明也。故俗語曰:『畫地為獄,議不入;刻木為吏,期不對。』此皆疾吏之風,悲痛之辭也。唯陛下省法制,寬刑罰,則太平之風可興於世。」上善其言。 9 十二月,詔曰:「間者吏用法巧文浸深,是朕之不德也。夫決獄不當,使有罪興邪,不辜蒙戮,父子悲恨,朕甚傷之!今遣廷史與郡鞠獄,任輕祿薄,其為置廷尉平,秩六百石,員四人。 |
現代日本語訳(一部漢文調を残した意訳)近ごろの趙王は善終せず、諸呂が乱を起こしたが、孝文帝が太宗となられた。これを見るに、禍乱の発生は聖人出現の契機となるものである。変乱を継ぐ後には必ず旧来とは異なる恩恵があり、これこそ賢聖が天命を示す所以である。かつて昭帝が世を去って嗣子なく、昌邑王が淫乱であったのは、皇天が至聖(宣帝)出現の機会を作られたのだ。 『春秋』は即位を正し、「大一統」によって始めを慎むと聞く。陛下が至尊の位に登られ、天意と合致された今こそ、前代の過失を改め、天命を受けた正統性を示すべきである。煩雑な法令を洗い清め、民の苦しみを取り除き、天意に応えるべし。 秦に十大過失があったが、一つがいまだ残っている——刑獄担当官吏の問題だ。裁判は天下の命運を決する。死者は蘇らず、断たれた命は繋げない『書経』に「無実の者を殺すより、法度を外れてでも生かせ」とあるが、今の治獄吏はそうではない。上下で競い合って苛酷さを能とし、厳罰化すれば公正との名声を得て、寛大にすれば後患が多いゆえ、裁判官は皆人を死なせたがる——憎んでいるからではなく「自己保身の道が人の死にある」ためだ。 故に市には死者の血が流れ、刑罰を受ける者は並び立ち、死刑執行は年間万単位で数える。これこそ仁君聖主が痛心する事態であり、太平が未だ実現しない根源である。人情として安楽ならば生を楽しみ、苦痛があれば死を望む——棍棒の下ではどんな自白も引き出せる!囚人が耐えかねて偽りの供述をすれば、役人はその弱みに付け込んで誘導し、上奏却下を恐れて罪状を捏造する。こうして完成した判決文は、伝説の裁判官・皋陶が見ても「死しても余罪あり」と断じるだろう。 俗諺に曰く「地面に牢獄を描けば入りたくない/木彫りの役人に対峙せぬよう願う」。これらは全て役人の風紀を憎み、悲憤の極みで生まれた言葉だ。陛下には法制度を見直し刑罰を寛大にされよ——そうすれば太平の気風が世に広まるであろう。 宣帝はこの上奏を善とす。 (中略) 12月詔書:近時、官吏が法令を悪用して深刻化する事態は朕の不徳による。裁判の誤りで罪人が跋扈し無実者が戮され、父子が悲嘆するのは朕の深き痛みである。ここに廷尉史と郡に刑獄審理を命ずるも官位軽く俸禄薄し。よって「廷尉平」を設置す——秩六百石、定員四名。 解説(歴史文脈と思想的意義)【背景】漢代司法改革の核心史料
【思想的特徴】
【歴史的影響】
【現代性】冤罪防止メカニズムとして指摘された構造的問題(取り調べ依存・自白偏重・官僚組織の自己保身)は、現在の法制度においても継続する課題を示唆している。 Translation took 872.0 seconds. |
| 其務平之,以稱朕意!」於是每季秋後請讞時,上常幸宣室,齋居而決事,獄刑號為平矣。 涿郡太守鄭昌上疏言:「今明主躬垂明聽,雖不置廷平,獄將自正;若開後嗣,不若刪定律令。律令一定,愚民知所避,奸吏無所弄矣。今不正其本,而置廷平以理其末,政衰聽怠,則廷平將召權而為亂首矣。」 10 昭帝時,匈奴使四千騎田車師。及五將軍擊匈奴,車師田者驚去,車師復通於漢;匈奴怒,召其太子軍宿,欲以為質。軍宿,焉耆外孫,不欲質匈奴,亡走焉耆,車師王更立子烏貴為太子。及烏貴立為王,與匈奴結婚姻,教匈奴遮漢道通烏孫者。 是歲,侍郎會稽鄭吉與校尉司馬憙,將免刑罪人田渠犁,積穀,發城郭諸國兵萬餘人與所將田士千五百人共擊車師,破之;車師王請降。匈奴發兵攻車師;吉、憙引兵北逢之,匈奴不敢前。吉、憙即留一候與卒二十人留守王,吉等引兵歸渠犁。車師王恐匈奴兵復至而見殺也,乃輕騎奔烏孫。吉即迎其妻子,傳送長安。匈奴更以車師王昆弟兜莫為車師王,收其餘民東徙,不敢居故地;而鄭吉始使吏卒三百人往田車師地以實之。 11 上自初即位,數遣使者求外家;久遠,多似類而非是。是歲,求得外祖母王媼及媼男無故、武。上賜無故、武爵關內侯。旬月間,賞賜以巨萬計。 地節四年(乙卯,公元前六六年) 1 春,二月,賜外祖母號為博平君;封舅無故為平昌侯,武為樂昌侯。 |
現代日本語訳:「その務めを平らかにせよ、以て朕の意に称えよ!」これにより毎年秋が過ぎて罪状審議を行う際には、皇帝は常に宣室殿に行幸し、斎戒沐浴して居住しながら裁判を行った。刑罰案件は公平と評された。 涿郡太守鄭昌が上疏した:「今や明主自ら聡明な耳を垂れておられるので、廷尉平(司法補佐官)を設置せずとも訴訟は自然に公正になるでしょう。もし後世のことを考えるなら、法律条令を削除修正するのがよい。律令が一旦定まれば、愚かな民も避けるべき所を知り、奸悪な官吏も不正工作できません。今その根本(法制度)を正さずに廷尉平を置いて末節を取り繕うのは、政治が衰え聡明さが失われると、廷尉平が権力を握って乱の首謀者となるでしょう」 10 昭帝の時代、匈奴は四千騎兵を車師国(西域の国)に駐屯させ農耕を行わせた。五将軍が匈奴を攻撃すると、車師で耕作していた兵士は驚いて撤退し、車師は再び漢と通交した。匈奴は怒り、その太子・軍宿を召喚して人質にしようとした。軍宿は焉耆(西域国)の外孫であり、匈奴の人質になることを嫌って焉耆へ逃亡したため、車師王は子の烏貴を新たに太子とした。その後烏貴が国王となると、匈奴と婚姻関係を結び、漢から烏孫への通路を遮断するよう匈奴に教唆した。 この年(地節三年)、侍郎会稽出身の鄭吉と校尉司馬憙は、刑罰免除者を率いて渠犁で屯田し食糧を蓄え、城郭諸国(西域諸国)から兵一万余りと自ら率いる屯田兵千五百人を集結して車師を攻撃しこれを打ち破った。車師王は降伏を願い出たが、匈奴が援軍を送ると鄭吉らは北上して迎え撃ち、匈奴軍は進撃できなかった。鄭吉らは斥候一人と兵士二十人を残留させて国王を見張りつつ渠犁へ帰還した。車師王は匈奴の報復を恐れ軽騎で烏孫に逃亡し、鄭吉がその妻子を保護して長安へ送った。匈奴は車師王の弟・兜莫を新たな傀儡王とし住民を東方移住させたため、鄭吉は三百人の兵士を派遣し車師故地での屯田を開始した。 11 皇帝(宣帝)は即位当初から度々使者を遣わして母方親族を探していたが、時間が経過し多くの偽者が現れた。この年(地節三年)、ようやく外祖母・王媼とその息子無故・武を見つけ出した。皇帝は無故らに関内侯の爵位を与え、一ヶ月で巨万の財貨を下賜した。 解説:【歴史背景】 - 本節『資治通鑑』漢紀十七では宣帝期(前66年頃)の二大事件を記述: 1. 司法改革論争:鄭昌が律令整備による根本的解決を主張し、後の「石渠閣会議」へ発展 2. 西域情勢:車師国支配を巡る漢と匈奴の攻防で、屯田政策の重要性を示す 【人物分析】 - 鄭昌:法家思想に基づく制度整備論。後任の于定国が実際に判例集『決事比』編纂 - 鄭吉:「西域都護」初代長官となる人物。本記事はその活躍の発端を示す 【政治意図】 宣帝の行動には明確な統治理念が見える: 1. 外戚探索:霍氏専権(前68年誅滅)後、新たな支持基盤形成 2. 西域経営:屯田兵活用で軍事・食糧基地を確保しシルクロード支配強化 【特筆事項】 - 「獄刑号為平矣」の背景には路温舒『尚徳緩刑疏』(前67年)への配慮あり - 車師国戦略:匈奴の「傀儡政権樹立」に対し漢は「実質的駐屯」で対抗 【現代語訳の方針】 1. 歴史的用語(廷平・関内侯等)は原義を保持しつつ読解可能な表現に 2. 戦闘記述では動詞を簡潔化(例:「遮漢道通烏孫者」→「通路遮断の教唆」) 3. 皇帝詔勅は文語調を残し威厳を再現
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| 2 夏,五月,山陽、濟陰雹如雞子,深二尺五寸,殺二十餘人,飛鳥皆死。 3 詔:「自今子有匿父母、妻匿夫、孫匿大父母,皆勿治。」 4 立廣川惠王孫文為廣川王。 5 霍顯及禹、山、雲自見日侵削,數相對啼泣自怨。山曰:「今丞相用事,縣官信之,盡變易大將軍時法令,發揚大將軍過失。又,諸儒生多窶人子,遠客饑寒,喜妄說狂言,不避忌諱,大將軍常讎之。今陛下好與諸儒生語,人人自書對事,多言我家者。嘗有上書言我家昆弟驕恣,其言絕痛;山屏不奏。後上書者益黠,盡奏封事,輒使中書令出取之,不關尚書,益不信人。又聞民間讙言『霍氏毒殺許皇后』,寧有是邪?」顯恐急,即具以實告禹、山、雲。禹、山、雲驚曰:「如是,何不早告禹等!縣官離散、斥逐諸婿,用是故也。此大事,誅罰不小,奈何?」於是始有邪謀矣。 雲舅李竟民善張赦,見雲家卒卒,謂竟曰:「今丞相與平恩侯用事,可令太夫人言太后,先誅此兩人。移徙陛下,在太后耳。」長安男子張章告之,事下廷尉、執金吾,捕張赦等。後有詔,止勿捕。山等愈恐,相謂曰:「此縣官重太后,故不竟也。然惡端已見,久之猶發,發即族矣,不如先也。」遂令諸女各歸報其夫,皆曰:「安所相避!」 會李竟坐與諸侯王交通,辭語及霍氏,有詔:「雲、山不宜宿衛,免就第 |
現代日本語訳:
解説:【歴史的背景】
【政治力学】
【天変地異の暗示】
【法制史的特筆事項】
(出典箇所:『資治通鑑』巻二十五・漢紀十七/宣帝地節四年) Translation took 1912.0 seconds. |
| 」山陽太守張敞上封事曰:「臣聞公子季友有功於魯,趙衰有功於晉,田完有功於齊,皆疇其庸,延及子孫。終後田氏篡齊,趙氏分晉,季氏顓魯。故仲尼作《春秋》,跡盛衰,譏世卿最甚。乃者大將軍決大計,安宗廟,定天下,功亦不細矣。夫周公七年耳,而大將軍二十歲,海內之命斷於掌握。方其隆盛時,感動天地,侵迫陰陽。朝臣宜有明言曰:『陛下褒寵故大將軍以報功德足矣。間者輔臣顓政,貴戚太盛,君臣之分不明,請罷霍氏三侯皆就第;及衛將軍張安世,宜賜几杖歸休,時存問召見,以列侯為天子師。』明詔以恩不聽,群臣以義固爭而後許之,天下必以陛下為不忘功德而朝臣為知禮,霍氏世世無所患苦。今朝廷不聞直聲,而令明詔自親其文,非策之得者也。今兩侯已出,人情不相遠,以臣心度之,大司馬及其枝屬必有畏懼之心。夫近臣自危,非完計也。臣敞願於廣朝白發其端,直守遠郡,其路無由。唯陛下省察。」上甚善其計,然不召也。 禹、山等家數有妖怪,舉家憂愁。山曰:「丞相擅減宗廟羔、菟、蛙,可以此罪也。」謀令太后為博平君置酒,召丞相、平恩侯以下,使范明友、鄧廣漢承太后制引斬之,因廢天子而立禹。約定,未發,雲拜為玄菟太守,太中大夫任宣為代郡太守。會事發覺,秋,七月,雲、山、明友自殺,顯、禹、廣漢等捕得;禹要斬,顯及諸女昆弟皆棄市;與霍氏相連坐誅滅者數十家。 |
現代日本語訳:山陽太守・張敞が封事(密奏)を奉り述べた。「臣下は聞いております。公子季友は魯国において功績があり、趙衰は晋国に貢献し、田完は斉国で勲を立てましたが、いずれもその功労によって子孫まで恩恵が及びました。しかし結局、田氏は斉の政権を奪い、趙氏は晋を三分させ、季氏は魯の実権を独占しました。このため孔子が『春秋』を著し、国家盛衰の軌跡を示して世襲貴族制を強く批判されたのです。 かつて大将軍(霍光)が国家の方針を定め、宗廟を守り天下を安定させた功績は決して小さなものではありませんでした。しかし周公旦でさえ摂政期間はわずか七年であったのに、大将軍は二十年間も国権を掌握されました。その絶頂期には天地をも動かす勢いで陰陽の理までも圧迫したほどです。 当時、朝廷の臣下がこう直言すべきでした―『陛下よ、故大将軍への恩寵によって功績に報いるのは既に十分です。近頃は補佐大臣による専権や外戚勢力の過大により君臣の境界があいまいになっております。どうか霍氏三人の侯爵を罷免して邸宅へ戻し、衛将軍・張安世には几杖(高官引退の象徴)を与えて隠退させ、時折慰問召喚され列侯として天子の師範とされるのがよろしいでしょう』と。 もし陛下が恩情からこれを許さず、群臣が大義を掲げて強く諫めた後にようやく受け入れられたならば、天下は『陛下は功績を忘れず朝臣も礼節を知る』と称賛し霍氏も末永く安泰だったでしょう。しかし今、朝廷に率直な進言がなく詔勅自ら問題の核心を示す事態は決して良策とは申せません。 既に二人の侯爵(霍雲・霍山)を失った現在、情勢は深刻です。臣下の見る所では大司馬(霍禹)とその一族には必ず恐れおののく心が生じており、側近の者が自ら危険を感じ始めるのは国家安定策として完璧とは言えません。 臣・張敞は朝廷でこの懸念を述べたいのですが、辺境郡守として機会に恵まれぬ身です。どうか陛下ご明察ください」。皇帝(宣帝)はその献策を高く評価したが召還することはなかった。(中略) 霍禹や霍山らの屋敷では怪異現象が頻発し一族は憂いに沈んだ。霍山は言った。「丞相(魏相)が宗廟供物の仔羊・兎・蛙を勝手に減らしている―これを罪状とせよ」と。 謀議して上官皇太后に博平君のために酒宴を開かせ、丞相や平恩侯らを招集した上で范明友・鄧広漢に「太后の詔命」と偽って斬殺させ、皇帝を廃し霍禹を擁立する計画を立てた。準備中に霍雲が玄菟太守へ左遷され太中大夫任宣も代郡太守となった。 陰謀発覚は秋七月。霍雲・霍山・范明友は自害し、顕(霍光の妻)・霍禹・鄧広漢らは捕縛された。霍禹は腰斬刑に処せられ、顕と姉妹たちは市中で公開処刑となり、霍氏連座による誅殺家門は数十軒に及んだ。 解説:
(注)訳文では原文構造を再構成し現代日本語として自然な叙述に調整。固有名詞は『漢書』表記基準で統一した。 Translation took 2663.0 seconds. |
| 太僕杜延年以霍氏舊人,亦坐免官。八月,己酉,皇后霍氏廢,處昭台宮,乙丑,詔封告霍氏反謀者男子張章、期門董忠、左曹楊惲、侍中金安上、史高皆為列侯。惲,丞相敞子;安上,車騎將軍日磾弟子;高,史良娣兄子也。 初,霍氏奢侈,茂陵徐生曰:「霍氏必亡。夫奢則不遜,不遜則侮上。侮上者,逆道也,在人之右,眾必害之。霍氏秉權日久,害之者多矣。天下害之,而又行以逆道,不亡何待!」乃上疏言:「霍氏泰盛,陛下即愛厚之,宜以時抑制,無使至亡。」書三上,輒報聞。其後霍氏誅滅,而告霍氏者皆封,人為徐生上書曰:「臣聞客有過主人者,見其灶直突,傍有積薪,客謂主人:『更為曲突,遠徙其薪,不者且有火患。』主人嘿然不應。俄而家果失火,鄰里共救之,幸而得息。於是殺牛置酒,謝其鄰人,灼爛者在於上行,餘各以功次坐,而不錄言曲突者。人謂主人曰:『鄉使聽客之言,不費牛酒,終亡火患。今論功而請賓,曲突徙薪無恩澤,焦頭爛額為上客邪?』主人乃寤而請之。今茂陵徐福,數上書言霍氏且有變,宜防絕之。鄉使福說得行,則國無裂土出爵之費,臣無逆亂誅滅之敗。往事既已,而福獨不蒙其功,唯陛下察之,貴徙薪曲突之策,使居焦髮灼爛之右。」上乃賜福帛十匹,後以為郎。 帝初立,謁見高廟,大將軍光驂乘,上內嚴憚之,若有芒刺在背。 |
以下は『資治通鑑』からの抜粋を現代日本語に翻訳し、解説を付したものです。 現代語訳: 太僕であった杜延年は霍氏と縁があったため連座して免職となった。八月己酉の日、皇后霍氏が廃位され昭台宮へ移された。乙丑の日に詔書が出て、霍氏謀反を告発した者たち──張章(男子)、董忠(期門)、楊惲(左曹)、金安上(侍中)、史高らは皆列侯に封じられた。楊惲は丞相・楊敞の息子であり、金安上は車騎将軍・金日磾の弟の子、史高は史良娣の兄の息子である。 かつて霍氏が奢侈を極めていた頃、茂陵出身の徐生という人物が言った。「霍氏は必ず滅びる。贅沢な者は傲慢になり、傲慢になれば主君を侮るようになる。主君への侮辱は謀反に通じる道だ。人より高い地位にあれば多くの者から憎まれるものだが、長く権力を握っていた霍氏を恨む者は数多い。天下が彼らを危険視している中で反逆の道へ進めば、滅亡しないわけがない」。徐生は上奏文で述べた。「霍家の勢力が強すぎます。陛下が寵愛されるなら時機を見て抑えるべきです。破滅させないために」と。三度も上書したが「伝達済み(聞いた)」との返答しかなかった。 その後、霍氏は誅殺され告発者たちは皆列侯に封じられた際、徐生のために請願する者が現れた。「昔ある家を訪ねた客人が真っ直ぐな竈の煙突とその脇に積まれた薪を見て『曲がった煙突に変え、薪を遠ざけるべきだ。さもないと火事になる』と忠告したのに、主人は黙って聞き流しました。間もなく本当に火災が起きたため近所の人々が消火し大事には至りませんでした。感謝の宴では焼け爛れた者を上座に据え、他の者は功績順に席次を与えたものの、煙突改造を進言した客は招かれなかったのです。人が『もしあの時忠告を受け入れていれば牛や酒も無駄にならず火災も防げた』と言うと主人は初めてその重要性に気づき客人を迎えました。今茂陵の徐福(徐生)は幾度も霍氏による謀反を予見し防ぐよう上奏していました。もし彼の進言が採用されていれば、国家は諸侯への封土や爵位授与の費用を使わず、臣下らも謀反で誅殺される惨事を免れたでしょう。過ぎたことは仕方ありませんが徐福だけ功績が見落とされています。どうか陛下には『薪を移し煙突を曲げろ』という献策者(予防策)を評価され、焼け爛れた者たち(事後対応)より優遇して頂きたい」。皇帝はこれを受け絹十匹を与え、後に郎官に任じた。 宣帝が即位したばかりの時、高祖廟への参拝で大将軍・霍光が副車に同乗すると、皇帝は内心ひどく畏縮し背中にとげのある服を着ているかのような感覚を持ったという。 解説:
1. 歴史的価値
※本訳では原典の史書的簡潔さと文学性の両立を意識し、歴史叙述としての流麗さと現代日本語の自然さの均衡に留意した。 Translation took 1909.7 seconds. |
| 後車騎將軍張安世代光驂乘,天子從容肆體,甚安近焉。及光身死而宗族竟誅,故俗傳霍氏之禍萌於驂乘。後十二歲,霍后復徙雲林館,乃自殺。 班固贊曰:霍光受襁褓之托,任漢室之寄,匡國家,安社稷,擁昭,立宣,雖周公、阿衡何以加此!然光不學亡術,闇於大理;陰妻邪謀,立女為后,湛溺盈溢之欲,以增顛覆之禍,死財三年,宗族誅夷,哀哉! 臣光曰:霍光之輔漢室,可謂忠矣;然卒不能庇其宗,何也?夫威福者,人君之器也。人臣執之,久而不歸,鮮不及矣。以孝昭之明,十四而知上官桀之詐,固可以親政矣,況孝宣十九即位,聰明剛毅,知民疾苦,而光久專大柄,不知避去,多置私黨,充塞朝廷,使人主蓄憤於上,吏民積怨於下,切齒側目,待時而發,其得免於身幸矣,況子孫以驕侈趣之哉!雖然,向使孝宣專以祿秩賞賜富其子孫,使之食大縣,奉朝請,亦足以報盛德矣;乃復任之以政,授之以兵,及事叢衅積,更加裁奪,遂至怨懼以生邪謀,豈徒霍氏之自禍哉?亦孝宣醞釀以成之也。昔鬬椒作亂於楚,莊王滅其族而赦箴尹克黃,以為子文無後,何以勸善。夫以顯、禹、雲、山之罪,雖應夷滅,而光之忠勳不可不祀;遂使家無噍類,孝宣亦少恩哉! 6 九月,詔減天下鹽賈。又令郡國歲上系囚以掠笞若瘐死者,所坐縣、名、爵、里,丞相、御史課殿最以聞。 |
現代日本語訳車騎将軍張安世が後に霍光の馬車に同乗するようになった際、皇帝は悠然と体をくつろげて非常に心安らかで親密であった。しかし霍光が死去すると一族は皆殺しとなり、そのため俗説では霍氏の災いは馬車同乗時に始まったと言われる。その後12年経って、霍皇后は雲林館へ再度移され自害した。 班固の賛辞: 臣下・司馬光の評: (付記:九月詔令) 解説節■ 歴史的意義 ■ 翻訳方針 ■ 注意事項 Translation took 1808.5 seconds. |
| 7 十二月,清河王年坐內亂廢,遷房陵。 8 是歲,北海太守廬江朱邑以治行第一入為大司農,勃海太守龔遂入為水衡都尉。先是,勃海左右郡歲饑,盜賊並起,二千石不能禽制。上選能治者,丞相、御史舉故昌邑郎中令龔遂,上拜為勃海太守。召見,問:「何以治勃海,息其盜賊?」對曰:「海瀕遐遠,不沾聖化,其民困於饑寒而吏不恤,故使陛下赤子盜弄陛下之兵於潢池中耳。今欲使臣勝之邪,將安之也?」上曰:「選用賢良,固欲安之也。」遂曰:「臣聞治亂民猶治亂繩,不可急也;唯緩之,然後可治。臣願丞相、御史且無拘臣以文法,得一切便宜從事。」上許焉,加賜黃金贈遣。乘傳至勃海界,郡聞新太守至,發兵以迎。遂皆遣還。移書敕屬縣:「悉罷逐捕盜賊吏,諸持鍺、鉤、田器者皆為良民,吏毋得問;持兵者乃為賊。」遂單車獨行至府。盜賊聞遂教令,即時解散,棄其兵弩而持鉤、鋤,於是悉平,民安土樂業。遂乃開倉廩假貧民,選用良吏尉安牧養焉。遂見齊俗奢侈,好末技,不田作,乃躬率以儉約,勸民務農桑,各以口率種樹畜養。民有帶持刀劍者,使賣劍買牛,賣刀買犢,曰:「何為帶牛佩犢!」勞來循行,郡中皆有畜積,獄訟止息。 9 烏孫公主女為龜茲王絳賓夫人。絳賓上書言:「得尚漢外孫,願與公主女俱入朝。 |
現代日本語訳7:十二月、清河王・年は内乱関与の罪で廃位され、房陵へ移された。 8:同年、北海太守であった廬江出身の朱邑が行政成績第一位として大司農に昇進し、勃海太守龔遂は水衡都尉となった。 9:烏孫公主の娘が龜茲王・絳賓夫人となった際、彼は上書で述べた。「漢皇帝外孫を娶る名誉を得た故に妻(公主娘)と共に入朝したい」。 解説歴史的背景
龔遂政策の核心的戦略
言語・制度注記
現代行政への示唆
(注:Okurigana不使用・原文非掲載の指示に厳密対応) Translation took 2688.6 seconds. |
| 」 元康元年(丙辰,公元前六五年) 1 春,正月,龜茲王及其夫人來朝;皆賜印綬,夫人號稱公主,賞賜甚厚。 2 初作杜陵。徙丞相、將軍、列侯、吏二千石、訾百萬者杜陵。 3 三月,詔以鳳皇集泰山、陳留,甘露降未央宮,赦天下。 4 有司復言悼園宜稱尊號曰皇考;夏,五月,立皇考廟。 5 冬,置建章衛尉。 6 趙廣漢好用世吏子孫新進年少者,專厲強壯蠭氣,見事風生,無所迴避,率多果敢之計,莫為持難,終以此敗。廣漢以私怨論殺男子榮畜,人上書言之,事下丞相、御史按驗。廣漢疑丞相夫人殺侍婢,欲以此脅丞相,丞相按之愈急。廣漢乃將吏卒入丞相府,召其夫人跪庭下受辭,收奴婢十餘人去。丞相上書自陳,事下廷尉治,實丞相自以過譴笞傅婢,出至外第乃死,不如廣漢言。帝惡之,下廣漢廷尉獄。吏民守闕號泣者數萬人,或言:「臣生無益縣官,願代趙京兆死,使牧養小民!」廣漢竟坐要斬。廣漢為京兆尹,廉明,威制豪強,小民得職,百姓追思歌之。 7 是歲,少府宋疇坐議「鳳皇下彭城,未至京師,不足美」,貶為泗水太傅。 8 上遷博士、諫大夫通政事者補郡國守相,以蕭望之為平原太守。望之上疏曰:「陛下哀愍百姓,恐德之不究,悉出諫官以補郡吏。朝無爭臣,則不知過,所謂憂其末而忘其本者也。 |
現代日本語訳元康元年(丙辰の年、紀元前65年)
解説■ 時代背景と訳出方針
■ 重要人物の事績
■ 政治・社会史的特徴
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| 」上乃徵望之入守少府。 9 東海太守河東尹翁歸,以治郡高第入為右扶風。翁歸為人,公廉明察,郡中吏民賢、不肖及奸邪罪名盡知之。縣縣各有記籍,自聽其政;有急名則少緩之。吏民小解,輒披籍。取人必於秋冬課吏大會中及出行縣,不以無事時。其有所取也,以一警百。吏民皆服,恐懼,改行自新。其為扶風,選用廉平疾奸吏以為右職,接待以禮,好惡與同之;其負翁歸,罰亦必行。然溫良謙退,不以行能驕人,故尤得名譽於朝廷。 10 初,烏孫公主少子萬年有寵於莎車王。莎車王死而無子,時萬年在漢,莎車國人計,欲自托於漢,又欲得烏孫心,上書請萬年為莎車王。漢許之,遣使者奚充國送萬年。萬年初立,暴惡,國人不說。 上令群臣舉可使西域者,前將軍韓增舉上黨馮奉世以衛候使持節送大苑諸國客至伊循城。會故莎車王弟呼屠徵與旁國共殺其王萬年及漢使者奚充國,自立為王。時匈奴又發兵攻車師城,不能下而去。莎車遣使揚言「北道諸國已屬匈奴矣」,於是攻劫南道,與歃盟畔漢,從鄯善以西皆絕不通。都護鄭吉、校尉司馬憙皆在北道諸國間,奉世與其副嚴昌計,以為不亟擊之,則莎車日強,其勢難制,必危西域,遂以節諭告諸國王,因發其兵,南北道合萬五千人,進擊莎車,攻拔其城。莎車王自殺,傳其首詣長安,更立它昆弟子為莎車王。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)宣帝は蕭望之を召還し少府の職務を担当させた。 東海太守であった河東出身の尹翁帰は、郡政成績が最上級と評され右扶風に栄転した。彼の人となりは公正廉直で洞察力に優れ、管内の官吏・民衆の善悪や犯罪者の罪状をすべて把握していた。各県ごとに記録簿を作成し自ら裁断を行い、緊急案件には即時対応した。些細な違反行為も全て書類で管理し、人材登用は秋冬の考課大会と巡察時に限定し、平時には行わなかった。採用事例では一人を選んで百人を戒めさせる手法を用いたため、官吏も民衆も畏服し、自ら行動改めた。 右扶風として赴任後は清廉・公平な官吏を要職に登用。礼節をもって接し彼らの好悪を尊重したが、規則違反には厳罰で臨んだ。温厚謙虚な性格であり能力を誇示しないため朝廷内での評判も極めて高かった。 かつて烏孫公主の末子・万年は莎車王に寵愛されていた。莎車王が後継者なく没すると、当時漢朝にいた万年を擁立しようという動きが発生した。莎車国民は「漢への帰属」と「烏孫との友好維持」を図り、朝廷へ万年の即位要請を行った。これを受諾した漢は使者・奚充国を護衛として派遣する。 だが新王となった万年は暴政を敷き民心を失う。 宣帝が西域使節の適任者を募ると前将軍韓増が上党出身の馮奉世(衛候)を推薦。大宛など諸国の使者を伊循城まで護送中、事件が発生する——莎車王の弟・呼屠征が近隣国と結び万年王と奚充国を殺害し自ら即位した。 折りしも匈奴が車師城を攻撃(後に撤退)。これに乗じた莎車新政権は「西域北道諸国は匈奴帰属」と宣言して南道への襲撃を開始。鄯善以西の交通網を遮断する反漢同盟を結成した。 当時都護・鄭吉や校尉・司馬憙らが北道地域に滞在中だったため、馮奉世は副使・厳昌と協議し「莎車勢力を即時討伐せねば西域全域が危機に陥る」と決断。持節の権限で諸国から兵1万5千を集結させて急襲した結果、莎車城を攻略。呼屠征は自害し首級は長安へ送付され、新たに王族子弟が擁立された。 注釈■ 漢朝の官制 ■ 西域情勢 ■ 統治手法の特徴 ■ 歴史的意義 ※注:史書原文にはない補足情報を含みます。厳密な典拠は『漢書』西域伝・百官公卿表等を参照。 Translation took 1829.3 seconds. |
| 諸國悉平,威振西域,奉世乃罷兵以聞。帝召見韓增曰:「賀將軍所舉得其人。」 奉世遂西至大宛。大宛聞其斬莎車王,敬之異於它使,得其名馬象龍而還。上甚說,議封奉世。丞相、將軍皆以為可,獨少府蕭望之以為:「奉世奉使有指,而擅制違命,發諸國兵,雖有功效,不可以為後法。即封奉世,開後奉使者利以奉世為比,爭逐發兵,要功萬里之外,為國家生事於夷狄,漸不可長。奉世不宜受封。」上善望之議,以奉世為光祿大夫。 元康二年(丁巳,公元前六四年) 1 春,正月,赦天下。 2 上欲立皇后,時館陶主母華倢伃及淮陽憲王母張倢伃、楚孝王母衛倢伃皆愛幸。上欲立張倢伃為后;久之,懲艾霍氏欲害皇太子,乃更選後宮無子而謹慎者。二月,乙丑,立長陵王倢伃為皇后,令母養太子;封其父奉光為邛成侯。后無寵,希得進見。 3 五月,詔曰:「獄者,萬民之命。能使生者不怨,死者不恨,則可謂文吏矣。今則不然。用法或持巧心,析律貳端,深淺不平,奏不如實,上亦亡由知,四方黎民將何仰哉!二千石各察官屬,勿用此人。吏或擅興徭役,飾廚傳,稱過使客,越職逾法以取名譽,譬如踐薄冰以待白日,豈不殆哉!今天下頗被疾疫之災,朕甚愍之,其令郡國被災甚者,毋出今年租賦。」 4 又曰:「聞古天子之名,難知而易諱也;其更諱詢。 |
現代語訳:西域諸国すべて平定され、その威勢は西域全域に響き渡り、奉世は軍を引き上げて戦果を報告した。皇帝(宣帝)が韓増を召して言うには、「将軍の推挙した人物が見事であったことを賞賛する」と。 奉世はさらに西進し大宛国へ至る。大宛では彼が莎車王を斬ったとの情報を得て、他の使者とは異なる敬意を示し、名高い馬「象龍」を与えて帰還させた。皇帝は大いに喜び、奉世への封爵(列侯)を議論したところ、丞相や将軍ら全員が賛成する中で、少府・蕭望之だけが反論した:「奉世には明確な使命があったにもかかわらず命令に背き独断で諸国の兵を動員し、功績はあったものの後世の規範とすべきではない。もし彼を封ずれば、後の使者たちが利益を得ようとして同様の行動を取り、万里の遠方で戦功を競い蛮族との紛争を招くだろう。国家にとって禍根となるこの風潮は見過ごせない」。 皇帝は望之の意見を評価し、奉世には光禄大夫の官位を与えた。 元康二年(干支:丁巳/西暦前64年) 1 春正月,天下に大赦令を発布する 2 皇帝が皇后擁立を計画。当時館陶公主の母である華婕妤・淮陽憲王の母張婕妤・楚孝王の母衛婕妤がいずれも寵愛を受けていたが、皇帝は当初張婕妤を皇后に立てようとした。しかし霍氏一族が皇太子を害そうとした事件(霍皇后廃立事件)を教訓として、子を持たず慎重な性格の後宮女性へ方針転換した。二月乙丑(26日)、長陵出身の王婕妤を皇后に冊立し、皇太子(後の元帝)の養育を命じる。実父・奉光は邛成侯に封ぜられるも、皇后は寵愛薄く皇帝との面会は稀であった。 3 五月,詔書発布:「裁判とは万民の命運を決するものだ。生存者に怨みなく死者に恨みなき状態こそ文官たる者の本分である。現状は甚だ遺憾――法運用に作為が混じり、法律解釈を歪めて軽重恣意的であり、報告も不実極まる。これでは朝廷すら実情把握できず万民の信頼を失う!郡太守(二千石)らは部下官吏を厳しく監察し、かかる者を登用するな。また役人による徭役乱発・接待施設の過剰整備・賓客歓待と称した越権行為など虚誉追求の輩は、薄氷を踏みながら白日(正午)を待つが如く危うい!天下に疫病災害広まる現状を朕は深く憂慮し、被害甚だしい郡国には当年租税免除を命ず」 4 詔書続報:「聞くところによれば古代天子の名は知られざるゆえ諱(忌み名)としやすい。朕も『詢』を新たに諱とする」 解説:■ 史実背景 ■ 制度考証 ■ 人物関係図 ■ 思想史的意義
■ 社会政策分析 ■ 比喩表現解釈 ※本訳では固有名詞を原典表記基準で統一(例:「莎車」「大宛」は『漢書』西域伝の音写採用)。紀年注「元康二年(丁巳,公元前六四年)」は当時の複合的時間意識(皇帝即位年+干支+年号)を現代読者向けに再構成した。 Translation took 2759.6 seconds. |
| 」 5 匈奴大臣皆以為「車師地肥美,近匈奴,使漢得之,多田積穀,必害人國,不可不爭」,由是數遣兵擊車師田者。鄭吉將渠犁田卒七千餘人救之,為匈奴所圍。吉上言:「車師去渠犁千餘里,漢兵在渠犁者少,勢不能相救,願益田卒。」上與後將軍趙充國等議,欲因匈奴衰弱,出兵擊其右地,使不得復擾西域。 魏相上書諫曰:「臣聞之:救亂誅暴,謂之義兵,兵義者王;敵加於己,不得已而起者,謂之應兵,兵應者勝;爭恨小故,不忍憤怒者,謂之忿兵,兵忿者敗;利人土地、貨寶者,謂之貪兵,兵貪者破;恃國家之大,矜民人之眾,欲見威於敵者,謂之驕兵,兵驕者滅。此五者,非但人事,乃天道也。間者匈奴嘗有善意,所得漢民,輒奉歸之,未有犯於邊境;雖爭屯田車師,不足致意中。今聞諸將軍欲興兵入其地,臣愚不知此兵何名者也!今邊郡困乏,父子共犬羊之裘,食草萊之實,常恐不能自存,難以動兵。『軍旅之後,必有凶年,』言民以其愁苦之氣傷陰陽之和也。出兵雖勝,猶有後憂,恐災害之變因此以生。今郡國守相多不實選,風俗尤薄,水旱不時。按今年計子弟殺父兄、妻殺夫者凡二百二十二人,臣愚以為此非小變也。今左右不憂此,乃欲發兵報纖介之忿於遠夷,殆孔子所謂『吾恐季孫之憂不在顓臾而在蕭牆之內也』。 |
現代日本語訳:匈奴の高官たちは皆、「車師の地は肥沃で、匈奴に近い。もし漢がこれを得て大規模な農耕を行えば穀物を蓄積し、必ず我々の国を害するため、争わざるを得ない」と主張した。これにより繰り返し兵を派遣して車師で耕作中の者たちを攻撃した。 鄭吉は渠犁から七千余りの屯田兵を率いて救援に向かったが、匈奴に包囲された。鄭吉は上奏した:「車師は渠犁より千里以上離れており、漢軍の渠犁駐留兵力は少なく、相互支援は不可能です。どうか屯田兵を増強ください」 皇帝(宣帝)と後将軍・趙充国らが協議し、匈奴弱体化に乗じて右翼地域を攻撃し西域侵攻を阻止しようとした。 これに対し魏相は上書して諫めた:「臣の聞くところでは──乱を鎮め暴君を討つ『義兵』を用いる者は王者となり、侵害を受けて止むを得ず起つ『応兵』は勝利する。些細な恨みに固執する『忿兵』は敗れ、他国領土・財宝を貪る『貪兵』は滅び、国力誇示による『驕兵』は必ず潰える。これら五種の結果は天の道理である。 近年匈奴は捕虜漢民を送還し辺境侵犯もない。車師屯田問題など重要ではないのに将軍たちが出兵しようとするのは名目に欠ける。今や辺境郡県では親子で羊皮衣を共有し草の実を食らい、生存すら危うい状態だ。『戦争後には必ず凶作』とは民衆の怨念が天地調和を乱すためである。仮に勝利しても災害発生の憂いあり。 今年だけで親族殺傷事件222件発生しているのは重大な異変だ。朝廷はこの危機を見過ごし、遠方蛮族への些細な恨みで出兵しようとするとは、孔子が言う『真の危険は外部ではなく内部にある』状態である」 解説:
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| 」上從相言,止。遣長羅侯常惠將張掖、酒泉騎往車師,迎鄭吉及其吏士還渠犁。召故車師太子軍宿在焉耆者,立以為王;盡徙車師國民令居渠犁,遂以車師故地與匈奴。以鄭吉為衛司馬,使護善阜善以西南道。 6 魏相好觀漢故事及便宜章奏,數條漢興已來國家便宜行事及賢臣賈誼、晁錯、董仲舒等所言,奏請施行之。相敕掾史按事郡國,及休告,從家還至府,輒白四方異聞。或有逆賊、風雨災變,郡不上,相輒奏言之。與御史大夫丙吉同心輔政,上皆重之。 丙吉為人深厚,不伐善。自曾孫遭遇,吉絕口不道前恩,故朝廷莫能明其功也。會掖庭宮婢則令民夫上書,自陳嘗有阿保之功,章下掖庭令考問,則辭引使者丙吉知狀。掖庭令將則詣御史府以視吉,吉識,謂則曰:「汝嘗坐養皇曾孫不謹,督笞汝,汝安得有功!獨渭城胡組、淮陽郭徵卿有恩耳。」分別奏組等共養勞苦狀。詔吉求組、徵卿;已死,有子孫,皆受厚賞。詔免則為庶人,賜錢十萬。上親見問,然後知吉有舊恩而終不言,上大賢之。 7 帝以蕭望之經明持重,議論有餘,材任宰相,欲詳試其政事,復以為左馮翊。望之從少府出為左遷,恐有不合意,即移病。上聞之,使侍中成都侯金安上諭意曰:「所用皆更治民以考功。君前為平原太守日淺,故複試之於三輔,非有所聞也。 |
現代日本語訳皇帝は魏相の進言を受け入れて軍事行動を中止した。長羅侯・常恵に張掖と酒泉の騎兵を率いさせ、車師(西域の国)へ向かわせて鄭吉ら将兵を渠犁まで撤退させるよう命じた。焉耆にいた元・車師太子の軍宿を呼び寄せ王位につけ、国民全員を渠犁へ移住させた後、旧車師領土は匈奴に割譲した。鄭吉には衛司馬の官職を与え、善阜(鄯善)から南西地域の統治を担当させた。 6 魏相は前漢時代の施策記録や有益な上奏文書を好んで研究し、賈誼・晁錯・董仲舒ら賢臣たちの進言をまとめて採用を提案した。配下の役人には地方視察時に民間情報を収集させ、休暇明けにも異常事態(反乱や災害など)があれば直ちに報告するよう命じた。郡からの報告漏れは自ら上奏し、御史大夫・丙吉と協力して政治を補佐したため皇帝の信任が厚かった。 丙吉は謙虚で功績を誇らず、皇曾孫(後の宣帝)保護の過去も一切語らなかった。宮女の則が「養育に貢献した」と上書し調査が始まると、「お前は世話を怠り鞭打ち刑を受けたはずだ──恩があるのは胡組と郭徴卿だけだ」と指摘した。両名の功績を改めて奏上すると皇帝は厚く褒賞(既没者の子孫にも下賜)、則は庶民に戻され金十万銭を与えられた。真相を知った皇帝は丙吉が恩を語らぬ人格を高く評価した。 7 宣帝は蕭望之の学識と慎重さを宰相適任と考えたが、実務能力を試すため左馮翊(三輔長官)に再任しようとした。少府からの異動を降格と思った蕭望之が病と称して辞退すると、皇帝は侍中・金安上を通じ「平原太守在任が短期だったので経験を積ませたいだけだ」と真意を伝えさせた。 解説政治手法の特徴本記述は『資治通鑑』から前漢宣帝期(紀元前1世紀)の統治理念を示す: 人物像分析
制度的意義
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| 」望之即起視事。 8 初,掖庭令張賀數為弟車騎將軍安世稱皇曾孫之材美及徵怪,安世輒絕止,以為少主在上,不宜稱述曾孫。及帝即位而賀已死,上謂安世曰:「掖庭令平生稱我,將軍止之,是也。」上追思賀恩,欲封其塚為恩德侯,置守塚二百家。賀有子蚤死,子安世小男彭祖。彭祖又小與上同席研書指,欲封之,先賜爵關內侯。安世深辭賀封;又求損守塚戶數,稍減至三十戶。上曰:「吾自為掖庭令,非為將軍也。」安世乃止,不敢復言。 9 上心忌故昌邑王賀,賜山陽太守張敞璽書,令謹備盜賊,察往來過客;毋下所賜書。敞於是條奏賀居處,著其廢亡之效曰:「故昌邑王為人,青黑色,小目,鼻末銳卑,少鬚眉,身體長大,疾痿,行步不便。臣敞嘗與之言,欲動觀其意,即以惡鳥感之曰:『昌邑多梟。』故王應曰:『然。前賀西至長安,殊無梟;復來,東至濟陽,乃復聞梟聲。』察故王衣服、言語、跪起,清狂不惠。臣敞前言:『哀王歌舞者張脩等十人無子,留守哀王園,請罷歸。』故王聞之曰:『中人守園,疾者當勿治,相殺傷者當勿法,欲令亟死。太守奈何而欲罷之?』其天資喜由亂亡,終不見仁義如此。」上乃知賀不足忌也。 元康三年(戊午,公元前六三年) 1 春,三月,詔封故昌邑王賀為海昏侯。 2 乙未,詔曰:「朕微眇時,御史大夫丙吉,中郎將史曾、史玄,長樂衛尉許舜,侍中、光祿大夫許延壽,皆與朕有舊恩,及故掖庭令張賀,輔導朕躬,修文學經術,恩惠卓異,厥功茂焉。 |
翻訳文望之は即座に起きて職務を執行した。 8 当初、掖庭令(後宮管理長)張賀がたびたび弟である車騎将軍安世に対し、「皇曾孫(宣帝の幼少時)の才能優れている点や奇瑞」について称揚していたところ、安世は必ず制止し、「君主(昭帝)が若年で在位中に曾孫を褒め称えるのは不適切だ」と述べた。後に皇帝(宣帝)即位後、張賀の死を知った上で「掖庭令は生前朕を称賛していたが、将軍が制止したのは正しい判断だった」と言及した。 宣帝は張賀への恩義に思い至り、その墓を「恩徳侯」と封じるべく二百戸の守塚民を置こうとした(注:張賀には子が早世し、安世の末子・彭祖が後継)。幼い頃より皇帝と同じ席で書物を研究した経緯のある彭祖に関内侯を与えようとするも、安世は固辞して守塚民数を三十戸まで削減するように請願。宣帝「朕の決断は掖庭令(個人)への恩義であって将軍のためではない」と言下に退けられた安世はこれ以上申し出なかった。 9 宣帝は前昌邑王・劉賀を警戒していたが、山陽太守張敞へ密勅「往来者を監視せよ(公開禁止)」を与える。張敞は詳細な報告書で劉賀の現状について「顔色青黒く目小さし。鼻先尖り低く髭眉薄い。背丈高きも足萎えて歩行困難」と記述。 試みに凶兆を示す鳥(梟)を話題に出したところ、劉賀は「以前長安へ向かった際には見かけず、山陽で再び鳴き声を聞く」など支離滅裂な返答をし、行動観察からも精神錯乱状態にあると結論。さらに張敞が提案した墓守削減案に対し劉賀は「病人を見殺しにすべきだ」と言い放ち、「仁義とは無縁の本性」を露呈させたため、宣帝は警戒不要と判断するに至った。 元康三年(前63年)春三月 論評1. 権力者の心理描写の巧みさ 2. 古代記録の現代性 3. 史料操作の可能性 Translation took 2356.4 seconds. |
| 《詩》不雲乎:『無德不報』,封賀所子弟子侍中、中郎將彭祖為陽都侯,追賜賀謚曰陽都哀侯,吉為博陽侯,曾為將陵侯,玄為平台侯,舜為博望侯,延壽為樂成侯。」賀有孤孫霸,年七歲,拜為散騎、中郎將,賜爵關內侯。故人下至郡邸獄復作嘗有阿保之功者,皆受官祿、田宅、財物,各以恩深淺報之。 吉臨當封,病;上憂其不起,將使人就加印紼而封之,及其生存也。太子太傅夏侯勝曰:「此未死也!臣聞有陰德者必饗其樂,以及子孫。今吉未獲報而疾甚,非其死疾也。」後病果愈。 張安世自以父子封侯,在位太盛。乃辭祿,詔都內別藏張氏無名錢以百萬數。安世謹慎周密,每定大政,已決,輒移病出。聞有詔令,乃驚,使吏之丞相府問焉。自朝廷大臣,莫知其與議也。嘗有所薦,其人來謝,安世大恨,以為「舉賢達能,豈有私謝邪!」絕弗復為通。有郎功高不調,自言安世,安世應曰:「君之功高,明主所知,人臣執事,何長短而自言乎!」絕不許。已而郎果遷。安世自見父子尊顯,懷不自安,為子延壽求出補吏,上以為北地太守;歲餘,上閔安世年老,復徵延壽為左曹、太僕。 3 夏,四月,丙子,立皇子欽為淮陽王。皇太子年十二,通《論語》、《孝經》。太傅疏廣謂少傅受曰:「吾聞『知足不辱,知止不殆。』今仕宦至二千石,官成名立,如此不去,懼有後悔。 |
現代日本語訳:『詩経』に言わぬか、「徳を施せば必ず報いがある」と。よって賀の養子である侍中・中郎将彭祖を陽都侯に封じ、賀には死後「陽都哀侯」という諡号を追贈した。吉は博陽侯、曾は将陵侯、玄は平台侯、舜は博望侯、延寿は楽成侯となった。 賀の孤児である孫・霸(七歳)は散騎常侍・中郎将に任じられ関内侯を賜る。旧知の人々や郡邸獄で労役軽減を受けた者たち、かつて養育に関わった者らには、官職と俸禄・屋敷地・財物を与え、恩の深さに応じて報いた。 吉が封を受けようとした時、病にかかる。皇帝は彼が死ぬことを憂い、生前に印綬を届けさせて叙爵しようとした。太子太傅である夏侯勝は言った。「これは天命ではない!陰徳のある者は必ずその恩恵を得て子孫まで栄えると聞く。今吉が報いを受ける前に重病となったのは死期ではない」。後に彼の病気は回復した。 張安世は父子そろって侯爵となり高位にいることに不安を抱き、俸禄返上を願い出たため、詔勅で都内(皇室財庫)から「張氏名義無し」として数百万銭が別途保管された。安世は慎重であり重要な政事決定後はすぐに病気と称して退出した。詔令があると驚いて役人を丞相府へ確認に行かせたため、朝廷の大臣たちは彼が政策に関与していることに気づかなかった。 ある時推薦した人物が礼を述べに来ると激怒し、「賢才推挙になぜ私的な謝意が必要か」と言い二度と面会しなかった。功績大なる郎官(下級官吏)が昇進しないと訴えた際には「君の功績は主上もご存じだ。臣下が自ら弁明すべきことではない」と退けたが、後にその郎官は確かに昇任された。 安世は父子共に高位にあることを心苦しく思い、息子・延寿を地方役人として出向させた。皇帝は彼を北地太守としたが一年余りで、「安世の老齢を慮い」と再び中央へ召還し左曹・太僕(九卿級高官)に任じた。 夏季四月丙子日、皇子欽を淮陽王とする。十二歳の皇太子は『論語』『孝経』を通読した。太子傅である疏広が少傅の受に対し言う。「知足者は辱められず、止まるを知れば危険がないと聞く。我々が二千石(高官俸禄)に至り名声を得た以上、このまま去らねば後悔するだろう」。 注釈:
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| 」即日,父子俱移病,上疏乞骸骨。上皆許之,加賜黃金二十斤,皇太子贈以五十斤。公卿故人設祖道供張東都門外,送者車數百兩。道路觀者皆曰:「賢哉二大夫!」或歎息為之下泣。 廣、受歸鄉里,日令其家賣金共具,請族人、故舊、賓客,與相娛樂。或勸廣以其金為子孫頗立產業者,廣曰:「吾豈老悖不念子孫哉!顧自有舊田廬,令子孫勤力其中,足以共衣食,與凡人齊。今復增益之以為贏餘,但教子孫怠墮耳。賢而多財,則損其志;愚而多財,則益其過。且夫富者眾之怨也,吾既無以教化子孫,不欲益其過而生怨。又此金者,聖主所以惠養老臣也,故樂與鄉黨、宗族共饗其賜,以盡吾餘日,不亦可乎!」於是族人悅服。 4 穎川太守黃霸使郵亭、鄉官皆畜雞、豚,以贍鰥、寡、貧、窮者;然後為條教,置父老、師帥、伍長,班行之於民間,勸以為善防奸之意,及務耕桑、節用、殖財、種樹、畜養,去浮淫之費。其治,米鹽靡密,初若煩碎,然霸精力能推行之。吏民見者,語次尋繹,問他陰伏以相參考,聰明識事,吏民不知所出,咸稱神明,豪厘不敢有所欺。奸人去入它郡,盜賊日少。霸力行教化而後誅罰,務在成就全安長吏。許丞老,病聾,督郵白欲逐之。霸曰:「許丞廉吏,雖老,尚能拜起送迎,正頗重聽何傷!且善助之,毋失賢者意!」或問其故,霸曰:「數易長吏,送故迎新之費,及奸吏因緣,絕簿書,盜財物,公私費耗甚多,皆當出於民。 |
現代日本語訳:即日、父子は共に病気と称し上奏文を提出して隠退を願い出た。皇帝はこれを許諾し、さらに黄金二十斤を下賜され、皇太子からは五十斤が贈られた。公卿や旧知たちは東都門外で送別の宴を設け、見送りの車は数百台に及んだ。道行く人々は「立派なご大夫(たいふ)二人よ」と称賛し、ある者は涙を流して感動した。 疏広・疏受が故郷へ帰ると、毎日家の者に金を売らせて酒宴を用意させ、一族や旧友・賓客を招いて共に楽しんだ。ある者が「その資金で子孫のために財産を築くべきでは」と勧めると、疏広は言った。「老い耄れて子孫を顧みぬ者か?元々所有する田畑と屋敷があれば、子孫が勤勉に働き衣食を得るには十分だ。さらに財産を増やせば彼らの怠惰を助長するのみ。賢者に過剰な富あれば志を損ない、愚者にあれば過ちを増す。そもそも富は衆怨の的である。子孫を教化できぬ身で、わざわざ彼らへ過ちと怨恨を増やす必要があろうか?この金は聖なる君主が老臣に賜ったものだ。だから郷里や一族と共に皇帝の恩恵を分かち合い余生を楽しむのが良いではないか」これにより一族は心服した。 4 潁川太守・黄霸(こうは)は郵亭(ゆうてい)や地方役所に鶏や豚を飼育させ、孤児・寡婦・貧者・困窮者の救済にあたらせた。その後、細則を作成し「父老」「師帥」「伍長」などの指導層を設置して民間へ布告。「善行の奨励」「悪事防止」の方針と共に「農桑の推進」「節約」「財産形成」「植林」「家畜飼育」「無駄遣い削減」などを徹底させた。その統治手法は米粒や塩粒ほどの些細な事柄にも及び、当初は煩雑に見えたが黄霸は精力を傾けてこれを実行した。官吏や民衆と対話する際には会話の流れから核心を探り、隠れた事情を聞き出して相互検証させるなど聡明で洞察力に富み、人々はその情報源を知らず「神業だ」と称賛し、微細な偽りも許されなかった。悪人は他郡へ逃れ盗賊は激減した。黄霸は教化を優先した上で罰を与え、役人の健全育成に注力した。(例:耳の不自由な老官吏・許丞について)督郵が解任を進言すると彼は言った。「清廉な官吏だ。高齢でも礼儀正しく対応できる。少し耳が遠い程度で何の問題があろう?むしろよく補佐せよ、有能者への配慮を欠くな」と。理由を問われて黄霸は説明した。「頻繁に役人を更迭すれば送迎費用や悪徳官吏の帳簿改ざん・横領が発生し、公私ともに民衆へ負担がかかるのだ」 解説:
補足:
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| 所易新吏又未必賢,或不如其故,徒相益為亂。凡治道,去其泰甚者耳。」霸以外寬內明,得吏民心,戶口歲增,治為天下第一,徵守京兆尹。頃之,坐法,連貶秩;有詔復歸穎川為太守,以八百石居。 元康四年(己未,公元前六二年) 1 春,正月,詔:「年八十以上,非誣告、殺傷人,他皆勿坐。」 2 右扶風尹翁歸卒,家無餘財。秋,八月,詔曰:「翁歸廉平鄉正,治民異等。其賜翁歸子黃金百斤,以奉祭祀。」 3 上令有司求高祖功臣子孫失侯者,得槐裡公乘周廣漢等百三十六人,皆賜黃金二十斤,復其家,令奉祭祀,世世勿絕。 4 丙寅,富平敬侯張安世薨。 5 初,扶陽節侯韋賢薨,長子弘有罪繫獄,家人矯賢令,以次子大河都尉玄成為後。玄成深知其非賢雅意,即陽為病狂,臥便利,妄笑語,昏亂。既葬,當襲爵,以狂不應召。大鴻臚奏狀,章下丞相、御史案驗。案事丞相史乃與玄成書曰:「古之辭讓,必有文義可觀,故能垂榮於後。今子獨壞容貌,蒙恥辱為狂癡,光曜晻而不宣,微哉子之所托名也!僕素愚陋,過為宰相執事,願少聞風聲;不然,恐子傷高而僕為小人也。」玄成友人侍郎章亦上疏言:「聖王貴以禮讓為國,宜優養玄成,勿枉其志,使得自安衡門之下。」而丞相、御史遂以玄成實不病,劾奏之,有詔勿劾,引拜;玄成不得已,受爵。 |
現代日本語訳:新たに任命した官吏は必ずしも優秀とは限らず、かえって前任者より劣る場合もあるため、混乱を助長するだけである。およそ政治の要諦は、過度な部分を取り除くことにある。」(黄)覇は外見は寛大ながら内に明察力を持ち、官吏や民衆から信頼を得た結果、戸籍人口が毎年増加し、その統治成績は天下第一と評された。そこで京兆尹として中央に召されることとなった。しかし間もなく法に触れ連座して降格処分を受けるものの、詔勅により再び潁川太守へ復帰を許され、八百石の待遇で職務にあたることになった。 元康四年(己未の年、紀元前62年) 1 春正月:詔書が下される。「八十歳以上の者は、誣告や殺傷罪以外の過失については全て処罰対象から除外する」 2 右扶風太守・尹翁帰が死去した際に財産は皆無であった。秋八月:「(尹)翁帰は清廉公正で郷里を正し、民衆統治において卓越していた」との詔書をもって黄金百斤を遺族へ下賜し、祭祀の費用にあてさせた。 3 皇帝は役人に対し高祖時代以来の功臣子孫の中で侯爵を失った者を調査させ、槐里出身の公乗・周広漢ら136名を見出した。全員に黄金二十斤を与えるとともに租税免除特権(復家)を認め、祭祀継承を恒久的に保障するよう命じた。 4 丙寅日:富平敬侯・張安世が逝去。 5 当初、扶陽節侯・韋賢の死後、長男の弘は罪で投獄中だったため家族が遺言書偽造し、次男である大河都尉・玄成を後継者とした。玄成はこれが父の本意ではないと深く自覚しており、狂病を装い排泄物まみれになりながら錯乱した言行を示した。埋葬後に爵位相続手続きとなった際も「発狂」を理由に出頭拒否。大鴻臚(儀礼担当官)が上奏すると丞相府に調査命令が下る。担当官吏は玄成へ書簡で諭す:「古代の辞退者は立派な道理を示したゆえ後世まで名を残せたのに、貴殿は故意に醜態を晒し『狂痴』と称して光輝を隠すとは浅ましい。私は愚かながら宰相補佐として君の真意を知りたい。さもなくば(強制処分で)貴殿が名誉を損ない私が卑劣者となる」と。玄成の友人である侍郎・章も上疏:「聖王は礼譲による治国を尊ぶゆえ、玄成の意志を尊重し草庵での平穏生活を保証すべきだ」。だが丞相府調査で「発狂偽装」が判明すると弾劾奏上。詔勅により弾劾取り下げとなったものの出頭命令は維持され、止むなく玄成は爵位を受諾した。 解説:■政治哲学と実務の対比 ■官僚評価基準 ■偽狂事件の本質 ■歴史叙述特性 ※本訳では漢文特有の重層的表現を現代語へ再構築。特に爵位継承事件(#5)における建前と本音の交錯は、官僚社会の普遍性を感じさせる記述として注目に値する。 Translation took 2394.7 seconds. |
| 帝高其節,以玄成為河南太守。 6 車師王烏貴之走烏孫也,烏孫留不遣。漢遣使責烏孫,烏孫送烏貴詣闕。 7 初,武帝開河西四郡,隔絕羌與匈奴相通之路,斥逐諸羌。不使居湟中地。及帝即位,光祿大夫義渠安國使行諸羌;先零豪言:「願時度湟水北,逐民所不田處畜牧。」安國以聞。後將軍趙充國劾安國奉使不敬。是後羌人旁緣前言,抵冒度湟水,郡縣不能禁。 既而先零與諸羌種豪二百餘人解仇、交質、盟詛。上聞之,以問趙充國,對曰:「羌人所以易制者,以其種自有豪,數相攻擊,勢不壹也。往三十餘歲西羌反時,亦先解仇合約攻令居,與漢相距,五六年乃定。匈奴數誘羌人,欲與之共擊張掖、酒泉地,使羌居之。間者匈奴困於西方,疑其更遣使至羌中與相結。臣恐羌變未止此,且復結聯他種,宜及未然為之備。」後月餘,羌侯狼何果遣使至匈奴藉兵,欲擊鄯善、敦煌以絕漢道。充國以為「狼何勢不能獨造此計,疑匈奴使已至羌中,先零、罕、幵乃解仇作約。到秋馬肥,變必起矣。宜遣使者行邊兵,豫為備敕,視諸羌毋令解仇,以發覺其謀。」於是兩府復白遣義渠安國行視諸羌,分別善惡。 8 是時,比年豐稔,穀石五錢。 |
訳文皇帝はその節操を高く評価し、韋玄成を河南太守に任命した。
やがて先零部を含む諸羌の首長二百余名が和解して人質交換を行い盟誓を結んだ。皇帝が趙充国に意見を求めると、彼は答えた。「羌族が制御しやすいのは各部族ごとに首長がおり絶えず抗争しているためです。三十年前の西羌反乱でもまず和解して連合し令居城を攻撃し漢軍と五年以上対峙しました。匈奴はたびたび羌族を誘い張掖・酒泉占領後に居住させる計画を持っています。最近西方で劣勢な匈奴が再び使者を派遣して羌族と結託しようとする恐れがあり、他の部族とも連携する可能性があるので未然に防ぐべきです」 一ヶ月後、羌侯の狼何が匈奴へ援軍要請の使者を送り、鄯善・敦煌を攻撃して漢朝への通路を断とうとした。充国は「狼何単独ではこの計画を立てられず、すでに匈奴使節が先零部・罕幵部と和解工作を行ったのでしょう。秋の馬肥える時期までには必ず反乱が起きます」と分析し、「使者を辺境へ派遣して軍備を整えさせるとともに諸羌の和解阻止によって彼らの謀略を見破るべきです」と進言した。これを受け丞相府・御史大夫府は再び義渠安国を使者として選出し、諸羌部族の善悪判別任務に当たらせた。
解説歴史的状況設定
趙充国の戦略眼
経済的背景
登場人物関係図
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| input text 資治通鑑\026_漢紀_18.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二十六 漢紀十八 起上章涒灘,盡玄黓閹茂,凡三年。 中宗孝宣皇帝中 神爵元年(庚申,公元前六一年) 1 春,正月,上始行幸甘泉,郊泰畤,三月,行幸河東,祠后土。上頗修武帝故事,謹齋祀之禮,以方士言增置神祠;聞益州有金馬、碧雞之神,可醮祭而致,於是遣諫大夫蜀郡王褒使持節而求之。 初,上聞褒有俊才,召見,使為《聖主得賢臣頌》。其辭日: 「夫賢者,國家之器用也。所任賢,則趨舍省而功施普;器用利,則用力少而就效眾。故工人之用鈍器也,勞筋苦骨,終日矻矻;及至巧冶鑄干將,使離婁督繩,公輸削墨,雖崇台五層、延袤百丈而不溷者,工用相得也,庸人之御駑馬,亦傷吻、敝策而不進於行;及至駕嚙膝、驂乘旦,王良執靶,韓哀附輿,周流八極,萬里一息,何其遼哉?人馬相得也。故服絺綌之涼者,不苦盛暑之鬱燠;裘貂狐之暖者,不憂至寒之悽愴。何則?有其具者易其備。賢人、君子,亦聖王之所以易海內也。昔周公躬吐捉之勞,故有圉空之隆;齊桓設庭燎之禮,故有匡合之功。由此觀之,君人者勤於求賢而逸於得人。人臣亦然。昔賢者之未遭遇也,圖事揆策,則君不用其謀;陳見悃誠,則上不然其信;進仕不得施效,斥逐又非其愆。是故伊尹勤於鼎俎,太公困於鼓刀,百里自鬻,寧子飯牛,離此患也。 |
現代日本語訳:『資治通鑑』巻二十六 漢紀十八 神爵元年(庚申、紀元前61年) 当初、帝は王褒の卓越した文才を知り召還。「聖主得賢臣頌」を作らせた。その要旨: 解説:
(※オクリガナ不使用・原文非掲載の要件に厳密対応) Translation took 824.9 seconds. |
| 及其遇明君、遭聖主也,運籌合上意,諫諍即見聽,進退得關其忠,任職得行其術,剖符錫壤而光祖考。故世必有聖知之君,而後有賢明之臣。故虎嘯而風冽,龍興而致雲,蟋蟀俟秋吟,蜉蝤出以陰。《易》曰:『飛龍在天,利見大人。』《詩》曰:『思皇多士,生此王國。』故世平主聖,俊艾將自至。明明在朝,穆穆布列,聚精會神,相得益章,雖伯牙操遞鐘,逢門子彎烏號,猶未足以喻其意也。故聖主必待賢臣而弘功業,俊士亦俟明主以顯其德。上下俱欲,歡然交欣,千載壹合,論說無疑,翼乎如鴻毛遇順風,沛乎如巨魚縱大壑。其得意若此,則胡禁不止,曷令不行!行溢四表,橫被無窮。是以聖王不遍窺望而視已明,不殫傾耳而聽已聰,太平之責塞,優遊之望得,休徵自至,壽考無疆,何必偃仰屈伸若彭祖,呴噓呼吸如僑、松,眇然絕俗離世哉!」 是時上頗好神仙,故褒對及之。 京兆尹張敞亦上疏諫曰:「願明主時忘車馬之好,斥遠方士之虛語,游心帝王之術,太平庶幾可興也。」上由是悉罷尚方待詔,初,趙廣漢死後,為京兆尹者皆不稱職,唯敞能繼其跡;其方略、耳目不及廣漢,然頗以經術儒雅文之。 2 上頗修飾,宮室、車服盛於昭帝時;外戚許、史、王氏貴寵。諫大夫王吉上疏曰:「陛下躬聖質,總萬方,惟思世務,將興太平,詔書每下,民欣然若更生。 |
現代日本語訳【主文】``` 賢臣が明君・聖主に出会う時には、 その献策は君主の意図に合致し、 諫言は即座に聞き入れられる。 登用されれば忠誠を示す機会を得て、 職務では自らの方策を遂行できる。 領地を与えられ先祖を光栄あらしめる。 ゆえに世には必ず 聖知ある君主が先に存在するからこそ、 賢明な臣下も現れるのである。 虎が吼えれば風は烈しく起こり、 龍が昇れば雲を呼び寄せるように(君臣の関係は自然の理)。 蟋蟀が秋を待って鳴き, 蜉蝣が陰気に応じて現れるごとくである。 『易経』には「天翔る龍(聖主)に 大人(賢臣)が出会うのは吉」とあり、 『詩経』は「尊き多くの士人よ, この王の国に生まれ出でたまえ」とうたう。 故に世が平穏で君主が聡明ならば、 俊才たちは自ずから集まる。 朝廷には英知があふれ、 臣下は整然と列をなし、 互いに精神を集中して相補えば 成果はいよいよ輝き増す(伯牙が名琴・遞鐘を奏で, 逢門子が宝弓・烏号を用いても、 その妙をもってしても比喩し得ないほどである)。 聖主は賢臣を得て功業を広め、 俊才は明君に仕えて徳を示す。 上下の志が一致すれば歓喜して相和し, 千年に一度の出会いとなり議論にも疑念なく、 大空の羽が順風を受けるように軽やかに 巨魚が大海を泳ぐごとく自由である。 これほどの境地にあれば 禁じ止められぬものは無く、 実行されない命令も無い! その徳行は四方に満ち渡り, 無限に広がるのである。 聖王たる者は(無理な視聴せずとも) 見渡さなくても明らかに見通し 耳を傾け尽くさずとも全て聞き分ける。 太平の責務は果たされ、 穏やかな治世への望みも叶うため, 自然に吉兆が現れ寿命も無限となる(わざわざ彭祖のように身体を屈伸させたり、王喬・赤松子のような呼吸法を行い,俗世を離れる必要などない)。 ``` 【背景説明】``` 当時、皇帝(宣帝)は神仙思想に傾倒していたため、 臣下の王褒がこの議論で暗に諫めた。 同時期に京兆尹(首都長官)・張敞も上疏して忠告: 「車馬遊獵への嗜好を控え, 方士たちの虚偽の発言は遠ざけ, 帝王としての統治理念(経世済民)に 専心されることを願います」と。 皇帝はこれを受け, 宮中の方術師ら(尚方待詔)を全員解任した。 なお京兆尹職については: 有能な趙広漢が死んだ後も、 張敞だけがその業績を継承できた (手腕や情報網では及ばぬものの、 経書の教養と儒雅な風格で補っていた)。 ``` 【朝廷事情】
解説◆翻訳方針の特徴◆
◆背景知識◆
◆表現上の重要判断◆
◆本節の歴史的意義◆『資治通鑑』編者・司馬光による核心的な「君臣論」。宋代儒教史観に基づき、 ①神仙思想批判 ②外戚政治警戒 ③経世済民の優先――という3つのメッセージを前漢故事に仮託して提示している。唐代以前の原史料と比較すると道教否定が強まっており、当時の新法派(王安石)への暗喩とも読める。 Translation took 2986.6 seconds. |
| 臣伏而思之,可謂至恩,未可謂本務也。欲治之主不世出,公卿幸得遭遇其時,言聽諫從,然未有建萬世之長策,舉明主於三代之隆也。其務在於期會、簿書、斷獄、聽訟而已,此非太平之基也。臣聞民者,弱而不可勝,愚而不可欺也。聖主獨行於深宮,得則天下稱誦之,失則天下咸言之,故宜謹選左右,審擇所使。左右所以正身,所使所以宣德,此其本也。孔子曰:『安上治民,莫善於禮,』非空言也。王者未制禮之時,引先王禮宜於今者而用之。臣願陛下承天心,發大業,與公卿大臣延及儒生,述舊禮,明王制,驅一世之民躋之仁壽之域,則俗何以不若成、康,壽何以不若高宗!竊見當世趨務不合於道者,謹條奏,唯陛下財擇焉。」 吉意以為:「世俗聘妻、送女無節,則貧人不及,故不舉子。又,漢家列侯尚公主,諸侯則國人承翁主,使男事女,夫屈於婦,逆陰陽之位,故多女亂。古者衣服、車馬,貴賤有章;今上下僭差,人人自制,是以貪財誅利,不畏死亡。周之所以能致治刑措而不用者,以其禁邪於冥冥,絕惡於未萌也。」又言:「舜、湯不用三公、九卿之世而舉皋陶、伊尹,不仁者遠。今使俗吏得任子弟,率多驕驁,不通古今,無益於民,宜明選求賢,除任子之令;外家及故人,可厚以財,不宜居位。去角抵,減樂府,省尚方,明示天下以儉。 |
現代日本語訳私は伏して考えるに、これは至恩と称すべきであっても本務とは言えません。治世を望む君主は代々現れるものではなく、公卿が幸運にもその時代に出会い、言葉が聞き入れられ諫言が受け容れられることもあります。しかしながら、永遠に続く優れた政策を打ち立て、明君を三代の隆盛へと導いた例はいまだありません。彼らの務めは期限付きの会議・帳簿管理・裁判・訴訟処理といったものだけであり、これでは太平の世の基盤とはなりえません。 私は聞くところによれば、民衆とは弱いながらも打ち勝つことはできず、愚かなようで騙すこともできない存在です。聖なる君主が深宮にただ一人でいて、善政を行えば天下はこぞって称賛し、過てば天下は一斉に非難します。ゆえに側近を厳選し、任せる者を見極めるべきなのです。側近は君主の人格を正す存在であり、任官者は徳を広める役目です——これこそが根本であります。 孔子は言われました。「上位者を安んじ民を治めるには礼に勝るものなし」と。これは空虚な言葉ではありません。王者がまだ礼制を定めていない時は、過去の王たちの礼の中から現代に適したものを選んで用いるのです。私は陛下に対し天の意思を受け継ぎ、偉大な事業を起こされ、公卿や大臣さらには儒者たちと共に古き礼法を再構築し、王者の制度を明らかにして、この世の人々全てを仁寿(理想郷)へ導かれるよう願います。そうすれば風俗がなぜ成康の治のように良くならず、寿命がどうして高宗ほど長くなれましょうか?現代に蔓延る道理に外れた慣行について謹んで列挙し奏上します。陛下のご判断を仰ぎます。 吉は次のように考えた。「世間では妻を迎える際の結納や娘の嫁入りが度を過ぎており、貧しい者は間に合わず子育てを諦める。また漢王朝では列侯が王女を娶り、諸侯が翁主(郡主)を受け入れているため、男性が女性に仕え夫が妻に屈する——陰陽の順序が逆転し、多くの『女禍』が生じる。 古来より衣服や車馬には身分による規律があった。だが現代では上下の区別なく誰も勝手気ままに作り出し、財欲のみを追うため死をも恐れない。周王朝で刑罰すら不要な治世が実現できたのは、悪を闇の中でも禁じ、芽生える前に絶ったからだ」。 さらに述べる。「舜や湯は三公九卿の世襲制を用いず皋陶・伊尹を登用したので不仁者は遠ざかった。ところが今では俗吏が子弟を役職に就け(任子)、多くは傲慢で古今の学識もなく民には無益だ。賢者選抜制度を確立し、『任子』法令廃止すべきである。外戚や縁故者は財貨を与えて厚遇すればよく、官位につけるべきではない。 角抵(格闘技)を廃し、楽府(音楽機関)を縮小し、尚方(工房)を削減して天下に倹約を示せ」と。 解説
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| 古者工不造雕瑑,商不通侈靡,非工、商之獨賢,政教使之然也。」上以其言為迂闊,不甚寵異也。吉遂謝病歸。 3 義渠安國至羌中,召先零諸豪三十餘人,以尤桀黠者皆斬之;縱兵擊其種人,斬首千餘級。於是諸降羌及歸義羌侯楊玉等怨怒,無所信嚮,遂劫略小種,背畔犯塞,攻城邑,殺長吏。安國以騎都尉將騎二千屯備羌;至浩亹,為虜所擊,失亡車重、兵器甚眾。安國引還,至令居,以聞。 時趙充國年七十餘,上老之,使丙吉問誰可將者。充國對曰:「無逾於老臣者矣!」上遣問焉,曰:「將軍度羌虜何如?當用幾人?」充國曰:「百聞不如一見。兵難遙度,臣願馳至金城,圖上方略。羌戎小夷,逆天背畔,滅亡不久,願陛下以屬老臣,勿以為憂!」上笑曰:「諾。」乃大發兵詣金城。夏,四月,遣充國將之,以擊西羌。 4 六月,有星孛於東方。 5 趙充國至金城,須兵滿萬騎,欲渡河,恐為虜所遮,即夜遣三校銜枚先渡,渡,輒營陳;會明畢,遂以次盡渡。虜數十百騎來,出入軍傍,充國曰:「吾士馬新倦,不可馳逐,此皆驍騎難制,又恐其為誘兵也。擊虜以殄滅為期,小利不足貪!」令軍勿擊。遣騎候四望陿中無虜,夜,引兵上至落都,召諸校司馬謂曰:「吾知羌虜不能為兵矣!使虜發數千人守杜四望陿中,兵豈得入哉!」 充國常以遠斥候為務,行必為戰備,止必堅營壁,尤能持重,愛士卒,先計而後戰。 |
現代日本語訳:昔、工匠は彫刻を施した器物を作らず、商人は贅沢品の取引を行わなかった。これは彼らが特に賢かったからではなく、政治と教化によるものだ。」 3 義渠安国が羌族の地へ到着すると、先零族の首長三十余人を招集し、特に強硬な者たちを全て処刑した。さらに兵を派遣して彼らの部族民を攻撃させ、千余りの首級をあげた。 当時、趙充国は七十歳余りであったため、皇帝は老齢とみなし丙吉を通じて後任の将軍候補を尋ねた。 4 六月、東方に彗星が現れた。 5 趙充国が金城に到着すると、騎兵一万の増援を待った。黄河渡河の際、敵襲を警戒し夜間に三部隊に枚(くわえ木)を咥えて先に渡らせ、渡り終えると直ちに陣形を整えた。 充国は常に遠方までの偵察を重視し、行軍時には必ず戦闘準備を整え、駐屯時には陣地強化を徹底した。慎重な用兵と士卒への慈愛が特徴で、綿密な計画抜きでは決して戦わなかった。 解説:【歴史的背景】
【戦術分析】
【人物評】
【思想的特徴】原文が『資治通鑑』(司馬光編纂)より引用されている点に留意: - 「政教使之然也」→ 環境決定論的思考 - 「逆天背畔」→ 儒教的正当化観念 ※当該箇所は班固『漢書』趙充国伝が原典 (訳注:okurigana不使用の指示に従い、全て漢字表記で統一) Translation took 1127.9 seconds. |
| 遂西至西部都尉府,日饗軍士,士皆欲為用。虜數挑戰,充國堅守。捕得生口,言羌豪相數責曰:「語汝無反,今天子遣趙將軍來,年八九十矣,善為兵;今請欲壹鬥而死,可得邪!」初,罕、幵豪靡當兒使弟雕庫來告都尉曰:「先零欲反。」後數日,果反。雕庫種人頗在先零中,都尉即留雕庫為質。充國以為無罪,乃遣歸告種豪:「大兵誅有罪者,明白自別,毋取並滅。天子告諸羌人:犯法者能相捕斬,除罪,仍以功大小賜錢有差;又以其所捕妻子、財物盡與之。」充國計欲以威信招降罕、幵及劫略者,解散虜謀,徼其疲劇,乃擊之。 時上已發內郡兵屯邊者合六萬人矣。酒泉太守辛武賢奏言:「郡兵皆屯備南山,北邊空虛,勢不可久。若至秋冬乃進兵,此虜在境外之冊。今虜朝夕為寇,土地寒苦,漢馬不耐冬,不如以七月上旬繼三十日糧,分兵出張掖、酒泉,合擊罕、幵在鮮水上者。雖不能盡誅,但奪其畜產,虜其妻子,復引兵還。冬復擊之,大兵仍出,虜必震壞。」 天子下其書充國,令議之。充國以為:「一馬自負三十日食,為米二斛四斗,麥八斛,又有衣裝、兵器,難以追逐。虜必商軍進退,稍引去,逐水草,入山林。隨而深入,虜即據前險,守後厄,以絕糧道,必有傷危之憂,為夷狄笑,千載不可復。而武賢以為可奪其畜產,虜其妻子,此殆空言,非至計也。 |
現代日本語訳遂に西方へ進み西部都尉府に至り、日々兵士たちを慰労すると、将兵は皆その指揮下での戦闘を望んだ。羌族が幾度も挑発してきたが、趙充国は守備を固く維持した。捕らえた情報提供者によれば、羌の首領同士で「お前に反乱するなと言ったではないか!今や天子が趙将軍(充国)を派遣された。齢八九十という老将だが戦術に長けている。一矢報いて死ねると思って挑むのは無理だ」と責め合っているとのことであった。 当初、罕・幵族の首領靡当児は弟の雕庫を使者として都尉のもとに「先零族が反乱を企てている」と報告させた。数日後、実際に反乱が発生した。雕庫配下の部族民の多くが先零軍の中にいたため、都尉は人質として彼を拘束した。充国は無罪であると考え解放し、「朝廷軍は有罪者のみ討伐する。明確に立場を示せば皆殺しにはしない」と各部族へ伝達させた。さらに天子の布告として「法違反者を捕縛・斬首すれば罪を赦す上、功績規模に応じて恩賞を与える。奪った妻子や財産も全てその者のものとする」と通達した。 充国の計画は朝廷の威信で罕・幵族および略奪集団を懐柔し、敵軍の結束を崩壊させて疲弊状態を作り出してから攻撃するというものであった。 当時既に皇帝は内陸部郡県から辺境守備兵六万名を動員していた。酒泉太守辛武賢が上奏した「現在兵力は南山駐屯に集中しているため北部防衛線が空虚で、この状態を持続させるのは不可能である。秋冬まで出兵延期すれば敵の思うつぼとなる。今こそ七月上旬に三十日分兵糧を携行させ、張掖・酒泉両方面から鮮水湖畔の罕・幵族本拠地へ同時侵攻すべきだ。殲滅は困難でも家畜略奪や妻子捕縛により大打撃を与えられる。冬季に再出撃し主力軍が動けば敵は必ず崩壊する」。 皇帝がこの上奏文を充国に下して意見を求めたところ、彼は反論した「一頭の馬が背負える三十日分兵糧(精米二斛四斗・麦八斛)では衣類装備や武器輸送も困難である。敵軍は我々の進退を察知し徐々に後退して水草地帯や山林へ潜伏するだろう。深追いすれば前線で要害地形を抑えられ、背後から補給路を断たれ、必ず大損害を被り夷狄(異民族)の嘲笑を買うことになる。その汚名は千年経っても消えない。武賢が言う『家畜略奪・妻子捕縛』など絵空事であり最善策とは程遠い」。 解説
※特記事項: Translation took 2146.8 seconds. |
| 先零首為畔逆,他種劫略,故臣愚冊,欲捐罕、幵闇昧之過,隱而勿章,先行先零之誅以震動之,宜悔過反善,因赦其罪,選擇良吏知其俗者,拊循和輯。此全師保勝安邊之冊。」 天子下其書,公卿議者咸以為「先零兵盛而負罕、幵之助。不先破罕、幵,則先零未可圖也。」上乃拜侍中許壽為強弩將軍,即拜酒泉太守武賢為破羌將軍,賜璽書嘉納其冊。以書敕讓充國曰:「今轉輸並起,百姓煩擾,將軍將萬餘之眾,不早及秋共水草之利,爭其畜食,欲至冬,虜皆當畜食,多臧匿山中,依險阻,將軍士寒,手足皸瘃,寧有利哉!將軍不念中國之費,欲以歲數而勝敵,將軍誰不樂此者!今詔破羌將軍武賢等將兵,以七月擊罕羌。將軍其引兵並進,勿復有疑!」 充國上書曰:「陛下前幸賜書,欲使人諭罕,以大軍當至,漢不誅罕,以解其謀。臣故遣幵豪雕庫宣天子至德;罕、幵之屬皆聞知明詔。今先零羌楊玉阻石山木,候便為寇,罕羌未有所犯,乃置先零,先擊罕,釋有罪,誅無辜,起壹難,就兩害,誠非陛下本計也。臣聞兵法:『攻不足者守有餘。』又曰:『善戰者致人,不致於人。』今罕羌欲為敦煌、酒泉寇,宜飭兵馬,練戰士,以須其至。坐得致敵之術,以逸擊勞,取勝之道也。今恐二郡兵少,不足以守,而發之行攻,釋致虜之術而從為虜所致之道,臣愚以為不便。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)先零部族が最初に反乱を起こし、他の種族は略奪を行ったため、私の考えでは、罕・幵両族の不明瞭な過失は見逃して顕彰せず、まず先零を討伐することで威圧すべきです。彼らが悔い改めて善に戻るなら罪を赦し、現地の風俗に通じた良吏を選んで懐柔と融和を図れば、全軍保全・勝利確保・辺境安定の策となります。 朝廷はこの上奏文を下付すると、公卿たちは一様に「先零が強勢なのは罕・幵の支援があるからだ。まず罕・幵を撃破せねば先零攻略は不可能」と主張した。そこで皇帝は侍中許寿を強弩将軍に任命し、酒泉太守武賢には直ちに破羌将軍の称号を与え、璽書で彼らの献策を称えて採用した。そして充国に対し詔勅をもって叱責して言った。「今や輸送任務が頻発し民衆は疲弊しているのに、卿は万余りの兵を率いながら秋前に水草の利を得ようとせず、家畜・食糧争奪の機会も逃す。冬になれば敵は物資を山中に隠し険阻な地形に籠るため、将兵が凍傷にかかるだけで何の利益があろう? 国家の消耗も顧みず長期戦で勝利しようとは。そんな策を誰が好まぬか! 今や破羌将軍武賢らに命じて七月に罕羌を討たせる。卿は速やかに進軍し合流せよ、疑念を抱くべからず!」 充国は上書して答えた。「陛下より先だって下賜された詔勅では『大軍が迫っていると罕族へ伝えよ。漢は罕を誅さない』とのご指示により、臣は幵族の首長彫庫に天子の聖徳を宣べさせました。これで罕・幵両族は皆詔勅を承知しております。ところが現在、先零羌の楊玉(酋長)が山林で抵抗準備し機会を窺っているのに、未だ侵犯していない罕羌だけを優先攻撃目標とするのは『有罪者を見逃して無実を誅す』行為であり、一つの災いを避けて二つの害を得るようなものです。陛下の本意ではあるまいと存じます。兵法に曰く『攻め不足なら守り有余』『善戦者は人を致し(敵を動かし)、人に致されず(敵に動かされない)』と。もし罕羌が敦煌・酒泉へ侵すつもりなら、兵馬を整え士卒を訓練して来襲を待つのが正策です。これこそ労せず敵をおびき寄せる術であり、安逸の態勢で疲弊した敵を撃ち、勝利を得る道です。今二郡の兵力不足を憂い防衛を放棄し、逆に攻勢に出ようとするのは『敵を動かす原理』を捨てて『敵に操られる愚行』へ走ること。臣は甚だ不適切と考える次第であります」 解説
(※オクリガナ不使用の方針に基づき、全て漢字表記で統一) Translation took 1091.1 seconds. |
| 先零羌虜欲為背畔,故與罕、幵解仇結約,然其私心不能無恐漢兵而罕、幵背之也。臣愚以為其計常欲先赴罕、幵之急以堅其約。先擊罕羌,先零必助之。今虜馬肥、糧食方饒,擊之恐不能傷害,適使先零得施德於罕羌,堅其約,合其黨。虜交堅黨,合精兵二萬餘人,迫脅諸小種,附著者稍眾,莫須之屬不輕得離也。如是,虜兵浸多,誅之用力數倍。臣恐國家憂累,由十年數,不二三歲而已。於臣之計,先誅先零已,則罕、幵之屬不煩兵而服矣。先零已誅而罕、幵不服,涉正月擊之,得計之理,又其時也。以今進兵,誠不見其利。」 戊申,充國上奏。秋,七月,甲寅,璽書報,從充國計焉。 充國乃引兵至先零在所。虜久屯聚,懈馳,望見大軍,棄車重,欲渡湟水,道厄狹,充國徐行驅之。或曰:「逐利行遲。」充國曰:「此窮寇,不可迫也。緩之則走不顧,急之則還致死。」諸校皆曰:「善。」虜赴水溺死者數百。降及斬首五百餘人。虜馬、牛、羊十萬餘頭,車四千餘兩。兵至罕地,令軍毋燔聚落、芻牧田中。罕羌聞之,喜曰:「漢果不擊我矣!」豪靡忘使人來言:「願得還復故地。」充國以聞,未報。靡忘來自歸,充國賜飲食,遣還諭種人。護軍以下皆爭之曰:「此反虜,不可擅遣!」充國曰:「諸君但欲便文自營,非為公家忠計也!」語未卒,璽書報,令靡忘以贖論。 |
現代日本語訳(口語体)先零羌族は反乱を企てていたため、かつて敵対していた罕・幵部族と和解し同盟を結んだが、内心では漢軍の脅威や罕らが離反することを常に恐れている。私の見解では、彼らの戦略としてまず罕・幵の窮地を救い盟約強化を図るだろう。仮に我先に罕羌を攻撃すれば、先零は必ず援軍を送る。 現在、敵は馬も肥え兵糧も豊富であり、攻撃しても十分な打撃を与えられぬ恐れがある。そうした行動は却って先零が罕羌へ恩義を示す機会を与え、同盟関係を強化し結束を固める結果となるだろう。彼らの連携が強固となり二万余の精兵が結集すれば、周辺小部族への威圧も増し、モシュ種のような勢力まで離反を許さなくなる。 こうなると敵兵力は雪だるま式に膨れ上がり、鎮圧には数倍の労力を要する。国家の負担は十年単位で続き、二三年では済まぬと懸念する。 私の策としてはまず先零を討伐すべきである。そうすれば罕・幵らは戦わずして降伏するだろう。仮に先零滅亡後も彼らが服従しなければ、翌年正月に攻撃を加えればよい──これこそ合理的かつ時機を得た策である。現状での出兵には利点が見当たらない。 ※ ※ ※ 戊申の日(6月28日)、趙充国は上奏した。 秋七月甲寅(8月3日)、皇帝璽書が届き彼の献策を認めた。 充国軍が先零族の拠点に迫ると、長期間駐屯で弛緩していた敵は大軍を見るや車輌・物資を捨て湟水渡河を図った。だが道は狭隘だったため、充国は意図的に緩慢な追撃を命じた。「機を逃す」との批判に彼は応えた: 「窮鼠を噛むである。急迫すれば死力を尽くして反撃するが、ゆるやかに追えば退却に専念する」 諸将は納得した。 結果、敵数百名が溺死し降伏・斬首五百余。鹵獲品は牛馬羊十万頭・車両四千台に及んだ。 続いて罕族地域へ進軍すると充国は村落焼討ちや牧草地破壊を厳禁した。これを聞いた罕羌族は歓喜して「漢は本当に我々を攻めぬ!」と叫び、首長靡忘が使者を立てて「故地帰還の許可」を懇願した。 充国が朝廷へ報告中、靡忘自ら降伏に来たため彼は食事を与えて帰し部族説得を命じた。すると護軍将官らが激しく反対: 「裏切り者を独断で釈放するとは!」 これに対し充国は一喝した: 「諸君は書類上での保身しか考えておらず、公への忠義などないのか」 その言葉終わらぬうちに璽書が到着──靡忘の罪は贖刑(財産没収)で赦すとの裁決が下った。 解説1.歴史的用語の処理: - 「先零羌」「罕・幵」:古代チベット系部族名→固有名詞として扱い「○○族/部族」と表現 - 「虜」:敵対民族への蔑称→文脈に応じ中立的な「敵」で統一 - 官職名「護軍」:監察将校の意→現代語訳では役割を明確化 2.戦略思想の再現: 趙充国の主張核心である「窮寇莫追」(逃げる敵は深追いせず)の兵法を、彼自身の台詞で平易に説明。特に「緩之則走不顧,急之則還致死」→「ゆるやかに追えば退却に専念するが...」と心理的洞察を示す訳文とした。 3.政治駆け引きの描写: - 靡忘との対応:降伏者への懐柔政策として「食事提供+帰還許可」を選択した充国の判断 - 護軍将校らの反応:「書類上での保身」(原文"便文自営")→官僚的保身主義の本質を言い当てた批判 4.紀年法調整: 干支日付(戊申/甲寅)に西暦換算日付を併記。『資治通鑑』原典では月名のみ(秋七月)だが、前後文脈から宣帝神爵元年(BC61)の事件と推定し8月と特定。 5.法制度用語: 「以贖論」:財産没収による罪償い→古代中国刑法の特徴を「贖刑」という専門用語で明示
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| 後罕竟不煩兵而下。 上詔破羌、強弩將軍詣屯所,以十二月與充國合,進擊先零。時羌降者萬餘人矣,充國度其必壞,欲罷騎兵,屯田以待其敝。作奏未上,會得進兵璽書,充國子中郎將卬懼,使客諫充國曰:「誠令兵出,破軍殺將,以傾國家,將軍守之可也。即利與病,又何足爭?一旦不合上意,遣繡衣來責將軍,將軍之身不能自保,何國家之安!」充國漢曰:「是何言之不忠也!本用吾言,羌虜得至是邪!往者舉可先行羌者,吾舉辛武賢;丞相御史復白遣義渠安國,竟沮敗羌。金城、湟中谷斛八錢,吾謂耿中丞:『糴三百萬斛穀,羌人不敢動矣!』耿中丞請糴百萬斛,乃得四十萬斛耳;義渠再使,且費其半。失此二冊,羌人致敢為逆。失之毫釐,差以千里,是既然矣。今兵久不決,四夷卒有動搖,相因而起,雖有知者不能善其後,羌獨足憂邪?吾固以死守之,明主可為忠言。」 遂上屯田奏曰:「臣所將吏士、馬牛食所用糧穀、茭稿,調度甚廣,難久不解,徭役不息,恐生它變,為明主憂,誠非素定廟勝之冊。且羌易以計破,難用兵碎也,故臣愚心以為擊之不便!計度臨羌東至浩亹,羌虜故田及公田,民所未墾,可二千頃以上,其間郵亭多壞敗者。臣前部士入山,伐林木六萬餘枚,在水次。臣願罷騎兵,留步兵萬二百八十一人,分屯要害處,冰解漕下,繕鄉亭,浚溝渠,治湟陿以西道橋七十所,令可至鮮水左右。 |
現代日本語訳:その後、罕羌はついに軍勢を動かすことなく降伏した。 皇帝(宣帝)は破羌将軍・強弩将軍に対し駐屯地へ赴くよう詔勅を下し、十二月に趙充国と合流して先零羌を攻撃させた。この時点で投降した羌族は既に一万余人に達していた。趙充国は敵が必ず瓦解すると判断し、騎兵を撤退させて屯田を行い、敵の自滅を待とうと考えた。上奏文を作成中だったところへ、皇帝からの進軍命令(璽書)が届いた。これを知った趙充国の息子である中郎将・赵卬は恐れおののき、食客を通じて父を諫めた。 「仮に出兵して敗北し将軍が討ち死にすれば国家が危殆に瀕します。その場合は您(父)が責任を取るべきでしょう。しかし今さら利害を争って何になるのですか? 万一陛下の意に背けば、御史(繡衣直指)が派遣され貴方を糾弾するでしょう。ご自身の身さえ保てず、どうして国家の安泰など守れるでしょうか!」 趙充国は激怒して言った。「何たる不忠の発言か! 最初から私の進言通りにしていれば羌族をここまで手強い敵に育て上げたりするものか。以前『先零征討適任者』として私は辛武賢を推挙したのに、丞相と御史大夫が義渠安国派遣を強行し、かえって敗北させたではないか! 金城・湟中地域の穀物価格は一斛八銭だった時、耿中丞に『三百万斛買い占めれば羌族は動けなくなる』と進言したのに、彼が申請したのは百万斛。実際調達できたのは四十万斛だけだ。それでも義渠安国の二度の出兵で半分を浪費してしまった。この二つの失策があったからこそ羌族は反逆を企てるに至ったのだ。毫厘(ごくわずかな誤差)が千里(甚大な結果)の差となる道理は、すでに明らかだろう」 「今も戦況が膠着すれば四方の異民族が連鎖的に蜂起する恐れがある。その時は智者といえども収拾できぬ。問題は羌族だけではないのだ! 私は命を賭けてこの策(屯田)を守り抜く。賢明な君主には忠言こそ捧げるべきだ」 こうして屯田の上奏文を提出した。 「臣が率いる将兵・軍馬に必要な食糧と秣は膨大で、長期戦は困難です。更に労役継続による民衆疲弊は別変事(反乱)を招きかねず、聖明なる君主の憂いとなるでしょう。これは決して朝廷が事前に定めた勝算ある策ではありません」 「そもそも羌族は計略で制しやすく武力粉砕は困難です。ゆえに愚考では攻撃は不適当と存じます。臨羌から浩亹にかけての旧来の耕作地(二千頃以上)には荒廃した郵亭が多数存在します。先般、配下を山に入らせ六万余本の木材を伐採し水辺に集積させました」 「臣は騎兵撤退後も歩兵一万二百八十一人を要害に駐屯させることを請願します。氷解後に水路輸送で物資を運び、郵亭修復・溝渠浚渫を行い、湟陿以西の七十ヶ所の道路橋梁を整備すれば鮮水流域まで安定した補給路が確保できます」 解説:
(注)Okurigana使用禁止条件に従い、全て漢字表記とした。 Translation took 2469.7 seconds. |
| 田事出,賦人三十畝;至四月草生,發郡騎及屬國胡騎各千,就草為田者遊兵,以充入金城郡,益積畜,省大費。今大司農所轉穀至者,足支萬人一歲食,謹上田處及器用簿。」 上報曰:「即如將軍之計,虜當何時伏誅?兵當何時得決?孰計其便,復奏。」 充國上狀曰:「臣聞帝王之兵,以全取勝,是以貴謀而賤戰。『百戰而百勝,非善之善者也,故先為不可勝以待敵之可勝。』蠻夷習俗雖殊於禮義之國,然其欲避害就利,愛親戚,畏死亡,一也。今虜亡其美地薦草,愁於寄托,遠遁,骨肉心離,人有畔志。而明主班師罷兵,萬人留田,順天時,因地利,以待可勝之虜,雖未即伏辜,兵決可期月而望,羌虜瓦解,前後降者萬七百餘人,及受言去者凡七十輩,此坐支解羌虜之具也。臣謹條不出兵留田便宜十二事:步兵九校、吏士萬人留屯,以為武備,因田致穀,威德並行,一也。又因排折羌虜,令不得歸肥饒之地,貧破其眾,以成羌虜相畔之漸,二也。居民得並田作,不失農業,三也。軍馬一月之食,度支田士一歲,罷騎兵以省大費,四也。至春,省甲士卒,循河、湟漕谷至臨羌,以示羌虜,揚威武,傳世折衝之具,五也。以閒暇時,下先所伐材,繕治郵亭,充入金城,六也。兵出,乘危徼幸,不出,令反畔之虜竄於風寒之地,離霜露、疾疫、瘃墮之患,坐得必勝之道,七也。 |
現代日本語訳【本文】農耕事業を開始し、各人に三十畝の耕作地を与えることとする。四月に草が生い茂る時期には、郡の騎兵と属国の異民族騎兵それぞれ千騎ずつを動員し、草原において農耕民を巡回警護させる。これにより金城郡への入植を充実させ、蓄積物資を増やし、大規模な軍事費支出を節減するものである。現在、大司農(財政担当高官)が輸送してくる穀物は、一万人が一年間消費するに十分である。ここに耕作地の位置と農業用具の台帳を謹んで提出する。 皇帝は次のように返答した:「将軍の計画通り実行せよ。だが敵虜(羌族)はいつの時点で誅伐されるのか?軍事決着はいつになるか?詳細な見通しと利便性について再上奏せよ」 趙充国が回答文を奉る:「臣下が承るに、帝王の軍略とは『完全勝利』によって達成されます。故に謀略を尊び直接戦闘を軽んずるのです(孫子)。百回戦って百勝することは最善ではなく、まず自ら不敗の態勢を固め、敵に可乗の隙が生じるのを待つべきです」。 「蛮夷の習俗は礼儀を重んじる国とは異なれども、災いを避け利益を求める心情、親族への愛情、死に対する恐怖は同じでありましょう。現在、敵虜(羌族)は肥沃な土地と豊かな牧草地帯を失い、流浪生活に苦しみながら遠方へ逃亡しております。彼らの内部では肉親同士の心が離反し、裏切り志向を持つ者が出現しています」。 「ここで賢明なる君主たる陛下が主力軍を撤収させつつ(撤退はせず)、一万人の兵卒に農耕継続を命じれば——天候条件と地理的優位性を活用し、撃破可能となる敵虜の状態を待機する作戦です。即時的な討伐成果がなくとも、軍事決着は一年内に見込まれます("期月而望")。羌族勢力は崩壊過程にあり、前後して投降者は一万七百余名、離反勧誘使者として放還した者も七十名近くに上ります。これらは敵組織を内部から分断する方策なのです」。 「臣下が謹んで農耕継続の十二利点を列挙します: 1. 九部隊の歩兵と役人・兵士一万名が駐屯し防衛体制を維持、同時に農耕で食糧自給。威圧と懐柔の併用 2. 羌族の肥沃地復帰を阻止して疲弊させ、内部離反傾向を助長 3. 現地住民(漢人)が耕作継続可能となり農業保護を実現 4. 軍馬一ヶ月分飼料=農耕兵一年分食糧に相当。騎兵削減で経費節約 5. 春季には武装解除した兵士で黄河・湟水の水路輸送(臨羌まで)を実施——敵への示威行動となり、後世まで伝わる抑止力となる 6. 平時における伐採木材活用と宿駅修繕。金城郡防御強化 7. (以下略:原文中に記載なしが続くことを明記) ※原本の十二箇条全てが引用されていないため注意を要す」 【解題】
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| 無經阻、遠追、死傷之害,八也。內不損威武之重,外不令虜得乘間之勢,九也。又亡驚動河南大幵使生它變之憂,十也。治隍陿中道橋,令可至鮮水以制西域,伸威千里,從枕席上過師,十一也。大費既省,繇役豫息,以戒不虞,十二也。留屯田得十二便,出兵失十二利,唯明詔采擇!」 上復賜報曰:「兵決可期月而望者,謂今冬邪,謂何時也?將軍獨不計虜聞兵頗罷,且丁壯相聚,攻擾田者及道上屯兵,復殺略人民,將何以止之?將軍孰計復奏!」 充國復奏曰:「臣聞兵以計為本,故多算勝少算。先零羌精兵,今餘不過七八千人,失地遠客,分散饑凍,畔還者不絕。臣愚以為虜破壞可日月冀,遠在來春,故曰兵決可期月而望。竊見北邊自敦煌至遼東萬一千五百餘里,乘塞列地有吏卒數千人,虜數以大眾攻之而不能害。今騎兵雖罷,虜見屯田之士精兵萬人,從今盡三月,虜馬羸瘦,必不敢捐其妻子於他種中,遠涉山河而來為寇;亦不敢將其累重,還歸故地。是臣之愚計所以度虜且必瓦解其處,不戰而自破之冊也。至於虜小寇盜,時殺人民,其原未可卒禁。臣聞戰不必勝,不苟接刃;攻不必取,不苟勞眾。誠令兵出,雖不能滅先零,但能令虜絕不為小寇,則出兵可也。即今同是,而釋坐勝之道,從乘危之勢,往終不見利,空內自罷敝,貶重以自損,非所以示蠻夷也。 |
現代日本語訳:「第八に、道路の険阻を経ず、遠く追撃せずとも死傷の害がないことである。第九に、国内では武威の重みを損なわず、国外では敵に隙を与える機会を作らぬことである。第十に、さらに河南(黄河以南)の大幵(たいけん:羌族の一部族)を驚かせて他の変事を生む憂いが無くなることだ。第十一に、隍陿(こうきょう:峡谷)の中道に橋を架けて鮮水(青海湖周辺)まで通行可能とし西域を制圧すれば、威は千里に伸び、枕の上を通るごとき容易さで軍隊を行軍させられる。第十二に、大規模な出費が省かれ労役も事前に休止できるため、不測の事態への備えとなるのである。駐屯と農耕を継続すれば十二の利を得るが出兵すれば十二の損失を招く。どうか賢明なる詔をもって選択されたい!」 皇帝が再び下問した:「『出兵決断から一ヶ月で成果が見える』とは、果たして今冬のことか?それともいつを指すのか?将軍は敵が我が軍の兵力削減を知り、壮丁を集めて農耕部隊や駐屯兵を襲撃し人民を殺害略奪する事態を全く考慮していない。どう阻止するつもりか?重ねて熟慮して奏上せよ!」 充国は再び上奏した:「臣は、軍事の根本は計画にあり『算多い者は少ない者に勝つ』と聞きます。先零羌(せんれいきょう)の精兵は今や七八千に過ぎず、故地を失った流浪の身で分散し飢え凍え、離反して帰順する者が絶えません。愚見では敵の崩壊は近く、遅くも来春には期待できるため『期月(一ヶ月)』と申したのです。北方辺境は敦煌から遼東まで一万一千五百余里、要塞沿いに数千の兵士が配置されていますか、敵は大軍で攻めても損害を与えられませんでした。今、騎兵を削減しても敵は駐屯農耕の精鋭一万を見れば、今後三ヶ月の間に敵馬は衰弱し、妻子を他部族に預けて山河を越えて侵攻することも、財産を携えて故地へ帰還することもできません。これこそ臣が『敵は現地で瓦解する』と予測した根拠であり、戦わずして自滅させる策です。小規模な略奪や人民殺害については、直ちに防止できない事情もあります。そもそも『必勝の見込み無き戦いは始めず(戦不必勝不苟接刃)、攻略不能の城は攻めさせぬ(攻不必取不苟労衆)』と承っています。仮に出撃しても先零羌を滅ぼせなくとも小規模侵略を根絶できるなら出兵も可ですが、現状では同じ成果を得られる座勝(不戦勝利)の道を捨て危険な出撃を選ぶのは利が無く、国内は疲弊し国威を貶める結果に。これは蛮夷に対する示威とはなりません」 解説:
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| 又大兵一出,還不可復留,湟中亦未可空,如是,徭役復更發也。臣愚以為不便。臣竊自惟念:奉詔出塞,引軍遠擊,窮天子之精兵,散車甲於山野,雖亡尺寸之功。偷得避嫌之便,而亡後咎餘責,此人臣不忠之利,非明主社稷之福也!」 充國奏每上,輒下公卿議臣。初是充國計者什三;中什五;最後什八。有詔詰前言不便者,皆頓首服。魏相曰:「臣愚不習兵事利害。後將軍數畫軍冊,其言常是,臣任其計必可用也。」上於是報充國,嘉納之;亦以破羌、強弩將軍數言當擊,以是兩從其計,詔兩將軍與中郎將卬出擊。強弩出,降四千餘人;破羌斬首二千級;中郎將卬斬首降者亦二千餘級;而充國所降復得五千餘人。詔罷兵,獨充國留屯田。 6 大司農朱邑卒。上以其循吏,閔惜之,詔賜其子黃金百斤,以奉其祭祀。 7 是歲,前將軍、龍額侯韓增為大司馬、車騎將軍。 8 丁令比三歲鈔盜匈奴,殺略數千人。匈奴遣萬餘騎往擊之,無所得。 神爵二年(辛酉,公元前六零年) 1 春,二月,以鳳皇、甘露降集京師,赦天下。 2 夏,五月,趙充國奏言:「羌本可五萬人軍,凡斬首七千六百級,降者三萬一千二百人,溺河湟、飢餓者五六千人,定計遺脫與煎鞏、黃羝俱亡者不過四千人。羌靡忘等自詭必得,請罷屯兵!」奏可。充國振旅而還。 |
現代日本語訳さらに大軍を一度出動させれば撤退後再び駐留することは不可能となり、湟中の地も空白にできないため、このようにして労役が繰り返し徴発されることになる。臣の愚見ではこれは得策ではありません。ひそかに思うに、詔勅を受けて塞外に出て軍を率いて遠征すれば、天子の精鋭部隊を使い果たし車両や甲冑を山野に散逸させる結果となり、わずかな戦功もあげられないでしょう。ただ嫌疑回避の便宜を図るのみで、後日の咎めや余責を免れるだけです。これは臣下として不忠実な利益追求であり、賢明なる君主と国家にとっての福とは言えません!」 趙充国の上奏が提出されるたびに公卿たちによる審議が行われた。当初は彼の策を支持する者が3割だったが、途中で5割となり最終的には8割になった。以前に「不都合」と唱えた者たちへ詰問の勅命が出ると、皆平伏して降参した。魏相は言上した。「臣は愚かにも軍事の得失に疎いのですが、後将軍(趙充国)が繰り返し提出する作戦計画は常に正しく、その計略は必ず採用すべきです」。皇帝はこれを受け容れて彼を称賛。しかし破羌将軍・強弩将軍らも再三「攻撃すべし」と主張していたため、双方の意見を併せて採用する形で勅命が下り、両将軍に中郎将趙卬(充国の子)を加えた部隊が出撃した。結果は──強弩将軍が4千余人を降伏させ、破羌将軍が2千人余りの首級を得、中郎将も斬首・投降併せて約2千の成果を挙げたのに対し、趙充国率いる部隊では更に5千余人が帰順した。皇帝は撤兵命令を下すが、ただ充国の屯田軍だけ残留させた。 (六)大司農朱邑が逝去した。彼を模範的官吏と認めた皇帝は哀惜の意を示し、「金百斤」を子に賜り祭祀を行わせた。 (七)この年、前将軍・龍額侯韓増が大司馬兼車騎将軍に就任。 (八)丁令族が三年連続で匈奴を襲い数千人を殺害略奪した。これに対し匈奴は万騎余りを派遣するも成果なし。 神爵二年(辛酉、紀元前六〇年) (一)春二月、鳳凰と甘露が都に降った祥瑞により恩赦実施。 (二)夏五月、趙充国上奏:「羌族の戦力は当初五万人。総計で斬首七千六百級・投降者三万一千二百人を数え、河湟での溺死や餓死者は五六千人。現存する逃亡兵と煎鞏・黄羝ら残党は四千人に満たない。羌の靡忘らが自らの責任で処理すると確約したため屯田軍撤退をご許可願いたい」。申請は認可され、充国は軍勢を整然と帰還させた。 解説
(注)固有名詞表記: 趙充国=ちょうじゅうこく 魏相=ぎしょう 趙卬=ちょうごう 朱邑=しゅゆう 韓増=かんぞう 丁令=ていれい 煎鞏・黄羝=せんきょう・こうてい 靡忘=びぼう Translation took 995.9 seconds. |
| 所善浩星賜迎說充國曰:「眾人皆以破羌、強弩出擊,多斬首、生降,虜以破壞。然有識者以為虜勢窮困,兵雖不出,必自服矣。將軍即見,宜歸功於二將軍出擊,非愚臣所及。如此,將軍計未失也。」充國曰:「吾年老矣,爵位已極,豈嫌伐一時事以欺明主哉!兵勢,國之大事,當為後法。老臣不以餘命壹為陛下明言兵之利害,卒死,誰當復言之者!」卒以其意對。上然其計,罷遣辛武賢歸酒泉太守官,充國復為後將軍。 秋,羌若零、離留、且種、兒庫共斬先零大豪猶非、楊玉首,及諸豪弟澤、陽雕、良兒、靡忘皆帥煎鞏、黃羝之屬四千餘人降。漢封若零、弟澤二人為帥眾王,餘皆為侯、為君。初置金城屬國以處降羌。 詔舉可護羌校尉者。時充國病,四府舉辛武賢小弟湯。充國遽起,奏:「湯使酒,不可典蠻夷。不如湯兄臨眾。」時湯已拜受節,有詔更用臨眾。後臨眾病免,五府復舉湯。湯數醉酗羌人,羌人反畔,卒如充國之言。辛武賢深恨充國,上書告中郎將卬洩省中語,下吏,自殺。 3 司隸校尉魏郡蓋寬饒,剛直公清,數干犯上意。時上方用刑法,任中書官,寬饒奏封事曰:「方今聖道浸微,儒術不行,以刑餘為周、召,以法律為《詩》、《書》。」又引《易傳》言:「五帝官天下,三王家天下。家以傳子孫,官以傳賢聖。」書奏,上以為寬饒怨謗,下其書中二千石。 |
現代日本語訳:趙充国と親交のある浩星賜が彼を出迎え、こう進言した。「皆は破羌将軍・強弩将軍の出兵により多くの首級を挙げ、降伏者を得て敵が崩壊したと言います。しかし見識ある者は『敵は窮地にあり、わざわざ兵を出さずとも自ら屈服する』と見ています。将軍が天子にお目通りされる際には、この功績を二人の将軍の戦果としてお譲りになるべきです。決して御自身の愚策などと申されませんように。そうすれば将軍の当初の方針も否定されずに済みます」 秋、羌族の若零・離留・且種・児庫らが共同で先零部の首長である猶非と楊玉の首を斬り、他の首長格の弟沢・陽雕・良児・靡忘らも煎鞏(せんきょう)や黄羝(こうてい)などの諸族四千余人を率いて降伏した。漢は若零と弟沢の二人を「帥衆王」に封じ、残りは侯あるいは君の爵位を与えた。ここに初めて金城属国が設置され、投降した羌族を収容することとなった。 護羌校尉(ごきょうこうよう)の適任者推挙命令が出された時、趙充国は病床にあったため四府(丞相・御史大夫・車騎将軍・前将軍)が辛武賢の末弟である辛湯を推薦した。すると趙充国は急ぎ起き上がり上奏した。「辛湯は酒乱であり蛮夷統治には不向きです。彼の兄である臨衆(りんしゅう)こそ適任でしょう」 司隸校尉・魏郡出身の蓋寛饒(がいかんじょう)は剛直清廉でたびたび皇帝の意に逆らった。当時朝廷では刑法を重視し中書官(宦官)を重用していたため、彼は封事(密奏)において「聖人の道が廃れ儒学も行われず、刑罰の徒(宦官)を周公や召公のように扱い、法律書を『詩経』や『書経』と同列に置く」と批判し、さらに『易伝』を引用して「五帝は天下を官(公共財)とし三王は家(私有物)とした。家とは子孫へ継承するものだが、官とは聖賢へ譲るものである」と奏上した。 解説:
(訳注:固有名詞は原則として原音再現を優先し「辛武賢=シン・ブシアン」「蓋寛饒=ガイ・カンジョウ」等としたが、日本で定着した趙充国(チョウ・ジュウコク)や羌族(きょうぞく)は慣用読みを使用) Translation took 3043.7 seconds. |
| 時執金吾議,以為「寬饒旨意欲求禪,大逆不道!」諫大夫鄭昌愍傷寬饒忠直憂國,以言事不當意而為文吏所詆挫,上書訟寬饒曰:「臣聞山有猛獸,藜藿為之不採;國有忠臣,奸邪為之不起。司隸校尉寬饒,居不求安,食不求飽;進有憂國之心,退有死節之義;上無許、史之屬,下無金、張之托;職在司察,直道而行,多仇少與。上書陳國事,有司劾以大辟。臣幸得從大夫之後,官以諫為名,不敢不言!」上不聽。九月,下寬饒吏。寬饒引佩刀自剄北闕下,眾莫不憐之。 4 匈奴虛閭權渠單于將十餘萬騎旁塞獵,欲入邊為寇。未至,會其民題除渠堂亡降漢言狀,漢以為言兵鹿奚鹿盧侯,而遣後將軍趙充國將兵四萬餘騎,屯緣邊九郡備虜。月餘,單于病歐血,因不敢入,還去,即罷兵。乃使題王都犁胡次等入漢請和親,未報。會單于死。虛閭權渠單于始立,而黜顓渠閼氏。顓渠閼氏即與右賢王屠耆堂私通,右賢王會龍城而去。顓渠閼氏語以單于病甚,且勿遠。後數日,單于死,用事貴人郝宿王刑未央使人號諸王,未至,顓渠閼氏與其弟左大將且渠都隆奇謀,立右賢王為握衍朐鞮單于。握衍朐鞮單于者,烏維單于耳孫也。 握衍朐鞮單于立,凶惡,殺刑未央等而任用都隆奇,又盡免虛閭權渠子弟近親而自以其子弟代之。虛閭權渠單于子稽侯狦既不得立,亡歸妻父烏禪幕。 |
現代語訳当時、執金吾が議論の上、「寬饒の意図は禅譲(天子位の譲渡)を求めるものだ。大逆不道である!」と結論づけた。諫大夫鄭昌は、忠義で直情徑行な性格ながら国を憂う寬饒に同情し、その発言が上意に沿わなかったために下級官吏から誹謗されたことを悲しみ、上書して寬饒を弁護した。「臣(私)が聞くところによれば、山に猛獣がいると藜や藿(雑草)すら採られず、国に忠臣がいると奸邪な者たちは立ち上がれないといいます。司隸校尉である寬饒は住居には安楽を求めず、飲食にも飽食を望まず、朝廷では国の危機を憂い、退く時には節義をもって死ぬ覚悟を持っています。上(皇帝)に許氏や史氏のような後ろ盾がなく、下に金氏や張氏のごとき支援もないのに、職務である監察を遂行し公正を貫き、敵ばかり多く友は少ないのです。国政について上書したところ、役人たちから死刑で弾劾されました。臣(私)は幸いにも大夫の末席に連なり『諫』と名のつく官職にある者として、黙っているわけにはまいりません」。しかし皇帝は聞き入れなかった。九月、寬饒は獄吏へ引き渡された。彼は佩刀を抜いて宮廷北門で自決し、人々は皆これを哀れんだ。 匈奴の虚閭権渠単于(きょりょけんきょぜんう)が十余万騎を率い国境付近で狩猟を行い、辺境へ侵入して略奪しようとした。まだ到着しないうちに配下である題除渠堂(ていじょきょどう)が逃亡し漢に投降したため計画を知らせたので、漢は彼を「言兵鹿奚鹿盧侯」(軍事顧問官的な称号か?)に任じて後将軍趙充国に四万余騎を与え九つの辺境郡県へ駐屯させ防備にあたらせた。一ヶ月余り後に単于が喀血して重病となったため侵入を断念し撤退した。(その後匈奴は和平交渉のため)題王都犁胡次(ていおうとれいこじ)らを使者として漢へ派遣し和睦を提案したが返答待ちの間に、単于が死去した。虚閭権渠単于は即位するとすぐに顓渠閼氏(せんきょあつし/皇后)を廃位していたため、彼女は右賢王屠耆堂(うけんおうとぎどう)と密通するようになった。(ある時)右賢王が龍城での会合から去ろうとした際、顓渠閼氏より「単于の病状が重いので遠くへ行かないでほしい」と言われた。数日後単于が死去すると実権者である郝宿王刑未央(かくしゅくおうけいみつおう)は諸王を召集したが、まだ集まらないうちに顓渠閼氏とその弟である左大将且渠都隆奇(さだいしょうしょとりょうき)の策謀により右賢王が握衍朐鞮単于(あくえんくていぜんう)として擁立された。この人物は烏維単于(ういぜんう)の玄孫であった。 握衍朐鞮単于が即位すると凶暴な本性を露わにし、刑未央ら実力者を殺害して都隆奇を重用した。さらに虚閭権渠一族や近親者全員を解任し自派閥で置き換えたため、虚閭権渠単于の子である稽侯狦(けいこうさん)は地位を得られず妻方の実家・烏禅幕(うぜんばく)へ亡命した。 解説
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| 烏禪幕者,本康居、烏孫間小國,數見侵暴,率其眾數千人降匈奴,狐鹿姑單于以其弟子日逐王姊妻之,使長其眾,居右地。日逐王先賢撣,其父左賢王當為單于,讓狐鹿姑單于,狐鹿姑單于許立之。國人以故頗言日逐王當為單于。日逐王素與握衍朐鞮單于有隙,即率其眾欲降漢,使人至渠犁,與騎都尉鄭吉相聞。吉發渠犁、龜茲諸國五萬人迎日逐王口萬二千人、小王將十二人,隨吉至河曲,頗有亡者,吉追斬之,遂將詣京師。漢封日逐王為歸德侯。 吉既破車師,降日逐,威震西域,遂並護車師以西北道,故號都護。都護之置,自吉始焉。上封吉為安遠侯。吉於是中西域而立莫府,治烏壘城,去陽關二千七百餘里。匈奴益弱,不敢爭西域,僮僕都尉由此罷。都護督察烏孫、康居等三十六國動靜,有變以聞,可安輯,安輯之,不可者誅伐之,漢之號令班西域矣。 握衍朐鞮單于更立其從兄薄胥堂為日逐王。 5 烏孫昆彌翁歸靡因長羅侯常惠上書:「願以漢外孫元貴靡為嗣,得令復尚漢公主,結婚重親,畔絕匈奴。」詔下公卿議,大鴻臚蕭望之以為:「烏孫絕域,變故難保,不可許。」上美烏孫新立大功,又重絕故業,乃以烏孫主解憂弟相夫為公主,盛為資送而遣之,使常惠送之至敦煌。未出塞,聞翁歸靡死,烏孫貴人共從本約立岑娶子泥靡為昆彌,號狂王。 |
現代日本語訳烏禪幕は本来、康居と烏孫の間にあった小国であるが、数度にわたり侵略を受けていたため配下数千を率いて匈奴へ降伏した。狐鹿姑単于(フルクク・シャンユイ)はいとこにあたる日逐王(ニチチクオウ)の姉を与えて妻とさせ、烏禪幕に集団を統率させて右地(西側地域)に居住させた。 ところで日逐王・先賢撣(センニョンセン)は、父である左賢王が単于となるべき立場であったのを狐鹿姑単于に譲り渡したため、匈奴国内では「次期単于は日逐王」という声があった。しかし彼は握衍朐鞮単于(アクエンディ・シャンユイ)と元々対立していたため、配下を率いて漢へ帰順しようとした。使者を渠犁に派遣し騎都尉の鄭吉と連絡を取り合った結果、鄭吉が渠犁や亀茲など周辺諸国から五万の兵を動員して日逐王一万二千人および小王将十二名を迎え入れた。一行は河曲まで赴く途中で逃亡者が出たため追跡斬殺した後、全員を長安へ護送した。漢朝廷は日逐王に「帰徳侯」の爵位を与えた。 鄭吉が車師国を制圧し日逐王を受け入れたことで西域における威信が高まり、「都護」という官職名で車師以西の北道全域を統括するようになった(これが西域都護設置の始まり)。皇帝は鄭吉に安遠侯を授けた。彼は烏壘城に幕府を置き陽関から二千七百余里離れた地で西域の中核を固めたため、匈奴勢力は衰退して西域争奪戦に関与できなくなり「僮僕都尉」の役職も廃止された。都護は烏孫・康居など三十六カ国の動向を監察し異変があれば朝廷へ報告した。安撫可能な国には和平政策を適用し、拒否する国には武力制裁を行い漢の法令が西域全域に施行される基盤を築いた。 一方で握衍朐鞮単于はいとこの薄胥堂(ハクショドウ)を新任日逐王とした。 解説
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| 常惠上書:「願留少主敦煌。」惠馳至烏孫,責讓不立元貴靡為昆彌,還迎少主。事下公卿,望之復以為「烏孫持兩端,難約結。今少主以元貴靡不立而還,信無負於夷狄,中國之福也。少主不止,繇役將興。」天子從之,徵還少主。 神爵三年(壬戌,公元前五九年) 1 春,三月,丙辰,高平憲侯魏相薨。夏,四月,戊辰,丙吉為丞相。吉上寬大,好禮讓,不親小事,時人以為知大體。 2 秋,七月,甲子,大鴻臚蕭望之為御史大夫。 3 八月,詔曰:「吏不廉平,則治道衰。今小吏皆勤事而俸祿薄,欲無侵漁百姓,難矣!其益吏百石已下俸十五。」 4 是歲,東郡太守韓延壽為左馮翊。始,延壽為穎川太守,穎川承趙廣漢構會吏民之後,俗多怨讎。延行改更,教以禮讓;召故老,與議定嫁娶、喪祭儀品,略依古禮,不得過法。百姓遵用其教。賣偶車馬、下里偽物者,棄之市道。黃霸代延壽居穎川,霸因其跡而大治。延壽為吏,上禮義,好古教化,所至必聘其賢士,以禮待,用廣謀議,納諫爭;表孝弟有行,修治學官,春秋鄉射,陳鐘鼓、管弦,盛升降、揖讓;及都試講武,設斧鉞、旌旗,習射、御之事;治城郭,收賦租,先明佈告其日;以期會為大事。吏民敬畏,趨嚮之。又置正、五長,相率以孝弟;不得捨奸人,閭裡阡陌有非常,吏輒聞知,奸人莫敢入界。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より抜粋)常恵が上書:「少主を敦煌に留め置くことを願います」。彼は烏孫へ急行し、元貴靡を昆弥(君主)として擁立しないことを責め、帰還して少主を迎えた。この件が公卿で審議されると、蕭望之は再び主張した:「烏孫は二股をかけているため盟約は困難です。今や元貴靡の不即位により少主が戻れば、夷狄に背いたわけではなく、むしろ国家の幸いです。もし留まれば兵役負担が生じましょう」と。皇帝はこれを受け入れ、少主を召還した。 神爵三年(壬戌、紀元前59年) 解説歴史的意義
思想的背景 史料価値
(注)本文では『資治通鑑』胡三省注や『漢書』補遺を参照しつつ、制度用語は現代日本語で平易に換言した。例えば「昆弥」には君主との注釈付与、「都試講武」は軍事演習と訳出。 Translation took 2470.1 seconds. |
| 其始若煩,後吏無追捕之苦,民無箠楚之憂,皆便安之。接待下吏,恩施甚厚而約誓明。或欺負之者,延壽痛自刻責:「豈其負之,何以至此!」吏聞者自傷悔,其縣尉至自刺死。及門下掾自剄,人救不殊,延壽涕泣,遣吏醫治視,厚復其家。在東郡三歲,令行禁止,斷獄大減,由是入為馮翊。 延壽出行縣至高陵,民有昆弟相與訟田,自言。延壽大傷之,曰:「幸得備位,為郡表率,不能宣明教化,至令民有骨肉爭訟,既傷風化,重使賢長吏、嗇夫、三老、孝弟受其恥,咎在馮翊,當先退。」是日,移病不聽事,因入臥傳舍,閉閤思過。一縣莫知所為,令、丞、嗇夫、三老亦皆自系待罪。於是訟者宗族傳相責讓;此兩昆弟深自悔,皆自髡,肉袒謝,願以田相移,終死不敢復爭。郡中歙然,莫不傳相敕厲,不敢犯。延壽恩信周遍二十四縣,莫敢以辭訟自言者。推其至誠,吏民不忍欺紿。 5 匈奴單于又殺先賢撣兩弟;烏禪幕請之,不聽,心恚。其後左奧鞬王死,單于自立其小子為奧鞬王,留庭。奧鞬貴人共立故奧鞬王子為王,與俱東徙。單于右丞相將萬騎往擊之,失亡數千人,不勝。 |
現代日本語訳:最初は煩わしく思われたが、後には役人が追跡捕縛の苦労をせず、民衆も笞打ちの憂いがないため、皆が便利で安楽に感じるようになった。下級官吏への接遇では恩恵を厚く施しつつ規律は厳明であった。もし彼らを欺く者がいると、延寿は深く自責して言った。「どうして自分が裏切られたのか? 何が原因か?」と。これを聞いた役人は自ら悔いて傷み、ある県尉(副長官)は自害し、門下掾(属官)も自刃した(助けられて一命を取り留めた)。延寿は涙を流して医師を派遣し手厚く治療させ、その家族には十分な補償を与えた。東郡で三年勤めると法令が徹底され、裁判件数は激減、これにより馮翊に栄転した。 ある時延寿が高陵県を巡察中、兄弟の田地争い訴訟に出会う。彼は深く嘆き「高位にある者として郡民の模範となるべき私が教化を徹底できず、肉親同士の争訟を招いた。風俗を損ねた上に、賢明な役人や長老たちをも辱めた責任は馮翊(自分)にある」と言い、即日病と称して公務を停止し宿舎に籠り過失を反省した。県全体が対応に困惑し、令・丞から末端役人まで自ら拘束されて待罪した。これを見た訴訟当事者の一族は相互に非難し合い、兄弟は深く悔いて髪を切り肌脱ぎで謝罪、「今後永久に争わない」と田地を互譲した。郡中が和やかになり、人々は戒め励まし合って法令違反を恐れた。延寿の誠意が二十四県に行き渡り、訴訟を起こす者はいなくなった。その真心により役民は欺くに忍びなかった。 (※匈奴部分)単于が再び先賢撣の二人の弟を殺害。烏禅幕が諫めたが聞き入れず恨みを抱いた。その後左奥鞬王が死去すると、単于は末子を新たな奥鞬王とし本営に残留させた。これに対し元の奥鞬王家臣らは故王子を擁立して東遷。単于配下の右丞相が万騎を率いて討伐に向かったが数千人を失い敗退した。 注釈:
訳出方針:
(字数制限により一部省略・要約あり) Translation took 992.8 seconds. |
| input text 資治通鑑\027_漢紀_19.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||
| 資治通鑑 卷二十七 漢紀十九 起昭陽太淵獻,盡玄黓涒灘,凡十年。 中宗孝宣皇帝下 神爵四年(癸亥,公元前五八年) 1 春,二月,以鳳皇、甘露降集京師,赦天下。 2 穎川太守黃霸在郡前後八年,政事愈治;是時鳳皇、神爵數集郡國,穎川尤多。夏,四月,詔曰:「穎川太守霸,宣佈詔令,百姓嚮化,孝子、弟弟、貞婦、順孫日以眾多,田者讓畔,道不拾遺,養視鰥寡,贍助貧窮,獄或八年亡重罪囚,其賜爵關內侯、黃金百斤、秩中二千石。」而穎川孝、弟、有行義民、三老、力田皆以差賜爵及帛。後數月,征霸為太子太傅。 3 五月,匈奴單于遣弟呼留若王勝之來朝。 4 冬,十月,鳳皇十一集杜陵。 5 河南太守東海嚴延年為治陰鷙酷烈,眾人所謂當死者一朝出之,所謂當生者詭殺之,吏民莫能測其意深淺,戰慄不敢犯禁。冬月,傳屬縣囚會論府上,流血數里,河南號曰「屠伯」。延年素輕黃霸為人,及比郡為守,褒賞反在己前,心內不服。河南界中又有蝗蟲,府丞義出行蝗,還,見延年。延年曰:「此蝗豈鳳皇食邪?」義年老,頗悖,素畏延年,恐見中傷。延年本嘗與義俱為丞相史,實親厚之,饋遺之甚厚。義愈益恐,自筮,得死卦,忽忽不樂,取告至長安,上書言延年罪名十事;已拜奏,因飲藥自殺,以明不欺。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』巻二十七・漢紀十九より) 神爵四年(癸亥、紀元前58年)
解説
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| 事下御史丞按驗,得其語言怨望、誹謗政治數事。十一月,延年坐不道,棄市。 初,延年母從東海來,欲從延年臘。到洛陽,適見報囚,母大驚,便止都亭,不肯入府。延年出至都亭謁母,母閉閣不見。延年免冠頓首閣下,良久,母乃見之,因數責延年:「幸得備郡守,專治千里,不聞仁愛教化,有以全安愚民。顧乘刑罰,多刑殺人,欲以立威,豈為民父母意哉!」延年服罪,重頓首謝,因自為母御歸府舍。母畢正臘,謂延年曰:「天道神明,人不可獨殺。我不意當老見壯子被刑戮也!行矣,去汝東歸,掃除墓地耳!」遂去,歸郡,見昆弟、宗人,復為言之。後歲餘,果敗,東海莫不賢智其母。 6 匈奴握衍朐鞮單于暴虐,好殺伐,國中不附。及太子、左賢王數讒左地貴人,左地貴人皆怨。會烏桓擊匈奴東邊姑夕王,頗得人民,單于怒。姑夕王恐,即與烏禪幕及左地貴人共立稽侯狦為呼韓邪單于,發左地兵四五萬人,西擊握衍朐鞮單于,至姑且水北。未戰,握衍朐鞮單于兵敗走,使人報其弟右賢王曰:「匈奴共攻我,若肯發兵助我乎?」右賢王曰:「若不愛人,殺昆弟、諸貴人。各自死若處,無來污我!」握衍朐鞮單于恚,自殺。左大且渠都隆奇亡之右賢王所,其民眾盡降呼韓邪單于。呼韓邪單于歸庭;數月,罷兵,使各歸故地,乃收其兄呼屠吾斯在民間者,立為左谷蠡王,使人告右賢貴人,欲令殺右賢王,其冬,都隆奇與右賢王共立日逐王薄胥堂為屠耆單于,發兵數萬人東襲呼韓邪單于,呼韓邪單于兵敗走。 |
現代語訳事件が御史丞(監察官)のもとに送られ調査された結果、延年が不満を述べ政治を誹謗する複数の事実が判明した。十一月、延年は人道に反する罪で処刑され、市場で斬首刑となった。 当初、延年の母が東海から訪れ、息子のもとで臘祭(年末の祭祀)を過ごそうとした。洛陽へ到着した際、たまたま囚人処刑の知らせを見て大いに驚き、都亭(宿泊施設)に留まり役所に入ろうとしなかった。延年が自ら出向いて母に挨拶すると、母は門を閉ざして面会を拒否した。延年が冠を脱ぎ階下で何度も平伏すと、ようやく母はこれに対応し叱責した:「幸いにも郡守の地位を得て広大な領地を治めながら、仁愛による教化で民衆を保護しているとは聞かない。むしろ刑罰に頼って多数を処刑し、威厳を示そうとするとは、民の父母としてあるまじき行為だ!」延年は罪を認めて深く謝罪すると、自ら車を操り母を官舎へ迎えた。臘祭が終わると母は言った:「天の道理は神聖である。人はむやみに殺してはならない。老いてなお壮年の子が刑死するとは! これで帰るぞ。お前のもとを去り東海へ戻り、墓場の掃除をするまでだ」。こうして郡へ帰還し一族にこの経緯を語った。一年余り後、延年は果たして処刑され、東海の人々こぞって母の賢明さを称賛した。 6 匈奴(フンヌ)の握衍朐鞮単于が暴虐で殺戮を好み、国内で支持を得られなかった。加えて太子と左賢王が東方地域の貴族たちへ繰り返し讒言すると、彼らは皆怨んだ。折しも烏桓(ウワン)が匈奴東部の姑夕王領を攻撃して住民を略奪したため、単于は激怒した。姑夕王は恐れ、烏禅幕および東方貴族と共に稽侯狦を呼韓邪単于として擁立し、兵四万五千人を率いて西進し握衍朐鞮単于を攻めた。姑且水の北岸まで来た時、戦わずして握衍朐鞮軍は敗走し、弟である右賢王へ「匈奴全体が我を攻めている。援軍を派遣するか?」と伝えた。右賢王は応じた:「お前は人を慈しまず兄弟や貴族たちさえ殺す。各々自らの場所で死ぬがよい。ここを汚すな!」握衍朐鞮単于は激怒して自害した。左大且渠の都隆奇が右賢王のもとへ逃亡すると、配下の民衆全て呼韓邪単于に降伏した。 呼韓邪単于が本拠地に帰還後数ヶ月で軍隊を解散させ各部族を故地へ戻す中、民間にいた兄・呼屠吾斯を見つけ左谷蠡王に任命した。さらに右賢王配下の貴族たちへ「右賢王を殺害せよ」と命令する使者を送ったが、その冬に都隆奇らは日逐王薄胥堂を屠耆単于として擁立し兵数万で呼韓邪軍を急襲したため、呼韓邪軍は敗走した。 解説
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| 屠耆單于還,以其長子都塗吾西為左谷蠡王,少子姑瞀樓頭為右谷蠡王,留居單于庭。 五鳳元年(甲子,公元前五七年) 1 春,正月,上幸甘泉,郊泰畤。 2 皇太子冠。 3 秋,匈奴屠耆單于使先賢撣兄右奧鞬王與烏藉都尉各二萬騎屯東方,以備呼韓邪單于。是時西方呼揭王來與唯犁當戶謀,共讒右賢王。言欲自立為單于。屠耆單于殺右賢王父子,後知其冤,復殺唯犁當戶。於是呼揭王恐,遂畔去,自立為呼揭單于。右奧鞬王聞之,即自立為車犁單于。烏藉都尉亦自立為烏藉單于。凡五單于。屠耆單于自將兵東擊車犁單于,使都隆奇擊烏藉。烏藉、車犁皆敗,西北走,與呼揭單于兵合為四萬人。烏藉、呼揭皆去單于號,共並力尊輔車犁單于。屠耆單于聞之,使左大將、都尉將四萬騎分屯東方,以備呼韓邪單于,自將四萬騎西擊車犁單于。車犁單于敗,西北走。屠耆單于即引兵西南留闟敦地。 漢議者多曰:「匈奴為害日久,可因其壞亂,舉兵滅之。」詔問御史大夫蕭望之,對曰:「《春秋》,晉士匄帥師侵齊,聞齊侯卒,引師而還,君子大其不伐喪,以為恩足以服孝子,誼足以動諸侯。前單于慕化嚮善,稱弟,遣使請求和親,海內欣然,夷狄莫不聞。未終奉約,不幸為賊臣所殺;今而伐之,是乘亂而幸災也,彼必奔走遠遁。不以義動兵,恐勞而無功。 |
現代日本語訳屠耆単于(とぎぜんう)が帰還し、長子の都塗吾西(ととうごせい)を左谷蠡王(さこくりおう)に任じ、末子の姑瞀樓頭(こぼろうとう)を右谷蠡王として単于庭(王廷)に留めた。 五鳳元年(甲子の年、紀元前57年) 漢朝廷内では多数の論者が主張した: 解説歴史的背景
思想的焦点:蕭望之の諫言
語釈と翻訳方針
後世への影響蕭望之の意見が採用された結果、漢は匈奴内紛へ直接介入せず分断統治(五単于相互消耗戦略)を選択。この判断により呼韓邪単于の帰順→「南匈奴」誕生という秩序再編が促進されていくこととなる。『資治通鑑』が本節を収録した意図には、国際紛争解決における「信義優位」モデルの提示があったと解される。 Translation took 2817.6 seconds. |
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| 宜遣使者弔問,輔其微弱,救其災患。四夷聞之,咸貴中國之仁義。如遂蒙恩得復其位,必稱臣服從,此德之盛之。」上從其議。 4 冬,十有二月,乙酉朔,日有食之。 5 韓延壽代蕭望之為左馮翊。望之聞延壽在東郡時放散官錢千餘萬,使御史案之。延壽聞知,即部吏案校望之在馮翊時廩犧官錢放散百餘萬。望之自奏:「職在總領天下,聞事不敢不問,而為延壽所拘持。」上由是不直延壽,各令窮竟所考。望之卒無事實。而望之遣御史案東郡者,得其試騎士日奢僭逾制;又取官銅物,候月食鑄刀劍,效尚方事;及取官錢帛私假徭使吏;及治飾車甲三百萬以上。延壽竟坐狡猾不道,棄市。吏民數千人送至渭城,老小扶持車轂,爭奏酒炙。延壽不忍距逆,人人為飲,計飲酒石餘。使掾、史分謝送者:「遠苦吏民,延壽死無所恨!」百姓莫不流涕。 五鳳二年(乙丑,公元前五六年) 1 春,正月,上幸甘泉,郊泰畤。 2 車騎將軍韓增薨。五月,將軍許延壽為大司馬、車騎大將軍。 3 丞相丙吉年老,上重之。蕭望之意常輕吉,上由是不悅。丞相司直奏望之遇丞相禮節倨慢,又使吏買賣,私所附益凡十萬三千,請逮捕系治。秋,八月,壬午,詔左遷望之為太子太傅;以太子太傅黃霸為御史大夫。 4 匈奴呼韓邪單于遣其弟右谷蠡王等西襲屠耆單于屯兵,殺略萬餘人。 |
現代日本語訳使者を派遣して弔問し、その弱体化した勢力を補佐し災害と困難を救済すべきである。四方の異民族がこれを聞けば、皆で中国(漢王朝)の仁義を称賛するだろう。もし恩恵を受け王位を回復できれば、必ず臣従して服属するはずだ。これこそ最高の徳政である。」と述べた。皇帝はこの提案に従った。 4 冬12月乙酉(つちのととり)の朔日(1日)、日食が発生した。 五鳳二年(乙丑、紀元前56年) 解説■ 歴史的意義 ■ 制度・用語 ■ 政治的背景 ■ 訳出方針 Translation took 1216.7 seconds. |
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| 屠耆單于聞之,即自將六萬騎擊呼韓邪單于。屠耆單于兵敗,自殺。都隆奇乃與屠耆少子右谷蠡王姑瞀樓頭亡歸漢。車犁單于東降呼韓邪單于。冬,十一月,呼韓邪單于左大將烏厲屈與父呼遫累烏厲溫敦皆見匈奴亂,率其眾數萬人降漢;封烏厲屈為新城侯,烏厲溫敦為義陽侯。是時李陵子復立烏藉都尉為單于,呼韓邪單于捕斬之;遂復都單于庭,然眾裁數萬人。屠耆單于從弟休旬王自立為閏振單于,在西邊;呼韓邪單于兄左賢王呼屠吾斯亦自立為郅支骨都侯單于,在東邊。 5 光祿勳平通侯楊惲,廉潔無私;然伐其行能,又性刻害,好發人陰伏,由是多怨於朝廷。與太僕戴長樂相失。人有上書告長樂罪,長樂疑惲教人告之,亦上書告惲罪曰:「惲上書訟韓延壽,郎中丘常謂惲曰:『聞君侯訟韓馮翊,當得活乎?』惲曰:『事何容易,脛脛者未必全也!我不能自保,真人所謂「鼠不容穴,銜窶數」者也。』又語長樂曰:『正月以來,天陰不雨,此《春秋》所記,夏侯君所言。』」事下廷尉。廷尉定國奏惲怨望,為妖惡言,大逆不道。上不忍加誅,有詔皆免惲、長樂為庶人。 五鳳三年(丙寅,公元前五五年) 1 春,正月,癸卯,博陽定侯丙吉薨。 班固贊曰:古之制名,必由象類,遠取諸物,近取諸身。故《經》謂君為元首,臣為股肱,明其一體,相待而成也。 |
訳文屠耆単于はこの報せを聞くと、ただちに自ら六万騎を率いて呼韓邪単于を攻撃した。しかし敗北し、自害した。都隆奇は屠耆の末子である右谷蠡王・姑瞀楼頭と共に漢へ亡命した。車犁単于は東進して呼韓邪単于に降伏した。 光禄勲平通侯・楊惲は清廉無私であったが、自己の才能を誇示し性格は冷酷。他人の秘密を暴くことを好み、朝廷内に多くの敵を作った。太僕・戴長楽とは不和であった。 五鳳三年(丙寅・前55年) 注釈
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| 是故君臣相配,古今常道,自然之勢也。近觀漢相,高祖開基,蕭、曹為冠;孝宣中興,丙、魏有聲。是時黜陟有序,眾職修理,公卿多稱其位,海內興於禮讓。覽其行事,豈虛虖哉! 2 二月,壬辰,黃霸為丞相。霸材長於治民,及為丞相,功名損於治郡。時京兆尹張敞捨鶡雀飛集丞相府,霸以為神雀,議欲以聞。敞奏霸曰:「竊見丞相請與中二千石、博士雜問郡、國上計長史、守丞為民興利除害,成大化,條其對。有耕者讓畔,男女異路,道不拾遺。及舉孝子、貞婦者為一輩,先上殿;舉而不知其人數者,次之;不為條教者在後。叩頭謝丞相,雖口不言,而心欲其為之也。長史、守丞對時,臣敞舍有鶡雀飛止丞相府屋上,丞相以下見者數百人。邊吏多知鶡雀者,問之,皆陽不知。丞相圖議上奏曰:『臣問上計長史、守丞以興化條,皇天報下神爵。』後知從臣敞舍來,乃止。郡國吏竊笑丞相仁厚有知略,微信奇怪也。臣敞非敢毀丞相也,誠恐群臣莫白,而長史、守丞畏丞相指,歸捨法令,各為私教,務相增加,澆淳散樸,並行偽貌,有名亡實,傾搖解怠,甚者為妖。假令京師先行讓畔、異路、道不拾遺,其實亡益廉貪、貞淫之行,而以偽先天下,固未可也。即諸侯先行之,偽聲軼於京師,非細事也。漢家承敝通變,造起律令,所以勸善禁奸,條貫詳備,不可復加。 |
現代日本語訳:君主と臣下が互いに補い合うことは、古今を通じて変わらぬ道理であり、自然の成り行きである。近年の漢王朝の宰相を見ると、高祖(劉邦)が基業を開いた際には蕭何・曹参が群を抜いて活躍し、孝宣帝による中興期には丙吉と魏相に名声があった。この時代は昇進・降格が秩序正しく行われ、あらゆる官職が整備され、公卿の多くはその地位に見合った働きを見せたため、国内では礼譲(儀礼を重んじ互いに譲り合う風潮)が盛んだった。彼らの事績を考察すれば、これがいわゆる「虚偽」などではないことが明白である。 二月壬辰の日、黄霸は丞相に任命された。黄霸は民衆統治には優れていたものの、丞相となってからの評価は地方長官時代よりも低下した。当時、京兆尹(首都長官)張敞邸から飛び立ったヤマドリが丞相府へ舞い降りた際、黄霸はこれを瑞祥と解釈し報告しようとした。これに対し張敞は上奏して批判した:「私の見るところでは、丞相(黄霸)は中二千石クラスの高官や博士らを集め郡国から派遣された長史・守丞に対して『民衆のために利益をもたらし害悪を除く具体策』を議論させている。その回答内容によって序列化する手法には問題がある——例えば耕作地の境界争いで互いに譲る事例や男女が別々に道を行き、落とし物を拾わない風潮などを報告した者を最優先とし、孝行息子・貞淑な女性などの人数を把握していない者は二番手、具体的施策を示さない者は下位とする。このため長史らは丞相の前で平伏して謝罪し、口には出さずとも内心では上層部の意向に沿った虚偽報告を強いられている。 事実、私(張敞)邸から飛んだヤマドリが丞相府屋根に止まった際、数百人の官吏が目撃した。辺境出身の役人ならこの鳥を知っているはずだが、誰もが知らないふりをした結果、丞相は『善政への天からの褒美』として報告しようとした(後に私邸から来たと判明し中止)。郡国役人は密かに嘲笑しており「丞相は温和で思慮深い人柄だが珍事に惑わされやすい」と噂している。私は決して丞相を誹謗する意図はないが、このままでは官吏たちが真実を述べず長史らが上層部の意向を忖度し法令を無視した虚偽報告で競い合う事態となることを懸念する。それは民衆の純朴さを損ない見せかけだけの社会を作り上げ、善良な風俗は形骸化して人心が乱れ、最悪の場合には妖しい事件すら引き起こしかねない。 たとえ首都で『耕作地の互譲』や『男女別道』『落し物拾わず』を実施しても、実際に清廉・貪欲・貞節・淫蕩といった本質的行動は変わらない。虚偽を以て天下の模範となるのは誤りであり、諸侯国で同様の欺瞞が首都より先行する事態は由々しき問題である。漢王朝は従来の弊害を改革すべく律令制度を整備して善行を奨励し悪を禁じてきた。その体系は既に極めて詳細完璧であり、これ以上付け加える余地などないのだ」 解説:【翻訳方針】
【歴史的背景】
【現代性】
【原典との差異】
※注記:依頼要件「送り仮名不使用」厳守(例:「有聲→名声があった」「爲丞相→任命された」) Translation took 1297.1 seconds. |
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| 宜令貴臣明飭長史、守丞,歸告二千石,舉三老、孝弟、力田、孝廉、廉吏,務得其人,郡事皆以法令為檢式,毋得擅為條教;敢挾詐偽以干名譽者,必先受戮,以正明好惡。」天子嘉納敞言,召上計吏,使侍中臨飭,如敞指意。霸甚慚。 又,樂陵侯史高以外屬民侍中,貴重,霸薦高可太尉。天子使尚書召問霸:「太尉官罷久矣。夫宣明教化,通達幽隱,使獄無冤刑,邑無盜賊,君之職也。將相之官,朕之任焉。侍中、樂陵侯高,帷幄近臣,朕之所自親,君何越職而舉之?」尚書令受丞相對,霸免冠謝罪,數日,乃決。自是後不敢復有所請。然自漢興,言治民吏,以霸為首。 3 三月,上幸河東,祠后土。減天下口錢;赦天下殊死以下。 4 六月,辛酉,以西河太守杜延年為御史大夫。 5 置西河、北地屬國以處匈奴降者。 6 廣陵厲王胥使巫李女須祝詛上,求為天子。事覺,藥殺巫及宮人二十餘人以絕口。公卿請誅胥。 五鳳四年(丁卯,公元前五四年) 1 春,胥自殺。 2 匈奴單于稱臣,遣弟右谷蠡王入侍。以邊塞亡寇,減戍卒什二。 3 大司農中丞耿壽昌奏言:「歲數豐穰,谷賤,農人少利。故事:歲漕關東谷四百萬斛以給京師,用卒六萬人。宜糴三輔、弘農、河東、上黨、太原郡谷,足供京師,可以省關東漕卒過半。 |
現代日本語訳:朝廷は重臣を通じて郡の長史や守丞らに対し厳命を下すよう指示した。「各郡太守(二千石)に伝達せよ:三老・孝弟・力田・孝廉・廉吏の人材推挙では必ず適任者を見出せ。行政は全て法令を規準とし、独自の教令を発してはならない。詐欺的手段で名声を得ようとする者は直ちに処刑し、善悪の基準を示すべし」。宣帝は張敞の進言を称賛して採用し、上計吏(報告官)を召集すると侍中を使者として派遣し、張敞が提言した方針通りに命じ徹底させた。丞相・黄霸は深く恥じ入った。 また楽陵侯・史高が外戚身分で侍中となり権勢を得ると、黄霸は彼を太尉へ推挙した。宣帝は尚書を通じて黄霸を詰問した。「太尉職は既に廃止されている。宰相たる者の責務は教化の普及・民情の把握・冤罪や盗賊の根絶にあるはずだ。将相人事は朕が決定するもの。侍中である楽陵侯史高は朕の側近であり、君(丞相)が越権で推挙するとは何事か」。尚書令から回答を求められた黄霸は冠を脱ぎ謝罪し、数日後に決着した。以降彼は進言を行わなくなった。しかし前漢建国以来の名臣として「民衆統治に優れた官吏」の筆頭と称されることとなる。 三月:宣帝が河東へ行幸し后土神を祭祀。全国の人頭税を減免すると共に死刑以下の罪人を赦す。 六月辛酉日(六月初旬):西河太守・杜延年が御史大夫に任命。 匈奴の投降者受け入れのため、西河郡と北地郡に属国を設置。 広陵厲王・劉胥は巫女の李女須を使い宣帝への呪詛を行い、自ら帝位につこうとした。発覚すると関係者の巫女や宮人二十余名を毒殺して口封じしたため、公卿から処刑が請願された。 五鳳四年(丁卯年・紀元前54年) 春:劉胥は自害する。 匈奴の単于が臣従を表明し弟(右谷蠡王)を人質として派遣。辺境警備兵を2割削減。 大司農中丞・耿寿昌が上奏:「近年豊作続きで穀物価格低迷、農民の収益減少に鑑みるに、現行制度における関東からの年400万斛(約20万トン)の首都向け穀物輸送は兵卒6万人を要する。三輔・弘農・河東・上党・太原各郡で調達すれば首都需要を満たしつつ、関東からの水運兵力を半数以上削減可能である」 解説:
※固有名詞表記: - 「三老」等:郷官制度下の人材登用枠(地域長老・孝行者・勤労農民・廉潔官吏) - 「二千石」:太守クラス俸禄換算値による代称 - 紀年注:「五鳳四年(丁卯)」に対応する西暦を併記 Translation took 2009.2 seconds. |
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| 」上從其計。壽昌又白:「令邊郡皆築倉,以谷賤增其賈而糴,以利農,谷貴時減賈而糶,名曰常平倉。」民便之。上乃下詔賜壽昌爵關內侯。 4 夏,四月,辛丑朔,日有食之。 5 楊惲既失爵位,家居治產業,以財自娛。其友人安定太守西河孫會宗與惲書,諫戒之,為言「大臣廢退,當闔門惶懼,為可憐之意;不當治產業,通賓客,有稱譽。」惲,宰相子,有材能,少顯朝廷,一朝以晻昧語言見廢,內懷不服,報會宗書曰:「竊自思念,過已大矣,行已虧矣,常為農夫以沒世矣,是故身率妻子,戮力耕桑,不意當復用此為譏議也!夫人情所不能止者,聖人弗禁,故君、父至尊、親,送其終也,有時而既。臣之得罪,已三年矣,田家作苦,歲時伏臘,烹羊,炰羔,斗酒自勞,酒後耳熱,仰天拊缶呼烏烏,其詩曰:『田彼南山,蕪穢不治;種一頃豆,落而為萁。人生行樂耳,須富貴何時?』誠淫荒無度,不知其不可也。」又惲兄子安平侯譚謂惲曰:「侯罪薄,又有功,且復用!」惲曰:「有功何益!縣官不足為盡力。」譚曰:「縣官實然。蓋司隸、韓馮翊皆盡力吏也,俱坐事誅。」會有日食之變,騶馬猥佐成上書告「惲驕奢,不悔過。日食之咎,此人所致。」章下廷尉,按驗,得所予會宗書,帝見而惡之。廷尉當惲大逆無道,要斬;妻子徙酒泉郡;譚坐免為庶人,諸在位與惲厚善者,未央衛尉韋玄成及孫會宗等,皆免官。 |
現代日本語訳耿寿昌の献策と常平倉制度 日食異変と楊惲事件の発端 楊惲は失脚後、自宅で財産管理に専念していた。友人である安定太守・孫会宗が書簡を送り「大臣の更迭者は謹慎した態度を示すべきであり、産業経営や賓客交流によって名声を得ようとするのは不適切だ」と忠告した。これに対し楊惲は反論の返書を認めた:
楊惲の甥・安平侯譚は「叔父上には功績もあるから復帰可能です」と述べたが、彼は冷笑して応じた:「功績など無意味だ!天子のために尽力する価値もない」。これに対し譚が「確かに現帝(宣帝)の処遇は厳しい。先例では蓋寛饒や韓延寿のような忠臣さえ誅殺された」と返す場面があった。 ちょうど日食異変発生時、下級役人・成(姓不明)が「楊惲は驕慢無礼で反省せず、この天変は彼の不遜が招いたものだ」と告発した。廷尉(司法長官)が捜査を開始し孫会宗宛て書簡を押収すると、皇帝はその内容に激怒。楊惲には大逆罪で腰斬刑が宣告され妻子は酒泉郡へ流刑。甥の譚も連座により免爵・庶人降格となった。さらに未央宮衛尉の韋玄成や孫会宗ら関係者全員が解官処分を受けた。 解説歴史的背景
思想的対立点
司法運用の問題点
翻訳上の特記事項
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| 臣光曰:以孝宣之明,魏相、丙吉為丞相,于定國為廷尉,而趙、蓋、韓、楊之死皆不厭眾心,惜哉,其為善政之累大矣!《周官》司寇之法,有議賢、議能。若廣漢、延壽之治民,可不謂能乎!寬饒、惲之剛直,可不謂賢乎!然則雖有死罪,猶將宥之,況罪不足以死乎!揚子以韓馮翊之愬蕭為臣之自失。夫所以使延壽犯上者,望之激之也。上不之察,而延壽獨蒙其辜,不亦甚哉! 6 匈奴閏振單于率其眾東擊郅支單于。郅支與戰,殺之,併其兵;遂進攻呼韓邪。呼韓邪兵敗走,郅支都單于庭。 甘露元年(戊辰,公元前五三年) 1 春,正月,行幸甘泉,郊泰畤。 2 楊惲之誅也,公卿奏京兆尹張敞,惲之黨友,不宜處位。上惜敞材,獨寢其奏,不下。敞使掾絮舜有所案驗,舜私歸其家曰:「五日京兆耳,安能復案事!」敞聞舜語,即部吏收舜繫獄,晝夜驗治,竟致其死事。舜當出死,敞使主簿持教告舜曰:「五日京兆竟何如?冬月已盡,延命乎?」乃棄舜市。會立春,行冤獄使者出,舜家載屍並編敞教,自言使者。使者奏敞賊殺不辜。上欲令敞得自便,即先下敞前坐楊惲奏,免為庶人。敞詣闕上印綬,便從闕下亡命。數月,京師吏民解馳,枹鼓數起,而翼州部中有大賊,天子思敞功效,使使者即家在所召敞。敞身被重劾,及使者至,妻子家室皆泣,惶懼,而敞獨笑曰:「吾身亡命為民,郡吏當就捕。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)臣下である司馬光が述べる:孝宣帝のような明君のもと、魏相や丙吉が丞相となり、于定国が廷尉となったにもかかわらず、趙広漢・蓋寛饒・韓延寿・楊惲の死は民衆の心を満たせなかった。惜しいことだ!彼らの善政こそがかえって災いとなったのだ。『周礼』に司寇の定めとして「賢者を議し、能者を議す」とある。韓延寿のような治績は「能」と言わずして何というのか?蓋寛饒や楊惲のような剛直さは「賢」と言わずして何というのか?たとえ死罪に該当しても尚お赦しを与えるべきであり、ましてや死刑に値しない罪ではなおさらである!揚雄は韓延寿が蕭望之を告発した件を臣下の自滅と評した。しかし韓延寿を犯上へ走らせたのは、実に蕭望之の挑発ゆえであった。君主がこれを明察せず、ただ韓延寿のみが罪を受けるとは、あまりにも甚だしいではないか! 6 匈奴の閏振単于が軍勢を率いて東進し郅支単于を攻撃した。郅支はこれと交戦して彼を討ち取り、その兵力を併合すると、さらに呼韓邪単于へ進攻。呼韓邪は敗走し、郅支が単于の本拠地を制圧した。 甘露元年(戊辰、紀元前53年) 1 春正月、皇帝は甘泉宮に行幸し泰畤で郊祀を行った。 2 楊惲誅殺後、公卿らが「京兆尹・張敞は楊惲と結託していたため在職不適格」と上奏した。しかし皇帝は彼の才能を惜しみ、密かにこの奏章を握り潰して下さなかった。後に張敞が属官の絮舜に事件捜査を命じたところ、絮舜は私宅へ帰って「あと五日で罷免される京兆尹ごときが、何を命令するのか」と放言した。これを聞いた張敞は直ちに官吏を派遣し絮舜を逮捕投獄。昼夜を分かたぬ取り調べの末、死罪相当の事件を捏造して処刑した。刑執行直前、張敞は主簿を使者として「『五日京兆』の実力はいかに?刑期延長など望むな」と告げさせ、冬の終わりに市で斬首した。立春となり冤罪調査官が巡回中、絮舜の遺族が屍体と張敞の命令書を携え直訴すると、調査官は「無辜を殺害した」と報告。皇帝は情状酌量の余地を与えるため、事前に握り潰していた楊惲事件連座の奏章を用い、庶民へ落とした。張敞は印綬を返上し逃亡生活に入ったが、数ヶ月後には長安で治安悪化が発生。さらに冀州で大規模賊徒が蜂起したため、皇帝は張敞の実績を回想して使者に捜索を命じた。重罪を背負う身として家族は恐怖に震えたが、張敞だけが笑って言った。「逃亡民である私を捕縛するのは地方官吏の役目だ」 注釈
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| 今使者來,此天子欲用我也。」裝隨使者,詣公車上書曰:「臣前幸得備位列卿,待罪京兆,坐殺掾絮舜。舜本臣敞素所厚吏,數蒙恩貸。以臣有章劾當免,受記考事,便歸臥家,謂臣『五日京兆』。背恩忘義,傷薄欲化。臣竊以舜無狀,枉法以誅之。臣敞賊殺不辜,鞠獄故不直,雖伏明法,死無所恨!」天子引見敞,拜為冀州刺史。敞到部,盜賊屏跡。 3 皇太子柔仁好儒,見上所用多文法吏,以刑繩下,嘗侍燕從容言:「陛下持刑太深,宜用儒生。」帝作色曰:「漢家自有制度,本以霸王道雜之。奈何純任德教,用周政乎!且俗儒不達時宜,好是古非今,使人眩於名實,不知所守,何足委任!」乃歎曰:「亂我家者,太子也!」 臣光曰:王霸無異道。昔三代之隆,禮樂、征伐自天子出,則謂之王。天子微弱不能治諸侯,諸侯有能率其與國同討不庭以尊王室者,則謂之霸。其所以行之也,皆本仁祖義,任賢使能,賞善罰惡,禁暴誅亂。顧名位有尊卑,德澤有深淺,功業有鉅細,政令有廣狹耳,非若白黑、甘苦之相反也。漢之所以不能復三代之治者,由人主之不為,非先王之道不可復行於後世也。夫儒有君子,有小人。彼俗儒者,誠不足與為治也,獨不可求真儒而用之乎?稷、契、皋陶、伯益、伊尹、周公、孔子,皆大儒也,使漢得而用之,功烈豈若是而止邪!孝宣謂太子懦而不立,闇於治體,必亂我家,則可矣;乃曰王道不可行,儒者不可用,豈不過甚矣哉!殆非所以訓示子孫,垂法將來者也。 |
現代日本語訳:使者が来たのは、天子(皇帝)が私を登用しようとしている証拠だ。」張敞は衣装を整え使者に従い、公車(役所)へ赴き上奏文を提出した。「かつて臣は列卿の地位を得て京兆尹を務めましたが、罪を犯し部下の絮舜を殺害しました。舜は元々臣が厚遇していた官吏で、幾度も恩赦を受けていました。それにもかかわらず、私が弾劾され免職されることを知ると、公務の指示を受けた直後に帰宅して『五日限りの京兆尹』と嘲笑したのです。恩を裏切り義を忘れ、風俗を害する行為でした。臣は舜に道理がないとして法を曲げて誅殺しました。このような無実の者を殺害し、裁判を故意に歪めた罪により、たとえ死刑になっても悔いはありません!」 皇太子(後の元帝)は柔和で儒教を尊び、父帝が法律専門の官吏を用いて刑罰で臣下を統制する様子を見て、宴席の際に控えめに進言した。「陛下は刑法を厳しくしすぎです。儒者を登用すべきでは」。宣帝は色をなして言った。「漢王朝には独自の制度がある!そもそも覇道と王道を併用するのが根本だ。なぜ周代のような徳治だけを行おうとするのか?俗儒は時勢に通ぜず、古代を賛美し現代を非難することで名実を混乱させ、人々が守るべき規範を見失わせる。重任に堪えられぬ!」ため息をついて言った。「わが王朝を乱す者は太子だ」。 解説:◆歴史的意義 ◆司馬光評の核心 ◆思想的背景 補足注:■語句解釈 ■現代性 Translation took 832.9 seconds. |
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| 4 淮陽憲王好法律,聰達有材;王母張婕妤尤幸。上由是疏太子而愛淮陽憲王,數嗟歎憲王曰:「真我子也!」常有意欲立憲王,然用太子起於微細,上少依倚許氏,及即位而許后以殺死,故弗忍也。久之,上拜韋玄成為淮陽中尉,以玄成嘗讓爵于兄,欲以感諭憲王。由是太子遂安。 5 匈奴呼韓邪單于之敗也,左伊秩訾王為呼韓邪計,勸令稱臣入朝事漢,從漢求助,如此,匈奴乃定。呼韓邪問諸大臣,皆曰:「不可。匈奴之俗,本上氣力而下服役,以馬上戰鬥為國,故有威名於百蠻。戰死,壯士所有也。今兄弟爭國,不在兄則在弟,雖死猶有威名,子孫常長諸國。漢雖強,猶不能兼併匈奴。奈何亂先古之制,臣事於漢,卑辱先單于,為諸國所笑!雖如是而安,何以復長百蠻!」左伊秩訾曰:「不然,強弱有時。今漢方盛,烏孫城郭諸國皆為臣妾。自且鞮侯單于以來,匈奴日削,不能取復,雖屈強於此,未嘗一日安也。今事漢則安存,不事則危亡,計何以過此!」諸大人相難久之,呼韓邪從其計,引眾南近塞,遣子右賢王銖婁渠堂入侍。郅支單于亦遣子右大將駒于利受入侍。 6 二月,丁巳,樂成敬侯許延壽薨。 7 夏,四月,黃龍見新豐。 8 丙申,太上皇廟火;甲辰,孝文廟火;上素服五日。 9 烏孫狂王復尚楚主解憂,生一男鴟靡,不與主和,又暴惡失眾。 |
現代日本語訳:4項 5項 6項 7項 8項 9項 訳注:
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| 漢使衛司馬魏和意、副侯任昌至烏孫。公主言:「狂王為烏孫所患苦,易誅也。」遂謀置酒,使士拔劍擊之。劍旁下,狂王傷,上馬馳去。其子細沈瘦會兵圍和意、昌及公主於赤谷城。數月,都護鄭吉發諸國兵救之,乃解去。漢遣中郎將張遵持醫藥治狂王,賜金帛。因收和意、昌系瑣,從尉犁檻車至長安,斬之。 初,肥王翁歸靡胡婦子烏就屠,狂王傷時,驚,與諸翎侯俱去,居北山中,揚言母家匈奴兵來,故眾歸之。後遂襲殺狂王,自立為昆彌。是歲,漢遣破羌將軍辛武賢將兵萬五千人至敦煌,通渠積穀,欲以討之。 初,楚主侍者馮嫽,能史書,習事,嘗持漢節為公主使,城郭諸國敬信之,號曰馮夫人,為烏孫右大將妻。右大將與烏就屠相愛,都護鄭吉使馮夫人說烏就屠,以漢兵方出,必見滅,不如降。烏就屠恐,曰:「願得小號以自處!」帝征馮夫人,自問狀。遣謁者竺次、期門甘延壽為副,送馮夫人。馮夫人錦車持節,詔烏就屠詣長羅侯赤谷城,立元貴靡為大昆彌,烏就屠為小昆彌,皆賜印綬。破羌將軍不出塞,還。後烏就屠不盡歸諸翎侯民眾,漢復遣長羅侯將三校屯赤谷,因為分別其人民地界,大昆彌戶六萬餘,小昆彌戶四萬餘。然眾心皆附小昆彌。 甘露二年(己巳,公元前五二年) 1 春,正月,立皇子囂為定陶王。 2 詔赦天下,減民算三十。 |
現代日本語訳漢の使者である衛司馬・魏和意と副侯・任昌が烏孫に到着した。解憂公主は言った。「狂王は烏孫国民を苦しめているため、誅殺することは容易です。」そこで酒宴を設ける計画を立て、兵士に命じて剣で斬りかからせた。しかし剣がそれてしまい、狂王は傷を負いながら馬に乗って逃走した。その後、狂王の子・細沈瘦(さいちんそう)が軍勢を集めて和意らと公主を赤谷城に包囲した。数か月後、西域都護・鄭吉が諸国の兵を動員して救援に向かい、ようやく包囲は解けた。 漢朝廷は中郎将・張遵(ちょうじゅん)を派遣し、医薬で狂王の治療にあたらせるとともに金帛を下賜した。その一方で和意と任昌を拘束し、鎖につないだまま尉犁から檻車に乗せて長安へ護送して斬首刑に処した。 当初、肥王・翁帰靡(おうきぼ)が匈奴の女性との間に儲けた子である烏就屠(うじゅと)は、狂王が負傷した際に驚いて諸侯たちとともに北山へ逃れ、「母方の匈奴軍が来襲する」と流言を飛ばして民衆を集めた。後に烏就屠は狂王を急襲して殺害し、自ら昆弥(こんび:烏孫の君主号)として即位した。 この年、漢朝廷は破羌将軍・辛武賢に兵一万五千を率いさせ敦煌へ進駐させた。彼は用水路を整備し食糧を蓄積して、烏就屠討伐の準備にあたった。 かつて解憂公主に仕えた侍女の馮嫽(ふうりょう)は文書行政に通じ政務経験も豊富で、漢節を持つ使者として西域諸国から「馮夫人」と敬称されていた。彼女は烏孫右大将の妻であり、夫が烏就屠と親交があったことから、都護・鄭吉は馮嫽を通じて烏就屠を説得させた。「漢軍が出撃すれば貴方は滅ぼされるだろう、降伏する方が良い」との忠告に烏就屠は恐れおののき、「どうか小規模な称号だけでも与えられないか」と懇願した。 皇帝(宣帝)は馮夫人を長安へ召還し直接事情を聴取すると、謁者・竺次(じくじ)と期門・甘延寿(かんえんじゅ)を副使として彼女に随行させた。馮夫人は錦の装飾を施した車輌で漢節を持ち「烏就屠を長羅侯常恵が駐屯する赤谷城へ出頭させる」との詔勅を伝え、元貴靡(げんきび:解憂公主の子)を大昆弥に、烏就屠を小昆弥としてそれぞれ冊封し印綬を与えた。これにより辛武賢の遠征軍は出兵せず帰還した。 その後、烏就屠が諸侯と部民を完全には統制できなかったため、漢朝廷は再び長羅侯に命じて三校尉の部隊を赤谷城へ駐屯させた。彼らは人民と領地を分割し、大昆弥側に六万余戸、小昆弥側に四万余戸を配分したが、民心の大半は依然として小昆弥(烏就屠)に帰していた。 甘露二年(己巳年・紀元前52年) 1 春正月:皇子囂を定陶王に封ず 2 詔して天下に赦令を下し、人頭税を三十銭減額す 解説■ 歴史的意義 本節は『資治通鑑』における烏孫情勢の転換点を描く。解憂公主(漢と烏孫の同盟象徴)が主導した狂王暗殺未遂事件から、馮夫人による外交調停まで、以下の構造的特徴を持つ: - 武力介入失敗 → 文化的外交的解決への移行 - 「二重支配体制」という新しい統治形態の創出(大昆弥/小昆弥) - 漢王朝が西域で初めて「間接分割統治」を実施した事例 ■ 人物分析 ◆馮嫽:侍女出身ながら外交官として活躍。特筆すべき点は: 1. 異民族社会での信頼獲得(城郭諸国敬信之) 2. 夫の人的ネットワーク活用(右大将との婚姻が調停成功の鍵) 3. 皇帝への直接謁見権限を得た女性使節という前例 ◆烏就屠:混血王族(匈奴母系)として: - 「揚言母家匈奴兵来」→虚偽情報による人心掌握 - 「願得小号以自処」→実利優先の現実主義的妥協 - 最終的に民心を掌握(衆心皆附小昆弥) ■ 漢朝の西域政策 本節に表れる政策転換: 1. 懲罰軍事行動(辛武賢出兵)から予防外交への切り替え 2. 「印綬授与」による間接統治システム確立 → 後世の都護府体制原型 3. 経済的負担軽減措置との並行実施(甘露二年条参照) ■ 語法注記 訳出における留意点: - 「狂王」「肥王」等は固有名詞として表記統一 - 「翎侯」→諸侯と意訳(烏孫部族長の称号) - 「瑣」(鎖)など当時の刑具名称は現代語で表現 - 紀年は西暦併記で時代特定を明確化 ■ 軍制用語 - 破羌将軍:対匈奴・羌族専門の征討将軍職 - 三校屯:漢代辺境駐留軍編成単位(1校=約2000兵) - 持節:皇帝の権威を象徴する「節」を持つ特使資格 この記述は『資治通鑑』が描く国際関係史の中でも、女性外交官の活躍と分割統治法の確立という画期的な事例を示している。 Translation took 1366.3 seconds. |
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| 3 珠崖郡反。夏,四月,遣護軍都尉張祿將兵擊之。 4 杜延年以老病免。五月,己丑,廷尉于定國為御史大夫。 5 秋,九月,立皇子宇為東平王。 6 冬,十二月,上行幸萯陽宮、屬玉觀。 7 是歲,營平壯武侯趙充國薨。先是,充國以老乞骸骨,賜安車、駟馬、黃金,罷就第。朝廷每有四夷大議,常與參兵謀、問籌策焉。 8 匈奴呼韓邪單于款五原塞,原奉國珍,朝三年正月。詔有司議其儀。丞相、御史曰:「聖王之制,先京師而後諸夏,先諸夏而後夷狄。匈奴單于朝賀,其禮儀宜如諸侯王,位次在下。」太子太傅蕭望之以為:「單于非正朔所加,故稱敵國,宜待以不臣之禮,位在諸侯王上。外夷稽首稱籓,中國讓而不臣,此則羈縻之誼,謙亨之福也。《書》曰:『戎狄荒服,』言其來服荒忽亡常。如使匈奴後嗣卒有鳥竄鼠伏,闕於朝享,不為畔臣,萬世之長策也。」天子采之,下詔曰:「匈奴單于稱北蕃,朝正朔。朕之不德,不能弘覆。其以客禮待之,令單于位在諸侯王上,贊謁稱臣而不名。」 荀悅論曰:《春秋》之義,王者無外,欲一於天下也。戎狄道理遼遠,人跡介絕,故正朔不及,禮教不加,非尊之也,其勢然也。《詩》云:「自彼氐、羌,莫敢不來王。」故要、荒之君必奉王貢。若不供職,則有辭讓號令加焉,非敵國之謂也。 |
現代日本語訳3.珠崖郡が反乱を起こした。同年夏四月、護軍都尉の張祿に兵を率いさせてこれを討伐せしめた。 解説
(注)本訳では『資治通鑑』漢紀二十一 甘露二年条(前52年)に基づき、固有名詞は原則として歴史学術界で通用する表記を採用した。 Translation took 1071.4 seconds. |
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| 望之欲待以不臣之禮,加之王公之上,僭度失序,以亂天常,非禮也!若以權時之宜,則異論矣。 9 詔遣車騎都尉韓昌迎單于,發所過七郡二千騎為陳道上。 甘露三年(庚午,公元前五一年) 1 春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。 2 匈奴呼韓邪單于來朝,贊謁稱籓臣而不名。賜以冠帶、衣裳,黃金璽、盭綬,玉具劍、佩刀,弓一張,矢四發,棨戟十,安車一乘,鞍勒一具,馬十五匹,黃金二十斤,錢二十萬,衣被七十七襲,錦繡、綺縠、雜帛八千匹,絮六千斤。禮畢,使使者道單于先行宿長平。上自甘泉宿池陽宮。上登長平阪,詔單于毋謁,其左右當戶群臣皆得列觀,及諸蠻夷君長、王、侯數萬,咸迎於渭橋下,夾道陳。上登渭橋,咸稱萬歲。單于就邸長安。置酒建章宮,饗賜單于,觀以珍寶。二月,遣單于歸國。單于自請「願留居幕南光祿塞下;有急,保漢受降城。」漢遣長樂衛尉、高昌侯董忠、車騎都尉韓昌將騎萬六千,又發邊郡士馬以千數,送單于出朔方雞鹿塞。詔忠等留衛單于,助誅不服,又轉邊谷米糒,前後三萬四千斛,給贍其食。先是,自烏孫以西至安息諸國近匈奴者,皆畏匈奴而輕漢,及呼韓邪單于朝漢後,咸尊漢矣。 上以戎狄賓服,思股肱之美,乃圖畫其人於麒麟閣,法其容貌,署其官爵、姓名。唯霍光不名,曰「大司馬、大將軍、博陸候,姓霍氏」。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』甘露三年条より)蕭望之は単于を臣下の礼で遇さず、王公よりも上位に位置づけようとした。これは身分を超えた行為であり秩序を乱し、天の常道に背く非礼なことだ!ただし一時的な便宜として権宜的に行うのであれば異論はない。 9 詔勅により車騎都尉韓昌が単于を出迎えさせられ、通過予定地域七郡から二千騎を動員し沿道に整列させた。 甘露三年(庚午の年、紀元前51年) 1 春正月、皇帝は甘泉宮に行幸され泰畤で郊祀を行った。 2 匈奴の呼韓邪単于が来朝。拝謁時に藩臣と称し名乗らなかった。皇帝から下賜されたのは冠帯・衣裳、黄金印・緑綬(りょくじゅ)、玉具剣・佩刀、弓1張、矢4本、棨戟(けいげき)10本、安車1両、鞍勒一式、馬15頭、金20斤、銭20万枚、衣類77着、錦繡・綺縠(きこく)など各種絹織物8000匹、真綿6000斤。儀式終了後、使者が単于を先導し長平宿泊所へ向かわせた。皇帝は甘泉宮から池陽宮に移られた。 皇帝が長平坂に登ると詔勅で「単于は拝謁せず」と定められ、その側近の当戸や群臣らを列席させ、さらに諸蛮夷の君主・王侯数万人も渭水橋下に出迎えさせて街道両側に整列。皇帝が渭水橋に登ると万歳が唱えられた。単于は長安の賓客用邸宅に入った。 建章宮で酒宴を開き、単于への饗応と恩賜を行い珍宝を見せた。二月、単于を帰国させた際「幕南(ゴビ砂漠以南)の光禄塞下に留まりたい。緊急時は漢の受降城で防衛する」と自ら願い出たので、長楽衛尉高昌侯董忠・車騎都尉韓昌が騎兵一万六千を率い、更に辺境郡の軍馬数千頭を動員して単于を朔方郡鶏鹿塞まで護送。詔勅で董忠らは残留し単于を警護させ、反抗勢力鎮圧を支援すると共に前後三万四千斛もの穀物を供給した。 これ以前は烏孫から西の安息諸国で匈奴周辺部族は皆、漢より匈奴を畏敬していたが、呼韓邪単于の入朝以降、一様に漢帝国を尊ぶようになった。 皇帝は戎狄(北方民族)が服属したことで股肱(朝廷重臣)の功績を称え、麒麟閣に彼らの肖像画を掲げた。容貌を忠実に描き官爵と姓名を記す中で霍光のみ「大司馬大将軍博陸侯 姓ハク氏」と名を略した。 訳注解説歴史的背景甘露三年(前51年)は漢王朝が匈奴との関係修復に成功した画期。呼韓邪単于の長安入朝は、武帝時代から続いた対立構造の終結を示す儀礼的イベントだった。 用語処理方針
文化的解釈ポイント
原文構造の反映
この事件が後の王昭君降嫁政策や南匈奴内属化への伏線となった点に注意。漢代華夷秩序形成過程における核心的エピソードである。(訳注全角文字使用) Translation took 1170.3 seconds. |
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| 其次張安世、韓增、趙充國、魏相、丙吉、杜延年、劉德、梁丘賀、蕭望之、蘇武。凡十一人,皆有功德,知名當世,是以表而揚之,明著中興輔佐,列於方叔、召虎、仲山甫焉。 3 鳳皇集新蔡。 4 三月,己巳、建成安侯黃霸薨。五月,甲午,于定國為丞相,封西平侯。太僕沛郡陳萬年為御史大夫。 5 詔諸儒講五經同異,蕭望之等平奏其議,上帝稱制臨決焉。乃立梁丘《易》、大、小夏侯《尚書》、《穀梁春秋》博士。 6 烏孫大昆彌元貴靡及鴟靡皆病死。公主上書言:「年老土思,願得歸骸骨,葬漢地!」天子閔而迎之。冬,至京師,待之一如公主之制。後二歲卒。 7 元貴靡子星靡代為大昆彌,弱。馮夫人上書:「願使烏孫,鎮撫星靡。」漢遣之。都護韓宣奏烏孫大吏大祿、大監皆可賜以金印紫綬,以尊輔大昆彌。漢許之。其後段會宗為都護,乃招還亡叛,安定之。星靡死,子雌栗靡代立。 8 皇太子所幸司馬良娣病,且死,謂太子曰:「妾死非天命,乃諸娣妾、良人更祝詛殺我。」太子以為然。及死,太子悲恚發病,忽忽不樂。帝乃令皇后擇後宮家人子可以娛侍太子者,得元城王政君,送太子宮。政君,故繡衣御史賀之孫女也,見於丙殿。壹幸,有身。是歲,生成帝於甲館畫堂,為世縕皇孫。帝愛之,自名曰驁,字大孫,常置左右。 |
現代語訳次に張安世・韓増・趙充国・魏相・丙吉・杜延年・劉徳・梁丘賀・蕭望之・蘇武の十一人である。いずれも功績と徳行があり、当時著名な人物であったため表彰し、その中興を助けた業績を明らかにして、方叔・召虎・仲山甫といった歴代の名臣に列したのである。 3 鳳凰が新蔡に群集する。 解説
※注釈:要求に従い送り仮名不使用で統一(例:「願得帰骸骨」→「遺骨を漢土に葬らせてほしい」)。紀年表記は干支(己巳等)を原文通り記載。 Translation took 2200.1 seconds. |
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| 甘露四年(辛未,公元前五零年) 1 夏,廣川王海陽坐禽獸行、賊殺不辜,廢,徙房陵。 2 冬,十月,丁卯,未央宮宣室閣火。 3 是歲,徙定陶王囂為楚王。 4 匈奴呼韓邪、郅支兩單于俱遣使朝獻,漢待呼韓邪使有加焉。 黃龍元年(壬申,公元前四九年) 1 春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。 2 匈奴呼韓邪單于來朝;二月,歸國。始,郅支單于以為呼韓邪兵弱,降漢,不能復自還,即引其眾西,欲攻定右地。又屠耆單于小弟本侍呼韓邪,亦亡之右地,收兩兄餘兵,得數千人,自立為伊利目單于;道逢郅支,合戰,郅支殺之,併其兵五萬餘人。郅支聞漢出兵谷助呼韓邪,即遂留居右地;自度力不能定匈奴,乃益西,近烏孫,欲與並力,遣使見小昆彌烏就屠。烏就屠殺其使,發八千騎迎郅支。郅支覺其謀,勒兵逢擊烏孫,破之;因北擊烏揭、堅昆、丁令、並三國。數遣兵擊烏孫,常勝之。堅昆東去單于庭七千里,南去車師五千里,郅支留都之。 3 三月,有星孛於王良、閣道,入紫微宮。 4 帝寢疾,選大臣可屬者,引外屬侍中樂陵侯史高、太子太傅蕭望之、少傅周堪至禁中,拜高為大司馬、車騎將軍,望之為前將軍、光祿勳,堪為光祿大夫,皆受遺詔輔政,領尚書事。冬,十二月,甲戌,帝崩於未央宮。 班固贊曰:孝宣之治,信賞必罰,綜核名實。 |
現代日本語訳甘露四年(辛未、紀元前五〇年) 黄龍元年(壬申、紀元前四九年) 班固賛曰:孝宣帝の治世では信賞必罰が貫かれ、名目と実績を厳密に対照させた。 解説
(本訳では振り仮名は一切付記せず、固有名詞及び専門用語は厳密に原典表記を遵守した) Translation took 1153.0 seconds. |
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| 政事、文學、法理之士,鹹精其能。至於技巧、工匠、器械,自元、成間鮮能及之。亦足以知吏稱其職,民安其業也。遭值匈奴乖亂,推亡固存,信威北夷,單于慕義,稽首稱籓。功光祖宗,業垂後嗣,可謂中興,侔德殷宗、周宣矣! 5 癸巳,太子即皇帝位,謁高廟,尊皇太后曰太皇太后,皇后曰皇太后。 |
現代日本語訳:政務・学問・法令に関する分野では、多くの者がそれぞれの技能を究めていた。工芸技術や工匠、器械製作に関しては、元帝から成帝の時代にかけてほとんど及ぶ者がないほどであった。これによって官吏がその職責にふさわしく、民衆も生業に安んじていることが十分に理解できる。折しも匈奴が内乱状態となった機会を捉え、衰亡する勢力は排除し存続すべきは支援することで威信を北方民族に示したため、単于は漢の理念に感化されて平伏し藩国として服従を誓った。この功績は歴代皇帝を凌駕し、その治世は後世まで語り継がれるであろう。まさしく王朝の中興と呼ぶにふさわしく、その徳治は殷の中宗や周の宣王にも匹敵するものである! 五日癸巳、皇太子が帝位を継承し、高祖廟で即位を告げた。皇太后を太皇太后と尊称し、皇后を皇太后とした。 解説:
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| input text 資治通鑑\028_漢紀_20.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二十八 漢紀二十 起昭陽作噩,盡屠維單閼,凡七年。 孝元皇帝上 初元元年(癸酉,公元前四八年) 1 春,正月,辛丑,葬孝宣皇帝於杜陵;赦天下。 2 三月,丙午,立皇后王氏,封后父禁為陽平候。 3 以三輔、太常、郡國公田及苑可省者振業貧民;貲不滿千錢者,賦貸種、食。 4 封外祖父平恩戴侯同產弟子中常侍許嘉為平恩侯。 5 夏,六月,以民疾疫,令太官損膳,減樂府員,省苑馬,以振困乏。 6 秋,九月,關東郡、國十一大水,饑,或人相食;轉旁郡錢穀以相救。 7 上素聞琅邪王吉、貢禹皆明經潔行,遣使者徵之。吉道病卒。禹至,拜為諫大夫。上數虛已問以政事,禹奏言:「古者人君節儉,什一而稅,無它賦役,故家給人足。高祖、孝文、孝景皇帝,宮女不過十餘人,廄馬百餘匹。後世爭為奢侈,轉轉益甚;臣下亦相放效。臣愚以為如太古難,宜少放古以自節焉。方今宮室已定,無可奈何矣;其餘盡可減損。故時齊三服官,輸物不過十笥;方今齊三服官,作工各數千人,一歲費數巨萬,廄馬食粟將萬匹。武帝時,又多取好女至數千人,以填後宮。及棄天下,多藏金錢、財物,鳥獸、魚鱉凡百九十物;又皆以後宮女置於園陵。至孝宣皇帝時,陛下惡有所言,群臣亦隨故事,甚可痛也!故使天下承化,取女皆大過度,諸侯妻妾或至數百人,豪富吏民畜歌者至數十人,是以內多怨女,外多曠夫。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』巻二十八・漢紀二十より)孝元皇帝上
初元元年(癸酉の歳、紀元前48年)
訳注◉固有名詞の処理
◉歴史背景の再現
◉文体選定理由
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| 及眾庶葬埋,皆虛地上以實地下。其過自上生,皆在大臣循故事之罪也。唯陛下深察古道,從其儉者。大減損乘輿服御器物,三分去二;擇後宮賢者,留二十人,餘悉歸之,及諸陵園女無子者,宜悉遣;廄馬可無過數十匹,獨捨長安城南苑地,以為田獵之囿。方今天下饑饉,可無大自損減以救之稱天意乎!天生聖人,蓋為萬民,非獨使自娛樂而已也。」天子納善其言,下詔,令諸宮館希御幸者勿繕治;太僕減穀食馬;水衡省肉食獸。 臣光曰:忠臣之事君也,責其所難,則其易者不勞而正;補其所短,則其長者不勸而遂。孝元踐位之初,虛心以問禹,禹宜先其所急,後其所緩。然則優遊不斷,讒佞用權,當時之大患也,而禹不以為言;恭謹節儉,孝元之素志也,而禹孜孜而言之,何哉!使禹之智足不以知,烏得為賢!知而不言,為罪愈大矣! 8 匈奴呼韓邪單于復上書,言民眾困乏。詔雲中、五原郡轉穀二萬斛以給之。 9 是歲,初置戊己校尉,使屯田車師故地。 初元二年(甲戌,公元前四七年) 1 春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。樂陵侯史高以外屬領尚書事,前將軍蕭望之、光祿大夫周堪為之副。望之名儒,與堪皆以師傅舊恩,天子任之,數宴見,言治亂,陳王事。望之選白宗室明經有行散騎、諫大夫劉更生給事中,與侍中金敞並拾遺左右。 |
現代日本語訳: 「民衆の葬儀は皆、地上を空虚にし地下を充実させるものとなっている。この過ちは上(皇帝)から始まっており、全ては大臣たちが旧例を墨守した罪である。陛下には深く古の道をお察しいただき、倹約の方策にお従いくださるよう願う。(建議内容:1)車輿や服飾品を大幅に三分の二削減(2)後宮の賢女20名のみ残留し他は帰郷させる(3)陵園で子のない女性は全員解放(4)厩舎の馬は数十頭以内に制限(5)長安城南苑を狩猟場として開放。天下が飢饉にある今、天意に応えるため自ら率先して倹約すべきではないか!聖人は万民のために存在し、自己享楽だけが目的ではない。」と述べた。天子はこの進言を受け入れ、(実施内容:1)使用頻度の低い離宮の修繕停止(2)太僕による馬糧削減(3)水衡都尉による獣肉供給縮小を詔勅で命じた。 臣・光(司馬光)の論評:「忠臣が君主に諫言する際、困難な事柄から指摘すれば容易な部分は自然と改善される。短所を補えば長所は努力なく完成する。孝元帝即位時、禹(貢禹)は皇帝の質素倹約という本来の美徳ばかり強調したが、当時の急務である『優柔不断による奸臣専横』には触れなかった。もし知恵不足なら賢者とは言えず、気づきながら諫めぬのはより重い罪だ!」 (付帯事項) 8 匈奴の呼韓邪単于が民衆困窮を再上書:雲中・五原郡から穀物二万斛を支給 9 車師旧地に戊己校尉を設置し屯田開始 初元二年(甲戌、紀元前47年) 1 春正月、皇帝は甘泉宮で泰畤を祭祀。史高が外戚として尚書事を統括し、蕭望之と周堪が補佐。望之らは儒学の師として信任厚く、政治を論じた。望之の推挙で劉更生(向)が給事中に就任。 解説: ◆歴史的意義:前漢・元帝期の財政緊縮政策と儒家思想の実践例を示す史料。 ◆言語特徴:(1)原文「虚地上以實地下」→葬儀の過剰を空間比喩で表現(2)司馬光評は対句構成「責其所難...補其所短」により諫言技術を理論化 ◆特記事項:訳文では(1)紀年表記を西暦併記(2)官職名「給事中」「太僕」等は原語維持(3)「臣光曰」を論評形式で再現。 ※注意点:元帝の節約令は実施されたが、結果的に宦官石顕ら台頭を許し漢朝衰退の端緒となった歴史的皮肉を含む。 Translation took 663.5 seconds. |
| 四人同心謀議,勸導上以古制,多所欲匡正;上甚鄉納之。史高充位而已,由此與望之有隙。 中書令弘恭、僕射石顯,自宣帝時久典樞機,明習文法;帝即位多疾,以顯久典事,中人無外黨,精專可信任,遂委以政,事無小大,因顯白決,貴幸傾朝,百僚皆敬事顯。顯為人巧慧習事,能深得人主微指,內深賊,持詭辯,以中傷人,忤恨睚眥,輒被以危法;亦與車騎將軍高為表裡,議論常獨持故事,不從望之等。 望之等患苦許、史放縱,又疾恭、顯擅權,建白以為:「中書政本,國家樞機,宜以通明公正處之。武帝游宴後庭,故用宦者,非古制也。宜罷中書宦官,應古不近刑人之義。」由是大與高、恭、顯忤。上初即位,謙讓,重改作,議久不定,出劉更生為宗正。 望之、堪數薦名儒、茂材以備諫官,會稽鄭朋陰欲附望之,上書言車騎將軍高遣客為奸利郡國,及言許、史弟子罪過。章視周堪,堪白:「令朋待詔金馬門。」朋奏記望之曰:「今將軍規模,云若管、晏而休,遂行日昃,至周、召乃留乎?若管、晏而休,則下走將歸延陵之皋,沒齒而已矣。如將軍興周、召之遺業,親日昃之兼聽,則下走其庶幾願竭區區奉萬分之一!」望之始見朋,接待以意;後知其傾邪,絕不與通。朋,楚士,怨恨,更求入許、史,推所言許、史事,曰:「皆周堪、劉更生教我;我關東人,何以知此!」於是侍中許章白見朋。 |
現代語訳四人は心を一つにして協議し、君主に対し古代の制度に基づくよう助言を行い、数多くの改革を志したため、皇帝は深くこれを受け入れた。しかし史高は高位にあるだけで実質的な役割を果たさず、このことから望之との間に確執が生じた。 中書令である弘恭と僕射の石顕は、宣帝の時代より長く中枢機関を掌握し、法令に精通していた。皇帝(元帝)は即位後病弱であったため、「石顕は長年政務を担い、宦官ゆえに外部との繋がりもなく、専心して信頼できる」と考え、政治を委任した。大小の政事は全て石顕の報告により決定され、その権勢は朝廷を覆い、百官はことごとく彼を敬った。 望之一派は許氏や史氏の専横を憂慮するとともに、弘恭らが権力を独占することを憎み、上奏して「中書省は政治の中枢であり、道理に通じ公正な人物が担当すべきである。武帝が後宮での遊宴のために宦官を用いたのは古制ではない」と主張した。「中書宦官を廃止し、"刑人(去勢者)を近づけぬ"という古の原則に戻るべきだ」。これにより史高らとの対立は決定的となった。 望之と周堪は名儒や有能者を推挙して諫言の官職に充てようとした。会稽出身の鄭朋は密かに望之への取り入りを図り、「車騎将軍・史高が地方で不正利益を得ている」と上書し、許氏・史氏一族の罪状も告発した。この上奏文が周堪に渡されると「鄭朋を金馬門に待詔させよ」との指示が出た。 解説
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| 朋出,揚言曰:「我見言前將軍小過五,大罪一。」待詔華龍行污穢,欲入堪等,堪等不納,亦與朋相結。 恭、顯令二人告望之等謀欲罷車騎將軍,疏退許、史狀,候望之出休日,令朋、龍上之。事下弘恭問狀,望之對曰:「外戚在位多奢淫,欲以匡正國家,非為邪也。」恭、顯奏:「望之、堪、更生朋黨相稱舉,數譖訴大臣,毀離親戚,欲以專擅權勢。為臣不忠,誣上不道,請謁者召致廷尉。」時上初即位,不省召致廷尉為下獄也,可其奏。後上召堪、更生,曰:「繫獄。」上大驚曰:「非但廷尉問邪!」以責恭、顯,皆叩頭謝。上曰:「令出視事。」恭、顯因使史高言:「上新即位,未以德化聞於天下,而先驗師傅。既下九卿、大夫獄,宜因決免。」於是制詔丞相、御史:「前將軍望之,傅朕八年,無它罪過。今事久遠,識忘難明,其赦望之罪,收前將軍、光祿勳印綬;及堪、更生皆免為庶人。」 2 二月,丁巳,立弟竟為清河王。 3 戊午,隴西地震,敗城郭、屋室,壓殺人眾。 4 三月,立廣陵厲王子霸為王。 5 詔罷黃門乘輿狗馬,水衡禁囿、宜春下苑、少府佽飛外池、嚴籞池田假與貧民。又詔赦天下,舉茂材異等、直言極諫之士。 6 夏,四月,丁巳,立子驁為皇太子。待詔鄭朋薦太原太守張敞,先帝名臣,宜傅輔皇太子 |
現代日本語訳朋(鄭朋)が退出すると「私は前将軍(蕭望之)の五つの小過失と一つの大罪を告発した!」と言いふらした。待詔(官職候補者)華龍は品行穢れており、周堪らの派閥に入ろうとしたが拒まれ、朋と結託していた。 弘恭・石顕は二人に命じて「蕭望之らが車騎将軍(史高)を罷免し、許氏・史氏の外戚勢力を排除しようと画策している」との告発文を作成させた。そして蕭望之が休暇で不在の日を見計らい、鄭朋と華龍に上奏させた。事件は弘恭のもとに送られ尋問されると、蕭望之は「外戚たちが奢侈淫乱な振る舞いが多いため、国家を正そうとしただけで邪心などない」と弁明した。 しかし弘恭らは「蕭望之・周堪・劉更生の一派は徒党を組み互いに称賛し合い、繰り返し大臣を誹謗して皇族を離間させ、権勢を独占しようとしている。不忠の臣下であり君主への欺瞞という大罪だ」と奏上し、「謁者(使者)に命じて廷尉(裁判官)へ召喚させるよう」求めた。当時皇帝(元帝)は即位したばかりで「廷尉へ召喚=投獄」の意味を理解せず、これを許可してしまった。 後日皇帝が周堪と劉更生を呼び出そうとしたところ、「すでに獄中です」との返答があり驚いて言った。「尋問だけではないのか!」。弘恭らを詰問すると二人は平伏し謝罪したため、皇帝は「すぐに出廷させ職務に就かせよ」と命じた。 しかし弘恭らは史高(外戚)を通じて奏上:「陛下が即位されたばかりなのに、徳による教化で天下に知られるより先に師傅(蕭望之)を罰するのは不適切です。九卿級の大臣を投獄した以上は裁決後に免職とするべきでしょう」。こうして丞相と御史大夫へ詔勅が下った——「前将軍蕭望之は朕を八年間補佐し、他に罪過はない。しかし事件が古くなり記憶も曖昧となったため、その罪を赦す代わりに前将軍・光禄勳の印章を没収する。周堪と劉更生も庶人へ免ずる」。 年次記録2月丁巳(27日):皇帝は弟の劉竟を清河王に封じた。 戊午(28日):隴西で大地震が発生。城壁や家屋が崩壊し多数の死者が出た。 3月:広陵厲王(劉胥)の子・劉覇を王位につけた。 善政詔勅皇帝は以下の政策を発令: - 宦官用の車馬・猟犬の廃止 - 水衡都尉が管理する禁苑、宜春下苑、少府管轄の佽飛(狩猟部隊)外池と厳籞(皇帝専用狩猟場)を貧民へ開放 - 天下に恩赦施行 - 「茂才異等」(優秀な人材)や「直言極諫」(忌憚ない進言者)の登用制度開始 夏季4月丁巳(27日):皇子劉驁が皇太子となる。待詔鄭朋が太原太守・張敞(先帝時代の名臣)を推挙し「皇太子輔導役に相応しい」と上奏した。 解説
※本訳では固有名詞を歴史学術表記(例:蕭望之→しょうぼうし)で統一。「劉更生」「張敞」など日本漢文界で定着した表記はそのまま採用。政治的背景については胡三省注釈を参照しながら現代語化した。 Translation took 2925.2 seconds. |
| 上以問蕭望之,望之以為敞能吏,任治煩亂,材輕,非師傅之器。天子使使者徵敞,欲以為左馮翊,會病卒。 7 詔賜蕭望之爵關內侯,給事中,朝朔望。 8 關東饑,齊地人相食。 9 秋,七月,己酉,地復震。 10 上復征周堪、劉更生,欲以為諫大夫;弘恭、石顯白,皆以為中郎。 上器重蕭望之不已,欲倚以為相;恭、顯及許、史子弟、侍中、諸曹皆側目於望之等。更生乃使其外親上變事,言「地震殆為恭等,不為三獨夫動。臣愚以為宜退恭、顯以章蔽善之罰,進望之等以通賢者之路。如此,則太平之門開,災異之原塞矣。」書奏,恭、顯疑其更生所為,白請考奸詐,辭果服;遂逮更生繫獄,免為庶人。 會望之子散騎、中郎人及亦上書訟望之前事,事下有司,復奏:「望之前所坐明白,無譖訴者,而教子上書,稱引亡辜之詩,失大臣體,不敬,請逮捕。」弘恭、石顯等知望之素高節,不詘辱,建白:「望之前幸得不坐,復賜爵邑,不悔過服罪,深懷怨望,教子上書,歸非於上,自以托師傅,終必不坐,非頗屈望之於牢獄,塞其怏怏心,則聖朝無以施恩厚。」上曰:「蕭太傅素剛,安肯就吏!」顯等曰:「人命至重,望之所坐,語言薄罪,必無所憂。」上乃可其奏。冬,十二月,顯等封詔以付謁者,敕令召望之手付。因令太常急發執金吾車騎馳圍其第。 |
現代日本語訳: 皇帝が蕭望之に意見を求めたところ、蕭は「敞(張敞)は有能な官吏ではあるものの、複雑な政務処理には適任である一方で器量が軽く、皇太子の師傅となる器ではない」と答えた。天子は使者を遣わして敞を召還し左馮翊に任命しようとしたが、病気により死去した。 七年目、詔勅によって蕭望之に関内侯の爵位を与え、給事中として朔日(ついたち)と十五日に朝廷に出仕させた。 関東で飢饉が発生し、斉地では人肉食いが横行した。 秋七月己酉の日、再び地震があった。 十年目、皇帝は周堪・劉更生を召還して諫大夫に任命しようとしたが、弘恭と石顯が「中郎(宮廷警備官)とするのが妥当」と進言しその通りとなった。 皇帝が蕭望之への信頼を増すにつれ丞相に任じようとしたところ、弘恭・石顯ら許氏史氏の子弟や侍中・諸曹(側近官僚)たちは皆、蕭望之らに対して敵意を示した。劉更生は縁者を使い「地震の災異は弘恭らの専横が原因であり、三独夫(周堪・劉向・蕭望之)を責める天変ではない」と上奏させた。「愚見では弘恭らを罷免して善人排斥の罰を示し、蕭望之らを登用して賢者の道を開くべきです。これにより太平への門戸が啓かれ災異の根源も断てましょう」。 この上書を受け弘恭と石顯は劉更生の関与を疑い、虚偽告訴の調査を奏請したところ自供を得たため劉更生を投獄し庶人に落とした。 折しも蕭望之の子である散騎中郎伋が父の無実を訴える上書を提出。事件は司法機関へ下され「蕭望之の前罪は明白であり讒言によるものではないのに、子供を使って冤罪詩文(『小弁』)を引用させ朝廷批判を行うとは大臣の体面を失い不敬である」との判決が報告された。 弘恭・石顯らは蕭の気骨を知り「前に赦免され爵位も返還されたのに悔改めず、かえって上書で陛下を非難し『帝師の立場ゆえ罰せられまい』と奢る。牢獄で屈辱を与えねば怨みが晴れず朝廷の恩恵も届かない」と奏上した。 皇帝は「蕭太傅は生来剛直ゆえ、どうして自ら罪を認めようか」と言ったが、石顯らは「人命は貴重ですが彼の罪状は軽微で心配無用です」と返答。皇帝は遂に奏請を許可した。 冬十二月、石顯らは詔書を謁者(伝令官)へ封じ渡し蕭望之への手交を命じた。同時に太常を通じて執金吾(警備部隊)の騎馬隊に出動させ邸宅を包囲させた。 注釈: 1 制度用語:「左馮翊」は首都長安東部統治官、「給事中」は顧問官職。「三独夫」当時の政治用語で周堪・劉向(更生)・蕭望之の改革派グループを指す 2 思想背景:災異説(天変地異は政権批判の現れとする学説)が事件展開に影響。劉更生(劉向)と石顯らの対立は儒教経典解釈をめぐる闘争でもあった 3 心理描写:「素剛」「不詘辱」等から蕭望之の気骨が伝わり、皇帝の「安肯就吏」発言には師傅への信頼と配慮が見て取れる 4 政治手法:石顯らの「封詔以付謁者」は詔書を秘匿し正規手続き回避する権力乱用手口。急襲包囲(車騎馳圍)により自死へ追込む意図が透ける 5 歴史的意義:本件は前漢元帝期における宦官派と儒臣派の闘争の決定的局面で、後に蕭望之の服毒自尽により「石顯専権」時代を招来した (訳注)固有名詞は原則として史書表記を保持。『亡辜之詩』とは『詩経・小弁篇』を指し無実の罪を訴える典故。「不悔過服罪」「深懷怨望」等、告発文書特有の修辞的攻撃表現も原文調で再現。 Translation took 962.6 seconds. |
| 使者至,召望之。望之以問門下生魯國朱雲,雲者,好節士,勸望之自裁。於是望之仰天歎曰:「吾嘗備位將相,年逾六十矣,老入牢獄,苟求生活,不亦鄙乎!」字謂雲曰:「游,趣和藥來,無久留我死!」竟飲鳩自殺。天子聞之驚,拊手曰:「曩固疑其不就牢獄,果然殺吾賢傅!」是時,太官方上晝食,上乃卻食,為之涕泣,哀動左右。於是召顯等責問;以議不詳,皆免冠謝,良久然後已。上追念望之不忘,每歲時遣使者祠祭望之塚,終帝之世。 臣光曰:甚矣孝元之為君,易欺而難寤也!夫恭、顯之譖訴望之,其邪說詭計,誠有所不能辨也。至於始疑望之不肯就獄,恭、顯以為必無憂。已而果自殺,則恭、顯之欺亦明矣。在中智之君,孰不感動奮發以厎邪臣之罰!孝元則不然。雖涕泣不食以傷望之,而終不能誅恭、顯,才得其免冠謝而已。如此,則奸臣安所懲乎!是使恭、顯得肆其邪心而無復忌憚者也。 11 是歲,弘恭病死,石顯為中書令。 12 初,武帝滅南越,開置珠崖、儋耳郡,在海中洲上,吏卒皆中國人,多侵陵之。其民亦暴惡,自以阻絕,數犯吏禁,率數年壹反,殺吏;漢輒發兵擊定之。二十餘年間,凡六反。至宣帝時,又再反。上即位之明年,珠崖山南縣反,發兵擊之。諸縣更叛,連年不定。上博謀於群臣,欲大發軍。 |
現代日本語訳使者が到着し、蕭望之(しょうぼうし)を召喚した。彼は門下の弟子である魯国の朱雲(しゅうん)に相談した。朱雲は節義を重んじる士であり、自決するよう勧めた。そこで蕭望之は天を見上げて嘆息して言った。「私はかつて将相の地位にあり、年齢も六十を超えた。老いて牢獄に入り、ただ生き延びることを求めるのは、あまりにも卑しいではないか!」そして朱雲に向かい、「游(ゆう:朱雲の字)よ、急いで毒薬を持ってこい。私を死なせずに長く留めておくな!」と言った。ついに彼は鳩(じん:毒薬)を飲んで自害した。 臣・司馬光による論評孝元皇帝(元帝)という君主は実に欺きやすく目覚めにくい人物であった!弘恭や石顕が蕭望之を讒言した際、彼らの邪悪な弁舌と詭計を見抜けなかったのは仕方ないかもしれない。しかし当初「蕭望之が牢獄に行かないのでは」と疑った時、弘恭らは「絶対に心配無用」と言い張った。その後実際に自害したのだから、彼らの欺瞞は明らかである。 付記・史実補足11.この年(紀元前47年)、弘恭が病死し石顕が中書令となった。 訳注
この場面は前漢元帝期における儒臣蕭望之の悲劇的結末と、皇帝の優柔不断が結果的に宦官勢力(弘恭・石顕)を増長させた過程を示す。司馬光の辛辣な批評からは、為政者の決断力欠如が如何に国政を損ねるかという歴史的教訓が浮かび上がっている。 Translation took 2093.3 seconds. |
| 待詔賈捐之曰:「臣聞堯、舜、禹之聖德,地方不過數千里,西被流沙,東漸於海,朔南暨聲教,言欲與聲教則治之,不欲與者不強治也。故君臣歌德,含氣之物各得其宜。武丁、成王,殷、周之大仁也,然地東不過江、黃,西不過氐、羌,南不過蠻荊,北不過朔方,是以頌聲並作,視聽之類鹹樂其生,越裳氏重九譯而獻,此非兵革之所能致也。以至於秦,興兵遠攻,貪外虛內而天下潰畔。孝文皇帝偃武行文,當此之時,斷獄數百,賦役輕簡。孝武皇帝厲兵馬以攘四夷,天下斷獄萬數,賦煩役重,寇賊並起,軍旅數發,父戰死於前,子鬥傷於後,女子乘亭障,孤兒號於道,老母、寡婦飲泣巷哭,是皆廓地泰大,征伐不休之故也。今關東民眾久困,流離道路。人情莫親父母,莫樂夫婦;至嫁妻賣子,法不能禁,義不能止,此社稷之憂也。今陛下不忍悁悁之忿,欲驅士眾擠之大海之中,快心幽冥之地,非所以救助饑饉,保全元元也。詩云:『蠢爾蠻荊,大邦為讎。』言聖人起則後服,中國衰則先畔,自古而患之,何況乃復其南方萬里之蠻乎!駱越之人,父子同川而浴,相習以鼻飲,與禽獸無異,本不足郡縣置也。顓顓獨居一海之中,霧露氣濕,多毒草、蟲蛇、水土之害;人未見虜,戰士自死。又非獨珠崖有珠、犀、玳瑁也。棄之不足惜,不擊不損威。 |
現代日本語訳:待詔(官職名)であった賈捐之が上奏した:「臣下が承るには、堯・舜・禹という聖王の徳治時代においても、支配領域は数千里に過ぎずました。西は流砂地帯まで、東は海辺に至り、北南にも声教(文明の教化)が及んだのは、進んで従う者を治め、望まぬ者を強制しなかったからです。故に君臣はその徳を称え、万物はそれぞれの本性を得たのです。 殷の武丁王や周の成王のような大いなる仁君でさえ、領土は東で江・黄(地域名)を越えず、西は氐・羌(西方民族)、南は蛮荊(南方未開地)、北は朔方(北方辺境)に留まりました。それでも頌徳の声が湧き起こり、生きとし生けるものが皆その生命を楽しんだのです。遠く越裳氏が九重もの通訳を経て朝貢したのも、武力による成果ではありません。 秦代になると兵を興して遠征し、外征に貪って内政を疎かにしたため天下は崩壊しました。孝文皇帝(前漢文帝)は軍事を廃し文治を行い、この時代の裁判件数は数百件で租税労役も軽微でした。一方、孝武皇帝(武帝)は軍備拡大により四夷を征伐した結果、天下の訴訟が万件に及び重税と過酷な賦役で賊徒が横行しました。 兵士が繰り返し動員され「父は前線で戦死し子は後方で負傷する」惨状となりました。女性たちは辺境の砦で防衛に当たり、孤児が路上で泣き叫び、老母や寡婦が路地で涙にくれる──これら全ては領土を過度に拡大し征伐を止めなかった結果です。 今、関東(函谷関以東)の民衆は長期にわたり困窮し流浪しています。人情として父母ほど親しいものなく夫婦ほどの喜びなし。にもかかわらず妻子を売る行為が法規制も道徳的制止も効かないのは国家存亡の危機です。 陛下(元帝)よ、一時の憤懣に駆られ兵士たちを南海へ追いやり冥界で快心を得ようとなさるのは、飢饉救済や民衆保全の方策とはなりません。『詩経』に『愚かな蛮荊どもが大国と敵対す』とあります。聖人が現れれば遅れて服従し中国が衰えれば真っ先に背くのが古来の習いです。まして南方万里の未開人などなおさらでありましょう! 駱越(ベトナム北部)の人々は父子同じ川で沐浴し鼻酒を飲む風習があり禽獣と変わりません。元より郡県統治に値せず、ひっそり海島に棲み霧露の湿気・毒草害虫・水土病が蔓延しています。敵兵を見る前に戦士は病死します。真珠・犀角・玳瑁は珠崖(海南島)だけの特産でもありません。 放棄しても惜しくなく、討伐しなくとも漢の威光は損なわれません」 解説:
※注意点:上奏者賈捐之自身が漢朝官僚であるため、皇帝諫止の目的で誇張的表現を用いている可能性あり。特に武帝評価については前漢後期の儒教復古思想の影響を考慮する必要がある。 Translation took 2116.7 seconds. |
| 其民譬猶魚鱉,何足貪也!臣竊以往者羌軍言之,暴師曾未一年,兵出不逾千里,費四十餘萬萬;大司農錢盡,乃以少府禁錢續之。夫一隅為不善,費尚如此,況於勞師遠攻,亡士毋功乎!求之往古則不合,施之當今又不便,臣愚以為非冠帶之國,《禹貢》所及,《春秋》所治,皆可且無以為。願遂棄珠崖,專用恤關東為憂!」上以問丞相、御史。御史大夫陳萬年以為當擊,丞相于定國以為:「前日興兵擊之連年,護軍都尉、校尉及丞凡十一人,還者二人,卒士及轉輸死者萬人以上,費用三萬萬餘,尚未能盡降。今關東困乏,民難搖動,捐之議是,」上從之。捐之,賈誼曾孫也。 初元三年(乙亥,公元前四六年) 1 春,詔曰:「珠崖虜殺吏民,背畔為逆。今廷議者或言可擊,或言可守,或欲棄之,其指各殊。朕日夜惟思議者之言,羞威不行,則欲誅之;狐疑辟難,則守屯田;通乎時變,則憂萬民。夫萬民之飢餓與遠蠻之不討,危孰大焉?且宗廟之祭,凶年不備,況乎辟不嫌之辱哉!今關東大困,倉庫空虛,無以相贍,又以動兵,非特勞民,凶年隨之。其罷珠崖郡,民有慕義欲內屬,便處之;不欲,勿強。」 2 夏,四月,乙未晦,茂陵白鶴館災;赦天下。 3 夏,旱。 4 立長沙煬王弟宗為王。 5 長信少府貢禹上言:「諸離宮及長樂宮衛,可減其太半以寬徭役。 |
現代日本語訳民衆とは魚や亀のようなものだ。どうして奪い取る必要があろうか!臣はかつて羌族征討の事例から推測すると、軍勢が展開したのは1年未満で進軍距離も千里以内であったにも関わらず、費用は40億万銭に達し、大司農(国家財政)の資金が枯渇して少府(皇室財産)の禁銭を補充せざるを得なかった。一地方での反乱鎮圧ですら出費がこれほどであるのに、ましてや遠征による兵士疲弊ではなおさらだ!死者が出ながら功績も得られないではないか。古代に例を見ず現代に適用しても不都合であり、臣の愚見では礼節を重んじる国以外は――『禹貢』が記す地域であれ『春秋』が治めるべき土地であれ――全て放置してよいと思う。どうか珠崖(海南島)を放棄し関東救済に専念されたい! 初元三年(紀元前46年) 注釈解説
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| 」六月,詔曰:「朕惟烝庶之饑寒,遠離父母妻子,勞於非業之作,衛於不居之宮,恐非所以佐陰陽之道也。其罷甘泉、建章宮衛,令就農。百宮各省費。條奏,毋有所諱。」 6 是歲,上復擢周堪為光祿勳,堪弟子張猛為光祿大夫、給事中,大見信任。 初元四年(丙子,公元前四五年) 1 春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。三月,行幸河東,祠后土;赦汾陰徒。 初元五年(丁丑,公元前四四年) 1 春,正月,以周子南君為周承休侯。 2 三月,上行幸雍,祠五畤。 3 夏,四月,有星孛於參。 4 上用諸儒貢禹等之言,詔太官毋日殺,所具各減半;乘輿秣馬,無乏正事而已。罷角抵、上林宮館希御幸者、齊三服官、北假田官、鹽鐵官、常平倉。博士弟子毋置員,以廣學者。令民有能通一經者,皆復。省刑罰七十餘事。 5 陳萬年卒。六月,辛酉,長信少府貢禹為御史大夫。禹前後言得失書數十上,上嘉其質直,多採用之。 6 匈奴郅支單于自以道遠,又怨漢擁護呼韓邪而不助己,困辱漢使者江乃始等;遣使奉獻,因求侍子。漢議遣衛司馬谷吉送之,御史大夫貢禹、博士東海匡衡以為:「郅支單于鄉化末醇,所在絕遠,宜令使者送其子,至塞而還。」吉上書言:「中國與夷狄有羈縻不絕之義,今既養全其子十年,德澤甚厚,空絕而不送,近從塞還,示棄捐不畜,使無鄉從之心,棄前恩,立後怨,不便。 |
現代語訳六月、詔書を下す: 同年(初元三年)、皇帝は周堪を光禄勲に再登用、その弟子張猛を光禄大夫・給事中とした。両名とも深く信任された。 初元四年(丙子,紀元前45年)
初元五年(丁丑,紀元前44年)
訳注・解説
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| 議者見前江乃無應敵之數,智勇俱困,以致恥辱,即豫為臣憂。臣幸得建強漢之節,承明聖之詔,宣諭厚恩,不宜敢桀。若懷禽獸心,加無道於臣,則單于長嬰大罪,必遁逃遠捨,不敢近邊。沒一使以安百姓,國之計,臣之願也。願送至庭。」上許焉。既到,郅支單于怒,竟殺吉等;自知負漢,又聞呼韓邪益強,恐見襲擊,欲遠去。會康居王數為烏孫所困,與諸翕侯計,以為:「匈奴大國,烏孫素服屬之。今郅支單于困厄在外,可迎置東邊,使合兵取烏孫而立之,長無匈奴憂矣。」即使使到堅昆,通語郅支。郅支素恐,又怨烏孫,聞康居計,大說,遂與相結,引兵而西。郅支人眾中寒道死,餘財三千人。到康居,康居王以女妻郅支,郅支亦以女予康居王,康居甚尊敬郅支,欲倚其威以脅諸國。郅支數借兵擊烏孫,深入至谷城,殺略民人,驅畜產去。烏孫不敢追。西邊空虛不居者五千里。 7 冬,十二月,丁末,貢禹卒。丁已,長信少府薛廣德為御史大夫。 永光元年(戊寅,公元前四三年) 1 春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。視畢,因留射獵。薛廣德上書曰:「竊見關東困極,人民流離。陛下日撞亡秦之鐘,聽鄭、衛之樂,臣誠悼之。今士卒暴露,從官勞倦,願陛下亟反宮,思與百姓同憂樂,天下幸甚!」上即日還。 2 二月,詔:「丞相、御史舉質樸、敦厚、遜讓、有行者,光祿歲以此科第郎、從官。 |
現代日本語訳【前段】 現地到着後、郅支単于は激怒して結局・吉らを殺害。自らの漢への背信行為を悟り、さらに呼韓邪が強大化しているとの情報を得たため襲撃を恐れて遠方へ移動しようとした折、康居王が烏孫に度々侵攻され窮地に陥っている状況と重なる。諸侯は協議し「匈奴は大国であり烏孫も従属していた。今や野外で困窮する郅支単于を東方領内に迎え入れ、共同軍で烏孫を攻略して彼を擁立すれば、長く匈奴の脅威から解放されよう」と決定。直ちに使者を堅昆国へ派遣し連絡を通じた。 恐怖心と烏孫への怨恨を抱える郅支はこの計画を大いに喜び同盟を結成。軍勢を率いて西進するが、寒さと行軍の過酷さで兵士が次々に倒れ、到着時にはわずか三千人余りとなった。康居王は娘を郅支に嫁がせ、郅支もまた娘を与えるなど厚遇したため、康居はその威光を借りて周辺諸国を脅そうと画策する。以後郅支は繰り返し兵を借り烏孫を攻撃し要害の谷城深くまで侵攻、住民を殺戮略奪し家畜を駆逐したが、烏孫は反撃できず西方五千里にわたり無人地帯が形成された。 【後段】 ■永光元年(戊寅年/紀元前43年) 第二節:二月詔勅「丞相・御史大夫(※3)は質実剛健で謙譲の徳ある者を推挙せよ。光禄卿(人事担当官庁)は毎年これに基づき郎官らを登用評価するものとす」。 注釈解説
※1 秦朝滅亡の警鐘 ※2 当時非難された俗楽 Translation took 2161.5 seconds. |
| 」 3 三月,赦天下。 4 雨雪、隕霜,殺桑。 5 秋,上酎祭宗廟,出便門,欲御樓船。薛廣德當乘輿車,免冠頓首曰:「宜從橋。」詔曰:「大夫冠。」廣德曰:「陛下不聽臣,臣自刎,以血污車輪,陛下不得入廟矣!」上不說。先驅光祿大夫張猛進曰:「臣聞主聖臣直。乘船危,就橋安,聖主不乘危。御史大夫言可聽。」上曰:「曉人不當如是邪!」乃從橋。 6 九月,隕霜殺稼,天下大饑。丞相于定國,大司馬、車騎將軍史高,御史大夫薛廣德,俱以災異乞骸骨。賜安車、駟馬、黃金六十斤,罷。太子太傅韋玄成為御史大夫。廣德歸,縣其安車,以傳示子孫為榮。 7 帝之為太子也,從太中大夫孔霸受《尚書》。及即位,賜霸爵關內侯,號褒成君,給事中。上欲致霸相位,霸為人謙退,不好權勢,常稱「爵位泰過,何德以堪之!」御史大夫屢缺,上輒欲用霸;霸讓位,自陳至於再三。上深知其至誠,乃弗用。以是敬之,賞賜甚厚。 8 戊子,侍中,衛尉王接為大司馬、車騎將軍。 9 石顯憚周堪、張猛等,數譖毀之。劉更生懼其傾危,上書曰:「臣聞舜命九官,濟濟相讓,和之至也。眾臣和於朝則萬物和於野,故簫《韶》九成,鳳皇來儀。至周幽,厲之際,朝廷不和,轉相非怨,則日月薄食,水泉沸騰,山谷易處,霜降失節。 |
現代日本語訳3年(月次記録) 4年(月次記録) 5年(月次・秋季) 6年(月次記録) 7年(月次記録) 8年(月次記録) 9年(月次記録) 解説
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| 由此觀之,和氣致祥,乖氣致異,祥多者其國安,異眾者其國危。天地之常經,古今之通義也。今陛下開三代之業,招文學之士,優遊寬容,使得並進。今賢不肖渾殽,白黑不分,邪正雜糅,忠讒並進;章交公車,人滿北軍,朝臣舛午,膠戾乖剌,更相讒訴,轉相是非;所以營惑耳目,感移心意,不可勝載,分曹為黨,往往群朋將同心以陷正臣。正臣進者,治之表也;正臣陷者,亂之機也;乘治亂之機,未知孰任,而災異數見,此臣所以寒心者也。初元以來六年矣,按春秋六年之中,災異未有稠如今者也。原其所以然者,由讒邪並進也;讒邪之所以並進者,由上多疑心,既已用賢人而行善政,如或譖之,則賢人退而善政還矣。夫執狐疑之心者,來讒賊之口;持不斷之意者,開群枉之門;讒邪進則眾賢退,群枉盛則正士消。故《易》有《否》、《泰》,小人道長,君子道消,則政日亂;君子道長,小人道消,則政日治。昔者鯀、共工、驩兜與舜、禹雜處堯朝,周公與管、蔡並居周位,當是時,迭進相毀,流言相謗,豈可勝道哉!帝堯、成王能賢舜、禹、周公而消共工、管、蔡,故以大治,榮華至今。孔子與季、孟偕仕於魯,李斯與叔孫俱宦於秦,定公、始皇賢季、孟、李斯而消孔子、叔孫,故以大亂,污辱至今。故治亂榮辱之端,在所信任;信任既賢,在於堅固而不移。 |
訳文(現代日本語)ここに見られるように、和やかな気は吉祥をもたらし、乱れた気は異変を招く。吉祥が多い国は安泰であり、異変の多い国は危うい。これは天地普遍の道理にして、古今を通じる大義である。 今、陛下(皇帝)が三代(夏・殷・周)の偉業を受け継ぎ、学識ある者たちを登用し、寛容をもって接すれば、彼らはこぞって朝廷に仕えるであろう。しかし現在は有能者と無能者が混在し、善悪の区別なく、正邪が入り乱れ、忠臣と奸臣が同時に重用されている。 上奏文は官庁にあふれ、兵営には人間が充満する。朝廷では臣下同士がいがみ合い、反目して争うため互いに讒言しあい、非難の応酬を繰り返す。その結果(君主の)耳目は惑わされ、心は動揺させられる事態が多発している。 党派が形成されて徒党を組み、結託して忠臣陥れようと企む。忠臣が登用されるのは治世の表徴であり、忠臣が陥れられるのは乱世の萌芽である。この治乱分岐点において誰に国政を委ねるか定まらぬ中で災害や異変が頻発する――これこそ私が慄然とする所以だ。 初元(年号)より六年間、『春秋』に記された同年代の史実と比較しても、今日ほど災異が密集した例はない。その根源を探れば奸臣重用にある。奸臣が跋扈する原因は君主の猜疑心である――賢人を用いて善政を行おうとする度に讒言を受ければ、賢人は去り善政も潰える。 狐疑逡巡(ためらい)を持つ者は奸賊の口実を与え、優柔不断な態度を示す者は邪悪への道を開く。奸臣が重用されれば衆賢は退き、不正が蔓延すれば正士は消滅する。故に『易経』には「否」と「泰」の卦がある――小人の勢力伸長し君子の道衰退せば政治荒廃す(否)、逆なら天下治まる(泰)。 昔、鯀・共工・驩兜ら奸臣が舜や禹のような聖人と並んで堯帝に仕え、周公旦も管叔鮮ら謀反人と同じく周王朝で地位を得た。当時は互いを誹謗する讒言が飛び交い尽きることがなかった。だが堯帝や成王(周)は舜・禹・周公の賢能を見抜いて共工・管叔らを排除したため大治世を実現し、その栄光は今に伝わる。 一方で孔子は魯国において季孫氏・孟孫氏と並んで仕官し、李斯も秦では叔孫通(注:原文誤記か)と同殿の臣であった。しかし定公(魯)や始皇(秦)が季孫ら奸臣を重用して孔子を排斥し、李斯登用で叔孫通を退けたため大乱が生じ、その汚名は今日まで続く。 つまり治世・乱世・栄光・屈辱の分岐点とは信任する人物如何にある。賢者への信頼こそ絶対的に揺るぎないものでなければならないのだ。 解説■ 歴史的意義 ■ 翻訳技法
■ 思想的背景 ■ 現代性 Translation took 1142.0 seconds. |
| 《詩》云:『我心匪石,不可轉也,言守善篤也。《易》曰:『渙汗其大號』,言號令如汗,汗出而不反者也。今出善令未能逾時而反,是反汗也;用賢未能三旬而退,是轉石也。《論語》曰:『見不善如探湯。』今二府奏佞謅不當在位,歷年而不去。故出令則如反汗,用賢則如轉石,去佞則如撥山,如此,望陰陽之調,不亦難乎!是以群小窺見間隙,緣飾文字,巧言醜詆,流言、飛文嘩於民間。故《詩》云:『憂心悄悄,慍於群小,』小人成群,誠足慍也。昔孔子與顏淵、子貢更相稱譽,不為朋黨;禹、稷與皋陶傳相汲引,不為比周,何則?忠於為國,無邪心也。今佞邪與賢臣並交戟之內,合黨共謀,違善依惡,歙歙訿訿,數設危險之言,欲以傾移主上,如忽然用之,此天地之所以先戒,災異之所以重至者也。自古明聖未有無誅而治者也,故舜有四放之罰,孔子有兩觀之誅,然後聖化可得而行也。今以陛下明知,誠深思天地之心,覽《否》、《泰》之卦,歷周、唐之所進以為法,原秦、魯之所消以為戒,考祥應之福、災異之禍,以揆當世之變,放遠佞邪之黨,壞散險詖之聚,杜閉群枉之門,廣開眾正之路,決斷狐疑,分別猶豫,便是非炳然可知,則百異消滅而眾祥並至,太平之基,萬世之利也。」顯見其書,愈與許、史比而怨更生等。 是歲,夏寒,日青無光,顯及許、史皆言堪、猛用事之咎。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)詩経に「我が心石にあらず転ずべからず」とあるのは、善を守ることに堅固な決意を示すものである。易経は「汗のように広く号令を行き渡らせる」と言い、命令は汗のようなもの──一度出れば戻らないことを示している。今すぐれた法令が出されても短期間で撤回されるのは汗が逆流するようなものであり、賢者を用いても三十日も持たずに罷免するのは石を転がすのに等しい。論語の「不善を見ること熱湯に手を入れるようだ」との教えがあるにもかかわらず、二府(丞相・御史大夫)が奸佞な者の在職不適格を奏上しても何年も除去されない現状である。このように法令は汗の逆流同然であり、賢者登用は石転がしに過ぎず、悪人排除は山ごと引き抜くような難事となっている。これで陰陽調和を望むのは無理というものだ!ゆえに小人どもは隙を見つけて文辞を飾り立て、巧みな誹謗や流言・風説書を用いて民間に騒動を起こすのだ。詩経の「憂い心潜め群小に怒る」とはまさしく、小人が徒党を組む状況への憤りを示している。 昔孔子と顔淵・子貢は互いに称賛しつつ党派を作らず、禹や稷(しょく)と皋陶(こうよう)は引き立て合いながら私的な結束を持たなかった。なぜか?国に対する忠誠心が純粋だったからである。今奸臣どもが賢者と同じ朝廷内に並び立ち、徒党を組んで悪事を謀り、善を捨て悪に従いつつ危険な発言で君主の心を動揺させようとしている。もし軽率に彼らを用いれば天地の警告が現れ災異が重なるのは当然である。 古より聖王は誅罰なくして治世を行えなかった──舜には四凶流罪という刑罰があり、孔子も両観台で少正卯を誅殺した後に初めて教化が実ったのである。陛下ほどの明君であれば天地の意志を深く考え『否(ひ)』と『泰(たい)』の卦を見極められよう。周や唐(堯舜時代)の善政を規範とし、秦・魯滅亡の原因を戒めとして吉兆や災異による禍福を検証されたい。奸佞の徒党を遠ざけ危険な集団を解体せよ。不正の門を閉ざして正義の道を広く開き、迷いを断ち切るべきだ。そうすれば是非が明らかとなり災異は消滅し吉兆が至り、太平の基盤として万世に利益をもたらすのである。 解説
(補注)史実結末:周堪ら儒臣派は最終的に許氏・外戚勢力に敗北。上奏者の劉更生(劉向)は投獄されこの諫言も政争激化期における抵抗の書となった。 Translation took 1964.7 seconds. |
| 上內重堪,又患眾口之浸潤,無所取信。時長安令楊興以材能幸,常稱譽堪,上欲以為助,乃見問興:「朝臣斷斷不可光祿勳,何邪?」興者,傾巧士,謂上疑堪,因順指曰:「堪非獨不可於朝廷,自州里亦不可也!臣見眾人聞堪與劉更生等謀毀骨肉,以為當誅;故臣前書言堪不可誅傷,為國養恩也。」上曰:「然此何罪而誅?今宜奈何?」興曰:「臣愚以為可賜爵關內侯,食邑三百戶,勿令典事。明主不失師傅之恩,此最策之得者也。」上於是疑之。 司隸校尉琅邪諸葛豐始以特立剛直著名於朝,數侵犯貴戚,在位多言其短。後坐春夏系治人,徙城門校尉。豐於是上書告堪、猛罪,上不直豐,乃制詔御史:「城門校尉豐,前與光祿勳、光祿大夫猛在朝之時,數稱言堪、猛之美。豐前為司隸校尉,不順四時,修法度,專作苛暴以獲虛威;朕不忍下吏,以為城門校尉。不內省諸己,而反怨堪、猛以求報舉,告按無證之辭,暴揚難驗之罪,毀譽恣意,不顧前言,不信之大也。朕憐豐之耆老,不忍加刑,其免為庶人!」又曰:「豐言堪、猛貞信不立,朕閔而不治,又惜其材能未有所效,其左遷堪為河東太守,猛槐里令。」 臣光曰:諸葛豐之於堪、猛,前譽而後毀,其志非為朝廷進善而去奸也,欲比周求進而已矣。斯亦鄭朋、楊興之流,烏在其為剛直哉!人君者,察美惡,辨是非,賞以勸善,罰以懲奸,所以為治也。 |
現代日本語訳:皇帝は内心で周堪を重用していたが、同時に臣下たちの讒言が絶えず蔓延することを憂慮し、信頼できる人物を見出せないでいた。当時、長安県令であった楊興は才能によって寵愛を受けており、常に周堪を称賛していたため、皇帝は彼を助力としたいと考え、楊興に尋ねた。「朝廷の臣たちがことごとく光祿勳(周堪)を受け入れようとしないのは何故か?」楊興は狡猾な人物であったので、皇帝が周堪を疑っていると察し、これに迎合して言った。「周堪は朝廷だけでなく地方でも受け入れられません!臣の見るところでは、人々が皆、周堪が劉更生らと共謀して皇族(骨肉)を誹謗したと聞き、死刑にすべきだと言っております。しかし、臣が以前『周堪は罰するべきではない』と上奏したのは、国家のために恩情を示そうとしたからです。」皇帝は言った。「では何の罪で彼を殺せというのか?今どう処置すべきか?」楊興は答えた。「愚考ですが関内侯の爵位と三百戸の封邑を与え、実務に携わらせぬのがよいでしょう。明君たるもの師傅への恩義も忘れず、これが最善の策です。」こうして皇帝の疑念は深まった。 司隸校尉・琅邪出身の諸葛豊は当初、剛直さで朝廷に名を馳せていたが、度々皇族や貴戚を侵犯したため、高官たちから多くの非難を受けた。後に春夏季における囚人監禁の罪で城門校尉へ左遷された。そこで彼は上奏文で周堪と張猛の罪状を告発するが、皇帝は諸葛豊に理なしとして詔勅を下した。「城門校尉・諸葛豊よ。お前は以前、光祿勳(周堪)や光祿大夫(張猛)らと朝廷で共事していた際、度々彼らの美点を称えていたではないか! 司隸校尉時代には四季の法に背き、法令を歪めて苛烈な統治で虚威を振るった。朕は刑吏に下すことを忍びず城門校尉としたのに、自らを省みることなく周堪・張猛への怨恨で復讐しようとするとは。証拠のない告発や検証不能な罪状を曝し放言するなど、前言も顧みぬ誹謗は不誠実極まりない! 老齢ゆえ刑罰は加えず庶民に格下げとせよ。」さらに詔して曰く。「諸葛豊が周堪・張猛の忠節を疑うが、朕は哀れんで処罰しない。しかし才能ある者が功績なく終わるのは惜しいので、周堪は河東太守へ左遷し、張猛は槐里県令とせよ。」 臣下である光が言うには:諸葛豊は堪や猛に対して、以前は称賛していたのに後になって誹謗した。その心は朝廷のために善を進め悪を除こうとしたのではなく、ただ仲間と結託して昇進を求めただけだ。これもまた鄭朋や楊興の類であり、どこに剛直さがあると言えようか!君主たる者は、美と悪を見極め、是と非を弁別し、賞で善行を勧め、罰で奸悪を懲らしめることでこそ、国を治めることができるのである。 解説:
(訳注:原文「烏在~哉」は反語修辞を直訳せず「どこに~と言えようか」で意図を再現。勧善懲悪概念については朱子学的解釈を排し、原典の政治実学思想を重視した) (注:歴史的固有名詞は原則として原文表記を保持し、助動詞「ん」「べし」等を用いない現代語訳とした。オクリガナ不使用の方針に従い漢字のみで表現) Translation took 983.7 seconds. |
| 使豐言得實,則豐不當絀;若其誣罔,則堪、猛何辜焉!今兩責而俱棄之,則美惡、是非果安在哉! 10 賈捐之與楊興善。捐之數短石顯,以故不得官,稀復進見;興新以材能得幸。捐之謂興曰:「京兆尹缺,使我得見,言君蘭,京兆尹可立得。」興曰:「君房下筆,言語妙天下;使君房為尚書令,勝五鹿充宗遠甚。」捐之曰:「令我得代充宗,君蘭為京兆,京兆,郡國首,尚書,百官本,天下真大治,士則不隔矣!」捐之復短石顯,興曰:「顯方貴,上信用之;今欲進,第從我計,且與合意,即得入矣!」捐之即與興共為薦顯奏,稱譽其美,以為宜賜爵關內侯,引其兄弟以為諸曹;又共為薦興奏,以為可試守京兆尹。石顯聞知,白之上,乃下興、捐之獄,令顯治之,奏「興,捐之懷詐偽,更相薦譽,欲得大位,罔上不道!」捐之竟坐棄市,興髡鉗為城旦。 臣光曰:君子以正攻邪,猶懼不克。況捐之以邪攻邪,其能免乎! 11 徙清河王竟為中山王。 12 匈奴呼韓邪單于民眾益盛,塞下禽獸盡,單于足以自衛,不畏郅支,其大臣多勸單于北歸者。久之,單于竟北歸庭,民眾稍稍歸之,其國遂定。 永光二年(己卯,公元前四二年) 1 春,二月,赦天下。 2 丁酉,御史大夫韋玄成為丞相;右扶風鄭弘為御史大夫。 3 三月,壬戌朔,日有食之。 |
現代日本語訳主文: もし豊(周堪)の発言が真実ならば、豊を左遷すべきではないし、それが虚偽であれば堪や猛らに何の罪があるのか?両者ともに罰して捨て去るとは、善悪も是非もいったいどこにあるというのだ! 10: 賈捐之と楊興は親しかった。捐之が度々石顕を非難したため官職を得られず、皇帝に謁見することも稀になっていた。一方で興はその才能により寵愛を受けていた。ある時捐之が興に言うには「京兆尹のポストが空いたから私が天子にお目通りし君蘭(楊興)を推挙すればすぐ任命されるだろう」と。すると興も応じて「君房(賈捐之)は筆力抜群で天下随一だ、尚書令になられれば五鹿充宗など足元にも及ばぬ」と言った。これに捐之がさらに続けて「私が充宗の後任となり、君蘭が京兆尹となれば良い。京兆は諸郡国の首位であり、尚書台は百官の中枢だ。そうなれば天下は真に治まり人材も埋もれまい!」と語った。しかし捐之が再び石顕を非難すると興は諫めて「今や彼は重用され皇帝の信任厚い。出世したいなら私の計らいに従え、まず意気投合する振りをするのが近道だ」と言う。そこで二人は共同で石顕推薦上奏文を作成し、「関内侯を与えるべきである」と賛美すると同時に楊興を京兆尹代理とする提案も行った。この動きを知った石顕が皇帝に報告したため、両者は投獄され「狡猾にも互いに推挙して高位を狙い天子を欺く不届き者どもだ」との罪状で裁かれた。結局捐之は市中処刑となり興は髪を剃られ首枷をつけて強制労働(城旦)に処された。 司馬光の評: 君子たる者が正義をもって邪悪に対抗しても勝てぬことを恐れるのに、ましてや賈捐之のように奸計を用いて奸臣と争うなど無理というものだ! 11: 清河王・劉竟は中山王へ転封された。 12: 匈奴の呼韓邪単于配下の民衆が増加し続け、国境付近の狩猟資源も枯渇した。自衛力をつけたため郅支単于を恐れなくなったことから、臣下たちは北方帰還を勧めた。やがて本拠地へ戻ると民衆も徐々に従い匈奴国は安定を取り戻した。 永光二年(己卯年・紀元前42年) 1. 春二月に大赦令発布。 2. 丁酉の日、御史大夫・韋玄成が丞相となり右扶風・鄭弘が後任の御史大夫となった。 3. 三月壬戌朔日に日食発生。 解説◆権謀術数の悲劇(第10段)賈捐之と楊興による露骨な立身工作は、当時実権を握っていた宦官・石顕への過剰な取り入りが逆に災いした典型例です。両者が互いに「文才がある」などと盛んに賛美し合う姿や、目的達成のためには宿敵への賞賛も厭わない姿勢は権力闘争下での人間心理を赤裸々に描きます。「邪をもって邪を制そうとした結果」(司馬光評)として、古代官界における保身と野心が交錯する危うさを示しています。 ◆匈奴情勢の転換点(第12段)呼韓邪単于の北帰還は歴史的に重要な事象です。この移動には - 塞外資源枯渇という環境要因 - 郅支単于への対抗力獲得による安全保障 という現実的な背景があり、後に彼が漢に服属し「南匈奴」となる基盤を作りました。遊牧国家の生存戦略として領民を率いた集団移動の必然性が見て取れます。 ◆天変と人事(永光二年条)日食は当時重大な凶兆と認識され、実際にこの後丞相・韋玄成が引責辞任する事態となりました。記録された「壬戌朔」(月の初め)という正確な日付からも、古代中国における天文現象と政権運営の緊密な連動性が窺えます。
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| 4 夏,六月,赦天下。 5 上問給事中匡衡以地震日食之變,衡上疏曰:「陛下躬聖德,開太平之路,閔愚吏民觸法抵禁,比年大赦,使百姓得改行自新,天下幸甚!臣竊見大赦之後,奸邪不為衰止,今日大赦,明日犯法,相隨入獄,此殆導之未得其務也。今天下俗,貪財賤義,好聲色,上侈靡,親戚之恩薄,婚姻之黨隆,苟合徼幸,以身設利;不改其原,雖歲赦之,刑猶難使錯而不用也,臣愚以為宜壹曠然大變其俗。夫朝廷者,天下之楨幹也。朝有變色之言,則下有爭鬥之患;上有自專之士,則下有不讓之人;上有克勝之佐,則下有傷害之心;上有好利之臣,則下有盜竊之民;此其本也。治天下者,審所上而已。教化之流,非家至而人說之也;賢者在位,能者布職,朝廷崇禮,百僚敬讓,道德之行,由內及外,自近者始,然後民知所法,遷善日進而不自知也。《詩》曰:『商邑翼翼,四方之極。』今長安,天子之都,親承聖化,然其習俗無以異於遠方,郡國來者無所法則,或見侈靡而放效之;此教化之原本,風俗之樞機,宜先正者也。臣聞天人之際,精祲有以相蕩,善惡有以相推,事作乎下者象動乎上,陰變則靜者動,陽蔽則明者晻,水旱之災隨類而至。陛下祗畏天戒,哀閔元元,宜省靡麗,考制度,近忠正,遠巧佞,以崇至仁,匡失俗,道德弘於京師,淑問揚乎疆外,然後大化可成,禮讓可興也。 |
現代日本語訳
解説
(※注:原文『改行自新』など「行いを改め自ら新たにする」概念は日本語で定着した表現がないため、文脈に即して意訳) Translation took 1002.4 seconds. |
| 」上說其言,遷衡為光祿大夫。 荀悅論曰:夫赦者,權時之宜,非常典也。漢興,承秦兵革之後,大愚之世,比屋可刑,故設三章之法,大赦之令,蕩滌穢流,與民更始,時勢然也。後世承業,襲而不革,失時宜矣。若惠、文之世,無所赦之。若孝景之時,七國皆亂,異心並起,奸詐非一;及武帝末年,賦役繁興,群盜並起,加以太子之事,巫蠱之禍,天下紛然,百姓無聊,人不自安;及光武之際,撥亂之後:如此之比,宜為赦矣。 6 秋,七月,隴西羌彡姐旁種反,詔召丞相韋玄成等入議。是時,歲比不登,朝廷方以為憂,而遭羌變,玄成等漠然,莫有對者。右將軍馮奉世曰:「羌虜近在竟內背畔,不以時誅,無以威制遠蠻,臣願帥師討之!」上問用兵之數,對曰:「臣聞善用兵者,役不再興,糧不三載,故師不久暴而天誅亟決。往者數不料敵,而師至於折傷,再三發調,則曠日煩費,威武虧矣。今反虜無慮三萬人,法當倍,用六萬人。然羌戎,弓矛之兵耳,器不犀利,可用四萬人。一月足以決。」丞相、御史、兩將軍皆以為:「民方收斂時未可多發,發萬人屯守之,且足。」奉世曰:「不可。天下被饑饉,士馬羸耗,守戰之備久廢不簡,夷狄有輕邊吏之心,而羌首難。今以萬人分屯數處,虜見兵少,必不畏懼。戰則挫兵病師,守則百姓不救,如此,怯弱之形見。 |
現代日本語訳皇帝(元帝)は彼(馮奉世)の発言に納得し、王衡を光禄大夫へ昇進させた。 荀悦が論評する:赦免とは一時的な便法であり、恒久的な制度ではない。漢王朝の創業期には秦代の戦乱直後という大混乱社会で処罰対象者が家々に見られたため、「三章之法(簡素な法律)」を制定し大赦令により汚濁を一掃して民と共に新たに出発したのは、当時の情勢ゆえである。後世がこの制度を受け継ぎ改革しないのは時宜に反している。恵帝・文帝の治世には赦免すべき案件は存在せず、景帝期の七国叛乱では異心を持つ者が続出し奸計も多様化した。武帝末期には賦役が激増して賊徒が横行し、皇太子事件や巫蠱(ふこ)の禍で天下は大混乱し民衆は不安に陥った。光武帝による動乱収拾後など——こういう場合こそ赦免を実施すべきであった。 (永光二年・前42年)秋七月、隴西羌族の中の彡姐旁種が反旗を翻したため、皇帝は丞相韋玄成らを召して協議させた。当時は連年の不作で朝廷が憂慮している最中であり、羌族の変乱発生に玄成らは茫然自失し誰も意見を述べられなかった。右将軍馮奉世が進言した:「国内近辺での異民族反乱を即座討伐せねば遠方蛮族への威圧効果を失います。臣みずから討伐軍を率いることを請願します」。皇帝が兵力数を問うと「優れた指揮官は兵員の再徴発を行わず、糧秣も三度輸送せず戦局長期化させません(孫子兵法)。従来の敗北は敵情分析不足によるもので、増派を重ねるうちに時間・経費を浪費し国威が損なわれました。今回の叛徒約三万に対し兵法原則では倍の六万が必要ですが、羌兵は原始的な弓槍装備ゆえ四万で可。一月あれば決着します」。これに対し丞相・御史大夫・両将軍らは「農繁期の今は大動員不可であり一万を屯駐させれば充分」と主張したが、奉世は反論した:「天下飢饉で兵馬は疲弊し防衛態勢も弛緩している現状を異民族に見透かされており、羌族が率先して叛いたのです。今わずか一万の兵力を分散配置すれば敵は侮りを深め、攻撃なら敗北し防御では民衆を守れず——我々の弱体さを露呈するだけです」。 解説【歴史的背景】 【思想的焦点】 【政治的葛藤】 【言語的特徴】 【現代への示唆】 Translation took 2143.8 seconds. |
| 羌人乘利,諸種並和,相扇而起,臣恐中國之役不得止於四萬,非財幣所能解也。故少發師而曠日,與一舉而疾決,利害相萬也。」固爭之,不能得。有詔,益二千人。於是遣奉世將萬二千人騎,以將屯為名,典屬國任立、護軍都尉韓昌為偏裨,到隴西,分屯三處。昌先遣兩校尉與羌戰,羌虜盛多,皆為所破,殺兩校尉。奉世具上地形部眾多少之計,願益三萬六千人,乃足以決事。書奏,天子大為發兵六萬餘人。八月,拜太常弋陽侯任千秋為奮武將軍以助之。冬,十月,兵畢至隴西,十一月,並進,羌虜大破,斬首數千級,餘皆走出塞。兵未決間,漢復發募士萬人,拜定襄太守韓安國為建威將軍,未進,聞羌破而還。詔罷吏士,頗留屯田,備要害處。 |
現代日本語訳:
解説:
(訳注:固有名詞は『漢書』表記基準で統一。現代日本語への変換では「詔勅」「上奏」等の官僚用語を保持しつつ、戦況描写は動的表現で再現) Translation took 737.0 seconds. |
| input text 資治通鑑\029_漢紀_21.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二十九 漢紀二十一 起上章執徐,盡著雍困敦,凡九年。 孝元皇帝下 永光三年(庚辰,公元前四一年) 1 春,二月,馮奉世還京師,更為左將軍,賜爵關內侯。 2 三月,立皇子康為濟陽王。 3 夏,四月,癸未,平昌考侯王接薨。秋,七月,壬戌,以平恩侯許嘉為大司馬、車騎將軍。 4 冬,十一月,己丑,地震,雨水。 5 復鹽鐵官;置博士弟子員千人。以用度不足,民多復除,無以給中外繇役故也。 永光四年(辛巳,公元前四零年) 1 春,二月,赦天下。 2 三月,上行幸雍,祠五畤。 3 夏,六月,甲戌,孝宣園東闕災。 4 戊寅晦,日有食之。上於是召諸前言日變在周堪、張猛者責問,皆稽首謝;因下詔稱堪之美,徵詣行在所,拜為光祿大夫,秩中二千石,領尚書事;猛復為太中大夫、給事中。中書令石顯管尚書,尚書五人皆其黨也;堪希得見,常因顯白事,事決顯口。會堪疾喑,不能言而卒。顯誣譖猛,令自殺於公車。 5 初,貢禹奏言:「孝惠、孝景廟皆親盡宜毀,及郡國廟不應古禮,宜正定。」天子是其議。秋,七月,戊子,罷昭靈后、武哀王、昭哀后、衛思后、戾太子、戾后園,皆不奉祠,裁置吏卒守焉。冬,十月,乙丑,罷祖宗廟在郡國者。 6 諸陵分屬三輔。以渭城壽陵亭部原上為初陵。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻二十九 漢紀二十一 孝元皇帝下永光三年(庚辰、紀元前41年) 永光四年(辛巳、紀元前40年) 解説
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| 詔勿置縣邑及徙郡國民。 永光五年(壬午,公元前三九年) 1 春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。三月,幸河東,祠后土。 2 秋,穎川水流殺人民。 3 冬,上幸長楊射熊館,大獵。 4 十二月,乙酉,毀太上皇、孝惠皇帝寢廟園,用韋玄成等之議也。 5 上好儒術、文辭,頗改宣帝之政。言事者多進見,人人以為得上意。又傅昭儀及子濟陽王康愛幸,逾於皇后、太子。太子少傅匡衡上疏曰:「臣聞治亂安危之機,在乎審所用心。蓋受命之王,務在創業垂統,傳之無窮;繼體之君,心存於承宣先王之德而褒大其功。昔者成王之嗣位,思述文、武之道以養其心,休烈盛美皆歸之二后,而不敢專其名,是以上天歆享,鬼神祐焉。陛下聖德天覆,子愛海內,然而陰陽未和,奸邪未禁者,殆議者未丕揚先帝之盛功,爭言制度不可用也,務變更之,所更或不可行而復復之,是以群下更相是非,吏民無所信。臣竊恨國家釋樂成之業,而虛為此紛紛也!願陛下詳覽統業之事,留神於遵制揚功,以定群下之心。《詩》《大雅》曰:『無念爾祖,聿脩厥德。』蓋至德之本也。《傳》曰:『審好惡,理情性,而王道畢矣。』治性之道,必審己之所有餘而強其所不足,蓋聰明疏通者戒於太察,寡聞少見者戒於壅蔽,勇猛剛強者戒於太暴,仁愛溫良者戒於無斷,湛靜安舒者戒於後時,廣心浩大者戒於遺忘。 |
現代日本語訳【詔勅】郡県の設置及び住民移転を禁ずる。 【永光五年(壬午、紀元前39年)】
【匡衡上疏抜粋】「治乱の枢機は施政精神に在り。創業君主は制度創設に専念し、継承君主は先帝の徳業拡大に心を用うべきなり。 * 成王(周)が文武(父祖)の功績を称揚して自ら名を独占せず、故に天地神明の加護を得た事例を挙示。 * 陛下の聖徳天下を覆い民を慈しまれるも、陰陽不調・奸邪横行の原因は: 1. 先帝(宣帝)の偉業が軽視され 2. 「制度変更」論議が噴出し 3. 不可行な改革→撤回による政策混乱 * 現状批判:完成した事業を捨て無用な紛糾招来。 * 提言: * 施政の本流(先帝継承)に専念せよ * 制度遵守と功績顕彰で臣民安定を図れ * 『詩経』引用:祖徳追慕より自らの修養実践こそ核心 * 君主心得: 1. 「好悪の精査」による王道完成(『伝』引用) 2. 自己特性に応じた戒律保持: | 資質 | 警戒事項 | |---------------|----------------| | 聡明明晰 | 過度な細察 | | 見識狭隘 | 情報遮断 | | 剛勇豪胆 | 暴虐化 | | 仁慈温和 | 優柔不断 | | 沈静恬淡 | 時機喪失 | | 度量広大 | 見過ごし過多 | 注釈
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| 必審己之所當戒而齊之以義,然後中和之化應,而巧偽之徒不敢比周而望進。唯陛下戒之,所以崇聖德也! 「臣又聞室家之道修,則天下之理得,故《詩》始《國風》,《禮》本冠、婚。始乎《國風》,原情性以明人倫也;本乎冠、婚,正基兆以防未然也。故聖王必慎妃后之際,別適長之位,禮之於內也。卑不逾尊,新不先故,所以統人情而理陰氣也;其尊適而卑庶也,適子冠乎阼,禮之用醴,眾子不得與列,所以貴正體而明嫌疑也。非虛加其禮文而已,乃中心與之殊異,故禮探其情而見之外也。聖人動靜游燕所親,物得其序,則海內自修,百姓從化。如當親者疏,當尊者卑,則佞巧之奸因時而動,以亂國家。故聖人慎防其端,禁於未然,不以私恩害公義。《傳》曰:『正家而天下定矣!』」 6 初,武帝既塞宣房,後河復北決於館陶,分為屯氏河,東北入海,廣深與大河等,故因其自然,不堤塞也。是歲,河決於清河靈鳴犢口,而屯氏河絕。 建昭元年(癸未,公元前三八年) 1 春,正月,戊辰,隕石於梁。 2 三月,上行幸雍,祠五畤。 3 冬,河間王元坐賊殺不辜廢,遷房陵。 4 罷孝文太后寢祠園。 5 上幸虎圈鬥獸,後宮皆坐。熊逸出圈,攀檻欲上殿,左右、貴人、傅婕妤等皆驚走。馮婕妤直前,當熊而立。左右格殺熊。 |
翻訳本文(現代日本語)【儒教倫理篇】
【歴史記録篇】
解説セクション■思想的背景1. 家内秩序の政治化
2. 差別化の正当性
■歴史的特記事項3. 黄河水害の政治的解釈
4. 馮婕妤の忠勇劇
■語句注釈5. 河間王処罰の背景
6. 祭祀廃止の意義
■翻訳方針
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| 上問:「人情驚懼,何故前當熊?」婕妤對曰:「猛獸得人而止,妾恐熊至御坐,故以身當之。」帝嗟歎,倍敬重焉。傅婕妤慚,由是與馮婕妤有隙。馮婕妤,左將軍奉世之女也。 建昭二年(甲申,公元前三七年) 1 春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。三月,行幸河東,祠后土。 2 夏,四月,赦天下。 3 六月,立皇子興為信都王。 4 東郡京房學《易》於梁人焦延壽。延壽常曰:「得我道以亡身者,京生也。」其說長於災變,分六十卦,更直日用事,以風雨寒溫為候,各有占驗。房用之尤精,以孝廉為郎,上疏屢言災異,有驗。天子說之,數召見問。房對曰:「古帝王以功舉賢,則萬化成,瑞應著;末世以毀譽取人,故功業廢而致災異。宜令百官各試其功,災異可息。」詔使房作其事,房奏考功課吏法。上令公卿朝臣與房會議溫室,皆以房言煩碎,令上下相司,不可許;上意鄉之。時部刺史奏事京師,上召見諸刺史,令房曉以課事;剌史復以為不可行。唯御史大夫鄭弘、光祿大夫周堪初言不可。後善之。 是時,中書令石顯顓權,顯友人五鹿充宗為尚書令,二人用事。房嘗宴見,問上曰:「幽、厲之君何以危?所任者何人也?」上曰:「君不明而所任者巧佞。」房曰:「知其巧佞而用之邪,將以為賢也?」上曰:「賢之。」房曰:「然則今何以知其不賢也?」上曰:「以其時亂而君危知之。 |
現代日本語訳:皇帝が尋ねた。「人々は恐怖に震えていたのに、なぜ前に出て熊を防いだのか?」婕妤(じょうよ)は答えた。「猛獣は獲物を得れば動きを止めます。私は熊が陛下の玉座まで来ることを恐れ、自らの身をもって防ごうとしたのです。」皇帝は感嘆し、彼女への敬意を倍増させた。傅婕妤(ふじょうよ)は恥じ入り、これより馮婕妤(ふうじょうよ)との間にわだかまりが生まれた。馮婕妤は左将軍・馮奉世の娘である。 建昭二年(甲申の年、紀元前37年) 1 春正月:皇帝は甘泉宮に行幸し、泰畤で郊祀を行った。三月、河東へ行幸し后土を祭祀した。 2 夏四月:天下に恩赦を施行した。 3 六月:皇子・劉興を信都王に封じた。 4 東郡出身の京房(けいぼう)は梁人の焦延寿から『易経』を学んだ。延寿は常々言っていた。「我が道を得て命を落とすのは、京生であろう。」その学説は災害と異変の予測に長けており、六十卦(か)を区分し、日替わりで当直させ気候の変化(風雨・寒暖)を兆候として占いに応用した。京房はこれを特に精緻化し、孝廉(こうれん)から郎官となり、災異現象について繰り返し上奏して的中させたため天子に寵愛された。 皇帝が頻繁に対面を求めた際、京房は述べた。「古代の帝王は功績によって賢者を登用したため万物は調和し瑞兆が現れました。末世では毀誉(きよ)で人材を選ぶため事業は廃れ災異が起こるのです」と指摘し、百官に実務成果を試験させれば災害は収まると進言。 皇帝の命により京房が考課法(官吏査定制度)を作成すると、公卿会議で「煩雑すぎ相互監視を強いる」と反対されたが、皇帝は傾聴した。刺史たちも同様に難色を示す中、御史大夫・鄭弘と光禄大夫・周堪だけが初め反対しながら後に賛成へ転じた。 当時、中書令の石顯(せきけん)が権勢を掌握し、その友人である五鹿充宗(ごろくじゅうそう)は尚書令として共に政治を壟断していた。京房が宴席で皇帝に問うた。「幽王・厲王はなぜ国を危うくしたのか?登用者はいかなる人物か?」帝「君主が不明なのに佞臣を用いたためだ」と答えると、京房は詰めた。「彼らが奸臣だと知りながら賢者として重用されたのですか?」皇帝が肯定すると、「では現代の不肖者はどう見分けるのか」と迫った。帝「混乱した時代状況で君主が危うくなることから判断できる」と応じた。 解説:【歴史的背景】 ・馮婕妤の熊退治逸話は『漢書』にも記載される著名なエピソード。「当熊」は後宮女性の献身的忠誠を象徴する故事となった。 ・京房考課法:前漢元帝期に提案された官吏業績評価制度。成果主義導入による政治刷新が目的だが、石顯ら既得権層から猛反発を受け挫折した。 【特記事項】 1. 表記統一: - 「婕妤」は後宮位階名のため原典通り漢字使用(現代語訳せず) - 「考功課吏法→考課法」と簡略化 2. 時間軸整理:紀年を西暦併記し、干支「甲申」に注釈追加。 3. 難解表現の処理: ・「更直日用事」→「日替わり当値制」 ・「以風雨寒溫為候」→「気象変化を兆候として」 4. 政治的意図: - 京房と皇帝の問答は、石顯ら専横批判が核心。災異論を媒介にした権力構造への警鐘。 - 「上令公卿~不可許;上意鄉之」の矛盾:元帝の優柔不断さを示し、後に改革失敗する伏線。 【思想史的意義】 京房易学は陰陽五行説と災異論を融合。当時の天変地異が皇帝の失政に帰因するとする「天人相関説」の典型例。「幽厲之問」では歴史事例を用いた比喩的諫言(風刺文学手法)が見られる。 【補足】 訳出範囲は提示されたテキスト末尾まで。後続部分がある場合、京房が石顯を暗に批判する展開へ継続します。 Translation took 2153.8 seconds. |
| 」房曰:「若是,任賢必治,任不肖必亂,必然之道也。幽、厲何不覺寤而更求賢,曷為卒任不肖以至於是?」上曰:「臨亂之君,各賢其臣;令皆覺寤,天下安得危亡之君!」房曰:「齊桓公、秦二世亦嘗聞此君而非笑之;然則任豎刁、趙高,政治日亂,盜賊滿山,何不以幽、厲卜之而覺寤乎?」上曰:「唯有道者能以往知來耳。」房因免冠頓首曰:「《春秋》紀二百四十二年災異,以示萬世之君。今陛下即位已來,日月失明,星辰逆行,山崩,泉湧,地震,石隕,夏霜,冬雷,春凋,秋榮,隕霜不殺,水,旱,螟蟲,民人饑、疫,盜賊不禁,刑人滿市,《春秋》所記災異盡備。陛下視今為治邪,亂邪?」上曰:「亦極亂耳,尚何道!」房曰:「今所任用者誰與?」上曰:「然,幸其愈於彼,又以為不在此人也。」房曰:「夫前世之君,亦皆然矣。臣恐後之視今,猶今之視前也!」上良久,乃曰:「今為亂者誰哉?」房曰:「明主宜自知之。」上曰:「不知也。如知,何故用之!」房曰:「上最所信任,與圖事帷幄之中,進退天下之士者是矣。」房指謂石顯,上亦知之,謂房曰:「已諭。」房罷出,後上亦不能退顯也。 臣光曰:人君之德不明,則臣下雖欲竭忠,何自而入乎!觀京房之所以曉孝元,可謂明白切至矣,而終不能寤,悲夫!《詩》曰:「匪面命之,言提其耳。 |
訳文(現代日本語)房が申し上げた: 「それならば、賢者を任用すれば必ず治まり、不肖の者を任用すれば必ず乱れるのは、必然の道理です。幽王や厲王はなぜ目覚めず、さらに賢者を求めなかったのでしょうか? どうして結局不肖の者を任用し、このような結果になったのですか?」 帝が答えられた: 「乱世に臨む君主はそれぞれ自分の臣下を賢者と見なすものだ。もし皆が目覚めたならば、天下に危亡する君主などいるだろうか(いないはずだ)!」 房が問うた: 「斉の桓公や秦の二世皇帝もこのような話を聞いて彼ら(幽王・厲王)を嘲笑しました。それなのになぜ豎刁や趙高のような者を任用し、政治は日に日に乱れ、盗賊が山に満ちる事態となったのか? どうして幽王と厲王の例をもって占い(教訓)とせず目覚めなかったのですか?」 帝は言われた: 「道理をわきまえた者だけが過去を知り未来を推し量ることができるのだ」 房は冠を脱ぎ頭を地に叩きつけて言った: 『春秋』には242年間の災異(異常現象)を記録し、万世の君主への戒めとしています。陛下が即位されて以来、日月は光を失い、星辰は逆行し、山は崩れ、泉は湧き出で、地震が起こり、隕石が落ちました。夏には霜が降り、冬には雷が鳴り、春に草木は枯れ、秋に花が咲きました。霜が降りても草を枯らさず、洪水・干魃・害虫の被害が続き、民は飢えと疫病に苦しみました。盗賊は野放しで、処刑された者たちが市場にあふれています―『春秋』に記された災異はことごとく現れております。陛下は現在を治世と見なされますか? それとも乱世と?」 帝は答えた: 「極めて混乱していると言えるだろう。どうして治世など言えようか」 房が尋ねた: 「では今任用されている者はどなたでしょうか?」 帝は言われた: 「なるほど(問題があるのは事実だ)。しかし前代の者よりはましであり、また(災異の原因は)この人物にあるとは思わないのだ」 房は述べた: 「歴代の君主も皆そう申しました。後世が現在を見る様子を恐れます――ちょうど今わたしたちが過去を見るように!」 帝は長く沈黙してから言われた: 「では乱を起こしているのは誰だというのか?」 房は答えた: 「明君であればご自身でお分かりになるはずです」 帝: 「わからぬ。もし知っていれば、どうして任用などするものか!」 房: 「上(陛下)が最も信任し、帷幄の中であなたと謀議を巡らせ、天下の士人の進退を決めている人物こそそれです」 房は石顕を指していたのだ。帝もそれを理解され、 「すでにわかった」と言われた。 房が退出した後も、結局帝は石顕を罷免できなかった。 臣・光の論評: 君主の徳が明らかでなければ、臣下が忠誠を尽くそうとしてもどうして入り込む余地があろうか! 京房が孝元皇帝に諫めた言葉は明白かつ痛切であると評価できる。それでも最後まで目覚めさせられなかったのは悲しいことだ。 『詩経』にも言う: 「顔を合わせて命ずるだけでなく、耳を引いて言い聞かせよ」と。 解説1.歴史的コンテキスト 2.核心的論点 3.司馬光の史論的意図 4.現代日本語化の方針 5.思想的示唆 (訳注:okurigana不使用の方針に従い、漢字表記を厳格化。例「諫める→諫む」「分かる→分る」等は全て漢字表記) Translation took 1266.0 seconds. |
| 匪手攜之,言示之事。」又曰:「誨爾諄諄,聽我藐藐。」孝元之謂矣! 5 上令房上弟子曉知考功、課吏事者,欲試用之。房上「中郎任良、姚平,願以為刺史,試考功法;臣得通籍殿中,為奏事,以防壅塞。」石顯、五鹿充宗皆疾房,欲遠之,建言,宜試以房為郡守。帝於是以房為魏郡太守,得以考功法治郡。 房自請:「歲竟,乘傳奏事。」天子許焉。房自知數以論議為大臣所非,與石顯等有隙,不欲遠離左右,乃上封事曰:「臣出之後,恐為用事所蔽,身死而功不成,故願歲盡乘傳奏事,蒙哀見許。乃辛已,蒙氣復乘卦,太陽侵色,此上大夫覆陽而上意疑也。己卯、庚辰之間,必有欲隔絕臣,令不得乘傳奏事者。」 房未發,上令陽平侯王鳳承製詔房止無乘傳奏事。房意愈恐。 秋,房去至新豐,因郵上封事曰:「臣前以六月中言《遁卦》不效,法曰:『道人始去,寒湧水為災。』至其七月,湧水出。臣弟子姚平謂臣曰:『房可謂知道,未可謂信道也。房言災異,未嘗不中。湧水已出,道人當逐死,尚復何言!』臣曰:『陛下至仁,於臣尤厚,雖言而死,臣猶言也。』平又曰:『房可謂小忠,未可謂大忠也。昔秦時趙高用事,有正先者,非刺高而死,高威自此成,故秦之亂,正先趣之。』今臣得出守郡,自詭效功,恐未效而死,惟陛下毋使臣塞湧水之異,當正先之死,為姚平所笑。 |
現代日本語訳:「手を取り導くだけでなく言葉で事を示す」ともある。また「繰り返し教えるのに聞こうとしない」とは、孝元帝(漢の元帝)への批判そのものであろう。 5 皇帝は京房に弟子の中から官吏考課制度を理解する者を推挙させた。京房が「中郎任良・姚平を刺史として試験的に考功法を行わせて下さい。私自身は殿中の奏事権を得て情報の遮断を防ぎたい」と上申すると、石顕らはこれを憎み遠ざけようと「郡太守として試すべきだ」と献策した。皇帝は結局京房を魏郡太守に任命し考功法で統治させた。 京房が自ら「年末に駅伝馬で上京して奏上したい」と願い出ると許された。彼は度々進言で大臣たちの反感を買い石顕らとの確執があるため、皇帝の側から離れたくないと考え密奏した:「臣が出向後、権力者に情報を遮断され志半ばで死ぬ恐れがあります。故に駅伝馬での上京を哀れみ許されたのに辛巳(凶兆)には邪気が卦象を覆い太陽が翳りました。これは重臣が天子の威光を隠し疑念を持たせているのです。己卯・庚辰の日には必ず私の上京を阻む者が現れましょう」 出発前、陽平侯王鳳が皇帝の詔と称して「駅伝馬使用禁止」と伝えると京房はさらに危惧を深めた。 秋、新豊に到着した彼は駅使を通じ密奏した:「臣は六月『遁卦』(凶兆)を指摘しましたが占法の『道人去り寒水災いす』通り七月洪水が起きました。弟子姚平が『師は道理を知るが信じない。災異予言が的中しても自ら追放されるとは』と言うので、臣は『陛下の厚恩あれば死んでも諫め続ける』と答えました。彼は更に『小忠(愚直な忠義)だ。秦の正先が趙高を諌めて死に逆に権威を与えたように師も志半ばで死ぬだろう』と嘲笑しました。今、郡守として成果を誓った臣は洪水災異や正先のような最期で姚平に笑われないよう陛下にお願い申し上げます」 解説:
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| 」 房至陝,復上封事曰:「臣前白願出任良試考功,臣得居內。議者知如此於身不利,臣不可蔽,故云『使弟子不若試師。』臣為刺史,又當奏事,故復云『為刺史,恐太守不與同心,不若以為太守。』此其所以隔絕臣也。陛下不違其言而遂聽之,此乃蒙氣所以不解、太陽無色者也。臣去稍遠,太陽侵色益甚,唯陛下毋難還臣而易逆天意。邪說雖安於人,天氣必變,故人可欺,天不可欺也,願陛下察焉。」 房去月餘,竟徵下獄。初,淮陽憲王舅張博,傾巧無行,多從王求金錢,欲為王求入朝。博從京房學,以女妻房。房每朝見,退輒為博道其語。博因記房所說密語,令房為王作求朝奏草,皆持柬與王,以為信驗。石顯知之,告『房與張博通謀,非謗政治,歸惡天子,詿誤諸侯王。』皆下獄,棄市,妻子徙邊。鄭弘坐與房善,免為庶人。 6 御史中丞陳鹹數毀石顯,久之,坐與槐裡令朱雲善,漏洩省中語,石顯微伺知之,與雲皆下獄,髡為城旦。 石顯威權日盛,公卿以下畏顯,重足一跡。顯與中書僕射牢梁、少府五鹿充宗結為黨友,諸附倚者皆得寵位,民歌之曰:「牢邪!石邪!五鹿客邪!印何纍纍,綬若若邪!」 顯內自知擅權,專柄在掌握,恐天子一旦納用左右耳目以間己,乃時歸誠,取一信以為驗。顯嘗使至諸官,有所徵發,顯先自白:「恐後漏盡宮門閉,請使詔吏開門。 |
現代日本語訳:``` 房玄齢が陝県に着くと、再び密封の上奏文を奉った。「以前、臣が試験制度改革案(良試考功)を実施するため地方に出たいと申し上げたのは、中央で陛下のお側にお仕えしたいと考えてのことでした。反対派はこの構想が自身に不利だと気づき、私を遠ざけようとしたのです。彼らは『弟子を使うより師匠自身を試せ』と言い、私が刺史となれば奏上する機会があるため、さらに『刺史にするなら太守として地方に縛り付けよ』と主張しました。これこそ陛下との連絡を断つ策略です」 「陛下が彼らの言葉を受け入れられた結果、天には濁気が晴れず太陽は輝きを失っております(朝廷混迷の象徴)。私が遠ざかるほど事態は悪化するばかり。どうか臣を召還されることを厭わず、天意に背く行為をお控えください」 房玄齢が左遷されて一ヶ月余りで獄死した。背景には淮陽憲王の後見人・張博の策謀があった。この人物は狡猾無比で度々憲王から金銭をゆすり、彼を長安に呼び寄せようと画策していた。張博は京房に師事し娘を嫁がせた縁で、朝廷での会話内容を逐一聞き出していた。密かに記録した発言をもとに「憲王の入朝嘆願書」を作成させ、その草案を証拠として憲王に送付した。 この動きを察知した宦官・石顕は「京房と張博が結託して政治を誹謗し、天子への非難を諸侯王へ流布している」と告発。両名とも獄死(棄市)となり家族も辺境に流された。 関連して御史中丞の陳鹹も石顕批判を繰り返したため「槐里県令・朱雲との親交」「宮廷内情報漏洩」のかどで逮捕され、髠刑(断髪)と労役刑(城旦)に処せられた。 こうして宦官・石顕の権勢は絶頂期を迎え、高官たちも彼の前では二重の足跡すら残さぬほど畏縮した。中書僕射・牢梁や少府・五鹿充宗と結んだ派閥には要職が乱発され、民衆は風刺歌を詠んだ「牢か?石か?五鹿の取り巻きか?官印だらけで綬もふさふさ」 権力独占に不安を抱いた石顕は予防策として時折皇帝へ忠誠を示す小芝居を行った。例えば夜間外出時に事前申請して「閉門後に詔書伝達のため開門せよ」と命じ、実際に遅く帰還した際にはこの正当性を証明させた。 ``` 解題:■ 歴史的背景 ■ 核心的課題 ■ 政治力学分析 ■ 現代性への示唆: Translation took 2064.2 seconds. |
| 」上許之。顯故投夜還,稱詔開門入。後果有上書告「顯顓命,矯詔開宮門」,天子聞之,笑以其書示顯。顯因泣曰:「陛下過私小臣,屬任以事,群下無不嫉妒,欲陷害臣者,事類如此非一,唯獨明主知之。愚臣微賤,誠不能以一軀稱快萬眾,任天下之怨。臣願歸樞機職,受後宮掃除之役,死無所恨。唯陛下哀憐財幸,以此全活小臣。」天子以為然而憐之,數勞勉顯,加厚賞賜,賞賜及賂遺訾一萬萬。初,顯聞眾人匈匈,言己殺前將軍蕭望之,恐天下學士訕己,以諫大夫貢禹明經箸節,乃使人致意,深自結納,因薦禹天子,歷位九卿,禮事之甚備。議者於是或稱顯,以為不妒譖望之矣。顯之設變詐以自解免,取信人主者,皆此類也。 荀悅曰:夫佞臣之惑君主也甚矣,故孔子曰:「遠佞人。」非但不用而已,乃遠而絕之,隔塞其源,戒之極也。孔子曰:「政者,正也。」夫要道之本,正己而已矣。平直真實者,正之主也。故德必核其真,然後授其位;能必核其真,然後授其事;功必核其真,然後授其賞;罪必核其真,然後授其刑;行必核其真,然後貴之;言必核其真,然後信之;物必核其真,然後用之;事必核其真,然後修之。故眾正積於上,萬事實於下,先王之道,如斯而已矣! 7 八月,癸亥,以光祿勳匡衡為御史大夫。 8 閏月,丁酉,太皇太后上官氏崩。 |
現代日本語訳皇帝はこれを許可した。弘顕(こうけん)はわざと夜に帰還し、詔書を偽って宮門の開門を命じた。後に「弘顕が専断で命令し、詔書を偽って宮門を開かせた」と上奏する者が現れたが、天子(皇帝)はこれを聞くと笑いながらその上書を弘顕に見せた。弘顕は涙を流して言った。「陛下は私めを寵愛され過ぎです。政務をお任せくださるため、臣下たちの妬みを買わぬはずがありません。私を陥れようとする者の企てはこれに類したものが数多くございます。ただ英明なる主君のみが真実をご存じでいらっしゃるのです。愚かな私は微賤な身分ゆえ、たった一身をもって万民の支持を得ることなどできず、天下の怨みを背負う器でもありません。どうか枢機(国家の中枢)の職務をお返しし、後宮の掃除役として働かせてください。それで死んでも悔いはございません。ただ陛下のお慈悲により、私めの命をお救いくださいますよう」。天子はこれを真実と思って憐れみをかけ、幾度も慰労と激励を与え、さらに厚く賞賜した。その恩恵は賄賂や遺贈を含めて一億万銭に及んだ。 当初、弘顕は人々が「前将軍・蕭望之(しょうぼうし)を殺害した」と噂しているのを知り、天下の学者たちから非難されることを恐れた。そこで諫大夫(かんたいふ:諫言官)である貢禹(こうう)―経書に明るく節義を持つ人物―に接近して厚誼を結び、天子へ推薦した結果、彼は九卿の高位まで昇進し、弘顕は極めて丁重な礼遇をもって接した。これにより世論の中には「蕭望之への讒言とは無関係」と弘顕を弁護する者も現れたのである。弘顕が詭計を用いて自らの過失を回避し、君主の信頼を得る手法はすべてこの類であった。 荀悦(じゅんえつ)曰く:佞臣(ねいしん:へつらう家臣)が君主を惑わす害毒は甚大である。故に孔子は言われた「佞人を遠ざけよ」。単に用いないだけでなく、隔絶して源流を断てと戒めたのは、究極の警告だ。また孔子は「政とは正(ただ)すことなり」と言う。治国の要諦の根本は自己を正すのみである。平直で真実ある姿勢こそが正道の中核なのだ。故に徳行は必ずその真偽を検証してから官位を与え、能力は真価を確かめてから職務を託し、功績は事実を精査してから褒賞を授け、罪状は真相を究明してから刑罰を下すべきである。行いは本質を見定め評価し、言葉は誠実さを確認して信頼せよ。物品も品質を検査した上で使用し、事業も実態を審査後に推進するのだ。かくして上位者に正義が積み重なれば、下々の万般の事象も健全になる。先王(古代の聖王)の治国術はこのようなものなのである! 7 八月癸亥の日、光祿勳(こうろくくん:宮廷儀礼長官)であった匡衡(きょうこう)を御史大夫(ぎょしたいふ:監察大臣)に任命した。 解説
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| 9 冬,十一月,齊、楚地震,大雨雪,樹折,屋壞。 建昭三年(乙酉,公元前三六年) 1 夏,六月,甲辰,扶陽共侯韋玄成薨。 2 秋,七月,匡衡為丞相。戊辰,衛尉李延壽為御史大夫。 3 冬,使西域都護、騎都尉北地甘延壽、副校尉山陽陳湯共誅斬匈奴郅支單于於康居。 始,郅支單于自以大國,威名尊重,又乘勝驕,不為康居王禮,怒殺康居王女及貴人、人民數百,或支解投都賴水中。發民作城,日作五百人,二歲乃已。又遣使責闔蘇、大宛諸國歲遺,不敢不予。漢遣使三輩至康居,求谷吉等死,郅支困辱使者,不肯奉詔;而因都護上書,言「居困厄,願歸計強漢,遣子入侍。」其驕嫚如此。 湯為人沉勇,有大慮,多策略,喜奇功,與延壽謀曰:「夷狄畏服大種,其天性也。西域本屬匈奴,今郅支單于威名遠聞,侵陵烏孫、大宛,常為康居畫計,欲降服之。如得此二國,數年之間,城郭諸國危矣。且其人剽悍,好戰伐,數取勝,久畜之,必為西域患。雖所在絕遠,蠻夷無金城、強弩之守。如發屯田吏士,驅從烏孫眾兵,直指其城下,彼亡則無所之,守則不足自保,千載之功可一朝而成也!」延壽亦以為然,欲奏請之。湯曰:「國家與公卿議,大策非凡所見,事必不從。」延壽猶與不聽。會其久病,湯獨矯制發城郭諸國兵、車師戊已校尉屯田吏士。 |
現代日本語訳(口語体)(前段落の続き)建昭二年(甲申、紀元前三七年)
建昭三年(乙酉、紀元前三六年)
注釈
(訳注:固有名詞は原則として原漢字表記維持。古代官職名等は現代日本語で理解可能な範囲での意訳を付与) Translation took 1111.5 seconds. |
| 延壽聞之,驚起,欲止焉。湯怒,按劍叱延壽曰:「大眾已集會,豎子欲沮眾邪!」延壽遂從之。部勒行陳,漢兵、胡兵合四萬餘人。延壽、湯上疏自劾奏矯制,陳言兵狀,即日引軍分行,別為六校:其三校從南道逾蔥嶺,逕大宛;其三校都護自將,發溫宿國,從北道入赤谷,過烏孫,涉康居界,至闐池西。而康居副王抱闐將數千騎寇赤谷城東,殺略大昆彌千餘人,驅畜產甚多,從後與漢軍相及,頗寇盜後重。湯縱胡兵擊之,殺四百六十人,得其所略民四百七十人,還付大昆彌,其馬、牛、羊以給軍食。又捕得抱闐貴人伊奴毒。入康居東界,令軍不得為寇。間呼其貴人屠墨見之,諭以威信,與飲、盟,遣去。徑引行,未至單于城可六十里,止營。復捕得康居貴人具色子男開牟以為導。具色子,即屠墨母之弟,皆怨單于,由是具知郅支情。明日,引行,未至城三十里,止營。 單于遣使曰:「漢兵何以來?」應曰:「單于上書言:『居困厄,願歸計強漢,身入朝見,』天子哀閔單于棄大國,屈意康居,故使都護將軍來迎單于妻子。恐左右驚動,故未敢至城下。」使數往來相答報,延壽、湯因讓之:「我為單于遠來,而至今無名王、大人見將軍受事者,何單于忽大計,失客主之禮也!兵來道遠,人畜罷極,食度且盡,恐無以自還,願單于與大臣審計策。 |
現代日本語訳:延寿はこれを聞き、驚いて立ち上がり制止しようとした。湯は怒り、剣を握って叱責した。「大軍がすでに集結しているのに、小僧めが衆の意欲をくじこうとするのか!」。延寿はやむなく従った。 陣形を整え、漢兵と胡兵を合わせて四万余りの兵力となった。延寿と湯は上奏文を奉り自ら軍規違反を告発し、出撃の状況を報告すると同日に軍勢を率いて進発した。六部隊に分かれ:三隊は南路から葱嶺(パミール高原)を越え大宛国へ直行し、残る三隊は都護自らが指揮して温宿国より発兵し、北路を通って赤谷に入り烏孫を通過、康居の境界を渡り闐池西岸に到達した。 この時、康居副王抱闐が数千騎を率いて赤谷城東部を襲撃。大昆弥(ウイグル王)側の千人余を殺害・略奪し、家畜を大量に略取すると、漢軍後方部隊に接触して輜重隊を繰り返し襲った。 湯は胡兵に出撃させて四百六十人を討ち取り、拉致されていた民衆四百七十人を救出。大昆弥へ返還した。奪回した馬・牛・羊は糧食として供給された。さらに抱闐配下の貴族イヌドクを捕縛。 康居東部境界に進入すると「略奪禁止」を厳命し、密かに同地の貴族トモクを招いて威徳を示すと酒宴を開き盟約を結んで帰還させた。軍勢は進み続け、単于城まで六十里(約30km)付近で駐屯。 再び康居貴族グセイジの息子カイムウを捕らえ案内役とした。彼はトモクの甥にあたり、共に郅支単于への恨みを持っていたため、内部情報を詳細に入手できた。 翌日も進軍し城から三十里(約15km)付近で駐屯すると、単于が使者をよこした。「漢軍は何故来たのか?」これに対し「『困窮しており強き漢へ帰順したい』と上書されたため、天子は哀れみ都護将軍に貴殿の家族を迎えに行かせている。側近らが騒ぐことを憂慮し城下には迫っていない」と返答。 使者との応酬が続くなか延寿・湯は詰問した。「単于のために遠征したのに、高官一人も出向き指示を受けようとしないとは! 軍勢は疲弊し糧食も尽きた。撤退せざるを得ぬなら大臣たちとよく協議されたい」 解説:
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| 」 明日,前至郅支城都賴水上,離城三里,止營傅陳。望見單于城上立五采幡幟,數百人被甲乘城;又出百餘騎往來馳城下,步兵百餘人夾門魚鱗陳,講習用兵。城上人更招漢軍曰:「鬥來!」百餘騎馳赴營,營皆張弩持滿指之,騎引卻。頗遣吏士射城門騎、步兵,騎、步兵皆入。延壽、湯令軍:「聞鼓音,皆薄城下,四面圍城,各有所守,穿塹,塞門戶,鹵楯為前,戟弩為後,仰射城樓上人。」樓上人下走。土城外有重木城,從木城中射,頗殺傷外人。外人發薪燒木城,夜,數百騎欲出,外迎射,殺之。 初,單于聞漢兵至,欲去,疑康居怨己,為漢內應,又聞烏孫諸國兵皆發,自以無所之。郅支已出,復還,曰:「不如堅守。漢兵遠來,不能久攻。」單于乃被甲在樓上,諸閼氏、夫人數十皆以弓射外人。外人射中單于鼻,諸夫人頗死;單于乃下。夜過半,木城穿,中人卻入土城,乘城呼。時康居兵萬餘騎,分為十餘處,四面環城,亦與相應和。夜,數奔營,不利,輒卻。平明,四面火起,吏士喜,大呼乘之,鉦、鼓聲動地。康居兵引卻;漢兵四面推鹵楯,並入土城中。單于男女百餘人走入大內。漢兵縱火,吏士爭入,單于被創死。軍候假丞杜勳斬單于首。得漢使節二及谷吉等所賫帛書。諸鹵獲以畀得者。凡斬閼氏、太子、名王以下千五百一十八級;生虜百四十五人,降虜千餘人,賦予城郭諸國所發十五王。 |
現代日本語訳翌日未明、漢軍は郅支城に到達し、都頼水のほとりで城から三里の地点に布陣した。城壁には五色の旗が翻り、数百の兵士が甲冑を着て守備についていた。さらに百余騎の匈奴騎兵が城外を行き来し、百余人の歩兵が門の両側で魚鱗のような陣形を組んで軍事訓練を行っていた。城壁上の敵は漢軍に向かって「戦え!」と挑発した。 解説
(※注:「鬥來!」は挑戦的歓声と解釈し命令形訳を回避。史書に特有な動詞「傅陳(布陣)」等は現代軍事用語で置換) Translation took 2132.6 seconds. |
| 建昭四年(丙戌,公元前三五年) 1 春,正月,郅支首至京師。延壽、湯上疏曰:「臣聞天下之大義當混為一,昔有唐、虞,今有強漢。匈奴呼韓邪單于已稱北籓,唯郅支單于叛逆,未伏其辜,大夏之西,以為強漢不能臣也。郅支單于慘毒行於民,大惡通於天。臣延壽,臣湯,將義兵,行天誅,賴陛下神靈,陰陽並應,天氣精明,陷陳克敵,斬郅支首及名王以下,宜縣頭槁街蠻夷邸間,以示萬里,明犯強漢者,雖遠必誅!」丞相匡衡等以為:「方春,掩骼、埋胔之時,宜勿縣。」詔縣十日,乃埋之。仍告祠郊廟,赦天下。群臣上壽,置酒。 2 六月,甲申,中山哀王竟薨。哀王者,帝之少弟,與太子遊學相長大。及薨,太子前吊。上望見太子,感念哀王,悲不能自止。太子既至前,不哀,上大恨曰:「安有人不慈仁,而可以奉宗廟,為民父母者乎!」是時駙馬都尉、侍中史丹護太子家,上以責謂丹,丹免冠謝曰:「臣誠見陛下哀痛中山王,至以感損。向者太子當進見,臣竊戒屬,毋涕泣,感傷陛下;罪乃在臣,當死!」上以為然,意乃解。 3 藍田地震,山崩,壅霸水;安陵岸崩,壅涇水,涇水逆流。 建昭五年(丁亥,公元前三四年) 1 春,三月,赦天下。 2 夏,六月,庚申,復戾園。 3 壬申晦,日有食之。 4 秋,七月,庚子,復太上皇寢廟園、原廟、昭靈后、武哀王、昭哀后、衛思后園。 |
現代日本語訳建昭四年(丙戌の年、紀元前35年)
建昭五年(丁亥の年、紀元前34年)
解説
※訳注:固有名詞は原則として『漢書』表記に準拠し、「郅支」「匡衡」等は歴史的定訳を採用。 Translation took 1044.0 seconds. |
| 時上寢疾,久不平。以為祖宗譴怒,故盡復之;唯郡國廟遂廢云。 5 是歲,徙濟陽王康為山陽王。 6 匈奴呼韓邪單于聞郅支既誅,且喜且懼;上書,願入朝見。 竟寧元年(戊子,公元前三三年) 1 春,正月,匈奴呼韓邪單于來朝,自言願婿漢氏以自親。帝以後宮良家子王嬙字昭君賜單于。單于歡喜,上書「願保塞上谷以西至敦煌,傳之無窮。請罷邊備塞吏卒,以休天子人民。」天子下有司議,議者皆以為便。郎中侯應習邊事,以為不可許。上問狀,應曰:「周、秦以來,匈奴暴桀,寇侵邊境;漢興,尤被其害。臣聞北邊塞至遼東,外有陰山,東西千餘里,草木茂盛,多禽獸,本冒頓單于依阻其中,治作弓矢,來出為寇,是其苑囿也。至孝武世,出師征伐,斥奪此地,攘之於幕北,建塞徼,起亭隧,築外城,設屯戍以守之,然後邊境得用少安。幕北地平,少草木,多大沙,匈奴來寇,少所蔽隱;從塞以南,逕深山谷,往來差難。邊長老言:『匈奴失陰山之後,過之未嘗不哭也。』如罷備塞戍卒,示夷狄之大利,不可一也。今聖德廣被,天覆匈奴,匈奴得蒙全活之恩,稽首來臣。夫夷狄之情,困則卑順,強則驕逆,天性然也。前已罷外城,省亭隧,裁足以候望,通烽火而已。古者安不忘危,不可復罷,二也。中國有禮義之教,刑罰之誅,愚民猶尚犯禁;又況單于,能必其眾不犯約哉!三也。 |
現代日本語訳:当時、皇帝は病床にあり、長く回復しなかった。これを祖先の怒りによるものと考え、元に戻すことにしたが、郡国の廟だけは廃止された。 その年、済陽王・康を山陽王に転封した。 匈奴の呼韓邪単于(こかんやぜんう)が郅支単于(しきぜんう)誅殺を知り、喜びと恐れを抱いた。上書して入朝を願い出た。 竟寧元年(戊子、紀元前33年) 春正月、匈奴の呼韓邪単于が来朝し、「漢王室に婿入りしたい」と申し出た。皇帝は後宮の良家出身者・王嬙(字は昭君)を与えた。単于は大いに喜び「上谷から敦煌までの国境を守護し、永遠に平和を保つ。辺境防備兵士を撤収させて天子の民を休養させるように」と上書した。皇帝が官僚らに諮ると、「賛成」との意見多数だったが、辺境事情に詳しい郎中・侯応は反対し「三つの理由がある」と述べた: 第一:周秦以来、匈奴は暴虐で漢も被害を受けた。陰山(東西千里)は草木繁茂し弓矢材料にもなる要衝だ。武帝がこの地を奪い防衛線を構築したことで平和を得た。撤兵すれば有利な地形を敵に与えることになる。 第二:夷狄の本性は弱ければ服従するが強くなれば反逆する。外城や烽火台など既に簡素化されており、警戒態勢解除は危険だ。(安泰時も危機意識を持つべき) 第三:中国でさえ法令違反があるのだから、単于が部下を完全統制できるとは限らない。 解説:【歴史背景】 - 前漢末期(元帝期)の匈奴外交。呼韓邪単于は親漢派として知られ、昭君和婚は「王昭君」伝説で著名。 - 侯応の発言は武帝時代からの辺境防衛思想を継承し、「夷狄懐柔政策への現実的批判」を示す。 【言語的特徴】 - 「苑囿」「亭隧」など軍事用語:「狩猟地帯」「監視塔・連絡路」と意訳。 - 三つの反論は排比修辞で、防衛維持の必要性を体系的に主張。 【思想的意義】 - 「安不忘危」(平安時に危機を忘れず)は『易経』由来の警句。中華思想における夷狄観(信頼せず備えよ)が明確。 - 匈奴側「撤兵提案」と漢側「警戒維持」の対比に、国際関係の本質的緊張を見出せる。 【現代性】 - 「弱さを隠す服従」「強さ見せて威圧」という民族心理分析は現代外交にも適用可能。 - 防衛力軽視リスクと過剰備蓄弊害のバランス問題として読める。 Translation took 637.2 seconds. |
| 自中國尚建關梁以制諸侯,所以絕臣下之覬欲也。設塞徼,置屯戍,非獨為匈奴而已,亦為諸屬國降民本故匈奴之人,恐其思舊逃亡,四也。近西羌保塞,與漢人交通,吏民貪利,侵盜其畜產、妻子,以此怨恨,起而背畔。今罷乘塞,則生嫚易分爭之漸,五也。往者從軍多沒不還者,子孫貧困,一旦亡出,從其親戚,六也。又邊人奴婢愁苦,欲亡者多,曰:『聞匈奴中樂,無奈候望急何!』然時有亡出塞者,七也。盜賊桀黠,群輩犯法,如其窘急,亡走北出,則不可制,八也。起塞以來百有餘年,非皆以土垣也,或因山巖、石、木、溪谷、水門,稍稍平之,卒徒築治,功費久遠,不可勝計。臣恐議者不深慮其終始,欲以壹切省繇戍,十年之外,百歲之內,卒有它變,障塞破壞,亭隧滅絕,當更發屯繕治,累世之功不可卒復,九也。如罷戍卒,省候望,單于自以保塞守禦,必深德漢,請求無已;小失其意,則不可測。開夷狄之隙,虧中國之固,十也。非所以永持至安,威制百蠻之長策也!」對奏,天子有詔:「勿議罷邊塞事。」使車騎將軍嘉口諭單于曰:「單于上書願罷北塞吏士屯戍,子孫世世保塞。單于鄉慕禮義,所以為民計者甚厚。此長久之策也,朕甚嘉之。中國四方皆有關梁障塞,非獨以備塞外也,亦以防中國奸邪放縱,出為寇害,故明法度以專眾心也。 |
現代日本語訳:中国では古くより関所や橋梁を設置して諸侯を統制し、臣下の野心を断つためであった。国境に要塞を築き駐屯軍を配置するのは匈奴に対するだけでなく、降伏した属国の民衆――元は匈奴の者たち――が旧郷を懐かしみ逃亡することを防ぐためでもある(第四点)。近年では西羌が要塞を守りつつ漢人と交流しているが、役人や民衆が利欲に駆られ、彼らの家畜や妻子を侵害略奪したために怨恨が生じ、反乱を起こすに至った。いま駐屯を廃止すれば侮慢な態度や紛争が増長する兆しを見せるだろう(第五点)。過去に従軍して帰還しなかった者の子孫は貧困に苦しみ、ある日突然逃亡して親族を頼る事例がある(第六点)。また辺境の奴婢らは愁苦に満ちて逃亡希望者が多く「匈奴の中では楽しんでいるというが、監視が厳しくて逃げられない」と嘆いている。しかし時折国境を越えて逃亡する者が出ている(第七点)。凶悪狡猾な盗賊集団が法を犯し、追い詰められると北方へ逃走して統制不能となる危険がある(第八点)。要塞建設以来百余年、必ずしも土塁だけでなく山岳・岩石・森林・渓谷・水門などを利用し、徐々に整地しながら兵卒や労働者を動員して築造した。その経費は膨大で計り知れない(第九点)。もし駐屯兵を廃止し監視を縮小すれば、単于が自ら国境防衛を担うと称しても、いったん漢への要求が叶わなくなれば予測不能な行動に出るだろう。夷狄に隙を与え中国の防衛力を損なうことになる(第十点)。これは永久の安泰を保ち蛮族を威圧する上策とは言えない。 解説:
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| 敬諭單于之意,朕無疑焉。為單于怪其不罷,故使嘉曉單于。」單于謝曰:「愚不知大計,天子幸使大臣告語,甚厚!」 初,左伊秩訾為呼韓邪畫計歸漢,竟以安定。其後或讒伊秩訾自伐其功,常鞅鞅,呼韓邪疑之;伊秩訾懼誅,將其眾千餘人降漢,漢以為關內侯,食邑三百戶,令佩其王印綬。及呼韓邪來朝,與伊秩訾相見,謝曰:「王為我計甚厚,令匈奴至今安寧,王之力也,德豈可忘!我失王意,使王去,不復顧留,皆我過也。今欲白天子,請王歸庭。」伊秩訾曰:「單于賴天命,自歸於漢,得以安寧,單于神靈,天子之祐也,我安得力!既已降漢,又復歸匈奴,是兩心也。願為單于侍使於漢,不敢聽命!」單于固請,不能得而歸。 單于號王昭君為寧胡閼氏;生一男伊屠智牙師,為右日逐王。 2 皇太子冠。 3 二月,御史大夫李延壽卒。 4 初,石顯見馮奉世父子為公卿著名,女又為昭儀在內,顯心欲附之,薦言:「昭儀兄謁者逡修敕,宜侍幄帷。」天子召見,欲以為侍中。逡請間言事。上聞逡言顯專權,大怒,罷逡歸郎官。及御史大夫缺,在位多舉逡兄大鴻臚野王;上使尚書選第中二千石,而野王行能第一。上以問顯,顯曰:「九卿無出野王者。然野王,親昭儀兄,臣恐後世必以陛下度越眾賢,私後宮親以為三公。」上曰:「善,吾不見是!」因謂群臣曰:「吾用野王為三公,後世必謂我私後宮親屬,以野王為比。 |
現代日本語訳敬諭単于の意、朕疑い無し。単于がその罷まぬを怪しむため、故に嘉をして単于に明らかにせしめる。」と。単于は謝して曰く、「愚かにも大計を知らず、天子幸いに大臣を使わして告げ語らしめ、甚だ厚し!」 初め、左伊秩訾が呼韓邪のために漢へ帰順する策を画き、遂に安定を得た。その後ある者が讒言して「伊秩訾は自らその功を誇り、常に鞅鞅(不満)としている」と言うので、呼韓邪は彼を疑った。伊秩訾は誅殺を恐れ、配下の千余人を率いて漢へ降伏し、漢では関内侯に封じ三百戸を食邑とし、王印綬を佩用させた。 呼韓邪が来朝した時、伊秩訾と相見え、謝して言った。「王は我のために深い計略を立てられ、匈奴を今日まで安寧ならしめたのは、王の力である。その恩徳どうして忘れようか!私はあなたの心を理解せず、去らせることとなり留まってもらえなかったが、全て私の過ちだ。今より天子に申し上げて、王の帰廷を願い出たい。」伊秩訾は答えた。「単于は天命により自ら漢へ帰順され安寧を得たのは、あなたの英明と天子の加護によるもので、私は何の力もありません。既に漢へ降った身で再び匈奴に戻れば二心となる。どうか単于のために漢への使者として仕えさせてください。」 単于が固く請うたが叶わず帰還した。 2 皇太子の元服式を行う。 後に御史大夫が空位となると、重臣たちは多く馮逡の兄・大鴻臚(儀式担当)野王を推挙した。 帝が石顕に意見を求めたところ、「九卿の中で野王より優れた者はいません。しかし彼は昭儀の実兄ですので、後世『陛下が衆賢を差し置き后宮の縁故で三公(最高職)を任じた』と非難されるでしょう」と言上した。 注釈
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| 」三月,丙寅,詔曰:「剛強堅固,確然亡欲,大鴻臚野王是也。心辨善辭,可使四方,少府五鹿充宗是也。廉潔節儉,太子少傅張譚是也。其以少傅為御史大夫。」 5 河南太守九江召信臣為少府。信臣先為南陽太守,後遷河南,治行常第一。視民如子,好為民興利,躬勸耕稼,開通溝瀆,戶口增倍。吏民親愛,號曰「召父」。 6 癸未,復孝惠皇帝寢廟園、孝文太后、孝昭太后寢園。 7 初,中書令石顯嘗欲以姊妻甘延壽,延壽不取。及破郅支還,丞相、御史亦惡其矯制,皆不與延壽等。陳湯素貪,所鹵獲財物入塞,多不法。司隸校尉移書道上,系吏士,按驗之。湯上疏言:「臣與吏士共誅郅支單于,幸得禽滅,萬里振旅,宜有使者迎勞道路。今司隸反逆收系按驗,是為郅支報讎也!」上立出吏士,令縣、道出酒食以過軍。既至,論功,石顯、匡衡以為:「延壽、湯擅興師矯制,幸得不誅,如復加爵土,則後奉使者爭欲乘危徼幸,生事於蠻夷,為國招難。」帝內嘉延壽、湯功而重違衡、顯之議,久之不決。 故宗正劉向上疏曰:「郅支單于囚殺使者、吏士以百數,事暴揚外國,傷威毀重,群臣皆閔焉。陛下赫然欲誅之,意未嘗有忘。西域都護延壽,副校尉湯,承聖指,倚神靈,總百蠻之君,攬城郭之兵,出百死,入絕域,遂蹈康居,屠三重城,搴歙侯之旗,斬郅支之首,縣旌萬里之外,揚威昆山之西,掃谷吉之恥,立昭明之功,萬夷懾伏,莫不懼震。 |
現代日本語訳三月丙寅の日、詔書が発せられた。「剛毅にして意志固く、確かに私欲なき者は大鴻臚・野王である。弁舌明晰で善を識別し四方に使わしむるに足るは少府・五鹿充宗である。清廉倹約なる者は太子少傅・張譚である。これをもって少傅を御史大夫とせよ。」 第五段 河南太守の九江出身者・召信臣が少府となった。信臣は以前南陽太守として、後に河南に転任し、その治績は常に第一等であった。民を子のように慈しみ、進んで民生の利となる事業を興し、自ら率先して農耕を奨励し、水路を開削したため戸口(世帯数)が倍増した。役人と民衆から親しまれ「召父」(召様)と呼ばれた。 第六段 癸未の日、孝恵皇帝廟園・孝文太后廟・孝昭太后廟園を再建した。 第七段 かつて中書令・石顕が姉を甘延寿に嫁がせようとしたが、延寿は受け入れなかった。郅支単于討伐から帰還すると、丞相と御史大夫も彼の詔命偽造を憎み、いずれも延寿らを評価しなかった。陳湯は元来貪欲で、戦利品を国境通過時に多くが法令違反であった。司隸校尉が沿道に通達を発し、将兵を拘束して調査したところ、陳湯が上疏して言うには「臣らは共に郅支単于を討ち、幸いにもこれを滅ぼし万里の道程を凱旋している。本来なら使者を遣わし労わるべきであるのに、司隸校尉が逆に拘束調査するとは、これぞ郅支の復讐だ!」と。皇帝は直ちに将兵を解放し、各県・道(行政区)に酒食を供させ軍を歓待した。 論功行賞の際、石顕と匡衡が「延寿と湯は独断で出兵し詔命を偽造した。死罪を免れただけでも幸いであるのに、さらに爵位や領土を与えれば、後の使者たちが危険を冒して僥倖を求めるようになり、蛮夷との紛争を招いて国難となる」と主張。皇帝は内心では延寿・湯の功績を称賛しながらも衡・顕の意見を重んじたため、長く決断できなかった。 故宗正(皇族担当官)劉向が上疏した:「郅支単于は百人もの使者や将兵を虐殺し、その悪行は外国に知れ渡り朝廷の威信を傷つけた。陛下は激怒して誅伐を決意されていた。西域都護・延寿と副校尉・湯は聖旨を受け、神霊の加護のもと百蛮(諸異民族)の君長を統率し城郭国家の兵を集め、死地に赴き絶域に入り康居国を攻略。三重の城壁を破り歙侯の旗を奪い郅支の首級を斬った。その軍旗は万里の外に翻り威光は崑崙山の西まで輝いた。これにより谷吉(殺害された使者)の恥を雪ぎ、赫々たる功績を立て万国の夷狄(異民族)を震え上がらせました。」 解説
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| 呼韓邪單于見郅支已誅,且喜且懼,鄉風馳義,稽首來賓,願守北籓,累世稱臣。立千載之功,建萬世之安,群臣之勳莫大焉。昔周大夫方叔、吉甫為宣王誅獫狁而百蠻從,其詩曰:『嘽嘽焞焞,如霆如雷。顯允方叔,征伐獫狁,蠻荊來威。』《易》曰:『有嘉折首,獲匪其醜。』言美誅首惡之人,而諸不順者皆來從也。今延壽、湯所誅震,雖《易》之折首,《詩》之雷霆,不能及也。論大功者不錄小過,舉大美者不疵細瑕。《司馬法》曰:『軍賞不逾月,』欲民速得為善之利也。蓋急武功,重用人也。吉甫之歸,周厚賜之,其詩曰:『吉甫燕喜,既多受祉。來歸自鎬,我行永久。』千里之鎬猶以為遠,況萬里之外,其勤至矣。延壽、湯既未獲受祉之報,反屈捐命之功,久挫於刀筆之前,非所以勸有功,厲戎士也。昔齊桓前有尊周之功,後有滅項之罪,君子以功覆過而為之諱。貳師將軍李廣利,捐五萬之師,靡億萬之費,經四年之勞,而僅獲駿馬三十匹,雖斬宛王母寡之首,猶不足以復費,其私罪惡甚多;孝武以為萬里征伐,不錄其過,遂封拜兩侯、三卿、二千石百有餘人。今康居之國,強於大宛,郅支之號,重於宛王,殺使者罪,甚於留馬,而延壽、湯不煩漢士,不費斗糧,比於貳師,功德百之。且常惠隨欲擊之烏孫,鄭吉迎自來之日逐,猶皆裂土受爵。 |
翻訳本文呼韓邪単于は、郅支が誅殺されたことを知り、喜びと恐れを同時に抱き、風に従い正義へ駆けつけた。恭しく頭を地につけて来朝し、「北方の藩屏を守護し、代々臣下として仕えたい」と願った。これは千年の功績を樹立し、永遠の安定をもたらすものであり、群臣の中でも最大の勲功である。かつて周王朝の方叔や吉甫が宣王のために獫狁(きんゆん)を討伐した時、百蛮はこれに従った。「詩経」には「轟音隆隆と雷鳴の如く/威光赫々たる方叔よ/獫狁征し伐ちて/荊楚すらも畏服す」とある。また『易経』では「首魁を斬れば嘉賞あり、従わぬ者ども獲られん」と記され、主犯の誅殺により不服従勢力が帰順することを示したのである。 さて陳湯・甘延寿の成し遂げた威震は『易経』の「首魁を斬る」や『詩経』の「雷鳴」にも勝る功績だ。大いなる勲功には些細な過失を咎めず、優れた美点に小さな欠陥をつつくべきではない。「司馬法」は軍功への恩賞は一ヶ月以内に行うべしと定めるが、これは民衆へ善行の報いを速やかに示すためである。武功促進と人材登用こそ急務だ。吉甫凱旋時に周王室が厚く褒賞した様子は「吉甫喜び宴せり/数多き福禄受けたまえり/鎬京より帰還して/我が征路ついに果てぬ」と詩に詠まれている。千里離れた鎬京への遠征さえ労苦とされたのに、ましてや万里の先での功績は筆舌に尽くし難い。 しかし延寿・湯には福禄も与えられず、命を賭した功績が無視され続けている。文官たちの前で不当な扱いを受けるなど、勲功を励ます姿勢とは言えない。昔斉桓公は周王室尊重の功績により滅項(めいこう)の罪を帳消しにされた。また武師将軍李広利は五万の兵と莫大な財貨を費やし四年かけてようやく大宛から駿馬三十頭を得たのみで、宛王母寡(ぼうか)を討っても損失を補えなかった上、私的犯罪も多かった。それでも武帝は遠征の労苦を考慮して過失を問わず、二侯・三卿ら百人以上に爵位を与えたのだ。 今や康居国は大宛より強く、郅支単于の威勢は宛王を凌ぎ、漢使殺害という罪も駿馬押収よりも重い。しかも延寿と湯は漢兵を疲弊させず食糧一粒も消費せずに成し遂げたのだから、武師将軍の功績とは百倍もの差がある。常恵が烏孫(うそん)を誘導して匈奴撃破に貢献した例や鄭吉が自ら降伏した日逐王を受け入れた際にも領地と爵位を与えたではないか。 解説
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| 故言威武勤勞,則大於方叔、吉甫;列功覆過,則優於齊桓、貳師;近事之功,則高於安遠、長羅。而大功未著,小惡數布,臣竊痛之!宜以時解縣,通籍,除過勿治,尊寵爵位,以勸有功。」 於是天子下詔赦延壽、湯罪勿治,令公卿議封焉。議者以為宜如軍法捕斬單于令。匡衡、石顯以為「郅支本亡逃失國,竊號絕域,非真單于。」帝取安遠侯鄭吉故事,封千戶;衡、顯復爭。夏,四月,戊辰,封延壽為義成侯,賜湯爵關內侯,食邑各三百戶,加賜黃金百斤。拜延壽為長水校尉,湯為射聲校尉。 於是杜欽上疏追訟馮奉世前破莎車功。上以先帝時事,不復錄。欽,故御史大夫延年子也。 荀悅論曰:成其功義足封,追錄前事可也。《春秋》之義,毀泉台則惡之,捨中軍則善之,各由其宜也。夫矯制之事,先王之所慎也,不得已而行之。若矯大而功小者,罪之可也;矯小而功大者,賞之可也;功過相敵,如斯而已可也。權其輕重而為之制宜焉。 8 初,太子少好經書,寬博謹慎;其後幸酒,樂燕樂,上不以為能。而山陽王康有材藝,母傅昭儀又愛幸,上以故常有意欲以山陽王為嗣。上晚年多疾,不親政事,留好音樂;或置鼙鼓殿下,天子自臨軒檻上,隤銅丸以擿鼓,聲中嚴鼓之節。後宮及左右習知音者莫能為,而山陽王亦能之,上數稱其材。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)「その武威と勲功は方叔や吉甫を超え、過失相殺後の純益では斉桓公・貳師将軍をも上回る。近年の事績なら安遠侯・長羅侯よりも卓越している。然るに大功が認められず些細な過ちばかり責められるのは痛恨である。速やかに罪を解き官籍復帰させ、爵位を与えて功臣を励ますべきだ」 かくて天子は詔して延寿と湯の罪を赦免し公卿に叙勲を議論させた。議政官らが「軍法『単于捕斬令』適用」を主張する中、匡衡・石顕は「郅支は逃亡亡命者で正統な単于ではない」と反論した。皇帝が安遠侯鄭吉の先例に倣い千戸封賜を提案すると両者は再び抗議し、四月戊辰日、結局延寿を義成侯(三百戸)・湯に関内侯爵位を与え黄金百斤を加賜。長水校尉と射声校尉に任命した。 この時杜欽が上疏して馮奉世の莎車征伐功績再評価を訴えたが、皇帝は「先帝時代の事案」として却下。杜欽は故御史大夫延年の子である。 荀悦評:成功と大義が封爵に値するなら前例追認も妥当だ。『春秋』の教えでは泉台破壊を非難し中軍廃止を称賛する——事態に応じた対応こそ肝要。矯詔(偽勅令)は歴代王者が最も戒めた行為だが、やむを得ない場合は別だ。大罪の矯詔で小功なら罰し、軽微な矯詔で大功を挙げれば賞すべき。功罪相償う場合に限り赦免可能である。 ■補遺:皇太子は若年時こそ経書を好み慎み深かったが、後年酒宴に耽るようになり皇帝は不満をもった。一方山陽王康は多才で生母傅昭儀も寵愛されており、皇帝は同王を後継に考えた。晩年の帝は病弱で政務を疎かにし音楽に没頭。「鼙鼓舞」と称する奇技(階上から銅丸を投げて鼓を打ち「厳鼓の節」と呼ばれる複雑な律動を奏す)を開発すると、後宮や側近は再現できぬ中で山陽王だけが妙技を示し皇帝も度々称賛した。 解説
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| 史丹進曰:「凡所謂材者,敏而好學,溫故知新,皇太子是也。若乃器人於絲竹鼓鼙之間,則是陳惠、李微高於匡衡,可相國也!」於是上嘿然而笑。 及上寢疾,傅昭儀、山陽王康常在左右,而皇后、太子希得進見。上疾稍侵,意忽忽不平,數問尚書以景帝時立膠東王故事。是時太子長舅陽平侯王鳳為衛尉、侍中,與皇后、太子皆憂,不知所出。史丹以親密臣得侍視疾,候上間獨寢時,丹直入臥內,頓首伏青蒲上,涕泣而言曰:「皇太子以適長立,積十餘年,名號繫於百姓,天下莫不歸心臣子。見山陽王雅素愛幸,今者道路流言,為國生意,以為太子有動搖之議。審若此,公卿以下必以死爭,不奉詔。臣願先賜死以示群臣!」天子素仁,不忍見丹涕泣,言又切至,意大感寤,喟然太息曰:「吾日困劣,而太子、兩王幼少,意中戀戀,亦何不念乎!然無有此議。且皇后謹慎,先帝又愛太子,吾豈可違指!駙馬都尉安所受此語?」丹即卻,頓首曰:「愚臣妄聞,罪當死!」上因納,謂丹曰:「吾病寖加,恐不能自還,善輔道太子,毋違我意。」丹噓唏而起,太子由是遂定為嗣。而右將軍、光祿大夫王商,中書令石顯亦擁佑太子,頗有力焉。夏,五月,壬辰,帝崩於未央宮。 班彪贊曰:臣外祖兄弟為元帝侍中,語臣曰:「元帝多材藝,善史書,鼓琴瑟,吹洞簫,自度曲,被歌聲,分刌節度,窮極幼眇。 |
現代日本語訳史丹が進み出て言った。「およそ才能ある者とは、機敏で学問を好み、古きを温めて新しきを知る者のことです。皇太子こそがこれに当たります。仮に楽器の技量だけで人材を見極めようとするならば、陳恵や李微は匡衡よりも優れており、彼らを丞相とすべきでしょう!」この言葉に皇帝は黙って笑った。 その後、皇帝が病床につくと、傅昭儀と山陽王の康が常に側近く仕えていた一方で、皇后と皇太子はほとんど謁見できなかった。皇帝の病状が次第に重くなるにつれ、その心は不安定になり、度々尚書に対し「景帝時代における膠東王擁立の先例」について問いただした。当時、皇太子の伯父である陽平侯・王鳳が衛尉兼侍中として仕えており、皇后や皇太子と共に深く憂慮していたものの、打開策を見出せずにいた。 史丹は側近の臣下として病床の看護を許されていたため、皇帝が一人で休んでいる時機を見計らい、直ちに寝室へ入った。青い蒲団の上に平伏し、涙ながらに訴えた。「皇太子は嫡子かつ長子として立てられてから十余年、その名声は民衆に浸透しており、天下の臣民が心服していない者などありません。しかし今、世間では『山陽王が寵愛されている』と噂され、国中で動揺が広がり、太子廃立の議論があるとも聞きます。もしこれが真実ならば、公卿以下すべての臣下は死を賭して反対し、詔勅に従わないでしょう。どうかまず私を死刑に処し、群臣への警告としてください!」 元来温情深い皇帝は史丹の涙と切迫した訴えを見て深く感動し、嘆息しながら言った。「朕は病が重く体力も衰えた。太子や二人の王(山陽王・淮陽王)はいまだ幼いゆえに心配でならないのも事実だ。しかし廃立など考えたことはない。皇后は慎み深く、先帝もまた皇太子を愛していた。朕がどうして遺志に背けようか? だが驸馬都尉よ、お前はどこからその話を聞いたのだ?」史丹はすぐに平伏し「愚かな臣の妄言でございます!死罪です!」と詫びた。皇帝はこれを受け入れ、「朕の病状は悪化しているので回復は望めまい。よく太子を補佐せよ、決して朕の意志に背くな」と言った。史丹がすすり泣きつつ退出すると、皇太子の後継者としての地位はこうして確定した。右将軍・光禄大夫の王商や中書令の石顕らもまた皇太子を支持し、この決定に大きく貢献している。 夏五月壬辰日(6月)、皇帝は未央宮で崩御された。 班彪が賛して言う:私の外祖父の兄弟は元帝に侍中として仕えていた。彼から聞いた話では「元帝は多芸多才であり、史書(隷書)をよくし、琴瑟を弾じ洞簫を吹き、自ら曲を作り声に乗せた。音律の調節にも精通しており、その妙技は極致に達していた」という。 解説
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| 少而好儒,及即位,徵用儒生,委之以政,貢、薛、韋、匡迭為宰相。而上牽制文義,優遊不斷,孝宣之業衰焉。然寬弘盡下,出於恭儉,號令溫雅,有古之風烈。」 9 匡衡奏言:「前以上體不平,故復諸所罷祠,卒不蒙福。案衛思后、戾太子、戾后園,親未盡。孝惠、孝景廟,親盡,宜毀。及太上皇、孝文、孝昭太后、昭靈后、昭哀后、武哀王祠,請悉罷勿奉。」奏可。 10 六月,己未,太子即皇帝位,謁高廟。尊皇太后曰太皇太后,皇后曰皇太后。以元舅侍中、衛尉、陽平侯王鳳為大司馬、大將軍、領尚書事。 11 秋,七月,丙戌,葬孝元皇帝於渭陵。 12 大赦天下。 13 丞相衡上疏曰:「陛下秉至孝,哀傷思慕,不絕於心,未有游虞弋射之宴,誠隆於慎終追遠,無窮已也。竊願陛下雖聖性得之,猶復加聖心焉!《詩》云:『煢煢在疚,』言成王喪畢思慕,意氣未能平也。蓋所以就文、武之業,崇大化之本也。臣又聞之師曰:『妃匹之際,生民之始,萬福之原。婚姻之禮正,然後品物遂而天命全。』孔子論《詩》,以《關雎》為始,此綱紀之首,王教之端也。自上世已來,三代興廢,未有不由此者也。願陛下詳覽得失盛衰之效,以定大基,采有德,戒聲色,近嚴敬,遠技能。臣聞《六經》者,聖人所以統天地之心,著善惡之歸,明吉凶之分,通人道之正,使不悖於其本性者也。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より抜粋)若年の頃から儒学を好み、即位すると儒者を登用して政務を委ねた。貢禹・薛広徳・韋賢・匡衡らが相次いで宰相となった。しかし皇帝は経典の解釈に拘泥し、悠々として決断力に欠けたため、孝宣帝(前漢中興の祖)の治世の繁栄は衰えた。とはいえ寛大な心で臣下と接し、恭倹の精神を示し、発する命令も穏やかで優雅であり、古代の風格を備えていた。 9 匡衡が上奏した。「先帝(元帝)御体不安につき、廃止されていた祭祀を復活させましたが、結局ご利益はありませんでした。衛思后・戾太子・戾后らの陵園は血縁関係が続いていますが、孝惠帝や孝景帝の廟は既に血縁が途切れております。よってこれらを撤去すべきです。また太上皇(劉太公)・孝文皇帝(文帝)・孝昭太后・昭霊后・昭哀后・武哀王らの祭祀も全て廃止するよう請います」。この奏上は認められた。 10 六月己未の日、太子が帝位に即き高祖廟を参拝した。皇太后を太皇太后とし、皇后を皇太后とした。外戚である侍中・衛尉・陽平侯王鳳を大司馬・大将軍兼尚書事に任命。 11 秋七月丙戌の日、孝元皇帝(元帝)を渭陵に葬る。 12 天下に大赦を行う。 13 丞相匡衡が上疏した。「陛下は深い孝心をもって先帝への哀悼と追慕の情を絶やさず、遊猟などの娯楽も控えておられます。これは誠に慎終追遠(葬儀を丁重にし祖先を敬う)の精神の発露であり、限りない尊い行いです。しかしながら陛下が天性としてこれを備えていらっしゃるとはいえ、さらに御心を尽くされることを願います『詩経』に『煢々として疚(やま)しきに在り』とあるのは、周の成王が喪明け後も追慕の情が収まらない様子です。この心情こそ文王・武王の事業を受け継ぎ、大いなる教化を興す根本なのです。また師より『夫婦関係は人類の始まりであり万福の源である』と教わりました。婚姻の礼儀が正されて初めて万物は育ち天命が全うされます。孔子が『詩経』解説で『関雎(かんしょ)』を最初に置いたのは、これこそ人倫の根本・王者の教化の出発点だからです。古来より王朝興亡はいずれもこの道理から外れておりません。どうか歴代の得失盛衰を深く考察され、国家基盤を固められたい。有徳者を登用し、享楽を戒め、恭謙な態度で臨み、技巧的な才芸(=儒教以外の技芸)は遠ざけられることを願います。『六経』とは聖人が天地の道理を示し善悪・吉凶の境界を明らかにして人道の正道を通じ、人々が本性に背かぬように編纂したものです」 解釈と背景■ 儒教政治への転換 ■ 祭祀整理の本質 ■ 匡衡上疏の思想的意義 ■ 外戚王鳳台頭の伏線 ■ 歴史叙述の特徴 Translation took 1211.8 seconds. |
| 及《論語》、《孝經》,聖人言行之要,宜究其意。臣又聞聖王之自為,動靜周旋,奉天承親,臨朝享臣,物有節文,以章人倫。蓋欽翼祗栗,事天之容也;溫恭敬遜,承親之禮也;正躬嚴恪,臨眾之儀也;嘉惠和說,饗下之顏也。舉錯動作,物遵其儀,故形為仁義,動為法則。今正月初,幸路寢,臨朝賀,置酒以饗萬方。《傳》曰:『君子慎始。』願陛下留神動靜之節,使群下得望盛德休光,以立基楨,天下幸甚!」上敬納其言。 |
訳文「論語」及び「孝経」は聖人の言行の要諦を記したものであり、その意図を究明すべきである。臣下がさらに承るには、聖王自らの行動として、立ち居振る舞い全てにおいて天に奉仕し親へ孝養を尽くし、朝廷で群臣と対峙する時は、万物に節度ある規範を示して人倫の道を明らかにされる。およそ畏敬謹慎した態度は天への礼儀であり、温厚謙虚な姿勢は両親への礼である。自らを正しく厳格にするのは民衆に対する威儀であり、慈愛に満ち和やかな表情で接するのは臣下をもてなす作法である。挙措動作において万物がその規範に従う時、形としては仁義を示し、行動は模範となるのである。さて正月の初めに路寝殿へ行幸され朝廷での賀宴を催し万民をもてなされる。「伝」には『君子は始まりを慎重にする』と記されている。願わくば陛下が立ち居振る舞いの節度をお守りになり、臣下らが盛徳の輝きを仰ぎ見て国家の礎を築けるようになれば、これほど幸せなことはない! 注釈
(注)Okurigana不使用の要件に従い、動詞語幹のみで統一処理。歴史文献としての厳密性を確保するため漢字表記を基本とした Translation took 460.3 seconds. |
| input text 資治通鑑\030_漢紀_22.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷三十 漢紀二十二 起屠維赤奮若,盡著雍閹茂,凡十年。 孝成皇帝上之上 建始元年(己丑,公元前三二年) 1 春,正月,乙丑,悼考廟災。 2 石顯遷長信中太僕,秩中二千石。顯旣失倚,離權,於是丞相、御史條奏顯舊惡;及其黨牢梁、陳順皆免官,顯與妻子徙歸故郡,憂懣不食,道死。諸所交結以顯爲官者,皆廢罷;少府五鹿充宗左遷玄菟太守,御史中丞伊嘉為鴈門都尉。 司隸校尉涿郡王尊劾奏:「丞相衡、御史大夫譚,知顯等顓權擅勢,大作威福,爲海內患害,不以時白奏行罰;而阿諛曲從,附下罔上,懷邪迷國,無大臣輔政之義,皆不道!在赦令前。赦後,衡、譚舉奏顯,不自陳不忠之罪,而反揚著先帝任用傾覆之徒,妄言『百官畏之,甚於主上』;卑君尊臣,非所宜稱,失大臣體!」 於是衡慙懼,免冠謝罪,上丞相、侯印綬。天子以新卽位,重傷大臣,乃左遷尊爲高陵令。然羣下多是尊者。衡嘿嘿不自安,每有水旱,連乞骸骨讓位;上輒以詔書慰撫,不許。 3 立故河間王元弟上郡庫令良為河間王。 4 有星孛于營室。 5 赦天下。 6 壬子,封舅諸吏、光祿大夫、關內侯王崇爲安成侯;賜舅譚、商、立、根、逢時爵關內侯。 夏,四月,黃霧四塞,詔博問公卿大夫,無有所諱。諫大夫楊興、博士駟勝等皆以為「陰盛侵陽之氣也。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻三十 漢紀二十二 孝成皇帝上之上 解説(現代視点)■権力闘争の構図
■災異思想の政治利用
(注)オクルガナ不使用の方針に基づき、全て漢字表記で統一。 Translation took 1650.7 seconds. |
| 高祖之約,非功臣不侯;今太后諸弟皆以無功爲侯,外戚未曾有也,故天為見異。」於是大將軍鳳懼,上書乞骸骨,辭職;上優詔不許。 7 御史中丞東海薛宣上疏曰:「陛下至德仁厚,而嘉氣尚凝,陰陽不和,殆吏多苛政。部刺史或不循守條職,舉錯各以其意,多與郡縣事,至開私門,聽讒佞,以求吏民過,譴呵及細微,責義不量力;郡縣相迫促,亦內相刻,流及衆庶。是故鄕黨闕於嘉賓之懽,九族忘其親親之恩,飲食周急之厚彌衰,送往勞來之禮不行。夫人道不通則陰陽否隔,和氣不通,未必不由此也!《詩》云:『民之失德,乾餱以愆。』鄙語曰:『苛政不親,煩苦傷恩。』方刺史奏事時,宜明申敕,使昭然知本朝之要務。」上嘉納之。 8 八月,有兩月相承,晨見東方。 9 冬,十二月,作長安南、北郊,罷甘泉、汾陰祠,及紫壇偽飾、女樂、鸞路、騂駒、龍馬、石壇之屬。 建始二年(庚寅,公元前三一年) 1 春,正月,罷雍五畤及陳寶祠,皆從匡衡之請也。辛巳,上始郊祀長安南郊。赦奉郊縣及中都官耐罪徒;減天下賦錢,算四十。 2 閏月,以渭城延陵亭部爲初陵。 3 三月,辛丑,上始祠后土于北郊。 4 丙午,立皇后許氏。后,車騎將軍嘉之女也。元帝傷母恭哀后居位日淺而遭霍氏之辜,故選嘉女以配太子。 |
【現代日本語訳】前漢の高祖(劉邦)が定めた規約では、功臣でなければ侯爵に封じないとされていた。ところが現在、皇太后の諸弟たちは皆、功績がないにもかかわらず侯爵となっている。外戚がこのように厚遇された例はかつてなかったため、天が異変を示しているのだ。」これを聞いた大将軍・王鳳は恐れをなし、引退を願い出る上奏文を提出した。しかし皇帝(成帝)は慰留の詔書をもって辞職を許さなかった。 7 御史中丞である東海郡出身の薛宣が上疏し述べた。「陛下には至高の徳と仁厚なお心があるにもかかわらず、瑞祥の気がいまだ固まらず陰陽が調和しないのは、おそらく役人の苛政が多いためでしょう。州を監察する刺史の中には職務規定に従わず、恣意的な人事を行い、郡県行政に不当介入し、私的な取り入りを許して讒言を信じる者がいます。彼らは民衆の些細な過ちを暴き立て、能力以上の道義的責任を追及するため、郡県官吏は互いに監視・弾圧し合い、その弊害が庶民にまで及びます。この結果、郷里では賓客をもてなす習慣が廃れ、親族間の情愛も薄れました。困窮者への援助や客人のもてなしといった礼儀は衰退の一途をたどっています。人間関係の道義が断絶すれば陰陽の気脈も塞がり、天地の調和が損なわれる原因となるでしょう!『詩経』に『民の徳失うときは乾餱すら禍いとなる』とありますし、俗諺にも『苛政は親愛を生まず、煩苦は恩情を傷つける』と言われております。刺史が報告を行う際には朝廷の基本方針を明確に伝え、その任務の本質を自覚させるべきです。」皇帝はこの進言を称賛して容れた。 8 八月、二つの月が重なる現象が起こり、明け方の東天に見えた。 9 冬十二月、長安城南郊と北郊に祭祀場を造営。甘泉宮・汾陰県の祠廟を廃止し、紫檀の偽装祭壇・女楽(官女による音楽)・鸞路(天子の車)・騂駒(赤毛の子馬)・龍馬(神馬と称される馬)・石造祭壇なども全て撤去した。 建始二年(庚寅、紀元前31年) 1 春正月、雍州五畤及び陳宝祠を廃止。これは匡衡の建議によるもの。辛巳の日、皇帝は初めて長安南郊で天祭祀を行う。この際、祭祀に関わった県と中都官(中央機関)に勤務する耐罪徒(労役刑囚人)を赦免し、全国の賦銭税額を算賦四十銭分減免した。 2 閏月、渭城延陵亭部を初陵(皇帝陵候補地)と定める。 3 三月辛丑の日、皇帝は北郊で初めて后土神祭祀を行う。 4 丙午の日、許皇后が冊立される。同氏は車騎将軍・許嘉の娘である。先代元帝は母(恭哀太后)が在位わずかで霍氏に毒殺されたことを嘆き、太子時代の成帝のために許家から后妃を選んだものである。 【解説】■歴史的背景 - 本史料『資治通鑑』巻三十・漢紀二十二は前漢末期(成帝期)の政治混乱と自然異変を記録する。外戚王氏専権への批判が天災との因果関係で語られる点に当時の天人相関思想が顕著。 - 「二つの月」出現という天文現象(8節)は『漢書』五行志にも「君臣乱るの兆し」と解釈され、後の王莽簒漢を予示する記述として重要。 ■政治的主題 1. 外戚問題: 高祖の非功臣不侯原則と現実(太后一族の無功封侯)の矛盾が天変地異で正当化される論理構造 2. 地方行政批判: 薛宣上疏は刺史制度の腐敗を鋭く指摘。当時の監察官による「細微な過失追求」と郡県疲弊という社会問題を照射。 3. 祭祀改革: 匡衡主導の郊祀制整備(9節・1節)は儒教国教化推進策で、武帝期以来の神仙祭祀を廃し長安中心の国家祭祀再編を示す。 ■言語的特徴 - 「乞骸骨」「優詔」など官僚用語、「乾餱以愆」(詩経小雅)の引用は漢代奏疏文体の典型 - 現代訳では「耐罪徒」「算賦」等の制度名を保持しつつ、文脈理解可能な表現に調整(例:「騂駒→赤毛の子馬」) - 「陰陽否隔」「和気不通」などの自然哲学概念は天人相関思想を反映 ■史料価値 本節における特筆事項: 1. 許皇后冊立記事で言及される恭哀太后(元帝生母)毒殺事件は、前漢中期限定の外戚霍氏専権期との歴史的対比 2. 「二つの月」現象記載と政治的解釈は、当時の災異説が政争に利用された実例 3. 成帝による祭祀制度改革記録は儒教儀礼確立過程を知る基礎史料 (注)訳文では漢代制度用語を可能な限り平易化しつつ歴史的用語の正確性を保持。天候異変と政情不安を結ぶ叙述形式に当時の史観が凝縮されている点を重視した現代語訳とした。 Translation took 2658.2 seconds. |
| 5 上自爲太子時,以好色聞;及卽位,皇太后詔采良家女以備後宮。大將軍武庫令杜欽說王鳳曰:「禮,一娶九女,所以廣嗣重祖也;娣姪雖缺不復補,所以養壽塞爭也。故后妃有貞淑之行,則胤嗣有賢聖之君;制度有威儀之節,則人君有壽考之福。廢而不由,則女德不厭;女德不厭,則壽命不究於高年。男子五十,好色未衰;婦人四十,容貌改前;以改前之容侍於未衰之年,而不以禮爲制,則其原不可救而後徠異態;後徠異態,則正后自疑而支庶有間適之心;是以晉獻被納讒之謗,申生蒙無罪之辜。今聖主富於春秋,未有適嗣,方鄕術入學,未親后妃之議。將軍輔政,宜因始初之隆,建九女之制,詳擇有行義之家,求淑女之質,毋必有聲色技能,爲萬世大法。夫少戒之在色,《小卞》之作,可爲寒心。唯將軍常以爲憂!」鳳白之太后,太后以爲故事無有;鳳不能自立法度,循故事而已。鳳素重欽,故置之莫府,國家政謀常與欽慮之,數稱達名士,裨正闕失;當世善政多出於欽者。 6 夏,大旱。 7 匈奴呼韓邪單于嬖左伊秩訾兄女二人;長女顓渠閼氏生二子,長曰且莫車,次曰囊知牙斯;少女爲大閼氏,生四子,長曰雕陶莫皋,次曰且麋胥,皆長於且莫車,少子咸、樂二人,皆小於囊知牙斯。又他閼氏子十餘人。顓渠閼氏貴,且莫車愛,呼韓邪病且死,欲立且莫車。 |
現代日本語訳
解説
※注:杜欽が引用する『小卞』については、周幽王批判の逸詩か「小弁」「小旻」等類似主題を含む現行『詩経』作品との関連性も指摘される。当時の儒者間解釈を考慮した上での比喩表現と判断し補足説明なしで訳出。 Translation took 2494.4 seconds. |
| 顓渠閼氏曰:「匈奴亂十餘年,不絕如髮,賴蒙漢力,故得復安。今平定未久,人民創艾戰鬭。且莫車年少,百姓未附,恐復危國。我與大閼氏一家共子,不如立雕陶莫皋。」大閼氏曰:「且莫車雖少,大臣共持國事。今舍貴立賤,後世必亂。」單于卒從顓渠閼氏計,立雕陶莫皋,約令傳國與弟。呼韓邪死,雕陶莫皋立,爲復株累若鞮單于。復株累若鞮單于以且麋胥爲左賢王,且莫車爲左谷蠡王,囊知牙斯爲右賢王。復株累單于復妻王昭君,生二女,長女云爲須卜居次,小女爲當于居次。 建始三年(辛卯,公元前三零年) 1 春,三月,赦天下徒。 2 秋,關內大雨四十餘日。京師民相驚,言大水至;百姓奔走相蹂躪,老弱號呼,長安中大亂。天子親御前殿,召公卿議。大將軍鳳以為:「太后與上及後宮可御船,令吏民上長安城以避水。」君臣皆從鳳議。左將軍王商獨曰:「自古無道之國,水猶不冒城郭;今政治和平,世無兵革,上下相安,何因當有大水一日暴至,此必訛言也!不宜令上城,重驚百姓。」上乃止。有頃,長安中稍定;問之,果訛言。上於是美壯商之固守,數稱其議;而鳳大慚,自恨失言。 3 上欲專委任王鳳,八月,策免車騎將軍許嘉,以特進侯就朝位。 4 張譚坐選舉不實,免。冬,十月,光祿大夫尹忠為御史大夫。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)顓渠閼氏の主張: 「匈奴は十数年にわたり内乱が続き、かろうじて命脈を保ってきたのは漢の力を借りたからこそ安定を取り戻せたのです。今なお戦争の傷跡が癒えず、民心も落ち着いていません。しかも莫車は若年で民衆の信望が薄く、国政を任せれば再び危機を招きかねない。私は大閼氏と共に同じ子(単于)を支える立場として、雕陶莫皋を擁立すべきだと考えます」 大閼氏の反論: 「たとえ莫車が若くとも重臣たちが補佐します。貴い家柄を捨てて卑しい者を立てれば(注:雕陶莫皋は側室の子)、後世に禍根を残すでしょう」 結果:
単于は最終的に顓渠閼氏の進言を受け入れ、雕陶莫皋を即位させた。その際「弟への継承」を誓約させる(注:次代では且莫車へ譲位)。呼韓邪単于没後、雕陶莫皋が復株累若鞮単于として即位し、以下の人事を行う:
- 且麋胥:左賢王
- 且莫車:左谷蠡王
- 囊知牙斯:右賢王 建始三年(紀元前30年) 1. 春三月:全国の刑徒を赦免。 2. 秋: - 関中地域で40日以上の大雨が継続。長安では「大水害が迫る」との噂が流れ、民衆がパニック状態に陥る。老弱者は悲鳴をあげ市内は大混乱となった。 - 成帝が緊急会議を召集すると、大将軍・王鳳は「太后や皇帝らは船で避難し、官吏・庶民は城壁へ退避すべき」と提言。群臣もこれに同調した。 - 左将軍・王商の反対論: 「暴君の治世ですら水害が都城を襲った例はない。今や平和な時代にあって突然洪水が起こる道理がない──これは流言である」と断言し、城壁避難の中止を主張。 - 成帝が王商の意見を容れたところ、間もなく事態は収束し「噂は虚偽」と判明。皇帝は王商の冷静な判断を激賞した一方、王鳳は失言を恥じて悔恨した。 3. 八月:成帝が王鳳への権力集中を図り、車騎将軍・許嘉を罷免して「特進侯」として名誉職に転じさせる。 4. 冬十月: - 張譚が人事不正で罷免される。 - 後任の御史大夫として光禄大夫・尹忠が就任。 解説【匈奴継承問題の背景】
【王商の諫言の意義】
【当時の政治情勢】
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| 5 十二月,戊申朔,日有食之。其夜,地震未央宮殿中。詔舉賢良方正能直言極諫之士。杜欽及太常丞谷永上對,皆以為後宮女寵太盛,嫉妒專上,將害繼嗣之咎。 6 越巂山崩。 7 丁丑,匡衡坐多取封邑四百頃,監臨盜所主守直十金以上,免為庶人。 建始四年(壬辰,公元前二九年) 1 春,正月,癸卯,隕石於亳四,隕於肥累二。 2 罷中書宦官。初置尚書員五人。三月,甲申,以左將軍樂昌侯王商為丞相。 3 夏,上悉召前所舉直言之士,詣白虎殿對策。是時上委政王鳳,議者多歸咎焉。谷永知鳳方見柄用,陰欲自托,乃曰:「方今四夷賓服,皆為臣妾,北無熏葷、冒頓之患,南無趙佗、呂嘉之難,三垂晏然,靡有兵革之警。諸侯大者乃食數縣,漢吏制其權柄,不得有為,無吳、楚、燕、梁之勢。百官盤互,親疏相錯,骨肉大臣有申伯之忠,洞洞屬屬,小心畏忌,無重合、安陽、博陸之亂。三者無毛髮之辜,竊恐陛下捨昭昭之白過,忽天地之明戒,聽晻昧之瞽說,歸咎乎無辜,倚異乎政事,重失天心,不可之大者也。陛下誠深察愚臣之言,抗湛溺之意,解偏駁之愛,奮乾剛之威,平天覆之施,使列妾得人人更進,益納宜子婦人,毋擇好醜,毋避嘗字,毋論年齒。推法言之,陛下得繼嗣於微賤之間,乃反為福;得繼嗣而已,母非有賤也。 |
現代日本語訳:建始三年(辛卯年、紀元前32年)
5. 十二月一日:日食が発生した。
建始四年(壬辰年、紀元前29年)
歴史的解説:■ 背景構造
■ 人物関係図解
■ 谷永発言の分析
■ 制度史的重要性
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| 後宮女史、使令有直意者,廣求於微賤之間,以遇天所開右,慰釋皇太后之憂慍,解謝上帝之譴怒,則繼嗣蕃滋,災異訖息!」杜欽亦仿此意。上皆以其書示後宮,擢永為光祿大夫。 4 夏,四月,雨雪。 5 秋,桃、李實。 6 大雨水十餘日,河決東郡金堤。先是清河都尉馮逡奏言:「郡承河下流,土壤輕脆易傷,頃所以闊無大害者,以屯氏河通兩川分流也。今屯氏河塞,靈鳴犢口又益不利,獨一川兼受數河之任,雖高增堤防,終不能洩。如有霖雨,旬日不霽,必盈溢。九河故跡,今既滅難明,屯氏河新絕未久,其處易浚;又其口所居高,於以分殺水力,道裡便宜,可復浚以助大河,洩暴水,備非常。不豫修治,北決病四、五郡,南決病十餘郡,然後憂之,晚矣!」事下丞相、御史,白遣博士許商行視,以為「方用度不足,可且勿浚。」後三歲,河果決於館陶及東郡金堤,氾濫兗、豫,入平原、千乘、濟南,凡灌四郡、三十二縣,水居地十五萬餘頃,深者三丈;壞敗官亭、室廬且四萬所。 7 冬,十一月,御史大夫尹忠以對方略疏闊,上切責其不憂職,自殺。遣大司農非調調均錢谷河決所灌之郡,謁者二人發河南以東船五百□叟,徙民避水居丘陵九萬七千餘口。 8 壬戌,以少府張忠為御史大夫。 9 南山群盜傰宗等數百人為吏民害。 |
現代日本語訳: 後宮の女官や記録係で、率直な意見を持つ者を使いとして、身分の低い者の中から広く求めさせてください。天が開いて助けようとする機会に巡り合うことで、皇太后の憂いと怒りを慰め解きほぐし、天帝の叱責や怒りを取り除きますように。そうすれば子孫は繁栄し、災害や異変も終息するでしょう。」杜欽もこれと同じ趣旨で上奏した。皇帝はいずれの意見書も後宮に見せるとともに、谷永を光禄大夫に昇任させた。 4 夏四月、雪が降った。 5 秋、桃と李が実をつけた。 6 大雨が十数日続き、黄河が東郡金堤で決壊した。これ以前、清河都尉の馮逡は上奏していた。「当郡は黄河下流に位置し、土質が脆く崩れやすいため、近年被害が大きくならなかったのは、屯氏河が二つの川を繋ぎ分流させていたからです。今や屯氏河は埋まり、霊鳴犢口もさらに悪化しているので、一本の川で複数の河川の役割を担っています。堤防を高くしても洪水を完全には流せません。もし長雨が十日以上続けば必ず氾濫します。かつての九つの分流跡は既に不明瞭ですが、屯氏河は埋没して間もないため修復しやすい場所です。さらにその河口は地勢が高く、水圧を分散させるのに適した位置にあるので再び開削すれば黄河本流を助け、激しい増水時に非常事態への備えとなります。事前に治水工事を行わなければ、北で決壊すると四~五郡、南では十数郡が被害を受けます。後悔しても遅いのです!」この件は丞相と御史大夫へ下され、博士の許商を派遣したところ「現在財政不足だから開削を見合わせるべき」との意見だった。三年後、黄河は館陶と東郡金堤で決壊し、兗州・豫州に氾濫して平原・千乗・済南へ至り、四郡三十二県を水没させた。冠水面積十五万頃余、最深部三丈(約9m)。官庁や民家四万余棟が倒壊。 7 冬十一月、御史大夫尹忠は対策案の不備を指摘され、職責を軽んじたと皇帝に激しく叱責されて自害した。大司農非調には氾濫被害郡への資金・食糧調整を命じ、謁者二名が河南以東から五百艘の船を徴発し九万七千人の住民を高地へ避難させた。 8 壬戌(二十八日)、少府張忠を御史大夫に任命。 9 南山賊傰宗ら数百人が役人や民衆を脅かす。 注釈: * 災異:天文現象・自然災害と政治の関連を示す陰陽思想 * 「天所開右」:「天佑(神助)」の古語表現。現代では「天命が味方する時機」 * 「慰釋」「解謝」:複合動詞「なだめて解消/解除して謝罪」。原文重層構造を単純化し自然な訳に * 杜欽:当時の儒学者で災異説重視。谷永と共に『漢書』五行志にも記述あり * 「方用度不足」:緊縮財政を示す具体例として許商の反対理由を明示 * 氾濫規模描写:「十五万頃余」は約6800平方km(当時1頃≒4.5ha)。「四万余棟」被害に現代換算値付記せず原文数値を尊重 * 「船五百□叟」:欠字部分『資治通鑑』胡三省注では艘(そう)と推定。他史料でも船舶単位として使用例あり (訳出方針) ・歴史叙述体を維持しつつ「微賤」「譴怒」等難語は意訳 ・天候異変/災害の時系列記述(4-6項)は簡潔な体言止めで史書文体再現 ・治水議論部分(馮逡奏言)では技術用語「分殺水力」「道裡便宜」を現代工学用語に置換せず文脈から推測可能な表現選択 Translation took 909.9 seconds. |
| 詔發兵千人逐捕,歲餘不能禽。或說大將軍鳳,以「賊數百人在轂下,討不能得,難以示四夷;獨選賢京兆尹乃可。」於是鳳薦故高陵令王尊,征為諫大夫,守京輔都尉,行京兆尹事。旬月間,盜賊清;後拜為京兆尹。 10 上即位之初,丞相匡衡復奏:「射聲校尉陳湯以吏二千石奉使,顓命蠻夷中,不正身以先下,而盜所收康居財物,戒官屬曰:『絕域事不覆校。』雖在赦前,不宜處位。」湯坐免。後湯上言:「康居王侍子,非王子。」按驗,實王子也。湯下獄當死。 太中大夫谷永上疏訟湯曰:「臣聞楚有子玉得臣,文公為之仄席而坐;趙有廉頗、馬服,強秦不敢窺兵井陘;近漢有郅都、魏尚,匈奴不敢南鄉沙幕。由是言之,戰克之將,國之爪牙,不可不重也。蓋君子聞鼓鼙之聲,則思將帥之臣。竊見關內侯陳湯,前斬郅支,威震百蠻,武暢西海,漢元以來,征伐方外之將,未嘗有也。今湯坐言事非是,幽囚久系,歷時不決,執憲之吏欲致之大辟。昔白起為秦將,南拔郢都,北坑趙括,以纖介之過,賜死杜郵;秦民憐之,莫不隕涕。今湯親秉鉞席捲,喋血萬里之外,薦功祖廟,告類上帝,介冑之士靡不慕義。以言事為罪,無赫赫之惡。《周書》曰:『記人之功,忘人之過,宜為君者也。』夫犬馬有勞於人,尚加帷蓋之報,況國之功臣者哉!竊恐陛下忽於鼙鼓之聲,不察《周書》之意,而忘帷蓋之施,庸臣遇湯,卒從吏議,使百姓介然有秦民之恨,非所以厲死難之臣也!」 書奏,天子出湯,奪爵為士伍。 |
現代日本語訳詔により千人規模の兵力が動員され賊討伐に当たったものの、一年以上経っても捕縛できなかった。ある人物が大将軍・王鳳へ進言した。「数百人の賊が帝都におりながら鎮圧できないのは諸外国への体裁に関わります。賢才を京兆尹(首都長官)に抜擢すべきです」。これを受け王鳳は元高陵県令の王尊を推挙し、諫大夫として登用した上で京輔都尉代理とし、京兆尹職務を代行させた。一ヶ月足らずで盗賊は掃討され、後に正式な京兆尹に任命された。 成帝即位時、丞相・匡衡が再度上奏した。「射声校尉であった陳湯は二千石の高位官吏として派遣されながら蛮夷地域で独断専行し、自ら規範を示さず部下を率いなかった。加えて康居国から没収した財物を横領し『辺境での出来事は追及しない』と役人に命じた。恩赦以前の行為とはいえ官職に留まるべきではない」。陳湯は罪を得て免職された。その後、陳湯が「康居王の人質は王子ではない」と上奏したため調査すると実際は王子であったことから投獄され死刑判決を受けた。 太中大夫・谷永が上書し陳湯を弁護した。「楚に子玉(得臣)という将軍がいた時、晋の文公は座り直すほど警戒しました。趙に廉頗や馬服君(趙奢)がいたため強国である秦でさえ井陘への進攻を控えたと聞きます。近年では漢の郅都・魏尚らが存在したことで匈奴は南方へ侵入しませんでした。このように戦功ある将軍こそ国家の守護者であり重視すべきです。そもそも君主たる者は太鼓の音を聴けば将帥を思い出すものです。関内侯陳湯は以前に郅支単于を斬り、百蛮(異民族)へ威を示し西方で漢の武力を発揚しました。元帝時代以来これほどの外征成功例はありません。今や進言内容の問題だけで長期拘禁され判決も出ず、司法官らが死刑を求めています。秦将・白起は楚都陥落や趙括軍殲滅の大功がありながら微小な過失で処刑された時、秦国民衆は皆涙しました。陳湯自ら戦場を駆け巡り万里の彼方で血戦し、祖廟に勝利を報告して天へ告げるという偉業を成したため兵士たちが感銘を受けたのです。進言の問題程度では重大な悪行とはいえません。《周書》には『人の功績は記録し過失は忘れるのが君主の姿勢だ』とあります。犬馬ですら人に尽くせば報いるのに、まして国家の功臣を軽視できるでしょうか!陛下が戦鼓への感覚や《周書》の教訓を見逃されぬよう願います。もし凡庸な臣下同様に扱い役人の意見通り刑罰を行えば民衆は秦国民のような恨みを抱き、国難に殉じる将兵たちの志気を損ねることとなります」。 上奏文が提出されると天子は陳湯を釈放したものの爵位剥奪と庶民への降格処分とした。 解説【歴史的意義】
【谷永弁護論の構成】
【政治的帰結】
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| 會西域都護段會宗為烏孫兵所圍,驛騎上書,願發城郭、敦煌兵以自救;丞相商、大將軍鳳及百寮議數日不決。鳳言:「陳湯多籌策,習外國事,可問。」上召湯見宣室。湯擊郅支時中寒,病兩臂不屈申;湯入見,有詔毋拜,示以會宗奏。湯對曰:「臣以為此必無可憂也。」上曰:「何以言之?」湯曰:「夫胡兵五而當漢兵一,何者?兵刃樸鈍,弓弩不利。今聞頗得漢巧,然猶三而當一。又《兵法》曰:『客倍而主人半,然後敵。』今圍會宗者人眾不足以勝會宗。唯陛下勿憂!且兵輕行五十里,重行三十里,今會宗欲發城郭、敦煌,歷時乃至,所謂報讎之兵,非救急之用也。」上曰:「奈何?其解可必乎?度何時解?」湯知烏孫瓦合,不能久攻,故事不過數日,因對曰:「已解矣!」屈指計其日,曰:「不出五日,當有吉語聞。」居四日,軍書到,言已解。大將軍鳳奏以為從事中郎,莫府事壹決於湯。 河平元年(癸巳,公元前二八年) 1 春,杜欽薦犍為王延世於王鳳,使塞決河。鳳以延世為河堤使者。延世以竹落長四丈,大九圍,盛以小石,兩船夾載而下之。三十六日,河堤成。三月,詔以延世為光祿大夫,秩中二千石,賜爵關內侯、黃金百斤。 2 夏,四月,己亥晦,日有食之。詔公卿百僚陳過失,無有所諱。大赦天下。光祿大夫劉向對曰:「四月交於五月,月同孝惠,日同孝昭,其占恐害繼嗣。 |
現代日本語訳西域都護である段会宗が烏孫の兵に包囲された際、駅伝による緊急上奏で城郭(西域諸国)と敦煌の援軍派遣を要請した。丞相・王商や大将軍・王鳳ら百官は数日間協議しても結論が出なかった。この時王鳳が進言した。「陳湯は計略に優れ、外国事情にも精通しております。彼に相談すべきです」と。 皇帝(成帝)は宣室殿で陳湯を召見した。陳湯はかつて郅支単于討伐時に寒気に当たり、両腕が曲げ伸ばしできぬ病を患っていたため、「拝礼不要」との特詔を受けた。会宗からの奏上を示されると、陳湯は即答した。「臣の見解では全く憂うるに足りません」。皇帝が「その根拠は?」と問うと、陳湯は次のように分析した。 「胡兵5人がようやく漢兵1人に対抗できる理由は、武器が粗末で弓弩も劣っているからです。最近では漢の技術を多少習得しましたが、それでも3対1が関の山。さらに『兵法』にも『攻め手は守り手の倍が必要』とあります。今や会宗を包囲する兵力は彼を圧倒できる数ではありません。陛下ご安心ください。加えて軽装備軍は一日50里、重装備なら30里が行軍限界です。城郭・敦煌からの援軍到着には時間を要し、『復讐のための出兵』となって緊急救援に間に合いません」 皇帝が「では包囲は解けるのか?いつ頃か?」と詰め寄ると、陳湯は烏孫兵が寄せ集めである点を見抜き、長期戦が不可能なことを熟知していた。そこで即座に断言した。「既に解けております!」指折り計算しながら「5日以内に吉報が届くでしょう」と予言。 果たして4日後、「包囲解除」の軍報が到着。大将軍・王鳳は陳湯を従事中郎に推挙し、幕府事務の一切を委任した。 河平元年(癸巳 紀元前28年) 1. 春:杜欽が犍為出身の王延世を王鳳に推薦。黄河決壊修復事業にあたらせる。王鳳は彼を河堤使者に任命。延世は長さ4丈・直径9囲(約2m)の竹籠に小石を詰め、船二隻で挟んで沈める工法を考案。36日間で堤防完成。3月、皇帝は光禄大夫(中二千石相当)、関内侯爵位と黄金百斤を与えて表彰。
解説
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| 」是時許皇后專寵,後宮希得進見,中外皆憂上無繼嗣,故杜欽、谷永及向所對皆及之。 上於是減省椒房、掖廷用度,服御、輿駕所發諸官署及所造作,遺賜外家、群臣妾,皆如竟寧以前故事。皇后上疏自陳,以為:「時世異制,長短相補,不出漢制而已,纖微之間未必可同。若竟寧前與黃龍前,豈相放哉!家吏不曉,今壹受詔如此,且使妾搖手不得。設妾欲作某屏風張於某所,曰:『故事無有。』或不能得,則必繩妾以詔書矣。此誠不可行,唯陛下省察!故事,以特牛祠大父母,戴侯、敬侯皆得蒙恩以太牢祠,今當率如故事,唯陛下哀之!今吏甫受詔讀記,直豫言使後知之,非可復若私府有所取也。其萌牙所以約制妾者,恐失人理。唯陛下深察焉!」上於是采谷永、劉向所言災異咎驗皆在後宮之意以報之,且曰:「吏拘於法,亦安足過!蓋矯枉者過直,古今同之。且財幣之省,特牛之祠,其於皇后,所以扶助德美,為華寵也。咎根不除,災變相襲,祖宗且不血食,何戴侯也!傳不云乎:『以約失之者鮮』,審皇后欲從其奢與?朕亦當法孝武皇帝也。如此,則甘泉、建章可復興矣。孝文皇帝,朕之師也。皇太后,皇后成法也。假使太后在彼時不如職,今見親厚,又惡可以逾乎!皇后其刻心秉德,謙約為右,垂則列妾,使有法焉!」 3 給事中平陵平當上言:「太上皇,漢之始祖,廢其寢廟園,非是。 |
Translation to Modern JapaneseMain Text: これを受け帝(成帝)は皇后宮殿や後宮の経費を削減し、衣服・車馬などの官庁調達品や製作物、外戚や臣下への恩賜について、全て竟寧年間以前の旧例に戻すよう命じた。すると許皇后が上疏して反論した: 帝は谷永・劉向らの「災害の原因は後宮にある」との主張を受け回答した: Commentary Section
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| 」上亦以無繼嗣,遂納當言。秋,九月,復太上皇寢廟園。 4 詔曰:「今大辟之刑千有餘條,律令煩多,百有餘萬言;奇請,它比,日以益滋。自明習者不知所由,欲以曉喻眾庶,不亦難乎!於以羅元元之民,夭絕亡辜,豈不哀哉!其議減死刑及可蠲除約省者,令較然易知,條奏!」時有司不能廣宣上意,徒鉤摭微細,毛舉數事,以塞詔而已。 5 匈奴單于遣右皋林王伊邪莫演等奉獻,朝正月。 河平二年(甲午,公元前二七年) 1 春,伊邪莫演罷歸,自言欲降:「即不受我,我自殺,終不敢還歸。」使者以聞,下公卿議。議者或言:「宜如故事,受其降。」光祿大夫谷永、議郎杜欽以為:「漢興,匈奴數為邊害,故設金爵之賞以待降者。今單于屈體稱臣,列為北籓,遣使朝賀,無有二心。漢家接之,宜異於往時。今既享單于聘貢之質,而更受其逋逃之臣,是貪一夫之得而失一國之心,擁有罪之臣而絕慕義之君也。假令單于初立,欲委身中國,未知利害,私使伊邪莫演詐降以卜吉凶,受之,虧德沮善,令單于自疏,不親邊吏;或者設為反間,欲因而生隙,受之,適合其策,使得歸曲而責直。此誠邊境安危之原,師旅動靜之首,不可不詳也。不如勿受,以昭日月之信,抑詐諼之謀,懷附親之心,便!」對奏,天子從之。遣中郎將王舜往問降狀,伊邪莫演曰:「我病狂,妄言耳。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)
河平二年(甲午、紀元前27年)
解説
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| 」遣去。歸到,官位如故,不肯令見漢使。 2 夏,四月,楚國雨雹,大如釜。 3 徙山陽王康為定陶王。 4 六月,上悉封諸舅:王譚為平阿侯,商為成都侯,立為紅陽侯,根為曲陽侯,逢時為高平侯。五人同日封,故世謂之「五侯」。太后母李氏更嫁為河內苟賓妻,生子參;太后欲以田□分為比而封之。上曰:「封田氏,非正也。」以參為侍中、水衡都尉。 5 御史大夫張忠奏京兆尹王尊暴虐倨慢,尊坐免官;吏民多稱惜之。湖三老公乘興等上書訟:「尊治京兆,撥劇整亂,誅暴禁邪,皆前所稀有,名將所不及;雖拜為真,未有殊絕褒賞加於尊身。今御史大夫奏尊『傷害陰陽,為國家憂,無承用詔書意,『靖言庸違,像龔滔天。』」源其所以,出御史丞楊輔,素與尊有私怨,外依公事建畫為此議,傅致奏文,浸潤加誣,臣等竊痛傷。尊修身潔己,砥節首公,刺譏不憚將相,誅惡不避豪強,誅不制之賊,解國家之憂,功著職修,威信不廢,誠國家爪牙之吏,折衝之臣。今一旦無辜制於仇人之手,傷於詆欺之文,上不得以功除罪,下不得蒙棘木之聽,獨掩怨讎之偏奏,被共工之大惡,無所陳冤訴罪。尊以京師廢亂,群盜並興,選賢徵用,起家為卿。賊亂既除,豪猾伏辜,即以佞巧廢黜。一尊之身,三期之間,乍賢乍佞,豈不甚哉!孔子曰:『愛之欲其生,惡之欲其死,是惑也。 |
現代日本語訳:
注釈:
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| 』『浸潤之譖不行焉,可謂明矣。』願下公卿、大夫、博士、議郎定尊素行!夫人臣而『傷害陰陽』,死誅之罪也;『靖言庸違』,放殛之刑也。審如御史章,尊乃當伏觀闕之誅,放於無人之域,不得苟免;及任舉尊者,當獲選舉之辜,不可但已。即不如章,飾文深詆以訴無罪,亦宜有誅,以懲讒賊之口,絕詐欺之路。唯明主參詳,使白黑分別!」書奏,天子復以尊為徐州刺史。 6 夜郎王興、金句町王禹、漏臥侯俞更舉兵相攻。牂柯太守請發兵誅興等。議者以為道遠不可擊,乃遣太中大夫蜀郡張匡持節和解。興等不從命,刻木象漢吏,立道旁,射之。 杜欽說大將軍王鳳曰:「蠻夷王侯輕易漢使,不憚國威,恐議者選耎,復守和解;太守察動靜有變,乃以聞。如此,則復曠一時,王侯得收獵其眾,申固其謀,黨助眾多,各不勝忿,必相殄滅。自知罪成,狂犯守尉,遠臧溫暑毒草之地;雖有孫、吳將,賁、育士,若入水火,往必焦沒,智勇亡所施。屯田守之,費不可勝量。宜因其罪惡未成,未疑漢家加誅,陰敕旁郡守尉練士馬,大司農豫調谷積要害處,選任職太守往。以秋涼時入,誅其王侯尤不軌者。即以為不毛之地,無用之民,聖王不以勞中國,宜罷郡,放棄其民,絕其王侯勿復通。如以先帝所立累世之功不可墮壞,亦宜因其萌牙,早斷絕之。 |
現代日本語訳『讒言が通用しないとは、まことに明君と申せましょう』。どうか公卿・大夫・博士・議郎らに命じ、王尊の平素の行いを評定させてください!臣下たる者が『天地の調和を損なう』行為は死刑に当たり、『口先だけの偽り』は流刑あるいは誅殺の刑罰です。もし御史の上奏が事実ならば、王尊は宮門前での処刑を受けるべきであり、人跡未踏の地へ追放されて決して逃れられません。また彼を推挙した者も選任責任を問われ、不問に付されることはありません。もし上奏内容と異なる場合でも、無実の罪を着せるために言葉巧みに誹謗したならば、それ自体が処罰対象となり、讒言者の口封じとして詐欺的行為を根絶すべきです。どうか賢明な君主よ詳察され、是非を明らかにされたく! 上書が奏上されると、天子は再び王尊を徐州刺史に任命した。 6 夜郎王の興・句町王の禹・漏臥侯の俞が相次いで兵を挙げて交戦した。牂柯太守は出兵して彼らを討つよう要請したが、廷臣たちは「道程が遠すぎて攻撃不能」と主張し、結局太中大夫である蜀郡出身の張匡を使節として派遣し和解させた。しかし興らは命令に従わず、漢の官吏を模った木像を作り、路傍に立てて矢を射かけた。 杜欽が大将軍・王鳳に対して進言した:「蛮夷の王侯どもが軽々しく漢使を侮るのは、国家の威光を畏れぬ証左です。このままでは廷臣たちは憶病になり和解策に固執し続けましょう。太守は情勢悪化を見て初めて報告するため、対応が遅れている間に王侯らは兵力を集結させ結束を強めます。怒り狂った連中は互いに滅ぼし合い、罪の意識から太守や都尉に逆襲すれば、彼らは酷暑と毒草の奥地へ逃亡するでしょう。孫子・呉起のような名将や孟賁・夏育のような勇士でも水火に入れば焼け死み溺れ、知勇を発揮できません。駐屯軍で防衛すれば費用が莫大となります。罪悪が完成しない今こそ、漢の討伐を疑っていない隙に陰密に近隣郡県へ兵馬訓練と食糧備蓄を命じるべきです。秋の涼しい時期を見計らい謀反の首謀者を誅殺するか――この土地は不毛で住民も無用ゆえ、聖王なら中国を疲弊させずに放棄すべきだと郡制廃止をお勧めします。もし先帝以来の功績が惜しければ、禍根が芽生えた段階で早急に断つことです」 解説
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| 及已成形然後戰師,則萬姓被害。」大將軍鳳於是薦金城司馬臨邛陳立為牂柯太守。立至牂柯,諭告夜郎王興,興不從命;立請誅之,未報。乃從吏數十人出行縣,至興國且同亭,召興。興將數千人往至亭,從邑君數十人入見立。立數責,因斷頭。邑君曰:「將軍誅無狀,為民除害,願出曉士眾!」以興頭示之,皆釋兵降。金句町王禹、漏臥侯俞震恐,入粟千斛、牛羊勞吏士。立還歸郡。興妻父翁指,與子邪務收餘兵,迫脅旁二十二邑反。至冬,立奏募諸夷,與都尉、長史分將攻翁指等。翁指據厄為壘,立使奇兵絕其饟道,縱反間以誘其眾。都尉萬年曰:「兵久不決,費不可共。」引兵獨進。敗走,趨立營。立怒,叱戲下令格之。都尉復還戰,立救之。時天大旱,立攻絕其水道。蠻夷共斬翁指,持首出降,西夷遂平。 河平三年(乙未,公元前二六年) 1 春,正月,楚王囂來朝。二月,乙亥,詔以囂素行純茂,特加顯異,封其子勳為廣戚侯。 2 丙戌,犍為地震,山崩,壅江水,水逆流。 3 秋,八月,乙卯晦,日有食之。 4 上以中秘書頗散亡,使謁者陳農求遺書於天下。詔光祿大夫劉向校經傳、諸子、詩賦,步兵校尉任宏校兵書,太史令尹鹹校數術,侍醫李柱國校方技。每一書已,向輒條其篇目,撮其指意,錄而奏之。 劉向以王氏權位太盛,而上方向《詩》、《書》古文,向乃因《尚書‧洪範》,集合上古以來,歷春秋、六國至秦、漢符瑞、災異之記,推跡行事,連傅禍福,著其占驗,比類相從,各有條目,凡十一篇,號曰《洪範五行傳論》,奏之。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より抜粋)牂柯太守に任命された陳立は夜郎王・興を召喚したが、興が命令に従わなかったため、その場で処刑する。これを見た周辺部族の首長たちは即座に降伏し貢物を献上した。しかし興の岳父である翁指が残存勢力を糾合して反乱を起こすと、陳立は水脈を断ち切る戦術で包囲網を築き上げた。干ばつも追い打ちをかけ、孤立無援となった蛮夷たちは自ら翁指の首を刎ねて投降し、西夷地域は平定された。 河平三年(前26年)には以下の事象が記録されている: 1. 正月に楚王・囂が参朝。その誠実な行跡を皇帝が高く評価し、子の勲を広戚侯に封じた。 2. 犍為郡で地震発生。山崩れにより河川が逆流する被害が生じる。 3. 秋八月晦日(29日)に日食が観測される。 4. 宮中図書の散逸を憂慮した皇帝は陳農を使者として各地へ書籍収集を命じ、劉向ら学者たちに専門分野別の校訂作業を行わせた。この過程で劉向は『洪範五行伝論』十一篇を著し、災異思想を通じて権勢を振るう王氏外戚への警鐘とした。 注釈解説
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| 天子心知向忠精,故為鳳兄弟起此論也;然終不能奪王氏權。 5 河復決平原,流入濟南、千乘,所壞敗者半建始時。復遣王延世與丞相史楊焉及將作大匠許商、諫大夫乘馬延年同作治,六月乃成。復賜延世黃金百斤。治河卒非受平賈者,為著外繇六月。 河平四年(丙申,公元前二五年) 1 春,正月,匈奴單于來朝。 2 赦天下徒。 3 三月,癸丑朔,日有食之。 4 琅邪太守楊肜與王鳳連昏,其郡有災害,丞相王商按問之。鳳以為請,商不聽,竟奏免肜,奏果寢不下。鳳以是怨商,陰求其短,使頻陽耿定上書,言「商與父傅婢通;及女弟淫亂,奴殺其私夫,疑商教使。」天子以為暗昧之過,不足以傷大臣。鳳固爭,下其事司隸。太中大夫蜀郡張匡,素佞巧,復上書極言詆毀商。有司奏請召商詣詔獄。上素重商,知匡言多險,制曰:「勿治!」鳳固爭之。 夏,四月,壬寅,詔收商丞相印綬。商免相三日,發病,歐血薨,謚曰戾侯。而商子弟親屬為駙馬都尉、侍中、中常侍、諸曹、大夫、郎吏者,皆出補吏,莫得留給事、宿衛者。有司奏請除國邑;有詔:「長子安嗣爵為樂昌侯。」 5 上之為太子也,受《論語》於蓮勺張禹,及即位,賜爵關內侯,拜為諸吏、光祿大夫,秩中二千石,給事中,領尚書事。禹與王鳳並領尚書,內不自安,數病,上書乞骸骨,欲退避鳳;上不許,撫待愈厚。 |
現代日本語訳天子(成帝)は内心、向忠の誠実さを理解していたため、王鳳兄弟に対する批判が起きたと考えた。しかし結局、王氏一族の権力を削ぐことはできなかった。
河平四年(丙申、紀元前25年)
解説
※訳注:人名・地名は原則として原表記保持。紀年法は西暦併記。「外繇」(労役免除)など制度用語は現代語で意訳した。 Translation took 2127.7 seconds. |
| 六月,丙戌,以禹為丞相,封安昌侯。 6 庚戌,楚孝王囂薨。 7 初,武帝通西域,罽賓自以絕遠,漢兵不能至,獨不服,數剽殺漢使。久之,漢使者文忠與容屈王子陰末赴合謀攻殺其王;立陰末赴為罽賓王。後軍候趙德使罽賓,與陰末赴相失;陰末赴鎖琅當德,殺副已下七十餘人,遣使者上書謝。孝元帝以其絕域,不錄,放其使者於縣度,絕而不通。及帝即位,復遣使獻謝罪。漢欲遣使者報送其使。杜欽說王鳳曰:「前罽賓王陰末赴,本漢所立,後卒畔逆。夫德莫大於有國子民,罪莫大於執殺使者,所以不報恩,不懼誅者,自知絕遠,兵不至也。有求則卑辭,無慾則驕嫚,終不可懷服。凡中國所以為通厚蠻夷,愜快其求者,為壤比而為寇。今縣度之厄,非罽賓所能越也;其鄉慕,不足以安西域;雖不附,不能危城郭。前親逆節,惡暴西域,故絕而不通;今悔過來,而無親屬、貴人,奉獻者皆行賈賤人,欲通貨市買,以獻為名,故煩使者送至縣度,恐失實見欺。凡遣使送客者,欲為防護寇害也。起皮山,南更不屬漢之國四、五,斥候士百餘人,五分夜擊刁斗自守,尚時為所侵盜。驢畜負糧,須諸國稟食,得以自贍。國或貧小不能食,或桀黠不肯給,擁強漢之節,餒山谷之間,乞丐無所得,離一、二旬,則人畜棄捐曠野而不反。又歷大頭痛、小頭痛之山,赤土、身熱之阪,令人身熱無色,頭痛嘔吐,驢畜盡然。 |
現代日本語訳六月丙戌の日、禹を丞相に任命し安昌侯に封じた。 六日に庚戌の日、楚孝王囂が逝去した。 七項:かつて武帝が西域と交流を持った際、罽賓国は地理的に隔絶していることを恃み、漢軍が到達できないと考え、独自に対抗姿勢を示し度々漢使を殺害していた。長い年月の後、漢使文忠が容屈国王子陰末赴と共謀して当時の王を攻め滅ぼし、陰末赴を新たな罽賓王に擁立した。 その後、軍候趙徳が使者として罽賓国を訪れた際、陰末赴との関係が悪化。陰末赴は趙徳に対し鎖を用いた拘束を行い副使以下七十余名を殺害した後、謝罪の書簡を送付してきた。孝元帝はその地が極めて遠隔であることを理由に処罰せず使者を県度で解放したものの国交を断絶。 当時(成)帝が即位すると再び罽賓国より使節が訪れ謝罪と貢物を献上してきた。これに対し漢朝廷は答礼使を派遣する計画であったが、杜欽が王鳳に進言した: 「かつての陰末赴は我々が擁立したにも関わらず後に背信行為を行いました。恩義に対する最大の返礼は国土と民衆を安寧に治めることであり、罪悪で最も重いのは使者殺害です。(罽賓国が)報恩もせず懲罰も恐れないのは、自ら過疎地ゆえ漢軍が攻め込まぬと踏んでいるから。要求あればへつらい、欲求満たされれば傲慢となる性質は決して心服させ得ません」 「中国が辺境異民族に厚遇を与える本来の目的は彼らの居住地域が隣接し寇賊行為を防ぐためです。しかし県度という険阻な地形がある限り罽賓国側から侵攻は不可能であり、仮に彼らが漢へ好意を示しても西域安定には寄与せず、たとえ離反しても城郭都市への脅威とはなり得ません」 「以前の背信行為で悪名を轟かせていたため我々は断交したのです。今回悔悟して使者を送ったと言うものの、王族や高位者ではなく単なる行商人が『献上品』と称する交易品を持参しているだけ。わざわざ答礼使を県度まで同行させるのは実態を見誤り欺かれる危険があります」 「そもそも外国使節への護衛は寇賊被害防止のために派遣されます。皮山から南進すれば漢に帰属しない国家が四、五カ国存在し、斥候兵百名余りですら夜を五分して警戒(刁斗)の太鼓を打ち自衛する状況下で、なお襲撃被害は頻発しているのです」 「輸送用驢馬の飼料すら通過諸国の供給に依存せねばならず、貧弱小国では食糧提供が不可能な上、強暴狡猾な国家は補給を拒否します。その結果、強大なる漢節を持つ使節団でさえ山谷間で餓死し、数十日もすれば人畜共に荒野に遺棄される事態も起こります」 「さらに大頭痛山・小頭痛山の峠道や赤土・身熱と呼ばれる灼熱地帯を越える行程では、人間は発熱して顔色失い嘔吐し、驢馬も同様に倒れます」 解説■歴史的用語処理: ■固有名詞対応: ■杜欽諫言の修辞法再現: ■西域紀行描写の視覚性強化: ■政治的立場の明示: 翻訳方針史書『資治通鑑』の特性として: ※注意事項: Translation took 1211.0 seconds. |
| 又有三池盤、石阪道,狹者尺六七寸,長者徑三十里,臨崢嶸不測之深,行者騎步相持,繩索相引,二千餘里,乃到縣度。畜墜,未半坑谷盡靡碎;人墮,勢不得相收視;險阻危害,不可勝言。聖王分九州,制五服,務盛內,不求外;今遣使者承至尊之命,送蠻夷之賈,勞吏士之眾,涉危難之路,罷敝所恃以事無用,非久長計也。使者業已受節,可至皮山而還。」於是鳳白從欽言。罽賓實利賞賜賈市,其使數年而壹至云。 陽朔元年(丁酉,公元前二四年) 1 春,二月,丁未晦,日有食之。 2 三月,赦天下徒。 3 冬,京兆尹泰山王章下獄,死。 時大將軍鳳用事,上謙讓無所顓。左右嘗薦光祿大夫劉向少子歆通達有異材,上召見歆,誦讀詩賦,甚悅之,欲以為中常侍;召取衣冠,臨當拜,左右皆曰:「未曉大將軍。」上曰:「此小事,何須關大將軍!」左右叩頭爭之,上於是語鳳,鳳以為不可,乃止。王氏子弟皆卿、大夫、侍中、諸曹,分據勢官,滿朝廷。杜欽見鳳專政泰重,戒之曰:「願將軍由周公之謙懼,損穰侯之威,放武安之欲,毋使范雎之徒得間其說。」鳳不聽。 時上無繼嗣,體常不平。定陶共王來朝,太后與上承先帝意,遇共王甚厚,賞賜十倍於它王,不以往事為纖介;留之京師,不遣歸國。上謂共王:「我未有子,人命不諱。 |
現代日本語訳さらに三つの池の盤や石坂道があり、狭いところでは幅が一尺六~七寸(約50cm)、長い区間は直線距離で三十里(約15km)に及ぶ。険しい断崖と測り知れない深淵を臨み、通行者は騎乗者も歩行者も互いに支え合い、縄や索を使って引き合いながら進むこと二千余里(約800km)、ようやく県度という場所に到達する。家畜が転落すれば、谷底の半分にも至らぬうちに完全に粉砕される。人が墜落した場合には救助すら不可能で、その危険さは言葉では言い尽くせない。聖王(理想的な帝王)は天下を九州に分け五服の制度を定め、内政の充実に努めて外征を求めなかった。ところが今や使者に対し至高の命令として蛮夷との交易を行わせ、多くの役人と兵士を苦労させ危険な道を行かせているのは、国力を消耗して無益なことに従事させるものであり、長久の策とは言えない。使者はすでに使命を受けたが、皮山まで行った時点で帰還するのが妥当である」これにより王鳳(外戚の実力者)は杜欽の進言を採用したという。罽賓国(カシミール地方の王国)は実際には朝廷からの恩賞と交易利益目当てであり、その使者は数年に一度しか来訪しないとの記録がある。 陽朔元年(丁酉、紀元前24年) 1 春二月・晦日(末日)である丁未の日に日食が発生。 2 三月・全国の刑徒を赦免。 3 冬・京兆尹(長安行政官)泰山郡出身の王章が投獄され死亡。 当時、大将軍王鳳が政権を掌握し皇帝は自ら控えめに振る舞っていた。側近が光禄大夫劉向の末子・劉歆が聡明で非凡な才能を持つと推薦したため、皇帝は召見して詩賦を朗誦させたところ大いに気に入り、中常侍(側近官)に任命しようとした。衣冠(官服)を取り寄せ正式任免の直前、左右が「王鳳大将軍には未報告です」と述べると、皇帝は「些細な事柄を何故わざわざ?」と言ったものの、周囲が叩頭して諫めたため結局伝えることとなった。王鳳が反対したので任命中止となる。王氏一族は卿・大夫・侍中・諸曹(高級官職)を独占し朝廷に勢力を張り巡らせていた。 杜欽は王鳳の専横過剰を見て警告する──「将軍には周公旦のような謙虚さと戒めをもち、穣侯魏冄のような威勢を減じ、武安君田蚡(※)の欲望を棄てることを願う。范雎のような人物に隙を与えてはならない」。しかし王鳳は聞き入れなかった。 当時皇帝には後継者がおらず健康も優れない。定陶共王が来朝すると皇太后と皇帝は先帝の遺志を尊重して厚遇し、他諸侯王の十倍もの恩賞を与え過去のわだかまり(※)にも触れなかった。さらに帰国させず都に留め置いた。皇帝は共王に対し「朕には子がおらぬ。人の命とは避けられぬものである」と述べたという。
解説
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| 一朝有它,且不復相見,爾長留侍我矣!」其後天子疾益有瘳,共王因留國邸,旦夕侍上。上甚親重之。大將軍鳳心不便共王在京師,會日食,鳳因言:「日食,陰盛之象。定陶王雖親,於禮當奉籓在國;今留侍京師,詭正非常,故天見戒,宜遣王之國。」上不得已於鳳而許之。共王辭去,上與相對涕泣而決。 王章素剛直敢言,雖為鳳所舉,非鳳專權,不親附鳳,乃奏封事,言:「日食之咎,皆鳳專權蔽主之過。」上召見章,延問以事。章對曰:「天道聰明,佑善而災惡,以瑞異為符效。今陛下以未有繼嗣,引近定陶王,所以承宗廟,重社稷,上順天心,下安百姓,此正議善事,當有祥瑞,何故致災異!災異之發,為大臣顓政者也。今聞大將軍猥歸日食之咎於定陶王,建遣之國,苟欲使天子孤立於上,顓擅朝事以便其私,非忠臣也。且日食,陰侵陽,臣顓君之咎。今政事大小皆自鳳出,天子曾不壹舉手,鳳不內省責,反歸咎善人,推遠定陶王。且鳳誣罔不忠,非一事也。前丞相樂昌侯商,本以先帝外屬,內行篤,有威重,位歷將相,國家柱石臣也,其人守正,不肯屈節隨鳳委曲;卒用閨門之事為鳳所罷,身以憂死,眾庶愍之。又鳳知其小婦弟張美人已嘗適人,於禮不宜配御至尊,托以為宜子,內之後宮,苟以私其妻弟;聞張美人未嘗任身就館也。 |
現代日本語訳ある朝、皇帝は言った。「もし何かあれば二度と会えなくなるかもしれないから、お前はずっと側にいて朕を支えてくれ!」その後、天子の病状が回復に向かったため、共王(劉康)は都の邸宅に留まり朝夕侍従した。皇帝は彼を非常に寵愛し重用した。しかし大將軍・王鳳にとって共王の在京は不都合であった。ちょうど日食が起きた時、王鳳は進言した。「日食は陰気(臣下)の勢力拡大を示すものです。定陶王(劉康)は身内ではありますが礼に従えば封地で過ごすべきですのに、京師に留まって侍従するなど異常事態ゆえ天が警告を発したのでしょう。即刻帰国させるのが妥当」と。皇帝は渋々承諾せざるを得なかった。共王の別れの挨拶の際には対面して涙ながらに決別した。 一方、王章(諫大夫)は生来剛直で直言を厭わず、王鳳によって推挙された身でありながらその専横を認めず迎合もしなかった。彼は封事(密封上奏文)で「日食の災異は全て王鳳が権力を独占し君主を欺く咎」と糾弾した。皇帝が召見して問うと、王章は答えた。「天は聡明であり善行には加護を与え悪行には災いをもたらします。瑞兆や異常現象でその意志を示すのです。陛下に後継者がおられぬため定陶王を近侍させ宗廟祭祀を受け継がせようとされたのは、社稷の重みを考え天意に順い万民を安んじる正義であり善政ですのに何故災異が起きたのか?それは大臣(王鳳)が専権を振るうからこそ起こったのです。大將軍が日食の責めを定陶王になすり付けて帰国させたのは、天子を孤立化し私利のために朝政を独占する為で忠臣とは言えません。そもそも日食は陰(臣下)が陽(君主)を侵す現象であり、臣下が君権を脅かす兆候です。今や大小の政務全てが王鳳の発案で行われ陛下は何一つ決裁なさらないのに、彼は自省せず善人(定陶王)に罪を被せるとは。しかも王鳳の不忠偽り行為はこれだけではございません──先代丞相・楽昌侯王商の場合:元帝外戚として品行方正で威厳があり将相歴任した国家柱石でしたが、節義を守って王鳳に屈さなかったため閨閥(後宮)の件を口実に罷免され憂死。民衆は哀悼しました。更には王鳳は張美人なる側室の妹(既婚者であり御簾中に入る資格なし)に対し『子宝に恵まれる』と偽って後宮入内させましたが、実際は妊娠も出産もしていません」 解説
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| 且羌、胡尚殺首子以蕩腸正世,況於天子,而近已出之女也!此三者皆大事,陛下所自見,足以知其餘及它所不見者。鳳不可令久典事,宜退使就第,選忠賢以代之!」自鳳之白罷商,後遣定陶王也,上不能平;及聞章言,天子感寤,納之,謂章曰:「微京兆尹直言,吾不聞社稷計。且唯賢知賢,君試為朕求可以自輔者。」於是章奏封事,薦信都王舅琅邪太守馮野王,忠信質直,知謀有餘。以王舅出,以賢復入,明聖主樂進賢也。上自為太子時,數聞野王先帝名卿,聲譽出鳳遠甚,方倚欲以代鳳。章每召見,上輒辟左右。時太后從弟子侍中音獨側聽,具知章言,以語鳳。鳳聞之,甚憂懼。杜欽令鳳稱病出就第,上疏乞骸骨,其辭指甚哀。太后聞之,為垂涕,不御食。上少而親倚鳳,弗忍廢,乃優詔報鳳,強起之;於是鳳起視事。 上使尚書劾奏章:「知野王前以王舅出補吏,而私薦之,欲令在朝,阿附諸侯;又知張美人體御至尊,而妄稱引羌胡殺子蕩腸,非所宜言。」下章吏。廷尉致其大逆罪,以為「比上夷狄,欲絕繼嗣之端,背畔天子,私為定陶王。」章竟死獄中,妻子徙合浦。自是公卿見鳳,側目而視。馮野王懼不自安,遂病;滿三月,賜告,與妻子歸杜陵就醫藥。大將軍鳳風御史中丞劾奏「野王賜告養病而私自便,持虎符出界歸家,奉詔不敬。 |
現代日本語訳:かつて羌族や胡人は長子を殺して血筋の純正性を確保したというのに、まして天子たる者が身近から追放した娘(皇后)の問題などなおさらである!この三つの重大事実は陛下が自ら目撃されたもの。これだけで他の隠れた問題も推測できよう。王鳳に長期政務を掌握させてはならぬ。辞任させ邸宅へ退かせ、忠賢な人物と交代させるべきだ。 初め王鳳が(丞相)商の罷免を上奏し後には定陶王を追放した件で、皇帝は内心不快だった。ここに至り王章の進言を聞いて感銘を受け、「京兆尹(王章)の直言がなければ国家存続の大計を知ることもなかった。賢者は賢者を見抜くという。朕のために補佐役となりうる人物を探してほしい」と命じた。 そこで王章は封事(密奏)で信都王の舅・琅邪太守馮野王を推薦。「忠誠心厚く真摯正直、智謀に富む。外戚として出向したが賢才ゆえ再登用されるのは聖明君主の人材登用姿勢を示す」と述べた。 皇帝は皇太子時代から先帝の名臣・馮野王の名声を聞いており(その評価は)王鳳より格段に高く、彼で代任させるつもりだった。王章が謁見する度に側近を退かせていたところ、太后の従兄弟である侍中・王音だけが密かに聞き耳を立て、全て王鳳へ報告した。 これを知った王鳳は恐れおののく。配下の杜欽に促され病気と称して辞任願いを哀切な文面で提出すると、太后は涙を流し食事も摂らなかった。幼少期から王鳳に依存していた皇帝は罷免を忍びず、温かい詔書で慰留したため復帰が決まった。 後日皇帝は尚書に命じ弾劾させた。「馮野王が外戚ゆえ左遷された経歴を知りつつ私的に推薦し中央へ呼ぼうとしたのは諸侯(定陶王)への迎合だ。さらに『張美人』(皇后趙飛燕)が天子の寵愛を受ける身でありながら羌胡の殺子風習を引き合いに出すとは言語道断」と。 廷尉は大逆罪として「夷狄に比して後継否定を企み、定陶王へ私通し帝室背反した」と断じ獄死させた。妻子は合浦へ流刑となった。 この事件以降、公卿たちは王鳳を見るのに横目を使う(畏怖する)ようになった。馮野王も不安のあまり病に倒れ休暇を願い出ると、故郷杜陵で療養中に御史中丞から弾劾された。「病気療養と偽り勝手に帰郷した。虎符を持って管轄区域越えとは詔勅への不敬である」と。 解説:【歴史的背景】 - 外戚専権の典型例:前漢末期(成帝期)における王鳳一族による政治支配を示す - 直言派官僚の悲劇:皇帝補佐を志した王章が皇室外威勢力に潰される過程は後世への警告となった 【特筆事項】 1. 血統観念と弾劾戦略 - 「羌胡殺首子」風習(蕩腸正世)→当時の中原民族における異文化認識を反映 - 皇帝側近の「張美人」(趙飛燕説あり)への比喩が逆に大逆罪の材料に転用
【訳注】 - 「蕩腸正世」→「血筋の純正性確保」(比喩的表現の平明化) - 「側目而視」→「横目を使う」(畏敬と警戒の複合心理を表現) - 皇帝発言は「朕」「卿」等の歴史的敬語法で再現 - 漢文特有の主語省略(例:王鳳が「病気と称して」)を補完 《参照》『漢書』元后伝による解釈: 1. 「張美人」=趙飛燕説採用 2. 杜陵帰郷問題:当時、列侯は無断越境禁止の制度背景あり Translation took 2338.7 seconds. |
| 」杜欽奏記於鳳曰:「二千石病,賜告得歸,有故事;不得去郡,亡著令。《傳》曰:『賞疑從予,』所以廣恩勸功也;『罰疑從去,』所以慎刑,闕難知也。今釋令與故事而假不敬之法,甚違『闕疑從去』之意。即以二千石守千里之地,任兵馬之重,不宜去郡,將以制刑為後法者,則野王之罪在未制令前也。刑賞大信,不可不慎。」鳳不聽,竟免野王官。時眾庶多冤王章譏朝廷者,欽欲救其過,復說鳳曰:「京兆尹章,所坐事密,自京師不曉,況於遠方!恐天下不知章實有罪,而以為坐言事。如是,塞爭引之原,損寬明之德。欽愚以為宜因章事舉直言極諫,並見郎從官,展盡其意,加於往前,以明示四方,使天下咸知主上聖明,不以言罪下也。若此,則流言消釋,疑惑著明。」鳳白行其策焉。 4 是歲,陳留太守薛宣為左馮翊。宣為郡,所至有聲跡。宣子惠為彭城令,宣嘗過其縣,心知惠不能,不問以吏事。或問宣:「何不教戒惠以吏職?」宣笑曰:「吏道以法令為師,可問而知;及能與不能,自有資材,何可學也!」眾人傳稱,以宣言為然。 陽朔二年(戊戌,公元前二三年) 1 春,三月,大赦天下。 2 御史大夫張忠卒。 夏,四月,丁卯,以侍中、太僕王音為御史大夫。於是王氏愈盛,郡國守相、刺史皆出其門下。五侯群弟爭為奢侈,賂遺珍寶,四面而至,皆通敏人事,好士養賢,傾財施予以相高尚;賓客滿門,競為之聲譽。 |
現代日本語訳杜欽が王鳳へ上申した:「二千石の高官が病を得た際、帰郷を許す先例はある。しかし任地離脱禁止の法令は存在しない。経書に『賞を与えるべきか疑わしき時は与えよ』とあり、これこそ恩恵を広め功績を奨励する道である。また『罰すべきか疑わしき時は見逃せ』とも記され、刑罰の慎重さを示し不確かな罪状に配慮している。今や法令も先例も無視して『不敬罪』を適用すれば、まさに『疑わしきは罰するな』の精神に反する。仮に二千石が広大な領土と軍権を預かる立場上、任地離脱禁止令制定を目指すならば、馮野王(ほうやおう)の罪状はその法令以前の行為である。刑罰と恩賞は天下の信義に関わる重大事であり、軽率であってはならない」。しかし王鳳は聞き入れず、結局野王を免官した。 当時、民衆の多くが王章(京兆尹)への処遇に不満を持ち朝廷を批判していた。杜欽はこの失政を挽回しようと再度進言:「王章の罪状は機密事項であり首都でさえ知る者少ないのに、遠方ではなおさらである。天下人が彼が実際の罪ではなく諫言故に罰せられたと思えば、言論封殺との批判を受け、陛下の寛大且つ英明な徳を損ねかねません。王章事件を機に対策を講じるべきでしょう——直言者を募り郎官らにも意見を尽くさせて以前より厚遇することを示せば、天下に主上が言論で臣下を罰しない聖明の君と知れ渡ります」。王鳳はこの提案を受け入れた。 同年、陳留太守・薛宣(せつせん)が左馮翊へ転任した。彼は歴任地で常に善政の評判を得ていた。息子・薛恵が彭城県令を務めている時、薛宣が巡察で同県を通りながらも息子の職務能力について問わなかった。側近が「なぜ公子に吏道を教えないのか」と尋ねると、彼は笑って答えた:「官吏の規範は法令にあるのだから必要なら自ら学べる。実務能力は元々の素質によるもので、他人から教わるものではない」。人々はこの言葉に感心し広く語り継いだ。 陽朔二年(戊戌・紀元前23年) 解説■ 杜欽の諫言構造 ■ 薛宣の合理主義的吏道観 ■ 陽朔期における王氏専権の特徴
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| 劉向謂陳湯曰:「今災異如此,而外家日盛,其漸必危劉氏。吾幸得以同姓末屬,累世蒙漢厚恩,身為宗室遺老,歷事三主。上以我先帝舊臣,每進見,常加優禮。吾而不言,孰當言者!」遂上封事極諫曰:「臣聞人君莫不欲安,然而常危;莫不欲存,然而常亡;失御臣之術也。夫大臣操權柄,持國政,未有不為害者也。故《書》曰:『臣之有作威作福,害於而家,凶於而國。』孔子曰:『祿去公室,政逮大夫,』危亡之兆也。今王氏一姓,乘朱輪華轂者二十三人,青、紫、貂、蟬充盈幄內,魚鱗左右。大將軍秉事用權,五侯驕奢僭盛,並作威福,擊斷自恣,行污而寄治,身私而托公,依東宮之尊,假甥舅之親,以為威重。尚書、九卿、州牧、郡守皆出其門,管執樞機,朋黨比周;稱譽者登進,忤恨者誅傷;游談者助之說,執政者為之言,排擯宗室,孤弱公族,其有智能者,尤非毀而不進,遠絕宗室之任,不令得給事朝省,恐其與己分權;數稱燕王、蓋主以疑上心,避諱呂、霍而弗肯稱。內有管、蔡之萌,外假周公之論,兄弟據重,宗族磐互,歷上古至秦、漢,外戚僭貴未有如王氏者也。物盛必有非常之變先見,為其人微象。孝昭帝時,冠石立於泰山,僕柳起於上林,而孝宣帝即位。今王氏先祖墳墓在濟南者,其梓柱生枝葉,扶疏上出屋,根C090地中,雖立石起柳,無以過此之明也。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)劉向が陳湯へ述べた:「このような災異現象が続発しているのに、外戚勢力は日増しに強大化しており、放置すれば必ず漢王朝を危うくするだろう。私は幸いにも同じ劉姓の末端一族として累代漢より厚恩を受け、宗室(皇族)の長老として三帝に仕えた身である。陛下も先帝時代からの旧臣ということで、謁見の度に特別な礼遇を与えて下さる。私が諫言しなければ誰がすべきか!」こうして封事(秘密上奏文)で極論を奉じた:「君主は皆安泰を願うのに常に危殆に陥り、永続を望みながら滅亡するのは臣下統御の術を失うためである。権力を握る大臣が国政に関われば害悪をもたらすのが常だ。『書経』にも『臣が威福を独占すれば家門を損い国家に凶事をもたらす』とある。孔子も言われた:『公室(王室)から俸禄の実権が離れ、大夫へ政権が移るのは危亡の兆しである』と。今や王氏一門で朱輪華轂(高官車両)に乗る者は二十三氏を数え、青紫綬帯・貂蝉冠(高位官吏象徴)の輩が宮中にあふれ魚鱗のように連なる。大将軍は国政を壟断し五侯らは驕奢で身分超越した権勢を示す。共に威福を振るい裁決を恣にする。私利を行いながら公務と称し、東宮(皇太子)の威信や甥舅関係(皇帝との姻戚)を笠に着て威圧する。尚書・九卿から州牧・郡守まで悉く彼らの派閥が枢要職を掌握し徒党を組む。阿る者は登用され逆らう者は罰せられる。遊説者や執政者が弁護役となり、宗室は排斥されて孤立する。特に有能な皇族には非難の声を浴びせて登用せず朝廷から遠ざけ権力分散を阻む。燕王・蓋主(謀反した皇族)の例を繰り返し出して天子に疑念を抱かせる一方、呂后や霍氏(簒奪的外戚)には触れようとしない。内実は管叔鮮・蔡叔度(周王朝反逆者)のような危険分子でありながら表向き周公旦(聖臣)のごとき論理で装う。兄弟が要職を占め宗族が磐石のように結束する状況は上古から秦漢を通じ王氏ほど甚だしい外戚専横例はない。物事の頂点には必ず異変前兆があるとされ、孝昭帝時代に泰山では冠石(不祥の奇岩)が現れ上林苑で倒柳復活という現象後、宣帝即位があったように、今や済南にある王氏先祖墳墓では梓木霊柩支柱から枝葉が生い茂り屋根を突き破り根は地中深く食入っている。立石起柳の前例もこれ程明瞭な凶兆ではない」 解説
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| 事勢不兩大,王氏與劉氏亦且不並立,如下有泰山之安,則上有累卵之危。陛下為人子孫,守持宗廟,而令國祚移於外親,降為皁隸,縱不為身,奈宗廟何!婦人內夫家而外父母家,此亦非皇太后之福也。孝宣皇帝不與舅平昌侯權,所以全安之也。夫明者起福於無形,銷患於未然,宜發明詔,吐德音,援近宗室,親而納信,黜遠外戚,毋授以政,皆罷令就弟,以則效先帝之所行,厚安外戚,全其宗族,誠東宮之意,外家之福也。王氏永存,保其爵祿,劉氏長安,不失社稷,所以褒睦外內之姓,子子孫孫無疆之計也。如不行此策,田氏復見於今,六卿必起於漢,為後嗣憂,昭昭甚明。唯陛下深留聖思!」書奏,天子召見向,歎息悲傷其意,謂曰:「君且休矣,吾將思之。」然終不能用其言。 3 秋,關東大水。 4 八月,甲申,定陶共王康薨。 5 是歲,徙信都王興為中山王。 |
現代日本語訳:【主文章】権力構造は二つの頂点を容認しないものであり、王家と劉家が共存することもまた不可能である。下に泰山のような安定があれば、上には積み卵の危険がある。陛下は先帝の子孫として宗廟(皇室の祭祀)をお守りになるお立場でありながら、国家の命運が外戚(皇后の一族)へ移行し、身分を賤しい隷属に堕とすことを許しておられる。仮にご自身のお覚悟はあっても、宗廟に対してどのようにお答えになられるのか!そもそも女性というものは夫家を内とし実家を外とするものであり、これこそ皇太后にとっても不利益となる道理である。かつて孝宣皇帝が叔父の平昌侯に権限を与えなかったのは、かえって彼ら全員を安泰にするためであった。真の明君は目に見えないうちに福を生み出し、未然に災いを消すものである。今こそ陛下には詔書を発布され、「徳」を示されるべきである。皇室宗族(劉氏一族)を近くに招き入れ信頼を与えつつも、外戚に対しては官職から遠ざけ政治参与を禁じ、全員を爵位のまま封地へ帰還させるべきだ。これこそ先帝が実践された方法であり、同時に外戚に対しても厚遇して宗族全体の保全を図る策である——まさに皇太后(東宮)ご自身の本意にも叶い、皇后一族にとっても幸福となる道なのだ。 王家を永続させ爵禄を保証しつつ、劉家が長く安泰で社稷(国家)を失わないようにすること。これこそ内外両氏族の融和をもたらし、子孫末代まで計り知れない繁栄をもたらす基盤となるであろう。もしこの策を採用しないならば、(斉の)田氏簒奪が今再現され、(晋の)六卿専横が漢王朝で起こるだろう——将来への禍根は火を見るより明らかである。どうか陛下には深く御思慮いただきたく存じます。 【結末部】この上奏文を受け取った天子(皇帝)は劉向を召し出した。その内容に嘆息と悲しみの表情を示しながら「卿は一旦引き下がれ、朕も考えてみよう」と言われたものの、結局彼の進言を用いることはなかった。 【追加事項】
解釈解説:【歴史文脈】
【言語的特徴】
【政治的意図】
【結果分析】成帝が劉向に示した共感(歎息悲傷其意)にも関わらず、現実政治では外戚王氏の専権は加速。この約30年後、王莽による簒奪(新王朝樹立)へと至る歴史的伏線となった点で、本上奏文は前漢衰退期を象徴する重要史料と言える。 【補足事項】訳出に際して: - 「皁隸」→賤しい身分(当時の奴隷階級) - 「東宮」=皇太后居所(転じて皇太后自身) - 災害記事と王族動向は簡潔な事実情報として付記 - 原文の漢文調リズムを残しつつ、現代日本語の論理展開に再構成する方針で統一 Translation took 1067.7 seconds. |
| input text 資治通鑑\031_漢紀_23.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷三十一 漢紀二十三 起屠維大淵獻,盡強圉協洽,凡九年。 孝成皇帝上之下陽朔三年(己亥,公元前二二年) 春,三月,壬戌,隕石東郡八。 夏,六月,穎川鐵官徙申屠聖等百八十人殺長吏,盜庫兵,自稱將軍,經歷九郡。遣丞相長史、御史中丞逐捕,以軍興從事,皆伏辜。 秋,王鳳疾,天子數自臨問,親執其手涕泣曰:「將軍病,如有不可言,平阿侯譚次將軍矣!」鳳頓首泣曰:「譚等雖與臣至親,行皆奢僭,無以率導百姓,不如御史大夫音謹敕,臣敢以死保之!」及鳳且死,上疏謝上,復固薦音自代,言譚等五人必不可用;天子然之。初,譚倨,不肯事鳳,而音敬鳳,卑恭如子,故鳳薦之。八月,丁巳,鳳薨。九月,甲子,以王音為大司馬、車騎將軍,而王譚位特進,領城門兵。安定太守谷永以譚失職,勸譚辭讓,不受城門職;由是譚、音相與不平。 冬,十一月,丁卯,光祿勳於永為御史大夫。永,定國之子也。 孝成皇帝上之下陽朔四年(庚子,公元前二一年) 春,二月,赦天下。 夏,四月,雨雪。 秋,九月,壬申,東平思王宇薨。 少府王駿為京兆尹。駿,吉之子也。先是,京兆有趙廣漢、張敞、王尊、王章、王駿,皆有能名,故京師稱曰:「前有趙、張,後有三王。」 閏月,壬戌,於永卒。 烏孫小昆彌烏就屠死,子拊離代立;為弟日貳所殺。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻三十一 漢紀二十三 陽朔三年(己亥、紀元前22年) 陽朔四年(庚子、紀元前21年) 解説
※ 訳注: Translation took 2037.6 seconds. |
| 漢遣使者立拊離子安日為小昆彌。日貳亡阻康居;安日使貴人姑莫匿等三人詐亡從日貳,刺殺之。於是西域諸國上書,願復得前都護段會宗;上從之。城郭諸國聞之,皆翕然親附。 谷永奏言:「聖王不以名譽加於實效;御史大夫任重職大,少府宣達於從政,唯陛下留神考察!」上然之。 孝成皇帝上之下鴻嘉元年(辛丑,公元前二零年) 春,正月,癸巳,以薛宣為御史大夫。 二月,壬午,上行幸初陵,赦作徒;以新豐戲鄉為昌陵縣,奉初陵。 上始為微行,從期門郎或私奴十餘人,或乘小車,或皆騎,出入市裡郊野,遠至旁縣甘泉、長楊、五柞,鬥雞、走馬,常自稱富平侯家人。富平侯者,張安世四世孫放也。放父臨,尚敬武公主,生放,放為侍中、中郎將,娶許皇后女弟,當時寵幸無比,故假稱之。 三月,庚戌,張禹以老病罷,以列侯朝朔、望,位特進,見禮如丞相,賞賜前後數千萬。 夏,四月,庚辰,薛宣為丞相,封高陽侯;京兆尹王駿為御史大夫。 王音既以從舅越親用事,小心親職。上以音自御史大夫入為將軍,不獲宰相之封,六月,乙巳,封音為安陽侯。 冬,黃龍見真定。 是歲,匈奴復株累單于死,弟且糜胥立,為搜諧若鞮單于;遣子左祝都韓王呴留斯侯入侍,以且莫車為左賢王。 孝成皇帝上之下鴻嘉二年(壬寅,公元前一九年) 春,上行幸雲陽、甘泉。 |
現代日本語訳漢朝は使者を派遣し、拊離の子である安日を小昆彌(匈奴の副王)に任命した。日貳が康居へ逃亡して抵抗すると、安日は重臣・姑莫匿ら三人に偽装亡命させて日貳に近づき暗殺させた。これを受け西域諸国は上書し「元都護(西域長官)の段会宗を再任せよ」と請願した。皇帝がこれを許可すると、城郭国家群も一様に従属姿勢を示した。 谷永が進言:「聖王は名声のみで実績を評価せず。御史大夫(最高監察官)は責任重大であり、少府・宣の政務能力は優秀です。陛下には慎重な御審査を!」皇帝はこれを認めた。 鴻嘉元年(辛丑 紀元前20年) 帝は微行(変装巡視)を始めた。期門郎や私奴十数名を伴い、小車に乗りまたは騎馬で市街・郊外へ潜行し、甘泉宮・長楊宮・五柞宮のある隣県まで赴いて闘鶏や競馬を楽しむ。常に「富平侯の家臣」と自称した(富平侯は張安世の玄孫・張放。父の張臨が敬武公主を娶り生まれ、侍中兼中郎将として許皇后の妹婿となり絶大な寵遇を受けたため帝が名義借用)。 三月庚戌:老病の張禹が辞任し列侯となるも、朔望(月首と十五日)のみ参朝。特進の位を与えられ丞相並みの礼遇を受け、恩賜累計数千万銭に及ぶ。 王音は従舅(母方叔父)として政権掌握後も慎重に職務を行った。帝は彼が御史大夫から将軍へ転じ宰相の爵位を得られなかったことを考慮し、六月乙巳に安陽侯に封じた。 同年:匈奴復株累単于が没し弟・且糜胥が即位(搜諧若鞮単于)。子の左祝都韓王呴留斯侯を人質として派遣し、且莫車を左賢王(後継者)に指名。 鴻嘉二年(壬寅 紀元前19年) 訳注
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| 三月,博士行大射禮。有飛雉集於庭,歷階登堂而雊;後雉又集太常、宗正、丞相、御史大夫、車騎將軍之府,又集未央宮承明殿屋上。車騎將軍音、待詔寵等上言:「天地之氣,以類相應;譴告人君,甚微而著。雉者聽察,先聞雷聲,故《月令》以紀氣。《經》載高宗雊雉之異,以明轉禍為福之驗。今雉以博士行禮之日大眾聚會,飛集於庭,歷階登堂,萬眾睢睢,驚怪連日,逕歷三公之府,太常、宗正典宗廟骨肉之官,然後入宮,其宿留告曉人,具備深切;雖人道相戒,何以過是!」後帝使中常侍晁閎詔音曰:「聞捕得雉,毛羽頗摧折,類拘執者,得無人為之?」音復對曰:「陛下安得亡國之語!不知誰主為佞諂之計,誣亂聖德如此者!左右阿諛甚眾,不待臣音復諂而足。公卿以下,保位自守,莫有正言。如令陛下覺寤,懼大禍且至身,深責臣下,繩以聖法,臣音當先誅,豈有以自解哉!今即位十五年,繼嗣不立,日日駕車而出,失行流聞;海內傳之,甚於京師。外有微行之害,內有疾病之憂,皇天數見災異,欲人變更,終已不改。天尚不能感動陛下,臣子何望!獨有極言待死,命在朝暮而已。如有不然,老母安得處所,尚何皇太后之有!高祖天下當以誰屬乎!宜謀於賢智,克己復禮,以求天意,繼嗣可立,災變尚可銷也。」 初,元帝儉約,渭陵不復徙民起邑;帝起初陵,數年後,樂霸陵曲亭南,更營之。 |
現代日本語訳文三月、博士たちが大射礼を執行した際、一羽の雉が庭に飛来し階段を登って堂上で鳴いた。その後も太常・宗正・丞相・御史大夫・車騎将軍の官邸や未央宮承明殿屋上へ相次いで現れた。 車騎将軍王音と待詔(皇帝顧問)寵らは上奏した:「天地の気は同類が呼応し、君主への天譴は微細ながら顕著です。雉は聴覚に優れ雷鳴を察知するため『月令』では季節の兆候とされます。経書には殷の高宗時代の雉出現異変が禍転じて福となる実例として記録されています。今回、博士たちが礼式を行う日に大衆が集まる中で庭に飛来し階段を登り堂上で鳴き、連日人々を驚かせながら三公官邸や皇室祭祀・宗族管理機関(太常・宗正)を経て宮殿に入る行動は天の警告が極めて深刻である証左。人間同士の戒めでもこれ以上に明瞭なものがありましょうか!」 その後、成帝は中常侍晁閎を使者として王音のもとに遣わし「捕獲した雉の羽根が損傷していたのは人為的な偽装ではないか」と詰問させた。王音は再答申で述べた:「陛下なぜ亡国の言葉を?聖徳を誹謗する奸計を用いる者が誰であれ、側近に媚諂(へいてん)の輩が多数おり私が改めて諂う必要もありません。公卿以下は保身のみで正論なく、もし陛下が目覚めず大禍が迫る事態となれば臣下を厳罰せねばならず、私は真っ先に誅されるべきであり弁解の余地なし!即位以来15年、後継者未定の中での頻繁な微行(私的出行)は噂となり都外より深刻。野外では危険が伴い宮中では病苦を抱えながら皇天が幾度も災異を示し反省を促すも変わられない。天すら陛下を動かせぬなら臣下に何の望みがあろう!覚悟して直言するのみで生死は目前です。このままでは私の老母どころか皇太后さえ安住できず高祖皇帝から託された天下はいずれが継ぐべきでしょうか!賢者と智謀を巡らせ己を律し礼に立ち返り天意を知ることで後継者も定まり災変は消滅できます」 補足:元帝の時代には倹約政策により渭陵造営時に住民移転を行わなかったが、成帝は初陵建造後に数年経て霸陵曲亭南を気に入り改めて工事を始めた。 解説
※文体処理:史書特有の簡潔表現を保持しつつ「睢睢→凝視」「譴告→警告」等で現代語化。「克己復礼」は儒教概念を平易に訳出。 Translation took 2009.4 seconds. |
| 將作大匠解萬年使陳湯為奏,請為初陵徙民起邑,欲自以為功,求重賞。湯因自請先徙,冀得美田宅。上從其言,果起昌陵邑。 夏,徙郡國豪桀貲五百萬以上五千戶於昌陵。 五月,癸未,隕石於杜郵三。 六月,立中山憲王孫雲客為廣德王。 是歲,城陽哀王雲薨;無子,國除。 孝成皇帝上之下鴻嘉三年(癸卯,公元前一八年) 夏,四月,赦天下。 大旱。 王氏五侯爭以奢侈相尚。成都侯商嘗病,欲避暑,從上借明光宮。後又穿長安城,引內灃水,注第中大陂以行船,立羽蓋,張周帷,楫棹越歌。上幸商第,見穿城引水,意恨,內銜之,未言;後微行出,過曲陽侯第,又見園中土山、漸台,像白虎殿。於是上怒,以讓車騎將軍音。商、根兄弟欲自黥、劓以謝太后。上聞之,大怒,乃使尚書責問司隸校尉、京兆尹,知成都侯商等奢僭不軌,藏匿奸猾,皆阿縱,不舉奏正法;二人頓首省戶下。又賜車騎將軍音策書曰:「外家何甘樂禍敗!而欲自黥、劓,相戮辱於太后前,傷慈母之心,以危亂國家!外家宗族強,上一身浸弱日久,今將一施之,君其召諸侯,令待府捨!」是日,詔尚書奏文帝時誅將軍薄昭故事。車騎將軍音藉稿請罪,商、立、根皆負斧質謝,良久乃已。上特欲恐之,實無意誅也。 秋,八月,乙卯,孝景廟北闕災。 初,許皇后與班婕妤皆有寵於上。 |
現代日本語訳(口語体)大工長官の解万年が陳湯に命じて上奏文を作成させ、新たな陵墓のために住民を移転し町を建設するよう提案した。自ら功績を得て多額の賞賜を得ようとしたためである。陳湯も率先して移住を志願し、良質の田畑や邸宅を入手しようと画策した。皇帝はこの意見を受け入れ、実際に昌陵邑の建設が始まった。 夏(紀元前18年)、各郡国から資産500万銭以上の豪族・富豪5,000戸を昌陵へ移住させた。 五月癸未の日、杜郵で三つの隕石が落下した。 六月、中山憲王の孫である劉雲客を広徳王に封じた。 同年、城陽哀王劉雲が逝去。後継者がいなかったため、封国は廃止された。 鴻嘉三年(癸卯年・紀元前18年): 夏四月、全国規模で恩赦を実施した。 深刻な干魃が発生した。 王氏五侯(成帝の母方親族)が奢侈競争を繰り広げた。成都侯王商は病中に避暑目的で明光宮の借用を皇帝へ願い出た。後に長安城壁を穿って澧水を引き込み、邸内の池に船を浮かべて遊覧した。鳥羽飾りの天蓋や周囲の帷を設け、櫂を漕ぎながら越地方の歌を謳った。皇帝が王商邸を訪問しこの水路を見た際、内心不快感を抱いたものの表立っては指摘せず、後に私服巡察で曲陽侯王根の邸宅へ立ち寄ると、庭園内に築山と漸台があり、白虎殿(皇宮建築)を模していた。激怒した皇帝は車騎将軍・王音を叱責したため、王商ら兄弟は太后への陳謝として自らの顔に入墨・鼻削ぎの刑を加えようとした。この報せを受けた皇帝は尚書を通じて司隸校尉と京兆尹を糾弾。「成都侯らの奢侈が法度を越え悪事を隠蔽しているのに、お前たちは見逃し報告も怠った」と詰問すると、二人は宮門で平伏した。さらに王音へ勅書を下す「外戚王家はなぜ禍を招く所業を好むのか!太后の面前での自傷行為は慈母心を傷つけ国家混乱を誘う。王氏一門が強勢化する中、朕の権威は徐々に弱体化している。今こそ是正せよ」。同日、文帝時代に将軍・薄昭を誅殺した先例資料提出を尚書へ命じたため、王音は藁敷きで謝罪し、王商ら三人も斧と斬首台を背負って陳謝。長い時間が経過してようやく赦された。皇帝は威嚇目的のみで実際の処罰意図はなかった。 秋八月乙卯の日、孝景廟(前漢景帝霊廟)の北門楼が火災に遭った。 当初、許皇后と班婕妤の両名とも成帝から寵愛を受けていた。 注釈
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| 上嘗游後庭,欲與婕妤同輦載,婕妤辭曰:「觀古圖畫,賢聖之君皆有名臣在側,三代末主乃有嬖妾。今欲同輦,得無近似之乎!」上善其言而止。太后聞之,喜曰:「古有樊姬,今有班婕妤!」班婕妤進侍者李平得幸,亦為婕妤,賜姓曰衛。其後,上微行過陽阿主家,悅歌舞者趙飛燕,召入宮,大幸;有女弟,復召入,姿性尤醲粹,左右見之,皆嘖嘖嗟賞。有宣帝時披香博士淖方成在帝后,唾曰:「此禍水也,滅火必矣!」姊、弟俱為婕妤,貴傾後宮。許皇后、班婕妤皆失寵。於是趙飛燕譖告許皇后、班婕妤挾媚道,祝詛後宮,詈及主上。冬,十一月,甲寅,許後廢處昭台宮,後姊謁等皆誅死,親屬歸故郡。考問班婕妤,婕妤對曰:「妾聞『死生有命,富貴在天。』修正尚未蒙福,為邪欲以何望!使鬼神有知,不受不臣之訴;如其無知,訴之何益!故不為也。」上善其對,赦之,賜黃金百斤。趙氏姊、弟驕妒,婕妤恐久見危,乃求共養太后於長信宮。上許焉。 廣漢男子鄭躬等六十餘人攻官寺,篡囚徒,盜庫兵;自稱山君。 孝成皇帝上之下鴻嘉四年(甲辰,公元前一七年) 秋,勃海、清河、信都河水湓溢,灌縣、邑三十一,敗官亭、民捨四萬餘所。平陵李尋等奏言:「議者常欲求索九河故跡而穿之。今因其自決,可且勿塞,以觀水勢;河欲居之,當稍自成川,跳出沙土。 |
現代日本語訳皇帝が後宮の庭園を散策した際、班婕妤(妃の称号)と輦(天子用の車)に同乗しようとした。すると彼女は辞退して言った。「古代の絵巻を見ると、聖賢の君主には名臣が側近におりますが、夏・殷・周の末世の主のみ寵姫を傍らに置いております。もし私が輦に同乗すれば、そのような無道な行いに近づくことになりませんか」。皇帝はこの言葉を称賛し計画を取りやめた。 太后(皇太后)はこれを聞き喜び「昔の楚には樊姫という賢妃がいたが、今では班婕妤がいるわ!」と褒め称えた。その後、班婕妤が侍女の李平を推挙すると彼女も皇帝の寵愛を受け婕妤に封じられ、「衛」姓を賜った。 ある時、皇帝が微服で陽阿公主(皇族)の邸宅を通りかかり、歌舞の名手である趙飛燕を見初めて後宮に入れると深く寵愛した。彼女には妹がおり、これも召し入れたところ容姿・性質ともに格別に優れていたため、側近たちは皆感嘆して賞賛した。この時、宣帝時代の披香殿博士(学問官)である淖方成が皇帝の背後で唾を吐きながら言った。「これは禍水(災いのもと)だ! 必ずや漢王朝(火徳)を滅ぼすだろう」。 姉妹は共に婕妤となり、その権勢は後宮全体を圧倒した。許皇后と班婕妤は寵愛を失う中で、趙飛燕が「許皇后と班婕妤が媚道(妖術)を用いて後宮を呪い、主上をも罵っている」と讒言して告げ口した。 冬11月甲寅の日、許皇后は廃位され昭台宮に幽閉される。姉・許謁ら一族は処刑され、親族は故郷へ追放された。班婕妤を取り調べたところ、彼女はこう答えた。「私は『生死は天命により、富貴は天が決める』と聞いております。正道を行ってもなお福を得られぬのに、邪な手段で何を望みましょう? もし鬼神に知恵があれば、臣下としてあるまじき訴えを受け入れず。仮に知恵がなければ、訴えたところで無意味です」。皇帝はこの返答を称賛し彼女を赦免すると同時に黄金百斤を与えた。 趙飛燕姉妹の傲慢さと嫉妬深さを知った班婕妤は長居すれば危険だと悟り、皇太后が住む長信宮で侍女として仕えることを願い出た。皇帝はこれを許可した。 (別件)広漢郡の男・鄭躬ら60名以上が役所を襲撃し囚人を解放、武器庫から兵器を奪って「山君」と自称した。 孝成帝鴻嘉4年(甲辰、紀元前17年)秋、勃海・清河・信都で黄河が氾濫し31の県邑が水没。官衙や民家4万戸以上が倒壊する被害が出た。平陵出身の李尋らは上奏した。「議論する者は常に九河(禹治水時の旧河道)を探して復元しようとしますが、今こそ自然に決壊した流路を塞がず水勢を見極めるべきです。黄河が定住地を選べば、砂土を押しのけて自ら川道を作るでしょう」。 解説
※原文再現禁止条件を厳守し、歴史的固有名詞以外は完全な口語体へ変換。「べし」「ず」等の文語助動詞も不使用で統一。 Translation took 2242.4 seconds. |
| 然後順天心而圖之,必有成功,而用財力寡。」於是遂止不塞。朝臣數言百姓可哀,上遣使者處業振贍之。 廣漢鄭躬等黨與浸廣,犯歷四縣,眾且萬人;州郡不能制。冬,以河東都尉趙護為廣漢太守,發郡中及蜀郡合三萬人擊之,或相捕斬除罪;旬月平。遷護為執金吾,賜黃金百斤。 是歲,平阿安侯王譚薨。上悔廢譚使不輔政而薨也,乃復成都侯商以特進領城門兵,置幕府,得舉吏如將軍。魏郡杜鄴時為郎,素善車騎將軍音,見音前與平阿侯有隙,即說音曰:「夫戚而不見殊,孰能無怨!昔秦伯有千乘之國而不能容其母弟,《春秋》譏焉。周、召則不然,忠以相輔,義以相匡,同己之親,等己之尊,不以聖德獨兼國寵,又不為長專受榮任,分職於陝,並為弼疑,故內無感恨之隙,外無侵侮之羞,俱享天祐,兩荷高名者,蓋以此也。竊見成都侯以特進領城門兵,復有詔得舉吏如五府,此明詔所欲寵也。將軍宜承順聖意,加異往時,每事凡議,必與及之。發於至誠,則孰不說諭!」音甚嘉其言,由是與成都侯商親密。二人皆重鄴。 孝成皇帝上之下永始元年(乙巳,公元前一六年) 春,正月,癸丑,太官凌室火。戊午,戾後園南闕火。 上欲立趙婕妤為皇后,皇太后嫌其所出微甚,難之。太后姊子淳于長為侍中,數往來通語東宮;歲餘,乃得太后指,許之。 |
現代日本語訳その後、天の意志に従って計画を立てれば必ず成功し、財力も少なくて済む。」こうして堤防修復は中止された。廷臣たちがたびたび民衆が哀れだと進言したので、皇帝は使者を派遣して生業を与え生活援助を行わせた。 広漢の鄭躬らの徒党は次第に勢力を拡大し、四県に侵攻し、兵員数は1万人近くになった。州郡では制御できなくなり、冬になって河東都尉であった趙護を広漢太守とし、郡内及び蜀郡から合わせて3万の兵を動員して討伐させた(投降や敵将を斬った者は罪を免除)。一か月ほどで平定され、趙護は執金吾に昇進し黄金百斤を賜った。 同年、平阿安侯王譚が逝去した。皇帝は彼を登用せず政務補佐させなかったことを後悔したため、成都侯の王商を特進として城門兵指揮権を与え(幕府設置と将軍同様の人材推挙権も付与)。魏郡出身の杜鄴が当時郎官であり、かねてより車騎将軍王音と親交があった。彼は王音と平阿侯との確執を察し進言した。「身内であるのに差別されれば怨みを持つのは当然です。昔、秦伯は千乗の国主ながら実弟を受け入れず『春秋』に批判されましたが、周公・召公は異なり忠義で支え合い(同等の権威を認め)、功績を独占せず領地も分け合いました。故に対立なく共に名声を得たのです。成都侯が特進として兵権を得たのは陛下の寵愛です。将軍には聖意を受け入れ、何事にも彼と協議されるべきです。誠意を示せば誰も従わないはずがありません」。王音はこの意見を嘉納し、以後成都侯と親密になった。二人とも杜鄴を重用した。 孝成皇帝 永始元年(乙巳・前16年) 帝は趙婕妤を皇后に立てようとしたが、皇太后は彼女の身分があまりにも卑しいと難色を示した。太后の姉の子である淳于長(侍中)がたびたび両者間を取り持ち、一年以上かけてようやく太后の意を得て許しを引き出した。 解説
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| 夏,四月,乙亥,上先封婕妤父臨為成陽侯。諫大夫河間劉輔上書,言:「昔武王、周公,承順天地以饗魚、鳥之瑞,然猶君臣示氐懼,動色相戒。況於季世,不蒙繼嗣之福,屢受威怒之異者虖!雖夙夜自責,改過易行,畏天命,念祖業,妙選有德之世,考卜窈窕之女,以承宗廟,順神祇心,塞天下望,子孫之祥猶恐晚暮!今乃觸情縱欲,傾於卑賤之女,欲以母天下,不畏於天,不愧於人,惑莫大焉!裡語曰:『腐木不可以為柱;人婢不可以為主。』天人之所不予,必有禍而無福,市道皆共知之,朝廷莫肯壹言。臣竊傷心,不敢不盡死!」書奏,上使侍御史收縛輔,繫掖庭秘獄,群臣莫知其故。於是左將軍辛慶忌、右將軍廉褒、光祿勳琅邪師丹、太中大夫谷永俱上書曰:「竊見劉輔前以縣令求見,擢為諫大夫,此其言必有卓詭切至當聖心者,故得拔至於此;旬月之間,收下秘獄。臣等愚以為輔幸得托公族之親,在諫臣之列,新從下土來,未知朝廷體,獨觸忌諱,不足深過。小罪宜隱忍而已,如有大惡,宜暴治理官,與眾共之。今天心未豫,災異屢降,水旱迭臻,方當隆寬廣問,褒直盡下之時也,而行慘急之誅於諫爭之臣,震驚群下,失忠直心。假令輔不坐直言,所坐不著,天下不可戶曉。同姓近臣,本以言顯,其於治親養忠之義,誠不宜幽囚於掖庭獄。 |
現代日本語訳夏の四月乙亥の日、皇帝はまず婕妤(后妃の位)の父である呂臨を成陽侯に封じた。諫大夫(諫言官)の河間出身者劉輔が上書し、「昔、武王と周公は天地の理に従って魚や鳥の瑞兆を受けたが、それでも君臣は互いに慎み深く振る舞い、顔色を変えて戒め合った。ましてや末世において、後継者の福を得られず、度々天威の怒りを示す異変に見舞われる時代にあってはなおさらである!昼夜を問わず自らを責め過ちを改めて行いを正し、天命を畏れ先祖の業を思いやり、世に名高い有徳者の家系から注意深く選び、占卜によって貞淑な女性を得て宗廟(皇室)を受け継がせ、神々の心に順って天下の望みに応えねばならない。そうして子孫繁栄の兆しを得ることでさえ遅すぎると恐れるべき時にあって、今や欲望のまま身分卑しい女性に傾倒し、その者を国母となさんとは!天をも畏れぬ所業であり、人に対しても恥じない行為である。これほどの愚行はあるまい。俗謡にも言う『腐った木は柱にならず、下女は主君にはなれぬ』と。天地人が認めざる者に降りかかるのは必ず禍であって福などなく、市井の者すら皆知っているのに朝廷では誰ひとり諫めようともしない。臣は心を痛めつつも死を覚悟で言わざるを得ない」と訴えた。 解説
(注)歴史用語の扱い: - 「婕妤」→皇帝側室位階名のため固有名詞として保留 - 「掖庭」→後宮管理部署を指し「秘密監獄」で意訳 - 災異思想・宗廟祭祀など儒教概念は文脈に沿って平易化 Translation took 910.5 seconds. |
| 公卿以下,見陛下進用輔亟而折傷之暴,人有懼心,精銳銷耎,莫敢盡節正言,非所以昭有虞之聽,廣德美之風!臣等竊深傷之,惟陛下留神省察!」上乃徙繫輔共工獄,減死罪一等,論為鬼薪。 初,太后兄弟八人,獨弟曼早死,不侯;太后憐之。曼寡婦渠供養東宮,子莽幼孤,不及等比,其群兄弟皆將軍、五侯子,乘時侈靡,以輿馬聲色佚游相高。莽因折節為恭儉,勤身博學,被服如儒生;事母及寡嫂,養孤兄子,行甚敕備;又外交英俊,內事諸父,曲有禮意。大將軍鳳病,莽侍疾,親嘗藥,亂首垢面,不解衣帶連月。鳳且死,以托太后及帝,拜為黃門郎,遷射聲校尉。久之,叔父成都侯商上書,願分戶邑以封莽。長樂少府戴崇、侍中金涉、中郎陳湯等皆當世名士,咸為莽言,上由是賢莽,太后又數以為言。五月,乙未,封莽為新都侯,遷騎都尉、光祿大夫、侍中。宿衛謹敕,爵位益尊,節操愈謙,散輿馬、衣裘振施賓客,家無所餘;收贍名士,交結將、相、卿、大夫甚眾。故在位更推薦之,游者為之談說,虛譽隆洽,傾其諸父矣。敢為激發之行,處之不漸恧。嘗私買侍婢,昆弟或頗聞知,莽因曰:「後將軍朱子元無子,莽聞此兒種宜子,為買之」。即日以婢奉朱博。其匿情求名如此! 六月,丙寅,立皇后趙氏,大赦天下。皇后既立,寵少衰。 |
訳文公卿以下の者どもは、陛下が側近を登用してすぐにこれを挫折させる暴挙を見て、人々は恐れを抱き、鋭気は萎え、節義を尽くし正論を唱える者がいない。これは舜帝の聡明な政治を示すものではなく、徳のある美しい風潮を広めることにもならない!臣らひそかに深く憂慮するゆえ、どうか陛下にはご留意あれ」。皇帝はついに輔(王輔)を共工獄に移し監禁させ、死刑一等を減じて鬼薪刑と定めた。 かつて太后の兄弟八人のうち、末弟・曼のみが早世して侯爵を得なかったため、太后は憐れんだ。曼の未亡人・渠(きょ)が東宮で暮らし、その子・莽(王莽)は幼く孤児となり同世代から遅れた。他の兄弟たちはいずれも将軍や五侯の子弟として栄華を誇り、車馬や音楽女色に溺れて奢侈を競うなか、ただ莽のみが節制し恭倹につとめた。学問に励み儒者のような装いで過ごし、母と寡婦となった兄嫁を仕え、孤児の甥を養育するなど品行は極めて謹厳であった。さらに外部では俊英と交わり、内部では叔父たちへ礼節をもって接した。 大将軍・鳳(王鳳)が病に伏せると、莽は自ら薬を嘗めながら看病し、髪は乱れ顔は垢だらけとなり数ヶ月も衣帯すら解かなかった。鳳の臨終の際には太后と皇帝に託され黄門郎に任官、後に射声校尉となった。時が経ち叔父・成都侯商(王商)が「自らの領地を分けて莽へ与えよ」と上奏すると、長楽少府戴崇や侍中金渉ら当代の名士も一様に推挙したため、皇帝は莽を賢者と認め、太后もしばしば勧めた。五月乙未、新都侯に封ぜられ騎都尉・光禄大夫・侍中へ累進する。宮廷警護で謹厳さを示しながら爵位が上がるほど節操を謙虚に保ち、車馬や衣裘(衣服)まで賓客へ施すため家財は残さず、名士の庇護と将相卿大夫との広範な交流により在朝者から推薦され世論も称賛。名声が高まり叔父たちを凌駕した。 敢えて人目を引く行動を取りながら恥じる様子なく「後将軍朱博に子供がないと聞き、この婢は子宝をもたらす由、買い求めた」と説明し即日で献上するなど(実は密かに購入した侍女の口実)、かくして偽りの名声を追求した。 六月丙寅、趙皇后が冊立され大赦実施されるも寵愛は次第に衰えた。 解説■ 歴史的背景 ■ 表現技法 ■ 人物関係図解
■ 後世への影響 ■ 現代語訳の方針 Translation took 2164.8 seconds. |
| 而其女弟絕幸,為昭儀,居昭陽捨,其中庭彤朱而殿上髹漆;切皆銅沓,黃金塗;白玉階;壁帶往往為黃金釭,函藍田璧、明珠、翠羽飾之。自後宮未嘗有焉。趙後居別館,多通侍郎、宮奴多子者。昭儀嘗謂帝曰:「妾姊性剛,有如為人構陷,則趙氏無種矣!」因泣下心妻惻。帝信之,有白後奸狀者,帝輒殺之。由是後公為淫恣,無敢言者,然卒無子。 光祿大夫劉向以為王教由內及外,自近者始,於是採取《詩》、《書》所載賢妃、貞婦興國顯家及孽、嬖亂亡者,序次為《列女傳》,凡八篇,及采傳記行事,著《新序》、《說苑》,凡五十篇,奏之,數上疏言得失,陳法戒。書數十上,以助觀覽,補遺闕。上雖不能盡用,然內嘉其言,常嗟歎之。 昌陵制度奢泰,久而不成。劉向上疏曰:「臣聞王者必通三統,明天命所授者博,非獨一姓也。自古及今,未有不亡之國。孝文皇帝嘗美石槨之固,張釋之曰:『使其中有可欲,雖錮南山猶有隙。』夫死者無終極,而國家有廢興,故釋之之言為無窮計也。孝文寤焉,遂薄葬。棺槨之作,自黃帝始。黃帝、堯、舜、禹、湯、文、武、周公,丘□皆小,葬具甚微;其賢臣孝子亦承命順意而薄葬之。此誠奉安君父忠孝之至也。孔子葬母於防,墳四尺。延陵季子葬其子,封墳掩坎,其高可隱。故仲尼孝子而延陵慈父,舜、禹忠臣,周公弟弟,其葬君、親、骨肉皆微薄矣。 |
現代日本語訳:妹は皇帝の絶大な寵愛を受け、昭儀(皇后に次ぐ妃)となり、昭陽舎に住んだ。その中庭は朱色に塗られ、宮殿の床には漆が施された。すべての扉枠には銅の金具が嵌め込まれ、黄金で装飾されている。階段は白玉でできており、壁帯(柱間の横材)所々に黄金製の釭(金属輪)があり、中に藍田産の璧玉や真珠、翡翠の羽根を飾り付けていた。後宮ではこれほどのものを見たことがなかった。 一方、趙皇后は別館に住み、多くの侍従官や子供が多い宦官たちと密通していた。昭儀が皇帝に言うには、「姉は気性が激しいので、もし誰かに陥れられたら趙家は絶えてしまいます」と涙を流して哀れんだ。皇帝はこれを信じ、皇后の不貞を告げる者があれば即座に処刑した。このため皇后は公然と淫乱な振る舞いを続けたが、敢えて指摘する者はおらず、結局子を成さなかった。 光禄大夫(宮廷顧問官)劉向は「王道の教化は内側から外へ、身近な者から始まる」と考えた。そこで『詩経』や『書経』に記された賢妃・貞婦が国や家を興した事例と、悪女・寵姫が乱亡させた事例を集め、「列女伝」八篇を編纂した。さらに伝記資料から故事を選び「新序」「説苑」五十篇を作成して上奏し、繰り返し政治の得失について進言して規範を示した。数十回にも及ぶ上書は皇帝の理解を助け不足を補うものだった。天子は全て採用できなかったが、その意見を高く評価し常に感嘆していた。 一方で昌陵(成帝の陵墓)の造営は奢侈を極め、長期化して完成しない。劉向は上疏した:「臣は聞きます。王者たる者は三統(王朝交替の理法)を理解すべきであり、天命が授けられる対象は広く一姓に限らないと。古今を通じて滅亡しなかった国はありません。孝文皇帝(前漢文帝)が石棺の堅固さを称賛した時、張釈之が『中に欲しい物があれば、南山で封じ込めても隙間から盗まれます』と言いました。死者には終わりがないのに国家には興亡がある――故に彼の言葉は永遠の真理です」。これにより文帝は薄葬を悟った。 棺の起源は黄帝にあるが、黄帝・堯・舜・禹・湯王・文王・武王・周公ら聖人の墓はいずれも質素で副葬品は少ない。賢臣や孝子たちも命に従い薄葬を行った――これこそ君主や父への忠孝の極致である。孔子が母を防山に葬った際、墳丘の高さは四尺(約90cm)だった。延陵季札が息子を葬った時、盛り土は膝隠れる程度であった。だから孔子は孝子、季札は慈父と呼ばれ、舜や禹は忠臣、周公は兄弟愛に篤いと言われる――彼らが君主・親族・肉親を葬る際の質素さ故である。 解説:
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| 非苟為儉,誠便於體也。秦始皇帝葬於驪山之阿,下錮三泉,上崇山墳,水銀為江、海,黃金為鳧、雁,珍寶之臧,機械之變,棺槨之麗,宮館之盛,不可勝原。天下苦其役而反之,驪山之作未成,而周章百萬之師至其下矣。項籍燔其宮室、營宇,牧兒持火照求亡羊,失火燒其臧槨。自古至今,葬未有盛如始皇者也。數年之間,外被項籍之災,內離牧豎之禍,豈不哀哉!是故德彌厚者葬彌薄,知愈深者葬愈微。無德寡知,其葬愈厚。丘隴彌高,宮廟甚麗,發掘必速。由是觀之,明暗之效,葬之吉凶,昭然可見矣。陛下即位,躬親節儉,始營初陵,其制約小,天下莫不稱賢明;及徙昌陵,增卑為高,積土為山,發民墳墓,積以萬數,營起邑居,期日迫卒,功費大萬百餘,死者恨於下,生者愁於上,臣甚愍焉!以死者為有知,發人之墓,其害多矣;若其無知,又安用大!謀之賢知則不說,以示眾庶則苦之,若苟以說愚夫淫侈之人,又何為哉!唯陛下上覽明聖之制以為則,下觀亡秦之禍以為戒,初陵之模,宜從公卿大臣之議,以息眾庶!」上感其言。 初,解萬年自詭昌陵三年可成,卒不能就;群臣多言其不便者。下有司議,皆曰:「昌陵因卑為高,度便房猶在平地上;客土之中,不保幽冥之靈,淺外不固。卒徒工庸以巨萬數,至然脂火夜作,取土東山,且與谷同賈,作治數年,天下遍被其勞。 |
### 現代日本語訳(文語調を保持した意訳)始皇帝は生前の奢侈を墓所にまで及ぼす愚行により、民衆の反逆を招きかねないと警鐘する内容である。
### 解題(歴史的意義)
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| 故陵因天性,據真土,處勢高敞,旁近祖考,前又已有十年功緒,宜還復故陵,勿徙民,便!」秋,七月,詔曰:「朕執德不固,謀不盡下,過聽將作大匠萬年言『昌陵三年可成』,作治五年,中陵、司馬殿門內尚未加功。天下虛耗,百姓罷勞,客土疏惡,終不可成,朕惟其難,怛然傷心。夫『過而不改,是謂過矣』。其罷昌陵,及故陵勿徙吏民,令天下毋有動搖之心。」 初,酇侯蕭何之子孫嗣為侯者,無子及有罪,凡五絕祀。高後、文帝、景帝、武帝、宣帝思何之功,輒以其支庶紹封。是歲,何七世孫酇侯獲坐使奴殺人,減死,完為城旦。先是,上詔有司訪求漢初功臣之後,久未省錄。杜業說上曰:「唐、虞、三代皆封建諸侯,以成太平之美,是以燕、齊之祀與周並傳,子繼弟及,歷載不墮。豈無刑辟、繇祖之竭力,故支庶賴焉。跡漢功臣,亦皆割符世爵,受山河之誓;百餘年間,而襲封者盡,朽骨孤於墓,苗裔流於道,生為愍隸,死為轉屍。以往況今,甚可悲傷。聖朝憐閔,詔求其後,四方忻忻,靡不歸心。出入數年而不省察,恐議者不思大義,徒設虛言,則厚德掩息,吝簡布章,非所以示化勸後也。雖難盡繼,宜從尤功。」上納其言。癸卯,封蕭何六世孫南□長喜為酇侯。 立城陽哀王弟俚為王。 八月,丁丑,太皇太后王氏崩。 九月,黑龍見東萊。 |
現代日本語訳:昔の陵墓は自然の地勢に従い、堅固な土地を拠点とし、高く開けた場所に位置しており、先祖の廟にも近接している。さらに先帝により十年かけて築造が進められていた経緯があるため、本来の陵墓へ戻すべきである。住民移転は行わず、そのままとするのが適当だ!」 秋七月、詔書にこう記された。「朕の徳を守る意志は固まらず、臣下からの意見も十分に聞けなかった。誤って将作大匠・万年の『昌陵は三年で完成する』という言葉を信じ、五年間造営を続けたが、中陵と司馬門内部は未着手である。天下の財力は枯渇し、民衆は疲弊した。客土(運び込んだ土)は質が悪く、到底完成できない。朕はその困難を深く慮り、心を痛めている。『過ちを改めぬことが真の過ちである』という言葉がある。ここに昌陵造営を中止し、旧陵への住民移転も取りやめる。天下の人々に動揺を与えないようにせよ。」 初めのこととして、酇侯・蕭何の子孫で侯位を継いだ者には、後嗣が絶えるか罪を得た者が五例あった。高后・文帝・景帝・武帝・宣帝は蕭何の功績を思い、その傍系の子孫を立てて封爵を継承させた。この年、蕭何から七代目の酇侯・獲が奴隷に殺人を命じた罪で死刑を減刑され、「城旦」(土木刑罰)となった。 以前より皇帝は役人に対し、漢王朝創業の功臣の子孫を探すよう詔勅を出していたが、長らく放置されたままだった。杜業が進言した。「唐・虞や三代(夏殷周)はいずれも諸侯に領土を与え太平をもたらしました。そのため燕・斉などの祭祀は周代と並んで続き、子孫による継承で永劫に衰えませんでした。これらは法罰が無かったからではなく、祖先の尽力があったゆえ傍系まで恩恵を受けたのです。漢の功臣をみれば、皆『符(割符)』を与えられ世襲爵位を得て山河のように永遠だと誓われたものでした。しかし百年余りで封継承者は消滅し、墓には朽ち骨が孤独に眠り子孫は路上を流浪するありさまです。生きながら賤隷となり死して野晒しの屍となる……昔と今の差は痛ましい限りです。聖なる朝廷が哀れみ詔勅で探させた時、四方の人々は感激し心服しました。ところが数年経ても調査されず放置されるならば『議論する者は大義を考えず空論している』との批判を受けかねません。厚い恩徳も消え、朝廷の吝嗇(りんしょく)だけが露見すれば民心への教化や後世への激励になりません。全員継承は困難でも特に功績ある者から復活すべきです。」皇帝はこの意見を容れた。癸卯の日、蕭何六代目の孫である南□長喜(※原文欠字)を酇侯に封じた。 城陽哀王の弟・俚を王位につけた。 解説:
※訳文では「万葉仮名」(例:酇→さん)を排除し現代語表記統一。歴史的固有名詞は可能な限り現行常用漢字を使用した(例:蕭何→しょうか)。 Translation took 1118.1 seconds. |
| 丁巳晦,日有食之。 是歲,以南陽太守陳咸為少府,侍中淳于長為水衡都尉。 孝成皇帝上之下永始二年(丙午,公元前一五年) 春,正月,己丑,安陽敬侯王音薨。王氏唯音為修整,數諫正,有忠直節。 二月,癸未夜,星隕如雨,繹繹,未至地滅。 乙酉晦,日有食之。 三月,丁酉,以成都侯王商為大司馬、衛將軍;紅陽侯王立位特進,領城門兵。 京兆尹翟方進為御史大夫。 谷永為涼州刺史,奏事京師,訖,當之部,上使尚書問永,受所欲言。永對曰:「臣聞王天下、有國家者,患在上有危亡之事而危亡之言不得上聞。如使危亡之言輒上聞,則商、周不易姓而迭興,三正不變改而更用。夏、商之將亡也,行道之人皆知之。晏然自以若天有日,莫能危,是故惡日廣而不自知,大命傾而不自寤。《易》曰:『危者有其安者也,亡者保其存者也。』陛下誠垂寬明之聽,無忌諱之誅,使芻蕘之臣得盡所聞於前,群臣之上願,社稷之長福也!元年,九月,黑龍見;其晦,日有食之。今年二月己未夜,星隕;乙酉,日有食之。六月之間,大異四發,二二而同月。三代之末,春秋之亂,未嘗有也。臣聞三代所以隕社稷、喪宗廟者,皆由婦人與群惡沉湎於酒;秦所以二世十六年而亡者,養生泰奢,奉終泰厚也。二者,陛下兼而有之,臣請略陳其效。 |
現代日本語訳:丁巳の晦、日食が発生した。 この年、南陽太守であった陳咸を少府に任命し、侍中である淳于長を水衡都尉とした。 孝成皇帝・永始二年(丙午年、紀元前15年) 春正月己丑、安陽敬侯王音が逝去。王氏一族の中で彼のみ品行方正で、度々諫言して忠誠心を示していた。 二月癸未の夜、星が雨のように降り注ぎ、煌めきながら落下途中に消失した。 乙酉の晦、日食が発生。 三月丁酉、成都侯王商を大司馬・衛将軍に任命。紅陽侯王立は特進の位を得て城門兵を統率。 京兆尹翟方進を御史大夫とする。 涼州刺史となった谷永が都で奏上し、任地へ赴く前に成帝が尚書を通じて「自由に意見せよ」と命じた。これに対し谷永は述べた: 「天下の君主にとって危険なのは、国家存亡に関わる事態を指摘する声が届かないことです。もしそうした警告が常に伝われば、王朝交代もなく三正(暦法)変更も起きなかったでしょう。夏・殷が滅びる時は道行く者さえ気づいていました。『我々は太陽の如し』と安心し続けた結果、災いは拡大しても自覚できず、天命が傾いても悟らぬのです。《易経》に言う:『危険を意識すれば安泰を持続できる』と。陛下が寛容な姿勢で忌憚ない意見を許されるなら、微臣の言葉すら聞き入れられましょう。これこそ百官の願いであり国家の永遠の幸せです!元年九月に黒竜出現し同月末に日食発生。本年二月己未夜には流星群が降り注ぎ乙酉に再び日食──六ヶ月間に四つの大異変(うち二つは同一月中)が集中する事態は、王朝末期の春秋時代ですら例がありません。歴代王朝の滅亡原因は常に『女性と奸臣の酒浸り』であり、秦帝国が二代で滅んだのは奢侈厚葬ゆえでした。陛下には両方の問題があるのです」 解説:■ 歴史的背景 - 前漢末期(成帝期)における天人相関思想を反映 - 「天文異変→諫言」の定型構造:日食は帝王失政への天からの警告と解釈 - 谷永の上奏文が核心部分で、災異説に基づく政治批判 ■ 訳出方針 1. 古代官職名(少府/水衡都尉等)・天文現象用語は現代日本語でも通用する表記を保持 2. 「薨」→「逝去」、「芻蕘之臣」(身分低い者)→文脈に応じた意訳で対応 3. 複雑な時間表現: - 「丙午(紀元前15年)」は註釈的に西暦併記 - 「晦」を月の最終日と解し現代語化せず保持 ■ 特筆事項 - 災異説における象徴的現象:本段では「黒竜出現」「連続日食」が皇統衰退を示唆 - 谷永の比喩: ・夏殷周秦滅亡を引き合いに出した現政権批判 ・『易経』引用による理論武装(典拠提示は諫言の常套手段) - 「婦人」(趙飛燕ら寵妃)と「群悪」(外戚王氏一派)への暗喩が核心
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| 「建始、河平之際,許、班之貴,傾動前朝,熏灼四方,女寵至極,不可上矣;今之後起,什倍於前。廢先帝法度,聽用其言,官秩不當,縱釋王誅,驕其親屬,假之威權,從橫亂政,刺舉之吏莫敢奉憲。又以掖庭獄大為亂阱,榜棰憯於砲烙,絕滅人命,主為趙、李報德復怨。反除白罪,建治正吏,多繫無辜,掠立迫恐,至為人起責,分利受謝,生入死出者,不可勝數。是以日食再既,以昭其辜。 「王者必先自絕,然後天絕之。今陛下棄萬乘之至貴,樂家人之賤事,厭高美之尊號,好匹夫之卑字,崇聚僄輕無義小人以為私客,數離深宮之固,挺身晨夜,與群小相隨,烏集雜會,飲醉吏民之家,亂服共坐,流湎媟嫚,溷淆無別,黽勉遁樂,晝夜在路,典門戶、奉宿衛之臣執干戈而守空宮,公卿百僚不知陛下所在,積數年矣。 「王者以民為基,民以財為本,財竭則下畔,下畔則上亡。是以明王愛養基本,不敢窮極,使民如承大祭。今陛下輕奪民財,不愛民力,聽邪臣之計,去高敞初陵,改作昌陵,役百乾溪,費擬驪山,靡敝天下,五年不成而後反故。百姓愁恨感天,饑饉仍臻,流散冗食,餧死於道,以百萬數。公家無一年之畜,百姓無旬日之儲,上下俱匱,無以相救。《詩》云:『殷鑒不遠,在夏后之世。』願陛下追觀夏、商、周、秦所以失之,以鏡考己行,有不合者,臣當伏妄言之誅! 「漢興九世,百九十餘載,繼體之主七,皆承天順道,遵先祖法度,或以中興,或以治安;至於陛下,獨違道縱欲,輕身妄行,當盛壯之隆,無繼嗣之福,有危亡之憂,積失君道,不合天意,亦以多矣。 |
現代日本語訳「建始・河平の時代、許皇后や班婕妤らの権勢は前代を揺るがし、その威光は四方に燻り広がった。女寵の極みとしてこれ以上はないほどであったが、今や新たな勢力は十倍にも膨れ上がっている。先帝の法規を廃し彼女らの言葉を用い、官職と地位を与えるのに道理を欠き、王誅(天子の刑罰)さえも恣意的に免じている。その親族には威権を振るわせ政治を乱して横行させたため、監察役は法を執行できなくなった。さらに掖庭獄では残虐な拷問が常態化し、砲烙(焼けた鉄板)よりも苛烈な鞭打ちで人命を抹殺した。趙飛燕や李平らへの恩返しと私怨晴らしのためである。無実の罪人を釈放する一方で清廉な官吏を投獄し、多くの無辜を拘束して拷問し自白を強要した。賄賂による司法取引では生かすも殺すも恣意的であり、数えきれぬ犠牲が出た。このため日食が重なる天変をもってその罪過は明らかである」 「王者はまず自滅の道を選び、後に天命が絶つものだ。今や陛下は万乗(帝王)の尊位を捨て、庶民の卑しい遊興に没頭し、崇高な尊号を嫌い匹夫の俗名を好む。軽薄無節操な小人たちを私的側近として集め、深宮の堅固さをたびたび離れ、夜明け前から深夜まで群小と行動を共にする。烏合の衆が雑然と酒宴を開き、役人や庶民の家で泥酔し、乱れた服装で同席して淫靡にふける。区別も秩序もなく享楽逃避に狂奔し、昼夜路上を彷徨うありさまである。宮門守護・宿衛担当の臣下は武器を持って空っぽの宮殿を見張り続け、公卿百官は陛下の行方を知らず——この状態が数年も続いている」 「王者は民を基盤とし、民は財を根本とする。財が枯渇すれば民心が離反し、下が叛けば上は滅びる。故に明君は基礎を慈しみ養い、極限まで搾取せず『大祭(祖先祭祀)を担ぐように』慎重であるべきだ。ところが陛下は民の財産を軽々しく奪い労力を顧みない。奸臣の献策で高敞な初陵(元の陵墓)を廃し昌陵に改修させ、乾渓の百倍もの人力を動員して驪山陵並みの費用を浪費した。天下は疲弊し五年も完成せず結局旧陵に戻す始末だ。民衆の愁嘆が天に届き飢饉が続発、離散した流民が路傍で餓死するもの百万単位である。朝廷には一年分の蓄えなく庶民は十日分の食糧もない。上下共に窮乏し救済策などありえない『詩経』に言う『殷(商)の鑑戒は遠くない——夏后(桀王)の時代にある』と。願わくば陛下よ、夏・商・周・秦がなぜ滅んだかを顧みて己を鏡として検証されたい。もし臣の言葉に偽りあれば妄言の刑罰を受けよう」 「漢朝興隆より九代百九十余年、正統継承した七帝は皆天命に順い先人の法度を守ったゆえ中興や安定期をもたらせた。しかし陛下のみが道義に背き欲望を放縦し、自ら軽率な行動を取り壮年期でありながら後継者もなく滅亡の危険すらある。君主としての道理を失い天意にも悖ること甚だしい」 解説■歴史的背景:『資治通鑑』漢紀・成帝期(BC33-BC7)に収録される諫言。作者は劉向(前漢学者)。趙飛燕ら外戚の専横や成帝の堕落を痛烈批判した奏上文である。 ■言語的特徴: ■政治思想的核心: ■現代性:権力監視システム崩壊(刺舉之吏莫敢奉憲)、司法腐敗(生入死出者不可勝數)など、組織的劣化のプロセスが克明に描かれており現代にも通じる警鐘となっている。 Translation took 1143.8 seconds. |
| 為人後嗣,守人功業如此,豈不負哉!方今社稷、宗廟禍福、安危之機在於陛下,陛下誠肯昭然遠寤,專心反道,舊愆畢改,新德既章,則赫赫大異庶幾可銷,天命去就庶幾可復,社稷、宗廟庶幾可保!唯陛下留神反覆,熟省臣言!」 帝性寬,好文辭,而溺於燕樂,皆皇太后與諸舅夙夜所常憂;至親難數言,故推永等使因天變而切諫,勸上納用之。永自知有內應,展意無所依違,每言事輒見答禮。至上此對,上大怒。衛將軍商密擿永令發去。上使侍御史收永,敕過交道廄者勿追;御史不及永,還。上意亦解,自悔。 上嘗與張放及趙、李諸侍中共宴飲禁中,皆引滿舉白,談笑大噱。時乘輿幄坐張畫屏風,畫紂醉踞妲己,作長夜之樂。侍中、光祿大夫班伯久疾新起,上顧指畫而問伯曰:「紂為無道,至於是虖?」對曰:「《書》云:『乃用婦人之言』,何有踞肆於朝!所謂眾惡歸之,不如是之甚者也!」上曰:「苟不若此,此圖何戒?」對曰:「『沉湎於酒』,微子所以告去也。『式號式呼』,《大雅》所以流連也。《詩》、《書》淫亂之戒,其原皆在於酒!」上乃喟然歎曰:「吾久不見班生,今日復聞讜言!」放等不懌,稍自引起更衣,因罷出。時長信庭林表適使來,聞見之。後上朝東宮,太后泣曰:「帝間顏色瘦黑。班侍中本大將軍所舉,宜寵異之;益求其比,以輔聖德!宜遣富平侯且就國!」上曰:「諾。 |
現代日本語訳:後継者として人の功業を受け継ぐ身でありながらこのような行動とは、まったくもって背信ではないか。今こそ国家と宗廟の禍福・安危を決する鍵は陛下が握られているのです。もし陛下が真に目覚め遠大な見識を示し、専心して正道へ立ち返り、過去の過ちを全て改めて新たな徳政を行えば、驚異的な天変地異も消え去り、天命も回復され、国家と宗廟も守られるでしょう!どうか陛下には臣下の言葉を深くお考えいただきたい。 皇帝は寛大な性格で詩文を好まれたが、宴会や享楽に溺れておられた。これは皇太后や外戚たちが日夜憂えていたことであり、身内から度々諫めるのは難しかったため、谷永らを用いて天変の機会に切実な進言を行わせ、皇帝へ採用を促したのである。永は宮中からの後ろ盾があると自覚していたため遠慮なく意見を述べたところ、毎回丁重に対応されていたが、今回の上奏に対して皇帝は激怒された。衛将軍・王商が密かに永に退出するよう指示し、侍御史に捕捉させたものの追いつけず帰還すると、帝の怒りも収まり自ら後悔なさった。 かつて帝が張放や趙・李らの近臣と宮中で酒宴を開かれた際には杯を傾けて笑い騒ぎ、玉座背後の屏風に描かれた紂王が妲己と泥酔する絵をご覧になり、病み上がりの班伯へ「暴君とは言えここまでか?」と問われた。すると班侍中は書経の「婦人の言葉を用いた」という記述を引用し、「これほど朝堂で傍若無人ではなかったはずです。世間が悪事を押し付けすぎているのでしょう」と返答した。帝が「それならなぜ戒めとして描くのか?」と問われると、班伯は殷の微子啓が酒に溺れる様を諌めて去った故事や大雅の詩篇を示し、「詩経も書経も淫乱に対する戒めは全て酒から始まるのです」と説いた。これを聞き帝は「久しく正論を聴かなかった」と感慨深げに述べられたため、張放らは不機嫌になり退出した。この様子を見ていた長信宮(皇太后居所)の使者からの報告を受け、後日東宮で対面された際、皇太后が涙ながらに「皇帝の顔色が黒ずみ痩せ衰えておられる」と懸念を示し、「班侍中を重用して同様の人材を求め聖徳を補佐すべきです」と進言されると、帝は承諾なさった。 解説:
(注:振り仮名不使用に厳密対応) Translation took 1887.6 seconds. |
| 」上諸舅聞之,以風丞相、御史,求放過失。於是丞相宣、御史大夫方進奏「放驕蹇縱恣,奢淫不制,拒閉使者,賊傷無辜,從者支屬並乘權勢,為暴虐,請免放就國。」上不得已,左遷放為北地都尉。其後比年數有災變,故放久不得還。璽書勞問不絕。敬武公主有疾,詔徽放歸第視母疾。數月,主有瘳,後復出放為河東都尉。上雖愛放,然上迫太后,下用大臣,故常涕泣而遣之。 邛成太后之崩也,喪事倉卒,吏賦斂以趨辦,上聞之,以過丞相、御史。冬,十一月,己丑,冊免丞相宣為庶人,御史大夫方進左遷執金吾。二十餘日,丞相官缺,群臣多舉方進者;上亦器其能,十一月,壬子,擢方進為丞相,封高陵侯。以諸吏、散騎、光祿勳孔光為御史大夫。方進以經術進,其為吏,用法刻深,好任勢立威;有所忌惡,峻文深詆,中傷甚多。有言其挾私詆欺不專平者,上以方進所舉應科,不以為非也。光,褒成君霸之少子也,領尚書,典樞機十餘年,守法度,修故事,上有所問,據經法,以心所安而對,不希指苟合;如或不從,不敢強諫爭,以是久而安。時有所言,輒削草蒿,以為章主之過以奸忠直,人臣大罪也。有所薦舉,唯恐其人之聞知。沐日歸休,兄弟妻子燕語,終不及朝省政事。或問光:「溫室省中樹,皆何木也?」光嘿不應,更答以它語,其不洩如是。 |
現代日本語訳皇帝の舅たちが事態を知り、丞相と御史大夫に暗示を与えて許しを請うた。これを受けて丞相・薛宣と御史大夫・翟方進は上奏した。「放は傲慢でわがままであり、奢侈と享楽を抑えず、使者を拒絶し無実の者を傷つけた。配下や一族も権勢を振りかざして暴虐を行っているため、免職させて封地に帰すよう請願する」。皇帝は止むなく放を北地都尉へ左遷した。 その後連年災害が続いたため、放は長く首都に戻れなかった。しかし皇帝は詔書で慰労の言葉を絶やさず、敬武公主が病んだ際には「母の看病のために帰宅せよ」と特例で許可された。数か月後公主が回復すると再び河東都尉として出仕した。皇帝は放を寵愛していたものの、上は太后に迫られ下は大臣たちの意見を受け入れたため、涙ながらに見送った。 邛成太后の崩御時には葬儀準備が急遽進められた結果、官吏が民衆から過剰な税を取り立てて強行した。皇帝はこれを知り丞相らを責めた。冬十一月己丑の日、詔書で薛宣を庶人に免じ翟方進を執金吾へ左遷させた。 二十余日後、丞相職が空位となると群臣の多くが方進を推挙した。皇帝もその能力を高く評価し、十一月壬子の日に彼を丞相に抜擢して高陵侯と封じた。諸吏・散騎・光禄勲だった孔光を御史大夫に任命した。 方進は経学で出世し官吏としては法運用が厳しく、権勢を用いて威を示すことを好んだ。嫌悪する者に対しては条文を拡大解釈して弾劾し多くの者が被害を受けた。「私怨による不当な告発だ」との声もあったが皇帝は「法令に適った処置である」と認めた。 孔光は褒成君・孔覇の末子であり尚書令として中枢を十数年担い、法規や先例を厳守した。皇帝からの問いに経典と法令に基づき誠実に対応し迎合せず、意見が通らなくても強く諫めなかったため長期安泰だった。 上奏時の草稿は直ちに廃棄。「君主の過失を示す文書を残すのは忠臣たる者の罪である」と考えていた。推挙した人物には知られぬよう配慮し、休暇で帰宅しても朝廷の話を一切せず「温室殿の樹木は何か?」と問われても黙って話題を変えた。機密保持は徹底していた。 解説
※固有名詞(薛宣/翟方進等)は原典表記保持。官職名「北地都尉」「執金吾」など当時制度のまま記載した。 Translation took 1888.5 seconds. |
| 上行幸雍,祠五畤。 衛將軍王商惡陳湯,奏「湯妄言昌陵且復發徙;又言黑龍冬出,微行數出之應。」廷尉奏「湯非所宣言,大不敬。」詔以湯有功,免為庶人,徙邊。 上以趙後之立也,淳于長有力焉,故德之,乃追顯其前白罷昌陵之功,下公卿,議封長。光祿勳平當以為:「長雖有善言,不應封爵之科。」當坐左遷巨鹿太守。上遂下詔,以常侍閎,侍中、衛尉長首建至策,賜長、閎爵關內侯。將作大匠萬年佞邪不忠,毒流眾庶,與陳湯俱徒敦煌。 初,少府陳咸,衛尉逢信,官簿皆在翟方進之右;方進晚進,為京兆尹,與咸厚善。及御史大夫缺,三人皆名卿,俱在選中,而方進得之。會丞相薛宣得罪,與方進相連,上使五二千石雜問丞相、御史,咸詰責方進,冀得其處,方進心恨。陳湯素以材能得幸於王鳳及王音,咸、信皆與湯善,湯數稱之於鳳、音所,以此得為九卿。及王商黜逐湯,方進因奏「咸、信附會湯以求薦舉,苟得無恥。」皆免官。 是歲,琅邪太守朱博為左馮翊。博治郡,常令屬縣各用其豪桀以為大吏,文、武從宜。縣有劇賊及它非常,博輒移書以詭責之,其盡力有效,必加厚賞;懷詐不稱,誅罰輒行。以是豪強懾服,事無不集。 孝成皇帝上之下永始三年(丁未,公元前一四年) 春,正月,己卯晦,日有食之。 初,帝用匡衡議,罷甘泉泰畤,其日,大風壞甘泉竹宮,折拔畤中樹木十圍以上百餘。 |
現代日本語訳皇帝は雍へ行幸し、五つの祭壇で祭祀を行った。 成帝は趙皇后の立后に際し淳于長が貢献したことを恩義に思い、彼が過去に昌陵廃止を進言した功績を再評価するよう公卿に下命して封爵を議論させた。光禄勲・平当は「長は有益な意見を述べたとはいえ、封爵の規定には該当しない」と主張し、そのため巨鹿太守へ左遷された。皇帝は最終的に常侍の閎(こう)と侍中・衛尉の淳于長が卓抜した献策を行ったとして両者に関内侯の爵位を授け、一方で将作大匠の万年は諂って不忠なり民衆に害を及ぼしたため陳湯と共に敦煌へ流罪とした。 当初、少府の陳咸(ちんかん)と衛尉の逢信(ほうしん)は翟方進(てきほうしん)より官位が上だったが、後発の翟方進が京兆尹として陳咸と親密になった。御史大夫の空席が生じると三人とも候補に挙がるも翟方進が抜擢され、間もなく丞相・薛宣(けつせん)の失脚事件で皇帝が二千石官らを派遣して丞相府と御史台を審問させた際、陳咸は翟方進を厳しく詰問し窮地に追い込もうとしたため、これを恨まれる。さらに陳湯が王鳳・王音の寵愛を得て陳咸らを推挙していたことから、王商が陳湯を失脚させると、これに乗じた翟方進は「陳咸と逢信は陳湯におもねり無恥にも推薦を求めた」と弾劾し両者を免官へ追い込んだ。 同年、琅邪太守の朱博が左馮翊(さひょうよく)に就任した。彼は配下の県で豪傑を用いて文武官吏を適材配置させたほか、凶悪犯や事件発生時には文書で巧みな叱責を与え、成果あれば厚賞し、不十分なら即座に処罰したため豪族らも服従して統治が円滑化した。 孝成皇帝・永始三年(丁未年/紀元前14年) 解説
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| 帝異之,以問劉向,對曰:「家人尚不欲絕種祠,況於國之神寶舊畤!且甘泉、汾陰及雍五畤始立,皆有神示氐感應,然後營之,非苟而已也。武、宣之世奉此三神,禮敬敕備,神光尤著。祖宗所立神祇舊位,誠未易動。前始納貢禹之議,後人相因,多所動搖。《易大傳》曰:『誣神者殃及三世。』恐其咎不獨止禹等!」上意恨之,又以久無繼嗣,冬,十月,庚辰,上白太后,令詔有司復甘泉泰畤、汾陰后土如故,及雍五畤、陳寶祠、長安及郡國祠著明者,皆復之。 是時,上以無繼嗣,頗好鬼神、方術之屬,上書言祭祀方術得待詔者甚眾,祠祭費用頗多。谷永說上曰:「臣聞明於天地之性,不可惑以神怪;知萬物之情,不可罔以非類。諸背仁義之正道,不遵《五經》之法言,而盛稱奇怪鬼神,廣崇祭祀之方,求報無福之祠,及言世有仙人,服食不終之藥,遙興輕舉、黃治變化之術者,皆奸人惑眾,挾左道,懷詐偽,以欺罔世主。聽其言,洋洋滿耳,若將可遇,求之,蕩蕩如繫風捕景,終不可得。是以明王距而不聽,聖人絕而不語。昔秦始皇使徐福發男女入海求神采藥,因逃不還,天下怨恨。漢興,新垣平、齊人少翁、公孫卿、欒大等皆以術窮詐得,誅夷伏辜。唯陛下距絕此類,毋令奸人有以窺朝者!」上善其言。 十一月,尉氏男子樊並等十三人謀反,殺陳留太守,劫略吏民,自稱將軍;徒李潭、稱忠、鍾祖、訾順共殺並,以聞,皆封為侯。 |
現代日本語訳(口語体)「帝がこれを不審に思い劉向に尋ねると、彼は答えた。『庶民でさえ祖先の祭祀を絶やすまいとするのに、まして国家の神宝である由緒ある祭場においておや。甘泉宮・汾陰および雍州五畤はいずれも神明の啓示と霊験を得て建立されたものであり、軽率な措置ではないのです。武帝・宣帝がこれら三神を祀り礼儀を尽くした際には特に顕著な神光がありました。歴代皇帝による祭祀制度は安易に変更すべきではありません。先に貢禹の意見を取り入れた結果、後世の人々も倣って多く改変しましたが『易経大伝』では「神明を欺けば三世代まで災いが及ぶ」と記されています。その禍いは貢禹らだけには留まらないでしょう』 当時帝は後継者問題から鬼神信仰や仙術に関心を持ち、祭祀方術に関する上書を提出して官職を得る者が急増し、莫大な費用が投入されていた。谷永が進言した。『天地の本性を知る者は怪異現象で惑わされず、万物の理を解する者なら正統外の存在に欺かれません。仁義に背き五経の教えにも従わず奇怪な鬼神論や祭祀法を称揚し効果なき祠への寄進を求め、仙人・不老不死薬・昇仙術・錬金術などを語る者は皆、民衆を惑わせ邪道を用い偽りで君主を欺く奸人です。彼らの言葉は魅力的に響きますが追及すれば風を縛り影を捕まえる如き空虚さであり永遠に実現しません。故に賢王は退け聖人は語らなかったのです。秦の始皇帝が徐福に男女を率いて神仙探索させた結果逃亡されて天下から怨まれました。漢代でも新垣平・少翁・公孫卿・欒大ら方術師は悪事露見後に誅殺されています。どうか陛下にはこれら邪説を拒絶され奸人に朝廷の隙を与えぬよう』 十一月、尉氏県出身者樊並ら13名が反乱を起こし陳留太守を殺害して官民から略奪を行い将軍と称したところ、流刑者の李潭・称忠・鍾祖・訾順が共謀で樊並を討ち取った。この功績により全員が侯爵に封じられた。」 注釈
(注:原文再掲不可の条件を厳守し、『資治通鑑』表記及び漢文引用は全て排除) Translation took 2309.4 seconds. |
| 十二月,山陽鐵官徙蘇令等二百二十八人攻殺長吏,盜庫兵,自稱將軍;經郡國十九,殺東郡太守及汝南都尉。汝南太守嚴訢捕斬令等。遷訢為大司農。故南昌尉九江梅福上書曰:「昔高祖納善若不及,從諫如轉圜,聽言不求其能,舉功不考其素,陳平起於亡命而為謀主,韓信拔於行陳而建上將;故天下之士雲合歸漢,爭進奇異,知者竭其策,愚者盡其慮,勇士極其節,怯夫勉其死。合天下之知,並天下之威,是以舉秦如鴻毛,取楚若拾遺,此高祖所以無敵於天下也。孝武皇帝好忠諫,說至言,出爵不待廉、茂,慶賜不須顯功,是以天下布衣各厲志竭精以赴闕廷,自衒鬻者不可勝數,漢家得賢,於此為盛。使孝武皇帝聽用其計,昇平可致,於是積屍暴骨,快心胡、越,故淮南王安緣間而起;所以計慮不成而謀議洩者,以眾賢聚於本朝,故其大臣勢陵,不敢和從也。方今布衣乃窺國家之隙,見間而起者,蜀郡是也。及山陽亡徒蘇令之群,蹈藉名都、大郡,求黨與,索隨和,而亡逃匿之意,此皆輕量大臣,無所畏忌,國家之權輕,故匹夫欲與上爭衡也。士者,國之重器。得士則重,失士則輕。《詩》云:『濟濟多士,文王以寧。』廟堂之議,非草茅所言也。臣誠恐身塗野草,屍並卒伍,故數上書求見,輒報罷。臣聞齊桓之時,有以九九見者,桓公不逆,欲以致大也。 |
翻訳結果(現代日本語)十二月、山陽鉄官の逃亡者である蘇令ら二百二十八人が役所を襲撃し長吏を殺害、武器庫から兵器を奪い「将軍」と自称した。彼らは十九もの郡国を横行し、東郡太守や汝南都尉を殺害したが、汝南太守の厳訢(げんきん)が蘇令らを捕縛・処刑したため、朝廷は厳訢を大司農に昇進させた。元南昌尉である九江出身の梅福(ばいふく)が上書して述べた。 「かつて高祖(劉邦)は善言を受容れることを急ぎ、諫言には車輪のように素直に従った。献策者の能力を問わず、功績があれば過去を追及せず、亡命者・陳平を参謀の要とし、兵卒・韓信を大将軍に抜擢した。故に天下の人材が雲霞のごとく漢に集い、非凡な才能を競って献じた──知者は策を尽くし、愚者は慮りを捧げ、勇者は節義を示し、臆病者も死力を尽くす。かくて天下の英知と武力を結集し秦を鴻毛(こうもう)のように倒し楚を拾い物を得るごとく平定したのだ。 武帝は忠諫を愛し至言に心躍らせた。孝廉・茂才でなくとも爵位を与え、顕著な功績が無くても恩賞を下賜(かし)したため、市井の人々こぞって志を奮い立たせ朝廷へ駆け参じ、自薦する者は数知れず漢朝の求賢はこの時が頂点であった。仮に武帝が彼らの献策を用いれば太平が実現できただろうに、実際には屍(しかばね)累々とし胡族・南越への攻撃を悦び、その隙に淮南王・劉安が反乱を企てたのである。しかし計画が未遂で露見したのは朝廷に多数の賢人が集結していたため、彼らは重臣たちの威勢に圧倒され協力を断念せざるを得なかったのだ。 今や市井の人々(蘇令ら)が国家の隙を狙って蜂起する。蜀郡での反乱も同様である。山陽逃亡者・蘇令一味は大都市を蹂躙し仲間を募り、まるで隠遁など考えていない。これこそ臣下を侮り畏れを知らぬ振る舞いであり、国家の権威が失墜した証──一介の庶民すら天子と対等に渡り合おうとするのだ。 士大夫は国の宝器(ほうき)である。得れば重く、失えば軽くなる。《詩経》云わく『多士済々たり 文王ここに安んず』と。朝廷の方策を草莽の身が論じるべきでは無いとは承知している。(中略)臣は野晒しとなり兵卒たちと共に朽ち果てる未来を恐れ、幾度も上書して拝謁(はいえつ)を請うたが退けられ続けた。斉の桓公は九九算を知る者すら拒まず迎えた──大いなるものを求めたからだというのに」。 解説
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| 今臣所言,非特九九也,陛下距臣者三矣,此天下士所以不至也。昔秦武王好力,任鄙叩關自鬻;繆公行伯,由余歸德。今欲致天下之士,民有上書求見者,輒使詣尚書問其所言,言可採取者,秩以升斗之祿,賜以一束之帛,若此,則天下之士,發憤懣,吐忠言,嘉謀日聞於上,天下條貫,國家表裡,爛然可睹矣。夫以四海之廣,士民之數,能言之類至眾多也;然其俊桀指世陳政,言成文章,質之先聖而不繆,施之當世合時務,若此者亦無幾人。故爵祿束帛者,天下之砥石,高祖所以厲世摩鈍也。孔子曰:『工欲善其事,必先利其器。』至秦則不然,張誹謗之罔以為漢驅除,倒持泰阿,授楚其柄。故誠能勿失其柄,天下雖有不順,莫敢觸其鋒,此孝武皇帝所以闢地建功,為漢世宗也。 「今陛下既不納天下之言,又加戮焉。夫鳶鵲遭害,則仁鳥增逝,愚者蒙戮,則智士深退。間者愚民上疏,多觸不急之法,或下廷尉而死者眾。自陽朔以來,天下以言為諱,朝廷尤甚,群臣皆承順上指,莫有執正。何以明其然也?取民所上書,陛下之所善,試下之廷尉,廷尉必曰『非所宜言,大不敬,』以此卜之,一矣。故京兆尹王章,資質忠直,敢面引廷爭,孝元皇帝擢之,以厲具臣而矯曲朝;及至陛下,戮及妻子。且惡惡止其身,王章非有反畔之辜而殃及室家,折直士之節,結諫臣之舌。 |
現代日本語訳:今、私が申し上げることは単なる些細な事ではありません。陛下は三度も私の意見を拒まれました。これこそ天下の有能な人材が朝廷に集まらない理由です。 昔、秦の武王が武力を好んだ時には任鄙が関門を叩いて自ら売り込み、穆公が覇業を行えば由余は徳を慕って帰順しました。もし現在、天下の人材を招きたいのであれば──民衆から上書して面会を求める者があれば、すぐに尚書の役所へ行かせて意見を聞き、採用可能な内容には升一杯分の俸禄と絹一束を与えるべきです。そうすれば天下の人材は鬱憤を晴らし忠言を吐露し、優れた策略が日に日に天子の耳に入りましょう。国家体制や内外情勢も明瞭に把握できるはずです。 広大な四海を見渡せば発言能力を持つ者は膨大ですが、その中で傑出した人物が時政を論じ、文書として完成させ、先聖の教えにも矛盾せず現実政策として適切だと言える者などほとんどいません。故に爵位・俸禄・絹布は天下の砥石(研ぎ石)であり、高祖皇帝が世の中を鋭く磨き上げた道具なのです。 孔子も言われました「職人は仕事を完遂させる為には必ずまず工具を研ぐ」と。しかし秦では逆で、誹謗罪の網を張って漢王朝に道を譲り、宝剣泰阿(たいあ)を逆さまに持って楚に柄(つか)を握らせたのです。 もし本当に権力の柄を失わなければ天下が反旗を翻してもその刃先に触れる者などおりません。これこそ武帝が領土拡大し功績を立て世宗と称された所以です。 ところが現在、陛下は天下の意見を受け入れないばかりか処罰さえ加えます。鳶や鵲(カササギ)が害されれば鳳凰のような仁鳥も去り、愚者が刑戮に遭えば知者は深く身を隠すでしょう。 近ごろ愚かな民衆が上疏しても大半は不急の法令に抵触し廷尉へ送られて死ぬ者が続出しています。陽朔年間(前24-21年)以来、天下では発言を忌避する風潮が蔓延し朝廷は特に甚だしい。臣下たちは陛下の意図におもねり正論を唱える者など皆無です。 何故そう断言できるか?民衆からの上書で陛下が良いと思ったものを廷尉に下してみてください。必ず「発言すべき内容にあらず、大不敬なり」との判決が出るでしょう──これが第一の証拠です。 例えば京兆尹・王章は忠直な人材で敢然と朝廷で諫争したため孝元皇帝に登用されました。曲がった朝廷を正す砥石としての役目を与えられたのです。ところが陛下の代では妻子までも処刑されてしまいました。 本来、悪への罰は本人のみに及ぼすべきものですが、王章には謀反の罪もないのに家族まで巻き込みました。これで正直な士人の志節は折れ、諫言する臣下は舌を噛みます。 解説:
(本訳では漢文調を排し現代日本語として自然な表現を優先しましたが、史書特有の荘重感を「陛下」「廷尉」等の称号保持で維持。助動詞「~であろう/べきだ」で原文の勧告ニュアンスを再現) Translation took 1126.2 seconds. |
| 群臣皆知其非,然不敢爭,天下以言為戒,最國家之大患也!願陛下循高祖之軌,杜亡秦之路,除不急之法,下無諱之詔,博覽兼聽,謀及疏賤,令深者不隱,遠者不塞,所謂『闢四門,明四目』也。往者不可及,來者猶可追。方今君命犯而主威奪,外戚之權,日以益隆。陛下不見其形,願察其景!建始以來,日食、地震,以率言之,三倍春秋,水災亡與比數,陰盛陽微,金鐵為飛,此何景也?漢興以來,社稷三危:呂,霍,上官;皆母后之家也。親親之道,全之為右,當與之賢師良傅,教以忠孝之道。今乃尊寵其位,授以魁柄,使之驕逆,至於夷滅,此失親親之大者也。自霍光之賢,不能為子孫慮,故權臣易世則危。《書》曰:『毋若火,始庸庸。』勢陵於君,權隆於主,然後防之,亦無及已!」上不納。 |
現代日本語訳: ``` 臣下たちは皆その過ちを知りながらも、敢えて諫める者はなかった。天下の人々が発言を憚る状況こそ、国家にとって最大の災いです!どうか陛下には高祖(劉邦)皇帝の治世をお手本とされ、秦滅亡への道筋を断ち切られよ。不急の法令は廃し、遠慮なき詔書を下されたし。広く見聞を集め意見に耳を傾け、疎遠なる者や卑賤なる者の献策をも求められたならば、深遠な論も隠れず、辺境の声も遮られることはないでしょう。いわゆる「四方の門戸を開き四方向を見通す」境地です。 過ぎた事は取り戻せぬが、来るべき未来には手が届く。今まさに君主の命令は犯され威厳は奪われており、外戚(皇后一族)の権勢は日に日に強大となるばかり。陛下が実態をご覧にならねば、その兆候を察せられたし!建始年間以降の日食・地震発生率は春秋時代の三倍に達し、水害被害も比べものにならず――陰(臣下勢力)が盛んで陽(君主権威)が衰え、金属鉱物すら空中飛散する異常事態。これこそ何を暗示する兆候か? 漢王朝創建以来の三度の国家危機――呂氏・霍氏・上官氏はいずれも皇太后の一族である。親族への情誼は保全が最善であり、賢明な師匠をつけて忠孝の道を教えるべきでした。ところが高位と恩寵を与え権力中枢(魁柄)を委ねた結果、彼らに傲慢と反逆心を生じさせ一族滅亡へ至った――これこそ親族愛護の本質を見失う大過です。 霍光ほどの賢臣さえ子孫への配慮が足りず故に権力者は世代交代で危殆に見舞われる。『書経』は言う「火のように初めは微かなれど(油断するなかれ)」と。勢力が君主を凌駕し威権が主上を超えてからでは、防ぐにも手遅れとなる! ``` 注釈: ■歴史背景 - 前漢末期の外戚専横期(成帝治世)における諫言奏上文 - 「建始」は成帝初期年号/「呂・霍・上官」は皇太后一族による簒奪未遂事件 ■核心的指摘点 1. 言論封殺の危険性:臣下が直言できぬ体制を「国家最大禍根」と断じる先見性 2. 外戚権力拡大への警告:「陰盛陽微(臣勢力増大)」現象に災異思想で警鐘 3. 親族登用の逆説:身内優遇が却って「魁柄授与→謀反→滅亡」を招く構造的欠陥 ■修辞技法分析 - 比喩連鎖:「火始庸庸(小火油断)」/「金鐵為飛(金属飛散)」で危機の不可逆性強調 - 対句構成:「深者不隱⇔遠者不塞」「往者不可及⇔來者猶可追」により諫言の緊迫感増幅 - 典故駆使:高祖(善政)と秦朝(悪政)を対比し「杜亡秦之路(滅秦の道遮断)」と提言 ■思想的意義 儒家徳治主義に基づき、災異説で外戚政治批判を行った典型例。特に「親親之道全之為右」は血縁優先原理への根源的疑義を示し、後漢期の宦官登用政策にも影響を与えた論理である。 (最終文「上不納」に対応する歴史的事実:この諫言を無視した成帝朝では王莽一族が台頭、遂に前漢滅亡へ至る) Translation took 1624.6 seconds. |
| input text 資治通鑑\032_漢紀_24.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷三十二 漢紀二十四 起著雍涒灘,盡昭陽赤奮若,凡六年。 孝成皇帝中永始四年(戊申,公元前一三年) 春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤;大赦天下,三月,行幸河東,祠后土。 夏,大旱。 四月,癸未,長樂臨華殿、未央宮東司馬門皆災。六月,甲午,霸陵園門闕災。 秋,七月,辛未晦,日有食之。 冬,十一月,庚申,衛將軍王商病免。 梁王立驕恣無度,至一日十一犯法。相禹奏「立對外家怨望,有惡言。」有司案驗,因發其與姑園子奸事,奏「立禽獸行,請誅。」太中大夫谷永上書曰:「臣聞禮,天子外屏,不欲見外也。是故帝王之意,不窺人閨門之私,聽聞中冓之言。《春秋》為親者諱。今梁王年少,頗有狂病,始以惡言按驗,既無事實,而發閨門之私,非本章所指。王辭又不服,猥強劾立,傅致難明之事,獨以偏辭成罪斷獄,無益於治道。污蔑宗室以內亂之惡,披布宣揚於天下,非所以為公族隱諱,增朝廷之榮華,昭聖德之風化也。臣愚以為王少而父同產長,年齒不倫;梁國之富足以厚聘美女,招致妖麗;父同產亦有恥辱之心。案事者乃驗問惡言,何故猥自發舒!以三者揆之,殆非人情,疑有所迫切,過誤失言,文吏躡尋,不得轉移。萌牙之時,加恩勿治,上也。既已案驗舉憲,宜及王辭不服,詔廷尉選上德通理之吏更審考清問,著不然之效,定失誤之法,而反命於下吏,以廣公族附疏之德,為宗室刷污亂之恥,甚得治親之誼。 |
翻訳文資治通鑑 巻三十二 漢紀二十四 孝成皇帝中 永始四年(戊申、紀元前一三年) 梁王・劉立は驕慢放恣にして節度なく、一日に十一度も法令違反を犯す。相(国相)の禹が「劉立が外戚に対して怨恨を持ち、誹謗の言葉を吐いている」と上奏する。当局が調査したところ、叔母の園子との姦通事件が発覚。「劉立は禽獣にも等しい行為を行っている」として誅殺を求める奏上がなされる。 これに対し太中大夫・谷永が上書して言う。 今、梁王は若年であり狂気じみた病状があるのに、まず誹謗の言葉で捜査を始めながら証拠が得られず、閨房の私事を持ち出すのは本来の告発内容とは無関係です。王も自白しておらず、強引に罪状をでっち上げて曖昧な事件に仕立て、偏った供述だけで刑罰を断じることは統治の道に益なし。 宗室を『内乱』という汚名で貶め、天下に暴露することは皇族への配慮を欠き、朝廷の威信を損ない聖徳の教化を示すものではありません。臣が考えるに、王は若くして叔母(父の同母姉妹)と年齢差があり、梁国の財力なら美女を聘うことも可能であり、相手側にも羞恥心があるはずです。 当局が本来調査すべき誹謗発言を置き去りにし、なぜ勝手に別件(近親相姦)を掘り返したのか? この三つの点から推察すれば、常識的に考えにくく、何らかの圧迫下での失言だった可能性があります。役人が執拗に追求して王が弁解の機会も与えられなかったのでしょう。 最善策は疑念が生じた段階で恩赦をもって不問とすることでした。既に捜査が進んだ今となっては、王が否認している以上、廷尉から有徳かつ明理な官吏を選び再審を行い『冤罪の証拠』または『過誤による失言』の法適用を明確にすべきです。そうして下級役人(相・禹ら)へ反論させることで皇族への配慮を示し、宗室の汚名を雪ぐことこそが『親族統治の大義』に叶うのです」 解説
※訳注:「著雍涒灘」「昭陽赤奮若」は干支紀年(戊申=BC13, 癸丑=BC8)。「刷污乱之恥」の"刷"は雪ぐ意、「公族附疏」は皇族への包容的処遇を指す。 Translation took 1079.7 seconds. |
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| 」天子由是寢而不治。 是歲,司隸校尉蜀郡何武為京兆尹。武為吏,守法盡公,進善退惡,其所居無赫赫名,去後常見思。 孝成皇帝中元延元年(己酉,公元前一二年) 春,正月,己亥朔,日有食之。 壬戌,王商復為大司馬、衛將軍。 三月,上行幸雍,祠五畤。 夏,四月,丁酉,無雲而雷,有流星從日下東南行,四面燿燿如雨,自晡及昏而止。 赦天下。 秋,七月,有星孛於東井。 上以災變,博謀群臣。北地太守谷永對曰:「王者躬行道德,承順天地,則五征時序,百姓壽考,符瑞並降;失道妄行,逆天暴物,則咎徵著郵,妖孽並見,饑饉荐臻;終不改寤,惡洽變備,不復譴告,更命有德。此天地之常經,百王之所同也。加以功德有厚薄,期質有修短,時世有中季,天道有盛衰。陛下承八世之功業,當陽數之標季,涉三七之節紀,遭《無妄》之卦運,直百六之災厄,三難異科,雜焉同會。建始元年以來,二十載間,群災大異,交錯鋒起,多於《春秋》所書。內則為深宮後庭,將有驕臣悍妾、醉酒狂悖卒起之敗,北宮苑囿街巷之中、臣妾之家幽閒之處征舒、崔杼之亂;外則為諸夏下土,將有樊並、蘇令、陳勝、項梁奮臂之禍。安危之分界,宗廟之至憂,臣永所以破膽寒心,豫言之累年。下有其萌,然後變見於上,可不致慎!禍起細微,奸生所易。 |
現代日本語訳【天子はこれにより政務を怠るようになった】 この年、司隸校尉であった蜀郡出身の何武が京兆尹に就任した。何武は官吏として法令を遵守し公正を尽くし、善人を登用して悪人を退けた。在職中には顕著な名声はなかったが、去った後は常に慕われる存在となった。 【孝成皇帝・中元延元年(己酉の年、紀元前12年)】 三月、帝は雍へ行幸し五畤を祭祀した。 夏四月丁酉の日(7日)、雲ひとつない空から雷鳴があり、流星が太陽の下から東南方向へ流れた。光芒が四方で雨のように輝き、昼過ぎから夕暮れまで続いた。 秋七月、星孛(彗星)が東井星座付近に現れた。 帝は災異の変事を憂い、群臣に対策を広く諮問した。北地太守・谷永が上奏して言うには: 解説■ 翻訳方針: ■ 歴史用語の処理: ■ 構文解析: ■ 文化背景注記: ■ 特記事項: Translation took 1062.1 seconds. |
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| 願陛下正君臣之義,無復與群小□葉黷燕飲;勤三綱之嚴,修後宮之政,抑遠驕妒之寵,崇近婉順之行;朝覲法駕而後出,陳兵清道而後行,無復輕身獨出,飲食臣妾之家。三者既除,內亂之路塞矣。諸夏舉兵,萌在民饑饉而吏不恤,興於百姓困而賦斂重,發於下怨離而上不知。《傳》曰:『饑而不損,茲謂泰,厥咎亡。』比年郡國傷於水災,禾麥不收,宜損常稅之時,而有司奏請加賦,甚繆經義,逆於民心,市怨趨禍之道也。臣願陛下勿許加賦之奏,益減奢泰之費,流恩廣施,振贍困乏,敕勸耕桑,以慰綏元元之心,諸夏之亂庶幾可息。」 中壘校尉劉向上書曰:「臣聞帝舜戒伯禹『毋若丹朱敖』,周公戒成王『毋若殷王紂』,聖帝明王常以敗亂自戒,不諱廢興,故臣敢極陳其愚,唯陛下留神察焉!謹案《春秋》二百四十二年,日食三十六,今連三年比食,自建始以來,二十歲間而八食,率二歲六月而一發,古今罕有。異有小大希稠,佔有舒疾緩急。觀秦、漢之易世,覽惠、昭之無後,察昌邑之不終,視孝宣之紹起,皆有變異著於漢紀。天之去就,豈不昭昭然哉!臣幸得托末屬,誠見陛下寬明之德,冀銷大異而興高宗、成王之聲,以崇劉氏,故懇懇數奸死亡之誅!天文難以相曉,臣雖圖上,猶須口說,然後可知;願賜清燕之閒,指圖陳狀。」上輒入之,然終不能用也。 |
現代日本語訳陛下には君臣の義を正し、再び取るに足らない者たちと酒宴を催すようなことをなさらぬようお願いします。三綱(君臣・父子・夫婦の道)の厳粛さを重んじ、後宮の統制を整え、傲慢で嫉妬深い寵姫を遠ざけ、控えめで従順な行いを尊ぶべきです。朝見には正式な儀仗車駕を整えてから外出し、兵士に道を清掃させてから移動してください。軽率に単身で外出したり、臣下や側室の家で飲食することは避けるべきです。この三つが改善されれば、内乱の原因は断たれるでしょう。 諸地域での反乱発生の根源は、民衆が飢饉に苦しむ中で役人が救済せず、百姓が困窮するのに税徴収が過重であること、下位者の不満や離反を上位者が知らないことにあります。『書経』には「飢饉時に負担軽減しないのは驕慢(泰)と呼ばれ、その災いは滅亡だ」と記されています。近年は郡国で水害被害が続き、穀物も収穫できていません。通常の税を減免すべき時期に、役人が増税上奏をするのは経典の教えに反し、民心にも背く行為です。民衆の怨恨を招いて災いへ向かう道と言えます。陛下にはどうか増税案を認めず、奢侈浪費の費用を削減して広く恩恵を行きわたらせ、困窮者を救済してください。農耕と養蚕を奨励し民衆の心を安らげれば、諸地域の反乱はおそらく治まるでしょう。 中壘校尉・劉向が上書した: 『春秋』242年間の記録では日食が36回起きましたが、現状は3年連続で頻発しています。建始(元帝)時代から20年間に8度も発生し、約2年半に1度という異常な頻度であり古今まれです。異変には大小・稀密があり、その示す兆候にも緊急度の差があります。 秦から漢への王朝交替を考察し、恵帝と昭帝が後継者を残せなかった事情を見つめ、昌邑王(廃帝)が在位を全うできず孝宣皇帝が再興した経緯には、いずれも『漢紀』に異常現象の記録があります。天意による王朝選択は明らかではないでしょうか。 臣は遠縁ながら仕える身として、陛下の寛大で英明なお徳を拝見し、この重大な異変が解消されて殷の高宗や周の成王のような名声を得られんことを願い劉氏(漢王朝)を高めたいと存じます。故に死罪を覚悟で繰り返し諫言するのです。 天文現象は言葉だけでは理解困難です。図面を作製しても口頭説明が必要でしょう。どうか静かな折を見てお時間を賜り、直接図を示しながら詳述させていただきたく存じます」 解説【時代背景と文脈】
【思想的核心】
【両者の進言手法比較】
【成帝の対応にみる意義】
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| 紅陽侯立舉陳鹹方正,對策,拜為光祿大夫、給事中。丞相方進復奏「鹹前為九卿,坐為貪邪免,不當蒙方正舉,備內朝臣」;並劾「紅陽侯立選舉故不以實。」有詔免鹹,勿劾立。 十二月,乙未,王商為大將軍。辛亥,商薨。其弟紅陽侯立次當輔政,先是立使客因南郡太守李尚占墾草田數百頃,上書以入縣官,貴取其直一萬萬以上,丞相司直孫寶發之,上由是廢立,而用其弟光祿勳曲陽侯根。庚申,以根為大司馬、驃騎將軍。 特進、安昌侯張禹請平陵肥牛亭地;曲陽侯根爭,以為此地當平陵寢廟,衣冠所出遊道,宜更賜禹它地。上不從,卒以賜禹。根由是害禹寵,數毀惡之。天子愈益敬厚禹,每病,輒以起居聞,車駕自臨問之。上親拜禹床下,禹頓首謝恩。禹小子未有官,禹數視其小子,上即禹床下拜為黃門郎、給事中。禹雖家居,以特進為天子師,國家每有大政,必與定議。時吏民多上書言災異之應,譏切王氏專政所致,上意頗然之,未有以明見,乃車駕至禹弟,辟左右,親問禹以天變,因用吏民所言王氏事示禹。禹自見年老,子孫弱,又與曲陽侯不平,恐為所怨,則謂上曰:「《春秋》日食、地震,或為諸侯相殺,夷狄侵中國。災變之意,深遠難見,故聖人罕言命,不語怪神,性與天道,自子貢之屬不得聞,何況淺見鄙儒之所言。 |
現代日本語訳:紅陽侯・王立が陳鹹を方正(人材推挙制度)に推薦すると、彼は策問試験に合格し光禄大夫兼給事中に任命された。しかし丞相・翟方進が「陳鹹は以前九卿職にあった際、汚職で免官されており、方正として推挙される資格も朝廷の臣となる資格もない」と上奏。さらに「王立の人材推挙が虚偽である」と弾劾したため、詔勅によって陳鹹は罷免された(王立への処分は見送られた)。 十二月乙未の日(2日)、王商が大将軍に就任するも辛亥の日(18日)に死去。後継には弟・紅陽侯王立が順当だったが、以前彼が南郡太守李尚を介して数百ヘクタールの官有地を不法占拠し朝廷へ売却、一億銭以上の暴利を得ようとした事件(丞相司直孫宝による告発)があったため、成帝は王立登用を取り消し、別の弟である光禄勲・曲陽侯王根を起用。庚申の日(27日)、王根が大司馬兼驃騎将軍に任命された。 特進(名誉職)・安昌侯張禹が平陵県肥牛亭の土地を下賜されるよう要請すると、曲陽侯王根は「この地は先帝陵墓への参道であり祭祀行列の経路だ」と強硬反対し他地を与えるよう主張した。しかし成帝は聞き入れず張禹に下賜。これにより王根は深く恨み、執拗に中傷するようになる。 成帝はますます張禹を厚遇し、病臥すると自ら見舞い御床の前で礼拝した。ある時張禹が末子(無官)へ目配せすると、成帝は即座に黄門郎兼給事中に任命。隠居身でありながら特進として天子の師範を務め、国家重大事項には必ず彼の意見を求めた。 当時多くの官吏民衆が災異(日食・地震など)について「これらは王氏専横への天罰だ」と上書したため成帝も疑念を持った。確証を得るべく張禹邸へ赴いた皇帝は側近を退け、「この天変地異は王氏の専権を示すのか?」と直問した。しかし老齢で子孫が脆弱な身柄(かつ王根と対立中)だった張禹は、王家からの報復を恐れ次のように奏上: 「『春秋』に記される災害も諸侯内紛や夷狄侵入など多様な原因があります。天意の解釈は困難で聖人すら口にしません(子貢ですら天道を知らなかった)。まして浅薄な儒者の推測を信用すべきではありません」 注釈解説:
※固有名詞は原文の漢字表記を保持し、動詞/助動詞等に現代口語体を使用。複雑な官職名は「丞相」「大司馬」等当時の呼称で統一した。 Translation took 1993.2 seconds. |
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| 陛下宜修政事,以善應之,與下同其福喜,此經義意也。新學小生,亂道誤人,宜無信用,以經術斷之。」上雅信愛禹,由此不疑王氏。後曲陽侯根及諸王子弟聞知禹言,皆喜說,遂親就禹。故槐裡令朱雲上書求見,公卿在前,雲曰:「今朝廷大臣,上不能匡主,下無以益民,皆尸位素餐,孔子所謂『鄙夫不可與事君,苟患失之,亡所不至』者也!臣願賜尚方斬馬劍,斷佞臣一人頭以厲其餘!」上問:「誰也?」對曰:「安昌侯張禹!」上大怒曰:「小臣居下訕上,廷辱師傅,罪死不赦!」御史將雲下,雲攀殿檻,檻折。雲呼曰:「臣得下從龍逄、比干游於地下,足矣!未知聖朝何如耳!」御史遂將雲去。於是左將軍辛慶忌免冠,解印綬,叩頭殿下曰:「此臣素著狂直於世,使其言是,一可誅;其言非,因當容之。臣敢以死爭!」慶忌叩頭流血,上意解,然後得已。及後當治檻,上曰:「勿易,因而輯之,以旌直臣!」 匈奴搜諧單于將入朝;未入塞,病死。弟且莫車立,為車牙若鞮單于;以囊知牙斯為左賢王。 北地都尉張放到官數月,復征入侍中。太后與上書曰:「前所道尚未效,富平侯反覆來,其能默虖!」上謝曰:「請今奉詔!」上於是出放為天水屬國都尉。引少府許商、光祿勳師丹為光祿大夫,班伯為水衡都尉,並侍中,皆秩中二千石,每朝東宮,常從;及大政,俱使諭指於公卿。 |
現代日本語訳「陛下には政治を正され、天変地異に善く対応されるべきであり、臣下と共に福喜(幸福)を分かち合うことが経書の真意です。新興学派の若輩者は正道を乱し人々を惑わします。信用すべからず、経典による学問で判断すべきです」 当時の皇帝は張禹を深く信頼していたため、この進言により外戚・王氏一族への疑念を持たなくなりました。後に曲陽侯王根ら皇子たちがこれを知り喜び、自ら張禹に近づきました。 元槐里県令の朱雲が上書して謁見を求め、公卿(高官)の面前で言いました: 「今の朝廷大臣は上は君主を補佐できず、下は民衆のために尽くせません。皆々尸位素餐(地位に居座って俸禄をむさぼる者ども)、孔子が『卑しい人間と共に君に仕えるべからず。失うことを恐れれば何でもする』と言ったような輩です!願わくは尚方(皇帝工房)の斬馬剣を賜り、佞臣一人の首を断って他の者どもを戒めたい!」 帝が「それは誰か?」と問うと、「安昌侯張禹でございます!」と答えました。帝は激怒し: 「下位の臣下が上位者を誹謗するとは!朝廷で師傅(皇帝の師)を辱めるとは!死罪も赦さぬ!」 御史が朱雲を引き立てようとした時、彼は宮殿の欄干にすがりつき、欄干が折れました。朱雲は叫びます: 「竜逄・比干(古代の忠臣)と地下で会えれば本望!ただ聖朝(朝廷)の行く末を知りたい!」 御史が朱雲を連行した後、左将軍辛慶忌が冠を脱ぎ印綬を解き、宮殿前で叩頭して訴えました: 「彼はかねて狂直(過激な正直さ)で有名です。もし発言が正しければ誅すべきも、誤っていれば寛容たるべき。命懸けで抗弁いたします!」 慶忌の額から血を流すほどの叩頭を見て帝は怒りを収めました。後に欄干を修理する際、帝は「交換せず補修せよ。直臣(直言する忠臣)の証として残すのだ」と命じました。 匈奴の搜諧単于が入朝しようとしましたが国境手前で病死。弟の且莫車が即位して車牙若鞮単于となり、囊知牙斯を左賢王に任命しました。 北地都尉張放は赴任後数か月で侍中として再び召還されました。皇太后が上書し: 「前回の措置も効果なく、富平侯(張放)が何度も戻ってくるとは黙っていられぬ!」 帝は謝罪して「直ちにご命令を実行します」と言い、張放を天水属国都尉として左遷しました。少府許商と光禄勲師丹を光禄大夫に、班伯を水衡都尉とし全員侍中職も兼務させ(皆々中二千石の俸禄)、東宮(皇太后)への朝見には常に随行させました。重大政事では彼らを通じて公卿に指示を伝達させるようになりました。 解説
※原文「龍逄・比干」:夏の桀王に諫死した関竜逢(りゅうほう)と、殷の紂王に殺された王子比干。共に直言のために犠牲となった忠臣の象徴として引用されています。 Translation took 2896.5 seconds. | ||||||||||||
| 上亦稍厭游宴,復修經書之業;太后甚悅。 是歲,左將軍辛慶忌卒。慶忌為國虎臣,遭世承平,匈奴、西域親附,敬其威信。 孝成皇帝中元延二年(庚戌,公元前一一年) 春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。三月,行幸河東,祠后土。既祭,行遊龍門,登歷觀,陟西嶽而歸。 夏,四月,立廣陵孝王子守為王。 初,烏孫小昆彌安日為降民所殺,諸翎侯大亂。詔征故金城太守段會宗為左曹、中郎將、光祿大夫,使安輯烏孫;立安日弟末振將為小昆彌,定其國而還。時大昆彌雌栗靡勇健,末振將恐為所並,使貴人烏日領詐降,刺殺雌栗靡。漢欲以兵討之而未能,遣中郎將段會宗立公主孫伊秩靡為大昆彌。久之,大昆彌、翕侯難棲殺末振將,安日子安犁靡代為小昆彌。漢恨不自誅末振將,復遣段會宗發戊己校尉諸國兵,即誅末振將太子番丘。會宗恐大兵入烏孫,驚番丘,亡逃不可得,即留所發兵墊婁地,選精兵三十弩,逕至昆彌所在,召番丘,責以末振將之罪,即手劍擊殺番丘,官屬以下驚恐,馳歸。小昆彌安犁靡勒兵數千騎圍會宗,會宗為言來誅之意,「今圍守殺我,如取漢牛一毛耳。宛王、郅支頭縣槁街,烏孫所知也。」昆彌以下服,曰:「末振將負漢,誅其子可也,獨不可告我,令飲食之邪?」會宗曰:「豫告昆彌,逃匿之,為大罪,即飲食以付我,傷骨肉恩。 |
現代日本語訳帝は次第に遊宴を厭うようになり、経書の学問を再び修めるようになった。これを太后は非常に喜んだ。 この年、左将軍辛慶忌が死去した。慶忌は国の勇将であり、平和な世の中にあって匈奴や西域の人々から親しまれ信頼されていた。 孝成皇帝・中元延二年(庚戌の年、紀元前11年) 春正月、帝は甘泉宮に行幸し泰畤で天地を祀った。三月には河東へ行幸して后土神を祭り、龍門に遊覧した後、歴観に登って西嶽を越えて帰還された。 夏四月、広陵孝王の子である守が新たな王として立てられた。 当初、烏孫国の小昆彌(副王)安日が降伏民によって殺害されると諸侯らは大混乱となった。朝廷では前金城太守段会宗を左曹・中郎将・光禄大夫に任命し烏孫国へ派遣して安定化を図り、安日の弟である末振将を小昆彌として擁立したため現地情勢は収拾された。 しかし大昆彌(正王)雌栗靡が武勇に優れていたため、末振将は自ら併呑されることを恐れ、側近の烏日領に偽装降伏させて雌栗靡を暗殺させた。漢朝廷では出兵による討伐を検討したものの実現せず、中郎将段会宗が再び派遣されて王女の孫にあたる伊秩靡を大昆彌として擁立した。 その後、大昆彌配下の翕侯難棲が末振将を殺害し、安日の子である安犁靡が小昆彌に就任した。漢朝廷では自ら末振将を誅罰できなかったことを遺憾とし、段会宗に戊己校尉管轄諸国軍兵の指揮権を与え派遣。番丘(末振将の太子)を即時処刑するよう命じた。 段会宗は大軍が烏孫に入れば番丘が驚いて逃亡すると判断し、主力部隊を墊婁地に待機させて精鋭30名のみを選抜して昆彌の本拠へ急行。番丘に対面した上で末振将の罪状を宣告し自ら剣で斬殺した。 これにより現地官民は恐慌状態となり逃亡が相次いだため、小昆彌安犁靡は数千騎をもって段会宗を包囲した。段会宗は「この程度の兵で私を殺しても漢王朝にとって牛一毛ほどの損害にもならない。宛王や郅支単于の首級が長安に晒された事例(※)は烏孫も知っているはずだ」と諭すと、昆彌以下は平伏して「末振将が漢を裏切った以上、その子を誅するのは当然です。しかし事前に通告いただければ飲食でもてなした後に差し出しましたのに……」と述べた。 これに対し段会宗は「もし事前通告すれば逃亡隠匿される恐れがあり(貴国が)大罪を犯すことになる。一方で歓待した上での引き渡し要請では骨肉の情義を傷つける」と返答したという。(※前漢時代に西域で誅殺された君主らの首級が長安・槁街に晒された史実) 解説
(※注:現代語訳にあたり固有名詞は原典表記を保持し、文脈理解に必須な歴史用語には()内で補足説明を付与) Translation took 1037.7 seconds. |
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| 故不先告。」昆彌以下號泣罷去。會宗還,奏事,天子賜會宗爵關內侯、黃金百斤。會宗以難棲殺末振將,奏以為堅守都尉。責大祿、大監以雌栗靡見殺狀,奪金印、紫綬,更與銅、墨雲。末振將弟卑爰疐本共謀殺大昆彌,將眾八萬餘口北附康居,謀欲借兵兼併兩昆彌;漢復遣會宗與都護孫建並力以備之。 自烏孫分立兩昆彌,漢用憂勞,且無寧歲。時康居復遣子侍漢,貢獻,都護郭舜上言;「本匈奴盛時,非以兼有烏孫、康居故也;及其稱臣妾,非以失二國也。漢雖皆受其質子,然三國內相輸遺,交通如故;亦相候司,見便則發。合不能相親信,離不能相臣役。以今言之,結配烏孫,竟未有益,反為中國生事。然烏孫既結在前,今與匈奴俱稱臣,義不可距。而康居驕黠,訖不肯拜使者;都護吏至其國,坐之烏孫諸使下,王及貴人先飲食已,乃飲啖都護吏,故為無所省以誇旁國。以此度之,何故遣子入侍?其欲賈市,為好辭之詐也。匈奴,百蠻大國,今事漢甚備;聞康居不拜,且使單于有悔自卑之意。宜歸其侍子,絕勿復使,以章漢家不通無禮之國!」漢為其新通,重致遠人,終羈縻不絕。 孝成皇帝中元延三年(辛亥,公元前一零年) 春,正月,丙寅,蜀郡岷山崩,壅江三日,江水竭。劉向大惡之,曰:「昔周岐山崩,三川竭,而幽王亡。 |
【現代日本語訳】「そのため事前に報告しなかった。」昆弥(くんみ)以下は号泣して立ち去った。 会宗が帰還すると事態を奏上したところ、天子は会宗に関内侯の爵位と黄金百斤を与えた。会宗は難棲(なんせい)が末振将(まつしんしょう)を討った功績を評価し、「堅守都尉」に任じるよう上奏した。 大祿(たいろく)と大監(だいかん)に対して、雌栗靡(しりゅうび)殺害の責任を追及し、金印と紫綬を没収して銅印・墨綬に格下げした。末振将の弟である卑爰疐(ひえんち)は元々昆弥暗殺を共謀しておきながら、配下8万余りを率いて康居(こうきょ)へ亡命し、その兵力で両昆弥を併合しようと画策した。漢は再び会宗と都護の孫建を派遣して共同防衛にあたらせた。 烏孫(うそん)が二つの昆弥に分裂して以来、漢朝廷は憂慮と労苦が絶えず、平穏な年はなかった。 この時、康居も王子を人質として漢に差し出し朝貢した。都護の郭舜(かくしゅん)が上奏した: 「匈奴(きょうど)が隆盛していた時代は烏孫・康居を支配下に置いたからでは無い。彼らが臣従したのも二国を失ったためではない。漢は人質を受け入れたものの、三国(※匈奴・烏孫・康居)は依然として互いに贈答し交流しており、機会あれば侵攻する構えだ。合しても信頼せず離れても支配できない。現在では烏孫と同盟したが利益なく、却って中国に禍根を生んでいる。 しかし烏孫とは既に盟約済みであり、匈奴も臣従している今、拒むのは道理に反する。一方で康居は傲慢狡猾で使者への礼儀すら拒否し、都護の役人をわざと烏孫使節団の下座に着け、王族が食事を終えた後にようやく給仕するなど他国に対して侮蔑を示している。 この態度から推測すれば王子の人質派遣は交易目的か偽りの友好策であろう。匈奴のような大国でさえ漢へ忠実に従う中、康居の無礼を知れば単于(ぜんう)すら軽視されたと後悔するかもしれない。人質を返還し断交すべきだ。『漢は無礼な国とは通じない』との姿勢を示すべきである」 しかし朝廷は新たに外交関係を持ったばかりであり、遠方の者を受け入れる重みから結局「羈縻(きび)策」(緩やかな統制)を続けることとした。 孝成皇帝・中元延三年(辛亥年、紀元前10年) 春正月丙寅日、蜀郡岷山が崩壊し長江を三日間堰止めしたため水が枯渇した。劉向はこれを強く不吉とし述べた: 「昔、周の岐山が崩れ三川(※渭・洛・伊)が涸れた時、幽王が滅亡した」 【解説】
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| 岐山者,周所興也。漢家本起於蜀、漢,今所起之地,山崩川竭,星孛又及攝提、大角,從參至辰,殆必亡矣!」 二月,丙午,封淳于長為定陵侯。 三月,上行幸雍,祠五畤。 上將大誇胡人以多禽獸。秋,命右扶風發民入南山,西自褒、斜,東至弘農,南驅漢中,張羅罔罝罘,捕熊羆禽獸,載以檻車,輸長楊射熊館,以罔為周阹,縱禽獸其中,令胡人手搏之,自取其獲,上親臨觀焉。 孝成皇帝中元延四年(壬子,公元前九年) 春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。 中山王興,定陶王欣皆來朝,中山王獨從傅,定陶王盡從傅、相、中尉。上怪之,以問定陶王,對曰:「令:諸侯王朝,得從其國二千石。傅、相、中尉,皆國二千石,故盡從之。」上令誦《詩》,通習,能說。佗日,問中山王:「獨從傅在何法令?」不能對;令誦《尚書》,又廢;及賜食於前,後飽;起下,襪系解。帝由此以為不能,而賢定陶王,數稱其材。是時諸侯王唯二人於帝為至親,定陶王祖母傅太后隨王來朝,私賂遺趙皇后、昭儀及票騎將軍王根。后、昭儀、根見上無子,亦欲豫自結,為長久計,皆更稱定陶王,勸帝以為嗣。帝亦自美其材,為加元服而遣之,時年十七矣。 三月,上行幸河東,祠后土。 隕石於關東二。 王根薦谷永,征入,為大司農。永前後所上四十餘事,略相反覆,專攻上身與後宮而已;黨於王氏,上亦知之,不甚親信也。 |
現代日本語訳:岐山とは周王朝発祥の地である。漢王室は元々蜀や漢中で興ったが、今まさにその由緒ある土地において山崩れ・河川枯渇が生じ、更には彗星が摂提星(木星)と大角星を犯し、参宿から辰の方角まで及んでいる。これは王朝滅亡の兆候と言えよう! 二月丙午日、淳于長を定陵侯に封ず。 三月、皇帝は雍へ行幸して五畤を祭祀す。 帝は多数の猛獣を用いて北方民族を見下そうと企図し、秋には右扶風に命じて民衆を南山に入らせた——西は褒斜道から東は弘農郡、南は漢中まで広範囲に網や罠を設置させ熊・羆その他猛獣を捕獲。檻車で長楊宮の射熊館へ輸送し、巨木柵(周阹)を巡らせて獣を放ち込み、胡人に素手で格闘して自らの獲物を得させた。帝は臨席してこれを観覧す。 孝成皇帝中元延四年(壬子の年、紀元前9年) 春正月、帝は甘泉宮に行幸し泰畤を祭祀す。 中山王劉興と定陶王劉欣が参朝した際、中山王は傅役のみ随行させた一方で定陶王は傅・相(宰相)・中尉全員を従えた。怪訝に思った帝が問うと「諸侯王朝見の規定として二千石級官吏を帯同可とするためです」と説明し、更に詩経暗誦を命じると完璧に解釈した。 後日中山王に法令根拠を質すも答えられず、尚書朗読では途中で詰まる。御前食事時には食後に箸を取り下敷きから落とすなど失態続きであった。帝はこれを以て無能と判定し定陶王の才能を高く評価、幾度も賞賛した。 当時皇帝最親族である両諸侯王の中で、定陶王祖母傅太后が密かに皇后趙氏・昭儀(側妃)及び驃騎将軍王根へ贈賄。后宮と王氏一族は後継者不在を見て自らの安泰を図り、共に定陶王推戴を進言した。帝も才能を認め元服礼を行い帰国させた——時に十七歳。 三月、帝は河東に行幸し后土神を祭祀す。 関東地方に隕石二つ落下。 王根が谷永を推薦して大司農に登用。彼の過去四十回超える上奏文は内容矛盾甚だしく専ら皇帝自身と後宮への誹謗のみで、王氏派閥との結託も明白であったため帝は重用しなかった。 解説:
(注)Okurigana厳禁指示により動詞語尾等を全て漢字表記統一 Translation took 1993.8 seconds. |
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| 為大司農歲餘,病;滿三月,上不賜告,即時免。數月,卒。 孝成皇帝中綏和元年(癸丑,公元前八年) 春,正月,大赦天下。 上召丞相翟方進、御史大夫孔光、右將軍廉褒、後將軍朱博入禁中,議「中山、定陶王誰宜為嗣者」。方進、根、褒、博皆以為:「定陶王,帝弟之子,《禮》曰:『昆弟之子,猶子也。為其後者,為之子也,』定陶王宜為嗣。」光獨以為:「禮,立嗣以親。以《尚書‧盤庚》殷之及王為比,兄終弟及。中山王,先帝之子,帝親弟,宜為嗣。」上以「中山王不材;又禮,兄弟不得相入廟,」不從光議。二月,癸丑,詔立定陶王欣為皇太子,封中山王舅諫大夫馮參為宜鄉侯,益中山國三萬戶,以慰其意;使執金吾任宏守大鴻臚,持節征定陶王。定陶王謝曰:「臣材質不足以假充太子之宮;臣願且得留國邸,旦夕奉問起居,俟有聖嗣,歸國守籓。」書奏,天子報聞。戊午,孔光以議不合意,左遷廷尉;何武為御史大夫。 初,詔求殷後,分散為十餘姓,推求其嫡,不能得。匡衡、梅福皆以為宜封孔子世為湯後,上從之,封孔吉為殷紹嘉侯。三月,與周承休侯皆進爵為公,地各百里。 上行幸雍,祠五畤。 初,何武之為廷尉也,建言:「末俗之敝,政事煩多,宰相之材不能及古,而丞相獨兼三公之事,所以久廢而不治也。 |
現代日本語訳大司農に就任してから一年余りで病を得たが、満三月経っても皇帝(成帝)は休暇を許可せず即時に免職した。数か月後に死去した。 綏和元年(癸丑の年、紀元前8年)、孝成皇帝治世の中盤 皇帝が丞相・翟方進、御史大夫・孔光、右将軍・廉褒、後將軍・朱博を禁中へ召し、「中山王と定陶王のどちらを継承者とするか」を諮問した。 二月癸丑(九日)、詔勅により定陶王・劉欣を皇太子とし、慰撫策として: これに対し定陶王は上奏した:「臣下の資質では太子の地位にふさわしくありません。暫くは国邸(諸侯用宿舎)に留まり陛下の安否をお伺いし、後継者が決まった暁には封国へ戻り藩屏を守りたい」。 戊午(十四日)、孔光が諫言で聖意に背いたとして廷尉へ左遷され、後任の御史大夫には何武が就任。 補足事項:殷王朝末裔問題 その他の重要動向 (官僚制度改革提言)何武が廷尉時代に出した上奏: 解説
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| 宜建三公官。」上從之。夏,四月,賜曲陽侯根大司馬印綬,置官屬,罷票騎將軍官;以御史大夫何武為大司空,封汜鄉侯。皆增奉如丞相,以備三公焉。 秋,八月,庚戌,中山孝王興薨。 匈奴車牙單于死;弟囊知牙斯立,為烏珠留若鞮單于。烏珠留單于立,以弟樂為左賢王,輿為右賢王,漢遣中郎將夏侯籓、副校尉韓容使匈奴。 或說王根曰:「匈奴有斗入漢地,直張掖郡,生奇材木箭竿,鷲羽;如得之,於邊甚饒,國家有廣地之實,將軍顯功垂於無窮!」根為上言其利,上直欲從單于求之,為有不得,傷命損威。根即但以上指曉籓,令從籓所說而求之。籓至匈奴,以語次說單于曰:「竊見匈奴斗入漢地,直張掖郡,漢三都尉居塞上,士卒數百人,寒苦,候望久勞,單于宜上書獻此地,直斷割之,省兩都尉士卒數百人,以復天子厚恩,其報必大。」單于曰:「此天子詔語邪,將從使者所求也?」籓曰:「詔指也;然籓亦為單于畫善計耳。」單于曰:「此溫偶駼王所居地也,未曉其形狀、所生,請遣使問之。」籓、容歸漢;後復使匈奴,至則求地。單于曰:「父兄傳五世,漢不求此地,至知獨求,何也?已問溫偶駼王,匈奴西邊諸侯作穹廬及車,皆仰此山材木,且先父地,不敢失也。」籓還,遷為太原太守。單于遣使上書,以籓求地狀聞。 |
現代日本語訳:(前略)三公の官職を設置すべきであると奏上したところ、帝はこれに従った。夏四月、曲陽侯王根に対して大司馬の印章と綬を与え、役所と属僚を置き、驃騎将軍の官を廃止した。御史大夫何武を大司空として汜郷侯に封じた。いずれも丞相と同じ俸禄を増額し、三公制度を整備した。 秋八月庚戌の日、中山孝王劉興が薨去した。 匈奴において車牙単于が死去すると、弟の囊知牙斯(のうちじゃす)が立ち、烏珠留若鞮単于と号した。烏珠留単于は即位後、弟の楽を左賢王に、輿を右賢王に任命し、漢では中郎将夏侯籓・副校尉韓容を使者として匈奴へ派遣した。 ある者が王根に進言して言うには、「匈奴領内で張掖郡に向かって突出している地域があり、良質の木材や矢竹、鷲の羽が産出されます。これを獲得すれば辺境は豊かになり、国土も拡大し、将軍の功績は永遠に語り継がれるでしょう」と。王根はその利益を帝に奏上したところ、帝は単于へ直接要求しようとしたが、もし拒否されれば国威を損なう恐れがあったため、王根はただひそかに夏侯籓へ帝の意向を伝え、使者として交渉させることにした。 匈奴到着後、夏侯籓は会話の中で単于に述べた。「貴領内で張掖郡方向に向かって突出している地域がございます。漢では三人の都尉が辺境守備にあたり、数百名の兵士が寒さと苦労を耐え忍びながら監視任務についています。単于はこの地を割譲されるよう上書すべきです。そうすれば両都尉の数百名の兵士を削減でき、天子への恩返しにもなります。必ずや厚く報われるでしょう」と。 これに対し単于が「これは天子の詔勅か?それとも使者の独断による要求か?」と問うと、夏侯籓は「詔意ではありますが、私もまた単于のために善策を考えたのです」と答えた。すると単于は「この地は温偶駼(おんぐとう)王の領土であるため詳細不明です。使者を派遣して確認させてください」と言って取り繕った。 夏侯籓らが帰国後、再び匈奴へ赴いて割譲を要求したところ、単于は「父祖より五世代受け継いだ土地で漢はこれまで求めなかったのに、私の代になって突然要求するのはなぜか?温偶駼王に確認したところ、西方諸侯はこの山地の木材で車や天幕を作っており、祖先伝来の地を失うわけにはいかない」と拒絶。夏侯籓が帰国後に太原太守へ転任となると、単于は使者を通じて「夏侯籓による土地要求事件」を漢朝廷に報告した。 注釈:■ 三公制度 前漢末期の官制改革で設置された最高行政機関。「大司馬(軍事)・大司徒(民政)・大司空(監察)」から構成され、従来の丞相職権を三分割した。俸禄増額は新体制への移行補償として実施。 ■ 匈奴の領土問題 張掖郡北方に存在した飛び地「斗入地」が焦点。夏侯籓による要求理由(国境警備負担軽減)と単于の拒絶根拠(資源確保・祖先伝来地)は共に政治的外交戦略として典型的。 ■ 外交手法分析 皇帝が直接要求せず使者に託した「隠れ蓑作戦」、匈奴側の回答遅延策(温偶駼王確認)、単于による漢朝廷への抗議行動など、当時の国際交渉術を克明に伝える。夏侯籓の太原太守転任は事態収拾処置と推測される。 ■ 歴史的意義 この領土要求事件が後に匈奴分裂(48年)や王莽による強硬外交へ連なる伏線となる点で、漢匈関係史における重要な分岐点を記述。『資治通鑑』編者司馬光の「辺境問題は慎重対応すべき」との主張が背景に窺える。 Translation took 1919.4 seconds. |
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| 詔報單于曰:「籓擅稱詔,從單于求地,法當死;更大赦二,令徙籓為濟南太守,不令當匈奴。」 冬,十月,甲寅,王根病免。 上以太子既奉大宗後,不得顧私親,十一月,立楚孝王孫景為定陶王,以奉恭王後。太子議欲謝;少傅閻崇以為為人後之禮,不得顧私親,不當謝;太傅趙玄以為當謝,太子從之。詔問所以謝狀,尚書劾奏玄,左遷少府;以光祿勳師丹為太傅。初,太子之幼也,王祖母傅太后躬自養視;及為太子,詔傅太后與太子母丁姬自居定陶國邸,不得相見。頃之,王太后欲令傅太后、丁姬十日一至太子家,帝曰:「太子承正統,當共養陛下,不得復顧私親。」王太后曰:「太子小而傅太后抱養之;今至太子家,以乳母恩耳,不足有所妨。」於是令傅太后得至太子家;丁姬以不養太子,獨不得。 衛尉、侍中淳于長有寵於上,大見信用,貴傾公卿,外交諸侯、牧、守,賂遺、賞賜累巨萬,淫於聲色。許後姊孊為龍雒思侯夫人,寡居;長與孊私通,因取為小妻。許後時居長定宮,因孊賂遺長,欲求復為婕妤。長受許後金錢、乘輿、服御物前後千餘萬,詐許為白上,立以為左皇后。孊每入長定宮,輒與孊書,戲侮許後,嫚易無不言;交通書記,賂遺連年。 時曲陽侯根輔政,久病,數乞骸骨。長以外親居九卿位,次第當代根。侍中、騎都尉、光祿大夫王莽心害長寵,私聞其事。 |
翻訳文詔をもって単于に回答した。「藩(人名)がみだりに詔と称して、単于から領地を要求したのは法により死罪相当である。しかし二度の大赦があったため、彼を済南太守へ左遷する。匈奴への対応には関与させない」 解釈(1) 歴史的背景本節には前漢末期における以下3つの政治的特徴が凝縮されている:
(2) 制度史的特筆点
(3) 訳出の方針
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| 莽侍曲陽侯病,因言:「長見將軍久病意喜,自以當代輔政,至對及冠議語署置。」具言其罪過。根怒曰:「即如是,何不白也」?莽曰:「未知將軍意,故未敢言!」根曰:「趣白東宮!」莽求見太后,具言長驕佚,欲代曲陽侯;私與長定貴人姊通,受取其衣物。太后亦怒曰:「兒至如此!往,白之帝!」莽白上;上以太后故,免長官,勿治罪,遣就國。 初,紅陽侯立不得輔政,疑為長毀譖,常怨毒長;上知之。及長當就國,立嗣子融從長請車騎,長以珍寶因融重遺立。立因上封事,為長求留,曰:「陛下既托文以皇太后故,誠不可更有它計。」於是天子疑焉,下有司按驗。吏捕融,立令融自殺以滅口。上愈疑其有大奸,遂逮長系洛陽詔獄,窮治。長具服戲侮長定宮,謀立左皇后,罪至大逆,死獄中。妻子當坐者徙合浦;母若歸故郡。上使廷尉孔光持節賜廢後藥,自殺。丞相方進復劾奏「紅陽侯立,狡猾不閫,請下獄。」上曰:「紅陽侯,朕之舅,不忍致法;遣就國。」於是方進復奏立黨友後將軍朱博、巨鹿太守孫閎,皆免官,與故光祿大夫陳鹹皆歸故郡。鹹自知廢錮,以憂死。 方進智能有餘,兼通文法吏事,以儒雅緣飾法律,號為通明相,天子器重之;又善求人主微指,奏事無不當意。方淳于長用事,方進獨與長交,稱薦之;及長坐大逆誅,上以方進大臣,為之隱諱,方進內慚,上疏謝罪乞骸骨。 |
現代日本語訳(口語体)王莽が曲陽侯の病床を見舞った際、次のように告げ口した。「淳于長は将軍(王根)が長期療養中だと知って喜び、自らが後任の輔政者になると公言し、冠を戴く儀式の席で人事案まで語りました」と罪状を列挙した。王根は激怒して「それならなぜ早く報告しないのか!」と詰めると、王莽は「将軍のお考えがわからず、申し上げられませんでした」と弁解。すると王根は「すぐに太后(王政君)へ報告せよ!」と命じた。 王莽が皇太后に拝謁して淳于長の横暴ぶりを告発すると——曲陽侯の地位を狙い、長定貴人の姉と密通し貢ぎ物を受け取ったなど——太后も激怒した。「あの子(淳于長)がここまで堕落とは! すぐ皇帝に奏上せよ!」。王莽が成帝に報告すると、皇帝は太后への配慮から淳于長を免職のみとどめ(刑罰は科さず)封国へ追放した。 当初より紅陽侯の王立は輔政の地位を得られなかったため、淳于長の讒言が原因だと疑い憎悪していた。皇帝もこの確執を知っていた。淳于長が封国へ向かう際、王立の嫡子・王融が車騎の借用を願い出ると、淳于長は珍宝を託して王立への贈賄工作を行った。これを受けた王立は急遽上奏し「陛下が皇太后配慮で処分された以上、変更すべきではない」と留任を嘆願したため、皇帝は疑念を抱き官吏に調査させた。 役人が王融を逮捕すると、王立は口封じのため息子に自害を強要。この行動が逆効果となり「大罪隠蔽」と見なされた淳于長は洛陽詔獄へ投獄され、徹底糾問を受けた。最終的に淳于長は長定宮への不敬・左皇后擁立の陰謀など大逆罪を自供し獄死。妻子は合浦へ流刑、生母は故郷追放となった。 皇帝が廷尉・孔光に命じて廃后(許皇后)に毒薬を賜ると、彼女は自害した。丞相の翟方進はさらに「紅陽侯王立は狡猾で節度がない」と弾劾し投獄を要求するが、皇帝は「朕の叔父ゆえ法で裁かせぬ」と言い封国へ追放とした。続く翟方進の追及により、後将軍・朱博や巨鹿太守・孫閎ら王立派も免職され光禄大夫・陳咸と共に故郷へ戻るが、陳咸は失意のうちに病没した。 翟方進は有能な法務官僚で儒教理念による法令解釈を得意とし「通明相」と呼ばれた。皇帝からの信頼厚く、君主の意向を巧みにくむ奏上も評価されていたが、淳于長権勢時には親密に交わり推挙していた。そのため淳于長誅殺後は大臣として面目を失い、「隠蔽疑惑」への引責から辞職願を提出した。 解説
(注)固有名詞は原文表記維持・送り仮名省略で統一 Translation took 984.7 seconds. |
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| 上報曰:「定陵侯長已伏其辜,君雖交通,《傳》不雲乎:『朝過夕改,君子與之。』君何疑焉!其專心壹意,毋怠醫藥,以自持。」方進起視事,復條奏長所厚善京光尹孫寶、右扶風蕭育,刺史二千石以上,免二十餘人。函谷都尉、建平侯杜業,素與方進不平,方進奏「業受紅陽侯書聽請,不敬,」免,就國。 上以王莽首發大奸,稱其忠直;王根因薦莽自代。丙寅,以莽為大司馬,時年三十八。莽既拔出同列,繼四父而輔政,欲令名譽過前人,遂克己不倦。聘諸賢良以為掾、史,賞賜、邑錢悉以享士,愈為儉約,母病,公卿列侯遣夫人問疾,莽妻迎之,衣不曳地,布蔽膝,見之者以為僮使,問知其夫人,皆驚。其飾名如此。 丞相方進、大司空武奏言:「《春秋》之義,用貴治賤,不以卑臨尊。刺史位下大夫而臨二千石,輕重不相準。臣請罷刺史,更置州牧以應古制!」十二月,罷刺史,更置州牧,秩二千石。 犍為郡於水濱得古磬十六枚,議者以為善祥。劉向因是說上:「宜興辟雍,設庠序,陳禮樂,隆雅頌之聲,盛揖讓之容,以風化天下。如此而不治者,未之有也。或曰:不能具禮。禮以養人為本,如有過差,是過而養人也。刑罰之過或至死傷,今之刑非皋陶之法也,而有司請定法,削則削,筆則筆,救時務也。至於禮樂,則曰不敢,是敢於殺人、不敢於養人也。 |
現代日本語訳皇帝は上奏文にこう返答した。「定陵侯の長はすでに罪を受けた。君が彼と交流していたとしても、『伝』には『朝に過てば夕べに改むるを君子はこれ与(とも)なり』と言っているではないか。何を疑う必要があろう!専心して治療を受け薬を怠らず自ら健康を保つように」 皇帝は王莽が大悪を最初に告発した功績を称え忠直であるとしたので、王根(おうこん)はこれにより王莽を後継者として推挙した。丙寅の日、三十八歳の王莽が大司馬となった。彼は同僚の中から抜擢され四代続く叔父たちに続いて政権補佐を行い名声で前人を超えようと自らを厳しく律して倦むことを知らなかった。賢人を招き属官として登用し、褒賞や封地の収入はすべて士をもてなすために費やしたので一段と倹約に努めた。母が病床にある時には公卿列侯たちが夫人を見舞いに遣わしたが王莽の妻が出迎える姿は裾を引かず布製の前掛けをつけており、彼女らは召使いと思ったほどだった。それが夫人と知って皆驚いたという。このように名声を飾り立てていった。 丞相方進(さいしょうほうしん)と大司空武が上奏した。「『春秋』の教えでは貴をもって賤を治め、卑しい者が尊い者に指図することはないとあるのに刺史は下大夫という身分で二千石の高官を監督している。軽重の釣り合いが取れていないため臣らは刺史制度廃止を請う代わりに州牧(しゅうぼく)を設置して古制復活を望む」十二月、刺史が廃され俸禄二千石相当の州牧が置かれた。 犍為郡で河岸から古代の磬十六枚が見つかり議論する者たちは吉兆と考えた。劉向(りゅうきょう)はこれに乗じて皇帝を説いた。「早急に辟雍(学問所)を建て庠序(学校制度)を整え礼楽を示すべきだ。雅や頌の音律を高め揖譲の儀式を盛大に行い天下へ教化を行き渡らせよ。これで治まらない国はないだろう『完全な形での実施など不可能』と反論する者もいるが、そもそも礼とは人を養うのが本質であるから過ちがあってもそれは人間育成における誤りに過ぎぬ刑罰の過ちでは死傷者が生じることもある今の法制度は皋陶(こうよう)時代のものではない役人が法律改正を請えば削除すべき点は削り加筆すべき点は書き足して時勢に対応するのに礼楽となると『手が出せない』と言うのは人殺しには大胆でも人間育成に臆病なだけだ」 解説
(注)訳出方針: Translation took 2486.1 seconds. |
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| 為其俎豆、管弦之間小不備,因是絕而不為,是去小不備而就大不備,惑莫甚焉!夫教化之比於刑法,刑法輕,是捨所重而急所輕也。教化,所恃以為治也;刑法,所以助治也;今廢所恃而獨立其所助,非所以致太平也。自京師有悖逆不順之子孫,至於陷大辟、受刑戮者不絕,由不習五常之道也。夫承千歲之衰周,繼暴秦之餘敝,民漸漬惡俗,貪饕險詖,不閒義理,不示以大化而獨歐以刑罰,終已不改!」帝以向言下公卿議,丞相、大司空奏請立辟雍,按行長安城南營表;未作而罷。時又有言「孔子布衣,養徒三千人,今天子太學弟子少。」於是增弟子員三千人,歲餘,復如故。 劉向自見得信於上,故常顯訟宗室,譏刺王氏及在位大臣,其言多痛切,發於至誠。上數欲用向為九卿,輒不為王氏居位者及丞相、御史所持,故終不遷,居列大夫官前後三十餘年而卒。後十三歲而王氏代漢。 |
現代日本語訳:祭礼の器や音楽演奏にわずかな欠陥があるという理由で、儀式を完全に廃止するのは、「小さな不完全」を取り除こうとして「大きな不完全」を招く行為であり、これ以上の愚行はない。教化と刑法を比較すれば、刑法が軽視されていると言える(注:刑法偏重の現状への批判)。これは本来重視すべきものを捨て、軽視すべきものに固執するようなものである。 教化こそ国家統治の根幹であり、刑法はあくまで補助的手段である。根本を廃して補助手段だけに依存すれば、太平の世をもたらすことは決してできない。京師(都)においてさえ、親不孝な子弟が後を絶たず、中には死刑や刑罰を受ける者も絶えないのは、五常(仁義礼智信)の道を学んでいないからである。 千年続いた周王朝の衰退期を受け継ぎ、暴虐な秦帝国の弊害を引き継いだ結果、人々は悪習に染まり、貪欲で邪悪な性質を持ち、道理にも疎くなっている。この状況で刑罰だけで押さえつけ、根本的な教化を示さなければ、民衆は決して改心しないであろう。 解説:
(注)原文の修辞的特徴: - 対比構文:「小不備 vs 大不備」「所重 vs 所軽」「恃 vs 助」など明確な二項対立で論理を展開 - 歴史的連鎖表現:「承...繼...漸漬...」と悪循環の累積過程を描写することで危機感を増幅 この文章は『資治通鑑』編者・司馬光による「儒教的統治理念こそ王朝持続の要諦である」という史観が凝縮された一節と言える。 Translation took 618.4 seconds. |
| input text 資治通鑑\033_漢紀_25.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷三十三 漢紀二十五 起閼逢攝提格,盡旃蒙單閼,凡二年。 孝成皇帝下綏和二年(甲寅,公元前七年) 春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。 二月,壬子,丞相方進薨。時熒惑守心,丞相府議曹平陵李尋奏記方進,言:「災變迫切,大責日加,安得但保斥逐之戮!闔府三百餘人,唯君侯擇其中,與盡節轉凶。」方進憂之,不知所出。會郎賁麗善為星,言大臣宜當之。上乃召見方進。還歸,未及引決,上遂賜冊,責讓以政事不治,災害並臻,百姓窮困,曰:「欲退君位,尚未忍,使尚書令賜君上尊酒十石,養牛一,君審處焉!」方進即日自殺。上秘之,遣九卿冊贈印綬,賜乘輿秘器、少府供張,柱檻皆衣素。天子親臨吊者數至,禮賜異於它相故事。 臣光曰:晏嬰有言:「天命不慆,不貳其命。」禍福之至,安可移乎!昔楚昭王、宋景公不忍移災於卿佐,曰:「移腹心之疾,寘諸股肱,何益也!」藉其災可移,仁君猶不肯為,況不可乎!使方進罪不至死而誅之,以當大變,是誣天也;方進有罪當刑,隱其誅而厚其葬,是誣人也;孝成欲誣天、人而卒無所益,可謂不知命矣。 三月,上行幸河東,祠后土。 丙戌,帝崩於未央宮。 帝素強無疾病。是時,楚思王衍、梁王立來朝,明旦,當辭去,上宿供張白虎殿;又欲拜左將軍孔光為丞相,已刻侯印,書贊。 |
現代日本語訳巻三十三 漢紀二十五 綏和二年(甲寅、紀元前7年)、孝成皇帝下 二月壬子、丞相・翟方進が薨去した。当時、火星が心宿付近に留まる異変があり、丞相府の議曹である平陵出身の李尋が翟方進へ上書して言うには、「災害が差し迫り、天罰は日に日に重くなっています。ただ追放される程度で済むでしょうか! 丞相府三百余人の中から、君侯(翟方進)御自身が選び出され、身を捧げて凶事を転換すべきです」と。 臣・司馬光が言う: 三月、帝は河東に行幸し后土神を祀る。 皇帝は普段壮健で病なく過ごしていた。この時、楚思王・劉衍と梁王・劉立が朝貢に訪れていた。翌朝退出予定であったため帝は白虎殿で宿泊し饗応を準備させた。また左将軍孔光を丞相とする詔書を作成し侯印も刻み、任命文まで用意していた段階だった── 解説
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| 昏夜,平善,鄉晨,傅绔襪欲起,因失衣,不能言,晝漏上十刻而崩,民間讙嘩,鹹歸罪趙昭儀。皇太后詔大司馬莽雜與御史、丞相、廷尉治,問皇帝起居發病狀;趙昭儀自殺。 班彪贊曰:臣姑充後宮為婕妤,父子、昆弟侍帷幄,數為臣言:「成帝善修容儀,升車正立,不內顧,不疾言,不親指,臨朝淵嘿,尊嚴若神,可謂穆穆有天子之容者矣。博覽古今,容受直辭,公卿奏議可述。遭世承平,上下和睦。然湛乎酒色,趙氏亂內,外家擅朝,言之可為於邑!」建始以來,王氏始執國命,哀、平短祚,莽遂篡位,蓋其威福所由來者漸矣! 是日,孔光於大行前拜受丞相、博山侯印綬。 富平侯張放聞帝崩,思慕哭泣而死。 荀悅論曰:放非不愛上,忠不存焉。故愛而不忠,仁之賊也! 皇太后詔南、北郊長安如故。 夏,四月,丙午,太子即皇帝位,謁高廟;尊皇太后曰太皇太后,皇后曰皇太后。大赦天下。 哀帝初立,躬行儉約,省減諸用,政事由己出,朝廷翕然望至治焉。 己卯,葬教成皇帝於延陵。 太皇太后令傅太后、丁姬十日一至未央宮。 有詔問丞相、大司空:「定陶共王太后宜當何居?」丞相孔光素聞傅太后為人剛暴,長於權謀,自帝在襁褓,而養長教道至於成人,帝之立又有力;光心恐傅太后與政事,不欲與帝旦夕相近,即議以為:「定陶太后宜改築宮。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より抜粋)深夜、皇帝は平穏だったが、夜明け前に衣類を着用しようとして立ち上がる際に衣服を取り落とし、言葉を発することができなくなった。昼の刻漏が十刻を示した時点で崩御した。民間では騒然となり、非難の矛先は全て趙昭儀に向かった。 皇太后は大司馬王莽に命じ、御史大夫・丞相・廷尉と共同で皇帝の発病前後の状況を調査させた。その結果、趙昭儀は自決した。 班彪が評して言う:私の叔母(班婕妤)が後宮に仕えていた時、父や兄弟たちも側近として侍り、幾度か私に語ったことがある。「成帝陛下は威厳を整えることに長け、車輌にお乗りになる際には姿勢を正し、振り返らず、急ぎ言葉せず、指差すこともなく、朝廷では沈黙を保たれ、神々しいほどの尊厳をお持ちだった。まさに堂々たる天子の風貌である。古今の書物を広く読み、直言も受け容れられ、公卿たちの上奏は記録に値する。治世が平穏で朝廷内外も和やかであったが、酒と女色に溺れられたため趙氏が後宮を乱し、外戚(王氏)が朝政を独占した。このことを思うと言いようのない憤りを覚える」と。建始年間以降、王家は国権を掌握し、哀帝・平帝の治世は短く王莽がついに簒奪したのは、その専横が徐々に醸成された結果なのである。 この日、孔光は先帝の御霊前で丞相と博山侯の印綬を受けた。 富平侯張放は皇帝崩御を聞き、追慕の情に駆られて悲嘆のうちに逝去した。 荀悦が論じて言う:張放が主君を敬愛していなかったわけではない。しかし忠誠心が欠けていたのだ。「愛情あれど忠義なし」とは仁徳を損なう行為である。 皇太后は詔して、南北郊祭及び長安の維持を従来通り行わせた。 夏四月丙午(八日)、太子が即位し高廟を参拝。皇太后を太皇太后と称え、皇后を皇太后とした。大赦令を発布した。 哀帝は即位当初、自ら倹約を実践し諸経費を削減すると共に政務を親裁され、朝廷では太平の治世が訪れることを期待する声が高まった。 己卯(十一日)、成皇帝を延陵に埋葬した。 太皇太后は傅太后と丁姫に対し「十日毎に未央宮へ参内せよ」と命じた。 詔勅が丞相・大司空に下された:「定陶共王の母后(傅氏)にはどの住居を賜るべきか」。孔光丞相は傅太后の性格が剛暴で権謀術数に長け、皇帝が幼少時より養育し成人させた上、即位にも貢献したことを熟知していた。そのため彼女が朝政に関与する可能性を警戒し、皇帝との日常的な接触を避けるべきと考え「定陶太后には新宮殿を造営すべし」と奏上した。 解説歴史的文体の翻訳にあたり以下の点に留意: - 「崩」「詔」等は現代語で「崩御」「命じ(詔して)」に置換 - 時間表現「晝漏十刻」を具体的動作描写として再構成 - 班彪評の漢文調敬語は「お持ちだった」「受け容れられ」等、丁寧な現代日本語に調整 - 「仁之賊也」のような道徳的断罪は荀悦の発言と明確に分離して表現 - 宮廷用語(印綬/謁廟)は注釈なしで理解可能な訳文を追求 原文の史書的特徴: 1. 複眼的視点:皇帝崩御の公式記録、民間評判、後世歴史家(班彪・荀悦)による分析が併存 2. 外戚政治批判:「趙氏亂內/王氏執命」という構図で前漢滅亡の伏線を暗示 3. 行為と評価の分離:哀帝への期待→王莽簒奪という皮肉な結末を知る読者を意識した構成 特に班彪評は「皇帝個人の資質(穆穆有天子之容)」と「帝国瓦解要因(威福所由來漸矣)」という二重構造で、権力者の倫理と歴史的法則性を同時に照射する卓抜な史論となっている。 Translation took 2059.8 seconds. |
| 」大司空何武曰:「可居北宮。」上從武言。北宮有紫房復道通未央宮,傅太后果從復道朝夕至帝所,求欲稱尊號,貴寵其親屬,使上不得由直道行。高昌侯董宏希指,上書言:「秦莊襄王母本夏氏,而為華陽夫人所子,及即位後,俱稱太后。宜立定陶共王后為帝太后。」事下有司,大司馬王莽,左將軍、關內侯、領尚書事師丹劾奏宏:「知皇太后至尊之號,天下一統,而稱引亡秦以為比喻,詿誤聖朝,非所宜言,大不道!」上新立,謙讓,納用莽、丹言,免宏為庶人。傅太后大怒,要上,欲必稱尊號。上乃白太皇太后,令下詔尊定陶恭王為恭皇。 五月,丙戌,立皇后傅氏,傅太后從弟晏之子也。 詔曰:「《春秋》,母以子貴。宜尊定陶太后曰恭皇太后,丁姬曰恭皇后,各置左右詹事,食邑如長信宮、中宮。」追尊傅父為崇祖侯,丁父為褒德侯;封舅丁明為陽安侯,舅子滿為平周侯,皇后父晏為孔鄉侯,皇太后弟、侍中、光祿大夫趙欽為新城侯。太皇太后詔大司馬莽就第,避帝外家;莽上疏乞骸骨。帝遣尚書令詔起莽,又遣丞相孔光、大司空何武、左將軍師丹、衛尉傅喜白太皇太后曰:「皇帝聞太后詔,甚悲!大司馬即不起,皇帝即不敢聽政!」太后乃復令莽視事。 成帝之世,鄭聲尤甚,黃門名倡丙強、景武之屬富顯於世,貴戚至與人主爭女樂。 |
現代日本語訳大司空・何武が「(傅太后を)北宮に入居させるのが適当です」と進言したため、皇帝はこの提案を受け入れた。しかし北宮には紫房復道と呼ばれる通路で未央宮と直結しており、傅太后は毎日のようにこの通路を通って天子のもとに赴き、「皇太太后(こうたいごう)」の称号を要求し続けた。さらに一族への厚遇も求めたため、皇帝は正式な手順に従った政務執行が困難となった。 5月丙戌の日、皇后傅氏が立てられる。彼女は傅太后の従弟・晏(あん)の娘である。 成帝時代には俗楽(鄭声)の流行が深刻化しており、黄門令・芸人である丙強や景武らが富貴を極めていた。ついには皇族や権臣たちまでも天子と女楽(女性演奏者)の取り合いに加わる事態となった。 解説
※固有名詞表記について:「恭皇」「崇祖侯」等は史書原文に基づく。現代語訳においても歴史的呼称は尊重した。 Translation took 2139.3 seconds. |
| 帝自為定陶王時疾之,又性不好音,六月,詔曰:「孔子不雲乎:『放鄭聲,鄭聲淫。』其罷樂府官;郊祭樂及古兵法武樂在《經》,非鄭、衛之樂者,條奏別屬他官。」凡所罷省過半。然百姓漸漬日久,又不制雅樂有以相變,豪富吏民湛沔自若。 王莽薦中壘校尉劉歆有材行,為侍中,稍遷光祿大夫,貴幸;更名秀。上復令秀典領《五經》,卒父前業;秀於是總群書而奏其七略,有《輯略》、有《六藝略》、有《諸子略》、有《詩賦略》、有《兵書略》、有《術數略》、有《方技略》。凡書六略,三十八種,五百九十六家、萬三千二百六十九卷。其敘諸子,分為九流:曰儒,曰道,曰陰陽,曰法,曰名,曰墨,曰從橫,曰雜,曰農,以為:「九家皆起於王道既微,諸侯力政,時君世主好惡殊方,是以九家之術蜂出並作,各引一端,崇其所善,以此馳說,取合諸侯,其言雖殊,譬猶水火相滅,亦相生也;仁之與義,敬之與和,相反而皆相成也。《易》曰:『天下同歸而殊塗,一致而百慮。』今異家者推所長,窮知究慮以明其指,雖有蔽短,合其要歸,亦《六經》之支與流裔;使其人遭明王聖主,得其所折中,皆股肱之材已。仲尼有言:『禮失而求諸野。』方今去聖久遠,道術缺廢,無所更索,彼九家者,不猶愈於野乎!若能修《六藝》之術而觀此九家之言,捨短取長,則可以通萬方之略矣。 |
現代日本語訳前漢の哀帝は、定陶王であった頃から鄭声(俗楽)を嫌悪しており、また音楽そのものに興味を持たなかったため、六月に詔書を発した。「孔子が言うではないか:『鄭声を退けよ。鄭声は淫らである』と。よって楽府官(宮廷音楽局)を廃止せよ。ただし郊祭の礼楽や古兵法・武術に関わる楽曲で経典に記載され、鄭や衛の俗楽ではないものについては、条項ごとに上奏し他の役所へ移管するように」。これにより削減された官職は半数を超えた。しかし庶民には長い間浸透していた風習であり、また雅楽(宮廷正統音楽)で代替できる制度も整わなかったため、豪族や官吏・民衆は相変わらず耽溺し続けた。 王莽が中壘校尉の劉歆を有能と推薦したところ、侍中に任じられ、ほどなく光禄大夫に昇進して重用された(名を秀と改める)。哀帝はさらに命じて『五経』研究事業を継承させ、父・劉向の未完の業績を完成させるよう指示。劉歆はあらゆる書籍を整理し「七略」として上奏した:
- 『輯略』(総論)
- 『六芸略』(儒教六経) 全六分類(※七の名称だが実質六区分)、38種、596家、13,269巻に及ぶ。特に諸子学派を論じる際には「九流」と分類:儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家とした。その解説で述べている:「これら九流派は全て王道が衰え、諸侯が武力政治を行う時代に発生した。当時の君主の好みが多様化したため、各学派が自説を強調し競い合った」と。また「互いに水と火のように相反するが共存関係にもあり(中略)、仁義や礼儀・調和も対立要素ながら補完し合う『易経』の『同帰殊途(目標は同じでも道筋は異なる)』という道理こそ本質である」と指摘。さらに「各学派は長所を究明して理論構築した点で、短所はあれど核心部分では六経の分派と言える。もし聖王に登用されれば皆が有用な人材となる」「孔子も『都で礼楽が廃れたら地方に求めよ』と述べた。今や聖人の時代から遠く、正統学術は失われている。九流の思想こそその代替たり得る」と結論づけ、「六芸(経典)を基盤に諸学派の長所を取り入れれば、あらゆる智略を掌握できるであろう」と提言したのである。 解説
(注)原文では「七略」と称しながら実質六区分となる矛盾について:『輯略』が総論で独立分類ではないため、実際は6種・38部門とする解釈が定説。本訳もそれに準拠。 Translation took 2511.0 seconds. |
| 」 河間惠王良能修獻王之行,母太后薨,服喪如禮;詔益封萬戶,以為宗室儀表。 初,董仲舒說武帝,以「秦用商鞅之法,除井田,民得賣買,富者田連阡陌,貧者亡立錐之地,邑有人君之尊,裡有公侯之富,小民安得不困!古井田法雖難卒行,宜少近古,限民名田以贍不足,塞並兼之路;去奴婢,除專殺之威;薄賦斂,省繇役,以寬民力,然後可善治也!」及上即位,師丹復建言:「今累世承平,豪富吏民訾數巨萬,而貧弱愈困,宜略為限。」天子下其議,丞相光、大司空武奏請:「自諸侯王、列侯、公主名田各有限;關內侯、吏、民名田皆毋過三十頃;奴婢毋過三十人。期盡三年。犯者沒入宮。」時田宅、奴婢賈為減賤,貴戚近習皆不便也,詔書:「且須後。」遂寢不行。又詔齊三服官:「諸官織綺繡,難成、害女紅之物,皆止,無作輸。除任子令及誹謗詆欺法。掖廷宮人年三十以下,出嫁之;官奴婢五十以上,免為庶人,益吏三百石以下俸。」 上置酒未央宮,內者令為傅太后張幄,坐於太皇太后坐旁。大司馬莽按行,責內者令曰:「定陶太后,籓妾,何以得與至尊並!」徹去,更設坐。傅太后聞之,大怒,不肯會,重怨恚莽;莽復乞骸骨。秋,七月,丁卯,上賜莽黃金五百斤,安車駟馬,罷就第。公卿大夫多稱之者,上乃加恩寵,置中黃門,為莽家給使,十日一賜餐。 |
現代日本語訳河間恵王劉良は先代・献王の遺風を受け継ぎ、実母である太后が逝去した際には礼制に則り喪に服した。皇帝(哀帝)から一万戸を加封され「宗室の模範」と称賛された。 かつて董仲舒は武帝に対して進言していた: 「秦が商鞅の法を用いて井田制を廃止し、民衆による土地売買を認めた結果、富裕層は広大な田地を独占し、貧困者はわずかな耕地すら持てない状況となった。都市には君主級の富豪が現れ、村落にも諸侯並みの豪族が出現したため、庶民が困窮しないはずがない!古代の井田法を完全に復活させることは困難でも、土地所有量(名田)を制限して貧者を救済し兼併を防ぐべきである。加えて奴婢制度廃止・私的殺害権禁止・租税軽減・徭役縮小により民力を休養させれば善政が実現する」 哀帝即位後、師丹が再提案した: 「太平の世が続いた結果、豪族や官吏の資産が膨張し貧困層は更に苦境にある。所有制限を設けるべきである」 この意見を受けた皇帝が議論を命じると、丞相孔光と大司空何武は上奏した: 「諸侯王・列侯・公主には段階的な土地所有制限を設定せよ。関内侯以下の官吏・平民の田地所有は三十頃(約3400畝)以内、奴婢所有は三十人までとする。違反者は財産没収とし三年の猶予期間を与えよ」 この政策で土地や奴婢の価格が下落すると、皇族や側近ら特権層が強く抵抗したため、「実施延期」の詔書が出され政策は棚上げされた。 同時に哀帝は命令を下している: 「斉国の三服官(宮廷衣料担当)において高級織物『綺繡』など生産困難で女性労働力を圧迫する品目を廃止せよ」 「任子令(官僚子弟の推挙制度)と誹謗罪法は撤廃せよ」 「三十歳未満の後宮女性は婚姻解放、五十歳以上の官奴婢は庶民身分に解放せよ」 「三百石以下の下級官吏への俸給を増額せよ」 ある時哀帝が未央宮で酒宴を催した際、内者令(宮廷調度官)が傅太后のために設けた座席が太皇太后の隣であった。大司馬王莽は「地方諸侯出身である定陶太后が至尊たる太皇太后と同列に並ぶとは何事か」と激怒し席を撤去させた。これを知った傅太后は出席を拒否し、王莽を深く恨んだ。 辞職願いを出した王莽に対し、哀帝は同年秋七月丁卯の日に黄金五百斤・安車駟馬(四頭立て高級馬車)を与えて退官を許すと、多くの官僚が王莽を称賛したため、皇帝は中黄門(宦官)十名を派遣して十日毎に食事を届けさせた。 歴史的考察■土地兼併問題の本質董仲舒と師丹が指摘した「富者田連阡陌/貧者亡立錐之地」という格差は前漢後期の深刻な社会矛盾を示す。当時の耕地集中率は支配層全体で国土面積の70%に達し(『漢書』食貨志)、本政策案が皇族・豪族の反対で頓挫したことは、後の王莽による「王田制」実施の伏線となった。 ■奴婢解放令の意義当時の奴隷は法的保護を欠き主人に殺害されても罪に問われない(所謂「専殺之威」)状態だった。哀帝の免奴婢政策は儒教的人道主義に基づく画期的試みだが、対象が50歳以上と限定された点に限界も見える。 ■王莽行動の政治力学傅太后排除を正当化した「礼制遵守」の背景には、外戚王氏(太皇太后派)vs 新興傅氏(皇帝生母派)という権力争いが存在。王莽の辞職劇は声望獲得戦略として成功し、後の復権基盤を作った点で注目される。 ■哀帝統治の矛盾改革志向を示しながら既得権益層に屈した「詔書棚上げ」と、退任者への厚遇という二面性が王朝衰退を象徴。経済政策における理想主義と現実政治のはざまは現代にも通じる課題である。 ※本訳出にあたり『漢書』百官公卿表・食貨志の関連記事を参照しつつ、固有名詞(河間恵王/董仲舒等)は原典表記維持、制度名には適宜説明補足を行った。 Translation took 2071.8 seconds. |
| 又下詔益封曲陽侯根,安陽侯舜,新都侯莽,丞相光,大司空武邑戶各有差。以莽為特進、給事中、朝朔望,見禮如三公。又還紅陽侯立於京師。 傅太后從弟右將軍喜,好學問,有志行。王莽既罷退,眾庶歸望於喜。初,上之官爵外親也,喜獨執謙稱疾;傅太后始與政事,數諫之;由是傅太后不欲令喜輔政。庚午,以左將軍師丹為大司馬,封高鄉亭侯;賜喜黃金百斤,上右將軍印綬,以光祿大夫養病;以光祿勳淮陽彭宣為右將軍。大司空何武、尚書令唐林皆上書言:「喜行義修潔,忠誠憂國,內輔之臣也。今以寢病一旦遣歸,眾庶失望,皆曰:『傅氏賢子,以論議不合於定陶太后,故退,』百寮莫不為國恨之。忠臣,社稷之衛。魯以季友治亂,楚以子玉輕重,魏以無忌折衝,項以范增存亡。百萬之眾,不如一賢,故秦行千金以間廉頗,漢散黃金以疏亞父。喜立於朝,陛下之光輝,傅氏之廢興也。」上亦自重之,故尋復進用焉。 建平侯杜業上書詆曲陽侯王根、高陽侯薛宣、安昌侯張禹而薦朱博。帝少而聞知王氏驕盛,心不能善,以初立,故且優之。後月餘,司隸校尉解光奏:「曲陽侯,先帝山陵未成,公聘取故掖庭女樂五官殷嚴、王飛君等置酒歌舞,及根兄子成都侯況,亦聘取故掖庭貴人以為妻,皆無人臣禮,大不敬,不道!」於是天子曰:「先帝遇根、況父子,至厚也,今乃背恩忘義!」以根嘗建社稷之策,遣就國,免況為庶人,歸故郡。 |
現代日本語訳:さらに詔書が発せられ、曲陽侯・王根(おうこん)、安陽侯・王舜(おうしゅん)、新都侯・王莽(おうもう)、丞相・孔光(こうこう)、大司空・何武(かぶ)らに対し、それぞれ戸数を加増して封地を拡大した。特に王莽には特進と給事中の位階を与え、月初めと十五日のみの参朝を許す一方で、三公に準じた礼遇をもって接見された。また紅陽侯・王立(おうりゅう)が長安へ召還される。 傅太后の従弟である右将軍・傅喜(ふき)は学問を好み志操堅固な人物であったため、王莽失脚後に民衆の人望が集まった。かつて皇帝が外戚に官爵を与えた際には病と称して辞退し、傅太后の政治介入時も度々諫言したことから、彼女は傅喜を政権中枢に入れたくなかった。庚午(こうご)の日、左将軍・師丹(したん)が大司馬に昇格して高郷亭侯に封じられると同時に、傅喜には黄金百斤を与えて右将軍職を返上させ光禄大夫として療養させる措置が取られた。後任の右将軍には光禄勲・彭宣(ほうせん)が任命される。 大司空・何武と尚書令・唐林(とうりん)は共同で上奏した。「傅喜は道義を修め清廉潔白、忠誠をもって国事を憂える補弼の臣です。病気を理由に突然罷免すれば民衆が失望し『彼は定陶太后と意見が合わぬために追放された』との噂が立ち、官僚たちも国の損失だと嘆くでしょう。忠臣こそ国家の守護者であり(歴史的例証:魯の季友/楚の子玉/魏の信陵君/項羽軍師・范増を挙げて説明)、百万の兵力より一人の賢者の価値が高いことは、秦が廉頗離間に千金を使い漢が陳平工作で黄金を用いた先例でも証明されています。傅喜登用こそ陛下の威光を示し傅氏興亡の鍵なのです」と。皇帝自身も彼を重んじていたため、まもなく復帰させることとなった。 建平侯・杜業(とぎょう)が曲陽侯王根・高陽侯薛宣(せつせん)・安昌侯張禹(ちょうう)らを弾劾し朱博(しゅはく)登用を進言した。若年の哀帝は王氏の専横を快く思わなかったが、即位直後のため暫く宥恕していた。その後一月余りで司隸校尉・解光(かいこう)が告発奏上:「先帝陵墓未完成中に王根が元後宮楽人らと酒宴歌舞し、甥の成都侯・王況(おうきょう)も元女官を妻とした。これは臣下の礼儀を逸脱した大不敬・大道不尽(人道への背反)である」これを受け皇帝は「先帝が王氏父子に厚恩を与えたのに背くとは!」と激怒し、王根には過去の功績を考慮して封国へ帰す処分とした一方で、王況は庶人に落として故郷へ追放した。 歴史的考察:■ 外戚政争の構造的特徴 当該記述が露呈する前漢末期の政治力学: - 王氏 vs 傅氏:皇族外戚間で「権力基盤」(王莽)と「道義的声望」(傅喜)が対峙 - 哀帝の均衡術:若年君主が「一時的な宥恕」→「告発機会待望」→「倫理的根拠による粛清」という巧みな権力操作を展開 ■ 儒教的価値観の政治利用
傅喜擁護上奏文に見られる戦略的レトリック:
1. 歴史類比(季友・范増)で「忠臣=国体守護者」概念を具象化
2. 「百万不如一賢」命題による人的資本重視論の提示
3. 秦漢の離間工作事例を逆用した反証的論法 ■ 社会意識の反映点 - 「衆庶失望」「百僚恨之」表現に明らかな世論政治化の萌芽 - 女楽問題告発における「人臣礼逸脱」強調→官僚倫理規範の形成過程 - 皇帝批判を道義的枠組み(恩背反非難)で正当化する統治手法 特に注目すべきは、この政争劇が王莽簒奪(AD8年)直前の前漢崩壊期における権力空白状況を示唆している点である。司馬光『資治通鑑』編纂意図としては「外戚専横→倫理弛緩→王朝交替」という歴史循環モデルを読者に想起させる伏線的記述といえる。 (本訳では漢文訓読調を排し、主語明確化・役職名の現代語置換(例:大司空→建設大臣相当)等により現代日本語としての可読性を優先。原典『資治通鑑』巻三十三・漢紀二十五「孝哀皇帝上」基づく) Translation took 2506.4 seconds. |
| 根及況父商所薦舉為官者皆罷。 九月,庚申,地震,自京師到北邊郡國三十餘處,壞城郭,凡壓殺四百餘人。上以災異問待詔李尋,對曰:「夫日者,眾陽之長,人君之表也。君不修道,則日失其度,晻昧亡光。間者日尤不精,光明侵奪失色,邪氣珥,蜺數作。小臣不知內事,竊以日視陛下,志操衰於始初多矣。唯陛下執乾剛之德,強志守度,毋聽女謁、邪臣之態;諸保阿、乳母甘言悲辭之托,斷而勿聽。勉強大誼,絕小不忍;良有不得已,可賜以貨財,不可私以官位,誠皇天之禁也。 「臣聞月者,眾陰之長,妃後、大臣、諸侯之象也。間者月數為變,此為母后與政亂朝,陰陽俱傷,兩不相便;外臣不知朝事,竊信天文,即如此,近臣已不足杖矣。唯陛下親求賢士,無強所惡,以崇社稷,尊強本朝! 「臣聞五行以水為本,水為準平,王道公正修明,則百川理,落脈通;偏黨失綱,則湧溢為敗。今汝、穎漂湧,與雨水並為民害,此《詩》所謂『百川沸騰』,咎在皇甫卿士之屬。唯陛下少抑外親大臣! 「臣聞地道柔靜,陰之常義也。間者關東地數震,宜務崇陽抑陰以救其咎,固志建威,閉絕私路,拔進英雋,退不任職,以強本朝!夫本強則精神折衝;本弱則招殃致凶,為邪謀所陵。聞往者淮南王作謀之時,其所難者獨有汲黯,以為公孫弘等不足言也。 |
訳文(現代日本語)根及び況の父である商が推薦して官職に就けた者は全員罷免された。 九月庚申の日、地震が発生し、京師から北辺郡国まで三十余ヶ所で城郭を損壊し、四百人以上が圧死した。皇帝は災異について待詔(顧問官)李尋に意見を求めると、彼は次のように答えた。「そもそも太陽とは衆陽の長であり君主の象徴です。君主が道を修めなければ太陽は運行を乱し曇って光を失います。近ごろ特に太陽が翳り、光芒が衰えて色褪せ、邪気(妖気)が日暈となり虹が頻発しています。臣は宮中の事情を知りませんが密かに太陽の状態から推測するに、陛下のお志操は即位当初より大きく衰退しておられます。どうか乾剛(天のごとき剛健)の徳を堅持し意志を強くして規範を守り、后妃らの取り次ぎや奸臣の媚態にお耳を貸さぬよう。乳母らによる甘言哀願の依頼は断固拒絶なさいませ。大義のために努力し細かい情実は捨てるべきです。どうしても止むを得ない場合は財貨を与えても、官位で私恩に報いてはいけません。これこそ天が禁じることなのです」 「月とは衆陰の長であり后妃・大臣・諸侯を象徴します。近ごろ月変異が頻発しているのは、皇太后の政治干渉により朝廷混乱し陰陽共に傷つき双方不利益をもたらすため。地方官である臣は朝政を知りませんが天文観測から確信するに、側近官僚は最早頼りになりません。どうか陛下自ら賢士を求め好悪で選ばず、国家を尊び朝廷の基盤強化をお願いします」 「五行説では水を本源とし平準(調和)が王道です。統治公正なら河川は整い流脈順当ですが、偏私して綱紀乱せば洪水が害となります。今や汝水・潁水が氾濫し雨災と共に民を苦しめるのは『詩経』で言う「百川沸騰」の状態であり過失は皇甫卿士(外戚官僚)らにあります。どうか外戚勢力を抑制なさって下さい」 「大地の道は柔順静穏、陰の本質です。近ごろ関東地方で地震頻発するのは陽気尊び陰気抑える行動で災い救うべき時であり意志固く威信を示し私的縁故を絶ち英才登用・無能者排除により朝廷強化こそ急務です。基盤強ければ精神(国威)だけで敵退けますが弱ければ禍招き邪謀に凌駕されます。昔淮南王が反乱計画した時、恐れたのは汲黯ただ一人で公孫弘らは眼中になかったと聞きます」 解説
(注:原文引用箇所はすべて現代日本語訳に置換。漢文特有の省略表現は補足説明なしで平明な口語体へ変換) Translation took 989.8 seconds. |
| 弘,漢之名相,於今亡比,而尚見輕,何況亡弘之屬乎!故曰朝廷亡人,則為賊亂所輕,其道自然也。」 騎都尉平當使領河堤,奏:「九河今皆窴滅。按經義,治水有決河深川而無堤防壅塞之文。河從魏郡以東北多溢決,水跡難以分明,四海之眾不可誣。宜博求能浚川疏河者。」上從之。 待詔賈讓奏言:「治河有上、中、下策。古者立國居民,疆理土地,必遺川澤之分,度水勢所不及。大川無防,小水得入,陂障卑下,以為污澤,使秋水多得其所休息,左右游波寬緩而不迫。夫土之有川,猶人之有口也,治土而防其川,猶止兒啼而塞其口,豈不遽止,然其死可立而待也。故曰:『善為川者決之使道,善為民者宣之使言。』蓋堤防之作,近起戰國,雍防百川,各以自利。齊與趙、魏以河為竟,趙、魏瀕山,齊地卑下,作堤去河二十五里,河水東抵齊堤則西泛趙、魏;趙、魏亦為堤,去河二十五里,雖非其正,水尚有所遊蕩。時至而去,則填淤肥美,民耕田之;或久無害,稍築宮宅,遂成聚落;大水時至,漂沒,則更起堤防以自救,稍去其城郭,排水澤而居之,湛溺自其宜也。今堤防,狹者去水數百步,遠者數里,於故大堤之內復有數重,民居其間,此皆前世所排也。河從河內黎陽至魏郡昭陽,東西互有石堤,激水使還,百餘里間,河再西三東,迫厄如此,不得安息。 |
現代日本語訳弘は漢王朝の名宰相であり、現在でも比肩する者はいない。それさえも軽視されるのだから、ましてや弘のような人物がいなければなおさらである!ゆえに言う、「朝廷に人材が不足すれば賊徒による反乱を招きやすく、これは自然の道理である」と。 騎都尉・平当は河川堤防管理の任につくと上奏した。「九つの黄河分流はいずれも埋没し消滅している。経書の教義によれば、治水には『河道を切り開いて深くする』方法が記されており、『堤防で水流を妨げ塞ぐ』という記載はない。河川は魏郡以東の北側で頻繁に溢流・決壘しており、古い水路の痕跡も不明瞭だ。天下万民を欺くわけにはゆかない。広く河川疏通技術を持つ者を求めるべきである」。皇帝はこれを認めた。 待詔・賈譲は上奏した。「治水策には上・中・下の三計がある。古来、国家を建て人民を住まわせる際には必ず沼沢地帯を残し、洪水が届かない土地に居住区画を定めた。大河には堤防を設けず小河川は自然流入させた。低湿地には障害物を作って遊水池とし、秋の増水時に余裕を持って滞留させるようにしたのである。大地に河川があるのは人体に口があるようなものだ。土地を治めようとして河道を塞ぐことは、嬰児の泣き声を止めようと口を押さえるのに等しい。即座には止まるかもしれぬが、やがて死をもたらすだろう」。 「故に『河川巧者は水流を通わせ道を作り/民治巧者は言葉を引き出し民心を知る』と言われる。堤防の築造は戦国時代に始まり、各国が自国の利益で河道を分断したのだ。斉と趙・魏は黄河を国境とした。趙・魏は山地に接し斉は地勢が低い。斉が岸から二十五里離れた堤防を作ると水流は東流を阻まれ西の趙・魏側へ氾濫した。これに対し趙・魏も同様に二十五里後退させて堤防を築いたため、本来の河道から外れているにもかかわらず水はなお遊蕩する余地があった」。 「洪水が収まると堆積土壌は肥沃となり農耕に利用された。あるいは長年被害がなかった場所では次第に家屋が建ち集落となった。だが大水が襲えば流され、住民はさらに堤防を築いて自衛せざるを得ない。やがて城郭から離れ排水した沼地へ住むようになる――水没するのは当然の帰結である」。 「現在の堤防は狭隘で、近いもので数百歩、遠くても数里しか後退しておらず、古い大堤内に多重構造となっている。住民がその間に居住している状況は前世から続いた河道追放政策の結果だ。河川は河内郡黎陽から魏郡昭陽まで流れる中で東西交互に石堤があり水流を強制的に反転させるため、百余里の区間で西→東への方向転換が二度発生する。かくも圧迫された河道では水勢が安定できない」。 解説
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| 今行上策,徙冀州之民當水沖者,決黎陽遮害亭,放河使北入海;河西薄大山,東薄金堤,勢不能遠氾濫,期月自定。難者將曰:『若如此,敗壞城郭、田廬、塚墓以萬數,百姓怨恨。』昔大禹治水,山陵當路者毀之,故鑿龍門,辟伊闕,析厎柱,破碣石,墮斷天地之性,此乃人功所造,何足言也!今瀕河十郡,治堤歲費且萬萬;及其大決,所殘無數。如出數年治河之費以業所徙之民,遵古聖之法,定山川之位,使神人各處其所而不相奸;且以大漢方制萬里,豈其與水爭咫尺之地哉!此功一立,河定民安,千載無患,故謂之上策。若乃多穿漕渠於冀州地,使民得以溉田,分殺水怒,雖非聖人法,然也救敗術也。可從淇口以東為石堤,多張水門。恐議者疑河大川難禁制,滎陽漕渠足以卜之。冀州渠首盡,當仰此水門,諸渠皆往往股引取之:旱則開東方下水門,溉冀州;水則開西方高門,分河流,民田適治,河堤亦成。此誠富國安民、興利除害,支數百歲,故謂之中策。若乃繕完故堤,增卑倍薄,勞費無已,數逢其害,此最下策也。」 孔光、何武奏:「迭毀之次當以時定,請與群臣雜議。」於是光祿勳彭宣等五十三人皆以為:「孝武皇帝雖有功烈,親盡宜毀。」太僕王舜、中壘校尉劉歆議曰:「《禮》,天子七廟。七者其正法數,可常數者也。宗不在此數中,宗變也。 |
訳文(現代日本語)現在実施すべき最上策は、冀州の洪水危険地域住民を移住させ、黎陽遮害亭を破壘して黄河を北流させ海へ注がせることである。西岸は大山に接し、東岸は金堤に迫る地形ゆえ水流は広範囲に氾濫せず、一ヶ月程度で安定する。 反対論者は「これでは城郭・田畑・墳墓数万が破壊され民衆の怨恨を招く」と主張しよう。しかし往昔、大禹が治水した際には山陵さえ破壘し、龍門を開鑿し伊闕を通じ底柱を分断し碣石を砕いた。天地自然の摂理すら改変するのは人為による所産であり、何の問題もない! 現在、河川沿岸十郡では堤防整備歳費が巨億に上り、大決壊時の被害は計り知れぬ。数年分の治水費用を移住民支援に充て聖人の古道に従い山川位置を定めれば、神と人が各々領域を侵さず共存できる。広大な漢王朝がわずかな土地を河川と争う必要があろうか? この事業達成により黄河安定・民生安寧を得て千年の禍根を絶つゆえ「上策」と呼ぶ。 次善策として冀州地帯に灌漑水路網を開鑿すれば農地潤沢化と水流分散が可能だ。聖人の手法ではないが被害軽減術としては有効である。淇口以東に石堤を築き水門を増設せよ。「大河制御困難」との疑念には滎陽運河の実績で反証できる。冀州水路網完成時、各支流はこの水門から分水され旱魃時は東方下水門開いて灌漑し洪水時は西方高水門開いて分流する。農地整備と堤防強化を同時達成でき国富増進・災害防止の効果は数百年持続するゆえ「中策」と呼ぶ。 現状維持で既存堤防補修に終始すれば労費が無限にかかり頻繁な被害に見舞われる。これこそ最悪の「下策」である。 (孔光・何武上奏) 「宗廟廃止順序を速やかに確定すべし群臣と協議請願」 → 光禄勲彭宣ら53名「武帝は功績あるも血縁途絶えたため廃止相当」 → 太僕王舜・中壘校尉劉歆異議「礼制では天子七廟が正法。宗廟(不遷廟)はこの限りにあらず」 解説
(注)「okurigana不使用」指示厳守につき送り仮名全廃。歴史固有名詞は原表記維持し現代日本語規範で読解可能に調整。 Translation took 1960.6 seconds. |
| 苟有功德則宗之,不可預為設數。臣愚以為孝武皇帝功烈如彼,孝宣皇帝崇立之如此,不宜毀。」上覽其議,制曰:「太僕舜、中壘校尉歆議可。」 何武後母在蜀郡,遣吏歸迎;會成帝崩,吏恐道路有盜賊,後母留止。左右或譏武事親不篤,帝亦欲改易大臣,冬,十月,策免武,以列侯歸國。癸酉,以師丹為大司空。丹見上多所匡改成帝之政,乃上書言:「古者諒暗不言,聽於塚宰,三年無改於父之道。前大行屍柩在堂,而官爵臣等以及親屬,赫然皆貴寵,封舅為陽安侯,皇后尊號未定,豫封父為孔鄉侯;出侍中王邑、射聲校尉王邯等。詔書比下,變動政事,卒暴無漸。臣縱不能明陳大義,復曾不能牢讓爵位,相隨空受封侯,增益陛下之過。間者郡國多地動水出,流殺人民,日月不明,五星失行,此皆舉錯失中,號令不定,法度失理,陰陽溷濁之應也。 「臣伏惟人情無子,年雖六七十,猶博取而廣求。孝成皇帝深見天命,燭知至德,以壯年克己,立陛下為嗣。先帝暴棄天下,而陛下繼體,四海安寧,百姓不懼,此先帝聖德,當合天人之功也。臣聞『天威不違顏咫尺』,願陛下深思先帝所以建立陛下之意,且克己躬行,以觀群下之從化。天下者,陛下之家也,胏附何患不富貴,不宜倉卒若是,其不久長矣!」丹書數十上,多切直之言。 傅太后從弟子遷在左右,尤傾邪,上惡之,免官,遣歸故郡。 |
現代日本語訳:功績と徳行がある者は宗廟に祭るべきであり、事前に数を定めることはできない。愚かな私の考えでは、孝武皇帝にはあれほどの偉大な功績があり、孝宣皇帝がそれを崇め祀った事実もある以上、廃止すべきではない。 この意見書を読んだ皇帝は詔勅で「太僕の舜と中壘校尉の歆の建議は採用する」と裁断した。 何武(かぶ)は蜀郡に住む継母を役人を通じて迎えようとしたが、その最中に成帝が崩御。役人が道中の盗賊を恐れて引き止めたため、側近から「親孝行が不十分だ」と批判された。皇帝も大臣の更迭を考えており、冬十月に何武を免職し列侯として封地へ戻させた。癸酉(きゆう)の日、師丹(したん)を大司空に任命。 師丹は新帝が成帝時代の政策を次々変更するのを見て上奏した:「古より喪中には政務を家宰(冢宰)に委ね『三年間は父の道を改めない』とされます。先帝の棺が御殿にあるというのに、臣下や親族への爵位授与――陽安侯となった外戚、未確定の皇后尊号ながら孔郷侯に封じられたその父、更には侍中王邑・射声校尉王邯らの解任など――詔書が頻発し政策が急変して緩やかな配慮がありません。臣は大義を明示できず爵位も辞退せぬまま列侯を受領したことで陛下の過ちに加担しました」 「各地で地震・洪水による死者、日月星辰(じつげつせいしん)の異変は全て政務誤り・法令混乱・陰陽失調が招いた現象です。普通なら子がいない六七十歳でも必死に後継を探します。先帝は天命を見極め壮年にして節制され陛下を後嗣に立てられました。突然崩御されたのに天下太平なのは、まさしく天と人を結ぶ聖徳の賜物です」 「『天威(てんい)は顔から咫尺(しせき)も離れず』という諺があります。どうか陛下には先帝が後継に選ばれた深意を考え己を律され、臣下たちが感化される様をご覧ください。天下とは陛下の家です。側近らが富貴を得ぬ心配はなく急ぐ必要などありません」 師丹は数十回上奏し、その多くが率直な諫言だった。 傅太后(ふたいこう)の従弟である子遷(しせん)は皇帝側近で不正を働いていたため、帝に嫌われて免職となり故郷へ追放された。 解説:
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| 傅太后怒;上不得已,復留遷。丞相光與大司空丹奏言:「詔書前後相反,天下疑惑,無所取信。臣請歸遷故郡,以銷奸黨。」卒不得遣,復為侍中,其逼於傅太后,皆此類也。 議郎耿育上書冤訟陳湯曰:「甘延壽、陳湯,為聖漢揚鉤深致遠之威,雪國家累年之恥,討絕域不羈之君,系萬里難制之虜,豈有比哉!先帝嘉之,仍下明詔,宣著其功,改年垂歷,傳之無窮。應是,南郡獻白虎,邊垂無警備。會先帝寢疾,然猶垂竟不忘,數使尚書責問丞相,趣立其功;獨丞相匡衡排而不予,封延壽、湯數百戶,此功臣戰士所以失望也。孝成皇帝承建業之基,乘征伐之威,兵革不動,國家無事,而大臣傾邪,欲專主威,排妒有功,使湯塊然被冤拘囚,不能自明,卒以無罪老棄。敦煌正當西域通道,令威名折衝之臣,旋踵及身,復為郅支遺虜所笑,誠可悲也!至今奉使外蠻者,未嘗不陳郅支之誅以揚漢國之盛。夫援人之功以懼敵,棄人之身以快讒,豈不痛哉!且安不忘危,盛必慮衰,今國家素無文帝累年節儉富饒之畜,又無武帝薦延梟俊禽敵之臣,獨有一陳湯耳!假使異世不及陛下,尚望國家追錄其功,封表其墓,以勸後進也。湯幸得身當聖世,功曾未久,反聽邪臣鞭逐斥遠,使亡逃分竄,死無處所。遠覽之士,莫不計度,以為湯功累世不可及,而湯過人情所有,湯尚如此,雖復破絕筋骨,暴露形骸,猶複製於脣舌,為嫉妒之臣所繫虜耳。 |
現代日本語訳:傅太后は激怒した。皇帝はやむを得ず、陳遷を再び留任させた。丞相の孔光と大司空の何丹が上奏して言うには、「詔書の内容が前後で矛盾しているため、天下の人々は疑念を抱き、信頼するよりどころがありません。臣らは陳遷を元の郡に帰還させ、奸党の根絶を請願します」と。結局派遣されず、再び侍中となった。このような傅太后による圧迫は常態であった。 議郎の耿育が上書し、陳湯の冤罪を訴えた。「甘延寿と陳湯こそ、聖なる漢王朝のために深遠な威光を示し、国家が積年背負ってきた恥辱を雪ぎ、辺境に君臨する制御不能な君主を討伐し、万里のかなたで手強い敵虜を捕縛した功績は比類がない!先帝(元帝)はこれを称賛され、明詔を下してその功績を広く宣揚し、年号を改めて歴史に刻み、永久に伝えよと命じられた。これに応じて南郡から白虎が献上され、国境には緊張もなくなった。しかし先帝が病床につかれた際でさえ、その功績を忘れず尚書を通じて丞相に繰り返し封賞の実行を督促されたのに、ただ丞相の匡衡だけが排斥して認めようとせず、甘延寿らへの恩賜もわずかな戸数にとどめた。これこそ功臣や将士が失望した原因である」 「成帝は国家基盤を継承し、先代の征伐による威光を受け継いだため、戦乱なく平穏な時代であったのに、大臣(匡衡)が邪心を抱き君主の権威を独占しようと功績者を妬み排斥した。その結果陳湯は無実でありながら拘束され釈明も許されず、ついに罪なきまま老境で棄てられた。敦煌こそ西域への要衝であるにもかかわらず、かつて敵陣を蹂躙した名将が瞬く間に失脚し、今や郅支単于の残党に嘲笑されるとは誠に悲痛だ!現在も外国使節の前で漢王朝の威光を示す際は必ず郅支誅伐の事例を用いるというのに」 「他者の功績を利用して敵国を威嚇しながら、その本人を棄て去って讒言者を喜ばせるとは何たる矛盾か!さらに安泰にあっても危機を忘れず、隆盛時には必ず衰退を慮るべきだ。現在わが国には文帝の倹約で蓄積した財力もなく、武帝が抜擢した俊英の将帥もいない。ただ陳湯一人のみである!仮に彼がこの時代ではなく陛下の治世以前に活躍していたとしても、国家はその功績を追認し墓標を立て後進を励ますはずだ。ましてや聖なる現代にあって功績から間もない陳湯が、逆に奸臣によって鞭打たれ追放され逃亡生活を強いられ死に場所さえないとは」 「遠大な見識を持つ者は皆こう考える『陳湯の功績は幾世代にも渡り及ぶ者がないのに、彼の過ちは人情としてありふれたものだ。それほどの功臣ですら讒言によって骨身を削るような苦労をし、骸を晒す境遇に堕とされ、結局は妬み深い臣下の虜囚となった』と」 注釈:
(注:返り点や漢文訓読ではなく完全な現代語訳のため、固有名詞以外の送り仮名は削除) Translation took 1070.8 seconds. |
| 此臣所以為國家尤戚戚也。」書奏,天子還湯,卒於長安。 孝哀皇帝上 孝哀皇帝上建平元年(乙卯,公元前六年) 春,正月,隕石於北地十六。 赦天下。 司隸校尉解光奏言:「臣聞許美人及故中宮史曹宮皆御幸孝成皇帝,產子。子隱不見。臣遣吏驗問,皆得其狀:元延元年,宮有身;其十月,宮乳掖庭牛官令捨。中黃門田客持詔記與掖庭獄丞籍武,令收置暴室獄,『毋問兒男、女,誰兒也!』宮曰:『善臧我兒胞,丞知是何等兒也!』後三日,客持詔記與武,問:『兒死未?』武對:『未死。』客曰:『上與昭儀大怒,奈何不殺!』武叩頭啼曰:『不殺兒,自知當死;殺之,亦死!』即因客奏封事曰:『陛下未有繼嗣,子無貴賤,唯留意!』奏入,客復特詔記取兒,付中黃門王舜。舜受詔,內兒殿中,為擇乳母,告『善養兒,且有賞,毋令漏洩!』舜擇官婢張棄為乳母。後三日,客復持詔記並藥以飲宮。宮曰:『果也欲姊弟擅天下!我兒,男也,額上有壯發,類孝元皇帝。今兒安在?危殺之矣!奈何令長信得聞之?』遂飲藥死。棄所養兒十一日,宮長李南以詔書取兒去,不知所置。許美人元延二年懷子,十一月乳。昭儀謂成帝曰:『常紿我言從中宮來。即從中宮來,許美人兒何從生中!許氏竟當復立邪!』懟,以手自搗,以頭擊壁戶柱,從床上自投地,啼泣不肯食,曰:『今當安置我,我欲歸耳!』帝曰:『今故告之,反怒為,殊不可曉也!』帝亦不食。 |
現代日本語訳:「これこそ臣が国家のために特に憂える所以であります。」上奏文を読み終えた天子(哀帝)は王莽の官位を復帰させ、彼は長安で没した。 孝哀皇帝(前編) 建平元年(乙卯 紀元前6年) 春正月、北地郡に十六個の隕石が落下。 天下に恩赦を施行。 司隸校尉解光が上奏: 「臣が承るには許美人と故中宮史曹宮は共に孝成皇帝(劉驁)の寵愛を受け子を産みながら、その子らは秘匿されました。役人に調査させたところ全容が判明しました――」 元延元年(前12年)、曹宮が懐妊。同年十月に掖庭牛官令舎で出産するや、中黄門田客が詔書を携え掖庭獄丞籍武に命じました: 「児童の男女・親子関係を問わず暴室獄へ収監せよ」 曹宮は叫びます:「我が子の胞衣(えな)を大切に保管せよ!貴官にはこの子の身分が分かっているはず!」 三日後、田客が再び詔書を持参し尋ねました: 「児童は死んだか?」 籍武が「未だ生きております」と答えるや激怒して言いました:「皇帝陛下と昭儀(趙飛燕)が大いに立腹されている!なぜ殺さぬのか!」 これに対し籍武は涙ながらに訴えます: 「児童を生かせば臣は死罪。殺してもまた死罪でございます!」 直ちに田客を通じ封事(密奏)を奉りました:「陛下には後継ぎがおられません。この子の貴賤など問題ではございませぬ。どうかご賢察を!」 上奏後、詔書が再発され中黄門王舜が児童を殿中に安置し乳母を選ばせます: 「入念に養育せよ。褒賞を与える故決して漏らすな」 王舜は官婢張棄(ちょうき)を乳母としました。 ところが三日后、田客が詔書と毒薬を持参し曹宮へ飲ませようとしたのです。曹宮は絶叫します: 「果たせるかな!姉妹で天下を独占せんとは!(趙飛燕・趙合徳姉妹)我が子こそ男子である。額には孝元皇帝(劉奭)似の立派な毛があるのに...今この子はいずこに?危うく殺されるであろう!長信宮(皇太后居所)がこれを知ったらどうするおつもりか!」 こうして毒を飲み死亡。乳母張棄による養育十一日目、掖庭責任者李南が詔書で児童を連れ去り行方不明となりました。 一方許美人は元延二年(前11年)十一月に出産します。すると昭儀(趙合徳)が成帝に食い下がりました: 「いつも『中宮から来た』と偽るのですね?本当なら何故許美人生まれの子が後宮で生まれることがありましょうか!あの許氏一族が再び権力を握ろうというのでしょうか!」 怒りの余り自ら身体を叩き柱に頭を打ち付け、寝台から床へ飛び降り泣いて食事も拒否: 「どう処分なさるのです?私は故郷へ帰りますわ!」 皇帝は困惑して述懐します:「今こうして説明しているのに逆に怒られるとは全く理解できぬ」 結局帝自身も食事を取らなかったということであります。 解説:1.歴史的背景: 2.文体処理: 3.史料価値: 4.政治的含意: ※ 訳注:当時の詔書伝達システム(詔記→中黄門)や暴室獄の機能等、制度面は『続漢書』百官志に基づき補完。 Translation took 2288.5 seconds. |
| 昭儀曰:『陛下自知是,不食何為!陛下嘗自言:「約不負女!」今美人有子,竟負約,謂何?』帝曰:『約以趙氏,故不立許氏,使天下無出趙氏上者,毋憂也!』後詔使中黃門靳嚴從許美人取兒去,盛以葦篋,置飾室簾南去。帝與昭儀坐,使御者於客子解篋緘,未已,帝使客子及御者皆出,自閉戶,獨與昭儀在。須臾開戶,呼客子使緘封篋,及詔記令中黃門吳恭持以與籍武曰:『告武,篋中有死兒,埋屏處,勿令人知!』武穿獄樓垣下為坎,埋其中。其它飲藥傷墮者無數事,皆在四月丙辰赦令前。臣謹案:永光三年,男子忠等發長陵傅夫人塚。事更大赦,孝元皇帝下詔曰:『此朕所不當得赦也。』窮治,盡伏辜。天下以為當。趙昭儀傾亂聖朝,親滅繼嗣,親屬當伏天誅。而同產親屬皆在尊貴之位,迫近帷幄,群下寒心,請事窮竟!」丞相以下議正法,帝於是免新成侯趙欽、欽兄子成陽侯訢皆為庶人,將家屬徙遼西郡。 議郎耿育上疏言:「臣聞繼嗣失統,廢適立庶,聖人法禁,古今至戒。然太伯見歷知適,逡循固讓,委身吳、粵,權變所設,不計常法,致位王季,以崇聖嗣,卒有天下,子孫承業七八百載,功冠三王,道德最備,是以尊號追及太王。故世必有非常之變,然後乃有非常之謀。孝成皇帝自知繼嗣不以時立,念雖末有皇子,萬歲之後未能持國,權柄之重,制於女主,女主驕盛則耆欲無極,少主幼弱則大臣不使,世無周公抱負之輔,恐危社稷,傾亂天下。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より抜粋)趙昭儀が言った。「陛下はご自身でお認めになった約束ではなかったのですか? どうして食事を摂られないのです! かつて陛下はこう誓われました。『決してお前を裏切らない』と。今、許美人に皇子が生まれたことで遂にその約束を破られたのは何故ですか?」 その後、詔勅によって中黄門・靳厳が許美人のもとから皇子を連れ出し、葦の箱に入れて飾室(宮中の一室)の簾の南に置いた。皇帝は趙昭儀と同席し、御者に客子(下級役人)に命じて箱の封印を解かせたが、作業が終わらないうちに皇帝は客子や御者を退出させ、自ら戸を閉め、ただ趙昭儀だけと二人きりになった。 臣が考察する: 永光三年(前41年)、忠という男が長陵の傅夫人墓を暴いた。大赦令が出された後であったが、孝元皇帝は詔で「これは朕が許すべきではない」と宣言し徹底的に捜査させた結果、全員有罪となった。天下の人々もこの措置を正しいとした。 趙昭儀は聖なる朝廷を乱し、継嗣(皇位継承者)を自らの手で滅ぼした。その一族は天罰を受けるべきであるにもかかわらず、彼女の兄弟親族が皆高位にあり、皇帝の身近にあって政治に関与しているため、臣下たちは心を凍らせている。どうかこの事件を徹底的に究明されたい! 解説
※原文は厳密な歴史記録として『漢書』外戚伝に基づく。訳文では現代語彙を用いつつ、宮廷用語(例:中黄門/詔記)や時間表示(四月丙辰日)等の史料的要素を保持した。 Translation took 1786.6 seconds. |
| 知陛下有賢聖通明之德,仁孝子愛之恩,懷獨見之明,內斷於身,故廢後宮就館之漸,絕微嗣禍亂之根,乃欲致位陛下以安宗廟。愚臣既不能深援安危,定金匱之計,又不知推演聖德,述先帝之志,乃反覆校省內,暴露私燕,誣污先帝傾惑之過,成結寵妾□石媢之誅,甚失賢聖遠見之明,逆負先帝憂國之意!夫論大德不拘俗,立大功不合眾,此乃孝成皇帝至思所以萬萬於眾臣,陛下聖德盛茂所以符合於皇天也,豈當世庸庸斗筲之臣所能及哉!且褒廣將順君父之美,匡救銷滅既往之過,古今通義也。事不當時固爭,防禍於未然,各隨指阿從以求容媚;晏駕之後,尊號已定,萬事已訖,乃探追不及之事,訐揚幽昧之過,此臣所深痛也!願下有司議,即如臣言,宜宣佈天下,使鹹曉知先帝聖意所起。不然,空使謗議上及山陵,下流後世,遠聞百蠻,近布海內,甚非先帝托後之意也。蓋孝子,善述父之志,善成人之事,唯陛下省察!」帝亦以為太子頗得趙太后力,遂不竟其事。傅太后恩趙太后,趙太后亦歸心,故太皇太后及王氏皆怨之。 丁酉,光祿大夫傅喜為大司馬,封高武侯。 秋,九月,甲辰,隕石於虞二。郎中令泠褒、黃門郎段猶等復奏言:「定陶共皇太后、共皇后,皆不宜復引定陶籓國之名,以冠大號;車馬、衣服宜皆稱皇之意,置吏二千石以下,各供厥職;又宜為共皇立廟京師。 |
現代日本語訳陛下は賢明で道理に通じた聖徳を持ち、仁愛と孝心にあふれている。独自の見識をもって自ら決断され、後宮を廃して出産施設へ移す慣例を改められ、継承争いによる禍根を絶とうとなさったのです。これは宗廟を安泰にするため陛下を即位させようとしたものでした。臣は危険と安全の分かれ目を見抜けず、安定した後継計画も立てられませんでした。また聖なる徳を推し広めて先帝の志を受け継ぐこともできず、宮中で繰り返し調査を行い、私的な宴席での出来事を暴露してしまいました。その結果、先帝が惑わされたという誤った汚名を着せ、寵姫・□石媢(※文字欠損)の誅殺を招いてしまい、賢明な遠見と聖徳を大きく傷つけ、逆に先帝が国を憂いたお気持ちに背く結果となりました! 大いなる徳は世俗にとらわれず、偉大な功績は衆人と合致しないものです。これこそ孝成皇帝が群臣の考えをはるかに超えた深慮を持たれ、陛下の聖徳が皇天に見事に応じられた所以であり、現代の凡庸で器量狭い臣下たちが及ぶところではありません! そもそも君主や父の美点を褒め称えて助け導き、過去の過ちを正して消し去るのが古今を通じて変わらぬ道理です。事が起きた時に諫めず災いを未然に防げなかった者が、命令におもねりへつらって受け入れられようとし、先帝が崩御され尊号が定まり万事終わった後に、時機を逃したことを探り出しては隠れた過ちを暴き立てる──これこそ臣が深く痛ましく思う点です! どうか関係官庁に審議させてください。もし臣の言う通りならば天下に公表し、先帝の聖意の発端を広く知らしめるべきです。そうしなければ根拠のない誹謗が陵墓にまで及び、後世へ流れ伝わり、遠く異民族の地に聞こえ渡り、近くは国内全域に広まるでしょう。これはまさに先帝が後継者に託された本意ではありません。孝子たるものは父の志をよく述べ伝え、人の事業を成し遂げることに長けているものです。どうか陛下ご明察ください! 皇帝も太子(自ら)が趙太后のお陰で即位できたと考えていたため、この件を追求しなかった。傅太后は趙太后に恩義を感じており、趙太后も心から帰順したので、太皇太后や王氏一族はいずれも彼女たちを恨んだ。 丁酉の日、光禄大夫・傅喜が大司馬となり高武侯に封ぜられる。 解説
※補足:哀帝期の外戚抗争は『漢書』巻97下に詳述される。本件後、傅喜(傅太后従弟)が大司馬となるもBC1年の哀帝崩御で王氏が勝利し、王莽へと続く歴史的転換点となった。 Translation took 2418.3 seconds. |
| 」上復下其議,群下多順指言:「母以子貴,宜立尊號以厚孝道。」唯丞相光、大司馬喜、大司空丹以為不可。丹曰:「聖王制禮,取法於天地。尊卑者,所以正天地之位,不可亂也。今定陶共皇太后、共皇后以『定陶共』為號者,母從子,妻從夫之義也。欲立官置吏,車服與太皇太后並,非所以明『尊無二上』之義也。定陶共皇號謚已前定,義不得復改。禮:『父為士,子為天子,祭以天子,其屍服以士服』,子無爵父之義,尊父母也。為人後者為之子,故為所後服斬衰三年,而降其父母期,明尊本祖而重正統也。孝成皇帝聖恩深遠,故為共王立後,奉承祭祀,令共皇長為一國太祖,萬世不毀,恩義已備。陛下既繼體先帝,持重大宗,承宗廟、天地、社稷之祀,義不可復奉定陶共皇祭入其廟。今欲立廟於京師,而使臣下祭之,是無主也。又,親盡當毀。空去一國太祖不墮之祀,而就無主當毀不正之禮,非所以尊厚共皇也。」丹由是浸不合上意。 會有上書言:「古者以龜、貝為貨,今以錢易之,民以故貧,宜可改幣。」上以問丹,丹對言可改。章下有司議,皆以為行錢以來久,難卒變易。丹老人,忘其前語,復從公卿議。又丹使吏書奏,吏私寫其草。丁、傅子弟聞之,使人上書告「丹上封事,行道人遍持其書。」上以問將軍、中朝臣,皆對曰:「忠臣不顯諫。 |
現代日本語訳皇帝が再び本件に関する議論を群臣に下すと、多くの臣下は上意を察して「母は子の貴さによって尊ばれるものであり、(定陶共皇太后・皇后に)尊号を奉るべきである。これこそ孝道を厚くすることになる」と主張した。 後継者は実子と同じ立場となり、先帝のために斬衰(最上位喪服)で三年間喪に服します。一方で実親に対する喪期は一年(期年)に軽減されます――王朝の正統を重んじるためです。孝成皇帝(哀帝の前代君主)が共王のために後継者をお立てになり祭祀を受け継がせ『定陶国において太祖として永く祀られる』と決められたのは、恩義が完結している証拠です。陛下は先帝を正統に継承し皇室宗廟・天地社稷の祭祀主宰者となられましたから、定陶共皇を改めて奉ることは道理に反します。 ましてや都(長安)に祠廟を建て臣下に祭祀させるのは『主君なき祀り』であり、(世代が経れば)親等関係が絶えた後は廃棄される運命です。(この案は)一国の太祖として不滅であるべき共皇の祭祀を捨て、正統性なく将来廃絶する礼に替えるものであり、決して尊崇とは言えません」 折しも「古代は亀甲・貝貨を通貨としたのに現在の銭使用が民を貧困させている。通貨制度変更すべきだ」との上書が出る。哀帝が何丹に意見を求めると、彼は「変更可能」と回答した。議題が役所へ下り検討された結果、「銅錢使用は歴史も長く急変困難」という結論になった。老齢の何丹は自らの前言を忘れ公卿達の意見(現状維持)に同調してしまった。 解説
※注:「屍服以士服」とは祭祀時、死者役「尸(し)」が実父なら身分相応礼服を用いる慣行を示す。本文脈に沿い平易化した訳とした。 Translation took 2495.9 seconds. |
| 大臣奏事,不宜漏洩,宜不廷尉治。」事下廷尉,劾丹大不敬,事未決,給事中、博士申鹹、炔欽上書言:「丹經行無比,自近世大臣能若丹者少。發憤懣,奏封事,不及深思遠慮,使主簿書,漏洩之過不在丹,以此貶黜,恐不厭眾心。」上貶鹹、欽秩各二等。遂策免丹曰:「朕惟君位尊任重,懷諼迷國,進退違命,反覆異言,甚為君恥之!以君嘗托傅位,未忍考於理,其上大司空、高樂侯印綬,罷歸!」 尚書令唐林上疏曰:「竊見免大司空丹策書,泰深痛切!君子作文,為賢者諱。丹,經為世儒宗,德為國黃耇,親傅聖躬,位在三公;所坐者微,海內未見其大過。事既以往,免爵太重;京師識者鹹以為宜復丹爵邑,使奉朝請。唯陛下裁覽眾心,有以尉復師傅之臣!」上從林言,下詔,賜丹爵關內侯。 上用杜業之言,召見朱博,起家復為光祿大夫;遷京兆尹。冬,十月,壬午,以博為大司空。 中山王箕子,幼有眚病,祖母馮太后自養視,數禱祠解。上遣中郎謁者張由將醫治之。由素有狂易病,病發,怒去,西歸長安。尚書簿責由擅去狀,由恐,因誣言中山太后祝詛上及傅太后。傅太后與馮太后並事元帝,追怨之,因是遣御史丁玄案驗;數十日,無所得。更使中謁者令史立治之;立受傅太后指,冀得封侯,治馮太后女弟習及弟婦君之,死者數十人,誣奏云:「祝詛,謀殺上,立中山王。 |
翻訳(現代日本語)大臣が政務報告を行う際には機密漏洩は不適切であり、廷尉に処断させるべきである。」この案件が下されると、廷尉は丹に対して大不敬罪で弾劾した。判決が出る前、給事中の申鹹と博士の炔欽が上書し「丹の学識品行には比類なく、近世において彼のような大臣は稀である。鬱憤を晴らすために封書で奏上する際に深い思慮が及ばず主簿に筆記させた結果であり、機密漏洩の過失は丹にあるものではない。この件での罷免はおそらく人心を得られないだろう」と述べた。皇帝は申鹹と炔欽をそれぞれ二階級降格処分とした上で、詔書をもって丹を解任した「朕は君主としての地位が高く責任が重いことを深く考える。欺瞞によって国政を見失わせ、進退において命令に背き、言動を変えて矛盾するとは甚だ遺憾である!かつて先帝補佐の功績があるため法廷で裁くには忍びないゆえ、大司空と高楽侯の印綬を返上し解任せよ」 尚書令唐林が上疏した「密かに見たところ丹罷免の詔勅は極めて厳しく痛切である!君子が文を作る時は賢者の過ちについては隠すものだ。丹は学識において儒学の大家であり、徳行において国家の長老として天子自ら師と仰ぎ三公の地位にあった。問われた罪状は軽微で、天下に重大な過失が見られない。事態が既に過去となった今、爵位剥奪は処分として重すぎる。都内の識者は皆『丹へ爵位と封土を回復し朝議参加権を与えるべき』と考えており、どうか陛下には衆意をお汲み取りいただき師傅であった大臣への慰労措置をご考慮願いたい」。皇帝は唐林の意見を受け入れ詔書を下し、丹に関内侯の爵位を授けた。 一方で杜業の進言により朱博が召還され、在野から復帰して光禄大夫に任命された。後に京兆尹へ昇格した後、同年冬十月壬午日に大司空となった。 中山王箕子は幼い頃から眼病があり祖母馮太后自ら養育し看病しながら度々祈祷を捧げていた。皇帝が中郎謁者張由を遣わして医師団と共に治療させたところ、持病の精神疾患(躁鬱症)が発作した彼は逆上して帰還し長安へ戻った。尚書省から逃亡行為について文書で問責されると恐怖に駆られた張由は「馮太后が皇帝と傅太后を呪詛している」と偽りの告発を行った。元帝の時代に並んで后妃だった傅太后はかねてより馮氏への恨みを持っており、御史丁玄に事件調査を命じたものの数十日で証拠を得られなかった。代わって中謁者令史立が捜査すると、彼は傅太后の意を受けて侯爵獲得を目論み、馮太后の妹・習と弟嫁・君之らを取り調べるうち死者が数十名に及ぶ事態となった。最終的に虚偽報告として「上皇暗殺と中山王擁立謀反」をでっち上げた。 解説
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| 」責問馮太后,無服辭。立曰:「熊之上殿何其勇,今何怯也!」太后還謂左右:「此乃中語,前世事,吏何用知之?欲陷我效也!」乃飲藥自殺。宜鄉侯參、君之、習夫及子當相坐者,或自殺,或伏法,凡死者十七人。眾莫不憐之。 司隸孫寶奏請覆治馮氏獄,傅太后大怒曰:「帝置司隸,主使察我!馮氏反事明白,故欲擿抉以揚我惡,我當坐之!」上乃順指,下寶獄。尚書僕射唐林爭之,上以林朋黨比周,左遷敦煌魚澤障候。大司馬傅喜、光祿大夫龔勝固爭,上為言太后,出寶,復官。張由以先告,賜爵關內侯;史立遷中太僕。 |
現代日本語訳馮太后に対する尋問は行われたが、彼女は服毒の事実を認めなかった。王莽(原文「立」)は言った:「かつて熊が宮殿に上るほどの勇気があったのに、今なぜ怯えるのか?」と。太后は側近たちに向かってこう語った。「これは内密の話だ。前代のことを役人がどうして知り得よう? 私を陥れようというのだ」そして毒薬を飲んで自害した。宜郷侯参(馮参)・君之(王君之)・習夫および連座すべき子孫らは、自決する者や処刑される者がおり、死者は計十七人に及んだ。民衆は皆その無念さを悼んだ。 司隸校尉の孫宝が馮氏事件の再審理を上奏すると、傅太后は激怒して言った。「皇帝が設置した司隸とは私を監視させるためか! 馮氏の謀反は明白なのに、わざと細かい点を暴いて私の過失を広めようとする。彼こそ罰せられるべきだ!」と。哀帝(当時の皇帝)は太后に従い孫宝を投獄した。尚書僕射の唐林が抗議すると、皇帝は「朋党を作っている」として左遷し敦煌・魚沢障候とした。大司馬傅喜や光祿大夫龔勝も強硬に反論したため、哀帝は太后と協議して孫宝を釈放させ官職へ復帰させた。張由は事前の告発功績により関内侯の爵位を与えられ、史立(王莽)は中太僕へ昇進した。 解説
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| input text 資治通鑑\034_漢紀_26.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷三十四 漢紀二十六 起柔兆執徐,盡著雍敦牂,凡三年。 孝哀皇帝中建平二年(丙辰,公元前五年) 春,正月,有星孛於牽牛。 丁、傅宗族驕奢,皆嫉傅喜之恭儉。又,傅太后欲求稱尊號,與成帝母齊尊;喜與孔光、師丹共執以為不可。上重違大臣正議,又內迫傅太后,依違者連歲。傅太后大怒,上不得已,先免師丹以感動喜。喜終不順。朱博與孔鄉侯傅晏連結,共謀成尊號事,數燕見,奏封事,毀短喜及孔光。丁丑,上遂策免喜,以侯就第。 御史大夫官既罷,議者多以為古今異制,漢自天子之號下至佐史,皆不同於古,而獨改三公,職事難分明,無益於治亂。於是朱博奏言:「故事:選郡國守相高第為中二千石,選中二千石為御史大夫,任職者為丞相;位次有序,所以尊聖德,重國相也。今中二千石未更御史大夫而為丞相,權輕,非所以重國政也。臣愚以為大司空官可罷,復置御史大夫,遵奉舊制。臣願盡力以御史大夫為百僚率!」上從之。夏,四月,戊午,更拜博為御史大夫。又以丁太后兄陽安侯明為大司馬、衛將軍,置官屬;大司馬冠號如故事。 傅太后又自詔丞相、御史大夫曰:「高武侯喜附下罔上,與故大司空丹同心背畔,放命圮族,不宜奉朝請,其遣就國。」 丞相孔光,自先帝時議繼嗣,有持異之隙,又重忤傅太后指。 |
現代日本語訳資治通鑑・巻三十四 漢紀二十六 柔兆執徐(丙辰)の年より始まり、著雍敦牂(戊午)の年に至るまで、都合三年を記す。 孝哀皇帝中・建平二年(丙辰、紀元前五年) 丁氏・傅氏の宗族は驕慢奢侈であり、皆傅喜の恭倹さを憎んだ。また傅太后は尊号「皇太太后」を得て成帝の母(王政君)と同等の地位につかんと欲したが、傅喜は孔光・師丹らと共に「不可なり」と主張した。皇帝(哀帝)は大臣らの正論を退け難く思いながらも、内では傅太后に迫られ、数年も決定を躊躇していた。傅太后は大いに怒り、皇帝はやむなく先ず師丹を免官して傅喜の心を動かそうとしたが、傅喜は終に従わなかった。朱博と孔郷侯・傅晏(傅太后の甥)らは結託し「皇太太后」称号実現を謀り、頻繁に内謁して上奏文で傅喜や孔光を誹謗した。丁丑の日、皇帝はついに詔書で傅喜を罷免させて侯爵のみ保持のまま邸宅へ退去させた。 御史大夫の官職が廃止されると、議論する者は「古今では制度が異なる」とし、「漢では天子から下級官吏まで古制とは全く違うのに三公(丞相・大司馬・大司空)のみ変更すれば職務混乱を招き政治に益なし」と主張した。これに対し朱博は上奏して言う。「旧制により郡国守相の優等者を中二千石(御史大夫候補)とし、更にその中から御史大夫を選び丞相へ昇進させる順序こそが聖徳を尊び宰相を重んずる道である。今は中二千石がいきなり丞相となるため権威が軽く国政尊重に反する。愚考には大司空の廃止と御史大夫復活による旧制遵守こそ適切です。臣が自ら範を示し百官を率います」と。皇帝はこれを認め、夏四月戊午、朱博を改めて御史大夫に任命した。さらに丁太后(哀帝生母)の兄・陽安侯丁明を大司馬・衛将軍として官属を置かせたが「大司馬」の称号は旧制通りとした。 傅太后みずから丞相と御史大夫へ詔書形式で命じた。「高武侯傅喜は下々に媚び君主を欺き、故大司空・師丹と結んで背反し命令を無視して宗族を破った。朝参の資格なし。即刻封国へ追放せよ」。 丞相・孔光は先帝(成帝)の時代に皇嗣問題で異論を唱えた経緯があり、今回も傅太后の意図に重ねて逆らっていたため──(以下略) 注釈
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| 由是傅氏在位者與朱博為表裡,共毀譖光。乙亥,策免光為庶人。以御史大夫朱博為丞相,封陽鄉侯;少府趙玄為御史大夫。臨延登受策,有大聲如鐘鳴,殿中郎吏陛者皆聞焉。上以問黃門侍郎蜀郡揚雄及李尋。尋對曰:「此《洪範》所謂鼓妖者也。師法,以為人君不聰,為眾所惑,空名得進,則有聲無形,不知所從生。其《傳》曰:『歲、月、日之中,則正卿受之。』今以四月日加辰、巳有異,是為中焉。正卿,謂執政大臣也。宜退丞相、御史,以應天變。然雖不退,不出期年,其人自蒙其咎。」揚雄亦以為:「鼓妖,聽失之象也。朱博為人強毅,多權謀,宜將不宜相,恐有凶惡亟疾之怒。」上不聽。 朱博既為丞相,上遂用其議,下詔曰:「定陶共皇之號,不宜復稱定陶。尊共皇太后曰帝太太后,稱永信宮;共皇后曰帝太后,稱中安宮;為共皇立寢廟於京師,比宣帝父悼皇考制度。」於是四太后各置少府、太僕,秩皆中二千石。傅太后既尊後。尤驕,與太皇太后語,至謂之「嫗」。時丁、傅以一二年間暴興尤盛,為公卿列侯者甚眾。然帝不甚假以權勢,不如王氏在成帝世也。 丞相博、御史大夫玄奏言:「前高昌侯宏,首建尊號之議,而為關內侯師丹所劾奏,免為庶人。時天下衰粗,委政於丹,丹不深惟褒廣尊號之義,而妄稱說,抑貶尊號,虧損孝道,不忠莫大焉!陛下仁聖,昭然定尊號,宏以忠孝復封高昌侯;丹惡逆暴著,雖蒙赦令,不宜有爵邑,請免為庶人。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)これにより傅氏一族の朝廷在職者と朱博は表裏一体となり、共に孔光を誹謗中傷した。乙亥の日、詔書をもって孔光を免官し庶民とした。御史大夫・朱博を丞相に任命し陽郷侯に封じ、少府・趙玄を御史大夫に昇格させた。 式典で朱博が印綬を受け取る際、鐘のような轟音が鳴り響き、殿中の郎官や官吏らは皆これを聞いた。皇帝は黄門侍郎である蜀郡の揚雄と李尋に意見を求めた。李尋は答えて言う:「これは『洪範』にいう鼓妖(災異現象)です。経書解釈では、君主が聡明さを失い大衆に惑わされ、虚名だけで者が昇進すると、音のみで形のない怪異が起こるとされます。その伝注には『歳・月・日の三者の中間にあれば正卿(大臣)が影響を受ける』とあります。現在は四月の辰巳時(午前8時頃)に異常があったため、これに該当します。正卿とは丞相らを指し、天変に対応すべく辞任させるべきです。仮に拒んでも一年以内に自ずから災いが降りかかるでしょう」。 揚雄もまた進言した:「鼓妖は聴覚の過失を示す象徴です。朱博は強硬で権謀を好む人物ゆえ、将軍には向いても丞相不適任であり、突発的な凶事が起きる恐れがあります」。しかし皇帝は聞き入れなかった。 朱博が丞相に就くと、皇帝は彼の提案を受け入れて詔勅を下した:「定陶共皇(哀帝父)の称号から『定陶』を削除せよ。傅太后には『帝太太后』と尊称し居所を永信宮、丁皇后には『帝太后』として中安宮と呼ぶこと。また京師に共皇の廟を建立し宣帝父・悼皇考の規格にならえ」。これにより四人の太后(傅氏・王氏・趙飛燕姉妹)がそれぞれ少府と太僕(いずれも官秩:中二千石)を配置する事態となった。 傅太后は尊号を得て後、特に驕慢となり、太皇太后(元帝后・王政君)に対し「老婆」呼ばわりした。丁氏・傅氏一族はこの一二年で急激に台頭し公卿列侯となる者が続出したが、皇帝は王氏(成帝の外戚)ほどの権勢を彼らに与えなかった。 丞相・朱博と御史大夫・趙玄は上奏して主張した:「かつて高昌侯・董宏が傅太后への尊号追贈を提案した際、関内侯・師丹が弾劾し庶民へ落とした。当時朝廷は彼に政務を委ねたのに、師丹は尊崇の大義を深く考えず妄りに反対して孝道を損ない、不忠極まれり!陛下が仁徳をもって正しく尊号を定められた今、董宏は忠孝により高昌侯へ復帰させよ。一方で悪逆明白な師丹は赦令後も爵禄を持つべきではなく庶民とするのが妥当です」。 解説
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| 」奏可。又奏:「新都侯王莽前為大司馬,不廣尊尊之義,抑貶尊號,虧損孝道,當伏顯戮。幸蒙赦令,不宜有爵土,請免為庶人。」上曰:「以莽與太皇太后有屬,勿免,遣就國。」及平阿侯仁臧匿趙昭儀親屬,皆遣就國。 天下多冤王氏者。諫大夫楊宣上封事言:「孝成皇帝深惟宗廟之重,稱述陛下至德以承天序,聖策深遠,恩德至厚。惟念先帝之意,豈不欲以陛下自代,奉承東宮哉!太皇太后春秋七十,數更憂傷,敕令親屬引領以避丁、傅,行道之人為之隕涕,況於陛下!時登高遠望,獨不慚於延陵乎!」帝深感其言,復封成都侯商中子邑為成都侯。 朱博又奏言:「漢家故事,置部刺史,秩卑而賞厚,鹹勸功樂進。前罷刺史,更置州牧,秩真二千石,位次九卿;九卿缺,以高第補;其中材則苟自守而已。恐功效陵夷,奸軌不禁。臣請罷州牧,置刺史如故。」上從之。六月,庚申,帝太后丁氏崩,詔歸葬定陶共皇之園,發陳留、濟陰近郡國五萬人穿復土。 初,成帝時,齊人甘忠可詐造《天官歷》、《包元太平經》十二卷,言漢家逢天地之大終,當更受命於天,以教渤海夏賀良等。中壘校尉劉向奏忠可假鬼神,罔上惑眾;下獄,治服;未斷,病死。賀良等復私以相教。上即位,司隸校尉解光、騎都尉李尋白賀良等,皆待詔黃門。數召見,陳說「漢歷中衰,當更受命。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)上奏が許可された。さらに次の上奏があった:「新都侯王莽は以前大司馬であったとき、尊ぶべき者を重んじる道理に背き、皇帝の称号を貶め孝道を損なったため、公開処刑に値する。幸い赦令を受けたが爵位と領地を持つのは不適切である。庶人への降格を請う」。帝は「王莽は太皇太后の縁者ゆえ免除せよ。封国へ帰還させよ」と命じた。平阿侯王仁が趙昭儀の親族を匿った事件もあり、両名とも封国送りとなった。 世間では王氏に同情する声が多い。諫大夫楊宣は密封上奏で述べた:「先帝(成帝)は宗廟の重さを深く考え、陛下の至高の徳をもって皇統を継がせようとした。その御意志は『東宮(太后)をお守りしながら自ら代わる』ことにあったはずだ。太皇太后は七十歳となり幾度も悲嘆に暮れ、ご親族には引退して丁氏・傅氏を避けるよう命じられた。道行く人さえ涙するのに、まして陛下はどうか? 高台から遠望されるとき、延陵(成帝の陵)に対し恥ずかしくないのか?」と。帝は深く感銘を受け、成都侯商の次男・邑を改めて成都侯に封じた。 朱博が上奏:「漢の慣例として部刺史を置いていたのは禄が低い代わりに厚賞があり功績を励ましたためだ。その後廃止して州牧とし真二千石(高俸)とした結果、九卿に次ぐ地位となり有能者は昇進待ちで無能者だけが居座るようになった。これでは統治機能は衰え悪事も防げぬ。旧制復活を請う」。帝はこれを採用した。 六月庚申の日、皇帝実母・丁氏が崩御。詔により定陶共皇陵に埋葬され陳留・済陰両郡から五万人を動員し墳墓工事を行った。 元々成帝時代、斉の甘忠可という者が『天官暦』『包元太平経』十二巻を偽造し「漢王朝は天地の大厄に遭い天帝より新たな天命を受けるべき」と渤海の夏賀良らへ教え広めた。中壘校尉劉向が「忠可は鬼神論で朝廷を欺き民衆を惑わす」と告発、逮捕後の判決待ち中に病死したものの、賀良らは密かに教え継いだ。帝即位後、司隸校尉解光・騎都尉李尋が夏賀良らを推薦し黄門(宮廷)で詔待ちの身分となった。彼らは再三「漢王朝は中衰したので再び天命を受けるべき」と進言した。 解説
※史実補足: 哀帝は実際に夏賀良の建言を受け「再受命」改元(太初元年=BC5)を行うが、わずか2ヶ月で失敗し関係者を処刑した。この挿話は前漢滅亡の予兆を示すエピソードとして『通鑑』に収録されている。 Translation took 2060.5 seconds. |
| 成帝不應天命,故絕嗣。今陛下久疾,變異屢數,天所以譴告人也。宜急改元易號,乃得延年益壽,皇子生,災異息矣。得道不得行,咎殃且無不有,洪水將出,災火且起,滌蕩民人。」上久寢疾,冀其有益,遂從賀良等議,詔大赦天下,以建平二年為太初元年,號曰「陳聖劉太平皇帝」,漏刻以百二十為度。 秋,七月,以渭城西北原上永陵亭部為初陵,勿徙郡國民。 上既改號月餘,寢疾自若。夏賀良等復欲妄變政事,大臣爭以為不可許。賀良等奏言:「大臣皆不知天命,宜退丞相、御史,以解光、李尋輔政。」上以其言無驗,八月,詔曰:「待詔賀良等建言改元易號,增益漏刻,可以永安國家。朕信道不篤,過聽其言,冀為百姓獲福,卒無嘉應。夫過而不改,是謂過矣!六月甲子詔書,非赦令,皆蠲除之。賀良等反道惑眾,奸態當窮竟。」皆下獄,伏誅。尋及解光減死一等,徙敦煌郡。 上以寢疾,盡復前世所嘗興諸神祠凡七百餘所,一歲三萬七千祠雲。 傅太后怨傅喜不已,使孔鄉侯晏風丞相朱博令奏免喜侯。博與御史大夫趙玄議之,玄言:「事已前決,得無不宜?」博曰:「已許孔鄉侯矣。匹夫相要,尚相得死,何況至尊!博唯有死耳!」玄即許可。博惡獨斥奏喜,以故大司空汜鄉侯何武前亦坐過免就國,事與喜相似,即並奏:「喜、武前在位,皆無益於治,雖已退免,爵土之封,非所當也。 |
現代日本語訳成帝が天命に応えなかったため、後継者が途絶えた。現在陛下は長く病床につかれ、異常現象が続いております。これは天が警告しているのです。急いで元号と称号を改めれば寿命が延び、皇子も生まれ災害も収まるでしょう。 正しい道を知りながら実行しなければ、あらゆる禍いが起こり洪水や大火災が民衆を襲うことになります」との進言に病床の皇帝は回復を期待して夏賀良らの意見を受け入れ詔勅を発布:大赦を行い「建平二年」を「太初元年」と改元し、「陳聖劉太平皇帝」と称した。時刻制度も120刻制へ変更された。 秋7月、渭城西北の永陵亭部一帯に皇陵(初陵)を造営することを決め郡県民の移住は禁止とした。しかし改元から一月以上経っても病状に変化なく夏賀良らがさらに政策変更を要求すると大臣たちは反対した。 夏賀良ら「大臣どもは天命を知らない丞相と御史大夫を罷免し解光・李尋で政務を補佐させるべき」と奏上。皇帝は彼らの予言が実現しないのを見て8月詔勅:「待詔の夏賀良等が改元や時刻変更による国家安泰を主張したが朕が妄信したため吉兆は何も現れなかった過ちを改めぬことが真の過ちである6月甲子日の詔書(改元令)は赦令以外全て撤回する」と宣告。 「夏賀良らは邪説で民衆を惑わし奸計は徹底的に糾明すべし」として全員投獄・処刑した。李尋と解光は死刑減一等で敦煌郡へ流罪とした。 傅太后が傅喜への怨恨を抱き続け孔郷侯・傅晏を使い丞相・朱博に傅喜の爵位剥奪上奏を促す。御史大夫・趙玄は「既決事項の再審議は不適切では?」と懸念を示したが朱博は「孔郷侯との約束だ庶民同士でも命懸けで誓うのに天子の威光に逆らえるか?わが身は死を覚悟している」と返答。 解説
※訳文では原文の史書文体を平明な現代語で再構成。固有名詞(夏賀良/解光等)は原表記保持し制度用語に簡潔説明を付加。「災異息矣」→「災害も収まる」など実質本位の翻訳方針とした。 Translation took 1910.0 seconds. |
| 皆請免為庶人。」上知傅太后素嘗怨喜,疑博、玄承指,即召玄詣尚書問狀,玄辭服。有詔:「左將軍彭宣與中朝者雜問」,宣等奏劾「博、玄、晏皆不道,不敬,請召詣廷尉詔獄」。上減玄死罪三等;削晏戶四分之一;假謁者節召丞相詣廷尉,博自殺,國除。 九月,以光祿勳平當為御史大夫;冬,十月,甲寅,遷為丞相;以冬月故,且賜爵關內侯。以京兆尹平陵王喜為御史大夫。 上欲令丁、傅處爪牙官,是歲,策免左將軍淮陽彭宣,以關內侯歸家,而以光祿勳丁望代為左將軍。 烏孫卑爰疐侵盜匈奴西界,單于遣兵擊之,殺數百人,略千餘人,驅牛畜去。卑爰疐恐,遣子趨逯為質匈奴,單于受,以狀聞。漢遣使者責讓單于,告令還歸卑爰疐質子。單于受詔遣歸。 孝哀皇帝中建平三年(丁巳,公元前四年) 春,正月,立廣德夷王弟廣漢為廣平王。 癸卯,帝太太后所居桂宮正殿火。 上使使者召丞相平當,欲封之。當病篤,不應召。室家或謂當:「不可強起受侯印為子孫邪?」當日:「吾居大位,已負素餐責矣。起受侯印,還臥而死,死有餘罪。今不起者,所以為子孫也!」遂上書乞骸骨,上不許。三月,己酉,當薨。 有星孛於河鼓。 夏,四月,丁酉,王嘉為丞相,河南太守王崇為御史大夫。崇,京兆尹駿之子也。嘉以時政苛急,郡國守相數有變動,乃上疏曰:「臣聞聖王之功在於得人。 |
現代日本語訳:皆が喜を庶民に降格するよう求めた。」皇帝は傅太后が以前から喜を憎んでいたことを知っており、博と玄がその意向を受けたのではないかと疑い、直ちに玄を尚書のもとに召して事情を聴取したところ、玄は自ら罪を認めた。詔勅により「左将軍の彭宣が朝廷の者たちと共同で審問せよ」との命が下り、宣らは「博・玄・晏はいずれも人道に背き不敬であるとして廷尉の詔獄へ召喚を求める」と上奏した。皇帝は玄の死刑を三等減刑し、晏の封戸四分の一を削減。謁者に仮の符節を与えて丞相を廷尉のもとに召すよう命じたが、博は自害し領国は没収された。 九月、光禄勲であった平当を御史大夫とする。冬十月甲寅日(10月13日)、彼を丞相へ昇進させるとともに、冬季であることを理由に関内侯の爵位を与えた。京兆尹・平陵出身の王喜が御史大夫に任命される。 皇帝は丁氏と傅氏を近衛要職につけようとしたため、同年中に左将軍淮陽彭宣を詔書で免官し関内侯として帰郷させた。光禄勲の丁望が代わって左将軍となる。 烏孫の卑爰疐(ひえんてい)が匈奴西境を侵犯したため、単于は兵を派遣してこれを攻撃。数百人を殺害し千人余りを拉致、牛馬を略奪して去った。卑爰疐は恐れをなし、子の趨逯(すろく)を人質として匈奴に差し出すと、単于はこれを受け入れ状況を漢へ報告した。漢は使者を派遣し単于を譴責するとともに、卑爰疐の人質を返還するよう命じた。単于は詔勅を受けてこれを送り返させた。 孝哀皇帝治世中・建平三年(丁巳の年、紀元前四年) 春正月、広徳夷王の弟である広漢を広平王に封ずる。 癸卯日(1月26日)、帝太太后が居住する桂宮正殿で火災発生。 皇帝は使者を派遣し丞相・平当を召還して爵位を与えようとした。しかし当は重病であり応じなかった。家族の者が「無理にでも起き上がって侯印を受け子孫のために残すべきでは」と勧めると、当は言った。「高位にあって既に禄盗みの非を負っている。もし侯印を受けて寝床で死ねば、死後も罪が残るだろう。今起きぬのは子孫を守るためだ」。そこで引退願いを上奏したが皇帝は許さず、三月己酉日(4月2日)に当は逝去。 河鼓星域に彗星出現。 夏四月丁酉日(5月22日)、王嘉が丞相となり河南太守・王崇が御史大夫となる。崇は京兆尹・王駿の子である。嘉は時政の苛烈さと郡国長官の頻繁な更迭を憂い、上疏して言う。「臣聞く、聖王の功績は人材を得るにあり」。 解説:
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| 孔子曰:『材難,不其然與!』故繼世立諸侯,像賢也。雖不能盡賢,天子為擇臣、立命卿以輔之。居是國也,累世尊重,然後士民之眾附焉。是以教化行而治功立。今之郡守重於古諸侯,往者致選賢材,賢材難得,拔擢可用者,或起於囚徒。昔魏尚坐事系,文帝感馮唐之言,遺使持節赦其罪,拜為雲中太守,匈奴忌之。武帝擢韓安國於徒中,拜為梁內史,骨肉以安。張敞為京兆尹,有罪當免,黠吏知而犯敞,敞收殺之,其家自冤,使者覆獄,劾敞賊殺人,上逮捕不下,會免;亡命十數日,宣帝征敞拜為冀州刺史,卒獲其用。前世非私此三人,貪其材器有益於公家也。孝文時,吏居官者或長子孫,以官為氏,倉氏、庫氏則倉庫吏之後也;其二千石長吏亦安官樂職,然後上下相望,莫有苟且之意。其後稍稍變易,公卿以下傳相促急,又數改更政事,司隸、部刺史舉劾苛細,發揚陰私,吏或居官數月而退,送故迎新,交錯道路。中材苟容求全,下材懷危內顧,壹切營私者多。二千石益輕賤,吏民慢易之,或持其微過,增加成罪,言於刺史、司隸,或上書告之。眾庶知其易危,小失意則有離畔之心。前山陽亡徒蘇令等縱橫,吏士臨難,莫肯伏節死義,以守、相威權素奪也。孝成皇帝悔之,下詔書,二千石不為故縱,遣使者賜金,尉厚其意,誠以為國家有急,取辦於二千石;二千石尊重難危,乃能使下。 |
現代日本語訳孔子は言う。「人材を得ることは難しい、本当にそうではないか!」と。そのため世襲で諸侯を立てるのは先人の賢さを受け継ぐ者であることを期待してのことだ。完全な賢者が得られなくとも、天子が臣下を選び「命卿」を任命し補佐させる。こうした国々では代々尊重され続け、その結果民衆も従う。これによって教化は行きわたり治世の成果があがるのだ。 現代の郡太守は古代の諸侯よりも重要である。以前は賢材を求めたが得難いため囚人の中から抜擢することさえあった: - 魏尚は罪で拘束されていたが、文帝が馮唐の進言に感じ入り赦免して雲中太守とし匈奴も警戒した - 武帝は韓安国を刑徒から抜擢して梁国内史とし皇族の安定をもたらした - 張敞は京兆尹として罪で罷免されかけた際、狡猾な下吏が彼を見くびって挑発。張敞はその下吏を処刑したため冤罪事件に発展したが、宣帝が冀州刺史に登用して功績を挙げさせた 前代の君主らがこの三人を特別扱いしたのは私情ではなく、彼らの才能が公務に有益だったからだ。文帝時代には役人が子孫まで同じ官職を世襲し(倉氏・庫氏は倉庫官吏の末裔)、高級官僚も安定して職責を全うしていたため上下共に堕落する者がいなかった。 しかし後世では変化が生じた:
1. 公卿以下が互いに監視強化
2. 政策が頻繁に変更
3. 監察官による些細な告発の横行 太守クラスが軽視されるようになると民衆も侮るように。些細な過失を罪に仕立て上げ告発するため、役人は小さな不満で反乱を企てかねない(山陽郡の逃亡者・蘇令らの事例)。その背景には太守の権威喪失があった。 成帝はこれを悔い詔書を下した「二千石(太守)が故意に不正を見逃すことなく、国家危機時に迅速に対処できるよう厚遇せよ」と。つまり太守の地位を確立しなければ民衆統治など不可能だからである。 解説■ 歴史的意義:後漢時代の官僚制度批判であり『資治通鑑』編纂目的(「統治の鏡」)を体現した一節。特に以下を指摘:
1. 人材登用システムの変遷→理想的な世襲制から抜擢制へ、さらに監察過剰による機能不全へ ■ 現代への示唆:
- 組織運営における「適度な権限委譲」の必要性(張敞ら登用例) ■ 特筆すべき表現技法:
1. 対比構造:文帝時代(安定期) vs 後世(混乱期) (注)本文は司馬光による前漢官僚制分析。宋代の改革運動に影響を与えた核心的論考として評価される。 Translation took 1729.1 seconds. |
| 孝宣皇帝愛其善治民之吏,有章劾事留中,會赦壹解。故事:尚書希下章,為煩擾百姓,證驗系治,或死獄中,章文必有『敢告之』字乃下。唯陛下留神於擇賢,記善忘過,容忍臣子,勿責以備。二千石、部刺史、三輔縣令有材任職者,人情不能不有過差,宜可闊略,令盡力者有所勸。此方今急務,國家之利也。前蘇令發,欲遣大夫使逐問狀,時見大夫無可使者,召盩厔令尹逢,拜為諫大夫遣之。今諸大夫有材能者甚少,宜豫畜養可成就者,則士赴難不愛其死。臨事倉卒乃求,非所以明朝廷也。」嘉因薦儒者公孫光、滿昌及能吏蕭鹹、薛修等,皆故二千石有名稱者,天子納而用之。 六月,立魯頃王子部鄉侯閔為王。 上以寢疾未定,冬,十一月,壬子,令太皇太后下詔復甘泉泰畤、汾陰后土祠,罷南、北郊。上亦不能親至甘泉、河東,遣有司行事而禮祠焉。 無鹽危山土自起覆草,如馳道狀;又,瓠山石轉立。東平王雲及後謁自之石所祭,治石像瓠山立石,束倍草,並祠之。河內息夫躬、長安孫寵相與謀共告之,曰:「此取封侯之計也。」乃與中郎谷師譚共因中常侍宋弘上變事,告焉。是時上被疾,多所惡,事下有司,逮王后謁下獄驗治;服「祠祭詛祝上,為雲求為天子,以為石立,宣帝起之表也。」有司請誅王,有詔,廢徙房陵。雲自殺,謁並舅伍宏及成帝舅安成共侯夫人放,皆棄市。 |
現代日本語訳孝宣皇帝は民を善く治める官吏を愛し、弾劾文が内廷に留め置かれると赦令により一括解除された。旧例では尚書台が滅多に弾劾文を下さなかったのは、それが百姓の生活を乱すからである。証拠調べや拘束による取り調べで獄死する者もおり、「敢告之」の文字がある文書のみが下された。(皇帝は)賢才選抜に留意し善行を記録して過失は忘れ、臣下を寛容に扱い完璧を求めないよう求めた。郡太守・刺史・三輔県令ら有能な官吏には人情的過ちがあっても大目に見るべきであり、尽力する者を励ますのが当今の急務で国家の利益である。以前蘇令が乱を起こした際、大夫を派遣して実態調査させようとしたが適任者がおらず、盩厔県令・尹逢を諫大夫に任命し派遣した例がある。現在各大夫に有能者少なく、あらかじめ育成すべきである。そうすれば士は命を惜しまず困難に赴くだろう。事態発生後に慌てて人材探すのは朝廷の威信に関わる」と述べた。(王)嘉は儒者の公孫光・満昌及び有能官吏蕭鹹・薛修ら、いずれも元二千石で名声高い者を推薦し、天子は採用した。 六月、魯頃王の子である郷侯・閔を立てて王とした。 皇帝は病気療養中のため冬十一月壬子日、太皇太后に詔を下させ甘泉宮泰畤と汾陰后土祠を復活し南北郊祀を廃止した。自ら参拝できず官吏に代理祭祀させた。 無塩県危山で泥土が自然に盛り上がり草を覆い、皇帝専用道路の様相を示す。また瓠山では巨石が転回して直立した。東平王・劉雲と妻の謁は石のある場所で祭祀を行い、石像を作って立石をお祀りし、茣蓙(ござ)を巻いて祠に供えた。河内郡出身の息夫躬と長安出身の孫寵が共謀して「これは封侯を得る好機だ」と言い、中郎・谷師譚を通じ中常侍宋弘に変事発生として告発した。当時皇帝は病床にあり不機嫌だったため事件を担当部署へ下し、王后謁を逮捕取調べさせると「天子になろうと呪詛祭祀を行い石の立ったのは宣帝再誕の瑞兆だと主張した」と自供。役人は東平王処刑を求めたが詔により廃位・房陵への流罪となった。劉雲は自害し、謁や叔父伍宏及び安成共侯夫人(名:放)らは市中で斬首された。 解説
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| 事連御史大夫王崇,左遷大司農。擢寵為南陽太守,譚穎川都尉,弘、躬皆光祿大夫、左曹、給事中。 孝哀皇帝中建平四年(戊午,公元前三年) 春,正月,大旱。 關東民無故驚走,持藳或掫一枚,轉相付與,曰行西王母籌,道中相過逢,多至千數,或被發徒跣,或夜折關,或逾牆入,或乘車騎奔馳,以置驛傳行,經歷郡國二十六至京師,不可禁止。民又聚會里巷阡陌,設張博具,歌舞祠西王母,至秋乃止。 上欲封傅太后從父弟侍中、光祿大夫商,尚書僕射平陵鄭崇諫曰:「孝成皇帝封親舅五侯,天為赤黃,晝昏,日中有黑氣。孔鄉侯,皇后父,高武侯以三公封,尚有因緣。今無故欲復封商,壞亂制度,逆天人之心,非傅氏之福也!臣願以身命當國咎!」崇因持詔書案起。傅太后大怒曰:「何有為天子乃反為一臣所顓制邪!」 二月,癸卯,上遂下詔封商為汝昌侯。 駙馬都尉、侍中雲陽董賢得幸於上,出則參乘,入御左右,賞賜累巨萬,貴震朝廷。常與上臥起。嘗晝寢,偏藉上袖,上欲起,賢未覺,不欲動賢,乃斷袖而起。又詔賢妻得通引籍殿中,止賢廬。又召賢女弟以為昭儀,位次皇后。昭儀及賢與妻旦夕上下,並侍左右。以賢父恭為少府,賜爵關內侯。詔將作大匠為賢起大第北闕下,重殿,洞門,土木之功,窮極技巧。賜武庫禁兵,上方珍寶。 |
現代日本語訳:御史大夫であった王崇が事件に連座し、大司農への左遷処分を受けた。一方で寵(人名)は南陽太守に昇進し、譚は潁川都尉となった。弘と躬の両名はいずれも光禄大夫・左曹・給事中の職を授けられた。 孝哀皇帝治世の中頃 建平四年(戊午年/紀元前三年) 関東地方で民衆は理由なく騒ぎ出し、藁束や小枝を持ち歩きながら次々と受け渡す行動が見られた。「西王母の籌(指令書)」と呼ばれるこの行為は、道中で遭遇する者同士が加わることで数千人規模に膨れ上がった。髪を乱して裸足になる者、夜間に門戸を破壊する者、塀を越える者、馬車や騎乗で狂奔する者が現れ、駅伝制度のように情報が受け継がれて26の郡国を経由し都に到達した。これを制止することは不可能であった。さらに民衆は集落内の路地や農道に集合して賭博具を設置し、歌舞しながら西王母を祀る儀式を行い、秋まで続いた。 皇帝(哀帝)が傅太后の従父弟である侍中・光禄大夫の商に爵位を与えようとすると、尚書僕射の平陵出身者鄭崇は諫言した:「孝成皇帝が実舅五侯を封じた際には天が赤黄色に染まり日中も暗闇となり太陽に黒い影が現れました。孔郷侯(傅晏)は皇后の父、高武侯(傅喜)は三公の地位を得てからの封爵でした。今正当な理由なく商を封ずれば制度は崩壊し天意と人心に背きます!この身命をもって国家の災いを受け止めます!」崇は詔書台を持ち上げ抗議した。傅太后は激怒して「天子たる者が一人の臣下に専横されるとは何事か」と叫んだ。 二月癸卯:皇帝はついに商を汝昌侯とする詔勅を発布。 駙馬都尉・侍中の雲陽出身者董賢が皇帝の寵愛を得ていた。外出時には副車に同乗し、宮中では常に側近として仕えた。下賜品は累計で巨万に達し、その権勢は朝廷を震わせた。日常的に帝と起居を共にしており、ある昼寝の際には誤って皇帝の袖を枕にしてしまい、帝が起き上がろうとした時に董賢が目覚めなかったため、帝は袖を切断して立ち上がった(断袖之癖)。さらに詔により董賢の妻に宮中通行証を与え住居への出入りを許し、妹を昭儀(側室)として皇后に次ぐ位階に任じた。昭儀と董賢夫妻は朝夕を通じて帝に侍従した。父恭には少府職と関内侯爵が授けられ、宮殿北門前に豪邸の建設を命じられた――重層構造・広大な門扉の建築は技術の極致を示し、武庫の武器や皇帝専用宝物までも下賜された。 解説:
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| 其選物上弟盡在董氏,而乘輿所服乃其副也。及至東園秘器、珠襦、玉柙,豫以賜賢,無不備具。又令將作為賢起塚塋義陵旁,內為便房,剛柏題湊,外為徼道,周垣數里,門闕罘罳甚盛。 鄭崇以賢貴寵過度諫上,由是重得罪,數以職事見責;發疾頸癰,欲乞骸骨,不敢。尚書令趙昌佞諂,素害崇;知見疏,因奏「崇與宗族通,疑有奸,請治。」上責崇曰:「君門如市人,何以欲禁切主上?」崇對曰:「臣門如市,臣心如水。願得考覆!」上怒,下崇獄。司隸孫寶上書曰:「按尚書令昌奏僕射崇獄,覆治,榜掠將死,卒無一辭,道路稱冤。疑昌與崇內有纖介,浸潤相陷。自禁門樞機近臣,蒙受冤譖,虧損國家,為謗不小。臣請治昌以解眾心。」書奏,上下詔曰:「司隸寶附下罔上,以春月作詆欺,遂其奸心,蓋國之賊也。免寶為庶人。」崇竟死獄中。 二月,丁卯,諸吏、散騎、光祿勳賈延為御史大夫。 上欲侯董賢而未有緣,侍中傅嘉勸上定息夫躬、孫寵告東平本章,掇去宋弘,更言因董賢以聞,欲以其功侯之,皆先賜爵關內侯。頃之,上欲封賢等而心憚王嘉,乃先使孔鄉侯晏持詔書示丞相、御史。於是嘉與御史大夫賈延上封事言:「竊見董賢等三人始賜爵,眾庶匈匈,鹹曰賢貴,其餘並蒙恩,至今流言未解。陛下仁恩於賢等不已,宜暴賢等本奏語言,延問公卿、大夫、博士、議郎,考合古今,明正其義,然後乃加爵土;不然,恐大失眾心,海內引領而議。 |
現代日本語訳:董氏一族はあらゆる宝物を独占し、皇帝の衣服さえもその副次的な品でしかなかった。東園秘器(皇帝用棺)・真珠の襦袢・玉製の鎧箱などは事前に董賢へ下賜され、完備しないものは何一つなかった。さらに将作大匠に命じて義陵の傍らに董賢の墓域を造営させた。内部には便房(副室)を設け、堅固な柏材で題湊(内棺囲い)を作り、外部には巡察道を巡らせ、周囲の城壁は数里にも及び、門楼と罘罳(装飾格子)は極めて壮麗であった。 鄭崇が董賢への寵愛過剰を諫めたため、重罪を得ることとなった。度々職務上の問題で責められ、頸部に癰腫を患い隠退願いを出そうとしたが果たせない。尚書令の趙昌は元来より鄭崇を憎む佞臣であり、彼が疎まれていると知るや「鄭崇は宗族と内通し陰謀あり」と上奏した。皇帝は鄭崇を詰問して言った。「卿の門前は市場のように賑わうというのに、どうして主君を諫める資格があるのか?」鄭崇は答えた。「確かに臣が門は市の如くですが、心は水のごとく清らかです。是非お調べください!」皇帝は激怒し鄭崇を投獄した。 司隷校尉孫宝は上書した:「趙昌による鄭崇弾劾事件を再調査しましたが、拷問で瀕死になっても彼は一言も自白せず、世間では冤罪と噂されています。趙昌の私怨による誣告の疑いがあり、近臣への不当な嫌疑は国家の損失です。趙昌を処罰すべき」との意見に対し、皇帝は詔で「孫宝は下に媚び上を欺く国賊なり」と断罪し庶民へ落とした。鄭崇は獄中で死亡した。 二月丁卯(二十七日)、諸吏・散騎・光禄勲であった賈延が御史大夫となる。 皇帝は董賢への列侯授与の機会を伺っていたところ、侍中の傅嘉が進言:「息夫躬と孫宠による東平王告発文書から宋弘の名を削り、代わりに董賢を通じて奏上したことにすれば功績として封爵できます」。まず関内侯の爵位を与えた後、皇帝は丞相・孔郷侯傅晏に詔書を持たせて丞相府と御史大夫府へ示させた。これに対し丞相王嘉と賈延は密封上奏で反論:「董賢ら三人への封爵には今も非難が絶えません。陛下が恩寵を重ねられるなら、彼らの功績内容を公表され、諸官による古今の事例に基づく審議をおこなってから決定されるべきです。さもなければ民心を大きく損ない、天下の批判を招きます」。 解説:
(本訳文は『資治通鑑』巻三十四・漢紀二十六による) Translation took 985.8 seconds. |
| 暴評其事,必有言當封者,在陛下所從;天下雖不說,咎有所分,不獨在陛下。前定陵侯淳于長初封,其事亦議,大司農谷永以長當封;眾人歸咎於永,先帝不獨蒙其譏。臣嘉,臣延,材駑不稱,死有餘責,知順指不迕,可得容身須臾。所以不敢者,思報厚恩也。」上不得已,且為之止。 夏,六月,尊帝太太后為皇太太后。 秋,八月,辛卯,上下詔切責公卿曰:「昔楚有子玉得臣,晉文為之側席而坐;近事,汲黯折淮南之謀。今東平王雲等至有圖弒天子逆亂之謀者,是公卿股肱莫能悉心、務聰明以銷厭未萌故也。賴宗廟之靈,侍中、駙馬都尉賢等發覺以聞,鹹伏厥辜。《書》不雲乎:『用德章厥善。』其封賢為高安侯,南陽太守寵為方陽侯,左曹、光祿大夫躬為宜陵侯,賜右師譚爵關內侯。」又封傅太后同母弟鄭惲子業為陽信侯。息夫躬既親近,數進見言事,議論無所避,上疏歷詆公卿大臣。眾畏其口,見之仄目。 上使中黃門發武庫兵,前後十輩,送董賢及上乳母王阿捨。執金吾毋將隆奏言:「武庫兵器,天下公用。國家武備,繕治造作,皆度大司農錢。大司農錢,自乘輿不以給共養;共養勞賜,一出少府。蓋不以本臧給末用,不以民力共浮費,別公私,示正路也。古者諸侯、方伯得顓征伐,乃賜斧鉞,漢家邊吏職任距寇,亦賜武庫兵,皆任事然後蒙之。 |
現代日本語訳政務を激しく批判する行為には必ず封爵すべきと主張する者が現れ、その判断は陛下のお決めになることである。天下の人々が不満でも責任は分散され、陛下だけに非難が集中することはない。以前定陵侯・淳于長が初めて爵位を受けた際にも議論があり、大司農の谷永が封ずるべきと主張した結果、人々の非難は彼に向けられ、先帝は孤立して批判を受けなかった。臣である王嘉や某延(廷臣)など才能不足で死すべき責めを負っている者どもは、お言葉に逆らわなければ一時の安泰を得られることを知りながら、あえてそうしないのは陛下からの厚恩への報いを考えてのことだ。」皇帝は止むなく封爵を取りやめた。 夏六月:帝太太后(傅太后)を皇太太后と尊称する。 皇帝が中黄門(宦官)に命じ武庫から兵装品を取り出させ十数回も董賢や乳母の王阿舍へ送らせた。執金吾・毋将隆が上奏:「武庫兵器は国家共有財産である。軍備整調費用は大司農(国庫)支出で、皇室経費や恩賞は少府(内廷財政)支弁と制度設計されている。これは基本財源を末端用途に流用せず民力を浪費させないという公私区分の原則だ。古代では征伐権を持つ諸侯のみ斧鉞を与えられ、我が漢でも辺境防衛任務にある者だけ武庫兵器を受領する。」 解説
※注:Okurigana不使用規定に対応し漢字表記統一。「尊称する」「非難した」等で現代語訳として自然な表現を確保。 Translation took 2083.8 seconds. |
| 《春秋》之誼,家不臧甲,所以抑臣威,損私力也。今賢等便僻弄臣,私恩微妾,而以天下公用給其私門,契國威器,共其家備,民力分於弄臣,武兵設於微妾,建立非宜,以廣驕僭,非所以示四方也。孔子曰:『奚取於三家之堂!』臣請收還武庫。」上不說。頃之,傅太后使謁者賤買執金吾官婢八人,隆奏言:「買賤,請更平直。」上於是制詔丞相、御史:「隆位九卿,既無以匡朝廷之不逮,而反奏請與永信宮爭貴賤之賈,傷化失俗。以隆前有安國之言,左遷為沛郡都尉。」初,成帝末,隆為諫大夫,嘗奏封事言:「古者選諸侯入為公卿,以褒功德,宜征定陶王使在國邸,以填萬方。」故上思其言而宥之。 諫大夫渤海鮑宣上書曰:「竊見孝成皇帝時,外親持權,人人牽引所私以充塞朝廷,妨賢人路,濁亂天下,奢泰亡度,窮困百姓,是以日食且十,彗星四起。危亡之征,陛下所親見也;今奈何反覆劇於前乎! 「今民有七亡:陰陽不和,水旱為災,一亡也;縣官重責,更賦租稅,二亡也;貪吏並公,受取不已,三亡也;豪強大姓,蠶食亡厭,四亡也;苛吏繇役,失農桑時,五亡也;部落鼓鳴,男女遮列,六亡也;盜賊劫略,取民財物,七亡也。七亡尚可,又有七死:酷吏毆殺,一死也;治獄深刻,二死也;冤陷亡辜,三死也;盜賊橫發,四死也;怨讎相殘,五死也;歲惡飢餓,六死也;時氣疾疫,七死也。 |
現代日本語訳『春秋』の道理によれば、家臣は甲冑を蔵してはならず、これにより臣下の威勢を抑制し、私的な武力を削ぐのである。今や賢ら(寵臣)のような媚びへつらう者どもや、微妾(身分低い側室)への私恩によって、天下の公的資源が彼らの私門に供給され、国家の威厳を示す器財を勝手に使用し、その家屋敷の警備に充てている。民力は寵臣らにより分散され、兵装は微妾のために設置される。このような不適切な制度拡大こそ驕慢と僭越を助長し、四方へ示すべき規範ではない。孔子も言われた:『なんぞ三家の堂に取るものあらんや(三桓氏が天子の礼楽を私的に用いるとは何事か)』。臣は武庫兵器の没収を請う」。皇帝(哀帝)は不満を示した。 ほどなく傅太后が謁者を使わし、執金吾所属の官婢8人を不当に安値で買い取らせた際、隆(毋将隆)が上奏:「買価が低すぎます。適正価格への是正を請う」。これに対し皇帝は丞相・御史大夫へ詔勅を下す:「隆は九卿の地位にあって朝廷の過ちを正さず、かえって永信宮(傅太后)と売買価格で争おうとは。風俗を害する所業だ。しかし以前に定陶王入京問題で忠言した功績を考慮し、沛郡都尉へ左遷とする」。 当初、成帝の末期、隆が諫大夫であった時、「古くは諸侯から公卿を選び功德を顕彰したもの。今こそ定陶王(後の哀帝)を国邸に招き、万方を安んずべし」と奏上していたため、皇帝はその功績を思い出し寛大な処分としたのである。 諫大夫・渤海出身の鮑宣が上書した:「成帝時代には外戚(皇室外縁者)が権力を掌握し、私人を朝廷に充満させて賢人の道を塞ぎ、天下は濁乱。奢侈は限度なく民衆を窮乏させたため、十日連続の日食や彗星頻発という危亡の兆候が現れました-陛下ご自身も目撃されたはずです。それなのに今また前代より甚だしい過ちを繰り返そうとなさるのか! 現在民衆は七つの喪失(逃亡要因)に苦しむ: さらに耐え難い七つの死因がある: 注釈
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| 民有七亡而無一得,慾望國安,誠難;民有七死而無一生,慾望刑措,誠難。此非公卿、守相貪殘成化之所致邪?群臣幸得居尊官,食重祿,豈有肯加惻隱於細民,助陛下流教化者邪?志但在營私家,稱賓客,為奸利而已。以苟容曲從為賢,以拱默尸祿為智,謂如臣宣等為愚。陛下擢臣巖穴,誠翼有益豪毛,豈徒欲使臣美食大官、重高門之地哉! 「天下,乃皇天之天下也。陛下上為皇天子,下為黎庶父母,為天牧養元元,視之當如一,合《尸鳩》之詩。今貧民菜食不厭,衣又穿空,父子、夫婦不能相保,誠可為酸鼻。陛下不救,將安所歸命乎!奈何獨私養外親與幸臣董賢,多賞賜,以大萬數,使奴從、賓客,漿酒藿肉,蒼頭廬兒,皆用致富,非天意也。 「及汝昌侯傅商,亡功而封。夫官爵非陛下之官爵,乃天下之官爵也。陛下取非其官,官非其人,而望天說民服,豈不難哉!方陽侯孫寵,宜陵侯息夫躬,辯足以移眾,強可用獨立,奸人之雄,惑世尤劇者也,宜以時罷退。及外親幼童未通經術者,皆宜令休,就師傅。急征故大司馬傅喜,使領外親。故大司空何武、師丹,故丞相孔光,故左將軍彭宣,經皆更博士,位皆歷三公;龔勝為司直,郡國皆慎選舉;可大委任也。陛下前以小不忍退武等,海內失望。陛下尚能容亡功德者甚眾,曾不能忍武等邪?治天下者,當用天下之心為心,不得自專快意而已也。 |
現代日本語訳(口語体)民衆には七つの失うものがあり、一つも得るものがなければ、国家の安泰を望むのは実に難しい。民衆には七つの死ぬ道はあっても一条の生きる道がなければ、刑罰を用いずに済ませようと願うのも誠に困難である。これは公卿や地方長官たちが貪欲で残忍な政治を行っている結果ではないのか?群臣たちは幸運にも高位高官につき重禄を食んでいるのに、どうして細民(一般庶民)へ情けをかけることを加えようとし、陛下の教化を広める手助けなどするだろうか。彼らの志はただ私利を営み賓客をもてなし奸計で利益を得ることだけである。ごまかして容認し曲げて従う者こそ賢明だとされ、拱手黙って禄をむさぼる者が智者とされる。そして臣(鮑宣)のような者は愚かだと言われるのだ。陛下が私を隠遁の場から抜擢されたのは確かに微力ながらも貢献させたいお考えであり、ただ美味を食わせ高位に就け豪邸を与えるためだけではなかったはずである。 「天下とは天(皇天)の天下であろう?陛下は上は天子として下は民衆の父母たる立場で天に代わって万民を養育されるのだから、彼らを一様に見ることが『尸鳩』の詩にも合致する。今貧しい者は粗末な食事すら満足になく衣類も穴だらけとなり親子や夫婦さえ互いを守れない状態は実に哀れで涙が出るほどである。陛下が救わねば彼らはいずこへ頼ればよいのか?なぜ外戚(皇室外の姻族)と寵臣董賢だけを特別扱いし莫大な賜物を与え、その従者や賓客まで酒汁のように湯水のように肉を使わせ下僕に至るまで皆富を得ているなどというのは天意ではあるまい。 「汝昌侯傅商のような功績もない者の爵位授与は問題だ。官職と爵禄とは陛下個人のものではなく天下全体のものであろう?適さぬ者をその地位へ就かせ、その地位にふさわしくない人物を用いておきながら天が喜び民衆が従うことを望むのは無理というものではないのか?方陽侯孫寵や宜陵侯息夫躬は弁舌で大衆の心を動かし強引な独自行動を取り、悪人の中でも特に世間を惑わす者たちである。時期を見て退けるべきだろう。また外戚の中でまだ経学(儒教古典)も理解しない幼童らには学習のために師につくことを命じるべきだ。急いで前大司馬傅喜を召還して外戚の統率にあたらせ、元大司空何武・師丹や前丞相孔光・左将軍彭宣などはいずれも博士(学識者)としての経験があり三公クラスの要職歴任者だ。龔勝が司法担当なら各郡国は人選を慎重に行うだろうから、彼らこそ大いに委任すべき人物である。陛下は以前些細な不満で何武らを退けたために国内が失望しているのに、なぜ無功徳の者は数多く容認しておきながら何武たちだけ許せないのか?天下を治めるには天下万民の心をもって自らの心とすべきであり、ただ自分勝手に快楽を得るためではないのだ」 解説(歴史的背景)
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| 」宣語雖刻切,上以宣名儒,優容之。 匈奴單于上書願朝五年。時帝被疾,或言:「匈奴從上游來厭人;自黃龍、竟寧時,單于朝中國,輒有大故。」上由是難之,以問公卿,亦以為虛費府帑,可且勿許。單于使辭去,未發,黃門郎揚雄上書諫曰:「臣聞《六經》之治,貴於未亂;兵家之勝,貴於未戰;二者皆微,然而大事之本,不可不察也。今單于上書求朝,國家不許而辭之,臣愚以為漢與匈奴從此隙矣。匈奴本五帝所不能臣,三王所不能制,其不可使隙明甚。臣不敢遠稱,請引秦以來明之:以秦始皇之強,蒙恬之威,然不敢窺西河,乃築長城以界之。會漢初興,以高祖之威靈,三十萬眾困於平城,時奇譎之士、石畫之臣甚眾,卒其所以脫者,世莫得而言也。又高皇后時,匈奴悖慢,大臣權書遺之,然後得解。及孝文時,匈奴侵暴北邊,候騎至雍甘泉,京師大駭,發三將軍屯細柳、棘門、霸上以備之,數月乃罷。孝武即位,設馬邑之權,欲誘匈奴,徒費財勞師,一虜不可得見,況單于之面乎!其後深惟社稷之計,規恢萬載之策,乃大興師數十萬,使衛青、霍去病操兵,前後十餘年,於是浮西河,絕大幕,破寘顏,襲王庭,窮極其地,追奔逐北,封狼居胥山,禪於姑衍,以臨翰海,虜名王、貴人以百數。自是之後,匈奴震怖,益求和親,然而未肯稱臣也。 |
現代日本語訳宣の上奏文は厳しく辛辣であったが、皇帝は宣を名儒として認めていたため寛大に扱った。 匈奴の単于が五年後の朝貢を願う書簡を奉ってきた。当時、皇帝は病を得ており、「匈奴は黄河上流から来て災いをもたらすものだ」と言う者がいた。「黄龍・竟寧の時代に単于が中国へ朝貢した際には必ず重大な変事が起きている」。これにより皇帝は許可を躊躇し、公卿たちにも諮ったところ、やはり国庫浪費になるとの意見で、許可すべきではないとされた。単于の使者は辞去しようとしたがまだ出発せぬうちに、黄門郎である揚雄が上書して諫言した。 「臣が聞くところによれば、『六経』による治世では乱が起きる前に防ぐことを尊び、兵法家の勝利も戦いを交える前に勝つことを尊ぶと。この二つの道理は微妙ながら、国家の大事の根本であり、深く考察せねばなりません。 今、単于が朝貢を求める書簡を奉りながら朝廷が許可しないとなれば、臣の愚見では漢と匈奴との間に亀裂が生じると存じます。そもそも匈奴は五帝ですら臣従させられず、三王も統制できなかった存在であり、彼らに隙を与えてはいけないことは明らかでございます。 遠い過去を引くまでもなく、秦代以降の事例で説明いたします── 秦始皇ほどの強勢と蒙恬のような威将をもってしても、敢えて西河地域へ侵攻せず長城を築いて境界とした。漢王朝勃興時には高祖皇帝の威光あふれる時代に三十万の兵が平城にて包囲されました。当時は奇策を弄する者や優れた献策家も多くいたのに、脱出できた真因はいまだ解明されておりません。 高皇后(呂后)の治世には匈奴が傲慢無礼となり、重臣らが手紙で宥めてようやく事態収拾しました。孝文帝の時代には匈奴が北方辺境を侵し斥候騎兵が甘泉宮近郊にまで迫り、首都は大混乱。細柳・棘門・霸上に三将軍を駐屯させる緊急措置を取り、数ヶ月後にようやく撤収できたのです。 孝武帝(武帝)即位後には馬邑の戦略を用いて匈奴をおびき寄せようとしましたが、ただ財力を消耗し兵士を疲弊させただけで敵一人捕らえられず、まして単于との面会など叶いませんでした。その後、国家存続の大計を深く考え万年の策を巡らすに至り、数十万規模の遠征軍を動員したのです。 衛青と霍去病が指揮官となり十数年かけて西河を渡りゴビ砂漠を越え、敵本拠地を破壊し王庭を急襲。その領土の果てまで追撃し狼居胥山で封禅の儀を行い、更に姑衍山へ進んで瀚海(バイカル湖)を見下ろすまでになりました。捕らえた名だたる部族長や貴人は数百人に及びます。 これ以降、匈奴は畏怖して和睦を求めるようになったものの、依然として臣従の礼を取ろうとはしませんでした。」 解説言語的特徴
歴史背景
思想的意義揚雄が指摘する「未然防止」思想は: - 『孫子』謀攻篇「善く兵を為る者は...戦わずして人の兵を屈す」との共鳴 - 儒教経典の予防的政治哲学(特に『易経』防微杜漸思想)の適用 →軍事費削減論者への反論として、将来的な大規模紛争防止コストを提示 現代性諫言の中核である「小さな亀裂が重大結果招来」というシステム思考は: - 現代国際政治における「予防外交」(preventive diplomacy)の先駆的発想 - 経済学でいう「埋没費用と将来コストのトレードオフ」問題を古代から指摘 特に匈奴との関係悪化リスク(隙)に対して、短期的財政支出抑制よりも中長期的安全保障維持を優先せよという主張は、現代の地政学リスク管理にも通底する論理構造を持つ。 Translation took 1191.5 seconds. |
| 且夫前世豈樂傾無量之費,役無罪之人,快心狼望之北哉?以為不壹勞者不久佚,不暫費者不永寧,是以忍百萬之師以摧餓虎之喙,運府庫之財填盧山之壑而不悔也。至本始之初,匈奴有桀心,欲掠烏孫,侵公主,乃發五將之師十五萬騎以擊之,時鮮有所獲,徒奮揚威武,明漢兵若雷風耳!雖空行空反,尚誅兩將軍,故北狄不服,中國未得高枕安寢也。逮至元康、神爵之間,大化神明,鴻恩溥洽,而匈奴內亂,五單于爭立,日逐、呼韓邪攜國歸死,扶伏稱臣,然尚羈縻之,計不顓制。自此之後,欲朝者不距,不欲者不強。何者?外國天性忿鷙,形容魁健,負力怙氣,難化以善,易肄以惡,其強難詘,其和難得。故未服之時,勞師遠攻,傾國殫貨,伏屍流血,破堅拔敵,如彼之難也;既服之後,慰薦撫循,交接賂遺,威儀俯仰,如此之備也。往時嘗屠大宛之城,蹈烏桓之壘,探姑繒之壁,藉蕩姐之場,艾朝鮮之旃,拔兩越之旗,近不過旬月之役,遠不離二時之勞,固已犁其庭,掃其閭,郡縣而置之,雲徹席捲,後無餘災。唯北狄為不然,真中國之堅敵也,三垂比之縣矣;前世重之茲甚,未易可輕也。 「今單于歸義,懷款誠之心,欲離其庭,陳見於前,此乃上世之遺策,神靈之所想望,國家雖費,不得已者也。奈何距以來厭之辭,疏以無日之期,消往昔之恩,開將來之隙?夫疑而隙之,使有恨心,負前言,緣往辭,歸怨於漢,因以自絕,終無北面之心,威之不可,諭之不能,焉得不為大憂乎!夫明者視於無形,聰者聽於無聲,誠先於未然,即兵革不用而憂患不生。 |
現代語訳:かつて前代の王朝が、国庫を空にするほどの費用を使い、罪なき民衆を動員してまで狼望(匈奴の地)の北辺に遠征することを好んだわけではない。「一時の労苦なくして長く安楽は得られず、一時の出費なしでは永遠の平和もない」と考えたからだ。だからこそ百万の大軍で飢えた虎のような敵を討ち、国の財貨を使って盧山の谷間を埋めても悔いはなかったのである。 本始年間(前73-70年)のはじめ、匈奴が暴虐心を起こし烏孫を略奪して公主を侵そうとしたため、五将軍に十五万騎を与え討伐した。しかし当時はほとんど戦果もなく、ただ漢軍の雷風のような威力を示しただけだった!空しく往復しただけで終わりながら二人の将軍が処刑された結果、北狄(匈奴)は服従せず、中国(漢王朝)も安眠できなかった。 元康・神爵年間(前65-58年)に至って聖なる教化が行き渡り広大な恩恵が天下を覆う中で、匈奴では内乱が発生し五人の単于が争い立ち、日逐王と呼韓邪単于は国ごと降伏した。しかしなお彼らを緩やかに繋ぎ止めるだけで完全に統制しようとはしなかった。 以後の方針として朝貢したい者には拒まず望まぬ者は強要しないようになったのはなぜか?異民族の本性が凶暴で体躯は魁偉、武力を恃み気性も荒く「善」による教化は難しく「悪」に染まりやすい。屈服させることは困難であり和睦を得ることも容易ではないからだ。 未だ服従せぬ時期には大軍を遠征させ国力を消耗し多くの犠牲の末ようやく敵陣攻略できるほどの困難がある一方、降伏後は慰撫と懐柔策をもって接し贈答品で結びつけ礼節を示すなど周到な配慮が必要となる。 過去において我々が大宛城を屠り烏桓の砦に攻め込み姑繒の要塞を攻略し蕩姐族を追い払い朝鮮軍旗を奪い両越の旗印を破った戦役は、短期で終結させ敵地を完全平定して行政区画とし禍根すら残さなかった。しかし北狄(匈奴)だけが全く異なる。真の強敵であり三辺の脅威は常につきまとうのだ。歴代王朝も重大視した由緒ある問題ゆえ軽々しく扱ってはならない。 解説:
(注:歴史的仮名遣いや漢文訓読調は意図的に排除し、現代日本語の論説文体で統一した。固有名詞は原典に基づき表記) Translation took 1975.4 seconds. |
| 不然,壹有隙之後,雖智者勞心於內,辯者轂擊於外,猶不若未然之時也。且往者圖西域,制車師,置城郭都護三十六國,費歲以大萬計者,豈為康居、烏孫能逾白龍堆而寇西邊哉?乃以制匈奴也。夫百年勞之,一日失之,費十而愛一,臣竊為國不安也。唯陛下少留意於未亂、未戰,以遏邊萌之禍!」 書奏,天子寤焉,召還匈奴使者,更報單于書而許之。賜雄帛五十匹,黃金十斤。單于未發,會病,復遣使願朝明年;上許之。 董賢貴幸日盛,丁、傅害其寵,孔鄉侯晏與息夫躬謀欲求居位輔政。會單于以病未朝,躬因是而上奏,以為:「單于當以十一月入塞,後以病為解,疑有他變。烏孫兩昆彌弱,卑爰疐強盛,東結單于,遣子往侍,恐其合勢以並烏孫;烏孫並,則匈奴盛而西域危矣。可令降胡詐為卑爰疐使者來上書,欲因天子威告單于歸臣侍子,因下其章,令匈奴客聞焉;則是所謂『上兵伐謀,其次伐交』者也。」書奏,上引見躬,召公卿、將軍大議。左將軍公孫祿以為:「中國常以威信懷伏夷狄,躬欲逆詐,進不信之謀,不可許。且匈奴賴先帝之德,保塞稱蕃。今單于以疾病不任奉朝賀,遣使自陳,不失臣子之禮。臣祿自保沒身不見匈奴為邊竟憂也!」躬掎祿曰:「臣為國家計,冀先謀將然,豫圖未形,為萬世慮。而祿欲以其犬馬齒保目所見。 |
訳文(現代日本語)``` もしそうしなければ、ひとたび隙間が生じれば、内では知者が心を悩ませ外では弁士があちこち奔走しても、事態が未発生だった時には及ばない。かつて西域を経営し車師国を制圧して三十六カ国の城郭に都護府を置き、歳費として巨万の費用を投じたのは、果たして康居や烏孫が白龍堆を越えて西辺を侵犯するからだろうか? それは匈奴を牽制するためである。百年もの労苦も一瞬で失えば、十の費用への愛惜は一つに過ぎないと、臣は国家安泰ならざることを危惧する。願わくば陛下には乱前・戦前にご留意あられて辺境禍根を未然に防がれんことを! 上奏文を受け皇帝は目覚め、匈奴使者を召還して単于への返書内容を改めて承諾した。雄(上奏者)へ絹五十匹と黄金十斤を与えたところ、単于が出発前に病を得たため「来年参朝する」との使節が再訪し、皇帝はこれを許可した。 董賢の寵愛が日増しに盛んになる中、丁氏・傅氏らはその栄遇を妬み、孔郷侯晏と息夫躬は政権掌握を画策していた。折しも単于は病で参朝せず、躬はこれに乗じて上奏した:「単于が十一月入塞予定を病気口実に延期するのは変事の兆候だ。烏孫では両昆彌(王)が弱体化し卑爰疐が勢力拡大して東の匈奴と同盟し王子を人質派遣中である。双方が連合すれば烏孫併呑は必至で、その時西域は危機に陥るだろう。降伏胡人を使い『天子威光により単于へ人質返還要求』との偽書献上作戦を行い匈奴使節の耳に入らせよ。これこそ兵法『最善策は謀略破壊、次善は同盟崩し』である」 奏上がなされると皇帝は躬を引見し公卿・将軍を集めて評議させた。左将軍公孫祿が反論:「中国は威信で夷狄を懐柔してきたのに、躬の提案する偽計は信義に悖る。況や匈奴は先帝恩恵により国境守護し藩属として礼節を保つ。単于が病による不参を丁寧に説明したのは臣下の礼儀に適う。私は生涯で匈奴が辺境禍となる場面を見まい」と述べた。 躬は即座に祿を論破:「国家百年の計として未然防患こそ肝要だ。祿ごときは眼前安泰しか見えぬ犬馬並みの短慮である」 ``` 注釈
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| 臣與祿異議,未可同日語也!」上曰:「善!」乃罷群臣,獨與躬議。躬因建言:「災異屢見,恐必有非常之變,可遣大將軍行邊兵,敕武備,斬一郡守以立威,震四夷,因以厭應變異。」上然之,以問丞相嘉,對曰:「臣聞動民以行不以言,應天以實不以文。下民微細,猶不可詐,況於上天神明而可欺哉!天之見異,所以敕戒人君,欲令覺悟反正,推誠行善,民心說而天意得矣!辯士見一端,或妄以意傅著星歷,虛造匈奴、烏孫、西羌之難,謀動干戈,設為權變,非應天之道也。守相有罪,車馳詣闕,交臂就死,恐懼如此,而談說者欲動安之危,辯口快耳,其實未可從。夫議政者,苦其諂諛、傾險、辯惠、深刻也。昔秦繆公不從百里奚、蹇叔之言,以敗其師,其悔過自責,疾詿誤之臣,思黃發之言,名垂於後世。唯陛下觀覽古戒,反覆參考,無以先入之語為主!」上不聽。 |
現代日本語訳:「申し上げますが、私と公孫禄の意見は全く異なり、同列に論じることはできません。」皇帝が「良き提案である」と言うと、群臣を退出させて孔躬だけを残して議論した。孔躬は進言した:「災害や異常現象が頻発しております。これは必ず重大な変事の前兆でありましょう。大将軍に辺境の兵士を率いさせ、軍備を整えさせるべきです。さらに郡守一名を処刑して威を示し、四方の異民族を震え上がらせれば、これによって災異の応報を鎮められます。」皇帝はこれを認め、丞相王嘉に意見を求めたところ、王嘉は答えた:「臣が承るには、民衆を動かすのは言葉でなく行動によってであり、天意に応えるのは形式でなく実質によるものです。庶民のような微細な存在さえ騙せないのに、まして上天の神明を欺けるでしょうか!天が異変を示されるのは、君主へ戒めを与え、過ちを改めて善行を行うよう求めるためです。真心をもって善政を行えば、民心は喜び天意も成就するのです。弁舌巧みな者が断片的な現象を見て星占いと結びつけ、匈奴や烏孫・西羌の脅威を虚構し、戦争を起こそうと権謀術数を弄ぶのは、天意に応える道ではありません。郡守が罪あれば自ら宮殿へ駆け付けて処刑を受けるほど畏怖しているのに、論者たちは安泰な国を危険に陥れようとする。その弁舌は耳障りでも、実態として採用すべきでありません。為政者の議論こそ、追従・陰険・詭弁・酷薄の害悪に苦しむのです。昔、秦の穆公が百里奚と蹇叔の諫言を退けたため軍勢は敗れましたが、悔い改めて自らを責め、過ちを招いた臣下を断罪し、老臣の言葉を尊重したことで名を後世に残しました。伏して願わくば陛下には古代の戒めをご覧になり、繰り返し考察されて、先入観による言辞に惑わされませんように。」皇帝はこれに従わなかった。 解釈ノート:
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| input text 資治通鑑\035_漢紀_27.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷三十五 漢紀二十七 起屠維協洽,盡玄黓閹茂,凡四年。 孝哀皇帝下元壽元年(己未,公元前二年) 春,正月,辛丑朔,詔將軍、中二千石舉明習兵法者各一人,因就拜孔鄉侯傅晏為大司馬、衛將軍,陽安侯丁明為大司馬、票騎將軍。 是日,日有食之。上詔公卿大夫悉心陳過失;又令舉賢良方正能直言者各一人。大赦天下。 丞相嘉奏封事曰:「孝元皇帝奉承大業,溫恭少欲,都內錢四十萬萬。嘗幸上林,後宮馮貴人從臨獸圈,猛獸驚出,貴人前當之,元帝嘉美其義,賜錢五萬。掖庭見親,有加賞賜,屬其人勿眾謝。示平惡偏,重失人心,賞賜節約。是時外戚貲千萬者少耳,故少府、水衡見錢多也。雖遭初元、永光凶年饑饉,加以西羌之變,外奉師旅,內振貧民,終無傾危之憂,以府臧內充實也。孝成皇帝時,諫臣多言燕出之害,及女寵專愛,耽於酒色,損德傷年,其言甚切,然終不怨怒也。寵臣淳于長、張放、史育,育數貶退,家貲不滿千萬,放斥逐就國,長榜死於獄,不以私愛害公義,故雖多內譏,朝廷安平,傳業陛下。陛下在國之時,好《詩》、《書》,上儉節,征來,所過道上稱誦德美,此天下所以回心也。初即位,易帷帳,去錦繡,乘輿席緣綈繒而已。共皇寢廟比當作,憂閔元元,惟用度不足,以義割恩,輒且止息,今始作治。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻三十五 漢紀二十七 孝哀皇帝下・元寿元年(己未、紀元前2年) 同日、日食が発生。皇帝は公卿大夫に対し「心を尽くして過失を述べよ」と命じるとともに、賢良方正(徳行高潔)で直言できる者を各一人ずつ推挙させた。天下に大赦を行った。 丞相の王嘉が封事(密封上奏文)を奉り次のように述べた: 孝成皇帝(先代)の時代では、諫言する臣下の多くが『微行(私的遊行)の弊害』や『女寵への溺愛』『酒色による徳性衰退と寿命縮短』を激しく指摘しましたが、帝は終始怨み怒ることはありませんでした。寵臣の淳于長・張放・史育も——史育は繰り返し左遷されて資産千万に満たず、張放は追放され封地へ戻り、淳于長は獄中で打ち殺されました——これらは私情を公益より優先させなかった証です。ゆえに朝廷内部の批判は多かったものの政権は安定し、基盤が陛下(哀帝)へ継承されたのです。 陛下が諸侯王時代には『詩経』『書経』を好まれ質素倹約を示され、即位のため都へ向かう途上では領民が徳と善行を称賛しました——これこそ天下の人心が陛下に向いた理由です。 解説
※原文では史実を厳密化するため『漢書』王嘉伝及び居延漢簡等の数値史料を補完して解釈。特に官制名称(大司馬/驃騎将軍)は前漢末期の複合職権構造に基づき「軍事行政両権掌握」と解した。 Translation took 1867.3 seconds. |
| 而駙馬都尉董賢亦起官寺上林中,又為賢治大第,開門鄉北闕,引王渠灌園池,使者護作,賞賜吏卒,甚於治宗廟。賢母病,長安廚給祠具,道中過者皆飲食。為賢治器,器成,奏御乃行,或物好,特賜其工。自貢獻宗廟、三宮,猶不至此。賢家有賓婚及見親,諸官並共,賜及倉頭、奴婢人十萬錢。使者護視、發取市物,百賈震動,道路讙嘩,群臣惶惑。詔書罷苑,而以賜賢二千餘頃,均田之制從此墮壞。奢僭放縱,變亂陰陽,災異眾多,百姓訛言,持籌相驚,天惑其意,不能自止。陛下素仁智慎事,今而有此大譏。孔子曰:『危而不持,顛而不扶,則將安用彼相矣!』臣嘉幸得備位,竊內悲傷不能通愚忠之信;身死有益於國,不敢自惜。唯陛下慎己之所獨鄉,察眾人之所共疑!往者寵臣鄧通、韓嫣,驕貴失度,逸豫無厭,小人不勝情慾,卒陷罪辜,亂國亡軀,不終其祿,所謂『愛之適足以害之』者也!宜深覽前世,以節賢寵,全安其命。」上由是於嘉浸不說。 前涼州刺史杜鄴以方正對策曰:「臣聞陽尊陰卑,天之道也。是以男雖賤,各為其家陽,女雖貴,猶為其國陰。故禮明三從之義,雖有文母之德,必繫於子。昔鄭伯隨姜氏之欲,終有叔段篡國之禍;周襄王內迫惠後之難,而遭居鄭之危。漢興,呂太后權私親屬,幾危社稷。竊見陛下約儉正身,欲與天下更始,然嘉瑞未應,而日食、地震。 |
現代日本語訳(口語体)駙馬都尉の董賢もまた上林苑に官寺を建てた。さらに皇帝は彼のために豪邸を造営し、門を北闕に向けて開かせ、王渠の水を引いて庭園の池に注がせた。使者が工事を監督し、役人や兵卒への褒賞は宗廟建設時よりも厚かった。 董賢の母が病むと、長安厨(宮廷厨房)が祭祀用の供物を提供し、道行く者全てに飲食を振る舞った。董賢のために器物を作らせると、完成後にまず皇帝へ献上され、品質が良ければ工人に特別な褒美を与えた。宗廟や三宮への貢ぎ物ですらこの扱いはなかった。 董賢の家で賓客接待・婚礼・親族訪問があると、諸官庁が共同で対応し、使用人や奴婢に至るまで一人当たり十万銭を賜った。使者が市場で物品を強制的に調達するため商人らは震え上がり、路上では騒動が絶えず、臣下たちは困惑した。 詔書によって御苑を廃止し、二千余頃(約1,000ヘクタール)を董賢へ下賜。これにより均田制は崩壊した。 彼の奢侈・身分超越・放縦が陰陽を乱し、災害や異変が頻発。民衆は流言に怯え、天もその振る舞いに惑わされ歯止めが利かなくなった。「陛下は元来仁愛と英知をもって慎重に事を運ばれてきたのに、今こうした非難を招くとは」 孔子は言う「危険なのに支えず、転落しそうでも助けなければ、補佐役の存在意義があろうか」。 臣・嘉(師丹)は幸いにも高位にあり、忠誠を尽くせぬ無念に胸が痛む。この身の死をもって国益とならば惜しまない。どうか陛下にはご自身が偏る方向をお慎みになり、人々が疑う事柄をご洞察ください。 過去の寵臣・鄧通や韓嫣は驕慢の限りを尽くし、欲望に歯止めを知らず、小人の情欲に抗えず罪に落ちた。国を乱して命を失い、俸禄すら全うできなかった――「愛するが故にかえって害する」とはこのことです! 前世の例を深く鑑み、董賢への寵愛を節度あるものとし、彼自身の安泰をも図られるようお願いします。 皇帝(哀帝)はこれにより師丹に対し次第に不快感を抱いた。 前涼州刺史・杜鄴が方正科試験で回答した: 「臣は聞く。陽を尊び陰を卑しむのは天の道理であると。故に男は身分低くとも家では『陽』となり、女は高貴であれ国においては『陰』たるべきだ。 礼儀が三従(未嫁従父・既嫁従夫・夫死従子)を明文化した所以であり、文母(周の武王の母)のような徳人ですら息子に従属する。昔、鄭伯が母・姜氏の意のままにした結果、叔段による簒奪の禍があり、周襄王は恵后(継母)に迫られて鄭国亡命を余儀なくされた。 漢朝興隆後も呂太后が親族を重用して国家を危うくした。陛下は質素・自粛をもって天下を刷新されようとしたのに、瑞祥が見えぬまま日食・地震が相次いでいる。」 注釈
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| 案《春秋》災異,以指象為言語。日食,明陽為陰所臨。坤以法地,為土,為母,以安靜為德;震,不陰之效也。占像甚明,臣敢不直言其事!昔曾子問從令之義,孔子曰:『是何言與!』善閔子騫守禮不苟從親,所行無非理者,故無可間也。今諸外家昆弟,無賢不肖,並侍帷幄,布在列位,或典兵衛,或將軍屯,寵意並於一家,積貴之勢,世所希見、所希聞也。至乃並置大司馬、將軍之官,皇甫雖盛,三桓雖隆,魯為作三軍,無以甚此!當拜之日,晻然日食。不在前後,臨事而發者,明陛下謙遜無專,承指非一,所言輒聽,所欲輒隨,有罪惡者不坐辜罰,無功能者畢受官爵,流漸積畏,過在於是,欲令昭昭以覺聖朝。昔詩人所刺,《春秋》所譏,指象如此,殆不在它。由後視前,忿邑非之。逮身所行,不自鏡見,則以為可,計之過者。願陛下加致精誠,思承始初,事稽諸古,以厭下心,則黎庶群生無不說喜,上帝百神收還威怒,禎祥福祿,何嫌不報!」 上又征孔光詣公車,問以日食事,拜為光祿大夫,秩中二千石,給事中,位次丞相。初,王莽既就國,杜門自守。其中子獲殺奴,莽切責獲,令自殺。在國三歲,吏民上書冤訟莽者百數。至是,賢良周護、宋崇等對策,復深訟莽功德。上於是征莽及平阿侯仁還京師,侍太后。 董賢因日食之變以沮傅晏、息夫躬之策,辛卯,上收晏印綬,罷就第。 |
現代日本語訳『春秋』が災異を考察する方法は、現象を通じて警告を示すものである。日蝕とは陽が陰に侵される象徴である。坤(地)は土や母を表し、静穏こそ徳とされるべきなのに、今や震動のような異常事態が発生している。占いの結果は極めて明白であり、臣としてこの現状を直言せざるを得ない!かつて曾子が「親命に盲従すべきか」と問うた時、孔子は「何という言葉だ!」と嘆いた。閔子騫が礼儀を守り無批判な服従を拒んだのは立派であり、彼の行動には非難点がないゆえ隙が見当たらなかった。しかし現在、外戚一族(皇帝の母方親族)は有能者も無能者も区別なく宮中に侍し要職を占めている。兵権を掌握する者や軍団を指揮する者が輩出し、恩寵が一門のみに集中して積み重なった権勢は史上稀である。大司馬と将軍の官職まで同時に設置した件など、皇甫氏(後漢外戚)の全盛期も魯の三桓卿族隆盛時ですらこれほどの専横はなかった!まさに任命式当日に日蝕が生じたのは偶然ではない。事前でも事後でもなく儀式中に発生したこの現象こそ、「陛下があまりにも謙虚で決断せず、誰の進言も聞き入れ何事にも従い、罪ある者を罰せず功績なき者まで官爵を与える」弊害への天からの警告である。詩経が風刺し春秋が批判した問題点はまさにここにあると言えよう。「後世から前例を見れば誤りと分かる行為も、自ら実行する時には気づかないものだ」。願わくば陛下よ、初心を顧みられ古人の教訓を検証して民衆の心を満たし給え。然れば万民は喜び天地神々も怒りをおさめ、吉兆と福禄が必ずや訪れん! 皇帝は孔光を公車(官吏登用所)に召還し日蝕について諮問した後、彼を光禄大夫(宮廷顧問官)に任命。中二千石の俸禄を与え給事中(詔命審議官)として丞相次席の地位につけた。一方王莽は封地で謹慎生活中、二男・獲が奴隷殺害事件を起こしたため激しく叱責し自死を命じた。三年間の在国中に官吏民衆から百件以上の冤罪訴状が出されるなか、賢良方正(科挙合格者)周護らが王莽の功徳を称える上書を提出。これを受け皇帝は王莽と平阿侯・仁を長安へ召還し皇太后付きとした。 董賢は日蝕変異を利用して傅晏や息夫躬らの献策を阻止したため、辛卯(二十二日)の詔で傅晏の印綬が没収され邸宅謹慎処分となった。 注釈
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| 丁巳,皇太太后傅氏崩,合葬渭陵,稱孝元傅皇后。 丞相、御史奏息夫躬、孫寵等罪過,上乃免躬、寵官,遣就國;又罷侍中、諸曹、黃門郎數十人。 鮑宣上書曰:「陛下父事天,母事地,子養黎民。即位已來,父虧明,母震動,子訛言相驚恐。今日食於三始,誠可畏懼。小民正朔日尚恐毀敗器物,何況於日虧乎!陛下深內自責,避正殿,舉直言,求過失,罷退外親及旁仄素餐之人,征拜孔光為光祿大夫,發覺孫寵、息夫躬過惡,免官遣就國,眾庶歙然,莫不說喜。天人同心,人心說則天意解矣。乃二月丙戌,白虹干日,連陰不雨,此天下憂結未解,民有怨望未塞者也。侍中、駙馬都尉董賢,本無葭莩之親,但以令色、諛言自進,賞賜無度,竭盡府臧,併合三第,尚以為小,復壞暴室。賢父、子坐使天子使者,將作治第,行夜吏卒皆得賞賜,上塚有會,輒太官為供。海內貢獻,當養一君,今反盡之賢家,豈天意與民意邪!天不可久負,厚之如此,反所以害之也!誠欲哀賢,宜為謝過天地,解讎海內,免遣就國,收乘輿器物還之縣官,如此,可以父子終其性命;不者,海內之所仇,未有得久安者也。孫寵、息夫躬不宜居國,可皆免,以視天下。復征何武、師丹、彭宣、傅喜,曠然使民易視,以應天心,建立大政,興太平之端。」上感大異,納宣言,征何武、彭宣;拜鮑宣為司隸。 |
訳文(現代日本語)丁巳の日、皇太太后傅氏が崩御した。渭陵に合葬され、「孝元傅皇后」と称される。 丞相および御史は息夫躬・孫寵らの罪状を上奏し、皇帝は躬らを免官して封国へ追放。さらに侍中・諸曹・黄門郎数十名を罷免した。 鮑宣が上書する:「陛下は天を父とし地を母として仕え、民を子として養うべきです。即位以来『父』たる天は光を欠き(日食)、『母』たる地は震動し(地震)、『子』たる民は流言に怯えております。三始の日に日食が起きたのは誠に畏怖すべき事態です。庶民でさえ元日に器物を壊すことを忌むのに、ましてや太陽が欠けることへの恐怖はいかばかりか!陛下は深く自責し正殿を避け、直言を求め過失を探され、外戚や無能な者どもを罷免。孔光を光禄大夫に任命し、孫寵・息夫躬の悪行を見抜いて追放されたため万民は感嘆し喜んでおります。天と人の心が一致すれば災いは解消するはずです。ところが二月丙戌には白虹が太陽を貫き連日陰って雨も降らず——これは天下に鬱積した憂いが未解決であり、民の怨嗟が晴らされぬ証左でしょう」 「侍中・駙馬都尉である董賢は、皇族とも血縁なく媚態と追従で出世し、法外な恩賞により国庫を枯渇させました。三邸宅を併合しても足らず暴室まで破壊する始末。その父や子が天子の使者を使って邸宅を造営し、夜間警備の役人に至るまで褒美を得ており、墓参りには常に宮廷料理が出されます。天下からの貢物は君主のために存在しますのに、今や董家が独占している——これこそ天意と民意への背反です! 天を欺く行為は永続せず、過度の恩寵は却って害となります」 「もし陛下が真に董賢を哀れむならば、天地へ謝罪し天下との仇敵関係を解消すべきです。彼らを免官して封国へ追放し、皇帝用器物を没収して国家へ返還させれば親子で命脈を保てましょう。さもなくば天下の怨嗟を買い安泰を得られません。孫寵・息夫躬は封国に留めるべきではなく罷免事例として示すことです。何武・師丹・彭宣・傅喜ら賢臣を再登用し、民心を一新して天意に応えれば大政が樹立され太平の礎となるでしょう」 皇帝はこの異変に心動かされて鮑宣の進言を受け入れ、何武と彭宣を召還。鮑宣を司隷校尉に任命した。 解説■ 歴史的背景 ■ 特記事項
- 固有名詞は原則として原文表記を維持: ■ 諫言の核心
1. 天人相関説: ■ 政治的帰結 鮑宣は司隷校尉(帝都監察官)に抜擢されるも、後に誣告により流刑。哀帝死後、王莽政権下で迫害され自殺——儒家官僚の悲劇的典型として後世に伝承される。 ※本訳では漢文調を排し現代語による再構成を行ったが、史書特有の重厚な文体は「畏怖すべき」「怨嗟」等の語彙で表現。助動詞「ぬ(忌む)」など文語的要素も最小限に留めた。 Translation took 1007.2 seconds. |
| 上托傅太后遺詔,令太皇太后下丞相、御史,益封董賢二千戶,賜孔鄉侯、汝昌侯、陽新侯國。王嘉封還詔書,因奏封事諫曰:「臣聞爵祿、土地,天之有也。《書》云:『天命有德,五服五章哉!』王者代天爵人,尤宜慎之。裂地而封,不得其宜,則眾庶不服,感動陰陽,其害疾自深。今聖體久不平,此臣嘉所內懼也。高安侯賢,佞幸之臣,陛下傾爵位以貴之,單貨財以富之,損至尊以寵之,主威已黜,府臧已竭,唯恐不足。財皆民力所為,孝文皇帝欲起露台,重百金之費,克己不作。今賢散公賦以施私惠,一家至受千金,往古以來,貴臣未嘗有此,流聞四方,皆同怨之。里諺曰:『千人所指,無病而死,』臣常為之寒心。今太皇太后以永信太后遺詔詔丞相、御史,益賢戶,賜三侯國,臣嘉竊惑。山崩、地動、日食於三朝,皆陰侵陽之戒也。前賢已再封,晏、商再易邑,業緣私橫求,恩已過厚,求索自恣,不知厭足,甚傷尊尊之義,不可以示天下,為害痛矣!臣驕侵罔,陰陽失節,氣感相動,害及身體。陛下寢疾久不平,繼嗣未立,宜思正萬事,順天人之心,以求福祐,奈何輕身肆意,不念高祖之勤苦,垂立制度,欲傳之於無窮哉!臣謹封上詔書,不敢露見。非愛死而不自法,恐天下聞之,故不敢自劾。」 初,廷尉梁相治東平王雲獄,時冬月未盡二旬,而相心疑雲冤獄,有飾辭,奏欲傳之長安,更下公卿覆治。 |
現代日本語訳上(皇帝)は傅太后の遺詔と称し、太皇太后を通じて丞相・御史に対し、董賢に二千戸を加増して封じるよう命じ、孔郷侯・汝昌侯・陽新侯には領国を与えよと下した。王嘉は詔書を封印して返上し、奏上をもって諫言した。「臣が聞くところでは、爵禄や土地は天の所有物でございます。『書経』に『天命は徳ある者にあり、五種の礼服には五つの紋様がある』とあります。王者が代わって天より爵位を与えるにあたっては、特に慎重であるべきです。領地を分割して封じるのに適切でなければ、民衆は服さず、陰陽を動揺させ、禍いは深く及びます。今上陛下の御体が長らく快癒されぬのは、臣・嘉がひそかに恐れるところです。高安侯・董賢は諂佞で寵愛された臣下であり、陛下は爵位を傾けて彼を貴ばせ、財貨を尽くして富ませ、ご威光を損なってまで寵遇されました。主上の権威は既に失われ、国庫も枯渇しているのに、なお不足を恐れていらっしゃる。財は全て民力によるものでした。孝文皇帝が露台の造営をお考えになった際、百金(巨費)を惜しまれ、自ら控えて建造されませんでした。ところが今や董賢は公税を散じて私恩を与え、一族で千金もの利益を得ているのです。古来より貴臣にこのような例はなく、噂が四方に流れると皆同じく怨んでいます。巷諺に『千人に指されれば病無しとも死ぬ』とあり、臣は常々寒心しております。今回、太皇太后が永信太后の遺詔として丞相・御史に命じ、董賢の封戸を増やし三侯に領国を与えようとは、臣・嘉は密かに疑念を抱きます。山崩れ・地震・日蝕が三日続いたのは、陰が陽を侵す戒めです。以前にも董賢は再び封ぜられ、晏と商も領地替えを受けました。彼らは私欲に基づき横暴な要求を重ね、恩寵は既に過分で飽くなき欲望のまま求めている。これは尊卑の義を深く傷つけ天下に見せるべからざる行為であり、禍いの痛ましさ極まれり!臣下が驕って君上を欺けば陰陽の調和を失い、気(天地のエネルギー)が相動いて御身に害が及びます。陛下はご病気が長引かれ後継も未定です。万端を正すことに思慮を巡らせ天人の心に順い福祐を求めるべき時に、どうして軽率に欲望のまま振る舞われ、高祖(漢王朝創始者)の艱苦や永世伝える制度設立への御意志をも顧みられないのでしょう!臣は謹んで詔書を封じ返上し、露見させぬよう努めます。死すら厭わず諫めるのは、天下に知られることを恐れ自劾(自己弾劾)できないからでございます」 解説
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| 尚書令鞫譚、僕射宗伯鳳以為可許。天子以為相等皆見上體不平,外內顧望,操持兩心,幸雲逾冬,無討賊疾惡主讎之意,免相等皆為庶人。後數月,大赦,嘉薦「相等皆有材行,聖王有計功除過,臣竊為朝廷惜此三人。」書奏,上不能平。後二十餘日,嘉封還益董賢戶事,上乃發怒,召嘉詣尚書,責問以「相等前坐不忠,罪惡著聞,君時輒已自劾;今又稱譽,云『為朝廷惜之』,何也?」嘉免冠謝罪。事下將軍中朝者,光祿大夫孔光等劾「嘉迷國罔上,不道,請謁者召嘉詣廷尉詔獄。」議郎龔等以為「嘉言事前後相違,宜奪爵土,免為庶人。」永信少府猛等以為「嘉罪名雖應法,大臣括發關械,裸躬就笞,非所以重國,褒宗廟也。」上不聽,三月,詔「假謁者節,召丞相詣廷尉詔獄。」 使者既到,府掾、史涕泣,共和藥進嘉,嘉不肯服。主簿曰:「將相不對理陳冤,相踵以為故事,君侯宜引決。」使者危坐府門上,主簿復前進藥。嘉引藥杯以擊地,謂官屬曰:「丞相幸得備位三公,奉職負國,當伏刑都市,以示萬眾。丞相豈兒女子邪!何謂咀藥而死!」嘉遂裝,出見使者,再拜受詔;乘吏小車,去蓋,不冠,隨使者詣廷尉。廷尉收嘉丞相、新甫侯印綬,縛嘉載致都船詔獄。上聞嘉生自詣吏,大怒,使將軍以下與五二千石雜治。吏詰問嘉,嘉對曰:「案事者思得實。 |
翻訳結果(現代日本語)本文: 尚書令の鞫譚と僕射の宗伯鳳は、提案を受け入れるべきだと主張した。しかし天子(皇帝)は、王嘉らが「君主の病状を軽視し、朝廷内外で様子を窺いながら二心を持ち、幸いに冬を越えたものの賊討伐への意志も主君への仇討ちの念もない」と断じ、彼らを免職して庶民に落とした。数か月後、大赦が行われた際、王嘉は「三人(前丞相ら)は才能ある人物であり、聖王は功績を考慮して過失を許すものです。臣は朝廷のためにこの人材を惜しみます」と上奏した。これを見た皇帝は不快感を示した。 二十日余り後、王嘉が董賢への領地増加問題で封還(拒否)すると、皇帝は激怒。尚書省に召喚して詰問した。「お前らは以前『不忠』の罪で処罰されたのに、今また彼らを称賛するとは何故だ?」王嘉は冠を脱いで謝罪した。 事態は廷議にかけられた。光禄大夫・孔光らは「国政を乱し君主を欺く大逆罪」として詔獄への移送を主張し、議郎の龔らは爵位剥奪・庶民落ちを提言。一方、永信少府の猛らは「法に照らせば有罪だが、大臣が裸体で笞打を受けるのは国家の威厳に関わる」と反論した。 皇帝は反対意見を退け、三月に詔書を発令。「使者に節(権限の証)を与え、丞相を廷尉の詔獄へ召喚せよ」。 使者到着後、役人たちが涙ながらに毒薬を勧めた。しかし王嘉は拒否し「三公たる丞相が罪あれば市場で処刑されねばならぬ。どうして女児のように密やかに死を選べようか!」と叫んだ。彼は正装後、使者に拝礼して詔を受け取り、冠も車蓋もつけない粗末な車で廷尉へ向かった。 廷尉が丞相印綬を没収し獄へ護送すると、皇帝は「王嘉が自ら出頭した」と聞いて激怒。将軍以下による合同審理を命じた。尋問に対し王嘉は「事実を明らかにするのが裁判の本義だ」と答えた。 解説
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| 竊見相等前治東平王獄,不以雲為不當死,欲關公卿,示重慎,誠不見其外內顧望,阿附為雲驗,復幸得蒙大赦。相等皆良善吏,臣竊為國惜賢,不私此三人。」獄吏曰:「苟如此,則君何以為罪?猶當有以負國,不空入獄矣。」吏稍侵辱嘉,嘉喟然仰天歎曰:「幸得充備宰相,不能進賢、退不肖,以是負國,死有餘責。」吏問賢、不肖主名。嘉曰:「賢:故丞相孔光、故大司空何武,不能進;惡:高安侯董賢父子,佞邪亂朝,而不能退。罪當死,死無所恨!」嘉繫獄二十餘日,不食,歐血而死。 已而上覽其對,思嘉言,會御史大夫賈延免,夏,五月,乙卯,以孔光為御史大夫。秋,七月,丙午,以光為丞相,復故國博山侯;又以汜鄉侯何武為御史大夫。上乃知孔光前免非其罪,以過近臣毀短光者,曰:「傅嘉前為侍中,毀譖仁賢,誣訴大臣,令俊艾者久失其位,其免嘉為庶人,歸故郡。」八月,何武徙為前將軍。辛卯,光祿大夫彭宣為御史大夫。 司隸鮑宣坐摧辱宰相,拒閉使者,無人臣禮,減死髡鉗。 大司馬丁明素重王嘉,以其死而憐之;九月,乙卯,冊免明,使就第。 冬,十一月,壬午,以故定陶太傅、光祿大夫韋賞為大司馬、車騎將軍。己丑,賞卒。 十二月,庚子,以侍中、駙馬都尉董賢為大司馬、衛將軍,冊曰:「建爾於公,以為漢輔!往悉爾心,匡正庶事,允執其中!」是時賢年二十二,雖為三公,常給事中,領尚書,百官因賢奏事。 |
現代日本語訳(口語体)王嘉という人物が獄吏にこう述べた。「私はかねてより思うところがある。丞相孔光や大司空何武らは、かつて東平王の事件を裁いた際、雲(東平王后の名)が死罪相当でないとは認めず、公卿たちの合議にかけようとしたのは慎重を期すためであり、決して私情に左右されていたわけではない。彼ら三人は有能な官吏であるゆえ、私は国家のために惜しみ、個人的感情から弁護しているのではない」 後になって皇帝が彼の供述記録を見て深く反省し、御史大夫・賈延の免職を機に同年夏五月乙卯(十七日)、孔光を御史大夫に任命。秋七月丙午(九日)には丞相へ昇進させ博山侯の爵位を回復した。同時に汜郷侯・何武も御史大夫に就任させる。 一方で司隷校尉の鮑宣は宰相に対する侮辱行為と皇帝使者への非礼により死罪一等を減じられ髠刑(頭髪切断)を受ける。 解説【歴史背景】
【人物関係図】
【核心的解釈】
【現代語訳の方針】
【この事件の意義】清流派官僚・王嘉の死が結果的に孔光ら賢臣派復権をもたらす皮肉な結末。しかし董賢登用で再び朝廷混乱へ向かう予兆を示し、漢王朝衰退期の特徴的な政争劇と言える。 Translation took 2513.7 seconds. |
| 以父衛尉恭不宜在卿位,徙為光祿大夫、秩中二千石;弟寬信代賢為駙馬都尉。董氏親屬皆侍中、諸曹、奉朝請,寵在丁、傅之右矣。 初,丞相孔光為御史大夫,賢父恭為御史,事光。及賢為大司馬,與光並為三公。上故令賢私過光。光雅恭謹,知上欲尊寵賢。及聞賢當來也,光警戒衣冠出門待,望見賢車乃卻入,賢至中門,光入閣,既下車,乃出,拜謁、送迎其謹,不敢以賓客鈞敵之禮。上聞之,喜,立拜光兩兄子為諫大夫、常侍。賢由是權與人主侔矣。 是時,成帝外家王氏衰廢,唯平阿侯譚子去疾為侍中,弟閎為中常侍。閎妻父中郎將蕭鹹,前將軍望之子也,賢父恭慕之,欲為子寬信求鹹女為婦,使閎言之。鹹惶恐不敢當,私謂閎曰:「董公為大司馬,冊文言『允執其中』,此乃堯禪舜之文,非三公故事,長者見者莫不心懼。此豈家人子所能堪邪!」閎性有知略,聞鹹言,心亦悟;乃還報恭,深達鹹自謙薄之意。恭歎曰:「我家何用負天下,而為人所畏如是!」意不說。後上置酒麒麟殿,賢父子、親屬宴飲,侍中、中常侍皆在側,上有酒所,從容視賢,笑曰:「吾欲法堯禪舜,何如?」王閎進曰:「天下乃高皇帝天下,非陛下之有也!陛下承宗廟,當傳子孫於亡窮,統業至重,天子亡戲言!」上默然不說,左右皆恐。於是遣閎出歸郎署。 |
現代日本語訳:父である衛尉の董恭が卿位にふさわしくないとされ、光祿大夫へ移されて中二千石の俸禄を得た。弟の董寛信は賢(董賢)の後任として駙馬都尉となった。董氏一族はみな侍中・諸曹・奉朝請を兼ねており、その寵愛は丁家や傅家をも凌駕していた。 以前、丞相孔光が御史大夫だった時分に、賢の父である恭が彼のもとで働いていた。後に董賢が大司馬となり孔光と三公を並び立つ立場になると、皇帝(哀帝)はわざわざ董賢を使わせて私的に孔光邸へ赴かせた。生来謹厳な性格の孔光は、天子が董賢への尊崇を示そうとする意図を見抜いた。そこで董賢の訪問を知るや衣冠を整えて門外で待機したものの、その車影が見えると一度奥へ退き、中門に至ったところで改めて控室より出迎え、相手が下車するのを確認してから丁重な拝礼をもって応対し、送迎の礼も極度に恭しく振る舞い、決して賓客として扱うような平等な態度は取らなかった。この話を聞いた皇帝は大いに喜び、即座に孔光の二人の甥を諫大夫と常侍に登用した。こうして董賢の権勢は天子と肩を並べるほどになった。 当時、成帝の外戚である王氏一族は衰退していたが、平阿侯王譚の子・去疾のみが侍中となり、その弟・閎が中常侍に就いていた。閎の岳父である中郎将蕭鹹(前将軍蕭望之の息子)を董恭が敬慕し、「自分の次男寛信と結婚させたい」と願って王閎を通じて申し入れたところ、蕭鹹は畏れ多いとして固辞した。密かに閎へ語った言葉には「董公(賢)が大司馬に任ぜられた時の詔書には『允執其中』(真実をもって中庸を保て)と記されていた。これは堯帝から舜帝への禅譲文であり、三公任命の前例とは異なる。これを見た者は皆心の底で畏怖したのだ。普通の臣下が背負えるものではない」という主旨があった。洞察力ある王閎はこの言葉を深く理解し、董恭へ「蕭鹹が身分不相応として遠慮している」と伝えたところ、恭は嘆息して言った。「我ら一族は天下に何の借りがあってかくも人々から恐れられるのか」。不満そうな様子だった。 後に哀帝が麒麟殿で酒宴を催した際、董賢親族や侍中・中常侍たちが列席していた。酔いが回った皇帝は董賢を見ながら笑って言った。「朕も堯舜の故事に倣い(そなたへ)禅譲しようと思うがどうか?」すると王閎が進み出て諫めた。「天下とは高祖皇帝より継承されたもので、陛下個人の所有物ではありません!宗廟を守る者として皇統は永遠に子孫へ伝えねばならぬ。天子には戯れ言など許されない!」皇帝は黙って不機嫌となり、周囲も慄然とした。こうして閎は郎署(役所)へ追い返された。 解説:
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| 久之,太皇太后為閎謝,復召閎還。閎遂上書諫曰:「臣聞王者立三公,法三光,居之者當得賢人。《易》曰:『鼎折足,覆公餗,』喻三公非其人也。昔孝文皇帝幸鄧通,不過中大夫;武皇帝幸韓嫣,常賜而已,皆不在大位。今大司馬、衛將軍董賢,無功於漢朝,又無肺腑之連,復無名跡高行以矯世,升擢數年,列備鼎足,典衛禁兵,無功封爵,父子、兄弟橫蒙拔擢,賞賜空竭帑藏,萬民喧嘩,偶言道路,誠不當天心也!昔褒神蚖變化為人,實生褒姒,亂周國,恐陛下有過失之譏,賢有小人不知進退之禍,非所以垂法後世也!」上雖不從閎言,多其年少志強,亦不罪也。 孝哀皇帝下元壽二年(庚申,公元前一年) 春,正月,匈奴單于及烏孫大昆彌伊秩靡皆來朝,漢以為榮。是時西域凡五十國,自譯長至將、相、侯、王皆佩漢印綬,凡三百七十六人;而康居、大月氏、安息、罽賓、烏弋之屬,皆以絕遠,不在數中,其來貢獻,則相與報,不督錄總領也。自黃龍以來,單于每入朝,其賞賜錦繡、繒絮,輒加厚於前,以慰接之。單于宴見,群臣在前,單于怪董賢年少,以問譯。上令譯報曰:「大司馬年少,以大賢居位。」單于乃起,拜賀漢得賢臣。是時上以大歲厭勝所在,捨單于上林苑蒲陶宮,告之以加敬於單于;單于知之,不悅。 夏,四月,壬辰晦,日有食之。 |
訳文長い年月が経ち、太皇太后は王閎の謝罪を取りなし、再び彼を都へ召還した。そこで王閎は上書して諫言した。「臣聞きます。王者が三公(最高位の三人の大臣)を立てるのは日・月・星の運行に則り、その地位には必ず賢人を得なければなりませんと。『易経』に云う『鼎の足折れれば公の餗覆る』とは、三公が適任者でないことを喩えたものです。昔孝文皇帝は鄧通を寵愛しましたが中大夫以上の位を与えず、武帝も韓嫣への恩恵は常例の賜物に留めました。ところが今や大司馬・衛将軍董賢には漢朝に対する功績もなく、皇室との血縁関係も無く、世を正す高名な実績もありませんのに、数年で三公の地位に昇り禁軍を掌握し、無功ながら爵位を得て父子兄弟が次々抜擢されました。恩賞は国庫を空しくし万民は巷にあって囂々と非難しております。これは天意に全く背いております!昔竜が人となり褒姒を生み周王朝を乱した故事から見れば、陛下には過失の批判を受けぬよう恐れ、董賢にも小人として身分を知らない禍いが及ばぬようにされるべきであり、後世への悪例となる所業です」と。皇帝は王閎の意見を用いなかったものの、その若さと志の強さを称え罪には問わなかった。 孝哀皇帝下 元寿二年(庚申・前1年) 夏四月壬辰晦(29日)、日蝕があった。 解説
(本訳文では『資治通鑑』胡三省注及び『漢書』王嘉伝を参照しつつ、現代日本語読解性を優先した) Translation took 2131.3 seconds. |
| 五月,甲子,正三公官分職。大司馬、衛將軍董賢為大司馬;丞相孔光為大司徒;御史大夫彭宣為大司空,封長平侯。 六月,戊午,帝崩於未央宮。 帝睹孝成之世祿去王室,及即位,屢誅大臣,欲強主威以則武、宣。然而寵信讒諂,憎疾忠直,漢業由是遂衰。 太皇太后聞帝崩,即日駕之未央宮,收取璽綬。太后召大司馬賢,引見東箱,問以喪事調度。賢內憂,不能對,免冠謝。太后曰:「新都侯莽,前以大司馬奉送先帝大行,曉習故事,吾令莽佐君。」賢頓首:「幸甚!」太后遣使者馳召莽。詔尚書,諸發兵符節、百官奏事、中黃門、期門兵皆屬莽。莽以太后指,使尚書劾賢帝病不親醫藥,禁止賢不得入宮殿司馬中;賢不知所為,詣闕免冠徒跣謝。己未,莽使謁者以太后詔即闕下冊賢曰:「賢年少,未更事理,為大司馬,不合眾心,其收大司馬印綬,罷歸第!」即日,賢與妻皆自殺;家惶恐,夜葬。莽疑其詐死。有司奏請發賢棺,至獄診視,因埋獄中。太皇太后詔「公卿舉可大司馬者」。莽故大司馬,辭位避丁、傅,眾庶稱以為賢,又太皇太后近親,自大司徒孔光以下,舉朝皆舉莽。獨前將軍何武、左將軍公孫祿二人相與謀,以為「往時惠、昭之世,外戚呂、霍、上官持權,幾危社稷;今孝成、孝哀比世無嗣,方當選立近親幼主,不宜令外戚大臣持權。 |
現代日本語訳:五月の甲子の日(27日)、三公(最高官職)を正式に分離し再編した。大司馬・衛将軍であった董賢が大司馬に、丞相孔光は大司徒に、御史大夫彭宣は大司空となり長平侯に封ぜられた。 六月戊午の日(22日)、皇帝(哀帝)が未央宮で崩御した。 皇帝(哀帝)は先代・成帝の時代に王室の権威が失墜した様子を目の当たりにしており、即位後は度々大臣を誅殺し、武帝や宣帝のような強い君主権力を確立しようとした。しかし讒言をする者を寵愛して忠義で直諫する者を憎み、漢王朝の基盤はこれによって衰退した。 太皇太后(王政君)が皇帝崩御を知ると即日未央宮へ赴き、璽と綬(帝位の印)を回収した。大司馬董賢を召し出し東厢で引見して喪事の準備について尋ねたところ、董賢は内心動揺し答えられず冠を脱いで謝罪した。太皇太后は言った。「新都侯王莽はかつて大司馬として先帝(成帝)の葬儀を取り仕切った経験がある。彼に君を補佐させよう」。董賢が平伏して「幸甚です」と答えると、太皇太后は使者を走らせ王莽を召還した。尚書に対し詔勅を下す:兵符・節(軍令の証)、百官の上奏、中黄門や期門兵(近衛兵)の指揮権は全て王莽に属すると。 王莽は太皇太后の意向を受け、尚書に命じ董賢を弾劾させた——「皇帝が病臥した際に自ら医薬を管理せず」。さらに宮殿司馬中への立ち入りを禁じると、董賢は為す術なく官門へ赴き冠を脱ぎ裸足で謝罪した。翌日己未(23日)、王莽は謁者を使い太皇太后の詔書を持たせて官門で宣告させた。「董賢は若年で政務経験が乏しく、大司馬として民心を得ていない。よって印綬を没収し罷免して邸宅に戻れ」。同日、董賢は妻と共に自害した。家族は恐怖のあまり夜陰に葬ったが、王莽は偽装死を疑い役人に棺を開けさせ獄中で検視後、そのまま牢内に埋葬させた。 太皇太后は「公卿の中から大司馬適任者を推挙せよ」と詔した。王莽は以前大司馬であったが丁氏・傅氏(外戚)を避けて辞任しており、民衆は彼を賢人と称賛していた。さらに太皇太后の近親という理由で、大司徒孔光以下ほぼ全廷臣が王莽を推挙した。ただ前将軍何武と左将軍公孫祿のみが密議し「昔の恵帝・昭帝の時代、外戚である呂氏・霍氏・上官氏が権力を掌握して国家を危うくした。今や成帝・哀帝と二代続けて後継者がおらず、幼い近親者の中から新帝を選ぶべき時だ。この状況で外戚(王莽)に実権を持たせるのは不適切である」と考えた。 解説:
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| 親疏相錯,為國計便。」於是武舉公孫祿可大司馬,而祿亦舉武。庚申,太皇太后自用莽為大司馬、領尚書事。 太皇太后與莽議立嗣。安陽侯王舜,莽之從弟,其人修飭,太皇太后所信愛也,莽白以舜為車騎將軍。秋,七月,遣舜與大鴻臚左咸使持節迎中山王箕子以為嗣。 莽又白太皇太后,詔有司以皇太后前與女弟昭儀專寵錮寢,殘滅繼嗣,貶為孝成皇后,徙居北宮。又以定陶共王太后與孔鄉侯晏同心合謀,背恩忘本,專恣不軌,徙孝哀皇后退就桂宮,傅氏、丁氏皆免官爵歸故郡,傅晏將妻子徙合浦。獨下詔褒揚傅喜曰:「高武侯喜,姿性端愨,論議忠直,雖與故定陶太后有屬,終不順指從邪,介然守節,以故斥逐就國。《傳》不雲乎:『歲寒然後知松柏之後凋也。』其還喜長安,位特進,奉朝請。」喜雖外見褒賞,孤立憂懼;後復遣就國,以壽終。莽又貶傅太后號為定陶共王母,丁太后號曰丁姬。莽又奏董賢父子驕恣奢僭,請收沒入財物縣官,諸以賢為官者皆免。父恭、弟寬信與家屬徙合浦,母別歸故郡巨鹿。長安中小民歡嘩,鄉其第哭,幾獲盜之。縣官斥賣董氏財,凡四十三萬萬。賢所厚吏沛朱詡自劾去大司馬府,買棺衣,收賢屍葬之。莽聞之,以它罪擊殺詡。莽以大司徒孔光名儒,相三主,太后所敬,天下信之,於是盛尊事光,引光女婿甄邯為侍中、奉車都尉。 |
現代日本語訳親族と縁遠い者を交互に配置するのが国家にとって有益である」との意見があった。そこで王武は公孫祿を大司馬として推挙したが、逆に公孫祿もまた王武を推薦した。庚申の日、太皇太后みずから王莽を大司馬・尚書事領行(こうしょじりょうぎょう)に任命された。 太皇太后は王莽と後継者選びについて協議した。安陽侯王舜(おうしょう:王莽の従弟で品行方正な人物)が車騎将軍として登用され、秋七月には節(せつ:使者の証)を持って中山王箕子を迎え嗣君とした。 続いて詔勅により: - 皇太后(趙飛燕姉妹)は「後継者殺害」のかどで孝成皇后に降格され北宮へ移住 - 定陶共王太后と孔郷侯晏らは謀反の疑いで桂宮への退去を命じられ、傅氏・丁氏は官爵剥奪の上故郷追放(傅晏一家は合浦へ流罪) ただし傅喜だけは「節義堅固」として長安帰還を許可され特進位を与えられた。しかし彼は賞賛を受けながらも孤独と憂慮に苛まれ、後に再び封国に戻り天寿を全うした。 さらに王莽の上奏で: - 董賢父子が「奢侈僭越」のかどで財産没収(総額43億銭) - 父・恭や弟・寛信らは合浦へ流罪、母は巨鹿郡へ送還 長安市民がその屋敷に集まり慟哭する中、董賢の遺体を密葬した朱詡という官吏が王莽により処刑された。また名儒とされる孔光(こうこう)を利用し、彼の女婿・甄邯(しんかん)を侍中兼奉車都尉として抜擢することで権力基盤強化に成功した。 解説
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| 諸素所不說者,莽皆傅致其罪,為請奏草,令邯持與光,以太后指風光。光素畏慎,不敢不上之;莽白太后,輒可其奏。於是劾奏何武、公孫祿互相稱舉,皆免官,武就國。又奏董宏子高昌侯武父為佞邪,奪爵。又奏南郡太守毋將隆前為冀州牧,治中山馮太后獄,冤陷無辜,關內侯張由誣告骨肉,中太僕史立、泰山太守丁玄陷人入大辟,河內太守趙昌譖害鄭崇,幸逢赦令,皆不宜處位在中土,免為庶人,徙合浦。中山之獄,本立、玄自典考之,但與隆連名奏事;莽少時慕與隆交,隆不甚附,故因事擠之。紅陽侯立,太后親弟,雖不居位,莽以諸父內敬憚之,畏立從容言太后,令己不得肆意,復令光奏立罪惡:「前知定陵侯淳于長犯大逆罪,多受其賂,為言誤朝。後白以官婢楊寄私子為皇子,眾言曰:『呂氏少帝復出。』紛紛為天下所疑,難以示來世,成襁褓之功。請遣立就國。」太后不聽。莽曰:「今漢家衰,比世無嗣,太后獨代幼主統政,誠可畏懼。力用公正先天下,尚恐不從;今以私恩逆大臣議,如此,群下傾邪,亂從此起。宜可且遣就國,安後復徵召之。」太后不得已,遣立就國。莽之所以脅持上下,皆此類也。 於是附順莽者拔擢,忤恨者誅滅,以王舜、王邑為腹心,甄豐、甄邯主擊斷,平晏領機事,劉秀典文章,孫建為爪牙。豐子尋、秀子棻、涿郡崔發、南陽陳崇皆以材能幸於莽。 |
現代日本語訳王莽に従来より憎まれていた者たちは全て無実の罪を着せられ、弾劾文が作成され孔光へ渡された。皇太后の意向として伝えるよう命じられたのである。小心な孔光は奏上せざるを得ず、王莽は即座に承認を取り付けた。 紅陽侯王立(皇太后実弟)は無官ながら、王莽は叔父格として彼を危惧していた。「気軽な発言で私の専横を阻むかもしれない」と考え孔光に弾劾させた:「淳于長の大逆罪を知りながら賄賂を受け朝廷を欺いた」「官婢の子を皇子と偽称し『呂后の少帝再来』と噂され天下を惑わした」として領地追放を要求。皇太后が拒否すると王莽は迫った:「漢王朝衰退で後継者不在の中、太后が幼帝代理となる以上公正を示さねば人心離れます(私情で大臣の意見を退ければ混乱必至)」。やむなく皇太后は追放を認めた。これが王莽の権力掌握手法であった。 こうして従順な者は昇進し(腹心に王舜・王邑、弾劾担当に甄豊・甄邯)、逆らう者は粛清された。平晏は機密文書を、劉秀は詔勅作成を掌り、孫建が実働部隊を指揮した。甄豊の子・尋や劉秀の子・棻ら有能な者たちも登用され、王莽政権の中核が形成される。 解説■歴史的背景 ■言語処理 ■権力構造分析 ■現代への示唆 Translation took 1779.8 seconds. |
| 莽色厲而言方,欲有所為,微見風采,黨與承其指意而顯奏之。莽稽首涕泣,固推讓,上以惑太后,下用示信於眾庶焉。 八月,莽復白太皇太后,廢孝成皇后、孝哀皇后為庶人,就其園。是日,皆自殺。 大司空彭宣以王莽專權,乃上書言:「三公鼎足承君;一足不任,則覆亂美實。臣資性淺薄,年齒老眊,數伏疾病,昏亂遺忘,願上大司空、長平侯印綬,乞骸骨歸鄉里,俟寘溝壑。」莽白太后策免宣,使就國。莽恨宣求退,故不賜黃金、安車、駟馬。宣居國數年,薨。 班固贊曰:薛廣德保縣車之榮,平當逡巡有恥,彭宣見險而止,異乎苟患失之者矣!戊午,右將軍王崇為大司空,光祿勳東海馬宮為右將軍,左曹、中郎將甄豐為光祿勳。 九月,辛酉,中山王即皇帝位,大赦天下。 平帝年九歲,太皇太后臨朝,大司馬莽秉政,百官總己以聽於莽。莽權日盛,孔光憂懼,不知所出,上書乞骸骨;莽白太后,帝幼少,宜置師傅,徙光為帝太傅,位四輔,給事中,領宿衛、供養,行內署門戶,省服御食物。以馬宮為大司徒,甄豐為右將軍。冬,十月,壬寅,葬孝哀皇帝於義陵。 孝平皇帝上 孝平皇帝上元始元年(辛酉,公元一年) 春,正月,王莽風益州,令塞外蠻夷自稱越裳氏重譯獻白雉一、黑雉二。莽白太后下詔,以白雉薦宗廟。於是群臣盛陳莽功德,致周成白雉之瑞,周公及身在而托號於周,莽宜賜號曰安漢公,益戶疇爵邑。 |
現代日本語訳(口語体)王莽は表面では厳しい態度と言葉を示していたが、何かを企んでおり、ほのめかすような言動があった。配下たちは彼の意図をくみ取り、公然と上奏した。王莽は額を地面に擦りつけて泣きながら強く辞退し、上(太后)には偽りの忠誠を示し、下(民衆)には信頼される人物であることを印象づけたのである。 八月、王莽は再び太皇太后に働きかけ、孝成皇后と孝哀皇后を庶人に落として陵園へ移すよう奏上した。その日、二人は自害した。 大司空の彭宣は王莽が権力を独占していることを憂慮し、次のような上書を行った:「三公(最高幹部)は鼎のように君主を支える足です。一本でも弱れば中の宝が崩れ落ちます。私は能力も浅く老いて目も衰え、病に伏すことも多く、判断力や記憶力も低下しました。大司空と長平侯の印綬をお返しし、骸骨を故郷で埋めることをお許しください」。王莽は太后に策免(形式的解任)を進言し彭宣を領地へ追いやったが、自ら退いたことに腹を立て、黄金・安車・駟馬などの引退恩賜を与えなかった。彭宣は帰国後数年で亡くなっている。 班固の評:薛広徳は名誉ある引退を守り、平当は節度ある恥を知る態度を示し、彭宣は危険を見て身を引いた。地位に執着する者とは全く異なる人物たちだ!戊午の日、右将軍王崇が大司空となり、光禄勲・東海出身の馬宮が右将軍となった。左曹中郎将甄豊は光禄勲に就任した。 九月辛酉(1日)、中山王が皇帝として即位し、天下に大赦令が出された。 平帝はわずか九歳だったため太皇太后が摂政となり、実権は大司馬の王莽が掌握。百官は彼の命令に従った。王莽の専横が日に日に強まる中で孔光は恐怖し進退窮まり「骸骨を乞う」(引退願)を提出した。王莽は太后に奏上して「幼帝には師傅(教育係)が必要だ」と述べ、孔光を太傅(帝王師)に格下げしたが、「四輔」「給事中」「宿衛・供養の管理」「宮門監察」「服御食物の監督」など名ばかりの役職を与えた。馬宮は大司徒に、甄豊は右将軍となった。 冬十月壬寅(12日)、孝哀皇帝を義陵へ埋葬した。 【平帝紀元始元年】(辛酉年・西暦1年) 春正月、王莽は益州の役人に密命し、辺境民族「越裳氏」が言語を重ねて通訳する形で白雉一羽と黒雉二羽を献上させた。これを利用して太后へ詔書発布を奏請し宗廟(皇室祠堂)へ奉納させると、臣下たちは盛んに「周公の時代の白雉祥瑞と同じだ」「王莽には安漢公の称号と領地加増を与えるべきだ」と称賛した。 解説■ 権力掌握手法 ■ 祥瑞演出の本質 ■ 班固評の深層 ■ 時代的背景 Translation took 2379.2 seconds. |
| 太后詔尚書具其事。莽上書言:「臣與孔光、王舜、甄豐、甄邯共定策;今願獨條光等功賞,寢置臣莽,勿隨輩列。」甄邯白太后下詔曰:「『無偏無黨,王道蕩蕩。』君有安宗廟之功,不可以骨肉故蔽隱不揚,君其勿辭!」莽復上書固讓數四,稱疾不起。左右白太后,「宜勿奪莽意,但條孔光等,莽乃肯起。」二月,丙辰,太后下詔;「以太傅、博山侯光為太師,車騎將軍、安陽侯舜為太保,皆益封萬戶。左將軍、光祿勳豐為少傅,封廣陽侯。皆授四輔之職。侍中、奉車都尉邯封承陽侯。」四人既受賞,莽尚未起。群臣復上言:「莽雖克讓,朝所宜章,以時加賞,明重元功,無使百僚元元失望!」太后乃下詔:「以大司馬、新都侯莽為太傅,干四輔之事,號曰安漢公,益封二萬八千戶。」於是莽為惶恐,不得已而起,受太傅、安漢公號,讓還益封事,云:「願須百姓家給,然後加賞。」群臣復爭,太后詔曰:「公自期百姓家給,是以聽之,其令公奉賜皆倍故。百姓家給人足,大司徒、大司空以聞。」莽復讓不受,而建言褒賞宗室群臣。立故東平王雲太子開明為王;又以故東平思王孫成都為中山王,奉孝王后;封宣帝耳孫信等三十六人皆為列侯;太僕王惲等二十五人皆賜爵關內侯。又令諸侯王公、列侯、關內侯無子而有孫若同產子者,皆得以為嗣;宗室屬未盡而以罪絕者,復其屬;天下令比二千石以上年老致仕者,參分故祿,以一與之,終其身。 |
【現代日本語訳】太后が尚書に命じて当該事案を文書化させたところ、王莽は上奏した。「臣(私)は孔光・王舜・甄豊・甄邯と共に政策を決定しましたが、今はひたすら彼らの功績に対する恩賞のみを取り上げていただき、臣である私は対象外として列挙しないでください」と。すると甄邯が太后に報告し詔勅が出された。「『偏りなく私心がなければ王道は広く行き渡る』というものだ。貴公には宗廟(皇室)を安定させた功績があるのだから、肉親の縁故(※王莽は当時太皇太后王氏の甥にあたる)でその功績を隠して称えないわけにはいかない。辞退しないように」。しかし王頑強に辞退し続け、病と称して起き上がろうともしなかった。 側近が「無理強いせず孔光らだけ恩賞を与えるのがよいでしょう」と進言すると、ようやく王莽は動いた(※ただし自身への恩賞には未だ応じていない)。二月丙辰の日、太后は詔を下す:「太傅・博山侯である孔光を太師に任じ、車騎将軍・安陽侯の王舜を太保とする。いずれも領邑一万戸を加増する。左将軍で光禄勲の甄豊を少傅とし広陽侯に封じる。侍中・奉車都尉の甄邯には承陽侯を与える」。四人が恩賞を受けた後も王莽は起き上がらなかった。 臣下たちは再び上奏した:「王莽は謙譲していますが、朝廷として顕彰すべきです。時宜を得た恩賞で功績を重んじないと、百官や民衆(元元)が失望するでしょう」。太后は詔を発し:「大司馬・新都侯である王莽を太傅に任じ四輔の職務を統括せよ。称号は安漢公とする。領邑二万八千戸を加増する」。 すると王莽は惶恐(恐れおののく様)を示したが、やむなく起き上がり太傅・安漢公の称号だけ受け入れ、加封分は辞退して言うには:「民衆すべてに生計が安定してからで結構です」。群臣が反論すると太后は詔で応えた:「貴公が民衆生活を優先されるならそれもよかろう。ただし俸禄と賜物は倍額とする。民生改善の暁には大司徒・大司空より報告せよ」。 王莽はさらに辞退したものの、代わりに宗室や臣下への恩賞を提案:故東平王劉雲の太子だった開明を王位継承者とし、故東平思王の孫である成都を中山王として孝王の祭祀を継がせる。宣帝の玄孫(耳孫)にあたる劉信ら三十六人に列侯を与え、太僕・王惲ら二十五人には関内侯の爵位を授ける。 さらに諸制度改正:諸侯や列侯などで後継者がおらず孫または兄弟の子がいる場合の相続許可。宗室籍削除者(罪による絶縁)の復帰。全国的な高官(二千石以上)引退時の特例措置として元俸禄の三分の一を終身支給する――といった具合である。 【注釈】
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| 下及庶民鰥寡,恩澤之政,無所不施。 莽既媚說吏民,又欲專斷,知太后老,厭政,乃風公卿奏言:「往者吏以功次遷至二千石,及州部所舉茂材異等吏,率多不稱,宜皆見安漢公。又,太后春秋高,不宜親省小事。」令太后下詔曰:「自今以來,唯封爵乃以聞,他事安漢公、四輔平決。州牧、二千石及茂材吏初除奏事者,輒引入,至近署對安漢公,考故官,問新職,以知其稱否。」於是莽人人延問,密緻恩意,厚加贈送,其不合指,顯奏免之,權與人主侔矣。 置羲和官,秩二千石。 夏,五月,丁巳朔,日有食之。大赦天下。公卿以下舉敦厚能直言者各一人。 王莽恐帝外家衛氏奪其權,白太后:「前哀帝立,背恩義,自貴外家丁、傅,橈亂國家,幾危社稷。今帝以幼年復奉大宗為成帝后,宜明一統之義,以戒前事,為後代法。」六月,遣甄豐奉璽綬,即拜帝母衛姬為中山孝王后。賜帝舅衛寶、寶弟玄爵關內侯。賜帝女弟三人號曰君,皆留中山,不得至京師。 扶風功曹申屠剛以直言對策曰:「臣聞成王幼少,周公攝政,聽言下賢,均權布寵,動順天地,舉措不失;然近則召公不說,遠則四國流言。今聖主始免襁褓,即位以來,至親分離,外戚杜隔,恩不得通。且漢家之制,雖任英賢,猶援姻戚,親疏相錯,杜塞間隙,誠所以安宗廟,重社稷也。 |
現代日本語訳(口語体)下は一般庶民や孤児・寡婦に至るまで、恩恵の施しが行き渡らないところはなかった。 王莽は役人や民衆への媚びへつらいを済ませた後、さらに権力を独占しようと画策した。皇太后が高齢で政務を倦んでいることを知ると、公卿たちに奏上させて言わせた。「これまで功績によって二千石(太守級)に昇進した者や州から推薦された優秀な官吏の多くは不適格であるため、全て安漢公(王莽)による審査を受けるべきです。また皇太后はご高齢ゆえ、細かな政務を自ら裁決されるのはよくありません」と。これにより皇太后は詔勅を下した。「今後は爵位の授与のみを朕に報告せよ。その他の案件は安漢公および四輔(補佐官)が処理するように。州牧・二千石及び新たに登用される優秀な官吏については、必ず近衛官府で安漢公と面談させ、前任時の実績や新任職務への見識を問いただし、適性を判断せよ」と。かくして王莽は一人ひとりを呼び審問し、密かに恩恵を与えたり厚い贈答品を渡したが、意に沿わぬ者については公然と罷免を上奏し、その権勢は君主と同等となった。 羲和(天文官)の職位を設置し、秩禄二千石とした。 夏季五月丁巳朔日(1日)、日食があったため大赦を行い天下に布告した。公卿以下から篤実で直言できる者各一名を推挙させた。 王莽は皇帝の外戚である衛氏が権力を奪うことを恐れ、皇太后へ進言した。「先代哀帝時代には恩義に背き、外戚の丁氏・傅氏を重用して国政を乱し、国家存亡の危機をも招きました。今上陛下は幼少で成帝の後継となられたのですから、統治の道理を示すためにも前例を戒めとして将来の規範とすべきです」と。六月、甄豊に璽綬(官印)を持たせ皇帝生母・衛姫を中山孝王后とした上で、皇帝の舅である衛宝とその弟玄に関内侯の爵位を与えた。また三人の妹には「君」の称号を授けたが、全員を中山国に留め置き長安へ入らせなかった。 扶風郡功曹(人事官)申屠剛は直言答策で述べた。「周公旦が幼少の成王を摂政として支えた際には賢者への従諫と権力分散を行い、天地に順った政治で過ちなきを期しました。それでも近くでは召公奭が不快を示し、遠方からは四国より非難が起きました。まして今上陛下はまだ乳児から離れたばかりでありながら即位以来、肉親と分断され外戚も隔絶されて恩情の通じようがない。そもそも漢王朝では英傑を登用しても姻族と互いに補完させ、隙間風を防ぐことで宗廟・国家の安定を図ってきたのです」と。 解説
補足
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| 宜亟遣使者征中山太后,置之別宮,令時朝見,又召馮、衛二族,裁與冗職,使得執戟親奉宿衛,以抑患禍之端。上安社稷,下全保傅。」莽令太后下詔曰:「剛所言僻經妄說,違背大義。」罷歸田裡。 丙午,封魯頃公之八世孫公子寬為褒魯侯,奉周公祀;封褒成君孔霸曾孫均為褒成侯,奉孔子祀。 詔:「天下女徒已論,歸家,出雇山錢,月三百。復貞婦,鄉一人。大司農部丞十三人,人部一州,勸農桑。」 秋,九月,赦天下徒。 孝平皇帝上元始二年(壬戌,公元二年) 春,黃支國獻犀牛。黃支在南海中,去京師三萬里。王莽欲耀威德,故厚遺其王,令遣使貢獻。 越巂郡上黃龍游江中。太師光、大司徒宮等咸稱「莽功德比周公,宜告祠宗廟。」大司農孫寶曰:「周公上聖,召公大賢,尚猶有不相說,著於經典,兩不相損。今風雨未時,百姓不足,每有一事,群臣同聲,得無非其美者?」時大臣皆失色。甄邯即時承製罷議者。會寶遣吏迎母,母道病,留弟家,獨遣妻子。司直陳崇劾奏寶,事下三公即訊。寶對曰:「年七十,悖眊,恩衰共養,營妻子,如章。」寶坐免,終於家。 帝更名衎。 三月,癸酉,大司空王崇謝病免,以避王莽。夏,四月,丁酉,左將軍甄豐為大司空,右將軍孫建為左將軍,光祿勳甄邯為右將軍。立代孝王玄孫之子如意為廣宗王,江都易王孫盱台侯宮為廣川王,廣川惠王曾孫倫為廣德王。 |
現代日本語訳:中山国の太后を直ちに使者を遣わして迎え入れ、離宮に住まわせて時折の拝謁を許すべきである。また馮氏と衛氏の二族を召し出し、閑職を与えて戟を持たせ親衛隊として侍らせることで、災いの発端を抑えることができるだろう。(こうすれば)上は国家安泰となり、下は保傅(教育係)たちも保全される。」王莽は太后に詔勅を発するよう命じ、「剛の言うことは経典から外れた妄説であり、大義に背く」として罷免し帰郷させた。 丙午(3月14日)、魯の頃公八世孫である公子寛を褒魯侯に封じて周公の祭祀を行わせ、褒成君・孔霸の曾孫均を褒成侯に封じて孔子の祭祀を行わせた。詔勅が下された:「天下で判決確定した女性刑徒は帰宅を許し、月三百銭の『雇山銭』(山林労働免除税)を納めること。貞淑な婦人を郷ごとに一人表彰せよ。」大司農部丞十三名を配置し各州に一名ずつ派遣して農業奨励にあたらせた。 秋九月、天下刑徒の赦免が行われた。 孝平皇帝・元始二年(壬戌、西暦2年) 春、黄支国から犀牛が献上された。同国は南海中にあり長安より三万里離れている。王莽が威徳を示そうと厚く国王へ贈り物をしたため、朝貢使節を派遣させたのだ。 越巂郡で「黄龍が江中を遊泳」との報告があった。太師・孔光や大司徒・馬宮らは皆「王莽の功績は周公に匹敵し、宗廟に告げるべきだ」と主張した。しかし大司農・孫宝は反論:「聖人たる周公と賢者召公でさえ不和が経典に記されているのに(国家には影響なし)。今や風雨不順で民は困窮している中、何事につけ群臣が同調するのは問題ではないか?」一同は青ざめた。甄邯が即座に詔を偽造し議論を封じた。折から孫宝が役人を派遣して母を迎えさせたところ、母は途中で病を得て弟宅に滞在し、妻子だけが帰還した(=母を見捨てたと解釈され)。司直・陳崇が弾劾すると三公による尋問となり、孫宝は「七十歳の老いぼれで孝養も衰え妻子を優先した」(と自嘲的に認めた)ため罷免。その後在宅で死去。 皇帝(平帝)は名を衎(カン)に改める。 三月癸酉(5月19日)、大司空・王崇が病と称して辞任し王莽への対抗姿勢を示す。夏四月丁酉(6月12日)、左将軍甄豊が大司空となり、右将軍孫建は左将軍へ昇進、光禄勲の甄邯が右将軍となる。代孝王玄孫の子・如意を広宗王に、江都易王の孫で盱台侯宮(キタイコウキュウ)を広川王に、広川恵王曾孫倫を広徳王に封じた。 訳注解説:
(史料出典:『資治通鑑』巻35-36/班固『漢書』平帝紀・王莽伝による補訂) Translation took 1126.2 seconds. |
| 紹封漢興以來大功臣之後周共等皆為列侯及關內侯,凡百一十七人。郡國大旱,蝗,青州尤甚,民流亡。王莽白太后,宜衣繒練,頗損膳,以示天下。莽因上書願出錢百萬,獻田三十頃,付大司農助給貧民。於是公卿皆慕效焉,凡獻田宅者二百三十人,以口賦貧民。又起五里於長安城中,宅二百區,以居貧民。莽帥群臣奏太后,言:「幸賴陛下德澤,間者風雨時,甘露降,神芝生,蓂莢、朱草、嘉禾,休征同時並至。願陛下遵帝王之常服,復太官之法膳,使臣子各得盡歡心,備共養!」莽又令太后下詔,不許。每有水旱,莽輒素食,左右以白太后,太后遣使者詔莽曰:「聞公菜食,憂民深矣。今秋幸孰,公以時食肉,愛身為國!」 六月,隕石於巨鹿二。 光祿大夫楚國龔勝、太中大夫琅邪邴漢以王莽專政,皆乞骸骨。莽令太后策詔之曰:「朕愍以官職之事煩大夫,大夫其修身守道,以終高年。」皆加優禮而遣之。 梅福知王莽必篡漢祚,一朝棄妻子去,不知所之。其後,人有見福於會稽者,變姓名為吳市門卒雲。 秋,九月,戊申晦,日有食之,赦天下徒。 遣執金吾候陳茂諭說江湖賊成重等二百餘人皆自出,送家在所收事。重徙雲陽,賜公田宅。 王莽欲悅太后以威德至盛,異於前,乃風單于令遣王昭君女須卜居次雲入侍太后,所以賞賜之甚厚。 |
翻訳文:漢王朝創建以来の功臣たちの子孫である周共らを列侯及び関内侯に封じた。総数百十七名に及んだ。諸地域では大旱魃と蝗害が発生し、特に青州は被害甚だしく、民衆は流浪状態となった。 王莽は皇太后に対し「絹織物の衣服をお召しになり、食事を質素になさるようお願い申し上げます。そうすることで天下に模範を示せましょう」と進言した。自らも百万銭を献金し、田地三十頃(約3400畝)を大司農へ寄付して貧民救済にあてると上奏した。これを受けて公卿たちが続いて倣い、田宅を提供する者は二百三十人に達し、戸籍単位で貧困者支援を行った。 さらに長安城内に五里(約2.5km)の区画を造成して住宅二百棟を建設し、貧民を居住させた。王莽は百官を率いて皇太后へ奏上した。「陛下のご威徳により風雨が適時であり、甘露が降り注ぎ、霊芝・蓂莢(古代吉兆植物)・朱草・嘉禾など吉祥のしるしが同時に出現しました。どうか平常通りの礼服をお召しいただき、太官規定の御膳を復活させてください。臣下どもにも孝養を尽くす機会を与え賜りますように」 しかし王莽は意図的に太后へ「詔勅でこれを拒否させる」よう工作した。以後水害・旱魃が発生するたびに自ら質素な食事を取り、側近の報告を受けた太后は使者を遣わし「卿が粗食を貫いていると聞く。民への憂いが深いのだな。今秋は幸いに豊作見込みゆえ、時節に応じて肉も摂り、御身を大切にして国政にあたってほしい」との勅語を伝えた。 同年六月、巨鹿で隕石二つが落下した。 光禄大夫楚国の龔勝と太中大夫琅邪の邴漢は王莽の専権を批判して辞官願い(乞骸骨)を提出。太后は詔書をもって「役務による煩労から卿らを解放する」と述べ、栄誉ある待遇を与えて帰郷させた。 梅福という人物は王莽が必ず漢王朝を奪うと看破し、突如妻子を捨てて行方知れずとなった。後に会稽で目撃された際には姓名を変え「呉市門の守衛」と名乗っていたという。 秋九月戊申(月末)、日食が発生したため全国の流刑者らは赦免された。 執金吾候陳茂を使者として派遣し、江湖賊の首領成重ら二百余名に投降を勧告させた。彼らは自発的に出頭し家族と合流後、雲陽へ移住して公田宅を与えられた。 王莽は自身の威徳を皇太后に印象づけるため、匈奴君主(単于)に命じて王昭君の娘・須卜居次雲を長安へ派遣させた。彼女が太后に仕えると、莫大な褒賞が下賜された。 解説:【歴史的意義】 *本記事は『資治通鑑』前漢紀より抜粋。王莽(新朝創始者)の権力掌握過程を描く *「献田」「菜食」などの演出は儒教理念に基づく徳治政治の実践だが、簒奪への布石と解釈される 【言語処理方針】 1. 官職名(光禄大夫・太中大夫)は原典表記を保持 2. 「乞骸骨」等の制度用語は現代日本語で説明付加 3. 度量衡単位(里・頃)に換算値を注記 4. 瑞兆植物(蓂莢/朱草等)や異民族名(須卜居次雲)は典拠を尊重し表記 【王莽の権力戦略】 - 民心掌握:災害時の貧民救済政策で支持基盤拡大 - 正統性構築:「甘露降る」などの祥瑞報告による支配正当化 - 反対派処理: ・龔勝ら批判勢力には名誉退職措置 ・盗賊集団(成重)は懐柔政策で体制取り込み 【人物評価の焦点】 *王莽:民衆救済と儒教理念を掲げつつ、太后操作や異民族利用による権力基盤強化 *梅福:簒奪を見抜いて隠遁した知識人。『漢書』では「清節之士」と評される ※本記述は班固『漢書』王莽伝との比較検討が重要。演出された徳政と現実の政治操作の乖離を読解する史料である。 Translation took 2161.3 seconds. |
| 車師後王國有新道通玉門關,往來差近,戊己校尉徐普欲開之。車師後王姑句以當道供給使者,心不便也。普欲分明其界,然後奏之,召姑句使證之;不肯,系之。其妻股紫陬謂姑句曰:「前車師前王為都護司馬所殺,今久系必死,不如降匈奴!」即馳突出高昌壁,入匈奴。又去胡來王唐兜與赤水羌數相寇,不勝,告急都護,都護但欽不以時救助。唐兜困急,怨欽,東守玉門關;玉門關不內,即將妻子、人民千餘人亡降匈奴。單于受,置左谷蠡地,遣使上書言狀,曰:「臣謹已受。」詔遣中郎將韓隆等使匈奴,責讓單于;單于叩頭謝罪,執二虜還付使者。詔使中郎將王萌待於西域惡都奴界上。單于遣使送,因請其罪;使者以聞。莽不聽,詔會西域諸國王,陳軍斬姑句、唐兜以示之。乃造設四條,中國人亡入匈奴者,烏孫亡降匈奴者,西域諸國佩中國印綬降匈奴者,烏桓降匈奴者,皆不得受。遣中郎將王駿、王昌、副校尉甄阜、王尋使匈奴,班四條與單于,雜函封,付單于,令奉行;因收故宣帝所為約束封函還。時莽奏令中國不得有二名,因使使者以風單于,宜上書慕化,為一名,漢必加厚賞。單于從之,上書言:「幸得備籓臣,竊樂太平聖制。臣故名囊知牙斯,今謹更名曰知。」莽大說,白太后,遣使者答諭,厚賞賜焉。 莽欲以女配帝為皇后以固其權,奏言:「皇帝即位三年,長秋宮未建,掖廷媵未充。 |
現代日本語訳:車師後王国には玉門関へ通じる新道があり、往来距離が比較的短かったため、戊己校尉の徐普はこの道を開拓しようとした。しかし車師後王・姑句(ここう)は使者への供給負担に不満を持っており、これに反対した。徐普は境界線を明確化してから朝廷へ上奏するため、姑句を召喚し証言させようとしたが拒否されたため拘束した。その妻・股紫陬(こしそう)が姑句に進言:「以前の車師前王は都護司馬に殺害されました。今も長期拘束されれば必ず命を落とすでしょう。匈奴へ降伏する方がましです」。そこで高昌壁から脱出し、匈奴へ亡命した。 また去胡来王・唐兜(とうと)は赤水羌族との戦いに敗れ都護の但欽(たんきん)に救援を求めたが、適切な援助を得られなかった。窮地に陥った唐兜は但欽を恨み、玉門関へ退避しようとしたが受け入れられず、妻子と人民千余人を率いて匈奴へ投降した。単于(ぜんう)は彼らを受け入れ左谷蠡地(さこくりち)に居住させ、「臣は謹んでこれを受け容れた」とする上書を提出した。 朝廷は中郎将・韓隆らを派遣し単于を譴責すると、単于は謝罪して二人の逃亡者を引き渡した。詔勅により中郎将・王萌(おうほう)が西域悪都奴境界で待機するよう命じられると、単于は使者護送と引換えに減刑を求めたが、この要求は王莽によって拒否された。朝廷は西域諸国の君主たちを召集し、姑句と唐兜を軍前で斬首して見せしめとした。 さらに新たな四か条の禁令を制定: 1. 漢人で匈奴へ亡命する者 2. 烏孫から投降する者 3. 西域諸国で漢王朝の印綬を持つ降伏者 4. 烏桓族の投降者 ――これら一切を受け入れてはならない。 中郎将・王駿と王昌、副校尉・甄阜(しんぷ)と王尋を匈奴へ派遣。四か条を木函に封じ単于へ交付して遵守させると同時に、宣帝時代の旧規約書類を回収した。 当時王莽は「中国人が二つ名を持つことを禁ずる」法令を推進中だったため、使者を通じて単于に対し改名を暗に要求:「漢文化への憧れを示すため一名を用いれば厚く褒賞する」。これを受け単于は上奏文で言上: 「藩臣として太平の聖制に浴しております。旧名・囊知牙斯(のうちがし)を改め『知』と称します」 王莽は大いに喜び太后へ報告後、使者を通じて厚く褒賞を与えた。 権力基盤強化のため、王莽は娘を皇帝の后に立てようと上奏: 「皇帝即位より三年経つにも関わらず皇后(長秋宮)が未定で、掖廷(後宮)も充実しておりません」 解説
(訳注:固有名詞以外の漢語表現は全て現代日本語へ置換。「供給使者」→「使者への供給」、「加厚賞」→「厚く褒賞する」等) Translation took 2216.0 seconds. |
| 乃者國家之難,本從無嗣,配取不正,請考論《五經》,定取後禮,正十二女之義,以廣繼嗣,博采二王后及周公、孔子世、列侯在長安者適子女。」事下有司,上眾女名,王氏女多在選中者,莽恐其與己女爭,即上言:「身無德,子材下,不宜與眾女並采。」太后以為至誠,乃下詔曰:「王氏女,朕之外家,其勿采。」庶民、諸生、郎吏以上守闕上書者日千餘人,公卿大夫或詣廷中,或伏省戶下,鹹言:「安漢公盛勳堂堂若此,今當立後,獨奈何廢公女,天下安所歸命!願得公女為天下母!」莽遣長史以下分部曉止公卿及諸生,而上書者愈甚。太后不得已,聽公卿采莽女。莽復自白:「宜博選眾女。」公卿爭曰:「不宜采諸女以貳正統。」莽乃白:「願見女。」。 |
現代日本語訳かつて国家の危機は後継者不在から発生したため、『五経』を検討して後継選定儀礼を確立し、十二人の后妃制度を正しく運用することで子孫繁栄を図り、二王(殷・周)の末裔や周公旦・孔子の血筋、長安在住の列侯から適切な子女を広く求める提案があった。この件が役所に下され候補者名簿が提出されたところ、王氏一族の娘達は多数選考入りしていたため、王莽は自身の娘との競合を恐れ「私は徳もなく子も才能不足ゆえ他の子女と共に選ばれるべきではない」と緊急上奏した。皇太后(王政君)が誠意ある言葉と受け止めた結果、「王氏女子は我が外戚であるため採択しないように」との詔勅を発布する事態となった。 解説
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| input text 資治通鑑\036_漢紀_28.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷三十六 漢紀二十八 起昭陽大淵獻,盡著雍執徐,凡六年。 孝平皇帝下元始三年(癸亥,公元三年) 春,太后遣長樂少府夏侯籓、宗正劉宏、尚書令平晏納采見女。還,奏言:「公女漸漬德化,有窈窕之容,宜承天序,奉祭祀。」大師光、大司徒宮、大司空豐、左將軍孫建、執金吾尹賞、行太常事、大中大夫劉秀及太卜、太史令服皮弁、素積,以禮雜卜筮,皆曰:「兆遇金水王相,卦遇父母得位,所謂康強之占,逢吉之符也。」又以太牢策告宗廟。有司奏:「故事:聘皇后,黃金二萬斤,為錢二萬萬。」莽深辭讓,受六千三百萬,而以其四千三百萬分予十一媵家及九族貧者。 夏,安漢公奏車服制度,吏民養生、送終、嫁娶、奴婢、田宅、器械之品,立官稷,及郡國、縣邑、鄉聚皆置學官。 大司徒司直陳崇使張敞孫竦草奏,盛稱安漢公功德,以為:「宜恢公國令如周公,建立公子令如伯禽,所賜之品亦皆如之,諸子之封皆如六子。」太后以示群公。群公方議其事,會呂寬事起。初,莽長子宇非莽隔絕衛氏,恐久後受禍,即私與衛寶通書,教衛後上書謝恩,因陳丁、傅舊惡,冀得至京師。莽白太皇太后,詔有司褒賞中山孝王后,益湯沐邑七千戶。衛後日夜啼泣,思見帝面,而但益戶邑。宇復教令上書求至京師,莽不聽。宇與師吳章及婦兄呂寬議其故,章以為莽不可諫而好鬼神,可為變怪以驚懼之,章因推類說令歸政衛氏。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻三十六 漢紀二十八 孝平皇帝下 元始三年(癸亥、西暦3年) 春、皇太后は長楽少府・夏侯藩、宗正・劉宏、尚書令・平晏を派遣し、皇后候補の女性を見立てさせた。使者が戻り奏上した。「安漢公王莽の娘は徳化に感化され、優雅な容姿を持つため、天意を受けて祭祀を司るべきです」。大師・孔光、大司徒・馬宮、大司空・甄豊、左将軍・孫建、執金吾・尹賞、太常代行・劉秀らは、太卜や太史令と共に皮弁(礼冠)と素積(礼服)を着用し、様々な占法を用いた結果、「兆しには金水の相が現れ、卦では父母が正位を得る。これはいわゆる健康強壮を示す吉兆である」と述べた。さらに太牢(牛・羊・豚)を供えて宗廟に報告した。役人は「先例によれば皇后聘礼は金二万斤(銭二億枚)です」と奏上したが、王莽は強く辞退し、六千三百万だけ受け取り、残り四千三百万を十一人の側室の家や貧しい親族に分配させた。 夏、安漢公・王莽は車輌や服飾の規格、役人と庶民の生活(養生)、葬儀、婚姻、奴隷取引、田宅、器物に関する制度を上奏。さらに官営の稷神祭壇を設け、郡国から県邑、郷聚に至るまで全てに学官を置いた。 大司徒司直・陳崇は張敞の孫である竦に起草させた上奏文で、王莽の功徳を称え「周公のように公国の規模を拡大し、伯禽(周公の子)のような待遇で公子を立てるべきだ。諸子への封も周公の六子と同様とするのが妥当」と主張した。皇太后がこれを重臣たちに示すと、協議中に呂寛の事件が発生した。 初め王莽の長男・王宇は、父が衛氏一族(平帝の実家)を隔離していることに反対し、後々禍根となることを憂慮した。密かに衛宝(衛后の兄)と連絡を取り、衛后に「恩恵への感謝」を装った上奏をさせた。その中で丁氏・傅氏(哀帝の外戚)の旧悪を述べて長安入りを画策する内容だった。王莽は太皇太后に報告し、役人に命じて衛后へ湯沐邑七千戸を加増したが、衛后は日夜「皇帝に会いたい」と泣き続けていたため、単なる加封では不満だった。王宇は再び長安召還を上奏させようとしたが拒否される。そこで師匠の呉章や義兄・呂寛と協議したところ、呉章は「王莽は諫言を受け入れぬが鬼神を恐れる。怪異現象で脅せば衛氏への政権返還を認めるだろう」と提案し、類推による説得を勧めた。 解説
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| 宇即使寬夜持血灑莽第門,吏發覺之。莽執宇送獄,飲藥死。宇妻焉懷子,繫獄,須產子已,殺之。甄邯等白太后,下詔曰:「公居周公之位,輔成王之主,而行管、蔡之誅,不以親親害尊尊,朕甚嘉之!」莽盡滅衛氏支屬,唯衛後在。吳章要斬,磔屍東市門。初,章為當世名儒,教授尤盛,弟子千餘人。莽以為惡人黨,皆當禁錮不得仕宦,門人盡更名他師。平陵雲敞時為大司徒掾,自劾吳章弟子,收抱章屍歸,棺斂葬之,京師稱焉。 莽於是因呂寬之獄,遂窮治黨與,連引素所惡者悉誅之。元帝女弟敬武長公主素附丁、傅,及莽專政,復非議莽;紅陽侯王立,莽之尊屬;平阿侯王仁,素剛直;莽皆以太皇太后詔,遣使者迫守,令自殺。莽白太后,主暴病薨;太后欲臨其喪,莽固爭而止。甄豐遣使者乘傳案治衛氏黨與,郡國豪傑及漢忠直臣不附莽者,皆誣以罪法而殺之。何武、鮑宣及王商子樂昌侯安,辛慶忌三子護羌校尉通、函谷都尉遵、水衡都尉茂,南郡太守辛伯等皆坐死。凡死者數百人,海內震焉。北海逄萌謂友人曰:「三綱絕矣,不去,禍將及人!」即解冠掛東都城門,歸,將家屬浮海,客於遼東。 莽召明禮少府宗伯鳳入說為人後之誼,白令公卿、將軍、侍中、朝臣並聽,欲以內厲天子而外塞百姓之議。先是,秺侯金日磾子賞、都成侯金安上子常皆以無子國絕,莽以日磾曾孫當及安上孫京兆尹欽紹其封。 |
翻訳本文宇は直ちに寛を使い、夜中に血を持って王莽の邸宅の門前に撒かせたが、役人に見つかった。王莽は宇を捕らえ獄へ送り、毒薬を与えて死なせた。宇の妻焉は妊娠しており、分娩まで獄につながれ、出産後殺害された。甄邯らが皇太后に報告すると、「公(王莽)は周公のような立場で幼君を補佐しながら、管叔・蔡叔(反逆者)への刑罰を行った。親族情愛によって君臣の秩序を損なわなかったことを評価する」との詔勅が出された。 王莽は衛氏一族を根絶やしにしたが、末裔一人だけ残した。呉章は腰斬され東市門で晒し者となった。当初、彼は当世の名儒として多くの弟子を持ち、教えは盛んだった。しかし王莽が「悪党」と認定すると、生徒らは師を変えるため改名する者が続出した。平陵出身の雲敞(大司徒掾)だけは自ら進んで呉章の弟子であることを認め、遺体を回収し葬儀を行ったので、都では称賛された。 王莽は呂寛事件を利用して政敵弾圧を徹底化させた。元帝妹・敬武長公主(丁氏・傅氏派閥)、紅陽侯王立(王莽の親族)、平阿侯王仁(剛直な性格)らに対し、太皇太后詔勅と称して使者を派遣し自殺を強要した。皇太后に「敬武長公主が急逝」と報告すると、葬儀出席を望んだが断固阻止した。 甄豊は衛氏派閥の追及名目で各地へ調査官を派遣し、王莽批判勢力を罪状捏造によって粛清させた(何武・鮑宣・辛慶忌三兄弟ら数百人)。この大虐殺に天下震動する中、北海郡の逄萌は「君臣関係が崩壊した。逃げなければ災いに巻き込まれる」と友人に告げて官帽を都門に掛け捨て、家族連れで遼東へ亡命した。 王莽は礼学担当役人・宗伯鳳(少府)を召して「継承者の道義」講演させ重臣ら聴講させることで、天子への威圧と民衆批判の封じ込めを図った。同時に秺侯金日磾家や都成侯金安上家など断絶した爵位について、王莽自ら後継者(当・欽)を指名し復興させた。 解釈注記
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| 欽謂「當宜為其父、祖立廟,而使大夫主賞祭。」甄邯時在旁,廷叱欽,因劾奏:「欽誣祖不孝,大不敬。」下獄,自殺。邯以綱紀國體,亡所阿私,忠孝尤著,益封千戶。更封安上曾孫湯為都成侯。湯受封日,不敢還歸家,以明為人後之誼。 是歲,尚書令穎川鐘元為大理。穎川太守陵陽嚴詡本以孝行為官,謂掾、史為師友,有過輒閉閣自責,終不大言。郡中亂。王莽遣使征詡,官屬數百人為設祖道,詡據地哭。掾、史曰:「明府吉征,不宜若此。」詡曰:「吾哀穎川士,身豈有憂哉!我以柔弱征,必選剛猛代;代到,將有僵仆者,故相吊耳。」詡至,拜為美俗使者。徙隴西太守平陵何並為穎川太守。並到郡,捕鐘元弟威及陽翟輕俠趙季、李款,皆殺之。郡中震慄。 孝平皇帝下元始四年(甲子,公元四年) 春,正月,郊祀高祖以配天,宗祀孝文以配上帝。改殷紹嘉公曰宋公,周承休公曰鄭公。 詔:「婦女非身犯法,及男子年八十以上、七歲已下,家非坐不道、詔所名捕,它皆無得系;其當驗者即驗問。定著令!」 二月,丁未,遣大司徒宮、大司空豐等奉乘輿法駕迎皇后於安漢公第,授皇后璽紱,入未央宮。大赦天下。 遣太僕王惲等八人各置副,假節,分行天下,覽觀風俗。 夏,太保舜等及吏民上書者八千餘人,鹹請如陳崇言,加賞於安漢公。 |
現代日本語訳:欽が「父祖の廟を建て、大夫に祭事を主宰させるべきだ」と主張すると、同席していた甄邯が朝廷内で彼を叱責し、「祖先への不孝を偽り大不敬である」と弾劾した。欽は投獄され自殺した。甄邯は国政の秩序を守るため私情なく行動し、忠孝に特に優れていたとして千戸加増された。安上の曾孫・湯は都成侯に封じられたが、彼は受封日に帰宅せず「後継者としての道義」を示した。 同年、尚書令の潁川出身・鐘元が大理となった。潁川太守の陵陽出身・厳詡は孝行で官職を得ており、属官らを師友と扱い、過失があれば自室に閉じ籠もって自責したため郡政は混乱していた。王莽が使者を遣わして詡を召還すると、数百人の役人が餞別の宴を設けたが、詡は地面に伏して泣いた。属官らが「吉事なのに嘆くことはありません」と言うと、「潁川の人々を哀れんでいるのだ。私のように柔弱な者が召されれば、後任には剛猛な人物が選ばれるだろう。着任すれば死者が出るゆえに弔っているだけだ」と答えた。詡は都で美俗使者に任命され、代わりに隴西太守の平陵出身・何並が潁川太守となった。何並は着任すると鐘元の弟・威や陽翟の侠客・趙季らを捕縛し処刑したため郡中は震え上がった。 孝平皇帝下 元始四年(甲子、紀元4年) 春正月:高祖を郊祀で天と合わせて祭り、文帝を宗廟祭祀で上帝に合わせて祭った。殷の紹嘉公を宋公へ、周の承休公を鄭公へ改称した。 詔書発布:「女性自身が法を犯さない限り、及び80歳以上の男子・7歳以下の幼児は、謀反罪による連座や指名手配者でなければ拘束禁止。取調が必要な場合は直ちに対応せよ」。 二月丁未:大司徒の宮らが安漢公邸へ法駕を率いて皇后を迎え、璽綬を授けた後、未央宮に入った。天下に大赦。 太僕・王惲ら8名(各々副官を帯同)が旌節を持って各地を巡行し風俗視察を行わせた。 夏:太保の舜と官吏民八千余人が陳崇の上奏通り安漢公への恩賞追加を請願した。 注釈:
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| 章下有司,有司請「益封公以新息、召陵二縣及黃郵聚、新野田;采伊尹、周公稱號,加公為宰衡,位上公,三公言事稱『敢言之』;賜公太夫人號曰功顯君;封公子男二人安為褒新侯,臨為賞都侯;加後聘三千七百萬,合為一萬萬,以明大禮;太后臨前殿親封拜,安漢公拜前,二子拜後,如周公故事。」莽稽首辭讓,出奏封事:「願獨受母號,還安、臨印□及號位戶邑。」事下,太師光等皆曰:「賞未足以直功。謙約退讓,公之常節,終不可聽。忠臣之節亦宜自屈,而伸主上之義。宜遣大司徒、大司空持節承製詔公亟入視事,詔尚書勿復受公之讓奏。」奏可。莽乃起視事,止減召陵、黃郵、新野之田而已。 莽復以所益納徵錢千萬遺太后左右奉共養者。莽雖專權,然所以誑耀媚事太后,下至旁側長御,方故萬端,賂遺以千萬數。白尊太后姊、妹號皆為君,食湯沐邑。以故左右日夜共譽莽。莽又知太后婦人,厭居深宮中,莽欲虞樂以市其權,乃令太后四時車駕巡狩四郊,存見孤、寡、貞婦,所至屬縣,輒施恩惠,賜民錢帛、牛酒,歲以為常。太后旁弄兒病,在外捨,莽自親候之。其欲得太后意如此。 太保舜奏言:「天下聞公不受千乘之土,辭萬金之幣,莫不鄉化。蜀郡男子路建等輟訟,慚怍而退,雖文王卻虞、芮,何以加!宜報告天下。」奏可。 |
翻訳本文(現代日本語)役所に命を下すと、担当官が上申した。「新息・召陵の二県および黄郵聚・新野の田地を増封し、伊尹や周公の称号にならい『宰衡』の位を加えて上公の地位につけられよ。三公が奏上する際には『敢言之(謹んで申し上げます)』と称させたまえ。太夫人に『功顕君』の号を賜い、公子二人を安は褒新侯に、臨は賞都侯に封ぜよ。さらに婚礼費用三千七百万銭を加えて一億貫とし、大礼を明示せよ。太后みずから前殿で冊封され、安漢公が先に拝礼した後、二人の子が後に続くように。かつて周公に行われた故事にならって。」 王莽は叩頭して辞退し、上奏文を提出した。「母君への称号のみを受け、安・臨の印章および戸邑(封土)は返還いたします」と。この件について太師孔光らが言うには「褒賞では功績に値せぬ。謙虚で譲る姿勢こそ公の常なる節操ゆえ、辞退を聞き入れるべからず。忠臣たる者は自らの立場を抑えて主君の大義を示すもの。大司徒・大司空を使者として派遣し、詔書を持たせて速やかに職務に復帰するよう命じよ。尚書には今後このような辞退奏上を受け取らぬように。」と。奏上は認可され、王莽はついに政務に復帰したが、召陵・黄郵・新野の田地のみ削減を許された。 さらに王莽は婚礼費用から千万銭を取り分け、太后付きの侍女たちへ贈った。専権を握りながらも、太后や側近の女官まで媚び諂うためにあらゆる手を用い、巨額の賄賂を贈ったため、左右の人々は日夜王莽を称賛した。また太后が深宮生活に倦んでいることを見抜くと、娯楽で歓心を得ようと四季折々に郊外へ行幸させ、孤児・寡婦・貞女らを慰問し、訪れた県ごとに民衆へ銭帛や牛酒を与える恒例行事とした。太后の寵童が病んだ際には自ら見舞いに出向くなど、その意を得んとする姿勢は徹底していた。 太保王舜が奏上した。「公が千乗の領土も受けず万金の財も辞退されたと聞き、天下の人々が感化されています。蜀郡の路建という男が訴訟を取り下げ恥じて去った話など、周の文王が虞・芮を帰順させた故事にも匹敵しましょう! このことを広く知らしめるべきです」と。奏上は許可された。 解説
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| 於是孔光愈恐,固稱疾辭位。太后詔:「太師毋朝,十日一入省中,置幾杖,賜餐十七物,然後歸,官屬按職如故。」 莽奏起明堂、辟雍、靈台,為學者築捨萬區,制度甚盛。立《樂經》;益博士員,經各五人。征天下通一藝、教授十一人以上,及有逸禮、古書、天文、圖讖、鐘律、月令、兵法、史篇文字,通知其意者,皆詣公車。網羅天下異能之士,至者前後千數,皆令記說廷中,將令正乖謬,壹異說雲。 又征能治河者以百數,其大略異者,長水校尉平陵關並言:「河決率常於平原、東郡左右,其地形下而土疏惡。聞禹治河時,本空此地,以為水猥盛則放溢,少稍自索,雖時易處,猶不能離此。上古難識,近察秦、漢以來,河決曹、衛之域,其南北不過百八十里。可空此地,勿以為官亭、民室而已。」御史臨淮韓牧以為:「可略於《禹貢》九河處穿之,縱不能為九,但為四、五,宜有益。」大司空掾王橫言:「河入勃海地,高於韓牧所欲穿處。往者天嘗連雨,東北風,海水溢西南出,浸數百里,九河之地已為海所漸矣。禹之行河水,本隨西山下東北去。《周譜》云:『定王五年,河徙。』則今所行非禹之所穿也。又秦攻魏,決河灌其都,決處遂大,不可復補。宜卻徙完平處更開空,使緣西山足,乘高地而東北入海,乃無水災。」司空掾沛國桓譚典其議,為甄豐言:「凡此數者,必有一是;宜詳考驗,皆可豫見。 |
現代日本語訳:そこで孔光はますます恐れおののき、「病気」と強く称して辞任しようとした。皇太后は詔書を下した。「太師(孔光)は毎朝参内しなくともよい。十日に一度だけ宮中に入り、机や杖を与え、十七品目の御膳を賜った後で帰宅せよ。属官たちは従来通り職務を行え」 王莽は上奏して明堂・辟雍(学問所)・霊台(天文観測所)の建設を開始し、学者用に一万戸分の宿舎を築いた。その規模は非常に盛大であった。『楽経』を制定し、博士官の員数を増やし各経書ごとに五人ずつ任命した。「一芸に通じ十一人以上を教えた者」および「逸礼・古書・天文・図讖(予言書)・鐘律(音律)・月令(暦法)・兵法・史篇文字(古代文字)の意を知る者」は全員、公車(官庁施設)に出頭せよと命じた。天下の異能之士を網羅した結果、集まった者は前後千人に及び、皆を朝廷で記録させ意見を述べさせて「誤りを正し学説を統一する」ことを企図した。 さらに治水専門家百人余りを召集したが、主な提案は以下の通りであった: - 長水校尉・平陵出身の関並:「黄河決壊は平原郡・東郡周辺で頻発。地形低く土質脆弱。大禹時代にこの地を空地とし水量調節していたと伝わる。秦漢以降の決壊範囲も南北180里内であるから、官舎や民家を置かず空地とするのが妥当」 - 御史・臨淮出身の韓牧:「『禹貢』記載の九河旧跡に沿って開削すべき。九本が無理なら四~五本でも効果あり」 - 大司空掾・王横:「現在の渤海注入口は韓牧案より標高高い。過去の海水逆流で九河道は既に水没している。禹による本来の水路は西山沿いだった(『周譜』記載の紀元前602年河川変更を典拠)。また秦が魏都灌漑用に決壊させた箇所は修復不能であるため、安全地帯へ河道を移し西山麓から高地経由で渤海へ導くべき」 司空掾・沛国出身の桓譚は議論をまとめ甄豊に進言した:「いずれかの案が正しいはず。詳細な検証を行えば事前に対処可能である」 解説:
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| 計定然後舉事,費不過數億萬,亦可以事諸浮食無產業民。空居與行役,同當衣食,衣食縣官而為之作,乃兩便,可以上繼禹功,下除民疾。」時莽但崇空語,無施行者。 群臣奏言:「昔周公攝政七年,制度乃定。今安漢公輔政四年,營作二旬,大功畢成,宜升宰衡位在諸侯王上。」詔曰:「可。」仍令議九錫之法。 莽奏尊孝宣廟為中宗,孝元廟為高宗;又奏毀孝宣皇考廟勿修;罷南陵、雲陵為縣。奏可。 莽自以北化匈奴,東致海外,南懷黃支,唯西方未有加,乃遣中郎將平憲等多持金幣誘塞外羌,使獻地願內屬。憲等奏言:「羌豪良願等種可萬二千人,願為內臣,獻鮮水海、允谷、鹽池、平地美草,皆予漢民;自居險阻處為籓蔽。問良願降意,對曰:『太皇太后聖明,安漢公至仁,天下太平,五穀成熟,或禾長丈餘,或一粟三米,或不種自生,或繭不蠶自成;甘露從天下,醴泉自地出;鳳皇來儀,神爵降集。從四歲以來,羌人無所疾苦,故思樂內屬。』宜以時處業,置屬國領護。」事下莽,莽復奏:「今已有東海、南海、北海郡,請受良願等所獻地為西海郡。分天下為十二州,應古制。」奏可。冬,置西海郡。又增法五十條,犯者徙之西海。徙者以千萬數,民始怨矣。 梁王立坐與衛氏交通,廢,徙南鄭;自殺。 分京師置前輝光、後丞烈二郡。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』からの抜粋)計画を確定した後に事業に着手すれば、費用は数億万を超えず、また浮浪者で産業を持たない民衆の雇用創出が可能となる。遊んでいる状態と労働奉仕では衣食の必要性は同じであるから、国家が衣食を与えて働かせるのは双方にとって利益がある。これにより禹王(古代中国の聖王)の治水事業を継承しつつ、現代の民衆の苦痛も除去できる。」しかし当時、王莽は空虚な理念を唱えるだけで実行に移さなかった。 群臣が上奏した:「かつて周公旦が摂政して7年で制度が確立しました。今や安漢公(王莽)が4年間補佐政治を行い、わずか20日間の工事で大事業を完成させました。宰衡(宰相)の地位を諸侯王より上位とすべきです。」詔勅は「許可する」とし、さらに九錫(帝王が功臣に与える9種の栄典)の制度審議を命じた。 王莽は上奏して孝宣皇帝廟を中宗、孝元皇帝廟を高宗と追尊すること。また孝宣皇帝の皇考廟(実父の祭廟)の破却と修復禁止を提案し、南陵・雲陵を県に格下げすることを請うた。これらは許可された。 王莽は北方で匈奴を教化し、東方では海外まで影響力を及ぼし、南方では黄支国(ベトナム付近)を懐柔したが、西方だけが未着手であったため、中郎将・平憲らに多額の金品を持たせて塞外の羌族を誘い込み、領土献上と内属をさせようとした。平憲らの報告によれば:「羌族首長の良願ら約1万2千人が内臣となることを望み、鮮水海(青海湖)・允谷(渓谷名)・塩池及び平原の肥沃な草地を漢へ献上し、住民は全て漢民族に譲ると申し出た。彼ら自身は険阻な地で防衛の役目を担うと言う。降伏理由を尋ねると『太皇太后(王政君)の聖明と安漢公(王莽)の至仁により天下太平、五穀豊穣が続く。稲は丈余に伸び、粟から三粒の実が獲れ、耕作せずとも自然発生し、養蚕しないのに繭ができる。甘露は天より降り、醴泉(甘泉)は地から湧き出る。鳳凰が舞い降り神爵(霊鳥)も集う。4年間、羌族に苦難なく、故に喜んで内属を願う』と答えました」。適切な措置で領土管理すべしとの意見に対し王莽は再上奏:「既に東海・南海・北海郡があるため、良願献上の地を西海郡とすることを請う。天下を十二州に分割して古代制度に合わせるべきだ」と主張した。これが許可され冬に西海郡設置。さらに50ヶ条の新法を追加し違反者は西海へ流刑としたため、移住者が千万単位となり民衆の不満が始まった。 梁王・劉立は衛氏一族(廃帝劉嬰の母族)と内通した罪で王位剥奪後、南鄭へ配流され自殺した。 首都を分割して前輝光郡と後丞烈郡の二郡を設置した。 解説
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| 更公卿、大夫、八十一元士官名、位次及十二州名、分界。郡國所屬,罷置改易,天下多事,吏不能紀矣。 孝平皇帝下元始五年(乙丑,公元五年) 春,正月,祫祭明堂;諸侯王二十八人,列侯百二十人,宗室子九百餘人,征助祭。禮畢,皆益戶、賜爵及金帛、增秩、補吏各有差。 安漢公又奏復長安南、北郊。三十餘年間,天地之祠凡五徙焉。 詔曰:「宗室子自漢元至今十有餘萬人,其令郡國各置宗師以糾之,致教訓焉。」 夏,四月,乙未,博山簡列侯孔光薨,贈賜、葬送甚盛,車萬餘兩。以馬宮為太師。吏民以莽不受新野田而上書者前後四十八萬七千五百七十二人,及諸侯王公、列侯、宗室見者皆叩頭言:「宜亟加賞於安漢公。」於是莽上書言:「諸臣民所上章下議者,願皆寢勿上,使臣莽得盡力畢制禮作樂;事成,願賜骸骨歸家,避賢者路。」甄邯等白太后,詔曰:「公每見,輒流涕叩頭言,願不受賞;賞即加,不敢當位。方製作未定,事須公而決,故且聽公製作;畢成,群公以聞,究於前議。其九錫禮儀亟奏!」 五月,策命安漢公莽以九錫,莽稽首再拜,受綠韍,袞冕、衣裳、瑒琫、瑒珌,句履,鸞路、乘馬,龍旂九旒,皮弁、素積,戎路、乘馬,彤弓矢、盧弓矢,左建朱鉞,右建金戚,甲、冑一具,秬鬯二卣,圭瓚二,九命青玉珪二,朱戶,納陛,署宗官、祝官、卜官、史官,虎賁三百人。 |
現代日本語訳公卿・大夫および八十一人の元士の官職名と位階を改定し、十二州の名称と境界区分を行った。郡や諸侯国の所属関係について廃止や設置、変更が頻繁に行われたため、天下は多事となり、官吏たちは記録することが困難となった。 孝平皇帝下元始五年(乙丑年、西暦5年) 安漢公(王莽)はさらに長安南郊と北郊での祭祀復活を奏請したが、この三十余年の間に天地祭祀は計五回も場所変更されていた。 詔勅で「宗室の子弟は前漢建国から現在まで十余万人に達しているため、各郡国ごとに宗師(監督官)を設置し指導・監察させよ」と命じた。 夏四月乙未日、博山簡列侯孔光が逝去した。弔慰品や葬儀の規模は盛大で、参列車両は一万台余りに及んだ。その後任として馬宮を太師に任命した。 五月、安漢公王莽に九錫の策命が発令された。彼は額づいて礼拝し次の品々を受領した: 解説【時代背景】本記事は『資治通鑑』元始五年条(紀元5年)を基にしている。前漢末期、王莽が「安漢公」として実権掌握しつつあった時期である。「九錫授与」は彼が皇帝禅譲へ向けた準備段階の核心儀式であった。 【政治意図】
【九錫の本質】古代天子が功臣へ与える最高栄典だが、王莽の受領では特異点がある: 1. 物品の象徴性:礼服から兵器まで帝王権威そのもの。例:朱戸(宮門色)・納陛(専用階段)は皇帝施設に準じた待遇。 2. 人事掌握:宗官任命権と虎賁300人は私兵組織公認を意味した。 3. 前例破壊:「九錫受領→禅譲」の手順が後世簒奪パターンとなる。 【王莽演出術】
【歴史的意義】この年から3年後(紀元8年)に新朝建国が実現するため、本記事は王莽簒奪プロセスの決定的段階を記録した核心史料と言える。司馬光編纂意図としては「権力移行期の演出パターン」を示す警告的記述と解釈される。 Translation took 2675.0 seconds. |
| 王惲等八人使行風俗還,言天下風俗齊同,詐為郡國造歌謠頌功德,凡三萬言。閏月,丁酉,詔以羲和劉秀等四人使治明堂、辟雍,令漢與文王靈台、周公作洛同符。太僕王惲等八人使行風俗,宣明德化,萬國齊同,皆封為列侯。時廣平相班稚獨不上嘉瑞及歌謠;琅邪太守公孫閎言災害於公府。甄豐遣屬馳至兩郡,諷吏民,而劾「閎空造不祥,稚絕嘉應,嫉害聖政,皆不道。」稚,班婕妤弟也。太后曰:「不宣德美,宜與言災者異罰。且班稚後宮賢家,我所哀也。」閎獨下獄,誅。稚懼,上書陳恩謝罪,願歸相印,入補延陵園郎;太后許焉。 莽又奏為市無二賈,官無獄訟,邑無盜賊,野無饑民,道不拾遺,男女異路之制;犯者象刑。 莽復奏言:「共王母、丁姬,前不臣妾,塚高與元帝山齊,懷帝太后、皇太太后璽綬以葬。請發共王母及丁姬塚,取其璽綬;徙共王母歸定陶,葬共王塚次。」太后以為既已之事,不須復發。莽固爭之,太后詔因故棺改葬之。莽奏:「共王母及丁姬棺皆名梓宮,珠玉之衣,非籓妾服。請更以木棺代,去珠玉衣,葬丁姬媵妾之次。」奏可。公卿在位皆阿莽指,入錢帛,遣子弟及諸生、四夷凡十餘萬人,操持作具,助將作掘平共王母、丁姬故塚;二旬間,皆平。莽又周棘其處,以為世戒雲。又隳壞共皇廟,諸造議者泠褒、段猶等皆徙合浦。 |
現代日本語訳(口語体)王惲ら八人が風俗視察から戻り、「天下の風習は均一化されました」と報告した。これは実は郡国に歌謡を作らせて功德を称えさせた偽装工作で、総計三万字にも及んだ。閏月丁酉の日には詔勅が下り、羲和劉秀ら四人に明堂・辟雍(天子の祭祀施設)の整備を命じ、「漢王朝が文王の霊台や周公の洛邑建設と同じ瑞兆を示した」と宣言させた。太僕王惲ら八人は風俗視察により徳化を広め万国を均質化した功績で列侯に封ぜられた。 この時、広平国の相・班稚だけが吉兆や歌謡を献上せず、琅邪太守の公孫閎は役所で災害発生を報告した。甄豊(王莽側近)が部下を両郡に急派して官民を威圧し、「公孫閎は虚偽の凶事を作り、班稚は吉兆を隠蔽し、聖政を誹謗する不道行為」と弾劾した。班稚は班婕妤(元帝側室)の実弟であったため太后は「徳政を宣べない罪と災害報告は区別すべきだ。班家は後宮の賢臣の家系でもある」と庇い、公孫閎のみ処刑された。班稚は恐れて謝罪し官職返上を願い出て延陵園郎(皇陵管理職)に左遷され、太后はこれを認めた。 王莽はさらに市場価格統一・訴訟廃止・盗賊絶滅・飢民根絶・落とし物禁止・男女別道の制度を上奏。違反者は象刑(模擬的刑罰)で処するとした。 続く上奏では「共王母と丁姫は身分に不相応な厚葬であり、墓高が元帝陵並みで、皇太后の璽綬を副葬している」と指摘し、「墳墓を発掘して璽綬を取り戻し、共王母は定陶へ改葬すべし」と主張。太后「過去の事は再調査不要」との意見を退け強硬に迫り、ついに棺のみ移葬する詔勅を得た。しかし王莽は「二人の棺が梓宮(皇帝用)と呼ばれ珠玉衣をまとうのは非礼だ。木棺に替え陪葬者扱いとすべし」と再度要求して認められた。 公卿たちは王莽に迎合し、金銭や物資を提供するとともに子弟・儒生・異民族ら十万人以上を動員し工具を持たせて墳墓破壊作業に投入。二十日で完全に平らげた上、周囲に棘を巡らして「戒め」とし、共皇廟も破却した。元の厚葬論者だった泠褒・段猶らは合浦へ流罪となった。 解説
これらの施策は、王莽が儒教的理念を逆用しつつ実権掌握を進めた「建国的劇場政治」の本質を露呈している。『資治通鑑』編者はこうした作為性への批判的視座で記述しており、特に班稚庇護失敗と十万人動員の描写に暗喩的な批評が込められている。 Translation took 2122.1 seconds. |
| 征師丹詣公車,賜爵關內侯,食故邑。數月,更封丹為義陽侯;月餘,薨。 初,哀帝時,馬宮為光祿勳,與丞相、御史雜議傅太后謚曰孝元傅皇后。及莽追誅前議者,宮為莽所厚,獨不及。宮內慚懼,上書言:「臣前議定陶共王母謚,希指雷同,詭經僻說,以惑誤主上,為臣不忠。幸蒙灑心自新,誠無顏復望闕廷,無心復居官府,無宜復食國邑。願上太師、大司徒、扶德侯印綬,避賢者路。」秋,八月,壬午,莽以太后詔賜宮策曰:「四輔之職,為國維綱;三公之任,鼎足承君;不有鮮明固守,無以居位。君言至誠,不敢文過,朕甚多之。不奪君之爵邑,其上太師、大司徒印綬使者,以侯就第。」 莽以皇后有子孫瑞,通子午道,從杜陵直絕南山,逕漢中。 泉陵侯劉慶上書言:「周成王幼少,稱孺子,周公居攝。今帝富於春秋,宜令安漢公行天子事,如周公。」群臣皆曰:「宜如慶言。」 時帝春秋益壯,以衛後故,怨不悅。冬,十二月,莽因臘日上椒酒,置毒酒中。帝有疾,莽作策,請命於泰畤,願以身代,藏策金滕,置於前殿,敕諸公勿敢言。丙午,帝崩於未央宮。大赦天下。莽令天下吏六百石以上皆服喪三年。奏尊孝成廟曰統宗;孝平廟曰元宗。斂孝平,加元服,葬康陵。 班固贊曰:孝平之世,政自莽出,褒善顯功,以自尊盛。觀其文辭,方外百蠻,無思不服,休征嘉應,頌聲並作;至乎變異見於上,民怨於下,莽亦不能文也。 |
現代日本語訳:兵士を派遣して師丹を宮廷へ召喚し、関内侯の爵位と旧領を与えた。数か月後、義陽侯に改封されたが一カ月余りで死去した。 哀帝時代、馬宮は光禄勲として丞相・御史大夫らと共議し傅太后を「孝元傅皇后」と諡した。王莽が過去の参画者を追罰する際、自身への厚遇ゆえ処罰を免れたことを恥じた馬宮は上奏文で言う:「臣は前回定陶共王母(傅氏)の諡号決定時、迎合的に賛同し邪説を用いて主君を欺きました。心改めた今、朝廷に立つ面目も官職・封邑を持つ資格もありません」。秋八月壬午、皇太后詔をもって王莽は彼に伝えた:「四輔(重臣)の責務は国家の柱石となることだ。誠実な弁明を評価するゆえ爵位と領地は剥奪せず印綬のみ返還を認める」 皇后が妊娠兆候を示したため瑞祥として子午道開通を指示、杜陵から南山を貫き漢中に至る道路が造られた。 時を同じくして成長した平帝は衛后一族処遇への不満から反抗的態度を示した。冬十二月、王莽は臘祭の儀で供える椒酒に毒を混入。発病した皇帝のために偽りの策文を作成し「身代わりとなる」と泰畤(天壇)で祈願、金縢箱に封じ前殿へ奉納すると諸侯に口外禁止を通達。丙午の日、平帝は未央宮で崩御する。 王莽は全国六百石以上の官吏に対し三年間喪服着用を義務付け、孝成皇帝廟号を統宗・孝平皇帝廟号を元宗と追尊した。葬儀では遺体に成人冠(元服)を加え康陵へ埋葬された。 班固の評:「孝平帝時代は実権が王莽にあり功績誇張で自らの威光を高めた。詔勅を見る限り異民族も祥瑞も称賛一色だが、天変地異と民衆怨嗟が同時発生した段階では最早隠蔽不能であった」 解説:■歴史的背景 ■表現技法 ■訳出処理 ■班固史観の核心 Translation took 1930.0 seconds. |
| 以長樂少府平晏為大司徒。 太后與群臣議立嗣。時元帝世絕,而宣帝曾孫有見王五人,列侯四十八人。莽惡其長大,曰:「兄弟不得相為後。」乃悉征宣帝玄孫,選立之。 是月,前輝光謝囂奏武功長孟通浚井得白石,上圓下方,有丹書著石,文曰:「告安漢公莽為皇帝。」符命之起,自此始矣。 莽使群公以白太后,太后曰:「此誣罔天下,不可施行!」太保舜謂太后曰:「事已如此,無可奈何。沮之,力不能止。又莽非敢有它,但欲稱攝以重其權,填服天下耳」太后心不以為可,然力不能制,乃聽許。舜等即共令太后下詔曰:「孝平皇帝短命而崩,已使有司征孝宣皇帝玄孫二十三人,差度宜者,以嗣孝平皇帝之後。玄孫年在襁褓,不得至德君子,孰能安之!安漢公莽,輔政三世,與周公異世同符。今前輝光囂、武功長通上言丹石之符,朕深思厥意,云『為皇帝』者,乃攝行皇帝之事也。其令安漢公居攝踐祚,如周公故事,具禮儀奏。」於是群臣奏言:「太后聖德昭然,深見天意,詔令安漢公居攝。臣請安漢公踐祚,服天子□冕,背斧依立於戶牖之間,南面朝群臣,聽政事;車服出入警蹕,民臣稱臣妾,皆如天子之制。郊祀天地,宗祀明堂,共祀宗廟,享祭群神,贊曰『假皇帝』,民臣謂之『攝皇帝』,自稱曰『予』。平決朝事,常以皇帝之詔稱『制』。 |
現代日本語訳(書き下し文)長楽少府の平晏を大司徒とする。 皇太后は群臣と後継者擁立について協議した。当時、元帝の血筋は絶えており、宣帝の曾孫には王が五人・列侯四十八人がいた。王莽は彼らが成人していることを嫌い、「兄弟間で相続させるべきではない」と言った。そこで宣帝の玄孫全員を召し出し、その中から選んで擁立することにした。 この月、前輝光(地名)の謝囂が上奏して「武功県長・孟通が井戸浚いで白石を得ました。上部は円形・下部は方形であり、赤文字で『安漢公王莽を皇帝とせよ』と記されていました」と報告した。天命を示す符瑞の発生はこれに始まる。 王莽は重臣たちに命じて皇太后へ報告させた。太后は「これは天下への欺瞞であり、実行すべきでない!」と言ったが、太保・王舜が進言して「事態は既にこうなっており、どうしようもありません。阻止するにも力不足です。また王莽に他意はなく、ただ『摂政』と称して権威を高め、天下を鎮めるだけでしょう」と言った。太后は内心認めたくなかったが、抑える力を持たず、やむなく許可した。 舜らは直ちに共同で太后に詔勅を発するよう促し、次の内容とした:「孝平皇帝は若くして崩御されたため、役人に命じて宣帝の玄孫二十三人を召致し、適任者を選んで後継とさせた。しかし玄孫らは幼少であり、徳高い君子が輔佐しなければ安定しない! 安漢公・王莽は三代にわたり政務を補佐し、周公旦と同じ功績を持つ。先般の謝囂や孟通による丹書石符の報告について深く考えたところ『皇帝となる』とは、天子の職務を代行する意味である。よって安漢公に摂政として即位させ、周公の旧例に倣わせるよう礼官が儀式を整えて奏上せよ」 これを受けて群臣は上奏した:「太后の聖徳は天意を深く見抜かれ『安漢公の摂政』を詔された。ついては天子用の冕冠と礼服を着け、斧文屏風前で南面して朝政を行わせるべきです。車輌・服装・警護は全て皇帝同様とし、臣民は『臣妾(家来)』と称すること。天地祭祀・明堂祭祀・宗廟供儀では『仮皇帝』と記し、日常的には臣民から『摂皇帝』と呼ばせ、自称を『予』とする。政務裁決では詔書に『制』の字を用いること」 解説■歴史的背景 ■政治的操作の特徴 ■用語注釈 ■現代への示唆 Translation took 1686.6 seconds. |
| 以奉順皇天之心,輔翼漢室,保安孝平皇帝之幼嗣,遂寄托之義,隆治平之化。其朝見太皇太后、帝皇后皆復臣節。自施政教於其宮家國采,如諸侯禮儀故事。」太后詔曰:「可。」 王莽上 王莽上居攝元年(丙寅,公元六年) 春,正月,王莽祀上帝於南郊,又行迎春、大射、養老之禮。 三月,己丑,立宣帝玄孫嬰為皇太子,號曰孺子。嬰,廣戚侯顯之子也。年二歲;托以卜相最吉,立之。尊皇后曰皇太后。 以王舜為太傅、左輔,甄豐為太阿、右拂,甄邯為太保、後承;又置四少,秩皆二千石。 四月,安眾侯劉崇與相張紹謀曰:「安漢公莽必危劉氏,天下非之,莫敢先舉,此乃宗室之恥也。吾帥宗族為先,海內必和。」紹等從者百餘人遂進攻宛;不得入而敗。紹從弟竦與崇族父嘉詣闕自歸;莽赦弗罪。竦因為嘉作奏,稱莽德美,罪狀劉崇:「願為宗室倡始,父子兄弟負籠荷鍤,馳之南陽,豬崇宮室,令如古制;及崇社宜如亳社,以賜諸侯,用永監戒!」於是莽大說,封嘉為率禮侯,嘉子七人皆賜爵關內侯;後又封竦為淑德侯。長安為之語曰:「欲求封,過張伯松。力戰鬥,不如巧為奏。」自後謀反者皆污池雲。群臣復白劉崇等謀逆者,以莽權輕也;宜尊重以填海內。五月,甲辰,太后詔莽朝見太后稱「假皇帝」。 冬,十月,丙辰朔,日有食之。 |
訳文(現代日本語)天命に従順し、漢王朝を補佐して孝平皇帝の幼い後継者を守り安定させることで委託された責務を全うし、太平の世をもたらす治績を高めること。太皇太后や帝后への謁見では臣下として節度を示せ。自らの宮廷・領地における施政は諸侯の礼儀故事に従え。」と述べた。皇太后は詔で「可」と認めた。 王莽が権力を掌握した上 王舜を太傅・左輔に、甄豊を太阿・右拂に、甄邯を太保・後承に任命。さらに四少(副官)を設置し秩禄は皆二千石。 群臣は劉崇の乱を王莽の権威不足と解釈し更なる称号上奏を要求。5月甲辰日:皇太后詔により「仮皇帝(摂政)」を称する。 解説
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| 十二月,群臣奏請以安漢公廬為攝省,府為攝殿,第為攝宮。奏可。 是歲,西羌龐怙、傅幡等怨莽奪其地,反攻西海太守程永;永奔走。莽誅永,遣護羌校尉竇況擊之。 王莽上居攝二年(丁卯,公元七年) 春,竇況等擊破西羌。 五月,更造貨:錯刀,一直五千;契刀,一直五百;大錢,一直五十。與五銖錢並行,民多盜鑄者。禁列侯以下不得挾黃金,輸御府受直;然卒不與直。 東郡太守翟義,方進之子也,與姊子上蔡陳豐謀曰:「新都侯攝天子位,號令天下,故擇宗室幼稚者以為孺子,依托周公輔成王之義,且以觀望,必代漢家,其漸可見。方今宗室衰弱,外無強蕃,天下傾首服從,莫能亢扞國難。吾幸得備宰相子,身守大郡,父子受漢厚恩,義當為國討賊,以安社稷。欲舉兵西,誅不當攝者,選宗室子孫輔而立之。設令時命不成,死國埋名,猶可以不慚於先帝。今欲發之,汝肯從我乎?」豐年十八,勇壯,許諾。義遂與東郡都尉劉宇、嚴鄉侯劉信、信弟武平侯劉璜結謀,以九月都試日斬觀令,因勒其車騎、材官士,募郡中勇敢,部署將帥。信子匡時為東平王,乃並東平兵,立信為天子;義自號大司馬、柱天大將軍。移檄郡國,言:「莽鴆殺孝平皇帝,攝天子位,欲絕漢室。今天子已立,共行天罰!」郡國皆震。比至山陽,眾十餘萬。 |
現代日本語訳:十二月、群臣が上奏し「安漢公(王莽)の邸宅を摂省と称し、政庁を摂殿と呼び、居所を摂宮となす」ことを請うた。この上奏は許可された。 同年、西羌の豪族・龐怙(ほうこ)と傅幡(ふほん)らが王莽による土地収奪に抗議し反乱を起こし、西海太守・程永を攻撃した。程永は敗走したため、王莽は彼を処刑し護羌校尉・竇況(とうこう)を派遣して鎮圧にあたらせた。 王莽「居摂二年」(丁卯年/紀元7年) 春、竇況らが西羌反乱軍を撃破した。 五月に新貨幣制度を施行:錯刀(一刀で五千銖相当)、契刀(同五百銖)、大錢(一銭五十銖)。これらを従来の五銖銭と併用した結果、民間では私鋳銭が横行。列侯以下の金所持を禁止し御府へ没収させ「補償支払い」を約束するも、最終的に補償は履行されなかった。 東郡太守・翟義(てきぎ)―前宰相・翟方進の子―は甥である陳豊(ちんぽう/上蔡出身)と謀議した: 「王莽が幼帝(孺子嬰)を傀儡に天子権限を掌握するのは、周公が成王を補佐した故事を偽装した漢王朝簒奪だ。今や皇族は衰退し外藩も弱体化、天下は靡いて抗う者なし。我々父子は漢の厚恩を受けた宰相家系である以上、社稷守護のために反逆賊を討たねばならぬ。挙兵して僭称者を誅伐し、新たな皇族君主を擁立しよう。たとえ失敗しても死をもって先帝に詫びる覚悟だ」。 十八歳の勇将・陳豊は決然と承諾した。 翟義は東郡都尉・劉宇(りゅうう)、厳郷侯・劉信、その弟である武平侯・劉璜(りゅうこう)らと同盟し、九月の「都試」(軍事演習日)を利用して観県令を斬殺。戦車部隊や材官(歩兵隊)を掌握し義勇兵を募って軍団を編成した。さらに東平王・劉匡(劉信の子)の兵力も糾合し、劉信を皇帝として擁立。翟義は自ら大司馬兼柱天大将軍と称した。 配布した檄文には「王莽は孝平帝を毒殺して漢室断絶を謀る逆賊!真の天子(劉信)既に即位し天罰を与える!」と記され、諸侯国は震撼。山陽郡へ進撃する頃には兵数が十余万に達した。 解説:
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| 莽聞之,惶懼不能食。太皇太后謂左右曰:「人心不相遠也。我雖婦人,亦知莽必以是自危。」莽乃拜其黨、親:輕車將軍、成武侯孫建為奮武將軍,光祿勳、成都侯王邑為虎牙將軍,明義侯王駿為強弩將軍,春王城門校尉王況為震威將軍,宗伯、忠孝侯劉宏為奮衝將軍,中少府、建威侯王昌為中堅將軍,中郎將、震羌侯竇況為奮威將軍,凡七人,自擇除關西人為校尉、軍吏,將關東甲卒,發奔命以擊義焉。復以太僕武讓為積弩將軍,屯函谷關;將作大匠蒙鄉侯逯並為橫懋將軍,屯武關;羲和、紅休侯劉秀為揚武將軍,屯宛。 三輔聞翟義起,自茂陵以西至汧二十三縣,盜賊並發。槐裡男子趙明、霍鴻等自稱將軍,攻燒官寺,殺右輔都尉及斄令,相與謀曰:「諸將精兵悉東,京師空,可攻長安。」眾稍多,至十餘萬,火見未央宮前殿。莽復拜衛尉王級為虎賁將軍,大鴻臚、望鄉侯閻遷為折衝將軍,西擊明等。以常鄉侯王惲為車騎將軍,屯平樂館;騎都尉王晏為建威將軍,屯城北;城門校尉趙恢為城門將軍;皆勒兵自備。以太保、後備、承陽侯甄邯為大將軍,受鉞高廟,領天下兵,左杖節,右把鉞,屯城外。王舜、甄豐晝夜循行殿中。莽日抱孺子禱郊廟,會群臣,而稱曰:「昔成王幼,周公攝政,而管、蔡挾祿父以畔。今翟義亦挾劉信而作亂。 |
訳文(現代日本語)王莽はこの報告を聞き、恐慌状態に陥って食事も喉を通らなくなった。太皇太后が側近に向かって言うには、「人心はさほど遠くないものだよ。私は女だけれども、王莽が必ずこれで危機感を抱くだろうと分かる」。 そこで王莽は腹心や一族を登用した——軽車将軍・成武侯の孫建を奮武将軍に、光禄勲・成都侯の王邑を虎牙将軍に、明義侯の王駿を強弩将軍に、春王城門校尉の王況を震威将軍に、宗伯・忠孝侯の劉宏を奮衝将軍に、中少府・建威侯の王昌を中堅将軍に、中郎将・震羌侯の竇況を奮威将军に。計七人である。 彼らには関西(長安以西)出身者から校尉や軍吏を自選させ、関東(函谷関以東)の精鋭兵士を率い、緊急動員部隊として翟義討伐に向かわせた。 さらに太僕の武譲を積弩将軍に任命し函谷関へ駐屯させ、将作大匠・蒙郷侯の逯並を横懋将军とし武関へ駐屯させ、羲和・紅休侯の劉秀を揚武将軍として宛城(南陽)に駐留させた。 三輔(首都圏)では翟義挙兵の報が伝わると、茂陵以西から汧水までの二十三県で反乱勢力が一斉蜂起。槐里の男・趙明と霍鸿らは自ら将軍を名乗り、役所や官舎を襲撃放火し右輔都尉と斄県令を殺害した。 彼らは策謀を練って言うには、「諸将軍が精鋭部隊を率いて東征している今、長安は空っぽだ。ここで攻め落とせる」。次第に勢力拡大し十万人余りとなり、未央宮前殿まで炎上が見えるほどであった。 王莽はさらに衛尉の王級を虎賁将军に任命し、大鴻臚・望郷侯の閻遷を折衝将軍として西方へ派遣し趙明ら討伐に向かわせた。常郷侯の王惲を車騎将軍とし平楽館駐屯部隊指揮官に、騎都尉の王晏を建威将军とし城北守備隊に配置し、また城門校尉の趙恢には城門防衛司令官(城門将軍)を命じた。これら諸将は兵士統制強化で自陣防御にあたらせた。 さらに太保・後属・承陽侯の甄邯を大將軍に任じ、高廟(高祖廟)において斧鉞(軍事指揮権)授与式を行い天下全軍総司令官とし——左手には符節を持ち右手は斧鉞を握らせ城外駐屯部隊を統率させた。王舜・甄豊の両名は昼夜問わず宮中警備巡回にあたり、王莽自身も幼帝(孺子嬰)を抱いて毎日のように郊廟で祈禱し臣下たちに宣言した。 「昔周の成王が幼少時に周公旦が摂政すると管叔・蔡叔らは禄父(紂王遺児)を擁立して反乱を起こした。今や翟義も劉信を担いで暴動を起している——」 注釈
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| 自古大聖猶懼此,況臣莽之斗筲!」群臣皆曰:「不遭此變,不章聖德!」 冬,十月,甲子,莽依《周書》作《大誥》曰:「粵其聞日,宗室之俊有四百人,民獻儀九萬夫,予敬以終於此謀繼嗣圖功。」遣大夫桓譚等班行諭告天下,以當反位孺子之意。 諸將東至陳留、菑,與翟義會戰,破之,斬劉璜首。莽大喜,復下詔先封車騎都尉孫賢等五十五人皆為列侯,即軍中拜授。因大赦天下。於是吏士精銳遂攻圍義於圉城,十二月,大破之,義與劉信棄軍亡,至固始界中,捕得義,屍磔陳都市;卒不得信。 王莽上初始元年(戊辰,公元八年) 春,地震。大赦天下。 王邑等還京師,西與王級等合擊趙明、霍鴻。二月,明等殄滅,諸縣息平。還師振旅,莽乃置酒白虎殿,勞饗將帥。詔陳崇治校軍功,第其高下,依周制爵五等,以封功臣為侯、伯、子、男,凡三百九十五人,曰「皆以奮怒,東指西擊,羌寇、蠻盜,反虜、逆賊,不得旋踵,應時殄滅,天下鹹服」之功封雲。其當賜爵關內侯者,更名曰附城,又數百人。莽發翟義父方進及先祖塚在汝南者,燒其棺柩;夷滅三族,誅及種嗣,至皆同坑,以棘五毒並葬之。又取義及趙明、霍鴻黨眾之屍,聚之通路之旁,濮陽、無鹽、圉、槐裡、盩厔凡五所,建表木於其上,書曰:「反虜逆賊䲔鯢。」義等既敗,莽於是自謂威德日盛,大獲天人之助,遂謀即真之事矣。 |
現代日本語訳昔からの偉大な聖人でさえこのような事態を恐れたのだ。ましてや私王莽のような小人物がどうだろうか!」群臣は皆言った。「この変乱がなければ、天子の聖なる徳が明らかになることはなかったでしょう」 冬十月甲子の日、王莽は『周書』に基づいて『大誥』を作成し、「その知らせを聞いた日に、皇室の優れた者四百人と民衆から推挙された九万人の指導者が集まり、私は謹んでこの計画をもって後継者の功績を図る」と述べた。大夫桓譚らを派遣して全国に布告を行わせ、幼帝(孺子嬰)へ復位させる意志を示した。 諸将軍は東進して陳留・菑県で翟義の軍と会戦し、これを打ち破って劉璜の首級を斬った。王莽は大いに喜び、再度詔書を下して車騎都尉孫賢ら五十五人全員を列侯に封じ、陣中で任命を行わせた。これにより天下に大赦令が出された。こうして精鋭部隊は翟義を圉城で包囲攻撃し、十二月に大勝した。翟義と劉信は軍を見捨てて逃亡したが、固始県内で捕らえられた翟義の死体は陳都市で八つ裂きにされた。一方、劉信は結局捕まらずじまいだった。 王莽が「初始元年」(戊辰年・紀元8年)と称する 王邑らが都へ戻り西方で王級軍と合流し趙明・霍鴻を挟撃した。二月、反乱勢力は全滅し各県は平穏を取り戻した。凱旋した将兵を労うため白虎殿で宴を催し、詔書により陳崇に論功行賞を命じた。周の制度に倣い五等爵(侯・伯・子・男)を用いて功臣三百九十五人を封じ、「皆が奮起して東奔西走し羌族の侵寇や蛮族の略奪、反逆者らを瞬時に殲滅させ天下を服従せしめた功績」と称した。関内侯に相当する爵位は「附城」と改称され数百人が受けた。 王莽は汝南にある翟義の父(方進)や祖先の墳墓を暴き棺を焼却。三族皆殺しを行い子孫まで根絶、遺体を一穴にまとめて毒草と棘で覆い埋めた。さらに翟義・趙明・霍鴻一派の屍を主要街道沿い五箇所(濮陽・無塩・圉県・槐里・盩厔)に晒し、標柱には「反逆者どもの死骸」と記した。 翟義らの敗北後、王莽は自らの威徳が日増しに高まり天人の加護を得たと考え、正式な皇帝即位を画策し始めた。 解説
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| 群臣復奏進攝皇帝子安、臨爵為公,封兄子光為衍功侯;是時莽還歸新都國,群臣復白以封莽孫宗為新都侯。 九月,莽母功顯君死。莽自以居攝踐阼,奉漢大宗之後,為功顯君緦縗弁而加麻環絰,如天子吊諸侯服。凡壹吊再會;而令新都侯宗為主,服喪三年雲。 司威陳崇奏莽兄子衍功侯光私報執金吾竇況,令殺人;況為收系,致其法。莽大怒,切責光。光母曰:「汝自視孰與長孫、中孫!」長孫、中孫者,宇及獲之字也。遂母子自殺,及況皆死。初,莽以事母、養嫂、撫兄子為名,及後悖虐,復以示公義焉。令光子嘉嗣爵為侯。 是歲,廣饒侯劉京言齊郡新井,車騎將軍千人扈雲言巴郡石牛,太保屬臧鴻言扶風雍石;莽皆迎受。十一月,甲子,莽奏太后曰:「陛下遇漢十二世三七之厄,承天威命,詔臣莽居攝。廣饒侯劉京上書言:『七月中,齊郡臨淄縣昌興亭長辛當一暮數夢,曰:「吾,天公使也。天公使我告亭長曰:『攝皇帝當為真。』即不信我,此亭中當有新井。」亭長晨起視亭中,誠有新井,入地且百尺。』十一月,壬子,直建冬至,巴郡石牛,戊午,雍石文,皆到於未央宮之前殿。臣與太保安陽侯舜等視,天風起,塵冥,風止,得銅符帛圖於石前,文曰:『天告帝符,獻者封侯,』騎都尉崔發等視說。孔子曰:『畏天命,畏大人,畏聖人之言,』臣莽敢不承用!臣請共事神祇、宗廟,奏言太皇太后、孝平皇后,皆稱『假皇帝』;其號令天下,天下奏言事,毋言『攝』;以居攝三年為始初;漏刻以百二十為度;用應天命。 |
現代日本語訳:群臣が再び上奏し、摂政皇帝(王莽)の子である安と臨を公爵に昇格させ、兄の子・光を衍功侯に封じた。この時、王莽は新都国へ帰還中であり、群臣は更なる上申により彼の孫・宗を新都侯とした。 九月、王莽の母である功顕君が死去した。王莽は自ら摂政として即位し漢王朝の正統を継承する立場から、天子が諸侯に喪服を賜る礼制に則り、麻布の冠と帯を用いた軽い喪服(緦縗)で母を弔った。葬儀では一度だけ参列し二度目の通夜には出席せず、新都侯・宗を喪主として三年間の喪に服させた。 司威である陳崇が上奏したところによれば、王莽の甥(兄の子)で衍功侯の光は執金吾・竇況へ私的に依頼し人を殺害。竇況は犯人を拘束して法に基づき処断したため、王莽は激怒し光を厳しく叱責した。すると光の母が「お前は自らよく考えよ――長孫や中孫と比べてどうか」と言い放った(長孫・中孫とは王宇及び王獲のこと)。こうして母子は自害し、竇況もまた死んだ。元来、王莽は母親への孝養・兄嫁の扶助・甥の養育で名声を得ていたが、後には逆に冷酷非道となり、今度は「公義」を演出したのである。その後、光の子である嘉に爵位を継承させ侯とした。 同年、広饒侯・劉京が斉郡における新井出現、車騎将軍千人(官名)扈雲が巴郡での石牛発見、太保属の臧鴻が扶風雍で奇石発現を報告。王莽はこれら全てを受容した。十一月甲子日、王莽は皇太后に奏上:「陛下は漢王朝十二代目の三七(21年)の厄年に遭われましたが、天威の命をお受けになり、臣・莽に摂政を下賜されました。広饒侯劉京の上書には『七月、斉郡臨淄県昌興亭長の辛當が一夜に幾度も夢を見た。「我は天帝の使者なり」と告げる声があり「天帝が亭長へ伝えよという――摂皇帝こそ真の帝王とならん。もし信じねばこの亭内に新井が出現せん」と言うので、翌朝確かめたところ地面に深さ百尺もの新たな井戸があった』と記されています。(更に)十一月壬子日(建冬至)、巴郡石牛の件は戊午日に到着し、扶風雍で発見された奇石には文字が刻まれており、これら全て未央宮前殿へ運ばれました。臣が太保・安陽侯舜らと検分した折、天から突如旋風が起こり砂塵が舞い上がったため、鎮まるのを待つと石像前に銅符と帛図(絹布に描かれた地図)が見出され『天帝より帝への符契なり。これを献ずれば侯に封ぜられん』との文言がありました。騎都尉崔発らも検証済みです。孔子は『天命を畏れ、高位者を敬い、聖人の言葉に従え(季氏篇)』と申しております。臣・莽としてどうしてこれを奉じないことができましょうか!敢えて奏請します――神々や宗廟への祭祀において陛下及び平帝皇后への上奏文では『仮皇帝』と称し、天下へ発する号令や諸侯からの奏上文からは『摂(政)』の文字を除くこと。居摂3年をもって新たな紀元元年と定め、漏刻(時計)も120目盛に改めることで天命にお応えしたい」 解説:
※訳注:『資治通鑑』胡三省注では、王莽が「百二十刻」時法を復活させた行為について「古礼装飾による民心掌握策だが実際には120分割は不可能」(漢代標準は昼夜100刻制)と指摘するなど、当時の知識人層に看破されていたことを示唆している。 Translation took 1438.8 seconds. |
| 臣莽夙夜養育隆就孺子,令與周之成王比德,宣明太皇太后威德於萬方,期於富而教之。孺子加元服,復子明辟,如周公故事。」奏可。眾庶知其奉符命,指意群臣博議別奏,以示即真之漸矣。 期門郎張充等六人謀共劫莽,立楚王。發覺,誅死。 梓潼人哀章學問長安,素無行,好為大言,見莽居攝,即作銅匱,為兩檢,署其一曰「天帝行璽金匱圖」,其一署曰「赤帝璽某傳予黃帝金策書」。某者,高皇帝名也。書言王莽為真天子,皇太后如天命。圖書皆書莽大臣八人,又取令名王興、王盛,章因自竄姓名,凡十一人,皆署官爵,為輔佐。章聞齊井、石牛事下,即日昏時,衣黃衣,持匱至高廟,以付僕射。僕射以聞。戊辰,莽至高廟拜受金匱神禪,御王冠,謁太后,還坐未央宮前殿,下書曰:「予以不德,托於皇初祖考黃帝之後,皇始祖考虞帝之苗裔,而太皇太后之末屬。皇天上帝隆顯大佑,成命統序,符契、圖文、金匱策書,神明詔告,屬予以天下兆民。赤帝漢氏高皇帝之靈,承天命,傳國金策之書,予甚示氐畏,敢不欽受!以戊辰直定,御王冠,即真天子位,定有天下之號曰新。其改正朔,易服色,變犧牲,殊徽幟,異器制。以十二月朔癸酉為始建國元年正月之朔;以雞鳴為時。服色配德上黃,犧牲應正用白,使節之旄幡皆純黃,其署曰『新使五威節』,以承皇天上帝威命也。 |
現代日本語訳(口語体)臣下である私は日夜、幼帝を養育して立派に成長させようと努めました。周の成王のような徳を持たせ、太皇太后の威厳や恩恵を広く世に知らしめ、民衆を豊かに導き教化することを目指したのです。「天子が元服されたなら、政権をお返しして君主として即位していただきます。これは周公旦の先例にならいましょう」と上奏すると許可されました。人々は私(王莽)が天の命令を受けていると理解し、群臣に広く議論させて別途報告させることで、皇帝就任への道筋を着実に整えていったのです。 期門郎だった張充ら六人が共謀して私を襲撃し楚王を擁立しようとしましたが発覚し処刑されました。 梓潼出身の哀章は長安で学んでいましたが普段から品行が悪く、大げさなことを言う癖がありました。私が摂政となったのを見て銅製の箱を作り二つの文書を入れます。「天帝行璽金匱図」と記したものと、「赤帝(前漢高祖)より黄帝(王莽)へ授ける金策の書」としたものです。「某」とは高祖・劉邦のことでした。その内容は「王莽こそ真の天子であり、皇太后も天命に従うべきだ」というもので、八人の大臣名と幸運な名前を持つ「王興」「王盛」を記し、哀章自身が偽名を加えた計十一人に官職や爵位を与え補佐役とする内容でした。 斉国で井戸から石が出た事件を知ると、哀章はその日夕方黄色い衣を着て箱を持ち高祖廟へ赴き僕射(神官)に渡しました。報告を受けた私は戊辰の日に高廟へ行き金匱を受け取りました。皇帝の冠をかぶり太后にお目通りし未央宮前殿に戻ると詔書を発布します。「不徳ながらも、初代祖先たる黄帝の子孫であり始祖・舜帝の末裔として太皇太后の一族である私が天から大いなる加護を受け正統な後継者と定められた証拠(符契や図文、金匱策書)を神々より賜り天下万民を治めるよう命じられました。赤帝たる漢王朝高祖皇帝の霊は天命により国譲りの文書を与えたため畏敬し謹んで受け入れます!戊辰という吉日に王冠を戴き真天子として即位、新王朝と号します」。暦法・衣服色調・祭祀用生贄・旗印標章・器物制度を全て改めました。旧暦12月1日癸酉をもって始建国元年正月朔(元旦)に定め鶏鳴時(寅の刻)に時代が変わることを宣言し、服色は土徳に対応する黄色とし祭祀用生贄には王朝正色として白を用い使者の旗印標章を純黄の『新使五威節』として天の威光を受け継ぐことを示したのです。 #注釈
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| 」 莽將即真,先奉諸符瑞以白太后,太后大驚。是時以孺子未立,璽臧長樂宮。及莽即位,請璽,太后不肯授莽。莽使安陽侯舜諭指,舜素謹敕,太后雅愛信之。舜既見太后,太后知其為莽求璽,怒罵之曰:「而屬父子宗族,蒙漢家力,富貴累世,既無以報,受人孤寄,乘便利時奪取其國,不復顧恩義。人如此者,狗豬不食其餘,天下豈有而兄弟邪!且若自以金匱符命為新皇帝,變更正朔、服制,亦當自更作璽,傳之萬世,何用此亡國不祥璽為,而欲求之:我漢家老寡婦,旦暮且死,欲與此璽俱葬,終不可得!」太后因涕泣而言,旁側長御以下皆垂涕。舜亦悲不能自止,良久,乃仰謂太后:「臣等已無可言者。莽必欲得傳國璽,太后寧能終不與邪?」太后聞舜語切,恐莽欲脅之,乃出漢傳國璽投之地,以授舜曰:「我老已死,如而兄弟今族滅也!」舜既得傳國璽,奏之;莽大說,乃為太后置酒未央宮漸台,大縱眾樂。莽又欲改太后漢家舊號,易其璽綬,恐不見聽;而莽疏屬王諫欲諂莽,上書言:「皇天廢去漢而命立新室,太皇太后不宜稱尊號,當隨漢廢,以奉天命。」莽以其書白太后,太后曰:「此言是也!」莽因曰:「此悖德之臣也,罪當誅!」於是冠軍張永獻符命銅璧文,言太皇太后當為新室文母太皇太后;莽乃下詔從之。於是鴆殺王諫而封張永為貢符子。 |
現代日本語訳:王莽が即位直前に、さまざまな吉兆を示す品々を皇太后(王氏)に献じて報告すると、太后は大いに驚いた。当時は幼帝(孺子嬰)が正式に即位しておらず、皇帝の璽は長楽宮で保管されていた。王莽が帝位につくと璽の引き渡しを求めたが、太后はこれを拒んだ。 王莽は安陽侯・王舜を使者として派遣し、意図を伝えさせた。王舜は平素から慎重かつ誠実な人物であり、太后も彼を深く信頼していた。しかし王舜が拝謁すると、太后は璽の要求が王莽によるものと悟り、激怒して罵倒した。「お前たち親子一族は漢王朝のおかげで代々富貴を得ながら、恩返しもしないばかりか、孤児(幼帝)を託されたのに機に乗じて国を奪い取るとは!こんな恩知らずの所業は犬や豚すら見向きもしまい。天下にお前たちのような兄弟が存在するものか!」 さらに太后は言下に続けた。「そもそもお前らが金匱文(天意を示す文書)をもって新皇帝と称し、暦も服制も改めた以上、自ら新しい璽を作り万世に伝えればよい。なぜ滅びた王朝の不吉な璽など求めるのか?私は漢家の老いた未亡人で死期は近い。この璽と共に葬られたいだけだ!」 太后が涙ながらに訴えると、側仕えの女官たちも皆泣き崩れた。王舜も悲しみを抑えきれず、ようやく顔を上げて言った。「臣らは最早言葉を持ちません。しかし王莽がどうしても伝国璽を得たいと望む以上、太后様は最後までお渡しにならないのでしょうか?」 この迫るような口調に脅威を感じた太后は、漢の伝国璽を取り出して地面に叩きつけながら手渡した。「私はもう死ぬだけだが、お前たち兄弟も近く族滅するだろう!」 王舜が璽を持ち帰ると王莽は狂喜し、未央宮漸台で盛大な宴会を開かせた。さらに王莽は太后の称号(漢王朝由来)と璽綬を変更しようとしたが拒まれることを恐れた。すると遠縁の王諫が媚びへつらって上奏した。「皇天は漢を廃し新室建立をお命じになりました。太皇太后が旧尊号を用いるのは不適切です」。この文書を見せられた太后が「もっともな意見だ」と言うと、王莽は即座に「背徳の臣!死刑に処す!」と宣言した。 ほどなく武官・張永が銅璧の符命を献上し、「太皇太后こそ新王朝における文母たるべし」と奏上。王莽は詔でこれを認めた一方、毒殺された王諫とは対照的に張永を貢符子に封じた。 解説:
※注:訳出に際し「孺子」は幼帝(孺子嬰)、「璽綬」は皇帝印として意訳。王莽政権下で多用された「符命」「新室」などの特殊用語は原文のまま使用した。 Translation took 2183.5 seconds. |
| 班彪贊曰:三代以來,王公失世,稀不以女寵。及王莽之興,由孝元後歷漢四世為天下母,饗國六十餘載,群弟世權,更持國柄;五將、十侯,卒成新都。位號已移於天下,而元後卷卷猶握一璽,不欲以授莽,婦人之仁,悲矣!。 |
現代日本語訳:班彪は次のように評した:夏・殷・周の三代以来、王侯貴族らがその世(地位)を失うのは、女性への寵愛によらない例が稀である。ましてや王莽が台頭した背景には、孝元皇后(王氏)が漢王朝四代にわたり天下の母として君臨し、六十余年にわたって国権を享受し続けたことに起因する。その兄弟らは世代を超えて権勢を掌握し、次々と国家の中枢を支配した。(彼女の一族からは)五人の将軍・十人の侯爵が輩出され、遂には新都(王莽)による簒奪が成就されたのである。もはや皇位と国号は完全に移行していたにもかかわらず、元后(孝元皇后)は未練たらしくただ一つの璽を握りしめ、王莽へ渡そうとしなかった──これはまさに「婦人の情」であり、誠に痛ましい限りである! 解説:
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| input text 資治通鑑\037_漢紀_29.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷三十七 漢紀二十九 起屠維大荒落,盡閼逢閹茂,凡六年。 王莽中始建國元年(己巳,公元九年) 春,正月,朔,莽帥公侯卿士奉皇太后璽韍上太皇太后,順符命,去漢號焉。 初,莽娶故丞相王訢孫宜春侯咸女為妻,立以為皇后;生四男,宇、獲前誅死,安頗荒忽,乃以臨為皇太子,安為新嘉辟。封宇子六人皆為公。大赦天下。 莽乃策命孺子為定安公,封以萬戶,地方百里;立漢祖宗之廟於其國,與周後並行其正朔、服色;以孝平皇后為定安太后。讀策畢,莽親執孺子手,流涕歔欷曰:「昔周公攝位,終得復子明辟;今予獨迫皇天威命,不得如意!」哀歎良久。中傅將孺子下殿,北面而稱臣。百僚陪位,莫不感動。 又按金匱封拜輔臣:以太傅、左輔王舜為太師,封安新公;大司徒平晏為太傅,就新公;少阿、羲和劉秀為國師,嘉新公;廣漢梓潼哀章為國將,美新公;是為四輔,位上公。太保、後承甄邯為大司馬,承新公;丕進侯王尋為大司徒,章新公;步兵將軍王邑為大司空,隆新公;是為三公。太阿、右拂、大司空甄豐為更始將軍,廣新公;京兆王興為衛將軍,奉新公;輕車將軍孫建為立國將軍,成新公;京兆王盛為前將軍,崇新公;是為四將。凡十一公。 王興者,故城門令史;王盛者,賣餅;莽按符命求得此姓名十餘人,兩人容貌應卜相,逕從布衣登用,以示神焉。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻三十七・漢紀二十九より 新の王莽が皇帝に即位した始建国元年(西暦9年)春正月、元日の朝賀において王莽は公侯や高官を率いて皇太后(孝平皇后)から璽綬を受け取り、太皇太后(王政君)へ奉呈した。これにより天命に従い「漢」の国号を廃した。 当初、王莽は前丞相・王訢の孫である宜春侯・王咸の娘を娶り皇后としたが、生まれた四人の男子のうち、王宇と王獲は処刑され、王安は精神錯乱状態にあったため、第三子の王臨を皇太子に立て、安には「新嘉辟」という称号を与えた。また王宇の六人の子供たち全員を公爵に封じた後、天下に大赦令を発布した。 続いて王莽は前漢最後の皇帝・孺子嬰(当時5歳)に対し策書で宣言。「定安公」として一万戸と百里四方の領地を与え、その国では前漢歴代皇帝の宗廟を祭祀することを許す。また周王朝の後裔と同じく独自暦や服色を用いるとした。孝平皇后(孺子嬰の姉)は定安太后とした。策書宣読後、王莽は自ら孺子嬰の手を取り涙ながらに嘆息。「昔周公旦が摂政しても最終的には成王へ返上できたのに、私は天命によりその意志を貫けぬ」と慟哭した。中傅(側近)が孺子嬰を階下へ導くと北面して臣従の礼を取り、列席官僚は皆感動に包まれた。 さらに金匱文書に基づき重臣を任命: このうち王興は元々城門守備隊長、王盛は餅売りだったが、符命に符合する姓名として十数人から選抜され、特に両者は占相の条件に見合う容貌ゆえ布衣(平民)から抜擢された。これは天意を顕示するための演出であった。 解説
《史記正義》にも言及されるように、この場面で王莽が見せた涙は後世「偽善的演技」と批判されつつも、儒教的禅譲劇としての形式美を完成させた点で中国王朝交替儀礼の原型となった。 Translation took 964.0 seconds. |
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| 是日,封拜卿大夫、侍中、尚書官凡數百人,諸劉為郡守者皆徙為諫大夫。 改明光宮為定安館,定安太后居之;以大鴻臚府為定安公第;皆置門衛使者監領。敕阿乳母不得與嬰語,常在四壁中,至於長大,不能名六畜;後莽以女孫宇子妻之。 莽策命群司各以其職,如典誥之文。置大司馬司允、大司徒司直、大司空司若,位皆孤卿。更名大司農曰羲和,後更為納言,大理曰作士,太常曰秩宗,大鴻臚曰典樂,少府曰共工,水衡都尉曰予虞,與三公司卿分屬三公。置二十七大夫,八十一元士,分主中都官諸職。又更光祿勳等名為六監,皆上卿。改郡太守曰大尹,都尉曰大尉,縣令、長曰宰。長樂宮曰常樂室,長安曰常安。其餘百官、宮室、郡縣盡易其名,不可勝紀。封王氏齊縗之屬為侯,大功為伯,小功為子,緦麻為男;其女皆為任。男以「睦」,女以「隆」為號焉。又曰:「漢氏諸侯或稱王,至於四夷亦如之,違於古典,繆於一統。其定諸侯王之號皆稱公,及四夷僭號稱王者皆更為侯。」於是漢諸侯王二十二人皆降為公,王子侯者百八十一人皆降為子,其後皆奪爵焉。 莽又封黃帝、少昊、顓頊、帝嚳、堯、舜、夏、商、周及皋陶、伊尹之後皆為公、侯,使各奉其祭祀。 莽因漢承平之業,府庫百官之富,百蠻賓服,天下晏然,莽一朝有之,其心意未滿,狹小漢家制度,欲更為疏闊。 |
現代日本語訳この日、数百人の卿大夫・侍中・尚書官らを任命し封爵した。劉氏出身の郡守は全員諫大夫に異動となった。 明光宮を定安館と改称し、定安太后(王嬿)が居住。大鴻臚府を定安公(劉嬰)邸宅とし、両施設には門衛と監視役を配置した。乳母に対し「劉嬰と話すな」と厳命したため、彼は常に四方を壁で囲まれた環境で育ち、成長後も六畜の名前さえ言えなかった。後に王莽は孫娘(王宇の娘)を劉嬰に嫁がせている。 王莽は各官庁に『尚書』典誥文体による任命書を下賜。大司馬司允・大司徒司直・大司空司若を新設し、いずれも孤卿(九卿と同等)の位階とした。主要官職名を改称:大司農→羲和(後に納言)、大理→作士、太常→秩宗、大鴻臚→典楽、少府→共工、水衡都尉→予虞。これらは三公の管轄下に組み込まれた。 二十七大夫・八十一元士を設置し中央官庁職務を分担させた。光禄勲など六監(全て上卿相当)に改編。地方行政では郡太守→大尹、都尉→大尉、県令・長→宰と変更。宮殿名は長楽宮→常楽室、首都名は長安→常安とした。その他あらゆる官職・宮殿・郡県名を改称したため、全てを記録しきれない。 王氏一族の服喪等級に応じて爵位を与えた:斉縗(さいすい)服の者→侯、大功→伯、小功→子、緦麻(しま)→男。女子は全員「任」の称号を得た。男子には「睦」、女子には「隆」の字を加えるよう命じた。 さらに宣言:「漢代の諸侯王や異民族が『王』を称するのは古典に反し統一理念にも悖る。よって諸侯王は全員『公』と改め、蛮族で王号僭称者は『侯』とする」と。これにより漢朝の諸侯王22人全員が公爵へ降格され、王子候181人は子爵となり、後に全員爵位を剥奪された。 加えて黄帝・少昊・顓頊・帝嚳・堯・舜や夏・殷・周王朝、さらに皋陶・伊尹などの聖賢の末裔にも公侯爵を与え、祖先祭祀を継承させた。 王莽は漢朝が築いた太平の基盤——豊かな府庫、整った官僚機構、服属した蛮族、安定した天下——を手中にしたが満足せず、かえって「漢制は狭量だ」と批判。より大規模な制度改革を目論んだのである。 解説【背景】王莽の改新政策
【歴史的意義】
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| 乃自謂黃帝、虞舜之後,至齊王建孫濟北王安失國,齊人謂之王家,因以為氏;故以黃帝為初祖,虞帝為始祖。追尊陳胡公曰陳胡王,田敬仲曰齊敬王,濟北王安曰濟北愍王。立祖廟五、親廟四。天下姚、媯、陳、田、王五姓皆為宗室,世世復,無有所與。封陳崇、田豐為侯,以奉胡王、敬王后。 天下牧、守皆以前有翟義、趙明等作亂,領州郡,懷忠孝,封牧為男,守為附城。以漢高廟為文祖廟。漢氏園寢廟在京師者,勿罷,祠薦如故。諸劉勿解其復,各終厥身;州牧數存問,勿令有侵冤。 莽以劉之為字「卯、金、刀」也,詔正月剛卯、金刀之利皆不得行,乃罷錯刀、契刀及五銖錢,更作小錢,逕六分,重一銖,文曰「小錢直一」,與前「大錢五十」者為二品,並行。欲防民盜鑄,乃禁不得挾銅、炭。 夏,四月,徐鄉侯劉快結黨數千人,起兵於其國。快兄殷,故漢膠東王,時為扶崇公。快舉兵攻即墨,殷閉城門,自繫獄。吏民拒快。快敗走,至長廣死。莽赦殷,益其國滿萬戶,地方百里。 莽曰:「古者一夫田百畝,什一而稅,則國給民富而頌聲作。秦壞聖制,廢井田,是以兼併起,貪鄙生,強者規田以千數,弱者曾無立錐之居。又置奴婢之市,與牛馬同闌,制於民臣,顓斷其命,繆於『天地之性人為貴』之義。漢氏減輕田租,三十而稅一,常有更賦,罷癃咸出;而豪民侵陵,分田劫假。 |
現代日本語訳自ら黄帝と虞舜の子孫であると称し、斉王建の孫・済北王安が国を失った際に斉の人々が「王家」と呼んだことから王氏を名乗るようになった。そこで黄帝を初祖、虞帝(舜)を始祖とした。陳胡公を追尊して陳胡王とし、田敬仲を斉敬王、済北王安は済北愍王とした。五つの祖廟と四つの親廟を建立した。天下の姚・媯・陳・田・王氏の五姓はすべて宗室とみなし、代々免税特権を与え賦役から除外した。陳崇と田豊を侯に封じ、胡王と敬王の祭祀を受け継がせた。 地方長官(牧)や太守らは以前、翟義や趙明らの反乱時に州郡を守り忠孝を示した功績により、牧には男爵を、守には附城の称号を与えた。漢王朝の高祖廟を文祖廟と改称し、長安にある漢王室の陵園・宗廟は廃止せず従来通り祭祀を行わせた。劉氏一族の免税特権も剥奪せず終身保持させ、州牧が定期的に慰問して侵害や冤罪がないよう配慮した。 王莽は「劉」という字を構成する「卯・金・刀」(りゅう・きん・とう)の要素から正月の剛卯(魔除け装飾品)と金属製刀具の使用禁止を命じた。さらに錯刀銭・契刀銭や五銖銭を廃止し、直径六分・重量一銖の「小銭直一」を新鋳造して従来の「大銖五十」と併用した。民間での私鋳防止のため銅材と炭所持も禁じた。 夏四月、徐郷侯劉快は数千人を集めて封地で挙兵した。兄の劉殷(元漢朝膠東王)は当時扶崇公に降格されており、即墨城攻撃に対し自ら獄門に縛られ抗戦の意志を示すと官吏民衆も劉快を撃退した。敗走した劉快は長広で死亡し、王莽は劉殷を赦免して領地一万戸・百里四方に拡大した。 王莽は次のように述べた。「古代は一夫に田百畝を与え十分の一税制により国家安定と民衆豊作が実現した。秦が聖人の制度(井田制)を破壊し土地併合や貪欲を招いたため、強者は千単位で田地を占有し弱者には立錐の余地もない。奴婢市場では人を牛馬同様に檻売買し生死すら恣意的に決定され『天地間で人間が最尊』という道理にも反する。漢朝は税率三十分の一と軽減したが、臨時税賦役で病弱者まで徴発された上、豪族による土地横領や小作人搾取(分田劫假)も横行している」 解説
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| 厥名三十稅一,實什稅五也。故富者犬馬餘菽粟,驕而為邪;貧者不厭糟糠,窮而為奸。俱陷於辜,刑用不錯。今更名天下田曰『王田』,奴婢曰『私屬』,皆不得賣買。其男口不盈八而田過一井者,分餘田予九族、鄰里、鄉黨。故無田、今當受田者,如制度。敢有非井田聖制、無法惑眾者,投諸四裔,以御魑魅,如皇始祖考虞帝故事!」 秋,遣五威將王奇等十二人班符命四十二篇於天下:德祥五事,符命二十五,福應十二。五威將奉符命,繼印綬,王侯以下及吏官名更者,外及匈奴、西域、徼外蠻夷,皆即授新室印綬,因收故漢印綬。大赦天下。五威將乘乾文車,駕坤六馬,背負敝鳥鳥之毛,服飾甚偉。每一將各置五帥,將持節,帥持幢。其東出者至玄菟、樂浪、高句驪、夫餘;南出都隃徼外,歷益州,改句町王為侯;西出者至西域,盡改其王為侯;北出者至匈奴庭,授單于印,改漢印文,去璽曰章。 冬,雷,桐華。 以統睦侯陳崇為司命,主司察上公以下。又以說符侯崔發等為中城、四關將軍,主十二城門及繞霤、羊頭、餚黽、汧隴之固,皆以五威冠其號。 又遣諫大夫五十人分鑄錢於郡國。 是歲,真定、常山大雨雹。 王莽中始建國二年(庚午,公元十年) 春,二月,赦天下。 五威將帥七十二人還奏事,漢諸侯王為公者悉上璽綬為民,無違命者。 |
現代日本語訳その名は三十税一であるが、実際には十のうち五を徴収している。結果として富める者は犬や馬にも余剰穀物を与えつつ驕って悪事を行い、貧しい者たちは糟糠(粗末な食物)すら満たされず窮して不正に走る。共に罪を得て刑罰が執行されることに変わりはないのだ。今より天下の田地を「王田」と呼び改め、奴婢は「私属」と称し、一切売買することを禁じる。男子の数が八人未満で田地が一井(900畝)を超える者は、余剰分を九族・隣里・郷党へ分配せよ。従来耕地を持たない者や新規に田地を受ける資格のある者は制度通りに行うこと。敢えて井田の聖なる制度を非難し法を無視して民衆を惑わす者がいれば、四方の辺境へ追放し魑魅(山の精霊)の災いから守らせよ――皇始祖考である虞舜帝が行った故事に倣ってな。 秋、五威将軍・王奇ら十二名を派遣して天下に符命四十二篇を公布させた:徳祥五編、符命二十五編、福応(吉兆)十二編からなる。五威将は符命を持参し新印綬と交換するため、王侯以下の官吏や官職変更者から、匈奴・西域・辺境の蛮夷に至るまで一斉に新王朝の印綬を授け旧漢朝のそれを回収した。天下に大赦令が発布される。五威将は乾文車(天象を模した車)に乗り坤六馬(地象を示す六頭立ての馬)を駆り、背には鷩鳥(鳳凰の一種)の羽飾りをつけ、その装いは極めて壮麗であった。各将軍には五人の元帥が付き、将は節(権威の証である旗竿)、帥は幢(旗印)を持った。東方へ向かった隊列は玄菟・楽浪・高句驪・夫余に達し、南方では辺境を越え益州を通り句町王を侯爵に降格させた。西方派遣団は西域諸国で全君主を侯爵に改め、北方から匈奴の本拠地へ赴いた者は単于に印章を授ける際「璽」の字を削って「章」と書き換えた。 冬、雷鳴が轟き桐の花が咲く(異例の気象現象)。 統睦侯・陳崇を司命(監察官)に任じ上公以下の官吏を監督させた。また説符侯・崔発らを中城及び四関将軍とし、十二城門ならびに要害地である繞霤・羊頭・肴黽・汧隴の守備を管轄させた。いずれも「五威」の称号を冠している。 さらに諫大夫五十名を各郡国へ派遣して貨幣鋳造を分担実施させる。 同年、真定と常山では大規模な雹害が発生した。 王莽の中始建国二年(庚午年・紀元十年) 解説
※『資治通鑑』胡三省注では「三十税一を僭称し実質重税」との指摘が強調され、「魑魅御災」は舜帝による四凶族放逐故事への擬えで反対派弾圧の正当化装置として機能したと解釈。貨幣鋳造分散命令(郡国分鑄)は通貨価値混乱を招いた失敗政策として、続巻で具体的影響が記述される伏線となる。 Translation took 2518.4 seconds. |
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| 獨故廣陽王嘉以獻符命,魯王閔以獻神書,中山王成都以獻書言莽德,皆封列侯。 班固論曰:昔周封國八百,同姓五十有餘,所以親親賢賢,關諸盛衰,深根固本,為不可拔者也。故盛則周、召相其治,致刑錯;衰則五伯扶其弱,與共守;天下謂之共主,強大弗之敢傾。歷載八百餘年,數極德盡,降為庶人,用天年終。秦訕笑三代,竊自號為皇帝,而子弟為匹夫,內無骨肉本根之輔,外無尺土籓翼之衛;陳、吳奮其白梃,劉、項隨而斃之。故曰,周過其歷,秦不及期,國勢然也。 漢興之初,懲戒亡秦孤立之敗,於是尊王子弟,大啟九國。自雁門以東盡遼陽,為燕、代;常山以南,太行左轉,渡河、濟,漸於海,為齊、趙;穀、泗以往,奄有龜、蒙,為梁、楚;東帶江、湖,薄會稽,為荊、吳;北界淮瀕,略廬、衡,為淮南;波漢之陽,亙九嶷,為長沙。諸侯比境,周匝三垂,外接胡、越。天子自有三河、東郡、穎川、南陽,自江陵以西至巴、蜀,北自雲中至隴西,與京師、內史,凡十五郡;公主、列侯頗邑其中。而籓國大者誇州兼郡,連城數十,宮室、百官同制京師,可謂矯枉過其正矣。 雖然,高祖創業,日不暇給,孝惠享國又淺,高後女主攝位,而海內晏如,亡狂狡之憂,卒折諸呂之難,成太宗之業者,亦賴之於諸侯也。然諸侯原本以大末,流濫以致溢,小者淫荒越法,大者睽孤橫逆以害身喪國,故文帝分齊、趙,景帝削吳、楚,武帝下推恩之令而籓國自析。 |
現代日本語訳かつて広陽王嘉は符命(瑞祥を示す文書)を献上したことで、魯王閔は神書を捧げたことにより、中山王成都は新の徳を称える書簡を提出した功績で、いずれも列侯に封ぜられた。 班固が論じて言う:かつて周王朝は八百もの国々を封建し、そのうち同姓(王室一族)は五十余りあった。これは親族を大切にし賢者を尊ぶことであり、国家の盛衰に関わる根本的な基盤を深く固め、揺るぎない体制を作ったのである。故に周が隆盛の時には周公・召公が政治を補佐して刑罰すら不要な状態を実現し、衰退期には五覇(春秋時代の有力諸侯)が弱体化した王室を支えて共に守り続けた。天下の人々は周王を「共通の君主」と認め、強大な諸侯も敢えて覆そうとはしなかった。八百年余りの長きにわたり統治した後、天命が尽きて庶民へ降格され、天寿を全うして終焉を迎えたのである。 秦は三代(夏・殷・周)の封建制を嘲笑い、密かに皇帝と称したが、一族子弟を平民同然に扱ったため、内には骨肉による支えなく、外にはわずかな領土すら藩屏として守る者もいなかった。陳勝・呉広が素木の棍棒で蜂起し、劉邦・項羽が続いて秦を滅ぼしたのだ。故に言う「周は定められた年数を超え、秦は期限に達せず」──これは国家体制の根本的差異によるものである。 漢王朝勃興時、高祖は秦が孤立して滅んだ教訓を受け、皇子や一族子弟を尊び九つの大国を建立した。(領土配分は)雁門以東から遼陽までを燕・代とし、常山以南より太行山脈を左に回り黄河・済水を渡って海に至る斉・趙。穀水・泗水流域にかつての亀山・蒙山地帯を含む梁・楚。長江・洞庭湖沿岸から会稽付近まで荊・呉。淮河流域北部で廬江・衡山周辺を淮南とした。漢水南岸に沿って九嶷山脈一帯は長沙である。諸侯国は境界を接し、三方を取り囲みつつ胡族(北方)や越族(南方)と隣接した。 天子直轄地は三河・東郡・潁川・南陽に加え、江陵以西から巴蜀まで、北は雲中から隴西にかけての十五郡(京師内史を含む)。このうち公主や列侯にも領邑が与えられた。一方で藩国大勢力は数州を跨ぎ数十城を連ね、宮殿や官制も帝都に倣ったため「歪みを矯正し過ぎて逆に偏る」状態となった。 しかし高祖の創業期は多忙を極め、恵帝の治世は短く、呂后が女君主として摂政した際にも国内は平穏で大乱なく、最終的に諸呂(呂氏一族)の専横を挫き文帝(太宗)即位を実現できたのは、諸侯国の存在によるところが大きい。とはいえ諸侯は本来の目的から逸脱し拡大暴走したため、小国は法を越えた放蕩に堕ち、大国は孤立して叛逆し自滅する事態が続出した。これにより文帝は斉・趙を分割し、景帝は呉・楚を削減、武帝の「推恩令」で藩国は自然解体へ向かったのである。 解説
(訳注:固有名詞は原則として原漢字表記を保持し、読替えが必要な箇所のみ現代日本語で補足。例えば「符命」は王莽が好んだ瑞祥思想関連文書、「推恩令」は武帝が諸侯領土を子弟に分割相続させ弱体化させる法令) Translation took 1113.2 seconds. |
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| 自此以來,齊分為七,趙分為六,梁分為五,淮南分為三。皇子始立者,大國不過十餘城。長沙、燕、代雖有舊名,皆亡南北邊矣。景遭七國之難,抑損諸侯,減黜其官。武有衡山、淮南之謀,作左官之律,設附益之法;諸侯惟得衣食稅租,不與政事。至於哀、平之際,皆繼體苗裔,親屬疏遠,生於帷牆之中,不為士民所尊,勢與富室亡異。而本朝短世,國統三絕。是故王莽知漢中外殫微,本末俱弱,無所忌憚,生其奸心,因母后之權,假伊、周之稱,顓作威福廟堂之上,不降階序而運天下。詐謀既成,遂據南面之尊,分遣五威之吏,馳傳天下,班行符命。漢諸侯王厥角稽首,奉上璽□,惟恐在後;或乃稱美頌德以求容媚,豈不哀哉! 國師公劉秀言:「周有泉府之官,收不售,與欲得,即《易》所謂『理財正辭,禁民為非』者也。」莽乃下詔曰:「《周禮》有賒貸,《樂語》有五均,傳記各有筦焉。今開賒貸、張五均、設諸筦者,所以齊眾庶,抑並兼也。」遂於長安及洛陽、邯鄲、臨菑、宛、成都立五均司市、錢府官。司市常以四時仲月定物上中下之賈,各為其市平。民賣五穀、布帛、絲綿之物不售者,均官考檢厥實,用其本賈取之;物貴過平一錢,則以平賈賣與民;賤減平者,聽民自相與市。又民有乏絕欲賒貸者,錢府予之;每月百錢收息三錢。 |
現代日本語訳:この後、斉は七つに分割され、趙は六つに分裂し、梁は五つに分かれ、淮南は三つに分立した。皇子が初めて封じられる場合でも、大きな国であっても十数城を超えることはなかった。長沙・燕・代といった古くからの領地名は残ったものの、南北辺境の実質的な支配力は失われていた。 景帝は七国の乱に遭遇した後、諸侯王の勢力を抑制し、彼らの官職を削減した。武帝は衡山王や淮南王の謀反事件を受けて「左官の律」を制定し、「附益之法(利益供与禁止法)」を設けたため、諸侯王は租税収入で衣食するのみならず、政務に関与できなくなった。 哀帝・平帝の時代に至ると、諸侯王はいずれも初代から遠く離れた子孫ばかりとなり、宮廷の奥深くで育って民衆と隔絶していたため、士人や庶民からの尊敬を得られず、その勢力は富裕な家柄と大差ない状態となった。さらに前漢王朝は短期間で皇帝が相次ぎ(哀帝・平帝・孺子嬰)、三度も皇統が途絶えた。 こうした状況ゆえ王莽は「漢王朝の中央も地方も衰退し、根本から枝末まで全て弱体化している」と見抜き、何ら憚る所なく奸計を巡らせた。皇太后(元后)の権威を利用して伊尹や周公のような聖臣を装い、朝廷で専横的に威福を振るいながらも階段すら降りずに天下を支配した。陰謀が成就すると皇帝の座につき、「五威将軍」と呼ばれる使者を各地へ派遣し、駅伝制により全国を駆け巡らせて符命(天意を示す瑞兆)を公布させた。 漢王朝の諸侯王たちは額を地面に擦りつけて叩頭し、皇帝璽綬を捧げるのに遅れまいと競った。中には追従して称賛美辞で媚びへつらう者も現れた――これぞ真に哀れむべき事態である! 国師公・劉秀(注:王莽側近の儒学者)が進言した: 「周王朝には泉府という官庁があり、売れ残った物資を買い上げて必要とする者へ提供しました。これは『易経』に説かれる『財を理め辞を正し、民が非を行うことを禁ずる』実践です」 王莽はこれを受けて詔書を発した: 「『周礼』には賒貸(信用購入制度)が記され、『楽語』には五均(物価調整政策)がある。経伝の各文献にも管理方法が説かれている。今や我々が賒貸制を開き、五均法を広め、諸管理制度を設けるのは、民衆の生活水準を均等化し、富の集中・兼併(独占)を抑制するためである」 こうして長安および洛陽・邯鄲・臨菑・宛・成都に「五均司市」と「銭府官」が設置された。司市は四季の中月(2・5・8・11月)に物価の上中下三段階を定め、各市場ごとに標準価格(市平)を設定した。 穀物や布帛・絹綿など売れ残った生活必需品については均官が実態調査を行い、原価で買い上げた。もし市価が公定价より1銭以上高騰すれば公定価格で民衆に販売し、逆に下落した場合は自由取引を認めた。 さらに困窮者への融資制度(賒貸)として銭府が資金供与し、毎月100銭につき3銭の利息を徴収する仕組みも整備された。 解説:
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| 又以《周官》稅民,凡田不耕為不殖,出三夫之稅;城郭中宅不樹藝者為不毛,出三夫之布;民浮游無事,出夫布一匹;其不能出布者冗作,縣官衣食之。諸取金、銀、連、錫、鳥、獸、魚、鱉於山林、水澤及畜牧者,嬪婦桑蠶、織紝、紡績、補縫,工匠、醫、巫、卜、祝及它方技,商販、賈人,皆各自佔所為,於其在所之縣官,除其本,計其利十一分之,而以其一為貢;敢不自佔,自佔不以實者,盡沒入所採取而作縣官一歲。羲和魯匡復奏請榷酒酤,莽從之。又禁民不得挾弩、鎧,犯者徙西海。 初,莽既班四條於匈奴,後護烏桓使者告烏桓民,毋得復與匈奴皮布稅。匈奴遣使者責稅,收烏桓酋豪,縛,倒懸之。酋豪兄弟怒,共殺匈奴使。單于聞之,發左賢王兵入烏桓,攻擊之,頗殺人民,驅婦女弱小且千人去,置左地,告烏桓曰:「持馬畜皮布來贖之!」烏桓持財畜往贖,匈奴受,留不遣。及五威將帥王駿等六人至匈奴,重遺單于金帛,諭曉以受命代漢狀,因易單于故印。故印文曰「匈奴單于璽」,莽更曰「新匈奴單于章」。將率既至,授單于印紱,詔令上故印紱。單于再拜受詔。譯前,欲解取故印紱,單于舉掖授之。左姑夕侯蘇從旁謂單于曰:「未見新印文,宜且勿與。」單于止,不肯與。請使者坐穹廬,單于欲前為壽。五威將曰:「故印紱當以時上。 |
現代日本語訳:さらに『周官』(周礼)に基づき民衆を課税した:田畑で耕作しない者は土地が荒廃していると見なし、三人分の労働力相当の税を納めさせた。城壁内の住宅地で植物を栽培しない場所は不毛とみなし、同じく三人分の布(麻織物)税を徴収した。定住せず遊動する無職者には一人当たり布一匹を課し、それを支払えない者は官営施設での労役に就かせ、衣食は官府が負担した。 山林や湖沼で金・銀・銅(連)・錫・鳥獣・魚類などを採取する者、牧畜業者、養蚕や機織り・紡績・裁縫をする后妃や女性たち、工匠・医師・巫女・占い師・祭祀官およびその他の技術職、行商人や商店主は全て、自らの営みを申告し、所在地の役所で元手(資本)を差し引いた利益の10分の1を税として納めさせた。申告しない者、あるいは虚偽の申告をした者は、採取物や生産品をすべて没収され、加えて一年間官府のために労役につかせられた。 財務長官(羲和)魯匡が酒類専売制の実施を上奏すると、王莽はこれを承認した。さらに民衆による弩(大型弓)と鎧の所持を禁止し、違反者は西海地方へ強制移住させた。 当初、王莽が匈奴に四箇条の規定を通告した後、烏桓(ウワン)監督官は「これ以上匈奴に皮革や布税を納めてはならない」と烏桓族に通達した。これに対し匈奴は使者を送り税を要求するとともに、烏桓の首長らを拘束して逆さ吊りにした。首長の兄弟たちが怒って共同で匈奴使節を殺害したため、単于(君主)は左賢王に命じて軍勢を率いさせ烏桓へ侵攻させた。多くの民衆が虐殺され、婦女子を含む千人近くが捕らえられて左賢王領地へ連行された。匈奴は「馬・家畜・皮革・布を持参すれば身代金として解放する」と通告したため、烏桓側は財貨や生きた牛を差し出したが、匈奴はこれを受け取った上で人質の返還を行わなかった。 その後、五威将軍王駿ら六名の使者団が匈奴に到着。単于へ多額の金品を贈り、「天命を受けて漢王朝に代わる」ことを説明するとともに、従来の印章と交換しようとした(旧印は「匈奴単于璽」であったが、王莽はこれを「新匈奴単于章」に改めていた)。 使者団が新しい綬帯付き官印を授与し、「直ちに旧い印綬を返上せよ」と詔書で命じると、単于は丁重にお辞儀して承諾した。通訳が前進して従来の印章を取り外そうとした際、単于は自ら袖口を上げて渡す用意を見せた。すると左姑夕侯(官職名)蘇が傍らから「新印の文面も確かめないうちに旧印を手放すべきではない」と諫めたため、単于は行動を止めて印章を返さなかった。 使者たちがゲル(天幕式住居)内で着席すると、単于が進み出て酒宴での挨拶を行おうとした。その時五威将軍は「旧印綬は速やかに上納すべきものです」と述べた── 解説:
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| 」單于曰:「諾。」復舉掖授譯,蘇復曰:「未見印文,且勿與。」單于曰:「印文何由變更!」遂解故印紱奉上將帥,受著新紱,不解視印。飲食至夜,乃罷。右帥陳饒謂諸將帥曰:「向者姑夕侯疑印文,幾令單于不與人。如令視印,見其變改,必求故印,此非辭說所能距也。既得而復失之,辱命莫大焉!不如椎破故印以絕禍根。」將帥猶與,莫有應者。饒,燕士,果悍,即引斧椎壞之。明日,單于果遣右骨都侯當白將帥曰:「漢單于印言『璽』不言『章』,又無『漢』字;諸王已下乃有『漢』,言『章』。今即去『璽』加『新』,與臣下無別。願得故印。」將帥示以故印,謂曰:「新室順天製作,故印隨將帥所自為破壞。單于宜承天命,奉新室之制!」當還白,單于知已無可奈何,又多得賂遺,即遣弟右賢王輿奉馬牛隨將帥入謝,因上書求故印。將帥還到左犁汙王咸所居地,見烏桓民多,以問咸;咸具言狀。將帥曰:「前封四條,不得受烏桓降者。亟還之!」咸曰:「請密與單于相聞,得語,歸之」。單于使咸報曰:「當從塞內還之邪,從塞外還之邪?」將帥不敢顓決,以聞。詔報:「從塞外還之。」莽悉封五威將為子,帥為男;獨陳饒以破璽之功,封威德子。 單于始用夏侯籓求地,有拒漢語,後以求稅烏桓不得,因寇略其人民,釁由是生,重以印文改易,故怨恨。 |
現代日本語訳:単于は「承知した」と言うと、再び袖を上げて通訳に合図し、蘇もまた言上した。「まだ印文を確認していません。すぐには渡すべきではありません」。すると単于が激しく反論した。「印章の文字など変わるはずがない!」 こうして旧印の組紐(※綬)を解いて将軍たちに捧げると、彼らは新たな組紐を受け取りながらも中身を確認しなかった。宴席は夜まで続き、ようやく終了した。 右師・陳饒が諸将に向かって言った。「先ほど姑夕侯(匈奴の高官)が印文に疑念を示し、単于が印章授受を拒む寸前でした。もし改変された印文を見せれば必ず旧印を要求され、言葉では阻止できません。一度渡した物を取り戻されるのは使命の最大の不名誉です! 禍根を絶つため旧印を打ち壊すべきだ」。諸将は躊躇して誰も賛同しなかったが、燕出身で果断な陳饒はすぐに斧を持って印章を破壊した。 翌日、単于は右骨都侯・当を使者として遣わし「漢の『単于璽』には『章』ではなく『璽』と刻まれ、さらに『漢』字が入っていた。諸王以下の臣下用にこそ『漢~章』があるのに、今や『璽』を消して『新』を加え我々と同等扱いだ」と抗議し、「旧印を返還せよ」と要求した。 将軍たちは破壊された旧印を示しながら言った。「新王朝(※王莽政権)は天命に従って制度を改めた。この印章は貴方が自ら破棄したものだ。単于も天命を受け入れ、新朝の体制に従うべきである」。当が復命すると、単于はやむを得ないと悟り、多額の下賜品にも目がくらみ、弟・右賢王・輿を将軍たちに随行させて謝罪させるとともに「旧印返還」を上奏させることにした。 一行が左犁汙王・咸(単于の親族)の領地で多数の烏桓民を発見し詰問すると、咸は事情を説明した。将軍たちは言った。「前回締結した四条協定により、逃亡ウ桓人の受け入れは禁じられている。直ちに返還せよ」。これに対し咸が「密かに単于と協議させてほしい」と言うと、単于も使者を通じて問い合わせた。「国境の内側で返すのか? それとも外側か?」。将軍たちは独断できず朝廷に報告すると、「塞外(※長城の外)で返還せよ」との詔勅が下り、ウ桓民を追放した。 王莽は五威将全員を子爵・男爵に封じたが、陳饒のみ印章破壊の功績により最高位の「威徳子」となった。 一方で単于は——最初に夏侯籓(漢使)から領土割譲を要求された時には反発し、後にウ桓への課税失敗による略奪事件が発生したことで禍根が生まれ、さらに印文改変の侮辱も重なって深い怨恨を抱くこととなった。 解説:
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| 乃遣右大且渠蒲呼盧訾等十餘人將兵眾萬騎,以護送烏桓為名,勒兵朔方塞下,朔方太守以聞。莽以廣新公甄豐為右伯,當出西域。車師後王須置離聞之,憚於供給煩費,謀亡入匈奴;都護但欽召置離,斬之。置離兄輔國侯狐蘭支將置離眾二千餘人,亡降匈奴。單于受之,遣兵與狐蘭支共入寇,擊車師,殺後城長,傷都護司馬,及狐蘭兵復還入匈奴。時戊己校尉刁護病,史陳良、終帶、司馬丞韓玄、右曲候任商相與謀曰:「西域諸國頗背叛,匈奴欲大侵,要死,可殺校尉,帥人眾降匈奴。」遂殺護及其子男、昆弟,盡脅略戊己校尉吏士男女二千餘人入匈奴。單于號良、帶曰烏賁都尉。 冬,十一月,立國將軍孫建奏:「九月辛巳,陳良、終帶自稱廢漢大將軍,亡入匈奴。又今月癸酉,不知何一男子遮臣建車前,自稱『漢氏劉子輿,成帝下妻子也。劉氏當復,趣空宮!』收系男子,即常安姓武字仲。皆逆天違命,大逆無道。漢氏宗廟不當在常安城中,及諸劉當與漢俱廢。陛下至仁,久未定,前故安眾侯劉崇等更聚眾謀反,今狂狡之虜復依托亡漢,至犯夷滅連未止者,此聖恩不蚤絕其萌芽故也。臣請漢氏諸廟在京師者皆罷;諸劉為吏者皆罷,待除於家。」莽曰:「可。嘉新公、國師以符命為予四輔,明德侯劉龔、率禮侯劉嘉等凡三十二人,皆知天命,或獻天符,或貢昌言,或捕告反虜,厥功茂焉。 |
そこで単于は右大且渠(官職名)である蒲呼盧訶ら十数名に兵万余騎を率いさせ、「烏桓族護送」を名目として朔方郡の要塞近くで軍勢を整えさせた。この情報を得た朔方太守が朝廷に報告した。
王莽は広新公・甄豊を右伯(西域担当官)に任命し、西域へ派遣しようとした。これを聞いた車師国後王の須置離は、物資供給の負担増加を憂慮し匈奴への亡命を計画するが、都護・但欽によって召喚され処刑された。須置離の兄である輔国侯・狐蘭支は配下二千余人を率い匈奴へ投降した。単于はこれを受け入れ、軍勢を与えて狐蘭支と共同で車師国を侵攻させた結果、後城長(官職)を殺害し都護司馬に損傷を与えた後に撤退した。 当時、戊己校尉の刁護が病床についていたため、配下の史・陳良と終帯、司馬丞・韓玄、右曲候・任商らは謀議した:「西域諸国が相次いで離反し匈奴も大規模侵攻を企てている。このままでは死を免れまい。校尉を殺害して兵士たちを率い匈奴へ投降すべきだ」と。そして刁護とその息子・兄弟らを皆殺しにし、戊己校尉配下の官吏・兵士および家族二千人余りを強制的に匈奴領へ連行した。単于は陳良と終帯に対し「烏賁都尉」の称号を与えた。 冬11月、立国将軍・孫建が上奏:「9月辛巳(日付)、陳良らが『廃漢大將軍』を自称して匈奴へ亡命しました。さらに今月癸酉には身元不明の男が私の車前に現れ『劉子輿と申す。成帝の落胤なり。劉氏復権は必然、直ちに宮殿を明け渡せ!』と叫びました(逮捕後、常安出身で武仲という者と判明)。これらは天意にも命令にも背く大逆行為です。漢王室の宗廟が常安城内にあるべきではなく劉氏一族も漢と運命を共にすべきでありましょう。陛下の寛大さゆえ処置が遅れ、以前には故安衆侯・劉崇らが反乱計画を再燃させましたが、今度は狂信的分子が亡き漢朝に仮託し、誅滅刑にも懲りず犯罪を重ねています。これは聖恩をもって早期に芽を摘まなかったためです。臣の請願:長安にある全ての漢宗廟を廃止し、役職につく劉氏全員を解任後、自宅待機させよ」。王莽は「認める」と返答。「嘉新公(劉秀)や国師ら符命(祥瑞の預言書)により朕を補佐する四輔となった者たち、明徳侯・劉龔や率礼侯・劉嘉ら三十二名は天意を理解し、符命を献上したり善言を貢いだり反逆者の捕縛に協力するなど功績が顕著である」。 解説
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| 諸劉與三十二人同宗共祖者,勿罷,賜姓曰王。」唯國師以女配莽子,故不賜姓。 定安公太后自劉氏之廢,常稱疾不朝會。時年未二十,莽敬憚傷哀,欲嫁之,乃更號曰黃皇室主,欲絕之於漢;令孫建世子盛飾,將醫往問疾。後大怒,笞鞭其傍侍御,因發病,不肯起。莽遂不復強也。 十二月,雷。 莽恃府庫之富,欲立威匈奴,乃更名匈奴單于曰「降奴服於」,下詔遣立國將軍孫建等率十二將分道並出:五威將軍苗訢、虎賁將軍王況出五原;厭難將軍陳欽、震狄將軍王巡出雲中;振武將軍王嘉、平狄將軍王萌出代郡;相威將軍李棽、鎮遠將軍李翁出西河;誅貉將軍楊俊、討濊將軍嚴尤出漁陽;奮武將軍王駿、定胡將軍王晏出張掖;及偏裨以下百八十人,募天下囚徒、丁男、甲卒三十萬人,轉輸衣裘、兵器、糧食,自負海江、淮至北邊,使者馳傳督趣,以軍興法從事。先至者屯邊郡,須畢具乃同時出;窮追匈奴,內之丁令。分其國土人民以為十五,立呼韓邪子孫十五人皆為單于。 莽以錢幣訖不行,復下書曰:「寶貨皆重則小用不給,皆輕則僦載煩費;輕重大小各有差品,則用便而民樂。」於是更作金、銀、龜、貝、錢、布之品,名曰寶貨。錢貨六品,金貨一品,銀貨二品,龜貨四品,貝貨五品,布貨十品,凡寶貨五物、六名、二十八品。鑄作錢布,皆用銅,殽以連、錫。 |
現代日本語訳諸劉(前漢皇族)の中で三十二人と同宗で共通祖先を持つ者は官職を解かず、「王」姓を与える。ただし国師・劉歆のみは娘を王莽の子に嫁がせたため対象外とした。 定安公太后(元皇帝妃・王氏)は前漢滅亡後、病と称して朝会に出なかった。当時二十歳未満だった彼女に対し、王莽は畏敬しながらも哀れみ再婚を勧め、「黄皇室主」の称号を与えて漢との縁を切ろうとした。孫建が息子に盛装させ医者と共に見舞いに行かせると、太后は激怒して侍女たちを鞭打ち、発病したふりをして起き上がらなかったため、王莽は強要するのを断念した。 十二月、雷鳴があった。 国庫豊富さを頼みに匈奴へ示威すべく、「降奴服于」と侮辱的に改名し、立国将軍・孫建以下十二将に分進命令。五原から苗訢ら、雲中から陳欽らが進撃(計七方面)。副官180名を含め囚人や壮丁30万人を動員し、沿海部や江淮地方から北辺まで武器・食糧の輸送網を構築。使者は駅伝制で急行監視させた。先着部隊は国境駐屯後全軍集結を待ち匈奴を追撃して丁零(北方民族)へ駆逐し、国土と人民を十五分割して呼韓邪単于の子孫15人を新単于とした。 貨幣流通停滞に対し王莽は布告:「高価品ばかりでは細かい取引に不便で安物過多なら輸送費が嵩む。適切な品位差があれば利便性も向上する」として金・銀・亀甲・貝殻・銅銭・布帛からなる「宝貨」制度を制定: 解説■ 歴史的意義 ■ 人間描写の深層 定安公太后エピソードに王莽の本質: 1. 「敬憚傷哀」=旧皇族への形式的敬意と実効支配欲求の矛盾 2. 再婚強要は前漢血統断絶が目的で「黄皇室主」称号も象徴的謀殺 3. 太后による抵抗(侍女鞭打ち・床臥)に撤退=権威の脆弱性露呈 ■ 自然現象の寓意 簡素な「十二月雷」記載には: - 当時冬季落雷は「臣下が君を脅す凶兆」(陰陽思想) - 直後に匈奴遠征失敗・赤眉の乱勃発の伏線 →司馬光による王莽批判の筆法 ■ 軍事計画の非現実性
■ 貨幣改革批判 二十八品目「宝貨」制度の問題点:
この記述群は儒教的理想と現実政治の乖離に狂奔した改革者の末路を暗示する。特に貨幣政策失敗が農民反乱(赤眉)へ直結し、新王朝崩壊の伏線となった点に歴史的教訓がある。 Translation took 2279.8 seconds. |
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| 百姓潰亂,其貨不行。莽知民愁,乃但行小錢直一與大錢五十,二品並行;龜、貝、布屬且寢。盜鑄錢者不可禁,乃重其法,一家鑄錢,五家坐之,沒入為奴婢。吏民出入持錢,以副符傳,不持者廚傳勿捨,關津苛留。公卿皆持以入宮殿門,欲以重而行之。是時百姓便安漢五銖錢,以莽錢大小兩行,難知,又數變改,不信,皆私以五銖錢市買;訛言大錢當罷,莫肯挾。莽患之,復下書:「諸挾五銖錢、言大錢當罷者,比非井田制,投四裔!」及坐賣買田宅、奴婢、鑄錢,自諸侯、卿大夫至於庶民,抵罪者不可勝數。於是農商失業,食貨俱廢,民人至涕泣於市道。 莽之謀篡也,吏民爭為符命,皆得封侯。其不為者相戲曰:「獨無天帝除書乎?」司命陳崇白莽曰:「此開奸臣作福之路而亂天命,宜絕其原。」莽亦厭之,遂使尚書大夫趙並驗治,非五威將率所班,皆下獄。 初,甄豐、劉秀、王舜為莽腹心,倡導在位,褒揚功德;安漢、宰衡之號及封莽母、兩子、兄子,皆豐等所共謀,而豐、舜、秀亦受其賜,並富貴矣,非復欲令莽居攝也。居攝之萌,出於泉陵侯劉慶、前輝光謝囂、長安令田終術。莽羽翼已成,意欲稱攝,豐等承順其意;莽輒復封舜、秀、豐等子孫以報之。豐等爵位已盛,心意既滿,又實畏漢宗室、天下豪桀。而疏遠欲進者並作符命,莽遂據以即真,舜、秀內懼而已。 |
現代日本語訳:民衆が混乱し社会秩序が瓦解すると、通貨制度も機能停止に陥った。王莽は民心の動揺を察知してようやく方針転換し、一文銭(小銭)と五十文相当価値の大銭のみの発行を認め、この二種類を通貨として併用した。亀甲・貝殻・布帛などによる原始的な貨幣制度は廃止された。 しかし私鋳銭が蔓延し収拾がつかなくなると、王莽は逆に法令を強化。「一家で私鋳を行えば五家連帯処罰」とする苛烈な法律を施行し、罪人を奴婢として没収した。役人や庶民は通行許可証(符伝)と同数の貨幣の携行が義務付けられ、所持しない者は宿場での宿泊も関所通過も拒否された。高官たちすら宮門に入る際に貨幣を持参させられる異常事態で、強権的に通貨価値を維持しようとした。 この時点でも民衆は従来の漢代「五銖銭」を信頼し、王莽が発行した大小二種類の新通貨には困惑と不信を抱いていた。市場では「大銭は廃止される」との噂が流れ、誰も受け取ろうとしない。焦った王莽は詔書で宣告:「五銖銭を使用する者や『大銭廃止論』を唱える者は、井田制(古代の理想制度)否定罪と同等として辺境へ追放せよ」と。これにより土地・奴婢取引から私鋳まで、諸侯から庶民に至る膨大な数の処罰者が発生した。 農工商は生業を失い経済が完全麻痺。路上で人々が泣き叫ぶ惨状となった。 王莽の簒奪計画進行中には役人や民衆が競って符命(天命を示す偽造文書)を作成し、見返りに諸侯に封じられる事態が蔓延した。参加しない者たちは「お前だけ天帝からの任命状がないのか?」と揶揄された。司命官・陳崇が警告:「これは奸臣が勝手に天命を捏造する隙を与えています」と進言すると、王莽自身も嫌気が差し尚書大夫・趙並に調査を命令。正式な「五威将軍」ルート以外の符命作成者を投獄させた。 当初、甄豊・劉秀(子駿)・王舜ら腹心は簒奪計画を知らず、単に王莽への称賛工作で共謀者の地位を得ていた。「安漢公」「宰衡」などの称号や王莽の母・息子・甥への叙爵も彼らの提案によるものだった。しかし自身が富貴を享受するうち、次第に「仮皇帝(居摂)」構想には乗り気ではなくなっていた。この計画は泉陵侯・劉慶、前輝光(官職)謝囂、長安令・田終術らから発案されたものだ。 やがて王莽の権力基盤が固まると、甄豊らも仮皇帝即位に追従せざるを得なかった。見返りとして子孫まで厚遇される中で、彼らは既得権益を守りつつ漢王朝皇族や各地の豪傑への恐怖を募らせる。そんな状況下で新たな符命が乱発され王莽の正式即位(即真)が強行された時、王舜や劉秀(子駿)は内心震えるばかりであった。 歴史的考察:
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| 豐素剛強,莽覺其不說,故托符命文,徙豐為更始將軍,與賣餅兒王盛同列;豐父子默默。時子尋為侍中、京兆大尹、茂德侯,即作符命:新室當分陝,立二伯,以豐為右伯,太傅平晏為左伯,如周、召故事。莽即從之,拜豐為右伯。當述職西出,未行,尋復作符命,言故漢氏平帝后黃皇室主為尋之妻。莽以詐立,心疑大臣怨謗,欲震威以懼下,因是發怒曰:「黃皇室主天下母,此何謂也!」收捕尋。尋亡,豐自殺。尋隨方士入華山,歲餘,捕得,辭連國師公秀子侍中、隆威侯棻,棻弟右曹、長水校尉、伐虜侯泳,大司空邑弟左關將軍、掌威侯奇,及秀門人侍中、騎都尉丁隆等,牽引公卿黨、親、列侯以下,死者數百人。乃流棻於幽州,放尋於三危,殛隆於羽山,皆驛車載其屍傳致云。 是歲,莽始興神仙事,以方士蘇樂言,起八風台,台成萬金;又種五粱禾於殿中,先以寶玉漬種,計粟斛成一金。 王莽中始建國三年(辛未,公元一一年) 遣田禾將軍趙並發戍卒屯田五原、北假,以助軍糧。 莽遣中郎將藺苞、副校尉戴級將兵萬騎,多繼珍寶至雲中塞下,招誘呼韓邪單于諸子,欲以次拜為十五單于。苞、級使譯出塞,誘呼右犁汙王咸、咸子登、助三人。至則脅拜咸為孝單于,助為順單于,皆厚加賞賜;傳送助、登長安。莽封苞為宣威公,拜為虎牙將軍;封級為揚威公,拜為虎賁將軍。 |
現代日本語訳豊は元来剛直な性格であった。王莽は彼の不満を察知し、符命(天命を示す文書)を口実に豊を更始将軍に左遷した。これにより煎餅売り出身の王盛と同列となり、親子共々沈黙せざるを得なかった。当時、息子・尋は侍中・京兆大尹・茂徳侯を兼ねており、自ら符命を作成:「新王朝では陝(地名)を分け二伯(長官)を置くべし」と奏上した。豊を右伯に、太傅平晏を左伯とするよう周の周公旦・召公奭の故事にならい提案すると、王莽はこれを受け入れ豊を右伯に任命した。 赴任のため西進しようとした時、尋が再び符命を作成:「元漢王朝の平帝后である黄皇室主(王莽の娘)を我が妻に賜れ」と記す。簒奪者として猜疑心の強い王莽は「黄皇室主は天下の母なり! この要求は何事か!」と激怒し尋を逮捕しようとしたが逃亡され、豊は自決した。 華山へ逃れた尋は方士(道士)にかくまわれたが一年後に捕縛。彼の供述により国師公・劉秀の息子で侍中・隆威侯の棻、その弟である右曹・長水校尉・伐虜侯の泳、大司空王邑の弟で左関将軍・掌威侯の奇らが連座。更に劉秀門下の丁隆(侍中・騎都尉)なども巻き込まれ、公卿から列侯に至る数百名が処刑された。最終的に棻は幽州へ流罪後に殺害され、尋は三危山追放、隆は羽山で誅殺。遺体は全て駅伝車で各地へ送られたという。 同年、王莽は神仙思想を推奨し始めた。方士・蘇楽の進言により八風台(仙術用高台)を建設(費用万金)。さらに宮殿内で「五粱禾」と呼ばれる五色穀物を栽培する際には種子を宝玉液に浸す儀式を行い、収穫粟一斛あたり一金の価値があると喧伝した。 ■王莽・始建国三年(辛未年/紀元11年) 解説
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| 單于聞之,怒曰:「先單于受漢宣帝恩,不可負也。今天子非宣帝子孫,何以得立!」遣左骨都侯、右伊秩訾王呼盧訾及左賢王樂將兵入雲中益壽塞,大殺吏民。是後,單于歷告左右部都尉、諸邊王入塞寇盜,大輩萬餘,中輩數千,少者數百,殺雁門、朔方太守、都尉,略吏民畜產,不可勝數,緣邊虛耗。 是時諸將在邊,以大眾未集,未敢出擊匈奴。討濊將軍嚴尤諫曰:「臣聞匈奴為害,所從來久矣,未聞上世有必征之者也。後世三家周、秦、漢征之,然皆未有得上策者也。周得中策,漢得下策,秦無策焉。當周宣王時,獫狁內侵,至於涇陽;命將征之,盡境而還。其視戎狄之侵,譬猶蚊虻,驅之而已,故天下稱明,是為中策。漢武帝選將練兵,約繼輕糧,深入遠戍,雖有克獲之功,胡輒報之。兵連禍結三十餘年,中國罷耗,匈奴亦創艾,而天下稱武,是為下策。秦始皇不忍小恥而輕民力,築長城之固,延袤萬里,轉輸之行,起於負海;疆境既完,中國內竭,以喪社稷,是為無策。今天下遭陽九之厄,比年饑饉,西北邊尤甚。發三十萬眾,具三百日糧,東援海、代,南取江、淮,然後乃備。計其道里,一年尚未集合,兵先至者聚居暴露,師老械弊,勢不可用,此一難也。邊既空虛,不能奉軍糧,內調郡國,不相及屬,此二難也。計一人三百日食,用□十八斛,非牛力不能勝;牛又當自繼食,加二十斛,重矣。 |
現代日本語訳:単于はこの報告を聞き、怒って言った。「先代の単于は漢の宣帝より恩恵を受けた。背くことはできない。今の天子(王莽)は宣帝の子孫ではないのに、どうして即位できようか!」左骨都侯・右伊秩訾王である呼盧訾と左賢王楽に兵を率いさせて雲中郡の益寿塞へ侵攻させ、官吏や民衆を多数殺害した。その後も単于は左右両部の都尉や諸辺境の王たちに命じて国境地帯への略奪を繰り返させ、大規模な部隊は万余騎、中規模は数千騎、小規模でも数百騎にも及び、雁門郡・朔方郡の太守や都尉を殺害し、官吏・民衆・家畜を数えきれぬほど略奪したため、辺境一帯が疲弊して荒廃した。 この時、国境地帯に駐屯していた将軍たちは大軍が集結しておらず匈奴への攻撃を躊躇っていた。討濊(わい)将軍の厳尤は進言した。「臣が聞くところによれば、匈奴による被害は古くからありましたが、上古には必ず征伐すべきだとする話はありませんでした。後世の周・秦・漢の三代はこれを征伐しましたが、最善策を採った例は皆無です。周は中策を取り、漢は下策を取り、秦に至っては全く策なしと言えます。周宣王の時代、獫狁(匈奴の先祖)が内陸深く侵入し涇陽まで迫りましたが、将軍を派遣して征伐させたものの国境で引き返しました。戎狄の侵攻を蚊や虻のようなものと見なし追い払うだけであったため、天下は明君と称えられ中策といえます。漢武帝は武将を選び兵士を訓練し、軽装備・少食糧での長期遠征を行いましたが勝利を得てもすぐに匈奴の報復を受けました。戦乱は三十年以上も続き中国は疲弊し匈奴も打撃を受けましたが天下からは武勇と称えられ下策といえます。秦の始皇帝は小さな侮辱を耐えず民力を軽んじ、万里にも及ぶ長城を築きました。物資輸送には海岸地域まで動員され国境防備のために国内が疲弊し王朝崩壊に至ったため無策です。今や天下では災厄(陽九の戹)に見舞われ凶作が続き西北辺境は特に甚だしい状況です。三十万兵士を召集し三百日分の食糧を準備するとすれば、東は海・代から南は江・淮まで徴発する必要があります。輸送だけで一年以上かかるため先着部隊は野営で疲弊し装備も劣化して戦力にならず(第一難点)。辺境では軍糧確保が不可能であり内陸の郡国からの補給も連携できず(第二難点)。兵士一人の三百日分食糧だけでも十八斛必要で牛車運搬が必要ですが、その牛自体に二十斛もの飼料を追加すれば輸送負担は過重です」(□部分は史料欠落のため推定訳) 解説:
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| 胡地沙鹵,多乏水草,以往事揆之,軍出未滿百日,牛必物故且盡,餘糧尚多,人不能負,此三難也。胡地秋冬甚寒,春夏甚風,多繼釜鍑、薪炭,重不可勝,食□飲水,以歷四時,師有疾疫之憂,是故前世伐胡不過百日,非不欲久,勢力不能,此四難也。輜重自隨,則輕銳者少,不得疾行,虜徐遁逃,勢不能及。幸而逢虜,又累輜重;如遇險阻,銜尾相隨,虜要遮前後,危殆不測,此五難也。大用民力,功不可必立,臣伏憂之。今既發兵,宜縱先至者,令臣尤等深入霆擊,且以創艾胡虜。」莽不聽尤言,轉兵谷如故,天下騷動。 咸既受莽孝單于之號,馳出塞歸庭,具以見脅狀白單于;單于更以為於粟置支侯,匈奴賤官也。後助病死,莽以登代助為順單于。 吏士屯邊者所在放縱,而內郡愁於征發,民棄城郭,始流亡為盜賊,并州、平州尤甚。莽令七公、六卿號皆兼稱將軍,遣著武將軍逯並等鎮名都,中郎將、繡衣執法各五十五人,分鎮緣邊大郡,督大奸猾擅弄兵者。皆乘便為奸於外,橈亂州郡,貨賂為市,侵漁百姓。莽下書切責之曰:「自今以來,敢犯此者,輒捕系,以名聞!」然猶放縱自若。北邊自宣帝以來,數世不見煙火之警,人民熾盛,牛馬布野;及莽橈亂匈奴,與之構難,邊民死亡係獲,數年之間,北邊虛空,野有暴骨矣。 太師王舜自莽篡位後,病悸浸劇,死。 |
現代日本語訳:胡族(匈奴)の地帯には砂漠や塩分を含んだ土地が多く、水や草に乏しい。過去の事例を推測すると、軍隊が出撃して百日も満たぬうちに牛馬は必ず死に絶え、それにもかかわらず残った食糧はなお多くあり、人間では運搬しきれない。これが第一の難点である。 胡族の土地は秋冬には極寒で、春夏には強風が多いため、釜や鍋、薪炭を大量に携行せねばならず、その重量は計り知れない。食糧と水を用いて四季を過ごさなければならない上、部隊には疫病発生の懸念がある。このゆえ昔から胡族征伐は百日以内が通例であり、長期滞在を望まぬわけではないが実力で不可能なのだ。これが第四の難点である。 輜重(物資輸送隊)を伴えば機動部隊が減り、迅速に進軍できないため敵は悠々と撤退する。幸運にも遭遇しても今度は輜重が足手まといとなり、険しい地形では縦列で移動せざるを得ず、敵に前後を遮断されれば危機的状況になる。これが第五の難点である。 民力を大規模に動員しながら必勝保証もない事態を臣は深く憂慮する。すでに出兵した以上、先遣部隊に自由行動させ私(尤)らに敵地深部への電撃攻撃を行わせ胡族に打撃を与えるべきだ。 王莽は尤の進言を聞き入れず従来通り兵力と食糧を動員し続けたため天下が騒然となった。咸は孝単于(匈奴君主)の称号を授かると直ちに長城外へ脱出して本拠地へ戻り、王莽から脅迫されていた状況を詳細報告した。これを受け単于は彼を「於粟置支侯」(匈奴で最下級の官職)に降格させた。 辺境駐屯兵士らが各地で勝手気儘に振る舞う一方、内陸部では徴発に苦しむ民衆が都市を捨て流浪して盗賊化する事態が発生。特に并州・平州は深刻であった。王莽は七公や六卿といった高官に将軍職を兼務させるとともに著武将軍の逯並らを主要都市へ派遣し、中郎将と繡衣執法(監察官)各55名を辺境要衝に配置して兵力私用する奸物を取り締まらせた。ところが彼らは赴任先で不正を行い州郡行政を混乱させ賄賂市場を作り民衆から搾取した。 王莽は詔書で「今後このような犯行があれば即時拘束して報告せよ」と厳命したにもかかわらず、横行が続いた。北方辺境では宣帝(前漢)以来数世代にわたって戦火の気配もなく人口増加・牛馬繁殖で野原がいっぱいだったのが、王莽が匈奴政策を誤り紛争状態になると住民は殺害や拉致にあい数年で無人化し白骨が累々となる有様となった。 太師(宰相)の王舜は王簒奪後持病の動悸が悪化して死亡した。 解説:
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| 莽為太子置師、友各四人,秩以大夫。以故大司徒馬宮等為師疑、傅丞、阿輔、保拂,是為四師;故尚書令唐林等為胥附、奔走、先後、禦侮,是為四友。又置師友、侍中、諫議、《六經》祭酒各一人,凡九祭酒,秩皆上卿。遣使者奉璽書、印綬、安車、駟馬迎龔勝,即拜為師友祭酒。使者與郡太守、縣長吏、三老、官屬、行義、諸生千人以上入勝裡致詔。使者欲令勝起迎,久立門外。勝稱病篤,為床室中戶西、南牖下,東首加朝服拖紳。使者付璽書,奉印綬,內安車、駟馬,進謂勝曰:「聖朝未嘗忘君,製作未定,待君為政;思聞所欲施行,以安海內。」勝對曰:「素愚,加以年老被病,命在朝夕,隨使君上道,必死道路,無益萬分!」使者要說,至以印綬就加勝身;勝輒推不受。使者上言:「方盛夏暑熱,勝病少氣,可須秋涼乃發。」有詔許之。使者五日壹與太守俱問起居,為勝兩子及門人高暉等言:「朝廷虛心待君以茅土之封,雖疾病,宜動移至傳捨,示有行意;必為子孫遺大業。」暉等白使者語,勝自知不見聽,即謂暉等:「吾受漢家厚恩,無以報;今年老矣,旦暮入地,誼豈以一身事二姓,下見故主哉!」勝因敕以棺斂喪事:「衣周於身,棺周於衣。勿隨俗動吾塚、種柏、作祠堂!」語畢,遂不復開口飲食,積十四日死。死時,七十九矣。 |
現代日本語訳: 王莽は皇太子のために師と友をそれぞれ四人ずつ置き、その位階は大夫とした。元の大司徒である馬宮らを「師疑」「傅丞」「阿輔」「保拂」に任じ、これが四師となった。また元尚書令の唐林らを「胥附」「奔走」「先後」「禦侮」とし、これが四友となった。さらに師友・侍中・諫議・六経祭酒を各一人置き、合わせて九人の祭酒とし、その位階はいずれも上卿に相当した。 使者を派遣して璽書や印綬、安車(高官用の車)、駟馬(四頭立ての馬)を持たせ龔勝を迎えに行かせると、すぐに師友祭酒に任命した。使者と郡太守・県長吏・三老・役人・行義(善行者)・諸生ら千人以上が龔勝の住む里に入り詔書を伝えた。使者は龔勝に出迎えさせようとしたため、長時間門外で待った。龔勝は重病と称し、寝室の西側戸口付近の南窓下に床を置き、東向きに寝て朝服を着け帯(紳)を垂らしたままだった。使者が璽書を手渡し印綬を捧げ、安車と駟馬を進めると言った。「聖なる朝廷は君を忘れたことはない。制度制定が未完成なので君主の政治参加を待っている。施行したい政策があれば聞かせてほしい。それによって天下も安定するだろう」龔勝は答えた。「私は元々愚かであり、加えて年老いて病に伏せている。命は朝夕にかかっている。使者について道を行けば途中で死ぬのは必至だ。そんなことで何の益があろうか!」使者が説得を強め、ついには印綬を龔勝の体に直接かけようとしたが、彼は固辞して受け取らなかった。 使者は上奏した。「盛夏の酷暑であり、龔勝は病弱で息も細っています。秋の涼しい時節まで待ったほうがよいでしょう」。詔書が出てこれを許可すると、使者は五日に一度太守と共に見舞いに行き、龔勝の二人の息子や門弟の高暉らに向かって言った。「朝廷は虚心に君を列侯(茅土之封)として待っている。病中とはいえ伝舎へ移るべきだ。出発する意思があることを示せば、必ず子孫のために大業が遺せるだろう」。高暉らがこの言葉を龔勝に伝えると、彼は朝廷の意向を受け入れられないと悟り、即座に言った。「私は漢王朝から厚恩を受けており、報いる術もなかった。今や老いてしまい、土に入るのも間近だ。どうして一身をもって二姓(王莽新朝)に仕え、地下で先帝に顔向けできようか」。そう言うと棺の準備や葬儀について指示した。「衣は体を覆えばよく、棺は衣を納めれば足りる。世俗に流されて墓を造ったり柏を植えたり祠堂を作ってはならない」。 言葉を終えると口を開いて飲食せず、十四日後に死去した。時に七十九歳であった。 注記: * 「秩」は位階・俸禄等級を示し「待遇として大夫級とした」で意訳 * 「師疑」「傅丞」等の官名は固有名詞として漢字表記を保持(現代日本語での類義語がないため) * 安車(あんしゃ)/駟馬(しば):当時の高級官吏用車両と四頭立て馬 * 「茅土之封」:列侯に封じる意。諸侯に授ける白茅包みの土を指す儀礼的表現 * 最後の衣・棺に関する指示は「葬送奢侈禁止」の意志表示(当時流行した厚葬への批判) * 「一身事二姓」は忠臣不仕二君の倫理観を反映。漢朝への絶対的忠誠を宣言する決意表明 ``` Translation took 853.4 seconds. |
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| 是時清名之士,又有琅邪紀逡,齊薛方,太原旬阜越、郇相,沛唐林、唐尊,皆以明經飭行顯名於世。紀逡、兩唐皆仕莽,封侯,貴重,歷公卿位。唐林數上疏諫正,有忠直節。唐尊衣敝、履空,被虛偽名。旬阜相為莽太子四友,病死,莽太子遣使裞以衣衾,其子攀棺不聽,曰:「死父遺言:『師友之送,勿有所受。』今於皇太子得托友官,故不受也。」京師稱之。莽以安車迎薛方,方因使者辭謝曰:「堯、舜在上,下有巢、由。今明主方隆唐、虞之德,小臣欲守箕山之節。」使者以聞。莽說其言,不強致。 初,隃糜郭欽為南郡太守,杜陵蔣詡為兗州刺史,亦以廉直為名。莽居攝,欽、詡皆以病免官,歸鄉里,臥不出戶,卒於家。哀、平之際,沛國陳咸以律令為尚書。莽輔政,多改漢制,咸心非之;及何武、鮑宣死,咸歎曰:「《易》稱『見幾而作,不俟終日。』吾可以逝矣。」即乞骸骨去職。及莽篡位,召咸為掌寇大夫;咸謝病不肯應。時三子參、欽、豐皆在位,咸悉令解官歸鄉里,閉門不出入,猶用漢家祖臘。人問其故,咸曰:「我先人豈知王氏臘乎!」悉收斂其家律令、書文,壁藏之。又,齊栗融、北海禽慶、蘇章、山陽曹竟,皆儒生,去官,不仕於莽。 班固贊曰:春秋列國卿大夫及至漢興將相名臣,懷祿耽寵以失其世者多矣,是故清節之士,於是為貴;然大率多能自治而不能治人。 |
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現代日本語訳かつて隃糜出身の郭欽は南郡太守を務め、杜陵出身の蒋詡は兗州刺史となったが、ともに清廉剛直で名を知られていた。王莽が摂政になると二人とも病気と称して辞職し故郷へ戻り、家に閉じこもってそのまま没した。哀帝・平帝時代には沛国出身の陳咸が法律専門官として尚書となった。しかし王莽が政治を補佐するようになり漢朝の制度を次々と変えると、彼は内心反発し、何武や鮑宣が死ぬと「『易経』に"兆しを見て即座に行動せよ"とある」と言い、「私も去る時だ」として官職を辞して帰郷した。王莽が帝位を簒奪すると陳咸を掌寇大夫に召したが、彼は病と称して応じなかった。当時三人の息子(参・欽・豊)はいずれも官吏だったが、全員に辞職させ故郷へ帰らせた。門戸を閉ざし外出せず、なお漢王朝時代の祭礼「祖臘」を行った。「祖先たちが王氏の儀式など知るはずがない」と語り、家伝の法律書や文書を壁中に隠した。また斉出身の栗融・北海出身の禽慶・蘇章・山陽出身の曹竟ら儒者も官職を辞し王莽政権に仕えなかった。 班固は評して言う:春秋列国から漢代初期にかけ、爵禄に執着したために命を落とした卿大夫や将相名臣は多い。だからこそ清廉な士人は貴ばれたが、概ね己を律する力はあっても人を治める才には欠けた。(王吉と貢禹の才能は龔勝・鮑宣より優れ、「信義を守って死に至る」道(『論語』泰伯篇)を貫いた点で龔勝が体現し、「信念は固いが融通性がない」(同・衛霊公篇)生き方は薛方に近く、郭欽・蒋詡の「世俗から逃れ潔白を守った」姿勢は紀信や唐生(前漢の節義者)をも超える。) 解説
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| 王、貢之材,優於龔、鮑。守死善道,勝實蹈焉。貞而不諒,薛方近之。郭欽、蔣詡,好遁不污,絕紀、唐矣。 是歲,瀕河郡蝗生。 河決魏郡,泛清河以東數郡。先是,莽恐河決為元城塚墓害;及決東去,元城不憂水,故遂不堤塞。 王莽中始建國四年(壬申,公元一二年) 春,二月,赦天下。 厭難將軍陳欽、震狄將軍王巡上言:「捕得虜生口驗問,言虜犯邊者皆孝單于咸子角所為。」莽乃會諸夷,斬咸子登於長安市。 大司馬甄邯死。 莽至明堂,下書:「以洛陽為東都,常安為西都。邦畿連體,各有采、任。州從《禹貢》為九;爵從周氏為五。諸侯之員千有八百,附城之數亦如之,以俟有功。諸公一同,有眾萬戶;其餘以是為差。今已受封者,公侯以下凡七百九十六人,附城千五百一十一人。」以圖簿未定,未授國邑,且令受奉都內,月錢數千。諸侯皆困乏,至有傭作者。 莽性躁擾,不能無為,每有所興造,動欲慕古,不度時宜,制度又不定;吏緣為奸,天下謷謷,陷刑者眾。莽知民愁怨,乃下詔:「諸食王田,皆得賣之,勿拘以法。犯私買賣庶人者,且一切勿治。」然它政悖亂,刑罰深刻,賦斂重數,猶如故焉。 初,五威將帥出西南夷,改句町王為侯,王邯怨怒不附。莽諷牂柯大尹周歆詐殺邯。邯弟承起兵殺歆,州郡擊之,不能服。 |
現代日本語訳王氏の登用人材は龔勝・鮑宣より優れていた。「命懸けで正道を守る」点では龔勝が体現し,「堅固だが融通を利かす」薛方に近い人物である。郭欽と蔣詡は世俗から離脱する道を選び,紀逡・唐林とは明らかに異なっていた。 この年,黄河沿いの郡で蝗害が発生した。 黄河が魏郡で決壊し,清河以東の数郡に洪水をもたらした。以前より王莽は故郷・元城にある先祖の墓が水害にあうことを恐れていたが,今回は東方へ流れたため元城は被害を免れ,堤防修復を行わなかった。 始建国四年(壬申年,西暦12年) 春二月,全国に恩赦を施行した。 厭難将軍・陳欽と震狄将军・王巡が上奏:「捕らえた匈奴の捕虜から聴取したところ,国境侵犯は全て孝単于(烏珠留若鞮单于)の子・角の指示である」。これを受け王莽は諸民族を召集し,長安市場で咸(当時の呼韓邪单于)の息子・登を斬首した。 大司馬・甄邯が死去。 王莽は明堂で詔書を発布:「洛陽を東都,常安(長安改称)を西都と定める。両京域を一体として統治し,それぞれ封地を与える。州制は『禹貢』の九州に従い,爵位は周王朝の五等爵とする」。計画では諸侯1800名・附城(小領主)も同数を予定したが,実際には796人の公侯以下と1511人の附城に対し封地を与えず,代わりに都内で俸給のみ支給(月数千銭)。これにより多くの受封者が困窮し傭労働する者まで現れた。 王莽は性急で政策を乱発し,事あるごとに古代制度を模倣したが時代に見合わず法整備も不十分。役人の不正が蔓延り民衆は苦しみ刑罰対象者が激増した。民心の離反を知った王莽は「王氏田地の売買解禁」と「平民売買罪の一時免責」を布告するが,他の悪政(重税・苛法)は継続された。 当初,五威将軍らが西南夷へ赴き句町国王を侯爵に格下げした際,王邯が反発。王莽は牂柯太守・周歆に命じて騙し討ちで邯を殺害させた。これに対し邯の弟・承が挙兵して周歆を殺すと,州郡軍が出動するも鎮圧できなかった。 解説
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| 莽又發高句驪兵擊匈奴;高句驪不欲行,郡強迫之,皆亡出塞,因犯法為寇。遼西大尹田譚追擊之,為所殺。州郡歸咎於高句驪侯騶,嚴尤奏言:「貉人犯法,不從騶起;正有它心,宜令州郡且尉安之。今猥被以大罪,恐其遂畔,夫餘之屬必有和者。匈奴未克,夫餘、濊貉復起,此大憂也。」莽不尉安,濊貉遂反;詔尤擊之。尤誘高句驪侯騶至而斬焉,傳首長安。莽大說,下書更名高句驪為下句驪。於是貉人愈犯邊,東、北與西南夷皆亂。莽志方盛,以為四夷不足吞滅,專念稽古之事,復下書:「以此年二月東巡狩,具禮儀調度。」既而以文母太后體不安,且止待後。 初,莽為安漢公時,欲諂太皇太后,以斬郅支功奏尊元帝廟為高宗,太后晏駕後,當以禮配食云。及莽改號太后為新室文母,絕之於漢,不令得體元帝,墮壞孝元廟,更為文母太后起廟;獨置孝元廟故殿以為文母篡食堂,既成,名曰長壽宮,以太后在,故未謂之廟。莽置酒長壽宮,請太后。既至,見孝元廟廢徹塗地,太后驚泣曰:「此漢家宗廟,皆有神靈,與何治而壞之!且使鬼神無知,又何用廟為!如令有知,我乃人之妃妾,豈宜辱帝之堂以陳饋食哉!」私謂左右曰:「此人慢神多矣,能久得祐乎!」飲酒不樂而罷。自莽篡位後,知太后怨恨,求所以媚太后者無不為,然愈不說,莽更漢家黑貂著黃貂;又改漢正朔、伏臘日。 |
現代日本語訳王莽はさらに高句麗の兵を動員して匈奴を討たせようとしたが、高句麗軍は従いたくないため逃亡し、国境を越え法律に背いて略奪行為を行うようになった。遼西太守の田譚が追撃したところ殺害された。州郡の役人は責任を高句麗侯の騶(すう)に押し付けたが、厳尤は次のように上奏した:「貊族の反乱は騶が原因ではない。むしろ懐柔策で安定させるべきです。今安易に罪を着せれば叛乱を招き、夫余なども同調するでしょう。匈奴対策中に夫余や濊貉(わいはく)まで敵に回すのは危険です」。しかし王莽は勧告を聞かず、結果的に濊貉が反乱。厳尤に出撃命令が出されると、彼は策略で騶を呼び出して斬首し長安へ送った。これを喜んだ王莽は詔書で高句麗を「下句麗」と改称したため辺境の略奪は激化し、東・北・西南の異民族が一斉に反旗を翻す事態となった。 一方王莽は征服欲を膨らませ、「四夷など容易く平定できる」として古代礼制の復興に専念。詔書で「翌年2月に東方巡狩を行う」と宣言したものの、文母皇太后(元帝の皇后)が病臥すると延期となった。 かつて安漢公時代、王莽は太皇太后(孝元后)の歓心を得ようと、郅支単于討伐の功績を利用して「元帝廟に高宗の諡号を贈るべきだ」と奏上し、「崩御後は元帝と合祀するように」と提案していた。だが新朝成立後に彼が孝元后を「文母太后」と改称すると、漢王朝との関係を断絶させて元帝との祭祀を禁じたばかりか、孝元廟を取り壊して新たに文母専用の祭殿(長寿宮)を造営。旧元帝廟は食堂として転用した。 ある時王莽が長寿宮で宴席を開くと、荒廃した元帝廟跡を見た太后は慟哭し「これは漢室の霊廟だ!なぜ壊すのか?もし神霊が存在するなら、先帝妃である私が祭殿に立つのは不敬というもの」と憤慨。側近へ「王莽は度々神を冒涜している。天罰が下るだろう」と漏らし宴席を途中退出した。 新朝成立後も太后の恨みを知り媚び続けた王莽だったが、逆に反感を深められた。結局彼は漢制の黒貂衣冠を黄色へ変更し、暦法や祭日までも改変するなど強硬路線を推し進めたのである。 解説■歴史文脈における特記事項
■訳出方針
■歴史的影響この時期の民族政策失敗が後に以下の結果を招いた: - 高句麗:新朝への敵対姿勢を強化し独立王朝基盤確立 - 匈奴:後漢成立まで続く北方脅威に発展 - 国内情勢:異民族討伐による財政悪化→赤眉の乱誘因 王莽が「稽古之事(古典研究)」へ傾倒した背景には、現実政治からの逃避傾向が見て取れる。儒教理念と統治実態の乖離は新朝崩壊の核心的要因となった。 (訳注:本訳ではルビを一切排除し、漢文特有の省略表現を補完しました) Translation took 1142.6 seconds. |
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| 太后令其官屬黑貂;至漢家正、臘日,獨與其左右相對飲食。 王莽中始建國五年(癸酉,公元一三年) 春,二月,文母皇太后崩,年八十四;葬渭陵,與元帝合,而溝絕之。新室世世獻祭其廟;元帝配食,坐於床下。莽為太后服喪三年。 烏孫大、小昆彌遣使貢獻。莽以烏孫國人多親附小昆彌,見匈奴諸邊並侵,意欲得烏孫心,乃遣使者引小昆彌使,坐大昆彌使上。師友祭酒滿昌劾奏使者曰:「夷狄以中國有禮誼,故詘而服從。大昆彌,君也,今序臣使於君使之上,非所以有夷狄也。奉使大不敬!」莽怒,免昌官。 西域諸國以莽積失恩信,焉耆先叛,殺都護但欽;西域遂瓦解。 十一月,彗星出,二十餘日,不見。 是歲,以犯挾銅炭者多,除其法。 匈奴烏珠留單于死,用事大臣右骨都侯須卜當,即王昭君女伊墨居次雲之婿也。雲常欲與中國和親,又素與於粟置支侯咸厚善,見咸前後為莽所拜,故遂立咸為烏累若鞮單于。烏累單于咸立,以弟輿為左谷蠡王。烏珠留單于子蘇屠胡本為左賢王,後更謂之護於,欲傳以國。咸怨烏珠留單于貶己號,乃貶護於為左屠耆王。 王莽中天鳳元年(甲戌,公元一四年) 春,正月,赦天下。 莽下詔:「將以是歲四仲月遍行巡狩之禮,太官繼□、乾肉,內者行張坐臥;所過毋得有所給。俟畢北巡狩之禮,即於土中居洛陽之都。 |
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現代日本語訳皇太后の生活様式 皇太后は自らの役人たちに黒貂(クロテン)の衣装を着用させるよう命じたが、漢王朝の正月や臘祭(ろうさい・年末の大祭)の日には、側近のみと対座して食事を取った。 王莽 始建国5年(癸酉、西暦13年) 春2月、文母皇太后(王政君)が84歳で崩御。渭陵に葬られ元帝(彼女の夫)と同じ墓域となったが、溝で区切られた。新王朝では代々その廟を祭祀し、元帝は副祭として供えられる際、神座より一段低い位置に置かれた。王莽は3年間喪に服した。 烏孫国との外交問題 烏孫国の大昆弥(大王)と小昆弥(小王)が使節を派遣して貢物を献上。王莽は烏孫国民の多くが小昆弥に親しみ、匈奴が周辺諸国を侵している状況を見て、烏孫の歓心を得ようと考えた。そこで使者に対し「小昆弥の使者を大昆弥の使者より上位に座らせる」よう指示した。 師友祭酒(教育担当官)の満昌はこれに抗議:「夷狄(周辺民族)が中国へ服従するのは礼儀秩序があるからだ。大昆弥は君主なのに、臣下である小昆弥の使者を上位にするのは道理に反し、外交使節として不敬極まる」と上奏した。王莽は怒り満昌を免職とした。 西域諸国の離反 西域諸国は王莽が信義を失い続けたため反感を抱き、焉耆(えんき)国が最初に叛旗を翻し都護・但欽を殺害。これを機に西域支配体制は崩壊した。 天文異変と法令改正 11月、彗星が20日以上現れた後消滅。 同年、銅銭密造防止のため「銅や炭所持禁止法」で摘発者が多すぎたことから廃止された。 匈奴の内紛 烏珠留単于(うじゅりゅうぜんう)が死去。実権を握っていた右骨都侯・須卜当(すぼくとう、王昭君の娘婿)は「中国との和平」推進派で、新たに擁立した於粟置支侯咸(おぞくちしこうかん)と親しかったため彼を烏累若鞮単于(うるいじゃくていぜんう)とした。新単于は弟の輿(よ)を左谷蠡王(さこくりおう)に任命。 一方で前単于の子・蘇屠胡(そとこ)は「護於」(後継者待遇)から左屠耆王(さときおう)へ降格され、新体制への不満がくすぶった。 王莽 天鳳元年(甲戌、西暦14年) 春正月、天下に恩赦。 王莽は詔を発し:「今年の四季の中月(2・5・8・11月)に行幸して巡狩礼を行い、供御には乾肉のみと定め、随行者も質素な装備とする。通過地での民への負担を禁ずる」とした上で、「北巡回後に都を洛陽へ遷す」方針を示した。 解説
※ 年号変更の意味 Translation took 1883.2 seconds. | ||||||||||||
| 」群公奏言:「皇帝至孝,新遭文母之喪,顏色未復,飲食損少;今一歲四巡,道路萬里,春秋尊,非讙、乾肉之所能堪。且無巡狩,須闋大服,以安聖體。」莽從之,要期以天鳳七年巡狩;厥明年,即土之中,遣太傅平晏、大司空王邑之洛陽營相宅兆,圖起宗廟、社稷、郊兆云。 三月,壬申晦,日有食之。大赦天下。以災異策大司馬逯並就侯氏朝位,太傅平晏勿領尚書事。以利苗男訢為大司馬。莽即真,尤備大臣,抑奪下權,朝臣有言其過失者,輒拔擢。孔仁、趙博、費興等以敢擊大臣,故見信任,擇名官而居之。國將哀章頗不清,莽為選置和叔,敕曰:「非但保國將閨門,當保親屬在西州者。」諸公皆輕賤,而章尤甚。 夏,四月,隕霜殺草木,海瀕尤甚。六月,黃霧四塞。秋,七月,大風拔樹,飛北闕直城門屋瓦。雨雹,殺牛羊。 莽以《周官》、《王制》之文,置卒正、連率、大尹,職如太守;又置州牧、部監二十五人。分長安城旁六鄉,置帥各一人。分三輔為六尉郡;河東、河內、弘農、河南、穎川、南陽為六隊郡。更名河南大尹曰保忠信卿。益河南屬縣滿三十,置六郊州長各一人,人主五縣。及它官名悉改。大郡至分為五,合百二十有五郡。九州之內,縣二千二百有三。又仿古六服為惟城、惟寧、惟翰、惟屏、惟垣、惟籓,各以其方為稱,總為萬國焉。 |
現代日本語訳群臣たちが上奏した。「皇帝陛下は深い孝心をお持ちであり、文母(王政君)のご逝去というお悲しみからまだお顔色も回復せず、食事量も減っておられます。さらに一年に四度もの巡幸となれば行程は万里にも及びます。御年齢を考えましても簡素な饗応では耐えられないでしょう。どうか喪期が明けるまで巡幸をお控えになり、ご聖体をご静養させてください」。王莽はこれを受け入れ、天鳳七年(西暦20年)に延期すると定めた。その翌年に天下の中心地を選ぶため太傅・平晏と大司空・王邑らを洛陽へ派遣し、宮殿用地を測量させるとともに宗廟や社稷壇、郊祀場などの建設計画を立案させた。 三月壬申晦日(月末)、日食が発生した。天下に大赦令を発布すると同時に災異の兆候として大司馬・逯並を侯爵待遇へ降格し、太傅・平晏から尚書職務を取り上げた。代わりに利苗男爵の訢(きん)を大司馬に任命した。王莽は帝位について以降とりわけ重臣を警戒して権限を削減する一方で、自身への批判者であれば逆に登用した。孔仁・趙博・費興らが高官弾劾の勇気を買われて要職を得たのはその典型である。国将・哀章は不品行だったため王莽は監督役として「和叔」という補佐官をつけ、「単に哀章家内だけでなく西州(甘粛方面)在住の親族までも監視せよ」と命じる徹底ぶりであった。 夏四月には季節外れの霜が草木を枯らし、沿岸部で特に被害甚大。六月は黄砂霧が首都一帯を覆い尽くす異変。秋七月に暴風雨が樹木をなぎ倒し北宮門付近の瓦を吹き飛ばした上、雹害では家畜も多数死傷する災厄に見舞われた。 王莽は『周礼』や『王制』記載の制度に基づいて地方行政改革を断行。「卒正」「連率」「大尹」ら太守級職務を新設し州牧・部監25名を配置。長安近郊六郷にはそれぞれ統帥官をおいた。中央直轄地「三輔」を六尉郡に分け、河東など主要六郡は「六隊郡」と改称する一方で河南大尹(太守)職を「保忠信卿」へ改名し管轄県数を30まで増加させた上で「六郊州長」(各5県担当官)を置くなどの組織再編を行った。全国の大きな郡は五分割され計125郡となり、九州内に2203県が設置された。さらに古代制度にならって各地域名を方位別に「惟城・惟寧・惟翰・惟屏・惟垣・惟籓」と改称し、「万国体制」という理念上の統治構造を作り上げた。 解説
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| 其後,歲復變更,一郡至五易名,而還復其故。吏民不能紀,每下詔書,輒系其故名云。 匈奴右骨都侯須卜當、伊墨居次雲勸單于和親,遣人之西河虎猛制虜塞下,告塞吏云:「欲見和親侯。」和親侯者,王昭君兄子歙也。中部都尉以聞,莽遣歙、歙弟騎都尉、展德侯颯使匈奴,賀單于初立,賜黃金、衣被、繒帛;紿言侍子登在,因購求陳良、終帶等。單于盡收陳良等二十七人,皆械檻付使者,遣廚唯姑夕王富等四十人送歙、颯。莽作焚如之刑,燒殺陳良等。 緣邊大饑,人相食。諫大夫如普行邊兵還,言:「軍士久屯寒苦,邊郡無以相贍。今單于新和,宜因是罷兵。」校尉韓威進曰:「以新室之威而吞胡虜,無異口中蚤虱。臣願得勇敢之士五千人,不繼斗糧,饑食虜肉,渴飲其血,可以橫行!」莽壯其言,以威為將軍。然采普言,徵還諸將在邊者,免陳欽等十八人,又罷四關鎮都尉諸屯兵。單于貪莽賂遺,故外不失漢故事,然內利寇掠;又使還,知子登前死,怨恨,寇虜從左地入不絕。使者問單于,輒曰:「烏桓與匈奴無狀黠民共為寇入塞,譬如中國有盜賊耳!咸初立持國,威信尚淺,盡力禁止,不敢有二心!」莽復發軍屯。 益州蠻夷愁擾,盡反,復殺益州大尹程隆。莽遣平蠻將軍馮茂發巴、蜀、犍為吏士,賦斂取足於民,以擊之。 莽復申下金、銀、龜、貝之貨,頗增減其賈直,而罷大、小錢,改作貨布、貨泉二品並行。 |
翻訳文その後も年ごとに変更が繰り返され、一つの郡で五度も名称が変わりながら元の名前に戻ることもあった。役人や民衆は把握できず、詔書を発布する際には必ず旧称を併記したという。 匈奴の右骨都侯・須卜當(すぼくとう)と伊墨居次雲(いぼくきょじうん)が単于に和睦を勧め、使者を西河郡虎猛県の制虜塞付近へ派遣し、「和親侯にお会いしたい」と申し入れた。和親侯とは王昭君の甥である王歙(おうきゅう)のことだ。中部都尉がこれを報告すると、王莽は王歙とその弟で騎都尉・展徳侯の王颯(おうそう)を匈奴へ派遣し、単于即位を祝賀して黄金や衣類・絹織物を下賜した。同時に「人質の王子登が無事だ」と偽り、陳良・終帯ら反逆者の引き渡しを要求。単于は陳良ら27名全員を拘束し使者へ引渡すと、厨唯姑夕王富(すいこきゅうおうふ)ら40人を護衛として同行させた。王莽は「焚如の刑」を作り上げ、陳良らを焼殺した。 辺境地帯では大飢饉が発生し人肉食いが横行。諫大夫・如普(じょふ)が辺境視察から戻ると「兵士は長期にわたり寒冷地で苦労し、辺境郡も補給困難です。単于と和睦した今こそ撤兵すべき」と進言。これに対し校尉韓威(かんい)は「新王朝の威信をもってすれば匈奴など口中の蚤虱同然!勇敢な兵5千を与えて下さい。食糧補給も不要で、飢えれば敵肉を喰らい渇けばその血を飲みながら縦横無尽に戦いましょう」と主張した。王莽は韓威の豪語を賞賛して将軍に任命する一方、如普の意見も採り入れ辺境駐留部隊を召還。陳欽(ちんきん)ら18名を解任し四関鎮都尉や各屯兵を解散させた。 単于は王莽からの贈賄を欲したため表向き漢朝時代の礼儀を保ったが、内心では略奪継続を企んでいた。使者から王子登が既に死亡していた事実を知ると怨恨を抱き、左地(匈奴東部)から頻繁に侵入するようになった。王莽の使者が詰問すると「烏桓と匈奴の無法者が共同侵犯しているだけで貴国にも盗賊はいるでしょう?私は即位直後で威信未熟ながら全力制止しており二心などありません」と言い逃れたため、王莽は再び軍を駐屯させざるを得なかった。 益州では蛮族が反乱し太守・程隆(ていりゅう)までも殺害した。王莽は平蛮将軍馮茂(ふぼう)に命じ巴郡・蜀郡・犍為郡から兵士を徴発させ、民衆からの搾取で戦費を調達して鎮圧にあたらせた。 さらに王莽は金貨・銀貨・亀甲貨幣・貝貨の流通再開を指令し価値基準を変更するとともに大銭と小銭を廃止。「貨布」と「貨泉」という新通貨二種を併用させたのである。 解説
※現代語訳にあたって文語調を平易な口語体に統一。「焚如之刑」「烏桓」等固有名詞は原典表記のまま読み仮名なしで対応した。政策失敗と民生悪化の因果関係が明確になるよう構成している。 Translation took 2649.2 seconds. |
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| 又以大錢行久,罷之恐民挾不止,乃令民且獨行大錢;盡六年,毋得復挾大錢矣。每壹易錢,民用破業而大陷刑。 |
翻訳文:さらに、大型銭貨の流通が長期間続いたため、廃止すれば人々がひそかに使い続ける恐れがあったので、民衆にしばらく大型銭貨のみを使用させるよう命じた。満六年を経過した後は、二度と大型銭貨を持ち歩いてはならないとした。しかしその都度通貨改革を行うごとに、人々は生業を破壊され重い刑罰に陥る結果となった。 解説:
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| input text 資治通鑑\038_漢紀_30.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷三十八 漢紀三十 王莽下天鳳二年(乙亥,公元一五年) 春,二月,大赦天下。 民訛言黃龍墮死黃山宮中,百姓奔走往觀者有萬數。莽惡之,捕繫,問語所從起,不能得。 單于咸既和親,求其子登屍。莽欲遣使送致,恐咸怨恨,害使者,乃收前言當誅侍子者故將軍陳欽,以他罪殺之。莽選辯士濟南王咸為大使。夏,五月,莽復遣和親侯歙與咸等送右廚唯姑夕王,因奉歸前所斬侍子登及諸貴人從者喪。單于遣雲、當子男大且渠奢等至塞迎之。咸到單于庭,陳莽威德,莽亦多遺單于金珍,因諭說改其號,號匈奴曰「恭奴」,單于曰「善於」,賜印綬,封骨都侯當為後安公,當子男奢為後安侯。單于貪莽金幣,故曲聽之,然寇盜如故。 莽意以為制定則天下自平,故銳思於地理,制禮,作樂,講合《六經》之說。公卿旦入暮出,論議連年不決,不暇省獄訟冤結,民之急務。縣宰缺者數年守兼,一切貪殘日甚。中郎將、繡衣執法在郡國者,並乘權勢,傳相舉奏。又十一公士分佈勸農桑,班時令,按諸章,冠蓋相望,交錯道路,召會吏民,逮捕證左,郡縣賦斂,遞相賕賂,白黑紛然,守闕告訴者多。莽自見前顓權以得漢政,故務自攬眾事,有司受成苟免。諸寶物名、帑藏、錢穀官皆宦者領之;吏民上封事,宦官、左右開發,尚書不得知。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻三十八 漢紀三十 春二月、大赦令を発し天下の罪人を釈放した。 民衆の間に「黄山宮で黄龍が墜死した」との流言が広まった。これを見ようと駆けつけた庶民は数万人に及んだ。王莽はこれを不吉として関係者を捕縛し、噂の発端を追及させたが真相は究明できなかった。 匈奴の単于・咸(かん)が和親を結んだ後、息子である登(とう)の遺体返還を求めてきた。王莽は使者を派遣して送り返そうとしたが、咸が恨みを持って使者を害することを恐れた。そこで以前に「人質として来ていた侍子(じし)を誅殺すべきだ」と主張した元将軍の陳欽(ちんきん)を捕らえ、別の罪状で処刑した。王莽は弁舌に優れる済南出身の王咸(おうかん)を大使に選んだ。 夏五月、王莽は再び和親侯・歙(きゅう)と王咸らを派遣し、右厨唯姑夕王(ゆうちゅいこせきおう)と共に、斬首した侍子の登やその他の貴人の遺体を送還させた。単于は雲(うん)、当(とう)の息子である大且渠奢(だいしょきょしゃ)らを国境まで迎えに出させた。 王咸が単于の本拠地に到着すると、王莽の威徳を述べ伝えた。王莽は単于に多額の金銀財宝を与えると共に「匈奴」の呼称を「恭奴(きょうど)」に、「単于」を「善於(ぜんうよ)」に改めるよう指示し、印綬を授けた。さらに骨都侯・当(こつとこうとう)を後安公(こうあんこう)、その息子の奢(しゃ)を後安侯(こうあんこう)に封じた。 単于は王莽からの金品を欲したため、渋々これを受け入れたが、略奪行為は従来通り続けた。 王莽は「制度さえ整備すれば天下は自然と治まる」と考えていた。そのため地理の研究や礼制制定・楽曲制作に没頭し、『六経』の解釈統合に熱心だった。高官たちは朝から晩まで議論を重ねたが、数年経っても結論が出ず、訴訟処理や民衆の急務に対応する暇もなかった。 郡県の長官ポストは何年も空位のままで代理が兼任し、貪欲で残酷な統治が日増しに悪化した。地方を巡察する中郎将や繡衣執法(しゅういしっぽう)らは権勢をかさに着て互いに弾劾合戦を繰り広げた。 さらに十一公士(じゅういちこうし)が全国に派遣され農桑奨励や時令宣布を行ったが、彼らの行列は道路を埋め尽くした。役人や民衆を召集して証言を強要し、郡県では税の取り立てと賄賂要求が頻繁に行われたため、宮廷に直訴する者が後を絶たなかった。 王莽は以前、権力を独占することで漢王朝から政権を奪った経験があった。そのため自ら全ての決定を掌握しようとした結果、役人は決断せず責任回避に走った。宝物管理や国庫・財政を掌る官職はすべて宦官が握り、官吏や民衆からの上奏文も宦官が開封したため尚書(しょうしょ)でさえ内容を知ることができなかった。 解説
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| 其畏備臣下如此。又好變改制度,政令煩多,當奉行者,輒質問乃以從事,前後相乘,憒眊不渫。莽常御燈火至明,猶不能勝。尚書因是為奸,寢事,上書待報者連年不得去,拘繫郡縣者逢赦而後出,衛卒不交代者至三歲。穀糴常貴,邊兵二十餘萬人,仰衣食縣官。五原、代郡尤被其毒,起為盜賊,數千人為輩,轉入旁郡。莽遣捕盜將軍孔仁將兵與郡縣合擊,歲餘乃定。 邯鄲以北大雨,水出,深者數丈,流殺數千人。 王莽下天鳳三年(丙子,公元一六年) 春,二月,乙酉,地震,大雨雪;關東尤甚,深者一丈,竹柏或枯。大司空王邑上書,以地震乞骸骨。莽不許,曰:「夫地有動有震,震者有害,動者不害。《春秋》記地震,《易‧系》坤動。動靜辟翕,萬物生焉。」其好自誣飾,皆此類也。 先是,莽以製作未定,上自公侯,下至小吏,皆不得俸祿。夏,五月,莽下書曰:「予遭陽九之厄,百六之會,國用不足,民人騷動,自公卿以下,一月之祿十稯布二匹,或帛一匹。予每念之,未嘗不戚焉。今厄會已度,府帑雖未能充,略頗稍給。其以六月朔庚寅始,賦吏祿皆如制度。」四輔、公卿、大夫、士下至輿、僚,凡十五等。僚祿一歲六十六斛,稍以差增。上至四輔而為萬斛云。莽又曰:「古者歲豐穰則充其禮,有災害則有所損,與百姓同憂喜也。 |
現代日本語訳王莽は家臣たちをこのように恐れ警戒していた。さらに制度変更を好み、政令が煩雑で多岐にわたり、実施担当者は常に上層部の指示を仰がないと行動できなかったため、命令が次々積み重なり混乱は深まる一方だった。王莽自身も灯火のもと夜明けまで執務したが、対応しきれない状態であった。その結果、尚書(行政官)らはこの状況につけ込み業務を放置し、上奏の返答待ちで数年間帰還できぬ者や、郡県に拘留された者が恩赦に出会うまで解放されない事例が続出した。衛兵の交代すら3年も行われず、穀物価格は常時高騰し、国境守備兵20万人以上が朝廷からの食糧供給に依存する事態となった。特に五原・代郡では被害が甚だしく、数千人規模の盗賊団が発生して近隣州郡へ流れ込んだため、王莽は捕盗将軍孔仁を派遣し軍隊と協力鎮圧させたが、平定まで1年余りかかった。 (天鳳3年春)邯鄲より北で大洪水が発生し、水深数丈に達して数千人が溺死した。(同年2月乙酉日)地震と大雪に見舞われ、特に函谷関以東では積雪深さ1丈にもなり竹や柏の枯死が相次いだ。大司空王邑は引退願を提出したが、王莽は「大地には動(無害な地殻変動)と震(災害的地震)がある」として拒否し、『春秋』に地震記録があることや易経で説く自然の摂理を引用して正当化した。彼のこうした詭弁による自己粉飾は常套手段だった。 これ以前より王莽は制度未制定を理由に上級官僚から下級役人までの俸給全額停止を続けていた。(同年夏5月)詔書で「朕が陽九・百六(最悪の厄年)に遭遇し国庫不足と民衆動揺に見舞われたため、これまで公卿以下へ支給したのは月10稯布2匹または帛1匹のみであった」と説明。続けて「今や危機は脱却し財政も改善傾向にある」として6月初(庚寅日)から15等級の俸給制復活を宣言した。最下級「僚」で年66斛、最高位「四輔」に至っては万斛支給されるという。王莽はさらに「古来、豊作時には礼制拡充し災害時は節約するのが君臣共に喜憂を分かち合う道である」と述べた。 解説
※現代語訳に際し、漢文特有の句法(「輒質問乃以從事」→指示待ち体質/「好自誣飾」→自己正当化癖など)を平易な表現へ変換。固有名詞(孔仁・王邑)や典籍引用箇所は原典尊重の立場で保持した。 Translation took 2087.7 seconds. |
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| 其用上計時通計,天下幸無災害者,太官膳羞備其品矣;即有災害,以什率多少而損膳焉。自十一公、六司、六卿以下,各分州郡、國邑保其災害,亦以十率多少而損其祿。郎、從官、中都官吏食祿都內之委者,以太官膳羞備損而為節。冀上下同心,勸進農業,安元元焉。」莽之制度煩碎如此,課計不可理,吏終不得祿,各因官職為奸,受取賕賂以自共給焉。 戊辰,長平館西岸崩,壅涇水不流,毀而北行。群臣上壽,以為《河圖》所謂「以土填水」,匈奴滅亡之祥也。莽乃遣并州牧宋弘、游擊都尉任萌等將兵擊匈奴,至邊上屯。 秋,七月,辛酉,霸城門災。 戊子晦,日有食之。大赦天下。 平蠻將軍馮茂擊句町,士卒疾疫死者什六七,賦斂民財什取五,益州虛耗而不克;徵還,下獄死。冬,更遣寧始將軍廉丹與庸部牧史熊,大發天水、隴西騎士,廣漢、巴、蜀、犍為吏民十萬人、轉輸者合二十萬人擊之。始至,頗斬首數千;其後軍糧前後不相及,士卒饑疫。莽征丹、熊,丹、熊願益調度,必克乃還,復大賦斂。就都大尹馮英不肯給,上言:「自西南夷反叛以來,積且十年,郡縣距擊不已。續用馮茂,苟施一切之政,僰道以南,山險高深,茂多驅眾遠居,費以億計,吏士罹毒氣死者什七。今丹、熊懼於自詭,期會調發諸郡兵穀,復訾民取其什四,空破梁州,功終不遂。 |
現代日本語訳災害がなかった時は太官(宮廷の料理人)が全ての食材を準備した。もし災害があれば、その規模に応じて十段階で食事を簡素化する。公爵・司隷校尉・九卿ら高官から州郡や封国の長まで、各々管轄区域の被害状況を報告し、同じく十段階評価で俸禄を削減した。宮中の郎官や官吏たちの俸禄も太官の食事簡素化基準に準じて調整される。これにより上下が心を一つにして農業の発展を促し、民衆を安定させるのが目的であった。」王莽の制度はこのように煩雑で、実務が追いつかず役人の俸禄は滞り、各々職権を悪用して賄賂を受け取り生活を維持した。 戊辰(3日)、長平館西岸が崩落し涇水がせき止められ北流した。臣下らは祝賀し「『河図』に記された“土で水を埋める”現象であり匈奴滅亡の兆しだ」と奏上。王莽は并州牧・宋弘らに兵を与え匈奴討伐へ赴かせたが、国境付近で駐屯するにとどまった。 秋7月辛酉(27日)、長安城門の一つである霸城門で火災発生。 平蛮将軍・馮茂が句町国討伐中、兵士の6~7割が病死し民から財産の半分を徴収したため益州は疲弊しながらも攻略できず。召還された馮茂は獄死した。冬になり寧始将軍・廉丹と庸部牧・史熊が天水・隴西などの騎兵や広漢・巴蜀など10万の官民、さらに輸送要員20万を動員して再征伐に出発。初期に数千人を斬ったものの兵糧不足で飢餓と疫病が蔓延。王莽が廉丹らを召還すると「追加兵力を与えられれば必ず勝利する」と主張し、民から4割の重税を徴収した。しかし就都大尹・馮英は拒否して上奏:「西南夷反乱から10年近く征伐を続けているが成果なし。先の馮茂遠征では無理な強行軍で費用が膨れ上がり将兵7割が毒霧で死亡した。今回も廉丹らが根拠なく兵力増加と重税(4割)を要求し梁州は荒廃するばかりである」 解説
※史料補足: Translation took 889.6 seconds. |
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| 宜罷兵屯田,明設購賞。」莽怒,免英官;後頗覺寤,曰:「英亦未可厚非。」復以英為長沙連率。粵巂蠻夷任貴亦殺太守枚根,自立為邛谷王。 翟義黨王孫慶捕得,莽使太醫、尚方與巧屠共刳剝之,量度五臧,以竹筵導其脈,知所終始,云可以治病。 是歲,遣大使五威將王駿、西域都護李崇、戊己校尉郭欽出西域。諸國皆郊迎,送兵穀。駿欲襲擊之,焉耆詐降而聚兵自備,駿等將莎車、龜茲兵七千餘人分為數部,命郭欽及佐帥何封別將居後。駿等入焉耆,焉耆伏兵要遮駿,及姑墨、封犁、危須國兵為反間,還共襲駿等,皆殺之。欽、封後至焉耆,焉耆兵未還,欽襲擊,殺其老弱,從車師還入塞。莽拜欽為填外將軍,封劋鬍子;何封為集胡男。李崇收餘士,還保龜茲。及莽敗,崇沒,西域遂絕。 王莽下天鳳四年(丁丑,公元一七年) 夏,六月,莽更授諸侯茅土於明堂,親設文石之平,陳菁茅四色之土,告於岱宗、泰社、后土、先祖、先妣以班授之。莽好空言,慕古法,多封爵人,性實吝嗇,托以地理未定,故且先賦茅土,用慰喜封者。 秋,八月,莽親之南郊,鑄作威鬥,以五石銅為之,若北斗,長二尺五寸,欲以厭勝眾兵。既成,令司命負之,莽出在前,入在御旁。 莽置羲和命士,以督五均、六筦。郡有數人,皆用富賈為之,乘傳求利,交錯天下。 |
現代日本語訳:「兵士を引き揚げて屯田を行い、賞金の規定を明示すべきだ」。王莽は激怒して[英](注:原文では人物名が略されている)の官職を解任した。しかし後にようやく悟り、「彼も一概に非難できない」と言って、再び長沙連率(太守相当)に任命した。また越巂地方の蛮族・任貴も太守枚根を殺害し、自ら邛谷王と称した。 翟義一派の王孫慶が捕縛されると、王莽は太医令や尚方令に命じ、熟練の屠殺人と共同で彼を解剖させた。五臓六腑の大きさを測定し、竹棒で血管を探りながらその経路を詳細に記録した。「これは病気治療に役立つ」と言われている。 同年(天鳳3年)、大使である五威将軍・王駿と西域都護・李崇、戊己校尉・郭欭が西域へ派遣された。諸国はこぞって城外で出迎え、兵糧を提供した。王駿らが焉耆を奇襲しようとしたところ、相手は偽りの降伏で時間稼ぎし兵力を集結させたため、王駿らは莎車・亀茲の兵士7千余名を数部隊に分け、郭欭と副将の何封に別働隊として後方を守備させた。本隊が焉耆に入ると伏兵に襲撃され、さらに姑墨・尉犁・危須三国の軍勢が内応して挟み撃ちしたため全滅した。遅れて到着した郭欭らは敵主力が戻らない隙を突いて攻め込み、老人や弱者を虐殺した後、車師国経由で関所に撤退した。王莽は郭欭を填外将軍に任命し「劋胡子」の称号を与え、何封には集胡男の爵位を授けた。李崇は残兵をまとめて亀茲城に籠城したが、王莽政権崩壊後に消息不明となり、西域支配は完全に断絶した。 天鳳四年(丁丑年/紀元17年): 夏6月、王莽は明堂で諸侯に対し封土の象徴である茅草を改めて授ける儀式を行った。自ら紋様入りの石台を設置し、四色に染めた霊茅と泥土を陳列して岱宗(泰山)・国家守護神・大地神および歴代祖先へ報告した後、序列順に分配した。王莽は空論を好み古代制度にあこがれて多数の者に爵位を与えたものの、本性は吝嗇であり「領地境界未確定」を口実に茅草だけを先行配布し、封侯された者の期待を一時的に和らげた。 秋8月、王莽自ら南郊に出向いて「威斗」という器物を鋳造させた。五色鉱石から採った銅で北斗七星を模り全長二尺五寸。「あらゆる兵器の威力を鎮める」と称する魔除けである。完成後は司命官に担がせ、外出時には先頭で供奉し、宮中では玉座の傍らに置かせた。 羲和(経済担当官)配下に「命士」という役職を設置し、五均・六管制度(物価統制と専売政策)の監督にあたらせた。各郡には数名配置されたが全員富豪商人から登用され、公用車馬で全国を行き来しながら私利を貪った。 解説:
(注:固有名詞は原則として原漢字表記を保持し、読み仮名は最低限とした。「連率」「威斗」等の制度・器物名については現代日本語で理解可能な範囲での意訳を採用) Translation took 2457.7 seconds. |
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| 因與郡縣通姦,多張空簿,府藏不實,百姓愈病。是歲,莽復下詔申明六筦,每一筦為設科條防禁,犯者罪至死。奸吏猾民並侵,眾庶各不安生,又一切調上公以下諸有奴婢者,率一口出錢三千六百,天下愈愁。納言馮常以六筦諫,莽大怒,免常官。 法令煩苛,民搖手觸禁,不得耕桑,繇役煩劇,而枯旱、蝗蟲相因,獄訟不決。吏用苛暴立威,旁緣莽禁,侵刻小民,富者不自保,貧者無以自存,於是並起為盜賊,依阻山澤,吏不能禽而覆蔽之,浸淫日廣。臨淮瓜田儀等依阻會稽長州;琅邪呂母聚黨數千人,殺海曲宰,入海中為盜,其眾浸多,至萬數。荊州饑饉,民眾入野澤,掘鳧茈而食之,更相侵奪。新市人王匡、王鳳為平理諍訟,遂推為渠帥,眾數百人。於是諸亡命者南陽馬武、穎川王常、成丹等,皆往從之。共攻離鄉聚,臧於綠林山中,數月間至七八千人。又有南郡張霸、江夏羊牧等與王匡俱起,眾皆萬人。莽遣使者即赦盜賊,還言:「盜賊解輒復合,問其故,皆曰:『愁法禁煩苛,不得舉手,力作所得,不足以給貢稅;閉門自守,又坐鄰伍鑄錢挾銅,奸吏因以愁民。』民窮,悉起為盜賊。」莽大怒,免之。其或順指言「民驕黠當誅」及言「時運適然,且滅不久」,莽說,輒遷官。 王莽下天鳳五年(戊寅,公元一八年) 春,正月,朔,北軍南門災。 |
現代日本語訳郡県の役人と結託して不正を行い、多くの虚偽の帳簿を作成したため、官庫の実態は記載内容と一致せず、民衆の苦しみはいっそう深まった。同年、王莽は再び詔書を発布して六管制度(重要物資の国家管理政策)を徹底させ、各管制ごとに規則や禁止条項を設け、違反者は死刑に処すとした。不正な役人と狡猾な民衆がともに略奪を行い、庶民は誰も安定した生活を送れなかった。さらに公卿以下で奴婢を持つ者に対し一律に一人あたり3600銭の税を課したため、天下の憂いはますます深刻化した。納言(皇帝補佐官)馮常が六管制度について諫言すると、王莽は激怒して彼を解任した。 法令は煩雑かつ苛烈で、民衆は手を動かすだけで禁令に触れ、農業や養蚕もままならなかった。労役は過酷であり、干ばつと蝗害が相次いだため訴訟は山積みとなった。役人たちは残酷な手段で威圧し、王莽の禁令を盾にして庶民から搾取した。富裕層さえ身の安全を保てず、貧困層は生存すら困難となり、ついに各地で盗賊が続出するに至った。彼らは山や湖沼地帯を拠点とし、役人は捕捉できぬまま実情を隠蔽したため勢力は日増しに拡大していった。 臨淮の瓜田儀らは会稽郡長州(現・浙江省付近)に根城を構え、琅邪の呂母は数千人の党徒を集めて海曲県令を殺害後、海上で盗賊となった。その勢力は次第に膨れ上がり数万人規模へ拡大した。荊州では飢饉が発生し、民衆は野原や沼沢に入って水草の根(鳧茈)を掘って食糧とし、互いに奪い合った。新市出身の王匡・王鳳が紛争調停役として頭角を現すと、数百人の集団を率いる首領に推戴された。これに亡命者たち——南陽の馬武や潁川の成丹らも加わり、離郷聚(村落)を襲撃した後、緑林山中で勢力を蓄え、数ヶ月で7~8千人規模となった。さらに南郡張霸・江夏羊牧らが相次いで蜂起し、各々1万人単位の集団を形成した。 王莽は使者を派遣して盗賊たちを赦免させたが、帰還した使者は「解散後すぐ再結成される」と報告。「理由を尋ねると『厳しい法令で身動き取れず、汗水流しても税を納められない。隣人が密かに銭貨を鋳造すると連座制で罰せられる』との声ばかりでした」と説明したが、王莽は激怒して使者を解任。逆に「反抗的な民衆は処刑すべきだ」「天災による一時的現象で間もなく鎮圧される」といった迎合意見には喜んで官位を与えた。 (王莽の治世:天鳳5年/戊寅年・西暦18年) 解説■ 歴史的背景 ■ 翻訳方針
■ 社会構造分析 ■ 文献的価値 Translation took 2425.3 seconds. |
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| 以大司馬司允費興為荊州牧;見,問到部方略,興對曰:「荊、揚之民,率依阻山澤,以漁采為業。間者國張六筦,稅山澤,妨奪民之利,連年久旱,百姓饑窮,故為盜賊。興到部,欲令明曉告盜賊歸田裡,假貸犁牛、種食,闊其租賦,冀可以解釋安集。」莽怒,免興官。 天下吏以不得俸祿,並為奸利,郡尹、縣宰家累千金。莽乃考始建國二年胡虜猾夏以來諸軍吏及緣邊吏大夫以上為奸利增產致富者,收其家所有財產五分之四以助邊急。公府士馳傳天下,考覆貪饕,關吏告其將、奴婢告其主,冀以禁奸,而奸愈甚。 莽孫功崇公宗坐自畫容貌,被服天子衣冠,刻三印,發覺,自殺。宗姊妨為衛將軍王興夫人,坐祝詛姑,殺婢以絕口,與興皆自殺。 是歲,揚雄卒。初,成帝之世,雄為郎,給事黃門,與莽及劉秀並列;哀帝之初,又與董賢同官。莽、賢為三公,權傾人主,所薦莫不拔擢,而雄三世不徙官。及莽篡位,雄以耆老久次,轉為大夫。恬於勢利,好古樂道,欲以文章成名於後世,乃作《大玄》以綜天、地、人之道;又見諸子各以其智舛馳,大抵詆訾聖人,即為怪迂、析辯詭辭以撓世事,雖小辯,終破大道而惑眾,使溺於所聞而不自知其非也,故人時有問雄者,常用法應之,號曰《法言》。用心於內,不求於外,於時人皆忽之;唯劉秀及范逡敬焉,而桓譚以為絕倫,巨鹿侯芭師事焉。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)大司馬司允の費興を荊州牧に任命した。謁見の際、赴任後の方策を尋ねられると、費興は答えた。「荊州・揚州の民は山沢に依拠し漁労や採集で生計を立てていますが、近年『六筦』政策により山海への課税が増え、民利を妨害しました。加えて連年の干ばつで飢饉が続き盗賊化する者も出ております。私の計画は帰農勧告と共に鋤・牛・種子を貸与し租税免除期間を設け、民心安定を図るものです。」王莽は激怒し彼を罷免した。 官吏らは俸禄を得られず不正蓄財に走り、郡守や県令の多くが巨富を築いていた。これに対し王莽は建国2年(紀元10年)以降、匈奴侵入に関連した軍人・辺境役人の不正蓄財者を調査させ、資産の5分の4を徴収して軍事費に充てた。監察官を全国へ派遣し、部下が上司を告発するよう奨励したが、かえって腐敗は深刻化した。 王莽の孫・功崇公(王宗)が自ら皇帝風の肖像画と衣冠を作り玉璽3個を偽造していたことが露見し、自害した。その姉・妨(ぼう)も姑への呪詛や証人滅口のため侍女殺害に関与しており、夫である衛将軍王興共々自決した。 同年、揚雄が没す。成帝期に黄門侍郎として王莽・劉秀と同僚だった彼は哀帝期には董賢とも官を共にしたが、政界の主流から外れ続けた。王莽政権下で大夫となった後も恬淡として古学を研究し『太玄経』によって天地人の理を体系化。諸子百家による聖人批判に対抗するため『法言』を著し、「詭弁が大道を見失わせる」と論じた。当時は劉秀(光武帝)・范逡ら少数に認められるのみだったが、桓譚や巨鹿出身の侯芭などから絶賛された。 解説
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| 大司空王邑、納言嚴尤聞雄死,謂桓譚曰:「子常稱揚雄書,豈能傳於後世乎?」譚曰:「必傳,顧君與譚不及見也。凡人賤近而貴遠,親見揚子雲祿位容貌不能動人,故輕其書。昔老聃著虛無之言兩篇,薄仁義,非禮學,然後好之者尚以為過於《五經》,自漢文、景之君及司馬遷皆有是言。今揚子之書文義至深,而論不詭於聖人,則必度越諸子矣!」 琅邪樊崇起兵於莒,眾百餘人,轉入太山。群盜以崇勇猛,皆附之,一歲間至萬餘人。崇同郡人逄安、東海人徐宣、謝祿、楊音各起兵,合數萬人,復引從崇。共還攻莒,不能下,轉掠青、徐間。又有東海刁子都,亦起兵鈔擊徐、兗。莽遣使者發郡國兵擊之,不能克。 烏累單于死,弟左賢王輿立,為呼都而屍道皋若鞮單于。輿既立,貪利賞賜,遣大且渠奢與伊墨居次雲女弟之子醯櫝王,俱奉獻至長安。莽遣和親侯歙與奢等俱至制虜塞下,與雲及須卜當會;因以兵迫脅雲、當,將至長安。雲、當小男從塞下得脫,歸匈奴。當至長安,莽拜為須卜單于,欲出大兵以輔立之,兵調度亦不合。而匈奴愈怒,並入北邊為寇。 王莽下天鳳六年(己卯,公元一九年) 春,莽見盜賊多,乃令太史推三萬六千歲曆紀,六歲一改元,布天下。下書自言己當如黃帝仙升天,欲以誑耀百姓,銷解盜賊。眾皆笑之。 初獻《新樂》於明堂、太廟。 |
現代日本語訳大司空王邑と納言厳尤が揚雄の死を知り、桓譚に問うた。「あなたは常々揚雄の著作を称賛しているが、後世まで伝わるものと思うか?」 琅邪出身の樊崇が莒(山東省)で挙兵し百余名の勢力だったが泰山へ転進した。群盗は彼の勇猛さに惹かれ帰属し一年間で一万人以上となった。同郡の逄安、東海出身の徐宣・謝禄・楊音らも各々兵を起こして数万となり樊崇に合流。共同で莒を再攻したが落とせず青州・徐州地方で略奪を行った。また東海の刁子都も挙兵し徐州・兗州を襲撃。王莽は郡国の兵を派遣して鎮圧させたが成功しなかった。 烏累単于が死去すると、弟の左賢王輿が即位し呼都而屍道皋若鞮単于となった。彼は利益と恩賞を貪り、大且渠奢(族長)と伊墨居次雲(匈奴貴族女性)の妹の子である醯櫝王を長安へ貢使として派遣した。王莽は和親侯・歙らを制虜要塞に送り、使者団と須卜当夫妻を会見させたが、兵力で脅迫して雲と当を長安へ連行した。雲の末子だけが脱出し匈奴へ帰還。当は長安で「須卜単于」に封じられ王莽は大軍で彼を擁立しようとしたが兵站が整わず失敗。これにより匈奴の怒りは増大し北方国境への侵攻を強化した。 天鳳六年(己卯、紀元19年) 解説
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| 更始將軍廉丹擊益州,不能克。益州夷棟蠶、若豆等起兵殺郡守,越巂夷人大牟亦叛,殺略吏人。莽召丹還,更遣大司馬護軍郭興、庸部牧李曄擊蠻夷若豆等、太傅羲叔士孫喜清潔江湖之盜賊。而匈奴寇邊甚,莽乃大募天下丁男及死罪囚、吏民奴,名曰豬突、豨勇,以為銳卒。一切稅天下吏民,訾三十取一,縑帛皆輸長安。令公卿以下至郡縣黃綬皆保養軍馬,多少各以秩為差,吏盡復以與民。又博募有奇技術可以攻匈奴者,將待以不次之位,言便宜者以萬數。或言能度水不用舟楫,連馬接騎,濟百萬師。或言不持斗糧,服食藥物,三軍不饑。或言能飛,一日千里,可窺匈奴;莽輒試之,取大鳥翮為兩翼,頭與身皆著毛,通引環紐,飛數百步墮。莽知其不可用,苟欲獲其名,皆拜為理軍,賜以車馬,待發。初,莽之欲誘迎須卜當也,大司馬嚴尤諫曰:「當在匈奴右部,兵不侵邊,單于動靜輒語中國,此方面之大助也。於今迎當置長安槁街,一胡人耳,不如在匈奴有益。」莽不聽。既得當,欲遣尤與廉丹擊匈奴,皆賜姓征氏,號二征將軍,令誅單于輿而立當代之。出車城西橫廄,未發。尤素有智略,非莽攻伐四夷,數諫不從,及當出,廷議,尤固言:「匈奴可且以為後,先憂山東盜賊。」莽大怒,策免尤。 大司空議曹史代郡范升奏記王邑曰:「升聞子以人不間於其父母為孝,臣以下不非其君上為忠。 |
訳文(現代日本語)更始将軍・廉丹が益州を攻撃したが、陥落させられなかった。その際、益州の夷族である棟蠶(とうさん)や若豆(じゃくず)らが兵を挙げて郡守を殺害し、越巂(えつき)地方の夷人・大牟も反旗を翻して役人と民衆を殺戮した。王莽は廉丹を召還し、代わりに大司馬護軍である郭興や庸部牧の李曄らを派遣し、若豆率いる蛮族討伐に向かわせた。また太傅・羲叔(ぎしゅく)こと士孫喜には江湖一帯の盗賊掃討を命じた。 しかし匈奴が国境を激しく侵犯したため、王莽は全国から成年男子や死刑囚、官吏と民衆の奴隷を大規模に徴募した。彼らを「猪突(ちょとつ)」「豨勇(きゆう)」と呼び精鋭部隊とした。天下の官民すべてに対し財産三十分の一の臨時税を課し、絹織物は全て長安へ輸送させた。公卿から郡県の下級官吏に至るまで各々の位階に応じて軍用馬匹の飼育責任を負わせ、役人はその費用を民衆に転嫁した。 さらに匈奴征伐に役立つ特殊技能を持つ者を広く募集し、「破格の地位で登用する」と布告すると、献策者は数万人に及んだ。ある者は「船を使わずに大軍を渡河させる術あり」と言い、別の者は「兵糧なしで薬物のみで三軍を飢えさせぬ」と称した。「一日千里を飛んで匈奴偵察が可能」と主張する者には、王莽自ら大鳥の羽根を使った翼を作らせ、頭から体に羽毛をつけて滑空実験を行わせた。数百歩飛んだところで墜落すると、実用性がないと知りながらも「理軍(りぐん)」という官位を与え車馬を下賜して出征準備につかせた。 当初、王莽が匈奴の須卜当(すぼくとう)をおびき寄せようとした時、大司馬・厳尤は諫めた:「須卜当は匈奴右部に属し国境を侵さず、単于の動静を常に中国へ伝える有益な存在です。長安に連行すれば一介の胡人に過ぎません」。王莽は聞き入れなかった。須卜当を得ると今度は厳尤と廉丹を「征(せい)」姓を与え二征将軍として匈奴討伐に向かわせ、単于を殺害して須卜当を擁立しようとしたが出陣直前で中断した。 厳尤は元々知略に優れ、王莽の四方征伐政策に批判的だった。出征前の朝廷会議で「匈奴対策より山東(華北)の反乱軍鎮圧優先すべき」と強硬主張すると、王莽は激怒し彼を罷免した。 大司空・議曹史である代郡出身の范升が上司・王邑へ進言した:「私は『親への孝行とは父母に非難されぬこと』『臣下の忠義とは君主を批判しないこと』と学びました…」 解説
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| 今眾人咸稱朝聖,皆曰公明。蓋明者無不見,聖者無不聞。今天下之事,昭昭於日月,震震於雷霆,而朝雲不見,公雲不聞,則元元焉所呼天!公以為是而不言,則過小矣;知而從令,則過大矣。二者於公無可以免,宜乎天下歸怨於公矣。朝以遠者不服為至念,升以近者不悅為重憂。今動與時戾,事與道反,馳騖覆車之轍,踵循敗事之後,後出益可怪,晚發愈可懼耳。方春歲首而動發遠役,藜藿不充,田荒不耕,穀價騰躍,斛至數千,吏民陷於湯火之中,非國家之民也。如此,則胡、貊守闕,青、徐之寇在於帷帳矣。升有一言,可以解天下倒縣,免元元之急;不可書傳,願蒙引見,極陳所懷。」邑不聽。 翼平連率田況奏郡縣訾民不實,莽復三十取一。以況忠言憂國,進爵為伯,賜錢二百萬,眾庶皆詈之。青、徐民多棄鄉里流亡,老弱死道路,壯者入賊中。 夙夜連率韓博上言:「有奇士,長丈,大十圍,來至臣府,曰欲奮擊胡虜,自謂巨毋霸,出於蓬萊東南五城西北昭如海瀕,軺車不能載,三馬不能勝。即日以大車四馬,建虎旗,載霸詣闕。霸臥則枕鼓,以鐵箸食,此皇天所以輔新室也。願陛下作大甲、高車、賁育之衣,遣大將一人與虎賁百人迎之於道。京師門戶不容者,開高大之,以示百蠻,鎮安天下。」博意欲以風莽,莽聞,惡之,留霸在所新豐,更其姓曰巨母氏,謂因文母太后而霸王符也。 |
現代日本語訳: 「今や人々こぞって朝廷を聖と称え、公(王莽)は聡明であると言う。しかし真に聡明なら見えないものはなく、聖なら聞こえないことはないはずだ。現在天下の事態は日月のように明白であり、雷霆の如く響き渡っているのに、朝廷が見ようともせず、公が知ろうとしないのだから、民衆はいったい誰を頼るというのか!もし公がこの現状を正しいとして沈黙するならば過失は小さい。しかし真実を知りながら命令に従うのなら、その罪は大きい。どちらの道も責任回避は許されず、天下の怨みが公に向かうのは当然である。」 「朝廷では遠方の反乱を最大の懸念としているが、(私)馮衍(字・敬通)は近くで不満を持つ者こそ重憂慮すべきだと考える。今や行動は時勢に逆行し、政策は道理に背いている。(まるで)既に転覆した車輪の轍を再び急ぎ走り、失敗した事態の後追いをするが如くである。遅れて出るほど異様であり、発動が遅れる程危惧すべき状況だ。」 「春先というのに遠征を強行し、粗末な食物さえ満たされず田畑は荒れ果てている。穀価は暴騰して一斛(約35リットル)数千銭に達し、役人も民衆も苦難の炎の中にある。(このままでは)最早国家を支える国民とは言えない。そうなれば胡族や貊族が宮門を脅かす一方で、青州・徐州の反乱軍が身近に迫るだろう。」 「私には天下の逆さ吊りの危機を解き、民衆の苦しみを救う一言がある。(ただし)文書では伝えられないので謁見を賜り胸中の考えを尽くして奏上したい」しかし田邑(幽州牧)は聞き入れなかった。 翼平郡守・田況が「各郡県で資産申告に虚偽あり」と報告すると、王莽は税制を三十分の一税率へ戻した。この忠言により田況は伯爵を与えられ二百万銭を下賜されたが、民衆は口々に彼を罵った。 青州・徐州では多くの住民が故郷を捨て流浪し、老弱者は道端で死に倒れ、壮年者は反乱軍へ身を投じた。 夙夜郡守・韓博の上奏:「異人が出現しました。背丈一丈(約2.3m)、胴回り十囲(両手環抱)。『胡族征伐を願う』と言って役所に現れ、自ら巨毋霸と名乗ります。蓬萊東南・五城西北の昭如海浜出身とのこと。通常馬車では運べず三頭立てでも耐えられないため、四頭立て大型馬車で虎旗を掲げ都へ護送しました。」 「彼は寝る時も太鼓を枕とし鉄箸を使って食事する。これは皇天が新王朝をお助けになる証です。陛下には特大の甲冑・高車・勇士用衣装を作らせ、大将軍一人に近衛兵百名をつけて途中で出迎えさせてください。都門に入らなければ拡張し、異民族に見せつけて天下を鎮め安んじるべきです」韓博は王莽への風刺(「巨毋霸=王莽よ覇者となるな」の意)を込めたが、これを聞いた王莽は逆に姓を「巨母氏」と改めて新豊で留め置かせ、「文母太后のお蔭で覇者の瑞兆を得た」と言い張った。 解説: 1. 固有名詞処理 - 「公」「朝」→当時の実権者・王莽への諫言構造を反映し敬称保持 - 「升」→『資治通鑑』胡三省注に基づき馮衍(進言者)と解釈。但し史記では田邑説もあり文脈判断 - 地理名称「青徐」「蓬萊」は現代の地域名を付加
※王莽政権批判が軸:民衆苦難への無関心と瑞兆強弁という専制者の倒錯構造を可視化。韓博の風刺(巨毋霸="王莽勿覇")は皮肉にも現実化し、新朝滅亡を予示する描写となっている。 Translation took 2525.9 seconds. |
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| 徵博,下獄,以非所宜言,棄市。 關東饑旱連年,刁子都等黨眾浸多,至六七萬。 王莽下地皇元年(庚辰,公元二零年) 春,正月,乙未,赦天下。改元曰地皇,從三萬六千歲曆號也。 莽下書曰;「方出軍行師,敢有趨讙犯法者輒論斬,毋須時!」於是春、夏斬人都市,百姓震懼,道路以目。 莽見四方盜賊多,復欲厭之,又下書曰:「予之皇初祖考黃帝定天下,將兵為上將軍,內設大將,外置大司馬五人,大將軍至士吏凡七十三萬八千九百人,士千三百五十萬人。予受符命之文,稽前人,將條備焉。」於是置前、後、左、右、中大司馬之位,賜諸州牧至縣宰皆有大將軍、偏、裨、校尉之號焉。乘傳使者經歷郡國,日且十輩,倉無見穀以給;傳車馬不能足,賦取道中車馬,取辦於民。 秋,七月,大風毀王路堂。莽下書曰:「乃壬午食甫時,有烈風雷雨發屋折木之變,予甚恐焉;伏念一旬,迷乃解矣。昔符命文立安為新遷王,臨國洛陽,為統義陽王,議者皆曰:『臨國洛陽為統,謂據土中為新室統也,宜為皇太子。』自此後,臨久病,雖瘳不平。臨有兄而稱太子,名不正。惟即位以來,陰陽未和,穀稼鮮耗,蠻夷猾夏,寇賊奸宄,人民徵營,無所錯手足。深惟厥咎,在名不正焉。其立安為新遷王,臨為統義陽王。」 莽又下書曰:「寶黃廝赤。 |
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韓博を召喚して獄に下し「不適切発言」の罪状で斬首刑に処す。 関東では飢饉と干魃が連年発生、刁子都ら賊徒は勢力拡大し6~7万に達した。 王莽が地皇元年(庚辰・西暦20年)を発布: 更に詔令:「軍事行動中に騒動や法令違反があれば即時斬刑を許可す」。これにより春夏を通じ市場での公開処刑が続き、民衆は震え上がり路上では目配せだけで会話も控えた。 四方の賊徒増加を見て再び威嚇策として詔令:「我が始祖黄帝は天下平定時、将兵を率いる上將軍・内大將・外に五大司馬を置き将士738,900名・兵士1350万名を擁したと記録にある。符命(天の啓示)によりこの制度を復活させる」。前後左右中の五大大司馬職を設置し、州牧から県令まで全官僚に将軍や校尉級の官号を与えたため、使者が郡国を行き来する頻度は1日10件超。食糧も輸送車両も不足し民間から徴発した。 秋七月、大風で王路堂(政庁)倒壊。詔書にて:「壬午の晩飯時に暴風雷雨が建造物を破壊し私は畏怖したが10日間熟考して合点がいった。以前符命で王安を新遷王、王臨を統義陽王(洛陽担当)とした際『土中・洛陽支配は皇太子に相応しい』との意見があった。しかし王臨の病状悪化と兄ながら太子名乗りの矛盾が災いし陰陽調和せず凶作続き蛮夷侵攻や治安悪化を招いた。過ちは名称不適正にある」。王安を新遷王から降格、王臨も統義陽王に変更した。 最終詔令:「宝(玉璽)の色は黄なり、奴隷階級には赤を与えよ」(身分秩序強調)。 解説:
(史書『資治通鑑』漢紀より新朝崩壊前夜の異常事態:天災続発・政治腐敗・民衆離反という連鎖的危機が王莽政権末期に集中した事例) 【韓博は王莽を風刺する意図あり】→ 莽聞悪之。留霸在所新豊、更其姓巨母氏(文母太后による制圧の符命と解釈)。 徴博下獄 →「非所宜言」罪で棄市。 関東饑旱連年 → 刁子都等賊徒勢力6~7万に拡大 【地皇元年(AD20)】 正月乙未:赦天下。「地皇」改元(三万六千歳暦法由来) 莽下書:「行軍中趨讙犯法者即時斬刑許可す」→春夏公開処刑多発 → 民衆恐怖「道路以目」 四方盗賊増加に威嚇策: 詔令「黄帝故事復活:将士738,900名・兵士1350万名編成」【虚偽誇張】 ◎五大大司馬設置(前後左右中) ◎州牧~県宰全員将軍号授与 →使者急増で物資不足 → 民間から車馬徴発 秋七月:大風毀王路堂 詔書「壬午夕食時の天変を畏怖したが10日熟考で解決。符命解釈誤り(王安新遷王・王臨統義陽王任命時『洛陽担当=皇太子』論あり)。然るに王臨病状悪化+兄身分での太子名乗り矛盾が陰陽不和を招き、凶作・蛮夷侵攻・治安悪化の原因と判明」→両者降格処分 追加詔令:「宝黄廝赤」(玉璽は黄色/奴隷階級に赤=身分秩序強調) 解説: 1. 風刺弾圧構造:韓博虚構献上劇(巨毋霸描写・「虎賁百人」「門拡張」提案)→誇大軍事政策への痛烈批判 →即時粛清 2. 神秘行政:天災→符命再解釈で責任転嫁。終詔の色差別発令も五行思想悪用 3. 社会崩壊:(1)関東飢饉→反乱勢力拡大 (2)公開処刑恐怖政治(「道路以目」)(3)虚偽兵員制度で民衆収奪 4. 語彙処理:役職名現代化・難解句は本質的意訳(例:「宝黄廝赤」→身分差別思想の明示) ``` Translation took 3027.0 seconds. | ||||||||||||
| 其令郎從官皆衣絳。」 望氣為數者多言有土功象;九月,甲申,莽起九廟於長安城南,黃帝廟方四十丈,高十七丈,餘廟半之,制度甚盛。博徵天下工匠及吏民以義入錢穀助作者,駱驛道路;窮極百工之巧;功費數百餘萬,卒徒死者萬數。 是月,大雨,六十餘日。 巨鹿男子馬適求等謀舉燕、趙兵以誅莽。大司空士王丹發覺,以聞。莽遣三公大夫逮治黨與,連及郡國豪傑數千人,皆誅死。封丹為輔國侯。 莽以私鑄錢死及非沮寶貨投四裔,犯法者多,不可勝行;乃更輕其法,私鑄作泉布者與妻子沒入為官奴婢,吏及比伍知而不舉告,與同罪;非沮寶貨,民罰作一歲,吏免官。 太傅平晏死,以予虞唐尊為太傅。尊曰:「國虛民貧,咎在奢泰。」乃身短衣小褒,乘牝馬、柴車、藉稿,以瓦器飲食,又以歷遺公卿。出,見男女不異路者,尊自下車,以象刑赭幡污染其衣。莽聞而說之,下詔申敕公卿:「思與厥齊。」封尊為平化侯。 汝南郅惲明天文歷數,以為漢必再受命,上書說莽曰:「上天垂戒,欲悟陛下,令就臣位。取之以天,還之以天,可謂知命矣!」莽大怒,繫惲詔獄,逾冬,會赦得出。 王莽下地皇二年(辛巳,公元二一年) 春,正月,莽妻死,謚曰孝睦皇后。初,莽妻以莽數殺其子,涕泣失明;莽令太子臨居中養焉。莽妻旁侍者原碧,莽幸之,臨亦通焉,恐事洩,謀共殺莽。 |
現代日本語訳「郎官や従者は全員、深紅色の衣を着用せよ」との命令が下される。 天文観測者らは「大規模な土木工事を示す兆候あり」と報告したため、九月甲申(3日)、王莽は長安城南に九つの宗廟を建立させた。黄帝廟は一辺四十丈・高さ十七丈で他はその半分の規模。設計は極めて壮麗であり、全国から工匠や役人・庶民を動員し、「義捐」名目での資金調達も実施されたため街道には物資輸送が途絶えず、最高の工芸技術を駆使した結果、費用は数百万銭に上り労務者数万人が死亡した。 同月、六十日以上続く大雨に見舞われる。 巨鹿郡の馬適求らが燕趙地方で反乱計画を画策していたところ、大司空配下の王丹に発覚し通報される。王莽は三公大夫(高官)に命じて関係者数千人を逮捕処刑させ、王丹には輔国侯の爵位を与えた。 貨幣私鋳罪による死刑や「新貨幣政策批判」での辺境流刑が激増し法執行不能となったため、法令を緩和: 太傅(最高顧問官)平晏が死去し後任に唐尊を任命。彼は「国庫空虚と民衆窮乏の原因は奢侈にある」と主張し自ら実践: 汝南の郅惲(天文暦学者)が天象から「漢王朝再興の天命あり」と解釈し上奏: 地皇二年(西暦21年)春正月 解説①土木事業と民衆犠牲 ②矛盾する法制度運用 ③模範演出と現実乖離 ④権力内部崩壊の前兆 ▶ 総評:天災(長期大雨)、人災(冤罪処刑拡大)、権力内腐敗という三重苦において、王莽政権末期の特質「強硬政策→現実破綻→弥縫策失敗」が見事に凝縮された場面群。『資治通鑑』編者・司馬光による儒教倫理観からの批判的視線が随所に織り込まれている点も注目すべきである。 Translation took 2355.3 seconds. |
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| 臨妻愔,國師公女,能為星,語臨宮中且有白衣會。臨喜,以為所謀且成;後貶為統義陽王,出在外第,愈憂恐。會莽妻病困,臨予書曰:「上於子孫至嚴,前長孫、中孫年俱三十而死。今臣臨復適三十,誠恐一旦不保中室,則不知死命所在!」莽候妻疾,見其書,大怒,疑臨有惡意,不令得會喪。既葬,收原碧等考問,具服奸、謀殺狀。莽欲秘之,使殺案事使者司命從事,埋獄中,家不知所在。賜臨藥,臨不肯飲,自刺死。又詔國師公:「臨本不知星,事從愔起。」愔亦自殺。 是月,新遷王安病死。初,莽為侯就國時,幸侍者增秩、懷能,生子興、匡,皆留新都國,以其不明故也。及安死,莽乃以王車遣使者迎興、匡,封興為功修公,匡為功建公。 卜者王況謂魏成大尹李焉曰:「漢家當復興,李氏為輔。」因為焉作讖書,合十餘萬言。事發,莽皆殺之。 莽遣太師羲仲景尚、更始將軍護軍王黨將兵擊青、徐賊,國師和仲曹放助郭興擊句町,皆不能克。軍師放縱,百姓重困。 莽又轉天下穀帛詣西河、五原、朔方、漁陽,每一郡以百萬數,欲以擊匈奴。須卜當病死,莽以庶女妻其子後安公奢,所以尊寵之甚厚,終為欲出兵立之者。會莽敗,雲、奢亦死。 秋,隕霜殺菽,關東大饑,蝗。 莽既輕私鑄錢之法,犯者愈眾,及伍人相坐,沒入為官奴婢。 |
現代日本語訳:王臨(おうりん)の妻である愔(いん。国師公・劉歆の娘)は星占いに通じており、「宮中に白衣の集まりが起こるだろう」と予言した。これを聞いた王臨は喜び、自分の企てが成功する兆しだと確信した。後に彼は統義陽王(とうぎようおう)へ降格されて邸宅から追放されると、不安と恐怖を募らせていった。 ちょうどその時、王莽の妻が重病に陥った。王臨は父宛てに手紙を送り訴えた:「陛下(父上)は子孫に対して極めて厳しく、以前に亡くなられた長男・次男も三十歳でした。今や私もまさにその年齢です。宮中で突然命が尽きるのではないかと恐れています」。王莽が妻の見舞い中にこの手紙を発見し激怒。「悪意がある」と疑った彼は葬儀への参列すら許さなかった。 埋葬後、侍女・原碧(げんへき)らを取り調べたところ姦通と暗殺計画が自白された。王莽は真相隠蔽のため事件関係者や司法官を処刑し獄中に遺体を埋めさせた。家族すら行方知れずとなった後、毒薬を与えられた王臨は拒否して自害した。「星占いは愔が教えたものだ」との詔勅を受けた妻もまた自決した。 同月、新遷王安(しんせんおう・あん)こと王安が病死。かつて王莽が侯爵として領地に赴いた際、侍女の増秩(ぞうちつ)と懐能(かいのう)を寵愛して生まれた息子たち(興と匡)は新都国で育てられていた(身分不明のため)。王安死後、王莽は二人を宮廷に呼び寄せ興を功修公(こうしゅうこう)、匡を功建公(こうけんこう)に封じた。 占い師・王況(おうきょう)が魏成大尹・李焉(りえん)へ告げる:「漢王朝は復活する。李氏こそ補佐役となる」。彼の指示で作られた十数万字もの予言書「讖緯(しんい)」が発覚すると、王莽は両名を処刑した。 青州・徐州の反乱軍討伐に派遣された将軍たちも句町国征伐部隊も全て失敗。兵士らは略奪を働き民衆は苦境に陥った。さらに匈奴遠征準備として全国から穀物と絹布(各郡百万単位)が西河・五原などへ輸送される中、烏桓族の指導者・須卜当(しゅぼくとう)が病死。王莽は彼の息子である後安公奢に庶女を嫁がせ厚遇した(傀儡政権樹立構想)。しかし計画途中で新朝崩壊、雲と奢も死亡する。 秋には異常な霜害で豆類が全滅し関東大飢饉発生。蝗の大群が農地を襲った。 私鋳銭禁止法は有名無実化して犯罪者が激増。「連座制」適用により家族ごと官奴婢に没収される者も続出した。 解説:歴史的意義
思想史的視点
現代語訳の方針
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| 其男子檻車,女子步,以鐵瑣琅當其頸,傳詣長安鐘官以十萬數。到者易其夫婦。愁苦死者什六七。 上谷儲夏自請說瓜田儀降之。儀未出而死,莽求其屍葬之,為起塚、祠室,謚曰瓜寧殤男。 閏月,丙辰,大赦。 郎陽成修獻符命,言繼立民母;又曰:「黃帝以百二十女致神仙。」莽於是遣中散大夫、謁者各四十五人,分行天下,博采鄉里所高有淑女者上名。 莽惡漢高廟神靈,遣虎賁武士入高廟,拔劍四面提擊,斧壞戶牖,桃湯、赭鞭鞭灑屋壁,令輕車校尉居其中。 是歲,南郡秦豐聚眾且萬人;平原女子遲昭平亦聚數千人在河阻中。莽召問群臣禽賊方略,皆曰:「此天囚行屍,命在漏刻。」故左將軍公孫祿徵來與議,祿曰:「太史令宗宣,典星曆,候氣變,以凶為吉,亂天文,誤朝廷;太傅平化侯尊,飾虛偽以偷名位,賊夫人之子;國師嘉信公秀,顛倒《五經》,毀師法,令學士疑惑;明學男張邯、地理侯孫陽,造井田,使民棄土業;羲和魯匡,設六筦以窮工商;說符侯崔發,阿諛取容,令下情不上通。宜誅此數子以慰天下!」又言:「匈奴不可攻,當與和親。臣恐新室憂不在匈奴,而在封域之中也。」莽怒,使虎賁扶祿出,然頗采其言,左遷魯匡為五原卒正,以百姓怨誹故也。六筦非匡所獨造,莽厭眾意而出之。 初,四方皆以饑寒窮愁起為盜賊,稍稍群聚,常思歲熟得歸鄉里,眾雖萬數,不敢略有城邑,轉掠求食,日闋而已。 |
現代語訳男たちは檻車に詰め込まれ、女たちは徒歩で連行され、鉄の鎖で首につないだ状態で長安の鐘官まで送られた者は十万にも及んだ。到着後も夫婦が引き離されたため、悲嘆の中で死亡する者が十人中六~七人に達した。 上谷出身の儲夏は自ら進んで瓜田儀を降伏させるよう志願したが、儀は投降前に死去した。王莽(新朝皇帝)は遺体を捜索して丁重に埋葬し、墳墓と祠堂を建立。「瓜寧殤男」という諡号を与えた。 閏月の丙辰の日、大赦令を発布した。 郎官・陽成修が符命(瑞兆による予言)を献上し、「民母たる皇后を立てよ」「黄帝は百二十人の女性を得て神仙となった」と奏上。これを受け王莽は中散大夫と謁者各四十五名ずつを全国に派遣、地方で評判の良家令嬢を広く選抜させ名簿を作成させた。 王莽は前漢高祖廟の霊威を憎悪し、近衛兵(虎賁)に命じて廟内へ乱入させた。剣で四方を斬りつけ斧で窓戸を破壊。魔除けの桃湯と赤土塗りの鞭で壁を打ちまとい、軽車校尉を常駐させた。 同年、南郡では秦豊が一万人近くの勢力を結集し、平原地方の女性・遅昭平も数千人を率いて河川要害地帯に拠点を構えた。賊討伐策を問う王莽に対し群臣は「天罰を受けた屍のような連中で、命は風前の灯火」と答えるなか、元左将軍・公孫禄が直言した:「太史令宗宣は天文観測を誤り凶兆をごまかす。平化侯劉尊(王莽政権下での改名)は虚偽で地位を得て民衆を害する。国師劉秀(子彊)は経典解釈を歪め学者を混乱させる。明学男張邯と地理侯孫陽が提唱した井田制は農民から土地を奪い、財務長官魯匡の『六筦』政策で商工業者は破綻。説符侯崔発は媚びへつらって実情隠蔽する奸臣である」と糾弾し「匈奴征伐より国内問題こそ新朝崩壊の火種だ」と警告した。激怒した王莽は禄を強制退場させたが、民衆不満(怨誹)を考慮して魯匡を左遷(五原卒正へ降格)。ただし六筦政策自体は継続し責任転嫁に過ぎなかった。 当初、飢餓と貧困で盗賊化した者らは収穫期には帰農する意思を持ち、城邑を攻めず食糧略奪のみを行い日暮れまでに解散していた。 解説1. 王莽政権の本質的矛盾: 2. 社会崩壊の前兆: 3. 『資治通鑑』の史的意義: 4. 訳出方針:
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| 諸長吏牧守皆自亂鬥中兵而死,賊非敢欲殺之也,而莽終不諭其故。 是歲,荊州牧發奔命二萬人討綠林賊。賊帥王匡等相率迎擊於雲杜,大破牧軍,殺數千人,盡獲輜重。牧欲北歸,賊馬武等復遮擊之,鉤牧車屏泥,刺殺其驂乘,然終不敢殺牧。賊遂攻拔竟陵,轉擊雲杜、安陸,多略婦女,還入綠林中,至有五萬餘口,州郡不能制。 又,大司馬士按章豫州,為賊所獲,賊送付縣。士還,上書具言狀。莽大怒,下獄,以為誣罔,因下書責七公曰:「夫吏者,理也。宣德明恩,以牧養民,仁之道也。抑強督奸,捕誅盜賊,義之節也。今則不然。盜發不輒得,至成群黨遮略乘傳宰士。士得脫者又妄自言:『我責數賊:「何故為是?」賊曰:「以貧窮故耳。」賊護出我。』今俗人議者率多若此。惟貧困饑寒犯法為非,大者群盜,小者偷穴,不過二科;今乃結謀連黨以千百數,是逆亂之大者,豈饑寒之謂邪!七公其嚴敕卿大夫、卒正、連率、庶尹,謹牧養善民,急捕殄盜賊!有不同心並力疾惡黠賊,而妄曰饑寒所為,輒捕繫,請其罪!」於是群下愈恐,莫敢言賊情者,州郡又不得擅發兵,賊由是遂不制。 唯翼平連率田況素果敢,發民年十八以上四萬餘人,授以庫兵,與刻石為約。樊崇等聞之,不敢入界。況自劾奏,莽讓況:「未賜虎符而擅發兵,此弄兵也,厥罪乏興。 |
現代日本語訳各地の長官や太守たちは、自軍兵士による内乱の中で殺害されたのであって、賊が意図的に彼らを殺そうとしたわけではない。しかし王莽(新朝皇帝)は最後までこの真相を理解しなかった。 同年、荊州牧(地方長官)は緊急招集した2万の兵で緑林賊討伐に向かった。賊将・王匡らが雲杜で迎え撃ち、官軍を壊滅させて数千人を殺害し、物資を全て奪取した。敗走する荊州牧に対し、今度は馬武率いる別働隊が追撃して車の泥除け幕に鉤をかけ、側近を刺殺しながらも長官自身には手を出さなかった。賊軍は続いて竟陵を陥落させると雲杜・安陸へ転進し、多数の婦女を拉致して緑林山に帰還。勢力は5万人以上に膨れ上がり州郡では制御不能となった。 一方、大司馬(国防長官)配下の監察官が豫州で賊軍に捕縛され地元県衙へ送致される事件があった。解放された官吏が詳細な報告書を提出すると王莽は激怒し「虚偽報告だ」として投獄した上、七公(宰相府高官)への詰問文を発布: 「役人の本分とは秩序維持にある。仁政で民を養い義をもって悪を挫くべきであるのに現状は正反対だ。賊が官吏まで襲う事態に至り逃亡者が『貧しさゆえの行動だと賊は語った』などと弁解する始末!俗論も同様だがこれは欺瞞である——飢寒による犯罪は小規模窃盗程度で、数百・数千もの組織的反乱が『貧困起因』などあり得ぬ。卿ら(七公)は直ちに全地方官へ厳命せよ:善良な民を保護し凶悪賊徒を殲滅することだ。もし『飢寒のため』と弁明する者があれば即時逮捕せよ」 この命令で役人層は恐怖に陥り、誰も賊情を通報できなくなった。加えて州郡が独自出兵できない体制下で反乱勢力は完全に制御不能となっていく。 ただ一人翼平連率(地方長官)田況だけは果断に対応し、18歳以上の民間人4万余を武装させて規律強化した結果、樊崇ら賊軍の侵入を阻止できた。しかし王莽は彼に対し「兵符なき出兵は軍紀違反だ」と逆に叱責したのである。 解説
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| 以況自詭必禽滅賊,故且勿治。」後況自請出界擊賊,所向皆破。莽以璽書令況領青、徐二州牧事,況上言:「盜賊始發,其原甚微,部吏、伍人所能禽也。咎在長吏不為意,縣欺其郡,郡欺朝廷,實百言十,實千言百。朝廷忽略,不輒督責,遂至延蔓連州,乃遣將帥,多使者,傳相監趣。郡縣力事上官,應塞詰對,共酒食,具資用,以救斷斬,不暇復憂盜賊、治官事。將帥又不能躬率吏士,戰則為賊所破,吏氣浸傷,徒費百姓。前幸蒙赦令,賊欲解散,或反遮擊,恐入山谷,轉相告語。故郡縣降賊皆更驚駭,恐見詐滅,因饑饉易動,旬日之間更十餘萬人,此盜賊所以多之故也。今洛陽以東,米石二千,竊見詔書欲遣太師、更始將軍。二人爪牙重臣,多從人眾,道上空竭,少則無以威示遠方。宜急選牧、尹以下,明其賞罰,收合離鄉;小國無城郭者,徙其老弱置大城中,積臧穀食,並力固守。賊來攻城,則不能下;所過無食,勢不得群聚。如此,招之必降,擊之則滅。今空復多出將帥,郡縣苦之,反甚於賊。宜盡徵還乘傳諸使者以休息郡縣。委任臣況以二州盜賊,必平定之。」莽畏惡況,陰為發代,遣使者賜況璽書。使者至,見況,因令代監其兵,遣況西詣長安,拜為師尉大夫。況去,齊地遂敗。 王莽下地皇三年(壬午,公元二二年) 春,正月,九廟成,納神主。 |
現代日本語訳田況が自ら賊討伐の功績を約束したため、朝廷では彼の過失を追及しなかった。その後、田況は管轄区域外での作戦を上奏し、出撃先で全て勝利を得た。王莽は詔書で青州・徐州二州の牧(長官)職務を兼任させると、田況は次のように進言した: 「賊徒が発生した当初は規模も小さく、地方役人でも鎮圧可能でした。問題は上級官吏の怠慢にあります。県は郡へ実態を過少報告し(百件を十件と)、郡は朝廷に隠蔽しました(千件を百件と)。朝廷が軽視して監督せず蔓延したため、州全体に拡大後に将軍派遣となったのです」 「しかし増派された監察官対応で地方は疲弊。郡県の役人は上司への接待(酒食や贈答品)に追われ、盗賊対策どころか通常業務も停滞しました。さらに前線指揮官が兵士を率いられず敗戦続発。軍の士気は低下し民間資源だけ浪費されたのです」 「先般の恩赦時には解散機運も生まれましたが、逆に逃亡者たちが山岳地帯で結束。『朝廷は騙して討伐する』と噂され飢餓状態も相まって瞬く間に十数万人規模へ膨張しました。これこそ賊徒増加の真因です」 「現在洛陽以東では米価が一石二千銭に暴騰。太師ら重臣を派遣との詔書案は問題です: 「こうすれば賊軍は攻城に失敗し略奪も不能。孤立した敵は投降か殲滅となります。無闇な将帥増派は地方負担が賊害以上。使者全員召還で郡県休養こそ必要。二州の討伐権限を私へ委ねれば必ず平定します」 しかし王莽は田況を危険視し密かに後任(王党)を送る。詔書持参の使者が到着すると兵権を取り上げ、田況を長安に召還して閑職(師尉大夫)へ左遷した。彼がいなくなった山東地方は瞬く間に混乱状態へ陥った。 *** 解説背景と核心問題
田況提案の革新性
歴史的教訓
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| 莽謁見,大駕乘六馬,以五采毛為龍文衣,著角,長三尺。又造華蓋九重,高八丈一尺,載以四輪車。挽者皆呼「登仙」,莽出,令在前。百官竊言:「此似輀車,非仙物也。」 二月,樊崇等殺景尚。 關東人相食。 夏,四月,遣太師王匡、更始將軍廉丹東討眾賊。初,樊崇等眾既浸盛,乃相與為約:「殺人者死,傷人者償創。」其中最尊號三老,次從事,次卒史。及聞太師、更始將討之,恐其眾與莽兵亂,乃皆朱其眉以相識別,由是號曰赤眉。匡、丹合將銳士十餘萬人,所過放縱。東方為之語曰:「寧逢赤眉,不逢太師!太師尚可,更始殺我!」卒如田況之言。莽又多遣大夫、謁者分教民煮草木為酪,酪不可食,重為煩費。 綠林賊遇疾疫,死者且半,乃各分散引去。王常、成丹西入南郡,號「下江兵」;王匡、王鳳、馬武及其支黨朱鮪、張卬等北入南陽,號「新市兵」。皆自稱將軍。莽遣司命大將軍孫仁部豫州,納言大將軍嚴尤、秩宗大將軍陳茂擊荊州,各從吏士百餘人,乘傳到部募士。尤謂茂曰:「遣將不與兵符,必先請而後動,是猶紲韓盧而責之獲也。」 蝗從東方來,飛蔽天。 流民入關者數十萬人,乃置養贍官稟食之,使者監領,與小吏共盜其稟,饑死者什七八。先是,莽使中黃門王業領長安市買,賤取於民,民甚患之。業以省費為功,賜爵附城。 |
現代日本語訳王莽が儀式に参列する際、六頭立ての馬車を用い、五色の毛糸で龍紋様を織り込んだ衣装を身につけていた。この衣服には長さ三尺(約90cm)の角状の飾りが付属していた。さらに九段重ねの豪華な天蓋を作成し、高さ八丈一尺(約19m)、四輪車に搭載して移動した。牽引する者たちは「仙界へ昇るぞ!」と叫びながら先導したが、官僚らは密かに嘲笑:「あれは葬儀用の霊柩車だ、仙人の乗り物ではない」と言い合った。 二月に反乱軍指導者・樊崇らが王莽配下の将軍景尚を殺害。 関東地域では飢饉により人肉食が横行する事態となった。 同年四月夏、朝廷は太師(最高軍事顧問)王匡と更始将軍廉丹を東方へ反乱鎮圧に派遣。当初樊崇らは勢力拡大に伴い「殺人は死刑・傷害は賠償」という規律を制定し、「三老」「従事」「卒史」の階級制度を持っていたが、朝廷軍の来襲を知り味方識別のために眉を朱色に染め始めた。これにより彼らは「赤眉賊」と呼ばれるようになった。 王匡・廉丹率いる精鋭十数万は進軍中略奪暴行を繰り返し、現地住民から「寧ろ赤眉に出会いたい!太師(朝廷主力)より更始将軍に遭う方が怖い!」と歌われる状況となった。これは田況の事前警告通り展開した。 一方王莽は官僚たちを派遣して草木で乳製品を作る方法を民衆に指導させたが、食用不能品ばかり生産され無駄遣いに終わる。「緑林賊」勢力では疫病が蔓延し半数死亡。残党は分裂:王常・成丹一派(南郡進出「下江兵」)と王匡・王鳳一派(南陽へ移動「新市兵」)となった。 これに対抗すべく朝廷は司命大将軍孫仁を豫州に、納言大將軍厳尤らを荊州に派遣するも各将軍が率いたのは官僚百名余。現地で募兵せざるを得ず、嚴尤は同僚の陳茂へ嘆息:「指揮権(兵符)を与えず行動毎に朝廷承認が必要とは…鎖につないだ猟犬に獲物を捕れと命じる様なものだ」と。 さらに東方から飛来したイナゴが大発生し空を覆い尽くす。 関中地方へ流入する難民数十万人に対し、養贍官という食糧配給機関設置。しかし監督役人らは下級吏員共謀で物資横領し餓死者続出(死亡率70-80%)。背景には王莽の側近・王業が長安市民から不当廉価で物資調達していた問題があった。 歴史的考察
→ 全体として『資治通鑑』編者司馬光の主張「虚飾より実政」(儀式改革より民生安定)が透けて見える歴史的教訓となっている。 Translation took 3610.9 seconds. | ||||||||||||
| 莽聞城中饑饉,以問業。業曰:「皆流民也。」乃市所賣粱飯、肉羹,持入示莽曰:「居民食咸如此。」莽信之。 秋,七月,新市賊王匡等進攻隨;平林人陳牧、廖湛復聚眾千餘人,號「平林兵」,以應之。 莽詔書讓廉丹曰:「倉廩盡矣,府庫空矣,可以怒矣,可以戰矣!將軍受國重任,不捐身於中野,無以報恩塞責!」丹惶恐,夜,召其掾馮衍,以書示之。衍因說丹曰:「張良以五世相韓,椎秦始皇博浪之中。將軍之先,為漢信臣;新室之興,英俊不附。今海內潰亂,人懷漢德,甚於詩人思召公也;人所歌舞,天必從之。方今為將軍計,莫若屯據大郡,鎮撫吏士,砥厲其節,納雄桀之士,詢忠智之謀,興社稷之利,除萬人之害,則福祿流於無窮,功烈著於不滅。何與軍覆於中原,身膏於草野,功敗名喪,恥及先祖哉!」丹不聽。衍,左將軍奉世曾孫也。 冬,無鹽索盧恢等舉兵反城附賊,廉丹、王匡攻拔之,斬首萬餘級。莽遣中郎將奉璽書勞丹、匡,進爵為公;封吏士有功者十餘人。赤眉別校董憲等眾數萬人在梁郡,王匡欲進擊之。廉丹以為新拔城罷勞,當且休士養威。匡不聽,引兵獨進,丹隨之。合戰成昌,兵敗,匡走。丹使吏持其印、□、節付匡曰:「小兒可走,吾不可!」遂止,戰死。校尉汝雲、王隆等二十餘人別鬥,聞之,皆曰:「廉公已死,吾誰為生!」馳奔賊,皆戰死。 |
現代日本語訳:王莽は都城内で飢饉が発生したと聞き、侯業に尋ねたところ、「すべて流民です」との返答を得た。そこで市場で売られていた粟飯や肉の羹を買い求め、宮中へ持参して報告した「住民たちの食事は皆このようなものです」。王莽はこれを信じた。 秋七月、新市賊の王匡らが随県を攻撃し、平林出身の陳牧・廖湛がさらに千人余りの兵を集め、「平林兵」と号してこれに呼応した。 王莽は詔書で廉丹を叱責した:「食糧倉庫は尽き、国庫も空となった。今こそ怒りをもって戦うべき時だ!将軍は国の重責を担いながら、野原で身を捧げなければ、恩に報いて責任を果たすことはできぬ!」廉丹は恐れおののき、夜間に配下の馮衍を呼び寄せて詔書を見せた。すると馮衍が説得した:「かつて張良は五世代続く韓の宰相として始皇帝に博浪沙で一撃を加えた。将軍のご先祖も漢朝の忠臣であったのに、新室(王莽政権)が興っても英傑たちは従わなかった。今や天下は崩壊し混乱しており、人々が懐く漢への思慕は詩人が召公を偲ぶよりも深い。民衆が歌い舞うものこそ天もこれに従うのです。将軍のために策を立てれば、大郡を占拠して兵士を鎮撫し節義を磨き、英雄豪傑を受け入れ忠智の謀略を求め、国家の利益を興し万民の害を取り除くことです。そうすれば福禄は永遠に続き功績も不滅となります。どうして中原で軍勢を潰走させ自ら野原の肥やしとなり先祖まで辱めるような愚挙を行われましょうか」。しかし廉丹は聞き入れなかった。馮衍は左将軍・馮奉世の曾孫である。 冬、無塩県で索盧恢らが反乱を起こして城ごと賊に帰順すると、廉丹と王匡はこれを攻め落として万余級を斬った。王莽は中郎将を使者として派遣し璽書(詔勅)を持たせて労い二人を「公」の爵位に昇進させ十余りの官吏・兵士にも恩賞を与えた。 赤眉賊別働隊の董憲ら数万が梁郡に駐屯すると、王匡は攻撃しようとした。廉丹は城攻略直後の疲労から休養すべきと主張したが、王匡は聞かず単独進軍し、廉丹もやむなく追従した。成昌で交戦して大敗し王匡は逃走した。この時廉丹は部下に印綬・符節を託して言った「小僧(王匡)は逃げられるが私はできぬ」と踏み止まって戦死した。校尉の汝雲や王隆ら二十名余りも別働隊で奮闘中この報を知ると、「廉公既に死す、我ら何のために生きん!」と言い賊陣へ突撃し全員が討ち死にした。 解説:
(本訳では『資治通鑑』漢紀三十・地皇三年原文を底本とし、固有名詞は原則として岩波文庫版に倣った) Translation took 1073.5 seconds. |
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| 國將哀章自請願平山東,莽遣章馳東與太師匡並力。又遣大將軍陽浚守敖倉;司徒王尋將十餘萬屯洛陽,鎮南宮;大司馬董忠養士習射中軍北壘。大司空王邑兼三公之職。 初,長沙定王發生舂陵節侯買,買生戴侯熊渠,熊渠生考侯仁。仁以南方卑濕,徙封南陽之白水鄉,與宗族往家焉。仁卒,子敞嗣;值莽篡位,國除。節侯少子外為鬱林太守,外生巨鹿都尉回,回生南頓令欽。欽娶湖陽樊重女,生三男:縯,仲,秀,兄弟早孤,養於叔父良。縯性剛毅,慷慨有大節,自莽篡漢,常憤憤,懷復社稷之慮,不事家人居業,傾身破產,交結天下雄俊。秀隆准日角,性勤稼穡。縯常非笑之,比於高祖兄仲。秀姊元為新野鄧晨妻,秀嘗與晨俱過穰人蔡少公,少公頗學圖讖,言「劉秀當為天子」。或曰:「是國師公劉秀乎?」秀戲曰:「何用知非僕邪?」坐者皆大笑,晨心獨喜。 宛人李守,好星曆、讖記,為莽宗卿師。嘗謂其子通曰:「劉氏當興,李氏為輔。」及新市、平林兵起,南陽騷動,通從弟軼謂通曰:「今四方擾亂,漢當復興。南陽宗室,獨劉伯升兄弟泛愛容眾,可與謀大事。」通笑曰:「吾意也!」會秀賣穀於宛,通遣軼往迎秀,與相見,因具言讖文事,與相約結,定謀議。通欲以立秋材官都試騎士日,劫前隊大夫甄阜及屬正梁丘賜,因以號令大眾,傳軼與秀歸舂陵舉兵以相應。 |
現代日本語訳:哀章が自ら山東平定を願い出たため、王莽は彼を東方へ急行させて太師匡と合流させた。さらに大将軍陽浚には敖倉の守備を命じ、司徒王尋に十余万の兵を率いて洛陽に駐屯し南宮を鎮護させる一方、大司馬董忠が北塁で軍事訓練を行い、大司空王邑は三公(太師・大司馬・大司徒)の職務を兼任した。 元来、長沙定王劉発から続く舂陵節侯買(劉買)の血筋では、戴侯熊渠を経て考侯仁に至った。仁が南方の低湿地帯を嫌い封地を南陽郡白水郷へ移転させると、一族もこれに従って移住した。仁亡き後は子の敞(劉敞)が継ぐも王莽簒奪により所領没収となる。節侯末子・外(劉外)が鬱林太守となり、その孫回(劉回)は巨鹿都尉から南頓令となった。欽(劉欽)が湖陽出身の樊重の娘を娶り三人の男子(縯・仲・秀)をもうけたが、兄弟は幼くして孤児となり叔父良に養育される。 長兄伯升(劉縯)は剛毅な性格で大志を持ち、王莽による漢王朝簒奪後も復興を誓い家業を顧みず財産を使い果たし天下の英傑と交わった。末弟秀(後の光武帝)は高く隆起した鼻梁に丸みのある額が特徴で農耕を好んだため、伯升から高祖劉邦の凡庸な兄・仲になぞらえて笑われることもあった。 秀の姉元は新野の鄧晨へ嫁いでおり、ある時秀が鄧晨と共に穣県出身の蔡少公宅を訪ねた際、図讖(予言書)研究家である少公が「劉秀が天子となる」と言及。一同が「国師公・劉歆(王莽側近の学者)のことか?」と口々にする中で、秀は冗談めかして「どうして私ではないと言えるのか?」と応じると座中大いに笑い、鄧晨のみ心密かに喜んだ。 宛城出身の李守は天文図讖に精通し王莽政権下で宗室統括官を務めた。彼が子・通へ「劉氏再興時に李氏が補佐すべし」と語ったことが発端となり、新市・平林反乱軍が南陽地域で蜂起した際、李通の従弟軼から「伯升兄弟こそ民衆をまとめる器量あり」との進言を受ける。丁度秀が宛城に穀物売買に訪れていた折、両者は図讖予言と挙兵計画について語り合い盟約を結んだ。李通は立秋の軍事演習日に前隊大夫(南陽太守)甄阜らを拘束し、その混乱で秀たちが舂陵で決起するという共同作戦を立案した。 解説:
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| 於是縯召諸豪桀計議曰:「王莽暴虐,百姓分崩。今枯旱連年,兵革並起,此亦天亡之時,復高祖之業,定萬世之秋也!」眾皆然之。於是分遣親客於諸縣起兵,縯自發舂陵子弟。諸家子弟恐懼,皆亡匿,曰;「伯升殺我!」及見秀絳衣大冠,皆驚曰:「謹厚者亦復為之!」乃稍自安。凡得子弟七八千人,部署賓客,自稱「柱天都部」。秀時年二十八。李通未發,事覺,亡走;父守及家屬坐死者六十四人。縯使族人嘉招說新市、平林兵,與其帥王鳳、陳牧西擊長聚;進屠唐子鄉,又殺湖陽尉。軍中分財物不均,眾恚恨,欲反攻諸劉。秀斂宗人所得物,悉以與之,眾乃悅。進拔棘陽,李軼、鄧晨皆將賓客來會。 嚴尤、陳茂破下江兵。成丹、王常、張卬等收散卒入蔞谿,略鐘、龍間,眾復振。引軍與荊州牧戰於上唐,大破之。 十一月,有星孛於張。 劉縯欲進攻宛,至小長安聚,與甄阜、梁丘賜戰。時天密霧,漢軍大敗。秀單馬走,遇女弟伯姬,與共騎而奔。前行,復見姊元,趣令上馬,元以手揮曰:「行矣,不能相救,無為兩沒也!」會追兵至,元及三女皆死,縯弟仲及宗從死者數十人。縯復收會兵眾,還保棘陽。阜、賜乘勝留輜重於藍鄉,引精兵十萬南度潢淳,臨沘水,阻兩川間為營,絕後橋,示無還心。新市、平林見漢兵數敗,阜、賜軍大至,各欲解去,縯甚患之。 |
現代日本語訳この時、劉縯は豪傑たちを集めて協議し、「王莽の暴政により民衆は離散している。ここ数年の干魃と戦乱が同時に起きているのは天が滅ぼそうとする兆候だ。高祖(劉邦)の偉業を取り戻し、永遠の太平を築くべき時である」と言った。一同は皆これに賛同した。かくして配下を使者として各地へ派遣し兵を挙げさせると同時に、自らは春陵の若者たちを募った。集められた子弟たちは恐れおののき、「劉伯升(縯)が我々を殺す!」と逃げ隠れたが、赤い上着に大きな冠をつけた劉秀を見た途端、「慎重な彼までもが挙兵するとは」と驚嘆し次第に落ち着いた。総勢七千から八千の兵力を得た縯は自ら「柱天都部(天を支える統率者)」と称した。時に劉秀は二十八歳であった。 一方、李通は未だ挙兵せず事が露見し逃亡。父の李守と家族六十四人が連座で処刑された。縯は一族の劉嘉を使者として新市・平林軍を説得させ、首領である王鳳や陳牧らと協力して長聚を西から攻撃した。さらに唐子郷を制圧し湖陽尉(役人)も殺害したが、戦利品分配で不満が噴出し兵士たちは劉氏一族への反逆をもくろんだ。この時劉秀は劉一族の得た財物を全て召し上げて彼らに分け与え、ようやく怒りは収まった。 その後棘陽を攻略すると李軼と鄧晨も配下を率いて合流した。 一方で厳尤・陳茂軍が下江兵を破ると、成丹・王常・張卬らは残兵をかき集め蔞谿へ退却。鐘や龍の地域で勢力を回復し荊州牧と上唐で交戦して大勝した。 同年十一月、星が張宿(星座)付近に異常接近する天変が起きた。 劉縯は宛城攻撃に向かう途上の小長安聚において甄阜・梁丘賜軍と対峙。濃霧の中での戦闘で漢軍は大敗し、単騎で逃げる劉秀は妹の伯姫を救い二人乗りで脱出したが、さらに前方にいた姉の元(女性)を見つける。馬へ乗るよう急かすと彼女は「私を助けられないなら無理するな!共倒れになるだけだ」と手を振って拒絶し追撃兵に捕まり三女もろとも殺害された。縯の弟・劉仲や数十人の一族が戦死した結果、縯は残存兵力を再編して棘陽へ撤退せざるを得なかった。 劣勢を見た新市・平林軍は離脱を画策し始めたため縯は憂慮した。一方で甄阜と梁丘賜は勝利に乗じ輜重隊を藍郷に残置し、十万の精鋭部隊を率いて潢淳を南渡して沘水河畔に布陣すると橋を破壊し退路を断ち背水の陣を敷いた。 解説
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| 會下江兵五千餘人至宜秋,褲縯即與秀及李通俱造其壁曰:「願見下江一賢將,議大事。」眾推王常。縯見常,說以合從之利,常大悟曰:「王莽殘虐,百姓思漢。今劉氏復興,即真主也;誠思出身為用,輔成大功。」縯曰:「如事成,豈敢獨饗之哉!」遂與常深相結而去。常還,具為餘將成丹、張卬言之。丹、卬負其眾曰:「大丈夫既起,當各自為主,何故受人制乎!」常乃徐曉說其將帥曰:「王莽苛酷,積失百姓之心,民之謳吟思漢,非一日也,故使吾屬因此得起。夫民所怨者,天所去也;民所思者,天所與也。舉大事,必當下順民心,上合天意,功乃可成。若負強恃勇,觸情恣欲,雖得天下,必復失之。以秦、項之勢,尚至夷覆,況今布衣相聚草澤,以此行之,滅亡之道也。今南陽諸劉舉宗起兵,觀其來議者,皆有深計大慮,王公之才,與之併合,必成大功,此天所以祐吾屬也!」下江諸將雖屈強少識,然素敬常,乃皆謝曰:「無王將軍,吾屬幾陷於不義!」即引兵與漢軍及新市、平林合。於是諸部齊心同力,銳氣益壯。縯大饗軍士,設盟約,休卒三日,分為六部。十二月,晦,潛師夜起,襲取藍鄉,盡獲其輜重。 |
現代日本語訳下江軍五千余名が宜秋へ到着すると、劉縯(りゅうえん)はすぐに弟の劉秀(りゅうしゅう)と李通(りとう)を伴い陣営を訪れ、「下江軍の賢明な将軍にお会いして大事を相談したい」と申し出た。兵士たちが王常(おうじょう)を推挙すると、劉縯は連合の利益について説いた。王常は深く感得し「王莽(おうもう)の暴政に民衆は漢王朝を慕っている。劉氏復興こそ真の君主だ。力を尽くして大業を支えたい」と応じた。これに対し劉縯は「成功しても決して利益を独占しない」と誓い、深い絆を結んだ。 王常が帰還後、成丹(せいたん)や張卬(ちょうごう)らに経緯を伝えると、彼らは兵力を恃んで反発した。「大丈夫たる者、各自が主となれ。なぜ他人の指図を受けるのか」。王常は将兵を諭して言った。「王莽の苛政で民心は完全に離れた。民衆が漢を慕うのは長年の思いだ。天も民意に従い動く。大事を成すには『下は民心を得て、上は天命と合致せよ』との道理がある。武力や欲望だけでは天下を得ても必ず失う。秦の強勢でさえ滅びたのに、まして我々のような民間勢力が同じ過ちを繰り返せば敗れるのは必定だ」。 さらに続けた。「南陽の劉氏一族は深謀遠慮の才を示し王者の器量がある。彼らと連合すれば必ず大業は成る——これこそ天が与えた好機だ」と。下江軍の将兵たちは頑固で見識に欠けていたが、日頃から王常を敬っていたため「もし貴殿がいなければ我々は不義の道へ落ちるところだった」と謝罪した。こうして全軍は劉縯率いる漢軍および新市・平林の反乱軍と合流し、各部隊が結束して士気大いに高まった。 劉縯は盛大な宴で兵士を慰労し盟約を結んだ。三日間休養した後、六部隊に分かれて行動開始。十二月晦日(月末)、夜陰に乗じ藍郷へ奇襲をかけ敵の物資一切を奪取した。 解説1. 歴史的意義:連合劇がもたらした転機 2. 人間関係力学:三つの対比構造
3. 戦略的ポイント:勝利の方程式 4. 現代語訳の方針 Translation took 1960.6 seconds. |
| input text 資治通鑑\039_漢紀_31.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||||||
| 資治通鑑 卷三十九 漢紀三十一 起昭陽協洽,盡閼逢涒灘,凡二年。 淮陽王更始元年(癸未,公元二三年) 春,正月,甲子朔,漢兵與下江兵共攻甄阜、梁丘賜,斬之,殺士卒二萬餘人。王莽納言將軍嚴尤、秩宗將軍陳茂引兵欲據宛,劉縯與戰於淯陽下,大破之,遂圍宛。先是,青、徐賊眾雖數十萬人,訖無文書、號令、旌旗、部曲。及漢兵起,皆稱將軍,攻城略地,移書稱說。莽聞之,始懼。 舂陵戴侯曾孫玄在平林兵中,號更始將軍。時漢兵已十餘萬,諸將議以兵多而無所統一,欲立劉氏以從人望。南陽豪桀及王常等皆欲立劉縯;而新市、平林將帥樂放縱,憚縯威明,貪玄懦弱,先共定策立之,然後召縯示其議。縯曰:「諸將軍幸欲尊立宗室,甚厚,然今赤眉起青、徐,眾數十萬,聞南陽立宗室,恐赤眉復有所立,王莽未滅而宗室相攻,是疑天下而自損權,非所以破莽也。舂陵去宛三百里耳,遽自尊立,為天下准的,使後人得承吾敝,非計之善者也。不如且稱王以號令,王勢亦足以斬諸將。若赤眉所立者賢,相率而往從之,必不奪吾爵位。若無所立,破莽,降赤眉,然後舉尊號,亦未晚也。」諸將多曰:「善!」張卬拔劍擊地曰:「疑事無功,今日之議,不得有二!」眾皆從之。二月,辛巳朔,設壇場於淯水上沙中,玄即皇帝位,南面立,朝群臣;羞愧流汗,舉手不能言。 |
現代語訳淮陽王・更始元年(癸未、紀元23年) 春正月の甲子朔日(1月22日)、漢軍と下江軍が連合して甄阜と梁丘賜を攻撃し、両名を斬首した。さらに兵士二万余りを殺害した。王莽配下の納言将軍・厳尤と秩宗将軍・陳茂は宛城占拠を目指すも、劉縯(りゅうえん)に淯陽で迎撃され大敗し、漢軍は続けて宛城を包囲した。 以前より青州・徐州の反乱勢力数十万には文書組織や指揮系統が存在せず、旗印や部隊編成もなかった。しかし漢軍台頭後、「将軍」と自称して都市攻略を行うようになり、公文書で主張を通す様子に王莽は初めて恐怖を覚えた。 舂陵戴侯(しょうりょうたいこう)の曾孫・劉玄が平林兵内で「更始将軍」を称していた。漢軍勢力十余万に対し諸将は「兵力増加により指揮系統が必要だ」と協議、民衆支持を得るため劉氏皇帝擁立を決める。南陽豪族や王常らは劉縯推戴を望んだが、新市・平林の将帥たち(張卬〈ちょうごう〉など)は自由奔放な行動を好み、劉縯の威厳と才覚を恐れたため、柔弱な劉玄に目をつけた。彼らは先回りして密かに擁立策を決定し、事後に劉縯へ「既に決めた」と通告した。 これに対し劉縯は反論した: 「諸将が宗室(劉氏)の擁立を願うのは厚志だが、今や赤眉軍数十万が青州・徐州で蜂起している。南陽のみで皇帝即位すれば彼らも別の宗室を立てるだろう。王莽未滅なのに劉氏同士が争えば天下に疑念を与え自滅する」 「舂陵は宛城から三百里に過ぎぬ。性急に帝位につけば標的にされるだけだ。まず『王』と称し諸将を指揮すべきである。赤眉擁立者に賢人がいれば従えば爵位は保たれよう。もし彼らが誰も立てなければ、王莽滅亡後に帝号を掲げても遅くない」 諸将の多くは同意したが、張卬が剣で地面を叩いて怒鳴った: 「躊躇する者は失敗する!今日の決議に異論は認めぬ!」 全員がこれに従い、二月辛巳朔日(3月11日)、淯水河畔の砂地に壇場を築いた。劉玄が皇帝即位し南面して臣下を受けた際、汗だくで顔を赤らめ挙手したまま一言も発せなかった。 解説■歴史的意義王莽新朝末期における「更始政権」成立の決定的瞬間である。民衆蜂起軍が初めて皇帝擁立に踏み切ったことで、「漢王朝復興」運動は名目から現実政治へ移行した。 ■劉縯発言の本質反対論に見えて実際は「延期戦略」。核心は以下の三点: ■劉玄擁立劇の構造問題
■司馬光の筆致が示すもの
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| 於是大赦,改元,以族父良為國三老,王匡為定國上公,王鳳為成國上公,朱鮪為大司馬,劉縯為大司徒,陳牧為大司空,餘皆九卿將軍。由是豪桀失望,多不服。 王莽欲外示自安,乃染其鬚髮,立杜陵史諶女為皇后;置後宮,位號視公、卿、大夫、元士者凡百二十人。 莽赦天下,詔:「王匡、哀章等討青、徐盜賊,嚴尤、陳茂等討前隊丑虜,明告以生活、丹青之信。復迷惑不解散,將遣大司空、隆新公將百萬之師劋絕之矣。」 三月,王鳳與太常偏將軍劉秀等徇昆陽、定陵、郾,皆下之。 王莽聞嚴尤、陳茂敗,乃遣司空王邑馳傳,與司徒王尋發兵平定山東。征諸明兵法六十三家以備軍吏,以長人巨母霸為壘尉,又驅諸猛獸虎、豹、犀、象之屬以助威武。邑至洛陽,州郡各選精兵,牧守自將,定會者四十二萬人,號百萬;餘在道者,旌旗、輜重,千里不絕。夏,五月,尋、邑南出穎川,與嚴尤、陳茂合。 諸將見尋、邑兵盛,皆反走,入昆陽,惶怖,憂念妻孥,欲散歸諸城。劉秀曰:「今兵谷既少而外寇強大,並力御之,功庶可立;如欲分散,勢無俱全。且宛城未拔,不能相救;昆陽即拔,一日之間,諸部亦滅矣。今不同心膽,共舉功名,反欲守妻子財物邪!」諸將怒曰:「劉將軍何敢如是!」秀笑而起。會候騎還,言:「大兵且至城北,軍陳數百里,不見其後。 |
現代日本語訳そこで朝廷は大赦を実施し、年号を改めた。族父(王莽の同族の叔父)である良を国三老に任命し、王匡を定国上公に、王鳳を成国上公に、朱鮪を大司馬に、劉縯を大司徒に、陳牧を大司空とした。その他の者には九卿や将軍の地位を与えた。これにより豪傑たちは失望し、多くが服従しなかった。 王莽は外見的に平穏を装おうと、自らの髪とひげを黒く染め、杜陵出身の史諶(ししん)の娘を皇后に立てた。後宮には公・卿・大夫・元士に相当する位を持つ者120人を置いた。 王莽は天下に赦令を発布し詔勅で述べた。「王匡や哀章らは青州と徐州の盗賊を討伐せよ。厳尤(げんゆう)と陳茂らは前隊郡(南陽郡)の醜い敵虜を征討せよ。生きる道を与えること、降伏すれば赦すことを明確に告示しなさい。それでもなお迷って解散しないならば、大司空である隆新公(王邑)が百万の軍勢を率いて彼らを根絶やしにするであろう」 三月、王鳳は太常偏将軍・劉秀らとともに昆陽・定陵・郾などを攻略し、これら全てを陥落させた。 王莽は厳尤と陳茂が敗北したとの報告を受けると、司空の王邑に伝令車で急行させ、司徒の王尋と共に兵を発して山東(崤山以東)地域を平定せしめた。兵法に通じた63家の専門家を軍吏として招集し、長身の巨母霸(きょぼは)を塁尉(防衛指揮官)とした。さらに虎・豹・犀・象などの猛獣群を駆り立てて軍威強化を図った。王邑が洛陽に到着すると州や郡から精鋭部隊が選抜され、牧守みずから将兵を率いて集合した兵力は42万と号し「百万」と呼称された。道中の残存部隊を含めると旌旗(軍旗)や輜重隊(補給部隊)の列が千里に渡って途切れなかった。夏五月、王尋と王邑は南進して潁川に出て厳尤・陳茂両軍と合流した。 諸将兵らが王尋・王邑率いる大軍を目撃すると皆撤退し昆陽城内へ逃げ込んだ。恐怖に震え妻子への懸念から各城へ散りたいと言い出す者もいた。この時劉秀は言った。「今我々の食糧と兵力は少ないが、敵勢力は強大だ。力を合わせて防衛すれば成功できる可能性がある。しかし分散したら全滅するだけだ。宛城(南陽郡)はまだ陥落しておらず救援も来ぬ。もし昆陽を落とされたら一日で諸部隊も壊滅してしまう。今こそ心胆を一つにして功名を挙げようではないか、妻子や財産に固執するべき時ではあるまい!」すると将軍たちは怒って「劉将軍が何を生意気な!」と言った。劉秀は笑って立ち上がるその瞬間、偵察騎兵から報告があった。「敵大軍が城北に迫り陣形の広さ数百里で後尾も見えません」 解説
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| 」諸將素輕秀,及迫急,乃相謂曰:「更請劉將軍計之。」秀復為圖畫成敗,諸將皆曰:「諾。」時城中唯有八九千人,秀使王鳳與廷尉大將軍王常守昆陽,夜與五威將軍李軼等十三騎出城南門,於外收兵。時莽兵到城下者且十萬,秀等幾不得出。尋、邑縱兵圍昆陽,嚴尤說邑曰:「昆陽城小而堅,今假號者在宛,亟進大兵,彼必奔走。宛敗,昆陽自服。」邑曰:「吾昔圍翟義,坐不生得以見責讓。今將百萬之眾,遇城而不能下,非所以示威也。當先屠此城,蹀血而進,前歌後舞,顧不快邪!」遂圍之數十重,列營百數,鉦鼓之聲聞數十里,或為地道、沖輣撞城;積弩亂髮,矢下如雨,城中負戶而汲。王鳳等乞降,不許。尋、邑自以為功在漏刻,不以軍事為憂。嚴尤曰:「《兵法》:『圍城為之闕』,宜使得逸出以怖宛下。」邑又不聽。 棘陽守長岑彭與前隊貳嚴說共守宛城,漢兵攻之數月,城中人相食,乃舉城降。更始入都之。諸將欲殺彭,劉縯曰:「彭,郡之大吏,執心堅守,是其節也。今舉大事,當表義士,不如封之。」更始乃封彭為歸德侯。 劉秀至郾、定陵,悉發諸營兵。諸將貪惜財物,欲分兵守之。秀曰:「今若破敵,珍寶萬倍,大功可成;如為所敗,首領無餘,何財物之有!」乃悉發之。 六月,己卯朔,秀與諸營俱進,自將步騎千餘為前鋒,去大軍四五里而陳;尋、邑亦遣兵數千合成,秀奔之,斬首數十級。 |
現代日本語訳将軍たちは元々劉秀を見下していたが、窮地に陥ると互いに言った:「改めて劉将軍の指示を仰ごう」。劉秀は再び作戦図を示し勝敗を説明すると、諸将は皆「承知した」と応じた。当時城内にはわずか八、九千の兵しかおらず、劉秀は王鳳と廷尉大将軍・王常に昆陽城守備を任せ、夜陰に乗じて五威将軍・李軼ら十三騎と共に城南門から脱出し城外で兵力集結を図った。この時すでに王莽の大軍十万が城下に迫っており、劉秀らは危うく脱出を阻まれそうになった。 間もなく甄尋(シン)と王邑(ユウ)が全軍で昆陽を包囲した。厳尤(ゲンユウ)が進言:「昆陽城は小さいが堅固です。偽皇帝(更始帝)は宛城におりますから、主力部隊で急襲すれば敵は必ず敗走するでしょう」。だが王邑は拒絶:「かつて翟義(テキギ)を包囲した時、生け捕りに失敗して叱責された。今や百万の大軍を持ちながら一城も落とせぬとなれば威信が立たない。まずこの街を殲滅し血路を開いて進撃すべきだ」。こうして数十重にも及ぶ包囲網を敷き、百以上の陣営を築いた。 征鼓(ドラ太鼓)の音は数十里先まで響き渡り、地下道掘削や衝車による城壁破壊が行われた。弩兵が乱射する矢は雨のように降り注ぎ、城内では門板を盾に水汲みに行く有様だった。王鳳らが投降を申し出るも拒絶されると、甄尋と王邑は勝利目前と考え軍務を軽視した。これを見た厳尤は再度警告:「兵法に『包囲網には必ず逃げ道を作れ』とあります」。だが王邑は聞き入れなかった。 ※ ※ ※ 棘陽守備隊長の岑彭(シンホウ)が前隊副将・厳説(ゲンセツ)と共に宛城を死守していた。漢軍による数ヶ月の包囲で城内では人肉食が発生し、ついに開城降伏した。更始帝が入城すると諸将は岑彭処刑を要求したが、劉縯(リュウエン)が反論:「彼は郡高官として忠節を貫いたのだ。大業成就には義士を顕彰すべきだ」。これを受け更始帝は岑彭を帰徳侯に封じた。 ※ ※ ※ 劉秀が郾城と定陵に到着すると全軍動員を指令した。だが諸将は財宝保全のため分屯継続を主張する。劉秀は一喝:「今勝利すれば珍宝は万倍になる!敗れれば命すら保てぬ――財産など無意味だ!」こうして全兵力が結集された。 ※ ※ ※ 6月1日、劉秀は各陣営と共に進軍し、自ら歩騎千余りを率いて主力の4~5里前方で布陣した。甄尋・王邑も数千の兵を繰り出すと、劉秀は猛然と突撃して数十名を斬った。 解説【戦略分析】
【歴史的意義】本場面は「昆陽の戦い」前哨戦として: 1. 兵力差 10万 vs 8千という絶望的状況下で 2. 劉秀主導の奇襲作戦(十三騎脱出→外部兵集結)が 3. 「新末後漢初」最大決戦への転機を作った 特に岑彭降伏劇は重要: - 後に後漢建国の功臣となる人物を劉縯が庇護 - 兄・劉縯の人物眼と度量を示す場面(間もなく更始帝配下で暗殺される) 【人間模様】王邑の発言に顕著な「過去のトラウマ」: - 翟義生捕り失敗体験 → 過剰な功名心へ転化 - 「血路を開く」という暴論が慢心と焦燥を示唆 【兵法応用】原文引用された『孫子』の教え:
この原理を無視した王邑軍が、後に劉秀率いる援軍に大敗する(昆陽の戦い本戦)のは歴史の皮肉である。 Translation took 2452.7 seconds. |
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| 諸將喜曰:「劉將軍平生見小敵怯,今見大敵勇,甚可怪也!且復居前,請助將軍!」秀復進,尋、邑兵卻,諸部共乘之,斬首數百千級。連勝,遂前,諸將膽氣益壯,無不一當百,秀乃與敢死者三千人從城西水上衝其中堅。尋、邑易之,自將萬餘人行陳,敕諸營皆按部毋得動,獨迎與漢兵戰,不利,大軍不敢擅相救。尋、邑陳亂,漢兵乘銳崩之,遂殺王尋。城中亦鼓噪而出,中外合勢,震呼動天地。莽兵大潰,走者相騰踐,伏屍百餘里。會大雷、風、屋瓦皆飛,雨下如注,滍川盛溢,虎豹皆股戰,士卒赴水溺死者以萬數,水為不流。王邑、嚴尤、陳茂輕騎乘死人度水逃去,盡獲其軍實輜重,不可勝算,舉之連月不盡,或燔燒其餘。士卒奔走,各還其郡,王邑獨與所將長安勇敢數千人還洛陽,關中聞之震恐。於是海內豪桀翕然響應,皆殺其牧守,自稱將軍,用漢年號以待詔命。旬月之間,遍於天下。 莽聞漢兵言莽鴆殺孝平皇帝,乃會公卿於王路堂,開所為平帝請命金縢之策,泣以示群臣。 劉秀復徇穎川,攻父城不下,屯兵巾車鄉。穎川郡掾馮異監五縣,為漢兵所獲。異曰:「異有老母在父城,願歸,據五城以效功報德!」秀許之。異歸,謂父城長苗萌曰:「諸將多暴橫,獨劉將軍所到不虜略,觀其言語舉止,非庸人也。」遂與萌率五縣以降。 |
現代日本語訳将軍たちは喜んで言った。「劉秀(りゅうしゅう)将軍は普段なら小勢の敵には臆病なのに、今や大軍を前にして勇猛とは実に不思議だ!自ら先陣を切ってくれれば、我々も力を貸そう!」。劉秀が再び進撃すると、王尋(おうじん)・王邑(おうゆう)の軍は後退し、各部隊が一斉に攻勢に出て数百から数千もの首級を挙げた。 連勝した漢軍は前進を続け、将兵たちの士気はますます高まり、一人で百人分も戦うほどの奮闘を見せた。劉秀は決死隊三千を率いて城西の水上から敵の中核部隊に突撃。王尋らがこれを軽視し、自ら万余りの兵を率いて陣形を整え「各部隊は動くな」と厳命したため、単独で漢軍と交戦するも劣勢に陥った。主力部隊は命令なく救援できず、王尋の陣は混乱。漢軍がその勢いに乗じて崩すと、ついに王尋を討ち取った。 城内からも喊声(かんせい)とともに兵が打って出て内外挟撃となり、天地を震わすほどの喚声が上がる。新(しん)王朝の軍は大敗し、逃げ惑う兵士らは互いに踏みつけ合い、百余里にわたって死体が累々とした。 折しも激しい雷雨と暴風が起こり、屋根瓦が飛び散る中、大雨で滍川(ちせん)が氾濫。虎や豹までも足を震わせ、溺死する兵士は数万に及び、流れは死体で塞がれた。王邑・厳尤(げんゆう)・陳茂(ちんも)らは軽装備で死体を踏み台にして川を渡り逃走。漢軍は膨大な兵器や物資を鹵獲(ろかく)し、数ヶ月かかっても運びきれず、余剰分は焼却した。 敗走する兵士たちはそれぞれ故郷へ帰還し、王邑だけが長安から連れた精鋭数千とともに洛陽に逃げ込んだ。この報せに関中(かんちゅう)は震撼。これにより各地の豪傑が一斉に呼応して太守を殺害し「漢」の年号を用い、自ら将軍と称して詔勅(しょうちょく)待ちとなった。月も満たぬうちに反乱は全土に拡大した。 一方、王莽(おうもう)は「自分が孝平帝を毒殺した」との漢軍の宣伝を聞き、王路堂に高官を集めると、かつて平帝のために祈った金縢(きんとう)の文書を開示。涙ながらに臣下に見せつけた。 劉秀が再び潁川郡(えいせんぐん)へ進軍した際、父城を攻めあぐね巾車郷で駐屯すると、同郡の役人・馮異(ふうい)が捕らえられた。彼は「老母が父城にいるので帰還させてほしい。五県を守って恩に報いたい」と懇願し劉秀は許可した。馮異は戻ると父城長の苗萌(びょうほう)へ言った。「諸将は暴虐だが、劉秀将軍だけが略奪せず、その言行は並みの人物ではない」。こうして二人は五県を率いて降伏したのだ。 解説
※注:歴史用語は現代日本語で再構成(例:「金縢之策」→「祈願文書」、「敢死者」→「決死隊」)。固有名詞以外の漢語表現を平易な口語体に変換し、史書特有のリズムを損なわない範囲で可読性を優先しました。 Translation took 1176.1 seconds. |
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| 新市、平林諸將以劉縯兄弟威名益盛,陰勸更始除之。秀謂縯曰:「事欲不善。」縯笑曰:「常如是耳。」更始大會諸將,取縯寶劍視之。繡衣御史申徒建隨獻玉玦,更始不敢發。縯舅樊宏謂縯曰:「建得無有范增之意乎?」縯不應。李軼初與縯兄弟善,後更諂事新貴。秀戒縯曰:「此人不可覆信。」縯不從。縯部將劉稷,勇冠三軍,聞更始立,怒曰:「本起兵圖大事者,伯升兄弟也。今更始何為者邪!」更始以稷為抗威將軍,稷不肯拜。更始乃與諸將陳兵數千人,先收稷,將誅之,縯固爭。李軼、朱鮪因勸更始並執縯,即日殺之。以族兄光祿勳賜為大司徒。秀聞之,自父城馳詣宛謝。司徒官屬迎吊秀,秀不與交私語,惟深引過而已,未嘗自伐昆陽之功;又不敢為縯服喪,飲食言笑如平常。更始以是慚,拜秀為破虜大將軍,封武信侯。 道士西門君惠謂王莽衛將軍王涉曰:「讖文劉氏當復興,國師公姓名是也。」涉遂與國師公劉秀、大司馬董忠、司中大贅孫人及謀以所部兵劫莽降漢,以全宗族。秋,七月,人及以其謀告莽,莽召忠詰責,因格殺之,使虎賁以斬馬劍剉忠,收其宗族,以醇醯、毒藥、白刃、叢棘並一坎而埋之;秀、涉皆自殺。莽以其骨肉、舊臣,惡其內潰,故隱其誅。莽以軍師外破,大臣內畔,左右亡所信,不能復遠念郡國,乃召王邑還,為大司馬,以大長秋張邯為大司徒,崔發為大司空,司中壽容苗訢為國師。 |
現代日本語訳新市・平林軍の将領たちは劉縯(りゅうえん)兄弟の名声が高まるにつれ、密かに更始帝に彼らを排除するよう進言した。劉秀(光武帝)が兄・劉縯に「事態は危険だ」と警告すると、劉縯は笑って「いつものことさ」と答えた。ある時、更始帝が諸将の会議で劉縯の宝剣を取り上げて眺めた。繍衣御史(監察官)・申徒建(しんとけん)が続けて玉玦(決断を促す符)を献上したが、更始帝は実行できなかった。 劉縯の叔父・樊宏(はんこう)が「申徒建は范増(項羽の参謀)のような意図があるのではないか」と問うたが、劉縯は無視。李軼(りいつ)という人物は当初劉縯兄弟に協力的だったが、新興勢力におもねるようになったため、劉秀は「彼を信用するな」と諫めたが聞き入れられない。 劉縯配下の猛将・劉稷(りゅうしょく)は更始帝即位を知って激怒。「挙兵したのは劉伯升(劉縯)兄弟だ。更始とは何者か!」と公言。抗威将軍に任命されても拝礼せず、これが原因で捕らえられた。劉稷の処刑を巡り劉縯が強硬に反論すると、李軼や朱鮪(しゅかい)は「劉縯も逮捕すべし」と主張。更始帝はその日のうちに兄弟を殺害した。 この報せを受けた劉秀は父城から宛へ駆けつけて謝罪した。兄の後任として大司徒となった族兄・劉賜(りゅうし)の部下が弔問に来ても、私語は一切交わさず「全ては自分の過ちだ」と繰り返すのみ。昆陽での戦功を口にせず喪服も着けぬ平然とした態度を見た更始帝は逆に恥じ入り、劉秀を破虜大将軍・武信侯に封じて慰撫した。 一方、道士の西門君惠(せいもんくんけい)が王莽配下の将軍・王渉(おうしょう)に「予言では劉氏復興とある。国師公こそ真命天子だ」と勧めたため、王渉は国師公・劉秀(同名別人)、大司馬・董忠らと共謀し皇帝廃位を計画したが、秋七月に仲間の孫人及(そんじんきゅう)から密告を受けた王莽は直ちに粛清。董忠一族には斬殺後に酢漬け・毒薬まみれという苛烈な処刑を行い、劉秀と王渉は自決した。 朝廷内外で信用を失った王莽は地方統治すら放棄し、前線から王邑(おうゆう)を呼び戻して大司馬に任命。張邯・崔発・苗訢ら側近のみで政権維持を図るが、もはや瓦解寸前であった。 解説
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| 莽憂懣不能食,但飲酒,啖鰒魚;讀軍書倦,因馮幾寐,不復就枕矣。 成紀隗崔、隗義、上邽楊廣、冀人周宗同起兵以應漢,眾數千人,攻平襄,殺莽鎮戎大尹李育。崔兄子囂,素有名,好經書,崔等共推為上將軍。崔為白虎將軍,義為左將軍。囂遣使聘平陵方望,以為軍師。望說囂立高廟於邑東。己巳,祀高祖、太宗、世宗,囂等皆稱臣執事,殺馬同盟,以興輔劉宗;移檄郡國,數莽罪惡。勒兵十萬,擊殺雍州牧陳慶、安定大尹王向。分遣諸將徇隴西、武都、金城、武威、張掖、酒泉、敦煌,皆下之。 初,茂陵公孫述為清水長,有能名;遷導江卒正,治臨邛。漢兵起,南陽宗成、商人王岑起兵徇漢中以應漢,殺王莽庸部牧宋遵,眾合數萬人。述遣使迎成等,成等至成都,虜掠暴橫。述召群中豪桀謂曰:「天下同苦新室,思劉氏久矣,故聞漢將軍到,馳迎道路。今百姓無辜而婦子係獲,此寇賊,非義兵也。」乃使人詐稱漢使者,假述輔漢將軍、蜀郡太守兼益州牧印綬;選精兵西擊成等,殺之,並其眾。 前鐘武侯劉望起兵汝南,嚴尤、陳茂往歸之;八月,望即帝位,以尤為大司馬,茂為丞相。 王莽使太師王匡、國將哀章守洛陽。更始遣定國上公王匡攻洛陽,西屏大將軍申屠建、丞相司直李松攻武關,三輔震動。析人鄧曄、於匡起兵南鄉以應漢,攻武關都尉朱萌,萌降;進攻右隊大夫宋綱,殺之;西拔湖。 |
現代日本語訳:王莽は憂いと憤りで食事も喉を通らず、ただ酒を飲み干し、ふぐだけを口にした。軍書を読むのに疲れると机にもたれてうつらうつらし、枕には就かなかった。 成紀の隗崔(かいさい)と隗義(かいぎ)、上邽の楊広(ようこう)、冀州出身の周宗(しゅそう)が連合して挙兵し漢軍に呼応した。数千人の兵力で平襄を攻め落とし、王莽配下の鎮戎大尹・李育(りいく)を殺害した。隗崔の甥である隗囂(かいごう)は評判が高く経書にも通じていたため、一同に推されて上将軍となった。隗崔は白虎将軍、隗義は左将軍に任命された。隗囂は使者を平陵の方望(ほうぼう)のもとに送り軍師として招いた。方望の進言で邑の東に高祖廟を建立し、己巳の日に劉邦・文帝・武帝を祀ると、隗囂らは皆臣下として祭祀を行い、馬を犠牲にして同盟を結び「劉氏王朝再興」を誓った。檄文を全国に飛ばして王莽の罪状を列挙し、十万の兵で雍州牧・陳慶(ちんけい)と安定大尹・王向(おうこう)を討ち取る。 さらに諸将を隴西・武都・金城・武威・張掖・酒泉・敦煌へ派遣し、これらを全て制圧した。 一方、茂陵の公孫述(こうそんじゅつ)は清水県令として名声を得た後、導江卒正に昇進して臨邛を治めていた。漢軍挙兵の報を受けると、南陽の宗成(そうせい)や商人・王岑(おうしん)が漢中で呼応し、王莽配下の庸部牧・宋遵(そうじゅん)を殺害して数万の兵力となった。公孫述は彼らを成都に迎え入れたが、宗成らは略奪暴行を繰り返した。これを見た公孫述は豪族たちに「民衆は新王朝に苦しみ劉氏復興を待ち望んでいるのに、今や無実の者が虐げられている。これは義兵ではなく賊だ」と宣言。偽りの漢使者を立てて自らを輔漢将軍・蜀郡太守兼益州牧に任命すると称し、精鋭部隊で宗成らを討伐してその兵力を吸収した。 また汝南では前鐘武侯・劉望(りゅうぼう)が挙兵し、王莽から離反した厳尤(げんゆう)と陳茂(ちんも)が合流。八月に劉望は帝位につき、厳尤を大司馬、陳茂を丞相とした。 これに対し王莽は太師・王匡(おうきょう)と国将・哀章(あいしょう)に洛陽の守備を命じたが、更始帝軍は定国上公・王匡を派遣して洛陽へ進撃させ、西屏大将軍・申屠建(しんとけん)と丞相司直・李松(りしょう)には武関攻略に向かわせて三輔地域を震撼させた。析県の鄧曄(とうよう)と于匡(うきょう)も南郷で挙兵して漢軍に呼応し、武関都尉・朱萌(しゅほう)を降伏させると右隊大夫・宋綱(そうこう)を殺害し、さらに西進して湖県を陥落させた。 解説:
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| 莽愈憂,不知所出。崔發言:「古者國有大災,則哭以厭之。宜告天以求救。」莽乃率群臣至南郊,陳其符命本末,仰天大哭,氣盡,伏而叩頭。諸生、小民旦夕會哭,為設飧粥;甚悲哀者,除以為郎,郎至五千餘人。莽拜將軍九人,皆以虎為號,將北軍精兵數萬人以東,內其妻子宮中以為質。時省中黃金尚六十餘萬斤,它財物稱是,莽愈愛之,賜九虎士人四千錢;眾重怨,無鬥意。九虎至華陰回谿,距隘自守。於匡、鄧曄擊之,六虎敗走;二虎詣闕歸死,莽使使責死者安在,皆自殺;其四虎亡。三虎收散卒保渭口京師倉。鄧曄開武關迎漢兵。李松將三千餘人至湖,與曄等共攻京師倉,未下。曄以弘農掾王憲為校尉,將數百人北度渭,入左馮翊界。李松遣偏將軍韓臣等徑西至新豐擊破莽波水將軍,追奔至長門宮。王憲北至頻陽,所過迎降。諸縣大姓名各起兵稱漢將,率眾隨憲。李松、鄧曄引軍至華陰,而長安旁兵四會城下;又聞天水隗氏方到,皆爭欲先入城,貪立大功、鹵掠之利。莽赦城中囚徒,皆授兵,殺豨,飲其血,與誓曰:「有不為新室者,社鬼記之!」使更始將軍史諶將之。度渭橋,皆散走;諶空還。眾兵發掘莽妻、子、父、祖塚,燒其棺槨及九廟、明堂、辟雍,火照城中。 九月,戊申朔,兵從宣平城門入。張邯逢兵見殺;王邑、王林、王巡、帶足惲等分將兵距擊北闕下,會日暮,官府、邸第盡奔亡。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)王莽は焦慮を深める一方で打開策を見出せずにいた。側近の崔発が進言した。「古来、国家に大災いがあれば哭礼をもって鎮めて参りました。天に救済を祈願すべきです」。これを受け王莽は臣下たちを率いて南郊へ赴き、自らの帝位継承の根拠となる符命(瑞兆)に関する経緯を詳述し、天に向かって慟哭した。息も絶えんばかりに泣き伏して頭を地面に叩きつけた。これを見た学者や庶民は昼夜問わず集まって号泣するため、朝廷が粥の炊き出しを行った。特に悲嘆にくれる者には郎官(宮廷警護役)への登用という特例措置を取り、その数は五千人を超えた。 王莽は九人の将軍を任命して全員に「虎」の称号を与え、「九虎将軍」率いる北軍精鋭数万を東方へ出陣させた。妻子らは宮殿内に留め置かれ人質とされた。当時、官庫には金六十余万斤(約150トン)を含む莫大な財貨が保管されていたにもかかわらず、王莽は九虎将軍配下の兵士一人につき僅か四千銭しか与えなかったため、将兵の怨嗟は頂点に達し戦意は皆無だった。 華陰県回谿(地名)で隘路を守る九虎部隊に対し、于匡と鄧曄が攻撃を仕掛ける。六人の「虎」は敗走し、二人は都へ戻って処罰を請うたものの、王莽が「死んだ将軍たちはどこだ?」と詰問したため自害に追い込まれ、残る四人も逃亡した。三匹の「虎」だけが散兵を集めて渭水河口の京師倉(食糧貯蔵庫)で防衛線を張った頃、鄧曄は武関城門を開いて漢軍(反乱軍)を迎え入れた。 李松率いる三千余りの部隊が湖県に到着し鄧曄軍と合流して京師倉を攻めたが陥落できず。鄧曄は弘農郡の役人・王憲を校尉に抜擢し、数百名の兵で渭水北岸へ進撃させた。一方李松配下の韓臣ら偏将軍部隊は西進して新豊で莽軍の波水将軍を打ち破り、敗走する敵を長門宮まで追撃した。 王憲が頻陽に至る道中では通過地の諸県が次々と降伏。各地の豪族たちも「漢」を名乗って挙兵し、その勢力は雪だるま式に膨れ上がった。李松・鄧曄軍が華陰へ進駐する間、長安近郊で蜂起した反乱部隊が四方から都へ殺到。天水郡の隗囂(かいごう)大軍団接近の報せが入ると、諸将は功績争いと略奪を目当てに我先にと城門突破を企てた。 王莽は城内囚人全員を赦免し武器を与えた上で猪を生贄として捧げ、その血を啜らせながら誓わせる。「新王朝(王莽政権)のために戦わぬ者は地霊が罰するぞ!」。更始将軍・史諶に指揮させ渭水橋へ向かわせたが囚人部隊は瞬時に逃走し、史諶は単身で帰還した。 怒り狂った反乱兵たちは王莽の妻子や祖先の墓を暴き棺桶を焼き払う。さらに九廟(皇室祭祀施設)・明堂(儀式殿)・辟雍(大学)に放火し、炎上する建物が都全体を赤く染めた。 同年9月1日、反乱軍は宣平城門から突入した。王莽の重臣・張邯は路上で遭遇して惨殺される。王邑や王林ら残存将軍たちが北宮門付近で必死に防戦するも日没とともに壊滅。官庁舎や貴族屋敷では逃亡者が溢れ返った。 解説
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| 己酉,城中少年朱弟、張魚等恐見鹵掠,趨讙並和,燒作室門,斧敬法闥,呼曰:「反虜王莽,何不出降!」火及掖庭、承明,黃皇室主所居。黃皇室主曰:「何面目以見漢家!」自投火中而死。 莽避火宣室前殿,火輒隨之。莽紺袀服,持虞帝匕首,天文郎按式於前,莽旋席隨斗柄而坐,曰:「天生德於予,漢兵其如予何!」庚戌,旦明,群臣扶掖莽自前殿之漸台,欲阻池水,公卿從官尚千餘人隨之。王邑晝夜戰,罷極,士死傷略盡;馳入宮,間關至漸台,見其子侍中睦解衣冠欲逃,邑叱之,令還,父子共守莽。軍人入殿中,聞莽在漸台,眾共圍之數百重。台上猶與相射,矢盡,短兵接。王邑父子、帶++足惲、王巡戰死,莽入室。下餔時,眾兵上台,苗訢、唐尊、王盛等皆死。商人杜吳殺莽,校尉東海公賓就斬莽首;軍人分莽身,節解臠分,爭相殺者數十人。公賓就持莽首詣王憲。憲自稱漢大將軍,城中兵數十萬皆屬焉。捨東宮,妻莽後宮,乘其車服。癸丑,李松、鄧曄入長安,將軍趙萌、申屠建亦至。以王憲得璽綬不上,多挾宮女,建天子鼓旗,收斬之。傳莽首詣宛,縣於市。百姓共提擊之,或切食其舌。 班固贊曰:王莽始起外戚,折節力行以要名譽,及居位輔政,勤勞國家,直道而行,豈所謂「色取仁而行違」者邪!莽既不仁而有佞邪之材,又乘四父歷世之權,遭漢中微,國統三絕,而太后壽考,為之宗主,故得肆其奸慝以成篡盜之禍。 |
現代日本語訳己酉の日、長安城内の若者・朱弟(しゅてい)と張魚(ちょうぎょ)らは略奪に遭うことを恐れ、群衆を煽り集めて結束した。彼らは作室門(工房の門)へ火を放ち、敬法闥(宮廷の門)を斧で破壊し、「逆賊・王莽(おうもう)、なぜ降伏しないのか!」と叫んだ。炎は掖庭(後宮)や承明殿に燃え広がり、黄皇室主(王莽の娘で平帝の皇后)の居室にも迫った。彼女は「漢王朝に何の顔向けがあろうか」と言い残し、火中へ身を投じて死んだ。 王莽は宣室前殿に避難したが炎は追撃するように迫る。王莽は紺色の礼服を着て虞帝(舜)伝来の短剣を持ち、天文郎(占星官)が式盤(占具)を示す中で玉座を回転させ北斗七星の柄杓の方向へ座り直し、「天は私に徳を与えた。漢軍ごときが私に何ができようか」と宣言した。 庚戌の日の夜明け、臣下たちは王莽を支えて前殿から漸台(池中楼閣)へ移動させた。水堀で防衛しようとしたのである。公卿以下の従官千名以上がこれに続いた。王邑(おうゆう・配下の将軍)は昼夜問わず戦ったが疲労困憊し、兵士もほぼ全滅した。彼は単騎宮中へ突入し漸台に辿り着くと、息子で侍中の王睦(おうぼく)が衣冠を脱ぎ逃亡しようとしているのを見つけ、「戻れ」と叱咤して父子で共に王莽を守護した。 兵士たちは宮殿内へ乱入し漸台に王莽がいると知るや数百重にも包囲。台上では矢を射掛けたが尽きると白兵戦となった。王邑親子、帶足惲(たいそくうん)、王巡(おうじゅん)らは戦死し、王莽だけが建物内へ退いた。夕暮れ時、敵兵が漸台に殺到すると苗訢(びょうきん)、唐尊(とうそん)、王盛(おうせい)ら重臣も尽く討たれた。商人の杜呉(とご)が王莽を斬り殺し、校尉・公賓就(こうひんしゅう)がその首級を刎ねると、兵士たちは遺体を切り刻んで肉片を奪い合い数十人が争死した。 公賓就は王莽の首を持って王憲(おうけん)のもとへ赴いた。王憲は「漢王朝大将軍」を自称し城内兵力数十万を掌握すると、東宮に居座り前皇帝の后妃らを妻妾とし、車輌や服飾品も簒奪した。 癸丑の日、李松(りしょう)・鄧曄(とうよう)が長安に入城し趙萌(ちょうほう)、申屠建(しんとけん)率いる軍勢も到着。王憲は皇帝の璽綬を押収しながら献上せず宮女らを私物化、天子用の旗鼓まで使用したため処刑された。 こうして王莽の首級は宛城へ送られ市に晒されると、民衆が順番に殴打し舌を切り取って食う者も現れた。 班固の評は次の通りである:王莽は最初、外戚として身を起こし、自ら節制して実践することで名声を得ようとした。高位に就き政務を補佐する立場になると、国家のために尽力し、正しい道筋で行動した──これはまさしく「表面上は仁義を示しながら裏ではそれに背く」という類の人物だろうか! しかし王莽には仁徳が欠けていた上にお世辞や悪知恵に長けており、四代続いた外戚(王家)の権力を背景としていた。ちょうど漢王朝が衰退し、皇統が三度も途絶える中で、長寿の太后が実質的な君主として存在したため、王莽は奸計を弄して簒奪という禍いを成し遂げることができた。 解説
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| 推是言之,亦天時,非人力之致矣!及其竊位南面,顛覆之勢險於桀、紂,而莽晏然自以黃、虞復出也,乃始恣睢,奮其威詐,毒流諸夏,亂延蠻貉,猶未足逞其欲焉。是以四海之內,囂然喪其樂生之心,中外憤怨,遠近俱發,城池不守,支體分裂,遂令天下城邑為虛,害遍生民,自書傳所載亂臣賊子,考其禍敗,未有如莽之甚者也!昔秦燔《詩》、《書》以立私議,莽誦《六藝》以文奸言,同歸殊塗,俱用滅亡。皆聖王之驅除云爾。 定國上公王匡拔洛陽,生縛莽太師王匡、哀章,皆斬之。冬,十月,奮威大將軍劉信擊殺劉望於汝南,並誅嚴尤、陳茂,郡縣皆降。 更始將都洛陽,以劉秀行司隸校尉,使前整修宮府。秀乃致僚屬,作文移,從事司察,一如舊章。時三輔吏士東迎更始,見諸將過,皆冠幘而服婦人衣,莫不笑之。及見司隸僚屬,皆歡喜不自勝,老吏或垂涕曰:「不圖今日復見漢官威儀!」由是識者皆屬心焉。 更始北都洛陽,分遣使者徇郡國,曰:「先降者復爵位!」使者至上谷,上谷太守扶風耿況迎,上印綬;使者納之,一宿,無還意。功曹寇恂勒兵入見使者,請之,使者不與,曰:「天王使者,功曹欲脅之邪!」恂曰:「非敢脅使君,竊傷計之不詳也。今天下初定,使君建節銜命,郡國莫不延頸傾耳。今始至上谷而先墮大信,將復何以號令他郡乎!」使者不應。 |
現代日本語訳:この点から考えるならば、天運によるものであって人力だけで成し遂げられたものではない。だが帝位を盗んで君主の座に就いてからの崩壊への傾きは夏の桀王や殷の紂王よりも激しかったのに、王莽は平然と自らが黄帝・舜のような聖王の再来だと信じ込み、威嚇と欺瞞を振るって暴政を行い、その毒害は中華全土に広がり異民族地域まで混乱をもたらした。それでもなお欲望を満たせず、ついに天下の人々は生きることへの意欲を見失って騒然となり、朝廷内外で怒怨が爆発して遠近問わず反乱が起こった結果、城壁は守られず国土は分断され、全ての都市は廃虚と化した。この災禍は民衆全体に及び、歴史書に記される逆臣賊子の中でその破滅の甚だしさにおいて王莽を超える者は存在しない。 かつて秦王朝が『詩経』や『書経』を焚焼して私的な思想統制を行ったように、王莽もまた儒教六芸(礼・楽・射・御・書・数)を唱えて悪事に正当性を与えた。方法こそ異なるものの共に滅亡へ至り、いずれも真の聖王が天下を得る前に歴史が掃除した存在と言えるのである。 定国上公・王匡が洛陽を陥落させると、王莽政権の太師である同名の王匡と哀章を生け捕りにし斬首した。冬十月には奮威大将軍・劉信が汝南で劉望を討ち取ると同時に厳尤や陳茂も誅殺し、諸郡県はすべて降伏した。 更始帝(劉玄)の洛陽遷都決定を受け、行司隸校尉に任命された劉秀は宮殿整備を命じられる。彼は配下官吏を召集して公文書を作成させ監察業務を従来通り厳格に行わせた。当時三輔地域(長安周辺)から更始帝を迎えようとした役人や兵士が諸将の行列を見ると、皆庶民風の被り物に婦人のような衣装という有様で失笑せざるを得なかった。しかし司隸校尉配下の官吏たちの姿を見た途端、誰もが感激しきって「まさか今日また漢王朝の威厳ある儀礼を目にするとは!」と涙する古参役人まで現れた。これにより見識者は皆劉秀に心服したのである。 更始帝が洛陽へ遷都すると、「先に降伏すれば爵位を回復させる」との詔書を持った使者を各地へ派遣した。上谷郡では太守・耿況(扶風出身)が印綬を捧げて恭順を示すも、使者は一晩中これを返還しようとしない。功曹の寇恂が兵士を率いて抗議すると「天子の使者に無礼か」と拒絶されたため、「威嚇など致しません。ただ貴官の方針を憂うのです——天下平定当初で、節(権限証)を持つ使者への期待は全国共通ですのに上谷郡であっさり信義を裏切れば他地域へどう命令を通せましょう?」と諫言したが使者は聞き入れなかった。 解説:
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| 恂叱左右以使者命召況;況至,恂進取印綬帶況。使者不得已,乃承製詔之,況受而歸。宛人彭寵、吳漢亡命在漁陽,鄉人韓鴻為更始使,徇北州,承製拜寵偏將軍,行漁陽太守事,以漢為安樂令。更始遣使降赤眉。樊崇等聞漢室復興,即留其兵,將渠帥二十餘人隨使者至洛陽,更始皆封為列侯。崇等既未有國邑,而留眾稍有離叛者,乃覆亡歸其營。 王莽廬江連率穎川李憲據郡自守,稱淮南王。 故梁王立之子永詣洛陽;更始封為梁王,都睢陽。 更始欲令親近大將徇河北,大司徒賜言:「諸家子獨有文叔可用。」朱鮪等以為不可,更始狐疑,賜深勸之。更始乃以劉秀行大司馬事,持節北渡河,鎮慰州郡。 以大司徒賜為丞相,令先入關修宗廟、宮室。 大司馬秀至河北,所過郡縣,考察官吏,黜陟能否,平遣囚徒,除王莽苛政,復漢官名。吏民喜悅,爭持牛酒迎勞,秀皆不受。南陽鄧禹杖策追秀,及於鄴。秀曰:「我得專封拜,生遠來,寧欲仕乎?」禹曰:「不願也。」秀曰:「即如是,何欲為?」禹曰:「但願明公威德加於四海,禹得效其尺寸,垂功名於竹帛耳!」秀笑,因留宿間語。禹進說曰:「今山東未安,赤眉、青犢之屬動以萬數。更始既是常才而不自聽斷,諸將皆庸人屈起,志在財幣,爭用威力。朝夕自快而已,非有忠良明智、深慮遠圖,欲尊主安民者也。 |
現代語訳(『資治通鑑』より抜粋)寇恂は左右の者を叱って使者の命令として耿況を召還させた。耿況が到着すると、寇恂は進み出て印綬を受け取り耿況に帯びさせた。使者はやむなく詔勅によってこれを認め、耿況は任命を受けて帰還した。 宛城の彭寵と呉漢は漁陽へ逃亡していたが、同郷の韓鴻が更始帝の使者として河北を巡察中、詔勅により彭寵を偏将軍・漁陽太守代理に任じ、呉漢を安楽県令とした。一方、更始帝は使者を派遣して赤眉軍を降伏させようとした。樊崇らは漢王朝再興の報を聞き、兵を留め置いて二十余名の幹部を率い洛陽へ赴いた。更始帝は彼ら全員を列侯に封じたが、領地を与えなかったため、残留部隊に離反者が相次ぎ、結局逃亡して本拠へ戻った。 王莽政権下の廬江太守・潁川出身の李憲は郡を占拠し独立、「淮南王」と称した。また元梁王劉立の子・劉永が洛陽に参じると、更始帝は彼を梁王に封じて睢陽を都とした。 更始帝が親衛大将軍に河北巡察を命じようとした時、大司徒(宰相)劉賜が進言した。「一族の中では劉文叔(劉秀)だけが適任です」。朱鮪らは反対したため更始帝は迷ったが、劉賜が強く推挙した結果、劉秀を行大司馬(代理軍務長官)とし、節(権限の証)を持たせて黄河を渡り州郡を鎮撫させることに決めた。一方で劉賜を丞相に昇格させ、先に関中に入って宗廟や宮殿修復を命じた。 大司馬・劉秀が河北へ到着すると、通過する郡県ごとに官吏の査定を行い、能力により昇降を決め、冤罪囚は釈放し王莽の苛政を廃して漢制を復活させた。住民は歓喜し牛や酒を持って出迎えたが、劉秀は一切受け取らなかった。 この時、南陽出身の鄧禹が杖をついて追いかけ鄴で劉秀に合流した。劉秀が「私は独自に任官権を持つが、君が遠くから来たのは仕官したいのか」と問うと、鄧禹は「違います」と否定し、「では何を望む?」との問いにこう答えた。「ただ明公(劉秀)の威徳が天下に広まり、私が微力を尽くして歴史に名を残せれば」。劉秀は笑って彼を宿舎に留め語り合った。鄧禹は進言した:「今山東地方は不安定で赤眉軍や青犢軍など数万の反乱勢力が跋扈しています。更始帝は凡庸な人物であり自ら判断せず、配下将軍も金銭目的の暴発者ばかりです。彼らは目先の快楽を追うだけで、主君を尊び民を安んじる深謀遠慮などありません」。 解説
※歴史用語の扱い: Translation took 1012.8 seconds. |
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| 歷觀往古聖人之興,二科而已,天時與人事也。今以天時觀之,更始既立而災變方興;以人事觀之,帝王大業非凡夫所任,分崩離析,形勢可見。明公雖建籓輔之功,猶恐無所成立也。況明公素有盛德大功,為天下所向服,軍政齊肅,賞罰明信。為今之計,莫如延攬英雄,務悅民心,立高祖之業,救萬民之命。以公而慮,天下不足定也。」秀大悅,因令禹常宿止於中,與定計議。每任使諸將,多訪於禹,皆當其才。秀自兄縯之死,每獨居輒不御酒肉,枕席有涕泣處,主簿馮異獨叩頭寬譬,秀止之曰:「卿勿妄言!」異因進說曰:「更始政亂,百姓無所依戴。夫人久飢渴,易為充飽。今公專命方面,宜分遣官屬徇行郡縣,宣佈惠澤。」秀納之。騎都尉宋子耿純謁秀於邯鄲,退,見官屬將兵法度不與它將同,遂自結納。 故趙繆王子林說秀決列人河水以灌赤眉,秀不從;去之真定。林素任俠於趙、魏間。王莽時,長安中有自稱成帝子子輿者,莽殺之。邯鄲卜者王郎緣是詐稱真子輿,云「母故成帝謳者,嘗見黃氣從上下,遂任身;趙後欲害之,偽易它人子,以故得全。」林等信之,與趙國大豪李育、張參等謀共立郎。會民間傳赤眉將渡河,林等因此宣言「赤眉當立劉子輿」,以觀眾心,百姓多信之。十二月,林等率車騎數百晨入邯鄲城,止於王宮,立郎為天子;分遣將帥徇下幽、冀,移檄州郡,趙國以北、遼東以西皆望風響應。 |
現代日本語訳:歴代の聖人の興隆を見渡すと、その要因は二つに集約される──天の時機(てんじ)と人事(じんじ)である。現在を天時の観点から見れば、更始帝が即位したにもかかわらず災異が頻発している。人事の面では帝王の大業は凡庸な者には担えず、分裂状態が明白だ。貴殿(劉秀)は藩屏として功績を立てたとはいえ、依然として基盤は危うい。ましてや貴殿は元来、盛徳と大功によって天下の人々の信望を集め、軍政は厳正で賞罰も公正である。今の策として最も適切なのは英雄を招致し民心を得ることに努め、高祖(劉邦)のような偉業を樹立して万民を救うことだ。貴殿が思案されれば天下平定など容易い」と述べた。これを聞いた劉秀は大いに喜び、鄧禹を常に側近として留め置き作戦の協議を行わせた。諸将を任命する際には必ず鄧禹に相談し、その人事はことごとく適材適所であった。 劉秀は兄・劉縯が死んで以来、独りでいると酒肉を口にせず寝床には涙の跡が絶えなかった。主簿(書記官)の馮異だけが進み出て慰めたところ「余計なことを言うな」と制止されたが、馮異はさらに説いて続けた。「更始帝の政治は乱れ民は頼るべきものを失っています。長く飢えた者に少しの食糧でも満足を与えられるように、貴殿こそ各地を統率すべく官吏を郡県へ派遣し恵みを行き渡らせるべきです」。劉秀はこの進言を受け入れた。 騎都尉(騎兵隊長)耿純が邯鄲で劉秀に謁見した際、退出後にその配下の軍規・法令が他将とは全く異なることに気づき、自ら心服して従うことを決めた。一方、元趙王の孫である劉林は「列人の黄河を決壊させ赤眉賊を水攻めにすべし」と進言したが劉秀は拒否。すると劉林は真定へ去り、かねてより趙・魏地域で任侠として名を知られた彼は、王莽政権下で「成帝の落胤・子輿(しよう)を自称する者」が処刑された事件に便乗し、邯鄲の占い師・王郎に「実は自分こそ真の子輿だ。母は成帝の歌姫で黄気(帝王の気)を受けて妊娠したが、趙皇后に迫害され偽りの嬰児とすり替えられたため生き延びた」と詐称させた。劉林らはこれを信じ、趙国の豪族・李育や張参らと結託して王郎を擁立する陰謀を巡らせた。 折しも民衆の間に「赤眉軍が黄河を渡る」との噂が流れたため、彼らは「赤眉こそ真の劉子輿(=王郎)を支持している」と宣伝して人心を探った。多くの庶民がこれを信じた十二月、劉林らは数百騎で邯鄲城に突入し旧王宮を占拠。王郎を天子として即位させると、将軍たちを幽州・冀州へ派遣して布告を発令した。これにより趙国以北から遼東以西までが次々と呼応した。 解説:
(本訳では固有名詞は原則として歴史学界の定訳に従い、動詞中心の現代口語体でリズム感を重視。古典漢文の四字句「分崩離析」等は状況説明へ変換し、読解容易性を確保) Translation took 1188.7 seconds. |
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| 淮陽王更始二年(甲申,公元二四年) 春,正月,大司馬秀以王郎新盛,乃北徇薊。 申屠建、李松自長安迎更始遷都。二月,更始發洛陽。初,三輔豪桀假號誅莽者,人人皆望封侯。申屠建既斬王憲,又揚言「三輔兒大黠,共殺其主。」吏民惶恐,屬縣屯聚;建等不能下。更始至長安,乃下詔大赦,非王莽子,他皆除其罪,於是三輔悉平。時長安唯未央宮被焚,其餘宮室、供帳、倉庫、官府皆案堵如故,市裡不改於舊。更始居長樂宮,升前殿,郎吏以次列庭中。更始羞怍,俯首刮席,不敢視。諸將後至者,更始問:「虜掠得幾何?」左右侍官皆宮省久吏,驚愕相視。 李松與棘陽趙萌說更始宜悉王諸功臣;朱鮪爭之,以為高祖約,非劉氏不王。更始乃先封諸宗室:祉為定陶王,慶為燕王,歙為元氏王,嘉為漢中王,賜為宛王,信為汝陰王,然後立王匡為泚陽王,王鳳為宜城王,朱鮪為膠東王,王常為鄧王,申屠建為平氏王,陳牧為陰平王,衛尉大將軍張卬為淮陽王,執金吾、大將軍廖湛為穰王,尚書胡殷為隨王,柱天大將軍李通為西平王,五威中郎將李軼為舞陰王,水衡大將軍成丹為襄邑王,驃騎大將軍宗佻為穎陰王,尹尊為郾王。唯朱鮪辭不受。乃以鮪為左大司馬,宛王賜為前大司馬,使與李軼等鎮撫關東。又使李通鎮荊州,王常行南陽太守事。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)淮陽王・更始二年(甲申、紀元24年) 春正月、大司馬劉秀は王郎勢力の急拡大に対処すべく北進し薊を制圧した。一方で長安では申屠建と李松が皇帝・劉玄(更始帝)を迎え遷都を推進し、二月に洛陽を出発した。 この頃、三輔地域の豪族たちは王莽政権打倒時に独自に挙兵していたため、恩賞として諸侯への封爵を期待していた。しかし申屠建が反乱軍指導者・王憲を処刑後、「三輔の民は狡猾で主君殺しだ」と発言したことで官吏や住民が恐慌状態となり各県で武装集結。鎮圧に失敗する中、更始帝が長安入りすると「王莽一族以外は全員赦免」とする大赦令を発布し三輔地域を平定した。 当時の長安では未央宮のみ焼失しており、他の宮殿・調度品・倉庫・役所は無事で市街も従来通り機能していた。更始帝が長楽宮の前殿に臨んだ際、郎官たちが庭中に整列する儀式では皇帝自ら俯いて座席を引っ掻き挙措に窮する様子が見られた。後から到着した将軍へ「略奪品はどれほどか?」と問う場面では側近の古参官僚たちが驚愕し顔を見合わせた。 政治運営において李松と趙萌が「功臣全員を王爵に封ずべき」と進言する一方、朱鮪が高祖(劉邦)の定めた「非劉氏不王」(皇族以外は王とせぬ)原則を主張。更始帝はまず皇族6名(劉祉ら)を諸侯王とした後、功臣13名にも王爵を与えた:
- 王匡:泚陽王
- 王鳳:宜城王 特に宛王・劉賜を前大司馬、李軼らと共に関東守備を命じ、李通には荊州統治、王常には南陽太守職務を代行させた。 解説
▶この時期の更始政権には「形式的正統性」と「実力者懐柔」の矛盾が顕在化。朱鮪辞退事件に象徴される君臣間の緊張関係は、後の長安喪失や内部分裂を予兆していた。 Translation took 1842.5 seconds. |
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| 以李松為丞相,趙萌為右大司馬,共秉內任。更始納趙萌女為夫人,故委政於萌,日夜飲宴後庭。群臣欲言事,輒醉不能見,時不得已,乃令侍中坐帷內與語。韓夫人尤嗜酒,每侍飲,見常侍奏事,輒怒曰:「帝方對我飲,正用此時持事來邪!」起,抵破書案。趙萌專權,生殺自恣。郎吏有說萌放縱者,更始怒,拔劍斬之,自是無敢復言。以至群小、膳夫皆濫授官爵,長安為之語曰:「灶下養,中郎將;爛羊胃,騎都尉;爛羊頭,關內侯。」軍師將軍李淑上書諫曰:「陛下定業,雖因下江、平林之勢,斯蓋臨時濟用,不可施之既安。唯名與器,聖人所重。今加非其人,望其裨益萬分,猶緣木求魚,升山採珠。海內望此,有以窺度漢祚!」更始怒,囚之。諸將在外者皆專行誅賞,各置牧守;州郡交錯,不知所從。由是關中離心,四海怨叛。 更始征隗囂及其叔父崔、義等,囂將行,方望以為更始成敗未可知,固止之。囂不聽,望以書辭謝而去。囂等至長安,更始以囂為右將軍,崔、義皆即舊號。 耿況遣其子弇奉奏詣長安,弇時年二十一。行至宋子,會王郎起,弇從吏孫倉、衛包曰:「劉子輿,成帝正統;捨此不歸,遠行安之!」弇按劍曰:「子輿弊賊,卒為降虜耳!我至長安,與國家陳漁陽、上谷兵馬,歸發突騎,以轔烏合之眾,如摧枯折腐耳。 |
現代日本語訳李松を丞相(じょうしょう)、趙萌(ちょうほう)を右大司馬(ゆうだいしば)に任じて、共に朝廷の政務を取り仕切らせた。更始帝は趙萌の娘を夫人としたため、政治をすべて彼に委ねて自らは後宮で昼夜酒宴にふけった。臣下が政事を奏上しようとしても酔って応対できず、やむを得ない場合のみ侍中(じちゅう)を帷(とばり)の内側に座らせて用件を伝えさせた。韓夫人は特に酒好きで、陪酌する際に常侍が政務を報告すると怒って「陛下が私とお飲みになっている時にわざわざ来るとは!」と言い、立ち上がって書案(しょあん)を叩き壊した。 趙萌は権力を独占し、生殺与奪をほしいままにした。ある郎吏(ろうり)が彼の横暴を諫めたところ、更始帝は激怒して剣で斬り捨てたため、以後誰も批判できなくなった。その結果、取るに足らぬ者や料理人まで官爵を与えられ、長安では「かまど番が中郎将(ちゅうろうしょう)、腐った羊の胃袋は騎都尉(きとい)、腐った羊の頭なら関内侯(かんだいこう)」と囁かれた。 軍師将軍・李淑(りしゅく)は上書して諫めた「陛下が帝業を成されたのは下江兵(かこうへい)や平林兵(へいりんへい)の勢いに依ったもので、これは一時凌ぎに過ぎません。名分と官位こそ聖人が重んじるものですが、今は不相応な者を登用しているため『木に登って魚を捕る』ような愚かな結果となっています。天下がこの体たらくを見れば漢王朝の命運も推し量られましょう」。更始帝は怒り李淑を投獄した。 地方の将軍たちは独自に刑罰や恩賞を与え、勝手に役人を任命したため州と郡の行政が錯綜(さくそう)し、民衆は従うべき指針を見失った。これにより関中では人心が離れ、全国で反乱が続発した。 更始帝が隗囂(かいごう)らを長安に召還すると、彼の参謀・方望(ほうぼう)は「前途不透明」と出発阻止を強く進言したが聞き入れられず書状で去った。隗囂一行が到着すると更始帝は彼を右将軍に任命し、他の者にも官位を与えた。 耿況(こうけい)が息子・弇(がん)(21歳)を使者として長安へ派遣した際、宋子(そうし)で王郎(おうろう)の乱勃発を知る。同行の孫倉と衛包は「劉子輿こそ正統」と帰順を勧めたが、耿弇は剣に手をかけ「あれは偽者だ!長安へ行って漁陽・上谷(じょうこく)の精兵を得れば烏合の衆など枯れ葉のように蹴散らせる」と断言した。 解説
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| 觀公等不識去就,族滅不久也!」倉、包遂亡,降王郎。弇聞大司馬秀在盧奴,乃馳北上謁;秀留署長史,與俱北至薊。王郎移檄購秀十萬戶,秀令功曹令史穎川王霸至市中募人擊王郎,市人皆大笑,舉手邪揄之,霸慚懅而反。秀將南歸,耿弇曰:「今兵從南方來,不可南行。漁陽太守彭寵,公之邑人;上谷太守,即弇父也。發此兩郡控弦萬騎,邯鄲不足慮也。」秀官屬腹心皆不肯,曰:「死尚南首,奈何北行入囊中!」秀指弇曰:「是我北道主人也。」 會故廣陽王子接起兵薊中以應郎,城內擾亂,言邯鄲使者方到,二千石以下皆出迎。於是秀趣駕而出,至南城門,門已閉。攻之,得出。遂晨夜南馳,不敢入城邑,捨食道傍。至蕪蔞亭,時天寒烈,馮異上豆粥。至饒陽,官屬皆乏食。秀乃自稱邯鄲使者,入傳捨,傳吏方進食,從者饑,爭奪之。傳吏疑其偽,乃椎鼓數十通,紿言「邯鄲將軍至」,官屬皆失色。秀升車欲馳,既而懼不免,徐還坐,曰:「請邯鄲將軍入。」久,乃駕去。晨夜兼行,蒙犯霜雪,面皆破裂。 至下曲陽,傳聞王郎兵在後,從者皆恐。至滹沱河,候吏還白「河水流澌,無船,不可濟」。秀使王霸往視之。霸恐驚眾,欲且前,阻水還,即詭曰:「冰堅可度。」官屬皆喜。秀笑曰:「候吏果妄語也。」遂前。比至河,河冰亦合,乃令王霸護度,未畢數騎而冰解。 |
現代日本語訳公らが時勢を見極められずにいれば、間もなく一族皆殺しとなるだろう!」倉と包は逃亡し、王郎に降伏した。耿弇(こうえん)は大司馬・劉秀(りゅうしゅう)が盧奴(ろど)にいることを聞き、馬を走らせて北へ向かい拝謁した。劉秀は彼を長史として留め置き、共に薊(けい)まで北上した。王郎が布告を発し「劉秀の首に十万戸の封賞」と懸けると、劉秀は功曹令史・潁川出身の王覇(おうは)に命じ市で兵士を募らせたが、市民は大笑いして手を挙げ嘲り、王覇は恥ずかしさに赤面して帰還した。 劉秀が南帰しようとすると、耿弇が進言した:「南方から追撃を受ける今、南下すべきでない。漁陽太守・彭寵(ほうちょう)は貴公の同郷人であり、上谷太守は私の父です。両郡の騎兵一万を出せば邯鄲など問題にならない」。しかし劉秀配下の重臣たちは皆反対し、「死ぬなら南を向いて死にたい。どうして袋の中へ飛び込むような真似ができようか」と言った。劉秀は耿弇を指さして言う。「彼こそ我が北道(ほくとう)の主人である」。 折しも元広陽王の子・劉接(りゅうしょう)が薊で挙兵し王郎に呼応したため城内は混乱し、「邯鄲からの使者到着」との噂で太守以下の役人全員が出迎えに出た。劉秀は急いで車を出し南城門へ向かうと、既に閉門されていた。攻撃して脱出後、昼夜問わず南下を続け、街には入らず道端で食事した。蕪蔞亭(ぶろうてい)では厳寒の中、馮異(ふうい)が豆粥を差し出した。饒陽(じょうよう)に至ると一行は皆飢えたため、劉秀は「邯鄲の使者」と偽って宿舎に入った。食事運搬中の役人が見た配下の奪食騒ぎを怪しみ、「邯鄲将軍到着!」と数十回太鼓を打ち鳴らすと一同は青ざめた。劉秀が車に飛び乗ると、すぐに逃げ切れぬと思い直し悠然と座り「将軍をお通せ」と言った。暫くして出発した後も霜雪の中を昼夜兼行で進み、顔面は凍傷で裂けていた。 下曲陽(かきょくよう)では王郎軍追撃の噂に一行が恐慌状態となった。滹沱河(こだか)に着くと偵察役人が「流氷あり渡船不可」と報告した。劉秀は王覇を視察に行かせた。民衆動揺を恐れた王覇は強行突破を装い虚偽の報告:「氷結して渡河可能なり」。一同が喜ぶ中、劉秀は笑って「役人の妄言だったな」と言った。しかし実際に川岸へ着くと流氷が偶然結合し、王覇指揮で渡河中わずか数騎通過したところで氷は解けた。 解説
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| 至南宮,遇大風雨,秀引車入道傍空捨,馮異抱薪,鄧禹爇火,秀對灶燎衣,馮異復進麥飯。 進至下博城西,惶惑不知所之。有白衣老父在道旁,指曰:「努力!信都郡為長安城守,去此八十里。」秀即馳赴之。是時郡國皆已降王郎,獨信都太守南陽任光、和戎太守信都邳肜不肯從。光自以孤城獨守,恐不能全,聞秀至,大喜,吏民皆稱萬歲。邳肜亦自和戎來會,議者多言可因信都兵自送,西還長安。邳肜曰:「吏民歌吟思漢久矣,故更始舉尊號而天下響應,三輔清宮除道以迎之。今卜者王郎,假名因勢,驅集烏合之眾,遂振燕、趙之地,無有根本之固。明公奮二郡之兵以討之,何患不克!今釋此而歸,豈徒空失河北,必更驚動三輔,墮損威重,非計之得者也。若明公無復征伐之意,則雖信都之兵,猶難會也。何者?明公既西,則邯鄲勢成,民不肯捐父母、背成主而千里送公,其離散亡逃可必也!」秀乃止。 秀以二郡兵弱,欲入城頭子路、力子都軍中,任光以為不可。乃發傍縣,得精兵四千人,拜任光為左大將軍,信都都尉李忠為右大將軍,邳肜為後大將軍、和戎太守如故,信都令萬修為偏將軍,皆封列侯。留南陽宗廣領信都太守事;使任光、李忠、萬修將兵以從,邳肜將兵居前。任光乃多作檄文曰:「大司馬劉公將城頭子路、力子都兵百萬眾從東方來,擊諸反虜!」遣騎馳至巨鹿界中。 |
現代日本語訳南宮に到着した時、激しい風雨に見舞われたため、劉秀は車を道端の空き家へと導いた。馮異が薪を抱え込み、鄧禹が火をつけると、劉秀はかまどに向かい衣類を乾かし、馮異は再び麦飯を差し出した。 解説
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| 吏民得檄,傳相告語。秀投暮入堂陽界,多張騎火,彌滿澤中,堂陽即降;又擊貰縣,降之。城頭子路者,東平爰曾也,寇掠河、濟間,有眾二十餘萬,力子都有眾六七萬,故秀欲依之。昌城人劉植聚兵數千人據昌城,迎秀;秀以植為驍騎將軍。耿純率宗族賓客二千餘人,老病者皆載木自隨,迎秀於育;拜純為前將軍。進攻下曲陽,降之。眾稍合,至數萬人,復北擊中山。耿純恐宗家懷異心,乃使從弟訢宿歸,燒廬舍以絕其反顧之望。 秀進拔盧奴,所過發奔命兵,移檄邊郡共擊邯鄲;郡縣還復響應。時真定王楊起兵附王郎,眾十餘萬,秀遣劉植說楊,楊乃降。秀因留真定,納楊甥郭氏為夫人以結之。進擊元氏、防子,皆下之。至鄗,擊斬王郎將李惲;至柏人,復破郎將李育。育還保城;攻之,不下。 南鄭人延岑起兵據漢中,漢中王嘉擊降之,有眾數十萬。校尉南陽賈復見更始政亂,乃說嘉曰:「今天下未定,而大王安守所保,所保得無不可保乎?」嘉曰:「卿言大,非吾任也。大司馬在河北,必能相用。」乃為書薦復及長史南陽陳俊於劉秀。復等見秀於柏人,秀以復為破虜將軍,俊為安集掾。 秀捨中兒犯法,軍市令穎川祭遵格殺之,秀怒,命收遵。主簿陳副諫曰:「明公常欲眾軍整齊,今遵奉法不避,是教令所行也。」乃貰之,以為刺奸將軍,謂諸將曰:「當備祭遵!吾捨中兒犯法尚殺之,必不私諸卿也。 |
現代日本語訳役人や民衆は檄文を手に入れると、互いに伝え合った。劉秀が日暮れに堂陽の境界へ入ると、多くの騎兵のかがり火を張り巡らせ、沼地いっぱいに広がる勢いを見せたため、堂陽はすぐに降伏した。さらに貰県を攻撃し、これを降した。 「城頭子路」と呼ばれた東平の爰曾(えんそう)は黄河と済水の間で略奪を働き、二十万余りの兵力を持っていた。力子都(りきしと)も六~七万の兵を擁していたため、劉秀は彼らに頼ろうと考えた。 昌城出身の劉植(りゅうしょく)は数千の兵を集めて昌城を占拠し、劉秀を迎え入れた。劉秀は劉植を驍騎将軍に任命した。耿純(こうじゅん)は一族と門客二千余人を率い、老人や病人まで木製の車に乗せて従わせながら育で劉秀を出迎えたため、前将軍に任じられた。 下曲陽へ進撃して降伏させると、兵力は次第に集まり数万人に達した。さらに北上して中山を攻めたが、耿純は一族の離反を恐れ、従弟の訢(きん)を使者として帰還させて家屋を焼かせ、退路を断った。 劉秀は盧奴を攻略し、進軍先々で緊急招集兵を動員し、周辺郡に檄文を発して共に邯鄲討伐を呼びかけると、諸郡県が次々と呼応した。真定王の楊(よう)が十万余りの兵を挙げて王郎に加担していたため、劉秀は劉植を使者として派遣すると、楊は降伏した。 劉秀は真定に滞在し、楊の姪である郭氏を夫人として迎え関係を強化。元氏・防子を攻め落とした後、鄗(こう)で王郎配下の李惲(りうん)を討ち取る。柏人では再び敵将李育(りいく)を破ったが、彼は城に籠もって抵抗したため陥落しなかった。 南鄭出身の延岑(えんしん)が漢中で挙兵すると、漢中王・嘉(か)が討伐して降伏させた。校尉であった賈復(かふく)は更始帝政権の混乱を見て嘉を諫めた:「天下未だ定まらぬに大王は領地保全のみ図る――果たして守れるのでしょうか?」 嘉は答える:「汝の言は大志だが、わしには無理だ。河北におられる大司馬(劉秀)なら必ずや登用されよう」と書状を書き賈復らを推薦した。 柏人で劉秀に謁見すると破虜将軍・安集掾に任じられた。ある時、劉秀の側近が法を犯し軍市令・祭遵(さいじゅん)がこれを斬殺すると激怒した劉秀は祭遵を逮捕させた。主簿陳副(ちんふく)が進言:「殿が常に軍紀厳正を望まれるなら、祭遵こそ法令執行の模範です」と諫めたため赦免され刺奸将軍へ昇格した。劉秀は諸将に向かって宣言した:「祭遵を警戒せよ!わしの側近すら容赦なく斬ったのだ――お前たちに対しても決して私情など挟まぬ」 解説【歴史的意義】この記述は『資治通鑑』より後漢王朝創始者・光武帝(劉秀)の中興事業初期段階を描く。特筆すべき点: 1. 人心掌握術:堂陽攻略時の「騎火」による心理戦、降将への厚遇(郭氏婚姻)、耿純の自宅焼却など劇的な忠誠表明を通じ、指導者としてのカリスマ性と現実主義を併せ持つ劉秀像が浮かぶ 2. 法秩序確立:祭遵事件は「私情より国法」という後漢建国理念の原点を示す。側近処刑エピソードは『君主は法に従うべし』という法治思想を象徴 【戦略分析】
【人物評】
(訳注:固有名詞の読みは『後漢書』訓読に基づく) Translation took 1205.6 seconds. |
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| 」 初,王莽既殺鮑宣,上黨都尉路平欲殺其子永;太守苟諫保護之,永由是得全。更始征永為尚書僕射,行大將軍事,將兵安集河東、并州,得自置偏裨。永至河東,擊青犢,大破之。以馮衍為立漢將軍,屯太原,與上黨太守田邑等繕甲養士,以扞衛並土。 或說大司馬秀以守柏人不如定巨鹿,秀乃引兵東北拔廣阿。秀披輿地圖,指示鄧禹曰:「天下郡國如是,今始乃得其一。子前言以吾慮天下不足定,何也?」禹曰:「方今海內殽亂,人思明君,猶赤子之慕慈母。古之興者在德薄厚,不以大小也。」薊中之亂,耿弇與劉秀相失,北走昌平,就其父況,因說況擊邯鄲。時王郎遣將徇漁陽、上谷,急發其兵。北州疑惑,多欲從之。上谷功曹寇恂、門下掾閔業說況曰:「邯鄲拔起,難可信向。大司馬,劉伯升母弟,尊賢下士,可以歸之。」況曰:「邯鄲方盛,力不能獨拒,如何?」對曰:「今上谷完實,控弦萬騎,可以詳擇去就。恂請東約漁陽,齊心合眾,邯鄲不足圖也!」況然之,遣恂東約彭寵,欲各發突騎二千匹、步兵千人詣大司馬秀。安樂令吳漢、護軍蓋延、狐奴令王梁亦勸寵從秀,寵以為然,而官屬皆欲附王郎,寵不能奪。漢出止外亭,遇一儒生,召而食之,問以所聞。生言:「大司馬劉公,所過為郡縣所稱,邯鄲舉尊號者,實非劉氏。 |
現代日本語訳はじめに、王莽が鮑宣を殺害した後、上党都尉の路平がその息子・永を殺そうとしたが、太守の苟諫が保護し、これにより永は命を取り留めた。更始帝(劉玄)が永を尚書僕射に任命して大将軍の職務を代行させると、彼は兵を率いて河東と并州を平定し、偏将や裨将を独自に任官する権限を得た。永は河東で青犢賊を攻撃し大勝した後、馮衍を立漢将軍に任命して太原に駐屯させ、上党太守の田邑らと共に兵士を養成しながら并州の防衛を固めた。 一方、ある者が大司馬(劉秀)に対して「柏人で守るより巨鹿を平定すべきだ」と進言すると、劉秀は軍勢を率いて東北へ進み広阿を占領した。そこで彼が地図を広げて鄧禹に指し示しながら言うには、「天下の郡国はこれほど多いのに、今ようやく一つの地域を得ただけだ。かつて君は『天下平定など容易い』と言ったが、その根拠は?」すると鄧禹は答えた。「現在、国内は混乱して民は明君を慕っており、まるで赤子が慈母を求めるように切望しています。古代の興隆者は領土の大小ではなく徳行の厚さによって決まったのです」。 薊中での反乱発生時、耿弇は劉秀とはぐれて昌平へ北走し、父・耿況のもとへ身を寄せると、邯鄲(王郎)討伐を進言した。その頃、王郎が漁陽・上谷への攻撃命令を出していたため北方州郡は動揺し、従う者が多かった。この時、上谷の功曹である寇恂と門下掾の閔業が耿況に進言した。「邯鄲(王郎)の勢力は急成長しており信用できません。大司馬(劉秀)こそ劉伯升(劉縯)の実弟で賢者を尊び士を敬う人物です」。すると耿況は「今、邯鄲が盛んで単独では抵抗できない」と懸念を示すと、寇恂は即座に答えた。「上谷郡には一万騎もの精兵があり漁陽とも連携すれば十分対抗可能です。私が東へ赴いて彭寵(漁陽太守)との同盟を結びましょう」。耿況はこれを受け入れ、寇恂を使者として派遣した。 一方で安楽令の呉漢や護軍・蓋延らも彭寵に劉秀への帰順を勧めたため、彼は同意した。しかし配下の官僚たちが王郎支持を主張し意見を変えられなかったため、呉漢は外亭へ出向いたところ一人の儒生と遭遇する。食事を与えて情報を尋ねると「大司馬・劉公(秀)の通過地では民衆から称賛され、邯鄲で皇帝を名乗る者は偽りの劉氏です」との答えを得た。 解説
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| 」漢大喜,即詐為秀書,移檄漁陽,使生繼以詣寵,令具以所聞說之。會寇恂至,寵乃發步騎三千人,以吳漢行長史,與蓋延、王梁將之,南攻薊,殺王郎大將趙閎。 寇恂還,遂與上谷長史景丹及耿弇將兵俱南,與漁陽軍合,所過擊斬王郎大將、九卿、校尉以下,凡斬首三萬級,定涿郡、中山、巨鹿、清河、河間凡二十二縣。前及廣阿,聞城中車騎甚眾,丹等勒兵問曰:「此何兵?」曰:「大司馬劉公也。」諸將喜,即進至城下。城下初傳言二郡兵為邯鄲來,眾皆恐。劉秀自登西城樓勒兵問之;耿弇拜於城下,即召入,具言發兵狀。秀乃悉召景丹等入,笑曰:「邯鄣將帥數言我發漁陽、上谷兵,吾聊應言『我亦發之』,何意二郡良為吾來!方與士大夫共此功名耳。」乃以景丹、寇恂、耿弇、蓋延、吳漢、王梁皆為偏將軍,使還領其兵,加耿況、彭寵大將軍;封況、寵、丹、延皆為列侯。吳漢為人,質厚少文,造次不能以辭自達,然沉勇有智略,鄧禹數薦之於秀,秀漸親重之。 更始遣尚書令謝躬率六將軍討王郎,不能下。秀至,與之合軍,東圍巨鹿,月餘未下。王郎遣將攻信都,大姓馬寵等開城內之。更始遣兵攻破信都,秀使李忠還,行太守事。王郎遣將倪宏、劉奉率數萬人救巨鹿,秀逆戰於南□,不利。景丹等縱突騎擊之,宏等大敗。秀曰:「吾聞突騎天下精兵,今見其戰,樂可言邪?」耿純言於秀曰:「久守巨鹿,士眾疲弊;不如及大兵精銳,進攻邯鄲。 |
現代日本語訳光武帝劉秀は大いに喜び、すぐに偽の手紙を作成して漁陽郡に檄を飛ばした。使者として若者(生)をつけ寇恂と共に彭寵のもとに赴かせ、現地で得た情報をもって説得させた。ちょうど寇恂が到着したところだったので、彭寵は歩兵・騎兵三千人を発し、呉漢を行長史(代理長史)として蓋延と王梁に指揮権を与え、南の薊城を攻撃させて王郎配下の大将・趙閎を討ち取らせた。 寇恂が戻ると、上谷郡の長史である景丹および耿弇と共に軍勢を率いて南下し、漁陽軍と合流した。進軍する道中で王郎側の大将や九卿級の高官から校尉以下の将兵までを次々に討ち取り、首級は総計三万に上った。涿郡・中山国・巨鹿郡・清河郡・河間国など22県を平定した。 先鋒が広阿(現在の河北省隆堯県)に迫ると、城内には大軍が駐屯しているとの情報を得た。景丹らは兵を整え問いただした:「どこの軍勢か?」返答があった:「大司馬・劉公(劉秀)様である」。諸将は喜び、すぐに城下まで進んだ。 当初、城壁の守備兵には「二郡(漁陽・上谷)の軍が邯鄲(王郎勢力)から来襲する」と誤認されていたため、城内は恐慌状態だった。劉秀自ら西門の楼閣に登り陣容を整えながら問い詰めたところ、城下で耿弇が跪拝したので招き入れさせた。耿弇は援軍派遣の経緯を詳しく説明すると、劉秀は景丹ら全員を召し寄せて笑いながら言った:「邯鄲(王郎)側では何度も『俺が漁陽・上谷兵を動かした』と吹聴していた。ついこの間も軽く『確かに動かしたよ』と言っておいたのだが、まさか本当に二郡の精鋭が我らのために駆けつけてくれるとは! 今こそ諸君と共に功名を立てようではないか」。こうして景丹・寇恂・耿弇・蓋延・呉漢・王梁ら全員を偏将軍に任じ、元の部隊指揮権を安堵した。さらに耿況(上谷太守)と彭寵(漁陽太守)には大将軍の称号を与え、景丹・蓋延らは列侯に封じた。 呉漢の人となりは質朴で飾り気がなく、咄嗟の機転や弁舌には乏しかった。しかし内に勇気と知略を秘めており、鄧禹が劉秀に度々推挙したため次第に信任を得るようになった。 その頃、更始帝(当時の名目上の皇帝)は尚書令・謝躬に六将軍を率いさせて王郎討伐に向かわせたが攻略できなかった。そこへ劉秀が到着し合流すると巨鹿城東側を包囲したが、一ヶ月以上経っても陥落しない。その隙に王郎は信都城(河北省邢台市)への攻撃部隊を差し向け、豪族の馬寵らが内応して城門を開いた。更始帝軍が信都奪還のために派遣した部隊によって鎮圧されると、劉秀は配下の李忠に太守代行として現地復帰を命じた。 王郎麾下の倪宏・劉奉が数万の兵で巨鹿救援に向かうと、劉秀は南䜌(地名)で迎撃したが苦戦した。そこへ景丹ら精鋭騎兵隊が突撃を敢行し、倪宏軍は大敗した。劉秀は感嘆して言った:「精鋭騎兵こそ天下最強と聞いていたが、今日その実力を見て、この喜びはいかに!」 すると耿純が進言した:「巨鹿で長期包囲を続ければ兵士たちの疲弊は甚だしい。今こそ全軍の力を結集し邯鄲(王郎本拠)へ総攻撃すべきです……」 解説
※『資治通鑑』胡三省注にも依拠しつつ、司馬光が描く劉秀像——人心掌握術に長け、果断かつ懐深い君主像——を現代日本語で再構築することを心掛けた。 Translation took 1426.2 seconds. |
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| 若王郎已誅,巨鹿不戰自服矣。」秀從之。夏,四月,留將軍鄧滿守巨鹿。進軍邯鄲,連戰,破之。郎乃使其諫大夫杜威請降。威雅稱郎實成帝遺體,秀曰:「設使成帝復生,天下不可得,況詐子輿者乎!」威請求萬戶侯,秀曰:「顧得全身可矣!」威怒而去。秀急攻之,二十餘日。五月,甲辰,郎少傅李立開門內漢兵,遂拔邯鄲。郎夜亡走,王霸追斬之。秀收郎文書,得吏民與郎交關謗毀者數千章。秀不省,會諸將軍燒之,曰:「令反側子自安!」秀部分吏卒各隸諸軍,士皆言願屬大樹將軍。大樹將軍者,偏將軍馮異也,為人謙退不伐,敕吏士非交戰受敵,常行諸營之後。每所止捨,諸將並坐論功,異常獨屏樹下,故軍中號曰:「大樹將軍」。 護軍宛人朱祜從容言於秀曰:「長安政亂,公有日角之相,此天命也!」秀曰:「召刺奸收護軍!」祜乃不敢復言。更始遣使立秀為蕭王,悉令罷兵,與諸將有功者詣行在所。遣苗曾為幽州牧,韋順為上谷太守,蔡充為漁陽太守,並北之部。 蕭王居邯鄲宮,晝臥溫明殿,耿弇入,造床下請間,因說曰:「吏士死傷者多,請歸上谷益兵。」蕭王曰:「王郎已破,河北略平,復用兵何為?」弇曰:「王郎雖破,天下兵革乃始耳。今使者從西方來,欲罷兵,不可聽也。銅馬、赤眉之屬數十輩,輩數十百萬人,所向無前,聖公不能辦也,敗必不久。 |
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現代日本語訳王郎がすでに誅殺されれば、巨鹿は戦わずして降伏するだろう。」劉秀はこれに従った。夏四月、将軍の鄧満を残して巨鹿を守らせると、自らは邯鄲へ進軍し、連戦してこれを破った。王郎は諫大夫の杜威を使者として降伏を願い出させた。杜威は「王郎こそ成帝(前漢皇帝)の実子である」と主張したが、劉秀は言った。「仮に成帝が生き返っても天下を得ることはできないのに、ましてや偽者の子輿(王郎の自称名)など問題にならない。」杜威が万戸侯を要求すると、「命だけでも助けてもらえれば十分だ」と一蹴され、怒って帰った。劉秀は激しく攻め立てること二十余日。五月甲辰の日、王郎の少傅・李立が城門を開いて漢軍を受け入れたため、ついに邯鄲は陥落した。王郎は夜中に逃亡したが、王霸が追撃して斬った。 劉秀が王郎の文書を押収すると、官吏や民衆が王郎と通じて自分を誹謗した数千枚の証拠が出てきた。しかし劉秀はこれらを見ず、諸将軍を集めて焼却させ、「裏切り者たちに安心させよ」と言った。兵卒の配属先を決める際、兵士たちが口々に「大樹将軍のもとへ行きたい」と希望した。「大樹将軍」とは偏将軍・馮異のことである。彼は謙虚で功績を誇らず、「交戦時以外は常に各陣営の最後尾を行け」と部下に命じていた。宿営時に諸将が手柄話をする中、ただ一人木陰で控えていたため、この呼び名があった。 護軍・宛県出身の朱祜が劉秀に「長安(更始帝)は政道乱れているのに、貴公には日角(帝王の相)がある。これは天命だ」と述べると、劉秀は即座に「刺奸(監督官)を呼んで護軍を逮捕せよ!」と命じたため、朱祜は二度と言及しなかった。更始帝が使者を遣わして劉秀を蕭王に封じ、「全軍を解散させて功績ある将軍たちと共に長安へ来るように」と命令した。さらに苗曾を幽州牧、韋順を上谷太守、蔡充を漁陽太守として北方へ派遣するよう命じてきた。 蕭王(劉秀)が邯鄲宮の温明殿で昼寝していると、耿弇が床下に進み出て「兵士の死傷が多いので故郷・上谷で増援を募りたい」と申し出た。蕭王は「王郎は滅び河北も平定したのに、なぜ再び戦うのか?」と言ったが、耿弇は反論した。「天下大乱は始まったばかりです。西方(長安)からの使者の停戦命令に従ってはいけない。銅馬軍や赤眉軍など数十勢力、各々数十万もの兵力が無敵状態で暴れており、更始帝には制御できません。間もなく必ず敗れるでしょう。」 解説
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| 」蕭王起坐曰:「卿失言,我斬卿!」弇曰:「大王哀厚弇如父子,故敢披赤心。」蕭王曰:「我戲卿耳,何以言之?」弇曰:「百姓患苦王莽,復思劉氏,聞漢兵起,莫不歡喜,如去虎口得歸慈母。今更始為天子,而諸將擅命於山東,貴戚縱橫於都內,虜掠自恣,元元叩心,更思莽朝,是以知其必敗也。公功名已著,以義征伐,天下可傳檄而定也。天下至重,公可自取,毋令他姓得之。」蕭王乃辭以河北未平,不就征,始貳於更始。 是時,諸賊銅馬、大彤、高湖、重連、鐵脛、大槍、尤來、上江、青犢、五校、五幡、五樓、富平、獲索等各領部曲,眾合數百萬人,所在寇掠。蕭王欲擊之,乃拜吳漢、耿弇俱為大將軍,持節北發幽州十郡突騎。苗曾聞之,陰敕諸郡不得應調。吳漢將二十騎先馳至無終,曾出迎於路,漢即收曾,斬之。耿弇到上谷,亦收韋順、蔡充,斬之。北州震駭,於是悉發其兵。 秋,蕭王擊銅馬於鄡,吳漢將突騎來會清陽,士馬甚盛,漢悉上兵簿於莫府,請所付與,不敢自私,王益重之。王以偏將軍沛國朱浮為大將軍、幽州牧,使治薊城。銅馬食盡,夜遁,蕭王追擊於館陶,大破之。受降未盡,而高湖、重連從東南來,與銅馬餘眾合。蕭王復與大戰於蒲陽,悉破降之,封其渠帥為列侯。諸將未能信賊,降者亦不自安。王知其意,敕令降者各歸營勒兵,自乘輕騎按行部陳。 |
現代日本語訳蕭王(劉秀)は座り直して言った。「お前の言葉には過ちがある、斬るぞ!」耿弇が答えた。「大王は私を子のように深く慈しまれているので、敢えて真心をお見せしたのです。」蕭王は言った。「戯れただけだ。なぜそう考えたのか?」耿弇は述べた。「民衆は王莽の苛政に苦しみ、再び劉氏(漢王朝)を懐かしく思っています。漢軍が立ち上がったと聞けば誰もが喜び、まるで虎の口から逃れて慈母のもとに帰るかのようです。しかし更始帝が天子となった今、山東では将軍たちが勝手に命令し、都では皇族が好き放題に略奪を働いています。民衆は心の中で嘆き、逆に王莽の時代を懐かしむほどです。だからこそ彼らは必ず敗れるとわかるのです。あなた様の功績と名声は既に天下に知れ渡っており、正義をもって征伐なされれば、檄文一つで天下は平定できるでしょう。この天下こそ最も大切なものです。自ら手に入れるべきであり、他姓(異なる王朝)に奪われてはいけません。」 蕭王は河北が未だ平定されていないことを理由に更始帝の召しを辞退し、従わない姿勢を示した。 当時、銅馬・大彤・高湖・重連・鉄脛・大槍・尤来・上江・青犢・五校・五幡・五楼・富平・獲索などの賊軍が各部隊を率い、総勢数百万人に及んで各地で略奪を繰り返していた。蕭王はこれらを討伐すべく、呉漢と耿弇の両名を大将軍に任命し、節(将軍の印)を持たせて幽州十郡の精鋭騎兵を徴発させた。 これを聞いた苗曾は密かに各郡に動員命令への応じないよう指示した。呉漢は二十騎を率いて真っ先に無終へ駆けつけると、道中で出迎えた苗曾をただちに捕らえて斬首した。耿弇も上谷で韋順と蔡充を逮捕し処刑した。これにより北方諸州は震撼し、結局全ての兵力が動員されることになった。 秋、蕭王が鄡(地名)で銅馬軍を攻撃している時、呉漢率いる精鋭騎兵が清陽に到着して合流した。その軍勢は極めて強盛であり、呉漢は全兵力の名簿を幕府へ提出し「全て大王のご裁量にお任せします」と述べて私心を見せなかったため、蕭王は一層彼を重用するようになった。 蕭王は偏将軍だった沛国出身の朱浮を大将軍兼幽州牧に任命し薊城の統治を委ねた。食糧が尽きた銅馬軍が夜陰に乗じて逃走すると、蕭王は館陶まで追撃して大打撃を与えた。降伏処理が完了しないうちに高湖・重連の残党が東南から現れ銅馬軍と合流したため、蕭王は再び蒲陽で決戦しこれを完全に打ち破って降伏させた。首謀者たちを列侯に封じると、配下将兵らは賊軍を信用できず、投降兵も不安を感じていた。 この状況を知った蕭王は「各自の陣営へ戻り軍備を整えよ」と命じ、自ら軽装騎兵のみを連れて陣営を巡回した。 解説
(本訳では現代日本語への変換にあたり、固有名詞は原典表記を保持し、戦略的描写には軍事用語の簡素化を施した。歴史的事件としての客観性確保に留意しつつ、登場人物の心理描写を会話体で再現している) Translation took 1217.8 seconds. |
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| 降者更相語曰:「蕭王推赤心置人腹中,安得不投死乎!」由是皆服。悉以降人分配諸將,眾遂數十萬。赤眉別帥與青犢、上江、大彤、鐵脛、五幡十餘萬眾在射犬,蕭王引兵進擊,大破之。南徇河內,河內太守韓歆降。 初,謝躬與蕭王共滅王郎,數與蕭王違戾,常欲襲蕭王,畏其兵強而止。雖俱在邯鄲,遂分城而處,然蕭王每有以慰安之。躬勤於吏職,蕭王常稱之曰:「謝尚書,真吏也!」故不自疑。其妻知之,常戒之曰:「君與劉公積不相能,而信其虛談,終受制矣。」躬不納。既而躬率其兵數萬還屯於鄴。及蕭王南擊青犢,使躬邀擊尤來於隆慮山,躬兵大敗。蕭王因躬在外,使吳漢與刺奸大將軍岑彭襲據鄴城。躬不知,輕騎還鄴,漢等收斬之,其眾悉降。 更始遣柱功侯李寶、益州刺史張忠將兵萬餘人徇蜀、漢。公孫述遣其弟恢擊寶、忠於綿竹,大破走之。述遂自立為蜀王,都成都,民、夷皆附之。 冬,更始遣中郎將歸德侯颯、大司馬護軍陳遵使匈奴,授單于漢舊制璽綬,因送雲、當餘親屬、貴人、從者還匈奴。單于輿驕,謂遵、颯曰:「匈奴本與漢為兄弟,匈奴中亂,孝宣皇帝輔立呼韓邪單于,故稱臣以尊漢。今漢亦大亂,為王莽所篡,匈奴亦出兵擊莽,空其邊境,令天下騷動思漢;莽卒以敗而漢復興,亦我力也,當復尊我!」遵與相撐拒,單于終持此言。 |
現代日本語訳(抜粋:資治通鑑)降伏者たちは互いに言い合った。「蕭王(劉秀)が真心を腹中に置くほど誠実なのだから、命を賭して従わないわけがあろうか!」。これにより皆が心服した。全ての投降兵を諸将に配属すると兵力は数十万となった。 赤眉軍別働隊と青犢・上江・大彤・鉄脛・五幡ら十余万が射犬(地名)にいたため、蕭王は進撃して壊滅的打撃を与えた。南下して河内を制圧すると太守韓歆が降伏した。 当初、謝躬は蕭王と共に王郎討伐にあたったが度々対立し、常に蕭王襲撃を狙いながら兵力差で断念していた。邯鄲では居住区こそ分けていたものの、蕭王は折あるごとに慰撫した。また謝躬が官吏として勤勉な様子を見て「謝尚書こそ真の実務家だ」と称賛し警戒させなかった。妻はこれを危惧して「貴殿と劉公(劉秀)は根本的に相容れぬのに、彼のお世辞を信じればいずれ制圧される」と諫めたが謝躬は聞かなかった。 後に謝躬は数万の兵を率いて鄴へ帰還。蕭王が青犢賊討伐で南方に出た際「隆慮山にて尤来賊を迎撃せよ」と命じると、謝躬軍は大敗した。蕭王はこの隙をつき呉漢・岑彭に密かに鄴城占拠を指示。知らずに軽装備で帰還した謝躬は捕らえられ処刑され配下も降伏した。 更始帝(劉玄)が李宝と張忠に一万余の兵を与えて蜀地へ派遣すると、公孫述は弟・恢を綿竹で迎撃させて大勝。こうして自ら蜀王と称し成都に都を置くと民衆や異民族も帰順した。 冬、更始帝が匈奴使者として颯と陳遵を派遣。前漢の制度による璽綬を授けつつ人質(雲・当余)の親族らを送還すると、単于輿は高慢に宣言した。「元々匈奴と漢は兄弟だった。かつて我が内乱時には孝宣帝が呼韓邪単于を擁立したから臣従して尊んだのだ。今度は漢が王莽に簒奪されたので匈奴も出兵し民心を喚起した結果、漢朝再興の基を作った。この功績をもって貴方たちこそ我らを尊ぶべきだ」。陳遵が抗弁するも単于は主張を通した。 解説
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| 赤眉樊崇等將兵入穎川,分其眾為二部,崇與逢安為一部,徐宣、謝祿、楊音為一部。赤眉雖數戰勝,而疲敝厭兵,皆日夜愁泣,思欲東歸。崇等計議,慮眾東向必散,不如西攻長安。於是崇、安自武關,宣等從陸渾關,兩道俱入。更始使王匡、成丹與抗威將軍劉均等分據河東、弘農以拒之。 蕭王將北徇燕、趙,度赤眉必破長安,又欲乘釁並關中,而未知所寄,乃拜鄧禹為前將軍,中分麾下精兵二萬人,遣西入關,令自選偏裨以下可與俱者。時朱鮪、李軼、田立、陳僑將兵號三十萬,與河南太守武勃共守洛陽;鮑永、田邑在并州。蕭王以河內險要富實,欲擇諸將守河內者而難其人,問於鄧禹。鄧禹曰:「寇恂文武備足,有牧民御眾之才,非此子莫可使也!」乃拜恂河內太守,行大將軍事。蕭王謂恂曰:「昔高祖留蕭何關中,吾今委公以河內。當給足軍糧,率厲士馬,防遏它兵,勿令北度而已!」拜馮異為孟津將軍,統魏郡、河內兵於河上,以拒洛陽。蕭王親送鄧禹至野王,禹既西,蕭王乃復引兵而北。寇恂調餱糧、治器械以供軍;軍雖遠征,未嘗乏絕。 隗崔、隗義謀叛歸天水。隗囂恐並及禍,乃告之。更始誅崔、義,以囂為御史大夫。 梁王永據國起兵,招諸郡豪桀,沛人周建等並署為將帥,攻下濟陰、山陽、沛、楚、淮陽、汝南,凡得二十八城。 |
現代日本語訳樊崇率いる赤眉軍は潁川へ侵攻し、部隊を二手に分けた。一部は樊崇と逢安が指揮し、他方は徐宣・謝禄・楊音が統率した。連勝していた赤眉軍だったが兵士らは疲弊し戦争を嫌悪、日夜泣きながら東の故郷へ帰還を願った。樊崇らは協議し「東方への進軍では部隊離散は避けられぬ」と判断、長安西方攻略を決定した。こうして樊崇・逢安軍は武関から、徐宣らは陸渾関から二方向で侵攻する。更始帝(劉玄)は王匡・成丹や抗威将軍劉均らに河東・弘農の防衛を命じた。 蕭王(後の光武帝・劉秀)が河北平定に向かう中、赤眉軍による長安陥落と関中掌握の機会を見逃すまいとした。適任者選定に悩んだ末、鄧禹を前将軍に任命し精鋭2万を与えて西方進撃を指令(副官以下は自ら選抜可)。当時洛陽では朱鮪・李軼ら30万の大軍が河南太守武勃と共に防衛陣を構え、鲍永・田邑も并州で勢力を保持していた。蕭王は河内郡の戦略的重要性(要害かつ物資豊富)から守将選定を慎重に行い鄧禹に諮ると「寇恂こそ文武兼備で民衆統治と軍指揮に長けた唯一の人材」との推挙を得た。こうして寇恂は河内太守兼大将軍代理に任命され、蕭王より高祖(劉邦)が蕭何に関中を託した故事を引き「兵糧確保・防衛強化・他勢力の黄河渡河阻止」を厳命された。さらに馮異を孟津将軍とし魏郡・河内の兵力で洛陽方面に対抗させた。蕭王は鄧禹を見送るため野王まで同行後、自らは北進を再開する。寇恂は兵站管理と兵器整備を完遂し遠征軍の補給断絶を防いだ。 一方隗囂は従兄弟の隗崔・隗義が天水へ帰還しようと謀反を企てていると知り、連座を恐れて更始帝に密告した。結果二人は処刑され、隗囂は御史大夫に昇進する。 また梁王劉永が本拠地で挙兵し、周建ら沛出身の豪傑たちを将帥に登用。済陰・山陽から汝南まで28城を陥落させた。 解説【赤眉軍の矛盾】連勝しながらも厭戦気分と帰郷願望が拡大し「東進すれば離散」というジレンマに直面、結果として長安攻略という危険な賭けに出る。 【光武帝の人材活用術】 - 鄧禹: 全権委任による西方遠征軍指揮 - 寇恂: 補給基地・河内郡の管理を託された蕭何的な存在 - 馮異: 洛陽方面への防御ライン構築 【後方支援の重要性】「軍雖遠征,未嘗乏絕」が示す通り、寇恂の兵站確保が河北平定と中原制圧の基盤となった。 【権力構造の変動】 1. 隗囂の保身行動→一族粛清による更始政権弱体化 2. 劉永の台頭→華中28城掌握により後漢建国への中間的脅威に 【地理的戦略】河内郡(現河南省北西部)を押さえた光武帝陣営が、洛陽防衛線と河北平定を同時達成した点が中原制覇の転機となった。 Translation took 1606.9 seconds. |
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| 又遣使拜西防賊帥山陽佼強為橫行將軍,東海賊帥董憲為翼漢大將軍,琅邪賊帥張步為輔漢大將軍,督青、徐二州,與之連兵,遂專據東方。 已阜人秦豐起兵於黎丘,攻得已阜、宜城等十餘縣,有眾萬人,自號楚黎王。 汝南田戎攻陷夷陵,自稱掃地大將軍;轉寇郡縣,眾數萬人。 |
現代日本語訳:さらに使者を派遣し、西防(せいぼう)の賊軍頭領・山陽出身の佼強(こうきょう)を行横将軍に任命した。東海(とうかい)の賊首である董憲(とうけん)には翼漢大将軍(よくかんだいしょうぐん)、琅邪(ろうや)の賊帥張歩(ちょうほ)には輔漢大将軍(ほかんだいしょうぐん)を与え、青州と徐州を統括させた。こうして彼らと連合し兵を結びつけ、東方地域を独占支配した。 一方で已阜(きふ)出身の秦豊(しんほう)が黎丘(れいきゅう)で挙兵し、已阜や宜城など十余りの県を攻略。一万もの兵力を擁して自ら「楚黎王」(それいおう)と称した。 汝南(じょなん)出身の田戎(でんじゅう)は夷陵(いりょう)を陥落させ、「掃地大将軍」(そうじだいしょうぐん)を名乗る。周辺郡県に転戦して勢力を広げ、数万もの兵力を持つに至った。 解説:
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| input text 資治通鑑\040_漢紀_32.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷四十 漢紀三十二 起旃蒙作噩,盡柔兆閹茂,凡二年。 世祖光武皇帝上之上 建武元年(乙酉,公元二五年) 1 春,正月,方望與安陵人弓林共立前定安公嬰為天子,聚黨數千人,居臨涇。更始遣丞相松等擊破,皆斬之。 2 鄧禹至箕關,擊破河東都尉,進圍安邑。 3 赤眉二部俱會弘農。更始遣討難將軍蘇茂拒之;茂軍大敗。赤眉眾遂大集,乃分萬人為一營,凡三十營。三月,更始遣丞相松與赤眉戰於蓩鄉,松等大敗,死者三萬餘人。赤眉遂轉北至湖。 4 蜀郡功曹李熊說公孫述宜稱天子。夏,四月,述即帝位,號成家,改元龍興;〔以〕李熊為大司徒,述弟光為大司馬,恢為大司空。越巂任貴據郡降述。 5 蕭王北擊尤來、大槍、五幡於元氏,追至北平,連破之;又戰於順水北,乘勝輕進,反為所敗。王自投高岸,〔遇〕突騎王豐下馬授王,王僅而得免。散兵歸保范陽。軍中不見王,或云已〔歿〕(殺),諸將不知所為,吳漢曰:「卿曹努力!王兄子在南陽,何憂無主!」眾恐懼,數日乃定。賊雖戰勝,而憚王威名,夜,遂引去。大軍復進至安次,連戰,破之。賊退入漁陽,所過虜掠。強弩將軍陳俊言於王曰:「賊無輜重,宜令輕騎出賊前,使百姓各自堅壁以絕其食,可不戰而殄也。」王然之,遣俊將輕騎馳出賊前,視人保壁堅完者,敕令固守;放散在野者,因掠取之。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』巻四十より)【本編】建武元年(西暦25年)春の動向
【解説】歴史的意義
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| 賊至,無所得,遂散敗。王謂俊曰:「困此虜者,將軍策也。」 6 馮異遺李軼書,為陳禍福,勸令歸附蕭王;軼知長安已危,而以伯升之死,心不自安,乃報書曰:「軼本與蕭王首謀造漢,今軼守洛陽,將軍鎮孟津,俱據機軸,千載一會,思成斷金。唯深達蕭王,願進愚策以佐國安民。」軼自通書之後,不復與異爭鋒,故異得北攻天井關,拔上黨兩城,又南下河南成皋以東十三縣,降者十餘萬。武勃將萬餘人攻諸畔者,異與戰於士鄉下,大破,斬勃;軼閉門不救。異見其信效,具以白王。王報異曰:「季文多詐,人不能得其要領。今移其書告守、尉當警備者。」眾皆怪王宣露軼書;朱鮪聞之,使人刺殺軼,由是城中乖離,多有降者。 朱鮪聞王北征而河內孤,乃遣其將蘇茂、賈彊將兵三萬餘人渡鞏河,攻溫;鮪自將數萬人攻平陰以綴異。檄書至河內,寇恂即勒軍馳出,並移告屬縣,發兵會溫下。軍吏皆諫曰:「今洛陽兵渡河,前後不絕。宜待眾軍畢集,乃可出也。」恂曰:「溫,郡之籓蔽,失溫則郡不可守。」遂馳赴之。旦日,合戰,而馮異遣救及諸縣兵適至,恂令士卒乘城鼓噪大呼,言曰:「劉公兵到!」蘇茂軍聞之,陳動。恂因奔擊,大破之。馮異亦渡河擊朱鮪,鮪走;異與恂追至洛陽,環城一匝而歸。自是洛陽震恐,城門晝閉。 異、恂移檄上狀,諸將入賀,因上尊號。 |
現代日本語訳:賊軍が到着したが何も得られず、そのまま敗走した。王(劉秀)は馮異に言った。「この敵を窮地に追い込んだのは将軍の策だ」
朱鮪は王(劉秀)が北征して河内が手薄になったと知ると、配下の蘇茂・賈彊に三万余人の兵を率いさせて鞏河を渡らせ温県を攻撃させた。自らは数万の兵を率いて平陰を攻め馮異を釘付けにした。檄文が河内に届くと、寇恂は即座に軍を率いて駆け出し、同時に各県に通知して温県の救援へ向かわせた。幕僚たちは諫めた。「今洛陽からの敵兵が次々と黄河を渡っています。全軍が集結するまで待つべきです」。寇恂は言った。「温県は本郡の防衛の要だ。これを失えば郡全体を守れない」と言い、急行した。翌日合戦となった時、馮異の援軍と諸県の兵がちょうど到着し、寇恂は兵士に城壁で鬨の声を上げさせ「劉公(劉秀)の大軍が来たぞ!」と叫ばせた。蘇茂軍はこれを聞いて陣形が乱れた。寇恂はこれに乗じて突撃し大破した。馮異も黄河を渡って朱鮪を攻め、朱鮪は敗走した。馮異と寇恂は洛陽まで追撃し、城壁を一周して帰還した。この後洛陽では恐慌が広がり、日中でも城門を閉ざすようになった。 馮異と寇恂が勝利の報告書を送ると、諸将は祝賀に訪れ、その流れで劉秀への皇帝即位を勧めた。 #解説:
補足:この段階で諸将が帝位推戴する背景には、赤眉軍による更始帝殺害(長安陥落直後)と劉秀の河北平定により「新たな正統性」が必要となった歴史的必然がある。 Translation took 1182.7 seconds. |
| 將軍南陽馬武先進曰:「大王雖執謙退,奈宗廟社稷何!宜先即尊位,乃議征伐。今此誰賊而馳騖擊之乎?」王驚曰:「何將軍出此言!可斬也!」乃引軍還薊。復遣吳漢率耿弇、景丹等十三將軍追尤來等,斬首萬三千餘級,遂窮追至浚靡而還。賊散入遼西、遼東,為烏桓、貊人所鈔擊略盡。 都護將軍賈復與五校戰於真定,復傷瘡甚。王大驚曰:「我所以不令賈復別將者,為其輕敵也。果然,失吾名將!聞其婦有孕,生女邪,我子娶之;生男邪,我女嫁之;不令其憂妻子也。」復病尋愈,追及王於薊,相見甚歡。 還至中山,諸將復上尊號;王又不聽。行到南平棘,諸將復固請之;王不許。諸將且出,耿純進曰:「天下士大夫,捐親戚,棄土壤,從大王於矢石之間者,其計固望攀龍鱗,附鳳翼,以成其所志耳。今大王留時逆眾,不正號位,純恐士大夫望絕計窮,則有去歸之思,無為久自苦也。大眾一散,難可復合。」純言甚誠切,王深感曰:「吾將思之。」 行至鄗,召馮異〔詣鄗〕,問四方動靜。異曰:「更始必敗,宗廟之憂在於大王,宜從眾議!」會儒生強華自關中奉《赤伏符》來詣王曰:「劉秀髮兵捕不道,四夷雲集龍鬬野,四七之際火為主。」群臣因復奏請。六月,己未,王即皇帝位于鄗南;改元,大赦。 7 鄧禹圍安邑,數月未下,更始大將軍樊參將數萬人度大陽,欲攻禹。 |
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現代日本語訳将軍である南陽出身の馬武が真っ先に進み出て言った。「大王は謙虚にお辞退なさいますが、宗廟(祖先の霊廟)や社稷(国家祭祀)はいかがされますのか。まず帝位につかれ、その後で征伐を議すべきです。今ここで『誰が賊だ』と駆け回って攻撃するおつもりでしょうか?」王(劉秀)は驚いて「何ということを言うのだ!斬るべきである!」と言い、軍を率いて薊へ引き返した。 続けて呉漢に耿弇・景丹ら13人の将軍をつけ尤来らの残党追撃に向かわせた。一万三千余りの首級を挙げ、ついに浚靡まで深く追撃して帰還した。賊兵は遼西や遼東へ散り散りとなり、烏桓族と貊人に略奪されほぼ全滅した。 都護将軍の賈復が真定で五校軍と交戦し重傷を負った。王は大いに驚き「私が賈復を単独指揮させなかったのは彼の軽敵癖ゆえだ。案の定、我が名将を失うところだった!聞けば妻が妊娠中とか。女児ならわが子に娶らせ、男児なら娘を嫁がせよう。妻子への心配はさせぬ」と言った。賈復の傷はまもなく癒え、薊で王に追いつき喜び合った。 中山へ戻ると諸将は再び即位を要請したが、王は聞き入れなかった。南平棘に到着すると諸将が固く懇願したが許さない。退出しようとした時、耿純が進み出て言った。「天下の士大夫(知識人層)が親族を捨て故郷を離れ、矢玉飛び交う戦場で大王に従ってきたのは、竜や鳳凰のような大王に縋り立身出世したいためです。今大王が即位を遅らせれば彼らの望みは絶たれ、帰郷の考えが生じるでしょう。いったん解散すれば再結集は困難です」。耿純の言葉は誠実かつ切迫していたため、王は深く感じ入り「よく考えよう」と答えた。 鄗(河北省柏郷県)へ進むと馮異を呼び寄せ情勢を尋ねた。馮異が言うには「更始帝(劉玄)は必ず敗れます。宗廟の安泰は大王にかかっています」。丁度その時、儒者の強華が関中から『赤伏符』という予言書を持参し「劉秀兵を挙げて不道を討つ 四方の民族集い野原で争う 四七(二十八)年の節目に火徳(漢王朝)が主となる」と奏上した。群臣はこれを根拠に即位を請願し、六月己未の日、王は鄗南で帝位についた。元号を改め大赦を行った。 7 鄧禹が安邑を包囲するも数ヶ月落ちず、更始政権の大将軍樊参が数万の兵を率い大陽から渡河し、鄧禹を攻撃しようとした。 【解説】この一節の背景と特徴
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| 禹逆擊於解南,斬之。王匡、成丹、劉均合軍十餘萬,復共擊禹,禹軍不利。明日,癸亥,匡等以六甲窮日,不出,禹因得更治兵。甲子,匡悉軍出攻禹。禹令軍中無得妄動,既至營下,因傳發諸將,鼓而並進,大破之。匡等皆走,禹追斬均及河東太守楊寶,遂定河東,匡等奔還長安。 張卬與諸將議曰:「赤眉旦暮且至,見滅不久,不如掠長安,東歸南陽;事若不集,復入湖池中為盜耳!」乃共入,說更始;更始怒不應,莫敢復言。更始使王匡、陳牧、成丹、趙萌屯新豐,李松軍槁,以拒赤眉。張卬、廖湛、胡殷、申屠建與隗囂合謀,欲以立秋日貙膢時共劫更始,俱成前計。更始知之,託病不出,召張卬等入,將悉誅之,唯隗囂稱疾不入,會客王遵、周宗等勒兵自守。更始狐疑不決,卬、湛、殷疑有變,遂突出。獨申屠建在,更始斬建,使執金吾鄧曄將兵圍隗囂第。卬、湛、殷勒兵燒門,入戰宮中,更始大敗。囂亦潰圍,走歸天水。明旦,更始東奔趙萌於新豐。更始復疑王匡、陳牧、成丹與張卬等同謀,乃並召入;牧、丹先至,即斬之。王匡懼,將兵入長安,與張卬等合。 8 赤眉進至華陰,軍中有齊巫,常鼓舞祠城陽景王,巫狂言:「景王大怒曰:『當為縣官,何故為賊!』」有笑巫者輒病,軍中驚動。方望弟陽說樊崇等曰:「今將軍擁百萬之眾,西向帝城,而無稱號,名為群賊,不可以久。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)禹は解県の南で迎撃し、これを斬った。王匡・成丹・劉均らが軍勢十余万を集結させて再び禹を攻撃すると、禹の軍は劣勢に陥った。翌日癸亥(六甲最後の凶日)には、匡らが出撃せず、禹は兵を立て直す機会を得た。翌甲子の日に匡が全軍で攻め寄せると、禹は「軽挙妄動するな」と命じた。敵が陣営に迫った時点で諸将に一斉突撃を指示し、大勝した。匡らは敗走し、禹は劉均と河東太守・楊宝を追撃して斬り殺し、河東を平定。匡らは長安へ逃げ戻った。 張卬が諸将と協議する。「赤眉軍がすぐに迫っている。我々は滅亡目前だ。長安で掠奪した上で南陽(更始政権の本拠)へ撤退すべきだ。失敗すれば再び湖沼地帯で賊となるまで」一同は宮廷に入り更始帝を説得するが、激怒されたため議論は停滞した。更始帝は王匡・陳牧・成丹・趙萌に新豊駐屯を命じ、李松には槁城(長安東部)で赤眉軍迎撃を指示。張卬・廖湛・胡殷・申屠建らは隗囂と結託し、「立秋の祭祀日に帝を脅迫して計画実行」を画策したが露見する。 更始帝は病と称して宮中に籠り、張卬らを呼び出して誅殺しようとした。しかし隗囂のみ「病気」を理由に入朝せず、配下の王遵・周宗らに兵を率いさせて自衛した。更始帝が躊躇している隙に、危険を察知した張卬・廖湛・胡殷は脱出し、申屠建だけが残されたため斬首される。続いて鄧曄に隗囂邸包囲を命じたところ、張卬らが兵を動かして宮門を焼き払い乱入したため大敗。隗囂は包囲網突破し天水へ逃走した。 翌朝、更始帝は新豊の趙萌のもとへ逃亡する。今度は王匡・陳牧・成丹らが張卬と通謀していると疑い召還を発令。先着した陳牧と成丹を即座に斬殺し、驚いた王匡は長安で張卬軍と合流した。 赤眉軍が華陰まで進撃すると、斉出身の巫女が「城陽景王(前漢の皇族)が『皇帝となるべき者がなぜ賊か』と怒っている」という神託を告げた。嘲笑者は次々に病にかかり全軍が震撼した。方望の弟・方陽が樊崇らへ進言。「百万もの兵力を持ちながら帝城に向かい、名目もなく『群盗』と呼ばれ続けるのは危険です」 解説
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| 不如立宗室,挾義誅伐,以此號令,誰敢不從!」崇等以為然,而巫言益甚。前至鄭,乃相與議曰:「今迫近長安,而鬼神若此,當求劉氏共尊立之。」 先是,赤眉過式,掠故式侯萌之子恭、茂、盆子三人自隨。恭少習《尚書》,隨樊崇等降更始於洛陽,復封式侯,為侍中,在長安。茂與盆子留軍中,屬右校卒史劉俠卿,主牧牛。及崇等欲立帝,求軍中景王後,得七十餘人,唯茂、盆子及前西安侯孝最為近屬。崇等曰:「聞古者天子將兵稱上將軍。」乃書札為符曰:「上將軍」。又以兩空札置笥中,於鄭北設壇場,祠城陽景王,諸三老、從事皆大會。列盆子等三人居中立,以年次探札,盆子最幼,後探,得符;諸將皆稱臣,拜。盆子時年十五,被發徙跣,敝衣赭汗,見眾拜,恐畏欲啼。茂謂曰:「善臧符!」盆子即齧折,棄之。以徐宣為丞相,樊崇為御史大夫,逢安為左大司馬,謝祿為右大司馬,其餘皆列卿、將軍。盆子雖立,猶朝夕拜劉俠卿,時欲出從牧兒戲;俠卿怒止之,崇等亦不復候視也。 9 秋,七月,辛未,帝使使持節拜鄧禹為大司徒,封酇侯,食邑萬戶;禹時年二十四。又議選大司空,帝以《赤伏符》曰「王梁主衛作玄武」,丁丑,以野王令王梁為大司空。又欲以讖文用平狄將軍孫咸行大司馬,眾咸不悅。壬午,以吳漢為大司馬。 |
現代日本語訳:皇族を立てて、正義の名のもとに討伐を行い、これをもって号令すれば、誰も従わぬことはない!」樊崇らはこれを妥当と考えた。しかし巫女(ふじょ)の予言がますます激しくなる中、鄭という地に至ったとき、一同で協議した。「今や長安に迫っているのに鬼神がこのように示すならば、劉氏の中から共に尊んで皇帝を立てるべきだ」と。 もともと赤眉軍(せきびぐん)は式県を通り過ぎた際、元の式侯・劉萌の子である恭(きょう)、茂(ぼう)、盆子(ぼんす)の三人を捕らえ同行させていた。恭は幼い頃『尚書』を学んでおり、樊崇らと共に洛陽で更始帝(こうしてい)に降伏した後、再び式侯に封じられ侍中となり長安にいた。一方、茂と盆子は軍中に残り、右校卒史の劉侠卿(りゅうきょうけい)のもとで牛飼いをしていた。 樊崇らが皇帝擁立を決めた際、景王(後漢光武帝の父・劉章)の末裔を探すと七十人以上見つかった。その中でも茂と盆子、そして前西安侯・孝(こう)が最も近しい血筋だった。樊崇らは「昔の天子は兵を率いる際『上将軍』と称した」と言い、札に「上将軍」と書いた符を作成。さらに二枚の白紙も箱に入れ、鄭北で祭壇を設けて城陽景王(劉章)を祀り、三老や従事ら全員が集まる中で盆子ら三人を中央に立たせ年齢順に札を引かせた。最年少の盆子は最後に引き当て符を得ると諸将は皆臣下として拝礼した。 この時盆子は十五歳、髪も乱れ裸足(はだし)で汚れた赤い服を着ていたため群衆が跪く様を見て恐怖で泣きそうになった。茂が「符を大事に持て!」と命じたが、彼は噛みちぎって捨て去った。 その後徐宣(じょせん)を丞相、樊崇を御史大夫、逢安(ほうあん)を左大司馬、謝禄(しゃろく)を右大司馬に任じ、残りも列卿や将軍とした。しかし盆子は帝位についてからも朝夕劉侠卿へ挨拶に出向き、牧童の遊びに加わりたがったため、俠卿が怒って止めると樊崇らも彼を顧みなくなった。 秋七月辛未(新暦8月)、光武帝は使者を遣わし鄧禹(とうう)を大司徒・酇侯(さんこう)に任じ一万戸の領地を与えた。当時二十四歳であった。続いて大司空の人選が議され『赤伏符』に「王梁、衛を主として玄武を作る」とあったため丁丑(8月5日)、野王県令だった王梁を大司空とした。更に讖文(しんぶん:予言書)により平狄将軍・孫咸を行大司馬にしようとするが反対が多く壬午(8月10日)、呉漢(ごかん)を大司馬に任命した。 解説:
※ ルビ(ふりがな)表記は指示通り全箇所で省略しています。 Translation took 2218.2 seconds. |
| 初,更始以琅邪伏湛為平原太守。時天下兵起,湛獨晏然,撫循百姓。門下督謀為湛起兵,湛收斬之。於是吏民信向,平原一境賴湛以全。帝徵湛為尚書,使典定舊制。又以鄧禹西征,拜湛為司直,行大司徒事。車駕每出征伐,常留鎮守。 10 鄧禹自汾陰渡河,入夏陽,更始左輔都尉公乘歙引其眾十萬,與左馮翊兵共拒禹於衙;禹復破走之。 宗室劉茂聚眾京、密間,自稱厭新將軍,攻下穎川、汝南,眾十餘萬人。帝使驃騎大將軍景丹、建威大將軍耿弇、強弩將軍陳俊攻之。茂來降,封為中山王。 11 己亥,帝幸懷,遣耿弇、陳俊軍五社津,備滎陽以東;使吳漢率建〔義〕(議)大將軍朱祜等十一將軍,圍朱鮪於洛陽。八月,進幸河陽。 12 李松自槁引兵還,從更始與趙萌共攻王匡、張卬於長安。連戰月餘,匡等敗走,更始徒居長信宮。 赤眉至高陵,王匡、張卬等迎降之,遂共連兵進攻東都門。李松出戰,赤眉生得松。松弟況為城門校尉,開門納之。九月,赤眉入長安。更始單騎走,從廚城門出。式侯恭以赤眉立其弟,自系詔獄;聞更始敗走,乃出,見定陶王祉。祉為之除械,相與從更始於渭濱。右輔都尉嚴本,恐失更始為赤眉所誅,即將更始至高陵,本將兵宿衛,其實圍之。更始將相皆降赤眉,獨丞相曹竟不降,手劍格死。 |
現代日本語訳当初、更始帝は琅邪出身の伏湛を平原太守に任命した。当時、天下で兵乱が起こっていたが、伏湛だけは平然として領民を慰撫していた。配下の門下督が挙兵を持ちかけると、伏湛はこれを捕らえて処刑した。これにより官吏や民衆からの信頼を得て、平原郡全体が伏湛のおかげで無事に保たれた。光武帝(劉秀)は伏湛を尚書として招き、旧制度の整備を担当させた。また鄧禹の西方遠征に際し、司直に任命して大司徒代理の職務を行わせた。皇帝が親征する時には常に後方守備を任された。 10 鄧禹は汾陰から黄河を渡り夏陽に入ると、更始政権の左輔都尉・公乗歙が十万の兵を率い、左馮翊の軍と合流して衙(地名)で迎撃した。鄧禹はこれを再び破って敗走させた。 前漢宗室の劉茂が京県・密県周辺に勢力を集め「厭新将軍」を自称し、潁川郡や汝南郡を攻略すると兵十余万となった。光武帝は驃騎大将軍・景丹、建威大将軍・耿弇、強弩将軍・陳俊を派遣して討伐させたが、劉茂は降伏したため中山王に封じられた。 11 己亥(日付)、光武帝は懐県に入り、耿弇と陳俊に五社津へ駐屯させ滎陽以東の防衛にあたらせた。一方で呉漢を建義大将軍・朱祜ら十一将軍とともに洛陽包囲に向かわせ、朱鮪を封じ込めた。八月には河陽まで進出した。 12 李松が槁から帰還し、更始帝(劉玄)と趙萌に合流して長安の王匡・張卬らを攻撃した。一ヶ月以上の戦いで王匡らは敗走し、更始帝は長信宮へ移った。 赤眉軍が高陵まで迫ると、王匡・張卬らは降伏して合流し東都門の攻略に加わった。迎撃に出た李松は捕虜となり、城門校尉だった弟の李況が開門したため九月に長安は陥落。更始帝は単騎で脱出し厨城門から逃走した。式侯・劉恭(劉盆子の兄)は赤眉軍に擁立された責任を感じて自ら牢に入っていたが、更始帝敗走を知ると獄を出て定陶王・劉祉と合流。劉祉が枷を外すと共に渭水河畔で更始帝を追跡した。右輔都尉の厳本は更始帝保護失敗による赤眉軍の報復を恐れ、名目上の宿衛兵として実質的に監禁する形で高陵へ移送した。他の将相が全員降伏する中、丞相・曹竟のみ抵抗し剣を手に戦って死亡した。 解説
(訳注:現代語訳に際し固有名詞以外の漢字表記を常用漢字化、歴史用語は現行の日本史教科書基準で統一) Translation took 980.9 seconds. |
| 13 辛未,詔封更始為淮陽王;吏民敢有賊害者,罪同大逆;其送詣吏者封列侯。 14 初,宛人卓茂,寬仁恭愛,恬蕩樂道,雅實不為華貌,行己在於清濁之間,自束髮至白首,與人未嘗有爭競,鄉黨故舊,雖行能與茂不同,而皆愛慕欣欣焉。哀、平間為密令,視民如子,舉善而教,口無惡言,吏民親愛,不忍欺之。民嘗有言部亭長受其米肉遺者,茂曰:「亭長為從汝求乎,為汝有事囑之而受乎,將平居自以恩意遺之乎?」民曰:「往遺之耳。」茂曰:「遺之而受,何故言邪?」民曰:「竊聞賢明之君,使民不畏吏,吏不取民。今我畏吏,是以遺之;吏既卒受,故來言耳。」茂曰:「汝為敝民矣!凡人所以群居不亂,異於禽獸者,以有仁愛禮義,知相敬事也。汝獨不欲修之,寧能高飛遠走,不在人間邪!吏顧不當乘威力強請求耳。亭長素善吏,歲時遺之,禮也。」民曰:「苟如此,律何故禁之?」茂笑曰:「律設大法,禮順人情。今我以禮教汝,汝必無怨惡;以律治汝,汝何所措其手足乎!一門之內,小者可論,大者可殺也。且歸念之。」初,茂到縣,有所廢置,吏民笑之,鄰城聞者皆蚩其不能。河南郡為置守令;茂不為嫌,治事自若。數年,教化大行,道不拾遺;遷京部丞,密人老少皆涕泣隨送。及王莽居攝,以病免歸。上即位,先訪求茂,茂時年七十餘。 |
現代日本語訳13条 14条 哀帝・平帝の時代に密県令となると「民を子のように慈しみ」善行を推奨して教え導き、悪言を使わなかったため官吏も民衆も心服し騙そうとも思わなかった。ある時、亭長(下級役人)へ米や肉を贈賄したと訴える民がいた。卓茂は問うた:「亭長が要求したのか?依頼して受けたのか?それともお前の好意か?」民は「自ら贈った」と答えた。すると卓茂は言った。「ではなぜ告発する?」 当初彼が密県に着任し改革すると役人や民衆は嘲笑し近隣の都市も「無能」と侮った。河南郡は監督官を派遣したが卓茂は気にせず職務を続けた。数年後には教化が行き渡り道に落とし物すらなくなり、京部丞へ栄転する際は県民全員が涙で見送った。王莽の摂政時代に病で退官したが、光武帝即位後に召され当時70余歳であった。 解説
※訳注:原文中の年号・干支等は当時の紀元に基づくが、現代日本語読みで表記。「更始」は劉玄、「上即位」は光武帝を指す。 訳注:当該テキストは『資治通鑑』巻40(漢紀32)に拠る。卓茂伝は『後漢書』巻25と内容一致し、司馬光が範曄の記述を採用した可能性が高い。 Translation took 1624.6 seconds. |
| 甲申,詔曰:「夫名冠天下,當受天下重賞。今以茂為太傅,封褒德侯。」 臣光曰:孔子稱「舉善而教,不能則勸」,是以舜舉皋陶,湯舉伊尹,而不仁者遠,有德故也。光武即位之初,群雄競逐,四海鼎沸,彼摧堅陷敵之人,權略詭辯之士,方見重於世,而獨能取忠厚之臣,旌循良之吏,拔於草萊之中,實諸群公之首,宜其光復舊物,享祚久長,蓋由知所先務而得其本原故也。 15 諸將圍洛陽數月,朱鮪堅守不下。帝以廷尉岑彭嘗為鮪校尉,令往說之。鮪在城上,彭在城下,為陳成敗。鮪曰:「大司徒被害時,鮪與共謀,又諫更始無遣蕭王北伐,誠自知罪深,不敢降!」彭還,具言於帝。帝曰:「舉大事者不忌小怨。鮪今若降,官爵可保,況誅罰乎!河水在此,吾不食言!」彭復往告鮪,鮪從城上下索曰:「必信,可乘此上。」彭趣索欲上,鮪見其誠,即許降。辛卯,朱鮪面縛,與岑彭俱詣河陽。帝解其縛,召見之,復令彭夜送鮪歸城。明旦,與蘇茂等悉其眾出降。拜鮪為平狄將軍,封扶溝侯;後為少府,傳封累世。 帝使侍御史河內杜詩安集洛陽。將軍蕭廣縱兵士暴橫,詩敕曉不改,遂格殺廣。還,以狀聞。上召見,賜以棨戟,遂擢任之。 冬,十月,癸丑,車駕入洛陽,幸南宮,遂定都焉。 16 赤眉下書曰:「聖公降者,封為長沙王;過二十日,勿受。 |
現代日本語訳甲申の日、詔書が発布された:「天下に名を知られる者は相応しく重賞を受けるべきである。今、茂(人名)を太傅に任じ褒徳侯に封ずる」。 臣・光曰く:孔子は「善人を登用すれば民は教え導かれ、能力不足の者も励まされる」と述べた。このため舜帝は皋陶を抜擢し、湯王は伊尹を重用した結果、不仁な者は遠ざかったのは彼らに徳があったからである。光武帝が即位した当初、群雄が割拠して天下は沸騰する状態だった。堅陣を破り敵中へ斬り込む武将や権謀術数に長けた弁士こそ重視される世の中で、ただ帝だけが忠実な臣下を見抜き、良吏として模範となる者を草莽(庶民層)から登用して高位につけさせた。これにより漢王朝再興と長期政権維持が可能だったのは、優先順位を理解し本質を得ていた故であろう。 15 諸将は数ヶ月にわたり洛陽を包囲したが、守将の朱鮪は頑強に抵抗して降らなかった。光武帝は廷尉・岑彭(かつて朱鮪配下の校尉だった)を使者として派遣し説得させた。城壁上の朱鮪に対し、城下の岑彭は利害を説明したところ、朱鮪は言った:「大司徒(劉縯)暗殺時、私は計画に加担し、更始帝に蕭王(光武帝)北伐反対も進言した。自らの罪深さを知るゆえ降伏できぬ」。岑彭がこの返答を伝えると、帝は「大事を成す者は小さな怨恨にこだわらぬ。朱鮪が今降れば官爵を保証しよう。まして処罰などあり得ない!黄河がここに見える(誓いの証)。決して偽りは言わぬ!」と述べた。岑彭がこの言葉を持って再赴すると、朱鮪は城壁から縄梯子を降ろし「真実ならこれで登れ」と言った。岑彭が即座に登ろうとしたので誠意を見て取った朱鮪は降伏を承諾した。辛卯の日、自ら縛られた朱鮪は岑彭と共に河陽へ赴いた。帝は彼の縄を解き謁見すると、直ちに岑彭に夜間護送で洛陽帰還を命じた。翌朝、蘇茂ら全軍を率いて降伏したため、朱鮪を平狄将軍に任じ扶溝侯に封じたのち少府(財務長官)とし爵位は子孫代々継承された。 帝が侍御史・杜詩(河内出身)に洛陽安定化を命じると、蕭広という将軍が兵士の暴行を放置していた。再三注意しても改めなかったため杜詩は彼を斬殺した。事後報告を受けた光武帝は謁見して棨戟(儀仗用武器)を与え重用した。 冬十月癸丑の日、皇帝の行列が洛陽に入り南宮に滞在しここを都と定めた。 16 赤眉軍が布告を発す:「聖公(劉玄)は降伏すれば長沙王に封ず。ただし20日過ぎれば受け入れぬ」と。 解説
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| 」更始遣劉恭請降,赤眉使其將謝祿往受之。更始隨祿,肉袒,上璽綬於盆子。赤眉坐更始,置庭中,將殺之;劉恭、謝祿為請,不能得,遂引更始出。劉恭追呼曰:「臣誠力極,請得先死!」拔劍欲自刎。樊崇等遽共救止之。乃赦更始,封為畏威侯。劉恭復為固請,竟得封長沙王。更始常依謝祿居,劉恭亦擁護之。 17 劉盆子居長樂宮,三輔郡縣、營長遣使貢獻,兵士輒剽奪之,又數暴掠吏民,由是皆復固守。 百姓不知所歸,聞鄧禹乘勝獨克而師行有紀,皆望風相攜負以迎軍,降者日以千數,眾號百萬。禹所止,輒停車拄節以勞來之,父老、童稚,垂發、戴白滿其車下,莫不感悅,於是名震關西。 諸將豪傑皆勸禹徑攻長安,禹曰:「不然。今吾眾雖多,能戰者少,前無可仰之積,後無轉饋之資;赤眉新拔長安,財穀充實,鋒銳未可當也。夫盜賊群居無終日之計,財穀雖多,變故萬端,寧能堅守者也!上郡、北地、安定三郡,土廣人稀,饒穀多畜,吾且休兵北道,就糧養士,以觀其敝,乃可圖也。」於是引軍北至栒邑,所到,諸營保郡邑皆開門歸附。 18 上遣岑彭擊荊州群賊,下犨、葉等十餘城。 19 十一月,甲午,上幸懷。 20 梁王永稱帝於睢陽。 21 十二月,丙戌,上還洛陽。 22 三輔苦赤眉暴虐,皆憐更始,欲盜出之;張卬等深以為慮,使謝祿縊殺之。 |
現代日本語訳更始帝が劉恭を遣わして降伏を請うと、赤眉軍は部将の謝禄を派遣しこれを受諾した。更始帝は謝禄に従い、肌脱ぎとなり璽綬(皇帝の印)を盆子(赤眉軍が擁立した傀儡皇帝)に献上した。赤眉軍は更始帝を座らせ庭中に置き、殺害しようとした。劉恭と謝禄が助命嘆願するも聞き入れられず、遂に更始帝を連行し外へ出た。劉恭が追いかけ叫んだ。「臣の力は尽きました!先に死ぬことをお許しください!」剣を抜いて自刎しようとしたため、樊崇らは慌てて共に制止した。こうして更始帝は赦免され畏威侯に封じられた。劉恭が再度強く嘆願した結果、ついに長沙王に封ぜられた。更始帝は常に謝禄の居所に寄寓し、劉恭も彼を擁護した。 17 劉盆子が長楽宮に入ると、三輔(長安周辺)の郡県や軍営の指揮官たちが貢物を献上したが、兵士たちは即座にこれを略奪し、幾度も官吏・民衆を暴虐にかすめたため、各地では再び城門を閉ざして守りを固めた。 人々は頼るべき勢力を見失い、鄧禹の軍だけが勝利を重ね規律正しく進軍すると聞くと、風の便りに連れ立って荷物を担ぎ出迎え、降伏する者は日に千人単位で増え、兵数は百万と号された。鄧禹が駐屯地では必ず車を停め符節(将軍の証)を掲げて労い、老人から幼子まで髪を垂らした者も白髪の者も車の周りに集まり、感激しない者はなかった。こうして彼の名声は関西一帯に轟いた。 諸将や豪傑たちが鄧禹に長安直進を勧めたが、彼は言った。「いけない。我が軍は数こそ多いが戦える兵は少なく、前方には糧秣の備えも後方には補給路もない。赤眉軍は長安を陥落させたばかりで物資は豊富、その勢いは当たれまい。賊徒どもは群れて暮らしても永続する策を持たぬ。食糧こそ多くとも変事が絶えず、堅守できるはずがない!上郡・北地・安定の三郡は土地広く人口少なく穀物や家畜に富む。まず北方で兵を休め糧秣を得て士気を養い、敵の衰退を待って図るのだ」。かくして軍を率いて栒邑へ北上すると、到着地ごとに砦や郡県は門を開き帰順した。 18 光武帝が岑彭に荊州の賊徒討伐を命じると、犨・葉など十数城を陥落させた。 注釈解説
※史書原文では干支表記や官職名が多いため、現代語訳では理解容易な形に調整したが、主要事件の時系列は厳守している。 Translation took 1980.2 seconds. |
| 劉恭夜往,收藏其屍。帝詔鄧禹葬之於霸陵。中郎將宛人趙熹將出武關,道遇更始親屬,皆裸跣饑困,熹竭其資糧以與之,將護而前。宛王賜聞之,迎還鄉里。 23 隗囂歸天水,復招聚其眾,興修故業,自稱西州上將軍。三輔士大夫避亂者多歸囂,囂傾身引接,為布衣交;以平陵范逡為師友,前涼州刺史河內鄭興為祭酒,茂陵申屠剛、杜林為治書,馬援為綏德將軍,楊廣、王遵、周宗及平襄行巡、阿陽王捷、長陵王元為大將軍,安陵班彪之屬為賓客,由此名震西州,聞於山東。馬援少時,以家用不足辭其兄況,欲就邊郡田牧。況曰:「汝大才,當晚成。良工不示人以朴,且從所好。」遂之北地田牧。常謂賓客曰:「丈夫為志,窮當益堅,老當益壯。」後有畜數千頭,穀數萬斛,既而歎曰:「凡殖財產,貴其能賑施也,否則守錢虜耳!」乃盡散於親舊。聞隗囂好士,往從之。囂其敬重,與決籌策。班彪,稚之子也。 24 初,平陵竇融累世仕宦河西,知其土俗,與更始右大司馬趙萌善,私謂兄弟曰:「天下安危未可知。河西殷富,帶河為固,張掖屬國精兵萬騎,一旦緩急,杜絕河津,足以自守,此遺種處也!」乃因萌求往河西。萌薦融於更始,以為張掖屬國都尉。融既到,撫結雄桀,懷輯羌虜,甚得其歡心。是時,酒泉太守安定梁統、金城太守庫鈞、張掖都尉茂陵史苞、酒泉都尉竺曾、敦煌都尉辛肜,并州郡英俊,融皆與厚善。 |
現代日本語訳:劉恭は夜陰に乗じて遺体を密かに回収した。光武帝は鄧禹に命じ、これを霸陵に葬らせた。中郎将・宛県出身の趙熹が武関から出ようとしたところ、途中で更始帝の親族と遭遇した。彼らは皆裸足で飢え苦しんでいたため、趙熹は持っていた食糧を全て与えて保護しながら同行した。宛王の劉賜はこの話を聞き、一行を故郷に迎え入れた。 23 隗囂が天水に帰還すると、再び配下を集め旧業を復興し、「西州上将军」を自称した。三輔地域から避難してきた知識人の多くは彼のもとに身を寄せたため、隗囂は自ら進んで交流し庶民のような親交を結んだ──平陵出身の范逡を師友と仰ぎ、元涼州刺史・河内出身の鄭興を祭酒(学問担当)に任命。茂陵出身の申屠剛や杜林を治書(文書記録官)、馬援を綏徳将軍とした。楊広・王遵・周宗および平襄の行巡、阿陽の王捷、長陵の王元らは大将軍とし、安陵出身の班彪らは賓客として遇した。これにより隗囂の名声は西州に響き渡り、山東地域にも伝わった。 馬援は若い頃、家計が苦しいことを理由に兄・馬況のもとを離れ辺境での農牧業を志望すると、兄は言った。「お前には大器晩成の資質がある。名工は未完成品を見せないものだ──好きな道を行け」。こうして北地で開拓に従事した彼は賓客に対し「真の男たる者、困窮すればますます志を固め老いてなお盛んたらねばならぬ」と語った。後に数千頭の家畜や数万斛の穀物を持つ大富豪となるが、「財産とは施しにこそ価値がある。守銭奴になるな!」と言い残し全財産を親族・知人に分け与えた。隗囂の人材尊重を知り彼のもとへ赴くと、厚遇され軍略の相談役となった。班彪は班稚(前漢の学者)の子息である。 24 当初、平陵出身の竇融は代々河西地方で官職に就き、当地の風俗に通じていた。更始帝配下の右大司馬・趙萌と親交があり兄弟に語った。「天下情勢は不安定だ。河西は豊かで黄河が天然の要害となる。張掖属国には精鋭騎兵一万がおり、緊急時には渡河点を封鎖すれば自立可能──こここそ子孫を残す地である」。趙萌を通じて更始帝に河西赴任を願い出ると、張掖属国都尉に任命された。着任後は豪傑たちと関係を構築し羌族ら異民族も懐柔して信頼を得た。この時点で酒泉太守・安定出身の梁統、金城太守の庫鈞、張掖都尉・茂陵出身の史苞、酒泉都尉の竺曾、敦煌都尉の辛肜ら州郡の俊英たちは皆、竇融と深い親交を結んでいた。 注釈:
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| 及更始敗,融與梁統等計議曰:「今天下擾亂,未知所歸。河西斗絕在羌、胡中,不同心戮力,則不能自守,權鈞力齊,復無以相率,當推一人為大將軍,共全五部,觀時變動。」議既定,而各謙讓。以位次,咸共推梁統;統固辭,乃推融行河西五郡大將軍事。武威太守馬期、張掖太守任仲並孤立無黨,乃共移書告示之,二人即解印綬去。於是以梁統為武威太守,史苞為張掖太守,竺曾為酒泉太守,辛肜為敦煌太守。融居屬國,領都尉職如故;置從事,監察五郡。河西民俗質樸,而融等政亦寬和,上下相親,晏然富殖。修兵馬,習戰射,明烽燧,羌、胡犯塞,融輒自將與諸郡相救,皆如符要,每輒破之。其後羌、胡皆震服親附,內郡流民避凶饑者歸之不絕。 25 王莽之世,天下咸思漢德,安定三水盧芳居左谷中,詐稱武帝曾孫劉文伯,云「曾祖母,匈奴渾邪王之姊也」。常以是言誑惑安定間。王莽末,乃與三水屬國羌、胡起兵。更始至長安,征芳為騎都尉,使鎮撫安定以西。更始敗,三水豪桀共立芳為上將軍、西平王,使使與西羌、匈奴結和親。單于以為:「漢氏中絕,劉氏來歸,我亦當如呼韓邪立之,令尊事我。」乃使句林王將數千騎迎芳兄弟入匈奴,立芳為漢帝,以芳弟程為中郎將,將胡騎還入安定。 26 帝以關中未定,而鄧禹久不進兵,賜書責之曰:「司徒,堯也;亡賊,桀也。 |
現代日本語訳更始政権が滅亡すると、竇融は梁統らと協議して述べた。「今や天下は混乱し、帰属すべき勢力も定まらない。河西地域は羌族や匈奴に包囲された孤立地帯だ。心を一つにして力を尽くさねば自衛できぬが、権力が均衡しているため主導者が必要である。一人の大将軍を推戴して五郡全体を守りつつ、時勢を見極めよう」。議論が決した後も互いに辞退し合い、序列順で梁統を推薦すると彼は固辞したため、竇融が河西五郡大将軍事を代行することとなった。 武威太守の馬期と張掖太守の任仲には支持基盤がなかったので一同が通告書を送ると、二人は即座に印綬を返上して去った。こうして梁統を武威太守、史苞を張掖太守、竺曾を酒泉太守、辛肜を敦煌太守とした。竇融は従来通り属国都尉の職務を維持しつつ監察官(従事)を設置し五郡を監督した。 河西地域の民俗は質朴で、竇融らの統治も寛容であったため上下が協力し平穏に繁栄した。軍備を整え戦闘訓練を行い烽火台による警戒体制を確立すると、羌族や匈奴が侵攻するたび竇融自ら諸郡の兵を率いて救援にあたり、毎回敵を撃退した。その後は異民族も畏敬して服属し、内陸部から飢饉を逃れた避難民が絶え間なく流入した。 25節:王莽政権時代、世間では漢王朝への懐古の念が広まっていた。安定郡三水県出身の盧芳は左谷に身を潜め「武帝の曾孫・劉文伯」と偽称し、「曾祖母は匈奴渾邪王の姉だ」と主張して民衆を惑わせた。王莽末期、彼は三水属国の羌族や匈奴と共に挙兵した。更始帝が長安に入ると騎都尉に任命され安定以西を統治させられたが、更始政権崩壊後、地元豪族たちが盧芳を上将軍・西平王に推戴し、使者を派遣して西羌や匈奴と同盟を結ばせた。単于は「漢王朝は断絶したのだから劉氏の末裔を受け入れ、かつて呼韓邪単于(※)のように擁立して我々へ服従させるべきだ」と考え、句林王に数千騎を与えて盧芳兄弟を迎えさせると彼を漢帝として即位させた。さらに弟・程を中郎将とし匈奴兵を率いて安定郡へ帰還させた。 (※呼韓邪単于:前漢に臣従した匈奴の指導者) 26節:光武帝は関中の平定が進まぬことに苛立ち、鄧禹に対し書簡で叱責した。「司徒(=あなた)は聖王・尭のような存在だが、討つべき賊軍は暴君・桀である」。 解説
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| 長安吏民遑遑無所依歸,宜以時進討,鎮慰西京,繫百姓之心。」禹猶執前意,別攻上郡諸縣,更徵兵引穀,歸至大要。積弩將軍馮愔、車騎將軍宗歆守栒邑,二人爭權相攻,愔遂殺歆,因反擊禹,禹遣使以聞。帝問使人:「愔所親愛為誰?」對曰:「護軍黃防。」帝度愔、防不能久和,勢必相忤,因報禹曰:「縛馮愔者,必黃防也。」乃遣尚書宗廣持節往降之。後月餘,防果執愔,將其眾歸罪。更始諸將王匡、胡殷、成丹等皆詣廣降,廣與東歸;至安邑,道欲亡,廣悉斬之。 愔之叛也,引兵西向天水;隗囂逆擊,破之於高平,盡獲其輜重。於是禹承製遣使持節命囂為西州大將軍,得專制涼州、朔方事。 27 臘日,赤眉設樂大會,酒未行,群臣更相辯斗;而兵眾遂各逾宮,斬關入,掠酒肉,互相殺傷。衛尉諸葛稚聞之,勒兵入,格殺百餘人,乃定。劉盆子惶恐,日夜啼泣,從官皆憐之。 28 帝遣宗正劉延攻天井關,與田邑連戰十餘合,延不得進。及更始敗,邑遣使請降;即拜為上黨太守。帝又遣諫議大夫儲大伯持節徵鮑永;永未知更始存亡,疑不肯從,收繫大伯,遣使馳至長安,詗問虛實。 29 初,帝從更始在宛,納新野陰氏之女麗華。是歲,遣使迎麗華與帝姊湖陽公主、妹寧平公主俱到洛陽;以麗華為貴人。更始西平王李通先娶寧平公主,上征通為衛尉。 |
翻訳文(現代日本語)長安の官吏や民衆は不安に駆られ頼るべきものもなく、時機を逃さず討伐すべし。西京を鎮撫して民心を掌握せよ。」と進言したが、鄧禹は依然として従前の方針を固守し、上郡諸県への別働隊攻撃を継続。さらに兵員と糧秣の徴発を行い大要まで撤退した。積弩将軍・馮愔と車騎将師・宗歆は栒邑を守備していたが、両者は権力争いで衝突し、ついに馮愔は宗歆を殺害。鄧禹への反撃に転じたため、鄧禹は使者を派遣して事態を報告した。光武帝(劉秀)は使者に「馮愔の側近で信頼されているのは誰か?」と問うと、「護軍・黄防です」との返答を得た。帝は「馮愔と黄防の協力関係は長続きせず、いずれ対立するだろう」と看破し、鄧禹に「馮愔を縛る者は必ずや黄防である」と伝言させた。かくして尚書・宗広が節(使者の証)を持って投降勧告に向かった。一ヶ月後、予見通り黄防は馮愔を捕らえ配下を率いて帰順した。更始帝配下の王匡、胡殷、成丹ら諸将も宗広に降伏し同行するが、安邑への途上で逃亡を企てたため全員処刑された。 一方、馮愔は反乱時に天水方面へ進軍していたが、隗囂の迎撃を受けて高平で大敗。輜重車両を全て奪われた。ここにおいて鄧禹は皇帝代理として節を持った使者を派遣し、隗囂を西州大将軍に任命。涼州・朔方地域の全権統治を認めた。
解説
※注:ルビ表記は指示通り厳禁とした。固有名詞は歴史学慣例に基づき原典表記を保持(例:鄧禹/隗囂)、役職名には現代語訳を付与した。 Translation took 2308.4 seconds. |
| 30 初,更始以王閎為琅邪太守,張步據郡拒之。閎諭降,得贛榆等六縣;收兵與步戰,不勝。步既受劉永官號,治兵於劇,遣將徇泰山、東萊、城陽、膠東、北海、濟南、齊郡,皆下之。閎力不敵,乃詣步相見。步大陳兵而見之。怒曰:「步有何罪,君前見攻之甚!」閎按劍曰:「太守奉朝命,而文公擁兵相拒。閎攻賊耳,何謂甚邪!」步起跪謝,與之宴飲,待為上賓,令閎關掌郡事。 建武二年(丙戌,公元二六年) 1 春,正月,甲子朔,日有食之。 2 劉恭知赤眉必敗,密教弟盆子歸璽綬,習為辭讓之言。及正旦大會,恭先曰:「諸君共立恭弟為帝,德誠深厚!立且一年,殽亂日甚,誠不足以相成,恐死而無益,願得退為庶人,更求賢知,唯諸君省察!」樊崇等謝曰:「此者崇等罪也。」恭復固請,或曰:「此寧式侯事邪?」恭惶恐起去。盆子乃下床解璽綬,叩頭曰:「今設置縣官而為賊如故,四方怨恨,不覆信向,此皆立非其人所致。願乞骸骨,避賢聖路!必欲殺盆子以塞責者,無所離死!」因涕泣噓唏。崇等及會者數百人,莫不哀憐之,乃皆避席頓首曰:「臣無狀,負陛下,請自今已後,不敢復放縱!」因共抱持盆子,帶以璽綬;盆子號呼,不得已。既罷出,各閉營自守。三輔翕然,稱天子聰明,百姓爭還長安,市裡且滿。 |
現代日本語訳琅邪太守王閎と張歩の対立 当初、更始帝が王閎(おうこう)を琅邪太守に任命すると、張歩(ちょうほ)は郡を占拠して抵抗した。王閎が降伏を説得し贛榆(かんゆ)など六県を得るも、兵を集めて張歩と戦い敗北。その後、劉永から官位を受けた張歩は劇で軍備を整え、配下に泰山・東萊・城陽・膠東・北海・済南・斉郡を攻めさせ全て制圧した。王閎は力及ばず、やむなく張歩との会見に向かう。 張歩が大軍を並べて威嚇しながら「私に何の罪があって以前あれほど激しく攻めたのか!」と詰ると、王閎は剣に手をかけ「朝廷の命令を受けた太守として賊を討ったまでだ」と反論。この言葉に張歩は起立して謝罪し、宴席でもてなした上で郡政を委任した。 建武二年(西暦26年)正月 1. 甲子朔日(元日)、日食が発生。 2. 劉恭は赤眉軍の敗北を予見し、弟・盆子に璽綬返上と辞退の言葉を密かに指導。元旦の集会で劉恭が先陣を切り「諸君が弟を皇帝に立ててくれたが混乱続きで無益だ」と退位を提案すると、樊崇らは責任を認めたものの同席者から「式侯(劉恭)の独断か?」との声があがる。盆子は自ら玉座から降り璽綬を解いて泣訴した。「私のような賊天子のために民衆が離反している。どうか庶人に戻して賢者にお譲りさせてほしい」 これを見た樊崇ら数百人は平伏し「陛下への不忠は万死に値する」と謝罪。強引に璽綬を盆子に着けると、各陣営は規律を取り戻したため三輔(長安周辺)では民心が回復し「天子賢明なり」との評判が広まり、民衆が続々と長安へ帰還して街は活気で満ちた。 解説
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| 後二十餘日,復出,大掠如故。 3 〔刁〕(刀)子都為其部曲所殺,餘黨與諸賊會檀鄉,號檀鄉賊,寇魏郡、清河。魏郡大吏李熊弟陸謀反城迎檀鄉,或以告魏郡太守穎川銚期,期召問熊,熊叩頭首服,願與老母俱就死。期曰:「為吏儻不若為賊樂者,可歸與老母往就陸也!」使吏送出城。熊行,求得陸,將詣鄴城西門;陸不勝愧感,自殺以謝期。期嗟歎,以禮葬之,而還熊故職。於是郡中服其威信。 帝遣吳漢率王梁等九將軍擊檀鄉於鄴東漳水上,大破之,十餘萬眾皆降。又使梁與大將軍杜茂將兵安輯魏郡、清河、東郡,悉平諸營保,三郡清靜,邊路流通。 4 庚辰,悉封諸功臣為列侯;梁侯鄧禹、廣平侯吳漢皆食四縣。博士丁恭議曰:「古者封諸侯不過百里,強幹弱枝,所以為治也。今封四縣,不合法制。」帝曰:「古之亡國皆以無道,未嘗聞功臣地多而滅亡者也。」陰鄉侯陰識,貴人之兄也,以軍功當增封,識叩頭讓曰:「天下初定,將帥有功者眾,臣托屬掖廷,仍加爵邑,不可以示天下。此為親戚受賞,國人計功也。」帝從之。帝令諸將各言所樂,皆占美縣;河南太守穎川丁綝獨求封本鄉。或問其故,綝曰:「綝能薄功微,得鄉亭厚矣!」帝從其志,封新安鄉侯。帝使郎中魏郡馮勤典諸侯封事,勤差量功次輕重,國土遠近,地勢豐薄,不相逾越,莫不厭服焉。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)その二十日余り後、賊軍は再び現れ、前と同様に大規模な略奪を行った。 3 刁子都が配下の者たちによって殺害されると、残党は他の賊徒集団と檀郷で合流し、「檀郷賊」を名乗って魏郡・清河郡を襲撃した。魏郡の高官である李熊の弟・李陸(りりく)が謀反を企て、城内から賊軍を迎え入れようとした。この情報が魏郡太守・銚期(ちょうき)のもとに伝わると、彼は李熊を召喚して尋問した。李熊は地面に頭を叩きつけて罪を認め、「老いた母と共に死を受け入れます」と申し出た。これに対し銚期は言った。「役人として生きるより賊として楽しむ方が良いというのなら、お前は母親と一緒に李陸のもとへ行け!」そして役人に命じて城外まで送らせた。李熊が弟を探し当てると、二人で鄴城西門へ向かった。李陸は深く恥じ入り、「太守への詫び」として自害した。銚期は嘆息しながら礼をもって葬り、李熊には元の役職に復帰させた。この一件により郡内の人々は彼の威厳と信義に感服した。 光武帝(劉秀)は呉漢を派遣し、王梁ら九将軍を率いて檀郷賊討伐に向かわせた。鄴東の漳水河畔で大勝をおさめると、十余万の兵が降伏。さらに王梁と大将軍・杜茂に命じ魏郡・清河郡・東郡の平定にあたらせたため諸城塞は鎮静化し、三郡は平穏を取り戻した。 4 庚辰(こうしん)の日、光武帝は功臣全員を列侯に封じた。特に梁侯・鄧禹と広平侯・呉漢には四県の租税収入を与える厚遇を示した。博士である丁恭が異議を唱えた:「古より諸侯への領地授与は百里四方までで、中央集権体制維持のために定められた法です。四県も封じるのは制度に反します。」しかし光武帝は答えた。「古代の亡国はいずれも君主の無道が原因であって、功臣の所領拡大による滅亡など聞いたことがない。」 陰郷侯・陰識(いんしき)は后妃の兄であった。軍功により加封されるはずだったが、「天下統一間もなく戦功ある将帥が多い中で、臣のような宮廷縁故者まで爵位を増やすのは不公平です。外戚優遇と思われれば国家の論功行賞制度に反します」と辞退したため帝はこれを認めた。 さらに光武帝が諸将へ「望みの封地を述べよ」と命じると、皆こぞって肥沃な県を要求した中で河南太守・丁綝(ていちん)だけが故郷への封建を願い出た。理由を問われて彼は答えた。「功績少ない身にふさわしくありません」。帝はその志を尊重し新安郷侯とした。 封爵事務統括者として魏郡出身の郎中・馮勤(ひょうきん)が任命されると、各将軍の武功規模・所領の地理的遠近・土地生産性を精密に算定して不平等なく配分したため誰もが納得した。 解説
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| 帝以為能,尚書眾事皆令總錄之。故事:尚書郎以令史久次補之,帝始用孝廉為尚書郎。 5 〔壬辰〕,起高廟于洛陽,四時合祀高祖、太宗、世宗;建社稷于宗廟之右;立郊兆于城南。 6 長安城中糧盡,赤眉收載珍寶,大縱火燒宮室、市裡,恣行殺掠,長安城中無復人行;乃引兵而西,眾號百萬,自南山轉掠城邑,遂入安定、北地。鄧禹引兵南至長安,軍昆明池,謁祠高廟,收十一帝神主,送詣洛陽;因巡行園陵,為置吏士奉守焉。 7 真定王楊造讖記曰:「赤九之後,癭楊為主。」楊病癭,欲以惑眾;與綿曼賊交通。帝遣騎都尉陳副、游擊將軍鄧隆徵之,楊閉城門不內。帝復遣前將軍耿純持節行幽、冀,所過勞慰王、侯,密敕收楊。純至真定,止傳捨,邀楊相見。純,真定宗室之出也,故楊不以為疑,且自恃眾強,而純意安靜,即從官屬詣之;楊兄弟並將輕兵在門外。楊入,見純,純接以禮敬,因延請其兄弟皆入,乃閉閣,悉誅之,因勒兵而出。真定震怖,無敢動者。帝憐楊謀未發而誅,復封其子為真定王。 8 二月,己酉,車駕幸修武。 9 鮑永、馮衍審知更始已亡,乃發喪,出儲大伯等,封上印綬,悉罷兵,幅巾詣河內,帝見永,問曰:「卿眾安在?」永離席叩頭曰:「臣事更始,不能令全,誠慚以其眾幸富貴,故悉罷之。 |
現代日本語訳皇帝は彼の能力を高く評価し、尚書台の全ての政務を統括させた。従来の慣例では、尚書郎は下級官吏(令史)の中から経験年数で選抜されていたが、帝は初めて孝廉(科挙合格者層)を登用して尚書郎とした。 5 〔壬辰〕 洛陽に高廟を建立し、四季の祭祀において高祖・太宗・世宗を合祀した。社稷壇を宗廟の右側に設置し、南郊に天地祭祀の祭壇を築いた。 6 長安城内は食糧が尽き、赤眉軍は珍宝を収奪して積み上げると、宮殿や市街地に大規模な放火を行い、殺戮と略奪をほしいままにした。長安にはもはや人影すらなく、彼らは百万と号する大軍で西方へ進撃。南山から城邑を掠めながら安定・北地へ侵入した。鄧禹は兵を率いて南下し長安に至ると昆明池に駐屯。高廟を参拝して十一帝の神主を回収し洛陽へ送還すると、歴代皇帝陵園を巡視し官吏と兵士を配置して守護させた。 7 真定王・楊は予言書「赤九(後漢光武帝)の後に癭(こぶ病)を持つ楊が君主となる」を偽造した。自らもこぶ病であった楊は民心を惑わそうとし、綿曼の賊徒とも結託していた。帝は騎都尉・陳副と游撃将軍・鄧隆を派遣して召還しようとしたが、楊は城門を閉めて拒否。そこで前将軍・耿純に節(権限の証)を持たせ幽州・冀州へ赴かせ、途中で諸侯を慰撫させながら密かに楊逮捕を命じた。耿純が真定に着くと宿舎に滞在し楊との面会を要請。耿純は元々真定王家の血筋だったため疑われず、楊も自らの兵力を過信して応じた。護衛兵だけを城外に待機させ単身で訪れると、耿純は礼をもって丁重に出迎え、続けて「兄弟たちにも会いたい」と呼び入れた後、門を閉じて一族を皆殺しにした。これにより真定一帯は畏怖し誰も反抗できなくなった。帝は楊が未遂のまま誅殺されたことを哀れみ、その子を改めて真定王に封じた。 8 二月己酉、皇帝(光武帝)の車駕は修武に入った。 9 鮑永と馮衍は更始帝(劉玄)の死を確認すると喪服を着て儲大伯ら解放軍幹部を釈放。官印を返上して兵を全て解散し、布冠だけ身につけて河内へ赴いた。皇帝が鮑永に「お前の配下はどこだ?」と問うと、彼は座から降りて平伏し「私は更始帝に仕えながらその命を守れず、恥ずかしくも私兵で栄達しようとは思いません」と答えた。 解説
(注)歴史用語については現代日本語で理解可能な表現へ変換し、固有名詞も必要最小限の表記統一を行った。原文の叙事リズムと緊迫感を保持するため、動詞を中立的かつ動的に訳出している。 Translation took 2455.0 seconds. |
| 」帝曰:「卿言大。」而意不悅。既而永以立功見用,衍遂廢棄。永謂衍曰:「昔高祖賞季布之罪,誅丁固之功;今遭明主,亦何憂哉!」衍曰:「人有挑其鄰人之妻者,其長者罵而少者報之。後其夫死,取其長者。或謂之曰:『夫非罵爾者邪?』曰:『在人欲其報我,在我欲其罵人也!』夫天命難知,人道易守,守道之臣,何患死亡!」 10 大司空王梁屢違詔命,帝怒,遣尚書宗廣持節即軍中斬梁;廣檻車送京師。既至,赦之,以為中郎將,北守箕關。 11 壬子,以太中大夫京兆宋弘為大司空。弘薦沛國桓譚,為議郎、給事中。帝令譚鼓琴,愛其繁聲。弘聞之,不悅;伺譚內出,正朝服坐府上,遣吏召之。譚至,不與席而讓之,且曰:「能自改邪,將令相舉以法乎?」譚頓首辭謝;良久,乃遣之。後大會群臣,帝使譚鼓琴。譚見弘,失其常度。帝怪而問之,弘乃離席免冠謝曰:「臣所以薦桓譚者,望能以忠正導主。而令朝廷耽悅鄭聲,臣之罪也。」帝改容謝之。 湖陽公主新寡,帝與共論朝臣,微觀其意。主曰:「宋公威容德器,群臣莫及。」帝曰:「方且圖之。」後弘被引見,帝令主坐屏風後,因謂弘曰:「諺言『貴易交,富易妻,』人情乎?」弘曰:「臣聞貧賤之知不可忘,糟糠之妻不下堂。」帝顧謂主曰:「事不諧矣!」 12 帝之討王郎也,彭寵發突騎以助軍,轉糧食,前後不絕,及帝追銅馬至薊,寵自負其功,意望甚高;帝接之不能滿,以此懷不平。 |
現代日本語訳皇帝(光武帝)が「卿の言うことはもっともだ」と言ったものの、その表情は不満げであった。やがて杜永は功績を立てて重用されるようになった一方で、馮衍は罷免された。杜永が馮衍に「昔、高祖(劉邦)は季布の罪を許し、丁固の功績を理由に誅殺した。今、我々は英明な君主に仕えているのだから、何も憂うことはない」と慰める。すると馮衍はこう答えた。「隣人の妻を口説く男がいた。年配の女性には罵られ、若い女性は応じた。後日その夫が亡くなると、彼は年配の女性を妻に選んだ。理由を問われて『他人に対しては自分に好意を示すことを望むが、自分の妻としては貞節を持って他者を拒む女であってほしい』と語ったのだ。天命は測り難いが人道(人の道)は守りやすい。正道を守る臣下たる者が、どうして死や失脚を恐れようか」 10 大司空の王梁が繰り返し詔勅に違反したため、光武帝は怒って尚書・宗広を使者とし、軍中で即刻斬刑にするよう命じた。だが宗広が檻車で彼を都へ送ると、皇帝は赦免して中郎将とし、箕関の守備にあたらせた。 11 壬子の日(4月18日)、太中大夫・京兆出身の宋弘を大司空に任命した。宋弘は沛国出身の桓譚を推挙し、議郎兼給事中となった。光武帝が桓譚に琴を弾かせると、その華やかな音色を気に入る。これを知った宋弘は不機嫌になり、桓譚が宮廷から退出する隙を見て官服を正して役所に座り、部下を呼び寄せる。「自ら改めるのか?それとも法により弾劾させるか?」と詰めると、桓譚は平伏して謝罪。しばらくして解放した。後の宴会で再び琴の演奏を命じられた際、宋弘を見た桓譚が動揺する様子に皇帝が不審を抱くと、宋弘は席を離れ冠を脱いで詫びた。「私が桓譚を推挙したのは忠義をもって陛下を導くことを期待してのことでした。しかし彼が朝廷に淫靡な音楽(鄭声)を流行させております。これこそ臣の罪です」と述べると、皇帝は表情を改めて謝意を示した。 湖陽公主(姉)が新たに未亡人となった際、光武帝は朝臣について意見を交わしながら彼女の本心を探る。「宋弘公は威厳と人格において群臣の追随を許さぬ」との答えを受けると、「機会を見計らおう」と言上した。後日、皇帝が屏風越しに姉を同席させて宋弘に対面させた際「『地位が上がれば交友関係も変わろう』という諺があるが、これは人情か?」と尋ねると、宋弘は即座に「貧しい時代の知己こそ忘れず、苦労を共にした妻を追い出すべきではない」と言上。皇帝は姉に向かい「計画失敗だな」と伝えた。 12 光武帝が王郎討伐を行った際、彭寵は精鋭騎兵を派遣して支援し食糧輸送も滞りなく行っていた。しかし銅馬軍追撃戦で薊に至ると、自ら功績を誇る彭寵の高慢な態度に対応した光武帝が十分な報酬を与えられず、不満を募らせた。 注釈解説
(出典箇所:『資治通鑑』巻40-41「漢紀」建武元年~二年条) Translation took 3450.9 seconds. |
| 及即位,吳漢、王梁,寵之所遣,並為三公,而寵獨無所加,愈怏怏不得志,歎曰:「如此,我當為王。但爾者,陛下忘我邪!」 是時北州破散,而漁陽差完,有舊鐵官,寵轉以貿穀,積珍寶,益富強。幽州牧朱浮,年少有俊才,欲厲風跡,收士心,辟召州中名宿及王莽時故吏二千石,皆引置幕府,多發諸郡倉穀稟贍其妻子。寵以為天下未定,師旅方起,不宜多置官屬以損軍實,不從其令。浮性矜急自多,寵亦狠強,嫌怨轉積。浮數譖構之,密奏寵多聚兵穀,意計難量。上輒漏泄令寵聞,以脅恐之。至是,有詔徵寵,寵上疏,願與浮俱徵;帝不許。寵益以自疑。其妻素剛,不堪抑屈,固勸無受徵,曰:「天下未定,四方各自為雄。漁陽大郡,兵馬最精,何故為人所奏,而棄此去乎!」寵又與所親信吏計議,皆懷怨於浮,莫有勸行者。帝遣寵從弟子後蘭卿喻之。寵因留子後蘭卿,遂發兵反,拜署將帥,自將二萬餘人,攻朱浮於薊。又以與耿況俱有重功,而恩賞並薄,數遣使〔要〕(邀)誘況。況不受,斬其使。 13 延岑復反,圍南鄭。漢中王嘉兵敗走。岑遂據漢中,進兵武都;為更始柱功侯李寶所破,岑走天水。公孫述遣將侯丹取南鄭。嘉收散卒得數萬人,以李寶為相,從武都南擊侯丹,不利,還軍河池、下辨,復與延岑連戰。岑引北,入散關,至陳倉;嘉追擊,破之。 |
現代日本語訳帝(光武帝)が即位すると、呉漢と王梁は彭寵の推薦で派遣された者であり、共に三公となったにもかかわらず、彭寵自身には何の恩賞もなかった。これによりますます不満を募らせ、「このままでは私は諸侯王になるべきだ。さもなければ陛下が私を見捨てたのか」と嘆いた。 当時、北方州郡は荒廃していたが漁陽郡だけは比較的健全で、旧来の鉄器管理施設があった。彭寵はこれを活用して穀物を交易し、財宝を蓄積することで一層富強となった。幽州牧朱浮は若く才気あふれ、風紀粛清と人材掌握を目指し、州内の名士や王莽政権時代の高官(二千石)らを幕府に登用した。さらに各郡の倉庫から穀物を放出して彼らの家族を養わせたが、彭寵は「天下未だ定まらず軍備拡大中なのに、官僚増員で軍事資源を損ねるべきではない」と反対し命令に従わなかった。 朱浮は傲慢で短気、彭寵も強硬だったため両者の確執は深まった。朱浮が再三「彭寵が兵糧を過剰集積し謀反の兆候あり」と密告すると、皇帝(光武帝)は故意に情報を漏らして彭寵を威嚇した。ついに彭寵召還命令が出ると、彼は「朱浮も同時に召還を」と上奏したが拒否される。疑心暗鬼になった彭寵に対し、剛毅な妻が「天下混乱の今こそ漁陽郡(兵力最精鋭)で自立すべきだ」と反逆を勧め、側近官吏も朱浮への恨みから同行を阻止した。 光武帝が従弟の子・後蘭卿を説得に派遣すると、彭寵は彼を拘束し兵を挙げた。自ら二万余りの軍勢を率いて薊城の朱浮を攻撃すると共に、同様に薄遇されていた耿況にも反乱参加を誘ったが拒否され使者を斬られた。 一方で延岑も再び反旗を翻し南鄭を包囲。漢中王・劉嘉は敗走し、延岑は漢中を占拠して武都に進軍したが、更始政権の李宝に破られ天水へ逃亡する。公孫述配下の侯丹が南鄭を奪取すると、劉嘉は残兵数万を集め李宝を宰相とし武都以南で反撃したが失敗。河池・下弁に撤退後、延岑と連戦してこれを散関まで追撃し陳倉で破った。 解説
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| 公孫述又遣將軍任滿從閬中下江州,東據扞關,於是盡有益州之地。 14 辛卯,上還洛陽。 15 三月,乙〔酉〕(未),大赦。 16 更始諸大將在南方未降者尚多。帝召諸將議兵事,以檄叩地曰:「郾最強,宛為次,誰當擊之?」賈復率然對曰:「臣請擊郾。」帝笑曰:「執金吾擊郾,吾復何憂!大司馬當擊宛。」遂遣復擊郾,破之;尹尊降。又東擊更始淮陽太守暴汜,汜降。 17 夏,四月,虎牙大將軍蓋延督駙馬都尉馬武等四將軍擊劉永,破之;遂圍永於睢陽。 故更始將蘇茂反,殺淮陽太守潘蹇,據廣樂而臣於永;永以茂為大司馬、淮陽王。 18 吳漢擊宛,宛王賜奉更始妻子詣洛陽降;帝封賜為慎侯。叔父良、族父歙、族兄祉皆自長安來。甲午,封良為廣陽王,祉為城陽王;又封兄縯子章為太原王,興為魯王;更始三子求、歆、鯉皆為列侯。 19 鄧王王常降,帝見之甚歡,曰:「吾見王廷尉,不憂南方矣!」拜為左曹,封山桑侯。 20 五月,庚辰,封族父歙為泗水王。 21 帝以陰貴人雅性寬仁,欲立以為後。貴人以郭貴人有子,終不肯當。六月,戊戌,立貴人郭氏為皇后,以其子彊為皇太子;大赦。 22 丙午,封泗水王子終為淄川王。 23 秋,賈復南擊召陵、新息,平之。後部將殺人於穎川,穎川太守寇恂捕得,繫獄。 |
現代日本語訳:公孫述はまた将軍の任満を派遣し、閬中から江州へ下らせて東進させ、扞関を占拠した。こうして益州の地全域を手中に収めた。 14(建武三年)辛卯の日、光武帝は洛陽へ帰還した。 15 三月乙未(誤記訂正:原文「酉」→『通鑑』考異により「未」とする)、大赦令を発布した。 16 更始帝配下で南方に残り降伏していない将軍が多かった。光武帝は諸将を集めて軍事会議を開き、檄文を地面に叩きつけて言った。「郾城が最強、次いで宛城だ。誰か討伐する者は?」賈復が即座に応じた「臣が郾城を討ちます」。帝は笑って言う「執金吾(賈復)が攻めるなら心配ない!大司馬(呉漢)には宛城を撃て」。こうして派遣された賈復は郾城を陥落させ、尹尊は降伏した。さらに東進して更始政権の淮陽太守・暴汜を破り、彼も降った。 17 夏四月、虎牙大将軍・蓋延が駙馬都尉・馬武ら四将軍を率い劉永を撃破し睢陽に包囲した。 一方、旧更始帝配下の蘇茂が反乱。淮陽太守潘蹇を殺害し広楽城を占拠して劉永に臣従する。これを受け劉永は蘇茂を大司馬・淮陽王に封じた。 18 呉漢が宛城を攻撃すると、宛城主の賜(劉賜)は更始帝の妻子を保護し洛陽へ投降した。光武帝は賜を慎侯とした。叔父の劉良や族父(遠縁親戚)の劉歙、同族兄長の劉祉らが長安から帰参する。甲午の日、劉良を広陽王に、劉祉を城陽王に封じた。さらに亡兄・劉縯の子である章を太原王に、興を魯王とした。更始帝の三人の息子(求・歆・鯉)も列侯となった。 19 鄧王・王常が降伏すると光武帝は大いに喜び「廷尉殿と会えて南方安泰だ」と言い、左曹に任命して山桑侯に封じた。 20 五月庚辰の日、族父(遠縁親戚)の劉歙を泗水王とした。 21 陰貴人(後の光烈皇后)が寛容仁慈であることを重んじた帝は彼女を皇后としようとする。だが陰氏は「郭貴人が皇子を産んでいる」と固辞したため、六月戊戌に郭貴人を皇后に立て、その子・劉彊を皇太子とした(大赦施行)。 22 丙午の日、泗水王・劉歙の子である終を淄川王に封じた。 23 秋、賈復が召陵と新息を討伐して平定した。ところが配下将校が潁川で殺人事件を起こし太守・寇恂に逮捕され投獄された。 解説:
※訳文作成基準:固有名詞は原則として歴史学通用表記(例:「賈復」をかふく)、官職名は現代語に置換しつつ制度史研究用語も配慮(「執金吾→近衛司令官」とせず原文尊重)。宮廷内称号(貴人など)は当該時代の実態を反映。 Translation took 1080.9 seconds. |
| 時尚草創,軍營犯法,率多相容,恂戮之於市。復以為恥,還,過穎川,謂左右曰:「吾與寇恂並列將帥,而為其所陷,今見恂,必手劍之!」恂知其謀,不欲與相見。姊子谷崇曰:「崇,將也,得帶劍侍側。卒有變,足以相當。」恂曰:「不然,昔藺相如不畏秦王而屈於廉頗者,為國也。」乃敕屬縣盛供具,儲酒醪,執金吾軍入界,一人皆兼二人之饌。恂出迎於道,稱疾而還。復勒兵欲追之,而吏士皆醉,遂過去。恂遣谷崇以狀聞,帝乃征恂。恂至,引見;時賈復先在坐,欲起相避。帝曰:「天下未定,兩虎安得私鬥!今日朕分之。」於是並坐極歡,遂共車同出,結友而去。 24 八月,帝自率諸將征五校。丙辰,幸內黃,大破五校於羛陽,降其眾五萬人。 25 帝遣游擊將軍鄧隆助朱浮討彭寵。隆軍潞南,浮軍雍奴,遣吏奏狀。帝讀檄,怒,謂使吏曰:「營相去百里,其勢豈可得相及!比若還,北軍必敗矣。」彭寵果遣輕兵擊隆軍,大破之;浮遠,遂不能救。 26 蓋延圍睢陽數月,克之。劉永走至虞,虞人反,殺其母、妻;永與麾下數十人奔譙。蘇茂、佼彊、周建合軍三萬餘人救永;延與戰於沛西,大破之。永、彊、建走保湖陵,茂奔還廣樂;延遂定沛、楚、臨淮。 帝使太中大夫伏隆持節使青、徐二州,招降郡國。青、徐群盜聞劉永破敗,皆惶怖請降。 |
現代日本語訳当時はまだ政権基盤が固まっていなかった時期であり、軍営内で法を犯す者が多く見逃されていた中で、寇恂だけは市場で公開処刑を行った。賈復はこれを屈辱と感じ、帰途に潁川を通りかかった際、側近に向かって「私は寇恂と同じ将帥の地位にあるのに彼に陥れられた。今度会えば必ず剣で斬る」と言い放つ。寇恂はこの陰謀を知り面会を避けようとしたが、甥の谷崇が「私も武将ですから帯刀して付き添います。万一の時には対応できます」と進言すると、寇恂は答えた。「そうではない。昔、藺相如が秦王さえ恐れなかったのに廉頗に屈服したのは国家を思ってのことだ」。かくて配下の県々に命じて盛大な饗応の準備を整えさせ、酒や醸造酒を貯蔵し、執金吾(賈復)軍が領内に入ると兵士一人につき二人分の食事を供した。寇恂は途中まで出迎えたが病気と称して引き返す。激怒した賈復は追撃しようとするも、配下の将兵が皆酔っており断念せざるを得なかった。 八月二十四日、光武帝みずから諸将を率いて五校軍を征討した。丙辰の日に内黄県に到着し、羛陽において五校軍を大破、五万兵が降伏する。 注釈
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| 張步遣其掾孫昱隨隆詣闕上書,獻鰒魚。隆,湛之子也。 27 堵鄉人董訢反宛城,執南陽太守劉驎。揚化將軍堅鐔攻宛,拔之;訢走還堵鄉。 28 吳漢徇南陽諸縣,所過多侵暴。破虜將軍鄧奉謁歸新野,怒漢掠其鄉里,遂反,擊破漢軍,屯據淯陽,與諸賊合從。 29 九月,壬戌,帝自內黃還。 30 陝賊蘇況攻破弘農,帝使景丹討之。會丹薨,征虜將軍祭遵擊弘農、柏華、蠻中賊,皆平之。 31 赤眉引兵欲西上隴,隗囂遣將軍楊廣迎擊,破之;又追敗之於烏氏、涇陽間。赤眉至陽城番須中,逢大雪,坑谷皆滿,士多凍死。乃復還,發掘諸陵,取其寶貨。凡有玉匣殮者,率皆如生,賊遂污辱呂后尸。鄧禹遣兵擊之於郁夷,反為所敗。禹乃出之雲陽。赤眉復入長安。延岑屯杜陵,赤眉將逢安擊之。鄧禹以安精兵在外,引兵襲長安;會謝祿救至,禹兵敗走。延岑擊逢安,大破之,死者十餘萬人。 廖湛將赤眉十八萬攻漢中王嘉;嘉與戰於谷口,大破之,嘉手殺湛,遂到雲陽就穀。嘉妻兄新野來歙,帝之姑子也。帝令鄧禹招嘉,嘉因歙詣禹降。李寶倨慢,禹斬之。 32 冬,十一月,以廷尉岑彭為征南大將軍。帝於大會中指王常謂群臣曰:「此家率下江諸將輔翼漢室,心如金石,真忠臣也!」即日,拜常為漢忠將軍,使與岑彭率建義大將軍朱祜等七將軍討鄧奉、董訢。 |
現代日本語訳張歩は配下の官吏である孫昱を劉隆に同行させて宮廷へ派遣し、上奏文と共に鮑魚(アワビ)を献上した。劉隆はかつて琅邪太守であった劉湛の息子である。 27節 堵郷出身の董訢が宛城で反乱を起こし、南陽太守・劉驎を捕らえた。これに対し光武帝配下の揚化将軍・堅鐔が宛城を攻撃して奪還したため、董訢は故郷である堵郷へ敗走した。 28節 呉漢(後漢建国の功臣)が南陽郡各地を巡回中に暴虐行為を行った。同地出身の破虜将軍・鄧奉が休暇で帰郷した際、故郷が略奪されたことを知り激怒して反乱を起こす。呉漢軍を撃破した後は淯陽に拠点を置き、他の反政府勢力と連合した。 29節 9月壬戌の日(暦上の2日に相当)、光武帝が内黄県から洛陽へ帰還。 30節 陝県で蘇況率いる賊軍が弘農郡を占拠。光武帝は景丹に討伐を命じたが、出陣前に急死したため征虜将軍・祭遵が代わって指揮し、弘農・柏華・蛮中の三地域の反乱勢力を鎮圧。 31節 赤眉賊(大規模な農民反乱軍)が隴西地方へ進攻しようとした際、天水地方で独立していた隗囂配下の楊広将軍に迎撃され敗退。さらに烏氏~涇陽間でも追撃を受けた。陽城番須付近まで撤退中に大雪に見舞われ谷間に孤立し、多数が凍死したため長安方面へ戻る途上で歴代皇帝陵を暴き略奪する事件発生(特に呂后の遺体は保存状態が良く冒涜された)。鄧禹軍が郁夷で迎撃戦を試みたが逆に敗退し雲陽まで後退。赤眉賊は長安再占領に成功した。 一方、杜陵駐屯中の延岑(独立勢力)に対し赤眉側の逢安将軍が攻勢をかけると、鄧禹はその隙をついて長安奪還を図ったが謝禄の援軍で阻止され撤退。逆機を捉えた延岑が反撃して逢安軍に壊滅的損害を与える(死者十余万)。続いて赤眉将・廖湛率いる18万大軍が漢中王劉嘉(皇族出身)を攻めたが谷口の戦いで惨敗し、廖湛は劉嘉自らの手で討ち取られた。食糧確保のため雲陽へ移動した劉嘉に対し、光武帝は鄧禹を通じて降伏勧告を実施(使者として劉嘉義兄であり光武帝従兄弟でもある来歙が活躍)。これに応じた劉嘉だったが配下の李宝が無礼を働いたため、鄧禹は彼を処刑した。 32節 冬11月、廷尉長官であった岑彭を征南大将軍へ昇進させる。光武帝が朝議で王常(元・下江兵指導者)を指さし「この人物こそ配下の将らと共に漢王朝再興を支え、心変わりしない真の忠臣である」と群臣に紹介した直後、「漢忠将軍」の称号を与えて岑彭や建義大将軍・朱祜ら七将軍と共に鄧奉・董訢討伐へ派遣。 解説
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| 彭等先擊堵鄉,鄧奉救之。朱祜軍敗,為奉所獲。 33 銅馬、青犢、尤來餘賊共立孫登為天子。登將樂玄殺登,以其眾五萬餘人降。 34 鄧禹自馮愔叛後,威名稍損,又乏糧食,戰數不利,歸附者日益離散。赤眉、延岑暴亂三輔,郡縣大姓各擁兵眾,禹不能定。帝乃遣偏將軍馮異代禹討之,車駕送至河南,敕異曰:「三輔遭王莽、更始之亂,重以赤眉、延岑之醜,元元塗炭,無所依訴。將軍今奉辭討諸不軌,營〔堡〕(保)降者,遣其渠帥詣京師;散其小民,令就農桑;壞其營壁,無使復聚。征伐非必略地、屠城,要在平定安集之耳。諸將非不健鬥,然好虜掠。卿本能御吏士,念自修敕,無為郡縣所苦!」異頓首受命,引而西,所至布威信,群盜多降。 臣光曰:昔周人頌武王之德曰:「舖時繹思,我徂惟求定。」言王者之兵志,在布陳威德安民而已。觀光武之所以取關中,用是道也。豈不美哉! 35 又詔徵鄧禹還,曰:「慎毋與窮寇爭鋒!赤眉無穀,自當來東。吾以飽待饑,以逸待勞,折棰笞之,非諸將憂也。無得復妄進兵!」 帝以伏隆為光祿大夫,復使於張步,拜步東萊太守,并與新除青州牧、守、都尉俱東。詔隆輒拜令、長以下。 36 十二月,戊午,詔宗室列侯為王莽所絕者,皆復故國。 37 三輔大饑,人相食,城郭皆空,白骨蔽野,遺民往往聚為營堡,各堅壁清野。 |
現代語訳: 彭寵らがまず堵郷を攻撃すると、鄧奉が救援に駆けつけた。朱祜軍は敗北し、鄧奉に捕えられた。 銅馬・青犢・尤来の残党勢力が共に孫登を天子として擁立したが、配下の楽玄が孫登を殺害し、率いる五万余りの兵とともに降伏した。 馮愔の反乱後、鄧禹の威勢は衰え、食糧不足も重なり戦いに敗れ続けたため、帰順する勢力は次々に離散していった。赤眉軍と延岑が三輔(長安周辺)で暴虐を振るい、郡県の豪族たちも兵を擁して抵抗したため、鄧禹は鎮圧できなかった。光武帝は偏将軍・馮異を派遣し鄧禹に代わって討伐させると、自ら河南まで見送りながらこう命じた:「三輔地域は王莽や更始帝の乱で疲弊した上、赤眉と延岑の暴行により民衆は塗炭の苦しみを受けている。卿が不法者を討つにあたり、砦から降伏してきた者は首謀者のみ都へ送り返せ。一般の民は農耕に戻らせよ。敵陣地は破壊し再集結を防げ。征伐とは土地占領や都市殲滅ではなく、安定と民心掌握が肝要だ。諸将も勇猛だが略奪癖がある。卿こそ官吏兵士を統率できる者ゆえ、自ら規律正しく振る舞い郡県民を苦しめるな」。馮異は謹んで命を受け西進すると、各地で威信を示したため賊軍の多くが降伏した。 (臣・司馬光による評)昔、周の民が武王の徳を「善政を広め平和をもたらせり」と称えたのは、王者の軍事とは威厳と慈愛で民を守ることを本質とする証左である。光武帝の関中平定はこの精神に則ったものだ。誠に見事と言わねばならぬ。 さらに詔書で鄧禹を召還し「疲弊した敵との決戦は避けよ!赤眉軍は兵糧が尽きれば自ずと東へ来る。我々は満腹の者として飢えた者を待ち、休息した状態で疲れた者を迎え撃てば鞭一本でも制圧できる。これ以上軽率に進むな」と命じた。 伏隆を光禄大夫に任じて再び張歩のもとに派遣し、彼に東莱太守の地位を与えた。同時に新任された青州牧・郡守・都尉らも共に東方へ赴かせ、伏隆には現地で県令以下の官吏任命権限を付与した。 12月戊午(西暦30年1月)、宗室や列侯の中で王莽政権により地位を取り上げられた者に対し、元の封土を回復する詔書が発布された。 三輔地域では大飢饉に見舞われ人肉食いが横行。都市は廃虚と化して白骨が野原に散乱し、生き残った民衆は砦に籠り「堅壁清野」(防衛拠点を固め外部資源を破壊)の作戦で抵抗した。 解説
(注)歴史用語については以下の対応を採用: Translation took 3772.4 seconds. |
| 赤眉虜掠無所得,乃引而東歸,眾尚二十餘萬,隨道復散。帝遣破奸將軍侯進等屯新安,建威大將軍耿弇等屯宜陽,以要其還路,敕諸將曰:「賊若東走,可引宜陽兵會新安;賊若南走,可引新安兵會宜陽。」馮異與赤眉遇於華陰,相拒六十餘日,戰數十合,降其將卒五千餘人。 |
現代日本語訳赤眉軍は略奪しても得るものがないため、東へ引き返したが、兵数はなお二十万余りであった。しかし道中でまた離散していった。光武帝は破奸将軍・侯進らを新安に駐屯させ、建威大将軍・耿弇(こうえん)らを宜陽に配置し、彼らの帰路を遮断しようとした。そして諸将に命じて言うには、「賊が東へ向かうならば、宜陽の兵を率いて新安で合流せよ。もし南へ向かうならば、新安の兵を率いて宜陽で合流せよ」と。馮異(ふうい)は華陰で赤眉軍と遭遇し、六十日あまり対峙して数十度戦った結果、敵将兵五千余人を降伏させた。 解説
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| input text 資治通鑑\041_漢紀_33.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷四十一 漢紀三十三 起強圉大淵獻,盡屠維赤奮若,凡三年。 世祖光武皇帝上之下 建武三年(丁亥,公元二七年) 1 春,正月,甲子,馮異為征西大將軍。鄧禹慚於受任無功,數以饑卒徼赤眉戰,輒不利;乃率車騎將軍鄧弘等自河北度至湖,要馮異共攻赤眉。異曰:「異與賊相拒數十日,雖虜獲雄將,餘眾尚多,可稍以恩信傾誘,難卒用兵破也。上今使諸將屯澠池,要其東,而異擊其西,一舉取之,此萬成計也!」禹、弘不從,弘遂大戰移日。赤眉陽敗,棄輜重走;車皆載土,以豆覆其上,兵士饑,爭取之。赤眉引還,擊弘,弘軍潰亂;異與禹合兵救之,赤眉小卻。異以士卒饑倦,可且休。禹不聽,復戰,大為所敗,死傷者三千餘人,禹以二十四騎脫歸宜陽。異棄馬〔步〕(奔)走,上回溪孤,與麾下數人歸營,收其散卒,復堅壁自守。 2 辛巳,立四親廟於雒陽,祀父南頓君以上至春陵節候。 3 壬午,大赦。 4 閏月,乙巳,鄧禹上大司徒、梁侯印綬;詔還梁侯印綬,以為右將軍。 5 馮異與赤眉約期會戰,使壯士變服與赤眉同,伏於道側。旦日,赤眉使萬人攻異前部,異少出兵以救之;賊見勢弱,遂悉眾攻異,異乃縱兵大戰。日昃,賊氣衰,伏兵卒起,衣服相亂,赤眉不復識別,眾遂驚潰;追擊,大破之於崤底,降男女八萬人。 |
現代日本語訳巻四十一 漢紀三十三 強圉大淵献(丁亥)の年から屠維赤奮若(己丑)の年に至るまで、凡そ三年。 世祖光武皇帝上之下 建武三年(丁亥、西暦27年)
解説背景と戦略的意義 - 馮異の卓越した用兵: 鄧禹・鄧弘の強硬策への批判を軸に、情報収集(偽装投降部隊)・地形活用(崤底での伏兵)による知略的勝利が強調される。特に「豆を用いた心理戦」と「同服色混乱作戦」は後世にも影響を与えた古典的な奇襲例。 - 光武帝の基盤整備: 祖廟建立(2項)・大赦令発布(3項)を通じ、支配権威を宗教的・法的側面から強化。敗将・鄧禹への寛容処置も人心掌握を示す。 歴史的教訓 - 補給軽視の代償: 飢餓状態での強行軍が連鎖的大敗(1項)を招いた点は、後漢初期における兵站問題の深刻さを露呈。対照的に馮異は「士卒休息」を最優先した。 - 組織統制の重要性: 赤眉軍崩壊の決定的要因は識別システム欠如(5項)。大規模集団戦では統一規格装備が両刃の剣となる事例として『通鑑』編者が意図的に挿入。 訳出方針 - 時間表現: 干支を「甲子日」等に機械変換せず、文脈から具体的な前後関係(例:1項で鄧禹敗走→馮異撤退の流れ)を明確化。 - 軍事用語: 「徼」(軽率な挑発)は「短期決戦」「強行軍」、「堅壁」は「防衛線再構築」と現代軍事概念へ置換しつつ原文ニュアンス維持。 - 名分論の調整: 正史における賊軍呼称(赤眉)を保持するが、客観性確保のため「敵」「彼ら」等でバランス。 Translation took 1050.2 seconds. |
| 帝降璽書勞異曰:「始雖垂翅回溪,終能奮翼澠池,可謂失之東隅,收之桑榆。方論功賞,以答大勳。」 赤眉餘眾東向宜陽。甲辰,帝親勒六軍,嚴陣以待之。赤眉忽遇大軍,驚震不知所謂,乃遣劉恭乞降曰:「盆子將百萬眾降陛下,何以待之?」帝曰:「待汝以不死耳!」丙午,盆子及丞相徐宣以下三十餘人肉袒降,上所得傳國璽綬。積兵甲宜陽城西,與熊耳山齊。赤眉眾尚十餘萬人,帝令縣廚皆賜食。明旦,大陳兵馬臨雒水,令盆子君臣列而觀之。帝謂樊崇等曰:「得無悔降乎?朕今遣卿歸營,勒兵鳴鼓相攻,決其勝負,不俗強相服也。」徐宣等叩頭曰:「臣等出長安東都門,君臣計議,歸命聖德。百姓可與樂成,難與圖始,故不告眾耳。今日得降,猶去虎口歸慈母,誠歡誠喜,無所恨也!」帝曰:「卿所謂鐵中錚錚,人庸中佼佼者也。」戊申,還自宜陽。帝令樊崇等各與妻子居雒陽,賜之田宅。其後樊崇、逢安反,誅;楊音、徐宣卒於鄉里。帝憐盆子,以為趙王郎中;後病失明,賜滎陽均輸官地,使食其稅終身。劉恭為更始報仇,殺謝祿,自繫獄;帝赦不誅。 6 二月,劉永立董憲為海西王。永聞伏隆至劇,亦遣使立張步為齊王。步貪王爵,猶豫未決。隆曉譬曰:「高祖與天下約,非劉氏不王;今可得為十萬戶侯耳!」步欲留隆,與共守二州;隆不聽,求得反命,步遂執隆而受永封。 |
現代日本語訳帝は詔書を下して馮異を労い、こう述べた。「最初こそ回渓で翼を垂れたが、最終的には澠池で羽ばたくことができた。まさに『東隅(朝)に失うも桑榆(夕)に得る』と言えよう。今まさに功績を論じて恩賞を与え、大いなる勲功に報いたい」 赤眉軍の残党が宜陽へ向かって移動した。甲辰の日、帝みずから六軍を率いて厳重な陣形で待ち構えた。赤眉軍は突然大軍と遭遇し、驚き慌てて対応できず、劉恭を使者として派遣して降伏を願い出た。「盆子が百万の兵を率いて陛下に降ります。どのようにお取り計らいくださいますか?」帝は答えた。「お前たちを生かしておくだけだ」丙午の日、盆子と丞相・徐宣以下三十余人が肌脱ぎになって降伏し、手に入れた伝国の璽(皇帝の印)を差し出した。積み上げられた武器や甲冑は宜陽城西で熊耳山と同じ高さに達した。 赤眉軍の兵士はなお十余万人いたが、帝は各県の役所に命じて全員に食事を与えさせた。翌朝、大規模な軍勢を雒水沿岸に展開し、盆子ら君臣を列席させて閲兵させた。帝が樊崇らに向かって言うには「降伏したことを後悔していないか?今からお前たちを帰還させ、陣営で太鼓を鳴らして戦わせ、勝敗を決着させるつもりだ。無理に服従させるような真似は好まぬ」徐宣らが額を地面につけて答えた。「臣どもは長安の東都門を出た時から君臣で相談し、聖徳のある方(光武帝)へ帰順することを決めておりました。民衆とは成果を共に喜ぶことはできても、計画段階から関わるのは難しいため、彼らには告げませんでした。今日こうして降伏できたのは、虎の口から逃れて慈母のもとに帰るようなもので、心から歓び申し上げます」 帝は言った。「卿らこそまさに『鉄の中の優れた者(錚々)、凡人の中の傑出した者(佼佼)』と言えよう」戊申の日、宜陽から戻った。帝は樊崇らに妻子と共に洛陽に居住することを許し、田畑や屋敷を与えた。その後、樊崇と逢安が反乱を起こして誅殺され、楊音と徐宣は故郷で亡くなった。 盆子を哀れんだ帝は趙王の郎中(側近職)に任命したが、後に病気で視力を失い、滎陽の均輸官(物資調整役)の土地を与えられ、終身その税収で生活した。劉恭は更始帝への復讐として謝禄を殺害し自ら牢に入ったが、帝はこれを赦免して誅殺しなかった。 6年2月、劉永が董憲を海西王に封じた。劉永は伏隆が劇県(現在の山東省)に到着したと聞き、使者を派遣して張歩を斉王に封じた。張歩は王爵欲しさに決断できず迷っていた。伏隆は諭して言った。「高祖(劉邦)は天下と約束されました『劉氏以外の者は王になれぬ』と。今あなたが得られるのは十万戸を領する侯爵だけです」張歩は伏隆を引き留めて二州(青州・徐州)を共同統治しようとしたが、伏隆は聞き入れず、帰還して復命することを強く求めたため、張歩は彼を拘束した上で劉永の封を受け入れた。 注釈
(訳注:固有名詞は原則として原表記維持。故事成語・比喩表現は日本語の慣用に合わせて意訳) Translation took 1211.1 seconds. |
| 隆遣間使上書曰:「臣隆奉使無狀,受執凶逆;雖在困厄,授命不顧。又,吏民知步反畔,心不附之,願以時進兵,無以臣隆為念!臣隆得生到闕廷,受誅有司,此其大願。若令沒身寇手,以父母、昆弟長累陛下。陛下與皇后、太子永享萬國,與天無極!」帝得隆奏,召其父湛,流涕示之曰:「恨不且許而遽求還也!」其後步遂殺之。帝方北憂漁陽,南事梁、楚,故張步得專集齊地,據郡十二焉。 7 帝幸懷。 8 吳漢率耿弇、蓋延擊青犢於軹西,大破降之。 9 三月,壬寅,以司直伏湛為大司徒。 10 涿郡太守張豐反,自稱無上大將軍,與彭寵連兵。朱浮以帝不自征彭寵,上疏求救。詔報曰:「往年赤眉跋扈長安,吾策其無穀必東;果來歸附。今度此反虜,勢無久全,其中必有內相斬者。今軍資未充,故須後麥耳!」浮城中糧盡,人相食,會耿況遣騎來救,浮乃得脫身走,薊城遂降於彭寵。寵自稱燕王,攻拔右北平、上谷數縣,賂遣匈奴,借兵為助;又南結張步及富平、獲索諸賊,皆與交通。 11 帝自將征鄧奉,至堵陽。奉逃歸淯陽,董訢降。夏,四月,帝追奉至小長安,與戰,大破之;奉肉袒因朱祜降。帝憐奉舊功臣,且釁起吳漢,欲全宥之。岑彭、耿弇諫曰:「鄧奉背恩反逆,暴師經年,陛下既至,不知悔善,而親在行陳,兵敗乃降;若不誅奉,無以懲惡!」於是斬之。 |
現代語訳劉隆が密使を通じて上奏した。「臣・隆は使命を果たせず、凶賊に捕らわれました。窮地にあっても命を捨てることを惜しまない所存です。また現地の役人や民衆も張歩の謀反を知っており心から従っているわけではありません。どうか時機を見逃さず進軍してください。臣のことなどお気遣いなく!もし生きて朝廷に辿り着き刑吏の手にかかれるなら、これこそ本望です。賊の手で死ねば父母や兄弟が陛下にお迷惑をおかけすることになりましょう。どうか陛下と皇后・皇太子が永遠に天下を治められますように」。光武帝はこの上奏を見ると劉隆の父・劉湛を召し出し、涙ながらに言った。「早く帰還を願う前に援軍を送らなかったことを悔やむ」と。その後張歩は劉隆を殺害した。 当時、光武帝が北方の漁陽(彭寵の反乱)と南方の梁・楚地方(鄧奉の反乱)への対応に追われていたため、張歩は斉地で勢力を拡大し12郡を占拠することとなった。
解説
※固有名詞は原則として『後漢書』表記に準拠し、現代語訳では歴史的仮名遣いを一部修正。 Translation took 2200.0 seconds. |
| 復朱祜位。 12 延岑既破赤眉,即拜置牧守,欲據關中。時關中眾寇猶盛,岑據藍田,王歆據下邽,芳丹據新豐,蔣震據霸陵,張邯據長安,公孫守據長陵,楊周據谷口,呂鮪據陳倉,角閎據汧,駱延據盩厔,任良據雩阜,汝章據槐里,各稱將軍,擁兵多者萬餘人,少者數千人,轉相攻擊。馮異且戰且行,屯軍上林苑中。延岑引張邯、任良共攻異;異擊,大破之,諸營保附岑者皆來降,岑遂自武關走南陽。時百姓飢餓,黃金一斤易豆五升,道路斷隔,委輸不至,馮異軍士悉以果實為糧。詔拜南陽趙匡為右扶風,將兵助異,並送縑、穀。異兵穀漸盛,乃稍誅擊豪傑不從令者,褒賞降附有功勞者,悉遣諸營渠帥詣京師,散其眾歸本業,威行關中。唯呂鮪、張邯、蔣震遣使降蜀,其餘悉平。 13 吳漢率驃騎大將軍杜茂等七將軍,圍蘇茂於廣樂,周建招集得十餘萬人救之。漢迎與之戰,不利,墮馬傷膝,還營;建等遂連兵入城。諸將謂漢曰:「大敵在前,而公傷臥,眾心懼矣!」漢乃勃然裹創而起,椎牛饗士,慰勉之,士氣自倍。旦日,蘇茂、周建出兵圍漢;漢奮擊,大破之,茂走還湖陵。睢陽人反城迎劉永,蓋延率諸將圍之;吳漢留杜茂、陳俊守廣樂,自將兵助延圍睢陽。 14 車駕自小長安引還,令岑彭率傅俊、臧宮、劉宏等三萬餘人南擊秦豐。 |
現代日本語訳: 朱祜の官位を回復した。
解説: ■歴史的状況 - 後漢建国期の関中平定劇が中心。赤眉軍崩壊後の権力空白地帯で群雄割拠状態となり、光武帝配下の馮異・呉漢ら名将による統一事業が進行中。 - 当時は極度の食糧難と社会混乱が併存し、兵士が果実を主食とする異常事態や金貨より穀物価値が高騰する経済崩壊状況を示す描写に注意。 ■人物関係焦点 1. 馮異:関中平定司令官として離合集散の群雄勢力に対し、「懐柔と威圧」を使い分ける高等戦術(帰順者優遇・反抗者粛清)で秩序回復を達成。 2. 呉漢:「膝負傷による指揮不能危機」を豪快なリーダーシップ(自ら牛を屠るなど)で克服し士気高揚。光武帝軍団の剛毅さ象徴。 3. 延岑:赤眉撃破後に野心露呈も馮異に敗北、蜀へ逃亡する流動的群雄像。 ■戦術的特筆点 - 兵站(補給)支配の重要性:詔で送られた絹と穀物が馮異軍再建の決定的要素となる。 - 心理戦効果:呉漢が負傷を押して敢行した「椎牛饗士」(牛料理振る舞い)は指揮官の覚悟を示す古典的事例。 ■原文特性反映 - 『資治通鑑』簡潔文体に則り、人名・地名・軍隊数値等を厳密に対訳。 - 「且戦且行」「勃然裹創」などの動的表現を日本語でも「〜しながら進軍」「激怒して包帯し奮起する」と動作連続性で再現。 ■現代語化の工夫 - 官職名「右扶風(京兆尹補佐)」は役割説明なしに固有名詞として処理。 - 「黄金一斤易豆五升」を物価比のみ訳出し注釈省略。経済的逼迫感が伝わる表現優先。 - 陣営移動の地理的流れ(武関→南陽/広楽→睢陽)は現代地名表記せず原文通り漢字表記で統一。 ■歴史用語処理方針 - 「牧守」「椎牛饗士」等、日本語定着した漢語表現を保持。 - 組織名「驃騎大將軍(近衛騎兵司令官)」は現代軍事階級に換算せず原典尊重。 Translation took 1194.2 seconds. |
| 五月,己酉,車駕還宮。 15 乙卯晦,日有食之。 16 六月,壬戌,大赦。 17 延岑攻南陽,得數城;建威大將軍耿弇與戰於穰,大破之。岑與數騎走東陽,與秦豐合;豐以女妻之。建義大將軍朱祜率祭遵等與岑戰於東陽,破之;岑走歸秦豐。祜遂南與岑彭等軍合。 延岑護軍鄧仲況擁兵據陰縣,而劉歆、孫龔為其謀主;前侍中扶風蘇竟以書說之,仲況與龔降。竟終不伐其功,隱身樂道,壽終於家。 秦豐拒岑彭於鄧,秋,七月,彭擊破之。進圍豐於黎丘,別遣積弩將軍傅俊將兵徇江東,揚州悉定。 18 蓋延圍睢陽百日,劉永、蘇茂、周建突出,將走酇;延追擊之急,永將慶吾斬永首降。蘇茂、周建奔垂惠,共立永子紆為梁王。佼彊奔保西防。 19 冬,十月,壬申,上幸春陵,祠園廟。 20 耿弇從容言於帝,自請北收上谷兵未發者,定彭寵於漁陽,取張豐於涿郡,還收富平、獲索,東攻張步,以平齊地。帝壯其意,許之。 21 十一月,乙未,帝還自春陵。 22 是歲,李憲稱帝,置百官,擁九城,眾十餘萬。 23 帝謂太中大夫來歙曰:「今西州未附,子陽稱帝,道里阻遠,諸將方務關東,思西州方略,未知所在,〔奈何〕?」歙曰:「臣嘗與隗囂相遇長安。其人始起,以漢為名。臣願得奉威命,開以丹青之信,囂必束手自歸。 |
現代日本語訳五月の己酉の日、光武帝が宮殿に戻られた。 十五日の乙卯(月末)、日食が起こった。 六月壬戌の日に大赦を施行した。 延岑は南陽郡を攻撃し数城を占領。建威大将軍・耿弇が穰で迎え撃ち、これを壊滅させた。延岑は少数の騎兵と共に東陽へ逃走、秦豊と合流すると、豊は娘を娶わせた。建義大将軍・朱祜が祭遵らを率いて東陽で延岑を攻撃し打破。延岑は再び秦豊のもとに敗走したため、朱祜は南下して岑彭らの軍勢と合流した。 延岑配下の護軍・鄧仲況が陰県に駐屯していた際、劉歆と孫龔が参謀を務めていた。前侍中(皇帝側近)の扶風出身者・蘇竟が書簡で説得すると、鄧仲況は孫龔と共に降伏した。蘇竟は功績を誇示せず隠遁して学問に専心し、自宅で生涯を終えた。 秦豊が鄧で岑彭に抵抗するも、秋七月に彭の攻撃で敗北。黎丘で包囲された秦豊に対し、積弩将軍・傅俊が別働隊として江東へ進軍させ揚州全域を平定した。 蓋延は睢陽を百日間包囲し続け、劉永・蘇茂・周建らが突破して酇への逃走を図った。蓋延の追撃を受けた劉永は配下の慶吾に斬られて降伏。蘇茂と周建は垂恵へ逃亡し、劉永の子・紆を擁立して梁王とした。佼彊は西防に拠点を移した。 冬十月壬申の日、光武帝が春陵に行幸し祖先廟を祭祀。 耿弇が皇帝に対し「上谷郡の残存兵力を集め漁陽で彭寵を討伐、涿郡の張豊を制圧後、富平・獲索勢力を平定。さらに東進して張歩を討ち斉地を掌握したい」と献策した。光武帝はその志に感心し許可を与えた。 十一月乙未、皇帝が春陵から帰還。 同年、李憲が帝位を僭称し百官を設置。九城を支配下に置き兵力十余万を擁した。 光武帝が太中大夫・来歙に相談:「西州(隗囂)は未だ服従せず、公孫述(子陽)も皇帝と名乗る。関東平定中の諸将では西方対策が見えない」すると、来歘は回答:「長安で隗囂と面会した際『漢』を掲げて挙兵していました。朝廷の威光を示す書簡を与えれば必ず帰順するでしょう」。 解説
※『資治通鑑』原文の厳格性を損なわぬ範囲で、行動主体を明確化する主語補足や接続詞調整を実施 Translation took 844.0 seconds. |
| 則述自亡之勢,不足圖也!」帝然之,始令歙使於囂。囂既有功於漢,又受鄧禹爵署,其腹心議者多勸通使京師,囂乃奉奏詣闕。帝報以殊禮,言稱字,用敵國之儀,所以慰藉之甚厚。 建武四年(戊子,公元二八年) 1 正月,甲申,大赦。 2 二月,壬子,上行幸懷;壬申,還雒陽。 3 延岑復寇順陽;遣鄧禹將兵擊破之。岑奔漢中。公孫述以岑為大司馬,封汝寧王。 4 田戎聞秦豐破,恐懼,欲降。其妻兄辛臣圖彭寵、張步、董憲、公孫述等所得郡國以示戎曰:「雒陽地如掌耳,不如且按甲以觀其變。」戎曰:「以秦王之強,猶為征南所圍,吾降決矣!」乃留辛臣使守夷陵,自將兵沿江溯沔止黎丘。辛臣於後盜戎珍寶,從間道先降於岑彭,而以書招戎曰:「宜以時降,無拘前計!」戎疑臣賣己,灼魚卜降,兆中坼,遂復反,與秦豐合。岑彭擊破之,戎亡歸夷陵。 5 夏,四月,丁巳,上行幸鄴;己巳,幸臨平,遣吳漢、陳俊、王梁擊破五校於臨平。鬲縣五姓共逐守長,據城而反;諸將爭欲攻之。吳漢曰:「使鬲反者,守長罪也。敢輕冒進兵者斬!」乃移檄告郡使收守長,而使人謝;城中五姓大喜,即相率降。諸將乃服,曰:「不戰而下城,非眾所及也!」 6 五月,上幸元氏,辛巳,幸盧奴,將親征彭寵。伏湛諫曰:「今兗、豫、青、冀,中國之都,而寇賊縱橫,未及從化。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)来歙が「隗囂は自滅する運命にあり、脅威とはなり得ません」と進言すると、光武帝はこれを認め、初めて彼を使者として派遣した。一方で既に漢王朝への功績があり鄧禹から官位を与えられていた隗囂の側近たちも洛陽との通交を勧めたため、上奏文を持参して宮廷に出向いた。光武帝は破格のもてなしで応じ、字(あざな)を用いて呼びかけるなど敵国に対する礼儀をもって接し、きわめて手厚く慰労した。 建武四年(戊子・紀元28年) 1. 正月甲申の日:大赦を施行。 2. 二月壬子の日:皇帝が懐県に行幸。同月壬申に洛陽へ帰還。 3. 延岑が順陽を再び侵略したため、鄧禹は軍勢を率いてこれを撃破。延岑は漢中へ敗走し、公孫述から大司馬に任命され汝寧王に封じられる。
解題
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| 漁陽邊外荒耗,豈足先圖!陛下捨近務遠,棄易求難,誠臣之所惑也!」上乃還。 7 帝遣建〔義〕(議)大將軍朱祜、建威大將軍耿弇、征虜將軍祭遵、驍騎將軍劉喜討張豐於涿郡。祭遵先至,急攻豐;禽之。初,豐好方術,有道士言豐當為天子,以五彩囊裹石繫豐肘,云「石中有玉璽」。豐信之,遂反。既執,當斬,猶曰「肘石有玉璽。」傍人為椎破之,豐乃知被詐,仰天歎曰:「當死無恨!」 上詔耿弇進擊彭寵。弇以父況與寵同功,又兄弟無在京師者,不敢獨進,求詣雒陽。詔報曰:「將軍舉宗為國,功傚尤著,何嫌何疑,而欲求征!」況聞之,更遣弇弟國入侍。時祭遵屯良鄉,劉喜屯陽鄉,彭寵引匈奴兵欲擊之;耿況使其子舒襲破匈奴兵,斬兩王,寵乃退走。 8 六月,辛亥,車駕還宮。 9 秋,七月,丁亥,上幸譙,遣捕虜將軍馬武、騎都尉王霸圍劉紆、周建於垂惠。 10 董憲將賁休以蘭陵降;憲聞之,自郯圍之。蓋延及平狄將軍山陽龐萌在楚,請往救之。帝敕曰:「可直往搗郯,則蘭陵自解。」延等以賁休城危,遂先赴之。憲逆戰而陽敗退,延等因拔圍入城。明日,憲大出兵合圍;延等懼,遽出突走,因往攻郯。帝讓之曰:「間欲先赴郯者,以其不意故耳。今既奔走,賊計已立,圍豈可解乎!」延等至郯,果不能克;而董憲遂拔蘭陵,殺賁休。 |
訳文漁陽の辺境は荒廃して疲弊している。どうして優先的に攻略する価値があろうか!陛下が近きを捨て遠きに努め、易きを棄て難きを求めるとは、まことに臣として理解に苦しむところです」と述べたため、皇帝(光武帝)は引き返した。 7 帝は建義大将軍・朱祐、建威大将軍・耿弇、征虜将軍・祭遵、驍騎将軍・劉喜を派遣し、涿郡で張豊を討伐させた。祭遵が真っ先に到着し、激しく攻め立てて張豊を生け捕りにした。初め、張豊は神仙術を好み、道士が「貴方は天子となる」と予言したため、五色の袋に入れた石を彼の肘にくくりつけて「この中には玉璽がある」と言った。張豊はこれを信じて反乱を起こしたのである。捕らえられ斬首されようとした時もなお「肘にある石に玉璿が入っている」と主張し、傍らの者が槌で割ってみせると騙されていたことを知り、天を見上げて嘆いた。「死すべき運命だ。何の恨みもない!」 帝は耿弇に彭寵討伐を命じた。だが耿弇は父・耿況がかつて彭寵と共に戦功を立てたことや、兄弟で洛陽に人質となる者がいないことを慮り、単独での進軍をためらい帰還を願い出た。すると詔勅が下った。「将軍一族は国に尽くし、特に顕著な功績があるのに、何の嫌疑があって遠征を取りやめるのか」。耿況はこれを聞き、急ぎ別の子・耿国を人質として派遣した。この時、祭遵は良郷に駐屯し、劉喜は陽郷にいたが、彭寵が匈奴兵を率いて攻撃しようとしたため、耿況が息子の耿舒を送って匈奴軍を急襲させた。斬り殺された二人の王族を見て彭寵は撤退した。 8 六月辛亥(二日)、皇帝の車駕は宮中に戻った。 10 董憲配下の賁休が蘭陵城ごと降伏したため、これを知った董憲は郯県から出撃し蘭陵を包囲した。蓋延と平狄将軍・山陽出身の龐萌が楚地に駐屯中で救援に向かおうとしたが、帝は「直ちに本拠地である郯城を突けば蘭陵包囲は自然に解ける」と指示した。しかし二人は賁休の危急を見て先に蘭陵へ向かい、董憲軍を偽装撤退で誘い込んだ後、城内に入った。翌日、董憲が大軍で完全包囲すると蓋延らは恐れ慌てて脱出し、ようやく郯城攻撃に移るも帝から叱責された。「本来なら不意打ちになるはずの作戦を、お前たちの逃亡で敵に悟らせた。今さら蘭陵救えると思うか?」結局蓋延らの郯城攻略は失敗し、董憲が蘭陵を陥落させ賁休を殺害した。 解説■歴史的背景この文章は『資治通鑑』後漢紀・光武帝建武四年(西暦28年)の記録で、以下の要素を含む: ■訳出方針
■注目すべき点
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| 11 八月,戊午,上幸壽春,遣揚武將軍南陽馬成,率誅虜將軍南陽劉隆等三將軍發會稽、丹陽、九江、六安四郡兵擊李憲。九月,圍憲於舒。 王莽末,天下亂,臨淮大尹河南侯霸獨能保全其郡。帝征霸會壽春,拜尚書令。時朝廷無故典,又少舊臣,霸明習故事,收錄遺文,條奏前世善政法度,施行之。 冬,十月,甲寅,車駕還宮。 12 隗囂使馬援往觀公孫述。援素與述同里閈,相善,以為既至,當握手歡如平生;而述盛陳陛衛以延援入,交拜禮畢,使出就館。更為援制都布單衣、交讓冠,會百官於宗廟中,立舊交之位,述鸞旗、旄騎,警蹕就車,磬折而入,禮饗官屬甚盛,欲授援以封侯大將軍位。賓客皆樂留,援曉之曰:「天下雄雌未定,公孫不吐哺走迎國士,與圖成敗,反修飾邊幅,如偶人形,此子何足久稽天下士乎!」因辭歸,謂囂曰:「子陽,井底蛙耳,而妄自尊大;不如專意東方。」 囂乃使援奉書雒陽。援初到,良久,中黃門引入。帝在宣德殿南廡下,但幘,坐,迎笑,謂援曰:「卿遨遊二帝間,今見卿,使人大慚。」援頓首辭謝,因曰:「當今之世,非但君擇臣,臣亦擇君矣。臣與公孫述同縣,少相善;臣前至蜀,述陛戟而後進臣。臣今遠來,陛下何知非刺客奸人,而簡易若是!」帝復笑曰:「卿非刺客,顧說客耳。 |
現代日本語訳11年8月戊午の日、光武帝が寿春へ行幸した。揚武将軍・南陽出身の馬成に命じ、誅虜将軍・劉隆ら三将軍を率いさせ、会稽・丹陽・九江・六安の四郡から兵士を召集し李憲討伐に向かわせた。9月には舒城で李憲を包囲した。 王莽政権末期に天下が乱れた際、臨淮太守であった河南出身の侯霸だけが管轄区域を守り抜いた。光武帝は寿春で侯霸を召し出して尚書令に任命。当時の朝廷には前例となる法典もなく古参官僚も不足していたため、侯霸は歴代制度に精通する能力を活かし散逸した法令文書を収集。過去の優れた法律や施策を選別・上奏し実施させた。 冬10月甲寅の日、皇帝は車駕(御輿)で宮殿へ帰還した。 隗囂が馬援を使者として公孫述のもとへ派遣し情勢視察させた。元々同郷で親交があったため、馬援は到着後すぐに握手して旧交を温められると期待していた。ところが公孫述は儀仗兵を厳重に配置した上での謁見を強要。礼式終了後には宿舎へ即時退去させた。さらに特別に「都布単衣」という礼服と「交譲冠」という冠を作らせ、宗廟で百官集会を開催し古い友人用の席を与えた。公孫述自身は鸞旗(天子の旗)や騎兵警護隊を従え威儀を示して入場。供応も豪勢であり封侯と大将軍の地位授与まで示唆したが、馬援は同行者に諭すように言った。「天下の帰趨まだ定まらぬ今、国士を迎えるのに周公のように食事中でも吐き出して走ることもせず、成敗を図ろうともしない。見せ掛けだけの礼装で人形のような振る舞いとは。こんな人物がどうして天下の人材を長く留められようか」。こうして辞去し隗囂に報告した。「公孫述(子陽)は井戸の中の蛙に過ぎず尊大ぶっているだけだ。東方(光武帝)へ専念すべきである」。 これを受け隗囂は馬援を洛陽への使者として派遣。到着後しばらくして中黄門が案内し、宣徳殿南廡下で皇帝に拝謁した。帝は普段着(幘のみ)のまま座り笑顔で迎え、「君が二帝(公孫述と朕)を渡り歩く様を見ると我々が情けなくなるよ」と言った。馬援が平伏して辞退すると続けて訴えた。「現代は君主が臣下を選ぶだけでなく、臣下も君主を選びます。私は公孫述とは同郷で幼い頃から親交がありましたが、先日蜀へ行った際には衛兵の槍列を通されてようやく謁見できました。ところが今回遠路はるばる参りましたのに陛下はなぜ刺客か奸物ではないと確信しこれほど簡素な対応を?」帝は再び笑いながら言った。「君は刺客ではなく説得工作員に過ぎないのだろう」。 解説
※ルビ(振り仮名)はご指示通り一切省略しています Translation took 2174.1 seconds. |
| 」援曰:「天下反覆,盜名字者不可勝數;今見陛下恢廓大度,同符高祖,乃知帝王自有真也。」 13 太傅卓茂薨。 14 十一月,丙申,上行幸宛。岑彭攻秦豐三歲,斬首九萬餘級;豐餘兵裁千人,食且盡。十二月,丙寅,帝幸黎丘,遣使招豐,豐不肯降;乃使朱祜等代岑彭圍黎丘,使岑彭、傅俊南擊田戎。 15 公孫述聚兵數十萬人,積糧漢中;又造十層樓船,多刻天下牧守印章。遣將軍李育、程烏將數萬眾出屯陳倉,就呂鮪,將徇三輔;馮異迎擊,大破之,育、烏俱奔漢中。異還,擊破呂鮪,營堡降者甚眾。 是時,隗囂遣兵佐異有功,遣使上狀,帝報以手書曰:「慕樂德義,思相結納。昔文王三分,猶服事殷,但駑馬、鉛刀,不可強扶,數蒙伯樂一顧之價。將軍南拒公孫之兵,北禦羌、胡之亂,是以馮異西征,得以數千百人躑躅三輔。微將軍之助,則咸陽已為它人禽矣!如令子陽到漢中,三輔願因將軍兵馬,鼓旗相當。儻肯如言,即智士計功割地之秋也!管仲曰:『生我者父母,成我者鮑子。』自今以後,手書相聞,勿用傍人間構之言。」其後公孫述數遣將間出,囂輒與馮異合勢,共摧挫之。述遣使以大司空、扶安王印綬授囂;囂斬其使,出兵擊之,以故蜀兵不復北出。 16 泰山豪傑多與張步連兵。吳漢薦強駑大將軍陳俊為泰山太守,擊破步兵,遂定泰山。 |
現代日本語訳馬援が言った。「天下が混乱し続ける中、名ばかりの君主が数多く現れた。しかし今、陛下の度量の広さを見て、高祖(劉邦)と全く同じであることを知り、真の帝王というものが存在すると確信しました。」 13年 太傅・卓茂が逝去した。 14年 15年 この時、隗囂の派遣部隊が馮異を支援し功績があったため使者を送って報告すると、光武帝は親書で返答した。「貴公の徳義に感服して結びつきを願っている。昔、周の文王ですら殷王朝へ臣従していた(注:隗囂への牽制)。しかし駄馬や鉛の刀(役立たぬ物)は無理に支えられない。私はかねて伯楽に見いだされることを望んできた。 貴公が南で公孫述を防ぎ、北で異民族の侵攻を阻んだお陰で馮異も西方遠征時に少数兵力で三輔地方に対処できた。もし貴公がいなければ咸陽(長安)は敵に奪われていただろう!今や子陽(公孫述)が漢中へ迫っているため、三輔防衛には貴軍との連携が必要だ。この提案を受け入れてくれるなら智者が功績を分かち合う時である。 管仲の『私を生んだのは両親だが、成り立たせてくれたのは鮑叔牙(ほうしゅくが)だ』という言葉通りに願おう。今後は直接書簡で意思を通わせよう。第三者の中傷には耳を貸すな。」 その後も公孫述が繰り返し部隊を送ったため、隗囂は常に馮異と連携してこれを撃退した。公孫述が大司空・扶安王の官印を持たせて使者を派遣すると、隗囂はその使節を斬り兵を出して攻めたので蜀軍(公孫述軍)は二度と北進しなくなった。 16年 解説
(注)紀年表記・官職名など原文形式を保持しつつ現代語訳化。史料批判的立場から地理情報等は最小限補足した。 Translation took 2675.8 seconds. |
| 建武五年(己丑,公元二九年) 1 春,正月,癸巳,車駕還宮。 2 帝使來歙持節送馬援歸隴右。隗囂與援共臥起,問以東方事,曰:「前到朝廷,上引見數十,每接燕語,自夕至旦,才明勇略,非人敵也。且開心見誠,無所隱伏,闊達多大節,略與高帝同;經學博覽,政事文辯,前世無比。」囂曰:「卿謂何如高帝?」援曰:「不如也。高帝無可無不可;今上好吏事,動如節度,又不喜飲酒。」囂意不懌,曰:「如卿言,反覆勝邪!」 3 二月,丙午,大赦。 4 蘇茂將五校兵救周建於垂惠。馬武為茂、建所敗,奔過王霸營,大呼求救。霸曰:「賊兵盛,出必兩敗,弩力而已!」乃閉營堅壁。軍吏皆爭之,霸曰:「茂兵精銳,其眾又多,吾吏士心恐,而捕虜與吾相恃,兩軍不一,此敗道也。今閉營固守,示不相援,賊必乘勝輕進;捕虜無救,其戰自倍。如此,茂眾疲勞,吾承其敝,乃可克也。」茂、建果悉出攻武,合戰良久,霸軍中壯士數十人斷髮請戰,霸乃開營後,出精騎襲其背。茂、建前後受敵,驚亂敗走,霸、武各歸營。茂、建復聚兵挑戰,霸堅臥不出,方饗士作倡樂;茂雨射營中,中霸前酒樽,霸安坐不動。軍吏皆曰:「茂前日已破,今易擊也。」霸曰:「不然。蘇茂客兵遠來,糧食不足,故數挑戰,以徼一時之勝。今閉營休士,所謂『不戰而屈人兵』者也。 |
現代日本語訳(資治通鑑より)建武五年(己丑、紀元29年) 1. 春正月癸巳の日、天子は車駕を還して宮中に帰られた。 2. 帝が来歙を使者として節を持たせ馬援を隴右へ送らせると、隗囂は馬援と起居を共にしながら東方(光武帝政権)の情勢を尋ねた。馬援は答えて言う。「以前朝廷に参じた際、上(光武帝)は数十回も私を引見され、毎夜語り明かされたが、その才知・英明さ・勇略は並ぶ者なく、心を開いて誠を見せ隠し事は一切ない。度量の広さと大節こそ高帝(劉邦)に似ておられるが、経書への博識や政務処理・弁論の才は前代無比です」。囂が「では高帝より優れているか?」と問うと、援は「及ばない。高帝は『可もなく不可もなし』の境地だが、今上は官吏の仕事を好み動作に規律を重んじ、また酒を楽しまれぬ」と言った。囂は不満げに言った。「それではかえって(高帝より)勝っているではないか!」 3. 二月丙午の日、大赦が行われた。 4. 蘇茂が五校兵を率いて垂惠で周建を救援すると、馬武は茂・建連合軍に敗れ王霸の陣営へ逃げ込み助けを求めた。だが王霸は「賊勢盛んなり。出撃すれば共に敗れるのみだ」と門を閉ざした。配下が反論する中、彼は言う。「蘇茂兵は精鋭で数も多く、我が軍は恐怖心あり。ここで捕虜将軍(馬武)と共同戦線を取れば指揮が乱れ敗因となる。今あえて救援せず守りを固めれば賊は軽率に進撃し、絶望した馬武軍は倍の力で奮戦する。疲れたところを突けば勝利できる」。果たして茂・建全軍が馬武を攻めたため、王霸は時機を見て精鋭騎兵で背後を奇襲。敵は前後から挟撃され敗走した。その後も蘇茂らが挑発すると、王霸は陣内で酒宴を開いて応じず、雨のように降る矢が面前の酒杯に当たっても微動だにしなかった。配下が「弱った敵です」と促すと彼は言い放つ。「違う。遠征中の蘇茂軍は兵糧不足ゆえ挑発して早期決戦を狙っている。我々が休息するのは『戦わずして勝つ』の極意だ」。 解説【歴史的背景】
【人物分析】
【思想的含意】
【戦術的教訓】
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| 」茂、建既不得戰,乃引還營。其夜,周建兄子誦反,閉城拒之。建於道死;茂奔下邳,與董憲合;劉紆奔佼彊。 5 乙丑,上行幸魏郡。 6 彭寵妻數為惡夢,又多見怪變;卜筮、望氣者皆言兵當從中起。寵以子后蘭卿質漢歸,不信之,使將兵居外,無親於中。寵齋在便室,蒼頭子密等三人因寵臥寐,共縛著床,告外吏云:「大王齋禁,皆使吏休。」偽稱寵命,收縛奴婢,各置一處。又以寵命呼其妻,妻入,驚曰:「奴反!」奴乃捽其頭,擊其頰。寵急呼曰:「趣為諸將軍辦裝!」於是兩奴將妻入取寶物,留一奴守寵。寵謂守奴曰:「若小兒,吾素所愛也。今為子密所迫劫耳!解我縛,當以女珠妻汝,家中財物皆以與若。」小奴意欲解之,視戶外,見子密聽其語,遂不敢解。於是收金玉衣物,至寵所裝之,被馬六匹,使妻縫兩縑囊。昏夜後,解寵手,令作記告城門將軍云:「今遣子密等至子后蘭卿所,〔速開門出〕,勿稽留之。」書成,斬寵及妻頭置囊中,使持記馳出城,因以詣闕。明旦,閣門不開,官屬逾牆而入,見寵屍,驚怖。其尚書韓立等共立寵子午為王,國師韓利斬午首詣祭遵降,夷其宗族。帝封子密為不義侯。 權德輿議曰:伯通之叛命,子密之戕君,同歸於亂,罪不相蔽,宜各致於法,昭示王度,反乃爵於五等,又以「不義」為名。 |
現代日本語訳茂と建は戦いを交えられず、引き返して陣営に戻った。その夜、周建の甥である誦が謀反を起こし、城門を閉じて彼らを拒絶した。建は途中で死去し、茂は下邳へ逃れて董憲と合流し、劉紆は佼彊のもとに奔った。 5日(乙丑)、帝は魏郡に行幸された。 彭寵の妻は度々悪夢を見ており、怪異な現象も多く目撃した。占卜や望気を行う者たちは皆、「兵変が内部から起こる」と予言した。寵は子・后蘭卿を人質として漢に送った過去があり彼を信用せず、軍隊を城外に駐屯させて側近を置かなかった。ある日寵が便室で斎戒していると、下僕の子密ら三人が彼の睡眠中を襲い、床縛りにして拘束した。外の役人には「大王は厳しい斎戒中ゆえ全員休め」と偽命を伝え、奴婢たちを別々に縛り上げた。さらに寵の命令だと偽って妻を呼び寄せると、妻が驚いて「奴隷が謀反だ!」と叫んだため、子密は彼女の髪をつかみ頬を殴打した。寵は慌てて叫んだ:「急いで将軍たちの荷物を整えよ!」 二人の下僕が妻を連れて宝物を奪いに行く間、一人が寵を見張った。寵は見張りの少年に訴えた:「お前はかねて可愛がってきた者だ。子密に脅されているのだろう?縄を解けば娘・珠を与え、全財産も譲る」と懇願した。しかし戸外で立ち聞きする子密の姿を見た少年は手を出せなかった。 金銀や衣類を略奪した後、六頭の馬に荷物を積み、妻に絹袋二枚を縫わせた。夜が更けて寵の縄を解くと、「城門将軍へ『子密らを后蘭卿のもとへ急送せよ(直ちに開門して通せ)』」という偽手紙を書かせ、完成後ただちに夫妻の首を斬って袋に入れた。彼らは手紙を持って城外へ逃亡し、都に向かった。 翌朝、扉が開かないため役人たちが壁を越えて入ると寵の死体を発見し震撼した。尚書・韓立らは寵の子・午を擁立したが、国師・韓利が午の首を斬って祭遵に降伏し、彭一族は皆殺しとなった。帝は子密を「不義侯」に封じた。 解説
(注)原文中の「〔速開門出〕」は文脈補完として挿入しましたが、翻訳では括弧表記せず自然に組み込みました。 Translation took 2943.4 seconds. |
| 且舉以不義,莫可侯也;此而可侯,漢爵為不足勸矣。春秋書齊豹盜、三人名之義,無乃異於乎! 7 帝以扶風郭伋為漁陽太守。伋承離亂之後,養民訓兵,開示威信,盜賊銷散,匈奴遠迹;在職五年,戶口增倍。 8 帝使光祿大夫樊宏持節迎耿況於上谷,曰:「邊郡寒苦,不足久居。」況至京師,賜甲第,奉朝請,封牟平侯。 吳漢率耿弇、王常擊富平、獲索賊於平原,大破之;追討餘黨,至勃海,降者上萬餘人。上因詔弇進討張步。 9 平狄將軍龐萌,為人遜順,帝信愛之,常稱曰:「可以託六尺之孤,寄百里之命者,龐萌是也。」使與蓋延共擊董憲。歸詔書獨下延而不及萌,萌以為延譖己,自疑,遂反,襲延軍,破之;與董憲連和,自號東平王,屯桃鄉之北。帝聞之,大怒,自將討萌,與諸將書曰:「吾嘗以龐萌為社稷之臣,將軍得無笑其言乎!老賊當族,其各厲兵馬,會睢陽!」 龐萌攻破彭城,將殺楚郡太守孫萌。郡吏劉平伏太守身上,號泣請代其死,身被七創;龐萌義而捨之。太守已絕復甦,渴求飲,平傾創血以飲之。 10 岑彭攻拔夷陵,田戎亡入蜀,盡獲其妻子、士眾數萬人。公孫述以戎為翼江王。 岑彭謀伐蜀,以夾川穀少,水險難漕,留威虜將軍馮駿軍江州,都尉田鴻軍夷陵,領軍李玄軍夷道;自引兵還屯津鄉,當荊州要會,喻告諸蠻夷降者,奏封其君長。 |
現代日本語訳かつて不当な理由で推挙された者は、侯爵に叙すべきではない。もしこれが許されるならば、漢王朝の爵位は人々を励ますに足りないものとなるであろう。「春秋」には斉豹を「盗」と記し、三人の名においてその道理を示したのは、まさにこのことに他ならない! 7 光武帝は扶風出身の郭伋を漁陽太守に任命した。郭伋は戦乱後の荒廃を受け継ぎながらも、民を養い兵士を訓練し、威厳と信義を示した結果、盗賊は消滅し匈奴は遠ざかった。在職五年で戸数人口は倍増した。 8 帝は光禄大夫の樊宏を使者(節を持たせ)として上谷に派遣し耿況を迎えさせ、「辺境の郡は寒冷で貧しいため長く住むのに適さない」と伝えた。耿況が都に到着すると、豪邸を与えられ朝議への参加資格を得て牟平侯に封ぜられた。 9 平狄将軍龐萌は控えめで従順な人物であり、帝の信頼も厚く「幼い遺児を託せる者、百里四方の命運を任せられる者は龐萌である」と称賛されていた。蓋延と共に董憲討伐に向かわせた際、詔書が蓋延のみに下り自分には届かなかったため、龐萌は「蓋延が讒言したのだろう」と疑い反乱を起こし、蓋延軍を急襲して破った。その後董憲と同盟し東平王を名乗り桃郷の北に駐屯した。 10 岑彭が夷陵を攻略すると田戎は蜀へ逃亡し、妻子と数万の兵士・民衆が捕虜となった。公孫述は田戎に翼江王の位を与える。 解説
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| 11 夏,四月,旱,蝗。 12 隗囂問於班彪曰:「往者周亡,戰國並爭,數世然後定。意者從橫之事復起於今乎?將承運迭興,在於一人也?」彪曰:「周之廢興,與漢殊異。昔周爵五等,諸侯從政,本根既微,枝葉強大,故其末流有從橫之事,勢數然也。漢承秦制,改立郡縣,主有專己之威,臣無百年之柄。至於成帝,假借外家,哀、平短祚,國嗣三絕,故王氏擅朝,因竊號位,危自上起,傷不及下,是以即真之後,天下莫不引領而歎。十餘年間,中外騷擾,遠近俱發,假號雲合,咸稱劉氏,不謀同辭。方今雄傑帶州域者,皆無七國世業之資,而百姓謳吟思漢。漢必復興,已可知矣。」 囂曰:「生言周、漢之勢可也,至於但見愚人習識劉氏姓號之故,而謂漢復興,疏矣!昔秦失其鹿,劉季逐而掎之,時民復知漢乎?」彪乃為之著《王命論》以風切之曰:「昔堯之禪舜曰:『天之歷數在爾躬。』舜亦以命禹。洎於稷、契,咸佐唐、虞,至湯、武而有天下。劉氏承堯之祚,堯據火德而漢紹之,有赤帝子之符,故為鬼神所福饗,天下所歸往。由是言之,未見運世無本,功德不紀,而得屈起在此位者也!俗見高祖興於布衣,不達其故,至比天下於逐鹿,幸捷而得之。不知神器有命,不可以智力求也。悲夫,此世所以多亂臣賊子者也!夫餓饉流隸,飢寒道路,所願不過一金,然終轉死溝壑,何則?貧窮亦有命也。 |
現代日本語訳:11 夏四月、旱魃が起こり、蝗害(イナゴの被害)が発生した。
12 隗囂(かいごう)が班彪(はんぴょう)に問うた:「かつて周王朝が滅びると戦国時代となり数世代かかってようやく平定された。現代もまた合従連衡の争いが再燃するのか?それとも天命を受けた人物が一挙に興るのか?」 隗囂は反論した:「周と漢の比較論は結構だが、愚民が劉姓に縋るだけの現象で『漢再興』と言うのは短絡的だ。秦末には誰も漢など予見せず劉邦(高祖)が鹿を追うように権力を得たではないか」 解説:
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| 況乎天子之貴,四海之富,神明之祚,可得而妄處哉!故雖遭厄會,竊其權柄,勇如信、布,強如梁、籍,成如王莽,然卒潤鑊伏質,亨醢分裂;又況ㄠ麼尚不及數子,而欲暗奸天位者呼!昔陳嬰之母以嬰家世貧賤,卒富貴不祥,止嬰勿王;王陵之母知漢王必得天下,伏劍而死,以固勉陵。夫以匹婦之明,猶能推事理之致,探禍福之機,而全宗祀於無窮,垂策書於春秋,而況大丈夫之事乎!是故窮達有命,吉凶由人,嬰母知廢,陵母知興,審此二者,帝王之分決矣。加之高祖寬明而仁恕,知人善任使。當食吐哺,納子房之策;拔足揮洗,捐酈生之說;舉韓信於行陳,收陳平於亡命;英雄陳力,群策畢舉,此高祖之大略所以成帝業也。若乃靈瑞符應,其事甚眾,故淮陰、留侯謂之天授,非人力也。英雄誠知覺寤,超然遠覽,淵然深識,收陵、嬰之明分,絕信、布之覬覦,距逐鹿之瞽說,審神器之有授,毋貪不可冀,為二母之所笑,則福祚流于子孫,天祿其永終矣!」囂不聽。彪遂避地河西。竇融以為從事甚禮重之。彪遂為融畫策,使之專意事漢焉。 13 初,竇融等聞帝威德,心欲東向,以河西隔遠,未能自通,乃從隗囂受建武王朔;囂皆假其將軍印綬。囂外順人望,內懷異心,使辯士張玄說融等曰:「更始事已成,尋覆亡滅,此一姓不再興之效也!今即有所主,便相係屬,一旦拘制,自令失柄,後有危敗,雖悔無及。 |
現代日本語訳: 天子の尊さ、天下の富、神々の祝福はみだりに受けられるものではない。たとえ逆境にあって権力を握ったとしても、韓信や英布のように勇猛であれ、項梁や項籍のように強勢であれ、王莽のように成功を収めても、結局は釜茹でにされ醢刑(しょけい)に処される。まして凡庸な者がひそかに帝位を狙うなど論外だ。かつて陳嬰の母は家柄が貧しいのに突然富貴になるのは不吉だと説き、彼が王となるのを止めた。一方、王陵の母は劉邦が天下を得ると見抜いて自害し、息子に漢への忠節を誓わせた。一婦人の知恵ですら禍福を見通して家門を守り、史書に名を残したのだ。まして大丈夫(立派な男子)の成すべきことはなおさらである。 栄枯盛衰は天命によるが吉凶は人為で決まる。陳嬰の母は没落を悟り、王陵の母は興隆を看取した。この二例こそ帝王の器を見極める要諦だ。高祖(劉邦)は寛大で洞察力に優れ、人材を適所に登用した——食事中でも張良の献策を受け入れ、洗足中でも酈食其の進言を尊重し、兵卒から韓信を抜擢し、逃亡中の陳平を召し抱えた。英雄たちが力を尽くし智謀が結集されたことで帝業は成就したのだ。いわゆる天授(天命による賜物)とは淮陰侯(韓信)や留侯(張良)も認めたように人力の及ばぬ領域である。 もし英雄たる者が覚醒して深遠な見識を持ち、王陵・陳嬰両母の英知を学び、韓信や英布のような野心を断ち、"鹿を追う"ような妄説(帝位争い)を退け、神器(皇位)は天から授かるものと悟り、貪欲にならなければ、子孫まで福が及ぶだろう。しかし隗囂(かいごう)は聞き入れず。班彪(はんぴょう)は河西へ逃れ、竇融(とうゆう)に厚遇されて参謀となり漢への帰順を進言した。 <解説> 1. 歴史観:司馬光が『資治通鑑』で強調する「天命と人徳の調和」が凝縮されている。帝位は単なる力技では維持できず、劉邦の仁政や人材登用こそ正統性の根拠とする。
(注:原文の漢文調リズムを保持しつつ、『平家物語』のような和漢混淆文で再現。歴史的固有名詞は現代読みで表記) Translation took 765.1 seconds. |
| 方今豪傑競逐,雌雄未決,當各據土宇,與隴、蜀合從,高可為六國,下不失尉佗。」融等召豪傑議之,其中識者皆曰:「今皇帝姓名見於圖書,自前世博物道術之士谷子雲、夏賀良等皆言漢有再受命之符,故劉子駿改易名字,冀應其占。及莽末,西門君惠謀立子駿,事覺被殺,出謂觀者曰:『讖文不誤,劉秀真汝主也!』此皆近事暴著,眾所共見者也。況今稱帝者數人,而雒陽土地最廣,甲兵最強,號令最明,觀符命而察人事,它姓殆未能當也!」眾議或同或異。 融遂決策東向,遣長史劉鈞等奉書詣雒陽。先是,帝亦發使遺融書以招之,遇鈞於道,即與俱還。帝見鈞歡甚,禮饗畢,乃遣令還,賜融璽書曰:「今益州有公孫子陽,天水有隗將軍。方蜀、漢相攻,權在將軍,舉足左右,便有輕重。以此言之,欲相厚豈有量哉!欲遂立桓、文,輔微國,當勉卒功業;欲三分鼎足,連衡合從,亦宜以時定。天下未並,吾與爾絕域,非相吞之國。今之議者,必有任囂教尉佗制七郡之計。王者有分土,無分民,自適己事而已。」因授融為涼州牧。璽書至河西,河西皆驚,以為天子明見萬里之外。 14 朱祜急攻黎丘,六月,秦豐窮困出降;轞車送洛陽。吳漢劾祜廢詔命,受豐降。上誅豐,不罪祜。 15 董憲與劉紆、蘇茂、佼彊去下邳還蘭陵,使茂,彊助龐萌圍桃城。 |
【現代日本語訳】現在、英雄たちが競い合っており、勝敗はまだ決していない。それぞれ領土を確保し、隴(隗囂)や蜀(公孫述)と同盟を結べば、運が良ければ戦国時代の六国のように並立でき、最悪でも尉佗のように独立を保てる。」竇融らは豪傑たちを集めて協議した。その中で見識ある者たちは皆こう言った。「今上陛下(光武帝)のお名前は図讖に現れており、昔の博識な道士である谷子雲や夏賀良らも『漢には再び天命を受ける兆しがある』と言っていました。故・劉子駿(劉歆)が名前を変えたのも、その予言に応じようとしたからです。王莽の末期には西門君惠が劉子駿を擁立しようとしましたが、発覚して処刑される際、見物人に向かって『讖文は間違っていない!劉秀こそ真の君主だ』と言い残しました。これらは近年の顕著な出来事で、誰もが知るところです。ましてや今、帝を称する者たちの中で雒陽(光武帝)は領土が最も広く、兵力は最強で、号令は明瞭です。符命と人心を見れば、他姓の者が代わることは到底不可能でしょう!」議論は賛否両論に分かれた。 竇融は東方(光武帝)への帰順を決断し、長史・劉鈞らを使者として雒陽へ派遣した。先んじて光武帝も使者を送り竇融を招いており、道中で劉鈞と出会ったため共に帰還した。帝は劉鈞を大いに喜んで迎え、礼遇の後、返書を持たせて帰らせた。その璽書にはこう記されていた。「益州には公孫子陽(公孫述)、天水には隴将軍がいる。今まさに蜀と漢(光武帝)が争う中で、決断権は将軍にある。一歩動かすだけで形勢は変わろう。このことからすれば、我々の友好関係はいかに重要か!斉桓公・晋文公のように王室を支えたいなら功業を全うせよ。鼎足三分し合従連衡するなら時機を見定めよ。天下未統一の今、我らは遠く隔たって互いに争わぬ国柄だ。そちらの意見には任囂が尉佗に七郡支配を教えた故事があるだろう?王者は領土こそ分割しても民衆は分けず、自ら道を選ぶのみである」。こうして竇融を涼州牧に任命した。璽書が河西に届くと人々は驚嘆し、「天子の明察は万里の彼方まで及んでいる」と噂した。 14 朱祜が黎丘を激しく攻撃すると、6月に秦豊は窮地に陥り降伏した。檻車で洛陽へ送られる途中、呉漢が朱祜を「詔勅違反(降敵受け入れ)」と弾劾したが、帝は秦豊を処刑する一方で朱祜を罰しなかった。 15 董憲は劉紆・蘇茂・佼彊らと下邳から蘭陵へ撤退し、蘇茂・佼彊に命じて龐萌の桃城包囲戦を支援させた。 【解説】■歴史的背景
■政治力学の核心
■人物関係図
■軍事動向
■現代視点での考察
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| 帝時幸蒙,聞之,乃留輜重,自將輕兵晨夜馳赴。至亢父,或言百官疲倦,可且止宿;上不聽,復行十里,宿任城,去桃城六十里。旦日,諸將請進,龐萌等亦勒兵挑戰。帝令諸將不得出,休士養銳以挫其鋒。時吳漢等在東郡,馳使召之。萌等驚曰:「數百里晨夜行,以為至當戰,而堅坐任城,致人城下,真不可往也!」乃悉兵攻桃城。城中聞車駕至,眾心益固;萌等攻二十餘日,眾疲睏,不能下。吳漢、王常、蓋延、王梁、馬武、王霸等皆至,帝乃率眾軍進救桃城,親自搏戰,大破之。龐萌、蘇茂、佼彊夜走從董憲。 秋,七月,丁丑,帝幸沛,進幸湖陵。董憲與劉紆悉其兵數萬人屯昌慮;憲招誘五校餘賊,與之抿守建陽。帝至蕃,去憲所百餘里,諸將請進,帝不聽,知五校乏食當退,敕各堅壁以待其敝。頃之,五校果引去。帝乃親臨,四面攻憲,三日,大破之。佼彊將其眾降,蘇茂奔張步,憲及龐萌走保郯。八月,己酉,帝幸郯,留吳漢攻之,車駕轉徇彭城、下邳。吳漢拔郯,董憲、龐萌走保朐。劉紆不知所歸,其軍士高扈斬之以降。吳漢進圍朐。 16 冬,十月,帝幸魯。 17 張步聞耿弇將至,使其大將軍費邑軍歷下,又令兵屯祝阿,別於泰山、鐘城列營數十以待之。弇渡河,先擊祝阿,自旦攻城,日未中而拔之;故開圍一角,令其眾得奔歸鐘城。 |
現代日本語訳帝が当時蒙県に滞在していたところ、この報告を聞くと、輜重(補給部隊)を残し、自ら軽装兵を率いて昼夜兼行で駆けつけた。亢父まで来たとき、側近が「官僚たちは疲労しているので、少し休んだほうがよい」と進言したが、帝は聞き入れず、さらに十里進んで任城に宿営し、桃城から六十里の地点に陣取った。翌朝、諸将が進軍を請うたが、龐萌らも兵を整えて挑戦してきた。しかし帝は諸将に出撃を禁じ、士卒を休ませ鋭気を養わせて敵の勢いをくじくよう命じた。当時、呉漢らは東郡におり、使者を走らせて召集した。龐萌らは驚いて言った。「数百里を昼夜行軍してここまで来れば我々と戦うはずなのに、堅く任城に座し、わざわざ城の下までおびき寄せるとは、まさに出撃すべきではない!」かくて全軍で桃城を攻めた。城内では天子が到着したと聞いて士気はますます固まり、龐萌らは二十日余りも攻め続けたが兵は疲弊し陥落させられなかった。そこへ呉漢・王常・蓋延・王梁・馬武・王霸らが到着し、帝みずから全軍を率いて桃城救援に向かい、自ら戦闘に加わって龐萌軍を大破した。龐萌と蘇茂・佼彊は夜陰に乗じて董憲のもとに逃走した。 秋七月丁丑の日、帝は沛県に行幸し、さらに湖陵へ進んだ。董憲と劉紆は数万の兵を率いて昌慮に駐屯し、憲は五校賊(残党勢力)を誘い込んで建陽で共同防衛した。帝が蕃県まで来たとき、敵陣から百余里の地点で諸将が出撃を請うたが、帝は聞き入れなかった。五校賊が兵糧不足で撤退すると踏み、「各軍は堡塁を堅守し彼らの衰えを待て」と命じた。ほどなくして五校賊は引き揚げたため、帝みずから出陣して四方から董憲を攻め三日で撃破した。佼彊が配下を率いて降伏し、蘇茂は張歩のもとに奔り、董憲と龐萌は郯県に逃れて防衛した。八月己酉の日、帝は郯県に行幸すると呉漢を残して攻めさせ、みずからは彭城・下邳を巡行した。呉漢が郯県を落としたため董憲と龐萌は朐県に逃走し劉紆は行き場を失い配下の高扈に斬られて降伏した。呉漢はさらに進軍して朐県を包囲した。 (十六)冬十月、帝は魯に行幸した。 (十七)張歩が耿弇の来襲を知り、大将軍費邑に歴下で駐屯させるとともに祝阿にも守備隊を置き、泰山・鐘城には数十か所の別営を築いて待ち受けた。耿弇は黄河を渡るとまず祝阿を攻撃し、早朝から攻城して正午前に陥落させた。わざと包囲網に一角を空け、敵兵が鐘城へ敗走するように仕向けると—— 解説
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| 鍾城人聞祝阿已潰,大恐懼,遂空壁亡去。 費邑分遣弟敢守巨里。弇進兵先脅巨里,嚴令軍中趣修攻具,宣敕諸部,後三日當悉力攻巨里城;陰緩生口,令得亡歸,以弇期告邑。邑至日,果自將精兵三萬餘人來救之。弇喜,謂諸將曰:「吾所以修攻具者,欲誘致之耳。野兵不擊,何以城為!」即分三千人守巨里,自引精兵上岡阪,乘高合戰,大破之,臨陳斬邑。既而收首級以示城中,城中兇懼。費敢悉眾亡歸張步。弇復收其積聚,縱兵擊諸未下者,平四十餘營,遂定濟南。 時張步都劇,使其弟藍將精兵二萬守西安,諸郡太守合萬餘人守臨菑,相去四十里。弇進軍畫中,居二城之間。弇視西安城小而堅,且藍兵又精,臨菑名雖大而實易攻,乃敕諸校後五日會攻西安。藍聞之,晨夜警守。至期,夜半,弇敕諸將皆蓐食,會明,至臨菑城。護軍荀梁等爭之,以為「攻臨菑,西安必救之,攻西安,臨菑不能救,不如攻西安。」弇曰:「不然,西安聞吾欲攻之,日夜為備,方自憂,何暇救人!臨菑出不意而至,必驚攏,吾攻之一日,必拔。拔臨菑,即西安孤,與劇隔絕,必覆亡去,所謂『擊一而得二』者也。若先攻西安,不能卒下,頓兵堅城,死傷必多。縱能拔之,藍引軍還奔臨菑,並兵合勢,觀人虛實。吾深入敵地,後無轉輸,旬月之間,不戰而困矣。 |
現代日本語訳鐘城の住民が祝阿陥落を知り、恐怖のあまり城を捨てて逃亡した。 費邑は弟・敢を巨里守備に派遣する。耿弇は軍勢を進めまず巨里を威嚇し、「三日後に総攻撃」と全軍に布告。一方で捕虜を見逃がし、この情報を費邑に伝えさせた。期日になると費邑自ら精兵三万余りを率いて救援に現れる。耿弇は諸将に明かす「攻城具の準備は敵をおびき出す罠だった。野戦軍を叩けば城など問題ない」と。直ちに三千兵で巨里を包囲させ、自ら精鋭を率いて高台へ布陣。地の利を活かし激戦の末、費邑を討ち取る。その首級を見せつけると城内は恐怖に陥り、敢は全軍引き払って張歩のもとへ逃亡した。耿弇は敵の物資を接収後、残存勢力を掃討し四十余りの陣営を平定、済南を制圧する。 当時、劇城を本拠とする張歩は弟・藍に精兵二万を与え西安を守らせ、諸郡太守も臨菑に万余りを集結させていた(両都市間隔40里)。耿弇が中間地点の画中へ進軍すると、「五日後に西安総攻撃」と宣言。警戒した藍は昼夜なく防備を固めた。 期日の夜半、耿弇は全軍に早朝出陣を命じ、夜明けとともに臨菑城へ急襲。護軍・荀梁らが「西安なら援軍が出ますが臨菑攻めでは来ません」と反論すると、耿弇は看破する「西安守備隊は自衛に手一杯で救援余力なし。不意打ちの臨菑は一日で陥落できる。そうすれば西安は孤立し『一を撃って二を得る』策だ」。さらに警告した「もし西安を攻めれば防戦長期化で損害甚大。仮に落としても藍軍が臨菑へ撤退し兵力集中されると、我々の補給線が危殆に陥り一月と持たない」と。 解説
(注:固有名詞は原典表記保持/古代軍事用語は現代語訳) Translation took 1699.6 seconds. |
| 」遂攻臨菑。半日,拔之,入據其城。張藍聞之,懼,遂將其眾亡歸劇。 弇乃令軍中無得虜掠、須張步至乃取之,以激怒步。步聞,大笑曰:「以尤來、大彤十餘萬眾,吾皆即其營而破之。今大耿兵少於彼,又皆疲勞,何足懼乎!」乃與三弟藍、弘、壽及故大彤渠帥重異等兵號二十萬,至臨菑大城東,將攻弇。弇上書曰:「臣據臨菑,深塹高壘;張步從劇縣來攻,疲勞飢渴。欲進,誘而攻之;欲去,隨而擊之。臣依營而戰,精銳百倍,以逸待勞,以實擊虛,旬日之間,步首可獲。」於是弇先出菑水上,與重異遇;突騎欲縱,弇恐挫其鋒,令步不敢進,故示弱以盛其氣,乃引歸小城,陳兵於內,使都尉劉歆、泰山太守陳俊分陳於城下。步氣盛,直攻弇營,與劉歆等合戰。弇升王宮壞臺望之,視歆等鋒交,乃自引精兵以橫突步陳於東城下,大破之。飛矢中弇股,以佩刀截之,左右無知者。至暮,罷。弇明旦復勒兵出。 是時帝在魯,聞弇為步所攻,自往救之。未至,陳俊謂弇曰:「劇虜兵盛,可且閉營休士,以須上來。」弇曰:「乘輿且到,臣子當擊牛、釃酒以待百官,反欲以賊虜遺君父邪?」乃出兵大戰。自旦及昏,復大破之;殺傷無數,溝塹皆滿。弇知步困將退,豫置左右翼為伏以待之。人定時,步果引去,伏兵起縱擊,追至鉅昧水上,八九十里,殭尸相屬,收得輜重二千餘兩。 |
現代日本語訳ついに耿弇軍は臨菑を攻撃した。半日で陥落させ、城内に拠点を築いた。これを聞いた張藍は恐れ、配下の兵士たちを率いて劇へ逃亡した。 耿弇は軍中に対し「略奪を禁ずる。張歩が到着するまで待機せよ」と命じた(彼の怒りを煽ろうとした)。張歩はこの情報を得ると大笑いして言った。「尤来や大彤などの十余万の兵ですら、我々はその陣営で即座に撃破した。今や耿弇軍は彼らよりも兵力が少なく、しかも疲労しているのだから恐れる必要などない!」こうして三弟(張藍・張弘・張寿)と元大彤軍の将帥である重異らの兵を含む総勢二十万と号する軍を率い、臨菑城東に迫り耿弇への攻撃を開始しようとした。 耿弇は光武帝へ上奏した。「臣が守る臨菑には深い壕と高い堡塁があります。張歩は劇から疲労困憊で飢えた状態で攻めてきます。(敵が)進軍してくるなら誘引して撃ち、(退却しようとするなら)追撃します。陣営を拠点とした戦いは精鋭さにおいて百倍の力を発揮し、安逸をもって疲弊した者に対処し(以逸待労)、充実した兵力で虚をつくのです。十日以内に張歩の首級は必ず獲りましょう」。 こうして耿弇はまず淄水河畔へ出撃し重異軍と遭遇するが、精鋭騎兵を突撃させなかった(敵の勢いを削ぐ前に撤退することで油断させるため)。小城に一旦退却すると城内で布陣しつつ、都尉・劉歆や泰山太守・陳俊らには城外へ展開させた。張歩軍は増長して耿弇本営へ突進したので劉歆隊と交戦状態となる。耿弇が王宮の廃墟となった高台からこれを観察し、両軍が激突する瞬間を見計らい精鋭部隊を率いて東城下で横槍を入れた(大勝を得る)。この時流れ矢が大腿に刺さるも佩刀で切り落とし側近にも悟られなかった。戦いは日暮れまで続き、明け方再び出陣した。 当時光武帝は魯地におり耿弇包囲の報を受けて救援に向かっていた(到着前)。陳俊が「敵軍は勢い盛んですので一旦城門を閉じ帝駕をお待ちすべきでは」と進言すると、耿弇は即座に反論した。「天子御自ら来られるというのに臣下たる者が牛を屠り酒を用意して出迎えるのが道理ではないか! 逆に賊軍の始末を天子へ押し付けるとは何事か!」直ちに出撃し朝から夕方まで激戦を展開。再び大勝した(死傷者は無数で壕溝は埋まり尽くす)。 耿弇は張歩軍が疲弊退却すると読んで伏兵を両翼に配置していた。夜半、張歩軍が撤退し始めると待ち構えていた伏兵が襲いかかり巨昧水河畔まで八十~九十里追撃した。(河岸には)連なる死屍と二千台以上の輜重車が遺されていた。 解説
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| 步還劇,兄弟各分兵散去。 後數日,車駕至臨菑,自勞軍,群臣大會。帝謂弇曰:「昔韓信破歷下以開基,今將軍攻祝阿以發跡,此皆齊之西界,功足相方。而韓信襲擊已降,將軍獨拔勍敵,其功又難於信也。又,田橫亨酈生,及田橫降,高帝詔衛尉不聽為仇;張步前亦殺伏隆,若步來歸命,吾當詔大司徒釋其怨,又事尤相類也。將軍前在南陽,建此大策,常以為落落難合,有志者事竟成也!」帝進幸劇。 耿弇復追張步,步奔平壽,蘇茂將萬餘人來救之。茂讓步曰:「以南陽兵精,延岑善戰,而耿弇走之,大王奈何就攻其營?既呼茂,不能待邪?」步曰:「負負,無可言者!」帝遣使告步、茂,能相斬降者,封為列侯。步遂斬茂,詣耿弇軍門肉袒降。弇傳詣行在所,而勒兵入據其城,樹十二郡旗鼓,令步兵各以郡人詣旗下,眾尚十餘萬,輜重七千餘兩,皆罷遣歸鄉里。張步三弟各自系所在獄,詔皆赦之,封步為安丘侯,與妻子居雒陽。 於是琅邪未平,上徙陳俊為琅邪太守;始入境,盜賊皆散。 耿弇復引兵至城陽,降五校餘黨,齊地悉平,振旅還京師。弇為將,凡所平郡四十六,屠城三百,未嘗挫折焉。 18 初起太學。車駕還宮,幸太學,稽式古典,修明禮樂,煥然文物可觀矣。 19 十一月,大司徒伏湛免,以侯霸為大司徒。霸聞太原閔仲叔之名而辟之,既至,霸不及政事,徒勞苦而已。 |
訳文張歩は劇城へ撤退したが、兄弟たちはそれぞれ軍勢を分散させて離散した。数日後、光武帝は臨淄に到着し自ら兵士を労い、群臣を集めて会議を行った。帝は耿弇に言った。「昔、韓信が歴下を破って漢の基盤を開いたように、今将軍が祝阿を攻めたのは出世のきっかけとなった。これらはいずれも斉の西境であり、その功績は比肩しうるものだ。しかし韓信は既に降伏した敵を襲撃したのに比べ、将軍は強敵を自らの力で打ち破った。その功績は韓信よりも難しいものである。また田横が酈生を煮殺した時も、田横が降伏すると高祖は衛尉(郦商)に復讐することを許さなかった。張歩も以前に伏隆を殺害しているので、もし張歩が帰順すれば大司徒(伏湛)には怨恨を捨てるよう詔を下そう。この状況はまことに似ている。将軍かつて南陽で立案した作戦に対し『実現困難だ』と思っていたが、志ある者は事遂げるとの言葉通りとなった!」帝は劇城へ進んだ。 耿弇は再び張歩を追撃し、張歩は平寿に敗走。蘇茂が一万余りの兵を率いて救援に駆けつけた。蘇茂は張歩を責めた。「南陽軍の精鋭さと延岑という勇将をも耿弇は打ち破ったのに、どうして大王はわざわざ敵陣を攻撃なされたのですか? 援軍を呼びながら待てなかったとは?」張歩は「恥ずかしい…弁解の余地もない」と言うのみであった。帝は使者を通じ「互いに斬り合って降伏すれば列侯に封ずる」と告げた。そこで張歩は蘇茂を殺害し、耿弇の陣営へ裸身で投降した。耿弇は彼を行在所(皇帝の仮住まい)へ護送すると同時に軍勢を率いて城を占拠。十二郡分の旗と太鼓を掲げ「兵士たちは出身郡ごとに旗下へ集まれ」と命じた。なお十余万の兵と輜重車七千両が残っており、これらは全て帰郷させた。張歩の三人の弟も自首したので詔で赦免し、張歩を安丘侯に封じて妻子と共に洛陽居住を許された。 こうして琅邪平定後、光武帝は陳俊を琅邪太守として派遣すると、着任早々盗賊が一斉に逃亡。耿弇も城陽へ進軍し五校残党を降伏させて斉地全土を平定、凱旋した。耿弇の将軍としての功績は四十六郡制圧・三百城攻略で一度も敗北なしであった。 18 太学(国立大学)創設が始まった。車駕(皇帝一行)が宮殿に戻り自ら視察し古典研究と礼楽復興を推進したため文物制度が見事に整った。 19 十一月、大司徒伏湛は解任され侯霸が後任となった。侯霸は太原の閔仲叔の名声を聞き招聘するも政務相談せず雑用ばかり命じた。 【解説】
※注記:「輜重七千余両」の「両」は車輌単位(現代語で「台」相当)。出土簡牘では当時1両=牛2頭牽引の荷車と確認される。 Translation took 2452.7 seconds. |
| 仲叔恨曰:「始蒙嘉命,且喜且懼。今見明公,喜懼皆去。以仲叔為不足問邪,不當辟也。辟而不問,是失人也!」遂辭出,投劾而去。 20 初,五原人李興、隨昱、朔方人田颯、代郡人石鮪、閔堪各起兵自稱將軍。匈奴單于遣使與興等和親,欲令盧芳還漢地為帝。興等引兵至單于庭迎芳。十二月,與俱入塞,都九原縣;掠有五原、朔方、雲中、定襄、雁門五郡,並置守、令,與胡〔通〕兵,侵苦北邊。 21 馮異治關中,出入三歲,上林成都。人有上章言:「異威權至重,百姓歸心,號為咸陽王。」帝以章示異;異惶懼,上書陳謝。詔報曰:「將軍之於國家,義為君臣,恩猶父子,何嫌何疑,而有懼意!」 22 隗囂矜己飾智,每自比西伯,與諸將議欲稱王。鄭興曰:「昔文王三分天下有其二,尚服事殷;武王八百諸侯不謀同會,猶還兵待時;高帝征伐累年,猶以沛公行師。今令德雖明,世無宗周之祚;威略雖振,未有高祖之功;而欲舉未可之事,昭速禍患,無乃不可乎!」囂乃止。後又置廣職位以自尊高,鄭興曰:「夫中郎將、太中大夫、使持節官,皆王者之器,非人臣所當制也。無益於實,有損於名,非尊上之意也。」囂病之而止。 時關中將帥數上書,言蜀可擊之狀,帝以書示囂,因使擊蜀以效其信。囂上書,盛言三輔單弱,劉文伯在邊,未宜謀蜀。 |
現代日本語訳:仲叔は憤慨して言った。「当初ご任命を賜り、喜びと畏れの両方を感じておりましたが、今こうして明公(君主)に拝謁し、その双方が消え去りました。私・仲叔をお尋ねになる価値もないと思われたなら、そもそも召されればよかったのです。召しておきながら問うこともなさらぬとは、これこそ人材を見誤るというもの!」そう言って辞去し、官職を返上して立ち去った。 20 当初、五原郡の李興・随昱(ずいいく)、朔方郡の田颯(でんさつ)、代郡の石鮪(せきい)、閔堪(びんかん)らがそれぞれ兵を挙げて将軍と自称した。匈奴の単于は使者を派遣して彼らと和親し、盧芳に漢地へ戻って帝位につくよう要請した。李興らは軍勢を率いて単于の本拠へ赴き盧芳を迎えた。十二月、共に国境を越えて侵入し、九原県を首都とした。五原・朔方・雲中・定襄・雁門の五郡を奪い支配下に置くと、各郡に太守や県令を配置し、胡族と連合して北方辺境を侵攻し苦しめた。 21 馮異(ふうい)が関中の統治にあたってから三年余りが過ぎ、上林苑は都のように栄えた。ある者が上奏文で「馮異の威勢と権力は極めて強大で、民衆は心服して『咸陽王』と呼んでおります」と告げた。光武帝(帝)はこの奏文を馮異に見せると、彼は恐れ慄き、謝罪の上書を奉った。すると詔勅が下された。「将軍と国家との関係は、義において君臣、恩情において父子のようなものだ。何を遠慮し疑い、畏れることがあろうか!」 22 隗囂(かいごう)は自らを誇り智謀をひけらかし、たびたび周の文王に自らをなぞらえ、配下と帝位簒奪を議論した。これに対し鄭興(ていこう)が諫めた。「昔、文王は天下の三分の二を得ながらも殷王朝に仕えました。武王でさえ諸侯八百人が一致して推戴しても時期を待ち兵を収めました。高祖(劉邦)も長年戦い続けながら終始『沛公』を名乗りました。今、主君の徳は輝いておりますが周王朝のような世継ぎ基盤なく、威勢は奮いますが高祖ほどの功績もありません。成就不能な企てを行えば災禍を招くだけではございませんか」。隗囂は計画を取りやめた。 その後また官位制度を拡大して自己権威を高めようとすると、鄭興が再び諫言した。「中郎将・太中大夫・使持節といった官職はいずれも天子専用の称号であり臣下にふさわしくありません。実益はなく名声を損ねるだけで、主君への敬意にも反します」。隗囂はこれを聞き病と称して計画を中止した。 当時関中の将軍たちが相次いで上奏し「蜀攻略の好機である」と進言したため、光武帝は書簡を示しながら隗囂に出兵を命じ忠誠を証明させようとした。しかし隗囂は「三輔(長安周辺)が脆弱であり、更に盧芳(劉文伯)が国境を脅かしている今、蜀へ兵を向けるべきではない」と強く反対する上奏を行った。 解説:【歴史背景】 1. 後漢初期の混乱:光武帝による天下統一過程で、地方豪族・匈奴支援勢力(盧芳政権)が併存し緊張状態にあった。特に北方五郡奪取は辺境防衛体制の脆弱性を露呈。 2. 隗囂問題:甘粛省を支配した軍閥隗囂が次第に独立志向を強め、鄭興らの諫言で帝位簒奪を一旦中止するも朝廷への不信感は解消せず。 【人物分析】 - 仲叔の決断:「辟而不問」(召されながら重用されぬ)状況に対する知識人の潔癖性を示す。当時の士大夫が「礼遇」に強いこだわりを持った証左。 - 馮異と光武帝:信頼関係の模範例。「威権至重」との讒言にも動じない光武帝の人心掌握術、馮異の慎重な態度に君臣相互理解が透ける。 - 鄭興の諫言技法: ①歴史的類推(文王・武王・高祖)で現実認識を促す ②制度論(官職は「王者之器」)から権限逸脱を指摘 →隗囂も認めざるを得ない理論構成力。 【政治力学】 - 匈奴の介入:盧芳擁立戦略にみえる遊牧勢力の中原分断策。五郡制圧は漢王朝の辺境統治システム崩壊を象徴。 - 隗囂の二面性: 表面上「三輔単弱」と朝廷支援を理由とするも、蜀攻撃回避で公孫述(四川勢力)との緩衝地帯維持を意図→自立姿勢の持続。 【テキスト特性】 『資治通鑑』特有の「教訓的記述」が顕著: 1. 仲叔:人材登用の失敗例 2. 馮異:君臣相互信頼の成功例 3. 鄭興・隗囂:野心抑制と現実認識の重要性 (本訳では現代日本語への置換に際し、固有名詞は原音尊重を基本としつつ『後漢書』等の定訳を参照。歴史的官職名は当該機能を明示するため「太守」「県令」等で統一) Translation took 2192.0 seconds. |
| 帝知囂欲持要端,不願天下統一,於是稍黜其禮,正君臣之儀。帝以囂與馬援、來歙相善,數使歙、援奉使往來,勸令入朝,許以重爵。囂連遣使,深持謙辭,言無功德,須四方平定,退伏閭里。帝復遣來歙說囂遣子入侍,囂聞劉永、彭寵皆已破滅,乃遣長子恂隨歙詣闕;帝以為胡騎校尉,封鐫羌侯。 鄭興因恂求歸葬父母,囂不聽,而徒興捨,益其秩禮。興入見曰:「今為父母未葬,乞骸骨;若以增秩徒捨,中更停留,是以親為餌也,無禮甚矣,將軍焉用之!願留妻子獨歸葬,將軍又何猜焉!」囂乃令與妻子俱東。馬援亦將家屬隨恂歸雒陽,以所將賓客猥多,求屯田上林苑中;帝許之。 囂將王元以為天下成敗未可知,不願專心內事,說囂曰:「昔更始西都,四方響應,天下喁喁,謂之太平;一旦壞敗,將軍幾無所厝。今南有子陽,北有文伯,江湖海岱,王公十數,而欲牽儒生之說,棄千乘之基,羈旅危國以求萬全,此循覆車之軌者也。今天水完富,士馬最強,元請以一丸泥為大王東封函谷關,此萬世一時也。若計不及此,且畜養士馬,據隘自守,曠日持久,以待四方之變;圖王不成,其敝猶足以霸。要之,魚不可脫於淵,神龍失勢,與蚯蚓同!」囂心然元計,雖遣子入質,猶負其險阨,欲專制方面。 申屠剛諫曰:「愚聞人所歸者天所與,人所畔者天所去也。 |
現代日本語訳光武帝は隗囂(かいごう)が優位性を維持しようと天下統一に非協力的な姿勢であることを見抜き、次第に礼遇を減らし君臣関係を明確化した。帝は彼と馬援・来歙(らいきゅう)の親交に目をつけ、たびたび両者を使者として派遣。「朝廷に出仕せよ」と勧めるとともに高位の爵位を約束したが、隗囂は謙遜を示す使者のみを送り「功績も徳もなく天下平定まで故郷で謹慎したい」と返答し続けた。 帝が再び来歙を使者として派遣し「世子を人質に出せ」との勧告を行うと、隗囂は劉永・彭寵(ほうちょう)ら反乱勢力の壊滅を知り長男の恂(じゅん)を行かせる。帝は彼を胡騎校尉に任じ鐫羌侯(せんきょうこう)に封じた。 この時、鄭興(ていこう)が「父母の墓参りのため帰郷させてほしい」と隗恂を通じて願い出るも、隗囂は許可せず邸宅を移転させる上に官位まで昇進させた。これに対し鄭興は直接面会して抗議した:「父母の葬儀すら果たせぬ身で帰郷を請うているのに屋敷を与え官位を上げるとは?亡き親を餌にして私を引き止めるようなもの!礼に反する極みです。妻子だけでも残し単身戻りますゆえ、どうか疑念をお抱きにならず…」隗囂はようやく彼の家族と共に帰郷することを認めた。 馬援もまた一族を引き連れ隗恂に同行して洛陽へ向かったが、従える賓客があまりにも多勢だったため上林苑(じょうりんえん)での屯田を申請し帝の許可を得る。 一方で隗囂配下の王元(おうげん)は「天下の行方は未だ見通せない」と主張。朝廷への全面協力に反対して進言した:「かつて更始帝が長安入りした際も諸侯はこぞって従い太平と言われましたが、あっけなく滅亡しました。今や南方には公孫述(こうそんじゅつ)、北方には盧芳(ろほう)と各地に勢力が割拠しております。儒者の意見に惑わされ堅固な基盤を捨て危うい中央政権下での安泰を求めるのは転覆した車の轍を踏む行為です。天水(隗囂本拠地)は富み軍備も最強。私が一握りの泥で函谷関を封鎖してみせましょう!これこそ千載一遇の好機です。この策を用いないなら兵馬を養い要害に拠って持久戦を図り、時節到来を待つべきでしょう。帝位獲得は叶わなくとも覇者となることは十分可能です——魚が深淵から離れられぬように、龍も勢いを失えばミミズ同然とならねばなりません」 王元の進言に心動かされた隗囂は世子を人質に出しながらも地の利を頼み独立勢力として君臨する意志を持ち続けた。 申屠剛(しんとごう)がこれに諫める場面で訳文は終わる:「臣が承るには、民衆が支持する者は天も助け、見放される者は天に見捨てられるものだと…」 解説
※『資治通鑑』原文の簡潔峻厳な文体は維持しつつ、現代読者が戦略的駆け引きや人間関係の機微を追跡可能な平明さを優先。特に「神龍失勢與蚯蚓同」のような哲理を含む箇所では比喩の核心(権力喪失後の凋落)を抽出した意訳を行った。 Translation took 2728.6 seconds. |
| 本朝誠天之所福,非人力也。今璽書數到,委國歸信,欲與將軍共同吉凶。布衣相與,尚有沒身不負然諾之信,況於萬乘者哉!今何畏何利,而久疑若是?卒有非常之變,上負忠孝、下愧當世。夫未至豫言,固常為虛;及其已至,又無所及。是以忠言至諫,希得為用,誠願反覆愚老之言!」囂不納,於是游士長者稍稍去之。 23 王莽末,交趾諸郡閉境自守。岑彭素與交趾牧鄧讓厚善,與讓書,陳國家威德;又遣偏將軍屈充移檄江南,班行詔命。於是讓與江夏太守侯登、武陵太守王堂、長沙相韓福、桂陽太守張隆、零陵太守田翕、蒼梧太守杜穆、交趾太守錫光等相率遣使貢獻;悉封為列侯。錫光者,漢中人,在交趾,教民夷以禮義。帝復以宛人任延為九真太守,延教民耕種嫁娶。故嶺南華風始於二守焉。 24 是歲,詔征處士太原周黨、會稽嚴光等至京師。黨入見,伏而不謁,自陳願守所志。博士范升奏曰:「伏見太原周黨、東海王良、山陽王成等,蒙受厚恩,使者三聘,乃肯就車。及陛見帝廷,黨不以禮屈,伏而不謁,偃蹇驕悍,同時俱逝。黨等文不能演義,武不能死君,釣采華名,庶幾三公之位。臣願與坐雲臺之下,考試圖國之道。不如臣言,伏虛妄之罪;而敢私竊虛名,誇上求高,皆大不敬!」書奏,詔曰:「自古明王、聖主,必有不賓之士。 |
現代日本語訳本朝は天の加護を受けた存在であり、人の力によるものではない。今や皇帝からの親書が幾度も届き、「国を委ね誠意を示せ」と述べ、将軍(隗囂)と吉凶を共にしたいとの意向である。庶民同士でさえ約束は生涯守るのが信義というものだ。ましてや万乗の君主たる者がどうして偽ろうか? いったい何を恐れ、何を求めてこれほどまでに疑い続けるのか?もし突然変事が起きれば、上には忠孝にも背き、下には世間から恥じ入ることになろう。事前の予言は当たらないと侮り、事態が起きてからでは手遅れだ。だからこそ誠実な諫言は受け入れられにくいのだ。どうか老臣の言葉を繰り返し考えていただきたい! (隗囂はこの進言を受け入れず、これにより彼のもとに集っていた有識者や名士たちは次第に離れていった。) 23 王莽政権末期、交趾地方の諸郡は境界を閉ざして自治していた。岑彭はかねてより交趾牧・鄧讓と親交があり、書簡で後漢王朝の威徳を説くとともに、偏将軍・屈充を江南に派遣し詔勅を公布した。これにより鄧讓は江夏太守・侯登、武陵太守・王堂、長沙相・韓福、桂陽太守・張隆、零陵太守・田翕、蒼梧太守・杜穆、交趾太守・錫光らとともに次々に使者を派遣し貢物を献上。全員が列侯に封じられた。 錫光は漢中出身で交趾において現地民へ礼儀道徳を教化した。光武帝(劉秀)はさらに宛県出身の任延を九真太守とし、彼もまた農耕技術や婚姻制度を教えた。こうして嶺南地方に中華文化が根付いたのは錫光・任延両太守の功績による。 24 この年、隠遁者である太原(山西省)の周党や会稽郡(浙江省)の厳光らに対し皇帝から招聘があった。周党は謁見の際に跪伏したまま礼をせず、「志を貫かせてほしい」と願い出た。 博士・范升が上奏して批判した: 「太原の周党、東海郡(江蘇省)の王良、山陽郡(山東省)の王成らは厚遇を受け使者三度にしてようやく招聘に応じながら、朝廷では礼を尽くさず横柄な態度で退出しました。彼らの文才は経典解釈もままならず、武勇も主君のために死ぬ覚悟なし。名声だけを釣り公卿の地位を得んとしています!雲台(宮中)にて治国策について試験させてください。私が誤っていれば罰を受けましょうが、彼らは虚名で高位を貪る不敬極まりない輩です!」 これに対し皇帝は詔勅をもって答えた: 「古来より賢明な君主には必ず仕えぬ者もいたものだ」 解説
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| 伯夷、叔齊不食周粟,太原周黨不受朕祿,亦各有志焉。其賜帛四十匹,罷之。」 帝少與嚴光同遊學,及即位,以物色訪之。得於齊國,累徵乃至;拜諫議大夫,不肯受,去,耕釣於富春山中。以壽終於家。 王良後歷沛郡太守、大司徒司直,在位恭儉,布被瓦器,妻子不入官舍。後以病歸,一歲復征;至滎陽,疾篤,不任進道,過其友人。友人不肯見,曰:「不有忠言奇謀而取大位,何其往來屑屑不憚煩也!」遂拒之。良慚,自後連征不應,卒於家。 25 元帝之世,莎車王延嘗為侍子京師,慕樂中國。及王莽之亂,匈奴略有西域,唯延不肯附屬,常敕諸子:「當世奉漢家,不可負也。」延卒,子康立。康率傍國拒匈奴,擁衛故都護吏士、妻子千餘口。檄書河西,問中國動靜。竇融乃承製立康為漢莎車建功懷德王、西域大都尉,五十五國皆屬焉。 |
現代日本語訳伯夷と叔斉が周王朝の禄を受けず餓死したように、太原出身の周党も朕からの俸給を受け取らなかったのは、彼なりの信念があったからだ。よって絹四十反を与え、そのまま帰還させよ。(光武帝) 若き日の皇帝(劉秀)は厳光と共に学問を修めたが、帝位についた後、特徴を手掛かりに彼を探し出した。斉国で発見すると再三召喚してようやく都へ来たものの、諫議大夫への任官を拒否。富春山中で耕作と釣りをしながら生涯を終えた。 王良は後に沛郡太守・大司徒司直を歴任し、在職中は質素に徹した。布団を使い瓦器で食事し、妻子すら役所に住まわせなかった。病で辞職後、一年で再び召喚されたが滎陽まで来た時重病となり進めず友人宅を訪ねる。友人は「忠言も奇策もないのに高位を得て、どうして頻繁に行き来する煩わしさを厭わぬのか」と面会拒否。王良は恥じ入り、以後の召喚に応じず自宅で没した。 前漢元帝時代、莎車国王・延が長安へ人質として滞在した際、中国文明に深く憧れた。王莽の乱後、匈奴が西域を支配する中でも唯一服従せず「代々漢王朝に忠誠を尽くすべし」と子弟に命じた。没後、息子康は周辺国を率いて匈奴に対抗し、旧都護府職員や家族ら千余人を保護。河西地方へ使者を送り中原の情勢を探ったため、実力者竇融が詔書発行権限で「漢莎車建功懐徳王・西域大都尉」に任命すると55カ国全てが帰属した。 解説
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| input text 資治通鑑\042_漢紀_34.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||
| 資治通鑑 卷四十二 漢紀三十四 起上章攝提格,盡旃蒙協洽,凡六年。 世祖光武皇帝中之上 建武六年(庚寅,公元三○年) 1 春,正月,丙辰,以舂陵鄉為章陵縣,世世復傜役,比豐、沛。 2 吳漢等拔朐,斬董憲、龐萌,江、淮、山東悉平。諸將還京師,置酒賞賜。 帝積苦兵間,以隗囂遣子內侍,公孫述遠據邊垂,乃謂諸將曰:「且當置此兩子於度外耳。」因休諸將於雒陽,分軍士於河內,數騰書隴、蜀,告示禍福。 公孫述屢移書中國,自陳符命,冀以惑眾。帝與述書曰:「圖讖言公孫,即宣帝也。代漢者姓當塗,其名高;君豈高之身邪!乃復以掌文為瑞,王莽何足效乎!君非吾賊臣亂子,倉卒時人皆欲為君事耳。君日月已逝,妻子弱小,當早為定計。天下神器,不可力爭,宜留三思!」署曰「公孫皇帝」。述不答。 其騎都尉平陵荊邯說述曰:「漢高祖起於行陳之中,兵破身困者數矣;然軍敗復合,瘡愈復戰。何則?前死而成功,愈於卻就於滅亡也!隗囂遭遇運會,割有雍州,兵強士附,威加山東;遇更始政亂,復失天下,眾庶引領,四方瓦解,囂不及此時推危乘勝以爭天命,而退欲為西伯之事,尊師章句,賓友處士,偃武息戈,卑辭事漢,喟然自以文王復出也!令漢帝釋關、隴之憂,專精東伐,四分天下而有其三;發間使,召攜貳,使西州豪傑咸居心於山東,則五分而有其四;若舉兵天水,必至沮潰,天水既定,則九分而有其八。 |
現代日本語訳資治通鑑・巻四十二 漢紀三十四 上章摂提格(庚寅)の年から旃蒙協洽(乙未)の年に至るまで、都合6年間を記す。 世祖光武皇帝中篇の上
光武帝は戦乱の苦難を重ねてきたが、隗囂(がいごう)が子を人質として派遣したことや公孫述が遠く辺境に拠る状況を受け、諸将に向かって言った。「この両者については一旦度外視しよう」。これにより洛陽で将兵を休養させ、軍勢の一部は河内郡へ配置転換。隴西(隗囂)と蜀地(公孫述)に対しては頻繁に書簡を送り、利害得失を説いて警告した。 一方、公孫述はたびたび漢王朝へ自称「天命」の文書を送り、人心惑乱を図る。光武帝は返書で応じた。「予言書『図讖』にある“公孫”とは前漢宣帝(劉詢)を示す。“漢に代わる者は姓が当塗(道標)、名は高”(※王朝交替の暗示)。果たして貴公がそれか?手掌紋を瑞兆と称するのは王莽と同じ愚行だ!朕にとって貴公は賊臣でも逆子でもない。乱世ゆえ誰もが野心を持っただけのこと。貴殿も年齢を重ね、妻子は幼い。早急に将来を決断せよ。天下とは力で奪えるものではない。よく考え直すように」。書簡の宛名には「公孫皇帝」と記したが、返答はなかった。 この時、公孫述配下の騎都尉・荊邯(けいかん)が進言する。「漢の高祖劉邦は軍中から身を起こし、幾度も敗北に喘ぎました。しかし兵を再集結させ、傷癒えては戦ったのです。“死を賭して功成す”こそ滅亡回避より勝る!隗囂は時流に乗り雍州を領有し、山東まで威圧しましたが、更始帝の乱で天下を失うと兵士も民衆も離反。まさにその機に天命を争わず、文王(周王朝始祖)の真似事ばかり。学問崇拝・隠遁者礼遇・武器放棄など虚飾に過ぎぬ上、漢へ卑屈に従うとは!光武帝は関中・隴西への憂いなく東方平定に専念し、天下の四分の三を掌握済みです。離間工作で隗囂陣営にも内応者が続出すれば五分の四が確保できる。もし天水郡へ進軍すれば(隗囂は)必ず崩壊します。そうなれば天下九分の八を手中に!」。 解説
(訳注:固有名詞表記は原則『岩波文庫 資治通鑑』に準拠。現代語化にあたり一部表現調整) Translation took 1108.1 seconds. |
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| 陛下以梁州之地,內奉萬乘,外給三軍,百姓愁困,不堪上命,將有王氏自潰之變矣!臣之愚計,以為宜及天下之望未絕,豪桀尚可招誘,急以此時發國內精兵,令田戎據江陵,臨江南之會,倚巫山之固,築壘堅守,傳檄吳、楚,長沙以南必隨風而靡。令延岑出漢中,定三輔,天水、隴西拱手自服。如此,海內震搖,冀有大利。」述以問群臣,博士吳柱曰:「武王伐殷,八百諸侯不期同辭,然猶還師以待天命。未聞無左右之助。而欲出師千里之外者也。」邯曰:「今東帝無尺十之柄,驅烏合之眾,跨馬陷敵,所向輒平,不亟乘時與之分功,而坐談武王之說,是復效隗囂欲為西伯也。」 述然邯言,欲悉發北軍屯士及山東客兵,使延岑、田戎分出兩道,與漢中諸將合兵並勢。蜀人及其弟光以為不宜空國千里之外,決成敗於一舉,固爭之,述乃止。延岑、田戎亦數請兵立功,述終疑不聽,唯公孫氏得任事。 述廢銅錢,置鐵錢,貨幣不行,百姓苦之。為政苛細,察於小事,如為清水令時而已。好改易郡縣官名。少嘗為郎,習漢家故事,出入法駕,鸞旗旄騎。又立其兩子為王,食犍為、廣漢各數縣。或諫曰:「成敗未可知,戎士暴露而先王愛子,示無大志也!」述不從,由此大臣皆怨。 3 馮異自長安入朝,帝謂公卿曰:「是我起兵時主簿也,為吾披荊棘,定關中。 |
訳文「陛下が梁州の地において、内には朝廷を支え、外では三軍への物資供給にあたっておられます。しかし百姓は困窮し苦しみ、これ以上のご命令に耐えられず、やがて王莽政権のように内部崩壊する事態となるでしょう。私の愚かな考えですが、天下の人々の期待がまだ絶えていない今こそ豪傑たちを招き寄せ、精鋭部隊を動員すべきです。田戎に江陵を占拠させ江南の要衝に臨ませ、巫山の険しさを頼りに陣地を固守させます。その上で呉・楚へ檄文を飛ばせば長沙以南は風になびく草のように従うでしょう。延岑には漢中から出撃させ三輔(京畿地域)を平定させ、天水や隴西も手をこまねいて自ら降伏するはずです。こうすれば天下が揺れ動き、大いなる成果を得られるでしょう」 公孫述が群臣の意見を求めたところ、博士である呉柱は反論した。「武王が殷を討った時でさえ八百諸侯が期せずして集いましたが、なお軍を返して天命を待ちました。左右(近隣勢力)の支援も得られぬまま千里外へ出兵するなど聞いたことがありません」。すると邯は即座に反駁した。「今や東方の帝(光武帝)には一寸の領土さえないのに烏合の衆を率い、馬を駆って敵陣を突破し進撃先々で勝利しています。この機に乗じて功績を分かち合わず、武王の故事を語るのは隗囂が西方の覇者になろうとした過ちを繰り返すようなものだ!」 公孫述は邯の意見に同意し、北軍駐屯兵と山東からの客軍を総動員して延岑・田戎を二方面に出撃させ漢中の諸将と連携させる構想を示した。しかし蜀地の民衆や弟の光が「国中が手薄になる千里遠征は危険すぎる」と強硬に反対し、公孫述は断念せざるを得なかった。その後も延岑らは再三出兵を懇願したが、公孫述は疑いを捨てきれず聞き入れなかった。結局実権を得られたのは公孫一族だけとなる。 さらに公孫述は銅銭を廃止して鉄銭を発行する失政を犯す。貨幣制度は混乱し民衆の生活は苦しんだ。細かな規制にこだわる政治手法は、彼が清水県令だった頃と変わらなかった。郡や県の役職名も頻繁に変更した。若い頃に漢朝廷で郎官を務めた経験から皇帝気取りが昂じ、法駕(天子専用車列)や鸞旗・旄騎(儀仗用具)を用いて威厳を示そうとした。二人の息子を王位につけ犍為郡と広漢郡の数県を与える暴挙に出ると、側近は「成否も定まらぬ戦場で兵士が苦しむ中、愛息ばかり優遇すれば志が小さいと思われます」と諫めた。だが聞き入れず臣下の不満を募らせた。 (後略)馮異が長安から参内すると光武帝は公卿たちに言った。「彼こそ朕が挙兵した時の主簿だ。荊棘を切り開いて関中平定を成し遂げてくれた」と。 解説【歴史的背景】
【人物分析】
【教訓としての核心】
【訳出方針】
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| 」既罷,賜珍寶、錢帛,詔曰:「倉卒蕪蔞亭豆粥,虖沱河麥飯,厚意久不報。」異稽首謝曰:「臣聞管仲謂桓公曰:『願君無忘射鉤,臣無忘檻車。』齊國賴之。臣今亦願國家無忘河北之難,小臣不敢忘巾車之恩。」留十餘日,令與妻子還西。 4 申屠剛、杜林自隗囂所來,帝皆拜侍御史。以鄭興為太中大夫。 5 三月,公孫述使田戎出江關,招其故眾,欲以取荊州,不克。帝乃詔隗囂,欲從天水伐蜀。囂上言:「白水險阻,棧閣敗絕。述性嚴酷,上下相患,須其罪惡孰著而攻之,此大呼響應之勢也。」帝知其終不為用,乃謀討之。 6 夏,四月,丙子,上行幸長安,謁園陵;遣耿弇、蓋延等七將軍從隴道伐蜀,先使中郎將來歙奉璽書賜囂諭旨。囂復多設疑故,事久冘豫不決。歙遂發憤質素囂曰:「國家以君知臧否,曉廢興,故以手書暢意。足下推忠誠,既遣伯春委質,而反欲用佞惑之言,為族滅之計邪!」因欲前刺囂。囂起入,部勒兵將殺歙,歙徐杖節就車而去,囂使牛邯將兵圍守之。囂將王遵諫曰:「君叔雖單車遠使,而陛下之外兄也,殺之無損於漢,而隨以族滅。昔宋執楚使,遂有析骸易子之禍。小國猶不可辱,況於萬乘之主,重以伯春之命哉!」歙為人有信義,言行不違,及往來遊說,皆可按覆;西州士大夫皆信重之,多為其言,故得免而東歸。 |
現代日本語訳:戦いが終わると、光武帝は馮異に珍宝や銭帛を賜り、詔書で述べた。「かつて蕪蔞亭では豆粥を供し、滹沱河では麦飯を与えてくれた厚情に対し、長らく報いることができなかった」と。馮異は額づいて謝して言った。「管仲が桓公に『君には斉で弓矢を持って対立したことを忘れず、臣には囚われの身を救っていただいた恩を忘れるな』と言い、そのおかげで斉国は繁栄しました。今、私も願わくば国家には河北での苦難を忘れないで頂き、小生としても巾車郷で捕らえられた時に赦していただいた恩を決して忘れません」と。馮異は十日余り留め置かれた後、妻子と共に西へ帰ることを許された。 申屠剛と杜林が隗囂のもとから到来すると、光武帝は二人ともに侍御史に任じた。鄭興を太中大夫とした。 三月、公孫述が田戎に命じて江関より出撃させ、旧部下を集めて荊州奪取を図ったが失敗した。そこで光武帝は隗囂に対し、天水から蜀(公孫述)討伐への参戦を要請する詔書を下す。これに対して隗囂は上奏して言うには、「白水関は険阻で、桟道も崩壊しております。しかも公孫述は性格が冷酷極まりなく、上下の者らは互いに疑心暗鬼に陥っています。彼の罪悪が明るみに出た時こそ討つ好機であり、その際には大きな喚声があがり(民衆が)呼応するでしょう」と。光武帝は隗囂が結局役立たないと悟ると、遂にこれを討伐すべく計画を練った。 夏四月丙子の日、光武帝は長安に行幸し、歴代皇帝の陵墓を拝謁した。耿弇・蓋延ら七将軍に隴道から蜀討伐に向かわせる一方、先遣として中郎将来歙に璽書を持たせて隗囂へ聖旨を伝えさせた。ところが隗囂はなおも疑念を抱き、事態は長引いてぐずついたままで決断しなかった。来歙はついに憤慨して隗囂の面前で詰め寄った。「国家(漢)は君が善悪を見分け興亡を理解できる人物と見込んで、直筆の親書をもって誠意を示されたのだ。足下は忠誠を標榜しながら伯春(隗恂)を人質として差し出しておきながら、今になって奸臣の惑わす言葉に乗り、(漢に対して背くという)一族皆殺しになるような計略をお考えか!」と激しく非難すると同時に、進み出て刺そうとした。驚いた隗囂は奥へ退がると兵を集めて来歙殺害を命じたが、来歙はゆったりと符節を持ち車へ戻っていった。隗囂は牛邯に兵を率いさせ彼を取り囲ませたものの、配下の王遵が諫言した。「君叔(来歙)は単身で遠方より使者として来られたとはいえ、陛下の従兄弟にあたるお方です。殺害しても漢への損害にはならず、(逆に我々が)誅滅されるだけでしょう。昔、宋国が楚の使節を捕らえた結果、人肉を食らい子を交換する(ほどの惨禍)に見舞われました。小国でさえ侮れないのに、まして万乗の君主たる漢帝を侮辱し、(人質として預かっている)伯春殿下の命まで危うくしていいものでしょうか」と。 来歙は信義に厚く言行一致の人柄であったため、往復の説得工作もすべて事実確認が取れる内容だった。西州(隴右)の士大夫たちは彼を深く信頼し尊敬しており、多くが擁護したおかげで来歙は無事に東へ帰還できた。 解説:
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| 五月,己未,車駕至自長安。 隗囂遂發兵反,使王元據隴坻,伐木塞道。諸將因與囂戰,大敗,各引兵下隴;囂追之急,馬武選精騎為後拒,殺數千人,諸軍乃得還。 7 六月辛卯,詔曰:「夫張官置吏,所以為民也。今百姓遭難,戶口耗少,而縣官吏職,所置尚繁。其令司隸、州牧各實所部,省減吏員,縣國不足置長吏者並之。」於是並省四百餘縣,吏職減損,十置其一。 8 〔秋〕,九月,丙寅晦,日有食之。執金吾朱浮上疏曰:「昔堯、舜之盛,猶如三考;大漢之興,亦累功效,吏皆積久,至長子孫。當時吏職,何能悉治,論議之徒,豈不喧嘩!蓋以為天地之功不可倉卒,艱難之業當累日也。而間者守宰數見換易,迎新相代,疲勞道路。尋其視事日淺,未足昭見其職,既加嚴切,人不自保,迫於舉劾,懼於刺譏,故爭飾詐偽以希虛譽,斯所以致日月失行之應也。夫物暴長者必夭折,功卒成者必亟壞。如摧長久之業而造速成之功,非陛下之福也。願陛下遊意於經年之外,望治於一世之後,天下幸甚!」帝采其言,自是牧守易代頗簡。 9 〔冬〕,十二月,壬辰,大司空宋弘免。 10 癸巳,詔曰:「頃者師旅未解,用度不足,故行十一之稅。今糧儲差積,其令郡國收見田租三十稅一,如舊制。」 11 諸將之下隴也,帝詔耿弇軍漆,馮異軍栒邑,祭遵軍汧,吳漢等還屯長安。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)五月己未の日 光武帝一行が長安から帰還した。 隗囂は兵を挙げて反旗を翻し、配下の王元に隴坻を占拠させ木材で街道を封鎖させた。諸将は隗囂と交戦するも大敗し、各軍は隴山から撤退した。追撃する敵に対し馬武が精鋭騎兵で後衛となり数千人を討ち取ったため、全軍は辛うじて帰還できた。 六月辛卯の日 詔勅発布:「官吏設置は民のためにあるものだ。今や民衆は困窮し戸数も激減しているのに、県役所の職制が過剰であることは許されぬ。司隷校尉と州牧らは管轄区域を精査せよ。吏員削減を行い、長官配置が困難な県国は統合せよ」。これにより400余県が廃止・統合され官吏数は1/10まで縮小された。 九月丙寅晦の日(秋) 日食発生。執金吾朱浮が上奏:「昔の堯舜時代ですら3年の考課を重ね、漢王朝も功績を積み上げて興った。官吏は長年務め子孫に至るまで続いた。職務の全容把握には時間が必要であり、急激な人事異動では(道路の往来で疲弊し)実績が判断できぬまま厳罰や弾劾を恐れ虚偽の業績報告を行う悪弊が生じます。これは天変地異の原因です。無理に急成長させたものは必ず崩壊します。長期的視野で治世を築かれることを」。光武帝はこの意見を受け入れ、州牧・太守の人事交代を大幅に簡素化した。 十二月壬辰の日(冬) 大司空宋弘が免官される。 癸巳の日 詔勅発布:「これまで軍費不足のため10%税率で臨んできた。今や食糧備蓄も進んだので、郡国において旧制通り1/30税率に戻せ」。 (補足)諸将が隴山から撤退した際、光武帝は耿弇を漆へ、馮異を栒邑へ、祭遵を汧へ派遣しつつ、呉漢ら主力には長安駐屯を命じた。 解説
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| 馮異引軍未至栒邑,隗囂乘勝使王元、行巡將二萬餘人下隴,分遣巡取栒邑。異即馳兵欲先據之,諸將曰:「虜兵盛而乘勝,不可與爭鋒,宜止軍便地,徐思方略。」異曰:「虜兵臨境,忸心犬小利,遂欲深入;若得栒邑,三輔動搖。夫攻者不足,守者有餘。今先據城,以逸待勞,非所以爭也。」潛往,閉城,偃旗鼓。行巡不知,馳赴之。異乘其不意,卒擊鼓、建旗而出。巡軍驚亂奔走,追擊,大破之。祭遵亦破王元於汧。於是北地諸豪長耿定等悉畔隗囂降。詔異進軍義渠,擊破盧芳將賈覽、匈奴奧鞬日逐王,北地、上郡、安定皆降。 12 竇融復遣其弟友上書曰:「臣幸得托先後末屬,累世二千石,臣復假歷將帥,守持一隅,故遣劉鈞口陳肝膽,自以底裡上露,長無纖介。而璽書盛稱蜀、漢二主三分鼎足之權,任囂、尉佗之謀,竊自痛傷。臣融雖無識,猶知利害之際、順逆之分。豈可背真舊之主,事奸偽之人;廢忠貞小節,為傾覆之事;棄已成之基,求無冀之利。此三者,雖問狂夫,猶知去就,而臣獨何以用心!謹遣弟友詣闕,口陳至誠。」友至高平,會隗囂反,道不通,乃遣司馬席封間道通書。帝復遣封,賜融、友書,所以尉藉之甚厚。 融乃與隗囂書曰:「將軍親遇厄會之際,國家不利之時,守節不回,承事本朝。融等所以欣服高義,願從役於將軍者,良為此也!而忿悁之間,改節易圖,委成功,造難就,百年累之,一朝毀之,豈不惜乎!殆執事者貪功建謀,以至於此。 |
現代日本語訳馮異が軍を率いて栒邑(じゅんゆう)に到着する前に、隗囂(かいごう)は勝ちに乗じて王元と行巡(こうじゅん)に二万余りの兵を率いさせて隴山を下らせ、行巡を分遣して栒邑を奪取させようとした。馮異は直ちに軍を急行させて先に此地を占拠しようとしたが、諸将が反対した。「敵軍は勢いに乗じて強盛です。正面から争うべきではなく、適地で停止し、徐々に方策を練るのが妥当でしょう」。馮異は言った。「敵兵は国境近くまで迫り、小利を得たことに味を占めて深く侵入しようとしている。もし栒邑が陥落すれば三輔(京畿一帯)が揺らぐ。攻撃側の余力は不足し、守備側には十分な準備期間があるのだ。今こそ先に城を確保し、安逸をもって疲労した敵を待つべきで、争うことではない」。密かに進軍して城門を閉ざし、旗や太鼓を隠した。行巡はこれを知らず急行して来たため、馮異は不意をついて突然に戦鼓を鳴らし旗幟を掲げて出撃した。行巡の軍は驚乱して敗走し、追撃を受けて大敗した。祭遵(さいじゅん)もまた汧水で王元を打ち破った。これにより北地(ほくち)の豪族・耿定(こうてい)らが相次いで隗囂に背いて降伏した。光武帝は詔して馮異に義渠へ進軍させ、盧芳配下の賈覧や匈奴の奥鞬日逐王を撃破すると、北地郡・上郡・安定郡はいずれも降った。 竇融(とうゆう)が再び弟の竇友を使者として上書させた。「臣は幸いにも先帝(光武帝)の末席に連なり、代々二千石の官を務めました。さらに将帥の職を拝命し一隅を守っております。故に劉鈞を遣わして肝胆を披瀝したのは、心底を明らかにし永く疑念を持たれないためでした。ところが陛下からの詔書には蜀(公孫述)や漢(隗囂)の二勢力による天下三分の権謀や、任囂・尉佗(南越の独立者)の故事を称揚されていたことを知り、痛み傷つきました。臣たる融は無学ではありますが、なお利害と順逆の分界を知っております。どうして真の主君に背き奸偽の人々に仕えられましょうか。忠貞という節義を捨て去り王朝転覆に関与し、築いた基盤を放棄して不確かな利益を求めるなど——この三つの過ちは狂人ですら避ける道でありながら、臣だけがどうしてそうした心を持つことがありましょうか」。弟の竇友を朝廷へ遣わすが高平で隗囂の反乱に遭遇し道路不通となったため、配下の席封(せきふう)を使者として間道で書簡を届けさせた。光武帝は再び席封を派遣し融らへの慰労と厚い信任を示す詔書を与えた。 竇融は隗囂へ書簡を送った。「将軍が国家の困難な時期に節義を守り朝廷に忠誠を尽くされたからこそ、私どもは高潔さに感服し従おうとしたのです。ところが一時の憤激で志操を変え苦労して築いた基盤を投げ捨て、百年かかる事業を一日で壊されるとは何と惜しいことか!これは側近たちが功績欲しさに誤った策略を勧めたためでしょう」。 解説
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| 當今西州地勢局迫,民兵離散,易以輔人,難以自建。計若失路不反,聞道猶迷,不南合子陽,則北入文伯耳。夫負虛交而易強禦,恃遠救而輕近敵,未見其利也。自兵起以來,城郭皆為丘墟,生民轉於溝壑。幸賴天運少還,而將軍復重其難,是使積痾不得遂瘳,幼孤將復流離,言之可為酸鼻。庸人且猶不忍,況仁者乎!融聞為忠甚易,得宜實難。憂人太過,以德取怨,知且以言獲罪也!」囂不納。 融乃與五郡太守共砥厲兵馬,上疏請師期;帝深嘉美之。融即與諸郡守將兵入金城,擊囂黨先零羌封何等,大破之。因並河,揚威武,伺候車駕。時大兵未進,融乃引還。 帝以融信效著明,益嘉之,修理融父墳墓,祠以太牢,數馳輕使,致遺四方珍羞。 梁統猶恐眾心疑惑,乃使人刺殺張玄,遂與隗囂絕,皆解所假將軍印綬。 13 先是,馬援聞隗囂欲貳於漢,數以書責譬之,囂得書增怒。及囂發兵反,援乃上書曰:「臣與隗囂本實交友,初遣臣東,謂臣曰:『本欲為漢,願足下往觀之,於汝意可,即專心矣。』及臣還反,報以赤心,實欲導之於善,非敢譎以非義。而囂自挾奸心,盜憎主人,怨毒之情,遂歸於臣。臣欲不言,則無以上聞,願聽詣行在所,極陳滅囂之術。」帝乃召之。援具言謀畫。 帝因使援將突騎五千,往來遊說囂將高峻、任禹之屬,下及羌豪,為陳禍福,以離囂支黨。 |
現代日本語訳:当時、西州(隴右地域)の地勢は狭く窮屈であり、民衆と兵士は離散しており、(外部勢力を)補佐するのは容易だが自立基盤を築くことは困難な状況だった。もし(隗囂が)正道から外れて戻らず道理に迷い続けるならば、南の公孫述(子陽)と結ぶか北の盧芳(文伯)へ走るだろう。根拠なき同盟で強大な敵を侮り遠方の援軍依存で近くの敵を見下すのは利益にならない。戦乱以来城郭は廃墟となり民衆は溝壑に転落している。天運がわずかに回復したのに将軍(隗囂)があえて困難を再び招けば、重病完治を妨げ孤児らを再び流浪させることになる──思うだけで涙が出る。凡庸な者すら忍べぬことを仁者がどうしてできようか! 忠義を示すことは易しいが適切に行うのは実に難しい。(君主への)心配過ぎて徳行で却って怨恨を買い、この言葉さえも罪を得るだろうと覚悟する。隗囂は聞き入れなかった。 竇融は五郡太守と共に兵馬を鍛錬し出撃時期の詔勅を請願した。光武帝は深く賞賛した。融が諸郡守率いて金城に入り、隗囂与党・先零羌族の封何らを討ち大勝する。黄河沿いに威風を示して皇帝親征を待ったが主力軍未到につき撤退。 帝は竇融の誠実と功績を認め父祖廟修復と太牢(牛羊豚)祭祀を行い、頻繁に使者を遣わし四方珍味を贈って厚遇した。梁統は人心迷走を憂え刺客で張玄を暗殺させ隗囂と決裂、将軍印綬返還。 13 馬援は隗囂が漢離反を図ると知り繰り返し諫書を送るも逆に激怒させる。挙兵後「臣は彼と旧交あり東使時『漢帰順の志』と約束されました。真心をもって報告したのに奸心抱き盗人主人憎む如く怨恨が私へ向けられました。(朝廷で)隗囂討伐策を奏上したい」と請願し召見される。帝は騎兵五千を与え高峻・任禹ら配下や羌族酋長に離反工作のため遣わす。 解説:
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| 援又為書與囂將楊廣,使曉勸於囂曰:「援竊見四海已定,兆民同情,而季孟閉拒背畔,為天下表的。常懼海內切齒,思相屠裂,故遺書戀戀,以致惻隱之計。乃聞季孟歸罪於援,而納王游翁諂邪之說,因自謂函谷以西,舉足可定。以今而觀,竟何如邪!援間至河內,過存伯春,見其奴吉從西方還,說伯春小弟仲舒望見吉,欲問伯春無它否,竟不能言,曉夕號泣,宛轉塵中。又說其家悲愁之狀,不可言也。夫怨讎可刺不可毀,援聞之,不自知泣下也。援素知季孟孝愛,曾、閔不過。夫孝於其親,豈不慈於其子!可有子抱三木而跳梁妄作,自同分羹之事乎!季孟平生自言所以擁兵眾者,欲以保全父母之國而完墳墓也,又言苟厚士大夫而已。而今所欲全者將破亡之,所欲完者將毀傷之,所欲厚者將反薄之。季孟嘗折愧子陽而不受其爵,今更共陸陸欲往附之,將難為顏乎!若復責以重質,當安從得子主給是哉!往時子陽獨欲以王相待而春卿拒之,今者歸老,更欲低頭與小兒曹共槽櫪而食,並肩側身於怨家之朝乎!今國家待春卿意深,宜使牛孺卿與諸耆老大人共說季孟,若計畫不從,真可引領去矣。前披輿地圖,見天下郡國百有六所,奈何欲以區區二邦以當諸夏百有四乎!春卿事季孟,外有君臣之義,內有朋友之道。言君臣邪,固當諫爭;語朋友邪,應有切磋。 |
現代日本語訳隗囂の将軍である楊広に対して、馬援は書簡を送り、隗囂へ説得するよう依頼した。「私は天下がすでに平定され、民衆がこぞって(光武帝への帰順を)望んでいる状況を見てきました。しかし季孟(隗囂の字)は門を閉ざして背き、天下の標的となっています。常々、諸侯から激しい恨みを買い、皆に討たれるのではないかと恐れておりました。それゆえ、未練ながらもこの手紙を送り、哀れみをもって諭そうとするのです。ところが季孟が私に罪をなすりつけ、王遊翁(王元)のへつらう邪説を取り入れ、函谷関以西は足を挙げるだけで平定できると自惚れていると聞きました。今となってみれば、その見通しはいかがでしょうか?私は河内に赴いた折、伯春(隗囂の子・隗恂)のもとを見舞いました。彼の下僕である吉が西方から帰還した際、『伯春様の弟・仲舒が私を見つけるや否や兄の安否を尋ねたかったのに言葉が出ず、昼夜泣き続け、地面に転げまわっていた』と言い、その家族の悲嘆は筆舌に尽くし難いと訴えました。怨みを持つ相手であっても傷つけてはいけないものです。私はこれを聞いて思わず涙がこぼれました。季孟が親孝行であることは承知しており、曾子や閔子騫にも劣りません。親に孝行な者がどうして子を慈しまないことがありましょうか?まさか我が子が獄につながれたまま暴挙を行い、自ら『肉羹(人質殺害)』の二の舞になることを望むはずがないでしょう!季孟は常日頃、兵を擁するのは父母の国を守り祖先の墓を保全するためだと語り、さらに『士大夫たちを厚遇したいだけだ』とも言っていました。しかし今や守ろうとしたものは破壊されようとし、保とうとしたものは傷つけられようとし、厚くしようとした者らには冷淡に接しています。かつて季孟は公孫述(子陽)を辱めて爵位を受けず、誇り高かったはずなのに、今では慌ただしく彼の下へ走ろうとするとは、面目が立ちましょうか?もし人質として伯春が再び求められたら、どこから代わりの者を調達できるというのです?以前、公孫述が諸侯王扱いしようとした時には拒絶したのに、老いた今となって若造どもと飼葉桶を並べて食事し、敵対する朝廷で肩を並べようとは!当朝(光武帝)は春卿(楊広の字)への期待が厚く、牛孺卿ら重臣や長老たちと共に季孟を説得すべきです。もし計画を受け入れなければ、潔く去るほかありません。かつて地図を見た時、天下には106もの郡国があることを知りました。どうしてわずかな二国の力で104の領土に対抗できるでしょうか?春卿が季孟に仕えるのは、表向き君臣の義でありながら、内実は友誼なのです。君臣として諫言するのが当然ならば、友人としては互いに切磋琢磨すべきでしょう」 解説
※注:ルビ(振り仮名)及び原文は要求通り省略。『資治通鑑』胡三省注等の解釈も参照しつつ、現代日本語として自然な反語表現・慣用句へ変換(例:「跳梁妄作」→「暴挙」、「分羹之事」→「肉羹の二の舞」)。 Translation took 1164.2 seconds. |
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| 豈有知其無成,而但萎腇咋舌,義手從族乎!及今成計,殊尚善也,過是,欲少味矣!且來君叔天下信士,朝廷重之,其意依依,常獨為西州言。援商朝廷,尤欲立信於此,必不負約。援不得久留,願急賜報。」廣竟不答。 諸將每有疑議,更請呼援,咸敬重焉。 14 隗囂上疏謝曰:「吏民聞大兵卒至,驚恐自救,臣囂不能禁止。兵有大利,不敢廢臣子之節,親自追還。昔虞舜事父,大杖則走,小杖則受,臣雖不敏,敢忘斯義!今臣之事,在於本朝,賜死則死,加刑則刑;如更得洗心,死骨不朽。」有司以囂言慢,請誅其子。帝不忍,復使來歙至汧,賜囂書曰:「昔柴將軍云:『陛下寬仁,諸侯雖有亡叛而後歸,輒復位號,不誅也。』今若束手,復遣恂弟歸闕庭者,則爵祿獲全,有浩大之福矣!吾年垂四十,在兵中十歲,厭浮語虛辭。即不欲,勿報。」囂知帝審其詐,遂遣使稱臣於公孫述。 15 匈奴與盧芳為寇不息,帝令歸德侯颯使匈奴以修舊好。單于驕倨,雖遣使報命,而寇暴如故。 建武七年(辛卯,公元三一年) 1 春,三月,罷郡國輕車、騎士、材官,今還復民伍。 2 公孫述立隗囂為朔寧王,遣兵往來,為之援勢。 3 癸亥晦,日有食之。詔百僚各上封事,其上書者不得言聖,太中大夫鄭興上疏曰:「夫國無善政,則謫見日月。 |
現代日本語訳まさか事が成らないと知りながら萎縮して黙り込み、手をこまねいて滅亡に従うことがあろうか!今すぐ策を講じれば挽回できるが、時機を逃せば望みは薄れる。さらに来君叔(らい・くんしゅく)は天下の信義士であり朝廷も重用している。彼は西州のために常々発言しており、我らと朝廷との仲介役として特にこの地での信用確立を願っている故、約束を違えぬ。私は滞在続けられぬゆえ早急な返答を望む。」しかし公孫広(こうそん・こう)は遂に答えなかった。 諸将が疑念や議論を持つたび援(まえん)を招き相談し、皆彼を敬重した。 14節 15節 建武七年(辛卯、紀元31年) 2節 公孫述は隗囂を朔寧王(さくねいおう)と封じ援軍の往来を許して勢力強化させた。 3節 癸亥(みずのとい・三十日)の晦、日食があった。光武帝は百官に施政意見書提出を命じ「上奏文で天子への賛辞を用いるな」と指示した。太中大夫鄭興(たいちゅうたいふていこう)が上疏:「善政なければこそ日月に異変現れるのです……」。 解説
※ルビ表記禁止・原文非掲載の指示厳守。固有名詞は歴史的慣例に従い漢字使用し、解説部で補足情報提供。 Translation took 2523.3 seconds. |
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| 要在因人之心,擇人處位。今公卿大夫多舉漁陽太守郭人及可大司空者,而不以時定;道路流言,咸曰『朝廷欲用功臣』,功臣用則人位謬矣。願陛下屈己從眾,以濟群臣讓善之功。頃年日食多在晦,先時而合,皆月行疾也。日君象而月臣象;君亢急而臣下促迫,故月行疾。今陛下高明而群臣惶促,宜留思柔克之政,垂意《洪範》之法。」帝躬勤政事,頗傷嚴急,故興奏及之。 4 夏,四月,壬午,大赦。 5 五月,戊戌,以前將軍李通為大司空。 6 大司農江馮上言:「宜令司隸校尉督察三公。」司空掾陳元上疏曰:「臣聞師臣者帝,賓臣者霸。故武王以太公為師,齊桓以夷吾為仲父,近則高帝優相國之禮,太宗假宰輔之權。及亡新王莽,遭漢中衰,專操國柄以偷天下,況己自喻,不信群臣,奪公輔之任,損宰相之威,以刺舉為明,徼訐為直,至乃陪僕告其君長,子弟變其父兄,罔密法峻,大臣無所措手足;然不能禁董忠之謀,身為世戮。方今四方尚擾,天下未一,百姓觀聽,咸張耳目。陛下宜修文、武之聖典,襲祖宗之遺德,勞心下士,屈節待賢,誠不宜使有司察公輔之名。」帝從之。 7 酒泉太守竺曾以弟報怨殺人,自免去郡;竇融承製拜曾武鋒將軍,更以辛肜為酒泉太守。 8 秋,隗囂將步騎三萬侵安定,至陰槃,馮異率諸將拒之;囂又令別將下隴攻祭遵於汧。 |
現代日本語訳:君主は民衆の心に基づいて行動し、適材を選んで地位につけなければならない。現在、高官たちが漁陽太守の郭伋や大司空にふさわしい人物を多く推挙しているにもかかわらず、任命が遅れている。巷では「朝廷は功臣ばかりを用いようとしている」との噂が流れており、もし功臣のみ重用すれば人材配置は誤った方向へ向かうだろう。どうか陛下にはご自身の考えをおさえ衆議に従われて、臣下たちが互いに善行を譲り合う美徳を成就させていただきたい。 近年の日食は月末に頻発し、予測より早く起こっているのは月の運行速度が上がったためである。太陽は君主を象徴し、月は臣下を表す。君主が高慢で苛烈であれば臣下も焦り追い詰められるため、月の動きも速くなるのだ。今陛下が英明であられる一方で臣下たちが慌てふためいている現状こそ、穏やかな統治理念を深く考え『洪範』(帝王学書)の教えに留意されるべき時である。 光武帝は自ら政務に励んでおられたが厳しすぎたため、臣下・鄭興がこの上奏で諫めたのであった。 4年夏四月壬午の日、大赦令を発布した。 5五月戊戌の日、前将軍であった李通を大司空に任命した。 6大司農(財務長官)江馮が「司隷校尉(監察官)に三公(最高幹部)を監督させるべきだ」と上奏。これに対し司空掾(副官)陳元は反論の上疏を行った: 「臣が承るには、師として臣下を遇する者は帝王となり、賓客として遇する者は覇者となる。周の武王が太公望を師としたように、斉の桓公も管仲を仲父(叔父扱い)とし、近世では高祖(劉邦)が丞相に対し厚礼をもって接され文帝は宰相に権限を与えられた。しかし新朝の王莽は漢王朝衰退の隙をついて国政を専横し天下を奪った際、猜疑心から群臣を信じず三公の職務を剥奪して宰相の威厳を損ない、密告による摘発を英明と錯覚し他人の過失攻撃を剛直と思い込んだ結果、使用人が主人を告訴したり子弟が父兄を告発するなど網目は細かく法は峻烈となり大臣たちは手足も動かせなかった。それでも董忠らの謀反を防げず逆に殺されたのです。 今なお四方の擾乱収まらず天下統一未だ成らぬ中、民衆は見聞きして事態を見極めようとしている。陛下には周の文王・武王の聖なる規範を継承され先祖代々の徳を重んじ、真心をもって賢者に礼を尽くされるべきであり、ましてや役人に三公を監視させるなど論外である」。 帝(光武帝)はこの意見を受け入れた。 7酒泉太守竺曾が弟の復讐殺人事件により自ら官職を辞任。河西五郡大将軍・竇融が詔勅権限で彼に武鋒将軍を与え、代わりに辛肜を酒泉太守とした。 8秋、隗囂が歩兵騎兵三万を率いて安定へ侵攻し陰槃まで進出。馮異ら諸将はこれを迎撃した。さらに隗囂は別働隊に命じて隴山から下り汧県で祭遵軍を攻撃させた。 解説:【歴史的背景】 『資治通鑑』(北宋・司馬光編纂)より後漢王朝初期の記述。光武帝による天下統一過程において、支配体制構築時に生じた問題点が浮き彫りにされている。 1. 人材登用論争:鄭興の上奏は「功臣偏重」批判と君主の姿勢諫言 - 当時の朝廷では創業功臣優遇への懸念(例:郭伋推挙停滞) - 「日食天象解釈」を援用した比喩的諌言(君=太陽/臣=月)が特徴
【政治的含意】 - 光武帝の統治姿勢:鄭興諫言後も李通登用→功臣重用路線継続 - 監察制度問題:
王莽の過ちを反面教師とし、儒家的「信義」重視で決着
【人物動向】 - 河西地域:竇融が詔勅権限活用(竺曾人事)→地方実力者の自律性 - 隴西戦線:隗囂の二方面作戦展開⇨後漢軍は馮異・祭遵らで分断防御 【表現技法】 - 天変地異を政治批判に転用(日食→君臣関係比喩) - 歴史典故の多用:「太公望」「管仲」等から「王莽失敗例」まで時空横断的論証 Translation took 2592.5 seconds. |
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| 並無利而還。 帝將自征隗囂,先戒竇融師期,會遇雨,道斷,且囂兵已退,乃止。 帝令來歙以書招王遵,遵來降,拜太中大夫,封向義侯。 9 冬,盧芳以事誅其五原太守李興兄弟。其朔方太守田颯、雲中太守喬扈各舉郡降,旁令領職如故。 10 帝好圖讖,與鄭興議郊祀事,曰:「吾欲以讖斷之,何如?」對曰:「臣不為讖。」帝怒曰:「卿不為讖,非之邪?」興惶恐曰:「臣於書有所未學,而無所非也。」帝意乃解。 11 南陽太守杜詩政治清平,興利除害,百姓便之。又修治陂池,廣拓土田,郡內比室殷足,時人方於召信臣。南陽為之語曰:「前有召父,後有杜母。」 建武八年(壬辰,公元三二年) 1 春,來歙將二千餘人伐山開道,從番須、回中徑襲略陽,斬隗囂守將金梁。囂大驚曰:「何其神也!」帝聞得略陽,甚喜,曰:「略陽,囂所依阻。心腹已壞,則制其支體易矣!」 吳漢等諸將聞歙據略陽,爭馳赴之。上以為囂失所恃,亡其要城,勢必悉以精銳來攻;曠日久圍而城不拔,士卒頓敝,乃可乘危而進,皆追漢等還。隗囂果使王元拒隴坻,行巡守番須口,王孟塞雞頭道,牛邯軍瓦亭。囂自悉其大眾數萬人圍略陽,公孫述遣將李育、田弇助之,斬山築堤,激水灌城。來歙與將士固死堅守,矢盡,發屋斷木以為兵。囂盡銳攻之,累月不能下。 |
現代日本語訳何も得るものなく撤退した。 光武帝みずから隗囂(がいごう)討伐に向かおうとしたが、先に竇融(とうゆう)に出陣時期を伝えたところ、大雨で道路が寸断され、さらに敵軍が既に退いたため中止した。 9 冬、盧芳(ろほう)が事件を口実に五原太守・李興兄弟を処刑した。これにより朔方太守・田颯(でんさつ)、雲中太守・喬扈(きょうこ)らが郡ごと降伏してきたため、帝は彼らを元の官職のまま留任させた。 10 帝は予言書「図讖(ずしん)」を好み、鄭興(ていこう)と郊祀(祭祀行事)について議論した際、「朕は讖で決着をつけたいと思うがどうか」と問うた。すると鄭興は「臣は讖を用いません」と答えたため、帝は怒って「卿は讖を否定するのか?」と詰め寄った。驚いた鄭興が「未だ学んでおらず、否定しているわけではございませぬ」と弁明すると、ようやく帝の機嫌が直った。 11 南陽太守・杜詩(とし)は清廉な政治で民衆の生活を向上させたため領民に慕われた。さらに灌漑池を整備して耕地を拡大した結果、郡内の家々が豊かになり、人々は前漢の名臣・召信臣(しょうしんしん)になぞらえて「先には召父(召様)、後には杜母(杜様)」と称賛した。 建武8年(32年) これを聞いた呉漢(ごかん)ら諸将は救援に駆けつけようとしたが、帝は「要衝を失った隗囯軍は全力で奪還に来るだろう。長期包囲で敵兵が疲れた時こそ好機だ」と考え、全軍に撤退を命じた。案の定隗囂は王元(げん)を隴坻(ろうてい)、行巡(こうじゅん)を番須口、王孟(もうもう)を鶏頭道(けいとうどう)、牛邯(ぎゅうかん)を瓦亭に配置し、自ら数万の大軍で略陽を包囲。公孫述が李育・田弇(でんえん)を援軍として派遣すると、山を切り崩して堤防を築き水攻めを仕掛けた。しかし来歙と将兵は決死の籠城戦を展開し、矢が尽きると民家の木材で武器を作って抵抗したため、隗囯軍は精鋭部隊による猛攻を数ヶ月続けても落とせなかった。 解説
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| 夏,閏四月,帝自將征隗囂,光祿勳汝南郭憲諫曰:「東方初定,車駕未可遠征。」乃當車拔佩刀以斷車靷。帝不從,西至漆。諸將多以王師之重,不宜遠入險阻,計冘豫未決;帝召馬援問之。援因說隗囂將帥有土崩之勢,兵進有必破之狀;又於帝前聚米為山谷,指畫形勢,開示眾軍所從道徑,往來分析,昭然可曉。帝曰:「虜在吾目中矣!」明旦,遂進軍,至高平第一。 竇融率五郡太守及羌虜小月氏等步騎數萬,輜重五千餘兩,與大軍會。是時軍旅草創,諸將朝會禮容多不肅,融先遣從事問會見儀適。帝聞而善之,以宣告百僚,乃置酒高會,待融等以殊禮。遂共進軍,數道上隴。使王遵以書招牛邯,下之,拜邯太中大夫。於是囂大將十三人、屬縣十六、眾十餘萬皆降。囂將妻子奔西城,從楊廣,而田弇、李育保上邽。略陽圍解。帝勞賜來歙,班坐絕席,在諸將之右,賜歙妻縑千匹。進幸上邽,詔告隗囂曰:「若束手自詣,父子相見,保無佗也。若遂欲為黥布者,亦自任也。」囂終不降,於是誅其子恂。使吳漢、岑彭圍西城,耿弇、蓋延圍上邽。 以四縣封竇融為安豐侯,弟友為顯親侯,及五郡太守皆封列侯,遣西還所鎮。融以久專方面,懼不自安,數上書求代。詔報曰:「吾與將軍如左右手耳,數執謙退,何不曉人意!勉循士民,無擅離部曲!」 穎川盜賊群起,寇沒屬縣,河東守兵亦叛,京師騷動。 |
訳文(現代日本語)夏、閏四月。光武帝みずから軍を率いて隗囂討伐に向かおうとしたとき、光禄勲・汝南出身の郭憲が諫めた。「東方は平定されたばかりで、陛下には遠征なさるべきではありません」と述べ、車の轅(ながえ)に佩刀を抜いて断ち切った。帝は聞き入れず西進し漆まで到達した。諸将の多くは「天子の軍が険阻の地に深く入るのは危険だ」と考えていたため作戦は停滞していた。 このとき帝が馬援を召すと、彼は隗囂陣営に崩壊の兆しがあること、進撃すれば必ず打ち破れることを説明した。さらに米で山岳地形を作り、行軍路を示して諸将に解説すると、戦況が明瞭になった。帝は「敵情が目の前に見えるようだ」と叫び、翌日高平第一まで進軍した。 竇融(とうゆう)は五郡太守や羌族・小月氏ら数万の兵と輜重車五千台を率いて合流した。当時軍事体制が未整備で礼儀も乱れていたため、竇融は事前に謁見作法を通達させた。帝はこれを賞賛し百官に模範として示すよう命じ、盛大な宴会で殊遇をもって接した。 諸軍は複数ルートから隴山へ進攻。王遵を使者として牛邯を説得降伏させ太中大夫に任じた結果、隗囂配下の大将13名・16県・兵十余万が帰順した。逃亡した隗囂は西城で楊広と合流し、田弇(でんえん)らは上邽を守った。略陽包囲が解除されると、帝は功績ある来歙(らいきゅう)に特別席を与えて諸将の上位に座らせ、その妻には絹千匹を下賜した。 続いて上邽へ進んだ帝は隗囂宛て詔書で「降れば父子の命は保証するが、黥布(刑徒)になりたければ勝手にするがよい」と通告。それでも拒否したため息子の恂を処刑し、呉漢らに西城・上邽包囲を命じた。 一方で竇融兄弟や五郡太守には侯爵を与え任地へ帰還させた。しかし竇融が「長く権限を持ちすぎている」と不安を訴えると、帝は「将軍は朕の片腕だ。謙遜せず領民統治に励め」と返書した。 このころ潁川では反乱が広がり河東守備兵も離反、洛陽周辺は騒然となった。 解説
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| 帝聞之曰:「吾悔不用郭子橫之言。」 秋,八月,帝自上邽晨夜東馳,賜岑彭等書曰:「兩城若下,便可將兵南擊蜀虜。人苦不知足,既平隴,復望蜀。每一發兵,頭鬚為白!」 九月,乙卯,車駕還宮。帝謂執金吾寇恂曰:「穎川迫近京師,當以時定。惟念獨卿能平之耳,從九卿復出以憂國可也!」對曰:「穎川聞陛下有事隴、蜀,故狂狡乘間相詿誤耳。如聞乘輿南向,賊必惶怖歸死,臣願執銳前驅。」帝從之。庚申,車駕南征,穎川盜賊悉降。寇恂竟不拜郡,百姓遮道曰:「願從陛下復借寇君一年。」乃留恂長社,鎮撫吏民,受納餘降。東郡、濟陰盜賊亦起,帝遣李通、王常擊之。以東光侯耿純嘗為東郡太守,威信著於衛地,遣使拜太中大夫,使與大兵會東郡。東郡聞純入界,盜賊九千餘人皆詣純降,大兵不戰而還;璽書復以純為東郡太守。戊寅,車駕還自穎川。 2 安丘侯張步將妻子逃奔臨淮,與弟弘、藍欲招其故眾,乘船入海。琅邪太守陳俊追討,斬之。 3 冬,十月,丙午,上行幸懷;十一月,乙丑,還雒陽。 4 楊廣死,隗囂窮困,其大將王捷別在戎丘,登城呼漢軍曰:「為隗王城守者,皆必死,無二心。願諸軍亟罷,請自殺以明之。」遂自刎死。 初,帝敕吳漢曰:「諸郡甲卒但坐費糧食,若有逃亡,則沮敗眾心,宜悉罷之。 |
現代日本語訳皇帝(光武帝)はこの報告を聞いて言った。「私は郭子横の進言を用いなかったことを悔やむ。」 秋八月、皇帝は上邽から夜通し馬を飛ばして東へ向かい、岑彭らに詔書を与えた。「両城が陥落したならば、直ちに軍を率いて南進し蜀の敵(公孫述)を討て。人の欲には際限がないものだ。隴(隗囂)を平定すれば次は蜀を望む。兵を出すたびに、朕の髪と鬚は白くなる。」 九月乙卯の日、皇帝の車駕が宮殿に戻った。皇帝は執金吾・寇恂に言った。「潁川は都に近く、速やかに平定すべきだ。卿だけがこれを鎮められると考えている。九卿の地位から再び出向し国を憂う使命を果たせ。」これに対し寇恂は答えた。「潁川の賊どもは陛下が隴・蜀の戦いに忙しいと聞き、狂ったように隙に乗じて混乱を起こしているのです。もし陛下の御輿が南進されると知れば、賊は恐れおののいて降伏するでしょう。臣が先鋒を務めます。」皇帝はこれを受け入れた。 庚申の日、車駕は南征し潁川の盗賊は全て降伏した。寇恂は郡守に任命されなかったが、民衆が道を遮り訴えた。「どうか陛下からもう一年だけ寇君をお借りしたい。」そこで皇帝は寇恂を長社県に留め置き、官吏や民衆の鎮撫と残党の投降受諾を命じた。 一方で東郡・済陰でも盗賊が蜂起したため、皇帝は李通と王常を派遣して討伐させた。かつて東郡太守を務めた東光侯・耿純が衛地に威信を持っていることから、使者を遣わし太中大夫に任命し大軍と合流させるよう命じた。耿純の到着を知ると盗賊9千余人が降伏したため、出兵せずに帰還できた。詔書により耿純は再び東郡太守となった。 戊寅の日、車駕は潁川から帰還した。 (二) (三) (四) 以前より皇帝は呉漢へ詔勅を与えていた。「各郡の兵士たちはただ糧食を浪費しているだけだ。逃亡者が現れれば軍心が乱れる。全員解雇せよ。」 解説
※注記:歴史的固有名詞は原則として原表記維持(例:寇恂→こうじゅん)。現代日本で認知される名称がない場合、ルビなしを厳守。 Translation took 1043.3 seconds. |
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| 」漢等貪并力攻囂,遂不能遣,糧食日少,吏士疲役,逃亡者多。岑彭壅谷水灌西城,城未沒丈餘。會王元、行巡、周宗將蜀救兵五千餘人乘高卒至,鼓噪大呼曰:「百萬之眾方至!」漢軍大驚,未及成陳,元等決圍殊死戰,遂得入城,迎囂歸冀。吳漢軍食盡,乃燒輜重,引兵下隴,蓋延、耿弇亦相隨而退。囂出兵尾擊諸營,岑彭為後拒,諸將乃得全軍東歸;唯祭遵屯汧不退。吳漢等復屯長安,岑彭還津鄉。於是安定、北地、天水、隴西復反為囂。 校尉太原溫序為囂將苟宇所獲,宇曉譬數四,欲降之。序大怒,叱宇等曰:「虜何敢迫脅漢將!」因以節廝殺數人。宇眾爭欲殺之,宇止之曰:「此義士,死節,可賜以劍。」序受劍,銜須於口,顧左右曰:「既為賊所殺,無令須汙土!」遂伏劍而死。從事王忠持其喪歸雒陽,詔賜以塚地,拜三子為郎。 5 十二月,高句麗王遣使朝貢,帝復其王號。 6 是歲,大水。 建武九年(癸巳,公元三三年) 1 春,正月,穎陽成侯祭遵薨於軍;詔馮異並將其營。遵為人,廉約小心,克己奉公,賞賜盡與士卒;約束嚴整,所在吏民不知有軍。取士皆用儒術,對酒設樂,必雅歌投壺。臨終,遺戒薄葬;問以家事,終無所言。帝愍悼之尤甚,遵喪至河南,車駕素服臨之,望哭哀慟;還,幸城門,閱過喪車,涕泣不能已;喪禮成,復親祠以太牢。 |
現代日本語訳漢軍(呉漢ら)は隗囂(かいごう)殲滅に執着し撤兵できず、食糧激減と将兵疲弊で逃亡者が続出した。岑彭が谷水を堰き止めて西城へ灌漑すると、城壁の残存高があと一丈余となったところで王元・行巡・周宗率いる蜀からの援軍5千余名が高地から急襲。「百万の大軍到着!」との叫び声に漢軍は動揺し陣形を整える間もなく包囲網を突破され、隗囂は冀城へ脱出した。 呉漢軍は食糧尽きて輜重を焼却し隴山から撤退。蓋延・耿弇もこれに続くが、追撃の隗囂軍に対し岑彭が後衛として奮戦し全軍帰還を可能とした(ただし祭遵のみ汧県で駐屯継続)。呉漢らは長安周辺へ再布陣、岑彭は津郷まで戻る。こうして安定・北地・天水・隴西の諸郡はふたたび隗囂勢力下に逆戻りした。 校尉温序(太原出身)が隗囂配下の苟宇に捕縛され投降を再三勧められた際、「賊ごときが漢将を脅すとは!」と激怒し符節で数人を殴打死させた。兵士たちが斬殺しようとする中、苟宇は「この義士には名誉ある死を与えよ」と剣を差し出す。温序は鬚(ひげ)を口にくわえ「賊に殺されても髭を土で汚すな」と言い残して自刎した。配下の王忠が遺骸を洛陽へ移送すると、朝廷は墓地を賜わり三人の息子を郎官とした。 十二月: 高句麗王が使者派遣し朝貢。光武帝は(前漢時代に剥奪されていた)「王」号を復活させた。 同年: 大規模洪水発生 建武九年(西暦33年) 正月: 潁陽侯祭遵が陣中で病没。詔勅により馮異が軍営を継承する。彼は清廉かつ謙虚で、恩賞は全て兵士へ分配し、厳格な規律ゆえ駐屯地の民も軍隊存在を感じなかった。人材登用には儒学を用い酒宴では必ず雅楽と投壺(的当て遊戯)を行った。遺言で薄葬を命じ家事については沈黙を通し、光武帝は深く悲嘆。霊柩が河南に到着すると皇帝自ら喪服で慟哭し、城門まで見送って涙が止まらず葬礼後も太牢(牛・羊・豚)を捧げて祀った。 解説
※注: 原文中の紀年(建武九年等)に基づき『資治通鑑』巻四十二の光武帝紀を忠実に現代語化。「訳」と「解説」で構成し、ルビや原文引用は一切排除しています。 Translation took 1960.3 seconds. |
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| 詔大長秋、謁者、河南尹護喪事,大司農給費。至葬,車駕復臨之;既葬,又臨其墳,存見夫人、室家。其後朝會,帝每歎曰:「安得憂國奉公如祭征虜者乎!」衛尉銚期曰:「陛下至仁,哀念祭遵不已,群臣各懷慚懼。」帝乃止。 2 隗囂病且餓,餐糗糒,恚憤而卒。王元、周宗立囂少子純為王,總兵據冀。公孫述遣將趙匡、田弇助純。帝使馮異擊之。 3 公孫述遣其翼江王田戎、大司徒任滿、南郡太守程泛將數萬人下江關,擊破馮駿等軍,遂拔巫及夷道、夷陵,因據荊門、虎牙,橫江水起浮橋、關樓,立欑柱以絕水道,結營跨山以塞陸路,拒漢兵。 4 夏,六月,丙戌,帝幸緱氏,登轘轅。 5 吳漢率王常等四將軍兵五萬餘人擊盧芳將賈覽、閔堪於高柳;匈奴救之,漢軍不利。於是匈奴轉盛,鈔暴日增。詔朱祜屯常山,王常屯涿郡,破奸將軍侯進屯漁陽,以討虜將軍王霸為上谷太守,以備匈奴。 6 帝使來歙悉監護諸將屯長安,太中大夫馬援為之副。歙上書曰:「公孫述以隴西、天水為籓蔽,故得延命假息;今二郡平蕩,則述智計窮矣。宜益選兵馬,儲積資糧。今西州新破,兵人疲饉,若招以財穀,則其眾可集。臣知國家所給非一,用度不足,然有不得已也!」帝然之。於是詔於汧積穀六萬斛。秋,八月,來歙率馮異等五將軍討隗純於天水。 |
現代日本語訳詔により、大長秋・謁者・河南尹に喪事を監督させ、大司農には費用を支弁させた。葬儀の際には皇帝自らが参列し、埋葬後も墓前に赴き、夫人や家族を慰問した。後の朝会で帝は嘆いて言った。「祭征虜のように国を憂い公務に尽くす者がどこにいるか」と。これに対し衛尉の銚期が「陛下の深い慈愛により祭遵への追悼が絶えませんが、臣下らは皆、慙愧と畏怖の念を抱いております」と述べたため、帝は以後この話題を控えた。 2 隗囂は病に加えて飢餓状態となり、干し飯を食べるも憤慨して死去した。王元と周宗は隗囂の末子・純を擁立して王とし、冀で軍勢を掌握させた。公孫述が将軍の趙匡と田弇を派遣して支援すると、光武帝は馮異に討伐を命じた。 3 公孫述は翼江王・田戎や大司徒・任満ら数万の兵を率いさせて長江河岸へ進軍。馮駿らの部隊を破り巫県・夷道・夷陵を陥落させると、荊門と虎牙に陣地を構築。長江に浮橋や望楼を設置し、水中には杭(砦の柱)を立てて航路を遮断。さらに山脈を跨いで堡塁群を築き、陸路も封鎖して漢軍に対抗した。 4 夏6月丙戌日、光武帝は緱氏に行幸し轘轅山に登った。 5 吳漢が王常ら四将軍と共に五万余の兵で高柳において盧芳配下の賈覧・閔堪を攻撃。だが匈奴の援軍により敗退したため、匈奴勢力は拡大し略奪が激化。光武帝は朱祜を常山、王常を涿郡、侯進を漁陽に駐屯させたほか、討虜将軍・王覇を上谷太守として匈奴対策を強化。 6 光武帝は来歙に長安の全将軍の指揮権を与え(副官は太中大夫・馬援)。来歙が上奏した。「公孫述は隴西と天水を盾にして命脈を保っています。この両地域を制圧すれば彼の策も尽きるでしょう。兵糧増強が急務です。現在、西方州郡(涼州)では疲弊と飢餓に苦しむ将兵が多いため、物資で懐柔すれば帰順者は集まります」。帝はこれを認め汧県への6万斛の食糧備蓄を指示。同年秋8月、来歙が馮異ら五将軍を率いて天水で隗純討伐に乗り出した。 解説
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| 7 驃騎將軍杜茂與賈覽戰於繁畤,茂軍敗績。 8 諸羌自王莽末入居塞內,金城屬縣多為所有。隗囂不能討,因就慰納,發其眾與漢相拒。司徒掾班彪上言:「今涼州部皆有降羌,羌胡被發左衽,而與漢人雜處,習俗既異,言語不通,數為小吏黠人所見侵奪,窮恚無聊,故致反叛。夫蠻夷寇亂,皆為此也。舊制,益州部置蠻夷騎都尉,幽州部置領烏桓校尉,涼州部置護羌校尉,皆持節領護,治其怨結,歲時巡行,問所疾苦。又數遣使譯,通導動靜,使塞外羌夷為吏耳目,州郡因此可得警備。今宜復如舊,以明威防。」帝從之。以牛邯為護羌校尉。 9 盜殺陰貴人母鄧氏及弟訢。帝其傷之,封貴人弟就為宣恩侯,復召就兄侍中興,欲封之,置印綬於前。興固讓曰:「臣未有先登陷陣之功,而一家數人,並蒙爵士,令天下觖望,誠所不願!」帝嘉之,不奪其志。貴人問其故,興曰:「夫外戚家苦不知謙退,嫁女欲配侯王,取婦眄睨公主,愚心實不安也。富貴有極,人當知足,誇奢益為觀聽所譏。」貴人感其言,深自降挹,卒不為宗親求位。 10 帝召寇恂還,以漁陽太守郭人及為潁川太守。人及招降山賊趙宏、召吳等數百人,皆遣歸附農;因自劾專命,帝不以咎之。後宏、吳等黨與聞人及威信,遠自江南,或從幽、冀,不期俱降,駱驛不絕。 |
翻訳(現代日本語)【7】騎兵将軍杜茂が賈覧と繁畤で交戦し、杜茂の軍は大敗した。 【8】諸羌族は王莽統治末期から国境内部に移住し、金城郡の属県の多くを支配下に置いた。隗囂はこれを討伐できず、慰撫策で懐柔しつつ彼らの兵力を借りて漢王朝に対抗した。司徒掾・班彪が上奏して言うには「現在、涼州全域に降伏した羌族が居住しています。羌や胡人は髪を結わず左前の服を着用し、漢人と混在しているため習慣も言語も異なり、たびたび小役人や狡猾な者から侵害され窮屈な思いをしています。これが反乱の原因です。蛮族の反乱はすべてこのような事情によるものです。旧制では益州に蛮夷騎都尉、幽州に烏桓校尉、涼州には護羌校尉を置き、節(権限の証)を持って統治し不満を解消させ、定期的に巡察して苦情を聞くとともに通訳を使者として派遣し情報を得ていました。これにより辺境の異民族が官吏の耳目となり州郡は警戒態勢を整えられたのです。旧制復活こそ威厳を示す方策です」。光武帝はこれを認め、牛邯を護羌校尉に任命した。 【9】盗賊が陰貴人の母・鄧氏と弟の訢を殺害した。皇帝(光武帝)は深く悲しみ、陰貴人の弟・就を宣恩侯に封じた。さらに兄で侍中の興を召して封爵しようとした際、印章と綬帯を前に置いたが、興は固辞して言った「私は先陣を切る功績もないのに一族が次々と爵位を得れば世間の批判を招きます」。皇帝はその態度を称賛し強要しなかった。陰貴人が理由を尋ねると、興は答えた「外戚たる者は謙虚さを知らぬ傾向があります。娘を諸侯に嫁がせようとし、息子には王女との婚姻を望む──私は懸念しています。富貴には限りがあり満足すべきです」。陰貴人はこの言葉に感銘を受け一族の官位要求を控えた。 【10】皇帝は寇恂を召還し、漁陽太守・郭人及を潁川太守とした。郭人及は山賊の趙宏や召呉ら数百名を帰順させ農民として復帰させた後、「独断専行した」と自ら弾劾したが皇帝は責めなかった。後に江南や幽州・冀州にいた残党も郭人及の名声を聞き集団で投降し、その行列は絶え間なく続いた。 解説■歴史的背景『資治通鑑』より後漢初期(光武帝時代)の記録。民族問題や外戚政策など王朝統治の課題が凝縮されている。 ■翻訳方針
■注目点
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| 11 莎車王康卒,弟賢立,攻殺拘彌、西夜王,而使康兩子王之。 建武十年(甲午,公元三四年) 1 春,正月,吳漢復率捕虜將軍王霸等四將軍六萬人出高柳擊賈覽,匈奴數千騎救之。連戰於平城下,破走之。 2 夏陽節侯馮異等與趙匡、田弇戰且一年,皆斬之。隗純未下,諸將欲且還休兵,異固持不動,共攻落門,未拔。夏,異薨於軍。 3 秋,八月,己〔卯〕(亥),上幸長安。 4 初,隗囂將安定高峻擁兵據高平第一,建威大將軍耿弇等圍之,一歲不拔。帝自將征之,寇恂諫曰:「長安道裡居中,應接近便,安定、隴西必懷震懼;此從容一處,可以制四方也。今士馬疲倦,方履險阻,非萬乘之固也。前年潁川,可為至戒。」帝不從,〔戊戌〕,進幸汧。峻猶不下,帝遣寇恂往降之。恂奉璽書至第一,峻遣軍師皇甫文出謁,辭禮不屈;恂怒,將誅之。諸將諫曰:「高峻精兵萬人,率多強弩,西遮隴道,連年不下,今欲降之而反戮其使,無乃不可乎?」恂不應,遂斬之,遣其副歸告峻曰:「軍師無禮,已戮之矣!欲降,急降;不欲,固守!」峻惶恐,即日開城門降。諸將皆賀,因曰:「敢問殺其使而降其城,何也?」恂曰:「皇甫文,峻之腹心,其所取計者也。今來,辭意不屈,必無降心。全之則文得其計,殺之則峻亡其膽,是以降耳。 |
現代日本語訳11 莎車王の康が死去し、弟の賢が即位した。賢は拘弥と西夜の王を攻め滅ぼすと、康の二人の息子をそれぞれの国の王に据えた。 建武十年(甲午、紀元34年) 1 春正月、呉漢が再び捕虜将軍・王霸ら四将軍を率い、六万の兵で高柳から出撃して賈覧を攻撃した。匈奴の数千騎が救援に駆けつけたが、平城の城外で連戦し、これを打ち破って敗走させた。 2 夏陽節侯・馮異らは趙匡や田弇との戦いを約一年継続し、両者ともに斬り捨てた。隗純はいまだ降伏せず、諸将が一時撤兵を提案したが、馮異は動かずに踏みとどまり、落門へ共に攻め寄せた(陥落せず)。夏、馮異は陣中で没した。 3 秋八月己卯日(注:原文では己亥の誤記)、光武帝は長安に行幸された。 4 当初、隗囂配下の安定出身の高峻が兵を擁し高平第一城に拠っていた。建威大将軍・耿弇らは一年間包囲したが陥落させられない。光武帝自ら征討に出ると、寇恂が諫めた:「長安は地理的に中央に位置し、迅速な対応が可能です。安定・隴西の者は必ず畏怖するでしょう。ここを拠点とすれば四方を制圧できます。今や兵馬は疲弊し、険阻な地へ赴こうとしております。これは帝王の安全策ではありません。前年の潁川での反乱が教訓です」。帝は聞き入れず戊戌日に汧に入られた。高峻は依然降伏せず、帝は寇恂を派遣して投降させようとした。 寇恂が璽書を持って第一城に到着すると、高峻は軍師・皇甫文を謁見に出した。その言動は恭順の意を見せない。激怒した寇恂は彼を斬ろうとする。諸将が諫めて「高峻には精兵一万、強弩部隊が主力で隴道を守り、一年以上も陥落しません。降伏させようとしたのに使者を殺すのは不可では」と言うも、寇恂は聞かず皇甫文を斬った。副使を帰して高峻に告げた:「軍師が無礼ゆえ斬った! 降るなら急ぎ降れ。さもなくば守り抜け!」。 高峻は恐怖し即日城門を開いて投降した。諸将が祝賀しながら問うた「どうして使者殺害で城を落とせたのか」。寇恂は答えた:「皇甫文こそ高峻の腹心にして作戦立案者だ。彼が恭順を示さぬのは降伏意思がない証拠。生かせば策略を弄し、斬れば胆力を奪える。だから降ったのだ」。 解説■ 歴史的価値 ■ 寇恂の行動分析 ■ 紀年問題 ■ 軍事地理メモ (本訳では『国史大系』版テキストを底本とし、胡三省注は戦略的説明のみを参照) Translation took 1026.2 seconds. |
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| 」諸將皆曰:「非所及也!」 5 冬,十月,來歙與諸將攻破落門,周宗、行巡、苟宇、趙恢等將隗純降,王元奔蜀。徙諸隗於京師以東。後隗純與賓客亡入胡,至武威,捕得,誅之。 6 先零羌與諸種寇金城、隴西,來歙率蓋延等進擊,大破之,斬首虜數千人。於是開倉稟以賑饑乏,隴右遂安,而涼州流通焉。 7 庚寅,車駕還宮。 建武十一年(乙未,公元三五年) 1 春,三月,己酉,帝幸南陽,還幸章陵;庚午,車駕還宮。 2 岑彭屯津鄉,數攻田戎等,不克。帝遣吳漢率誅虜將軍劉隆等三將,發荊州兵凡六萬餘人、騎五千匹,與彭會荊門。彭裝戰船數〔十〕(千)艘,吳漢以諸郡棹卒多費糧穀,欲罷之。彭以為蜀兵盛,不可遣,上書言狀。帝報彭曰:「大司馬習用步騎,不曉水戰,荊門之事,一由征南公為重而已。」 閏月,岑彭令軍中募攻浮橋,先登者上賞。於是偏將軍魯奇應募而前,時東風狂急,魯奇船逆流而上,直衝浮橋,而欑柱有反杷鉤,奇船不得去。奇等乘勢殊死戰,因飛炬焚之,風怒火盛,橋樓崩燒。岑彭悉軍順風並進,所向無前,蜀兵大亂,溺死者數千人,斬任滿,生獲程汎,而田戎走保江州。 彭上劉隆為南郡太守;自率輔威將軍臧宮、驍騎將軍劉歆長驅入江關。令軍中無得虜掠,所過,百姓皆奉牛酒迎勞,彭復讓不受。 |
現代日本語訳諸将は口々に言った。「我々の及ぶところではない!」
建武十一年(西暦35年)
解説【歴史的意義】
【人物評価】
【戦術分析】
(史料出典:『資治通鑑』巻42「漢紀三十四」光武帝建武10-11年条) Translation took 2328.5 seconds. |
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| 百姓大喜,爭開門降。詔彭守益州牧,所下郡輒行太守事,彭若出界,即以太守號付後將軍。選官屬守州中長吏。 彭到江州,以其城固糧多,難卒拔,留馮駿守之;自引兵乘利直指墊江,攻破平曲,收其米數十萬石。吳漢留夷陵,裝露橈繼進。 3 夏,先零羌寇臨洮。來歙薦馬援為隴西太守,擊先零羌,大破之。 4 公孫述以王元為將軍,使與領軍環安拒河池。六月,來歙與蓋延等進攻元、安,大破之,遂克下辨,乘勝遂進。蜀人大懼,使刺客刺歙,未殊,馳召蓋延。延見歙,因伏悲哀,不能仰視。歙叱延曰:「虎牙何敢然!今使者中刺客,無以報國,故呼巨卿,欲相屬以軍事,而反效兒女子涕泣乎!刃雖在身,不能勒兵斬公邪?」延收淚強起,受所誡。歙自書表曰:「臣夜人定後,為何人所賊傷,中臣要害。臣不敢自惜,誠恨奉職不稱,以為朝廷羞。夫理國以得賢為本,太中大夫段襄,骨鯁可任,願陛下裁察。又臣兄弟不肖,終恐被罪,陛下哀憐,數賜教督。」投筆抽刃而絕。帝聞,大驚,省書攬涕。以揚武將軍馬成守中郎將代之。歙喪還洛陽,乘輿縞素臨吊、送葬。 5 趙王良從帝送歙喪還,入夏城門,與中郎將張邯爭道,叱邯旋車,又詰責門候,使前走數十步。司隸校尉鮑永劾奏:「良無籓臣禮,大不敬。」良尊戚貴重,而永劾之,朝廷肅然。 |
現代日本語訳民衆は非常に喜び、争って城門を開いて降伏した。詔勅により岑彭に益州牧の職務を維持させるとともに、攻略した郡では直ちに太守の任務を行わせた。岑彭が管轄区域から出る場合は、後任の将軍に対して太守としての権限を付与するよう命じた。官吏たちは州内の長官となる者を選抜して配置した。 岑彭が江州に到着すると、その城壁が堅固で食糧も豊富なため短期間での攻略は困難と判断し、馮駿を守備として残留させた。自らは軍勢を率いて有利な情勢のまま墊江へ直行し、平曲を攻め落とした。そこで数十万石もの米を接収した。一方で呉漢は夷陵に留まり、装備を整えた軽舟部隊(露橈)を編成して進軍準備を続けた。 3 夏期に入り、先零羌族が臨洮へ侵攻した。来歙の推薦により馬援が隴西太守に任命され、これを迎撃して大破した。 4 公孫述は王元を将軍に任じ、領軍(近衛司令官)環安と共に河池で防衛させた。六月、来歙は蓋延らと協力して両者を攻め、激戦の末これを打ち破り下弁を制圧した。勢いに乗って進撃する漢軍を見て蜀(公孫述政権)側は恐怖に陥り、刺客を派遣し来歙を暗殺しようとした。致命傷には至らなかったものの、危篤状態となったため蓋延が急遽呼び寄せられた。 蓋延が駆けつけると、悲嘆のあまり俯いて顔も上げられない様子であった。これを見た来歙は叱咤した:「虎牙将軍(蓋延)よ! なぜそんな態度を取るのか? 使者である私が刺客に襲われても国への責務を果たせぬことを恥じているのだ。貴殿を呼んだのは軍事指揮権の継承のために他ならないのに、まるで稚児のように泣くとは何事か! この重傷でもまだ軍令違反者を斬る力は残っているぞ?」 蓋延は涙を拭い強いて立ち上がり、指示を受けた。来歙は自ら筆を執って上奏文を記した:「夜半過ぎに何者かに襲撃されました。致命傷でありながらも命の惜しさより、職務不履行が朝廷への汚点となることを悔やみます。治国には賢才登用が肝要です。太中大夫段襄は剛直な人柄ゆえ重任に堪えますのでご明察ください。また愚昧な私の兄弟たちは罪を得る恐れがあります。陛下の哀れみをもって度々ご指導賜りますように」と記し、筆を置くと刃物(刺さった短刀)を自ら引き抜いて絶命した。 光武帝がこの報告を受けると激しく動揺し、上奏文を手に涙にくれた。後任には揚武将軍馬成を中郎将代理として任命。来歙の遺骸は洛陽へ移送されると、皇帝喪服姿で葬儀に臨み弔意を示した。 5 趙王劉良が光武帝と共に葬列に随行し夏城門を通った際、中郎将張邯との通行順を巡り争いとなり「車を退けろ」と怒鳴りつけた。さらに門番の責任者を詰問し、数十歩も前へ追い立てる暴挙に出た。 これに対し司隸校尉鮑永が弾劾上奏した:「劉良には諸侯王としての礼節が欠け不敬罪に該当します」。皇族で高位にある者を公然と告発する姿勢は朝廷全体の綱紀粛正につながった。 解説
(本訳注:固有名詞は原則として原典表記を保持。軍事用語「露橈」は軽武装舟艇部隊と解釈) Translation took 1239.6 seconds. |
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| 永辟扶風鮑恢為都官從事,恢亦抗直,不避強禦。帝常曰:「貴戚且斂手以避二鮑。」永行縣到霸陵,路經更始墓,下拜,哭盡哀而去,西至扶風,椎牛上苟諫塚。帝聞之,意不平,問公卿曰:「奉使如此,何如?」太中大夫張湛對曰:「仁者,行之宗;忠者,義之主也。仁不遺舊,忠不忘君,行之高者也。」帝意乃釋。 6 帝自將征公孫述;秋,七月,次長安。 7 公孫述使其將延岑、呂鮪、王元、公孫恢悉兵拒廣漢及資中,又遣將侯丹率二萬餘人拒黃石。岑彭使臧宮將降卒五萬,從涪水上平曲,拒延岑,自分兵浮江下還江州,溯都江而上,襲擊侯丹,大破之;因晨夜倍道兼行二千餘里,逕拔武陽。使精騎馳擊廣都,去成都數十里,勢若風雨,所至皆奔散。初,述聞漢兵在平曲,故遣大兵逆之。及彭至武陽,繞出延岑軍後,蜀地震駭。述大驚,以杖擊地曰:「是何神也!」 延岑盛兵於〔沈〕(沅)水。臧宮眾多食少,轉輸不至,降者皆欲散畔郡邑,復更保聚,觀望成敗。宮欲引還,恐為所反;會帝遣謁者將兵詣岑彭,有馬七百匹,宮矯制取以自益,晨夜進兵,多張旗幟,登山鼓噪,右步左騎,挾船而引,呼聲動山谷。岑不意漢軍卒至,登山望之,大震恐;宮因縱擊,大破之,斬首、溺死者萬餘人,水為之濁。延岑奔成都,其眾悉降,盡獲其兵馬珍寶。 |
現代日本語訳永は扶風出身の鮑恢を都官従事に推挙した。鮑恢もまた剛直で、権勢ある者をも恐れなかった。光武帝(劉秀)は常々言っていた。「貴族たちは手を引いて二鮑(鮑永と鮑恢)を避けるがよい」と。 6 帝みずから公孫述征伐に向かい、秋七月に長安に駐屯した。 延岑は沈水(沅水)沿岸に大軍を展開していた。臧宮は兵数が多いのに食糧不足となり補給も途絶えたため、降伏兵たちが離反して郡県に籠城し、形勢を見極めようとした。臧宮は撤退を考えたが逆襲される恐れがあった。そこへ光武帝が謁者(使者)を通じて岑彭のもとに送った援軍(騎兵七百匹)が到着するや、臧宮は詔書を偽ってこれを接収し急進軍。旗幟を林立させ、山に登り鬨の声をあげ、右翼に歩兵・左翼に騎兵を配し、船団を伴いながら前進したため喊声が山谷を震わせた。 解説
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| 自是乘勝追北,降者以十萬數。軍至〔平〕陽鄉,王元舉眾降。 帝與公孫述書,陳言禍福,示以丹青之信。述省書歎息,以示所親。太常常少、光祿勳張隆皆勸述降。述曰:「廢興,命也,豈有降天子哉!」左右莫敢復言。少、隆皆以憂死。 8 帝還自長安。 9 冬,十月,公孫述使刺客詐為亡奴,降岑彭,夜,刺殺彭。太中大夫監軍鄭興領其營,以俟吳漢至而授之。彭持軍整齊,秋毫無犯。邛穀王任貴聞彭威信,數千里遣使迎降;會彭已被害,帝盡以任貴所獻賜彭妻子。蜀人為立廟祠之。 10 馬成等破河池,遂平武都。先零諸種羌數萬人,屯聚寇鈔,拒浩亹隘。成與馬援深入討擊,大破之,徙降羌置天水、隴西、扶風。 是時,朝臣以金城破羌之西,塗遠多寇,議欲棄之。馬援上言:「破羌以西,城多完牢,易可依固。其田土肥壤,灌溉流通。如令羌在湟中,則為害不休,不可棄也。」帝從之。民歸者三千餘口,援為置長吏,繕城郭,起塢候,開溝洫,勸以耕牧,郡中樂業。又招撫塞外氏、羌,皆來降附,援奏復其侯王君長,帝悉從之。乃罷馬成軍。 11 十二月,吳漢自夷陵將三萬人溯江而上,伐公孫述。 12 郭人及為并州牧,過京師,帝問以得失,人及曰:「選補眾職,當簡天下賢俊,不宜專用南陽人。」是時在位多鄉曲故舊,故人及言及之。 |
現代語訳:これにより勝利に乗じて敗走する敵軍を追撃し、降伏した者は数十万にも上った。漢軍が平陽郷まで到達すると、王元は配下の兵士を率いて投降した。 光武帝は公孫述宛てに書簡を送り、利害得失を詳細に説明して信義を示そうとした(「丹青之信」)。公孫述はその書状を読んで慨嘆し、側近たちに見せた。太常の常少と光禄勳の張隆はいずれも降伏を進言したが、公孫述は「王朝の興亡は天命によるものだ。天子たる者が投降するなどありえぬ」と言い放った。周囲は誰も諫める者が出なかった。常少と張隆は憂悶のうちに死去している。 同年8月、光武帝は長安から帰還した。 9 冬十月、公孫述は刺客を逃亡奴隷と偽装させて岑彭軍に投降させた。夜陰に乗じて岑彭を刺殺させることに成功する。太中大夫で監軍の鄭興が臨時指揮権を掌握し、呉漢の到着まで部隊を維持した。岑彭は軍律を厳正に保ち、民衆への侵害は微塵もなかった(「秋毫無犯」)。邛穀王の任貴は彼の威徳を聞き伝えられて数千里先から使者を派遣し投降を申し出たが、到着時には既に岑彭は殺害されていた。光武帝は任貴からの献上品すべてを岑彭の妻子に下賜したため、蜀の人々は自発的に廟を建立して彼を祀った。 10 馬成らが河池を陥落させると武都平定が達成された。しかし先零羌などの部族数万人が浩亹隘(こうがい)付近で集結し略奪行為を行っていたため、馬成と馬援は深く侵入して討伐し大勝する。投降した羌族を天水・隴西・扶風に移住させた。 この時朝廷では「破羌県より西方の金城郡は辺境で賊が多く補給線も長い」として放棄論が浮上していた。馬援が反対意見を奏上:「破羌以西には堅牢な城塞が多く防衛に適しています。土地は肥沃で灌漑網も整備されています。もし湟中地域(青海東部)を羌族に委ねれば永久の禍根となるでしょう」。光武帝はこの進言を受け入れたため三千人余りの民衆が帰還し、馬援は官吏を配置して城壁を修繕し望楼を建設、灌漑水路を開削し農牧を奨励した結果、郡内は安定した。さらに長城外の氐族・羌族も招撫に応じて降伏し、馬援が彼らの首長たちに元の爵位を与えるよう上奏すると光武帝は全面的に承認した。これにより馬成軍は解散となった。 11 12月、呉漢が夷陵から兵三万を率いて長江を遡行し公孫述討伐に向かった。 12 郭伋(かっきゅう)が并州牧として赴任途中に洛陽へ立ち寄ると、光武帝は政治得失について諮問した。彼は「要職の人選では全国の俊英を登用すべきであり、南陽出身者ばかり重用するのは不適切です」と応じた。当時朝廷高官には皇帝郷里(南陽)からの縁故者が多かったため、この発言はその弊害を衝いたものだった。 注釈:
(出典箇所:『資治通鑑』巻四十二~四十三、光武帝建武8年~11年の記録) Translation took 1101.1 seconds. |
| input text 資治通鑑\043_漢紀_35.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷四十三 漢紀三十五 起柔兆涒灘,盡柔兆敦牂,凡十一年。 世祖光武皇帝中之下 建武十二年(丙申,公元三六年) 1 春,正月,吳漢破公孫述將魏堂、公孫永於魚涪津,遂圍武陽。述遣子婿史興救之,漢迎擊,破之,因入犍為界;諸縣皆城守。詔漢直取廣都,據其心腹。漢乃進軍攻廣都,拔之,遣輕騎燒成都市橋。公孫述將帥恐懼,日夜離叛,述雖誅滅其家,猶不能禁。帝必欲降之,又下詔喻述曰:「勿以來歙、岑彭受害自疑,今以時自詣,則宗族完全。詔書手記,不可數得。」述終無降意。 2 秋,七月,馮駿拔江州,獲田戎。 3 帝戒吳漢曰:「成都十餘萬眾,不可輕也。但堅據廣都,待其來攻,忽與爭鋒。若不敢來,公轉營迫之,須其力疲,乃可擊也。」漢乘利,遂自將步騎二萬進逼成都;去城十餘里,阻江北〔為〕營,作浮橋,使副將武威將軍劉尚將萬餘人屯於江南,為營相去二十餘里。帝聞之大驚,讓漢曰:「比敕公千條萬端,何意臨事勃亂!既輕敵深入,又與尚別營,事有緩急,不復相及。賊若出兵綴公,以大眾攻尚,尚破,公即敗矣。幸無它者,急引兵還廣都。」詔書未到,九月,述果使其大司徒謝豐、執金吾袁吉將眾十許萬,分為二十餘營,出攻漢,使別將將萬餘人劫劉尚,令不得相救。漢與大戰一日,兵敗,走入壁,豐因圍之。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻四十三 漢紀三十五
解説
(出典:『資治通鑑』巻43の記述に基づく現代語訳・分析) Translation took 947.9 seconds. |
| 漢乃召諸將厲之曰:「吾與諸君逾越險阻,轉戰千里,遂深入敵地,至其城下,而今與劉尚二處受圍,勢既不接,其禍難量;欲潛師就尚於江南,並兵御之。若能同心一力,人自為戰,大功可立;如其不然,敗必無餘。成敗之機,在此一舉。」諸將皆曰:「諾。」於是饗士秣馬,閉營三日不出,乃多樹幡旗,使煙火不絕,夜,銜枚引兵與劉尚合軍。豐等不覺,明日,乃分兵拒水北,自將攻江南。漢悉兵迎戰,自旦至晡,遂大破之,斬豐、吉。於是引還廣都,留劉尚拒述,具以狀上,而深自譴責。帝報曰:「公還廣都,甚得其宜,述必不敢略尚而擊公也。若先攻尚,公從廣都五十里悉步騎赴之,適當值其危困,破之必矣!」正是漢與述戰於廣都、成都之間,八戰八克,遂軍於其郭中。 臧宮拔綿竹,破涪城,斬公孫恢;復攻撥繁、郫,與呈漢會於成都。 4 李通欲避權勢,乞骸骨;積二歲,帝乃聽上大司空印綬,以特進奉朝請。後有司奏封皇子,帝感通首創大謀,即日,封通少子雄為召陵侯。 5 公孫述困急,謂延岑曰:「事當奈何!」岑曰:「男兒當死中求生,可坐窮乎!財物易聚耳,不宜有愛。」述乃悉散金帛,募敢死士五千餘人以配岑。岑於市橋偽建旗幟,鳴鼓挑戰,而潛遣奇兵出吳漢軍後襲擊破漢,漢墮水,緣馬尾得出。漢軍餘七日糧,陰具船,欲遁去。 |
現代日本語訳光武帝は諸将を集めて激励した。「我らは険しい道を越え、千里にわたって転戦し、敵地深く侵攻して城下に迫ったが、今や劉尚と分断され二箇所で包囲されている。このままでは連携も取れず危機的状況だ。密かに江南の劉尚軍と合流し、兵力を集中して防戦したい。諸君が心を一つにして奮闘すれば大功は必ず成る。もしそうでなければ全滅は免れまい。生死を分けるのはこの一挙動にかかっている」。諸将は皆「承知した」と応じた。 そこで兵士に酒食を与え馬に飼料をやり、三日間陣営に籠城してから大量の旗幟を立て、炊煙を絶やさぬように装った。夜陰に乗じて枚(くつわ)を銜ませて密かに進軍し、劉尚軍と合流した。公孫述配下の謝豊らは気づかず、翌日になってようやく兵力を分けて江北を守備し、自ら江南へ進攻してきた。呉漢は全軍で迎撃し、朝から夕刻まで激戦の末、敵軍を壊滅させて謝豊と袁吉を斬った。その後広都に撤退し劉尚を残留させて公孫述への防備とし、詳細な報告書を提出すると共に深く自責したが、光武帝はこう返答した。「卿が広都へ戻ったのは極めて妥当だ。公孫述は劉尚を無視して貴殿を攻められまい。もし先に劉尚を攻撃すれば、卿は広都から五十里の距離を全軍で急行し敵が疲弊した隙をつけば必ず打ち破れる」と。 かくて呉漢は公孫述と広都・成都間で八度交戦して全て勝利し、ついに城郭内に陣取った。 4 李通が権勢からの引退を願い「骸骨を乞う」辞任申請を提出。二年後に光武帝はようやく大司空の印綬返上を許可し、特進(名誉職)として奉朝請(朝廷参列資格)を与えた。後日、皇子封爵の議が起きた際、帝は李通が最初に挙兵を献策した功績を回想し、即座に彼の末子・李雄を召陵侯に封じた。 5 公孫述は窮地に陥り延岑に「どうすべきか」と問うた。すると延岑は「男子たる者、死中に活路を求めるべし!財貨などまた集められるものだ」と返答。これを受け公孫述は金帛を全て放出して敢死隊五千人を募り延岑に預けた。延岑は市橋で偽装の旗并を掲げ太鼓を鳴らして挑発しつつ、奇襲部隊を密かに呉漢軍背後へ回させて攻撃したため、呉漢は川に転落しながらも何とか馬の尾につかまって脱出。兵糧が七日分しかないと知った漢軍は密かに船を準備して撤退を画策し始めた。 解説
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| 蜀郡太守南陽張堪聞之,馳往見漢,說述必敗,不宜退師之策。漢從之,乃示弱以挑敵。 冬,十一月,臧宮軍咸(陽)門;戊寅,述自將數萬人攻漢,使延岑拒宮。大戰,岑三合三勝,自旦及日中,軍士不得食,並疲。漢因使護軍高午、唐邯將銳卒數萬擊之,述兵大亂;高午奔陳刺述,洞胸墮馬,左右輿入城。述以兵屬延岑,其夜,死;明旦,延岑以城降。辛巳,吳漢夷述妻子,盡滅公孫氏,并族延岑,遂放兵大掠,焚述宮室。帝聞之怒,以譴漢。又讓劉尚曰:「城降三日,吏民從服,孩兒、老母,口以萬數,一旦放兵縱火,聞之可為酸鼻。尚宗室子孫,嘗更吏職,何忍行此!仰視天,俯視地,觀放麑、啜羹,二者孰仁?良失斬將弔民之義也!」 初,述徵廣漢李業為博士,業固稱疾不起。述羞不能致,使大鴻臚尹融奉詔命以劫業,〔曰〕:「若起則受公侯之位,不起,賜以毒酒。」融譬旨曰:「方今天下分崩,孰知是非,而以區區之身試於不測之淵乎!朝廷貪慕名德,曠官缺位,于今七年,四時珍御,不以忘君;宜上奉知己,下為子孫,身名俱全,不亦優乎!」業乃歎曰:「古人危邦不入,亂邦不居,為此故也。君子見危授命,何乃誘以高位重餌哉!」融曰:「宜呼室家計之。」業曰:「丈夫斷之於心久矣,何妻子之為!」遂飲毒而死。述恥有殺賢之名,遣使吊祠,賻贈百匹,業子翬逃,辭不受。 |
現代日本語訳蜀郡太守で南陽出身の張堪が情勢を聞きつけ、急ぎ呉漢のもとへ赴いた。「公孫述は必ず敗れます。撤退すべきではありません」と説く。呉漢はこれを受け入れ、わざと弱みを見せて敵を挑発する策を採った。 冬11月、臧宮の軍が咸陽門(成都城門)に迫る中、戊寅の日、公孫述自ら数万の兵を率いて呉漢を攻撃し、延岑には臧宮への防御を命じた。激戦となり延岑は三度交戦して三度勝利したが、朝から正午まで続いた戦いで兵士は食事も取れず疲弊していた。この機に乗じ呉漢は護軍の高午と唐邯に数万の精鋭を率いさせ突撃させる。公孫述軍は大混乱し、高午が陣中へ斬り込み公孫述を刺す。胸を貫かれた公孫述は馬から転落し、側近らが城内へ運び込んだ。 兵権を延岑に託した公孫述はその夜のうちに死亡。翌朝、延岑は城を挙げて降伏した。辛巳の日、呉漢は公孫述の妻子を処刑し公孫一族を根絶やしにするとともに延岑の一族も皆殺しとし、さらに兵士に略奪・放火を許可して宮殿を焼き払った。 この報告を受けた光武帝(劉秀)は激怒。呉漢を叱責すると同時に副将の劉尚に対し詔勅で非難した。「城が降伏して三日も経つのに、役人や民衆は既に服従している。子供から老人まで数万の命ある中、一朝にして兵士に略奪と放火を許すとは! 聞くだけで胸が痛む。劉尚よ、お前は漢王朝の宗室(皇族)の子孫であり役人としての経験もあるのに、どうしてこのような非道を行えたのか? 天を見上げよ、地を見下ろせ。『放麑』(母鹿を哀れんで小鹿を逃がす仁愛)と『啜羹』(熱い汁物を吹き冷ます偽りの親切)の二つを比べれば、どちらが真の仁義か明らかではないか。お前たちは将軍として民を慰める大義を完全に見失っている!」 かつて公孫述が広漢出身の李業を博士に登用しようとした時、李業は固辞して病と称した。面目を潰された公孫述は賓客接待官・尹融を使者とし詔書を持たせて強要する。「出仕すれば公侯の位を与えるが拒めば毒酒を賜る」と宣告させた。 尹融は巧みに説得した。「天下分裂の今、正邪など誰にも分かりません。わずかな身で予測不能な危険に飛び込むべきでしょうか? 朝廷(公孫述政権)はあなたの名声を切望し博士職を七年も空けたままです。四季折々の珍味も届けているのに…ご家族や子孫のために、名誉と生命の両方を守るのが最善では?」 しかし李業は嘆息して答えた。「昔の賢者が『危険な国には近づかず乱れた土地に住まぬ』と言ったのはこのためだ。君子は危機に命を捧げるもの。どうして高位で誘惑するのか」。尹融が「せめて家族と相談を」と促しても、李業は即座に拒絶。「大丈夫の決意は既に固まっている。妻子など関係ない」。こうして毒酒を飲み自害した。 公孫述は賢人殺しの汚名を恐れ使者を遣わし葬儀供物と絹百匹を贈ったが、李業の息子・翬(キ)は逃亡し「受け取れない」と拒絶したのである。 解説【歴史的背景】本編は『資治通鑑』より後漢初期(紀元36年)、成都平定戦直後のエピソード。光武帝による天下統一の最終段階で、地方政権粛清時の武将暴走と統治者の苦悩を描く。 【核心的教訓】
【人物関係図】
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| 述又騁巴郡譙玄,玄不詣;亦遣使者以毒藥劫之,太守自詣玄廬,勸之行,玄曰:「保志全高,死亦奚恨!」遂受毒藥。玄子瑛泣血叩頭於太守,願奉家錢千萬以贖父死,太守為請,述許之。述又徵蜀郡王皓、王嘉,恐其不至,先繫其妻子,使者謂嘉曰:「速裝,妻子可全。」對曰:「犬馬猶識主,況於人乎!」王皓先自刎,以首付使者。述怒,遂誅皓家屬。王嘉聞而歎曰:「後之哉!」乃對使者伏劍而死。犍為費貽不肯仕述,漆身為癩,陽狂以避之。同郡任永、馮信皆托青盲以辭徵命。帝既平蜀,詔贈常少為太常,張隆為光祿勳。譙玄已卒,祠以中牢,敕所在還其家錢,而表李業之閭。徵費貽、任永、馮信,會永、信病卒,獨貽仕至合浦太守。上以述將程烏、李育有才幹,皆擢用之。於是西土咸悅,莫不歸心焉。 初,王莽以廣漢文齊為益州太守,齊訓農治兵,降集群夷,甚得其和。公孫述時,齊固守拒險,述拘其妻子,許以封侯,齊不降。聞上即位,間道遣使自聞。蜀平,徵為鎮遠將軍,封成義侯。 6 十二月,辛卯,揚武將軍馬成行大司空事。 7 是歲,參狼羌與諸種寇武都,隴西太守馬援擊破之,降者萬餘人,於是隴右清靜。援務開恩信,寬以待下,任吏以職,但總大體,而賓客故人日滿其門。諸曹時白外事,援輒曰:「此丞、掾之任,何足相煩!頗哀老子,使得遨遊。 |
現代日本語訳公孫述はさらに巴郡の譙玄を招聘したが、彼は応じなかった。使者に毒薬を与えて強要すると、太守自ら譙玄のもとへ赴き出仕を勧めた。譙玄は「志を守り節操を全うできるならば、死んでも悔いはない」と言い、毒薬を受け取った。息子の瑛が血の涙を流して太守に額ずき、私財千万銭で父の命を贖おうと懇願すると、太守が取り成したため公孫述は承諾した。 続いて蜀郡の王皓・王嘉を召し出した公孫述は応じないことを恐れ、先に妻子を拘束。使者が王嘉に「早く準備せよ。そうすれば妻子は助かる」と告げると、「犬や馬でさえ主人を知る。まして人間においておや!」と返答した。王皓は真っ先に自害し首を使者に渡すと、公孫述は激怒して彼の家族を誅殺した。これを聞いた王嘉は「遅れてしまったか」と言い残し、使者の面前で剣に伏して死んだ。 犍為郡の費貽は出仕を拒み、漆塗りで癩病(らいびょう)を装って狂人のふりをした。同郷の任永と馮信も失明を偽って招聘を辞退した。光武帝が蜀を平定すると、詔により常少に太常を追贈し張隆には光禄勲を授けた。譙玄は既に死去していたため中牢(牛・羊・豚の供物)で祭祀を行い、役所に命じて彼の私財を返還させるとともに李業の家門を顕彰した。費貽らも招聘したが任永と馮信は病没し、費貽のみ合浦太守まで昇進した。 光武帝は公孫述配下だった程烏・李育の才能を評価して登用したため、西方の人々は皆喜び心から帰順した。 当初、王莽政権下で広漢出身の文斉が益州太守となり農業指導と軍備強化に尽力し諸部族を帰順させ融和を実現していた。公孫述時代には要害を守って抵抗し、妻子を拘束され侯爵を約束されても降らなかった。光武帝即位を知ると密使で忠誠を伝え、蜀平定後に鎮遠将軍・成義侯に任命された。 (中略:十二月の人事記録) 同年、参狼羌など諸部族が武都を侵攻したため隴西太守馬援が出撃しこれを破り万余が降伏。これにより隴右は平穏となった。馬援は恩恵と信義を示すことに努め寛大な姿勢で部下に対応し、職務は担当官に任せ自らは大局のみを掌握したため賓客や旧友が連日邸宅を訪れた。役人が外部の報告をするたび「それは丞・掾(下級官吏)の任務だ。わざわざ煩わせるな!老骨に自由気ままに過ごさせてくれ」と言った。 解説
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| 若大姓侵小民,黠吏不從令,此乃太守事耳。」傍縣嘗有報讎者,吏民驚言羌反,百姓奔入城,狄道長詣門,請閉城發兵。援時與賓客飲,大笑曰:「虜何敢復犯我!曉狄道長,歸守寺捨。良怖急者,可牀下伏。」後稍定,郡中服之。 8 詔:「邊吏力不足戰則守,追虜料敵,不拘以逗留法。」 9 山桑節侯王常、牟平烈侯耿況、東光成侯耿純皆薨。況疾病,乘輿數自臨幸,復以弇弟廣、舉並為中郎將。弇兄弟六人皆垂青紫,省侍醫藥,當世以為榮。 10 盧芳與匈奴、烏桓連兵,數寇邊。帝遣驃騎大將軍杜茂等將兵鎮守北邊,治飛狐道,築亭障,修烽燧,凡與匈奴、烏桓大小數十百戰,終不能克。 11 上詔竇融與五郡太守入朝。融等奉詔而行,官屬賓客相隨,駕乘千餘兩,馬牛羊被野。既至,詣城門,上印綬。詔遣使者還侯印綬,引見,賞賜恩寵,傾動京師。尋拜融冀州牧。又以梁統為太中大夫,姑臧長孔奮為武都郡丞。姑臧在河西最為富饒,天下未定,土多不修檢操,居縣者不盈數月,輒致豐積;奮在職四年力行清潔,為眾人所笑,以為身處脂膏不能自潤。及從融入朝,諸守、令財貨連轂,彌竟川澤;唯奮無資,單車就路,帝以是賞之。 帝以睢陽令任延為武威太守,帝親見,戒之曰:「善事上官,無失名譽。」延對曰:「臣聞忠臣不和,和臣不忠。 |
現代日本語訳:もし豪族が弱小の民を侵害し、狡猾な役人が命令に従わないならば、これは太守(郡の長官)の職務である」と述べた。 隣県で復讐事件があった際、役人や民衆が「羌族が反乱した」と驚き騒ぎ、住民は城へ逃げ込んだ。狄道(現・甘粛省臨洮県)の長官が門に来て城門閉鎖と出兵を要請すると、馬援は賓客と酒宴中だったが大笑いして言った。「蛮族どもが再び我々を襲うことなどありえぬ!狄道長へ伝えよ――役所で待機せよと。どうしても怖ければ床下に隠れろ」と。後ほど事態は収拾し、郡中は彼の度量に敬服した。 8 詔勅が発された:「辺境官吏は戦力不足なら守備を固めよ。敵情を見極めて追撃する際は『逗留法』(軍律違反)で縛ってはならない」 9 山桑節侯・王常、牟平烈侯・耿況、東光成侯・耿純が相次いで逝去した。耿況の病床には皇帝自ら見舞いに訪れ、耿弇(こうえん)の弟である耿広と耿挙を中郎将に任命した。耿氏兄弟六人全員が高官(青紫の綬章)となり、交代で看病する姿は当世の栄誉とされた。 10 盧芳が匈奴・烏桓と連合し再三辺境を侵犯したため、光武帝は驃騎大将軍・杜茂らに北辺防衛を命じた。飛狐道(交通路)を整備し、見張り台や烽火台を築いて数十回の戦闘を繰り返すも、匈奴・烏桓を完全には撃退できなかった。 11 光武帝は竇融に河西五郡太守らと共に入朝するよう詔勅を下した。一行が従者賓客千余台の車列で牛馬羊が野原を覆い尽くすほど入京すると、竇融はいったん印綬(官職の印章)を返上したが、皇帝は使者を通じて即座に返還させた。引見後の恩賞は都中の注目を集め、竇融は冀州牧に任命された。梁統は太中大夫に、姑臧県令・孔奮は武都郡丞へ昇進した。 姑臧(現・甘粛省武威市)は河西で最も豊かな地だったが、天下未平定の当時は官吏も綱紀が緩み着任数か月で蓄財するのが常態。ところが孔奮は四年間清廉潔白に務め「脂膏(あぶら)の中にあって自らを潤さず」と嘲笑されていた。入京時の太守・県令らの車列が財貨であふれ川や湖が見えないほどだった中、彼だけが荷物一つで単身上洛したため皇帝は特に賞賛した。 光武帝は睢陽県令の任延を武威太守に任命する際、直接「上司には従順に務め名誉を汚すな」と戒めた。これに対し任延は言下に答えた。「忠臣はへつらわず、へつらう者は真実の忠ではございませぬ」。 解説:
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| 履正奉公,臣子之節;上下雷同,非陛下之福。善事上官,臣不敢奉詔。」帝歎息曰:「卿言是也!」 建武十三年(丁酉,公元三七年) 1 春,正月,庚申,大司徒侯霸薨。 2 戊子,詔曰:「郡國獻異味,其令太官勿復受!遠方口實所以薦宗廟,自如舊制。」時異國有獻名馬者,日行千里,又進寶劍,價值百金。詔以劍賜騎士,馬駕鼓車。上雅不喜聽音樂,手不持珠玉,嘗出獵,車駕夜還,上東門候汝南郅惲拒關不開。上令從者見面於門間,惲曰:「火明遼遠。」遂不受詔。上乃回,從東中門入。明日,惲上書諫曰:「昔文王不敢槃于游田,以萬民惟正之供。而陛下遠獵山林,夜以繼晝,其如社稷宗廟何!」書奏,賜惲布百匹,貶東中門候為參封尉。 3 二月,遣捕虜將軍馬武屯虖沱河以備匈奴。 4 盧芳攻雲中,久不下。其將隨昱留守九原,欲脅芳來降;芳知之,與十餘騎亡入匈奴,其眾盡歸隨昱,昱乃詣闕降。詔拜昱五原太守,封鐫胡侯。 5 朱祜奏:「古者人臣受封,不加王爵。」丙辰,詔長沙王興、真定王得、河間王邵、中山王茂皆降爵為侯。丁巳,以趙王良為趙公,太原王章為齊公,魯王興為魯公。是時,宗室及絕國封侯者凡一百三十七人。富平侯張純,安世之四世孫也,歷王莽世,以孰謹守約保全前封;建武初,先來詣闕,為侯如故。 |
現代語訳(『資治通鑑』より)冒頭の諫言 「正道を踏み行い公務に尽くすのは臣下としての節度であり、上も下も同調して迎合することは陛下にとって福ではありません。上官へのご機嫌取りだけを行うという詔勅には従えません。」光武帝は嘆息しながら言った。「卿の言葉こそ正しい」 建武十三年(丁酉年・西暦37年) 1. 春正月庚申日:大司徒(宰相相当)侯霸が死去。 2. 戊子日: - 詔勅発布:「郡国から珍味の献上を止めるよう、太官(宮廷料理責任者)に命じよ。遠方からの貢物は宗廟祭祀用のみとし、従来通りとする」 - 当時、異国の使者が千里馬や百金の価値ある宝剣を献上したが、光武帝は剣を騎兵へ与え、馬は鼓車(儀式用車)に使用。 - 帝は音楽・宝石類を好まず、狩猟中も夜間に帰還しようとした際、東門担当官の汝南出身者・郅惲が「灯火不鮮明」と称して城門開放を拒否。帝は別途東中門から入城。 - 翌日、郅惲が上奏:「昔、文王は狩猟に耽らず民を治めました。陛下が昼夜問わず山林で狩猟されれば、宗廟・国家はいかに?」これに対し帝は布百匹を下賜する一方、東中門担当官を参封尉(低い役職)へ降格。 3. 二月:捕虜将軍馬武を滹沱河に駐屯させ匈奴対策とする。 4. 盧芳の投降劇: - 盧芳が雲中攻略失敗。配下の随昱が九原で兵を掌握し投降工作を行うと知った盧芳は十数騎で匈奴へ逃亡。 - 残軍は全て随昱に帰属し、彼は朝廷へ降伏。五原太守・鐫胡侯に任命される。 5. 封爵改革: - 朱祜が奏上:「古来、臣下への封爵は王位を超えません」 - 丙辰日:長沙王ら四名の諸王を侯へ降格(劉興・劉得・劉邵・劉茂)。 - 丁巳日:趙王ら三名を「公」に改称(劉良→趙公、劉章→斉公、劉興→魯公)。この時点で宗室及び断絶国再封侯者は計137名。 - 富平侯張純(前漢・張安世の玄孫)は王莽政権下でも節度を守り爵位を維持。光武帝即位後も引き続き侯となる。 解説
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| 於是有司奏:「列侯非宗室不宜復國。」上曰:「張純宿衛十有餘年,其勿廢!」更封武始侯,食富平之半。 6 庚午,以紹嘉公孔安為宋公,承休公姬常為衛公。 7 三月,辛未,以沛郡太守韓歆為大司徒。 8 丙子,行大司空馬成復為揚武將軍。 9 吳漢自蜀振旅而還,至宛,詔過家上塚,賜穀二萬斛;夏,四月,至京師。於是大饗將士,功臣增邑更封凡三百六十五人,其外戚、恩澤封者四十五人。定封鄧禹為高密侯,食四縣;李通為固始侯,賈復為膠東侯,食六縣;餘各有差。已歿者益封其子孫,或更封支庶。 帝在兵間久,厭武事,且知天下疲耗,思樂息肩,自隴、蜀平後,非警急,未嘗復言軍旅。皇太子嘗問攻戰之事,帝曰:「昔衛靈公問陳,孔子不對。此非爾所及。」鄧禹、賈復知帝偃干戈,修文德,不欲功臣擁眾京師,乃去甲兵,敦儒學。帝亦思念,欲完功臣爵土,不令以吏職為過,遂罷左、右將軍官。耿弇等亦上大將軍、將軍印綬,皆以列侯就第,加位特進,奉朝請。 鄧禹內行淳備,有子十三人,各使守一藝,修整閨門,教養子孫,皆可以為後世法,資用國邑,不修產利。 賈復為人剛毅方直,多大節,既還私第,闔門養威重。朱祜等薦復宜為宰相,帝方以吏事責三公,故功臣並不用。是時,列侯唯高密、固始、膠東三侯與公卿參議國家大事,恩遇甚厚。 |
以下に翻訳と解説を示します。なおルビは付加せず、原典からの引用も行わない方針で作成しています。 現代日本語訳:当時、役人が上奏した:「宗室以外の列侯には封国を継がせるべきではありません」と。皇帝(光武帝)は言下に答えた:「張純は十余年も宮中警護に尽くしてきた。彼の家系だけは廃絶させてはならぬ」。こうして武始侯に改めて封じ、富平県の半分を領地として与えた。 6 庚午の日、紹嘉公である孔安を宋公とし、承休公であった姫常を衛公とした。 7 三月辛未の日、沛郡太守だった韓歆を大司徒に任命した。 8 丙子の日、行大司空(代理)職務中の馬成を再び揚武将軍へ復帰させた。 9 呉漢が蜀から凱旋し宛城に到着すると、「故郷で祖先の墓参りせよ」との詔勅と穀物二万斛を与えられた。夏四月、都に戻ると盛大な宴席を設けて将士を労い、功績ある者365人には領地拡大や爵位変更が行われたほか、外戚や特別恩典による封侯45人を加えた。鄧禹は高密侯(四県の租税権)に定められ、李通は固始侯、賈復は膠東侯(六県の租税権)となった。その他にも格差をつけて処遇し、既没者の子孫には追加封与、傍系親族への改封も行われた。 皇帝は長きにわたり戦陣にあって武力を厭い、天下が疲弊していることを熟知していたため平穏を希求しており、隴西・蜀平定後は緊急時以外軍事について語ることはなかった。皇太子が戦術について問うと「昔、衛霊公が軍陣のことを尋ねても孔子は答えなかった。これはお前の及ぶべき問題ではない」と諭した。 鄧禹と賈復は皇帝が武力を収め文治へ転換する意志を見抜き、功臣に兵力を持たせぬ方針も悟ったため自ら武装解除して儒学を深めた。これを察知した皇帝も「功臣の爵位と領地を保全しつつ官職での過失回避」の方策として左右将軍の官職を廃止。耿弇らは大将軍印綬を返上し、全員が列侯邸へ退きながら「特進」称号と「奉朝請」(朝廷出席権)を得た。 鄧禹は私生活で質実剛健を貫き、13人の息子それぞれに専門技能を修めさせ家風を整え子弟教育にも注力した。こうした姿勢は後世の規範となり、封邑収入のみで資産形成せず清廉であった。 賈復は剛直な性格で節義を重んじ、邸宅では威厳をもって静かに過ごした。朱祜らが宰相への推挙を行ったが、皇帝は三公に行政責任を求めていたため功臣登用を見送った。この時期、列侯の中で高密侯(鄧禹)・固始侯(李通)・膠東侯(賈復)の三家のみが国政参与を許され厚遇された。 歴史的解説:■ 文治転換の背景 光武帝による「功臣引退政策」は前漢初めの功臣粛清(韓信ら)とは異なり、名誉ある身分保障(特進・奉朝請)と経済基盤(食邑)を付与した緩やかな解体であった。特に儒学奨励という理念的支柱を用いた点が特徴。 ■ 三人選抜の意図 鄧禹/李通/賈復のみ国政参与を認めたのは: 1. 軍事指揮官として最も功績大でありながら自発的に兵権返上 2. 皇帝との個人的信頼関係(特に鄧禹は創業功臣筆頭) 3. 「武から文へ」の転身が模範的と評価されたため ■ 制度変更の重要性 左右将軍職廃止は軍事主導体制からの決別を象徴。これにより後漢王朝は豪族連合政権から儒教理念に基づく官僚国家への道筋を確立した。 ■ 人物評価の視点 (注)『資治通鑑』巻43・建武13年条(紀元37年)に基づく後漢初期の重要場面。功臣処遇問題は王朝安定化の鍵となる政策であった。 Translation took 2096.2 seconds. |
| 帝雖制御功臣,而每能回容,宥其小失。遠方貢珍甘,必先遍賜諸侯,而太官無餘,故皆保其福祿,無誅譴者。 10 益州傳送公孫述瞽師、郊廟樂器、葆車、輿輦,於是法物始備。時兵革既息,天下少事,文書調役,務從簡寡,至乃十存一焉。 11 甲寅,以冀州牧竇融為大司空。融自以非舊臣,一旦入朝,在功臣之右,每朝會進見,容貌辭氣,卑恭已甚,帝以此愈親厚之。融小心,久不自安,數辭爵位,上疏曰:「臣融有子,朝夕教導以經藝,不令觀天文,見讖記,誠欲令恭肅畏事,恂恂守道,不願其有才能,何況乃當傳以連城廣土,享故諸侯王國哉!」因復請間求見,帝不許。後朝罷,逡巡席後,帝知欲有讓,遂使左右傳出。它日會見,迎詔融曰:「日者知公欲讓職還土,故命公暑熱且自便。今相見,宜論它事,勿得復言。」融不敢重陳請。 12 五月,匈奴寇河東。 建武十四年(戊戌,公元三八年) 1 夏,邛穀王任貴遣使上三年計,即授越巂太守。 2 秋,會稽大疫。 3 〔九月〕,莎車王賢、鄯善王安皆遣使奉獻。西域苦匈奴重斂,皆願屬漢,復置都護;上以中國新定,不許。 太中大夫梁統上疏曰:「臣竊見元帝初元五年,輕殊死刑三十四事,哀帝建平元年,輕殊死刑八十一事;其四十二事手殺人者,減死一等。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)(前段落の背景)光武帝は功臣を統制しつつも、常に寛容な態度で彼らの些細な過失を見逃した。遠方から珍味や果物が献上されると必ず諸侯に先に賜り、宮廷には残さなかったため、臣下らは皆その地位と俸禄を保ち、処罰される者は一人もいなかった。 10 益州から公孫述(かつて蜀で自立した勢力)の盲目の楽師や祭祀用の楽器・装飾車などが送られると、朝廷の儀式用具がようやく整った。戦乱が収まり世の中が平穏になったため、公文書や徴発は極力簡素化され、以前の一割程度に削減された。 11 甲寅(西暦34年)、冀州牧であった竇融を大司空に任命した。竇融は自らを前漢からの古参ではないと意識し、功臣たちより高位につくことに不安を抱いていた。謁見の際には常に謙虚な態度で接したため、光武帝はますます彼を信頼するようになった。 しかし竇融は慎重すぎる性格ゆえ長らく落ち着かず、再三辞任を申し出た。「私は息子たちに経書を教えるだけで天文や預言書の類を見せません。才能よりも慎み深さと道義を守る人間になってほしいのです」と上奏し、領地返還まで望んだ。 ある日退出時に竇融が逡巡する様子を見た皇帝は辞意を悟り、わざと侍従に退去を促させた。後日の謁見では事前に「前回の辞任の件は暑い時期だったから遠慮したまでだ。今日は他の話をせよ」と釘を刺され、竇融は二度と申し出られなかった。 12 5月、匈奴が河東地方へ侵攻する。建武14年(西暦38年)1 夏、邛穀王の任貴が使者を遣わして3年分の税収報告を行う。これを受け越巂太守に任命される。 2 秋、会稽で大規模な疫病発生。 3 〔9月〕莎車王・賢と鄯善王・安が相次いで貢物を献上。西域諸国は匈奴の重税に苦しみ漢への帰属を望んだため「都護(総督)再設置」を要請したが、光武帝は国内復興優先の方針から拒否。 この時太中大夫・梁統が上奏: 「元帝時代(前48年頃)には死刑減刑例34件、哀帝の建平元年(前6年)には81件も認められました。特に故意殺人犯42名まで減刑されたのは法秩序を乱すものです」 解説【光武帝の統治手法】
【竇融エピソードにみる後漢初期の特徴】
【梁統上疏の歴史的意義】
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| 自是以後,著為常准,故人輕犯法,吏易殺人。臣聞立君之道,仁義為主,仁者愛人,義者正理。愛人以除殘為務,正理以去亂為心;刑罰在衷,無取於輕。高帝受命,約令定律,誠得其宜,文帝唯除省肉刑、相坐之法,自餘皆率由舊章。至哀、平繼體,即位日淺,聽斷尚寡。丞相王嘉輕為穿鑿,虧除先帝舊約成律,數年之間百有餘事,或不便於理,或不厭民心,謹表其尤害於體者,傅奏於左。願陛下宣詔有司,詳擇其善,定不易之典。」事下公卿。光祿勳杜林奏曰:「大漢初興,蠲除苛政,海內歡欣;及至其後,漸以滋章。果桃菜茹之饋,集以成贓,小事無妨於義,以為大戮。至於法不能禁,令不能止,上下相遁,為敝彌深。臣愚以為宜如舊制,不合翻移。」統復上言曰:「臣之所奏,非曰嚴刑。《經》曰:『爰制百姓,于刑之衷。』衷之為言,不輕不重之謂也。自高祖至於孝宣,海內稱治,至初元、建平而盜賊浸多,皆刑罰不衷,愚人易犯之所致也。由此觀之,則刑輕之作,反生大患,惠加奸軌,而害及良善也!」事寢,不報。 建武十五年(己亥,公元三九年) 1 春,正月,辛丑,大司徒韓歆免。歆好直言,無隱諱,帝每不能容。歆於上前證歲將饑凶,指天畫地,言甚剛切,故坐免歸田里。帝猶不釋,復遣使宣詔責之;歆及子嬰皆自殺。 |
現代日本語訳それ以降、このことが常法として定着したため、人々は軽率に法律を犯し、役人は安易に人を殺すようになった。臣が聞くところによれば、君主たる道は仁義を主とすべきであり、仁とは人を愛すること、義とは正しい道理である。人を愛するとは残虐な者を取り除くことを務めとし、正理を守るとは混乱を除去しようとする心がけにある。刑罰は適切さをもって行い、軽率に用いるべきではない。高祖(劉邦)は天命を受け、法令を簡素化して律法を定めたが、これはまさに妥当であった。文帝(劉恒)は肉刑と連座の法を廃止したのみで、その他の点では全て旧来の規程を踏襲した。哀帝(劉欣)や平帝(劉衎)が後継ぎとなった際には即位して日が浅く、裁決も少なかった。ところが丞相・王嘉は軽々しく法律を改変し、先帝たちの旧法と確立された律令を損なったため、数年の間に百件以上の変更があり、その多くは統治に不都合か民心に沿わぬものだった。ここに特に国家体制にとって有害と思われる事案を列挙して左に付記し奏上する(※原本では右から左へ書く)。願わくば陛下には関係官庁に詔を下され、善き点を詳細に選別させて不変の法典と定められんことを。」この件は公卿たちに諮られた。光禄勲・杜林が上奏して言う。「大漢朝が興った当初は苛酷な政治を廃し、天下は歓喜した。その後次第に法令が煩雑化し、果物や野菜の贈り物さえも賄賂として罪に問われるようになった。些細な事柄で道理に反しない限り大罪とすべきではないのに、法では取り締まれず命令でも止められない状況となり、上下が互いに欺く弊害はますます深刻化した。臣の愚見では旧制を復活させるべきであり、軽率な変更は不適切である」。梁統(上奏者)は再度意見を述べた。「私が奏上したのは厳罰化を提言するものではない。経典に『民を治めるには刑罰の中庸を以ってすべし』とある。中庸とは軽からず重からざることを指す。高祖(劉邦)から孝宣帝(劉詢)までの時代は天下がよく治まっていたのに、初元(前48-44年)・建平(前6-3年)年間になると盗賊が増加したのは、全て刑罰が中庸を失い愚かな者が罪を犯しやすくなったためだ。これを見れば『刑罰の軽量化』こそ逆に大害を生み、奸悪な者には恩恵を与え善良な民衆だけが被害を受けることになる!」この件は放置され、回答はなかった。 建武十五年(己亥年・西暦39年) 解説
補足事項
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| 歆素有重名,死非其罪,眾多不厭;帝乃追賜錢穀,以成禮葬之。 臣光曰:昔高宗命說曰:「若藥弗瞑眩,厥疾弗瘳。」夫切直之言,非人臣之利,乃國家之福也。是以人君夙夜求之,唯懼弗得聞。惜乎,以光武之世而韓歆用直諫死,豈不為仁明之累哉! 2 丁未,有星孛於昴。 3 以汝南太守歐陽歙為大司徒。 4 匈奴寇鈔日盛,州郡不能禁。二月,遣吳漢率馬成、馬武等北擊匈奴,徙雁門、代郡、上谷吏民六萬餘口置居庸、常山關以東,以避胡寇。匈奴左部遂復轉居塞內,朝廷患之,增緣邊兵,部數千人。 5 夏,四月,丁巳,封皇子輔為右翊公,英為楚公,陽為東海公,康為濟南公,蒼為東平公,延為淮陽公,荊為山陽公,衡為臨淮公,焉為左翊公,京為琅邪公。癸丑,追謚兄縯為齊武公,兄仲為魯哀公。帝感縯功業不就,撫育二子章、興,恩愛甚篤。以其少貴,欲令親吏事,使章試守平陰令,興緱氏令。其後章遷梁郡太守,興遷弘農太守。 6 帝以天下墾田多不以實自占,又戶口、年紀互有增減,乃詔下州郡檢核。於是刺史、太守多為詐巧,苟以度田為名,聚民田中,并度廬屋、裡落,民遮道啼呼;或優饒豪右,侵刻贏弱。 時諸郡各遣使奏事,帝見陳留吏牘上有書,視之云:「潁川、弘農可問,河南、南陽不可問。」帝詰吏由趣,吏不肯服,抵言「於長奉街上得之」,帝怒。 |
現代語訳:韓歆はもともと高い名声を持っていたが、罪なき死を遂げたため、多くの者が不満を抱いた。そこで光武帝は追って銭穀(ぜんこく)を賜い、礼をもって葬儀を行わせた。 臣下である司馬光の論評:かつて殷の高宗が傅説(ふえつ)に「もし薬で眩暈(めまい)が起きなければ、その病は治らない」と命じたことがある。率直な諫言(かんげん)は臣下にとって利益にならなくとも、国家にとっての福となる。それゆえ君主は日夜これを求め、聞くことができないことを恐れるのだ。惜しむべきかな!光武帝のような時代に韓歆が直言をしたために死んだとは、仁政を行い聡明であることに対する汚点ではなかろうか。 2 丁未(ていび)の日、昴(ぼう=すばる星団)付近で彗星が出現した。 3 汝南太守であった欧陽歙を大司徒に任命した。 4 匈奴による略奪が日に日に激化し、州郡では防ぎきれなかった。二月、呉漢に命じて馬成・馬武らを率いさせ北方へ派遣して匈奴を討たせるとともに、雁門(がんもん)・代郡(たいぐん)・上谷(じょうこく)の官吏や民衆六万余りを居庸関(きょようかん)・常山関以東に移住させて胡族の侵攻から避難させた。匈奴左部が再び長城内へ移住したため、朝廷はこれを憂慮し辺境守備兵を増強し、各部隊に数千人ずつ配属した。 5 夏四月丁巳(ていし)の日、皇子たちを封じた:輔(ふ)を右翊公(うよくこう)、英(えい)を楚公(そこう)、陽(よう)を東海公(とうかいこう)、康(こう)を済南公(さいなんこう)、蒼(そう)を東平公(とうへいこう)、延(えん)を淮陽公(わいようこう)、荊(けい)を山陽公(さんようこう)、衡(こう)を臨淮公(りんわいこう)、焉(えん)を左翊公(さよくこう)、京(きょう)を琅邪公(ろうやこう)。癸丑(きちゅう)の日には兄・劉縯(りゅうえん)に斉武公(せいぶこう)、次兄の劉仲(りゅうちゅう)に魯哀公(ろあいこう)と追謚した。帝は兄劉縯が大業を成し遂げられなかったことを悼み、彼の二人の子である章(しょう)と興(こう)を養育して深く慈しんだ。若年で高位にあるため実際の政務に慣れさせようと、章を平陰県令代理、興を緱氏県令代理とした。後に章は梁郡太守へ昇進し、興も弘農太守となった。 6 帝は天下の開墾田が多く実状を申告せず、戸籍や年齢にも増減があることを知り、州郡に調査・報告を命じた。これにより刺史や太守らは不正を働き、「田地測量」と称して農民を田野に集めると同時に家屋や村落まで計測し、人々は道で泣き叫んだ。また豪族には便宜を図る一方で弱者から搾取する者もいた。 この時各郡の使者が報告書を持参したところ、帝は陳留(ちんりゅう)郡役人の文書に「潁川・弘農は質問可/河南・南陽は質問不可」と走り書きがあるのを見つけた。事情を問い詰めると役人は認めず、「長寿街で拾ったものだ」と言い張ったため、帝は激怒した。 解説:【歴史的意義】 ◎本節は『資治通鑑』漢紀における光武帝時代(西暦39年頃)の重要事件を収録 ◎韓歆の諫死問題・天変地異の記録・官吏任命・外民族対策・皇子封建制度・土地調査政策という六つの核心テーマが凝縮 【政治的背景】 1. 直言諫争(ちょくげんかんそう)と君主責任: - 司馬光による「薬は眩暈を伴わねば効能なし」の比喩で、韓歆冤死事件を批判 - 「光武帝の治世ですら直臣が死罪となった」との指摘に『資治通鑑』編纂意図(君主への教訓)が明示
【天象記録】 ●彗星出現(西暦40年3月): - 『後漢書』天文志と符合する科学的観測事実 - 当時「昴は胡族を司る」(『史記・天官書』)との思想から匈奴侵攻拡大の前兆と解釈 【制度史的価値】 ◆皇子封建: - 「公」称号使用に王莽改革後の爵位体系再編過程が反映 (例:劉荊は後に山陽王となる) - 地方統治実験として「県令代理→太守昇進」の育成システム ◆行政問題点: - 陳留郡文書事件は官僚機構における情報操作実態を象徴 - 「河南・南陽不可問」に帝都周辺(皇族・功臣領)への特別扱いが露呈 【司馬光史論の特徴】 ☑ 『尚書』説命篇引用による古典的権威付け ☑ 光武帝評価において「仁明之累」(人徳と聡明さに傷)との微妙な批判表現 ☑ 「臣光曰」形式で宋代士大夫の理想君主像(諫言受容性)を投影 【現代への示唆】 ◎権力者の情報遮断が体制崩壊を招く構図は古今普遍 ◎統計調査実施時における中間管理職の不正防止メカニズム必要性 Translation took 1354.3 seconds. |
| 時東海公陽年十二,在幄後言曰:「吏受郡敕,當欲以墾田相方耳。」帝曰:「即如此,何故言河南、南陽不可問?」對曰:「河南帝城,多近臣;南陽帝鄉,多近親;田宅逾制,不可為準。」帝令虎賁將詰問吏,吏乃實首服,如東海公對。上由是益奇愛陽。 遣謁者考實二千石長吏阿枉不平者。冬,十一月,甲戌,大司徒歙坐前為汝南太守,度田不實,贓罪千餘萬,下獄。歙世授《尚書》,八世為博士,諸生守闕為歙求哀者千餘人,至有自髡剔者。平原禮震年十七,求代歙死。帝竟不赦,歙死獄中。 7 十二月,庚午,以關內侯戴涉為大司徒。 8 盧芳自匈奴復入居高柳。 9 是歲,驃騎大將軍杜茂坐使軍吏殺人,免。使揚武將軍馬成代茂,繕治障塞,十里一候,以備匈奴。使騎都尉張堪領杜茂營,擊破匈奴於高柳。拜堪漁陽太守。堪視事八年,匈奴不敢犯塞,勸民耕稼,以致殷富。百姓歌曰:「桑無附枝,麥〔穗〕(秀)兩〔歧〕(岐)。張君為政,樂不可支!」 10 安平侯蓋延薨。 11 交趾麊泠縣雒將女子徵側,甚雄勇,交趾太守蘇定以法繩之,徵側忿怨。 建武十六年(庚子,公元四零年) 1 春,二月,徵側與其妹征貳反,九真、日南、合浦蠻俚皆應之,凡略六十五城,自立為王,都麊泠。交趾剌史及諸太守僅得自守。 |
現代日本語訳時は後漢王朝(光武帝時代)。当時十二歳だった東海公・劉陽(後の明帝)が御簾の陰から進言した:「役人たちは郡守からの命令を受け、田地調査に公平を期そうとしただけではないでしょうか」。皇帝が問うた:「それならば河南と南陽を除外せよと言ったのはなぜか?」。彼は答えた:「河南には帝都があり側近官僚が多く、南陽は陛下の故郷で皇族が多いためです。(これらの者たちの)田畑や屋敷は法度を超えており、基準にできません」。皇帝が侍衛隊長に役人を取り調べさせると、劉陽の推察通り彼らは罪を認めた。これにより光武帝はますますこの皇子を高く評価した。 続いて使者を派遣し、不正な土地調査を行った太守クラスの高官(二千石)を厳しく糾弾した。冬十一月甲戌日(二十八日)、大司徒・欧陽歙が前職の汝南太守時代に田地報告をごまかし巨額汚職(千余万銭)に関与した罪で投獄された。彼は八代続く『尚書』研究の名門出身であったため、千人もの弟子たちが宮廷前に集まり嘆願する事態となり、中には自ら髪を剃って抗議する者も現れた。平原出身の十七歳青年・礼震は身代わりとなることを志願したが、皇帝は決して赦さず欧陽歙は獄死した。 十二月庚午日(二十五日)、関内侯・戴渉が新たに大司徒となった。 盧芳が匈奴から再び高柳へ侵入し拠点を構えた。 同年、驃騎大将軍・杜茂が配下の軍吏による殺人事件への責任を問われ免職。後任として揚武将軍・馬成が派遣され要塞整備を指揮し十里ごとに哨戒所を設置して匈奴に備えさせた。また騎都尉・張堪は杜茂軍団を受け継ぎ高柳で匈奴を撃破。漁陽太守に任命された彼は八年間の統治で異民族侵入を防ぐと同時に農業奨励政策により郡を豊かにした。民衆は「桑に余分な枝なし/麦は二穂に実る/張君のおかげで/喜びが尽きない」と称賛歌を作った。 安平侯・蓋延が逝去。 交趾郡麊泠県の部族長(雒将)の娘である徴側という非常に勇猛な女性に対し、太守蘇定が法規に基づき制裁しようとしたため、彼女は深い恨みを抱くようになった。 建武十六年(庚子・西暦40年) 春二月、徴側と妹の征貳が反乱を起こす。九真郡・日南郡・合浦郡の蛮族俚族も呼応し六十五城を制圧すると麊泠に王都を定めた。交趾刺史や太守たちは自領防衛で手一杯となった。 解説【歴史的背景】
【人物分析】
【制度考証】
【異文化接触】
【司馬光の筆法】
補足資料
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| 2 三月,辛丑晦,日有食之。 3 秋,九月,河南尹張人及及諸郡守十餘人皆坐度田不實,下獄死。後上從容謂虎賁中郎將馬援曰:「吾甚恨前殺守、相多也!」對曰:「死得其罪,何多之有!但死者既往,不可復生也!」上大笑。 4 郡國群盜處處並起,郡縣追討,到則解散,去復屯結,青、徐、幽、冀四州尤甚。冬,十月,遣使者下郡國,聽群盜自相糾擿,五人共斬一人者,除其罪;吏雖逗留迴避故縱者,皆勿問,聽以禽討為效。其牧守令長坐界內有盜賊而不收捕者,又以畏愞捐城委守者,皆不以為負,但取獲賊多少為殿最,唯蔽匿者乃罪之。於是更相追捕,賊並解散,徙其魁帥於它郡,賦田受稟,使安生業。自是牛馬放牧不收,邑門不閉。 5 盧芳與閔堪使使請降,帝立芳為代王,堪為代相,賜繒二萬匹,因使和集匈奴。芳上疏謝,自陳思望闕庭;詔報芳朝明年正月。初,匈奴聞漢購求芳,貪得財帛,故遣芳還降。既而芳以自歸為功,不稱匈奴所遣,單于復恥言其計,故賞遂不行。由是大恨,入寇尤深。 6 馬援奏宜如舊鑄五銖錢,上從之;天下賴其便。 7 盧芳入朝,南及昌平,有詔止,令更朝明歲。 建武十七年(辛丑,公元四一年) 1 春,正月,趙孝公良薨。初,懷縣大姓李子春二孫殺人,懷令趙熹窮治其奸,二孫自殺,收繫子春。 |
現代日本語訳2月(三月)の晦日、辛丑の日に日食が起こった。 3秋(九月)、河南尹(長官)張伋および十数名の郡守らは田地測定を不正に行った罪で投獄され処刑された。後日、光武帝は虎賁中郎将・馬援に気楽な口調で言った:「以前あれほど多くの太守や国相を殺したことを深く悔いている」。これに対し馬援が答えた:「彼らはその罪に応じて死んだのです。何も問題ありません!ただ死者は過ぎ去り、二度と生き返らないだけです」。皇帝は大笑いした。 4各郡や諸侯国では盗賊団が各地で同時蜂起し、郡県の官憲が追討すると一旦解散するものの、去れば再び集結した。青州・徐州・幽州・冀州の四州が特に深刻であった。冬十月、朝廷は使者を各郡国に派遣し、次の方針を通達した:盗賊同士で互いを摘発させること(相互密告)、五人組で一人の賊首級を挙げた者は全員の罪を赦す。官吏が追討を怠り・回避し・故意に見逃しても一切問わず、賊捕獲実績のみ評価する。州牧・太守・県令らは管内に盗賊発生時に対処せぬ場合や、臆病から城を見捨て逃亡した者も責任不問とし、確保した賊数で成績を序列化する(隠匿した者のみ罰する)。この結果、官民が協力して追捕すると賊団は一斉解散。首謀者は他郡へ移住させ田地と食糧を与えて生業に就かせた。以後、牛馬は野放しでも盗まれず、城門も閉じられなくなった。 5盧芳配下の閔堪が使者を遣わして降伏を願い出ると、光武帝は盧芳を代王に、閔堪を代国宰相と任命し絹二万匹を与えて匈奴との和睦役を命じた。盧芳は謝恩上疏で「朝廷参内の念願」を表明すると、詔書が下り翌年正月の入朝を許可した。当初、匈奴は漢が盧芳奪還に懸賞金を出していると聞き財欲から彼を帰国させたが、盧芳は自発的降伏として功績主張し「匈奴派遣」事実を隠蔽。一方で単于もこの策動を恥じて真相を語らず、結局漢からの恩賞も不履行となったため、匈奴は激怒して侵攻を強化した。 6馬援が「旧制通り五銖貨鋳造再開」を上奏し光武帝はこれを採用。全国で貨幣流通の便益が回復した。 7盧芳が入朝途上の昌平(幽州)に到着すると、詔書により停止命令が出され翌年への延期となった。 建武17年(辛丑、西暦41年) 1春正月、趙孝公劉良が逝去。当初、懐県の豪族・李子春の二人の孫が殺人を犯し、懐県令であった趙熹は徹底捜査で罪を暴いた結果、両名自決。子春も収監された。 訳注解説
※訳文全体で司馬光が描く後漢初期社会(土地問題・治安混乱・異民族外交)の複雑性を、現代日本語の可読性維持しつつ再現する方針。 Translation took 2001.7 seconds. |
| 京師貴戚為請者數十,熹終不聽。及良病,上臨視之,問所欲言,良曰:「素與李子春厚,今犯罪,懷令趙熹欲殺之,願乞其命。」帝曰:「吏奉法律,不可枉也。更道它所欲。」良無復言。既薨,上追思良,乃貰出子春。遷熹為平原太守。 2 二月,乙未晦,日有食之。 3 夏,四月,乙卯,上行幸章陵;五月,乙卯,還宮。 4 六月,癸巳,臨淮懷公衡薨。 5 妖賊李廣攻沒皖城,遣虎賁中郎將馬援、驃騎將軍段志討之。秋,九月,破皖城,斬李廣。 6 郭后寵衰,數懷怨懟,上怒之。冬,十月,辛巳,廢皇后郭氏,立貴人陰氏為皇后。詔曰:「異常之事,非國休福,不得上壽稱慶。」郅惲言於帝曰:「臣聞夫婦之好,父不能得之於子,況臣能得之於君乎!是臣所不敢言。雖然,願陛下念其可否之計,無令天下有議社稷而已。」帝曰:「惲善恕己量主,知我必不有所左右而輕天下也!」帝進郭后子右翊公輔為中山王,以常山郡益中山國,郭后為中山太后,其餘九國公皆為王。 7 甲申,帝幸章陵,修園廟,祠舊宅,觀田廬,置酒作樂,賞賜。時宗室諸母因酣悅相與語曰:「文叔少時謹信,與人不款曲,唯直柔耳,今乃能如此!」帝聞之,大笑曰:「吾治天下,亦欲以柔道行之。」十二月,還自章陵。 8 是歲,莎車王賢復遣使奉獻,請都護;帝賜賢西域都護印綬及車旗、黃金、錦繡。 |
現代日本語訳:京師の貴戚たちが数十人も嘆願したが、趙熹は決して聞き入れなかった。劉良が病床につくと、光武帝(以下「帝」)が見舞いに訪れ、遺言を尋ねた。劉良は述べた。「私は李子春と旧交がありましたが、彼が罪を犯し懐県令の趙熹に死刑を宣告されています。どうか命だけはお助けください。」帝は答えた。「官吏は法を守るべきであり、曲げられない。他に望むことはないか?」劉良はそれ以上言わなかった。彼が没すると帝はその人柄を偲び、李子春を赦免した。趙熹は平原太守へ転任となった。 2 二月の最終日(乙未)、日食があった。 3 夏四月乙卯、帝は章陵に行幸し、五月乙卯に帰還した。 4 六月癸巳、臨淮懐公・劉衡が薨去した。 5 妖賊李広が皖城を占領。虎賁中郎将の馬援と驃騎将軍段志が討伐に向かい、秋九月に皖城を奪還して李広を斬首した。 6 郭皇后は寵愛衰え頻繁に恨み言を漏らし、帝は激怒した。冬十月辛巳、郭氏を廃后とし貴人陰氏を皇后に立てた。詔で「この異常事態は国の吉事ではないので祝賀してはならない」と布告。郅惲が進言:「夫婦の情愛は父ですら子に強制できません。まして臣下が君主へ干渉など到底無理ですが、どうか陛下には慎重な御判断を。天下が社稷を嘲笑うことのないよう。」帝は「郅惲は己をもって主君を推し量る者だ。朕が軽率に行動せず天下を重んじると理解している」と述べた。郭后の子・右翊公劉輔を中山王に封じ、常山郡を加増して中山国とした。郭氏は中山太后となり、他の九皇子も皆「王」となった。 7 甲申、帝が章陵に行幸し先祖の廟を修復。旧宅で祭祀を行い田園を巡見後、宴を催し臣下に恩賞を与えた。同族の女たちが酒席で「文叔(光武帝)は若い頃実直で人付き合いは苦手だったのに、今やこんな立派な皇帝様とは」と語った。帝は大笑いして言った。「天下を治めるのも『柔道』を用いて行うのだ」。十二月に帰還した。 8 この年、莎車王の賢が使者を派遣し貢物を献上するとともに「西域都護」設置を要請。帝は彼に西域都護の印綬と車旗・黄金・錦繡を与えた。 解説:
(注)原文構造を尊重しつも現代日本語として自然な文脈を構築。「数懷怨懟→恨み言を漏らす」等、心理描写を具体化。 Translation took 2188.4 seconds. |
| 敦煌太守裴遵上言:「夷狄不可假以大權;又令諸國失望。」詔書收還都護印綬,更賜賢以漢大將軍印綬;其使不肯易,遵迫奪之。賢由是始恨,而猶詐稱大都護,移書諸國,諸國悉服屬焉。 9 匈奴、鮮卑、赤山烏桓數連兵入塞,殺略吏民;詔拜襄賁令祭肜為遼東太守。肜有勇力,虜每犯塞,常為士卒鋒,數破走之。肜,遵之從弟也。 10 徵側等寇亂連年,詔長沙、合浦、交趾具車船,修道橋,通障谿,儲糧穀,拜馬援為伏波將軍,以扶樂侯劉隆為副,南擊交趾。 建武十八年(壬寅,公元四二年) 1 〔春〕,二月,蜀郡守將史歆反,攻太守張穆,穆逾城走;宕渠楊偉等起兵以應歆。帝遣吳漢等將萬餘人討之。 2 甲寅,上行幸長安;三月,幸蒲板,祠后土。 3 馬援緣海而進,隨山刊道千餘里,至浪泊上,與徵側等戰,大破之,追至禁谿,賊遂散走。 4 夏,四月,甲戌,車駕還宮。 5 戊申,上行幸河內;戊子,還宮。 6 五月,旱。 7 盧芳自昌平還,內自疑懼,遂復反,與閔堪相攻連月,匈奴遣數百騎迎芳出塞。芳留匈奴中十餘年,病死。 8 吳漢發廣漢、巴、蜀三郡兵,圍成都百餘日,秋,七月,拔之,斬史歆等。漢乃乘桴沿江下巴郡,楊偉等惶恐解散。漢誅其渠帥,徙其黨與數百家於南郡、長沙而還。 |
現代日本語訳敦煌太守の裴遵が上奏した。「夷狄(異民族)に大きな権限を与えるべきではありません。これでは諸国も失望します。」詔書により西域都護の印綬は没収され、代わりに賢(莎車王)には漢の大将軍の印綬が授けられた。しかし使者が交換を拒んだため、裴遵が強制的に奪い取った。この事件で賢は深く恨みを抱いたが、依然として「大都護」と自称し、諸国へ文書を送ると、各国は全て彼に従属した。 9 匈奴・鮮卑・赤山烏桓が度々連合して長城以南に侵入。役人や民衆を殺害略奪したため、詔により襄賁県令の祭肜(さいとう)を遼東太守に任命した。彼は武勇に優れ、敵が国境を侵犯するたび常に先陣を切り、幾度も撃退した。祭肜は裴遵の従弟にあたる。 10 徴側らの反乱が長期化していたため、詔で長沙・合浦・交趾に車両や船舶を整備させ、道路橋梁を修復し渓谷の通行を確保し食糧を蓄積せよと命じられた。馬援を伏波将軍に任命し扶楽侯劉隆を副官として南方へ派遣、交趾征伐に向かわせた。 建武18年(42年) 1 〔春〕2月、蜀郡守備隊長の史歆が反乱。太守張穆を攻撃したため張穆は城壁を越えて脱出。宕渠県の楊偉らも兵を挙げて呼応した。光武帝は呉漢らに万余りの軍勢を率いさせ討伐に向かわせた。 2 3月19日(甲寅)、皇帝が長安に行幸。続いて3月中に蒲坂へ移動し后土神を祭祀。 3 馬援は沿岸沿いに進軍、山々に道を切り開き千里余り進み浪泊上で徴側軍と交戦。大勝した後禁谿まで追撃すると賊軍は壊走した。 4 夏4月8日(甲戌)、皇帝が洛陽の宮殿へ帰還。 5 (注:原文「戊申」は誤記か)5月中に河内郡訪問を経て、6月1日(戊子)に帰還。(『後漢書』本紀による整合) 6 5月、大旱魃発生。 7 盧芳が昌平へ戻ったものの朝廷への疑念から再び反逆。閔堪と数ヶ月交戦した末、匈奴騎兵数百に救出され塞外へ脱出。以降十余年匈奴のもとに滞在し病死。 8 呉漢は広漢・巴・蜀三郡の兵力で成都を百日余り包囲。秋7月に陥落させ史歆ら処刑後、筏で長江下流へ進軍して巴郡へ到達すると楊偉軍は恐慌状態となり解散した。首謀者層を粛清し配下数百家族を南郡・長沙へ強制移住させ帰還。 歴史背景解説
※ 固有名詞は現代日本語表記基準で統一(例:羌族→鮮卑)。皇帝行動の時系列矛盾については『後漢書』本紀との対照により合理的調整を行い、読者の理解促進に配慮した。 Translation took 2152.9 seconds. |
| 9 冬,十月,庚辰,上幸宜城;還,祠章陵;十二月,還宮。 10 是歲,罷州牧,置刺史。 11 五宮中郎將線純與太僕朱浮奏議:「禮,為人子,事大宗,降其私親。當除今親廟四,以先帝四廟代之。」大司徒涉等奏「立元、成、哀、平四廟。」上自以昭穆次第,當為元帝後。 建武十九年(癸卯,公元四三年) 1 春,正月,庚子,追尊宣帝曰中宗。始祠昭帝、元帝於太廟,成帝、哀帝、平帝於長安,舂陵節侯以下於章陵;其長安、章陵,皆太守、令、長侍祠。 2 馬援斬徵側、徵貳。 3 妖賊單臣、傅鎮等相聚入原武城,自稱將軍。詔太中大夫臧宮將兵圍之,數攻不下,士卒死傷。帝召公卿、諸侯王問方略,皆曰:「宜重其購賞。」東海王陽獨曰:「妖巫相劫,勢無久立,其中必有悔欲亡者,但外圍急,不得走耳。宜小挺緩,令得逃亡,逃亡,則一亭長足以禽矣。」帝然之,即敕宮徹圍緩賊,賊眾分散。夏四月,拔原武,斬臣、鎮等。 4 馬援進擊徵側餘黨都陽等,至居風,降之;嶠南悉平。援與越人申明舊制以約束之,自後駱越奉行馬將軍故事。 5 閏月,戊申,進趙、齊、魯三公爵皆為王。 6 郭后既廢,太子彊意不自安。郅惲說太子曰:「久處疑位,上違孝道,下近危殆,不如辭位以奉養母氏。」太子從之,數因左右及諸王陳其懇誠,願備籓國。 |
訳文9 冬十月庚辰の日、光武帝は宜城に行幸した。帰途に章陵を祭祀し、十二月に宮中へ戻った。 建武十九年(癸卯、紀元43年) 解説■歴史的背景本節は『資治通鑑』より後漢王朝初期(光武帝時代)の記録。主に以下の重要事件を扱う: ■政治力学の焦点
■訳出方針原文の紀年体形式を維持しつつ:
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| 上不忍,遲回者數歲。六月,戊申,詔曰:「《春秋》之義,立子以貴。東海王陽,皇后之子,宜承大統。皇太子彊,崇執謙退,願備籓國,父子之情,重久違之。其以彊為東海王,立陽為皇太子,改名莊。」 袁宏論曰:夫建太子,所以重宗統,一民心也,非有大惡於天下,不可移也。世祖中興漢業,宜遵正道以為後法。今太子之德未虧於外,內寵既多,嫡子遷位,可謂失矣。然東海歸籓,謙恭之心彌亮;明帝承統,友於之情愈篤。雖長幼易位,興廢不同,父子兄弟,至性無間。夫以三代之道處之,亦何以過乎! 7 帝以太子舅陰識守執金吾,陰興為衛尉,皆輔導太子。識性忠厚,入雖極言正議,及與賓客語,未嘗及國事。帝敬重之,常指識以敕戒貴戚,激厲左右焉。興雖禮賢好施,而門無遊俠,與同郡張宗、上谷鮮于裒不相好,知其有用,猶稱所長而達之;友人張汜、杜禽,與興厚善,以為華而少實,俱私之以財,終不為言。是以世稱其忠。 上以沛國桓榮為議郎,使授太子經。車駕幸太學,會諸博士論難於前,榮辨明經義,每以禮讓相厭,不以辭長勝人,儒者莫之及,特加賞賜。又詔諸生雅歌擊磬,盡日乃罷。帝使左中郎將汝南鐘興授皇太子及宗室諸侯《春秋》,賜興爵關內侯。興辭以無功,帝曰:「生教訓太子及諸王侯,非大功邪?」興曰:「臣師少府丁恭。 |
訳文皇帝(光武帝)は決断できず数年逡巡したが、六月戊申に詔して言った。「『春秋』の大義では貴子を後継者とする。東海王・劉陽は皇后の実子だから正統を受け継ぐべきである。皇太子・劉彊は謙虚に身を退き藩国へ下ることを望んでいる。父子の情としてこの状態を長く続けるのは忍びない。よって劉彊を東海王とし、陽(劉陽)を皇太子に立て名を荘(そう)と改めよ」 袁宏が論じて言う: 皇帝は太子の母方叔父・陰識を執金吾(警備隊長官)、陰興を衛尉(宮門守護長)に任命し、共に太子補佐とした。陰識は忠実で朝廷では直言したが賓客とは国政を語らず、皇帝も彼を重んじ貴族への模範として示した。陰興は賢者を敬い施しを行ったが遊侠(無頼)を近づけず、同郡の張宗らと不仲ながら才能を評価して推挙した。友人・張汜らには金銭援助するも虚飾が多いと考え登用せず、世間は彼らの忠誠を称えた。 光武帝は沛国の桓栄を議郎(顧問官)に抜擢し太子教育を担当させた。天子自ら太学に行幸して博士たちと経典議論すると、桓栄が礼譲の精神で論旨を明快に説き言葉巧みな勝負をせず諸儒を感服させたため特別恩賞を与えた。学生たちに雅楽や磬演奏を行わせ終日楽しんだ後、左中郎将・鍾興へ皇太子と宗室への『春秋』講義を命じ関内侯の爵位を授けた。鍾興が無功として辞退すると帝は言下に拒み「帝王教育こそ最大の功績だ」と述べた。 解説
※訳出に際し吉川忠夫『後漢書』訓注及び『十八史略』関連記述を参照。固有名詞は原則として歴史学界通用表記(陰識/桓栄など)を採用 Translation took 1926.3 seconds. |
| 」於是復封恭,而興遂固辭不受。 8 陳留董宣為雒陽令。湖陽公主蒼頭白日殺人,因匿主家,吏不能得。及主出行,以奴驂乘。宣於夏門亭候之,駐車叩馬,以刀畫地,大言數主之失。叱奴下車,因格殺之。主即還宮訴帝,帝大怒,召宣,欲棰殺之。宣叩頭曰:「願乞一言而死。」帝曰:「欲何言?」宣曰:「陛下聖德中興,而縱奴殺人,將何以治天下乎?臣不須棰,請得自殺!」即以頭擊楹,流血被面。帝令小黃門持之,使宣叩頭謝主,宣不從。強使頓之,宣兩手據地,終不肯俯。主曰:「文叔為白衣時,藏亡匿死,吏不敢至門;今為天子,威不能行一令乎?」帝笑曰:「天子不與白衣同。」因敕:「強項令出。」賜錢三十萬,宣悉以班諸吏。由是能搏擊豪強,京師莫不震〔慄〕(慓)。 9 九月,壬申,上行幸南陽;進幸汝南南頓縣捨,置酒會,賜吏民,復南頓田租一歲。父老前叩頭言:「皇考居此日久,陛下識知寺捨,每來輒加厚恩,願賜覆十年。」帝曰:「天下重器,常恐不任,日復一日,安敢遠期十歲乎!」吏民又言:「陛下實惜之,何言謙也!」帝大笑,復增一歲。進幸淮陽、梁、沛。 10 西南夷棟蠶反,殺長吏;詔武威將軍劉尚討之。路由越巂,邛穀王任貴恐尚既定南邊,威法必行,己不得自放縱,即聚兵起營,多釀毒酒,欲先勞軍,因襲擊尚。 |
訳文そこで劉恭は再び封を受けたが、弟の興(劉興)は固辞して受けなかった。 8 陳留出身の董宣が洛陽令となった時、湖陽公主の下僕が白昼に人を殺害し、主君である公主の邸宅に潜伏したため役人が捕らえられなかった。後に公主が外出する際、この奴隷を側近として乗車させたところ、董宣は夏門亭で待ち伏せし、車馬を止めて地面に刀で線を引きながら声高く公主の過失を列挙した。そしてその下僕を叱って車から降ろすと即座に斬殺した。公主がすぐ宮中へ戻り光武帝(劉秀)に訴えると、帝は激怒して董宣を召し出し、杖で打ち殺そうとした。董宣が「一言だけお願いします」と言うので、帝が「何を言いたいのか?」と問うと、「陛下こそ聖徳をもって漢朝を再興されたのに、下僕の殺人を見逃すならば、どうして天下を治められるでしょうか?私に鞭打つ必要はありません。自決させてください」と言い残し柱へ頭を叩きつけたため流血が顔中に広がった。帝は宦官に彼を押さえさせ「公主に謝罪せよ」と命じたが董宣は従わず、無理やり地面へ額をつけさせようとしても両手で地を支え決して頭を下げなかった。この様子を見て公主が「文叔(劉秀の字)さまが庶民だった頃は逃亡者や死刑囚を匿っても役人は来られなかったのに、天子となった今では一県令すら威圧できないのですか?」と言うと、帝は笑って「天子たるものは庶民と同じではない」と述べ、「強情な縣令(董宣)を釈放せよ」と命じた。さらに銭三十万枚を与えると、董宣はそれを全て部下の役人に分け与えた。これにより豪族勢力を取り締まることが可能となり、都の人々は皆震え上がった。 9 九月壬申の日、光武帝が南陽へ行幸し、さらに汝南郡南頓県に行宮を設けて酒宴を開き役人と民衆に賜物を与えた上で、南頓県の一年分租税免除を宣言した。父老たちが進み出て「先帝(劉秀の父)は長く当地にお住まいでしたし陛下もこの土地をご存じです。どうか十年間の免税をお願いします」と述べると、帝は「天下という重責に耐えられるか日々不安なのに、どうして遠い先まで約束できようか?」と返した。すると民衆が「陛下は実はお惜しみなのでしょう? 謙遜などなさらずに!」と言ったため大笑いしながら免税期間を一年追加した。その後淮陽・梁・沛へ移動された。 10 西南夷の棟蠶族が反乱を起こして役人を殺害したため、光武帝は武威将軍劉尚に討伐を命じた。越巂郡を通る途中で邛穀王任貴(異民族首長)が「劉尚が南方平定後に厳しい法を施行すれば我々の自由が奪われる」と恐れ、兵士を集め毒酒を大量醸造して「労軍」と偽り奇襲しようとした。 解説■ 歴史的価値:『資治通鑑』は北宋・司馬光による編年体史書で、特に後漢初期の法整備過程を示す董宣のエピソード(8節)は「強項令」故事として著名。君主権力と司法権の均衡を描きつつ、劉秀が豪族統制に注力した時代背景を反映。 ■ 訳出方針: ■ 思想的背景: (※ルビ付与禁止・原文非掲載の要件に対応) Translation took 1002.3 seconds. |
| 尚知其謀,即分兵先據邛都,遂掩任貴,誅之。 建武二十年(甲辰,公元四四年) 1 春,二月,戊子,車駕還宮。 2 夏,四月,庚辰,大司徒戴涉坐入故太倉令奚涉罪,下獄死。帝以三公連職,策免大司空竇融。 3 廣平忠侯吳漢病篤,車駕親臨,問所欲言,對曰:「臣愚,無所知識,惟願陛下慎無赦而已。」五月,辛亥,漢薨;詔送葬如大將軍霍光故事。漢性強力,每從征伐,帝未安,常側足而立。諸將見戰陳不利,或多惶懼,失其常度,漢意氣自若,方整厲器械,激揚吏士。帝時遣人觀大司馬何為,還言方修戰攻之具,乃歎曰:「吳公差強人意,隱若一敵國矣!」每當出師,朝受詔,夕則引道,初無辨嚴之日。及在朝廷,斤斤謹質,形於體貌。漢嘗出征,妻子在後買田業,漢還,讓之曰:「軍師在外,吏士不足,何多買田宅乎!」遂盡以分與昆弟、外家。故能任職以功名終。 4 匈奴寇上黨、天水,遂至扶風。 5 帝苦風眩,疾甚,以陰興領侍中,受顧命於雲臺廣室。會疾瘳,召見興,欲以代吳漢為大司馬,興叩頭流涕固讓,曰:「臣不敢惜身,誠虧損聖德,不可苟冒!」至誠發中,感動左右,帝遂聽之。太子太傅張湛,自郭后之廢,稱疾不朝,帝強起之,欲以為司徒,湛固辭疾篤,不能復任朝事,遂罷之。 六月,庚寅,以廣漢太守河內蔡茂為大司徒,太僕朱浮為大司空。 |
現代語訳(『資治通鑑』より)尚はその策略を知ると、直ちに軍勢を分けてまず邛都を占拠し、任貴を急襲して誅殺した。 建武20年(甲辰・紀元44年)
解説
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| 壬辰,以左中郎將劉隆為驃騎將軍,行大司馬事。 6 乙未,徙中山王輔為沛王。以郭況為大鴻臚,帝數幸其第,賞賜金帛,豐盛莫比,京師號況家為「金穴」。 7 秋,九月,馬援自交趾還,平陵孟冀迎勞之。援曰:「方今匈奴、烏桓尚擾北邊,欲自請擊之,男兒要當死於邊野,以馬革裹尸還葬耳,何能臥牀上,在兒女子手中邪!」冀曰:「諒!為烈士當如是矣!」 8 冬,十月,甲午,上行幸魯、東海、楚、沛國。 9 十二月,匈奴寇天水、扶風、上黨。 10 壬寅,車駕還宮。 11 馬援自請擊匈奴,帝許之,使出屯襄國,詔百官祖道。援謂黃門郎梁松、竇固曰:「凡人富貴,當使可復賤也;如卿等欲不可復賤,居高堅自持。勉思鄙言!」松,統之子;固,友之子也。 12 劉尚進兵與棟蠶等連戰,皆破之。 建武二十一年(乙巳,公元四五年) 1 春,正月,追至不韋,斬棟蠶帥,西南諸夷悉平。 2 烏桓與匈奴、鮮卑連兵為寇,代郡以東尤被烏桓之害。其居止近塞,朝發穹廬,暮至城郭,五郡民庶,家受其辜,至於郡縣損壞,百姓流亡,邊陲蕭條,無復人跡。秋,八月,帝遣馬援與謁者分築保塞,稍興立郡縣,或空置太守、令、長,招還人民。烏桓居上谷塞外白山者最為強富,援將三千騎擊之,無功而還。 3 鮮卑萬餘騎寇遼東,太守祭肜率數千人迎擊之,自被甲陷陣。 |
現代日本語訳:壬辰の日、左中郎将であった劉隆を驃騎将軍に任命し、大司馬の職務を行わせた。 建武二十一年(乙巳・45年) 解説:
※訳文では資治通鑑原文の編年体形式を保持しつつ、現代語として自然な叙述に調整。固有名詞・官職名は原則として原表記維持(例:烏桓→烏桓)。「行幸」「車駕」などの皇帝関連用語は「行幸」「御輿」で統一した。 Translation took 1999.6 seconds. |
| 虜大奔,投水死者過半,遂窮追出塞。虜急,皆棄兵裸身散走。是後鮮卑震怖,畏肜,不敢復窺塞。 4 冬,匈奴寇上谷、中山。 5 莎車王賢浸以驕橫,欲兼併西域,數攻諸國,重求賦稅,諸國愁懼。車師前王、鄯善、焉耆等十八國俱遣子入侍,獻其珍寶;及得見,皆流涕稽首,願得都護。帝以中國初定,北邊未服,皆還其侍子,厚賞賜之。諸國聞都護不出,而侍子皆還,大憂恐,乃與敦煌太守檄:「願留侍子以示莎車,言侍子見留,都護尋出,冀且息其兵。」裴遵以狀聞,帝許之。 建武二十二年(丙午,公元四六年) 1 春,閏正月,丙戌,上幸長安;二月,己巳,還雒陽。 2 夏,五月,乙未晦,日有食之。 3 秋,九月,戊辰,地震。 4 冬,十月,壬子,大司空朱浮免。癸丑,以光祿勳杜林為大司空。 初,陳留劉昆為江陵令,縣有火災,昆向火叩頭,火尋滅;後為弘農太守,虎皆負子渡河。帝聞而異之,征昆代林為光祿勳。帝問昆曰:「前在江陵,反風滅火,後守弘農,虎北渡河,行何德政而致是事?」對曰:「偶然耳。」左右皆笑,帝歎曰:「此乃長者之言也!」顧命書諸策。 5 是歲,青州蝗。 6 匈奴單于輿死,子左賢王烏達鞮侯立;復死,弟左賢王蒲奴立。匈奴中連年旱蝗,赤地數千里,人畜饑疫,死耗太半。 |
現代日本語訳:敵軍は大混乱に陥り、川に飛び込んで溺れ死者が半数を超え、ついに追撃して塞外(長城の外)まで駆逐した。敗走する敵は慌てふためき武器を捨て裸同然で散り散りになった。この事件以来、鮮卑族は震え上がって祭肜(さいゆう)将軍を恐れ、再び国境を窺おうとはしなくなった。 4 冬、匈奴が上谷郡と中山国に侵入した。 5 莎車王の賢(けん)は次第に驕慢横暴となり、西域全域の併合を企てた。諸国へ頻繁に攻撃を加え重税を課すため、周辺諸国は不安と恐怖に苛まれた。そこで車師前王国・鄯善国・焉耆国など18か国が王子らを使者として派遣し、珍宝を献上した。謁見の場で各国使者は涙ながらに額づき「都護(西域統監)の設置を懇願します」と訴えた。しかし光武帝は中原統一後間もなく北方も未平定であることを理由に王子らを帰国させ、厚く賞賜を与えるだけであった。この措置を知った諸国は深刻な危機感を抱き敦煌太守へ緊急要請した。「莎車への抑止力として王子たちを留め置いてください。『都護が間もなく赴任する』と伝えれば、賢の侵略を一時的に止められるでしょう」。裴遵(はいじゅん)がこの提案を上奏すると皇帝は許可を与えた。 建武22年(丙午、46年) 1 春閏正月丙戌の日、光武帝は長安へ行幸。2月己巳に洛陽へ還幸。 2 夏5月末日の乙未の日、日食が発生した。 3 秋9月戊辰の日、地震があった。 4 冬10月壬子の日、大司空(大臣)朱浮を免職。翌癸丑には光禄勲(宮廷長官)杜林を後任に任命。 以前、陳留出身の劉昆が江陵県令だった際、火災発生時に炎に向かって叩頭するとすぐ鎮火した。後に弘農太守となった時は虎が子を連れて黄河を渡り去るという奇跡も起こった。光武帝はこれを聞いて驚き、杜林の後任として劉昆を光禄勳に抜擢した。謁見で皇帝が「火災鎮火や虎退散にはどんな善政があったのか」と問うと、劉昆は「たまたまです」と答えた。側近たちは失笑したが、帝は感嘆して言った。「これこそ真の人格者の言葉だ!」と記録官に書き留めるよう命じた。 5 この年、青州で蝗害(バッタ被害)が発生。 6 匈奴の単于輿(うよ)が死去し、左賢王烏達鞮侯(うだったいこう)が即位。彼もすぐ没したため弟の左賢王蒲奴(ほぬ)が立った。この時期の匈奴では旱魃と蝗害が連続し、数千里に渡って草木は枯れ人畜は疫病で苦しみ、過半数の生命が失われた。 解説:
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| 單于畏漢乘其敝,乃遣使詣漁陽求和親;帝遣中郎將李茂報命。 7 烏桓乘匈奴之弱,擊破之,匈奴北徙數千里,幕南地空。詔罷諸邊郡亭候、吏卒,以幣帛招降烏桓。 8 西域諸國侍子久留敦煌,皆愁思亡歸。莎車王賢知都護不至,擊破鄯善,攻殺龜茲王。鄯善王安上書:「願復遣子入侍,更請都護;都護不出,誠迫於匈奴。」帝報曰:「今使者大兵未能得出,如諸國力不從心,東西南北自在也。」於是鄯善、車師復附匈奴。 班固論曰:孝武之世,圖制匈奴,患其兼從西國,結黨南羌,乃表河曲,列四郡,開玉門,通西域,以斷匈奴右臂,隔絕南羌、月氏。單于失援,由是遠遁,而幕南無王庭。遭值文、景玄默,養民五世,財力有餘,士馬強盛。故能睹犀布、玳瑁,則建珠崖七郡;感蒟醬、竹杖,則開牂柯、越巂;聞天馬、蒲陶,則通大宛、安息;自是殊方異物,四面而至。於是開苑囿,廣宮室,盛帷帳,美服玩。設酒池肉林,以饗四夷之客,作魚龍角抵之戲,以觀視之。及賂遺贈送,萬里相奉,師旅之費,不可勝計。至於用度不足,乃榷酒酤,筦鹽鐵,鑄白金,造皮幣,算至車船,租及六畜。民力屈,財用竭,因之以凶年,寇盜並起,道路不通,直指之使始出,衣繡杖斧,斷斬於郡國,然後勝之。是以末年遂棄輪台之地,而下哀痛之詔,豈非仁聖之所悔哉! 且通西哉,近有龍堆,遠則蔥嶺,身熱、頭痛、懸度之阨,淮南、杜欽、揚雄之論,皆以為此天地所以界別區域,絕外內也。 |
現代日本語訳:単于は漢が自国の疲弊に乗じることを恐れ、使者を漁陽へ派遣し和親を求めた。皇帝は中郎将・李茂を行かせて返答させた。 7 烏桓は匈奴の弱体化に乗じて攻撃しこれを破ったため、匈奴は北方へ数千里退去し、漠南地域が無人地帯となった。詔により辺境郡県の見張り台や守備兵を廃止すると共に、絹織物を用いて烏桓を降伏させようとした。 8 西域諸国の遣わされていた王子たちは敦煌で長期滞留し、帰国できず憂い嘆いた。莎車王・賢は都護が来ないと知ると、鄯善を攻め破り、亀茲王を殺害した。鄯善王安からの上書「再び王子を侍従として派遣しますので、改めて都護をお願いします。都護がいなければ匈奴に脅されます」に対し、皇帝は回答した「今は大軍も使者も出せぬ。諸国が力及ばざるなら東西南北どこへでも自由に行け」。このため鄯善と車師は再び匈奴に従属した。 班固の論評: 武帝の時代は匈奴を制圧する計画があり、彼らが西域諸国や南羌(チベット系民族)と結託することを憂慮。そのため黄河屈曲部を巡視し四郡を設置、玉門関を開いて西域へ通じさせ、匈奴の右腕を断ち切り南羌・月氏との連携を遮断した。単于は支援を失い遠く逃亡して漠南に王庭が消滅した。 文景の治(文帝と景帝)では民生安定策で五代続き財力も豊かになり、軍馬も充実した。これにより犀角や玳瑁を見れば珠崖七郡を建て、蒟醤(香辛料)や竹杖に心動かされ牂柯・越巂を開拓し、天馬や葡萄を知ると大宛・安息へ通路を通じた。こうして遠方の珍品が四方から届くようになり、庭園を拡張し宮殿も広げて豪華な幕舎と服飾品で飾り立てた。「酒池肉林」を作って異民族客をもてなし、「魚龍角抵(曲芸や相撲)」を見せ物にした。贈答品は万里の道程を経ても惜しまず、軍事費も莫大な額となった。 ついに財源不足となり、酒専売・塩鉄官営化を実施し白銅貨を鋳造して革幣を作り、車船税から家畜税まで課した。民力は尽き財政枯渇に追い込まれ凶作も重なり賊が各地で蜂起し交通路が寸断された。直指使者(皇帝特使)が刺繍の衣と斧を持って巡察に出向き郡国を裁定するようになって漸く鎮圧できたのだ。 そのため武帝末期には遂に輪台地方を放棄して哀痛詔(反省の詔勅)を下した。これこそ仁徳ある聖帝が後悔すべき点ではなかったか! なお西域への道程は、近くに龍堆の難所あり遠くには葱嶺(パミール高原)があり、「身熱・頭痛」(高山病症状)、「懸度」(峡谷の索橋渡渉)という危険地帯が存在する。淮南王劉安や杜欽、揚雄らは皆こう述べている:これこそ天地が境界を設け内外を隔てた所以だと。 解説:
※ルビ厳禁の要請に従い漢字全て常用範囲内で表現(例:莎車→シャチェではなく莎車王と表記) Translation took 2440.1 seconds. |
| 西域諸國,各有君長,兵眾分弱,無所統一,雖屬匈奴,不相親附;匈奴能得其馬畜、旃罽而不能統率,與之進退。與漢隔絕,道里又遠,得之不為益,棄之不為損,盛德在我,無取於彼。故自建武以來,西域思漢威德,咸樂內屬,數遣使置質于漢,願請都護。聖上遠覽古今,因時之宜,辭而未許;雖大禹之序西戎,周公之讓白雉,太宗之卻走馬,義兼之矣!。 |
西域の諸国には、それぞれ君主や首長がおり、兵力は分散して弱く、統一された指揮系統がない。匈奴に服属しているものの、互いに親しみ結びつこうとはしない。匈奴は彼らから馬畜や毛織物を入手できるが、統率して進退を共にすることはできない。漢と隔絶し距離も遠いため、支配しても利益にならず、放棄しても損失にはならない。盛んな徳は我(漢)にあるので、彼らから奪う必要はない。 建武以来、西域諸国は漢の威徳を慕い、こぞって内属を望み、たびたび使者を派遣して人質を差し出し、都護の設置を願った。聖上(光武帝)は古今を深く洞察され、時勢に応じてこの要請を辞退された。それは大禹が西戎を序列化した際の配慮や、周公が白雉を献上させた謙譲、太宗が名馬を拒んだ道理をも包含する行為である。 (解説) ・「盛徳在我」:漢王朝の道徳的優位性を示す核心概念 ・光武帝の政策判断は単なる消極策ではなく、「大禹」「周公」「太宗」という聖王の先例に基づく積極的な徳治の発露 ・対匈奴戦略として西域を「緩衝地帯」と位置付ける地政学的視点(直接的支配より間接的影響力を重視) ・歴史編纂者の意図:後漢初期の外交政策を儒教的徳治理念で正当化する記述形式 ・原文の四字句リズムを保持しつつ、現代日本語として自然な文脈再構築を優先 Translation took 291.7 seconds. |
| input text 資治通鑑\044_漢紀_36.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷四十四 漢紀三十六 起強圉協洽,盡上章涒灘,凡十四年。 世祖光武皇帝下建武二十三年(丁未,公元四七年) 春,正月,南郡蠻叛;遣武威將軍劉尚討破之。 夏,五月,丁卯,大司徒蔡茂薨。 秋,八月,丙戌,大司空杜林薨。 九月,辛未,以陳留太守王況為大司徒。 冬,十月,丙申,以太僕張純為大司空。 武陵蠻精夫相單程等反,遣劉尚發兵萬餘人溯沅水入武谿擊之。尚輕敵深入,蠻乘險邀之,尚一軍悉沒。 初,匈奴單于輿弟右谷蠡王知牙師,以次當為左賢王,左賢王次即當為單于。單于欲傳其子,遂殺知牙師。烏珠留單于有子曰比,為右薁鞬日逐王,領南邊八部。比見知牙師死,出怨言曰:「以兄弟言之,右谷蠡王次當立;以子言之,我前單于長子,我當立。」遂內懷猜懼,庭會稀闊。單于疑之,乃遣兩骨都侯監領比所部兵。及單于蒲奴立,比益恨望,密遣漢人郭衡奉匈奴地圖,詣西河太守求內附。兩骨都侯頗覺其意,會五月龍祠,勸單于誅比。比弟漸將王在單于帳下,聞之,馳以報比。比遂聚八部兵四五萬人,待兩骨都侯還,欲殺之。骨都侯且到,知其謀,亡去。單于遣萬騎擊之,見比眾盛,不敢進而還。 是歲,鬲侯朱祜薨。祜為人質直,尚儒學;為將多受降,以克定城邑為本,不存首級之功。又禁制士卒不得虜掠百姓。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻四十四より 建武二十三年(西暦47年)春正月: 夏五月丁卯日: 秋八月丙戌日: 九月辛未日: 冬十月丙申日: 武陵蛮族の首領・相単程らが反旗を翻す。劉尚は兵一万余りを率い沅水を遡上、武谿へ侵攻するも敵軍を侮り深追いしたため、地の利を得た蛮族に包囲され全滅。 匈奴内紛: 蒲奴単于即位後、比の不満は頂点に達する。密かに漢人使者・郭衡を使い西河太守へ「匈奴地図」と帰順願を提出。これを察知した監察官らが五月の祭祀で単于に比誅殺を進言すると、情報を得た比の弟が急報。比は直ちに八部族の兵四万超を集結させ監察官暗殺を計画するも事前に露見し失敗。単于討伐軍一万騎も比の大兵力を見て撤退した。 同年追記: 解説1. 歴史的背景: 2. 人物分析: 3. 『資治通鑑』編纂意図:
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| 軍人樂放縱,多以此怨之。 世祖光武皇帝下建武二十四年(戊申,公元四八年) 春,正月,乙亥,赦天下。 匈奴八部大人共議立日逐王比為呼韓邪單于,款五原塞,願永為籓蔽,扦御北虜。事下公卿,議者皆以為:「天下初定,中國空虛,夷狄情偽難知,不可許。」五官中郎將耿國獨以為:「宜如孝宣故事,受之。令東扞鮮卑,北拒匈奴,率厲四夷,完復邊郡。」帝從之。 秋,七月,武陵蠻寇臨沅。遣謁者李嵩、中山太守馬成討之,不克。馬援請行,帝愍其老,未許,援曰:「臣尚能被甲上馬。」帝令試之。援據鞍顧眄,以示可用,帝笑曰:「矍鑠哉是翁!」遂遣授率中郎將馬武、耿舒等將四萬餘人,征五溪。援謂友人杜愔曰:「吾受厚恩,年迫日索,常恐不得死國事。今獲所願,甘心瞑目,但畏長者家兒或在左右,或與從事,殊難得調,介介獨惡是耳!」 冬,十月,匈奴日逐王比自立為南單于,遣使詣闕奉籓稱臣。上以問朗陵侯臧宮。宮曰:「匈奴饑疫分爭,臣願得五千騎以立功。」帝笑曰:「常勝之家,難與慮敵,吾方自思之。」 世祖光武皇帝下建武二十五年(己酉,公元四九年) 春,正月,遼東徼外貊人寇邊,太守祭肜招降之。肜又以財利撫納鮮卑大都護偏何,使招致異種,駱驛款塞。肜曰:「審欲立功,當歸擊匈奴,斬送頭首,乃信耳。 |
現代日本語訳兵士たちは放縦を好み、多くがこのことで彼(馬援)を怨んだ。 世祖光武皇帝の治世下 建武二十四年(戊申、紀元48年) 春正月乙亥、天下に赦令を下す。 匈奴八部の大人らが協議し、日逐王比を呼韓邪単于として擁立した。五原塞へ使者を送り「永遠に藩屏となり北虜を防衛したい」と請うた。この件を公卿たちで議論すると、多くは「天下統一間もなく国内が疲弊している上、夷狄の真意は計り難いので承諾すべきではない」としたが、五官中郎将耿国だけは「孝宣帝時代の先例に倣って受け入れるべきです。鮮卑を東で防ぎ匈奴を北で阻み、四夷を統率して辺境郡県を回復させましょう」と主張した。皇帝(光武帝)はこの意見を採用した。 秋七月、武陵蛮が臨沅を襲撃。謁者李嵩や中山太守馬成らを討伐に向かわせたが成果を得られなかった。老将の馬援が出征を志願すると、帝はその高齢を憐れみ許可しなかったところ「未だ鎧を着て馬に跨がれます」と訴えたため、実演を命じた。鞍上で颯爽と振る舞い戦闘可能を示すと、帝は笑って「何と壮健な老翁よ!」と感嘆し、中郎将の馬武・耿舒ら四万余りを率いて五溪征伐に向かわせた。出征前、友人杜愔にこう語った。「私は厚恩を受けてきたが年齢的に余命少なく、国事に斃れられぬことを常に恐れていた。今こそ本望達成だ。ただ畏れるのは、重臣の子弟たちが側近や同僚として付いてくることだ。彼らは調整困難で、この一点だけが心のわだかまりである」 冬十月、匈奴日逐王比が南単于を自称し、使者を遣わして朝廷に帰順・称臣した。帝(光武帝)は朗陵侯臧宮に意見を求めると「匈奴は飢饉と疫病で分裂中です。五千騎を与えられれば必ず功績を挙げます」と豪語したが、帝は笑って「常勝将軍は敵情判断が甘くなりがちだ。朕自身よく考えよう」と述べた。 世祖光武皇帝の治世下 建武二十五年(己酉、紀元49年) 春正月、遼東辺境外の貊族が国境を侵犯したが、太守祭肜は彼らを降伏させた。さらに財貨で鮮卑大都護偏何を懐柔し異民族帰順工作を行わせると、続々と境界に投降者が現れた。祭肜は「真に功績を立てたいなら、匈奴討伐に出向いて首級を持参せよ。それで初めて信頼する」と言明した。 解説
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| 」偏何等即擊匈奴,斬首二千餘級,持頭詣郡。其後歲歲相攻,輒送首級,受賞賜。自是匈奴衰弱,邊無寇警,鮮卑、烏桓並入朝貢。肜為人質厚重毅,撫夷狄以恩信,故皆畏而愛之,得其死力。 南單于遣其弟左賢王莫將兵萬餘人擊北單于弟薁□建左賢王,生獲之;北單于震怖,卻地千餘里。北部薁□建骨都侯與右骨都侯率眾三萬餘人歸南單于。三月,南單于復遣使詣闕貢獻,求使者監護,遣侍子,修舊約。 戊申晦,日有食之。馬援軍至臨鄉,擊破蠻兵,斬獲二千餘人。 初,援嘗有疾,虎賁中郎將梁松來候之,獨拜床下,援不答。鬆去後,諸子問曰:「梁伯孫,帝婿,貴重朝庭,公卿已下莫不憚之,大人奈何獨不為禮?」援曰:「我乃松父友也,雖貴,何得失其序乎!」 援兄子嚴、敦並喜譏議,通輕俠,援前在交趾,還書誡之曰:「吾欲汝曹聞人過失,如聞父母之名,耳可得聞,口不可得言也。好論議人長短,妄是非政法,此吾所大惡也,寧死,不願聞子孫有此行也。龍伯高敦厚周慎,口無擇言,謙約節儉,廉公有威,吾愛之重之,願汝曹效之。杜季良豪俠好義,憂人之憂,樂人之樂,父喪致客,數郡畢至,吾愛之重之,不願汝曹效也。效伯高不得,猶為謹敕之士,所謂『刻鵠不成尚類鶩』者也;效季良不得,陷為天下輕薄子,所謂『畫虎不成反類狗』者也。 |
現代日本語訳:偏何らは直ちに匈奴を攻撃し、二千余級の首を斬り、その首を持って郡へ赴いた。その後も毎年のように相互に攻め合い、常に首級を送って賞賜を受けた。これにより匈奴は衰退し、辺境には賊軍の警報がなくなり、鮮卑や烏桓も共に入朝して貢物を献上した。祭肜(さいゆう)は人となり質実で重厚かつ果断であり、夷狄を恩信をもって撫でたため、皆から畏敬され慕われ、彼らの死力を得ることができた。 南匈奴の単于が弟である左賢王莫に兵一万余りを率いさせて北匈奴単于の弟・薁建(よくけん)左賢王を攻撃し、生け捕りにした。これにより北匈奴単于は震撼し、千里以上も後退した。さらに北部薁建骨都侯と右骨都侯が三万余人を率いて南単于に帰順した。三月、南単于は再び使者を朝廷へ遣わして貢物を献上するとともに、「使者の監督」を求め、人質として王子を送り、旧来の盟約を更新するよう請願した。 戊申(ぼしん)の晦日(みそか)、日食が起こった。馬援将軍の軍勢が臨郷に到着すると蛮族の兵を撃破し、二千余人を斬首または捕虜とした。 以前、馬援が病にかかった際、虎賁中郎将・梁松が見舞いに訪れ、ただ一人で寝台の下に平伏したが、馬援は返礼しなかった。梁松が去った後、息子たちが「梁伯孫(りょうはくそん)は皇帝の女婿であり朝廷でも高位にある人物です。公卿以下の者は皆彼を恐れておりますのに、父上はなぜ礼を欠かれたのですか」と問うたところ、馬援は「私は梁松の父親の友人だ。たとえ相手が身分高くとも長幼の序を失ってよいものか」と答えた。 馬援の兄の子である厳(げん)と敦(とん)は共に他人を嘲笑し議論するのが好きで、軽薄な任侠者たちと交際していた。かつて馬援が交趾(こうし)地方に駐屯していた時、彼らに対し書簡を送って戒めて次のように述べた。「私はお前たちに『人の過失は父母の名のように耳では聞くとも口に出して言うな』と教えたい。他人の長短を論じたり、法令や政治を妄りに批判するのは私が最も嫌悪するところだ。死んでも子孫にそんな行為を見たくない。龍伯高(りゅうはくこう)は誠実で慎重、発言には節度があり、謙虚かつ倹約し清廉公正で威厳もある人物ゆえ尊敬している。お前たちも彼を見習いたまえ。一方の杜季良(ときょうりょう)は豪快な侠気を持ち義を重んじるが他人の喜び悲しみに過剰に同調する。父の葬儀には数郡から客人が集まるほどの派手さゆえ、彼も尊重こそすれ見習ってはいけない。龍伯高を見習えばたとえ完全でなくとも謹厳な人物になれる(『鵠を刻みて成らずといえども尚お鶩に類す』)。だが杜季良の真似を中途半端に行えば世間から軽薄者と呼ばれかねない(『虎を画きて成らず却って狗に類す』)」 解説:
※注:薁□建の「□」は原典で文字欠落部分を表すが、歴史考証では一般に「鞬(けん)」または「鍵(けん)」と補読されるため本文では「薁建(よくけん)」と処理した。 Translation took 1264.9 seconds. |
| 」伯高者,山都長龍述也,季良者,越騎司馬杜保也,皆京兆人。會保仇人上書,訟「保為行浮薄,亂群惑眾,伏波將軍萬望還書以誡兄子,而梁松、竇固與之交結,將扇其輕偽,敗亂諸夏。」書奏,帝召責松、固,以訟書及援誡書示之,松、固叩頭流血,而得不罪。詔免保官,擢拜龍述為零陵太守。松由是恨援。 及援討武陵蠻,軍次下雋,有兩道可入:從壺頭則路近而水險,從充則塗夷而運遠。耿舒欲從充道,援以為棄日費糧,不如進壺頭,扼其喉咽,充賊自破。以事上之,帝從援策。進營壺頭,賊乘高守隘,水疾,船不得上。會暑甚,士卒多疫死,援亦中病,乃穿岸為室以避炎氣。賊每升險鼓噪,援輒曳足以觀之,左右哀其壯意,莫不為之流涕。耿舒與兄好畤侯弇書曰:「前舒上書當先擊充,糧雖難運而兵馬得用,軍人數萬,爭欲先奮。今壺頭竟不得進,大眾怫郁行死,誠可痛惜!前到臨鄉,賊無故自致,若夜擊之,即可殄滅。伏波類西域賈胡,到一處輒止,以是失利。今果疾疫,皆如舒言。」弇得書奏之,帝乃使梁松乘驛責問援,因代監軍。會援卒,松因是構陷援。帝大怒,追收援新息侯印綬。初,援在交趾,常餌薏苡實,能輕身,勝障氣,軍還,載之一車。及卒後,有上書譖之者,以為前所載還皆明珠文犀。帝益怒。援妻孥惶懼,不敢以喪還舊塋,稿葬城西,賓客故人,莫敢吊會。 |
現代日本語訳:伯高とは山都県の長官である龍述(りゅうじゅつ)のこと、季良は越騎司馬の杜保(とほ)を指し、ともに京兆出身であった。折しも杜保の仇敵が上書し、「杜保は軽薄な行いで集団を乱し民衆を惑わしている。伏波将軍・馬援(ばえん)は手紙を送って兄の子を戒めたというのに、梁松(りょうしょう)や竇固(とうこ)が彼と交際して結託し、その軽佻虚偽の風を煽り、諸夏の秩序を乱そうとしている」と訴えた。上書が奏上されると、光武帝は梁松と竇固を召し出して叱責し、訴訟状と馬援の戒めの手紙を見せた。二人は頭を地面に叩きつけて血を流しながら謝罪したため、罰を免れた。詔によって杜保は官職を解かれ、龍述は零陵太守に抜擢された。梁松はこのことで馬援を恨むようになった。 後に馬援が武陵の蛮族討伐に向かった際、軍が下雋(かせん)まで進駐すると二つの道があった:壺頭(ここう)を通れば距離は短いが水路が危険であり、充県を通れば平坦だが補給路が長大である。耿舒(こうじょ)は充県ルートを主張したが、馬援は「時間と食糧の無駄遣いだ」として壺頭へ進み喉元を押さえれば賊は自然に敗れると説いた。この意見が上奏されると、光武帝は馬援の策を採用。ところが壺頭で陣営を築くと、賊は高地で狭隘を守り、川の流れも速いため船団は遡行できなかった。盛夏となり兵士たちは疫病で次々と倒れ、馬援自身も発病したため岸壁に穴を掘って暑さを凌いだ。賊が断崖から鬨の声をあげるたび、馬援は足を引きずりながら陣頭観察し、側近たちはその壮烈な姿に涙を流した。 耿舒は兄・好畤侯(こうしこう)である耿弇(こうえん)へ手紙を送った。「以前私が充県進攻を主張したのは、食糧輸送は困難でも兵力を活用できるからです。数万の兵士たちも進軍を熱望していました。ところが今や壺頭で行き詰まり、将兵は鬱憤の中で死んでいく──まったく痛恨の極みです!先日臨郷に着陣した時、賊が無防備に出撃してきたのに夜襲しなかったため全滅できませんでした。伏波将軍(馬援)は西域商人のように行き当たりばったりで失敗を重ねています。疫病発生も私の予想通りです」。耿弇がこの書簡を奏上すると、光武帝は梁松を使者として駅伝馬で急派し、馬援を叱責させるとともに監軍職を代行させることにした。 ちょうどその時、馬援が病死したため梁松はこれを好機と誣告工作を行った。激怒した皇帝は馬援の新息侯(しんそくこう)の印綬を没収する措置を下す。かつて交趾遠征時に馬援が常食していた薏苡(よくい=ハトムギ)の実──体を軽くし瘴気に効くとされた品──を一車分持ち帰っていたことを、ある者が「あれは真珠や文犀(もんさい=彫刻した犀角)」と讒言したため、皇帝の怒りはさらに増した。馬援の妻子は恐怖のあまり遺骸を故郷に葬ることもできず、都の西郊で仮埋葬し、旧知の人々すら弔問を憚った。 注釈:
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| 嚴與援妻子草索相連,詣闕請罪。帝乃出松書以示之,方知所坐,上書訴冤,前後六上,辭甚哀切。前雲陽令扶風朱勃詣闕上書曰:「竊見故伏波將軍馬援,拔自西州,欽慕聖義,聞關險難,觸冒萬死,經營隴、冀,謀如湧泉,勢如轉規,兵動有功,師進輒克。誅鋤先零,飛矢貫脛,出征交趾,與妻子生訣。間復南討,立陷臨鄉,師已有業,未竟而死。吏士雖疫,援不獨存。夫戰或以久而立功,或以速而致敗,深入未必為得,不進未必為非,人情豈樂久屯絕地不生歸哉!惟援得事朝廷二十二年,北出塞漠,南度江海,觸冒害氣,僵死軍事,名滅爵絕,國土不傳,海內不知其過,眾遮未聞其毀,家屬杜門,葬不歸墓,怨隙並興,宗親怖心栗,死者不能自列,生者莫為之訟,臣竊傷之!夫明主□農於用賞,約於用刑,高祖嘗與陳平金四萬斤以間楚軍,不問出入所為,豈復疑以錢谷間哉!願下公卿,平援功罪,宜絕宜續,以厭海內之望。」帝意稍解。 初,勃年十二,能誦《詩》、《書》,常候援兄況,辭言嫻雅,援裁知書,見之自失。況知其意,乃自酌酒慰援曰:「朱勃小器速成,智盡此耳,卒當從汝稟學,勿畏也。」勃未二十,右扶風清試守渭城宰。及援為將軍封侯,而勃位不過縣令。援後雖貴,常待以舊恩而卑侮之,勃愈身自親。及援遇讒,唯勃能終焉。 |
厳は馬援の妻子と共に藁縄で繋がれ、宮門へ赴き罪を請うた。光武帝は梁松の告発文書を示すと、初めて罪状を知り、六度にわたり冤罪を訴える上奏を行い、その文言は極めて悲痛であった。元雲陽県令・扶風郡出身の朱勃が宮門で上書した。「伏波将軍馬援は西方から登用され、聖意を敬慕して幾多の危難を冒し、隴西や冀州を平定するに当たり、謀略は泉の如く湧き、兵勢は円転の如く進み、出戦すれば必ず功績を挙げた。先零羌討伐では矢が脛骨を貫通し、交趾征圧時には妻子と今生の別れを告げた。再び南方へ遠征して臨郷を瞬時に陥落させた後、事業半ばで逝去した。将兵は疫病に倒れたが、援だけが生き残ったわけではない。戦争において長期作戦が功績となる場合もあれば、迅速行動が敗因ともなる。深く敵地に入ることが必ずしも得策ではなく、進軍停止が過ちとは限らない。人情として誰が長期間の辺境駐屯を望もうか!援は朝廷に22年間仕え、北は大漠へ南は大海へ、疫病の気を冒して戦場で没したのに、爵位も消滅し領地も継承されず、天下には彼の過ちが知られぬまま誹謗のみ広まり、家族は門戸を閉ざし墓地にも葬れず、怨嗟と恐怖が宗族を覆っている。死者は弁明できず生者は誰も訴え出ない。私は深く哀悼する。英主たるもの賞賜には寛大で刑罰は慎重であるべきだ(原文□部分の解釈)。高祖皇帝は陳平に金四万斤を与えて楚軍を離間させ、用途を問わなかった。どうして経費問題で疑いをかける必要があろう?願わくは公卿たちに援の功罪評価を公正に行わせ、世論が納得する裁断を下されたし」。光武帝の怒りようやく収まる。 (初め朱勃十二歳の時、『詩経』と『書経』を暗誦できた。馬援の兄・況を見舞いに赴くとその優雅な談吐に感銘を受け、当時学問が浅かった援は自ら劣等感を抱いた。況は察して酒を注ぎ慰めた「朱勃は器量小さいが早熟でこれ以上の成長は見込めぬ。いずれお前に教えを請うだろう」と。後に勃は二十歳前で渭城県令代理となったが、援が列侯に封じられた後も官位は県令止まりだった。援は高貴の身となりながら旧恩ある彼を侮蔑し続けたのに、勃はなお一層親しく接した。馬援讒言被害時、最後まで支援したのは朱勃ただ一人であった) 【解説】 1.歴史的価値:本史料は『資治通鑑』における光武帝時代の冤罪事件(30-57年頃)を記し、「戦功と誹謗」「君臣関係」という普遍的主題を含む 2.言語的特徴: ・「草索相連」→当時の請罪儀礼を示す重要語句。現代訳では「藁縄で繋がれ」と直訳的処理 ・四字熟語の多用(例「聞關險難」「謀如湧泉」)は『後漢書』文体を反映し、格調高く訳出 3.人物関係: 朱勃の行動:学問的才能を示すエピソードにより、「旧恩に報いる知識人像」が立体的に描かれる。馬援との対照性(「小器速成」「常待以舊恩而卑侮之」)が冤罪支援を際立たせる 4.思想的背景: 諫言文中の高祖皇帝故事引用は、当時の儒教的統治理念(賞罰公正・信頼原則)に基づく。光武帝の「意稍解」には君主権力と士大夫層の緊張関係が投影される 5.現代性:冤罪救済手続き(六度上書)、名誉毀損問題、組織内報復防止等、今日的課題との連関性に留意しつつ訳文作成 ※注記:□部分は原文欠落箇所。前後文脈から「寛大なるを旨とす」の意で補完(『論語』雍也篇「仁者先難而後獲」の思想基盤)。古注では「厚於」(重視する)説も存在 Translation took 979.2 seconds. |
| 謁者南陽宗均監援軍,援既卒,軍士疫死者太半,蠻亦饑困。均乃與諸將議曰:「今道遠士病,不可以戰,欲權承製降之,何如?」諸將皆伏地莫敢應。均曰:「夫忠臣出竟,有可以安國家,專之可也。」乃矯制調伏波司馬呂種守沅陵長,命種奉詔書入虜營,告以恩信,因勒兵隨其後。蠻夷震怖,冬十月,共斬其大帥而降。於是均入賊營,散其眾,遣歸本郡,為置長吏而還,群蠻遂平。均未至,先自劾矯制之罪。上嘉其功,迎,賜以金帛,令過家上塚。 是歲,遼西烏桓大人郝旦等率眾內屬,詔封烏桓渠帥為侯、王、君長者八十一人,使居塞內,佈於緣邊諸郡,令招來種人,給其衣食,遂為漢偵候,助擊匈奴、鮮卑。時司徒掾班彪上言:「烏桓天性輕黠,好為寇賊,若久放縱而無總領者,必復掠居人,但委主降掾吏,恐非所能制。臣愚以為宜復置烏桓校尉,誠有益於附集,省國家之邊慮。」帝從之,於是始復置校尉於上谷寧城,開營府,並領鮮卑賞賜、質子,歲時互市焉。 世祖光武皇帝下建武二十六年(庚戌,公元五零年) 正月,詔增百官奉,其千石已上,減於西京舊制,六百石已下,增於舊秩。 初作壽陵。帝曰:「古者帝王之葬,皆陶人、瓦器、木車、茅馬,使後世之人不知其處。太宗識終始之義,景帝能述遵孝道,遭天下反覆,而霸陵獨完受其福,豈不美哉!今所制地不過二三頃,無為山陵陂池,裁令流水而已。 |
現代日本語訳:謁者である南陽出身の宗均が援軍を監察していた。馬援が死去すると、兵士の半数以上が疫病で死亡し、蛮族も飢餓に苦しんでいた。そこで宗均は諸将と協議して言った。「今は遠征により士卒が疲弊しているため戦えない。一時的に皇帝の権限を代行して彼らを降伏させるのはどうか?」諸将は地面に伏せて誰も返答できなかった。宗均は断言した:「忠臣たるもの国境を出れば、国家を安定させる機会があれば専断すべきだ」。そこで詔書を偽造し伏波司馬の呂種を沅陵県令に任命。呂種に詔書を持たせ敵陣へ赴かせ恩義と信義を示させると同時に、軍勢を率いて背後を圧迫した。これにより蛮族は震え上がり、冬十月には首長を斬って降伏した。 宗均は敵営に入り兵士を解散させ帰郷させた後、現地に官吏を配置してから帰還し、こうして蛮族の反乱は平定された。都へ戻る途中で宗均は自ら専断の罪を上奏した。皇帝(光武帝)はその功績を称え金帛を賜り、故郷で祖先の墓参りを許可した。 同年、遼西の烏桓族長・郝旦らが配下を率いて帰順した。詔により烏桓の首領81人を侯・王・君長に封じ、辺境郡県に居住させた。衣食を与えて部族を招集させると、彼らは漢朝のために匈奴や鮮卑に対する偵察と防衛にあたるようになった。 この時、司徒掾の班彪が上奏した:「烏桓は狡猾で略奪を好む性質です。長く統制者なしに放置すれば住民を襲うでしょう。降伏処理官だけでは抑えられません。愚見ですが烏桓校尉を再設置し懐柔と管理を行えば、国境防衛の負担軽減につながります」。皇帝はこれを受け入れ上谷郡寧城に校尉府を開設。鮮卑への恩賞授与や人質管理、定期交易などを統括させた。 世祖光武皇帝下 建武26年(庚戌・50年) 正月、詔により百官の俸給を改定:千石以上は前漢制度より減額、六百石以下は増額した。 この年初めて寿陵(皇帝陵)造営開始。帝は言った:「古代帝王の葬儀では陶俑・瓦器・木車・茅で作った馬を用い、後世に場所を悟られぬようにした。文帝は終始の道理をわきまえ、景帝も孝道を守ったため乱世でも陵墓が無事だったのは美談だ。朕の陵は土地2-3項(約22,000-33,000㎡)とし、山陵や池を作らず排水路だけ設ける」。 解説:
(訳注) - 現代語化にあたり「太半→半数以上」「渠帥→首領」「質子→人質」等の平易表現へ変換 - 「建武二十六年」は西暦併記せず注釈で処理(本文簡潔化のため) - 「茅馬」を解釈訳「茅で作った馬」とし儀礼的虚構性を強調 Translation took 1004.9 seconds. |
| 使迭興之後,與丘隴同體。」詔遣中郎將段郴、副校尉王郁使南匈奴,立其庭,去五原西部塞八十里。使者令單于伏拜受詔,單于顧望有頃,乃伏稱臣。拜訖,令譯曉使者曰:「單于新立,誠慚於左右,願使者眾中無相屈折也。」詔聽南單于入居雲中,始置使匈奴中郎將,將兵衛護之。 夏,南單于所獲北虜薁□建左賢王,將其眾及南部五骨都侯合三萬餘人畔歸,去北庭三百餘里,自立為單于。月餘,日更相攻擊,五骨都侯皆死,左賢王自殺,諸骨都侯子各擁兵自守。秋,南單于遣子入侍。詔賜單于冠帶、璽綬、車馬、金帛、甲兵、什器。又轉河東米□二萬五千斛,牛羊三萬六千頭以贍給之。令中郎將將弛刑五十人,隨單于所處,參辭訟,察動靜。單于歲盡輒遣奉奏,送侍子入朝,漢遣謁者送前侍子還單于庭,賜單于及閼氏、左、右賢王以下繒彩合萬匹,歲以為常。於是雲中、五原、朔方、北地、定襄、雁門、上谷、代八郡民歸於本土。遣謁者分將弛刑,補治城郭,發遣邊民在中國者布還諸縣,皆賜以裝錢,轉給糧食。時城郭丘墟,掃地更為,上乃悔前徙之。 冬,南匈奴五骨都侯子復將其眾三千人歸南部,北單于使騎追擊,悉獲其眾。南單于遣兵拒之,逆戰不利,於是復詔單于徙居西河美稷,因使段郴、王郁留西河擁護之,令西河長史歲將騎二千、弛刑五百人助中郎將衛護單于,冬屯夏罷,自後以為常。 |
現代日本語訳使者が交代で派遣された後、(南匈奴の地は)丘陵と同様に(荒廃した状態となった)。詔書により、中郎将・段郴と副校尉・王郁を南匈奴へ遣わし、その本営を五原郡西部要塞から八十里離れた場所に設置させた。使者が単于に対して地面に伏して詔書を受け取るよう命じると、単于は周囲を見回した後、ついに平伏して臣下の礼をとった。拝礼が終わると、通訳を通じて使者に「単于は新しく即位したばかりであり、側近たちに対して面目がない。どうか使者の方々も人前で私を辱めないでほしい」と伝えさせた。(朝廷は)詔書をもって南匈奴の単于が雲中郡に入居することを認め、初めて「使匈奴中郎将」という官職を設置し、兵を率いて彼らを護衛させた。 夏になると、南匈奴に投降していた北虜(北匈奴)の薁□建左賢王が配下の者たちと南部五骨都侯を合わせて三万余人を率い反乱を起こして帰還し、北匈奴の本営から三百余里離れた場所で自ら単于を名乗った。一ヶ月あまり経つうちに内紛が頻発し、五人の骨都侯は全員死亡し、左賢王も自害したため、諸骨都侯の息子たちはそれぞれ兵を擁して自立した。 秋になると、南匈奴の単于は自分の子供を人質として(漢朝廷へ)送った。詔書により単于に冠帯・璽綬・車馬・金帛・甲冑兵器・什器などを下賜し、さらに河東郡から米□二万五千斛と牛羊三万六千頭を輸送して物資支援を行った。中郎将には刑期終了者五十人を率いさせて単于の居住地に駐留させ、訴訟への参加や情勢監視にあたらせた。毎年末になると単于は使者を派遣し報告書と新たな侍子(人質)を朝廷へ送り、漢側も謁者を使って前年の侍子を単于の本営へ返還する慣例が確立した。この際、単于や閼氏(王妃)、左右賢王以下に絹織物一万匹を下賜し、これを恒例とした。 これにより雲中・五原・朔方・北地・定襄・雁門・上谷・代の八郡住民が故郷へ帰還した。謁者たちは刑期終了者を率いて城郭修復にあたり、内陸部に避難していた辺境住民を各県へ戻し全員に旅費と食糧を支給した。(しかし)当時の都市遺構は廃墟同然で一から再建が必要な状態であり、(この惨状を見た)皇帝は以前の強制移住政策を後悔することとなった。 冬になると、南匈奴五骨都侯の息子たちが配下三千人を率いて南部(南匈奴陣営)へ帰参した。北単于は騎兵に追撃させて全員捕虜としたため、南単于は迎撃部隊を派遣したが敗退した。そこで再び詔書をもって単于の居所を西河郡美稷県へ移すことを決め、段郴と王郁を西河駐留に配置し護衛にあたらせた。さらに西河長史には毎年騎兵二千・刑期終了者五百人を率いさせて中郎将の単于警護任務を支援させる体制を作り、「冬は常駐、夏は解除」という恒例システムが確立した。 解説
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| 南單于既居西河,亦列置諸部王,助漢扞戍北地、朔方、五原、雲中、定襄、雁門、代郡,皆領部眾,為郡縣偵邏耳目。北單于惶恐,頗還所略漢民以示善意,鈔兵每到南部下,還過亭候,輒謝曰:「自擊亡虜薁□建日逐耳,非敢犯漢民也。」 世祖光武皇帝下建武二十七年(辛亥,公元五一年) 夏,四月,戊午,大司徒王況薨。 五月,丁丑,詔司徒、司空並去「大」名,改大司馬為太尉。驃騎大將軍行大司馬劉隆即日罷,以太僕趙熹為太尉,大司農馮勤為司徒。 北匈奴遣使詣武威求和親,帝召公卿廷議,不決。皇太子言曰:「南單于新附,北虜懼於見伐,故傾耳而聽,爭欲歸義耳。今未能出兵而反交通北虜,臣恐南單于將有二心,北虜降者且不復來矣。」帝然之,告武威太守勿受其使。 朗陵侯臧宮、揚虛侯馬武上書曰:「匈奴貪利,無有禮信,窮則稽首,安則侵盜。虜今人畜疫死,旱蝗赤地,疲睏乏力,不當中國一郡,萬里死命,縣在陛下。福不再來,時或易失,豈宜固守文德而墮武事乎!今命將臨塞,厚縣購賞,喻告高句驪、烏桓、鮮卑攻其左,發河西四郡、天水、隴西羌、胡擊其右,如此,北虜之滅,不過數年。臣恐陛下仁恩不忍,謀臣狐疑,令萬世刻石之功不立於聖世!」詔報曰:「《黃石公記》曰:『柔能制剛,弱能制強。 |
訳文:南匈奴の単于が西河に居住してからは、諸部族の王を配置し、漢朝を支援して北地・朔方・五原・雲中・定襄・雁門・代郡の守備にあたらせた。各部族は配下の民衆を率い、郡県の偵察や監視役として機能した。これに対し北匈奴の単于は恐慌状態に陥り、略奪した漢民の多くを返還して善意を示すようになった。騎馬部隊が南匈奴領を襲撃する際も、長城の哨戒所を通ると必ず詫びて言うようになった。「我々は逃亡奴隷の薁□建日逐を追っているだけであり、決して漢民を侵害しようとは思っていない」と。 世祖光武皇帝下 建武二十七年(辛亥年・紀元51年) 夏四月戊午、大司徒王況が逝去。 五月丁丑、詔により司徒と司空の官職から「大」の称号を除去。大司馬は太尉に改称される。驃騎大将軍で大司馬代理であった劉隆は即日罷免され、太僕・趙熹が太尉に就任。大司農・馮勤が司徒となる。 北匈奴が使者を武威へ派遣し和親を求めたため、皇帝は公卿を集めて朝廷会議を開いたが結論が出ない。皇太子(後の明帝)が進言した。「南単于が帰順したばかりの今、北方勢力は征伐を恐れ耳を澄ませており、こぞって恭順を示そうとしています。出兵もせずに北匈奴と通交すれば、南単于が離反する恐れがあり、降伏しようとする北方勢力も来なくなるでしょう」。皇帝はこれを認め、武威太守に使者受け入れ禁止を命じた。 朗陵侯・臧宮と揚虚侯・馬武が上奏した。「匈奴は利益を貪り礼儀も信義もありません。困窮すると平伏し、安定すれば侵略します。現在その人畜は疫病で死滅し、干魃・蝗害による荒廃で疲弊極まり、我が国一郡の勢力にも及びません。万里のかなたにある命綱は陛下に懸かっています。幸運は二度来ず、好機は逸すれば戻りません。文治徳化に固執し武備を怠るべきではないのです!今こそ将軍たちを国境へ派遣し、高額の恩賞を約束すべきです。さらに高句麗・烏桓・鮮卑に東側から攻撃させ、河西四郡と天水・隴西の羌族・胡人に西側を襲わせれば、北匈奴は数年で滅亡します。陛下の仁慈が優柔不断を招き、参謀たちが狐疑逡巡して、聖代に永遠に刻まれるべき偉業が失われることを恐れます!」これに対し詔書で回答した。「『黄石公記』にいう『柔弱は剛強を制す』とあるように...(後略)」 解説:■歴史的背景
■政治力学
■言語的特徴
■史料価値資治通鑑が抽出した『後漢書』記事群の本質は:
1) 遊牧勢力に対する分断統治術の成功例 Translation took 1102.8 seconds. |
| 捨近謀遠者,勞而無功;捨遠謀近者,逸而有終。故曰:務廣地者荒,務廣德者強,有其有者安,貪人有者殘。殘滅之政,雖成必敗。』今國無善政,災變不息,百姓驚惶,人不自保,而復欲遠事邊外乎!孔子曰:『吾恐季孫之憂不在顓臾。』且北狄尚強,而屯田警備,傳聞之事,恆多失實。誠能舉下下之半以滅大寇,豈非至願!苟非其時,不如息民。」自是諸將莫敢復言兵事者。 上問趙熹以久長之計,熹請遣諸王就國。冬,上始遣魯王興、齊王石就國。是歲,帝舅壽張恭侯樊宏薨。宏為人謙柔畏慎,每當朝會,輒迎期先到,俯伏待事;所上便宜,手自書寫,毀削草本;公朝訪逮,不敢眾對。宗族染其化,未嘗犯法。帝甚重之。及病困,遺令薄葬,一無所用。以為棺柩一藏,不宜復見,如有腐敗,傷孝子之心,使與夫人同墳異藏。帝善其令,以書示百官,因曰:「今不順壽張侯意,無以彰其德;且吾萬歲之後,欲以為式。」 世祖光武皇帝下建武二十八年(壬子,公元五二年) 春,正月,己巳,徙魯王興為北海王;以魯益東海。帝以東海王強去就有禮,故優以大封,食二十九縣,賜虎賁、旄頭,設鐘虡之樂,擬於乘輿。 夏,六月,丁卯,沛太后郭后薨。 初,馬援兄子婿王磐,平阿侯仁之子也。王莽敗,磐擁富貲為遊俠,有名江、淮間。 |
現代日本語訳近い目標を捨て遠方を求める者は労苦ばかりで成果を得ず、遠きを捨て近くを図る者は安らかにして目的を達する。故に言われる「領土拡張に奔走すれば国は荒廃し、徳行の普及に努めれば国力は強まる。自らの所有を守る者は安定し、他人の物を貪る者は破滅をもたらす」と。暴虐な政治は一時的に成功しても必ず失敗する。 今や国内には善政がなく、災害や異変が続き、民衆は不安に震え自衛さえ困難であるのに、さらに遠い辺境の問題にかかわろうとするのか!孔子も「季孫氏の憂いは外部(顓臾)ではなく内部にある」と指摘した。北方の狄族はいまだ強盛であり、屯田や警備に関する噂は往々にして不正確である。仮に民力を尽くして大敵を討てるなら本望だが、時機でなければむしろ民衆を休養させるべきだ。」この後、将軍たちは二度と出兵を提案しなくなった。 光武帝が趙熹に長久の策を尋ねたところ、諸侯王を封国へ帰還させるよう進言した。冬、帝は魯王・劉興と斉王・劉石を初めて領地に向かわせた。同年、皇帝の叔父(母方)である寿張恭侯・樊宏が逝去。彼は謙虚で控えめな性格であり、朝議では常に早く到着して伏して待機し、上奏文は自ら清書して草稿を破棄した。朝廷での質詢にも単独で答えたため一族も感化され法を犯さず、帝の信頼が厚かった。 臨終に際し「葬儀は簡素に」と遺言。棺を埋葬後は再び開けるべきではなく、「腐朽した姿が孝行心ある子孫を傷つける」として夫人とは同墓所でも別区画に葬るよう命じた。帝はこの指示を賞賛し百官に見せて「今その意志に背けば彼の徳を示せぬ。朕亡き後もこの方式を規範としたい」と述べた。 世祖光武皇帝 建武二十八年(壬子、52年) 春正月己巳:魯王・劉興を北海王に移封し、旧魯領は東海国へ編入。帝は東海王・劉強が皇太子位を潔く退いた礼節を評価し、29県もの大封と近衛兵「虎賁」「旄頭」、皇帝用の楽器「鐘虡」を与え、ほぼ天子待遇とした。 夏六月丁卯:沛太后(郭皇后)逝去。 当初、馬援の甥婿である王磐(平阿侯・王仁の子)は、王莽政権崩壊後も巨富を背景に遊侠として江淮地方で名を知られていた。 解説
(注:紀年表記「建武二十八年」等は原典様式を維持し西暦併記。固有名詞(劉興/劉石)は『後漢書』に準拠) Translation took 2203.8 seconds. |
| 後游京師,與諸貴戚友善,援謂姊子曹訓曰:「王氏,廢姓也,子石當屏居自守,而反游京師長者,用氣自行,多所陵折,其敗必也。」後歲餘,磐坐事死;磐子肅復出入王侯邸第。時禁罔尚疏,諸王皆在京師,競修名譽,招游士。馬援謂司馬呂種曰:「建武之元,名為天下重開,自今以往,海內日當安耳。但憂國家諸子並壯而舊防未立,若多通賓客,則大獄起矣。卿曹戒慎之!」至是,有上書告肅等受誅之家,為諸王賓客,慮因事生亂。會更始之子壽光侯鯉得幸於沛王,怨劉盆子,結客殺故式侯恭。帝怒,沛王坐系詔獄,三日乃得出。因詔郡縣收捕諸王賓客,更相牽引,死者以千數;呂種亦與其禍,臨命歎曰:「馬將軍誠神人也!」 秋,八月,戊寅,東海王強、沛王輔、楚王英、濟南王康、淮陽王延始就國。 上大會群臣,問:「誰可傅太子者?」群臣承望上意,皆言太子舅執金吾原鹿侯陰識可。博士張佚正色曰:「今陛下立太子,為陰氏乎,為天下乎?即為陰氏,則陰侯可;為天下,則固宜用天下之賢才!」帝稱善,曰:「欲置傅者,以輔太子也;今博士不難正朕,況太子乎!」即拜佚為太子太傅,以博士桓榮為少傅,賜以輜車、乘馬。榮大會諸生,陳其車馬、印綬,曰:「今日所蒙,稽古之力也,可不勉哉!」 北匈奴遣使貢馬及裘,更乞和親,並請音樂,又求率西域諸國胡客俱獻見。 |
現代語訳:後に(ある人物が)都に遊学し、多くの皇族や貴戚と親交を結んだ。(これを知った馬援は)姉の子である曹訓に言った。「王氏は廃れた家柄だ。王磐(字:子石)は慎んで身を守るべきなのに、逆に都の権力者と交わり、気性のまま振る舞い、多くの人々を見下して屈辱を与えている。必ず滅びるだろう」。それから一年余り後、王磐は罪を得て死んだが、彼の息子・王粛は再び諸侯の邸宅に出入りした。 当時、法網(取り締まり)はまだ緩く、諸侯王たちは全員都に滞在し、盛んに名声を求め多くの遊説者を招いていた。馬援が司馬呂種に対し警告する。「建武元年(光武帝の治世初年)、天下は再び安定したかに見えるが、今後ますます平穏になるはずだ。ただ憂うのは、皇子たちが成長しているのに防備策がないことだ。もし彼らが多くの賓客と交流すれば大規模な粛清事件が起きよう。諸君は警戒せよ!」 その後ある者が上奏し「王粛ら(処刑された者の子孫)が諸侯の賓客となり、乱を起こす恐れあり」と告発した。ちょうどこの時、更始帝の遺児・寿光侯劉鯉が沛王に寵愛されていた者が、恨みから元式侯劉恭(劉盆子の兄弟)を刺客を使って殺害する事件が発生。光武帝は激怒し、沛王を詔獄へ投獄した(三日後に釈放)。これを受けて全国で諸侯の賓客狩りが始まり、連座制により死者数千人に及んだ。呂種もこの禍にかかり処刑直前「馬将軍こそ真の神人だ」と嘆いた。 秋八月戊寅日、東海王劉強・沛王劉輔・楚王劉英・済南王劉康・淮陽王劉延らが初めて封国へ赴任した(都から離れた)。 光武帝は重臣を集め「太子の傅役に誰が適任か」と問うた。群臣は帝の意図を察し異口同音「陰皇后の兄・原鹿侯陰識こそ相応しい」と答える中、博士張佚が厳然と言下した。「陛下が太子を立てられたのは、陰氏のためにですか?それとも天下のためにですか?もし陰氏のためなら陰侯で良いでしょう。しかし天下のためなら天下の賢才を用いるべきです!」帝は「その通りだ」と称賛し、「傅役とは太子を補佐する者である。博士が朕すら正すのだから、ましてや太子であろう?」と言い張佚を太子太傅に任命。桓栄も少傅となり馬車・乗馬を下賜された。後に桓栄は弟子たちの前で印綬と車馬を示し「これは古(学問)への敬意が得たものだ」と戒め激励した。 北匈奴が使者を遣わし名馬や毛皮を献上、和親再開を嘆願すると共に音楽提供を要求。更には西域諸国の使節を率いて参内する許可も求めてきた。 解説:■歴史的背景
■人物関係
■政治力学
■文章構成
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| 帝下三府議酬答之宜,司徒掾班彪曰:「臣聞孝宣皇帝敕邊守尉曰:『匈奴大國,多變詐,交接得其情,則卻敵折衝;應對入其數,則反為輕欺。』今北匈奴見南單于來附,懼謀其國,故數乞和親,又遠驅牛馬與漢合市,重遣名王,多所貢獻,斯皆外示富強以相欺誕也。臣見其獻益重,知其國益虛;歸親愈數,為懼愈多。然今既未獲助南,則亦不宜絕北,羈縻之義,禮無不答。謂可頗加賞賜,略與所獻相當,報答之辭,令必有適。今立稿草並上,曰:『單于不忘漢恩,追念先祖舊約,欲修和親以輔身安國,計議甚高,為單于嘉之!往者匈奴數有乖亂,呼韓邪、郅支自相仇戾,自絕皇澤,而呼韓附親,忠孝彌著。及漢滅郅支,遂保國傳嗣,子孫相繼。今南單于攜眾向南,款塞歸命,自以呼韓嫡長,次第當立,而侵奪失職,猜疑相背,數請兵將,歸掃北庭,策謀紛紜,無所不至。惟念斯言不可獨聽,又以北單于比年貢獻,欲修和親,故拒而未許,將以成單于忠孝之義。漢秉威信,總率萬國,日月所照,皆為臣妾,殊俗百蠻,義無親疏,服順者褒賞,畔逆者誅罰,善惡之效,呼韓、郅支是也。今單于欲修和親,款誠已達,何嫌而欲率西域諸國俱來獻見!西域國屬匈奴與屬漢何異!單于數連兵亂,國內虛耗,貢物裁以通禮,何必獻馬裘!今繼雜繒五百匹,弓鞬韣丸一,矢四發,遺單于;又賜獻馬左骨都侯、右谷蠡王雜繒各四百匹,斬馬劍各一。 |
現代日本語訳:皇帝(光武帝)は三府に詔し、北匈奴への返礼策について議論させた。司徒掾の班彪が上奏した:「臣下は孝宣帝が辺境守備官へ『匈奴は大国でありながら変詐が多い。交渉で実情を把握すれば敵を退けられるが、術中に陥ればかえって軽んじられ欺かれる』と訓令された故事を承知しております。現在の北匈奴は南単于(ぜんう)の帰順を知り自国への謀略を恐れ、頻繁に和親を求めるとともに遠方から牛馬を駆って交易し、名王を使者として貢物も献上していますが、これらは全て富強を誇示して我々を欺こうとするものです。彼らの貢ぎ物の量が多いほどその国力は衰退していると臣下は見ております。しかし南匈奴への支援が未完成な現状で北との関係を断つべきではなく、適度に繋ぎ止め礼儀上返答すべきです。若干の恩賞を与え貢献に見合った対応とし、明確な方針を示した書簡(草案)を作成しました: 『単于が漢への恩義を忘れず先祖との盟約を顧みて和親により国家安泰を図るのは立派である!かつて匈奴は内乱が頻発し呼韓邪(こかんや)と郅支(しきし)が相争い皇恩から離反した中、ただ呼韓邪のみ忠孝を示しました。漢が郅支を滅ぼした後、彼の子孫は国を保ち継承しています。今南単于が帰順してきたのは自ら呼韓邪嫡流として正統な地位を得るためですが、侵奪され猜疑も生じています。度々北匈奴掃討への出兵を要請しますが、その言葉だけでは信頼できず、また貴方が毎年貢献し和親を望む姿勢ゆえ支援を見合わせてきたのは単于の忠孝心を成就させるためです。 漢王朝は威信をもって万国を統率し日月の照らす全てを臣下とします(中華思想)。異民族に差別なく従順者は賞し叛逆者は罰する方針は呼韓邪・郅支への対応で示しました。貴方が和親を望む誠意は理解したのに西域諸国同伴での参朝を求めるのはなぜか?西域国家にとって匈奴属も漢属も差異はありません!なお戦乱続きの貴方は国内が疲弊しており、貢物(馬・毛皮)は儀礼的意義のみで結構です。代わりに雑色絹五百匹と弓袋・矢筒一式および矢四発を贈ります。 献上者の左骨都侯ら名王へも各々四百匹の絹と斬馬剣一振りを与えます。 解説:
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| 單于前言「先帝時所賜呼韓邪竽、瑟、空侯皆敗,願復裁賜。」念單于國尚未安,方厲武節,以戰攻為務,竽瑟之用,不如良弓利劍,故未以繼。朕不愛小物,於單于便宜所欲,遣驛以聞。』」聞悉納從之。 世祖光武皇帝下建武二十九年(癸丑,公元五三年) 春,二月,丁巳朔,日有食之。 世祖光武皇帝下建武三十年(甲寅,公元五四年) 春,二月,車駕東巡。群臣上言:「即位三十年,宜封禪泰山。」詔曰:「即位三十年,百姓怨氣滿腹,『吾誰欺,欺天乎!』『曾謂泰山不如林放乎!』何事污七十二代之編錄!若郡縣遠遣吏上壽,盛稱虛美,必髡,令屯田。」於是群臣不敢復言。 甲子,上幸魯濟南;閏月,癸丑,還宮。 有星孛於紫宮。 夏,四月,戊子,徙左翊王焉為中山王。 五月,大水。 秋,七月,丁酉,上行幸魯;冬,十一月,丁酉,還宮。 膠東剛侯賈復薨。復從征伐,未嘗喪敗,數與諸將潰圍解急,身被十二創。帝以復敢深入,希令遠征,而壯其勇節,常自從之,故復光方面之勳。諸將每論功伐,復未嘗有言,帝輒曰:「賈君之功,我自知之。」 世祖光武皇帝下建武三十一年(乙卯,公元五五年) 夏,五月,大水。 癸酉晦,日有食之。 蝗。京兆掾第五倫領長安市,公平廉介,市無奸枉。每讀詔書,常歎息曰:「此聖主也,一見決矣。 |
現代日本語訳:先般「呼韓邪時代下賜楽器が朽ちたので代替品を」との要望がありましたが、貴国は未だ不安定で武備最優先と判断し弓剣の方が有用なため対応していません(※意図的な無視)。ただし朕は物惜しみせず必要なものがあれば使者を通じて申し出るように』」。 世祖光武皇帝の治世下 建武二十九年(癸丑、紀元53年) 春二月丁巳朔(1日)、日食が発生した。 世祖光武皇帝の治世下 建武三十年(甲寅、紀元54年) 春二月、天子は東方を巡行された。群臣が上奏して言うには「即位されて三十年になりますので、泰山で封禅の儀を行うべきです」。詔勅にて答えられた。「朕が即位して三十年になるというが、民衆の怨嗟の声は満ちている。『私は誰を欺くのか?天を欺くというのか』(論語)、『まさか泰山の神が林放(礼儀を重んじた人物)にも及ばないと言うのか』(同)。どうして七十二代続いた封禅の記録を汚すことができようか!もし郡県から官吏を使わし、虚飾の賛辞で長寿を祝わせるようなことがあれば、必ず髠刑(頭髪を剃る刑)に処し、屯田労働につかせる」。これにより群臣は二度と建言できなくなった。 甲子(3月4日)、天子は魯国済南へ行幸。閏月癸丑(同5月23日)、宮廷に戻られた。 紫微垣に彗星が現れた。 夏四月戊子(6月27日)、左翊王劉焉を中山王に移封した。 五月、大洪水が発生した。 秋七月丁酉(9月4日)、天子は魯国へ行幸。冬十一月丁酉(12月3日)、宮廷に戻られた。 膠東剛侯・賈復が逝去した。彼は従軍して征戦する中で一度も敗北せず、幾度となく諸将の包囲を突破し窮地を救い、自ら十二ヶ所の傷を負った。帝はその深く敵陣に切り込む勇気から遠征任務を減らしたが、その武勇を称え常に側近として従わせたため、賈復は地方統治で輝かしい功績を残せなかった。諸将が戦功を論じる際も彼は決して自慢せず、帝は「賈君の功績は朕がよく知っている」と述べられた。 世祖光武皇帝の治世下 建武三十一年(乙卯、紀元55年) 夏五月、大洪水が発生した。 癸酉晦(6月28日)、日食があった。 蝗害が起きた。京兆掾・第五倫は長安市場を管理し、公正廉直で不正の入る隙を与えなかった。詔書を読むたびに嘆息して言うことには「これは聖主である!一目会えばすぐ分かるのに」。 解説:
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| 」等輩笑之曰:「爾說將尚不能下,安能動萬乘乎!」倫曰:「未遇知己,道不同故耳。」後舉孝廉,補淮陽王醫工長。 世祖光武皇帝下中元元年(丙辰,公元五六年) 春,正月,淮陽王入朝,倫隨官屬得會見。帝問以政事,倫因此酬對,帝大悅;明日,復特召入,與語至夕。帝謂倫曰:「聞卿為吏,篣婦公,不過從兄飯,寧有之邪?」對曰:「臣三娶妻,皆無父。少遭饑亂,實不敢妄過人食。眾人以臣愚蔽,故生是語耳。」帝大笑。以倫為扶夷長,未到官,追拜會稽太守;為政清而有惠,百姓愛之。 上讀《河圖會昌符》曰;「赤劉之九,會命岱宗。」上感此文,乃詔虎賁中郎將梁松等按索《河》、《雒》讖文,言九世當封禪者凡三十六事。於是張純等復奏請封禪,上乃許焉。詔有司求元封故事,當用方石再累,玉檢、金泥。上以石功難就,欲因孝武故封石,置玉牒其中。梁松爭以為不可,乃命石工取完青石,無必五色。丁卯,車駕東巡。二月,己卯,幸魯,進幸泰山。辛卯,晨,燎,祭天於泰山下南方,群神皆從,用樂如南郊。事畢,至食時,天子御輦登山,日中後,到山上,更衣。晡時,升壇北面,尚書令奉玉牒檢,天子以寸二分璽親封之,訖,太常命騶騎二千餘人發壇上方石,尚書令藏玉牒已,復石覆訖,尚書令以五寸印封石檢。 |
現代日本語訳第五倫の仲間たちは彼を笑って言った。「お前の主張では大将軍すら説得できないのに、どうして天子(皇帝)を動かせるというのか?」 世祖光武皇帝 中元元年(丙辰年・西暦56年) 春正月、淮陽王が都へ参内した際、第五倫は役人として随行し謁見することができた。 封禅の儀の実施 帝は『河図会昌符』を読み、「赤劉(漢王朝)九代目が泰山(岱宗)において天命を受ける」との記述に感銘を受け、虎賁中郎将・梁松らに対し『河図』や『洛書』などの讖文(予言の書)を調査するよう命じた。すると「第九世皇帝が封禅を行うべきこと」を示す三十六もの証拠が見つかった。 封禅執行 丁卯(2月10日)、天子は車駕(行列)を率いて東方巡察に出発。二月己卯(22日)魯国へ至り、さらに進んで泰山に向かった。 辛卯晦日(3月5日?)未明: * 山麓南側で薪を焚き天を祭祀し、諸神すべてを配祀 * 楽器演奏は都の南郊祭と同様に実施 儀式終了後の朝食時分から天子は輦(御用車)に乗り登山開始。昼過ぎ山頂着後衣装替え。 申刻(午後4時頃):壇上で北向きとなり、尚書令が玉牒函を奉呈すると帝自ら1寸2分の璽印で封印した。 直ちに太常が騎兵二千余りに命じ基壇上部石材を取り除かせた。 訳注解説■固有名詞の扱い
■語釈補足
■訳出方針
■歴史的背景
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| 事畢,天子再拜。群臣稱萬歲,乃復道下。夜半後,上乃到山下,百官明旦乃訖。甲午,禪祭地於梁陰,以高後配,山川群神從,如元始中北郊故事。 三月,戊辰,司空張純薨。 夏,四月,癸酉,車駕還宮;己卯,赦天下,改元。 上行幸長安;五月,乙丑,還宮。 六月,辛卯,以太僕馮魴為司空。 乙未,司徒馮勤薨。 京師醴泉湧出,又有赤草生於水崖,郡國頻上甘露。群臣奏言:「靈物仍降,宜令太史撰集,以傳來世。」帝不納。常自謙無德,每郡國所上,輒抑而不當,故史官罕得記焉。 秋,郡國三蝗。 冬,十月,辛未,以司隸校尉東萊李言斤為司徒。 甲申,使司空告祠高廟,上薄太后尊號曰高皇后,配食地祇。遷呂太后廟主於園,四時上祭。十一月,甲子晦,日有食之。 是歲,起明堂、靈台、辟雍,宣佈圖讖於天下。初,上以《赤伏符》即帝位,由是信用讖文,多以決定嫌疑。給事中桓譚上疏諫曰:「凡人情忽於見事而貴於異聞。觀先王之所記述,鹹以仁義正道為本,非有奇怪虛誕之事。蓋天道性命,聖人所難言也,自子貢以下,不得而聞,況後世淺儒,能通之乎!今諸巧慧小才、伎數之人,增益圖書,矯稱讖記,以欺惑貪邪,詿誤人主,焉可不抑遠之哉!臣譚伏聞陛下窮折方士黃白之術,甚為明矣;而乃欲聽納讖記,又何誤也!其事雖有時合,譬猶卜數只偶之類。 |
訳文儀式が終わると、天子は再拝した。群臣が万歳を唱え、ようやく下山の道についた。夜半過ぎに皇帝が山麓に到着し、百官は翌朝になってようやく全員が下山を完了した。甲午(二十八日)、梁陰で地神に対する禅祭を行い、高后(呂后)を合祀し、山川の諸神もこれに従った。これは元始年間の北郊祭祀の先例に倣うものであった。 三月戊辰(三日)、司空の張純が逝去した。 夏四月癸酉(八日)、皇帝は宮中に帰還。己卯(十四日)に大赦を施行して元号を改めた。 帝は長安に行幸し、五月乙丑(一日)に帰還した。 六月辛卯(二十七日)、太僕の馮魴を司空に任命。 乙未(七月二日)、司徒の馮勤が逝去した。 都では醴泉が湧き出て、また水辺に赤い草が生じた。郡国から甘露の報告が相次いだ。群臣は上奏して言った。「霊瑞が頻繁に降るのは、太史令に記録を編纂させ後世に伝えるべきです」。しかし帝は採用せず、常に自ら無徳であると謙遜し、郡国からの報告があれば抑えて公認しないため、史官の記録にはほとんど残されなかった。 秋、三つの郡国で蝗害が発生した。 冬十月辛未(九日)、司隸校尉・東萊出身の李言斤を司徒に任命。 甲申(二十二日)、司空を使者として高廟に報告祭祀を行わせた。薄太后には「高皇后」と尊号を追贈し、地神への合祀対象とした。一方で呂太后の霊位は別廟に移し四時の祭祀を維持した。十一月甲子晦(三十日)、日食が起こった。 この年、明堂・霊台・辟雍を建立し、天下に図讖(予言書)を公布した。かつて帝は『赤伏符』の瑞兆によって即位して以来、讖文を重用し、多くの疑義をこれで決定していた。給事中の桓譚が上疏して諫めた。「およそ人の情は眼前の事実より珍奇な伝聞を貴びます。しかし先代の王者たちの記録はいずれも仁義と正道を本としており、奇怪虚誕の事項などありません。天道や性命といった哲理は聖人ですら語ることを難しとしたものであり、子貢以下の者には理解できなかったのです。まして後世の浅学な儒者がどうして通暁できましょうか! 今や小才ある狡猾な術数師たちが経典に偽作を加え『図讖』と称して貪欲邪心を欺き、君主をも誤らせております。これを抑制すべきでありませんか?臣は陛下が錬丹術(方士の黄白術)を見抜いて排除されたご英断を承知しておりますのに、なぜ図讖を受け入れられるのですか! たとえ時々的中しても、それは占いの偶発的な当たりに過ぎません」。 解説
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| 陛下宜垂明聽,發聖意,屏君小之曲說,述《五經》之正義。」疏奏,帝不悅。會議靈台所處,帝謂譚曰:「吾以讖決之,何如?」譚默然,良久曰:「臣不讀讖。」帝問其故,譚復極言讖之非經。帝大怒曰:「桓譚非聖無法,將下,斬之!」譚叩頭流血,良久,乃得解。出為六安郡丞,道病卒。 ══范曄論曰:桓譚以不善讖流亡,鄭興以遜辭僅免;賈逵能附會文致,最差貴顯;世主以此論學,悲哉! 逵,扶風人也。 南單于比死,弟左賢王莫立,為丘浮尤鞮單于。帝遣使繼璽書拜授璽綬,賜以衣冠及繒彩,是後遂以為常。 世祖光武皇帝下中元二年(丁巳,公元五七年) 春,正月,辛未,初立北郊,祀后土。 二月,戊戌,帝崩於南宮前殿,年六十二。帝每旦視朝,日昃乃罷,數引公卿、郎將講論經理,夜分乃寐。皇太子見帝勤勞不怠,承間諫曰:「陛下有禹、湯之明,而失黃、老養性之福,願頤愛精神,優遊自寧。」帝曰:「我自樂此,不為疲也!」雖以征伐濟大業,及天下既定,乃退功臣而進文吏,明慎政體,總攬權綱,量時度力,舉無過事,故能恢復前烈,身致太平。 太尉趙熹典喪事。時經王莽之亂,舊典不存,皇太子與諸王雜止同席,籓國官屬出入宮省,與百僚無別。熹正色,橫劍殿階,扶下諸王以明尊卑;奏遣謁者將護官屬分止它縣,諸王並令就邸,唯得朝晡入臨;整禮儀,嚴門衛,內外肅然。 |
現代日本語訳「陛下には広くお聞き入れいただき、聖なるご意志を示され、小人どもの歪んだ説を退け、『五経』の正しい解釈を述べられるべきです。」上奏文が提出されると、皇帝は不機嫌になった。霊台(天文観測所)の設置場所について会議が開かれた際、皇帝が桓譚に言った。「私は讖緯(予言書)で決定しようと思うがどうか?」桓譚は黙り込み、しばらくして「臣は讖を読みません」と答えた。皇帝が理由を問うと、桓譚は再び讖が経典に非なることを激しく主張した。皇帝は大いに怒って言った。「桓譚よ!聖人を否定し法を軽んじるとは!引き下がれ、斬首せよ!」桓譚は頭を地面に擦りつけて血が出るほど叩き、ようやく許された。その後六安郡丞として左遷され、赴任途中で病死した。 ══范曄の論評:桓譚は讖緯を受け入れなかったため追放され、鄭興は婉曲な言葉でかろうじて免れた。賈逵は巧みに迎合して文飾し、最高位に昇った。君主がこのような基準で学問を評価するとは悲しいことだ!(注:賈逵は扶風出身) 南匈奴の単于ビ(比)が死去すると、弟の左賢王モ(莫)が立ち、丘浮尤鞮単于となった。皇帝は使者に璽書と印綬を授けさせ、衣冠や絹織物を下賜した。これ以降この慣例が定着する。 世祖光武皇帝 中元二年(丁巳、57年) 春正月辛未、初めて北郊で后土(地の神)を祀る。 二月戊戌、皇帝は南宮前殿にて崩御。62歳。皇帝は毎朝政務を執り、日が西に傾くまで続け、公卿や郎将を招いて経書の議論を行い、夜半になってようやく就寝した。皇太子が皇帝の倦まぬ勤勉ぶりを見て機会を得て諫めた。「陛下には禹王や湯王のような明徳がありながら、黄帝・老子が説く養生の福を失っておられます。どうか精神をお労わりになり、悠然と安寧をお楽しみください」皇帝は答えた。「私はこれを心から楽しんでいるのだ。疲れなど感じない」。天下統一のために戦い続けたが、平定後は功臣を退けて文官を登用し、政治体制を明らかに慎重に整え、権力の要綱を掌握した。時勢を見極め力を量って行動したため過ちがなく、前代の偉業を回復して太平をもたらした。 太尉趙憙が葬儀を取り仕切った。当時は王莽の乱で旧制が失われており、皇太子と諸侯王が同席し、藩国の役人が宮中を自由に出入りして百官との区別がなかった。趙憙は厳しい表情で剣を殿階に構え、諸侯王を下座へ導いて身分の差を示した。「謁者(接待官)を派遣して諸侯の家臣らを他県に宿泊させ、諸侯王は邸宅に戻し朝夕の拝礼時のみ入廷させる」と上奏し実施。礼儀を整え門衛を厳重にして内外が粛然とした。 解説
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| 太子即皇帝位,尊皇后曰皇太后。 山陽王荊哭臨不哀,而作飛書,令蒼頭詐稱大鴻臚郭況書與東海王強,言其無罪被廢,及郭后黜辱,勸令東歸舉兵以取天下,且曰:「高祖起亭長,陛下興白水,何況於王,陛下長子、故副主哉!當為秋霜,無為檻羊。人主崩亡,閭閻之伍尚為盜賊,欲有所望,何況王邪!」強得書惶怖,即執其使,封書上之。明帝以荊母弟,秘其事,遣荊出止河南宮。 三月,丁卯,葬光武皇帝於原陵。 夏,四月,丙辰,詔曰:「方今上無天子,下無方伯,若涉淵水而無舟楫。夫萬乘至重而壯者慮輕,實賴有德左右小子。高密侯禹,元功之首;東平王蒼,寬博有謀。有以禹為太傅,蒼為驃騎將軍。」蒼懇辭,帝不許。又詔驃騎將軍置長史、掾史員四十人,位在三公上。蒼嘗薦西曹掾齊國吳良,帝曰:「薦賢助國,宰相之職也。蕭何舉韓信,設壇而拜,不復考試,今以良為議郎。」 初,燒當羌豪滇良擊破先零,奪居其地;滇良卒,子滇吾立,附落轉盛。秋,滇吾與弟滇岸率眾寇隴西,敗太守劉盱於允街,於是守寨諸羌皆叛。詔謁者張鴻領諸郡兵擊之,戰於允吾,鴻軍敗沒。冬,十一月,復遣中郎將竇固監捕虜將軍馬武第二將軍、四萬人討之。 是歲,南單于莫死,弟汗立,為伊伐於慮鞮單于。 顯宗孝明皇帝上 顯宗孝明皇帝上永平元年(戊午,公元五八年) 春,正月,帝率公卿已下朝於原陵,如元會儀。 |
現代日本語訳皇太子が即位し、皇后を尊んで皇太后とした。 山陽王・劉荊は先帝の葬儀で哀悼を示さず、密かに文書を作成した。下僕に命じ大鴻臚(官職名)・郭況の偽書として東海王・劉強に送らせ「無実でありながら廃太子となったこと」や「郭皇后が不当な扱いを受けたこと」を記し、兵を起こして天下を取るよう促した。さらにこう追記している:「高祖(劉邦)は亭長の身から興り、陛下(光武帝)は白水郷より挙兵された。ましてや大王こそ先帝の嫡子で副君であったのに! 秋霜のように凛とすべきであり檻中の羊であってはいけない。皇帝が崩御すれば市井の人々さえ盗賊となるものだ。願いを成就させよ」。 劉強はこの書状を受け取り恐怖し、使者を拘束して密書を封印の上奏した。明帝(即位後の太子)は劉荊が同母弟であることを慮り事態を秘匿し、彼を河南宮に移住させた。 3月丁卯日:光武帝を原陵に葬る。 夏4月丙辰日:詔勅発布「今や上には天子無く下には諸侯の統率者もない(朕は若年ゆえ未熟である)。深淵を渡ろうとして舟を持たぬが如き不安だ。帝王という重責を軽少な思慮で背負うことはできず、有徳者の補佐に頼らねばならぬ。高密侯・鄧禹は開国の功績第一の者であり、東平王・劉蒼は度量広く謀略に長ける。よって鄧禹を太傅とし、劉蒼を驃騎将軍とする」。 劉蒼が辞退したため明帝は許可せず、さらに詔で「驃騎将軍の下に40名の属官(長史・掾史)を置き三公より上位とする」と定めた。かつて劉蒼が推薦した西曹掾・呉良に対し皇帝は言った:「賢才を推挙することこそ宰相の職務である。蕭何が韓信を登用した時、壇上で拝礼して試験など行わなかった(その先例に倣う)」。即座に呉良を議郎とした。 初め焼当羌族の首長・滇良が先零羌族を破り彼らの土地を得た。滇良亡き後、子の滇吾が継ぎ勢力は拡大した。秋、滇吾と弟・滇岸が隴西郡へ侵攻し允街で太守劉盱を破ると、各地に駐屯する羌族部隊も反旗を翻した。詔により謁者(皇帝使者)張鴻が諸郡の兵を率いて討伐に向かったが允吾での戦いで大敗して全滅した。冬11月、中郎将・竇固と捕虜将軍馬武に四万の兵力を与え再征させた。 同年、南匈奴単于モ(人名)が死去し弟汗が即位。伊伐於慮鞮単于を称す。 顕宗孝明皇帝紀 上巻 解説
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| 乘輿拜神坐,退,坐東廂;侍衛官皆在神坐後,太官上食,太常奏樂;郡國上計吏以次前,當神軒佔其郡谷價及民所疾苦。是後遂以為常。 夏,五月,高密元侯鄧禹薨。 東海恭王強病,上遣使者太醫乘驛視疾,駱驛不絕。詔沛王輔、濟南王康、淮陽王延詣魯省疾。戊寅,強薨,臨終,上疏謝恩,言:「身既夭命,孤弱復為皇太后、陛下憂慮,誠悲誠慚!息政,小人也,猥當襲臣後,必非所以全利之也,願還東海郡。今天下新罹大憂,惟陛下加供養皇太后,數進御餐。臣強困劣,言不能盡意,願並謝諸王,不意永不復相見也!」帝覽書悲慟,從太后出幸津門亭發哀,使大司空持節護喪事,贈送以殊禮,詔楚王英、趙王栩、北海王興及京師親戚皆會葬。帝追惟強深執謙儉,不欲厚葬以違其意,於是特詔:「遺送之物,務從約省,衣足斂形,茅車瓦器,物減於制,以彰王卓爾獨行之志。」將作大匠留起陵廟。 秋,七月,馬武等擊燒當羌,大破之,餘皆降散。 山陽王荊私迎能為星者,與謀議,冀天下有變。帝聞之,徙封荊廣陵王,遣之國。遼東太守祭肜使偏何討赤山烏桓,大破之,斬其魁帥。塞外震讋,西自武威,東盡玄菟,皆來內附,野無風塵,乃悉罷緣邊屯兵。 東平王蒼以為中興三十餘年,四方無虞,宜修禮樂,乃與公卿共議定南北郊冠冕、車服制度及光武廟登歌、八俏舞數,上之。 |
現代日本語訳皇帝は神座に向かって拝礼し、退いて東廂(ひがしばさ)に着席した。侍衛官たちは皆、神座の後ろに控えていた。太官が食事を献上し、太常が音楽を奏すると、郡国から来た上計吏(報告官吏)が順番に前に進み出て、神の乗り物の前で自らの郡の穀物価格や民衆の苦しみについて述べた。これ以降、この儀式は恒例となった。 夏五月、高密元侯・鄧禹(とうう)が逝去した。 東海恭王・劉強(りゅうきょう)が病に伏せると、皇帝は使者と太医を駅伝馬で派遣して看病させ、継ぎ目なく見舞いを送った。詔を下し沛王・劉輔(りゅうほ)、済南王・劉康(りゅうこう)、淮陽王・劉延(りゅうえん)に魯の地へ行って病状を見るよう命じた。戊寅の日、劉強は逝去した。臨終にあたり上疏して恩を謝し、「私は早く寿命が尽き、孤児となった子どもも皇太后や陛下の心配事となり、誠に悲しく恥ずかしい限りです。息子の政(せい)は未熟者であり、みだりに私の後継となるのは決して彼にとって良いことではありません。どうか東海郡を返上させてください。今、天下が大きな喪(先帝崩御)に直面している折、陛下にはぜひ皇太后をお大切にお世話し、頻繁に食事をご一緒なさってください。私は衰弱して言葉も尽くせませんが、諸王にも謝意をお伝えいただき、永遠の別れとなるとは思いもしませんでした」と記した。皇帝はこの書状を読んで悲痛に泣き、皇太后と共に出て津門亭で哀悼を示し、大司空(大臣)に節を持たせて葬儀を取り仕切らせ、特別な礼遇で贈り物を行った。詔により楚王・劉英(りゅうえい)、趙王・劉栩(りゅうく)、北海王・劉興(りゅうこう)及び都の親族たちを皆葬儀に参列させた。皇帝は劉強が深く謙虚で質素であったことを思い返し、厚葬を行うことが彼の意志に反すると考え、特に詔して「副葬品は必ず簡素とせよ。衣類は遺体を覆うだけで十分であり、茅(かや)の車・瓦器を用い、規定より品数を減らすことで王の卓越した志を示せ」と命じた。将作大匠が陵廟を建設するため現地に留まった。 秋七月、馬武(ばぶ)らが焼当羌族(しょうとうきょうぞく)を攻撃し大破すると、残党は降伏・離散した。 山陽王・劉荊(りゅうけい)が密かに占星術師を招いて謀議し、天下に変事が起きることを期待していた。皇帝はこれを聞くと彼を広陵王へ移封して任地へ赴かせた。遼東太守・祭肜(さいとう)配下の偏何(へんか)に命じて赤山烏桓(せきざんうがん)を討伐させると大勝し、首領を斬った。国境外が震撼すると、西は武威から東は玄菟(げんと)まで帰順し、辺境は平穏となったため、守備兵を撤収した。 東平王・劉蒼(りゅうそう)は「漢王朝再興より30余年、天下に憂いなし」として礼楽制度の整備を提言し、公卿と共に南北郊祭用の冠冕や車服様式、光武帝廟の登歌(とうか/祭祀音楽)、八佾舞(はちいつぶ/天子専用舞)の規模などを議定して皇帝へ上奏した。 解説
※ 語彙注: Translation took 2779.8 seconds. |
| 好畦愍侯耿弇薨。 顯宗孝明皇帝上永平二年(己未,公元五九年) 春,正月,辛未,宗祀光琥皇帝於明堂,帝及公卿列侯,始服冠冕、玉珮以行事。禮畢,登靈台,望雲物。赦天下。 三月,臨辟雍,初行大射禮。 冬,十月,壬子,上幸辟雍,初行養老禮;以李躬為三老,桓榮為五更。三老服都紵大袍,冠進賢,扶玉杖;五更亦如之,不杖。乘輿到壁雍禮殿,御坐東廂,遣使者安車迎三老、五更於太學講堂,天子迎於門屏,交禮;道自阼階,三老升自賓階;至階,天子揖如禮。三老升,東面,三公設幾,九卿正履,天子親袒割牲,執醬而饋,執爵而酳,祝鯁在前,祝饐在後。五更南面,三公進供,禮亦如之。禮畢,引桓榮及弟子升堂,上自為下說,諸儒執經問難於前,冠帶搢紳之人圜橋門而觀聽者,蓋億萬計。於是下詔賜榮爵關內侯;三老、五更皆以二千石祿養終厥身。賜天下三老酒,人一石,肉四十斤。上自為太子,受《尚書》於桓榮,及即帝位,猶尊榮以師禮。嘗幸太常府,令榮坐東面,設幾杖,會百官及榮門生數百人,上親自執業;諸生或避位發難,上謙曰:「太師在是。」既罷,悉以太官供具賜太常家。榮每疾病,帝輒遣使者存問,太官、太醫相望於道。及篤,上疏謝恩,讓還爵士。帝幸其家問起居,入街,下車,擁經而前,撫榮垂涕,賜以床茵、帷帳、刀劍、衣被,良久乃去。 |
現代日本語訳好畦愍侯(こうけいびんこう)耿弇(こうえん)が逝去した。 顕宗孝明皇帝(けんそうこうめいてい)、永平二年(己未、西暦59年) 春正月辛未の日、明堂において光琥皇帝を祀る儀式を行った。帝と公卿列侯は初めて冠冕とかつ玉珮をつけて祭事に臨んだ。儀礼が終わると霊台に登り雲気(吉凶を知るための空模様)を観察した。天下に恩赦が下された。 三月、辟雍(大学)に行幸し始めて大射の礼を行った。 冬十月壬子の日、帝は再び辟雍へ行幸し初めて養老の礼を行い、李躬(りきゅう)を三老(最長老)、桓栄(かんえい)を五更(次席長老)に任命した。三老は麻織りの大袍をまとい進賢冠を戴き玉杖をついた。五更も同様の装束だが杖を持たなかった。帝が乗輿で辟雍礼殿に着くと、東側の部屋におり使者を遣わし安車(高官用の車)で三老と五更を太学講堂から迎えさせた。天子自ら門屏に出向いて挨拶を交わすと、帝は主人専用の階段より昇殿したが、三老は賓客専用の階段を用いた。階段に至ると皇帝は礼儀に則って揖(会釈)を行った。 三老が壇上へ上がり東向きで座すると、三公(最高官職)が机を用意し九卿(高官)が履物を整えた。天子自ら衣の裾をまくり犠牲(生贄の牛)を切り分け、醬(調味料)を持って食事を勧め爵(杯)で酒をすすめた。食道詰まりに備える祝官が前に立ち、喉につかえた際の世話役が後ろに控えた。五更は南向きに座り三公から給仕を受け、礼儀も同様であった。 儀式終了後、桓栄とその弟子たちを堂上へ招くと帝自ら講義を行い、儒者たちが経書について問い質す中で、冠帯・搢紳(官僚階級)の人々が橋門を取り囲み見学する様は数億万に及んだ。ここにおいて詔して桓栄に関内侯の爵位を賜り、三老と五更には二千石相当の終身俸禄を与えた。天下の全ての「三老」職にある者たちにも酒一人当たり一石(約30リットル)・肉四十斤(約24kg)ずつ下賜した。 帝は太子時代に桓栄から『尚書』を学び、即位後も師礼をもって厚遇していた。かつて太常府に行幸した際には桓栄を東面の上座に着かせ机と杖を設け、百官と門人数百人を集めて自ら経典を持参して講義を受けた。生徒たちが席を譲ろうとした時「大師(師匠)がここにおられる」と謙遜すると、終了後には宮中御用達の調度品全てを太常府に下賜した。 桓栄が病むたび帝は必ず使者を見舞いに派遣し、食料や医者が道を行き交うほどであった。危篤時に上奏して爵位と領地返還を願い出ると、帝自らその家へ見舞いに赴いた。街中で車から降り経書を持ちながら歩み寄り涙ながらに桓栄の手を取り寝台・敷物・帷帳・刀剣・衣被などを下賜し長く留まった後に去った。 注釈
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| 自是諸侯、將軍、大夫問疾者,不敢復乘車到門,皆拜床下。榮卒,帝親自變服臨喪送葬,賜塚塋於首山之陽。子郁當嗣,讓其兄子泛;帝不許,郁乃受封,而悉以租入與之。帝以郁為侍中。 上以中山王焉,郭太后少子,太后尤愛之,故獨留京師,至是始與諸王俱就國,賜以虎賁、官騎,恩寵尤厚,獨得往來京師。帝禮待陰、郭,每事必均,數受賞賜,恩寵俱渥。 甲子,上行幸長安。十一月,甲申,遣使者以中牢祠蕭何、霍光。帝過,式其墓。進幸河東;癸卯,還宮。 十二月,護羌校尉竇林坐欺罔及臧罪,下獄死。林者,融之從兄子也。於是竇氏一公、兩侯、三公主、四二千石相與並時,自祖及孫,官府邸第相望京邑,於親戚功臣中莫與為比。及林誅,帝數干詔切責融,融惶恐乞骸骨,詔令歸第養病。 是歲,初迎氣於五郊。 新陽侯陰就子豐尚酈邑公主。公主驕妒,豐殺之,被誅,父母皆自殺。 南單于汗死,單于比之子適立,為□盆僮屍逐侯鞮單于。 顯宗孝明皇帝上永平三年(庚申,公元六零年) 春,二月,甲寅,太尉趙、司徒李言斤免。 丙辰,以左馮翊郭丹為司徒。 己未,以南陽太守虞延為太尉。 甲子,立貴人馬氏為皇后,皇子炟為太子。後,援之女也,光武時,以選入太子宮,能奉承陰後,傍接同列,禮則修備,上下安之,遂見寵異;及帝即位,為貴人。 |
現代日本語訳:それ以降、諸侯や将軍、大夫など病状を見舞いに来る者は、車に乗って門まで来ることすらできなくなり、皆ベッドの前で跪いて礼をした。宋弘が亡くなると、皇帝は自ら喪服に着替えて葬儀に参列し、首陽山の南側に墓所を与えた。息子の宋郁は後継ぎとなるはずだったが、兄の子である宋泛に譲ろうとした。しかし皇帝は許さず、宋郁は封を受け取ったものの、収入を全て彼に与えた。皇帝は宋郁を侍中に任命した。 帝(明帝)は中山王劉焉について、郭太后が最も溺愛する末子であったため特別に都に留めていたが、この時になって初めて他の諸侯王と共に領地へ赴かせた。その際には親衛隊や官用騎兵を下賜し、格別の厚遇を示した上で唯一「都城への往来」を認めた。帝は陰氏・郭氏(外戚)に対して均等な礼遇を与え、何事も平等に扱い、幾度も褒賞を授けて双方へ深く恩寵を施した。 十月甲子の日、帝が長安に行幸する。十一月甲申には使者を遣わし犠牲(中牢)を用いて蕭何と霍光を祀らせた。帝は彼らの墓前を通りかかると車から降りて礼拝した。さらに河東に進み、癸卯の日に宮殿へ帰還。 十二月、護羌校尉竇林が欺瞞及び収賄罪で投獄され死刑となる。竇林は竇融の従兄弟の子であった。当時、竇氏一族からは公爵1人・侯爵2人・公主(皇女)3人・太守級高官4人が同時に輩出し、祖先から孫世代まで邸宅が都城に林立するほど栄華を極め、他の功臣や外戚の中で比肩できる者はいなかった。竇林の処刑後、帝はたびたび詔で竇融を強く非難したため、彼は畏れて官職返上を願い出るが、「邸宅で静養せよ」との勅命を受ける。 この年(59年)、初めて五郊(四方と中央)で季節の神々を迎える儀式を行う。 新陽侯陰就の子である陰豊が酈邑公主と結婚する。だが公主は傲慢で嫉妬深く、陰豊は彼女を殺害したため処刑され、両親も自決した。 南匈奴の単于(君主)である汗が死去し、比単于の子・適が即位して□盆僮屍逐侯鞮単于となる。 顕宗孝明皇帝 永平三年(庚申、西暦60年) 春二月甲寅日、太尉趙熹と司徒李䜣を罷免。 丙辰日に左馮翊の郭丹を司徒に任命。 己未日に南陽太守虞延を太尉に登用。 甲子日、貴人馬氏を皇后に冊立し皇子炟(後の章帝)を皇太子とする。皇后は馬援の娘で、光武帝時代に選抜されて皇太子宮に入り、陰皇后へ巧みに仕えながら他の側室とも良好な関係を築き、礼儀を完璧に守って上下から慕われたため特に寵愛された。帝即位後は貴人となり──。 訳注:
歴史的補足:
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| 時後前母姊女賈氏亦以選入,生皇子炟。帝以後無子,命養之,謂曰:「人未必當自生子,但患愛養不至耳!」後於是盡心撫育,勞悴過於所生。太子亦孝性淳篤,母子慈愛,始終無纖介之間。後常以皇嗣未廣,薦達左右,若恐不及。後宮有進見者,每加慰納;若數所寵引,輒加隆遇。及有司奏立長秋宮,帝未有所言,皇太后曰:「馬貴人德冠後宮,即其人也。」後既正位宮闈,愈自謙肅,好讀書。常衣大練,裙不加緣;朔望諸姬主朝請,望見後袍衣疏粗,以為綺縠,就視,乃笑。後曰:「此繒特宜染色,故用之耳。」群臣奏事有難平者,帝數以試後,後輒分解趣理,各得其情,然未嘗以傢俬干政事。帝由是寵敬,始終無衰焉。 帝思中興功臣,乃圖畫二十八將於南宮雲台,以鄧禹為首,次馬成、吳漢、王梁、賈復、陳俊、耿弇、杜茂、寇恂、傅俊、岑彭、堅金覃、馮異、王霸、朱祜、任光、祭遵、李忠、景丹、萬修、蓋延、邳肜、銚期、劉植、耿純、臧宮、馬武、劉隆,又益以王常、李通、竇融、卓茂,合三十二人。馬援以椒房之親,獨不與焉。 夏,四月,辛酉,封皇子建為千乘王,羨為廣平王。 六月,丁卯,有星孛於天船北。 帝大起北宮。時天旱,尚書僕射會稽鐘離意詣闕,免冠,上疏曰:「昔成湯遭旱,以六事自責曰:『政不節邪?使民疾邪?宮室榮邪?女謁盛邪?苞苴行邪?讒夫昌邪?』竊見北宮大作,民失農時;自古非苦宮室小狹,但患民不安寧,宜且罷止,以應天心。 |
現代日本語訳このころ、皇后の前母(継母)の姉である賈氏も選抜されて後宮に入り、皇子・炟を生んだ。皇帝は皇后に実子がいなかったため、彼女に養育するよう命じ、「人は必ずしも自分の子供をもうける必要などない。ただ愛して育てることを怠らなければよいのだ」と言った。そこで皇后は真心込めて育て上げ、労苦は実の子以上であった。皇太子(炟)も純粋で篤実な孝心を持ち続け、母子の慈愛に満ちた関係には終始わずかな隙さえ生じなかった。 皇后は常々、皇位継承者が少ないことを憂い、側近たちを推挙して皇帝のもとへ送り込むことに熱心だった。後宮で面会できる女性がいれば必ず慰めを受け入れ、もし寵愛を受ける素質があれば厚遇した。役人が皇后(長秋宮)の正式な冊立を上奏すると、皇帝は何も言わなかったが、皇太后が「馬貴人の徳が後宮で最も優れている。彼女こそふさわしい」と述べた。 皇后として正室となってからは一層謙虚で慎み深く、読書を好んだ。普段は粗末な絹の衣類をまとい、裾に縁取りすら付けなかった。月の初めや十五日に后妃たちが挨拶に来ると、皇后の衣服があまりにも質素なため薄物と見間違え、近づいてみて笑うことがあった。皇后は「この絹布は特に染色に向いているので使っているだけです」と説明した。 臣下からの難題を皇帝が幾度か彼女に相談すると、皇后は必ず道理によって分析し、それぞれの実情に見合った解決を示した。しかし家族や私事で政務に干渉することは決してなかった。このため皇帝の寵愛と敬意は終始衰えを知らなかった。 帝(光武帝)は漢朝再興の功臣を思い、南宮・雲台に二十八将の肖像画を描かせた。筆頭は鄧禹で、以下馬成・呉漢・王梁・賈復・陳俊・耿弇・杜茂・寇恂・傅俊・岑彭・堅鐔(金覃)・馮異・王霸・朱祐・任光・祭遵・李忠・景丹・万脩・蓋延・邳彤・銚期・劉植・耿純・臧宮・馬武・劉隆と続く。後に王常・李通・竇融・卓茂の四人を加え、計三十二人とした。ただ皇室外戚である馬援だけが含まれなかった。 夏四月辛酉(十七日)、皇子・建を千乗王に、羨を広平王に封じた。 六月丁卯(二十四日)、天船星の北側で彗星が観測された。 帝は大規模な北宮造営を開始した。当時干ばつに見舞われており、尚書僕射・会稽出身の鐘離意が冠を脱いで上奏した:「昔、成湯王も旱魃に遭った際、六つの問題で自ら責めた『政治が節度を欠いたか?民衆を苦しめたか?宮殿を豪華にしすぎたか?女性の介入が過ぎたか?賄賂が横行したか?讒言する者がはびこったか?』と。私は北宮造営が大規模であるため農期を妨げている現状を見るに、古より苦労したのは宮殿の狭さではなく民の不安だ。どうか工事中止で天意にお応えください」 解説
※注:固有名詞(人名/星名/官職名)は原則として原表記を維持したが、「堅金覃→堅鐔」「朱祜→朱祐」等、通例の漢字表記で統一。 Translation took 1119.9 seconds. |
| 」帝策詔報曰:「湯引六事,咎在一人,其冠、履,勿謝!」又敕大匠止作諸宮,減省不急。詔因謝公卿百僚,遂慶時澍雨。意薦全椒長劉平,詔征拜議郎。平在全椒,政有恩惠,民或增貲就賦,或減年從役。剌史、太守行部,獄無系囚,人自以得所,不知所問,唯班詔書而去。帝性褊察,好以耳目隱發為明,公卿大臣數被詆毀,近臣尚書以下至見提曳。常以事怒郎藥崧,以杖撞之;崧走入床下,帝怒甚,疾言曰:「郎出!」崧乃曰:「天子穆穆,諸侯皇皇,未聞人君,自起撞郎。」帝乃赦之。是時朝廷莫不悚心栗,爭為嚴切以避誅責,唯鍾離意獨敢諫爭,數封還詔書,臣下過失,輒救解之。會連有變異,上疏曰:「陛下敬畏鬼神,憂恤黎元,而天氣未和,寒暑違節者,咎在群臣不能宣化治職,而以苛刻為俗,百官無相親之心,吏民無雍雍之志,至於感逆和氣,以致天災。百姓可以德勝,難以力服,《鹿鳴》之詩必言宴樂者,以人神之心洽,然後天氣和也。願陛下垂聖德,緩刑罰,順時氣以調陰陽。」帝雖不能用,然知其至誠,終愛厚之。 秋,八月,戊辰,詔改太樂官曰太予,用讖文也。 壬申晦,日有食之。詔曰:「昔楚莊無災,以致戒懼,魯哀禍大,天不降譴。今之動變,倘尚可救,有司勉思厥職,以匡無德。」 冬,十月,甲子,車駕從皇太后幸章陵。 |
現代語訳皇帝(明帝)は詔書でこう応えた。「殷の湯王が六つの過ちを挙げたように、その責任は朕一人にある。(臣下から進言された)冠や履き物を取り上げる処分は行わない」。さらに工匠長に命じて宮殿造営を中止させ、不急な事業を削減した。公卿百官への謝意を示す詔書が発せられると、時節外れの慈雨が降り喜びが広がった。鍾離意が全椒県令・劉平を推挙すると、皇帝は議郎として召し上げた。劉平は全椒で善政を行い、民衆は自ら財産額を多く申告して税に応じたり、年齢をごまかしてでも労役に参加した。刺史や太守が巡察しても牢獄には囚人がおらず、人々の生活は安定しているため尋問する必要もなく、詔書を布告するとすぐ立ち去ったのである。 明帝の性格は猜疑心強く細かな監察を好み、密告によって真相を知ろうとした。公卿大臣たちはしばしば誹謗され、側近の尚書以下の官人でさえ引きずり回されることがあった。郎官・薬崧に対して怒って杖で打ちかかった時、劉平が床下に逃げ込むと皇帝は激高して「出てこい!」と叫んだ。すると劉平は「天子は威厳を保ち、諸侯は堂々たるもの。君主自ら郎官を殴ろうとなさるとは聞いたことがありません」と言上したため、ようやく許された。 朝廷の者は皆恐怖に震え、誅罰を避けるために互いに過酷な態度で臨んだが、ただ鍾離意だけは大胆に諫言し、詔書を封返すこともしばしば。臣下の過失があれば救済した。天変地異が続いた際には上奏してこう述べた。「陛下は鬼神を敬い民衆を憂われますが、季節外れの寒暖なのは群臣が教化せず職務を怠り、厳罰主義に陥っているためです。官僚間に親睦なく官民の和も失われ、天地の気が乱れて災害を招きます。(詩経)『鹿鳴』で宴楽を歌うのは人神の調和こそ天候順調の基だから。どうか仁徳を示し刑罰を緩め、陰陽の調和をお図りください」。皇帝は採用しなかったもののその誠意を認め終始厚遇した。 秋八月戊辰(25日)、太楽官を「太予」と改称する詔書が出た(緯書に基づく改名)。 解説■歴史的背景本記事は『資治通鑑』明帝紀中の永平年間(58-75年)を典拠とする。後漢第二代皇帝・明帝の統治理念と矛盾点が浮き彫りにされる:
1. 儒教的理想:詔書での「咎在一人」表明や劉平善政描写は徳治主義の体現 ■政治的焦点
■社会心理分析官僚たちの「争為厳切」(過酷さ競い)現象は恐怖支配が生む組織的病理を露呈。これに対し鍾離意が引用した『鹿鳴』宴楽論は儒教的人間観に基づく秩序回復案を示す。
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| 荊州剌史郭賀,官有殊政,上賜以三公之服,黼黻,冕旒;敕行部去襜帷,使百姓見其容服,以章有德,戊辰,還自章陵。 是歲,京師及郡國七大水。 莎車王賢以兵威逼奪於窴、大宛、媯塞王國,使其將守之。於窴人殺其將君德,立大人休莫霸為王。賢率諸國兵數萬擊之,大為休莫霸所敗,脫身走還。休莫霸進圍莎車,中流矢死,於窴人復立其兄子廣德為王,廣德使其弟仁攻賢。廣德父先拘在莎車,賢乃歸其父,以女妻之,與之和親。 |
現代日本語訳荊州刺史の郭賀は、特に優れた政績を上げていたため、皇帝(光武帝)が三公用の礼服である黼黻と冕旒を与えた。さらに車の覆いを取り払って巡察させるよう命じ、民衆にその姿や服を見せしめ、徳のある人物として顕彰させた。戊辰の日、郭賀は章陵から帰還した。 この年(光武帝治世下)、都と七つの郡国で大規模な洪水が発生した。 莎車王の賢は武力で于窴・大宛・媯塞の三王国を脅迫し支配下に置き、配下の将軍を守備につかせた。すると于窴人がその将軍(君徳)を殺害し、大人(部族長)である休莫覇を王として擁立した。賢は数万の諸国連合軍を率いて攻撃するが、休莫覇に大敗して単騎で逃亡。逆に休莫覇が莎車城を包囲したものの流れ矢に当たって戦死し、于窴人は再びその甥(兄の子)である広徳を王とした。広徳は弟の仁を派遣して賢を攻撃させた。しかし広徳の父(先に拘束されていた人質)が莎車にいたため、賢は彼を帰還させて娘を与え姻戚関係を結び、和平を成立させた。 解説
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| input text 資治通鑑\045_漢紀_37.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷四十五 漢紀三十七 起重光作噩,盡旃蒙大淵獻,凡十五年。 顯宗孝明皇帝下永平四年(辛酉,公元六一年) 春,帝近出觀覽城第,欲遂校獵河內;東平王蒼上書諫;帝覽奏,即還宮。 秋,九月,戊寅,千乘哀王建薨,無子,國除。 冬,十月,乙卯,司徒郭丹、司空馮魴免,以河南尹沛國范遷為司徒,太仆伏恭為司空。恭,湛之兄子也。 陵鄉侯梁松坐怨望、縣飛書誹謗,下獄死。初,上為太子,太中大夫鄭興子眾以通經知名,太子及山陽王荊因梁松以縑帛請之,眾曰:「太子儲君,無外交之義。漢有舊防,蕃王不宜私通賓客。」松曰:「長者意,不可逆。」眾曰:「犯禁觸罪,不如守正而死。」遂不往。及松敗,賓客多坐之,唯眾不染於辭。 於窴王廣德將諸國兵三萬人攻莎車,誘莎車王賢,殺之,並其國。匈奴發諸國兵圍於窴,廣德請降。匈奴立賢質子不居征為莎車王,廣德又攻殺之,更立其弟齊黎為莎車王。東平王蒼自以至親輔政,聲望日重,意不自安,前後累上疏稱:「自漢興以來,宗室子弟無得在公卿位者,乞上驃騎將軍印綬,退就蕃國。」辭甚懇切,帝乃許蒼還國,而不聽上將軍印綬。 顯宗孝明皇帝下永平五年(壬戌,公元六二年) 春,二月,庚戌,蒼罷歸籓。帝以驃騎長史為東平太傅,掾為中大夫,令史為王家郎,加賜錢五千萬,布十萬匹。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』巻四十五より)顕宗孝明皇帝下・永平四年(辛酉、61年) - 春: 帝が近郊の城郭を視察中に河内での狩猟実施を計画。東平王劉蒼が上書して諫めたため、帝は奏文を読むと直ちに帰還した。 - 秋9月戊寅日: 千乗哀王劉建が没し後継者不在のため封国は消滅。 - 冬10月乙卯日: - 司徒(宰相)郭丹・司空(土木長官)馮魴を解任。 - 後任に河南尹出身の范遷を司徒、太僕伏恭を司空に任命。伏恭は伏湛の甥にあたる。 - 陵郷侯梁松事件: - 不満分子と密通し匿名文書で誹謗した罪により獄死。 - 背景として、先帝(光武帝)時代、当時皇太子だった明帝が学者・鄭衆(鄭興の子)に教えを請おうとした際、梁松が仲介役を買って出た。しかし鄭衆は「皇太子が外部と私交を持つのは前例がない」と拒絶し、「法を犯すより正義を守って死ぬべきだ」と主張して応じなかった。 - 梁松失脚後、多くの関係者が連座したが鄭衆だけは無実だった。
永平五年(壬戌、62年) - 春2月庚戌日: 劉蒼が正式に離京。 - 帝は側近たちを東平王国の要職に転出させた: - 驃騎長史→王太子傅 - 掾(属官)→中大夫 - 令史(書記官)→王家郎 - 別途として銭五千万銭・布十万匹を下賜。 解説
※本訳では『後漢書』『続漢書』等を補助史料とし、固有名詞は原則として岩波文庫版に基づいた表記を用いました。 Translation took 988.0 seconds. |
| 冬,十月,上行幸鄴;是月還宮。 十一月,北匈奴寇五原;十二月,寇雲中。南單于擊卻之。 是歲,發遣邊民在內郡者,賜裝錢,人二萬。 安豐戴侯竇融年老,子孫縱誕,多不法。長子穆尚內黃公主。矯稱陰太后詔,令六安侯劉盱去婦,以女妻之。盱婦家上書言狀,帝大怒。盡免穆等官,諸竇為郎吏者,皆將家屬歸故郡,獨留融京師;融尋薨。後數歲,穆等復坐事與子勳、宣皆下獄死。久之,詔還融夫人與小孫一人居雒陽。 顯宗孝明皇帝下永平六年(癸亥,公元六三年) 春,二月,王雒山出寶鼎,獻之。夏,四月,甲子,詔曰:「祥瑞之降,以應有德;方今政化多僻,何以致茲!《易》曰:『鼎像三公,』豈公卿奉職得其理邪!其賜三公帛五十匹,九卿、二千石半之。先帝詔書,禁人上事言聖,而間者章奏頗多浮詞;自今若有過稱虛譽,尚書皆宜抑而不省,示不為諂子蚩也。」 冬,十月,上行幸魯;十二月,還幸陽城;壬午,還宮。 是歲,南單于適死,單于莫之子蘇立,為丘除車林鞮單于;數月,復死,單于適之弟長立,為湖邪屍逐侯鞮單于。 顯宗孝明皇帝下永平七年(甲子,公元六四年) 春,正月,癸卯,皇太后陰氏崩。二月,庚申,葬光烈皇后。 北匈奴猶盛,數寇邊,遣使求合市;上冀其交通,不復為寇,許之。 以東海相宋均為尚書令。 |
冬、十月に帝は鄴に行幸したが、その月のうちに宮殿へ戻られた。 十一月には北匈奴が五原を侵犯し、十二月にも雲中を侵攻したものの、南単于によって撃退された。 この年、辺境から内郡に移住させた民に対し、装備費用として一人当たり二万銭を賜った。 安豊戴侯・竇融は老齢でありながら子孫が放縦で法を犯すことが多かった。長男の穆は内黄公主と結婚していたものの、陰太后の詔だと偽って六安侯・劉盱に離婚させ、自分の娘を嫁がせた。これを知った劉盱の元妻の家族が上奏したため、帝は激怒し穆ら全員を免職とした。竇家で郎官を務める者も家族と共に故郷へ戻るよう命じられ、京師には融だけが残留を許されたが、まもなく死去した。 数年後、穆らは再び罪を得て子の勲・宣ともども獄死。その後、詔によって融夫人と幼い孫一人が雒陽居住を許可されている。 顕宗孝明皇帝 永平六年(癸亥、63年) 春二月に王雒山で宝鼎が発見され献上された。 夏四月甲子日には「祥瑞は有徳者に応じて現れるもの。今の政治に多くの問題がある中でなぜこれが現れたか?『易経』に鼎は三公を象徴するとあるように、これは公卿たちが職務を全うした証しか?」との詔勅が出され、三公には帛五十匹、九卿と二千石の官にはその半量が下賜された。 さらに「先帝の詔で奏上文書に『聖』の字を用いることは禁止されているにもかかわらず虚飾が多い。今後は過剰な賛辞を見つけたら尚書省は受理せず、諂う者を嘲笑する姿勢を示せ」と命じている。 冬十月には魯に行幸され十二月に陽城へ立ち寄った後、壬午日に宮殿に戻られた。 同年、南単于の適が死去し莫の子・蘇が立って丘除車林鞮単于となったが数月で死亡。その後、適の弟である長が湖邪屍逐侯鞮単于として即位した。 顕宗孝明皇帝 永平七年(甲子、64年) 春正月癸卯日に陰皇太后が崩御し、二月庚申に光烈皇后として葬られた。 北匈奴は依然勢力を保ち辺境を侵攻したため、交易を求める使者に対して帝は「交流すれば侵略も止むだろう」と期待して許可された。東海の国相であった宋均が尚書令に任命されている。 [解説] *史実の現代語訳にあたり固有名詞(官職名・地名等)は原典尊重で表記し、皇帝関連用語(行幸/崩御など)も文語調を残した *「薨」は諸侯クラスの死に用いる語だが竇融が列侯であることから適切と判断 *匈奴の単于名は音訳表記で統一。複雑な名称も省略せず記載 *詔書内『易経』引用部分は意訳より原文の比喩を生かすよう調整 *「賜裝錢」解釈:当時の移民政策における移転費用補助と推定し現代語化 *竇融一族の処分経緯では時間軸(尋→数歳後→久之)を明確に再構成 *政治姿勢を示す詔勅部分は、皇帝の懐疑的態度や官僚統制意図が伝わるよう訳出 Translation took 769.8 seconds. |
| 初,均為九江太守,五日一聽事,悉省掾、史,閉督郵府內,屬縣無事,百姓安業。九江舊多虎暴,常募設檻阱,而猶多傷害。均下記屬縣曰:「夫江、淮之有猛獸,猶北土之有雞豚也,今為民害,咎在殘吏,而勞勤張捕,非憂恤之本也。其務退奸貪,思進忠善,可一去檻阱,除削課制。」其後無復虎患。帝聞均名,故任以樞機。均謂人曰:「國家喜文法、廉吏,以為足止奸也;然文吏習為欺謾,而廉吏清在一己,無益百姓流亡、盜賊為害也。均欲叩頭爭之,時未可改也,久將自苦之,乃可言耳!」未及言,會遷司隸校尉。後上聞其言,追善之。 顯宗孝明皇帝下永平八年(乙丑,公元六五年) 春,正月,己卯,司徒范遷薨。 三月,辛卯,以太尉虞延為司徒,衛尉趙熹行太尉事。 越騎司馬鄭眾使北匈奴,單于欲令眾拜,眾不為屈。單于圍守,閉之不與水火;眾拔刀自誓,單于恐而止,乃更發使,隨眾還京師。初,大司農耿國上言:「宜置度遼將軍屯五原,以防南匈奴逃亡。」朝廷不從,南匈奴須卜骨都侯等知漢與北虜交使,內懷嫌怨,欲畔,密使人詣北虜,令遣兵迎之。鄭眾出塞,疑有異;伺候,果得須卜使人。乃上言:「宜更置大將,以防二虜交通。」由是始置度遼營,以中郎將吳棠行度遼將軍事,將黎陽虎牙營士屯五原曼柏。 秋,郡國十四大水。 |
現代日本語訳当初、宋均は九江太守として五日に一度だけ政務を裁決し、属僚(掾・史)の数を大幅に削減した。督郵(監察官)を役所内で待機させ、管轄下の県々では事件もなく民衆は平穏に暮らしていた。九江地域には以前から虎による被害が多く、常に罠や落とし穴を設置して対策していたが、それでも多くの死傷者が出ていた。宋均は各県に通達した:「江淮地方の猛獣(虎)の存在は、北方における鶏や豚のようなものだ。今これが民衆への災いとなっているのは、実は残忍な役人たちこそが原因である。労力を費やして捕獲網を張り巡らせることは、根本的な解決策ではない。奸悪で貪欲な者を排除し、忠誠心ある善良な人物を登用せよ。罠や落とし穴は撤去し、捕獲ノルマも廃止するように」。その後、虎の被害は再び発生しなかった。光武帝(劉秀)は宋均の評判を聞き、枢要な地位に抜擢したが、彼は人々に向かってこう語った:「朝廷は法令や清廉な役人を重視して不正防止と考えるが、法務官僚たちは欺瞞の術に長けている。清廉さも個人保身のために過ぎず、民衆の困窮や盗賊被害には何ら寄与しない。私はこの問題を直諫しようとしたが、時勢が許さぬため機を見ることにした」。発言する前に司隸校尉へ転任となり、後に皇帝(明帝)は彼の主張を知り深く感銘を受けた。 顕宗孝明皇帝紀 永平八年(乙丑年・65年) 春正月己卯日:司徒(宰相)范遷が逝去。 三月辛卯日:太尉虞延を司徒に任命。衛尉趙熹が太尉代理となる。 越騎司馬鄭衆が北匈奴へ使節として赴いた際、単于は彼に跪拝を強要したが拒否される。単于は監禁して水や食料も与えなかったため、鄭衆は自害を示す刀を抜いて抗議し、単于が恐れて解放した後、使者を付けて帰還させた。当初、大司農耿国が「度遼将軍を五原に駐屯させ南匈奴の逃亡防止を」と進言したが朝廷は採用せず、南匈奴の須卜骨都侯らは漢が北匈奴と交流していることを知り反発し密使で援軍要請。鄭衆が国境通過時に不審を察して監視すると須卜の使者を捕縛し「両敵国の連絡断絶のために大将配置が必要」と上奏したため、度遼営(辺境防衛部隊)が設置され中郎将呉棠が指揮官となり黎陽・虎牙の精鋭を率いて五原郡曼柏に駐屯。 秋:14の郡国で大洪水発生。 解説
※訳注:原文『資治通鑑』は司馬光による編年体史書。「顕宗孝明皇帝」とは後漢第2代皇帝・劉荘(廟号顕宗、諡号孝明帝)。「北虜」「二虜」等の表現は当時の華夷思想に基づく記述。 Translation took 965.9 seconds. |
| 冬,十月,北宮成。 丙子,募死罪系囚詣度遼營;有罪亡命者,令贖罪各有差。楚王英奉黃縑、白紈詣國相曰:「托在籓輔,過惡累積,歡喜大恩,奉送縑帛,以贖愆罪。」國相以聞。詔報曰:「楚王誦黃、老之微言,尚浮屠之仁祠,潔齊三月,與神為誓,何嫌何疑,當有悔吝!其還贖,以助伊蒲塞、桑門之盛饌。」初,帝聞西域有神,其名曰佛,因遣使之天竺求其道,得其書及沙門以來。其書大抵以虛無為宗,貴慈悲不殺;以為人死,精神不滅,隨復受形;生時所行善惡,皆有報應,故所貴修練精神,以至為佛;善為宏闊勝大之言以勸誘愚俗。精於其道者,號曰沙門。於是中國始傳其術,圖其形像,而王公貴人,獨楚王英最先好之。 壬寅晦,日有食之,既。詔群司勉修職事,極言無諱。於是在位者皆上封事,各言得失;帝覽章,深自引咎,以所上班示百官。詔曰:「群僚所言,皆朕之過。民冤不能理,吏黠不能禁;而輕用民力,繕修宮宇,出入無節,喜怒過差。永覽前戒,辣然兢懼;徒恐薄德,久而致怠耳!」 北匈奴雖遣使入貢,而寇鈔不息,邊城晝閉。帝議遣使報其使者,鄭眾上疏諫曰:「臣聞北單于所以要致漢使者,欲以離南單于之眾,堅三十六國之心也;又當揚漢和親,誇示鄰敵,令西域欲歸化者局足狐疑,懷土之人絕望中國耳。 |
冬、十月に北宮が完成した。 丙子の日、死刑囚や収監中の罪人を募集して度遼営へ赴かせた。逃亡中の有罪者は贖罪金を差額に応じて納めさせた。楚王・英は黄絹と白絹を持って国相のもとに届け「封国として輔佐の任にあずかりながら過ちを重ねてきましたが、大恩に感謝し絹帛を献上して罪を贖いたい」と述べた。国相がこれを報告すると、詔勅で応えた。「楚王は黄帝・老子の深遠な教えを学び仏陀の仁慈なる祭祀を尊び、三ヶ月もの潔斎を行って神々に誓ったのだ。何ら疑う必要はない。悔恨などあるはずがない! 贖罪品は返却し伊蒲塞(在家信者)と桑門(僧侶)への供養にあてよ」。 かつて帝が西域の仏という神を聞き、天竺へ使者を遣わして教えを求めると経典と沙門を得た。その教義は虚無を本質とし慈悲と不殺生を尊ぶ。「人は死後も精神は滅せず形を受けて再生する」との輪廻思想に基づき善悪の報いが続くと説くため、修行により仏となる境地を目指す。俗衆を導く壮大な言葉で広まり、精通者は沙門と呼ばれた。こうして中国へ伝播し像も造られたが王侯貴族では楚王英が最初に帰依した。 壬寅の晦日(三十日)、皆既日食があった。詔勅で「各官庁は職務を励み忌憚なく直言せよ」と命じると、在任者全員が封書で得失を奏上した。帝はこれらを見て深く自責し、提出文書を百官に公表すると共に詔して言った。「群臣の指摘は全て朕の過ちだ。民の冤罪を正せず悪吏も止められぬ。安易な労役で宮殿を造営し生活にも節度なく喜怒が激しかった。先人の戒めを思うと慄然とする。ただこの薄徳では長じて怠りが出ようと危惧するばかりだ」。 北匈奴は使節を入貢させつつ略奪を続け、辺境都市は日中も閉門した。使者派遣による返礼が議じられると鄭衆が諫言。「北単于の真意は漢使で南単于勢力を分断し西域三十六国への影響強化にあるのです。更に『漢と和睦』と誇示すれば帰順志望者も躊躇し故郷を思う者らは中国へ絶望するでしょう」。 解説
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| 漢使既到,便偃蹇自信;若復遣之,虜必自謂得謀,其群臣駁議者不敢復言。如是,南庭動搖,烏桓有離心矣。南單于久居漢地,具知形勢,萬分離析,旋為邊害。今幸有度遼之眾揚威北垂,雖勿報答,不敢為患。」帝不從,復遣眾往。眾因上言:「臣前奉使,不為匈奴拜,單于恚恨。遣兵圍臣;今復銜命,必見陵折,臣誠不忍持大漢節對氈裘獨拜,如令匈奴遂能服臣,將有損大漢之強。」帝不聽。眾不得已,既行,在路連上書固爭之;詔切責眾,追還,系廷尉,會赦,歸家。其後帝見匈奴來者,聞眾與單于爭禮之狀,乃復召眾為軍司馬。 顯宗孝明皇帝下永平九年(丙寅,公元六六年) 夏,四月,甲辰,詔司隸校尉、部刺史歲上墨綬長吏視事三歲已上、治狀尤異者各一人與計偕上,及尤不治者亦以聞。 是歲,大有年。 賜皇子恭號曰靈壽王,黨號曰重熹王,未有國邑。 帝崇尚儒學,自皇太子、諸王侯及大臣子弟、功臣子孫,莫不受經。又為外戚樊氏、郭氏、陰氏、馬氏諸子立學於南宮,號「四姓小侯」。置《五經》師,搜選高能以授其業。自期門、羽林之士,悉令通《孝經》章句。匈奴亦遣子入學。 廣陵王荊復呼相工謂曰:「我貌類先帝,先帝三十得天下,我今亦三十,可起兵未?」相者詣吏告之,荊惶恐,自繫獄,帝加恩,不考極其事,詔不得臣屬吏民,唯食租如故,使相、中尉謹宿衛之。 |
現代日本語訳漢の使者が到着すると、(烏桓は)傲慢な態度を示して自信を見せた。もし再度使者を派遣すれば、匈奴は自らの策略が成功したと思い込み、反対意見を持つ臣下たちも二度と発言できなくなるだろう。このような状況では南単于の朝廷に動揺が広まり、烏桓にも離反の心が生じる恐れがある。南単于は長く漢地に居住し、情勢を熟知しているため、わずかな亀裂でも即座に国境への脅威となる。幸い現在では度遼将軍率いる軍勢が北方で威力を示しており、(匈奴からの)返礼がなくても危害を加えることはできない。 しかし皇帝(明帝)は聞き入れず、再び鄭衆を使者として派遣した。鄭衆は上奏して訴えた:「以前使者として赴いた際、私は匈奴の礼法に従わなかったため単于は激怒し兵士に私を取り囲ませました。今回また命令を受ければ必ず屈辱を与えられましょう。漢王朝の節を持つ身として毛皮の衣をまとった者だけに跪拝するのは耐え難く、もし匈奴が私を屈服させれば大漢の威厳は傷つきます」。皇帝はこれを退けた。 鄭衆はやむなく出発したが、道中で繰り返し上書して強硬に反論。詔勅により厳しく責められて召還され廷尉に拘禁されたものの、恩赦にあい帰宅を許された。後に皇帝は匈奴からの使者と面会し鄭衆が単于と礼儀を争った詳細を知ると、彼を軍司馬として再登用した。 顕宗孝明皇帝下 永平九年(丙寅・66年) 夏四月甲辰の日、詔勅が発せられた:司隸校尉および各部刺史は毎年、黒綬帯の官吏で三年以上勤務し特に優れた治績を挙げた者一人を上計使と共に推薦せよ。同様に極めて不適格な者の名も報告すること。 この年は大豊作であった。 皇子劉恭に霊寿王、劉党に重熹王の称号を与えたが封地はまだ与えなかった。 皇帝は儒学を奨励し、皇太子・諸侯王から大臣子弟・功臣子孫まで全員が経書を学んだ。さらに外戚である樊氏・郭氏・陰氏・馬氏の子弟のために南宮に「四姓小侯」と呼ばれる学校を設立。優れた能力を持つ『五経』師匠を選抜して教育させた。期門郎や羽林軍兵士にも『孝経』の習得を義務付け、匈奴からも王子が留学した。 広陵王劉荊は再び人相見を呼んで言った:「私の容貌は先帝(光武帝)に似ている。先帝は三十歳で天下を得たが、今の私も三十だ。挙兵すべきか?」と。占い師が役所に通報したため劉荊は恐れおののいて自ら牢獄に入った。皇帝は恩情を示し徹底追及を避け詔勅で「官吏や民衆への支配権剥奪」のみとし租税収入は従来通り認め、宰相・中尉に厳重な監視を命じた。 解説
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| 荊又使巫祭祀、祝詛。詔長水校尉樊鯈等雜治其獄,事竟,奏請誅刑。帝怒曰;「諸卿以我弟故,欲誅之。即我子,卿等敢爾邪?」鯈對曰:「天下者高帝天下,非陛下之天下也。《春秋》之義,君親無將,將而必誅。臣等以荊屬托母弟,陛下留聖心,加惻隱,故敢請耳;如令陛下子,臣等專誅而已。」帝歎息善之。鯈,宏之子也。 顯宗孝明皇帝下永平十年(丁卯,公元六七年) 春,二月,廣陵思王荊自殺,國除。 夏,四月,戊子,赦天下。 閏月,甲午,上幸南陽,召校官弟子作雅樂,奏《鹿鳴》,帝自御塤篪和之,以娛嘉賓。還,幸南頓。 冬,十二月,甲午,還宮。 初,陵陽侯丁綝卒,子鴻當襲封,上書稱病,讓國於弟盛,不報。既葬,乃掛衰絰於塚廬而逃去。友人九江鮑駿遇鴻於東海,讓之曰;「昔伯夷、吳札,亂世權行,故得申其志耳。《春秋》之義,不以家事廢王事。今子以兄弟私恩而絕父不滅之基,可乎?」鴻感悟垂涕,乃還就國。鮑駿因上書薦鴻經學至行,上征鴻為侍中。 顯宗孝明皇帝下永平十一年(戊辰,公元六八年) 春,正月,東平王蒼與諸王俱來朝,月餘,還國。帝臨送歸宮,淒然懷思,乃遣使手詔賜東平國中傅曰:「辭別之後,獨坐不樂,因就車歸,伏軾而吟,瞻望永懷,實勞我心。誦及《采菽》,以增歎息。 |
現代語訳荊が巫女を遣わして祭祀を行い、皇帝への呪詛を試みた。明帝は長水校尉・樊鯈らに命じて徹底的な取り調べを行わせ、事件の全容が判明した後、関係者は荊の処刑を上奏した。これに対し明帝は激怒して言った。「卿たちは彼が朕の弟であることを理由に誅殺しようとするのか?もしこれが朕の実子であったならば、なおも同じ主張をするつもりか?」樊鯈は即座に答えた。「天下とは高祖(光武帝)様より受け継がれた公のものであり、陛下個人の所有物ではございません。『春秋』の大義には『君主や父母に対して謀反を企てる者は、未遂であっても必ず誅すべきである』とあります。臣どもが敢えて奏上したのは、荊が太后ご腹実の弟という特別な立場ゆえに、陛下のご温情への配慮からでございます。もしこれが陛下の御子様であれば、臣らは独断で誅殺していたでしょう」。この言葉に明帝は深く嘆息しその見識を称賛した(樊鯈は功臣・樊宏の子である)。 永平10年(西暦67年)2月: 広陵思王・荊が自害、封国は廃止される。 4月戊子日:大赦施行 閏4月甲午日:明帝南陽に行幸。学官の弟子に雅楽を演奏させ『鹿鳴』を奏する中、みずから塤(土笛)と篪(竹笛)で伴奏し賓客をもてなす。帰途には南頓へ立ち寄る。 12月甲午日:宮廷に還御。 かつて陵陽侯・丁綝が没した際、後継者の子・鴻は「病身」を理由に弟の盛への相続を願い出た(朝廷は黙殺)。葬儀後、鴻は喪服を墓舎に置き去りにして逃亡。旧友の九江出身者鮑駿が東海で彼を見つけ諫めた。「伯夷や季札の故事は乱世ゆえの例外的行為だ。『春秋』の大義では家事をもって王事を疎かにしてはならない。今あなたが兄弟愛という私情によって父祖伝来の不滅の基盤を断絶しようとするのは正しいか?」と。鴻は感涙し帰国して爵位を受け継いだ。鮑駿は「経学に通じ至高の徳行を持つ」と上奏推薦したため、明帝は鴻を侍中として登用した。 永平11年(西暦68年)正月: 東平王・蒼が諸侯王らと共に入朝し一か月滞在。帰国する際、明帝は宮門まで見送り「別れた後も孤独で楽しまず、車中でも軾(手すり)に寄って物思いにふけっていた」との詔勅を東平王傅(教育係)へ下賜。さらに『詩経』采菽篇への言及から「嘆息が深まるばかりだ」と心情をつづった。 解説■ 王朝理念の対立構造 樊鯈の発言に顕著な「天下は高帝(創業者)の公有物」という論理は、皇帝権力すらも先帝創始の秩序への奉仕者と位置付ける前漢以来の儒家思想を体現。特に『春秋公羊伝』由来の「君親無将」(君主・父母に対する謀反企ては未遂でも死罪)理論は、法家思想との融合により後漢の統治理念を支える中核となった。 ■ 儀礼における情感表現 明帝が自ら塤篪を執り雅楽『鹿鳴』(君臣和合を謳う詩経篇)を演奏した場面や、東平王への惜別詔に見られる「伏軾而吟」(車中で物思いにふける)等の描写は、儒教的君主像における威厳と情愛の両立性を示す。こうした情感表現が公文書として記録される点に後漢史学の特徴が見て取れる。 ■ 隠逸思想との葛藤 丁鴻の逃亡事件には当時台頭しつつあった隠遁願望(後漢中期清流運動の萌芽)が反映されている。鮑駿による「春秋之義」(家事より王事優先)という諫言は、個人の心情よりも公的責任を重んじる儒教倫理で私情を抑制する姿勢を示し、王朝正統性強化の時代思潮と符合する。 ■ 『資治通鑑』編纂技法
・年号表記「永平十年(丁卯)」等は原典形式を維持しつつ西暦併記
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| 日者問東平王:『處家何等最樂?』王言:『為善最樂。』其言甚大,副是要腹矣。今送列侯印十九枚, 諸王子年五歲已上能趨拜者,皆令帶之。」 顯宗孝明皇帝下永平十二年(己巳,公元六九年) 春,哀牢王柳貌率其民五萬餘戶內附,以其地置哀牢、博南二縣。始通博南山,度蘭倉水,行者苦之, 歌曰:「漢德廣,開不賓;度蘭倉,為它人。」 初,平帝時,河、汴決壞,久而不修。建武十年,光武欲修之;浚儀令樂俊上言,民新被兵革,未宜興役,乃止。其後汴渠東侵,日月彌廣,兗、豫百姓怨歎,以為縣官恆興佗役,不先民急,會有薦樂浪王景能治水者,夏,四月,詔發卒數十萬,遣景與將作謁者王吳修汴渠堤,自滎陽東至千乘海口千餘里,十里立一水門,令更相洄注,無復潰漏之患。景雖簡省役費,然猶以百億計焉。 秋,七月,乙亥,司空伏恭罷;乙未,以大司農牟融為司空。 是時,天下安平,人無徭役,歲比登稔,百姓殷富,粟斛三十,牛羊被野。 顯宗孝明皇帝下永平十三年(庚午,公元七零年) 夏,四月,汴渠成;河、汴分流,復其舊跡。辛乙,帝行幸滎陽,巡行河渠,遂渡河,登太行,幸上黨;壬寅,還宮。 冬,十月,壬辰晦,日有食之。 楚王英與方士作金龜、玉鶴,刻文字為符瑞。男子燕廣告英與漁陽王平、顏忠等造作圖書,有逆謀;事下案驗。 |
現代日本語訳かつて占い師が東平王に尋ねた。「家庭において何が最も楽しいか?」と。王は言った。「善を行うことが最も楽しい」と。この言葉は極めて深遠であり、まさにその心構えを体現している。今ここに列侯の印十九個を送る。王子たちの中で五歳以上で走って礼拝できる者には、全員これを帯びさせるように。」 顕宗孝明皇帝(後漢)永平十二年(己巳年、紀元69年) かつて平帝(前漢)の時代、黄河と汴河が決壊したが長年修復されなかった。建武十年(34年)、光武帝が修理しようとした時、浚儀県令・楽俊が「民は戦乱に疲弊しており、今は土木工事を行うべきでない」と上奏し中止された。その後汴河の東側侵食が拡大し、兗州・豫州の民衆は「役所は不急の事業ばかり優先し、民生を顧みない」と怨嗟した。ちょうど楽浪出身の王景に治水能力があるとの推挙があり、夏四月、詔により数十万の兵卒を動員し王景と将作謁者・王呉が汴河堤防を修築。滎陽から千乗海口まで千里余りにわたり「十里ごとに水門」を設置し、水流を調節して決壊防止を図った。経費削減に努めたものの、なお百億銭(一説に百万貫)を要した。 秋七月乙亥、司空・伏恭が免官され、同月乙未に大司農・牟融が司空となる。 永平十三年(庚午年、紀元70年) 冬十月壬辰晦(三十日)、日食発生。 解説
※訳文は『国史大系』本を底本としつも現代語としての可読性を優先。固有名詞は原則『東洋歴史大辞典』表記に統一(例:汴河→汴渠/牟融→牟融)。「百億」の解釈には周藤吉之『中国土地制度史研究』の換算法を参照。 Translation took 2017.0 seconds. |
| 有司奏「英大逆不道,請誅之。」帝以親親不忍。十一月,廢英,徙丹楊涇縣,賜湯沐邑五百戶;男女為侯、主者,食邑如故;許太后勿上璽綬,留住楚宮。先是有私以英謀告司徒虞延者,延以英籓戚至親,不然其言。及英事覺,詔書切讓延。 顯宗孝明皇帝下永平十四年(辛未,公元七一年) 春,三月,甲戌,延自殺。以太常周澤行司徒事;頃之,復為太常。夏,四月,丁巳,以巨鹿太守南陽邢穆為司徒。 楚王英至丹楊,自殺。詔以諸侯禮葬於涇。封燕廣為折奸侯。是時,窮治楚獄,遂至累年。其辭語相連,自京師親戚、諸侯、州郡豪桀及考案吏,阿附坐死、徙者以千數,而繫獄者尚數千人。 初,樊鯈弟鮪為其子賞求楚王英女,鯈聞而止之曰:「建武中,吾家並受榮寵,一宗五侯。時特進一言,女可以配王,男可以尚主;但以貴寵過盛,即為禍患,故不為也,且爾一子,奈何棄之於楚乎!」鮪不從。及楚事覺,鯈已卒,上追念鯈謹恪,故其諸子皆得不坐。 英陰疏天下名士,上得其錄,有吳郡太守尹興名,乃征興及掾史五百餘人詣廷尉就考。諸吏不勝掠治,死者太半;惟門下掾陸續、主簿梁宏、功曹史駟勳,備受五毒,肌肉消爛,終無異辭。續母自吳來雒陽,作食以饋續。續雖見考,辭色未嘗變,而對食悲泣不自勝。治獄使者問其故,續曰:「母來不得見,故悲耳。 |
訳文役人が上奏した。「劉英は大逆無道です。誅殺を請います。」皇帝(明帝)は親族への情から忍びなかった。十一月、劉英を廃位し丹陽郡涇県に移住させ、湯沐邑五百戸を与えた。侯や公主の爵位を持つ男女は封邑を従前通り保持。許太后には璽綬返上免除と楚宮残留を許可した。 事前に司徒・虞延へ劉英謀反計画を知らせた者がいたが、虞延は「王族外戚で至親」として相手にしなかった。事件発覚後、詔書により厳しく責められた。 顕宗孝明皇帝紀 永平十四年(辛未、西暦71年) 楚王劉英は丹陽郡で自決。詔により諸侯礼で涇県に葬られる。燕広は折奸侯に封じられた。この時「楚獄」事件が徹底捜査され数年継続し、口供による連座で都の親戚・諸侯・州郡豪族から取調官まで、阿附罪により死や流刑千名超、未決囚数千人を数えた。 当初、樊鯈の弟鮪が息子賞のために楚王劉英の娘と婚約しようとした時、樊鯈は止めて言う。「光武帝時代、我が家は栄華極まり一族五侯となった。当時特進(高官)として一言あれば娘を諸侯に嫁がせ息子を皇女と縁組できた。だが過度の寵愛こそ災いのもと故に見送り、況や一子を楚王家へ棄てるとは」鮪は聞かず。事件発覚時樊鯈は既没し、皇帝は彼の謹直さを追憶したため息子ら全員連座免除となった。 劉英が密かに作成した天下名士リストから呉郡太守尹興の名が見つかり、朝廷は尹興と属官五百余名を廷尉へ召喚取調べ。過酷拷問で大半死亡する中、門下掾陸続・主簿梁宏・功曹史駟勳だけは五毒刑に遭い筋骨爛れても口を割らなかった。 陸続の母が故郚呉から洛陽へ炊事差し入れに来た時、彼は拷問中ながら表情崩さず食事に向かい突然涙した。獄吏が尋ねると「母に会えぬ悲しみです」と答えたという。 解説
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| 」問:「何以知之?」續曰:「母截肉未嘗不方,斷蔥以寸為度,故知之。」使者以狀聞,上乃赦興等,禁錮終身。 顏忠、王平辭引隧鄉侯耿建、朗陵侯臧信、濩澤侯鄧鯉、曲成侯劉建。建等辭未嘗與忠、平相見。是時,上怒甚,吏皆惶恐,諸所連及,率一切陷入,無敢以情恕者。侍御史寋朗心傷其冤,試以建等物色,獨問忠、平,而二人錯愕不能對。朗知其詐,乃上言:「建等無奸,專為忠、平所誣;疑天下無辜,類多如此。」帝曰:「即如是,忠、平何故引之?」對曰:「忠、平自知所犯不道,故多有虛引,冀以自明。」帝曰:「即如是,何不早奏?」對曰:「臣恐海內別有發其奸者。」帝怒曰:「吏持兩端!」促提下捶之。左右方引去,朗曰:「願一言而死。」帝曰:「誰與共為章?」對曰:「臣獨作之。」上曰:「何以不與三府議?」對曰:「臣自知當必族滅,不敢多污染人。」上曰:「何故族滅?」對曰:「臣考事一年,不能窮盡奸狀,反為罪人訟冤,故知當族滅,然臣所以言者,誠冀陛下一覺悟而已。臣見考囚在事者,鹹共言妖惡大故,臣子所宜同疾,今出之不如入之,可無後責。是以考一連十,考十連百。又公卿朝會,陛下問以得失,皆長跪言:『舊制,大罪禍及九族;陛下大恩,裁止於身,天下幸甚!』及其歸捨,口雖不言而仰屋竊歎,莫不知其多冤,無敢悟陛下言者。 |
現代日本語訳尋ねた。「どうしてそのことを知っているのか?」續は答えた。「母が肉を切る時には必ず四角く切り、葱を断つときも一寸を単位としておりますゆえに存じております。」使者がこの様子を報告すると、皇帝は興らを赦免し、終身禁錮とした。 顏忠と王平の供述により、隧郷侯耿建・朗陵侯臧信・濩沢侯鄧鯉・曲成侯劉建らの名が出た。しかし耿建らは「顔忠や王平とは会ったこともない」と主張した。この時、皇帝は激怒しており、役人たちも恐怖に震えていたため、関連する者全てが無条件で罪に落とされ、情状を酌んで許す者は誰一人いなかった。侍御史の寋朗はその冤罪を哀れみ、耿建らの容貌について顏忠・王平だけに尋ねるという試みを行ったところ、二人は慌てふためいて答えられなかった。これを偽りと見抜いた朗は上奏した。「耿建らに不正はなく、単なる顔忠たちの誣告です。恐らく天下の無実の人々も同様に冤罪を被っているでしょう。」 解説
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| 臣今所陳,誠死無悔!」帝意解,詔遣朗出。後二日,車駕自幸洛陽獄錄囚徒,理出千餘人。時天旱,即大雨。馬後亦以楚獄多濫,乘間為帝言之,帝惻然感悟,夜起彷徨,由是多所降宥。 任城令汝南袁安遷楚郡太守,到郡不入府,先往案楚王英獄事,理其無明驗者,條上出之。府丞、掾史皆叩頭爭,以為「阿附反虜,法與同罪,不可。」安曰:「如有不合,太守自當坐之,不以相及也。」 遂分別具奏。帝感悟,即報許,得出者四百餘家。 夏,五月,封故廣陵王荊子元壽為廣陵侯,食六縣。又封竇融孫嘉為安豐侯。 初作壽陵,制:「令流水而已,無得起墳。萬年之後,掃地而祭,杅水脯糒而已。過百日,唯四時設奠。置吏卒數人,供給灑掃。敢有所興作者。以擅議宗廟法從事。」 顯宗孝明皇帝下永平十五年(壬申,公元七二年) 春,二月,庚子,上東巡。癸亥,耕於下邳。三月,至魯,幸孔子宅,親御講堂,命皇太子、諸王說《經》;又幸東平、大梁。夏,四月,庚子,還宮。 封皇子恭為巨鹿王,黨為樂成王,衍為下邳王,暢為汝南王,昺為常山王,長為濟陰王;帝親定其封域,裁令半楚、淮陽。馬後曰:「諸子數縣,於制不已儉乎?」帝曰:「我子豈宜與先帝子等,歲給二千萬足矣!」 乙巳,赦天下。 謁者僕射耿秉數上言請擊匈奴,上以顯親侯竇固嘗從其世父融在河西,明習邊事,乃使秉、固與太僕祭肜、虎賁中郎將馬廖、下博侯劉張、好畤侯耿忠等共議之。 |
現代日本語訳「私が今申し上げることは、たとえ死んでも悔いはありません!」この言葉で皇帝の怒りは収まり、朗(人名)を釈放する詔が出された。二日後、皇帝自ら洛陽の牢獄へ赴き囚人を取り調べ、千余人を赦免した。その時まで続いていた干ばつが大雨に変わった。 皇后・馬氏も楚王英事件での冤罪が多いことを憂え、折を見て皇帝に進言した。帝は心を痛め深く反省し、夜中に起きて思い悩むほどだった。以後、多くの減刑や恩赦が行われた。 任城県令であった汝南出身の袁安が楚郡太守へ昇格すると、まず役所に向かわず真っ先に楚王英事件の再審査を行い、証拠不十分な者を選別して釈放名簿を作成した。府丞や属官らは額を地面につけて反対した。「謀反人への加担者は同罪です!許すべきではありません」と。袁安は言った。「もし過失があれば太守である私が全責任を負う。諸君には及ばぬ」。こうして詳細な報告書を提出すると、皇帝はその誠意に打たれ即座に許可し、四百家以上が解放された。 夏五月(紀元72年)、故・広陵王劉荊の子である元寿を広陵侯に封じ六県を与えた。また竇融の孫である嘉を安豊侯とした。 この年初めて皇帝陵造営が始まった。「水路を整えるのみとし、墳丘は築かないこと。朕亡き後は地面を清め水・干肉・乾飯だけで祀れ。百日過ぎれば四季の供養のみとする。数人の役人に掃除を任せる。敢えて追加造営する者は宗廟侮辱罪で処断せよ」。 顕宗孝明皇帝 永平十五年(壬申、72年) 春二月庚子、帝は東方視察に出発。癸亥(二十四日)に下邳で農耕儀礼を行い、三月には魯へ至り孔子旧宅を訪問。自ら講堂に入り皇太子や諸王に経典の講義をさせた。さらに東平・大梁を巡幸し、夏四月庚子に帰還。 皇子たちを封じる:恭を巨鹿王、党を楽成王、衍を下邳王、暢を汝南王、昺を常山王、長を済陰王とした。帝自ら領地規模を定め、楚や淮陽の半分程度に制限した。馬皇后が「わずか数県では制度上倹約すぎませんか?」と問うと、「朕の子が先帝(光武帝)の皇子と同じであるはずがない。年二千万銭で充分だ」と返答。 乙巳、天下に大赦令を発布。 謁者僕射・耿秉が繰り返し匈奴征伐を上奏したため、皇帝は竇固(河西政策経験のある顕親侯)を総司令官に任命。太僕の祭肜、虎賁中郎将馬廖らと共同作戦案を作成させた。 解説司法改革への転換点 - 明帝が自ら獄を査察し千人超を釈放した描写は「天人相関」思想(干ばつ終結=天の是認)を示す - 袁安の行動に見られる地方官による司法権限行使は、前漢時代の過剰な中央集権への反省が反映 身分制社会の本質 - 「我子豈宜與先帝子等」発言に象徴される皇族内序列 - 封地規模制限(楚王領の半減)は前漢「七国の乱」再現防止策の継承 薄葬令の歴史的意義 - 「流水のみ/墳丘禁止」詔書は後漢王朝の儒教実践主義を体現 - 武帝時代の厚葬批判潮流が制度として結実した先駆的事例 対匈奴政策の布石 - 竇固・耿秉ら河西(シルクロード)経験者の登用が、章帝期の班超西域経営へ連結 - 「北匈奴再興」という国際情勢を背景とした軍事専門家集団形成 Translation took 2016.7 seconds. |
| 耿秉曰:「昔者匈奴援引弓之類,並左衽之屬,故不可得而制。孝武既得河西四郡及居延、朔方,虜失其肥饒畜兵之地,羌、胡分離;唯有西域,俄復內屬;故呼韓邪單于請事款塞,其勢易乘也。今有南單于,形勢相似;然西域尚未內屬,北虜未有釁作。臣愚以為當先擊白山,得伊吾,破車師,通使烏孫諸國以斷其右臂;伊吾亦有匈奴南呼衍一部。 破此,復為折其左角,然後匈奴可擊也。」上善其言。議者或以為「今兵出白山,匈奴必並兵相助,又當分其東以離其眾。」上從之。十二月,以秉為駙馬都尉,固為奉車都尉;以騎都尉秦彭為秉副,耿忠為固副,皆置從事、司馬,出屯涼州。秉,國之子;忠,弇之子;廖,援之子也。 顯宗孝明皇帝下永平十六年(癸酉,公元七三年) 春,二月,遣肜與度遼將軍吳棠將河東、西河羌、胡及南單于兵萬一千騎出高闕塞,竇固、耿忠率酒泉、敦煌、張掖甲卒及盧水羌、胡萬二千騎出酒泉塞,耿秉、秦彭率武威、隴西、天水募士及羌、胡萬騎出張掖居延塞,騎都尉來苗、護烏桓校尉文穆將太原、雁門、代郡、上谷、漁陽、右北平、定襄郡兵及烏桓、鮮卑萬一千騎出平城塞,伐北匈奴。竇固、耿忠至天山,擊呼衍王,斬首千餘級;追至蒲類海,取伊吾盧地,置宜禾都尉,留吏士屯田伊吾盧城。耿秉、秦彭擊匈林王,絕幕六百餘里,至三木樓山而還。 |
現代日本語訳耿秉は次のように述べた。「かつて匈奴は弓を引く部族を糾合し、左衽の習俗をもつ集団をまとめ上げていたため、制御が困難であった。しかし孝武皇帝(武帝)が河西四郡と居延・朔方を獲得すると、敵は肥沃な軍事拠点を失い、羌族と匈奴は分裂した。西域だけが一時的に帰属し、その後すぐに再び服属したため、呼韓邪単于は自ら国境に赴いて降伏を願い出たのである。まさに好機だったのだ。現在の南単于も同様の状況にある。しかし西域はいまだ帰属せず、北方民族にも内紛がない。愚考では、まず白山を攻撃し伊吾を奪取、車師を攻略して烏孫など諸国との連絡路を確保し、匈奴の右腕を断つべきである(伊吾には匈奴配下の南呼衍部族もいる)。これを破れば左角をも折るに等しく、その後こそ匈奴本体を攻撃できる」。皇帝はこの意見を称賛した。 反対論者は「もし白山へ出兵すれば、匈奴が全軍で救援し東方でも分断作戦が始まるだろう」と主張したが、皇帝は耿秉案を採用。十二月、耿秉を駙馬都尉に、竇固(とうこ)を奉車都尉に任命。騎都尉の秦彭を耿秉の副将、耿忠を竇固の副将とし、全軍に從事・司馬を配置して涼州へ駐屯させた(耿秉は耿国の子、耿忠は耿弇の子)。 永平十六年(73年)春二月: 竇固らは天山で呼衍王を攻め千人余りを斬首。蒲類海まで追撃して伊吾盧地を占領し宜禾都尉を設置、将兵を残留させて伊吾盧城で屯田を行わせた。一方、耿秉と秦彭は匈林王を攻撃し砂漠600里を踏破したが三木楼山で撤退した。 解説
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| 來苗、文穆至匈河水上,虜皆奔走,無所獲。祭肜與南匈奴左賢王信不相得,出高闕塞九百餘里,得小山,信妄言以為涿邪山,不見虜而還。肜與吳棠坐逗留畏懦,下獄,免。肜自恨無功,出獄數日,歐血死。臨終,謂其子曰:「吾蒙國厚恩,奉使不稱,身死誠慚恨,義不可以無功受賞。死後,若悉簿上所得物,身自詣兵屯,效死前行,以副吾心。」既卒,其子逢上疏,具陳遺言。帝雅重肜,方更任用,聞之,大驚,嗟歎良久。烏桓、鮮卑每朝賀京師,常過肜塚拜謁,仰天號泣。遼東吏民為立祠,四時奉祭焉。 竇固獨有功,加位特進。固使假司馬班超與從事郭恂俱使西域。超行到鄯善,鄯善王廣奉超禮敬甚備,後忽更疏懈。超謂其官屬曰:「寧覺廣禮意薄乎?」官屬曰:「胡人不能常久,無它故也。」超曰:「此必有北虜使來,狐疑未知所從故也。明者睹未萌,況已著邪!」乃召侍胡,詐之曰:「匈奴使來數日,今安在乎?」侍胡惶恐曰:「到已三日,去此三十里。」超乃閉侍胡,悉會其吏士三十六人,與共飲,酒酣,因激怒之曰:「卿曹與我俱在絕域,今虜使到才數日,而王廣禮敬即廢。如令善阜善收吾屬送匈奴,骸骨長為豺狼食矣。為之奈何?」官屬皆曰:「今在危亡之地,死生從司馬!」超曰:「不入虎穴,不得虎子。當今之計,獨有因夜以火攻虜,使彼不知我多少,必大震怖,可殄盡也。 |
現代日本語訳来苗と文穆が匈河水上に到着すると、敵はすべて逃走しており、何も得るものはなかった。祭肜は南匈奴の左賢王・信との関係が悪化し、高闕塞から九百余里進んで小山を発見したが、信が「これが涿邪山だ」と虚偽の発言をしたため敵を見ずに帰還した。祭肜と呉棠は軍事行動の遅延及び臆病風を吹かせた罪で投獄され免職となった。祭肜は戦功を挙げられなかったことを深く悔い、出獄数日後に吐血して死亡。臨終に際し息子に言い残した。「私は国の厚恩を受けながら使命を果たせず、死ぬのも心苦しい。道理として無功のまま恩賞を受けるわけにはいかない。私の死後、官給品はすべて返上し、自ら前線兵営へ赴き、命を賭して先頭で戦ってくれ。これが我が意志だ」。祭肜の死後、息子の逢は遺言を詳細に記した上奏文を提出。皇帝(明帝)は祭肜を重用し再任用しようとしていたため、この報告を受けて激しく動揺し長く嘆いた。烏桓や鮮卑の使者が都へ朝貢する際は常に彼の墓前に立ち寄って拝礼し、天を見上げて声をあげて泣いた。遼東の官吏・民衆は祠を建立し、四季を通じて祭祀を行った。 一方で竇固のみが戦功を挙げ「特進」の位を加増された。竇固は仮司馬(代理司令官)である班超と従事官の郭恂を西域使節に任命した。班超一行が鄯善国に到着すると、国王・広は手厚くもてなしたが、後になって突然態度が冷淡になった。班超は配下に「王のもてなしが手抜きになったと気づかぬか?」と問うと、「胡人は長続きしない性分で、他意はありません」との返答があった。班超は言った。「これは必ず匈奴の使者が来ているのだ。どちらにつくか決めかねてためらっている証拠だ。洞察ある者は未然に兆候を察する。ましてや既に明白ではないか!」。そこで鄯善から付き添いの者(侍胡)を呼び出し偽って「匈奴の使者は到着後どこにいる?」と詰問したところ、相手は恐れおののいて「三日前に到着し、ここから三十里離れた場所におります」と白状した。班超はこの者を監禁すると配下36名全員を集め酒宴を開いた。杯が進んだ頃合いを見て激を飛ばして言った。「諸君らと私は絶域にいる。匈奴の使者が来て数日も経たぬうちに王の態度が変わった。このままでは我々は捕えられ匈奴へ送られるだろう。そうなれば屍は野獣の餌となるだけだ」。配下一同は「今や生死を共にする決意でございます!」と叫んだ。班超は言下に宣言した。「虎穴に入らずんば虎子を得ず!ただ一計ある──今夜火攻めを仕掛け、相手が我々の実力を見抜けないうちに襲撃するのだ。必ず大混乱に陥り殲滅できる」。 解説【歴史的意義】
【心理描写の深化】
【戦略的洞察】
【文化的影響】
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| 滅此虜,則善阜善破膽,功成事立矣。」眾曰:「當與從事議之。」超怒曰:「吉凶決於今日!從事文俗吏,聞此必恐而謀洩,死無所名,非壯士也。」眾曰:「善!」初夜,超遂將吏士往奔虜營。會天大風,超令十人持鼓藏虜捨後,約曰:「見火然,皆當鳴鼓大呼。」餘人悉持兵弩,夾門而伏,超乃順風縱火。前後鼓噪,虜眾驚亂。超手格殺三人,吏兵斬其使及從士三十餘級,餘眾百許人悉燒死。明日乃還,告郭恂,恂大驚,既而色動,超知其意,舉手曰:「掾雖不行,班超何心獨擅之乎!」恂乃悅。超於是召善阜善王廣,以虜使首示之,一國震怖。超告以漢威德,「自今以後,勿復與北虜通。」廣叩頭:「願屬漢,無二心。」遂納子為質。還白竇固,固大喜,具上超功效,並求更選使使西域。帝曰:「吏如班超,何故不遣,而更選乎!今以超為軍司馬,令遂前功。」 固復使超使於窴,欲益其兵,超願但將本所從三十六人,曰:「於窴國大而遠,今將數百人,無益於強;如有不虞,多益為累耳。」是時於窴王廣德雄張南道,而匈奴遣使監護其國。超既至於窴,廣德禮意甚疏。且其俗信巫,巫言:「神怒,何故欲向漢?漢使有□咼馬,急求取以祠我!」廣德乃遣國相私來比就超請馬。超密知其狀,報許之,而令巫自來取馬。有頃,巫至,超即斬其首;收私來比,鞭笞數百。 |
現代日本語訳この敵を滅ぼせば善阜王(ぜんぷおう)が肝をつぶし、功績も成就するだろう」。配下の者が「従事役人と相談すべきです」と言うと、班超は怒って言った。「成否は今日決める!あれは文書仕事の小役人だ。計画を聞けば怖がって情報を漏らし、無駄死にするだけ。勇士のすることではない」。配下も「承知した」と言った。 初更(よるのはじめ)、班超は兵士たちを率いて敵陣へ急襲した。折から大風が吹き起こり、彼は十人に太鼓を持たせて敵の宿舎裏に潜ませ、「火を見たらすぐに太鼓を鳴らし大声で叫べ」と命じた。残る全員に武器や弓矢を持たせ門の両側に伏せさせると、風上から火をつけた。前後から鬨の声(ときのこえ)が上がり、敵は大混乱した。班超自身三人を斬り殺し、配下も使者と従者三十人余りを討ち取った。残る百人ほどは全員焼死した。 翌日、郭恂(かくじゅん)のもとに戻って報告すると彼は驚き、やがて表情が曇った。班超はその心を見抜いて手を挙げ「貴殿は同行されなかったが、私ひとりで手柄を独占するつもりなどない」と言うと、郭恂の機嫌は直った。 班超は善阜王・広(こう)を呼び出し匈奴使者の首を見せると国中が震え上がった。漢朝の威徳を示した彼は「今後二度と北虜(ほくじょ:匈奴)と通じてはならぬ」と宣告した。広は地面に頭を叩きつけ「永遠に漢へ帰順し、反意はありません」と誓い王子を人質として差し出した。 竇固(とうこ)のもとに戻って報告すると彼は大いに喜び班超の功績を詳細に上奏。さらに新たな西域使者を選ぶよう求めたが皇帝は言った。「班超のような者がいるのに、なぜ別の者を探す?今すぐ軍司馬(ぐんしば:参謀長)に任命し前回同様の成功を収めさせよ」。 竇固が再び班超を于窴国(うてんこく)へ派遣しようと増兵を申し出たところ、彼は「最初から従えている三十六人だけで十分です。于窴は大国で遠い地ゆえ、数百の兵力では却って弱みを見せます。万一の場合も人数が多いほど足手まといになるだけ」と言った。 当時于窴王・広徳(こうとく)が南道に勢力を張り匈奴は使者を監視役として駐留させていた。班超が到着すると広徳の態度は冷淡だった。この国では巫者(ふしゃ:祈祷師)が信仰されており「神が怒っている!なぜ漢になびこうとする?漢使には呪われた馬があるから早く奪い取って私に捧げよ!」と託宣したため、広徳は宰相の私来比(しらいひ)を遣わしてその馬を要求させた。 班超は内情を見抜き承諾するふりをしながら「巫者が直接取りに来い」と言った。やがて巫者が現れると即座に斬首、さらに私來比を捕らえて数百回鞭打ちの刑を与えた。 解説
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| 以巫首送廣德;因責讓之。廣德素聞超在善阜善誅滅虜使,大惶恐,即殺匈奴使者而降。超重賜其王以下,因鎮撫焉。於是諸國皆遣子入侍,西域與漢絕六十五載,至是乃復通焉。超,彪之子也。 淮陽王延,性驕奢,而遇下嚴烈。有上書告「延與姬兄謝弇及姊婿韓光招奸猾,作圖讖,祠祭祝詛。」 事下案驗。五月,癸丑,弇、光及司徒邢穆皆坐死,所連及死、徙者甚眾。 戊午晦,日有食之。 六月,丙寅,以大司農西河王敏為司徒。有司奏請誅淮陽王延,上以延罪薄於楚王英,秋,七月,徙延為阜陵王,食二縣。 是歲,北匈奴大入雲中,雲中太守廉范拒之;吏以眾少,欲移書傍郡求救,范不許。會日暮,范令軍士各交縛兩炬,三頭爇火,營中星列。虜謂漢兵救至,大驚,待旦將退。范令軍中蓐食,晨,往赴之,斬 首數百級,虜自相轔藉,死者千餘人,由此不敢復向雲中。范,丹之孫也。 顯宗孝明皇帝下永平十七年(甲戌,公元七四年) 春,正月,上當謁原陵,夜,夢先帝、太后如平生歡,既寤,悲不能寐;即案歷,明旦日吉,遂率百官上陵。其日,降甘露於陵樹,帝令百官採取以薦。會畢,帝從席前伏御床,視太后鏡奩中物,感動悲涕,令易脂澤裝具;左右皆泣,莫能仰視。 北海敬王睦薨。睦少好學,光武及上皆愛之,嘗遣中大夫詣京師朝賀,召而謂之曰:「朝廷設問寡人,大夫將何辭以對?」使者曰:「大王忠孝慈仁,敬賢樂士,臣敢不以實對!」睦曰:「吁,子危我哉!此乃孤幼時進趣之行也。 |
現代日本語訳巫女たちの首謀者を広徳のもとへ送り、彼を詰問した。広徳は以前から班超が善阜で匈奴使者を誅殺した件を知っていたため恐怖に駆られ、直ちに匈奴使者を処刑し降伏した。班超は王以下に対し厚く恩賞を与え、これにより西域諸国を鎮撫した。こうして各国は王子を人質として派遣し始め、65年間断絶していた漢と西域の交流がここに再開された。班超とは斑彪(はんぴょう)の子である。 淮陽王・劉延(わいようおう・りゅうえん)は驕慢で奢侈な性格ながらも家臣へ厳しく冷酷であった。「劉延が愛妾の兄・謝弇と姉婿の韓光を介し、奸悪な者どもと図讖(予言書)を作成し祭祀で呪詛を行っている」との上奏があり、事件は捜査へ移された。5月癸丑の日、謝弇・韓光および司徒(大臣)の邢穆はいずれも死罪となり、連座して死刑や流刑となった者は多数に及んだ。 戊午(月末)、日食が発生した。 6月丙寅の日、大司農(財政長官)である西河出身の王敏を司徒へ任命。役人は淮陽王・劉延の処刑を上奏したが、皇帝は楚王・劉英の反乱事件より罪状が軽いと判断し、秋7月に阜陵王へ降格させ封邑二県を与えた。 同年、北匈奴が大軍で雲中郡に侵攻。太守の廉范(れんはん)は防戦したが、兵力不足を理由に周辺郡への援軍要請を進言する部下に対し「拒否」と命じた。日没後、廉范は全兵士へ松明二本を十字に縛り三方から点火させるよう指示し、陣営内で星のように配置させた。匈奴軍は漢の増援到着と誤認して恐慌状態となり、夜明け撤退を待つ隙に、廉范が「早朝出撃」を命令。未明の攻撃で数百名を斬首すると、敵兵同士の踏み合いによる死者も千余名発生し、以降匈奴は雲中侵攻を断念したという。廉范とは前漢の将軍・廉丹(れんたん)の孫である。 顕宗孝明皇帝 永平十七年(甲戌・西暦74年) 春正月、帝が原陵参拝予定の夜に先帝と太后が生前のように和やかな姿で夢現れた。目覚めると悲嘆で眠れず、直ちに暦を調べて翌朝が吉日と知り百官を率いて陵墓へ向かった。当日は甘露(甘い露)が霊樹にかかり帝の命で採取献上された。儀式後、帝が御座から立ち上がって太后の鏡箱の中を見つめると感慨にふけ「香油や化粧具を取り替えよ」と涙ながらに指示したため、側近も皆泣き崩れ顔を上げる者すらいなかった。 北海敬王・劉睦(ほっかいけいおう・りゅうぼく)が逝去。彼は若年より学問を好み光武帝や明帝の寵愛を受けた。かつて中大夫を使者として都へ派遣する際「朝廷で『そなたの主君はいかに?』と尋ねられたらどう答えるか」と下問すると、使者が「大王様は忠孝慈仁(ちゅうこうじじん)にして賢人を敬い士を喜ばれるお方です」と返した。劉睦は嘆息し「危ないことを言うな!それは若気の至りゆえに過ぎぬ行いだぞ」と戒めたという。 解説
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| 大夫其對以孤襲爵以來,志意衰惰,聲色是娛,犬馬是好,乃為相愛耳。」其智慮畏慎如此。 二月,乙巳,司徒王敏薨。 三月,癸丑,以汝南太守鮑昱為司徒。昱,永之子也。 益州刺史梁國朱輔宣示漢德,威懷遠夷,自汶山以西,前世所不至,正朔所未加,白狼、槃木等百餘國。皆舉種稱臣奉貢。白狼王唐取作詩三章,歌頌漢德,輔使犍為郡掾由恭譯而獻之。 初,龜茲王建為匈奴所立,倚恃虜威,據有北道,攻殺疏勒王,立其臣兜題為疏勒王。班超從間道至疏勒,去兜題所居槃橐城九十里,逆遣吏田慮先往降之,敕慮曰:「兜題本非疏勒種,國人必不用命;若不即降,便可執之。」慮既到,兜題見慮輕弱,殊無降意。慮因其無備,遂前劫縛兜題,左右出其不意,皆驚懼奔走。慮馳報超,超即赴之,悉召疏勒將吏,說以龜茲無道之狀,因立其故王兄子忠為王,國人大悅。超問忠及官屬:「當殺兜題邪,生遣之邪?」鹹曰:「當殺之。」超曰;「殺之無益於事,當令龜茲知漢威德。」遂解遣之。 夏,五月,戊子,公卿百官以帝威德懷遠,祥物顯應,並集朝堂奉觴上壽。制曰:「天生神物,以應王者;遠人慕化,實由有德;朕以虛薄,何以享斯!唯高祖、光武聖德所被,不敢有辭,其敬舉觴,太常擇吉日策告宗廟。」仍推恩賜民爵及粟有差。 |
現代日本語訳:大夫はそれに対し、「私が爵位を継いで以来、志や意欲は衰え怠け、音楽や女色にふけり、犬馬の遊びを好むようになったのは、(あなた方が)わざと愛想よく接しているからです」と言った。彼の知慮深く慎重な態度がこのようなものであった。 二月乙巳の日、司徒(大臣職)王敏が亡くなった。 三月癸丑の日、汝南太守鮑昱を司徒に任命した。昱は永という人物の息子である。 益州刺史・梁国出身の朱輔が漢王朝の徳を示して宣揚し、その威光で遠方の異民族を懐柔すると、汶山より西の地域――前代の王朝が到達せず、正統な暦も及んでいなかった地において――白狼(はくろう)・槃木(ばんぼく)など百余りの国々がこぞって帰順し貢ぎ物を捧げた。白狼王唐取は三章からなる詩を作り漢の徳を称え、朱輔は犍為郡の下級官吏である由恭に翻訳させて献上させた。 かつて亀茲(きじ)王の建が匈奴によって擁立されると、その軍事力を頼みとし西域北道を支配下におさめ、疏勒(そろく)王を攻撃して殺害した。そして自らの臣下・兜題(とうだい)を立てて疏勒王とした。班超は近道を通って疏勒へ入り、兜題の居城である槃橐(ばんたく)城から九十里手前で部下の田慮を先に派遣し降伏を勧告した。「兜題は本来なら疏勒人ではなく、国民も彼には従わないだろう。もし即座に投降しなければ捕縛せよ」と指示を与えた。田慮が到着すると、兜題はその地位の低さを見て軽んじ全く降伏する意思を示さなかった。そこで隙を突いて不意打ちで彼を拘束したため側近たちは驚き慌てて逃亡した。急報を受けた班超が駆けつけると、直ちに疏勒の将軍や役人らを集め亀茲王の非道ぶりを訴え、亡くなった先代国王の甥である忠(ちゅう)を新たな王として擁立した。国民はこれを大いに喜んだ。班超が「兜題を処刑すべきか?それとも生かして帰すべきか?」と尋ねると全員が殺害を主張したが、「殺しても益はなく、漢の威徳を知らしめるのがよい」として釈放した。 夏五月戊子の日、公卿百官(朝廷高官)たちは皇帝の威徳で遠国まで帰順させた功績と吉祥の兆しを示す現象を理由に参集して祝杯を捧げた。詔勅が下った。「天が示した霊瑞は王者への応えである。遠方の人々が感化されるのは真実の徳があるからだ。朕のような未熟者ではこの栄誉を受ける資格がない。(高祖・光武帝という)二祖の聖徳によるものと認め、辞退はしない。謹んで杯を挙げよ」。太常(礼官長)に吉日を選ばせ宗廟で正式報告を行わせた上で、恩恵として民衆へ爵位や食糧を等級別に下賜した。 解説:
※訳文では以下の対応を実施: - 「正朔」→「暦」(支配正当性を示す抽象概念を具体化) - 「奉觴上壽」→宮廷酒宴の描写として動態的に再構成 - 官職名(司徒・太常等)は注記付きで保持し当時の官僚制を反映 Translation took 1140.3 seconds. |
| 冬,十一月,遣奉車都尉竇固、駙馬都尉耿秉、騎都尉劉張出敦煌崑崙塞,擊西域,秉、張皆去符,傳以屬固,合兵萬四千騎,擊破白山虜於蒲類海上,遂進擊車師。車師前王,即後王之子也,其廷相去五百餘里。固以後王道遠,山谷深,士卒寒苦,欲攻前王;秉以為先赴後王,並力根本,則前王自服。固計未決,秉奮身而起曰:「請行前。」乃上馬引兵北入,眾軍不得已,並進,斬首數千級。後王安得震怖,走出門迎秉,脫帽,抱馬足降,秉將以詣固;其前王亦歸命,遂定車師而還。於是固奏復置西域都護及戊、己校尉。以陳睦為都護;司馬耿恭為戊校尉,屯後王部金蒲城;謁者關寵為己校尉,屯前王部柳中城,屯各置數百人。恭,況之孫也。 顯宗孝明皇帝下永平十八年(乙亥,公元七五年) 春,二月,詔竇固等罷兵還京師。 北單于遣左鹿蠡王率二萬騎擊車師,耿恭遣司馬將兵三百人救之,皆為所沒,匈奴遂破殺車師後王安得而攻金蒲城。恭以毒藥傅矢,語匈奴曰:「漢家箭神,其中瘡者必有異。」虜中矢者,視創皆沸,大驚,會天暴風雨,隨雨擊之,殺傷甚眾;匈奴震怖,相謂曰:「漢兵神,真可畏也!」遂解去。 夏,六月,己未,有星孛於太微。 耿恭以疏勒城傍有澗水可固,引兵據之。秋,七月,匈奴復來攻,擁絕澗水;恭於城中穿井十五丈,不得水,吏士渴乏,至笮馬糞汁而飲之。 |
現代日本語訳冬11月、奉車都尉・竇固と駙馬都尉・耿秉、騎都尉・劉張が敦煌の崑崙塞から西域へ出撃した。耿秉らは指揮権を竇固に委ね、1万4千騎で白山族を蒲類海湖畔で破り、車師国へ進軍した。 車師前王(南部勢力)は後王(北部勢力)の実子だったが両拠点は500里以上離れていた。竇固は「後王領は遠く山深く兵士が凍える」と前王攻略を主張するも、耿秉は「まず本拠である後王を制圧すれば前王も自然に降る」と反論した。議論が紛糾する中、耿秉は猛然と立ち上がり「私が先鋒を務める!」と宣言し軍勢を率いて北進。やむなく全軍が続き数千の敵兵を討ち取ると、後王・安得は恐怖で城外へ駆け出て冠を脱ぎ耿秉の馬足にすがり降伏した。 耿秉が捕えた後王を竇固のもとへ連行すると前王も帰順し車師国は平定された。これを受け西域都護府及び戊己校尉(辺境防衛官)の再設置が上奏され、陳睦が都護に任命。耿恭(耿秉の従兄弟)を戊校尉として後王領・金蒲城へ、謁者・関寵を己校尉として前王領・柳中城へ派遣し各々数百名を駐屯させた。 顕宗孝明皇帝 永平18年(75年) 春2月、詔により竇固らは撤兵して都に戻った。 北匈奴の単于が左鹿蠡王率いる騎兵2万で車師国を急襲。耿恭が派遣した三百人の救援部隊は全滅し後王・安得も殺害されたため、匈奴軍は金蒲城へ迫った。 耿恭は毒薬を矢に塗り「漢の神箭を受けた者は必ず異変が起きる」と宣言すると、矢傷を負った匈奴兵の創口から沸騰する泡が噴出した。その混乱に乗じ激しい暴風雨の中で逆襲に出た耿恭軍は大損害を与え、「漢軍は神々しく恐ろしい!」と震えた匈奴軍は撤退した。 夏6月己未(12日)、太微垣(星宿)に彗星が現れた。 耿恭は疏勒城近くの渓流を要害と見て移駐。秋7月、再来襲した匈奴軍が水源を遮断すると城内で15丈(約35m)の井戸を掘ったが出ず、兵士達は馬糞から汁を搾って飢えを凌いだ。 解説
※歴史的補足:耿恭ら数百名は水源断絶下で一年間籠城し(75-76年)、救出時には生存者26名に。その壮烈な抗戦は『後漢書』で「節義の鑑」と称賛された。 Translation took 2305.9 seconds. |
| 恭身自率士挽籠,有頃,水泉奔出,眾皆稱萬歲。乃令吏士揚水以示虜,虜出不意,以為神明,遂引去。 八月,壬子,帝崩於東宮前殿,年四十八。遺詔:「無起寢廟,藏主於光烈皇后更衣別室。」帝遵奉建武制度,無所變更,后妃之家不得封侯與政。館陶公主為子求郎,不許,而賜錢千萬,謂群臣曰:「郎官上應列宿,出宰百里,苟非其人,則民受其殃,是以難之。」公車以反支日不受章奏,帝聞而怪曰:「民廢農桑,遠來詣闕,而復拘以禁忌,豈為政之意乎!」於是遂蠲其制。尚書閻章二妹為貴人,章精力曉舊典,久次當遷重職,帝為後宮親屬,竟不用。是以吏得其人,民樂其業,遠近畏服,戶口滋殖焉。 太子即位,年十八。尊皇后曰皇太后。 明帝初崩,馬氏兄弟爭欲入宮。北宮衛士令楊仁被甲持戟,嚴勒門衛,人莫敢輕進者。諸馬乃共譖仁於章帝,言其峻刻。帝知其忠,愈善之,拜為什邡令。 壬戌,葬孝明皇帝於顯節陵。 冬,十月,丁未,赦天下。 詔以行太尉事節鄉侯熹為太傅,司空融為太尉,並錄尚書事。 十一月,戊戌,以蜀郡太守第五倫為司空。倫在郡公清,所舉吏多得其人,故帝自遠郡用之。 焉耆、龜茲攻沒都護陳睦,北匈奴圍關寵於柳中城。會中國有大喪,救兵不至,車師復叛,與匈奴共攻耿恭。恭率厲士眾御之,數月,食盡窮困,乃煮鎧弩,食其筋革。 |
現代日本語訳恭自ら率先して士卒とともに籠を引き上げたところ、しばらくすると水が湧き出てきたため、兵士たちは万歳を唱えた。そこで役人や兵士に水を見せびらかすよう命じると、敵は不意をつかれ神業と思い、ついに撤退した。 八月壬子の日、皇帝(明帝)が東宮前殿で崩御された。48歳であった。遺詔には「陵廟を建てず、御霊代を光烈皇后の更衣別室に納めよ」とあった。皇帝は建武時代の制度を遵守し、一切変更せず、后妃の一族が侯爵に封ぜられたり政務に関与することを禁じた。館陶公主が息子のために郎官の職を求めたが、許さず代わりに千万銭を与え、「郎官は天上の星宿に対応し、地方を治める重任である。適任者でなければ民が災いを受けるゆえに難しい」と群臣に語った。役所が凶日(反支日)を理由に上奏文を受け付けないと聞き「農作業を犠牲にして都まで来た民を、禁忌で阻むとは政治の本意か?」と批判し、この制度を廃止させた。尚書・閻章の二人の妹が貴人(側室)だったため、彼は旧制に精通し要職昇進の順番であったにも関わらず、皇帝は外戚関係を理由に登用しなかった。こうして官吏は適材を得て民は生業に励み、遠近から畏敬され戸籍人口も増加した。 皇太子が即位(章帝)、18歳。皇后を皇太后と尊称する。 明帝崩御直後、馬氏一族の兄弟が宮中へ押し入ろうとした。北宮衛士令・楊仁は甲冑を着て戟を持ち、門衛を厳重に警戒させたため侵入者はいなかった。すると馬氏らは章帝に「楊仁が冷酷だ」と讒言したが、皇帝は彼の忠義を知ってますます信任し、什邡県令に任命した。 壬戌の日、孝明皇帝を顕節陵に埋葬する。冬十月丁未、大赦を行う。詔により行太尉事・節郷侯趙熹を太傅とし、司空牟融を太尉として共に尚書事務を統括させた。 十一月戊戌、蜀郡太守の第五倫を司空とする。彼は公正清廉で適材登用したため、遠方の地方官から皇帝が抜擢したのである。 焉耆と亀茲が都護・陳睦を攻め滅ぼし、北匈奴が柳中城にて関寵包囲する。折しも帝室大喪で援軍は来ず、車師国までも反旗を翻して耿恭を攻撃したため、彼は士卒を鼓舞しながら防戦した。数ヵ月後食糧尽き鎧や弩の革紐まで煮て飢えを凌いだ。 解説【政治思想】外戚排除と実力主義:明帝・章帝期の中枢政策として「建武制度」(光武帝時代の方針)を継承し、特に①后族の封侯禁止②閻章登用拒否(妹が貴人でも能力あれば登用例だが、意図的に回避)③楊仁への信頼強化(外戚圧力下での公正評価)など「血縁より実績」を徹底。館陶公主の嘆願却下と第五倫抜擢はその典型である。 【制度改革】合理主義行政:「反支日制度廃止」が象徴的で、儒教的禁忌よりも現実的な民衆便益(上奏機会保障)を優先した。「郎官選考の厳格化」も同様に「星宿対応」(天意)という神秘思想より地方統治能力を重視する合理主義と解釈できる。 【軍記描写】耿恭防衛戦の劇的表現:「鎧弩煮て食う」は『後漢書』耿恭伝にも詳述される極限状況の比喩で、①水湧出の奇跡→②飢餓地獄という対照が将士の忠節を浮き彫りにする。史家・司馬光(資治通鑑編者)は「神業と誤認させた心理戦術」より「民に尽くす実践」(郎官選考理由や反支日廃止)こそ正統な帝王学と暗示した可能性が高い。
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| 恭與士卒推誠同死生。故皆無二心,而稍稍死亡。餘數十人。單于知恭已困,欲必降之,遣使招恭曰:「若降者,當封為白屋王。妻以女子。」恭誘其使上城,手擊殺之,炙諸城上。單于大怒,更益兵圍恭,不能下。 關寵上書求救。詔公卿會議,司空倫以為不宜救,司徒鮑昱曰:「今使人於危難之地,急而棄之,外則縱蠻夷之暴,內則傷死難之臣,誠令權時,後無邊事可也。匈奴如復犯塞為寇,陛下將何以使將!又二部兵人裁各數十,匈奴圍之,歷旬不下,是其寡弱力盡之效也。可令敦煌、酒泉太守各將精騎二千,多其幡幟,倍道兼行以赴其急;匈奴疲極之兵,必不敢當,四十日間足還入塞。」帝然之。乃遣征西將軍耿秉屯酒泉,行太守事,遣酒泉太守段彭與謁者王蒙、皇甫援發張掖、酒泉、敦煌三郡及善阜善兵合七千餘人以救之。 甲辰晦,日有食之。 太后兄弟虎賁中郎廖及黃門郎防、光,終明帝世未嘗改官。帝以廖為衛尉,防為中郎將,光為越騎校尉。廖等傾身交結,冠蓋之士爭赴趣之。第五倫上疏曰:「臣聞《書》曰:『臣無作威作福,其害於而家,凶於而國。』近世光烈皇后雖友愛天至,而抑損陰氏,不假以權勢。其後梁、竇之家,互有非法,明帝即位,竟多誅之。自是雒中無復權戚,書記請托,一皆斷絕。又諭諸外戚曰:『苦身待士,不如為國。 |
現代語訳耿恭は兵卒たちと誠意をもって接し、生死を共にする覚悟で臨んだため、誰一人裏切る者はなかった。しかし次第に戦死者が増え、残り数十名となった。匈奴の単于は耿恭らが追い詰められた状況を知ると、何としても降伏させようと使者を遣わし、「もし降れば白屋王に封じ、我が娘を妻として与える」と伝えた。耿恭は計略を用いて使者を城壁の上へ誘い出し、自らの手で斬り殺すと、その屍を晒して焼いた。単于は激怒し、さらに包囲兵力を増強したが、陥落させることはできなかった。 一方、関寵(戊己校尉)が救援要請の上書を提出すると、皇帝は公卿たちに会議を命じた。司空・第五倫は「救援すべきでない」と主張する中、司徒・鮑昱が反論した。「今この者たちを危難の中で見捨てれば、対外的には蛮族の暴虐を許し、国内的には死を覚悟して尽くす臣下への信義を損なうことになります。仮に一時的な便法としても後顧の憂いが残ってはいけません。もし匈奴が再び国境を侵犯した場合、陛下はどうやって将軍たちを指揮されるおつもりでしょうか? さらに両部隊の兵力はわずか数十名でありながら、匈奴が十日以上包囲しても落とせないのは彼らの弱体化を示しています。敦煌太守・酒泉太守にそれぞれ精鋭騎兵二千を与え、旗指物を増やして倍の速度で急行させればよいでしょう。疲弊した匈奴軍は決して対抗できず、四十日以内には十分に撤退できます」。皇帝はこの意見を認め、征西将軍・耿秉を酒泉に駐屯させて太守職務を代行させる一方、段彭らが三郡と善鄯国の兵七千余りを率いて救援に向かわせた。 (同年)甲辰の晦日(月末)、日食が発生した。 解説
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| 戴盆望天,事不兩施。』今之議者,復以馬氏為言。竊聞衛尉廖以布三千匹,城門校尉防以錢三百萬,私贍三輔衣冠,知與不知,莫不畢給。又聯臘日亦遺其在雒中者錢各五千。越騎校尉光,臘用羊三百頭,米四百斛,肉五千斤。臣愚以為不應經義。惶恐,不敢不以聞。陛下情慾厚之,亦宜所以安之。臣今言此,誠欲上忠陛下,下全後家也。」 是歲,京師及兗、豫、徐州大旱。 |
現代日本語訳「頭に盆を乗せて天を見上げようとするのは無理な話です(両立し得ないことの喩え)。最近、また馬氏一族に関する議論が持ち上がっております。私が耳にしたところによれば、衛尉である廖は布三千匹をもって、城門校尉である防は銭三百万をもって、密かに三輔地域(長安近郊)の官吏や知識人たちへ施しを行い、知り合いか否かを問わず全てに供給したとのこと。さらに臘祭(年末の祭祀)の際には、洛陽在住者に対してもそれぞれ銭五千を贈ったそうです。越騎校尉である光は、臘祭において羊三百頭・米四百斛・肉五千斤を使用しました。臣下である私が思うに、これは経書(儒教典籍)の精神にも悖る行為でございます。恐れながらも、陛下にお伝えせずにはいられませんでした。陛下は彼らを厚遇なさりたいお気持ちでしょうが、それはかえって一族を安泰にする結果となるはずです。私が今このように申し上げるのは、誠に上(皇帝)には忠義を示し、下(皇后の実家)には末永い繁栄をもたらそうと願うからでございます」 同年、都(洛陽)および兗州・豫州・徐州では大干ばつが発生した。 解説
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| input text 資治通鑑\046_漢紀_38.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷四十六 漢紀三十八 起柔兆困敦,盡閼逢涒灘,凡九年。 肅宗孝章皇帝上建初元年(丙子,公元七六年) 春,正月,詔兗、豫、徐三州稟贍饑民。上問司徒鮑昱:「何以消復旱災?」對曰:「陛下始踐天位,雖有失得,未能致異。臣前為汝南太守,典治楚事,系者千餘人,恐未能盡當其罪。夫大獄一起,冤者過半。又,諸徙者骨肉離分,孤魂不祀。宜一切還諸徙家。蠲除禁錮,使死生獲所,則和氣可致。」帝納其言。 校書郎楊終上疏曰:「間者北征匈奴,西開三十六國,百姓頻年服役,轉輸煩費;愁困之民足以感動天地。陛下宜留念省察。」帝下其章,第五倫亦同終議。牟融、飽昱皆以為:「孝子無改父之道。征伐匈奴,屯戍西域,先帝所建,不宜迥異。」終復上疏曰:「秦築長城,功役繁興;胡亥不革,卒亡四海。故孝元棄珠崖之郡,光武絕西域之國,不以介鱗易我衣裳。魯文公毀泉台,《春秋》譏之曰:『先祖為之而己毀之,不如勿居而已,』以其無妨害於民也;襄公作三軍,昭公捨之,君子大其復古,以為不捨則有害於民也。今伊吾之役,樓蘭之屯兵久而未還,非天意也。」帝從之。 丙寅,詔:「二千石勉勸農桑。罪非殊死,須秋案驗。有司明慎選舉,進柔良,退貪猾,順時令,理冤獄。」是時承永平故事,吏政尚嚴切,尚書決事,率近於重。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻四十六 漢紀三十八 粛宗孝章皇帝・建初元年(丙子、西暦76年) 春正月、詔により兗州・豫州・徐州の三州で飢民に食糧を支給した。 校書郎・楊終が上疏した:「近年では匈奴討伐の北征や西域三十六国の開拓により、民衆は連年労役に駆り出され、物資輸送の負担も重い。こうした苦しみは天地をも動かします。陛下には深くご考慮を」。 丙寅(3月)の日、詔書を発布:「郡太守らは農桑を奨励せよ。死罪以外の裁判は秋まで延期。役人は人材登用を厳正に行い、温和な者を登用し、貪欲な者を退け、季節に従い冤罪事件を処理すべし」。 解説
(訳注:固有名詞は原則として『岩波文庫 資治通鑑』などの表記に準拠し、ルビなしで処理した) Translation took 1042.0 seconds. |
| 尚書沛國陳寵以帝新即位,宜改前世苛俗,乃上疏曰:「臣聞先王之政,賞不僭,刑不濫。與其不得已,寧僭無濫。往者斷獄嚴明,所以威懲奸慝;奸慝既平,必宜濟之以寬。陛下即位,率由此義,數詔群僚,弘崇晏晏,而有司未悉奉承,猶尚深刻。斷獄者急於篣格酷烈之痛,執憲者煩於詆欺放濫之文,或因公行私,逞縱威福。夫為政猶張琴瑟,大弦急者小弦絕。陛下宜隆先王之道,蕩滌煩苛之法,輕薄棰楚以濟群生,全廣至德以奉天心。」帝深納寵言,每事務於寬厚。 酒泉太守段彭等兵會柳中,擊車師,攻交河城,斬首三千八百級,獲生口三千餘人。北匈奴驚走,車師復降。會關寵已歿,謁者王蒙等欲引兵還;耿恭軍吏范羌,時在軍中,固請迎恭。諸將不敢前,乃分兵二千人與羌,從山北迎恭,遇大雪丈餘,軍僅能至。城中夜聞兵馬聲,以為虜來,大驚。羌遙呼曰:「我范羌也,漢遣軍迎校尉耳。」城中皆稱萬歲。開門,共相持涕泣。明日,遂相隨俱歸。虜兵追之,且戰且行。吏士素饑困,發疏勒時,尚有二十六人,隨路死沒,三月至玉門,唯餘十三人,衣屨穿決,形容枯槁。 中郎將鄭眾為恭已下洗沐,易衣冠,上疏奏:「恭以單兵守孤城,當匈奴數萬之眾,連月逾年,心力困盡,鑿山為井,煮弩為糧,前後殺傷丑虜數百千計,卒全忠勇,不為大漢恥,宜蒙顯爵,以厲將帥。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)尚書であった沛国の陳寵は、皇帝の即位直後こそ前代の過酷な風習を改めるべきと上疏した。「臣が承りますに、先王の政治は賞を誤らず刑を濫用せず。やむを得ぬ場合には寛大さを選びました。かつては厳格な裁判で悪を戒めましたが、悪が収まった今こそ寛容をもって補う時です。陛下は即位後この道理を示されましたが、役人はまだ苛烈な手法に固執し、刑罰では過酷さを競い、法令運用では瑣末な条文に拘り、私利のために威権を乱用しております。政治とは琴の弦のようなもの、強く張りすぎれば切れます。どうか先王の道を重んじ、煩雑で苛烈な法を廃し、刑罰を軽減して民を救い、広大なる徳をもって天意に応えられますよう」 皇帝は陳寵の進言を深く受け入れ、以後すべて寛大さを旨とした。 一方、酒泉太守・段彭らが柳中で軍勢を集め車師国を攻撃。交河城で三千八百の首級を挙げ捕虜三千余人を得たため、北匈奴は驚いて逃走し車師国は降伏した。しかし関寵将軍が戦死したため謁者・王蒙らは撤兵を決断。耿恭配下の軍吏・范羌(当時同地に在陣)が耿恭救出を強く訴えた。諸将は消極的だったが、結局二千の兵を与えられて天山北路から救援に向かった。深さ一丈以上の大雪の中、辛うじて耿恭らの籠る城へ到達すると、夜中に軍馬の音を聞いた城内は匈奴襲来と恐慌状態となった。范羌が「我こそは范羌! 漢朝が校尉(耿恭)を迎えに来たぞ!」と叫ぶと、城内は万歳を唱えて門を開き、互いに抱き合って涙した。翌日撤退開始すると匈奴軍が追撃してきたため戦いながら退却。もともと飢餓状態だった兵士たちは疏勒出発時二十六名いたが、途中で次々に倒れ、玉門関に着いた三月には十三名のみ。衣服は破れ果て、見るかげもない姿であった。 中郎将・鄭衆は耿恭らを沐浴させ衣冠を整えさせた上で上奏した。「耿恭は寡兵で孤城を守り数万の匈奴軍と何ヶ月も対峙。力尽きても山に井戸を掘り、弓弦を煮て食料とした。数千もの敵兵を殺傷し忠勇を全うして漢朝の威信を汚さず——これこそ顕爵を与え将帥の鑑とすべきです」 解説
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| 」恭至雒陽,拜騎都尉。 詔悉罷戊、己校尉及都護官,征還班超。超將發還,疏勒舉國憂恐;其都尉黎弇曰:「漢使棄我,我必復為龜茲所滅耳,誠不忍見漢使去。」因以刀自剄。超還至於窴,王侯以下皆號泣,曰:「依漢使如父母,誠不可去!」互抱超馬腳不得行。超亦欲遂其本志,乃更還疏勒。疏勒兩城已降龜茲,而與尉頭連兵。超捕斬反者,擊破尉頭,殺六百餘人,疏勒復安。 甲寅,山陽、山平地震。 東平王蒼上便宜三事。帝報書曰:「間吏民奏事亦有此言,但明智淺短,或謂倘是,復慮為非,不知所定。得王深策,恢然意解;思惟嘉謀,以次奉行。特賜王錢五百萬。」後帝欲為原陵、顯節陵起縣邑,蒼上疏諫曰:「竊見光武皇帝躬履儉約之行,深睹始終之分,勤勤懇懇,以葬制為言;孝明皇帝大孝無違,承奉遵行。謙德之美,於斯為盛。臣愚以園邑之興,始自強秦。古者丘隴且不欲其著明,豈況築郭邑、建都郛哉!上違先帝聖心,下造無益之功,虛費國用,動搖百姓,非所以致和氣、祈豐年也。陛下履有虞之至性,追祖檷之深思,臣蒼誠傷二帝純德之美不暢於無窮也。」帝乃止。自是朝廷每有疑政,輒驛使諮問,蒼悉心以對,皆見納用。秋,八月,庚寅,有星孛於天市。 初,益州西部都尉廣漢鄭純,為政清潔,化行夷貊,君長感慕,皆奉珍內附;明帝為之置永昌郡,以純為太守。 |
現代日本語訳本文の翻訳:恭が洛陽に到着し、騎都尉を拝命した。 朝廷は戊己校尉と都護官職を全て廃止すると詔勅を下し、班超を召還するよう命じた。班超が帰国しようとした時、疏勒国内では深い憂慮と恐怖が広がった。その都尉である黎弇は言った。「漢の使者が見捨てるなら、我々は必ず再び亀茲に滅ぼされるだろう。どうしても漢使の方々が去られる姿を見たくない。」そう言って自ら刀で首を刎ねた。班超が于闐まで戻ると、王侯から下級役人まで皆号泣し、「漢の使者様は父母のような存在です。本当に去らないでください!」と訴えながら互いに彼の馬の脚を抱えて離さず、移動もできなくなった。班超も元々現地にとどまりたいという本心があったため、再び疏勒へ戻ることにした。この時すでに疏勒の二つの城は亀茲に降伏し、尉頭と連合していた。班超は反乱者を捕らえて斬り、尉頭軍を撃破して六百人余りを殺害すると、疏勒は再び平穏を取り戻した。 甲寅(きのえとら)の日、山陽・山平で地震が発生した。 東平王劉蒼が時務に適った三つの提言を上奏した。皇帝(章帝)は返書を送り「最近官吏や民衆からの上奏にも同様の意見があったが、朕の見識が浅く短慮なため『これで良いのか?いや違うかもしれない』と迷い決断できなかった。貴君の深遠なる策略を得て初めて心が晴れ渡った。優れた提言を熟考し順次実行する」と述べ、特別に五百万銭を賜った。後に皇帝が原陵(光武帝陵)と顕節陵(明帝陵)の周囲に県邑を建設しようとした時、劉蒼は上疏して諫めた。「臣はかねてより思っておりました。光武皇帝は自ら倹約を実践され、物事の終始を深く見極められ、葬制について懇切にお説きになりました。孝明皇帝は大孝をおこたりなく承継され遵守なさいました。この謙虚なる美徳こそ最高のものでしょう。陵園周辺に都市を造営する慣習は強秦(暴虐な秦朝)から始まったと愚考します。古来、墳丘すら目立たせないのが道理であり、まして城壁や都郭を築く必要があろうか?これは先帝の聖意に背き、無益な工事で国費を浪費し民衆を疲弊させます。天地の和気を得て豊年を祈る姿勢とは程遠い」と。皇帝はこれを受け入れて中止した。以後朝廷で政策上の懸案がある度ごとに駅伝を使い劉蒼に諮問すると、彼は誠意をもって回答し全て採用された。秋八月庚寅(かのえとら)の日、天市垣(星座領域)に彗星が現れた。 かつて益州西部都尉だった広漢出身の鄭純は清廉な政治を行い、夷貊(異民族)にも教化が及び、首長たちは感激して慕い、こぞって珍宝を献上し帰属した。明帝はこれにより永昌郡を設置し、鄭純を太守に任命した。 解説:
(本訳注:固有名詞については『後漢書』等の表記基準に準拠しルビは付さない) Translation took 1057.1 seconds. |
| 純在官十年而卒,後人不能撫循夷人。九月,哀牢王類牢殺守令反,攻博南。 阜陵王延數懷怨望,有告延與子男魴造逆謀者;上不忍誅,冬十一月,貶延為阜陵侯,食一縣,不得與吏民通。 北匈奴皋林溫禺犢王將眾還居涿邪山,南單于與邊郡及烏桓共擊破之。是歲,南部大饑,詔稟給之。 肅宗孝章皇帝上建初二年(丁丑,公元七七年) 春,三月,甲辰,罷伊吾盧屯兵,匈奴復遣兵守其地。 永昌、越巂、益州三郡兵及昆明夷鹵承等,擊哀牢王類牢於博南,大破,斬之。 夏,四月,戊子,詔還坐楚、淮陽事徙者四百餘家。 上欲封爵諸舅,太后不聽。會大旱,言事者以為不封外戚之故,有司請依舊典。太后詔曰:「凡言事者,皆欲媚朕以要福耳。昔王氏五侯同日俱封,黃霧四塞,不聞澍雨之應。夫外戚貴盛,鮮不傾覆;故先帝防慎舅氏,不令在樞機之位,又言『我子不當與先帝子等』,今有司奈何欲以馬氏比陰氏乎!且陰衛尉,天下稱之,省中御者至門,出不及履,此蘧伯玉之敬也;新陽侯雖剛強,微失理,然有方略,據地談論,一朝無雙;原鹿貞侯,勇猛誠信;此三人者,天下選臣,豈可及哉!馬氏不及陰氏遠矣。吾不才,夙夜累息,常恐虧先後之法,有毛髮之罪吾不釋,言之不捨晝夜,而親屬犯之不止,治喪起墳,又不時覺,是吾言之不立而耳目之塞也。 |
現代日本語訳純は官職に十年間在任した後に死去し、後継者は夷人を慰撫することができなかった。九月、哀牢王の類牢が守令を殺害して反乱を起こし、博南を攻撃した。 阜陵王・延は幾度も怨みを持ち、その息子・魴と共に謀反を企てたとの告発があった。皇帝(章帝)は処刑を忍びず、冬十一月に延を阜陵侯に降格し、一県の租税のみを与え、官吏や民衆との接触を禁じた。 北匈奴の皋林溫禺犢王が軍勢を率いて涿邪山へ戻ったため、南単于は辺境郡と烏桓と共にこれを撃破した。同年、南部で大飢饉が発生し、詔によって食糧供給が行われた。 粛宗孝章皇帝 建初二年(丁丑、西暦77年) 春三月甲辰、伊吾盧の駐屯兵を撤収すると、匈奴が再び兵力を派遣して同地を占拠した。 永昌・越巂・益州の三郡兵と昆明夷の鹵承らが博南で哀牢王類牢を攻撃し、大破して斬首した。 夏四月戊子、楚王事件や淮陽王事件に連座して流刑となった四百余家の帰還を詔勅で許可した。 皇帝は外戚(母方親族)への爵位授与を望んだが、太后(明徳馬皇后)が反対した。折しも大旱魃が発生し、諫言者が「外戚封爵を行わないため」と指摘すると、役人は旧例に従うよう上奏した。これに対し太后は詔で述べた:
解説
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| 吾為天下母,而身服大練,食不求甘,左右但著帛布,無香蕃之飾者,欲身率下也。以為外親見之,當傷心自敕,但笑言『太后素好儉』。前過濯龍門上,見外家問起居者,車如流水,馬如游龍,倉頭衣綠韝,領袖正白,顧視御者,不及遠矣。故不加譴怒,但絕歲用而已,冀以默愧其心,猶懈怠無憂國忘家之慮。知臣莫若君,況親屬乎!吾豈可上負先帝之旨,下虧先人之德,重襲西京敗亡之禍哉!」固不許。帝省詔悲歎,復重請曰:「漢興,舅氏之封侯,猶皇子之為王也。太后誠存謙虛,奈何令臣獨不加恩三舅乎!且衛尉年尊,兩校尉有大病,如令不諱,使臣長抱刻骨之恨。宜及吉時,不可稽留。」太后報曰:「吾反覆念之,思令兩善,豈徒欲獲謙讓之名而使帝受不外施之嫌哉!昔竇太后欲封王皇后之兄,丞相條侯言:『高祖約,無軍功不侯。』今馬氏無功於國,豈得與陰、郭中興之後等邪!常觀富貴之家,祿位重疊,猶再實之木,其根必傷。且人所以願封侯者,欲上奉祭祀,不求溫飽耳;今祭祀則受太官之賜,衣食則蒙御府餘資,斯豈不可足,而必當得一縣乎!吾計之孰矣,勿有疑也。夫至孝之行,安親為上。今數遭變異,谷價數倍,憂惶晝夜,不安坐臥,而欲先營外家之封,違慈母之拳拳乎!吾素剛急,有胸中氣,不可不順也。子之未冠,由於父母,已冠成人,則行子之志。 |
現代日本語訳:私は天下の母として、自ら粗末な衣を身につけ、美食も求めず、側近たちにも質素な麻布だけを着せ、香り高い飾りなど一切用いませんでした。これこそが率先垂範というものです。外戚の人々はそれを見て心に感じ慎むだろうと思いましたが、彼らは「太后は昔から倹約家だ」と笑って言うばかりです。 先日濯龍門の前を通りかかった時、実家の者たちが挨拶に来ている様子を目にしました。車列は流れる水のように途絶えず、馬々は遊泳する竜のように雄壮で、下僕たちは緑色の袖カバーを着け、襟元と袖口は真っ白でした。私の側近たちとは比べものになりません。 だからといって彼らを叱責せず、ただ年俸支給を停止しただけです。黙って自省させることで、国家や家族への配慮もなく怠ける心が改まることを願ったのですが、それでも改善されません。「臣下を知る者は君主に如かず」と言いますが、まして親族のことならなおさらでしょう! 天上の先帝様のご意向にも背けず、地上で祖先の徳義をも損ねて、再び前漢のような外戚による滅亡の禍を招くわけにはいきません。 こうした理由から絶対に認められないのです。皇帝は詔書を読んで嘆息し、重ねて懇願されました:「我が漢王朝では代々、母方の叔父を侯爵に封じるのは皇子を王とするのに等しい慣例です。太后様がご謙遜なされるお気持ちも分かりますが、どうして私だけ三人の叔父への恩寵を示せないのですか? 衛尉(馬廖)は高齢で、二人の校尉(馬防・馬光)は重病を患っています。もし万一のことがあれば、私は一生悔いを胸に刻み続けることになります。どうぞ吉日をお選びください。遅らせるわけにはまいりません」 太后はこう返答されました:「何度も熟考し、双方にとって最善の道を探っているのです。単なる謙譲という名声を得るために皇帝が『外戚に恩恵を与えない』と非難されるようなことは望んでおりません。昔、竇太后が王皇后の兄を封じようとした時、丞相・条侯(周亜夫)は言いました:『高祖(劉邦)のお定めでは軍功なき者は列侯に封ぜられぬ』と。今や馬氏一族に国家への勲功などありましょうか? 陰家や郭家のような漢王朝再興の功臣と同じにはできません」 私は常々富貴の家を見てきましたが、禄を重ね位階を積むのは二度実をつける木のように根元を傷つけます。そもそも人々が封侯を願うのは祖先祭祀を行うためであり、衣食に困らないことが目的ではありません。今では彼らも祭祀には太官(宮廷の食膳係)から供物を受け、日常生活では御府(皇室倉庫)からの支給品で足りているのです。それでもなお一県の領地を得なければならないというのでしょうか? 私の決意は熟慮を重ねた結果です。疑いは無用でしょう。真の孝行とは親心に安寧をもたらすことこそ最上とされます。現在、天変地異が続き穀物価格は数倍にも高騰しています。私は昼夜憂い焦り座臥も安らかではありませんのに、外戚への領土分封を優先しようとなさるのですか? これは慈母の深い思い遣いに背くものでは? 元来、私は気性が激しく頑固な性質で、胸に抱いた信念は必ず貫きます。子たる者が成人前なら親の指図を受けますが、冠礼を終えた後は自らの意志を通すべきです。 解説:
歴史的影響:この厳格な外戚抑制策は結果的に短期間で終焉し、後漢中期以降の竇氏・梁氏らによる外戚専横を招く皮肉な帰結となりました。司馬光が『資治通鑑』に採用した意図は「権力者の身内贔屓がいかに王朝衰退をもたらすか」という普遍的な警鐘として読み取れます。 Translation took 2806.3 seconds. |
| 念帝,人君也;吾以未逾三年之故,自吾家族,故得專之。若陰陽調和,邊境清靜,然後行子之志;吾但當含飴弄孫,不能復關政矣。」上乃止。 太后嘗詔三輔:諸馬昏親有屬托郡縣、干亂吏治者,以法聞。太夫人葬起墳微高,太后以為言,兄衛尉廖等即時減削。其外親有謙素義行者,輒假借溫言,賞以財位;如有纖介,則先見嚴恪之色,然後加譴。其美車服、不尊法度者,便絕屬籍,遣歸田裡。廣平、巨鹿、樂成王,車騎樸素,無金銀之飾,帝以白太后,即賜錢各五百萬。於是內外從化,被服如一;諸家惶恐,倍於永平時。置織室,蠶於濯龍中,數往觀視,以為娛樂。常與帝旦夕言道政事,及教授小王《論語》經書,述敘平生,雍和終日。 馬廖慮美業難終,上疏勸成德政曰:「昔元帝罷服官,成帝御浣衣,哀帝去樂府,然而侈費不息,至於衰亂者,百姓從行不從言也。夫改政移風,必有其本。《傳》曰:吳王好劍客,百姓多創瘢;楚王好細腰,宮中多餓死。』長安語曰:『城中好高結,四方高一尺;城中好廣眉,四方且半額;城中好大袖,四方全匹帛。』斯言如戲,有切事實。前下制度未幾,後稍不行,雖或吏不奉法,良由慢起京師。今陛下素簡所安,發自聖性,誠令斯事一竟,則四海誦德,聲薰天地,神明可通,況於行令乎!」太后深納之。 |
訳文天子御自身こそが天下の主であらせられる。私は三年の喪があけぬばかりに、母として一時的に政務をお預かりしているだけである。陰陽の調和がとれ、辺境が安定いたしました暁には、皇帝自らのお志を遂げていただきましょう。私はただ孫たちと飴で遊ぶ老いぼれた祖母となり、再び政治に関わることはない」 皇太后(明徳馬皇后)は三輔(京畿地方)に詔を下し告げさせた。 太夫人(太后の母)の墳墓がやや高く築かれた際は、太后が指摘されると兄・衛尉馬廖らは即座に改修した。謙虚で質素な行いのある外戚には温かな言葉をかけ官位と財貨を与えた一方、わずかな過ちがあればまず厳しい表情で戒め、改めぬ者だけを処罰した。華美な車馬や衣服を用い法度を軽んじる者はただちに皇族籍から削除し郷里へ帰した。 広平王・巨鹿王・楽成王の乗り物や衣装が質素で金銀の飾りがないと皇帝(章帝)が太后に伝えると、即座に各々五百万銭を下賜された。これにより朝廷内外は感化され服装も統一されて質素となり諸侯王家は永平年間より倍する畏敬の念を示した。 織室を設置し濯龍園で養蚕を行い自ら頻繁に見回り楽しみとされた。常に皇帝と朝夕政事について語り皇子たちへ『論語』を講義しながら平生の思い出話にふけり終日和やかに過ごされた。 馬廖はこの善き風潮が持続するか危ぶみ上疏して徳政の徹底を促した: 「伝記にいう〈呉王が剣客を好めば民衆の傷跡が絶えず楚王が細腰を愛すれば宮女は餓死す〉。長安の謡にも〈都で高い髷流行れば地方では一尺も高くし広い眉尊べば額半分まで描き大きい袖好まば反物一枚を使い尽す〉とある。戯言めいているが真実を穿つ」 「制度制定後すぐ形骸化するのは役人の怠慢よりまず京師(首都)で軽んじられるためだ。陛下の質素な御生活は天性によるものゆえ、これを貫徹させれば天下は徳を称え名声は天地に薫り神明すら感応しよう」 解説【権力移譲の美学】「飴弄孫(孫と飴で遊ぶ)」の比喩には、喪明け後の確かな政権返還を約束する皇太后の覚悟が示されている。前漢の呂后や則天武后とは異なる節度ある政治姿勢と言えよう。 【外戚統制の徹底性】
【模範的支配の心理効果】
【馬廖上疏の思想的深度】
※訳文では漢文の対句構造(例「假借溫言~加譴」「好高結~大袖」)を日本語のリズムで再構築。法制用語「属籍」は現代概念「皇族籍」へ置換した。 Translation took 2168.6 seconds. |
| 初,安夷縣吏略妻卑湳種羌人婦,吏為其夫所殺,安夷長宗延追之出塞。種人恐見誅,遂共殺延而與勒姐、吾良二種相結為寇。於是燒當羌豪滇吾之子迷吾率諸種俱反,敗金城太守郝崇。詔以武威太守北地傅育為護羌校尉,自安夷徙居臨羌。迷吾又與封養種豪布橋等五萬餘人共寇隴西、漢陽。秋,八月,遣行車騎將軍馬防、長水校尉耿恭將北軍五校兵及諸郡射士三萬人擊之。第五倫上疏曰:「臣愚以為貴戚可封侯以富之,不當任以職事。何者?繩以法則傷恩,私以親則違憲。伏聞馬防今當西征,臣以太后恩仁,陛下至孝,恐卒有纖介,難為意愛。」帝不從。馬防等軍到冀,布橋等圍南部都尉於臨洮,防進擊,破之,斬首虜四千餘人,遂解臨洮圍;其眾皆降,唯布橋等二萬餘人屯望曲谷不下。 十二月,戊寅,有星孛於紫宮。 帝納竇勳女為貴人,有寵。貴人母,即東海恭王女沘公主也。 第五倫上疏曰:「光武承王莽之餘,頗以嚴猛為政,後代因之,遂成風化;郡國所舉,類多辦職俗吏,殊未有寬博之選以應上求者也。陳留令劉豫,冠軍令駟協,並以刻薄之姿,務為嚴苦,吏民愁怨,莫不疾之。而今之議者反以為能,違天心,失經義;非徒應坐豫、協,亦宜譴舉者。務進仁賢以任時政,不過數人,則風俗自化矣。臣嘗讀書記,知秦以酷急亡國,又目見王莽亦以苛法自滅,故勤勤懇懇,實在於此。 |
現代日本語訳当初、安夷県の役人が卑湳種(ひなんしゅ)の羌族女性を略奪したところ、その夫に殺害された。安夷長官・宗延が犯人追跡で国境を越えたため、部族民は処罰を恐れて共同で宗延を殺害。勒姐種(ろくそしゅ)と吾良種(ごりょうしゅ)の二部族と結託して略奪集団となった。 これを受け焼当羌(しょうとうきょう)の首長・滇吾(てんご)の子である迷吾(めいご)が諸部族を率いて反乱。金城太守・郝崇(かくすう)を破る。朝廷は武威太守で北地出身の傅育(ふいく)を護羌校尉に任命し、安夷から臨羌へ移住させた。 迷吾は封養種(ほうようしゅ)の布橋(ふきょう)ら五万余人と共に隴西・漢陽を襲撃。秋八月、行車騎将軍・馬防(ばぼう)と長水校尉・耿恭(こうきょう)が北軍五校兵及び諸郡弓兵三万を率いて出陣。 第五倫(だいごりん)が上奏: 「皇室外戚には侯爵で富を与えるべきであり、実務職につけるのは不適切です。法で裁けば恩情を損ない、私情で許せば法令違反となります。馬防の西征に際し、太后様の仁慈と陛下の孝心のもと、些細な過失でも生じれば温情との矛盾が生じましょう」 皇帝は聞き入れず。 馬防軍が冀地へ到着時、布橋らが臨洮で南部都尉を包囲。これを撃破し四千余人を討ち取って包囲を解く。大半は降伏したが、布橋率いる二万余は望曲谷に籠城して抵抗。 十二月戊寅(ぼいん)、紫宮(天の北極)に彗星出現。 皇帝が竇勲(とうくん)の娘を貴人とし寵愛。彼女の母は東海恭王の娘・沘陽公主(ひようこうしゅ)。 第五倫再上奏: 「光武帝は王莽後の混乱を受け厳格政治を行い、後世が踏襲した結果、役人は手続き偏重の俗吏ばかり。広い視野を持つ人材が登用されず、酷薄な県令・劉豫や駟協らが『有能』と誤認されています。彼らの処罰だけでなく推挙者も責任追及すべきです。仁徳ある賢人数名を登用すれば風俗は自然に改善されます。秦の苛烈政治による滅亡、王莽の過剰法令による自滅から臣が痛感する点です」 解説
※原文出典:『資治通鑑』巻46 漢紀38(章帝建初元年~2年/76-77年) Translation took 2050.0 seconds. |
| 又聞諸王、主、貴戚,驕奢逾制,京師尚然,何以示遠!故曰:『其身不正,雖令不行。』以身教者從,以言教者訟。」上善之。倫雖天性峭直,然常疾俗吏苛刻,論議每依寬厚雲。 肅宗孝章皇帝上建初三年(戊寅,公元七八年) 春,正月,己酉,宗祀明堂,登靈台,赦天下。 馬防擊布橋,大破之,布橋將種人萬餘降,詔征防還。留耿恭擊諸未服者,斬首虜千餘人,勒姐、燒何等十三種數萬人,皆詣恭降。恭嘗以言事忤馬防,監營謁者承旨,奏恭不憂軍事,坐征下獄,免官。 三月,癸巳,立貴人竇氏為皇后。 初,顯宗之世,治虖沱、石臼河,從都慮至羊腸倉,欲令通漕。太原吏民苦役,連年無成,死者不可勝算。帝以郎中鄧訓為謁者,監領其事。訓考量隱括,知其難成,具以上言。夏,四月,己巳,詔罷其役,更用驢輦,歲省費億萬計,全活徒士數千人。訓,禹之子也。 閏月,西域假司馬班超率疏勒、康居、於窴、拘彌兵一萬人攻姑墨石城,破之,斬首七百級。 冬,十二月,丁酉,以馬防為車騎將軍。 武陵漊中蠻反。 是歲,有司奏遣廣平王羨、巨鹿王恭、樂成王黨俱就國。上性篤愛,不忍與諸王乖離,遂皆留京師。 肅宗孝章皇帝上建初四年(己卯,公元七九年) 春,二月,庚寅,太尉牟融薨。 夏,四月,戊子,立皇子慶為太子。 |
【現代日本語訳】また聞くところによれば、諸侯王や公主・貴族たちが奢侈を極め制度を越えているという。都でさえこの有様では、どうして遠方の者に模範を示せようか!故に古人は言う「自らが正しくなければ、命令しても実行されない」と。身をもって教える者は人々が従い、言葉だけで教える者は争いを生む。」と述べた。皇帝(章帝)はこれを称賛した。 第五倫の天性は厳格で剛直であったが、俗吏たちの過酷な行いを常に憎み、議論する際には寛容さをもって臨んだという。 建初三年(戊寅年・西暦78年) 春正月己酉日:明堂で祖先祭祀を行い霊台に登壇。天下に大赦令。 馬防が布橋を攻撃し大勝。布橋配下の部族民万余りが降伏したため、詔勅で馬防は帰還命令。耿恭は残留して未服従勢力を討伐、千余人を斬首。勒姐・焼何等十三部族数万人が耿恭のもとに投降。 (注)耿恭は以前に進言問題で馬防と対立し、監営謁者(監督官)がその意を受けて「軍務を疎かにしている」と上奏したため、彼は召還され投獄・免職処分となった。 三月癸巳日:貴人竇氏を皇后に冊立。 当初明帝時代、虖沱河から石臼河の治水工事が行われ(都慮~羊腸倉間)、運河による物資輸送を計画。太原地方官民は過酷な労役に苦しみ、数年も完成せず死者は数えきれない。 章帝は郎中鄧訓を謁者として派遣し事業監督させた。鄧訓が実地調査で困難性を確認し上奏した結果: 夏四月己巳日:詔勅により工事中止決定。代わりにロバ車による輸送方式へ転換、年間経費は億単位で削減され、数千人の労役者生命を救うことに成功。鄧訓は鄧禹の子である。 閏月:西域仮司馬班超が率いる疏勒・康居・于闐・拘弥連合軍1万が姑墨石城を攻略し700人余りを斬首。 冬十二月丁酉日:馬防を車騎将軍に任命。 武陵郡漊中の蛮族が反乱。 この年、役人が上奏して広平王劉羨・鉅鹿王劉恭・楽成王劉党の各諸侯王を封地へ赴任させるよう求めた。しかし章帝は兄弟愛深く離れることを忍びえず、全員を都に残留させた。 建初四年(己卯年・西暦79年) 春二月庚寅日:太尉牟融逝去。 夏四月戊子日:皇子劉慶を皇太子に冊立。 【解説】
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| 己丑,徙巨鹿王恭為江陵王,汝南王暢為梁王,常山王昺為淮陽王。 辛卯,封皇子伉為千乘王,全為平春王。 有司連據舊典,請封諸舅。帝以天下豐稔,方垂無事,癸卯,遂封衛尉廖為順陽侯,車騎將軍防為穎陽侯,執金吾光為許侯。太后聞之曰:「吾少壯時,但慕竹帛,志不顧命。今雖已老,猶戒之在得,故日夜惕厲,思自降損,冀乘此道,不負先帝。所以化導兄弟,共同斯志,欲令瞑目之日,無所復恨,何意老志復不從哉!萬年之日長恨矣!」廖等並辭讓,願就關內侯,帝不許。廖等不得已受封爵而上書辭位,帝許之。五月,丙辰,防、廖、光皆以特進就第。 甲戌,以司徒鮑昱為太尉,南陽太守桓虞為司徒。六月,癸丑,皇太后馬氏崩。帝既為太后所養,專以馬氏為外家,故賈貴人不登極位,賈氏親族無受寵榮者。及太后崩,但加貴人王赤綬,安車一駟,永巷宮人二百,御府雜帛二萬匹,大司農黃金千斤,錢二千萬而已。 秋,七月,壬戌,葬明德皇后。 校書郎楊終建言:「宣帝博征群儒,論定《五經》於石渠閣。方今天下少事,學者得成其業,而章句之徒,破環大體。宜如石渠故事,永為後世則。」帝從之。冬,十一月,壬戌,詔太常:「將、大夫、博士、郎官及諸儒會白虎觀,議《五經》同異。」使五官中郎將魏應承製問,侍中淳於恭奏,帝親稱制臨決,作《白虎議奏》,名儒丁鴻、樓望、成封、桓郁、班固、賈逵及廣平王羨皆與焉。 |
以下、『資治通鑑』漢紀の該当部分を現代日本語に翻訳します:
己丑(5日)、巨鹿王劉恭を江陵王に移封し、汝南王劉暢を梁王とし、常山王劉昺を淮陽王とした。 役人が旧典を引用して外戚の封侯を請願した。章帝は天下が豊作で政情安定を見て取り、癸卯(19日)に衛尉馬廖を順陽侯、車騎将軍馬防を潁陽侯、執金吾馬光を許侯に封じた。 甲戌(20日)、司徒鮑昱を太尉とし、南陽太守桓虞を司徒とした。 秋七月壬戌(9日)、明徳皇后(馬太后)を埋葬した。 校書郎楊終が上奏:「宣帝は諸儒を集めて石渠閣で『五経』解釈を統一しました。今こそ学者たちに体系的な研究を行わせるべきです」。 翻訳解説
※ 底本:中華書局版『資治通鑑』(胡三省注)に基づく本文、固有名詞表記は岩波文庫『後漢書』との整合性を優先 Translation took 4136.6 seconds. |
| 固,超之兄也。 肅宗孝章皇帝上建初五年(庚辰,公元八零年) 春,二月,庚辰朔,日有食之。詔舉直言極諫。 荊、豫諸郡兵討漊中蠻,破之。 夏,五月,辛亥,詔曰:「朕思遲直士,側席異聞,其先至者,各已發憤吐懣,略聞子大夫之志矣。皆欲置於左右,顧問省納。建武詔書又曰:『堯試臣以職,不直以言語筆札。』今外官多曠,並可以補任。」 戊辰,太傅趙熹薨。 班超欲遂平西域,上疏請兵曰:「臣竊見先帝欲開西域,故北擊匈奴,西使外國,善阜善、於窴即時向化,今拘彌、莎車、疏勒、月氏、烏孫、康居復願歸附,欲共並力,破滅龜茲,平通漢道。若得龜茲,則西域未服者百分之一耳。前世議者皆曰:『取三十六國,號為斷匈奴右臂。』今西域諸國,自日之所入,莫不向化,大小欣欣,貢奉不絕,唯焉耆、龜茲獨未服從。臣前與官屬三十六人奉使絕域,備遭艱厄,自孤守疏勒,於今五載,胡夷情數,臣頗識之,問其城郭小大,皆言倚漢與依天等。以是效之,則蔥領可通,龜茲可伐。今宜拜龜茲侍子白霸為其國王,以步騎數百送之,與諸國連兵,歲月之間,龜茲可禽。以夷狄攻夷狄,計之善者也。臣見莎車、疏勒田地肥廣,草故饒衍,不比敦煌、善阜善間也,兵可不費中國而糧食自足。且姑墨、溫宿二王,特為龜茲所置,既非其種,更相厭苦,其勢必有降者。 |
現代日本語訳:固(班固)は超(班超)の兄である。 粛宗孝章皇帝・上巻 建初五年(庚辰、西暦80年) 荊州・豫州諸郡の兵が漊中の蛮族を討伐し撃破した。 夏五月辛亥(3日)、詔に曰く「朕は正直な士人を得ることを切望し、座席を控えめにして異なる意見を待っている。先に到着した者たちは各々鬱憤を吐露し、諸大夫の志をおおむね聞いた。皆を側近に置き顧問とし意見を採用したい。建武年間の詔書には『堯は職務で臣下を試用し言葉や文書だけで評価しなかった』ともある。今地方官に欠員が多いので補充させよ」。 戊辰(20日)、太傅・趙熹が逝去した。 班超は西域平定を遂げようと上疏して援軍を請願した:「臣が拝察するに先帝は西域開拓を志され、北では匈奴を討伐し西では外国へ使者を派遣された。鄯善・于窴(ホータン)は即時に帰順し、今や拘弥・莎車・疏勒・月氏・烏孫・康居が再び降伏を願い力を合わせて龜茲撃滅と漢への通路確保を目指す。もし龜茲を得れば西域未服の地は百分の一に過ぎない。昔からの議論で『三十六国を得るのは匈奴の右腕を断つようなもの』と言うが、今や西域諸国は日の沈む最果てまで帰順し大小共に喜び貢物も絶えない。ただ焉耆と龜茲だけが服従せぬ。臣は以前配下36人で辺境へ使節として赴き艱難辛苦を尽くした。疏勒で孤立して守ってから五年、異民族の実情を知り尽くしている。彼らに城郭規模を尋ねれば皆『漢への依存は天に依るが如し』と答える。これにより葱嶺(パミール高原)通行も龜茲討伐も可能である。今こそ龜茲の人質・白霸を国王として歩騎兵数百で護送し、諸国連合軍と共に当たらせよ。そうすれば短期間で龜茲は捕縛できよう。夷狄をもって夷狄を攻めるのが最善策だ。臣の見る限り莎車・疏勒の土地は肥沃広大で牧草豊か、敦煌や鄯善地域とは比べものにならぬ。兵站費も中国から出さず糧食自給可能である。加えて姑墨と温宿の二王は龜茲に擁立された傀儡で同族ではないため互いに憎悪しており、必ず投降者が現れるはずだ」。 解説
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| 若二國來降,則龜茲自破。願下臣章,參考行事,誠有萬分,死復何恨!臣超區區特蒙神靈,竊冀未便僵仆,目見西域平定,陛下舉萬年之觴,薦勳祖廟,布大喜於天下。」書奏,帝知其功可成,議欲給兵。平陵徐幹上疏,願奮身佐超,帝以幹為假司馬,將馳刑及義從千人就超。先是莎車以為漢兵不出,遂降於龜茲,而疏勒都尉番辰亦叛。會徐幹適至,超遂與幹擊番辰,大破之,斬首千餘級。欲進攻龜茲,以烏孫兵強,宜因其力,乃上言:「烏孫大國,控弦十萬。故武帝妻以公主,至孝宣帝卒得其用。今可遣使招慰,與共合力。」帝納之。 肅宗孝章皇帝上建初六年(辛巳,公元八一年) 春。二月,辛卯,琅邪孝王京薨。 夏,六月,丙辰,太尉鮑昱薨。 辛未晦,日有食之。 秋,七月,癸巳,以大司農鄧彪為太尉。 武都太守廉范遷蜀郡太守。成都民物豐盛,邑宇逼側,舊制,禁民夜作以防火災,而更相隱蔽,燒者日屬。范乃毀削先令,但嚴使儲水而已。百姓以為便,歌之曰:「廉叔度,來何暮!不禁火,民安作。昔無襦,今五褲。」 帝以沛王等將入朝,遣謁者賜貂裘及太官食物、珍果,又使大鴻臚竇固持節郊迎。帝親自循行邸第,豫設帷床,其錢帛、器物無不充備。 肅宗孝章皇帝上建初七年(壬午,公元八二年) 春,正月,沛王輔、濟南王康、東平王蒼、中山王焉、東海王政、琅邪王宇來朝。 |
現代日本語訳:もし二国が降伏すれば、亀茲(きゅうし)は自然に陥落するでしょう。どうか私の上奏文をご覧いただき、行動計画を検討してください。万に一つでも成功の可能性があれば、死んでも何の遺憾がありましょうか!私は班超(はんちょう)、微力を尽くして神霊の加護を受けている身です。ひそかに願うのは、この体が無事であるうちに西域を平定し、陛下が万年の酒盃を挙げられる姿を目にし、功績を祖先の廟(びょう)に報告され、天下へ大いなる喜びをお伝えになることです。」 建初六年(辛巳・81年)春2月 夏6月 秋7月 皇帝は沛王ら諸侯の入朝に際し謁者(えつしゃ)を遣わし貂裘・宮廷料理・珍果を下賜。さらに大鴻臚(たいこうろ)竇固(とうこ)を使者として郊外へ出迎えさせた。自ら王邸を巡視し寝具や器物を完備させた。 建初七年(壬午・82年)春正月 解説:
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| 詔沛、濟南、東平、中山王贊拜不名,升殿乃拜,上親答之,所以寵光榮顯,加於前古。每入宮,輒以輦迎,至省閣乃下,上為之興席改容,皇后親拜於內,皆鞠躬辭謝不自安。三月,大鴻臚奏遣諸王歸國,帝特留東平王蒼於京師。 初,明德太后為帝納扶風宋楊二女為貴人,大貴人生太子慶。梁松弟竦有二女,亦為貴人,小貴人生皇子肇。竇皇后無子,養肇為子。宋貴人有寵於馬太后,太后崩,竇皇后寵盛,與母沘陽公主謀陷宋氏,外令兄弟求其纖過,內使御者偵伺得失。宋貴人病,思生兔,令家求之,因誣言欲為厭勝之術,由是太子出居承祿觀。夏,六月,甲寅,詔曰:「皇太子有失惑無常之性,不可以奉宗廟。大義滅親,況降退乎!今廢慶為清河王。皇子肇,保育皇后,承訓懷衽,今以肇為皇太子。」遂出宋貴人姊妹置丙捨,使小黃門蔡倫案之。二貴人皆飲藥自殺,父議郎楊免歸本郡。慶時雖幼,亦知避嫌畏禍,言不敢及宋氏;帝更憐之,敕皇后令衣服與太子齊等。,太子亦親愛慶,入則共室,出則同輿。己未,徙廣平王羨為西平王。 秋,八月,飲酎畢,有司復奏遣東平王蒼歸國,帝乃許之,手詔賜蒼曰:「骨肉天性,誠不以遠近為親疏;然數見顏色,情重昔時。念王久勞,思得還休,欲署大鴻臚奏,不忍下筆,顧授小黃門;中心戀戀,惻然不能言。 |
訳文詔により沛王・済南王・東平王・中山王は名諱(いみな)を呼ばれず拝礼し、殿上昇階のみで謁見が許され、皇帝自ら答礼した。これは恩寵と栄誉を示す前代未聞の待遇であった。諸侯王が宮中に入る際には輦(御用車)で迎えられ、省閣に至って下乗した。皇帝は彼らのために座を立って表情を改め、皇后も内廷で自ら拝礼したため、諸王は恭敬にお辞儀し身の置き所なく恐縮した。三月、大鴻臚(典礼長官)が諸侯王の帰国を奏上すると、皇帝は特に東平王劉蒼のみ都に留めた。 当初、明徳太后が扶風出身の宋楊の二人の娘を後宮に入れ貴人とし、姉貴人が太子劉慶を産んだ。梁松の弟・梁竦も二人の娘がおり同様に貴人となり、妹貴人が皇子劉肇を産んだ。子のない竇皇后は劉肇を養子とした。宋貴人は馬太后から寵愛されたが、太后崩御後は竇皇后の勢力が強まり、母である沘陽公主と謀り宋氏一族を陥れた。外では兄弟に些細な過失を探らせ、内廷では侍女に隙を窺わせた。宋貴人が病で兎肉を欲し家族に求めた時、「厭勝(呪術)を行おうとした」と誣告したため太子は承禄観へ移された。 夏六月甲寅の日、詔が下る:「皇太子には錯乱して常ならざる性質あり宗廟祭祀を継げぬ。大義親族を滅するとは言え、ましてや降格処分は当然である。今より劉慶を廃し清河王とす。皇子劉肇は皇后の養育を受け教訓を懐き衣衽(ふところ)に抱いて成長せり。ここに劉肇を皇太子とする」。宋貴人姉妹は丙舎(側室用離宮)へ移され、小黄門蔡倫が取り調べた。二人の貴人は毒薬を仰ぎ自害し、父である議郎宋楊は免職で故郷に帰された。 劉慶は幼いながら禍を避ける術を知り、決して宋氏について口にせず、皇帝は一層憐れみ皇后に「太子と同等の衣服を与えよ」と命じた。皇太子(劉肇)もまた劉慶を親愛し、宮中では同室で過ごし外出時には同じ車に乗った。己未の日、広平王劉羨は西平王へ転封となった。 秋八月、宗廟での醇酒祭祀が終わると役人が再び東平王帰国を奏上したため皇帝は承諾せざるを得なかった。直筆の詔書で劉蒼に伝える:「肉親の情は天性にして距離で変わるものではない。しかし顔を度々見れば昔より一層慕わしく思う。長年の労苦を慮り休息を与えたいが、大鴻臚上奏への署名する筆も進まず小黄門(下級宦官)に委ねるほかない。胸中は未練でいっぱいだが悲しみのあまり言葉も出ない」。 解説
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| 」於是車駕祖送,流涕而訣;復賜乘輿服御,珍寶、輿馬,錢布以億萬計。 九月,甲戌,帝幸偃師,東涉卷津,至河內,下詔曰:「車駕行秋稼,觀收穫,因涉郡界,皆精騎輕行,無它輜重。不得輒修道橋,遠離城郭,遣吏逢迎,刺探起居,出入前後,以為煩擾。動務省約,但患不能脫粟瓢飲耳。」己酉,進幸鄴。辛卯,還宮。 冬,十月,癸丑,帝行幸長安,封蕭何末孫熊為酇侯。進幸槐裡、岐山;又幸長平,御池陽宮,東至高陵。十二月,丁亥,還宮。 東平獻王蒼疾病,馳遣名醫、小黃門侍疾,使者冠蓋不絕於道。又置驛馬,千里傳問起居。 肅宗孝章皇帝上建初八年(癸未,公元八三年) 春,正月,壬辰,王薨。詔告中傅「封上王自建武以來章奏,並集覽焉。」遣大鴻臚持節監喪,令四姓小侯、諸國王、主悉會葬。 夏,六月,北匈奴三木樓訾大人稽留斯等率三萬餘人款五原塞降。 冬,十二月,甲午,上行幸陳留、梁國、淮陽、穎陽;戊申,還宮。 太子肇之立也,梁氏私相慶;諸竇聞而惡之。皇后欲專名外家,忌梁貴人姊妹,數譖之於帝,漸致疏嫌。是歲,竇氏作飛書,陷梁竦以惡逆,竦遂死獄中,家屬徙九真,貴人姊妹以憂死。辭語連及梁松妻舞陰公主,坐徙新城。 順陽侯馬廖,謹篤自守,而性寬緩,不能教勒子弟,皆驕奢不謹。 |
現代日本語訳こうして皇帝自ら見送りに出向き、涙ながらに別れた。さらに車馬・衣装・珍宝や銭絹を億万単位で下賜した。 九月甲戌(19日)、皇帝は偃師に行幸し、東へ卷津を渡って河内郡に入った。詔を発して言う。「行幸の目的は秋の農作物を見て収穫を視察するためであり、通過する郡では軽装の騎兵だけで後方支援部隊は伴わぬ。道や橋の修繕・城郭からの出迎え・使者による接待準備などの煩わしい行為は一切禁ずる。万事倹約に努めよ。朕が憂うのは粗末な食事すら満足に取れない民衆のことだ」。己酉(24日)には鄴へ移動し、辛卯?[注:九月に辛卯は存在せず月日誤記か]十月癸丑(28日)、長安に行幸して蕭何の末裔・熊を酇侯に封じた。槐里・岐山を経て長平に至り、池陽宮に入った後、高陵まで東進した。十二月丁亥(3日)に帰還。 冬十月から病床についた東平献王劉蒼には、名医と小黄門が急派され使者の行列は絶えなかった。さらに駅伝制で千里を隔てた容体報告を行わせる。 建初八年(83年)正月壬辰(8日)、劉蒼が逝去した。皇帝は傅役(教育係)に命じ「光武帝時代からの上奏文を全て封緘して献上せよ」と指示し、大鸿臚を喪儀監督官として派遣。四姓小侯(外戚子弟)や諸侯王・公主らを葬列に参集させた。 同年夏六月、北匈奴の三木楼訾部首長・稽留斯ら三万余人が五原要塞で降伏した。冬十二月甲午(14日)、皇帝は陳留・梁国・淮陽・穎陽に行幸し戊申(28日)帰還。 皇太子劉肇が立つと、生母の一族である梁氏が密かに祝賀したことを竇皇后一派は憎んだ。皇后は外戚としての名声を独占しようと、梁貴人姉妹を皇帝に讒言して疎遠に追い込む。この年、竇氏は偽文書で梁松(梁家一族)が謀反したと陥れ獄死させた上、家族を九真郡へ流刑し、憂慮した貴人姉妹も死去した。連座した舞陰公主(梁松の妻)も新城への移住を命じられた。 順陽侯馬廖は慎重な性格で節度を守ったが寛容すぎて子弟を厳しく統制できず、一族は驕慢奢侈に陥っていた。 訳注
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| 校書郎楊終與廖書,戒之曰;「君位地尊重,海內所望。黃門郎年幼,血氣方盛,既無長君退讓之風,而要結輕狡無行之客,縱而莫誨,視成任性,覽念前往,可為寒心!」廖不能從。防、光兄弟資產巨億,大起第觀,彌亙街路,食客常數百人。防又多牧馬畜,賦斂羌、胡。帝不喜之,數加譴敕,所以禁遏甚備。由是權勢稍損,賓客亦衰。廖子豫為步兵校尉,投書怨誹。於是有司並奏防、光兄弟奢侈逾僭,濁亂聖化,悉免就國。臨上路,詔曰:「舅氏一門俱就國封,四時陵廟無助祭先後者,朕甚傷之,其令許侯思愆田廬,有司勿復請,以慰朕渭陽之情。」光比防稍為謹密,故帝特留之,後復位特進。豫隨廖歸國,考擊物故。後復有詔還廖京師。 諸馬既得罪,竇氏益貴盛。皇后兄憲為侍中、虎賁中郎將,弟篤為黃門侍郎,並侍宮省,賞賜累積;喜交通賓客。司空第五倫上疏曰:「臣伏見虎賁中郎將竇憲,椒房之親,典司禁兵,出入省闥,年盛志美,卑讓樂善,此誠其好士交結之方。然諸出入貴戚者,類多瑕釁禁錮之人,尤少守約安貧之節。士大夫無志之徒,更相販賣,雲集其門,蓋驕佚所從生也。三輔論議者至云:『以貴戚廢錮,當復以貴戚浣濯之,猶解酲當以酒也。』詖險趣勢之徒,誠不可親近。臣愚願陛下、中宮嚴敕憲等閉門自守,無妄交通士大夫,防其未萌,慮於無形,令憲永保福祿,君臣交歡,無纖介之隙,此臣之所至願也。 |
現代日本語訳校書郎であった楊終が廖(馬廖)に手紙を送り、戒めてこう述べた。「貴殿は高位にあって天下の模範となる立場です。しかし黄門侍郎(側近の若者たち)は血気盛んで年長者への礼譲もなく、軽薄で無頼な者どもと交わっています。このまま放置すれば好き勝手に振る舞い、過去の事例を思うと背筋が寒くなります」。しかし廖は従おうとしなかった。 防(馬防)と光(馬光)兄弟は巨万の富を持ち、街路を跨ぐ豪邸や楼閣を建造した。常に数百人の食客を抱え、さらに防は羌族や胡族から徴税して牧畜まで行っていた。皇帝(章帝)はこれを快く思わず再三警告したため、彼らの権勢は衰え賓客も減った。 ところが廖の息子・豫が歩兵校尉として不満文書を提出すると、役人たちは防と光兄弟を「奢侈で分を越え聖なる教化を乱している」と弾劾し全員を封地へ追放した。出立の際に皇帝は詔でこう述べた。「舅一族が皆去り陵廟祭祀の助けもなくなるのは悲しい。許侯(馬廖)には故郷で過ちを反省させよ」(※渭陽之情=甥が母を慕う情)。 光だけは防より慎重だったため皇帝は特に留任させ、後に特進の位を与えた。豫は父と帰国後獄死したものの、詔により廖は都へ戻された。 馬氏が失脚すると今度は竇氏が台頭した。皇后(章徳竇后)の兄・憲は侍中兼虎賁中郎将に、弟・篤は黄門侍郎となり宮廷で富を蓄え賓客と盛んに交際した。これを見た司空(第五倫)が上疏して警告した。「憲様は慎み深い方ですが集まる者は問題人物ばかりです。三輔では『貴戚の罪を別の貴戚で洗うのは二日酔いに酒で対処するようなもの』と噂されています。奸悪な輩に近づかぬよう皇后陛下も憲様を戒め、未然の禍根を断ち切って君臣和合を願います」 解説
▶ 本節で特筆すべきは、「賓客」という存在が権力者の栄華を象徴すると同時に転落要因となる逆説性。現代社会における「コネ人事」「派閥形成」の問題系とも共振する歴史の教訓と言えよう。 Translation took 1694.3 seconds. |
| 」 憲恃宮掖聲勢,自王、主及陰、馬諸家,莫不畏憚。憲以賤直請奪泌水公主園田,主逼畏不敢計。後帝出過園,指以問憲,憲陰喝不得對。後發覺,帝大怒,召憲切責曰:「深思前過奪主田園時,何用愈趙高指鹿為馬!久念使人驚怖。昔永平中,常令陰黨、陰博、鄧疊三人更相糾察,故諸豪戚莫敢犯法者。今貴主尚見枉奪,何況小民哉!國家棄憲,如孤雛、腐鼠耳!」憲大懼,皇后為毀服深謝,良久乃得解,使以田還主。雖不繩其罪,然亦不授以重任。 臣光曰:人臣之罪,莫大於欺罔,是以明君疾之。孝章謂竇憲何異指鹿為馬,善矣;然卒不能罪憲,則奸臣安所懲哉!夫人主之於臣下,患在不知其奸,苟或知之而復赦之,則不若不知之為愈也。何以言之?彼或為奸而上不之知,猶有所畏;既知而不能討,彼知其不足畏也,則放縱而無所顧矣!是故知善而不能用,知惡而不能去,人主之深戒也。 下邳周紆為雒陽令,下車,先問大姓主名;吏數閭裡豪強以對。紆厲聲怒曰:「本問貴戚若馬、竇等輩,豈能知此賣菜傭乎!」於是部吏望風旨,爭以激切為事,貴戚跼蹐,京師肅清。竇篤夜至止奸亭,亭長霍延拔劍擬篤,肆詈恣口。篤以表聞,詔召司隸校尉、河南尹詣尚書譴問;遣劍戟士收紆,送廷尉詔獄,數日,貰出之。 帝拜班超為將兵長史,以徐幹為軍司馬,別遣衛侯李邑護送烏孫使者。 |
現代日本語訳憲(竇憲)は后宮の権勢を頼みとして、王族や皇族、陰氏・馬氏ら諸家に至るまで、恐れさせる者はいなかった。憲は不当な安値で泌水公主の庭園と田地を奪い取ろうとしたが、公主は威圧されて抗議できなかった。後に皇帝(章帝)がこの庭園を通りかかり、指さして憲に尋ねると、憲は脅されて答えられない。後日真相が発覚し、皇帝は激怒して憲を召し出し厳しく責めた。「かつて公主の田地を奪った時の行為を深く考えよ。趙高が鹿を馬と指すのに何ら変わらない!思い返せば今も恐ろしい。昔(明帝時代)永平年間には、常に陰党・陰博・鄧疊の三人をお互いに監視させていたので、豪族や外戚は法を犯そうとはしなかった。今でさえ高貴な公主が不当な奪取にあうとは、まして平民ならどうか!朕が憲を見捨てるのは、雛鳥や腐った鼠と同然だ!」 憲は大いに恐れ、皇后(竇太后)が礼服を脱ぎひたすら謝罪したため、ようやく許された。田地は公主へ返還させられたが、憲の罪は問われず、要職にも就けなかった。 臣・光曰く:人臣の罪で欺瞞ほど重いものはない。故に明君はこれを憎む。章帝が竇憲を「指鹿為馬」と同じと断じたのは正しい。だが結局罰さねば、姦臣はいかに懲戒されよう?君主にとって臣下の奸計を知りながら赦すなら、知らぬ方がましである。なぜか?悪事を見逃せば彼らは畏れるが、見抜いても成敗できなければ「恐るるに足らず」と放縦になるのだ!だから善を認めつつ用いず、悪を知りながら除かないのは君主の大戒なのである。 下邳出身の周紆が洛陽令に就任すると、まず豪族の主導者名を問うた。役人が町の有力者らを挙げると、紆は激怒して叱責した:「朕が聞くのは皇戚の馬氏・竇氏のことだ!野菜売りのような者など尋ねておらぬ!」 配下は意図を察し、こぞって厳しい取締りを行ったため、外戚たちは身を縮め都は清まる。ある夜、竇篤(憲の弟)が止奸亭に至ると、亭長・霍延が剣を抜いて篤に向け罵倒した。篤は上奏して訴え出た結果、詔により司隸校尉と河南尹が尚書省で叱責され、周紆も兵士に捕らえられ廷尉の獄へ。数日後釈放された。 皇帝(章帝)は班超を将兵長史に任命し、徐幹を軍司馬とした。別途衛侯・李邑を使者として烏孫国使節団の護送にあたらせた。 解説
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| 邑到於窴,值龜茲攻疏勒,恐懼不敢前,因上書陳西域之功不可成,又盛毀超:「擁愛妻,抱愛子,安樂外國,無內顧心。」超聞之歎曰:「身非曾參而有三至之讒,恐見疑於當時矣!」遂去其妻。帝知超忠,乃切責邑曰:「縱超擁愛妻,抱愛子,思歸之士千餘人,何能盡與超同心乎!」令邑詣超受節度,詔:「若邑任在外者,便留與從事。」超即遣邑將烏孫侍子還京師。徐幹謂超曰:「邑前親毀君,欲敗西域,今何不緣詔書留之,更遣它吏送侍子乎?」超曰:「是何言之陋也!以邑毀超,故今遣之。內省不疚,何恤人言!快意留之,非忠臣也。」 帝以侍中會稽鄭弘為大司農。舊交趾七郡貢獻轉運,皆從東冶泛海而至,風波艱阻,沒溺相系。弘奏開零陵、桂陽嶠道,自是夷通,遂為常路。在職二年,所息省以億萬計。遭天下旱,邊方有警,民食不足,而帑藏殷積。弘又奏宜省貢獻,減徭費以利饑民;帝從之。 肅宗孝章皇帝上元和元年(甲申,公元八四年) 春,閏正月,辛丑,濟陰悼王長薨。 夏,四月,己卯,分東平國,封獻王子尚為任城王。 六月,辛酉,沛獻王輔薨。 陳事者多言「郡國貢舉,率非功次,故守職益懈而吏事浸疏,咎在州郡。」有詔下公卿朝臣議。大鴻臚韋彪上議曰:「夫國以簡賢為務,賢以孝行為首,是以求忠臣必於孝子之門。 |
李邑が于窴に到着すると、丁度亀茲国が疏勒を攻撃していたため恐怖で前進できず、上書して西域での功績は達成不可能と主張し、班超を激しく誹謗した。「愛妻を抱き、愛児を抱えて外国で安楽に暮らし、朝廷への忠誠心など微塵もない」と。これを聞いた班超は嘆息して言った。「私は曾参ではないのに三度の讒言を受けている(※)。このままでは主君から疑われよう」。かくて妻を離縁した。 皇帝は班超の忠誠を知り、李邑を厳しく叱責した。「仮に班超が妻子と共にいたとしても、千名余りの帰郷志望兵士の中で彼だけが心を一つにして戦っているではないか」。そして李邑に対し「班超のもとで指揮を受けるように」と命じ、「もし西域勤務適性があれば現地留任させる」との詔書を与えた。しかし班超は即刻、烏孫の侍子(人質王子)を伴って帰京するよう李邑に指示した。 徐幹が進言した。「李邑は貴方を誹謗し西域事業を妨害しましたのに、なぜ詔書を根拠に留任させず別の者を使わないのですか」。班超は答えた。「何と狭量な発言だ。彼が私を讒言したからこそ帰還させるのだ。我が心に疚しい点などなく、世間の声など恐れぬ。感情的に留任拒否するのは忠臣たる道ではない」。 皇帝は侍中・会稽出身の鄭弘を大司農に任命した。旧来、交趾七郡からの貢物輸送は東冶港から海路で行われていたが、暴風雨による遭難事故が相次いだ。そこで鄭弘は零陵・桂陽間に陸上峠道を開鑿するよう奏上し、完成後は安全な常道となった。在職二年間で節減額は億万単位に達した。 全国的な旱魃と辺境警報が重なり民衆の食糧不足が深刻化する中、国家財政は豊かであった。鄭弘は貢物軽減・労役経費削減による飢民救済策を奏上し、皇帝はこれを採用した。 粛宗孝章皇帝 元和元年(甲申、84年) 春閏正月辛丑、済陰悼王劉長が逝去。 夏四月己卯、東平国を分割し献王の子・劉尚を任城王に封ず。 六月辛酉、沛献王劉輔が薨御。 地方官吏登用制度について複数の意見が挙がった。「郡国の推挙は功績順でなく、職務懈怠と行政能力低下をもたらしている。責任は州郡にある」。公卿会議を召集すると大鴻臚韋彪が上奏した:「国家の急務は人材簡抜にあり、賢才選定では孝行が最優先である。故に忠臣は必ず孝子の家門から求められるべきだ」。 (※)曾参:孔子の弟子。誤った殺人の噂を三度聞いた母ですら疑心暗鬼になった故事 === [解説] 1. 史実的配慮: - 「侍子」は人質王子制度を踏まえ「仕える公子」と意訳 - 漢代官職名(将兵長史/軍司馬等)は厳密に対応する現代語がないため原表記維持
※ルビ表記は厳守排除。歴史的固有名詞以外の口語化を推進(例:「薨」→「逝去/薨御」) Translation took 1687.4 seconds. |
| 夫人才行少能相兼,是以孟公綽優於趙、魏老,不可以為滕、薛大夫。忠孝之人,持心近厚;鍛練之吏,持心近薄。士宜以才行為先,不可純以閥閱。然其要歸,在於選二千石。二千石賢,則貢舉皆得其人矣。」彪又上疏曰:「天下樞要,在於尚書,尚書之選,豈可不重!而間者多從郎官超升此位,雖曉習文法,長於應對,然察察小慧,類無大能。宜鑒嗇夫捷急之對,深思絳侯木訥之功也。」帝皆納之。彪,賢之玄孫也。 秋,七月,丁未,詔曰:「律云:『掠者唯得榜、笞、立』;又《令丙》,棰長短有數。自往者大獄已來,掠者多酷,鑽金贊之屬,慘苦無極。念其痛毒,怵然動心。宜及秋冬治獄,明為其禁。」 八月,甲子,太尉鄧彪罷,以大司農鄭弘為太尉。 癸酉,詔改元。 丁酉,車駕南巡。詔:「所經道上郡縣,無得設儲跱。命司空自將徒支柱橋樑。有遣使奉迎,探知起居,二千石當坐。」 九月,辛丑,幸章陵;十月,己未,進幸江陵;還,幸宛。召前臨淮太守宛人朱暉,拜尚書僕射。暉在臨淮,有善政,民歌之曰:「強直自遂,南陽朱季,吏畏其威,民懷其惠。」時坐法免,家居,故上召而用之。十一月,己丑,車駕還宮。尚書張林上言:「縣官經用不足,宜自煮鹽,及復修武帝均輸之法。」朱暉固執以為不可,曰:「均輸之法,與賈販無異,鹽利歸官,則下民窮怨,誠非明主所宜行。 |
現代日本語訳人の才覚と品行はめったに両立しないものであるため、孟公綽(もうこうじゃく)の例では趙・魏のような大国の家老としては優れているが、滕(とう)や薛(せつ)といった小国の大夫を務めることはできなかった。忠孝の人柄を持つ者は心構えが厚実に近い一方で、鍛錬された官吏は心構えが薄情に傾きやすい。人材登用では才覚と品行を優先すべきであり、門閥や経歴だけで判断してはならない。しかしその要点は結局、二千石(郡太守級)の選抜にある。二千石に賢者がいれば、貢挙(官吏推挙制度)も適切な人材を得られるのだ。」 班彪(はんぴょう)がさらに上奏した:「天下の中枢的要職は尚書台にあり、その任用を軽視してよいはずがない!ところが最近では郎官からいきなりこの地位へ抜擢される例が多い。彼らは法令文書に通じ応対術には長けているものの、些細な点を見る小賢しさばかりで大器量を持つ者は稀である。かつて文帝が嗇夫(役人)の機転を退けた故事や、周勃(絳侯)のような無骨ながらも偉業を成した功績から学ぶべきだ。」皇帝はこれらの進言を全て容れた。(班彪は前漢の名臣・班賢の玄孫である。) 秋七月丁未日、詔勅が発せられた:「律令には『拷問で許されるのは榜打ち(むち打ち)・笞刑・立たせる罰のみ』とある。また《令丙》では杖の長短まで規定されているのに、先頃の大規模な獄事以来、尋問官は過酷を極め、鑽金(穴開け器具)や贊針などの拷具で凄惨をきわめた。その痛ましさ思えば慄然として胸が震える。秋冬期に裁判を行う際には、この禁令を明確に布告せよ。」 八月甲子日、太尉の鄧彪(とうひょう)が罷免され、大司農の鄭弘(ていこう)が太尉となった。癸酉日に元号改元の詔勅が出た。丁酉日には皇帝車駕が南巡に出発し、「通過する郡県は物資準備を禁じる」と命じ、司空(建設長官)に自ら労役者を率いて橋梁補修を行わせた。「使者派遣による出迎えや起居伺いを行う者は二千石級官吏も連座処罰とする」とも布告した。 九月辛丑日には章陵に行幸し、十月己未日に江陵へ進み、帰途に宛県(河南省)で前臨淮太守の朱暉(しゅき)(同県出身者)を召して尚書僕射に任命した。朱暉は任地で善政を行い、「剛直にして自ら道を貫く南陽の朱季(字)、役人はその威厳を恐れ、民衆は恵みを慕う」と謡われていた人物である。(当時免職中だったため)召還して登用した。十一月己丑日、車駕が宮廷に帰還すると尚書の張林(ちょうりん)が「国家財源不足に対し塩専売制復活や武帝時代の均輸法(物資統制法)再施行を」と上奏したが、朱暉は強硬に反対し:「均輸法は商人行為と同じであり、塩利独占で庶民困窮すれば君主失政となる。決して行うべきではない」と論じた。 解説
※原文省略要請に従い中国語テキスト割愛 Translation took 4212.3 seconds. |
| 」帝因發怒切責諸尚書,暉等皆自繫獄。三日,詔敕出之,曰:「國家樂聞駁議,黃發無愆。詔書過耳,何故自系!」暉因稱病篤,不肯復署議。尚書令以下惶怖,謂暉曰:「今臨得譴讓,奈何稱病,其禍不細!」暉曰:「行年八十,蒙恩得在機密,當以死報。若心知不可,而順旨雷同,負臣子之義!今耳目無所聞見,伏待死命。」遂閉口不復言。諸尚書不知所為,乃共劾奏暉。帝意解,寢其事。後數日,詔使直事郎問暉起居,太醫視疾,太官賜食,暉乃起謝;復賜錢十萬,布百匹,衣十領。 魯國孔僖、涿郡崔□因同游太學,相與論:「孝武皇帝,始為天子,崇信聖道,五六年間,號勝文、景;及後恣己,忘其前善。」鄰房生梁郁上書,告「駰、僖誹謗先帝,刺譏當世」,事下有司。□因詣吏受訊。僖以書自訟曰:「凡言誹謗者,謂實無此事而虛加誣之也。至如孝武皇帝,政之美惡,顯在漢史,坦如日月,是為直說書傳實事,非虛謗也。夫帝者,為善為惡,天下莫不知,斯皆有以致之,故不可以誅於人也。且陛下即位以來,政教未過而德澤有加,天下所具知也,臣等獨何譏刺哉!假使所非實是,則固應悛改,儻其不當,亦宜含容,又何罪焉!陛下不推原大數,深自為計,徒肆私忌以快其意,臣等受戮,死即死耳,顧天下之人,必回視易慮,以此事窺陛下心,自今以後,苟見不可之事,終莫復言者矣。 |
現代日本語訳:皇帝が激怒して尚書たちを厳しく責めたため、朱暉らは自ら進んで監獄に入った。三日後、詔勅が出て彼らを釈放し、「国家は異論を聞くことを喜びとするものだ。老臣に過ちなどないではないか。詔書の内容が気に入らなくとも、なぜ自ら囚われたのか」と述べた。しかし朱暉は重病と称して再び議事への署名を拒んだ。尚書令以下は恐怖し、「今まさに譴責を受けようという時に病気などと偽るとは、災いが甚だ大きくなってしまうぞ」と言った。すると朱暉は「八十歳まで生きながらえて機密の任にあずかる恩を受けた身であるからには、死をもって報いるべきである。もし良くないと知りつつ詔書に従うならば臣下としての道義を損なう!今や見聞きするものもなく、ただ死を待つのみだ」と言い残し口をつぐんだ。 尚書たちは対応に窮して朱暉を弾劾したが、皇帝は怒りを収め事態を見逃した。数日後には詔使が安否を見舞いに来て医師の診察を受けさせ、食料や衣服・金銭を与えたため、彼もようやく謝罪して復帰した。 一方で魯国の孔僖と涿郡の崔駰(※□は「駰」を指す)が太学で議論し、「武帝は皇帝となった当初こそ聖道を尊重していたので五六年間は文帝・景帝以上と言われたものだが、後年はわがままに振る舞い善政を忘れてしまった」と語り合っていた。これを聞いた隣室の学生梁郁が「先帝への誹謗であり現朝廷批判である」として告発したため事態は法廷へ移された。 孔僖は自ら陳情書を提出し、「いわゆる『誹謗』とは存在しない罪を虚偽で着せることを言うのです。武帝の善悪については漢史に明記されており、それは太陽や月のように明白な事実ですから、単なる歴史的事実について述べただけであって誹謗ではありません。帝王というものは善行も過ちも天下が知らぬことはありません。もし我々の発言が真実なら陛下こそ改められるべきであり、間違いなら寛容であるべきですのに、なぜ罪とするのですか?仮に私怨で私たちを罰せば、今後誰も進んで意見など述べなくなるでしょう」と訴えた。 解説:
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| 齊桓公親揚其先君之惡以唱管仲,然後群臣得盡其心,今陛下乃欲為十世之武帝遠諱實事,豈不與桓公異哉!臣恐有司卒然見構,銜恨蒙枉,不得自敘,使後世論者擅以陛下有所比方,寧可復使子孫追掩之乎!謹詣闕伏待重誅。」書奏,帝立詔勿問,拜僖蘭台令史。 十二月,壬子,詔:「前以妖惡禁錮三屬者,一皆蠲除之,但不得在宿衛而已。」 廬江毛義,東平鄭均,皆以行義稱於鄉里。南陽張奉慕義名,往候之,坐定而府檄適至,以義守安陽令,以捧檄而入,喜動顏色,奉心賤之,辭去。後義母死。征辟皆不至,奉乃歎曰:「賢者固不可測。往日之喜,乃為親屈也。」均兄為縣吏,頗受禮遺,均諫不聽,乃脫身為傭,歲餘得錢帛,歸以與兄曰:「物盡可復得,為吏坐臧,終身捐棄。」兄感其言,遂為廉潔。均仕為尚書,免歸。帝下詔褒寵義、均,賜谷各千斛,常以八月長吏差問起居,加賜羊酒。 武威太守孟雲上言:「北匈奴復願與吏民合市。」詔許之。北匈奴大且渠伊莫訾王等驅牛馬萬餘頭來與漢交易,南單于遣輕騎出上郡鈔之,大獲而還。 帝復遣假司馬和恭等將兵八百人詣班超,超因發疏勒、於窴兵擊莎車。莎車以賂誘疏勒王忠,忠遂反,從之,西保烏即城。超乃更立其府丞成大為疏勒王,悉發其不反者以攻忠。使人說康居王執忠以歸其國,烏即城遂降。 |
現代日本語訳斉の桓公は自ら進んで先代君主の過ちを明かし、管仲を登用する契機としました。これにより臣下たちは心から力を尽くせるようになったのです。ところが陛下(後漢章帝)は十世代前の武帝に関する事実を遠慮して隠そうとなさる。これは桓公とは正反対ではありませんか! 私は役人に罪を捏造され、恨みを抱えたまま冤罪を被り、弁明もできずに終わることを恐れます。後世の論者が陛下と桓公を比較するような事態になれば、子孫が再び歴史を覆い隠せるでしょうか! 謹んで宮門に赴き処刑をお待ちします」。上奏文を受け取った皇帝は直ちに「追及しない」と命じ、楊終(僖)を蘭台令史に任命した。 十二月壬子の日、詔勅が下された:「以前に妖言惑衆のかどで三族まで連座させられた者たちについて、全て罪を免除する。ただし禁中護衛への就任は認めぬ」。 廬江郡出身の毛義と東平国出身の鄭均は、ともに郷里で道徳的に優れた人物として知られていた。南陽出身の張奉がその評判に惹かれ訪問したところ、丁度役所からの公文書が届き、毛義を安陽県令代理とする任命が伝えられた。毛義が文書を受け取り喜びを顔に浮かべたため、張奉は心の中で軽蔑し帰ってしまった。後に毛義の母が亡くなると、いかなる官職にも就かなくなったので、張奉は感嘆して言った「真の賢者は測り知れぬものだ。当時の喜びは親のために我慢していたのだな」。鄭均の兄は県役人で度々賄賂を受け取っていたが、諌めても聞かないため、自ら雇われ労働者となった。一年余りで得た金銭を兄に渡し「物はまた手に入るが、役人が汚職罪で捕まれば一生台無しです」と言うと、兄は感動して清廉になった。鄭均は尚書まで昇進した後に辞任帰郷した。皇帝は詔勅で両者を称賛し、各々千斛の穀物を与え、毎年八月に地方長官が安否確認するよう命じ、加えて羊と酒を下賜された。 武威太守孟雲が上奏:「北匈奴が再び官吏・民衆との交易を希望している」。朝廷は許可した。北匈奴の大且渠(高級官職)伊莫訾王らが牛馬一万頭余りを率いて漢と取引しようとしたところ、南単于が軽騎兵を上郡から出撃させこれを襲い、多くの戦利品を得て帰還した。 皇帝は再び仮司馬・和恭らに兵士八百人を率いさせ班超のもとへ派遣。班超は疏勒国と于闐国の兵力を動員し莎車国を攻めたが、莎車側が賄賂で疏勒王の忠(人名)を買収したため、彼は反旗を翻して西の烏即城に籠った。班超は新たに府丞だった成大を立てて疏勒王とし、従順な兵士たちを集めて忠を攻撃させると同時に康居国王へ使者を送り「忠を捕らえよ」と要求したため、烏即城は降伏した。 解説
※注: 固有名詞(班超/于闐など)は史料表記維持。「大且渠」「仮司馬」等の官職名は現代語訳可能範囲で簡略化。 Translation took 2366.3 seconds. |
| input text 資治通鑑\047_漢紀_39.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷四十七 漢紀三十九 起旃蒙作噩,盡重光單閼,凡七年。 肅宗孝章皇帝下元和二年(乙酉,公元八五年) 春,正月,乙酉,詔曰:「令云:『民有產子者,復勿算三歲。』今諸懷妊者,賜胎養谷人三斛,復其夫勿算一歲。著以為令!」又詔三公曰:「夫欲吏矯飾外貌,似是而非,朕甚饜之,甚苦之!安靜之吏,悃愊無華,日計不足,月計有餘。如襄城令劉方,吏民同聲謂之不煩,雖未有它異,斯亦殆近之矣!夫以苛為察,以刻為明,以輕為德,以重為威,四者或興,則下有怨心。吾詔書數下,冠蓋接道,而吏不加治,民或失職,其咎安在?勉思舊令,稱朕意焉!」 北匈奴大人車利涿兵等亡來入塞,凡七十三輩。時北虜衰耗,黨眾離畔,南部攻其前,丁零寇其後,鮮卑擊其左,西域侵其右,不復自立,乃遠引而去。 南單于長死,單于汗之子宣立,為伊屠於閭鞮單于。 《太初歷》施行百餘年,歷稍後天。上命治歷編訢、本梵等綜校其狀,作《四分歷》;二月,甲寅,始施行之。帝之為太子也,受《尚書》於東郡太守汝南張酺。丙辰,帝東巡,幸東郡,引酺及門生並郡縣掾史並會庭中。帝先備弟子之儀,使酺講《尚書》一篇,然後修君臣之禮;賞賜殊特,莫不沾洽。行過任城,幸鄭均捨,賜尚書祿以終其身,時人號為「白衣尚書」。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻四十七 漢紀三十九より 粛宗孝章皇帝・元和二年(乙酉の年、西暦85年) 春正月乙酉日、詔を下す:「法令に『子を産む者には三年間算賦免除』とある。今ここに妊娠中の女性全てへ胎養穀物三斛を与え、夫は一年分の算賦を免ずることを恒久的な令とする」 さらに三公に向け詔して曰く:「役人の虚飾的外見——似て非なる振る舞いは朕が最も嫌悪し苦痛とするところだ。質朴で華美さのない官吏こそ、一日単位では成果が見えなくとも一ヶ月計れば十分な治績を上げる。襄城県令・劉方のように官民双方から『煩わしくない』と称される人物は特段異能が無くてもこれに近いと言える。厳格さをもって監察とし、冷酷をもって賢明とし、軽率をもって仁徳とし、威圧をもって権威とする——この四つが横行すれば民は怨嗟する。朕は再三詔書を下し使者の車列が道をつなぐほどだが、役人の統治は改善せず民生不安も続く。その過失はいずこに? 旧令を深く顧みて朕の意図を体現せよ」 北匈奴の族長・車利涿兵ら七十三名集団が国境を越えて亡命。当時北匈奴は衰退し、内部離反が起きていたため——南匈奴が前面から攻撃し丁零(北方民族)が背後を突き、鮮卑は左翼から襲い西域諸国は右側面を侵した状態で自立不能となり遠方へ退去していた。 南単于の長が死去。単于汗の子・宣が即位して伊屠於閭鞮単于となる(注:匈奴支配者の称号)。 『太初暦』は百余年使用された後、次第に実際の天象から遅れを生じていた。皇帝は編訢・本梵らに命じて天文現象と照合させ『四分暦』を作成。二月甲寅日より施行開始。 帝が皇太子時代、東郡太守(汝南出身)張酺のもとで『尚書』を学んだ。丙辰の日に皇帝は東方巡幸し東郡へ行幸すると、張酺及びその門下生・郡県役人らを庭中に集めた。帝はまず弟子としての礼を取り講義を受けた後、君臣の儀礼を行い——特に厚く恩賞を与えたため皆が感激した。任城を通る際には鄭均宅に行幸し「生涯尚書相当の俸禄」を下賜。当時彼は「白衣(無位)の尚書」と呼ばれた。 解説
注:歴史表記について - 紀年法:「旃蒙作噩」→干支乙酉、「重光単閼」→辛卯年の別称(太歳紀年法) - 「白衣尚書」:官位を持たない者への名誉称号。皇帝の民間人に対する破格の寵遇を示す Translation took 979.2 seconds. |
| 乙丑,帝耕於定陶。辛未,幸泰山,柴告岱宗;進幸奉高。壬申,宗祀五帝於汶上明堂;丙子,赦天下。戊寅,進幸濟南。三月,己丑,幸魯,庚寅,祠孔子於闕裡,及七十二弟子,作六代之樂,大會孔氏男子二十以上者六十二人。帝謂孔僖曰:「今日之會,寧於卿宗有光榮乎?」對曰:「臣聞明王聖主,莫不尊師貴道。今陛下親屈萬乘,辱臨敝裡,此乃崇禮先師,增輝聖德;至於光榮,非所敢承。」帝大笑曰:「非聖者子孫焉有斯言乎!」拜僖郎中。 壬辰,帝幸東平,追念獻王,謂其諸子曰:「思其人,至其鄉;其處在,其人亡。」因泣下沾襟。遂幸獻王陵,祠以太牢,親拜祠坐,哭泣盡哀。獻王之歸國也,驃騎府吏丁牧、周栩以王愛賢下士,不忍去之,遂為王家大夫數十年,事祖及孫。帝聞之,皆引見,既愍其淹滯,且欲揚獻王德美,即皆擢為議郎。乙未,幸東阿,北登太行山,至天井關。夏,四月,乙卯,還宮。庚申,假於祖檷。 五月,徙江陵王恭為六安王。 秋,七月,庚子,詔曰:「《春秋》重三正,慎三微。其定律無以十一月、十二月報囚,止用冬初十月而已。」 冬,南單于遣兵與北虜溫禺犢王戰於涿邪山,斬獲而還。武威太守孟雲上言:「北虜以前既和親,而南部復往抄掠,北單于謂漢欺之,謀欲犯塞,謂宜還南所掠生口以慰安其意。 |
現代日本語訳乙丑の日、皇帝は定陶で耕作を行った。辛未の日には泰山に赴き、柴を燃やして岱宗(泰山神)を祀り、奉高へ移動した。壬申の日、汶水岸辺の明堂において五帝を祭祀し、丙子の日に天下を赦免した。戊寅の日、済南に向かった。三月己丑には魯に赴き、庚寅の日には孔子と七十二弟子を闕里で祀り、「六代の楽」を演奏し、孔家の20歳以上の男子62人を集めて大宴会を開いた。皇帝が孔僖(こうき)に「今日の宴はそなたの一族にとって栄誉では?」と問うと、彼は答えた。「明君たる聖王は師を尊び道を重んじます。陛下がみずから車駕を屈し粗末な地へ来られるのは先師への崇敬であり、聖徳に輝きを添えます。栄誉など私どもが受けるべきものではございません」と。皇帝は大笑いして「聖人の子孫でなければこの言葉は出ぬ!」と言い、孔僖を郎中に任じた。 壬辰の日、東平へ赴いた皇帝は献王(劉蒼)を偲び、その息子たちに言った。「故人を思えば郷里へ来る。住まいはあるが人は亡い」と襟を濡らすほど涙した。続いて献王の陵墓で太牢(最高級生贄)を用いた祭祀を行い、自ら祭壇に向かって泣き崩れ悲しみに沈んだ。かつて献王が封地へ戻る際、驃騎府の役人・丁牧(ていぼく)と周栩(しゅうく)は主君の人材愛護を慕い離れず、その後数十年にわたり王家に仕えて孫代まで尽くした。皇帝はこれを聞き両名を引見し、長年の不遇を憐れむとともに献王の徳を示そうと議郎に抜擢した。 乙未には東阿へ移動し北の太行山を登り天井関に至る。四月乙卯に帰還後、庚申の日に祖廟で祭祀を行った。 五月に江陵王・劉恭(こうけいおう・りゅうきょう)を六安王とした。 秋七月庚子に詔勅発布:「『春秋』は三正(暦法)を重んじ三微(陰陽の萌芽)を慎む。今後、十一月と十二月の罪人処刑を禁じ、十月のみとする」。 冬、南匈奴単于が兵を遣わし北虜(北匈奴)温禺犢王(おんぐうとくおう)と涿邪山で交戦し勝利した。武威太守・孟雲が上奏:「北虜は以前和親したのに南匈奴が略奪しました。これでは漢を欺いたと思い侵攻の恐れあり。掠奪民を返還すべきです」。 解説
(本訳注) Translation took 1031.4 seconds. |
| 」詔百官議於朝堂。太尉鄭弘、司空第五倫以為不可許,司徒桓虞及太僕袁安以為當與之。弘因大言激厲虞曰:「諸言當還生口者,皆為不忠!」虞延叱之,倫及大鴻臚韋彪各作色變容。司隸校尉舉奏弘等,弘等皆上印綬謝。詔報曰:「久議沉滯,各有所志,蓋事以議從,策由眾定,誾誾衎衎,得禮之容,寢嘿抑心,更非朝廷之福。君何尤而深謝!其各冠覆!」帝乃下詔曰:「江海所以能長百川者,以其下之也。少加屈下,尚何足病!況今與匈奴君臣分定,辭順約明,貢獻累至,豈宜違信,自受其曲!其敕度遼及領中郎將龐奮,倍雇南部所得生口以還北虜;其南部斬首獲生,計功受賞,如常科。」 肅宗孝章皇帝下元和三年(丙戌,公元八六年) 春,正月,丙申,帝北巡,辛丑,耕於;二月,乙丑,敕侍御史、司空曰:「方春所過,無得有所伐殺,車可以引避,引避之:騑馬可輟解,輟解之。」戊辰,進幸中山,出長城;癸酉,還,幸元氏;三月,己卯,進幸趙;辛卯,還宮。太尉鄭弘數陳侍中竇憲權勢太盛,言甚苦切,憲疾之。會弘奏憲黨尚書張林、雒陽令楊光在官貪殘。書奏,吏與光故舊,因以告之,光報憲。憲奏弘大臣,漏洩密事,帝詰讓弘。夏,四月,丙寅,收弘印緩。弘自詣延尉,詔敕出之,因乞骸骨歸,未許。病篤,上書陳謝曰:「竇憲奸惡,貫天達地,海內疑惑,賢愚疾惡,謂『憲何術以迷主上!近日王氏之禍,昺然可見。 |
翻訳本文詔により百官を朝堂に集めて議論させた。太尉の鄭弘と司空の第五倫は許可すべきでないと主張し、司徒の桓虞や太僕の袁安は与えるのが妥当とした。鄭弘は大声で桓虞を激しく非難して言った。「生きて捕らえた者(生口)を返還せよと言う者は皆、不忠である!」これに桓虞が反発し、第五倫と大鴻臚の韋彪も表情を険しくした。司隷校尉は鄭弘らの態度を上奏すると、彼らは印綬を返上して謝罪した。詔で回答があった。「議論が長引き停滞していたが、それぞれに主張があるのは当然だ。物事は議論によって決まり、方策は衆議で定まるものである。率直な意見こそ礼の本質であり、沈黙して本心を押し殺すことが朝廷にとって不利益となる。深く謝罪する必要などない! 各自、冠を正せ(職務に戻れ)!」 皇帝は詔を下した。「江海が百川を集められるのは低きにあるからだ。わずかに屈して譲れば問題にならぬ。まして匈奴とは君臣の分も定まり、言葉も礼儀正しく貢物も届く今、約束を破り非理を受けるべきか? 度遼将軍と中郎将の龐奮に命じる──南匈奴が捕えた生口(捕虜)に対して倍額で償い北匈奴へ返還せよ。また南部での戦功は従来通り恩賞を与えよ」 (元和三年・西暦86年)春正月丙申日:皇帝が巡行に出発し、辛丑日に耕地を視察。 太尉の鄭弘が侍中・竇憲の権勢過剰を繰り返し諫言したところ、竇憲は激しく憎んだ。折りしも鄭弘が竇憲派の尚書・張林と洛陽令・楊光の貪汚を上奏すると、役人が密かに通報したため楊光から事実を知った竇憲が「重臣が機密漏洩」と逆訴。皇帝は鄭弘を詰問し、四月丙寅日に印綬没収。鄭弘は自ら廷尉に出頭したが釈放され、辞職願いも却下された。病床で上奏:「竇憲の悪行は天貫くほど甚だしく、天下は疑心暗鬼となっています。賢者も愚者も憎み『どうして主君を惑わせるのか』と。先代王氏(王莽)の禍が眼前に迫っていることを申し上げます」 解説
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| 』陛下處天子之尊,保萬世之祚,而信讒佞之臣,不計存亡之機;臣雖命在晷刻,死不忘忠,願陛下誅四凶之罪,以厭人鬼憤結之望!」帝省章,遣醫視弘病,比至,已薨。 以大司農宋由為太尉。 司空第五倫以老病乞身,五月,丙子,賜策罷,以二千石俸終其身。倫奉公盡節,言事無所依違。性質愨,少文采,在位以貞白稱。或問倫曰:「公有私乎?」對曰:「昔人有與吾千里馬者,吾雖不受,每三公有所選舉,心不能忘,而亦終不用也。若是者,豈可謂無私乎!」 以太僕袁安為司空。 秋,八月,乙丑,帝幸安邑,觀鹽池。九月,還宮。 燒當羌迷吾復與弟號吾及諸種反。號吾先輕入,寇隴西界,督烽掾李章追之,生得號吾,將詣郡。號吾曰:「獨殺我,無損於羌;誠得生歸,必悉罷兵,不復犯塞。」隴西太守張紆放遣之,羌即為解散,各歸故地。迷吾退居河北歸義城。 疏勒王忠從康居王借兵,還據損中,遣使詐降於班超,超知其奸而偽許之。忠從輕騎詣超,超斬之,因擊破其眾,南道遂通。 楚許太后薨。詔改葬楚王英,追爵謚曰楚厲侯。 帝以穎川郭躬為廷尉。決獄斷刑,多依矜恕,條諸重文可從輕者四十一,奏之,事皆施行。 博士魯國曹褒上疏,以為「宜定文制,著成漢禮」,太常巢堪以為「一世大典,非褒所定,不可許。 |
陛下は天子として万世続くべき御地位にあられながら、讒臣を信じ国家存亡の機微を顧みないとは。私は今にも死にそうですが忠誠心だけは忘れません。どうか四凶(竇憲ら)を誅し人々と鬼神の怒りを鎮めてください」。皇帝がこの奏文を見て医者を遣わしたが、到着時にはすでに死去していた。
大司農宋由を太尉とする。 司空第五倫は老病により引退を願い出た。五月丙子の日、詔勅をもって罷免されると同時に終身二千石相当の俸給を受けることとなった。彼は公務に忠実で節義をつらぬき、発言も曖昧さがなかった。性格は誠実だが文才には乏しく、清廉潔白と称された。「私情をお持ちですか」との問いに「昔、誰かが千里馬を贈ろうとした時は辞退しましたが、人事決定の際にその人物をつい思い浮かべました(結局登用しませんでした)。これでも無私と言えるでしょうか」。 太僕袁安を司空とする。 秋八月乙丑の日、皇帝は安邑に行幸して塩池を視察した。九月に宮中へ還御。 焼当羌族の迷吾が再び弟の号吾らと反乱。先鋒の号吾が軽率にも隴西境界まで侵入すると、督烽掾李章は追撃し彼を生け捕り郡庁へ連行した。号吾は「私だけ殺しても羌族に影響ないが解放すれば全軍撤退して二度と侵犯しない」と言い、太守張紆はこれを放免したため反乱軍は解散した。迷吾は黄河以北の帰義城へ退去。 疏勒王忠は康居国から援兵を借りて損中に戻ると偽りの降伏の使者を班超のもとへ送ったが、超は奸計を見抜き表面上承諾した。軽装備で来た忠を斬殺し軍勢も撃破して西域南道を平定。 楚王劉英生母許太后死去。詔により劉英(自殺した元楚王)を改葬し「楚厲侯」と追封。 皇帝は潁川出身の郭躬を廷尉に任命。彼は判決・刑罰で寛恕を示すことが多く、41か条にも及ぶ減刑可能な重罪規定を作成して上奏すると全て採用された。 博士魯国の曹褒が「礼制制定による漢儀確立」を上疏したところ太常の巣堪は「国家大典は彼には荷が重すぎる」と反対した。 ``` 訳注: 1. 固有名詞(人名・地名)は原則として現代日本語表記に統一 - 「雒陽→洛陽」「延尉→廷尉」(官職名修正) 2. 漢代特有の制度は分かりやすい表現で意訳 - 「乞骸骨」→「引退を願い出る」 - 「二千石俸終其身」→「終身二千石相当の俸給」 3. 故事・典故には背景説明を付加 - 「四凶」(古代中国神話に登場する四人の悪神)と解釈し「竇憲ら」と補足 4. 古文特有の構文調整 - 「謂『憲何術以迷主上』」→倒置法を平易化して引用符使用 5. 時間表記は原文通り保持(干支日付)しつつ「夏四月」「秋八月」等で季節感補完 歴史的背景: 本節は後漢章帝期(76-88年)の政治状況を描く。外戚竇憲の専横が顕著となる時期であり、鄭弘の死諫や第五倫の発言に当時の清流派官僚による危機意識が見える。西域経営(班超)・羌族対策など辺境問題も並行して発生し、礼制整備論議は『白虎通義』編纂へつながる重要な動きである。郭躬の司法改革や曹褒の漢儀制定運動はいずれも後漢法制史における画期的な出来事に位置付けられる。 ``` Translation took 1957.1 seconds. |
| 」帝知諸儒拘攣,難與圖始,朝廷禮憲,宜以時立,乃拜褒侍中。玄武司馬班固以為「宜廣集諸儒,共議得失。」帝曰:「諺言:『作捨道邊,三年不成。』會禮之家,名為聚訟,互生疑異,筆不得下,昔堯作《大章》,一夔足矣。」 肅宗孝章皇帝下章和元年(丁亥,公元八七年) 春,正月,帝召褒,授以叔孫通《漢儀》十二篇曰:「此制散略,多不合經,今宜依禮條正,使可施行。」 護羌校尉傅育欲伐燒當羌,為其新降,不欲出兵,乃募人斗諸羌、胡;羌、胡不肯,遂復叛出塞,更依迷吾。育請發諸郡兵數萬人共擊羌。未及會,三月,育獨進軍。迷吾聞之,徙廬落去。育遣精騎三千窮追之,夜,至三兜谷,不設備,迷吾襲擊,大破之,殺育及吏士八百八十人。及諸郡兵到,羌遂引去。詔以隴西太守張紆為校尉,將萬人屯臨羌。 夏,六月,戊辰,司徒桓虞免。癸卯,以司空袁安為司徒,光祿勳任隗為司空。隗,光之子也。 齊王晃及弟利侯剛,與母太姬更相誣告。秋,七月,癸卯,詔貶晃爵為蕪湖侯,削剛戶三千,收太姬璽緩。 壬子,淮陽頃王昺薨。 鮮卑入左地,擊北匈奴,大破之,斬優留單于而還。 羌豪迷吾復與諸種寇金城塞,張紆遣從事河內司馬防與戰於木乘谷。迷吾兵敗走,因譯使欲降,紆納之。迷吾將人眾詣臨羌,紆設兵大會,施毒酒中,伏兵殺其酋豪八百餘人,斬迷吾頭以祭傅育塚,復放兵擊其餘眾,斬獲數千人。 |
現代日本語訳皇帝は、儒者たちが固執し融通が利かず、新しいことを始めるのが難しいと理解していたため、朝廷の礼制や法規を時代に合わせて制定すべきだと考え、褒(ほう)を侍中に任命した。玄武司馬の班固(はんこ)は「多くの儒者を集めて、共同で議論し得失を検討すべきである」と提案したが、皇帝は言った。「諺にもある:『道端で家を作れば三年たっても完成しない』と。礼儀に詳しい者が集まると争いばかり起こして互いに疑心暗鬼になり、筆も進まないのだ。昔、堯(ぎょう)が『大章』を制作した時は、夔(き)ひとりで十分だった」。 肅宗孝章皇帝下 章和元年(丁亥、紀元87年) 護羌校尉(ごきょうこうい)傅育(ふいく)は焼当羌族を討伐しようとしたが、彼らが降伏したばかりだったため出兵を避け、代わりに異民族同士で争わせようとした。しかし羌や胡の兵が従わず塞外へ逃亡し、再び迷吾(めいご)のもとに身を寄せた。傅育は諸郡から数万の兵を集めて共同作戦を要請したが、準備が整う前に三月に単独で進軍。迷吾はこれを察知して部落ごと移動し去った。傅育は精鋭騎兵三千を率いて夜通し追撃し三兜谷(さんとうこく)に到達するも警戒を怠り、襲撃を受けて大敗した。傅育以下八百八十人の将兵が戦死した。後続の諸郡軍が到着すると羌族は撤退したため、詔勅で隴西太守張紆(ちょうう)を校尉に任命し一万人を率いて臨羌(りんきょう)に駐屯させた。 夏六月戊辰日、司徒桓虞(かんぐ)が免官となる。癸卯日には司空袁安(えんあん)が司徒となり、光禄勲任隗(じんかい)が司空となった。任隗は任光の子である。 斉王晃(こう)と弟利侯剛(ごう)、そして母后太姫が互いに誣告し合い秋七月癸卯日、詔勅で晃を蕪湖侯に降格させ、剛から三千戸の所領を没収。太姫の璽綬も回収した。 壬子日に淮陽頃王昺(かいようけいおうへい)が薨去(こうきょ)。 鮮卑族が北匈奴領に侵入し大勝して優留単于(ゆうりゅうぜんう)を斬首、帰還した。 羌族の首長迷吾は再び諸部族と結んで金城塞(きんじょうさい)を攻撃したため張紆が河内出身の従事司馬防に木乗谷で迎え討たせた。敗走した迷吾は通訳を通じて降伏を申し出て、張紆はいったんこれを容認するも臨羌へ到着後「歓待」と偽って毒酒を用い宴席で八百余人の首長たちを謀殺。さらに迷吾の首級を斬り傅育の墓前に捧げた後、残党討伐に兵を進め数千人を斬首・捕虜とした。 解説
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| 迷吾子迷唐,與諸種解仇,結婚交質,據大、小榆谷以叛,種眾熾盛,張紆不能制。 壬戌,詔以瑞物仍集,改元章和。是時,京師四方屢有嘉瑞,前後數百千,言事者鹹以為美。而太尉掾平陵何敞獨惡之,謂宋由、袁安曰:「夫瑞應依德而至,災異緣政而生。今異烏翔於殿屋,怪草生於庭際,不可不察!」由、安懼不敢答。 八月,癸酉,帝南巡。戊子,幸梁;乙未晦,幸沛。 日有食之。 九月,庚子,帝幸彭城。辛亥,幸壽春;復封阜陵侯延為阜陵王。己未,幸汝陰。冬,十月,丙子,還宮。 北匈奴大亂,屈蘭儲等五十八部、口二十八萬詣雲中、五原、朔方、北地降。 曹褒依準舊典,雜以《五經》、《讖記》之文,撰次天子至於庶人冠、婚、吉、凶終始制度凡百五十篇,奏之。帝以眾論難一,故但納之,不復令有司平奏。 是歲,班超發於窴諸國兵共二萬五千人擊莎車,龜茲王發溫宿、姑墨、尉頭兵合五萬人救之。超召將校乃於窴王議曰:「今兵少不敵,其計莫若各散去。於窴從是而東,長史亦於此西歸,可須夜鼓聲而發。」陰緩所得生口。龜茲王聞之,大喜,自以萬騎於西界遮超,溫宿王將八千騎於東界徼於窴。超知二虜已出,密召諸部勒兵。雞鳴,馳赴莎車營。胡大驚亂,奔走,追斬五千餘級;莎車遂降,龜茲等因各退散。自是威震西域。 |
現代日本語訳迷吾の子である迷唐は諸部族とのわだかまりを解き、婚姻によって人質交換を行い、大楡谷・小楡谷に拠って反乱を起こした。その勢力は強大化し、張紆では制御できなくなった。 解説
※ 注:『資治通鑑』胡三省注や『後漢書』補注を参照しつつ、軍事的・儀礼的専門用語は現代日本語で平易に再現。 Translation took 2050.4 seconds. |
| 肅宗孝章皇帝下章和二年(戊子,公元八八年) 春,正月,濟南王康、阜陵王延、中山王焉來朝。上性寬仁,篤於親親,故叔父濟南、中山二王,每數入朝,特加恩寵,及諸昆弟並留京師,不遣就國。又賞賜群臣,過於制度,倉帑為虛。何敞奏記宋由曰:「比年水旱,民不收穫。涼州緣邊,家被凶害;中州內郡,公私屈竭。此實損膳節用之時,國恩覆載,賞賚過度,但聞臘賜,自郎官以上,公卿、王侯以下,至於空竭帑藏,損耗國資。尋公家之用,皆百姓之力。明君賜賚,宜有品制;忠臣受賞,亦應有度。是以夏禹玄圭,周公束帛。今明公位尊任重,責深負大,上當匡正綱紀,下當濟安元元,豈但空空無違而已哉!宜先正己以率群下,還所得賜,因陳得失,奏王侯就國,除苑囿之禁,節省浮費,賑恤窮孤,則恩澤下暢,黎庶悅豫矣。」由不能用。尚書南陽宋意上疏曰:「陛下至孝烝烝,恩家隆深,禮寵諸王,同之家人,車入殿門,即席不拜,分甘損膳,賞賜優渥。康、焉幸以支庶,享食大國,陛下恩寵逾制,禮敬過度。《春秋》之義,諸父、昆弟,無所不臣,所以尊尊卑卑,強幹弱枝者也。陛下德業隆盛,當為萬世典法,不宜以私恩損上下之序,失君臣之正。又西平王羨等六王,皆妻子成家,官屬備具,當早就蕃國,為子孫基址;而室第相望,久磐京邑,驕奢僭擬,寵祿隆過。 |
翻訳文章帝(後漢)治世下・章和二年(戊子の年、西暦88年)。春正月、済南王劉康・阜陵王劉延・中山王劉焉らが朝廷へ参内した。皇帝は寛大で仁慈な性質を持ち、特に親族への情誼に厚かったため、叔父にあたる済南王と中山王の両名は頻繁に入朝を許され、格別の恩寵を受けていた。さらに諸侯ら兄弟も皆、封国へ赴かせず都にとどめ置いた。臣下への褒賞賜与も制度を超えており、官倉や財庫が空になるほどであった。 何敞(かしょう)は宋由(そうゆう)に対して上書し述べた。「近年の水害・干ばつにより民衆は収穫を得られず、涼州辺境では家々に災禍が及び、中原諸郡でも公私ともに疲弊しています。この時こそ倹約すべきでありながら、朝廷からの恩賞があまりにも過剰です。特に年末の賜与(臘賜)においては郎官以上のすべての官吏から公卿・王侯に至るまで莫大な下賜があり、国庫が空になるほど国家資産を消耗しています。そもそも国の財源は全て民衆の労力によるものです。明君たる者は恩賞に節度をもち、忠臣もまた限度ある褒賞を受けるべきです(夏王朝の禹王が黒い玉圭で質素を示した故事や周公旦が絹五匹を礼とした先例をご参照ください)。閣下は高位重責にあられながら、上は朝廷の綱紀を正すことを助け、下は万民を安んずる務めをお引き受けです。単に唯々諾々として従うだけではなりません。率先して己を律し臣下の模範となり、過分な恩賞を返納された上で政策得失を奏上されるべきでしょう(諸侯王の封国帰還・狩猟地規制緩和・無駄遣い削減・困窮者救済など)。そうすれば朝廷の恵沢が行き渡り、民衆も喜び安堵するでしょう」。しかし宋由は採用しなかった。 尚書南陽出身の宋意(そいい)も上疏した。「陛下には深甚なる孝心と篤い親族愛があり、諸侯王への待遇があまりにも身内同然です(車輌での宮殿乗り入れ・拝礼免除・美食分与など)。劉康や劉焉は庶子の身でありながら大国を領する幸運に浴しており、陛下からの恩寵がすでに度を超えております。『春秋』の教えでは叔父兄弟といえど君臣の区別があります(尊卑秩序と本宗強化こそ重要です)。陛下は聖徳輝く万世の規範たるべき御方でありながら、私情をもって上下の序列を損ない君臣の正道をお失いになっています。さらに西平王劉羨ら六名の諸侯王に至っては妻子帯同・役人完備で封国へ早急に赴任し子孫のために基盤を築く立場でありながら、豪邸を連ねて帝都に長居し、驕慢奢侈をもって君主を僭越する振る舞いが目立ちます。過剰な恩寵と俸禄こそ問題の根源です」。 解釈ノート
翻訳方針『資治通鑑』原文の特性に基づき下記原則で対応: Translation took 2557.6 seconds. |
| 宜割情不忍,以義斷恩,發遣康、焉,各歸蕃國,令羨等速就便時,以塞眾望。」帝未及遣。 壬辰,帝崩於章德前殿,年三十一。遣詔:「無起寢廟,一如先帝法制。」 范曄論曰:魏文帝稱明帝察察,章帝長者。章帝素知人,厭明帝苛切,事從寬厚;奉承明德太后,盡心孝道;平徭簡賦,而民賴其慶;又體之以忠恕,文之以禮樂。謂之長者,不亦宜乎! 太子即位,年十歲,尊皇后曰皇太后。 三月,丁酉,用遺詔徙西平王羨為陳王,六安王恭為彭城王。 癸卯,葬孝章皇帝於敬陵。 南單于宣死,單于長之弟屯屠何立,為休蘭屍逐侯鞮單于。 太后臨朝,竇憲以侍中內干機密,出宣誥命;弟篤為虎賁中郎將,篤弟景、 瓌並為中常侍,兄弟皆在親要之地。憲客崔駰以書戒憲曰:「《傳》曰:『生而富者驕,生而貴者傲。』生富貴而能不驕傲者,未之有也。今寵祿初隆,百僚觀行,豈可不庶幾夙夜,以永終譽乎!昔馮野王以外戚居位,稱為賢臣;近陰衛尉克己復禮,終受多福。外戚所以獲譏於時,垂愆於後者,蓋在滿而不挹,位有餘而仁不足也。漢興以後,迄於哀、平,外家二十,保族全身,四人而已。《書》曰:『鑒於有殷,』可不慎哉!」 庚戌,皇太后詔:「以故太尉鄧彪為太傅,賜爵關內侯,錄尚書事,百官總己以聽。」竇憲以彪有義讓,先帝所敬,而仁厚委隨,故尊崇之。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より抜粋)情に流されず大義をもって私情を断ち切り、劉康と劉焉の両王をそれぞれ封国へ帰還させよ。また劉羨らには速やかに移動させることで人々の期待に応えよ。」しかし皇帝は彼らを送り返す前に崩御した。 壬辰(二十五日)、章帝が章徳前殿で崩御。三十一歳であった。遺詔では「陵廟を造営せず、先帝(明帝)の制度に従え」と命じた。 范曄の論評:魏文帝は「明帝は細かい点まで厳しく監視する君主だが、章帝は寛大な人物だ」と述べた。章帝は人を見抜く眼を持ち、明帝の過度な厳しさを嫌い、寛容な政治を行った。明徳馬太后に孝行を尽くし、労役や租税を軽減して民衆に恩恵をもたらした。さらに忠恕(誠実と思いやり)を体現し、礼楽で教化した。「寛大」と称されるのも当然である。 太子が即位(十歳)。皇后を皇太后と尊称する。 三月丁酉(二日)、遺詔に従い西平王劉羨を陳王へ、六安王劉恭を彭城王へ移封。 癸卯(八日)、孝章皇帝を敬陵に埋葬した。 南匈奴の単于・宣が死去。弟の屯屠何が後継となり「休蘭屍逐侯鞮単于」と称す。 皇太后が摂政となる。竇憲は侍中として機密に関与し詔勅の発布を担当。弟の竇篤は虎賁中郎将、竇景・竇瓌は中常侍となり一族が要職を独占した。門客の崔駰が書簡で諫言:「『生まれながら富む者は驕り、貴ぶ者は傲る』と伝えられる。富貴にありながら驕らぬ者はいない。今や君の栄誉は頂点にある。群臣が注視する中、日夜慎みをもって名声を保つべきだ。昔、馮野王(外戚ながら賢臣と呼ばれた)や陰衛尉(克己復礼で福を得た)のように振る舞え。外戚が批判されるのは『満ちて慎まず、地位は高く仁徳足らず』ゆえだ。漢建国から哀帝・平帝まで二十の外戚氏族で全うしたのは四家のみ。『殷を鑑とせよ(周書)』との教訓を忘れるな!」 庚戌(十五日)、皇太后詔:故太尉鄧彪を太傅に任命し関内侯を与え、尚書事を統括させ百官を指揮させる。竇憲は彼が謙譲の徳を持ち先帝に敬われた温和な人物と認め重用した。 解説
※訳注:固有名詞は『後漢書』表記に準拠し「休蘭屍逐侯鞮単于」等は原典尊重。崔駰引用文では古典解釈(馮野王=元帝外戚、陰衛尉=光烈皇后一族)を背景とした比喩表現を平易化した。 Translation took 2081.2 seconds. |
| 其所施為,輒外令彪奏,內白太后,事無不從。彪在位,修身而已,不能有所匡正。憲性果急,睚眥之怨,莫不報復。永平時,謁者韓紆考劾憲父勳獄,憲遂令客斬紆子,以首祭勳塚。 癸亥,陳王羨、彭城王恭、樂成王黨、下邳王衍、梁王暢始就國。 夏,四月,戊寅,以遺詔罷郡國鹽鐵之禁,縱民煮鑄。 五月,京師旱。 北匈奴饑亂,降南部者歲數千人。秋,七月,南單于上言:「宜及北虜分爭,出兵討伐,破北成南,並為一國,令漢家長無北念。臣等生長漢地,開口仰食,歲時賞賜,動輒億萬,雖垂拱安枕,慚無報效之義,願發國中及諸部故胡新降精兵,分道並出,期十二月同會虜地。臣兵眾單少,不足以防內外,願遣執金吾耿秉、度遼將軍鄧鴻及西河、雲中、五原、朔方、上郡太守並力而北。冀因聖帝威神,一舉平定。臣國成敗,要在今年,已敕諸部嚴兵馬,唯裁哀省察!」太后以示耿秉。秉上言:「昔武帝單極天下,欲臣虜匈奴,未遇天時,事遂無成。今幸遭天授,北虜分爭,以夷伐夷,國家之利,宜可聽許。」 秉因自陳受恩,分當出命效用。太后議欲從之。尚書宋意上書曰:「夫戎狄簡賤禮義,無有上下,強者為雄,弱即屈服。自漢興以來,征伐數矣。其所克獲,曾不補害。光武皇帝躬服金革之難,深昭天地之明,故因其來降,羈縻畜養,邊民得生,勞役休息,於茲四十餘年矣。 |
現代語訳(『資治通鑑』抜粋)彼の行うことは、いつも形式上は竇彪に上奏させ、内実では皇太后に報告し、何事も聞き入れられなかった。竇彪が職にある間は自らの身を修めるだけで、朝廷を正すことができなかった。竇憲の性格は果断で短気であり、睨み合ったような小さな恨みでも必ず復讐した。永平年間に謁者であった韓紆が竇憲の父・竇勲を取り調べたことがあり、竇憲は配下を遣わして韓紆の息子を斬らせ、その首で父の墓前に供えさせた。 癸亥(十日の干支)、陳王劉羨、彭城王劉恭、楽成王劉党、下邳王劉衍、梁王劉暢が初めて封国へ赴いた。 夏四月戊寅(二十五日?)に遺詔により郡国の塩鉄専売を廃止し、民衆の自由な製塩・鋳銭を許可した。 五月、都で旱魃があった。 北匈奴は飢饉と内乱が起き、南匈奴へ投降する者が毎年数千人に及んだ。秋七月、南単于が上奏して言うには「今こそ北虜(北匈奴)の分裂争いに乗じ、討伐軍を派遣すべきです。北を破り南を成し、一つにまとめて漢王朝が北方憂いなくせるようにしましょう。私は成長したのも漢地で、口を開けば施され、毎年億万もの恩賞を受けています。安座しているのは報恩の義に恥じます。国中の兵力と諸部族の旧胡・新降精鋭軍を分派し出撃させ、十二月には敵地へ集結させる所存です。しかし我が兵は少なく内外防衛も不安なので執金吾耿秉、度遼将軍鄧鴻らに西河・雲中などの太守と共に出陣願いたい。聖帝の威光で一挙平定を図りたい。わが国運の成否は今年にかかっており、諸部族へ出兵準備を命じました。どうか哀れみお聞き届けください」と。 皇太后は耿秉に見せたところ「昔武帝が天下を傾けて匈奴臣従させようとしたものの時を得ず失敗しました。今まさに天与の好機、『夷をもって夷を伐つ』は国家の利益です」と賛成意見を述べ、自ら出陣志願した。 皇太后は採用しようとしたが尚書宋意が上書して反論した「戎狄(北方民族)は礼義を知らず力で強弱決します。漢建国以来征伐繰り返しても損失補えず、光武帝の英断により降伏者を懐柔し養護し四十年も平和維持できたのです」。 解説【歴史的背景】
【政策的焦点】
【人物評】
【文章表現の特徴】
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| 今鮮卑奉順,斬獲萬數,中國坐享大功,而百姓不知其勞。漢興功烈,於斯為盛。所以然者,夷虜相攻,無損漢兵者也。臣察鮮卑侵伐匈奴,正是利其抄掠;及歸功聖朝,實由貪得重賞。今若聽南虜還都北庭,則不得不禁制鮮卑。鮮卑外失暴掠之願,內無功勞之賞,豺狼貪婪,必為邊患。今北虜西遁,請求和親,宜因其歸附,以為外扞,巍巍之業,無以過此。若引兵費賦,以順南虜,則坐失上略,去安即危矣。誠不可許。」 會齊殤王子都鄉侯暢來吊國憂,太后數召見之,竇憲懼暢分宮省之權,遣客刺殺暢於屯衛之中,而歸罪於暢弟利侯剛,乃使侍御史與青州刺史雜考剛等。尚書穎川韓稜以為「賊在京師,不宜捨近問遠,恐為奸臣所笑。」太后怒,以切責稜,稜固執其議。何敞說宋由曰:「暢宗室肺府,茅土籓臣,來吊大憂,上書須報,親在武衛,致此殘酷。奉憲之吏,莫適討捕,蹤跡不顯,主名不立。敞備數股肱,職典賊曹,欲親至發所,以糾其變。而二府執事以為故事:三公不與賊盜。公縱奸慝,莫以為咎。敞請獨奏案之。」由乃許焉。二府聞敞行,皆遣主者隨之。於是推舉,具得事實。太后怒,閉憲於內宮。憲懼誅,因自求擊匈奴以贖死。冬,十月,乙亥,以憲為車騎將軍,伐北匈奴,以執金吾耿秉為副。發北軍五校、黎陽、雍營、緣邊十二郡騎士及羌、胡兵出塞。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)今、鮮卑は恭順の意を示し、数万を斬獲したが、中国側は労せずして大功を得ており、民衆には苦労を知らされていない。漢王朝の功績としてこれほどの盛況はない。しかしこれは夷狄同士が争い、漢軍に損害が出なかったからだ。臣が観察するに、鮮卑が匈奴を攻めたのは略奪目的であり、聖朝(漢)への帰属を称えるのも厚恩欲しさである。もし南匈奴を北辺に戻せば、鮮卑の行動を制限せざるを得なくなる。すると鮮卑は外部での暴掠の機会を失い、内部では報奨も得られず、貪欲な豺狼(残忍な者)として必ず国境で害をなすだろう。 一方、北匈奴が西方へ逃れ和親を求めてきた今こそ、彼らの帰順を受け入れ外部の防壁とすべきだ。これ以上に壮大な事業はない。もし兵力や財貨を費やして南匈奴の要求に応じれば、最善の戦略を見失い、安定から危険へ転落する。決して許すべからず。 この時、斉殤王(劉石)の子である都郷侯・暢が国喪への弔問に訪れた。竇太后は彼を度々召したため、実権掌握者の竇憲は自らの宮中での影響力が削がれることを恐れ、刺客を放って屯衛(宿営地)で暢を暗殺し、罪を暢の弟・利侯剛に着せた。侍御史と青州刺史に命じて剛らを取り調べさせると、尚書・潁川出身の韓稜が「賊は都内にいるのに遠方の者を尋問するのは不合理で、奸臣の笑いものになる」と反論した。太后は激怒して韓稜を叱責したが、彼は自説を貫いた。 さらに何敞が宋由(宰相)へ進言:「暢は皇室一族であり諸侯として国喪に参じ、上書も待機中だったのに親衛兵の駐屯地で殺害された。責任官庁は犯人逮捕さえせず真相も不明だ。臣は賊曹担当として現場検証し不正を正したいが、二府(丞相府・御史大夫府)が『三公は盗賊事件に関与しない』と旧例を理由に妨げている。このままでは奸悪を見逃す罪となります」と述べると宋由は許可した。 二府も何敞の動きを知り担当者を同行させたため、調査で全容が明らかになった。太后は激怒し竇憲を後宮に監禁。死を恐れた憲は匈奴討伐での罪滅ぼしを自願する。冬十月乙亥(日付)、憲を車騎将軍とし北匈奴征伐に向かわせ、執金吾・耿秉を副官とした。北軍五校尉・黎陽営・雍営・辺境十二郡の騎兵及び羌族・胡族部隊を動員して国境外へ出撃させた。 解説【歴史的背景】
【政治的意図】
【言語的特徴】
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| 公卿舉故張掖太守鄧訓代張紆為護羌校尉。迷唐率兵萬騎來至塞下,未敢攻訓,先欲脅小月氏胡。訓擁衛小月氏胡,令不得戰。議者鹹以羌、胡相攻,縣官之利,不宜禁護。訓曰:「張紆失信,眾羌大動,涼州吏民,命縣絲發。原諸胡所以難得意者,皆恩信不厚耳。今因其追急,以德懷之,庶能有用。」遂令開城及所居園門,悉驅群胡妻子內之,嚴兵守衛。羌掠無所得,又不敢逼諸胡,因即解去。由是湟中諸胡皆言:「漢家常欲鬥我曹;今鄧使君待我以恩信,開門內我妻子,乃是得父母也!」鹹歡喜叩頭曰:「唯使君所命!」訓遂撫養教諭,小大莫不感悅。於是賞賂諸羌種,使相招誘,迷唐叔父號吾將其種人八百戶來降。訓因發湟中秦、胡、羌兵四千人出塞,掩擊迷唐於寫谷,破之,迷唐乃去大、小榆,居頗巖谷,眾悉離散。 漢孝和皇帝上 孝和皇帝上永元元年(己丑,公元八九年) 春,迷唐欲復歸故地。鄧訓發湟中六千人,令長史任尚將之,縫革為船,置於箄上以渡河,掩擊迷唐,大破之,斬首前後一千八百餘級,獲生口二千人,馬牛羊三萬餘頭,一種殆盡。迷唐收其餘眾西徙千餘里,諸附落小種皆畔之。燒當豪帥東號稽顙歸死,餘皆款塞納質。於是訓綏接歸附,威信大行,遂罷屯兵,各令歸郡,唯置弛刑徒二千餘人,分以屯田、修理塢壁而已。 |
現代日本語訳公卿たちは元張掖太守の鄧訓を推挙し、張紆に代わって護羌校尉とした。迷唐(ミートン)が兵一万騎を率いて国境付近まで来たが、鄧訓を攻撃できず、まず小月氏(しょうげっし)の胡人を脅そうとした。鄧訓は小月氏の胡人を守護し、争いを禁じた。議論する者は皆「羌と胡が戦えば漢王朝にとって有利なのに、保護すべきではない」と言ったが、鄧訓は言った。「張紆が信義を失ったため諸羌族が大いに動揺し、涼州の役人や民衆の命は風前の灯火だ。そもそも胡人が手懐けにくいのは恩恵と信用が足りないからである。今こそ彼らが追い詰められている時節に徳をもって接すれば、おそらく有用となろう」と。そこで城門や居住区の門を開かせ、胡人の妻子たちをことごとく中に入れ、厳重に守備させた。羌族は略奪できず、胡人を威圧することもできなかったため撤退した。 これにより湟中の諸胡族は言った。「漢王朝はいつも我々を争わせようとするが、今や鄧使君(長官)は恩義と信頼をもって接し、門を開いて妻子を受け入れてくれた。これは父母を得たようなものだ!」皆喜んで額づき「ただ使君の命令に従います」と言った。鄧訓は養育し教化したので、老いも若きも感銘を受けた。そこで諸羌族へ褒美を与えつつ互いに誘導させると、迷唐の叔父・号吾が配下八百戸を率いて降伏した。 鄧訓は湟中の秦人(漢化民)、胡人、羌兵四千人を動員し国境を越えて写谷で迷唐を急襲して撃破。迷唐は大榆谷・小榆谷から退き頗巖谷に移ったが配下は離散した。 孝和皇帝紀(上)永元元年(己丑、89年) 春、故地奪還を図る迷唐に対し、鄧訓は湟中兵六千を派遣。長史・任尚に率いさせ革船を作って筏に載せ黄河渡河作戦を決行。迷唐軍を急襲して大勝し(前後1800余の首級、捕虜2000人、家畜3万頭を獲得)、羌族一種はほぼ全滅した。迷唐は残兵を集め西方へ千里退去し、従属部族も離反。豪帥・東号が額づき謝罪して帰順すると他部族も相次いで降伏。 鄧訓は帰順者を手厚く遇し威信を確立。駐屯軍を解散させ各郡へ帰還させる一方、刑徒二千人だけを残し開墾や砦修復にあたらせた。 解説■ 歴史的意義 - 「恩信」政策の実践:鄧訓は前任者・張紡の失政(武力鎮圧優先)を反面教師とし、異民族統治に「徳化」(懐柔策)を取り入れた。当時の漢王朝が直面した羌族問題に対し、「威圧→同化」から「保護→共存」への転換点を示す。 - 軍事経済効果:迷唐討伐後、大規模駐屯軍を削減(財政負担軽減)。刑徒による開墾は辺境開発の新モデルとなり、後の屯田制発展に影響。 ■ 戦術分析 1. 「門戸解放」心理作戦:胡人妻子保護は「安全保証」という実利を与えつつ、「漢=庇護者」との認識を植え付けた。 2. 異民族混成部隊の活用:秦・胡・羌兵による編成は、帰順部族への信頼表明であり兵力効率化でもあった。 3. 革船渡河作戦:遊牧地帯での機動戦に適応した創意(皮革使用は現地調達可能)。敵の予想外からの奇襲を成功させた。 ■ 人物評 - 鄧訓:「恩威並行」の妙を見せた名将。胡人から「父母」と称される統治は、『三国志』諸葛亮の南蛮政策にも通じる。 - 迷唐:敗因を追うと①戦略的視野欠如(小月氏攻撃失敗で士気低下)②地形活用不足(渡河点防衛不備)。遊牧勢力の限界を示す。 ■ 現代への示唆 辺境統治の成否は軍事力より「信頼構築」にあること、異文化集団を「脅威→資源」へ転換する政策設計が重要であることをこの史実は伝える。特に民族問題解決における「保護者の論理」(開門受け入れ)と「共同利益創出」(屯田参加)の二重戦略は現代行政にも応用可能なモデルと言えよう。 (注)原文『資治通鑑』巻47より。本訳では漢字表記を常用漢字に統一し、固有名詞には現地音を併記した。 Translation took 1087.8 seconds. |
| 竇憲將征匈奴,三公、九卿詣朝堂上書諫,以為:「匈奴不犯邊塞,而無故勞師遠涉,損費國用,徼功萬里,非社稷之計。」書連上,輒寢,宋由懼,遂不敢復署議,而諸卿稍自引止。唯袁安、任隗守正不移,至免冠朝堂固爭,前後且十上,眾皆為之危懼,安、隗正色自若。侍御史魯恭上疏曰:「國家新遭大憂,陛下方在諒陰,百姓闕然,三時不聞警蹕之音,莫不懷思皇皇,若有求而不得。今乃以盛春之月興發軍役,擾動天下,以事戎夷,誠非所以垂恩中國,改元正時,由內及外也。萬民者,天之所生;天愛其所生,猶父母愛其子,一物有不得其所,則正氣為之舛錯,況於人乎!故愛民者必有天報。夫戎狄者,四方之異氣,與鳥獸無別;若雜居中國,則錯亂天氣,污辱善人,是以聖王之制,羈縻不絕而已。今匈奴為鮮卑所破,遠藏於史侯河西,去塞數千里,而欲乘其虛耗,利其微弱,是非義之所出也。今始征發,而大司農調度不足,上下相迫,民間之急,亦已甚矣。群僚百姓鹹曰不可,陛下獨奈何以一人之計,棄萬人之命,不恤其言乎!上觀天心,下察人志,足以知事之得失。臣恐中國不為中國,豈徒匈奴而已哉!」尚書令韓稜、騎都尉朱暉、議郎京兆樂恢,皆上疏諫,太后不聽。又詔使者為憲弟篤、景並起邸第,勞役百姓。侍御史何敞上疏曰:「臣聞匈奴之為桀逆久矣,平城之圍,慢書之恥,此二辱者,臣子所謂捐軀而必死,高祖、呂後忍怒還忿,捨而不誅。 |
現代日本語訳:竇憲が匈奴征伐を計画した際、三公や九卿らは朝廷に赴き上奏して諫めた。「匈奴は辺境を侵しておらず、理由なく軍勢を疲弊させ遠征を行い、国家の財用を損ない、万里のかなたで功名を求めるのは、国益に適う策ではありません」と。上書が重ねて提出されたが、ことごとく握り潰されていた。宋由は恐れをなして署名することを止めると、他の高官たちも次第に諫言を取り下げた。 ただ袁安と任隗だけは信念を貫き、朝廷で冠を脱いで強硬に反対した。前後十度も上奏し、周囲が危惧する中でも彼らは毅然とした態度を崩さなかった。侍御史の魯恭は上疏して言う。「国家は先帝の喪(大憂)に服しておりますのに、陛下は諒闇(喪中の謹慎期間)にあるにも関わらず、民衆は物足りなさを感じております。三度の季節が巡っても警蹕(皇帝出行時の清め)の音も聞こえず、誰しも不安で満たされない思いです。このような時に盛春の月に軍事動員を行い天下を騒がせ、夷狄との戦いに明け暮れるのは、まことに国内へ恩恵を施す道にも、改元して時勢を正す道理(由内及外)にも反します。 万民は天が生み出した存在です。天がその生みし者を愛するのは、ちょうど父母が子を愛するようなものです。一事でも理に適わぬことがあれば天地の気は乱れます。ましてや人の世においてなおさらでしょう!ゆえに民を慈しむ者は必ず天の報いを受けるのです。 そもそも戎狄(北方異民族)とは四方の邪気であり、鳥獣と変わりありません。もし中国内地に雑居すれば天地の調和が乱れ、善良な人々を辱めることになります。それゆえ聖王は彼らを緩やかに繋ぎ止めるだけでした。 今、匈奴は鮮卑に敗れて遠く史侯河の西に逃げ隠れ、塞(国境)から数千里も離れています。その疲弊と弱体化につけ込むのは、決して道義に適った行いとは言えません。しかも今や兵を動員しようというのに大司農(財政担当官)の手配が追いつかず、上層部と民衆は互いに逼迫し合い民間の困窮は極限に達しています。 官僚から庶民まで皆『不可』と言う中で、陛下はどうして一人(竇憲)の献策のために万人の命を棄て、彼らの訴えを顧みられないのですか?天意を見上げ人々の志を察すれば、事の得失が明らかでしょう。臣が恐れるのは『中国たる所以』が失われることであって、単なる匈奴問題では済まされません!」 尚書令の韓稜・騎都尉の朱暉・議郎京兆出身の楽恢も相次いで上疏したが、太后(竇太后)は聞き入れなかった。さらに詔勅によって竇憲の弟である篤や景のために邸宅を造営させて民衆に労役を強いた時、侍御史何敞はこう上奏した。 「かねてより匈奴の凶逆さは承知しております。平城の包囲(高祖の屈辱)や冒頓単于からの侮蔑書簡(呂后への侮辱)——この二つの恥こそ臣下が命を賭して雪ぐべきものでありましたのに、高祖も呂后も怒りを堪えて誅伐を見送られたのです」 解説:【歴史的背景】 - 後漢章帝の時代(88年頃)、外戚である竇憲が匈奴征伐を強行しようとした事件 - 『資治通鑑』巻47・漢紀39に記載される、儒教的な反戦論の典型例 【核心的価値観】
【現代性】 【訳出方針】 Translation took 1216.3 seconds. |
| 今匈奴無逆節之罪,漢朝無可慚之恥,而盛春東作,興動大役,元元怨恨,鹹懷不悅。又猥復為衛尉篤、奉車都尉景繕修館第,彌街絕裡。篤、景親近貴臣,當為百僚表儀。今眾軍在道,朝廷焦脣,百姓愁苦,縣官無用,而遽起大第,崇飾玩好,非所以垂令德、示無窮也。宜且罷工匠,專憂北邊,恤民之困。」書奏,不省。 竇憲嘗使門生繼書詣尚書僕射郅壽,有所請托,壽即送詔獄,前後上書,陳憲驕恣,引王莽以誡國家;又因朝會,刺譏憲等以伐匈奴、起第宅事,厲音正色,辭旨甚切。憲怒,陷壽以買公田、誹謗,下吏,當誅,何敝上疏曰:「壽機密近臣,匡救為職,若懷默不言,其罪當誅。今壽違眾正議以安宗廟,豈其私邪!臣所以觸死瞽言,非為壽也。忠臣盡節,以死為歸;臣雖不知壽,度其甘心安之。誠不欲聖朝行誹謗之誅,以傷晏晏之化,杜塞忠直,垂譏無窮。臣敞謬與機密,言所不宜,罪名明白,當填牢獄,先壽僵仆,萬死有餘。」書奏,壽得減死論,徙合浦,未行,自殺。壽,惲之子也。 夏,六月,竇憲、耿秉出朔方雞鹿塞,南單于出滿夷谷,度遼將軍鄧鴻出□固陽塞,皆會涿邪山。憲分遣副校尉閻盤、司馬耿夔、耿譚將南匈奴精騎萬餘,與北單于戰於稽洛山,大破之,單于遁走。追擊諸部,遂臨私渠北鞮海,斬名王以下萬三千級,獲生口甚眾,雜畜百餘萬頭,諸裨小王率眾降者,前後八十一部二十餘萬人。 |
現代日本語訳現在、匈奴には背信の罪がなく、漢王朝にも恥じるべき失態はないのに、春の農繁期に大規模な軍事行動を起こし、民衆は怨み、皆が不満を抱いている。さらに衛尉・竇篤と奉車都尉・竇景のために屋敷を増築させており、その広さは道路や裏通りまで遮っている。竇篤らは皇帝に近い高官として百官の模範となるべき立場にある。今、軍隊が遠征中で朝廷も疲弊し、民衆は苦しみ、国庫は空っぽなのに、急ぎ豪邸を建てさせ珍玩で飾るとは──これは徳を示し永続を誓う行為ではない。工事を中止して北方防衛に専念し、民の困窮を救うべきだ。」上奏したが聞き入れられなかった。 竇憲はかつて門生を使者として尚書僕射・郅寿のもとに送り私的な依頼を行ったが、郅寿は即座に使者を詔獄へ投獄した。さらに度々上書し「竇憲の驕慢」を弾劾して王莽の例を引き国家を誡めるとともに、朝議では匈奴征伐と邸宅造営を痛烈に批判し、厳しい口調で核心をついた諫言を行った。激怒した竇憲は「公田横領」「誹謗罪」で郅寿を陥れ処刑が決まったが、何敝が上疏して抗弁した。「郅寿は機密担当の近臣として補佐が任務です。諫めず黙っていればこそ死罪に値します。今、彼が衆議に逆らい宗廟(朝廷)を守ろうとしたのは私利ではない!臣が死を覚悟で妄言するのも郅寿個人のためではなく『忠臣は節を尽くし死をもって責務とす』という道理ゆえです。たとえ彼と親しくなくとも、本心からそう信じているでしょう。聖朝が誹謗罪で人を殺せば平和な治世に傷つき、忠言の道を塞ぎ後世まで非難されます。臣は機密に関わる身でありながら越権発言した明らかな罪名があるゆえ、郅寿より先に牢獄で死すべきです。」上奏により郅寿は死刑を減じられ合浦へ流刑となったが、出立前に自害した。(※郅寿はかつて光武帝の諫臣・郅惲の子である) 同年夏六月、竇憲と耿秉が朔方郡・鶏鹿塞から、南匈奴単于が満夷谷から、度遼将軍・鄧鴻が稒陽塞(□は「稒」の欠字か)から出撃し涿邪山で合流。副校尉・閻盤と司馬の耿夔・耿譚に命じ南匈奴精鋭騎兵万余を率いさせ、北単于との稽洛山での戦闘で大勝。単于は敗走し、追撃して私渠北鞮海まで進軍した。名王以下1万3千級を斬首し捕虜・家畜百余万頭を鹵獲。配下の小王81部族20万余が相次いで降伏した。 解説【歴史的意義】本節は『資治通鑑』後漢紀における竇氏外戚専横期(西元89年前後)の核心的場面を収録する。特徴的な三重構造:
【言語表現】
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| 憲、秉出塞三千餘里,登燕然山,命中護軍班固刻石勒功,紀漢威德而還。遣軍司馬吳汜、梁諷奉金帛遺北單于,時虜中乖亂,汜、諷及單于於西海上,宣國威信,以詔致賜,單于稽首拜受。諷因說令修呼韓邪故事,單于喜悅,即將其眾與諷俱還;到私渠海,聞漢軍已入塞,乃遣弟右溫禺鞮王奉貢入侍,隨諷詣闕。憲以單于不自身到,奏還其侍弟。 秋,七月,乙未,會稽山崩。 九月,庚申,以竇憲為大將軍,中郎將劉尚為車騎將軍,封憲武陽侯,食邑二萬戶;憲固辭封爵,詔許之。舊,大將軍位在三公下,至是,詔憲位次太傅下、三公上;長史、司馬秩中二千石。封耿秉為美陽侯。竇氏兄弟驕縱,而執金吾景尤甚,奴客緹騎強奪人財貨,篡取罪人,妻略婦女。商賈閉塞,如避寇仇。又擅發緣邊諸郡突騎有才力者,有司莫敢舉奏,袁安劾景「擅發邊兵,驚惑吏民;二千石不待符信而輒承景檄,當伏顯誅。」又奏「司隸校尉河南尹阿附貴戚,不舉劾,請免官案罪。」並寢不報。駙馬都尉瑰,獨好經書,節約自修。 尚書何敞上封事曰:「昔鄭武姜之幸叔段,衛莊公之寵州吁,愛而不教,終至凶戾。由是觀之,愛子若此,猶饑而食之以毒,適所以害之也。伏見大將軍憲,始遭大憂,公卿比奏,欲令典干國事。憲深執謙退,固辭盛位,懇懇勤勤,言之深至,天下聞之,莫不悅喜。 |
翻訳文竜騎大将軍である竇憲と耿秉は国境を越えて三千余里進み、燕然山に登った。中護軍の班固に命じて石碑を刻ませ戦功を記録し、漢王朝の威徳を示して帰還した。その後、軍司馬の呉汜(ごし)と梁諷(りょうふう)を使者として北匈奴単于のもとに金品や絹織物を持たせ派遣する。当時北方民族は内紛状態にあったため、使者たちは西海付近で単于と面会した。漢王朝の威信を宣伝し詔書をもって賜りものを贈ると、単于は地に頭をつけて恭しく受け取った。梁諷が「かつて呼韓邪単于(こかんやぜんう)が行ったように(漢へ帰順する)先例にならうよう」と勧めると、単于は喜び配下を率いて梁諷と共に南下した。私渠海付近まで来たところで漢軍が国境に入ったとの情報を得て、弟の右温禺鞮王(うおくていおう)を使者として貢物を持参させるとともに人質として同行させるよう手配し、梁諷と共に都へ向かわせた。しかし竇憲は単于自身が来朝しないことに不満を抱き、「弟の人質は返還すべきだ」と上奏した。 秋季七月乙未の日(8月17日頃)、会稽山で大規模な地滑りが発生する。 九月庚申の日(10月11日頃)、朝廷は竇憲を大将軍に任命し、中郎将劉尚を車騎將軍とした。さらに竇憲には武陽侯の爵位と二万戸の領地を与えたが、彼は固辞したため詔書で許可された。従来、大将軍の序列は三公(最高官職)より下だったが、今回は太傅の次・三公よりも上に置かれる特例措置となった。配下の長史や司馬も年俸二千石という破格の待遇を与えられた。耿秉にも美陽侯の爵位を授けた。 竇一族は驕慢な振る舞いが目立つ中、特に執金吾(近衛司令官)である弟の竇景が暴虐を極めた。配下の役人や私兵が公然と財物を強奪し罪人を勝手に釈放、婦女への乱暴も横行したため商人らは賊から逃れるように避けるありさまだった。さらに国境警備部隊の精鋭騎兵を無断動員するなど専横が続いたが、役人は誰も告発できなかった。 これに対し司徒袁安(えんあん)は弾劾上奏を行った。「竇景は辺境軍を私的に動かして官民を恐怖に陥れています。郡太守らが兵符なしで彼の命令に従うのは死罪相当です」。さらに「司隸校尉と河南尹(監察官)が貴族におもねって不正を見逃している」とも追及し罷免を求めたが、これらの上奏は握り潰された。 一方、駙馬都尉の竇瑰だけは経書(古典)を好み節度ある行動に努めていた。 尚書何敞(かしょう)は密封上疏で警告した。「昔、鄭武公夫人が叔段を溺愛し衛荘公が州吁を寵愛した例のように、愛情だけで教えなければ凶事を招きます。竇憲大将軍は当初、先帝崩御の悲しみの中でも国政参加を勧める上奏に謙虚に辞退され、誠実な態度で国民から敬慕されました(しかし今や一族が暴走している)。子への愛としてこれほど危険なものはありません。毒を与える飢えた者と同じく害するだけです」。 解説
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| 今逾年未幾,大禮未終,卒然中改,兄弟專朝,憲秉三軍之重,篤、景總宮衛之權,而虐用百姓,奢侈僭逼,誅戳無罪,肆心自快。今者論議哅哅,鹹謂叔段、州吁復生於漢。臣觀公卿懷持兩端,不肯極言者,以為憲等若有匪懈之志,則已受吉甫褒申伯之功;如憲等陷於罪辜,則自取陳平、周勃順呂後之權,終不以憲等吉凶為憂也!臣敞區區誠欲計策兩安,絕其綿綿,塞其涓涓,上不欲令皇太后損文母之號、陛下有誓泉之譏,下使憲等得長保其福祐也。駙馬都尉瑰,比請退身,願抑家權,可與參謀,聽順其意,誠宗廟至計,竇氏之福!」時濟南王康尊貴驕甚,憲乃白出敞為濟南太傅。康有違失,敞輒諫爭,康雖不能從,然素敬重敞,無所嫌牾焉。 冬,十月,庚子,阜陵質王延薨。 是歲,郡國九大水。 孝和皇帝上永元二年(庚寅,公元九零年) 春,正月,丁丑,赦天下。 二月,壬午,日有食之。 夏,五月,丙辰,封皇弟壽為濟北王,開為河間王,淑為城陽王;紹封故淮南頃王子側為常山王。 竇憲遣副校尉閻盤將二千餘騎掩擊北匈奴之守伊吾者,復取其地。車師震懾,前、後王各遣子入侍。 月氏求尚公主,班超拒還其使,由是怨恨,遣其副王謝將兵七萬攻超。超眾少,皆大恐;超譬軍士曰:「月氏兵雖多,然數千里逾蔥嶺來,非有運輸,何足憂邪!但當收谷堅守,彼饑窮自降,不過數十日決矣!」謝遂前攻超,不下,又鈔掠無所得。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)このたび年も経ず、先帝の喪中にもかかわらず突然の方針転換がありました。兄弟が朝廷を独占し、竇憲は三軍の兵権を握り、竇篤と竇景は宮中の守備を掌握しています。彼らは民衆を虐げ、贅沢で身分を超え、罪なき者を誅殺し、心のままに振る舞っております。今や巷では噂が飛び交い、「鄭の叔段や衛の州吁(春秋時代の謀反人)が漢代によみがえった」と申しております。 臣下である私は公卿たちが日和見的な態度で、敢えて直言しないのはこう考えるからでしょう——もし竇憲らに忠誠心があれば、かつて吉甫が申伯を褒めたような功績として称賛されるだろうし、逆に彼らが罪を犯せば陳平や周勃が呂后の権勢に順ったように自滅するだけだと。いずれにせよ竇憲らの命運など気にかけていません!私はただ両者を安泰にする策を願い、絶え間ない禍根を断ち、滴り落ちる悪意を防ぎたいのです。上は皇太后の「文母」と称される名声を損なわせず陛下に背信者の汚名を着せず、下は竇憲らが永く福を受けられるように。 駙馬都尉・鄧瑰(とうかい)は近ごろ自ら退くことを願い、「家門の権勢を抑えよ」と申しております。彼に参画させその意見を聞けば、宗廟のための最善策となり竇氏の福となるでしょう。 この時、済南王・劉康が尊大で横暴であったため、竇憲は何敞(かしょう)を左遷して済南太傅とした。しかし劉康に過失があると何敞は必ず諫言し、彼は従わぬものの厚く敬意をもって接したので、両者に対立は生じなかった。 冬十月庚子、阜陵質王・劉延が薨去した。 この年、九つの郡国で大洪水が発生した。 永元二年(庚寅・90年)春正月丁丑、天下に赦令が出された。 二月壬午、日食があった。 夏五月丙辰、皇弟の劉寿を済北王、劉開を河間王、劉淑を城陽王に封じる。故・淮南頃王の子である劉側を常山王として再封した。 竇憲は副校尉・閻盤(げんばん)に二千騎を与え伊吾盧(いごろ)を守備する北匈奴を奇襲させ、同地を奪還した。これにより車師国が震え上がり、前王と後王が王子を人質として差し出した。 月氏国は公主との婚姻を求めたが班超が使者を追い返すと、怨恨を持った副王・謝(しゃ)が七万の兵で攻め寄せた。兵力に劣る漢軍は恐慌状態となったが、班超は「敵は多勢でも葱嶺(パミール高原)越えで糧秣もない。穀物を守り耐えれば飢えて降伏する」と鼓舞した。副王・謝の攻撃は失敗し略奪もできず、予言通り数十日で撤退した。 解説
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| 超度其糧將盡,必從龜茲求食,乃遣兵數百於東界要之。謝果遣騎繼金銀珠玉以賂龜茲,超伏兵遮擊,盡殺之,持其使首以示謝。謝大驚,即遣使請罪,願得生歸,超縱遣之。月氏由是大震,歲奉貢獻。 初,北海哀王無後,肅宗以齊武王首創大業而後嗣廢絕,心常愍之,遺詔令復齊、北海二國。丁卯,封蕪湖侯無忌為齊王,北海敬王庶子威為北海王。 六月,辛卯,中山簡王焉薨。焉,東海恭王之母弟,而竇太后,恭王之甥也;故加賻錢一億,大為修塚塋,平夷吏民塚墓以千數,作者萬餘人,凡征發搖動六州十八郡。 詔封竇憲為冠軍侯,篤為郾侯,瑰為夏陽侯;憲獨不受封。 秋,十月,乙卯,竇憲出屯涼州,以侍中鄧疊行征西將軍事為副。 北單于以漢還其侍弟,九月,復遣使款塞稱臣,欲入朝見。冬十月,竇憲遣班固、梁諷迎之。會南單于復上書求滅北庭,於是遣左谷蠡王師子等將左右部八千騎出雞鹿塞,中郎將耿譚遣從事將護之,襲擊北單于。夜至,圍之,北單于被創,僅而得免,獲閼氏及男女五人,斬首八千級,生虜數千口。班固至私渠海而還。是時,南部黨眾益盛,鄰戶三萬四千,勝兵五萬。 孝和皇帝上永元三年(辛卯,公元九一年) 春,正月,甲子,帝用曹褒新禮,加元服;擢褒監羽林左騎。 竇憲以北匈奴微弱,欲遂滅之,二月,遣左校尉耿夔、司馬任尚出居延塞,圍北單于於金微山,大破之,獲其母閼氏、名王以下五千餘級,北單于逃走,不知所在,出塞五千餘里而還,自漢出師所未嘗至也。 |
現代日本語訳:班超は敵軍の兵糧が尽きかけていることを見抜き、必ず亀茲国に食糧を求めてくるだろうと予測した。そこで数百の兵士を東の境界で待ち伏せさせた。果たして謝(月氏の将)は騎兵を遣わし、金銀や珠玉を持って亀茲へ贈賄しようとしたが、班超の伏兵に遮られ全滅した。使者たちの首級を謝に見せると、彼は大いに驚き、すぐに罪を詫びる使者を送り「命だけは助けてほしい」と懇願したため、班超はこれを解放して帰らせた。この事件以来、月氏国は深く畏れを抱き、毎年貢物を献上するようになった。 初め北海哀王に後継者がおらず、肅宗(章帝)は「斉武王が大業を創始しながら子孫が絶えたのは不憫だ」と常々考えていた。遺詔で斉・北海の二国復興を命じたため、丁卯の日に蕪湖侯・劉無忌を斉王に、北海敬王の庶子である威(劉威)を北海王に封じた。 六月辛卯、中山簡王劉焉が薨去した。彼は東海恭王の同母弟であり、竇太后は恭王の姪にあたるため、葬儀費用として一億銭を特別支給し、墓所を大規模に整備させた。この工事で官吏や民衆の墓地千ヶ所以上が破壊され、動員された労役者は一万余人、六州十八郡全体が揺り動かされる騒ぎとなった。 詔により竇憲は冠軍侯に、竇篤は郾侯に、竇瑰は夏陽侯に封ぜられた。ただし竇憲だけは封を受けることを固辞した。 秋十月乙卯、竇憲が涼州へ駐屯し出発する際、侍中・鄧疊を行征西将軍事(代理)として副官とした。 北匈奴の単于は漢が弟を返還したため九月に再び使者を送り「臣下となり朝貢したい」と申し入れた。冬十月、竇憲は班固と梁諷を迎えの使者として派遣する一方、南匈奴から「北匈奴討伐を許可してほしい」との上書が届いたため、左谷蠡王・師子らに騎兵八千を率いさせて鶏鹿塞(関所)から出撃させた。中郎将耿譚の指揮する部隊も協力し夜襲をかけた結果、北単于は重傷を負い辛うじて逃走したものの、閼氏(王妃)や男女五人を捕らえ八千の首級と数千人の捕虜を得た。班固は私渠海まで進軍して引き返した。この時点で南匈奴勢力は飛躍的に拡大し、三万四千戸・兵五万を擁するまでになっていた。 孝和皇帝(和帝)永元三年(辛卯年/西暦91年) 春正月甲子、皇帝が曹褒の制定した新礼に則り元服の儀を行い、彼を羽林左騎監に抜擢した。 竇憲は北匈奴が弱体化していると見て一気に滅ぼそうと考えた。二月、左校尉耿夔や司馬任尚らを居延塞から出撃させ金微山で北単于を包囲し大勝を得た。母后の閼氏や名王(貴族)以下五千級余りを捕虜とし、北単于は行方知れずとなった。漢軍は国境から五千里以上も進撃したが、これは前代未聞の遠征距離だった。 解説:
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| 封夔為粟邑侯。 竇憲既立大功,威名益盛,以耿夔、任尚等為爪牙,鄧疊、郭璜為心腹,班固、傅毅之徒典文章,刺史、守、令,多出其門,競賦斂吏民,共為賂遺。司徒袁安、司空任隗舉奏諸二千石並所連及,貶秩免官者四十餘人,竇氏大恨;但安、隗素行高,亦未有以害之。尚書僕射樂恢,刺舉無所迴避,憲等疾之。恢上疏曰:「陛下富於春秋,纂承大業,諸舅不宜干正王室,以示天下之私。方今之宜,上以義自割,下以謙自引,四舅可長保爵土之榮,皇太后永無慚負宗廟之憂,誠策之上者也。」書奏,不省。恢稱疾乞骸骨,歸長陵;憲風厲州郡,迫脅恢飲藥死。於是朝臣震懾,望風承旨,無敢違者。袁安以天子幼弱,外戚擅權,每朝會進見及與公卿言國家事,未嘗不喑嗚流涕;自天子及大臣,皆恃賴之。 冬,十月,癸未,上行幸長安,詔求蕭、曹近親宜為嗣者,紹其封邑。 詔竇憲與車駕會長安。憲至,尚書以下議欲拜之,伏稱萬歲,尚書韓稜正色曰:「夫上交不諂,下交不黷;禮無人臣稱萬歲之制!」議者皆慚而止。尚書左丞王龍私奏記、上牛酒於憲,稜舉奏龍,論為城旦。 龜茲、姑墨、溫宿諸國皆降。十二月,復置西域都護、騎都尉、戊己校尉官。以班超為都護,徐幹為長史。拜龜茲侍子白霸為龜茲王,遣司馬姚光送之。超與光共脅龜茲,廢其王尤利多而立白霸,使光將尤利多還詣京師。 |
現代日本語訳耿夔(こうき)が粟邑侯に封じられる。 竇憲(とうけん)は大功を立てた後、その威勢がますます高まり、耿夔や任尚(じんしょう)らを手足のように使い、鄧疊(とうそう)と郭璜(かくおう)を腹心として登用した。班固(はんこ)や傅毅(ふき)といった文人たちには文書行政を担当させたため、刺史・太守・県令らの官職の多くが彼の縁故者で占められ、官吏と民衆から過剰に税を取り立てて贈賄資金とした。司徒(しと)袁安(えんあん)と司空(しくう)任隗(じんかい)は二千石クラスの高官らとその関連者を弾劾し、降格・免職となった者は四十名以上に及んだため、竇氏一族は激しく恨んだ。しかし袁安と任隗の清廉な人柄が広く知られていたため、害を加える手段もなかった。 尚書僕射(しょうしょぼくや)楽恢(らくかい)は不正を恐れず告発したので、竇憲らは彼を憎んだ。楽恢は上奏文で述べた。「陛下は若くして大業を受け継がれました。皇太后のご兄弟たちが王室に干渉すべきではありません。天下に私利を見せることなく、上位者は道義をもって自ら節制し、下位者は謙虚に退くのが適切です。そうすれば四侯(竇氏一族)も爵位と領地を永保でき、皇太后も祖先に対し恥じることのない最善策となります」。この上奏は無視されたため、楽恢は病を理由に辞職して故郷・長陵へ帰った。しかし竇憲が地方官庁に圧力をかけ、毒薬を飲むよう強要したので彼は死んだ。これにより朝廷の臣僚らは恐怖し、竇氏の意図を察知して従い、逆らう者は誰もいなくなった。 袁安は幼少の天子と外戚による専横を見て、朝議や公卿との政務談議の際には必ず声をつまらせ涙した。天子から大臣まで皆、彼への信頼を寄せていた。 冬十月癸未(じゅんび)の日、皇帝は長安に行幸し詔勅を発した。「蕭何(しょうか)と曹参(そうさん)の近親者で後継ぎにふさわしい人物を探し出せ。彼らの封地を受け継がせるように」。 竇憲に対し「車駕と長安で会え」との詔勅が下った。竇憲到着時、尚書以下の官僚らは跪拝して万歳を唱えようとしたが、尚書韓稜(かんりょう)が厳しく諫めた。「上位者へ媚びず、下位者へ驕らないのが礼の本質である。臣下が天子以外に万歳を称える制度など存在しない」。議論していた者らは恥じて止めた。しかし尚書左丞(さじょう)王龍(おうりゅう)が密かに献上品と牛酒を竇憲へ贈ると、韓稜はこれを弾劾し、王龍は城旦(刑徒の労役)に処された。 亀茲(きじ)、姑墨(こぼく)、温宿(おんしゅく)ら西域諸国が降伏した。十二月には西域都護・騎都尉・戊己校尉などの官職を復活させ、班超を都護、徐幹(じょかん)を長史に任命。亀茲から人質として来ていた白霸(はくは)を亀茲王とし、司馬姚光(ようこう)がこれを送り届けた。班超と姚光は共同で亗茲を威圧し、国王の尤利多(ゆうりた)を廃位して白霸を即位させると、姚光に命じて尤利多を都へ護送させた。 解説
※現代語訳にあたり、難読人名にはルビを付与せず、文脈で理解可能な範囲で漢字表記を統一しました。史書特有の簡潔文体は、主語補完や接続詞調整により自然な口語表現に変換しています。 Translation took 2767.7 seconds. |
| 超居龜茲它乾城,徐幹屯疏勒,惟焉耆、危須、尉犁以前沒都護,猶懷二心,其餘悉定。 庚辰,上至自長安。 初,北單于既亡,其弟右谷蠡王於除鞬自立為單于,將眾數千人止蒲類海,遣使款塞。竇憲請遣使立於除鞬為單于,置中郎將領護,如南單于故事。事下公卿議,宋由等以為可許;袁安、任隗奏以為:「光武招懷南虜,非謂可永安內地,正以權時之算,可得扞御北狄故也。今朔漠既定,宜令南單于反其北庭,並領降眾,無緣復更立於除鞬以增國費。」事奏,未以時定。安懼憲計遂行,乃獨上封事曰:「南單于屯先父舉眾歸德,自蒙恩以來四十餘年,三帝積累以遺陛下,陛下深宜遵述先志,成就其業,況屯首唱大謀,空盡北虜,輟而弗圖,更立新降;以一朝之計,違三世之規,失信於所養,建立於無功。《論語》曰:『言忠信,行篤敬,雖蠻貊行焉。』今若失信於一屯,則百蠻不敢復保誓矣。又,烏桓、鮮卑新殺北單于,凡人之情,鹹畏仇讎,今立其弟,則二虜懷怨。且漢故事,供給南單于,費直歲一億九十餘萬,西域歲七千四百八十萬;今北庭彌遠,其費過倍,是乃空盡天下而非建策之要地。」詔下其議,安又與憲更相難折。憲險急負執,言辭驕訐,至詆毀安,稱光武誅韓歆、戴涉故事,安終不移;然上竟從憲策。 |
現代日本語訳班超は亀茲の它乾城に駐屯し、徐幹は疏勒を守備した。ただ焉耆・危須・尉犁だけが以前に都護府(西域都護)を滅ぼしていたため未だ二心を持っており、その他の地域は全て平定された。 庚辰の日、皇帝(和帝)は長安から帰還した。 当初、北匈奴単于が没落すると、彼の弟である右谷蠡王於除鞬が自ら単于を名乗り、数千の兵を率いて蒲類海に駐屯し、使者を送って漢への服従を願い出た。竇憲は使者を派遣して於除鞬を正式な単于として承認し、中郎将を置いて監督させるよう提案した(かつて南匈奴に行ったように)。この件が公卿たちに諮られたところ、宋由らは容認すべきと主張した。一方で袁安と任隗は上奏して反論した。「光武帝が南匈奴を受け入れたのは、彼らを内地に永久に住まわせるためではなく、一時的な策略として北狄の防御に利用するためでした。今や北方は平定されたのですから、南単于を故地(北庭)へ帰還させ降伏した部族も統括させるべきであり、新たに於除鞬を立てて国費を浪費すべきではありません」。この意見が上奏されたものの、結論は出なかった。袁安は竇憲の案が通ることを憂慮し、単独で封事(秘密上奏)を提出した。「南単于・屯屠何の父は民衆を率いて漢へ帰順しました。恩恵を受けてから四十余年、三代の皇帝が築いた基盤を陛下が継承されているのです。先帝の意志に従い事業を完成させるべきであり、ましてや屯屠何自身が北匈奴討伐の大計を献策し敵を壊滅させた功績があるのに、彼を退けて新参者を立てるのは不当です。一時の都合で三代続いた方針を覆せば、養育した者への信義を失い、無功の者を優遇することになります。『論語』に『言葉は忠実誠実にし行動は篤実慎重であれば、蛮族の中でも通用する』とあります。もし屯屠何一人に対する約束を破れば、あらゆる異民族が漢との盟約を信用しなくなるでしょう。さらに烏桓・鮮卑は北匈奴単于を殺害したばかりです(於除鞬の兄)。人情として仇敵への復讐を恐れるため、弟を立てれば両族は怨みを持つはず。加えて漢の慣例では南単于支援に年額1億90余万銭、西域経営に7480万銭かかっています。北庭(於除鞬)がさらに遠方なら費用は倍増し、天下を疲弊させるだけで国策の要諦とは言えません」。詔によって議論が再開されると、袁安と竇憲は激論した。竇憲は意地悪な性格で高圧的かつ執拗であり、終には袁安を誹謗して「光武帝が韓歆・戴涉を処刑した先例」まで引き合いに出したが、袁安は決して屈しなかった。しかし結局皇帝(和帝)は竇憲の献策を採用した。 解説
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| input text 資治通鑑\048_漢紀_40.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷四十八 漢紀四十 起玄黓執徐,盡旃蒙大荒落,凡十四年。 孝和皇帝下永元四年(壬辰,公元九二年) 春,正月,遣大將軍左校尉耿夔,授於除鞬印綬,使中郎將任尚,持節衛護屯伊吾,如南單于故事。 初,廬江周榮辟袁安府,安舉奏竇、景及爭立北單于事,皆榮所具草,竇氏客太尉掾徐齮深惡之,脅榮曰:「子為袁公腹心之謀,排奏竇氏,竇氏悍士、刺客滿城中,謹備之矣!」榮曰:「榮,江淮孤生,得備宰士,縱為竇氏所害,誠所甘心!」因敕妻子:「若卒遇飛禍,無得殯斂,冀以區區腐身覺悟朝廷。」 三月,癸丑,司徒袁安薨。 閏月,丁丑,以太常丁鴻為司徒。 夏,四月,丙辰,竇憲還至京師。 六月,戊戌朔,日有食之。丁鴻上疏曰:「昔諸呂握權,統嗣幾移;哀、平之末,廟不血食。故雖有周公之親而無其德,不得行其勢也。今大將軍雖欲敕身自約,不敢僭差;然而天下遠近,皆惶怖承旨。刺史、二千石初除,謁辭、求通待報,雖奉符璽,受台敕,不敢便去,久者至數十日,背王室,向私門,此乃上威損,下權盛也。人道悖於下,效驗見於天,雖有隱謀。神照其情,垂象見戒,以告人君。禁微則易,救末者難;人莫不忽於微細以致其大,恩不忍誨,義不忍割,去事之後,未然之明鏡也。夫天不可以不剛,不剛則三光不明;王不可以不強,不強則宰牧從橫。 |
現代日本語訳資治通鑑第四十八巻、漢紀四十 (永元四年・壬辰/西暦92年) 【春正月】 【事件の背景】 【三月癸丑】 【閏月丁丑】 【夏四月丙辰】 【六月戊戌・朔日(ついたち)】 続けて天変地異との関連を論じ、「人道が乱れるとその徴候は天象に現れ、神霊の見通しから戒めとして示される。災いの芽(微小な兆候)なら未然防止できるが、拡大後の修復は困難である。凡人は些細な変化を軽視して大事態を招く—情誼で諫言せず、義理で断ち切れないためだ。過去の事象こそ未来を見通す鏡と言えよう」。 最終段では決然たる処置を促し、「天は剛健さなくば日月星辰が輝かぬ(=天道は厳正である)。王者も強力な意志を示さねば、臣下たちが跋扈するのみだ」と結んだ。 解説
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| 宜因大變,改政匡失,以塞天意。」 丙辰,郡國十三地震。 旱,蝗。 竇氏父子兄弟並為卿、校,充滿朝廷,穰侯鄧疊、疊弟步兵校尉磊及母元、憲女婿射聲校尉郭舉、舉父長樂少府璜共相交結;元、舉並出入禁中,舉得幸太后,遂共圖為殺害,帝陰知其謀。是時,憲兄弟專權,帝與內外臣僚莫由親接,所與居者閹宦而已。帝以朝臣上下莫不附憲,獨中常侍鉤盾令鄭眾,謹敏有心幾,不事豪黨,遂與眾定議誅憲,以憲在外,慮其為亂,忍而未發。會憲與鄧疊皆還京師。時清河王慶,恩遇尤渥,常入省宿止;帝將發其謀,欲得《外戚傳》,懼左右,不敢使,令慶私從千乘王求,夜,獨內之;又令慶傳語鄭眾,求索故事。庚申,帝幸北宮,詔執金吾、五校尉勒兵屯衛南、北宮,閉城門,收捕郭璜、郭舉、鄧疊、鄧磊,皆下獄死。遣謁者僕射收憲大將軍印綬,更封為冠軍侯,與篤、景、瑰皆就國。帝以太后故,不欲名誅憲,為選嚴能相督察之。憲、篤、景到國,皆迫令自殺。 初,河南尹張酺,數以正法繩治竇景,及竇氏敗,酺上疏曰:「方憲等寵貴,群臣阿附唯恐不及,皆言憲受顧命之托,懷伊、呂之忠,至乃復比鄧夫人於文母。今嚴威既行,皆言當死,不顧其前後,考折厥衷。臣伏見夏陽侯瑰每存忠善,前與臣言,常有盡節之心,檢敕賓客,未嘗犯法。 |
現代日本語訳「この大きな災変を機に政治を改め、過失を正し天の意志を受け止めるべきである。」 丙辰(ひのえたつ)の日、13の郡国で地震が発生した。 旱魃と蝗害が起きた。 竇氏一族は父子兄弟そろって高官となり朝廷に満ち溢れていた。特に穣侯鄧疊・その弟で歩兵校尉の鄧磊および彼らの母である元(げん)・憲の女婿で射声校尉の郭挙・挙の父で長楽少府の郭璜らが結託していた。元と挙は宮中を自由に出入りし、挙は皇太后のお気に入りとなったため、共謀して皇帝暗殺を企てた。和帝は密かにこの陰謀を知っていた。 当時、竇憲兄弟が政権を独占していたため、皇帝は朝廷内外の臣下と直接接触できず、側にいたのは宦官だけだった。和帝は「朝臣たちがこぞって竇憲に迎合する中で、ただ一人の中常侍・鉤盾令である鄭衆(ていしゅう)だけが慎重かつ機敏で私心なく、権力者集団に与しない」と見て取った。そこで鄭衆と共に竇憲誅殺を決断した。しかし竇憲が地方に出ているため反乱を警戒し、時機を見計らっていた。 折しも竇憲と鄧疊が都へ戻ってきた。この時、清河王劉慶(りゅうけい)は特に厚遇されており、夜通し宮中に留まることを許されていた。和帝は陰謀を実行するため『外戚伝』の書物が必要だったが、側近たちを恐れて使者を使えず、密かに清河王を通じて千乗王から入手させた。深夜ひそかに入れてもらい、さらに鄭衆へ「故事(先例)を調査せよ」と清河王経由で伝達した。 庚申(かのえさる)の日、和帝は北宮に行幸し、執金吾と五校尉に命じて南北両宮を兵で固めさせ、城門を閉鎖。郭璜・郭挙・鄧疊・鄧磊を逮捕して獄死させた。謁者僕射(えっしゃぼくや)を使者として竇憲から大将軍の印綬を没収し、冠軍侯に降格した上で竇篤・竇景・竇瓌らと共に領地へ追放した。 和帝は皇太后への配慮から竇憲の名目上の処刑を避け、厳格な宰相を選んで監視させた。結局、竇憲・竇篤・竇景は到着後すぐ自殺を強要された。 当初、河南尹(かなんいん)の張酺(ちょうほ)が度々法に基づき竇景を取り締まっていた。竇氏滅亡後に上疏した内容:「竇憲らが権勢を誇った時、群臣はこぞって媚びへつらい『彼は先帝の遺命を受け伊尹・太公望のような忠臣だ』と称え、鄧夫人(皇太后)を文母(周の武王の母)に例える者までいました。今や権勢が失われると『皆死刑にすべきだ』と言い、前後の態度は矛盾しています」 「私は夏陽侯・竇瓌だけは常に忠義心を持ち、以前私に対し『節を全うしたい』と語り賓客の行動も規律正しく、法令違反は一切ありませんでした(にもかかわらず処刑されたのは不当です)」 解説
(訳注:固有名詞は原則として歴史書表記を保持し、「謁者僕射」「鉤盾令」等の官職名も正確再現) Translation took 1109.6 seconds. |
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| 臣聞王政骨肉之刑,有三宥之義,過厚不過薄。今議者欲為瑰選嚴能相,恐其迫切,必不完免,宜裁加貸宥,以崇厚德。」帝感共言,由是瑰獨得全。竇氏宗族賓客以憲為官者,皆免歸故郡。 初,班固奴嘗醉罵洛陽令種兢,兢因逮考竇氏賓客,收捕固,死獄中。固嘗著《漢書》,尚未就,詔固女弟曹壽妻昭踵而成之。 ══華嶠論曰:固之序事,不激詭,不抑抗,贍而不穢,詳而有體,使讀之者亹亹而不厭,信哉其能成名也!固譏司馬遷是非頗謬於聖人,然其論議,常排死節,否正直,而不敘殺身成仁之為美,則輕仁義,賤守節甚矣! 初,竇憲納妻,天下郡國皆有禮慶。漢中郡亦當遣吏,戶曹李郃諫曰:「竇將軍椒房之親,不修德禮而專權驕恣,危亡之禍,可翹足而待;願明府一心王室,勿與交通。」太守固遣之,郃不能止,請求自行,許之。郃遂所在遲留以觀其變,行至扶風而憲就國。凡交通者皆坐免官,漢中太守獨不與焉。帝賜清河王慶奴婢、輿馬、錢帛、珍寶,充牣其第。慶或時不安,帝朝夕問訊,進膳藥,所以垂意甚備。慶亦小心恭孝,自以廢黜,尤畏事慎法,故能保其寵祿焉。 帝除袁安子賞為郎,任隗子屯為步兵校尉,鄭眾遷大長秋。帝策勳班賞,眾每辭多受少,帝由是賢之,常與之議論政事,宦官用權自此始矣。 秋,七月,己丑,太尉宋由以竇氏黨策免,自殺。 |
現代日本語訳私は聞いております。王者の政治において肉親に対する刑罰には、三度にわたり赦免するという道理があり、寛大であるべきであっても厳しくあってはならないと。今、議論している者たちが劉瑰(りゅうかい)のために厳格で有能な宰相を選ぼうとしていますが、これは彼にとって追い詰める行為となり必ずや完全には赦免されないでしょう。むしろ裁量をもって寛大に扱い、厚い徳を尊ぶべきです。」皇帝はこの言葉に心を動かされ、これにより劉瑰だけが罪を免れた。竇氏(とうし)の一族と賓客で竇憲(とうけん)のために官職を得ていた者は皆、罷免されて故郷へ帰された。 昔のことであるが、班固(はんこ)の使用人が酔って洛陽県令・種兢(しょうきょう)を罵ったことがあった。これにより種兢は機会を見て竇氏の賓客を取り調べる口実を作り、班固も逮捕して獄中で死なせた。班固が執筆していた『漢書』はまだ完成していなかったため、皇帝の命令によって彼の妹である曹寿(そうじゅ)の妻・昭(班昭:はんしょう)が引き継ぎ完成させた。 ══華嶠(かきょう)の論評:
かつて竇憲が妻を迎えた時、天下の郡国はこぞって祝賀の品を持参した。漢中郡も役人を派遣しようとしたところ、戸曹(戸籍担当官)李郃(りこう)が諫言した:「竇将軍は皇后一族という身分でありながら道徳や礼儀を修めず、権力を独占して驕慢に振る舞っています。彼の危険と滅亡は指折り数えて待つほど近いのです。どうか府君(太守様)には王室への忠誠心を持ち続け、竇氏との交際をお控えください。」しかし太守が強行しようとしたため李郃は止められず、「自ら出向くことを願います」と申し出て許可を得た。そこで李郃はわざと各地で滞留して情勢を見極めてから進み、扶風(ふふう)に着いたところ竇憲が封国へ戻る事件が起きた。祝賀に関与した者は全て連座により免職となったが、漢中太守だけは処罰を逃れた。 皇帝は清河王・劉慶(りゅうけい)に奴婢や車馬、銭帛(貨幣と絹)、珍宝を与え、邸宅を満たすほどであった。劉慶が時折体調を崩せば、皇帝自ら朝夕見舞って食事や薬を勧め、配慮は極めて行き届いていた。劉慶もまた慎み深く恭順で孝行であり、廃嫡(皇太子位剥奪)された身であることを強く意識し、特に事に臨んでは慎重に法を守ったため、寵愛と地位を保ち続けることができた。 皇帝は袁安(えんあん)の息子・賞を郎官に任命し、任隗(じんき)の息子・屯を歩兵校尉とした。鄭衆(ていしゅう)は大長秋(皇后宮の長官)へ昇進した。皇帝が功績に対して恩賞を与える際、鄭衆は常に多く辞退して少なく受け取ったため、皇帝は彼を賢人と認め、頻繁に政事について相談するようになった。宦官による権力掌握はここから始まったのである。 秋七月二十三日(己丑)、太尉・宋由(そうゆう)が竇氏一派として罷免されると決まって自害した。 解説
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| 八月,辛亥,司空任隗薨。 癸丑,以大司農尹睦為太尉。太傅鄧彪以老病上還樞機職,詔許焉,以睦代彪錄尚書事。 冬,十月,己亥,以宗正劉方為司空。 武陵、零陵、澧中蠻叛。 護羌校尉鄧訓卒,吏、民、羌、胡旦夕臨者日數千人。羌、胡或以刀自割,又刺殺其犬馬牛羊,曰:「鄧使君已死,我曹亦俱死耳!」前烏桓吏士皆奔走道路,至空城郭;吏執,不聽,以狀白校尉徐傿,傿歎息曰:「此為義也!」乃釋之。遂家家為訓立祠,每有疾病,輒請禱求福。蜀郡太守聶尚代訓為護羌校尉,欲以恩懷諸羌,乃遣譯使招呼迷唐,使還居大、小榆谷。迷唐既還,遣祖母卑缺詣尚,尚自送至塞下,為設祖道,令譯田汜等五人護送至廬落。迷唐遂反,與諸種共生屠裂汜等,以血盟詛,復寇金城塞。尚坐免。 孝和皇帝下永元五年(癸巳,公元九三年) 春,正月,乙亥,宗祀明堂,登靈台,赦天下。 戊子,千乘貞王伉薨。 辛卯,封皇弟萬歲為廣宗王。 甲寅,太傅鄧彪薨。 戊午,隴西地震。 夏,四月,壬子,紹封阜陵殤王兄魴為阜陵王。 九月,辛酉,廣宗殤王萬歲薨,無子,國除。 初,竇憲既立於除鞬為此單于,欲輔歸北庭,會憲誅而止。於除鞬自畔還北,詔遣將兵長史王輔以千餘騎與任尚共追討,斬之,破滅其眾。耿夔之破北匈奴也,鮮卑因此轉徙據其地。 |
訳文八月辛亥の日、司空・任隗が逝去した。癸丑の日に大司農・尹睦を太尉に任命した。太傅・鄧彪は老病を理由に枢機職(尚書事)の返上を上奏し、詔により許可され、尹睦が後任として尚書事を統括することとなった。 冬十月己亥の日、宗正・劉方を司空とした。 護羌校尉・鄧訓が没すると、官吏・民衆・羌族・胡族で朝夕弔問する者が日に数千人に及んだ。羌や胡のある者は刀で自ら身体を傷つけ、飼い犬や馬・牛・羊を刺し殺して言うには「鄧使君(鄧訓)が亡くなられたなら、我々も共に死ぬのみ」。かつて配下だった烏桓の役人と兵士は道中を駆けて弔問に向かい城郭は空になった。役人が拘束しようとしたが聞き入れず、状況を校尉・徐傿(じょえい)に報告すると、彼は嘆息して「これは義によるものだ」と言って解放させた。こうして各家で鄧訓の祠堂を建立し、病があるごとに祈り福を求めた。蜀郡太守・聶尚が護羌校尉として鄧訓の後任となるや恩情をもって諸羌族を懐柔しようとし、通訳を使者として送り迷唐(めいとう)を招き寄せ大榆谷・小榆谷への帰還を命じた。迷唐は戻ると祖母の卑缺(ひけつ)を聶尚のもとに遣わしたため、自ら国境まで見送った上で餞別の宴を設け、通訳役の田汜(でんし)ら五名に廬落(住居地)までの護衛を命じた。しかし迷唐は反旗を翻し諸族と共に田汜らを惨殺して血による盟誓を行い、再び金城塞を侵したため聶尚は免職となった。 孝和皇帝・永元五年(癸巳、93年) 夏四月壬子の日、阜陵殤王(劉沖)の兄である劉魴に阜陵王位を継承させた。 当初、竇憲が於除鞬をおどるぜんと読む)を北匈奴単于に擁立した際、彼を北庭へ帰還させようとしたが竇憲の誅殺により中止となる。於除鞬は自ら背いて北方へ戻ったため詔で将兵長史・王輔に千騎余りを与え任尚と共同追討させ斬首し配下を殲滅した。耿夔(こうき)が北匈奴を撃破した折、鮮卑族がその隙に転進して同地を占拠していた。 訳注
(翻訳方針:『資治通鑑』原文の荘重な漢文調を、主語明示・述語平易化により現代日本語へ再構築。固有名詞と制度名は学術的一致を優先し意訳最小限) Translation took 2024.0 seconds. | ||||||||||||
| 匈奴餘種留者尚有十餘萬落,皆自號鮮卑;鮮卑就此漸盛。 冬,十月,辛未,太尉尹睦薨。十一月,乙丑,太僕張酺為太尉。酺與尚書張敏等奏「射聲校尉曹褒,擅制漢禮,破亂聖術,宜加刑誅。」書凡五奏。帝知酺守學不通,雖寢其奏,而漢禮遂不行。 是歲,武陵郡兵破叛蠻,降之。 梁王暢與從官卞忌祠祭求福,忌等諂媚云:「神言王當為天子。」暢與相應答,為有司所奏,請征詣詔獄。帝不許,但削成武、單父二縣。暢慚懼,上疏深自刻責曰:「臣天性狂愚,不知防禁,自陷死罪,分伏顯誅。陛下聖德,枉法曲平,橫貸赦臣,為臣受污。臣知大貸不可再得,自誓束身約妻子,不敢復出入失繩墨,不敢復有所橫費,租入有餘,乞裁食睢陽、穀熟、虞、蒙、寧陵五縣,還餘所食四縣。臣暢小妻三十七人,其無子者,願還本家,自選擇謹敕奴婢二百人,其餘所受虎賁、官騎及諸工技、鼓吹、倉頭、奴婢、兵弩、廄馬,皆上還本署。臣暢以骨肉近親,亂聖化,污清流,既得生活,誠無心面目以凶惡復居大宮,食大國,張官屬,藏什物,願陛下加恩開許。」上優詔不聽。 護羌校尉貫友遣譯使構離諸羌,誘以財貨,由是解散。乃遣兵出塞,攻迷唐於大、小榆谷,獲首虜八百餘人,收麥數萬斛。遂夾逢留大河築城塢,作大航,造河橋,欲度兵擊迷唐。 |
現代日本語訳:匈奴の残党として残留した部族はなお十数万の集落があり、すべて自らを鮮卑と称した;これにより鮮卑は次第に勢いを増していった。 冬十月辛未(22日)、太尉・尹睦が死去。十一月乙丑(17日)、太僕・張酺が太尉となる。張酺は尚書の張敏らと共に「射声校尉・曹褒が勝手に漢礼を制定し、聖人の道を破壊したため、刑罰による誅殺を加えるべきだ」と上奏した。この件で計五度の上奏があった。皇帝(章帝)は張酺が学問に固執して融通がきかないことを理解していたため、その上奏を握り潰したものの、漢礼制定は結局実施されなかった。 同年、武陵郡の兵士が反乱蛮族を撃破し降伏させた。 梁王・劉暢が側近の卞忌と共に祭祀を行い福を求めたところ、卞忌らは媚びへつらい「神が『王(劉暢)は天子となる』と言われた」と告げた。これに対応した返答をしたため役人から弾劾され、詔獄への召喚が要請された。皇帝はこれを許可せず成武・単父の二県だけを削減した。劉暢は恥じ恐れ深く自らを責める上疏文を奉った。「臣(私)は生まれつき愚かで、禁令を知らず死罪に陥りましたが、陛下の聖徳により法を曲げて許され命を得ました。このような寛大な処置は二度と得られぬことを悟り、身を律し妻子を制限すると誓います。(略)領地として頂いた五県(睢陽・穀熟・虞・蒙・寧陵)のうち四県をお返しします。三十七人の側室で子のない者は実家に戻し、(中略)虎賁・官騎から武器庫・馬小屋まで全て元の役所にお返しします。(要約続く)肉親でありながら聖なる教化を乱した身が、大宮殿や領国を持つ資格はありません。どうかお許し下さい」。皇帝は詔書で慰めるとともに返却要求を拒否した。 護羌校尉・貫友が翻訳官を使者として諸羌族の離間工作を行い財貨で誘ったため、彼らは分裂した。そこで要塞から兵を出して大楡谷・小楡谷にいる迷唐(羌族酋長)を攻撃し800余人を捕虜とし数万斛の麦を押収。逢留大河沿いに城塁を築き大型船舶や橋梁を作り、さらなる進攻準備を行った。 訳注:
(訳出方針:『資治通鑑』の紀伝体叙述を、現代日本語の歴史記述調に変換。皇帝裁定や異民族政策など政治史の核心は完全保持しつつ、固有名詞・制度名には適宜注釈的説明を内在化) Translation took 1738.8 seconds. | ||||||||||||
| 迷唐率部落遠徙,依賜支河曲。 單于頓屠何死,單于宣弟安國立。安國初為左賢王,無稱譽;及為單于,單于適之子左谷蠡王師子以次轉為左賢王。師子素勇黠多知,前單于宣及屯屠何皆愛其氣決,數遣將兵出塞,掩擊北庭,還,受賞賜,天子亦加殊異。由是國中盡敬師子而不附安國,安國欲殺之。諸新降胡,初在塞外數為師子所驅掠,多怨之。安國因是委計降者,與同謀議。師子覺其謀,乃別居五原界,每龍庭會議,師子輒稱病不往。度遼將軍皇甫稜知之,亦擁護不遣,單于懷憤益甚。 孝和皇帝下永元六年(甲午,公元九四年) 春,正月,皇甫稜免,以執金吾朱徽行度遼將軍。時單于與中郎將杜崇不相平,乃上書告崇;崇諷西河太守令斷單于章,單于無由自聞。崇因與朱徽上言:「南單于安國,疏遠故胡,親近新降,欲殺左賢王師子及左台且渠劉利等;又,右部降者,謀共迫脅安國起兵背畔,請西河、上郡、安定為之儆備。」帝下公卿議,皆以為:「蠻夷反覆,雖難測知,然大兵聚會,必未敢動搖。今宜遣有方略使者之單于庭,與杜崇、朱徽及西河太守並力,觀其動靜。如無它變,可令崇等就安國會其左右大臣,責其部眾橫暴為邊害者,共平罪誅。若不從命,令為權時方略,事畢之後。裁行賞賜,亦足以威示百蠻。」帝從之,於是徽、崇遂發兵造其庭。 |
現代日本語訳迷唐(めいとう)は部族を率いて遠くへ移動し、賜支河曲(しきしがきょく)に拠点を置いた。 単于(ぜんう:匈奴の君主)である頓屠何(とんとか)が死去すると、彼の弟・安国(あんこく)が新たな単于として即位した。安国はもともと左賢王(さけんおう)という地位にあったが、特に評価される人物ではなかった。これに対し、先代単于である宣(せん)の息子で左谷蠡王(さこくりおう)だった師子(しし)が順当な昇進により左賢王となった。師子は以前から勇猛かつ聡明で知略に長けていたため、先代単于・宣や頓屠何もその果断さを高く評価し、たびたび軍勢を率いて国境を越え北匈奴の本拠地を奇襲させ、戦功に対する恩賞を与えた。後漢朝廷(天子)も彼に特別な待遇を加えていたため、国内では師子への敬意が広まり安国には心服する者がいなかった。これに対し安国は師子殺害を企てる。 一方、新たに投降してきた匈奴の一派は、以前から度々師子に襲撃・略奪されていたため強い恨みを抱いており、安国は彼らを利用して謀議を巡らせた。これに気づいた師子は五原(ごげん)地域へ移住し、単于が主催する会議には病気と称して出席しなくなった。度遼将軍・皇甫稜(こうほりょう)もこの内情を知っており、師子を擁護して安国の下へ行かせなかったため、単于の憎悪はますます深まった。 孝和皇帝 永元六年(甲午年・94年) 春正月、皇甫稜が解任され、執金吾(しつきんご:警備長官)であった朱徽(しゅき)が代わって度遼将軍を兼任した。この頃、単于安国と漢の役人である中郎将・杜崇(とすう)は対立関係にあった。そこで単于は朝廷へ「杜崇の不正」を上奏しようとしたが、杜崇は事前に西河太守(せいかたいしゅ:地方長官)に働きかけ、単于の上奏文書を取り次がないよう手配したため、単于は直接訴えられなくなった。 逆に杜崇と朱徽が連名で朝廷へ報告:「南匈奴単于・安国は古参の部族を遠ざけ新降伏者ばかり重用し、左賢王・師子や左台且渠(さだいしょきょ)の劉利(りゅうり)ら重臣殺害を企てています。さらに右部の投降者たちと共謀して反乱を起こそうとしており、西河郡・上郡・安定郡には警戒態勢が必要です」これを受けた皇帝は高官会議を召集し、全員一致で「蛮族(匈奴)が裏切るか否かの判断は難しいものの、大軍で威嚇すれば動きを封じられる。まず策略に長けた使者を単于本営へ派遣し杜崇・朱徽らと連携して情勢監視せよ。異常なければ安国に対面させ、『漢への暴挙』について責任追及と処罰を命ぜよ。もし従わない場合は臨機応変に対処した後で恩賞を与えれば、蛮族全体へ威厳を示せる」との結論を得た。 皇帝はこの方針に同意し、朱徽・杜崇らが軍勢を率いて単于の本営へ向かった。 解説
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| 安國夜聞漢軍至,大驚,棄帳而去。因舉兵欲誅師子。師子先知,乃悉將廬落入曼柏城,安國追到城下,門閉,不得入。朱徽遣吏曉譬和之,安國不聽。城既不下,乃引兵屯五原。崇、徽因發諸郡騎追赴之急,眾皆大恐,安國舅骨都侯喜為等慮並被誅,乃格殺安國,立師子為亭獨屍逐侯鞮單于。 己卯,司徒丁鴻薨。 二月,丁未,以司空劉方為司徒,太常張奮為司空。 夏,五月,城陽懷王淑薨,無子,國除。 秋,七月,京師旱。 西域都護班超發龜茲、鄯善等八國兵合七萬餘人討焉耆,到其城下,誘焉耆王廣、尉犁王泛等於陳睦故城,斬之,傳首京師;因縱兵鈔掠,斬首五千餘級,獲生口萬五千人,更立焉耆左侯元孟為焉耆王。超留焉耆半歲,慰撫之。於是西域五十餘國悉納質內屬,至於海濱,四萬里外,皆重譯貢獻。 南單于師子立,降胡五六百人夜襲師子,安集掾王恬將衛護士與戰,破之。於是降胡遂相驚動,十五部二十餘萬人皆反,脅立前單于屯屠何子薁鞮日逐王逢侯為單于,遂殺略吏民,燔燒郵亭、廬帳,將車重向朔方,欲度幕北。九月,癸丑,以光祿勳鄧鴻行車騎將軍事,與越騎校尉馮柱、行度遼將軍朱徽將左右羽林、北軍五校士及郡國跡射、緣邊兵,烏桓校尉任尚將烏桓、鮮卑,合四萬人討之。時南單于及中郎將杜崇屯牧師城,逢侯將萬餘騎攻圍之。 |
現代日本語訳安国は夜間に漢軍到着を知り驚愕し、陣営を捨てて逃亡した。その後兵を挙げ師子の誅殺を図るが、師子は事前に察知して配下遊牧民全員を曼柏城へ移動させたため、追撃した安国は閉ざされた城門の前で足止めされる。朱徽が調停使節を派遣するも拒絶され、攻城戦失敗後に五原へ撤兵。杜崇と朱徽が諸郡騎兵隊に急追命令を下すと配下は恐慌状態となり、安国の叔父・骨都侯喜為らは連座処刑を恐れやむなく安国を殺害し師子を亭独屍逐侯鞮単于として擁立した。 己卯の日(1月22日)、司徒丁鴻が死去。 二月丁未(3月21日)、司空劉方を司徒に、太常張奮を司空に任命。 夏五月、城陽懐王淑が後継者なく逝去し封国は消滅。 秋七月、首都洛陽で干ばつ発生。 西域都護班超は亀茲・鄯善など8ヶ国の連合軍7万余りを率いて焉耆討伐に向かい、城下に布陣すると陳睦旧城址へ焉耆王広と尉犁王汎らをおびき出し処刑。首都へ首級を送付後、兵士に略奪を許可して5千余人を斬殺、1万5千人を捕虜とした。新たに元孟(焉耆左侯)を焉耆王に擁立し半年間駐留して民心安定化にあたる。これにより西域50余国が人質を差し出して服属し、海岸沿い4万里のかなたの地域まで通訳重ねて朝貢するようになった。 南単于師子即位後、投降胡族500-600人が夜襲をかけるが安集掾王恬率いる親衛隊に撃退される。この事件で降伏部族全体が動揺し15部族20万人余りが反乱。前単于屯屠何の子・逢侯(薁鞮日逐王)を脅迫して新単于とし、役人や住民を殺害略奪しながら通信施設や遊牧テントに放火。輜重車両を率いて朔方へ進軍後、漠北への脱出を企てた。九月癸丑(11月18日)、光禄勲鄧鴻を行車騎将軍代理とし越騎校尉馮柱・行度遼将軍朱徽らが羽林左右監・北軍五校の精鋭に加え諸郡国の狙撃兵や辺境守備隊を指揮。烏桓校尉任尚は烏桓族・鮮卑族を率い、総勢4万で討伐に向かわせた(※)。この時点で南単于師子と中郎将杜崇が牧師城に駐屯しているのに対し、逢侯が1万余騎で包囲攻撃を開始していた。 訳注
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| 冬,十一月,鄧鴻等至美稷,逢侯乃解圍去,向滿夷谷。南單于遣子將萬騎及杜崇所領四千騎,與鄧鴻等追擊逢侯於大城塞,斬首四千餘級。任尚率鮮卑、烏桓要擊逢侯於滿夷谷,復大破之,前後凡斬萬七千餘級。逢侯遂率眾出塞,漢兵不能追而還。 以大司農陳寵為廷尉。寵性仁矜,數議疑獄,每附經典,務從寬恕,刻敝之風,於此少衰。 帝以尚書令江夏黃香為東郡太守,香辭以:「典郡從政,才非所宜,乞留備冗官,賜以督責小職,任之宮台煩事。」帝乃復留香為尚書令,增秩二千石,甚見親重。香亦祗勤物務,憂公如家。 孝和皇帝下永元七年(乙未,公元九五年) 春,正月,鄧鴻等軍還,馮柱將虎牙營留屯五原。鴻坐逗留失利,下獄死。後帝知朱徽、杜崇失胡和,又禁其上書,以致胡反,皆征下獄死。夏,四月,辛亥朔,日有食之。 秋,七月,乙巳,易陽地裂。 九月,癸卯,京師地震。 樂成王黨坐賊殺人,削東光、鄡二縣。 孝和皇帝下永元八年(丙申,公元九六年) 春,二月,立貴人陰氏為皇后。後,識之曾孫也。 夏,四月,癸亥,樂成靖王黨薨。子哀王崇立,尋薨,無子,國除。 五月,河內、陳留蝗。 南匈奴右溫禺犢王烏居戰畔出塞。秋,七月,度遼將軍龐奮、越騎校尉馮柱追擊破之,徙其餘眾及諸降胡二萬餘人於安定、北地。 |
現代日本語訳冬の十一月、鄧鴻らが美稷に到着すると、逢侯は包囲を解いて撤退し、満夷谷へ向かった。南匈奴の単于は自らの子に一万騎を与え、杜崇率いる四千騎とともに鄧鴻軍と合流し、大城塞で逢侯を追撃して四千余級を斬首した。一方、任尚が鮮卑・烏桓の兵を率いて満夷谷で逢侯を迎え撃ち、再び大打撃を与えた。前後合わせて一万七千余級を討ち取ったため、逢侯は配下を連れて塞外へ脱出した。漢軍は追撃できずに帰還した。 大司農の陳寵が廷尉に任命された。彼は仁厚で情け深い性格であり、疑わしい裁判案件があるたび経典(儒教典籍)を引用して議論し、寛容な処置を重視したため、過酷な司法風潮はこれ以降やわらいだ。 皇帝が尚書令の江夏出身者・黄香を東郡太守に任命すると、彼は「地方統治の才はなく、むしろ閑職で朝廷に残り、些細な監督業務や宮中の雑事をお任せいただきたい」と辞退した。皇帝はこれを受け入れ、尚書令として留め俸禄を二千石増額した上で厚遇した。黄香も公務に精励し、国事をわが家のように思いやって勤めた。 孝和帝の治世下・永元七年(乙未年/西暦95年) 春正月:鄧鴻軍は帰還し、馮柱が虎牙営を率いて五原に駐屯した。鄧鴻は「進軍遅滞で戦機を逃した罪」により獄死した。後に皇帝は朱徽と杜崇が匈奴との融和を損ない、さらに彼らの上奏を妨げたため反乱を招いたことを知り、両名も召還して獄死させた。 夏四月:辛亥の朔日(1日)、日食発生。 秋七月乙巳(29日):易陽で地割れが起こる。 九月癸卯(28日):都・洛陽で地震発生。楽成王・劉党が「賊を殺害した罪」に問われ、東光県と鄡県の領地削減処分を受ける。 孝和帝の治世下・永元八年(丙申年/西暦96年) 春二月:貴人(側室)であった陰氏が皇后に立てられる。彼女は陰識の曾孫である。 夏四月癸亥(22日):楽成靖王・劉党が死去し、その子・哀王崇が後継となるが間もなく死亡したため封国は廃止された。 五月:河内郡と陳留郡で蝗害発生。南匈奴右温禺犢王の烏居戦が反乱を起こして塞外へ逃亡する。 秋七月:度遼将軍・龐奮と越騎校尉・馮柱が追撃し彼を破り、残党及び降伏した胡族二万余人を安定郡・北地郡に移住させた。 解説【歴史的背景】この記述は『資治通鑑』後漢紀の一部で、西暦95-96年の東アジア情勢を示す。当時は匈奴分裂後の南匈奴が漢朝と連携しつつも内紛を抱え、北方遊牧民族(鮮卑・烏桓)との複雑な関係下にあった。 【政治動向の特徴】
【天変地異と政治】
【民族関係】
【編纂者・司馬光の視点】
この記述から窺える後漢中期の特徴は「儒教的統治理念と現実軍事課題の並存」であり、多民族帝国の矛盾を内包しつつ体制維持を模索する姿である。 Translation took 1190.5 seconds. |
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| 東師後部王涿鞮反,擊前王尉畢大,獲其妻子。 九月,京師蝗。 冬,十月,乙丑,北海王威以非敬王子,又坐誹謗,自殺。 十二月,辛亥,陳敬王羨薨。 丁巳,南宮宣室殿火。 護羌校尉貫友卒,以漢陽太守史充代之。充至,遂發湟中羌、胡出塞擊迷唐。迷唐迎敗充兵,殺數百人。充坐征,以代郡太守吳祉代之。 孝和皇帝下永元九年(丁酉,公元九七年) 春,三月,庚辰,隴西地震。 癸巳,濟南安王康薨。 西域長史王林擊車師後王,斬之。 夏,四月,丁卯,封樂成王黨子巡為樂成王。 五月,封皇后父屯騎校尉陰綱為吳防侯,以特進就第。 六月,旱,蝗。 秋,八月,鮮卑寇肥如,遼東太守祭參坐沮敗,下獄死。 閏月,辛巳,皇太后竇氏崩。初,梁貴人既死,宮省事秘,莫有知帝為梁氏出者。舞陰公主子梁扈遣從兄示但奏記三府,以為「漢家舊典,崇貴母氏,而梁貴人親育聖躬,不蒙尊號,求得申議。」太尉張酺言狀,帝感慟良久,曰:「於君意若何?」酺請追上尊號,存錄諸舅。帝從之,會貴人姊南陽樊調妻A148上書自訟曰:「妾父竦冤死牢獄,骸骨不掩;母氏年逾七十,及弟棠等遠在絕域,不知死生。願乞收竦朽骨,使母、弟得歸本郡。」帝引見A148,乃知貴人枉歿之狀。三公上奏,「請依光武黜呂太后故事,貶竇太后尊號,不宜合葬先帝,」百官亦多上言者。 |
現代日本語訳:東師後部の王、涿鞮が反乱を起こし、前王の尉畢大を攻撃してその妻子を捕らえた。 九月、都では蝗害が発生した。 冬十月乙丑の日、北海王の威は敬王の子ではないことと誹謗罪により自殺した。 十二月辛亥の日、陳敬王の羨が死去した。 丁巳の日、南宮宣室殿で火災があった。 護羌校尉の貫友が死亡し、漢陽太守の史充が後任となった。史充は着任すると湟中の羌族や胡族を動員して塞外に出撃し迷唐を攻撃したが、迷唐に迎撃されて敗北し数百人が戦死した。史充は責任を問われ解任され、代郡太守の呉祉が後任となった。 孝和皇帝・永元九年(丁酉、紀元97年) 春三月庚辰の日、隴西で地震があった。 癸巳の日、済南安王の康が死去した。 西域長史の王林が車師後部王を攻撃し斬殺した。 夏四月丁卯の日、楽成王・党の子である巡を楽成王に封じた。 五月、皇后の父で屯騎校尉であった陰綱を呉防侯に封じ、特進として邸宅に戻った。 六月、干ばつと蝗害が発生した。 秋八月、鮮卑が肥如を侵攻し、遼東太守・祭参は敗戦の責任を問われ獄死した。 閏月辛巳の日、竇皇太后が崩御した。当初、梁貴人が死去して以来宮中の事情は秘密とされ、皇帝が梁氏の子であることは知られていなかった。舞陰公主の子・梁扈はいとこの示但を三府に遣わし「漢王朝の旧制では母方を尊ぶものだが、梁貴人は自ら聖躬(天子)を育てたにもかかわらず尊号がなく、再考を求めたい」と上奏させた。太尉・張酺が状況を説明すると皇帝は深く悲しみ「卿の意見はどうか?」と問うた。張酺は梁貴人に追尊を与え諸舅(母方親族)を登用するよう提案し、帝はこれを認めた。この時、梁貴人の姉で南陽樊調の妻・嫕が上書して「父・竦は冤罪で獄死し遺骨も葬られず、老いた母と弟・棠らは辺境に流され生死不明です。どうか朽ちた骨を集め母子を故郷へ帰してください」と訴えた。帝が嫕を引見して初めて貴人が無実で亡くなったことを知った。三公は「光武帝が呂太后の尊号を剥奪した先例に倣い、竇太后の尊号を貶め先帝との合葬を避けるべきだ」と上奏し百官もこれに同調した。 解説:【歴史的背景】
【政治動態】
【社会経済】
【特筆事項】
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| 帝手詔曰:「竇氏雖不遵法度,而太后常自減損。朕奉事十年,深惟大義,禮,臣子無貶尊上之文,恩不忍離,義不忍虧。案前世,上官太后亦無降黜,其勿復議。」丙申,葬章德皇后。 燒當羌迷唐率眾八千人寇隴西,脅塞內諸種羌合步騎三萬人擊破隴西兵,殺大夏長。詔遣行征西將軍劉尚、越騎校尉趙世副之,將漢兵、羌、胡共三萬人討之。尚屯狄道,世屯枹罕;尚遣司馬寇盱監諸郡兵,四面並會。迷唐懼,充老弱,奔入臨洮南。尚等追至高山,大破之,斬虜千餘人,迷唐引去,漢兵死傷亦多,不能復追。乃還。 九月,庚申,司徒劉方策免,自殺。 甲子,追尊梁貴人為皇太后,謚曰恭懷,追服喪制。冬,十月,乙酉,改葬梁太后及其姊大貴人於西陵。擢樊調為羽林左監。追封謚皇太后父竦為褒親愍侯,遣使迎其喪,葬於恭懷皇后陵傍。征還竦妻子;封子棠為樂平侯,棠弟雍為乘氏侯,雍弟翟為單父侯,位皆特進,賞賜以巨萬計,寵遇光於當世,梁氏自此盛矣。 清河王慶始敢求上母宋貴人塚,帝許之,詔太官四時給祭具。慶垂涕曰:「生雖不獲供養,終得奉祭祀,私願足矣!」欲求作祠堂,恐有自同恭懷梁後之嫌,遂不敢言,常泣向左右,以為沒齒之恨。後上言:「外祖母王年老,乞詣雒陽療疾。」於是詔宋氏悉歸京師,除慶舅衍、俊、蓋、暹等皆為郎。 |
現代日本語訳帝は直筆の詔書で述べた:「竇一族は法令を遵守しなかったが、皇太后(竇后)自ら常に節制していた。朕が十年間仕える中で大義を深く考えてきた。礼儀上、臣下が君主を貶める記録などないのだ。情誼として離れるに忍びず、道義として損なうことはできない。前代の例を見れば上官皇太后も降格させていない。この件は再議論する必要はない。」丙申(ひのえさる)の日、章徳皇后を葬った。 焼当羌(しょうとうきょう)の首長・迷唐(めいとう)が兵八千を率いて隴西に侵攻し、諸部族の羌族を脅して歩兵騎兵合わせて三万で隴西守備軍を破り、大夏県令を殺害した。詔により征西将軍代理・劉尚(りゅうしょう)と越騎校尉・趙世(ちょうせい)が援軍として派遣され、漢兵・羌族・胡族合わせて三万の兵で討伐に向かった。劉尚は狄道(てきどう)、趙世は枹罕(ふかん)に駐屯し、劉尚配下の司馬・寇盱(こうく)が諸郡の兵を統率して四方から包囲した。迷唐は恐れ、老人や弱者を置いて臨洮(りんとう)の南へ逃亡した。追撃した漢軍は高山で決戦し大勝するも(千余人を斬首)、撤退する迷唐軍を追えず(漢兵の死傷者も多かったため)。劉尚らは撤兵した。 九月庚申(かのえさる)の日、司徒・劉方策(りゅうほうさく)が罷免され自害した。 清河王・劉慶(りゅうけい)が初めて母・宋貴人の墓参りを願い出たことを皇帝が許可し、太官に四季を通じて供物を命じた。 解説
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| 十一月,癸卯,以光祿勳河南呂蓋為司徒。 十二月,丙寅,司空張奮罷。壬申,以太僕韓稜為司空。 西域都護定遠侯班超遣掾甘英使大秦、條支,窮西海,皆前世所不至,莫不備其風土,傳其珍怪焉。及安息西界,臨大海,欲度,船人謂英曰:「海水廣大,往來者逢善風,三月乃得度,若遇遲風,亦有二歲者。故入海,人皆繼三歲糧。海中善使人思土戀慕,數有死亡者。」英乃止。 孝和皇帝下永元十年(戊戌,公元九八年) 夏,五月,京師大水。 秋,七月,己巳,司空韓稜薨。八月,丙子,以太常太山巢堪為司空。 冬,十月,五州雨水。 行征西將軍劉尚、越騎校尉趙世坐畏懦征,下獄,免。謁者王信領尚或屯枹罕,謁者耿譚領世營屯白石。譚乃設購賞,諸種頗來內附,迷唐恐,乃請降;信、譚遂受降罷兵。十二月,迷唐等率種人詣闕貢獻。 戊寅,梁節王暢薨。初,居巢侯劉般薨,子愷當嗣,稱父遺意,讓其弟憲,遁逃久之,有司奏請絕愷國。肅宗美其義,特優假之,凱猶不出。積十餘歲,有司復奏之,侍中賈逵上書曰:「孔子稱『能以禮讓為國乎何有』。有司不原樂善之心,而繩以循常之法,懼非長克讓之風,成含弘之化也。」帝納之,下詔曰:「王法崇善,成人之美,其聽憲嗣爵。遭事之宜,後不得以為比。」乃征愷,拜為郎。 |
現代日本語訳十一月癸卯の日 光禄勳・河南出身の呂蓋が司徒に任命される。 十二月丙寅の日 司空・張奮が罷免。壬申の日に太僕・韓稜が司空となる。 西域都護・定遠侯班超は配下の甘英を使者として大秦(ローマ帝国)と条支国へ派遣した。甘英は西海(ペルシャ湾)の果てにまで到達し、前代の使者たちが至らなかった地域を踏破して現地の風土や珍奇な産物について詳細な記録をもたらした。 安息国(パルティア)西方の海岸で渡航しようとした際、船頭は甘英に警告した:「この海は広大無辺。順風なら三ヶ月で渡れるが逆風では二年かかることもある。航海者は皆三年分の食糧を携える。だが海上では故郷への思慕に駆られ精神を病み、死者も絶えない」と。これを聞いた甘英は渡航を断念した。 孝和帝 永元十年(戊戌、98年) 夏五月: 洛陽で大水害発生。 秋七月己巳の日: 司空・韓稜が逝去。八月丙子日に太常・泰山出身の巣堪を司空に任命。 冬十月: 五州(複数地域)で大雨による水害。 征西将軍代理の劉尚と越騎校尉の趙世は敵への臆病風を理由に召還され投獄後免職。謁者王信が劉尚部隊を率いて枹罕へ、耿譚が趙世部隊を指揮して白石へ駐屯した。 耿譚が投降奨励策を行うと諸部族が続々と帰順し、羌族の迷唐は降伏を申し出た。王信・耿譚はこれを受け入れ撤兵。十二月に迷唐らは一族を率いて朝廷へ貢物を献上した。 戊寅の日: 梁節王劉暢が逝去。 以前に居巣侯・劉般が没すると、嫡子の劉愷が後継となるはずだったが「父の遺志」と称して弟の劉憲に爵位を譲り逃亡。役所は「劉愷の封土取り潰し」を上奏したが章帝(肅宗)はその節義を賞賛し特別待遇を与えた。しかし劉愷は依然出頭せず。 十余年後、再び処分案が出ると侍中・賈逵が諫言:「孔子は『礼譲をもって国を治められようか』(論語)と説きました。役所が善意を見ず常法で裁くのは謙譲の美風を損ないます」。和帝は「王法は善行を尊ぶものだ」として劉憲の爵位継承を特別に許可し、「本件は先例としない」と詔した上で、劉愷を召還して郎官に任じた。 解説
※本訳では固有名詞について岩波文庫版『正史三国志』(今鷹真訳)の表記基準を採用。紀年は西暦併記による年代特定を優先した。 Translation took 2213.2 seconds. |
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| 南單于師子死,單于長之子檀立,為萬氏屍逐鞮單于。 孝和皇帝下永元十一年(己亥,公元九九年) 夏,四月,丙寅,赦天下。 帝因朝會,召見諸儒,使中大夫魯丕與侍中賈逵、尚書令黃香等相難數事,帝善丕說,罷朝,特賜衣冠。丕因上疏曰:「臣聞說經者,傳先師之言,非從己出,不得相讓;相讓則道不明,若規矩權衡之不可枉也。難者必明其據,說者務立其義,浮華無用之言,不陳於前,故精思不勞而道術愈章。法異者各令自說師法,博觀其義,無令芻蕘以言得罪,幽遠獨有遺失也。」 孝和皇帝下永元十二年(庚子,公元一零零年) 夏,四月,戊辰,秭歸山崩。 秋,七月,辛亥朔,日有食之。 九月,戊午,太尉張酺免。丙寅,以大司農張禹為太尉。 燒當羌豪迷唐既入朝。其餘種人不滿二千,饑窘不立,入居金城。帝令迷唐將其種人還大、小榆谷;迷唐以漢作河橋,兵來無常,故地不可復居,辭以種人飢餓,不肯遠出。護羌校尉吳祉等多賜迷唐金帛,令糴谷市畜。促使出塞,種人更懷猜驚。是歲,迷唐復叛,脅將湟中諸胡寇鈔而去,王信、耿譚、吳祉皆坐征。 孝和皇帝下永元十三年(辛丑,公元一零一年) 秋,八月,己亥,北宮盛饌門閣火。 迷唐復還賜支河曲,將兵向塞。護羌校尉周鮪與金城太守侯霸及諸郡兵、屬國羌、胡合三萬人出塞至允川。 |
現代日本語訳南匈奴の単于である師子が死去し、単于長の子である檀が即位した。これが万氏尸逐鞮単于(ばんししちくていぜんう)である。 孝和皇帝・永元十一年(己亥年、西暦99年) 夏四月丙寅の日、天下に大赦を行った。 帝は朝議の際に儒者たちを召し出し、中大夫の魯丕と侍中の賈逵、尚書令の黄香らに数つの問題について議論させた。帝は魯丕の見解を高く評価し、朝議終了後に特に衣冠(礼服)を賜った。これを受けて魯丕は上疏した:「経典を論じる者は先師の教えを伝えるものであり、自説を主張するものではありません。互いに譲り合ってはいけません。謙遜すれば道理が明らかにならず、まるで定規や秤が曲げられないように厳格であるべきです。疑問を呈する者は根拠を示し、説明する者は意義を明確にすべきです。空虚で無益な言葉は御前で述べるに値せず、そうすることで思索も徒労なく道術はいっそう明瞭になります。解釈が異なる者には各々師承の説を述べさせ、広くその義を観察すればよいのです。草刈りのような卑賤な者が言葉ゆえに罪を得たり、辺境の者の意見が埋もれたりすることはありません」 孝和皇帝・永元十二年(庚子年、西暦100年) 夏四月戊辰の日、秭帰で山崩れがあった。 秋七月辛亥朔の日、日食が発生した。 九月戊午の日、太尉張酺が罷免された。丙寅の日、大司農であった張禹を太尉に任命した。 焼当羌(しょうとうきょう)の首長・迷唐はすでに入朝していたが、残る部族民二千人足らずは飢餓に苦しみ自立できず、金城郡へ移住した。帝は迷唐に命じて部族を大楡谷・小楡谷へ戻らせようとしたが、迷唐は「漢が黄河に橋を架けたため軍勢がいつでも来襲できる」と危惧し故地への帰還を拒否。「部民が飢えている」として遠出を固辞した。護羌校尉の呉祉らは多額の金帛を与えて穀物や家畜を購入させようとしたが、強引に塞外へ追い出そうとしたため部族民は疑念と恐怖を深めた。この年、迷唐は再び反乱を起こし、湟中の諸胡を脅して略奪を行わせた後逃亡した。王信・耿譚・呉祉らは責任を問われ召還された。 孝和皇帝・永元十三年(辛丑年、西暦101年) 秋八月己亥の日、北宮盛饌門閣で火災が発生。 迷唐は賜支河曲へ戻り軍勢を率いて塞内へ迫った。護羌校尉周鮪と金城太守侯霸は諸郡兵・属国の羌族・匈奴を含む三万の兵を集め、塞外の允川まで出撃した。 解説
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| 侯霸擊破迷唐,種人瓦解,降者六千餘口,分徙漢陽、安定、隴西。迷唐遂弱,遠逾賜支河首,依發羌居。久之,病死,其子來降,戶不滿數十。 荊州雨水。 冬,十一月,丙辰,詔曰:「幽、并、涼州戶口率少,邊役眾劇,束脩良吏進仕路狹。撫接夷狄,以人為本,其令緣邊郡口十萬以上,歲舉孝廉一人,不滿十萬,二歲舉一人,五萬以下,三歲舉一人。」鮮卑寇右北平,遂入漁陽,漁陽太守擊破之。 戊辰,司徒呂蓋以老病致仕。 巫蠻許聖以郡收稅不均,怨恨,遂反;辛卯,寇南郡。 孝和皇帝下永元十四年(壬寅,公元一零二年) 春,安定降羌燒何種反,郡兵擊滅之。時西海及大、小榆谷左右無復羌寇,隃麋相曹鳳上言:「自建武以來,西羌犯法者,常從燒當種起,所以然者,以其居大、小榆谷,土地肥美,有西海魚鹽之利,阻大河以為固。又,近塞內諸種,易以為非,難以攻伐,故能強大,常雄諸種,恃其權勇,招誘羌、胡。今者衰困,黨援壞沮,亡逃棲竄,遠依發羌。臣愚以為宜及此時建復西海郡縣,規固二榆,廣設屯田,隔塞羌、胡交關之路,遏絕狂狡窺欲之源。又殖谷富邊,省委輸之役,國家可以無西方之憂。」上從之,繕修故西海郡,徙金城西部都尉以戍之,拜鳳為金城西部都尉,屯龍耆。後增廣屯田,列屯夾河,合三十四部。 |
現代日本語訳:侯覇が迷唐を撃破し、その一族は瓦解した。降伏者は六千余りで、漢陽・安定・隴西に分かれて移住させられた。迷唐の勢力は衰退し、遠く賜支河源(黄河源流地帯)を越え、発羌族の居住地域へ逃れた。やがて病死し、その子が投降してきた時には戸数は数十にも満たなかった。 荊州で大雨洪水が発生した。 冬11月丙辰の日、詔書が下された:「幽州・并州・涼州では人口が少なく、辺境の役務は過酷である。有能な官吏を登用する道も狭い。夷狄を懐柔するには人材育成が根本である。よって辺境地帯で戸口十万以上の郡は毎年孝廉(官僚候補者)一人を推薦せよ。十万未満なら二年に一人、五万以下なら三年に一人とする」。鮮卑族が右北平を侵し漁陽へ侵入したが、漁陽太守が撃退した。 戊辰の日、司徒呂蓋は老病により辞任した。 巫蛮(湖北省西部の少数民族)許聖は郡による税徴収の不公平を恨み反乱。辛卯の日に南郡を襲撃した。 孝和皇帝永元十四年(壬寅・紀元102年) 春、安定に降伏していた羌族焼何種が反乱。郡兵が鎮圧殲滅した。この時点で西海や大楡谷・小楡谷周辺にはもはや羌族の脅威はなく、隃麋国の相(国宰相)曹鳳が上奏した:「光武帝以来、西羌の中でも法を犯す者は常に焼当種から発生していました。その理由は彼らが大楡谷・小楡谷という肥沃な土地を占拠し、西海の魚塩資源を独占していたためです。さらに黄河で防衛線を固め、周辺部族と連携して暴動を起こせば討伐困難となり強大化しました。常に諸種族を支配下に置き、武力を背景に羌や胡人を誘導したのです。今こそ彼らが衰退し支援勢力も失った好機です。西海郡県を再建し二楡谷地域の防備強化と大規模な屯田設置によって羌族と匈奴の連絡路遮断、侵略野心の根絶を行うべきでしょう。さらに穀物生産で辺境を豊かにすれば兵糧輸送負担も減り、国家は西方憂いから解放されるはずです」。皇帝はこれを受け入れ旧西海郡を修復し金城西部都尉(軍事司令官)駐屯地と変更した。曹鳳を金城西部都尉に任命して竜耆で開拓させたのち、さらに黄河両岸へ34ヶ所もの大規模な屯田基地網が拡充された。 解説:
(翻訳方針:固有名詞は原則として漢字表記維持し、制度概念については現代語で平易に解説。歴史的脈絡を損なわない範囲で冗長表現を削減) Translation took 955.7 seconds. |
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| 其功垂立,會永初中諸羌叛,乃罷。 三月,戊辰,臨辟雍饗射,赦天下。 夏,四月,遣使者督荊州兵萬餘人,分道討巫蠻許聖等,大破之。聖等乞降,悉徙置江夏。 陰皇后多妒忌,寵遇浸衰,數懷恚恨。後外祖母鄧朱,出入宮掖,有言後與朱共挾巫蠱道者;帝使中常侍張慎與尚書陳褒案之,劾以大逆無道,朱二子奉、毅,後弟輔皆考死獄中。六月,辛卯,後坐廢,遷於桐宮,以憂死。父特進綱自殺,後弟軼、敞及朱家屬徙日南比景。 秋,七月,壬子,常山殤王側薨,無子,立其兄防子侯章為常山王。 三州大水。 班超久在絕域,年老思土,上書乞歸曰:「臣不敢望到酒泉郡,但願生入玉門關。謹遣子勇隨安息獻物入塞,及臣生在,令勇目見中土。」朝廷久之未報,超妹曹大家上書曰:「蠻夷之性,悖逆侮老;而超旦暮入地,久不見代,恐開奸宄之源,生逆亂之心。而卿大夫咸懷一切,莫肯遠慮,如有卒暴,超之氣力不能從心,便為上損國家累世之功,下棄忠臣竭力之用,誠可痛也!故超萬里歸誠,自陳苦急,延頸逾望,三年於今,未蒙省錄。妾竊聞古者十五受兵,六十還之,亦有休息,不任職也。故妾敢觸死為超求哀,丐超餘年,一得生還,復見闕庭,使國家無勞遠之慮,西域無倉卒之憂,超得長蒙文王葬骨之恩,子方哀老之惠。」帝感其言,乃征超還。 |
現代日本語訳その功績がまさに成らんとした時、永初年間(107年-113年)の羌族反乱によって中止された。 三月戊辰の日、皇帝は辟雍で饗射の儀を執り行い、天下に恩赦を下した。 夏四月、使者が荊州兵一万余りを率いて分かれて進軍し、巫蛮(現湖北省周辺の少数民族)の許聖らを討伐して大勝した。許聖らは降伏を願い出たため、一族ごと江夏に移住させられた。 陰皇后は嫉妬深く、寵愛が次第に衰えたことで恨みを募らせていた。皇后の外祖母・鄧朱が宮中に出入りしていた際、「皇后と鄧朱が共に巫蠱(呪術)を行っている」との告発があった。皇帝は中常侍・張慎と尚書・陳褒に調査させ、大逆無道罪で弾劾した結果、鄧朱の息子二人(奉・毅)や皇后の弟・輔らが獄死した。六月辛卯の日、皇后は廃位されて桐宮へ移され、憂いの中で死去。父の特進綱は自害し、弟の軼と敞、及び鄧朱一族は日南郡比景県(現ベトナム中部)に流罪となった。 秋七月壬子の日、常山殤王劉側が逝去。後継者がいなかったため、兄・防の子である侯章を常山王とした。 三州で大洪水が発生した。 班超は長年辺境に駐留し、老いて故郷を懐かしみ「酒泉郡まで戻れとは願わぬ。ただ生きて玉門関に入りたい」と帰国嘆願の上書を提出。「息子・勇を安息(パルティア)からの貢物使節に同行させますので、私が存命中に中原を見せてください」とも記した。朝廷は長らく返答しなかったため、妹で宮廷女官の班昭(曹大家)が上奏:「蛮夷は道理を乱し老人を侮る性質です。超は死期が近いのに代替要員もなく、このままでは反乱の兆しが出ましょう。(中略)高官たちは目先のことしか考えず、もし急変があれば衰えた彼には対応できません。これでは国家の累代の功績を損ない忠臣の尽力を無駄にするのです!(中略)古より兵役は十五歳で始まり六十歳で終わるとされました(任期制の先例です)。故に私は死罪も覚悟で嘆願します。どうか超が余生を故郷で過ごせますように」。皇帝はこの言葉に心動かされ、ついに班超を帰還させた。 解説■ 歴史的背景 ■ 班超兄妹の帰国劇の意義 ■ 社会制度の反映 ■ 訳出方針
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| 八月,超至洛陽,拜為射聲校尉;九月,卒。超之被征,以戊己校尉任尚代為都護。尚謂超曰:「君侯在外國三十餘年,而小人猥承君後,任重慮淺,宜有以誨之!」超曰:「年老失智。君數當大位,豈班超所能及哉!必不得已,願進愚言:塞外吏士,本非孝子順孫,皆以罪過徙補邊屯;而蠻夷懷鳥獸之心,難養易敗。今君性嚴急,水清無大魚,察政不得下和,宜蕩佚簡易,寬小過,總大綱而已。」超去,尚私謂所親曰:「我以班君當有奇策,今所言,平平耳。」尚後竟失邊和,如超所言。 初,太傅鄧禹嘗謂人曰:「吾將百萬之眾,未嘗妄殺一人,後世必有興者。」其子護羌校尉訓,有女曰綏,性孝友,好書傳,常晝修婦業,暮誦經典,家人號曰「諸生」。叔父陔曰:「嘗聞活千人者子孫有封。兄訓為謁者,使修石臼河,歲活數千人,天道可信,家必蒙福。」綏後選入宮為貴人,恭肅小心,動有法度,承事陰後,接撫同列,常克己以下之,雖宮人隸役,皆加恩借,帝深嘉焉。嘗有疾,帝特令其母、兄弟入親醫藥,不限以日數,貴人辭曰:「宮禁至重,而使外捨久在內省,上令陛下有私幸之譏,下使賤妾獲不知足之謗,上下交損,誠不願也!」帝曰:「人皆以數入為榮,貴人反以為憂邪!」每有宴會,諸姬競自修飾,貴人獨尚質素,其衣有與陰後同色者,即時解易,若並時進見,則不敢正坐離立,行則僂身自卑,帝每有所問,常逡巡後對,不敢先後言。 |
現代日本語訳:八月、班超は洛陽に到着し、「射声校尉」に任じられた。九月には死去した。彼が召還された後、戊己校尉の任尚が西域都護を引き継いだ。任尚は班超に対して言った。「貴殿は三十年以上も辺境で活躍されましたが、私のような小人物がその後を継ぐことになり、責任は重いのに思慮が浅く、ぜひご指導ください」。班超は答えた。「年老いて知恵も衰えました。貴殿はこれまで幾度か要職を経験されており、私の及ぶところではありません。どうしてもと言われるなら一言申し上げましょう——辺境の役人や兵士たちは本来孝行息子でも善良な者でもなく、罪を得て辺疆に送られた者ばかりです。異民族は鳥獣のような心を持ち、手懐けるのは難しく反抗しやすい。貴殿は性格が厳格で性急であり『水清ければ大魚棲まず』と言いますように、細かすぎる監察では部下の和を得られません。寛容に構え簡素な統治を心がけ、些細な過失を見逃し、大局だけを掌握されるべきです」。班超が去った後、任尚は親しい者にこっそり言った。「私は班君に特別な秘策があると思っていたのに、今の言葉はごく平凡だ」。その後彼は実際に異民族との調和を失い、班超の予見通りとなった。 かつて太傅・鄧禹が人々に向かってこう語っていたことがある。「私は百万の軍勢を率いても一人も無駄に殺さなかった。後世には必ず栄える者が現れるだろう」。その息子で護羌校尉の鄧訓には綏(スイ)という娘がおり、孝行心厚く学問を好み、昼は婦人の仕事を務め夜は経典を読むため家族から「女学生」と呼ばれた。叔父の鄧陔(トウガイ)が言う。「『千人救えば子孫に爵位あり』と聞いている。兄・訓が謁者として石臼河の治水工事を行い、年間数千人を救ったのだから天命は信じられる。我が家も必ず恩恵を受けるだろう」。後に綏は後宮に入り貴人(高位側女)となったが、恭順で慎み深く行動に規律があり、陰皇后への奉仕や他の妃たちとの交流でも常に自らを抑えて控えめに振る舞い、侍女や下働きの者にも恩情をかけたため皇帝は深く称賛した。病気になった際、特別に母親と兄弟が宮中で看病するよう許されたが、綏は辞退して言った。「宮廷規律は最も重要です。外部の者が長期間内廷に入れば、上は陛下に私情による寵愛との非難を招き、下は私に貪欲だという誹りを受けます」。皇帝は驚いて「人は皆頻繁に家族が入ることを名誉と思うのに、貴人だけが憂慮するとは」と述べた。宴席では他の妃たちが競って着飾る中で綏は質素さを重んじ、陰皇后と同じ色の衣服があれば直ちに着替え、同時にお目通りする際には離れて控えめな姿勢を取り、皇帝の質問にも常に慎重に対応した。 解説:
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| 陰後短小,舉止時失儀,左右掩口而笑,貴人獨愴然不樂,為之隱諱,若己之失。帝知貴人勞心曲體,歎曰:「修德之勞,乃如是乎!」後陰後寵衰,貴人每當御見,輒辭以疾。時帝數失皇子,貴人憂繼嗣不廣,數選進才人以博帝意。陰後見貴人德稱日盛,深疾之。帝嘗寢病,危甚,陰後密言:「我得意,不令鄧氏復有遺類!」貴人聞之,流涕言曰:「我竭誠盡心以事皇后,竟不為所祐。今我當從死,上以報帝之恩,中以解宗族之禍,下不令陰氏有人豕之譏。」即欲飲藥,宮人趙玉者固禁之,因詐言「屬有使來,上疾已愈」,貴人乃止。明日,上果瘳。及陰後之廢,貴人請救,不能得。帝欲以貴人為皇后,貴人愈稱疾篤,深自閉絕。冬,十月,辛卯,詔立貴人鄧氏為皇后;後辭讓,不得已,然後即位。郡國貢獻,悉令禁絕,歲時但供紙墨而已,帝每欲官爵鄧氏,後輒哀請謙讓,故兄騭終帝世不過虎賁中郎將。 丁酉,司空巢堪罷。 十一月,癸卯,以大司農沛國徐防為司空。防上疏,以為:「漢立博士十有四家,設甲乙之科以勉勸學者。伏見太學試博士弟子,皆以意說,不修家法,私相容隱,開生奸路。每有策試,輒興諍訟,論議紛錯,互相是非。孔子稱『述而不作』,又曰『吾猶及史之闕文』。今不依章句,妄生穿鑿,以遵師為非義,意說為得理,輕侮道術,浸以成俗,誠非詔書實選本意。 |
現代日本語訳陰皇后は背が低く、立ち居振る舞いに時として不作法な点があり、側近たちは口を押さえて笑うことがあった。しかし鄧貴人だけは悲しそうに不愉快な様子で、その過失を隠して咎めず、まるで自分の失敗であるかのように振る舞った。皇帝(和帝)は彼女が心身を尽くしていることを知り、「道徳を修める苦労とはこのようなものか」と嘆いた。 後に陰皇后の寵愛が衰えると、鄧貴人は侍寝の機会がある度に病気を理由に辞退した。当時皇帝は皇子を相次いで亡くしており、鄧貴人は後継ぎが少ないことを憂慮し、たびたび才人(側女)を推挙して皇帝の心を慰めようとした。陰皇后は鄧貴人の名声が日に日に高まるのを見て深く憎んだ。 ある時皇帝が重病に陥ると、陰皇后は密かに「私が権力を得たら、鄧一族を一人残らず滅ぼす」と語った。これを聞いた鄧貴人は涙ながらに言った。「私は誠心誠意をもって皇后に仕えてきたのに、ついに守ってもらえなかった。今こそ死を選び、上は皇帝への恩義に報い、中には一族の災いを避け、下には陰氏が『人豚(呂后による戚夫人への暴虐)』との汚名を受けることを防ごう」。すぐに毒薬を飲もうとしたが、宮女の趙玉が必死に止め、「使者が来て皇帝様は回復された」と偽って伝えたため思い留まった。翌日、皇帝は実際に快復した。 陰皇后が廃位されるときも鄧貴人は救済を願ったが叶わなかった。皇帝が彼女を新たな皇后に立てようとした際には「重病」を理由に固辞し、ひたすら謹慎した。冬十月辛卯の日(西暦92年)、詔によって鄧貴人が皇后として立つことになった。何度も辞退したもののやむなく即位すると、地方からの貢ぎ物は一切禁止し、年間行事には紙と墨だけを供えさせた。皇帝が鄧氏一族に官爵を与えようとする度に哀願して謙譲したため、兄・鄧騭(とうしつ)は皇帝在世中ずっと虎賁中郎将(近衛隊長)の地位を越えることはなかった。 丁酉の日(92年)、司空・巣堪が罷免される。 解説1. 鄧貴人の人物像と行動原理 2. 歴史的背景と制度 3. 叙述手法の特徴
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| 改薄從忠,三代常道;專精務本,儒學所先。臣以為博士及甲乙策試,宜從其家章句,開五十難以試之,解釋多者為上第,引文明者為高說。若不依先師,義有相伐,皆正以為非。」上從之。 是歲,初封大長秋鄭眾為巢刀鄉侯。 孝和皇帝下永元十五年(癸卯,公元一零三年) 夏,四月,甲子晦,日有食之。時帝遵肅宗故事,兄弟皆留京師,有司以日食陰盛,奏遣諸王就國。詔曰:「甲子之異,責由一人。諸王幼稚,早離顧復,弱冠相育,常有《蓼莪》、《凱風》之哀。選儒之恩,知非國典,且復宿留。」 秋,九月,壬年,車駕南巡,清河、濟北、河間三王並從。 四州雨水。 冬,十月,戊申,帝幸章陵;戊午,進幸雲夢。時太尉張禹留守,聞車駕當幸江陵,以為不宜冒險遠遊,驛馬上諫。詔報曰:「祠謁既訖,當南禮大江;會得君奏,臨漢回輿而旋。」十一月,甲申,還宮。 嶺南舊獻生龍眼、荔枝,十里一置,五里一候,晝夜傳送。臨武長汝南唐羌上書曰:「臣聞上不以滋味為德,下不以貢膳為功。伏見交趾七郡獻生龍眼等,鳥驚風發;南州土地炎熱,惡蟲猛獸,不絕於路,至於觸犯死亡之害。死者不可復生,來者猶可救也。此二物升殿,未必延年益壽。」帝下詔曰:「遠國珍羞,本以薦奉宗廟,苟有傷害,豈愛民之本,其敕太官勿復受獻!」 是歲,初令郡國以日北至按薄刑。 |
現代日本語訳:政治の在り方を質素で忠実なものへと改めることは、夏・殷・周という三代に通じる規範である。学問において専心し根本を究めることが儒教教育の要諦だ。臣下として申せば、博士官及び官吏登用試験(甲乙策試)では各学派が継承する経典解釈(章句)を尊重し、五十条の難題を作成して受験者に課すべきであると考える。より多くの設問に対して解説できた者を上第(最優秀)とし、明確な典籍引用を示した者の見解こそ優れた説とするのが妥当であろう。もし先師(孔子ら)の教えに背き経典解釈が矛盾する場合は、全て誤りとして正すべきである」。皇帝はこの提案を容れた。 同年、大長秋(皇后宮事務長官)鄭衆を初めて巣刀郷侯に封じる。 孝和帝 永元十五年(癸卯・西暦103年) 夏季四月甲子晦(30日)、日食が発生。当時皇帝は前代の章帝の方針を継承し、兄弟諸王全員を都に留めていた。役人が「日食は陰気(后妃や諸侯勢力)過剰の兆候」と奏上して諸王の封国帰還を進言すると、詔勅が下った:「甲子の異変の責は朕一人にある。諸王は未だ幼く早くに両親の庇護を失い(『詩経』蓼莪篇)、若年時から互いに養い合ってきた(同凱風篇)。彼らと離れるのは国法にも悖ると知りながら、しばらく都にとどまらせる」。 秋季九月壬午日、皇帝は南巡を開始。清河王・済北王・河間王の三諸侯が随行した。 四州で大雨による水害発生。 冬季十月戊申(5日)、帝は章陵に詣でる。同月戊午(15日)には雲夢へ進んだ。太尉張禹が都を留守中、皇帝の江陵行幸計画を知り「危険な遠征は不適切」と駅伝馬で急諫したところ、「祖先祭祀終了後は長江での祭祀を予定していたが卿の上奏を得て漢水沿いより帰還する」との返書があった。十一月甲申(12日)、宮殿に戻る。 嶺南地方では従来、生の竜眼・荔枝を貢納品として献上させていた。(輸送のために)十里毎に中継所、五里毎に見張り台を設置し昼夜で搬送していた。臨武県令(汝南出身)唐羌が上奏:「君主は美食供給をもって徳とせず、臣下も貢物献上を功績とするものではありません。交趾七郡から生の竜眼等が届く際には(馬車が疾走するため)鳥驚き風起こり、炎熱の南方では毒虫・猛獣に道路で絶えず遭遇し死亡事故も起きています。死者は蘇らぬが今後は救える命です。これらが宮殿に入っても寿命延長にはつながりません」。帝は詔して言う:「遠方の珍味は宗廟奉献用だが人命を損ねては愛民の本義に反する。太官令(宮廷食膳担当)へ伝達せよ――今後これらを受け取るな」。 同年より初めて郡国に対し「冬至日に軽微な刑罰のみ執行」する制度が施行された。 解説:
※注:古代官職名については現代的理解しやすい表現へ換言。日付は原文の干支表記維持。「巣刀郷侯」封爵は宦官登用開始を示す画期的事件(『後漢書』鄭衆伝)。 Translation took 2559.7 seconds. |
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| 孝和皇帝下永元十六年(甲辰,公元一零四年) 秋,七月,旱。 辛酉,司徒魯恭免。 庚午,以光祿勳張酺為司徒;八月,己酉,酺薨。 冬,十月,辛卯,以司空徐防為司徒,大鴻臚陳寵為司空。 十一月,己丑,帝行幸緱氏,登百岯山。 北匈奴遣使稱臣貢獻,願和親,修呼韓邪故約。帝以其舊禮不備,未許;而厚加賞賜,不答其使。 孝和皇帝下元興元年(乙巳,公元一零五年) 春,高句驪王宮入遼東塞,寇略六縣。夏,四月,庚午,赦天下,改元。 秋,九月,遼東太守耿夔擊高句驪,破之。冬,十二月,辛未,帝崩於章德前殿。初,帝失皇子,前後十數,後生者輒隱秘養於民間,群臣無知者。及帝崩,鄧皇后乃收皇子於民間。長子勝,有痼疾;少子隆,生始百餘日,迎立以為皇太子,是夜,即皇帝位。尊皇后曰皇太后,太后臨朝。是時新遭大憂,法禁未設,宮中亡大珠一篋;太后念欲考問,必有不辜,乃親閱宮人,觀察顏色,即時首服。又,和帝幸人吉成御者共枉吉成以巫蠱事,下掖庭考訊,辭證明白。太后以吉成先帝左右,待之有恩,平日常無惡言,今反若此,不合人情;更自呼見實核,果御者所為,莫不歎服以為聖明。 北匈奴重遣使詣敦煌貢獻,辭以國貧未能備禮,願請大使,當遣子入侍。太后亦不答其使,加賜而已。 |
現代日本語訳孝和皇帝治世下、永元十六年(西暦104年) 冬十月辛卯の日、司空・徐防を司徒とし、大鴻臚(外交担当)陳寵を司空とする。 北匈奴が使者を送り臣従と貢物を献上。「和親を願い呼韓邪単于時代の盟約を復活させたい」と申し出たが、皇帝は礼儀不足として許可せず。厚く褒美を与えたものの返答は行わなかった。 孝和皇帝治世下、元興元年(西暦105年) 秋九月に遼東太守耿夔が高句麗軍を撃破する。冬十二月辛未の日、皇帝は章徳前殿で崩御された。 当時は喪中で規律が緩み宮中の大粒真珠一箱が紛失する事件発生。太后「取り調べれば無実者も巻き込む」と考え自ら宮人の表情を観察し、瞬時に犯人を特定(※首服=自白させた)。また先帝寵姫・吉成が侍女共謀で巫蠱(呪術)の冤罪を着せられた時、証拠は明白だったが太后「普段から善良な人物が急に変わるのは不自然」と直々尋問。結果として侍女らの犯行と判明し人々はその洞察力に感服したという。 北匈奴が再び敦煌へ使者を派遣。「国が貧しく正式な礼装は整わぬが、大使をお遣わし願えれば王子を侍従として差し出す」と申し入れたが、太后も返答せず褒美を与えたのみであった。 解説
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| 雒陽令廣漢王渙,居身平正,能以明察發擿奸伏,外行猛政,內懷慈仁。凡所平斷,人莫不悅服,京師以為有神。是歲卒官,百姓市道,莫不咨嗟流涕。渙喪西歸,道經弘農,民庶皆設般木案於路,吏問其故,咸言:「平常持米到雒,為吏卒所鈔,恆亡其半,自王君在事,不見侵枉,故來報恩。」雒陽民為立祠、作詩,每祭,輒弦歌而薦之。太后詔曰:「夫忠良之吏,國家之所以為治也,求之甚勤,得之至寡,今以渙子石為郎中,以勸勞勤。」。 |
現代日本語訳:洛陽の長官であった広漢出身の王涣は、自らの行いを公正に保ち、明るく調査して隠れた悪事を見抜き、外見は厳しい政治を行いつつも内面には慈しみと仁愛を持っていた。彼が裁決した全ての案件において人々は心から納得し、都ではまるで神のような存在として慕われた。この年、在職中に亡くなると、市井の人々や通行人は皆、嘆き悲しんで涙を流した。 王涣の棺が西方へ帰る途中、弘農を通りかかった際、民衆は道路わきに机を並べて供え物を捧げた。役人がその理由を尋ねると「以前は米を洛陽に運ぶと兵士や役人に半分も奪われたものだ。しかし王様(王涣)が治めてからは不当な扱いを受けなくなったので、恩返しに来ました」と言う者ばかりであった。 洛陽の民衆は彼のために祠堂を建て詩を作り、祭りの度に琴や歌で追悼した。皇太后は詔勅で「忠義善良な官吏こそ国家が治まる礎である。懸命に探しても得難い存在だ」と述べ、王涣の功績を称えて息子・石を郎中(官職)に任命し、「勤勉への励ましとするように」と命じた。 解説:
(出典注記:本訳は胡三省注『資治通鑑』巻48・漢紀40を底本とし、現代日本語への意訳を行う際に固有名詞の表記統一を実施) Translation took 599.7 seconds. |
| input text 資治通鑑\049_漢紀_41.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||
| 資治通鑑 卷四十九 漢紀四十一 起柔兆敦牂,盡旃蒙單閼,凡十年。 孝殤皇帝延平元年(丙午,公元一零六年) 春,正月,辛卯,以太尉張禹為太傅,司徒徐防為太尉,參錄尚書事。太后以帝在襁褓,欲令重臣居禁內。乃詔禹捨宮中,五日一歸府;每朝見,特贊,與三公絕席。 封皇兄勝為平原王。 癸卯,以光祿勳梁鮪為司徒。 三月,甲申,葬孝和皇帝於慎陵,廟曰穆宗。 丙戌,清河王慶、濟北王壽、河間王開、常山王章始就國;太后特加慶以殊禮。慶子祜,年十三,太后以帝幼弱,遠慮不虞,留祜與嫡母耿姬居清河邸。耿姬,況之曾孫也;祜母,犍為左姬也。 夏,四月,鮮卑寇漁陽,漁陽太守張顯率數百人出塞追之。兵馬掾嚴授諫曰:「前道險阻,賊勢難量,宜且結營,先令輕騎偵視之。」顯意甚銳,怒,欲斬之,遂進兵。愚虜伏發,士窣窸走,唯授力戰,身被十創,手殺數人而死。主簿衛福、功曹徐鹹皆自投赴顯,俱歿於陳。 丙寅,以虎賁中郎將鄧騭為車騎將軍、儀同三司。騭弟黃門侍郎悝為虎賁中郎將,弘、閶皆侍中。 司空陳寵薨。 五月,辛卯,赦天下。 壬辰,河東垣山崩。 六月,丁未,以太常尹勤為司空。 郡國三十七雨水。 己未,太后詔減太官、導官、尚方、內署諸服御、珍膳、靡麗難成之物,自非供陵廟,稻梁米不得導擇,朝夕一肉飯而已。 |
現代日本語訳巻四十九 漢紀四十一(後編) 柔兆敦牂年から旃蒙単閼年に至るまで、十年間を記す。 孝殤皇帝・延平元年(丙午の年、106年) 皇兄・劉勝を平原王に封ずる。 三月甲申日、孝和皇帝(前帝)を慎陵に葬り廟号「穆宗」と定める。 夏四月、鮮卑族が漁陽郡を襲撃する。太守張顕は数百兵を率いて国境追撃に出たが、配下厳授が「地形険阻であり敵情不明のため慎重に偵察すべき」と諫言すると激怒した張顕は彼を斬ろうと強行軍し、伏兵に遭って潰走。ただ一人奮戦した厳授は十数か所傷を受けながら複数の敵を討ち取って戦死した。主簿衛福らも救援に向かい全員戦場で散る結果となった。 丙寅日、虎賁中郎将鄧騭(太后の兄)を車騎將軍・儀同三司に昇格させた。弟鄧悝は黄門侍郎から後任の虎賁中郎将へ、他の兄弟弘らも侍中職を得る。 五月辛卯日、天下に大赦令を発布。 六月丁未日、太常尹勤を司空とする。 解説
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| 舊太官、湯官經用歲且二萬萬,自是裁數千萬。及郡國所貢,皆減其過半;悉斥賣上林鷹犬;離宮、別館儲峙米□、薪炭,悉令省之。 丁卯,詔免遣掖庭宮人及宗室沒入者皆為庶民。 秋,七月,庚寅,敕司隸校尉、部刺史曰:「間者郡國或有水災,防害秋稼,朝廷惟咎,憂惶悼懼。而郡國欲獲豐穰虛飾之譽,遂覆蔽災害,多張墾田,不揣流亡,競增戶口,掩匿盜賊,令奸惡無懲,署用非次,選舉乖宜,貪苛慘毒,延及平民。刺史垂頭塞耳,阿私下比,不畏於天,不愧於人。假貸之恩,不可數恃,自今以後,將糾其罰。二千石長吏其各實核所傷害,為除田租芻稿。」 八月,辛卯,帝崩。癸丑,殯於崇德前殿。太后與兄車騎將軍騭、虎賁中郎將悝等定策禁中,其夜,使騭持節以王青蓋車迎清河王子祜,齋於殿中。皇太后御崇德殿,百官皆吉服陪位,引拜祜為長安侯。乃下詔,以祜為孝和皇帝嗣,又作策命。有司讀策畢,太尉奉上璽綬,即皇帝位,太后猶臨朝。 詔告司隸校尉、河南尹、南陽太守曰:「每覽前代,外戚賓客濁亂奉公,為民患苦,咎在執法怠懈,不輒行其罰故也。今車騎將軍騭等雖懷敬順之志,而宗門廣大,姻戚不少,賓客奸猾,多干禁憲,其明加檢敕,勿相容護。」自是親屬犯罪,無所假貸。 九月,六州大水。 丙寅,葬孝殤皇帝於康陵。 |
現代日本語訳かつて太官・湯官の年間経費は二億にも及びましたが、これ以降数千万に削減されました。また郡国からの貢納品も半分以上を削減し、上林苑の鷹や猟犬はすべて売却しました。離宮や別館に貯蔵された米・薪炭なども一切節約させました。 丁卯(ひのとう)の日、掖庭(えきてい)で使役されていた女性たちおよび宗室から没収された者たちを庶民として解放する詔が下りました。 秋七月庚寅(かのえとら)の日、司隸校尉や部刺史に対し次のように命じられました:「近ごろ郡国で水害が発生し農作物に被害が出ているのに、朝廷は自責の念に駆られているというのに、郡国は豊作を装って虚偽の報告を行い、災害を隠蔽する。耕作地数を過大申告したり、流民の実態を把握せず戸口を水増しし、盗賊の発生を隠匿して悪事への罰を免れさせている。役人の任命は順序を無視し、人材登用も不適切だ。さらに貪欲で苛烈な統治が庶民にまで及んでいる。刺史たちは天をも恐れず人をも恥じぬ態度で、真相から目を背け私情で下役と結託している。朝廷の寛容には限界がある。今後は厳罰をもって糾す。郡太守(二千石)らは被害状況を実査し田租・秣税を免除せよ」 八月辛卯(かのとう)の日、皇帝が崩御されました。癸丑(みずのとう)の日、崇徳前殿で葬儀が行われました。鄧太后と兄の車騎将軍鄧騭(とうしつ)、虎賁中郎将鄧悝(とうかい)らは宮中で協議を重ね、その夜に節を持たせた王青蓋車(おうせいがいしゃ)で清河王の子・劉祜(りゅうこ)を迎えさせました。劉祜は殿中で斎戒沐浴しました。皇太后が崇徳殿に出御すると、百官は礼装して列席し、長安侯に封じた後、「孝和皇帝の嗣」として即位する詔書と策命(任命書)を発布しました。官吏が策文を読み終えると太尉が璽綬(じじゅ:御璽と組紐)を奉じて正式に帝位につかせましたが、太后は引き続き摂政されました。 詔で司隸校尉・河南尹・南陽太守に対し告げられました:「歴代の外戚やその関係者は公務を乱して民を苦しめたが、これは法執行の怠慢に原因がある。車騎将軍鄧騭らは恭順だが一族は大きく姻戚も多いため、悪質な賓客が法令を犯す恐れがある。厳しく監察せよ」これ以降、皇族親類縁者の犯罪に対し一切の容赦はなくなりました。 九月に六州で大洪水が発生しました。 丙寅(ひのえとら)の日、孝殤皇帝を康陵に埋葬しました。 解説
※本訳では『資治通鑑』漢紀四十一(永初元年条)の記述を基に、固有名詞は原則として当時の表記を採用し、制度・官職名等には適宜注釈を付した。詔勅文については現代日本語の口調で意訳しつつ原文の緊迫感を保持するよう努めた。 Translation took 1100.3 seconds. |
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| 以連遭大憂,百姓苦役,方中秘藏及諸工作事,事減約十分居一。 乙亥,殞石於陳留。 詔以北地梁慬為西域副校尉。慬行至河西,會西域諸國反,攻都護任尚於疏勒;尚上書求救,詔慬將河西四郡羌,胡五千騎馳赴之。慬未至而尚己得解,詔征尚還,以騎都尉段禧為都護,西域長史趙博為騎都尉。禧、博守它乾城,城小,梁慬以為不可固,乃譎說龜茲王白霸,欲入共保其城;白霸許之,吏民固諫,白霸不聽。慬既入,遣將急迎段禧、趙博,合軍八九千人。龜茲吏民並叛其王,而與溫宿、姑墨數萬兵反,共圍城,慬等出戰,大破之。連兵數月,胡眾敗走,乘勝追擊,凡斬首萬餘級,獲生口數千人,龜茲乃定。 冬,十月,四州大水,雨雹。 清河孝王慶病篤,上書求葬樊濯宋貴人塚旁。十二月,甲子,王薨。 乙酉,罷魚龍曼延戲。 尚書郎南陽樊准以儒風浸衰,上疏曰:「臣聞人君不可以不學。光武皇帝受命中興,東西誅戰,不遑啟處,然猶投戈講藝,息馬論道。孝明皇帝庶政萬機,無不簡心,而垂情古典,游意經藝,每饗射禮畢,正坐自講,諸儒並聽,四方欣欣。又多征名儒,布在廓廟,每宴會則論難衎衎,共求政化,期門、羽林介冑之士,悉通《孝經》,化自聖躬,流及蠻荒,是以議者每稱盛時,鹹言永平。今學者益少,遠方尤甚,博士倚席不講,儒者競論浮麗,忘謇謇之忠,習諓諓之辭,臣愚以為宜下明詔,博求幽隱,寵進儒雅,以俟聖上講習之期。 |
現代日本語訳(前略)度重なる不幸が続き、民衆は過酷な労役に苦しんでいたため、宮中の宝物庫と各種の造営事業を縮小し、およそ一割程度削減した。 乙亥の日、陳留郡で隕石が落下した。 詔により北地出身の梁慬(りょうきん)を西域副校尉に任命した。彼が河西まで赴任途中、西域諸国が反乱を起こし、疏勒(しょろく)で都護・任尚(じんしょう)を攻撃した。任尚は救援要請の上書を送り、詔によって梁慬は河西四郡の羌族と胡族から五千騎を率いて急行したが、到着前に任尚は包囲を脱していたため、詔で任尚を召還し、騎都尉・段禧(だんき)を新たな都護に、西域長史・趙博(ちょうはく)を騎都尉に任命した。 段禧と趙博が守る它乾城(たけんじょう)は狭小であり、梁慬は防衛に適さないと考えたため、策略を用いて亀茲王・白霸(はくは)に「共に城内で防御したい」と提案した。白霸は承諾したが家臣らは強諫したものの聞き入れなかった。梁慬が入城すると直ちに段禧と趙博を迎えさせ、総兵力八千九百人となった。 亀茲の官民が王に反旗を翻し、温宿(おんしゅく)・姑墨(こぼく)の数万兵と共同で包囲したため、梁慬らは出撃して大勝した。数か月交戦後、胡族軍は敗走し、追撃により首級一万余を斬り、捕虜数千を得て亀茲を平定した。 冬十月に四州が洪水と雹(ひょう)に見舞われた。 清の河孝王・劉慶(りゅうけい)が重病となり、「樊濯にある母・宋貴人の墓の傍らに葬ってほしい」と上書し、十二月甲子の日に逝去した。 乙酉の日、魚龍曼延(ぎょりゅうまんえん:幻想的な宮廷舞踊)を廃止した。 尚書郎・南陽出身の樊准(はんじゅん)は儒学の衰退を憂い上疏した:「君主たる者は学問を疎かにできません。光武帝は天命を受け中興し、東西転戦で休む暇もなかったが、なお武器を捨て経典を講じ、馬を休めて道義を論じました。明帝は万機多忙の中でも古典に心を留め、経書の芸を究められ、饗射礼(きょうしゃれい)後には自ら講義され諸儒が聴講し、天下感化されました。また名儒を登用して朝廷に配し、宴会では政道について議論させ、期門・羽林の武官すら『孝経』を通暁したのです。その教化は蛮地まで及び、永平年間こそ盛世と称されます。 今や学者が減少(特に辺境で甚だしい)し、博士は講義せず儒者は空虚な論争に耽り、忠言を忘れ軽薄な弁舌を好んでおります。愚見では詔を下して隠れた人材を広く求め、儒雅の士を登用され、聖上が学問される時節を待つべきです」 解説
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| 」太后深納其言,詔:「公、卿、中二千石各舉隱士、大儒,務取高行,以勸後進,妙簡博士,必得其人。」 漢孝安皇帝上 孝安皇帝永初元年(丁未,公元一零七年) 春,正月,癸酉朔,赦天下。 蜀郡徼外羌內屬。 二月,丁卯,分清河國封帝弟常保為廣川王。 庚午,司徒梁鮪薨。 三月,癸酉,日有食之。 己卯,永昌徼外僬僥種夷陸類等舉種內附。 甲申,葬清河孝王於廣丘,司空、宗正護喪事,儀比東海恭王。 自和帝之喪,鄧騭兄弟常居禁中,騭不欲久在內,連求還第,太后許之。夏,四月,封太傅張禹、太尉徐防、司空尹勤、車騎將軍鄧騭,城門校尉鄧悝、虎賁中郎將鄧弘、黃門郎鄧閶皆為列侯,食邑各萬戶,騭以定策功增三千戶;騭及諸弟辭讓不獲,遂逃避使者,間關詣闕,上疏自陳,至於五六,乃許之。 五月,甲戌,以長樂衛尉魯恭為司徒。恭上言:「舊制,立秋乃行薄刑,自永元十五年以來,改用孟夏。而刺史、太守因以盛夏徵召農民,拘對考驗,連滯無已。上逆時氣,下傷農業。按月令『孟夏斷薄刑』者,謂其輕罪已正,不欲令久系,故時斷之也。臣愚以為今孟夏之制,可從此令。其決獄案考,皆以立秋為斷。」又奏:「孝章皇帝欲助三正之微,定律著令,斷獄皆以冬至之前。小吏不與國同心者,率入十一月得死罪賊,不問曲直,便即格殺,雖有疑罪,不復讞正。 |
【現代語訳】太后はその意見を深く受け入れ、詔を下した。「公卿および中二千石の官にある者はそれぞれ隠士や大儒を推挙せよ。必ず高尚な行いを持つ者を選び、後進を励まし、博士職には厳選して適任を得るように。」 漢の孝安皇帝 上 孝安皇帝永初元年(丁未、紀元107年) 春正月癸酉朔(1月1日)、天下に赦令を行う。 蜀郡の境界外の羌族が帰順する。 2月丁卯(25日)、清河国を分割して帝の弟・常保を広川王に封じる。 庚午(28日)、司徒梁鮪が薨去。 3月癸酉(1日)に日食あり。己卯(7日)、永昌郡境界外の僬僥種夷の陸類らが全族挙げて帰順する。甲申(12日)、清河孝王を広丘に葬る。司空と宗正が喪事を監督し、その儀礼は東海恭王の先例に倣う。 和帝の崩御以来、鄧騭兄弟は常に宮中に居住していたが、騭は長く内廷にいることを望まず、繰り返して邸宅への帰還を請い、太后がこれを許可した。夏4月、太傅張禹・太尉徐防・司空尹勤・車騎将軍鄧騭らと城門校尉鄧悝・虎賁中郎将鄧弘・黄門郎鄧閶を皆列侯に封じ、食邑各1万戸を与える。特に鄧騭は国家大策の功労により3千戸を加増された。騭及び諸弟は辞退したが許されず、使者を避けて密かに宮殿へ赴き、上疏して懇願すること5、6度にしてようやく許可を得た。 5月甲戌(3日)、長楽衛尉魯恭を司徒に任命する。魯恭は上奏して言う。「旧制では立秋になってから軽い刑罰を行うが、永元15年以降は孟夏(初夏)に変更された。これにより刺史や太守が盛夏期に農民を徴発し拘束・尋問を続け、作業の停滞をもたらしている。(この慣行は)天時の気候にも逆らい、下って農業も損なう。『月令』で『孟夏に軽刑を行う』とは、軽罪案件が既に確定した者を長期拘留せず時機を見て処理する趣旨である。臣の愚見では現行の孟夏制度はこの法令通りに改めるべきだ。裁判や尋問は全て立秋期限とすべし」。さらに奏上して言う。「孝章皇帝が三正(暦法)を補完しようと法律制定時に『判決は冬至前までに行う』と定めたところ、国政への理解不足な下級官吏が11月に死罪事件を見つけるや是非も問わず即時処刑し、疑義ある案件でも再審を行わない弊害が生じている」。 【解説】
(本訳は訓読文を口語体に変換し、固有名詞の表記統一・官職名の現代語化を行った。特に「徼外」「内属」等の民族関係用語は当時の中華思想を反映した表現として忠実に再現している) Translation took 1048.8 seconds. |
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| 可令大辟之科,盡冬月乃斷。」朝廷皆從之。 丁丑,詔封北海王睦孫壽光侯普為北海王。 九真徼外、夜郎蠻夷,舉土內屬。 西域都護段禧等雖保龜茲,而道路隔塞,檄書不通。公卿議者以為「西域阻遠,數有背叛,吏士屯田。其費無已。」六月,壬戌,罷西域都護,遣騎都尉王弘發關中兵,迎禧及梁慬、趙博、伊吾盧、柳中屯田吏士而還。 初,燒當羌豪東號之子麻奴隨父來降,居於安定。時諸降羌布在郡縣,皆為吏民豪右所徭役,積以愁怨。及王弘西迎段禧,發金城、隴西、漢陽羌數百千騎與俱,郡縣迫促發遣。群羌懼遠屯不還,行到酒泉,頗有散叛,諸郡各發兵邀遮,或覆其廬落;於是勒姐、當煎大豪東岸等愈驚,遂同時奔潰。麻奴兄弟因此與種人俱西出塞,先零別種,滇零與鍾羌諸種大為寇掠,斷隴道。時羌歸附既久,無復器甲,或持竹竿木枝以代戈矛,或負板案以為楯,或執銅鏡以象兵,郡縣畏懦不能制,丁卯,赦除諸羌相連結謀叛逆者罪。 秋,九月,午,太尉徐防以災異,寇賊策免。三公以災異免,自防始。辛未,司空尹勤以水雨漂流策免。 ══仲長統昌言曰:光武皇帝慍數世之失權,忿強臣之竊命,矯枉過直,政不任下,雖置三公,事歸台閣。自此以來,三公之職,備員而已;然政有不治,猶加譴責。而權移外戚之家,寵被近習之豎,親其黨類,用其私人,內充京師,外布列郡,顛倒賢愚,貿易選舉,疲駑守境,貪殘牧民,撓擾百姓,忿怒四夷,招致乖叛,亂離斯瘼,怨氣並作,陰陽失和,三光虧缺,怪異數至,蟲螟食稼,水旱為災。 |
現代日本語訳:大辟(死刑)の判決は、全て冬の月に限って執行するよう命じることができる。」朝廷は皆これに従った。 丁丑の日、詔を下して北海王・劉睦の孫である寿光侯・劉普を北海王に封じた。 九真郡の境外と夜郎の蛮夷が、領土ごと帰属した。 西域都護の段禧らは亀茲国を守っていたが、道路が遮断され、命令書が通じなかった。公卿で議論する者は「西域は険遠であり、たびたび反乱があり、官吏や兵士を駐屯させて農耕させる費用が絶えない」と言った。六月壬戌の日、西域都護を廃止し、騎都尉・王弘に関中の兵を動員させ、段禧と梁慬(りょうきん)、趙博(ちょうはく)、伊吾盧(いうろ)、柳中(りゅうちゅう)に駐屯する官吏や兵士を迎え還らせた。 かつて、焼当羌の首長・東号の子である麻奴が父と共に降伏し、安定郡に居住していた。この時、降伏した諸羌は各郡県に分散され、皆役人や民間の豪族から使役されて積もる恨みを抱いていた。王弘が段禧を迎えに西方へ向かう際、金城・隴西・漢陽の羌族から数百~千騎を動員し同行させようとしたため、郡県は強制的に出発を急がせた。諸羌は遠方への駐屯で帰還できないことを恐れ、酒泉に到着すると多くが逃亡した。各郡は兵を出して逃走を妨害し、中には彼らの集落を破壊する者もいたため、勒姐(ろくそ)・当煎(とうせん)の大首長である東岸らはさらに驚き、同時に逃亡・崩壊した。麻奴兄弟はこれにより一族と共に西へ塞外に出て行った。先零別種の滇零(てんれい)や鍾羌などが大規模な略奪を行い、隴道を遮断した。当時、羌族は長く帰順していたため武器防具を持っておらず、竹竿や木枝で戈矛(かほこ)の代わりとした者もいれば、板案(いたあん)を盾として背負う者、銅鏡を兵士と見せかけて持つ者もおり、郡県は臆病で制御できなかった。丁卯の日、諸羌が互いに結託して反逆を謀った罪を赦免した。 秋九月午(ご)の日、太尉・徐防が災異と賊徒出現の責めにより罷免された。三公が災異を理由に罷免されるのは徐防が初例である。辛未の日、司空・尹勤は洪水による水害で流亡者の責めにより罷免された。 ――仲長統(ちゅうちょうとう)『昌言』曰く:光武帝は数世代にわたる権力喪失を憂い、強臣が命を盗むことを憤りながらも、矯正が過ぎて政治の実権を下僚に委ねず、三公を置きつつ実際の政務は尚書台(台閣)に集中させた。これ以降、三公の職は名ばかりとなり、政策不備があれば依然として責めを受けた。しかし権力は外戚へ移り、寵愛は側近の宦官に行き渡った。彼らは同類を重用し私的な者を用い、内(中央)では朝廷に充満し、外(地方)では諸郡に広がって賢愚を取り替え選挙制度を売買した。疲弊した駄馬のような者が境界を守り、貪婪で残酷な者が民衆を治め、百姓はかき乱され四夷(周辺民族)も怒らせたため反逆を招いて混乱が広まり怨嗟の声があふれた。陰陽の調和を失い日月星が欠け異変が頻発し、害虫が穀物を食らい水害旱魃が災いとなった。 解説:
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| 此皆戚宦之臣所致然也,反以策讓三公,至於死、免,乃足為叫呼蒼天,號咷泣血者矣!又,中世之選三公也,務於清愨謹慎,循常習故者,是乃婦女之檢柙,鄉曲之常人耳,惡足以居斯位邪!勢既如彼,選又如此,而慾望三公勳立於國家,績加於生民,不亦遠乎!昔文帝之於鄧通,可謂至愛,而猶展申徒嘉之志。夫見任如此,則何患於左右小臣哉!至如近世,外戚、宦豎,請托不行,意氣不滿,立能陷人於不測之禍,惡可得彈正者哉!曩者任之重而責之輕,今者任之輕而責之重。光武奪三公之重,至今而加甚;不假後黨以權,數世而不行;蓋親疏之勢異也!今人主誠專委三公,分任責成,而在位病民,舉用失賢,百姓不安,爭訟不息,天地多變,人物多妖,然後可以分此罪矣! 壬午,詔:太僕、少府減黃門鼓吹以補羽林士;廄馬非乘輿常所御者,皆減半食;諸所造作,非供宗廟園陵之用,皆且止。 庚寅,以太傅張禹為太尉,太常周章為司空。 大長秋鄭眾、中常侍蔡倫等皆秉勢豫政,周章數進直言,太后不能用。初,太后以平原王勝有痼疾,而貪殤帝孩抱,養為己子,故立焉。及殤帝崩,群臣以勝疾非痼,意鹹歸之;太后以前不立勝,恐後為怨,乃迎帝而立之。周章以眾心不附,密謀閉宮門,誅鄧騭兄弟及鄭眾、蔡倫,劫尚書,廢太后於南宮,封帝為遠國王而立平原王。 |
現代日本語訳:これらすべての問題は外戚や宦官といった近臣たちが招いた結果であるのに、逆に三公(最高位の官僚)を責め立てて処罰し、死罪や免職に追い込むのは、天に向かって叫び声をあげ、血の涙を流して慟哭するべき事態だ!さらに近年における三公の人選は、清廉で慎重であり従来通りの行動をする者ばかり求めているが、これは女性のような慎み深さや田舎者の平凡人と同じレベルであって、どうしてこの高位にふさわしいと言えるのか。情勢がすでにあのように悪化し、人材選考もこれでは、三公に国家のために勲功を立て民衆に恩恵をもたらせと期待するのは、あまりにも現実離れしている!かつて漢の文帝は鄧通に対して極上の寵愛を示したが、それでも申徒嘉(丞相)の進言を受け入れた。君主がこれほどまでに信頼して任用すれば、側近の小臣など恐れる必要があろうか。ところが近年では、外戚や宦官が私的な願いを拒否されるとすぐに恨みを持ち、たちまちにして人を予測不能な災厄に陥らせるのだから、どうやってこれを糾弾・是正できようか?昔は重任を与えながら責任追及は軽かったのに、今では任される権限が小さいくせに責められるのは重い。光武帝が三公の実権を奪って以来、この傾向はいっそう深刻化し、外戚へ権力を渡さない方針も数世代で廃れてしまった——これは身内と他人に対する態度の差によるものだ!今こそ君主は真に三公に全権を委ね責任分担させ成果を求めよ。それでも在位者が民衆を苦しめ、人材登用を誤り、百姓が不安定になり訴訟が絶えず、天地に異変が頻発し世間に怪現象が多いならば、その時に初めて三公の罪を問うべきである。 壬午(じんご)の日、詔勅が下された:太僕と少府は黄門鼓吹(宮廷楽隊)を縮小して羽林士(近衛兵)に充当せよ。厩舎の馬で皇帝の常用車以外のものは全て飼料を半減せよ。諸々の工事で宗廟や陵園供養用ではないものはすべて停止せよ。 庚寅(こういん)の日、太傅・張禹を太尉に任命し、太常・周章を司空とした。 大長秋(宦官長)鄭衆と中常侍蔡倫らが権勢を握り政治に関与したため、周章は再三直言を進めたが太后は聞き入れなかった。当初、平原王の劉勝には持病があったため、太后は幼い殤帝に目をつけ我が子として養育し即位させた。しかし殤帝が崩御すると群臣は「劉勝の病気は不治ではない」とこぞって推挙した。太后は以前に見限ったことを悔やみ恨まれるのを恐れ、別の皇族(安帝)を迎えて皇帝に立てたのである。周章は人心が離反しているとして密かに宮門封鎖を計画し、鄧騭兄弟と鄭衆・蔡倫らを誅殺した上で尚書台を掌握し、太后を南宮へ幽閉して現帝(安帝)を遠国侯に降格させ、平原王劉勝の擁立を画策した。 解説:
※「申徒嘉之志」引用:文帝時代の名丞相が寵臣鄧通を弾劾した故事(史記)を対比させ、理想的な君臣関係を暗示する修辞技法。 Translation took 2353.6 seconds. |
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| 事覺,冬,十一月,丁亥,章自殺。 戊子,敕司隸校尉、冀、并二州刺史,「民訛言相驚,棄捐舊居,老弱相攜,窮困道路。其各敕所部長吏躬親曉喻:若欲歸本郡,在所為封長檄;不欲,勿強。」 十二月,乙卯,以穎川太守張敏為司空。 詔車騎將軍鄧騭、征西校尉任尚將五營及諸郡兵五萬人,屯漢陽以備羌。 是歲,郡國十八地震,四十一大水,二十八大風,雨雹。 鮮卑大人燕荔陽詣闕朝賀。太后賜燕荔陽王印綬、赤車、參駕,令止烏桓校尉所居寧城下,通胡市,因築南、北兩部質館。鮮卑邑落百二十部各遺入質。 孝安皇帝永初二年(戊申,公元一零八年) 春,正月,鄧騭至漢陽;諸郡兵未至,鐘羌數千人擊敗騭軍於冀西,殺千餘人。梁慬還,至敦煌,逆詔慬留為諸軍援。慬至張掖,破諸羌萬餘人,其能脫者十二三;進至姑臧,羌大豪三百餘人詣慬降,並慰譬,遣還故地。 御史中丞樊准以郡國連年水旱,民多饑困,上疏:「請令太官、尚方、考功、上林池御諸官,實減無事之物;五府調省中都官吏、京師作者。又,被災之郡,百姓凋殘,恐非賑給所能勝贍,雖有其名,終無其實。可依征和元年故事,遣使持節慰安,尤困乏者徙置荊、揚孰郡。今雖有西屯之役,宜先東州之急。」太后從之。悉以公田賦與貧民,即擢准與議郎呂倉並守光祿大夫。 |
現代日本語訳事件が発覚し、冬の十一月丁亥(ていがい)の日、章は自殺した。 戊子(ぼし)の日に詔勅を下す:司隸校尉・冀州および并州刺史に対し、「民衆が噂に惑わされ動揺して故郷を捨て去り、老いも若きも互いに支え合いながら路頭に迷っている。各々管轄区域の長官自ら出向いて諭せよ――本籍地へ帰還を望む者には通行証(封長檄)を与えよ。希望しない者は強制するな」と。 十二月乙卯(いつぼう)、潁川太守・張敏を司空に任じる。 詔により車騎将軍鄧騭(とうしつ)と征西校尉任尚が五営兵および諸郡の兵士5万人を率い、漢陽に駐屯して羌族に備えることとなる。 この年、18の郡国で地震、41カ所で洪水、28地域で暴風雨・雹(ひょう)災害が発生した。 鮮卑族首長・燕荔陽(えんれいよう)が宮廷へ来朝。皇太后は彼に王印綬・赤色の車両・参駕(副馬付き乗輿)を下賜し、烏桓校尉の居る寧城近郊への居住を許可した上で異民族との交易市場を開設させたため、南北二箇所の人質収容施設(質館)が建設された。鮮卑120部族はそれぞれ人質を送った。 孝安皇帝・永初2年(戊申の年・108年) 春正月、鄧騭が漢陽に到着したものの諸郡兵は未だ参集せず、鍾羌の数千人が冀州西部で鄧騭軍を破り千人余りを殺害。一方梁慬(りょうきん)は敦煌へ戻る途中、詔により残留して諸軍支援に当たった。張掖において万余りの羌族部隊を撃破し(生き残りは十の内二・三)、姑臧(こしょう)まで進むと羌族首長300余名が降伏を申し出たため慰撫した上で故地へ帰還させている。 御史中丞樊准(はんじゅん)は各郡国での連年水害旱魃による飢餓状況を憂い、上疏して提言:「太官・尚方など宮廷管理部門では不要品目削減を実施すべき。五府も官吏や労役者数を調整せよ。被災地の民は衰弱甚だしく食料支援だけでは救済困難であり名ばかりで実効が伴わない。先例(征和元年)に倣い使者を派遣して慰安し、特に困窮した者は荊州・揚州等豊かな郡へ移住させるべきである。西方駐屯軍の任務はあるが東方救済を優先すべし」と。皇太后はこれを認め、公有地全てを貧民に貸与すると共に樊准と議郎呂倉(りょそう)を光禄大夫に抜擢した。 解説
※本訳では原文の干支・月日表記を保持しつつ、役職名(例:司空=建設大臣相当)や制度(封長檄=通行許可証)等は現代概念で再構成。軍事動員数「五万」など当時の人口規模から見て誇張を含む可能性あり。 Translation took 1057.8 seconds. |
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| 二月,乙丑,遺准使冀州、倉使兗州稟貸,流民鹹得蘇息。夏,旱。五月,丙寅,皇太后幸洛陽寺及若盧獄錄囚徒。洛陽有囚,實不殺人而被考自誣,羸困輿見,畏吏不敢言,將去,舉頭若欲自訴。太后察視覺之,即呼還問狀,具得枉實。即時收洛陽令下獄抵罪。行未還宮,澍雨大降。 六月,京師及郡國四十大水,大風,雨雹。秋,七月,太白入北斗。閏月,辛丑,廣川王常保薨。無子,國除。 癸未,蜀郡徼外羌舉士內屬。 冬,鄧騭使任尚及從事中郎河內司馬鈞率諸郡兵,與滇零等數萬人戰於平襄,尚軍大敗,死者八千餘人,羌眾遂大盛,朝廷不能制。湟中諸縣,粟石萬錢,百姓死亡不可勝數,而轉運難劇。故左校令河南龐參先坐法輸作若盧,使其子俊上書曰:「方今西州流民擾動,而征發不絕,水潦不沐,地力不復,重之以大軍,疲之以遠戍,農功消於轉運,資財竭於征發,田疇不得墾闢,禾稼不得收入,搏手困窮,無望來秋,百姓力屈,不復堪命。臣愚以為萬里運糧,遠就羌戎,不若總兵養眾,以待其疲。車騎將軍騭宜且振旅,留征西校尉任尚,使督涼州士民轉居三輔,休徭役以助其時,止煩賦以益其財,令男得耕種,女得織紝,然後畜精銳,乘懈沮,出其不意,攻其不備,則邊民之仇報,奔北之恥雪矣。」書奏,會樊准上疏薦參,太后即擢參於徒中,召拜謁者,使西督三輔諸軍屯。 |
現代日本語訳:二月乙丑の日、使者を冀州へ派遣し穀倉管理者を兗州に赴かせて食糧貸付を行わせたところ、流浪民は皆息を吹き返した。夏には干ばつが発生。五月丙寅の日、皇太后が洛陽寺と若盧獄(監獄)を訪れ囚人記録を調査された。洛陽に一人の囚人がおり、実際には殺人に関わっていないのに拷問で無理やり自白させられていた。衰弱して駕籠で連れてこられた彼は役人を恐れて声も出せなかったが、退出する際にふと頭をもたげ訴えようとする素振りを見せた。太后はこれを察知し即座に呼び戻して事情を尋ねると冤罪の事実が判明したため、直ちに洛陽令(県長官)を収監させて処罰した。宮殿へ帰る途中で慈雨が激しく降り注いだ。 六月には都を含む四十余りの郡国で洪水・暴風・雹害が発生。秋七月、太白星(金星)が北斗七星の軌道に入った。閏月辛丑の日、広川王劉常保が逝去し後継者がなかったため封国は廃止された。 癸未の日、蜀郡辺境外の羌族が領土ごと帰属を申し出た。 冬、鄧騭(とうしつ)将軍が任尚および従事中郎・河内出身の司馬鈞に命じ諸郡兵士を率いさせ、滇零(てんれい)ら数万の羌族軍と平襄で交戦した。ところが任尚軍は大敗し八千余人が戦死。これにより羌族勢力が急速に拡大し朝廷は制御不能となった。 湟中地域では穀物価格が一石あたり一万銭まで暴騰、民間人の死者は数えきれず食糧輸送も極度に困難だった。 元左校令・河南出身の龐参(ほうさん)は法を犯した罪で若盧獄での労役中であったが、息子龐俊を通じ上奏文を提出させた: 「現在西州では流浪民が不安定化しているのに徴発は続き洪水被害も回復せず地力は疲弊。これに加え大軍駐留と遠方守備による兵士の疲労で、農作業は輸送任務に潰され財源も徴発で枯渇しています。田畑を開墾できず作物収穫も不可能な状況です(中略)民衆の体力は限界点に達しております。 愚考では万里もの兵糧輸送による羌族征伐より、兵力温存策で敵の疲労を待つ方が得策。車騎将軍・鄧騭はいったん撤収し征西校尉・任尚のみ留め置き涼州住民を三輔へ移住させてはどうか? 徭役免除による農期確保と過重税廃止で民力回復を図り、男は耕作に女は機織りに専念できる環境整備こそ急務です。その後精鋭部隊を養成し敵の隙をついて不意打ちすれば——辺境住民の恨みも晴れ敗戦の汚名も返上できます」 この上奏が提出された時、丁度樊准(はんじゅん)が龐参推挙の上疏を行っており、太后は直ちに彼を労役囚から抜擢。謁者(皇帝側近官)に任命し西方へ派遣して三輔駐屯軍全体の監督を命じた。 解説:
※注:固有名詞(鄧騭/滇零等)は歴史的定訳を保持、官職名「謁者」「校尉」など当時の制度を示す語は原文に準拠。 Translation took 2618.7 seconds. |
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| 十一月,辛酉,詔鄧騭還師,留任尚屯漢陽為諸軍節度。遣使迎拜騭為大將軍。既至,使大鴻臚親迎,中常侍郊勞,王、主以下候望於道,寵靈顯赫,光震都鄙。 滇零自稱天子,於北地招集武都參狼、上郡、西河諸雜種羌斷隴道,寇鈔三輔,南入益州,殺漢中太守董炳。梁慬受詔當屯金城,聞羌寇三輔,即引兵赴擊,轉戰武功、美陽間,連破走之,羌稍退散。 十二月,廣漢塞外參狼羌降。 是歲,郡國十二地震。 孝安皇帝永初三年(己酉,公元一零九年) 春,正月,庚子,皇帝加元服,赦天下。 遣騎都尉任仁督諸郡屯兵救三輔。仁戰數不利,當煎、勒姐羌攻沒破羌縣,鍾羌攻沒臨洮縣,執隴西南部都尉。 三月,京師大饑,民相食。壬辰,公卿詣闕謝;詔「務思變復,以助不逮。」 壬寅,司徒魯恭罷。恭再在公位,選辟高第至列卿、郡守者數十人,而門下耆舊或不蒙薦舉,至有怨望者。恭聞之,曰:「學之不講,是吾憂也,諸生不有鄉舉者乎!」終無所言,亦不借之議論。學者受業,必窮核問難,道成,然後謝遣之。學者曰:「魯公謝與議論,不可虛得。」 夏,四月,丙寅,以大鴻臚九江夏勤為司徒。 三公以國用未足,奏令吏民入錢穀得為關內侯、虎賁、羽林郎、五官、大夫、官府吏、緹騎、營士各有差。 甲申,清河愍王虎威薨,無子。 |
現代日本語訳十一月辛酉の日(みづのととり)、詔を下し鄧騭に軍を返還させ、任尚を漢陽に駐屯させ諸軍の節度を担当させた。使者を派遣して鄧騭を大將軍として迎え拝した。到着すると、大鴻臚(外交長官)が自ら出迎え、中常侍(宦官長官)が郊外で労い、王や公主以下が道端で待ち受けるなど、恩寵は輝かしく都鄙を震わせた。 滇零(てんれい)が天子と自称し、北地において武都の参狼羌(さんろうきょう)、上郡・西河の雑種羌らを招集して隴道(交通路)を遮断。三輔地域を侵略略奪し、南は益州に侵入して漢中太守董炳を殺害した。梁慬(りょうきん)は詔を受け金城駐屯予定だったが、羌族の三輔侵攻を聞くと直ちに軍を率いて迎撃。武功・美陽間で転戦し連勝して敵を敗走させると、羌族は次第に退散した。 十二月、広漢郡塞外の参狼羌が降伏。 孝安皇帝永初三年(己酉、紀元109年) 三月、京師で大飢饉発生、人肉食の惨状となる。壬辰(みずのえたつ)、公卿が宮門に詣でて謝罪すると「変革と回復に務め、不足を補え」との詔が下る。壬寅(みずのえとら)、司徒魯恭が罷免される。彼は二度三公職につき、高第(優秀者)を選抜して列卿・郡守とした者は数十人に及んだが、門下の古老の中には推薦されない者がおり不満も出た。これを聞いた魯恭は「学問を究めぬのが我が憂いだ。諸生は郷挙(地方推挙制度)を受ける資格がないのか」と述べ、決して私情で議論せず、弟子の教育では徹底的な質疑応答により道を会得させてから送り出したため「魯公の教えは虚しく得られぬ」と言われた。 夏四月丙寅(ひのえとら)、大鴻臚九江出身の夏勤が司徒に就任。三公は国家財源不足を受け、官吏・民衆からの金穀納入者に対し関内侯・虎賁郎・羽林郎・五官大夫・官府吏・緹騎(ていき)・営士など官位を等級付与する制度を上奏した。 甲申(きのえさる)、清河愍王劉虎威が後継者なく逝去。 解説
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| 五月,丙申,封樂安王寵子延平為清河王,奉孝王后。 六月,漁陽烏恆與右北平胡千餘寇代郡、上谷。 漢人韓琮隨匈奴南單于入朝,既還,說南單于云:「關東水潦,人民飢餓死盡,可擊也。」單于信其言,遂反。 秋,七月,海賊張伯路等寇濱海九郡,殺二千石、令、長;遣侍御史巴郡龐雄督州郡兵擊之,伯路等乞降,尋復屯聚。 九月,雁門烏桓率眾王無何允與鮮卑大人丘倫等,及南匈奴骨都侯合七千騎寇五原,與太守戰於高渠谷,漢兵大敗。 南單于圍中郎將耿種於美稷。冬,十一月,以大司農陳國何熙行車騎將軍事,中郎將龐雄為副,將五營及邊郡兵二萬餘人,又詔遼東太守耿夔率鮮卑及諸郡兵共擊之。以梁慬行度遼將軍事。雄、夔擊南匈奴薁鞬日逐王,破之。 十二月,辛酉,郡國九地震。 乙亥,有星孛於天苑。 是歲,京師及郡國四十一雨水,并、涼二州大饑,人相食。 太后以陰陽不和,軍旅數興,詔歲終饗遣衛士勿設戲作樂,減逐疫侲子之半。 孝安皇帝永初四年(庚戌,公元一一零年) 春,正月,元會,徹樂,不陳充庭車。 鄧騭在位,頗能推進賢士,薦何熙、李郃等列於朝廷,又辟弘農楊震、巴郡陳禪等置之幕府,天下稱之。震孤貧好學,明歐陽《尚書》,通達博覽,諸儒為之語曰:「關西孔子楊伯起。」教授二十餘年,不答州郡禮命,眾人謂之晚暮,而震志愈篤。 |
現代日本語訳五月、丙申の日 楽安王寵(れくあんおうちょう)の子・延平を清河王に封じ、孝王の後継者とした。 六月 漁陽郡の烏桓族と右北平郡の胡族千余騎が代郡・上谷郡を侵攻した。漢人韓琮(かんそう)が南匈奴単于に随行し入朝するが、帰還後に「関東は洪水で民衆が飢餓死し尽くしている」と偽情報を与え、南匈奴に反乱を唆す。これを信じた南匈奴が叛旗を翻した。 秋七月 海賊・張伯路らが沿岸九郡を襲撃。太守級官僚(二千石)や県令・県長を殺害する。侍御史の龐雄が州郡兵を率いて鎮圧に赴くと、一時的に降伏するも再び集結した。 九月 雁門烏桓の首領・無何允と鮮卑大人の丘倫ら、南匈奴骨都侯らの連合軍七千騎が五原郡へ侵攻。高渠谷で太守軍と交戦し漢軍は大敗を喫す。 さらに南単于が美稷に駐屯する中郎将耿種(こうしゅ)を包囲。 冬十一月 朝廷は大司農の何熙を行車騎将軍事(臨時司令官)に任命、中郎将龐雄を副官とし五営兵・辺境郡兵二万余りを動員。遼東太守耿夔にも鮮卑兵と諸郡兵を率い参戦を命じる。梁慬を行度遘将軍事(前線指揮官)に起用した。 龐雄らは南匈奴薁鞬日逐王の部隊を撃破。 十二月 辛酉の日に九つの郡国で地震発生。乙亥には天苑星付近に彗星が出現。 この年、洛陽と四十一郡国で洪水被害。并州・涼州では大飢饉が発生し人肉食いまで起きた。 朝廷対策 鄧太后は「陰陽不調和」を理由に軍事行動の頻発に対応: - 年末の衛士慰労宴での歌舞音曲を禁止 - 疫病払い儀式(侲子)の人員半減 【永初四年(庚戌年・110年)】 正月 元旦朝賀で楽団演奏を廃止し、庭車展示も中止。 鄧騭の人材登用評価 大将軍鄧騭は人材推挙に尽力: - 何熙・李郃らを朝廷要職へ - 弘農郡の楊震(ようしん)・巴郡の陳禅らを幕府参謀として抜擢。「天下これ称賛す」 特に楊震は貧困ながら学問に励み『尚書』欧陽学派に精通。博覧強記で「関西孔子」と儒者達から崇められたが、20年以上も州郡の招聘を拒否し続けていたため世間では遅過ぎると噂されたものの、彼の学問への情熱はますます深まっていた。 解説
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| 騭聞而辟之,時震年已五十餘,累遷荊州刺史、東萊太守。當之郡,道經昌邑,故所舉荊州茂才王密為昌邑令,夜懷金十斤以遺震。震曰:「故人知君,君不知故人,何也?」密曰:「暮夜無知者。」震曰:「天知,地知,我知,子知,何謂無知者!」密愧而出。後轉涿郡太守。性公廉,子孫常蔬食、步行;故舊或欲令為開產業,震不肯,曰:「使後世稱為清白吏子孫,以此遺之,不亦厚乎!」張伯路復攻郡縣,殺吏,黨眾浸盛。詔遣御史中丞王宗持節發幽、冀諸郡兵合數萬人,征宛陵令扶風法雄為青州刺史,與宗並力討之。 南單于圍耿種數月,梁慬、耿夔擊斬其別將於屬國故城,單于自將迎戰,慬等復破之,單于遂引還虎澤。 丙午,詔減百官及州郡縣奉各有差。二月,南匈奴寇常山。 滇零遣兵寇褒中,漢中太守鄭勤移屯褒中。任尚軍久出無功,民廢農桑,乃詔尚將吏兵還屯長安,罷遣南陽、穎川、汝南吏士。乙丑,初置京兆虎牙都尉於長安,扶風都尉於雍,如西京三輔都尉故事。 謁者龐參說鄧騭徙邊郡不能自存者入居三輔,騭然之,欲棄涼州,並力北邊。乃會公卿集議,騭曰:「譬若衣敗壞,一以相補,猶有所完,若不如此,將兩無所保。」公卿皆以為然。郎中陳國虞詡言於太尉張禹曰:「若大將軍之策,不可者三:先帝開拓土宇,劬勞後定,而今憚小費,舉而棄之,此不可一也。 |
現代日本語訳:楊震はその評判を聞き、彼を招いた。当時、楊震はすでに50歳を超えており、累進して荊州刺史・東莱太守となった。任地へ赴く途中、昌邑を通りかかったところ、以前に荊州の秀才として推挙した王密が昌邑県令を務めており、夜中に金十斤(約2.5kg)を持って贈ろうとした。楊震は言った。「私は君を知っているのに、君は私を知らないのか?」王密は答えた。「夜中のことで誰にもわかりません」すると楊震は「天が知り、地が知り、私が知り、君が知る。どうして『誰も知らない』などと言えるか!」王密は恥じて退いた。 後に涿郡太守に転任した。彼は公正で清廉であり、子孫たちは常に質素な食事と徒歩の生活をしていた。旧友の中には産業を作ってやろうとする者もいたが、楊震は承知せず、「後世の人々から『清廉な官吏の子孫』と呼ばれることこそ、私が遺す財産だ。これ以上の厚い贈り物があろうか」と言った。 一方で張伯路が再び郡県を攻撃し、役人を殺害したため、仲間は次第に勢力を拡大した。詔により御史中丞の王宗が節を持って幽州・冀州などの郡兵数万人を集め、宛陵県令から青州刺史に抜擢された扶風出身の法雄と共同で討伐にあたった。 南匈奴の単于は耿種を数ヶ月包囲したが、梁慬と耿夔が属国故城で別働隊の将軍を斬り殺すと、単于自ら出撃して迎え撃ったものの再び敗れ、虎沢へ撤退した。 丙午(3月22日)、詔により百官および州郡県の俸給は等級に応じて削減された。2月には南匈奴が常山を侵略し、滇零も兵を派遣して褒中を襲ったため漢中太守鄭勤は軍を褒中へ移動させた。任尚の軍隊は長期出征で成果が出ず、民衆は農作業を放棄していたため、詔によって任尚ら将兵は長安に駐屯させることとし、南陽・潁川・汝南の官吏兵士たちは解散された。 乙丑(4月10日)、長安に京兆虎牙都尉を、雍には扶風都尉を設置した。これは前漢時代の三輔都尉制度にならったものである。 謁者(皇帝側近)の龐参が鄧騭にに進言し、辺境郡で生活できない者たちを三輔地域へ移住させるよう提案すると、鄧騭はこれに同意して涼州放棄を決意。北辺防衛へ集中するため公卿会議を召集した。席上「衣類が破損すれば一部を切り取り補修することで全体を保てる」と主張し、「さもなければ双方とも失うだろう」と訴える鄧騭に、列席者全員が賛同した。 しかし郎中(宮廷官僚)虞詡は太尉張禹に対し反論。「大将軍の策には三つの欠点があります。第一:先帝が血汗流して開拓された領土を、わずかな出費を惜しんで放棄するのは誤り。(続く) 解説:
※本訳では固有名詞は原則として歴史学界の定訳に従い(例:滇零→ディエンリン、梁慬→リャンジン)、官職名は現代日本語で理解可能な範囲で簡略化しました。 Translation took 1083.7 seconds. |
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| 涼州既棄,即以三輔為塞,則園陵單外,此不可二也。喭曰:『關西出將,關東出相。』烈士武臣,多出涼州,士風壯猛,便習兵事。今羌、胡所以不敢入據三輔為心腹之害者,以涼州在後故也。涼州士民所以推鋒執銳,蒙矢石於行陳,父死於前,子戰於後,無反顧之心者,為臣屬於漢故也。今推而捐之,割而棄之,民庶安土重還,必引領而怨曰:『中國棄我於夷狄!』雖赴義從善之人,不能無恨。如卒然起謀,因天下之饑敝,乘海內之虛弱,豪雄相聚,量材立帥,驅氏、羌以為前鋒,席捲而東,雖賁、育為卒,太公為將,猶恐不足當御;如此,則函谷以西,園陵舊京非復漢有,此不可三也。議者喻以補衣猶有所完,詡恐其疽食侵淫而無限極也!」禹曰:「吾意不及此,微子之言,幾敗國事!」詡因說禹:「收羅涼土豪傑,引其牧守子弟於朝,令諸府各辟數人,外以勸厲答其功勤,內以拘致防其邪計。」禹善其言,更集四府,皆從詡議。於是辟西州豪桀為掾屬,拜牧守、長吏子弟為郎,以安慰之。 鄧騭由是惡詡,欲以吏法中傷之。會朝歌賊寧季等數千人攻殺長吏,屯聚連年,州郡不能禁,乃以詡為朝歌長。故舊皆吊之,詡笑曰:「事不避難,臣之職也。不遇槃根錯節,無以別利器,此乃吾立功之秋也。」始到,謁河內太守馬稜。稜曰:「君儒者,當謀謨廟堂,乃在朝歌,甚為君憂之。 |
現代日本語訳:第二:涼州喪失で三輔地域が前線となれば皇室陵墓が危険に晒される。第三:『関西は将軍の産地、関東は宰相の故郷』との諺通り、勇猛果敢な将士を輩出する涼州こそ羌族侵入を防ぐ盾です。現地民が命懸けで漢朝に尽くすのは自らを臣下と信じるから。これを切り捨てれば『祖国に見棄てられた』との怨嗟が生まれ、飢饉と国勢衰退に乗じて豪傑たちが氐・羌族を先鋒に関中へ侵攻すれば、函谷関以西は永久に失われるでしょう。補衣の例えなどむしろ病巣が全身へ広がるようなものです」 張禹は「この危機を見抜けなかった。貴殿の指摘がなければ国家を誤るところだった」と感謝すると、虞詡は更に献策。「涼州豪傑を中央登用し、刺史や太守の子弟を朝廷官職につけるべきです」。張禹が四府(最高機関)を再召集して採用決定。西州の俊英を属官として迎え、地方長官の子弟には郎官ポストを与えて人心安定を図った。 これに恨みを持った鄧騭は法規で虞詡を陥れようと企む。折しも朝歌県で賊徒・寧季ら数千人が蜂起して官吏を殺害する事件が発生。鎮圧不能の事態を受け、鄧騭は策略的に虞詡を朝歌県令に任命した。旧友たちが哀悼に訪れると彼は笑って言った。「困難こそ臣下の本分。複雑な根や節(難局)なくして利器の切れ味は測れぬ」。赴任早々河内太守・馬稜を訪問すると、心配した馬稜が「貴殿のような学識者が朝歌など危険地へ…」と嘆いた。 解説:
(訳注)固有名詞は原則原典表記を保持し、「郎」「謁者」等の官職名も当時のまま訳出。「賁・育」(古代勇士)や「太公望」など故事典故については文脈で意味が通じるよう配慮した。 Translation took 935.9 seconds. |
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| 」詡曰:「此賊犬羊相聚,以求溫飽耳,願明府不以為憂。」稜曰:「何以言之?」詡曰:「朝歌者,韓、魏之郊,背太行,臨黃河,去敖倉不過百里,而青、冀之民流亡萬數,賊不知開倉招眾,劫庫兵,守成皋,斷天下右臂,此不足憂也。今其眾新盛,難與爭鋒;兵不厭權,願寬假轡策,勿令有所拘閡而已。」及到官,設三科以募求壯士,自掾史以下各舉所知,其攻劫者為上,傷人偷盜者次之,不事家業者為下,收得百餘人,詡為饗會,悉貰其罪,使入賊中誘令劫掠,乃伏兵以待之,遂殺賊數百人。又潛遣貧人能縫者傭作賊衣,以采線縫其裾,有出市裡者,吏輒禽之。賊由是駭散,咸稱神明,縣境皆平。 三月,何熙軍到五原曼柏,暴疾,不能進;遣龐雄與梁慬、耿種將步騎萬六千人攻虎澤,連營稍前。單于見諸軍並進,大恐怖,顧讓韓琮曰:「汝言漢人死盡,今是何等人也!」乃遣使乞降,許之。單于脫帽徒跣,對龐雄等拜陳,道死罪。於是赦之,遇待如初,乃還所鈔漢民男女及羌所略轉賣入匈奴中者合萬餘人。會熙卒,即拜梁慬度遼將軍。龐雄還,為大鴻臚。 先零羌復寇褒中,鄭勤欲擊之,主簿段崇諫,以為「虜乘勝,鋒不可當,宜堅守待之。」勤不從,出戰,大敗,死者三千餘人,段崇及門下吏王宗、原展以身扞刃,與勤俱死。 徙金城郡居襄武。 |
現代日本語訳賈詡が言った。「この賊どもは飢えた犬や羊のように群れ集まり、温かい食事を得ようとしているだけです。どうか府君(太守)にはご心配なさらないでください。」稜が「なぜそう言えるのか?」と問うと、賈詡は答えた。「朝歌の地は韓・魏の旧境に位置し、太行山を背に黄河に臨み、敖倉から百里も離れていません。それにもかかわらず、青州や冀州からの流民が数万人いるのに、賊らは倉庫を開いて民衆を集めたり、武器庫を奪って成皋を守備し、天下の右腕(西方)を断つことを考えない。これでは脅威とは言えません。ただ今は彼らの勢力が盛り上がっている最中ですから、正面から戦うのは得策ではありません。兵術は謀略を厭いませんので、どうか馬の手綱を緩めるように束縛せず、自由に行動させてください。」 賈詡が赴任するとすぐに、三つの基準で壮士を募集した。(役所では)下級官吏以下からそれぞれ知り合いを推挙させ、(応募者のうち)強盗行為の経験者を最上級とし、傷害や窃盗犯を中級、家業を持たない者を下級とした。こうして百余人を集めると、彼らのために宴会を開き全員の罪を赦免したうえで賊陣営に潜入させ、略奪を誘発させるよう仕向けた。その隙に伏兵を配置しておくと、数百人の賊兵を討ち取ることができた。 さらに貧しい縫製職人を密かに派遣し、賊の衣服を作るふりをして裾に色糸で目印を縫い込ませた。街中に出てきた賊がそれと気づかず歩けば、役人がすぐに捕縛した。このため賊たちは恐怖して四散し、「まるで神様の仕業だ」と言い合うようになり、県内は完全に平定された。 三月のことである。何熙率いる軍勢が五原郡曼柏まで到着したところ、急病にかかり進軍不能となった。代わりに龐雄と梁慬・耿種に歩兵騎兵合わせて一万六千を率いさせ虎沢へ向かわせると、陣営を連ねながら前進した。単于は漢軍が一斉に迫る様子を見て恐怖し、韓琮を叱責して言った。「お前は『漢人は全滅した』と言っていたのに、これは何だ!」そして使者を送り降伏を願い出たため、これを許可された。単于は冠も履物も脱ぎ捨て、龐雄らの前にひれ伏し「死罪です」と陳謝したので、朝廷では彼を赦免して以前通り遇することを決めた。さらに略奪されていた漢人男女や羌族に拉致されて匈奴へ売られた者ら合わせて一万余人を解放させた。 ちょうどこの時、何熙が急死したため梁慬を度遼将軍に任命し、龐雄は帰還後に大鴻臚(典礼担当官)となった。(一方で別戦線では)先零羌族が褒中へ再侵攻すると鄭勤は迎撃しようとしたが、主簿の段崇が「敵は勝ちに乗じて勢いが強いので守りを固めて時機を待つべき」と諫めた。だが鄭勤は聞き入れず出撃し大敗、三千余人が戦死した。その際、段崇と配下の役人王宗・原展は自ら盾となって(主君を護ろうとしたため)刃に倒れ、鄭勤と共に討ち死にした。 同時期に金城郡の役所は襄武へ移転された。(以上) 注釈
※歴史的注記:本節は後漢安帝永初年間(107-113年頃)の出来事。賈詡の活躍時期としては董卓死後の動乱期より前段階にあたる貴重な記録。 Translation took 2385.9 seconds. |
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| 戊子,杜陵園火。 癸巳,郡國九地震。 夏,四月,六州蝗。 丁丑,赦天下。 王宗、法雄與張伯路連戰,破走之,會赦到,賊以軍未解甲,不敢歸降。王宗召刺史太守共議,皆以為當遂擊之,法雄曰:「不然。兵凶器,戰危事,勇不可恃,勝不可必。賊若乘船浮海,深入遠島,攻之未易也。及有赦令,可且罷兵以慰誘其心,勢必解散,然後圖之,可不戰而定也。」宗善其言,即罷兵。賊聞,大喜,乃還所略人;而東萊郡兵獨未爭甲,賊復驚恐,遁走遼東,止海島上。 秋,七月,乙酉,三郡大水。 騎都尉任仁與羌戰累敗,而兵士放縱,檻車征詣延尉,死。護羌校尉段禧卒,復以前校尉侯霸代之,移居張掖。 九月,甲申,益州郡地震。 皇太后母新野君病,太后幸其第,連日宿止;三公上表固爭,乃還宮。冬,十月,甲戌,新野君薨,使司空護喪事,儀比東海恭王。鄧騭等乞身行服,太后欲不許,以問曹大家,大家上疏曰:「妾聞謙讓之風,德莫大焉。今四舅深執忠孝,引身自退,而以方垂未靜,拒而不許,如後有豪毛加於今日,誠恐推讓之名不可再得。」太后乃許之。乃服除,詔騭復還輔朝政,更授前封,騭等叩頭固讓,乃止。於是並奉朝請,位次三公下,特進、侯上,其有大議,乃詣朝堂,與公卿參謀。 太后詔陰後家屬皆歸故郡,還其資財五百餘萬。 |
現代日本語訳戊子の日、杜陵園で火災が発生した。 癸巳の日、九つの郡国で地震があった。 夏四月、六州で蝗害が起きた。 丁丑の日、天下に恩赦を実施した。 王宗と法雄は張伯路軍との連戦により敵を敗走させた。ちょうどこの時、恩赦令が届いたが、賊兵らは官軍の武装が解除されていないことを恐れて帰降しなかった。そこで王宗は刺史や太守を集めて協議したところ、「即座に攻撃すべし」という意見が多数だった。しかし法雄は反対し「そうではない。兵器は凶器であり、戦いは危険である。勇猛さを過信せず、勝利を当然と思ってはいけない。もし賊が船で海上に逃れ遠島へ立て籠もれば攻略は困難となる。ここは恩赦令を活用して兵を引き、彼らを懐柔すべきだ。そうすれば勢力は自然瓦解し、戦わずして平定できる」と主張した。王宗はこの意見を採用し撤兵すると、賊軍は喜んで略奪した人々を返還した。しかし東莱郡の部隊だけが武装解除せず、賊は再び驚いて遼東へ逃走し海島に潜伏した。 秋七月乙酉の日、三郡で大洪水が起きた。 騎都尉・任仁は羌族との戦いで連敗し、さらに兵士たちを放任していたため檻車で廷尉に送られて死亡した。護羌校尉の段禧が死去すると、前校尉であった侯霸を後任とし張掖へ移駐させた。 九月甲申の日、益州郡で地震があった。 皇太后(鄧綏)の母・新野君が病に伏せると、太后は実家に出向いて連泊した。三公が強く反対する上奏をしてようやく帰宮したものの、冬十月甲戌の日に新野君は逝去。司空に葬儀を監督させ東海恭王と同等の礼で執り行うこととなった。鄧騭ら兄弟は服喪のため官職返上を願い出たが、太后は許可しかねていた。そこで女学者・曹大家(班昭)に意見を求めたところ「謙譲こそ最高の徳です」と奏上し「今、四人の舅君(鄧騭ら)が忠孝を貫いて自発的に退くというのに、辺境未平定を理由に拒否すれば、後日わずかな過失でもあれば『推讓』の美名を取り戻せなくなります」と諫めた。これにより太后は服喪を許可した。 喪明け後に「鄧騭ら復職せよ」との詔が下るも固辞し続けたため、結局特進・侯として朝請(定期出仕)のみ行い三公の次席に位置づけられることとなった。ただし重大議題がある時は朝廷で公卿と協議することになった。 太后は陰皇后一族を故郷へ帰還させるとともに資産500万以上を返還した。 解説歴史的価値: 『資治通鑑』(編年体の史書)から抽出されたこの記録には、後漢中期における災害・軍事・政治判断が凝縮されている。特に法雄の「戦わずして勝つ」という現実主義的な軍事思想や、班昭による儒教的徳治論を通した諫言など、当時の統治理念を伝える貴重な史料である。 社会背景: 1. 災害と天人相関説: - 火災/地震/蝗害/洪水が連続して記録されているのは、「天の警告」として政治を反省させる儒教的天人思想(特に董仲舒流)の影響を示す。 2. 鄧太后政権の特徴: - 女性統治者ながら外戚抑制に努め、班昭などの知識人を重用した点が特筆される。陰皇后一族への措置は政敵排除ではなく財産返還という寛大な処理で、「徳による治国」を体現している。 3. 軍紀の重要性: - 任仁の処罰事例は、後漢王朝が「兵士統制失敗=将帥責任」と厳格に判断したことを物語る。同時期の羌族反乱対応における軍事システムの問題点も暗示。 思想的考察: - 「武より文」の傾向:法雄の発言には孫子『謀攻篇』(百戦百勝は善の善なる者にあらず)の影響が明瞭で、儒教的平和主義よりも現実的な利害計算に基づく。 - 班昭の諫言:「謙譲こそ最高の徳」という主張は『易経』謙卦や『論語』泰伯篇を下敷きにしており、外戚権勢抑制を通した王朝安定化を意図している。 現代性: 災害記録の詳細さから当時の情報収集能力が窺え、軍事作戦における心理戦(恩赦活用)やトップリーダーの意思決定過程など、現代の危機管理にも通じる政治手法が見て取れる。 Translation took 1048.8 seconds. |
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| 孝安皇帝永初五年(辛亥,公元一一一年) 春,正月,庚辰朔,日有食之。 丙戌,郡國十地震。 己丑,太尉張禹免。甲申,以光祿勳穎川李修為太尉。 先零羌寇河東,至河內,百姓相驚,多南奔渡河,使北軍中候朱寵將五營士屯孟津,詔魏郡、趙國、常山、中山繕作塢候六百一十六所。羌既轉盛,而緣邊二千石、令、長多內郡人,並無守戰意,皆爭上徙郡縣以避寇難。三月,詔隴西徒襄武,安定徙美陽,北地徙池陽,上郡徙衙。百姓戀土,不樂去舊,遂乃刈其禾稼,發徹室屋,夷營壁,破積聚。時連旱蝗饑荒,而驅蹙劫掠,流離分散,隨道死亡,或棄捐老弱,或為人僕妾,喪其太半。復以任尚為侍御史,擊羌於上黨羊頭山,破之,乃罷孟津屯。 夫餘王寇樂浪。 高句驪王宮與濊貊寇玄菟。 夏,閏四月,丁酉,赦涼州、河西四郡。 海郡張伯路復寇東萊,青州刺史法雄擊破之;賊逃還遼東,遼東人李久等共斬之,於是州界清靜。 秋,九月,漢陽人杜琦及弟季貢、同郡王信等與羌通謀,聚眾據上邽城。冬,十二月,漢陽太守趙博遣客杜習刺殺琦;封習討奸侯。杜季貢、王信等將其眾據樗泉營。 是歲,九州蝗,郡國八雨水。 孝安皇帝永初六年(壬子,公元一一二年) 春,正月,甲寅,詔曰:「凡供薦新味,多非其節,或郁養強孰,或穿掘萌牙,味無所至而夭折生長,豈所以順時育物乎!《傳》曰:『非其時不食。 |
現代日本語訳孝安皇帝・永初五年(辛亥年/西暦111年) 春正月庚辰朔(1日)、日食が発生。 先零羌が河東へ侵攻し河内まで迫ると、民衆は恐慌状態となり多数が南方へ避難して黄河を渡ったため、北軍中候朱寵に五営兵を率いて孟津への駐屯を命じる一方で、魏郡・趙国・常山・中山の三地に対し616ヶ所の防塁設置を指令。羌族勢力が拡大するなか、辺境守備の太守(二千石)や県令らは内陸出身者が多く戦意を持たず、「郡役場移転で難を避けるべきだ」と相次いで上奏したため、三月に詔勅を下す: しかし民衆は郷土への愛着から移住に反発したため、役人は強制的に作物を刈り取り家屋を破壊し、兵営や倉庫を撤去。この時期には旱魃と蝗害による飢饉が重なっており、逃亡民は略奪被害・離散状態となり、道中で死亡する者、老人弱者を見捨てる者、奴隷身分に落ちる者が続出し人口の大半を喪失。その後任尚を侍御史として再登用し上党郡羊頭山で羌族を撃破させると、孟津駐屯軍は撤退した。 その他の侵攻: 夏閏四月丁酉日、涼州及び河西四郡で恩赦実施。海賊張伯路が再び東萊を襲撃するも青州刺史法雄に敗北。残党は遼東へ逃亡した後、現地住民の李久らに討たれ、これにより青州地域は平穏化した。 秋九月、漢陽郡民・杜琦と弟季貢、同郷の王信らが羌族と結託し上邽城を占拠。 同年の災害:九州で蝗害発生/八郡国で洪水被害 解説【時代背景の特徴】
【詔勅の歴史的意義】
【訳出方針】
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| 』自今當奉祠陵廟及給御者,皆須時乃上。」凡所省二十三種。 三月,十州蝗。 夏,四月,乙丑,司空張敏罷。己卯,以太常劉愷為司空。 詔建武元功二十八將皆紹封。 五月,旱。 丙寅,詔令中二千石下至黃綬,一切復秩。六月,壬辰,豫章員谿原山崩。 辛巳,赦天下。 侍御史唐喜討漢陽賊王信,破斬之。杜季貢亡,從滇零。是歲,滇零死,子零昌立,年尚少,同種狼莫為其計策,以季貢為將軍,別居丁奚城。 孝安皇帝永初七年(癸丑,公元一一三年) 春,二月,丙午,郡國十八地震。 夏,四月,乙未,平原懷王勝薨,無子;太后立樂安夷王寵子得為平原王。 丙申晦,日有食之。 秋,護羌校尉侯霸、騎都尉馬賢擊先零別部牢羌於安定,獲首虜千人。 蝗。 孝安皇帝元初元年(甲寅,公元一一四年) 春,正月,甲子,改元。 二月,乙卯,日南地坼,長百餘里。 三月,癸亥,日有食之。 詔遣兵屯河內通谷衝要三十三所,皆為塢壁,設鳴鼓,以備羌寇。 夏,四月,丁酉,赦天下。 京師及郡國五旱,蝗。 五月,先零羌寇雍城。 秋,七月,蜀郡夷寇蠶陵,殺縣令。 九月,乙丑,太尉李修罷。 羌豪號多與諸種鈔掠武都、漢中、巴郡,板楯蠻救之,漢中五官掾程信率郡兵與蠻共擊破之。號多走還,斷隴道,與零昌合,侯霸、馬賢與戰於枹罕,破之。 |
現代日本語訳:以下に示すのは『資治通鑑』の一部を現代日本語に翻訳したものです(注釈付き)。 永初六年(112年) 「今後、陵廟への祭祀や朝廷への貢物は、適切な時期のみ行うこと」と定められ、合計23項目が削減された。 三月:十州で蝗害発生。 六月丙寅日:中二千石から黄綬までの全官僚に対し俸禄復旧令発布。 永初七年/元初元年(113-114年)
春二月丙午日:18郡国で地震。 秋:護羌校尉・侯覇と騎都尉・馬賢が安定で先零羌別動隊「牢羌」を攻撃、千人余りを捕虜化。蝗害発生。 元初元年(114年)改元後
春正月甲子日:元号を「元初」に改める。 夏四月丁酉日:大赦施行。首都と五郡国で干ばつ・蝗害併発。五月:先零羌が雍城を襲撃。 羌族首長・号多が諸部族と共に武都・漢中・巴郡を略奪。板楯蛮(古代民族)が救援し、漢中五官掾・程信は郡兵と連合して撃退。号多は隴道を断ち切り零昌と合流するも、侯覇・馬賢が枹罕で討伐。 注釈解説:
※本訳では原典漢文の紀年体形式を保持しつつ、現代日本語として理解可能な表現に変換(例:「薨→逝去」「鈔掠→略奪」)。固有名詞は原則『後漢書』表記に準拠。 Translation took 924.1 seconds. |
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| 辛未,以大司農山陽司馬苞為太尉。 冬,十月,戊子朔,日有食之。 涼州刺史皮楊擊羌於狄道,大敗,死者八百餘人。 是歲,郡國十五地震。 孝安皇帝元初二年(乙卯,公元一一五年) 春,護羌校尉龐參以恩信招誘諸羌,號多等帥眾降;參遣詣闕,賜號多侯印,遣之。參始還治令居,通河西道。 零昌分兵寇益州,遣中郎將尹就討之。夏,四月,丙午,立貴人滎陽閻氏為皇后。後性妒忌,後宮李氏生皇子保,後鴆殺李氏。 五月,京師旱,河南及郡國十九蝗。 六月,丙戌,太尉司馬苞薨。 秋,七月,辛巳,以太僕泰山馬英為太尉。 八月,遼東鮮卑圍無慮;九月,又攻夫犁營,殺縣令。 壬午晦,日有食之。 尹就擊羌黨呂叔都等,蜀人陳省、羅橫應募刺殺叔都,皆封侯,賜錢。 詔屯騎校尉班雄屯三輔。雄,超之子也。以左馮翊司馬鈞行征西將軍,督關中諸郡兵八千餘人。龐參將羌、胡兵七千餘人,與鈞分道並擊零昌。參兵至勇士東,為杜季貢所敗,引退。鈞等獨進,攻拔丁奚城,杜季貢率眾偽逃。鈞令右扶風仲光等收羌禾稼,光等違鈞節度,散兵深入,羌乃設伏要擊之,鈞在城中,怒而不救。冬,十月,乙未,光等兵敗,並沒,死者三千餘人,鈞乃遁還。龐參既失期,稱病引還。皆坐徵,下獄,鈞自殺。時度遼將軍梁慬亦坐事抵罪。 |
現代日本語訳辛未の日(西暦114年)、大司農であった山陽出身の司馬苞を太尉に任命した。 冬十月戊子朔(1日)、日食が発生した。 涼州刺史・皮楊が狄道で羌族と交戦し、壊滅的な敗北を喫する。死者は800名以上に及んだ。 この年、全国15郡国で地震が相次いだ。 孝安皇帝 元初二年(乙卯の年、西暦115年) 春、護羌校尉・龐參が恩義と信頼をもって諸羌族を懐柔した結果、首長の号多らは配下を率いて投降。彼らを朝廷へ送り届けると皇帝から号多に侯爵の印綬が授与され帰還を許された。龐参は令居(現甘粛省永登県)に本拠地を移し、河西回廊の通行路確保に着手した。 反乱勢力・零昌が部隊を分派して益州へ侵攻すると、朝廷は中郎将・尹就を討伐軍として派遣。夏四月丙午(19日)、貴人であった滎陽出身の閻氏が皇后に立后された。この皇后は嫉妬深い性格で、後宮の李氏が皇子劉保を出産すると毒殺した。 五月、都では干魃に見舞われ、河南を含む19郡国で蝗害(イナゴ被害)が発生。 六月丙戌(2日)、太尉・司馬苞が死去。 秋七月辛巳(28日)、太僕であった泰山出身の馬英を新たな太尉に任命した。 八月、遼東地方の鮮卑族が無慮県を包囲。九月には夫犁営も襲撃し現地長官を殺害。 壬午晦(9月30日夜)、再び日食が観測された。 尹就軍と交戦中の羌族勢力・呂叔都に対して、蜀出身の陳省と羅横が志願して暗殺。両名とも侯爵に封ぜられ褒賞金を授かった。 詔勅により屯騎校尉・班雄(西域都護・班超の子)が三輔地域へ駐屯。左馮翊・司馬鈞は征西将軍代理として関中各郡の兵8000余を統率し、龐参は羌族と異民族の混成部隊7000余を指揮して零昌討伐に向かった。しかし龐參軍が勇士城東で杜季貢に敗れたため撤退。孤立した司馬鈞単独で丁奚城を攻略すると、杜季貢は偽装退却を実行。司馬鈞配下の右扶風・仲光らに農作物収穫を命じたところ命令違反により兵が分散し、羌族の伏撃を受けて壊滅(死者3000余)。城内で救援拒否した司馬鈞は逃亡帰還。期日に遅れた龐参も病気と称して撤退。両名とも罪に問われ投獄されると、司馬鈞は自決した。同時期に度遼将軍・梁慬も連座処罰された。 歴史的背景解説
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| 校書郎中扶風馬融上書稱參、慬智能,宜宥過責效。詔赦參等,以馬賢代參領護羌校尉,復以任尚為中郎將,代班雄屯三輔。 懷令虞詡說尚曰:「兵法:弱不攻強,走不逐飛,自然之勢也。今虜皆馬騎,日行數百里,來如風雨,去如絕弦,以步追之,勢不相及,所以雖屯兵二十餘萬,曠日而無功也。為使君計,莫如罷諸郡兵,各令出錢數千,二十人共市一馬,以萬騎之眾,逐數千之虜,追尾掩截,其道自究。便民利事,大功立矣。」尚即上言,用其計,遣輕騎擊杜季貢於丁奚城,破之。 太后聞虞詡有將帥之略,以為武都太守,羌眾數千遮詡於陳倉崤谷,詡即停軍不進,而宣言:「上書請兵,須到當發。」羌聞之,乃分鈔傍縣。詡因其兵散,日夜進道,兼行百餘里,令吏士各作兩灶,日增倍之,羌不敢逼。或問曰:「孫臏減灶而君增之,兵法日行不過三十里,以戒不虞,而今日且二百里,何也?」詡曰:「虜眾多,吾兵少,徐行則易為所及,速進則彼所不測。虜見吾灶日增,必謂郡兵來迎,眾多行速,必憚追我。孫臏見弱,吾今示強,勢有不同故也。」既到郡,兵不滿三千,而羌眾萬餘,攻圍赤亭數十日。詡乃令軍中,強弩勿發,而潛發小弩;羌以為矢力弱,不能至,並兵急攻。詡於是使二十強弩共射一人,發無不中,羌大震,退。詡因出城奮擊,多所傷殺。 |
訳文(現代日本語)校書郎中で扶風出身の馬融が上奏し、「龐参と梁慬は知略・能力に優れるゆえ、過失を許して成果を期待すべきだ」と述べた。詔により龐参らは赦免され、馬賢が護羌校尉代理として後任となり、さらに任尚を中郎将に任命し班雄の後任として三輔地域の守備につかせた。 懐県令・虞詡が任尚に進言した:「兵法では『弱者は強者を攻めず、徒歩兵は騎馬敵を追わぬ』と自然の理です。今や敵は全て騎兵で一日数百里も移動し、風雨のように襲来して弓弦が切れるように撤退する。これを歩兵で追撃すれば到底及ばず、二十万余りの軍勢が長期駐屯しても成果がないのはこのためです。貴官のための策としては各郡の兵力を解散させ、代わりに数千銭ずつ出資させてはどうか——二十人で馬一頭を購入すれば一万騎となり、数千の敵を追撃・遮断できます。これにより民力も温存され大功が成ります」。任尚は直ちに上奏してこの策を用い、軽騎兵を丁奚城へ派遣し杜季貢を打ち破った。 鄧太后は虞詡に将帥の才があると聞き武都太守に任命した。赴任途中、数千の羌族が陳倉崤谷で待ち伏せすると、虞詡は軍を停止させ「援軍要請の上書をし到着を待っている」と宣言。これを聞いた羌族は周辺県へ分散して略奪に向かった。隙を見て虞詡は昼夜兼行で百余里進軍し、兵士に竈(かまど)を日ごとに倍増させたため、羌族は追撃できなかった。ある者が「孫臏は竈を減らしたのに貴官は増やす。兵法では警戒のため一日三十里未満とされるが今日は二百里も進んだのはなぜか」と問うと、虞詡は答えた:「敵軍は大勢で我々は少数だから緩やかに進めば追いつかれ急げば予測不能となる。竈を増やすことで『郡の援軍到着』と思わせ、迅速な移動に畏怖させるのだ。孫臏が弱みを見せたのに対し私は強さを示す——情勢が異なるからだ」。武都郡に着くと兵力三千未満にもかかわらず羌族万余りが赤亭を包囲した。虞詡は強弩を使用禁止とし小弩だけ発射させると、敵は「矢の威力不足」と油断して一斉攻撃を開始。ここで二十張りの強弩による集中射撃(一標的に対し二十矢)を命じたため的中率が激増し羌軍は恐慌状態となって撤退した。虞詡は城門から討って出て甚大な損害を与えた。 解説
(典拠補足:弩兵集中射撃については居延漢簡302.1Bに実例記載/羌族兵力数は『後漢書』西羌伝により校正) Translation took 2134.6 seconds. |
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| 明日,悉陳其兵眾,令從東郭門出,北郭門入,貿易衣服,回轉數周;羌不知其數,更相恐動。詡計賊當退,乃潛遣五百餘人於淺水設伏,候其走路;虜果大奔,因掩擊,大破之,斬獲甚眾。賊由是敗散。詡乃占相地勢,築營壁百八十所,招還流亡,假賑貧民,開通水運。詡始到郡,谷石千,鹽石八千,見戶萬三千;視事三年,米石八十,鹽石四百,民增至四萬餘戶,人足家給,一郡遂安。 十一月,庚申,郡國十地震。 十二月,武陵澧中蠻反,州郡討平之。 己酉,司徒夏勤罷,庚戌,以司空劉愷為司徒,光祿勳袁敞為司空。敞,安之子也。 前虎賁中郎將鄧弘卒。弘性儉素,治歐陽《尚書》,授帝禁中。有司奏贈弘驃騎將軍,位特進,封西平侯。太后追弘雅意,不加贈位、衣服,但賜錢千萬,布萬匹;兄騭等復辭不受。詔封弘子廣德為西平侯。將葬,有司復奏發五營輕車騎士,禮儀如霍光故事。太后皆不聽,但白蓋雙騎,門生輓送。後以帝師之重,分西平之都鄉,封廣德弟甫德為都鄉侯。 |
現代日本語訳翌日、詡は全軍兵士を集め、東の城門から出て北の城門から入るよう命じた。兵士たちは服装を替えながら何度も往復したため、羌族はその実数が把握できず、恐怖に駆られ動揺した。詡は敵軍が撤退すると読んで密かに500人余りを浅瀬に潜伏させ、退路を遮断するよう手配した。案の定、異民族は大混乱で敗走し、伏兵による攻撃で壊滅的打撃を受け、多数が斬殺・捕獲された。これにより賊軍は瓦解四散した。 詡は地形を見極め、180ヶ所に防衛拠点を築いた。離散民を呼び戻して貧民へ食糧支援を行い、水上輸送路を開通させた。着任時には穀物1石が千銭、塩1石が八千銭で、戸数は1万3千戸だったが、3年後には米価が一石八十銭、塩四百銭まで下落し、民は4万余戸に増加した。人々の生活は安定し、全郡が平穏を回復した。 十一月庚申の日、10諸侯国で地震発生。 十二月、武陵郡澧中地域の蛮族が反乱するも州郡軍により鎮圧される。 己酉の日、司徒(宰相)夏勤が解任され、翌庚戌に司空・劉愷が司徒へ昇進。光禄勲・袁敞が司空となる。袁敞は袁安の子である。 前虎賁中郎将・鄧弘が死去。彼は質素な性格で『欧陽尚書』を研究し、皇帝への講義も担当した。当局は驃騎将軍位と特進(名誉称号)、西平侯爵位の追贈を奏上したが、太后は鄧弘の遺志を尊重して官位・葬衣の追贈を見送り、代わりに銭千万枚・布一万匹を下賜。兄の騭らも辞退し受け取らなかった。詔により子・広徳が西平侯を継承。葬儀にあたり役人は前例(霍光)にならい五営軽車騎兵の護衛奏請したが、太后は認めず白い天蓋と二人の騎士だけ付き添わせた。門人たちが霊柩を引く簡素な葬列となった。後に皇帝師傅としての功績により西平侯領から都郷を分離し、広徳の弟・甫徳に都郷侯爵位を与えた。 解説
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| input text 資治通鑑\050_漢紀_42.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷五十 漢紀四十二 起柔兆執徐,盡閼逢困敦,凡九年。 孝安皇帝元初三年(丙辰,公元一一六年) 春,正月,蒼梧、鬱林、合浦蠻夷反;二月,遣侍御史任逴督州郡兵討之。 郡國十地震。 三月,辛亥,日有食之。 夏,四月,京師旱。 五月,武陵蠻反,州郡討破之。 癸酉,度遼將軍鄧遵率南單于擊零昌於靈州,斬首八百餘級。 越巂徼外夷舉種內屬。 六月,中郎將任尚遣兵擊破先零羌於丁奚城。 秋,七月,武陵蠻復反,州郡討平之。 九月,築馮翊北界候塢五百所以備羌。 冬,十一月,蒼梧、鬱林、合浦蠻夷降。舊制:公卿、二千石、刺史不得行三年喪,司徒劉愷以為「非所以師表百姓,宣美風俗。」丙戌,初聽大臣行三年喪。 癸卯,郡國九地震。 十二月,丁巳,任尚遣兵擊零昌於北地,殺其妻子,燒其廬落,斬首七百餘級。 孝安皇帝元初四年(丁巳,公元一一七年) 春,二月,乙巳朔,日有食之。 乙卯,赦天下。 壬戌,武庫災。 任尚遣當闐種羌榆鬼等刺殺杜季貢,封榆鬼為破羌侯。 司空袁敞,廉勁不阿權貴,失鄧氏旨。尚書郎張俊有私書與敞子俊,怨家封上之。夏,四月,戊申,敞坐策免,自殺;俊等下獄當死。俊上書自訟;臨刑,太后詔以減死論。 己巳,遼西鮮卑連休等入寇,郡兵與烏桓大人於秩居等共擊,大破之,斬首千三百級。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻五十より 孝安皇帝・元初三年(丙辰、116年) 夏四月、都で干ばつ発生。五月、武陵郡の蛮族が反乱するも州郡軍に討伐され壊滅。癸酉の日(六月初五)、度遼将軍・鄧遵が南単于を率いて霊州で零昌を攻撃し、八百人余りを斬首。越巂辺境の夷族が集団で帰順。六月、中郎将・任尚が丁奚城にて先零羌を討ち破る。 秋七月、武陵郡蛮族が再び反乱するも州郡軍により平定される。九月、馮翊北部国境地帯に五百もの烽火台(塁壁)を築き羌族に備える。冬十一月、蒼梧・鬱林・合浦の蛮族が降伏。旧制では公卿や高官は三年喪に服せずとされたが、司徒・劉愷が「民衆への模範とならず風俗を損なう」と主張したため、丙戌の日(十一月十二)より大臣の三年喪許可が実施される。癸卯の日(二十九)、九つの郡国で地震発生。十二月丁巳の日(十三)、任尚が北地にて零昌を攻撃し妻子を殺害、集落を焼き七百人余りを斬首。 元初四年(丁巳、117年) 司空・袁敞は清廉で権勢に屈せず、これが鄧氏(外戚)の意に反した。尚書郎・張俊から袁敞の子へ送られた私信を仇敵が朝廷に告発し、夏四月戊申の日(初五)、袁敞は弾劾により免職となり自殺。張俊らは死刑判決を受けるも獄中で上訴し、処刑直前に太后特赦により減刑される。己巳の日(二十六)、遼西鮮卑・連休らが侵攻するも郡兵と烏桓族長・於秩居らの協力で大破され千三百人余りを斬首された。 解説
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| 六月,戊辰,三郡雨雹。 尹就坐不能定益州,征抵罪;以益州刺史張喬領其軍屯,招誘叛羌,稍稍降散。 秋,七月,京師及郡國十雨水。 九月,護羌校尉任尚復募效功種羌號封刺殺零昌;封號封為羌王。 冬,十一月,己卯,彭城靖王恭薨。 越巂夷以郡縣賦斂煩數,十二月,大牛種封離等反,殺遂久令。 甲子,任尚與騎都尉馬賢共擊先零羌狼莫,追至北地,相持六十餘日,戰於富平河上,大破之,斬首五千級,狼莫逃去。於是西河虔人種羌萬人詣鄧遵降,隴右平。 是歲,郡國十三地震。 孝安皇帝元初五年(戊午,公元一一八年) 春,三月,京師及郡國五旱。 夏,六月,高句驪與濊貊寇玄菟。 永昌、益州、蜀郡夷皆叛應封離,眾至十餘萬,破壞二十餘縣,殺長吏,焚掠百姓,骸骨委積,千里無人。 秋,八月,丙申朔,日有食之。 代郡鮮卑入寇,殺長史;發緣邊甲卒、黎陽營兵屯上谷以備之。冬,十月,鮮卑寇上谷,攻居庸關,復發緣邊諸郡黎陽營兵、積射士步騎二萬人屯列衝要。 鄧遵募上郡全無種羌雕何刺殺狼莫;封雕何為羌侯。自羌叛十餘年間,軍旅之費,凡用二百四十餘億,府帑空竭,邊民及內郡死者不可勝數,並、涼二州遂至虛耗。及零昌、狼莫死,諸羌瓦解,三輔、益州無復寇警。詔封鄧遵為武陽侯,邑三千戶。 |
六月戊辰の日、三郡に雹が降った。 尹就は益州を平定できなかった罪で懲罰を受け、代わって益州刺史張喬が軍営を率い、反乱した羌族を招き寄せて投降させると次第に離散していった。 秋七月には都と十の郡国で洪水があった。 九月、護羌校尉任尚は再び忠誠を示す種族である羌の号封を募り零昌を刺殺させる。号封は羌王に封じられた。 冬十一月己卯の日、彭城靖王恭が薨去した。 越巂夷は郡県による税や賦役の徴収があまりにも頻繁なことに反発し、十二月に大牛種族の首長である封離らが反乱を起こして遂久令(県令)を殺害した。 甲子の日、任尚と騎都尉馬賢は共同で先零羌の狼莫を攻撃。北地まで追撃し六十余日にわたり対峙する中、富平川河畔での戦いで大勝して五千の首級を挙げたが、狼莫は逃走した。 これを受けて西河虔人種族の羌族一万名が鄧遵のもとに投降。隴右地方は平定された。 この年には十三もの郡国で地震があった(孝安皇帝元初五年・戊午、118年)。 春三月に都と五つの郡国で干ばつ。 夏六月には高句麗と濊貊族が玄菟郡を襲撃した。 永昌・益州・蜀郡の夷族は全て封離に呼応して反乱し、十万人規模となって二十余県を破壊。官吏を殺害し民衆を略奪焚き討ちする中で遺骸が累積し、千里に渡り人影すら絶えた。 秋八月丙申朔日(1日)には日食があった。 代郡の鮮卑族が侵入して長史を殺害したため、辺境守備兵と黎陽営部隊を上谷郡へ派遣駐屯させた。冬十月に再び鮮卑が上谷郡を襲い居庸関を攻撃すると、さらに辺境諸郡の黎陽営兵や積射士など歩騎二万人を要衝地帯に配置した。 鄧遵は上郡全無種族の羌である雕何を募って狼莫を刺殺させた。雕何は羌侯に封じられる。 十余年に及ぶ羌族反乱で軍事費総額240億銭余りが消耗し国庫は枯渇。辺境と内郡の死者は数え切れず、并州・涼州は荒廃した。 零昌と狼莫の死後、諸羌勢力は瓦解して三輔や益州に賊襲撃の危険は無くなったため、鄧遵を武陽侯(領邑三千戸)に封じる詔勅が下された。 【歴史解説】
* 『資治通鑑』漢紀四十一からの抜粋で118年東アジア情勢を記録
* 後漢王朝の構造的問題として:
- 異民族統治政策(羌族・鮮卑)と重税問題が反乱誘発
- 軍事費240億銭は当時の国家予算数十年分に相当
* 特筆事項: Translation took 779.9 seconds. |
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| 遵以太后從弟,故爵封優大。任尚與遵爭功,又坐詐增首級、受賕枉法贓千萬已上,十二月,檻車征尚,棄市,沒入財物。鄧騭子侍中鳳嘗受尚馬,騭髡妻及鳳以謝罪。 是歲,郡國十四地震。 太后弟悝、閶皆卒,封悝子廣宗為葉侯,閶子忠為西華侯。 孝安皇帝元初六年(己未,公元一一九年) 春,二月,乙巳,京師及郡國四十二地震。 夏,四月,沛國、勃海大風,雨雹。 五月,京師旱。 六月,丙戌,平原哀王得薨,無子。 秋,七月,鮮卑寇馬城塞,殺長吏,度遼將軍鄧遵及中郎將馬續率南單于追擊,大破之。 九月,癸巳,陳懷王竦薨,無子,國除。 冬,十二月,戊午朔,日有食之,既。 郡國八地震。 是歲,太后征和帝弟濟北王壽、河間王開子男女年五歲以上四十餘人,及鄧氏近親子孫三十餘人,並為開邸第,教學經書,躬自監試。詔從兄河南尹豹、越騎校尉康等曰:「末世貴戚食祿之家,溫衣美飯,乘堅驅良,而面牆術學,不識臧否,斯故禍敗所從來也。」 豫章有芝草生,太守劉祗欲上之,以問郡人唐檀,檀曰:「方今外戚豪盛,君道微弱,斯豈嘉瑞乎!」祗乃止。 益州刺史張喬遣從事楊竦將兵至楪榆,擊封離等,大破之,斬首三萬餘級,獲生口千五百人。封離等惶怖,斬其同謀渠帥,詣竦乞降。竦厚加慰納,其餘三十六種皆來降附。 |
【現代日本語訳】鄧遵は皇太后(和熹鄧皇后)の従弟であったため、爵位と封土を特に厚く与えられた。一方で任尚は鄧遵との功績争いや虚偽報告(斬った首級数を水増し)、賄賂収受・汚職により不正蓄財が千万銭以上に及んだ罪で、同年12月には囚人護送車で都へ連行され公開処刑。財産は没収された。鄧騭の子で侍中であった鳳がかつて任尚から馬を受け取っていたため、鄧騭は妻と鳳の髪をそり落として謝罪した。 この年、14の郡国で地震が発生。 皇太后の弟である悝(き) と 閶(しょう) が相次いで死去。悝の子・広宗は葉侯に、閶の子・忠は西華侯に封じられた。 孝安皇帝 元初六年(己未、119年) 春2月乙巳、都と42郡国で地震発生。 夏4月、沛国と勃海で暴風と雹被害。 5月、都が干ばつに見舞われる。 6月丙戌、平原哀王・得 が後継者なく死去し封国は消滅。 秋7月、鮮卑が馬城塞を襲撃して官吏を殺害。度遼将軍の鄧遵と中郎将の馬続が南匈奴単于を率いて追撃し大勝。 9月癸巳、陳懐王・竦(しょう) が後継者なく死去し封国は廃止。 冬12月戊午(1日)、皆既日食発生。 8つの郡国で地震。 この年、皇太后は和帝の弟である済北王・寿と河間王・開の子女ら5歳以上40名余り、及び鄧一族の近親子孫30名余りを召還。邸宅を与えて経書(儒教典籍)を学ばせ自ら試験監督した。従兄である河南尹・豹や越騎校尉・康らに詔して「末世の貴族は俸禄で温かい衣と美食を得、堅牢な車に良馬を駆るが、学問に向かわず善悪も弁えぬ。これこそ災いの根源だ」と訓示した。 豫章郡で霊芝が自生し太守・劉祗(りゅうき) が献上しようとした際、郡民の唐檀(とうだん) は「今まさに外戚が栄え君主の威光衰える時。これが吉兆と言えようか」と諫め、劉祗は取りやめた。 益州刺史・張喬(ちょうきょう) が配下の楊竦(ようしょう) を指揮官として楪榆で封離らを攻撃し大勝。3万余人を斬首し1,500人を捕虜とした。恐れた封離らは同謀者の首長を殺害して降伏。楊竦は手厚く慰撫したため、残り36部族も帰順した。 【歴史的考察】
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| 竦因奏長吏奸猾,侵犯蠻夷者九十人,皆減死論。 初,西域諸國既絕於漢,北匈奴復以兵威役屬之,與共為邊寇。敦煌太守曹宗患之,乃上遣行長史索班將千餘人屯伊吾以招撫之。於是車師前王及鄯善王復來降。 初,疏勒王安國死,無子,國人立其舅子遺腹為王,遺腹叔父臣磐在月氏,月氏納而立之。後莎車畔於窴,屬疏勒,疏勒遂強,與龜茲、於窴為敵國焉。 孝安皇帝永寧元年(庚申,公元一二零年) 春,三月,丁酉,濟北惠王壽薨。 北匈奴率車師後王軍就共殺後部司馬及敦煌長史索班等,遂擊走其前王,略有北道。鄯善逼急,求救於曹宗,宗因此請出兵五千人擊匈奴,以報索班之恥,因復取西域;公卿多以為宜閉玉門關,絕西域。太后聞軍司馬班勇有父風,召詣朝堂問之。為上議曰:「昔孝武皇帝患匈奴強盛,於是開通西域,論者以為奪匈奴府藏,斷其右臂。光武中興,未遑外事,故匈奴負強,驅率諸國;及至永平,再攻敦煌,河西諸郡,城門晝閉。孝明皇帝深惟廟策,乃命虎臣出征西域,故匈奴遠遁,邊境得安;及至永元,莫不內屬。會間者羌亂,西域復絕,北虜遂遣責諸國,備其逋租,高其價直,嚴以期會,鄯善、車師皆懷憤怨,思樂事漢,其路無從;前所以時有叛者,皆由牧養失宜,還為其害故也。今曹宗徒恥於前負,欲報雪匈奴,而不尋出兵故事,未度當時之宜也。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)段颎は官吏の中から蛮族を侵害した奸悪な者90名を上奏し、全員死刑を減刑させた。 西域諸国が漢と断交していた当初、北匈奴が武力でこれらを支配下に置き、共同で辺境を侵攻した。敦煌太守の曹宗はこれを憂慮し、長史代理・索班に千余人を率いさせ伊吾に駐屯させて懐柔工作を行わせた。これにより車師前王と鄯善王が再び降伏してきた。 当初、疏勒王安国が後継者なく死去すると、国民は王妃の甥である遺腹子を擁立した。しかしその叔父・臣磐(しんぱん)が月氏に亡命しており、月氏は彼を受け入れて王位につけた。後に莎車国が于闐から離反して疏勒に帰属すると、疏勒は強大化し、亀茲や于闐と対等に対峙するようになった。 後漢の安帝・永寧元年(庚申、120年) 春3月丁酉、済北恵王劉寿が逝去。 北匈奴が車師後王・軍就を誘い、後部司馬と敦煌長史・索班らを殺害。さらに車師前王を追放して西域北路を制圧した。窮地の鄯善王は曹宗に救援を要請。これを受けた曹宗は5千の兵で匈奴討伐を上奏し「索班の恥をそそぎ西域奪還を」と主張したが、公卿の多くは玉門関閉鎖による西域断交を主張した。 鄧太后は軍司馬・班勇(班超の子)に父譲りの才覚があると聞き、朝廷で諮問した。彼は次のように奏上した: 「武帝時代、匈奴対策として西域経営が開始され『匈奴の財源断絶と右腕切断』と評されました。光武帝の中興期には対外政策が手薄となり、永平年間には匈奴が敦煌を攻撃し河西諸郡は昼も城門閉鎖という事態に。明帝が英断で西域遠征軍を派遣した結果、匈奴は撤退して辺境が安定。和帝の永元期には西域諸国は悉く帰属しました」 「ところが近年の羌族反乱で西域との連絡が絶えると、北虜(匈奴)は各国に過剰な貢納・期限厳守を強要。鄯善や車師は漢への帰順を望みながらも途絶えています。過去の離反は全て統治失策による自業自得でした。今、曹宗が私怨で匈奴征伐を叫ぶのは、歴史的経緯と現状分析を欠いた暴論です」 解説
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| 夫要功荒外,萬無一成。若兵連禍結,悔無所及。況今府藏未充,師無後繼,是示弱於遠夷,暴短於海內,臣愚以為不可許也。舊敦煌郡有營兵三百人,今宜復之,復置護西域副校尉,居於敦煌,如永元故事,又宜遣西域長史將五百人屯樓蘭,西當焉耆、龜茲徑路,南強鄯善、於窴心膽,北扞匈奴,東近敦煌,如此誠便。」 尚書復問勇:「利害云何?」勇對曰:「昔永平之末,始通西域,初遣申郎將居敦煌,後置副校於車師,既為胡虜節度,又禁漢人不得有所侵擾,故外夷歸心,匈奴畏威。今鄯善王尤還,漢人外孫。若匈奴得志,則尤還必死。此等雖同鳥獸,亦知避害,若出屯樓蘭,足以招附其心,愚以為便。」長樂衛尉鐔顯、廷尉綦毋參、司隸校尉崔據難曰:「朝廷前所以棄西域者,以其無益於中國,而費難供也。今車師已屬匈奴,鄯善不可保信,一旦反覆,班將能保北虜不為邊害乎?」勇對曰;「今中國置州牧者,以禁郡縣奸猾盜賊也。若州牧能保盜賊不起者,臣亦願以要斬保匈奴之不為邊害也。今通西域則虜勢必弱,虜勢弱則為患微矣;孰與歸其府藏,續其斷臂哉?今置校尉以扞撫西域,設長史以招懷諸國,若棄而不立,則西域望絕,望絕之後,屈就北虜,緣邊之郡將受困害,恐河西城門必須復有晝閉之儆矣!今不廓開朝廷之德而拘屯戍之費,若此,北虜遂熾,豈安邊久長之策哉!」太尉屬毛軫難曰:「今若置校尉,則西域駱驛遣使,求索無厭,與之則費難供,不與則失其心,一旦為匈奴所迫,當復求救,則為役大矣。 |
現代日本語訳
解説
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| 」勇對曰:「今設以西域歸匈奴,而使其恩德大漢,不為鈔盜,則可矣。如其不然,則因西域租入之饒,兵馬之眾,以擾動緣邊,是為富仇讎之財,增暴夷之勢也。置校尉者,宣威布德,以系諸國內向之心,以疑匈奴覬覦之情,而無費財耗國之慮也。且西域之人,無它求索,其來入者不過稟食而已;今若拒絕,勢歸北屬夷虜,並力以寇並、涼,則中國之費不止十億。置之誠便。」於是從勇議,復敦煌郡營兵三百人,置西域副校尉居敦煌,雖復羈縻西域,然亦未能出屯。其後匈奴果數與車師共入寇鈔,河西大被其害。沈氐羌寇張掖。 夏,四月,丙寅,立皇子保為太子,改元,赦天下。 己巳,紹封陳敬王子崇為陳王,濟北惠王子萇為樂成王,河間孝王子翼為平原王。 六月,護羌校尉馬賢將萬人討沈氐羌於張掖,破之,斬首千八百級,獲生口千餘人,餘虜悉降。時當煎種大豪饑五等,以賢兵在張掖,乃乘虛寇金城,賢還軍追之出塞,斬首數千級而還。燒當、燒何種聞賢軍還,復寇張掖,殺長吏。 秋,七月,乙酉朔,日有食之。 冬,十月,己巳,司空李郃免。癸酉,以衛尉廬江陳褒為司空。 京師及郡國三十三大水。 十二月,永昌徼外撣國王雍曲調遣使者獻樂及幻人。 戊辰,司徒劉愷請致仕;許之,以千石祿歸養。 遼西鮮卑大人烏倫、其至鞬各以其眾詣度遼將軍鄧遵降。 |
現代語訳:勇が答えて言った。「仮に今、西域を匈奴に帰属させてその恩情を大漢に向けさせ、略奪行為を止めさせるなら良いでしょう。しかしそうでなければ、西域の豊かな租税収入と強大な兵力を用いて国境地帯をかく乱することになり、これは敵対勢力の財力を増し、凶暴な異民族の勢いを強めることになります。校尉を設置するのは朝廷の威光を示し徳化を行き渡らせるためであり、西域諸国の内属心をつなぎ止めつつ匈奴の野心に疑念を抱かせることができ、国家財政を消耗させる恐れもありません。さらに西域の人々は他に求めるものなく、来朝する者も食糧供給を受けるだけです。これを拒絶すれば彼らは北方の異民族勢力へ帰属し、連合して并州・涼州を侵略することになり、その場合の中国側の損失は十億を下りません。設置こそが得策なのです」。これにより勇の意見が採用され、敦煌郡に三百人の駐屯兵を復活させ西域副校尉を敦煌に置いた。こうして西域との関係維持は図られたものの、実際に軍を進めて駐屯することは実現しなかった。その後匈奴はたびたび車師国と連携して略奪を行い、河西地域は甚大な被害を受けた。また沈氐羌が張掖を襲撃した。 夏四月丙寅(十一日)、皇子・保が皇太子に立てられ元号が改められた(恩赦施行)。 己巳(十四日)、陳敬王の子・崇を陳王に、済北恵王の子・萇を楽成王に、河間孝王の子・翼を平原王に封じた。 六月、護羌校尉馬賢が一万の兵を率いて張掖で沈氐羌族を討伐し撃破。千八百の首級を斬り捕虜千人余を得て残党は投降した。この時当煎種族の大首長・饑五らは、馬賢軍が張掖に集中している隙をついて金城を襲ったため、馬賢は軍を返して塞外まで追撃し数千の首級を斬って帰還した。焼当・焼何部族は馬賢軍が撤退したと聞き、再び張掖を攻めて官吏を殺害した。 秋七月乙朔(一日)、日食があった。 冬十月己巳(十六日)、司空李郃が罷免される。癸酉(二十日)、衛尉の廬江出身者・陳褒が司空に任命された。 都と三十三郡国で大洪水発生。 十二月、永昌郡境外部の撣国王雍曲調が使者を派遣し楽団と幻術師を献上した。 戊辰(十一日)、司徒劉愷が引退を願い出て許され、千石の俸禄を受けて郷里で余生を送ることになった。 遼西鮮卑族首長の烏倫・其至鞬が配下を率いて度遼将軍鄧遵のもとに投降した。 解説:
※本訳では『資治通鑑』原文の簡潔な紀事文体を、現代日本語の平易さを保ちつつ政治・軍事用語の正確性を重視して再構成。固有名詞(例:饑五/雍曲調)は原典表記を保持し、歴史的背景を付加することで当時の国際情勢が立体的に理解できるよう配慮した。 Translation took 2175.6 seconds. |
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| 癸酉,以太常楊震為司徒。 是歲,郡國二十三地震。 太后從弟越騎校尉康,以太后久臨朝政,宗門盛滿,數上書太后,以為宜崇公室,自損私權,言甚切至,太后不從。康謝病不朝,太后使內侍者問之;所使者乃康家先婢,自通「中大人」,康聞而詬之。婢怨恚,還,白康詐疾而言不遜。太后大怒,免康官,遣歸國,絕屬籍。 初,當煎種饑五同種大豪盧匆心、忍良等千餘戶別留允街,而首施兩端。 孝安皇帝建光元年(辛酉,公元一二一年) 春,護羌校尉馬賢召盧匆++心,斬之,因放兵擊其種人,獲首虜二千餘,忍良等皆亡出塞。 幽州刺史巴郡馮煥、玄菟太守姚光、遼東太守蔡諷等將兵擊高句麗,高句麗王宮遣嗣子遂成詐降,而襲玄菟、遼東,殺傷二千餘人。 二月,皇太后寢疾,癸亥,赦天下。三月,癸巳,皇太后鄧氏崩。未及大斂,帝復申前命,封鄧騭為上蔡侯,位特進。丙午,葬和熹皇后。太后自臨朝以來,水旱十載,四夷外侵,盜賊內起,每聞民饑,或達旦不寐,躬自減徹以救災厄,故天下復平,歲還豐穰。 上始親政事,尚書陳忠薦隱逸及直道之士穎川杜根、平原成翊世之徒,上皆納用之。忠,寵之子也。初,鄧太后臨朝,根為郎中,與同時郎上書言:「帝年長,宜親政事。」太后大怒,皆令盛以縑囊,於殿上撲殺之,既而載出城外,根得蘇;太后使人檢視,根遂詐死,三日,目中生蛆,因得逃竄,為宜城山中酒家保,積十五年。 |
現代語訳(『資治通鑑』抜粋)癸酉の日、太常であった楊震を司徒に任命した。 この年、二十三の郡国で地震が発生した。 鄧太后の従弟である越騎校尉・鄧康は、太后による長期政務掌握と一族の権勢拡大を憂慮し、「朝廷(公)の権威を高め、私的権力を抑制すべきだ」と繰り返し上奏。しかし太后は聞き入れなかった。鄧康は病と称して出仕せず、太后が派遣した使者(かつて鄧家に仕えた侍女で「中大人」と自称)に対し罵声を浴びせた。侍女は恨みを持ち、「偽病であり不敬な発言あり」と虚偽の報告。激怒した太后は鄧康を免官・帰国処分とし、皇族籍から除名した。 当初、当煎種(羌族)の饑五ら同族の首長ルチョンシンや忍良ら千戸余りが允街に残留していたが、態度を曖昧にしていた。 建光元年(辛酉、121年) 春、護羌校尉・馬賢はルチョンシンを呼び出し処刑。配下の部族を攻撃して二千人以上を捕虜とし、忍良らは塞外へ逃亡した。 幽州刺史・馮煥(巴郡出身)、玄菟太守・姚光、遼東太守・蔡諷らが高句麗討伐に出陣。高句麗王・宮は王子の遂成を偽装降伏させて奇襲を仕掛け、玄菟・遼東で二千人以上を殺傷した。 二月、鄧太后が病床に臥す。癸亥の日に大赦令発布。三月癸巳、鄧太后崩御。殯儀も終わらぬうちに皇帝(安帝)は詔を再発し、鄧騭を上蔡侯・特進に封じた。丙午、和熹皇后として埋葬された。太后の摂政期間中、十年続いた水害・旱魃や異民族侵攻・国内反乱に対し、自ら質素倹約して救済にあたり天下は安定、再び豊作となった。 皇帝が親政を開始すると、尚書・陳忠(陳寵の子)が隠遁者で剛直な人物として潁川出身の杜根や平原出身の成翊世らを推挙。皇帝は全員登用した。 ——かつて鄧太后摂政時、郎中だった杜根は同僚と共に「帝成年につき親政開始を」と上奏し激怒された者たちである。太后は彼らを絹袋に入れて殴打死させようとしたが、杜根は蘇生。検視役人が派遣されると蛆が湧くほど腐ったふりをして逃亡し、宜城山中の酒屋で十五年働いていた。 解説■ 歴史的意義 ■ 人物評価 ■ 記述手法 ■ 現代への示唆 Translation took 2020.7 seconds. |
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| 成翊世以郡吏亦坐諫太后不歸政抵罪。帝皆征詣公車,拜根侍御史,翊世尚書郎。或問根曰:「往者遇禍,天下同義,知故不少,何至自苦如此?」根曰:「周旋民間,非絕跡之處,邂逅發露,禍及親知,故不為也。」 戊申,追尊清河孝王曰孝德皇,皇妣左氏曰孝德後,祖妣宋貴人曰敬隱後。初,長樂太僕蔡倫受竇後諷旨誣陷宋貴人,帝敕使自致延尉,倫飲藥死。 夏,四月,高句麗復與鮮卑入寇遼東,蔡諷追擊於新昌,戰歿。功曹掾龍端、兵馬掾公孫酺以身扞諷,俱沒於陳。 丁巳,尊帝嫡母耿姬為甘陵大貴人。 甲子,樂成王萇坐驕淫不法,貶為蕪湖侯。 己巳,令公卿下至郡國守相各舉有道之士一人。尚書陳忠以詔書既開諫爭,慮言事者必多激切,或致不能容,乃上疏豫通廣帝意曰:「臣聞仁君廣山藪之大,納切直之謀,忠臣盡謇諤之節,不畏逆耳之害,是以高祖捨周昌桀、紂之譬,孝文嘉袁盎人豕之譏,武帝納東方朔宣室之正,元帝容薛廣德自刎之切。今明詔崇高宗之德,推宋景之誠,引咎克躬,諮訪群吏。言事者見杜根、成翊世等新蒙表錄,顯列二台,必承風響應,爭為切直。若嘉謀異策,宜輒納用;如其管穴,妄有譏刺,雖苦口逆耳,不得事實,且優遊寬容,以示聖朝無諱之美;若有道之士對問高者,宜垂省覽,特遷一等,以廣直言之路。 |
現代日本語訳:成翊世は郡の役人として、皇太后が政権を返還しないことを諫言した罪で処罰された。皇帝(安帝)は彼ら全員を公車に召し出し、杜根を侍御史に任命し、成翊世を尚書郎とした。ある人物が杜根に問うた:「かつて災難に見舞われた時、天下の人は皆あなたを義士と認め、知人も少なくなかったのに、なぜここまで自ら苦行するのか?」杜根は答えた:「民間で潜伏することは世間から完全に隔絶した状態ではない。万一発覚すれば親しい者までも災いが及ぶゆえ、敢えて頼ろうとはしなかった」 戊申の日、清河孝王を孝徳皇と追尊し、生母左氏を孝徳后と称し、祖母である宋貴人を敬隠后とした。かつて長楽太僕であった蔡倫は竇太后から密命を受け、宋貴人の汚名を着せたため、皇帝の命令により自ら延尉に出頭するよう求められると服毒自殺した。 夏四月、高句麗が再び鮮卑と連合して遼東に侵攻し蔡諷は新昌で追撃戦を行ったが戦死。功曹掾の龍端・兵馬掾公孫酺は身を挺して蔡諷を守り共に陣没した。 丁巳の日、皇帝(安帝)の嫡母である耿姫を甘陵大貴人と尊称。 甲子の日、楽成王萇が驕慢で淫らな行いにより法度を乱し蕪湖侯へ降格処分。 己巳の日、公卿から郡国守相に至るまで各々有道之士(徳才兼備の人材)一人を推挙せよとの詔令。尚書である陳忠は詔勅で諫言が奨励されたことを受け、「献策者が激しい言辞を用い朝廷の寛容さを損なう恐れがある」と憂慮し、事前に皇帝(安帝)の度量広くあるべき旨を補足する上疏文を提出した:「賢明なる君主は山沢のように度量が大きく率直な進言を受け入れられると承る。忠臣は誠実さをもって職分を尽くし逆耳の言葉も恐れないため、高祖(劉邦)は周昌から桀紂に例えられた非難を容赦され、文帝は袁盎による呂后の人彘事件への批判を受け入れられ武帝は東方朔が宣室殿で正論を述べることを許し元帝も薛広徳の自刎諫言を寛容された。今上陛下が高宗(殷王朝の中興君主)の聖德を尊び宋景公の誠実さを示され、みずから責めを背いて官吏に意見を求めておられる。献策者は杜根・成翊世らが新たに登用され顕職についた例を見て必や風潮に応じ鋭い進言で競うであろう。もし優れた策略あれば速やかに採用すべきだが、管穴(取るに足らない)の見識で妄りに批判する者は『苦口逆耳』ではあるが実情を理解していない場合でも寛大な態度を示し聖朝が言論を忌避しない美徳を見せるべし。有道之士の中で特に優れた答えをした者には特段昇格させ直言の道を広げられることを望む」 解説:【歴史的背景】 1. 『資治通鑑』は北宋・司馬光による編年体通史で、後漢安帝期(107-125年)の政治状況を描く。当時は外戚鄧氏が権力を掌握し「太后臨朝」状態が続き、儒臣たちから政権返還要求が出ていた。 【人物関係分析】 2. 杜根と成翊世:儒家思想に基づいて皇太后へ実権返上を直諫した官吏。前段階で処罰された背景ありながら皇帝(安帝)が改めて登用する複雑な君臣関係を示す。 3. 蔡倫の悲劇:紙の発明者として著名だが、本章では宮廷闘争に加担し自害へ追い込まれた側面を描く。外戚勢力変遷による清算の実例。 【政治力学】 4. 「有道之士」推挙制度:安帝が地方人材登用を通じて鄧太后体制から脱却しようとする意図と、陳忠による「形式的寛容さ」提言に表れる士大夫層との緊張関係。 5. 諫言の二面性: - 杜根の発言:「身内への累及リスク」が儒教的忠義思想を越えた現実的処世術 - 陳忠の上疏:前漢皇帝らの先例(周昌・袁盎など)引用による「進言保護論」。形式的受容で批判勢力を懐柔する官界の知恵。 【軍事動向】 6. 遼東戦役記載は三箇目的: - 外征失敗が内政不安と連動する史観提示 - 「身をもって主君を守る」美談(龍端ら)で儒教的君臣関係の理想像対置 - 後漢王朝の辺境統制力衰退を示唆 【思想的意義】 7. 『諫言受容』プロパガンダ:皇帝が自ら過失を認め宋景公(災異に対し身をもって責めた春秋君主)に擬する行為は、天変地異続いた当時「徳治回復」を示す政治的演出。 Translation took 1158.7 seconds. |
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| 」書御,有詔,拜有道高第士沛國施延為侍中。 初,汝南薛包,少有至行,父娶後妻而憎包,分出之。包日夜號泣,不能去,至被驅撲,不得已,廬於捨外,旦入灑掃。父怒,又逐之,乃廬於里門,昏晨不廢。積歲餘,父母慚而還之。及父母亡,弟子求分財異居。包不能止,乃中分其財,奴婢引其老者,曰:「與我共事久,若不能使也。」田廬取其荒頓者,曰:「吾少時所治,意所戀也。」器物取朽敗者,曰:「我素所服食,身口所安也。」弟子數破其產,輒復賑給。帝聞其名,令公車特徵,至,拜侍中。包以死自乞,有詔賜告歸,加禮如毛義。 帝少號聰明,故鄧太后立之。及長,多不德,稍不可太后意;帝乳母王聖知之。太后征濟北、河間王子詣京師,河間王子冀美容儀,太后奇之,以為平原懷王后,留京師。王聖見太后久不歸政,慮有廢置,常與中黃門李閏、江京候伺左右,共毀短太后於帝,帝每懷忿懼。及太后崩,宮人先有受罰者懷怨恚,因誣告太后兄弟悝、弘、閶先從尚書鄧訪取廢帝故事,謀立平原王。帝聞,追怒,今有司奏悝等大逆無道,遂廢西平侯廣宗、葉侯廣德、西華侯忠、陽安侯珍、都鄉侯甫德皆為庶人,鄧騭以不與謀,但免特進,遣就國;宗族免官歸故郡,沒入騭等貲財田宅。徙鄧訪及家屬於遠郡,郡縣逼迫,廣宗及忠皆自殺。 |
【現代日本語訳】文書が皇帝に上奏され、詔勅が出て、有道の試験で最高位を得た沛国の施延を侍中に任命した。 当初、汝南の薛包は若い頃から至高の品行を持っていた。父が後妻を迎えると彼を疎んじ、別居させようとした。薛包は昼夜泣き叫んで離れられず、遂には殴打されて追い出されたため、やむなく家屋の外に小屋を建てて暮らし、毎朝中に入って掃除した。父が激怒して再び追放すると、今度は里門の傍に小屋を建て、朝夕の挨拶を欠かさなかった。一年余り経つと父母は恥じ入って彼を呼び戻した。 両親が亡くなると、弟の子たちが財産分与と別居を求めた。薛包は止められず、財産を均等に分割した際、奴婢では年配者を選んで言った。「私と長く苦労を共にしてきたので、君たちには使えないだろう」。田畑や家屋は荒れ果てたものを選び、「これは私が若い頃耕した土地で愛着がある」と言い、器物は朽ちたものを取り、「慣れ親しんだ物で体に合っている」と述べた。弟の子たちが度々財産を失うと、その都度援助を与えた。 皇帝は彼の名声を聞き、公車(官庁)を使わず特別招聘した。到着すると侍中に任命しようとしたが、薛包は死をもって辞退を願い出たため、詔勅で帰郷を許し、毛義と同様の礼遇を与えた。 皇帝(安帝)は幼少時から聡明と称されたため、鄧太后が即位させた。成長すると不品行が多く次第に太后の意に沿わなくなり、乳母の王聖がこれを察知した。太后が済北王・河間王の王子らを都へ召還すると、河間王の子劉翼は容姿端麗で、太后は彼を奇貨として平原懐王(和帝の子)の後継とし、都に留め置いた。 王聖は太后が長期にわたり政権を返上しないことを危惧し、廃位の可能性を慮り、常に中黄門の李閏・江京らと共に皇帝の側で機会を窺い、協力して太后を誹謗した。皇帝は憤りと恐れを抱くようになった。 太后が崩御すると、宮人の中で以前処罰された者が怨恨から、鄧太后の兄弟である悝・弘・閶らが尚書鄧訪から廃帝の先例文書を得て平原王擁立を謀ったと誣告した。皇帝はこれを聞いて怒り狂い、役所に命じて悝らが大逆無道だと上奏させた。結果、西平侯広宗・葉侯広徳・西華侯忠・陽安侯珍・都郷侯甫德を全員庶人に落とし、鄧騭は陰謀に関与せずとして特進の官位のみ剥奪して封国へ追放。一族は免職され故郷へ戻り、鄧騭らの財産・田宅は没収された。鄧訪と家族は辺境へ流罪となり、郡県からの迫害を受けて広宗と忠が自殺した。 【解説】
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| 又徙封騭為羅侯;五月,庚辰,騭與子鳳並不食而死。騭從弟河南尹豹、度遼將軍舞陽侯遵、將作大匠暢皆自殺;唯廣德兄弟以母與閻後同產,得留京師。復以耿夔為度遼將軍,征樂安侯鄧康為太僕。丙申,貶平原王翼為都鄉侯,譴歸河間。翼謝絕賓客,閉門自守,由是得免。 初,鄧後之立也,太尉張禹、司徒徐防欲與司空陳寵共奏追封後父訓,寵以先世無奏請故事,爭之,連日不能奪。及訓追加封謚,禹、防復約寵俱遣子奉禮於虎賁中郎將騭,寵不從,故寵子忠不得志於鄧氏。騭等敗,忠為尚書,數上疏陷成其惡。大司農京兆朱寵痛騭無罪遇禍,乃肉袒輿櫬上疏曰:「伏惟和熹皇后聖善之德,為漢文母。兄弟忠孝,同心憂國,宗廟有主,王室是賴。功成身退,讓國遜位,歷世外戚,無與為比,當享積善履謙祐。而橫為宮人單辭所陷,利口傾險,反亂國家,罪無申證,獄不訊鞫,遂令騭等罹此酷濫,一門七人,並不以命,屍骸流離,冤魂不反,逆天感人,率土喪氣。宜收還塚次,寵樹遺孤,奉承血祀,以謝亡靈。」寵知其言切,自致廷尉;陳忠復劾奏寵,詔免官歸田裡。眾庶多為騭稱枉者,帝意頗悟,乃譴讓州郡,還葬騭等於北芒,諸從昆弟皆得歸京師。 帝以耿貴人兄牟平侯寶監羽林左軍車騎,封宋楊四子皆為列侯,宋氏為卿、校、侍中大夫、謁者、郎吏十餘人;閻皇后兄弟顯、景、耀,並為卿、校,典禁兵。 |
現代日本語訳さらに鄧騭を羅侯に転封した。五月庚辰の日、鄧騭とその子・鳳は共に絶食して死んだ。従弟である河南尹の豹、度遯将軍舞陽侯の遵、将作大匠の暢も自決した。ただ広徳兄弟だけが母(陰氏)が閻后と姉妹であったため、都に留まることを許された。耿夔を再度度遘将軍に任じ、楽安侯鄧康を太僕に任命した。丙申の日には平原王翼を都郷侯に降格し、河間への帰還を命じた。翼は賓客との交際を断ち門を閉ざして慎んだため、難を逃れることができた。 当初、鄧后が立后された時、太尉張禹と司徒徐防は司空陳寵と共に后の父・訓への追封を上奏しようとした。しかし寵は「先例がない」として反対し、数日議論しても意見を変えなかった。後に訓が追封されると、禹らは再び寵と共同で子息を虎賁中郎将鄧騭のもとに礼使として遣わそうとしたが、寵は従わず、そのため寵の子・忠は鄧氏政権で出世できなかった。鄧騭失脚後、尚書となった忠は再三上疏し鄧氏の罪状を捏造した。 大司農朱寵は無実の鄧騭が災禍に遭ったことを痛み、肌脱ぎで棺桶を担いで直訴した。「和熹皇后(鄧后)の聖なる徳は漢の文母(太姫)にも比すべきものです。兄弟らは忠孝を尽くし心を一つにして国を支え、宗廟を守り王室を頼みとされました。功成りて身退き爵位を譲るという点では、歴代外戚の中でも比類がありません。まさに善行の報いを受けるべきでしたが、姦臣らの讒言によって無実の罪を着せられ、証拠も取り調べもないまま一族七人が非業の死を遂げ、遺骸は散りぢりとなりました。これは天理にも人情にも反し天下の人心を喪わせています。どうか墓所への改葬と遺児保護をお許しいただき、御霊に謝罪なさってください」。寵は自身の発言が過激であることを悟り自ら廷尉に出頭したが、陳忠はさらに弾劾上奏し、結局寵は免官・帰郷を命じられた。 民衆の多くが鄧騭の無実を訴える中、皇帝(安帝)はようやく思い至り州郡を譴責。北芒山への改葬を許可し一族子弟の都帰還も認めた。 その後、耿貴人の兄・牟平侯寶に羽林左軍車騎を監督させ、宋楊の四人の子を列侯に封じた。また宋氏から十数名が卿・校尉・侍中大夫などの要職に就いた。閻皇后の兄弟である顕・景・耀も皆卿や校尉となり禁軍を掌握した。 解説
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| 於是內寵始盛。 帝以江京嘗迎帝於邸,以為京功,封都鄉侯,封李閏為雍鄉侯,閏、京並遷中常侍,京兼大長秋,與中常侍樊豐、黃門令劉安、鉤盾令陳達及王聖、聖女伯榮扇動內外,競為侈虐;伯榮出入宮掖,傳通姦賂。 司徒楊震上疏曰:「臣聞政以得賢為本,治以去穢為務;是以唐、虞俊乂在官,四凶流放,天下咸服,以致雍熙。方今九德未事,嬖倖充庭。阿母王聖,出自賤微,得遭千載,奉養聖躬,雖有推燥居濕之勤,前後賞惠,過報勞苦,而無厭之心不知紀極,外交屬托,擾亂天下,損辱清朝,塵點日月。夫女子、小人,近之喜,遠之怨,實為難養。宜速出阿母,令居外捨,斷絕伯榮,莫使往來。令恩德兩隆,上下俱美。」奏御,帝以示阿母等,內幸皆懷忿恚。 而伯榮驕淫尤甚,通於故朝陽侯劉護從兄瑰,瑰遂以為妻,官至侍中,得襲護爵。震上疏曰:「經制,父死子繼,兄亡弟及,以防篡也。伏見詔書,封故朝陽侯劉護再從兄瑰襲護爵為侯;護同產弟威,今猶見在。臣聞天子專封,封有功;諸侯專爵,爵有德。今瑰無佗功行,但以配阿母女,一時之間,既位侍中,又至封侯,不稽舊制,不合經義,行人喧嘩,百姓不安。陛下宜鑒鏡既往,順帝之則。」尚書廣陵翟瑰上疏曰:「昔竇、鄧之寵,傾動四方,兼官重紱,盈金積貨,至使議弄神器,改更社稷,豈不以勢尊威廣以致斯患乎!及其破壞,頭顙墮地,願為孤豚,豈可得哉!夫致貴無漸,失必暴;受爵非道,殃必疾。 |
現代日本語訳この時より宮中における寵臣の勢力が強まり始めた。 皇帝は江京がかつて邸宅に出向いて自身を迎えた功績を認め、都郷侯に封じた。李閏も雍郷侯とし、両者とも中常侍に昇進させた。さらに江京には大長秋の職務を兼任させ、彼は中常侍の樊豊・黄門令(宦官長官)の劉安・鉤盾令(宮廷器具管理官)の陳達らと結託し、乳母である王聖およびその娘伯栄と共に朝廷内外で権勢を振るい、奢侈と暴虐を競った。特に伯栄は後宮に自由に出入りして賄賂による不正な取り次ぎを行っていた。 司徒(大臣)の楊震が上奏した: この上奏文は皇帝が乳母らに見せたところ側近たちは皆激怒した。 しかし伯栄の驕慢・淫蕩ぶりはますます甚だしく、故・朝陽侯劉護の従兄弟である劉瑰(りゅうかい)と私通し、彼を夫とした結果、劉瑰は侍中に抜擢され劉護の爵位さえ継承した。これに対し楊震が再び上奏: 尚書・広陵出身の翟酺も上奏: 解説
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| 今外戚寵幸,功均造化,漢元以來未有等比。陛下誠仁恩周洽,以親九族,然祿去公室,政移私門,覆車重尋,寧無摧折!此最安危之極戒,社稷之深計也。昔文帝愛百金於露台,飾帷帳於皁囊,或有譏其儉者,上曰:『朕為天下守財耳,豈得妄用之哉!』今自初政已來,日月未久,費用賞賜,已不可算。斂天下之財,積無功之家,帑藏單盡,民物雕傷,卒有不虞,復當重賦,百姓怨叛既生,危敵可待也。願陛下勉求忠貞之臣,誅遠佞諂之黨,割情慾之歡,罷宴私之好,心存亡國所以失之,鑒觀興王所以得之,庶災害可息,豐年可招矣。」書奏,皆不省。 秋,七月,己卿,改元,赦天下。 壬寅,太尉馬英薨。 燒當羌忍良等,以麻奴兄弟本燒當世嫡,而校尉馬賢撫恤不至,常有怨心,遂相結,共脅將諸種寇湟中,攻金城諸縣。八月,賢將先零種擊之,戰於牧苑,不利。麻奴等又敗武威、張掖郡兵於令居,因脅將先零、沈氐諸種四千餘戶緣山西走,寇武威。賢追到鸞鳥,招引之,諸種降者數千,麻奴南還湟中。 甲子,以前司徒劉愷為太尉。初,清河相叔孫光坐臧抵罪,遂增禁錮二世。至是,居延都尉范邠復犯臧罪,朝廷欲依光比;劉愷獨以為:「《春秋》之義,善善及子孫,惡惡止其身,所以進人於善也。如今使臧吏禁錮子孫,以輕從重,懼及善人,非先王詳刑之意也。 |
現代日本語訳:現在、外戚が寵愛され、その権勢は天の造物主に匹敵し、前漢の元帝以来これほどの例はない。陛下は確かに仁恩を広く行きわたらせて親族を大切になさっているが、国庫から禄が流出し政治が私門(外戚勢力)に移りつつある。同じ過ちが繰り返されれば崩壊も免れまい。これは国家の安危に関わる最大の戒めであり、社稷にとって最も深慮すべき事案である。 かつて文帝は露台造営費百金を惜しみ、帷帳を粗末な袋で覆った際、「朕は天下のために財を守るのだ」と倹約を批判する者に答えた。ところが今や陛下の治世始まって日も浅いのに、費用と賞賜はすでに計算できないほどだ。天下の富を集めて無功の家(外戚)に蓄積し、国庫は空しく民衆は疲弊している。万一の事態があれば重税が復活し、民の怨みから反乱が生じれば危機は目前であろう。 伏して願わくば陛下には忠貞の臣を求め佞諂(へつらい)の輩を遠ざけ、私情による享楽を断ち宴遊を控えられんことを。滅びた国々の失敗原因に思いを致し、興った王朝の成功要因を鏡とされば、災害は止み豊年が訪れましょう。 (※李固の上奏文は全て黙殺された) 秋七月己卿の日、元号を改め大赦を行う。 壬寅の日、太尉馬英逝去。 焼当羌族の忍良らは、麻奴兄弟が本来の首長家系であるのに校尉・馬賢が保護しないため怨みを持ち、諸部族を糾合して湟中に侵攻し金城郡各県を襲撃。八月、馬賢が先零種を率いて牧苑で戦うも敗北。麻奴らはさらに令居で武威・張掖の郡兵を破り、先零・沈氐など四千戸余を脅して山西へ西走させ武威を攻める。馬賢は鸞鳥まで追撃し懐柔すると数千が降伏、麻奴は湟中へ撤退した。 甲子の日、前司徒の劉愷を太尉に任命。かつて清河国相・叔孫光が汚職で罰せられた際、一族二世にわたり官吏登用禁止となった事例があり、今回も居延都尉・范邠の汚職罪に同例適用しようとした。しかし劉愷は「『春秋』の大義では善行には子孫まで報い、悪行は本人のみを罰するのが人を善へ導く道である。汚職官吏の子孫まで登用禁止とするのは軽罪から重罰への暴論であり、善良な者まで巻き添えにするのは先王が刑罰を慎重にした趣旨に反する」と独自見解を示した。 解説:背景分析 - 李固の諫言は後漢中期(順帝時代)における外戚専横への痛烈批判。当時国政を牛耳った梁冀一族の奢侈と権力濫用が、「禄去公室(国家財源の私物化)」という表現に凝縮されている。 - 羌族反乱の記録は、外戚政治による辺境統制機能の低下を示唆。特に「撫恤不至(保護不足)」との指摘は中央政権の地方軽視を暴露。 思想的焦点
1. 財政倫理論争
歴史的意義 - 外戚批判が黙殺された直後に発生した羌族大反乱(143年)は、李固の「卒有不虞(万一の事態)」予言を現実化。当時の政権が抱えた軍事的脆弱性と財政危機を象徴する。 - 「禁錮二世」慣行への異議申立ては、後世の刑罰個別責任原則(例:唐律「罪止其身」)の先駆となりつつも、実際には魏晋南北朝まで族誥的処罰が継続した矛盾を示す。 文学的特徴 - 諫言文に見られる対句法:「覆車重尋/寧無摧折」「心存亡國/鑒觀興王」は危機感を修辞的に増幅。史書編纂者・司馬光の「臣光曰」論評スタイルに通底する表現技法。 - 「帑藏單盡,民物雕傷」などの四字句連打が、国家衰退の緊迫性を映像的に伝達。 (注)固有名詞は歴史学界の定訳に基づき表記:例「燒当羌→焼当羌」「湟中→こうちゅう」「令居→れいきょ」 Translation took 2260.5 seconds. |
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| 」尚書陳忠亦以為然。有詔:「太尉議是。」 鮮卑其至鞬寇居庸關。九月,雲中太守成嚴擊之,兵敗,功曹楊穆以身捍嚴,與之俱歿;鮮卑於是圍烏桓校尉徐常於馬城。度遼將軍耿夔與幽州刺史龐參發廣陽、漁陽、涿郡甲卒救之,鮮卑解去。 戊子,帝幸衛尉馮石府,留飲十許日,賞賜甚厚,拜其子世為黃門侍郎,世弟二人皆為郎中。石,陽邑侯魴之孫也,父柱尚顯宗女獲嘉公主,石襲公主爵,為獲嘉侯,能取悅當世,故為帝所寵。京師及郡國二十七雨水。 冬,十一月,己丑,郡國三十五地震。 鮮卑寇玄菟。 尚書令祋諷等奏,以為「孝文皇帝定約禮之制,光武皇帝絕告寧之典,貽則萬世,誠不可改,宜復斷大臣行三年喪。」尚書陳忠上疏曰:「高祖受命,蕭何創製,大臣有寧告之科,合於致憂之義。建武之初,新承大亂,凡諸國政,多趣簡易,大臣既不得告寧而群司營祿念私,鮮循三年之喪以報顧復之恩者,禮義之方,實為雕損。陛下聽大臣終喪,聖功美業,靡以尚茲。《孟子》有言:『老吾老,以及人之老;幼吾幼,以及人之幼,天下可運如掌。』臣願陛下登高北望,以甘陵之思揆度臣子之心,則海內咸得其所。」時宦官不便之,竟寢忠奏。庚子,復斷二千石以上行三年喪。 袁宏論曰:古之帝王所以篤化美俗,率民為善,因其自然而不奪其情,民猶有不及者,而況毀禮止哀,滅其天性乎! 十二月,高句驪王宮率馬韓、濊貊數千騎圍玄菟,夫餘王遣子尉仇台將二萬餘人與州郡並力討破之。 |
現代語訳:尚書の陳忠もこの意見に賛同した。詔勅が下され、「太尉(周章)の主張は正しい」とされた。 鮮卑族の首長である其至鞬が居庸関を襲撃。九月、雲中太守・成厳が迎え撃つも敗北し、功曹(人事担当官)楊穆は自らの身で成厳を庇い共に戦死した。鮮卑軍は続けて馬城において烏桓校尉・徐常を包囲した。度遼将軍・耿夔と幽州刺史・龐参が広陽郡・漁陽郡・涿郡の兵士を動員して救援に向かい、鮮卑軍は撤退した。 戊子(二十八日)、皇帝(安帝)は衛尉馮石の邸宅に行幸し十日余り滞在。厚く恩賞を与え、その息子馮世を黄門侍郎に任命し、二人の弟も郎中とした。馮石は陽邑侯・馮魴の孫で、父の馮柱が顕宗(明帝)の娘である獲嘉公主と結婚したため、馮石は公主の爵位を受け継ぎ獲嘉侯となった人物。当代の権力者に巧みに取り入る能力があり皇帝の寵愛を受けた。この時、都を含む二十七郡国で洪水が発生。 冬十一月己丑(初一日)、三十五郡国で地震が起こる。 鮮卑軍が玄菟郡を襲撃。 尚書令・祋諷らが上奏:「孝文皇帝(文帝)は服喪制度を制定し、光武皇帝(光武帝)は官吏の親喪休暇規定を廃止された。これは万世に残る規範であり変更すべきではない」として「大臣による三年喪復活禁止」を主張。これに対し尚書・陳忠が反論上疏:「高祖(劉邦)が天命を受けた際、蕭何は『寧告』(親喪休暇規定)も創設されました。これは孝心を示す精神に合致します。建武初年(光武帝期)、大乱後の復興時には行政簡素化の必要性から三年喪取得禁止となりましたが、結果として官吏らは俸禄と私利を貪り父母への恩返しを忘れる風潮が蔓延しました。陛下が大臣に満喪期間取得を認められたのは聖業です。孟子も『自らの老人を敬う心で他人の老人を敬い、自らの子孫を慈しむ心で他者の子孫を慈しめば天下は掌中のように治まる』と述べています」しかし宦官勢力が反対したため陳忠案は却下。庚子(十二日)、二千石以上の高官に対する三年喪禁止令復活。 袁宏の論評:古代帝王が教化に成功したのは人情を尊重し自然な感情を妨げなかったからだ。当時でさえ礼法完遂できない者がいたのに、まして哀悼儀礼を廃することは天性を損なう行為である! 十二月、高句麗王・宮が馬韓と濊貊の数千騎を率いて玄菟郡を包囲したが、夫余王が子の尉仇台に二万余りの兵を与え州郡軍と協力して撃退。 解説:■歴史的背景 本節は『資治通鑑』後漢紀・安帝期(107-125年)の記録。外民族侵攻と朝廷内の喪礼論争が併記され、当時の社会状況を反映しています。「三年喪」制度復活運動と宦官による阻止は、後漢衰退の兆候を示唆する事例です。 ■制度的焦点 「寧告(ねいこく)」問題:官吏の親喪休暇(最長3年)を巡る論争には儒家理念(孝行重視)vs行政効率性という普遍的な対立構造が現れています。特に「二千石以上」対象は郡太守級高官で、彼らの長期不在が国家運営に与える影響の大きさを示しています。 ■思想的意義 ・陳忠上疏:孟子『梁恵王篇』の引用により儒教的徳治主義を強調しつつ現実政治との調和図る姿勢が見られます。 ・袁宏(東晋歴史家)評:「自然」概念で人情尊重統治理念を主張。司馬光編纂時の思想的立場が反映されています。 ■民族関係史 鮮卑の侵攻と高句麗包囲は北方情勢不安定化を示し、夫余王による救援は当時の東アジア国際同盟戦略の実例として注目されます。「濊貊」等表記は古代中国の周辺民族認識を考察する貴重な史料です。 (注)地名・官職名は現代日本語で理解可能な範囲で平易化。古典特有の難解表現は意訳により可読性確保しました。 Translation took 2199.9 seconds. |
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| 是歲,宮死,子遂成立。玄菟太守姚光上言,欲因其喪,發兵擊之,議者皆以為可許。陳忠曰:「宮前桀黠,光不能討,死而擊之,非義也。宜遣使弔問,因責讓前罪,赦不加誅,取其後善。」帝從之。 孝安皇帝延光元年(壬戌,公元一二二年) 春,三月,丙午,改元,赦天下。 護羌校尉馬賢追擊麻奴,到湟中,破之,種眾散遁。 夏,四月,癸未,京師、郡國二十一雨雹,河西雹大者如斗。 幽州刺史馮煥、玄菟太守姚光數糾發奸惡,怨者詐作璽書,譴責煥、光,賜以歐刀,又下遼東都尉龐奮,使速行刑。奮即斬光,收煥。煥欲自殺,其子緄疑詔文有異,止煥曰:「大人在州,志欲去惡,實無它故。必是凶人妄詐,規肆奸毒。願以事自上,甘罪無晚。」煥從其言,上書自訟,果詐者所為,征奮,抵罪。 癸巳,司空陳褒免。五月,庚戌,宗正彭城劉授為司空。 己巳,封河間孝王子德為安平王,嗣樂成靖王后。 六月,郡國蝗。 秋,七月,癸卯,京師及郡國十三地震。 高句驪王遂成還漢生口,詣玄菟降,其後濊貊率服,東垂少事。 虔人羌與上郡胡反,度遼將軍耿夔擊破之。八月,陽陵園寢火。 九月,甲戌,郡國二十七地震。 鮮卑既累殺郡守,膽氣轉盛,控弦數萬騎,冬,十月,復寇雁門、定襄;十一月,寇太原。 燒當羌麻奴饑困,將種眾詣漢陽太守耿種降。 |
現代日本語訳この年、高句麗王の宮が死去し、子の遂成が即位した。玄菟太守の姚光が「喪中を狙って出兵すべきだ」と上奏すると、廷臣らは賛同した。しかし陳忠が反論した。「生前に凶暴な宮を討てなかった者が死後に攻めるのは非道である。使者を遣わし弔問させると共に過去の罪状を責め立てるべきだ。恩赦を与え誅殺せず、今後の善政を促すのが妥当だ」。皇帝はこれを受け入れた。 孝安帝・延光元年(壬戌年=122年) 夏4月癸未:洛陽及び21郡国で雹被害発生。河西では斗(約3リットル容器)大の氷塊が記録される。 癸巳:司空陳褒の罷免。 6月:複数郡国で蝗害発生。 虔人羌と上郡異民族の反乱:度遼将軍耿夔により鎮圧。 鮮卑族が太守殺害を重ね勢力拡大:「数万騎の兵力」で10月に雁門・定襄、11月に太原へ侵攻。 解説【歴史的背景】本史料が描く122年(後漢中期)の特徴: 【人物評価】
【特筆事項】
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| 是歲,京師及郡國二十七雨水。 帝數遣黃門常侍及中使伯榮往來甘陵,尚書僕射陳忠上疏曰:「今天心未得,隔並屢臻,青、冀之域,淫雨漏河,徐、岱之濱,海水盆溢,兗、豫蝗蝝滋生,荊、揚稻收儉薄,並、涼二州羌戎叛戾,加以百姓不足,府帑虛匱。陛下以不得親奉孝德皇園廟,比遣中使致敬甘陵,朱軒駢馬,相望道路,可謂孝至矣。然臣竊聞使者所過,威權翕赫,震動郡縣,王、侯、二千石至為伯榮獨拜車下,發民修道,繕理亭傳,多設儲偫,征役無度,老弱相隨,動有萬計,賂遺僕從,人數百匹,頓踣呼嗟,莫不叩心。河間托叔父之屬,清河有陵廟之尊,及剖符大臣,皆猥為伯榮屈節車下,陛下不問,必以為陛下欲其然也。伯榮之威,重於陛下,陛下之柄,在於臣妾,水災之發,必起於此。昔韓嫣托副車之乘,受馳視之使,江都誤為一拜,而嫣受歐刀之誅。臣願明主嚴天元之尊,正乾剛之位,不宜復令女使幹錯萬機。重察左右,得無石顯洩漏之奸?尚書納言,得無趙昌譖崇之詐?公卿大臣,得無朱博阿傅之援?外屬近戚,得無王鳳害商之謀?若國政一由帝命,王事每決於己,則下不得逼上,臣不得干君,常雨大水必當霽止,四方眾異不能為害。」書奏,不省。 時三府任輕,機事專委尚書,而災眚變咎,輒切免三公,陳忠上疏曰:「漢典舊事,丞相所請,靡有不聽。 |
現代語訳この年、都と二十七の郡国で洪水が発生した。 皇帝はたびたび宦官(黄門常侍)や側近使節である伯栄を甘陵に派遣していた。尚書僕射・陳忠が上奏文を提出し次のように述べた: 「現在、天意を得られず災害が相次いでおります。青州・冀州では大雨による黄河の氾濫、徐州・岱州沿岸では海水の逆流被害、兗州・豫州では蝗害の発生、荊州・揚州では米収穫量の激減が見られます。さらに并州・涼州で羌族が反乱を起こし、民衆は困窮して国庫も枯渇している状況です。 陛下が孝徳皇帝廟に直接参拝できないため使者を派遣されるのは理解できますが(朱軒駢馬の行列は孝心の極みといえます)、問題は伯栄一行の行動にあります。彼らが通過する地域では権勢をかさに威圧し、諸侯や太守クラスの高官すら車前で平伏させています。さらに民衆を無制限に動員して道路整備・宿駅修繕を行わせ、物資調達の負担は過重です。老若男女が数万人規模で強制動員され、従者への賄賂には数百匹もの絹が費やされています。 皇族である河間王や廟を守る清河関係者までも伯栄に屈服せざるを得ない状況は異常です。このまま放置すれば『陛下も是認している』と誤解されます。今や伯栄の権勢は陛下を凌ぎ、国家権力が臣下(宦官)に掌握されているのです。洪水災害の根源はここにあると考えます。 昔、韓嫣という者が使者として派遣された際、江都王の一礼を受けただけで処刑されました。願わくば陛下には天の威厳を堅持し、君主の立場を確立していただき、女性使節(宦官伯栄)に政務を干渉させないようお願いします。 さらに以下の点をご精査ください: - 側近に前漢・石顕のような情報漏洩者がいないか - 尚書機構に趙昌のような讒言者が潜んでいないか - 公卿大臣に朱博のように外戚におもねる者はいないか - 皇族親戚の中に王鳳のように他者を陥れる陰謀は存在しないか 国政の全てが陛下の命令で行われ、重大事項が聖断で決されるならば、下位者が上位者を威圧することもなく、異常気象による水害も収まるでしょう」 この上奏文は提出されたものの皇帝は顧みなかった。 当時「三府」(三公)の権限は軽視され、重要政務は全て尚書が掌握していた。災害発生のたびに三公が責任を問われていたため陳忠は重ねて上疏した: 「漢王朝の旧制では丞相の進言で聞き入れられないものは存在しませんでした」 解説
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| 今之三公,雖當其名而無其實,選舉誅賞,一由尚書,尚書見任,重於三公,陵遲以來,其漸久矣。臣忠心常獨不安。近以地震,策免司空陳褒,今者災異,復欲切讓三公。昔孝成皇帝以妖星守心,移咎丞相,卒不蒙上天之福,徒乖宋景之誠。故知是非之分,較然有歸矣。又尚書決事,多違故典,罪法無例,詆欺為先,文慘言丑,有乖章憲。宜責求其意,割而勿聽,上順國典,下防威福,置方員於規矩,審輕重於衡石,誠國家之典,萬世之法也!」 汝南太守山陽王龔,政崇溫和,好才愛士。以袁閬為功曹,引進郡人黃憲、陳蕃等;憲雖不屈,蕃遂就吏。閬不修異操而致名當時,蕃性氣高明,龔皆禮之,由是群士莫不歸心。 憲世貧賤,父為牛醫。穎川荀淑至慎陽,遇憲於逆旅,時年十四;淑辣然異之,揖與語,移日不能去,謂憲曰:「子,吾之師表也。」既而前至袁閬所,未及勞問,逆曰:「子國有顏子,寧識之乎?」閬曰:「見吾叔度邪?」是時同郡戴良,才高倨傲,而見憲未嘗不正容,及歸,惘然若有失也。其母問曰:「汝復從牛醫兒來邪?」對曰:「良不見叔度,自以為無不及;既睹其人,則瞻之在前,忽焉在後,固難得而測矣。」陳蕃及同郡周舉常相謂曰:「時月之間不見黃生,則鄙吝之萌復存乎心矣。」太原郭泰,少游汝南,先過袁閬,不宿而退;進,往從憲,累日方還。 |
現代日本語訳現在の三公(太尉・司徒・司空)はその名ばかりで実権がなく、官吏の任免や賞罰はすべて尚書が掌握している。尚書の現職者は三公より重んじられており、このような弊害は衰退期から長く続いてきた。臣として常に不安を感じている。先日の地震では司空・陳褒が解任されたが、今回も災異(凶兆)があるとすぐ三公を厳しく責めようとする。かつて孝成皇帝(前漢の成帝)は妖星が心宿にとどまる現象を見て丞相に責任を転嫁したが、天の恵みを得られず、宋景公のように誠意を示しても無駄だった例がある。これにより是非善悪の判断基準は明らかである。 また尚書による案件処理には従来の規範に反することが多く、罪状と刑罰に対応する前例もないまま誹謗や欺瞞が横行し、その文言は陰惨で言語道断であり、国家法規にも背いている。本来なら彼らの意図を厳しく追及し、不当な決定は拒否すべきだ。上は国の法典に従い、下は権力濫用を防ぎ、「円と角」を規範にはめ込み、「秤や升」で軽重を計るように明確化こそが国家の基本制度として万世に通用する法規である。 汝南太守・山陽出身の王龔は温和な政治を尊び、人材を愛し士人を大切にした。袁閬を功曹(人事官)に登用し、同郡の黄憲や陳蕃らを推薦。黄憲は応じなかったが陳蕃は官吏となった。袁閬は特別な行いで名を売らなくても名声を得ており、気性の激しい陳蕃も王龔は礼遇したため、士人たちは皆心服していた。 黄憲は代々貧賤の家柄で父は牛医(獣医)であった。潁川出身の荀淑が慎陽を訪れた際、旅籠で十四歳の黄憲に出会い驚嘆し、拱手して語らい日が暮れるのも忘れた。「君こそ我が師表である」と言うほどだった。続いて袁閬のもとへ行くと挨拶もせず「貴国に顔回(孔子の高弟)のような人物を知っているか?」と問うたところ、袁閬は即座に「黄叔度(憲)のことですか?」と答えた。 同郡の戴良は才知が高いが傲慢であったのに、黄憲に対面する時だけは姿勢を正し、帰宅後も茫然自失となる。母が「また牛医の息子のもとへ行ったのか」と問うと、「彼に会わない間は自分が劣っているとは思わなかった。だがその人物を見れば『目前にあるかと思えば忽然と背後に見える』(論語)ようで、到底測り知れぬ深さだ」と述べた。 陳蕃や同郡の周挙も「一月ほど黄生に会わないと心に卑しい考えが芽生える」と言い交わし、太原出身の郭泰は若き日に汝南を訪れた際、袁閬には一泊せず立ち去った後、黄憲のもとに赴いて数日滞在したという。 解説【歴史的背景】
【思想的要点】
【人物描写の妙】
【現代への示唆】
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| 或以問泰,曰:「奉高之器,譬諸氿濫,雖清而易挹。叔度汪汪若千頃陂,澄之不清,淆之不濁,不可量也。」憲初舉孝廉,又辟公府。友人勸其仕,憲亦不拒之,暫到京師,即還,竟無所就,年四十八終。 范曄論曰:黃憲言論風旨,無所傳聞;然士君子見之者,靡不服深遠,去玭吝,將以道周性全,無德而稱乎!余曾祖穆侯以為:「憲,隤然其處順,淵乎其似道,淺深莫臻其分,清濁未議其方,若及門於孔氏,其殆庶乎!」 孝安皇帝延光二年(癸亥,公元一二三年) 春,正月,旄牛夷反,益州刺史張喬擊破之。 夏,四月,戊子,爵乳母王聖為野王君。 北匈奴連與車師入寇河西,議者欲復閉玉門、陽關以絕其患。敦煌太守張璫上書曰:「臣在京師,亦以為西域宜棄,今親踐其土地,乃知棄西域則河西不能自存。謹陳西域三策:北虜呼衍王常展轉蒲類、秦海之間,專制西域,共為寇鈔。今以酒泉屬國吏士二千餘人集崑崙塞,先擊呼衍王,絕其根本,因發鄯善兵五千人脅車師後部,此上計也。若不能出兵,可置軍司馬,將士五百人,四郡供其犁牛、谷食,出據柳中,此中計也。如又不能,則宜棄交河城,收鄯善等悉使入塞,此下計也。」朝廷下其議。陳忠上疏曰:「西域內附日久,區區東望扣關者數矣,此其不樂匈奴、慕漢之效也。今北虜已破車師,勢必南攻鄯善,棄而不救,則諸國從矣。 |
現代日本語訳ある人が郭泰に尋ねたところ、「奉高(黄憲の字)の人柄は、泉に例えれば清らかだが容易にくみ取れるものだ。一方で叔度(同じく黄憲の字)は千畳もの沼のように広大であり、澄ませようとしても濁りがなく、かき混ぜても濁ることがない。その器量を測ることはできない」と答えた。 范曄は論じて言う:黄憲の発言や思想について伝わるものはない。しかし彼と会った知識人は皆、その深遠な人柄に感服し、小さな吝嗇さを捨て去った。おそらく道徳を体現し天性を全うしていたため、「称賛すべき点が見当たらない」という境地に至っていたのだろうか!私の曾祖父である穆侯(范汪)は「黄憲は穏やかに順応し、深遠で道そのもののように見える。浅からず深からず測りがたく、清濁すら判定できない。もし孔子の門下に入っていれば、『殆ど聖人に近い』と評されただろう」と考えた。 孝安皇帝・延光2年(癸亥、123年) 北匈奴が車師国と連携して河西地方へ侵攻すると、朝廷では玉門関・陽関を閉鎖すべきとの意見が出た。敦煌太守の張璫は上奏した:「私も以前は西域放棄を支持しましたが、現地で職務に当たり、放棄すれば河西地域が維持できないと確信いたしました。三つの対策を謹んで提案します: 解説
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| 若然,則虜財賄益增,膽勢益殖,威臨南羌,與之交通,如此,河西四郡危矣。河西既危,不可不救,則百倍之役興,不訾之費發矣。議者但念西域絕遠,恤之煩費,不見孝武苦心勤勞之意也。方今敦煌孤危,遠來告急;復不輔助,內無以慰勞吏民,外無以威示百蠻,蹙國減土,非良計也。臣以為敦煌宜置校尉,按舊增四郡屯兵,以西撫諸國。」帝納之,於是復以班勇為西域長史,將兵五百人出屯柳中。 秋,七月,丹楊山崩。 九月,郡國五雨水。 冬,十月,辛未,太尉劉愷罷;甲戌,以司徒楊震為太尉,光祿勳東萊劉熹為司徒。大鴻臚耿寶自候震,薦中常侍李閏兄於震曰:「李常侍國家所重,欲令公辟其兄;寶唯傳上意耳。」震曰:「如朝廷欲令三府辟召,故宜有尚書敕。」寶大恨而去。執金吾閻顯亦薦所親於震,震又不從。司空劉授聞之,即辟此二人;由是震益見怨。時詔遣使者大為王聖修第;中常侍樊豐及侍中周廣、謝惲等更相扇動,傾搖朝廷。震上疏曰:「臣伏念方今災害滋甚,百姓空虛,三邊震擾,帑藏匱乏,殆非社稷安寧之時。詔書為阿母興起第捨,合兩為一,連裡竟街,雕修繕飾,窮極巧伎,攻山採石,轉相迫促,為費巨億。周廣、謝惲兄弟,與國無肺府枝葉之屬,依倚近幸奸佞之人,與之分威共權,屬托州郡,傾動大臣。 |
現代日本語訳:もしこのまま放置すれば、敵(匈奴)は富を増し勢力を拡大し、南の羌族に威圧を加え彼らと結託するでしょう。そうなれば河西四郡(涼州要衝地帯)が危機に陥ります。河西が危うくなれば救援が必要となり、百倍もの労役が発生し計り知れない費用がかかるのです。 議論する者は西域の遠さのみ考え経費負担を憂えますが、武帝陛下の苦労と尽力への配慮が見えません。今や敦煌は孤立無援で緊急救援を要請しているのに支援せねば、内政では官吏・民衆を慰められず、外交では蛮族へ威厳を示せません。国土を縮小させるのは愚策です。 臣(班勇)は敦煌に校尉を置き、従来通り四郡の駐屯兵を増強し西方諸国を鎮撫すべきと考えます。」皇帝はこの意見を受け入れ、再び班勇を西域長史とし兵士500人を率いて柳中へ派遣・駐屯させた。 秋七月:丹楊(現安徽省当塗県)で山崩れ発生。 九月:五郡国で洪水被害。 冬十月辛未日:太尉劉愷が解任。甲戌日に司徒楊震を太尉に、光禄勳の東莱出身者・劉熹を司徒に任命。 大鴻臚耿宝は自ら楊震のもとへ赴き中常侍李閏の兄を推薦し言う:「李常侍は朝廷が重用する方です。貴殿が彼の兄を登用すべきとの上意をお伝えします」。楊震は「もし三府(太尉・司徒・司空)に召し抱えるよう命じるなら尚書省の正式命令があるはずだ」と返答。耿宝は恨みつつ退出した。 執金吾閻顕も縁者を推薦したが楊震は拒否。司空劉授はこれを聞き即座に両名を登用、これにより楊震への反感が増幅する。 当時詔勅で王聖(安帝乳母)の豪邸建設が進められていた。中常侍樊豊や侍中周広・謝惲らは互いに煽り朝廷を混乱させた。楊震は上疏して訴える: 「臣が思うに現在、災害は深刻化し民衆は困窮しています。三方の辺境は動揺し国庫も枯渇しており、国家安寧の時ではありません。(乳母のために)邸宅を二軒分連結させ街区全体を使い、彫刻で豪華装飾した工事では山から石材を切り出す強行作業が急迫し費用は億単位に達します。周広・謝惲兄弟らは朝廷と心臓部(肺腑)や枝葉のような繋がりもないのに、近習の奸臣に依拠して権勢を共謀し州郡へ圧力をかけ大臣たちを動揺させています」。 解説:
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| 宰司辟召,承望旨意,招來海內貪污之人,受其貨賂,至有臧錮棄世之徒,復得顯用;白黑混淆,清濁同源,天下讙嘩,為朝結譏。臣聞師言,上之所取,財盡則怨,力盡則叛,怨叛之人,不可復使,惟陛下度之!」上不聽。 鮮卑其至鞬自將萬餘騎攻南匈奴於曼柏,薁鞬日逐王戰死,殺千餘人。 十二月,戊辰,京師及郡國三地震。 陳忠薦汝南周燮、南陽馮良學行深純,隱居不仕,名重於世;帝以玄纁羔幣聘之;燮宗族更勸之曰:「夫修德立行,所以為國,君獨何為守東岡之陂乎?」燮曰:「夫修道者度其時而動,動而不時,焉得亨乎!」與良皆自載至近縣,稱病而還。 孝安皇帝三年(甲子,公元一二四) 春,正月,班勇至樓蘭,以鄯善歸附,特加三綬,而龜茲王白英猶自疑未下。勇開以恩信,白英乃率姑墨、溫宿,自縛詣勇,因發其兵步騎萬餘人到車師前王庭,擊走匈奴伊蠡王於伊和谷,收得前部五千餘人,於是前部始復開通。還,屯田柳中。 二月,丙子,車駕東巡。辛卯,幸泰山。三月,戊戌,幸魯,還,幸東平,至東郡,歷魏郡、河內而還。 初,樊豐、周廣、謝惲等見楊震連諫不從,無所顧忌,遂詐作詔書,調發司農錢穀、大匠見徒材木,各起家捨、園池、廬觀,役費無數。震復上疏曰:「臣備台輔,不能調和陰陽,去年十二月四日,京師地動,其日戊辰;三者皆土,位在中宮,此中臣、近官持權用事之象也。 |
現代日本語訳宰相府は権力者の意図に従い、国内の汚職官僚らを登用し賄賂を受け取った結果、収監された腐敗者までもが再び要職につく事態となった。善悪混濁・清濁同流の中で世論は沸騰し朝廷批判が噴出した。「師より『君主が民の財を奪い尽くせば怨みが生じ、力を搾り取れば反乱が起きる』と承りました。一度背いた者を使うのは危険です」との諫言も皇帝は聞き入れなかった。 鮮卑族首長そのぎえん自ら万騎を率い南匈奴を曼柏で攻撃し、よくけんにちじくおうが戦死、千人余りが殺害された。 12月戊辰の日(6日)、都と三郡国で地震発生。 陳忠が汝南周燮・南陽馮良の学識人徳を推挙。皇帝は礼服と子羊を用いて招聘したが、周燮の親族が「道義実践こそ国のためでは?」と促すと、「賢者は時機を見て動くもの」と返答。二人とも近県まで来たところで病と称して帰郷した。 孝安帝3年(124年) 春正月、班勇が楼蘭到着。鄯善国帰順に三綬を授与する一方、亀茲王白英はなお疑念をもったが、班勇の誠実な対応で降伏。姑墨・温宿を率いて自ら縄につき、車師前王国へ共に進軍し伊和谷で匈奴伊蠡王を撃退。五千人余りを救出して西域南路を再開した後、柳中で屯田を開始。 2月丙子(13日)、皇帝が東巡に出発。辛卯(28日)泰山参拝。3月戊戌(5日)魯国訪問の後、東平・東郡・魏郡・河内を経て帰還。 当初樊豊らは楊震の諫言が無視されるのを見て偽詔を作成。司農省の資金や材木を横流しし私邸・庭園・別荘を建設した。楊震は重ねて上奏:「臣が三公として陰陽調和を果たせず昨年12月戊辰(6日)に地震発生。『戊』『辰』『十二月』はいずれも土徳を示し、宦官の専横こそ災いの根源です」と。 解説
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| 臣伏惟陛下以邊境未寧,躬身菲薄,宮殿垣屋傾倚,枝拄而已。而親近幸臣,未崇斷金,驕溢逾法,多請徒士,盛修第捨,賣弄威福,道路讙嘩,地動之變,殆為此發。又,冬無宿雪,春節未雨,百僚焦心,而繕修不止,誠致旱之征也。惟陛下奮乾剛之德,棄驕奢之臣,以承皇天之戒!」震前後所言轉切,帝既不平之,而樊豐等皆側目憤怨,以其名儒,未敢加害。會河間男子趙騰上書指陳得失,帝發怒,遂收考詔獄,結以罔上不道。震上疏救之曰:「臣聞殷、周哲王,小人怨詈,則還自敬德。今趙騰所坐,激訐謗語,為罪與手刃犯法有差,乞為虧除,全騰之命,以誘芻蕘輿論人之言。」帝不聽,騰竟伏屍都市。及帝東巡,樊豐等因乘輿在外,競修第宅,太尉部掾高舒召大匠令史考校之,得豐等所詐下詔書,具奏,須行還上之,豐等惶怖。會太史言星變逆行,遂共譖震云:「自趙騰死後,深用怨懟;且鄧氏故吏,有恚恨之心。」壬戌,車駕還京師,便時太學,夜,遺使者策收震太尉印綬;震於是柴門絕賓客。豐等復惡之,令大鴻臚耿寶奏:「震大臣,不服罪,懷恚望。」有詔,遣歸本郡。震行至城西幾陽亭,乃慷慨謂其諸子、門人曰:「死者,士之常分。吾蒙恩居上司,疾奸臣狡猾而不能誅,惡嬖女傾亂而不能禁,何面目復見日月!身死之日,以雜木為棺,布單被,裁足蓋形,勿歸塚次,勿設祭祀!」因飲鴆而卒。 |
現代日本語訳:臣が拝察すると、陛下は国境の不安を憂慮され自ら質素に暮らし、宮殿の塀や屋根も傾いたまま支柱で支えるのみという有様です。にもかかわらず側近の寵臣たちは結束せず(断金なく)、驕り高ぶって法を超え、たびたび役人の配置換えを願い出て豪華な邸宅を造営し、権威を笠に着るので街中に非難が溢れ、地震の異変もおそらくこれが原因でしょう。さらに冬は積雪なく春にも雨降らず、官僚たちは心を焦がしているのに建築工事は止まず、まさしく干ばつの前兆です。どうか陛下には剛健なる御徳を奮い起こし驕奢な臣下を見捨てられ、天の戒めをお受けくださいますよう! 楊震(ようしん)の進言は次第に切迫したものとなり、皇帝も不快感を示されましたが、樊豊ら側近たちは横目で睨み憤慨しながらも、彼が名高い儒者であるため害を加えられずにいました。折しも河間出身の趙騰という男が政治得失を指摘する上書をしたところ、皇帝は激怒して詔獄(ちょうごく)に投じ「君主を欺き人道にもとる」との罪状で処刑を決定します。楊震は救うため上疏しました:「殷・周の賢王は小人から罵られても自ら徳行を高めました。趙騰の罪は激しい非難ではあるものの、殺人犯法ほどの重罪ではありません。どうか減刑して彼の命を助け、草刈り人夫のような卑賤者の意見も聞く姿勢を示されてください」。しかし皇帝は聞き入れず、趙騰は市場で斬首されました。 その後、皇帝が東方巡幸に出た隙に樊豊らは競って邸宅を増築。太尉配下の役人高舒(こうじょ)が工官記録を調査し、彼らが偽りの詔書を使用した証拠をつかみ「陛下帰還後に上奏すべし」と準備します。樊豊らは震え上がりましたが、ちょうど天文官が星の異常運行を報告したため共謀して楊震を讒言(ざんげん):「趙騰処刑後も深く恨み、かつ鄧氏旧臣として怨念を持つ」と。 壬戌(じんじゅつ)の日、皇帝が都へ帰還途上で大学に立ち寄った夜、使者を遣わして楊震から太尉印綬を没収。楊震は門戸を閉ざし来客を絶ちました。樊豊らはなおも憎み大鴻臚(たいこうりょ)耿宝を通じて「大臣たる者が罪を認めず恨みを抱く」と奏上させ、故郷帰還命令が下ります。 城西の幾陽亭まで来た楊震は息子や弟子たちに激昂して言いました:「死こそ士人の本分。私は上司として奸臣の悪巧みを罰せず、寵姫らの乱行も止められぬ無念よ! どうか太陽(天子)を仰げようか? 我が亡き後は雑木棺に布団一枚で形骸を覆い、墓所には葬らず祭祀も執り行うな」。こう言って毒杯を傾けて自決したのです。 解説:
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| 弘農太守移良承樊豐等旨,遣吏於陝縣留停震喪,露棺道側,謫震諸子代郵行書;道路皆為隕涕。 太僕征羌侯來歷曰:「耿寶托元舅之親,榮寵過厚,不念報國恩,而傾側奸臣,傷害忠良,其天禍亦將至矣。」歷,歙之曾孫也。 夏,四月,乙丑,車駕入宮。 戊辰,以光祿勳馮石為太尉。 南單于檀死,弟拔立,為烏稽侯屍逐鞮單于。時鮮卑數寇邊,度遼將軍耿夔與溫禺犢王呼尤徽將新降者連年出塞擊之,還使屯列衝要。耿夔征發煩劇,新降者皆怨恨,大人阿族等遂反,脅呼尤徽欲與俱去。呼尤徽曰:「我老矣,受漢家恩,寧死,不能相隨!」眾所殺之,有救者,得免。阿族等遂將其眾亡去。中郎將馬翼與胡騎追擊,破之,斬獲殆盡。 日南徼外蠻夷內屬。 六月,鮮卑寇玄菟。 庚午,閬中山崩。 秋,八月,辛巳,以大鴻臚耿寶為大將軍。 王聖、江京、樊豐等譖太子乳母王男、廚監邴吉等,殺之,家屬徙比景;太子思男、吉,數為歎息。京、豐懼有後害,乃與閻後妄造虛無,構讒太子及東宮官屬。帝怒,召公卿以下,議廢太子。耿寶等承旨,皆以為當廢。太僕來歷與太常桓焉、廷尉犍為張皓議曰:「經說,年未滿十五,過惡不在其身;且男、吉之謀,皇太子容有不知;宜選忠良保傅,輔以禮義。廢置事重,此誠聖恩所宜宿留!」帝不從。 |
現代日本語訳弘農太守の移良は樊豊らの指示を受け、役人を陝県に派遣し楊震の葬儀を妨害した。遺体が道端で晒され、彼の息子たちも郵便配達の労役に駆り出されたため、通りすがる者は皆涙を流した。 太僕・征羌侯の来歴は言った。「耿宝は外戚として過剰な恩寵を受けながら、国への報恩も忘れ奸臣と結託し忠良を傷つけた。天罰も近かろう」と(※来歴は来歙の曾孫)。 夏四月乙丑日、皇帝が宮中に帰還。 戊辰日、光禄勲の馮石を太尉に任命。 南匈奴単于・檀が死去し弟の拔が即位。烏稽侯屍逐鞮単于と称す。この頃鮮卑が頻繁に辺境を侵犯したため、度遼将軍・耿夔は温禺犢王・呼尤徽率いる新たな降伏部族を指揮し連年で塞外に出撃。帰還後には要衝に駐屯させた。しかし耿夔の徴発命令が苛烈だったため、投降部族らは怨嗟し、大人(部族長)阿族らが反乱を起こして呼尤徽を脅した。「共に脱走せよ」と迫るも、彼は「我は老いて漢恩を受けた。死すとも従わぬ」と拒絶。殺害されかけるが救助で一命を取り留める。阿族らは部衆を率い逃亡し、中郎将・馬翼の追撃で壊滅状態に。 日南郡境外の蛮夷が帰順。 六月、鮮卑が玄菟郡を侵犯。 庚午日、閬中で山崩れ発生。 秋八月辛巳日、大鴻臚の耿宝を大将軍に任命。 王聖・江京・樊豊らが皇太子の乳母である王男と厨監(厨房監督)邴吉らを讒言し殺害。遺族は比景へ流罪となる。太子は二人を偲び嘆息したため、江京らは後難を恐れ閻皇后と共に虚偽の告発で太子と東宮官属を陥れた。激怒した皇帝が公卿以下を召集し廃太子を議決させると、耿宝らは迎合して「廃位すべし」と主張。しかし太僕・来歴と太常・桓焉、廷尉(司法長官)犍為郡出身の張皓は反論した。「経典では『十五歳未満の過ちは本人に非ず』とある。王男らの陰謀を皇太子が知らぬ可能性も高い。忠良な補佐役を選び礼義で導くべきです。廃位は重大事、陛下には熟考をお願いしたい」と。だが皇帝は聞き入れなかった。 解説
※注:地名(玄菟/比景)、官名(太僕/度遼将軍)等は固有名詞として原文表記を保持。現代語訳では文脈理解のため適宜補足説明を付加した。 Translation took 998.5 seconds. |
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| 焉,郁之子也。張皓退,復上書曰:「昔賊臣江充造構讒逆,傾覆戾園,孝武久乃覺寤,雖追前失,悔之何及。今皇太子方十歲,未習保傅之教,可遽責乎!」書奏,不省。 九月,丁酉,廢皇太子保為濟陰王,居於德陽殿西鐘下。來歷乃要結光祿勳祋諷、宗正劉瑋、將作大匠薛皓、侍中閭丘弘、陳光、趙代、施延、太中大夫九江朱倀等十餘人,俱詣鴻都門證太子無過。 帝與左右患之,乃使中常侍奉詔脅群臣曰:「父子一體,天性自然;以義割恩,為天下也。歷、諷等不識大典,而與群小共為歡嘩,外見忠直而內希後福,飾邪違義,豈事君之禮!朝廷廣開言事之路,故且一切假貸;若懷迷不反,當顯明刑書。」諫者莫不失色。薛皓先頓首曰:「固宜如明詔。」歷怫然,廷詰皓曰:「屬通諫何言,而今復背之?大臣乘朝車,處國事,固得輾轉若此乎!」乃各稍自引起。歷獨守闕,連日不肯去。帝不怒,尚書令陳忠與諸尚書遂共劾奏歷等,帝乃免歷兄弟官,削國租,黜歷母武安公主不得會見。 隴西郡始還狄道。 燒當羌豪麻奴死,弟犀苦立。 庚申晦,日有食之。 冬,十月,上行幸長安;十一月,乙丑,還雒陽。 是歲,京師及諸郡國二十三地震,三十六大水、雨雹。 |
現代語訳(『資治通鑑』より)張皓が退出した後に再び上書した。「昔、奸臣である江充は讒言を偽り、戾太子の一族を滅ぼしました。武帝は長い年月を経てようやく真相に気づきましたが、既に手遅れで後悔してもどうにもなりませんでした。現在の皇太子(劉保)はわずか十歳であり、師傅による教育もまだ十分受けていません。急いで責任を問うことなどできましょうか」。この上書は奏上されたが、皇帝には顧みられなかった。 九月丁酉の日、安帝は皇太子・劉保を廃し済陰王とし、徳陽殿西側の鐘楼に居住させた。これに対し来歴は光禄勳の祋諷や宗正の劉瑗、将作大匠の薛皓ら十数名と連携して鴻都門へ赴き、「皇太子には過失がない」と集団で証言した。 皇帝と側近たちはこの動きを危惧し、中常侍を使者として詔勅を持たせ群臣を威圧させた。「父子の情は一体であり自然の道理である。大義のために私情を断つのは天下万民のためだ。来歴や祋諷らは国家の根本を理解せず、小人物と共に騒動を起こし、表向きは忠直に見えながら内心では恩恵を狙っている。偽りの主張で道理に背くとは君主への礼儀と言えるか?朝廷が言論の道を開いているのは寛容を示すためであり、もし迷い続けるなら刑罰をもって処断する」。これにより諫めた者たちは皆顔色を失った。薛皓がいち早く平伏して「詔勅通りに従うべきです」と述べると、来歴は激怒し朝廷内で詰め寄った。「先ほど共に進言すると誓ったのに今になって裏切るとは?大臣たる者が朝車に乗り国政を預かる身でありながら、このように翻ろうとして良いものか!」。他の者たちは次々と退出したが、来歴だけは宮門前に居座って数日間離れようとしなかった。皇帝自身は怒りを見せなかったが、尚書令の陳忠らが連名で来歴らを弾劾したため、結局来歴兄弟は官職を剥奪され封地の租税も削減された。さらに彼の母である武安公主は宮中への参内を禁じられた。 隴西郡において狄道(県)が再び帰属した。 焼当羌族の首長・麻奴が死去し、弟の犀苦が後継者となった。 庚申の晦日には日食が発生した。 冬十月に皇帝は長安に行幸され、十一月乙丑に洛陽へ還御された。 この年、都と二十三の郡国で地震が起こり、三十六地域では洪水や雹害に見舞われた。 解説
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| input text 資治通鑑\051_漢紀_43.txt | Modern Japanese translated text | |||||||||||||||
| 資治通鑑 卷五十一 漢紀四十三 起旃蒙赤奮若,盡昭陽作噩,凡九年。 孝安皇帝下延光四年(乙丑,公元一二五年) 春,二月,乙亥,下邳惠王衍薨。 甲辰,車駕南巡。 三月,戊午朔,日有食之。 庚申,帝至宛,不豫。乙丑,帝發自宛;丁卯,至葉,崩於乘輿。年三十二。 皇后與閻顯兄弟、江京、樊豐等謀曰:「今晏駕道次,濟陰王在內,邂逅公卿立之,還為大害。」乃偽云「帝疾甚」,徙御臥車,所在上食、問起居如故。驅馳行四日,庚午,還宮。辛未,遣司徒劉熹詣郊廟、社稷,告天請命;其夕,發喪。尊皇后曰皇太后。太后臨朝。以顯為車騎將軍、儀同三司。太后欲久專國政,貪立幼年,與顯等定策禁中,迎濟北惠王子北鄉侯懿為嗣。濟陰王以廢黜,不得上殿親臨梓宮,悲號不食;內外群僚莫不哀之。 甲戌,濟南孝王香薨,無子,國絕。乙酉,北鄉侯即皇帝位。 夏,四月,丁酉,太尉馮石為太傅,司徒劉熹為太尉,參錄尚書事,前司空李郃為司徒。 閻顯忌大將軍耿寶位尊權重,威行前朝,乃風有司奏「寶及其黨與中常侍樊豐、虎賁中郎將謝惲、侍中周廣、野王君王聖、聖女永等更相阿黨,互作威福,皆大不道。」辛卯,豐、惲、廣皆下獄,死;家屬徙比景。貶寶及弟子林慮侯承皆為亭侯,遣就國;寶於道自殺。王聖母子徙雁門。 |
【現代日本語訳】資治通鑑巻五十一 漢紀四十三 (起:旃蒙赤奮若年、尽:昭陽作噩年、全9年間) **【後漢・安帝延光四年(乙丑、西暦125年)】 甲辰の日、皇帝(安帝)は南方へ巡幸に出発された。 三月戊午朔(1日)、日食があった。 皇后と閻顕兄弟・江京・樊豊らは謀議して言った。「今、皇帝が道中で急逝されたのに、済陰王が宮中におられる。もし公卿たちに知られて彼を擁立されれば後々大禍となる」と。そこで偽って「御病状悪化」と発表し、遺体は寝台車に移して食膳や起居の報告を従来通り続けさせた。四日間疾走した末、庚午(13日)に宮殿へ戻った。辛未(14日)、司徒・劉熹を郊廟と社稷に遣わし天に命乞いを行わせる一方、その夜になって発喪した。皇后は皇太后として尊称され臨朝聴政を開始、閻顕を車騎将軍・儀同三司とした。 太后が長期専権を図り幼君擁立を企てたため、閻顕らと内密に策定し済北恵王の子・北郷侯劉懿(懿)を後継者として迎えた。廃嫡されていた済陰王は棺前に近づくことも許されず、慟哭して食事も摂らず、朝廷内外の官僚らは哀れまぬ者はなかった。 甲戌(17日)、済南孝王劉香が死去し嗣子なく封国消滅した。乙酉(28日)に北郷侯が即位された。 夏四月丁酉(11日)、太尉・馮石を太傅とし、司徒・劉熹を太尉兼尚書事録尚書に任命、前司空の李郃を司徒とした。 【解説】
【注記】
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| 於是以閻景為衛尉,耀為城門校尉,晏為執金吾,兄弟並處權要,威福自由。 己酉,葬孝安皇帝於恭陵,廟曰恭宗。 六月,乙巳,赦天下。 秋,七月,西域長史班勇發敦煌、張掖、酒泉六千騎及鄯善、疏勒、車師前部兵擊後部王軍就,大破之,獲首虜八千餘人,生得軍就及匈奴持節使者,將至索班沒處斬之,傳首京師。 冬,十月,丙午,越巂山崩。 北鄉侯病篤,中常侍孫程謂濟陰王謁者長興渠曰:「王以嫡統,本無失德。先帝用讒,遂至廢黜。若北鄉侯不起,相與共斷江京、閻顯,事無不成者。」渠然之。又中黃門南陽王康,先為太子府史,及長樂太官丞京兆王國等並附同於程。江京謂閻顯曰:「北鄉侯病不解,國嗣宜以時定,何不早徵諸王子,簡所置乎!」顯以為然。辛亥,北鄉侯薨。顯白太后,秘不發喪,而更徵諸王子,閉宮門,屯兵自守。 十一月,乙卯,孫程、王康、王國與中黃門黃龍、彭愷、孟叔、李建、王成、張賢、史泛、馬國、王道、李元、楊佗、陳予、趙封、李剛、魏猛、苗光等聚謀於西鐘下,皆截單衣為誓。丁巳,京師及郡國十六地震。是夜,程等共會崇德殿上,因入章臺門。時江京、劉發及李閏、陳達等俱坐省門下,程與王康共就斬京、安、達。以李閏權勢積為省內所服,欲引為主,因舉刃脅閏曰:「今當立濟陰王,無得搖動!」閏曰:「諾。 |
現代日本語訳この時、閻景を衛尉に任命し、耀(曜)を城門校尉とし、晏を執金吾としたため、兄弟が揃って権力の要職につき、専横を極めた。 己酉の日、孝安皇帝を恭陵に葬り、廟号を恭宗とした。 秋七月、西域長史である班勇は敦煌・張掖・酒泉から六千騎と鄯善(シャンシャン)・疏勒(シュレク)・車師前部の兵を率い、後部王軍就を攻撃して大勝した。敵兵八千余人を討ち捕らえ、軍就本人や匈奴の使者(符節を持っていた者)を生け捕りにし、索班が戦死した場所まで連行して処刑すると、その首級を都へ送った。 冬十月丙午の日、越巂山で大規模な地滑りがあった。 十一月乙卯、孫程・王康・王国ら中黄門18名(※注)は西鐘下で密議し衣裾を断ち誓いを立てた。丁巳には都と16郡国が地震に見舞われた。その夜に崇徳殿へ集結した彼らは章台門へ突入。省門付近の江京・劉発・李閏・陳達らを斬殺し(※注)、宮中での影響力を持つ李閏を刀で脅して済陰王擁立への協力を取り付け「動揺するな」と命じた。 解説
※注:参加者数について原文では孫程を含め17名記載されていますが(王康・王国ら16人)、後世この政変集団は「十八侯」と称されるため註記しました。斬殺対象については異本で差異があり劉安も含まれる可能性があります。 訳出方針
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| 」於是扶閏起,俱於西鐘下迎濟陰王即皇帝位,時年十一。召尚書令、僕射以下從輦幸南宮,程等留守省門,遮扞內外。帝登雲台,召公卿、百僚,使虎賁、羽林士屯南、北宮諸門。 閻顯時在禁中,憂迫不知所為,小黃門樊登勸顯以太后詔召越騎校尉馮詩、虎賁中郎將閻崇將兵屯平朔門以御程等。顯誘詩入省,謂曰:「濟陰王立,非皇太后意,璽綬在此。苟盡力效功,封侯可得。」太后使授之印曰:「能得濟陰王者,封萬戶侯;得李閏者,五千戶侯。」詩等皆許諾,辭以「卒被召,所將眾少。」顯使與登迎吏士於左掖門外,詩因格殺登,歸營屯守。 顯弟衛尉景遽從省中還外府,收兵至盛德門。孫程傳召諸尚書使收景。尚書郭鎮時臥病,聞之,即率直宿羽林出南止車門,逢景從吏士拔白刃呼曰:「無干兵!」鎮即下車持節詔之,景曰:「何等詔!」因斫鎮,不中。鎮引劍擊景墮車,左右以戟叉其胸,遂禽之,送廷尉獄,即夜死。 戊午,遣使者入省,奪得璽綬,帝乃幸嘉德殿,遣侍御史持節收閻顯及其弟城門校尉耀、執金吾晏,並下獄,誅;家屬皆徙比景。遷太后於離宮。己未,開門,罷屯兵。壬戌,詔司隸校尉:「惟閻顯、江京近親,當伏辜誅,其餘務崇寬貸。」 封孫程等皆為列侯:程食邑萬戶,王康、王國食九千戶,黃龍食五千戶,彭愷、孟叔、李建食四千二百戶,王成、張賢、史泛、馬國、王道、李元、楊佗、陳予、趙封、李剛食四千戶,魏猛食二千戶,苗光食千戶:是為十九侯,加賜車馬、金銀、錢帛各有差;李閏以先不豫謀,故不封。 |
現代日本語訳そこで孫程らは李閏を支えて立ち上がらせ、共に西鐘の下で済陰王(劉保)を迎え皇帝として即位させた。この時、帝は11歳であった。尚書令や僕射以下の官人を召して輦車に随行し南宮へ向かわせる一方、程らは省門(役所正門)の守備にあたり内外を遮断した。皇帝が雲台に登ると公卿百官を召集し、虎賁・羽林の兵士に命じて南北両宮の諸門を警備させた。 その時閻顕は禁中にいたが憂慮と焦りで為す術を知らず、小黄門樊登が進言した。「太后詔を用いて越騎校尉馮詩・虎賁中郎将閻崇を召し兵を率いさせ平朔門に駐屯させれば程らを防げましょう」。顕は策略で詩を役所内へ誘導し告げた。「済陰王即位は皇太后の本意ではない。璽綬(皇帝印)はここにある。力を尽くせば侯爵を与えよう」と。さらに太后自らの指示として「済陰王を捕えた者は万戸侯、李閏を得る者は五千戸侯に封ず」との約束も与えた。詩らはいったん承諾したが、「突然の召集で兵数が足りない」と言い訳し退去しようとしたため、顕は樊登と共に左掖門外で軍勢を募らせようとした。ところが馮詩は逆に樊登を斬殺し自陣営へ帰還して守備を固めた。 閻顕の弟である衛尉(宮廷警護長官)景は慌てて役所から外出し、外府で兵士を集めて盛徳門まで進軍した。孫程が尚書たちに命じて景を捕縛させると、病臥中の尚書郭鎮はこれを聞き即座に羽林軍(近衛部隊)を率い南止車門へ向かった。そこへ武装兵を従えた閻景と遭遇し「兵など要らぬ!」との怒号を受けるが、郭鎮は下車して節(権威の証)を示した。すると景は「何様の詔だ」と言って斬りかかるも失敗し、逆に郭鎮が剣で彼を車から突き落とす。左右の兵士が戟で胸を刺し貫いて捕縛、廷尉(裁判官)へ送るとその夜のうちに死亡した。 戊午の日(12月8日)、使者が役所に入り璽綬を奪還すると皇帝は嘉徳殿へ移御。侍御史に閻顕と弟で城門校尉の耀・執金吾晏らを捕縛させ獄へ下し処刑した。一族全員も比景(現ベトナム中部)へ流罪とした。太后は離宮へ遷された。 己未の日(12月9日)、諸門が開かれ駐屯兵は撤収。 壬戌の日(12月12日)、詔を発して司隸校尉に命じた。「閻顕・江京の近親者だけ死刑とし、他の者は寛大に処遇せよ」と。 孫程らには列侯が授けられた:孫程は一万戸、王康と王国は九千戸、黄龍五千戸、彭愷・孟叔・李建各四千二百戸、王成以下十一人は四千戸、魏猛二千戸、苗光一千戸。これがいわゆる「十九侯」であり、加えて車馬や金銀など差等に従い賜物が与えられた。ただし李閏は最初の計画に関わっていなかったため封爵されていない。 解説
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| 擢孫程為騎都尉。 初,程等入章台門,苗光獨不入。詔書錄功臣,令王康疏名,康詐疏光入章台門。光未受符策,心不自安,詣黃門令自告。有司奏康、光欺詐主上;詔書勿問。以將作大匠來歷為衛尉。祋諷、劉瑋、閭丘弘等先卒,皆拜其子為郎。朱倀、施延、陳光、趙代皆見拔用,後至公卿。徵王男、邴吉家屬還京師,厚加賞賜。帝之見廢也,監太子家小黃門籍建、傅高梵、長秋長趙熹、丞良賀、藥長夏珍皆坐徙朔方;帝即位,並擢為中常侍。 初,閻顯辟崔□因之子瑗為吏,瑗以北鄉侯立不以正,知顯將敗,欲說令廢立,而顯日沉醉,不能得見,乃謂長史陳禪曰:「中常侍江京等惑蠱先帝,廢黜正統,扶立疏孽。少帝即位,發病廟中,周勃之徵,於斯復見。今欲與君共求見說將軍,白太后,收京等,廢少帝,引立濟陰王,必上當天心,下合人望,伊、霍之功不下席而立,則將軍兄弟傳祚於無窮;若拒違天意,久曠神器,則將以無罪並辜元惡。此所謂禍福之會,分功之時也。」禪猶豫未敢從。會顯敗,瑗坐被斥;門生蘇祗欲上書言狀,瑗遽止之。時陳禪為司隸校尉,召瑗謂曰:「弟聽祗上書,禪請為之證。」瑗曰:「此譬猶兒妾屏語耳,願使君勿復出口。」遂辭歸,不復應州郡命。 己卯,以諸王禮葬北鄉侯。 司空劉授以阿附惡逆,辟召非其人,策免。 |
現代日本語訳孫程を騎都尉に抜擢した。当初、孫程らが章台門に入った際、苗光だけは入城しなかった。詔書により功臣名簿を作成するよう命じられたため、王康が記録作成にあたったところ、彼は偽って「苗光も章台門に入った」と記載した。苗光自身は任命証(符策)を受領しておらず不安を感じ、黄門令のもとに自ら出頭して申告した。役人が「王康と苗光が君主を欺いた」と上奏すると、「問い詰めるな」との詔勅が出て不問に付された。 将作大匠の来歴を衛尉に任命した。祋諷・劉瑋・閭丘弘らは既に死去していたため、彼らの子息全員を郎官とした。朱倀・施延・陳光・趙代はいずれも抜擢されて重用され、後に公卿の地位まで昇進した。王男と邴吉の家族を都へ召還し、手厚く褒賞を与えた。 順帝が廃太子となった際に連座した者たち――監太子家小黄門の籍建・傅高梵、長秋長の趙熹、丞の良賀、薬長の夏珍らは全員朔方へ流罪となっていたが、皇帝即位後いずれも中常侍に昇進した。 当初、閻顕が崔瑗(□因の子)を官吏として登用しようとした時、崔瑗は北郷侯擁立が不正であることを看破し、閻顕派の崩壊を予見していた。彼は廃立(少帝廃位と済陰王擁立)を進言しようとするも、閻顕が連日泥酔で面会できず、長史陳禅に訴えた:「中常侍江京らは先帝を惑わせ正統の太子を廃し、傍系の北郷侯を立てた。少帝即位後の宗廟での発病は、周勃が呂氏を討った故事と同じ状況だ。今こそ君と共に将軍(閻顕)へ太后を説得させ江京らを捕縛し、済陰王を擁立すれば天意にも人心にも叶い、伊尹・霍光の功績が瞬時に成就するだろう」と論じ、「これを拒めば無実の者まで悪党と共に滅ぶ運命だ。これこそ禍福の分かれ目である」と警告した。陳禅は躊躇して従わなかったため、閻顕敗北後、崔瑗は連座で免職となる。門人蘇祗が上奏しようとしたのを崔瑗が即座に制止し、後に司隸校尉となった陳禅が「証言する」と申し出ても「内輪の戯れ言だ」として拒絶。故郷へ帰り二度と官吏登用に応じなかった。 己卯の日、北郷侯を諸王礼で埋葬した。司空劉授は閻顕派への迎合・不適格者の任用が弾劾され罷免された。 解説
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| 十二月,甲申,以少府河南陶敦為司空。 楊震門生虞放、陳翼詣闕追訟震事;詔除震二子為郎,贈錢百萬,以禮改葬於華陰潼亭,遠近畢至。有大鳥高丈餘集震喪前,郡以狀上。帝感震忠直,詔復以中牢具祠之。議郎陳禪以為:「閻太后與帝無母子恩,宜徙別館,絕朝見,」群臣議者咸以為宜。司徒掾汝南周舉謂李郃曰:「昔瞽瞍常欲殺舜,舜事之逾謹;鄭武姜謀殺莊公,莊公誓之黃泉,秦始皇怨母失行,久而隔絕,後感穎考叔、茅焦之言,復修子道;書傳美之。今諸閻新誅,太后幽在離宮,若悲愁生疾,一旦不虞,主上將何以令於天下!如從禪議,後世歸咎明公。宜密表朝廷,令奉太后,率群臣朝覲如舊,以厭天心,以答人望!」郃即上疏陳之。 孝和皇帝上 孝顺皇帝上永建元年(丙寅,公元一二六年) 春,正月,帝朝太后於東宮,太后意乃安。 甲寅,赦天下。 辛未,皇太后閻氏崩。 辛巳,太傅馮石、太尉劉熹以阿黨權貴免。司徒李郃罷。 二月,甲申,葬安思皇后。 丙戌,以太常桓焉為太傅;大鴻臚京兆朱寵為太尉,參錄尚書事;長樂少府朱倀為司徒。 封尚書郭鎮為定穎侯。 隴西鐘羌反,校尉馬賢擊之,戰於臨洮,斬首千餘級,羌眾皆降;由是涼州復安。 六月,己亥,封濟南簡王錯子顯為濟南王。 秋,七月,庚午,以衛尉來歷為車騎將軍。 |
現代日本語訳【十二月・甲申(3日)】少府河南出身の陶敦を司空に任命。 楊震の門下生である虞放と陳翼が朝廷へ赴き、楊震の冤罪事件について改めて訴え出る。詔により楊震の二人の息子は郎官に任じられ、百万銭が贈られた。さらに華陰県潼亭で礼を尽くして改葬されると、遠近から多くの人々が参列した。この時、高さ一丈余りの大鳥が喪屋前に現れ、郡守が状況を報告すると、皇帝は楊震の忠節に感動し「中牢(羊・豚)を用いた祭祀」を行うよう命じた。 議郎陳禅が上奏:「閻太后と陛下には母子の情がないため別殿へ移され朝見も中止すべき」。群臣もこれに賛同した。しかし司徒掾汝南出身の周挙が李郃を諌めて言う: 「昔、舜は父・瞽瞍(こそう)から殺害されかけたが孝行を尽くし、鄭荘公は母・武姜の謀殺未遂後も『黄泉で再会しよう』と誓い和解した。秦始皇帝は母親の不品行を怨みつつも潁考叔や茅焦の諫言を受け入れ孝道に立ち返った――史書はこれらを称賛しています」 「今、閻一族が粛清され太后は離宮で幽閉中。もし悲嘆から病を得て万一の事態となれば、陛下はいかに天下を統治なさいますか? 陳禅案を採用すれば後世の人々は貴殿(李郃)を非難するでしょう」 「ひそかに朝廷へ上表し『従来通り太后に仕え群臣と共に朝見すべし』と提案されるのが肝要。これにより天意にも応え人望も得られます」 これを聞いた李郃は直ちに奏疏を提出した。 【孝和皇帝(順帝)上巻】永建元年(丙寅年/西暦126年) 春正月、皇帝が東宮で閻太后と面会。これにより太后の心態が安定する。 甲寅(14日)、天下に恩赦を施行。 辛未(29日)、閻皇太后崩御。 辛巳(3月9日)、太傅馮石・太尉劉熹が権力者への追従を問われ免官。司徒李郃も罷免。 【二月】甲申(13日):安思皇后(閻氏)を埋葬。 丙戌(15日): - 太常桓焉を太傅に任命 - 大鴻臚京兆出身の朱寵を太尉とし「参録尚書事」(政務参与権限)を与える - 長楽少府朱倀を司徒に昇格 - 尚書郭鎮へ定穎侯の爵位授与 隴西地方で鐘羌族が反乱。校尉馬賢が臨洮において討伐し、千級余りを斬首すると羌衆は降伏したため涼州地域は安定を取り戻す。 【六月】己亥(29日):済南簡王劉錯の子・劉顕へ済南王位継承を認可。 【七月】庚午(8月30日):衛尉来歴を車騎将軍に任命。 解説
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| 八月,鮮卑寇代郡,太守李超戰歿。 司隸校尉虞詡到官數月,奏馮石、劉熹,免之,又劾奏中常侍程璜、陳秉、孟生、李閏等,百官側目,號為苛刻。三公劾奏:「詡盛夏多拘繫無辜,為吏民患。」詡上書自訟曰:「法禁者,俗之堤防;刑罰者,民之銜轡。今州曰任郡,郡曰任縣,更相委遠,百姓怨窮;以苟容為賢,盡節為愚。臣所發舉,臧罪非一。三府恐為臣所奏,遂加誣罪。臣將從史魚死,即以尸諫耳!」帝省其章,乃不罪詡。中常侍張防賣弄權勢,請托受取;詡案之,屢寢不報。詡不勝其憤,乃自系廷尉,奏言曰:「昔孝安皇帝任用樊豐,交亂嫡統,幾亡社稷。今者張防復弄威柄,國家之禍將重至矣。臣不忍與防同朝,謹自系以聞,無令臣襲楊震之跡!」書奏,防流涕訴帝,詡坐論輸左校;防必欲害之,二日之中,傳考四獄。獄吏勸詡自引,詡曰:「寧伏歐刀以示遠近!喑嗚自殺,是非孰辨邪!」浮陽侯孫程、祝阿侯張賢相率乞見,程曰:「陛下始與臥等造事之時,常疾奸臣,知其傾國。今者即位而復自為,何以非先帝乎!司隸校尉虞詡為陛下盡忠,而更被拘繫;常侍張防臧罪明正,反構忠良。今客星守羽林,其占宮中有奸臣;宜急收防送獄,以塞天變。」時防立在帝后,程叱防曰:「奸臣張防,何不下殿!」防不得已,趨就東箱。 |
現代日本語訳八月、鮮卑族が代郡を襲撃し、太守の李超は戦死した。 司隸校尉に任命された虞詡は着任して数か月後、馮石と劉熹を弾劾して罷免するとともに、中常侍(宦官)の程璜・陳秉・孟生・李閏らも糾弾した。これにより朝廷官僚は彼を畏怖し、「苛烈な人物」と呼んだ。三公(最高官職)が「虞詡は酷暑の中でも無実の者を拘束し続け、官吏や民衆を苦しめている」と上奏すると、虞詡は反論の上書を奉った:「法令は風俗の堤防であり、刑罰は人民を統御する手綱である。現在、州が郡に責任を転嫁し、郡は県に押し付け合い、民衆は窮乏に怨嗟している。(役人は)苟も迎合すれば賢者と称され、節義を尽くせば愚者とされる。臣が摘発した汚職事件は数知れない。三公府が臣の弾劾を受けることを恐れ、誣告したのです。史魚(忠臣の故事)のように死をもって諫言する覚悟です」。皇帝(順帝)は上書を検討し虞詡を罰さなかった。 中常侍の張防が権勢を笠に着て収賄を行ったため、虞詡は調査したが度々握り潰された。激憤した虞詡は自ら廷尉(最高裁判官)に出頭して奏上:「かつて安帝時代、樊豊が皇統を乱して国家存亡の危機を招いた。今また張防が権勢を弄せば同様の禍が起きよう。臣は彼と同朝するに忍びず楊震(冤罪で死んだ忠臣)の二の舞いを避けるため自首します」。上奏後、涙ながらに弁解した張防のために虞詡は左校(刑務所)へ送られた。張防は彼を殺そうとし、二日間で四つの獄舎を転々させた。看守が「自害せよ」と勧めると虞詡は拒絶:「断頭台ならば世に冤罪を示せる!黙って死ねば真実は闇に葬られる!」。 浮陽侯の孫程と祝阿侯の張賢が急遽謁見を求め、孫程が直言しました。「陛下が即位前、奸臣を憎まれたのに今は自ら彼らの所業を繰り返されますか?司隸校尉虞詡は忠義ながら拘束され、逆に悪徳の張防が忠良を陥れている。今や羽林星域に客星(凶兆)現るは宮中に奸臣いると占われる。直ちに張防を獄へ下すべきです」。その時帝の背後に侍っていた張防に向かい孫程が怒鳴った:「奸臣め、降りよ!」。張防はやむなく東側の控室へ退いた。 解説■歴史的価値
■政治的力学
■語法特徴
(※ルビ付与禁止・原文不掲載の要件に対応) Translation took 1061.1 seconds. |
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| 程曰:「陛下急收防,無令從阿母求請!」帝問諸尚書,尚書賈朗素與防善,證詡之罪;帝疑焉,謂程曰:「且出,吾方思之!」於是詡子顗與門生百餘人,舉幡候中常侍高梵車,叩頭流血,訴言枉狀。梵入言之,防坐徙邊,賈朗等六人或死或黜;即日赦出詡。程復上書陳詡有大功,語甚切激。帝感悟,復徵拜議郎;數日,遷尚書僕射。詡上疏薦議郎南陽左雄曰:「臣見方今公卿以下,類多拱默,以樹恩為賢,盡節為愚,至相戒曰:『白璧不可為,容容多後福。』伏見議郎左雄,有王臣蹇蹇之節,宜擢在喉舌之官,必有國弼之益。」由是拜雄尚書。 浮陽侯孫程等懷表上殿爭功,帝怒。有司劾奏「程等於亂悖逆,王國等皆與程黨,久留京都,益其驕恣。」帝乃免程等官,悉徙封遠縣。因遺十九侯就國,敕洛陽令促期發遺。司徒掾周舉說朱倀曰:「朝廷在西鐘下時,非孫程等豈立!今忘其大德,錄其小過。如道路夭折,帝有殺功臣之譏。及今未去,宜急表之!倀曰:「今詔指方怒,吾獨表此,必致罪譴。」舉曰:「明公年過八十,位為台輔,不於今時竭忠報國,惜身安,欲以何求!祿位雖全,必陷佞邪之機;諫而獲罪,猶有忠貞之名。若舉言不足采,請從此辭!」倀乃表諫,帝果從之。程徙封宜城侯,到國,怨恨恚懟,封還印綬、符策,亡歸京師,往來山中。 |
訳文程が言った。「陛下は急いで防を召し捕えられませ。太后様に取り成しをお願いさせてはなりません!」帝が尚書たちに問うと、尚書の賈朗は平素から防と親しく、詡の罪状を証明した。帝は疑念を持ち、程に言った。「まず退出せよ、朕は考えよう」。そこで詡の子・顗と門弟百余人が幡(旗)を掲げて中常侍高梵の車を待ち受け、頭を叩き血を流しながら冤罪であることを訴えた。梵が内奏すると、防は辺境への流罪となり、賈朗ら六人は死罪か免職となった。即日詡は赦された。程は再び上書し「詡の大功」を述べる激烈な言辞で帝を感動させたため、詡は議郎に復帰し数日後には尚書僕射へ昇進した。 詡は上疏して議郎南陽左雄を推薦した。「見るに今や公卿以下多くは拱手黙座し、恩恵を与える者を賢とし節義を尽くす者を愚とする風潮がございます。互いに戒めて『清廉すぎてはいけない、和して同ぜよ後福多し』と言う始末です。伏してお見受けするに議郎左雄は王臣としての諤々たる節操を持ち、喉舌(言論)の官に抜擢すべきで国家を補弼する益が必ずありましょう」。これにより雄は尚書となった。 浮陽侯孫程らが懐に上奏文を挟み殿中で功績争いをしたため帝は怒った。官吏が弾劾し「程らは乱逆の輩であり王国らも同党、長く京師にとどまり驕慢を増しています」と奏上すると、帝は程らの官職を免じ全て遠隔県へ転封。十九侯に帰国を命じ洛陽令に出発督促させた。司徒掾周挙が朱倀を諌めて言うには「朝廷が西鐘下(宮中)で危機の時、孫程らがいなければ陛下は即位できませんでした!今その大恩を忘れて小過を取り上げております。仮に彼らが帰途で不慮の死を遂げれば、帝は功臣殺しと後世に謗られるでしょう」。倀は「詔勅への抗議は罰せられよう」と言ったが挙は力説した。「明公(朱倀)は八十歳を越え台輔(三公)の位にあって今こそ忠を尽くすべきでは?禄位だけ保ち佞臣と呼ばれるより、諫死して貞名を得る方がましです」。倀がようやく上奏すると帝は受け入れ程を宜城侯に復爵した。しかし孫程は封地で怨恨沸騰し印綬・符策を朝廷へ返送、逃亡して京師周辺の山中を彷徨った。 注釈
翻訳方針
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| 詔書追求,復故爵土,賜車馬、衣物,遣還國。 冬,十月,丁亥,司空陶敦免。 朔方以西,障塞多壞,鮮卑因此數侵南匈奴;單于憂恐,上書乞修復障塞。庚寅,詔:「黎陽營兵出屯中山北界;令緣邊郡增置步兵,列屯塞下,教習戰射。」 以廷尉張皓為司空。 班勇更立車師後部故王子加特奴為王。勇又使別校誅斬東且彌王,亦更立其種人為王;於是車師六國悉平。勇遂發諸國兵擊匈奴,呼銜王亡走,其眾二萬餘人皆降。生得單于人兄,勇使加特奴手斬之,以結車師、匈奴之隙。北單于自將萬餘騎入後部,至金且谷;勇使假司馬曹俊救之,單于引去,俊追斬其貴人骨都侯。於是呼衍王遂徙居枯梧河上,是後車師無復虜跡。 孝顺皇帝上永建二年(丁卯,公元一二七年) 春,正月,中郎將張國以南單于兵擊鮮卑其至鞬,破之。二月,遼東鮮卑寇遼東玄菟;烏桓校尉耿曄發緣邊諸郡兵及烏桓出塞擊之,斬獲甚眾;鮮卑三萬人詣遼東降。 三月,旱。 初,帝母李氏瘞在洛陽北,帝初不知;至是,左右白之,帝乃發哀,親到瘞所,更以禮殯。六月,乙酉,追謚為恭愍皇后,葬於恭陵之北。 西域城郭諸國皆服於漢,唯焉耆王元孟未降,班勇奏請攻之。於是遣敦煌太守張朗將河西四郡兵三千人配勇,因發諸國兵四萬餘人分為兩道擊之。勇從南道,朗從北道,約期俱至焉耆。 |
現代日本語訳詔書により爵位と領地を回復し、車馬や衣服・物品を与えて本国へ帰還させた。 冬十月丁亥の日、司空(大臣)陶敦が罷免される。 朔方郡より西側にある防塁の多くは損壊しており、鮮卑族がこれに乗じて度々南匈奴を侵攻した。単于(君主)は憂慮し恐れ、防塁修復を要請する上書を提出した。庚寅の日、詔勅が下る。「黎陽駐屯軍を中山国北部境界へ出陣させよ。辺境郡に歩兵部隊を増強配置し、要塞沿いに陣を構えさせて戦闘・射撃訓練を行わせよ」と。 廷尉(司法長官)張皓が司空に任命される。 班勇は車師後部の故王子である加特奴を改めて王位につけた。さらに別動隊を派遣して東且弥王を誅殺し、同族の者を新たな王とした。これにより車師六国は完全平定された。班勇は諸国の兵力を糾合して匈奴を攻撃し、呼衍王(匈奴部族長)が逃亡すると、配下二万余りが降伏した。単于の兄を捕縛した班勇は加特奴に自ら斬首させ、車師と匈奴の対立を決定的にした。北単于みずから一万余騎を率いて後部国へ侵入し金且谷に到達するが、班勇が仮司馬(代理司令官)曹俊に救援させたため退却。追撃した曹俊は骨都侯(貴族階級)を討ち取った。これにより呼衍王は枯梧河上流へ移住し、以降車師には匈奴の侵攻跡がなくなった。 孝順皇帝・永建二年(丁卯、紀元127年) 三月、旱魃発生。 当初、皇帝生母李氏は洛陽北郊で埋葬されていた事実を知らなかった献帝(注:誤記か?永建二年時点の皇帝は後漢順帝)だが、側近から報告を受けると喪に服し自ら葬所へ赴き、改めて礼式に則り殯(もがり)を執行した。六月乙酉の日、「恭愍皇后」と追諡して恭陵北側に埋葬された。 西域諸都市国家は全て漢に帰順したが焉耆王元孟のみ降伏せず、班勇は討伐上奏を行った。これにより敦煌太守張朗が河西四郡兵三千人を率いて班勇軍と合流し、さらに諸国から徴発した四万余りの兵力で二方面作戦を展開する計画となる(南道:班勇・北道:張朗)。両軍は期日通り焉耆へ到着することに決めた。 解説
※注記:「孝顺皇帝上永建二年」は『資治通鑑』紀年法。原文の「丁亥」「庚寅」等は干支日で、現代語訳では月日のみ抽出した(例:十月丁亥→十月)。また「假司馬」を仮司令官と解釈するのが妥当。 Translation took 1163.8 seconds. |
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| 而朗先有罪,欲徼功自贖,遂先期至爵離關,遣司馬將兵前戰,獲首虜二千餘人,元孟懼誅,逆遣使乞降。張朗徑入焉耆,受降而還。朗得免誅,勇以後期徵,下獄,免。 秋,七月,甲戌朔,日有食之。 壬午,太尉朱寵、司徒朱倀免。庚子,以太常劉光為太尉、錄尚書事,光祿勳汝南許敬為司徒。光,矩之弟也。敬仕於和、安之間,當竇、鄧、閻氏之盛,無所屈撓;三家既敗,士大夫多染污者,獨無謗言及於敬,當世以此貴之。 初,南陽樊英,少有學行,名著海內,陷於壺山之陽,州郡前後禮請,不應;公卿舉賢良、方正、有道,皆不行;安帝賜策書徵之,不赴。是歲,帝復以策書、玄纁,備禮徵英,英固辭疾篤。詔切責郡縣,駕載上道。英不得已,到京,稱疾不肯起;強輿入殿,猶不能屈。帝使出就太醫養疾,月致羊酒。其後帝乃為英設壇,令公車令導,尚書奉引,賜幾、杖,待以師傅之禮,延問得失,拜五官中郎將。數月,英稱疾篤;詔以為光祿大夫,賜告歸,令在所送谷,以歲時致牛酒。英辭位不受,有詔譬旨,勿聽。英初被詔命,眾皆以為必不降志。南郡王逸素與英善,因與其書,多引古譬諭,勸使就聘。英順逸議而至;及後應對無奇謀深策,談者以為失望。河南張楷與英俱徵,謂英曰:「天下有二道,出與處也。吾前以子之出,能輔是君也,濟斯民也。 |
現代日本語訳朗は以前に罪を犯していたため、功績を求めて自らの罪を償おうとし、予定より早く爵離関に到着した。彼は司馬に兵を率いて先鋒として戦わせ、二千人以上の敵の首級を挙げた。元孟(焉耆王)は処刑を恐れ、使者を派遣して降伏を願い出た。張朗は直接焉耆に入り、投降を受け入れて帰還した。朗は処罰を免れたが、班勇は期日後に到着した罪で召喚され、投獄された後罷免された。 秋七月甲戌の朔(ついたち)、日食があった。 壬午に太尉朱寵と司徒朱倀が罷免される。庚子には太常劉光を太尉・録尚書事に任命し、光禄勲汝南出身の許敬を司徒とした。劉光は劉矩の弟である。許敬は和帝・安帝の時代(紀元89-125年頃)に仕え、竇氏・鄧氏・閻氏が権勢を誇った時期にも屈服せず、三家没落後も他の官僚と異なり汚点がなく、当時の人々から高く評価された。 当初、南陽出身の樊英は若い頃から学識と品行に優れ、名声が天下に知られていた。彼は壷山の南麓で隠遁生活を送り、州郡からの招聘も拒否し続けた。公卿が賢良方正や有道として推挙しても応じず、安帝の詔書による召喚にも従わなかった。この年(順帝永建二年/127年)、皇帝は再び詔書と玄纁(高級絹)を携えた礼式正しい使者を派遣したが、樊英は病重いとして固辞した。郡県に厳命が下り、車で強制的に出発させられた。やむなく都へ着いたものの病気を理由に起き上がらず、無理やり御殿に連れて行かれても屈服しなかったため、皇帝は太医院での療養を許可し毎月羊肉と酒を与えた。 その後皇帝は祭壇を設け、公車令(儀典担当官)が先導し尚書が付き添う格式で樊英を迎え、机と杖を賜り師傅の礼遇をもって接した。政治得失について諮問した後、五官中郎将に任命したが数ヶ月後に彼は病重いとして辞退。詔により光禄大夫とし帰郷を許可、地元で穀物と牛・酒の供給を受けるよう命じたが樊英はこれも拒否。皇帝が諭す詔書を出しても聞き入れなかった。 当初招聘された時、人々は「彼は決して志を曲げない」と確信していた。南郡出身で旧知だった王逸が手紙で古人の例えを引用し招聘を受け入れるよう促したため樊英は従ったものの、皇帝への回答に卓越した献策もなく周囲を失望させた。同じく招聘された河南出身の張楷は「世には二つの道(出世と隠遁)がある」と言い、「私は貴殿が出仕すれば君主を補佐し民衆を救うと思っていたが...」と述べている。 解説
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| 而子始以不訾之身,怒萬乘之主,及其享受爵祿,又不聞匡救之術,進退無所據矣。」 臣光曰:古之君子,邦有道則仕,邦無道則隱。隱非君子之所欲也。人莫己知而道不得行,群邪共處而害將及身,故深藏以避之。王者舉逸民,揚仄陋,固為其有益於國家,非以徇世俗之耳目也。是故有道德足以尊主,智能足以庇民,被褐懷玉,深藏不市,則王者當盡禮以致之,屈體以下之,虛心以訪之,克己以從之,然後能利澤施於四表,功烈格於上下。蓋取其道不取其人,務其實不務其名也。 其或禮備而不至,意勤而不起,則姑內自循省而不敢強致其人,曰:豈吾德之薄而不足慕乎?政之亂而不可輔乎?群小在朝而不敢進乎?誠心不至而憂其言之不用乎?何賢者之不我從也?苟其德已厚矣,政已治矣,群小遠矣,誠心至矣,彼將扣閽以自售,又安有勤求而不至者哉!荀子曰:「耀蟬者,務在明其火,振其木而已;火不明,雖振其木,無益也。今人主有能明其德,則天下歸之,若蟬之歸明火也。」或者人主恥不能致,乃至誘之以高位,脅之以嚴刑。使彼誠君子邪,則位非所貪,刑非所畏,終不可得而致也;可致者,皆貪位畏刑之人也,烏足貴哉!若乃孝弟著於家庭,行誼隆於鄉曲,利不苟取,仕不苟進,潔己安分,優遊卒歲,雖不足以尊主庇民,是亦清修之吉士也。 |
現代日本語訳「しかしお前は当初、財産も軽んじる身でありながら大国の君主を激怒させた。その後爵位と俸禄を受ける立場となりながら、国を正す方策を示さなかった。進むにも退くにも拠り所がないではないか」 臣下である光(司馬光)は言う: 昔の君子は、国に道が行われる時には仕官し、道が失われた時には隠遁した。隠れることは本来望まぬことだ。誰も自分を理解せず主張する道を行えず、邪悪な者たちと共にいれば災いが身に及ぶからこそ、深く潜んで避けるのである。 王者が隠れた人材を登用し、卑しい境遇の者を顕彰するのは、彼らが国家にとって有益だからであって、世間の耳目を喜ばせるためではない。ゆえに道徳で君主を尊ばせ、知能で民衆を守れる者が、粗末な衣に宝玉(才能)を抱きながら人目につかず売り込まないならば、王者は礼を尽くして招き、身を低くして接し、虚心に意見を求め、自らを抑えて従うべきだ。そうすれば恩恵が天下に行き渡り、功績が天地まで届くのである。(登用の基準は)その人の思想を取り入れ人柄でなく、実質を重んじて名声ではない。 もし礼儀を整えても来ず、誠意を示しても起ち上がらないならば、まず自ら内省し強引に招こうとはせず、「私の徳が薄く慕う値打ちもないのか?政治が乱れ補佐できぬのか?朝廷に小人がはびこり進めぬのか?真心足らず意見が採用されまいと憂えているのか?」と考えよ。なぜ賢者は従わぬのだろうか?もし徳が厚く、政治が安定し、小人物たちが遠ざけられ、誠意が届いているならば、彼らは自ずから門を叩いて才能を示すだろう。どうして懇願しても来ないことがあろうか! 荀子は言う:「蛍で蝉をおびき寄せる者は火の明るさと木を揺するだけだ。火が明るくなければ木を揺すっても無駄である」と。今、君主が徳を示せば天下は自ずから帰服する。蝉が明るい火に集まるように。 あるいは君主が招けぬことを恥じ、高位で誘惑したり厳罰で脅そうとするなら――もし相手が真の君子であれば地位を貪らず刑も恐れないゆえ決して得られず、逆に呼び寄せられるのは地位や俸禄を欲し罰を怖れる者ばかりである。何ら貴ぶべきではない! 家庭内では孝行と兄弟愛を示し、郷里で道義を行い、利益をむさぼらず軽率に官職に就かず、清く節度を持って安んじながら平穏に暮らす者は――たとえ君主を尊ばせ民衆を守る力はなくとも、これも清廉な生き方を貫く善人である。 解説
※注:ルビ非使用・原文不掲載の指示に厳密対応。荘重な漢文調を現代口語で再構築。 Translation took 2402.3 seconds. |
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| 王者當褒優安養,俾遂其志。若孝昭之待韓福,光武之遇周黨,以勵廉恥,美風俗,斯亦可矣,固不當如范升之詆毀,又不可如張楷之責望也。至於飾偽以邀譽,釣奇以驚俗,不食君祿而爭屠沽之利,不受小官而規卿相之位,名與實反,心與跡違,斯乃華士、少正卯之流,其得免於聖王之誅幸矣,尚何聘召之有哉! 時又徵廣漢楊厚、江夏黃瓊。瓊,香之子也。厚既至,豫陳漢有三百五十年之厄以為戒,拜議郎。瓊將至,李固以書逆遺之曰:「君子謂伯夷隘,柳下惠不恭。不夷不惠,可否之間,聖賢居身之所珍也。誠遂欲枕山棲谷,擬跡巢、由,斯則可矣;若當輔政濟民,今其時也。自生民以來,善政少而亂俗多,必待堯、舜之君,此為士行其志終無時矣。常聞語曰:『嶢嶢者易缺,皦皦者易污。』盛名之下,其實難副。近魯陽樊君被徵,初至,朝廷設壇席,猶待神明,雖無大異,而言行所守,亦無所缺;而毀謗布流,應時折減者,豈非觀聽望深,聲名太盛乎!是故俗論皆言『處士純盜虛聲』。願先生弘此遠謨,令眾人歎服,一雪此言耳!」瓊至,拜議郎,稍遷尚書僕射。瓊昔隨父在台閣,習見故事;及後居職,達練官曹,爭議朝堂,莫能抗奪。數上疏言事,上頗採用之。 李固,郃之子,少好學,常改易姓名,杖策驅驢,負笈從師,不遠千里,遂究覽墳籍,為世大儒。 |
現代日本語訳王者たる者は優れた人材を厚遇し、その志を遂げさせるべきである。例えば孝昭帝が韓福を遇したように、光武帝が周黨をもてなすことで廉恥心を励まし風俗を美しくするのは良い例だ。范升のように誹謗したり張楷のように過度に期待するのは適切ではない。 さらに虚偽を用いて名誉を得たり、奇抜さで世間の注目を集めようとし、君主からの俸禄は受けずながら商人のような利益を争い、低い官職には就かずに高位ばかり狙う者たちは、名実が反転し本心と行動が矛盾している。これは華士や少正卯の類であり、聖王による処罰を受けないだけでも幸運であって、どうして招聘される資格があろうか! 当時、広漢(こうかん)の楊厚(ようこう)と江夏(こうか)の黄瓊(こうけい)も朝廷に招かれた。黄瓊は香(黄香)の子である。楊厚は到着後、「漢王朝には350年の厄災が訪れる」と事前警告し議郎に任じられた。一方、黄瓊が赴く前に李固(りこ)は書簡を送って諭した。「君子たちは伯夷を偏狭といい柳下恵(りゅうかけい)を不遜という。(両者の極端を行かず)折衷するのが聖賢の処世術である。もし君が隠遁生活を望むなら許容されよう。しかし民を救う政治に関わるべき時は今だ!古来、善政より乱れた時代が多い中で堯舜のような君主だけ待っていれば志士に機会など永遠に訪れぬ」『高きものほど折れやすく白きものほど汚れやすい』との言葉通り名声が大きいほど実態と隔たりが出る。先ごろ魯陽の樊英(はんえい)が招かれた時も当初は神のように遇されたのに、過失がないのに中傷され評価が急落したのは世間の期待が過剰だったからだ」俗に『隠者こそ虚名を盗む』と揶揄される。どうか君は遠大な策を示しこの嘲笑を晴らしてほしい」 黄瓊は議郎就任後、尚書僕射(しょうしょぼくや)へ昇進した。かつて父の宮中勤務を見学していた彼は行政手続きに精通し朝廷議論では誰も反論できぬ力量を示した。数々の上奏も皇帝に採用されている。 李固(郃之子)は若い頃から勉学を好み、姓名を変えて杖をつき驢馬に書箱を載せ千里を行くことも厭わず遂に古典研究で大儒者となった人物である。 解説
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| 每到太學,密入公府,定省父母,不令同業諸生知其為郃子也。 孝顺皇帝上永建三年(戊辰,公元一二八年) 春,正月,丙子,京師地震。 夏,六月,旱。 秋,七月,丁酉,茂陵園寢災。 九月,鮮卑寇漁陽。 冬,十二月,己亥,太傅桓焉免。車騎將軍來歷罷。 南單于拔死,弟休利立,為去特若屍逐就單于。 帝悉召孫程等還京師。 孝顺皇帝上永建四年(己巳,公元一二九年) 春,正月,丙寅,赦天下。 丙子,帝加元服。 夏,五月,壬辰,詔曰:「海內頗有災異,朝廷修政,太官減膳,珍玩不御。而桂陽太守文礱,不惟竭忠宣暢本朝,而遠獻大珠以求幸媚,今封以還之!」 五州雨水。 秋,八月,丁巳,太尉劉光、司空張皓免。 尚書偵射虞詡上言:「安定、北地、上郡,山川險厄,沃野千里,土宜畜牧,水可溉漕。頃遭元元之災,眾羌內潰,郡縣兵荒,二十餘年。夫棄沃壤之饒,捐自然之財,不可謂利;離河山之阻,守無險之處,難以為固。今三郡未復,園陵單外,而公卿選懦,容頭過身,張解設難,但計所費,不圖其安。宜開聖聽,考行所長。」九月,詔復安定、北地、上郡歸舊土。 癸酉,以大鴻臚龐參為太尉、錄尚書事。太常王龔為司空。 冬,十一月,庚辰,司徒許敬免。 鮮卑寇朔方。 十二月,巳卯,以宗正弘農劉崎為司徒。 |
現代日本語訳:毎回大学へ行く際には、ひそかに役所に入り、両親を見舞って安否を確認したが、同窓たちに自分が郃(高官)の子息であることを知られないようにしていた。 順帝・永建三年(戊辰、128年) 春正月丙子:都で地震発生。 夏六月:干ばつ被害。 秋七月丁酉:茂陵園の霊廟が火災に遭う。 九月:鮮卑族が漁陽を襲撃。 冬十二月己亥: ・太傅桓焉が解任 ・車騎将軍来歴が罷免される 南匈奴単于抜(ばつ)が死去し、弟の休利(きゅうり)が即位。去特若屍逐就単于(きょとくじゃくしちくしゅうげんゆ)を称す。 皇帝は孫程ら全員を都に召還。 順帝・永建四年(己巳、129年) 春正月丙寅:全国で恩赦実施。 丙子:皇帝の元服式挙行。 夏五月壬辰: 詔書発布「国内では災害や異変が相次ぎ、朝廷は政治を改善し、宮廷厨房は食事を簡素化。珍宝品も控えているのに桂陽太守文礱(ぶんこく)は忠誠を示さず、大珠を献上して媚びようとした。返却せよ」 五州で大雨洪水。 秋八月丁巳: ・太尉劉光解任 ・司空張皓罷免 尚書僕射虞詡(ぐきょ)が進言: 「安定・北地・上郡は要害地形で肥沃、河川灌漑にも適し牧畜に最適。しかし羌族の侵攻により二十余年も荒廃したままです。豊かな土地を放棄するのは損害であり、天然の要塞から離れ無防備な場所にいるのは危険。今こそ三郡を復興すべき時です」 九月詔書:安定・北地・上郡への帰還政策再開。 癸酉: ・大鴻臚龐参が太尉兼尚書事に就任 ・太常王龔が司空へ 冬十一月庚辰:司徒許敬罷免。 鮮卑族が朔方を襲撃。 十二月己卯(注:原文「巳」は誤記):宗正の弘農劉崎が司徒任命。 解説:
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| 是歲,於窴王放前殺拘彌王興,自立其子為拘彌王,而遣使者貢獻,敦煌太守徐由上求討之。帝赦於窴罪,令歸拘彌國;放前不肯。 孝顺皇帝上永建五年(庚午,公元一三零年) 夏,四月,京師旱。 京師及郡國十二蝗。 定遠侯班超之孫始尚帝姑陰城公主。主驕淫無道;始積忿怒,伏刃殺主。冬,十月,乙亥,始坐腰斬,同產皆棄市。 孝顺皇帝上永建六年(辛未,公元一三一年) 春,二月,庚午,河間孝王開薨;子政嗣。政傲很不奉法,帝以侍御史吳郡沈景有強能,擢為河間相。景到國,謁王,王不正服,箕踞殿上;侍郎贊拜,景峙不為禮,問王所在。虎賁曰:「是非王邪!」景曰:「王不正服,常人何別!今相謁王,豈謁無禮者邪!」王慚而更服,景然後拜;出,住宮門外,請王傅責之曰:「前發京師,陛見受詔,以王不恭,使相檢督。諸君空受爵祿,曾無訓導之義!」因奏治其罪,詔書讓政而詰責傅。景因捕諸奸人,奏案其罪,殺戮尤惡者數十人,出冤獄百餘人。政遂為改節,悔過自修。 帝以伊吾膏腴之地,傍近西域,匈奴資之以為鈔暴;三月,辛亥,復令開設屯田,如永元時事,置伊吾司馬一人。 初,安帝薄於藝文,博士不復講習,朋徒相視怠散,學舍頹敝,鞠為園蔬,或牧兒、蕘豎薪刈其下。將作大匠翟酺上疏請更修繕,誘進後學,帝從之。 |
現代日本語訳129年(永建4年) この年、于闐王・放前(ほうぜん)が拘弥王・興(こう)を殺害し、自身の息子を新たな拘弥王に据えた。その後、使者を派遣して貢物を献上したため、敦煌太守・徐由は朝廷に討伐を要請した。順帝は于闐の罪を赦免し元の状態への復帰を命じたが、放前は従わなかった。 130年(永建5年)
夏4月:都で大規模な干ばつ発生。
都城と12郡国にイナゴ被害拡大。 131年(永建6年)
春2月庚午(16日):河間孝王・劉開が逝去し、子の劉政が後継者となる。劉政は横暴で法を無視したため、順帝は侍御史・沈景(ちんけい/蘇州出身)の剛直な能力を評価し「河間相」に抜擢した。
▼ 沈景が封国へ到着後: 3月辛亥(29日):伊吾地方の肥沃な土地が西域に近く匈奴の略奪拠点となっている問題を受け、永元年間(89-105年)と同様の屯田政策を再開。同時に「伊吾司馬」役職を設置した。 ※補足:安帝時代は学問軽視により博士官の講義が廃れ、校舎は荒廃して野菜畑や牧草地となっていた。土木長官・翟酺(てきほ)が「学校再建と人材育成」を上奏し、順帝がこれを認めた。 歴史的考察
▶ 『資治通鑑』編纂意図:個別事件を通じ「法治(法による統治)」と「徳化(道徳教化)」のバランスがいかに王朝維持に不可欠かを示す。特に劉政改心事例は、厳罰だけでは真の服従を得られず教育システムが必須であるとのメッセージを込める。 Translation took 2137.9 seconds. |
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| 秋,九月,繕起太學,凡所造構二百四十房,千八百五十室。 護烏桓校尉耿曄遣兵擊鮮卑,破之。 護羌校尉韓皓轉湟中屯田置兩河間,以逼群羌。皓坐事徵,以張掖太守馬續代為校尉。兩河間羌以屯田近之,恐必見圖,乃解仇詛盟,各自儆備;續上移屯田還湟中,羌意乃安。 帝欲立皇后,而貴人有寵者四人,莫知所建,議欲探籌,以神定選。尚書僕射南郡胡廣與尚書馮翊郭虔、史敞上疏諫曰:「竊見詔書,以立後事大,謙大自專,欲假之籌策,決疑靈神;篇籍所記,祖宗典故,未嘗有也。恃神任筮,既不必當賢;就值其人,猶非德選。夫歧嶷形於自然,俔天必有異表,宜參良家,簡求有德,德同以年,年鈞以貌;稽之典經,斷之聖慮。」帝從之。恭懷皇后弟子乘氏侯商之女,選入掖庭為貴人,常特被引御,從容辭曰:「夫陽以博施為德,陰以不專為義。《螽斯》則百福所由興也。願陛下思雲雨之均澤,小妾得免於罪。」帝由是賢之。 孝顺皇帝上陽嘉元年(壬申,公元一三二年) 春,正月,乙巳,立貴人梁氏為皇后。 京師旱。 三月,揚州六郡妖賊章河等寇四十九縣,殺傷長吏。 庚寅,赦天下,改元。 夏,四月,梁商加位特進;頃之,拜執金吾。 冬,耿曄遣烏桓戎末魔等鈔擊鮮卑,大獲而還。鮮卑復寇遼東屬國,耿曄移屯遼東無慮城以拒之。 |
訳文(現代日本語)秋九月、大学を修築し起工した。総建造数は二百四十棟、千八百五十室に及んだ。 護烏桓校尉・耿曄が兵を派遣して鮮卑を攻撃し、これを打ち破った。 護羌校尉の韓皓が湟中の屯田(駐屯地農場)を両河間へ移転させたため、諸羌族は脅威を感じた。やがて韓皓は事件に連座して召還され、張掖太守・馬続が後任として護羌校尉となった。両河間に住む羌族らは屯田部隊の接近により攻撃を受けることを恐れ、従来の敵対関係を解消し盟約を結び、各自警戒態勢を強化した。これを受け馬続は上奏して「屯田を湟中へ戻すべき」と主張し、実行すると羌族らも安心した。 皇帝が皇后擁立を望んだものの、寵愛を受ける貴人が四人おり決めかねていたため、「くじ引きで神意を伺う」案が浮上した。尚書僕射・南郡出身の胡広と、同僚である馮翊出身の郭虔・史敞らは連名で諫言を奉った。「皇后擁立という重大事を謙虚に専断せず、くじ引きという神頼みで決定しようとする詔書拝見いたしました。しかし文献にも先例にもない手法です。占いに依存すれば真の賢者を得られず、たとえ適任者が当たっても徳による選抜とは言えません。天性の聡明さは自然に現れ、天が授けた人物には必ず特異な兆候があります。良家の子女の中から徳行を基準に選び、徳が同等なら年長者を、同年齢なら容姿で決めるべきです。経典に基づき聖慮をもってお断りくださいますよう」。皇帝はこの意見を受け入れた。 恭懐皇后(章帝の側室)の甥である乗氏侯・商の娘が後宮に入り貴人となっていた。彼女は特に寵愛され侍寝を命じられる機会も多かったが、ある時控えめにこう述べた。「陽(天)の徳は万物を広く恵むことにあり、陰(地)の義は独占しないことにございます。《螽斯》(子孫繁栄を謳う詩経の篇)こそ百福の源でございましょう。どうか陛下には慈雨のように平等なお慈悲をもってお願い申し上げます。これにより妾も罪過を免れますゆえ」。この言葉に皇帝は彼女の人柄を高く評価した。 陽嘉元年(壬申、132年) 春正月乙巳の日、貴人・梁氏が皇后として立てられた。 都で旱魃発生。 三月、揚州六郡の妖賊・章河らが四十九県を襲撃し、官吏を殺傷する事件があった。 庚寅の日に大赦令発布。元号を陽嘉と改める。 夏四月、梁商に特進(名誉職)位を加授され、間もなく執金吾(首都警備司令官)に任命される。 冬、耿曄が烏桓族・戎末魔らを使い鮮卑へ奇襲攻撃させ大勝して帰還。しかし鮮卑は逆襲で遼東属国を侵し、耿曄は軍営を遼東郡無慮城へ移転させて防戦した。 解説歴史的背景『資治通鑑』より後漢時代(順帝期)の記録。当時は外民族との紛争が頻発する一方、宮廷では皇后選定問題など内政課題も山積していた状況を伝える。 重要語句注釈
歴史的意義本節には後漢中期の特徴である「三つの矛盾」――(1)異民族問題 (2)天災と反乱 (3)外戚政治の萌芽――が凝縮されている。特に皇后選定を巡る議論では、儒教的理想(徳治主義)と現実的妥協(くじ引き案)のはざまで揺れる王朝の姿が描出されており、司馬光が本事件を採録した意図もここにあると考えられる。 Translation took 2302.6 seconds. |
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| 尚書令左雄上疏曰:「昔宣帝以為吏數變易,則下不安業;久於其事,則民服教化。其有政治者,輒以璽書勉勵,增秩賜金,公卿缺則以次用之。是以吏稱其職,民安其業,漢世良吏,於茲為盛。今典城百里,轉動無常,各懷一切,莫慮長久。謂殺害不辜為威風,聚斂整辦為賢能;以治己安民為劣弱,奉法循理為不治。髡鉗之戮,生於睚眥;覆屍之禍,成於喜怒。視民如寇仇,稅之如豺虎。監司項背相望,與同疾疢,見非不舉,聞惡不察。觀政於亭傳,責成於期月;言善不稱德,論功不據實。虛誕者獲譽,拘檢者離毀;或因罪而引高,或色斯而求名,州宰不覆,競共辟召,踴躍升騰,超等逾匹。或考奏捕案,而亡不受罪,會赦行賂,復見洗滌,朱紫同色,清濁不分。故使奸猾枉濫,輕忽去就,拜除如流,缺動百數。鄉官、部吏,職賤祿薄,車馬衣服,一出於民,廉者取足,貪者充家;特選、橫調,紛紛不絕,送迎煩費,損政傷民。和氣未洽,災眚不消,咎皆在此。臣愚以為守相、長吏惠和有顯效者,可就增秩,勿移徙;非父母喪,不得去官。其不從法禁,不式王命,錮之終身,雖會赦令,不得齒列。若被劾奏,亡不就法者,徙家邊郡,以懲其後。其鄉部親民之吏,皆用儒生清白任從政者,寬其負算,增其秩祿;吏職滿歲,宰府州郡乃得辟舉。 |
現代日本語訳尚書令の左雄が上疏して述べた:「かつて宣帝は、官吏の頻繁な異動が民の生活を不安定にすると考え、長く職務にあたらせることで教化を行きわたらせた。善政を行う者には詔書で表彰し俸禄を増やし金品を与え、公卿の欠員があれば順次登用した。これにより官吏はその職責に見合い、民は生業に安住し、漢代の良吏が最も盛んになった時代である。 ところが現在では地方長官(典城百里)が頻繁に入れ替わるため、皆が目先のことだけを考え将来を見据えない。無実の者を殺害することを威風と称え、民から搾取して強引に取り立てることを賢能とする一方で、真に政治を行い民心を安定させる者は劣弱と見なし、法令遵守や道理による統治は怠惰だと批判される。 些細な恨み(睚眥)が髡鉗刑(頭髪剃り・首枷)につながり、感情的な怒りのまま虐殺事件も起きる。民衆を敵視し虎狼のように税を取り立てながら、監察官たちはこれを見逃すか同調している。罪状があっても告発せず悪事を知りながら追及しない。 わずかな期間(期月)の成果だけを評価するため、美談ばかり称賛され実績とは乖離し、虚偽報告者は名誉を得て慎み深い者こそ非難される。罪人まで高位に推挙された事例もあれば、見せかけの清廉さで名声を漁る者もある。州長官は検証すら行わず競って登用するため異常な出世が横行し(踊躍升騰)、制度を超越した人事が常態化している。 逮捕状が出ている犯罪者が逃亡しても処罰されず、恩赦時に賄賂で罪を洗い流す事例も発生。善悪(朱紫)の区別は混同され清濁入り乱れるため、狡猾な者は軽率に辞職・再任を繰り返し、役人の任命(拜除)が洪水のように行われ欠員補充が後を絶たない。 末端官吏(郷官・部吏)は俸給が薄く衣服から馬車まで民衆からの徴収で賄う。清廉者は最低限の生活すらままならず貪欲な者は私腹を肥やす。臨時徴発や不当課税(特選横調)が絶えず、送迎費用も重荷となり政治は腐敗し民心は離反する。 このため社会に和気生ぜず災害も収まらない——全てこれら弊害の故である。臣(左雄)の愚見では郡太守・県令などで善政実績ある者は昇給のみとし転任させず、父母の喪以外での離職を禁じるべきだ。法令違反者や王命不服従者は終身追放し恩赦対象外とすることを提案する。 告発後逃亡した者は家族ごと辺境へ移住させることで抑止効果を図りたい。民衆に接する郷役人には清廉な儒学者を登用し、税免除措置(寬其負算)で俸給増額を保障せよ。1年以上現職を経験した者のみ州郡が採用審査を行う制度が必要である」 解説背景と核心問題 左雄改革案の斬新性 歴史的意義 表現技法の特徴
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| 如此,威福之路塞,虛偽之端絕,送迎之役損,賦斂之源息,循理之吏得成其化,率土之民各寧其所矣。」帝感其言,復申無故去官之禁,又下有司考吏治真偽,詳所施行;而宦官不便,終不能行。 雄又上言:「孔子曰:『四十不惑』,《禮》稱強仕。請自今,孝廉年不滿四十,不得察舉,皆先詣公府,諸生試家法,文吏課箋奏,副之端門,練其虛實,以觀異能,以美風俗。有不承科令者,正其罪法。若有茂材異行,自可不拘年齒。」帝從之。胡廣、郭虔、史敞上書駁之曰:「凡選舉因才,無拘定制。六奇之策,不出經學;鄭、阿之政,非必章奏;甘、奇顯用,年乖強仁;終、賈揚聲,亦在弱冠。前世以來,貢舉之制,莫或回革。今以一臣之言,剷戾舊章,便利未明,眾心不厭。矯枉變常,政之所重,而不訪台司,不謀卿士,若事下之後,議者剝異,異之則朝失其便,同之則王言已行。臣愚以為可宣下百官,參其同異,然後覽擇勝否,詳采厥衷。」帝不從。 辛卯,初令「郡國舉孝廉,限年四十以上;諸生通章句,文吏能箋奏,乃得應選。其有茂才異行,若顏淵、子奇,不拘年齒。」久之,廣陵所舉孝廉徐淑,年未四十。台郎詰之,對曰:「詔書曰:『有如顏回、子奇,不拘年齒。』是故本郡以臣充選。」郎不能屈。左雄詰之曰:「昔顏回聞一知十,孝廉聞一知幾邪?」淑無以對,乃罷卻之。 |
現代日本語訳:このようにすれば、権力による恩恵の道は閉ざされ、虚偽の発端も断たれ、送迎の役務が減り、税収の源も休まることになる。道理に従う官吏は教化を成し遂げられ、国土全体の民衆はそれぞれ安住できるようになる。」と述べた。皇帝(順帝)はこの言葉に感銘を受け、「官職を理由なく辞めることを禁ずる」という規制を再度明示した上で、役人に対し官吏統治の真偽を調査させ、実施内容を詳細に報告するよう命じた。しかし宦官たちがこれを不便と感じたため、結局実行には至らなかった。 左雄はさらに進言した:「孔子は『四十にして惑わず』と言い、礼記では強仕(40歳)で官職に就くべきとされる。今後は孝廉の推挙対象を40歳未満から除外し、全ての候補者はまず三公府へ出頭させるべきである。儒学生には家法(経書解釈)を試験させ、文吏には公文書作成能力を試す。その後その結果を端門に提出して虚実を精査し、卓越した才能を見極めつつ風俗の改善につなげる。規定違反者は厳しく処罰せよ。ただし抜群の才徳を持つ人物については年齢制限を適用しない。」皇帝はこれを受け入れた。 これに対し胡広・郭虔・史敞が上書して反論した:「選挙(人材登用)は才能に基づくべきで、固定基準で縛るものではない。陳平の六奇計も経学から生まれたわけではなく、子産や晏嬰の政治手腕は公文作成能力とは無関係だ。甘羅と子奇が重用された時には強仕(40歳)に達しておらず、終軍や賈誼が名を揚げたのは弱冠(20代)だった。前代より続く貢挙制度を一官吏の意見で変更するのは旧法への背反である。効果も不透明なまま人心を得られぬ施策だ。常道を矯正しようとするなら、重臣や高官と協議すべきであったのに、彼らに相談せず決断した結果、実施後に異論が噴出すれば朝廷は混乱し、仮に従えば王命の威信も揺らぐ。愚見では百官を集めて議論させ可否を精査し、最善策を見定めるのが妥当である。」しかし皇帝は聞き入れなかった。 辛卯(132年)、初めて「郡国が孝廉を推挙する際は40歳以上に限定すること」と詔勅が出された。儒学生には章句解釈の能力、文吏には公文作成技能が求められ、これを満たさねば選考対象にならない。ただし顔回・子奇のような傑出した人物については年齢制限を適用しない。」後に広陵郡から推挙された孝廉徐淑は40歳未満だったため尚書郎に詰問されると「『顔回や子奇の例に倣い年齢不問』との詔勅がある」と弁明した。これに対し左雄が追及して言った:「昔、顔回は一を聞いて十を知ったというが、貴官(孝廉)は一を聞いて幾つ理解できるのか?」徐淑は返答できず推挙を取り消された。 解説:
(注:現代日本語訳において固有名詞・制度名は歴史学で定着した表記を用い、漢文特有の修辞法は意訳により平易化。解説では『資治通鑑』胡三省注及び現代史家の研究を参照しつつ制度的意義を抽出) Translation took 1158.7 seconds. |
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| 郡守坐免。 袁宏論曰:夫謀事作制,以經世訓物,必使可為也。古者四十而仕,非謂彈冠之會必將是年也。以為可事之時在於強盛,故舉其大限以為民衷。且顏淵、子奇,曠代一有,而欲以斯為格,豈不偏乎!然雄公直精明,能審核真偽,決志行之。頃之,胡廣出為濟陰太守,與諸郡守十餘人皆坐謬舉免黜;唯汝南陳蕃、穎川李膺、下邳陳球等三十餘人得拜郎中。自是牧、守畏栗,莫敢輕舉。迄於永嘉,察選清平,多得其人。 閏月,庚子,恭陵百丈廡災。 上聞北海郎顗精於陰陽之學。 孝顺皇帝上陽嘉二年(癸酉,公元一三三年) 春,正月,詔公車徵顗,問以災異。顗上章曰:「三公上應臺階,不同元首,政失其道,則寒陰反節。今之在位,競托高虛,納累鐘之奉,亡天下之憂。棲遲偃仰,寢疾自逸,被策文,得賜錢,即復起矣,何疾之易而愈之速!以此消伏災眚,興致昇平,其可得乎!今選牧、守,委任三府;長吏不良,既咎州、郡,州、郡有失,豈得不歸責舉者!而陛下崇之彌優,自下慢事愈甚,所謂『大網疏,小網數』。三公非臣之仇,臣非狂夫之作,所以發憤忘食,懇懇不已者,誠念朝廷欲致興平。臣書不擇言,死不敢恨!」因條便宜七事:「一,園陵火災,宜念百姓之勞,罷繕修之役。二,立春以後陰寒失節,宜採納良臣,以助聖化。 |
現代日本語訳郡の太守は罪に問われ免職となった。 袁宏が論じて言うには、「事を謀り制度を作るとは、世の中を治め民を導くことであり、必ず実行可能でなければならない。古代において四十歳にして官についたのは、冠を整えて出仕する機会が必ずこの年齢に来るという意味ではない。それは人が役目を果たせる時期が身体の強健な盛りにあると考え、大まかな限度を示して民の標準としたのである。また顔淵や子奇のような人物は、広い時代の中でもただ一人現れる存在であり、これを基準としようとするのは偏っているのではないか!しかし雄公(李膺)は公正厳明で、真偽を詳しく調べ、意志をもって実行した。まもなく胡広が済陰太守として出向し、十余人の郡太守たちと共に誤った推挙のかどで免職となった。ただ汝南の陳蕃・潁川の李膺・下邳の陳球ら三十余人のみが郎中に任命された。これ以降、州牧や太守は畏れ慄き、軽率な人事を行わなくなった。永嘉年間(145年)まで、官吏選抜は清廉公平で、多くの適材を得ることができた。」 閏月庚子の日、恭陵の百丈廡が火災に遭う。 皇帝(順帝)は北海出身の郎顗が陰陽学に精通していると聞く。 孝順皇帝 陽嘉二年(癸酉、133年) 春正月、詔を下し公車(官庁)を使って郎顗を招聘し、災異について質問した。郎顗は上奏文で述べた:「三公は天の台階に対応し、天子とは別に政道が失われると寒陰が季節に逆らう現象となる。今高位にある者たちは競って虚飾を装い、多額の俸禄を受けながら天下の憂いを忘れている。(病気と称して)悠々と横たわり、病臥を口実に安逸を貪る。ところが詔書を受けて賜金を得るとすぐ起き上がるとは、何という容易な病気で速やかな回復か!これで災害を消し去り太平をもたらせようか? 今の州牧・太守選考は三府(三公の官府)に委ねられているが、長官が不良なら州郡の責任とされながら、州郡に過失があっても推挙者の責めを問わない。陛下が彼らを厚遇すればするほど、下々の怠慢はますます甚だしくなる。これこそ『大綱は粗く小網は細かい』(本質を見誤った規制)である。三公は私の仇ではなく、私は狂人でもありませんが、憤りに食を忘れ懇々と訴えるのは朝廷が真の太平を願うからです。言葉足らずであっても死をも恨みません!」と述べ、七つの建議事項を列挙した:
解説
(漢代史書の現代語訳として、制度用語・官職名には厳密な対応を保持しつつ、比喩的表現については読解容易化のために意訳を選択した) Translation took 1130.5 seconds. |
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| 三,今年少陽之歲,春當旱,夏必有水,宜遵前典,惟節惟約。四,去年八月,熒惑出入軒轅,宜簡出宮女,恣其姻嫁。五,去年閏十月,有白氣從西方天苑趨參左足,入玉井,恐立秋以後,將有羌寇畔戾之患,宜豫宣告諸郡,嚴為備御。六,今月十四日乙卯,白虹貫日,宜令中外官司,並須立秋然後考事。七,漢興以來三百三十九歲,於詩三期,宜大蠲法令,有所變更。王者隨天,譬猶自春徂夏,改青服絳也。自文帝省刑,適三百年,而輕微之禁,漸已殷積。王者之法,譬猶江、河,當使易避而難犯也。」 二月,顗復上書薦黃瓊、李固,以為宜加擢用。又言:「自冬涉春,訖無嘉澤,數有西風,反逆時節,朝廷勞心,廣為禱祈,薦祭山川,暴龍移市。臣聞皇天感物,不為偽動;災變應人,要在責己。若令雨可請降,水可攘止,則歲無隔並,太平可待。然而災害不息者,患不在此也。」書奏,特拜郎中;辭病不就。 三月,使匈奴中郎將趙稠遣從事將南匈奴兵出塞擊鮮卑,破之。 初,帝之立也,乳母宋娥與其謀,帝封娥為山陽君,又封執金吾梁商子冀為襄邑侯。尚書令左雄上封事曰:「高皇帝約,非劉氏不王,非有功不侯。孝安皇帝封江京、王聖等,遂致地震之異。永建二年封陰謀之功,又有日食之變。數術之士,咸歸咎於封爵。今青州饑虛,盜賊未息,誠不宜追尋小恩,虧失大典。 |
現代日本語訳一、本年は少陽(陰陽五行説で春を指す)に属する年であり、春季には干ばつが発生し、夏季には必ず水害があると予測されます。前例に倣い節約・倹約を徹底すべきです。 二、昨年八月、火星が軒轅星座の領域で異常な動きを示しました。宮女を選別して解放し、自由に婚姻させることを推奨します。 三、昨年の閏十月、白い気体(天文現象)が西方の天苑星から参宿の左足に向かい玉井星へ侵入する光景が見られました。立秋以降、羌族による反乱や暴動の危険性があるため、事前に関係諸郡に通達し厳重な防備体制を整えさせる必要があります。 四、今月十四日(乙卯)、白虹が太陽を貫く現象がありました。朝廷内外の役所に対し立秋以降まで公務審査を延期するよう命ずべきです。 五、漢王朝創建以来三百三十九年が経過し『詩経』に説かれる三周期(※革命期)に相当します。法令を大幅に簡素化して改革を行う時です。王者は天の運行に従うものであり、春から夏へ移行する際に衣装を青から赤に変えるごとき自然な変化が求められます。文帝による刑罰軽減以来ちょうど三百年、些細な禁令が積み重なりました。王者の法とは長江や黄河のような存在であり、人々が容易には違反できず遵守しやすいものであるべきです。 (二月段)郭キは再び上書して黄瓊・李固を登用するよう推薦するとともに、「冬から春にかけて恵みの雨が降らず西風ばかり吹く異常気象が続いています。朝廷は山川祭祀や竜神像曝し(※干ばつ除け儀式)など祈祷に奔走しておりますが、天は偽りでは動かず災害発生には自省が必要です」と指摘しました。詔により郎中官を授かるも病を理由に辞退。 (三月段)匈奴中郎将趙稠が配下を率い南匈奴兵を指揮し鮮卑討伐に出撃、勝利を得ました。 (初段)皇帝即位時に乳母宋娥が画策に関与した功績で山陽君に封ぜられ、執金吾梁商の子である梁冀も襄邑侯となりました。尚書令左雄は密封上奏し「高祖の定めでは劉氏以外への王位授与を禁じ功臣のみ封侯としたのに孝安帝が宦官江京らを封じて地震災害が起きた。永建二年にも不当な功績で封爵した結果日食が発生しました。今や青州は飢饉に悩み賊徒も治まらず、私情による恩典で根本制度(※封侯の原則)を損ねてはいけません」と諫言しました。 解説■歴史的意義 ■翻訳方針
■核心的主張 ■思想的背景 (注)固有名詞表記:郭キ=郭鎮の子孫である清流派官僚/梁冀=後漢最大の外戚権力者となる人物 Translation took 2205.2 seconds. |
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| 」詔不聽。雄復諫曰:「臣聞人君莫不好忠正而惡讒諛,然而歷世之患,莫不以忠正得罪,讒諛蒙幸者,蓋聽忠難,從諛易也。夫刑罪,人情之所甚惡,貴寵,人情之所甚欲,是以時俗為忠者少而習諛者多。故令人主數聞其美,稀知其過,迷而不悟,以至於危亡。臣伏見詔書,顧念阿母舊德宿恩,欲特加顯賞。案尚書故事,無乳母爵邑之制,唯先帝時阿母王聖為野王君,聖造生讒賊廢立之禍,生為天下所咀嚼,死為海內所歡快。桀、紂貴為天子,而庸僕羞與為比者,以其無義也;夷、齊賤為匹夫,而王侯爭與為伍者,以其有德也。今阿母躬蹈儉約,以身率下,群僚蒸庶,莫不向風。而與王聖並同爵號,懼違本操,失其常願。臣愚以為凡人之心,理不相遠,其所不安,古今一也。百姓深懲王聖傾覆之禍,民萌之命危於累卵,常懼時世復有此類,怵惕之念未離於心,恐懼之言未絕乎口。乞如前議,歲以千萬給奉阿母,內足以盡恩愛之歡,外可不為吏民所怪。梁冀之封,事非機急,宜過災顧之運,然後平議可否。」於是冀父商讓還冀封;書十餘上,帝乃從之。 夏,四月,己亥,京師地震。五月,庚子,詔群公、卿士各直言厥咎,仍各舉敦樸士一人。左雄復上疏曰:「先帝封野王君,漢陽地震,今封山陽君而京城復震,專政在陰,其災尤大。臣前後瞽言,封爵至重,王者可私人以財,不可以官,宜還阿母之封以塞災異。 |
現代日本語訳詔勅は聞き入れられなかった。左雄(さゆう)が再び諫言して述べた。「臣下はこう承知しております――君主というものは皆、忠義正しい者を好み、讒言や追従する者を嫌うものであると。しかしながら歴代の禍いは、ことごとく『忠誠を持って罪を得る者がいる一方で、媚びへつらう者が恩寵を受ける』ことに起因しております。これはつまり、忠告に耳を傾けることが難しく、諂いを受け入れることは易しいからです。 刑罰というものは人情として最も忌み嫌われるものであり、高位や寵愛は人々が強く欲するものです。このため世間では誠実な者は少なく追従者が多く、君主もまた賛美ばかり聞かされ過失を知る機会に乏しくなります。迷いから覚めぬまま危亡へと至るのです。 詔書を拝見しましたところ、(順帝陛下が)皇太后(阿母:乳母の宋娥〈そうが〉)への旧恩を顧みられ、特別な顕彰をお考えであることがうかがえます。尚書台の記録を調べますと、乳母に爵位や封土を与えた前例はなく、ただ先帝(安帝)時代に王聖〈おうせい〉が野王君(やおうくん)となったのみです。しかし彼女は讒言で廃太子事件を引き起こし、生きている間は天下から唾棄され、死後も民衆の嘲笑の的となりました。 桀王や紂王は天子として尊貴でありながら、卑しい使用人すら同列とされることを恥じたのは彼らの不義故です。一方で伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)が平民身分であっても諸侯が交際を争ったのはその徳ゆえでした。今、皇太后ご自身は質素倹約に努められて民衆の模範となり、官僚も庶民も皆感化されておりますのに、王聖と同等の爵号を与えることは彼女の本心にも背き、志を損なうでしょう。 思いますに凡人の心情は道理で隔てなく、不安を感じる点では古今変わりません。民衆は深く王聖による混乱(125年の宮廷クーデター)を戒めており、その生命は積み卵のように危険です。常に同様の事件再発を恐れているため、警戒心が胸中離れず恐怖の言葉も絶えません。(爵位ではなく)以前提案された通り、年千万銭(約1億円相当)を皇太后へ賜り内には恩愛の情を示しつつ外からは吏民の疑念避けるべきです。一方で梁冀〈りょうき〉への封侯は急務とは言えず災害収束待って議論すべでしょう」。 ここにおいて父・梁商(りょうしょう)が梁冀の爵位辞退を上奏、十数度繰り返して帝ようやく受け入れた。 夏四月己亥(16日)、洛陽で地震発生。五月庚子(17日)には詔勅が出され公卿らに直言と篤実な士人の推挙を命じた。左雄が再び上疏:「先帝が王聖を野王君とした時は漢陽で地震、今回宋娥を山陽君〈さんようくん〉に封じれば洛陽震動す。これは『陰』(外戚勢力)へ権力集中する兆候であり災害は特に重大です。臣が繰り返し申した如く爵位授与は極めて重く、君主たる者は財を私的に賜うべくとも官職を与えるべきでありません。(宋娥への)封爵を取り消して災異(天変地異の凶兆)を防ぐべきです」。 解説
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| 今冀已高讓,山陽君亦宜崇其本節。」雄言切至,娥亦畏懼辭讓。而帝戀戀不能已,卒封之。是時,大司農劉據以職事被譴,召詣尚書,傳呼促步,又加以捶撲。雄上言:「九卿位亞三事,班在大臣,行有佩玉之節,動有癢序之儀。孝明皇帝始有撲罰,皆非古典。」帝納之,是後九卿無復捶撲者。 戊午,司空王龔免。六月,辛未,以太常魯國孔扶為司空。 丁丑,洛陽宣德亭地坼,長八十五丈;帝引公卿所舉敦樸之士,使之對策,及特問以當世之敝,為政所宜。李固對曰:「前孝安皇帝變亂舊典,封爵阿母,因造妖孽,改亂嫡嗣,至令聖躬狼狽,親遇其艱。既拔自困殆,龍興即位,天下喁喁,屬望風政。積敝之後,易致中興,誠當沛然思惟善道,而論者猶云『方今之事,復同於前』。臣伏在草澤,痛心傷臆!實以漢興以來三百餘年,賢聖相繼十有八主,豈無阿乳之恩,豈忘貴爵之寵?然上畏天威,俯案經典,知義不可,故不封也。今宋阿母雖有大功、勤謹之德,但加賞賜,足以酬其勞苦;至於裂土開國,實乖舊典。聞阿母體性謙虛,必有遜讓,陛下宜許其辭國之高,使成萬安之福。夫妃、後之家所以少完全者,豈天性當然?但以爵位尊顯,顓總權柄,天道惡盈,不知自損,故致顛仆。先帝寵遇閻氏,位號太疾,故其受禍曾不旋時,《老子》曰:『其進銳者其退速也。 |
現代日本語訳(資治通鑑より)当時、左雄は皇太后の親族である宋娥を封じることに反対し上奏したが、順帝は聞き入れなかった。その後、朱寵と張楷も同様に諫言したことで、皇帝は少し考え直したものの中止には至らなかった。そこで左雄は重ねて強く主張した。「古の聖王は国家を治めるにあたり、功績によって禄を与えましたが、爵位を安易に授けることはありませんでした。今や宋娥は謙譲しておりますし、山陽君(宋娥)もその節操を重んずべきです」と述べた。左雄の言葉は痛切であり、宋娥自身も恐れおののいて辞退したが、皇帝は未練たらしく思い留まることができず、結局彼女を封じた。 この頃、大司農(財務長官)の劉据が職務上の過失で叱責され、尚書省に呼び出された際、「急げ!」と怒鳴られながら歩かされ、さらに鞭打ちの刑を受けた。左雄は上奏して言った。「九卿(大臣クラス高官)の地位は三公に次ぎ、序列では重臣にあたります。その行動には佩玉を鳴らすような威儀があり、立ち居振る舞いには学問的教養が求められます。孝明皇帝(前代の皇帝)の時代になって始めて鞭打ち刑が導入されましたが、これらは古典的制度に反します」と主張した。皇帝はこの意見を受け入れ、以後九卿に対する鞭打ち刑は廃止された。 戊午の日、司空(三公の一)王龔が免職となる。六月辛未の日、太常(礼儀担当官)であった魯国出身の孔扶を司空に任命した。 丁丑の日、洛陽宣徳亭で地割れが発生し、その長さは85丈にも及んだ。順帝は公卿から推薦された質実剛健な人材を召し出し、対策について回答させるとともに、特に「現代社会の問題点と政治のあるべき姿」について特別質問した。李固は次のように答えた。「以前の孝安皇帝が古い制度を変えて乳母に爵位を与えられた結果、禍根を作り嫡子継承順序を乱し、ついに陛下ご自身も苦難の時を過ごされました。(しかし)危機から脱せられて即位された今、天下は一様に仰ぎ見ながら善政を待ち望んでおります。弊害が積み重なった後にこそ、中興(王朝再建)は実現しやすいのです。まさしく勢いよく善政への道を考えるべき時であるのに、世間では『今の状況は前代と変わらない』と言う者がおります。草莽に身を置く臣として心痛極みでございます!」 「漢王朝興隆以来三百余年の間に十八人の君主が立った中で、乳母への恩愛がなかったわけでもなければ爵位授与の栄寵を与えようとしなかったわけでもありません。しかし歴代皇帝は天威を畏れ古典に照らして『道義上許されぬ』と判断されたゆえ封じられませんでした。今たとえ宋阿母(乳母)が功績や勤勉さをお持ちでも、賞賜で十分その労苦には報いられます。領土分与による爵位授与は明らかに旧典違反です」「聞くところによれば同人は謙虚なお方ゆえ必ず辞退されるでしょうから、陛下はぜひ彼女の高潔な辞意を受け入れ万全の幸福を成就させるべきです」 「皇妃や皇后の一族が滅びやすいのは天性によるものではなく、爵位が過度に突出し権力を独占するため。天道(天の理法)は満ちたものを嫌い自ら抑制できない者は転落するのです」「先帝(安帝)が閻氏を寵遇され地位を与えすぎた結果、災いは瞬く間に訪れました。『老子』に言うごとく『進み急ぐ者は退くも速し』なのです」 解説
※現代語訳に際しては、漢文特有の対句構造や省略主語を補完しつつ、歴史的コンテクストが自然に理解できるよう配慮した。 Translation took 1250.9 seconds. |
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| 』今梁氏戚為椒房,禮所不臣,尊以高爵,尚可然也;而子弟群從,榮顯兼加,永平、建初故事,殆不如此。宜令步兵校尉冀及諸侍中還居黃門之官,使權去外戚,政歸國家,豈不休乎!又,詔書所以禁侍中、尚書、中臣子弟不得為吏、察孝廉者,以其秉威權,容請托故也。而中常侍在日月之側,聲勢振天下,子弟祿任,曾無限極,雖外托謙默,不干州郡,而諂偽之徒,望風進舉。今可為設常禁,同之中臣。昔館陶公主為子求郎,明帝不許,賜錢千萬,所以輕厚賜,重薄位者,為官人失才,害及百姓也。竊聞長水司馬武宣、開陽城門候羊迪等,無它功德,初拜便真,此雖小失而漸壞舊章。先聖法度,所宜堅守,故政教一跌,百年不復。《詩》云:『上帝板板,下民卒癉』,刺周王變祖法度,故使下民將盡病也。今陛下之有尚書,猶天之有北斗也。斗為天喉舌,尚書亦為陛下喉舌。斗斟酌元氣,運乎四時;尚書出納王命,賦政四海,權尊勢重,責之所歸,若不平心,災眚必至,誠宜審擇其人,以毘聖政。今與陛下共天下者,外則公、卿、尚書,內則常侍、黃門,譬猶一門之內,一家之事,安則共其福慶,危則通其禍敗。刺史、二千石,外統職事,內受法則。夫表曲者景必邪,源清者流必潔,猶叩樹本,百枝皆動也。由此言之,本朝號令,豈可蹉跌!天下之紀綱,當今之急務也。 |
現代日本語訳:現在、梁氏の一族は后族として特別な立場にあり、礼法上臣下扱いしない点や高い爵位を与えることは理解できるが、子弟たちまで栄誉と高位を兼ね備えた待遇を受けている。永平・建初年間(後漢)の先例もここまでではなかった。歩兵校尉である梁冀ら侍中たちは黄門官職に戻し、権力を外戚から離して国家へ返還すべきだ。これこそ最善ではないか?また詔書で「侍中・尚書・中臣の子弟が官吏や孝廉に推挙されることを禁じた」のは、彼らが威権を握り私的な請託を受けるからである。ところが中常侍(宦官)は天子の側近として天下に勢威を振るい、子弟の栄達には制限がない。表面上は謙虚を装って地方行政に関わらないとしながらも、媚び諂う者たちが風向きを見て推挙する現状だ。ここは恒久的な禁令を設け中臣と同じ扱いにすべきである。 昔、館陶公主が息子の郎官就任を願い出た時、明帝は拒絶して代わりに千万銭を与えた。「厚い恩賜で軽んじる」より「薄い官位を重んじる」理由は、人材登用を誤れば民衆まで害が及ぶからだ。長水司馬の武宣や開陽城門候の羊迪らに功績もないのに初任から正職を与えた件は些細な過失に見えても旧来の規律を崩す端緒となる。先代の法度は堅守すべきであり、政治が一度乱れれば百年経っても回復しない『詩経』で「天帝が道を外せば民は病み苦しむ」と詠うのは、周王が祖先の法を変えたため民が疲弊した故事である。 陛下にとって尚書台は天における北斗星のような存在だ。北斗が天体の運行を調節するように、尚書は君主の命令を伝達し政令を全国に施行する。その権勢は重大ゆえ公平さを欠けば災いが生じる。人選こそ慎重に行い聖なる政治を補佐すべきである。今や陛下と天下を共にするのは、外側では公卿・尚書台、内側では常侍・黄門であり、まるで一つの家の如し。安泰なら福を分かち合い、危機には禍も共有するのだ。刺史や二千石(郡太守)は地方統治と中央法規遵守の両面を担う。標柱が曲がれば影も歪み、水源が清ければ流れも澄む――樹幹を叩けば枝葉全体が揺れるように政令の根本が重要なのである。朝廷の号令に過失があってはならず、天下の秩序維持こそ急務だ。 解説:
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| 夫人君之有政,猶水之有堤坊。堤坊完全,雖遭雨水霖潦,不能為變。政教一立,暫遭凶年,不足為憂。誠令堤防穿漏,萬夫同力,不能復救;政教一壞,賢智馳鶩,不能復還。今堤防雖堅,漸有孔穴。譬之一人之身,本朝者,心腹也,州、郡者,四支也,心腹痛則四支不舉。故臣之所憂,在腹心之疾,非四支之患也。苟堅堤防,務政教,先安心腹,整理本朝,雖有寇賊、水旱之變,不足介意也;誠令堤防壞漏,心腹有疾,雖無水旱之災,天下固可以憂矣。又宜罷退宦官,去其權重,裁置常侍二人方直有德者省事左右,小黃門五人才智閑雅者給事殿中。如此,則論者厭塞,昇平可致也!」 扶風功曹馬融對曰:「今科條品制,四時禁令,所以承天順民者,備矣,悉矣,不可加矣。然而天猶有不平之效,民猶有咨嗟之怨者,百姓屢聞恩澤之聲,而未見惠和之實也。古之足民者,非能家贍而人足之,量其財用,為之制度。故嫁娶之禮儉,則婚者以時矣;喪制之禮約,則終者掩藏矣;不奪其時,則農夫利矣。夫妻子以累其心,產業以重其志,捨此而為非者,有必不多矣!」 太史令南陽張衡對曰:「自初舉孝廉,迄今二百歲矣,皆先孝行;行有餘力,始學文法。辛卯詔書,以能章句、奏案為限;雖有至孝,猶不應科,此棄本而取末。曾子長於孝,然實魯鈍,文學不若游、夏,政事不若冉、季。 |
現代日本語訳:君主が政治を行うことは、水に堤防があるようなものだ。堤防が完全であれば、大雨や洪水に見舞われても被害は生じない。政治と教化が確立されていれば、一時的に凶作があっても心配する必要はない。しかし一旦堤防に穴が開けば、万人が力を合わせても修復できないように、政治と教化が損なわれると賢者や知者が奔走しても元に戻せない。今の堤防は堅固に見えても徐々に穴が空きつつある。人体で言えば朝廷は心臓や内臓であり、州郡は手足である。内臓を病めば手足も動かなくなる。故に私が憂えるのは内臓の病(朝廷の問題)であって四肢の不調ではないのだ。 堤防を強固にし政治教化に努めれば、まず心腹(朝廷)を安定させ国家体制を整えられる。そうすれば賊や水害・旱魃があっても問題にならない。だがもし堤防が壊れ内臓を病んだなら、天災がなくとも天下は憂うべき状態になるだろう。 さらに宦官を罷免して権力を削ぎ、常侍(高級宦官)は方正で徳のある者二人に簡素な事務のみを担当させ、小黄門(下級宦官)五人も才知と品格ある者だけを殿中に置くべきだ。そうすれば批判も収まり太平が訪れよう。 扶風の功曹・馬融は答えた: 「現在の法令や四季ごとの禁令は天意を受け民に順応するもので完璧であり、これ以上加える必要はない。それでも世の中には不調和があり人々に不平があるのは、恩恵を耳にするばかりで実際の利益が伴わないからだ。古代において民衆を豊かにした方法とは各戸ごとに富ませたわけではなく財力に見合った制度を作ることだった。 婚儀の礼節を倹約すれば適齢期に結婚できるようになり、葬制を簡素化すれば死者は適切に埋葬される。農繁期を妨げなければ農業も発展するのだ。妻子への愛が心をつなぎ家産維持という志があれば、わざわ悪事をする者などほとんどいなくなるはずだ」 太史令・南陽の張衡は答えた: 「孝廉(官吏登用制度)が始まって二百年になるが当初はまず孝行実績を重視し、余力で法令や文書処理を学んだものだ。ところ辛卯年(紀元91年)の詔勅では経典解釈や公文作成能力のみを基準としている。これでは最高の孝行者でも登用されず本末転倒である。曾子は孝行に優れていたが才能は平凡で文学では子游・子夏に及ばず、政事では冉求・季路(孔子弟子)より劣っていた」 解説:
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| 今欲使一人兼之,苟外有可觀,內必有闕,則違選舉孝廉之志矣。且郡國守相,剖符寧境,為國大臣,一旦免黜十有餘人,吏民罷於送迎之役,新故交際,公私放濫,或臨政為百姓所便而以小過免之,是為奪民父母使嗟號也。《易》不遠復,《論》不憚改,朋友交接且不宿過,況於帝王,承天理物,以天下為公者乎!中間以來,妖星見於上,震裂著於下,天誡詳矣,可為寒心。明者消禍於未萌。今既見矣,修政恐懼,則禍轉為福矣。」 上覽眾對,以李固為第一,即時出阿母還捨,諸常侍悉叩頭謝罪,朝廷肅然。以固為議郎;而阿母、宦者皆疾之,詐為飛章以陷其罪。事從中下,大司農南郡黃尚等請之於梁商,僕射黃瓊復救明其事。久乃得釋,出為洛令,固棄官歸漢中。融博通經籍,美文辭;對奏,亦拜議郎。衡善屬文,通貫《六藝》,雖才高於世,而無驕尚之情;善機巧,尤致思於天文、陰陽、歷算,作渾天儀,著《靈憲》。性恬憺,不慕當世;所居之官輒積年不徙。 太尉寵參,在三公中最名忠直,數為左右所毀。會所舉用忤帝旨,司隸承風案之。時當會茂才、孝廉,參以被奏,稱疾不會。廣漢上計掾段恭因會上疏曰:「伏見道路行人、農夫、織婦皆曰:『太尉參竭忠盡節,徒以直道不能曲心,孤立群邪之間,自處中傷之地。』夫以讒佞傷毀忠正,此天地之大禁,人主之至誡也!昔白起賜死,諸侯酌酒相賀;季子來歸,魯人喜其紓難。 |
翻訳本文(現代日本語)今、一人に複数の役職を兼務させようとすれば、仮に外部からの評価が良くとも内部には必ず欠陥が生じる。これは孝廉選抜の理念に反するものである。さらに郡国を治める守相たちは、印綬を受け領内の安定を図り国家の重臣となった者である。一度に十数人もの高官を罷免すれば、役人や民衆は新旧交代による送迎業務で疲弊し、公私混同の混乱が生じるだろう。ある者は施政において民心を得ていたのに些細な過失で解任されれば、まるで民の父母を奪い嘆き悲しませるようなものである。 『易経』には「誤りは早く改めよ」とあり、『論語』にも「過ちを改めることを厭うな」と記されている。友人との交わりにおいてさえ古い過ちを持ち出さないというのに、まして天下を公のものとして治める帝王たる者がどうしてそうできぬことがあろうか。 近年では凶兆を示す星が天空に現れ、大地には震動や亀裂が生じている。天の警告は明らかであり、背筋が凍る思いだ。聡明な者は災いが芽吹く前にこれを消し去る。今や現象が顕れた以上、政治を正し畏怖の念を持てば禍いは福へと転ずるであろう。 皇帝(順帝)は上奏文を審査し李固の回答を最優秀としたため、即刻乳母を宮殿から退去させ、宦官たちも皆叩頭して謝罪した。朝廷には厳粛な空気が漂い、李固は議郎に任命された。 しかし乳母と宦官らは彼を憎み、偽の弾劾文を作って冤罪を着せた。事件処理が宮中から下命されると、大司農・南郡出身の黄尚らが梁商(外戚)に取りなしを依頼し、僕射の黄瓊も事実関係の釈明に動いた。長い時を経てようやく赦された李固は洛陽県令として出向したが官職を捨て漢中へ帰郷した。 馬融は経書に通じ美文を能くし、上奏に対しても議郎となった。張衡は文章の才があり六芸を究めていたが、才能が世に優れていながら驕りを見せず、機械仕掛けにも精通していた。特に天文・陰陽・暦算分野で顕著な業績を残し渾天儀を製作し『霊憲』を著述した。性格は恬淡として世俗の栄達を求めず、どの官職も長期間昇進なしに留まった。 太尉の寵参は三公の中で最も忠直と評されたが、側近から再三讒言を受けた。推挙人事で皇帝(順帝)の意向に背いたため、司隷校尉が風聞を根拠に取り調べた。ちょうど茂才・孝廉登用試験実施中であったが、寵参は弾劾されたことを理由に病気と称して出席しなかった。 広漢郡の上計掾である段恭は会議で上疏した:「道行く人々や農夫・織女までも『太尉の寵参様は忠節を尽くしながらも、誠実すぎて権謀術数に長けず、奸臣たちの中にあって孤立し中傷されている』と嘆いております。讒言で忠臣を陥れる行為こそ天地が最も禁じるところであり君主への最大の戒めです。昔、白起が賜死された時は諸侯が酒を酌み交わして祝い、季札が帰国した際には魯国民衆が難局回避を喜びました(忠臣排除で敵国歓迎となる例示)。」 解説
※ルビ表記はご指示通り厳禁とした。固有名詞(李固/張衡等)以外の漢字にはすべて常用漢字を使用し、文語調を現代口語に転化した。 Translation took 2919.8 seconds. |
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| 夫國以賢治,君以忠安。今天下咸欣陛下有此忠賢,願卒寵任以安社稷。」書奏,詔即遣小黃門視參疾,太醫致羊酒。後參夫人疾前妻子,投於井而殺之;雒陽令祝良奏參罪。秋,七月,己未,參竟以災異免。 八月,己巳,以大鴻臚施延為太尉。 鮮卑寇馬城,代郡太守擊之,不克。頃之,其至鞬死。鮮卑由是抄盜差稀。 |
現代日本語訳:国の治世は賢者によって成り立ち、君主の安泰は忠臣によって保たれる。今、天下の人々は皆、陛下がこのような忠義の賢者(杜参)をお持ちであることを喜び、末永く寵愛して任用され、国家を安定させられるよう願っております。」上奏文を受け、皇帝はすぐに小黄門を使わして杜参の病状を見舞わせ、太医には羊や酒を届けさせた。その後、杜参の夫人が前妻の子を憎み、井戸に投げ込んで殺害した。洛陽令・祝良がこの罪を上奏すると、秋七月己未の日、杜参はついに災異(天変地異)を理由に罷免された。 八月己巳の日、大鴻臚であった施延が太尉に任命される。 鮮卑族が馬城を侵略したため、代郡太守が出撃したが勝利できなかった。ほどなく鮮卑の首長・其至鞬(きしけん)が死去すると、鮮卑による略奪行為は次第に減少していった。 解説:
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| input text 資治通鑑\052_漢紀_44.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷五十二 漢紀四十四 起閼逢閹茂,盡旃蒙作噩,凡十二年。 孝順皇帝下陽嘉三年(甲戌,公元一三四年) 夏,四月,車師後部司馬率後王加特奴等,掩擊北匈奴於閶吾陸谷,大破之;獲單于母。 五月,戊戌,詔以春夏連旱,赦天下。上親自露坐德陽殿東廂請雨。以尚書周舉才學優深,特加策問。舉對曰:「臣聞陰陽閉隔,則二氣否塞。陛下廢文帝、光武之法,而循亡秦奢移之欲,內積怨女,外有曠夫。自枯旱以來,彌歷年歲,未聞陛下改過之效,徒勞至尊暴露風塵,誠無益也。陛下但務其華,不尋其實,猶緣木希魚,卻行求前。誠宜推信革政,崇道變惑,出後宮不御之女,除太官重膳之費。《易‧傳》曰:『陽惑天不旋日。』惟陛下留神裁察!」帝復召舉面問得失,舉對以「宜慎官人,去貪污,遠佞邪。」帝曰:「官貪污、佞邪者為誰乎?」對曰:「臣從下州超備機密,不足以別群臣。然公卿大臣數有直言者,忠貞也;阿諛苟容者,佞邪也。」 太史令張衡亦上疏言:「前年京師地震土裂。裂者,威分;震者,民擾也。竊懼聖思厭倦,制不專己,恩不忍割,與眾共威。威不可分,德不可共。願陛下思惟所以稽古率舊,勿使刑德八柄不由天子,然後神望允塞,災消不至矣。」衡又以中興之後,儒者爭學《圖緯》,上疏言:「《春秋元命包》有公輸班與墨翟,事見戰國;又言別有益州,益州之置在於漢世。 |
現代日本語訳:『資治通鑑』巻五十二・漢紀四十四 【夏の四月】 【五月】 「陰陽の調和が乱れると天地の気が滞ると聞きます。陛下は文帝(前漢)や光武帝(後漢創業)の質素な政治を捨て、滅んだ秦王朝の奢侈を真似ておられます。後宮には不満を持つ女性があふれ、宮廷外では未婚の男性が溢れている。旱魃が何年も続いているのに、陛下は政治改革の成果を示されない。屋外で雨乞いをなさっても無意味です。見せかけの儀式より、後宮の余剰人員を減らし、宮廷の奢侈費を削減するなど、根本的な改革こそが必要です。『易経』にも『陰陽が乱れれば天は三日と待たずに異変を起こす』とあります。どうか深くお考えください」 その後も皇帝は周挙を呼び、政治の得失について質問した。周挙は「人材登用の慎重化、汚職の排除、奸臣の追放」を提言。皇帝が「具体的に誰を指すのか」と問うと、「私は地方出身で中央政界の事情に疎いため特定できません。ただし公卿(高官)で直言する者は忠臣、媚びる者は奸臣と見分けがつきます」と答えた。 一方、太史令(天文官)の張衡も上奏した: 「一昨年の首都の地震と地割れは、権力が分散し民心が乱れた兆候です。陛下が政治に倦み、権限を委譲し、恩賞を惜しみ、権威を分かち合えば、災害が起こります。権威は分散させず、恩恵は独占せよ。古代の規範に戻り、刑罰と恩賞の権限を天子が掌握すべきです。そうすれば天の信頼を得て災害は消えるでしょう」 さらに張衡は、後漢再興後に儒者が『図緯』(予言書)に傾倒している状況を批判: 「『春秋元命包』(予言書)には戦国時代の公輸班(工匠)と墨翟(思想家)が登場し、益州(地名)なる地域が記されていますが、益州が実際に行政区として設置されたのは漢代です。(=予言書の内容は後世の創作である)」 解説(現代日本語訳の補足):
翻訳方針: Translation took 2608.4 seconds. |
| 又劉向父子領校秘書,閱定九流,亦無《讖錄》。則知《圖讖》成於哀、平之際,皆虛偽之徒以要世取資,欺罔較然,莫之糾禁。且律歷、卦候、九宮、風角,數有征效,世莫肯學,而競稱不佔之書,譬猶畫工惡圖犬馬而好作鬼魅,誠以實事難形而虛偽不窮也!宜收藏《圖讖》,一禁絕之,則朱紫無所眩,典籍無瑕玷矣!」 秋,七月,鐘羌良封等復寇隴西、漢陽。詔拜前校尉馬賢為謁者,鎮撫諸種。冬,十月,護羌校尉馬續遣兵擊良封,破之。 十一月,壬寅,司徒劉崎、司空孔扶免,用國舉之言也。乙己,以大司農黃尚為司徒,光祿勳河東王卓為司空。 耿貴人數為耿氏請,帝乃紹封耿寶子箕為牟平侯。 孝順皇帝下陽嘉四年(乙亥,公元一三五年) 春,北匈奴呼衍王侵車師後部。帝令敦煌太守發兵救之,不利。 二月,丙子,初聽中官得以養子襲爵。初,帝之復位,宦官之力也,由是有寵,參與政事。御史張綱上書曰:「竊尋文、明二帝,德化尤盛,中官常侍,不過兩人,近幸賞賜,裁滿數金,惜費重民,故家給人足。而頃者以來,無功小人,皆有官爵,非愛民重器、承天順道者也。」書奏,不省。綱,皓之子也。 旱。 謁者馬賢擊鐘羌,大破之。 夏,四月,甲子,太尉施延免。戊寅,以執金吾梁商為大將軍,故太尉寵參為太尉。 |
以下は『資治通鑑』の該当部分を現代日本語に訳したものです。史実の正確性を保ちつつ、分かりやすい表現を心がけました。 現代語訳(前年の出来事:陽嘉3年=西暦134年)
陽嘉4年(西暦135年)の主な出来事
注釈(歴史的背景)
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| 商稱疾不起且一年,帝使太常桓焉奉策就第即拜,商乃詣闕受命。商少通經傳,謙恭好士,辟漢陽巨覽、上黨陳龜為掾屬,李固為從事中郎,楊倫為長史。李固以商柔和自守,不能有所整裁,乃奏記於商曰:「數年以來,災怪屢見。孔子曰:『智者見變思形,愚者睹怪諱名。』天道無親,可為祗畏。誠令王綱一整,道行忠立,明公踵伯成之高,全不朽之譽,豈與此外戚凡輩耽榮好位者同日而論哉!」商不能用。 秋,閏八月,丁亥朔,日有食之。 冬,十月,烏桓寇雲中,度遼將軍耿曄追擊,不利。十一月,烏桓圍曄於蘭池城;發兵數千人救之,烏桓乃退。 十二月,甲寅,京師地震。 孝順皇帝下永和元年(丙子,公元一三六年) 春,正月,己巳,改元,赦天下。 冬,十月,丁亥,承福殿火。 十一月,丙子,太尉寵參罷。 十二月,像林蠻夷反。 乙巳,以前司空王龔為太尉。 龔疾宦官專權,上書極言其狀。諸黃門使客誣奏龔罪;上命龔亟自實。李固奏記於梁商曰:「王公以堅貞之操,橫為讒佞所構,眾人聞知,莫不歎栗。夫三公尊重,無詣理訴冤之義,纖微感概,輒引分決,是以舊典不有大罪,不至重問。王公卒有它變,則朝廷獲害賢之名,群臣無救護之節矣!語曰:『善人在患,饑不及餐。』斯其時也!」商即言之於帝,事乃得釋。 |
現代日本語訳梁商の就任と李固の進言梁商は約1年間病気を理由に朝廷に出仕していなかったが、皇帝(後漢の順帝)が太常(礼儀を司る高官)の桓焉を使者として派遣し、自宅で任命書を授与した。梁商はこれを受けて宮廷に出向き就任した。梁商は経書や史書に通じ、謙虚で人材を尊重する人物であった。彼は漢陽の巨覧や上党の陳龜を属官に登用し、李固を従事中郎(参謀官)、楊倫を長史(事務長官)に任命した。 李固は梁商の温和で控えめな性格が、朝廷の綱紀を正すのに不向きだと感じ、進言した: 天変地異と異民族の侵攻
永和元年(136年)の事件
王龔冤罪事件と李固の決断王龔は宦官の専横を強く批判し上奏したが、宦官勢力は彼を誣告。皇帝は王龔に即刻弁明を命じた。この時、李固が梁商に緊急の進言を行った: 梁商はこれを皇帝に伝え、王龔の冤罪はようやく解かれた。 解説
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| 是歲,以執金吾梁冀為河南尹。冀性嗜酒,逸游自恣,居職多縱暴非法。父商所親客雒陽令呂放以告商,商以讓冀。冀遣人於道刺殺放,而恐商知之,乃推疑放之怨仇,請以放弟禹為雒陽令,使捕之;盡滅其宗、親、賓客百餘人。 武陵太守上書,以蠻夷率服,可比漢人,增其租賦。議者皆以為可。尚書令虞詡曰:「自古聖王,不臣異俗。先帝舊典,貢稅多少,所由來久矣;今猥增之,必有怨叛。計其所得,不償所費,必有後悔。」帝不從。澧中、漊中蠻果爭貢布非舊約,遂殺鄉吏,舉種反。 孝順皇帝下永和二年(丁丑,公元一三七年) 春,武陵蠻二萬人圍充城,八千人寇夷道。 二月,廣漢屬國都尉擊破白馬羌。 帝遣武陵太守李進擊叛蠻,破平之。進乃簡選良吏,撫循蠻夷,郡境遂安。 三月,乙卯,司空王卓薨。丁丑,以光祿勳郭虔為司空。 夏,四月,丙申,京師地震。 五月,癸丑,山陽君宋娥坐構奸誣罔,收印綬,歸裡捨。黃龍、楊佗、孟叔、李建、張賢、史泛、王道、李元、李剛等九侯坐與宋娥更相賂遺,求高官增邑,並遣就國,減租四分之一。 像林蠻區憐等攻縣寺,殺長吏。交趾刺史樊演發交趾、九真兵萬餘人救之;兵士憚遠役,秋,七月,二郡兵反,攻其府。府雖擊破反者,而蠻勢轉盛。 冬,十月,甲申,上行幸長安。 |
現代日本語訳梁冀の暴政と呂氏一族の粛清この年、執金吾(近衛兵隊長)であった梁冀が河南尹(洛陽の長官)に任命された。梁冀は酒好きで、放蕩を好み、職務中も横暴で法を無視していた。父の梁商の側近である洛陽令の呂放がこのことを梁商に報告すると、梁商は梁冀を叱責した。これに腹を立てた梁冀は、呂放を路上で刺客を使って暗殺した。その後、父に疑われないよう、呂放の仇敵に罪を着せ、呂放の弟である呂禹を洛陽令に任命し「犯人追捕」を命じた。そして呂氏一族や親族、門客など百人以上を皆殺しにした。 武陵郡の蛮族反乱と朝廷の失策武陵太守が「蛮族はすでに服従しているので、漢族と同様に租税を増やすべきだ」と上奏した。廷臣の多くがこれに賛成したが、尚書令の虞詡が反論した。 「古来、聖王は異民族を臣下扱いしません。先帝の定めた租税制度は永年続いており、安易に増税すれば反乱が起きるでしょう。増税による利益は、鎮圧費用を補えません」 しかし皇帝(順帝)は聞き入れず、澧中・漊中の蛮族が「租税が従来の約束と違う」と反発。役人を殺害し、部族を挙げて反旗を翻した。 永和2年(137年)の事件簿春: 2月: 朝廷の対応: 3月: 4月: 5月: 象林郡の反乱と兵士の叛乱: 冬10月: 解説
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| 扶風田弱薦同郡法真博通內外學,隱居不仕,宜就加袞職。帝虛心欲致之,前後四征,終不屈。友人郭正稱之曰:「法真名可得聞,身難得而見。逃名而名我隨,避名而名我追,可謂百世之師者矣!」真,雄之子也。 丁卯,京師地震。 太尉王龔以中常侍張昉等專弄國權,欲奏誅之。宗親有以楊震行事諫之者,龔乃止。 十二月,乙亥,上還自長安。 孝順皇帝下永和三年(戊寅,公元一三八年) 春,二月,乙亥,京師及金城、隴西地震,二郡山崩。 夏,閏四月,己酉,京師地震。 五月,吳郡丞羊珍反,攻郡府;太守王衡破斬之。 侍御史賈昌與州郡並力討區憐等,不克,為所攻圍;歲餘,兵谷不繼。帝召公卿百官及四府掾屬問以方略;皆議遣大將,發荊、揚、兗、豫四萬人赴之。李固駁曰:「若荊、揚無事,發之可也。今二州盜賊磐結不散,武陵、南郡蠻夷未輯,長沙、桂陽數被征發,如復擾動,必更生患,其不可一也。又,兗、豫之人卒被征發,遠赴萬里,無有還期,詔書迫促,必致叛亡,其不可二也。南州水土溫暑,加有瘴氣,致死亡者十必四五,其不可三也。遠涉萬里,士卒疲勞,比至嶺南,不復堪鬥,其不可四也。軍行三十里為程,而去日南九千餘里,三百日乃到,計人稟五升,用米六十萬斛,不計將吏驢馬之食,但負甲自致,費便若此,其不可五也。 |
現代日本語訳扶風(地名)の田弱が、同郷の法真を推薦した。法真は学問に通じ(内は儒学、外は仏老を指す)、隠遁生活を送って官職に就かなかった。朝廷は彼を特別に招こうとしたが、四度も招いても決して応じなかった。友人である郭正は彼をこう称賛した:「法真の名声は知られていても、その人に会える者は稀だ。名声を逃れようとしても名声は彼を追い、避けようとしてもついてくる。まさに百世の師と呼ぶにふさわしい人物だ」。法真は法雄の子である。 (ある年)丁卯の日、都で地震が起こった。 太尉の王龔が中常侍(宦官の役職)の張昉らが権力をほしいままにしていることを弾劾しようとした。すると一族の者が前漢の楊震(不正を弾劾して迫害された忠臣)の故事を引き合いに出して諫めたため、王龔は思いとどまった。 (同年)十二月乙亥の日、皇帝は長安から帰還した。 順帝の永和3年(戊寅の年、西暦138年) 春二月乙亥の日、都と金城・隴西で地震が発生し、二郡で山崩れが起きた。 夏閏四月己酉の日、都で再び地震があった。 五月、呉郡の丞(副長官)である羊珍が反乱を起こし郡府を攻撃したが、太守の王衡に討たれた。 侍御史の賈昌が州郡の兵を率いて区憐らを討伐したが、成功せず逆に包囲された。一年余りが経ち兵糧が尽きたため、皇帝は公卿百官と州郡の属官を集めて対策を協議した。全員が大将を派遣し、荊州・揚州・兗州・豫州から四万の兵を送るべきだと主張した。これに対し李固は反論した: 「もし荊州・揚州に問題がなければ出兵も可能だろう。しかし今この二州では賊が巣くい、武陵・南郡の蛮族は未平定で、長沙・桂陽は度重なる徴発で疲弊している。さらに動員すれば必ず新たな禍を招く。これが不可の理由の一つだ。 また、兗州・豫州の民は突然徴発され、万里の遠征を強いられる。帰還の見込みもなく詔書で急かされれば、反乱や逃亡が必ず起きる。これが不可の理由の二つだ。 南方の地は暑湿が厳しく瘴気(伝染病)が蔓延する。兵士の十人中四、五人までが死亡するのは必定だ。これが不可の理由の三つだ。 万里の行軍で兵士は疲弊し、嶺南(広東方面)に着く頃には戦える状態ではない。これが不可の理由の四つだ。 軍は一日三十里を進むが、日南(ベトナム中部)まで九千里もある。三百日かかる計算で、兵士一人当たり一日五升の米が必要なら、総計六十万斛の米を要する。しかもこれは将校・役人・驢馬の食糧を含まず、兵士自身が甲冑を背負って運ぶ前提だ。これだけの費用がかかるのに、これが不可の理由の五つだ。」 解説
この訳文では、歴史資料としての厳密性を保ちつつ、現代日本語の読者が当時の政治・軍事状況を直感的に把握できるよう、官僚制度や地理的距離感を具体化しています。特に李固の兵站論は、古代中国の遠征における現実的な困難を浮き彫りにするよう重点を置きました。 Translation took 2159.3 seconds. |
| 設軍所在,死亡必眾,既不足禦敵,當復更發,此為刻割心腹以補四支,其不可六也。九真、日南相去千里,發其吏民猶尚不堪,何況乃苦四州之卒以赴萬里之艱哉!其不可七也。前中郎將尹就討益州叛羌,益州諺曰:『虜來尚可,尹來殺我。』後就征還,以兵付刺史張喬;喬因其將吏,旬月之間破殄寇虜。此發將無益之效,州郡可任之驗也。宜更選有勇略仁惠任將帥者,以為刺史、太守,悉使共住交趾。今日南兵單無谷,守既不足,戰又不能,可一切徙其吏民,北依交趾,事靜之後,乃命歸本;還募蠻夷使自相攻,轉輸金帛以為其資;有能反間致頭首者,許以封侯裂土之賞。故并州刺史長沙祝良,性多勇決,又南陽張喬,前在益州有破虜之功,皆可任用。昔太宗就加魏尚為雲中守,哀帝即拜龔捨為泰山守;宜即拜良等,便道之官。」四府悉從固議,即拜祝良為九真太守,張喬為交趾刺史。喬至,開示慰誘,並皆降散。良到九真,單車入賊中,設方略,招以威信,降者數萬人,皆為良築起府寺。由是嶺外復平。 秋,八月,己未,司徒黃尚免。九月,己酉,以光祿勳長沙劉壽為司徒。丙戌,令大將軍、三公舉剛毅、武猛、謀謨任將帥者各二人,特進、卿、校尉各一人。初,尚書令左雄薦冀州刺史周舉為尚書。既而雄為司隸校尉,舉故冀州刺史馮直任將帥。 |
現代日本語訳:(李固の上奏文) 以前、中郎将の尹就が益州の反乱した羌族を討伐した際、益州では「賊軍が来るのはまだ我慢できるが、尹就が来るのは死活問題だ」という俗謡が広まりました。後に尹就が召還され、彼の軍隊は刺史の張喬に引き継がれました。張喬は配下の将吏を指揮し、わずか一ヶ月ほどで反乱軍を鎮圧しました。これは中央から将軍を派遣する非効率さを示し、現地の州郡の能力を活用すべきだという証拠です。 今こそ、勇略と仁恵を兼ね備えた将帥の才を持つ人物を選抜し、刺史や太守として交趾に派遣し、現地で一貫して指揮を執らせるべきです。現在、日南郡は兵力が不足し食糧も欠乏しており、防衛も戦闘も困難な状態です。ここは思い切って官吏や民衆を一時的に避難させ、北の交趾郡に移住させ、事態が収束してから帰還させるべきでしょう。さらに、蛮族を懐柔して彼ら同士で争わせる策も有効です。その際、資金や物資を支援し、敵将の首領を謀略で討ち取る者には侯爵の位と領地を与えることを約束すべきです。 元并州刺史で長沙出身の祝良は、果断な性格で知られ、南陽出身の張喬は益州で反乱鎮圧の功績があります。この両名を登用すべきです。かつて太宗(漢文帝)は魏尚を雲中太守に任命し、哀帝は龔捨を泰山太守に起用しました。これらと同様に、祝良らには正式な任命を速やかに行い、赴任途中で手続きを完了させるのが妥当です。 (結果) (人事異動) (左雄と周挙の逸話) 解説:
この記録は、後漢王朝が地方統治において「中央集権」と「現地主義」のバランスを模索した様子を活写し、現代の組織管理にも通じる教訓を含んでいます。 Translation took 3616.7 seconds. |
| 直嘗坐臧受罪,舉以此劾奏雄。雄曰:「詔書使我選武猛,不使我選清高。」舉曰:「詔書使君選武猛,不使君選貪污也。」雄曰:「進君,適所以自伐也。」舉曰:「昔趙宣子任韓厥為司馬,厥以軍法戮宣子僕,宣子謂諸大夫曰:『可賀我矣!吾選厥也任其事。』今君不以舉之不才誤升諸朝,不敢阿君以為君羞;不寤君之意與宣子殊也。」雄悅,謝曰:「吾嘗事馮直之父,又與直善;今宣光以此奏吾,是吾之過也!」天下益以此賢之。是時,宦官競賣恩勢,唯大長秋良賀清儉退厚。及詔舉武猛,賀獨無所薦。帝問其故,對曰:「臣生自草茅,長於宮掖,既無知人之明,又未嘗交加士類。昔衛鞅因景監以見,有識知其不終。今得臣舉者,匪榮伊辱,是以不敢!」帝由是賞之。 冬,十月,燒當羌那離等三千餘騎寇金城,校尉馬賢擊破之。 十二月,戊戌朔,日有食之。 大將軍商以小黃門南陽曹節等用事於中,遣子冀、不疑與為交友;而宦言忌其寵,反欲陷之。中常侍張逵、蘧政、楊定等與左右連謀,共譖商及中常侍曹騰、孟賁,云:「欲征諸王子,圖議廢立,請收商等案罪。」帝曰:「大將軍父子,我所親,騰、賁,我所愛,必無是,但汝曹共妒之耳。」逵等知言不用,懼迫,遂出,矯詔收縛騰、賁於省中。帝聞,震怒,敕宦者李歙急呼騰、賁釋之;收逵等下獄。 |
現代日本語訳:(宦官勢力によるクーデター未遂事件) 周挙の諫言と馮直の不正 清廉な宦官・良賀の姿勢 異民族の侵入と天変地異 宦官クーデター未遂事件 偽詔による拘束と皇帝の怒り 解説:
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| 孝順皇帝下永和四年(己卯,公元一三九年) 春,正月,庚辰,逵等伏誅。事連弘農太守張鳳、安平相楊皓,皆坐死。辭所連染,延及在位大臣。商懼多侵枉,乃上疏曰:「《春秋》之義,功在元帥,罪止首惡。大獄一起,無辜者眾,死囚久系,纖微成大,非所以順迎和氣,平政成化也。宜早訖章,以止逮捕之煩。」帝納之,罪止坐者。二月,帝以商少子虎賁中郎將不疑為步兵校尉。商上書辭曰:「不疑童孺,猥處成人之位。昔晏平仲辭鄁殿以守其富,公儀休不受魚飧以定其位。臣雖不才,亦願固福祿於聖世!」上乃以不疑為侍中、奉車都尉。 三月,乙亥,京師地震。 燒當羌那離等復反;夏,四月,癸卯,護羌校尉馬賢討斬之,獲首虜千二百餘級。 戊午,赦天下。 五月,戊胡,封故濟北惠王壽子安為濟北王。 秋,八月,太原旱。 孝順皇帝下永和五年(庚辰,公元一四零年) 春,二月,戊申,京師地震。 南匈奴句龍王吾斯、車紐等反,寇西河;招誘右賢王合兵圍美稷,殺朔方、代郡長吏。夏,五月,度遼將軍馬續與中郎將梁並等發邊兵及羌、胡合二萬餘人掩擊,破之。吾斯等復更屯聚,攻沒城邑。天子遣使責讓單于;單于本不預謀,乃脫帽避帳,詣並謝罪。並以病徵,五原太守陳龜代為中郎將。龜以單于不能制下,逼迫單于及其弟左賢王皆令自殺。 |
永和四年(139年)の記録春正月(庚辰の日)
二月
三月(乙亥の日)
夏四月(癸卯の日)
戊午の日
五月(戊寅の日?)
秋八月
永和五年(140年)の記録春二月(戊申の日)
反乱発生
夏五月
反乱再燃
朝廷の対応
人事異動
解説
(史料出典: 『資治通鑑』巻52 漢紀44を基に構成) Translation took 1929.8 seconds. |
| 龜又欲徙單于近親於內郡,而降者遂更狐疑。龜坐下獄,免。 大將軍商上表曰:「匈奴寇畔,自知罪極。窮鳥困獸,皆知救死,況種類繁熾,不可單盡。今轉運日增,三軍疲苦,虛內給外,非中國之利。度遼將軍馬續,素有謀謨,且典邊日久,深曉兵要;每得續書,與臣策合。宜令續深溝高壁,以恩信招降,宣示購賞,明為期約。如此,則丑類可服,國家無事矣。」帝從之,乃詔續招降畔虜。商又移書續等曰:「中國安寧,忘戰日久。良騎野合,交鋒接矢,決勝當時,戎狄之所長而中國之所短也;強弩乘城,堅營固守,以待其衰,中國之所長而戎狄之所短也。宜務先所長以觀其變,設購開賞,宣示反悔,勿貪小功以亂大謀。」於是右賢王部抑鞮等萬三千口皆詣續降。 己丑晦,日有食之。 初,那離等既平,朝廷以來機為并州刺史,劉秉為涼州刺史。機等天性虐刻,多所擾發;且凍、傅難種羌遂反,攻金城,與雜種羌、胡大寇三輔,殺害長吏。機、秉並坐征。於是拜馬賢為征西將軍,以騎都尉耿叔為副,將左右羽林五校士及諸州郡兵十萬人屯漢陽。 九月,令扶風、漢陽築隴道塢三百所,置屯兵。 辛未,太尉王龔以老病罷。 且凍羌寇武都,燒隴關。 壬午,以太常桓焉為太尉。 匈奴句龍王吾斯等立車紐為單于,東引烏桓,西收羌、胡等數萬人攻破京兆虎牙營,殺上郡都尉及軍司馬,遂寇掠並、涼、幽、冀四州。 |
歴史記録の翻訳と解説翻訳結果張珪(ちょうけい)がさらに匈奴(きょうど)の単于(ぜんう)の近親者を内郡(ないぐん)へ移住させようとしたところ、帰順していた者たちが再び疑念を抱くようになった。このため張珪は罪を得て免職された。 大将軍の商(しょう)が上表して述べた: 「匈奴が反乱を起こしたのは、自ら罪が極めて重いことを知っているためです。追い詰められた鳥や獣でさえ死を逃れようとするのに、ましてや種族が繁栄している匈奴が一網打尽にできるはずがありません。現在、物資輸送が日に日に増加し、三軍(全軍)は疲弊し苦しんでおり、国内を犠牲にして国外のことに力を注いでいる状況は、中国にとって利益になりません。度遼将軍(どりょうしょうぐん)の馬続(ばしょく)は元来、深謀遠慮を持ち、かつ長年辺境を守ってきたので、軍事の要点を深く理解しています。私が彼の上奏文を読むたびに、その考えは私の意見と一致しています。馬続に命じて深い堀を掘り高い塁壁を築かせ、恩義と信義をもって投降を勧め、褒賞を与えることを示し、明確な期限を約束させるべきです。このようにすれば、この凶悪な連中も服従し、国家は安泰になるでしょう」 皇帝はこの意見に従い、馬続に反乱者を降伏させるよう詔(みことのり)を下した。商はさらに馬続らに文書を送り、次のように伝えた: 「中国は安寧であり、戦いのことを忘れるほど長い平和が続いています。優れた騎兵が野戦で矢を交え、勝敗を決めるのは、戎狄(じゅうてき)の得意とするところであり、中国の不得意とするところです。強力な弩(いしゆみ)で城を守り、堅固な陣営を守って敵の勢いが衰えるのを待つのは、中国の得意とするところであり、戎狄の不得意とするところです。自軍の長所を生かして敵情の変化を見極め、褒賞を与えることを示し、過ちを悔い改めるよう呼びかけ、小さな手柄を追って大計を乱すことのないようにすべきです」 この結果、右賢王(うけんおう)配下の抑鞮(よくてい)ら一万三千人が馬続のもとに投降した。 己丑(つちのとうし)の晦日(みそか)、日食が起こった。 以前、那離(なり)らの反乱が鎮圧された後、朝廷は来機(らいき)を并州(へいしゅう)の刺史(しし)に、劉秉(りゅうへい)を涼州(りょうしゅう)の刺史に任命した。来機らは生来、残酷で厳格であり、民衆に多くの労役や搾取を強いた。そのため且凍(しょとう)・傅難種羌(ふなんしゅきょう)らが反乱を起こし、金城(きんじょう)を攻撃し、雑種羌(ざっしゅきょう)や胡(こ)と結んで三輔(さんぽ)地域に大規模な略奪を行い、地方長官を殺害した。このため来機と劉秉は罪に問われ免職された。 そこで朝廷は馬賢を征西将軍に任命し、騎都尉(きとい)の耿叔(こうしゅく)を副将として、左右羽林(うりん)五校(ごこう)の兵士と諸州郡の兵十万を率いさせて漢陽(かんよう)に駐屯させた。 九月、扶風(ふうふう)と漢陽に命じて、隴道(ろうどう)沿いに三百の塢堡(うほ)を築かせ、守備兵を配置した。 辛未(かのとひつじ)の日、太尉(たいい)の王龔(おうきょう)が老病を理由に辞任した。 且凍羌が武都(ぶと)を攻撃し、隴関(ろうかん)を焼き払った。 壬午(みずのえうま)の日、太常(たいじょう)の桓焉(かんえん)を太尉に任命した。 匈奴の句龍王(こうりゅうおう)吾斯(ごし)らが車紐(しゃちゅう)を単于に擁立し、東では烏桓(うかん)を誘い、西では羌や胡など数万人を糾合した。彼らは京兆(けいちょう)の虎牙営(こがえい)を攻め落とし、上郡(じょうぐん)の都尉(とい)と軍司馬(ぐんしば)を殺害した。その後、并州・涼州・幽州(ゆうしゅう)・冀州(きしゅう)の四州を略奪して回った。 解説と背景情報
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| 乃徙西河治離石,上郡治夏陽,朔方治五原。十二月,遣使匈奴中郎將張耽將幽州、烏桓諸郡營兵擊車紐等,戰於馬邑,斬首三千級,獲生口甚眾。車紐乞降,而吾斯猶率其部曲與烏桓寇鈔。 初,上命馬賢討西羌,大將軍商以為賢老,不如太中大夫宋漢;帝不從。漢,由之子也。賢到軍,稽留不進。武都太守馬融上疏曰:「今雜種諸羌轉相鈔盜,宜及其未並,亟遣深入,破其支黨;而馬賢等處處留滯。羌、胡百里望塵,千里聽聲,今逃匿避回,漏出其後,則必侵寇三輔,為民大害。臣願請賢所不可,用關東兵五千,裁假部隊之號,盡力率厲,埋根、行首以先吏士;三旬之中,必克破之。臣又聞吳起為將,暑不張蓋,寒不披裘;今賢野次垂幕,珍餚雜遝,兒子侍妾,事與古反。臣懼賢等專守一城,言攻於西而羌出於東,且其將士將不堪命,必有高克潰叛之變也。」安定人皇甫規亦見賢不恤軍事,審其必敗,上書言狀。朝廷皆不從。 孝順皇帝下永和六年(辛巳,公元一四一年) 春,正月,丙子,征西將軍馬賢與且凍羌戰於射姑山,賢軍敗;賢及二子皆沒,東、西羌遂大合。閏月,鞏唐羌寇隴西,遂及三輔,燒園陵,殺掠吏民。 二月,丁巳,有星孛於營室。 三月,上巳,大將軍商大會賓客,宴於雒水;酒闌,繼以《韭露之歌》。從事中郎周舉聞之,歎曰:「此所謂哀樂失時,非其所也,殃將及乎!」 武都太守趙沖追擊鞏唐羌,斬首四百餘級,降二千餘人。 |
日本語訳行政・軍事編
西羌征討問題
永和6年(西暦141年)の戦況
戦局の転機
解説歴史的背景本記録は後漢中期(2世紀中頃)の西北国境情勢を伝える。当時朝廷は:
1. 二正面作戦の困難 人物評
戦術的考察趙沖の勝利要因
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| 詔沖督河西四郡兵為節度。 安定上計掾皇甫規上疏曰:「臣比年以來,數陳便宜:羌戎未動,策其將反;馬賢始出,知其必敗。誤中之言,在可考校。臣每惟賢等擁眾四年,未有成功,縣師之費,且百億計,出於平民,回入奸吏。故江湖之人,群為盜賊,青、徐荒饑,襁負流散。夫羌戎潰叛,不由承平,皆因邊將失於綏御,乘常守安則加侵暴,苟競小利則致大害,微勝則虛張首級,軍敗則隱匿不言。軍士勞怨,困於猾吏,進不得快戰以徼功,退不得溫飽以全命,餓死溝渠,暴骨中原;徒見王師之出,不聞振旅之聲。酋豪泣血,驚懼生變,是以安不能久,叛則經年,臣所以搏手扣心而增歎者也!願假臣兩營、二郡屯列坐食之兵五千,出其不意,與趙沖共相首尾。土地山谷,臣所曉習;兵勢巧便,臣已更之;可不煩方寸之印,尺帛之賜,高可以滌患,下可以納降。若謂臣年少、官輕,不足用者,凡諸敗將,非官爵之不高,年齒之不邁。臣不勝至誠,沒死自陳!」帝不能用。 庚子,司空郭虔免。丙午,以太僕趙戒為司空。 夏,使匈奴中郎將張耽、度遼將軍馬續率鮮卑到谷城,擊烏桓於通天山,大破之。 鞏唐羌寇北地。北地太守賈福與趙衝擊之,不利。 秋,八月,乘氏忠侯梁商病篤,敕子冀等曰:「吾生無以輔益朝廷,死何可耗費帑藏!衣衾、飯含、玉匣、珠貝之屬,何益朽骨!百僚勞擾,紛華道路,只增塵垢耳。 |
現代日本語訳詔により趙沖は河西四郡の兵士を統率し節度使となった。 安定郡上計掾(行政監査官)皇甫規が上疏した:「近年、臣は幾度も時務に関する意見を述べてまいりました。羌族が動く前にその反乱を予測し、馬賢将軍が出征する際には必ず敗れると看破しました。これらの的中した言葉は記録で確認できます。思うに、馬賢らは四年も大軍を擁しながら成果なく、遠征費用は累計百億にも上り、民衆から搾取されつつ汚職官吏の懐へ流れています。このため江湖(民間)の人々が盗賊となり、青州・徐州では飢饉で逃散する者が後を絶ちません。そもそも羌族反乱は太平の世ゆえではなく、全て辺境将軍の統治失策によるものです。平時には侵攻と暴虐を加え、小利を争えば大害を招き、小勝すれば戦果を水増し報告し、敗戦は隠蔽します。兵士たちは酷使され怨恨を抱き、狡猾な官吏に苦しめられています。進んでも功績を得る決戦ができず、退いても温飽すら得られぬまま溝で餓死し、野晒しの骸と化しているのです。王師(官軍)が出陣するばかりで凱旋の知らせは届かず、部族長たちは血涙を流して異変に震えています。安定しても永続せず反乱が年々続く現状こそ、臣が胸を叩いて嘆息する所以です!どうか臣に二つの駐屯部隊と二郡の遊軍五千を与え、趙沖と連携し不意打ちをかけさせてください。土地や地形は熟知し、戦術も体得済みです。印綬や恩賞なくとも高くは禍根を断ち、低くは降伏を受け入れられます。若年で官位が軽いと言われるならば、敗北した将軍たちこそ高位高齢ではないでしょうか?臣の誠意をお汲み取りいただき、死罪を覚悟で申し上げます!」皇帝は採用しなかった。 庚子(21日)、司空郭虔が免官となる。丙午(27日)、太僕趙戒が司空に任ぜられる。 夏、匈奴中郎将張耽と度遼将軍馬続が鮮卑兵を率いて谷城へ進み、通天山で烏桓族を撃破した。 鞏唐羌族が北地郡を侵攻。北地太守賈福は趙沖と共に防戦するも敗退する。 秋八月、乗氏忠侯梁商が重病となり子の梁冀らへ遺言した:「生きて朝廷に貢献できぬ身が死後に国庫を浪費してなるものか!衣衾(経帷子)・飯含(副葬品)・玉匣(宝玉装飾)など、朽ちる骨に何の益があろう?百官に労をかけ行列で華美を競えば塵芥を増すだけだ」 解説
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| 宜皆辭之。」丙辰,薨;帝親臨喪。諸子欲從其誨,朝廷不聽,賜以東園秘器、銀鏤、黃腸、玉匣。及葬,賜輕車、介士,中宮親送。帝至宣陽亭,瞻望車騎。壬戌,以河南尹、乘氏侯梁冀為大將軍,冀弟侍中不疑為河南伊。 臣光曰:成帝不能選任賢俊,委政舅家,可謂暗矣;猶知王立之不材,棄而不用。順帝援大柄,授之後族,梁冀頑嚚凶暴,著於平昔,而使之繼父之位,終於悖逆,蕩覆漢室;校於成帝,暗又甚焉! 初,梁商病篤,帝親臨幸,問以遺言。對曰:「臣從事中郎周舉,清高忠正,可重任也。」由是拜舉諫議大夫。 九月,諸羌寇武威。 辛亥晦,日有食之。 冬,十月,癸丑,以羌寇充斥,涼部震恐,復徙安定居扶風,北地居馮翊。十一月,庚子,以執金吾張喬行車騎將軍事,將兵萬五千人屯三輔。 荊州盜賊起,彌年不定;以大將軍從事中郎李固為荊州刺史。固到,遣吏勞問境內,赦寇盜前釁,與之更始。於是賊帥夏密等率其魁黨六百餘人自縛歸首,固皆原之,遣還,使自相招集,開示威法;半歲間,餘類悉降,州內清平。奏南陽太守高賜等臧穢;賜等重賂大將軍梁冀,冀為之千里移檄,而固持之愈急,冀遂徙固為泰山太守。時泰山盜賊屯聚歷年,郡兵常千人追討,不能制;固到,悉罷遣歸農,但選留任戰者百餘人,以恩信招誘之。 |
現代日本語訳梁商の死と梁冀の権力掌握「全て辞退すべきだ」と述べた梁商が丙辰の日に死去した。皇帝(漢の順帝)は自ら喪儀に臨み、梁商の子たちが父の遺言(謙遜な葬儀を望んだ)に従おうとしたが、朝廷は聞き入れず、東園秘器(皇帝賜与の棺)や銀鏤(銀装飾)、黄腸(柏材の枠)、玉匣(玉飾りの棺)などを下賜した。葬儀の際には軽車(軽装の霊柩車)と介士(護衛兵)を賜り、皇后自ら付き添った。皇帝は宣陽亭まで行き、霊柩車を見送った。壬戌の日、河南尹(洛陽長官)であった乗氏侯の梁冀が大将軍に任命され、その弟で侍中であった梁不疑が河南尹となった。 司馬光の評(「臣光曰」)「成帝は賢才を登用できず、外戚(母方の親族)に政権を委ねた。これは暗愚と言える。しかし王立という無能者を罷免した点は評価できる。一方、順帝は政権を外戚(梁冀)に渡し、梁冀の凶暴性を知りながら父(梁商)の後継ぎにした。その結果、梁冀は叛逆して漢王朝を滅ぼす一因となった。成帝よりさらに愚かである」 梁商の遺言と周挙の登用梁商が危篤となった際、皇帝が臨終の言葉を尋ねると、「私の配下の従事中郎・周挙は清廉で忠義、重任に堪えます」と答えた。これにより周挙は諫議大夫(皇帝諫言官)に任命された。 異民族の侵攻と天変地異9月、羌族が武威を侵攻した。辛亥の晦日(月末)に日食が発生した。 涼州の防衛対策冬10月癸丑の日、羌族の侵攻が続いたため、涼州の住民は恐慌状態となった。朝廷は安定郡の住民を扶風へ、北地郡の住民を馮翊へ強制移住させた。11月庚子の日、執金吾(首都警備長官)の張喬が車騎将軍代理となり、兵1万5千を率いて三輔(長安近郊)を守備した。 李固の荊州統治荊州で長年続いていた賊の反乱を鎮めるため、大将軍府従事中郎・李固が荊州刺史に任命された。着任すると官吏を派遣して民心を慰撫し、賊の過去の罪を赦して更生を促した。これにより賊の首領・夏密ら600人以上が自ら縄につき降伏。李固は彼らを赦免して帰郷させ、仲間を帰順させるよう命じつつ、法の厳罰も示した。半年で残りの賊も全て降伏し、荊州は平穏になった。 高賜弾劾と梁冀の妨害李固は南陽太守・高賜らの汚職を上奏したが、高賜らは大将軍・梁冀に多額の賄賂を贈った。梁冀が千里先から警告文書を送るが、李固はかえって厳しく追及したため、梁冀は彼を泰山太守に左遷した。 李固の泰山郡改革泰山郡では賊が何年も拠点を構え、郡兵千人で討伐しても制圧できなかった。李固が着任すると、郡兵を全員帰農させ、戦闘要員のみ百人余りを選抜。恩義と信頼で賊を懐柔し、帰順を誘導した。 解説
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| 未滿歲,賊皆弭散。 孝順皇帝下漢安元年(壬午,公元一四二年) 春,正月,癸巳,赦天下,改元。 秋,八月,南匈奴句龍吾斯與薁鞬、台耆等復反,寇掠並部。 丁卯,遺侍中河內杜喬、周舉、守光祿大夫周栩、馮羨、魏郡欒巴、張綱、郭遵、劉班分行州郡,表賢良,顯忠勤;其貪污有罪者,刺史、二千石驛馬上之,墨綬以下便輒收舉。喬等受命之部,張綱獨埋其車輪於雒陽都亭,曰:「豺狼當路,安問狐狸!」遂劾奏:「大將軍冀、河南尹不疑,以外戚蒙恩,居阿衡之任,而專肆貪叨,縱恣無極,多樹諂諛以害忠良,誠天威所不赦,大辟所宜加也。謹條其無君之心十五事,斯皆臣子所切齒者也。」書御,京師震竦。時皇后寵方盛,諸梁姻族滿朝,帝雖知綱言直,不能用也。杜喬至冶金兗州,表奏泰山太守李固政為天下第一,上征固為將作大匠。八使所劾奏,多梁冀及宦者親黨;互為請救,事皆寢遏。侍御史河南種暠疾之,復行案舉。廷尉吳雄、將作大匠李固亦上言:「八使所糾,宜急誅罰。」帝乃更下八使奏章,令考正其罪。 梁冀恨張綱,思有以中傷之。時廣陵賊張嬰寇亂揚、徐間積十餘年,二千石不能制,冀乃以綱為廣陵太守。前太守率多求兵馬,綱獨請單車之職。既到,逕詣嬰壘門;嬰大驚,遽走閉壘。綱於門外罷遣吏兵,獨留所親者十餘人,以書喻嬰,請與相見。 |
現代日本語訳:【漢安元年(西暦142年)の主な出来事】春正月癸巳(10日) 秋八月 丁卯(日付不明) 巡察団が洛陽を出発する際、張綱だけが都亭(宿泊施設)で車輪を地中に埋め、こう宣言した: この上奏は朝廷に衝撃を与えたが、梁皇后の権勢が絶大で梁一族が朝廷を牛耳っていたため、順帝は張綱の正論を認めつつも処罰を実行できなかった。 一方、巡察使・杜喬が兗州で泰山太守・李固(りこ)を「天下第一の能吏」と推薦。順帝は李固を将作大匠(宮廷建築長官)に抜擢した。 【梁冀の陰謀と張綱の決断】張綱の弾劾に激怒した梁冀は、彼を陥れる機会を狙っていた。 前任者たちは常に大軍を要請していたが、張綱は単騎で赴任。 解説:
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| 嬰見綱至誠,乃出拜謁。綱延置上坐,譬之曰:「前後二千石多肆貪暴,故致公等懷憤相聚。二千石信有罪矣,然為之者又非義也。今主上仁聖,欲以文德服叛,故遣太守來,思以爵祿相榮,不願以刑罰相加,今誠轉禍為福之時也。若聞義不服,天子赫然震怒,荊、揚、兗、豫大兵雲合,身首橫分,血嗣俱絕。二者利害,公其深計之!」嬰聞,泣下曰:「荒裔愚民,不能自通朝廷,不堪侵枉,遂復相聚偷生,若魚游釜中,知其不可久,且以喘息須臾間耳!今聞明府之言,乃嬰等更生之辰也!」乃辭還營。明日,將所部萬餘人與妻子面縛歸降。綱單車入嬰壘,大會,置酒為樂,散遣部眾,任從所之;親為卜居宅、相田疇;子弟欲為吏者,皆引召之。人情悅服,南州晏然。朝廷論功當封,梁冀遏之。在郡一歲,卒;張嬰等五百餘人為之制服行喪,送到犍為,負土成墳。詔拜其子續為郎中,賜錢百萬。 是時,二千石長吏有能政者,有雒陽令渤海任峻、冀州刺史京兆蘇章、膠東相陳留吳祐。雒陽令自王渙之後,皆不稱職。峻能選用文武吏,各盡其用,發奸不旋踵,民間不畏吏,其威禁猛於渙,而文理政教不如也。章為冀州刺史,有故人為清河太守,章行部,欲案其奸臧,乃主太守為設酒餚,陳平生之好甚歡。太守喜曰:「人皆有一天,我獨有二天!」章曰:「今夕蘇孺文與故人飲者,私恩也;明日冀州刺史案事者,公法也。 |
現代日本語訳:張嬰(ちょうえい)は、綱(こう)の誠実な態度を見て、進み出て挨拶した。綱は彼を上座に招き、こう説いた。「これまでの太守たちは暴政を働き、民衆を苦しめてきた。彼らが罪深いのは確かだが、お前たちが反乱を起こすのも道理にかなっているとは言えない。今、皇帝は仁愛と英知をもって治めており、武力ではなく懐柔策で反乱を鎮めようとしている。爵位や俸禄を与えて厚遇するつもりだ。これこそが災いを転じて福と為す好機なのだ。もしもこの好意を受け入れないなら、皇帝は激怒し、荊州(けいしゅう)・揚州(ようしゅう)・兗州(えんしゅう)・豫州(よしゅう)の大軍を派遣するだろう。その時はお前たちは皆殺しにされ、子孫までも絶えることになる。どちらが得か、よく考えたまえ」 これを聞いた張婴は涙を流して言った。「辺境の愚かな民である私たちは、朝廷に訴える手段もなく、不当な圧迫に耐えかねて集まり、かろうじて生き延びてきたのです。まるで釜の中で泳ぐ魚のように、長くは続かないとわかっていました。今、あなた様(明府)のこのお言葉こそが、私たちに新たな生きる道を与えてくださったのです」。そう言って陣営に戻った。 翌日、張嬰は配下の一万余人を率い、妻子を連れて自ら縄につながり投降した。綱は単騎で張婴の陣営に入り、盛大な宴を開いて酒を振る舞い、配下の者たちを解散させた。さらに自ら彼らの住居や農地を整え、役職を望む者には役職を与えた。人々は心から悦服し、南部地域は平穏を取り戻した。 朝廷は綱の功績を評価して爵位を与えようとしたが、梁冀(りょうけ)が妨害した。郡守として在任すること一年、綱は亡くなった。張婴ら五百余人は喪服を着て彼を弔い、遺骸を犍為(けんい)まで送り、自らの手で墓を築いた。皇帝は詔を下し、綱の子・続(ぞく)を郎中(ろうちゅう)に任命し、銭百万を下賜した。 当時、有能な太守・国相(二千石の高官)としては、洛陽令・渤海出身の任峻(にんしゅん)、冀州刺史・京兆出身の蘇章(そしょう)、膠東相・陳留出身の呉祐(ごゆう)らがいた。洛陽令は王渙(おうかん)の後任がことごとく不適格であった中で、任峻だけは文武の官吏を適材適所に登用し、不正を即座に摘発した。民衆は彼を恐れつつも慕い、その威厳と統制力は王渙を上回ったが、文治教化の面では及ばなかった。 冀州刺史の蘇章は旧友が清河太守を務めていた時、巡察に訪れてその不正を調べようとした。蘇章が自ら酒宴を設けて旧交を温めると、太守は喜んで言った。「人は皆一つ天(守護者)を持つものですが、私は二つ持っているのです!」。すると蘇章は言った。「今夜、蘇孺文(そじゅぶん=蘇章の字)が旧友と飲むのは私情によるものだ。明日、冀州刺史が公務を執り行うのは公法によるものだ」。 解説:
この訳文では、厳密な逐語訳より『後漢書』の語り口を再現することに重点を置き、故事の教訓性が現代日本語でも伝わるよう配慮しました。特に官吏の台詞には威厳と格調を持たせ、歴史叙述のリズムを保持しています。 Translation took 2200.6 seconds. |
| 」遂舉正其罪,州境肅然。後以摧折權豪忤旨,坐免。時天下日敝,民多愁苦,論者日夜稱章,朝廷遂不能復用也。祐為膠東相,政崇仁簡,民不忍欺。嗇夫孫性,私賦民錢,市衣以進其父,父得而怒曰:「有君如是,何忍欺之!」促歸伏罪。性慚懼詣閣,持衣自首。祐屏左右問其故,性具談父言。祐曰:「掾以親故受污穢之名,所謂『觀過斯知仁矣。』」使歸謝其父,還以衣遺之。 冬,十月,辛未,太尉桓焉、司徒劉壽免。 罕羌邑落五千餘戶詣趙沖降,唯燒何種據參絲未下。甲戌,罷張喬軍屯。 十一月,壬午,以司隸校尉下邳趙峻為太尉,大司農胡廣為司徒。 孝順皇帝下漢安二年(癸未,公元一四三年) 夏,四月,庚戌,護羌校尉趙沖與漢陽太守張貢擊燒當羌於參絲,破之。 六月,丙寅,立南匈奴守義王兜樓儲為呼蘭若屍逐就單于。時兜樓儲在京師,上親臨軒授璽綬,引上殿,賜車馬、器服、金帛甚厚。詔太常、大鴻臚與諸國侍子於廣陽城門外祖會,饗賜、作樂、角抵、百戲。 冬,閏十月,趙衝擊燒當羌於阿陽,破之。 十一月,使匈奴中郎將扶風馬寔遣人刺殺句龍吾斯。 涼州自九月以來,地百八十震,山谷坼裂,壞敗城寺,民壓死者甚眾。 尚書令黃瓊以前左雄所上孝廉之選,專用儒學、文吏,於取士之義猶有所遺,乃奏增孝悌及能從政者為四科;帝從之。 |
翻訳結果:現代日本語訳:
解説:
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| 孝順皇帝下建康元年(甲申,公元一四四年) 春,護羌從事馬玄為諸羌所誘,將羌眾亡出塞,領護羌校尉衛琚追擊玄等,斬首八百餘級。趙沖復追叛羌到建威鸇陰河;軍度竟,所將降胡六百餘人叛走;衝將數百人追之,遇羌伏後,與戰而歿。沖雖死,而前後多所斬獲,羌由是衰耗。詔封沖子為義陽亭侯。 夏,四月,使匈奴中郎將馬寔擊南匈奴左部,破之。於是胡、羌、烏桓悉詣寔降。 辛巳,立皇子炳為太子,改元,赦天下。太子居承光宮,帝使侍御史種暠監其家。中常侍高梵從中單駕出迎太子,時太傅杜喬等疑不欲從而未決,暠乃手劍當車曰:「太子,國之儲副,人命所繫。今常侍來,無詔信,何以知非奸邪?今日有死而已!」梵辭屈,不敢對,馳還奏之。詔報,太子乃得去。喬退而歎息,愧暠臨事不惑;帝亦嘉其持重,稱善者良久。 揚、徐盜賊群起,盤互連歲。秋,八月,九江范容、周生等寇掠城邑,屯據歷陽,為江、淮巨患;遣御史中丞馮緄督州兵討之。 庚午,帝崩於玉堂前殿。太子即皇帝位,年二歲。尊皇后曰皇太后。太后臨朝。 丁丑,以太尉趙峻為太傅,大司農李固為太尉,參錄尚書事。 九月,丙午,葬孝順皇帝於憲陵,廟曰敬宗。 是日,京師及太原、雁門地震。 庚戌,詔舉賢良方正之士,策問之。皇甫規對曰:「伏惟孝順皇帝初勤王政,紀綱四方,幾以獲安;後遭奸偽,威分近習,受賂賣爵,賓客交錯,天下擾擾,從亂如歸,官民並竭,上下窮虛。 |
現代日本語訳建康元年(甲申、西暦144年)の記録春: - 羌族担当官の馬玄が羌族の誘いに乗り、配下の羌族を率いて国境を脱出した。 - 護羌校尉の衛琚が馬玄らを追撃し、800人以上の首級を挙げた。 - 趙冲が反乱した羌族を建威鸇陰河まで追撃したが、帰還途中で投降していた異民族600人が反乱。 - 趙冲は数百の手勢を率いて追撃したが、羌族の待ち伏せに遭い、戦死した。 - 趙冲の奮戦により羌族は甚大な損害を受け、勢力が衰退したため、皇帝は趙冲の子に「義陽亭侯」の爵位を授けた。 夏(4月): - 匈奴中郎将の馬寔が南匈奴の左部を攻撃し、撃破した。 - これにより匈奴・羌族・烏桓ら異民族が相次いで馬寔に降伏した。 4月(辛巳の日): - 皇子の劉炳が皇太子に立てられ、元号を「建康」に改元。恩赦が施行された。 - 皇太子は承光宮に居住し、皇帝は侍御史の種暠に東宮の警護を命じた。 - 中常侍の高梵が単独で馬車を駆り皇太子を迎えに来たが、太傅の杜喬らは同行を躊躇した。 - 種暠が剣を手に馬車の前で「皇太子は国の将来を担うお方だ。詔書もない者をどう信用せよ? 我が命ある限り通さぬ!」と宣言。 - 高梵は抗弁できず急いで宮廷に戻り報告。詔書が正式に届いた後、皇太子は移動した。 - 杜喬は種暠の決断力に感嘆し、皇帝も彼の慎重さを称賛して「良し」と繰り返し述べた。 秋(8月): - 揚州・徐州で盗賊が蜂起し、数年にわたり略奪を繰り返した。 - 九江郡の范容・周生らが城邑を襲撃し、歴陽を占拠。長江・淮水流域の大患となる。 - 朝廷は御史中丞の馮緄を派遣し、州兵を統率させて鎮圧にあたらせた。 8月(庚午の日): - 皇帝が玉堂前殿で崩御。 - 皇太子(劉炳)が即位(後漢の沖帝)。わずか2歳。 - 皇后が皇太后に立てられ、垂簾聴政を開始。 8月(丁丑の日): - 太尉の趙峻が太傅に、大司農の李固が太尉に任命される。 - 両名が「録尚書事」として朝廷の実務を統括。 9月(丙午の日): - 孝順皇帝(劉保)が憲陵に埋葬され、廟号を「敬宗」と定められた。 - この日、洛陽(京師)・太原・雁門で地震が発生。 9月(庚戌の日): - 朝廷が「賢良方正」(有徳の人材)を推挙する詔を発布。 - 皇甫規が上奏文で以下のように分析:
解説(歴史的背景)
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| 陛下體兼乾坤,聰哲純茂,攝政之初,拔用忠貞,其餘維綱,多所改正,遠近翕然望見太平,而災異不息,寇賊縱橫,殆以奸臣權重之所致也。其常侍尤無狀者,宜亟黜遣,披掃凶黨,收入財賄,以塞痛怨,以答天誡。大將軍冀、河南尹不疑,亦宜增修謙節,輔以儒術,省去游娛不急之務,割減廬第無益之飾。夫君者,舟也;民者,水也;群臣,乘舟者也;將軍兄弟,操楫者也。若能平志畢力,以度元元,所謂福也。如其怠弛,將淪波濤,可不慎乎!夫德不稱祿,猶鑿墉之趾以益其高,豈量力審功,安固之道哉!凡諸宿猾、酒徒、戲客,皆宜貶斥,以懲不軌。令冀等深思得賢之福,失人之累。」梁冀忿之,以規為下第,拜郎中;托疾,免歸,州郡承冀旨,幾陷死者再三,遂沉廢於家,積十餘年。 揚州刺史尹耀、九江太守鄧顯討范容等於歷陽,敗歿。 冬,十月,日南蠻夷復反,攻燒縣邑。交趾刺史九江夏方招誘降之。 十一月,九江盜賊徐鳳、馬勉等攻燒城邑;鳳稱無上將軍,勉稱皇帝,築營於當塗山中,建年號,置百官。 十二月,九江賊黃虎等攻合肥。 是歲,群盜發憲陵。 漢孝皇帝 孝順皇帝下永嘉元年(乙酉,公元一四五年) 春,正月,戊戌,帝崩於玉堂前殿。梁太后以揚、徐盜賊方盛,欲須所征諸王侯到乃發喪。太尉李固曰:「帝雖幼少,猶天下之父。 |
現代日本語訳:(李規の諫言部分) 「陛下は天地の徳を兼ね備えられ、聡明で知恵深く、摂政を始められてからは忠義の者を登用し、その他の制度も多く改正されました。遠く近くの人々が太平の世を見たと思ったのに、災異が止まず、賊徒が横行しているのは、奸臣の権力が強すぎるためです。特に常侍(宦官)で不行跡な者は速やかに罷免し、悪党を一掃し、賄賂を没収して民の怨みを鎮め、天の戒めに応えるべきです。大将軍の梁冀や河南尹の梁不疑(梁冀の弟)も謙虚さを増し、儒学を重んじ、遊興や不急の務めを省き、邸宅の豪華な装飾を減らすべきです。そもそも君主は船、民は水、臣下は船客、将軍らは櫂を操る者です。心を一つにして民を渡すのが『福』であり、怠れば波に飲まれる――慎重にならねばなりません。徳が禄に見合わぬのは、城壁の基礎を掘り崩すようなもので、政権安泰の道とは言えません。悪賢い者や道楽者は罷免し、非道を懲らしめるべきです。梁冀らには『賢人を得るのが福、人材を失うのが損失』と深く考えさせてください」 (梁冀の報復と地方情勢) 梁冀は激怒し、李規を下位の官位(郎中)に左遷した。李規は病と称して辞任し、故郷に戻ったが、梁冀の指示を受けた地方官は幾度も彼を殺害しようとし、李規は十数年間を隠遁せざるを得なかった。 (軍事失敗と反乱の拡大) ・揚州刺史の尹耀と九江太守の鄧顕が歴陽で反乱軍の范容らを討とうとしたが、敗死した。 ・冬10月:日南郡の蛮族が再反乱し、役所や集落を焼き払った。交趾刺史の夏方(九江出身)が懐柔策で降伏させた。 ・11月:九江で盗賊の徐鳳・馬勉が蜂起。徐鳳は「無上将軍」、馬勉は「皇帝」を名乗り、当塗山に拠点を築き、元号を定め官僚を置いた。 ・12月:九江の賊・黄虎らが合肥を攻撃。 ・同年:憲陵(順帝の陵墓)が盗賊に掘られる。 (皇帝崩御と後継問題) ・永嘉元年(145年)春正月戊戌:幼帝(沖帝)が玉堂前殿で崩御。梁太后は揚州・徐州で賊徒が猛威を振るっていたため、諸侯王らが洛陽に到着するまで葬儀を延期しようとした。太尉の李固が反論:「皇帝は幼少でも天下の父である。今日崩御されれば民も皇子(劉炳)も心臓を穿たれたように悲しむ。喪を発しないのは『子を失っても泣かぬ』(礼儀否定)に等しい。また遺体を安置すれば姦人が悪事を企む恐れがあります」 解説(現代日本語):
歴史的意義:本章は後漢中期の政治腐敗と社会混乱を凝縮して描き、後に起こる「党錮の禁」(清流派官吏の弾圧)や黄巾の乱へ至る過程の起点を示す。李規と李固(同族か?)らの清流派が梁冀ら外戚勢力と対立する構図は、後漢滅亡の伏線となっている。 (注)史実補足: - 本章の幼帝は沖帝劉炳(2歳で即位、3歳で崩御)。 - 李固は後継皇帝として清流派が推す劉蒜を支持したが、梁冀に阻まれ、翌年に免職・処刑された。 - 「揚徐の盗賊」は後に「黄巾の乱」(184年)を起こす太平道の precursor(前駆勢力)と解釈される。 Translation took 3756.3 seconds. |
| 今日崩亡,人神感動,豈有人子反共掩匿乎!昔秦皇沙丘之謀及近日北鄉之事,皆秘不發喪,此天下大忌,不可之甚者也!」太后從之,即暮發喪。征清河王蒜及渤海孝王鴻之子纘皆至京師。蒜父曰清河恭王延平;延平及鴻皆樂安夷王寵之子,千乘貞王伉之孫也。清河王為人嚴重,動止有法度,公卿皆歸心焉。李固謂大將軍冀曰:「今當立帝,宜擇長年,高明有德,任親政事者,願將軍審詳大計,察周、霍之立文、宣,戒鄧、閻之利幼弱!」冀不從,與太后定策禁中。丙辰,冀持節以王青蓋車迎纘入南宮。丁巳,封為建平侯。其日,即皇帝位,年八歲。蒜罷歸國。 將卜山陵,李固曰:「今處處寇賊,軍興費廣,新創憲陵,賦發非一。帝尚幼小,可起陵於憲陵塋內,依康陵制度。」太后從之。己未,葬孝沖皇帝於懷陵。 太后委政宰輔,李固所言,太后多從之,黃門宦官為惡者一皆斥遣,天下鹹望治平。而梁冀深忌疾之。初,順帝時所除官多不以次;及固在事,奏免百餘人。此等既怨,又希望冀旨,遂共作飛章誣奏固曰:「太尉李固,因公假私,依正行邪,離間近戚,自隆支黨。大行在殯,路人掩涕,固獨胡粉飾貌,搔頭弄姿,槃旋偃仰,從容治步,曾無慘怛傷悴之心。山陵未成,違矯舊政,善則稱己,過則歸君;斥逐近臣,不得侍送。作威作福,莫固之甚矣!夫子罪莫大於累父,臣惡莫深於毀君,固之過釁,事合誅辟。 |
日本語訳本文「今日、皇帝が崩御された。人々の心は深く動かされている。まさか身内の者が崩御を隠蔽しようなどとは! 昔の秦の始皇帝の沙丘での謀略や、近年の北郷亭侯(孝殤帝)の件のように、ひそかに崩御を隠すことは、天下の大忌である。これほどまでに慎むべきことはない!」 注釈
翻訳の特徴
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| 」書奏,冀以白太后,使下其書;太后不聽。 廣陵賊張嬰復聚眾數千人反,據廣陵。 二月,乙酉,赦天下。 西羌叛亂積年,費用八十餘億。諸將多斷盜牢稟,私自潤入,皆以珍寶貨賂左右。上下放縱,不恤軍事,士卒不得其死者,白骨相望於野。左馮翊梁並以恩信招誘叛羌;離湳、狐奴等五萬餘戶皆詣並降,隴右復平。 太后以徐、揚盜賊益熾,博求將帥。三公舉涿令北海滕撫有文武才;詔拜撫九江都尉,與中郎將趙序助馮緄,合州郡兵數萬人共討之。又廣開賞募,錢、邑各有差。又議遣太尉李固,未及行。三月,撫等進擊眾賊,大破之,斬馬勉、范容、周生等千五百級。徐鳳以餘眾燒東城縣。夏,五月,下邳人謝安應募,率其宗親設伏擊鳳,斬之。封安為平鄉侯。拜滕撫中郎將,督揚、徐二州事。 丙辰,詔曰:「孝殤皇帝即位逾年,君臣禮成。孝安皇帝承襲統業,而前世遂令恭陵在康陵之上,先後相逾,失其次序。今其正之!」 六月,鮮卑寇代郡。 秋,廬江盜賊攻尋陽,又攻盱台。滕撫遣司馬王章擊破之。 九月,庚戌,太傅趙峻薨。 滕撫進擊張嬰;冬,十一月,丙午,破嬰,斬獲千餘人。丁未,中郎將趙序坐畏懦、詐增首級,棄市。 歷陽賊華孟自稱黑帝,攻殺九江太守楊岑。滕撫進擊,破之,斬孟等三千八百級,虜獲七百餘人。 |
現代日本語訳歴史記録上奏文が皇太后に提出されましたが、皇太后はこれを承認しませんでした。 2月乙酉の日、恩赦が実施されました。 皇太后は徐州・揚州で賊勢力が拡大している状況を受け、将軍人材を広く募集しました。 夏5月、下邳の民間人・謝安が官軍に志願し、一族を率いて徐鳳を奇襲討伐しました。 丙辰の日、詔書が発布されました: 6月、鮮卑族が代郡に侵攻しました。 冬11月、滕撫が張嬰討伐に出陣。丙午の日に勝利し千余の賊兵を討ち取ります。 解説この記録は後漢末期の混乱を多角的に伝えます:
1. 朝廷の腐敗構造
当時の後漢王朝が、地方支配の弛緩・異民族問題・統治機構の腐敗という三重苦に直面していた実態が浮き彫りになります。滕撫のような有能な人材の活躍も、体制そのものの衰退を食い止めるには至らなかったことが読み取れます。 Translation took 3088.5 seconds. |
| 於是東南悉平,振旅而還。以撫為左馮翊。 永昌太守劉君世,鑄黃金為文蛇,以獻大將軍冀;益州刺史種暠糾發逮捕,馳傳上言。冀由是恨暠。會巴郡人服直聚黨數百人,自稱天王,暠與太守應承討捕,不克,吏民多被傷害;冀因此陷之,傳逮暠、承。李固上疏曰:「臣伏聞討捕所傷,本非暠、承之意,實由縣吏懼法畏罪,迫逐深苦,致此不詳。比盜賊群起,處處未絕。暠、承以首舉大奸而相隨受罪,臣恐沮傷州縣糾發之意,更共飾匿,莫復盡心!」太后省奏,乃赦暠、承罪,免官而已。金蛇輸司農,冀從大司農杜喬借觀之,喬不肯與;冀小女死,令公卿會喪,喬獨不往,冀由是銜之。 |
現代日本語訳:東南地域が完全に平定されたため、軍は凱旋し、撫(将軍の名)を左馮翊(長安近郊の行政長官)に任命した。 解説(歴史背景と表現):
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| input text 資治通鑑\053_漢紀_45.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷五十三 漢紀四十五 起柔兆閹茂,盡柔兆涒灘,凡十一年。 孝質皇帝本初元年(丙戌,公元一四六年) 夏,四月,庚辰,令郡、國舉明經詣太學,自大將軍以下皆遣子受業;歲滿課試,拜官有差。又千石、六百石、四府掾屬、三署郎、四姓小侯先能通經者,各令隨家法,其高第者上名牒,當以次賞進。自是遊學增盛,至三萬餘生。 五月,庚寅,徙樂安王鴻為渤海王。 海水溢,漂沒民居。 六月,丁巳,赦天下。 帝少而聰慧,嘗因朝會,目梁冀曰:「此跋扈將軍也!」冀聞,深惡之。閏月,甲申,冀使左右置毒於煮餅以進之。帝若煩甚,使促召太尉李固。固入前,問帝得患所由;帝尚能言,曰:「食煮餅。今腹中悶,得水尚可活。」時冀亦在側,曰:「恐吐,不可飲水。」語未絕而崩。固伏屍號哭,推舉侍醫。冀慮其事洩,大惡之。 將議立嗣,固與司徒胡廣、司空趙戒先與冀書曰:「天下不幸,頻年之間,國祚三絕。今當立帝,天下重器,誠知太后垂心,將軍勞慮,詳擇其人,務存聖明。然愚情眷眷,竊獨有懷。遠尋先世廢立舊儀,近見國家踐祚前事,未嘗不詢訪公卿,廣求群議,令上應天心,下合眾望。《傳》曰:『以天下與人易,為天下得人難。』昔昌邑之立,昏亂日滋;霍光憂愧發憤,悔之折骨。自非博陸忠勇,延年奮發,大漢之祀,幾將傾矣。 |
訳文巻五十三・後漢紀四十五 孝質皇帝・本初元年(丙戌、西暦146年) 五月庚寅:楽安王・劉鴻を渤海王に転封した。 同年:洪水が発生し、民家が流された。 六月丁巳:大赦を施行した。 皇帝暗殺事件 後継皇帝をめぐる書簡 解説
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| 至憂至重,可不熟慮!悠悠萬事,唯此為大;國之興衰,在此一舉。」冀得書,乃召三公、中二千石、列侯,大議所立。固、廣、戒及大鴻臚杜喬皆以為清河王蒜明德著聞,又屬最尊親,宜立為嗣,朝臣莫不歸心。而中常侍曹騰嘗謁蒜,蒜不為禮,宦者由此惡之。初,平原王冀既貶歸河間,其父請分蠡吾縣以侯之;順帝許之。翼卒,子志嗣;梁太后欲以女弟妻志,征到夏門亭。會帝崩,梁冀欲立志。眾論既異,憤憤不得意,而未有以相奪。曹騰等聞之,夜往說冀曰:「將軍累世有椒房之親,東攝萬機,賓客縱橫,多有過差。清河王嚴明,若果立,則將軍受禍不久矣!不如立蠡吾侯,富貴可長保也。」冀然其言,明日,重會公卿,冀意氣凶凶,言辭激切,自胡廣、趙戒以下莫不懾憚,皆曰:「惟大將軍令!」獨李固、杜喬堅守本議。冀厲聲曰:「罷會!」固猶望眾心可立,復以書勸冀,冀愈激怒。丁亥,冀說太后,先策免固。戊子,以司徒胡廣為太尉;司空趙戒為司徒,與大將軍冀參錄尚書事;太僕袁湯為司空。湯,安之孫也。庚寅,使大將軍冀持節以王青蓋車迎蠡吾侯志入南宮;其日,即皇帝位,時年十五。太后猶臨朝政。 秋,七月,乙卯,葬孝質皇帝於靜陵。 大將軍掾朱穆奏記勸戒梁冀曰:「明年丁亥之歲,刑德合於乾位,《易經》龍戰之會,陽道將勝,陰道將負。 |
現代日本語訳極めて憂慮すべき重大事である、熟考せざるを得ない!数多の政務の中でもこれが最も重要であり、国家の興亡はこの決断にかかっている。」梁冀(りょうき)はこの書簡を受け取ると、三公・中二千石(高級官僚)・列侯を召集し、後継皇帝選定に関する会議を開いた。李固(りこ)・胡広(ここう)・趙戒(ちょうかい)、および大鴻臚の杜喬(ときょう)は皆「清河王劉蒜(せいかおうりゅうさん)は徳望が高く、血統も最も尊貴である。後継にすべきだ」と主張し、朝廷の臣僚たちも心服していた。しかし中常侍曹騰(そうとう)が以前劉蒜に謁見した際、礼遇を受けなかったため宦官らは彼を憎悪していた。 かつて平原王劉翼(へいげんおうりゅうよく)が河間国に左遷された時、その父が蠡吾県の一部を与えて侯爵とするよう要請し順帝が許可したことがあった。劉翼没後は子の劉志(りゅうし)が継承していた。梁太后は妹を劉志にと妻せるため彼を夏門亭に呼び寄せたところ、ちょうど皇帝崩御に遭遇する。 梁冀は劉志擁立を画策したが他の意見と対立して不満鬱積させていた。曹騰らはこれを察し夜密かに進言した。「将軍家は代々皇后の外戚として政権を掌握され、門客も横行しています。もし厳格な清河王が即位すればまもなく災いが及ぶでしょう。蠡吾侯(劉志)なら永く富貴が保てます」。梁冀はこれを容れ、翌日再び公卿会議を召集するや凄まじい形相で激昂し、「大將軍の命令に従え!」と迫ったため胡広・趙戒以下全員が屈服した。しかし李固と杜喬だけは当初の主張を貫く。梁冀は「散会!」と怒鳴りつけ、なおも人心掌握を試みる李固からの書簡には逆上した。 結局丁亥(ていがい)の日、梁冀は太后に働きかけまず李固を罷免させた。翌戊子(ぼし)、胡広を太尉、趙戒を司徒に昇格させ自らと共に尚書事務を掌握させる一方、袁湯(えんとう)(袁安の孫)を司空とした。庚寅(こういん)には梁冀が王用青蓋車で蠡吾侯劉志を南宮へ迎え入れ、即日15歳で皇帝(桓帝)に即位させたが、太后は引き続き垂簾聴政を行った。 同年秋七月乙卯(おつぼう)、孝質皇帝を靜陵に葬る。 解説
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| 願將軍專心公朝,割除私慾,廣求賢能,斥遠佞惡,為皇帝置師傅,得小心忠篤敦禮之士,將軍與之俱入,參勸講援,師賢法古,此猶倚南山、坐平原也,誰能傾之!議郎大夫之位,本以式序儒術高行之士,今多非其人,九卿之中亦有乖其任者,惟將軍察焉!」又薦種暠、欒巴等,冀不能用。穆,暉之孫也。 九月,戊戌,追尊河間孝王為孝穆皇,夫人趙氏曰孝穆後,廟曰清廟,陵曰樂成陵;蠡吾先侯曰孝崇皇,廟曰烈廟,陵曰博陵;皆置令、丞、使司徒持節奉策書璽綬,祠以太牢。 冬,十月,甲午,尊帝母匽氏為博園貴人。 滕撫性方直,不交權勢,為宦官所惡;論討賊功當封,太尉胡廣承旨奏黜之;卒於家。 孝桓皇帝上之上 孝桓皇帝建和元年(丁亥,公元一四七年) 春,正月,辛亥朔,日有食之。 戊午,赦天下。 三月,龍見譙。 夏,四月,庚寅,京師地震。 立阜陵王代兄勃遒亭侯便為阜陵王。 六月,太尉胡廣罷。光祿勳杜喬為太尉。自李固之廢,內外喪氣,群臣側足而立,唯喬正色無所回橈,由是朝野皆倚望焉。 秋,七月,渤海孝王鴻薨,無子;太后立帝弟蠡吾侯悝為渤海王,以奉鴻祀。 詔以定策功,益封梁冀萬三千戶,封冀弟不疑為穎陽侯,蒙為西平侯,冀子胤為襄邑侯,胡廣為安樂侯,趙戒為廚亭侯,袁湯為安國侯。 |
現代日本語訳建和元年(西暦147年)の記録
解説
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| 又封中常侍劉廣等皆為列侯。杜喬諫曰:「古之明君,皆以用賢、賞罰為務。失國之主,其朝豈無貞干之臣,典誥之篇哉?患得賢不用其謀,韜書不施其教,聞善不信其義,聽讒不審其理也。陛下自籓臣即位,天人屬心,不急忠賢之禮而先左右之封,梁氏一門,宦者微孽,並帶無功之紱,裂勞臣之土,其為乖濫,胡可勝言!夫有功不賞,為善失其望;奸回不詰,為惡肆其凶。故陳資斧而人靡畏,班爵位而物無勸。苟遂斯道,豈伊傷政為亂而已,喪身亡國,可不慎哉!」書奏,不省。 八月,乙未,立皇后梁氏。梁冀欲以厚禮迎之,杜喬據執舊典不聽。冀屬喬舉汜宮為尚書,喬以宮為臧罪,不用。由是日忤於冀。九月,丁卯,京師地震。喬以災異策免。冬,十月,以司徒趙戒為太尉,司空袁湯為司徒,前太尉胡廣為司空。 宦者唐衡、左心官共譖杜喬於帝曰:「陛下前當即位,喬與李固抗議,以為不堪奉漢宗祀。」帝亦怨之。十一月,清河劉文與南郡妖賊劉鮪交通,妄言:清河王當統天下,欲共立蒜。事覺,文等遂劫清河相謝暠曰:「當立王為天子,以暠為公。」暠罵之,文刺殺暠。於是捕文、鮪,誅之。有司劾奏蒜;坐貶爵為尉氏侯,徙桂陽,自殺。梁冀因誣李固、杜喬,雲與文、鮪等交通,請逮按罪;太后素知喬忠,不許。冀遂收固下獄;門生渤海王調貫械上書,證固之枉,河內趙承等數十人亦要鈇鍎詣闕通訴;太后詔赦之。 |
現代日本語訳前段の要約: 中常侍(皇帝側近の宦官)の劉広らが列侯(諸侯の爵位)に封じられた。杜喬(忠臣)が諫言した:「昔の賢明な君主は、人材登用と公正な賞罰を重んじました。国を滅ぼした君主の朝廷にも、忠義の臣や良書はあったのに、賢者を用いず、その献策を無視し、善を信じず、讒言を真に受けたから滅びたのです。陛下は諸侯から即位され、天と民の心を得られたのに、忠臣を遇さず側近ばかりを厚遇する。梁氏一族(外戚)や宦官たちは功績もないのに爵位を得、功臣の領地を奪う。この不公正は言葉に尽くせません!功績を賞さず、悪を問わねば、人は刑罰を恐れず、爵位も価値を失う。このままでは政治は乱れ、国家は滅亡します。どうか慎重に!」 → 結果: この上奏は無視された。 8月:
- 乙未の日、梁皇后が立后される。梁冀(皇后の兄で権力者)が豪華な儀式を望んだが、杜喬が「旧制では皇后の一族が儀式を主導しない」と反対し、阻止した。
- 梁冀が杜喬に「汜宮を尚書(高官)に推挙せよ」と命じるが、杜喬は「汜宮は汚職の前科あり」と拒否。 9月:
- 丁卯の日、洛陽で地震発生。 10月:
- 人事異動: 11月:
- 宦官の唐衡・左悺(こう)が皇帝に讒言:「杜喬と李固(忠臣)は即位直後、『陛下は帝位にふさわしくない』と反対しました」 梁冀の陰謀:
- 梁冀が「李固と杜喬が劉文・劉鮪の謀反に関与」と誣告し逮捕を要求。 解説(現代語訳の補足)
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| 及出獄,京師市裡皆稱萬歲。冀聞之,大驚,畏固名德終為己害,乃更據奏前事。大將軍長史吳祐傷固之枉,與冀爭之。冀怒,不從。從事中郎馬融主為冀作章表,融時在坐,祐謂融曰:「李公之罪,成於卿手。李公若誅,卿何面目視天下人!」冀怒,起,入室;祐亦徑去。固遂死於獄中;臨命,與胡廣、趙戒書曰:「固受國厚恩,是以竭其股肱,不顧死亡,志欲扶持王室,比隆文、宣。何圖一朝梁氏迷謬,公等曲從,以吉為凶,成事為敗乎!漢家衰微,從此始矣。公等受主厚祿,顛而不扶,傾覆大事,後之良史豈有所私!固身已矣,於義得矣,夫復何言!」廣、戒得書悲慚,皆長歎流涕而已。冀使人脅杜喬曰:「早從宜,妻子可得全。」喬不肯。明日,冀遣騎至其門,不聞哭者,遂白太后收系之;亦死獄中。 冀暴固、喬屍於城北四衢,令:「有敢臨者加其罪。」固弟子汝南郭亮尚未冠,左提章、鉞,右秉鈇鍎,詣厥上書,乞收固屍,不報;與南陽董班俱往臨哭,守喪不去。夏門亭長呵之曰:「卿曹何等腐生!公犯詔書,欲干試有司乎!」亮曰:「義之所動,豈知性命,何為以死相懼邪!」太后聞之,皆赦不誅。杜喬故掾陳留楊匡,號泣星行,到雒陽,著故赤幘,托為夏門亭吏,守護屍喪,積十二日;都官從事執之以聞,太后赦之。匡因詣厥上書,並乞李、杜二公骸骨,使得歸葬,太后許之。 |
現代日本語訳李固の冤罪と梁冀の横暴李固が牢獄から釈放されたとき、都の街中で民衆が「万歳」と叫び祝賀した。この知らせを聞いた梁冀は激怒し、「李固の名声と人望がこれほど高いのは、いずれわが身に禍をもたらすに違いない」と恐れ、以前の罪状をでっち上げて再び李固を弾劾した。 正義を貫く呉祐大将軍の長史である呉祐は、李固が無実の罪を着せられていることに心を痛め、梁冀に抗議した。しかし梁冀はこれを聞き入れず、逆に激昂して席を立って奥へ引き上げてしまった。呉祐もまた、その場を去るほかなかった。 李固の最期の手紙その後、李固は獄中で亡くなった。臨終の際、胡広と趙戒に次のような手紙をしたためた。 「私は国から厚い恩恵を受けてきた。全身全霊を捧げ、死をも恐れず王室を支え、文王や武王のような聖世を築こうと志してきた。しかし梁氏一族の横暴により、諸君は彼らに屈服し、善を悪と誤認し、正しい事業を失敗へと導いてしまった。これにより漢王朝は衰退の一途をたどることになるだろう。諸君は朝廷から厚禄を受けながら、倒れかけたものを支えようともせず、大事を台無しにした。後世の歴史家がこれを記録するとき、決しておまえたちを許すことはあるまい。私の命は今や尽きようとしている。正義を貫いたことに悔いはない。これ以上言うこともない」 胡広と趙戒の慟哭この手紙を受け取った胡広と趙戒は、深く恥じ入るとともに悲しみに打ちひしがれ、ただ長く嘆息して涙を流すばかりであった。 杜喬の最期梁冀はさらに杜喬にも圧力をかけ、「早々に罪を認めれば妻子の命は助ける」と脅した。しかし杜喬は頑として屈しなかった。翌日、梁冀が使者を杜喬の屋敷に遣わすと、家の中から悲しみの声すら聞こえなかった。梁冀はすぐに太后に報告し、杜喬を捕らえて獄につなげた。こうして杜喬もまた獄死した。 晒された遺体と民衆の抵抗梁冀は李固と杜喬の遺体を都の北の四辻に晒し、「弔いに行く者は罪に問う」と布告した。このとき、李固の弟子である汝南出身の郭亮(まだ元服前の少年)が、左に奏章を、右に斧を掲げて宮門に直訴に訪れ、師の遺体の引き取りを願い出た。しかし朝廷はこれを無視した。郭亮は南陽出身の董班とともに遺体のそばで慟哭し、ひたすら喪に服してその場を離れようとしなかった。 少年の決意これを目撃した夏門亭長が郭亮を罵った:「お前たちのような小僧が、詔書に背き、役人を試そうとは何事だ!」すると郭亮はこう言い返した:「正義のために行動する者に、生死など問題ではない!死をもって脅すとは何たることか!」 太后の決断この話が太后の耳に入ると、彼女は二人を赦免するよう命じた。一方、杜喬の元部下である陳留出身の楊匡は、泣きながら夜を日についで都に駆けつけ、古い赤い頭巾を被って夏門亭吏に変装し、十二日間ひたすら遺体を守り続けた。都の役人に発見されて連行されたが、太后は彼も赦免した。楊匡はその後、宮門で直訴するとともに、李固と杜喬両公の遺骨を故郷へ帰葬させるよう嘆願した。太后はついにこの願いを聞き入れ、遺骨の埋葬を許可したのである。 解説この文章は後漢末期の権臣・梁冀による弾圧事件を描いた歴史記録です。特徴的な点を解説します:
この事件は、中国史上「党錮の禁」と呼ばれる知識人弾圧の先駆的事例として、後世に大きな影響を与えました。特に郭亮のような無名の人物が正義のために立ち上がった姿は、権力に抗する精神的支柱として長く語り継がれています。 Translation took 2278.2 seconds. |
| 匡送喬喪還家,葬訖,行服,遂與郭亮、董班皆隱匿,終身不仕。梁冀出吳祐為河間相,祐自免歸,卒於家。冀以劉鮪之亂,思朱穆之言,於是請種暠為從事中郎,薦欒巴為議郎,舉穆高第,為侍御史。 是歲,南單于兜樓儲死,伊陵屍逐就單于車兒立。 孝桓皇帝建和二年(戊子,公元一四八年) 春,正月,甲子,帝加元服。庚午,赦天下。 三月,戊辰,帝從皇太后幸大將軍冀府。 白馬羌寇廣漢屬國,殺長吏。益州刺史率板楯蠻討破之。 夏,四月,丙子,封帝弟顧為平原王,奉孝崇皇祀;尊孝崇皇夫人馬氏為孝崇園貴人。 五月,癸丑,北宮掖廷中德陽殿及左掖門火,車駕移幸南宮。 六月,改清河為甘陵。立安平孝王得子經侯理為甘陵王。奉孝德皇祀。 秋,七月,京師大水。 孝桓皇帝建和三年(己丑,公元一四九年) 夏,四月,丁卯晦,日有食之。 秋,八月,乙丑,有星孛於天市。 京師大水。 九月,己卯,地震。庚寅,地又震。 郡、國五山崩。冬,十月,太尉趙戒免;以司徒袁湯為太尉,大司農河內張歆為司徒。 是歲,前朗陵侯相荀淑卒。淑少博學有高行,當世名賢李固、李膺皆師宗之。在朗陵、蒞事明治,稱為神君。有子八人:儉、緄、靖、燾、汪、爽、肅、專,並有名稱,時人謂之八龍。所居裡舊名西豪,穎陰令渤海苑康以為昔高陽氏有才子八人,更命其裡曰高陽裡。 |
現代日本語訳:匡(杜喬を弔う者)はその遺体を家に送り届け、葬儀を終えると喪に服し、その後郭亮や董班と共に身を隠し、一生官に就かなかった。梁冀は呉祐を河間の相として任命しようとしたが、呉祐は自ら辞職して帰郷し、家で亡くなった。梁冀は劉鮪の反乱を機に朱穆の進言を思い出し、種暠を従事中郎に任命し、欒巴を議郎に推挙し、朱穆を高第(成績優秀)として侍御史に登用した。 この年、南匈奴の単于である兜樓儲が死去し、伊陵屍逐が単于(君主)の地位についた。 桓帝の建和二年(戊子の年、西暦148年) 桓帝の建和三年(己丑の年、西暦149年) この年、元朗陵侯相・荀淑が死去。荀淑は若い頃から博学で高潔な人物であり、当代の名士・李固や李膺らが師事していた。朗陵侯相として政務を公正に処理し、「神君」と称された。八人の息子(儉・緄・靖・燾・汪・爽・肅・専)はいずれも名声高く、当時の人々は彼らを「八龍」と呼んだ。居住地の旧名は西豪里であったが、潁陰県令・渤海郡出身の苑康が「昔、高陽氏(伝説の帝王)に八人の才子がいた故事」に因み、この里の名を「高陽里」と改称させた。 解説(注釈):
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| 膺性簡亢,無所交接,唯以淑為師,以同郡陳寔為友。荀爽嘗就謁膺,因為其御;既還,喜曰:「今日乃得御李君矣!」其見慕如此。陳寔出於單微,為郡西門亭長。同郡錘皓以篤行稱,前後九辟公府,年輩遠在寔前,引與為友。皓為郡功曹,辟司徒府;臨辭,太守問:「誰可代卿者?」皓曰:「明府欲必得其人,西門亭長陳寔可。」寔聞之曰:「鐘君似不察人,不知何獨識我!」太守遂以寔為功曹。時中常侍山陽侯覽托太守高倫用吏,倫教署為文學掾,寔知非其人,懷檄請見,言曰:「此人不宜用,而侯常侍不可違,寔乞從外署,不足以塵明德。」倫從之。於是鄉論怪其非舉,寔終無所言。倫後被征為尚書,郡中士大夫送至綸氏,倫謂眾人曰:「吾前為侯常侍用吏,陳君密持教還而於外白署,比聞議者以此少之,此咎由故人畏憚強禦,陳君可謂『善則稱君,過則稱己』者也。」寔固自引愆,聞者方歎息,由是天下服其德。後為太丘長,修德清靜,百姓以安。鄰縣民歸附者,寔輒訓導譬解發遣,各令還本。司官行部,吏慮民有訟者,白欲禁之。寔曰:「訟以求直,禁之,理將何申!其勿有所拘。」司官聞而歎息曰:「陳君所言若是,豈有冤於人乎!」亦竟無訟者。以沛相賦斂違法,解印綬去;吏民追思之。鐘皓素與荀淑齊名,李膺常歎曰:「荀君清識難尚,鐘君至德可師。 |
現代日本語訳李膺(りよう)は性格が厳格で寡黙であり、荀淑(じゅんしゅく)を師と仰ぎ、同郡の陳寔(ちんしょく)を友人とした。荀淑の息子・荀爽(じゅんそう)が李膺を訪ねて馬車を御したところ、帰宅後「今日は李君の御者を務める栄誉を得た」と喜んだという。彼の人望の厚さがうかがえる。 陳寔は貧しい家の出身で、郡の西門の警備隊長(亭長)を務めていた。同郡の鍾皓(しょうこう)は篤実な人柄で知られ、九度も朝廷に招聘された人物であるが、年齢は陳寔よりずっと上であったにもかかわらず、陳寔を友人とした。鍾皓が郡の人事官(功曹)を務めていた時、中央の司徒府に招かれることになり、太守が後任を尋ねると「適任者は西門の亭長・陳寔です」と推薦した。陳寔は「鍾君は普段は人を見定めないのに、なぜ私だけを?」と驚いたが、太守は彼を功曹に任命した。 当時、宦官の山陽侯・覧(らん)が太守の高倫(こうりん)に人事介入を要求し、ある人物を文書官(文学掾)に任命させようとした。陳寔はその人物が不適格だと判断し、文書を持参して高倫に直訴した:「この人物は任用に値しません。しかし侯覧の意向は逆らえません。どうか表向きは任命しつつも実権を与えない『外署』という形でお願いします。これがせいぜいの処置でしょう」。高倫はこの提案を受け入れた。 この処置を郷里の人々は「人事を誤った」と非難したが、陳寔は一切弁明しなかった。後に高倫が中央の尚書に栄転する際、郡の役人たちが綸氏(りんし)まで見送りに来た。高倫は皆の前で明かした:「以前、侯覧の圧力で不適格者を任用した件で、陳君は密かに私に『外署』とするよう進言してくれた。世間は彼を『人事を誤った』と非難しているが、実は私が権力者を恐れて判断を誤ったのだ。陳君こそ『善は主君に譲り、過ちは自ら引き受ける』人物だ」。陳寔はひたすら自分の非を認めたため、周囲は感嘆し、彼の徳を称えた。 その後、陳寔は太丘長(県令)となった。清廉な政治で民心を安定させ、近隣の県から流入した難民にも懇切に説得して帰郷させた。監察官が巡察に訪れた際、部下が「訴訟が増えるのを防ぎたい」と申し出たが、陳寔は戒めた:「訴訟は正義を求める手段だ。これを禁止すれば正義はどこにある? 制限してはならない」。監察官は感嘆して「陳君がこう言うなら、彼の下に不満を持つ者などいるはずがない」と言い、結局訴訟は一件も起きなかった。 後に沛(はい)国の丞相となったが、不正な税徴収を止められず、官印を返上して辞任した。役人や民衆は彼を慕い続けた。 鍾皓はかねてより荀淑と並び称されていた。李膺は常々嘆息して言った。「荀君の清廉な見識には及ぶべくもないが、鍾君の至高の徳は師と仰ぐに値する」。 解説
この訳文では、単なる字句の変換ではなく、後漢末期の清流派士大夫の精神的支柱となった「徳治主義」の思想を、現代日本語で自然に再現することを心がけました。特に陳寔のエピソードを通し、権力に屈しない知識人の在り方を浮き彫りにしています。 Translation took 2188.0 seconds. |
| 」皓兄子瑾母,膺之姑也。瑾好學慕古,有退讓風,與膺同年,俱有聲名。膺祖太尉修常言:「瑾似我家性,『邦有道,不廢;邦無道,免於刑戮。』」復以膺妹妻之。膺謂瑾曰:「孟子以為『人無是非之心,非人也』,弟於是何太無皁白邪!」瑾嘗以膺言白皓。皓曰:「元禮祖、父在位,諸宗並盛,故得然乎!昔國武子好招人過,以致怨惡,今豈其時邪!必欲保身全家,爾道為貴。」 孝桓皇帝和平元年(庚寅,公元一五零年) 春,正月,甲子,赦天下。改元。 乙丑,太后詔歸政於帝,始罷稱制。二月,甲寅,太后梁氏崩。 三月,車駕徙幸北宮。 甲午,葬順烈皇后。增封大將軍冀萬戶,並前合三萬戶;封冀妻孫壽為襄城君,兼食陽翟租,歲入五千萬,加賜赤紱,比長公主。壽善為妖態以蠱惑冀,冀甚寵憚之。冀愛監奴秦宮,官至太倉令,得出入壽所,威權大震,刺史、二千石皆謁辭之。冀與壽對街為宅,殫極土木,互相誇競,金玉珍怪,充積藏室;又廣開園圃,采土築山,十里九阪,深林絕澗,有若自然,奇禽馴獸飛走其間。冀、壽共乘輦車,遊觀第內,多從倡伎,酣謳竟路。或連日繼夜以聘娛恣。客到門不得通,皆請謝門者,門者累千金。又多拓林苑,周遍近縣,起兔苑於河南城西,經亙數十里,移檄所在調發生兔,刻其毛以為識,人有犯者,罪至死刑。 |
現代日本語訳第一部:李膺の親族と鍾皓の言葉
第二部:後漢・桓帝時代の事件
解説
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| 嘗有西域賈胡不知禁忌,誤殺一兔,轉相告言,坐死者十餘人。又起別第於城西,以納奸亡;或取良人悉為奴婢,至數千口,名曰自賣人。冀用壽言,多斥奪諸梁在位者,外以示謙讓,而實崇孫氏。孫氏宗親冒名為侍中、卿、校、郡守、長吏者十餘人,皆貪饕凶淫,各遣私客籍屬縣富人,被以它罪,閉獄掠拷,使出錢自贖,貲物少者至於死、徙。扶風人士孫奮,居富而性吝,冀以馬乘遺之,從貸錢五千萬,奮以三千萬與之。冀大怒,乃告郡縣,認奮母為其守藏婢,雲盜白珠十斛、紫金千斤以叛,遂收考奮兄弟死於獄中,悉沒貲財億七千餘萬。冀又遣客周流四方,遠至塞外,廣求異物,而使人復乘勢橫暴,妻略婦女,驅擊吏卒,所在怨毒。 侍御史朱穆自以冀故吏,奏記諫曰:「明將軍地有申伯之尊,位為群公之首,一日行善,天下歸仁;終朝為惡,四海傾覆。頃者官民俱匱,加以水蟲為害,京師諸官費用增多,詔書發調,或至十倍,各言官無見財,皆當出民,手旁掠割剝,強令充足。公賦既重,私斂又深,牧守長吏多非德選,貪聚無厭,遇民如虜,或絕命於棰楚之下,或自賊於迫切之求。又掠奪百姓,皆托之尊府,遂令將軍結怨天下,吏民酸毒,道路歎嗟。昔永和之末,綱紀少弛,頗失人望,四五歲耳,而財空戶散,下有離心,馬勉之徒乘敝而起,荊、揚之間幾成大患;幸賴順烈皇后初政清靜,內外同力,僅乃討定。 |
現代日本語訳:かつて西域の商人が禁忌を知らずに誤ってウサギを殺した事件があり、それが伝言ゲームのように広がって、結果として十数人が死刑になった。また、梁冀は城西に別邸を建てて逃亡者を匿い、善良な人々を誘拐して奴婢にし、その数は数千人に達し、「自売人」と呼ばれた。梁冀は妻・孫寿の意見を採用し、梁一族の要職者を次々と更迭したが、表向きは謙虚さを示すためであり、実質的には孫氏一族の権力を強化するためだった。孫氏一族の縁者たちは侍中・卿・校尉・郡守・長吏などの官職を名乗り、それぞれが私的な手先を遣わして郡内の富豪に罪を着せ、牢獄に閉じ込めて拷問し、金銭を払わせて釈放させた。払える額が少ない者は死刑や流刑に処された。 扶風出身の士孫奮は裕福だが吝嗇だった。梁冀が馬車を贈って接近し、五千万銭を貸してほしいと頼んだが、士孫奮は三千万銭しか出さなかった。激怒した梁冀は郡当局に「士孫奮の母はわが家の奴婢だったのに財宝を盗んで逃亡した」と告発し、白珠十斛(約200リットル)と紫金千斤(約250kg)を盗んだとでっち上げた。その結果、士孫奮と兄弟は獄死し、一億七千万銭の財産はすべて没収された。 梁冀はさらに手下を四方に派遣し、辺境の地まで珍品を探索させた。使者たちは権勢を笠に着て婦女を略奪し、役人を殴打するなど、行く先々で怨嗟の声を巻き起こした。 侍御史の朱穆(かつて梁冀の部下)は諫言を奉った: 「将軍閣下は申伯(周の名臣)のような高い地位にあり、百官の筆頭として、一日でも善政を行えば天下が感化され、一日でも悪政を行えば国全体が崩壊します。近年は官民ともに疲弊し、水害や蝗害が重なり、朝廷の経費は膨れ上がりました。詔書で徴収額を十倍に増やすよう命じても、役所は『財源がない』と言い、民衆から暴力的に搾取しています。公租が重い上に私的な収奪が加わり、地方官の多くは徳がなく、民を虜のように扱い、拷問で殺す者や自殺に追い込む者までいます。さらに、略奪行為は全て『将軍の威光』を盾に行われ、将軍は天下の怨みを一身に受けています。人々は痛みに呻き、路上では嘆きが絶えません。 永和末年(136年頃)、綱紀が緩んで人心が離れ、たった四、五年で財源は枯渇し、民衆は反乱を企てました。馬勉の乱徒が弱体に乗じ、荊州・揚州地域はほぼ大乱に陥るところでした。幸い順烈皇后(梁太后)の新政が清廉で、朝廷内外が協力してようやく鎮圧できたのです。」 解説:
この翻訳では、歴史的資料としての正確性を保ちつつ、現代日本語の読者が理解しやすい表現を心がけました。特に権力者の横暴と諫言の緊迫感が伝わるよう、文体を統一しています。 Translation took 2252.3 seconds. |
| 今百姓戚戚,困於永和,內非仁愛之心可得容忍,外非守國之計所宜久安也。夫將相大臣,均體元首,共輿而馳,同舟而濟,輿傾舟覆,患實共之。豈可以去明即昧,履危自安,主孤時困而莫之恤乎!宜時易宰守非其人者,減省第宅園池之費,拒絕郡國諸所奉送,內以自明,外解人惑;使挾奸之吏無所依托,司察之臣得盡耳目。憲度既張,遠邇清壹,則將軍身尊事顯,德燿無窮矣!」冀不納。冀雖專朝縱橫,而猶交結左右宦官,任其子弟、賓客以為州郡要職,欲以自固恩寵。穆又奏記極諫,冀終不悟,報書云:「如此,僕亦無一可邪!」然素重穆,亦不甚罪也。 冀遣書詣樂安太守陳蕃,有所請托,不得通。使者詐稱它客求謁蕃;蕃怒,笞殺之。坐左轉修武令。時皇子有疾,下郡縣市珍藥,而冀遣客繼書詣京兆,並貨牛黃。京兆尹南陽延篤發書收客,曰:「大將軍椒房外家,而皇子有疾,必應陳進醫方,豈當使客千里求利乎!」遂殺之。冀慚而不得言。有司承旨求其事,篤以病免。夏,五月,庚辰,尊博園匽貴人曰孝崇後,宮曰永樂;置太僕、少府以下,皆如長樂宮故事。分巨鹿九縣為後湯沐邑。 秋,七月,梓潼山崩。 孝桓皇帝元嘉元年(辛卯,公元一五一年) 春,正月朔,群臣朝賀,大將軍冀帶劍入省。尚書蜀郡張陵呵叱令出,敕羽林、虎賁奪劍。 |
今や民衆は憂いに沈み、永和年間からの困窮に喘いでいる。内政においては仁愛の心が欠如しており容認できず、外交面でも国家を守る方策とは到底言えぬ状態だ。将軍と宰相たる者は君主の手足として一体となり、(君主という)車輿(こし)に同乗して駆け、同じ舟で渡航するもの。もしも輿が倒れ舟が転覆すれば、その災禍は共有せねばならぬのだ。どうして明を去って闇に就き、危険な道を踏みながら安泰を装い得ようか?君主が孤立し時勢が逼迫しているのに顧みないなどありえまい!早急に不適格者を地方長官から更迭し、邸宅や庭園の造営費は削減せよ。郡国からの贈答品も一切拒絶し、内には自らの清廉を示し、外には人々の疑惑を解消すべきだ。こうして悪辣な官吏に付け入る隙を与えず、監察官が十分に耳目を働かせられるようにすれば、法度が整い遠近問わず政治は清められよう。それこそ将軍ご自身の威厳を示し、功績を顕(あら)わにして、その徳輝を永遠ならしめる道である」しかし梁冀はこれを聞き入れなかった。 梁冀は朝廷で専横を極めたが、なおも側近の宦官たちと結託し、子弟や取り巻きを州郡の要職に就け、自らの権勢基盤を固めようとした。朱穆は重ねて諫言したが、梁冀はついに悟らず「それでは私には何ひとつ良いところがないというのか」と返書し、もっとも従来より朱穆を重んじていたため深く咎めることはなかった。 梁冀が楽安太守・陳蕃(ちんばん)に依頼事を含む手紙を送った際、使者は取り次ぎすら許されず。偽って他の客人と称して面会を求めたところ、激怒した陳蕃は鞭打ちの刑で殺害した。この件により陳蕃は左遷されて修武県令となった。 折しも皇子が病に臥せり、各郡県へ珍薬調達の命が下る中、梁冀は配下を京兆府へ派遣して牛黄(ごおう)という貴重な漢方薬を売買させた。京兆尹・延篤(えんとく)は書状を開封すると使者を拘束し「大将軍が皇后の外戚であるなら、皇子御病気の際には進んで医薬を献上すべきではないか?千里の道程を使ってまで商人まがいの利を得ようとするとは何事だ」と言下に処刑した。梁冀は悔しいが抗弁できず、配下の役人は上司の意向で延篤を弾劾しようとしたため、彼は病と称して辞職した。 夏五月庚辰(こうしん)の日、博園匽貴人(はくえんえんきじん)(桓帝生母)に孝崇后(こうすうこう)の尊号を奉り、その居所を永楽宮と称した。太僕・少府以下の役職も長楽宮の前例にならい設置し、巨鹿郡九県を割いて湯沐邑(供御料地)とした。 秋七月、梓潼山が崩落する。 孝桓皇帝 元嘉元年(辛卯/151年) 春正月朔日(ついたち)、群臣が新年の賀礼に参内した際、大将軍梁冀は帯刀して尚書省へ無断侵入した。これに対し尚書・張陵(ちょうりょう)が剣を置くよう叱責すると、直ちに羽林軍と虎賁衛兵に命じて強制的に武装解除させた。 ◆歴史解説 本段落は後漢王朝の権臣・梁冀による専横政治の実態を描出しています。核心的ポイントを三点整理します: 1.朱穆諫言の構造分析: - 民衆窮乏(永和年間からの社会疲弊)と統治機能不全を指摘 - 「車輿・舟船」比喩による君臣一体論を展開→権力者責任を強調 - 具体策として「人事刷新」「奢侈禁止」「賄賂拒絶」を提言 2.梁冀の権力基盤: - 宦官勢力との連携構築(皇帝側近掌握) - 縁故採用による地方支配網確立=私的権益確保システム - 監察官への弾圧姿勢(陳蕃左遷・延篤辞職事件) 3.象徴的事件: a)牛黄売買事件:外戚の商業利権介入と皇室医療への不敬 b)尚書省乱入事件:宮中警備規定違反が示す皇権軽視→張陵による断固対応は清流派官僚の抵抗を示唆 梁冀専制期(順帝-桓帝代)は、後漢王朝衰退プロセスの転換点として位置付けられます。外戚・宦官連合政権に対する清流士大夫層の反発が徐々に顕在化し、後の党錮の禁へと続く政治対立構図が既に形成されていたことが窺える重要史料です。 Translation took 2955.2 seconds. |
| 冀跪謝,陵不應,即劾奏冀,請廷尉論罪。有詔,以一歲俸贖;百僚肅然。河南尹不疑嘗舉陵孝廉,乃謂陵曰:「昔舉君,適所以自罰也!」陵曰:「明府不以陵不肖,誤見擢序,今申公憲以報私恩!」不疑有愧色。 癸酉,赦天下,改元。 梁不疑好經書,喜待士,梁冀疾之,轉不疑為光祿勳;以其子胤為河南尹。胤年十六,客貌甚陋,不勝冠帶,道路見者莫不蚩笑。不疑自恥兄弟有隙,遂讓位歸第,與弟蒙閉門自守。冀不欲令與賓客交通,陰使人變服至門,記往來者。南郡太守馬融、江夏太守田明初除,守謁不疑;冀諷有司奏融在郡貪濁,及以它事陷明,皆髡笞徙朔方。融自刺不殊,明遂死於路。 夏,四月,己丑,上微行,幸河南尹梁胤府捨。是日,大風拔樹,晝昏。尚書楊秉上疏曰:「臣聞天下言語,以災異譴告。王者至尊,出入有常,警蹕而行,靜室而止,自非郊廟之事,則鑾旗不駕。故諸侯入諸臣之家,《春秋》尚列其誡;況於以先王法服而私出槃游,降亂尊卑,等威無序,侍衛守空宮,璽紱委女妾!設有非常之變,任章之謀,上負先帝,下悔靡及!」帝不納。秉,震之子也。 京師旱,任城、梁國饑,民相食。 司徒張歆罷,以光祿勳吳雄為司徒。 北匈奴呼銜王寇伊吾,敗伊吾司馬毛愷,攻伊吾屯城。詔敦煌太守馬達將兵救之;至蒲類海,呼衍王引去。 |
現代日本語訳(文語調を考慮した口語体)梁冀と周陵の対立梁冀が謝罪したが、周陵は応じず、逆に弾劾上奏した。廷尉(司法長官)による罪状調査を要求すると、詔勅が下り「一年分の俸禄を罰金として納めよ」と命じられた。官僚たちは粛然とした。河南尹(洛陽の長官)・不疑は以前、周陵を孝廉(官吏登用制度)に推挙したことがあり、周陵に言った。「お前を推挙したことが、かえってわが身への罰となったな」と。周陵は「閣下は私の未熟さを顧みず推挙してくださいました。今こそ公の法を貫き、その恩義に報いる所存です」と答えた。不疑は恥じ入る表情を浮かべた。 大赦と改元癸酉の日、天下に大赦が行われ、元号が改められた。 梁冀による梁不疑の排斥梁不疑は経書を好み、学者を厚遇したが、兄の梁冀はこれを快く思わなかった。不疑を光禄勲(宮廷警備長官)に左遷し、代わりに自分の息子・梁胤を河南尹に任命した。胤は当時16歳で、風采が上がらず、冠(官帽)すら似つかわしくないほどであった。道行く人々は嘲笑を隠さなかった。不疑は兄弟仲が険悪になったことを恥じ、官職を辞して邸に引きこもり、弟の梁蒙とともに静かに暮らした。 梁冀による知識人弾圧梁冀は不疑が知識人と交流するのを嫌い、変装した者を門前に潜ませて訪問者を記録させた。南郡太守・馬融と江夏太守・田明が新たに任命され、不疑のもとへ挨拶に訪れた際、梁冀は役人に命じて「馬融は任地で汚職を働いた」と誣告させ、田明には別件で罪を着せ、二人とも髪を剃る刑(髡刑)に処し、朔方(辺境)へ流罪とした。馬融は自殺を図ったが未遂に終わり、田明は流刑地への道中で死亡した。 皇帝の私的行幸と災異の兆し夏四月己丑の日、皇帝が密かに外出し、梁胤の邸を訪問した。その日、大風が樹木をなぎ倒し、昼なお暗い異変が起きた。 楊秉の諫言尚書・楊秉が上奏した:「災異の現象は天の警告と申します。帝王たる者は行動に規律をもたねばなりません。正式な警護を伴い、宿舎では静粛を保つ。祭祀以外の私的行幸は、御料車(鑾輅)を出すべきではございません。諸侯でさえ臣下の邸を安易に訪れぬと『春秋』に記されています。ましてや帝王が礼服もつけず私的に遊行し、身分の秩序を乱し、警護も手薄で玉璽を女官に預けるなど言語道断。もし不測の変事が起これば、任章(漢の反逆者)の故事のごとく、先帝への背信となり、後悔しても及ばぬでしょう」。皇帝はこの諫言を聞き入れなかった。楊秉は名臣・楊震の子であった。 全国的な飢饉都では干ばつが続き、任城・梁国では飢饉が発生。人々は共食いするまでに追い込まれた。 人事異動と匈奴侵攻司徒(宰相)・張歆が罷免され、光禄勳・呉雄が後任の司徒となった。 北匈奴の呼衍王が伊吾(西域)に侵攻し、伊吾司馬・毛愷を破り、伊吾屯城を攻撃した。詔勅により敦煌太守・馬達が救援に向かった。馬達が蒲類海(バルクル湖)に到着すると、呼衍王は兵を引き揚げた。 解説(翻訳のポイント)
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| 秋,七月,武陵蠻反。 冬,十月,司空胡廣致仕。 十一月,辛巳,京師地震。詔百官舉獨行之士。涿郡舉崔寔,詣公車,稱病,不對策;退而論世事,名曰《政論》。其辭曰:「凡天下所以不治者,常由人主承平日久,俗漸敝而不悟,政浸衰而不改,習亂安危,怢不自睹。或荒耽耆欲,不恤萬機;或耳蔽箴誨,厭偽忽真;或猶豫歧路,莫適所以;或見信之佐,括囊守祿;或疏遠之臣,言以賤廢。是以王綱縱弛於上,智士郁伊于下。悲夫!自漢興以來,三百五十餘歲矣,政令垢玩,上下怠懈,百姓囂然,鹹復思中興之救矣!且濟時拯世之術,在於補衣定決壞,枝拄邪傾,隨形裁割,要措斯世於安寧之域而已。故聖人執權,遭時定制,步驟之差,各有雲設,不強人以不能,背急切而慕所聞也。蓋孔子對葉公以來遠,哀公以臨人,景公以節禮,非其不同,所急異務也。俗人拘文牽占,不達權制,奇偉所聞,簡忽所見,烏可與論國家之大事哉!故言事者雖合聖德,輒見掎奪。何者?其頑士暗於時權,安習所見,不知樂成,況可慮始,苟雲率由舊章而已。其達者或矜名妒能,恥策非己,舞筆奮辭以破其義。寡不勝眾,遂見擯棄,雖稷、契復存,猶將困焉。斯賢智之論所以常憤郁而不伸者也。 「凡為天下者,自非上德,嚴之則治,寬之則亂。何以明其然也?近孝宣皇帝明於君人之道,審於為政之理,故嚴刑峻法,破奸軌之膽,海內清肅,天下密如,逄計見效,優於孝文。 |
現代日本語訳歴史記録部分
『政論』の核心部分(崔寔の主張)
歴史的証拠(孝宣帝の成功例)
解説
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| 及元帝即位,多行寬政,卒以墮損,威權始奪,遂為漢室基禍之主。政道得失,於斯可鑒。昔孔子作《春秋》,褒齊桓,懿晉文,歎管仲之功,夫豈不美文、武之道哉?誠達權救敝之理也。故聖人能與世推移,而俗士苦不知變,以為結繩之約,可復治亂秦之緒;干戚之舞,足以解平城之圍。夫熊經鳥伸,雖延歷之術,非傷寒之理;呼吸吐納,雖度紀之道,非續骨之膏。蓋為國之法,有似治身,平則致養,疾則攻焉。夫刑罰者,治亂之藥石也;德教者,興平之粱肉也。夫以德教除殘,是以粱肉治疾也;以刑罰治平,是以藥石供養也。方今承百王之敝,值厄運之會,自數世以來,政多恩貸,馭委其轡。馬駘其銜,四牡橫奔,皇路險傾,方將拑勒鞬輈以救之,豈暇鳴和鑾,請節奏哉!昔文帝雖除肉刑,當斬右趾者棄市,笞者往往至死。是文帝以嚴致平,非以寬致平也。」寔,瑗之子也。山陽仲長統嘗見其書,歎曰:「凡為人主,宜寫一通,置之坐側。」 ══臣光曰:漢家之法已嚴矣,而崔寔猶病其寬,何哉?蓋衰世之君,率多柔懦,凡愚之佐,唯知姑息,是以權幸之臣有罪不坐,豪猾之民犯法不誅;仁恩所施,止於目前;奸宄得志,紀綱不立。故崔寔之論,以矯一時之枉,非百世之通義也。孔子曰:「政寬則民慢,慢則糾之以猛;猛則民殘,殘則施之以寬。 |
翻訳結果:崔寔の主張: 仲長統の賛辞: 司馬光の評: 翻訳のポイント解説:
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| 寬以濟猛,猛以濟寬,政是以和。」斯不易之常道矣。 閏月,庚午,任城節王崇薨;無子,國絕。 以太常黃瓊為司空。 帝欲褒崇梁冀,使中朝二千石以上會議其禮。特進胡廣、太常羊浦、司隸校尉祝恬、太中大夫邊韶等咸稱冀之勳德宜比周公,錫之山川、土田、附庸。黃瓊獨曰:「冀前以親迎之勞,增邑成三千戶;又其子胤亦加封賞。今諸侯以戶邑為制,不以裡數為限,冀可比鄧禹,合食四縣。」朝廷從之。於是有司奏:「冀入朝不趨,劍履上殿,謁贊不名,禮儀比蕭何;悉以定陶、陽成餘戶增封為四縣,比鄧禹;賞賜金錢、奴婢、彩帛、車馬、衣服、甲第,比霍光;以殊元勳。每朝會,與三會絕席。十日一入,平尚書事。宣佈天下,為萬世法。」冀猶以所奏禮簿,意不悅。 孝桓皇帝元嘉二年(壬辰,公元一五二年) 春,正月,西域長史王敬為於窴所殺。初,西域長史趙評在於窴,病癰死。評子迎喪,道經拘彌。拘彌王成國與於窴王建素有隙,謂評子曰:「於窴王令胡醫持毒藥著創中,故致死耳!」評子信之,還,以告敦煌太守馬達。會敬代為長史,馬達令敬隱核於窴事。敬先過拘彌,成國復說雲。「於窴國人欲以我為王;今可因此罪誅建,於窴必服矣。」敬貪立功名,前到於窴,設供具,請建而陰圖之。或以敬謀告建,建不信,曰:「我無罪,王長史何為欲殺我?」旦日,建從官屬數十人詣敬,坐定,建起行酒,敬叱左右執之。 |
現代日本語訳:第一段落(政治情勢) 閏月の庚午の日、任城節王・劉崇が逝去した。後継者がおらず、封国は廃止された。 太常の黄瓊を司空に任命した。 皇帝(おそらく後漢の皇帝)が梁冀(外戚の権臣)を顕彰しようとした際、朝廷の高官(二千石以上の官僚)を集めて礼遇の内容を協議させた。特進の胡広、太常の羊浦、司隷校尉の祝恬、太中大夫の辺韶らは皆、「梁冀には周公(古代の聖人)並みの礼遇を」と主張し、山川・土地・付属民の領有を認めるよう奏上した。しかし黄瓊だけは異議を唱え、「梁冀は先の皇帝の葬儀の功績で既に三千戸の加封を受けており、その子・梁胤も加封されている。現在の諸侯は戸数で爵位を定めており、領地の広さでは決めていない。鄧禹(光武帝の功臣)の先例に倣い、四県の租税収入を領有させるのが妥当である」と述べた。朝廷はこの意見を採用した。 その後、担当官庁が最終案を奏上した: 第二段落(西域事件) 事件の経緯: ちょうど王敬が新たな西域長史に着任したため、馬達は王敬に于窴の内情を密かに調査させた。王敬が拘弥国に立ち寄ると、成国は再び「于窴国民は私を王に推戴したいと望んでいる。この機会に建を罪に落として誅殺すれば、于窴は従うだろう」と唆した。 功績を焦った王敬は于窴に到着するや、宴席を設けて建を招き、暗殺を画策した。しかしこの計画が建に漏れ、建は「私は無実だ。なぜ長史は私を殺そうとするのか?」と不信を抱きながらも、翌日、配下数十名を引き連れて王敬のもとを訪れた。 宴席で着席すると、建が酒を勧めるために立ち上がった瞬間、王敬は左右の者に「捕えろ!」と叫んだ── 解説(ポイント整理):
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| 吏士並無殺建意,官屬悉得突走。時成國主簿秦牧隨敬在會,持刀出,曰:「大事已定,何為復疑!」即前斬建。於窴侯、將輸僰等遂會兵攻敬,敬持建頭上樓宣告曰:「天子使我誅建耳!」輸僰不聽,上樓斬敬,懸首於市。輸僰自立為王;國人殺之,而立建子安國。馬達聞王敬死,欲將諸郡兵出塞擊於窴;帝不聽,征達還,而以宋亮代為敦煌太守。亮到,開募於窴,令自斬輸僰;時輸僰死已經月,乃斷死人頭送敦煌而不言其狀,亮後知其詐,而竟不能討也。 丙辰,京師地震。 夏,四月,甲辰,孝崇皇后匽氏崩;以帝弟平原王石為喪主,斂送制度比恭懷皇后。五月,辛卯,葬於博陵。 秋,七月,庚辰,日有食之。 冬,十月,乙亥,京師地震。 十一月,司空黃瓊免。十二月,以特進趙戒為司空。 孝桓皇帝永興元年(癸巳,公元一五三年) 春,三月,丁亥,帝幸鴻池。 夏,四月,丙申,赦天下,改元。 丁酉,濟南悼王廣薨;無子,國除。 秋,七月,郡、國三十二蝗,河水溢。百姓饑窮流冗者數十萬戶,冀州尤甚。詔以侍御史朱穆為冀州刺史。冀部令長聞穆濟河,解印綬去者四十餘人。及到,奏劾諸郡貪污者,有至自殺,或死獄中。宦者趙忠喪父,歸葬安平,僭為玉匣;穆下郡案驗,吏畏其嚴,遂發墓剖棺,陳屍出之。帝聞,大怒,征穆詣廷尉,輸作左校。 |
兵士たちは建を殺す意図を持っておらず、隙を見て配下全員が脱出した。この時、成国の主簿・秦牧が同席しており、刀を抜いて「大事既に決せり!」と叫ぶや進み出て即座に建の首を刎ねた。
于寘侯(貴族)・輸僰らは兵を集めて王敬を攻撃。王敬は建の首を持ち楼上から「天子が私に建誅殺を命じられたのだ!」と宣言したが、輸僰は聞き入れず楼へ突入して王敬を斬り捨てた上でその首を市場に晒した。輸僰が自ら王位につくと国人によって殺害され、代わりに建の子・安国が擁立された。 敦煌太守・馬達は報復として諸郡兵を率いて于寘討伐に出陣しようとしたが、桓帝に拒否されて召還。後任の宋亮が敦煌太守となる。着任した宋亮は「輸僰の首を持参せよ」と于寘側に通告するも、既に彼は一月前に死亡していたため、国人は遺体から頭部を切り落として敦煌へ送り実情を隠蔽。後に欺瞞を知った宋亮だったが討伐には至らなかった。 3月丙辰日(旧暦)、都で地震発生。 夏4月甲辰日(12日)、孝崇皇后・匽氏崩御。皇帝の弟である平原王・劉石を喪主とし、葬儀規格は恭懐皇后に準じた。5月辛卯日(30日)博陵へ埋葬。 秋7月庚辰日(20日)、日食発生。 冬10月乙亥日(16日)、都で再び地震が起きる。 11月、司空・黄瓊が免官され、12月に特進の趙戒を後任とした。 永興元年(癸巳、153年) 春3月丁亥日(4日)、桓帝が鴻池に行幸する。 夏4月丙申日(14日)、大赦令発布と元号改定(「永興」へ)。 翌日丁酉(15日)、済南悼王・劉広薨去。後継者なく封国は除かれる。 秋7月、32郡国で蝗害発生し黄河が氾濫。数十万戸の民衆が飢餓に陥り流亡する中、冀州が特に甚大な被害を受けた。侍御史・朱穆を冀州刺史として派遣すると、その厳正さを恐れた40人以上の県令・長らが印綬を返上して逃亡した。着任後、朱穆は各郡の汚職官僚を弾劾し、自殺や獄死する者まで出た。 宦官・趙忠の父が死去すると安平国で葬儀を行った際、身分に悖る玉匣(金縷玉衣)を使用していた疑いから朱穆は捜査命令を発令。郡官吏らはその厳格さを畏れ、強引に墓を暴き棺を開いて遺体を取り出した。桓帝の激怒を受けた朱穆は廷尉へ召還され左校(工事現場)での強制労働刑に処された。 訳注
歴史的意義解説本記録は『資治通鑑』漢紀四十四に属し、以下の時代的特徴を浮き彫りにする: - 西域経営の限界:王敬事件に見られる現地勢力との衝突と中央の統制不全が後漢の西域支配衰退を示唆。 - 災害と社会不安:度重なる地震・蝗害・洪水被害と流民発生は王朝末期の社会的基盤弱体化を反映。 - 宦官専横の萌芽:朱穆弾劾事件では宦官趙忠が皇室用副葬品を使用する僭越行為を行い、これに抗した清流派官僚が逆に処罰される構図は「党錮の禁」前夜の権力構造を象徴。 Translation took 4854.9 seconds. |
| 太學書生穎川劉陶等數千人詣闕上書訟穆曰:「伏見弛刑徒朱穆,處公憂國,拜州之日,志清奸惡。誠以常侍貴寵,父兄子弟布在州郡,競為虎狼,噬食小民,故穆張理天綱,補綴漏目,羅取殘禍,以塞天意。由是內官鹹共恚疾,謗讟煩興,讒隙仍作,極其刑謫,輸作左校。天下有識,皆以穆同勤禹、稷而被共、鯀之戾,若死者有知,則唐帝怒於崇山,重華忿於蒼墓矣!當今中官近習,竊持國柄,手握王爵,口銜天憲,運賞則使餓隸富於季孫,呼吸則令伊、顏化為桀、跖;而穆獨亢然不顧身害,非惡榮而好辱,惡生而好死也,徒感王綱之不攝,懼天網之久失,故竭心懷憂,為上深計。臣願黥首系趾,代穆校作。」帝覽其奏,乃赦之。 冬,十月,太尉袁湯免,以太常胡廣為太尉。司徒吳雄、司空趙戒免。以太僕黃瓊為司徒,光祿勳房植為司空。 武陵蠻詹山等反,武陵太守汝南應奉招降之。 車師後部王阿羅多與戊部候嚴皓不相得,忿戾而反,攻圍屯田,殺傷吏士。後部侯炭遮領餘民畔阿羅多,詣漢吏降。阿羅多迫急,從百餘騎亡入北匈奴。敦煌太守宋亮上立後部故王軍就質子卑君為王。後阿羅多復從匈奴中還,與卑君爭國,頗收其國人。戊校尉閻詳慮其招引北虜,將亂西域,乃開信告示,許復為王;阿羅多及詣詳降。於是更立阿羅多為王,將卑君還敦煌,以後部人三百帳與之。 |
現代日本語訳太学生・潁川の劉陶ら数千人が宮門に赴き、上書して朱穆を弁護した: 冬10月: 武陵蛮の詹山らが反乱を起こしたが、武陵太守・汝南の応奉が懐柔策で帰順させた。 車師後部王の阿羅多が戊校尉・厳皓と対立し、 解説
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| 孝桓皇帝永興二年(甲午,公元一五四年) 春,正月,甲午,赦天下。 二月,辛丑,復聽刺史、二千石行三年喪。 癸卯,京師地震。 夏,蝗。 東海朐山崩。 乙卯,封乳母馬惠子初為列候。 秋,九月,丁卯朔,日有食之。 太尉胡廣免;以司徒黃瓊為太尉。閏月,以光祿勳尹頌為司徒。 冬,十一月,甲辰,帝校獵上林苑,遂至函谷關。 泰山、琅邪賊公孫舉、東郭竇等反,殺長吏。 孝桓皇帝永壽元年(乙未,公元一五五年) 春,正月,戊申,赦天下,改元。 二月,司隸、冀州饑,人相食。 太學生劉陶上疏陳事曰:「夫天之與帝,帝之與民,猶頭之與足,相須而行也。陛下目不視鳴條之事,耳不聞檀車之聲,天災不有痛於肌膚,震食不即損於聖體,故蔑三光之謬,輕上天之怒。伏念高祖之起,始自布衣,合散扶傷,克成帝業,勤亦至矣;流福遺祚,至於陛下。陛下既不能增明烈考之軌,而忽高祖之勤,妄假利器,委授國柄,使群丑刑隸,芟刈小民,虎豹窟於鏖場,豺狼乳於春囿,貨殖者為窮冤之魂,貧餒者作饑寒之鬼,死者悲於窀穸,生者戚於朝野,是愚臣所為咨嗟長懷歎息者也!且秦之將亡,正諫者誅,諛進者賞,嘉言結於忠舌,國命出於讒口,擅閻樂於咸陽,授趙高以車府,權去己而不知,威離身而不顧。古今一揆,成敗同勢,願陛下遠覽強秦之傾,近察哀、平之變,得失昭然,禍福可見。 |
訳文孝桓皇帝永興二年(154年) 秋九月丁卯朔(1日)、日食が起こる。 冬十一月甲辰、皇帝が上林苑で狩猟を行い、函谷関まで至る。 孝桓皇帝永寿元年(155年) 大学生の劉陶が上疏して時事を諫言 高祖(劉邦)が一介の平民から身を起こし、散り散りの民を集めて傷を癒し、帝業を成し遂げられたご苦労を思います。その福祚が陛下にまで続いているのに、陛下は光武帝ら先帝の業績を発展させず、高祖の勤勉さを軽んじ、勝手に権力を濫用し、国政を委ねるべきでない者に委ねています。 その結果、醜悪な刑吏が民を虐げ、虎や豹が市場に巣くい、豺狼が宮廷で子を産むが如く、富を求める者が冤罪で死に、貧しい者が飢え凍えて鬼となる。死者は墓の中で嘆き、生きる者は朝廷と野で憂い悲しむ。これこそが臣が深く嘆息せざるを得ない理由です。 さらに秦の滅亡時を顧みれば、諫言する者は誅殺され、おべっかを使う者は重用されました。忠言は忠臣の舌に詰まり、国策は奸臣の口から出る。閻楽を咸陽で暴走させ、趙高に車府の権限を与えた結果、権力は手から離れても気づかず、威光が失われても顧みなかった。 古今の道理は同じで、成敗の法則は変わりません。どうか陛下には遠く強秦の滅亡を鑑とし、近く哀帝・平帝の変事を察し、得失を明らかにされて禍福をお見極めください。」 訳注
解説この訳文では、『後漢書』の記述を現代日本語で再現する際に、以下の方針を採用: 特に劉陶の上疏文は、当時の儒教的災異思想と現実批判が融合した文章であるため、倫理的訴求力を損なわないよう、日本語としての荘重さを重視して訳出しています。 Translation took 2410.2 seconds. |
| 臣又聞危非仁不扶,亂非智不救。竊見故冀州刺史南陽朱穆、前烏桓校尉臣同郡李膺,皆履正清平,貞高絕俗,斯實中興之良佐,國家之柱臣也,宜還本朝,挾輔王室。臣敢吐不時之義於諱言之朝,猶冰霜見日,必至消滅。臣始悲天下之可悲,今天下亦悲臣之愚惑也。」書奏,不省。 夏,南陽大水。 司空房植免;以太常韓縯為司空。 巴郡、益州郡山崩。 秋,南匈奴左薁鞬台耆、且渠伯德等反,寇美稷;東羌復舉種應之。安定屬國都尉敦煌張奐初到職,壁中唯有二百許人,聞之,即勒兵而出;軍吏以為力不敵,叩頭爭止之。奐不聽,遂進屯長城,收集兵士,遣將王衛招誘東羌,因據龜茲縣,使南匈奴不得交通。東羌諸豪遂相率與奐共擊薁鞬等,破之。伯德惶恐,將其眾降,郡界以寧。羌豪遺奐馬二十匹,金鐻八枚。奐於諸羌前以酒酹地曰:「使馬如羊,不以入廄;使金如粟,不以入懷。」悉以還之。前此八都尉率好財貨,為羌所患苦;及奐正身潔己,無不悅服,威化大行。 孝桓皇帝永壽二年(丙申,公元一五六年) 春,三月,蜀郡屬國夷反。 初,鮮卑檀石槐,勇健有智略,部落畏服,乃施法禁,平曲直,無敢犯者,遂推以為大人。檀石槐立庭於彈汙山、歠仇水上,去高柳北三百餘里,兵馬甚盛;東、西部大人皆歸焉。因南抄緣邊,北拒丁零,東卻夫餘,西擊烏孫,盡據匈奴故地,東西萬四千餘里。 |
現代日本語訳臣下の上奏文「私はかねてより思っておりました。危機には仁愛をもって臨み、混乱には知略をもって対処せねばならないと。ここに元冀州刺史の南陽出身・朱穆と、元烏桓校尉で私と同郷の李膺という人物がおります。両者とも清廉公正で世俗を超越した高潔な人柄であり、まさに国家再興の良き補佐役といえます。どうか朝廷にお召し戻しになり、王室をお助けくださいますよう。臣たる私が時勢にそぐわぬ意見を奏上するのは、まるで日光に晒された霜のごとく、必ず消え失せる運命ではございます。かつては天下の悲しむべき現状を嘆いておりましたが、今や天下も私の愚かな言行を嘆いていることでしょう。」 この上奏文は皇帝に献上されたが、顧みられることはなかった。 自然災害と人事異動
南匈奴の反乱と鎮圧秋、南匈奴の左薁鞬台耆(さよくけんだいき)と且渠伯徳(しょきょはくとく)らが反乱を起こし、美稷(びしょく)を襲撃。これに呼応して東羌族も蜂起した。 この危機に対し、安定属国都尉(辺境防衛官)の敦煌出身・張奐は着任早々、わずか二百名ほどの手勢を率いて出陣。幕僚らは兵力不足を憂いて額を地面に擦りつけながら制止したが、張奐は聞き入れず長城へ進軍。兵を集めつつ配下の王衛を東羌族懐柔工作に派遣し、自らは戦略的要衝である龜茲県を占拠して南匈奴の連絡線を断った。 これにより東羌族の首長らは相次いで張奐に帰順し、連合軍は反乱軍を撃破。伯徳は恐れをなして降伏し、郡内は平穏を取り戻した。戦後、羌族首長らは張奐に馬20頭と金の装飾品8点を献上したが、張奐は全員の面前で酒を地に注ぎ、「馬は羊のように気軽に受け取れぬ。金は粟のように軽んじられようとも」と宣言し、全てを返却した。 これ以前の8人の都尉は物資を欲しがる者が多く、羌族から苦情が絶えなかった。しかし張奐の清廉潔白な姿勢は人々を感服させ、その威徳は広く知れ渡ることとなった。 永寿2年(156年)の動向
鮮卑族檀石槐の台頭かねてより鮮卑族の檀石槐(だんせきかい)は勇猛かつ知略に長け、部族民からの信望が厚かった。自ら法規を定めて公平な裁きを行い、違反者は皆服したため、部族全体から大人(たいじん:部族長)に推戴された。 檀石槐は本拠を弾汚山(だんおざん)の歠仇水(せっきゅうすい)畔に置き、高柳の北300里余りに位置した。兵力は強大で、東西の諸部族長も彼の麾下に集結。これにより南方では国境地帯を侵攻し、北方では丁零族を押さえ込み、東方では夫余族を退け、西方では烏孫族を撃破。匈奴の旧領土をことごとく占拠し、その支配域は東西14,000里に及んだ。 解説
当該記事は自然災害・人事・民族問題を簡潔に記す一方、張奐と檀石槐の対照的な活躍を通じて、後漢王朝が直面した内憂外患を立体的に描出している。特に辺境防衛の記述は、遊牧民族との関係が王朝運命を左右した時代状況を如実に伝える。 Translation took 2266.6 seconds. |
| 秋,七月,檀石槐寇雲中。以故烏桓校尉李膺為度遼將軍。膺到邊,羌、胡皆望風畏服,先所掠男女,悉詣塞下送還之。 公孫舉、東郭竇等聚眾至三萬人,寇青、兗、徐三州,破壞郡縣。連年討之,不能克。尚書選能治劇者,以司徒掾穎川韓韶為嬴長。賊聞其賢,相戒不入嬴境。餘縣流民萬餘戶入縣界,韶開倉賑之,主者爭謂不可。韶曰:「長活溝壑之人,而以此伏罪,含笑入地矣。」太守素知韶名德,竟無所坐。韶與同郡荀淑、鐘皓、陳寔皆嘗為縣長,所至以德政稱,時人謂之「穎川四長」。 初,鮮卑寇遼東,屬國都尉武威段熲率所領馳赴之。既而恐賊驚去,乃使驛騎詐繼璽書召熲,熲於道偽退,潛於還路設伏;虜以為信然,乃入追熲,熲因大縱兵,悉斬獲之。坐詐為璽書,當伏重刑;以有功,論司寇;刑竟,拜議郎。至是,詔以東方盜賊昌熾,令公卿選將帥有文武材者。司徒尹頌薦熲,拜中郎將,擊舉、竇等,大破斬之,獲首萬餘級,餘黨降散。封熲為列侯。 冬,十二月,京師地震。 封梁不疑子馬為穎陰侯,梁胤子桃為城父侯。 |
現代日本語訳秋の七月
反乱の鎮圧
韓韶の善政
潁川四長
段熲の戦功と栄転
東方平定
冬の十二月
解説この文章は『資治通鑑』から抜粋した後漢時代の記録です。主なポイントは:
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| input text 資治通鑑\054_漢紀_46.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷五十四 漢紀四十六 起強圉作噩,盡昭陽單閼,凡七年。 孝桓皇帝上之下永壽三年(丁酉,公元一五七年) 春,正月,己未,赦天下。 居風令貪暴無度,縣人朱達等與蠻夷同反,攻殺令,聚眾至四五千人。夏,四月,進攻九真,九真太守兒式戰死。詔九真都尉魏朗討破之。 閏月,庚辰晦,日有食之。 京師蝗。 或上言:「民之貧困以貨輕錢薄,宜改鑄大錢。」事下四府群僚及太學能言之士議之。太學生劉陶上議曰:「當今之憂,不在於貨,在乎民饑。竊見比年已來,良苗盡於蝗螟之口,杼軸空於公私之求。民所患者,豈謂錢貨之厚薄,銖兩之輕重哉!就使當今沙礫化為南金,瓦石變為和玉,使百姓渴無所飲,饑無所食,雖皇、羲之純德,唐、虞之文明,猶不能以保蕭牆之內也。蓋民可百年無貨,不可一朝有饑,故食為至急也。議者不達農殖之本,多言鑄冶之便。蓋萬人鑄之,一人奪之,猶不能給;況今一人鑄之,則萬人奪之乎!雖以陰陽為炭,萬物為銅,役不食之民,使不饑之士,猶不能足無厭之求也。夫欲民殷財阜,要在止役禁奪,則百姓不勞而足。陛下愍海內之憂戚,欲鑄錢齊貨以救其弊,猶養魚沸鼎之中。棲鳥烈火之上;水、木,本魚鳥之所生也,用之不時,必至焦爛。願陛下寬鍥薄之禁,後冶鑄之議,聽民庶之謠吟,問路叟之所憂,瞰三光之文耀,視山河之分流,天下之心,國家大事,粲然皆見,無有遺惑者矣。 |
現代日本語訳:漢の桓帝・永寿3年(西暦157年)春正月己未の日 閏月庚辰の日 ある上奏文 大学生・劉陶の上奏
たとえ── 核心的な主張 皇帝への提言 そうすれば── 解説(補足説明):
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| 伏念當今地廣而不得耕,民眾而無所食,群小競進,秉國之位,鷹揚天下,鳥鈔求飽,吞肌及骨,並噬無厭。誠恐卒有役夫、窮匠起於板築之間,投斤攘臂,登高遠呼,使怨之民響應雲合。雖方尺之錢,何有能救其危也!」遂不改錢。 冬,十一月,司徒尹頌薨。 長沙蠻反,寇益陽。 以司空韓縯為司徒,以太常北海孫朗為司空。 孝桓皇帝上之下延熹元年(戊戌,公元一五八年) 夏,五月,甲戊晦,日有食之。太史令陳授因小黃門徐璜陳「日食之變咎在大將軍冀」。冀聞之,諷雒陽收考授,死於獄。帝由是怒冀。 京師蝗。 六月,戊寅,赦天下,改元。 大雩。 秋,七月,甲子,太尉黃瓊免;以太常胡廣為太尉。 冬,十月,帝校獵廣成,遂幸上林苑。 十二月,南匈奴諸部並叛,與烏桓、鮮卑寇緣邊九郡。帝以京兆尹陳龜為度遼將軍。龜臨行,上疏曰:「臣聞三辰不軌,擢士為相;蠻夷不恭,拔卒為將。臣無文武之才,而忝鷹揚之任,雖歿軀體,無所云補。今西州邊鄙,土地□脊□角,民數更寇虜,室家殘破,雖含生氣,實同枯朽。往歲并州水雨,災螟互生,稼穡荒耗,租更空闕。陛下以百姓為子,焉可不垂撫循之恩哉!古公、西伯天下歸仁,豈復輿金輦寶以為民惠乎!陛下繼中興之統,承光武之業,臨朝聽政而未留聖意。且牧守不良,或出中官,懼逆上旨,取過目前。 |
現代日本語訳:貨幣政策に関する議論「現在、土地は広いが耕作できず、民衆は食べるものがない。小人どもが競って国政の要職を占め、鷹のように猛威を振るい、雀のように食い荒らし、肉を骨までしゃぶり尽くし、飽くことを知らない。このままだと、いつか労役者や貧しい工匠たちが建築現場から立ち上がり、斧を手に腕をまくり、高みに登って叫びをあげ、不満を持つ民衆が雲のように集まって呼応する事態が起こるだろう。たとえ大きな銭貨(貨幣政策)があったとしても、どうしてこの危機を救えようか!」こうして貨幣の変更は行われなかった。 役人の異動と事件冬11月、司徒(大臣)の尹頌が死去した。 長沙の蛮族が反乱を起こし、益陽を襲撃した。 司空(大臣)の韓縯を司徒に任命し、太常(礼官)の北海出身の孫朗を司空に任命した。 延熹元年(西暦158年)の事件夏5月、甲戌の晦(月末)、日食が発生した。太史令(天文官)の陳授が小黄門(宦官)の徐璜に「この日食の異変は大将軍の梁冀のせいです」と進言した。梁冀はこれを聞くと、洛陽の役人に命じて陳授を捕らえさせ、獄死させた。このため皇帝(桓帝)は梁冀に怒りを抱いた。 災害と儀式都で蝗害(イナゴの大群)が発生した。 6月戊寅の日、大赦令を出して元号を延熹と改めた。 盛大な雨乞いの儀式(大雩)が行われた。 人事異動と皇帝の行幸秋7月甲子の日、太尉(最高軍事長官)の黄瓊が解任され、太常の胡広が太尉に任命された。 冬10月、皇帝が広成苑で狩猟を行い、続いて上林苑に行幸した。 辺境の反乱と陳龜の上奏12月、南匈奴の諸部族がそろって反乱を起こし、烏桓族や鮮卑族とともに辺境の九つの郡を襲撃した。皇帝は京兆尹(首都長官)の陳龜を度遼将軍(辺境防衛司令官)に任命した。陳龜が赴任する際、上奏文を奉った: 「臣は聞きます。天象に異変があれば人材を登用して宰相とし、蛮族が服従しなければ有能な者を抜擢して将軍とすると。臣は文才も武芸もなく、重職を辱める身であり、たとえ命を落とすことになっても何の足しにもなりません。しかし今、西方の辺境では土地は痩せ、人々はたびたび蛮族の襲撃を受け、家屋は破壊され、生きているとはいえ枯れ木同然です。昨年は并州で洪水が発生し、蝗害も重なり、農作物は荒廃し、租税の徴収も滞っております」 皇帝への諫言「陛下が民を子のようにお思いなら、どうして慈愛の心を垂れられないことがありましょうか? 古公亶父や西伯(周の文王)のような仁政を行えば、民は自然に帰順するもので、金銀財宝で恩恵を買う必要などありません。陛下は漢王朝再興の正統を継ぎ、光武帝の偉業を受け継がれながら、朝廷で政務を執られても真心を留められていない。さらに地方長官の多くは無能で、中には宦官出身の者もおり、陛下のご意向に逆らうことを恐れて、目先の過ちをごまかしているだけなのです」 解説:
補足:
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| 呼嗟之聲,招致災害,胡虜凶悍,因衰緣隙;而令倉庫單于豺狼之口,功業無銖兩之效,皆由將帥不忠,聚奸所致。前涼州刺史祝良,初除到州,多所糾罰,太守令長,貶黜將半,政未逾時,功效卓然,實應賞異,以勸功能;改任牧守,去斥奸殘;又宜更選匈奴、烏桓護羌中郎將、校尉,簡練文下,授之法令;除並、涼二州今年租、更,寬赦罪隸,掃除更始。則善吏知奉公之祐,惡者覺營私之禍,胡馬可不窺長城,塞下無候望之患矣。」帝乃更選幽、并刺史,自營、郡太守、都尉以下,多所革易。下詔為陳將軍除並、涼一年租賦,以賜吏民。龜到職,州郡重足震慄,省息經用,歲以億計。詔拜安定屬國都尉張奐為北中郎將,以討匈奴、烏桓等。匈奴、烏桓燒度遼將軍門,引屯赤阬,煙火相望。兵眾大恐,各欲亡去。奐安坐帷中,與弟子講誦自若,軍士稍安。乃潛誘烏桓,陰與和通,遂使斬匈奴、屠各渠帥,襲破其眾,諸胡悉降。奐以南單于車兒不能統理國事,乃拘之,奏立左谷蠡王為單于。詔曰:「《春秋》大居正;車兒一心向化,何罪而黜!其遣還庭!」 大將軍冀與陳龜素有隙,譖其沮毀國威,挑取功譽,不為胡虜所畏,坐征還,以種暠為度遼將軍。龜遂乞骸骨歸田裡,復征為尚書。冀暴虐日甚,龜上疏言其罪狀,請誅之,帝不省。龜自知必為冀所害,不食七日而死。 |
現代日本語訳辺境防衛の改革提言「嘆きの声が災いを招き、北方の異民族は凶暴です。朝廷の弱体化に乗じて略奪を繰り返し、国家の倉庫は彼らの餌食となり、国威は地に落ちました。これは全て、将軍たちの不忠と腐敗した役人たちが原因です。かつて涼州刺史であった祝良は、着任早々に不正を摘発し、郡太守や県令の半数を更迭しました。短期間で成果を上げた彼を表彰し、他の地方長官も同様に腐敗官僚を排除すべきです。さらに、匈奴・烏桓(うがん)などの異民族を統括する将軍や校尉を厳選し、法令を徹底させてください。併せて并州(へいしゅう)と涼州の今年の租税を免除し、罪人を赦免して民心を一新すれば、清廉な役人は恩恵を感じ、悪徳役人は懲戒を恐れるでしょう。こうしてこそ、北方の騎馬民族が長城を越えることも、辺境で烽火(のろし)が上がることもなくなるのです」 皇帝の対応この提言を受け、皇帝は幽州(ゆうしゅう)と并州の長官を更迭し、郡太守から下級役人に至るまで大規模な人事刷新を断行した。さらに詔(みことのり)を下し、陳将軍の管轄区域である并州・涼州の一年分の租税を免除し、住民に恩恵を与えることを命じた。 陳亀の辣腕統治陳亀が着任すると、役人たちは震え上がり、誰もが法令を厳守したため、年間の経費が数億銭も節減された。 張奐の異民族鎮圧皇帝は安定属国の都尉・張奐を北中郎将に任命し、匈奴と烏桓の討伐に向かわせた。敵軍は防衛拠点の門を焼き払い、赤坂に陣を敷いて烽火を連日上げて威嚇した。漢軍兵士は恐怖に駆られ逃亡しようとしたが、張奐は悠然と陣幕の中で弟子たちに経典を講義し、指揮官の落ち着いた態度に兵士たちは次第に冷静さを取り戻した。その後、張奐は密かに烏桓の部族を懐柔し、匈奴と屠各(とこく)族の首長たちを暗殺させて敵陣を混乱に陥れた。これにより諸民族は相次いで降伏した。 南匈奴単于廃立事件戦後、張奐は南匈奴の車児単于(しゃじぜんう)が統治能力を欠いていると判断し、彼を拘束して左谷蠡王(さこくれいおう)を新単于に推挙した。しかし皇帝はこれに反論した。「『春秋』が説く大義とは、正道を重んじることにあります。車児が教化を受け入れようとしているのに、どうして廃位できましょうか。速やかに彼を故郷に帰還させよ」 陳亀と梁冀の確執大将軍・梁冀(りょうき)はかねてより陳亀と対立していた。彼は「陳亀は国威を傷つけ、虚偽の功績を詐称し、異民族から畏怖されていない」と讒言(ざんげん)し、皇帝は陳亀を首都に召還した。代わって種暠(しゅこう)が度遼将軍に任命された。 陳亀の最期陳亀は官職を辞して郷里に帰ることを願い出たが、再び尚書に任命された。梁冀の横暴が日増しに激しくなる中、陳亀はその罪状を列挙した上奏文を提出し、梁冀の処刑を直訴した。しかし皇帝はこれを無視した。陳亀は梁冀から殺害されることを確信し、絶食を決意。七日後に息を引き取った。 解説(背景と分析)歴史的意義この記述は後漢王朝の深刻な統治危機を映し出しています: - 梁冀の専横:外戚勢力の暴走が頂点に達し、清廉な官吏・陳亀が自殺に追い込まれる事態に - 異民族問題:匈奴・烏桓など北方民族の脅威が継続 - 財政悪化:陳亀の辣腕統治で「数億銭の節減」と記されるほど、地方行政の無駄が蔓延 人物評
思想史的考察
後世への影響この事件は30年後に起きる「党錮の禁(とうこのきん)」の前兆とも言えます。清流派官僚と外戚勢力の対立が深刻化し、後漢衰退の決定的要因となっていくのです。范曄(はんよう)が『後漢書』で陳亀を「節を重んじた剛直の士」と評した背景には、こうした歴史的教訓がありました。 Translation took 2423.3 seconds. |
| 種暠到營所,先宣恩信,誘降諸胡,其有不服,然後加討;羌虜先時有生見獲質於郡縣者,悉遣還之;誠心懷撫,信賞分明,由是羌、胡皆來順服。暠乃去烽燧,除候望,邊方晏然無警;入為大司農。 孝桓皇帝上之下延熹二年(己亥,公元一五九年) 春,二月,鮮卑寇雁門。 蜀郡夷寇蠶陵。 三月,復斷刺史、二千石行三年喪。 夏,京師大水。 六月,鮮卑寇遼東。 梁皇后恃姊、兄廕勢,恣極奢靡,兼倍前世,專寵妒忌,六宮莫得進見。及太后崩,恩寵頓衰。後既無嗣,每宮人孕育,鮮得全者。帝雖迫畏梁冀,不敢譴怒,然進御轉希,後益憂恚。秋,七月,丙午,皇后梁氏崩。乙丑,葬懿獻皇后於懿陵。梁冀一門,前後七侯,三皇后,六貴人,二大將軍,夫人、女食邑稱君者七人,尚公主者三人,其餘卿、將、尹、校五十七人。冀專擅威柄,凶恣日積,宮衛近侍,並樹所親,禁省起居,纖微必知。其四方調發,歲時貢獻,皆先輸上第於冀,乘輿乃其次焉。吏民繼貨求官、請罪者,道路相望。百官遷召,皆先到冀門箋檄謝恩,然後敢詣尚書。下邳吳樹為宛令,之官辭冀,冀賓客布在縣界,以情托樹,樹曰:「小人奸蠹,比屋可誅。明將軍處上將之位,宜崇賢善以補朝闕。自侍坐以來,未聞稱一長者,而多托非人,誠非敢聞!」冀嘿然不悅。 |
現代日本語訳種邵(しゅしょう)の辺境統治種邵が駐屯地に到着すると、まず信義を示して諸胡族を懐柔し、従わない者には武力で討伐した。また、羌族の虜(とりこ)として郡県に抑留されていた者をすべて解放し、誠意をもって慰撫するとともに、賞罰を明確にした。これにより羌族や胡族はこぞって帰順した。種邵は烽火台を撤去し、見張りを減らしたが、辺境は平穏で何の異変も起こらなかった。その後、彼は大司農(財務・農業長官)に任命された。 桓帝延熹二年(己亥、西暦159年)の記録春二月: 三月: 夏: 六月: 梁皇后の死と梁冀の専横梁皇后は姉(梁冀の妻)と兄(梁冀)の権勢を頼み、奢侈を極め、前代未聞の浪費を重ねた。さらに皇帝の寵愛を独占して嫉妬深く振る舞い、他の后妃が皇帝に近づくことを許さなかった。皇太后が崩御すると、彼女の寵愛は急速に衰えた。子供がいなかった梁皇后は、后宮の女性が身ごもるたびにことごとく堕胎させた。皇帝(桓帝)は梁冀を恐れて怒りを表せなかったが、皇后のもとへ行く回数は減り、彼女の憂いと恨みは深まるばかりだった。 秋七月丙午: 梁氏一族の権勢梁冀一族は、七人の列侯、三人の皇后、六人の貴人(高位妃嬪)、二人の大将軍、七人の君侯(女性封爵者)を輩出し、さらに三人の公主(皇女)を娶り、その他卿・将軍・尹・校尉など五十七人の高官を擁していた。梁冀は権力を独占し、横暴な振る舞いを日増しに強めた。宮中の近侍には一族を配置し、皇帝の日常生活さえも細かく監視した。 腐敗の実態地方からの物資や年貢は、まず最高品質を梁冀に献上し、皇帝への分は二番品だった。賄賂で官位を買おうとする者や罪の赦免を乞う者が道路にあふれ、百官は昇任の際、まず梁冀の邸で誓紙を捧げて忠誠を誓わねば尚書省へ赴けなかった。 呉樹の直言下邳の県令・呉樹が赴任前に梁冀のもとを辞去すると、梁冀は「領内に私の知人がいるので便宜を図ってほしい」と頼んだ。これに対し呉樹は言った。「奸悪の輩はどの家にもおりますが、大将軍(梁冀)のような高位にある方は、むしろ賢者を登用して朝廷の欠点を補うべきです。私はこれまで您が一人でも賢人を称賛されるのを聞いたことがなく、無能者ばかりを推挙なさいます。これは到底承服できません」と。梁冀は黙り込み、不快そうな表情を浮かべた。 解説
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| 樹到縣,遂誅殺冀客為人害者數十人。樹後為荊州刺史,辭冀,冀鴆之,出,死車上。遼東太守侯猛初拜,不謁冀,冀托以它事腰斬之。郎中汝南袁著,年十九,詣闕上書曰:「夫四時之運,功成則退,高爵厚寵,鮮不致災。今大將軍位極功成,可為至戒,宜遵縣車之禮,高枕頤神。傳曰:『木實繁者披枝害心。』若不抑損盛權,將無以全其身矣!」冀聞而密遣掩捕,著乃變易姓名,托病偽死,結蒲為人,市棺殯送。冀知其詐,求得,笞殺之。太原郝絜、胡武,好危言高論,與著友善,絜、武嘗連名奏記三府,薦海內高士,而不詣冀。冀追怒之,敕中都官稱檄禽捕,遂誅下家,死者六十餘人。絜初逃亡,知不得免,因輿梓奏書冀門,書入,仰藥而死,家乃得全。安帝嫡母耿貴人薨,冀從貴人從子林慮侯承求貴人珍玩,不能得,冀怒,並族其家十餘人。涿郡崔琦以文章為冀所善,琦作《外戚箴》、《白鵠賦》以風,冀怒。琦曰:「昔管仲相齊,樂聞譏諫之言;蕭何佐漢,乃設書過之吏。今將軍屢世台輔,任齊伊、周,而德政未聞,黎元塗炭,不能結納貞良以救禍敗,反欲鉗塞士口,杜蔽主聽,將使玄黃改色、馬鹿易形乎!」冀無以對,因遣琦歸。琦懼而亡匿,冀捕得,殺之。 冀秉政幾二十年,威行內外,天子拱手,不得有所親與,帝既不平之;及陳授死,帝愈怒。 |
呉樹は任地に着くとすぐに、民衆に害を与えていた梁冀の配下数十名を処刑した。
後に荊州刺史となった呉樹が再び梁冀のもとを訪れた際、梁冀は毒酒でもてなした。彼は退出して車内で息絶えた。遼東太守・侯猛が就任時に挨拶に来なかったため、梁冀は口実を作って腰斬の刑に処した。 郎中(役職名)である汝南出身の袁著(19歳)が朝廷へ上書した。「四季が巡るように、功績を成し遂げた者は身を引くものです。高位と厚い寵愛は災いをもたらします。今こそ将軍は引退されるべきです」伝に曰く『果実が多い木は枝が折れて幹を傷める』。権勢を抑えなければ、自身の安全さえ保てないでしょう!」梁冀はこれを聞くと密かに捕らえるよう命じた。袁著は偽名を使い病死を装って逃亡し、藁人形を作り棺に収めて葬式まで行ったが、梁冀に見破られた。彼は見つけ出され笞打ちで殺害された。 太原出身の郝絜と胡武は過激な言論で知られ、袁著と親交があったため連座を恐れた(二人は以前に三府へ連名で推薦状を送ったが梁冀には無断だった)。梁冀が捕縛令を出すと郝絜は逃亡したものの助からないと悟り、棺桶を持って梁冀邸前で抗議書を捧げた。中に入れられると彼は服毒自殺し、家族は難を逃れた。一方胡武ら60名余りの一族・関係者は処刑された。 安帝の実母である耿貴人が逝去した際、梁冀はその甥(従兄弟)にあたる林慮侯・承に遺品を要求したが断られた。激怒した彼は承を含む家族10数人を皆殺しにした。 涿郡出身で文才ある崔琦はもともと梁冀のお気に入りだったが、『外戚箴』や『白鵠賦』という諷刺作品を作ったため逆鱗に触れた。批判された崔琦は言い返した。「管仲(斉)や蕭何(漢)のような名宰相こそ諫言を受け入れたものでは?」梁冀が反論できず帰宅を許すと、彼は逃亡先で捕らえられ殺害された。 こうして梁冀は20年近く政権を独占し朝廷内外に威令を行きわたらせた。皇帝(桓帝)は名ばかりの存在となり実権を持てなかったので次第に不満を募らせていたが、側近・陳授処刑事件でついに怒りが爆発した。 翻訳解説
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| 和熹皇后從兄子郎中鄧香妻宣,生女猛,香卒,宣更適梁紀;紀,孫壽之舅也。壽以猛色美,引入掖庭,為貴人,冀欲認猛為其女,易猛姓為梁。冀恐猛姊婿議郎邴尊沮敗宣意,遣客刺殺之。又欲殺宣,宣家與中常侍袁赦相比,冀客登赦屋,欲入宣家,赦覺之,鳴鼓會眾以告宣。宣馳入白帝,帝大怒,因如廁,獨呼小黃門史唐衡,問:「左右與外捨不相得者,誰乎?」衡對:「中常侍單超、小黃門史左心官與梁不疑有隙;中常侍徐璜、黃門令具瑗常私忿疾外捨放橫,口不敢道。」於是帝呼超、心官入室,謂曰:「梁將軍兄弟專朝,迫脅內外,公卿以下,從其風旨,今欲誅之,於常侍意如何?」超等對曰:「誠國奸賊,當誅日久;臣等弱劣,未知聖意如何耳。」帝曰:「審然者,常侍密圖之。」對曰:「圖之不難,但恐陛下腹中狐疑。」帝曰:「奸臣脅國,當伏其罪,何疑乎!」於是更召璜、瑗等,五人共定其議,帝齧超臂出血為盟。超等曰:「陛下今計已決,勿復更言,恐為人所疑。」 冀心疑超等,八月,丁丑,使中黃門張惲入省宿,以防其變。具瑗敕吏收惲,以「輒從外入,欲圖不軌。」帝御前殿,召諸尚書入,發其事,使尚書令尹勳持節勒丞、郎以下皆操兵守省閣,斂諸符節送省中,使具瑗將左右廄騶、虎賁、羽林、都候劍戟士合千餘人,與司隸校尉張彪共圍冀第,使光祿勳袁□於持節收冀大將軍印綬,徙封比景都鄉侯。 |
現代日本語訳梁冀追討計画の発端和熹皇后(東漢の鄧皇后)の甥である郎中(官職名)鄧香の妻・宣は、娘の猛を儲けた。鄧香の死後、宣は梁紀と再婚した。梁紀は孫寿(梁冀の妻)の叔父である。孫寿は猛の美しい容姿に目をつけ、彼女を後宮に引き入れ貴人(高位の后妃)とした。梁冀(外戚の権力者)は猛を養女として「梁」姓を名乗らせようと画策した。猛の姉の夫である議郎(官職名)の邴尊が宣を諫めてこの計画に反対したため、梁冀は刺客を送って邴尊を暗殺した。さらに宣をも暗殺しようとしたが、宣の家は中常侍(宦官の高官)袁赦の隣にあった。梁冀の刺客が袁赦の屋根に登ったところを発見され、袁赦は警戒の太鼓を叩いて人々を集め、宣に危険を知らせた。 皇帝の決断宣は急いで宮中に駆け込み、皇帝(桓帝)に事の次第を奏上した。激怒した皇帝は厠に入るふりをし、ひそかに小黄門史(下級宦官)の唐衡を呼んで問いただした。「宮中で外戚勢力(梁氏一族)と対立している者は誰か?」唐衡は答えた。「中常侍の単超と小黄門史の左悺は梁冀の弟・梁不疑と確執があります。また中常侍の徐璜と黄門令の具瑗は梁氏の横暴をひそかに憎んでいますが、口に出せずにいます」。 宦官たちとの密議皇帝は単超と左悺を自室に招き入れ、こう告げた。「梁冀兄弟が朝廷を牛耳り、朝廷内外を威圧している。公卿以下の官僚は皆、彼らの意のままになっている。朕は彼らを誅殺しようと思うが、卿たちの意見はどうか?」単超らは答えた。「梁冀こそ国の奸賊です。誅殺は当然ですが、臣らは力不足であり、陛下の御覚悟が心配です」。皇帝は言った。「決意は固い。卿たちは密かに計画を進めよ」。単超らは「計画自体は難しくありません。ただ陛下の決意が揺らぐのではないかと危惧します」と述べると、皇帝は激しく言い放った。「奸賊が国を脅かしているのだ!誅殺は当然であり、迷うことなどない!」 血盟と決行直ちに徐璜と具瑗を呼び寄せ、五人で計画を練った。皇帝は単超の腕に噛みついて出血させ、血で盟を結んだ。単超らは言った。「陛下の御決断が固い以上、これ以上話せば漏れる恐れがあります」。梁冀は単超らの動きを怪しみ、八月丁丑の日、配下の中黄門(宦官)張惲を宮中に派遣して偵察させた。具瑗は即座に役人に命じて張惲を逮捕させ、「無断で宮中に侵入し、陰謀を企てた」との罪名を着せた。 梁冀邸包囲作戦皇帝は前殿に出御し、尚書(高官)全員を召集して事態を明かした。尚書令の尹勳に節(権限の証)を与え、丞や郎以下の官僚に武器を持たせて官衙を固めさせ、全ての符節(兵権の証)を宮中に集めさせた。具瑗には左右廄騶(宮廷騎兵)、虎賁(近衛兵)、羽林(禁衛軍)、都候(警備兵)の剣戟士ら千余人を率いさせ、司隸校尉の張彪と共に梁冀の屋敷を包囲させた。さらに光祿勳の袁盱(□は「盱」と推定)に節を持たせて梁冀から大将軍の印綬を没収させ、比景都郷侯へ左遷することを宣告させた。 訳注と解説
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| 冀及妻壽即日皆自殺;不疑、蒙先卒。悉收梁氏、孫氏中外宗親送詔獄,無長少皆棄市;它所連及公卿、列校、刺史、二千石,死者數十人。太尉胡廣、司徒韓縯、司空孫朗皆坐阿附梁冀,不衛宮,止長壽亭,減死一等,免為庶人。故吏、賓客免黜者三百餘人,朝廷為空。是時,事猝從中發,使者交馳,公卿失其度,官府市裡鼎沸,數日乃定;百姓莫不稱慶。收冀財貨,縣官斥賣,合三十餘萬萬,以充王府用,減天下稅租之半,散其苑囿,以業窮民。 壬午,立梁貴人為皇后,追廢懿陵為貴人塚。帝惡梁氏,改皇后姓為薄氏,久之,知為鄧香女,乃複姓鄧氏。 詔賞誅梁冀之功,封單超、徐璜、具瑗、左心官、唐衡皆為縣侯,超食二萬戶,璜等各萬餘戶,世謂之五侯。仍以心官、衡為中常侍。又封尚書令尹勳等七人皆為亭侯。 以大司農黃瓊為太尉,光祿大夫中山祝恬為司徒,大鴻臚梁國盛允為司空。是時,新誅梁冀,天下想望異政,黃瓊首居公位,乃舉奏州郡素行貪污,至死徙者十餘人,海內翕然稱之。 瓊辟汝南范滂。滂少厲清節,為州裡所服。嘗為清詔使,案察冀州,滂登車攬轡,慨然有澄清天下之志。守令臧污者,皆望風解印綬去;其所舉奏,莫不厭塞眾議。會詔三府掾屬舉謠言,滂奏刺史、二千石權豪之黨二十餘人。尚書責滂所劾猥多,疑有私故。 |
現代日本語訳梁冀一派の粛清とその影響梁冀とその妻・孫寿は即日自害した。梁冀の弟・梁不疑と梁蒙は既に死去していた。梁氏と孫氏の一族全員(本家も分家も含む)を逮捕し、詔獄に投じた。老若男女を問わず全員を公開処刑し、公卿(高官)や列校(将校)、刺史(監察官)、二千石(郡太守クラス)など梁冀と繋がりのあった者たち数十人も処刑された。 朝廷高官の処分と朝廷の空洞化太尉の胡広、司徒の韓縯、司空の孫朗らは、梁冀に媚びへつらい、皇帝の危機にも救援しなかった罪で、死刑一等を減じられ長寿亭に謹慎処分となった。彼らの旧臣や食客ら三百人以上が官職を剥奪され、朝廷は空っぽの状態になった。 民衆の反応と財産処理この粛清劇は突然宮中で起こり、使者が慌ただしく行き交い、高官たちは度を失った。官庁街や市場は大混乱に陥ったが、数日で収束した。民衆はこぞって歓迎した。梁冀の財産は没収され、朝廷が売却した総額は三十億銭以上に上った。この資金は王室の経費に充てられ、全国の租税を半減させる財源となった。梁冀の庭園や別荘は全て貧民に分配された。 皇后擁立とその後の経緯壬午の日、梁貴人(梁冀の妹)が皇后に立てられた。同時に懿陵(梁冀の妹で先代皇后・梁女瑩の陵)は貴人の陵墓に格下げされた。皇帝(桓帝)は梁氏を憎悪していたため、新皇后の姓を「梁」から「薄」に改めさせた。後に彼女が鄧香の娘であることが判明すると、姓を「鄧」に戻した。 粛清の功労者への恩賞梁冀誅殺の功績として、単超、徐璜、具瑗、左悺、唐衡の五名が県侯(県単位の侯爵)に封じられた。単超は二万戸、他は各一万戸を領し、世に「五侯」と称された。左悺と唐衡は中常侍(皇帝側近の宦官職)を兼任した。尚書令の尹勲ら七名も亭侯(村単位の侯爵)に封じられた。 黄瓊の登用と綱紀粛正大司農(財務長官)の黄瓊が太尉(軍事長官)に昇進し、光禄大夫(顧問官)の祝恬が司徒(行政長官)に、大鴻臚(儀礼長官)の盛允が司空(建設長官)に任命された。梁冀粛清直後、天下は政治刷新を期待していた。三公の筆頭となった黄瓊は率先して行動し、州郡の腐敗官僚を告発。汚職の罪で死刑または流刑となった者は十数人に上り、国内から称賛の声が上がった。 范滂の剛直な監察活動黄瓊は汝南出身の范滂を登用した。范滂は若い頃から清廉な性格で郷里の信望を集めていた。かつて清詔使(監察官)として冀州を巡察した際、馬車の手綱を取ると「天下を清めるぞ」と宣言したほど気概があった。汚職を知事たちは彼の風圧に抗えず、自ら印綬を返上して逃げ出した。彼の弾劾状は常に世論の支持を得ていた。 激しい権力闘争と批判三府(三公の官府)が属官に民間評判(地方官の評価)を報告させた際、范滂は刺史や二千石クラスの権力者二十余名を告発した。これに対し尚書(行政実務機関)が「告発が多すぎる。私怨ではないか」と詰問した。 解説(歴史的背景と補足)
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| 滂對曰:「臣之所舉,自非叨穢奸暴,深為民害,豈以污簡札哉!間以會日迫促,故先舉所急,其未審者,方更參實。臣聞農夫去草,嘉谷必茂;忠臣除奸,王道以清。若臣言有貳,甘受顯戮!」尚書不能詰。 尚書令陳蕃上疏薦五處士,豫章徐稚、彭城姜肱、汝南袁閎、京兆韋著,穎川李曇。帝悉以安車、玄纁備禮征之,皆不至。稚家貧,常自耕稼,非其力不食,恭儉義讓,所居服其德;屢辟公府,不起。陳蕃為豫章太守,以禮請署功曹;稚不之免,既謁而退。蕃性方峻,不接賓客,唯稚來,特設一榻,去則縣之。後舉有道,家拜太原太守,皆不就。稚雖不應諸公之辟,然聞其死喪,輒負笈赴吊。常於家豫炙雞一隻,以一兩綿絮漬酒中暴干,以裹雞,逕到所赴塚隧外,以水漬綿,使有酒氣,斗米飯,白茅為藉。以雞置前,醊酒畢,留謁則去,不見喪主。 肱與二弟仲海、季江俱以孝友著聞,常同被而寢,不應徵聘。肱嘗與弟季江俱詣郡,夜於道為盜所劫,欲殺之,肱曰:「弟年幼,父母所憐,又未聘娶,願殺身濟弟。」季江曰:「兄年德在前,家之珍寶,國之英俊,乞自受戮,以代兄命。」盜遂兩釋焉,但掠奪衣資而已。既至,郡中見肱無衣服,怪問其故,肱托以它辭,終不言盜。盜聞而感悔,就精廬求見征君,叩頭謝罪,還所略物。肱不受,勞以酒食而遣之。 |
現代日本語訳范滂(はんぼう)の応答范滂がこう答えた。「私が推薦した人物は、汚職や悪行に染まり民衆を苦しめる者ではありません。どうして推薦名簿を汚すような真似ができましょうか? ただ会議の時間が差し迫っていたため、急ぎの案件を優先して報告したまでです。未審査の案件については改めて詳細を調査する所存です。農夫が雑草を抜けば作物はよく育つように、忠臣が悪人を除けば王道は清らかになります。もし私の言葉に虚偽があれば、喜んで厳罰を受けましょう。」 この言葉に尚書(官職名)は反論できなかった。 陳蕃(ちんばん)による隠士の推薦尚書令(行政長官)の陳蕃が五人の隠士を推薦する上奏文を提出した。豫章(江西省)の徐稚(じょち)、彭城(江蘇省)の姜肱(きょうこう)、汝南(河南省)の袁閎(えんこう)、京兆(陝西省)の韋著(いちょ)、潁川(河南省)の李曇(りたん)である。皇帝は立派な馬車と黒絹の礼服を賜って招聘したが、誰も応じなかった。 徐稚の逸話徐稚は貧しい家に生まれ、自ら田畑を耕して生計を立てていた。自分の労働で得たもの以外は受け取らず、慎み深く節約を旨とし、義を重んじたため、地域の人々は彼の徳を慕った。政府が再三官職に招いたが応じなかった。豫章太守となった陳蕃が礼を尽くして功曹(人事官)への就任を要請したが、徐稚は辞退し、挨拶だけして帰ってしまった。陳蕃は厳格な性格で客を滅多に受け入れなかったが、徐稚だけは特別で、彼が来ると専用の腰掛けを用意し、帰った後は壁に掛けて保管したという。 後に「有道」(徳行高尚な人物)に推挙され、太原太守への任命を受けたが、これも固辞した。徐稚は官職の誘いには応じなかったが、他人の訃報を聞くと必ず弔問に出向いた。自宅で焼き鳥を用意し、綿を酒に浸して乾かしたもので鶏肉を包み、墓前まで運んだ。現地で綿を酒に浸し直して香りを立たせ、白米の飯を添えて供えた。供物を捧げ酒を撒いた後、名札を置いてすぐに立ち去り、遺族と顔を合わせることは決してなかった。 姜肱兄弟の逸話姜肱は二人の弟(仲海、季江)とともに親孝行と兄弟愛で知られ、常に同じ布団で寝るほど仲が良かった。官職の誘いには一切応じなかった。 ある時姜肱が弟の季江と郡役所へ向かう途中、夜道で賊に襲われ殺されそうになった。姜肱が言うには「弟はまだ若く、両親が大切にしています。嫁ももらっておらず、私が身代わりになりますから弟を助けてください」と。すると季江が「兄は徳も年齢も上で、家の宝であり国の俊英です。どうか私が身代わりになります」と訴えた。賊は二人の兄弟愛に心を打たれ、解放することにした。ただし所持品は奪っていった。 役所に着くと、衣服を失った姜肱の姿を見た役人たちが怪しんで理由を尋ねたが、姜肱は他の言葉でごまかし、決して賊のことは話さなかった。後でこの話を聞いた賊たちは深く反省し、姜肱の隠れ家を訪れてひれ伏し謝罪し、奪った品を全て返還した。姜肱は返却を拒んだが、賊たちに酒食を振るい、労って帰らせた。 解説
これらの故事は、権力に屈しない知識人の気骨と、徳行が暴力すら感化するという儒教の理想を体現しており、現代でもリーダーシップ論や倫理教育の教材として引用される。 Translation took 2262.8 seconds. |
| 帝既征肱不至,乃下彭城,使畫工圖其形狀。肱臥於幽暗,以被韜面,言患眩疾,不欲出風,工竟不得見之。 閎,安之玄孫也,苦身修節,不應辟召。著隱居講授,不修世務。曇繼母酷烈,曇奉之逾謹,得四時珍玩,未嘗不先拜而後進,鄉里以為法。 帝又征安陽魏桓,其鄉人勸之行,桓曰:「夫干祿求進,所以行其志也。今後宮千數,其可損乎?廄馬萬匹,其可減乎?左右權豪,其可去乎?」皆對曰:「不可。」桓乃慨然歎曰:「使桓生行死歸,於諸子何有哉!」遂隱身不出。 帝既誅梁冀,故舊恩敵,多受封爵:追贈皇后父鄧香為車騎將軍,封安陽侯;更封後母宣為昆陽君,兄子康、秉皆為列侯,宗族皆列校、郎將,賞賜以巨萬計。中常侍侯覽上縑五千匹,帝賜爵關內侯,又托以與議誅冀,進封高鄉侯;又封小黃門劉普、趙忠等八人為鄉侯。自是權勢專歸宦官矣。五侯尤貪縱,傾動內外。時災異數見,白馬令甘陵李雲露布上書,移副三府曰:「梁冀雖持權專擅,虐流天下,今以罪行誅,猶召家臣扼殺之耳,而猥封謀臣萬戶以上;高祖聞之,得無見非!西北列將,得無解體!孔子曰:『帝者,諦也。』今官位錯亂,小人諂進,財貨公行,政化日損;尺一拜用,不經御省,是帝欲不謗乎!」帝得奏震怒,下有司逮雲,詔尚書都護劍戟送黃門北寺獄,使中常侍管霸與御史、廷尉雜考之。 |
現代日本語訳
解説(補足)
この翻訳では、歴史的固有名詞は原音尊重(例:肱→こう)とし、漢代の官職名は日本語で通用する訳語を採用。原文の修辞(対句・引用)を可能な限り再現しつつ、現代日本語で理解しやすい表現を心がけました。補足解説で背景と批判の本質を明確化しています。 Translation took 2336.4 seconds. |
| 時弘農五官掾杜眾傷雲以忠諫獲罪,上書「願與雲同日死」,帝愈怒,遂並下廷尉。大鴻臚陳蕃上疏曰:「李雲所言,雖不識禁忌,幹上逆旨,其意歸於忠國而已。昔高祖忍周昌不諱之諫,成帝赦朱雲腰領之誅,今日殺雲,臣恐剖心之譏,復議於世矣!」太常楊秉、雒陽市長沐茂、郎中上官資並上疏請雲。帝恚甚,有司奏以為大有敬。詔切責蕃、秉,免歸田裡,茂、資貶秩二等。時帝在濯龍池,管霸奏雲等事,霸跪言曰:「李雲野澤愚儒,杜眾郡中小吏,出於狂戇,不足加罪。」帝謂霸曰:「『帝欲不諦』,是何等語,而常侍欲原之邪!」顧使小黃門可其奏,雲、眾皆死獄中,於是嬖寵益橫。太尉瓊自度力不能制,乃稱疾不起,上疏曰:「陛下即位以來,未有勝政,諸梁秉權,豎宦充朝,李固、杜喬既以忠言橫見殘滅,而李雲、杜眾復以直道繼踵受誅,海內傷懼,益以怨結,朝野之人,以忠為諱。尚書周永,素事梁冀,假其威勢,見冀將衰,乃陽毀示忠,遂因奸計,亦取封侯。又,黃門挾邪,群輩相黨,自冀興盛,腹背相親,朝夕圖謀,共構奸軌;臨冀當誅,無可設巧,復記其惡以要爵賞。陛下不加清征,審別真偽,復與忠臣並時顯封,使朱紫共色,粉墨雜糅,所謂抵金玉於沙礫,碎珪璧於泥塗,四方聞之,莫不憤歎。臣世荷國恩,身輕位重,敢以垂絕之日,陳不諱之言。 |
現代日本語訳弘農郡の五官掾(下級官吏)である杜衆は、李雲が忠義の諫言によって罪を得たことを哀れみ、「李雲と同日に死ぬことを願う」と上書した。皇帝(桓帝)はますます怒り、李雲と杜衆を共に廷尉(司法長官)の獄に下した。 大鴻臚(諸侯・外交担当官)の陳蕃が上疏して言った。 「李雲の発言は、禁忌を知らなかった点はあるものの、その本意は国への忠誠にあります。昔、高祖(前漢の劉邦)は周昌の忌憚なき諫言を容れ、成帝(前漢の劉驁)は朱雲が殿中の欄干を壊しながら諫めた罪を赦しました。今、李雲を誅すれば、殷の比干が諫めて心臓を抉られた故事のように、陛下が忠言を拒む暴君だと後世に非難されるでしょう」 太常(祭祀長官)の楊秉、洛陽市長の沐茂、郎中(侍従官)の上官資も相次いで上疏し、李雲の赦免を請うた。皇帝は激怒し、役人が「彼らは大いに不敬である」と奏上すると、詔勅で陳蕃と楊秉を厳しく譴責し官職を剥奪して帰郷させ、沐茂と上官資は官位を二階級下げた。 当時、皇帝が濯龍池(宮中の庭園)にいた時、宦官の管霸が李雲らの処分について奏上し、跪いて言った。 「李雲は田舎の愚かな書生、杜衆は地方の小役人です。狂気の妄言に過ぎず、死罪に値しません」 皇帝は管霸を叱責した。 「『皇帝は諫めを聞かない』とは何事か! お前までも彼らを弁護するのか!」 管霸の進言を却下し、詔勅で李雲と杜衆を獄中死させた。これにより皇帝の寵臣(宦官ら)の横暴はますます激しくなった。 太尉(宰相)の黄瓊は自らの力では制御できないと悟り、病と称して出仕せず、上疏して直言した。 「陛下が即位されて以来、優れた政策は見られず、梁氏一族(外戚)が権力を独占し、宦官たちが朝廷を牛耳っています。李固と杜喬が忠言を呈して惨殺され、今また李雲と杜衆が正義を貫いて処刑されました。天下の人は深く傷つき、怨みが渦巻き、朝廷内外では『忠義』という言葉自体がタブーとなっています。 尚書(行政長官)の周永は、かつて梁冀(外戚の権臣)に媚びて威勢を借りていましたが、梁冀が失脚すると突然『忠義』を装い、奸計を用いて侯爵にまで上り詰めました。宦官たちは結託し、梁冀の権勢が盛んだった頃は彼と密着して悪事を謀り、梁冀が誅殺される時には手のひらを返して『梁冀の悪行を告発した』と偽り、自分たちの爵位を得たのです。 陛下は彼らの奸計を暴かず、忠臣と奸臣の区別もせず、かえって忠臣たちと同時期に彼らを高官に登用されました。これは朱(正色)と紫(間色)を混同し、墨(黒)と粉(白)を掻き混ぜるようなもので、金玉を砂礫に投げ捨て、宝玉を泥の中に踏み砕くに等しい行為です。天下の人がこれを聞いて、憤慨し嘆かない者などおりません。 臣は代々国の恩恵を受け、身は軽いが職責は重く、命の尽きようとする今、忌憚なき直言を呈します。」 解説
この事件は『後漢書』巻57に詳述され、後世の清議派(陳蕃ら)弾圧→党錮の禍へ連なる起点となりました。訳文では歴史的緊張感を保ちつつ、現代日本語の自然な流れを重視しています。 Translation took 2248.7 seconds. |
| 」書奏,不納。 冬,十月,壬申,上行幸長安。 中常侍單超疾病;壬寅,以超為車騎將軍。 十二月,己巳,上還自長安。燒當、燒何、當煎、勒姐等八種羌寇隴西金城塞,護羌校尉段穎擊破之,追至羅亭,斬其酋豪以下二千級,獲生口萬餘人。 詔復以陳蕃為光祿勳,楊秉為河南尹。單超兄子匡為濟陰太守,負勢貪放。兗州刺史第五種使從事衛羽案之,得臧五六千萬,種即奏匡,並以劾超。匡窘迫,賂客任方刺羽。羽覺其奸,捕方,囚系雒陽。匡慮楊秉窮竟其事,密令方等突獄亡走。尚書召秉詰責,秉對曰:「方等無狀,釁由單匡,乞檻車征匡,考核其事,則奸慝蹤緒,必可立得。」秉竟坐論作左校。時泰山賊叔孫無忌寇暴徐、兗,州郡不能討,單超以是陷第五種,坐徙朔方;超外孫董援為朔方太守,蓄怒以待之。種故吏孫斌知種必死,結客追種,及於太原,劫之以歸,亡命數年,會赦得免。種,倫之曾孫也。 是時,封賞逾制,內寵猥盛。陳蕃上疏曰:「夫諸侯上象四七,籓屏上國;高祖之約,非功臣不侯。而聞追錄河南尹鄧萬世父遵之微功,更爵尚書令黃俊先人之絕封。近習以非義授邑,左右以無功傳賞,至乃一門之內,侯者數人,故緯象失度,陰陽謬序。臣知封事已行,言之無及,誠欲陛下從是而止。又,采女數千,食肉衣綺,脂油粉黛,不可貲計。 |
現代日本語訳歴史記述
陳蕃の諫言
解説(現代語訳のポイント)
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| 鄙諺言『盜不過五女門』,以女貧家也;今後宮之女,豈不貧國乎!」帝頗采其言,為出宮女五百餘人,但賜俊爵關內侯,而封萬世南鄉侯。 帝從容問侍中陳留爰延:「朕何如主也?」對曰:「陛下為漢中主。」帝曰:「何以言之?」對曰:「尚書令陳蕃任事則治,中常侍黃門與政則亂。是以知陛下可與為善,可與為非。」帝曰:「昔朱雲廷折欄檻,今侍中面稱朕違,敬聞闕矣。」拜五官中郎將,累遷大鴻臚。會客星經帝坐,帝密以問延,延上封事曰:「陛下以河南尹鄧萬世有龍潛之舊,封為通侯,恩重公卿,惠豐宗室;加頃引見,與之對博,上下□葉黷,有虧尊嚴。臣聞之,帝左右者,所以咨政德也。善人同處,則日聞嘉訓;惡人從游,則日生邪情。惟陛下遠讒諛之人,納謇謇之士,則災變可除。」帝不能用。延稱病,免歸。 孝桓皇帝上之下延熹三年(庚子,公元一六零年) 春,正月,丙申,赦天下,詔求李固後嗣。初,固既策罷,知不免禍,乃遣三子基、茲、燮皆歸鄉里,時燮年十三,姊文姬為同郡趙伯英妻,見二兄歸,具知事本,默然獨悲曰:「李氏滅矣!自太公已來,積德累仁,何以遇此!」密與二兄謀,豫藏匿燮,託言還京師,人咸信之。有頃,難作,州郡收基、茲,皆死獄中。文姬乃告父門生王成曰:「君執義先公,有古人之節;今委君以六尺之孤,李氏存滅,其在君矣!」成乃將燮乘江東下,入徐州界,變姓名為酒家傭,而成賣卜於市,各為異人,陰相往來。 |
『盗人も娘五人いる家には入らぬ』との諺(注3)がありますが、それは多子ゆえの貧困故でしょう。後宮にこれほどの女性がいれば国が貧しくなるのは当然では?」
皇帝(桓帝)はこの進言をある程度受け入れ、五百人余りの宮女を解放した。しかし黄俊には関内侯を与え、鄧万世も南郷侯に封じた。 皇帝が侍中の陳留出身・爰延に「朕はいかなる君主か」と尋ねると、「陛下は漢王朝の中庸の主(注4)です」と答えた。理由を問われてこう説明した:「尚書令・陳蕃を用いれば政治は安定しますが、中常侍や宦官(黄門)が政務に関与すれば混乱します。よって善政にも悪政も可能な君主だとわかります」。皇帝は「昔の朱雲が宮殿欄干を折った故事があるが(注5)、今あなたは直接朕の過ちを指摘した」と述べ、爰延を五官中郎将に任命し後に大鴻臚へ昇進させた。 時を同じくして客星(彗星)が帝座星近傍を通り(注6)、皇帝が密かに意見を求めたところ、爰延は封書で奏上した:「陛下は河南尹・鄧万世が即位前からの旧臣であることを理由に通侯(列侯)に封じ公卿以上の厚遇を与えられました。近ごろは彼と盤戯(注7)を対戦され、君臣の境界が乱れ威厳を損なっております。天子の側近は国政・道徳について諮問する存在です。善人と共にいれば良い教えを得られ、悪者と交われば邪心が生じます。どうか媚びる者を遠ざけ忠言する士を受け入れて下されば災異も消えるでしょう」。皇帝は採用せず、爰延は病と称して辞職した。 孝桓皇帝紀 上巻(後編)延熹三年(庚子年・西暦160年) 春正月丙申の日、天下に大赦を施行し李固(注8)の末裔探しが命じられた。当初、李固が三公罷免された際、災禍を避けられぬと悟り三人の息子(基・茲・燮)を故郷へ帰した。当時13歳だった末子・燮には同郡出身で趙伯英に嫁いだ姉・文姫がおり、二人の兄が戻ると事態を察し黙然として嘆いた:「李氏は滅びる!祖先以来積み重ねた仁徳が何故このような目に遭うのか」。密かに燮を隠す計画を練り、「都へ向かわせる」と偽装して周囲の信頼を得た。まもなく弾圧が始まり州役所は基・茲兄弟を捕えて獄死させた。文姫は父の門弟・王成に懇願した:「貴方は亡き父の義理を重んじる古風な方です。この幼子(燮)をお託しします。李氏存続はあなた次第です」。王成は燮と共に長江下り徐州へ入ると、燮を酒屋の雇い人として偽装させ、自らは街で占い師となり別行動を取りつつ密かに連絡した。 注釈解説: 1. 二十八宿への言及: 当時の宇宙観では諸侯が天上の星々のように天子を守護すると考えられた 2. 陰陽思想の反映: 政治混乱は自然現象と直結するという漢代特有の災異説に基づく主張 3. 「五女門」諺の背景: 多子(特に女子)による経済的困窮を指す社会通念。後宮維持費が財政圧迫しているとの批判 4. 中主評価の意味: 「凡庸だが破滅には至らない君主」という含蓄ある評。桓帝への痛烈な批判 5. 朱雲故事: 前漢で成帝を諫めて欄干を折った忠臣の故事(『漢書』) 6. 天文現象と政治: 客星出現は重大な凶兆と考えられ、皇帝自ら問う異例対応 7. 盤戯の問題点: 博打遊戯を通じた君臣関係の曖昧化が礼制違反と指摘された背景 8. 李固事件の経緯: 清流派官僚代表で147年に権臣・梁冀に誅殺。遺族迫害は政敵による根絶措置 訳出方針補足: - 制度用語(関内侯/通侯など)は原意を保持しつつ現代語表記 - 「六尺之孤」等の比喩表現は「幼子」と実質化して平明に再現 - 史書特有の省略主語を文脈から補完(例:「帝」「延曰」など) - 当時の政治情勢(宦官専横・外戚抗争)を踏まえた批判的言辞を忠実伝達 Translation took 4992.0 seconds. |
| 積十餘年,梁冀既誅,燮乃以本末告酒家,酒傢具車重厚遣之,燮皆不受,遂還鄉里,追行喪服,姊弟相見,悲感傍人。姊戒燮曰:「吾家血食將絕,弟幸而得濟,豈非天邪!宜杜絕眾人,勿妄往來,慎無一言加於梁氏!加梁氏則連主上,禍重至矣,唯引咎而已。」燮謹從其誨。後王成卒,燮以禮葬之,每四節為設上賓之位而祠焉。 丙午,新豐侯單超卒,賜東園秘器,棺中玉具;及葬,發五營騎士、將作大匠起塚塋。其後四侯轉橫,天下為之語曰:「左回天,具獨坐,徐臥虎,唐雨墮。」皆競起第宅,以華侈相尚,其僕從皆乘牛車而從列騎,兄弟姻戚,宰州臨郡,辜較百姓,與盜無異,虐遍天下;民不堪命,故多為盜賊焉。 中常侍侯覽,小黃門段珪,皆有田業近濟北界,僕從賓客,劫掠行旅。濟北相滕延,一切收捕,殺數十人,陳屍路衢。覽、珪以事訴帝,延坐征詣廷尉,免。 左心官兄勝為河東太守,皮氏長京兆岐恥之,即日棄官西歸。唐衡兄玹為京兆尹,素與岐有隙,收岐家屬宗親,陷以重法,盡殺之。岐逃難四方,靡所不歷,自匿姓名,賣餅北海市中;安丘孫嵩見而異之,載與俱歸,藏於復壁中。及諸唐死,遇赦,乃敢出。 閏月,西羌餘眾復與燒何大豪寇張掖,晨,薄校尉段熲軍。熲下馬大戰,至日中,刀折矢盡,虜亦引退。熲追之,且鬥且行,晝夜相攻,割肉食雪,四十餘日,遂至積石山,出塞二千餘里,斬燒何大帥,降其餘眾而還。 |
十数年後、梁冀誅滅を知った燮は経緯を店主に告白すると車両と厚礼を受けたが辞退し帰郷。喪服で弔い姉弟再会時には周囲も涙した。文姫は戒めた「血筋絶える危機を救われたのは天運よ!人との交流を断ち、梁氏批判は一言も避けなさい(皇帝に波及すれば大禍)。過失を認めるのみだ」。燮は謹んで従い、王成没後には厚葬し四季の祭事で上賓として祀った。 丙午の日、新豊侯・単超が死去すると東園秘器と玉装飾棺を賜り埋葬時には五営騎士を動員して大規模な墳墓造営(将作大匠指揮)を行った。 中常侍・侯覧と小黄門・段珪の済北国境付近にある荘園では従者らが旅人を略奪していたため、済北相(太守)・滕延は犯人全員を逮捕し数十名処刑後遺体を晒した。これに対し両宦官が皇帝へ訴え出た結果、滕延は召喚審問(廷尉)の上免職となった。 左悺の兄・勝が河東太守に就任すると皮氏県令で京兆出身の趙岐は恥じて即日辞任し西帰した。唐衡の兄・玹が京兆尹になると元来不和だった趙岐を憎み、その家族親族全員を重罪に陥れて皆殺しにした。逃亡した趙岐は各地を転々とし偽名で北海郡内で焼餅売りとなったところ安丘出身の孫嵩に見出され家へ匿われ(複壁=二重壁の中)。唐氏一族滅亡後の赦令発布でようやく表に出られた。 閏月、西羌残党と焼何族首長が張掖を襲撃し未明に校尉・段熲軍へ攻め寄せた。段熲は馬から下り激戦したが日中までに刀折れ矢尽きるも敵は退却した。追撃しながら交戦を続け昼夜兼行で進み、肉削ぎ雪嚙むこと40日余。積石山(青海省)へ到達し塞外2000里を踏破して焼何族首長を斬り残党を降伏させ帰還した。 解説
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| 夏,五月,甲戌,漢中山崩。 六月,辛丑,司徒祝恬薨。 秋,七月,以司空盛允為司徒,太常虞放為司空。 長沙蠻反,屯益陽,零陵蠻寇長沙。 九真餘賊屯據日南,眾轉強盛;詔復拜桂陽太守夏方為交趾刺史。方威惠素著,冬,十一月,日南賊二萬餘人相率詣方降。 勒姐、零吾種羌圍允街;段熲擊破之。 泰山賊叔孫無忌攻殺都尉侯章;遣中郎將宗資討破之。詔征皇甫規,拜泰山太守。規到官,廣設方略,寇虜悉平。 孝桓皇帝上之下延熹四年(辛丑,公元一六一年) 春,正月,辛酉,南宮嘉德殿火;戊子,丙署火。 大疫。 二月,壬辰,武庫火。 司徒盛允免,以大司農種暠為司徒。 三月,太尉黃瓊免;夏,四月,以太常沛國劉矩為太尉。初,矩為雍丘令,以禮讓化民;有訟者,常引之於前,提耳訓告,以為忿恚可忍,縣官不可入,使歸更思。訟者感之,輒各罷去。 甲寅,封河間孝王子參戶亭侯博為任城王,奉孝王后。 五月,辛酉,有星孛於心。 丁卯,原陵長壽門火。 己卯,京師雨雹。 六月,京兆、扶風及涼州地震。 庚子,岱山及博尤來山並頹裂。 己酉,赦天下。 司空虞放免,以前太尉黃瓊為司空。 犍為屬國夷寇鈔百姓。益州刺史山昱擊破之。 零吾羌與先零諸種反,寇三輔。 秋,七月,京師雩。 減公卿已下奉,貣王侯半租,占賣關內侯、虎賁、羽林緹騎、營士、五大夫錢各有差。 |
以下は『資治通鑑』の記述を現代日本語に訳したものです。史実に基づき、分かりやすく再構成しました。 延熹4年(西暦161年)の主な出来事前年(160年)の事件
軍事行動
延熹4年(161年)の災害と人事
社会不安と財政対策
背景解説
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| 九月,司空黃瓊免,以大鴻臚東萊劉寵為司空。 寵常為會稽太守,簡除煩苛,禁察非法,郡中大治;征為將作大匠。山陰縣有五六老叟,自若邪山谷間出,人繼百錢以送寵曰:「山谷鄙生,未嘗識郡朝,它守時,吏發求民間,至夜不絕,或狗吠竟夕,民不得安。自明府下車以來,狗不夜吠,民不見吏;年老遭值聖明,今聞當見棄去,故自扶奉送。」寵曰:「吾政何能及公言邪!勤苦父老!」為人選一大錢受之。 冬,先零、沈氐羌與諸種羌寇並、涼二州,校尉段熲將湟中義從討之。涼州刺史郭閎貪共其功,稽固熲軍,使不得進;義從役久戀鄉舊,皆悉叛歸。郭閎歸罪於熲,熲坐征下獄,輸作左校,以濟南相胡閎代為校尉。胡閎無威略,羌遂陸梁,覆沒營塢,轉相招結,唐突諸郡,寇患轉盛。泰山太守皇甫規上疏曰:「今猾賊就滅,泰山略平,復聞群羌並皆反逆。臣生長邠岐,年五十有九,昔為郡吏,再更叛羌,豫籌其事,有誤中之言。臣素有痼疾,恐犬馬齒窮,不報大恩,願乞冗官,備單車一介之使,勞來三輔,宣國威澤,以所習地形兵勢佐助諸軍。臣窮居孤危之中,坐觀郡將已數十年,自鳥鼠至於東岱,其病一也。力求猛敵,不如清平;勤明孫、吳,未若奉法。前變未遠,臣誠戚之,是以越職盡其區區。」詔以規為中郎將,持節監關西兵討零吾等。 |
訳文九月司空の黄瓊が解任され、大鴻臚(礼賓長官)の劉寵(東萊出身)が司空に任命された。劉寵はかつて会稽太守を務め、煩雑な法令を簡素化し、違法行為を取り締まり、郡内をよく治めた。その後、将作大匠(宮廷建築長官)に転任した。山陰県の五、六人の老人が若耶山の谷間から現れ、一人が百銭ずつを贈って別れを告げた。彼らは言った。「私どもは山奥の無学な者で、これまで郡庁を訪れたこともありませんでした。以前の太守の時代には、役人が夜遅くまで民家に押しかけ、犬が朝まで吠え続けることもあり、安心して暮らせませんでした。しかし太守様が着任されてからは、犬が夜に吠えることもなく、役人が民家に来ることもなくなりました。老いた身ながら聖明な太守に巡り会え、今またお去りになると聞き、お別れに参上しました」劉寵は答えた。「私の政治が皆さんの言われるほど立派でしょうか。わざわざ来てくださり、ありがとう」そして彼らから一文銭だけを受け取った。 冬先零羌、沈氐羌などの諸羌族が并州・涼州を侵犯した。校尉の段熲が湟中の義従兵(帰順部族の兵)を率いて討伐に向かった。涼州刺史の郭閎が段熲の戦功を妬み、軍の進軍を妨害したため、義従兵たちは故郷を懐かしんで相次いで逃亡した。郭閎は罪を段熲になすりつけ、段熲は召還されて投獄され、左校(刑徒労働)に降格された。後任には済南相の胡閎が校尉に任命されたが、胡閎に軍略の才がなく、羌族は横行を極め、陣営を陥落させ連携を強め、周辺諸郡を荒らし回り、賊害が深刻化した。 泰山太守の皇甫規が上疏した。「今、山東の賊討伐が終わり泰山周辺が平定されたばかりなのに、羌族一党が一斉に反逆したと聞きます。臣は邠岐の地で生まれ育ち、五十九歳となり、かつて郡吏として二度にわたり羌の反乱を経験しました。事前に彼らの動向を予測したこともあります。持病を抱え、老齢で陛下の恩に報いる日も残り少ないため、閑職を賜わり、単身の使者として関西へ赴き、三輔(京畿)地域を慰撫し、朝廷の威徳を宣べ、地形や兵術の知識を活かして諸軍を補佐したいと存じます。長年辺境の危険な地で過ごし、鳥鼠山から東岳泰山に至るまでの守将の様子を観察して参りましたが、彼らの過ちは皆同じです。武力で強敵を制圧しようとするより、民生を安定させる方が重要であり、孫子や呉子の兵法を研究するより、法を遵守する方が肝要です。先の反乱が収まって間もない今、臣は深く憂慮しており、職権を越えて衷心を尽くす所存です」 詔により皇甫規は中郎将に任じられ、節旄を授かり関西の諸軍を統率して零吾羌などを討伐することとなった。 解説背景と特徴
訳出のポイント
歴史的意義皇甫規の上奏文は後漢末期の辺境政策の根本的欠陥を突く。当時頻発した羌族の反乱に対し、朝廷が武力鎮圧に偏る中で、彼は「民生安定」と「法遵守」を解決の根幹と看破した。この提言は王符『潜夫論』の思想とも通じ、清流派官僚の典型的な統治理念を示す。詔により中郎将に任命された結果は、桓帝朝がこの主張を一定評価した証左である。
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| 十一月,規擊羌,破之,斬首八百級。先零諸種羌慕規威信,相勸降者十餘萬。 孝桓皇帝上之下延熹五年(壬寅,公元一六二年) 春,正月,壬午,南宮丙署火。 三月,沈氐羌寇張掖、酒泉。皇甫規發先零諸種羌,共討隴右,而道路隔絕,軍中大疫,死者十三四。規親入庵廬,巡視將士,三軍感悅。東羌遂遣使乞降,涼州復通。先是安定太守孫俊受取狼藉,屬國都尉李翕、督軍御史張稟多殺降羌,涼州刺史郭閎、漢陽太守趙熹並老弱不任職,而皆倚恃權貴,不遵法度。規到,悉條奏其罪,或免或誅。羌人聞之,翕然反善,沈氐大豪滇昌、饑恬等十餘萬口復詣規降。 夏,四月,長沙賊起,寇桂陽、蒼梧。 乙丑,恭陵東闕火。戊辰,虎賁掖門火。五月,康陵園寢火。 長沙、零陵賊入桂陽、蒼梧、南海,交趾刺史及蒼梧太守望風逃奔,遣御史中丞盛修督州郡募兵討之,不能克。 乙亥,京師地震。 甲申,中藏府丞祿署火。秋,七月,己未,南宮承善闥火。 鳥吾羌寇漢陽,隴西、金城諸郡兵討破之。 艾縣賊攻長沙郡縣,殺益陽令,眾至萬餘人;謁者馬睦督荊州刺史劉度擊之,軍敗,睦、度奔走。零陵蠻亦反。冬,十月,武陵蠻反,寇江陵,南郡太守李肅奔走,主簿胡爽扣馬首諫曰:「蠻夷見郡無儆備,故敢乘間而進。明府為國大臣,連城千里,舉旗鳴鼓,應聲十萬,奈何委符守之重,而為逋逃之人乎!」肅拔刃向爽曰:「掾促去!太守今急,何暇此計!」爽抱馬固諫,肅遂殺爽而走。 |
全訳文(現代日本語)延熹5年(壬寅、西暦162年)の記録11月 春正月壬午の日 3月 当初、安定太守の孫俊が賄賂を貪り、属国都尉の李翕と督軍御史の張稟が投降した羌族を虐殺していた。また涼州刺史の郭閎と漢陽太守の趙熹は老齢で職務に耐えず、権勢に頼って法を無視していた。皇甫規が赴任すると、これらの罪状を逐一上奏し、ある者は免職、ある者は処刑した。これを見た羌族は心から帰順し、沈氐羌の大首長である滇昌をはじめ、飢恬(きてん)ら10万人以上が皇甫規のもとに投降した。 夏4月 乙丑の日 戊辰の日 5月 長沙と零陵の賊徒が桂陽・蒼梧・南海に侵攻。交趾刺史と蒼梧太守は風の便りを聞いて逃亡し、御史中丞の盛修が州郡の兵を募って討伐に向かったが、鎮圧できなかった。 乙亥の日 秋7月己未の日 鳥吾羌(羌族の一部族)が漢陽を侵略。隴西・金城の各郡兵が反撃し、これを撃退した。 艾県の賊徒が長沙郡県を襲撃。益陽県令を殺害し、勢力は1万人以上に膨れ上がった。謁者(皇帝側近)の馬睦が荊州刺史の劉度を指揮して討伐に向かったが、敗北し、馬睦と劉度は逃亡した。 同年冬10月 解説
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| 帝聞之,征肅,棄市;度、睦減死一等;復爽門閭,拜家一人為郎。 尚書朱穆舉右校令山陽度尚為荊州刺史。辛丑,以太常馮緄為車騎將軍,將兵十餘萬討武陵蠻。先是,所遣將帥,宦官多陷以折耗軍資,往往抵罪,緄願請中常侍一人監軍財費。尚書朱穆奏「緄以財自嫌,失大臣之節;」有詔勿劾。緄請前武陵太守應奉與俱,拜從事中郎。十一月,緄軍至長沙,賊聞之,悉詣營乞降。進擊武陵蠻夷,斬首四千餘級,受降十餘萬人,荊州平定。詔書賜錢一億,固讓不受,振旅還京師,推功於應奉,薦以為司隸校尉;而上書乞骸骨,朝廷不許。 滇那羌寇武威、張掖、酒泉。 太尉劉矩免,以太常楊秉為太尉。 皇甫規持節為將,還督鄉里,既無它私惠,而多所舉奏,又惡絕宦官,不與交通。於是中外並怨,遂共誣規貨賂群羌,令其文降,帝璽書誚讓相屬。 規上書自訟曰:「四年之秋,戎丑蠢戾,舊都懼駭,朝廷西顧。臣振國威靈,羌戎稽首,所省之費一億以上。以為忠臣之義不敢告勞,故恥以片言自及微效,然比方先事,庶免罪悔。前踐州界,先奏孫俊、李翕、張稟;旋師南征,又上郭閎、趙熹,陳其過惡,執據大辟。凡此五臣,支黨半國,其餘墨綬下至小吏,所連及者復有百餘。吏托報將之怨,子思復父之恥,載贄馳車,懷糧步走,交構豪門,競流謗讟,雲臣私報諸羌,讎以錢貨。 |
現代日本語訳事件の経緯
皇甫規の冤罪事件
解説
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| 若臣以私財,則家無擔石;如物出於官,則文簿易考。就臣愚惑,信如言者,前世尚遺匈奴以宮姬,鎮烏孫以公主;今臣但費千萬以懷叛羌,則良臣之才略,兵家之所貴,將有何罪負義違理乎!自永初以來,將出不少,覆軍有五,動資巨億,有旋車完封,寫之權門,而名成功立,厚加爵封。今臣還督本土,糾舉諸郡,絕交離親,戮辱舊故,眾謗陰害,固其宜也!」 帝乃征規還,拜議郎,論功當封;而中常侍徐璜、左心官欲從求貨,數遣賓客就問功狀,規終不答。璜等忿怒,陷以前事,下之於吏。官屬欲賦斂請謝,規誓而不聽,遂以餘寇不絕,坐系廷尉,論輸左校。諸公及太學生張鳳等三百餘人詣闕訟之,會赦,歸家。 孝桓皇帝上之下延熹六年(癸卯,公元一六三年) 春,二月,戊午,司徒種暠薨。 三月,戊戌,赦天下。 以衛尉穎川許栩為司徒。 夏,四月,辛亥,康陵東署火。 五月,鮮卑寇遼東屬國。 秋,七月,甲申,平陵園寢火。 桂陽賊李研等寇郡界,武陵蠻復反。太守陳奉討平之。宦官素惡馮緄,八月,緄坐軍還盜賊復發,免。 冬,十月,丙辰,上校獵廣成,遂幸函谷關、上林苑。光祿勳陳蕃上疏諫曰:「安平之時,游畋宜有節,況今有三空之厄哉!田野空,朝廷空,倉庫空。加之兵戎未戢,四方離散,是陛下焦心毀顏,坐以待旦之時也,豈宜揚旗曜武,騁心輿馬之觀乎!又前秋多雨,民始種麥,今失其勸種之時,而令給驅禽除路之役,非賢聖恤民之意也。 |
もし私財を使ったなら家には一石の米もなく、官物を使ったなら記録で明らかです。仮に事実だとしても、前漢では匈奴へ宮女を、烏孫へ公主を与えましたが、今わずかな金で羌族を懐柔するのがなぜ罪なのか?永初年間(107-113年)以来、多くの将軍が出征し五度の大敗で巨費を浪費しました。彼らは権門に贈賄して栄爵を得たのに、私は故郷で不正を糾弾し旧交を断ったため中傷されるのは当然です!」
皇帝は皇甫規を召還して議郎としたが、功績に見合う封賞を前に宦官・徐璜らが賄賂を要求した。使者を繰り返し派遣しても応じないと知り、怒って前罪で告発させた。部下が贈賄による和解を進めたが皇甫規は拒絶。「賊討伐不徹底」の罪名で廷尉に拘禁され左校(労役刑)となったところ、三公や太学生・張鳳ら三百余人が宮門で抗議したため赦免された。 孝桓皇帝 延熹6年(癸卯,163年) 2月戊午:司徒・種暠逝去。 3月戊戌:大赦施行。 衛尉・許栩(潁川出身)を司徒に任命。 4月辛亥:康陵東署で火災発生。 5月:鮮卑が遼東属国へ侵攻。 7月甲申:平陵園寝で火災。 桂陽郡の賊徒・李研らが略奪。武陵蛮族も反乱し太守陳奉が鎮圧。かねて馮緄を憎んでいた宦官は「帰還後に盗賊再発」との罪状で彼を免職にした。 10月丙辰:皇帝が広成苑で狩猟後、函谷関・上林苑へ行幸。光禄勲陳蕃が諫奏:「平時でも遊獵には節度が必要です。まして今『三空』(田野の空虚/朝廷の人材不足/倉庫の貧窮)に加え戦乱と民衆離散の中で、陛下は憂慮すべき時。農耕期に道路整備や鳥獣駆除を強いるのは賢君のあるまじき行為です」。 解説時代背景 - 後漢末期の腐敗構造: 皇甫規事件は清廉な官僚が宦官勢力と対立した典型例です。当時蔓延していた贈賄慣行(徐璜らの要求)や軍功評価制度の形骸化を露呈し、「支党半国」という表現から豪族ネットワークによる報復連鎖も窺えます。 社会危機 - 陳蕃諫言の重み: 「三空之厄」は田野(農村疲弊)・朝廷(人材不足)・倉庫(財政破綬)を指し、異民族侵入(鮮卑・羌族)と国内反乱(李研ら)が頻発する中で狩猟行幸への批判は国家崩壊前夜の緊迫を示します。 知識人の動向 - 太学生抗議: 三百人超による宮門抗議は前代未聞。清流派士大夫と学界の連携(党錮の禁直前)を象徴し、後漢末期に台頭する「清議」運動の萌芽です。 災異思想 - 陵墓火災: 康陵(安帝陵)・平陵(昭帝陵)での相次ぐ火災は『五行志』で「姦臣顕職の兆し」と解される凶事。当時これが宦官専横への天譴と受け止められた可能性があります。 軍事問題 - 馮緄免職: 「軍還盗賊復発」という弾劾理由は後漢特有で、中央の無理な短期鎮圧要求と現地実態との乖離を示し、黄巾の乱前夜における地方統制力衰退を暗示しています。 皇甫規弁明の核心 - 自己弁護において「忠臣不告労」(功績を誇らぬ忠義)という儒教的理念を掲げつつも、「宮女送匈奴」「公主嫁烏孫」といった歴史的先例で正当化する論理は、後漢官僚の現実主義的思考を反映。清廉性と政治的妥協のはざまに立つ苦衷が伝わります。 (注: 固有名詞は原典表記を保持し、「担石」→「一石の米」、「文降」→「偽りの降伏文書」など難語を意訳) Translation took 4548.2 seconds. |
| 」書奏,不納。 十一月,司空劉寵免。十二月,以衛尉周景為司空。景,榮之孫也。時宦官方熾,景與太尉楊秉上言:「內外吏職,多非其人。舊典,中臣子弟,不得居位秉勢;而今枝葉賓客,布列職署,或年少庸人,典據守宰;上下忿患,四方愁毒。可遵用舊章,退貪殘,塞災謗。請下司隸校尉、中二千石、城門、五營校尉、北軍中候,各實核所部;應當斥罷,自以狀言三府,兼察有遺漏,續上。」帝從之。於是秉條奏牧、守、青州刺史羊亮等五十餘人,或死或免,天下莫不肅然。 詔征皇甫規為度遼將軍。初,張奐坐梁冀故吏,免官禁錮,凡諸交舊,莫敢為言;唯規薦舉,前後七上,由是拜武威太守。及規為度遼,到營數月,上書薦奐,「才略兼優,宜正元帥,以從眾望。若猶謂愚臣宜充舉事者,願乞冗官,以為奐副。」朝廷從之。以奐代規為度遼將軍,以規為使匈奴中郎將。 西州吏民守闕為前護羌校尉段熲訟冤者甚眾,會滇那等諸種羌益熾,涼州幾亡,乃復以熲為護羌校尉。 尚書朱穆疾宦官恣橫,上疏曰:「按漢故事,中常侍參選士人,建武以後,乃悉用宦者。自延平以來,浸益貴盛,假貂璫之飾,處常伯之任,天朝政事,一更其手。權傾海內,寵貴無極,子弟親戚,並荷榮任。放濫驕溢,莫能禁御,窮破天下,空竭小民。愚臣以為可悉罷省,遵復往初,更選海內清淳之士明達國體者,以補其處,即兆庶黎萌,蒙被聖化矣!」帝不納。 |
日本語訳上奏文が奉られたが容れられなかった。 官吏の刷新と人事異動11月:司空(三公の一つ)の劉寵が解任された。
皇帝(桓帝)はこの提案を認めた。これを受け、楊秉は州牧・太守・青州刺史など50名以上を告発し、彼らは処刑または解任された。この粛清により、朝廷の綱紀は粛然としたものとなった。 皇甫規と張奐の人事皇帝は皇甫規を度遼将軍(辺境防衛司令官)に任命した。
朝廷はこの意見を容れ、張奐を度遜将軍に、皇甫規を使匈奴中郎将(南匈奴担当武官)にそれぞれ任命した。 段熲の復帰西方では、官吏や民衆が宮門に押し寄せ、前護羌校尉(羌族担当司令官)の段熲の冤罪を訴える事態が発生した。折しも羌族の滇那ら諸部族が大規模な反乱を起こし、涼州が陥落寸前に追い込まれたため、朝廷は段熲を護羌校尉に復帰させた。 朱穆の宦官批判尚書(皇帝秘書官)の朱穆は宦官の横暴を痛烈に批判する上奏文を提出した:
しかし皇帝はこの提案を黙殺した。 解説時代背景この記録は後漢桓帝期(146-168年) の政治状況を描く。当時は外戚(梁冀)と宦官が権力争いを繰り返し、地方では羌族の反乱が頻発する混乱期であった。 核心的な問題点
歴史的意義この時期の政治腐敗と民族問題は、後に黄巾の乱(184年) を誘発し、後漢王朝崩壊の端緒となった。『後漢書』編者は、支配層の改革失敗が王朝滅亡を招いたとの認識でこの記録を残したと考えられる。 Translation took 2262.6 seconds. |
| 後穆因進見,復口陳曰:「臣聞漢家舊典,置侍中、中常侍各一人,省尚書事;黃門侍郎一人,傳發書奏;皆用姓族。自和熹太后以女主稱制,不接公卿,乃以閹人為常侍,小黃門通命兩宮。自此以來,權傾人主,窮困天下,宜皆罷遣,博選耆儒宿德,與參政事。」帝怒,不應。穆伏不肯起,左右傳「出!」良久,乃趨而去。自此中官數因事稱詔詆毀之。穆素剛,不得意,居無幾,憤懣發疽卒。 |
現代日本語訳その後、穆は謁見の機会を得て、さらに口頭で次のように述べた。「臣が聞くところによれば、漢王朝の古い制度では、侍中と中常侍をそれぞれ一人ずつ置き、尚書の事務を監督させました。また黄門侍郎一人を置き、文書や上奏の伝達を行わせ、いずれも名門の氏族から任用しました。ところが和熹太后が女性君主として政務を執り行うようになってから、公卿と直接対面されなくなったため、宦官を常侍とし、小黄門に両宮の命令伝達を担当させました。この時以来、彼らの権力は君主を凌ぐほどに強大となり、天下を困窮させております。彼らを全て罷免し、広く老練な儒者や徳望高い人物を選抜し、政務に参与させるべきです」。しかし皇帝は怒って答えようとせず、穆は平伏したまま起き上がろうとしなかった。側近たちが「退出せよ!」と叫ぶと、穆はしばらくしてようやく急いで退出した。これ以降、宦官たちはたびたび事を構えては詔書の名目で穆を誹謗した。もともと剛直な性格の穆は不遇をかこち、ほどなくして憤懣のあまり腫れ物を発症し、死亡した。 解説この文章は『資治通鑑』から採られた後漢時代のエピソードで、剛直な官僚・朱穆が宦官の専横を批判し、皇帝の逆鱗に触れて失意のうちに亡くなる様子を描いています。以下の点に注目してください:
『資治通鑑』らしい簡潔ながらも人物の性格(穆の「素剛」)や緊迫した宮廷の空気(「良久,乃趨而去」)が見事に表現された文章です。 Translation took 1596.5 seconds. |
| input text 資治通鑑\055_漢紀_47.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷五十五 漢紀四十七 起閼逢執徐,盡柔兆敦牂,凡三年。 孝桓皇帝中延熹七年(甲辰,公元一六四年) 春,二月,丙戌,邟鄉忠侯黃瓊薨。將葬,四方遠近名士會者六七千人。 初,瓊之教授於家。徐稚從之咨訪大義,及瓊貴,稚絕不復交。至是,稚往吊之,進酹,哀哭而去,人莫知者。諸名士推問喪宰,宰曰:「先時有一書生來,衣粗薄而哭之哀,不記姓字。」眾曰:「必徐孺子也。」於是選能言者陳留茅容輕騎追之,及於塗。容為沽酒市肉,稚為飲食。容問國家之事,稚不答。更問稼穡之事,稚乃答之。容還,以語諸人,或曰:「孔子云:『可與言而不與言,失人。』然則孺子其失人乎?」太原郭泰曰:「不然。孺子之為人,清潔高廉,饑不可得食,寒不可得衣,而為季偉飲酒食肉,此為已知季偉之賢故也。所以不答國事者,是其智可及,其愚不可及也。」 泰博學,善談論。初游雒陽,時人莫識,陳留符融一見嗟異,因以介於河南尹李膺。膺與相見,曰:「吾見士多矣,未有如郭林宗者也。其聰識通朗,高雅密博,今之華夏,鮮見其儔。」遂與為友,於是名震京師。後歸鄉里,衣冠諸儒送至河上,車數千兩,膺唯與泰同舟而濟,眾賓望之,以為神仙焉。泰性明知人,好獎訓士類,周遊郡國。茅容,年四十餘,耕於野,與等輩避雨樹下,眾皆夷踞相對,容獨危坐愈恭;泰見而異之,因請寓宿。 |
日本語訳黄瓊の逝去と葬儀後漢の桓帝(在位146年-168年)の時代、延熹7年(西暦164年)春2月丙戌の日、忠侯・黄瓊が逝去した。葬儀には全国各地から6千人を超える名士が参列した。 徐稚の弔問かつて黄瓊が学問を教えていた頃、徐稚(字は孺子)は彼から経書の奥義を学んだ。しかし黄瓊が高官に昇ると、徐稚は一切接触を絶った。今回の葬儀で徐稚は密かに弔問に訪れ、酒を捧げて哀悼の意を表すと、誰にも気づかれずに立ち去った。参列者たちが葬儀担当者に尋ねると、「質素な身なりの書生が深い悲しみの中で弔問に来たが、名乗らなかった」との答え。人々は「それは徐孺子に違いない」と口々に言った。 茅容の追跡と会話陳留出身の茅容は弁舌に優れていたため、徐稚を追跡する役目を任された。道中で追いついた茅容は酒と肉を買い、徐稚をもてなした。食事中、茅容が国家の政事について尋ねると、徐稚は沈黙を貫いた。しかし農耕の話題になると、徐稚は進んで意見を述べた。 郭泰の見解この出来事を聞いた人々の中には「孔子の『語るべき時に語らぬのは人を見誤っている』という教えに反する」と批判する者もいた。これに対し太原出身の学者・郭泰(字は林宗)は反論した: 「徐稚は質素な生活を貫く人物だ。彼が茅容(字は季偉)に酒食を振る舞ったのは、茅容の人物を見抜いたからに他ならない。政事について語らなかったのは、彼の知恵の深さを示している。まさに『知は及ぶが、愚は及ばず』(『論語』為政篇)の境地である」 郭泰の名声博識で雄弁な郭泰は、当初洛陽で無名だったが、陳留の符融がその才を見出し、河南尹・李膺に推薦した。李膺は面会して感嘆し「これほどの人物は未だ見たことがない」と絶賛、親交を結んだことで郭泰の名声は都中に響き渡った。 茅容と郭泰の出会いある時、郭泰が地方を巡る途中、40代の農夫・茅容が仲間と木の下で雨宿りしている場面に遭遇した。周囲がだらしなく足を崩して座る中、茅容だけは姿勢を正して恭しく座っていた。郭泰はその様子に感銘を受け、茅容の家に宿泊させてほしいと頼んだ。 解説歴史的意義この『後漢書』の記述は、後漢末期の知識人社会の価値観を反映しています。特に注目すべき点は: 1. 隠逸思想:徐稚の行動は、俗世を離れて清貧を貫く隠逸知識人の理想像を示す 2. 人物鑑定:郭泰の見解に表れる、当時重視された人物評価能力(月旦評の源流) 3. 礼節重視:茅容の行動に象徴される儒教的礼節の実践 引用句の背景郭泰が引用した「其知可及也、其愚不可及也」は『論語』為政篇第22章の一節で、本来は衛の大夫・甯武子の聡明さを称えた言葉です。郭泰はこの古典を巧妙に転用し、徐稚の「賢者の愚」を逆説的に称賛しました。 人物関係図
訳注
このエピソードは、後漢末期の清議運動(人物批評を通じた世論形成)の基盤となった知識人ネットワークの形成過程を、具体的な人間関係を通して描出した貴重な記録です。 Translation took 2028.4 seconds. |
| 旦日,容殺雞為饌,泰謂為己設;容分半食母,餘半庋置,自以草蔬與客同飯。泰曰:「卿賢哉遠矣!郭林宗猶減三牲之具以供賓旅,而卿如此,乃我友也。」起,對之揖,勸令從學,卒為盛德。巨鹿孟敏,客居太原,荷甑墮地,不顧而去。泰見而問其意,對曰:「甑已破矣,視之何益!」泰以為有分決,與之言,知其德性,因勸令遊學,遂知名當世。陳留申屠蟠,家貧,傭為漆工;鄢陵庾乘,少給事縣廷為門士;泰見而奇之,其後皆為名士。自餘或出於屠沽、卒伍,因泰獎進成名者甚眾。 陳國童子魏昭請於泰曰:「經師易遇,人師難遭,願在左右,供給灑掃。」泰許之。泰嘗不佳,命昭作粥,粥成,進泰,泰呵之曰:「為長者作粥,不加意敬,使不可食!」以杯擲地。昭更為粥重進,泰復呵之。如此者三,昭姿容無變。泰乃曰:「吾始見子之面,而今而後,知卿心耳!」遂友而善之。陳留左原,為郡學生,犯法見斥,泰遇諸路,為設酒餚以慰之。謂曰:「昔顏涿聚,梁甫之巨盜,段干木,晉國之大駔,卒為齊之忠臣,魏之名賢;蘧瑗、顏回尚不能無過,況其餘乎!慎勿恚恨,責躬而已!」原納其言而去。或有譏泰不絕惡人者,泰曰:「人而不仁,疾之已甚,亂也。」原後忽更懷忿結客,欲報諸生,其日,泰在學,原愧負前言,因遂罷去。後事露,眾人鹹謝服焉。 |
日本語訳郭泰の逸話集
解説
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| 或問范滂曰:「郭林宗何如人?」滂曰:「隱不違親,貞不絕俗,天子不得臣,諸侯不得友,吾不知其它。」泰嘗舉有道,不就,同郡宋沖素服其德,以為自漢元以來,未見其匹,嘗勸之仕。泰曰:「吾夜觀乾象,晝察人事,天之所廢,不可支也,吾將優遊卒歲而已。」然猶周旋京師,誨誘不息。徐稚以書戒之曰:「夫大木將顛,非一繩所維,何為棲棲不遑寧處!」泰感寤曰:「謹拜斯言,以為師表。」濟陰黃允,以俊才知名,泰見而謂曰:「卿高才絕人,足成偉器,年過四十,聲名著矣。然至於此際,當深自匡持,不然,將失之矣!」後司徒袁隗欲為從女求姻,見允,歎曰:「得婿如是,足矣。」允聞而黜遣其妻。妻請大會宗親為別,因於眾中攘袂數允隱慝十五事而去,允以此廢於時。 初,允與漢中晉文經並恃其才智,曜名遠近,征辟不就。託言療病京師,不通賓客,公卿大夫遺門生旦暮問疾,郎吏雜坐其門,猶不得見;三公所辟召者,輒以詢訪之,隨所臧否,以為與奪。符融謂李膺曰:「二子行業無聞,以豪桀自置,遂使公卿問疾,王臣坐門,融恐其小道破義,空譽違實,特宜察焉。」膺然之。二人自是名論漸衰,賓徒稍省,旬日之間,慚歎逃去,後並以罪廢棄。陳留仇香,至行純嘿,鄉黨無知者。年四十,為蒲亭長。民有陳元,獨與母居,母詣香告元不孝。 |
現代日本語訳ある人が范滂(はんぼう)に尋ねた。「郭林宗(かくりんそう)とはどのような人物か?」 郭泰(かくたい)はかつて「有道」(徳行高尚な者に授かる称号)に推挙されたが辞退した。同郡の宋冲(そうちゅう)は彼の徳を深く敬服し、「漢の時代から今日まで、彼に匹敵する人物はいない」と言い、出仕を勧めた。 徐稚(じょち)は手紙で彼を戒めた。「巨木が倒れようとする時、一本の綱では支えきれない。どうして慌ただしく奔走し、安住せずにいるのか?」 済陰(さいいん)の黄允(こういん)は才知で名を知られていた。郭泰は彼に言った。「あなたは才能が傑出しており、将来は大人物となるだろう。四十歳を過ぎて名声も高まった。しかしこの境地に至っては、一層自らを厳しく律さなければ、全てを失うことになる」。 後に司徒(大臣)の袁隗(えんかい)が娘の婿を探す際、黄允を見て「このような人物が婿なら申し分ない」と感嘆した。黄允はこれを聞くとすぐに妻を離縁した。妻は親族を集めて別れを告げる会を開き、その席で袖をまくり上げ、黄允の隠した悪事十五か条を指摘して去った。これにより黄允の評判は地に落ちた。 (ここで話がさかのぼる) 符融(ふゆう)が李膺(りよう)に言った。「あの二人には実績がなく、ただ豪傑気取りでいるだけです。それなのに高官が見舞いに走り、大臣が門前に詰めかけるとは。彼らの小賢しい言説は道義に反し、虚名ばかりが先行しています。厳しく監視すべきです」。李膺はこれに同意した。 その後、二人の評判は次第に衰え、訪問客も減っていった。十日と経たぬうちに、恥ずかしさと後悔から都を逃げ出し、後に罪を得て失脚した。 陳留(ちんりゅう)の仇香(きゅうこう)は至高の徳行を持ちながらもひたすら沈黙を守り、地元では誰にも知られていなかった。四十歳で蒲亭の亭長(町役人)となった。 ある時、民の陳元(ちんげん)という者が母親と二人で暮らしていたが、母親が仇香のもとを訪れ「陳元が親不孝だ」と訴え出た。 解説(翻訳のポイント)
この翻訳では、『後漢書』など中国史書の原文を、日本で読まれる歴史書の語り口に近づけつつ、現代日本語としての自然さを優先しています。特に人物評(郭泰の描写)や事件の顛末(黄允の失脚)など、物語性の強い部分は情景が浮かぶよう詳細に訳出しました。 Translation took 2313.4 seconds. |
| 香驚曰:「吾近日過元捨,廬落整頓,耕耘以時,此非惡人,當是教化未至耳。母守寡養孤,苦身投老,奈何以一旦之忿,棄歷年之勤乎!且母養人遺孤,不能成濟,若死者有知,百歲之後,當何以見亡者!」母涕泣而起,香乃親到元家,為陳人倫孝行,譬以禍福之言,元感悟,卒為孝子。考城令河內王奐署香主簿,謂之曰:「聞在蒲亭,陳元不罰而化之,得無少鷹鸇之志邪?」香曰:「以為鷹鸇不若鸞鳳,故不為也。」奐曰:「枳棘之林非鸞鳳所集,百里非大賢之路。」乃以一月奉資香,使入太學。郭泰、符融繼刺謁之,因留宿。明旦,泰起,下床拜之曰:「君,泰之師,非泰之友也。」香學畢歸鄉里,雖在宴居,必正衣服,妻子事之若嚴君;妻子有過,免冠自責,妻子庭謝思過,香冠,妻子乃敢升堂,終不見其喜怒聲色之異。不應徵辟,卒於家。 三月,癸亥,隕石於鄠。 夏,五月,己丑,京師雨雹。 荊州刺史度尚募諸蠻夷擊艾縣城,大破之,降者數萬人。桂陽宿賊卜陽、潘鴻等逃入深山。尚窮追數百里,破其三屯,多獲珍寶。陽、鴻黨眾猶盛,尚欲擊之,而士卒驕富,莫有鬥志。尚計緩之則不戰,逼之必逃亡,乃宣言:「卜陽、潘鴻作賊十年,習於攻守,今兵寡少,未易可進,當須諸郡所發悉至,乃並力攻之。」申令軍中恣聽射獵,兵士喜悅,大小皆出。 |
译文现代日语翻译:黄香的故事黄香は驚いて言った。「私は最近、元氏の家を訪れたが、家の周りは整然とし、田畑も季節に合わせて耕作されていた。これは悪人ではなく、教化がまだ行き届いていないだけだ」。すると母親が涙を流して立ち上がり、黄香は自ら元氏の家を訪れ、人倫や孝行の道について説き、禍福の道理を例えながら説明した。元氏は深く感銘を受け、ついに孝行者となった。 考城県令の河内出身の王奐は、黄香を主簿に任命し、こう言った。「蒲亭で陳元を罰せずに教化したと聞いたが、少しは鷹や鷲のような厳しい志を持たなかったのか?」黄香は答えた。「鷹や鷲のような手法は、鳳凰のような穏やかな徳には及ばないと思い、敢えて行いませんでした」。王奐は言った。「茨の林には鳳凰は棲まず、百里の地だけでは大賢者は現れない」。 王奐は一か月分の俸給を黄香に与え、大学へ行かせた。郭泰と符融が次々に黄香を訪ね、泊まり込んだ。翌朝、郭泰は起き上がると床から降りて拝礼し、「先生こそ私の師です。友などではありません」と言った。 学業を終えた黄香は故郷に戻り、家でくつろいでいる時も必ず正装し、妻や子は彼を厳かな君主のように仕えた。妻や子に過ちがあると、黄香は冠を外して自らを責め、妻や子は庭に出て過ちを悔い改めた。黄香が冠を着けると、妻や子は初めて堂に入ることを許された。彼の喜怒の感情が表情に表れることは決してなかった。朝廷の招聘にも応じず、そのまま亡くなった。 天文現象の記録三月癸亥の日、隕石が鄠(現在の陝西省戸県)に落ちた。 夏の五月己丑の日、都で雹(ひょう)が降った。 度尚の戦略荊州刺史の度尚(たくしょう)は、諸蛮夷(南方の少数民族)を募って艾県城を攻撃し、大勝した。降伏する者は数万人に上った。桂陽の長年の賊、卜陽と潘鴻らは深い山へ逃げ込んだ。 度尚は数百里にわたって追撃し、賊の三つの拠点を陥落させ、多くの財宝を手に入れた。卜陽と潘鴻の残党は依然として勢力を保っており、度尚は彼らを討伐しようとしたが、兵士たちは財宝を得て贅沢に慣れ、戦う意欲を失っていた。 度尚は考えた:このまま緩めれば戦意がさらに低下し、急げば兵士たちは逃亡してしまう。そこでこう宣言した。「卜陽と潘鴻は十年も賊を続け、攻防の術に長けている。我々の兵力は不足しており、簡単には攻め込めない。諸郡からの援軍が全て到着するのを待ち、合力で攻撃するつもりだ」。そして軍中に命令を下し、自由に狩猟を行うことを許可した。兵士たちは喜び、大小の将兵こぞって狩りに出かけた。 解説:
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| 尚乃密使所親客潛焚其營,珍積皆盡。獵者來還,莫不潤涕。尚人人慰勞,深自咎責,因曰:「卜陽等財寶足富數世,諸卿但不並力耳,所亡少少,何足介意!」眾鹹憤踴。尚敕令秣馬蓐食,明旦,逕赴賊屯,陽、鴻等自以深固,不復設備,吏士乘銳,遂破平之。尚出兵三年,群寇悉定,封右鄉侯。 冬,十月,壬寅,帝南巡;庚申,幸章陵;戊辰,幸雲夢,臨漢水,還,幸新野。時公卿、貴戚車騎萬計,徵求費役,不可勝極。護駕從事桂陽胡騰上言:「天子無外,乘輿所幸,即為京師。臣請以荊州刺史比司隸校尉,臣自同都官從事。」帝從之。自是肅然,莫敢妄干擾郡縣。帝在南陽,左右並通姦利,詔書多除人為郎,太尉楊秉上疏曰:「太微積星,名為郎位,入奉宿衛,出牧百姓,宜割不忍之恩,以斷求欲之路。」於是詔除乃止。 護羌校尉段熲擊當煎羌,破之。 十二月,辛丑,車駕還宮。 中常侍汝陽侯唐衡、武原侯徐璜皆卒。 初,侍中寇榮,恂之曾孫也,性矜潔,少所與,以此為權寵所疾。榮從兄子尚帝妹益陽長公主,帝又納其從孫女於後宮。左右益忌之,遂共陷以罪,與宗族免歸故郡,吏承望風旨,持之浸急。榮恐不免,詣闕自論。未至,刺史張敬追劾榮以擅去邊,有詔捕之。榮逃竄數年,會赦,不得除,積窮困,乃自亡命中上書曰:「陛下統天理物,作民父母,自生齒以上,鹹蒙德澤;而臣兄弟獨以無辜,為專權之臣所見批抵,青蠅之人所共構會,令陛下忽慈母之仁,發投杼之怒。 |
現代日本語訳(全員が野外に出た隙に)密かに配下に命じて自陣営へ放火させ、財宝は一切合財焼失した。帰還した兵たちが泣き崩れると、度尚は一人ずつ慰労し深く責任を認めながら言った。「卜陽らの財貨は数代分の富だが諸君が全力を尽くさぬだけだ。この程度の損失など問題ではない」。これで全軍が奮起すると、馬に飼葉を与え早朝出撃を命じた。油断していた賊陣へ突入し瞬く間に卜陽・潘鴻らを討伐した。度尚は三年間の軍事行動で群賊を平定し右郷侯に封ぜられた。 皇帝の南巡と行政改革冬十月、皇帝は南方巡察に出発した。庚申の日に章陵に、戊辰の日に雲夢に立ち寄り、漢水を視察した後、新野に戻った。公卿や貴族の従者たちが数万人に及び、地方に膨大な負担を強いた。護駕従事(随行監察官)の桂陽出身者・胡騰が上奏した。「天子に内外の区別はなく、陛下が行幸される場所こそが都です。荊州刺史の権限を司隸校尉(帝都監察官)と同等とし、私に都官従事(中央監察官)の権限を与えてください」。皇帝がこれを受け入れると、たちまち秩序が回復し、地方を乱す者はなくなった。 南陽での人事乱発と是正皇帝が南陽に滞在中、側近たちが私利を貪り、人事詔書を乱発して郎官(下級官吏)を濫発していた。太尉の楊秉が上疏して諫めた。「天文でいう郎位星こそ人事を司ります。郎官は宮中を守り民を治める要職。私情で任命すれば欲望の道を開くことになります」。この意見により、濫発人事は停止された。 辺境の戦況と宮中の訃報護羌校尉の段熲が当煎羌族を攻撃し、これを撃破した。十二月辛丑の日、皇帝の行列は都に帰還した。この頃、中常侍(宦官高官)の汝陽侯・唐衡と武原侯・璜が相次いで死去した。 寇栄の冤罪と上書ある時さかのぼって、侍中(皇帝側近官)の寇栄(名門・寇氏の曾孫)は清廉潔白で交友も狭く、権力者たちから憎まれていた。寇栄の従兄の子が皇帝の妹・益陽長公主と結婚し、さらに寇栄の従孫娘が後宮に入ったことで、側近たちの嫉妬は頂点に達した。彼らは共謀して寇栄に罪を着せ、一族ごと故郷へ追放した。地方官たちは中央の意向を察し、寇栄への迫害を次第に強めた。冤罪必至と悟った寇栄は都へ直訴に向かったが、到着前に刺史の張敬が「辺境職務放棄」の罪で弾劾。逮捕令が出る中、数年逃亡を続けた。 流亡中の訴状赦令が出ても恩赦の対象外とされ、困窮した末に寇栄は逃亡先から直訴状をしたためた。「陛下は天地を治められる慈父のようなお方。赤子に至るまで皆、その恩沢に浴しています。しかし臣と兄弟だけは無実の罪で、権臣の誹謗と奸臣のでっち上げにあい、陛下は慈母の情を忘れて機織り梭を投げつけるような激怒を示されました(曾参の殺人誤認故事)。」 解説この文章は『資治通鑑』から抽出した複合的な記述で、特に後漢時代の特徴的な問題を浮き彫りにしています: 1. 軍事作戦の描写:尚の心理戦術と速攻による賊軍撃破 2. 巡察制度の矛盾:皇帝行幸に伴う地方疲弊と胡騰の合理的改革案 3. 宦官政治の弊害:郎官濫発に現れる側近政治の腐敗と楊秉の諫言 4. 冤罪事件の構造:寇栄事件に凝縮された「外戚vs宦官」の権力闘争 特筆すべきは寇栄の上書文で、『詩経』の「青蠅」(讒言の象徴)や「投杼」(曾参の母が真実を疑う故事)などの典故を駆使し、古典的教養に基づく抗議文の典型となっています。当時の知識人が如何に経書の故事を政治的アピールに活用したかが窺える重要事例です。 歴史的背景として、後漢中期は: - 外戚梁冀の専横(159年誅殺) - 宦官勢力の台頭(五侯政権) - 清流派官僚の弾圧(党錮の禁) といった激動期にあたり、寇栄の悲劇は単なる個人の冤罪ではなく、後漢王朝を蝕む構造的腐敗の縮図と言えます。 Translation took 2194.2 seconds. |
| 殘諂之吏,張設機網,並驅爭先,若赴仇敵,罰及死沒,髡剔墳墓,欲使嚴朝必加濫罰;是以不敢觸突天威而自竄山林,以俟陛下發神聖之聽,啟獨睹之明,救可濟之人,援沒溺之命。不意滯怒不為春夏息,淹恚不為歲時怠,遂馳使郵驛,佈告遠近,嚴文克剝,痛於霜雪,遂臣者窮人途,追臣者極車軌。雖楚購伍員,漢求季布,無以過也。臣遇罰以來,三赦再贖,無驗之罪,足以蠲除;而陛下疾臣愈深,有司咎臣甫力,止則見掃滅,行則為亡虜,苟生則為窮人,極死則為冤鬼,天廣而無以自覆,地厚而無以自載,蹈陸土而有沉淪之憂,遠巖牆而有鎮壓之患。如臣犯元惡大憝,足以陳原野,備刀鋸,陛下當班布臣之所坐,以解眾論之疑。臣思入國門,坐於肺石之上,使三槐九棘平臣之罪,而閶闔九重,陷阱步設,舉趾觸罘罝,動行絓羅網,無緣至萬乘之前,永無見信之期。悲夫,久生亦復何聊!蓋忠臣殺身以解君怒,孝子殞命以寧親怨,故大舜不避塗廩、浚井之難,申生不辭姬氏讒邪之謗;臣敢忘斯義,不自斃以解明朝之忿哉!乞以身塞責,願陛下丐亡兄弟死命,使臣一門頗有遺類,以崇陛下寬饒之惠。先死陳情,臨章泣血!」帝省章愈怒,遂誅榮,寇氏由是衰廢。 孝桓皇帝中延熹八年(乙巳,公元一六五年) 春,正月,帝遣中常侍左心官之苦縣祠老子。 |
現代日本語訳本文の現代語訳阿諂追従の役人たちが、策略の網を張り巡らせ、我先にと競い合って(私を追い詰めようとしている)。まるで敵陣に突撃するかのようだ。罰は死者や逃亡者にまで及び、墓を暴くようなことまでして、厳格な朝廷に過剰な罰を加えさせようとしている。 このため、私は陛下の威光に逆らえず、山林に身を隠している。陛下が神聖なお耳を傾け、卓越した見識で事態を明らかにされ、救い得る者を救い、苦境に陥っている者を助けてくださるのを待っていた。ところが、陛下の怒りは春夏(季節の移り変わり)でも収まらず、憤りは歳月が経っても衰えなかった。ついに使者を駅馬で走らせ、遠近に布告を出した。その厳しい命令は霜や雪よりも冷たく、私を追い詰める者は逃亡者の道を進み、私を追跡する者は車の轍を極めるほど熱心だ。 かつて楚が伍員(伍子胥)の捜索に懸賞をかけ、漢が季布を追ったほどの執念深さも、これには及ばないだろう。私が罰せられて以来、三度の赦免と二度の贖罪(罪を償う機会)があったにもかかわらず、(本来なら)証拠不十分な罪状は消滅していたはずだ。しかし陛下の私への憎しみはますます深まり、役人たちは私を責め立てている。留まれば滅ぼされ、逃げれば追われる身だ。生きながらえても逃亡者として苦しみ、死んでも怨霊となるしかない。天は広いというのに私を覆う場所はなく、地は厚いというのに私を支える場所がない。陸地にいながら溺れるような不安を感じ、岩壁のそばにいながら押し潰される恐怖に怯えている。 もし私が極悪非道の大罪を犯したのなら、広野に晒し者にされ、刀や鋸で切り刻まれる刑に処されても当然である。どうか陛下には、私の罪状を広く公表して、人々の疑念を解いてほしい。私は宮門に入り、「肺石」(赤い石。冤罪を訴える者が立つ場所)の上に立って、三槐・九棘(高位の裁判官たち)に私の罪を裁いていただきたいと願う。しかし、九重の宮門には至る所に罠が仕掛けられ、一歩踏み出せば網に引っかかり、動けば絡み取られる。天子の御前には到底たどり着けず、真実を認めていただける日は永遠に来ないのだろう。 ああ、長く生きながらえることの何が楽しいというのか。忠臣は身を捨てて君主の怒りを鎮め、孝子は命を投げ出して親の恨みを晴らすものだ。かつて舜帝は父から屋根裏に閉じ込められたり井戸に落とされたりする災難をも避けず、申生は継母の讒言を否定しなかった。どうして私だけがこの大義を忘れ、自らの命を絶って朝廷の怒りを鎮めないことがあろうか。 どうか私のこの身をもって責任を果たさせてほしい。陛下には、亡き兄弟たちの命を哀れみ、私の一族の血筋がわずかにでも残るようお許しください。これこそが陛下の広大な恩恵を称える道である。死を覚悟して本心を述べ、この文章に血の涙を流しながら筆を執る。 結末の記述皇帝はこの上奏文を読むとますます激怒し、ついに寇栄(こうえい)を誅殺した。こうして寇氏一族は衰退していった。 歴史的背景孝桓皇帝の治世・延熹8年(乙巳、西暦165年)春正月、皇帝は中常侍(宦官の高官)の左悺(さかん)を苦県(現在の河南省鹿邑県)に遣わし、老子を祀らせた。 解説背景と文脈
表現技法
悲劇性の本質この文章が特に痛切なのは、著者が「自死による責任取り」まで提案しながら、なおかつ一族の存続を哀願する点にある。皇帝への絶対的忠誠を示しつつ、制度的救済(肺石での審理)を求める矛盾した姿勢が、当時の知識人の苦悩を象徴している。結果として皇帝の逆鱗に触れた結末は、後漢王朝が失政により人材を喪失していく過程を示唆している。
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| 勃海王悝,素行險僻,多僭傲不法。北軍中候陳留史弼上封事曰:「臣聞帝王之於親戚,愛雖隆必示之以威,體雖貴必禁之以度,如是,和睦之道興,骨肉之恩遂矣。竊聞勃海王悝,外聚剽輕不逞之徒,內荒酒樂,出入無常,所與群居,皆家之棄子,朝之斥臣,必有羊勝、伍被之變。州司不敢彈糾,傅相不能匡輔,陛下隆於友於,不忍遏絕,恐遂滋蔓,為害彌大。乞露臣奏,宣示百僚,平處其法。法決罪定,乃下不忍之詔;臣下固執,然後少有所許。如是,則聖朝無傷親之譏,勃海有享國之慶。不然,懼大獄將興矣。」上不聽。悝果謀為不道;有司請廢之,詔貶為癭陶王,食一縣。 丙申晦,日有食之。詔公、卿、校尉舉賢良方正。 千秋萬歲殿火。 中常侍侯覽兄參為益州刺史,殘暴貪婪,累臧億計。太尉楊秉奏檻車征參,參於道自殺,閱其車重三百餘兩,皆金銀錦帛。秉因奏曰:「臣案舊典,宦官本在給使省闥,司昏守夜;而今猥受過寵,執政操權,附會者因公褒舉,違忤者求事中傷,居法王公,富擬國家,飲食極餚膳,僕妾盈紈素。中常侍侯覽弟參,貪殘元惡,自取禍滅。覽顧知釁重,必有自疑之意,臣愚以為不宜復見親近。昔懿公刑邴蜀阜之父,奪閻職之妻,而使二人參乘,卒有竹中之難。覽宜急屏斥,投畀有虎,若斯之人,非恩所宥,請免官送歸本郡。 |
現代日本語訳渤海王・劉悝(りゅうかい)は、もともと邪悪で偏屈な行いが多く、尊大で法を無視する行為が目立っていた。北軍中候(近衛軍司令官)の陳留出身の史弼(しひつ)が封事(皇帝への直奏文)を提出し、次のように述べた。 「臣が考えるに、帝王が親族に対処する場合、たとえ愛情が厚くとも威厳を示し、身分が高くとも節度を持って制御すべきです。そうすることで、調和の道が開け、肉親の情も保たれるのです。渤海王・劉悝は、外部ではならず者を集め、内部では酒宴と享楽にふけり、出入りも無節制で、常に付き合う者は家を追われた者や朝廷から追放された臣下ばかりです。このままでは、羊勝や伍被のような反乱が起こるでしょう。州の役人も彼を糾弾できず、王傅(諸王の補佐官)も諫めることができません。陛下は兄弟愛を重んじられ、彼を制御することをお許しになりませんが、このままでは事態が悪化し、大きな災いとなる恐れがあります。どうか臣の上奏を公開し、百官と共に適切な処置を協議してください。法に基づく判決が下った後、陛下が情状酌量の詔を出され、臣下が厳しく諫めてから、ようやく軽減措置を取られるのがよろしいでしょう。そうすれば朝廷が『親族を傷つけた』と非難されることもなく、渤海王も封国を安泰に保てるのです。さもなければ、大規模な獄訟(弾圧事件)が起こるでしょう」 しかし皇帝(桓帝)は聞き入れなかった。その後、劉悝が謀反を企てたため、担当官が廃位を上奏。詔により癭陶王に降格され、一県の領地のみを与えられた。 丙申の日(干支)、日食が発生。公卿や校尉に対し、有徳の人材を推薦するよう詔が出された。 千秋万歳殿(宮中の殿舎)で火災が発生。 中常侍(宦官の高官)・侯覧の兄・侯参が益州刺史として、残忍な搾取を重ね、蓄財は億万に及んだ。太尉・楊秉が檻車(囚人護送車)での逮捕を上奏したところ、侯参は護送中に自殺。押収した荷物からは金銀財宝が三百余両(約11トン)も見つかった。楊秉はさらに上奏した。 「臣が旧典を調べますに、宦官の役目は宮中の雑用を処理し、夜間の警備を行うことでした。ところが現在、彼らは過剰な寵愛を受け、政権を掌握しています。側近は公務を口実に昇進させ、反対者には嫌がらせを仕掛け、王侯と同等の生活をし、国家に匹敵する富を蓄え、食事は豪勢で、使用人は絹衣の者ばかりです。中常侍・侯覧の弟・侯参は貪欲極まる悪党で、自ら災いを招きました。侯覧も罪の重さを自覚し、疑念を抱いているはずです。臣の愚見では、彼を再び側近に置くべきではありません。昔、懿公が邴歜(へいしょく)の父を処刑し、閻職(えんしょく)の妻を奪いながら二人を側近にしたため、竹林で殺害される事件が起きました(『春秋左氏伝』荘公8年)。侯覧こそ急いで排除し、虎のいる荒野に放逐すべきです。このような人物は恩赦の対象ではなく、官職を免じて故郷に送還すべきです」 解説
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| 」書奏,尚書召對秉掾屬,詰之曰:「設官分職,各有司存。三公統外,御史察內。今越奏近官,經典、漢制,何所依據?其開公具對!」秉使對曰:「《春秋傳》曰:『除君之惡,唯力是視。』鄧通懈慢,申屠嘉召通詰責,文帝從而請之。漢世故事,三公之職,無所不統。尚書不能詰,帝不得已,竟免覽官。司隸校尉韓縯因奏左悺罪惡,及其兄太僕南鄉侯稱請托州郡,聚斂為奸,賓客放縱,侵犯吏民。悺、稱皆自殺。又奏中常侍具瑗兄沛相恭臧罪,征詣廷尉。瑗詣獄謝,上還東武侯印綬,詔貶為都鄉侯。超及璜、衡襲封者,並降為鄉侯,子弟分封者,悉奪爵土。劉普等貶為關內侯,尹勳等亦皆奪爵。 帝多內寵,宮女至五六千人,及驅役從使復兼倍於此,而鄧後恃尊驕忌,與帝所幸郭貴人更相譖訴。癸亥,廢皇后鄧氏,送暴室,以憂死。河南尹鄧萬世、虎賁中郎將鄧會皆下獄誅。 護羌校尉段熲擊罕姐羌,破之。 三月,辛巳,赦天下。 宛陵大姓羊元群罷北海郡,臧污狼籍;郡捨溷軒有奇巧,亦載之以歸。河南尹李膺表按其罪;元群行賂宦官,膺竟反坐。單超弟遷為山陽太守,以罪繫獄,廷尉馮緄考致其死;中官相黨,共飛章誣緄以罪。中常侍蘇康、管霸,固天下良田美業,州郡不敢詰,大司農劉祐移書所在,依科品沒入之;帝大怒,與膺、緄俱輸作左校。 |
漢王朝の宦官専横と皇帝の昏庸現代日本語訳尚書の詰問と楊秉の反論 宦官一族の粛清 宦官勢力への処分 後宮の乱れと皇后廃位 辺境の戦勝と大赦 地方腐敗と司法の崩壊 土地収奪と清流派弾圧 解説(歴史的背景)■ 時代背景 ■ 核心的問題点
■ 歴史的意義
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| 夏,四月,甲寅,安陵園寢火。 丁巳,詔壞郡國諸淫祀,特留雒陽王渙、密縣卓茂二祠。 五月,丙戌,太尉楊秉薨。秉為人,清白寡慾,嘗稱「我有三不惑:酒、色、財也。」 秉既沒,所舉賢良廣陵劉瑜乃至京師上書言:「中官不當比肩裂土,競立胤嗣,繼體傳爵。又,嬖女充積,冗食空宮,傷生費國。又,第捨增多,窮極奇巧,掘山攻石,促以嚴刑。州郡官府,各自考事,姦情賕賂,皆為吏餌。民愁鬱結,起入賊黨,官輒興兵誅討其罪。貧困之民,或有賣其首級以要酬賞,父兄相代殘身,妻孥相視分裂。又,陛下好微行近習之家,私幸宦者之捨,賓客市買,熏灼道路,因此暴縱,無所不容。惟陛下開廣諫道,博觀前古,遠佞邪之人,放鄭、衛之聲,則政致和平,德感祥風矣。」詔特召瑜問災咎之征。執政者欲令瑜依違其辭,乃更策以它事,瑜復悉心對八千餘言,有切於前,拜為議郎。 荊州兵朱蓋等叛,與桂陽賊胡蘭等復攻桂陽,太守任胤棄城走,賊眾遂至數萬。轉攻零陵,太守下邳陳球固守拒之。零陵下濕,編木為城,郡中惶恐。掾史白球遣家避難,球怒曰:「太守分國虎符,受任一邦,豈顧妻孥而沮國威乎!復言者斬!」乃弦大木為方,羽矛為矢,引機發之,多所殺傷。賊激流灌城,球輒於內因地勢,反決水淹賊,相拒十餘日不能下。 |
現代日本語訳事件の記録
解説
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| 時度尚征還京師,詔以尚為中郎將,率步騎二萬餘人救球,發諸郡兵並勢討擊,大破之,斬蘭等首三千餘級,復以尚為荊州刺史。蒼梧太守張敘為賊所執,及任胤皆征棄市。胡蘭餘黨南走蒼梧,交趾刺史張磐擊破之,賊復還入荊州界。度尚懼為己負,乃偽上言蒼梧賊入荊州界,於是征磐下廷尉。辭狀未正,會赦見原,磐不肯出獄,方更牢持械節。獄吏謂磐曰:「天恩曠然,而君不出,何乎?」磐曰:「磐備位方伯,為尚所枉,受罪牢獄。夫事有虛實,法有是非,磐實不辜,赦無所除;如忍以苟免,永受侵辱之恥,生為惡吏,死為敝鬼。乞傳尚詣廷尉,面對曲直,足明真偽。尚不征者,磐埋骨牢檻,終不虛出,望塵受枉!」廷尉以其狀上,詔書征尚,到廷尉,辭窮,受罪,以先有功得原。 閏月,甲午,南宮朔平署火。 段熲擊破西羌,進兵窮追,展轉山谷間,自春及秋,無日不戰,虜遂敗散,凡斬首二萬三千級,獲生口數萬人,降者萬餘落。封熲都鄉侯。 秋,七月,以太史大夫陳蕃為太尉。蕃讓於太常胡廣、議郎王暢、弛刑徒李膺,帝不許。暢,龔之子也,嘗為南陽太守,疾其多貴戚豪族,下車,奮厲威猛,大姓有犯,或使吏發屋伐樹,堙井夷灶。功曹張敞奏記諫曰:「文翁、召父、卓茂之徒,皆以溫厚為政,流聞後世。發屋伐樹,將為嚴烈,雖欲懲惡,難以聞遠。 |
日本語訳:この時、度尚が首都に召還された。詔書により、彼は中郎将に任命され、歩兵と騎兵あわせて2万余人を率いて救援に向かい、諸郡の兵士と力を合わせて攻撃し、大勝した。蘭ら3千余りの首級を斬り、その後、度尚は荊州刺史に再任された。蒼梧太守の張敘は賊に捕らえられ、任胤とともに市場で斬首刑に処された。胡蘭の残党は南へ逃れて蒼梧に入ったが、交趾刺史の張磐がこれを撃破した。しかし賊は再び荊州の境界に戻り込んだ。度尚は自分の責任を恐れ、偽って「蒼梧の賊が荊州に侵入した」と上奏した。これにより張磐は廷尉に召喚された。罪状が確定しないうちに恩赦が行われ張磐は赦免されたが、彼は出獄を拒み、あえて刑具を付けたまま獄中に留まった。獄吏が張磐に言った。「皇帝陛下の恩赦が行われたのに、なぜ出ようとしないのか?」張磐は答えた。「私は地方長官の身でありながら、度尚に陥れられて投獄された。事実には真偽があり、法には是非がある。私は無実であるのに、恩赦によって罪を免除されるのは納得できない。もし一時の恥を忍んで出獄すれば、一生『汚名を着た官吏』として生き、死んでも『罪人』のままである。どうか度尚を廷尉に召喚し、対決させて真実を明らかにしてほしい。もし召喚されなければ、私はこの獄中で骨を埋めよう。偽りの赦免を受けて、汚名を着たまま出ることはしない」。廷尉がこの上訴を皇帝に報告すると、詔書により度尚が召喚され、廷尉で対決することになった。度尚は反論できず、罪を認めたが、過去の功績により赦免された。 閏月の甲午の日、南宮の朔平署で火災が発生した。 段熲が西羌を撃破し、追撃を続けた。山岳地帯を転戦し、春から秋まで休みなく戦い、ついに反乱軍を壊滅させた。斬首2万3千級、捕虜数万人、降伏者1万余りを数えた。段熲は都郷侯に封じられた。 秋7月、太中大夫の陳蕃が太尉に任命された。陳蕃は太常の胡広、議郎の王暢、赦免された元囚人の李膺らに地位を譲ろうとしたが、皇帝は許さなかった。王暢は龔の子で、かつて南陽太守を務めた。彼は管内に皇族や豪族が多いことを嫌い、着任すると厳しい態度で臨んだ。名門の者で罪を犯した者は、役人に命じて家屋を破壊し、樹木を伐採させ、井戸を埋め、かまどを壊させた。功曹の張敞が上書して諫めた。「文翁、召父、卓茂らは皆、温厚な政治を行い、その名声は後世まで伝わっています。家屋を破壊し樹木を伐採するのは苛烈な政治であり、悪を懲らしめようとしても、遠くまで良い評判は届きません」。 解説:
この訳文は『資治通鑑』の原文が持つ緊密な叙述スタイルを保持しつつ、現代日本語の読解性を両立させるよう心がけました。特に官吏たちの倫理観の衝突(張磐の冤罪抵抗と王暢の苛烈改革)に焦点を当て、当時の政治状況が伝わるよう配慮しています。 Translation took 2187.2 seconds. |
| 郡為舊都,侯甸之國,園廟出於章陵,三後生自新野,自中興以來,功臣將相,繼世而隆。愚以為懇懇用刑,不如行恩;孳孳求奸,未若禮賢。舜舉皋陶,不仁者遠,化人在德,不在用刑。」暢深納其言,更崇寬政,教化大行。 八月,戊辰,初令郡國有田者畝斂稅錢。 九月,丁未,京師地震。 冬,十月,司空周景免;以太常劉茂為司空,茂,愷之子也。郎中竇武,融之玄孫也,有女為貴人。采女田聖有寵於帝,帝將立之為後。司隸校尉應奉上書曰:「母后之重,興廢所因;漢立飛燕,胤嗣泯絕。宜思《關雎》之所求,遠五禁之所忌。」太尉陳蕃亦以田氏卑微,竇族良家,爭之甚固。帝不得已,辛巳,立竇貴人為皇后,拜武為特進、城門校尉,封槐裡侯。 十一月,壬子,黃門北寺火。 陳蕃數言李膺、馮緄、劉祐之枉,請加原宥,升之爵任,言及反覆,誠辭懇切,以至流涕;帝不聽。應奉上疏曰:「夫忠賢武將,國之心膂。竊見左校弛刑徒馮緄、劉祐、李膺等,誅舉邪臣,肆之以法;陛下既不聽察,而猥受譖訴,遂令忠臣同愆元惡,自春迄冬,不蒙降恕,遐邇觀聽,為之歎息。夫立政之要,記功忘失;是以武帝捨安國於徒中,宣帝征張敞於亡命。緄前討蠻荊,均吉甫之功;祐數臨督司,有不吐茹之節;膺著威幽、并,遺愛度遼。今三垂蠢動,王旅未振,乞原膺等,以備不虞。 |
現代日本語訳施政方針の転換ある人物が進言した:「この地域は古くからの都であり、皇帝の直轄地である。祖先の霊廟が章陵に、三后(漢王朝の創始者たち)が新野に誕生した。前漢の中興以来、功臣や将軍たちが代々栄えてきた。私は考えるに、刑罰を厳しく運用するよりも恩徳を施す方がよく、奸悪を取り締まるよりも賢者を礼遇する方がよい。古代の舜帝が皋陶を登用したように、仁なき者を遠ざけ、人々を感化するのは徳によるのであって、刑罰によるのではない」と。太守の暢はこの意見を深く受け入れ、施政を寛容な方針へ転換したところ、教化が大いに行き渡った。 政策と災異
宮廷人事と立后問題10月:司空(三公の一)の周景が免職され、太常(九卿の一)の劉茂が後任となる。劉茂は劉愷の子である。 災変と冤罪救済運動
解説
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| 」書奏,乃悉免其刑。久之,李膺復拜司隸校尉。時小黃門張讓弟朔為野王令,貪殘無道,畏膺威嚴,逃還京師,匿于兄家合柱中。膺知其狀,率吏卒破柱取朔,付雒陽獄,受辭畢,即殺之。讓訴冤於帝,帝召膺,詰以不先請便加誅之意。對曰:「昔仲尼為魯司寇,七日而誅少正卯。今臣到官已積一旬,私懼以稽留為愆,不意獲速疾之罪。誠自知釁責,死不旋踵,特乞留五日,克殄元惡,退就鼎鑊,始生之願也。」帝無復言,顧謂讓曰:「此汝弟之罪,司隸何愆!」乃遣出。自此諸黃門、常侍皆鞠躬屏氣,休沐不敢出宮省。帝怪問其故,並叩頭泣曰:「畏李校尉。」時朝廷日亂,綱紀頹弛,而膺獨特風裁,以聲名自高,士有被其容接者,名為登龍門雲。 征東海相劉寬為尚書令。寬,崎之子也,歷典三郡,溫仁多恕,雖在倉卒,未嘗疾言遽色。吏民有過,但用蒲鞭罰之,示辱而已,終不加苦。每見父老,慰以農裡之言,少年,勉以孝悌之訓,人皆悅而化之。 孝桓皇帝中延熹九年(丙午,公元一六六年) 春,正月,辛卯朔,日有食之。詔公卿、郡國舉至孝。太常趙典所舉荀爽對策曰:「昔者聖人建天地之中而謂之禮,眾禮之中,昏禮為首。陽性純而能施,陰體順而能化,以禮濟樂,節宣其氣,故能豐子孫之祥,致老壽之福。及三代之季,淫而無節,陽竭於上,陰隔於下,故周公之戒曰:『時亦罔或克壽。 |
現代日本語訳李膺の剛直な振る舞い上奏文が受理されたことで、関係者の刑罰は免除された。時が経ち、李膺は再び司隸校尉に任命された。当時、宦官である張譲の弟・張朔が野王県令を務めていたが、彼は貪欲で非道な行いを重ねていた。李膺の厳格な姿勢を恐れた張朔は都に逃げ込み、兄の邸宅の柱の間に隠れ潜んだ。この状況を把握した李膺は配下の役人を率いて柱を破壊し張朔を強制拘束。洛陽の監獄に送致し、取り調べを終えると直ちに処刑した。 張譲が皇帝(桓帝)に冤罪を訴えると、皇帝は李膺を召し出し、「なぜ事前の奏上もなく誅殺したのか」と詰問した。これに対し李膺は言下に答えた。「昔、孔子が魯の国の司寇となった際、わずか七日で少正卯を誅殺しました。今、私が着任して十日が経過しております。職務怠慢を責められるのは覚悟の上でございましたが、迅速な処置を過ちとされるとは思いもよりませんでした。自らの責任は痛感しております。即刻、死をもって償う覚悟でおります。ただ五日間の猶予を賜り、元凶を完全に掃討した後、自ら釜茹での刑に処されることが、私の本望でございます」。 皇帝はこれ以上問い詰める言葉もなく、張譲に向かって言った。「これはお前の弟が招いた結果だ。李膺に何の落ち度があろうか」。こうして李膺は無罪放免となった。この事件以来、宦官たちは李膺の前では息をひそめ、休暇日さえも宮中から外出しなくなった。皇帝がその理由を尋ねると、宦官たちは地面に額を擦りつけながら涙を流して訴えた。「李校尉が畏ろしいのです」。 当時の朝廷は混乱が深まり、綱紀は廃れていた。しかし李膺だけは断固たる姿勢を貫き、その威厳は天下に鳴り響いた。彼から一目置かれた人物は「登竜門をくぐった」と称され、世間から最高の栄誉と見なされたのである。 劉寛の温厚な統治一方、東海国の相であった劉寛が尚書令に昇進した。劉寛は劉崎の子として、三つの郡を統治した経験を持つ人物である。温厚で慈愛に満ち、たとえ緊急事態に直面しても焦りの色を見せず、部下や民衆に対しては常に穏やかな態度を崩さなかった。人々が過失を犯しても、彼は蒲(がま)の穂で作った軽い鞭で象徴的な罰を与えるだけで、実刑を科すことは決してなかった。年配者に出会えば農耕の話題で労わり、若者には孝行と兄弟愛の道理を諭した。こうした人柄ゆえに、民衆は自然と感化され、心から彼を慕ったのである。 延熹9年(166年)の天文異変と荀爽の上奏桓帝の治世・延熹9年(丙午の年、西暦166年)の春正月、朔日(1日)に日食が発生した。この天変を受け、皇帝は諸侯や高官に対し「至孝」(最高の孝行を実践する者)の推薦を命じた。 太常(礼儀担当大臣)の趙典が推挙した荀爽は、次のような内容の上奏文を提出した: 「かつて聖人は天地の調和を体現するものとして『礼』を制定されました。特に婚礼は諸礼の中でも根本とされます。陽(男性原理)は純粋にして万物を育み、陰(女性原理)は柔順にしてそれを支える。礼と音楽によってこの気(生命エネルギー)を調和させ節度を与えることで、子孫の繁栄と長寿の福がもたらされるのです。ところが夏・殷・周の末世には、人々は節度を失い放縦に堕ちました。その結果、陽気は天で枯渇し、陰気は地で滞り、天地の交流は断絶してしまった。この危機を憂いた周公は『このままでは誰も天命を全うできない』と警告されたのです」。 解説
この文章は『後漢書』党錮列伝と荀淑伝を典拠とし、司馬光『資治通鑑』桓帝紀を基に構成されています。剛と柔の統治理念が対照的に描かれるとともに、後漢王朝衰退の予兆が天文異変と政治批判で象徴的に表現されている点に特長があります。 Translation took 2425.1 seconds. |
| 』《傳》曰:『截趾適屨,孰雲其愚,何與斯人,追欲喪軀。』誠可痛也。臣竊聞後宮采女五六千人,從官、侍使復在其外,空賦不辜之民,以供無用之女,百姓窮困於外,陰陽隔塞於內,故感動和氣,災異屢臻。臣愚以為諸未幸御者,一皆遣出,使成妃合,此誠國家之大福也。」詔拜郎中。司隸、豫州饑,死者什四五,至有滅戶者。 詔征張奐為大司農,復以皇甫規代為度遼將軍。規自以連在大位,欲求退避,數上病,不見聽。會友人喪至,規越界迎之,因令客密告并州刺史胡芳,言規擅遠軍營,當急舉奏。芳曰:「威明欲避第仕塗,故激發我耳。吾當為朝廷愛才,何能申此子計邪!」遂無所問。 夏,四月,濟陰、東郡、濟北、平原河水清。 司徒許栩免;五月,以太常胡廣為司徒。 庚午,上親祠老子於濯龍宮,以文罽為壇飾,淳金釦器,設華蓋之坐,用郊天樂。 鮮卑聞張奐去,招結南匈奴及烏桓同叛。六月,南匈奴、烏桓、鮮卑數道入塞,寇掠緣邊九郡。秋,七月,鮮卑復入塞,誘引東羌與共盟詛。於是上郡沈氐、安定先零諸種共寇武威、張掖,緣邊大被其毒。詔復以張奐為護匈奴中郎將,以九卿秩督幽、并、涼三州及度遼、烏桓二營,兼察刺史、二千石能否。 初,帝為蠡吾侯,受學於甘陵周福,及即位,擢福為尚書。時同郡河南尹房植有名當朝,鄉人為之謠曰:「天下規矩,房伯武;因師獲印,周仲進。 |
現代日本語訳:諫言と災害報告ある人物が上奏した:「『足を削って靴に合わせる』という故事がありますが、これは愚かな行為とされ、なぜそのようなことをするのでしょうか。私は後宮に5、6千人の女官がおり、さらに多くの役人や従者が伺候していると聞いています。罪のない民衆から税を徴収して、役に立たない女性たちを養っているのです。民衆は外で困窮し、朝廷内部では陰陽の調和が乱れているため、天の気が乱れ、災害が頻発しています。私の愚見では、寵愛を受けていない女官たちをすべて放出し、夫婦として生活させるべきです。これこそが国家にとっての大きな福となるでしょう。」この上奏に対し、皇帝はその人物を郎中(高級官僚)に任命した。 飢饉の惨状司隷(首都圏)と豫州では飢饉が発生し、死者は10人中4~5人にのぼり、一族全滅の家も出ている。 人事異動と皇甫規の辞任工作朝廷は張奐を大司農(財政長官)に任命し、皇甫規を後任の度遼将軍(辺境防衛司令官)とした。皇甫規は長期間高位にあったことを重荷に感じ、辞職を望んだ。彼は病気を理由に繰り返し辞任を願い出たが、聞き入れられなかった。ちょうど友人の葬儀があったため、彼は管轄区域を越えて弔問に行き、その機会に部下を介して并州刺史(并州長官)の胡芳に密告させた:「皇甫規が軍営を離れたのは規律違反だ。すぐに上奏して処罰を求めるべきだ」と。しかし胡芳はこう言った:「皇甫規(字は威明)はわざと辞職したいのだろう。私は朝廷のために人材を大切にするつもりだ。どうして彼の策略に乗れようか」と。結局、胡芳は何も報告しなかった。 吉兆と人事夏4月、済陰・東郡・済北・平原の黄河が澄みきった(当時は吉兆とされた)。 司徒(宰相)の許栩が免職となり、5月に太常(儀式担当)の胡広が後任の司徒となった。 辺境の危機と張奐の復帰庚午の日、皇帝は濯龍宮で老子を祀り、錦の敷物や金装飾の祭器を用い、天子の儀礼で祭事を行った。 鮮卑が張奐の転任を知ると、南匈奴や烏桓を誘って反乱を起こした。6月、南匈奴・烏桓・鮮卑が複数のルートから侵攻し、辺境の九郡で略奪を働いた。秋7月、鮮卑は再び侵攻し、東羌を誘って盟約を結ばせた。これにより上郡の沈氐族や安定の先零族などが連合して武威・張掖を攻撃し、辺境は甚大な被害を受けた。朝廷は急きょ張奐を護匈奴中郎将(匈奴担当司令官)に復帰させ、九卿クラスの待遇で幽州・并州・涼州の三州と度遼将軍・烏桓校尉の二営を統括させ、刺史や郡太守(二千石クラス)の監察も兼務させた。 甘陵の二大勢力皇帝(桓帝)が蠡吾侯だった頃、甘陵の周福(字は仲進)に師事していた。即位すると周福を尚書(宮中顧問)に抜擢した。当時、同郷の河南尹(首都長官)房植(字は伯武)も朝廷で名を馳せており、地元の民謡にこう歌われた:
解説:
(本訳は『後漢書』巻67党錮列伝、同巻65皇甫規伝、および『資治通鑑』漢紀48の内容を総合し、歴史的文脈を補完して再構成したものです) Translation took 2401.6 seconds. |
| 」二家賓客,互相譏揣,遂各樹朋徒,漸成尤隙。由是甘陵有南北部,黨人之議自此始矣。汝南太守宗資以范滂為功曹,南陽太守成□以岑晊為功曹,皆委心聽任,使之褒善糾違,肅清朝府。滂尤剛勁,疾惡如仇。滂甥李頌,素無行,中常侍唐衡以屬資,資用為吏;滂寢而不召。資遷怒,捶書佐朱零,零仰曰:「范滂清裁,今日寧受笞而死,滂不可違。」資乃止。郡中中人以下,莫不怨之。於是二郡為謠曰:「汝南太守范孟博,南陽宗資主畫諾;南陽太守岑公孝,弘農成□但坐嘯。」 太學諸生三萬餘人,郭泰及穎川賈彪為其冠,與李膺、陳蕃、王暢更相褒重。學中語曰:「天下模楷,李元禮;不畏強禦,陳仲舉;天下俊秀,王叔茂。」於是中外承風,競以臧否相尚,自公卿以下,莫不畏其貶議,屣履到門。 宛有富賈張汎者,與後宮有親,又善雕鏤玩好之物,頗以賂遺中宮,以此得顯位,用勢縱橫。岑晊與賊曹史張牧勸成瑨收捕汎等,既而遇赦;瑨竟誅之,並收其宗族賓客,殺二百餘人,後乃奏聞。小黃門晉陽趙津,貪橫放恣,為一縣巨患。太原太守平原劉□質使郡吏王允討捕,亦於赦後殺之。於是中常侍侯覽使張泛妻上書訟冤,宦官因緣譖訴瑨、□質。帝大怒,征瑨、□質,皆下獄。有司承旨,奏瑨、□質罪當棄市。 山陽太守翟超以郡人張儉為東部督郵。 |
現代日本語訳【派閥の形成と清流派官僚の台頭】二つの有力者の食客たちは互いに嘲り合い、それぞれ派閥を形成して次第に対立を深めた。これがきっかけで甘陵(かんりょう)には南北二つの党派が生まれ、「党人(とうじん)」と呼ばれる政治集団に関する議論はここから始まった。 汝南(じょなん)太守・宗資(そうし)は范滂(はんぼう)を功曹(こうそう:人事担当官)に登用し、南陽(なんよう)太守・成瑨(せいじん)は岑晊(しんしつ)を功曹に任命した。両太守とも彼らに全幅の信頼を置き、善行を表彰し不正を正すことで役所の綱紀粛正を任せた。特に范滂は剛直で、悪を憎むこと仇敵に対するがごとくであった。 ある時、范滂の甥・李頌(りしょう)が就職を求めたが、彼は素行不良だった。宦官の唐衡(とうこう)が宗資に取りなしを依頼したため、宗資は李頌を任用しようとした。しかし范滂は任命書を握りしめたまま出そうとしなかった。怒った宗資が下級官吏の朱零(しゅれい)を鞭打つと、朱零は言った。「范滂様は清廉な判断をなさったのです。たとえ鞭打ちの刑で死んでも、彼の決定を覆すわけにはまいりません」。宗資はようやく引き下がった。郡内の中級以下の役人たちは皆、范滂を恨んだ。そこで両郡に次のような風刺歌が流行った: 「汝南太守は范孟博(はんもうはく:范滂の字)が主役/宗資は書類に判を押すだけの飾り/南陽太守は岑公孝(しんこうこう:岑晊の字)が実権者/成瑨はただ座っているだけ」 【大学生による清議運動】太学(国立大学)の三万人の学生たちは、郭泰(かくたい)と潁川(えいせん)出身の賈彪(かひょう)を指導者と仰ぎ、李膺(りよう)、陳蕃(ちんばん)、王暢(おうちょう)らを称賛して互いに高め合った。学内ではこう言われた: 「天下の模範は李元礼(りげんれい:李膺の字)/剛胆無比は陳仲挙(ちんちゅうきょ:陳蕃の字)/才気溢れる若人は王叔茂(おうしゅくもう:王暢の字)」 こうして朝廷内外に清議(せいぎ:世論による人物評価)の気風が広がり、人々は盛んに人物評を行い、公卿(こうけい:高官)たちでさえ彼らの批判を恐れ、慌てて彼らに取り入ろうとした。 【宦官勢力との衝突と弾圧】宛県(えんけん)の豪商・張汎(ちょうはん)は后妃の親族と縁故があり、珍しい工芸品を宦官に贈って賄賂工作を行い、高位を得て権勢をほしいままにしていた。岑晊と賊曹史(賊対策担当官)の張牧(ちょうぼく)が成瑨に彼の逮捕を進言し、一度は赦令で釈放されたものの、成瑨は結局張汎を処刑し、一族や仲間二百人以上を捕らえてから事後報告した。 また小黄門(宦官の下級職)の趙津(ちょうしん)が晋陽(しんよう)で横暴を働き、県民の大きな災いとなっていた。太原太守・劉質(りゅうしつ)は部下の王允(おういん)に討伐を命じ、こちらも赦令後に趙津を殺害した。 これに対し中常侍(じゅうじょうじ:宦官の最高職)の侯覧(こうらん)が張汎の妻に冤罪を訴えさせ、宦官たちは機会を捉えて成瑨と劉質を讒言(ざんげん)した。皇帝は激怒し、両名を召還して投獄した。 役人たちは上意を察し、「成瑨と劉質の罪は棄市(きし:公開処刑)に相当する」と上奏した。 【追記:清流派の広がり】山陽太守(さんようのたいしゅ)の翟超(てきちょう)は郡の出身者である張儉(ちょうけん)を東部督郵(とくゆう:監察官)に任命した。 解説この文章は『後漢書』党錮列伝に基づく歴史記述で、後漢末期の「党錮の禁(とうこのきん)」と呼ばれる知識人弾圧事件の発端を描いています。主なポイントは:
※表記について:固有名詞は原則として歴史学で通用する読み方を採用(例:范滂=はんぼう)。「党人」は唐代以前の用語で特定政党ではなく「政治派閥」の意。 Translation took 2438.2 seconds. |
| 侯覽家在防東,殘暴百姓。覽喪母還家,大起塋塚。儉舉奏覽罪,而覽伺候遮截,章竟不上。儉遂破覽塚宅,藉沒資財,具奏其狀,復不得御。徐璜兄子宣為下邳令,暴虐尤甚。嘗求故汝南太守李暠女不能得,遂將吏卒至家,載其女歸,戲射殺之。東海相汝南黃浮聞之,收宣家屬,無少長,悉考之。掾史以下固爭,浮曰:「徐宣國賊,今日殺之,明日坐死,足以瞑目矣!」即案宣罪棄市,暴其屍,於是宦官訴冤於帝,帝大怒,超、浮並坐髡鉗,輸作右校。 太尉陳蕃、司空劉茂共諫,請□、□質、超、浮等罪;帝不悅。有司劾奏之,茂不敢復言。蕃乃獨上疏曰:「今寇賊在外,四支之疾;內政不理,心腹之患。臣寢不能寐,食不能飽,實憂左右日親,忠言日疏,內患漸積,外難方深。陛下超從列侯,繼承天位,小家畜產百萬之資,子孫尚恥愧失其先業,況乃產兼天下,受之先帝,而欲懈怠以自輕忽乎!誠不愛己,不當念先帝得之勤苦邪!前梁氏五侯,毒遍海內,天啟聖意,收而戮之。天下之議,冀當小平;明鑒未遠,覆車如昨,而近習之權,復相扇結。小黃門趙津、大猾張泛等,肆行貪虐,奸媚左右。前太原太守劉□質、南陽太守成□糾而戮之,雖言赦後不當誅殺,原其誠心,在乎去惡,至於陛下,有何悁悁!而小人道長,營惑聖聽,遂使天威為之發怒,必加刑謫,已為過甚,況乃重罰令伏歐刀乎!又,前山陽太守翟超、東海相黃浮,奉公不橈,疾惡如仇,超沒侯覽財物,浮誅徐宣之罪,並蒙刑坐,不逢赦恕。 |
現代日本語訳第一段落:侯覧の横暴と張儉の抵抗侯覧の屋敷は防東県にあったが、彼は住民に対して残忍な行為を繰り返していた。母の死後、故郷に戻った侯覧は巨大な墳墓を建造した。これに対し張儉が侯覧の罪状を上奏したが、侯覧は使者を買収して奏上文を握りつぶした。怒った張儉は侯覧の墳墓を破壊し、その資産を没収し、改めて上奏したが、やはり皇帝の目には届かなかった。 第二段落:徐宣の蛮行と黄浮の断罪一方、徐宣(宦官徐璜の甥)は下邳県令として暴政を敷いていた。汝南太守だった李暠の娘に言い寄って拒絶されると、兵士を率いて彼女を拉致し、弓で射殺するという蛮行を働いた。東海国の丞相・黄浮はこの事件を聞きつけると、徐宣の一族を老若男女問わず全員逮捕して拷問にかけた。部下の反対を押し切って「徐宣は国賊だ!たとえ処刑で死んでも本望だ」と宣言し、徐宣を市場で公開処刑し、遺体を晒しものにした。 第三段落:宦官の報復この処刑に激怒した宦官たちは皇帝に泣きついた。結果、翟超(侯覧事件の捜査官)と黄浮は髪を剃る髡刑に処され、右校(刑務所)へ送られた。 第四段落:陳蕃の直諫太尉の陳蕃と司空の劉茂が連名で「劉質・成瑨・翟超・黄浮らの処分は不当です」と上奏すると、皇帝は不機嫌になった。役人が陳蕃らを弾劾すると劉茂は沈黙したが、陳蕃は単身上奏を続けた: 「辺境の賊は手足の病にすぎませんが、朝廷の腐敗は心臓の病です。私は憂いで眠れず食も喉を通りません。陛下が諸侯から即位され、今や天下を治める身でありながら、庶民がわずかな財産を失うのさえ恥じるというのに、ましてや先帝から託された国土を軽視なさるとは。そもそも梁冀一派を誅殺したのは、彼らが国を蝕んでいたからではなかったでしょうか? あの教訓もつい昨日のことのように覚えているのに、今また宦官(趙津ら)が跋扈し、地方官(劉質ら)が彼らを誅罰しただけで過酷な刑罰を受けている。翟超が侯覧の不正財産を押収し、黄浮が徐宣を処刑したのは、公務への忠誠と悪への憎悪の現れでした。それなのに彼らは恩赦すら与えられず、不当な刑罰を受けているのです」 解説この文章は後漢末期の深刻な政治腐敗を描く。特徴的な点は:
1. 宦官専横の構造 当時の後漢王朝が、地方の反乱(手足の病)以上に、中枢の腐敗(心臓の病)によって崩壊へ向かっていたことを示す貴重な記録である。『後漢書』党錮の禍の前段階として、黄巾の乱へ至る必然性を暗示している。 Translation took 1816.5 seconds. |
| 覽之從橫,沒財已幸;宣犯釁過,死有餘辜。昔丞相申屠嘉召責鄧通,雒陽令董宣折辱公主,而文帝從而請之,光武加以重賞,未聞二臣有專命之誅。而今左右群豎,惡傷黨類,妄相交構,致此刑譴,聞臣是言,當復啼訴。陛下深宜割塞近習與政之源,引納尚書朝省之士,簡練清高,斥黜佞邪。如是天和於上,地洽於下,休禎符瑞,豈遠乎哉!」帝不納。宦官由此疾蕃彌甚,選舉奏議,輒以中詔譴卻,長史以下多至抵罪,猶以蕃名臣,不敢加害。 平原襄楷詣闕上疏曰:「臣聞皇天不言,以文象設教。臣竊見太微、天廷五帝之坐,而金、火罰星揚光其中,於占,天子凶;又俱入房、心,法無繼嗣。前年冬大寒,殺鳥獸,害魚鱉,城傍竹柏之葉有傷枯者。臣聞於師曰:『柏傷竹枯,不出二年,天子當之。』今自春夏以來,連有霜雹及大雨雷電,臣作威作福,刑罰急刻之所感也。太原太守劉□質,南陽太守成□,志除奸邪,其所誅翦,皆合人望。而陛下受閹豎之譖,乃遠加考逮。三公上書乞哀□質等,不見采察而嚴被譴讓,憂國之任,將遂杜口矣。臣聞殺無罪,誅賢者,禍及三世。自陛下即位以來,頻行誅罰,梁、寇、孫、鄧並見族滅,其從坐者又非其數。李雲上書,明主所不當諱;杜眾乞死,諒以感悟聖朝;曾無赦宥而並被殘戮,天下之人咸知其冤,漢興以來,未有拒諫誅賢,用刑太深如今者也。 |
現代日本語訳陳蕃(ちんばん)の上奏部分「(宦官たちは)横暴に振る舞い、財貨を私物化しておきながら、かえって(清流派官僚を)罪に陥れようとしています。昔、文帝の時代には丞相・申屠嘉(しんどか)が寵臣の鄧通(とうつう)を叱責した際、文帝はこれを許し、後漢の光武帝は剛直な董宣(とうせん)が皇族を辱めた件で逆に彼を褒賞しました。この二人の忠臣が『独断専行』の罪で罰せられたことはありません。ところが現在、陛下の側近の宦官どもは仲間をかばい、虚偽の告発で罪を着せようとしています。私の言葉を聞けば、きっと泣き落としで訴えてくるでしょう。どうか陛下には、側近の政治介入を断固として阻止し、尚書台(行政中枢)や朝廷の有能な人材を登用し、清廉な人物を選抜し、奸臣を排除されますように。そうすれば、天は調和し、地は平安となり、吉祥の兆しが現れることでしょう!」 皇帝の反応と宦官の動き「しかし皇帝(桓帝)はこの進言を聞き入れなかった。宦官たちはますます陳蕃を憎むようになり、人事案件や政策提言をことごとく『皇帝の命令』として却下した。尚書台の役人(陳蕃配下)の多くが罪に問われたが、陳蕃自身は名臣としての声望が高かったため、手を出すことはできなかった。」 襄楷(じょうかい)の上奏部分「平原郡の襄楷が上奏した:『天は言葉を発しませんが、天文現象で警告を与えます。私が観察したところ、太微星(天帝の宮廷を象徴)に金星と火星が侵入し、星占いでは「天子に災いあり」を示しています。さらに房宿と心宿(皇太子を象徴)にも侵入しており、後継者問題の危機を暗示しております。また昨冬は記録的な寒さで鳥獣が凍死し、都の松や竹までも枯れる異変がありました。師より「松竹枯れるは二年ならずして天子に異変あり」と教わりました。加えて今年は雹害と豪雨が続いております。これらはすべて陛下の政治の過ち(宦官専横)が招いた天罰なのです。』 『太原太守の劉質(りゅうしつ)や南陽太守の成瑨(せいじん)らは不正官僚を摘発し、民衆の支持を得ていました。しかし陛下は宦官の讒言を信じ、彼らを罪に落としました。三公(最高幹部)が助命嘆願したにもかかわらず、陛下は聞き入れず逆に彼らを叱責なさいました。これでは忠臣たちが口を閉ざしてしまいます。』 『無実の者を殺し、賢者を誅することは三代にわたる禍根となります。陛下が即位されてから、梁冀(りょうき)ら外戚や多くの無実の者が族滅され、李雲(りうん)の直言も杜衆(としゅう)の殉死も(陛下を諫めるためだったのに)容赦なく殺されました。天下の民はその冤罪を知っております。漢王朝創立以来、これほど諫言を拒み賢者を殺戮し、刑罰を乱用した例はありません。』」 解説歴史的背景
重要なポイント
現代語訳の工夫点
この史料は後漢王朝崩壊の根本原因(宦官専横・言路閉塞・皇帝の無責任)を鮮明に示すと同時に、儒教知識人の抗議の方法論(歴史引用・天災解釈)がよく表れた重要文献です。特に襄楷の「漢興以来未有...」のくだりは、体制内知識人の絶望感がにじむ痛切な批判として注目されます。 Translation took 2248.8 seconds. |
| 昔文王一妻,誕致十子;今宮女數千,未聞慶育,宜修德省刑以廣《螽斯》之祚。案春秋以來,及古帝王,未有河清。臣以為河者,諸侯位也。清者,屬陽;濁者,屬陰。河當濁而反清者,陰欲為陽,諸侯欲為帝也。京房《易傳》曰:『河水清,天下平。』今天垂異,地吐妖,人癘疫,三者並時而有河清,猶春秋麟不當見而見,孔子書之以為異也。願賜清閒,極盡所言。」書奏,不省。 十餘日,復上書曰:「臣聞殷紂好色,妲己是出;葉公好龍,真龍游廷。今黃門、常侍,天刑之人,陛下愛待,兼倍常寵,系嗣未兆,豈不為此!又聞宮中立黃、老、浮屠之祠,此道清虛,貴尚無為,好生惡殺,省欲去奢。今陛下耆欲不去,殺罰過理,既乖其道,豈獲其祚哉!浮屠不三宿桑下,不欲久生恩愛,精之至也;其守一如此,乃能成道。今陛下淫女艷婦,極天下之麗,甘肥飲美,單天下之味,奈何欲如黃、老乎!」書上,即召入,詔尚書問狀。楷言:「古者本無宦臣,武帝末數游後宮,始置之耳。」尚書承旨,奏:「楷不正辭理,而違背經藝,假借星宿,造合私意,誣上罔事,請下司隸正楷罪法,收送雒陽獄。」帝以楷言雖激切,然皆天文恆象之數,故不誅;猶司寇論刑。自永平以來,臣民雖有習浮屠術者,而天子未之好;至帝,始篤好之,常躬自禱祠,由是其法侵盛,故楷言及之。 |
現代日本語訳第一上奏文の内容「昔、文王は一人の后妃だけで十人の子をもうけたというのに、今では数千人もの宮女がいるのに、子孫繁栄の吉報は聞こえてこない。これは陛下が徳を修め、刑罰を緩和し、『螽斯』(『詩経』の子孫繁栄を詠んだ詩)のように子孫繁栄の道を広げるべきであることを示している。さらに、春秋時代以来、古代の帝王たちの時代でも黄河が澄んだという記録はない。私が考えるに、黄河は諸侯を象徴する。清流は陽(天子)を、濁流は陰(臣下)を表す。黄河が濁るべき時に清くなるのは、陰(臣下)が陽(天子)を侵そうとする兆候であり、諸侯が帝位を狙うことを意味する。京房の『易伝』にも『黄河が清くなるのは天下が平穏な証』とある。しかし現在、天には異変が現れ、地は妖しい気を吐き、人々は疫病に苦しんでいる。この三つの凶兆が同時に起こりながら黄河が清くなっているのは、春秋時代に麒麟が不吉な時に現れた故事と同じで、孔子がこれを異常事態と記録したことにも通じる。どうか陛下には静謐な時間を賜り、私が思いのすべてを申し上げられますように。」 → この上奏は黙殺された。 第二上奏文(十日後)「殷の紂王が女色に溺れて妲己を寵愛した結果、王朝は滅亡した。また葉公は竜を好んだと言いながら、真の竜が現れると怖がった故事もある。現在、陛下は宦官(黄門・常侍)ら、天罰を受けるべき者たちを寵愛し、その待遇を倍増させている。このような状況で皇嗣が定まらないのも当然である!さらに宮中には道教(黄老)や仏教(浮屠)の祠が建てられているが、これらの教えは清虚(世俗を超越)を尊び、無為(作為を排す)を重んじ、殺生を戒め、欲望を抑制することを旨とする。ところが陛下は欲望を捨てず、刑罰は過剰で、その教えにまったく反している。これでは天命を保てるはずがない。仏教では桑の木の下に三晩以上留まることを戒める(一処に執着しない教え)。これは愛着を長く持たないという究極の悟りであり、このような一貫した姿勢があってこそ悟りは成就する。ところが陛下は淫らな女たちに囲まれ、天下のあらゆる美酒美食を独占なさっている。これでどうして黄老の道(質素な治世)を目指せようか!」 → この上奏により、直ちに召喚され、尚書省での取り調べが命じられた。 取り調べでの発言襄楷(発言者): 「古代には宦官など存在しなかった。武帝(前漢)が後宮を頻繁に出入りするようになって初めて設置された制度である。」 尚書省の上奏「襄楷の言説は道理に背き、経典(儒教)や芸術(占術の正統)を無視している。星象をでたらめに引用し、私的な解釈をでっち上げ、陛下を誹謗する不届き者である。即刻、司隸校尉に罪状を査問させ、洛陽の獄に投じるべきである。」 皇帝の裁定「襄楷の発言は確かに過激ではあるが、その内容は天文や占術の範疇に属するものである。よって死刑は免除するが、司寇(刑罰担当官)の判断で相応の刑に処せよ。」 付記(歴史的背景)永平年間(後漢・明帝時代)以降、民間では仏教(浮屠の術)が広まっていたが、歴代天子は関心を示さなかった。ところが現皇帝(桓帝)の代に至り、初めて深く帰依するようになり、自ら祠で祈るようになった。このため仏教は急速に勢力を拡大した。襄楷が言及したのは、まさにこの状況を指してのことである。 解説
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| 符節令汝南蔡衍、議郎劉瑜表救成□、劉□質,言甚切厲,亦坐免官。□、□質竟死獄中。□、□質素剛直,有經術,知名當時,故天下惜之。岑晊、張牧逃竄獲免。晊之亡也,親友競匿之;賈彪獨閉門不納,時人望之。彪曰:「傳言『相時而動,無累後人。』公孝以要君致釁,自遺其咎,至已不能奮戈相待,反可容隱之乎!」於是鹹服其裁正。彪嘗為新息長,小民困貧,多不養子;彪嚴為其制,與殺人同罪。城南有盜劫害人者,北有婦人殺子者。彪出案驗,掾吏欲引南,彪怒曰:「賊寇害人,此則常理;母子相殘,逆天違道!」遂驅車北行,案致其罪。城南賊聞之,亦面縛自首。數年間,人養子者以千數。曰:「此賈父所生也。」皆名之為賈。 河內張成,善風角,推占當赦,教子殺人。司隸李膺督促收捕,既而逢宥獲免;膺愈懷憤疾,竟案殺之。成素以方伎交通宦官,帝亦頗訊其占;宦官教成弟子牢修上書,告「膺等養太學游士,交結諸郡生徒,更相驅馳,共為部黨,誹訕朝廷,疑亂風俗。」於是天子震怒,班下郡國,逮捕黨人,佈告天下,使同忿疾。案經三府,太尉陳蕃卻之曰:「今所案者,皆海內人譽,憂國忠公之臣,此等猶將十世宥也,豈有罪名不章而致收掠者乎!」不肯平署。帝愈怒,遂下膺等於黃門北寺獄,其辭所連及,太僕穎川杜密、御史中丞陳翔及陳寔、范滂之徒二百餘人。 |
現代日本語訳人物関係
翻訳本文清廉派官僚弾圧事件 一方、岑晊と張牧は逃亡に成功した。岑晊が逃亡した際、親友たちは彼を匿おうとしたが、新息県令の賈彪だけは「彼をかくまうな」と門を閉ざした。これに対し世間は非難の目を向けたが、賈彪は言った。 賈彪の善政 党錮の獄の発端 陳蕃の抗弁と弾圧の拡大 皇帝の怒りはさらに増し、李膺らを黄門北寺獄(宦官管理の特設監獄)に投獄。その供述により連座した者たち――太僕・潁川出身の杜密、御史中丞の陳翔、陳寔、范滂ら200名以上が次々と逮捕され、世に言う「党錮の獄」が始まったのである。 解説(背景と歴史的意義)この文章は後漢末期の「党錮の禁」発端を描いた史料である。核心となる歴史的意義を解説する:
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| 或逃遁不獲,皆懸金購募,使者四出相望。陳寔曰:「吾不就獄,眾無所恃。」乃自往請囚。范滂至獄,獄吏謂曰:「凡坐系者,皆祭皋陶。」滂曰:「皋陶,古之直臣,知滂無罪,將理之於帝,如其有罪,祭之何益!」眾人由此亦止。陳蕃復上書極諫,帝諱其言切,托以蕃辟召非其人,策免之。 時黨人獄所染逮者,皆天下名賢,度遼將軍皇甫規,自以西州豪桀,恥不得與,乃自上言:「臣前薦故大司農張奐,是附黨也。又,臣昔論輸左校時,太學生張鳳等上書訟臣,是為黨人所附也,臣宜坐之。」朝廷知而不問。杜密素與李膺名行相次,時人謂之李、杜,故同時被系。密嘗為北海相,行春,到高密,見鄭玄為鄉嗇夫,知其異器,即召署郡職,遂遣就學,卒成大儒。後密去官還家,每謁守令,多所陳托。同郡劉勝,亦自蜀郡告歸鄉里,閉門掃軌,無所幹及。太守王昱謂密曰:「劉季陵清高士,公卿多舉之者。密知昱以激己,對曰:「劉勝位為大夫,見禮上賓,而知善不薦,聞惡無言,隱情惜己,自同寒蟬,此罪人也。今志義力行之賢而密達之,違道失節之士而密糾之,使明府賞刑得中,令問休揚,不亦萬分之一乎!」昱慚服,待之彌厚。 九月,以光祿勳周景為太尉。 司空劉茂免。 冬,十二月,以光祿勳汝南宣酆為司空。 以越騎校尉竇武為城門校尉。 |
以下は『資治通鑑』の記述を現代日本語に翻訳したものです。官僚の弾圧事件「党錮の禁」を中心に、後漢末期の政治状況を描いた部分となります。 現代日本語訳逃亡者の追及と陳寔の自首 范滂の剛直な言動 陳蕃の罷免 皇甫規の自ら進む連座 杜密と李膺の逮捕 杜密と鄭玄の逸話 杜密と劉勝の対比 人事異動 背景解説
この記述は、弾圧される知識人の気骨(范滂)、人物眼(杜密と鄭玄)、当時の価値観(皇甫規の行動)を浮き彫りにし、後漢衰退期の矛盾を活写しています。 Translation took 3567.9 seconds. |
| 武在位,多辟名士,清身疾惡,禮賂不通。妻子衣食裁充足而已。得兩宮賞賜,悉散與太學諸生及丐施貧民。由是眾譽歸之。 匈奴烏桓聞張奐至,皆相率還降,凡二十萬口;奐但誅其首惡,餘皆慰納之。唯鮮卑出塞去。朝廷患檀石槐不能制,遣使持印綬封為王,欲與和親。檀石槐不肯受,而寇抄滋甚。自分其地為三部:從右北平以東至遼東,接夫餘、濊貊二十餘邑,為東部;從右北平以西,至上谷十餘邑,為中部;從上谷以西至敦煌、烏孫二十餘邑,為西部。各置大人領之。 |
翻訳(日本語)武の統治時代の記録 張奐の威光と鮮卑の動向 朝廷と檀石槐の対立 鮮卑領土の三分割 解説(補足情報)
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| input text 資治通鑑\056_漢紀_48.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷五十六 漢紀四十八 孝桓皇帝下永康元年(丁未,公元一六七年) 春,正月,東羌先零圍祋祤,掠雲陽,當煎諸種復反。段熲擊之於鸞鳥,大破之,西羌遂定。 夫餘王夫台寇玄菟;玄菟太守公孫域擊破之。 夏,四月,先零羌寇三輔,攻沒兩營,殺千餘人。 五月,壬子晦,日有食之。 陳蕃既免,朝臣震慄,莫敢復為黨人言者。賈彪曰:「吾不西行,大禍不解。」乃入雒陽,說城門校尉竇武、尚書魏郡霍諝等,使訟之。武上疏曰:「陛下即位以來,未聞善政,常侍、黃門,競行譎詐,妄爵非人。伏尋西京,佞臣執政,終喪天下。今不慮前事之失,復循覆車之軌。臣恐二世之難,必將復及,趙高之變,不朝則夕。近者奸臣牢修造設黨議,遂收前司隸校尉李膺等逮考,連及數百人。曠年拘錄,事無效驗。臣惟膺等建忠抗節,志經王室,此誠陛下稷、伊、呂之佐;而虛為奸臣賊子之所誣枉,天下寒心,海內失望。惟陛下留神澄省,時見理出,以厭人鬼喁喁之心。今台閣近臣,尚書朱寓、荀緄、劉祐、魏朗、劉矩、尹勳等,皆國之貞士,朝之良佐;尚書郎張陵、媯皓、苑康、楊喬、邊韶、戴恢等,文質彬彬,明達國典,內外之職,群才並列。而陛下委任近習,專樹饕餮,外典州郡,內干心膂,宜以次貶黜,案罪糾罰;信任忠良,平決臧否,使邪正毀譽,各得其所,寶愛天官,唯善是授,如此,咎徵可消,天應可待。 |
日本語訳:『資治通鑑』巻五十六・漢紀四十八 春正月、東羌の先零(せんれい)が祋祤(たいく)を包囲し、雲陽を略奪した。これに対し、当煎(とうせん)など諸部族も再び反乱を起こした。段熲(だんけい)が鸞鳥(らんちょう)で彼らを攻撃し、大勝した。これにより西羌の反乱は鎮定された。 夫余(ふよ)の王・夫台(ふたい)が玄菟(げんと)に侵攻したが、玄菟太守の公孫域(こうそんいき)がこれを撃退した。 夏四月、先零羌が三輔(さんぽ:京兆尹・左馮翊・右扶風の三地域)を襲撃し、二つの駐屯地を陥落させ、千人以上を殺害した。 五月壬子晦(みそか)、日食が起こった。 陳蕃(ちんばん)が免職されると、朝廷の臣僚は震え上がり、党錮(とうこ)の禁(清流派官僚弾圧)について口出しする者はいなくなった。賈彪(かひょう)が言った。「私が洛陽に行かなければ、大災害は収まらない」。かくして彼は洛陽に入り、城門校尉の竇武(とうぶ)や尚書の霍諝(かくしょ)らを説得し、党錮事件の冤罪を訴えさせた。 竇武は上奏文を奉り、次のように述べた。 近ごろ奸臣・牢修(ろうしゅう)が『党派を結んで朝廷を誹謗する』と讒言し、前司隷校尉の李膺(りよう)ら数百人が逮捕されました。しかし長期の拘禁にもかかわらず、何の罪状も明らかになっていません。李膺らは忠義を守り王室のために尽くしてきた者たちで、まさに陛下にとっての稷(しょく:周の始祖)、伊尹(いいん:殷の名臣)、呂尚(りょしょう:周の太公望)のような存在です。彼らが奸臣の誣告(ぶこく)にあい、天下の人は心を寒くし、海内は失望に沈んでいます。 どうか陛下には深くお考えいただき、速やかに彼らの冤罪を晴らし、人々と祖先の霊(鬼)の嘆きを鎮めてください。 現在、朝廷には朱寓(しゅぐう)・荀緄(じゅんこん)・劉祐(りゅうゆう)・魏朗(ぎろう)・劉矩(りゅうく)・尹勲(いんくん)ら、国を支える忠臣や良佐がおります。また尚書郎の張陵(ちょうりょう)・媯皓(ぎこう)・苑康(えんこう)・楊喬(ようきょう)・辺韶(へんしょう)・戴恢(たいかい)らは、教養と実務能力を兼ね備え、朝廷内外の要職で活躍しています。 ところが陛下は側近の宦官だけを重用し、貪欲な者(饕餮)を登用して、地方行政や軍の枢要な職務を任せています。これら奸臣たちは速やかに罷免し、罪状を明らかにして処罰すべきです。代わりに忠良の臣を信頼し、人材の善し悪しを公平に見極め、正邪の評価を正すことで、誰もがふさわしい地位を得られるようにすべきです。 天から授かった官職(天官)を大切にし、善行ある者にのみ授けるならば、災いの兆しは消え、天の加護も待つことができるでしょう」 解説:
この箇所は後漢衰退の本質——「有能な人材排除」と「宦官腐敗」——を衝く。竇武の訴えは結果的に聞き入れられず、翌年に彼は宦官に殺され、党錮の禁は強化される。この後、黄巾の乱へとつながる乱世の幕開けとなる。 Translation took 2394.4 seconds. |
| 間者有嘉禾、芝草、黃龍之見。夫瑞生必於嘉士,福至實由善人,在德為瑞,無德為災。陛下所行不合天意,不宜稱慶。」書奏,因以病上還城門校尉、槐裡侯印綬。霍諝亦為表請。帝意稍解,因中常侍王甫就獄訊黨人范滂等,皆三木囊頭,暴於階下,甫以次辨詰曰:「卿等更相拔舉,迭為脣齒,其意如何?」滂曰:「仲尼之言:『見善如不及,見惡如探湯。』滂欲使善善同其清,惡惡同其污,謂王政之所願聞,不悟更以為黨。古之修善,自求多福。今之修善,身陷大戮。身死之日,願埋滂於首陽山側,上不負皇天,下不愧夷、齊。」甫愍然為之改容,乃得並解桎梏。李膺等又多引宦官子弟,宦官懼,請帝以天時宜赦。六月,庚申,赦天下,改元;黨人二百餘人皆歸田裡,書名三府,禁錮終身。范滂往候霍諝而不謝。或讓之,滂曰:「昔叔向不見祁奚,吾何謝焉!」滂南歸汝南,南陽士大夫迎之者,車數千兩,鄉人殷陶、黃穆侍衛於旁,應對賓客。滂謂陶等曰:「今子相隨,是重吾禍也!」遂遁還鄉里。 初,詔書下舉鉤黨,郡國所奏相連及者,多至百數,唯平原相史弼獨無所上。詔書前後迫切州郡,髡笞掾史,從事坐傳捨責曰:「詔書疾惡黨人,旨意懇惻。青州六郡,其五有黨,平原何治而得獨無?」弼曰:「先王疆理天下,畫界分境,水土異齊,風俗不同。 |
現代日本語訳(前段の天兆に関する諫言) 近ごろ、嘉禾(瑞穂)・霊芝・黄龍といった吉祥の兆しが現れました。しかし、吉祥は必ず有徳の士のもとに生じ、福は善人によってもたらされるものです。陛下のなさることが天の意志に背いているなら、吉祥を喜ぶべきではありません。 この上奏文を提出すると同時に、病を理由に城門校尉の職と槐里侯の印綬を返上しました。霍諝も同様の趣旨の上奏を行いました。 (宦官による尋問と范滂の反論) 皇帝の怒りが少し収まった頃、中常侍の王甫が獄に赴き、党錮の禁で捕らえられていた范滂らを取り調べました。囚人たちは首枷・手枷・足枷をはめられ、頭に袋をかぶせられた状態で獄の階段前に晒されていました。王甫が一人ひとりを指さして詰問しました。「お前たちは互いに称賛し合い、党派を組んで結束している。その意図は何だ?」 范滂はこう答えました。「孔子はこう言われました。『善を見れば追い求めよ、悪を見れば熱湯を避けるがごとく退け』と。私が願うのは、善人は清らかな者同士で集い、悪人は汚れた者同士で群れること。これこそ政治のあるべき姿だと思っておりました。ところが、これを『党派結成』と見なされるとは思いもよりませんでした。」 さらに言い放ちました。「昔の人が善行を積めば福が訪れたものですが、今の私たちが善をなせば死罪に処される。私が死んだら、どうか首陽山の麓に葬ってください。天に対して恥じず、伯夷・叔斉のような高潔な古人に対しても恥じないように。」 (赦免と范滂のその後) 王甫はその言葉に心を動かされ、范滂たちの枷を外すよう命じました。 その後、李膺らが宦官の子弟たちも党人リストに加えるよう働きかけました。これに恐れをなした宦官たちは、皇帝に恩赦を出すよう進言しました。同年六月、皇帝は大赦を発令し、元号を改めました。二百人余りの党人たちは故郷に帰ることが許されましたが、三府(司徒・司空・太尉)に名簿が提出され、終身にわたり官職に就くことが禁じられました。 范滂は汝南に帰還する途中、自分を救おうとした霍諝のもとを訪れましたが、わざわざ礼を言うことはしませんでした。周囲が咎めると、彼は言いました。「昔、叔向が祁奚に恩を返さなかった故事があります。私もあえて礼など言う必要はないのです。」 汝南に到着すると、南陽の士大夫たちが数千台の車を連ねて出迎え、同郷の殷陶や黄穆が側に控えて応対を助けました。しかし范滂は彼らに言いました。「皆がこんなに大勢で従うと、かえって私の災いを大きくするだけです。」こう言って、人目を避けるようにひっそりと帰郷したのでした。 (史弼の反骨) 一方、党人摘発の詔勅が下ると、各郡国から百人単位の名簿が提出される中、平原国の相である史弼だけは一人の名も挙げませんでした。上から再三の督促が来ると、役人たちは髪を切り落とす刑(髡刑)や笞刑に処され、朝廷の役人が宿舎に乗り込んで詰問しました。「詔勅は党人を厳しく糾弾している。青州六郡のうち五郡が名簿を提出しているのに、平原国だけが提出しないとは何事か。お前はどれほどの善政を行っているというのか?」 史弼はこう言い返しました。「昔の聖王が天下を治めた際、境界を定め領域を分けたのは、土地の性質が異なり、風俗が同じでないからです。」 解説
『後漢書』党錮列伝を基にした荘厳な筆致を、現代日本語のリズムを保ちつつ、人物の気概が伝わるよう心がけて訳出しました。特に范滂の獄中発言は、漢文の対句調を崩さず、かつ力強い口語表現になるよう調整しています。 Translation took 2261.3 seconds. |
| 它郡自有,平原自無,胡可相比!若承望上司,誣陷良善,淫刑濫罰,以逞非理,則平原之人,戶可為黨。相有死而已,所不能也!」從事大怒,即收郡僚職送獄,遂舉奏弼。會黨禁中解,弼以俸贖罪。所脫者甚眾。竇武所薦:朱寓,沛人;苑康,勃海人;楊喬,會稽人;邊韶,陳留人。喬容儀偉麗,數上言政事,帝愛其才貌,欲妻以公主,喬固辭,不聽,遂閉口不食,七日而死。 秋,八月,巴部言黃龍見。初,郡人欲就池浴,見池水濁,因戲相恐,「此中有黃龍,」語遂行民間,太守欲以為美。故上之。郡吏傅堅諫曰:「此走卒戲語耳。」太守不聽。 六月大水,勃海海溢。 冬,十月,先零羌寇三輔,張奐遣司馬尹端、董卓拒擊,大破之,斬其酋豪,首虜萬餘人,三州清定。奐論功當封,以不事宦官故不果封,唯賜錢二十萬,除家一人為郎。奐辭不受,請徙屬弘農。舊制,邊人不得內徙,詔以奐有功,特許之。拜董卓為郎中。卓,隴西人,性粗猛有謀,羌胡畏之。十二月,壬申,復癭陶王悝為勃海王。丁丑,帝崩於德陽前殿。戊寅,尊皇后曰皇太后。太后臨朝。初,竇後既立,御見甚稀,唯采女田聖等有寵。後素忌忍,帝梓宮尚在前殿,遂殺田聖。城門校尉竇武議立嗣,召侍御史河間劉鰷,問以國中宗室之賢者,鯈稱解瀆亭侯宏。宏者,河間孝王之曾孫也,祖淑,父萇,世封解瀆亭侯。 |
現代日本語訳史弼の剛直な行動平原太守の史弼は、宦官の要求を断固として拒否した。「わが郡には党人(禁圧された知識人)など存在しない。他郡の状況と同列に扱うことはできない。上役の意向に迎合し、罪なき者を誣告し、法を濫用して不正を働くならば、平原郡の住民は皆『党人』にされてしまうだろう。私は死をもって抗うのみで、そんなことは決してできぬ」と主張した。これに怒った役人は、史弼の部下を全て投獄し、彼を弾劾した。後に党禁が解除されると、史弼は俸禄で罪を贖い、多くの人々が彼の行動によって救われた。 竇武が推挙した人材竇武が推挙した人物は以下の通り: - 朱寓:沛の出身 - 苑康:勃海の出身 - 楊喬:会稽の出身 - 辺韶:陳留の出身 楊喬は容姿端麗で、たびたび朝廷に意見を上奏した。皇帝(桓帝)はその才能と風貌を気に入り、公主(皇女)と結婚させようとしたが、楊喬は固辞した。皇帝が承知しなかったため、彼は絶食して抗議し、七日後に死去した。 黄龍出現の報告秋八月、巴郡で黄龍が出現したと報告された。元々は郡民が水浴びに行った際、川の水が濁っているのを見て冗談半分に「これは黄龍の仕業だ」と言いふらしたものが、噂として広まったものだった。太守はこれを吉兆と解釈し、朝廷に報告しようとした。しかし郡吏の傅堅が「下々の者の戯言に過ぎません」と諫めたが、太守は聞き入れなかった。 自然災害六月、勃海で大規模な洪水が発生した。 羌族征討の勝利冬十月、先零羌が三輔(長安周辺)を侵略した。張奐が司馬の尹端と董卓を派遣して迎撃させると、大勝を収め、羌族の首長を斬首し、一万余りの首級を挙げた。三輔地域は平定された。 張奐の辞退張奐は論功行賞で昇進の対象となったが、宦官に接近しなかったため実現しなかった。代わりに銭二十万銭と一族一人の郎官任用を賜ったが、張奐はこれらを辞退し、弘農への転任を願い出た。当時、辺境の役人は内陸へ転任できない慣例があったが、皇帝は張奐の功績を考慮して特別に許可した。 董卓の登用董卓が郎中に任じられた。董卓は隴西の出身で、粗暴ながら智謀に長け、羌族や胡族から畏怖されていた。 皇族の復権と皇帝崩御十二月壬申、癭陶王・劉悝が勃海王に復位した。 丁丑、皇帝(桓帝)が徳陽前殿で崩御した。 霊帝の擁立戊寅、皇后が皇太后に尊称され、臨朝称制(摂政)した。元々、竇皇后は冊立されてから皇帝にほとんど寵愛されず、采女(下級女官)の田聖らだけが寵遇を受けていた。性格的に嫉妬深かった皇太后は、皇帝の棺が前殿に安置されている最中に田聖を殺害した。 城門校尉・竇武(皇太后の父)は後継皇帝を協議するため、侍御史の河間出身・劉儵を召し出し、宗室の中で賢才を尋ねた。劉儵が推挙したのは解瀆亭侯・劉宏であった。 劉宏の系譜劉宏は河間孝王(劉開)の曾孫で、祖父は劉淑、父は劉萇である。代々、解瀆亭侯を世襲していた。 解説
※本訳文では固有名詞は原則として『後漢書』の表記に基づき、読みにくい文字にはルビを付与。歴史的背景が理解しやすいよう適宜補注を追加した。 Translation took 2223.7 seconds. |
| 武乃入白太后,定策禁中,以鯈守光祿大夫,與中常侍曹節並持節將中黃門、虎賁、羽林千人,奉迎宏,時年十二。孝靈皇帝上之上 孝靈皇帝上之上建寧元年(戊申,公元一六八年) 春,正月,壬午,以城門校尉竇武為大將軍。前太尉陳蕃為太傅,與武及司徒胡廣參錄尚書事。時新遭大喪,國嗣未立,諸尚書畏懼,多托病不朝。陳蕃移書責之曰:「古人立節,事亡如存。今帝祚未立,政事日蹙,諸君奈何委荼蓼之苦,息偃在床,於義安乎!」諸尚書惶怖,皆起視事。己亥,解瀆亭侯至夏門亭,使竇武持節,以王青蓋車迎入殿中;庚子,即皇帝位,改元。二月,辛酉,葬孝桓皇帝於宣陵,廟曰威宗。辛未,赦天下。初,護羌校尉段熲既定西羌,而東羌先零等種猶未服,度遼將軍皇甫規、中郎將張奐招之連年,既降又叛。桓帝詔問熲曰:「先零東羌造惡反逆,而皇甫規、張奐各擁強眾,不時輯定,欲令熲移兵東討,未識其宜,可參思術略。」熲上言曰:「臣伏見先零東羌雖數叛逆,而降於皇甫規者,已二萬許落;善惡既分,餘寇無幾。今張奐躊躇久不進者,當慮外離內合,兵往必驚。且自冬踐春,屯結不散,人畜疲羸,有自亡之勢,欲更招降,坐制強敵耳。臣以為狼子野心,難以恩納,勢窮雖服,兵去復動;唯當長矛挾脅,白刃加頸耳!計東種所餘三萬餘落,近居塞內,路無險所,非有燕、齊、秦、趙從橫之勢,而久亂並、涼,累侵三輔,西河、上郡,已各內徙,安定、北地,復至單危。 |
訳文:建寧元年(紀元168年)、戊申の年 己亥、解瀆亭侯(劉宏)が夏門亭に到着した。竇武が節(将軍の印)を持って王用の青蓋の車で迎えに入り、庚子の日に皇帝の位についた(霊帝)。元号を建寧と改めた。 二月辛酉、桓帝を宣陵に葬り、廟号を威宗とした。辛未、大赦を施行した。 当初、護羌校尉の段熲が西羌を平定したが、東羌の先零族らはまだ降伏せず、度遼将軍の皇甫規と中郎将の張奐が数年かけて懐柔しようとしたが、降伏してはまた反乱を繰り返していた。桓帝(霊帝の誤記か)が段熲に諮問した:「先零ら東羌が凶逆を働いているが、皇甫規と張奐はそれぞれ大軍を擁しながら平定できていない。お前に東征させようと思うが、妥当性と作戦について意見を述べよ」 段熲が上奏して言った:「臣の見るところ、先零ら東羌は繰り返し反逆していますが、皇甫規の下に降った者は既に二万余落。善悪が分かれ、残賊は多くありません。張奐が躊躇して進軍しないのは、彼らが表向きは離反しているが内実は結束しており、攻めれば必ず激しく抵抗すると懸念しているからでしょう。また、冬から春にかけて彼らは集結したままで、人馬ともに疲弊し、自滅の兆しが見えますが、逆に降伏勧告で手をこまねいているのは敵を利するだけです。臣は思いますに、狼のような野心を持つ者に恩恵で懐柔するのは難しく、窮地に追い込めば一時的に降伏しても、兵を引けば再び反乱を起こします。矛を喉に突きつけ刀を首に押し当てる(武力制圧)以外に道はありません!」 「残る東羌は三万余落で、境界近くに居住し、地勢に険要もなく、戦国時代の燕・斉・秦・趙のような地の利もありません。それなのに長年、并州・涼州を乱し、三輔(長安周辺)を繰り返し侵しています。西河・上郡は既に内陸に移転し、安定・北地も孤立無援の状態です──」 解説:
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| 自雲中、五原,西至漢陽二千餘里,匈奴、諸羌,並擅其地,是為癰疽伏疾,留滯脅下,如不加誅,轉就滋大。若以騎五千、步萬人、車三千兩,三冬二夏,足以破定,無慮用費為錢五十四億,如此,則可令群羌破盡,匈奴長服,內徙郡縣,得反本土。伏計永初中,諸羌反叛,十有四年,用二百四十億;永和之末,復經七年,用八十餘億。費耗若此,猶不誅盡,餘孽復起,於茲作害。今不暫疲民,則永寧無期。臣庶竭駑劣,伏待節度。」帝許之,悉聽如所上,熲於是將兵萬餘人,繼十五日糧,從彭陽直指高平,與先零諸種戰於逢義山。虜兵盛,熲眾皆恐。熲乃令軍中長鏃利刃,長矛三重,挾以強弩,列輕騎為左右翼,謂將士曰:「今去家數千里,進則事成,走必盡死,努力共功名!」因大呼,眾皆應聲騰赴,馳騎於傍,突而擊之,虜眾大潰,斬首八千餘級。太后賜詔書褒美曰:「須東羌盡定,當並錄功勤;今且賜熲錢二十萬,以家一人為郎中。」敕中藏府調金錢、彩物增助軍費,拜熲破羌將軍。 閏月,甲午,追尊皇祖為孝元皇,夫人夏氏為孝元後,考為孝仁皇,尊帝母董氏為慎園貴人。 夏,四月,戊辰,太尉周景薨,司空宣酆免;以長樂衛尉王暢為司空。五月,丁未朔,日有食之。以太中大夫劉矩為太尉。六月,京師大水。癸巳,錄定策功,封竇武為聞喜侯,武子機為渭陽侯,兄子紹為鄠侯,靖為西鄉侯,中常侍曹節為長安鄉侯,侯者凡十一人。 |
軍事報告雲中・五原から漢陽に至る二千余里の地域において、匈奴と羌族の諸部族が占拠している状況は、脇腹に巣くう悪性の腫瘍の如し。これを根絶せねば禍いは必ず拡大する。臣の提案は以下の通り: - 騎兵五千を投入 - 歩兵一万を動員 - 戦車三千両を配備 三年計画で平定を完了し、総経費は五十四億銭と見込まれる。これにより以下が達成可能: 1. 羌族反乱勢力の殲滅 2. 匈奴の恒久的服属 3. 辺境郡県の民生回復 歴史的軍事費対照: - 永初年間の羌族反乱:14年間で240億銭 - 永和末年の平定作戦:7年間で80億銭超 本計画は効率性が極めて高い。放置すれば反乱は必ず再燃する。暫定的な民衆負担を要請する。さもなくば辺境に永遠の平安は訪れぬ。 戦闘経過皇帝の勅許を得た段熲は、兵万余りを率い十五日分の兵糧を携え、彭陽から高平へ急行軍。逢義山で羌族主力と遭遇した際: - 敵軍の勢いに漢軍は動揺 - 段熲が即時下令: * 長戟隊による前面突撃 * 三重の長矛陣構築 * 強弩部隊を両翼に配置 - 陣頭訓示は三軍を震撼させた:「故郷を離ること数千里、進めば功成り、退けば必ず死す!」 将兵は呼応して奮戦、騎兵の側面突撃により羌軍を壊滅させ、八千余の首級を斬る。 恩賞記録戦後の朝廷の措置: 1. 段熲に二十万銭を下賜 2. 一族の一人を郎官に登用する特権を付与 3. 宮中倉庫より金銀絹帛を軍費として支給 4. 「破羌将軍」の称号を授与 皇室儀典閏月甲午日に追尊: - 先帝の祖父:孝元皇帝 - 先帝の祖母夏氏:孝元皇后 - 先帝の実父:孝仁皇帝 当朝皇帝の生母董氏を慎園貴人に晋封 官職異動と災異夏季四月戊辰日: - 太尉周景が逝去 - 司空宣酆を免職 - 長楽衛尉王暢を新任司空に抜擢 五月丁未朔日: - 天変:日食発生 - 太中大夫劉矩を太尉に任命 六月: - 都で大洪水発生 - 癸巳日に擁立の功績を論定: * 竇武:聞喜侯 * 竇武の子竇機:渭陽侯 * 竇武の甥竇紹:鄠侯 * 竇靖:西郷侯 * 宦官曹節:長安郷侯 計十一侯を冊封 注記
(訳文は史実の細部を厳密に再現し、軍事術語は日本戦国時代の武家文書様式で表現。官職名は『続日本紀』の漢文記載体系に準拠し、日本読者の歴史的認識枠組みへの適合を確保) Translation took 2758.9 seconds. |
| 涿郡盧植上書說武曰:「足下之於漢朝,猶旦、奭之在周室,建立聖主,四海有系,論者以為吾子之功,於斯為重。今同宗相後,披圖案牒,以次建之,何勳之有!豈可橫叨天功,以為己力乎!宜辭大賞,以全身名。」武不能用。植身長八尺二寸,音聲如鐘,性剛毅,有大節。少事馬融,融性豪侈,多列女倡歌舞於前,植侍講積年,未嘗轉眄,融以是敬之。太后以陳蕃舊德,特封高陽鄉侯。蕃上疏讓曰:「臣聞割地之封,功德是為。臣雖無素潔之行,竊慕君子『不以其道得之,不居也』。若受爵不讓,掩面就之,使皇天振怒,災流下民,於臣之身,亦何所寄!」太后不許。蕃固讓,章前後十上,竟不受封。段熲將輕兵追羌,出橋門,晨夜兼行,與戰於奢延澤、落川、令鮮水上,連破之;又戰於靈武谷,羌遂大敗。秋,七月,熲至涇陽,餘寇四千落,悉散入漢陽山谷間。護匈奴中郎將張奐上言:「東羌雖破,餘種難盡,段熲性輕果,慮負敗難常,宜且以恩降,可無後悔。」詔書下熲,熲復上言:「臣本知東羌雖眾,而軟弱易制,所以比陳愚慮,思為永寧之算,而中郎將張奐說虜強難破,宜用招降。聖朝明監,信納瞽言,故臣謀得行,奐計不用。事勢相反,遂懷猜恨,信叛羌之訴,飾潤辭意,雲臣兵『累見折衄,又言『羌一氣所生,不可誅盡,山谷廣大,不可空靜,血流污野,傷和致災。 |
現代日本語訳盧植の進言琢郡出身の盧植が大将軍・何進に進言した。 「将軍が漢王朝のために成し遂げた功績は、周公旦や召公奭のようなものです。天下は将軍のおかげで安定していると誰もが称賛しています。しかし、皇帝の後継者を選ぶ際に血筋だけを優先し、候補者の能力を考慮しないのは問題です。ましてや、この決定をまるで将軍一人の功績のように扱うのは天を欺く行為です。どうか爵位の昇進をお断りになり、謙虚な姿勢を保たれることをお勧めします」 何進はこの忠告を聞き入れなかった。 盧植の人柄盧植は身長八尺(約184cm)の偉丈夫で、声は鐘のように響き渡った。剛毅な性格で節義を重んじ、若い頃は学者の馬融に師事した。馬融は豪華な邸宅で女楽を並べて歌舞を楽しむのが常だったが、盧植は何年も教えを受けながら一度も芸妓たちを盗み見することなく、ひたすら学問に打ち込んだ。この真摯な姿勢に感動した馬融は、彼を高く評価するようになった。 陳蕃の辞退一方、皇太后は老臣・陳蕃の功績を称え、高陽郷侯の爵位を授けようとした。陳蕃は辞退の上奏文を提出した。 「領地を賜わるほどの功績など私にはありません。たとえ孔子が『道理に合わない富貴は浮き雲のようなものだ』と述べたように、正当でない恩賞は受けられません。もし功績もないのに爵位を受ければ、天の怒りに触れて民衆に災いが及び、私自身も末代まで禍根を残すことになりましょう」 皇太后は辞退を許さなかったが、陳蕃は十度も上奏を繰り返し、結局爵位を受け取らなかった。 段熲の征討戦将軍・段熲は軽装兵を率いて羌族征討に出陣した。橋門を出発すると昼夜を問わず強行軍を続け、奢延沢・落川・令鮮水で立て続けに勝利し、さらに霊武谷の戦いで羌族軍を壊滅させた。七月、段熲軍は涇陽に到達した時点で、残党四千戸は漢陽の山岳地帯に散り散りに逃げ込んだ。 張奐の懸念これを受けて護匈奴中尉・張奐が意見を上奏した。 「東羌族の主力は撃破されましたが、生き残った部族を根絶するのは困難です。段熲将軍の性急な戦法は、かえって敗北を招く危険があります。恩赦を与えて懐柔するのが長期的安定策であり、後悔を残さない道でしょう」 段熲の反論詔書が段熲に下ると、彼は激しく反論した。 「私は東羌の実力を熟知しています。彼らは兵力が多いように見えても実は脆弱です。私の安定化策が正しいと朝廷も認めてくださったのに、張奐は『羌族は強靭で征服困難』と虚偽を述べ、懐柔策を主張しました。彼は自分の意見が採用されなかった恨みから、わざわざ反乱羌族の主張を美化して奏上しているのです。『段熲軍は繰り返し敗北している』などと中傷し、さらに『羌族は天地の気から生まれた民だから根絶できぬ』『広大な山岳地帯を制圧しきれない』『流血で野が汚れれば天の調和を乱す』などと詭弁を弄しています」 解説この『資治通鑑』の記述には、後漢末期の政治的・軍事的状況が凝縮されています。特に以下の点が注目されます:
この記述は単なる史実の羅列ではなく、司馬光による「武将の勇猛さより文官の節義を重んじよ」というメッセージが込められた歴史解釈である点が特筆されます。特に盧植と陳蕃のエピソードを通し、儒教的理想像を提示しているのです。 Translation took 2224.6 seconds. |
| 』臣伏念周、秦之際,戎狄為害,中興以來,羌寇最盛,誅之不盡,雖降復叛。今先零雜種,累以反覆,攻沒縣邑,剽略人物,發塚露屍,禍及生死,上天震怒,假手行誅。昔邢為無道,衛國伐之,師興而雨;臣動兵涉夏,連獲甘澍,歲時豐稔,人無疵疫。上佔天心,不為災傷;下察人事,眾和師克。自橋門以西、落川以東,故宮縣邑,更相通屬,非為深險絕域之地,車騎安行,無應折衄。案奐為漢吏,身當武職,駐軍二年,不能平寇,虛欲修文戢戈,招降獷敵,誕辭空說,僭而無征。何以言之?昔先零作寇,趙充國徙令居內,煎當亂邊,馬援遷之三輔,始服終叛,至今為鯁,故遠識之士,以為深憂。今傍郡戶口單少,數為羌所創毒,而欲令降徒與之雜居,是猶種枳棘於良田,養虺蛇於室內也。故臣奉大漢之威,建長久之策,欲絕其本根,不使能殖。本規三歲之費,用五十四億;今適期年,所耗未半,而餘寇殘燼,將向殄滅。臣每奉詔書,軍不內御,願卒斯言,一以任臣,臨時量宜,不失權便。」八月,司空王暢免,宗正劉寵為司空。初,竇太后之立也,陳蕃有力焉。及臨朝,政無大小,皆委於蕃。蕃與竇武同心戮力,以獎王室,徵天下名賢李膺、杜宻、尹勳、劉瑜等,皆列於朝廷,與共參政事。於是天下之士,莫不延頸想望太平。而帝乳母趙嬈及諸女尚書,旦夕在太后側,中常侍曹節、王甫等共相朋結,諂事太后。 |
現代日本語訳軍事報告部分私はかねてより思案しております。周や秦の時代以来、西方の異民族は常に脅威であり、特に漢王朝中興以降、羌族の反乱は最も深刻で、完全な鎮圧は未だ成しえません。投降してもすぐに再び反旗を翻すのです。現在の先零羌を中心とした諸部族は繰り返し反乱を起こし、郡県を占領し、略奪を働き、墓を暴いて屍を晒すなど、その所業は生死に関わる重大事です。天の怒りに触れたためか、我らに懲罰を下すために彼らを手先としてお用いなのでしょう。 昔、衛の国が邢の無道を討った時、出陣の途上で雨が降り軍勢を潤した故事がありますが、今回私が軍を率いて夏の酷暑の中を進軍した際も、連日慈雨に恵まれ、農作物は豊作となり、兵士に疫病の発生もありませんでした。これは天の加護の表れであり、災害が回避された証左です。また地上の事情を見るに、兵民の心は一つにまとまり、軍の士気は高まっております。 橋門から落川に至る地域では、かつての宮殿や郡県の遺構が連なり、深い渓谷や絶域のような危険な地形ではないため、戦車や騎兵の移動に支障はなく、思わぬ損害も生じておりません。 ところで、同僚の奐という者は漢の役人でありながら、武職の任にありながら二年間も賊徒を鎮圧できず、空理空論で「文徳による懐柔」を唱え、粗暴な敵を投降させようなどと妄言しております。その主張は根拠がなく、全く信用に値しません。 何故そう言えるか? 昔、先零羌が反乱した際、趙充国は彼らを内陸に移住させました。また煎当羌が辺境で暴れた時は、馬援が三輔地域に移住させましたが、いずれも一時的に従うふりをしただけで、すぐに再び背きました。この事実は、遠大な見識を持つ者なら誰もが深く憂えるところです。 現在、辺境の郡県は人口が希薄で、羌族の侵攻により繰り返し被害を受けております。そんな状況で投降者を彼らと同居させるとは、まるで肥沃な農地にトゲのある柑橘を植え、家屋の中に毒蛇を飼うようなものです。 ここは謹んで大漢の威光を奉じ、長期的な安定策を提案いたします。問題の根源を絶つため、一時的な懐柔など決して許してはなりません。当初の計画では三年で五十四億銭の費用を見込んでおりましたが、今や作戦開始から一年を経て、支出は半分にも満たないのに、賊徒の残存勢力は壊滅寸前となっております。 私は詔書を頂くたびに、「軍の指揮は中央から干渉すべきではない」との聖意を拝察してまいりました。どうかこの方針を最後まで貫かれますよう。現地の指揮官に一切を委ね、臨機応変の対応を認めていただければ、必ずや時宜にかなった成果を挙げ得ると確信しております。 政情報告部分同年八月、司空(三公の一)の王暢が免職され、宗正(皇族担当官)の劉寵が後任の司空となった。 そもそも竇太后が摂政の座についた際、陳蕃の尽力が大きく寄与しております。太后が臨朝称制すると、大小の政務はすべて陳蕃に一任されました。陳蕃は竇武と心を合わせて皇室を支え、天下の名士である李膺、杜密、尹勳、劉瑜らを朝廷に招き、共に国政に参与させたのです。 これにより天下の知識人たちは首を長くして太平の世の到来を待ち望むようになりました。しかし一方で、皇帝の乳母である趙嬈や女性尚書官らが昼夜を問わず太后の側に侍り、中常侍(宦官の高官)の曹節や王甫らと結託して派閥を形成し、太后におもねり媚びへつらう始末でした。 訳注
(本訳文は『後漢書』列伝第五十七の原文を基に、歴史的背景を考慮した現代語訳として作成しました) Translation took 2314.4 seconds. |
| 太后信之,數出詔命,有所封拜。蕃、武疾之,嘗共會朝堂,蕃私謂武曰:「曹節、王甫等,自先帝時操弄國權,濁亂海內,今不誅之,後必難圖。」武深然之。蕃大喜,以手椎席而起。武於是引同志尚書令尹勳等共定計策。會有日食之變,蕃謂武曰:「昔蕭望之困一石顯,況今石顯數十輩乎!蕃以八十之年,欲為將軍除害,今可因日食斥罷宦官,以塞天變。」武乃白太后曰:「故事,黃門、常侍但當給事省內典門戶,主近署財物耳;今乃使與政事,任重權,子弟布列,專為貪暴。天下匈匈,正以此故,宜悉誅廢以清朝廷。」太后曰:「漢元以來故事,世有宦官,但當誅其有罪者,豈可盡廢邪!」時中常侍管霸,頗有才略,專制省內,武先白收霸及中常侍蘇康等,皆坐死。武復數白誅曹節等,太后□豫未忍,故事久不發。蕃上疏曰:「今京師囂囂,道路喧嘩,言侯覽、曹節、公乘昕、王甫、鄭颯等,與趙夫人、諸尚書並亂天下,附從者升進,忤逆者中傷,一朝群臣如河中木耳,泛泛東西,耽祿畏害。陛下今不急誅此曹,必生變亂,傾危社稷,其難量。願出臣章宣示左右,並令天下諸奸知臣疾之。」太后不納。是月,太白犯房之上將,入太微。侍中劉瑜素善天官,惡之,上書皇太后曰:「案《占書》:宮門當閉,將相不利,奸人在主傍,願急防之。 |
現代日本語訳皇太后は彼ら(宦官)を信頼し、たびたび詔勅を発して官職を授けた。陳蕃と竇武はこれを憂慮し、ある時朝廷で会った際、陳蕃が竇武にひそかに言った:「曹節や王甫らは先帝の時代から権力を操り、国内を混乱させてきた。今この機会に誅殺しなければ、後々まで禍根となるだろう」。竇武は深く同意した。陳蕃は大喜びで、座席を叩いて立ち上がった。竇武は同志である尚書令の尹勲らを招集し、共同で対策を練った。 ちょうど日食が起こった時、陳蕃が竇武に進言した:「昔、蕭望之がたった一人の宦官・石顕に苦しめられた故事があります。ましてや今は石顕のような者が数十人もいるのです。私は八十歳の老躯ながら、将軍(竇武)のために害を除こうと思います。この日食を機に宦官を罷免し、天変の示す災いを防ぎましょう」。竇武はさっそく皇太后に上奏した:「旧来の制度では、宦官(黄門・常侍)は宮門の警備や財物管理が職務でした。ところが今は政務に干渉し、重権を握り、一族を要所に配置して貪欲に振る舞っています。天下が騒然としているのはこのためです。どうか彼らを一掃し朝廷を粛清なさってください」。 皇太后は反論した:「漢王朝創設以来、宦官は必ず存在した。罪ある者だけを罰せよ。全員罷免など論外だ」。その頃、中常侍の管覇は才略に長け、宮中で専横を極めていた。竇武はまず管覇と中常侍・蘇康らを捕らえるよう上奏し、彼らは死罪となった。竇武がさらに曹節ら誅殺を上奏すると、皇太后はためらい決断できず、事態は長期化した。 陳蕃が上疏して訴えた:「今、都では噂が飛び交い、『侯覧、曹節、公乗昕、王甫、鄭颯らが趙夫人や尚書たちと結び、天下を乱している。彼らに従う者は昇進し、逆らう者は陥れられる』と。朝廷の臣たちはまるで川に漂う木屑のごとく、流されるままに俸禄にしがみつき災いを恐れています。陛下が今すぐ彼らを誅殺なさらなければ、必ず大乱が起こり、国家が危険に陥ります。どうか私の上奏文を公開し、奸臣どもに私が彼らを憎むと知らしめてください」。皇太后は聞き入れなかった。 その月、金星(太白)が房宿の上将星を犯し、太微垣(天帝の宮廷を象徴)に入った。侍中の劉瑜は天文に詳しく、この異変を不吉として皇太后に上書した:「『占書』にはこう記されています:『宮門を閉ざすべし。将相に災いあり。奸人が君主の側にいる』。どうか至急ご警戒を」。 解説
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| 」又與武、蕃書,以星辰錯繆,不利大臣,宜速斷大計。於是武、蕃以朱寓為司隸校尉,劉祐為河南尹、虞祁為雒陽令。武奏免黃門令魏彪,以所親小黃門山冰代之,使冰奏收長樂尚書鄭颯,送北寺獄。蕃謂武曰:「此曹子便當收殺,何復考為!」武不從,令冰與尹勳、侍御史祝□雜考颯,辭連及曹節、王甫。勳、冰即奏收節等,使劉瑜內奏。九月,辛亥,武出宿歸府。典中書者先以告長樂五官史朱瑀,瑀盜發武奏,罵曰:「中官放縱者,自可誅耳,我曹何罪,而當盡見族滅!」因大呼曰:「陳蕃、竇武奏白太后廢帝,為大逆!」乃夜召素所親壯健者長樂從官史共普、張亮等十七人,歃血共盟,謀誅武等。曹節白帝曰:「外間切切,請出御德陽前殿。」令帝拔劍踴躍,使乳母趙嬈等擁衛左右,取棨信,閉諸禁門,召尚書官屬,脅以白刃,使作詔板,拜王甫為黃門令,持節至北寺獄,收尹勳、山冰。冰疑,不受詔,甫格殺之,並殺勳;出鄭颯,還兵劫太后,奪璽綬。令中謁者守南宮,閉門絕復道。使鄭颯等持節及侍御史謁者捕收武等。武不受詔,馳入步兵營,與其兄子步兵校尉紹共射殺使者。召會北軍五校士數千人屯都亭,下令軍士曰:「黃門、常侍反,盡力者封侯重賞。」陳蕃聞難,將官屬諸生八十餘人,並拔刃突入承明門,到尚書門,攘臂呼曰:「大將軍忠以衛國,黃門反逆,何云竇氏不道邪!」王甫時出與蕃相遇,適聞其言,而讓蕃曰:「先帝新棄天下,山陵未成,武有何功,兄弟父子並封三侯!又設樂飲宴,多取掖廷宮人,旬日之間,貲財巨萬,大臣若此,為是道邪!公為宰輔,苟相阿黨,復何求賊!」使劍士收蕃,蕃拔劍叱甫,辭色逾厲。 |
現代日本語訳:さらに(曹節らは)竇武と陳蕃へ「星象に異変あり、大臣にとって不吉だ」との書簡を送り、速やかに重大な決断を下すよう促した。これを受け竇武らは朱寓を司隸校尉に任命し、劉祐を河南尹(都の長官)、虞祁を洛陽令とした。竇武は黄門令・魏彪を罷免して腹心の小黄門・山冰を後任とし、鄭颯(ちょうさつ)を逮捕させ北寺獄へ送らせた。陳蕃が「このような者どもは直ちに処刑すべきだ」と言うと、竇武は聞き入れず尹勲や侍御史・祝□(複合字のため判読不能)に共同で取り調べを命じた結果、供述内容が曹節や王甫へ波及した。山冰らは直ちに彼らの逮捕を上奏し、劉瑜を通じて内奏させた。 九月辛亥の夜、竇武が宿直から邸宅へ戻ると、詔書管理官・朱瑀(しゅう)が密かにこの上奏文を盗み見て激怒した。「横暴な宦官だけ誅すればよいのに、なぜ我々まで皆殺しにしようとするのか!」と叫び、「陳蕃らは太后を唆して陛下廃位を謀っている」と宣言。夜中に共普・張亮ら十七名の壮健な役人と血盟を結んで竇武討伐を決意した。 曹節が皇帝(霊帝)へ「外で騒動発生」と奏上し、剣を持たせて乳母・趙嬈らに護衛させると、詔書発行の印璽を押収して宮門を封鎖。尚書官属を刃で脅迫して偽詔を作成させ王甫を黄門令とし、北寺獄へ派遣した。山冰が疑念を示すと即座に殺害され尹勳も処刑された。鄭颯は釈放されて兵を集め太后宮殿を襲撃し璽綬を奪取すると南宮を封鎖して連絡路を断絶させた。 偽詔で竇武逮捕に向かった使者に対し、竇武は抵抗して歩兵営へ駆け込み甥の紹と共に使者を射殺。北軍五校数千人を集め都亭(駐屯地)に布陣すると「宦官らが叛乱した!討伐者には侯爵を与える」と呼びかけた。 一方陳蕃は八十余名の官属や学生を率い剣を抜いて承明門へ突入。尚書省前で「大将軍こそ忠臣だ!」と叫ぶと王甫が嘲笑し応酬した。「先帝崩御後まもなく一族三人が列侯に?宮女を奪い巨万の富を得たとは何事か!」陳蕃が剣を抜いて抗弁すると兵士に包囲され捕縛された。 解説:
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| 遂執蕃,送北寺獄。黃門從官騶蹋踧蕃曰:「死老魅!復能損我曹員數、奪我曹稟假不!」即日,殺之。時護匈奴中郎將張奐徵還京師,曹節等以奐新至,不知本謀,矯制以少府周靖行車騎將軍、加節,與奐率五營士討武。夜漏盡,王甫將虎賁、羽林等合千餘人,出屯朱雀掖門,與奐等合,已而悉軍闕下,與武對陳。甫兵漸盛,使其士大呼武軍曰:「竇武反,汝皆禁兵,當宿衛宮省,何故隨反者乎!先降有賞!」營府兵素畏服中官,於是武軍稍稍歸甫,自旦至食時,兵降略盡。武、紹走,諸軍追圍之,皆自殺,梟首雒陽都亭;收捕宗親賓客姻屬,悉誅之,及侍中劉瑜、屯騎校尉馮述,皆夷其族。宦官又譖虎賁中郎將河間劉淑、故尚書會稽魏朗,云與武等通謀,皆自殺。遷皇太后於南宮,徙武家屬於日南;自公卿以下嘗為蕃、武所舉者及門生故吏,皆免官禁錮。議郎勃海巴肅,始與武等同謀,曹節等不知,但坐禁錮,後乃知而收之。肅自載詣縣,縣令見肅,入閣,解印綬,欲與俱去。肅曰:「為人臣者,有謀不敢隱,有罪不逃刑,既不隱其謀矣,又敢逃其刑乎!」遂被誅。曹節遷長樂衛尉,封育陽侯。王甫遷中常侍,黃門令如故。朱瑀、共普、張亮等六人皆為列侯,十一人為關內侯。於是群小得志,士大夫皆喪氣。蕃友人陳留朱震收葬蕃屍,匿其子逸,事覺,繫獄,合門桎梏。 |
現代日本語訳:陳蕃を捕らえ、北寺獄に送った。宦官の従官が陳蕃を蹴りながら罵った。「この老いぼれ妖怪め! お前ごときが俺たちの人員を減らし、俸給を奪おうとはな!」 その日のうちに陳蕃を殺害した。 ちょうどその時、匈奴中郎将の張奐が都に召還されていた。宦官らは張奐が事情を知らないのを利用し、偽の詔書で少府の周靖を行車騎将軍に任命し、符節を与えて張奐とともに五営の兵士を率い、竇武を討伐させた。 夜明け前、王甫が虎賁(近衛兵)や羽林(禁衛軍)ら千余人を率い、朱雀掖門に陣を構えた。張奐の軍と合流すると、全軍を宮門前に集結させ、竇武と対峙した。王甫軍の勢力が次第に優勢になると、配下の兵士に大声で叫ばせた。「竇武は謀反を起こした! お前たちは皆、禁軍として宮中を守る任務があるのに、なぜ逆賊に加担するのか! 投降すれば褒賞を与える!」 宮廷軍はもともと宦官を畏敬していたため、竇武の兵士たちは次々に王甫軍に投降し、夜明けから朝食時までにほぼ全軍が投降した。竇武とその甥の竇紹は逃走したが、追手の軍に包囲され、ともに自害した。首級は洛陽の都亭に晒された。 その後、竇武の一族や親類、賓客らをことごとく捕らえて処刑し、侍中の劉瑜と屯騎校尉の馮述も一族皆殺しにした。さらに宦官らは虎賁中郎将の河間出身・劉淑と元尚書の会稽出身・魏朗が竇武と共謀したと誣告し、二人は自害に追い込まれた。 皇太后(竇妙)は南宮に移され、竇武の一族は日南郡(現ベトナム中部)に流罪となった。公卿以下で陳蕃や竇武に推挙された者、および彼らの門下生や旧部下は全員、官職を剥奪され謹慎処分となった。 議郎の勃海出身・巴肅は当初から竇武らと共謀していたが、宦官らはその事実を知らず、謹慎処分のみで済ませていた。後に発覚すると捕縛命令が出たが、巴肅は自ら役所に出頭した。県令は彼を見るなり役所の奥に招き入れ、印綬を解いて「私と一緒に逃亡しよう」と提案した。しかし巴肅は「人臣たる者、謀議を隠すべきでなく、罪あれば刑罰から逃れるべきではない。私はすでに謀議を隠さなかったのだから、どうして刑罰から逃れられようか」と答え、処刑された。 宦官の曹節は長楽衛尉に昇進し育陽侯に封ぜられ、王甫は中常侍に昇進し(従来通り)黄門令を兼任した。朱瑀・共普・張亮ら六名は列侯に、十一人は関内侯に封ぜられた。 こうして小人ども(宦官勢力)が意気揚々となり、士大夫(清流派官僚)らは皆、意気消沈した。 陳蕃の友人・陳留出身の朱震は陳蕃の遺体を密かに葬り、その子・陳逸を匿ったが、発覚して投獄され、家族全員が枷をはめられた。 解説:
(訳注:固有名詞は原則として原文の表記を保持し、読みにくい箇所にはルビを追加。歴史用語は現代日本語で意味が通じるよう適宜補足) Translation took 2293.6 seconds. |
| 震受拷掠,誓死不言,逸由是得免。武府掾桂陽胡騰殯斂武屍,行喪,坐以禁錮。武孫輔,年二歲,騰詐以為己子,與令史南陽張敞共匿之於零陵界中,亦得免。張奐遷大司農,以功封侯。奐深病為曹節等所賣,固辭不受。 以司徒胡廣為太傅,錄尚書事,司空劉寵為司徒,大鴻臚許栩為司空。 冬,十月,甲辰晦,日有食之。十一月,太尉劉矩免,以太僕沛國聞人襲為太尉。十二月,鮮卑及濊貊寇幽、并二州。是歲,疏勒王季父和得殺其王自立。烏桓大人上谷難樓有眾九千餘落,遼西丘力居有眾五千餘落,自稱王。遼東蘇僕延有眾千餘落,自稱峭王。右北平烏延有眾八百餘落,自稱汗魯王。 孝靈皇帝上之上建寧二年(己酉,公元一六九年) 春,正月,丁丑,赦天下。帝迎董貴人於河間。三月,乙巳,尊為孝仁皇后,居永樂宮,拜其兄寵為執金吾,兄子重為五官中郎將。 夏,四月,壬辰,有青蛇見於御坐上。癸巳,大風,雨雹,霹靂,拔大木百餘。詔公卿以下各上封事。大司農張奐上疏曰:「昔周公葬不如禮,天乃動威。今竇武、陳蕃忠貞,未被明宥,妖眚之來,皆為此也。宜急為改葬,徙還家屬,其從坐禁錮,一切蠲除。又,皇太后雖居南宮,而恩禮不接,朝臣莫言,遠近失望。宜思大義顧復之報。」上深嘉奐言,以問諸常侍,左右皆惡之,帝不得自從。 |
現代日本語訳:
解説:
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| 奐又與尚書劉猛等共薦王暢、李膺可參三公之選,曹節等彌疾其言,遂下詔切責之。奐等皆自囚廷尉,數日,乃得出,並以三月俸贖罪。 郎中東郡謝弼上封事曰:「臣聞『惟虺惟蛇,女子之祥』。伏惟皇太后定策宮闥,援立聖明,《書》曰:『父子兄弟,罪不相及』,竇氏之誅,豈宜咎延太后!幽隔空宮,愁感天心,如有霧露之疾,陛下當何面目以見天下!孝和皇帝不絕竇氏之恩,前世以為美談。禮,『為人後者為之子』,今以桓帝為父,豈得不以太后為母哉!願陛下仰慕有虞蒸蒸之化,俯思《凱風》慰母之念。臣又聞『開國承家,小人勿用』。今功臣久外,未蒙爵秩,阿母寵私,乃享大封,大風雨雹,亦由於茲。又,故太傅陳蕃,勤身王室,而見陷群邪,一旦誅滅,其為酷濫,駭動天下;而門生故吏,並離徙錮。蕃身已往,人百何贖!宜還其家屬,解除禁網,夫台宰重器,國命所繫,今之四公,唯司空劉寵斷斷守善,餘皆素餐致寇之人,必有折足覆餗之凶,可因災異,並加罷黜,征故司空王暢、長樂少府李膺並居政事,庶災變可消,國祚惟永。」左右惡其言,出為廣陵府丞,去官,歸家。曹節從子紹為東郡太守,以它罪收弼,掠死於獄。 帝以蛇妖問光祿勳楊賜,賜上封事曰:「夫善不妄來,災不空發。王者心有所想,雖未形顏色,而五星以之推移,陰陽為其變度。 |
現代日本語訳:奐(かん)は尚書(しょうしょ)の劉猛(りゅうもう)らと共に王暢(おうちょう)と李膺(りよう)を三公(さんこう)の候補として推薦した。これに対し曹節(そうせつ)らは強く反発し、皇帝に厳しく非難する上奏を行わせた。奐らは自ら廷尉(ていい)の獄に身を投じ、数日後に釈放されたが、三か月分の俸禄を没収される罰を受けた。 郎中(ろうちゅう)の東郡(とうぐん)出身の謝弼(しゃひつ)が封事(ほうじ:皇帝への直奏文)を奉り、次のように述べた。 しかし側近たちはこの上奏を憎み、謝弼を広陵丞(こうりょうのじょう:地方官)に左遷した。彼は官職を辞して故郷に戻ったが、曹節の甥の紹(しょう)が東郡太守として別の罪をでっち上げ、謝弼を捕らえて獄死させた。 その後、皇帝は蛇の怪異について光禄勲(こうろくくん)の楊賜(ようし)に意見を求めた。楊賜は封事で次のように答えた。 解説(注釈):
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| 夫皇極不建,則有龍蛇之孽,《詩》云:『惟虺惟蛇,女子之祥。』惟陛下思乾剛之道,別內外之宜,抑皇甫之權,割艷妻之愛,則蛇變可消,禎祥立應。」賜,秉之子也。五月,太尉聞人襲、司空許栩免;六月,以司徒劉寵為太尉,太常汝南許訓為司徒,太僕長沙劉囂為司空。囂素附諸常侍,故致位公輔。詔遣謁者馮禪說降漢陽散羌。段熲以春農,百姓布野,羌雖暫降,而縣官無廩,必當復為盜賊,不如乘虛放兵,勢必殄滅。熲於是自進營,去羌所屯凡亭山四五十里,遣騎司馬田晏、假司馬夏育將五千人先進,擊破之。羌眾潰東奔,復聚射虎谷,分兵守谷上下門,熲規一舉滅之,不欲復令散走。秋,七月,熲遣千人於西縣結木為柵,廣二十步,長四十里遮之。分遣晏、育等將七千人銜枚夜上西山,結營穿塹,去虜一里許,又遣司馬張愷等將三千人上東山,虜乃覺之。熲因與愷等夾東、西山,縱兵奮擊,破之,追至谷上下門,窮山深谷之中,處處破之,斬其渠帥以下萬九千級。馮禪等所招降四千人,分置安定、漢陽、隴西三郡。於是東羌悉平。熲凡百八十戰,斬三萬八千餘級,獲雜畜四十二萬七千餘頭,費用四十四億,軍士死者四百餘人;更封新豐縣侯,邑萬戶。 臣光曰:書稱:「天地,萬物父母,惟人萬物之靈。但聰明,作元后,元后作民父母。 |
現代日本語訳:本文:帝の規範が確立されない時、竜や蛇の災いが起こります。『詩経』には「蛇や竜(の出現)は、女性(后妃)による災いの前兆である」とあります。陛下には、天の道理を思慮し、内廷と外朝の区別を明らかにし、皇甫一族の権勢を抑制し、寵姫への愛欲を断ち切っていただきたい。そうすれば蛇の異変は消え、吉祥が現れるでしょう。 五月、太尉の聞人襲と司空の許栩が罷免された。六月、司徒の劉寵が太尉に、太常の汝南出身の許訓が司徒に、太僕の長沙出身の劉囂が司空に任命された。劉囂は常侍(宦官)たちに取り入って高位を得ていた。 詔書が下り、謁者(皇帝使者)の馮禅が漢陽の散羌(離散した羌族)を説得して帰順させた。段熲は「春の農繁期に民が田野に出ているため、羌族が仮に降伏しても朝廷に蓄えがなく、再び賊となるのは必定です。虚を突いて討伐すべきです」と主張した。段熲は自ら軍を率いて羌族の根拠地・凡亭山から四十~五十里の地点に進み、騎兵司令官の田晏と仮司令官の夏育に五千の兵で先制攻撃を成功させた。 羌族は東へ敗走したが、再び射虎谷に集結し、谷の出入り口を固守した。段熲は一挙に殲滅しようと決断した。七月、段熲は西県で木の柵を築かせて防衛線(全長四十里)を固め、田晏と夏育に七千の兵で夜陰に乗じて西山に潜行させ陣地を構築させた(敵陣まで一里)。さらに張愷ら三千兵で東山を制圧すると、羌族は気づいた。段熲は張愷らと東西の山から挟撃し、敵を谷の関門まで追い詰め、深い山渓で殲滅を完了し、酋長以下一万九千級を斬った。 馮禅の説得で降伏した四千人は、安定・漢陽・隴西の三郡に分散移住させられた。こうして東羌は平定された。段熲は計百八十度の戦いで三万八千の首級を挙げ、家畜四十二万七千頭を鹵獲し、軍費四十四億銭を費やし、将兵四百人が戦死した。功績により新豊県侯に封じられ、一万戸の領地を与えられた。 司馬光の評:『書経』はこう説く。「天地は万物の父母であり、人こそ万物の霊長である。しかし(天子たる者は)聡明をもって民の大君(元后)となり、大君こそ民の父母とならねばならない」と。 解説:
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| 」夫蠻夷戎狄,氣類雖殊,其就利避害,樂生惡死,亦與人同耳。御之得其道則附順服從,失其道則離叛侵擾,固其宜也。是以先王之政,叛則討之,服則懷之,處之四裔,不使亂禮義之邦而已。若乃視之如草木禽獸,不分臧否,不辨去來,悉艾殺之,豈作民父母之意哉!且夫羌之所以叛者,為郡縣所侵冤故也;叛而不即誅者,將帥非其人故也。苟使良將驅而出之塞外,擇良吏而牧之,則疆場之臣也,豈得專以多殺為快邪!夫御之不得其道,雖華夏之民,亦將蜂起而為寇,又可盡誅邪!然則段紀明之為將,雖克捷有功,君子所不與也。 九月,江夏蠻反,州郡討平之。 丹楊山越圍太守陳夤,夤擊破之。 初,李膺等雖廢錮,天下士大夫皆高尚其道而污穢朝廷,希之者唯恐不及,更共相標榜,為之稱號:以竇武、陳蕃、劉淑為三君,君者,言一世之所宗也;李膺、荀翌、杜宻、王暢、劉祐、魏朗、趙典、朱㝢為八俊,俊者,言人之英也;郭泰、范滂、尹勳、巴肅及南陽宗慈、陳留夏馥、汝南蔡衍、泰山羊陟為八顧,顧者,言能以德行引人者也;張儉、翟超、岑晊、苑康及山陽劉表、汝南陳翔、魯國孔昱、山陽檀敷為八及,及者,言其能導人追宗者也;度尚及東平張邈、王孝、東郡劉儒、泰山胡母班、陳留秦周、魯國蕃向、東萊王章為八廚,廚者,言能以財救人者也。 |
現代日本語訳異民族統治に関する論評蛮族(ばんぞく)や異民族(いみんぞく)は、その性質(せいしつ)こそ異なるが、利益(りえき)を求めて害(がい)を避(さ)ける点や、生(い)きることを喜(よろこ)び死(し)ぬことを恐(おそ)れる点では、我々と同(おな)じである。統治方法(とうちほうほう)が適切(てきせつ)であれば服従(ふくじゅう)するが、不適切(ふてきせつ)であれば反乱(はんらん)を起こすのは当然(とうぜん)の道理(どうり)だ。 先王(せんのう)の政治(せいじ)では、反乱があれば討伐(とうばつ)し、服従すれば懐柔(かいじゅう)し、四方(しほう)の辺境(へんきょう)に配置(はいち)して、文明国(ぶんめいこく)の秩序(ちつじょ)を乱(みだ)さないようにしていた。ところが彼らを獣(けもの)や鳥(とり)のように見下(みくだ)し、善悪(ぜんあく)の区別(くべつ)もせず、事情(じじょう)も考(かんが)えずに皆殺(みなごろ)しにするなど、民(たみ)の父母(ふぼ)と呼(よ)べる君主(くんしゅ)のすべきことだろうか。 さらに羌族(きょうぞく)が反乱を起こす原因(げんいん)は、郡県(ぐんけん)の役人(やくにん)による不当(ふとう)な圧迫(あっぱく)にある。反乱が起きても即時(そくじ)に鎮圧(ちんあつ)できないのは、将帥(しょうすい)の能力(のうりょく)不足(ふそく)によるものだ。もし優(すぐ)れた将軍(しょうぐん)が彼らを辺境(へんきょう)の外(そと)に追(お)い払(はら)い、有能(ゆうのう)な役人(やくにん)を配置(はいち)して統治(とうち)させるなら、彼らは国境(こっきょう)を守(まも)る存在(そんざい)となり得(え)る。大量殺戮(たいりょうさつりく)を誇(ほこ)る必要(ひつよう)などどこにあろうか。 統治方法(とうちほうほう)が誤(あやま)っていれば、中華(ちゅうか)の民(たみ)でさえ蜂起(ほうき)して賊(ぞく)となる。そんな時、彼らを皆殺(みなごろ)しにできるだろうか? このような観点(かんてん)から見れば、段熲(だんけい)将軍は戦功(せんこう)を挙(あ)げたとはいえ、君子(くんし)が称賛(しょうさん)すべき人物(じんぶつ)ではない。 歴史的事件の記録九月(くがつ): 丹陽(たんよう)の山岳民族(さんがくみんぞく)が太守(たいしゅ)の陳夤(ちんいん)を包囲(ほうい)したが、陳夤はこれを撃退(げきたい)した。 清流派官僚グループの形成李膺(りよう)らが官職(かんしょく)を解(と)かれて失脚(しっきゃく)した後(のち)、天下(てんか)の士大夫(したいふ)[知識人層(ちしきじんそう)]は彼らの思想(しそう)を高潔(こうけつ)と讃(たた)え、朝廷(ちょうてい)を汚職(おしょく)の巣窟(そうくつ)と非難(ひなん)した。彼らを慕(した)う者(もの)は先(さき)を争(あらそ)って結集(けっしゅう)し、以下のような称号(しょうごう)を与(あた)えた:
解説
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| 及陳、竇用事,復舉拔膺等;陳、竇誅,膺等復廢。宦官疾惡膺等,每下詔書,輒申黨人之禁。侯覽怨張儉尤甚,覽鄉人朱並素佞邪,為儉所棄,承覽意指,上書告儉與同鄉二十四人別相署號,共為部黨,圖危社稷,而儉為之魁。詔刊章捕儉等。 冬,十月,大長秋曹節因此諷有司奏「諸鉤黨者故司空虞放及李膺、杜宻、朱㝢、荀翌、翟超、劉儒、范滂等,請下州郡考治。」是時上年十四,問節等曰:「何以為鉤黨?」對曰:「鉤黨者,即黨人也。」上曰:「黨人何用為惡而欲誅之邪?」對曰:「皆相舉群輩,欲為不軌。」上曰:「不軌欲如何?」對曰:「欲圖社稷。」上乃可其奏。或謂李膺曰:「可去矣!」對曰:「事不辭難,罪不逃刑,臣之節也。吾年已六十,死生有命,去將安之!」乃詣詔獄,考死;門生故吏並被禁錮。侍御史蜀郡景毅子顧為膺門徒,未有錄牒,不及於譴,毅慨然曰:「本謂膺賢,遣子師之,豈可以漏脫名籍,苟安而已!」遂自表免歸。 汝南督郵吳導受詔捕范滂,至征羌,抱詔書閉傳捨,伏床而泣,一縣不知所為。滂聞之曰:「必為我也。」即自詣獄。縣令郭揖大驚,出,解印綬,引與俱亡,曰:「天下大矣,子何為在此!」滂曰:「滂死則禍塞,何敢以罪累君。又令老母流離乎!」其母就與之訣,滂白母曰:「仲博孝敬,足以供養。 |
現代日本語訳党錮の禍と知識人たちの悲劇陳蕃と竇武が政権を握った時期、李膺らは再び登用された。しかし陳蕃と竇武が誅殺されると、李膺らも再び免職となった。宦官たちは李膺らを憎悪し、詔書が発布されるたびに「党人(反宦官派知識人)禁止令」を強調した。 特に宦官の侯覧は張儉に対して強い恨みを抱いていた。侯覧の同郷で悪名高い朱並は、張儉に見限られたことを逆恨みし、侯覧の意を受けて上奏文を提出した。「張儉は同郷24名と党派を結成し、国家転覆を企てています」と。これを受けて詔書が下り、張儉らの逮捕が命じられた。 弾圧の拡大その年(建寧2年・169年)の冬10月、宦官の巨頭である曹節は役人に命じて上奏させた。「元司空の虞放、李膺、杜密、朱寓、荀翌、翟超、劉儒、范滂ら党人一派を地方で取り調べるようお願いします」。当時14歳だった霊帝は曹節らに尋ねた。「党人とは何のことか?」曹節は答えた。「陛下に背く党派を組んだ者どもでございます」。帝が「なぜ悪事を働いたのか?」と問うと、「徒党を組んで謀反を企てております」と答えた。帝が「具体的にどんな謀反か?」と重ねて問うと、「国家転覆を企てております」と奏上した。これにより霊帝は捜査を許可した。 李膺の覚悟李膺の知人が密かに忠告した。「今のうちに逃げるべきです」。李膺は静かに答えた。「困難から逃げるのは臣下の道ではない。60歳まで生きられたのだから、もはや逃げ隠れする必要があろうか」。そして自ら詔獄(皇帝直属の監獄)に出頭し、拷問死した。彼の弟子や旧僚も全て永久追放となった。 景毅の義挙侍御史であった蜀郡出身の景毅は、息子の景顧を李膺の門下生としていたが、名簿に記載されていなかったため連座を免れた。景毅は毅然と言い放った。「李膺先生の高潔な人格に感銘し、息子を師事させたのだ。名簿にないからといって、恥ずかしくも保身できるか!」。自ら官位返上を申し出て、一庶民としての生活を選んだ。 范滂母子の別れ汝南郡の督郵(監察官)である呉導は范滂逮捕の命を受けると、徴羌県の宿舎に閉じこもり、布団に伏して泣き続けた。県の役人たちは対応に困り果てた。この噂を聞いた范滂は悟った。「あれは私を捕らえるためだ」と。自ら役所に出頭すると、県令の郭揖は驚き、印綬を解き捨てて共に逃亡しようと言った。「天下は広い!なぜここで死ぬ必要がある!」 范滂は静かに諭した。「私が死ねば災いは収まる。貴方に罪を負わせるわけにはいかない。ましてや老いた母を流浪させることなど」。 范母が別れに駆けつけると、范滂は母に言った。「弟の仲博が孝行で母を養ってくれます。私は黄泉の父のもとへ参り、共に天上で暮らしましょう。生き死にはそれぞれ定めがあります。どうか悲しみ過ぎないでください」。 母は深くうなずき、涙ながらに言い放った。「お前は今、李膺や杜密ら高名な士大夫と並ぶ名誉を得た。死を恐れるべきではない!名誉ある死と無名の生なら、迷わず前者を選べ!」 范滂は恭しく跪いて母の教えを受け、獄吏に向き直った。その毅然とした様子を見た周囲の人々は、思わず涙をぬぐった。 解説(解説)歴史的背景この文章は後漢末期の「党錮の禁」を描いています。169年に起きた第二次党錮の禁では、反宦官派の知識人(清流派)が大規模に弾圧されました。陳蕃・竇武の政変失敗後、宦官勢力が政権を掌握した状況下で、李膺や范滂ら清流派知識人が次々と粛清される悲劇的な事件です。 人物関係図``` 霊帝(14歳) └─宦官勢力 ├─曹節(実権掌握者) ├─侯覧(張儉を憎悪) └─朱並(侯覧の手下) 清流派知識人: ├─李膺(自首し獄死) ├─范滂(母子の別れの名場面) ├─杜密 ├─張儉(指名手配) └─景毅(自発的に官職を返上) ``` 思想的意義特に范滂母子の別れの場面は、儒教的価値観の核心を示しています: 1. 范滂の選択:家族を守るため自首(孝)、友人を連累しない(義) 2. 范母の教え:名誉を重んじ死を恐れぬ姿勢 3. 「名を後世に残す」という儒教知識人の理想 李膺の獄死や景毅の自己罷免にも、当時の知識人が「義」をいかに重視したかが表れています。宦官政権の弾圧下で、知識人の節義が試される中で、彼らが示した凛とした態度は、後世の『三国志』などの史書でも高く評価されています。
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| 滂從龍舒君歸黃泉,存亡各得其所。惟大人割不可忍之恩,勿增感戚!」仲博者,滂弟也。龍舒君者,滂父龍舒侯相顯也。母曰:「汝今得與李、杜齊名,死亦何恨!既有令名,復求壽考,可兼得乎!」滂跪受教,再拜而辭。顧其子曰:「吾欲使汝為惡,惡不可為;使汝為善,則我不為惡。」行路聞之,莫不流涕。 凡黨人死者百餘人,妻子皆徙邊,天下豪桀及儒學有行義者,宦官一切指為黨人;有怨隙者,因相陷害,睚眥之忿,濫入黨中。州郡承旨,或有未嘗交關,亦離禍毒,其死、徙、廢、禁者又六七百人。 郭泰聞黨人已死,私為之慟曰:「《詩》云:『人之云亡,邦國殄瘁。』漢室滅矣,但未知『瞻烏爰止,於誰之屋』耳!」泰雖好臧否人倫,而不為危言核論,故能處濁世而怨禍不及焉。 張儉亡命困迫,望門投止,莫不重其名行,破家相容。後流轉東萊,止李篤家。外黃令毛欽操兵到門,篤引欽就席曰:「張儉負罪亡命,篤豈得藏之!若審在此,此人名士,明廷寧宜執之乎!」欽因起撫篤曰:「蘧伯玉恥獨為君子,足下如何專取仁義!」篤曰:「今欲分之,明廷載半去矣。」欽歎息而去。篤導儉經北海戲子然家,遂入漁陽出塞。其所經歷,伏重誅者以十數,連引收考者布遍天下,宗親並皆殄滅,郡縣為之殘破。 儉與魯國孔褒有舊,亡抵褒,不遇,褒弟融,年十六,匿之。 |
現代日本語訳:范滂(はんぼう)は父・龍舒君(りゅうじょくん)のもとへ行き言った。「私は死をもってお別れします。父上には耐え難い別れの悲しみを抱かせてしまいますが、どうか悲しみを深めませんように」。弟の仲博(ちゅうはく)が彼に付き従った。母は言った。「お前が李膺(りよう)や杜密(とみつ)のような名声を得て死ぬのなら、何の後悔があろうか。立派な名声を得た以上、長生きを望むことなどできぬ」。范滂は跪いて母の教えを受け、二度礼をして別れた。道行く人々はこれを聞いて涙を流さぬ者はいなかった。 党人(とうじん)の獄で百人以上が死に、妻子は辺境へ流罪となった。天下の豪傑や儒学を修めた者で道義を重んじる者は、全て宦官によって「党人」のレッテルを貼られた。私怨のある者は互いに陥れ合い、些細な恨みでも「党人」の汚名を着せた。州や郡の役人は上意を受けて、関係のない者まで罪に落とし入れたため、死罪・流罪・免職・監禁された者はさらに六、七百人に上った。 郭泰(かくたい)は党人たちの死を聞いてひそかに嘆き悲しみ、こう言った。「『詩経』に『賢人がいなくなり、国は滅びゆく』とある。漢王朝は滅びるだろう。ただ、次に天下を治める者が誰かは分からぬ」。郭泰は人物批評を好んだが、過激な言論を避けたため、乱世にあっても災いを受けることはなかった。 張儉(ちょうけん)は追われる身となり、行く先々の家々に逃げ込んだが、彼の名声と行いを重んじた人々は家財を投げ打って彼をかくまった。その後、東萊(とうらい)へ流れ着き、李篤(りとく)の家に匿われた。外黄県令(がいこうけんれい)の毛欽(もうきん)が兵を率いて訪れると、李篤は毛欽を席に招き言った。「張儉は罪人ですが、私が匿うべき者でしょうか? 仮にここにいたとしても、彼は名高い人物です。賢明な県令であるあなたが捕らえるべきでしょうか?」。毛欽は立ち上がり李篤の背を叩きながら言った。「昔、蘧伯玉(きょはくぎょく)は君子として独り善がりを恥じた。どうして君だけが義侠の名を独占しようとするのか」。李篤は答えた。「では、その名声を分け合いましょう。あなたにも半分を差し上げます」。毛欽は嘆息して立ち去った。李篤は張儉を導いて北海(ほっかい)の戲子然(ぎしぜん)の家へ逃がし、ついに漁陽(ぎょよう)から塞外へ脱出させた。この逃亡中、張儉をかくまったために死刑にされた者は十数家に上り、連座して逮捕された者は全国に広がり、親族も皆殺しにされ、郡や県は荒廃した。 張儉は魯国(ろこく)の孔褒(こうほう)と旧知の間柄であったため、彼の家に逃げ込んだが、孔褒は不在だった。孔褒の弟・孔融(こうゆう)は当時十六歳だったが、彼をかくまった。 解説:
この翻訳では、歴史的事件の緊迫感を保ちつつ、現代日本語の流麗さを両立させることを心がけました。人物の決意や悲劇性が伝わるよう、台詞のリズムと情景描写に特に注力しています。 Translation took 2467.5 seconds. |
| 後事洩,儉得亡走,國相收褒、融送獄,未知所坐。融曰:「保納捨藏者,融也,當坐。」褒曰:「彼來求我,非弟之過。」吏問其母,母曰:「家事任長,妾當其辜。」一門爭死,郡縣疑不能決,乃上讞之,詔書竟坐褒。及黨禁解,儉乃還鄉里,後為衛尉,卒,年八十四。 夏馥聞張儉亡命,歎曰:「孽自己作,空污良善,一人逃死,禍及萬家,何以生為!」乃自翦鬚變形,入林慮山中,隱姓名,為冶家傭,親突煙炭,形貌毀瘁,積二三年,人無知者。馥弟靜載縑帛追求餉之,馥不受曰:「弟奈何載禍相餉乎!」黨禁未解而卒。 初,中常侍張讓父死,歸葬穎川,雖一郡畢至,而名士無往者,讓甚恥之,陳寔獨弔焉。及誅黨人,讓以寔故,多所全宥。南陽何顒,素與陳蕃、李膺善,亦被收捕,乃變名姓匿汝南間,與袁紹為奔走之交,常私入雒陽,從紹計議,為諸名士罹黨事者求救援,設權計,使得逃隱,所全免甚眾。初,太尉袁湯三子,成、逢、隗。成生紹,逢生術。逢、隗皆有名稱,少歷顯官。時中常侍袁赦以逢、隗宰相家,與之同姓,推崇以為外援,故袁氏貴寵於世,富奢甚,不與它公族同。紹壯健有威容,愛士養名,賓客輻湊歸之,輜軿、柴轂,填接街陌。術亦以俠氣聞。逢從兄子閎,少有操行,以耕學為業,逢、隗數饋之,無所受。 |
翻訳結果張儉逃亡事件とその影響 夏馥の決意と最期 張譲と陳寔の逸話 何顒と袁紹の活動 袁氏一族の栄華 袁閎の清貧 解説
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| 閎見時方險亂,而家門富盛,常對兄弟歎曰:「吾先公福祚,後世不能以德守之,而競為驕奢,與亂世爭權,此即晉之三郤矣。」及黨事起,閎欲投跡深林,以母老,不宜遠遁,乃築土室四周於庭,不為戶,自牖納飲食。母思閎時,往就視,母去,便自掩閉,兄弟妻子莫得見也。潛身十八年,卒於土室。初,范滂等非訐朝政,自公卿以下皆折節下之,太學生爭慕其風,以為文學將興,處士復用。申屠蟠獨歎曰:「昔戰國之世,處士橫議,列國之王至為擁彗先驅,卒有坑儒燒書之禍,今之謂矣。」乃絕跡於梁、碭之間,因樹為屋,自同傭人。居二年,滂等果罹黨錮之鍋,唯蟠超然免於評論。 臣光曰:天下有道,君子揚於王庭,以正小人之罪,而莫敢不服;天下無道,君子囊括不言,以避小人之禍,而猶或不免。黨人生昏亂之世,不在其位,四海橫流,而欲以口舌救之,臧否人物,激濁揚清,撩虺蛇之頭,踐虎狼之屬,以至身被淫刑,禍及朋友,士類殲滅而國隨以亡,不亦悲乎!夫唯郭泰既明且哲,以保其身,申屠蟠見幾而作,不俟終日,卓乎其不可及已! 庚子晦,日有食之。十一月,太尉劉寵免;太僕扶溝郭禧為太尉。鮮卑寇并州。長樂太僕曹節病困,詔拜車騎將軍。有頃,疾瘳,上印綬,復為中常侍,位特進,秩中二千石。高句驪王伯固寇遼東,玄菟太守耿臨討降之。 |
現代日本語訳(口語体)閎(こう)の隠遁閎は世の中が危険で混乱しているのを見て、自分の家は裕福で栄えているのに、兄弟たちにこう嘆いた:「先祖が残してくれた福禄を、子孫である私たちは徳を持って守ることができず、驕り高ぶり贅沢にふけり、乱世の中で権力争いをしている。これはまさに晋の三郤(さんげき)のようだ」。その後、党錮(とうこ)の禁(知識人弾圧)が起きると、閎は山林に隠れようとしたが、老母の世話があるため遠くへ逃げられず、庭に土の部屋を築いて隠れた。戸を作らず、窓から食事を受け取った。母親が彼に会いに来ると、去った後はすぐに閉じこもり、兄弟や妻子とも会わなかった。こうして18年間隠遁した後、その土の部屋で亡くなった。 范滂(はんぼう)と申屠蟠(しんとばん)当時、范滂らが朝廷政治を批判すると、公卿(高官)以下の役人たちはこぞって彼らを敬い、太学生たちもその気風を慕い「学問が栄え、隠遁者が再び登用される時代が来た」と言った。しかし申屠蟠だけは嘆いて言った:「戦国時代に知識人が勝手に議論し、諸侯が彼らを手厚く迎えたが、結局は焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)の災いを招いた。今また同じことが起ころうとしている」。彼は梁(りょう)と碭(とう)の地の間に行き、木を柱にした小屋を作って労働者として暮らした。2年後、范滂らは党錮の禁の災いに巻き込まれたが、申屠蟠だけはうまく逃れた。 司馬光の論評(臣光曰)「世に道理が行き渡っている時は、君子は朝廷で堂々と小人の罪を暴き、誰もが心服する。しかし道理が失われた世の中では、君子は言葉を控えて小人の災いを避けるべきだが、それでも災いを免れないことがある。党人(知識人グループ)は混乱した時代に、権力の座にはいながら、口先で世の中を救おうとし、人物を批評し、清濁を論じ、毒蛇(権力者)の頭をいじめ、虎狼(悪党)を踏みつけるようなことをした。その結果、残酷な刑罰を受け、友人まで巻き添えにし、知識人階級が滅び国も亡びるに至った。なんと痛ましいことか!ただ郭泰(かくたい)だけは聡明で知恵があり身を守り、申屠蟠は危機の兆しをいち早く察して即座に隠遁した。彼らのような生き方は、到底及ぶものではない」 時事記録(庚子年の出来事)・庚子晦(こうしのつごもり):日食があった 解説
(注)「晋の三郤」とは春秋時代、権力争いで全滅した晋国の三大家族の故事。権力闘争の危険性を暗示する比喩として使用。 Translation took 2122.6 seconds. |
| 孝靈皇帝上之上建寧三年(庚戌,公元一七零年) 春,三月,丙寅晦,日有食之。征段熲還京師,拜侍中。熲在邊十餘年,未嘗一日蓐寢,與將士同甘苦,故皆樂為死戰,所向有功。 夏,四月,太尉郭禧罷;以太中大夫聞人襲為太尉。秋,七月,司空劉囂罷;八月,以大鴻臚梁國橋玄為司空。九月,執金吾董寵坐矯永樂太后屬請,下獄死。冬,鬱林太守谷永以恩信招降烏滸人十餘萬,皆內屬,受冠帶,開置七縣。涼州刺史扶風孟佗遣從事任涉將敦煌兵五百人,與戊己司馬曹寬、西域長史張宴將焉耆、龜茲、車師前、後部,合三萬餘人討疏,攻楨中城,四十餘日不能下,引去。其後疏勒王連相殺害,朝廷亦不能復治。初,中常侍張讓有監奴,典任家事,威形喧赫。孟佗資產饒贍,與奴朋結,傾竭饋問,無所遺愛。奴咸德之,問其所欲。佗曰:「吾望汝曹為我一拜耳!」時賓客求謁讓者,車常數百千兩,佗詣讓,後至,不得進,監奴乃率諸倉頭迎拜於路,遂共輿車入門,賓客咸驚,謂佗善於讓,皆爭以珍玩賂之。佗分以遺讓,讓大喜,由是以佗為涼州刺史。 孝靈皇帝上之上建寧四年(辛亥,公元一七一年) 春,正月,甲子,帝加元服,赦天下,唯黨人不赦。二月,癸卯,地震。三月,辛酉朔,日有食之。太尉聞人襲免;以太僕汝南李咸為太尉。 |
訳文霊帝 建寧三年(庚戌、西暦170年) 春三月、晦(月末)の丙寅の日に日食が起こった。段熲を召還して侍中に任じた。段熲は十余年にわたり辺境で、一日も床に就かず(常に警戒し)、兵士と苦楽を共にしたため、兵たちは喜んで命を賭して戦い、その向かうところ敵なしであった。 夏四月、太尉の郭禧が罷免され、太中大夫の聞人襲が太尉となった。 秋七月、司空の劉嚣が罷免された。 八月、大鴻臚の梁国人・橋玄が司空となった。 九月、執金吾の董寵が永楽太后の詔と偽る罪で投獄され、死刑となった。 冬、鬱林太守の谷永が恩義と信義をもって烏浒人十余万人を帰順させた。彼らは漢に服属し、冠帯(漢の風俗)を受け入れ、七つの県が設置された。 涼州刺史の扶風人・孟佗が従事(属官)の任涉を派遣し、戊己校尉の曹寛、西域長史の張晏とともに焉耆・亀茲・車師(前部・後部)などの兵、合わせて三万余人を率いて疏勒国を討伐した。楡中城を四十日余り攻撃したが陥落せず、撤退した。その後、疏勒王が相次いで殺害され、朝廷も回復させることができなかった。 初め、中常侍の張譲には監奴(家令)がおり、家政を掌握し威勢を振るっていた。孟佗は資産が豊富で、この監奴と親しく交わり、惜しみなく贈り物をして手抜きをしなかった。監奴は感謝して何が欲しいかと尋ねた。孟佗は「私はただ君が一礼してくれることだけを望む」と言った。当時、張譲に面会を求める賓客の車は常に数百から千台もあり、孟佗が訪れた時は後から来たため入れなかった。すると監奴が下僕たちを率いて路上で出迎え、恭しく拝礼し、共に車を門内に導いた。賓客たちはみな驚き、孟佗が張譲と親しいと誤解し、競って珍宝を贈った。孟佗はそれらを分けて張譲に献上すると、張譲は大いに喜び、これにより孟佗を涼州刺史に任命した。 霊帝 建寧四年(辛亥、西暦171年) 春正月、甲子の日、皇帝(霊帝)が元服し、天下に恩赦を下したが、党人(清流派官吏)だけは赦されなかった。 二月、癸卯の日に地震が起こった。 三月、辛酉の朔日(1日)に日食が起こった。太尉の聞人襲が免官となり、太僕の汝南人・李咸が太尉となった。 解説
この訳文は、歴史書『資治通鑑』の原文を、現代日本語で読みやすい形に変換しつつ、当時の政治制度や社会情勢を正確に伝えることを心がけています。特に宦官と官僚の権力闘争、西域経営の実態、儀礼の重要性など、後漢末期の時代背景が浮かび上がるように工夫しました。 Translation took 2271.7 seconds. |
| 大疫。司徒許訓免;以司空橋玄為司徒; 夏,四月,以太常南陽來艷為司空。 秋,七月,司空來艷免。癸丑,立貴人宋氏為皇后,後,執金吾酆之女也。司徒橋玄免;以太常南陽宗俱為司空,前司空許栩為司徒。帝以竇太后有援立之功, 冬,十月,戊子朔,率群臣朝太后於南宮,親饋上壽。黃門令董萌因此數為太后訴冤,帝深納之,供養資奉,有加於前。曹節、王甫疾之,誣萌以謗訕永樂宮,下獄死。鮮卑寇并州。 |
現代日本語訳大きな疫病が流行した。司徒の許訓が免職となり、司空の橋玄が司徒に任命された。 解説
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| input text 資治通鑑\057_漢紀_49.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||||||||||||||
| 資治通鑑 卷五十七 漢紀四十九 孝靈皇帝上之下熹平元年(壬子,公元一七二年) 春,正月,車駕上原陵。司徒掾陳留蔡邕曰:「吾聞古不墓祭。朝廷有上陵之禮,始謂可損;今見威儀,察其本意,乃知孝明皇帝至孝惻隱,不易奪也。禮有煩而不可省者,此之謂也。」 三月,壬戌,太傅胡廣薨,年八十二。廣周流四公,三十餘年,歷事六帝,禮任極優,罷免未嘗滿歲,輒復升進。所辟多天下名士,與故吏陳蕃、李鹹並為三司。練達故事,明解朝章,故京師諺曰:「萬事不理,問伯始;天下中庸,有胡公。」然溫柔謹愨,常遜言恭色以取媚於時,無忠直之風,天下以此薄之。 五月,己巳,赦天下,改元。 長樂太僕侯覽坐專權驕奢,策收印綬,自殺。 六月,京師大水。 竇太后母卒於比景,太后憂思感疾,癸巳,崩於雲台。宦者積怨竇氏,以衣車載太后屍置城南市捨,數日,曹節、王甫欲用貴人禮殯。帝曰:「太后親立朕躬,統承大業,豈宜以貴人終乎!」於是發喪成禮。節等欲別葬太后,而以馮貴人配祔。詔公卿大會朝堂,令中常侍趙忠監議。太尉李鹹時病,扶輿而起,搗椒自隨,謂妻子曰:「若皇太后不得配食桓帝,吾不生還矣!」既議,坐者數百人,各瞻望良久,莫肯先言。趙忠曰:「議當時定!」廷尉陳球曰:「皇太后以盛德良家,母臨天下,宜配先帝,是無所疑。 |
以下は『資治通鑑』の該当部分の現代日本語訳です。時代背景や官職名は理解しやすい表現に置き換え、歴史上の重要な政治的対立(宦官vs官僚)が明確に伝わるよう工夫しました。 現代日本語訳:熹平元年(西暦172年)、後漢の霊帝の治世 【正月の出来事】霊帝が先帝・光武帝の陵墓「原陵」を参拝した。この時、司徒の補佐官・蔡邕(陳留出身)が以下の意見を述べた: 【3月の出来事】皇帝の師傅・胡広が82歳で逝去。彼の経歴は: 当時の都ではこう評された: 【5月の出来事】全国規模の恩赦を実施。元号を「熹平」に改元。 【6月の出来事】
【竇皇太后の崩御と葬儀問題】
【葬儀をめぐる大論争】
解説(歴史的背景):
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| 」忠笑而言曰:「陳廷尉宜便操筆。」球即下議曰:「皇太后自在椒房,有聰明母儀之德;遭時不造,援立聖明承繼宗廟,功烈至重。先帝晏駕,因遇大獄,遷居空宮,不幸早世,家雖獲罪,事非太后,今若別葬,誠失天下之望。且馮貴人塚嘗被發掘,骸骨暴露,與賊並屍,魂靈污染,且無功於國,何宜上配至尊!」忠省球議,作色俯仰,蚩球曰:「陳廷尉建此議甚健!」球曰:「陳、竇既冤,皇太后無故幽閉,臣常痛心,天下憤歎!今日言之,退而受罪,宿昔之願也!」李鹹曰:「臣本謂宜爾,誠與意合。」於是公卿以下皆從球議。曹節、王甫猶爭,以為:「梁後家犯惡逆,別葬懿陵,武帝黜廢衛後,而以李夫人配食,今竇氏罪深,豈得合葬先帝!」李鹹復上疏曰:「臣伏惟章德竇後虐害恭懷,安思閻後家犯惡逆,而和帝無異葬之議,順朝無貶降之文。至於衛後,孝武皇帝身所廢棄,不可以為比。今長樂太后尊號在身,親嘗稱制,且援立聖明,光隆皇祚。太后以陛下為子,陛下豈得不以太后為母!子無黜母,臣無貶君,宜合葬宣陵,一如舊制。」帝省奏,從之。 秋,七月,甲寅,葬桓思皇后於宣陵。 有人書朱雀闕,言:「天下大亂,曹節、王甫幽殺太后,公卿皆尸祿,無忠言者。」詔司隸校尉劉猛逐捕,十日一會。猛以誹書言直,不肯急捕。 |
現代日本語訳:忠が笑いながら言った。「陳廷尉(ちんていい)はすぐに筆を執るべきだな。」 忠が球の意見を検討すると、顔色を変えて球を嘲笑した。「陳廷尉のこの意見はなかなか激烈だな!」 しかし曹節(そうせつ)と王甫(おうほ)はなおも反論した。「かつて梁皇后(りょうこうごう)の一族が反逆罪で処断された際には別葬とされました。また武帝が衛皇后(えいこうごう)を廃した後は李夫人(りふじん)を皇后として祀りました。今、竇氏(とうし)の罪が深いのに、どうして先帝と同墓に葬れましょうか!」 李咸は改めて上奏した。「章徳竇皇后(しょうとくとうこうごう)が恭懷梁皇后(きょうかいりょうこうごう)を迫害した例や、安思閻皇后(あんしえんこうごう)一族の反逆事件があっても、和帝(わてい)は別葬とせず、順帝(じゅんてい)も皇后の地位を剥奪しませんでした。衛皇后の例は武帝が自ら廃位した特殊な事例であり、参考にはなりません。今、竇皇太后は正式な尊号をもち、みずから政務を執られ、賢帝(霊帝)を擁立して宗廟を守られました。皇太后が陛下を実子同然に遇し、陛下も皇太后を母として敬っておられるのです。母を廃する子はおらず、臣下が君主を貶めることもありません。先帝の陵墓(宣陵)に合葬すべきであり、これが旧来の制度です。」 皇帝(霊帝)はこの上奏を認め、合葬を許可した。 同年秋7月甲寅の日、竇皇太后は宣陵に合葬された。 その頃、朱雀門(しゅじゃくもん)に匿名の書が掲げられた。 解説:
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| 月餘,主名不立;猛坐左轉諫議大夫,以御史中丞段熲代之。熲乃四出逐捕,及太學游生系者千餘人。節等又使熲以它事奏猛,論輸左校。 初,司隸校尉王寓依倚宦官,求薦於太常張奐,奐拒之,寓遂陷奐以黨罪禁錮。奐嘗與段熲爭擊羌,不相平,熲為司隸,欲逐奐歸敦煌而害之;奐奏記哀請於熲,乃得免。 初,魏郡李暠為司隸校尉,以舊怨殺扶風蘇謙;謙子不韋瘞而不葬,變姓名,結客報仇。暠遷大司農,不韋匿於諭廥中,鑿地旁達暠之寢室,殺其妾並小兒。暠大懼,以板藉地,一夕九徙。又掘暠父塚,斷取其頭,標之於市。暠求捕不獲,憤恚,嘔血死。不韋遇赦還家,乃葬父行喪。張奐素睦於蘇氏,而段熲與暠善,熲辟不韋為司隸從事,不韋懼,稱病不詣。熲怒,使從事張賢就家殺之,先以鴆與賢父曰:「若賢不得不韋,便可飲此!」賢遂收不韋,並其一門六十餘人,盡誅之。 渤海王悝之貶癭陶也,因中常侍王甫求復國,許謝錢五千萬;既而桓帝遺詔復悝國,悝知非甫功,不肯還謝錢。中常侍鄭颯、中黃門董騰數與悝交通,甫密司察以告段熲。冬,十月,收颯送北寺獄,使尚書令廉忠誣奏「颯等謀迎立悝,大逆不道」,遂詔冀州刺史收悝考實,迫責悝,令自殺;妃妾十一人、子女七十人、伎女二十四人皆死獄中,傅、相以下悉伏誅。 |
日本語訳第一段落:段熲の弾圧と王寓の陰謀一ヶ月余り経っても主犯が捕まらなかったため、猛は左遷されて諫議大夫となり、御史中丞の段熲が後任となった。段熲は四方に手勢を派遣し、太学生を含む千余人を拘束した。曹節らはさらに段熲に別件をでっち上げて猛を弾劾させ、彼を左校(刑務所)へ送らせた。 第二段落:張奐に対する迫害かつて司隸校尉であった王寓は宦官の権力を頼みにし、太常の張奐に推薦を求めたが、張奐が拒否した。これに恨みを持った王寓は張奐を「党錮の禁」(党派結成の禁令)違反で誣告し、張奐は官職を剥奪された。張奐は以前、段熲と羌族征伐の功績を争って対立しており、段熲が司隸校尉になると、敦煌へ左遷して害を加えようとした。しかし張奐が哀願の手紙を送ったため、難を逃れることができた。 第三段落:蘇不韋の復讐劇魏郡出身の李暠が司隸校尉であった時、旧怨から扶風の蘇謙を殺害した。蘇謙の息子・蘇不韋は父の遺体を葬らず、姓名を変えて刺客を集め復讐を企てた。李暠が大司農に昇進すると、蘇不韋は彼の屋敷の隠し場所に潜み、地下道を掘って寝室に侵入。李暠の側室と幼児を殺害した。恐怖に駆られた李暠は床板の下に隠れて一夜に九度も移動した。さらに蘇不韋は李暠の父の墓を暴き、その首を切り取って市場に晒した。李暠は犯人を捕らえられず、激しい怒りから吐血して死亡した。後に蘇不韋は恩赦で帰郷し、ようやく父を埋葬した。 第四段落:段熲による蘇氏一族虐殺張奐は蘇氏と親交があったが、段熲は李暠と親しかった。段熲が司隸校尉になると蘇不韋を属官に登用しようとしたが、蘇不韋は病と称して応じなかった。激怒した段熲は部下の張賢を使い、蘇不韋を自宅で暗殺させようとした。事前に張賢の父に毒薬を渡し「もしお前の息子が蘇不韋を殺せなければ、これを飲め」と脅した。張賢はやむなく蘇不韋を捕らえ、彼の一族六十余名を皆殺しにした。 第五段落:渤海王劉悝の悲劇渤海王・劉悝が癭陶に左遷された際、中常侍・王甫に賄賂(五千萬銭)を約束して復位を依頼した。ところが後に桓帝の遺詔で劉悝は渤海王に復帰できたため、彼は「これは王甫の力ではない」として約束の謝礼を拒否した。これに恨みを持った王甫は、中常侍・鄭颯と中黄門・董騰が劉悝と頻繁に連絡を取っている事実を密かに探り出し、段熲に報告した。 第六段落:冤罪と虐殺その年(西暦172年)の冬十月、鄭颯が北寺獄に投獄されると、尚書令・廉忠が「鄭颯らが劉悝を擁立して謀反を企てた」と虚偽の告発を行った。これを受け皇帝は冀州刺史に劉悝を取り調べさせ、自害を強要した。劉悝の妃妾11人、子女70人、伎女24人も獄中で処刑され、傅相(王傅と宰相)以下の家臣も全員誅殺された。 解説歴史的背景この文章は『後漢書』などに記録された後漢末期の事件です。当時は宦官勢力が絶大な権力を握り、以下の特徴が見られます: - 党錮の禁の拡大:知識人層(清流派)の弾圧 - 宦官による司法の私物化:北寺獄が冤罪製造装置と化す - 復讐文化の横行:蘇不韋の事例に見られる血で血を洗う抗争 人物関係図
キーポイント解説
史実的意義これらの事件は後漢王朝崩壊の前兆を示しています: - 司法制度の崩壊(段熲の私刑・廉忠の偽証) - 統治能力の喪失(無実の渤海王家虐殺) - 社会倫理の崩壊(蘇不韋の過激復讐が賞賛される風潮) 特に渤海王家105名の処刑は、後漢朝廷が道義的正当性を完全に失った転換点として『資治通鑑』に記録されています。 Translation took 2462.0 seconds. |
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| 甫等十二人皆以功封列侯。 十一月,會稽妖賊許生起句章,自稱陽明皇帝,眾以萬數;遣揚州刺史臧旻、丹楊太守陳寅討之。 十二月,司徒許栩罷,以大鴻臚袁隗為司徒。鮮卑寇并州。 是歲,單于車兒死,子屠特若屍逐就單于立。 孝靈皇帝上之下熹平二年(癸丑,公元一七三年) 春,正月,大疫。丁丑,司空宗俱薨。 二月,壬午,赦天下。以光祿勳楊賜為司空。 三月,太尉李鹹免。 夏,五月,以司隸校尉段熲為太尉。 六月,北海地震。 秋,七月,司空楊賜免;以太常穎川唐珍為司空。珍,衡之弟也。 冬,十二月,太尉段熲罷。鮮卑寇幽、并二州。癸酉晦,日有食之。 孝靈皇帝上之下熹平三年(甲寅,公元一七四年) 春,二月,己巳,赦天下。以太常東海陳耽為太尉。 三月,中山穆王暢薨,無子,國除。 夏,六月,封河間王利子康為濟南王,奉孝仁皇祀。 吳郡司馬富春孫堅召募精勇,得千餘人,助州郡討許生。 冬,十一月,臧旻、陳寅大破生於會稽,斬之。任城王博薨,無子,國絕。 十二月,鮮卑入北地,太守夏育率屠各追擊,破之。遷育為護烏桓校尉。鮮卑又寇并州。司空唐珍罷,以永樂少府許訓為司空。 孝靈皇帝上之下熹平四年(乙卯,公元一七五年) 春,三月,詔諸儒正《五經》文字,命議郎蔡邕為古文、篆、隸三體書之,刻石,立於太學門外,使後儒晚學鹹取正焉。 |
現代日本語訳孝霊皇帝の治世(熹平年間) 熹平元年(西暦172年、干支:壬子)の記録
熹平二年(西暦173年、干支:癸丑)
熹平三年(西暦174年、干支:甲寅)
熹平四年(西暦175年、干支:乙卯)
解説
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| 碑始立,其觀視及摹寫者車乘日千餘兩,填塞街陌。 初,朝議以州郡相黨,人情比周,乃制昏姻之家及兩州人士不得對相監臨,至是復有三互法,禁忌轉密,選用艱難,幽、冀二州久缺不補。蔡邕上疏曰:「伏見幽、冀舊壤,鎧、馬所出,比年兵饑,漸至空耗。今者闕職經時,吏民延屬,而三府選舉,逾月不定。臣怪問其故,雲避三互。十一月有禁,當取二州而已。又,二州之士或復限以歲月,狐疑遲淹,兩州懸空,萬里蕭條,無所管系。愚以為三互之禁,禁之薄者。今但申以威靈,明其憲令,對相部主,尚畏懼不敢營私;況乃三互,何足為嫌!昔韓安國起自徒中,朱買臣出於幽賤,並以才宜,還守本邦,豈復顧循三互,系以末制乎!臣願陛下上則先帝,蠲除近禁,其諸州刺史器用可換者,無拘日月、三互,以差厥中。」朝廷不從。 ══臣光曰:叔向有言:「國將亡,必多制。」明王之政,謹擇忠賢而任之,凡中外之臣,有功則賞,有罪則誅,無所阿私,法制不煩而天下大治。所以然者何哉?執其本故也。及其衰也,百官之任不能擇人,而禁令益多,防閒益密,有功者以閡文不賞,為奸者以巧法免誅,上下勞擾而天下大亂。所以然者何哉?逐其末故也。孝靈之時,刺史、二千石貪如豺虎,暴殄烝民,而朝廷方守三互之禁。以令視之,豈不適足為笑而深可為戒哉! 封河間王建孫佗為任城王。 |
現代日本語訳石碑が建立されると、見物や拓本を取る者の車が一日に千台以上も連なり、通りを埋め尽くした。 当初、朝廷では州や郡の長官が派閥を形成するのを防ぐため、姻戚関係にある者や同じ州出身の者が互いを監督する役職に就くことを禁じた。さらに「三互法」が制定され、規制はより厳しくなり、人材登用は困難を極めた。特に幽州と冀州の長官は長期間空位のままであった。蔡邕が上奏して言うには、「幽州・冀州は古くから鎧や軍馬の産地ですが、近年は戦乱と飢饉で荒廃しています。それなのに長官のポストが長らく空いたままで、中央の任命会議も一月以上も結論が出ません。調べたところ『三互法』の規制が原因とのこと。この法律では十一月に禁止条項が発動し、特にこの二州の人事が制限されています。さらに候補者にも在住年数制限があり、人々はためらい、結局この二州は統治者不在のまま荒廃が進み、統治機能は完全に麻痺しています。私は『三互法』など取るに足らない規制だと考えます。陛下の威光さえ示せば、法令を厳格に適用するだけで、監督官同士が私利を図るのを防げるはず。ましてや『三互法』など問題にならない。昔の韓安国は囚人身分から、朱買臣は貧困の中から登用され、故郷の統治者となりました。彼らが『三互法』のような瑣末な規則を気にしたでしょうか。陛下には先帝の先例に従い、この近時の禁令を廃止し、州の長官候補について在住年数や『三互法』の制限を撤廃され、適材を登用されるようお願いします」。しかし朝廷はこの提案を採用しなかった。 ◇臣(司馬光)が言う。叔向の「国が滅びる時は必ず法令が煩雑になる」という言葉がある。賢明な君主の政治とは、忠義と才能のある者を慎重に選んで任用し、中央地方を問わず官吏に対し、功績あれば賞を、罪あれば罰を、私心なく与える。法令は簡素でありながら天下はよく治まる。なぜか? 政治の根本を押さえているからだ。王朝が衰える時は、官吏の登用が適材適所でなくなり、禁止令は増え、監視は厳しくなる。功績があっても法令の条文に合わないと賞を与えず、悪事を働いても巧みに法の隙間をくぐれば処罰されない。上も下も疲弊し、天下は大混乱に陥る。なぜか? 枝葉末節ばかり追うからだ。霊帝の時代、刺史や太守(二千石)たちは豹のように貪欲で民衆を虐げていたのに、朝廷は『三互法』のような禁令を固守していた。この法令の内容を見れば、まさに笑止千万であると同時に、深く戒めとすべき事例ではなかろうか! (付記)河間王・劉建の孫である劉佗を任城王に封じた。 訳注
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| 夏,四月,郡、國七大水。 五月,丁卯,赦天下。延陵園災。鮮卑寇幽州。 六月,弘農、三輔螟。 於窴王安國攻拘彌,大破之,殺其王。戊己校尉、西域長史各發兵輔立拘彌侍子定興為王,人眾裁千口。 孝靈皇帝上之下熹平五年(丙辰,公元一七六年) 夏,四月,癸亥,赦天下。 益州郡夷反,太守李顒討平之。 大雩。 五月,太尉陳耽罷,以司空許訓為太尉。 閏月,永昌太守曹鸞上書曰:「夫黨人者,或耆年淵德,或衣冠英賢,皆宜股肱王室,左右大猷者也;而久被禁錮,辱在塗泥。謀反大逆尚蒙赦宥,黨人何罪,獨不開恕乎!所以災異屢見,水旱荐臻,皆由於斯。宜加沛然,以副天心。」帝省奏,大怒,即詔司隸、益州檻車收鸞,送槐裡獄,掠殺之。於是詔州郡更考黨人門生、故吏、父子、兄弟在位者,悉免官禁錮,爰及五屬。 六月,壬戌,以太常南陽劉逸為司空。 秋,七月,太尉許訓罷。以光祿勳劉寬為太尉。 冬,十月,司徒袁隗罷;十一月,丙戌,以光祿大夫楊賜為司徒。 是歲,鮮卑寇幽州。 孝靈皇帝上之下熹平六年(丁巳,公元一七七年) 春,正月,辛丑,赦天下。 夏,四月,大旱,七州蝗。 令三公條奏長吏苛酷貪污者,罷免之。平原相漁陽陽球坐嚴酷,征詣廷尉。帝以球前為九江太守討賊有功,特赦之,拜議郎。 |
現代日本語訳熹平5年(西暦176年)の記録:
熹平6年(西暦177年)の記録:
解説(補足事項)
訳出のポイント
(※本訳は『資治通鑑』胡三省注の解釈を一部参照しつつ、現代日本語で読みやすく再構成したものです) Translation took 2762.5 seconds. |
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| 鮮卑寇三邊。 市賈小民有相聚為宣陵孝子者數十人,詔皆除太子舍人。 秋,七月,司空劉逸免,以衛尉陳球為司空。 初,帝好文學,自造《皇羲篇》五十章,因引諸生能為文賦者並待制鴻都門下。後諸為尺牘及工書鳥篆者,皆加引召,遂至數十人。侍中祭酒樂松、賈護多引無行趣勢之徒置其間,熹陳閭裡小事;帝甚悅之,待以不次之位;又久不親行郊廟之禮。會詔群臣各陳政要,蔡邕上封事曰:「夫迎氣五郊,清廟祭祀,養老辟雍,皆帝者之大業,祖宗所祗奉也。而有司數以蕃國疏喪、宮內產生及吏卒小污,廢闕不行,忘禮敬之大,任禁忌之書,拘信小故,以虧大典。自今齋制宜如故典,庶答風霆、災妖之異。又,古者取士必使諸侯歲貢。孝武之世,郡舉孝廉,又有賢良、文學之選,於是名臣輩出,文武並興。漢之得人,數路而已。夫書畫辭賦,才之小者;匡國治政,未有其能。陛下即位之初,先涉經術,聽政餘日,觀省篇章,聊以游意當代博奕,非以為教化取士之本。而諸生競利,作者鼎沸,其高者頗引經訓風喻之言,下則連偶俗語,有類徘優,或竊成文,虛冒名氏。臣每受詔於盛化門,差次錄第,其未及者,亦復隨輩皆見拜擢。既加之恩,難復收改,但守奉祿,於義已弘,不可復使治民及在州郡。昔孝宣會諸儒於石渠,章帝集學士於白虎,通經釋義,其事優大,文武之道,所宜從之。 |
日本語訳鮮卑が三辺を侵す。 秋七月、 当初、 この時、 「五郊の迎気祭、宗廟祭祀、大学での養老礼は、帝王の大業であり、歴代の祖宗が重んじられた儀礼であります。ところが役人たちは、属国の喪事や後宮の出産、下級官吏の些細な過失を理由に、これらを廃止してしまいます。これは礼を敬う精神を忘れ、禁忌の書に拘り、些細な理由で大典を損なう行為です。今後は古式に従い、天地の災異に応えるべきでしょう」 「さらに昔は諸侯の貢士制度で人材を得ました。武帝の時代には郡から孝廉を推挙し、賢良・文学科を設けたため、名臣が輩出し文武の道が共に栄えました。漢王朝が人材を得た道は、この数通りに過ぎません」 「書画や詩賦の才能は些末な技芸にすぎず、国を治める力にはなりえません。陛下は即位当初こそ経書を学ばれましたが、政務の合間に詩文を鑑賞されるのは、現代の遊戯を楽しむようなもので、教化や人材登用の本筋ではありません。ところが今、文人たちは利を争い、作者は激増しています。高位の者は経書の教えを引用して比喩を弄し、低位の者は俗語を連ねて道化同然です。中には他人の作品を盗む者、偽名を使う者さえいます」 「私は盛化門で詔を受けて彼らを序列付けしましたが、基準に達しない者までが仲間と共に登用されました。いったん恩寵を与えた以上、覆すのは困難ですが、俸禄だけを与えて閑職に置き、地方官として民を治める任に就かせるべきではありません」 「昔、宣帝は石渠閣で儒者を集め、章帝は白虎観で学士を招いて経書の解釈を統一されました。この事業は盛大であり、文武の大道もこれに従うべきです」 解説
この上奏は儒教的統治理念と現実政治の乖離を示すと共に、後漢末期の政治腐敗を告発する貴重な史料である。 Translation took 2067.8 seconds. |
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| 若乃不能小善,雖有可觀,孔子以為致遠則泥,君子固當志其大者。又,前一切以宣陵孝子為太子舍人,臣聞孝文皇帝制喪服三十六日,雖繼體之君,父子至親,公卿列臣受恩之重,皆屈情從制,不敢逾越。今虛偽小人,本非骨肉,既無幸私之恩,又無祿仕之實,惻隱之心,義無所依,至有奸軌之人通容其中。桓思皇后祖載之時,東郡有盜人妻者,亡在孝中,本縣追捕,乃伏其辜。虛偽雜穢,難得勝言。太子官屬,宜搜選令德,豈有但取丘墓凶丑之人!其為不祥,莫與大焉,宜遣歸田裡,以明詐偽。」書奏,帝乃親迎氣北郊及行辟雍之禮。又詔宣陵孝子為舍人者悉改為丞、尉焉。 護烏桓校尉夏育上言:「鮮卑寇邊,自春以來三十餘發,請征幽州諸郡兵出塞擊之,一冬、二春,必能禽滅。」先是護羌校尉田晏坐事論刑,被原,欲立功自效,乃請中常侍王甫求得為將。甫因此議遣兵與育並力討賊,帝乃拜晏為破鮮卑中郎將;大臣多有不同,乃召百官議於朝堂。蔡邕議曰:「征討殊類,所由尚矣。然而時有同異,勢有可否,故謀有得失,事有成敗,不可齊也。夫以世宗神武,將帥良猛,財賦充實,所括廣遠,數十年間,官民俱匱,猶有悔焉。況今人財並乏,事劣昔時乎!自匈奴遁逃,鮮卑強盛,據其故地,稱兵十萬,才力勁健,意智益生;加以關塞不嚴,禁網多漏,精金良鐵,皆為賊有,漢人逋逃為之謀主,兵利馬疾,過於匈奴。 |
現代日本語訳第一段:虚偽の喪主への批判と皇帝の対応そもそも些細な善行ができぬ者が、たとえ見かけは立派でも、孔子は「遠くまで行くには泥道のようなものだ」と評しました。真の君子は根本を重んじるべきです。さらに、これまで宣陵で喪主を務めた者を太子舎人に登用してきましたが、孝文皇帝が定めた喪服の期間は三十六日です。たとえ後継者たる君主であっても、父と子の親密な関係であっても、高位の臣下が厚い恩義を受けていても、皆その制度を守り、決して越えてはならないのです。 ところが今、虚偽に満ちた小人物たちがいます。血縁でもないのに、個人的な恩恵もなく、官職の実績もない。哀悼の心などなく、義理もわきまえず、中には悪事を働く者まで混じっているのです。桓思皇后の葬儀の際、東郡では妻を奪った犯人が、喪に服していると偽って逃亡しましたが、地元の役人に捕らえられ処罰されました。このような偽りと堕落は枚挙にいとまがありません。 太子の側近は徳行高い人物を選ぶべきです。墓守りのような卑しい者を採用する必要などありません。これは不吉きわまりないことで、即刻、田舎に帰らせて偽りを明らかにすべきです。 この上奏文を受け、皇帝は北郊で天地の祭祀を行い、辟雍(皇帝主催の学問儀式)の儀礼を執り行いました。さらに詔を下し、宣陵の喪主を務めた者たちを全員、舎人から下級官吏である丞や尉に降格させたのです。 第二段:鮮卑侵攻への対策と朝廷の論争護烏桓校尉の夏育が上奏しました。「鮮卑が国境を侵犯し、春以来三十回以上も侵攻しています。幽州の各郡の兵を動員し国境を越えて討伐することを求めます。一冬から二春の間で必ず殲滅を見届けます」。 これに先立ち、護羌校尉の田晏が罪により処罰されながらも赦免され、功績で罪を償おうと、中常侍の王甫に取り入って将軍の地位を得ようとしていました。王甫はこれに乗じ、夏育と共同で賊を討つよう提案し、皇帝は田晏を破鮮卑中郎将に任命しました。しかし大臣たちの意見は割れ、朝廷は百官を集めて議論させました。 第三段:蔡邕の反戦論蔡邕は次のように論じました。「異民族征討の是非は古くから議論されてきましたが、時勢によって異なり、情勢によって可否が分かれます。作戦には得失があり、結果には成敗がある。一概には言えません。世宗皇帝(武帝)の威光、優れた将軍たち、充実した財力、広大な支配地があった時代でさえ、数十年の征討で官民ともに疲弊し、後悔の声もあったのです。ましてや今は人材も財力も不足し、当時よりも状況は悪化しています。 匈奴が衰退して北へ逃れた後、鮮卑が強大化し、その旧領を占拠し、十万の兵力を擁するに至りました。兵士は精強で、知略も優れています。さらに国境の守備は緩み、法の網は粗く、良質な銅鉄が全て賊の手中に渡り、逃亡した漢人が彼らの軍師となり、武器は鋭く軍馬は迅速で、かつての匈奴をも上回る勢いです。 解説この文章は二つの核心問題を扱っています: 1. 礼制と人事の乱れ:儒教の根本理念に基づき、虚偽の喪主登用を批判。皇帝が祭祀を行い人事を改めたのは、天意による統治の正統性を再確認する行為です 2. 鮮卑対策の対立:軍事行動派(夏育・田晏)に対し、蔡邕は歴史的教訓と現実分析から反論。当時の後漢王朝が直面した「異民族対策のジレンマ」を鮮明に映し出しています 特に蔡邕の論述は卓見で: - 武帝時代の膨張政策を「官民俱匱(疲弊)」と総括 - 鮮卑の脅威を「兵利馬疾(軍事力の質的優位)」と分析 - 根本原因を「漢人逋逃為之謀主(漢人亡命者の内通)」と指摘 当時の後漢が抱えていた統治能力の衰退と民族問題の深刻さが、この論争を通じて浮き彫りになっています。皇帝が祭祀を重視した背景にも、権威強化による国内統制の意図が透けて見えます。 Translation took 2039.9 seconds. |
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| 昔段熲良將,習兵善戰,有事西羌,猶十餘年。今育、晏才策未必過熲,鮮卑種眾不弱曩時,而虛計二載,自許有成,若禍結兵連,豈得中休?當復征發眾人,轉運無已,是為耗竭諸夏,並力蠻夷。夫邊垂之患,手足之疥搔,中國之困,胸背之瘭疽,方今郡縣盜賊尚不能禁,況此醜虜而可伏乎!昔高祖忍平城之恥,呂後棄慢書之詬,方之於今,何者為甚?天設山河,秦築長城,漢起塞垣,所以別內外,異殊俗也。苟無蹙國內侮之患則可矣,豈與蟲蟻之虜,校往來之數哉!雖或破之,豈可殄盡,而方令本朝為之旰食乎!昔淮南王安諫伐越曰:『如使越人蒙死以逆執事,廝輿之卒有一不備而歸者,雖得越王之首,猶為大漢羞之。』而欲以齊民易丑虜,皇威辱外夷,就如其言,猶已危矣,況乎得失不可量邪!」帝不從。八月,遣夏育出高柳,田晏出雲中,匈奴中郎將臧旻率南單于出雁門,各將萬騎,三道出塞二千餘里。檀石槐命三部大人各帥眾逆戰,育等大敗,喪其節傳輜重,各將數十騎奔還,死者什七八。三將檻車征下獄,贖為庶人。 冬,十月,癸丑朔,日有食之。 太尉劉寬免。辛丑,京師地震。 十一月,司空陳球免。 十二月,甲寅,以太常河南孟彧為太尉。 庚辰,司徒楊賜免。 以太常陳耽為司空。 遼西太守甘陵趙苞到官,遣使迎母及妻子,垂當到郡;道經柳城,值鮮卑萬餘人入塞寇鈔,苞母及妻子遂為所劫質,載以擊郡。 |
漢王朝の危機:鮮卑侵攻と趙苞の苦悩現代日本語訳鮮卑征伐の失敗とその影響昔、段熲という優れた将軍がいた。彼は戦術に長け、西羌族の反乱を鎮圧するのに十年以上もかかった。ところが、今の夏育や田晏といった将軍たちの能力は段熲には及ばない。それにもかかわらず、たった二年で鮮卑族を討伐できると豪語し、戦争を始めた。しかし戦いは長期化し、朝廷はさらに兵士を徴発し、物資を絶え間なく前線に送り続けなければならなくなった。この状況は中国(漢王朝)の国力を消耗させるだけで、かえって蛮族を利する結果となった。 そもそも辺境の脅威は手足の軽い傷のようなものだが、今や国内の問題は胸や背中にできた腫れ物のように深刻である。国内の賊(反乱勢力)すら鎮圧できないのに、どうして鮮卑のような強敵を制圧できようか。かつて高祖(劉邦)は平城の屈辱を耐え忍び、呂后(呂雉)は匈奴からの侮辱的な手紙を無視した。現代の情勢と比べれば、どちらがより深刻かは明らかだ。 天が山や川という自然の境界を作り、秦が長城を築き、漢が要塞を整備したのは、内外を分け、異民族を隔てるためである。国内の安定が損なわれていない限り、虫けらのような蛮族と一々戦う必要はない。仮に勝利したとしても、彼らを根絶やしにすることは不可能だ。それなのに朝廷は彼らのために夜も眠れぬほど心労を重ねている。 淮南王・劉安はかつて越族征伐に反対し、こう述べた。「仮に越族が死を覚悟で抵抗し、わが軍の兵士が一人でも無事に帰還できなければ、たとえ越王の首を取ったとしても、それは漢王朝の恥である」と。今、朝廷は貴重な国民を危険に晒し、皇帝の威光を異民族の前に貶めようとしている。淮南王の指摘通り、これは極めて危険な行為であり、その損害は計り知れない。 皇帝の決断と惨敗しかし皇帝(霊帝)はこの諫言を聞き入れなかった。同年8月、夏育は高柳から、田晏は雲中から、臧旻は南匈奴の単于を率いて雁門から出撃した。それぞれ1万騎の軍勢を率い、三方向から塞(万里の長城)を越え、二千余里(約800km)も進軍した。 これに対し、鮮卑の首長・檀石槐は三部族の族長たちに全軍で迎撃するよう命じた。漢軍は大敗を喫し、将軍の印璽や兵站物資を失い、各将はわずか数十騎の手勢とともに逃げ帰った。兵士の7~8割が戦死した。敗戦の責任を問われた三将軍は檻車に乗せられて都へ送還され、財産を没収された上で庶民に落とされた。 天変地異と朝廷の混乱同年冬10月、癸丑の朔日(1日)に日食が発生した。この異変を受け、劉寛太尉は解任された。同月辛丑の日(19日?)には都で地震が起こった。 11月には陳球司空が解任された。 12月甲寅の日(13日)に、河南出身の太常・孟彧が新たに太尉に任命された。同月庚辰の日(9日)には楊賜司徒が解任され、陳耽太常が新たに司空に就任した。 趙苞の悲劇遼西太守に任命された甘陵出身の趙苞は任地に着くと、すぐに使者を送って母と妻子を迎えさせた。家族が任地に到着しようとした時、柳城を通りかかったところ、ちょうど鮮卑の騎兵1万余りが長城を越えて略奪に現れた。趙苞の母と妻子は鮮卑に拉致され、人質として遼西郡城へ押し立てられてきた。 解説
歴史的意義この記録は『後漢書』霊帝紀や「鮮卑列伝」に基づくもので、漢王朝崩壊の決定的要因を浮き彫りにしている: - 遊牧民族対策の根本的誤り(長城防衛思想の限界) - 儒教官僚制度の機能不全(現実対応能力の欠如) - 自然災害と人的災害の相乗効果(王朝終焉の前兆) 特に趙苞の悲劇は、後世の「二十四孝」でも取り上げられ、中国倫理思想史において「忠孝両全」の不可能性を象徴する事件として語り継がれることとなる。次の展開では、趙苞が「国を取るか、家族を取るか」という究極の選択を迫られることになる。 Translation took 2495.8 seconds. |
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| 苞率騎二萬與賊對陳,賊出母以示苞,苞悲號,謂母曰:「為子無狀,欲以微祿奉養朝夕,不圖為母作禍,昔為母子,今為王臣,義不得顧私恩,毀忠節,唯當萬死,無以塞罪。」母遙謂曰:「威豪,人各有命,何得相顧以虧忠義,爾其勉之!」苞即時進戰,賊悉摧破,其母妻皆為所害。苞自上歸葬,帝遣使弔慰,封鄃侯。苞葬訖,謂鄉人曰:「食祿而避難,非忠也;殺母以全義,非孝也。如是,有何面目立於天下!」遂歐血而死。 孝靈皇帝上之下光和元年(戊午,公元一七八年) 春,正月,合浦、交趾烏滸蠻反,招引九真、日南民攻沒郡縣。 太尉孟彧罷。 二月,辛亥朔,日有食之。 癸丑,以光祿勳陳國袁滂為司徒。 己未,地震。 置鴻都門學,其諸生皆敕州郡、三公舉用辟召,或出為刺史、太守,入為尚書、侍中,有封侯、賜爵者;士君子皆恥與為列焉。 三月,辛丑,赦天下,改元。 以太常常山張顥為太尉。顥,中常侍奉之弟也。 夏,四月,丙辰,地震。 侍中寺雌雞化為雄。 司空陳耽免;以太常來艷為司空。 六月,丁丑,有黑氣墮帝所御溫德殿東庭中,長十餘丈,似龍。 秋,七月,壬子,青虹見玉堂後殿庭中。詔召光祿大夫楊賜等詣金商門,問以災異及消復之術。賜對曰:「《春秋言韱》曰:『天投蜺,天下怨,海內亂。 |
訳文:趙苞の物語 霊帝の治世・光和元年(戊午、西暦178年) 解説:
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| 』加四百之期,亦復垂及。今妾媵、閹尹之徒共專國朝,欺罔日月;又,鴻都門下招會群小,造作賦說,見寵於時,更相薦說,旬月之間,並各拔擢。樂松處常伯,任芝居納言,郤儉、梁鵠各受豐爵不次之寵,而令搢紳之徒委伏畎畝,口誦堯、舜之言,身蹈絕俗之行,棄捐溝壑,不見逮及。冠履倒易,陵谷代處,幸賴皇天垂象譴告。《周書》曰:『天子見怪則修德,諸侯見怪則修政,卿大夫見怪則修職,士庶人見怪則修身。』唯陛下斥遠佞巧之臣,速征鶴鳴之士,斷絕尺一,抑止槃游,冀上天還威,眾變可弭!」 議郎蔡邕對曰:「臣伏思諸異,皆亡國之怪也。天於大漢殷勤不已,故屢出祅變以當譴責,欲令人君感悟,改危即安。今蜺墮、雞化,皆婦人干政之所致也。前者乳母趙嬈,貴重天下,讒諛驕溢,續以永樂門史霍玉,依阻城社,又為奸邪。今道路紛紛,復雲有程大人者,察其風聲,將為國患;宜高為堤防,明設禁令,深惟趙、霍,以為至戒。今太尉張顥,為玉所進;光祿勳偉璋,有名貪濁;又長水校尉趙玹,屯騎校尉蓋升,並叨時幸,榮富優足;宜念小人在位之咎,退思引身避賢之福。伏見廷尉郭禧,純厚老成;光祿大夫橋玄,聰達方直;故太尉劉寵,忠實守正;並宜為謀主,數見訪問。夫宰相大臣,君之四體,委任責成,優劣已分,不宜聽納小吏,雕琢大臣也,又,尚方工技之作,鴻都篇賦之文,可且消息,以示惟優。 |
現代日本語訳(皇帝への上奏文) 議郎・蔡邕の上奏 翻訳のポイント解説
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| 宰府孝廉,士之高選,近者以辟召不慎,切責三公,而今並以小文超取選舉,開請托之門,違明王之黃,眾心不厭,莫之敢言。臣願陛下忍而絕之,思惟萬機,以答天望。聖朝既自約厲,左右近臣亦宜從化,人自抑損,以塞咎戒,則天道虧滿,鬼神福謙矣。夫君臣不密,上有漏言之戒,下有失身之禍,願寢臣表,無使盡忠之吏受怨奸仇。」章奏,帝覽而歎息。因起更衣,曹節於後竊視之,悉宣語左右,事遂漏露。其為邕所裁黜者,側目思報。初,邕與大鴻臚劉命素不相平,叔父衛尉質又與將作大匠陽球有隙。球即中常侍程璜女夫也。璜遂使人飛章言「邕、質數以私事請托於郃,郃不聽。邕含隱切,志欲相中。」於中詔下尚書召邕詰狀。邕上書曰:「臣實愚戇,不顧後害,陛下不念忠臣直言,宜加掩蔽,誹謗卒至,便用疑怪。臣年四十有六,孤特一身,得托名忠臣,死有餘榮,恐陛下於此不復聞至言矣!」於是下邕、質於雒陽獄,劾以「仇怨奉公,議害大臣,大不敬,棄市。」事奏,中常侍河南呂強愍邕無罪,力為伸請。帝亦更思其章,有詔:「減死一等,與家屬髡金甘,徙朔鉗方,不得以赦令除。」陽球使客追路刺邕,客感其義,皆莫為用。球又賂其部主,使加毒害,所賂者反以其情戒邕,由是得免。 八月,有星孛於天市。 九月,太尉張顥罷,以太常陳球為太尉。 |
現代日本語訳:宰相府による官吏登用(孝廉)は、士人を選抜する重要な制度である。近ごろは推挙が慎重を欠いているとして、三公(最高官職)が非難されている。しかし現在では、わずかな文才で官吏登用試験に合格し、縁故採用の道が開かれ、賢明な君主の方針に反している。人々の心はこれに飽き飽きしているが、誰も声を上げられない。臣(蔡邕)は願う。陛下にはこの制度を断ち切られ、万機(政務)を深くお考えになり、天の意志に応えていただきたい。聖なる朝廷が自ら節制を示しているのだから、側近の臣下もそれに従い、自らを抑えて過ちを戒めるべきである。そうすれば天の道理は満ち欠けを示し、鬼神も謙虚な者を助けるだろう。そもそも君臣の間の秘密が守られないと、上には情報漏洩の戒めが生じ、下には身を滅ぼす災いが起こる。どうか臣の上奏を伏せていただき、忠義の官吏が奸臣の恨みを買うことがないように願う。 この上奏文を皇帝(霊帝)が閲覧し、ため息をついた。その際、皇帝が立ち上がって着替えようとしたとき、宦官の曹節が背後からこっそりと内容を盗み見し、側近たちに全てを話したため、事態が漏洩した。蔡邕によって罷免された者たちは、横目で彼を恨み、復讐を企んだ。 当初、蔡邕は大鴻臚(賓客接待官)の劉郃と不仲であり、蔡邕の叔父である衛尉(宮門警備長官)の蔡質も、将作大匠(宮殿建築長官)の陽球と対立していた。陽球は中常侍(宦官の高官)である程璜の女婿であった。程璜は密かに使者を使い、「蔡邕と蔡質が私事で劉郃に取り入ろうとしたが拒否され、蔡邕が密かに劉郃を陥れようとしている」と虚偽の上奏をした。皇帝は詔を下し、尚書(行政官)に蔡邕を尋問させた。蔡邕は上書して答えた。「臣は実に愚かで、後々の災いを考えずに行動しました。陛下は忠臣の率直な意見を顧みず、むしろ(宦官らの讒言を)隠蔽なさいます。誹謗が突然届けば、疑いと非難が生じるでしょう。臣は46歳で、身寄りもなく、忠臣としての名声を得て死ねれば本望です。ただ、陛下が今後も真理をお聞きになれなくなることを恐れます」。 こうして蔡邕と蔡質は洛陽の獄に下され、「私怨で公務を妨げ、大臣を陥れようとし、大不敬の罪で死刑(棄市:市での公開処刑)に処す」と告発された。この報告が上がると、中常侍の河南出身者・呂強が蔡邕の無罪を憐れみ、力を尽くして弁護した。皇帝も再び蔡邕の上奏文を思い出し、詔を下した。「死刑を一等減じて、家族と共に髠刑(髪を切り落とす)と金刑(罰金)を科し、朔方郡(辺境)に流罪とする。赦令による恩赦の対象からは除外せよ」。 陽球は刺客を放って流刑途中の蔡邕を暗殺させようとしたが、刺客たちは蔡邕の義心に感じ入り、誰も実行しなかった。陽球はさらに役人を買収して毒殺を図らせたが、買収された役人は逆に蔡邕に計画を密告したため、蔡邕は難を逃れた。 八月、天市垣(星座)に彗星が現れた。 解説:
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| 司空來艷薨。 冬,十月,以屯騎校尉袁逢為司空。 宋皇后無寵,後宮幸姬眾共譖毀。渤海王悝妃宋氏,即後之姑也,中常侍王甫恐後怨之,因譖後挾左道祝詛;帝信之,遂策收璽綬。後自致暴室,以憂死。父不其鄉侯酆及兄弟並被誅。 丙子晦,日有食之。 尚書盧植上言:「凡諸黨錮多非其罪,可加赦恕,申宥回枉。又,宋後家屬並以無辜委骸橫屍,不得斂葬,宜敕收拾,以安遊魂。又,郡守、刺史一月數遷,宜依黜陟以章能否,縱不九載,可滿三歲。又,請謁希求,一宜禁塞,選舉之事,責成主者。又,天子之體,理無私積,宜弘大務,蠲略細微。」帝不省。 十一月,太尉陳球免。 十二月,丁巳,以光祿大夫橋玄為太尉。 鮮卑寇酒泉;種眾日多,緣邊莫不被毒。 詔中尚方為鴻都文學樂松、江覽等三十二人圖像立贊,以勸學者。尚書令陽球諫曰:「臣案松、覽等皆出於微蔑,斗筲小人,依憑世戚,附托權豪,俛眉承睫,徼進明時。或獻賦一篇,或鳥篆盈簡,而位升郎中,形圖丹青。亦有筆不點牘,辭不辨心,假手請字,妖偽百品,莫不被蒙殊恩,蟬蛻滓濁。是以有識掩口,天下嗟歎。臣聞圖像之設,以昭勸戒,欲令人君動鑒得失,未聞豎子小人詐作文頌,而可妄竊天官,垂象圖素者也。今太學、東觀足以宣明聖化,願罷鴻都之選,以銷天下之謗。 |
現代日本語訳:司空(役職名)の来艷が亡くなった。 宋皇后は寵愛を受けていなかった。後宮の寵姫たちが共に彼女を誹謗した。渤海王・劉悝の妃である宋氏(皇后の叔母)がいたため、中常侍(宦官の役職)の王甫は皇后が恨みを持つことを恐れ、皇后が妖術で皇帝を呪ったと誣告した。皇帝はこれを信じ、詔書で皇后の璽綬(印綬)を没収した。皇后は暴室(後宮の監獄)に幽閉され、憂いのうちに死去した。父である不其郷侯の宋酆と兄弟たちも皆、処刑された。 丙子の晦(月末)、日食が起こった。 尚書(役職名)の盧植が上奏した: 11月、太尉(役職名)の陳球が罷免された。 鮮卑が酒泉を侵攻した。その勢力は日に日に増大し、国境の町々は全て被害を受けた。 皇帝は中尚方(宮廷工房)に命じ、鴻都文学(新設の文化機関)の楽松や江覧ら32人の肖像を描かせ、賛(称賛文)を添えさせた。これは学者を奨励するためであった。 解説:
補足:
(訳注:固有名詞は原則として史書の表記に準拠。役職名は適宜現代語で説明を加えた) Translation took 2355.3 seconds. |
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| 」書奏,不省。 是歲,初開西邸賣官,入錢各有差;二千石二千萬;四百石四百萬;其以德次應選者半之,或三分之一;於西園立庫以貯之。或詣闕上書占令長,隨縣好醜,豐約有賈。富者則先入錢,貧者到官然後倍輸。又私令左右賣公卿,公千萬,卿五百萬。初,帝為侯時常苦貧,及即位,每歎桓帝不能作家居,曾無私錢,故賣官聚錢以為私藏。帝嘗問侍中楊奇曰:「朕何如桓帝?」對曰:「陛下之於桓帝,亦猶虞舜比德唐堯。」帝不悅曰:「卿強項,真楊震子孫,死後必復致大鳥矣。」奇,震之曾孫也。 南匈奴屠特若屍逐就單于死,子呼征立。 孝靈皇帝上之下光和二年(己未,公元一七九年) 春,大疫。 三月,司徒袁滂免,以大鴻臚劉郃為司徒。乙丑,太尉橋玄罷,拜太中大夫;以太中大夫段熲為太尉。玄幼子游門次,為人所劫,登樓求貨;玄不與。司隸校尉、河南尹圍守玄家,不敢迫。玄瞋目呼曰:「奸人無狀,玄豈以一子之命而縱國賊乎!」促令攻之,玄子亦死。玄因上言:「天下凡有劫質,皆並殺之,不得贖以財寶,開張奸路。」由是劫質遂絕。 京兆地震。 司空袁逢罷;以太常張濟為司空。 夏,四月,甲戌朔,日有食之。 王甫、曹節等奸虐弄權,扇動內外,太尉段熲阿附之。節、甫父兄子弟為卿、校、牧、守、令、長者佈滿天下,所在貪暴。 |
現代日本語訳(王甫らの悪政を告発する)上奏文は受理されなかった。 この年、朝廷は初めて西邸(官職売買所)を開設し、官職ごとに価格を設定した。二千石(高級官僚)の官職は二千万銭、四百石(下級官僚)は四百万銭。官吏登用試験合格者は半額または三分の一で購入できた。西園には売上金を保管する倉庫が設けられた。上書して県令・県長の地位を買い求める者もおり、郡県の重要度に応じて価格が変動した。富裕層は即金で支払うが、貧しい官吏は就任後に倍額を納めさせられた。さらに側近を通じて公卿(大臣級)の官位も売却し、公爵は千万銭、卿爵は五百万銭と定めた。 そもそも霊帝が侯爵時代に貧窮した経験から、即位後も「桓帝は私財を築けなかった」と嘆いていた。自身も蓄えがなかったため、官位売買で資金を蓄積したのである。ある時、侍中の楊奇に「朕は桓帝と比べてどうか」と問うと、楊奇は「陛下と桓帝の関係は、舜帝が堯帝の徳を受け継いだようなものです」と答えた。帝は不満そうに「お前は曲がった根性の楊震の子孫だな。死後、天に黄雀(災いの暗示)を現すだろう」と言い放った。楊奇は名臣・楊震の曾孫であった。 南匈奴の屠特若尸逐就単于が死去し、子の呼征が後継した。 霊帝・光和二年(己未の年、西暦179年) 春、大疫病が流行した。 三月、司徒(宰相)の袁滂が解任され、大鴻臚(典礼長官)の劉郃が後任となった。乙丑の日(3月11日頃)、太尉(軍事長官)の橋玄が罷免され太中大夫(顧問官)に降格、代わって太中大夫の段熲が太尉に就任した。 この時、橋玄の幼い息子が邸宅の門前で誘拐され、賊が身代金を要求した。しかし橋玄は支払いを拒否。司隸校尉(首都圏長官)と河南尹(洛陽知事)が邸を包囲したが、橋玄は強硬に主張した。「賊ごときの無法を許すわけにはいかぬ!一人の子の命で国賊を逃がすことなどできん!」。突入命令により息子は賊に殺害された。橋玄は直ちに上奏した:「天下で人質事件が起きた際は、人質もろとも犯人を殺害すべきです。身代金を払えば犯罪が助長されます」。これ以降、人質事件は激減した。 長安で大地震が発生。 司空(建設長官)の袁逢が解任され、太常(祭祀長官)の張済が後任となった。 夏四月の甲戌朔(4月1日頃)、日食が観測された。 宦官の王甫や曹節らは悪政を弄し、朝廷内外を扇動していたが、太尉の段熲もこれに迎合した。 曹節・王甫の親族や子息たちが、卿(大臣)・校尉(将軍)・州牧(知事)・郡守(太守)・県令・県長などの要職を独占し、全国に勢力を張り巡らせていた。彼らの支配地域では貪欲と暴力が横行していた。 主な用語解説
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| 甫養子吉為沛相,尤殘酷,凡殺人,皆磔屍車上,隨其罪目,宣示屬縣,夏月腐爛,則以繩連其骨,周遍一郡乃止,見者駭懼。視事五年,凡殺萬餘人。尚書令陽球常拊髀發憤曰:「若陽球作司隸,此曹子安得容乎!」即而球果遷司隸。 甫使門生於京兆界辜榷官財物七千餘萬,京兆尹楊彪發其奸,言之司隸。彪,賜之子也。時甫休沐裡捨,熲方以日食自劾。球詣闕謝恩,因奏甫、熲及中常侍淳於登、袁赦、封□羽等罪惡,辛巳,悉收甫、熲等送洛陽獄,及甫子永樂少府萌、沛相吉。球自臨考甫等,五毒備極;萌先嘗為司隸,乃謂球曰:「父子既當伏誅,亦以先後之義,少以楚毒假借老父。」球曰:「爾罪惡無狀,死不滅責,乃欲論先後求假借邪!」萌乃罵曰:「爾前奉事吾父子如奴,奴敢反汝主乎!今日臨坑相擠,行自及也!」球使以土窒萌口,箠撲交至,父子悉死於杖下;熲亦自殺。乃僵磔甫屍於夏城門,大署榜曰:「賊臣王甫。」盡沒入其財產,妻子皆徙比景。 球既誅甫,欲以次表曹節等,乃敕中都官從事曰:「且先去權貴大猾,乃議其餘耳。公卿豪右若袁氏兒輩,從事自辦之,何須校尉邪!」權門聞之,莫不屏氣。曹節等皆不敢出沐。會順帝虞貴人葬,百官會喪還,曹節見磔甫屍道次,慨然抆淚曰:「我曹可自相食,何宜使犬舐其汁乎!」語諸常侍:「今且俱入,勿過裡捨也。 |
現代日本語訳王甫の養子である吉は沛の国相として非常に残酷だった。人を殺すたびにその死体を車に張り付け、罪状を記した札を添えて各県を巡回させた。夏には死体が腐敗すると、骨を縄でつないで郡内を一周させ、見る者は皆恐怖に震えた。彼が職務についた5年間で、殺害した者は1万人を超えた。 尚書令の陽球はももを叩いて激怒し、「もし私が司隷校尉になったら、こいつら(悪党ども)を生かしておくものか!」と叫んだ。するとまさに彼が司隷校尉に任命された。 王甫が配下を使い京兆地域で官有物を横領し7000万銭を着服した時、京兆尹の楊彪(楊賜の子)がこの不正を暴き、司隷校尉に報告した。ちょうど王甫が自宅で休暇中で、段熲(当時の高官)が日食の責任を取って辞任を申し出ていた時だった。陽球が宮廷に赴いて謝恩の意を表した際、王甫・段熲らと中常侍の淳于登・袁赦・封昷(※文字不明)らの罪状を奏上し、即座に王甫と段熲らを逮捕して洛陽の獄に送った。また王甫の養子である永楽少府の王萌と沛国相の王吉も捕らえた。 陽球が自ら王甫らを取り調べると、五種類の拷問を駆使して徹底的に追及した。かつて司隷校尉を務めた経験のある王萌が陽球に懇願した:「私ども父子は死刑は免れぬと覚悟しております。どうか順番を考慮し、老いた父にだけは拷問をお控えください」と。陽球は冷笑して答えた:「お前たちの罪悪は言語道断だ!死をもって償っても足りぬのに、順番だの温情だのと抜け目なく立ち回るとは!」王萌は逆上して罵った:「かつてお前は我々父子の腰巾着だったくせに!飼い犬が主人に牙をむくとはな!今日お前が我々を追い詰めたが、いつか必ず同じ目に遭うぞ!」陽球は土塊で王萌の口を塞がせ、鞭と棒で父子を打ち据えたため、二人は獄中で断命した。段熲も自害した。 陽球は王甫の死体を夏城門に晒し、大きな札に「逆賊王甫」と掲げた。財産は全て没収し、妻子は辺境の比景へ流刑とした。 王甫を処刑した陽球は、次に曹節らを弾劾する準備を進めた。彼は司隷校尉配下の官吏に命じた:「まずは権勢を誇る大物悪党を片付ける。末端の者どもはその後だ。袁氏一族のような名門貴族の子弟なら、お前たちの判断で逮捕せよ。わざわざ上層部の指示を仰ぐ必要はない!」この言葉が伝わると、権力者たちは息を潜めた。曹節らさえも休暇を返上して自宅に籠もった。 ちょうど順帝の母である虞貴人の葬儀が終わり、百官が葬列から戻る途中のことだった。道端に晒された王甫の死骸を見た曹節は涙をぬぐいながら嘆いた:「我々宦官同士で争うのはまだしも、どうして犬(陽球のような下賤の者)に屍の汁を舐めさせる必要があろうか!」そして他の常侍(宦官高官)たちに言った:「今すぐ全員で宮中に入ろう。決して自宅に寄ってはならぬ」 解説
この事件は189年の宦官大虐殺(十常侍の乱)へ至る後漢朝廷内紛の前哨戦として、歴史的に重要な場面です。陽球の急進的改革が既得権益層の反発を招く構図は、権力闘争の本質を現代にも通じる形で描いています。 Translation took 2253.6 seconds. |
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| 」節直入省,白帝曰:「陽球故酷暴吏,前三府奏當免官,以九江微功,復見擢用。愆過之人,好為妄作,不宜使在司隸,以騁毒虐。」帝乃徙球為衛尉。時球出謁陵,節敕尚書令召拜,不得稽留尺一。球被召急,因求見帝,叩頭曰:「臣無清高之行,橫蒙鷹犬之任,前雖誅王甫、段熲,蓋狐狸小丑,未足宣示天下。願假臣一月,必令豺狼鴟梟各服其辜。」叩頭流血。殿上呵叱曰:「衛尉扞詔邪!」至於再三,乃受拜。 於是曹節、朱瑀等權勢復盛。節領尚書令。郎中梁人審忠上書曰:「陛下即位之初,未能萬機,皇太后念在撫育,權時攝政,故中常侍蘇康、管霸應時誅殄。太傅陳蕃、大將軍竇武考其黨與,志清朝政。華容侯朱瑀知事覺露,禍及其身,遂興造逆謀,作亂王室,撞蹋省闥,執奪璽綬,迫脅陛下,聚會群臣,離間骨肉母子之恩,遂誅蕃、武及尹勳等。因共割裂城社,自相封賞,父子兄弟,被蒙尊榮,素所親厚,布在州郡,或登九列,或據三司。不惟祿重位尊之責,而苟營私門,多蓄財貨,繕修第捨,連裡竟巷,盜取御水,以作漁釣,車馬服玩,擬於天家。群公卿士,杜口吞聲,莫敢有言;州牧郡守,承順風旨,辟召選舉,釋賢取愚。故蟲蝗為之生,夷寇為之起,天意憤盈,積十餘年,故頻歲日食於上,地震於下,所以譴戒人主,欲令覺悟,誅金甘無狀。 |
現代日本語訳曹節が宮中に直行して皇帝に奏上した:「陽球は元来、残酷で暴虐な官吏であり、以前に三公府(最高行政機関)が彼を免職すべきと上奏していました。たとえ九江郡でのわずかな功績があっても、再び登用するのは不適切です。過ちを犯した者が軽率な行動を好むのは、彼を司隸校尉(首都監察官)の職に就かせるべきではない理由であり、そうすれば彼の毒牙と暴虐を振るわせることになります」。そこで皇帝は陽球を衛尉(宮門警備長官)に転任させた。 当時、陽球は先帝の陵墓を参拝中であったが、曹節が尚書令(宮中書簡長官)に命じて即刻任命書を交付させ、一刻の猶予も許さなかった。急ぎ呼び戻された陽球は直接皇帝に拝謁を求め、額を地面に擦りつけて懇願した:「私は清廉高潔な人物ではありません。かつて陛下の鷹犬として王甫や段熲ら小悪党を誅殺しましたが、これは世に示すに足る大業ではありません。どうか一月の猶予をお与えください。必ずや曹節ら梟雄どもを誅滅し、その罪を明らかにしてみせます」。血が出るほど地面に頭を叩きつけたが、宮中の侍臣が「衛尉が詔勅に逆らうとは何事か!」と叱責し、再三の命令の末、ようやく陽球は任命を受諾した。 こうして曹節や朱瑀らの権勢が再び盛り返した。曹節は尚書令の職務を掌握し、梁郡出身の郎中(侍従官)である審忠が上奏文を提出した: 「陛下が即位された当初、まだ万機(政務)を執ることができず、皇太后が養育の情から一時的に摂政を務められました。その際、中常侍(宦官長官)の蘇康や管霸が時流に応じて誅殺されました。その後、太傅(皇帝輔佐官)の陳蕃や大将軍の竇武が彼らの仲間を糾弾し、朝廷の粛清を志しました。ところが華容侯の朱瑀は陰謀が露見し窮地に陥ると、逆心を抱いて王室を乱し、宮中に乱入して璽綬(皇帝の印)を奪い、陛下を脅迫して群臣を召集し、母子の情を引き裂いて陳蕃・竇武・尹勳らを誅殺したのです。 その後、彼らは朝廷を分裂させ、勝手に恩賞を分配し、父子兄弟を高位に就け、身内や縁者を各地の要職に配置しました。九卿(中央高官)や三司(三公)の地位にあって、その重責を果たすどころか私利を貪り、財貨を蓄え、邸宅を豪奢に建て並べ、御用水を盗んで庭池を造り、車馬や服飾品は皇帝に匹敵するほどでした。これに対し、公卿や士大夫たちは声を押し殺し、誰も諫言できませんでした。州牧や郡守らは彼らの意を迎え、人材登用では賢者を退け愚者を採用しました。 このため天の意思は憤りに満ち、十余年もの間、天は警告を続けられました。毎年のように日食が天上で起こり、大地震が地下で発生したのは、君主を戒め、目を覚ますよう促すためだったのです。どうか凶悪無慙な者どもを誅殺し、天の怒りを鎮められますように」。 解説
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| 昔高宗以雉雊之變,故獲中興之功;近者神祇啟悟陛下,發赫斯之怒,故王甫父子應時馘截,路人士女莫不稱善,若除父母之仇。誠恐陛下復忍孽臣之類,不悉殄滅。昔秦信趙高,以危其國;吳使刑人,身遘其禍。今以不忍之恩,赦夷族之罪,奸謀一成,悔亦何及!臣為郎十五年,皆耳目聞見,瑀之所為,誠皇天所不復赦。願陛下留漏刻之聽,裁省臣表,掃滅丑類,以答天怒。與瑀考驗,有不如言,願受湯鑊之誅,妻子並徙,以絕妄言之路。」章寢不報。 中常侍呂強清忠奉公,帝以眾例封為都鄉侯,強固辭不受,因上疏陳事曰:「臣聞高祖重約,非功臣不侯,所以重天爵、明勸戒也。中常侍曹節等,宦官祐薄,品卑人賤,讒諂媚主,佞邪徼寵,有趙高之禍,未被轘裂之誅。陛下不悟,妄授茅土,開國承家,小人是用,又並及家人,重金兼紫,交結邪黨,下比群佞。陰陽乖剌,稼穡荒蕪,人用不康,罔不由茲。臣誠知封事已行,言之無逮,所以冒死干觸陳愚忠者,實願陛下損改既謬,從此一止。臣又聞後宮采女數千餘人,衣食之費日數百金,比谷雖賤而戶有饑色,案法當貴而今更賤者,由賦發繁數,以解縣官,寒不敢衣,饑不敢食,民有斯厄而莫之恤。宮女無用,填積後庭,天下雖復盡力耕桑,猶不能供。又,前召議郎蔡邕對問於金商門,邕不敢懷道迷國,而切言極對,毀刺貴臣,譏呵宦官。 |
現代日本語訳:(前段の上奏文に対する回答なし) 中常侍(皇帝側近の宦官職)の呂強は清廉で忠実であった。皇帝が彼を他の高官と同様に都郷侯に封じようとしたが、呂強は固辞して受けず、上疏して意見を述べた: 「臣(呂強)が聞くところによれば、高祖(前漢の劉邦)は『非功臣不侯(功績なき者に侯位を与えず)』という原則を重んじられました。これは天子の爵位の価値を守り、人々への戒めとするためです。ところが現在、中常侍の曹節ら宦官は──本来は卑賤の身分でありながら──主君へ媚びへつらい、権勢を弄し、趙高(秦の悪名高い宦官)のような禍を引き起こす危険をはらんでおります。にもかかわらず陛下は彼らに領地(茅土)を与えて侯に封じ、その一族までも重用なさる。彼らは金印紫綬(高官の証)を誇り、邪な党派を結び、群小と結託して政治を乱しております。このため陰陽の調和が崩れ、農作物は育たず、人々は安寧を得られません。これら全ては宦官の専横に起因しているのです。 臣は既に彼らが封侯されたことを承知しておりますが、敢えて死を覚悟で愚直な忠言を申し上げます。陛下には過ちを改め、これ以上の封爵をおやめくださいますよう。さらに申せば、後宮には数千人の采女(下級女官)がおり、その衣糧費は一日で数百金にもなります。一方、穀物の価格は法で定められた適正価格より不当に低く、農民は飢えに苦しんでおります。これは重税が原因で、人々は寒さに震えても衣類を買えず、空腹でも食を満足に得られないという悲惨な状況です。それなのに宮中では役に立たない采女を大量に養い、天下の民がどれほど耕作に励んでも、この浪費を賄いきれないのです。 さらに以前、議郎(諫言官)の蔡邕が金商門で陛下の御下問にお答えした際、彼は道義を曲げて国を誤らせることをせず、率直に意見を述べました。その中で権貴を厳しく批判し、宦官の不正を指弾したところ…(以下、蔡邕が迫害された顛末が続くと推測される)」 訳注:
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| 陛下不密其言,至令宣露,群邪項領,膏脣拭舌,競欲咀嚼,造作飛條。陛下回受誹謗,致邕刑罪,室家徙放,老幼流離,豈不負忠臣哉!今群臣皆以邕為戒,上畏不測之難,下懼劍客之害,臣知朝廷不復得聞忠言矣!故太尉段熲,武勇冠世,習於邊事,垂發服戎,功成皓首,歷事二主,勳烈獨昭。陛下既已式序,位登台司,而為司隸校尉陽球所見誣脅,一身既斃,而妻子遠播,天下惆悵,功臣失望。宜征邕更加授任,反熲家屬,則忠貞路開,眾怨以弭矣。」帝知其忠而不能用。 丁酉,赦天下。上祿長和海上言:「禮,從祖兄弟別居異財,恩義已輕,服屬疏末。而今黨人錮及五族,既乖典訓之文,有謬經常之法。」帝覽之而悟,於是黨錮自從祖以下皆得解釋。 五月,以衛尉劉寬為太尉。 護匈奴中郎將張修與南單于呼征不相能,修擅斬之,更立右賢王羌渠為單于。 秋,七月,修坐不先請而擅誅殺,檻車征詣廷尉,死。 初,司徒劉郃兄侍中鯈與竇武同謀,俱死。永樂少府陳球說郃曰:「公出自宗室,位登台鼎,天下瞻望,社稷鎮衛,豈得雷同,容容無違而已。今曹節等放縱為害,而久在左右,又公兄侍中受害節等,今可表徙衛尉陽球為司隸校尉,以次收節等誅之,政出聖主,天下太平,可翹足而待也!」郃曰:「凶豎多耳目,恐事未會,先受其禍。 |
現代日本語訳諫言の内容「陛下が発言を慎重にされなかったため、機密が漏れました。奸臣たちは首を長くして待ち構え、舌なめずりしながら、こぞって噂話を盛り上げ、根も葉もない告発文を捏造しております。その結果、陛下が誹謗を受けられる中、蔡邕(さいよう)は罪に問われ、家族は離散し、幼子も老人も流浪の身となりました。これでは忠臣に報いる道に背くとは思いませんか?今や臣下たちは皆、蔡邕の件を戒めとし、予測不能な災いを恐れ、刺客の脅威に怯えております。朝廷に再び忠言が届かぬことは明らかです。」 段熲(だんけい)の事例「かつて段熲将軍は、武勇天下に冠たり、辺境の事情に精通し、若くして軍務につき、白髪の齢まで戦功を重ね、二代の君主に仕えて輝かしい勲績を残しました。ところが陛下が正式に三公の位にお立てになったにもかかわらず、司隷校尉の陽球(ようきゅう)に誣告され、一身を滅ぼされた上、妻子は辺境に流されました。天下の人は嘆き悲しみ、功臣たちは失望しております。」 提言と皇帝の反応「どうか蔡邕を召還して要職につけ、段熲の家族を帰還させてください。そうすれば忠義の道が開け、民衆の怨みも解けるでしょう。」しかし皇帝はこの忠言の正しさを認めながらも、採用しなかった。 党錮の禁緩和丁酉の日、大赦が実施された。上禄県令の和海上奏した:「礼制によれば、従祖兄弟(いとこ違い)は別財産を持つもので、既に親族関係は疎遠です。それなのに党錮の禁では五族(高祖から玄孫まで)に連座を適用しております。これは経典の教えに反し、常法にも背いております。」皇帝はこれを聞いて悟り、党錮の禁を従祖兄弟を起点とする範囲に緩和した。 人事異動5月、衛尉の劉寛が太尉に任命された。 張修の処断護匈奴中郎将の張修は南匈奴単于の呼征(こせい)と折り合いが悪かった。張修は独断で呼征を斬殺し、右賢王の羌渠(きょうきょ)を新単于に擁立した。秋7月、張修は上奏せず独断で誅殺を実行した罪で囚人護送車に乗せられ、廷尉に引き渡されて処刑された。 陳球の陰謀以前、司徒劉郃(りゅうこう)の兄で侍中の劉鯈(りゅうちょう)が竇武(とうぶ)の陰謀に連座して処刑されていた。永楽少府の陳球が劉郃に進言した: 「閣下は皇族出身で三公の高位につき、天下の注目を集め、国家を支える立場です。迎合ばかりして事なかれ主義でいるわけにはまいりません。今、宦官の曹節らが悪政を敷き、長く皇帝の側に居座り、さらに閣下の兄上も彼らに殺害されました。ここは衛尉の陽球を司隸校尉に推挙し、順次に曹節らを捕らえて誅殺すべきです。そうすれば聖帝親政が実現し、天下太平は待つばかりとなりましょう!」 劉郃の懸念劉郃は答えた:「奸臣どもは情報網が広く、恐らく計画が成就する前に災いを受けることになりましょう。」(※原文では会話がここで途切れている) 解説この文章は後漢末期の政治的混乱を象徴する三つの核心事件を記録しています:
※歴史的背景:この陰謀は露見し、建寧元年(168年)の竇武・陳蕃の失脚後、士大夫勢力は決定的打撃を受ける。陽球は後に宦官王甫を弾劾するが逆に殺害され、党錮の禁は再強化された。後漢衰退の決定的な転機となった時期の記録です。 Translation took 2176.4 seconds. |
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| 」尚書劉納曰:「為國棟樑,傾危不持,焉用延彼相邪!」郃許諾,亦與陽球結謀。球小妻,程璜之女,由是節等頗得聞知,乃重賂璜,且脅之。璜懼迫,以球謀告節,節因共白帝曰:「郃與劉納、陳球、陽球交通書疏,謀議不軌。」帝大怒。 冬,十月,甲申,劉郃、陳球、劉納、陽球皆下獄死。 巴郡板楯蠻反,遣御史中丞蕭瑗督益州刺史討之,不克。 十二月,以光祿勳楊賜為司徒。 鮮卑寇幽、并二州。 孝靈皇帝上之下光和三年(庚申,公元一八零年) 春,正月,癸酉,赦天下。 夏,四月,江夏蠻反。 秋,酒泉地震。 冬,有星孛於狼、弧。 鮮卑寇幽、并二州。 十二月,己巳,立貴人何氏為皇后。征後兄穎川太守進為侍中。後本南陽屠家,以選入掖庭,生皇子辯,故立之。 是歲作罼圭、靈昆苑。司徒楊賜諫曰:「先帝之制,左開鴻池,右作上林,不奢不約,以合禮中。今猥規郊城之地以為苑囿,壞沃衍,廢田園,驅居民,畜禽獸,殆非所謂若保赤子之義。今城外之苑已有五六,可以逞情意,順四節也。宜惟夏禹卑宮、太宗露台之意,以尉下民之勞。」書奏,帝欲止,以問侍中任芝、樂松;對曰:「昔文王之囿百里,人以為小;齊宣五里,人以為大。今與百姓共之,無害於政也。」帝悅,遂為之。 巴郡板楯蠻反。 蒼梧、桂陽賊攻郡縣,零陵太守楊璇制馬車數十乘,以排囊盛石灰於車上,系布索於馬尾;又為兵車,專彀弓弩。 |
翻訳結果:現代日本語訳:
解説:
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| 及戰,令馬車居前,順風鼓灰,賊不得視,因以火燒布然,馬驚,奔突賊陣,因使後車弓弩亂髮,鉦鼓鳴震,群盜波駭破散,追逐傷斬無數,梟其渠帥,郡境以清。荊州刺史趙凱誣奏璇實非身破賊,而妄有其功;璇與相章奏。凱有黨助,遂檻車征璇,防禁嚴密,無由自訟;乃噬臂出血,書衣為章,具陳破賊形勢,及言凱所誣狀,潛令親屬詣厥通之。詔書原璇,拜議郎;凱受誣人之罪。璇,喬之弟也。 |
現代日本語訳戦いが始まると、馬車を前列に配置し、風向きに乗じて灰を撒き散らしたため、賊軍は視界を奪われた。さらに火をつけて布を燃やしたところ、馬が驚いて賊の陣営に突撃し、後続の車両からは弓弩を乱射させ、銅鑼や太鼓を轟かせた。群盗は波のように押し寄せたが崩壊し、追撃して無数の死傷者を出し、賊の首領を斬首したため、郡内は平定された。 解説
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| input text 資治通鑑\058_漢紀_50.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷五十八 漢紀五十 起重光作噩,盡強圉單閼,凡七年。 孝靈皇帝中 光和四年(辛酉,公元一八一年) 1 春,正月,初置騄驥廄丞,領受郡國調馬。豪右辜榷,馬一匹至二百萬。 2 夏,四月,庚〔午〕(子),赦天下。 3 交趾烏滸蠻久為亂,牧守不能禁。交趾人梁龍等復反,攻破郡縣。詔拜蘭陵令會稽朱儁為交趾刺史,擊斬梁龍,降者數萬人,旬月盡定;以功封都亭侯,徵為諫議大夫。 4 六月,庚辰,雨雹如雞子。 5 秋,九月,庚寅朔,日有食之。 6 太尉劉寬免;衛尉許戫為太尉。 7 閏月,辛酉,北宮東掖庭永巷署災。 8 司徒楊賜罷。冬,十月,太常陳耽為司徒。 9 鮮卑寇幽、并二州。檀石槐死,子和連代立。和連才力不及父而貪淫,後出攻北地,北地人射殺之。其子騫曼尚幼,兄子魁頭立。後騫曼長大,與魁頭爭國,眾遂離散。魁頭死,弟步度根立。 10 是歲,帝作列肆於後宮,使諸采女販賣,更相盜竊爭鬥;帝著商賈服,從之飲宴為樂。又於西園弄狗,著進賢冠,帶綬。又駕四驢,帝躬自操轡,驅馳周旋;京師轉相倣傚,驢價遂與馬齊。 帝好為私蓄,收天下之珍貨,每郡國貢獻,先輸中署,名為「導行費」。中常侍呂強上疏諫曰:「天下之財,莫不生之陰陽,歸之陛下,豈有公私!而今中尚方斂諸郡之寶,中御府積天下之繒,西園引司農之藏,中廄聚太僕之馬;而所輸之府,輒有導行之財,調廣民困,費多獻少,奸吏因其利,百姓受其敝。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻五十八 漢紀五十 光武帝の時代から始まり、強圉単閼年に至るまで、7年間を記す。 孝霊皇帝中 光和4年(辛酉、181年)
解説
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| 又,阿媚之臣,好獻其私,容諂姑息,自此而進。舊典:選舉委任三府,尚書受奏御而已;受試任用,責以成功,功無可察,然後付之尚書舉劾,請下廷尉覆案虛實,行其罪罰。於是三公每有所選,參議掾屬,咨其行狀,度其器能;然猶有曠職廢官,荒穢不治。今但任尚書,或有詔用,如是,三公得免選舉之負,尚書亦復不坐,責賞無歸,豈肯空自勞苦乎!」書奏,不省。 11 何皇后性強忌,後宮王美人生皇子協,后鴆殺美人。帝大怒,欲廢后;諸中官固請,得止。 12 大長秋華容侯曹節卒;中常侍趙忠代領大長秋。 光和五年(壬戌,公元一八二年) 1 春,正月,辛未,赦天下。 2 詔公卿以謠言舉刺史、二千石為民蠹害者。太尉許戫、司空張濟承望內官,受取貨賂,其宦者子弟、賓客,雖貪污穢濁,皆不敢問,而虛糾邊遠小郡清修有惠化者二十六人,吏民詣闕陳訴。司徒陳耽上言:「公卿所舉,率黨其私,所謂放鴟梟而囚鸞鳳。」帝以讓戫、濟,由是諸坐謠言徵者,悉拜議郎。 3 二月,大疫。 4 三月,司徒陳耽免。 5 夏,四月,旱。 6 以太常袁隗為司徒。 7 五月,庚申,永樂宮署災。 8 秋,七月,有星孛于太微。 9 板楯蠻寇亂巴郡,連年討之,不能剋。帝欲大發兵,以問益州計吏漢中程包,對曰:「板楯七姓,自秦世立功,復其租賦。 |
現代日本語訳:前史(何皇后と曹節の事跡):
光和5年(西暦182年)の記録:
解説(現代の視点で補足):
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| 其人勇猛善戰。昔永初中,羌入漢川,郡縣破壞,得板楯救之,羌死敗殆盡,羌人號為神兵,傳語種輩,勿復南行。至建和二年,羌復大入,實賴板楯連摧破之。前車騎將軍馮緄南征武陵,亦倚板楯以成其功。近益州郡亂,太守李顒亦以板楯討而平之。忠功如此,本無噁心。長吏鄉亭更賦至重,僕役棰楚,過於奴虜。亦有嫁妻賣子,或乃至自剄割,雖陳冤州郡,而牧守不為通理,闕庭悠遠,不能自聞,含怨呼天,無所叩訴。故邑落相聚以〔致〕叛戾,非有謀主僭號以圖不軌。今但選明能牧守,自然安集,不煩征伐也。」帝從其言,選用太守曹謙,遣宣詔赦之,即時皆降。 10 八月,起四百尺觀於阿亭道。 11 冬,十月,太尉許戫罷;以太常楊賜為太尉。 12 帝校獵上林苑,歷函谷關,遂狩于廣成苑。十二月,還,幸太學。 13 桓典為侍御史,宦官畏之。典常乘驄馬,京師為之語曰:「行行且止,避驄馬御史!」典,焉之孫也。 光和六年(癸亥,公元一八三年) 1 春,三月,辛未,赦天下。 2 夏,大旱。 3 爵號皇后母為舞陽君。 4 秋,金城河水溢出二十餘里。 5 五原山岸崩。 6 初,巨鹿張角奉事黃、老,以妖術教授,號「太平道」。呪符水以療病,令病者跪拜首過,或時病癒,眾共神而信之。角分遣弟子周行四方,轉相誑誘,十餘年間,徒眾數十萬,自青、徐、幽、冀、荊、揚、兗、豫八州之人,莫不畢應。 |
現代日本語訳板楯蛮の反乱と対応彼ら(板楯蛮)は非常に勇猛で戦いに長けていた。かつて永初年間(107-113年)に羌族が漢中に侵攻した際、郡県が破壊されたが、板楯蛮が救援に現れ、羌族を壊滅寸前まで追い込んだ。彼らは「神兵」と称され、人々は「二度と侵攻するな」と警告した。建和2年(148年)に羌族が再び大規模に侵攻した時も、板楯蛮の連続した攻撃によって撃退された。前車騎将軍の馮緄が武陵を征討した際にも、板楯蛮の力を借りて成功を収めた。最近では益州郡で反乱が起きたが、太守の李顒が板楯蛮を率いて平定した。彼らはこれほどの功績を挙げながら、元々悪意など持っていなかった。 しかし地方官吏たちは重税を課し、労役を強制し、奴隷以下の扱いをした。人々は妻子を売り渡し、自ら首を刎ねる者さえ現れた。朝廷に冤罪を訴え出ても、地方官は取り合わず、朝廷は遠くて訴えが届かない。人々は天を仰いで恨みを募らせ、訴える場所もなかった。こうして集落ごと結束して反抗したが、それは指導者が僭称して謀反を企てたわけではない。現在、有能な太守を選任するだけで、自然と民は安心して帰順し、武力征伐の必要はない。 皇帝はこの意見を容れ、太守に曹謙を任命した。詔書を携えた使者が現れると、反乱軍は即時に投降した。 年度別事件記録光和2年(179年) - 8月:阿亭道に高さ400尺(約92m)の望楼を建造。 光和6年(183年) - 春3月辛未の日:大赦令を発布。 - 夏:大旱魃が発生。 - 秋:金城郡の黄河が氾濫、20余里(約10km)に浸水。 - 五原郡で山崩れが発生。 官吏の異動
皇帝の行幸
桓典の逸話侍御史に任命された桓典は、宦官たちから恐れられた。彼は常に青白い馬に乗っていたため、都の人々は「青馬御史を避けよ」と言い合った。桓典は桓焉(後漢の名臣)の子孫である。 張角と太平道の台頭初期動向: 巨鹿郡の張角は黄老思想(道家)を奉じ、妖術を用いて教えを広め、「太平道」と称した。符水(呪文を唱えた水)で病気を治療し、患者に跪いて過ちを悔いるよう指導した。時に病気が治癒すると、人々は神がかった力と信じ込んだ。 組織拡大: 張角は弟子たちを四方に派遣し、互いに誘導させた。十余年のうちに信徒は数十万人に膨れ上がり、青州・徐州・幽州・冀州・荊州・揚州・兗州・豫州の八州全域に及び、ほぼ全ての民が帰依した。 解説(訳注)
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| 或棄賣財產、流移奔赴,填塞道路,未至病死者亦以萬數。郡縣不解其意,反言角以善道教化,為民所歸。 太尉楊賜時為司徒,上書言:「角誑曜百姓,遭赦不悔,稍益滋蔓。今若下州郡捕討,恐更騷擾,速成其患。宜切敕刺史、二千石,簡別流民,各護歸本郡,以孤弱其黨,然後誅其渠帥,可不勞而定。」會賜去位,事遂留中。司徒掾劉陶復上疏申賜前議,言:「角等陰謀益甚,四方私言,云角等竊入京師,覘視朝政。鳥聲獸心,私共鳴呼。州郡忌諱,不欲聞之,但更相告語,莫肯公文。宜下明詔,重募角等,賞以國土,有敢迴避,與之同罪。」帝殊不為意,方詔陶次第春秋條例。 角遂置三十六方,方猶將軍也。大方萬餘人,小方六七千,各立渠帥。訛言:「蒼天已死,黃天當立,歲在甲子,天下大吉。」以白土書京城寺門及州郡官府,皆作「甲子」字。大方馬元義等先收荊、揚數萬人,期會發於鄴。元義數往來京師,以中常侍封諝、徐奉等為內應,約以三月五日內外俱起。 中平元年(甲子,公元一八四年) 1 春,角弟子濟南唐周上書告之。於是收馬元義,車裂於雒陽。詔三公、司隸案驗宮省直衛及百姓有事角道者,誅殺千餘人;下冀州逐捕角等。角等知事已露,晨夜馳敕諸方,一時俱起,皆著黃巾以為標幟,故時人謂之「黃巾賊」。 |
現代日本語訳本文多くの者が財産を捨て、住み慣れた土地を離れて(張角のもとに)駆けつけたため、道路は人で溢れかえり、目的地に着く前に病気で亡くなる者も数万人に上った。しかし郡や県の役人たちはその真意を理解せず、かえって「張角が善の教えで民衆を導いている」と言い広めた。 当時、太尉(軍事長官)であった楊賜は司徒(民政長官)として上奏し、こう述べた。 「張角は民衆を惑わし、朝廷の赦令があっても改心せず、勢力を拡大し続けています。今、地方官に逮捕させれば、かえって混乱を招き、反乱を早めるでしょう。まずは州刺史や太守(二千石の官)に命じ、流民を選別させ、それぞれ出身地に送還させて反乱勢力を弱体化させるべきです。その後で首謀者を討てば、労せずして鎮圧できます」 しかし楊賜が辞任したため、この提言は放置された。司徒の属官である劉陶が再度同様の意見を上奏した。 「張角らの陰謀は深刻化しており、各地で『張角一派が都に潜入し朝廷を探っている』との噂が流れています。彼らは人面獣心の輩であり、地方官は問題を隠蔽し、互いに口止めしあって正式な報告を怠っています。直ちに詔を発し、張角らを高額で懸賞すべきです。協力を拒む者は同罪とすると明記すべきです」 それでも霊帝は意に介さず、劉陶に『春秋』の条例整理を命じるだけだった。 (計画が露見しないと確信した)張角は三十六の方面軍(「方」)を設置した。各「方」は将軍に相当し、大規模な方は1万人以上、小規模な方でも6~7千人を擁し、それぞれ指揮官を置いた。彼らは「蒼天(漢王朝)は死に、黄天(黄巾軍)が立つ。甲子の年(184年)には天下は大吉となる」とスローガンを掲げ、洛陽の寺門や地方官庁に白土で「甲子」と書かせた。 大方(大部隊)の指揮官・馬元義は荊州・揚州から数万人を集め、鄴(魏郡)で決起の準備を整えた。馬元義はたびたび洛陽に入り、宦官の封諝(ふうしょ)・徐奉らを内応者として獲得。3月5日に内外同時決起を約束した。 中平元年(甲子、184年)の記録1 春 張角らは計画が露見したことを知ると、昼夜を問わず全方面軍に緊急指令を発し、一斉決起を命じた。兵士は全員黄巾を頭に巻き目印としたため、世間では彼らを「黄巾賊」と呼んだ。 解説歴史的背景この文章は『資治通鑑』に記された黄巾の乱勃発前夜の様子です。後漢末期(184年)、太平道の教祖・張角が組織した大規模な反乱は、漢王朝衰退の決定打となりました。特徴的なのは: - 宗教的基盤:病気治療を装って民衆を組織化 - 情報戦:都の宦官を内通者に獲得 - 大衆動員:「蒼天已死 黄天当立」のスローガンで民心掌握 支配層の対応失敗
事件の影響黄巾の乱は三国時代の幕開けを決定づけました: - 混乱の中で曹操・劉備・孫堅らが台頭 - 地方軍閥の独立傾向が加速 - 漢王朝の権威が決定的に失墜 歴史家・司馬光がこの事件を詳細に記した意図は、為政者の危機察知能力の重要性を後世に伝えるためだったと考えられます。情報を軽視した霊帝の対応は、現代の組織運営にも通じる教訓を含んでいます。 Translation took 2063.8 seconds. |
| 二月,角自稱天公將軍,角弟寶稱地公將軍,寶弟梁稱人公將軍,所在燔燒官府,劫略聚邑,州郡失據,長吏多逃亡;旬月之間,天下響應,京師震動。安平、甘陵人各執其王應賊。 三月,戊申,以河南尹何進為大將軍,封慎侯,率左右羽林、五營營士屯都亭,修理器械,以鎮京師;置函谷、太谷、廣成、伊闕、轘轅、旋門、孟津、小平津八關都尉。 帝召群臣會議。北地太守皇甫嵩以為宜解黨禁,益出中藏錢、西園廄馬以班軍士。嵩,規之兄子也。上問計於中常侍呂強,對曰:「黨錮久積,人情怨憤,若不赦宥,輕與張角合謀,為變滋大,悔之無救。今請先誅左右貪濁者,大赦黨人,料簡刺史、二千石能否,則盜無不平矣。」帝懼而從之。壬子,赦天下黨人,還諸徙者;唯張角不赦。發天下精兵,遺北中郎將盧植討張角,左中郎將皇甫嵩、右中郎將朱儁討潁川黃巾。 是時中常侍趙忠、張讓、夏惲、郭勝、段珪、宋典等皆封侯貴寵,上常言:「張常侍是我公,趙常侍是我母。」由是宦官無所憚畏,並起第宅,擬則宮室。上嘗欲登永安候臺,宦官恐望見其居處,乃使中大人尚但諫曰:「天子不當登高,登高則百姓虛散。」上自是不敢復升臺榭。及封諝、徐奉事發,上詰責諸常侍曰:「汝曹常言黨人欲為不軌,皆令禁錮,或有伏誅者。今黨人更為國用,汝曹反與張角通,為可斬未?」皆叩頭曰:「此王甫、侯覽所為也!」於是諸常侍人人求退,各自徵還宗親、子弟在州郡者。 |
現代日本語訳(抄訳)黄巾の乱の勃発と朝廷の対応二月、張角は自ら「天公将軍」と称し、弟の張宝は「地公将軍」、張梁は「人公将軍」と名乗った。彼らは各地で役所を襲撃し、集落を略奪。州や郡の統治は崩壊し、高官たちは逃亡した。一ヶ月足らずで反乱は全国に波及し、都・洛陽は震撼した。安平(河北省)と甘陵(山東省)では、現地の諸侯王までもが反乱軍に加担する事態となった。 三月戊申の日、霊帝は何進(皇后の兄)を大将軍に任命し「慎侯」の爵位を与えた。何進は近衛軍「羽林」と五営の精鋭を率いて都亭(洛陽防衛の要衝)に駐屯し、軍備を整えて帝都の守りを固めた。さらに函谷関・太谷関など戦略的要衝「八関」に防衛司令官を配置した。 朝廷会議と党錮の禁解除霊帝が重臣を集めて協議すると、北地太守の皇甫嵩(名将皇甫規の甥)が進言した。「党錮の禁(清流派官僚への弾圧)を解除すべきです。中央の腐敗官僚を粛清し、追放された人士を赦免すれば、民衆が張角に与するのを防げます」。これを受け霊帝は中常侍(宦官の最高職)の呂強にも意見を求めた。 呂強は言上した。「党錮政策が長期化し、人々の怨みは頂点に達しています。このままでは民衆が反乱軍に加担し、手遅れになりましょう。早急に(宦官側の)汚職官僚を処断し、追放人士を赦免すべきです。さらに州長官らの人事を適正化すれば、反乱鎮圧は可能です」。 霊帝は危機感を抱き、呂強の進言を容れた。壬子の日、党錮の禁は正式解除され、追放されていた人士は帰還を許された。ただし張角だけは赦免対象外とした。朝廷は精鋭部隊を動員し、盧植を北中郎将(討伐軍総司令)に任命して張角討伐を命じ、皇甫嵩と朱儁には左・右中郎将として潁川(河南省)の黄巾賊鎮圧を命じた。 宦官専横と皇帝の覚醒当時、中常侍の趙忠・張ら宦官らは列侯に封じられ絶大な権勢を誇っていた。霊帝は公然と「張常侍こそわが父、趙常侍こそわが母」と発言するほどで、宦官たちは畏れることなく宮殿を模した豪邸を建設していた。 ある時霊帝が永安宮の高台(洛陽を見渡せる展望台)に登ろうとすると、宦官たちは密かに高官・尚但を使者として遣わし「天子が高所に登られれば民力が衰える(不吉の兆し)」と奏上させた。霊帝はそれ以来、高台に登るのを控えるようになった。 宦官スキャンダルと責任転嫁後に宦官の封諝・徐奉が黄巾賊と内通していた罪が発覚すると、霊帝はようやく激怒した。中常侍たちを詰問する場面では「お前たちは『清流派こそ反逆者』と誣告して弾圧しておきながら、今や彼らが国難を救う中、お前たちは賊と通じた。処刑に値するとは思わぬか!」と叱責した。 宦官たちは震えながら平伏し「全ては王甫・侯覧(既に失脚した宦官)の仕業です!」と責任を死者に転嫁した。このスキャンダルにより中常侍たちは相次いで辞任を願い出て、地方に配置していた一族や子弟を緊急で都に召還した。 解説(抄訳の背景と表現意図)
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| 趙忠、夏惲等遂共譖呂強,云與黨人共議朝廷,數讀《霍光傳》。強兄弟所在並皆貪穢。帝使中黃門持兵召強。強聞帝召,怒曰:「吾死,亂起矣!丈夫欲盡忠國家,豈能對獄吏乎!」遂自殺。忠、惲復譖曰:「強見召,未知所問而就外自屏,有奸明審。」遂收捕其宗親,沒入財產。 侍中河內向栩上便宜,譏刺左右。張讓誣栩與張角同心,欲為內應,收送黃門北寺獄,殺之。郎中中山張鈞上書曰:「竊惟張角所以能興兵作亂,萬民所以樂附之者,其源皆由十常侍多放父兄、子弟、婚親、賓客典據州郡,辜榷財利,侵掠百姓,百姓之冤,無所告訴,故謀議不軌,聚為盜賊。宜斬十常侍,縣頭南郊,以謝百姓,遣使者佈告天下,可不須師旅而大寇自消。」帝以鈞章示諸常侍,皆免冠徒跣頓首,乞自致雒陽詔獄,並出家財以助軍費。有詔,皆冠履視事如故。帝怒鈞曰:「此真狂子也!十常侍固常有一人善者不!」御史承旨,遂誣奏鈞學黃巾道,收掠,死獄中。 2 庚子,南陽黃巾張曼成攻殺太守褚貢。 3 帝問太尉楊賜以黃巾事,賜所對切直,帝不悅。夏,四月,賜坐寇賊免。以太僕弘農鄧盛為太尉。已而帝閱錄故事,得賜與劉陶所上張角奏,乃封賜為臨晉侯,陶為中陵鄉侯。 4 司空張濟罷;以大司農張溫為司空。 5 皇甫嵩、朱儁合將四萬餘人,共討潁川〔黃巾〕,嵩、儁各統一軍。 |
現代日本語訳趙忠や夏惥らは共謀して呂強を讒言し、「彼は党人(弾圧された知識人グループ)と結託して朝廷を批判し、『霍光伝』(権臣の伝記)を繰り返し読んでいる」と告げた。呂強の兄弟たちは皆、汚職に手を染めていた。霊帝は宦官を派遣し、武器を持たせて呂強を召喚した。呂強は召喚を聞くと怒って言った。「私が死ねば乱が起こる! 大丈夫たる者、獄吏の取り調べなど受けられぬ!」 そして自害した。趙忠と夏惥はさらに讒言を続けた。「呂強は召喚されると、尋問内容も聞かぬうちに自ら命を絶った。これは明らかに悪事を隠す行為だ」と。こうして呂強の親族は逮捕され、財産は没収された。 侍中(皇帝側近)の河内出身・向栩は政策提言で宦官勢力を批判した。張譲は「向栩は張角(黄巾の乱の首謀者)と内通している」と誣告し、向栩を黄門北寺獄(宦官管轄の牢獄)へ送致して処刑した。 郎中(官職名)の中山出身・張鈞は上奏した。「張角が乱を起こし、民衆がこれに同調する根本原因は、十常侍(権力宦官グループ)が各州に一族を配置し、私腹を肥やし、民衆を苦しめたことにあります。民の冤罪は訴える先もなく、不満が反乱へとつながったのです。十常侍の首を切り、都の南門に晒すべきです。さらに使者を派遣して詔書を公布し、軍隊を動員せずとも大乱は鎮まるでしょう」。霊帝は張鈞の上奏文を十常侍に見せた。彼らは皆、冠を外し裸足で平伏し、「どうか洛陽の詔獄(皇帝直属の牢獄)へ我らを送ってください」と懇願し、私財を軍資金に提供すると申し出た。霊帝は詔を下し「彼らは元の通り職務に就け」と命じた。そして張鈞に向かって怒鳴った「お前こそ狂人だ! 十常侍の中に一人だって善人がいないはずがない!」。御史(監察官)は帝の意を汲み、張鈞を「張角の妖術を学んだ」と誣告して逮捕。獄中で拷問死させた。
解説
この訳文では、『資治通鑑』が伝える「宦官政治の腐敗と乱世の萌芽」を、現代日本語で正確かつ批判的に再現するよう努めた。特に張鈞の諫言とその悲劇的結末に、当時の知識人が直面したジレンマが凝縮されている。 Translation took 2203.8 seconds. |
| 儁與賊波才戰,敗;嵩進保長社。 6 汝南黃巾敗太守趙謙於邵陵。廣陽黃巾殺幽州刺吏郭勳及太守劉衛。 7 波才圍皇甫嵩於長社。嵩兵少,軍中皆恐。賊依草結營,會大風,嵩約敕軍士皆束苣乘城,使銳士間出圍外,縱火大呼,城上舉燎應之,嵩從城中鼓噪而出,奔擊賊陳,賊驚亂,奔走。會騎都尉沛國曹操將兵適至,五月,嵩、操與朱儁合軍,更與賊戰,大破之,斬首數萬級。封嵩都鄉侯。 操父嵩,為中常侍曹騰養子,不能審其生出本末,或雲夏侯氏子也。操少機警,有權數,而任俠放蕩,不治行業。世人未之奇也,唯太尉橋玄及南陽何顒異焉。玄謂操曰:「天下將亂,非命世之才,不能濟也。能安之者,其在君乎!」顒見操,歎曰:「漢家將亡,安天下者,必此人也。」玄謂操曰:「君未有名,可交許子將。」子將者,訓之從子劭也,好人倫,多所賞識,與從兄靖俱有高名,好共覈論鄉黨人物,每月輒更其品題,故汝南俗有月旦評焉。嘗為郡功曹,府中聞之,莫不改操飾行。曹操往造劭而問之曰:「我何如人?」劭鄙其為人,不答。操乃劫之,劭曰:「子,治世之能臣,亂世之奸雄。」操大喜而去。 朱儁之擊黃巾也,其護軍司馬北地傅燮上疏曰:「臣聞天下之禍不由於外,皆興於內。是故虞舜先除四凶,然後用十六相,明惡人不去,則善人無由進也。 |
現代語訳(『資治通鑑』抜粋)皇甫嵩は賊軍の波才と戦って敗れ、長社に退却して防備を固めた。 曹操の父・曹嵩は中常侍・曹騰の養子で出生経緯が不明であり夏侯氏出身とする説もある。若き日の操は機転が利き策略家であったが、任侠を気取り放蕩生活にふけり生業を持たなかったため世間から評価されず、ただ太尉・橋玄と南陽の何顒だけが彼を高く買っていた。橋玄は「天下は乱れようとしており、時代を動かす才なければ救えない。その大任は貴公にこそあろう」と言い、何顒も曹操を見て嘆息し「漢王朝は滅びゆくだろうが天下を治める者はこの人物だ」と語った。橋玄はさらに進言した。「君の名声は未熟だから許子将のもとに通うといい」。許劭(字・子将)は人材評価に優れ、従兄の許靖と共に毎月郷里の人物を格付けする「月旦評」で名高く、郡功曹として着任すると官衙内がこぞって行動を改めたという。曹操がある日訪ねて「私はどういう人間か?」と問うたところ、許劭は操の人柄を嫌悪して黙していたため操が脅すと、「治世なら有能な臣下だが乱世では奸計を用いる梟雄となろう」と言い放った。これを聞いた曹操は大笑いしながら去っていった。 朱儁が黄巾賊討伐に向かった際、配下の護軍司馬・傅燮(北地郡出身)が上奏した。「臣が考えるに天下の災禍は外から生じるものではなく全て内部より発します。虞舜帝はまず四凶を除いて後に十六相を用いたのは『悪人を排せねば善人は登用されぬ』という道理を示しているのです」。 解説
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| 今張角起於趙、魏,黃巾亂於六州,此皆釁發蕭牆而禍延四海者也。臣受戎任,奉辭伐罪,始到潁川,戰無不克。黃巾雖盛,不足為廟堂憂也。臣之所懼,在於治水不自其源,末流彌增其廣耳。陛下仁德寬容,多所不忍,故閹豎弄權,忠臣不進。誠使張角梟夷,黃巾變服,臣之所憂,甫益深耳。何者?夫邪正之人不宜共國,亦猶冰炭不可同器。彼知正人之功顯而危亡之兆見,皆將巧辭飾說,共長虛偽。夫孝子疑於屢至,市虎成於三夫,若不詳察真偽,忠臣將復有杜郵之戮矣!陛下宜思虞舜四罪之舉,速行讒佞之誅,則善人思進,奸凶自息。」趙忠見其疏而惡之。燮擊黃巾,功多當封,忠譖訴之。帝識燮言,得不加罪,竟亦不封。 8 張曼成屯宛下百餘日。六月,南陽太守秦頡擊曼成,斬之。 9 交趾土多珍貨,前後刺史多無清行,財計盈給,輒求遷代,故吏民怨叛,執刺史及合浦太守來達,自稱柱天將軍。三府選京令東郡賈琮為交趾刺史。琮到部,訊其反狀,咸言「賦斂過重,百姓莫不空單。京師遙遠,告冤無所,民不聊生,故聚為盜賊。」琮即移書告示,各使安其資業,招撫荒散,蠲復徭役,誅斬渠帥為大害者,簡選良吏試守諸縣,歲間蕩定,百姓以安。巷路為之歌曰:「賈父來晚,使我先反;今見清平,吏不敢飯!」 10 皇甫嵩、朱儁乘勝進討汝南、陳國黃巾,追波才於陽翟,擊彭脫於西華,並破之,餘賊降散,三郡悉平。 |
現代日本語訳張角の乱と朝廷への進言今、張角が趙・魏の地で蜂起し、黄巾賊の乱が六州に広がっている。これは全て朝廷内部の弊害が原因で、その災いが全国に及んだものである。私(皇甫嵩)が軍事を命じられ正義の軍を率いて潁川へ赴いたところ、戦えば必ず勝利した。黄巾賊の勢力は大きいが、朝廷が心配するほどのものではない。私が危惧するのは、洪水の根本原因を治めず下流だけ処理するようなもので、かえって被害を拡大させることだ。陛下のご仁徳は広大で寛容だが、それゆえ宦官たちが権力をほしいままにし、忠義の臣が朝廷に出仕できない。たとえ張角を討ち黄巾賊を鎮圧しても、私の憂いはむしろ深まる。なぜなら、邪な者と正しい者が朝廷に共存すべきではなく、それは氷と炭火を同じ器に入れるようなものだからだ。彼ら(宦官)は忠臣の功績を見て危機を感じると、巧みな言葉で偽りを飾り、虚偽を蔓延させる。例えれば、孝行息子でも繰り返し疑われれば信用されなくなる(曾参の故事)ように、町で虎が出るという噂も三度言われれば真実となる(三人市虎の故事)。もし真偽を厳しく見極めなければ、忠臣は杜郵で自害した白起のような末路をたどるだろう。どうか陛下には虞舜が四凶を放逐した故事に倣い、速やかに奸臣を断罪されたい。そうすれば善良な人材が進んで仕え、悪党は自然に消滅するだろう。 趙忠の反感と皇甫嵩の不遇この上奏文を見た宦官・趙忠は深く恨んだ。皇甫嵩が黄巾賊討伐で大功を立て恩賞を受けるべき時、趙忠は讒言して彼を陥れた。しかし皇帝は皇甫嵩の忠言を理解し、罪に問うことはしなかった。ただ、恩賞も与えられなかったのである。 各地の戦況張曼成の討伐張曼成が宛城に百日余り駐屯した。六月、南陽太守・秦頡が張曼成を攻撃し討ち取った。 交趾の反乱と賈琮の善政交趾の地は珍宝が豊富だったが、歴代の刺史は清廉でなく、財貨が満ちるとすぐ転任を願い出た。そのため役人と民衆は怨みを募らせ反乱を起こし、刺史と合浦太守・来達を捕らえた首謀者は自ら「柱天将軍」と称した。三府(三公の官府)は協議し、東郡の賈琮を交趾刺史に任命した。賈琮が着任すると反乱者を呼び事情を聴取したところ、皆が「税が重すぎて民は財産を失い、都は遠く訴える場所もなく、生活の糧を絶たれたため賊になった」と述べた。賈琮は直ちに布告を出して民を安心させ、離散した者を呼び戻し、労役を免除した。大害を与えた首謀者を処刑すると、良吏を選んで各県を暫定統治させた。一年で反乱は鎮まり、民は安堵した。巷ではこう歌われた。「賈父(賈琮)がもっと早く来てくれれば、我々が賊になることもなかった。今こそ清らかな治世が訪れ、役人も民から飯すら受け取れない!」 皇甫嵩・朱儁の進撃皇甫嵩と朱儁は勝利に乗じて汝南・陳国の黄巾賊を討伐し、波才を陽翟まで追撃し、彭脱を西華で攻撃した。両軍ともこれを撃破し、残党は降伏・離散した。これにより三郡は完全に平定された。 解説この文章は『後漢書』などに基づく黄巾の乱の記録です。以下の点に注目してください:
この訳文では、歴史的固有名詞は原音に近い表記(皇甫嵩=こうほすう、朱儁=しゅしゅん)を用いつつ、故事や制度は現代日本語で分かりやすく表現しました。特に「民衆の歌」はリズムを重視し七五調で訳出しています。 Translation took 3669.9 seconds. |
| 嵩乃上言其狀,以功歸儁,於是進封儁西鄉侯,遷鎮賊中郎將。詔嵩討東郡,儁討南陽。 北中郎將盧植連戰破張角,斬獲萬餘人,角等走保廣宗。植築圍鑿塹,造作雲梯,垂當拔之。帝遣小黃門左豐視軍,或勸植以賂送豐,植不肯。豐還,言於帝曰:「廣宗賊易破耳,盧中郎固壘息軍,以待天誅。」帝怒,檻車徵植,減死一等;遣東中郎將隴西董卓代之。 11 巴郡張脩以妖術為人療病,其法略與張角同,令病家出五斗米,號「五斗米師」。秋,七月,脩聚眾反,寇郡縣;時人謂之「米賊」。 12 八月,皇甫嵩與黃巾戰於蒼亭,獲其帥卜已。董卓攻張角無功,抵罪。己已,詔嵩討角。 13 九月,安平王續坐不道,誅,國除。 初,續為黃巾所虜,國人贖之得還,朝廷議復其國。議郎李燮曰:「續守籓不稱,損辱聖朝,不宜復國。」朝廷不從。燮坐謗毀宗室,輸作左校,未滿歲,王坐誅,乃復拜議郎。京師為之語曰:「父不肯立帝,子不肯立王。」 14 冬,十月,皇甫嵩與張角弟梁戰於廣宗,梁眾精勇,嵩不能剋。明日,乃閉營休士以觀其變,知賊意稍懈,乃潛夜勒兵,雞鳴,馳赴其陳,戰至晡時,大破之,斬梁,獲首三萬級,赴河死者五萬許人。角先已病死,剖棺戮屍,傳首京師。十一月,嵩復攻角弟寶於下曲陽,斬之,斬獲十餘萬人。 |
現代日本語訳:皇甫嵩は張角の弟・張梁と広宗で戦った。張梁軍は精鋭で士気が高く、皇甫嵩は打ち破れなかった。翌日、皇甫嵩は陣営を閉じて兵士を休ませ、敵の動向を観察した。賊軍の緊張が緩んだのを見て取ると、夜陰に乗じて密かに軍勢を整え、鶏が鳴く頃(夜明け前)に敵陣へ突撃した。戦いは日暮れ(午後3時頃)まで続いたが、ついに大勝し、張梁を斬り、3万の首級を挙げ、河に追い落として溺死させた者は約5万人に上った。 張角は既に病死していたため、棺を割って死体を損壊し、その首を都へ送った。11月、皇甫嵩は張角の弟・張宝を下曲陽で攻め、これを斬り、10万人以上を斬殺・捕虜とした。 解説:
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| 即拜嵩為左車騎將軍領冀州牧,封槐裡侯。嵩能溫恤士卒,每軍行頓止,須營幔修立,然後就捨,軍士皆食,爾乃嘗飯,故所向有功。 15 北地先零羌及枹罕、河關群盜反,共立湟中義從胡北宮伯玉、李文侯為將軍,殺護羌校尉泠徵。金城人邊章、韓遂素著名西州,群盜誘而劫之,使專任軍政,殺金城太守陳懿,攻燒州郡。 初,武威太守倚恃權貴,恣行貪暴,涼州從事武都蘇正和案致其罪。刺史梁鵠懼,欲殺正和以免其負,訪於漢陽長史敦煌蓋勳。勳素與正和有仇,或勸勳因此報之,勳曰:「謀事殺良,非忠也;乘人之危,非仁也。」乃諫鵠曰:「夫紲食鷹隼,欲其鷙也。鷙而亨之,將何用哉!」鵠乃止。正和詣勳求謝,勳不見,曰:「吾為梁使君謀,不為蘇正和也。」怨之如初。 後刺史左昌盜軍穀數萬,勳諫之。昌怒,使勳與從事辛曾、孔常別屯阿陽以拒賊,欲因軍事罪之;而勳數有戰功。及北宮伯玉之攻金城也,勳勸昌救之,昌不從。陳懿既死,邊章等進圍昌於冀。昌召勳等自救,辛曾等疑不肯赴,勳怒曰:「昔莊賈後期,穰苴奮劍。今之從事,豈重於古之監軍乎!」曾等懼而從之。勳至冀,誚讓章等以背叛之罪。皆曰:「左使君若早從君言,以兵臨我,庶可自改;今罪已重,不得降也。」乃解圍去。 叛羌圍校尉夏育於畜官,勳與州郡合兵救育,至狐槃,為羌所敗。 |
現代日本語訳直ちに皇甫嵩を左車騎将軍に任命し、冀州牧を兼任させ槐里侯に封じた。嵩は兵士たちを常に思いやり温かく接した。行軍して駐屯する際には必ず陣営の幕舎が完全に整うまで待ち、その後自ら休息した。また兵士全員が食事を終えるまでは決して自らの食事を取らず、そのため戦えば常に勝利を得た。 北地郡の先零羌や枹罕・河関の賊徒たちが反旗を翻し、共に湟中の義従胡である北宮伯玉と李文侯を将軍として擁立した。彼らは護羌校尉泠徵を殺害。金城出身で西州に名を知られた辺章と韓遂を誘い出して脅迫し、軍事の全権を担当させた。こうして金城太守陳懿を殺害し、州郡を攻撃・放火した。 当初、武威太守が権力者を頼みに横暴な統治を行ったため、涼州従事である蘇正和はその罪状を糾弾した。刺史梁鵠は責任を恐れ、自身の立場を守るために蘇正和を殺害しようと漢陽長史・蓋勳のもとを訪れた。蓋勳はもともと蘇正和と不和であったが「善人を謀って殺すのは忠義ではない。他人の窮地につけこむのは仁徳ではない」と言い放ち、梁鵠に諫言した:「鷹や隼をつなぐのはその猛々しさを利用するためだ。それを煮て食べれば何の役に立とうか」。これにより梁鵠は計画を取り止めた。後日蘇正和が蓋勳のもとへ感謝に訪れたが、会おうともせず「私は梁使君のために助言したのであって、あなたのためではない」と言い、以前通り敵意を持ち続けた。 その後、刺史左昌が軍用穀物数万石を横領すると、蓋勳はこれを諫めた。激怒した左昌は蓋勳と従事・辛曾らに阿陽で別部隊を率いさせ賊の防衛にあたらせた(軍事上の失敗を口実に処罰する意図)。しかし蓋勳は戦功を重ねた。北宮伯玉が金城を攻撃した際、救援を進言した蓋勳に対し左昌は拒否。陳懿殺害後、辺章らが冀で左昌を包囲すると、辛曾らは疑って救援に応じなかった。これに対し蓋勳は激怒して「昔、荘賈が軍令違反した時には司馬穰苴が剣を抜いて処刑した。今の従事たちが古代の監軍より尊いわけがあるか!」と言い放つと、辛曾らは恐れてこれに従った。蓋勳が冀で辺章らを責めると「もし左使君(左昌)が早くあなたの助言を受け入れ我々に対峙していれば改心できたはずだ。今や罪は重すぎて降伏できない」と返され、賊軍は包囲を解いて撤退した。 その後、反乱羌族が畜官で校尉夏育を包囲すると、蓋勳は州郡の兵と合流して救援に向かった。しかし狐槃に至り羌族に敗北を喫した。 解説
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| 勳餘眾不及百人,身被三創,堅坐不動,指木表曰:「尸我於此!」句就種羌滇吾以兵扞眾曰:「蓋長史賢人,汝曹殺之者為負天。」勳仰罵曰:「死反虜,汝何如,促來殺我!」眾相視而驚。滇吾下馬與勳,勳不肯上,遂為羌所執。羌服其義勇,不敢加害,送還漢陽。後刺史楊雍表勳領漢陽太守。 16 張曼成餘黨更以趙弘為帥,眾復盛,至十餘萬,據宛城。朱儁與荊州刺史徐璆等合兵圍之,自六月至八月不拔。有司奏徵儁,司空張溫上疏曰:「昔秦用白起,燕任樂毅,皆曠年歷載,乃能克敵。儁討潁川已有功效,引師南指,方略已設;臨軍易將,兵家所忌,宜假日月,責其成功。」帝乃止。儁擊弘,斬之。賊帥韓忠復據宛拒儁,儁鳴鼓攻其西南,賊悉眾赴之;儁自將精卒掩其東北,乘城而入。忠乃退保小城,惶懼乞降。諸將皆欲聽之,儁曰:「兵固有形同而勢異者。昔秦、項之際,民無定主,故賞附以勸來耳。今海內一統,唯黃巾造逆。納降無以勸善,討之足以懲惡。今若受之,更開逆意,賊利則進戰,鈍則乞降,縱敵長寇,非良計也。」因急攻,連戰不克。儁登土山望之,顧謂司馬張超曰:「吾知之矣。賊今外圍周固,內營逼急,乞降不受,欲出不得,所以死戰也。萬人一心,猶不可當,況十萬乎!不如徹圍,並兵入城,忠見圍解,勢必自出。 |
現代日本語訳蓋勲(がいくん)の残存兵力は百人に満たず、自らも三箇所の重傷を負っていたが、毅然と座って動かず木標柱を指さし「我が屍をここに埋めよ」と言い放った。句就種族(こうしゅうしゅぞく)の羌人・滇吾(てんご)は兵で群衆を制しながら言下に告げた。「蓋長史は賢者だ。彼を殺せば天に背くことになる」。勲が仰向き罵声を浴びせる「死すべき反逆者め、何様のつもりか? 急いで我を斬れ!」群衆は顔を見合わせ驚愕した。滇吾は馬を譲ろうとしたが勳は拒絶し、結局羌族に捕縛された。しかし彼らはその義勇心に感服して危害を加えず漢陽へ送還。後任刺史の楊雍(ようよう)は上表文で勲を推薦し漢陽太守職兼任とした。 張曼成(ちょうまんせい)残党が趙弘(ちょうこう)を新指導者に推戴すると勢力は十余万まで膨れ上がり宛城(えんじょう)を占拠。朱儁(しゅしゅん)と荊州刺史徐璆(じょきゅう)らは連合軍で包囲するも6月から8月にかけても陥落させられなかった。役人が朱儁の更迭を上奏すると司空張温(ちょうおん)が反論した「昔秦の白起、燕の楽毅はいずれも長年月かけて敵を制圧したものだ。朱儁は潁川(えいせん)討伐で既に功績があり南進作戦立案も完了している。陣前での将帥交代は兵法の禁忌である」。霊帝はこれを容れて中止を命じた。その後朱儁が趙弘を斬殺すると賊将韓忠(かんちゅう)が宛城で抵抗継続。 朱儁は太鼓を鳴らし西南から攻めると、敵軍主力が全員そちらへ向かった隙に精鋭部隊を率いて東北側を奇襲突破。城内への侵入に成功するも韓忠は内郭(小城)で籠城し降伏を申し出た。諸将が受け入れようとした時、朱儁は断固反対した「戦況見極めが必要だ。秦末項羽期なら投降受容で帰順勧奨も意味があったが、天下統一の今では黄巾賊だけが逆賊である。降伏を受け入れてはいけない─これこそ彼らの偽装戦術だ」。しかし強攻を加えても陥落せず土山(やぐら)から観察後、司馬張超に悟りを示す「敵は包囲で逃げ場がなく死守覚悟のため万人一心となり防ぎきれぬ。全軍で城内突入し包囲網を一時解け─韓忠は必ず城外へ出る」。 解説1. 歴史的意義と人物描写 2. 軍事思想の核心点 3. 現代語訳の方針と留意点 4. テキストの史的価値 Translation took 2124.5 seconds. |
| 自出則意散,〔易〕破之道也。」既而解圍,忠果出戰,儁因擊,大破之,斬首萬餘級。南陽太守秦頡殺忠,餘眾復奉孫夏為帥,還屯宛。儁急攻之,司馬孫堅率眾先登;癸巳,拔宛城。孫夏走,儁追至西鄂精山,復破之,斬萬餘級。於是黃巾破散,其餘州郡所誅,一郡數千人。 17 十二月,己巳,赦天下,改元。 18 豫州刺史太原王允破黃巾,得張讓賓客書,與黃巾交通,上之。上責怒讓;讓叩頭陳謝,竟亦不能罪也。讓由是以事中允,遂傳下獄,會赦,還為刺史;旬日間,復以它罪被捕。楊賜不欲使更楚辱,遣客謝之曰:「君以張讓之事,故一月再征,凶慝難量,幸為深計!」諸從事好氣決者,共流涕奉藥而進之。允厲聲曰:「吾為人臣,獲罪於君,當伏大辟以謝天下,豈有乳藥求死乎!」投杯而起,出就檻車。既至〔廷尉〕,大將軍進與楊賜、袁隗共上疏請之,得減死論。 中平二年(乙丑,公元一八五年) 1 春,正月,大疫。 2 二月,己酉,南宮雲臺災。庚戌,樂城門災。 中常侍張讓、趙忠說帝斂天下田,畝十錢,以修宮室、鑄銅人。樂安太守陸康上疏諫曰:「昔魯宣稅畝而蝝災自生。哀公增賦而孔子非之,豈有聚奪民物以營無用之銅人,捐捨聖戒,自蹈亡王之法哉!」內幸譖康援引亡國以譬聖明,大不敬,檻車徵詣廷尉。 |
現代日本語訳賊軍が城から出撃すると戦意は散漫となり、これこそ〔易経〕に言う敗北の道である。」やがて包囲を解くと、韓忠は果たして出撃したため、朱儁はこれを攻撃し大破。一万人余りの首級を斬った。南陽太守・秦頡が韓忠を殺害すると、残党らは孫夏を新たに指導者として奉じ、宛城に戻って立て籠もった。朱儁が猛攻を加えると、軍司馬の孫堅が兵を率いて真っ先に城壁へ登り、癸巳(12月26日)に宛城は陥落した。孫夏は逃亡するが、朱儁は西鄂県の精山まで追撃し再び破って一万余級を斬った。こうして黄巾賊は壊滅状態となり、各州郡で残党狩りが行われた地域では一郡あたり数千人が処刑された。 17 十二月己巳(186年1月21日)、天下に大赦を行い元号を改めた(中平と改元)。 18 豫州刺史・太原出身の王允が黄巾賊討伐で張譲の門客との書簡を押収した。そこには賊軍との内通を示す内容があり、これを献上すると霊帝は激怒して張譲を詰問した。張譲は叩頭し陳謝したため結局処罰されなかったが、この件で逆に王允を陥れ逮捕させた。赦令により刺史へ復帰するも、十日後には別の罪状で再逮捕された。楊賜は彼がさらなる辱めを受けることを憂い使者を遣わして諫めた:「張譲絡みの件であなたは短期間に二度も捕らえられた。悪意の深さは測り難く、どうか慎重に行動を」と。気骨ある部下たちは涙ながらに毒薬を進めたが、王允は激しく叱咤した:「臣下たる者が主君に罪を得れば大辟(斬首刑)をもって天下に謝すべきだ。乳薬(服毒自殺)などで死を選ぶものか!」杯を投げ捨て檻車へ向かった。廷尉府送致後、大将軍・何進と楊賜、袁隗らが連名で減刑を上奏し死刑は免れた。 中平二年(乙丑の年、185年) 中常侍・張譲と趙忠は霊帝に対し「天下の田地から1畝あたり十銭を徴収し、宮室修復と銅人鋳造の財源に充てよ」と献策。これに対して楽安太守・陸康が上疏して諫めた:「昔、魯の宣公が初めて田税を課した時は蝗害が発生しました(『春秋』)。また哀公が増税した際には孔子が非難しています(『左伝』)。民から搾り取った財で無用の銅人を作るなど、聖人の戒めを捨て亡国の君主と同じ過ちを犯すべきでしょうか」。宮廷側近らは「陸康が滅んだ国に例えて天子を誹謗した」と讒言し、「大不敬罪」として檻車で廷尉府へ護送させた。 解説【時代背景】
【人物関係】
【政治構造】
【特記事項】
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| 侍御史劉岱表陳解釋,得免歸田里。康,續之孫也。 又詔發州郡材木文石,部送京師。黃門常侍輒令譴呵不中者,因強折賤買,僅得本賈十分之一,因復貨之,宦官復不為即受,材木遂至腐積,宮室連年不成。刺史、太守復增私調,百姓呼嗟。又令西園騶分道督趣,恐動州郡,多受賕賂。刺史、二千石及茂才、孝廉遷除皆至西園諧價,然後得去,其守清者乞不之官,皆迫遣之。時巨鹿太守河內司馬直新除,以有清名,減責三百萬。直被詔,悵然曰:「為民父母而反割剝百姓以稱時求,吾不忍也。」辭疾,不聽。行至孟津,上書極陳當世之失,即吞藥自殺。書奏,帝為暫絕修宮錢。 3 以朱儁為右車騎將軍。 4 自張角之亂,所在盜賊並起,博陵張牛角、常山褚飛燕及黃龍、左校、于氐根、張白騎、劉石、左髭〔丈〕(文)八、平漢大計、司隸緣城、雷公、浮雲、白雀、楊鳳、于毒、五鹿、李大目、白繞、眭固、苦蝤之徒,不可勝數,大者二三萬,小者六七千人。張牛角、褚飛燕合軍攻癭陶,牛角中流矢且死,令其眾奉飛燕為帥,改姓張。飛燕名燕,輕勇走趫捷,故軍中號曰「飛燕」。山谷寇賊多附之,部眾寢廣,殆至百萬,號「黑山賊」,河北諸郡縣並被其害,朝廷不能討。燕乃遣使至京師,奏書乞降;遂拜燕平難中郎將,使領河北諸山谷事,歲得舉孝廉、計吏。 |
現代日本語訳:侍御史の劉岱が上表して弁明したため、(司馬直は)罪を免れ郷里に帰ることができた。康(劉岱の名か?注釈対象不明)は続之(人名不詳)の孫である。 さらに詔により州郡から建築用材木や紋様石を徴発し、都へ輸送させた。黄門常侍たちはすぐに「規格不合」と難癖をつけて譴責し、強引に値切って安く買い叩き、元の価格の10分の1程度しか支払わなかった。(役人は)これを再転売しようとしたが、宦官らは即座には引き取らず、材木は腐るほど山積みとなり、宮殿建設は何年も完成しなかった。刺史や太守たちはさらに私的な税を上乗せ徴収したため、民衆は嘆き苦しんだ。 また西園騶(皇帝直属の使者)を各地に派遣して監督させたが、州郡を脅かして多額の賄賂を受け取った。刺史や二千石クラスの高官、茂才・孝廉などの人材任用も全て西園で「価格交渉」しなければ赴任できず、清廉な官吏は辞退しても強制的に派遣された。 当時、巨鹿太守に新任命された河内出身の司馬直は清貧で知られ、「300万銭」だけ賄賂を減額されていた。彼は詔書を受け取り慨嘆した「民の父母たる者が逆に百姓から搾取して時の要請に応えるとは、私は耐えられぬ」。病気と称して辞退したが許されず、孟津まで来た時、当世の過失を詳細に記した上奏文を提出し即刻服毒自殺した。この上奏を受けて霊帝は一時的に宮殿修繕費徴収を停止した。 3 朱儁を右車騎将軍に任命した。 4 張角の乱以後、各地で盗賊が同時蜂起した。博陵の張牛角・常山の褚飛燕ら(計19勢力名省略)は数え切れぬほど発生し、大規模な集団は2~3万、小規模でも6~7千人を擁した。 張牛角と褚飛燕が連合して癭陶を攻撃中、牛角が流矢で瀕死となり配下に飛燕を後継者とするよう命じた。飛燕は姓を「張」に改めた(本名は燕)。身軽く勇敢で機敏なため軍中で「飛燕」と称されていた。山岳地帯の賊徒が多数帰順し、勢力は百万近くまで膨れ上がり「黒山賊」と呼ばれた。河北諸郡県はことごとく被害を受け朝廷も討伐できなかった。 張燕(改名後)は使者を都に送り降伏を願い出たため、平難中郎将に任じられ河北の山岳地帯統治権限を与えられた。さらに孝廉・計吏の推挙権まで付与された。 解説:■歴史的背景
■制度史的特徴
■人物評
■訳出方針原文『資治通鑑』(巻58)の漢文調を、固有名詞は原形保持・官職名は現代語に換言しつつ、歴史的流れが明確になるよう因果関係を補強。特に「減責三百万」のような数値表現や制度用語(孝廉/計吏等)は当時の実態を反映させるため意訳を排した。(約800字) Translation took 1939.8 seconds. |
| 5 司徒袁隗免。三月,以廷尉崔烈為司徒。烈,寔之從兄也。 是時,三公往往因常侍、阿保入錢西園而得之,段穎、張溫等雖有功勤名譽,然皆行輸貨財,乃登公位。烈因傅母入錢五百萬,故得為司徒。及拜日,天子臨軒,百僚畢會,帝顧謂親幸者曰:「悔不小靳,可至千萬!」程夫人於傍應曰:「崔公,冀州名士,豈肯買官!賴我得是,反不知姝邪!」烈由是聲譽頓衰。 6 北宮伯玉等寇三輔,詔左車騎將軍皇甫嵩鎮長安以討之。 時涼州兵亂不解,徵發天下役賦無已,崔烈以為宜棄涼州。詔會公卿百官議之,議郎傅燮厲言曰:「斬司徒,天下乃安!」尚書奏燮廷辱大臣。帝以問燮,對曰:「樊噲以冒頓悖逆,憤激思奮,未失人臣之節,季布猶曰『噲可斬也』。今涼州天下要衝,國家籓衛。高祖初興,使酈商別定隴石;世宗拓境,列置四郡,議者以為斷匈奴右臂。今牧御失和,使一州叛逆;烈為宰相,不念為國思所以弭之之策,乃欲割棄一方萬里之土,臣竊惑之!若使左衽之虜得居此地,士勁甲堅,因以為亂,此天下之至慮,社稷之深憂也。若烈不知,是極蔽也;知而故言,是不忠也。」帝善而從之。 7 夏,四月,庚戌,大雨雹。 8 五月,太慰鄧盛罷;以太僕河南張延為太尉。 9 六月,以討張角功,封中常侍張讓等十二人為列侯。 |
現代日本語訳:5. 司徒(大臣)袁隗が免職される3月、廷尉(司法長官)であった崔烈が司徒に任命された。崔烈は崔寔(学者・政治家)の従兄である。当時、三公(最高官職)の地位は、宦官(常侍)や乳母の縁者(阿保)に西園(宮廷内の金庫)へ賄賂を贈ることで得られることが多かった。段颎(武将)や張温(将軍)のような功績や名声のある者でさえ、金を納めて官位を得ていた。崔烈も養母を通じて500万銭を献上し、司徒の地位を得たのである。 就任式の日、皇帝(霊帝)が高殿に臨席し、百官が参列する中、皇帝は側近に向かって「もう少し値をつり上げれば、千万銭も得られたのに」と漏らした。すると側にいた程夫人(霊帝の乳母か寵姫)が即座に「崔公は冀州の名士です。どうして賄賂で官位を買うような真似をなさいますか? 私の取り成しでこの地位を得たのに、恩を知らないとは!」と応じた。これにより崔烈の名声は一気に失墜した。 6. 北宮伯玉らが三輔を侵攻反乱軍の首領・北宮伯玉らが三輔(長安周辺)を侵略した。朝廷は左車騎将軍・皇甫嵩に長安を守備させ、討伐に向かわせた。 当時、涼州では兵乱が収まらず、全国から兵士や物資の徴発が続いていた。崔烈は「涼州を放棄すべきだ」と提案した。朝廷が公卿百官を集めて議論すると、議郎(顧問官)の傅燮が激しく反論した:「司徒(崔烈)を斬れば、天下は安泰になる!」。尚書(行政官)が「傅燮が大臣を侮辱した」と上奏すると、皇帝は傅燮を問いただした。傅燮は答えた: 「昔、樊噲(前漢の将軍)が匈奴の冒頓単于の蛮行に激怒し、討伐を主張した時、季布(前漢の臣)は『樊噲は斬るべきだ』と言いました。しかし樊噲の行動は臣下としての節義に反しませんでした(忠誠心からの発言だった)。今、涼州は天下の要衝であり、国家の盾です。高祖(劉邦)の時代には酈商が隴右を平定し、世宗(武帝)は四郡を設置して匈奴の右腕を断ち切りました。今、統治の失敗で一州が反乱を起こしているのに、宰相(崔烈)は鎮圧策を考えず、万里の国土を放棄しようとする。私は深く疑問です!もし異民族(左衽の虜)がこの地を占領し、強固な軍事拠点とすれば、天下の大患となり、国家の存亡に関わります。崔烈がこの危険を理解しないなら愚昧の極み、理解していて言うなら不忠の極みです」。皇帝は彼の意見を認めて採用した。 7. 異常気象の記録夏4月庚戌の日、大規模な雹(ひょう)が降った。 8. 太尉(軍事長官)の人事異動5月、太尉・鄧盛が罷免される。後任に太僕(皇帝の車馬担当)の河南出身者・張延が太尉に任命された。 9. 宦官への恩賞6月、黄巾賊の首領・張角討伐の功績により、中常侍(宦官)の張讓ら12人を列侯(諸侯)に封じた。 解説:
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| 10 秋,七月,三輔螟。 11 皇甫嵩之討張角也,過鄴,見中常侍趙忠舍宅逾制,奏沒入之。又中常侍張讓私求錢五千萬,嵩不與。二人由是奏嵩連戰無功,功費者多,徵嵩還,收左軍騎將車印綬,削戶六千。八月,以司空張溫為車騎將軍,執金吾袁滂為副,以討北宮伯玉;拜中郎將董卓為破虜將軍,與蕩寇將軍周慎並統於溫。 12 九月,以特進楊賜為司空。冬,十月,庚寅,臨晉文烈侯楊賜薨。以光祿大夫許相為司空。相,訓之子也。 13 諫議大夫劉陶上言:「天下前遇張角之亂,後遭邊章之寇,今西羌逆類已攻河東,恐遂轉盛,豕突上京。民有百走退死之心,而無一前鬥生之計,西寇浸前,車騎孤危,假令失利,其敗不救。臣自知言數見厭,而言不自裁者,以為國安則臣蒙其慶,國危則臣亦先亡也。謹復陳當今要急八事。」大較言天下大亂,皆由宦官。宦官共讒陶曰:「前張角事發,詔書示以威恩,自此以來,各各改悔。今者四方安靜,而陶疾害聖政,專言妖孽。州郡不上,陶何緣知?疑陶與賊通情。」於是收陶下黃門北寺獄,掠按日急。陶謂使者曰:「臣恨不與伊、呂同疇,而以三仁為輩。今上殺忠謇之臣,下有憔悴之民,亦在不久,後悔何及!」遂閉氣而死。前司徒陳耽為人忠正,宦官怨之,亦誣陷,死獄中。 14 張溫將諸郡兵步騎十餘萬屯美陽,邊章、韓遂亦進兵美陽,溫與戰,輒不利。 |
訳文:10年目 秋、7月 三輔地域(長安近郊)にイナゴの被害が発生した。 11年目 皇甫嵩が張角討伐のため鄴(ぎょう)を通った際、中常侍(宦官の官職)趙忠の邸宅が規制超過であるのを見て、没収を上奏した。また、中常侍張讓が私的に5千万銭の要求をしたが、皇甫嵩はこれを拒否した。この二人は報復として「皇甫嵩は連戦したが功績がなく、軍費の浪費が甚だしい」と上奏し、皇甫嵩は召還されたうえ、左車騎将軍の印綬を没収され、6千戸の封邑を削減された。 8月、司空(三公の一)の張温が車騎将軍に任命され、執金吾(治安長官)袁滂を副将として、北宮伯玉討伐に向かった。中郎将の董卓を破虜将軍に任命し、蕩寇将軍の周慎とともに張温の指揮下に入った。 12年目 9月、特進(名誉職)の楊賜が司空に任命された。冬10月庚寅の日、臨晋侯(文烈侯)楊賜が死去。光禄大夫の許相が司空に任命され、許相は許訓の子である。 13年目 諫議大夫の劉陶が上奏した: 「天下は以前に張角の乱に遭い、次いで辺章の賊軍に悩まされました。今また西羌の反乱軍が河東を攻撃し、このままでは勢力を拡大し、猪突猛進で都を脅かすでしょう。民衆は百も逃げて死を選ぶ心がありながら、一つとして進んで戦って生き延びようとする考えはありません。西方の賊軍が迫る中、車騎将軍(張温)の軍は孤立して危険にさらされており、仮に敗北すれば挽回は不可能です。臣の進言がたびたび疎まれていることは承知しておりますが、それでも諫めを止めないのは、国家が安定すれば臣もその恩恵にあずかり、国家が危機に瀕すれば臣も真っ先に滅びるからです。謹んで当今の急務八項目を再び奏上します。」 (劉陶の主張の)要点は「天下の大乱は全て宦官が原因」というものだった。 宦官たちは共謀して劉陶を讒言した: 「以前、張角の乱が起きた際、詔書で威徳を示したところ、彼らは皆改心しました。今、四方は平穏なのに、劉陶は聖なる政治を害し、虚偽の災異説を主張しています。州郡から報告が上がっていないのに、劉陶がどうして(情勢を)知り得ましょう? 劉陶が賊と内通している疑いがあります。」 こうして劉陶は黄門北寺獄(宦官管轄の牢獄)に投獄され、日々厳しい拷問を受けた。劉陶は使者に言った: 「臣は、伊尹や呂尚(名臣)と同じ時代に生まれず、殷の三仁(微子・箕子・比干)と同じ運命を辿ることを恨みます。今、上は忠言を尽くす臣を殺し、下には苦しむ民がいます。滅亡は目前なのに、後悔してもどうしようもありません!」 そして自ら息を止めて死んだ。 前司徒(三公の一)の陳耽は人となりが忠義公正であったが、宦官たちに憎まれ、同様に誣告されて獄中で死去した。 14年目 張温は諸郡の兵士・歩兵騎兵合わせて10万余人を率いて美陽に駐屯した。辺章・韓遂も美陽に進軍し、張温は彼らと交戦したが、常に敗北した。 解説:
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| 十一月,董卓與右扶風鮑鴻等並兵攻章、遂,大破之,章、遂走榆中。 溫遣周慎將三萬人追之。參軍事孫堅說慎曰:「賊城中無穀,當外轉糧食,堅願得萬人斷其運道,將軍以大兵繼後,賊必困乏而不敢戰,走入羌中,並力討之,則涼州可定也!」慎不從,引軍圍榆中城,而章、遂分屯葵園峽,反斷慎運道,慎懼,棄車重而退。溫又使董卓將兵三萬討先零羌,羌、胡圍卓於望垣北,糧食乏絕,乃於所度水中偽立堰以捕魚,而潛從堰下過軍。比賊追之,決水已深,不得度,遂還屯扶風。 張溫以詔書召卓,卓良久乃詣溫;溫責讓卓,卓應對不順。孫堅前耳語謂溫曰:「卓不怖罪而鴟張大語,宜以召不時至,陳軍法斬之。」溫曰:「卓素著威名於河、隴之間,今日殺之,西行無依。」堅曰:「明公親率王師,威震天下,何賴於卓!觀卓所言,不假明公,輕上無禮,一罪也;章、遂跋扈經年,當以時進討,而卓云未可,沮軍疑眾,二罪也;卓受任無功,應召稽留,而軒昂自高,三罪也。古之名將仗鉞臨眾,未有不斷斬以成功者也。今明公垂意於卓,不即加誅,虧損威刑,於是在矣。」溫不忍發,乃曰:「君且還,卓將疑人。」堅遂出。 15 是歲,帝造萬金堂於西園,引司農金錢、繒帛牣積堂中,復藏寄小黃門、常侍家錢各數千萬,又於河間買田宅,起第觀。 |
現代日本語訳11月 張温の軍事行動 董卓の失態 孫堅の決断と張温の優柔不断 張温は決断できず、「君はまず戻れ。董卓が疑いを抱く」と言った。孫堅は退出した。 同年の重要事件 解説
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| 中平三年(丙寅,公元一八六年) 1 春,二月,江夏兵趙慈反,殺南陽太守秦頡。 2 庚戌,赦天下。 3 太尉張延罷。遣使者持節就長安拜張溫為太尉。三公在外始於溫。 4 以中常侍趙忠為車騎將軍。帝使忠論討黃巾之功,執金吾甄舉謂忠曰:「傅南容前在東軍,有功不侯,天下失望。今將軍親當重任,宜進賢理屈,以副眾心。」忠納其言,遣弟城門校尉延致殷勤於傅燮。延謂燮曰:「南容少答我常侍,萬戶侯不足得也!」燮正色拒之曰:「有功不論,命也。傅燮豈求私賞哉!」忠愈懷恨,然憚其名,不敢害,出為漢陽太守。 5 帝使鉤盾令宋典繕修南宮玉堂,又使掖庭令畢嵐鑄四銅人,又鑄四鐘,皆受二千斛。又鑄天祿、蝦蟆吐水於平門外橋東,轉水入宮。又作翻車、渴烏,施於橋西,用灑南北郊路,以為可省百姓灑道之費。 6 五月,壬辰晦,日有食之。 7 六月,荊州刺史王敏討趙慈,斬之。車騎將軍趙忠罷。 8 冬,十月,武陵蠻反,郡兵討破之。 9 前太尉張廷為宦官所譖,下獄死。 10 十二月,鮮卑寇幽、并二州。 11 徵張溫還京師。 中平四年(丁卯,公元一八七年) 1 春,正月,己卯,赦天下。 2 二月,滎陽賊殺中矣令。三月,河南尹何苗討滎陽賊,破之;拜苗為車騎將軍。 3 韓遂殺邊章及北宮伯玉、李文侯,擁兵十餘萬,進圍隴西,太守李相如叛,與遂連和。 |
現代日本語訳中平三年(丙寅、西暦186年)
中平四年(丁卯、西暦187年)
解説(歴史的補足)
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| 涼州刺史耿鄙率六郡兵討遂。鄙任治中程球,球通姦利,士民怨之。漢陽太守傅燮謂鄙曰:「使君統政日淺,民未知教。賊聞大軍將至,必萬人一心,邊兵多勇,其鋒難當;而新合之眾,上下未和,萬一內變,雖悔無及。不若息軍養德,明賞必罰,賊得寬挺,必謂我怯,群惡爭勢,其離可必。然後率已教之民,討成離之賊,其功可坐而待也。」鄙不從。夏,四月,鄙行至狄道,州別駕反應賊,先殺程球,次害鄙,賊遂進圍漢陽。城中兵少糧盡,燮猶固守。 時北地胡騎數千隨賊攻郡,皆夙懷燮恩,共於城外叩頭,求送燮歸鄉里。燮子幹,年十三,言於燮曰:「國家昏亂,遂令大人不容於朝。今後不足以自守,宜聽羌、胡之請,還鄉里,徐俟有道而輔之。」言未終,燮慨然歎曰:「汝知吾必死邪!聖達節,次守節。殷紂暴虐,伯夷不食周粟而死。再遭世亂,不能養浩然之志,食祿,又欲避其難乎!吾行何之,必死於此!汝有才智,勉之勉之!主簿楊會,吾之程嬰也。」 狄道人王國使故酒泉太守黃衍說燮曰:「天下已非復漢有,府君寧有意為吾屬帥乎?」燮按劍叱衍曰:「若剖符之臣,反為賊說邪!」遂麾左右進兵,臨陳戰歿。耿鄙司馬扶風馬騰亦擁兵反,與韓遂合,共推王國為主,寇掠三輔。 4 太尉張溫以寇賊未平,免;以司徒崔烈為太尉。 |
現代日本語訳涼州刺史の耿鄙は六郡の兵を率いて韓遂を討伐しようとした。耿鄙は治中(刺史の属官)の程球を任用したが、程球は賄賂を取るなど不正を働き、兵士や民衆の恨みを買っていた。漢陽太守の傅燮は耿鄙に進言した。 「貴官が政務を執ってから日が浅く、民衆はまだ教化を受けていません。賊軍は大軍が来ると聞けば、必ず一丸となって抵抗します。辺境の兵士は勇猛であり、その攻勢は容易に阻めません。しかも新たに集結した兵は結束が固まっておらず、もし内部で反乱が起これば、後悔しても取り返しがつかなくなります。むしろ軍を休めて徳を養い、賞罰を明確にし、賊軍に余裕を与えるべきです。そうすれば賊は我々を臆病者と思い、悪党どもが勢力争いを始め、必ず分裂します。その後に十分に訓練した兵を率いて分裂した賊を討てば、労せずして成功を収めるでしょう」 しかし耿鄙はこの進言を聞き入れなかった。同年(中平四年、187年)夏四月、耿鄙が狄道まで進軍すると、州別駕(刺史の副官)が賊軍に呼応して反乱を起こし、まず程球を殺害し、次いで耿鄙も殺害した。賊軍はその勢いで漢陽城を包囲した。城内では兵糧が尽きかけていたが、傅燮はなおも守りを固めていた。 その時、北地郡の騎兵数千人が賊軍に加わって包囲に参加していたが、彼らは皆かつて傅燮の恩義を受けており、城外で跪いて傅燮に故郷に帰るよう懇願した。傅燮の子である傅幹(当時13歳)は父に言った。 「国家は混乱し、父上は朝廷で居場所を失われました。今やこの城を守りきるのは困難です。どうか羌族や匈奴の提案を受け入れ、故郷に帰り、時機を待って再起を図ってください」 傅幹の言葉が終わらないうちに、傅燮は深く嘆息しながら言った。 「お前は私が必ず死ぬとわかっているのか? 聖人の道では、最高の境地(達節)に至った者は時勢に応じて行動するが、次善(守節)の者は節義を守る。殷の紂王が暴虐を尽くした時、伯夷は周の粟を食べずに餓死した。今また乱世に遭遇し、大志を貫くこともできず、禄を受けながら危難を避けるような真似ができようか! 私が行くべき道はただ一つ、ここで死ぬことだ。お前には才能がある。しっかり励め。主簿の楊会は、わが子を託すに足る人物(程嬰のような忠臣)である」 その後、狄道出身の王国が元酒泉太守の黄衍を使者として送り、傅燮を説得させた。 「天下はもはや漢王朝のものではありません。将軍には我々の首領となっていただけませんか?」 傅燮は剣に手をかけながら黄衍を叱りつけた。 「天子の任命を受けた臣下が、逆賊の説得などとは!」 そして配下に進軍を命じ、戦場に赴くと奮戦して戦死した。 一方、耿鄙の司馬(軍事参謀)であった扶風郡出身の馬騰も兵を集めて反乱を起こし、韓遂と合流した。彼らは共に王国を首領に推戴し、三輔(長安周辺)地域を侵犯し略奪を働いた。 補足訳(最終文)「太尉の張温は賊軍が平定されていないことを理由に免職となり、司徒の崔烈が太尉に任命された」 解説
この記述は『後漢書』巻58や『資治通鑑』巻58に基づいており、三国志成立前夜の混乱を伝える貴重な史料です。特に傅燮の最期の言葉は、後世の儒家から「君臣の義」の模範として称賛されました。 Translation took 2457.7 seconds. |
| 五月,以司空許相為司徒;光祿勳沛國丁宮為司空。 5 初,張溫發幽州烏桓突騎三千以討涼州,故中山相漁陽張純請將之,溫不聽,而使涿令遼西公孫瓚將之。軍到薊中,烏桓以牢稟逋縣,多叛還本國。張純忿不得將,乃與同郡故泰山太守張舉及烏桓大人丘力居等連盟,劫略薊中,殺護烏桓校尉公綦稠、右北平太守劉政、遼東太守陽終等,眾至十餘萬,屯肥如。舉稱天子,純稱彌天將軍、安定王,移收州郡,云舉當代漢,告天子避位,敕公卿奉迎。 6 冬,十月,長沙賊區星自稱將軍,眾萬餘人;詔以議郎孫堅為長沙太守,討擊平之,封堅烏程侯。 7 十一月,太尉崔烈罷;以大司農曹嵩為太尉。 8 十二月,屠各胡反。 9 是歲,賣關內侯,直五百萬錢。 10 前大秋長陳寔卒,海內赴吊者三萬餘人。寔在鄉閭,平心率物,其有爭論,輒求判正,曉譬曲直,退無怨者,至乃歎曰:「寧為刑罰所加,不為陳君所短!」楊賜、陳耽,每拜公卿,群僚畢賀,輒歎寔大位未登,愧於先之。 |
訳文:184年(中平元年)主な事件:
1. 張純の反乱と烏桓の蜂起
補足説明:
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| input text 資治通鑑\059_漢紀_51.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷五十九 漢紀五十一 起著雍執徐,盡上章敦牂,凡三年。 孝靈皇帝下 中平五年(戊辰,公元188年) 春,正月,丁酉,赦天下。二月,有星孛於紫宮,黃巾餘賊郭大等起於河西白波谷,寇太原、河東。 三月,屠各胡攻殺并州刺史張懿。 太常江夏劉焉見王室多故,建議以為:「四方兵寇,由刺史威輕,既不能禁,且用非其人,以致離叛。宜改置牧伯,選清名重臣以居其任。」焉內欲求交趾牧。侍中廣漢董扶私謂焉曰:「京師將亂,益州分野有天子氣。」焉乃更求益州。會益州刺史郤儉賦斂煩擾,謠言遠聞,而耿鄙、張懿皆為盜所殺,朝廷遂從焉議,選列卿、尚書為州牧,各以本秩居任。以焉為益州牧,太僕黃琬為豫州牧,宗正東海劉虞為幽州牧。州任之重,自此而始。焉,魯恭王之後;虞,東海恭王之五世孫也。虞嘗為幽州刺史,民夷懷其恩信,故用之。董扶及太倉令趙韙皆棄官,隨焉入蜀。 詔發南匈奴兵配劉虞討張純,單于羌渠遣左賢王將騎詣幽州。國人恐發兵無已,於是右部□盆落反,與屠各胡合,凡十餘萬人,攻殺羌渠。國人立其子右賢王於扶羅為持至屍逐侯單于。 夏,四月,太尉曹嵩罷。 五月,以永樂少府南陽樊陵為太尉;六月,罷。 益州賊馬相、趙祗等起兵綿竹,自號黃巾,殺刺史郤儉,進擊巴郡、犍為,旬月之間,破壞三郡,有眾數萬,相自稱天子。 |
現代日本語訳中平五年(戊辰の年、西暦188年)春正月丁酉の日、天下に恩赦が行われた。二月には紫微宮に彗星が現れ、黄巾賊残党の郭大らが河西白波谷で蜂起し太原・河東を侵した。 太常であった江夏出身の劉焉は朝廷に多くの問題があると見て、「各地で反乱や賊徒が発生するのは刺史の権威が弱く統制できず、さらに不適格者を任命したため離反が起きている。牧伯(州長官)制度へ改め清廉な重臣を選任すべきだ」と提案した。劉焉は密かに交趾牧就任を望んでいたが侍中董扶から「都で乱が起こる兆しあり益州には天子の気がある」との内話を受け、急遽希望地を変更した。折りしも益州刺史郤儉の重税と悪政で民怨沸騰しており、耿鄙・張懿両刺史は賊に殺害されていたため朝廷は劉焉案を採用。列卿や尚書ら高官が牧として派遣され元の俸禄級別で赴任した。具体的には劉焉(益州牧)・黄琬(豫州牧)・劉虞(幽州牧)。これにより「州」の地位が強化された経緯がある(注:劉焉は前漢魯恭王後裔、劉虞は東海恭王五世孫。特に劉虞は旧任地での恩信厚く異民族にも慕われていた)。董扶と太倉令趙韙も官職を棄て劉焉に随行した。 朝廷詔で南匈奴兵が幽州牧劉虞配下となり張純討伐へ動員される。羌渠単于は左賢王率いる騎馬隊を派遣するが、民衆の「徴兵永続化」懸念から右部□盆落(名不明)ら十余万が反乱し屠各族と連合して羌渠を殺害。後継に子・於扶羅(持至屍逐侯単于)が擁立された。 夏四月、太尉曹嵩罷免。五月には永楽少府樊陵が任命されるも六月には解任となる。 解説【歴史的背景】
【人物関係図】``` 劉虞(幽州牧):漢室宗族 + 異民族融和派 【社会情勢分析】
【制度変遷の意義】「牧」任用基準に注目すべき点:
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| 州從事賈龍率吏民攻相等,數日破走,州界清靜。龍乃選吏卒迎劉焉。焉徙治綿竹,撫納離叛,務行寬惠,以收人心。 郡國七大水。 故太傅陳蕃子逸與術士襄楷會於冀州刺史王芬坐,楷曰:「天文不利宦者,黃門、常侍真族滅矣。」逸喜。芬曰:「若然者,芬願驅除!」因與豪傑轉相招合,上書言黑山賊攻劫郡縣,欲因以起兵。會帝欲北巡河間舊宅,芬等謀以兵徼劫,誅諸常侍、黃門,因廢帝,立合肥侯,以其謀告議郎曹操。操曰:「夫廢立之事,天下之至不祥也。古人有權成敗、計輕重而行之者,伊、霍是也。伊、霍皆懷至忠之誠,據宰輔之勢,因秉政之重,同眾人之欲,故能計從事立。今諸君徒見曩者之易,未睹當今之難,而造作非常,慾望必克,不亦危乎!」芬又呼平原華歆、陶丘洪共定計。洪欲行,歆止之曰:「夫廢立大事,伊、霍之所難。芬性疏而不武,此必無成。」洪乃止。會北方夜半有赤氣,東西竟天,太史上言:「北方有陰謀,不宜北行。」帝乃止。敕芬罷兵,俄而征之。芬懼,解印綬亡走,至平原,自殺。 秋,七月,以射聲校尉馬日磾為太尉。日磾,融之族孫也。 八月,初置西園八校尉,以小黃門蹇碩為上軍校尉,虎賁中郎將袁紹為中軍校尉,屯騎校尉鮑鴻為下軍校尉,議郎曹操為典軍校尉,趙融為助軍左校尉,馮芳為助軍右校尉,諫議大夫夏牟為左校尉,淳於瓊為右校尉;皆統於蹇碩。 |
現代日本語訳:州の役人である賈龍は、官吏や民衆を率いて反乱軍(相等)を攻撃し、数日で撃退したため、州内は平穏になった。賈龍は兵士を選んで劉焉を出迎えた。劉焉は綿竹に拠点を移し、離反者を懐柔し、寛大で恩恵のある政治を行い、民心を得ようとした。 全国で大規模な洪水が発生した。 かつての太傅(皇帝の師傅)である陳蕃の息子・陳逸が、冀州刺史の王芬のもとで方術士の襄楷と会談した。襄楷が「天文が宦官に不利であり、黄門(宦官)や常侍(高級宦官)は滅亡するだろう」と言うと、陳逸は喜んだ。王芬は「それならば、私が宦官を排除しよう」と言い、豪傑たちを集めて結束を強め、上奏文で「黒山賊が郡県を襲っているため、軍を率いて鎮圧したい」と偽って出兵を求めた。 ちょうど皇帝(霊帝)が河間(皇帝の故郷)の旧宅に行幸しようとしたとき、王芬らは兵を動かして皇帝を襲撃し、宦官たちを殺害した上で皇帝を廃位し、合肥侯を新帝に擁立する計画を立てた。王芬はこの計画を議郎の曹操に打ち明けた。曹操は「廃立(皇帝の廃位と擁立)は天下の大罪である。古の伊尹や霍光でさえ、成否を慎重に量り、時勢を見極めて行った。彼らは忠誠心と宰相の権威、政治の実権、民衆の支持を兼ね備えていたからこそ成功した。今、諸君は過去の成功例だけを見て現代の困難を軽視し、常軌を逸した計画を無理に推し進めようとしている。これでは危険ではないか」と反対した。 王芬はさらに平原郡の華歆と陶丘洪を呼んで計画を相談した。陶丘洪が参加しようとすると、華歆が「廃立は伊尹や霍光ですら難しい大事である。王芬は軽率で武勇に欠ける。必ず失敗する」と制止したため、陶丘洪は参加を取りやめた。 そのころ北方の夜空に赤い気(不吉な光)が広がり、天文官が「北方に陰謀の気配あり。行幸すべからず」と上奏したため、皇帝は行幸を中止した。皇帝は王芬に兵を解散するよう命じ、すぐに彼を都に召還しようとした。王芬は恐れ、印綬を置いて逃亡し、平原郡で自殺した。 秋7月、射声校尉の馬日磾が太尉に任命された。馬日磾は馬融(後漢の学者)の一族の子孫である。 8月、西園八校尉という新官職が設けられ、以下のように任命された: - 上軍校尉:小黄門(宦官)の蹇碩 - 中軍校尉:虎賁中郎将の袁紹 - 下軍校尉:屯騎校尉の鮑鴻 - 典軍校尉:議郎の曹操 - 助軍左校尉:趙融 - 助軍右校尉:馮芳 - 左校尉:諫議大夫の夏牟 - 右校尉:淳于瓊 全員が蹇碩の指揮下に置かれた。 解説(歴史的背景と補足):
この事件は、黄巾の乱(184年)後の中央権力の空白を示し、群雄割拠の時代(三国志)へ向かう過渡期の様相を象徴しています。 Translation took 2214.9 seconds. |
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| 帝自黃巾之起,留心戎事;碩壯健有武略,帝親任之,雖大將軍亦領屬焉。 九月,司徒許相罷;以司空丁宮為司徒,光祿勳南陽劉弘為司空。 以衛尉條侯董重為票騎將軍。重,永樂太后兄子也。 冬,十月,青、徐黃巾復起,寇郡縣。 望氣者以為京師當有大兵,兩宮流血。帝欲厭之,乃大發四方兵,講武於平樂觀下,起大壇,上建十二重華蓋,高十丈。壇東北為小壇,復建九重華蓋,高九丈。列步騎數萬人,結營為陳。甲子,帝親出臨軍,駐大華蓋下,大將軍進駐小華蓋下。帝躬擐甲、介馬,稱「無上將軍」,行陳三匝而還,以兵授進。帝問討虜校尉蓋勳曰:「吾講武如是,何如?」對曰:「臣聞先王□翟德不觀兵。今寇在遠而設近陳,不足以昭果毅,只黷武耳!」帝曰:「善!恨見君晚,群臣初無是言也。」勳謂袁紹曰:「上甚聰明,但蔽於左右耳。」與紹謀共誅嬖倖,蹇碩懼,出勳為京兆尹。 十一月,王國圍陳倉。詔復拜皇甫嵩為左將軍,督前將軍董卓,合兵四萬人以拒之。 張純與丘力居鈔略青、徐、幽、冀四州;詔騎都尉公孫瓚討之。瓚與戰於屬國石門,純等大敗,棄妻子,逾塞走;悉得所略男女。瓚深入無繼,反為丘力居等所圍於遼西管子城,二百餘日,糧盡眾潰,士卒死者什五六。 董卓謂皇甫嵩曰:「陳倉危急,請速救之。 |
現代日本語訳:【主要な事件の流れ】
解説:
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| 」嵩曰:「不然。百戰百勝,不如不戰而屈人兵。陳倉雖小,城守固備,未易可拔。王國雖強,攻陳倉不下,其眾必疲,疲而擊之,全勝之道也,將何救焉!」國攻陳倉八十餘日,不拔。 中平六年(己巳,公元189年) 春,二月,國眾疲敝,解圍去,皇甫嵩進兵擊之。董卓曰:「不可。兵法,窮寇勿迫,歸眾勿追。」嵩曰:「不然。前吾不擊,避其銳也;今而擊之,待其衰也;所擊疲師,非歸眾也;國眾且走,莫有鬥志,以整擊亂,非窮寇也。」遂獨進擊之,使卓為後拒,連戰,大破之,斬首萬餘級。卓大慚恨,由是與嵩有隙。韓遂等共廢王國,而劫故信都令漢陽閻忠使督統諸部。忠病死,遂等稍爭權利,更相殺害,由是寢衰。 幽州牧劉虞到部,遣使至鮮卑中,告以利害,責使送張舉、張純首,厚加購嘗。丘力居等聞虞至,喜,各遣譯自歸。舉、純走出塞,餘皆降散。虞上罷諸屯兵,但留降虜校尉公孫瓚,將步騎萬人屯右北平。三月,張純客王政殺純,送首詣虞。公孫瓚志欲掃滅烏桓,而虞欲以恩信招降,由是與瓚有隙。 夏,四月,丙子朔,日有食之。 太尉馬日磾免;遣使即拜幽州牧劉虞為太尉,封容丘侯。 蹇碩忌大將軍進,與諸常侍共說帝遣進西擊韓遂;帝從之。進陰知其謀,奏遣袁紹收徐、兗二州兵,須紹還而西,以稽行期。 |
現代日本語訳:皇甫嵩は言った。「そうではない。百回戦って百回勝つよりも、戦わずして敵を屈服させる方が優れている。陳倉は小城ながらも防御は堅固であり、容易には落とせない。王国の軍勢は強大だが、陳倉を攻め落とせなければ兵は必ず疲弊する。その疲れたところを撃つのが完勝の道である。救援など必要がない!」王国は八十日余り陳倉を攻めたが陥落させられなかった。 中平六年(己巳、紀元189年) 韓遂らは共同で王国を廃位し、元信都県令であった漢陽の閻忠を脅迫して諸部隊の統率者に据えた。だが閻忠が病死すると、韓遂らは次第に権利争いを始め互いに殺害し合うようになり、勢力は衰退していった。 幽州牧劉虞が赴任すると、鮮卑族のもとに使者を送り利害を説き、張挙・張純の首級を差し出すよう要求して多額の報償を約束した。丘力居らは刘虞の到着を知って喜び、各部族が通訳を通じて帰順を申し出た。張挙と張純は塞外へ逃亡し、残党は投降・離散した。劉虞は諸屯兵を解散するよう上奏し、降虜校尉公孫瓚のみに歩騎一万を率いさせ右北平に駐屯させた。三月、張純の配下王政が主君を殺害し首級を刘虞のもとに届けた。公孫瓚は烏桓族を殲滅しようとしたが、劉虞は恩信をもって投降を促す方針で、両者は対立するようになった。 夏四月丙子朔日(1日)、日食があった。 太尉馬日磾が免官され、使者が幽州牧刘虞を太尉に任命し容丘侯に封じた。 蹇碩は大将軍何進を警戒し、宦官たちと共に皇帝を説得して何進を西方の韓遂征伐に向かわせようとした。帝がこれに同意すると、何進は密かに策略を見抜き「袁紹に徐州・兗州の兵を集めさせ、彼の帰還を待って西征すべき」と上奏し、出発を遅らせた。 解説:
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| 初,帝數失皇子,何皇后生子辯,養於道人史子眇家,號曰「史侯」。王美人生子協,董太后自養之,號曰「董侯」。群臣請立太子。帝以辯輕佻無威儀,欲立協,猶豫未決。會疾篤,屬協於蹇碩。丙辰,帝崩於嘉德殿。碩時在內,欲先誅何進而立協,使人迎進,欲與計事;進即駕往。碩司馬潘隱與進早舊,迎而目之。進驚,馳從儳道歸營,引兵入屯百郡邸,因稱疾不入。戊午,皇子辯即皇帝位,年十四。尊皇后曰皇太后。太后臨朝。赦天下,改元為光熹。封皇弟協為渤海王。協年九歲。以後將軍袁隗為太傅,與大將軍何進參錄尚書事。 進既秉朝政,忿蹇碩圖己,陰規誅之。袁紹因進親客張津,勸進悉誅諸宦官。進以袁氏累世貴寵,而紹與從弟虎賁中郎將術皆為豪桀所歸,信而用之。復博征智謀之士何顒、荀攸及河南鄭泰等二十餘人,以顒為北軍中候,攸為黃門侍郎,泰為尚書,與同腹心。攸,爽之從孫也。蹇碩疑不自安,與中常侍趙忠、宋典等書曰:「大將軍兄弟秉國專朝,今與天下黨人謀誅先帝左右,掃滅我曹,但以碩典禁兵,故且沉吟。今宜共閉上閣,急捕誅之。」中常侍郭勝,進同郡人也,太后及進之貴幸,勝有力焉,故親信何氏;與趙忠等議,不從碩計,而以其書示進。庚午,進使黃門令收碩,誅之,因悉領其屯兵。 票騎將軍董重,與何進權勢相害,中官挾重以為黨助。 |
現代日本語訳:はじめに、皇帝はたびたび皇子を失っていた。何皇后が劉弁を産んだが、道士の史子眇(ししびょう)の家で育てられ、「史侯」と呼ばれた。王美人が劉協を産み、董太后が自ら育て、「董侯」と呼ばれた。臣下たちが皇太子を立てるよう請うたが、皇帝は劉弁が軽薄で威儀を欠くとして、劉協を立てたいと考え、決断できずにいた。やがて皇帝が危篤状態になると、劉協を宦官の蹇碩(けんせき)に託した。丙辰の日、皇帝は嘉徳殿で崩御した。この時、蹇碩は宮中におり、何進(かしん)を殺して劉協を即位させようと企み、使者を送って何進を呼び出し、相談があると偽った。何進が車でやって来ると、蹇碩配下の軍司馬・潘隠(はんいん)が何進と旧知の間柄であったため、目配せで危険を知らせた。何進は驚き、わき道から急いで自軍の陣営に戻ると、兵を率いて百郡邸(役人の宿舎)に立てこもり、病気と称して宮中に入ろうとしなかった。 戊午の日、皇子劉弁が皇帝の位についた(14歳)。何皇后は皇太后に立てられ、垂簾聴政を行った。天下に恩赦が行われ、元号は光熹(こうき)と改められた。皇弟劉協は渤海王に封じられ(9歳)、後将軍の袁隗(えんかい)が太傅(皇帝の補佐役)となり、大将軍の何進と共に政務を執り行った。 何進が政権を掌握すると、蹇碩が自分を害そうとしていることを恨み、密かに誅殺を計画した。袁紹が何進の側近・張津(ちょうしん)を通じて、宦官を全て誅殺するよう進言した。何進は袁氏一族が代々高い地位にあること、また袁紹とその従弟の虎賁中郎将・袁術(えんじゅつ)が豪傑たちから慕われているのを考慮し、彼らを信頼して重用した。さらに広く知恵ある人材を集め、何顒(かぎょう)・荀攸(じゅんゆう)・河南出身の鄭泰(ていたい)ら二十余名を登用し、何顒を北軍中候に、荀攸を黄門侍郎に、鄭泰を尚書に任命し、腹心として遇した(荀攸は荀爽(じゅんそう)の従孫にあたる)。 蹇碩は不安を感じ、中常侍の趙忠(ちょうちゅう)・宋典(そうてん)らに手紙を送った。「大将軍(何進)兄弟は国政を掌握し、天下の党人(反宦官派)と結託して先帝(霊帝)の側近(宦官)を誅殺し、我々を滅ぼそうとしている。ただ私が近衛兵を指揮しているため、今は手を出せずにいる。今こそ宮門を閉ざし、急いで何進を捕らえて殺すべきだ」。中常侍の郭勝(かくしょう)は何進と同じ出身地で、太后と何進が現在の地位につくのに力を尽くしたため、何氏一族に親しみを感じていた。郭勝は趙忠らと協議したが、蹇碩の提案に従わず、逆にその手紙を何進に見せた。 庚午の日、何進は黄門令(宦官の長官)に命じて蹇碩を捕らえさせ、誅殺した。これにより蹇碩の指揮する近衛兵を全て掌握した。 驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の董重(とうじゅう)は何進と権力争いをしており、宦官たちは董重を支持し、党派の後ろ盾としていた。 解説:
この訳文では、歴史的状況を正確に伝えつつ、現代日本語読者が政争の流れを追えるよう、官職名を意訳し、人間関係を明確化することを心がけました。特に「宦官vs外戚・官僚」という後漢末期の核心的対立構造が浮かび上がるよう、勢力図を意識した表現を選択しています。 Translation took 2495.6 seconds. |
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| 董太后每欲參干政事,何太后輒相禁塞,董後忿恚詈曰:「汝今□舟張,怙汝兄耶!吾敕票騎斷何進頭,如反手耳!」何太后聞之,以告進。五月,進與三公共奏:「孝仁皇后使故中常侍夏惲等交通州郡,辜較財利,悉入西省。故事,蕃後不得留京師;請遷宮本國。」奏可。辛巳,進舉兵圍票騎府,收董重,免官,自殺。六月,辛亥,董後憂怖,暴崩。民間由是不附何氏。 辛酉,葬孝靈皇帝於文陵。何進懲蹇碩之謀,稱疾,不入陪喪,又不送山陵。 大水。 秋,七月,徙渤海王協為陳留王。 司徒丁宮罷。 袁紹復說何進曰:「前竇武欲誅內寵而反為所害者,但坐言語漏洩;五營兵士皆畏服中人,而竇氏反用之,自取禍滅。今將軍兄弟並領勁兵,部曲將吏皆英俊名士,樂盡力命,事在掌握,此天贊之時也。將軍宜一為天下除患,以垂名後世,不可失也!」進乃白太后,請盡罷中常侍以下,以三署郎補其處。太后不聽,曰:「中官統領禁省,自古及今,漢家故事,不可廢也。且先帝新棄天下,我奈何楚楚與士人共對事乎!」進難違太后意,且欲誅其放縱者。紹以為中官親近至尊,出納號令,今不悉廢,後必為患。而太后母舞陽君及何苗數受諸宦官賂遣,知進欲誅之。數白太后為其障蔽;又言:「大將軍專殺左右,擅權以弱社稷。」太后疑以為然。 |
現代日本語訳董太后と何太后の対立 董太后(霊帝の母)が政務に干渉しようとするたびに、何太后(霊帝の正妻)がこれを阻んだ。董太后は怒って罵った:「お前は(何進という)兄を頼んで威張っているが、わしは驃騎将軍(董重)に命じて何進の首を取らせるぞ。それも手のひらを返すように簡単にな!」。何太后はこの言葉を兄の何進に伝えた。 董氏一族の排除 同年5月、何進は三公(最高官吏)と共に上奏した:「董太后(孝仁皇后)が中常侍・夏惲らを通じて地方官と結託し、財貨を宮中(西省)に集めています。旧例により、藩国出身の太后は都に留まれません」。上奏は認められ、董太后は領地へ戻るよう命じられた。同月、何進は兵を率いて董重の邸を包囲。董重は免官を宣告され自害した。6月、董太后は恐怖のうちに急死し、民衆はこれ以降、何氏一族を支持しなくなった。 霊帝の葬儀と何進の警戒 同年、霊帝が文陵に葬られたが、大将軍・何進は(宦官・蹇碩の暗殺計画を警戒し)病気と称して参列せず、葬列にも加わらなかった。 天変地異と人事異動 大雨による洪水が発生。同年7月、渤海王・劉協(後の献帝)が陳留王に封じられた。司徒(宰相)・丁宮が罷免された。 袁紹の進言 袁紹が何進に進言した:「かつて竇武が宦官誅殺に失敗したのは計画が漏れたためです。当時、五営の兵士さえ宦官を恐れていたのに、竇氏は彼らを信用しました。今、将軍はご兄弟で兵権を握り、有能な部下が揃っています。天が与えた好機です。宦官を根絶し、後世に名を残すべきです」。 何進の挫折 何進は何太后に「中常侍以下を全員罷免し、士人(官僚)と交代させる」と奏上したが、太后は拒否した:「宦官制度は漢王朝創設以来の慣例だ。先帝(霊帝)が崩御したばかりで、私がみすぼらしい身なりで士人と政務を議せるか?」。何進は太后の意向を無視できず、暴虐な宦官のみ誅殺しようと画策した。 袁紹の警告と宦官の反撃 袁紹は強硬論を主張した:「宦官は皇帝に近しく詔勅を扱います。全員処分しなければ必ず禍根となります」。一方、何太后の母・舞陽君と異母弟・何苗は、宦官から度々賄賂を受け取り、何進の計画を察知すると太后に訴えた:「大将軍(何進)が勝手に側近を殺し、権力を乱用して国を弱体化させている」と。太后はこの讒言を真に受け、宦官を庇護した。 解説(歴史的背景)
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| 進新貴,素敬憚中官,雖外慕大名而內不能斷,故事久不決。 紹等又為畫策,多召四方猛將及諸豪傑,使並引兵向京城,以脅太后;進然之;主簿廣陵陳琳諫曰:「諺稱『掩目捕雀』,夫微物尚不可欺以得志,況國之大事,其要以詐立乎!今將軍總皇威,握兵要,龍驤虎步,高下在心,此猶鼓洪爐燎毛髮耳。但當速發雷霆,行權立斷,則天人順之。而反委釋利器,更征外助,大兵聚會,強者為雄,所謂倒持干戈,授人以柄,功必不成,只為亂階耳!」進不聽。典軍校尉曹操聞而笑曰:「宦者之官,古今宜有,但世主不當假之權寵,使至於此。既治其罪,當誅元惡,一獄吏足矣,何至紛紛召外兵乎!欲盡誅之,事必宣露,吾見其敗也。」 初,靈帝征董卓為少府,卓上書言:「所將湟中義從及秦、胡兵皆詣臣言:『牢直不畢,稟賜斷絕,妻子饑凍。』率挽臣車,使不得行。羌、胡憋腸狗態,臣不能禁止,輒將順安慰。增異復上。」朝廷不能制。及帝寢疾,璽書拜卓并州牧,今以兵屬皇甫嵩。卓復上書言:「臣誤蒙天恩,掌戎十年,士卒大小,相狎彌久,戀臣畜養之恩,為臣奮一旦之命,乞將之北州,效力邊垂。」嵩從子酈說嵩曰:「天下兵柄,在大人與董卓耳。今怨隙已結,勢不俱存,卓被詔委兵而上書自請,此逆命也。彼率京師政亂,故敢躊躇不進,此懷奸也。 |
日本語訳何進(大将軍)は新たに権力を握ったが、宦官を深く警戒していた。表面上は名声を重んじながらも、内心では決断力に欠けていたため、事態は長く膠着状態に陥った。 袁紹らが進言したのは、「四方の猛将や豪傑を招集し、大軍を率いて都へ迫り、太后に宦官排除を迫るべし」という策だった。何進はこれに同意した。すると主簿の陳琳が諫言した:「『目を覆いながら雀を捕まえる』という故事が示す通り、小さなことですら欺瞞で成し遂げられぬのに、まして国家の大事を詭計で解決しようとは。将軍は今、朝廷の威光と兵権を掌握し、堂々たる威厳をお持ちだ。炉の火で細い毛を焼くような容易なことです。速やかに雷の如き決断を下すべきです。兵権という利器を手放し、外部の武力に頼るなど、逆さに武器を持って柄を他人に渡すようなもの。成功するはずがなく、かえって禍乱を招きます」。しかし何進は聞き入れなかった。 典軍校尉の曹操はこれを聞いて笑い、「宦官制度は古今を通じて存在した。君主が彼らに過剰な権限を与えたのが間違いだ。元凶を誅殺するだけなら、一獄吏で足りる。わざわざ外部の軍勢を呼ぶ必要などない。陰謀が露見すれば失敗は必定だ」と語った。 (背景説明)霊帝が董卓を少府(財務長官)に任命した時、董卓は上奏して言上した:「配下の羌族・匈奴の兵らが『俸給が滞り家族が飢えている』と訴え、わが車を引き留めて進ませない。蛮族の横暴を抑えきれず、慰撫に努めている」と。朝廷は彼を統制できなかった。 霊帝が危篤に陥ると、詔書で董卓を并州牧(州長官)に任命し、兵権を皇甫嵩に引き継ぐよう命じた。だが董卓は再び上奏:「天恩を被り十年も兵権を預かり、兵士らは私に深く馴染んでおります。彼らの忠誠心に応え、辺境防衛のため北方へ赴かせてください」と懇願した。 これを見た皇甫嵩の甥・皇甫酈は叔父に進言しました:「天下の兵権は叔父上と董卓が握っています。両者の対立はもはや共存を許さぬ状況です。詔で兵権を返上せよと言われながら自らの主張を通そうとするのは反逆です。都の政情混乱に乗じ、敢えて命令を遅延させるのは奸計の証。呂布を派遣して誅殺すべきです。朝廷に忠義を示し、奸賊を除く――これこそ斉の桓公・晋の文公の覇業に匹敵する偉業となります」と。 解説
この場面は、何進の優柔不断が董卓の台頭を許し、後漢王朝崩壊の端緒となる重大な転換点を描いています。陳琳・曹操の現実的な警告と、皇甫酈の決断を促す進言が対照的であり、乱世における指導者の資質が問われる場面です。 Translation took 2002.1 seconds. |
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| 二者,刑所不赦。且其凶戾無親,將士不附。大人今為元帥,杖國威以討之,上顯忠義,下除凶害,無不濟也。」嵩曰:「違命雖罪,專誅亦有責也。不如顯奏其事,使朝廷裁之。」乃上書以聞。帝以讓卓。卓亦不奉詔,駐兵河東以觀時變。 何進召卓使將兵詣京師。侍御史鄭泰諫曰:「董卓強忍寡義,志欲無厭,若借之朝政,授以大事,將恣凶欲,必危朝廷。明公以親德之重,據阿衡之權,秉意獨斷,誅除有罪,誠不宜假卓以為資援也!且事留變生,殷鑒不遠,宜在速決。」尚書盧植亦言不宜召卓,進皆不從。泰乃棄官去,謂荀攸曰:「何公未易輔也。」進府掾王匡,騎都尉鮑信,皆泰山人,進使還鄉里募兵;並召工郡太守橋瑁屯成皋,使武猛都尉丁原將數千人寇河內,燒孟津,火照城中,皆以誅宦官為言。董卓聞召,即時就道,並上書曰:「中常侍張讓等,竊幸承寵,濁亂海內。臣聞揚湯止沸,莫若支薪;潰癰雖痛,勝於內食。昔趙鞅興晉陽之甲以逐君側之惡,今臣輒鳴鐘鼓如雒陽,請收讓等以清奸穢!」太后猶不從。何苗謂進曰:「始共從南陽來,俱以貪賤依省內以致富貴,國家之事,亦何容易。覆水不收,宜深思之,且與省內和也。」卓至澠池,而進更狐疑,使諫議大夫種邵宣詔止之。卓不受詔,遂前至河南;邵迎勞之,因譬令還軍。 |
現代日本語訳:(皇甫嵩の部下が進言した)「董卓の二つの罪状は、いずれも赦免に値しません。第一に、彼は凶暴で傲慢であり、部下の将兵は心服していません。第二に、将軍(皇甫嵩)こそが元帥として、国家の威光を背に彼を討つべきです。そうすれば、上は朝廷への忠義を示し、下は害悪を除くことになり、必ず成功するでしょう。」しかし皇甫嵩は言った。「命令違反は確かに罪だが、私が独断で誅殺すれば責任を問われる。むしろ正式に上奏して朝廷の判断を仰ぐべきだ。」こうして事態を報告する上奏文を提出した。 霊帝は詔を下して董卓を譴責したが、董卓は詔を無視し、河東に駐屯して情勢の変化を窺っていた。 (中平六年)大将軍の何進が董卓に上洛を命じると、侍御史の鄭泰が諫言した。「董卓は残忍で不義の徒です。もし彼に朝廷の実権を握らせれば、欲望のままに暴走し、必ず朝廷を危うくします。将軍(何進)は皇室の外戚として大権を握っておられます。宦官を誅殺するなら、董卓のような者を利用すべきではありません。事態は迅速に決着させるべきで、猶予すれば必ず変事が起きます。」しかし何進は聞き入れず、尚書の盧植の反対意見も退けた。鄭泰は官職を捨てて去り、荀攸に「何進は補佐しがたい人物だ」と嘆いた。 何進は配下の王匡や鮑信(いずれも泰山郡出身)を故郷に派遣して兵を募らせ、さらに橋瑁を成皋に駐屯させた。また武猛都尉の丁原に数千の兵を率いさせ、河内で放火して威嚇させた。これらはいずれも宦官誅殺のための示威行動であった。 董卓は何進の召喚を受けると即座に進軍を開始し、上奏文を奉った。「中常侍の張ら宦官らが専横を極め、天下を乱しております。沸騰した湯を冷ますには薪を引くのが最善であり(根本原因を除くべき)、腫れ物はたとえ痛くとも切除すべきです(宦官勢力を一掃せよ)。かつて趙鞅が晋陽の兵を率いて君主の側近を除いたように、臣も洛陽へ進軍し、奸臣どもを掃討いたします。」しかし何太后は許可しなかった。 何太后の兄・何苗は何進に警告した。「我々は元々南陽の貧しい身分から、宦官たちの力で富貴を得た。今になって彼らを誅殺すれば、覆水盆に返らず(取り返しがつかない)。よく考えて和睦すべきだ。」このため何進は動揺した。 董卓が澠池に到着すると、何進はさらに躊躇し、諫議大夫の種邵に詔を持たせ進軍停止を命じた。しかし董卓は詔を拒否し、そのまま河南へ進軍。種邵はやむなく出迎えて慰労し、比喩を用いて撤退を説得しようとした。 訳注:
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| 卓疑有變,使其軍士以兵脅邵。邵怒,稱詔叱之,軍士皆披,遂前質責卓;卓辭屈,乃還軍夕陽亭。劭,暠之孫也。 袁紹懼進變計,因脅之曰:「交構已成,形勢已露,將軍復欲何待而不早決之乎?事久變生,復為竇氏矣!」進於是以紹為司隸校尉,假節,專命擊斷;從事中郎王允為河南尹。紹使雒陽方略武吏司察宦者,而促董卓等使馳驛上奏,欲進兵平樂觀。太后乃恐,悉罷中常侍、小黃門使還裡捨,唯留進素所私人以守省中。諸常侍、小黃門皆詣進謝罪,唯所措置。進謂曰:「天下匈匈,正患諸君耳。今董卓垂至,諸君何不早各就國!」袁紹勸進便於此決之,至於再三;進不許。紹又為書告諸州郡,詐宣進意,使捕案中官親屬。進謀積日,頗洩,中官懼而思變。張讓子婦,太后之妹也,讓向子婦叩頭曰:「老臣得罪,當與新婦俱歸私門。唯受恩累世,今當遠離宮殿,情懷戀戀,願復一入直,得暫奉望太后陛下顏色,然後退就溝壑,死不恨矣!」子婦言於舞陽君,入白太后,乃詔諸常侍皆復入直。 八月,戊辰,進入長樂宮,白太后,請盡誅諸常侍。中常侍張讓、段珪相謂曰:「大將軍稱疾,不臨喪,不送葬,今欻入省,此意何為?竇氏事竟復起邪?」使潛聽,具聞其語。乃率其黨數十人持兵竊自側闥入,伏省戶下,進出,因詐以太后詔召進,入坐省閣。 |
現代日本語訳:董卓は変事が起きたのではないかと疑い、兵士に武器を持たせて邵(何進の参謀)を威嚇させた。邵は怒って「詔勅だ」と叫び、兵士たちは退散した。さらに進んで董卓を詰問したため、董卓は言葉に詰まり、軍勢を夕陽亭まで撤退させた。この邵は、暠(かく)の孫である。 袁紹は何進が計画を変えることを恐れ、脅すように言った。「(宦官排除の)計画はすでに整い、情勢も明らかです。将軍(何進)はなぜ躊躇して決断されないのか?事が長引けば変事が起こり、再び竇武(とうぶ)の二の舞いになりますぞ!」そこで何進は袁紹を司隷校尉に任命し、皇帝の符節を与えて専断権限を持たせ、王允を河南尹に任命した。 袁紹は洛陽の兵士に命じて宦官の動向を監視させ、董卓らに急ぎ上奏文を提出させるよう促した(宦官排除の大義名分を得るため)。これに驚いた何太后は、中常侍や小黄門(宦官の官職名)全員を宮外の私邸に帰還させ、何進の私的な部下のみを宮中警備に残すことを許可した。 中常侍や小黄門らは何進のもとへ出向いて謝罪したが、何進は言った。「天下が騒乱しているのは、諸君ら(宦官)のせいだ。今や董卓が迫っているというのに、なぜ早く各自の封地に帰らないのか?」袁紹はその場で宦官たちを処刑するよう再三促したが、何進は許さなかった。 袁紹はさらに偽って何進の命令と称する文書を諸州郡に発し、宦官の縁者を逮捕させるよう指示した。何進の計画が次第に漏れると、宦官たちは恐怖のあまり反撃を企て始めた。 宦官の首領・張譲の妻(何太后の妹)に対して、張譲は土下座して訴えた。「老臣は罪を犯しましたが、私邸に退くことをお許しください。累代の恩寵を受けた身として、宮殿を離れるのは名残惜しい。どうかもう一度だけ宮仕えを許され、太后陛下の御姿を拝しながら…その後は野垂れ死ぬのも本望です」。この言葉を伝え聞いた何太后(の母・舞陽君)は、ついに全ての宦官を復職させる詔を下した。 (中平六年)八月戊辰の日、何進は長楽宮に入り太后と面会し、宦官全員の処刑を強硬に要求した。これを察知した張譲と段珪は密談した。「大将軍(何進)は喪中と称して(霊帝の葬儀を)欠席し、突然宮中に現れた。これは竇武(が宦官誅殺を企てた故事)の再現ではないか?」と。密かに盗み聞きさせると、会話内容を全て把握した。 そこで数十人の仲間を率い、武器を持ってこっそり脇門から宮中に侵入。尚書省の戸口に潜伏し、何進が退出しようとした瞬間、偽の「太后詔」を使って何進を呼び戻した。何進が省閣(政務室)に入って座ると―― 解説:
この場面は何進誅殺の直前期間であり、続く宮中での惨劇(何進殺害・袁紹の宦官虐殺・董卓の乱)へと連なる歴史の転換点。登場人物の心理描写(張譲の詭弁・何進の優柔不断)を通じて、後漢王朝崩壊の必然性が浮き彫りにされます。 Translation took 3406.9 seconds. |
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| 讓等詰進曰:「天下憒憒,亦非獨我曹罪也。先帝嘗與太后不快,幾至成敗,我曹涕泣救解,各出家財千萬為禮,和悅上意,但欲托卿門戶耳。今乃欲滅我曹種族,不亦太甚乎!」於是尚方監渠穆拔劍斬進於嘉德殿前。讓、珪等為詔,以故太尉樊陵為司隸校尉,少府許相為河南尹。尚書得詔板,疑之,曰:「請大將軍出共議。」中黃門以進頭擲與尚書曰:「何進謀反,已伏誅矣!」 進部曲將吳匡、張璋在外,聞進被害,欲引兵入宮,宮門閉。虎賁中郎將袁術與匡共斫攻之,中黃門持兵守閣。會日暮,術因燒南宮青瑣門,欲以脅出讓等。讓等入白太后,言大將軍兵反,燒宮,攻尚書闥,因將太后、少帝及陳留王,劫省內官屬,從復道走北宮。尚書盧植執戈於閣道窗下,仰數段珪;珪懼,乃釋太后,太后投閣,得免。袁紹與叔父隗矯詔召樊陵、許相,斬之。紹及何苗引兵屯朱雀闕下,捕得趙忠等,斬之。吳匡等素怨苗不與進同心,而又疑其與宦官通謀,乃令軍中曰:「殺大將軍者,即車騎也,吏士能為報仇乎?」皆流涕曰:「願致死!」匡遂引兵與董卓弟奉車都尉旻攻殺苗,棄其屍於苑中。紹遂閉北宮門,勒兵捕諸宦者,無少長皆殺之,凡二千餘人,或有無須而誤死者。紹因進兵排宮,或上端門屋,以攻省內。 庚午,張讓、段珪等困迫,遂將帝與陳留王數十人步出谷門,夜,至小平津,六璽不自隨,公卿無得從者,唯尚書盧植、河南中部掾閔貢夜至河上。 |
現代日本語訳宦官たちの抗弁と何進の殺害張譲ら宦官は何進を詰め寄せた:「天下が乱れているのは我々だけの責任ではない。先帝(霊帝)が太后(何太后)と不和になった時、我々は涙ながらに和解を仲介し、私財を投げ打って和睦を実現した。それなのに今、我々一族を滅ぼそうとは、あまりにも酷いではないか!」。すると尚方監(宮廷工房長)の渠穆が剣を抜き、何進を嘉徳殿前で斬り殺した。 偽詔と尚書台の疑念張譲と段珮らは偽の詔書を作成し、前太尉の樊陵を司隸校尉(首都監察官)に、少府(皇室財政長官)の許相を河南尹(洛陽長官)に任命した。詔書を受け取った尚書台(行政中枢)は疑念を抱き、「大将軍(何進)ご自身にご確認いただきたい」と申し出た。すると中黄門(宦官)が何進の首を投げ込み、「何進は謀反を企てたので誅殺した」と宣告した。 袁術の反撃と宦官の逃亡何進配下の将軍・呉匡と張璋が宮中に駆けつけたが、宮門は閉ざされていた。虎賁中郎将(近衛隊長)の袁術は呉匡と共に宮門を攻撃し、宦官たちが必死に防戦する中、日が暮れた。袁術は南宮の青瑣門(青銅装飾の宮門)に火を放ち、宦官たちを脅迫して引きずり出そうとした。張譲らは太后に急報した:「大将軍の部下が反乱を起こし、宮殿を焼き払い尚書台を攻撃しています!」。彼らは太后、少帝(劉弁)、陳留王(劉協)を拉致し、省中(宮中政庁)の官僚らを人質に取り、複道(屋根付き回廊)を通って北宮へ逃走した。 盧植の活躍と袁紹の粛清尚書・盧植が複道の窓際で戟を構え、段珮を厳しく詰問した。恐怖した段珮は太后を解放し、太后は窓から飛び降りて辛くも逃れた。一方、袁紹は叔父の袁隗と共に偽の詔書を発布し、樊陵と許相を処刑した。袁紹と何進の弟・何苗は軍勢を率いて朱雀闕(南宮正門)に布陣し、宦官の趙忠らを捕らえて斬首した。 何苗の粛清と宦官の大虐殺呉匡らはかねてより何苗(何進の弟だが宦官寄り)に不満を持っており、彼が宦官と内通していると疑っていた。呉匡は兵士らに呼びかけた:「大将軍を殺したのは車騎将軍(何苗)だ!諸君、仇を討つ覚悟はあるか?」。兵士らは涙ながらに「命を捧げます!」と叫んだ。呉匡は董卓の弟・奉車都尉の董旻と連携し、何苗を攻め殺し、遺体を苑中に投棄した。袁紹は北宮門を閉鎖し、宦官を老若問わず皆殺しにし、二千人以上が死亡。髭のない一般役人までも誤って殺害される惨状となった。袁紹軍は宮中に突入し、端門の屋根に登る者まで現れて省中への攻撃を激化させた。 少帝の逃避行庚午の日、追い詰められた張譲と段珮らは少帝と陳留王ら数十人を連れ、谷門(洛陽北門)から夜陰に紛れて脱出。小平津(黄河渡河点)に到着したが、皇帝の印璽(六璽)は持ち出せず、公卿の付き添いも皆無だった。ただ一人、尚書の盧植と河南中部掾(郡役人)の閔貢が夜間に河岸まで追跡してきた。 解説(現代日本語)この一連の事件は「十常侍の乱」(189年)と呼ばれる後漢末期の政変です。核心的なポイントを解説します:
この政変は後漢王朝の実質的な終焉を告げる事件であり、三国時代へ向かう決定的な転換点となりました。特に袁紹の過剰な粛清が、その後の権力空白と董卓専横を招いた点は歴史の皮肉と言えるでしょう。 Translation took 2343.6 seconds. |
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| 貢厲聲質責讓等,且曰:「今不速死,吾將殺汝!」因手劍斬數人。讓等惶怖,叉手再拜,叩頭向帝辭曰:「臣等死,陛下自愛!」遂投河而死。貢扶帝與陳留王夜步逐螢光南行,欲還宮,行數里,得民家露車,共乘之,至雒捨止,辛未,帝獨乘一馬,陳留王與貢共乘一馬,從雒捨南行,公卿稍有至者。董卓至顯陽苑,遠見火起,知有變,引兵急進;未明,到城西,聞帝在北,因與公卿往奉迎於北芒阪下。帝見卓將兵卒至,恐怖涕泣。群公謂卓曰:「有詔卻兵。」卓曰:「公諸人為國大臣,不能匡正王室,至使國家播蕩,何卻兵之有!」卓與帝語,語不可了;乃更與陳留王語,問禍亂由起,王答,自初至終,無所遺失。卓大喜,以王為賢,且為董太后所養,卓自以與太后同族,遂有廢立之意。是日,帝還宮,赦天下,改光熹為昭寧。失傳國璽,餘璽皆得之。以丁原為執金吾。騎都尉鮑信自泰山募兵適至,說袁紹曰:「董卓擁強兵,將有異志,今不早圖,必為所制;乃其新至疲勞,襲之,可禽也!」紹畏卓,不敢發。信乃引兵還泰山。 董卓之入也,步騎不過三千,自嫌兵少,恐不為遠近所服,率四五日輒夜潛出軍近營,明旦,乃大陳旌鼓而還,以為西兵復至,雒中無知者。俄而進及遞苗部曲皆歸於卓,卓又陰使丁原部曲司馬五原呂布殺原而並其眾,卓兵於是大盛。 |
日本語訳皇帝が宮殿に帰還し、天下に恩赦を発令。年号を「光熹」から「昭寧」に改めた。皇帝の玉璽(ぎょくじ)は行方不明となったが、その他の印章はすべて回収された。董卓(とうたく)は丁原(ていげん)を執金吾(しつきんご:近衛兵の司令官)に任命した。
ちょうどその時、騎都尉(きとい:騎兵隊長)の鮑信(ほうしん)が泰山(たいざん)で兵を集めて到着し、袁紹(えんしょう)に進言した。 翻訳のポイント解説
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| 乃諷朝廷,以久雨,策免司空劉弘而代之。 初,蔡邕徙朔方,會赦得還。五原太守王智,甫之弟也,奏蔡邕謗訕朝廷;邕遂亡命江海,積十二年,董卓聞其名而辟之,稱疾不就。卓怒,詈曰:「我能族人!」邕懼而應命,到,署祭酒,甚見敬重,舉高第,三日之間,周歷三台,遷為侍中。 董卓謂袁紹曰:「天下之主,宜得賢明,每念靈帝,令人憤毒!董侯似可,今欲立之,為能勝史侯否?人有小智大癡,亦知復何如?為當且爾。劉氏種不足復遺!」紹曰:「漢家君天下四百許年,恩澤深渥,兆民戴之。今上富於春秋,未有不善宣於天下。公欲廢嫡立庶,恐眾不從公議也。」卓按劍叱紹曰:「豎子敢然!天下之事,豈不在我!我欲為之,誰敢不從!爾謂董卓刀為不利乎!」紹勃然曰:「天下健者,豈惟董公!」引佩刀,橫揖,逕出。卓以新至,見紹大家,故不敢害。紹縣節於上東門,逃奔冀州。 九月,癸酉,卓大會百寮,奮首而言曰:「皇帝闇弱,不可以奉宗廟,為天下主。今欲依伊尹、霍光故事,更立陳留王,何如?」公卿以下皆惶恐,莫敢對。卓又抗言曰:「昔霍光定策,延年按劍。有敢沮大議,皆以軍法從事!」坐者震動,尚書盧植獨曰:「昔太甲既立不明,昌邑罪過千餘,故有廢立之事。今上富於春秋,行無失德,非前事之比也。 |
現代日本語訳董卓の策略と人事介入董卓は朝廷に対し、長雨を理由に司空(三公の一)の劉弘を解任するよう密かに働きかけ、自らが後任に就いた。 蔡邕の運命学者の蔡邕は朔方への流刑となったが、恩赦で都に戻った。五原太守の王智(王甫の弟)が「蔡邕が朝廷を誹謗した」と上奏したため、蔡邕は家族を棄てて12年間逃亡生活を送った。董卓が彼の名声を聞きつけて招いたが、蔡邕は病と称して応じなかった。董卓が「一族皆殺しにするぞ」と脅したため、蔡邕は仕方なく出仕した。董卓は彼を祭酒(学官の長)に任命して厚遇し、わずか三日で三つの官職を経て侍中(皇帝側近)にまで昇進させた。 董卓と袁紹の対決董卓が袁紹に言った: 「天下の主は賢明であるべきだ。霊帝(先代皇帝)を思うたびに腹が立つ。董侯(献帝)が適任のように思える。お前はどう思うか? 人間には小賢しい者も愚かな者もいるが、劉氏(漢王朝)の血筋はもはや天命を失ったようだ」 袁紹が反論した: 「漢王朝は四百年も天下を治めてきた。その恩恵は深く、民衆は心から支持している。今上陛下は若く、何ら過失もない。嫡流(少帝)を廃して庶子(献帝)を立てるなど、衆人の支持を得られまい」 董卓は剣に手をかけ怒鳴った: 「小僧が! 天下のことはこの俺が決める! 逆らう者は許さん! 我が剣が鈍いとでも言うのか!」 袁紹は猛然と反発した: 「天下の強者は貴公だけではないぞ!」 佩剣を握りしめ、一礼もせずに退出した。董卓は袁家の勢力を警戒し、袁紹を手出しできなかった。袁紹は印綬を洛陽・上東門にかけて冀州へ逃亡した。 廃帝強行会議九月癸酉の日、董卓は百官を集め、宣言した: 「今の皇帝(少帝)は暗愚で宗廟を守れぬ。ここに伊尹・霍光の故事(名臣による廃帝の先例)に倣い、陳留王(献帝)を擁立したい。如何か?」 公卿たちは恐怖で震え、誰も反論できなかった。董卓はさらに恫喝した: 「昔、霍光が廃帝を決断した時、田延年が剣を握って群臣を威圧した。この場で異議を唱える者は軍法で処断する!」 一同は震え上がったが、尚書(大臣)の盧植だけが進み出て言った: 「昔、太甲王が暴政を行い、昌邑王は千を超える罪を犯した。だからこそ廃位が正当化されたのです。今上陛下は若く、失政もない。歴史上の事例とは全く状況が異なります」 解説(翻訳のポイント)
歴史的補足この場面は189年の董卓専制開始直後の政変。盧植の反論は『後漢書』に基づく正史の記述。董卓が最終的に少帝を廃し献帝を擁立したことで、漢王朝の実権は完全に崩壊し、三国志時代へ向かう転換点となった。蔡邕の登用は学者懐柔策、袁紹逃亡は反董卓連合の伏線となる重要なエピソードである。 Translation took 2130.8 seconds. |
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| 」卓大怒,罷坐。將殺植,蔡邕為之請,議郎彭伯亦諫卓曰:「盧尚書海內大儒,人之望也。今先害之,天下震怖。」卓乃止,但免植官,植遂逃隱於上谷。卓以廢立議示太傅袁隗,隗報如議。 甲戌,卓復會群僚於崇德前殿,遂脅太后策廢少帝,曰:「皇帝在喪,無人子之心,威儀不類人君,今廢為弘農王,立陳留王協為帝。」袁隗解帝璽綬,以奉陳留王,扶弘農王下殿,北面稱臣。太后鯁涕,群臣含悲,莫敢言者。卓又議:「太后踧迫永樂宮,至令憂死,逆婦姑之禮。」乃遷太后於永安宮。赦天下,改昭寧為永漢。丙子,卓鴆殺何太后,公卿以下不布服,會葬,素衣而已。卓又發何苗棺,出其屍,支解節斷,棄於道邊,殺苗母舞陽君,棄屍於苑枳落中。 詔除公卿以下子弟為郎,以補宦官之職,侍於殿上。 乙酉,以太尉劉虞為大司馬,封襄賁侯。董卓自為太尉,領前將軍事,加節傳、斧鉞、虎賁,更封郿侯。 丙戌,以太中大夫楊彪為司空。 甲午,以豫州牧黃琬為司徒。 董卓率諸公上書,追理陳蕃、竇武及諸黨人,悉復其爵位,遣使吊祠,擢用其子孫。 自六月雨至於是月。 冬,十月,乙巳,葬靈思皇后。 白波賊寇河東,董卓遣其將牛輔擊之。 初,南單于於扶羅既立,國人殺其父者遂叛,共立須卜骨都侯為單于。於扶羅指闕自訟。 |
現代日本語訳:董卓は激怒し、会議を中断して盧植を殺そうとした。しかし蔡邕が助命を嘆願し、議郎の彭伯も「盧尚書は天下に名高い学者で人望が厚い。もし害せば天下が動揺する」と諫めたため、董卓は思いとどまり、盧植の官職を剥奪するだけにとどめた。盧植は上谷へ逃れて隠棲した。 董卓は廃立(皇帝廃立と新帝擁立)の案を太傅の袁隗に示すと、袁隗はこれに同意した。 甲戌の日、董卓はふたたび群臣を崇徳前殿に集め、何太后を脅して少帝の廃位を強要した。「皇帝は喪中にあるにもかかわらず孝心を示さず、威儀も君主の体をなしていない」として弘農王に降格し、代わって陳留王・劉協を皇帝に立てると宣言した。袁隗が皇帝の璽綬を解いて劉協に奉り、弘農王を殿上から降ろして臣下の礼を取らせた。何太后は涙を流し、群臣も悲しみに沈んだが、誰も抗議できなかった。 董卓はさらに「何太后が永楽宮(霊帝の母・董太后)を迫害して死に追いやったのは姑に対する逆である」と主張し、何太后を永安宮に移した。天下に大赦を施行し、元号を「昭寧」から「永漢」に改めた。 丙子の日、董卓は何太后を毒殺した。公卿以下は喪服も着けず、葬儀には白服のみで臨んだ。さらに董卓は何太后の兄・何苗の棺を暴き、遺体を切断して道端に捨て、その母の舞陽君を殺害し、遺体を苑中の枳落(とげのある垣根)に投げ捨てた。 詔勅が下り、公卿以下の子弟を郎官に登用し、宦官の空いた官職を補填させ、殿上に侍らせた。 乙酉の日、太尉の劉虞を大司馬に任命し襄賁侯に封じた。董卓は自ら太尉となり、前将軍の職務を兼任し、節伝(将軍の印綬)・斧鉞(刑罰の権限)・虎賁(親衛隊)を与えられ、さらに郿侯に封じられた。 丙戌の日、太中大夫の楊彪を司空に任命した。 甲午の日、豫州牧の黄琬を司徒に任命した。 董卓は三公らと連名で上書し、陳蕃・竇武および党錮の禍で処罰された者たちの名誉を回復し、爵位を復活させ、使者を派遣して霊を祀らせ、その子孫を登用した。 六月からこの月(九月)まで長雨が続いた。 冬十月乙巳の日、霊思皇后(何太后)を埋葬した。 白波賊が河東郡を侵したため、董卓は配下の将軍・牛輔を派遣して討伐させた。 さて(初)、南匈奴の単于・於扶羅が即位した後、父(羌渠単于)を殺害した勢力が反乱を起こし、共に須卜骨都侯を単于に擁立した。於扶羅は洛陽の宮門に赴き、直訴しようとした。 解説:
この時期の董卓の暴挙は、後に袁紹を中心とした反董卓連合軍結成を招き、群雄割拠の時代へ突入する契機となりました。『資治通鑑』はこうした細かい事件の積み重ねが歴史の大転換を生むことを示唆しています。 Translation took 2340.7 seconds. |
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| 會靈帝崩,天下大亂,於扶羅將數千騎與白波賊合兵寇郡縣。時民皆保聚,鈔掠無利,而兵遂挫傷。復欲歸國,國人不受,乃止河東平陽。須卜骨都侯為單于一年而死,南庭遂虛其位,以老王行國事。 十一月,以董卓為相國,贊拜不名,入朝不趨,劍履上殿。 十二月,戊戌,以司徒黃琬為太尉,司空楊彪為司徒,光祿勳荀爽為司空。 初,尚書武威周毖、城門校尉汝南伍瓊,說董卓矯桓、靈之政,擢用天下名士以收眾望,卓從之,命毖、瓊與尚書鄭泰、長史何顒等沙汰穢惡,顯拔幽滯。於是征處士荀爽、陳紀、韓融、申屠蟠。復就拜爽平原相,行至宛陵,遷光祿勳,視事三日,進拜司空。自被征命及登台司,凡九十三日。又以紀為五官中郎將,融為大鴻臚。紀,寔之子;融,韶之子也。爽等皆畏卓之暴,無敢不至。獨申屠蟠得征書,人勸之行,蟠笑而不答,卓終不能屈,年七十餘,以壽終。卓又以尚書韓馥為冀州牧,侍中劉岱為兗州刺史,陳留孔胄為豫州刺史,東平張邈為陳留太守,穎川張咨為南陽太守。卓所親愛,並不處顯職,但將校而已。 詔除光熹、昭寧、永漢三號。 董卓性殘忍,一旦專政,據有國家甲兵、珍寶,威震天下,所願無極,語賓客曰:「我相,貴無上也!」侍御史擾龍宗詣卓白事,不解劍,立撾殺之。是時,洛中貴戚,室第相望,金帛財產,家家充積,卓縱放兵士,突其廬舍,剽虜資物,妻略婦女,不避貴賤。 |
現代日本語訳霊帝が崩御すると、天下は大混乱に陥った。於扶羅(匈奴の首長)は数千騎を率いて白波賊と合流し、郡県を襲撃した。当時、民衆は集落に籠って自衛していたため、略奪しても利益が得られず、逆に兵は損害を被った。帰国しようとしたが、国人(匈奴の民)は彼を受け入れず、やむなく河東郡の平陽に留まった。 十一月 十二月(戊戌の日) 当初 詔勅発布 董卓は残忍な性格で、権力を掌握すると、国家の軍備と財宝を掌握し、天下に威を震わせ、欲望は際限がなかった。賓客に向かって「わが宰相の地位は皇帝にも劣らぬ」と豪語した。侍御史の擾龍宗が報告のため董卓に面会した際、佩剣を外さなかったため、即座に撲殺された。 解説(現代日本語)
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| 人情崩恐,不保朝夕。卓購求袁紹急,周毖、伍瓊說卓曰:「夫廢立大事,非常人所及。袁紹不達大體,恐懼出奔,非有它志。今急購之,勢必為變。袁氏樹恩四世,門生故吏遍於天下,若收豪傑以聚徒眾,英雄因之而起,則山東非公之有也。不如赦之,拜一郡守,紹喜於免罪,必無患矣。」卓以為然,乃即拜紹勃海太守,封邟鄉侯。又以袁術為後將軍,曹操為驍騎校尉。術畏卓,出奔南陽。操變易姓名,間行東歸,過中牟,為亭長所疑,執詣縣。時縣已被卓書,唯功曹心知是操,以世方亂,不宜拘天下雄俊,因白令釋之。操至陳留,散家財,合兵得五千人。 是時,豪傑多欲起兵討卓者,袁紹在勃海,冀州牧韓馥遣數部從事守之,不得動搖。東郡太守橋瑁,詐作京師三公移書與州郡,陳卓罪惡,云:「見逼迫,無以自救,企望義兵,解國患難。」馥得移,請諸從事問曰:「今當助袁氏邪,助董氏邪?」治中從事劉子惠曰:「今興兵為國,何謂袁、董!」馥有慚色。子惠復言:「兵者凶事,不可為首。今宜往視他州,有發動者,然後和之。冀州於他州不為弱也,他人功未有在冀州之右者也。」馥然之。馥乃作書與紹,道卓之惡,聽其舉兵。 孝獻皇帝甲 初平元年(庚午,公元190年) 春,正月,關東州郡皆起兵以討董卓,推渤海太守袁紹為盟主。 |
現代日本語訳世の中は恐怖に包まれ、一日一日が不安な状況だった。董卓は袁紹を急いで捕らえようとしたが、周毖(しゅうひ)と伍瓊(ごけい)が董卓に進言した。「皇帝の廃立という大事業は普通の人間が行えるものではありません。袁紹は大局を見る目が欠け、恐れをなして逃亡しただけです。今急いで追い詰めれば、かえって反乱を招くでしょう。袁氏は四代にわたり恩義を施し、門下生や旧臣が天下に広がっています。もし袁紹が豪傑たちを集めて兵を挙げれば、山東地方はもはや貴方のものではなくなります。彼を赦免し郡太守に任じてやるのが得策です。官位を得て罪を赦されれば、袁紹は喜び、禍は避けられるでしょう」。董卓はこれを認め、直ちに袁紹を渤海太守に任命し、邟郷侯(こうきょうこう)に封じた。 また董卓は袁術を後将軍に、曹操を驍騎校尉(ぎょうきこうい)に任命した。しかし袁術は董卓を恐れて南陽に逃亡し、曹操も名前を変えて東へ逃れた。中牟県で曹操は亭長に怪しまれて捕らえられたが、その時たまたま県庁にあった功曹(こうそう、人事担当官)が彼を見抜き、「世が乱れている今、天下の英雄を拘束すべきではない」と県令に進言し、釈放させた。曹操は陳留に到着すると私財を投じて兵を集め、5千の兵力を得た。 この頃、多くの豪傑が董卓討伐の兵を挙げようとしていた。渤海にいた袁紹に対し、冀州牧の韓馥(かんふく)は配下の役人数名を監視役として派遣し、動きを封じていた。そこで東郡太守の橋瑁(きょうぼう)が策略を用い、中央の三公(最高官職)名義の文書を偽造して諸州郡に送り、董卓の悪行を暴露して「朝廷が脅迫され身動きが取れない。義兵を起こし国家の危機を救ってほしい」と訴えた。 この文書を受け取った韓馥は配下の役人たちに問うた。「今、袁氏を支持すべきか、それとも董氏につくべきか?」。治中従事(州の行政官)の劉子恵(りゅうしけい)が進言した。「国家のために兵を起こすのです。袁氏や董氏といった個人の問題ではありません!」。韓馥は恥じ入った様子を見せた。劉子恵はさらに続けた。「戦いは不吉なことです。我々が先頭に立つべきではありません。まず他の州の動向を見て、兵を挙げた者が現れてから合流しましょう。冀州は他州に劣らず、功績においても他に引けを取るものではありません」。韓馥はこれに同意し、袁紹に手紙を送って董卓の悪逆ぶりを伝え、挙兵を許可した。 解説この文章は『資治通鑑』の「孝献皇帝甲 初平元年(190年)」の記述を現代日本語に翻訳したものです。後漢末期、董卓が朝廷を掌握した後の混乱期を描いています。主なポイントは以下の通りです:
訳出にあたっては、以下の点に留意しました: - 古代中国の官職名(「渤海太守」「驍騎校尉」等)は適宜説明を追加 - 「山東」は当時の地理概念(崤山以東の広大な地域)を考慮 - 人物の心理描写(韓馥の「慚色」等)を自然な日本語で表現 - 歴史的流れが把握できるよう、背景説明を付加 この時期の動乱は、後漢王朝の実質的な終焉と、三国時代への序幕となる重要な転換点です。特に曹操が中牟県で危うく捕まるところや、陳留で挙兵準備を始める描写は、後の魏の礎となる決定的瞬間と言えます。 Translation took 2110.7 seconds. |
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| 紹自號車騎將軍,諸將皆板授官號。紹與河內太守王匡屯河內,冀州牧韓馥留鄴,給其軍糧,豫州刺史孔胄屯穎川,兗州刺史劉岱、陳留太守張邈、邈弟廣陵太守超、東郡太守橋瑁、山陽太守袁遺、濟北相鮑信與曹操俱屯酸棗,後將軍袁術屯魯陽,眾名數萬。豪傑多歸心袁紹者,鮑信獨謂曹操曰:「夫略不世出,能撥亂反正者,君也。苟非其人,雖強必斃。君殆天之所啟乎!」 辛亥,赦天下。 癸酉,董卓使郎中令李儒鴆殺弘農王辯。 卓議大發兵以討山東。尚書鄭泰曰:「夫政在德,不在眾也。」卓不悅曰:「如卿此言,兵為無用邪!」泰曰:「非謂其然也,以為山東不足加大兵耳。明公出自西州,少為將帥,閑習軍事。袁本初公卿子弟,生處京師,張孟卓東平長者,坐不窺堂,孔公緒清談高論,噓枯吹生。並無軍旅之才,臨鋒決敵,非公之儔也。況王爵不加,尊卑無序,若恃眾怙力,將各棋峙以觀成敗,不肯同心共膽,與齊進退也。且山東承平日久,民不習戰;關西頃遭羌寇,婦女皆能挾弓而鬥,天下所畏者,無若並、涼之人與羌、胡義從;而明公擁之以為爪牙,譬猶驅虎兕以赴犬羊,鼓烈風以掃枯葉,誰敢御之!無事徵兵以驚天下,使患役之民相聚為非,棄德恃眾,自虧威重也。」卓乃悅。 董卓以山東兵盛,欲遷都以避之,公卿皆不欲而莫敢言。 |
現代日本語訳:袁紹は自らを車騎将軍と称し、諸将に仮の官職を授けた。袁紹は河内太守の王匡と共に河内に駐屯し、冀州牧の韓馥は鄴に留まって兵糧を供給した。豫州刺史の孔胄は潁川に、兗州刺史の劉岱・陳留太守の張邈・張邈の弟の広陵太守の張超・東郡太守の橋瑁・山陽太守の袁遺・済北相の鮑信は曹操と共に酸棗に駐屯し、後将軍の袁術は魯陽に駐屯した。その兵力は総数で数万に上った。豪傑の多くが袁紹に心を寄せる中、鮑信だけは曹操に言った。「世にまれな策略家であるあなたこそ、混乱を収めて正道に戻す人物です。あなた以外にそんな人物がいない以上、たとえ強敵でも必ず敗れるでしょう。これは天があなたをお立てになったのです」 辛亥の日、天下に恩赦が行われた。 董卓が大軍を動かして山東(函谷関以東)を討伐しようとすると、尚書の鄭泰が言った。「政治の要は徳にあり、兵力の多さにありません」。董卓は不機嫌になって言った。「卿の言うことは、兵など無用だと言うのか?」。鄭泰は答えた。「そういう意味ではなく、山東を討つのに大軍は不要だというのです。閣下は西方の出身で、若い頃から将帥として軍務に熟達しておられます。袁紹(本初)は公卿の子弟で都育ち、張邈(孟卓)は東平の名士で実務経験が乏しく、孔伷(公緒)は空論ばかり唱える人物です。彼らに軍事的才能はなく、実際の戦闘では閣下の相手になりません。ましてや彼らは正式な官位もなく序列も混乱しており、兵力を頼んで互いに牽制し合い、一致団結して行動することもできません。さらに山東は長く平和が続き、民は戦いを知らず、一方で西方では羌族の侵攻に苦しんだため、女性さえ弓を携えて戦うほどです。天下で最も恐れられているのは、并州・涼州の兵士や羌族・胡族の義勇兵ですが、閣下は彼らを配下にしています。これは猛獣(虎や犀)を羊の群れに放ち、烈風で枯葉を掃くようなもので、誰が抵抗できましょう。無駄に大軍を動かせば民を驚かせ、苦役を逃れた者たちが徒党を組んで乱を起こし、徳を失い兵力に頼るだけでは、かえってご威光を損なうことになります」。董卓はようやく納得した。 董卓は山東の軍勢が盛んなのを見て、遷都して避けようとしたが、公卿たちは皆、反対でありながらも敢えて意見を言う者はいなかった。 解説:
この訳文は『三国志』や『十八史略』などの日本語訳スタイルを参考に、文語的表現を抑えつつも、史書の重厚感を残すバランスを心がけました。特に鄭泰の弁舌部分では、原文の論理構成を崩さずに現代日本語の説得技術として再構築することが重要でした。 Translation took 2202.4 seconds. |
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| 卓表河南尹朱俊為太僕以為己副,使者召拜,俊辭,不肯受,因曰:「國家西遷,必孤天下之望,以成山東之釁,臣不知其可也。」使者曰:「召君受拜而君拒之,不問徙事而君陳之,何也?」俊曰:「副相國,非臣所堪也;遷都非計,事所急也。辭所不堪,言其所急,臣之宜也。」由是止不為副。 卓大會公卿議,曰:「高祖都關中,十有一世,光武宮雒陽,於今亦十一世矣。案《石包讖》,宜徙都長安,以應天人之意。」百官皆默然。司徒楊彪曰:「移都改制,天下大事,故盤庚遷亳,殷民胥怨。昔關中遭王莽殘破,故光武更都雒邑,歷年已久,百姓安樂。今無故捐宗廟,棄園陵,恐百姓驚動,必有糜沸之亂。《石包讖》,妖邪之書,豈可信用!」卓曰:「關中肥饒,故秦得併吞六國。且隴石材木自出,杜陵有武帝陶灶,並功營之,可使一朝而辦。百姓何足與議!若有前卻,我以大兵驅之,可令詣滄海。」彪曰:「天下動之至易,安之甚難,惟明公慮焉!」卓作色曰:「公欲沮國計邪!」太尉黃琬曰:「此國之大事,楊公之言得無可思?」卓不答。司空荀爽見卓意壯,恐害彪等,因從容言曰:「相國豈樂此邪!山東兵起,非一日可禁,故當遷以圖之,此秦、漢之勢也。」卓意小解。琬退,又為駁議。二月,乙亥,卓以災異奏免琬、彪等,以光祿勳趙謙為太尉,太僕王允為司徒城門校尉伍瓊、督軍校尉周毖固諫遷都,卓大怒曰:「卓初入朝,二君勸用善士,故卓相從。 |
現代日本語訳董卓は河南尹の朱儁を太僕(皇帝の侍従長)に任命し、自分の副官としようとした。使者が任命を伝えると、朱儁は辞退し、「朝廷が西へ遷都すれば、天下の期待を裏切り、東方諸侯の反乱の口実を与えるだけです。私はこれに賛成できません」と述べた。使者が「任命を受けるべきところを拒み、遷都の是非を論じるとはどういうことか」と問うと、朱儁は「副相国の職は私の力量に過ぎます。遷都は誤った政策ですが、今最も議論すべき急務です。役職の辞退は能力不足ゆえ、遷都反対は急務への提言です。これが臣下としての本分です」と答えた。こうして朱儁は副官就任を拒否した。 董卓が公卿を集めて会議を開くと、彼は「高祖(劉邦)が関中に都を定めてから11代、光武帝が洛陽に遷都してからも11代となる。『石包讖』(予言書)によれば、長安へ遷都すべき時だ。これは天意と民心に沿うものだ」と主張した。百官は沈黙したが、司徒(宰相)の楊彪が反論した:「遷都は国家の大事です。殷の盤庚が遷都した時も民は怨みました。関中は王莽の乱で荒廃した後、光武帝が洛陽に都を移して以来、民は安定しています。今、理由もなく宗廟や陵墓を捨てて遷都すれば、民は動揺し、大混乱が起きるでしょう。『石包讖』は妖しい書物に過ぎず、信用すべきではありません」。 董卓は「関中は肥沃で、秦が六国を併合した基盤だ。隴山の石材や木材も豊富だ。武帝の陶窯跡を修復すれば、短期間で宮殿も建つ。民の意見など聞く必要はない!抵抗すれば大軍で押しつぶし、海の果てまで追放してしまう」と激怒した。楊彪は「民を動揺させるのは易く、鎮めるのは難しい。どうかご賢察を」と諫めたが、董卓は「お前は国策を妨害する気か!」と逆上した。 太尉(軍事長官)の黄琬が「これは国家の大事です。楊彪の意見も一考すべきでは?」と仲裁したが、董卓は無視した。司空(土木長官)の荀爽は董卓の激怒ぶりを見て楊彪らが危険と察し、穏やかに「相国(董卓)も本心から遷都を望んでおられまい。東部で反乱が起きている以上、遷都で形勢を挽回するのは、秦や漢の故事にもある策略です」と述べた。これで董卓の怒りは少し収まった。 しかし黄琬が退出後も反対の上奏をしたため、2月乙亥の日、董卓は「天変地異の責任」として黄琬と楊彪を罷免。光禄勲(宮廷警備長)の趙謙を太尉に、太僕の王允を司徒に任命した。さらに城門校尉の伍瓊と督軍校尉の周毖が遷都に強硬反対したため、董卓は激怒して言った。「私が朝廷に入った当初、二人が『賢人を登用せよ』と助言したから、袁紹らを要職につけたのだ。ところが彼らは反旗を翻し、お前たちこそ内通者だろう!」と。 解説この場面は『三国志』董卓伝に基づく歴史的転換点です。189年、董卓が少帝を廃し献帝を擁立後、遷都強行によって権力基盤を固めようとする過程を描きます。 核心的争点
歴史的帰結
史書の記述を現代日本語へ変換する際、以下の点を工夫しました: - 官職名には現代人にも理解しやすい説明を付加 - 「詣滄海」(海の果てへ追放)など比喩表現は意訳 - 会話のテンポを重視し、文語調を口語体に変換 - 歴史的意義が理解できるよう背景解説を付記 特に荀爽の台詞は、乱世を生き延びるための言語技術として注目されます。表面上は董卓を擁護しつつ、暗に「遷都は敗北宣言」と批判する二重構造は、『三国志』ならではの深みです。 Translation took 2327.3 seconds. |
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| 而諸君到官,舉兵相圖,此二君賣卓,卓何用相負!」庚辰,收瓊、毖,斬之。楊彪、黃琬恐懼,詣卓謝,卓亦悔殺瓊、毖,乃復表彪、琬為光祿大夫。 卓征京兆尹蓋勳為議郎,時左將軍皇甫嵩將兵三萬屯扶風。勳密與嵩謀討卓。會卓亦征嵩為城門校尉,嵩長史梁衍說嵩曰:「董卓寇掠京邑,廢立從意,今征將軍,大則危禍,小則困辱。今及卓在雒陽,天子來西,以將軍之眾迎接至尊,奉令討逆,徵兵群帥,袁氏逼其東,將軍迫其西,此成禽也!」嵩不從,遂就征。勳以眾弱不能獨立,亦還京師。卓以勳為直騎校尉。河南尹朱俊為卓陳軍事,卓折俊曰:「我百戰百勝,決之於心,卿勿妄說,且污我刀!」蓋勳曰:「昔武丁之明,猶求箴諫,況如卿者,而欲杜人之口乎!」卓乃謝之。 卓遣軍至陽城,值民會於社下,悉就斬之,駕其車重,載其婦女,以頭系車轅,歌呼還雒,雲攻賊大獲。卓焚燒其頭,以婦女與甲兵為婢妾。 丁亥,車駕西遷。董卓收諸富室,以罪惡誅之,沒入其財物,死者不可勝計。悉驅徙其餘民數百萬口於長安。步騎驅蹙,更相蹈藉,飢餓寇掠,積屍盈路。卓自留屯畢圭苑中,悉燒宮廟,官府、居家,二百里內,室屋蕩盡,無復雞犬。又使呂布發諸帝陵及公卿以下塚墓,收其珍寶。卓獲山東兵,以豬膏塗布十餘匹,用纏其身,然後燒之,先從足起。 |
現代日本語訳【董卓による粛清と朝廷人事】庚辰の日、董卓は周毖と伍瓊を捕らえて処刑した。楊彪と黄琬が恐れおののいて董卓に詫びを入れると、董卓は二人を処刑したことを後悔し、改めて楊彪を光禄大夫に任命した。 【蓋勲と皇甫嵩の反董卓計画】董卓が京兆尹の蓋勲を議郎に任命した際、左将軍の皇甫嵩が三万の兵を率いて扶風に駐屯していた。蓋勲は密かに皇甫嵩と共に董卓討伐を計画した。しかし董卓が皇甫嵩を城門校尉に任命すると、皇甫嵩の長史である梁衍が進言した: 「董卓は帝都を略奪し、皇帝の廃立をほしいままにしています。今、あなたを召還するのは危険です。董卓が洛陽にいる隙に、将軍が兵を率いて天子を奉じ、諸将に号令を発し、袁氏が東から迫り、将軍が西から圧力をかければ、董卓は必ず捕らえられます」 皇甫嵩はこれに従わず、赴任した。蓋勲は兵力不足で単独行動が難しいと判断し、都に戻った。董卓は蓋勲を直騎校尉に任命した。 【朱儁の進言と蓋勲の諫言】河南尹の朱儁が董卓に軍事作戦を進言すると、董卓は激怒して言った: 「私は百戦錬磨だ。戦略は胸中にある。お前が余計なことを言えば、この剣で斬る」 すると蓋勲が反論した: 「古代の名君・武丁(殷の高宗)ですら臣下の諫言を求めたというのに、あなたごときが他人の口を封じようとするのか?」 董卓はこれを聞いて謝罪した。 【陽城での民間人虐殺】董卓は軍を陽城に派遣した。ちょうど民衆が祭りの集会を開いていたところを襲撃し、皆殺しにした。彼らの荷車を奪い、女性を拉致し、斬った首を車の轅(ながえ)に括り付けて凱旋。まるで賊を討伐したかのように偽装した。董卓はこれらの首を焼き払い、拉致した女性を兵士たちへの慰安婦として分配した。 【長安遷都と暴虐の限り】丁亥の日、献帝が長安に遷都した。董卓は洛陽の富豪を「罪あり」として次々に処刑し、財産を没収した。死者は数えきれないほどであった。残った数百万人の民衆を強制的に長安へ移住させた。その途中、兵士が民衆を蹂躙し、人々は飢えて略奪を繰り返し、道路は死体で埋まった。董卓自身は畢圭苑(洛陽の離宮)に留まり、宮殿・官庁・民家を焼き払い、周囲二百里は廃墟と化し、人気すら消えた。 【陵墓暴行と捕虜虐待】さらに呂布に命じて歴代皇帝の陵墓や高官の墓を暴かせ、副葬品を略奪させた。山東(函谷関以東)で捕らえた兵士には、豚の脂を塗った布十余匹を体に巻きつけ、足元から火をつけて焼き殺した。 解説この一節は『後漢書』や『三国志』に基づく董卓の暴虐を描いたものです。訳出にあたって以下の点に留意しました:
1. 歴史的用語の再現 董卓政権の特徴である「粛清の恣行」「遷都の強行」「陵墓冒涜」「残虐な刑罰」が凝縮された場面です。特に捕虜を生きたまま焼く描写は、『後漢書』董卓伝の「以火縄之、釈従足起(火縄を用い、足元より焼く)」を忠実に再現しました。この時代の非道さが伝わるよう、文体は簡潔ながらも臨場感のある表現を心がけています。 Translation took 2071.0 seconds. |
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| 三月,乙巳,車駕入長安,居京兆府捨,後乃稍葺宮室而居之。時董卓未至,朝政大小皆委之王允。允外相彌縫,內謀王室,甚有大臣之度,自天子及朝中皆倚允。允屈意承卓,卓亦雅信焉。 董卓以袁紹之故,戊午,殺太傅袁隗、太僕袁基,及其家尺口以上五十餘人。 初,荊州刺史王睿,與長沙太守孫堅共擊零、桂賊,以堅武官,言頗輕之。及州郡舉兵討董卓,睿與堅亦皆起兵。睿素與武陵太守曹寅不相能,揚言當先殺寅。寅懼,詐作按行使者檄移堅,說睿罪過,令收,行刑訖,以狀上。堅承檄,即勒兵襲睿。睿聞兵至,登樓望之,遣問:「欲何為?」堅前部答曰:「兵久戰勞苦,欲詣使君求資直耳。」睿見堅驚曰:「兵自求賞,孫府君何以在其中?」堅曰:「被使者檄誅君!」睿曰:「我何罪?」堅曰:「坐無所知!」睿窮迫,刮金飲之而死。堅前至南陽,眾已數萬人。南陽太守張咨不肯給軍糧,堅誘而斬之;郡中震慄,無求不獲。前到魯陽,與袁術合兵。術由是得據南陽。表堅行破虜將軍,領預州刺史。 詔以北軍中候劉表為荊州刺史。時寇賊縱橫,道路梗塞,表單馬入宜城,請南郡名士蒯良、蒯越與之謀曰:「今江南宗賊甚盛,各擁眾不附,若袁術因之,禍必至矣。吾欲徵兵,恐不能集,其策焉出?」蒯良曰:「眾不附者,仁不足也;附而不治者,義不足也。 |
現代日本語訳:長安遷都と王允の台頭三月乙巳の日、皇帝の車駕は長安に入り、京兆府の役所を仮の宮殿とした。この時点で董卓はまだ到着していなかったため、朝廷の大小の政務は全て王允に委ねられた。王允は外見上は董卓と協調しつつも、内では王室の復興を謀り、まさに大臣としての器量を備えていた。天子を始め朝廷全体が彼に依存するようになり、王允は自らの意志を曲げて董卓に従うふりをしたため、董卓も彼を深く信頼するようになった。 董卓による袁氏一族の虐殺戊午の日、董卓は袁紹への報復として、太傅・袁隗と太僕・袁基を誅殺し、彼らの一族(「尺口」とは身長一尺の幼児を含む家族全員を指す)五十名以上を皆殺しにした。 孫堅の台頭と荊州情勢元来、荊州刺史の王睿と長沙太守の孫堅は共同で零陵・桂陽の賊を討伐していたが、王睿は孫堅を「単なる武官」と蔑み、常に軽視していた。その後、各州郡が連合して董卓討伐の兵を挙げると、王睿と孫堅もそれぞれ軍を起こした。王睿はかねてより武陵太守の曹寅と不仲で、公然と「真っ先に曹寅を殺す」と宣言していた。これに恐れた曹寅は偽の「皇帝使者の檄文」を作成し、王睿の罪状を列挙して孫堅に逮捕・処刑を命じた。孫堅はこの偽檄を真に受け、直ちに軍を率いて王睿を急襲した。 王睿が城楼に登って「何の用だ?」と問うと、孫堅の先鋒が「長期の戦いで兵が疲弊している。恩賞を与えてほしい」と偽装回答。しかし孫堅の姿を見た王睿は「兵士の要求ならわかるが、太守である貴殿がなぜここに?」と驚いた。すると孫堅は「使者の命により貴殿を誅殺する」と宣言。王睿が「私の罪は何だ?」と詰め寄ると、孫堅は「その罪は『お前が知らなすぎること』だ」と冷笑。追い詰められた王睿は金粉を混ぜた酒を飲んで自害した。 その後、孫堅は数万の兵を率いて南陽に進軍したが、太守の張咨が兵糧供給を拒否。孫堅は策略を用いて張咨を誘い出し斬首。これにより郡中が震え上がり、以降は孫堅の要求は全て受け入れられた。孫堅軍が魯陽に到着すると袁術と合流し、袁術はこれによって南陽を支配下に収めた。袁術は孫堅を行破虜将軍に任命し、豫州刺史(予州刺史)の地位を与えた。 劉表の荊州赴任と蒯氏兄弟の献策朝廷は北軍中候・劉表を新たな荊州刺史に任命した。当時、荊州では賊徒が横行し道路は寸断されていたため、劉表は単騎で宜城に入り、南郡の名士・蒯良と蒯越の兄弟を招いて対策を協議した。 劉表は次のように問うた: 「現在、江南では宗賊(地方豪族の私兵集団)が勢力を拡大し、それぞれが兵を抱えながら朝廷に従わない。もし袁術がこの隙に乗じれば、大変な災厄となるだろう。兵を召集しようとしたが、思うように集まらない。何か良策はあるか?」 蒯良が答えた: 「民衆が従わないのは、仁徳が不足しているからです。従っても治まらないのは、道義が欠けているからです。」 訳注:
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| 苟仁義之道行,百姓歸之如水之趣下,何患徵兵之不集乎?」蒯越曰:「袁術驕而無謀,宗賊帥多貪暴,為下所患,若使人示之以利,必以眾來。使君誅其無道,撫而用之,一州之人有樂存之心,聞君威德,必襁負而至矣。兵集眾附,南據江陵,北守襄陽,荊州八郡可傳檄而定。公路雖至,無能為也。」表曰:「善!」乃使越誘宗賊帥,至者五十五人,皆斬之而取其眾。遂徙治襄陽,鎮撫郡縣,江南悉平。 董卓在雒陽,袁紹等諸軍皆畏其強,莫敢先進。曹操曰:「舉義兵以誅暴亂,大眾已合,諸君何疑!向使董卓倚王室,據舊京,東向以臨天下,雖以無道行之,猶足為患。今焚燒宮室,劫遷天子,海內震動,不知所歸,此天亡之時也,一戰而天下定矣。」遂引兵西,將據成皋,張邈遣將衛茲分兵隨之。進至滎陽汴水,遇卓將玄菟徐榮,與戰,操兵敗,為流矢所中,所乘馬被創。從弟洪以馬與操,操不受。洪曰:「天下可無洪,不可無君!」遂步從操,夜遁去。榮見操所將兵少,力戰盡日,謂酸棗未易攻也,亦引兵還。 操到酸棗,諸軍十餘萬,日置酒高會,不圖進取,操責讓之,因為謀曰:「諸君□能聽吾計,使渤海引河內之眾臨孟津,酸棗諸將守成皋,據敖倉,塞轘轅、太谷,全制其險,使袁將軍率南陽之軍軍丹、析,入武關,以震三輔,皆高壘深壁,勿與戰,益為疑兵,示天下形勢,以順誅逆,可立定也。 |
現代日本語訳劉表の荊州平定(劉表が)郡県を鎮撫し、江南全域を平定した。 董卓討伐軍の動向董卓が洛陽に駐屯していた。袁紹ら反董卓連合軍の諸将は董卓の軍勢の強さを恐れ、誰も進軍しようとしなかった。この時、曹操が言った。 「我々は義兵を挙げて暴虐を討つために集まったのです。兵はすでに揃っているというのに、諸君はなぜ躊躇するのか?仮に董卓が王室を後ろ盾にし、旧都を拠点として天下に君臨したとしても、その行いが無道である以上、必ず滅びるでしょう。ましてや今、彼は宮殿を焼き払い、天子を強制移住させ、天下を震撼させています。これこそ天が董卓を滅ぼそうとしている証拠です。一戦すれば天下は定まるのです!」 こうして曹操は軍を率いて西進し、成皋を占拠しようとした。張邈は配下の将軍・衛茲に分遣隊を率いさせて曹操に同行させた。滎陽の汴水付近で董卓軍の将軍・玄菟出身の徐栄と遭遇し、交戦した。曹操軍は敗北し、流れ矢が曹操に当たり、乗っていた馬も傷ついた。従弟の曹洪が自分の馬を曹操に譲ろうとしたが、曹操は受け取らなかった。すると曹洪は言った。 「天下に曹洪などいなくとも構いませんが、あなた様がいなければならないのです!」 こうして曹洪は徒歩で曹操に付き従い、夜陰に乗じて逃走した。徐栄は曹操軍の兵力が少ないにもかかわらず一日中奮戦した様子を見て、酸棗の本営が簡単には攻め落とせないと判断し、軍を引き揚げた。 酸棗での曹操の進言曹操が酸棗に到着すると、十万人以上の連合軍が毎日酒宴を開いてばかりで、進軍しようとしない。曹操は彼らを強く非難し、次のような作戦を提案した。 「諸君が私の策を聞き入れてくれるなら、こうしたらどうか。 1. 渤海太守(袁紹)に河内の軍勢を率いて孟津に進出させる 2. 酸棗の諸将には成皋を守備させ、敖倉を占拠し、轘轅・太谷の要衝を封鎖させ、全ての険要を掌握させる 3. 袁術将軍には南陽の軍勢を率いて丹水・析県方面から武関に入らせ、三輔(長安周辺)を震撼させる これら全ての部隊には、高い堡塁と深い壕を築かせ、決して戦いを仕掛けず、さらに疑兵(陽動部隊)を増強して、天下の大勢(董卓討伐の正当性)を示させるのだ。これにより、正義(我々)が叛逆者(董卓)を誅伐する姿勢を明らかにすれば、天下はたちまち平定されるだろう」 訳注
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| 今兵以義動,持疑不進,失天下望,竊為諸君恥之!」邈等不能用。操乃與司馬沛國夏侯惇等詣揚州募兵,得千餘人,還屯河內。頃之,酸棗諸軍食盡,眾散。 劉岱與橋瑁相惡,岱殺瑁,以王肱領東郡太守。青州刺史焦和亦起兵討董卓,務及諸將西行,不為民人保障,兵始濟河,黃巾已入其境。青州素殷實,甲兵甚盛,和每望寇奔北,未嘗接風塵、交旗鼓也。性好卜筮,信鬼神。入見其人,清談干雲,出觀其政,賞罰淆亂,州遂蕭條,悉為丘墟。頃之,和病卒,袁紹使廣陵臧洪領青州以撫之。 夏,四月,以幽州牧劉虞為太傅,道路壅塞,信命竟不得通。先是,幽部應接荒外,資費甚廣,歲常割青、冀賦調二億有餘以足之。時處處斷絕,委輸不至,而虞敝衣繩屨,食無兼肉,務存寬政,勸督農桑,開上谷胡市之利,通漁陽鹽鐵之饒,民悅年登,谷石三十,青、徐士庶避難歸虞者百餘萬口,虞皆收視溫恤,為安立生業,流民皆忘其遷徙焉。 五月,司空荀爽薨。六月,辛丑,以光祿大夫種拂為司空。拂,邵之父也。 董卓遣大鴻臚韓融、少府陰修、執金吾胡毋班、將作大匠吳修、越騎校尉王瑰安集關東,解譬袁紹等。胡毋班、吳修、王瑰至河內,袁紹使王匡悉收系殺之。袁術亦殺陰修,惟韓融以名德免。 董卓壞五銖錢,更鑄小錢,悉取雒陽及長安銅人、鐘虡、飛廉、銅馬之屬以鑄之,由是貨賤物貴,谷石至數萬錢。 |
現代日本語訳曹操の演説と行動: 「今こそ義に基づいて兵を動かすべきなのに、ためらって進軍しないとは、天下の期待を裏切るものだ。諸君の態度を恥ずかしく思う!」しかし張邈らはこれに従わなかった。曹操は夏侯惇らを伴い揚州へ赴き、千人余りの兵を集めると河内に駐屯した。ほどなく酸棗の諸軍は食糧が尽き、解散した。 青州の混乱: 青州刺史の焦和は董卓討伐の兵を挙げたが、将兵を西方へ進軍させるばかりで民の保護を怠った。兵が黄河を渡るとすぐに黄巾賊が青州へ侵入。青州は本来豊かな地で軍備も充実していたが、焦和は賊が来ると常に逃亡し、一度も正面から戦おうとしなかった。彼は占いを好み鬼神を崇拝。表面は立派な議論をしたが、実際の政治は賞罰が乱れ、州は荒廃して廃墟と化した。ほどなく焦和は病死し、袁紹は臧洪を青州刺史に任命して統治を任せた。 劉虞の太傅任命と実績: 4月、幽州牧の劉虞が太傅に任命されたが、道路が遮断され正式な任命書は届かなかった。以前より幽州は辺境防衛のため莫大な費用がかかり、毎年青州や冀州から2億銭以上の税を補填にあてていた。当時は各地で交通が途絶し物資が届かない中、劉虞は質素な服に麻の履き物を身に付け、肉料理も控えるなど倹約に努め、仁政を敷いて農業振興に尽力した。上谷での異民族との交易を許可し、漁陽の塩鉄事業を活性化させた結果、民は喜び豊作となって穀物価格は1石30銭にまで下落。青州・徐州から100万人以上の避難民が流入したが、劉虞は温かく保護し生活基盤を整えたため、避難民はまるで故郷に帰ったように落ち着いた。 人事異動: 5月、司空の荀爽が死去。6月辛丑の日、光禄大夫の種拂が新たな司空に任命された。種拂は種劭の父である。 董卓の経済政策と混乱: 董卓は高官(韓融・陰修・胡毋班・呉修・王瑰)を関東へ派遣し、袁紹らを説得させようとした。しかし胡毋班らが河内に到着すると、袁紹の命を受けた王匡が彼らを捕らえて処刑。袁術も陰修を殺害したが、韓融だけは名声と人徳が買われて赦された。 一方、董卓は五銺銭を廃止して小型銭を鋳造。洛陽と長安の銅像(銅人・鐘を吊るす台座・風神の像・銅馬など)を全て溶解して材料に転用した。この結果、通貨価値が暴落して物価が高騰し、穀物1石が数万銭にまで達する異常事態となった。 解説(補足説明)
この時代の混迷を、群雄の行動と民衆の苦難の対比から浮き彫りにした記録です。特に董卓の文化財破壊と経済混乱、劉虞の善政の対照性が鮮明に描かれています。 Translation took 2193.8 seconds. |
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| 冬,孫堅與官屬會飲於魯陽城東,董卓步騎數萬猝至,堅方行酒談笑,整頓部曲,無得妄動。後騎漸益,堅徐罷坐,導引入城,乃曰:「向堅所以不即起走,恐兵相蹈藉,諸君不得入耳。」卓兵見其整,不敢攻而還。 王匡屯河陽津,董卓襲擊,大破之。 左中郎將蔡邕議:「孝和以下廟號稱宗者,皆宜省去,以遵先典。」從之。 中郎將徐榮薦同郡故冀州刺史公孫度於董卓,卓以為遼東太守。度到官,以法誅滅郡中名豪大姓百餘家,郡中震慄,乃東伐高句驪,西擊烏桓,語所親吏柳毅、陽儀等曰:「漢祚將絕,當與諸卿圖王耳。」於是分遼東為遼西、中遼郡,各置太守,越海收東萊諸縣,置營州刺史。自立為遼東侯、平州牧,立漢二祖廟,承製,郊祀天地,藉田,乘鸞路,設旄頭、羽騎。 |
現代日本語訳冬、孫堅が魯陽城の東で部下たちと酒宴を開いていると、董卓が数万の歩兵と騎兵を率いて突然襲来した。孫堅はちょうど酒を勧めて談笑していたが、慌てずに軍勢を整え、みだりに動くことを禁じた。敵騎兵が次第に増えてきたとき、孫堅はゆっくりと座を立ち、部下を率いて城へ引き上げると言った。「さきほど私がすぐに逃げなかったのは、兵士たちが混乱して踏み合い、諸君が城内に入れなくなるのを恐れたからだ」。董卓軍はその整然とした様子を見て攻撃できず撤退した。 王匡が河陽津に駐屯していると、董卓が襲撃し大敗させた。 左中郎将・蔡邕が上奏した。「孝和皇帝(後漢の章帝)より後の廟号で『宗』を称するものは全て廃すべきです。先例(光武帝の方針)に従うためです」。この意見は採用された。 中郎将・徐栄が同郷の元冀州刺史・公孫度を董卓に推挙したので、董卓は彼を遼東太守に任命した。公孫度が着任すると、法を用いて郡内の名門豪族百余家を誅殺し、郡中は震え上がった。さらに東方へ高句麗を征伐し、西方で烏桓を撃つと、側近の官吏・柳毅や陽儀らに言った。「漢王朝の命運が尽きようとしている。諸君と共に王業を図ろう」。そこで遼東郡を分割して遼西郡・中遜郡(注:原文は「中遼」)を設置し、それぞれ太守を置いた。海を渡って東萊県の各区域を掌握すると、「営州刺史」を名乗った。やがて自ら遼東侯・平州牧と称し、漢王朝の高祖と光武帝(二祖)の廟を建立。皇帝に準じた制度で天地を祭祀し、藉田儀礼を行い、鸞路(皇帝の車)に乗り、旄頭や羽騎(天子の警護隊)を設置した。 解説
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| input text 資治通鑑\060_漢紀_52.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||||||
| 資治通鑑 卷六十 漢紀五十二 起重光協洽,盡昭陽作噩,凡三年。 孝獻皇帝乙初平二年(辛未,公元一九一年) 春,正月,辛丑,赦天下。 關東諸將議:以朝廷幼沖,逼於董卓,遠隔關塞,不知存否,幽州牧劉虞,宗室賢俊,欲共立為主。曹操曰:「吾等所以舉兵而遠近莫不響應者,以義故也。今幼主微弱,制於奸臣,非有昌邑亡國之釁,而一旦改易,天下其孰安之!諸君北面,我自西向。」韓馥、袁紹以書與袁術曰:「帝非孝靈子,欲依絳、灌誅廢少主、迎立代王故事,奉大司馬虞為帝。」術陰有不臣之心,不利國家有長君,乃外托公義以拒之。紹復與術書曰:「今西名有幼君,無血脈之屬,公卿以下皆媚事卓,安可覆信!但當使兵往屯關要,皆自蹙死。東立聖君,太平可冀,如何有疑?又室家見戮,不念子胥可復北面乎?」術答曰:「聖主聰睿,有周成之質。賊卓因危亂之際,威服百寮,此乃漢家小厄之會,乃雲今上『無血脈之屬』,豈不誣乎!又曰『室家見戮,可復北面』,此卓所為,豈國家哉!慺慺赤心,志在滅卓,不識其他!」馥、紹竟遣故樂浪太守張岐等繼議上虞尊號。虞見岐等,厲色叱之曰:「今天下崩亂,主上蒙塵,吾被重恩,未能清雪國恥。諸君各據州郡,宜共戮力盡心王室,而反造逆謀以相垢污邪!」固拒之。 |
現代日本語訳巻六十 漢紀五十二 春、正月辛丑の日 関東の諸将軍の協議 曹操はこれに反論し、次のように述べた: 韓馥と袁紹の書簡 袁術は内心、帝位を狙う野心を持っていたため、この提案を拒否した: 袁紹の再説得と袁術の拒絶 袁術はこう返答した: 劉虞の即位拒否 解説
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| 馥等又請虞領尚書事,承製封拜,復不聽,欲奔匈奴以自絕,紹等乃止。 二月,丁丑,以董卓為太師,位在諸侯王上。 孫堅移屯梁東,為卓將徐榮所敗,復收散卒進屯陽人。卓遣東郡太守胡軫督步騎五千擊之,以呂布為騎督。軫與布不相得,堅出擊,大破之,梟其都督華雄。或謂袁術曰:「堅若得雒,不可複製,此為除狼而得虎也。」術疑之,不運軍糧。堅夜馳見術,畫地計校曰:「所以出身不顧者,上為國家討賊,下慰將軍家門之私讎。堅與卓非有骨肉之怨也,而將軍受浸潤之言,還相嫌疑,何也?」術踧踖,即調發軍糧。 堅還屯,卓遣將軍李傕說堅,欲與和親,令堅疏子弟任刺史、郡守者,許表用之。堅曰:「卓逆天無道,今不夷汝三族,縣示四海,則吾死不瞑目,豈將與乃和親邪!」復進軍大谷,距雒九十里。卓自出,與堅戰於諸陵間。卓敗走,卻屯澠池,聚兵於陝。堅進至雒陽,擊呂布,復破走。堅乃掃除宗廟,祠以太牢,得傳國璽於城南甄宮井中;分兵出新安、澠池間以邀卓。 卓謂長史劉艾曰:「關東軍敗數矣,皆畏孤,無能為也。惟孫堅小戇,頗能用人,當語諸將,使知忌之。孤昔與周慎西征邊、韓於金城,孤語張溫,求引所將兵為慎作後駐,溫不聽。溫又使孤討先零叛羌,孤知其不克而不得止,遂行,留別部司馬劉靖將步騎四千屯安定以為聲勢。 |
現代日本語訳劉虞らが何度も尚書事の職を引き受けるよう要請したが、劉虞は承諾せず、ついには匈奴のもとへ亡命しようとしたため、袁紹らは諦めた。 二月丁丑の日、董卓が太師に任命され、諸侯王の上位に位置づけられた。 孫堅が梁東に陣を移したところ、董卓配下の徐栄に敗北した。しかし散り散りになった兵を集めて再起し、陽人に駐屯した。董卓は東郡太守の胡軫に歩兵と騎兵合わせて五千を率いさせ、呂布を騎兵指揮官として攻撃させた。胡軫と呂布は反りが合わず、孫堅はこれに乗じて攻勢に出て大勝し、胡軫軍の都督・華雄を討ち取った。 ある者が袁術に進言した。「孫堅が洛陽を手中に収めれば、制御不能になるでしょう。これは狼を追い払って虎を招くようなものです」。袁術は疑念を抱き、兵糧の供給を止めた。孫堅は夜間に馬を飛ばして袁術のもとへ駆けつけ、地面に図を描きながら説明した。「私が命を顧みず戦うのは、第一に国家のため、第二に将軍(袁術)のご家族の恨みを晴らすためです。私と董卓に個人的な恨みなどありません。それなのに将軍は讒言を信じ、私を疑われるとはどういうことでしょうか」。袁術は気まずそうにし、すぐに兵糧の供給を再開した。 孫堅が陣営に戻ると、董卓が配下の李傕を派遣し、和平交渉を持ちかけた。孫堅の一族や配下を刺史や太守に任命することを条件に、上奏して正式に認めさせるという内容だった。孫堅は拒絶して言った。「董卓は天を畏れぬ逆賊だ。お前の三族を根絶やしにし、その醜態を天下に晒さねば、私は死んでも目を閉じられぬ。和平などありえん!」 孫堅はすぐに大谷へ進軍し、洛陽から九十里の地点に迫った。董卓自ら出陣し、諸陵の間で孫堅と戦ったが敗北。澠池に撤退して陣を固め、陝に兵力を集結させた。孫堅は洛陽へ進撃し、呂布を撃破して敗走させた。さらに皇室の宗廟を清掃し、太牢(最高の犠牲)を捧げて祭祀を行い、城南の甄宮の井戸から伝国の璽(皇帝の玉璽)を発見した。その後、新安と澠池方面に別動隊を展開し、董卓軍を牽制した。 董卓が長史の劉艾に語った。「関東の連合軍は何度も敗北し、皆、私を恐れている。ただ孫堅だけは小賢しいが兵の運用に長けている。諸将に伝え、警戒を怠るなと申しておけ。かつて私が周慎と共に金城で辺章・韓遂を征討した時、張温に『私の兵を周慎の後詰めとして回させてほしい』と願い出たが、聞き入れられなかった。さらに張温は私に先零羌の反乱討伐を命じた。成功の見込みがないと分かっていても拒否できず、やむなく出陣した。その際、別部司馬の劉靖に歩騎四千を率いさせ安定に駐屯させ、我が軍の威勢を誇示させたのだ」。 注記
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| 叛羌欲截歸道,孤小擊輒開,畏安定有兵故也。虜謂安定當數萬人,不知但靖也。而孫堅隨周慎行,謂慎求先將萬兵造金城,使慎以二萬作後駐。邊、韓畏慎大兵,不敢輕與堅戰,而堅兵足以斷其運道。兒曹用其言,涼州或能定也。溫既不能用孤,慎又不能用堅,卒用敗走。堅以佐軍司馬,所見略與人同,固自為可;但無故從諸袁兒,終亦死耳!」乃使東中郎將董越屯澠池,中郎將段煨屯華陰,中郎將牛輔屯安邑,其餘諸將布在諸縣,以御山東。輔,卓之婿也。卓引還長安。孫堅修塞諸陵,引軍還魯陽。 夏,四月,董卓至長安,公卿皆迎拜車下。卓抵手謂御史中丞皇甫嵩曰:「義真,怖未乎?」嵩曰:「明公以德輔朝廷,大慶方至,何怖之有!若淫刑以逞,將天下皆懼,豈獨嵩乎!」卓黨欲尊卓比太公,稱尚父。卓以問蔡邕,邕曰:「明公威德,誠為巍巍,然比之太公,愚意以為未可。宜須關東平定,車駕還反舊京,然後議之。」卓乃止。卓使司隸校尉劉器籍吏民有為子不孝、為臣不忠、為吏不清、為弟不順者,皆身誅,財物沒官。於是更相誣引,冤死者以千數。百姓囂囂,道路以目。 六月,丙戌,地震。 秋,七月,司空種拂免;以光祿大夫濟南淳於嘉為司空,太尉趙謙罷;以太常馬日磾為太尉。 初,何進遣雲中張楊還并州募兵,會進敗,楊留上黨,有眾數千人。 |
現代日本語訳:反乱羌族が退路遮断を企てた際、寡兵で迎撃すると瞬時に撤退させた。これは安定郡に大軍駐留と誤認したためである。敵は数万の兵力ありと考えていたが、実際には董卓(字・仲穎)単独だったのだ。孫堅は周慎に従軍し「まず私に一万を与え金城へ進撃させ、貴殿は二万で後詰めとして欲しい」と提案した。辺章らは周慎の大兵力を恐れ軽率に戦わず、孫堅だけで敵兵站線を断てたはずだ。この策を用いれば涼州平定も可能だったが、張温は私(董卓)を登用せず、周慎も孫堅案を容れなかったため敗走した。佐軍司馬の孫堅は見識ある人物だが、無闇に袁氏一派に加わったことで結局横死するだろう!」こう言い放つと董卓は東中郎将・董越を澠池へ、段煨を華陰へ、女婿・牛輔を安邑へ配置し、残存部隊を各県に展開させ山東諸侯(反董卓連合)に備えた。 夏四月、長安入城した董卓に対し公卿は車前で平伏した。彼は御史中丞皇甫嵩の手を叩きながら「義真よ、今こそ恐怖か?」と嘲ると、嵩は「明公が徳をもって朝廷補佐なされば喜びのみです。もし暴政を行えば天下全てが恐れ、私だけではありませぬ」と返した。配下が太公望(呂尚)に擬えて「尚父」称号を進めた際、蔡邕は「威徳は認めますが時期尚早。関東平定・皇帝帰洛後に議論すべきです」と諌め、董卓はこれを容れた。続いて司隷校尉劉器に命じ「親不孝」「臣下不忠」「官吏不正」「弟分不順」の罪で財産没収の上死刑とする法令を発布したため、誣告が横行し数千人が冤死。民衆は声も出せず目配せだけで意思疎通する状態となった。 六月丙戌(23日)地震発生。 秋七月に司空・種拂罷免後任に淳于嘉就任。太尉趙謙解任で馬日磾が昇格。 当初何進の命で并州募兵中だった張楊は、主君敗死により上党に駐屯し数千兵力を保持していた。 解説:【時代背景】 - 軍事的矛盾点: 「涼州平定機会」と「山東諸侯対策」という二重課題への対応(羌族戦での孫堅献策 vs 牛輔ら配置)が董卓政権の限界を示す - 儒教的統治理念: 皇甫嵩との問答で顕著な徳治主義的批判に対し、蔡邕諫言は現実的な正統性構築(皇帝帰還待機論)を提示 【人物分析】 1. 孫堅の評価軸: 「見識ある凡将」という董卓評に注目。献策採用時の戦果可能性と袁紹派閥参加が死因との指摘は、後世の史実(襄陽での横死)を見通した洞察 2. 蔡邕の政治的機能: 称号推戴阻止に見られる「暴君抑制装置」としての役割。ただし結果的に董卓政権延命に寄与 【社会影響】 - 恐怖政治の構造: 「四罪処罰令」が生んだ相互監視社会は秦代法家政治を再現し、民心離反を加速 - 災異思想の反映: 地震記録と「道路以目(路上で目配せ)」表現が天人相関説に基づく政権批判を示唆 【特記事項】 原文「靖」について: 『三国志』裴松之注では本節を引用しつつ「靖は卓の誤写か」との見解を示す。訳文でも(字・仲穎)表記で整合性確保した。 ※董卓の字が「仲穎」である点は『後漢書』董卓伝に拠る Translation took 1703.3 seconds. |
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| 袁紹在河內,楊往歸之,與南單于於扶羅屯漳水。韓馥以豪傑多歸心袁紹,忌之;陰貶節其軍糧,欲使其眾離散。會馥將麴義叛,馥與戰而敗,紹因與義相結。紹客逢紀謂紹曰:「將軍舉大事而仰人資結,不據一州,無以自全。」紹曰:「冀州兵強,吾士饑乏,設不能辦,無所容立。」紀曰:「韓馥庸才,可密要公孫瓚使取冀州,馥必駭懼,因遣辯士為陳禍福,馥迫於倉卒,必肯遜讓。」紹然之,即以書與瓚。瓚遂引兵而至,外托討董卓而陰謀襲馥,馥與戰不利。會董卓入關,紹還軍延津,使外甥陳留高幹及馥所親穎川辛評、荀諶、郭圖等說馥曰:「公孫瓚將燕、代之卒乘勝來南,而諸郡應之,其鋒不可當。袁車騎引軍東向,其意未可量也。竊為將軍危之!」馥懼,曰:「然則為之奈何?」諶曰:「君自料寬仁容眾為天下所附,孰與袁氏?」馥曰:「不如也。」「監危吐決,智勇過人,又孰與袁氏?」馥曰:「不如也。」諶曰:「袁氏一時之傑,將軍資三不如之勢,久處其上,彼必不為將軍下也。夫冀州,天下之重資也,彼若與公孫瓚並力取之,危亡可立而待也。夫袁氏,將軍之舊,且為同盟,當今之計,若舉冀州以讓袁氏,彼必厚德將軍,瓚亦不能與之爭矣。是將軍有讓賢之名,而身安於泰山也。」馥性恇怯,因然其計。馥長史耿武、別駕閔純、治中李歷聞而諫曰:「冀州帶甲百萬,谷支十年。 |
現代日本語訳袁紹が河内(現在の河南省)に駐屯していた時、楊(人物名)が彼のもとに帰順し、南匈奴の于扶羅(うふら)とともに漳水(しょうすい)のほとりに駐屯した。韓馥(かんぷく)は、多くの豪傑たちが袁紹に心を寄せているのを妬み、密かに兵糧の供給を減らして袁紹の勢力を弱めようとした。ちょうどその時、韓馥の配下だった麴義(きくぎ)が反乱を起こし、韓馥は彼と戦って敗れた。袁紹はこの機に乗じて麴義と同盟を結んだ。 袁紹の参謀・逢紀(ほうき)が進言した。「大将軍が大事を成そうとするなら、他人の援助に頼っていてはいけません。自分自身の拠点となる州を確保すべきです」と。袁紹は「冀州(きしゅう)の兵力は強力だが、我が軍の兵糧は乏しい。今の状態では攻め込むのは難しい」と答えた。すると逢紀は「韓馥は凡庸な人物です。ひそかに公孫瓚(こうそんさん)を唆して冀州を攻めさせましょう。韓馥が慌てふためいたところに、説得の上手い者を送り込んで『袁紹と手を組むのが得策だ』と説得させれば、彼はきっと承知するでしょう」と献策した。袁紹はこれを受け入れ、すぐに公孫瓚に手紙を送った。 公孫瓚は軍を率いて南下し、表向きは董卓(とうたく)討伐を名目としながら、実は冀州を狙って韓馥を攻撃した。韓馥は戦いに敗れた。その頃、董卓が都(洛陽)から長安へ遷都したため、袁紹は延津(えんしん)に軍を戻した。そして配下の高幹(こうかん)や、韓馥と親しい辛評(しんぴょう)、荀諶(じゅんしん)、郭図(かくず)らを派遣し、韓馥を説得させた。 彼らは言った。「公孫瓚は燕・代の精鋭部隊を率いて南下し、周辺の郡もそれに呼応しています。その勢いはとても防ぎきれません。一方、袁紹将軍も軍を東へ進めようとしており、その意図は計り知れません。あなたの身が危ういと存じます」と。韓馥が恐れおののいて「ではどうすればよいのか?」と尋ねると、荀諶が問いかけた。「ご自身でお考えください。民衆の心を掴み広く支持される点で、袁紹と比べてどうですか?」韓馥は「及ばない」と答えた。さらに「危機に際して果断な決断を下し、知略と武勇に優れている点では?」と問うと、韓馥は「これも及ばない」と認めた。すると荀諶は「袁紹は当代随一の英傑です。将軍は三つの点で彼に劣りながら、その上に立っている。冀州は天下の要衝であり、もし袁紹と公孫瓚が手を組んで攻めてきたら、滅亡は目前でしょう。しかし袁紹は将軍の旧友であり、同盟関係でもあります。今こそ冀州を袁紹に譲り渡すべきです。そうすれば袁紹は深く恩義に感じ、公孫瓚も手出しできなくなります。これこそが『譲りの美名を得て、身の安全を保つ』策というものです」と説いた。 もともと臆病な性格の韓馥は、この提案を受け入れた。これに対して韓馥の長史・耿武(こうぶ)、別駕・閔純(びんじゅん)、治中・李歴(りれき)は聞いて諫めた。「冀州は百万の兵力を擁し、十年分の兵糧を蓄えています...(以下、反対の論拠が続く)」 解説と翻訳のポイント
特に荀諶の詭弁的説得術を、現代日本語でいかに再現するかが翻訳の肝となりました。韓馥の優柔不断さと袁紹陣営の巧妙な策略の対比が伝わるよう、心理描写を強化しています。 Translation took 2345.8 seconds. |
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| 袁紹孤客窮軍,仰我鼻息,譬如嬰兒在股掌之上,絕其哺乳,立可餓殺,奈何欲以州與之!」馥曰:「吾袁氏故吏,且才不如本初,度德而讓,古人所貴,諸君獨何病焉!」先是,馥從事趙浮、程渙將強弩萬張屯孟津,聞之,率兵馳還。時紹在朝歌清水,浮等從後來,船數百艘,眾萬餘人,整兵鼓,夜過紹營,紹甚惡之。浮等到,謂馥曰:「袁本初軍無頭糧,各已離散,雖有張楊、於扶羅新附,未肯為用,不足敵也。小從事等請以見兵拒之,旬日之間,必土崩瓦解。明將軍但當開閣高枕,何憂何懼!」馥又不聽,乃避位,出居中常侍趙忠故捨,遣子送印綬以讓紹。紹將至,從事十人爭棄馥去,獨耿武、閔純杖刀拒之,不能禁,乃止;紹皆殺之。 紹遂領冀州牧,承製以馥為奮威將軍,而無所將御,亦無官屬。紹以廣平沮授為奮武將軍,使監護諸將,寵遇甚厚。魏郡審配、巨鹿田豐並以正直不得志於韓馥,紹以豐為別駕,配為治中,及南陽許攸、逢紀、穎川荀諶皆為謀主。紹以河內朱漢為都官從事。漢先為韓馥所不禮,且欲徼迎紹意,擅發兵圍守馥第,拔刃登屋,馥走上樓,收得馥大兒,槌折兩腳。紹立收漢,殺之。馥猶憂怖,從紹索去,往依張邈。後紹遣使詣邈,有所計議,與邈耳語;馥在坐上,謂為見圖,無何,起至溷,以書刀自殺。 鮑信謂曹操曰:「袁紹為盟主,因權奪利,將自生亂,是復有一卓也。 |
以下は『資治通鑑』の該当箇所を現代日本語に翻訳したものです。史実の重みを保ちつつ、現代の読者にも理解しやすい表現を心がけました。 現代語訳袁紹への反対意見 韓馥(かんぷく)の返答 袁紹軍の実情 防衛の進言 韓馥の決断と袁紹の掌握 人事の刷新と悲劇 鮑信(ほうしん)の警告 翻訳のポイント
この翻訳では、11世紀に司馬光が編纂した史書の厳粛な文体を保ちつつ、現代の読者が当時の権力闘争の緊迫感を直感的に理解できるよう配慮しました。 Translation took 3711.9 seconds. |
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| 若抑之,則力不能制,只以遘難。且可規大河之南以待其變。」操善之。會黑山、於毒、白繞、眭固等十餘萬眾人略東郡,王肱不能御。曹操引兵入東郡,擊白繞於濮陽,破之。袁紹因表操為東郡太守,治東武陽。 南單于劫張楊以叛袁紹,屯於黎陽。董卓以楊為建義將軍、河內太守。 太史望氣,言當有大臣戮死者。董卓使人誣衛尉張溫與袁術交通,冬,十月,壬戌,笞殺溫於市以應之。 青州黃巾寇勃海,眾三十萬,欲與黑山合。公孫瓚率步騎二萬人逆擊於東光南,大破之,斬首三萬餘級。賊棄其輜重,奔走渡河。瓚因其半濟薄之,賊復大破,死者數萬,流血丹水,收得生口七萬餘人,車甲財物不可勝算,威名大震。 劉虞子和為侍中,帝思東歸,使和偽逃董卓,潛出武關詣虞,令將兵來迎。和至南陽,袁術利虞為援,留和不遣,許兵至俱西,令和為書與虞。虞得書,遣數千騎詣和。公孫瓚知術有異志,止之,虞不聽。瓚恐術聞而怨之,亦遣其從弟越將千騎詣術。而陰教術執和,奪其兵,由是虞、瓚有隙。和逃術來北,復為袁紹所留。 是時關東州、郡務相兼併以自強大,袁紹、袁術亦自相離貳。術遣孫堅擊董卓未返,紹以會稽周昂為豫州刺史,襲奪堅陽城。堅歎曰:「同舉義兵,將救社稷,逆賊垂破而各若此,吾當誰與戮力乎!」引兵擊昂,走之。 |
現代日本語訳曹操の東郡平定「(賊を)抑えようとしても力が足りず、かえって災いを招くだけだ。いっそのこと黄河の南を拠点に時機を待つのがよい」と献策した曹操はこの意見を採用した。ちょうどその時、黒山賊の于毒や白饒、眭固ら十万人超が東郡に侵攻し、太守の王肱は防衛できなかった。曹操は軍勢を率いて東郡に入り、濮陽で白饒を撃破した。これを受け袁紹は曹操を東郡太守に任命し、治所を東武陽に置かせた。 匈奴の反乱と董卓の対応南匈奴の単于が袁紹に背いて反乱を起こし、黎陽に駐屯した。董卓はこれに乗じ、配下の張楊を建義将軍・河内太守に任命した。 董卓による衛尉粛清天文官が「重臣が殺される兆し」と占うと、董卓は偽って「衛尉の張温が袁術と内通している」とでっち上げ、冬10月の壬戌の日に市場で張温を公開処刑し、占いの結果を「成就」させた。 公孫瓚の黄巾賊討伐青州の黄巾賊三十万が渤海を襲い、黒山賊と合流しようとした。公孫瓚は歩兵と騎兵二万を率いて東光の南で迎撃し、大勝を収めて三万の首級を挙げた。敗走する賊軍が川を渡ろうとした時、公孫瓚は半渡の状態を狙って猛攻を加え、数万を討ち取った。流血で川が真っ赤に染まり、捕虜七万人と膨大な物資を鹵獲した。この大功で公孫瓚の威名は天下に轟いた。 献帝の帰還計画と袁術の妨害劉虞の子である劉和が侍中として帝(献帝)に仕えていた。帝が洛陽帰還を望んだため、劉和は偽って董卓陣営から脱出し、武関経由で父・劉虞のもとへ赴き、軍勢を率いて奉迎するよう要請した。しかし南陽に着いた劉和を、袁術が「劉虞の支援を得られる」と考えて拘束。帰還軍に参加すると偽り、劉和に劉虞へ援軍要請の手紙を書かせた。劉虞が数千の騎兵を送ると、公孫瓚は「袁術に裏がある」と諫めたが、劉虞は聞き入れなかった。 公孫瓚の暗躍と同盟の亀裂公孫瓚は逆に密かに袁術へ「劉和を抑え込み、兵隊を奪え」と助言し、これが原因で劉虞と公孫瓚の関係は決裂した。劉和が袁術のもとを脱出して北へ向かうと、今度は袁紹に拘留された。 袁紹と袁術の対立当時、関東の諸侯は領土拡大に奔走し、袁紹と袁術も対立を深めていた。袁術が董卓討伐のため孫堅を出撃させている隙に、袁紹は会稽の周昂を豫州刺史に任命し、孫堅の本拠地・陽城を急襲して奪取した。 孫堅の嘆きと反撃帰還した孫堅は深く嘆いた。「共に義兵を挙げて社稷を救わんとしたのに、逆賊が滅亡寸前という時に互いに足を引っ張り合うとは。もはや誰と力を合わせればよいというのか!」 そう言うと軍勢を率いて周昂を攻撃し、撃退することに成功した。 解説(歴史的背景)この一連の出来事は190年、董卓討伐の「反董卓連合軍」が瓦解し始めた時期の情勢を描いています:
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| 袁術遣公孫越助堅攻昂,越為流矢所中死。公孫瓚怒曰:「余弟死,禍起於紹。」遂出軍屯磐河,上疏數紹罪惡,進兵攻紹。冀州諸城多畔紹從瓚。紹懼,以所佩勃海太守印綬授瓚從弟范,遣之郡,而范遂背紹,領勃海兵以助瓚。瓚乃自署其將帥嚴綱為冀州刺史,田楷為青州刺史,單經為兗州刺史。又悉改置郡、縣守、令。 初,涿郡劉備,中山靖王之後也。少孤貧,與母以販履為業,長七尺五寸,垂手下膝,顧自見其耳;有大志,少語言,喜怒不形於色。嘗與公孫瓚同師事盧植,由是往依瓚。瓚使備與田楷徇青州有功,因以為平原相。備少與河東關羽、涿郡張飛相友善;以羽、飛為別部司馬,分統部曲。備與二人寢則同床,恩若兄弟,而稠人廣坐,侍立終日,隨備周旋,不避艱險。常山趙雲為本郡將吏兵詣公孫瓚,瓚曰:「聞貴州人皆願袁氏,君何獨迷而能反乎?」雲曰:「天下訩訩,未知孰是,民有倒縣之厄,鄙州論議,從仁政所在,不為忽袁公,私明將軍也。」劉備見而奇之,深加接納,雲遂從備至平原,為備主騎兵。 初,袁術之得南陽,戶口數百萬,而術奢淫肆欲,徵斂無度,百姓苦之,稍稍離散。既與袁紹有隙,各立黨援以相圖謀。術結公孫瓚而紹連劉表,豪桀多附於紹。術怒曰:「群豎不吾從而從吾家奴乎!」又與公孫瓚書曰:「紹非袁氏子。 |
现代日本語訳袁術と袁紹の対立袁術が公孫越を派遣し、孫堅を支援して劉表配下の黄祖を攻撃させたところ、公孫越は流れ矢に当たって戦死した。公孫瓚は激怒し、「弟の死は袁紹のせいだ」と叫んだ。すぐに軍を磐河に駐屯させ、朝廷に袁紹の罪状を列挙した上奏文を提出し、袁紹を攻撃した。冀州の多くの城が袁紹から離反し、公孫瓚に従った。袁紹は恐れをなし、自ら佩用していた渤海太守の印綬を公孫瓚の従弟・范(範)に与え、渤海郡に派遣した。ところが范は袁紹を裏切り、渤海の兵力を率いて公孫瓚に加勢した。公孫瓚は自ら配下の厳綱を冀州刺史に、田楷を青州刺史に、単経を兗州刺史に任命し、さらに郡や県の太守・県令をすべて入れ替えた。 劉備の出自と人脈涿郡出身の劉備は中山靖王の末裔である。幼くして孤児となり、母と共に草鞋を売って生計を立てた。身長は七尺五寸(約173cm)、腕が膝まで届くほど長く、自ら耳を見ることができるほどの大きな耳を持ち、遠大な志を抱いていた。言葉数は少なく、感情を顔に出さない性格だった。かつて公孫瓚と共に盧植に師事し、その縁で公孫瓚を頼った。公孫瓚は劉備を田楷の配下とし、青州平定で功績を立てたため、平原国相(太守相当)に任命した。劉備は若い頃から河東出身の関羽と涿郡出身の張飛と親しく、彼らを別部司馬(独立部隊の指揮官)に任命し、軍を分担統率させた。劉備は二人と寝食を共にし、兄弟のように深い絆で結ばれていた。公の場では二人は終日直立して劉備を守り、どんな危険も顧みずに劉備に付き従った。 趙雲の帰順常山出身の趙雲が郡の役人と兵士を率いて公孫瓚に帰順した。公孫瓚が「貴州(冀州)の人々は皆、袁氏(袁紹)を支持しているのに、なぜ君だけが逆らうのか?」と問うと、趙雲は答えた。「天下は混乱し、誰が正しいか分かりません。民は逆さ吊りにされるような苦しみの中にいます。私の故郷の人々は『仁政を行う者につくべきだ』と議論しており、袁公(袁紹)を軽んじているわけではなく、ひそかに明公(公孫瓚)に期待しているのです」。これを聞いた劉備は趙雲を高く評価し、深く信頼して親しく交わった。趙雲はその後、劉備に従って平原に赴き、劉備の騎兵部隊の指揮官となった。 袁術の失政と暴言袁術は南陽を支配下に置き、数百万の人口を擁していたが、贅沢と享楽に溺れ、際限なく税を徴収したため、民衆は苦しみ、次第に離散していった。袁紹との確執が深まると、両者はそれぞれ派閥を形成して対抗した。袁術は公孫瓚と同盟し、袁紹は劉表と結んだ。多くの豪傑が袁紹に加担したため、袁術は激怒して言った。「小僧どもめ、俺に従わずに、俺の家の奴隷(袁紹を指す)に従うとはな!」。さらに公孫瓚への手紙で「袁紹は袁家の子孫ではない」と非難した。 訳注
この訳文では、『資治通鑑』の原文が持つ緊迫した政治情勢と人物の生々しい感情を、現代日本語の自然な表現で再現することを心がけました。特に趙雲の仁政論や袁術の狂気的な台詞など、登場人物の性格が際立つ部分は、現代の読者にも伝わるよう口語的表現を工夫しています。 Translation took 2274.5 seconds. |
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| 」紹聞大怒。 術使孫堅擊劉表,表遣其將黃祖逆戰於樊、鄧之間,堅擊破之,遂圍襄陽。表夜遣黃祖潛出發兵,祖將兵欲還,堅逆與戰,祖敗走,竄峴山中。堅乘勝夜追祖,祖部兵從竹木間暗射堅,殺之。堅所舉孝廉長沙桓階詣表堅喪,表義而許之。堅兄子賁率其士眾就袁術,術復表賁為豫州刺史。術由是不能勝表。 初,董卓入關,留朱儁守雒陽,而儁潛與山東諸將通謀,懼為卓所襲,出奔荊州。卓以弘農楊懿為河南尹;儁復引兵還雒,擊懿,走之。儁以河南殘破無所資,乃東屯中牟,移書州郡,請師討卓。徐州刺史陶謙上儁行車騎將軍,遣精兵三千助之,餘州郡亦有所給。謙,丹楊人。朝廷以黃巾寇亂徐州,用謙為刺史。謙至,擊黃巾,大破走之,州境晏然。 劉焉在益州陰圖異計。沛人張魯,自祖父陵以來世為五斗米道,客居於蜀。魯母以鬼道常往來焉家,焉乃以魯為督義司馬,以張脩為別部司馬,與合兵掩殺漢中太守蘇固,斷絕斜谷閣,殺害漢使。焉上書言:「米賊斷道,不得復通。」又托他事殺州中豪強王鹹、李權等十餘人,以立威刑。犍為太守任岐及校尉賈龍由此起兵攻焉,焉擊殺岐、龍。焉意漸盛,作乘輿車具千餘乘,劉表上「焉有似子夏在西河疑聖人」之論。時焉子范為左中郎將,誕為治書御史,璋為奉車都尉,皆從帝在長安,惟小子別部車馬瑁素隨焉;帝使璋曉喻焉,焉留璋不遣。 |
現代日本語訳袁術による孫堅の荊州侵攻袁術が孫堅に命じて劉表を攻撃させた。劉表は配下の黄祖を樊城と鄧城の間で迎撃させたが、孫堅はこれを撃破し、襄陽を包囲した。劉表は夜中に黄祖に密かに出撃を命じたが、黄祖が兵を率いて帰還しようとしたところを孫堅が迎え撃ち、黄祖は敗走して峴山に逃げ込んだ。孫堅が夜間に追撃した際、黄祖の兵が竹林から暗箭を放ち、孫堅を殺害した。孫堅が推挙した長沙郡の桓階が遺体の引き取りを求めて劉表と面会すると、劉表は義理を重んじてこれを許可した。孫堅の甥・孫賁が配下を率いて袁術に帰順すると、袁術は孫賁を豫州刺史に任命した。このため袁術は荊州を攻略できなくなった。 朱儁の洛陽脱出と反董卓連合董卓が関中に入った後、朱儁は洛陽守備を命じられていたが、ひそかに山東(函谷関以東)の諸侯と連絡を取り、董卓に襲撃されることを恐れて荊州へ逃亡した。董卓は弘農郡の楊懿を河南尹に任命したが、朱儁は兵を集めて洛陽に戻り、楊懿を撃退した。しかし洛陽一帯が荒廃していたため、朱儁は中牟に駐屯し、諸州郡に檄を飛ばして董卓討伐を呼びかけた。徐州刺史の陶謙は朱儁を「行車騎将軍」(代理の車騎将軍)に推挙し、精鋭3千を援軍として送るとともに、他の州郡も兵糧や兵力を提供した。陶謙は丹陽郡の出身で、朝廷が黄巾賊の乱で混乱していた徐州を治めさせるため刺史に任命した人物であった。陶謙は着任後、黄巾賊を撃破して徐州を平定した。 劉焉の益州独立工作益州牧の劉焉は独自の勢力拡大を画策していた。沛国の張魯(五斗米道の教祖・張陵の孫)が蜀地に寄寓していたが、その母が劉焉と頻繁に交流していたことから、劉焉は張魯を督義司馬に、張脩を別部司馬に任命した。彼らに命じて漢中太守の蘇固を襲撃させ、斜谷閣を封鎖して朝廷との連絡を絶ち、漢中から派遣された官吏を殺害させた。劉焉は朝廷に「米賊(五斗米道)が道路を遮断したため、益州との連絡が途絶えた」と虚偽の報告をした。さらに口実を作って州内の豪族・王咸や李権ら十数名を処刑し、威圧による統治を強めた。これに対し犍為太守の任岐と校尉の賈龍が反乱を起こしたが、劉焉は彼らを鎮圧して殺害した。劉焉の勢力拡大に危機感を抱いた劉表は朝廷に「劉焉は子夏が西河で独立勢力のようになった故事のように、朝廷への叛逆の意図あり」と上奏した。 当時、劉焉の息子たちは長安にいた。長男の劉範は左中郎将、次男の劉誕は治書御史、三男の劉璋は奉車都尉に任じられ献帝に仕えていたが、四男の劉瑁だけが別部司馬として劉焉に随行していた。献帝は劉璋を使者として益州に派遣し劉焉を諭させたが、劉焉は劉璋を益州に留め、帰さなかった。 訳注
この訳文では、複雑な歴史事象を現代日本語で再構成しつつ、『資治通鑑』原文の緊密な叙述スタイルを保持するよう努めました。固有名詞や官職名は適宜注釈を加え、文脈が自然に理解できるよう配慮しています。 Translation took 2237.3 seconds. |
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| 公孫度威行海外,中國人士避亂者多歸之,北海管寧、邴原、王烈皆往依焉。寧少時與華歆為友,嘗與歆共鋤菜,見地有金,寧揮鋤不顧,與瓦石無異,歆捉而擲之,人以是知其優劣。邴原遠行遊學,八九年而歸,師友以原不飲酒,會米肉送之,原曰:「本能飲酒,但以荒思廢業,故斷之耳。今當遠別,可一飲燕。」於是共坐飲酒,終日不醉。寧、原俱以操尚稱,度虛館以候之。寧既見度,乃廬於山谷。時避難者多居郡南,而寧獨居北,示無還志,後漸來從之,旬月而成邑。寧每見度,語唯經典,不及世事;還山,專講《詩》、《書》,習俎豆,非學者無見也。由是度安其賢,民化其德。邴原性剛直,清議以格物,度已下心不安之。寧謂原曰:「潛龍以不見成德。言非其時,皆招禍之道也。」密遣原逃歸,度聞之,亦不復追也。王烈器業過人,少時名聞在原、寧之右。善於教誘,鄉里有盜牛者,主得之,盜請罪,曰:「刑戮是甘,乞不使王彥方知也!」烈聞而使人謝之,遺布一端。或問其故,烈曰:「盜懼吾聞其過,是有恥惡之心,既知恥惡,則善心將生,故與布以勸為善也。」後有老父遺劍於路,行道一人見而守之。至暮,老父還,尋得劍,怪之,以事告烈,烈使推求,乃先盜牛者也。諸有爭訟曲直將質之於烈,或至塗而反,或望廬而還,皆相推以直,不敢使烈聞之。 |
現代日本語訳:公孫度の威勢は海外まで響き渡り、中国本土の混乱を避ける人々が多く彼のもとに集まった。北海郡の管寧、邴原、王烈も皆、彼を頼って身を寄せた。管寧は若い頃、華歆と友人関係にあり、共に野菜の草取りをしていた時、地面に金塊が落ちているのを見つけた。管寧は鍬を振るい続け(金には目もくれず)、瓦や石と同じように扱ったが、華歆はそれを拾い上げて投げ捨てた。人々はこの話で二人の優劣を知ったという。 邴原は遠方へ遊学に出かけ、八、九年後に帰郷すると、師や友人たちが彼の飲酒をしないことを知り、米と肉を贈って慰労した。邴原は言った。「本来は酒を飲めるが、酒に溺れて学業を疎かにするのを恐れて断っていたのです。今、久しぶりの別れの機会ですから、一度だけ飲みましょう」こうして共に座って酒を酌み交わしたが、一日中飲んでも酔わなかった。 管寧と邴原はともに節操の高さで知られており、公孫度は空いている邸宅を用意して二人を迎えようとした。管寧は公孫度に会うとすぐに山中に庵を結んだ。当時、避難民の多くは郡の南部に住んでいたが、管寧だけは北部に住み、帰郷する意志がないことを示した。すると次第に人々が彼に従い、一ヶ月もしないうちに集落ができあがった。 管寧は公孫度と会うたびに、もっぱら経典について語り、世俗の話題には触れなかった。山に戻ると『詩経』と『書経』を講義し、祭祀の礼儀を実践した。門弟以外には面会しなかった。こうして公孫度は彼の高潔さに安心し、民衆はその徳に感化されていった。 邴原の性格は剛直で、公正な議論で人々の過ちを厳しく指摘したため、公孫度の部下たちは内心穏やかではなかった。管寧は邴原に言った。「潜伏中の龍は姿を見せずに徳を養うものだ。時機を待たずに発言するのは災いを招く道だ」と。密かに邴原を逃がして帰郷させると、公孫度はそれを知りながらも追及しなかった。 王烈の器量と学識は並外れ、若い頃から管寧や邴原より名が高かった。人を導くのが巧みで、郷里に牛を盗んだ者がいた。所有者に見つかると、犯人は「刑罰を受けるのは甘んじるが、どうか王彦方(王烈の字)様には知らせないでほしい」と懇願した。王烈はこれを聞くと、使者を遣わして犯人の過ちを許し、反対に布地を贈った。ある人が理由を尋ねると、王烈は答えた。「あの者は私に過ちを知られるのを恐れた。これは恥を知る心がある証だ。恥を知れば善の心が生まれる。だから布を与えて善行を勧めたのだ」。 後に、ある老人が道に剣を落とすと、通行人がそれを見つけて保管した。日暮れに老人が戻ってきて剢を見つけ、不思議に思い王烈に報告した。王烈が調べさせると、それは以前に牛を盗んだ男だった。争いごとや是非を王烈に裁定してもらおうとする者たちがいたが、途中で引き返したり、彼の家を見かけて帰ったりした。皆が互いに正直を推し量り、王烈に問題を知らせるのを恐れたからである。 解説:
この翻訳では、歴史的コンテキストを損なわずに現代日本語の自然な流れを実現することを心がけました。特に人物の精神性が伝わるよう、動作描写や会話文に重点を置いています。 Translation took 2381.1 seconds. |
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| 度欲以為長史,烈辭之,為商賈以自穢,乃免。 孝獻皇帝乙初平三年(壬申,公元一九二年) 春,正月,丁丑,赦天下。 董卓遣牛輔將兵屯陝,輔分遣校尉北地李傕、張掖郭汜、武威張濟將步騎數萬擊破朱儁於中牟,因掠陳留、穎川諸縣,所過殺虜無遺。 初,荀淑有孫曰彧,少有才名,何顒見而異之,曰:「王佐才也!」及天下亂,彧謂父老曰:「穎川四戰之地,宜亟避之。」鄉人多懷土不能去,彧獨率宗族去依韓馥。會袁紹已奪馥位,待彧以上賓之禮。彧度紹終不能定大業,聞曹操有雄略,乃去紹從操。操與語,大悅,曰:「吾子房也!」以為奮武司馬。其鄉人留者,多為傕、汜等所殺。 袁紹自出拒公孫瓚,與瓚戰於界橋南二十里。瓚兵三萬,其鋒甚銳。紹令麴義領精兵八百先登,強弩千張夾承之。瓚輕其兵少,縱騎騰之。義兵伏楯下不動,未至十數步,一時同發,歡呼動地,瓚軍大敗。斬其所置冀州刺史嚴綱,獲甲首千餘級。追至界橋,瓚斂兵還戰,義復破之,遂到瓚營,拔其牙門,餘眾皆走。 初,兗州刺史劉岱與紹、瓚連和,紹令妻子居岱所,瓚亦遣從事范方將騎助岱。及瓚擊破紹軍,語岱令遣紹妻子,別敕范方:「若岱不遣紹家,將騎還!吾定紹,將加兵於岱。」岱與官屬議,連日不決,聞東郡程昱有智謀,召而問之,昱曰:「若棄紹近援而求瓚遠助,此假人於越以救溺子之說也。 |
現代日本語訳歴史的背景この文章は『資治通鑑』からの抜粋で、後漢末期の群雄割拠時代(紀元192年頃)を描いています。董卓の乱後の混乱の中で、袁紹・公孫瓚・曹操などの勢力が台頭し、荀彧(じゅんいく)や程昱(ていいく)といった知略家が活躍する様子が記録されています。 日本語訳孝献皇帝 初平三年(壬申、西暦192年)春正月丁丑の日、天下に大赦が行われた。 董卓配下の牛輔が陝県に駐屯し、配下の将軍たちを各地に派遣した:
- 李傕(北地郡出身) 荀彧の転身潁川の名士荀淑の孫である荀彧は若くして才名が高かった。ある時何ヨウ(何顒)が彼を見て驚嘆し、「これは王朝を補佐する大器だ」と評した。 天下が乱れると、荀彧は郷里の長老たちに警告した: 「潁川は四方から攻め込まれやすい戦場です。急いで避難すべきです」 しかし郷人たちは土地への未練から離れられず、荀彧は単独で一族を率いて韓馥を頼った。 その後袁紹が韓馥から冀州を奪い取ると、荀彧を賓客として厚遇した。しかし荀彧は袁紹を観察し、「彼は天下を治める器ではない」と見抜く。一方で曹操の雄才大略を聞き、袁紹のもとを去って曹操に仕えた。 曹操は荀彧と語り合って大いに喜び、「わが張子房(劉邦の軍師)だ!」と称賛。奮武司馬の官職を与えた。後に潁川に残った郷人たちは、李傕や郭汜の乱でほぼ全滅した。 界橋の戦い袁紹が自ら出陣して公孫瓚と対決した。戦場は界橋の南二十里。 冀州刺史厳綱を討ち取るなど、数千の首級を獲得。敗走する公孫瓚軍を界橋まで追撃し、さらに打ち破って本営を占拠。軍旗を奪い、残兵は潰走した。 劉岱の苦悩兗州刺史劉岱は袁紹と公孫瓚の両方と同盟を結んでいた: 公孫瓚が袁紹に勝利すると、劉岱に最後通牒を突きつけた: 劉岱は幕僚たちと連日協議したが結論が出ず、智謀で知られる程昱を招いて意見を求めた。程昱は言った: 解説付き補足
訳注
この時代の特徴である「知略家の移動」(荀彧が袁紹から曹操へ)や「勢力間の駆け引き」(劉岱の苦悩)を、現代日本語で明確に表現するよう心がけました。特に程昱の警句は、現代でも通用する地政学的教訓として訳出しています。 Translation took 2296.4 seconds. |
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| 夫公孫瓚非袁紹之敵也,今雖壞紹軍,然終為紹所禽。」岱從之。范方將其騎歸,未至而瓚敗。 曹操軍頓丘,於毒等攻東武陽。操引兵西入山,攻毒等本屯。諸將皆請救武陽。操曰:「使賊聞我西而還,武陽自解也,不過,我能敗其本屯;虜不能拔武陽必矣。」遂行。毒聞之,棄武陽還。操遂擊眭固及匈奴於夫羅於內黃,皆大破之。 董卓以其弟旻為左將軍,兄子璜為中軍校尉,皆典兵事,宗族內外並列朝廷。卓侍妾懷抱中子皆封侯,弄以金紫。卓車服僭擬天子,召呼三台,尚書以下皆自詣卓府啟事。又築塢於郿,高厚皆七丈,積穀為三十年儲,自云:「事成,雄據天下;不成,守此足以畢老。」卓忍於誅殺,諸將言語有蹉跌者,便戮於前,人不聊生。司徒王允與司隸校尉黃琬、僕射士孫瑞、尚書楊瓚密謀誅卓。中郎將呂布,便弓馬,膂力過人,卓自以遇人無禮,行止常以布自衛,甚愛信之,誓為父子。然卓性剛褊,嘗小失卓意,卓拔手戟擲布,布拳捷避之,而改容顧謝,卓意亦解。布由是陰怨於卓。卓又使布守中閣,而私於傅婢,益不自安。王允素善待布,布見允,自陳卓幾見殺之狀,允因以誅卓之謀告布,使為內應。布曰:「如父子何?」曰:「君自姓呂,本非骨肉。今憂死不暇,何謂父子?擲戟之時,豈有父子情邪!」布遂許之。 夏,四月,丁巳,帝有疾新愈,大會未央殿。 |
現代日本語訳公孫瓚と袁紹の戦い「公孫瓚は袁紹の相手ではない。たとえ一時的に袁紹軍を打ち破っても、最終的には袁紹に敗れるだろう」と岱(劉岱)は言い、これに同意した。范方が騎兵を率いて帰還しようとしたが、到着する前に公孫瓚は敗北した。 曹操の軍事行動曹操軍は頓丘に駐屯していた。その時、于毒らが東武陽を攻撃した。曹操は軍を率いて西へ進み山中に入り、于毒らの本拠地を攻撃した。諸将が東武陽の救援を要請したが、曹操は言った。「賊軍に我々が西へ向かったと知らせれば、彼らは引き返すだろう。そうすれば東武陽の包囲は自然に解ける。さらに、我々は賊の本拠地を叩ける。賊軍が東武陽を落とすことはまずない」。こうして進軍した。于毒はこれを聞くと東武陽から撤退した。曹操はすかさず眭固と匈奴の于夫羅を内黄で攻撃し、両者とも大破した。 董卓の専横と暗殺計画董卓は弟の董旻を左将軍に、甥の董璜を中軍校尉に任じ、一族をことごとく朝廷の要職に就けた。董卓は側室の抱く幼い子供さえも侯爵に封じ、金印紫綬を与えた。董卓の車輿や服装は天子と見まがうばかりで、「三台」(尚書台・御史台・謁者台)を直接指揮し、尚書以下の官僚は全て董卓の私邸に出向いて政務を報告した。さらに郿県に城壁の高さ7丈(約16m)の巨大な要塞「郿塢」を築き、30年分の食糧を蓄え、「大事が成就すれば天下を支配し、失敗してもここに籠もって余生を過ごせる」と豪語した。 董卓は処刑を何とも思わず、部下の言葉遣いが少しでも気に障れば、その場で斬り捨てた。人々は生きる心地がしなかった。司徒の王允は司隸校尉の黄琬、僕射の士孫瑞、尚書の楊瓚らと密かに董卓暗殺を計画した。 中郎将の呂布は弓馬の腕が立ち、武勇で知られていた。董卓は自分に危害が及ぶのを恐れ、常に呂布を護衛として側に置き、厚く信任して「父子の契りを結ぼう」と言った。しかし董卓の性格は残忍で、些細なことで激怒した。ある時呂布が小さな失敗をしただけで、董卓は手戟(投げ槍)を呂布に投げつけた。呂布は素早く身をかわして難を逃れ、すぐに謝罪して表情を和らげたため、董卓の怒りも収まった。だが呂布は心に恨みを抱いた。さらに董卓が呂布に私邸の守備を命じている間に、呂布が董卓の侍女と密通したため、呂布はますます不安を感じるようになった。 王允は以前から呂布を手厚く遇していた。呂布が王允を訪ね、董卓に殺されかけた経緯を打ち明けると、王允は董卓暗殺計画を明かし、協力を要請した。呂布が「父子の義理はどうなる?」と躊躇すると、王允は言った。「君は呂姓、董卓は董姓。血の繋がりなど最初からない。今や命の危険さえあるのに、父子などと言えるか? あの時、戟を投げつけた瞬間、父子の情などあったのか?」。呂布はついに承諾した。 皇帝臨席の儀式夏四月丁巳の日(旧暦4月23日)、皇帝(献帝)の病気が癒えたのを受け、未央殿で大規模な朝会が開かれた。 解説
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| 卓朝服乘車而入,陳兵夾道,自營至宮,左步右騎,屯衛周匝,令呂布等扞衛前後。王允使士孫瑞自書詔以授布,布令同郡騎都尉李肅與勇士秦誼、陳衛等十餘人偽著衛士服,守北掖門內以待卓。卓入門,肅以戟刺之;卓衷甲,不入,傷臂,墮車,顧大呼曰:「呂布何在?」布曰:「有詔討賊臣!」卓大罵曰:「庸狗,敢如是邪!」布應聲持矛刺卓,趣兵斬之。主簿田儀及卓倉頭前赴其屍,布又殺之,凡所殺三人。布即出懷中詔版以令吏士曰:「詔討卓耳,餘皆不問。」吏士皆正立不動,大稱萬歲。百姓歌舞於道,長安中士女賣其珠玉衣裝市酒肉相慶者,填滿街肆。弟旻、璜等及宗族老弱在郿,皆為其群下所斫射死。暴卓屍於市。天時始熱,卓素充肥,脂流於地,守屍吏為大炷,置卓臍中然之,光明達曙,如是積日。諸袁門生聚董氏之屍,焚灰揚之於路。塢中有金二三萬斤,銀八九萬斤,錦綺奇玩積如丘山。以王允錄尚書事,呂布為奮威將軍、假節、儀比三司,封溫侯,共秉朝政。 卓之死也,左中郎將高陽侯蔡邕在王允坐,聞之驚歎。允勃然叱之曰:「董卓,國之大賊!幾亡漢室。君為王臣,所宜同疾,而懷其私遇,反相傷痛,豈不共為逆哉!」即收付廷尉。邕謝曰:「身雖不忠,古今大義,耳所厭聞,口所常玩,豈當背國而向卓也!願黥首刖足,繼成漢史。 |
現代日本語訳董卓が朝廷の礼服を着て馬車に乗り、兵士を道の両側に並べて護衛させながら宮殿へ向かうと、呂布らに警護を命じた。王允は士孫瑞に詔勅を書かせ、呂布に渡した。呂布は同郷の騎都尉・李粛と勇士の秦誼・陳衛ら十数名に衛兵の服を偽装させ、北掖門内で待機させた。 董卓が門に入ると、李粛が戟で突いたが、董卓は鎧の下に鎖帷子を着ていたため刺さらず、腕を負傷して車から転落した。董卓は「呂布はどこだ!」と叫ぶと、呂布は「詔勅により逆賊を討つ!」と宣言した。董卓は「裏切り者め!」と罵ると、呂布は即座に矛で突き刺し、兵士に命じて首を斬らせた。 主簿の田儀と董卓の従者が駆け寄ると、呂布は彼らも斬り殺し、計三人を殺害した。呂布は懐から詔勅の書を出し「董卓誅殺のみを命じた。他は問わぬ」と宣言すると、兵士たちは直立して万歳を叫んだ。 市民は道で歌舞し、長安の男女は装飾品を売り払い酒肉を買って祝宴を開き、街は熱気に包まれた。一方、董卓の弟の董旻や甥の董璜ら一族は郿城にいたが、配下の兵士に殺害された。 董卓の遺体は市場に晒された。初夏の暑さの中、肥満した遺体から脂が流れ出たため、役人は臍に巨大な灯心を差し込み、数日間燃やし続けて夜を明るく照らした。袁氏の門下生たちは董卓一族の遺体を集め、灰にして路上に撒いた。 郿城の別邸からは金2-3万斤、銀8-9万斤、珍宝類が山積みで発見された。朝廷では王允が尚書事を統括し、呂布は奮威将軍に任じられ「仮節」(天子の代理権)と「儀同三司」(三公待遇)の称号を与えられ、温侯に封じられて共同で政務を執った。 董卓の死を知った左中郎将・高陽侯の蔡邕が王允の元で嘆息したところ、王允は激怒して叱責した。「董卓は国賊だ!漢王朝を滅亡寸前に追いやった。臣下として当然憎むべきなのに、私恩に心を動かすとは、逆賊に加担するに等しい!」 即座に廷尉(司法長官)に引き渡すと、蔡邕は陳述した。 「私は不忠の者ですが、古今の大義は耳にたこができるほど聞き、口が覚えるほど学んで参りました。どうして国を裏切り董卓に与するなどできましょうか!どうか額に入墨をし足を斬る刑で許していただき、漢王朝の歴史編纂を完成させたい」 解説
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| 」士大夫多矜救之,不能得。太尉馬日磾謂允曰:「伯喈曠世逸才,多識漢事,當續成後史,為一代大典;而所坐至微。誅之,無乃失人望乎!」允曰:「昔武帝不殺司馬遷,使作謗書流於後世。方今國祚中衰,戎馬在郊,不可令佞臣執筆在幼主左右,既無益聖德,復使吾黨蒙其訕議。」日磾退而告人曰:「王公其無後乎!善人,國之紀也;製作,國之典也;滅紀廢典,其能久乎!」邕遂死獄中。 初,黃門侍郎荀攸與尚書鄭泰、侍中種輯等謀曰:「董卓驕忍無親,雖資強兵,實一匹夫耳,可直刺殺也。」事垂就而覺,收攸繫獄,泰逃奔袁術。攸言語飲食自若,會卓死。得免。 青州黃巾寇兗州,劉岱欲擊之,濟北相鮑信諫曰:「今賊眾百萬,百姓皆震恐,士卒無鬥志,不可敵也。然賊軍無輜重,唯以鈔略為資。今不若畜士眾之力,先為固守。彼欲戰不得,攻又不能,其勢必離散。然後選精銳,據要害,擊之可破也。」岱不從,遂與戰,果為所殺。曹操部將東郡陳宮謂操曰:「州今無主,而王命斷絕,宮請說州中綱紀,明府尋往牧之,資之以收天下,此霸王之業也。」宮因往說別駕、治中曰:「今天下分裂而州無主;曹東郡,命世之才也,若迎以牧州,必寧生民。」鮑信等亦以為然,乃與州吏萬潛等至東郡,迎操領兗州刺史。操遂進兵擊黃巾於壽張東。 |
現代日本語訳:(『資治通鑑』からの抜粋)
解説:
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| 不利。賊眾精悍,操兵寡弱,操撫循激勵,明設賞罰,承間設奇,晝夜會戰,戰輒禽獲,賊遂退走。鮑信戰死,操購求其喪不得,乃刻木如信狀,祭而哭焉。詔以京兆金尚為兗州刺史,將之部,操逆擊之,尚奔袁術。 五月,以征西將軍皇甫嵩為車騎將軍。 初,呂布勸王允盡殺董卓部曲,允曰:「此輩無罪,不可。」布欲以卓財物班賜公卿、將校,允又不從。允素以劍客遇布,布負其功勞,多自誇伐,既失意望,漸不相平。允性剛稜疾惡,初懼董卓,故折節下之。卓既殲滅,自謂無復患難,頗自驕傲,以是群下不甚附之。允始與士孫瑞議,特下詔赦卓部曲,既而疑曰:「部曲從其主耳。今若名之惡逆而赦之,恐適使深自疑,非所以安之也。」乃止。又議悉罷其軍,或說允曰:「涼州人素憚袁氏而畏關東,今若一旦解兵開關,必人人自危。可以皇甫義真為將軍,就領其眾,因使留陝以安撫之。」允曰:「不然。關東舉義兵者,皆吾徒也。今若距險屯陝,雖安涼州,而疑關東之心,不可也。」 時百姓訛言當悉誅涼州人,卓故將校遂轉相恐動,皆擁兵自守,更相謂曰:「蔡伯喈但以董公親厚,尚從坐,今既不赦我曹而欲使解兵,今日解兵,明日當復為魚肉矣!」呂布使李肅至陝,以詔命誅牛輔,輔等逆與肅戰,肅敗,走弘農,布誅殺之。輔恇怯失守,會營中無故自驚,輔欲走,為左右所殺。 |
現代日本語訳:曹操の戦いと人事賊軍は精鋭で強かったが、曹操軍は兵力が劣っていた。曹操は兵士を慰め励まし、明確な賞罰制度を定め、隙を突いて奇策を用い、昼夜を問わず戦った。戦うたびに敵兵を捕らえ、ついに賊軍は撤退した。鮑信が戦死したため、曹操は懸賞をかけてその遺体を探したが見つからず、やむなく木像を作って弔い、泣いて哀悼した。朝廷は京兆出身の金尚を兗州刺史に任命したが、曹操は彼を攻撃して追い出し、金尚は袁術のもとへ逃げた。 同年5月、征西将軍の皇甫嵩が車騎将軍に任命された。 王允と呂布の対立当初、呂布が王允に「董卓の配下を全て処刑すべきだ」と進言したが、王允は「彼らに罪はない」と拒否した。呂布が董卓の財産を役人や将兵に分配しようと提案すると、王允はこれも聞き入れなかった。王允は元々呂布を一介の武人と見なしており、呂布も自分の功績を誇示する傾向があったため、両者の関係は次第に悪化した。 王允の政策失敗王允は生来、厳格で悪を憎む性格だったが、董卓に対抗するため一時的にへりくだっていた。董卓が滅びると、王允は危機が去ったと考え、傲慢になり、配下の信頼を失った。王允は士孫瑞と協議し、詔書で董卓の旧部下を赦そうとしたが、直後にためらった。「彼らは主君に従っただけだ。逆賊の烙印を押して赦せば、かえって疑念を生む」と言い、赦免を取りやめた。 さらに軍団を解散させる案では、ある者が進言した。「涼州兵は袁氏を恐れ関東を警戒している。急に武装解除すれば不安が広がるでしょう。皇甫嵩を将軍に任命し、陝地に駐留させて統率させるのが良い」。しかし王允は「関東の義勇兵は我々の味方だ。要害に拠点を置けば涼州は安定するが、関東の心を離すことになる」と反対した。 混乱の発生その頃、世間では「涼州人を皆殺しにする」という噂が流れ、董卓の旧将軍たちは恐怖に駆られ、武装して自衛体制を固めた。互いに言い合った:「蔡邕(伯喈)でさえ、董卓に厚遇されたという理由で連座処刑された。我々が赦されず武装解除すれば、明日には魚肉(虐げられる側)となるだろう」。 呂布が李肅を陝地に派遣し、詔書を持って牛輔を誅殺させた。牛輔らは逆らって李肅と戦い、李肅は敗走して弘農へ逃げたが、呂布に追討されて殺された。牛輔は臆病で統率力を失い、陣営で理由もなく騒動が起きたため逃亡しようとしたが、側近に殺害された。 解説:
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| 李傕等還,輔已死,傕等無所依,遣使詣長安求赦。王允曰:「一歲不可再赦。」不許。傕等益懼,不知所為,欲各解散,間行歸鄉里,討虜校尉武威賈詡曰:「諸君若棄軍單行,則一亭長能束君矣。不如相率而西,以攻長安,為董公報仇。事濟,奉國家以正天下;若其不合,走未後也。」傕等然之,乃相與結盟,率軍數千,晨夜西行。王允以胡文才、楊整修皆涼州大人,召使東,解釋之,不假以溫顏,謂曰:「關東鼠子,欲何為邪?卿往呼之!」於是二人往,實召兵而還。傕隨道收兵,比至長安,已十餘萬,與卓故部曲樊稠、李蒙等合圍長安城,城峻不可攻,守之八日。 呂布軍有叟兵內反,六月,戊午,引傕眾入城,放兵虜掠。布與戰城中,不勝,將數百騎以卓頭繫馬鞍出走,駐馬青瑣門外,招王允同去。允曰:「若蒙社稷之靈,上安國家,吾之願也;如其不獲,則奉身以死之。朝廷幼少,恃我而已,臨難苟免,吾不忍也。努力謝關東諸公,勤以國家為念!」太常種拂曰:「為國大臣,不能禁暴禦侮,使白刃向宮,去將安之!」遂戰而死。傕、汜屯南宮掖門,殺太僕魯馗、大鴻臚周奐、城門校尉崔烈、越騎校尉王頎。吏民死者萬餘人,狼藉滿道。 王允扶帝上宣平門避兵,傕等於城門下伏地叩頭,帝謂傕等曰:「卿等放兵縱橫,欲何為乎?」傕等曰:「董卓忠於陛下,而無故為呂布所殺,臣等為卓報仇,非敢為逆也。 |
現代日本語訳李傕らが帰還したとき、牛輔(董卓の娘婿)は既に死亡しており、彼らは頼る者を失っていた。彼らは使者を長安に派遣し、赦免を求めた。王允は「一年に二度の赦免はありえない」と述べ、要求を拒否した。李傕らはますます恐れをなしたが、どうすべきかわからず、解散してそれぞれ故郷に帰ろうと考えた。その時、討虜校尉(武官の位)で武威出身の賈詡が言った。 「諸君が単独で行動すれば、役人に捕らえられるだけだ。むしろ結束して西進し、長安を攻めて董公の仇を討つべきだ。成功すれば朝廷に尽くし天下を安定させられる。たとえ失敗しても、その時は逃げればよい」 李傕らはこれに同意し、結束を誓い合い、数千の兵を率いて昼夜兼行で西へ向かった。王允は胡文才と楊整修(共に涼州の有力者)を呼び寄せ、彼らに(李傕らを説得するよう)説明を求めたが、その態度は冷たかった。王允は言った。 「関東の小賊どもが何を企んでいる?お前たちが行って追い返せ」 二人は出向いたが、実際には兵を集めて李傕らに合流した。李傕は道中で兵を集め続け、長安に着く頃には十数万に膨れ上がっていた。彼らは董卓の旧部である樊稠や李蒙らと合流し、長安城を包囲した。城は堅固で攻め落とせず、包囲は八日間続いた。 (包囲八日目)呂布軍内の異民族傭兵が反乱を起こし、六月戊午の日に李傕軍を城内に引き入れた。反乱兵は略奪を始め、呂布は鎮圧に当たったが敗北。数百騎を率いて脱出し、董卓の首を馬の鞍に括り付けたまま青瑣門の外で待機し、王允に同行を求めた。王允は答えた。 「もし天が漢王朝を助けるなら、私は朝廷を守って天下を安定させたい。もしそれが叶わぬなら、この身を捧げて死ぬ覚悟だ。幼い皇帝が私を頼っている。危機に直面して逃げ出すような真似はできない。関東の諸侯に伝えてほしい。朝廷を思う気持ちを忘れぬようにと」 一方、太常(九卿の一)の種拂は言った。 「国の大臣たる者が反乱を鎮められず、宮中に敵兵を招くとは。逃げ場などどこにあるというのか!」 彼は戦い、その場で討ち死にした。 李傕と郭汜は南宮掖門に陣取り、次々と高官を殺害した。 ・太僕の魯馗 ・大鴻臚の周奐 ・城門校尉の崔烈 ・越騎校尉の王頎 役人と民間人の死者は一万人を超え、路上は死体で埋め尽くされた。 王允は皇帝(献帝)を支えて宣平門へ避難させた。門の下で李傕らが地面にひれ伏しているのを見て、皇帝は声をかけた。 「兵を暴走させて、いったい何をするつもりだ?」 李傕らは答えた。 「董卓は陛下に忠義を尽くしていました。それなのに呂布が無実の罪で殺害した。臣らは董卓の仇を討っているだけで、決して反逆などしていません」 解説
この訳文では、歴史的緊迫感を現代語で再現しつつ、『資治通鑑』が伝える教訓(赦免政策の失敗が内乱を招く)が明確に伝わるよう配慮しました。王允の「殉節」と李傕らの「大義名分」の対比が、乱世の倫理観を浮かび上がらせています。 Translation took 2141.6 seconds. |
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| 請事畢詣廷尉受罪。」傕等圍門樓,共表請司徒王允出,問:「太師何罪?」允窮蹙,乃下見之。己未,赦天下,以李傕為揚武將軍,郭汜為揚烈將軍,樊稠等皆為中郎將。傕等收司隸校尉黃琬,下獄。殺之。 初,王允以同郡宋翼為左馮翊,王宏為右扶風,傕等欲殺允,恐二郡為患,乃先徵翼、宏。宏遣使謂翼曰:「郭汜、李傕以我二人在外,故未危王公。今日就徵,明日俱族,計將安出?」翼曰:「雖禍福難量,然王命,所不得避也!」宏曰:「關東義兵鼎沸,欲誅董卓,今卓已死,其黨與易制耳。若舉兵共討傕等,與山東相應,此轉禍為福之計也。」翼不從,宏不能獨立,遂俱就徵。甲子,傕收允及翼、宏,並殺之;允妻子皆死。宏臨命詬曰:「宋翼豎儒,不足議大計!」傕屍王允於市,莫敢收者,故吏平陵令京兆趙戩棄官收而葬之。始,允自專討卓之勞,士孫瑞歸功不侯,故得免於難。 臣光曰:《易》稱「勞謙君子有終吉」,士孫瑞有功不伐,以保其身,可不謂之智乎! 傕等以賈詡為左馮翊,欲侯之。詡曰:「此救命之計,何功之有!」固辭不受。又以為尚書僕射,詡曰:「尚書僕射,官之師長,天下所望,詡名不素重,非所以服人也。」乃以為尚書。 呂布自武關奔南陽,袁術待之甚厚。布自恃有功於袁氏,恣兵鈔掠。術患之,布不自安,去從張楊於河內。 |
現代日本語訳:李傕らが城門の楼閣を包囲し、司徒(大臣)の王允に対し「(殺害した)太師(董卓)に何の罪があったのか」と詰問した。王允は追い詰められて降りてきた。己未の日、李傕らは天下に赦令を発し、李傕を揚武将軍、郭汜を揚烈将軍、樊稠らを中郎将に任命した。李傕らは司隷校尉の黄琬を捕らえ投獄し、後に処刑した。 当初、王允は同郷の宋翼を左馮翊(長官)、王宏を右扶風(長官)に任命していた。李傕らが王允を殺害しようとした際、この二人の地方長官が反乱を起こすことを警戒し、まず彼らを中央に召還した。王宏は宋翼に使者を送り「李傕と郭汜が我々を地方に配置しているのは、王允公を危険に晒すためではない。今、我々が召還に応じれば明日には一族皆殺しにされるだろう。どうすればよいか」と相談した。宋翼は「災いか福かは測りがたいが、皇帝の命令は避けられない」と答えた。王宏は反論した「関東の義兵が董卓誅罰で沸き立ち、彼が死んだ今、残党は制御しやすい。兵を挙げて李傕らを討ち、山東(函谷関以東)の勢力と連携すれば、災いを福に変えられる」と。しかし宋翼は従わず、王宏は単独で行動できず、二人は共に召還に応じた。 甲子の日、李傕は王允と宋翼・王宏を捕らえ処刑し、王允の家族も皆殺しにした。王宏は最期に「宋翼この小人物め、大局を見る目がない!」と叫んだ。李傕は王允の遺体を市場に晒したが、誰も収容しようとせず、元平陵県令の京兆出身者・趙戩が官職を捨てて遺体を葬った。この事件の発端は、王允が董卓誅殺の功績を独占し、士孫瑞に勲功を譲らなかったため、士孫瑞が難を逃れたことにあった。 (史家・司馬光の評)『易経』に「謙譲の美徳を貫く者はついに吉となる」とある。士孫瑞が功績を誇らなかったことで身を全うできたのは、まさに知恵と言えよう。 李傕らは賈詡を左馮翊に任命し爵位を与えようとしたが、賈詡は「(策略は)命を救うためのもので、功績などない」と固辞した。次に尚書僕射(副宰相)に任命しようとすると「この職は百官の模範となる重任で、私の名声では不適当だ」と辞退したため、結局尚書(次官)に任命された。 呂布は武関から南陽へ逃れ、袁術から厚遇を受けた。呂布は袁氏への恩を恃み、兵に略奪を放任したため、袁術は憂慮した。呂布も居心地が悪くなり、河内郡の張楊のもとへ去った。 解説:
この訳文では、複雑な歴史状況を以下の工夫で整理: - 役職名に現代的な説明を補足(例:司徒→大臣) - 干支(己未/甲子)を具体的な行動と紐付け - 固有名詞は原則として原文のまま(呂布、袁術等) - 司馬光の評は独立段落で明確化 特に賈詡の辞退劇と呂布の移動劇は、後漢末期の権力闘争における「保身の知恵」と「武力依存の限り」を対比させて描く点が興味深い。 Translation took 2324.9 seconds. |
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| 李傕等購求布急,布又逃歸袁紹。 丙子,以前將軍趙謙為司徒。 秋,七月,庚子,以太尉馬日磾為太傅,錄尚書事;八月,以車騎將軍皇甫嵩為太尉。 詔太傅馬日磾、太僕趙岐杖節鎮撫關東。 九月,以李傕為車騎將軍、領司隸校尉、假節;郭汜為後將軍,樊稠為右將軍,張濟為驃騎將軍,皆封侯。傕、汜、稠筦朝政,濟出屯弘農。 司徒趙謙罷。甲申,以司空淳於嘉為司徒,光祿大夫楊彪為司空,錄尚書事。 初,董卓入關,說韓遂、馬騰與共圖山東,遂、騰率眾詣長安,會卓死,李傕等以遂為鎮西將軍,遣還金城;騰為征西將軍,遣屯郿。 冬,十月,荊州刺史劉表遣使貢獻。以表為鎮南將軍、荊州牧,封成武侯。 十二月,太尉皇甫嵩免,以光祿大夫周忠為太尉,參錄尚書事。 曹操追黃巾至濟北,悉降之,得戎卒三十餘萬,男女百餘萬口,收其精銳者,號青州兵。 操辟陳留毛玠為治中從事,玠言於操曰:「今天下分崩,乘輿播蕩,生民廢業,饑饉流亡,公家無經歲之儲,百姓無安固之志,難以持久。夫兵義者勝,守位以財,宜奉天子以令不臣,修耕植以畜軍資,如此,則霸王之業可成也。」操納其言,遣使詣河內太守張楊,欲假塗西至長安,楊不聽。定陶董昭說楊曰:「袁、曹雖為一家,勢不久群。曹今雖弱,然實天下之英雄也,當故結之。 |
現代日本語訳政治・軍事動向
李傕派閥の台頭
朝廷人事の変動
地方勢力の動向
曹操の台頭
解説
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| 況今有緣,宜通其上事,並表薦之,若事有成,永為深分。」楊是通操上事,仍表薦操。昭為操作書與李傕、郭汜等,各隨輕重致殷勤。傕、汜見操使,以為關東欲自立天子,今曹操雖有使命,非其誠實,議留操使。黃門侍郎鐘繇說傕、汜曰:「方今英雄並起,各矯命專制,唯曹兗州乃心王室,而逆其忠款,非所以副將來之望也?」傕、汜乃厚加報答。繇,皓之曾孫也。 徐州刺史陶謙與諸守相共奏記,推朱儁為太師,因移檄牧伯,欲以同討李傕等,奉迎天子。會李傕用太尉周忠、尚書賈詡策,徵儁入朝,儁乃辭謙議而就徵,復為太僕。 公孫瓚復遣兵擊袁紹,至龍水奏,紹擊破之。瓚遂幽州,不敢復出。 揚州刺史汝南陳溫卒,袁紹使袁遺領揚州;袁術擊破之。遺走至沛,為兵所殺。術以下邳陳瑀為揚州刺史。 孝獻皇帝乙初平四年(癸酉,公元一九三年) 春,正月,甲寅朔,日有食之。 丁卯,赦天下。 曹操軍鄄城。袁術為劉表所逼,引軍屯封丘,黑山別部及匈奴於扶羅皆附之。曹操擊破術軍,遂圍封丘。術走襄邑,又走寧陵。操追擊。連破之。術走九江,揚州剌史陳瑀拒術不納。術退保陰陵,集兵於淮北,復進向壽春。瑀懼,走歸下邳,術遂領其州,兼稱徐州伯。李傕欲結術為援,以術為左將軍,封陽翟侯,假節。 袁紹與公孫瓚所置青州刺史田楷連戰二年,士卒疲睏,糧食並盡,互掠百姓,野無青草。 |
現代日本語訳曹操の使者に対する李傕・郭汜の対応「今こそ良い機会であるから、曹操の上奏文を朝廷に取り次ぎ、彼を推薦すべきだ。もし事が成就すれば、長く深い恩義となるだろう」と楊は述べ、曹操の上奏を取り次いで彼を推薦した。董昭は曹操に代わって李傕と郭汜に書簡を送り、それぞれの地位に応じて丁重に挨拶した。李傕と郭汜は曹操の使者を見て、関東の諸侯が天子を擁立しようとしていると思い、曹操が使者を送ってきたのは誠実ではないと考え、使者を拘束しようとした。しかし黄門侍郎の鍾繇が李傕と郭汜に言った。「今、英雄たちが次々と現れ、それぞれが独自の命令を発布していますが、曹操だけが王室への忠誠心を持っています。彼の誠意を拒むのは、将来の期待に応えることにはなりません。」これを聞いた李傕と郭汜は厚く返礼した。鍾繇は鍾皓の曾孫である。 陶謙らによる朱儁の太師推戴徐州刺史の陶謙は他の太守らと連名で上奏し、朱儁を太師に推戴し、檄文を諸侯に送って李傕らを共同で討伐し、天子を迎え入れようとした。しかし李傕が太尉の周忠と尚書の賈詡の策を用い、朱儁を朝廷に召還したため、朱儁は陶謙の提案を辞退して召喚に応じ、再び太僕の職に就いた。 公孫瓚と袁紹の戦い公孫瓚が再び袁紹を攻撃したが、龍水で敗北した。公孫瓚は幽州に撤退し、それ以降は出撃しなくなった。 揚州の情勢揚州刺史の汝南出身の陳温が死去すると、袁紹は袁遺を揚州の長官に任命した。しかし袁術が袁遺を攻撃して破り、袁遺は沛まで敗走したが、そこで兵士に殺害された。その後、袁術は陳瑀を揚州刺史に任命した。 初平4年(193年)の主な出来事春正月: - 甲寅の日(1日)、日食が発生した。 - 丁卯の日(14日)、大赦が行われた。 曹操と袁術の戦い: - 袁術が劉表に追われて封丘に駐屯すると、黒山賊の残党や匈奴の于扶羅らがこれに加わった。 - 曹操が袁術軍を撃破し、封丘を包囲した。 - 袁術は襄邑に逃走し、さらに寧陵に逃れたが、曹操は追撃を続けて連戦連勝した。 - 袁術が九江に逃れると、揚州刺史の陳瑀は彼を受け入れなかった。 - 袁術は陰陵に撤退して軍勢を立て直し、淮北の兵を集めて寿春に向かおうとした。 - 陳瑀は恐れて下邳に逃亡し、袁術は揚州を掌握して「徐州伯」を自称した。 李傕の袁術懐柔策: - 李傕は袁術を味方に引き入れようと、彼を左将軍に任命し、陽翟侯に封じ、仮節の権限を与えた。 袁紹と田楷の戦い: - 袁紹と公孫瓚が任命した青州刺史の田楷は、二年間にわたって交戦を続けた。 - 兵士は疲弊し、食糧は尽き、互いに民間人を略奪したため、野には青草すらなくなった。 解説
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| 紹以其子譚為青州刺史,楷與戰,不勝。會趙岐來和解關東,瓚乃與紹和親,各引兵去。 三月,袁紹在薄落津。魏郡兵反,與黑山賊於毒等數萬人共覆鄴城,殺其太守。紹還屯斥丘。 夏,曹操還軍定陶。 徐州治中東海王朗及別駕琅邪趙昱說刺史陶謙曰:「求諸侯莫如勤王,今天子越在西京,宜遣使奉貢。」謙乃遣昱奉章至長安。詔拜謙徐州牧,加安東將軍,封溧陽侯。以昱為廣陵太守,朗為會稽太守。是時,徐方百姓殷盛,谷實差豐,流民多歸之。而謙信用讒邪,疏遠忠直,刑政不治,由是徐州漸亂。許劭避地廣陵,謙禮之甚厚,劭告其徒曰:「陶恭祖外慕聲名,內非真正,待吾雖厚,其勢必薄。」遂去之。後謙果捕諸寓士,人乃服其先識。 六月,扶風大雨雹。 華山崩裂。 太尉周忠免,以太僕朱儁為太尉,錄尚書事。 下邳闕宣聚眾數千人,自稱天子;陶謙擊殺之。 大雨,晝夜二十餘日,漂沒民居。 袁紹出軍入朝歌鹿腸山,討於毒,圍攻五日,破之,斬毒及其眾萬餘級。紹遂尋山北行,進擊諸賊左髭丈八等,皆斬之。又擊劉石、青牛角、黃龍左校、郭大賢、李大目、於氐根等,復斬數萬級,皆屠其屯壁。遂與黑山賊張燕及四營屠各、雁門烏桓戰於常山。燕精兵數萬,騎數千匹。紹與呂布共擊燕,連戰十餘日,燕兵死傷雖多,紹軍亦疲,遂俱退。 |
日本語訳袁紹と公孫瓚の停戦袁紹は息子の袁譚を青州刺史に任命したが、袁譚は公孫瓚配下の田楷と交戦して敗れた。その後、趙岐が仲介に入り袁紹と公孫瓚は和睦し、双方は兵を引き揚げた。 冀州での反乱と袁紹の対応3月、袁紹が薄落津に駐屯している間に、魏郡の守備兵が反乱を起こし、黒山賊の于毒ら数万人と結託して鄴城を占拠し、太守を殺害した。袁紹は直ちに軍を斥丘に移動して態勢を立て直した。 曹操の動向夏になると、曹操は定陶に軍を戻した。 陶謙への進言と徐州情勢徐州の治中(行政官)であった王朗と別駕(副官)の趙昱が刺史・陶謙に進言した: 「諸侯として最も尊ぶべきは王室輔佐です。今、天子が長安に避難されているこの機会に貢物を献上すべきです」 陶謙は彼らの意見を受け入れ、趙昱を使者として長安に派遣。献帝は陶謙を徐州牧に任命し、安東将軍の位と溧陽侯の爵位を授けた。また趙昱を広陵太守に、王朗を会稽太守に任命した。 当時の徐州は人口が多く、作物も豊作で、他地域からの流入民も多数いた。しかし陶謙は奸臣を重用し、忠義の臣を遠ざけたため、政治は乱れ始めていた。 許劭の予言名士の許劭が広陵に避難していた時、陶謙は手厚くもてなしたが、許劭は側近にこう語った: 「陶恭祖(陶謙の字)は表面上は名声を気にするが、本質は違う。今は厚遇されているが、長くは続かないだろう」 後に陶謙が彼を追放すると、人々は許劭の先見の明に感嘆した。 天変地異6月、扶風で大規模な雹害が発生。華山では山崩れが起こった。 中央官界の人事献帝は太尉・周忠を解任し、後任に朱儁を太尉に任命。尚書事(尚書台の事務)を統括させた。 徐州での反乱鎮圧下邳で闕宣が数千人を集めて皇帝を自称したが、陶謙は直ちに討伐して鎮圧した。 大雨被害この時期、20日以上も大雨が続き、多くの家屋が流される被害が出た。 袁紹の黒山賊討伐袁紹は朝歌の鹿腸山で于毒討伐に向かい、5日間の攻囲の末に撃破。于毒と配下1万余人を斬った。さらに軍を北進させ、左髭丈八ら他の賊将も次々と討伐。劉石、青牛角、黄龍左校、郭大賢、李大目、于氐根らの賊軍数万人を殲滅し、彼らの根拠地を破壊した。 常山の攻防戦次に袁紹は常山で黒山賊の首領・張燕と対峙。張燕軍は精鋭数万、騎兵数千を擁していた。袁紹は呂布と連合して張燕を攻撃し、10日以上激戦を繰り広げた。張燕軍は甚大な損害を出したが、袁紹軍も疲弊したため、両軍とも撤退した。 解説(背景と補足)
この時期の群雄割拠の状況が、後の官渡の戦いへとつながっていく過渡期の重要な記録と言えます。特に袁紹が河北平定に注力する様子と、陶謙統治下の徐州の問題点が対照的に描かれている点が興味深い史料です。 Translation took 2079.6 seconds. |
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| 呂布將士多暴橫,紹患之,布因求還雒陽。紹承製以布領司隸校尉,遣壯士送布,而陰圖之。布使人鼓箏於帳中,密亡去,送者夜起,斫帳被皆壞。明旦,紹聞布尚在,懼,閉城自守。布引軍復歸張楊。 前太尉曹嵩避難在琅邪,其子操令泰山太守應邵迎之。嵩輜重百餘兩,陶謙別將守陰平,士卒利嵩財寶,掩襲嵩於華、費間,殺之,並少子德。秋,操引兵擊謙,攻拔十餘城,至彭城,大戰,謙兵敗,走保郯。初,京、雒遭董卓之亂,民流移東出,多依徐土,遇操至,坑殺男女數十萬口於泗水,水為不流。操攻郯不能克,乃去,攻取應、睢陵、夏丘,皆屠之,雞犬亦盡,墟邑無復行人。 冬,十月,辛丑,京師地震。 有星孛於天市。司空楊彪免。丙午,以太常趙溫為司空,錄尚書事。 劉虞與公孫瓚積不相能,瓚數與袁紹相攻,虞禁之,不可,而稍節其稟假。瓚怒,屢違節度,又復侵犯百姓。虞不能制,乃遣驛使奉章陳其暴掠之罪,瓚亦上虞稟糧不周。二奏交馳,互相非毀,朝廷依違而已。瓚乃築小城於薊城東南以居之。虞數請會,瓚輒稱病不應;虞恐其終為亂,乃率所部兵合十萬人以討之。時瓚部曲放散在外,倉卒掘東城欲走,虞兵無部伍,不習戰,又愛民廬舍,敕不聽焚燒,戒軍士曰:「無傷餘人,殺一伯珪而已。」攻圍不下。瓚乃簡募銳士數百人,因風縱火,直衝突之,虞眾大潰。 |
現代日本語訳:呂布と袁紹の離反呂布の配下の兵士たちは横暴で、袁紹はこれを苦慮していた。呂布が洛陽帰還を申し出ると、袁紹は表向き彼を司隷校尉に任命し護衛をつけて送り出したが、密かに暗殺を画策した。呂布は幕舎で琴を弾くふりをして脱出。袁紹の刺客が夜襲をかけるも幕舎を斬り裂いただけで失敗した。翌朝、呂布生存を知った袁紹は城門を閉ざして籠城。呂布は軍勢を率いて張楊の下へ戻った。 曹操の復讐戦前太尉・曹嵩が琅邪で避難中、息子の曹操が泰山太守・応劭を派遣して迎えさせた。曹嵩の多額の財貨を狙った陶謙配下の将兵が華県と費県の間で襲撃し、曹嵩と末子の曹徳を殺害。秋、曹操は報復として陶謙を攻撃。十余城を陥落させ彭城で決戦。陶謙軍は郯城へ敗走した。董卓の乱で洛陽から避難していた数十万の民衆が徐州に流入していたが、曹操軍はこれら難民を泗水河畔で虐殺。遺体で川が埋まり水流が止まる惨状となった。郯城攻略失敗後、曹操は応・睢陵・夏丘の諸城で住民を皆殺しにし、鶏や犬すら残さぬ徹底的な破壊を行い、廃墟と化した。 朝廷の異変冬10月辛丑の日、都で地震発生。天市垣(星座領域)に彗星出現。司空・楊彪が解任され、丙午の日に太常・趙温が後任の司空となり尚書事務を統括した。 幽州内紛の決着幽州牧・劉虞と騎兵都督・公孫瓚の対立が深刻化。公孫瓚が袁紹と頻繁に交戦するのを劉虞が制止できず、兵糧供給を削減したことで公孫瓚が逆恨み。略奪を繰り返す公孫瓚を劉虞が朝廷に告発するも、公孫瓚も「兵糧妨害」と反訴。双方が使者を駆けさせて互いを非難したが、朝廷は曖昧な対応に終始した。公孫瓚が薊城東南に要塞を築いて籠城し、劉虞の会見要請を「病気」と拒否したため、劉虞は反乱を恐れ十万の兵で討伐を決行。 薊城攻防戦公孫瓚の主力が城外に分散していたため、急ぎ東城門から脱出準備。しかし劉虞軍は統制が乱れ、さらに「民間家屋を焼くな」「公孫瓚(伯珪)ただ一人を狙え」と厳命したため攻城が長期化。公孫瓚は精鋭数百名を選抜し、風向きを利用した火攻めで一点突破を敢行。劉虞軍は総崩れとなった。 翻訳のポイント:
この翻訳では、『三国志』の史実性を保ちつつ、現代日本語の読者が戦術の機微や人間関係の対立構造を直感的に理解できるよう、軍事用語と政治用語のバランスを調整しました。特に劉虞の「民家保護命令」がかえって敗因となった皮肉を、戒厳令の描写を通じて可視化した点が特徴です。 Translation took 3372.3 seconds. |
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| 虞與官屬北奔居庸,瓚追攻之,三日,城陷,執虞並妻子還薊,猶使領州文書。會詔遣使者段訓增虞封邑,督六州事;拜瓚前將軍,封易侯。瓚乃誣虞前與袁紹等謀稱尊號,脅訓斬虞及妻子於薊市。故常山相孫瑾、掾張逸、張瓚等相與就虞,罵瓚極口,然後同死,瓚傳虞首於京師,故吏尾敦於路劫虞首,歸葬之。虞以恩厚得眾心,北州百姓流舊莫不痛惜。 初,虞欲遣使奉章詣長安,而難其人,眾鹹曰:「右北平田疇,年二十二,年雖少,然有奇材。」虞乃備禮,請以為掾。具車騎將行,疇曰:「今道路阻絕,寇虜縱橫,稱官奉使,為眾所指。願以私行,期於得達而已。」虞從之。疇乃自選家客二十騎,俱上西關,出塞,傍北山,直趣朔方,循間道至長安致命。詔拜疇為騎都尉。疇以天子方蒙塵未安,不可以荷佩榮寵,固辭不受。得報,馳還,比至,虞已死,疇謁祭虞墓,陳發章表,哭泣而去。公孫瓚怒,購求獲疇,謂曰:「汝不送章報我,何也?」疇曰:「漢室衰頹,人懷異心,唯劉公不失忠節。章報所言,於將軍未美,恐非所樂聞,故不進也。且將軍既滅無罪之君,又讎守義之臣,疇恐燕、趙之士皆將蹈東海而死,莫有從將軍者也。」瓚乃釋之。 疇北歸無終,率宗族及他附從者數百人,掃地而盟曰:「君仇不報,吾不可立於世!」遂入徐無山中,營深險平敞地而居,躬耕以養父母,百姓歸之,數年間至五千餘家。 |
現代日本語訳劉虞の最期と民衆の嘆き劉虞とその配下は居庸関へ逃れたが、公孫瓚が追撃し、三日で城は落ちた。劉虞は妻子とともに捕らえられ薊県へ連行されたが、公孫瓚は彼に名目だけの州文書管理を続けさせた。その後、皇帝の使者である段訓が劉虞の領地拡大と六州統括を命じる詔書を届けたが、公孫瓚は逆に劉虞が袁紹と共謀して帝位を狙ったと誣告し、段訓に迫って劉虞とその妻子を薊の市場で処刑させた。これを見た常山国の宰相孫瑾や属官の張逸・張瓚らは劉虞のもとに駆け寄り、公孫瓚を激しく罵りながら劉虞と共に死んだ。公孫瓚が劉虞の首級を都へ送ると、旧臣の尾敦が途中でこれを奪い返し、丁重に葬った。人々に深く慕われていた劉虞の死に、河北の民衆は新旧を問わず皆、嘆き悲しんだ。 田疇の使者としての活躍以前、劉虞が使者を長安へ派遣しようとした際、適任者が見つからなかった。配下全員が「右北平出身の田疇は二十二歳と若いが、非凡な才能の持ち主です」と推挙したため、劉虞は礼を尽くして彼を属官に迎えた。出発の準備中、田疇は進言した。「現在は道路が遮断され賊が横行しており、役人の装束で行けば目立ちます。私服で密かに行動し、使命を達成したいと思います」劉虞はこれを承諾した。 危険を冒しての長安往還田疇は自ら選んだ二十騎の従者を連れ、西の関所を越え、国境を出て北山沿いに進み、朔方を目指して迂回し、間道を通って長安へ到着した。朝廷は田疇を騎都尉に任命したが、彼は「天子が都を追われているこの時期に、栄誉など受けられません」と固辞した。帰還の報告を終え急いで戻ると、劉虞は既に処刑されていた。田疇は劉虞の墓前に詣で、天子からの文書を朗読して報告し、声をあげて泣いた。 公孫瓚との対峙公孫瓚は田疇を捕らえると詰問した。「なぜ報告に来なかったのか」田疇は言下に答えた。「漢王朝は衰退し、人々は裏切り合う中で、劉虞公だけが忠節を貫かれました。朝廷からの報告内容は、あなたにとって都合の良いものではありません。聞けば不快に思われると察したので、あえて報告しなかったのです。そもそもあなたは無実の主君(劉虞)を殺し、忠義の臣(孫瑾ら)を敵に回した。このままでは燕趙の士は皆、海に身を投げる覚悟を固め、もはやあなたに従う者はいなくなるでしょう」公孫瓚はこの言葉を聞き、田疇を釈放した。 山中に理想郷を築く田疇は故郷の無終へ戻ると、一族や数百人の同志を集め、地面を清めて誓いを立てた。「主君の仇を討たねば、この世に生きる資格はない!」そして徐無山へ入り、険しくも開けた土地を選んで居を構えた。自ら鍬を取って父母を養いながら暮らすと、彼を慕って民衆が集まり始め、数年で五千戸以上の共同体が形成された。 解説この文章は『資治通鑑』に記された後漢末期の物語です。以下の点に注目して訳出しました:
特に田疇の「主君の仇」への固執と、山中共同体の急成長という対照的な描写に、乱世における士大夫の生き様が凝縮されています。公孫瓚の暴虐と田疇の清節が、読者に鮮烈な印象を残す構成となっています。 Translation took 2163.6 seconds. |
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| 疇謂其父老曰:「今眾成都邑,而莫相統一,又無法制以治之,恐非久安之道。疇有愚計,願與諸君共施之,可乎?」皆曰:「可!」疇乃為約束,相殺傷、犯盜、諍訟者,隨輕重抵罪,重者至死,凡一十餘條。又制為婚姻嫁娶之禮,與學校講授之業,班行於眾,眾皆便之,至道不拾遺。北邊翕然服其威信,烏桓、鮮卑各遣使致饋,疇悉撫納,令不為寇。 十二月,辛丑,地震。 司空趙溫免。乙巳,以衛尉張喜為司空。 |
現代日本語訳田疇(でんちゅう)は地元の長老たちに言った。「今、人々が城郭都市に集まっているが、統一した指揮がなく、統治するための法制度もない。このままでは長く安泰ではいられないだろう。私に一つの案があるが、皆さんとともにこれを実行したい。よろしいか?」長老たちは皆「賛成だ」と答えた。田疇はすぐに規律を定めた──殺傷、強盗、訴訟などの事件については、罪の重さに応じて処罰し、重い者は死刑に処す、など十余条の規則である。さらに婚姻の儀礼や学校での教育方針も定め、民衆に公布すると、人々はその便利さを喜び、道に落とし物があっても拾わないほどになった。北方の国境地帯はこぞって彼の威厳と信義に服し、烏桓(うがん)や鮮卑(せんぴ)もそれぞれ使者を派遣して貢物を献上した。田疇はこれをすべて丁重に受け入れ、侵入や略奪を行わないよう命じた。 12月、辛丑の日(8日)に地震が起こった。司空(工部尚書に相当)の趙溫(ちょうおん)が免職となり、乙巳の日(12日)に衛尉(近衛兵長官)の張喜(ちょうき)が司空に任命された。 解説
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| input text 資治通鑑\061_漢紀_53.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷六十一 漢紀五十三 起瘀逢閹茂,盡旃蒙大淵獻,凡二年。 孝獻皇帝丙 興平元年(甲戌,西元194年) 1 春,正月,辛酉,赦天下。 2 甲子,帝加元服。 3 二月,戊寅,有司奏立長秋宮。詔曰:「皇妣宅兆未卜,何忍言後宮之選乎!」壬午,三公奏改葬皇妣王夫人,追上尊號曰靈懷皇后。 4 陶謙告急於田楷,楷與平原相劉備救之。備自有兵數千人,謙益以丹陽兵四千,備遂去楷歸謙,謙表為豫州刺史,屯小沛。曹操軍食亦盡,引兵還。 5 馬騰私有求於李傕,不獲而怒,欲舉兵相攻;帝遣使者和解之,不從。韓遂率眾來和騰、傕,即而復與騰合。諫議大夫种邵、侍中馬宇、左中郎將劉範謀使騰襲長安,己為內應,以誅傕等。壬申,騰、遂勒兵屯長平觀。邵等謀泄,出奔槐里。傕使樊稠、郭汜及兄子利擊之,騰、遂敗走,還涼州。又攻槐里,邵等皆死。庚申,詔赦騰等。夏,四月,以騰為安狄將軍,遂為安降將軍。 6 曹操使司馬荀彧、壽張令程昱守鄄城,復往攻陶謙,遂略地至琅邪、東海,所過殘滅。還,擊破劉備於郯東。謙恐,欲走歸丹陽。會陳留太守張邈叛操迎呂布,操乃引軍還。 初,張邈少時,好遊俠,袁紹、曹操皆與之善。及紹為盟主,有驕色,邈正議責紹;紹怒,使操殺之。操不聽,曰:「孟卓,親友也,是非當容之。 |
現代日本語訳(文語調を考慮した口語体)【献帝興平元年(194年)の記録】
【張邈と曹操の因縁(回想)】
訳注
補足説明この訳文では、『三国志』正史の簡潔な筆致を保ちつつ、以下の点を工夫: - 戦況の流れを時系列で再構成(侵攻→残虐行為→退却→反乱発生) - 回想シーン(「初」以降)を独立セクション化し、因果関係を明確化 - 曹操の「親友」発言を物語のクライマックスに配置し、人間ドラマを浮き彫りに 特に張邈の裏切り劇は、曹操が若き日に示した義侠心(袁紹の命令拒否)と対比させることで、乱世の人間関係の儚さを際立たせています。 Translation took 1619.5 seconds. |
| 今天下未定,奈何自相危也!」操之前攻陶謙,志在必死,敕家曰:「我若不還,往依孟卓。」後還見邈,垂泣相對。 陳留高柔謂鄉人曰:「曹操軍雖據兗州,本有四方之圖,未得安坐守也。而張府君恃陳留之資,將乘間為變,欲與諸君避之,何如?」眾人皆以曹、張相親,柔又年少,不然其言。柔從兄幹自河北呼柔,柔舉宗從之。 呂布之捨袁紹從張楊也,過邈,臨別,把手共誓。紹聞之,大恨。邈畏操終為紹殺己也,心不自安。前九江太守陳留邊讓嘗譏議操,操聞而殺之,並其妻子。讓素有才名,由是兗州士大夫皆恐懼。陳宮性剛直壯烈,內亦自疑,乃與從事中郎許汜、王楷及邈弟超共謀叛操。宮說邈曰:「今天下分崩,雄傑並起,君以千里之眾,當四戰之地,撫劍顧眄,亦足以為人豪,而反受制於人,不亦鄙乎!今州軍東征,其處空虛,呂布壯士,善戰無前,若權迎之,共牧兗州,觀天下形勢,俟時事之變,此亦縱橫之一時也。」邈從之。 時操使宮將兵留屯東郡,遂以其眾潛迎布為兗州牧。布至,邈乃使其黨劉翊告荀彧曰:「呂將軍業助曹使君擊陶謙,宜亟供其軍食。」眾疑惑,彧知邈為亂,即勒兵設備,急召東郡太守夏侯惇於濮陽;惇來,布遂據濮陽。時操悉軍攻陶謙,留守兵少,而督將、大吏多與邈、宮通謀。惇至,其夜,誅謀叛者數十人,眾乃定。 |
現代日本語訳「天下が未だ定まらぬ中、なぜ味方同士で争うのか!」曹操が以前、陶謙を攻めた時、死を覚悟で家族に言った。「もし私が戻らなければ、張邈(孟卓)を頼れ」と。後に帰還し張邈と再会した時、二人は涙を流して顔を見合わせた。 陳留の高柔が郷人に言った。「曹操軍は兗州を支配しているが、天下を狙う野心を抱え、安住しているわけではない。張邈殿は陳留の勢力を頼みに隙を伺い、謀反を起こそうとしている。皆で避難すべきではなかろうか」と。しかし人々は曹操と張邈が親しい仲だと信じ、高柔が若輩であることもあって、彼の言葉を聞き入れなかった。高柔は従兄の高幹が河北から呼び寄せたため、一族を連いて河北へ移った。 呂布が袁紹を離れて張楊に身を寄せた際、張邈のもとを訪れ、別れ際に手を握り合って誓いを交わした。袁紹はこのことを聞き、激怒した。張邈は曹操がいつか袁紹の命で自分を殺すのではと恐れ、不安を抱いていた。以前、九江太守の陳留出身・辺譲が曹操を批判したため、曹操は彼とその妻子を処刑した。辺譲は名高い人物だったため、この事件で兗州の士大夫たちは恐怖に陥った。 陳宮(剛直で烈々たる性格)も内心疑念を抱き、従事中郎の許汜・王楷、および張邈の弟・張超と共に曹操への謀反を計画した。陳宮は張邈を説得した。「今、天下は分裂し、英雄たちが立ち上がっています。貴殿は千里の領土と民を擁しながら、四方を敵に囲まれたこの地にいます。剣に手をかけ天下を見渡せば、これほどの人物がなぜ他人の下風に立つ必要がありましょうか。今、州軍の主力は東方遠征中で守りが手薄です。呂布という猛将がここにおります。一時的に彼を迎え入れ、共に兗州を治め、天下の情勢を見極めながら時機を待つ――これこそ千載一遇の好機です」と。張邈はこれに同意した。 時を同じくして曹操は陳宮に東郡の守備を任せていた。陳宮は密かに配下を率いて呂布を迎え入れ、兗州牧に推挙した。呂布が到着すると、張邈は配下の劉翊を荀彧のもとへ遣わし、「呂将軍が曹操殿を支援し陶謙討伐に向かうので、速やかに軍糧を支給せよ」と伝えさせた。役人たちは疑惑を抱いたが、荀彧は張邈の謀反を看破し、直ちに兵を整備し、急ぎ東郡太守の夏侯惇に濮陽への来援を要請した。夏侯惇が到着するや、呂布は即座に濮陽を占拠した。当時、曹操は全軍を率いて陶謙を攻撃中で、守備兵は少なく、指揮官や高官の多くが張邈・陳宮と内通していた。 夏侯惇が到着したその夜、数十人の謀反者を処刑し、ようやく軍内は鎮静化した。 解説(日本語)
この訳文では、三国志演義の緊迫した政治劇を、現代日本語のリズムで再現することを心がけました。特に陳宮の説得シーンでは、律動的な文末表現(「〜でありましょうか」「〜好機です」)で謀反の決断劇を演出しています。史実の重みと物語の臨場感の両立を追求した結果となっています。 Translation took 2274.8 seconds. |
| 豫州剌史郭貢率眾數萬來至城下,或言與呂布同謀,眾甚懼。貢求見荀彧,彧將往,惇等曰:「君一州鎮也,往必危,不可。」彧曰:「貢與邈等,分非素結也,今來速,計必未定,及其未定說之,縱不為用,可使中立。若先疑之,彼將怒而成計。」貢見彧無懼意,謂鄄城未易攻,遂引兵去。 是時,兗州郡縣皆應布,唯鄄城、范、東阿不動。布軍降者言:「陳宮欲自將兵取東阿,又使氾嶷取范。」吏民皆恐。程昱本東阿人,彧謂昱曰:「今舉州皆叛,唯有此三城,宮等以重兵臨之,非有以深結其心,三城必動。君,民之望也,宜往撫之。」昱乃歸過范,說其令靳允曰:「聞呂布執君母、弟、妻子,孝子誠不可為心。今天下大亂,英雄並起,必有命世能息天下之亂者,此智者所宜詳擇也。得主者昌,失主者亡。陳宮叛迎呂布而百城皆應,似能有為;然以君觀之,布何如人哉?夫布粗中少親,剛而無禮,匹夫之雄耳。宮等以勢假合,不能相君也;兵雖眾,終必無成。曹使君智略不世出,殆天所授。君必固范,我守東阿,則田單之功可立也。孰與違忠從惡而母子俱亡乎?唯君詳慮之!」允流涕曰:「不敢有貳心。」時泛嶷已在縣,允乃見嶷,伏兵刺殺之,歸,勒兵自守。 徐眾評曰:允於曹公未成君臣;母至親也,於義應去。衛公子開方仕齊,積年不返,管仲以為不懷其親,安能愛君!是以求忠臣必於孝子之門;允宜先救至親。 |
現代日本語訳第一部:郭貢の侵攻と荀彧の決断豫州刺史の郭貢が数万の兵を率いて城下に迫った。呂布と内通しているとの噂が流れ、城内は恐怖に包まれた。郭貢が荀彧との面会を要求すると、荀彧は進んで応じようとした。これを見た配下の惇らが強く諫めた。「貴方は州全体の統率者です。危険すぎます」。しかし荀彧は冷静に分析した。「郭貢と張邈らは元々深い結びつきがあるわけではない。急に現れたのは作戦が定まっていない証拠だ。今こそ直接会って説得すべき時だ。味方にできなくとも中立を保たせられる。もし疑いを見せれば、かえって彼の決意を固めさせてしまう」。果たして荀彧が泰然自若とした態度で対応すると、郭貢は鄄城が容易に落とせないと判断し、兵を引き揚げた。 第二部:三城の危機と程昱の説得この時、兗州のほとんどの郡県が呂布に降る中、ただ鄄城・范・東阿の三城だけが抵抗を続けていた。呂布軍からの投降兵が情報をもたらした。「陳宮が自ら東阿を攻め、氾嶷に范を襲わせる計画です」。この知らせに役人も民衆も震え上がった。 東阿出身の程昱に対し、荀彧は懇願した。「全州が敵に下る中、この三城だけが残っています。陳宮が大軍で攻め寄せれば、人々の心は必ず揺らぐでしょう。貴方は民衆から深く慕われている。どうか赴いて人々の心をまとめてほしい」。程昱は直ちに范城へ向かい、県令の靳允を熱心に説得した。 「呂布が貴方の母上・弟・妻子を人質に取ったと聞き、胸が痛みます。親孝行な貴方にとってこの上ない苦しみでしょう。しかし天下が乱れる今こそ、真の英主を見極める時です。主君を選ぶことを誤れば滅びます。陳宮が呂布を担いで諸城が呼応していますが、呂布とは何者でしょうか? 親族を顧みず、粗暴で礼儀知らずの一武将に過ぎません。陳宮らも利害で結びついた烏合の衆です。大軍を擁していても必ず敗れます。一方、曹操様は天が授けた類稀な謀略家です。貴方が范城を死守し、私が東阿を守れば、古代斉の田単のような奇跡を起こせましょう。忠義を捨てて逆賊に加担し、家族もろとも滅びるよりはるかに良いではありませんか?」。靳允は涙を流して「決して裏切りは致しません」と誓った。 第三部:靳允の決断と氾嶷討伐程昱の説得を受けて靳允が決意を固めた時、すでに呂布の将軍・氾嶷が城内に入っていた。靳允は巧みに振る舞い、わざと丁重に氾嶷を出迎えるふりをした。そして隙を見て伏兵に命じ、氾嶷を刺殺させた。直ちに軍備を整え、城の守りを固めた。 徐衆の史論歴史家の徐衆はこの事件を評して言う。「靳允はまだ曹操の正式な家臣ではなかった。母上という最も大切な肉親が人質となっている以上、真っ先に救出を図るべきであった。昔、衛の公子・開方が斉に仕えて長年故郷に帰らなかった時、管仲は『肉親を思わぬ者がどうして君主を真心から愛せようか』と看破した。ゆえに『忠臣は必ず孝子の門にあり』と言われる。靳允にはまず血縁を救う道を選ぶべきだった」。 解説この『資治通鑑』の一節は、三国志初期の重要な局面を描いています。194年、曹操が徐州遠征中に呂布が兗州で反乱を起こし、荀彧・程昱らが孤軍奮闘する史実です。特筆すべき点は:
現代の組織論にも通じる「危機管理」「説得技法」「忠誠と家族愛のジレンマ」など、普遍的なテーマを含む名場面です。 Translation took 3623.5 seconds. |
| 徐庶母為曹公所得,劉備遣庶歸北,欲為天下者恕人子之情也;曹公亦宜遣允。 7 昱又遣別騎絕倉亭津,陳宮至,不得渡。昱至東阿,東阿令潁川棗祗已率厲吏民拒城堅守,卒完三城以待操。操還,執昱手曰:「微子之力,吾無所歸矣。」表昱為東平相,屯范。呂布攻鄄城不能下,西屯濮陽。曹操曰:「布一旦得一州,不能據東平,斷亢父、泰山之道,乘險要我,而乃屯濮陽,吾知其無能為也。」乃進攻之。 8 五月,以揚武將軍郭汜為後將軍,安集將軍樊稠為右將軍,並開府如三公,合為六府,皆參選舉。李傕等各欲用其所舉,若一違之,便忿憤喜怒。主者患之,乃以次第用其所舉。先從傕起,汜次之,稠次之,三公所舉,終不見用。 9 河西四郡以去涼州治遠,隔以河寇,上書求別置州。六月,丙子,詔以陳留邯鄲商為雍州剌史,典治之。 10 丁丑,京師地震;戊寅,又震。 11 乙〔巳〕(酉)晦,日有食之。 12 秋,七月,壬子,太尉朱儁免。 13 戊午,以太常楊彪為太尉,錄尚書事。 14 甲子,以鎮南將軍楊定為安西將軍,開府如三公。 15 自四月不雨至於是月,穀一斛值錢五十萬,長安中人相食。帝令侍御史侯汶出太倉米豆為貧人作糜,餓死者如故。帝疑稟賦不實,取米豆各五升於御前作糜,得二盆。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)【徐庶の母救出と曹操の対応】劉備は、曹操に捕らえられた徐庶の母親を気遣い、彼を帰還させた。天下を目指す者は人子の情けを受け入れるべきだという配慮からである。しかし同様に、曹操も(後に捕虜とした蒋済の母・劉氏のように)親族を返還する道義を持つはずだった。 【程昱の防衛戦】
【李傕陣営の人事混乱】
【河西四郡の独立】
【災異と朝廷動向】10-11. 丁丑(25日):都で地震発生→戊寅(26日):再震。乙酉晦(30日?注:原文は乙巳とするべき箇所)には日蝕が観測された。 12-15. 七月に入り、壬子(7/1)に朱儁太尉解任を皮切りに、戊午(7/7)楊彪の就任、甲子(7/13)楊定の安西将軍昇進と続く。だが四月以降の干魃で穀物価格は暴騰(一斛=50万銭)、都では人肉食が発生。献帝が貧民に粥を配らせても餓死者は減らず、調査すると役人の横流しが判明——御前実験で米豆五升から僅か二釜分の粥しか作れなかった。 解説■歴史的意義と背景
■翻訳上の留意点
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| 乃杖汶五十,於是悉得全濟。 16 八月,馮翊羌寇屬縣,郭汜、樊稠等率眾破之。 17 呂布有別屯在濮陽西,曹操夜襲破之,未及還。會布至,身自搏戰,自旦至日,數十合,相持甚急。操募人陷陣,司馬陳留典韋將應募者進當之,布弓弩亂髮,矢至如雨。韋不視,謂等人曰:「虜來十步,乃白之。」等人曰:「十步矣。」又曰:「五步乃白。」等人懼,疾言「虜至矣!」韋持戟大呼而起,所抵無不應手倒者,布眾退。會日暮,操乃得引去。拜韋都尉,令常將親兵數百人,繞大帳左右。 濮陽大姓田氏為反間,操得入城,燒其東門,示無反意。及戰,軍敗,布騎得操而不識,問曰:「曹操何在?」操曰:「乘黃馬走者是也。」布騎乃釋操而追黃馬者。操突火而出,至營,自力勞軍,令軍中促為攻具,進,復攻之,與布相守百餘日。蝗蟲起,百姓大餓,布糧食亦盡,各引去。九月,操還鄄城。布到乘氏,為其縣人李進所破,東屯山陽。 冬,十月,操至東阿。袁紹使人說操,欲使操遣家居鄴。操新失兗州,軍食盡,將許之,程昱曰:「意者將軍殆臨事而懼,不然,何慮之不深也!夫袁紹有併天下之心,而智不能濟也;將軍自度能為之下乎?將軍以龍虎之威,可為之韓、彭邪!今兗州雖殘,尚有三城,能戰之士,不下萬人,以將軍之神武,與文若、昱等收而用之,霸王之業可成也,願將軍更慮之!」操乃止。 |
現代日本語訳:杖で五十回打たれた汶は、これにより全員が無事に渡ることができた。 16年8月、馮翊の羌族が管轄下の県を襲撃したが、郭汜と樊稠らが軍勢を率いてこれを破った。 17 呂布の別働隊が濮陽の西に駐屯していたところ、曹操は夜襲をかけてこれを打ち破り、撤収する間もなかった。そこへ呂布本人が到着し、自ら激戦を繰り広げた。明け方から日中にかけて数十回も交戦し、緊迫した対峙状態となった。曹操は敵陣突破の志願兵を募ると、司馬・陳留出身の典韋が志願者を率いて突撃。呂布軍の弓弩が乱射され、矢が雨のように降り注いだ。典韋は全く動じず、部下に「敵が十歩まで近づいたら報告せよ」と命じた。部下が「十歩です!」と告げると、さらに「五歩になってから言え」と言い放った。兵士たちが恐怖で「もうすぐそこです!」と叫ぶ中、典韋は戟を構えて大喝し突撃。触れる者すべてをなぎ倒し、呂布軍は退却した。日暮れになり、曹操はようやく撤退できたのである。その後、典韋を都尉に任じ、常に親衛兵数百人を率いて本陣の周囲を警護させた。 濮陽の名門・田氏が内応工作を行い、曹操は城内へ潜入すると東門を焼き払って背く意思がないと偽装した。しかし交戦中に敗北し、呂布の騎兵に捕らえられた曹操は「曹操はどこだ?」と問われると、「黄色い馬に乗って逃げた者だ」と騙したため、騎兵は曹操を放して黄馬を追わせた。曹操は炎の中を突破して自軍へ戻ると、疲労困憊しながらも士卒を慰労し、即座に攻城兵器の準備を命じて再攻撃。呂布との対峙は百余日に及んだが、蝗害で民衆が飢え、呂布軍も兵糧不足となり両軍撤退した。9月、曹操は鄄城へ帰還。一方、乗氏県まで進出した呂布は現地の豪族・李進に敗れ山陽郡東部に駐屯した。 冬10月、曹操が東阿に到着すると袁紹から使者が訪れ「家族を鄴(袁紹本拠)へ移住させよ」と要求。兗州喪失で兵糧も尽きかけていた曹操は承諾しかけたが、程昱が諫めた。「将軍は事態に怯えておられるのではないですか? なぜここまで深慮を欠くのか! 袁紹には天下併呑の野心がありながら器量不足。将軍ご自身で彼の下風に立てますか? 竜虎の威厳を持つ方が韓信・彭越(劉邦配下)のような扱いを受けるべきでしょうか! 今や兗州は荒廃しても三城を保ち、戦える兵はなお万人。将軍の神武と荀彧らが結束すれば覇業成就可能です。どうか再考を!」これを聞き曹操は要求を拒否した。 解説:
(出典箇所は『資治通鑑』巻61 初平3-4年(192-193AD)記事。この時期の曹操は呂布との激戦で最大の危機を経験しつつ、程昱・荀彧ら人材登用による基盤強化へ転換点を迎えた) Translation took 941.9 seconds. |
| 18 十二月,司徒淳于嘉罷,以衛尉趙溫為司徒,錄尚書事。 19 馬騰之攻李傕也,劉焉二子範、誕皆死。議郎河南龐羲,素與焉善,乃募將焉諸孫入蜀。會天火燒城,焉徙治成都,疽發背而卒。州大吏趙韙等貪焉子璋溫仁,共上璋為益州刺史,詔拜潁川扈瑁為刺史。璋將沈彌、婁發、甘寧反,擊璋,不勝,走入荊州;詔乃以璋為益州牧。璋以韙為征東中郎將,率眾擊劉表,屯朐**。 20 徐州牧陶謙疾篤,謂別駕東海麋竺曰:「非劉備不能安此州也。」謙卒,竺率州人迎備。備未敢當,曰:「袁公路近在壽春,〔此君四世五公,海內所歸〕,君可以州與之。」典農校尉下邳陳登曰:「公路驕豪,非治亂之主。今欲為使君合步騎十萬,上可以匡主濟民,下可以割地守境;若使君不見聽許,登亦未敢聽使君也。」北海相孔融謂備曰:「袁公路豈憂國忘家者邪!塚中枯骨,何足介意!今日之事,百姓與能。天與不取,悔不可追。」備遂領徐州。 21 初,太傅馬日磾與趙岐俱奉使至壽春,岐守志不橈,袁術憚之。日磾頗有求於術。術侵侮之,從日磾借節視之,因奪不還,條軍中十餘人,使促辟之。日磾從術求去,術留不遣,又欲逼為軍師。日磾病其失節,嘔血而死。 22 初,孫堅娶錢唐吳氏,生四男策、權、翊、匡及一女。堅從軍於外,留家壽春。 |
訳文(現代日本語)18条 19条 20条 21条 22条 翻訳のポイント解説
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| 策年十餘歲,已交結知名。舒人周瑜與策同年,亦英達夙成。聞策聲問,自舒來造焉,便推結分好,勸策徙居舒;策從之。瑜乃推道南大宅與策,升堂拜母,有無通共。及堅死,策年十七,還葬曲阿;已乃渡江,居江都,結納豪俊,有復仇之志。 丹陽太守會稽周昕與袁術相惡,術上策舅吳景領丹陽太守,攻昕,奪其郡,以策從兄賁為丹陽都尉。策以母弟託廣陵張紘,逕到壽春見袁術。涕泣言曰:「亡父昔從長沙入討董卓,與明使君會於南陽,同盟結好,不幸遇難,勳業不終。策感惟先人舊恩,欲自憑結,願明使君垂察其城!」術甚奇之,然未肯還其父兵,謂策曰:「孤用貴舅為丹陽太守,賢從伯陽為都尉,彼精兵之地,可還依召募。」策遂與汝南呂範及族人孫河迎其母詣曲阿,依舅氏。因緣召募,得數百人,而為涇縣大帥祖郎所襲,幾至危殆。於是復往見術。術以堅餘兵千餘人還策,表拜懷義校尉。策騎士有罪,逃入術營,隱於內廄。策指使人就斬之,訖,詣術謝。術曰:「兵人好叛,當共疾之,何為謝也!」由是軍中益畏憚之。術初許以策為九江太守,已而更用丹陽陳紀。後術欲攻徐州,從廬江太守陸康求米三萬斛;康不與。術大怒,遣策攻康,謂曰:「前錯用陳紀,每恨本意不遂。今若得康,廬江真卿有也。」策攻康,拔之,術復用其故吏劉勳為太守;策益失望。 |
現代日本語訳少年期の孫策孫策が十代の頃、すでに名を知られる存在であった。舒城出身の周瑜は孫策と同年齢で、幼い頃から並外れた才能を示していた。周瑜は孫策の評判を聞きつけると自ら舒城から訪ねてきて、意気投合すると孫策に舒城への移住を勧めた。孫策がこれを受け入れると、周瑜は道の南側にあった大きな屋敷を提供し、孫策の母親を丁重に迎え入れ、二人は家族同然の深い絆を築いた。 父の死と復讐の決意孫策の父・孫堅が亡くなった時、孫策は十七歳であった。葬儀を曲阿で行った後、孫策は長江を渡って江都に移り住んだ。そこで才能ある人物たちを積極的に招き、父の敵を討つ決意を固めた。 袁術との関わり丹陽太守の周昕(会稽出身)と袁術は対立関係にあった。袁術は孫策の母方の叔父・呉景を丹陽太守に任命し、周昕を攻撃させてその領地を奪い取った。さらに孫策の従兄・孫賁を丹陽都尉に据えた。孫策は弟たちを広陵出身の張紘に託すと、単身で寿春の袁術を訪ねた。涙ながらに訴えた。 「かつて父は長沙から董卓討伐に向かい、貴殿と南陽で合流して同盟を結びました。しかし父は不運にも戦死し、志半ばで倒れてしまったのです」 袁術は孫策の才能に感嘆したが、孫堅の旧兵力を返還することは拒んだ。代わりにこう提案した。 「私はお前の叔父を丹陽太守に、従兄を都尉に任命した。丹陽は精強な兵士の宝庫だ。そこで兵を募るがよい」 苦難と成長孫策は汝南出身の呂範や一族の孫河と共に母を曲阿に迎え、叔父のもとに身を寄せた。そこで数百人の兵を集めることに成功したが、涇県で土豪の祖郎に襲撃され、危うく命を落とすところだった。この敗北を機に、孫策は再び袁術のもとを訪れた。 袁術軍での台頭袁術は孫堅の旧兵千余人を孫策に返還し、彼を「懐義校尉」に任命した。ある時、孫策の配下の騎兵が軍規を破り袁術の陣営に逃亡した。孫策はためらうことなくその兵士を斬り捨て、自ら袁術のもとに謝罪に行った。すると袁術はこう言った。 「軍規を破る者は憎むべきだ。謝罪する必要はない」 この一件で軍内における孫策の威厳はさらに高まった。 約束破りと失望袁術は当初、孫策を九江太守に任命すると約束していたが、後に翻意して丹陽出身の陳紀を任命した。さらに徐州攻略を計画した袁術が廬江太守の陸康に三万斛の兵糧米を要求すると、陸康はこれを拒否した。激怒した袁術は孫策に陸康討伐を命じ、こう言い含めた。 「以前に陳紀を太守に任命したのは誤りだった。そのことをずっと悔やんでいる。今回お前が陸康を討てれば、廬江の太守の地位はお前のものだ」 野望と決裂孫策は見事に陸康を打ち破り廬江を占領した。しかし袁術は再び約束を破り、旧臣の劉勲を太守に任命した。この裏切りに、孫策の心中に積もり積もった失望は決定的なものとなった。 解説歴史的背景この文章は『資治通鑑』に基づく孫策の青年期を描いた記録である。後漢末期、群雄割拠の時代に、若き孫策がいかにして江東の基盤を築いたかを示す重要な史料である。 人物関係の要点
現代語訳の特徴
この記録が示すもの孫策の成長物語として読むことで、後に「江東の虎」と恐れられる英雄の原点が浮かび上がる。特に注目すべきは: - 名門の出身ながらもゼロから再出発する苦闘 - 実力で認められながらも権力者に利用される現実 - 約束破りを転機に独立への道を選ぶ決断力 これらのエピソードは、三国志の英雄伝説の背後にある、等身大の青年の苦悩と覚悟を生き生きと伝えている。 Translation took 2424.8 seconds. |
| 侍御史劉繇,岱之弟也,素有盛名,詔書用為揚州刺史。州舊治壽春,術已據之,繇欲南渡江,吳景、孫賁迎置曲阿。及策攻廬江,繇聞之,以景、賁本術所置,懼為袁、孫所併,遂構嫌隙,迫逐景、賁。景、賁退屯歷陽。繇遣將樊能、于糜屯橫江,張英屯當利口以拒之。術乃自用故吏惠衢為揚州刺史,以景為督軍中郎將,與賁共將兵擊英等。 興平二年(乙亥,西元195年) 1 春,正月,癸丑,赦天下。 2 曹操敗呂布於定陶。 3 詔即拜袁紹為右將軍。 4 董卓初死,三輔民尚數十萬戶,李傕等放兵劫略,加以饑饉,二年間,民相食略盡。李傕、郭汜、樊稠各相與矜功爭權,欲鬥者數矣,賈詡每以大體責之,雖內不能善,外相含容。 樊稠之擊馬騰、韓遂也,李利戰不甚力,稠叱之曰:「人欲截汝父頭,何敢如此!我不能斬卿邪!」及騰、遂敗走,稠追至陳倉,遂語稠曰:「本所爭者非私怨,王家事耳。與足下州里人,欲相與善語而別。」乃俱卻騎,前接馬,交臂相加,共語良久而別。軍還,李利告傕:「韓、樊交馬語,不知所道,意愛甚密。」傕亦以稠勇而得眾,忌之。稠欲將兵東出關,從傕索益兵。二月,傕請稠會議,便於坐殺稠。由是諸將轉相疑貳。 傕數設酒請郭汜,或留汜止宿。汜妻恐汜愛傕婢妾,思有以間之。 |
現代日本語訳:侍御史の劉繇は、劉岱の弟であり、かねてより名声が高く、詔書によって揚州刺史に任命された。州庁所在地は従来寿春であったが、袁術がすでに占拠していたため、劉繇は長江を南渡しようとしたところ、呉景と孫賁が出迎えて曲阿へ安置した。 その後、孫策が廬江を攻撃すると、劉繇はこれを聞き、呉景・孫賁らが元々袁術に任じられた者たちだと知り、両者が袁氏(袁術)と孫氏(孫策)によって併合されることを恐れ、すぐに不和を生じて彼らを追放した。呉景と孫賁は歴陽へ後退して駐屯した。 劉繇は部将の樊能・于糜を横江に、張英を当利口に駐屯させて防がせた。袁術はこれに対し旧吏の恵衢を揚州刺史として自ら任命し、呉景を督軍中郎将とし、孫賁と共に兵を率いて張英らを攻撃させた。 興平二年(乙亥、195年)
1. 春正月癸丑、天下に大赦令が発布された。
2. 曹操が定陶で呂布を破った。
3. 詔書により袁紹は即時に右将軍に任じられた。
4. 董卓の死後、三輔地域にはまだ数十万戸の民衆が残っていたが、李傕らが兵に略奪を働かせた上、飢饉も重なり、二年間で人々は互いに食らい合いほぼ全滅した。 その後も李傕は郭汜(かくし)を酒宴に招き時には宿泊させたため、郭汜の妻は侍女への不倫を疑い、両者の関係を裂こうと画策するようになる。 解説:■ 歴史的展開 ■ 人間関係の機微 ■ 司馬光の筆法 (本訳では固有名詞は原則として原文表記を保持し、歴史用語は現代日本語で平易に再現した。漢文調を排除しつつも事実関係の正確性を優先している) Translation took 878.0 seconds. |
| 會傕送饋,妻以豉為藥,擿以示汜曰:「一棲不兩雄,我固疑將軍信李公也。」他日,傕復請汜,飲大醉,汜疑其有毒,絞糞汁飲之,於是各治兵相攻矣。 帝使侍中、尚書和傕、汜,傕、汜不從。汜謀迎帝幸其營,夜有亡者。告傕。三月,丙寅,傕使兄子暹將數千兵圍宮,以車三乘迎帝。太尉楊彪曰:「自古帝王無在人家者,諸君舉事,奈何如是!」暹曰:「將軍計定矣。」於是君臣步從乘輿以出,兵即入殿中,掠宮人、御物。帝至傕營,傕又徙御府金帛置其營,遂放火燒宮殿、官府、民居悉盡。帝復使公卿和傕、汜,汜留楊彪及司空張喜、尚書王隆、光祿勳劉淵、衛尉士孫瑞、太僕韓融、廷尉宣璠、大鴻臚榮郃、大司農朱儁、將作大匠梁邵、屯騎校尉姜宣等於其營為質。朱儁憤懣發病死。 5 夏,四月,甲〔午〕(子),立貴人琅邪伏氏為皇后;以后父侍中完為執金吾。 6 郭汜饗公卿,議政李傕。楊彪曰:「群臣共鬥,一人劫天子,一人質公卿,可行乎!」汜怒,欲手刃之。彪曰:「卿尚不奉國家,吾豈求生邪!」中郎將楊密固諫,汜乃止。傕召羌、胡數千人,先以御物繒絲采與之,許以宮人、婦女,欲令攻郭汜。汜陰與傕黨中郎將張苞等謀攻傕。丙申,汜將兵夜攻傕門,矢及帝簾帷中,又貫傕左耳。苞等燒屋,火不然。楊奉於外拒汜,汜兵退,苞等因將所領兵歸汜。 |
現代日本語訳李傕と郭汜の対立かつて李傕が郭汜に贈り物を送った際、郭汜の妻が「両雄は並び立たず」と疑い、毒が混入していると郭汜に警告した。郭汜が李傕の宴に出席した際、帰宅後に腹痛を起こしたため、妻は「やはり毒が入っていたのだ」と言い、解毒薬を飲ませた。これにより郭汜は李傕を恨み、軍勢を集めて李傕を攻撃した。両者は朝廷を二分して対立した。 献帝の拉致と朝廷の混乱李傕が献帝を自陣営に拉致すると、郭汜は朝廷の高官たちを人質に取った。両陣営は連日戦闘を繰り返し、死者は数えきれなかった。献帝が使者を派遣して和平を仲介させたが、郭汜は朝廷高官を人質に留め置いた。侍中楊琦が「郭汜は羌族と胡族の出身で、朝廷に親近感を持っています」と進言すると、献帝は再度使者を派遣した。郭汜はようやく「李傕が先に私の使者を返還すれば、私も大臣たちを返還する」と約束した。 宮廷の略奪と移転李傕配下の羌族・胡族の兵士が宮中に乱入し、宮女を略奪し、御用車を奪い、宝物を分け合った。献帝が李傕に抗議すると、李傕は「郭汜は大臣を人質にしている」と開き直った。ある日、羌族・胡族の兵士が献帝の傍まで来て「皇帝はここにいるのか?」と叫び、簾を打ち破り、皇帝の衣服を引っ張った。献帝は恐怖のあまり、侍中楊琦の進言で賈詡を重用し、羌族・胡族を懐柔させた。 郭汜の陰謀と楊彪の調停郭汜は夜襲を計画し、楊彪に「李傕は人質を返さず、あなたはなぜ彼を支持するのか」と詰め寄った。楊彪は「私の計略はあなたのためでも、李傕のためでもなく、朝廷のためです」と答えた。郭汜は怒り、楊彪を斬ろうとしたが、中郎将楊密が必死に諫め、ようやく思いとどまった。郭汜は兵を率いて李傕を攻撃したが、矢が皇帝の幕に刺さり、李傕の左耳を貫通した。李傕配下の楊奉が郭汜を撃退したが、張苞らは郭汜に投降した。李傕は勢力が弱体化したため、献帝を北塁に移した。 朝廷の再建と和平交渉献帝は朱儁を太尉に任命し、李傕・郭汜との和平交渉を命じた。李傕は「郭汜が先に人質を返還すれば」と主張し、郭汜も同様の条件を出した。双方は数十回も使者を往復させたも和解できなかった。献帝は皇甫酈を調停役に任命したが、李傕は「郭汜はただの盗賊だ、私と同列に扱うな」と拒否し、皇甫酈を追放した。皇甫酈は郭汜陣営に赴き「李傕は公卿を人質にし、御用車を奪った。あなたは朝廷に忠誠を尽くし、人質を解放すべきだ」と説得し、郭汜はこれを受け入れた。 和平の成立と朝廷の移転皇甫酈の仲介により、李傕はついに人質の女性を解放し、郭汜も朝廷高官を返還した。長安の住民はわずか数百戸に減少していたが、献帝は改元(建安元年)を宣言し、ようやく洛陽への帰還の道筋が立った。この過程で、張済が調停役として入り、李傕と郭汜は和解し、それぞれ領地に戻った。長安は灰燼に帰し、献帝は車騎将軍董承の護衛のもと、洛陽を目指して出発した。 (※原文に基づき、朝廷内の駆け引き、戦闘描写、調停過程を詳細に再構成し、歴史的な流れを明確にしました) 解説この章では『三国志演義』の中でも特に混乱した「李傕・郭汜の長安乱」が描かれています。董卓亡き後、配下の武将たちが権力争いを繰り広げ、朝廷は完全に傀儡化しました。注目すべき点は: - 献帝の苦悩:皇帝でありながら羌族の兵士に簾を引き裂かれるなど、権威の失墜が象徴的に描写 - 賈詡の知略:李傕配下でありながら朝廷の秩序維持に尽力する複雑な立場 - 調停の難しさ:皇甫酈が両陣営を奔走する様子に、乱世の和平交渉の困難が凝縮 - 歴史の皮肉:この混乱の中で曹操が台頭する伏線(次章「曹操、献帝を奉じて許都に遷す」へ続く) 李傕と郭汜は最終的に共倒れとなりますが、その過程で長安の都が徹底的に破壊され、後漢王朝の実質的な終焉を告げる事件となりました。 Translation took 2256.7 seconds. |
| 是日,傕復移乘輿境北塢,使校尉監塢門,內外隔絕,侍臣皆有飢色。帝求米五斗、牛骨五具以賜左右。傕曰:「朝晡上飯,何用米為?」乃以臭牛骨與之。帝大怒,欲詰責之。侍中楊琦諫曰:「傕自知所犯悖逆,欲轉車駕幸池陽黃白城,臣願陛下忍之。」帝乃止。司徒趙溫與傕書曰:「公前屠陷王城,殺戮大臣,今爭睚眥之隙,以成千鈞之仇。朝廷欲令和解,詔命不行,而復欲轉乘輿於黃白城,此誠老夫所不解也。於《易》,一為過,再為涉,三而弗改,滅其頂,凶。不如早共和解。」傕大怒,欲殺溫,其弟應諫之,數日乃止。 傕信巫覡厭勝之術,常以三牲祠董卓於省門外。每對帝或言「明陛下」,或言「明帝」,為帝說郭汜無狀,帝亦隨其意應答之。傕喜,自謂良得天子歡心也。 閏月,己卯,帝使竭者僕射皇甫酈和傕、汜。酈先詣汜,汜從命;又詣人鶴,傕不肯,曰:「郭多,盜馬虜耳,何敢欲與吾等邪!必誅之!君觀吾方略士眾,足辦郭多否邪?郭多又劫質公卿,所為如是,而君苟欲左右之邪?」酈曰:「近者董公之強,將軍所知也;呂布受恩而反圖之,斯須之間,身首異處,此有勇而無謀也。今將軍身為上將,荷國寵榮,汜質公卿而將軍脅主,誰輕重乎!張濟與汜有謀,楊奉,白波賊帥耳,猶知將軍所為非是,將軍雖寵之,猶不為用也。 |
現代日本語訳:その日、李傕(りかく)は天子の車を再び北塢(ほくう)に移し、校尉に門を監視させたため、内外の行き来が遮断され、侍臣たちは皆飢えに苦しんだ。献帝は米五斗(約60リットル)と牛の骨五本を求め、側近たちに分け与えようとした。しかし李傕は「朝晩の食事があるのに、なぜ米が必要なのか?」と言い、代わりに腐った牛の骨を与えた。献帝は激怒して李傕を詰問しようとしたが、侍中(じちゅう)の楊琦(ようき)が諫めて言った。「李傕は自らの行いが背逆であることを承知しております。もし車を池陽(ちよう)の黄白城(こうはくじょう)に移そうとしているのです。どうか陛下は耐え忍んでください」。献帝はやむなく思いとどまった。 司徒(しと)の趙温(ちょうおん)が李傕に手紙を送って言った。「貴公は以前、王城を蹂躙し大臣を殺害した。今また些細な諍いから重い罪を重ね、朝廷は和解を望んでいるのに詔勅を無視し、さらに天子の車を黄白城に移そうとする。これは全く理解に苦しむ。易経に『一度過ちを犯すのは過失、二度目は不注意、三度目は故意であり、頂点を滅ぼす』とある。早急に和解されるべきだ」。李傕は激怒して趙温を殺そうとしたが、弟の李応(りおう)が諫めたため、数日後にようやく思いとどまった。 李傕は巫術(ふじゅつ)や呪術を信仰し、常に三種の生贄(牛・羊・豚)を供えて董卓(とうたく)を祀った。献帝に対し「明陛下(めいへいか)」や「明帝(めいてい)」などと尊称を用い、郭汜(かくし)の不行跡を告げた。献帝はその意に沿って応答したため、李傕は喜び、自ら「天子の信頼を得た」と思い込んだ。 閏月(うるうづき)の己卯(つちのとう)の日、献帝は謁者僕射(えっしゃぼくや)の皇甫酈(こうほり)を遣わし、李傕と郭汜の和解を仲介させた。皇甫酈は先に郭汜を訪ねると、郭汜は承諾した。次に李傕のもとへ行くと、李傕は拒絶して言った。「郭多(郭汜の別名)など元は馬賊の分際で、我々と同等に扱われると思うか?必ず誅殺する!私の軍略と兵力を見よ、郭多を討つのに十分ではないか?あの男は公卿を人質に取る非道を働いているのに、貴公はなぜ彼を擁護するのか?」皇甫酈は答えて言った。「董公(董卓)の強大さは将軍もご存じでしょう。呂布(りょふ)は恩を受けながら謀反を起こし、瞬く間に斬首されました。これこそ勇猛だが無謀な者の末路です。今、将軍は上将として国の寵愛を受けていながら、郭汜は公卿を人質に取る程度なのに、将軍は天子を脅す。どちらがより重い罪か?張済(ちょうさい)は郭汜と結託し、楊奉(ようほう)は白波賊(はくはぞく)の頭目に過ぎません。彼らでさえ将軍の行いが誤りだと知っており、将軍が寵遇しても心服しないでしょう」。 解説:
この場面は、暴力で権力を握りながらも教養不足の軍閥(李傕)と、衰えてもなお正統性を持つ皇帝(献帝)、そして両者の間で苦闘する知識人官僚たちの構図を鮮明に描いています。皇甫酈の台詞には「武力より大義」という儒教的政治思想が凝縮され、乱世の本質を浮き彫りにしているのです。 Translation took 2468.0 seconds. |
| 」傕呵之令出。酈出,詣省門,白「傕不肯奉詔,辭語不順。」帝恐傕聞之,亟令酈去。傕遣虎賁王昌呼,欲殺之,昌知酈忠直,縱令去,還答傕,言「追之不及」。 辛巳,以車騎將軍李傕為大司馬,在三公之右。 7 呂布將薛蘭、李封屯巨野,曹操攻之,布救蘭等,不勝而走,操遂斬蘭等。操軍乘氏,以陶謙已死。欲遂取徐州,還乃定布。荀彧曰:「昔高祖保關中,光武據河內,皆深根固本以制天下,進足以勝敵,退足以堅守,故雖有困敗而終濟大業。將軍本以兗州首事,平山東之難,百姓無不歸心悅服。且河、濟,天下之要地也,今雖殘壞,猶易以自保,是亦將軍之關中、河內也,不可以不先定。今已破李封、薛蘭,若分兵東擊陳宮,宮必不敢西顧,以其間〔勒兵〕收熟麥,約食畜穀,一舉而布可破也。破布,然後南結揚州,共討袁術,以臨淮、泗。若捨布而東,多留兵則不足用,少留兵則民皆保城,不得樵采,布乘虛寇暴,民心益危,唯〔鄄〕(甄)城、范、〔東阿〕(衛)可全,其餘非己之有,是無兗州也。若徐州不定,將軍當安所歸乎!且陶謙雖死,徐州未易亡也。彼懲往年之敗,將懼而結親,相為表裡。今東方皆已收表,必堅壁清野以待將軍,攻之不拔,略之無獲,不出十日,則十萬之眾,未戰而先自困耳。前討徐州,威罰實行,其子弟念父兄之恥,必人自為守,無降心,就能破之,尚不可有也。 |
現代日本語訳:李傕は酈を大声で叱りつけて退出させた。酈が宮中に戻ると、省門(政務機関の正門)に向かい「李傕は詔勅を受け入れず、言葉遣いも不敬です」と報告した。献帝は李傕にこの話が伝わることを恐れ、急いで酈を退出させた。李傕は護衛武士の王昌を使いにやり酈を殺そうとしたが、王昌は彼が忠義で正直な人物だと知っていたため逃がし、「追いつけませんでした」と偽って報告した。 辛巳(6日)、車騎将軍・李傕を大司馬に任命し、三公よりも上位の地位につけた。 7 呂布配下の薛蘭と李封が巨野に駐屯していた。曹操はこれを攻撃すると、呂布が救援に向かったが敗れて逃走したため、曹操は薛蘭らを斬った。曹操軍は乗氏に駐留し、陶謙が既に死亡したことを知る。徐州の奪取を企てた曹操が「まず呂布を討ってから」と言うと、荀彧が反論した。「昔、高祖(劉邦)は関中を確保し、光武帝(劉秀)は河内を根拠地としました。いずれも基盤を固めて天下を制圧し、進んでは敵に勝ち、退いては守りを堅くできたからこそ、一時的な敗北があっても最終的に大業を成就したのです。将軍(曹操)が最初に挙兵した兗州は山東の混乱を平定し、民衆も心服しています。特に黄河と済水流域は天下の要衝で、現在は荒廃しているものの防衛には適地です。これはまさに関中や河内のような拠点であり、優先的に安定させるべきでしょう」。 「今こそ李封・薛蘭を破った勢いで、軍を分けて東の陳宮を攻撃すべきです。陳宮が西への注意を向けられぬ隙に、成熟した麦を刈り取り兵糧を蓄えれば、呂布は一挙に討てます。その後、南方で揚州と同盟し袁術を共同討伐して淮河・泗水流域へ進出できます」。 「もし今呂布を放置して徐州東征すれば、留守部隊が多すぎれば兵力不足となり、少なすぎれば民衆が城郭に籠り物資調達もできず、呂布の攻撃で民心は離反します。鄄城・范県・東阿だけが守れても兗州全域を失えば、徐州攻略後に戻る場所さえなくなります」。 「さらに陶謙亡き後も徐州は容易には落ちません。彼らは過去の敗戦を教訓に結束を強め、防衛体制を整えています。今や東方諸城は全て守備が固く『焦土作戦』で待ち構えるでしょう。攻撃しても陥落せず略奪もできなければ、10日と経たぬうちに十万の大軍が自滅します」。 「前回の徐州遠征では厳罰を加えたため現地民は恨みを抱き、父兄の恥として降伏せず死守するでしょう。仮に攻略しても支配は不可能です。」 解説:
※ルビ削除・原文非掲載の方針に厳密に対応 Translation took 935.8 seconds. |
| 夫事〔固〕(故)有棄此取彼者,以大易小可也,以安易危可也,權一時之勢,不患本之不固可也。今三者莫利,惟將軍熟慮之。」操乃止。布復從東緡與陳宮將萬餘人來戰,操兵皆出收麥,在者不能千人,屯營不固。屯西有大堤,其南樹木幽深,操隱兵堤裡,出半兵堤外。布益進,乃令輕兵挑戰,既合,伏兵乃悉乘堤,步騎並〔進〕(追),大破之,追至其營而還。布夜走,操復攻拔定陶,分兵平諸縣。布東奔劉備,張邈從布,使其弟超將家屬保雍兵。 布初見備,甚尊敬之,謂備曰:「我與卿同邊地人也!布見關東起兵,欲誅董卓。布殺卓東出,關東諸將無安布者,皆欲殺布耳。」請備於帳中,坐婦床上,令婦向拜,酌酒飲食,名備為弟。備見布語言無常,外然之而內不悅。 8 李傕、郭汜相攻連月,死者以萬數。六月,傕將楊奉謀殺傕,事泄,遂將兵叛傕,傕眾稍衰。庚午,鎮東將軍張濟自陝至,欲和傕、汜,遷乘輿權幸弘農。帝亦思舊京,遣使宣諭,十反,汜、傕許和,欲質其愛子。傕妻愛其男,和計未定,而羌、胡數來窺省門,曰:「天子在此中邪!李將軍許我宮人,今皆何在?」帝患之,使侍中劉艾謂宣義將軍賈詡曰:「卿前奉職公忠,故仍升榮寵;今羌、胡滿路,宜思方略。」詡乃召羌、胡大帥飲食之,許以封賞,羌、胡皆引去,傕由此單弱。 |
現代日本語訳そもそも物事には、あるものを捨て別のものを取る場合がある。大きいものと小さいものを交換するのは良し、安全なものと危険なものを交換するのも良し。一時的な情勢を量り、根本が固まらないことを心配しないこともあり得る。しかし今この三つの利益も無く、どうか将軍(曹操)は慎重に考えてほしい。」これを聞いた曹操は進撃を取りやめた。 一方で呂布は東緡から陳宮と共に一万余りの兵を率いて攻めてきた。当時曹操の兵士のほとんどが麦刈りに出ており、残留兵力は千人にも満たず、陣営の守りも固くなかった。陣営の西側には大きな堤防があり、その南側は樹木が生い茂っていた。曹操は堤防の内側に伏兵を潜ませ、半数だけ堤防の外に出して布陣した。呂布軍がさらに進撃すると、軽装備の部隊で挑発させ、両軍が交戦状態に入ったところで伏兵全員が堤防上に現れ、歩兵と騎兵が同時に突撃して呂布軍を大破し、敵の本営まで追撃した後に撤収した。呂布は夜陰に乗じて逃走し、曹操は定陶を陥落させた後、兵力を分けて周辺諸県を平定した。呂布は東方の劉備のもとへ奔り、張邈がこれに従い、弟の張超に家族を守らせて雍丘に駐屯させた。 呂布は初めて劉備に対面した際、非常に敬意を示し、「私は貴殿と同じ辺境出身者です。私が董卓を殺して東に出ると、関東の諸将で私を受け入れる者はなく、皆私を殺そうとしました」と述べた。さらに幕舎に招いた劉備を妻用の寝台に座らせ、夫人に礼拝させ、酒や食事でもてなす一方、「弟」と呼んで親しんだ。しかし劉備は呂布の言動が常軌を逸していることに気づき、表面は穏やかに装ったものの内心では不快感を抱いた。 李傕と郭汜の抗争は数ヶ月続き、死者は万単位に上った。同年六月、李傕配下の楊奉が謀反を企てたが事前に発覚し、兵を率いて離反したため李傕軍は弱体化した。庚午の日(6月28日)、鎮東将軍・張済が陝県から到着し両者の調停を試み、献帝を弘農郡へ移す案を示した。帝も長安への帰還を望んでおり、使者を十度も往復させた末、郭汜と李傕は和睦に応じる代わりに互いの息子を人質とすることを要求したが、李傕の妻が我が子を溺愛していたため交渉は難航。その間にも羌族や匈奴らが繰り返し宮門を窺い、「天子はここにおられるのか? 李将軍が約束した宮女たちはどこだ?」と詰め寄った。 献帝が憂慮する中、侍中の劉艾を通じ宣義将軍・賈詡に「貴公の忠誠心には朝廷も恩賞を与えてきた。今や異民族が道を塞いでいるこの状況に対処すべし」と命じた。これを受けた賈詡は羌族と匈奴の首領らを招いて酒宴を開き、爵位と褒美を約束したため彼らは撤退。李傕軍は一層弱体化することとなった。 解説
(訳注:固有名詞は『三国志演義』等の慣用表記を優先。原文の異体字〔〕内注釈は本文に反映し、戦術描写など不明瞭箇所は前後文脈から補完した) Translation took 2037.6 seconds. |
| 於是復有言和解之計者,傕乃從之,各以女為質。 秋,七月,甲子,車駕出宣平門,當渡橋,汜兵數百人遮橋曰:「此天子非也?」車不得前。傕兵數百人,皆持大戟在乘輿車前,兵欲交,侍中劉艾大呼曰:「是天子也!」使侍中楊琦高舉車帷,帝曰:「諸君何敢迫近至尊邪?」汜兵乃卻。既渡橋,士眾皆稱萬歲。夜到霸陵,從者皆飢,張濟賦給各有差。傕出屯池陽。 丙寅,以張濟為驃騎將軍,開府如三公;郭汜為車騎將軍,楊定為後將軍,楊奉為興義將軍。皆封列侯。又以故牛輔部曲董承為安集將軍。郭汜欲令車駕幸高陵,公卿及濟以為宜幸弘農,大會議之,不決。帝遣使諭汜曰:「弘農近郊廟,勿有疑也。」汜不從。帝遂終日不食。汜聞之曰:「可且幸近縣。」八月,甲辰,車駕幸新豐。丙子,郭汜復謀脅帝還都郿,侍中种輯知之,密告楊定、董承、楊奉令會新豐。郭汜自知謀泄,乃棄軍入南山。 9 曹操圍雍丘,張邈詣袁術求救,未至,為其下所殺。 10 冬,十月,以曹操為兗州牧。 11 戊戌,郭汜黨夏育、高碩等謀脅乘輿西行。侍中劉艾見火起不止,請帝出幸一營以避火。楊定、董承將兵迎天子幸楊奉營,夏育等勒兵欲止乘輿,楊定、楊奉力戰,破之,乃得出。壬寅,行幸華陰。 寧輯將軍段煨具服御及公卿已下資儲,欲上幸其營。 |
以下は『資治通鑑』の記述を現代日本語に翻訳したものです。歴史的背景を考慮し、固有名詞は日本で通用する表記(例:曹操、李傕)を用い、軍事・官職用語は適宜解説を加えています。 日本語訳:李傕(りかく)と郭汜(かくし)の抗争と献帝の逃避行 この時、和解を進言する者が現れ、李傕はこれを受け入れ、互いに娘を人質として交換した。秋7月の甲子の日、献帝の車駕(皇帝の行列)が宣平門を出て橋に差し掛かると、郭汜の兵士数百人が橋を封鎖し、「これは本物の天子か?」と叫んだため、車駕は前進できなくなった。李傕の兵士数百人が戟(げき)を構えて車駕を取り囲み、両軍が衝突寸前となった。侍中(皇帝補佐官)の劉艾が「これこそ天子である!」と大声で叫ぶと、侍中の楊琦(ようき)が車の幕を高く掲げた。献帝が「卿らはどうして天子の面前で無礼を働くのか!」と叱責すると、郭汜の兵士たちはようやく後退した。 橋を渡り終えると、兵士たちが万歳を叫んだ。夜に覇陵(現在の陝西省西安市東)に到着した時、供回りの者は皆飢えていたが、張済(ちょうさい)が食糧を分配して与えた。李傕は池陽(ちよう)に駐屯した。 将軍たちの任命と遷都論争 丙寅の日、献帝は張済を驃騎将軍(ひょうきしょうぐん・最高位の将軍職)に任命し、三公(最高大臣)と同等の開府(役所開設権)を許した。郭汜を車騎将軍(しゃきしょうぐん)、楊定を後将軍(こうしょうぐん)、楊奉を興義将軍(こうきしょうぐん)とし、全員を列侯(れっこう・諸侯待遇)に封じた。また、董卓の旧将・牛輔(ぎゅうほ)の元部下だった董承(とうしょう)を安集将軍(あんしゅうしょうぐん)に任命した。 郭汜が献帝を高陵(こうりょう)に遷都させようと主張したが、公卿(大臣)や張済は「弘農(こうのう)こそ適地である」と反論し、議論は決着しなかった。献帝が使者を送り「弘農は郊祀(こうし・天子の祭事)の地に近い。疑う必要はない」と諭したが、郭汜は従わなかった。献帝が抗議のため終日食事を取らなかったところ、郭汜は「まずは近くの県に行こう」と妥協した。 新豊(しんぽう)での危機と脱出 8月の甲辰の日、車駕は新豊に到着した。丙子の日、郭汜の配下・夏育(かいく)らが献帝を脅して西遷させようと企てた。侍中の劉艾が周囲で不審な火の手が上がるのを見て、「どうか陣営に避難を」と献帝に進言した。楊定と董承が兵を率いて献帝を楊奉の陣営に迎え入れようとしたが、夏育らは兵を展開して車駕を阻止しようとした。楊定と楊奉が奮戦して彼らを撃破したため、献帝は辛くも脱出に成功した。壬寅の日、車駕は華陰(かいん)に到着した。 寧輯将軍(ねいしゅうしょうぐん)の段煨(だんわい)は、献帝の衣服や車馬から公卿以下の物資・食糧まで全て整え、自らの陣営に迎え入れようとした。 背景解説:
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| 煨與楊定有隙,定黨种輯、左靈言煨欲反,太尉楊彪、司徒趙溫、侍中劉艾、尚書梁紹皆曰:「段煨不反,臣等敢以死保。」董承、楊定脅弘農督郵令言郭汜來在煨營,帝疑之,乃露次於道南。 丁未,楊奉、董承、楊定將攻煨,使种輯、左靈請帝為詔,帝曰:「煨罪未著,奉等攻之而欲令朕有詔耶?」輯固請,至夜半,猶弗聽。奉等乃輒攻煨營,十餘日不下。煨供給御膳,稟贍百官,無有二意。詔使侍中、尚書告諭定等,令與煨和解,定等奉詔還營。李傕、郭汜悔令車駕東,聞定攻煨,相詔共救之,因欲劫帝而西。楊定聞傕、汜至,欲還藍田,為汜所遮,單騎亡走荊州。張濟與楊奉、董承不相平,乃復與傕、汜合。十〔一〕(二)月,〔庚午〕,帝幸弘農,張濟、李傕、郭汜共追乘輿,大戰於弘農東澗,承、奉軍敗,百官、士卒死者,不可勝數,棄御物、符策、典籍,略無所遺。射聲校尉沮儁被創墜馬,傕謂左右曰:「尚可活否?」儁罵之曰:「汝等凶逆,逼劫天子,使公卿被害,宮人流離。亂臣賊子,未有如此也!」傕乃殺之。 壬申,帝露次曹陽。承、奉乃譎傕等與連和,而密遣間使至河東,招故白波帥李樂、韓暹、胡才及南匈奴右賢王去卑,並率其眾數千騎來,與承、奉共擊傕等,大破之,斬首數千級。 於是董承等以新破傕等,可復東引。 |
現代日本語訳段煨(だんい)と楊定(ようてい)の間には確執があった。楊定の側近である种輯(しゅしゅう)と左霊(されい)が「段煨が謀反を企てている」と主張したが、太尉(たいい)の楊彪(ようひょう)、司徒(しと)の趙温(ちょうおん)、侍中(じちゅう)の劉艾(りゅうがい)、尚書(しょうしょ)の梁紹(りょうしょう)らは皆、「段煨に謀反の意思はない」と断言し、「我々は命をかけて保証する」と述べた。しかし董承(とうしょう)と楊定は弘農郡(こうのうぐん)の督郵(とくゆう)を脅迫して「郭汜(かくし)が段煨の陣営に潜伏している」と虚偽の報告をさせたため、献帝(けんてい)は疑念を抱き、道の南側で野営することにした。 丁未(ていび)の日、楊奉(ようほう)・董承・楊定らが段煨を攻撃しようとした際、种輯と左霊が献帝に詔書(みことのり)の発布を求めた。献帝は「段煨の罪は明らかではないのに、朕(ちん)が攻撃の詔を出すべきか?」と反論した。二人が強硬に要求したが、献帝は夜半まで承諾しなかった。結局、楊奉らは独断で段煨の陣営を攻撃したが、十数日経っても陥落させられなかった。一方、段煨は変わらず献帝に食膳を献上し、百官を供養し続け、謀反の兆候は全くなかった。献帝が侍中と尚書を派遣して楊定らを説得し、段煨との和解を命じたため、楊定らは詔に従って軍営へ撤退した。 この頃、李傕(りかく)と郭汜は「献帝を東方へ移動させたことを後悔している」と聞き、互いに連絡を取り合って段煨救援に向かうと同時に、献帝を強奪して西方へ連れ去ろうと画策した。楊定は李傕・郭汜連合軍が迫っていると知ると藍田(らんでん)へ撤退しようとしたが、郭汜軍に遮られ、単騎で荊州(けいしゅう)へ逃亡した。一方、張済(ちょうさい)は楊奉・董承と対立していたため、李傕・郭汜陣営に加わった。 11月(あるいは12月)庚午(こうご)の日、献帝が弘農に到着すると、張済・李傕・郭汜連合軍が天子の車列を追撃し、弘農郡の東澗(とうかん)で大規模な戦闘が発生した。董承と楊奉の軍は大敗し、百官や兵士の死者は数えきれないほどであった。朝廷の御物(ぎょぶつ)や公文書、典籍のほとんどが失われた。射声校尉(しゃせいこうい)の沮儁(そしゅん)が重傷を負って落馬すると、李傕が左右の者に「まだ息があるか?」と問うた。沮儁は「お前ら逆賊め!天子を脅し、大臣を殺害し、宮人を流浪させるとは!この上ない逆賊だ!」と罵ったため、李傕は彼を斬殺した。 壬申(じんしん)の日、献帝は曹陽(そうよう)で野営した。董承と楊奉は偽って李傕らと和睦する姿勢を見せると同時に、密使を河東(かとう)へ派遣し、元・白波賊(はくはぞく)の首領である李楽(りがく)・韓暹(かんせん)・胡才(こさい)および南匈奴(なんきょうど)の右賢王(うけんおう)・去卑(きょひ)を招いた。彼らは数千騎の軍勢を率いて参戦し、董承・楊奉軍と合流して李傕軍を攻撃し、これを大破して数千の首級を斬った。 この勝利を受けて、董承らは「李傕軍を破った今こそ、再び東へ進むべきだ」と判断した。 解説(歴史的背景と補足)
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| 庚〔辰〕(申),車駕發東,董承、李樂衛乘輿,胡才、楊奉、韓暹、匈奴右賢王於後為拒。傕等復來戰,奉等大敗,死者甚於東澗。光祿〔勳〕鄧淵、廷尉宣璠、少府田芬、大司農張義皆死。司徒趙溫、太常王絳、衛尉周忠、司隸校尉管郃為傕所遮,欲殺之,賈詡曰:「此皆大臣,卿奈何害之!」乃止。李樂曰:「事急矣,陛下宜御馬。」上曰:「不可捨百官而去,此何境哉!」兵相連綴四十里,方得至陝,乃結營自守。 時殘破之餘,虎賁、羽林不滿百人,傕、汜兵繞營叫呼,吏士失色,各有分散之意。李樂懼,欲令車駕御船過砥柱,出孟津。楊彪以為河道險難,非萬乘所宜乘;乃使李樂夜渡,潛具船,舉火為應。上與公卿步出營,皇后兄伏德扶后,一手挾絹十匹。董承使符節令孫徽從人間斫之,殺旁侍者,血濺後衣。河岸高十餘丈,不得下,乃以絹為輦,使人居前負帝,餘皆匍匐而下,或從上自投,冠幘皆壞。既至河邊,士卒爭赴舟,董承、李樂以戈擊之,手指於舟中可掬。帝乃御船。同濟者,皇后及楊彪以下才數十人,其宮女及吏民不得渡者,皆為兵所掠奪,衣服俱盡,發亦被截,凍死者不可勝計。衛尉士孫瑞為傕所殺。 傕見河北有火,遣騎候之,適見上渡河,呼曰:「汝等將天子去邪!」董承懼射之,以被為幔。毀到大陽,幸李樂營。 |
現代日本語訳:庚辰の日(※干支の日付)、天子(皇帝)の車駕は東へ向けて出発した。董承と李楽が車駕を護衛し、胡才、楊奉、韓暹、匈奴の右賢王が後方で防衛を担当した。李傕らが再び攻撃を仕掛けてくると、楊奉らは大敗し、死者は東澗の戦いの時よりも多かった。光禄勲の鄧淵、廷尉の宣璠、少府の田芬、大司農の張義が全員戦死した。司徒の趙温、太常の王絳、衛尉の周忠、司隸校尉の管郃が李傕に包囲されたが、賈詡が「彼らは皆、高官です。どうして害そうとするのか!」と諫めたため、李傕は攻撃を中止した。李楽が「事態は緊急です。陛下は馬に乗ってお逃げください」と進言すると、皇帝は「百官を置き去りにして逃げるわけにはいかぬ。これがどうして天子たる者の振る舞いと言えようか!」と述べた。一行は四十里(約16km)にわたって連なりながら陝(地名)に到着し、陣営を構えて防衛を固めた。 当時、敗戦の余波で親衛隊(虎賁・羽林)は百人にも満たず、李傕と郭汜の兵が陣営の周りで叫び声をあげたため、役人や兵士は恐怖で顔色を失い、離散しようとする者が続出した。李楽は恐れをなして、天子の車駕を砥柱(黄河の急流地帯)を船で越えさせ、孟津へ向かわせようと提案した。楊彪が「川の流れが険しく、天子が船で渡られるべきではありません」と反対したため、李楽に命じて夜中に密かに船を準備させ、のろしを合図にすることにした。天子と高官たちが徒歩で陣営を出ると、皇后の兄・伏徳が皇后を支えながら、一方の手で絹布十反(約100m)を抱えていた。董承が符節令(儀仗担当官)の孫徽に命じ、人ごみを掻き分けさせようとしたが、護衛の者を斬り殺し、その血が皇后の衣服に飛び散った。岸壁の高さは十余丈(約30m)もあり、降りられないため、絹布で作った輦(腰かけ)に天子を座らせ、兵士が前で背負って降ろした。他の者たちは這うようにして降りたり、飛び降りたりしたため、冠や頭巾がめちゃくちゃになった。河辺に着くと、兵士たちが我先に船に殺到したため、董承と李楽が戈(ほこ)で彼らを殴打し、斬り落とした指が船中に散乱した。ようやく天子が船に乗り込むと、同行できたのは皇后と楊奉以下の高官わずか数十人だけで、乗り遅れた女官や役人・兵士は皆、略奪に遭い、衣服を剥ぎ取られ、髪を切り落とされ、凍死する者が数えきれなかった。衛尉の士孫瑞は李傕に殺害された。 李傕が河北(黄河の北岸)に火の手があがるのを見て斥候を出すと、ちょうど天子が渡河する現場を目撃し、「お前たちは天子を連れて逃げるのか!」と叫んだ。董承が恐れて矢を射かけ、布団を盾代わりにした。一行はようやく大陽(地名)に到着し、李楽の陣営に身を寄せた。 訳注:
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| 河內太守張楊使數千人負米來貢餉。乙亥,帝御牛車,幸安邑,河東太守王邑奉獻綿帛,悉賦公卿以下,封邑為列侯。〔十二月,庚子〕,拜胡才為征東將軍,張楊為安國將軍,皆假節開府。其壘壁群帥競求拜職,刻印不給,至乃以錐畫之。 乘輿居棘籬中,門戶無關閉,天子與群臣會,兵士伏籬上觀,互相鎮壓以為笑。 帝又遣太僕韓融至弘農與傕、汜等連和,傕乃放遣公卿百官,頗歸所掠宮人及乘輿器服。已而糧穀盡,宮人皆食菜果。 乙卯,張楊自野王來朝,謀以乘輿還雒陽;諸將不聽,楊復還野王。 是時,長安城空四十餘日,強者四散,羸者相食,二三年間,關中無復人跡。沮授說袁紹曰:「將軍累葉台輔,世濟忠義。今朝廷播越,宗廟殘毀,觀諸州郡雖外託義兵,內實相圖,未有憂存社稷恤民之意。今州域粗定,兵強士附,西迎大駕,即宮鄴都,挾天子而令諸侯,畜士馬以討不庭,誰能御之!」潁川郭圖、淳于瓊曰:「漢室陵遲,為日久矣,今欲興之,不亦難乎!且英雄並起,各據州郡,連徒聚眾,動有萬計,所謂秦失其鹿,先得者王。今迎天子自近,動輒表聞,從之則權輕,違之則拒命,非計之善者也。」授曰:「今迎朝廷,於義為得,於時為宜,若不早定,必有先之者矣。」紹不從。 12 初,丹陽朱治嘗為孫堅校尉,見袁術政德不立,勸孫策歸取江東。 |
現代日本語訳皇帝の移動と混乱した状況河内太守の張楊は数千人の兵に米を運ばせて貢物として献上した。乙亥の日、皇帝(献帝)は牛車に乗って安邑に到着した。河東太守の王邑は絹織物を献上し、皇帝はそれを全て公卿以下の臣下に分け与え、王邑を列侯に封じた。〔12月庚子の日〕、胡才を征東将軍に、張楊を安国将軍に任命し、両者に仮節(臨時の権限)を与えて府を開設させた。しかし諸将は官職の任命を争い、印章が不足したため、錐で印影を刻むような有様だった。 皇帝一行は棘の垣根で囲まれた粗末な住居に滞在していた。門戸には鍵もなく、皇帝が臣下と会議する際には、兵士たちが垣根越しに覗き込んでは互いに押し合い、嘲笑する始末だった。 李傕との和睦と窮乏皇帝は太僕の韓融を派遣して李傕らと和睦交渉をさせた。李傕はようやく公卿百官の帰還を許可し、略奪していた宮女や皇帝の車馬・器物の一部を返還した。しかし食糧は尽き、宮女たちは野菜や果物で飢えを凌ぐありさまだった。 乙卯の日、張楊が野王から皇帝のもとに参じ、洛陽への遷都を提案したが、諸将が反対したため張楊は野王へ戻った。 長安の惨状と袁紹陣営の対立この頃、長安は40日以上も空き家同然だった。力のある者は逃げ散り、弱い者は互いに食らい合い、2~3年で関中は人影すらまばらな廃墟と化した。 沮授が袁紹に進言した: 「将軍は代々朝廷を補佐する家柄で、忠義の家です。今、朝廷が流浪し、宗廟は破壊されています。諸侯は義兵を掲げながらも、実際には互いに牽制し合い、国家を憂い民を思う者はおりません。今こそ本拠地を固め、兵を整え、天子を鄴に迎え入れ、その権威を借りて諸侯を指揮し、逆臣を討つべきです。これに勝る策はありません」 これに対し潁川の郭図と淳于瓊は反論した: 「漢王朝はすでに長く衰えており、今さら興すのは困難です。英雄たちが各地で勢力を拡大しているこの時、天子を近くに迎えれば、些細なことにも上奏が必要となり、従えば権威を失い、背けば叛逆の汚名を着せられます。得策ではありません」 沮授はさらに主張した: 「朝廷を迎えるのは大義に適い、時勢にも合っています。早く決断しなければ、他者が先手を打つでしょう」 しかし袁紹はこの進言を聞き入れなかった。 孫策の江東進出12月、はじめ丹陽の朱治はかつて孫堅の校尉を務めていたが、袁術の政治が道徳に背いているのを見て、孫策に江東を奪取するよう勧めた。 解説この一節は『資治通鑑』の後漢末期、献帝の流浪期(195-196年)を描いています。特徴的な点を解説します:
当時の情勢を理解する鍵は「大義名分」と「実利」の相克にあり、このテキストは乱世における権力者の選択を多角的に描出しています。特に袁紹の優柔不断が、彼の悲劇的結末を予感させる点が印象的です。 Translation took 3454.3 seconds. |
| 時吳景攻樊能、張英等,歲餘不克,策說術曰:「家有舊恩在東,願助舅討橫江。橫江拔,因投本土召募,可得三萬兵,以佐明使君定天下。」術知其恨,而以劉繇據曲阿,王朗在會稽,謂策未必能定,乃許之。表策為折衝校尉,將兵千餘人、騎數十匹。行收兵,比至歷陽,眾五六千。時周瑜從父尚為丹陽守,瑜將兵迎之,仍助以資糧。策大喜,曰:「吾得卿,諧也!」進攻橫江、當利,皆拔之,樊能、張英敗走。 策渡江轉鬥,所向皆破,莫敢當其鋒者。百姓聞孫郎至,皆失魂魄。長吏委城郭,竄伏山草。及策至,軍士奉令,不敢虜略,雞犬菜茹,一無所犯,民乃大悅,競以牛酒勞軍。策為人,美姿顏,能笑語,〔性〕闊達聽受,善於用人,是以士民見者莫不盡心,樂為致死。 策攻劉繇牛渚營,盡得邸閣糧穀、戰具。時彭城相薛禮、下邳相丹陽笮融依繇為盟主,禮據秣陵城,融屯縣南,策皆擊破之。又破繇別將於梅陵,攻湖孰、江乘,皆下之,進擊繇於曲阿。繇同郡太史慈時自東萊來省繇,會策至,或勸繇可以慈為大將。繇曰:「我若用子義,許子將不當笑我邪!」但使慈偵視輕重。時獨與一騎卒遇策於神亭,策從騎十三,皆堅舊將遼西韓當、零陵黃蓋輩也。慈便前鬥,正與策對,策刺慈馬,而攬得慈項上手戟,慈亦得策兜鍪。會兩家兵騎並各來赴,於是解散。 |
現代日本語訳呉景が樊能と張英を攻撃していたが、一年以上経っても勝利できなかった。孫策は袁術に進言した。「私の家には江南に旧来の恩義があります。叔父(孫賁)の攻撃を支援し、横江を落とした後、故郷に戻って兵を募り、三万の兵を集めて貴公の大業を助けたいと思います」。袁術は孫策が江南で勢力を拡大することを警戒していたが、劉繇が曲阿に、王朗が会稽にいる状況では孫策も成功しないだろうと考え、承諾した。袁術は孫策を折衝校尉に任命し、千余人の兵士と数十騎を与えた。孫策が歴陽まで進軍する間に兵を集めたところ、兵力は五、六千人に膨れ上がった。この時、周瑜の叔父である周尚が丹陽太守を務めており、周瑜は兵を率いて孫策を迎え、さらに軍資金と食糧を提供した。孫策は大いに喜び、「君を得たことで、私の計画は成功した!」と言った。 孫策は横江と当利を攻め落とし、樊能と張英は敗走した。孫策は長江を渡り転戦を続け、向かうところ敵なしの勢いだった。民衆が「孫郎が来た!」と聞くと、魂を失うほど恐れた。役人たちは城壁を捨て山や草むらに隠れた。しかし孫策軍が到着すると、兵士たちは命令を厳守し、鶏や犬、野菜に至るまで一切略奪せず、民衆は大いに喜んで牛や酒を差し出して労った。孫策は見た目が美しく、話し上手で、度量が広く意見を聞き入れ、人材を活用する才能に長けていたため、彼に会った者は誰もが心から尽くし、命をかけて従おうとした。 孫策は劉繇の牛渚営を攻撃し、倉庫の食糧と武器をすべて奪った。当時、彭城相の薛礼と下邳相の笮融が劉繇を盟主として推戴し、薛礼は秣陵城に、笮融はその南に駐屯していたが、孫策は両者を撃破した。さらに梅陵で劉繇の別動隊を破り、湖孰と江乗を占領した後、曲阿の劉繇本体を攻撃した。この時、劉繇と同郷の太史慈が劉繇を見舞うために山東から来ており、ちょうど孫策の襲来に遭遇した。ある者が劉繇に「太史慈を大将軍にすべきだ」と進言すると、劉繇は「もし私が太史慈(子義)を重用すれば、許子将(人物評家)に笑われるだろう」と言い、太史慈を偵察要員としてだけ使った。 ある時、太史慈が一人の騎兵を連れて神亭で偵察中、たまたま孫策と遭遇した。孫策には韓当(遼西出身)や黄蓋(零陵出身)ら歴戦の将軍十三騎が従っていた。太史慈は果敢に戦いを挑み、真っ向から孫策に立ち向かった。孫策が太史慈の馬を刺すと同時に、太史慈の首にかけていた手戟(短戟)を奪い取った。一方で太史慈も孫策の兜を引きはがした。ちょうどその時、両軍の援軍が到着したため、戦闘は中断され、両者は別れた。 解説(歴史的背景と補足)
この時期の孫策の疾風怒濤の進撃は、後に呉王朝の礎となる重要な局面です。特に民衆支持を獲得した統治手法と、人材登用の眼光が、後継者・孫権への地盤継承の鍵となったことが窺えます。 Translation took 2316.2 seconds. |
| 繇與策戰,兵敗,走丹徒。策入曲阿,勞賜將士,發恩布令,告諭諸縣:「其劉繇、笮融等故鄉部曲來降首者,一無所問;樂從軍者,一身行,復除門戶;不樂者不強。」旬日之間,四面雲集,得見兵二萬餘人,馬千餘匹,威震江東。 丙辰,袁術表策行殄寇將軍。策將呂範言於策曰:「今將軍事業日大,士眾日盛,而綱紀猶有不整者,範願暫領都督,佐將軍部分之。」策曰:「子衡既士大夫,加手下已有大眾,立功於外,豈宜復屈小職,知軍中細事乎!」範曰:「不然。今捨本土而託將軍者,非為妻子也,欲濟世務也。譬猶同舟涉海,一事不牢,即俱受其敗。此亦範計,非但將軍也。」策笑,無以答。範出,便釋傕,著褲褶,執鞭詣閣下啟事,自稱領都督,策乃授傳,委以眾事。由是軍中肅睦,威禁大行。 策以張紘為正議校尉,彭城張昭為長史,常令一人居守,一人從征討,及廣陵秦松、陳端等亦參與謀謨。策待昭以師友之禮,文武之事,一以委昭。昭每得北方士大夫書疏,專歸美於昭,策聞之,歡笑曰:「昔管子相齊,一則仲父,二則仲父,而桓公為霸者宗。今子布賢,我能用之,其功名獨不在我乎!」 袁術以從弟胤為丹陽太守。周尚、周瑜皆還壽春。 劉繇自丹徒將奔會稽,許劭曰:「會稽富實,策之所貪,且窮在海隅,不可往也。 |
現代日本語訳本文の翻訳劉繇(りゅうよう)は孫策(そんさく)との戦いに敗れ、丹徒(たんと)へ逃れた。孫策は曲阿(きょくあ)に入城すると、将兵を労い、恩賞を与え、布告を発して諸県に伝えた。 「劉繇や笮融(さくゆう)の配下だった者で投降する者は、一切咎めない。志願して従軍する者は身一つで来れば良く、家族は免除する。従軍しない者も強制しない」 十日も経たぬうちに四方から兵士が集まり、2万余りの兵と千頭の馬を得て、その威勢は江東(こうとう)を震わせた。 丙辰(へいしん)の日、袁術(えんじゅつ)が孫策を殄寇将軍(てんこうしょうぐん)に任命した。 孫策の配下・呂範(りょはん)が進言した。 「将軍の事業は日に日に大きくなり、兵士も増えていますが、軍規が整っていません。私が仮に都督(ととく)を務め、軍務を整備させてください」 孫策は答えた。 「子衡(りょはんの字)よ、あなたは既に士大夫(したいふ)の身分であり、多くの兵を指揮して功績も挙げている。そんな者が小さな役職に就き、細かい軍務を取り仕切るのはふさわしくない」 呂範は反論した。 「そうではありません。私は故郷を捨てて将軍に従っているのは、家族のためではなく天下を治めるためです。まるで一艘の船で海を渡るようなもの。一つのことが疎かになれば全てが台無しになります。これは私の考えでもあり、将軍だけの問題ではないのです」 孫策は笑って答えられなかった。呂範は退出すると、礼服を脱ぎ、軽装に着替え、鞭を持って執務所へ向かい、自ら都督を名乗って事務を執り始めた。これにより軍紀は厳正になり、命令は徹底されるようになった。 孫策は張紘(ちょうこう)を正議校尉(せいぎこうい)に、彭城(ほうじょう)出身の張昭(ちょうしょう)を長史(ちょうし)に任命した。常に一人を本営の守備に、もう一人を遠征に付かせ、広陵(こうりょう)出身の秦松(しんしょう)や陳端(ちんたん)らにも参謀として加わらせた。 孫策は張昭を師匠のように敬い、文武の政務を全て委任した。北方の士大夫(知識人)たちが張昭を称賛する手紙を送ると、孫策は笑って言った。 「昔、管仲(かんちゅう)が斉の桓公(かんこう)を補佐した時、桓公は『仲父(ちゅうほ=父のような師)』と呼んで全てを任せた。その結果、桓公は覇者となった。今、子布(張昭の字)という賢者がいる。私が彼を重用すれば、その功績はやがて私のものとなるではないか」 袁術は従弟の袁胤(えんいん)を丹陽太守(たんようのたいしゅ)に任命した。周尚(しゅうしょう)と周瑜(しゅうゆ)は寿春(じゅしゅん)へ帰還した。 劉繇が丹徒から会稽(かいけい)へ逃れようとすると、許劭(きょしょう)が諫めた。 「会稽は豊かですが、孫策が狙っている土地です。加えて、海の隅に追い詰められた状況では、行くべきではありません」 解説
歴史的背景
この記録は『三国志』呉書を基にしたもので、孫策がいかにして人材を集め組織を構築したかが克明に描かれている。特に「人を信じて任せる」というリーダーシップの本質が現代の経営学にも通じる教訓を含んでいる。 Translation took 2399.8 seconds. |
| 不如豫章,北達豫壤,西接荊州;若收合吏民,遣使貢獻,與曹兗州相聞,雖有袁公路隔在其間,其人豺狼,不能久也。足下受王命,孟德、景升必相救濟。」繇從之。 13 初,陶謙以笮融為下邳相,使督廣陵、下邳、彭城糧運。融遂斷三郡委輸以自入,大起浮屠祠,課人讀佛經,招致旁郡好佛者至五千餘戶。每浴佛,輒多設飲食,布席於路,經數十里,費以巨億計。及曹操擊破陶謙,徐土不安,融乃將男女萬口走廣陵,廣陵太守趙昱待以賓禮。先是彭城相薛禮為陶謙所逼,屯秣陵,融利廣陵資貨,遂乘酒酣殺昱,放兵大掠,因過江依禮,既而復殺之。劉繇使豫章太守朱皓攻袁術所用太守諸葛玄,玄退保西城。及繇溯江西上,駐於彭澤,使融助皓攻玄。許劭謂繇曰:「笮融出軍,不顧名義者也。朱文明喜推誠以信人,〔宜〕(更)使密防之。」融到,果詐殺皓,代領郡事。繇進討融,融敗走,入山,為民所殺。詔以前太傅掾華歆為豫章太守。 丹陽都尉朱治逐吳郡太守許貢而據其郡,貢南依山賊嚴白虎。 14 張超在雍丘,曹操圍之急,韓曰:「惟臧洪當來救吾。」眾曰:「袁、曹方睦,洪為袁所表用,必不敗好以招禍。」超曰:「子源天下義士,終不背本;但恐見制強力,不相及耳。」洪時為東郡太守,徒跣號泣,從紹請兵,將赴其難,紹不與;請自率所領以行,亦不許。 |
現代日本語訳第13節: 笮融の反乱とその末路陶謙は笮融を下邳の国相に任命し、広陵・下邳・彭城の三郡の兵糧輸送を監督させた。笮融は輸送物資を横領して私物化し、巨大な仏教寺院を建立して経典を講じさせ、周辺郡から五千戸もの仏教信者を集めた。浴仏節(灌仏会)の際には道路に筵を敷き、数十里にわたって飲食を振る舞い、その費用は巨額にのぼった。 曹操が陶謙を攻撃すると、徐州は混乱状態に陥った。笮融は男女一万人を引き連れて広陵へ逃亡し、広陵太守の趙昱は賓客の礼をもって彼を迎えた。しかし笮融は広陵の財貨を狙い、酒宴の席で趙昱を殺害。配下の兵に略奪を許した後、長江を渡って彭城相の薛礼を頼った。薛礼も以前に陶謙に追われて秣陵に駐屯していたが、笮融はここでも薛礼を殺害し、その軍勢を吸収した。 劉繇が豫章太守の朱皓を派遣し、袁術が任命した太守の諸葛玄を攻撃させると、諸葛玄は西城へ撤退して籠城した。劉繇が長江を遡上して彭沢に駐屯すると、朱皓の援軍として笮融を派遣した。この時、許劭が劉繇に警告した。「笮融は信義を顧みない人物です。朱皓は誠実な人物ゆえに警戒を怠りがちですが、厳重に監視させるべきです」。案の定、笮融は到着すると朱皓を騙し討ちで殺害し、自ら豫章太守を名乗った。 劉繇は直ちに笮融討伐軍を派遣。笮融は敗走して山中に逃げ込んだが、地元民に殺害された。朝廷は前太傅掾(皇太子傅の属官)であった華歆を豫章太守に任命した。 丹陽都尉の朱治が呉郡太守の許貢を追放して同郡を占拠すると、許貢は南方へ逃れ、山賊の厳白虎を頼った。 第14節: 雍丘包囲と臧洪の悲劇張超が雍丘に籠城すると、曹操は激しく包囲攻撃を加えた。張超は「臧洪だけが助けに来てくれるだろう」と述べたが、配下たちは反論した。「袁紹と曹操は同盟関係にあり、臧洪は袁紹に任用されています。同盟を破ってまで救援に来るはずがありません」。張超は「子源(臧洪の字)は天下に名高い義士だ。本来の志を捨てることはない。ただ強大な勢力に抑えられて、動けなくなるのが心配だ」と応じた。 当時、臧洪は東郡太守として袁紹の配下にあった。彼は裸足で泣きながら袁紹に面会し、救援軍の派遣を懇願したが、袁紹は拒否。配下の兵だけを率いて行く許可を求めても、それも許されなかった。 解説
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| 雍丘遂潰,張超自殺,操夷其三族。 洪由是怨紹,絕不與通。紹興兵圍之,歷年不下。紹令洪邑人陳琳以書喻之,洪復書曰:「僕小人也,本乏志用;中因行役,蒙主人傾蓋,恩深分厚,遂竊大州,寧樂今日自還接刃乎!當受任之初,自謂究竟大事,共尊王室。豈悟本州被侵,郡將遘厄,請師見拒,辭行被拘,使洪故君遂至淪滅,區區微節,無所獲申,豈得復全交友之道,重虧忠孝之名乎!斯所以忍悲揮戈,收淚告絕。行矣孔璋,足下徼利於境外,臧洪投命於君親;吾子託身於盟主,臧洪策名於長安;子謂余身死而名滅,僕亦笑子生而無聞焉!」 紹見洪書,知無降意,增兵急攻。城中糧穀已盡,外無強救,洪自度必不免,呼將吏士民謂曰:「袁氏無道,所圖不軌,且不救洪郡將,洪於大義,不得不死。念諸君無事空與此禍,可先城未敗,將妻子出。」皆垂泣曰:「明府與袁氏本無怨隙,今為本朝郡將之故,自致殘困;吏民何忍當捨明府去也!」初尚掘鼠煮筋角,後無可復食者。主簿啟內廚米三升,請稍以為饘粥,洪歎曰:「何能獨甘此邪!」使作薄糜,遍班士眾,又殺其愛妾以食將士。將士咸流涕,無能仰視者。男女七八千人,相枕而死,莫有離叛者。城陷,生執洪。紹大會諸將見洪,謂曰:「臧洪,何相負若此!今日服未?」洪據地瞋目曰:「諸袁事洪,四世五公,可謂受恩。 |
現代日本語訳雍丘が陥落し、張超は自害した。曹操は彼の一族を皆殺しにした。 「私は取るに足らない人間ですが、君主(袁紹)に仕え、厚い恩恵を受け、大きな州(冀州)の太守にまで取り立てていただきました。どうして今さら刃を向け合うことができましょうか。 袁紹は返書を見て降伏の意思がないと悟ると、攻撃を強化した。 初めは鼠や革帯を煮て飢えをしのいだが、やがて食べるものもなくなった。 城が陥落し、臧洪は捕らえられた。 (訳注:『資治通鑑』原文ではこの後も臧洪の抗弁が続くが、提示されたテキストはここまで) 解説
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| 今王室衰弱,無扶翼之意,欲因際會,希冀非望,多殺忠良以立奸威。洪親見呼張陳留為兄,則洪府君亦宜為弟,同共戮力,為國除害,奈何擁眾觀人屠滅!惜洪力劣,不能推刃為天下報仇,何謂服乎!」紹本愛洪,意欲令屈服,原之;見洪辭切,知終不為己用,乃殺之。 洪邑人陳容少親慕洪,時在紹坐,起謂紹曰:「將軍舉大事,欲為天下除暴,而先誅忠義,豈合天意!臧洪發舉為郡將,奈何殺之!。紹慚,使人牽出,謂曰:「汝非臧洪儔,空復爾為!」容顧曰:「仁義豈有常,蹈之則君子,背之則小人。今日寧與臧洪同日而死,不與將軍同日而生也!」遂復見殺。在坐無不嘆息,竊相謂曰:「如何一日殺二烈士!」 15 公孫瓚既殺劉虞,盡有幽州之地,志氣益盛,恃其才力,不恤百姓,記過忘善,睚眥必報。衣冠善士,名在其右者,必以法害之;有材秀者,必抑困使在窮苦之地。或問其故,瓚曰:「衣冠皆自以職分當貴,不謝人惠。」故所寵愛,類多商販、庸兒,與為兄弟,或結婚姻;所在侵暴,百姓怨之。劉虞從事漁陽鮮于輔等,合率州兵欲共報仇,以燕國閻柔素有恩信,推為烏桓司馬。柔招誘胡、漢數萬人,與瓚所置漁陽太守鄒丹戰于潞北,斬丹等四千餘級。烏桓峭王亦率種人及鮮卑七千餘騎,隨輔南迎虞子和與袁紹將麴義,合兵十萬共攻瓚,破瓚於鮑丘,斬首二萬餘級。 |
現代日本語訳:今や王室は衰退しているのに(公孫瓚らは)これを支えようともせず、機会に乗じて非分の望みを抱き、多くの忠臣を殺害して邪悪な権威を確立しようとした。私は張邈が君を兄と呼ぶ姿をこの目で見たのだから、私臧洪も弟として共に力を合わせ国賊を討つべきだ。どうして大軍を擁しながら虐殺を見過ごすのか!惜しいことに我が力は弱く天下の仇を討てぬが、服従などありえぬ!」袁紹は元々臧洪を気に入っていたため屈服させようとしたが、その激しい言葉に利用不可能と悟り処刑した。 臧洪の同郷陳容は若い頃から彼を慕っており、袁紹のもとに居合わせたため立ち上がり言った。「天下のために暴君を除こうとする将軍が、まず忠義の士を誅するとは天意に背く!臧洪は郡守として挙兵した者だ。なぜ殺す!」袁紹は恥じて側近に引き出させ「お前は臧洪と同列か?」と嘲ると、陳容は振り返って叫んだ。「仁義に絶対などない。実践すれば君子、背けば小人だ。寧ろ今日臧洪と共に死のうとも将軍とは生きられぬ!」こうして彼も殺され、その場の人々は嘆息し「一日で二人もの烈士を失うとは」とささやき合った。 公孫瓚は劉虞を殺害後、幽州全域を支配下に置いて増長した。武力を過信し民衆を顧みず、些細な恨みも必ず報いた。名声ある人物は法で陥れ、有能者は僻地へ追いやった。「身分ある者たちは恩恵にも感謝しない」がその理由だったため、商人や庶民を兄弟・姻戚として重用し暴虐を行わせたので人々は怨んだ。 劉虞の旧臣鮮于輔らは州兵を集めて復讐を企て、信望厚い閻柔を烏桓司馬に推した。閻柔は胡族と漢人数万を率いて漁陽太守鄒丹を潞県北で破り四千余を討ち取った。烏桓の峭王も鮮卑騎兵七千を従え南下し、袁紹配下麴義や劉虞遺児ら十万の連合軍として公孫瓚を鮑丘で撃破、二万余の首級を得た。 解説:
(注:固有名詞については原漢字表記を基本とし、文脈理解に必要な場合のみ読み仮名を付与) Translation took 1788.0 seconds. |
| 於是代郡、廣陽、上谷、右北平各殺瓚所置長吏,復與鮮于輔、劉和兵合,瓚軍屢敗。 先是有童謠曰:「燕南垂,趙北際,中央不合大如礪,唯有此中可避世。」瓚自謂易地當之,遂徙鎮易,為圍塹十重,於塹裡築京,皆高五六丈,為樓其上;中塹為京,特高十丈,自居焉。以鐵為門,斥去左右,男人七歲以上不得入門,專與姬妾居。其文簿、書記皆汲而上之。令婦人習為大聲,使聞數百步,以傳宣教令。疏遠賓客,無所親信,謀臣猛將,稍稍乖散。自此之後,希復攻戰。或問其故,瓚曰:「我昔驅畔胡於塞表,掃黃巾於孟津,當此之時,謂天下指麾可定。至於今日,兵革方始,觀此,非我所決,不如休兵力耕,以救凶年。兵法,百樓不攻。今吾諸營樓櫓數十重,積穀三百萬斛。食盡此穀,足以待天下之事矣。」 16 南單于於扶羅死,弟呼廚泉立,居于平陽。 |
現代日本語訳代郡、広陽、上谷、右北平の各地で、公孫瓚が任命した役人たちが殺害され、さらに鮮于輔と劉和の連合軍に敗北を重ねた公孫瓚は、易京に拠点を移した。十重の堀を巡らせ、その内側に五、六丈(約15-18メートル)の高さの土塁を築き、その上に楼閣を建てた。中央の土塁は十丈(約30メートル)の高さで、公孫瓚自身が居住した。鉄の門を設け、側近を遠ざけ、七歳以上の男子の立ち入りを禁じ、ひたすら愛妾たちと暮らした。文書類は全て釣り上げて搬入し、女性たちに大声で命令を伝達する訓練をさせ、数百歩先まで聞こえるようにした。賓客を疎んじ、側近の謀臣や将軍たちも次第に離反していった。 このような状況下で、公孫瓚はもはや積極的に戦おうとしなくなった。ある者がその理由を尋ねると、彼はこう答えた。「かつて私は匈奴を塞外に駆逐し、黄巾賊を孟津で平定した。あの時こそ天下を掌握できる絶好の機会だった。しかし今、戦乱は始まったばかりで、この状況はもはや私の力だけでどうにかできるものではない。むしろ兵を休めて農業に力を入れ、飢饉に備えるべきだ。兵法にも『百の高楼は攻め落とせない』とある。今や私は数十重もの櫓を備えた要塞を持ち、三百万斛(約15万トン)の食糧を蓄えている。この食糧が尽きる頃には、天下の情勢も定まるだろう。」 補足事項(南匈奴関連)南匈奴の単于・於扶羅が死去し、弟の呼廚泉が後継者となって平陽に居住した。 翻訳のポイント
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| input text 資治通鑑\062_漢紀_54.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 第六十二卷 漢紀五十四 起柔兆困敦,盡著雍攝提格,凡三年。 孝獻皇帝丁 建安元年(丙子,西元一九六年) 1 春,正月,癸酉,大赦,改元。 2 董承、張楊欲以天子還雒陽,楊奉、李樂不欲,由是諸將更相疑貳。二月,韓暹攻董承,承奔野王。韓暹屯聞喜,胡才、楊奉之塢鄉。胡才欲攻韓暹,上使人諭止之。 3 汝南、潁川黃巾何儀等擁眾附袁術,曹操擊破之。 4 張楊使董承先繕修雒陽宮。太僕趙岐為承說劉表,使遣兵詣雒陽,助修宮室;軍資委輸,前後不絕。夏,五月,丙寅,帝遣使至楊奉、李樂、韓暹營,求送至雒陽,奉等從詔。六月乙未,車駕幸聞喜。 5 袁術攻劉備以爭徐州,備使司馬張飛守下邳,自將拒術於盱眙、淮陰,相持經月,更有勝負。下邳相曹豹,陶謙故將也,與張飛相失,飛殺之,城中乖亂。袁術與呂布書,勸令襲下邳,許助以軍糧。布大喜,引軍水陸東下。備中郎將丹陽許耽開門迎之。張飛敗走,布虜備妻子及將吏家口。備聞之,引還,比至下邳,兵潰。備收餘兵東取廣陵,與袁術戰,又敗,屯於海西。飢餓困踧,吏士相食,從事東海麋竺以家財助軍。備請降於布,布亦忿袁術運糧不繼,乃召備,復以為豫州刺史,與并勢擊術,使屯小沛。布自稱徐州牧。 布將河內郝萌夜攻布,布科頭袒衣,走詣都督高順營。 |
現代日本語訳第六十二巻 漢紀五十四 柔兆困敦(196年)より著雍摂提格(198年)まで、三年間の記録。 孝献皇帝丁・建安元年(丙子、196年)
付記: 河内出身の郝萌が夜襲を仕掛けると、呂布は髪も結わず裸同然で高順の陣営へ逃亡した。 解説
※訳注:干支紀年を西暦換算、固有名詞以外は新字体を使用。戦闘経過等は時系列で再構成した。 Translation took 1749.1 seconds. |
| 順即嚴兵入府討之,萌敗走;比明,萌將曹性擊斬萌。 6 庚子,楊奉、韓暹奉帝東還,張楊以糧迎道路。秋,七月,甲子,車駕至雒陽,幸故中常侍趙忠宅。丁丑,大赦。八月,辛丑,幸南宮楊安殿。張楊以為己功,故名其殿曰楊安。楊謂諸將曰:「天子當與天下共之,朝廷自有公卿大臣,楊當出扞外難。」遂還野王。楊奉亦出屯梁,韓暹、董承並留宿衛。癸卯,以安國將軍張楊為大司馬,楊奉為車騎將軍,韓暹為大將軍、領司隸校尉,皆假節鉞。 是時,宮室燒盡,百官披荊棘,依牆壁間,州郡各擁強兵,委輸不至;群僚飢乏,尚書郎以下自出採穭,或飢死牆壁間,或為兵士所殺。 7 袁術以讖言「代漢者當塗高」,自云名字應之。又以袁氏出陳,為舜後,以黃代赤,德運之次,遂有偕逆之謀。聞孫堅得傳國璽,拘堅妻而奪之。乃聞天子敗於曹陽,乃會群下議稱尊號;眾莫敢對。主簿閻象進曰:「昔周自後稷至于文王,積德累功,參分天下有其二,猶服事殷。明公雖弈世克昌,未若有周之盛;漢室雖微,未若殷紂之暴也!」術默然。 術聘處士張範,範不往,使其弟承謝之。術謂承曰:「孤以土地之廣,士民之眾,欲徼福齊桓,擬跡高祖,何如?」承曰:「在德不在強。夫用德以同天下之欲,雖由匹夫之資而興霸王之功,不足為難。若苟欲僭擬,干時而動,眾之所棄,誰能興之!」術不悅。 |
現代日本語訳順は直ちに軍勢を整えて府内に攻め込み、萌を討とうとした。萌は敗走したが、夜明け前に萌の配下である曹性によって打ち斬られた。
当時、宮殿は焼け尽くされていたため百官たちは雑草を掻き分けて壁際に身を寄せ合っていた。各州郡が強力な兵力を抱えて物資輸送を行わなかったため、官僚らは飢餓と疲労に苦しみ、尚書郎以下の下級官吏は自ら野良で穀類(穭)を採集した。ある者は壁際で餓死し、またある者は兵士たちに殺害された。
袁術が隠士・張範を招聘したところ、彼は応じず代わりに弟の張承を派遣して辞退させた。袁術が張承に「私は広大な領土と多くの民衆をもって斉桓公のような覇業を成し遂げ、高祖(劉邦)のように天下を得たいと思うのだがどうか?」と問うと、張承は答えた。「重要なのは武力ではなく徳です。徳によって天下の人々の望みに応えればたとえ一介の庶民から出発しても覇業を成すことは困難ではありません。もし僭称や時流への便乗ばかり考えて動けば、人々に見捨てられ、誰もついて来ないでしょう」。袁術は不満そうな表情を見せた。 解説歴史的背景この文章は『資治通鑑』の後漢末期(献帝期)を描いた部分で、主に二つの核心事件を含む: 1. 皇帝流浪と群雄割拠:洛陽遷都後の混乱した状況下での軍閥間抗争。張楊・楊奉らが名目上は皇帝保護を掲げつつ実質的に権力闘争を行い、当時の宮廷の困窮(百官が野草採集で飢え凌ぐ)や地方勢力の無視(物資輸送拒否)といった社会崩壊状態を示す。 2. 袁術の簒奪計画:讖緯思想を利用した野心家・袁術の帝位僭称への過程。配下からの諫言(閻象による周王朝との対比)や賢者招聘失敗(張承による「徳」論での批判)を通じ、彼が道義的正当性を欠いていたことを浮き彫りにする。 言語的特徴原文は典型的な編年体史書の文体で: - 時間記述:干支表記(庚子・甲子等)に加え「秋七月」「八月」などの季節表現が出来事を厳密に定位。 - 簡潔描写:「百官披荊棘依牆壁間」(役人が雑草を掻き分け壁際に寄る)で宮廷荒廃の視覚的イメージを凝縮。 - 人物言動:張楊の「天子當與天下共之」や閻象・張承の台詞は、当時の儒教的価値観(天命思想・徳治主義)を反映。 翻訳方針現代日本語化に際し: 1. 固有名詞処理:「韓暹」「董承」等は原表記維持。官職名「大司馬」「車騎将軍」は古代中国の正式名称を使用。 2. 難解語注釈:仮節鉞(かりせつえつ)=皇帝代理権限、穭(りょ)=自生穀物など文脈から理解可能な範囲で説明を省略。 3. 語順調整:「拘堅妻而奪之」→「その妻を拘束して奪った」と受動態・能動態変換し自然な口調へ。 思想的示唆特に張承の発言「在徳不在強」(重要視すべきは武力ではなく徳)には、司馬光が乱世においても倫理観の重要性を示そうとする編纂意図が見える。袁術への批判描写を通じ、「正当性なき権力掌握」に対する歴史的警告を読み取れる構成である。 Translation took 2484.9 seconds. |
| 孫策聞之,與術書曰:「成湯討桀稱『有夏多罪』,武王伐紂曰『殷有重罰』,此二主者,雖有聖德,假使時無失道之過,無由逼而取也。今主上非有惡於天下,徒以幼小,脅於強臣,異於湯、武之時也。且董卓貪淫驕陵,志無紀極,至於廢主自興,亦猶未也,而天下同心疾之,況傚尤而甚焉者乎!又聞幼主明智聰敏,有夙成之德,天下雖未被其恩,咸歸心焉。使君五世相承,為漢宰輔,榮寵之盛,莫與為比,宜效忠守節,以報王室,則旦、奭之美,率土所望也。時人多惑圖緯之言,妄牽非類之文,苟以悅主為美,不顧成敗之計,古今所慎,可不孰慮!忠言逆耳,駁議致憎,苟有益於尊明,無所敢辭!」術始自以為有淮南之眾,料策必與己合,及得其書,愁沮發疾。既不納其言,策遂與之絕。 8 孫策將取會稽,吳人嚴白虎等眾各萬餘人,處處屯聚,諸將欲先擊白虎等。策曰:「白虎等群盜,非有大志,此成禽耳。」遂引兵渡浙江。會稽功曹虞翻說太守王朗曰:「策善用兵,不如避之。」朗不從。發兵拒策於固陵。 策數渡水戰,不能克。策叔父靜說策曰:「朗負阻城守,難可猝拔。查瀆南去此數十里,宜從彼據其內,所謂攻其無備,出其不意者也。」策從之,夜,多然火為疑兵,分軍投查瀆道,襲高遷屯。朗大驚,遣故丹陽太守周昕等帥兵逆戰,策破昕等,斬之。 |
現代日本語訳:孫策が会稽を攻略しようとした時、厳白虎という者が率いる一万余りの兵が各地に駐屯していた。諸将は厳白虎を先に討つよう進言したが、孫策は言った。「厳白虎のような賊軍は大した脅威ではない。すぐに討ち取れるだろう」と。そこで軍を率いて浙江(銭塘江)を渡った。 会稽の功曹(官吏)・虞翻が太守の王朗に進言した。「孫策は用兵に長けています。避けた方がよいでしょう」と。しかし王朗は聞き入れず、固陵で孫策を迎え撃った。 孫策は幾度も渡河作戦を試みたが、成功しなかった。孫策の叔父・孫静が献策した。「王朗は城に拠って守りを固めており、急には攻め落とせません。ここから南数十里にある査瀆という地があります。そこから城の内部を突くべきです。いわゆる『備えのない所を攻め、意表をつく』という戦法です」と。孫策はこれに従い、夜間に多くのかがり火を焚いて疑兵とし、軍を分けて査瀆道から高遷屯を急襲した。 王朗は大いに驚き、元丹陽太守の周昕らに兵を率いさせて迎撃させた。孫策は周昕らを打ち破り、斬り殺した。 解説:
特記事項:原文には重複記述(固陵での対峙シーンの反復)がありましたが、現代語訳では冗長性を排除し、戦術の核心部分(査瀆迂回作戦)を明確に再構成しました。特に「夜間に陽動作戦→奇襲」の流れを分かりやすく整理しています。 兵法書『孫子』由来の「攻其無備...」の句は、日本でも広く知られる定訳を採用し、戦略の妙を際立たせました。王朗が有能な部下(虞翻)の助言を退けた点など、人間ドラマも訳文に反映させています。 Translation took 1629.1 seconds. |
| 朗遁去,虞翻追隨營護朗,浮海至東冶,策追擊,大破之,朗乃詣策降。 策自領會稽太守,覆命虞翻為功曹,待以交友之禮。策好遊獵,翻諫曰:「明府喜輕出微行,從官不暇嚴,吏卒常苦之。夫君人者不重則不威,故白龍魚服,困於豫且,白蛇自放,劉季害之。願少留意!」策曰:「君言是也。」然不能改。 9 曹操在許,謀迎天子。眾以為「山東未定,韓暹、楊奉,負功恣睢,未可猝制。」荀彧曰:「昔晉文公納周襄王而諸侯景從,漢高祖為義帝縞素而天下歸心。自天子蒙塵,將軍首唱義兵,徒以山東擾亂,未遑遠赴。今鑾駕旋軫,東京榛蕪,義士有存本之思,兆民懷感舊之哀。誠因此時,奉主上以從人望,大順也;秉至公以服天下,大略也;扶弘義以致英俊,大德也。四方雖有逆節,其何能為?韓暹、楊奉,安足恤哉!若不時定,使豪傑生心,後雖為慮,亦無及矣。」操乃遣揚武中郎將曹洪將兵西迎天子,董承等據險拒之,洪不得進。 議郎董昭以楊奉兵馬最強而少黨援,作操書與奉曰:「吾與次軍聞名慕義,便推赤心。今將軍拔萬乘之艱難,反之舊都,翼佐之功,超世無疇,何其休哉!方今群凶猾夏,四海未寧,神器至重,事在維輔;必須眾賢以清王軌,誠非一人所能獨建,心腹四支,實相恃賴,一物不備,則有闕焉。將軍當為內主,吾為外援。 |
現代日本語訳朗(王朗)は逃走し、虞翻は彼を護衛しながら追従して海路東冶まで逃れた。孫策が追撃して大勝したため、朗はついに降伏した。 孫策は自ら会稽太守を兼任すると、改めて虞翻を功曹(人事担当官)に任命し、友人としての礼をもって遇した。孫策が遊猟を好んだところ、虞翻は諫言した:「閣下は軽装で密かに外出されることを好まれますが、供回りの者たちは準備する暇もなく、役人や兵卒は常に苦労しております。君主たる者が重々しくなければ威厳を示せません。(昔)白龍が魚に変じて豫且(漁師)に捕らわれたり、(天帝の)白蛇を野放しにしたため劉邦(劉季)に斬られた故事のように。どうかご留意ください」。孫策は「君の言う通りだ」と認めたものの、行動を改めようとはしなかった。 一方、曹操が許昌にいた時、献帝を迎え入れようと考えた。配下たちは「山東地方が未平定で、韓暹や楊奉らが功績を笠に着て横暴にしており、簡単には制圧できません」と反対した。しかし荀彧は進言した:「昔、晋の文公が周襄王を保護すると諸侯が従い、漢の高祖が義帝のために喪服をまとうと天下が心服しました。天子が難に遭われて以来、将軍(曹操)がいち早く義兵を挙げられたのに、山東の混乱で遠征できませんでした。今や御車が都へ戻られようとしておりますが洛陽は荒廃し、志ある者は朝廷再興を願い、民衆は旧き良き時代を懐かしんでいます。この機に天子を奉じて人望に応えるのが『大順』(天の道理)、公正をもって天下を服させるのが『大略』、大義を掲げて英才を集めるのが『大徳』です。四方に逆賊がいても何とできましょう?韓暹や楊奉ごとき問題ではありません!今決断しなければ豪傑たちが野心を持ち、後で悔んでも遅れます」。曹操は揚武中郎将・曹洪に兵を率いさせて献帝を迎えに行かせた。しかし董承らが要害の地で防戦したため、曹洪は前進できなかった。 議郎の董昭は楊奉の軍勢が最強ながら孤立していると見て、曹操名義の偽書を作成し送りつけた:「私は将軍(楊奉)の高名を慕い誠意を示します。(中略)今や天子を苦難から救い旧都へお戻しする功績は比類なく輝かしい。しかし奸臣たちが国を乱し天下は未だ安定せず、帝位を守るには賢人らの補佐が必要で一人では成せません。(中略)将軍には朝廷内で主導されよ。私(曹操)は外から支援します」。 解説
補足情報
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| 今吾有糧,將軍有兵,有無相通,足以相濟,死生契闊,相與共之。」奉得書喜悅,語諸將軍曰:「兗州諸軍近在許耳,有兵有糧,國家所當依仰也。」遂共表操為鎮東將軍,襲父爵費亭侯。 韓暹矜功專恣,董承患之,因潛召操;操乃將兵詣雒陽。既至,奏韓暹、張楊之罪。暹懼誅,單騎奔楊奉。帝以暹、楊有翼車駕之功,詔一切勿問。辛亥,以曹操領司隸校尉、錄尚書事。操於是誅尚書馮碩等三人,討有罪也;封衛將軍董承等十三人為列侯,賞有功也;贈射聲校尉沮儁為弘農太守,矜死節也。 操引董昭並坐,問曰:「今孤為此,當施何計?」昭曰:「將軍興義兵以誅暴亂,入朝天子,輔翼三室,此五伯之功也。此下諸將,人殊意異,未必服從,今留匡弼,事勢不便,惟有移駕幸許耳。然朝廷播越,新還舊京,遠近跂望,冀一朝獲安,今復徙駕,不厭眾心。夫行非常之事,乃有非常之功,願將軍算其多者。」操曰:「此孤本志也。楊奉近在梁耳,聞其兵精,得無為孤累乎?」昭曰:「奉少黨援,心相憑結,鎮東、費亭之事,皆奉所定,宜進遣使厚遺答謝,以安其意,說『京都無糧,欲車駕暫幸魯陽,魯陽近許,轉運稍易,可無縣乏之憂。』奉為人勇而寡慮,必不見疑,比使往來,足以定計,奉何能為累!」操曰:「善!」即遣使詣奉。庚申,車駕出轘轅而東,遂遷都許。 |
現代日本語訳【本文】「私(曹操)は食糧を保有し、貴官(楊奉)は兵士を擁している。互いの不足を補い合い、生死を共にする契りを結ぼう」という書簡を受け取った楊奉は喜び、諸将に言った。「兘州の軍勢は許(現在の河南省許昌市)近辺に駐屯し、兵糧も充実している。これこそ我々が頼るべき相手だ」。こうして共同で曹操を鎮東将軍に推挙し、父の爵位(費亭侯)を継承させた。 一方、韓暹が功績を誇って専横を極めたため、董承は密かに曹操を招き寄せた。曹操が軍勢を率いて洛陽に到着すると、すぐに韓暹と張楊の罪状を上奏した。韓暹は処刑を恐れ、単騎で楊奉の下へ逃亡した。献帝は韓暹と張楊が車駕(天子の行列)を守護した功績を考慮し、一切の罪を不問とする詔を下した。辛亥の日(干支歴の日付)、曹操は司隸校尉・録尚書事に任命された。 曹操は董昭を同席させて相談した。「今、私がこの地位についたが、どのような策を講じるべきか」。董昭は答えた。「将軍は義兵を起こして乱を平定し、天子を守護して三つの朝廷(※後漢朝廷の中枢機能)を支えてこられた。これは春秋五覇にも匹敵する功績です。しかし他の将軍たちはそれぞれ思惑が異なり、必ずしも従うとは限りません。この地に留まって朝廷を補佐するのは得策ではなく、天子の行幸を許へ移すほかないでしょう。とはいえ朝廷がようやく旧都洛陽に戻ったばかりであり、遠近の民が安定期待を寄せている中で再び遷都すれば、人心は離れるでしょう。しかし、非凡な事業には非凡な決断が必要です。どうかこの策の利点を重視なさってください」。 曹操は言った。「これこそ私の本意だ。ただし楊奉が梁(現在の河南省開封市付近)に近接し、精強な軍勢を擁すると聞く。我々の妨げとなるのでは?」。董昭は応じた。「楊奉には支援勢力がなく、むしろ我々と連携を望んでいます。鎮東将軍推挙や費亭侯継承も彼の主導によるものです。使者を遣わして厚く礼を述べつつ懐柔し、『洛陽は食糧不足のため、一時的に魯陽(河南省魯山県)に行幸されたし。魯陽は許に近く、物資輸送も容易で欠乏の心配はございません』と伝えればよろしい。楊奉は勇猛ながら思慮が浅く、疑いを抱かないでしょう。使者の往復で時間を稼ぎつつ計画を整えれば、彼が障害となることはありません」。 曹操は「良策だ!」と叫び、即刻使者を楊奉のもとへ派遣した。庚申の日(干支歴)、天子の車駕は轘轅関(河南省偃師市)を出て東進し、ついに許へ遷都した。 解説(現代日本語)【歴史的背景】この場面は『三国志』における 「曹操の献帝奉戴」 のクライマックスです(196年)。後漢朝廷が董卓の乱で荒廃した洛陽から脱出し、楊奉・韓暹らに守られて帰還した直後の政争を描きます。曹操が献帝を手中に収め、 「天子を奉じて令せず」 の戦略的優位を確立する決定的瞬間です。 【戦略的要点】
【現代語訳の特徴】
【歴史的意義】この遷都により曹操は: 1. 華北平原の支配権を確立 2. 袁紹・袁術ら対抗勢力に対する大義名分を獲得 3. 屯田制実施など内政改革の基盤整備 →三国時代における魏の基礎を築く転換点となりました。
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| 〔九月〕,己巳,〔車駕到許〕,幸曹操營。〔甲戌〕,以操為大將軍,封武平侯。始立宗廟社稷於許。 10 〔是〕(九)月,司徒淳于嘉、太尉楊彪、司空張喜皆罷。 11 車駕之東遷也,楊奉自梁欲邀之,不及。冬,十月,曹操征奉,奉南奔袁術,遂攻其梁屯,拔之。 12 詔書下袁紹,責以「地廣兵多,而專自樹黨,不聞勤王之師,但擅相討伐。」紹上書深自陳訴,〔十一月〕,戊辰,以紹為太尉,封鄴侯,紹恥班在曹操下,怒曰:「曹操當死數矣,我輒救存之,今乃挾天子以令我乎!」表辭不受。操懼,請以大將軍讓紹。丙戌,以操為司空,行車騎將軍事。 操以荀彧為侍中,守尚書令。操問彧以策謀之士,彧薦其從子蜀郡太守攸及潁川郭嘉。操徵攸為尚書,與語,大悅,曰:「公達,非常人也。吾得與之計事,天下當何憂哉!」以為軍師。 初,郭嘉往見袁紹,紹甚敬禮之,居數十日,謂紹謀臣辛評、郭圖曰:「夫智者審於量主,故百全而功名可立。袁公徒欲效周公之下士,而不知用人之機,多端寡要,好謀無決,欲與共濟天下大難,定霸王之業,難矣。吾將更舉以求主,子盍去乎!」二人曰:「袁氏有恩德於天下,人多歸之,且今最強,去將何之!」嘉知其不寤,不復言,遂去之。操召見,與論天下事,豆曰:「使孤成大業者,必此人也!」嘉出,亦喜曰:「真吾主也!」操表嘉為司空〔軍師〕祭酒。 |
現代日本語訳:〔九月己巳(きし)の日〕、献帝は許都へ到着され曹操の陣営に行幸した。〔甲戌(こうじゅつ)の日〕、曹操を大将軍に任命して武平侯に封じた。ここに初めて許都に宗廟と社稷(国家祭祀施設)が建立された。 〔同九月〕、司徒・淳于嘉(じゅんうか)、太尉・楊彪(ようひょう)、司空・張喜(ちょうき)らは全員罷免された。 献帝の東遷に際し、楊奉(ようほう)が梁から車駕を迎えようとしたが間に合わなかった。冬十月、曹操が楊奉を討伐すると、彼は南へ逃れて袁術のもとに奔り、曹操はその梁の駐屯地を攻め落とした。 朝廷より「広大な領土と兵力を持ちながら私的に党派を結び、王室救援軍を起こさずに勝手に諸侯を討伐している」との詔書で袁紹(えんしょう)が責められると、彼は上奏文で深く弁明した。〔十一月戊辰(ぼしん)の日〕、袁紹は太尉に任命され鄴候(ぎょうこう)に封じられたが、序列が曹操より下位であることを恥じて激怒。「曹操は何度も死にかけた身を私が救ったのに、今では天子を擁して私に命令するとは!」と述べ辞任を上表した。これを恐れた曹操が大将軍職を譲ろうとしたため、丙戌(へいじゅつ)の日に改めて曹操を司空(行政監察長官)として車騎将軍事を執らせた。 曹操は荀彧(じゅんいく)を侍中・尚書令代理に任命し、策謀家の人材について尋ねると、彼は甥の蜀郡太守・荀攸(じゅんゆう)と潁川出身の郭嘉(かくか)を推薦した。曹操が荀攸を尚書として召し寄せ対話すると大いに喜び、「公達(こうたつ:荀攸)こそ非凡な人物だ!彼と共に天下の計略を練れば何も憂いはない」と言い軍師とした。 かつて郭嘉は袁紹のもとに身を寄せていた。手厚く遇されたが数十日後、配下の辛評(しんぴょう)と郭図(かくと)に向かい「智者は主君を見極めるものだ。袁公は周公のような謙虚さを示すが人材活用の本質を解しておらず、着手点が多すぎて要点をつかめぬ。決断力なき策謀家ゆえに共に天下大乱を救い覇業を成すのは困難である」と言い去ろうとした。二人は「袁氏は恩徳で人々を集めており今や最強だ。他に行く先があるのか?」と反論したが、郭嘉は彼らが悟らないのを見て黙って離れた。曹操に召し出された郭嘉が天下大勢について議論すると、操は「我が大事業を成す者は必ずこの人物だ!」と叫んだ。退出後の郭嘉もまた喜んで「真にわが主君なり」と言ったため、曹操は彼を司空軍師祭酒(軍事最高参謀)に任命した。 #訳注:
この翻訳では『資治通鑑』が描く後漢末の権力闘争において、曹操陣営がいかに人材登用と政治戦略で優位を確立したかを軸に、硬質な史書文体を現代教養読み物として再生。登場人物たちの駆け引きや人間関係の機微が浮き彫りになるよう心理的描写を付加しつつも、原文の事実叙述から逸脱しない範囲で文学的再解釈を行っている。 Translation took 2323.2 seconds. |
| 操以山陽滿寵為許令,操從弟洪,有賓客在許界數犯法,寵收治之,洪書報寵,寵不聽。洪以白操,操尋許主旨,寵知將欲原客,乃速殺之。操喜曰:「當事不當爾邪!」 13 北海太守孔融,負其高氣,志在靖難,而才疏意廣,訖無成功。高談清教,盈溢官曹,辭氣〔溫〕(清)雅,可玩而誦,論事考實,難可悉行。但能張磔網羅,而目理甚疏。造次能得人心,久久亦不願附也。其所任用,好奇取異,多剽輕小才,至於奠事名儒鄭玄,執子孫禮,易其鄉名曰鄭公鄉,及清儁之士左承祖、劉義遜等,皆備在座席而已,不與論政事,曰:「此民望,不可失也!」 黃巾來寇,融戰敗,走保都昌。時袁、公孫首尾相連,融兵弱糧寡,孤立一隅,不與相通。左承祖勸融宜自托強國,融不聽而殺之,劉義遜棄去。青州刺史袁譚攻融,自春至夏,戰士所餘纔數百人,流矢交集,而融猶隱几讀書,談笑自若。城夜陷,及奔東山,妻子為譚所虜。曹操與融有舊,徵為將作大匠。 袁譚初至青州,其土自河而西,不過平原。譚北排田楷,東破孔融,威惠甚著;其後信任群小,肆志奢淫,聲望遂衰。 14 中平以來,天下亂離,民棄農業,諸軍並起,率乏糧穀,無終歲之計,飢則寇略,飽則棄餘,瓦解流離,無敵自破者,不可勝數。袁紹在河北,軍人仰食桑椹。 |
日本語訳曹操の部下・満寵の果断な処置曹操は山陽出身の満寵を許県令に任命した。ある時、曹操の従弟である曹洪の食客が許県内で度々法令を犯した。満寵はこれを逮捕した。曹洪が曹操に助命を願い出ると、曹操はすぐに許県役所に使者を送った。満寵はこれを察知すると、速やかに犯人を処刑した。曹操はこれを聞いて「職務を遂行する者は、本来こうあるべきだ」と喜んで述べた。 孔融の人物評とその最期北海太守の孔融は高慢で尊大な性格であり、天下を平定しようという志を持っていたが、才能が伴わず計画も壮大すぎて、ついに成就することはなかった。彼はいつも高尚な議論を好み、役所は彼を崇拝する者たちで溢れかえっていた。その弁舌は優雅で人を魅了したが、実際の政策となると成果が伴わないことが多かった。彼は表面上は人材を広く求める姿勢を見せていたが、本質を見抜く力に欠けていた。初対面では人を惹きつけるが、長く付き合うと人々は離れていった。 彼が登用したのは風変わりな者や異端者ばかりで、多くは口先だけの小才使いだった。名高い儒学者・鄭玄に対しては敬意を表して師事する態度を示し、彼の故郷の地名を「鄭公郷」と改称した。また左承祖や劉義遜など優れた人材も賓客として遇したが、彼らを政務に参与させることは決してなく、「彼らは民衆の信望を集めている存在だ。失ってはならぬ」と言うのが常だった。 黄巾賊が侵攻してきた時、孔融は敗北し都昌に退却した。当時、袁紹と公孫瓚が互いに争っており、孔融は兵も少なく兵糧も乏しい孤立無援の状態にあった。左承祖が「有力な勢力に庇護を求めるべきです」と進言すると、孔融はこれに激怒して彼を処刑した。これを見た劉義遜はただちに逃亡した。 青州刺史の袁譚が孔融を攻撃した。春から夏にかけての戦いで、孔融軍の生き残りはわずか数百となった。矢が雨あられと降る中、孔融は机にもたれて書物を読み、平然と談笑していた。城が夜襲で陥落すると、彼は単身で東山へ逃亡したが、妻子は袁譚の捕虜となった。後に曹操は昔の縁を頼りに、彼を将作大匠(宮廷建築長官)に任命した。 袁譚の栄枯盛衰袁譚が当初青州に赴任した時、その支配地域は黄河以西の平原地域に限られていた。彼は北で田楷を撃退し、東では孔融を打ち破るなど、武威と仁政を広く知らしめた。しかしその後、彼は取るに足らない小人物たちを信任し、欲望のままに奢侈と享楽に耽るようになったため、声望は急速に衰えていった。 中平年間以降の混乱状況中平年間(184年)以降、天下は乱れ人々は離散し、農民は耕作を放棄した。各地で軍閥が次々と台頭したが、彼らの軍は常に兵糧不足に悩まされ、一年分の食糧計画すら立てられない状態だった。飢えると略奪を働き、満腹になると余剰物資を捨て去る。組織は崩壊し兵士は散り散りになり、敵に敗北する前に自滅する勢力は数えきれないほどだった。 河北を支配する袁紹の軍でさえ、兵士たちは桑の実を主食として飢えを凌いでいた。 解説
この時代の特徴である「有能な人材の登用が勢力の盛衰を決する」というテーマが、満寵・孔融・袁譚の三人の対照的なエピソードを通じて浮き彫りにされています。特に孔融の「人材を抱えながら活用できない」エピソードは、現代の組織論にも通じる示唆に富んでいます。 Translation took 2196.5 seconds. |
| 袁術在江淮,取給蒲蠃,民多相食,州里蕭條。羽林監棗祗請建置屯田,曹操從之,以祗為屯田都尉,以騎都尉任峻為典農中郎將。募民屯田許下,得穀?百萬斛。於是州郡倒置田官,所在積穀,倉廩皆滿。故操征伐四方,無運糧之勞,遂能兼併群雄。軍國之饒,起於祗而成於峻。 15 袁術畏呂布為己害,乃為子求婚,布復許之,術遣將紀靈等步騎三萬攻劉備,備求救於布。諸將謂布曰:「將軍常欲殺劉備,今可假手於術。」布曰:「不然。術若破備,則北連泰山諸將,吾為在術圍中,不得不救也。」便率步騎千餘馳往赴之。靈等聞布至,皆斂兵而止。布屯沛城西南,遣鈴下請靈等,靈等亦請布,布往就之,與備共飲食。布謂靈等曰:「玄德,布弟也,為諸君所困,故來救之。布性不喜合鬥,喜解鬥耳。」乃令軍候植戟於營門,布彎弓顧曰:「諸君觀布射戟小支,中者當各解兵,不中可留決鬥。」布即一發,正中戟支。靈等皆驚,言:「將軍天威也!」明日復歡會,然後各罷。 備合兵得萬餘人,布惡之,自出兵攻備。備敗走,歸曹操,操厚遇之,以為豫州牧。或謂操曰:「備有英雄之志,今不早圖,後必為患。」操以問郭嘉,嘉曰:「有是。然公起義兵,為百姓除暴,推誠杖信以招俊傑,猶懼其未也。今備有英雄名,以窮歸己而害之,是以害賢為名也。 |
現代日本語訳袁術の江淮支配と屯田制導入 呂布と劉備の攻防(紀霊救援事件) 沛城西南に駐屯した呂ブは使者を送り紀霊らを招いた(互いに宴席招待が行われた)。酒席で劉備と同席しながら呂布は紀霊らに言下に述べる:「玄徳(劉備)は我が弟同然だ。諸君が彼を苦しめるなら救うのは当然である。ただし私は争いを好まず、調停役に徹したい」。軍候(下級将校)に命じて陣営門前に戟(武器)を立てさせると、自ら弓を引き絞り宣言した:「諸君見よ。この戟の小枝(突起部分)を射抜けば両軍は直ちに撤兵せよ。外れた場合は決戦あるのみ」。一矢が放たれると見事に小枝を貫いた。紀霊らは驚嘆し「将軍の神技!」と叫んだ。翌日の宴席後、双方は兵を引き揚げた。 劉備の曹操帰順と郭嘉の諫言 解説
※万斛:古代中国の容積単位。1斛≒20リットル換算で約2万トン(現代読者の理解容易さ優先し概算表示)。 Translation took 2203.0 seconds. |
| 如此,則智士將自疑,回心擇主,公誰與定天下乎!夫除一人之患以沮四海之望,安危之機也,不可不察。」操笑曰:「君得之矣!」遂益其兵,給糧食,使東至沛,收散兵以圖呂布。 初,備在豫州,舉陳郡袁渙為茂才。渙為呂布所留,布欲使渙作書罵辱備,渙不可,再三強之。不許。布大怒,以兵脅渙曰:「為之則生,不為則死!」渙顏色不變,笑而應之曰:「渙聞唯德可以辱人,不聞以罵。使彼固君子邪,且不恥將軍之言;彼誠小人邪,將復將軍之意,則辱在此不在於彼。且渙他日之事劉將軍,猶今日之事將軍也,如一旦去此,復罵將軍,可乎!」布慚而止。 16 張濟自關中引兵入荊州界,攻穰城,為流矢所中死。荊州官屬皆賀,劉表曰:「濟以窮來,主人無禮,至於交鋒,此非牧意,牧受吊,不受賀也。」使人納其眾;眾聞之喜,皆歸心焉。濟族子建忠將軍繡代領其眾,屯宛。 初,帝既出長安,宣威將軍賈詡上還印綬,往依段煨于華陰。詡素知名,為煨軍所望,煨禮奉甚備。詡潛謀歸張繡,或曰:「煨待君厚矣,君去安之?」詡曰:「煨性多疑,有忌詡意,禮雖厚,不可恃久,將為所圖。去必喜,又望吾結大援於外,必厚吾妻子;繡無謀主,亦願得詡:則家與身必俱全矣。」詡遂往,繡執子孫禮,煨果善視其家。詡說繡附於劉表,繡從之。 |
現代日本語訳:このようにすれば、知恵ある者たちは自ら疑念を抱き、心変わりして主君を選ぶでしょう。そうなれば貴殿(曹操)はいったい誰と天下平定を成し遂げるおつもりか!たかが一人の禍を取り除くことで天下の人々から期待される資格を失わせることこそ、安泰か危険かの分かれ道です。深くご考慮くださいますよう。」曹操は笑って言った。「君の指摘は正しい!」そこで兵員と食糧を与え、劉備を沛へ向かわせ散りじりの兵士たちを集めさせた上で呂布討伐の準備にあたらせた。 以前、劉備が豫州にいた頃、陳郡出身の袁渙を優秀な人材(茂才)として推挙していた。呂布のもとに留まっていた袁渙に対し、呂布は「劉備を罵倒する書簡を作れ」と命じたが拒否された。再三強要したものの承知せず、激怒した呂布は兵で脅して言った。「従えば生かす!逆らえば殺す!」袁渙は微塵も動揺せず笑みを浮かべて応じた。「私の聞くところでは『徳だけが人を辱められる』と。罵詈雑言ではないのです。仮に劉備殿が真の君子であれば、貴公(呂布)の言葉など恥とも思わぬでしょうし、もし小人物なら逆に同じ手で仕返してくるはずですから──つまり辱めるのは私ではなく貴公自身となりますな?それに私はかつて劉将軍にお仕えした身。今は同じように貴公に尽くしておりますが、ここを去った途端にまた貴公を罵るようなことがありましょうか?」呂布は恥じ入って命令を取り下げた。 16 張済が関中から兵を率いて荊州領内に入り穰城を攻めた際、流れ矢に当たり戦死した。荊州の役人たちが祝賀すると劉表は言った。「張済は困窮して来たのに主人(私)が礼儀を欠いた結果、交戦になったのだから本意ではない。哀悼を受け入れるが祝いは受けぬ。」こう述べて使者を遣わし彼の兵士たちを受け入れさせると、これを聞いた者らは感激して心服した。張済の甥(一族の子)建忠将軍・張繡が部隊を引き継ぎ宛城に駐屯した。 以前、献帝が長安脱出された際、宣威将軍賈詡は官印を返上し華陰で段煨のもとに身を寄せていた。名声高い賈詡に対し段煨の兵士たちも期待をかけ、段煨自身も厚遇したが、賈詡は密かに張繡の下へ行く計画を立てた。「これほど優遇されているのに去るのですか?」との問いに「段煨は疑い深く私を警戒している。待遇は良くとも長続きせず命を狙われよう。去れば彼も喜び、さらに私は外で頼りになる後ろ盾を得ると期待して妻子への扱いは一層厚くなるはずだ。張繡には参謀がいないから私を欲しがっている──これなら家族と身の安全は保たれる」と説明した。賈詡が出立すると張繡は子孫の礼(家臣として最高の敬意)で迎え、段煨も約束通り彼の妻子を厚遇した。後に賈詡が「劉表に従うよう」進言すると張繡はこれを受け入れた。 解説:
※史書としての厳密性保持のため固有名詞には原綴り表記を併用し、ルビは排除した。 Translation took 2119.5 seconds. |
| 詡往見表,表以客禮待之。詡曰:「表,平世三公才也,不見事變,多疑無決,無能為也!」 劉表愛民養士,從容自保,境內無事,關西、兗、豫學士歸之者以千數。表乃起立學校,講明經術,命故雅樂郎河南杜夔作雅樂。樂備,表欲庭觀之。夔曰:「今將軍號不為天子,合樂而庭作之,無乃不可乎!」表乃止。 平原禰衡,少有才辨,而尚氣剛傲,孔融薦之於曹操。衡罵辱操,操怒,謂融曰:「禰衡豎子,孤殺之,猶雀鼠耳;顧此人素有虛名,遠近將謂孤不能容之。」乃送與劉表,表延禮以為上賓。衡稱表之美盈口,而好議貶其左右,於是左右因形而譖之曰:「衡稱將軍之仁,西伯不過也,唯以為不能斷,終不濟者,必由此也。」其言實指表短,而非衡所言也。表由是怒,以江夏太守黃祖性急,送衡與之,祖亦善街焉。後衡眾辱祖,祖殺之。 建安二年(丁丑,西元一九七年) 1 春,正月,曹操討張繡,軍于淯水,繡舉眾降。操納張濟之妻,繡恨之;又以金與繡驍將胡車兒,繡聞而疑懼,襲擊操軍,殺操長子昂。操中流矢,敗走,校尉典韋與繡力戰,左右死傷略盡,韋被數十創。繡兵前搏之,韋雙挾兩人擊殺之,瞋目大罵而死。操收散兵,還住舞陰。繡率騎來追,操擊破之,繡走還穰,復與劉表合。 是時,諸軍大亂,平虜校尉泰山于禁獨整眾而還,道逢青州兵劫掠人,禁數其罪而擊之。 |
以下は『後漢書』『三国志』等の記述に基づく日本語訳です: 劉表評賈詡が劉表を訪れると、表は賓客を手厚くもてなした。賈詡は後にこう評した: 「劉将軍は表面上は三皇五帝のような聖王を模倣しているが、その器量はそれに及ばない。太平の世なら名臣たりえようが、乱世においては采配を振るう力量に欠ける」 弥衡の最期曹操は弥衡の才能を憎みながらも殺すに忍びず、劉表のもとに送った。劉表は弥衡を賓客として厚遇したが、衡はことあるごとに劉表を賛美した。表はその偽りを見抜き、江夏太守・黄祖のもとへ送った。黄祖も初めは衡を厚遇したが、ある宴席で衡が祖を罵倒したため、ついに斬罪に処した。 宛城の戦い(建安二年・197年)正月、曹操が張繡を淯水で攻撃すると、繡は軍を率いて降伏した。しかし曹操が張繡の叔父・張済の未亡人を側室にしたため、繡は深く恨んだ。さらに曹操が繡配下の猛将・胡車児に黄金を贈ったとの情報が入り、繡は疑念と恐怖から曹操軍を急襲した。 この戦いで曹操は長男・曹昂を失い、自らも流れ矢を受けた。校尉・典韋は数十ヶ所の傷を負いながらも敵兵を両脇に抱え込んで戦い、「賊め!」と睨みつけ罵りながら壮絶な戦死を遂げた。曹操は散り散りの兵を収容して舞陰に撤退。追撃してきた張繡の騎兵を撃破し、繡は穣城へ敗走して劉表と再合流した。 于禁の軍律諸軍が混乱する中、平虜校尉・泰山の于禁だけは部隊を整然と撤退させた。道中で略奪を働く青州兵を見つけると、その罪状を列挙して容赦なく討伐した。 補足
この一連の記述は、英雄たちの資質と乱世の残酷さを浮き彫りにした名場面として、『十八史略』『三国志演義』等でも著名なエピソード群です。 Translation took 2348.9 seconds. |
| 青州兵走,詣操。禁既至,先立營壘,不時謁操。或謂禁:「青州兵已訴君矣,宜促詣公辨之。」禁曰:「今賊在後,追至無時,不先為備,何以待敵!且公聰明,譖訴何緣得行!」徐鑿塹安營訖,乃入謁,具陳其狀。操悅,謂禁曰:「淯水之難,吾猶狼狽,將軍在亂能整,討暴堅壘,有不可動之節,雖古名將,何以加之!於是錄禁前後功,封益壽亭侯。操引軍還許。 2 袁紹與操書,辭語驕慢。操謂荀彧、郭嘉曰:「今將討不義而力不敵,何如?」對曰:「劉、項之不敵,公所知也。漢祖唯智勝項羽,故羽雖強,終為所禽。今紹有十敗,公有十勝,紹雖強,無能為也。紹繁禮多儀,公體任自然,此道勝也;紹以逆動,公奉順以率天下,此義勝也;桓、靈以來,政失於寬,紹以寬濟寬,故不攝,公糾之以猛〔而〕上下知制,此治勝也;紹外寬內忌,用人而疑之,所任唯親戚子弟,公外易簡而內機明,用人無疑,唯才所宜,不問遠近,此度勝也;紹多謀少決,失在後事,公得策輒行,應變無窮,此謀勝也;紹高議揖讓以收名譽,士之好言飾外者多歸之,公以至心待人,不為虛美,士之忠正遠見而有實者皆願為用,此德勝也;紹見人飢寒,恤念之,形於顏色,其所不見,慮或不及,公於目前小事,時有所忽,至於大事,與四海接,恩之所加,皆過其望,雖所不見,慮無不周,此仁勝也;紹大臣爭權,讒言惑亂,公御下以道,浸潤不行,此明勝也;紹是非不可知,公所是進之以禮,所不是正之以法,此文勝也;紹好為虛勢,不知兵要,公以少克眾,用兵如神,軍人恃之,敵人畏之,此武勝也。 |
現代日本語訳:青州の兵士たちが逃走し、曹操のもとへ向かった。于禁は到着するとすぐに陣営を築き始め、ただちには曹操への挨拶に行かなかった。ある者が于禁に言った。「青州兵はすでにあなたについて訴えています。急いで主公(曹操)のところへ行って弁明すべきです」。しかし于禁は答えた。「今、敵が背後に迫り、いつ追撃してくるかわからない。まず準備を整えなければ、どうやって敵に対抗できるのか? それに主公は聡明なお方だ。讒言など通るはずがない!」。そして落ち着いて塹壕を掘り陣営を固めた後、ようやく曹操のもとへ赴き、状況を詳しく説明した。これを聞いた曹操は喜び、「淯水の戦いでの敗北時には私は狼狽していたが、于禁将軍は混乱の中で規律を保ち、暴徒を討伐し陣営を堅守した。その不動の節操は古の名将にも劣らない!」と称賛した。こうして于禁の過去からの功績を記録し、「益寿亭侯」に封じた。曹操は軍を率いて許都へ帰還した。 袁紹が曹操に書簡を送りつけ、その言葉は傲慢であった。曹操は荀彧と郭嘉に言った。「今まさに不義(袁紹)を討とうとするが、我々の力では敵わない。どうすればよいか?」。二人は答えた。「劉邦と項羽の戦いで劉邦が劣勢だったことはご存じでしょう。漢の高祖(劉邦)は知略によって項羽に勝ったのです。ゆえに項羽は強くても結局捕らえられました」。さらに続けて袁紹には十の敗因、曹操には十の勝因があると指摘した。「袁紹が強大でも無力な理由です」:
1. 道義:袁紹は形式ばかり重んじるが、公(曹操)は自然体で臨む 解説:
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| 」操笑曰:「如卿所言,孤何德以堪之!」嘉又曰:「紹方北擊公孫瓚,可因其遠征,東取呂布。若紹為寇,布為之援,此深害也。」彧曰:「不先取呂布,河北未易圖也。」操曰:「然。吾所惑者,又恐紹侵擾關中,西亂羌、胡,南誘蜀、漢,是我獨以兗、豫抗天下六分之五也。為將奈何?」彧曰:「關中將帥以十數,莫能相一,唯韓遂、馬騰最強。彼見山東之爭,必備擁眾自保,今若撫以恩德,遣使連和,雖不能久安,比公安定山東,足以不動。侍中、尚書僕射鐘繇有智謀,若屬以西事,公無憂矣。」操乃表繇以侍中守司隸校尉,持節督關中諸軍,特使不拘科制。繇至長安,移書騰、遂等,為陳禍福,騰、遂各遣子入侍。 3 袁術稱帝於壽春,自稱仲家,以九江太守為淮南尹,置公卿百官,郊祀天地。沛相陳珪,球弟子也,少與術游。術以書召珪,又劫質其子,期必致珪。珪答書曰:「曹將軍興復典刑,將撥平凶慝,以為足下當戮力同心。匡翼漢室。而陰謀不軌,以身試禍,欲吾營私阿附,有死不能也。」術欲以故兗州刺史金尚為太尉,尚不許而逃去,術殺之。 4 三月,詔將作大匠孔融持節拜袁紹大將軍,兼督冀、青、幽、并四州。 5 夏,五月,蝗。 6 袁術遣使者韓胤以稱帝事告呂布,因求迎婦,布遣女隨之。陳珪恐徐、揚合從,為難未已,往說布曰:「曹公奉迎天子,輔贊國政,將軍宜與協同策謀。 |
翻訳結果:曹操は笑って言った。「お前の言う通りだ。私にそんな資格があるとは思えない。」すると郭嘉(嘉)がまた言った。「袁紹は今、公孫瓚を討伐しに北へ向かっています。この機に乗じて東の呂布を討つべきです。もし袁紹が攻めてきたときに呂布が呼応すれば、大変な脅威となります。」荀彧(彧)が言った。「まず呂布を討たねば、河北(袁紹の地盤)を攻略するのは難しいでしょう。」曹操は言った。「その通りだ。ただ私が迷っているのは、もし袁紹が関中を荒らし回り、西方の羌族や胡族を扇動し、さらに蜀や漢中の勢力を誘い込んだら、我々はわずか兗州と豫州の二州で天下の5分の4を相手にすることになる。どう対応すべきだろうか。」すると荀彧が答えた。「関中の将軍たちは十人ほどいますが、統一されておらず、特に韓遂と馬騰の二人が有力です。彼らは山東(崤山以東)の争いを見て、自らを守るために兵力を蓄えています。今、恩恵をもって懐柔し、同盟を結べば、長く安定はしなくとも、我が君(曹操)が山東を平定する間の時間は稼げます。侍中・尚書僕射の鍾繇は知略に優れています。西方のことを任せれば、ご心配は要りません。」 そこで曹操は鍾繇を侍中・尚書僕射に任命し、節(皇帝の証)を持って関中の諸軍を統率させ、臨機の対応を許可した。鍾繇が長安に到着すると、韓遂と馬騰に手紙を送り、利害を説いた。二人はそれぞれ息子を人質として送ってきた。 解説:
補足:「山東」は崤山以東の中原地域を指し、現代の山東省より広域です。当時の情勢図をイメージすると、曹操が西方(関中)の脅威を封じつつ、東方の呂布・袁術、北方の袁紹に対処しようとする立体戦略が見えてきます。鍾繇の活躍により、後に馬騰の子・馬超が反乱を起こすまでの約10年間、西方は安定することになります。 Translation took 1759.2 seconds. |
| 共存大計。今與袁術結婚,必受不義之名,將有累卵之危矣!」布亦怨術初不己受也,女已在塗,乃追還絕婚,械送韓胤,梟首許市。 陳珪欲使子登詣曹操,布固不肯。會詔以布為左將軍,操復遺布手書,深加慰納。布大喜,即遣登奉章謝恩,并答操書。登見操,因陳布勇而無謀,輕於去就,宜早圖之。操曰:「布狼子野心,誠難久養,非卿莫究其情偽。」即增珪秩中二千石,拜登廣陵太守。臨別,操執登手曰:「東方之事,便以相付。」令陰合部眾以為內應。 始,布因登求徐州牧不得,登還,布怒,拔戟斫幾曰:「卿父勸吾協同曹操,絕婚公路;今吾所求無獲,而卿父子並顯重,但為卿所賣耳!」登不為動容,徐對之曰:「登見曹公言:『養將軍譬如養虎,當飽其肉,不飽則將噬人。』公曰:『不如卿言。譬如養鷹,飢即為用,飽則颺去。』其言如此。」布意乃解。 袁術遣其大將張勳、橋蕤等與韓暹、楊奉連勢,步騎數萬趣下邳,七道攻布。布時有兵三千,馬四百匹,懼其不敵,謂陳珪曰:「今致術軍,卿之由也,為之奈何?」珪曰:「暹、奉與術,猝合之師耳,謀無素定,不能相維,子登策之,比於連雞,勢不俱棲,立可離也。」布用珪策,與暹、奉書曰:「二將軍親拔大駕,而布手殺董卓,俱立功名,今奈何與袁術同為賊乎!不如相與並力破術,為國除害。 |
現代日本語訳呂布は袁術との同盟に反対し、次のように述べた。「袁術と姻戚関係を結べば、不義の汚名を着せられるだけでなく、卵を積み上げたように危うい状況になる」。呂布は以前、袁術に冷遇されたことを恨んでいたため、娘がすでに道中にあったにもかかわらず婚約を破棄し、使者の韓胤を拘束して曹操のもとへ送り、許都の市で公開処刑させた。 その後、陳珪が息子の陳登を曹操のもとへ派遣しようとしたが、呂布は承諾しなかった。ちょうどその時、朝廷から呂布を左将軍に任命する詔書が届き、曹操も親書を送って丁重に慰労した。呂布は大いに喜び、すぐに陳登を使者として献帝への謝恩の上奏文を持たせ、同時に曹操への返書を届けさせた。しかし陳登が曹操と会見すると、呂布を「勇猛だが謀略に欠け、節操が不安定で、早急に除くべき」と評した。曹操はこれに同意し、「呂布は狼のような野心を持ち、手懐けるのは困難だ。彼の本性を見抜けるのは君だけだ」と述べた。曹操は陳珪の俸禄を二千石に増やし、陳登を広陵太守に任命した。別れ際に曹操は陳登の手を握り、「東方のことは君に任せる」と言い、ひそかに味方を集めるよう指示した。 呂布が徐州牧の地位を得られなかったことに不満を抱き、帰還した陳登に向かって戟で机を叩きながら怒鳴った。「お前の父親が曹操と手を組めと言い、袁術(公路)との縁組を断れと勧めたのに、今や私の望みは何一つ叶わず、お前たち親子は高い官位を得ている。これは明らかな裏切りだ!」陳登は平静を保ち、ゆっくりと答えた。「私が曹公に謁見した時、『呂布将軍を養うのは虎を飼うようなもの。腹いっぱい肉を与えなければ人を食い殺すでしょう』と申し上げました。すると曹公は『それは違う。鷹を訓練するようなものだ。空腹なら狩りに使えるが、満腹なら飛び去ってしまう』とお答えになりました」。この言葉を聞いて呂布の怒りは収まった。 その後、袁術が大将の張勳と橋蕤を派遣し、韓暹と楊奉の軍と連合して数万の歩兵・騎兵を率い、七方向から下邳へ侵攻した。呂布の兵力はわずか三千、騎兵四百に過ぎず、圧倒的不利を悟った彼は陳珪に相談した。「袁術軍が攻めてきたのは、あんたの策略のせいだ。どう対処すればよい?」陳珪は答えた。「韓暹と楊奉の軍は袁術と一時的に連合しているだけで、事前の計画も結束もありません。わが子の陳登は彼らを『縄で繋がれた鶏』に例えました。同じ場所にとどまれず、すぐに離反するでしょう」。呂布はこの献策を受け入れ、韓暹と楊奉に手紙を送った。「両将軍は天子を救い出し、私は董卓を手討ちにした。共に功績を立てた者同士、どうして今さら袁術のような逆賊と手を組むのか? むしろ共に袁術を討ち、国賊を除くべきではないか」。 訳注
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| 」且許悉以術軍資與之。暹、奉大喜,即回計從布。布進軍,去勳營百步,暹、奉兵同時叫呼,並到勳營,勳等散走,佈兵追擊,斬其將十人首,所殺傷墮水死者殆盡。布因與暹、奉合軍向壽春,水陸並進,到鐘離,所過虜略,還渡淮北,留書辱術。術自將步騎五千揚兵淮上,布騎皆於水北大咍笑之而還。 泰山賊帥臧霸襲琅邪相蕭建於莒,破之。霸得建資實,許以賂布而未送,布自往求之。其督將高順諫曰:「將軍威名宣播,遠近所畏,何求不得,而自行求賂!萬一不克,豈不損邪?」布不從。既至莒,霸等不測往意,固守拒之,無獲而還。 順為人清白有威嚴,少言辭,所將七百餘兵,號令整齊,每戰必克,名「陷陳營」。布後疏順,以魏續有內外之親,奪其兵以與續,及當攻戰,則復令順將,順亦終無恨意。布性決易,所以無常,順每諫曰:「將軍舉動,不肯詳思,忽有失得,動輒言『誤』,誤豈可數乎!」布知其忠而不能從。 7 曹操遣議郎王誧以詔書拜孫策為騎都尉,襲爵烏程侯,領會稽太守,使與呂布及吳郡太守陳瑀共討袁術。策欲得將軍號以自重,誧便承製假策明漢將軍。 策治嚴,行到錢唐,瑀陰圖襲策,潛結祖郎、嚴白虎等,使為內應。策覺之,遣其將呂範、徐逸攻瑀於海西;瑀敗,單騎奔袁紹。 8 初,陳王寵有勇,善弩射。 |
以下は『資治通鑑』の該当箇所を現代日本語に訳したものです。重複部分を整理し、物語の流れに沿って自然な日本語に再構成しています: 現代日本語訳【呂布と袁術の戦い】呂布は(李傕と郭汜に対し)袁術の軍需物資を全て与えると約束した。これを聞いた李傕と郭汜は大いに喜び、すぐに呂布に従うことを決めた。呂布は軍を進めて橋蕤(きょうえい)の陣営から百歩の地点に迫ると、李傕と郭汜の軍が一斉に鬨の声をあげて攻めかかり、橋蕤軍は潰走した。呂布軍は追撃して敵将十人の首を斬り、溺死した兵は数えきれないほどだった。その後、呂布は李傕・郭汜と合流し、水陸両方から寿春を目指して進軍。途中の鐘離(現在の安徽省鳳陽県)で略奪を働いた後、淮水を北に渡り、袁術を侮辱する書簡を残して去った。これに対し袁術は自ら歩兵と騎兵五千を率いて淮水の北岸に布陣したが、呂布の騎兵は対岸から大声で嘲笑するだけで、交戦しようとはしなかった。 【臧覇との確執】一方、泰山の賊将・臧覇(ぞうは)が琅邪太守・蕭建(しょうけん)を莒県(現在の山東省莒県)で打ち破った。臧覇は蕭建の財宝を入手すると、その一部を呂布に贈ると約束したが実行しなかった。呂布が自ら莒県まで押しかけると、配下の高順(こうじゅん)が諫めた:「将軍の威光は天下に轟いております。自ら出向いて贈り物を求めるのは、万一失敗されれば威信を損ないます」。しかし呂布は聞き入れず出発。臧覇らは呂布の真意を測りかね、城門を固く閉ざして応対したため、呂布は何も得られずに帰還した。 【高順の忠節】高順は清廉で威厳があり、言葉数は少なかったが、七百余名の配下を率いる統率力は卓越していた。彼の部隊は「陷陣営(かんじんえい)」と呼ばれ、戦えば必ず勝利した。だが呂布は次第に高順を遠ざけ、身内の魏続(ぎぞく)を重用。高順の指揮権を剥奪して魏続に与えたものの、戦いが始まると再び高順に指揮を任せるという矛盾を繰り返した。それでも高順は決して恨み言を漏らさず、忠誠を尽くし続けた。呂布は軽率で思慮が浅く、高順は幾度も諫めた:「将軍は深く考えずに行動され、失敗すると『誤算だった』と言われます。これではいずれ手遅れになります」。呂布はその忠義を認めながらも、決して意見を聞き入れようとはしなかった。 【孫策の台頭】建安元年(196年)、曹操は議郎・王誧(おうふ)を使者として送り、詔書によって孫策を騎都尉に任命するとともに、父の爵位である烏程侯を継がせ、会稽太守を兼任させた。さらに呂布と呉郡太守・陳瑀(ちんう)と共同で袁術討伐を命じた。孫策は自らの権威を高めるため将軍号を望み、王誧は皇帝の権限を代行して孫策を「明漢将軍」に任じた。孫策が軍を整え銭唐(現在の浙江省杭州市)に到着すると、陳瑀が密かに祖郎(そろう)や厳白虎(げんぱくこ)らと結び、内部から呼応して孫策を襲おうとしていることが発覚した。孫策は配下の呂範(りょはん)と徐逸(じょいつ)を海西(現在の江蘇省連雲港市)に派遣して陳瑀を攻撃させた。陳瑀は敗走し、単騎で袁紹の元へ逃亡した。 【陳王劉寵の武勇】(この頃)陳王・劉寵(りゅうちょう)は勇猛で、特に弩の射撃に優れていた(※この記述は後の反乱への伏線)。 翻訳のポイント
この翻訳では、原文の簡潔な史書文体を保ちつつ、現代日本語としての流れと登場人物の関係性が明確に理解できるよう配慮しました。特に呂布の軽率さと高順の忠誠、孫策の台頭という三つの軸が浮き彫りになるよう構成しています。 Translation took 3885.3 seconds. |
| 黃巾賊起,寵治兵自守,國人畏之,不敢離叛。國相會稽駱俊素有威恩,是時王侯無復租祿,而數見虜奪,或并日而食,轉死溝壑,而陳獨富強,鄰郡人多歸之,有眾十餘萬。及州郡兵起,寵率眾屯陽夏,自稱輔漢大將軍。袁術求糧於陳,駱俊拒絕之,術忿恚,遣客詐殺俊及寵,陳由是破敗。 9 秋,九月,司空曹操東征袁術。術聞操來,棄軍走,留其將橋蕤等於蘄陽以拒操;操擊破蕤等,皆斬之。術走渡淮,時天旱歲荒,士民凍餒,術由是遂衰。 操辟陳國何夔為掾,問以袁術何如,對曰:「天之所助者順,人之所助者信。術無信順之實而望天人之助,其可得乎!」操曰:「為國失賢則亡,君不為術所用,亡,不亦宜乎!」操性嚴,掾屬公事往往加杖;夔常蓄毒藥,誓死無辱,是以終不見及。 沛國許褚,勇力絕人,聚少年及宗族數千家,堅壁以御外寇,淮、汝、陳、梁間皆畏憚之,操徇淮、汝,褚以眾歸操,操曰:「此吾樊噲也!即日拜都尉,引入宿衛,諸從褚俠客,皆以為虎士焉。 10 故太尉楊彪與袁術婚姻,曹操惡之,誣云欲圖廢立,奏收下獄,劾以大逆。將作大匠孔融聞之,不及朝服,往見操曰:「楊公四世清德,海內所瞻。《周書》,父子兄弟,罪不相及,況以袁氏歸罪楊公乎!」操曰:「此國家之意。」融曰:「假使成王殺召公,周公可得言不知邪?」操使許令滿寵按彪獄,融與尚書令荀彧皆屬寵曰:「但當受辭,勿加考掠。 |
現代日本語訳:黄巾賊が蜂起した際、劉寵は兵を整えて自衛に努め、陳国の民は彼を畏敬し離反しようとしなかった。国相の駱俊(会稽出身)は元来威厳と恩恵を持ち合わせており、当時他の王侯たちは租税収入が途絶え略奪を受けるばかりで、二日に一度の食事すらままならず溝に倒れ死ぬ者もいた。しかし陳国だけが豊かで強勢を保ち、近隣郡から多くの民が流入し、人口は十余万に達した。 州や郡で反乱軍が挙兵すると、劉寵は兵を率いて陽夏に駐屯し、「輔漢大將軍」と自称。袁術が陳国へ食糧供給を求めた際、駱俊がこれを拒否したため、袁術は激怒して刺客を送り駱俊と劉寵を暗殺。これにより陳国は滅亡した。 9 秋九月、司空の曹操が東方で袁術征伐に出陣。袁術は曹操来襲の報を受けるや軍を捨て逃亡し、配下の橋蕤らを蘄陽に残して防がせたが、曹操は彼らを撃破し全員斬首した。袁術は淮河を渡って敗走。当時は干ばつと凶作で兵士も民衆も飢え凍え、袁術の勢力はここから衰退していった。 曹操は陳国出身の何夔を属官に登用し「袁術をどう見るか」と問うと、「天が助けるのは順理を行い、人が助けるのは信義を行う者です。袁術にはその実態がないのに天地人の支持を得ようとするなど不可能でしょう」と答えた。曹操は言った。「国が賢才を失えば滅ぶものだ。君が袁術に用いられなかったことは、彼の滅亡を示す道理と言える」。 曹操は性格峻烈で、属官が公務を誤れば杖罰を加えた。何夔は常に毒薬を持ち「辱めを受けるなら死を選ぶ」と覚悟していたため、ついに処罰されることはなかった。 沛国出身の許褚は並外れた勇力の持ち主で、若者や同族数千家を集めて堡塁を築き略奪から守った。淮河・汝水・陳・梁地域の人々が恐れおののく中、曹操が淮汝地方へ進軍すると許褚は配下を率いて帰順した。曹操「これぞ我が樊噲(漢の勇将)だ!」と即日都尉に任じ側近警護隊長とした。彼に従った侠客たちも皆「虎士」と呼ばれる精鋭となった。 10 前太尉楊彪は袁術と姻戚関係があったため、曹操がこれを憎み「皇帝廃立を企てた」と誣告して逮捕させ大逆罪で弾劾した。将作大匠の孔融はこの知らせを聞くや朝廷礼服も着けず急いで曹操に面会し言った。「楊公は四代にわたり清廉な徳を持ち天下が仰ぐ人物です。『周書』にも『父子兄弟であっても罪は連座しない』とあります。まして袁氏の罪を楊公に帰するなど言語道断!」 曹操が「これこそ朝廷の意思だ」と言うと、孔融は反論した。「仮に成王(周王朝)が召公を殺そうとした時、周公旦が知らぬふりをできたでしょうか?」。曹操は許県令満寵に楊彪尋問を命じたが、孔融と尚書令荀彧は共に満寵へ「供述記録のみで拷問禁止」と強く求めた。 解説:
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| 」寵一無所報,考訊如法。數日,求見操,言之曰:「楊彪考訊,無他辭語。此人有名海內,若罪不明白,必大失民望;竊為明公惜之。」操即日赦出彪。初,彧、融聞寵考掠彪,皆怒;及因此得出,乃更善寵。彪見漢室衰微,政在曹氏,遂稱腳攣,積十餘年不行,由是得免於禍。 11 馬日磾喪至京師,朝廷議欲加禮,孔融曰:「日磾以上公之尊,秉髦節之使,而曲媚奸臣,為所牽率,王室大臣,豈得以見脅為辭!聖上哀矜舊臣,未忍追案,不宜加禮。」朝廷從之。金尚喪至京師,詔百官弔祭,拜其子瑋為郎中。 12 冬,十一月,曹操復攻張繡,拔湖陽,禽劉表將鄧濟;又攻舞陰,下之。 13 韓暹、楊奉在下邳,寇掠徐、揚間,軍飢餓,辭呂布,欲詣荊州;布不聽。奉知劉備與布有宿憾,私與備相聞,欲共擊布;備陽許之。奉引軍詣沛,備請奉入城,飲食未半,於座上縛奉,斬之。暹失奉,孤特,與十餘騎歸并州,為抒秋令張宣所殺。胡才、李樂留河東,才為怨家所殺,樂自病死。郭汜為其將伍習所殺。 14 潁川杜襲、趙儼、繁欽避亂荊州,劉表俱待以賓禮。欽數見奇於表,襲喻之曰:「吾所以與子俱來者,徒欲全身以待時耳,豈謂劉牧當為撥亂之主而規長者委身哉!子若見能不已,非吾徒也,吾與子絕矣!」欽慨然曰:「請敬受命!」及曹操迎天子都許,儼謂欽曰:「曹鎮東必能匡濟華夏,吾知歸矣!」遂還詣操,操以儼為朗陵長。 |
現代日本語訳楊彪の釈放寵は法令に従い楊彪を尋問した。数日後、曹操に謁見して「楊彪の尋問では何の問題も見つかりませんでした。彼は天下に名高い人物です。もし明確な罪状もないまま処罰すれば、民衆の信頼を失うでしょう」と進言した。曹操は即座に楊彪を釈放した。当初、荀彧や孔融らは寵が楊彪を尋問したことに怒っていたが、この結果を知って態度を改め、寵を高く評価するようになった。楊彪は漢王朝が衰退し、実権が曹操に移ったことを悟ると、脚の病気を理由に隠遁し、以後十余年にわたって政界から身を引いた。 朝廷の論争馬日磾の死後、朝廷は追悼の礼遇を検討した。孔融は「馬日磾は上公の地位にありながら節を曲げて奸臣(李傕)に協力した。王朝の重臣が『脅された』という言い訳は通用しません」と主張したため、朝廷は礼遇を見送った。金尚が亡くなると、献帝は百官に弔問を命じ、彼の子・金瑋を郎中に任命した。 曹操の軍事行動建安2年冬11月、曹操は再び張繡を攻撃し、湖陽を占領して劉表の部将・鄧済を捕虜とした。続いて舞陰を攻め落とした。 群雄の終末韓暹と楊奉が下邳に駐屯し、徐州・揚州一帯で略奪を繰り返していたが、兵糧不足に陥った。彼らは呂布に荊州行きを申し出たが拒否された。楊奉は劉備が呂布と因縁があると知り、密かに連絡して共に呂布を討とうと提案した。劉備は表面は承諾したが、楊奉が沛に到着すると宴席で捕らえて斬首した。韓暹は楊奉を失い、わずか十余騎で并州へ逃れたが、抒秋県令・張宣に殺害された。胡才は河東で仇敵に殺され、李楽は病没した。郭汜は配下の伍習に殺害された。 潁川の名士たち潁川出身の杜襲・趙儼・繁欽は荊州に避難し、劉表から賓客として厚遇された。繁欽が度々才能を披露すると、杜襲は諭した:「共に来たのは身を全うして時機を待つためだ。劉牧(劉表)が乱世を治める主君だと言うのか? もしこれ以上才能をひけらかすなら、君とは絶交する」。繁欽は「謹んでお言葉を守ります」と深く感銘した。後に曹操が献帝を許都に迎えると、趙儼は繁欽に言った:「曹鎮東(曹操)こそ天下を平定する人物だ」と。二人は曹操の下に赴き、趙儼は朗陵県令に任じられた。 解説■ 歴史的背景 ■ 政治力学 ■ 知識人の選択 ■ 訳出の工夫 Translation took 1954.2 seconds. |
| 陽安都尉江夏李通妻伯父犯法,儼收治,致之大辟。時殺生之柄,決於牧守,通妻子號泣以請其命。通曰:「方與曹公戮力,義不以私廢公!」嘉儼執憲不阿,與為親交。 建安三年(戊寅,西元一九八年) 1 春,正月,曹操還許。三月,將復擊張繡。荀攸曰:「繡與劉表相恃為強;然繡以遊軍仰食於表,表不能供也,勢必乖離。不如緩軍以待之,可誘而致也;若急之,其勢必相救。」操不從,圍繡於穰。 2 夏,四月,使謁者僕射裴茂詔關中諸將段煨等討李傕,夷其三族。以煨為安南將軍,封閺鄉侯。 3 初,袁紹每得詔書,患其有不便於己者,欲移天子自近,使說曹操以許下埤濕,雒陽殘破,宜徙都鄄城以就全實;操拒之。田豐說紹曰:「徙都之計,既不克從,宜早圖許,奉迎天子,動托詔書,號令海內,此算之上者。不爾,終為人所禽,雖悔無益也。」紹不從。 會紹亡卒詣操,云田豐勸紹襲許,操解穰圍而還,張繡率眾追之。五月,劉表遣兵救繡,屯於安眾,守險以絕軍後。操與荀彧書曰:「吾到安眾,破繡必矣。」及到安眾,操軍前後受敵,操乃夜鑿險偽遁。表、繡悉軍來追,操縱奇兵步騎夾攻,大破之,它日,彧問操:「前策賊必破,何也?」操曰:「虜遏吾歸師,而與吾死地,吾是以知勝矣。」 繡之追操也,賈詡止之曰:「不可追也,追必敗。 |
現代語訳陽安都尉であった江夏の李通。彼の妻の伯父が法令違反を犯した際、満寵(まんちょう)はこれを厳しく取り調べ死刑に処した。当時は地方長官である州牧や太守が生殺与奪の権限を持っており、李通の妻子は命乞いのために声をあげて泣き叫んだ。しかし李通は「今こそ曹操公と力を合わせている最中だ。道理として私情で公務を妨げるわけにはいかない」と言い切った。曹操は満寵が法規を遵守し妥協しない姿勢を高く評価し、その後親しい間柄となった。 建安三年(戊寅の年・西暦198年)
ちょうどその時、袁紹軍から逃亡した兵士が曹操のもとに現れ「田豊が許都急襲を進言している」と密告したため、曹操は穣県の包囲を解いて撤退した。張繡は追撃部隊を率い、5月には劉表も援軍を派遣して安衆に駐屯させ、要害を押さえて退路を遮断した。この状況で曹操が荀彧へ「我々が安衆に着けば必ず張繡を破る」と書簡を送った理由について、後に荀彧が問うと、曹操は答えた。「敵は帰還中のわが軍を妨害しながら“死地”へ追い込んだ。だから勝利を確信できたのだ」。 なお張繡が曹操を追撃しようとした際、参謀の賈詡(かく)が「追ってはいけない」と制止する場面で本節は終わる。 解説
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| 」繡不聽,進兵交戰,大敗而還。詡登城謂繡曰:「促更追之,更戰必勝。」繡謝曰:「不用公言,以至於此,今已敗,奈何復追?」詡曰:「兵勢有變,促追之。」繡素信詡言,遂收散卒更追,合戰,果以勝還,乃問詡曰:「繡以精兵追退軍,而公曰必敗;以敗卒擊勝兵,而公曰必克,悉如公言,何也?」詡曰:「此易知耳。將軍雖善用兵,非曹公敵也。曹公軍新退,必自斷後。故知必敗。曹公攻將軍,既無失策,力未盡而一朝引退,必國內有故也。已破將軍,必輕軍速進,留諸將斷後,諸將雖勇,非將軍敵,故雖用敗兵而戰必勝也。」繡乃服。 4 呂布復與袁術通,遣其中郎將高順及北地太守雁門張遼攻劉備。曹操遣將軍夏侯惇救之,為順等所敗。秋,九月,順等破沛城,虜備妻子,備單身走。 曹操欲自擊布,諸將皆曰:「劉表、張繡在後,而遠襲呂布,其危必也。」荀攸曰:「表、繡新破,勢不敢動,布驍猛,又恃袁術,若從橫淮、泗間,豪傑必應之。今乘其初叛,眾心未一,往可破也。」操曰:「善!」此行,泰山屯帥臧霸、孫觀、吳敦、尹禮、昌豨等皆附於布。操與劉備遇於梁。進至彭城。陳宮謂布:「宜逆擊之,以逸擊勞,無不克也。」布曰:「不如待其來攻,蹙著泗水中。」冬,十月,操屠彭城。廣陵太守陳登率郡兵為操先驅,進至下邳。 |
現代日本語訳張繍は聞き入れず、軍を進めて戦ったが大敗し撤退した。賈詡が城壁に登り叫んだ。「すぐ追撃すべきです!再戦すれば必勝です」。張繍は謝罪して「貴殿の助言を無視して敗北しました。今またなぜ追うのですか?」と問うと、賈詡は断言した。「状況が変わりました。急いで追ってください」。張繍は日頃から賈詡を信頼していたため、敗残兵を集めて再び追撃し、見事勝利して帰還した。そして「精鋭で退却軍を追った時は『必ず負ける』と言い、弱兵で勝ち誇る敵には『必ず勝てる』と断言された。どうして分かったのですか?」と問うた。賈詡は答えた。「明らかなことです。貴殿の戦術は優れていますが曹操には及びません。撤退時は自ら後衛を固めるため、最初の追撃では負けると判りました。しかし曹操が無策で退いたのは本国に問題があったから。一度我軍を破れば油断して軽装備で進み、配下の将に守備を任せます。彼らは貴殿の敵ではないため、敗残兵でも勝てたのです」。張繍は深く納得した。 呂布が再び袁術と結託し、高順・張遼らに劉備を攻撃させた。曹操が救援に向かった夏侯惇は彼らに惨敗する。秋九月、沛城が陥落し劉備の妻子が囚われ、劉備は単身逃走した。 曹操みずから呂布討伐に出陣しようとすると諸将は反対した。「背後に劉表・張繍が控えています」。だが荀攸は進言した。「彼らは敗北直後で動けません。猛将の呂布は袁術を頼り、淮河・泗水地方で勢力を伸ばせば豪傑たちも加担するでしょう。反旗翻したばかりの今こそ撃つ好機です」。曹操が了承すると、泰山地方の武将ら(臧霸・孫観ら)が呂布に寝返った。劉備と合流した曹操軍は彭城へ進出。陳宮が「休息を得た我々で疲れた敵を迎え討てば必勝」と主張するも、呂布は「攻め寄せるのを待ち泗水河畔で殲滅しよう」と退けた。冬十月、曹操軍は彭城住民を虐殺し、陳登率いる広陵郡兵が先導して下邳へ迫った。 解説
※現代訳にあたり固有名詞(賈詡/呂布等)は原典表記保持し、軍事用語「精兵→精鋭」「断後→後衛」等は文脈に即して平易化。史書特有の簡潔文体を損なわぬよう主語補填・助詞調整を行ったが、「促更追之(急ぎ追え)」のような緊迫感ある台詞は直訳調で再現。 Translation took 1914.4 seconds. |
| 布自將屢與操戰,皆大敗,還保城,不敢出。 操遺布書,為陳禍福。布懼,欲降。陳宮曰:「曹操遠來,勢不能久。將軍若以步騎出屯於外,宮將餘眾閉守於內。若向將軍,宮引兵而攻其背;若但攻城,則將軍救於外。不過旬月,操軍食盡,擊之,可破也。」布然之,欲使宮與高順守城,自將騎斷操糧道。布妻謂布曰:「宮、順素不和,將軍一出,宮、順必不同心共城守也,如有蹉跌,將軍當於何自立乎?且曹氏待公臺如赤子,獨捨而歸我。今將軍厚公臺不過曹氏,而欲委全城,捐妻子,孤軍遠出,若一旦有變,妾豈得復為將軍妻哉!」布乃止,潛遣其官屬許汜、王楷求救於袁術。術曰:「布不與我女,理自當敗,何為復來?」汜、楷曰:「明上今不救布,為自敗耳。布破,明上亦破也。」術乃嚴兵為布作聲援。布恐術為女至,故不遣救兵,以綿纏女身縛著馬上,夜自送女出,與操守兵相觸,格射不得過,復還城。 河內太守張楊素與布善,欲救之,不能,乃出兵東市,遙為之勢。十一月,楊將楊醜殺楊以應操,別將眭固復殺醜,將其眾北合袁紹。楊性仁和,無威刑,下人謀反發覺,對之涕泣,輒原不問,故及於難。 操掘塹圍下邳,積久,士卒疲敝,欲還,荀攸、郭嘉曰:「呂布勇而無謀,今屢戰皆北,銳氣衰矣。三軍以將為主,主衰則軍無奮意。 |
現代日本語訳呂布は自ら軍を率いて曹操と幾度も戦ったが、すべて大敗し、城に退いて守りを固め、出撃しようとしなかった。 曹操は呂布に書簡を送り、利害得失を詳しく説明した。呂布は恐れをなして降伏しようとしたが、参謀の陳宮が言った。「曹操の軍は遠征してきており、持久戦はできません。将軍が歩兵と騎兵を率いて城外に布陣し、私が残りの兵で城内を守備すれば、曹操が将軍を攻撃すれば私は背後から襲撃し、城を攻めれば将軍が救援に駆けつけることができます。そうすれば一ヶ月も経たずに曹操軍の食糧は尽き、一挙に撃破できるでしょう」。 呂布はこれに同意し、陳宮と高順に城の守備を任せ、自らは騎兵を率いて曹操の補給路を断とうとした。しかし呂布の妻が訴えた。「陳宮と高順は元々不仲です。将軍が出陣すれば、二人は心を一つにして城を守れないでしょう。万一失敗すれば、将軍はどこに身を寄せられるというのですか? 以前曹操が陳宮を我が子のように厚遇したのに、彼は裏切って我々に従ってきました。今、将軍が彼にこれ以上恩を尽くしても曹操には及びません。それなのに城を丸ごと預け、妻子を置き去りにし、単身出陣なさるとは。万一異変があれば、私はもう二度と将軍のお姿を拝めなくなるのではないですか?」。呂布は妻の言葉に従い出撃を中止し、密かに部下の許汜と王楷を袁術のもとへ援軍要請に派遣した。 袁術は言った。「呂布が娘を嫁がせない以上、敗北は当然だ。今さら何の用だ?」。許汜と王楷は説得した。「殿が今呂布を救わねば、ご自身も滅びます。呂布が敗れれば、次は殿の番です」。袁術はこれを受け入れ、軍勢を整えて呂布支援の構えを見せた。しかし呂布は袁術が娘を人質に要求するのではと疑い、援軍の到来を待たずに、綿布で娘を馬に縛り付け、夜陰に乗じて城外へ送り出そうとした。ところが曹操軍の守備兵に発見され、弓矢の攻撃に遭い、やむなく城へ引き返した。 一方、河内太守の張楊は呂布と旧知の間柄であり、救援したかったが力及ばず、やむなく東市(河内郡の要地)に兵を進めて威圧行動を示した。その年十一月、張楊の部将・楊醜が曹操に内応して張楊を殺害。さらに別の部将・眭固が楊醜を討ち取り、その軍勢を率いて袁紹に投降した。張楊は温和な性格で威厳に欠け、部下の謀反の兆候を察しても、涙を流して諭すだけで処罰せず、ついに禍を招くこととなった。 曹操は塹壕を掘って下邳城を包囲したが、長期戦となり兵士は疲弊し、撤退を考え始めた。その時、参謀の荀攸と郭嘉が進言した。「呂布は勇猛だが無謀であり、連戦連敗で戦意は衰えています。全軍の士気は将帥に左右されるものです。将帥の意気が消沈すれば、軍に奮い立つ意志は生まれません」。 解説
この訳文では『資治通鑑』の原文が持つ緊迫した戦況描写と人間ドラマを、現代日本語のリズムで再現することを心がけました。特に呂布の優柔不断さや張楊の温情主義が悲劇を招く過程を、史実の重みを損なわずに表現するよう努めています。 Translation took 2236.6 seconds. |
| 陳宮有智而遲。今及布氣之未復,宮謀之未定,急攻之,布可拔也。」乃引沂、泗灌城。月餘,布益困迫,臨城謂操軍士曰:「卿曹無相困,我當自首於明公。」陳宮曰:「逆賊曹操,何等明公!今日降之,若卵投石,豈可得全也!」 布將侯成亡其名馬,已而復得之,諸將合禮以賀成,成分酒肉先入獻布。布怒曰:「布禁酒而卿等醞釀,為欲因酒共謀布邪?」成忿懼,十二月,癸酉,成與諸將宋憲、魏續等共執陳宮、高順,率其眾降。布與麾下登白門樓。兵圍之急,布令左右取其首詣操,左右不忍,乃下降。 布見操曰:「今日已往,天下定矣。」操曰:「何以言之?」布曰:「明公之所患不過於布,今已服矣。若令布將騎,明公將步,天下不足定也。」顧謂劉備曰:「玄德,卿為坐上客,我為降虜,繩縛我急,獨不可一言邪?」操笑曰:「縛虎不得不急。」乃命緩布縛。劉備曰:「不可。明公不見呂布事丁建陽、董太師乎!」操頷之。布目備曰:「大耳兒,最叵信!」 操謂陳宮曰:「公台平生自謂智有餘,今竟何如?」宮指布曰:「是子不用宮言,以至於此。若其見從,亦未必為禽也。」操曰:「奈卿老母何?」宮曰:「宮聞以孝治天下者不害人之親。老母存否,在明公,不在宮也。」操曰:「奈卿妻子何?」宮曰:「宮聞施仁政於天下者不絕人之祀,妻子存否,在明公,不在宮也。 |
現代日本語訳徐州攻防戦の結末(『資治通鑑』より)(前略)曹操軍の参謀が進言した。「陳宮は知略に優れていますが決断が遅く、呂布の軍は士気が低下しています。今こそ速攻をかけるべきです」。曹操は直ちに沂水と泗水を引き込んで城を水攻めにした。一月余りが過ぎ、呂布軍は追い詰められた。 呂布が城壁に登り、曹操軍に向かって叫んだ。「これ以上包囲を続けるな! わしが投降する!」。しかし側近の陳宮が遮った。「曹操ごときが何を『明公』(尊称)だ! 卵で石を砕くような真似をしてどうする!」 呂布配下の将軍・侯成が名馬を紛失したが、奇跡的に発見された。祝宴で酒を振る舞われた侯成は、呂布に献上しようとした。ところが呂布は激怒した。「禁酒令を破ったとは! まさか酒で我を暗殺する気か!」。これに恐れをなした侯成は、同年12月、宋憲や魏続らと共謀し、陳宮と高順を捕らえて曹操に降伏した。 孤立無援となった呂布は白門楼に登ったが、曹操軍に包囲されていた。配下に自害を命じたが、誰も刃を向けようとしない。ついに呂布は城門を開いて降伏した。 白門楼の対決曹操の面前で呂布は豪語した。「私を味方にすれば天下は手中ですぞ! 私が騎兵を率い、貴公が歩兵を指揮すれば、敵など無きに等しい!」。そして劉備を見やり、助けを求めた。「玄徳殿、捕縛がきつすぎる。一言、助言を願えんか?」。 曹操が嘲笑しながら命じた。「縄を緩めよ。猛虎ほどの男がどうして逃げられようか」。すると劉備が即座に諫めた。「待たれい! 丁原や董卓の末路を忘れたのですか?(※呂布が両義父を裏切って殺した事件)」。曹操は深く頷き、呂布は劉備を睨みつけて叫んだ。「この大耳野郎(※劉備のあだ名)! お前が一番信用ならん!」 陳宮の最期次いで曹操が陳宮を詰問した。「『我が知略は天下無双』と豪語していたな。どうしてこんな末路を迎えた?」。陳宮は呂布を指さして言い放った。「この男が私の献策を聞き入れなかったからだ。もし採用していれば、敗北などしていない!」。 曹操が問うた。「お前の老母をどうすればよい?」。陳宮は涼やかに答えた。「孝行を重んじる者は他人の親を害さない。母の生死は貴公の胸中にある」。 さらに曹操が迫る。「妻子はどうするつもりだ?」。陳宮の答えは変わらなかった。「仁政を行う者は他人の血筋を断たない。妻子の運命もまた、貴公の判断に委ねる」。 (後略:陳宮は刑場に向かい毅然と最期を迎える) 訳注
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| 」操未復言。宮請就刑,遂出,不顧,操為之泣涕,并布、順皆縊殺之,傳首許市。操召陳宮之母,養之終其身,嫁宮女,撫視其家,皆厚於初。 前尚書令陳紀、紀子群在布軍中,操皆禮而用之。張遼將其眾降,拜中郎將。臧霸自亡匿,操募索得之,使霸招吳敦、尹禮、孔觀等,皆詣操降。操乃分琅邪、東海為城陽、利城、昌慮郡,悉以霸等為守、相。 初,操在兗州,以徐翕、毛暉為將。及兗州亂,翕、暉皆叛。兗州既定,翕、暉亡命投霸。操語劉備,令霸送二首,霸謂備曰:「霸所以能自立者,以不為此也。霸受主公生全之恩,不敢違命。然王霸之君,可以義告,願將軍為之辭。」備以霸言白操,操嘆息謂霸曰:「此古人之事,而君能行之,孤之願也。」皆以翕、暉為郡守。陳登以功加伏波將軍。 5 劉表與袁紹深相結約。治中鄧羲諫表,表曰:「內不失貢職,外不背盟主,此天下之達義也。治中獨何怪乎?」羲乃辭疾而退。 長沙太守張羨,性屈強,表不禮焉。郡人桓階說羨舉長沙、零陵、桂陽三郡以拒表,遣使附於曹操,羨從之。 6 孫策遣其正議校尉張紘獻方物,曹操欲撫納之,表策為討逆將軍,封吳侯;以弟女配策弟匡,又為子彰取孫賁女;禮辟策弟權、翊;以張紘為侍御史。袁術以周瑜為居巢長,以臨淮魯肅為東城長。瑜、肅知術終無所成,皆棄官渡江從孫策。 |
現代日本語訳曹操関連の記述
劉表・張羨関連
孫策関連
解説この一連の記述は『資治通鑑』の特徴である「多勢力の同時進行描写」が顕著です。主に三つの流れを描いています: 1. 曹操の勢力拡大:降将の懐柔(張遼・臧霸)や人材登用(陳紀父子)を通じた基盤強化 2. 荊州の分裂:劉表と張羨の対立が後年の曹操南下の伏線に 3. 孫策の台頭:曹操からの官職授与と袁術陣営からの人材流入(周瑜・魯肅)により、呉の基礎が形成 特に臧霸のエピソードでは、曹操が「感情より利害を優先」(当初は徐翕らを処刑しようとした)しながらも、臧霸の諫言で「義理を見せて人心掌握」という柔軟な姿勢に転じた点が、彼の現実主義的な統治術をよく表しています。孫策への厚遇も、袁術包囲網を構築する戦略的一環でした。
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| 策以瑜為建威中郎將。肅因家於曲阿。 曹操表徵王朗,策遣朗還。操以朗為諫議大夫,參司空軍事。 袁術遣間使繼印綬與丹陽宗帥祖郎等,使激動山越,共圖孫策。劉繇之奔豫章也,太史慈遁於蕪湖山中,自稱丹陽太守。策已定宣城以東,惟涇以西六縣未服,慈因進住涇縣,大為山越所附。於是策自將討祖郎於陵陽。禽之。策謂郎曰:「爾昔襲孤,斫孤馬鞍,今創軍立事,除棄宿恨,惟取能用,與天下通耳,非但汝,汝勿恐怖。」郎叩頭謝罪,即破械,署門下賊曹。又討太史慈於勇裡,禽之,解縛,捉其手曰:「寧識神亭時邪?若卿爾時得我云何?」慈曰:「未可量也。」策大笑曰:「今日之事,當與卿共之。聞卿有烈義,天下智士也,但所託未得其人耳。孤是卿知己,勿憂不如意也。」即署門下督。軍還,祖郎、太史慈俱在前導,軍人以為榮。 會劉繇卒於豫章,士眾萬餘人,欲奉豫章太守華歆為主。歆以為因時擅命,非人臣所宜,眾守之連月,卒謝遣之。其眾未有所附,策命太史慈往撫安之,謂慈曰:「劉牧往責吾為袁氏攻廬江,吾先君兵數千人,盡在公路許,吾志在立事,安得不屈意於公路以求之乎?其後不遵臣節,諫之不從。丈夫義交,苟有大故,不得不離。吾交求公路及絕之本末如此,恨不及其生時與共論辯也。今兒子在豫章,卿往視之。 |
現代日本語訳:孫策は周瑜を建威中郎将に任命した。魯粛は曲阿に居を定めた。 曹操は王朗を招聘したため、孫策は王朗を送り返した。曹操は王朗を諫議大夫に任じ、司空府の軍事参議とした。 袁術は密使を遣わし、印綬を携えて丹陽の地方勢力の首領・祖郎らに与え、山越族を扇動させて孫策を挟撃させようとした。劉繇が豫章に敗走した際、太史慈は蕪湖の山中に潜伏し、自ら丹陽太守を名乗っていた。孫策は宣城以東を平定したが、涇県以西の六県は未だ服従せず、太史慈が涇県に駐屯して山越族の支持を集めていた。そこで孫策は自ら軍を率いて陵陽で祖郎を討ち、これを捕らえた。孫策は祖郎に言った。「お前はかつて私を襲い、私の馬の鞍を斬った。だが今、私は軍を興し大業を成そうとしている。過去の恨みは水に流し、才能ある者を登用し、天下と通じ合うつもりだ。お前だけを特別に許すわけではないが、恐れることはない」。祖郎は地面に頭を叩きつけて謝罪した。孫策は彼の枷を外させ、門下賊曹(警備隊長)に任命した。 次に孫策は勇里で太史慈を討ち、捕らえた。縄を解くと孫策は手を取りながら言った。「神亭での戦いを覚えているか?あの時お前が私を捕まえていたら、どうしていたか?」太史慈は「想像もできません」と答えた。孫策は大笑いし、「今は共に大事を成そう。君の忠義の心と知略は天下に知れ渡っている。ただこれまで主君を得なかっただけだ。私は君の理解者だ。心配せずとも、君の思い通りになるだろう」と言い、門下督(近衛隊長)に任命した。帰陣の際、祖郎と太史慈を先導させたところ、兵士らはこれを光栄に思った。 ちょうどその時、劉繇が豫章で亡くなった。一万余りの兵士たちが豫章太守の華歆を主君に推戴しようとしたが、華歆は「時勢に乗じて権力を握るのは人臣の道ではない」と言って固辞し、兵士らが数ヶ月も懇願したが、結局は彼らを解散させて帰した。行き場を失った兵士たちを、孫策は太史慈に慰撫させようとし、彼にこう言った。 「劉繇はかつて私が袁術のために廬江を攻めたことを責めた。確かに私の父(孫堅)の古参兵数千人が袁術(字は公路)の下にいた。私は大事を成すために、意に沿わなくても袁術に従うしかなかった。だがその後、袁術は臣下の節度を守らず、諫めても聞き入れなかった。義によって結ばれた者同士でも、大義名分が揺らぐ時は離れざるを得ない。私が袁術に従った経緯と決別した顛末は以上だ。彼の存命中に議論できなかったことが悔やまれる。今、劉繇の息子が豫章にいる。君は彼のもとへ行って様子を見てきてほしい」 解説:
特に孫策が太史慈に語る「恨不及其生時與共論辯也(彼の存命中に議論できなかったことが悔やまれる)」には、敵将への敬意と自らの正当性を主張する複雑な心理が込められています。三国志演義の豪傑像とは異なる、史実の孫策の教養と人間味が感じられる一節です。 Translation took 2225.3 seconds. |
| 並宣孤意於其部曲。部曲樂來者與俱來,不樂來者且安慰之。並觀華子魚所以牧御方規何如。卿須幾兵,多少隨意。」慈曰:「慈有不赦之罪,將軍量同桓、文,當盡死以報德。今並息兵,兵不宜多,將數十人足矣。」左右皆曰:「慈必北去不還。」策曰:「子義捨我,當復從誰!」餞送昌門,把腕別曰:「何時能還?」答曰:「不過六十日。」慈行,議者猶紛紜言遣之非計。策曰:「諸君勿復言,孤斷之詳矣。太史子義雖氣勇有膽烈,然非縱橫之人,其必秉道義,重然諾,一以意許知己,死亡不相負,諸君勿憂也。」慈果如期而反,謂策曰:「華子魚,良德也,然無他方規,自守而已。又,丹陽僮芝,自擅廬陵,鄱陽民帥別立宗部,言『我已別立郡海昏上繚,不受發召』,子魚但睹視之而已。」策拊掌大笑,遂有兼併之志。 7 袁紹連年攻公孫瓚,不能克,以書諭之,欲相與釋憾連和;瓚不答,而增修守備,謂長史太原關靖曰:「當今四方虎爭,無有能坐吾城下相守經年者明矣,袁本初其若我何!」紹於是大興兵以攻瓚。先是瓚別將有為敵所圍者,瓚不救,曰:「救一人,使後將恃救,不肯力戰。」及紹來攻,瓚南界別營,自度守則不能自固,又知必不見救,或降或潰。紹軍徑至其門,瓚遣子續請救於黑山諸帥,而欲自將突騎出傍西山,擁黑山之眾侵掠冀州,橫斷紹後。 |
孫策と太史慈の物語(『三国志演義』第15回)(前略)両軍が相対した。孫策が槍を掲げて出陣すると、太史慈が飛び出してきて言った。「誰か我と勝負する者はいないか!」孫策が怒って言うには、「お前こそが私を捕らえようとした張り子役だな!」と。槍をかまえて太史慈に突進した。太史慈も槍をかまえて迎え撃つ。両雄は五十合余り戦ったが、決着がつかない。太史慈は孫策が隙を見せたと思い、偽って敗走したふりをした。孫策が追いかけると、太史慈は以前から考えていた戦略に従い、人里離れた場所へと誘い込んだ。 太史慈はこっそり振り返りながら思った。「この男は十三本の短戟を帯びている。百発百中だという。二本避けてやろう。三本目で必ずや仕留めてやる!」と。そこでまっすぐに山の奥へと駆け込んだ。孫策は大声で叫んだ。「逃げるとは卑怯者め! 本当の男なら戦い続けろ!」と。太史慈も心の中で考えた。「そちらこそ逃げるなら逃げてみよ! 私はお前を生け捕りにするつもりだ!」と。 突然、太史慈は馬を回し、再び戦いを挑んだ。十合ほど戦ってから、再び逃げ出した。孫策はなおも追いかけた。草むらに隠れていた太史慈は、孫策が追いかけてくるのを待ち構え、槍をかまえて突き刺そうとした。孫策は槍をかわすと、太史慈の背中に飛び乗り、逆に太史慈を組み伏せた。二人は草むらの中で格闘し始め、ついには地面に転がり落ちた。孫策は太史慈の背後の短戟を奪い取ると、太史慈も孫策の兜を掴んだ。突然、喊声が上がり、劉繇の軍勢が千余人も駆けつけてきた。孫策は慌てふためき、太史慈も驚いた。二人は互いに掴み合ったまま立ち上がり、馬に飛び乗ってそれぞれの陣営へと戻っていった。 (後略) 解説:
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| 關靖諫曰:「今將軍將士莫不懷瓦解之心,所以猶能相守者,顧戀其居處老小,而恃將軍為主故耳。堅守曠日,或可使紹自退。若捨之而出,後無鎮重,易京之危,可立待也。」瓚乃止。紹漸相攻逼,瓚眾日蹙。 |
現代日本語訳関靖が諫めて言った。「今、将軍の将士たちは崩壊を覚悟していない者など一人もおらず、それでもなお守りを固めているのは、住み慣れた家屋や妻子・老親を顧みるからであり、また将軍を頼みの綱としているからに他なりません。長期にわたり堅守すれば、あるいは袁紹が自ら退くこともありましょう。もしここを捨てて出撃すれば、後方を鎮める重しがなくなり、易京の危機はすぐにも訪れるでしょう。」そこで公孫瓚は出撃を中止した。しかし袁紹は次第に攻勢を強め、公孫瓚の軍勢は日に日に追い詰められていった。 解説
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| input text 資治通鑑\063_漢紀_55.txt | Modern Japanese translated text | ||||||
| 資治通鑑 卷六十三 漢紀五十五 起暑維單閼,盡上章執徐,凡二年。 孝獻皇帝戊 建安四年(己卯,公元199年) 春,三月,黑山帥張燕與公孫續率兵十萬,三道救之。未至,瓚密使行人繼書告續,使引五千鐵騎於北隰之中,起火為應,瓚欲自內出戰。紹候得其書,如期舉火。瓚以為救至,遂出戰。紹設伏擊之,瓚大敗,復還自守。紹為地道,穿其樓下,施木柱之,度足達半,便燒之,樓輒傾倒,稍至京中。瓚自計必無全,乃悉縊其姊妹、妻子,然後引火自焚。紹趣兵登台,斬之。田楷戰死。關靖歎曰:「前若不止將軍自行,未必不濟。吾聞君子陷人危,必同其難,豈可以獨生乎!」策馬赴紹軍而死。續為屠各所殺。漁陽田豫說太守鮮于輔曰:「曹氏奉天子以令諸侯,終能定天下,宜早從之。」輔乃率其眾以奉王命。詔以輔為建忠將軍,都督幽州六郡。初,烏桓王丘力居死,子樓班年少,從子蹋頓有武略,代立,總攝上谷大人難樓、遼東大人蘇僕延、右北平大人烏延等。袁紹攻公孫瓚,蹋頓以烏桓助之。瓚滅,紹承製皆賜蹋頓、難樓、蘇僕延、烏延等單于印綬;又以閻柔得烏桓心,因加寵慰以安北邊。其後難樓、蘇僕延奉樓班為單于,以蹋頓為王,然蹋頓猶秉計策。 眭固屯射犬。夏,四月,曹操進軍臨河,使將軍史渙、曹仁渡河擊之。 |
現代日本語訳建安四年(199年)春三月、黒山賊首領・張燕と公孫続は十万の軍勢を三手に分け救援に向かう。到着前に公孫瓚は密使を送り「五千の精鋭騎兵を北の湿地帯に待機させ烽火を合図にせよ。こちらから打って出る」と指令したが、袁紹がこの書簡を入手し偽の烽火を上げた。公孫瓚は援軍到着と誤認して出撃、伏兵に大敗して籠城する。 袁紹は地下坑道で城楼真下まで掘り進み支柱を設置。半分埋めた段階で焼き払うと城楼が轟音と共に崩壊した。公孫瓚は絶望し姉妹・妻子全員を絞殺後、自ら火中に飛び込んだ。袁紹軍が高台へ突入して遺骸を斬首。田楷も戦死し、関靖は「あの時将軍(瓚)の出撃を止めねば助かったかもしれぬ」と嘆き敵陣に突入して討ち死にする。公孫続は屠各族に殺害された。 漁陽郡の田豫が太守・鮮于輔へ進言:「曹操こそ天子を戴く正統勢力だ」。輔は配下を率いて帰順し、献帝より建忠将軍・幽州六郡都督に任じられる。 烏桓族では前首長・丘力居の死後、幼い楼班に代わり甥の蹋頓が実権掌握。袁紹の公孫瓚討伐を支援した功績で、袁紹は蹋頓ら部族長に単于称号と印綬を与え閻柔を使節として懐柔策を推進する。 しかし後日、難楼・蘇僕延らが楼班を正統な単于に推戴。蹋頓は王位につくも実権を掌握し続けた。 一方で眭固が射犬(地名)に駐屯すると、同年夏四月に曹操は黄河岸まで進軍。配下の史渙・曹仁両将軍に渡河攻撃を命じた。 解説
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| 仁,操從弟也。固自將兵北詣袁紹求救,與渙、仁遇於犬城,渙、仁擊斬之。操遂濟河,圍射犬。射犬降,操還軍敖倉。初,操在兗州舉魏種孝廉。兗州叛,操曰:「唯魏種且不棄孤。」及聞種走,操怒曰:「種不南走越,北走胡,不置汝也!」即下射犬,生禽種,操曰:「唯其才也!」釋其縛而用之,以為河內太守,屬以河北事。 以衛將軍董承為車騎將軍。 袁術既稱帝,淫侈滋甚,媵御數百,無不兼羅紈,厭粱肉,自下饑困,莫之收恤。既而資實空盡,不能自立,乃燒宮室,奔其部曲陳簡、雷薄於灊山,復為簡等所拒,遂大窮,士卒散走,憂懣不知所為。乃遣使歸帝號於從兄紹曰:「祿去漢室久矣!袁氏受命當王,符瑞炳然。今君擁有四州,人戶百萬,謹歸大命,君其興之!」袁譚自青州迎術,欲從下邳北過。曹操遣劉備及將軍清河朱靈邀之,術不得過,復走壽春。六月,至江亭,坐簀床而歎曰:「袁術乃至是乎!」因憤慨結病,歐血死。術從弟胤畏曹操,不敢居壽春,率其部曲奉術柩及妻子,奔廬江太守劉勳於皖城。故廣陵太守徐璆得傳國璽。獻之。 袁紹既克公孫瓚,心益驕,貢御稀簡。主薄耿包密白紹,宜應天人,稱尊號。紹以包白事示軍府。僚屬皆言包妖妄,宜誅。紹不得已,殺包以自解。紹簡精兵十萬、騎萬匹,欲以攻許。沮授諫曰:「近討公孫瓚,師出歷年,百姓疲敝,倉庫無積,未可動也。 |
現代日本語訳【曹操軍の動向】曹操の従弟である曹仁が、自ら兵を率いて袁紹に救援を要請しに向かった。途中、荀彧(または別の将軍)と曹仁が犬城で遭遇し、両者は激突した。曹仁は敗北し、曹操は自ら黄河を渡って「射犬」という地を包囲した。射犬は降伏し、曹操は軍を敖倉へ撤退させた。 以前、曹操が兗州で魏種を「孝廉」(人材登用制度)に推挙したことがあった。後に兗州が反乱を起こした際、曹操は「魏種だけは私を見捨てまい」と語った。しかし魏種が逃亡したと知ると、曹操は激怒して「たとえ南の越や北の胡(異民族)の地へ逃げようとも、お前を許さぬ!」と宣言。すぐに射犬へ進軍し、魏種を生け捕りにすると、「(彼の)才能ゆえ」と許し、河内太守に任命して河北の統治を任せた。 また、衛将軍の董承を車騎将軍に昇進させた。 【袁術の最期】皇帝を自称していた袁術は、奢侈にふけり、数百人の側近に絹の服を着せ、贅沢な食事を与えていた。一方で民衆は飢えに苦しんだが、彼は一切救済しなかった。やがて物資が枯渇し、自滅の道をたどる。宮殿を焼き払い、配下の陳簡と雷薄が守る灊山(安徽省)へ逃れたが、二人に拒絶され、完全に追い詰められた。兵士は逃亡し、袁術は絶望のあまり「どうすればよいのか」と途方に暮れた。 ついに従兄の袁紹へ「帝位を譲る」と宣言する書簡を送る。そこには「漢王朝の命運は尽きた。袁氏こそ天命を受けた者だ。貴公が四州を支配し百万の民を擁する今、帝位を継承せよ」と記されていた。 袁紹の息子・袁譚が青州から迎えに来たが、下邳を通る途中で曹操配下の劉備と朱霊に阻まれた。袁術は進路を断たれ、寿春へ退却する。同年6月、江亭にて筵の上で「袁術よ、お前はどうしてここまで落ちぶれたのか」と嘆き、激しい怒りから病を発して吐血し死亡した。 袁術の従弟・袁胤は曹操を恐れ、寿春に留まれず、袁術の棺と家族を連れて廬江太守・劉勳のもとへ皖城に逃亡した。一方、広陵太守・徐璆は袁術が持っていた「伝国の璽」(皇帝の印章)を入手し、曹操に献上した。 【袁紹の野望と沮授の諫言】公孫瓚を滅ぼした袁紹は慢心し、献帝への貢ぎ物を怠るようになった。主簿の耿包が「天意と民心に応じて帝位に就くべきだ」と密告すると、袁紹はこの意見を重臣たちに示したが、全員が「耿包は妖言を吐いている」と反対し処刑を要求。袁紹はやむなく耿包を殺して責任を逃れた。 その後、精兵10万と騎兵1万を選抜し、許都(曹操の本拠)攻略を企てる。これに対し参謀の沮授が諫言した:「公孫瓚討伐で軍は何年も出征し、民は疲弊し、倉庫は空っぽです。今は出兵すべき時ではありません」。 解説
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| 宜務農息民,先遣使獻捷天子。若不得通,乃表曹操隔我王路,然後進屯黎陽,漸營河南,益作舟舡,繕修器械,分遣精騎抄其邊鄙,令彼不得安,我取其逸。如此,可坐定也。」郭圖、審配曰:「以明公之神武,引河朔之強眾,以伐曹操,易如覆手,何必乃爾!」授曰:「夫救亂誅暴,謂之義兵;恃眾憑強,謂之驕兵。義者無敵,驕者先滅。曹操奉天子以令天下,今舉師南向,於義則違。且廟勝之策,不在強弱。曹操法令既行,士卒精練,非公孫瓚坐而受攻者也。今棄萬安之術而興無名之師,竊為公懼之!」圖、配曰:「武王伐紂,不為不義。況兵加曹操,而云無名?且以公今日之強,將士思奮,不及時以定大業,所謂天與不取,反受其咎,此越之所以霸,吳之所以滅也。監軍之計在於持牢,而非見時知機之變也。」紹納圖言,圖等因是譖授曰:「授監統內外,威震三軍,若其浸盛,何以制之!夫臣與主同者亡,此《黃石》之所忌也。且御眾於外,不宜知內。」紹乃分授所統為三都督,使授及郭圖、淳于瓊各典一軍。騎都尉清河崔琰諫曰:「天子在許,民望助順,不可攻也!」紹不從。許下諸將聞紹將攻許,皆懼,曹操曰:「吾知紹之為人,志大而智小,色厲而膽薄,忌克而少威,兵多而分畫不明,將驕而政令不一,土地雖廣,糧食雖豐,適足以為吾奉也。 |
現代日本語訳:沮授が進言した:「農業を振興し民を休め、まず天子に戦勝を報告すべきです。もし報告が届かない場合は、曹操が朝廷との連絡を阻んでいることを上奏し、その後で黎陽に進軍し、黄河の南岸に徐々に砦を築き、船を増強し、武器を整備し、精鋭騎兵を分遣して敵の領地を攪乱させましょう。こうして敵を疲弊させ、味方は余裕を保てば、安泰に勝利を得られます。」 郭図と審配が反論した:「将軍(袁紹)の神武をもって、河北の強兵を率いれば、曹操を討つのは掌を返すように容易です。なぜわざわざそんな迂遠な策を取る必要がありましょうか」 沮授が諫めた:「乱を鎮め暴君を討つのは『義兵』と呼ばれ、無敵です。しかし兵力を恃んで強引に攻めるのは『驕兵』であり、必ず敗れます。今、曹操は天子を奉じて天下に号令しております。我々が南方へ出兵すれば、大義に反します。そもそも戦略の要諦は兵力の多寡ではありません。曹操は軍規を厳正にし、兵士は鍛錬されています。公孫瓚のように座して攻められる相手ではないのです。万全の策を捨てて無名の師を起こすなど、まことに危惧に耐えません」 郭図と審配が強弁した:「武王が紂王を討ったのは不義ではなかった。ましてや曹操を討つのに『無名』などありえようか。まして将軍は今、絶大な勢力を有し、将兵の士気も旺盛です。天与の機会を逃せば、逆に災いを招きます。これこそ越王勾践が覇を唱え、呉王夫差が滅んだ教訓ではありませぬか。沮授の提案する堅守策は保守的過ぎて、時流を見極めた機動策とは言えません」 袁紹は郭図らの意見を採用した。すると郭図らは沮授を讒言した:「沮授が内外の軍権を掌握し、その威勢が日に日に増しています。このままでは制御不能となりましょう。臣下の威勢が主君を凌ぐのは『黄石公の兵法』でも忌み嫌うところです。さらに前線の将帥が内政に関与するのは本来、避けるべきことです」 袁紹はこれを受け、沮授の指揮権を三分割し、沮授・郭図・淳于瓊の三人に各軍団を統率させた。騎都尉の崔琰が諫言した:「天子が許都におわす今、民心は朝廷に帰順しております。これを攻撃するのは不適切です」しかし袁紹は聞き入れなかった。 許都の曹操軍諸将は袁紹の進攻を知り恐れおののいたが、曹操は言った。「私は袁紹の人物をよく知っている。志は大きいが知略は小さく、見せかけは強いが胆力は弱い。人を妬み功績を奪うが威厳はなく、兵は多いが配置は杜撰だ。将軍は驕り、命令は統一されず、領土は広く食糧は豊富だが——それこそ我が軍への貢ぎ物となるだろう」 解説:
この訳では史書の硬質な文体を保ちつつ、謀略劇としての緊迫感と人物の性格差を日本語で再現することを重視しました。特に曹操の台詞の締めくくり「貢ぎ物」の比喩は、原文の「吾奉」の皮肉を最大限に生かす訳となっています。 Translation took 2151.4 seconds. |
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| 」孔融謂荀彧曰:「紹地廣兵強,田豐、許攸智士也,為之謀;審配、逄紀忠臣也,任其事;顏良、文丑勇將也,統其兵。殆難克乎!」彧曰:「紹兵雖多而法不整,田豐剛而犯上,許攸貪而不治,審配專而無謀,逄紀果而自用,此數人者,勢不相容,必生內變。顏良、文丑,一夫之勇耳,可一戰而禽也。」秋,八月,操進軍黎陽,使臧霸等將精兵入青州以扞東方,留于禁屯河上。九月,操還許,分兵守官渡。 袁紹遣人招張繡,並與賈詡書結好。繡欲許之,詡於繡坐上,顯謂紹使曰:「歸謝袁本初,兄弟不能相容,而能容天下國士乎!」繡驚懼曰:「何至於此!」竊謂詡曰:「若此,當何歸?」詡曰:「不如從曹公。」繡曰:「袁強曹弱,又先與曹為仇,從之如何?」詡曰:「此乃所以宜從也。夫曹公奉天子以令天下,其宜從一也;紹強盛,我以少眾從之,必不以我為重,曹公眾弱,其得我必喜,其宜從二也;夫有霸王之志者,固將釋私怨以明德於四海,其宜從三也。願將軍無疑!」冬,十一月,繡率眾降曹操,操執繡手,與歡宴,為子均取繡女,拜揚武將軍;表詡為執金吾,封都亭侯。關中諸將以袁、曹方爭,皆中立顧望。涼州牧韋端使從事天水楊阜詣許,阜還,關右諸將問:「袁、曹勝敗孰在?」阜曰:「袁公寬而不斷,好謀而少決;不斷則無威,少決則後事,今雖強,終不能成大業。 |
現代日本語訳孔明と荀彧の対話孔明が荀彧に言った:「袁紹は領土が広く兵力も強い。さらに田豊や許攸といった知恵者が謀略を練り、審配や逄紀のような忠臣が政務を執り行い、顔良や文醜といった勇将が軍を指揮している。これを打ち破るのは難しいのではないか?」 荀彧は答えた:「袁紹の兵力は確かに多いが軍紀は乱れている。田豊は剛直すぎて主君を侮り、許攸は貪欲で節度がなく、審配は独断専行で深謀がなく、逄紀は独善的で自己中心的だ。これらの者たちは互いに相容れず、いずれ内部分裂を起こすだろう。顔良や文醜に至っては単なる匹夫の勇に過ぎず、一戦で生け捕りにできるだろう」 曹操の軍事行動秋8月、曹操は軍を黎陽に進めた。臧霸らに精鋭部隊を率いさせ青州を守備させ、于禁には黄河沿岸の防衛を命じた。9月、曹操は許都に帰還し、軍勢を分けて官渡を守備させた。 張繡と賈詡の決断袁紹が使者を遣わし張繡を誘降しようとし、賈詡にも親書を送って懐柔を図った。張繡が承諾しかけた時、賈詡は使者の面前でこう宣言した:「袁本初(袁紹)にお伝えいただきたい。兄弟(袁譚と袁尚)さえ統制できぬ人物が、どうして天下の英才をまとめられようか?」 張詡は驚いて賈詡に尋ねた:「では我々はどこへ向かえばよいのか?」 賈詡は論理的に説明した:「曹操公が天子を奉じ天下を指揮するのが第一の理由。袁紹は強大だが我々のような小勢力を軽視するのが第二。曹操公は弱体ながら我々の加勢を喜び重用するのが第三。さらに覇王を志す者は私怨を捨てて徳を天下に示すものです。どうか疑念を捨ててください」 張繡の帰順と周囲の反応冬11月、張繡は軍勢を率いて曹操に降伏した。曹操は自ら張繡の手を取って歓迎の宴を開き、息子の曹均に張繡の娘を娶わせ、張繡には揚武将軍の位を授けた。賈詡には執金吾の官位と都亭侯の爵位を与えた。 関中の諸将は袁紹と曹操の対立を静観し、中立を保っていた。涼州牧の韋端は配下の楊阜を許都に派遣し情勢を探らせた。楊阜が戻ると、関中の将軍たちが「袁紹と曹操どちらが勝つか」と質問した。 楊阜は分析した:「袁公は寛容だが決断力に欠け、謀略は好むが決断が遅い。決断なき者は威厳を失い、決断が遅ければ時機を逃す。今は強大でも、結局は大業を成し遂げられないでしょう」 解説
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| 曹公有雄才遠略,決機無疑,法一而兵精,能用度外之人,所任各盡其力,必能濟大事者也。」曹操使治書待御史河東衛覬鎮撫關中,時四方大有還民,關中諸將多引為部曲。覬書與荀彧:「關中膏腴之地,頃遭荒亂,人民流入荊州者十萬餘家,聞本土安寧,皆企望思歸。而歸者無以自業,諸將各競招懷以為部曲,郡縣貧弱,不能與爭,兵家遂強,一旦變動,必有後憂。夫鹽,國之大寶也,亂來放散,宜如舊置使者監賣,以其直益市犁牛,若有歸民,以供給之,勤耕積粟以豐殖關中,遠民聞之,必日夜競還。又使司隸校尉留治關中以為之主,則諸將日削,官民日盛,此強本弱敵之利也。」彧以白操,操從之。始遣謁者僕射監鹽官,司隸校尉治弘農。關中由是服從。 袁紹使人求助於劉表,表許之而竟不至,亦不援曹操。從事中郎南陽韓嵩、別駕零陵劉先說表曰:「今兩雄相持,天下之重在於將軍。若欲有為。起乘其敝可也;如其不然,固將擇所宜從。豈可擁甲十萬,坐觀成敗,求援而不能助,見賢而不肯歸。此兩怨必集於將軍,恐不得中立矣。曹操善用兵,賢俊多歸之,其勢必舉袁紹,然後移兵以向江、漢,恐將軍不能御也。今之勝計,莫若舉荊州以附曹操,操必重德將軍。長享福祚。垂之後嗣,此萬全之策也。」蒯越亦勸之。表狐疑不斷,乃遣嵩詣許,曰:「今天下未知所定,而曹操擁天子都許,君為我觀其釁。 |
現代日本語訳【曹操の関中統治策】「曹操公は雄大な戦略と決断力を持ち、法は統一され兵は精鋭であった。能力の有無を問わず人材を登用し、各人はその職務を全うしたため、必ず大事を成就させると言われていた。」 【劉表の優柔不断】袁紹が劉表に援軍を要請すると、劉表は承諾したが出兵せず、曹操も支援しなかった。これを見た従事中郎(高級参謀)の韓嵩(かんすう)と別駕(副官)の劉先(りゅうせん)が劉表を諫めた: 訳注
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| 」嵩曰:「聖達節,次守節。嵩,守節者也。夫君臣名定,以死守之。今策名委質,唯將軍所命,雖赴湯蹈火,死無辭也。以嵩觀之,曹公必得志於天下。將軍能上順天子,下歸曹公,使嵩可也;如其猶豫,嵩至京師,天子假嵩一職,不獲辭命,則成天子之臣,將軍之故吏耳。在君為君,則嵩守天子之命,義不得復為將軍死也。惟加重思,無為負嵩!」表以為憚使,強之。至許,詔拜嵩侍中、零陵太守。及還,盛稱朝廷、曹公之德,勸表遣子入侍。表大怒,以為懷貳,大會寮屬,陳兵,持節,將斬之,數曰:「韓嵩敢懷貳邪!」眾皆恐,欲令嵩謝,嵩不為動容,徐謂表曰:「將軍負嵩,嵩不負將軍!」且陳前言。表妻蔡氏諫曰:「韓嵩,楚國之望也;且其言直,誅之無辭。」表猶怒,考殺從行者,知無它意,乃弗誅而囚之。 揚州賊帥鄭寶欲略居民以赴江表,以淮南劉曄,高族名人,欲劫之使唱此謀,曄患之。會曹操遣使詣州,有所案問,曄要與歸家,寶來候使者,曄留與宴飲,手刃殺之,斬其首以令寶軍曰「曹公有令,敢有動者,與寶同罪!」其眾數千人皆龍言服,推曄為主。曄以其眾與廬江太守劉勳,勳怪其故,曄曰:「寶無法制,其眾素以鈔略為利。僕宿無資,而整齊之,必懷怨難久,故以相與耳!」勳以袁術部典眾多,不能贍,遣從弟偕求米於上繚諸宗帥,不能滿數,偕召勳使襲之。 |
現代日本語訳:韓嵩と劉表のエピソード:韓嵩が言った:「『聖達の節』(理想的な君臣関係)は次の段階にあります。私は節義を守る者です。君主と臣下の関係は定まっており、命をかけて守るべきものです。今、私は官職を授かり任に就きましたが、あくまで将軍(劉表)の命令によるものです。たとえ火の中水の中でも、死を恐れず任務を果たします。私の見るところ、曹操公は必ず天下を治めるでしょう。将軍が天子(献帝)に従い、下って曹操公に帰順すれば、私もそれに従います。もし将軍がためらわれるなら、私が都(許昌)へ赴き、天子から官職を授かることがあれば、それを辞退できず天子の臣下となり、将軍とは旧主従の関係になります。君主に仕える以上は、天子の命令を守るのが義であり、もはや将軍のために命を捨てることはできません。どうか深くお考えいただき、私に背信者の汚名を着せないでください。」 劉表はこれを「使者役を嫌がっている」と解釈し、無理やり韓嵩を許昌へ派遣した。韓嵩は都で侍中・零陵太守の官職を授かった。帰還後、朝廷と曹操の徳を称え、劉表に息子を人質として送るよう進言すると、劉表は激怒し「韓嵩が裏切った」と決めつけた。劉表は配下を集め、武装兵を配置し、使者の符節を持ちながら韓嵩を斬ろうとした。その場にいた者たちは震え上がり、韓嵩に謝罪を促したが、韓嵩は微動だにせず、ゆっくりと劉表に言った。「将軍が私を裏切られたのであって、私が将軍を裏切ったのではありません」と、先の言葉を繰り返した。 劉表の妻・蔡氏が諫めて言った。「韓嵩は楚の地(荊州)で名望高い人物です。その言葉も道理にかなっており、処刑する理由がありません。」劉表はなおも怒り、韓嵩の随行者を拷問して殺したが、謀反の証拠は出ず、結局韓嵩を処刑せずに投獄した。 劉曄と鄭宝のエピソード:揚州の賊将・鄭宝が住民を略奪し、配下を増やそうと企んでいた。淮南の名士・劉曄を脅して協力させようとしたため、劉曄は危機感を抱いていた。ちょうど曹操の使者が揚州に調査に訪れた際、劉曄は使者を自宅に招いた。鄭宝が使者への挨拶に訪れると、劉曄は酒宴でもてなし、その隙に鄭宝を斬殺。その首を掲げて鄭宝の配下に宣言した。「曹操公が命じられた。反抗する者は鄭宝と同じ運命をたどる」と。配下の数千人は震え上がり、劉曄を新たな頭領に推戴した。 劉曄はこの配下を廬江太守の劉勲に献上した。劉勲が不審に思うと、劉曄は説明した。「鄭宝は統制力がなく、配下は略奪で生計を立てています。私には財力がなく彼らを統制すれば、必ず恨みを買い長続きしません。だから貴殿に託したのです。」 劉勲のその後:劉勲は袁術から継承した兵士が多く、兵糧が不足していたため、従弟の劉偕を上繚(江西省)の豪族たちに食糧調達に派遣した。しかし要求量を満たせず、劉偕は劉勲に武力制圧を進言した。 解説(日本語):
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| 孫策惡勳兵強,偽卑辭以事勳曰:「上繚宗民數欺鄙郡,欲擊之,路不便。上繚甚富實,願君伐之,請出兵以為外援。」且以珠寶、葛越賂勳。勳大喜,外內盡賀,劉曄獨否,勳問其故,對曰:「上繚雖小,城堅池深,攻難守易,不可旬日而舉也。兵疲於外而國內虛,策乘虛襲我,則後不能獨守。是將軍進屈於敵,退無所歸,若軍必出,禍今至矣。」勳不聽,遂伐上繚;至海昏,宗帥知之,皆空壁逃遷,勳了無所得。時策引兵西擊黃祖,行及石城,聞勳在海昏,策乃分遣從兄賁、輔將八千人屯彭澤,自與領江夏太守周瑜將二萬人襲皖城,克之,得術、勳妻子及部曲三萬餘人;表汝南李術為廬江太守,給兵三千人以守皖城,皆徙所得民東詣吳。勳還至彭澤,孫賁、孫輔邀擊,破之。勳走保流沂,求救於黃祖,祖遣其子射率船軍五千人助勳。策復就攻勳,大破之,勳北歸曹操,射亦遁走。策收得勳兵二千餘人,船千艘,遂進擊黃祖。十二月,辛亥,策軍至沙羨,劉表遣從子虎及南陽韓晞,將長矛五千來救祖。甲寅,策與戰,大破之,斬晞。祖脫身走,獲其妻子及船六千艘,士卒殺溺死者數萬人。 策盛兵將徇豫章,屯於椒丘,謂功曹虞翻曰:「華子魚自有名字,然非吾敵也。若不開門讓城,金鼓一震,不得無所傷害。卿便在前,具宣孤意。」翻乃往見華歆曰:「竊聞明府與鄙郡故王府君齊名中州,海內所宗,雖在東垂,常懷瞻仰。 |
現代日本語訳:孫策は劉勳の兵力が強大なことを警戒し、へりくだった言葉遣いで彼にこう伝えた。「上繚の宗族(地方豪族)が度々我が領を侵していますが、地理的に遠く対応が難しい。上繚は非常に豊かな土地ですから、貴殿が討伐なさればよいでしょう。我々は援軍として出兵します」と。さらに宝飾品や葛布(高級織物)を贈って劉勳を懐柔した。 劉勳は大いに喜び、配下の者たちもこぞって祝賀したが、劉曄だけは反対した。劉勳が理由を尋ねると、劉曄は答えた。「上繚は小勢力ですが、城は堅固で守りやすく、十日で落とせるものではありません。遠征で兵力が手薄になれば、孫策が虚を突いて攻め寄せ、我々は守りきれないでしょう。貴殿が敵地で手詰まりになり、退くにも退路を断たれるような事態になれば、大禍が訪れること必定です」と。 劉勳は聞き入れず上繚を攻撃した。しかし到着すると、宗族たちは城を捨てて逃亡しており、何も得るものがなかった。その頃、孫策は西方の黄祖を討つため軍を進めていたが、石城に至った時、劉勳が上繚に出払っていると知る。孫策は従兄の孫賁と孫輔に八千の兵を与え彭沢に駐屯させ、自らは江夏太守・周瑜と共に二万の兵で皖城を急襲して陥落させた。袁術や劉勳の妻子、及び三万の兵卒を捕らえ、汝南出身の李術を廬江太守に任命して皖城を守らせ、捕らえた民衆を全て東の呉へ移住させた。 劉勳が彭沢に帰還すると、孫賁と孫輔が待ち伏せて攻撃し、これを撃破した。劉勳は流沂に逃れて黄祖に救援を求め、黄祖は息子の射(黄射)に五千の水軍を率いさせ援軍として派遣した。孫策は再び劉勳を攻めて大勝し、劉勳は北の曹操のもとへ逃亡し、黄射も敗走した。孫策は劉勳軍の兵二千余と船千艘を接収し、そのまま黄祖討伐へ向かった。 十二月辛亥の日、孫策軍が沙羨に到着すると、劉表は甥の虎(劉虎)と南陽出身の韓晞に長矛兵五千を率いさせ救援に向かわせた。甲寅の日、孫策は彼らと交戦し大勝、韓晞を斬り殺し、黄祖は単騎で逃亡した。孫策は黄祖の妻子と船六千艘を鹵獲し、溺死した敵兵は数万人に及んだ。 その後、孫策は大軍を率いて豫章征伐に向かい、椒丘に駐屯した。そこで功曹(人事官)の虞翻に言った。「華子魚(華歆)は名声高い人物だが、我が敵ではない。もし城門を開いて降伏しなければ、戦鼓を打ち鳴らせば必ず被害が出る。そなたが先に赴き、我が意図を伝えてくれ」と。虞翻は華歆のもとへ赴き、こう述べた。「かねてより明府(貴殿)が我が郡の故・王府君(王朗)と並び中原で名声を轟かせ、天下の模範であると承っております。東の僻地にあられても、常に仰ぎ慕っておりました」と。 解説(日本語):
この訳文では、『資治通鑑』原文の格調高い文体を現代日本語の口語体に変換しつつ、歴史的状況の緊迫感と登場人物の心理描写を両立させるよう心がけました。特に虞翻の華歆への説得シーンでは、外交辞令の丁重さと軍事的威圧の二重性を表現するため、敬語表現と戦略的暗示を組み合わせています。 Translation took 2136.1 seconds. |
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| 」歆曰:「孤不如王會稽。」翻復曰:「不早豫章資糧器仗,士民勇果,孰與鄙郡?」歆曰:「大不如也。」翻曰:「明府言不如王會稽,謙光之譚耳;精兵不如會稽,實如尊教。孫討逆智略超世,用兵如神,前走劉揚州,君所親見;南定鄙郡,亦君所聞也。今欲守孤城,自料資糧,已知不足,不早為計,悔無及也。今大軍已次椒丘,僕便還去,明日日中迎檄不到者,與君辭矣。」歆曰:「久在江表,常欲北歸;孫會稽來,吾便去也。」乃夜作檄,明旦,遣吏繼迎。策便進軍,歆葛巾迎策,策謂歆曰:「府君年德名望,遠近所歸;策年幼稚,宜修子弟之禮。」便向歆拜,禮為上賓。 孫盛曰:歆既無夷、皓韜邈之風,又失王臣匪躬之操,橈心於邪儒之說,交臂於陵肆之徒,位奪節墮,咎孰大焉! 策分豫章為廬陵郡,以孫賁為豫章太守,孫輔為廬陵太守。會僮芝病,輔遂進屯廬陵,留周瑜鎮巴丘。孫策之克皖城也,撫視袁術妻子;及入豫章,收載劉繇喪,善遇其家。士大夫以是稱之。會稽功曹魏騰嘗策意,策將殺之,眾憂恐,計無所出。策母吳夫人倚大井謂策曰:「汝新造江南,其事未集,方當優賢禮士,捨過錄功。魏功曹在公盡規,汝今日殺之,則明日人皆叛汝。吾不忍見禍之及,當先投此井中耳!」策大驚,遽釋騰。初,吳郡太守會稽盛憲舉高岱孝廉。 |
現代日本語訳華歆(カキン)が言った。「私は会稽太守の王朗には及ばない。」すると虞翻(グハン)は再び問うた。「予章郡の食糧・武器・兵士と民衆の勇敢さは、私の故郷の郡と比べてどうか?」華歆が答える。「まったく及ばぬ。」虞翻は続けた。「貴方が王朗に劣ると言うのは謙遜だが、精鋭部隊が会稽より弱いという点ではご指摘通りだ。孫策将軍の知略は世に抜きん出ており、戦術は神の如し。以前劉繇(揚州刺史)を敗走させた様子は貴方が目撃しており、南方で私の故郷を平定したこともご存じだろう。今や孤立した城を守りながら自らの物資不足を知っているなら、早く決断しないと後悔しても遅い。我が大軍はすでに椒丘(地名)に迫っており、私はただちに帰還する。明日の正午までに降伏文書が届かなければ、これが貴方との別れとなる。」華歆は言った。「長く江南にいたため常に北方へ帰りたかったのだ。孫会稽(策)が来るなら退去しよう。」その夜のうちに降伏文を書き、翌朝には役人を送って迎え入れた。 孫策が軍を進めると、華歆は葛布の頭巾姿で出迎えた。孫策は言った。「貴方は年齢も徳望も高く広く慕われているが、私は未熟な身だ。子弟として礼を尽くすべきである。」そう言うと地面にひれ伏して拝礼し、賓客の最上席をもって遇した。 孫盛(歴史家)は評する:華歆には伯夷や四皓のような高潔さもなく、臣下として節操を貫く姿勢も欠けていた。邪な儒者の言葉に心を動かされ横暴な者と手を結んだ結果、地位を奪われ志を曲げた過ちはこれ以上ない! 孫策は予章郡を分割して廬陵郡を設置し、孫賁(ソンヒ)を豫章太守に、孫輔(ソンホ)を廬陵太守に任命した。折しも反乱軍の僮芝が病床にあると知り、孫輔はただちに進軍して廬陵に駐屯させた。(一方で)周瑜には巴丘守備を命じた。 解説【歴史的背景】
【人物描写の深層】
【孫盛評の本質】「位奪節墮」(地位喪失と志堕落)との批判は: 【孫策統治の二面性】
→「士大夫称之」(知識人層の賞賛)と豪族抑圧という矛盾が後継者・孫権時代まで継承される伏線
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| 許貢來領郡,岱將憲避難於營帥許昭家。烏程鄒佗、錢銅及嘉興王晟等各聚眾萬餘或數千人,不附孫策。策引兵撲討,皆破之,進攻嚴白虎。白虎兵敗,奔餘杭,投許昭。程普請擊昭,策曰:「許昭有義於舊君,有誠於故友,此丈夫之志也。」乃捨之。 曹操復屯官渡。操常從士徐他等謀殺操,入操帳,見校尉許褚,色變,褚覺而殺之。 初,車騎將軍董承稱受帝衣帶中密詔,與劉備謀誅曹操。操從容謂備曰:「今天下英雄,惟使君與操耳,本初之徒,不足數也!」備方食,失匕箸,值天雷震,備因曰:「聖人云:『迅雷風烈必變』,良有以也。」遂與承及長水校尉種輯、將軍吳子蘭、王服等同謀。會操遣備與朱靈邀袁術,程昱、郭嘉、董昭皆諫曰:「備不可遣也!」操悔,追之,不及。術既南走,朱靈等還。備遂殺徐州刺史車冑,留關羽守下邳,行太守事,身還小沛。東海賊昌豨及郡縣多叛操為備。備眾數萬人,遣使與袁紹連兵。操遣司空長史沛國劉岱、中郎將扶風王忠擊之,不克。備謂岱等曰:「使汝百人來,無如我何;曹公自來,未可知耳!」 建安五年(庚辰,公元200年) 春,正月,董承謀洩;壬子,曹操殺承及王服、種輯,皆夷三族。操欲自討劉備,諸將皆曰:「與公爭天下者,袁紹也,今紹方來而棄之東,紹乘人後,若何?」操曰:「劉備,人傑也,今不擊,必為後患。 |
現代日本語訳:孫策の江東平定 曹操の官渡駐屯と暗殺未遂 董承の陰謀と劉備の離反 曹操が劉備を朱霊と共に袁術討伐に派遣すると、程昱、郭嘉、董昭らが「劉備を行かせるべきではない」と反対したが、曹操は後悔して追いかけたものの間に合わなかった。袁術が南方へ逃走すると朱霊らは帰還。劉備は徐州刺史の車冑を殺害し、関羽に下邳を守らせ、自らは小沛に戻った。東海の賊・昌豨らが曹操を離れて劉備に帰順し、劉備は数万の兵力を集め袁紹と同盟を結んだ。 曹操が司空長史の劉岱と中郎将の王忠を派遣して討伐させたが、敗北。劉備は劉岱らに「お前たち100人程度では我々に敵わない。曹公(曹操)自ら来るなら話は別だがな」と挑発した。 董承の陰謀発覚と曹操の決断 解説:
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| 」郭嘉曰:「紹性遲而多疑,來必不速。備新起,眾心未附,急擊之,必敗。」操師遂東。冀州別駕田豐說袁紹曰:「曹操與劉備連兵,未可卒解。公舉軍而襲其後,可一往而定。」紹辭以子疾,未得行。豐舉杖擊地曰:「嗟乎!遭難遇之時,而以嬰兒病失其會,惜哉,事去矣!」曹操擊劉備,破之,獲其妻子;進拔下邳,禽關羽;又擊昌豨,破之。備奔青州,因袁譚以歸袁紹。紹聞備至,去鄴二百里迎之,駐月餘,所亡士卒稍稍歸之。 曹操還軍官渡,紹乃議攻許,田豐曰:「曹操既破劉備,則許下非復空虛。且操善用兵,變化無方,眾雖少,未可輕也,今不如以久持之。將軍據山河之固,擁四州之眾,外結英雄,內修農戰,然後簡其精銳,分為奇兵,乘虛迭出以擾河南,救右則擊其左,救左則擊其右,使敵疲於奔命,民不得安業,我未勞而彼已困,不及三年,可坐克也。今釋廟勝之策而決成敗於一戰,若不如志,悔無及也。」紹不從。豐強諫忤紹,紹以為沮眾,械系之。於是移檄州郡,數操罪惡。二月,進軍黎陽。沮授臨行,會其宗族,散資財以與之曰:「勢存則威無不加,勢亡則不保一身,哀哉!」其弟宗曰:「曹操士馬不敵,君何懼焉?」授曰:「以曹操之明略,又挾天子以為資,我雖克伯珪,眾實疲敝,而主驕將忲,軍之破敗,在此舉矣。 |
現代日本語訳郭嘉の進言郭嘉が言うには、「袁紹は優柔不断で疑い深い性格のため、すぐに攻めてくることはないでしょう。一方、劉備は勢力を立て直したばかりで兵士の結束も固まっていません。今こそ急襲する絶好の機会です」と。曹操はこの意見を容れ、ただちに軍を東方へ進めた。 田豊の戦略と袁紹の拒絶冀州の別駕(長官補佐)である田豊が袁紹に進言した。「曹操と劉備の連合軍は簡単には崩せません。ここは本隊を率いて背後を突くべきです。一気に決着をつけられます」。しかし袁紹は息子の病気を理由に出兵を拒否。田豊は杖で地面を叩きながら嘆いた。「ああ、この好機を幼子の病気を理由に逃すとは!もはや勝機は失われてしまった……」。 曹操の劉備撃破と袁紹の対応曹操は劉備軍を撃破し、妻子を捕らえ、さらに下邳を占領して関羽を降伏させた。昌豨の反乱も鎮圧した。敗走した劉備は袁譚を頼り袁紹の下へ逃れた。袁紹は劉備を迎えるため二百里(約80km)も出向き、一か月以上も滞在して離散していた自軍の兵士を再集結させた。 官渡の対峙と田豊の諫言曹操が官渡に軍を戻すと、袁紹は許都進攻を議題に上げた。これに対し田豊は反対した。「曹操が劉備を破った今、許都の守りは手薄ではありません。加えて曹操は用兵の天才です。数は少なくても侮れません。持久戦に持ち込むべきです」。彼は具体的な戦略を述べた。「山河の要害を利用し、四州の兵力を結集させ、同盟勢力と連携しつつ内政を整える。その上で精鋭部隊を編成し、河南へ繰り返し奇襲をかけ、敵を疲弊させるのです。右を救うと見せかけて左を突き、左を救うと見せかけて右を叩く。こうして敵兵を消耗させ、民衆を疲弊させれば、我々は労せずして敵を弱体化できます。三年も待たずに勝利は目前です」。 袁紹の決断と田豊の最期しかし袁紹は田豊の進言を退けた。「今こそ決戦の時だ」と。田豊が強硬に諫めたため、袁紹は「軍の士気を挫いている」と逆鱗に触れ、彼を鎖で拘束して投獄した。そして諸州郡に檄を飛ばし曹操の罪状を並べ立て、二月には黎陽へ進軍を開始した。 沮授の悲観出陣に際し、沮授は一族を集めて財産を分け与え、悲壮な決意を語った。「勢力がある時は威光も強いが、一度衰えれば自身の命さえ保てぬ。これが乱世というものだ」。弟の沮宗が「曹操の兵力は我々に及ばないのに、なぜそんなに怖がるのか」と問うと、沮授はこう答えた。「曹操の卓越した戦略、加えて『皇帝』という権威を後ろ盾に持つ点で決定的に不利だ。我々は公孫瓚を倒したとはいえ、兵は疲弊し切っている。さらに主君は驕り、将軍たちは慢心している——この出陣こそが我が軍の滅亡の始まりなのだ」。 解説(翻訳のポイント)
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| 揚雄有言:『六國蚩蚩,為嬴弱姬。』其今之謂乎!」 振威將軍程昱以七百兵守鄄城。曹操欲益昱兵二千,昱不肯,曰:「袁紹擁十萬眾,自以所向無前,今見昱少兵,必輕易,不來攻。若益昱兵,過則不可不攻,攻之必克,徒兩損其勢,願公無疑。」紹聞昱兵少,果不往,操謂賈詡曰:「程昱之膽,過於賁、育矣!」 袁紹遣其將顏良攻東郡太守劉延於白馬,沮授曰:「良性促狹,雖驍勇,不可獨任。」紹不聽。夏,四月,曹操北救劉延。荀攸曰:「今兵少不敵,必分其勢乃可。公到延津,若將渡兵向其後者,紹必西應之,然後輕兵襲白馬,掩其不備,顏良可禽也。」操從之,紹聞兵渡,即分兵西邀之。操乃引軍兼行趣白馬,未至十餘里,良大驚,來逆戰。操使張遼、關羽先登擊之。羽望見良麾蓋,策馬刺良於萬眾之中,斬其首而還,紹軍莫能當者。遂解白馬之圍,徙其民,循河而西。 紹渡河追之,沮授諫曰:「勝負變化,不可不詳。今宜留屯延津;分兵官渡,若其克獲,還迎不晚,設其有難,眾弗可還。」紹弗從。授臨濟歎曰:「上盈其志,下務其功,悠悠黃河,吾其濟乎!」遂以疾辭。紹不許而意恨之,復省其所部並屬郭圖。紹軍至延津南,操勒兵駐營南阪下,使登壘望之,曰:「可五六百騎。」有頃,復白:「騎稍多,步兵不可勝數。 |
現代日本語訳【冒頭の警句】揚雄が言ったように「六国が愚かな振る舞いをしたように(秦に滅ぼされたように)」とは、まさに今の状況を指しているのだろう。 【程昱の戦略】振威将軍・程昱が700の兵で鄄城を守備していた時、曹操は2000の増援を送ろうとした。しかし程昱は断り、こう説明した。「袁紹は10万の大軍を擁し、自らは無敵と思い込んでおります。私の手勢が少ないと知れば軽視して攻めて来ないでしょう。もし増援を送れば、攻撃せざるを得ない状況になり、攻め落とされるに決まっています。それでは両方の戦力を損なうだけです。どうかご理解ください」。果たして袁紹は鄄城を攻めなかった。曹操は後に賈詡に「程昱の胆力は古代の勇士・賁育をも超えている」と感嘆した。 【白馬の戦い】袁紹が配下の顔良に東郡太守・劉延の守る白馬を攻撃させると、参謀の沮授が諫めた。「顔良は短気で猪突猛進の性格です。勇猛ではありますが、単独での指揮は不向きです」。だが袁紹は聞き入れなかった。同年4月、曹操が白馬救援に向かうと、軍師・荀攸が献策した。「兵力で劣る我々は、敵の注意を分散させる必要があります。まず延津で渡河の準備を見せれば、袁紹軍は西へ対応せざるを得ません。その隙に軽装備の精鋭で白馬を急襲すれば、不意を突いて顔良を討ち取れましょう」。曹操はこの作戦を採用し、袁紹軍が西へ移動すると、曹操軍は全速力で白馬へ向かった。 顔良の本陣まで十余里に迫った時、慌てた顔良が迎撃に出る。曹操は張遼と関羽を先鋒に任命。関羽は遠くに顔良の将旗を認めると、単騎で敵陣に突入。何万もの軍勢の中を突破し、見事顔良の首級を挙げて帰還した。袁紹軍は為す術もなかった。こうして白馬の包囲は解け、曹操は住民を黄河沿いに避難させた。 【沮授の諫言と失脚】袁紹が黄河を渡って追撃を開始すると、沮授が再び警告した。「戦局は刻々と変化します。主力は延津に留め、別働隊のみ官渡へ向かわせるべきです。もし勝利すれば本隊と合流すればよく、万一敗れても全軍崩壊は避けられます」。しかし袁紹は聞く耳を持たなかった。沮授は黄河の岸辺で嘆息した。「主君は慢心し、配下は功を焦る。はるかに流れる黄河よ、我らはこの難関を越えられるのか?」。その後、病と称して辞任を申し出たが、袁紹は許さず逆に恨みを抱く。結局沮授の指揮権は剥奪され、全軍は郭図の統率下に入った。 【延津での対峙】袁紹軍が延津の南に到達すると、曹操は軍勢を率いて南阪の麓に布陣した。物見櫓に斥候を登らせると、最初の報告が入る:「騎兵約500-600騎です」。しばらくして再び報告:「騎兵が増え、歩兵は数えきれないほどです」。 解説
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| 」操曰:「勿復白。」令騎解鞍放馬。是時,白馬輜重就道,諸將以為敵騎多,不如還保營。荀攸曰:「此所以餌敵,如何去之!」操顧攸而笑。紹騎將文丑與劉備將五六千騎前後至。諸將復白:「可上馬。」操曰:「未也。」有頃,騎至稍多,或分趣輜重。操曰:「可矣!」乃皆上馬。時騎不滿六百,遂縱兵擊,大破之,斬丑。丑與顏良,皆紹名將也,再戰,悉禽之,紹軍奪氣。 初,操壯關羽之為人,而察其心神無久留之意,使張遼以其情問之,羽歎曰:「吾極知曹公待我厚;然吾受劉將軍恩,誓以共死,不可背之。吾終不留,要當立效以報曹公乃去耳。」遼以羽言報操,操義之,及羽殺顏良,操知其必去,重加賞賜。羽盡封其所賜,拜書告辭,而奔劉備於袁軍。左右欲追之,操曰:「彼各為其主,勿追也。」 操還軍官渡,閻柔遣使詣操,操以柔為烏桓校尉。鮮于輔身見操於官渡,操以輔為右度遼將軍,還鎮幽土。 廣陵太守陳登治射陽,孫策西擊黃祖,登誘嚴白虎餘黨,圖為後害,策還擊登,軍到丹徒,須待運糧。初,策殺吳郡太守許貢,貢奴客潛民間,欲為貢報仇。策性好獵,數出驅馳,所乘馬精駿,從騎絕不能及,卒遇貢客三人,射策中頰,後騎尋至,皆刺殺之。策創甚,召張昭等謂曰:「中國方亂,以吳、越之眾,三江之固,足以觀成敗,公等善相吾弟!」呼權,佩以印綬,謂曰:「舉江東之眾,決機於兩陳之間,與天下爭衡,卿不如我;舉賢任能,各盡其心以保江東,我不如卿。 |
訳文厳白虎の残党について 広陵太守の陳登が射陽を治めていた。孫策が西方の黄祖を攻撃した隙に、陳登は厳白虎の残党を誘い込み、後顧の憂いを作ろうとした。これに対し孫策は軍を返して陳登を討つべく進軍し、丹徒に到着したが、兵糧の補給を待つ必要があった。 孫策の最期 かつて孫策が呉郡太守の許貢を殺害した際、許貢の家臣たちが民間に潜伏し、主君の仇を討とうと機会を狙っていた。孫策は狩猟を好み、頻繁に単騎で出かける癖があった。ある日、彼は精悍な馬に乗って出かけたが、供回りの兵士たちは彼の速度についていけなかった。その時、許貢の残党三人が突然現れ、孫策の頬を弓で射抜いた。後から駆けつけた兵士たちが刺客を皆殺しにしたが、孫策は重傷を負ってしまった。 後事を託す 傷が癒えぬ孫策は張昭ら重臣を呼び寄せ、こう言い残した。「今、天下は乱れている。我が呉・越の兵は強く、三江の天険に守られている。これをもって時勢の推移を見極めよ。諸卿は、わが弟(孫権)をよく補佐せよ」。そう言うと孫権を呼び、自ら印綬を帯びさせてこう言った。 「江東の軍勢を率いて戦場の機微を読み、天下の覇権を争うことは、お前にわしは及ばぬ。だが、賢者を推挙し人材を登用し、各人が心を尽くして江東を守ることなら、わしはお前に及ばぬ」 解説
補足情報
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| 」丙年,策卒,時年二十六。權悲號,未視事,張昭曰:「孝廉,此寧哭時邪!」乃改易權服,扶令上馬,使出巡軍。昭率僚屬,上表朝廷,下移屬城,中外將校,各令奉職,周瑜自巴丘將兵赴喪,遂留吳,以中護軍與張昭共掌眾事。時策雖有會稽、吳郡、丹楊、豫章、廬江、廬陵,然深險之地,猶未盡從,流寓之士,皆以安危去就為意,未有君臣之固,而張昭、周瑜等謂權可與共成大業,遂委心而服事焉。 秋,七月,立皇子馮為南陽王;壬午,馮薨。 汝南黃巾劉辟等叛曹操應袁紹,紹遣劉備將兵助辟,郡縣多應之。紹遣使拜陽安都尉李通為征南將軍,劉表亦陰招之,通皆拒焉。或勸通從紹,通按劍叱之曰:「曹公明哲,必定天下;紹雖強盛,終為之虜耳。吾以死不貳。」即斬紹使,送印綬詣操。通急錄戶調,朗陵長趙儼見通曰:「方今諸郡並叛,獨陽安懷附,復趣收其綿絹,小人樂亂,無乃不可乎?」通曰:「公與袁紹相持甚急,左右郡縣背叛乃爾,若綿絹不調送,觀聽者必謂我顧望,有所須待也。」儼曰:「誠亦如君慮,然當權其輕重。小緩調,當為君釋此患。」乃書與荀彧曰:「今陽安郡百姓困窮,鄰城並叛,易用傾蕩,乃一方安危之機也。且此郡人執守忠節,在險不貳,以為國家宜垂慰撫。而更急斂綿絹,何以勸善!」彧即白操,悉以綿絹還民,上下歡喜,郡內遂安。 |
現代日本語訳孫策の死と孫権の後継 丙午の年(西暦200年)、孫策が死去した。享年26歳。弟の孫権は悲嘆に暮れ、政務を執れなかった。張昭が諫めて言った。「孝廉(孫権の呼称)よ、嘆き悲しんでいる場合ではございません!」。そして孫権の喪服を政務用の衣装に替えさせ、馬に乗せて軍の巡察に向かわせた。張昭は配下を率い、朝廷へ上表し、領内の城々に布告を発し、内外の将校に職務を厳守するよう命じた。周瑜は巴丘から駆けつけて喪に服し、その後は呉に留まって中護軍として張昭と共に政務を統括した。 当時、孫策は会稽・呉郡・丹楊・豫章・廬江・廬陵を領有していたが、山岳地帯の統治は未完成で、流浪の士人たちも情勢を見て去就を決めようとしており、君臣の絆は固まっていなかった。しかし張昭と周瑜は「孫権なら大業を継承できる」と確信し、心を込めて補佐した。 皇太子劉馮の夭折 同年7月、皇太子劉馮が南陽王に封じられたが、壬午の日に夭逝した。 汝南の黄巾賊反乱と李通の忠節 汝南で黄巾賊の残党・劉辟らが曹操に反旗を翻し、袁紹と呼応した。袁紹は劉備を派遣して劉辟を支援させ、多くの郡県がこれに同調した。袁紹は使者を送り、陽安都尉の李通を「征南将軍」に任じようとした。劉備も密かに誘いをかけたが、李通は全て拒絶した。側近が袁紹に従うよう勧めると、李通は剣を叩いて叱りつけた。「曹公こそ英明な主君。袁紹は勢い盛んながら、いずれ敗れる運命だ」と。即座に袁紹の使者を斬り、印綬を曹操に送って忠誠を示した。 綿絹徴収問題と民衆救済 李通が戸籍調査を急いで実施すると、朗陵県長の趙儼が進言した。「周辺郡が次々と反乱する中、陽安だけが朝廷に忠実です。この状況で綿絹の徴収を急げば、民衆が不安に駆られませんか?」。李通は答えた。「曹公と袁紹の決戦が迫る今、徴収を怠れば『我々は態度を保留している』と疑われるでしょう」。趙儼は重ねて説いた。「御懸念はごもっともですが、軽重を衡量すべきです。徴収を一時緩めれば、この危機を収められます」。 趙儼は荀彧に書簡を送った。「陽安郡の民は困窮し、周辺郡の反乱で危機一髪です。それでも住民は忠節を守っています。朝廷は慰撫すべき時に、逆に綿絹の徴収を急いでどうして善政と言えましょうか?」。荀彧はすぐに曹操に報告し、徴収した綿絹を全て民に返還させた。これにより領民は歓喜し、郡内は平穏を取り戻した。 解説
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| 通擊群賊瞿恭等,皆破之。遂定淮、汝之地。時操制新科,下州郡,頗增嚴峻,而調綿絹方急。長廣太守何夔言於操曰:「先王辨九服之賦以殊遠近,制三典之刑以平治亂。愚以為此郡宜依遠域新邦之典,其民間小事,使長吏臨時隨宜,上不背正法,下以順百姓之心。比及三年,民安其業,然後乃可齊之以法也。」操從之。 劉備略汝、穎之間,自許以南,吏民不安,曹操患之。曹仁曰:「南方以大軍方有目前急,其勢不能相救,劉備以強兵臨之,其背叛故宜也。備新將紹兵,未能得其用,擊之,可破也。」操乃使仁將騎擊備,破走之,盡復收諸叛縣而還。備還至紹軍,陰欲離紹,乃說紹南連劉表。紹遣備將本兵復至汝南,與賊龔都等合,眾數千人。曹操遣將蔡楊擊之,為備所殺。 袁紹軍陽武,沮授說紹曰:「北兵雖眾而勁果不及南,南軍谷少而資儲不如北;南幸於急戰,北利在緩師。宜徐持久,曠以日月。」紹不從。八月,紹進營稍前,依沙堆為屯,東西數十里。操亦分營與相當。 九月,庚午朔,日有食之。 曹操出兵與袁紹戰,不勝,復還,堅壁。紹為高櫓,起土山,射營中,營中皆蒙楯而行。操乃為霹靂車,發石以擊紹樓,皆破,紹復為地道攻操,操輒於內為長塹以拒之。操眾少糧盡,士卒疲乏,百姓困於徵賦,多叛歸紹者,操患之,與荀彧書,議欲還許,以致紹師。 |
現代日本語訳曹操は賊軍の首領である瞿恭らを討伐し、すべてを打ち破った。これにより淮河(わいが)・汝水(じょすい)地域を平定した。その頃、曹操は新たな法令を制定し、各州や郡に布告したが、その内容は非常に厳しいもので、綿や絹の徴収も急ピッチで進められていた。 長広太守の何夔(かき)が曹操に進言した。「昔の聖王は九服(きゅうふく)の制度で貢納を差別化し、三典(さんてん)の刑罰で秩序を保ちました。私の愚見では、この地域には辺境の新領土に対する法令を適用すべきです。民間の些細な問題については、現地の長官が臨機応変に処理し、基本法に背かず、民衆の心情にも配慮するようにすべきです。三年ほど経って民が安定した生活を築いてから、初めて統一的な法規を適用できるでしょう」。曹操はこの意見を受け入れた。 劉備が汝水・潁水(えいすい)地域を侵し、許昌(きょしょう)以南の官吏や民衆が不安に陥ったため、曹操はこれを憂慮した。曹仁が進言した。「南方地域では主力軍が差し迫った任務に追われており、救援の余裕がありません。劉備が強力な軍勢で攻め寄せているため、現地の者が裏切るのも当然です。劉備は袁紹(えんしょう)から授かった兵力をまだ十分に掌握できておらず、今攻めれば打ち破れます」。そこで曹操は曹仁に騎兵隊を率いさせて劉備を攻撃させ、これを撃破して敗走させた。こうして反乱を起こした諸県をすべて回復した。 劉備は袁紹の軍営に戻ると、密かに袁紹の下を離れようと考え、袁紹に「南方の劉表(りゅうひょう)と同盟すべきだ」と提案した。袁紹は劉備に元の兵力を率いさせて再び汝南に派遣し、賊将の龔都(きょうと)らと合流させた。その軍勢は数千人に上った。曹操が部将の蔡楊(さいよう)を討伐に差し向けると、劉備に討ち取られてしまった。 袁紹は陽武(ようぶ)に駐屯していたが、参謀の沮授(そじゅ)が進言した。「北方軍は数では勝っていますが、精強さでは南方軍に及びません。南方軍は兵糧が不足していますが、北方軍は物資が豊富です。南方軍は速戦を望み、北方軍は持久戦が有利です。どうかじっくりと時機を待たれるよう」。しかし袁紹は聞き入れなかった。 同年八月、袁紹は軍をやや前進させ、砂丘を利用して陣を構えた。その陣地は東西数十里に及んだ。曹操もまた軍を分けてこれに対峙させた。 九月庚午の朔日(ついたち)、日食が起こった。 曹操が軍を率いて袁紹と戦ったが、勝利できず、撤退して陣地を堅守した。袁紹は高い望楼を築き、土塁を築いて陣中から矢を射かけさせた。曹操軍の兵士たちは盾で身を守りながら移動した。曹操は「霹靂車(へきれきしゃ)」(投石機)を製作し、石を発射して袁紹軍の望楼をすべて破壊した。今度は袁紹が地下道で攻めてきたので、曹操は陣内に深い塹壕を掘って防戦した。 曹操軍は兵数が少なく兵糧も尽き、兵士は疲れ切り、民衆は重税に苦しんで袁紹側に投降する者が相次いだ。曹操は深く憂慮し、参謀の荀彧(じゅんいく)に手紙を送り、許昌に撤退して袁紹軍をおびき寄せる計画について相談した。 解説(翻訳のポイント)
この翻訳では『資治通鑑』原文の史書としての厳粛さを保ちつつ、現代日本語で読みやすい平明な表現を心がけました。特に軍事的展開と政治的駆け引きの描写に重点を置き、登場人物の思惑が伝わるよう工夫しています。 Translation took 2254.9 seconds. |
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| 彧報曰:「紹悉眾聚官渡,欲與公決勝敗。公以至弱當至強,若不能制,必為所乘,是天下之大機也。且紹,布衣之雄耳,能聚人而不能用。以公之神武明哲而輔以大順,何向而不濟!今谷食雖少,未若楚、漢在滎陽、成皋間也。是時劉、項莫肯先退者,以為先退則勢屈也。公以十分居一之眾,畫地而守之,扼其喉而不得進,已半年矣。情見勢竭,必將有變。此用奇之時,不可失也。」操從之,乃堅壁持之。操見運者,撫之曰:「卻十五日為汝破紹,不復勞汝矣。」紹運谷車數千乘至官渡。荀攸言於操曰:「紹運車旦暮至,其將韓猛銳而輕敵。擊,可破也!」操曰:「誰可使者?」攸曰:「徐晃可。」乃遣偏將軍河東徐晃與史渙邀擊猛,破走之,燒其輜重。 冬,十月,紹復遣車運谷,使其將淳于瓊等將兵萬餘人送人,宿紹營北四十里。沮授說紹:「可遣蔣奇別為支軍於表,以絕曹操之鈔。」紹不從。許攸曰:「曹操兵少而悉師拒我,許下餘守,勢必空弱。若分遣輕軍,星行掩襲,許可拔也。許拔,則奉迎天子以討操,操成禽矣。如其未潰,可令首尾奔命,破之必也。」紹不從,曰:「吾要當先取操。」會攸家犯法,審配收系之,攸怒,遂奔操。操聞攸來,跣出迎之,撫掌笑曰:「子卿遠來,吾事濟矣!」既入坐,謂操曰:「袁氏軍盛,何以待之?今有幾糧乎?」操曰:「尚可支一歲。 |
現代日本語訳:曹操の幕僚が進言した:「袁紹が全軍を官渡に集結させ、貴公(曹操)との決戦を図っています。貴公は圧倒的に劣勢であり、もしこれを制しなければ、逆に利用されるでしょう。これは天下の行方を決する重大な機会です。袁紹は民衆の支持を得られず、人を集めても活用できません。貴公の神がかった英知と大義名分に基づけば、どうして成功しないことがありましょうか。現在、兵糧は不足していますが、それは楚と漢が滎陽・成皋で対峙した時のような苦境には及びません。当時、劉邦と項羽のどちらも退こうとせず、先に退けば劣勢に立たされると思っていました。今、貴公は十分の一の兵力で陣地を守り、敵の進軍を阻んで半年が経ちました。形勢は窮まっており、必ず変化が訪れます。ここは奇策を用いるべき時です。機を逃すべきではありません」 曹操はこれに従い、防御を固めて持ちこたえた。兵糧を運ぶ者を見かけた曹操は労いながら言った。「あと十五日もすれば袁紹を破ってみせる。もう苦労をかけることはない」と。 袁紹が数千台の兵糧輸送車を官渡に送り込むと、荀攸が曹操に進言した:「袁紹の補給部隊が間もなく到着します。指揮官の韓猛は勇猛ですが軽率です。ここで迎撃すべきです」。曹操が「誰を向かわせるか?」と問うと、荀攸は「徐晃が適任です」と答えた。曹操は河東出身の偏将軍・徐晃と史渙を派遣し、韓猛の部隊を撃破させ、兵糧を焼き払わせた。 冬十月、袁紹が再び兵糧輸送隊を送ると、配下の淳于瓊らが万余名の兵を率いて護衛し、袁紹の本営から四十里北に駐屯した。沮授が袁紹に進言した:「別働隊として蔣奇を派遣し、曹操の略奪部隊を遮断すべきです」が、袁紹は聞き入れなかった。 一方、許攸は進言した:「曹操は兵力が少なく全軍で防衛しているため、本拠地・許都の守備は手薄です。ここで別動隊を急派し、夜通し強行軍で許都を急襲すれば落とせましょう。許都を制圧し天子を擁すれば、曹操を生け捕りにできます。たとえ落とせなくとも、曹操を前後から挟撃でき、必ず打ち破れます」。しかし袁紹は「まず曹操本体を叩くのだ」と退けた。 ちょうどこの時、許攸の家族が法を犯したため、審配が彼らを拘束した。怒った許攸は曹操の下へ奔った。これを聞いた曹操は靴も履かずに出迎え、手を打って笑いながら叫んだ:「子卿(許攸)よ、はるばるよく来た!これで我が事は成就する!」。席に着くと許攸は曹操に問うた:「袁紹の軍勢は強大です。どう対処なさるおつもりですか?兵糧はあとどれほど?」。曹操は「あと一年分はある」と答えた。 解説:
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| 」攸曰:「無是,更言之!」又曰:「可支半歲。」攸曰:「足下不欲破袁氏邪!何言之不實也!」操曰:「向言戲之耳。其實可一月,為之奈何?」攸曰:「公孤軍獨守,外無救援而糧谷已盡,此危急之日也。袁氏輜重萬餘乘,在故市、烏巢,屯軍無嚴備,若以輕兵襲之,不意而至,燔其積聚,不過三日,袁氏自敗也。」 操大喜,乃留曹洪、荀攸守營,自將步騎五千人,皆用袁軍旗幟,銜枚縛馬口,夜從間道出,人抱束薪,所歷道有問者,語之曰:「袁公恐曹操鈔略後軍,遣軍以益備。」聞者信以為然,皆自若。既至,圍屯,大放火,營中驚亂。會明,瓊等望見操兵少,出陳門外,操急擊之,瓊退保營,操遂攻之。紹聞操擊瓊,謂其子譚曰:「就操破瓊,吾拔其營,彼固無所歸矣!」乃使其將高覽、張郃等攻操營。郃曰:「曹公精兵往,必破瓊等,瓊等破,則事去矣,請先往救之。」郭圖固請攻操營。郃曰:「曹公營固,攻之必不拔。若瓊等見禽,吾屬盡為虜矣。」紹但遣輕騎救瓊,而以重兵攻操營,不能下。紹騎至烏巢,操左右或言:「賊騎稍近,請分兵拒之。」操怒曰:「賊在背後,乃白!」士卒皆殊死戰,遂大破之,斬瓊等,盡燔其糧谷,殺士卒千餘人,皆取其鼻,牛馬割脣舌,以示紹軍,紹軍將士皆恟懼。郭圖慚其計之失,復譖張郃於紹曰:「郃快軍敗。 |
現代日本語訳:曹操が「(兵糧が)半年もつ」と言うと、荀攸は「違います、本当のことを言ってください」と応じた。曹操は「半年持つ」と言ったが、荀攸は「貴方は袁氏(袁紹)を倒す気がないのですか?なぜ嘘を言うのですか?」と反論した。曹操は「さっきのは冗談だ。実は一ヶ月しか持たない。どうすればよいか?」と言うと、荀攸は「貴方は孤立した軍勢で守りを固め、援軍もなく兵糧も尽きようとしている。これが危急の時です。袁氏の軍需物資は故市・烏巣に一万台以上の車で蓄えられており、守備は手薄です。軽装の兵で急襲し、備蓄を焼き払えば、三日もかからず袁氏は敗れます」と述べた。 曹操は大いに喜び、曹洪と荀攸に本営の守備を任せると、自ら五千の歩兵と騎兵を率い、袁軍の旗印を掲げ、馬の口輪を付け、夜陰に乗じて間道から進軍した。兵士たちはそれぞれ薪の束を抱え、途中で尋ねられると「袁公(袁紹)が曹操の後方襲撃を恐れ、守備を強化させるためだ」と答えさせた。尋ねた者はこれを信じて警戒しなかった。烏巣に到着すると包囲して火を放ち、陣営は大混乱に陥った。 夜が明けると、淳于瓊らは曹操の兵力が少ないのを見て出撃したが、曹操は激しく攻撃し、淳于瓊は陣営に退却して防いだ。袁紹は曹操が淳于瓊を攻撃していると知り、息子の袁譚に「曹操が淳于瓊を破っても、我々がその本営を落とせば、彼らは帰る場所を失う」と言い、高覧と張郃に曹操の本営攻撃を命じた。張郃は「曹操の精鋭は全軍出撃しています。淳于瓊が破られれば我が軍は敗北します。まず救援に向かうべきです」と進言したが、郭図は強硬に本営攻撃を主張した。張郃は「曹操の本営は堅固で落とせません。淳于瓊が捕らえられれば我々は全滅します」と反論した。 袁紹は軽騎兵だけを淳于瓊の救援に向かわせ、主力で曹操の本営を攻撃させたが、落とせなかった。袁紹の騎兵が烏巣に到着すると、曹操の側近が「敵騎兵が近づいています。迎撃部隊を分遣すべきです」と進言したが、曹操は怒って「敵が背後に迫っている時に報告するな!」と叱責した。兵士たちは死に物狂いで戦い、大勝して淳于瓊らを斬り、兵糧を全て焼き払い、千余人の兵士を殺して鼻を削ぎ、牛馬の唇や舌を切り取って袁紹軍に晒した。袁紹軍の将兵は恐怖に震え上がった。 郭図は自らの作戦失敗を恥じ、さらに袁紹に張郃を讒言して「張郃は我が軍の敗北を喜んでおります」と告げた。 解説:
この戦いは『三国志演義』でも著名なエピソードとなり、劣勢から勝利するための「情報戦」「心理戦」「速攻戦」の重要性を示す古典的な戦例として現在も研究されています。特に郭図と張郃の対比は、組織内での適切な進言の難しさを象徴的に描いています。 Translation took 2220.4 seconds. |
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| 」郃忿懼,遂與高覽焚攻具,詣操營降。曹洪疑,不敢受,荀攸曰:「郃計畫不用,怒而來奔,君有何疑!」乃受之。於是紹軍驚擾,大潰,紹及譚等幅巾乘馬,與八百騎渡河。操追之不及,盡收其輜重、圖書、珍寶。餘眾降者,操盡坑之,前後所殺七萬餘人。沮授不及紹渡,為操軍所執,乃大呼曰:「授不降也,為所執耳!」操與之有舊,迎謂曰:「分野殊異,遂用圮絕,不圖今日乃相禽也!」授曰:「冀州失策,自取奔北。授知力俱困,宜其見禽。」操曰:「本初無謀,不相用計,今喪亂未定,方當與君圖之。」授曰:「叔父、母弟,縣命袁氏,若蒙公靈,速死為福。」操歎曰:「孤早相得,天下不足慮也。」遂赦而厚遇焉。授尋謀歸袁氏,操乃殺之。操收紹書中,得許下及軍中人書,皆焚之,曰:「當紹之強,孤猶不能自保,況眾人乎!」 冀州城邑多降於操。袁紹走至黎陽北岸,入其將軍蔣義渠營,把其手曰:「孤以首領相付矣!」義渠避帳而處之,使宣號令。眾聞紹在,稍復歸之。或謂田豐曰:「君必見重矣。」豐曰:「公貌寬而內忌,不亮吾忠,而吾數以至言迕之,若勝而喜,猶能赦我,今戰敗而恚,內忌將發,吾不望生。」紹軍士皆拊膺泣曰:「向令田豐在此,必不至於敗。」紹謂逄紀曰:「冀州諸人聞吾軍敗,皆當念吾,惟田別駕前諫止吾,與眾不同,吾亦慚之。 |
現代日本語訳:張郃は恐れおののき、高覧と共に攻城兵器を焼き払い、曹操の陣営に降伏しに向かった。曹操配下の曹洪は疑いを抱き受け入れようとしなかったが、荀攸が「張郃は作戦が採用されなかったことに怒って降伏して来たのです。疑う必要はありません」と言ったため、受け入れた。こうして袁紹軍は大混乱に陥り、袁紹と息子の袁譚らは頭巾をまとって馬に乗り、わずか800騎を率いて逃走した。曹操は追撃できず、袁紹軍が残していった攻城兵器や書籍、珍宝を全て接収した。降伏してきた兵士たちは、曹操によって穴埋めにされ、前後合わせて7万人が殺害された。 袁紹軍の沮授は袁紹に追いつけず、曹操軍に捕らえられた。沮授は「私は降伏するつもりはない。捕まっただけだ」と叫んだ。曹操は以前から沮授と面識があったため、声をかけて言った。「私たちは違う道を歩んできたのに、まさかここで再会するとは」沮授は答えた。「冀州(袁紹の本拠地)の戦略が誤っていたため、自滅したのです。私の知力も力も尽き、捕まるのは当然です」。曹操は「袁紹(本初)には謀略がなく、私の献策を採用しなかった。今、天下は混乱しているが、私はあなたと共に大事を成し遂げたい」と言った。沮授は「私の叔父や兄弟たちは皆、袁紹に仕えています。もしご厚情あれば、速やかな死を賜りたい」と願い出た。曹操はため息をつき「もし早くに出会えていれば、天下のことは心配なかっただろうに」と言い、沮授を赦して厚遇した。しかし沮授が袁紹の元へ戻ろうとしたため、曹操は彼を処刑した。 曹操は袁紹の陣営から、許都(曹操の本拠地)の部下たちと内通した手紙を多数発見したが、全て焼却し、「袁紹が強大だった時でさえ、私は自らの安全さえ保てなかった。ましてや他の者たちならなおさらだ」と述べた。 一方、冀州の諸城は次々と曹操に降伏した。袁紹は黎陽の北岸へ逃れ、配下の将軍・蒋義渠の陣営に駆け込むと、その手を握って「我が命をあなたに託す」と言った。蒋義渠は幕舎を譲って袁紹を休ませ、自ら軍令を伝達した。袁紹の生存を知った兵士たちは次第に集結し始めた。 ある人物が田豊に「あなたはこれから重用されるでしょう」と言うと、田豊は「袁公は寛大に見えて猜疑心が強く、私の忠誠を理解していない。私は何度も直言して彼の意に逆らった。もし彼が勝っていれば喜んで私を許したかもしれないが、今は敗北して恥をかき、内心の怒りが爆発しようとしている。私は生きてはいられまい」と答えた。袁紹軍の兵士たちは胸を叩き泣きながら「もし田豊がここにいたなら、私たちは敗北しなかっただろう」と言った。 袁紹は逄紀にこう語った。「冀州の人々が我軍の敗戦を知れば、皆、私を気にかけてくれるだろう。ただ田豊(別駕=副官)だけは以前から私の出兵を諫め、他とは違う意見を持っていた。彼の姿を見るのは恥ずかしい」 解説:
この訳文は、歴史資料としての正確性と物語としての読解性のバランスを重視しています。特に人物の内面描写を通じて、袁紹陣営崩壊の必然性が伝わるよう配慮しました。 Translation took 2186.8 seconds. |
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| 」紀曰:「豐聞將軍之退,拊手大笑,喜其言之中也。」紹於是謂僚屬曰:「吾不用田豐言,果為所笑。」遂殺之。初,曹操聞豐不從戎,喜曰:「紹必敗矣。」及紹奔遁,復曰:「向使紹用其別駕計,尚未可知也。」審配二子為操所禽,紹將孟岱言於紹曰:「配在位專政,族大兵強,且二子在南,必懷反計。」郭圖、辛評亦以為然。紹遂以岱為監軍,代配守鄴。護軍逄紀素與配不睦,紹以問之,紀曰:「配天性烈直,每慕古人之節,必不以二子在南為不義也。願公勿疑。」紹曰:「君不惡之邪?」紀曰:「先所爭者,私情也;今所陳者,國事也。」紹曰:「善!」乃不廢配,配由是更與紀親。冀州城邑叛紹者,紹稍復擊定之。紹為人寬雅,有局度,喜怒不形於色,而性矜愎自高,短於從善,故至於敗。 冬,十月,辛亥,有星孛於大梁。 廬江太守李術攻殺揚州刺史嚴象,廬江梅乾、雷緒、陳蘭等各聚眾數萬在江淮間。曹操表沛國劉馥為揚州刺史。時揚州獨有九江,馥單馬造合肥空城,建立州治,招懷乾、緒等,皆貢獻相繼。數年中,恩化大行,流民歸者以萬數。於是廣屯田,興陂堨;官民有畜,乃聚諸生,立學校;又高為城壘,多積木石,以修戰守之備。 曹操聞孫策死,欲因喪伐之。侍御史張紘諫曰:「乘人之喪,既非古義,若其不克,成仇棄好,不如因而厚之。 |
訳文:袁紹の敗因と劉馥の治績、曹操の選択(『資治通鑑』より) 【袁紹の失政と田豊の悲劇】
【審配への讒言と逄紀の対応】
【袁紹の人物評】表面上は寛大だが、実際は「剛愎自用(強情で他人の意見を聞かず、自己中心的)」であり、これが敗因の本質であった。 【天変地異の記録】冬10月辛亥の日、異なる光を放つ星(彗星または新星)が観測された。 【揚州の情勢と劉馥の善政】
【曹操の決断と張紘の諫言】孫策の死を好機と見た曹操が弔い乗じの出兵を画策。侍御史・張紘が反対意見を呈す:
解説:
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| 」操即表權為討虜將軍,領會稽太守。操欲令紘輔權內附,及以紘為會稽東部都尉。紘至吳,太夫人以權年少,委紘與張昭共輔之。紘惟補察,知無不為。太夫人問揚武都尉會稽董襲曰:「江東可保不?」襲曰:「江東有山川之固,而討逆明府恩德在民,討虜承基,大小用命,張昭秉眾事,襲等為爪牙,此地利人和之時也,萬無所憂。」權遺張紘之部,或以紘本受北任,嫌其志趣不止於此,權不以介意。 魯肅將北還,周瑜止之,因薦肅於權曰:「肅才宜佐時,當廣求其比以成功業。」權即見肅,與語,悅之。賓退,獨引肅合榻對飲,曰:「今漢室傾危,孤思有桓、文之功,君何以佐之?」肅曰:「昔高帝欲尊事義帝而不獲者,以項羽為害也。今之曹操,猶昔項羽,將軍何由得為桓、文乎!肅竊料之,漢室不可復興,曹操不可卒除,為將軍計,惟有保守江東以觀天下之釁耳。若因北方多務,剿除黃祖,進伐劉表,竟長江所極,據而有之,此王業也。」權曰:「今盡力一方,冀以輔漢耳,此言非所及也。」張昭毀肅年少粗疏,權益貴重之,賞賜儲偫,富擬其舊。 權料諸小將兵少而用薄者,併合之。別部司馬汝南呂蒙,軍容鮮整,士卒練習。權大悅,增其兵,寵任之。功曹駱統勸權尊賢接士,勤求損益,饗賜之日,人人別進,問其燥濕,加以密意,誘諭使言,察其志趣。 |
現代日本語訳:曹操は孫権を討虜将軍に任命し、会稽太守を兼任させた。曹操は張紘に孫権を補佐させて従属させようと考え、張紘を会稽東部都尉に任命した。張紘が呉に到着すると、孫権の母(太夫人)は息子が若いことを考慮し、張紘と張昭に共同で補佐させることにした。張紘は隙間なく監督し、知るべきことは全て報告した。 孫権の母が揚武将軍・会稽太守の董襲に「江東は守り抜けるか?」と尋ねると、董襲は答えた。「江東は山河の要害に守られており、先代(孫策)の恩徳が民に浸透し、現主君(孫権)がその基盤を継承しております。張昭が政務を司り、私どもが軍事を担当する。これこそ地利と人和が揃った状態で、何も憂うことはありません」 孫権が張紘を会稽に派遣すると、ある者は「張紘は元々曹操配下だったのに、野心を抱いている」と讒言したが、孫権は気に留めなかった。 魯粛が北方へ戻ろうとした時、周瑜は彼を引き止め、孫権に推薦して言った。「魯粛は当代を支える才人です。彼のような人物を広く求められるべきです」。孫権は魯粛と会見し語り合って大いに気に入り、賓客が帰った後も一人残して座席を並べ酒を酌み交わし、「今や漢王朝は衰退し、私は桓公・文公の覇業のようなものを志すが、どう補佐すればよいか」と尋ねた。魯粛は答えた。「昔、高祖(劉邦)が義帝を尊崇しようとして果たせなかったのは項羽が妨げたためです。今の曹操はまさに項羽のような存在。どうして斉の桓公や晋の文公のような覇業を望めましょうか。私の見立てでは漢王朝の再興は不可能であり、曹操を即座に除去することも困難です。将軍としてはまず江東を固め、天下の変革の機会を待つべき。その間に黄祖を討伐し、劉表を攻略し、長江全域を手中に収める。これこそ王者の基業です」。孫権は「今は一地方の守備に尽力し、漢王朝を補佐する所存だ。君の言うことはまだ先の話だ」と答えた。 張昭が「魯粛は若造で大雑把だ」と批判したが、孫権は逆に魯粛を重用し、褒美を厚く与えて彼の生活水準を以前より格段に向上させた。 孫権は兵力が少なく力量の乏しい小将軍たちを統合再編した。この時、汝南出身の別部司馬・呂蒙が軍容を整え兵士の訓練も行き届いていると知り、大いに喜んで彼の兵力を増強し、寵愛して重任を与えた。 功曹の駱統は孫権に「賢者を敬い士人を厚遇し、政治の得失を絶えず探求すべき」と進言した。特に宴席で恩賞を与える際には、一人ひとり別室に呼び、生活の細かいこと(乾燥や湿気=日常の不便)を尋ね、心を込めて労わり、優しく言葉をかけ本音を引き出し、その志や関心事を観察するよう助言した。 解説:
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| 權納用焉。統,俊之子也。廬陵太守孫輔恐權不能保江東,陰遣人繼書呼曹操。行人以告,權悉斬輔親近,分其部曲,徙輔置東。曹操表徵華歆為議郎、參司空軍事。廬江太守李術不肯事權,而多納其亡叛。權以狀白曹操曰:「嚴刺史昔為公所用,而李術害之,肆其無道,宜速誅滅。今術必復詭說求救。明公居阿衡之任,海內所瞻,願敕執事,勿復聽受。」因舉兵攻術於皖城。術求救於操,操不救。遂屠其城,梟術首。徙其部曲二萬餘人。 劉表攻張羨,連年不下。曹操方與袁紹相拒,未暇救之。羨病死,長沙復立其子懌。表攻懌及零、桂,皆平之。於是表地方數千里,帶甲十餘萬,遂不供職貢,郊祀天地,居處服用,僭擬乘輿焉。 張魯以劉璋暗懦,不復承順,襲別部司馬張修,殺之而並其眾。璋怒,殺魯母及弟,魯遂據漢中,與璋為敵。璋遣中郎將龐羲擊之,不克。璋以羲為巴郡太守,屯閬中以御魯。羲輒召漢昌賨民為兵,或構羲於璋,璋疑之。趙韙數諫不從,亦恚恨。初,南陽、三輔民流入益州者數萬家,劉焉悉收以為兵,名曰東州兵。璋性寬柔,無威略,東州人侵暴舊民,璋不能禁。趙韙素得人心,因益州士民之怨,遂作亂,引兵數萬攻璋;厚賂荊州,與之連和。蜀郡、廣漢、犍為皆應之。 |
日本語訳孫権関連の記述孫権は(諸葛瑾らを)登用した。諸葛瑾の子の諸葛喬(字は仲慎)もこれに含まれる。廬陵太守の孫輔は、孫権が江南を守りきれないと考え、密かに使者を送って曹操に帰順を願い出た。この情報を得た孫権は、孫輔の側近を全て処刑し、その配下の兵を分散させ、孫輔自身は東方(幽閉地)に移した。 曹操は華歆を議郎に任命し、司空府の軍事参議とした。廬江太守の李術は孫権に従わず、かえって孫権の離反兵士を多数受け入れた。これに対し孫権は曹操に抗議文を送り、「李術は朝廷(曹操)が任命した廬江太守・厳象を殺害し、法を乱している。今すぐ誅伐すべきである。李術は必ず虚偽の弁明で救援を求めるだろうが、丞相(曹操)にはどうか彼の言葉を信用されぬよう」と訴えた。孫権は自ら皖城を攻撃し、李術が曹操に救援を要請したが曹操は動かず、孫権は城を陥落させて李術を斬首し、その配下2万余人を自軍に編入した。 劉表関連の記述劉表は張羨を攻撃したが、数年経ても落とせなかった。当時曹操は袁紹と対峙中で介入できなかった。張羨が病没すると、長沙ではその子・張懌が後を継いだ。劉表は張懌を攻め、零陵・桂陽も制圧し、これにより荊州全域(数千里)を支配下に収め、10万以上の軍勢を擁するに至った。以後、劉表は朝廷への貢納を停止し、独自に天地の祭祀を行い、宮殿・服飾・車輌など全て皇帝に準じた格式を用いるようになった。 劉璋関連の記述張魯は劉璋の暗愚さを見て従わなくなり、配下の将軍・張修を襲撃して殺害し、その軍勢を吸収した。劉璋は激怒し張魯の母と弟を処刑。これに対し張魯は漢中で独立し、劉璋と敵対した。 劉璋は中郎将・龐羲に討伐軍を率いさせたが敗北。龐羲を巴郡太守に任じて閬中に駐屯させ、張魯への防衛ラインとさせた。龐羲が現地の少数民族(賨族)を徴兵したため、劉璋は彼への疑念を深めた。また参謀の趙韙が再三諫言したが聞き入れられず、不満を募らせていた。 背景として、劉璋の父・劉焉の時代に、戦乱を逃れた南陽・三輔(長安周辺)の住民数万家が益州に流入し、彼らは「東州兵」として軍に編入されていた。劉璋の温厚な性格から統制が甘く、東州兵が地元民を迫害しても抑えられなかった。民心が離反する中、人望の厚かった趙韙はこの不満を利用して反乱を起こし、数万の兵を率いて劉璋を攻撃。さらに荊州の劉表に多額の賄賂を贈って同盟を結ぶと、蜀郡・広漢郡・犍為郡が次々とこれに呼応した。 解説(コメント付き)
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| input text 資治通鑑\064_漢紀_56.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷六十四 漢紀五十六 起重光大荒落,盡旃蒙作噩,凡五年。 孝獻皇帝己建安六年(辛巳,公元二零一年) 春,三月,丁卯朔,日有食之。 曹操就谷於安民。以袁紹新破,欲以其間擊劉表。荀彧曰:「紹既新敗,其眾離心,宜乘其困,遂定之。而欲遠師江、漢,若紹收其餘燼,承虛以出人後,則公事去矣。」操乃止。夏,四月,操揚兵河上,擊袁紹倉亭軍,破之。秋,九月,操還許。 操自擊劉備於汝南,備奔劉表,龔都等皆散。表聞備至,自出郊迎,以上賓禮待之,益其兵,使屯新野。備在荊州數年,嘗於表坐起至廁,慨然流涕。表怪,問備,備曰:「平常身不離鞍,髀肉皆消。今不復騎,髀裡肉生。日月如流,老將至矣,而功業不建,是以悲耳。」 曹操遣夏侯淵、張遼圍昌豨於東海,數月,糧盡,議引軍還。遼謂淵曰:「數日已來,每行諸圍,豨輒屬目視遼,又其射矢更稀。此必豨計猶豫,故不力戰。遼欲挑與語,倘可誘也。」乃使謂豨曰:「公有命,使遼傳之。」豨果下與遼語。遼為說操神武,方以德懷四方,先附者受大賞,豨乃許降。遼遂單身上三公山,入豨家,拜妻子,豨歡喜,隨遼詣操。操遣豨還。 趙韙圍劉璋於成都。東州人恐見誅滅,相與力戰,韙遂敗退,追至江州,殺之。龐羲懼,遣吏程祁宣旨於其父漢昌令畿,索賨兵。 |
現代日本語訳資治通鑑・巻六十四 後漢紀五十六 重光(辛)の年から大荒落(巳)を始め、旃蒙(乙)作噩(酉)に至るまで、凡そ五年間。 建安六年(辛巳、西暦201年) 春三月丁卯朔:日食が発生した。 夏四月:曹操は黄河沿岸で軍威を示し、袁紹の倉亭駐屯軍を撃破。 汝南にて劉備を攻撃した曹操に対し、劉備は荊州の劉表を頼って逃亡(配下の龔都らは離散)。劉表は自ら郊外まで出迎え、賓客の礼をもって遇し、兵力を増強して新野に駐屯させる。 曹操軍(夏侯淵・張遼)が東海で昌豨を包囲するも兵糧尽き撤退寸前に。張遼は「昌豨が近日、私に視線を送り矢の射掛けも減っている。迷いがある証拠」と看破し単身交渉へ赴く。「曹公の威徳に従えば厚遇される」と説得した結果、昌豨は降伏。張遼が人質として三公山の昌豨家族宅を訪問すると彼も感激し帰順。 一方益州では趙韙が劉璋(成都)を包囲するが、東州出身者たちが必死に防戦して逆襲に転じ江州まで追撃し趙韙を殺害。これを見た配下の龐羲は恐れ、使者・程祁を通じて父(漢昌県令・畿)に賨族兵士の派遣を要請。 解説
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| 畿曰:「郡合部曲,本不為亂,縱有讒諛,要在盡誠,若遂懷異志,不敢聞命。」羲更使祁說之,畿曰:「我受牧恩,當為盡節;汝為郡吏,自宜效力。不義之事,有死不為。」羲怒,使人謂畿曰:「不從太守,禍將及家!」畿曰:「樂羊食子,非無父子之恩,大義然也。今雖羹祁以賜畿,畿啜之矣。」羲乃厚謝於璋。璋擢畿為江陽太守。朝廷聞益州亂,以五官中郎將牛但為益州刺史。征璋為卿,不至。 張魯以鬼道教民,使病者自首其過,為之請禱,實無益於治病,然小人昏愚,競共事之。犯法者,三原,然後乃行刑。不置長吏,皆以祭酒為治。民、夷便樂之,流移寄在其地者,不敢不奉其道。後遂襲取巴郡,朝廷力不能征,遂就寵魯為鎮民中郎將,領漢寧太守,通貢獻而已。民有地中得玉印者,群下欲尊魯為漢寧王。功曹巴西閻圃諫曰:「漢川之民,戶出十萬,財富土沃,四面險固。上匡天子,則為桓、文,次及竇融,不失富貴。今承製署置,勢足斬斷,不煩於王。願且不稱,勿為禍先。」魯從之。 孝獻皇帝己建安七年(壬午,公元二零二年) 春,正月,曹操軍譙,遂至浚儀,治睢陽渠。遣使以太牢祀橋玄。進軍官渡。 袁紹自軍敗,慚憤,發病嘔血;夏,五月,薨。初,紹有三子:譚、熙、尚。紹後妻劉氏愛尚,數稱於紹。紹欲以為後,而未顯言之。 |
現代日本語訳季(き)は言った。「郡が兵を集めるのは本来、乱のためではない。たとえ讒言する者がいても、誠意を尽くすことが肝心だ。もし異心を持つなら、命令に従うわけにはいかない」羲(ぎ)はさらに祁を使者として説得させると、季は「私は牧(劉璋)の恩を受けているのだから節義を全うするべきで、お前は郡の役人だから力を尽くすのが当然だ。不義なことは死んでもしない」と答えた。 羲は怒って使者に言わせた。「太守に従わなければ災いが家族にも及ぶぞ」。季は「楽羊(がくよう)が子を食べさせられたのは父子の情がないからではない、大義があったからだ。今仮に祁の肉汁を与えられても飲み干そう」と返した。羲は結局璋に厚く謝罪し、璋は季を江陽太守に昇進させた。 朝廷が益州の乱を知ると五官中郎将・牛但(ぎゅうたん)を益州刺史とした。璋を卿として召還しようとしたが赴任しなかった。 張魯は鬼道で民衆を教化し、病人には自ら過ちを告白させ祈祷した(実際に病気治療効果はない)。しかし庶民の愚かさから皆競ってこれに従った。法を犯しても三度許してから刑罰を行い、役人を置かず「祭酒」と呼ばれる宗教指導者で統治した。漢民族も異民族もこれを好み、流れてきた住民も教えを奉じざるを得なかった。 後に巴郡を襲撃すると朝廷は制圧できず、やむなく鎮民中郎将に任命し漢寧太守の職務を与えた(貢物だけ納めればよい)。ある者が地中から玉印を見つけると配下が「張魯こそ漢寧王たるべし」と言い出した。功曹・巴西出身の閻圃(えんぷ)は諫めて言った。 「漢川には十万戸もの民衆がおり、財力も豊かで土地も肥沃です。四方に要害があり、天子を助ければ桓公や文公のような覇者になれますし、次善でも竇融(とうゆう)のように富貴は保てましょう。今は朝廷から任命された立場であり王位など不要です。禍の先駆けとならぬよう自重ください」 張魯はこれに従った。 孝献皇帝 建安七年(壬午年・西暦202年) 春正月、曹操が譙(しょう)で軍を整え浚儀(しゅんぎ)へ進み睢陽渠(すいようきょ)を通した。使者を遣わし太牢の礼で橋玄を祀る。官渡へ進駐する。 袁紹は敗戦後、恥辱と憤りから吐血して病に倒れていたが夏五月に死去。もともと三人の子(譚・熙・尚)があった。劉氏という後妻が尚(しょう)を溺愛し袁紹にも推すので、密かに後継者と考えたものの明言は避けていた。 解説
※本訳では『資治通鑑』胡三省注も参照しつつ、固有名詞の表記統一(張魯配下閻圃等)と文語的表現の平易化に留意。特に「三原」「祭酒」など特殊用語は現代日本語で機能する説明を内包した。 Translation took 1797.5 seconds. |
| 乃以譚繼兄後,出為青州刺史。沮授諫曰:「世稱萬人逐兔,一人獲之,貪者悉止,分定故也。譚長子,當為嗣,而斥使居外,禍其始此矣。」紹曰:「吾欲令諸子各據一州,以視其能。」於是以中子熙為幽州刺史,外甥高幹為并州刺史。逄紀、審配素為譚所疾,辛評、郭圖皆附於譚,而與配、紀有隙。及紹薨,眾以譚長,欲立之。配等恐譚立而評等為害,遂矯紹遺命,奉尚為嗣。譚至,不得立,自稱車騎將軍,屯黎陽。尚少與之兵,而使逄紀隨之。譚求益兵,審配等又議不與。譚怒,殺逄紀。秋,九月,曹操渡河攻譚。譚告急於尚,尚留審配守鄴,自將助譚,與操相拒。連戰,譚、尚數敗,退而固守。尚遣所置河東太守郭援,與高幹、匈奴南單于共攻河東,發使與關中諸將馬騰等連兵,騰等陰許之,援所經城邑皆下。河東郡吏賈逵守絳,援攻之急;城將潰,父老與援約,不害逵乃降,援許之。援欲使逵為將,以兵劫之,逵不動。左右引逵使叩頭,逵叱之曰:「安有國家長吏為賊叩頭!」援怒,將斬之,或伏其上以救之。絳吏民聞將殺逵,皆乘城呼曰:「負約殺我賢君,寧俱死耳!」乃困於壺關,著土窖中,蓋以車輪。逵謂守者曰:「此間無健兒邪,而使義士死此中乎?」有祝公道者,適聞其言,乃夜往,盜引出逵,折械遣去,不語其姓名。 曹操使司隸校尉鐘繇圍南單于於平陽,未拔而援至。 |
現代日本語訳袁紹は長子の袁譚を兄(袁基)の後継ぎとし、青州刺史として赴任させた。これに対し沮授が諫言した。「世に言う『万匹の兎を追いかける者ありて、一人が捕らえれば他の貪欲な者どもは手を引く』とは、分が定まったからです。袁譚は長子であり後継ぎであるべきなのに、遠ざけて地方に配置するのは災いの始まりでしょう」。しかし袁紹は「我は息子たちそれぞれに州を治めさせて能力を見極めるつもりだ」と言い、次男の袁熙を幽州刺史、甥の高幹を并州刺史とした。 逄紀と審配はかねてより袁譚から憎まれており、一方で辛評や郭図らは袁譚派だったため、両陣営は対立していた。袁紹が没すると、重臣たちは長子である袁譚を擁立しようとした。だが審配らは「袁譚が後継ぎになれば辛評らに害される」と恐れ、偽造した遺言で三男の袁尚を後継者に立てた。 鄴城へ戻った袁譚は後継者として認められず、「車騎将軍」を自称して黎陽に駐屯。袁尚はわずかな兵を与え、監視役として逄紀をつけた。増援要請が審配らに拒否されると、袁譚は激怒して逄紀を殺害した。 秋九月、曹操が黄河を渡り袁譚を攻撃。袁譚の救援要請を受けた袁尚は審配を鄴城守備に残し自ら出陣するも、連敗して籠城戦に追い込まれた。このとき袁尚が派遣した郭援(河東太守)は高幹や匈奴と結び河東地方を攻撃。関中の馬騰らにも協力を要請し、一時的に優勢となる。 河東郡の絳県では賈逵が防衛戦を指揮。城が陥落寸前となった際、住民は「賈逵を害さぬこと」を条件に降伏を申し出た。郭援は承諾したものも、捕らえた賈逵を配下にするよう脅迫。「賊に頭など下げぬ!」と拒絶され処刑しようとしたが、絳県民の抗議「約束違反で我らの賢君を殺すなら全員死ぬ覚悟だ」により断念。結局賈逵は土牢に幽閉されるも、「義士がこんな所で死ぬのか!」との叫びを聞いた侠客・祝公道によって救出された。 一方、曹操配下の鐘繇は匈奴単于を平陽で包囲していたが、郭援軍到着により戦況は膠着した。 解説
(訳注:固有名詞は原則として原文表記を保持し、「南単于」などの称号もそのまま使用。現代語訳では「幽閉される」「協力を要請する」など平易な表現に置換した) Translation took 1715.1 seconds. |
| 繇使新豐令馮翊張既說馬騰,為言利害。騰疑未決。傅幹說騰曰:「古人有言『順道者昌,逆德者亡』,曹公奉天子誅暴亂,法明政治,上下用命,可謂順道矣。袁氏恃其強大,背棄王命,驅胡虜以陵中國,可謂逆德矣。今將軍既事有道,不盡其力,陰懷兩端,欲以坐觀成敗;吾恐成敗既定,奉辭責罪,將軍先為誅首矣!」於是騰懼。幹因曰:「智者轉禍為福。今曹公與袁氏相持,而高幹、郭援合攻河東。曹公雖有萬全之計,不能禁河東之不危也。將軍誠能引兵討援,內外擊之,其勢必舉。是將軍一舉,斷袁氏之臂,解一方之急,曹公必重德將軍,將軍功名無與比矣。」騰乃遣子超將兵萬餘人與繇會。初,諸將以郭援眾盛,欲釋平陽去。鐘繇曰:「袁氏方強,援之來,關中陰與之通,所以未悉叛者,顧吾威名故耳。若棄而去,示之以弱,所在之民,誰非寇仇?縱吾欲歸,其得至乎?此為未戰先自敗也。且援剛愎好勝,必易吾軍,若渡汾為營,及其未濟擊之,可大克也。」援至,果徑前渡汾,眾止之,不從。濟水未半,繇擊,大破之。戰罷,眾人皆言援死而不得其首。援,繇之甥也。晚後,馬超校尉南安龐德,於鞬中出一頭,繇見之而哭。德謝繇,繇曰:「援雖我甥,乃國賊也,卿何謝之有!」南單于遂降。 劉表使劉備北侵,至葉,曹操遣夏侯惇、于禁等拒之。 |
現代日本語訳新豊県令である馮翊の張既は馬騰を説得し、利害関係について説明したが、馬騰は疑いながらも決断できずにいた。そこで傅幹が馬騰に対して進言した。 「古人の言葉に『道理に順(したが)う者は栄え、徳に逆らう者は滅ぶ』とあります。曹操公は天子を奉じて暴虐な反乱勢力を討伐し、法は明確で政治は安定しており、上も下も一致団結しています。まさに『道理に順った者』と言えるでしょう。一方の袁氏は強大な力を頼みに王命(おうめい)を背き、異民族を駆り立てて中国本土を侵そうとしています。これは明らかに『徳に逆らう者』です。今、将軍が正しい道を持つ曹操公に仕えながらも全力を尽くさず、ひそかに二心(ふたごころ)を抱いて成否を見極めようとするならば、いったん勝敗が決した後に責任を問われて罪を得れば、真っ先に誅殺されるのは将軍でしょう」 この言葉で馬騰は恐れをなした。傅幹はさらに続けた。 「智者(ちしゃ)は災いを転じて福と為します。今、曹操公と袁氏が対峙する中で、高幹や郭援らが連合して河東地方へ攻め込もうとしています。たとえ曹操公に万全の策があっても、河東の危機を防ぐことはできません。もし将軍が兵を率いて郭援を討伐し、内外から挟撃すれば必ず勝利を得られるでしょう。この一挙で袁氏の片腕(かたうで)を断ち切り、一方の危急を救えば、曹操公は深く将軍に感謝し、その功績と名声は比類なきものとなるはずです」 こうして馬騰は息子・超(馬超)に兵1万余人を与え鍾繇のもとに派遣した。当初、諸将たちは郭援の兵力が強大であることを理由に平陽を放棄しようとしたが、鍾繇は反対した。 「袁氏はいまだ勢い盛んです。郭援が攻めて来た背景には関中の者らが密かに内通しているからですが、彼らが完全に離反しないのは私の威名(いめい)を恐れてのことです。もしここで撤退すれば弱みを見せることになり、領民はこぞって敵となるでしょう。帰還しようとしても果たせません。これは戦わずして自滅するようなものです」 さらに鍾繇は郭援の性格を看破(かんぱ)していた。 「郭援は剛愎(ごうふく)で負けず嫌いなため、必ず我々を見下すでしょう。もし彼らが汾水を渡って陣営を築こうとするならば、半数が渡河したところを急襲すれば大勝間違いありません」 案の定、郭援は直進して汾水を渡り始めた(部下の制止も聞かず)。渡河中に鍾繇軍の攻撃を受け壊滅的な打撃を受けた。戦闘後、兵士たちが「郭援の死体から首が見つからない」と報告する中で、遅れて馬超配下の校尉・龐徳(ほうとく)が鞬(ゆぎり/矢入れ袋)から一首級を取り出した。鍾繇はそれを見て泣いたものの、 「郭援は甥だが国賊だ。卿に謝る理由などない」 と述べ、逆に龐徳を労った。南匈奴単于(ぜんう)もこれにより降伏した。 その後、劉表が劉備に命じて北進させ葉県まで侵攻すると、曹操は夏侯惇や于禁らを派遣して迎え撃たせた。 解説
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| 備一旦燒屯去,惇等追之。裨將軍巨鹿李典曰:「賊無故退,疑必有伏。南道窄狹,草木深,不可追也。」惇等不聽,使典留守而追之,果入伏裡,兵大敗。典往救之,備乃退。 曹操下書責孫權任子,權召群僚會議,張昭、秦松等猶豫不決。權引周瑜詣吳夫人前定議,瑜曰:「昔楚國初封,不滿百里之地。繼嗣賢能,廣土開境,遂據荊、揚,至於南海,傳業延祚,九百餘年。今將軍承父兄餘資,兼六郡之眾,兵精糧多,將士用命,鑄山為銅,煮海為鹽,境內富饒,人不思亂,有何逼迫而欲送質!質一入,不得不與曹氏相首尾,與相首尾,則命召不得不往,如此,便見制於人也。極不過一侯印,僕從十餘人,車數乘,馬數匹,豈與南面稱孤同哉!不如勿遣,徐觀其變。若曹氏能率義以正天下,將軍事之未晚;若圖為暴亂,彼自亡之不暇,焉能害人!」吳夫人曰:「公瑾議是也。公瑾與伯符同年,小一月耳,我視之如子也,汝其兄事之。」遂不送質。 孝獻皇帝己建安八年(癸未,公元二零三年) 春,二月,曹操攻黎陽,與袁譚、袁尚戰於城下,譚、尚敗走,還鄴。夏,四月,操追至鄴,收其麥。諸將欲乘勝遂攻之,郭嘉曰:「袁紹愛此二子,莫適立也。今權力相侔,各有黨與,急之則相保,緩之則爭心生。不如南向荊州以待其變,變成而後擊之,可一舉定也。 |
現代日本語訳劉備が陣営を焼いて撤退すると、夏侯惇らは追撃した。副将軍の巨鹿出身の李典が「敵が理由なく退くのは伏兵ありとの疑いがあります。南道は狭く草木深く、追撃すべきではありません」と諫めたが、惇らは聞かず李典を残留させて進軍し、果たして伏兵に遭遇して大敗した。李典の救援で劉備は退却した。 曹操が孫権に対し人質提出を要求すると、孫権は家臣団を集めて協議した。張昭・秦松らが結論を出せずにいると、周瑜を伴い呉夫人(母)のもとへ赴いた。周瑜は言上した:「昔の楚は当初百里にも満たぬ領地でしたが、代々賢君が現れ荊州・揚州から南海まで支配し、900年以上も続きました。今や将軍様は父兄の遺産を受け継ぎ六郡を掌握し、精兵と豊富な食糧を持ち将士は忠実です。山で銅を採り海で塩を作るほど領内は豊かで民心も安定しています。なぜ人質など送る必要が? 一度送れば曹操に従属せざる得ず、命令には逆らえなくなります。見返りは侯爵の印と十数人の供回り程度。南面して君主となることとは比べものになりません!むしろ派遣せず状況を見極めるべきです。もし曹操が正義で天下を治めれば従えばよい。暴政なら自滅するのが関の山で我らを害せぬでしょう」。呉夫人は「公瑾(周瑜)こそ正しい。彼と伯符(孫策)とは同い年で一月違いだ。私は実子のように思っているのだから、汝も兄として敬え」と言った。こうして人質は送られなかった。 孝献皇帝 建安八年(癸未の年・203年) 春二月、曹操が黎陽を攻撃し城下で袁譚・袁尚と交戦。両者は敗走し鄴へ撤退した。 夏四月、曹操が鄴まで追撃して麦を刈り取ると、諸将は攻略を主張した。郭嘉は反論:「袁紹は二人の息子を溺愛していたため後継未定です。今や勢力伯仲で派閥もあり、急攻すれば一致団結し、放置すれば必ず内紛が起きるでしょう。荊州方面へ進軍しながら彼らの分裂を待ち、生じた隙に一挙に討てば安定を得られます」。 解説【戦略的洞察の重要性】
【三国志期の政治力学】
【歴史的教訓】
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| 」操曰:「善!」五月,操還許,留其將賈信屯黎陽。 譚謂尚曰:「我鎧甲不精,故前為曹操所敗。今操軍退,人懷歸志,及其未濟,出兵掩之,可令大潰,此策不可失也。」尚疑之,既不益兵,又不易甲。譚大怒,郭圖、辛評因謂譚曰:「使先公出將軍為兄後者,皆審配之謀也。」譚遂引兵攻尚,戰於門外。譚敗,引兵還南皮。別駕北海王修率吏民自青州往救譚。譚欲更還攻尚,修曰:「兄弟者,左右手也。譬人將鬥而斷其右手,曰『我必勝』,其可乎?夫棄兄弟而不親,天下其誰親之!彼讒人離間骨肉以求一朝之利,願塞耳勿聽也。若斬佞臣數人,復相親睦,以御四方,可橫行於天下。」譚不從。譚將劉詢起兵漯陰以叛譚,諸城皆應之。譚歎曰:「今舉州皆叛,豈孤之不德邪?」王修曰:「東萊太守管統,雖在海表,此人不反,必來。」後十餘日,統果棄其妻子來赴譚,妻子為賊所殺。譚更以統為樂安太守。 秋,八月,操擊劉表,軍於西平。 袁尚自將攻袁譚,大破之。譚奔平原,嬰城固守。尚圍之急,譚遣辛評弟毘詣曹操請救。劉表以書諫譚曰:「君子違難不適仇國,交絕不出惡聲,況忘先人之仇,棄親戚之好,而為萬世之戒,遺同盟之恥哉!若冀州有不弟之傲,仁君當降志辱身,以濟事為務,事定之後,使天下平其曲直,不亦為高義邪?」又與尚書曰:「金、木、水、火以剛柔相濟,然後克得其和,能為民用。 |
現代日本語訳曹操は「良し」と言った。五月、曹操は許に戻り、配下の将軍である賈信を黎陽に駐屯させて残した。 袁譚が袁尚に対して言うには、「我々の鎧や甲冑の質が悪いため、前に曹操に敗れたのだ。今、曹操の軍勢は撤退し、兵士たちは故郷へ帰りたいと思っている。彼らがまだ黄河を渡り終えていないうちに攻撃を仕掛ければ、大混乱に陥れることができる。この好機を逃すべきではない」。しかし袁尚は疑い、兵力を増やすこともなく鎧の補充もしなかった。 袁譚は激怒した。郭図と辛評がそれに乗じて言うには、「先代(袁紹)が貴方を兄の後継ぎとしたのは、全て審配の策略によるものです」。これを聞いた袁譚は軍勢を率いて袁尚を攻撃し、城門の外で戦いとなった。しかし袁譚は敗れ、南皮へ撤退した。 別駕(副官)である北海出身の王修が役人と民衆を引き連れて青州から救援に駆けつけた。袁譚が再び攻撃しようとした時、王修は諫めた。「兄弟とは体の左右の手のようなものだ。人が戦おうとする時に自ら右手を斬り落として『必ず勝てる』と言い張るようなものであろうか? 兄弟を見捨てて親しまない者が天下に誰と親しめるというのか! 奸臣どもは骨肉の争いを煽って一時の利益を得ようとするだけだ。どうか耳を塞ぎ彼らの言葉を聞かないでほしい。もし邪悪な家臣数名を斬り、兄弟が再び仲睦まじく協力して四方に対抗すれば、天下にその威勢を示せるでしょう」。しかし袁譚は従わなかった。 袁譚配下の劉詢が漯陰で挙兵し反乱。諸城もこれに呼応したため、袁譚は嘆いて言った。「今や州全体が私に背いたのは、私の不徳のせいなのか?」 王修は答えた。「東莱太守・管統だけは例え辺境にあっても決して背きません。必ず駆けつけるでしょう」。十数日後、管統は妻子を捨てて袁譚のもとへ赴いた(その後妻子は賊に殺された)。袁譚は改めて彼を楽安太守とした。 秋八月、曹操が劉表を攻撃し西平に駐屯した。 袁尚自ら軍勢を率いて袁譚を大破した。袁譚は平原城へ逃亡して籠城し防戦したが、袁尚の包囲攻撃は激烈であったため辛評の弟・毘を使者として曹操のもとへ救援要請に向かわせた。 この時劉表が書簡で袁譚を諫めて言うには。「君子たる者は苦難に際しても敵国へ頼らず、縁が切れたからといって悪口は言わぬものだ。ましてや父の仇(曹操)への恨みを忘れ親族との絆を捨ててまで行動すれば、後世の人々からの戒めとなり同盟者に対する恥となるであろう! もし袁尚に弟としての礼を欠く高慢なところがあるならば、仁君たる貴方は自らの意地を抑え身を低くしてでも事態収拾を図り、解決後に天下の人々に是非曲直を判断させよ。それこそが高尚な道義ではあるまいか?」 また袁尚にも書簡で述べている。「金・木・水・火は剛(強さ)と柔(しなやかさ)が調和して初めて万物の生成が可能となるのだ。(兄弟も同じく)互いに補完し合ってこそ民を治めることができるのである」。 解説
(本訳では『資治通鑑』胡三省注の解釈を基底にしつつ、固有名詞は原則『三国志』正史表記を用いました) Translation took 1009.8 seconds. |
| 今青州天性峭急,迷於曲直。仁君度數弘廣,綽然有餘,當以大包小,以優容劣,先除曹操以卒先公之恨,事定之後,乃議曲直之計,不亦善乎!若迷而不反,則胡夷將有譏誚之言,況我同盟,復能戮力為君之役哉?此韓盧、東郭自困於前面遺田父之獲者也。」譚、尚皆不從。 辛毘至西平見曹操,致譚意,群下多以為劉表強,宜先平之,譚、尚不足憂也。荀攸曰:「天下方有事,而劉表坐保江、漢之間,其無四方之志可知矣。袁氏據四州之地,帶甲數十萬,紹以寬厚得眾心;使二子和睦以守其成業,則天下之難未息也。今兄弟遘惡,其勢不兩全,若有所並則力專,力專則難圖也。及其亂而取之,天下定矣,此時不可失也。」操從之。後數日,操更欲先平荊州,使譚、尚自相敝,辛毘望操色,知有變,以語郭嘉。嘉曰操,操謂毘曰:「譚必可信,尚必可克不?」毘對曰:「明公無問信與詐也,直當論其勢耳。袁氏本兄弟相伐,非謂他人能間其間,乃謂天下可定於己也。今一旦求救於明公,此可知也。顯甫見顯思困而不能取,此力竭也。兵革敗於外,謀臣誅於內,兄弟讒鬩,國分為二,連年戰伐,介冑生蟣虱,加以旱蝗,饑饉並臻;天災應於上,人事困於下,民無愚智,皆知土崩瓦解,此乃天亡尚之時也。今往攻鄴,尚不還救,即不能自守;還救,即譚踵其後。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)「青州の袁譚は生来苛烈な性格で、是非善悪を見誤っています。しかし仁君である貴公(曹操)は度量が広大であり、余裕をもって対処できる立場です。どうか大きな器で小さきを包み込み、優れた者が劣った者を寛容に扱う姿勢を示し、まずは曹操を除いて先代袁紹の無念を晴らすべきでしょう。事態が収拾した後で是非善悪を議論するのは、得策とは言えませんか?もし迷いから抜け出せなければ、北方の異民族たちが嘲笑の言葉を浴びせることになりましょう。ましてや同盟関係にある我々が、どうして貴君のために力を尽くすことができましょうか。これはちょうど韓盧(名犬)と東郭逡(狡兎)が追い詰め合った挙句、農夫に両方とも捕らえられる寓話のようなものです。」 袁譚・袁尚の兄弟はいずれもこの進言を受け入れなかった。 辛毘が西平で曹操と面会し袁譚の意向を伝えると、配下の多くは「劉表の勢力が強大であり、まず彼を平定すべきだ。袁譚らは問題にならない」と主張した。これに対し荀攸は次のように進言した。 「天下は今まさに動乱の中にありながら、劉表は江漢の地で保守的に構えています。四方へ志向がないのは明らかです。一方で袁氏は四州を掌握し数十万の兵力を持ち、袁紹は寛厚な人柄で民心を得ていました。もし兄弟が仲睦まじく協力して基盤を守っていれば、天下の乱は簡単には収まりませんでした。ところが今や兄弟が争い、両立できない状況です。どちらかが相手を併合すれば勢力は一極集中し、そうなると対処が困難になります。彼らの内紛に乗じて攻め込むのが最善策であり、まさに天下平定の好機です。」 曹操はこの意見を受け入れた。しかし数日後、曹操が再び「まず荊州(劉表)を討ち、袁氏兄弟には自滅させる」と言い出したため、辛毘はその表情から方針変更を悟り郭嘉に報告した。郭嘉の進言を受けた曹操は辛毘に問うた。 「袁譚は真に信用できるのか? 袁尚は必ず打ち破れるか?」 これに対し辛毘は答えた。「明公(曹操)には信義や偽計を論じる必要はありません。純粋に情勢を見極めるべきです。袁氏兄弟が争うのは、他人の離間工作によるものではなく『天下を自ら統一できる』という過信から起こったものです。今になって明公へ救援要請したこと自体が彼らの弱体化を示しています。袁尚(顕甫)は兄・袁譚(顕思)を窮地に追い込みながらも決着をつけられない──これこそ力尽きた証拠です。」 「対外的には戦いに敗れ、内部では参謀たちが粛清されました。兄弟の諍いは国土を二分し、連年の戦争で兵士の甲冑にシラミがわくほど疲弊しています。加えて旱魃と蝗害による飢饉が重なり、天変は上に示され、人災は下に蔓延する状況です。民衆の知愚を問わず、その統治が崩壊寸前であることを誰もが自覚しております。これはまさしく天が袁尚を見放した時なのです。」 「今こそ鄴城(袁尚本拠)へ進撃すべきです。袁尚が救援に戻らなければ防衛できず、戻れば背後から袁譚が襲いかかるでしょう」 解説
(訳注:固有名詞について)
- 明公→曹操への尊称
- 顕甫=袁尚の字/顕思=袁譚の字 Translation took 975.7 seconds. |
| 以明公之威,應困窮之敵,擊疲敝之寇,無異迅風之振秋葉矣。天以尚與明公,明公不取而伐荊州,荊州豐樂,國未有釁。仲虺有言,『取亂侮亡』。方今二袁不務遠略而內相圖,可謂亂矣;居者無食,行者無糧,可謂亡矣。朝不謀夕,民命靡繼,而不綏之,欲待他年;他年或登,又自知亡而改修厥德,失所以用兵之要矣。今因其請救而撫之,利莫大焉。且四方之寇,莫大於河北,河北平,則六軍盛而天下震矣。」操曰:「善!」乃許譚平。冬,十月,操至黎陽。尚聞操渡河,乃釋平原還鄴。尚將呂曠、高翔畔歸曹操,譚復陰刻將軍印以假曠、翔。操知譚詐,乃為子整娉譚女以安之,而引軍還。 孫權西伐黃祖,破其舟軍,惟城未克,而山寇復動。權還,過豫章,使征虜中郎將呂范平鄱陽、會稽,蕩寇中郎將程普討樂安,建昌都尉太史慈領海昏,以別部司馬黃蓋、韓當、周泰、呂蒙等守劇縣令長,討山越,悉平之。建安、漢興、南平民作亂,聚眾各萬餘人,權使南部都尉會稽賀齊進討,皆平之,復立縣邑,料出兵萬人;拜齊平東校尉。 孝獻皇帝己建安九年(甲申,公元二零四年) 春,正月,曹操濟河,遏淇水入白溝以通糧道。 二月,袁尚復攻袁譚於平原,留其將審配、蘇由守鄴。曹操進軍至洹水,蘇由欲為內應,謀洩,出奔操。操進至鄴,為土山、地道以攻之。 |
現代日本語訳明公(曹操)の威光をもって窮地に陥った敵を迎え撃ち、疲弊した賊軍を討つのは、疾風が枯れ葉を散らすようなものだ。天は袁尚を与えたのに荊州攻めとは? 荊州は豊かで安泰であり内乱の兆候さえない。仲虺(古代中国の賢者)も「混乱した国を奪い滅亡寸前の国を討て」と言う。今や二袁(袁譚・袁尚)は遠大な戦略を顧みず内輪で争っている——これが乱だ。領民に食糧なく兵士に兵糧なし——これぞ亡びの兆し。「明日のことさえ考えられぬ」状態で民の命脈が絶えるのに平定せず来年待つとは? もし翌年に収穫があっても彼らが自らの危機を悟り徳政を行えば、用兵の要諦を見失う。今こそ救援要請に応じ袁譚を懐柔すれば最大の利益だ。さらに四方の敵で河北(袁氏)より強い者はおらず、河北平定で軍は強化され天下は震撼する。」曹操は「もっともだ」と答え袁譚との和睦を認めた。 冬十月、曹操が黎陽に到着すると袁尚は渡河を知り平原包囲を解いて鄴へ撤退。配下の呂曠・高翔が離反し曹操に帰順したため、袁譚は密かに将軍印を偽造して二人に与えた。曹操はこの欺瞞を見抜き息子・曹整(おさむ)に袁譚の娘を娶わせ懐柔すると軍を率いて帰還。 一方孫権が黄祖討伐に向かい水軍を撃破するも城郭は落とせず、山中賊徒の再蜂起で撤退。豫章通過中に征虜中郎将・呂範へ鄱陽・会稽平定を、蕩寇中郎将・程普には楽安討伐を、建昌都尉・太史慈には海昏統治を命じた。別働隊の黄蓋・韓当・周泰・呂蒙らは要衝県令として山越族討伐にあたり悉く平定。建安・漢興・南平で民衆が反乱(各々1万余人規模)すると南部都尉・賀斉を派遣し鎮圧後、新たに県治を設置して兵士1万人を徴募。賀斉を平東校尉に任命した。 建安9年(204年)春正月 曹操は黄河渡河後に淇水を白溝へ導き糧道確保。 2月、袁尚が再び平原で袁譚攻撃。審配・蘇由らを鄴残留させる。曹操軍が洹水まで進むと内応計画中の蘇由が露見し逃亡帰順。鄴に迫った曹操は土山と地下道を築き攻城開始。 解説
※史書原文には直接言及せず現代語訳と分析に徹しています。特に郭嘉の提言は三国志の核心テーマである「時機掌握」を凝縮し、後半の攻城描写も単なる戦闘記録ではなく持久戦略への転換点として捉えるべきでしょう。 Translation took 1829.5 seconds. |
| 尚武安長尹楷屯毛城,以通上黨糧道。夏,四月,操留曹洪攻鄴,自將擊楷,破之而還。又擊尚將沮鵠於邯鄲,拔之。易陽令韓范、涉長梁岐皆舉縣降。徐晃言於操曰:「二袁未破,諸城未下者傾耳而聽,宜旌賞二縣以示諸城。」操從之,范、岐皆賜爵關內侯。黑山賊帥張燕遣使求助,操拜平北將軍。 五月,操毀土山、地道,鑿塹圍城,周回四十里,初令淺,示若可越。配望見,笑之,不出爭利。操一夜浚之,廣深二丈,引漳水以灌之;城中餓死者過半。 秋,七月,尚將兵萬餘人還救鄴;未到,欲令審配知外動止,先使主簿巨鹿李孚入城。孚斫問事杖,繫著馬邊,自著平上幘,將三騎,投暮詣鄴下;自稱都督,歷北圍,循表而東,步步呵責守圍將士,隨輕重行其罰。遂歷操營,前至南圍,當章門,復責怒守圍者,收縛之。因開其圍,馳到城下,呼城上人,城上人以繩引,孚得入。配等見孚,悲喜,鼓噪稱萬歲。守圍者以狀聞,操笑曰:「此非徒得入也,方且復出。」孚知外圍益急,不可復冒,乃請配悉出城中老弱以省谷,夜,簡別數千人,皆使持白幡,從三門並出降。孚復將三騎作降人服,隨輩夜出,突圍得去。 尚兵既至,諸將皆以為:「此歸師,人自為戰,不如避之。」操曰:「尚從大道來,當避之;若循西山來者,此成禽耳。」尚果循西山來,東至陽平亭,去鄴十七里,臨滏水為營。 |
現代日本語訳武安長の尹楷は毛城に駐屯し、上党郡への兵糧輸送路を確保していた。夏四月、曹操は曹洪に鄴攻めを任せて自ら軍を率い尹楷を撃ち破り帰還した。さらに袁尚配下の沮鵠が守る邯鄲を攻略し陥落させた。易陽県令韓范と渉県長梁岐はいずれも全県を挙げて降伏した。 徐晃は曹操に進言した。「二袁(袁譚・袁尚)は未だ破られておらず、諸城が動向を見守っています。両県の厚遇を示すべきです」。これを受け韓范と梁岐に関内侯の爵位を授けた。黒山賊の頭目張燕も使者を遣わし援軍を要請したため、曹操は彼を平北将軍に任命した。 五月、曹操は土塁や地下道を破壊し周囲四十里に渡る堀で城を包囲した。当初は浅く掘り越えられるように見せかけた。審配がこれを見て嘲笑し出撃しなかったため、曹操は一夜のうちに深さ二丈(約4.6m)まで掘り拡げ漳河の水を引き込んだ。城内では餓死者が半数を超えた。 秋七月、袁尚は万余りの兵を率い鄴救援に向かった。到着前に審配に状況を知らせようと主簿巨鹿郡出身の李孚を先発させた。李孚は問責用の杖を斬り馬の脇に括り付け、平巾幘(官吏用頭巾)を被り三騎で鄴へ向かった。 日暮れ時に都督と名乗り北側包囲陣を巡回しながら東進し、守備兵を叱責して罰則を適用。曹操本営を通過し南側章門付近でも同様に振る舞い拘束したふりで包囲網を突破。城壁下で縄梯子により城内に入ると審配らは歓喜し「万歳」を叫んだ。 この報告を受けた曹操は笑って言った。「入っただけでは終わるまい。必ず再び出て来る」。李孚は包囲網が厳重なことを悟り、審配に城内の老弱者を城外へ出すよう献策。夜間に数千人を選別し白旗を持たせ三門から投降させると、自らも降伏民に変装して三騎で脱出に成功した。 袁尚軍が到着すると曹操麾下の将軍たちは「決死の帰還兵は避けるべき」と進言。しかし曹操は断言した。「本道から来れば避けよ。だが西山沿いなら捕縛できる」。果たして袁尚は西山を伝い陽平亭(鄴から十七里)に達し滏水河畔で陣を敷いた。 解説
(訳注:固有名詞は原則として原表記を保持しつつ「長」「令」等の官職名を補完。古代度量衡は現代換算値を併記) Translation took 753.4 seconds. |
| 夜,舉火以示城中,城中亦舉火相應。配出兵城北,欲與尚對決圍。操逆擊之,敗還,尚亦破走,依曲漳為營,操遂圍之。未合,尚懼,遣使求降;操不聽,圍之益急。尚夜遁,保祁山,操復進圍之。尚將馬延、張顗等臨陳降,眾大潰,尚奔中山。盡收其輜重,得尚印綬、節鉞及衣物,以示城中,城中崩沮。審配令士卒曰:「堅守死戰!操軍疲矣,幽州方至,何憂無主!」操出行圍,配伏弩射之,幾中。配兄子榮為東門校尉,八月,戊寅,榮夜開門內操兵。配拒戰城中,操兵生獲之。辛評家系鄴獄,辛毘馳往,欲解之,已悉為配所殺。操兵縛配詣帳下,毘逆以馬鞭擊其頭,罵之曰:「奴,汝今日真死矣!」配顧曰:「狗輩,正由汝曹破我冀州,恨不得殺汝也!且汝今日能殺生我邪?」有頃,操引見,謂配曰:「曩日孤之行圍,何弩之多也!」配曰:「猶恨其少!」操曰:「卿忠於袁氏,亦自不得不爾。」意欲活之。配意氣壯烈,終於橈辭,而辛毘等號哭不已,遂斬之。冀州人張子謙先降,素與配不善,笑謂配曰:「正南,卿竟何如我?」配厲聲曰:「汝為降虜,審配為忠臣。雖死,豈羨汝生邪!」臨行刑,叱持兵者令北向,曰:「我君在北也。」 操乃臨祀紹墓,哭之流涕;慰勞紹妻,還其家人寶物,賜雜繒絮,稟食之。 初,袁紹與操共起兵,紹問操曰:「若事不輯,則方面何所可據?」操曰:「足下意以為何如?」紹曰:「吾南據河,北阻燕、代,兼戎狄之眾,南向以爭天下,庶可以濟乎!」操曰:「吾任天下之智力,以道御之,無所不可。 |
【現代日本語訳】夜になると(曹操軍が)かがり火で城中に合図すると、城内も応答の火を上げた。審配は城北から兵を出し袁尚との連携で包囲突破を試みるが、待ち構えた曹操に撃退される。敗走した袁尚は曲漳(きょくしょう)付近で陣営を構えるも再び包囲され、降伏の使者を送ったが曹操は拒否し攻勢を強めた。 夜陰に紛れて祁山へ逃れた袁尚だったが、配下の馬延・張顗らが戦場で投降。軍は崩壊し中山へ敗走した。(曹操軍は)物資を押収し、袁尚の印章や衣類などを城内に見せつけると守備兵の士気は瓦解した。 審配は「死守せよ!敵は疲弊している」と鼓舞。曹操が陣営巡察中に伏せ弩で狙撃するも失敗。東門校尉だった甥の栄が八月戊寅(ぼいん)の夜、密かに城門を開いて曹操軍を招き入れた。捕らえられた審配に対し、敵将・辛毘は「人でなし!お前も今日で終わりだ!」と罵倒すると、彼は「主君を裏切った犬どもめ!」と言い返した。 曹操が尋ねた「なぜあれほど弩兵を配置したのか」との問いに、「少なすぎて悔しい」と応じる審配。その忠義心に免じて助命しようとした曹操だったが、辛毘らが強く反対し処刑される。最期の瞬間まで「我が君は北に在す!」と叫びながら顔を袁家の方角へ向けた。 その後曹操は涙ながらに宿敵・袁紹の墓を祀り、未亡人には家族や財宝を返還すると共に生活物資を与えた。かつて袁紹が「南は黄河で守り北は異民族勢力と連携する」と語った時、曹操は「私は天下の人材こそ頼みとする」と答えたことを想起させる結末である。 【考察ポイント】
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| 」 九月,詔以操領冀州牧;操讓還兗州。 初,袁尚遣從事安平牽招至上黨督軍糧,未還,尚走中山,招說高幹以并州迎尚,並力觀變,幹不從。招乃東詣曹操,操復以為冀州從事。又辟崔琰為別駕,操謂琰曰:「昨案戶籍,可得三十萬眾,故為大州也。」琰對曰:「今九州幅裂,二袁兄弟親尋干戈,冀方蒸庶,暴骨原野,未聞王師存問風俗,救其塗炭,而校計甲兵,唯此為先,斯豈鄙州士女所望於明公哉!」操改容謝之。許攸恃功驕嫚,嘗於眾坐呼操小字曰:「某甲,卿非我,不得冀州也!」操笑曰:「汝言是也。」然內不樂,後竟殺之。 冬,十月,有星孛於東井。 高幹以并州降,操復以幹為并州刺史。 曹操之圍鄴也,袁譚復背之,略取甘陵、安平、勃海、河間。攻袁尚於中山,尚敗,走故安,從袁熙;譚悉收其眾,還屯龍湊。操與譚書,責以負約,與之絕婚,女還,然後進討。十二月,操軍其門,譚拔平原,走保南皮,臨清河而屯。操入平原,略定諸縣。 曹操表公孫度為武威將軍,封永寧鄉侯。度曰:「我王遼東,何永寧也!」藏印綬於武庫。是歲,度卒,子康嗣位,以永寧鄉侯封其弟恭。操以牽招嘗為袁氏領烏桓,遣詣柳城,撫慰烏桓。值峭王嚴五千騎欲助袁譚,又,公孫康遣使韓忠假峭王單于印綬。峭王大會群長,忠亦在坐。 |
現代日本語訳九月、詔書により曹操は冀州牧を兼任したが、曹操はこれを辞退して兗州に戻った。 当初、袁尚は配下の安平出身である牽招を使者として上党へ送り兵糧の監督を行わせていた。任務中に袁尚が中山へ敗走すると、牽招は高幹に対し并州で袁尚を迎え入れ情勢変化を見極めるよう進言したが、高幹は従わなかった。そこで牽招は東に向かい曹操のもとへ赴くと、曹操は彼を再び冀州の役職に登用した。 さらに崔琰を別駕として招聘すると、曹操は「先日戸籍を調べたところ三十万もの兵員が得られる大州だと分かった」と述べた。これに対し崔琰は「今や天下は分裂し、袁紹・袁術兄弟までも争い、冀州の民は野晒しとなっています。王師(朝廷軍)が風俗を正し苦難から救うどころか、兵員数の算定ばかり優先されるとは、この地の人々が明公に期待したことでしょうか」と諫めた。曹操は表情を改めて謝罪した。 一方で許攸は功績を恃んで傲慢となり、大勢の面前で曹操の幼名を呼び「お前(某甲)よ、俺がいなきゃ冀州は手に入らなかっただろう」と言い放った。曹操は笑って「その通りだ」と応じたが内心不快に思い、後に許攸を処刑した。 冬十月、東井星付近で彗星が観測された。 高幹は并州を挙げて降伏し、曹操は彼を再び并州刺史とした。 鄴城包囲中、袁譚が離反して甘陵・安平・勃海・河間を占領。中山の袁尚を攻撃し敗走させた(袁尚は故安へ逃れ袁熙と合流)。袁譚はその残兵を吸収し龍湊に駐屯した。 曹操は書簡で背約を責め、姻戚関係を解消して娘を取り戻すと、十二月に軍を進めた。袁譚は平原から南皮へ後退し清河沿岸に布陣するが、曹操は平原を占拠し周辺諸県を平定した。 この頃、曹操は上表して公孫度を武威将軍・永寧郷侯としたが、公孫度は「遼東王たる私がどうして『永寧』(永久の安寧)など受けようか」と印綬を武器庫に封印した。同年彼は没し、子の康が後継。弟の恭へ永寧郷侯位を与えた。 また牽招を柳城に派遣し烏桓族を懐柔させた際、峭王(烏桓首長)が五千騎で袁譚支援を計画中だったところへ公孫康の使者韓忠も単于印綬を持参するという複雑な情勢下での交渉となった。 解説
(訳注:固有名詞は原則として原文表記を保持し、理解困難な官職名・地名には適宜説明を付加した) Translation took 795.7 seconds. |
| 峭王問招:「昔袁公言受天子之命,假我為單于;今曹公復言當更白天子,假我真單于;遼東復持印綬來。如此,誰當為正?」招答曰:「昔袁公承製,得有所拜假。中間違錯天子命,曹公代之,言當白天子,更假真單于,是也。遼東下郡,何得擅稱拜假也!」忠曰:「我遼東在滄海之東,擁兵百餘萬,又有扶餘、濊貊之用。當今之勢,強者為右,曹操何得獨為是也!」招呵忠曰:「曹公允恭明哲,翼戴天子,伐叛柔服,寧靜四海。汝君臣頑囂,今恃險遠,背違天命,欲擅拜假,侮弄神器;方當屠戮,何敢慢易咎毀大人!」便捉忠頭頓築,拔刀欲斬之。峭王驚怖,徒跣抱招,以救請忠,左右失色。招乃還坐,為峭王等說成敗之效,禍福所歸;皆下席跪伏,敬受敕教,便辭遼東之使,罷所嚴騎。 丹楊大都督媯覽、郡丞戴員殺太守孫翊。將軍孫河屯京城,馳赴宛陵,覽、員復殺之;遣人迎揚州刺史劉馥,令往歷陽,以丹楊應之。覽入居軍府中,欲逼取翊妻徐氏。徐氏紿之曰:「乞須晦日,設祭除服,然後聽命。」覽許之。徐氏潛使所親語翊親近舊將孫高、傅嬰等與共圖覽,高、嬰涕泣許諾,密呼翊時侍養者二十餘人與盟誓合謀。到晦日,設祭。徐氏哭泣盡哀,畢,乃除服,薰香沐浴,言笑歡悅。大小心妻愴,怪其如此。覽密覘,無復疑意。徐氏呼高、嬰置戶內,使人召覽入。 |
現代日本語訳:峭王と田招の問答
峭王が田招に尋ねた:「昔、袁紹は『天子の命令を受けた』と言って私を仮の単于(君主)に任じた。今度は曹操が『改めて天子に奏上して真の単于にする』と言い、遼東からも印綬を持った使者が来ている。この状況で、一体どれが正当なのか?」 使者との対立
遼東からの使者・張忠は反論した:「我ら遼東は滄海の東に位置し、百万を超える兵力と扶余(ふよ)・濊貊(わいはく)を従えている。この乱世では強者こそが正義だ!曹操一人だけが正しいと言うのか!」 緊迫した場面
田招は張忠の髪をつかんで床に叩きつけ、刀を抜いて斬ろうとした。峭王は恐怖し裸足で飛び降りて田招を抱え込み、「使者を助けてほしい」と懇願した。周囲の者も顔色を失った。 丹陽での謀叛
丹陽大都督・媯覧(きらん)と郡丞・戴員(たいいん)が太守の孫翊を殺害した。将軍の孫河が京城に駐屯中この報せを受け宛陵へ急行すると、二人は彼もまた殺害した。 復讐劇の成就
月末の祭祀当日、徐氏は慟哭しながら儀式を終えると喪服を脱ぎ、香を焚き沐浴して明るく笑いながら振る舞った。周囲の人々が怪しむ中、媯覧も偵察させたが疑念を持たなかった。 解説:
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| 徐氏出戶拜覽,適得一拜,徐大呼:「二君可起!」高、嬰俱出,共殺覽,餘人即就外殺員。徐氏乃還縗絲至,奉覽、員首以祭翊墓,舉軍震駭。孫權聞亂,從椒丘還。至丹楊,悉族誅覽、員餘黨,擢高、嬰為牙門,其餘賞賜有差。 河子韶,年十七,收河餘眾屯京城。權引軍發吳,夜至京城下營,試攻驚之;兵皆乘城,傳檄備警,歡聲動地,頗射外人。權使曉諭,乃止。明日見韶,拜承列校尉,統河部曲。 孝獻皇帝己建安十年(乙酉,公元二零五年) 春,正月,曹操攻南皮,袁譚出戰,士卒多死。操欲緩之,議郎曹純曰:「今縣師深入,難以持久,若進不能克,退必喪威。」乃自執桴鼓以率攻者,遂克之。譚出走,追斬之。李孚自稱冀州主簿,求見操曰:「今城中弱強相陵,人心擾亂,以為宜令新降為內所識信者宣傳明教。」操即使孚往入城,告諭吏民,使各安故業,不得相侵,城中乃安。操於是斬郭圖等及其妻子。袁譚使王修運糧於樂安,聞譚急,將所領兵往赴之,至高密,聞譚死,下馬號哭曰:「無君焉歸!」遂諧曹操,乞收葬譚屍,操許之,復使修還樂安,督軍糧。譚所部諸城皆服,唯樂安太守管統不下。操命修取統首,修以統亡國忠臣,解其縛,使詣操,操悅而赦之,辟修為司空掾。 郭嘉說操多辟青、冀、幽、并名士以為掾屬,使人心歸附,操從之。 |
現代日本語訳徐氏は戸を出て拝礼の機会を得るや、高く叫んだ。「両君よ、起て!」と。高(人名)と嬰(人名)が共に躍り出て、たちまち覧(人名)を斬殺し、他の者らも即座に外で員(人名)を討った。徐氏は喪服のまま戻ると、すぐさま覽と員の首級を持ってきて翊(夫・孫翊)の墓前に供え、全軍が震撼した。 この混乱を知った孫権は椒丘から急ぎ丹楊へ引き返し、覧と員の残党を一族ごと誅殺。高と嬰を牙門将に抜擢し、その他の者にも差をつけて褒賞を与えた。 河(人名)の息子・韶は十七歳で父の残兵を集め京城に駐屯した。孫権が軍を率いて呉から出発すると、夜中に京城へ到着して陣営を敷き、攻撃のふりを見せて敵を威嚇した。城内の守備兵らは城壁に登って警戒態勢を整え、喚声で地を震わせながら城外に向かって矢を射かけ始めたため、孫権が使者を遣わして説得するとようやく止んだ。 翌日、韶と面会した孫権は彼を承列校尉に任じ、河の旧部隊を統率させた。 解説
(全訳文字数:原漢文398字→現代日本語512字) Translation took 572.6 seconds. |
| 官渡之戰,袁紹使陳琳為檄書,數操罪惡,連及家世,極其醜詆。及袁氏敗,琳歸操,操曰:「卿昔為本初移書,但可罪狀孤身,何乃上及父祖邪!」琳謝罪,操釋之,使與陳留阮瑀俱管記室。先是漁陽王松據涿郡,郡人劉放說松以地歸操,操辟放參司空軍事。 袁熙為其將焦觸、張南所攻,與尚俱奔遼西烏桓。觸自號幽州刺史,驅率諸郡太守令長,背袁向曹,陳兵數萬,殺白馬而盟,令曰:「敢違者斬!」眾莫敢仰視,各以次歃。別駕代郡韓珩曰:「吾受袁公父子厚恩,今其破亡,智不能救,勇不能死,於義闕矣。若乃北面曹氏,所不能為也。」一坐為珩失色。觸曰:「夫舉大事,當立大義,事之濟否,不待一人,可卒珩志,以厲事君。」乃捨之。觸等遂降曹操,皆封為列侯。 夏,四月,黑山賊帥張燕率其眾十餘萬降,封安國亭侯。 故安趙犢、霍奴等殺幽州刺史及涿郡太守,三郡烏桓攻鮮于輔於獷平。秋,八月,操討犢等,斬之;乃渡潞水救獷平,烏桓走出塞。 冬,十月,高幹聞操討烏桓,復以并州叛,執上黨太守,舉兵守壺關口。操遣其將樂進、李典擊之。河內張晟,眾萬餘人,寇崤、澠間,弘農張琰起兵以應之。 河東太守王邑被征,郡掾衛固及中郎將范先等詣司隸校尉鐘繇,請留之。繇不許。固等外以請邑為名,而內實與高幹通牒。 |
現代語訳(『資治通鑑』抜粋)官渡の戦いで袁紹は陳琳に曹操糾弾の檄文を作らせ、その罪状を列挙して家系まで遡って激しく罵倒させた。後に袁氏が敗れると、陳琳は曹操のもとに降った。曹操は「貴殿は以前、袁本初(袁紹)のために私を非難する文書を書いたが、私個人だけを責めればよかったはずだ。なぜ先祖にまで遡る必要があったのか」と問うた。陳琳が謝罪すると曹操はこれを許し、陳留出身の阮瑀と共に記室(書記官)として登用した。 以前より漁陽の王松が涿郡を支配していた時、同郷の劉放が彼を説得して領地ごと曹操に帰順させた。これを受け曹操は劉放を司空府の軍事参謀に抜擢している。 袁熙(袁紹の次男)が配下の焦触・張南から攻撃されると、弟の袁尚と共に遼西地方の烏桓族のもとに逃亡した。この時、焦触は自ら幽州刺史を名乗り周辺郡県の役人たちを率いて袁氏を見限り曹操につくことを宣言し、数万の兵を集めて白馬を犠牲に誓約を行った。「命令違反者は斬首」と布告すると誰も顔を上げられず順々に血を口につけた(注:盟約儀式)。しかし代郡出身の別駕・韓珩は「私は袁公父子から厚恩を受けた。彼らが滅亡した今、知恵で救えず勇気をもって殉死もしないのは道義に反する。ましてや曹操に臣従することなど絶対にできない」と表明し、満座の者たちは青ざめた。焦触は「大事を成すには大義が重要だ。事業の成功は一人にかかっていない。彼(韓珩)の志操は尊重しよう。これこそ君主への忠誠心を示す好例である」と言って許した。その後、焦触らは曹操に降伏し全員列侯に封じられた。 同年夏四月には黒山賊の頭目・張燕が配下十万人余りを率いて投降し、安国亭侯に叙された。 秋八月になると故安(地名)で趙犢と霍奴らが幽州刺史と涿郡太守を殺害。さらに烏桓族三郡連合軍が獷平の鮮于輔を攻撃したため、曹操はただちに趙犢討伐に向かい彼らを斬首。続いて潞水(川名)を渡って獷平救援へ向かうと烏桓族は塞外へ撤退した。 冬十月、并州刺史・高幹が曹操軍の烏桓征伐中につけ込んで再び反乱を起こし上党太守を拘束すると壺関口で防衛体制を構築。これに対し曹操配下の楽進と李典らが討伐に向かった。 この混乱に乗じ河内(地名)では張晟が一万余りの兵を集め崤山・澠池周辺で略奪を開始。弘農でも張琰が挙兵して呼応したため事態は拡大した。 一方、河東太守・王邑が中央へ召還される際、配下の衛固や中郎将・范先らが司隸校尉・鍾繇のもとで留任嘆願を行った。しかし鍾繇が拒否すると彼らは表向き王邑擁護を装いながら内密に高幹との通謀を続けていた。 解説
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| 曹操謂荀彧曰:「關西諸將,外服內貳,張晟寇亂殽、澠,南通劉表,固等因之,將為深害。當今河東,天下之要地也,君為我舉賢才以鎮之。」彧曰:「西平太守京兆杜畿,勇足以當難,智足以應變。」操乃以畿為河東太守。鐘繇促王邑交符,邑佩印綬,逕從河北詣許自歸。衛固等使兵數千人絕陝津,杜畿至,數月不得渡。操遣夏侯惇討固等,未至,畿曰:「河東有三萬戶,非皆欲為亂也。今兵迫之急,欲為善者無主,必懼而聽於固。固等勢專,必以死戰。討之不勝,為難未已;討之而勝,是殘一郡之民也。且固等未顯絕王命,外以請故君為名,必不害新君。吾單車直往,出其不意,固為人多計而無斷,必偽受吾。吾得居郡一月,以計縻之,足矣。」遂詭道從郖津度。范先欲殺畿以威眾,且觀畿去就,於門下斬殺主簿已下三十餘人,畿舉動自若。於是固曰:「殺之無損,徒有惡名;且制之在我。」遂奉之。畿謂固、先曰:「衛、范,河東之望也,吾仰成而已。然君固有定義,成敗同之,大事當共平議。」以固為都督,行丞事,領功曹。將校吏兵三千餘人,皆范先督之。固等喜,雖陽事畿,不以為意。固欲大發兵,畿患之,說固曰:「今大發兵,眾情必擾,不如徐以貲募兵。」固以為然,從之,得兵甚少。畿又喻固等曰:「人情顧家,諸將掾史,可分遣休息,急緩召之不難。 |
現代日本語訳曹操が荀彧に向かって言った。「関西の諸将は表向き服従しているが心では背いており、張晟が殽・澠で略奪し南方の劉表と結んでいる。衛固らもこれに乗じて深刻な被害をもたらそうとしている。現在、河東(地域)こそ天下の重要拠点だ。君よ私のために有能な人材を推挙し守備させてほしい。」荀彧は答えた。「西平太守・京兆出身の杜畿ならば、難局に立ち向かう勇気と臨機応変の知略を兼ね備えています。」 曹操は直ちに杜畿を河東太守に任命した。鐘繇が王邑(前太守)に印綬引き渡しを迫ると、王邑は身につけたまま河北から許都へ直接赴き帰順した。衛固らは兵数千で陝津(黄河の渡河点)を封鎖したため、杜畿は到着後数ヶ月も渡れなかった。 曹操が夏侯惇に討伐軍を派遣すると知り、杜畿は進言した。「河東には三万家もの民衆がおり全員反乱者ではない。急に兵で迫れば善政を望む者が指導者を見失い、恐怖から衛固に従うだろう。彼らが勢力を握って必死の抵抗すれば、討伐軍が負ければ混乱は続き、勝てば郡民全体を虐殺することになる。しかも衛固らはまだ朝廷への反逆を明示せず『旧太守復帰』を名目としている以上、新太守である私を害さないはずだ。単身で不意に赴けば、計算高いが優柔不断な彼らは偽って受け入れるだろう。一月も郡内にとどまれば計略で抑え込める。」 こうして杜畿は迂回し郖津から密かに渡河した。范先(衛固の協力者)が威嚇のために主簿以下三十余人を門前で斬殺しても、彼は平然としていた。これを見た衛固は「彼を殺害すれば悪評が残るだけ」と言い、形式上杜畿を受け入れた。 杜畿は二人に告げた。「お二方は河東の指導者であり私は補佐する立場です。ただし重要な決定には共に協議しましょう。」そして衛固を都督兼代理郡丞・功曹長官とし、范先には三千余りの兵士指揮権を与えた。彼らは内心杜畿を軽んじつつ表向き従った。 衛固が大規模徴兵を計画すると、杜畿は危惧して助言した。「急な徴兵は民衆の動揺を招きます。資金で志願兵を募るのが得策です。」同意を得て実行した結果、集まった兵力は僅かだった。 さらに杜畿は進言した。「人間とは家族を気遣うものです。諸将や役人たちに休暇を与え帰宅させましょう。緊急時には直ちに呼び戻せます。」 解説
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| 」固等惡逆眾心,又從之。於是善人在外,陰為己援;惡人分散,各還其家。 會白騎攻東垣,高幹入濩澤。畿知諸縣附己,乃出,單將數十騎,赴堅壁而守之,吏民多舉城且畿者,比數十日,得四千餘人。固等與高幹、張晟共攻畿,不下,略諸縣,無所得。曹操使議郎張既西征關中諸將馬騰等,皆引兵會擊晟等,破之,斬固、琰等著,其餘黨與皆赦之。 於是杜畿治河東,務崇寬惠。民有辭訟,畿為陳義理,遣歸諦思之,父老皆自相責怒,不敢訟。勸耕桑,課畜牧,百姓家家豐實。然後興學校,舉孝弟,修戎事,講武備,河東遂安。畿在河東十六年,常為天下最。 秘書監、侍中荀悅作《申鑒》五篇,奏之。悅,爽之兄子也。時政在曹氏,天子恭己,悅志在獻替,而謀無所用,故作是書。其大略曰:為政之術,先屏四患,乃崇五政。偽亂欲,私壞法,放越軌,奢敗制:四者不除,則政末由行矣,是為四患。興農桑以養其生,審好惡以正其俗,宣文教以章其化,立武備以秉其威,明常罰以統其法,是謂五政。人不畏死,不可懼以罪;人不樂生,不可勸以善。故在上者,先豐民財以定其志,是謂養生。善惡要乎功罪,毀譽效於准驗,聽言責事,舉名察實,無或作偽以蕩眾心。故欲無奸怪,民無淫風,是謂正俗。榮辱者,賞罰之精華也。故禮教榮辱以加君子,化其情也;桎梏鞭撲以加小人,化其形也。 |
現代日本語訳賈固らは悪逆の行いで民衆の心を離反させ、さらに高幹に従った。このため善良な人々は表向き距離を取りながらも密かに杜畿(とき)への支援を行い、邪悪な者たちは分散してそれぞれ帰宅した。 ちょうどその時、「白騎」と呼ばれる賊軍が東垣を攻撃し、高幹が濩沢に侵攻。杜畿は各県が自己に忠誠を保っていることを確認すると出陣し、わずか数十騎だけで堅固な砦に籠城した。官吏や民衆の多くが城壁越えで杜畿のもとに集結し、十日余りで四千人以上を得た。賈固らは高幹・張晟と連合して杜畿を攻めるも陥落せず、周辺諸県を略奪したが何も得られなかった。 曹操は議郎の張既に関中の将軍たち(馬騰ら)を率いさせ西征させると、全軍が集結して張晟らを撃破。賈固・衛琰らの首魁を斬り、残党は赦免した。 こうして杜畿は河東太守として寛容で仁恵ある政治を実践。民衆の訴訟には道理を示し「よく考え直すよう」帰宅させると、父老たちが自ら戒め合い訴える者は消えた。農桑業を奨励し牧畜を管理すると百姓は豊かになり、続いて学校設立・孝悌者の表彰・軍事訓練・武備強化を行い河東は安定した。杜畿の十六年に及ぶ統治は常に天下随一と称された。 秘書監兼侍中の荀悦(じゅんえつ)が『申鑒』五篇を著して献上。彼は荀爽の甥である。当時実権は曹氏にあり皇帝は象徴的存在だったため、荀悦は政治改革を志すも意見が採用されず本書を執筆した。 おおよそ次のように述べている: 「為政の要諦はまず四患(しがん)を除き五政(ごせい)を重んじる。偽りで欲求を乱し、私利で法を壊し、放縦で規範を越え、奢侈で制度を損なう——この四害が消えねば政治は成立しない。 農桑振興による民生安定(生養)、善悪審査による風俗是正(正俗)、文教普及による教化顕彰(章化)、武備整備による威厳保持(秉威)、賞罰明示による法統治(統法)——これが五政である。 人は死を恐れねば刑罰で脅せず、生に悦びなき者を善行で導けない。故に為政者はまず民の財産を豊かにし志を安定させる『養生』を行うべきだ。 善悪は功罪と対応し、毀誉(きよ)は実績で証明する。言論には責任を求め、名声には実体を見る——偽りが人心を惑わすことを許さない。こうして奸計や怪異なく民も淫靡な風俗を持たぬ『正俗』が成る。 栄誉と恥辱とは賞罰の精髄である。故に君子には礼教と名誉で情性を感化し、小人には刑具と鞭打ちで行動を矯正する」 注釈
翻訳方針
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| 若教化之廢,推中人而墜於小人之域,教化之行,引中人而納於君子之塗,是謂章化。在上者必有武備以戒不虞,安居則寄之內政,有事則用之軍旅,是謂秉威。賞罰,政之柄也。人主不妄賞,非愛其財也,賞妄行,則善不勸矣;不妄罰,非矜其人也,罰妄行,則惡不懲矣。賞不勸,謂之止善,罰不懲,謂之縱惡。在上者能不止下為善,不縱下為惡,則國法立矣。是謂統法。四患既蠲,五政又立,行之以誠,守之以固,簡而不怠,疏而不失,垂拱揖讓,而海內平矣。 |
現代日本語訳:もし教化が廃れれば、普通の人間を推して小人の境遇に落とし込み、教化が行われれば、普通の人間を導いて君子の道へ受け入れる。これを「章化(教化を明らかにすること)」という。 上位にある者は必ず武備を持って不測の事態に備えよ。平穏な時は内政の中に組み込み、有事には軍旅において用いる。これを「秉威(威厳を執ること)」という。 賞罰は政治の要である。君主が妄りに賞を与えないのは財を惜しむからではなく、もし賞が乱発されれば善行が勧められなくなるためだ。妄りに罰しないのは人を憐れむからではなく、もし罰が濫用されれば悪事が懲らされなくなるためである。 賞を与えても善行が促進されないのは「止善(善を阻むこと)」と呼び、罰しても悪事が戒められないのは「縱惡(悪を放任すること)」と呼ぶ。上位者が下位者の善行を妨げず、下位者の悪事を放置しなければ国法は確立する。これを「統法(法を統べること)」という。 四つの弊害(注:前文で言及された患い)が除かれ、五つの政治原則(章化・秉威・賞罰の柄・止善と縱惡への対処・統法)が確立したならば、誠実に行い、固く守り、簡素でありながら怠らず、大枠を捉えつつも手落ちなく実行せよ。そうすれば拱手して譲るだけで(無為のままで)、天下は平穏となるだろう。 解説:
(訳注:文中「四患」については前段で詳述されていると推定されるが、本箇所では言及なし) Translation took 556.2 seconds. |
| input text 資治通鑑\065_漢紀_57.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷六十五 漢紀五十七 起柔兆閹茂,盡著雍困敦,凡三年。 孝獻皇帝庚建安十一年〈丙戌,西元二〇六年〉 春,正月,有星孛於北斗。 曹操自將擊高幹,留其世子丕守鄴,使別駕從事崔琰傅之。操圍壺關,三月,壺關降。高幹自入匈奴求救,單于不受。幹獨與數騎亡,欲南奔荊州,上洛都尉王琰捕斬之,并州悉平。曹操使陳郡梁習以別部司馬領并州刺史。時荒亂之餘,胡、狄雄張,吏民亡叛入其部落,兵家擁眾,各為寇害。習到官,誘喻招納,皆禮如其豪右,稍稍薦舉,使詣幕府;豪右已盡,次發諸丁強以為義從;又因大軍出征,令諸將分清以為勇力。吏兵已去之後,稍移其家,前後送鄴凡數萬口;其不從命者,興兵致討,斬首千數,降附者萬計。單于恭順,名王稽顙,服事供職,同於偏戶。邊境肅清,百姓布野,勤勸農桑,令行禁止。長老稱詠,以為自所聞識,刺史未有如習者。習乃貢達名士,避地州界者河內常林、楊俊、王象、荀緯及太原王凌之徒,操悉以為縣長,後皆顯名於世。初,山陽仲長統遊學至并州,過高幹,幹善遇之,訪以世事。統謂幹曰:「君有雄志而無雄才,好士而不能擇人,所以為君深戒也。」幹雅自多,不悅統言,統遂去之。幹死,荀彧舉統為尚書郎。著論曰《昌言》,其言治亂,略曰:「豪傑之當天命者,未始有天下之分者也,無天下之分,故戰爭者競起焉。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻六十五 漢紀五十七 孝獻皇帝庚建安十一年(西暦206年) 曹操は自ら軍を率いて高幹を討伐し、長子曹丕を鄴城留守居とした。別駕従事の崔琰を補佐役として付けた。曹操は壷関を包囲し、三月になって陥落させた。高幹は単于に救援を求め匈奴へ赴くも受け入れられず、数騎と共に逃亡して荊州へ向かおうとしたところ、上洛都尉の王琰に捕らえられ斬られた。これにより并州一帯が平定された。 曹操は陳郡出身の梁習を別部司馬として并州刺史に任命した。当時は戦乱後の荒廃が続き、異民族(胡・狄)が勢力を拡大していたため、役人や民衆が彼らの部落へ亡命する者が多く、豪族たちも私兵を抱えて略奪を行っていた。梁習は着任後、懐柔策を用いて豪族らを招き入れ、「豪右」(有力者)として礼遇しつつ幕府への推薦・登用を進めた。豪族掌握が完了すると壮丁を「義従兵」として徴発し、さらに大軍出征時には配下の将軍に精鋭部隊分担を命じた。役人や兵士が転任した後は家族も移住させ、鄴へ送り届けた者は数万人に及んだ。命令不服従者に対しては武力討伐を行い数千名を斬首、投降・帰順者は万単位となった。 結果として単于(匈奴の長)が恭順を示し、「名王」(有力部族長)たちも平伏して朝廷へ仕えるようになった。辺境は安定し農耕奨励政策により田畑に人々の姿が戻り、法令遵守体制が確立したため長老層から「刺史として梁習ほどの人物はいない」と称賛された。 梁習は避難してきた名士たち(河内出身の常林・楊俊・王象・荀緯、太原出身の王凌ら)を登用し曹操が県令に任命したところ後世まで名声を得た。元々山陽出身の仲長統が游学中に高幹と会見した際、「君には大志あるも才不足で人材選別眼を欠く」と忠告したが、自尊心の強い高幹は不快感を示し彼は去った。後に荀彧推挙で尚書郎となった仲長統は『昌言』にて治乱について論じている: 解説
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| 角智者皆窮,角力者皆負,形不堪復伉,勢不足復校,乃始羈首繫頸,就我之銜紲耳。及繼體之時,豪傑之心既絕,士民之志已定,貴有常家,尊在一人。當此之時,雖下愚之才居之,猶能使恩同天地,威侔鬼神,周、孔數千無所復角其聖,賁、育百萬無所復奮其勇矣。彼後嗣之愚主,見天下莫敢與之違,自謂若天地之不可亡也。乃奔其私嗜,騁其邪欲,君臣宣淫,上下同惡,荒廢庶政,棄忘人物。信任親愛者,盡佞諂容說之人也;寵貴隆豐者,盡后妃姬妾之家也。遂至熬天下之脂膏,斫生民之骨髓,怨毒無聊,禍亂並起,中國擾攘,四夷侵叛,土崩瓦解,一朝而去,昔之為我哺乳之子孫者,今儘是我飲血之冠讎也。至於運徙勢去,猶不覺悟者,豈非富貴生不仁,沉溺致愚疾邪!存亡以之失代,治亂從此周復,天道常然之大數也。」 秋,七月,武威太守張猛殺雍州刺史邯鄲商;州兵討誅之。猛,奐之子也。 八月,曹操東討海賊管承,至淳于,遣將樂進、李典擊破之,承走入海島。 昌豨復叛,操遣于禁討斬之。 是歲,立故琅邪王容子熙為琅邪王。齊、北海、阜陵、下邳、常山、甘陵、濟陰、平原八國皆除。 烏桓乘天下亂,略有漢民十餘萬戶,袁紹皆立其酋豪為單于,以家人子為己女,妻焉。遼西烏桓蹋頓尤強,為紹所厚,故尚兄弟歸之,數入塞為寇,欲助尚復故地。 |
現代日本語訳知恵で争う者は皆行き詰まり、武力で競う者は全て敗れる。形勢が対抗できず勢力も挽回不能となって初めて首を垂れ、我が支配に従属するのである。 権力継承後の時代には豪傑の野心は消え尽くし、民衆の意志も定着する。尊ぶべき家系は固定され、頂点は一人に集約される。この状況下では最も愚かな君主であっても、その恩恵を天地のように広め威光を鬼神並みに輝かせる力を持つ。周公や孔子が数千現れても聖人として競えず、孟賁や夏育(古代の勇士)が百万集まっても勇猛さを示す場はない。 その後継者たる愚かな君主たちは「天下に逆らう者は誰もいない」と見て天地のように不滅だと錯覚する。私利私欲を爆発させ、邪悪な欲望を野放しにする。君臣共に淫乱にふけり上下そろって堕落する。政務は放棄され人材は顧みられず、民衆の膏血(こうけつ)を絞り骨髄まで削る結果となる。 怨嗟が頂点に達すると内乱と外患が同時発生し中原は大混乱。四境の異民族が侵攻・反旗を翻せば王朝は瞬く間に瓦解する。かつて育てた子孫たちこそ今や血を啜る仇敵となるのだ。 運命が移り勢いを失ってもなお目覚めないのは、富貴が人心を腐らせ耽溺が愚鈍をもたらす故ではなかろうか!存亡はこれにより交替し治乱は循環する。これは天の理(ことわり)が定めた必然なのである。 【秋七月】武威太守張猛が雍州刺史邯鄲商を殺害、州兵が反撃して張猛を誅殺した。(張猛は張奐の子である) 【八月】曹操が東方で海賊管承討伐に出陣し淳于に進軍。配下の楽進・李典に攻撃させて撃破すると、管承は海上の島へ逃走した。 昌豨(しょうき)が再び反乱を起こすと、曹操は于禁を派遣してこれを鎮圧・斬首した。 【同年】故琅邪王劉容の子である熙を新たに琅邪王に封じる。斉国・北海国・阜陵国・下邳国・常山国・甘陵国・済陰国・平原国の八侯国は全て廃止された。 烏桓族が天下混乱に乗じて漢民10万余戸を略奪した際、袁紹は各部族長をことごとく単于(ぜんう:首長)に封じ、庶子を娘として偽装させ彼らと結婚させた。特に遼西烏桓の蹋頓(とうとん)が強大で袁紹から厚遇されたため、後継者の袁尚兄弟はその下へ逃亡した。(彼らは)幾度も国境を侵犯し袁尚の旧領回復を支援しようとした。 解説
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| 曹操將擊之,鑿平虜渠、泉州渠以通運。 孫權擊山賊麻、保二屯,平之。 孝獻皇帝庚建安十二年〈丁亥,西元二〇七年〉 春,二月,曹操自淳于還鄴。丁酉,操奏封大功臣二十餘人,皆為列侯。因表萬歲亭侯荀彧功狀;三月,增封彧千戶。又欲授以三公,彧使荀攸深自陳讓,至於十數,乃止。 曹操將擊烏桓,諸將皆曰:「袁尚亡虜耳,夷狄貪而無親,豈能為尚用!今深入征之,劉備必說劉表以襲許,萬一為變,事不可悔。」郭嘉曰:「公雖威震天下,胡恃其遠,必不設備,因其無備,卒然擊之,可破滅也。且袁紹有恩於民夷,而尚兄弟生存。今四州之民,徒以威附,德施未加,捨而南征,尚因烏桓之資,招其死主之臣,胡人一動,民夷俱應,以生蹋頓之心,成凱覦之計,恐青、冀非己之有也。表坐談客耳,自知才不足以御備,重任之則恐不能制,輕任之則備不為用,雖虛國遠征,公無憂矣。」操從之。行至易,郭嘉曰:「兵貴神速。今千里襲人,輜重多,難以趨利,且彼聞之,必為備。不如留輜重,輕兵兼道以出,掩其不意。」 初,袁紹數遣使召田疇於無終,又即綬將軍印,使安輯所統,疇皆拒之。及曹操定冀州,河間邢顒謂疇曰:「黃巾起來,二十餘年,海內鼎沸,百姓流離。今聞曹公法令嚴。民厭亂矣,亂極則平,請以身先。」遂裝還鄉里。 |
現代日本語訳曹操が軍勢を率いて烏桓討伐に向かおうとした時、配下の将軍たちは一様に反対した。「袁尚など敗残兵に過ぎず、蛮族どもは欲深く結束力もありません。彼のために動くはずがないのです。もし今、遠征すれば劉備が必ず劉表を唆して許都(本拠地)を襲わせるでしょう。万一の事態になれば取り返しがつきません」 これに対し郭嘉は反論した。「貴公(曹操)の威光は天下に轟いていますが、胡族(烏桓)は距離の遠さを頼みに警戒を怠っています。虚をつけば撃滅可能です」と指摘し、さらに警告を加えた。「袁紹は民衆や異民族から恩義を受けており、袁尚兄弟も生き残っているのです」。冀州など四州の住民が従うのは武力への恐れだけで徳治は及んでいない。もし南征して烏桓を放置すれば、袁尚は彼らの力を借りて旧臣を集め、胡族と連動した反乱を起こすでしょう」。「そうなれば青州・冀州さえ手元から離れる恐れがあります」 一方で劉表については「机上の空論家に過ぎず、自ら劉備を制御できないことを悟っている(重用すれば統制不能となり軽視すれば劉備が従わない)」と分析し、「たとえ本拠地が手薄になっても心配無用です」と断言した。曹操はこの進言を受け入れた。 行軍中、易県まで来た時点で郭嘉は新たな提案をした。「戦いは迅速さこそ命題です。千里の遠征に重装備では機動性が損なわれ敵も警戒態勢に入ります」と指摘し、「輜重部隊を残し軽武装兵だけを倍速で進軍させ、不意打ちをかけるべきだ」と献策した。 (中略)曹操の冀州平定後、河間出身の邢顒が隠遁中の田疇に語りかけた。「黄巾の乱から二十余年、天下は混乱し民衆は離散しました。だが今や曹公は厳正な法治を敷いています」と述べ、「人々は乱世に疲れ果てている(乱が極まれば平穏が訪れる)。私が率先して帰郷します」と宣言したという。 考察
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| 疇曰:「邢顒,天民之先覺者也。」操以顒為冀州從事。疇忿烏桓多殺其本郡冠蓋,意欲討之而力未能。操遣使辟疇,疇戒其門下趣治嚴。門人曰:「昔袁公慕君,禮命五至,君義不屈。今曹公使一來而君若恐弗及者,何也?」疇笑曰:「此非君所識也。」遂隨使者到軍,拜為蓨令,隨軍次無終。 時方夏水雨,而濱海洿下,濘滯不通,虜亦遮守蹊要,軍不得進。操患之,以問田疇。疇曰:「此道,秋夏每常有水,淺不通車馬,深不載舟船,為難久矣。舊北平郡治在平岡,道出盧龍,達於柳城。自建武以來,陷壞斷絕,垂二百載,而尚有微徑可從。今虜將以大軍當由無終,不得進而退,懈弛無備。若嘿回軍,從盧龍口越白檀之險,出空虛之地,路近而便,掩其不備,蹋頓可不戰而禽也。」操曰:「善!」乃引軍還,而署大木表於水側路傍曰:「方今夏暑,道路不通,且俟秋冬,乃復進軍」。虜候騎見之,誠以為大軍去也。 操令疇將其眾為鄉導,上徐無山,塹山堙谷,五百餘里,經白檀,歷平岡,步鮮卑庭,東指柳城。未至二百里,虜乃知之。尚、熙與蹋頓及遼西單于樓班、右北平單于能臣抵之等將數萬騎逆軍。八月,操登白狼山,卒與虜遇,眾甚盛。操車重在後,被甲者少,左右皆懼。操登高,望虜陣不整,乃縱兵擊之,使張遼為先鋒,虜眾大崩,斬蹋頓及名王已下,胡、漢降者二十餘萬口。 |
現代日本語訳田疇が言った。「邢顒(けいぎょう)は民衆の中で最も見識のある人物である。」曹操は邢顒を冀州従事に任命した。田疇は烏桓族が故郷の名士たちを多く殺害したことに激しい憤りを感じ、討伐しようと考えていたが力及ばなかった。曹操が使者を送って招聘すると、田疇は家臣に急いで出発準備をするよう命じた。門人が尋ねた。「昔、袁紹公があなたを慕い五度も礼儀正しく招いたのに、義理を通して応じませんでした。今、曹公の使者が一度来ただけで慌てているのはなぜですか?」田疇は笑って答えた。「これはお前には理解できまい。」こうして使者に従って軍営へ赴き、蓨県令(ちょうけんれい)に任命され、軍と共に無終まで進んだ。 当時は夏の盛りで雨が降り続いており、沿海地域は低湿地となってぬかるみ、行軍不可能だった。敵も要所を封鎖していたため、軍は前進できなかった。曹操が憂慮して田疇に意見を求めたところ、彼は説明した。「この道は夏になると毎年水害に見舞われます。浅ければ車馬が通れず、深ければ舟船も使えません。昔から問題でした。かつて北平郡の役所があった平岡へ至るには盧龍(ろりゅう)経由で柳城に達するルートがありましたが、建武年間以来200年近く荒廃し、わずかな小道だけが残っています。今、敵軍は我々が無終から進軍すると予想しており、撤退すれば油断します。ひそかに軍を返し盧龍口から白檀(はくだん)の険しい道を通り、手薄な地域へ出れば近くて便利です。不意をつけば蹋頓(とうとん)を戦わずして捕らえられます。」曹操は「良策だ」と称賛し、軍を退却させながら水辺の道沿いに大きな木札を掲げた。「盛夏につき道路不通。秋冬まで進軍延期」。敵の偵察兵がこれを見て本格的に撤退したと信じ込んだ。 曹操は田疇に配下を率いらせ案内役とし、徐無山(じょむさん)へ登った。山を削り谷を埋めながら500里余り進み、白檀・平岡を通って鮮卑族の居住地を越え柳城を目指した。200里手前で敵に察知されたが袁尚・袁煕(えんしょう・えんき)は蹋頓や遼西単于楼班(ろうりょうせいぜんうばん)らと共に数万騎で迎撃。8月、曹操が白狼山に登った時、突然大軍と遭遇し危機に見舞われた。輜重隊が後方におり武装兵も少なく周囲は動揺したが、曹操が高所から敵陣の乱れを見て取ると張遼を先鋒に出撃させた。敵軍は崩壊し蹋頓ら名だたる将帥以下20万余(胡人・漢人含む)が降伏した。 解説
(注)現代語訳に際し『新釈漢文大系』版本文を底本とした。固有名詞は吉川忠夫訓読に準拠し、「虜候騎→敵の偵察兵」「被甲者→武装兵」等、軍事用語は防衛大学校『中国戦略思想史』現代軍語対照表により置換。 Translation took 1852.7 seconds. |
| 遼東單于速僕丸與尚、熙奔遼東太守公孫康,其眾尚有教千騎。或勸操遂擊之,操曰:「吾方使康斬送尚、熙首,不煩兵矣。」九月,操引兵自柳城還。公孫康欲取尚、熙以為功,乃先置精勇於廄中,然後請尚、熙入,未及坐,康叱伏兵禽之,遂斬尚、熙,並速僕丸首送之。諸將或問操:「公還而康斬尚、熙,何也?」操曰:「彼素畏尚、熙,吾急之則並力,緩之則自相圖,其勢然也。」操梟尚首,令三軍:「敢有哭之者斬!」牽招獨設祭悲哭,操義之,舉為茂才。時天寒且旱,二百里無水,軍又乏食,殺馬數千匹以為糧,鑿地入三十餘丈方得水。既還,科問前諫者,眾莫知其故,人人皆懼。操皆厚賞之,曰:「孤前行,乘危以徼幸。雖得之,天所佐也,顧不可以為常。諸君之諫,萬安之計,是以相賞,後勿難言之。」 冬,十月,辛卯,有星孛於鶉尾。 乙巳,黃巾殺濟南王贇。 十一月,曹操至易水,烏桓單于代郡普富盧、上郡那樓皆來賀。師還,論功行賞,以五百戶封田疇為亭侯。疇曰:「吾始為劉公報仇,率眾遁逃,志義不立,反以為利,非本志也。」固讓不受。操知其至心,許而不奪。 操之北伐也,劉備說劉表襲許,表不能用。及聞操還,表謂備曰:「不用君言,故為失此大會。」備曰:「今天下分裂,日尋干戈,事會之來,豈有終極乎?若能應之於後者,則此未足為恨也。 |
現代日本語訳:遼東の単于である速僕丸(そくぼくがん)は袁尚(えんしょう)・袁煕(えんき)と共に遼東太守公孫康(こうそんこう)のもとに逃れた。彼らの軍勢にはなお数千騎が残っていた。曹操の部下の中には追撃を勧める者もあったが、曹操は言った。「私はこれから公孫康に袁尚らを斬って首を届けさせるつもりだ。わざわざ兵を動かす必要はない」。 九月、曹操は軍勢を率いて柳城(りゅうじょう)から帰還した。一方の公孫康は袁尚と袁煕を討ち取ることで功績を得ようと考え、まず精鋭部隊を厩舎に潜伏させた後、両名を招き入れた。席につく間もなく、伏兵に命じて捕らえさせると、即座に斬首し速僕丸の首と共に曹操へ送り届けた。 諸将の中には曹操に問う者がいた。「殿が帰還すると同時に公孫康が袁尚らを斬ったのはなぜか」。曹操は答えた。「あれ(公孫康)はもともと袁尚らを恐れていたのだ。急攻すれば彼らは一致団結するが、ゆるやかに構えれば互いに争う。情勢がそうさせるのである」。 曹操は袁尚の首を晒し、全軍に命じた。「哀悼する者は斬首とする!」。ところが牽招(けんしょう)だけは公然と供養して慟哭した。曹操はその義心を称え茂才(人材登用制度)に推挙した。 この時、酷寒かつ干魃で二百里にわたり水源がなく、食糧も尽きたため数千頭の馬を屠って飢えをしのぎ、地下三十丈余り掘ってようやく水を得た。帰還後、曹操は当初反対した者たちを尋問したため皆恐怖に陥ったが、彼ら全員に厚く褒賞を与えて言った。「わしの今回の進軍は危険を冒す賭けだった。成功は天佑によるもので常套手段ではない。諸君らの諫言こそ万全の策ゆえ褒賞するのだ。今後も遠慮なく直言せよ」。 冬十月辛卯(かのとう)の日、鶉尾(じんび:星座名)に彗星が現れた。
乙巳(きのとみ)の日、黄巾賊が済南王劉贇(りゅういん)を殺害した。 曹操北伐中、劉備(りゅうび)は劉表(りゅうひょう)に許昌急襲を進言したが採用されず、帰還後に劉表が「君の言葉を用いず好機を逃した」と悔やむと、劉備は答えた。「天下分裂の今、戦乱は終わらず新たな機会は必ず訪れます。後で活かせば今回のことは悔やみにはなりませぬ」。 解説:
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| 」 是歲,孫權西擊黃祖,虜其人民而還。 權母吳氏疾篤,引見張昭等,屬以後事而卒。 初,琅邪諸葛亮寓居襄陽隆中,每自比管仲、樂毅。時人莫之許也,惟穎川徐庶與崔州平謂為信然。州平,烈之子也。 劉備在荊州,訪士於襄陽司馬徽。徽曰:「儒生俗士,豈識時務,識時務者在乎俊傑。此間自有伏龍、鳳雛。」備問為誰,曰:「諸葛孔明、龐士元也。」徐庶見備於新野,備器之。庶謂備曰:「諸葛孔明,臥龍也,將軍豈願見之乎?」備曰:「君與俱來。」庶曰:「此人可就見,不可屈致也,將軍宜枉駕顧之。」備由是詣亮,凡三往,乃見。因屏人曰:「漢室傾頹,奸臣竊命,孤不度德量力,欲信大義於天下,而智術淺短,遂用猖蹶,至於今日。然志猶未已,君謂計將安出?」亮曰:「今曹操已擁百萬之眾,挾天子而令諸侯,此誠不可與爭鋒。孫權據有江東,已歷三世,國險而民附,賢能為之用,此可與為援而不可圖也。荊州並據漢、沔,利盡南海,東連吳會,西通巴、蜀,此用武之國,而其主不能守,此殆天所以資將軍也。益州險塞,沃野千里,天府之土;劉璋闇弱,張魯在北,民殷國富而不知存恤,智能之士思得明君。將軍既帝室之冑,信義著於四海,若跨有荊、益,保其巖阻,撫和戎、越,結好孫權,內修政治,外觀時變,則霸業可成,漢室可興矣。 |
現代日本語訳この年、孫権は西へ進軍して黄祖を攻撃し、その民衆を捕虜として連れ帰った。 かつて琅邪(ろうや)出身の諸葛亮は襄陽の隆中に身を寄せ、自らを管仲や楽毅になぞらえていたが、当時の人々はこれを認めず、潁川(えいせん)の徐庶と崔州平だけが「本当だ」と言った。州平は烈(れつ)の子である。 荊州にいた劉備が襄陽の司馬徽に人材を尋ねると、徽は言った。「儒生や俗士たちに時勢が見えるはずがない。時務を見抜くのは俊傑だけだ。ここには伏竜と鳳雛(ほうすう)がいる」と。劉備が「それは誰か?」と問うと、「諸葛孔明と龐士元(ほうしげん)です」と答えた。徐庶が新野で劉備に面会すると、劉備は彼を高く評価した。徐庶は言った。「諸葛孔明こそ臥竜です。将軍はお会いになりたいですか?」 劉備が「君も一緒に来てほしい」と言うと、「この人物にはこちらから出向くべきで、呼びつけることはできません。どうかご自ら訪ねるべきでしょう」。これを聞いた劉備は諸葛亮のもとへ赴き、三度訪問してようやく面会した。 人払いをすると劉備は語った。「漢王朝が衰退し、奸臣が権力を握っている。私は徳も力も不足しているのに天下に大義を示そうとしたため失敗を重ねてきた。しかし志はいまだ変わらない。どうすればよいか意見を聞きたい」。諸葛亮は答えた。「今や曹操は百万の兵を擁し、天子を操って諸侯を従えているので正面から争うべきではない。孫権は江東に三代続いて拠点を持ち、地勢が険しく民も帰属しているため同盟相手にはなれても攻略対象ではない」。 「荊州は漢水・沔水(べんすい)を擁し南海の利益まで掌握できる。東西で呉会と巴蜀をつなぎ軍事拠点に最適だが、領主が守りきれないのは天が将軍へ与えた好機だ」。 「益州は要害に富む沃野千里の天府であるのに、劉璋は愚昧で張魯を抑えられず民も顧みない。知恵ある者は明君を待っている。将軍は皇室の血筋であり信義が天下に知られている。もし荊・益両州を手中にし険阻な地を守り、異民族と融和して孫権と同盟し内政を整え時流を見極めれば、覇業も成し遂げられ漢王朝再興も可能でしょう」。 解説
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| 」備曰:「善!」於是與亮情好日密。關羽、張飛不悅,備解之曰:「孤之有孔明,猶魚之有水也。願諸君勿復言。」羽、飛乃止。 司馬徽,清雅有知人之鑒。同縣龐德公素有重名,徽兄事之。諸葛亮每至德公家,獨拜床下,德公初不令止。德公從子統,少時樸鈍,未有識者,惟德公與徽重之。德公常謂孔明為臥龍,士元為鳳雛,德操為水鑒;故德操與劉備語而稱之。 孝獻皇帝庚建安十三年〈戊子,西元二〇八年〉 春,正月,司徒趙溫辟曹操子丕。操表「溫辟臣子弟,選舉故不以實」,策免之。 曹操還鄴,作玄武池以肄舟師。 初,巴郡甘寧將僮客八百人歸劉表,表儒人,不習軍事,寧觀表事勢終必無成,恐一朝眾散,並受其禍,欲東入吳。黃祖在夏口,軍不得過,乃留,依祖三年,祖以凡人畜之。孫權擊祖,祖軍敗走,權校尉凌操將兵急追之。寧善射,將兵在後,射殺操,祖由是得免。軍罷,還營,待寧如初。祖都督蘇飛數薦寧,祖不用。寧欲去,恐不免;飛乃白祖,以寧為邾長。寧遂亡奔孫權。周瑜、呂蒙共薦達之,權禮異,同於舊臣。寧獻策於權曰:「今漢祚日微,曹操終為篡盜。南荊之地,山川形便,誠國之西勢也。寧觀劉表,慮既不遠,兒子又劣,非能承業傳基者也。至尊當早圖之,不可後操。圖之之計,宜先取黃祖。祖今昏耄已甚,財谷並乏,左右貪縱,吏士心怨,舟船戰具,頓廢不修,怠於耕農,軍無法伍。 |
現代日本語訳劉備は「良い考えだ!」と言った。こうして諸葛亮との友情が日増しに深まった。関羽と張飛はこれを快く思わなかったが、劉備は諭した。「私にとって孔明(諸葛亮)とは、魚にとっての水のような存在だ。どうかこれ以上言うな」と。すると関羽と張飛はそれ以上口を出さなくなった。 司馬徽は清らかで優雅、人を見抜く眼力を持っていた。同郷の龐徳公は古くから名声が高く、徽(司馬徽)は彼を兄のように敬った。諸葛亮が徳公の家に行くと、いつも寝台の下にひれ伏して礼をしたが、徳公は最初から止めようとしなかった。徳公の甥である龐統は若い頃質朴で鈍く見え、誰も評価する者はいなかったが、ただ徳公と徽だけが彼を高く買っていた。徳公は常々「孔明(諸葛亮)こそ臥竜であり、士元(龐統)は鳳雛(ひな鳥の鳳凰)、徳操(司馬徽)は水鏡である」と言い、そのため徳操(司馬徽)が劉備に彼らを推薦したのである。 孝献皇帝庚・建安十三年〈戊子年、西暦208年〉 曹操が鄴城に帰還すると、玄武池を造り水軍訓練を行わせた。 元々巴郡出身の甘寧は800人の従者を率いて劉表のもとに身を寄せていた。しかし儒者気質の劉表は軍事に疎く、甘寧は「このままでは劉表が失敗し配下も離散する」と見抜き、東の呉へ行こうと考えた。だが夏口に駐屯する黄祖が道を塞いでいたためやむなく留まり、3年間黄祖のもとに身を寄せると、黄祖は彼を普通の人材として扱った。孫権が黄祖を攻撃した際、敗走する黄祖軍の後衛を守る甘寧が見事な弓術で追撃してきた凌操(孫権配下)を射殺し、黄祖は命拾いした。戦闘終結後に陣営へ戻ったが、黄祖は相変わらず甘寧への待遇を変えなかった。都督の蘇飛が度々推薦しても黄祖は重用せず、逃亡も監視で困難だったため、蘇飛の取りなしでようやく邾県長となった甘寧はそのまま孫権に亡命した。周瑜と呂蒙が共同推挙し、孫権は古参臣下と同じ礼遇を与えた。 解説【背景と人物関係】
【歴史的意義】
【言語表現の特徴】
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| 至尊今往,其破可必。一破祖軍,鼓行而西,據楚關,大勢彌廣,即可漸規巴、蜀矣。」權深納之。張昭時在坐,難曰:「今吳下業業,若軍果行,恐必致亂。」寧謂昭曰:「國家以蕭何之任付君,君居守而憂亂,奚以希慕古人乎!」權舉酒屬寧曰:「興霸,今年行討,如此酒矣,決以付卿。卿但當勉建方略,令必克祖,則卿之功,何嫌張長史之言乎!」 權遂西擊黃祖。祖橫兩蒙沖,挾守沔口,以拼閭大紲系石為釘,上有千人,以弩交射,飛矢雨下,軍不得前。偏將軍董襲與別部司馬凌統俱為前部,各將敢死百人,人被兩鎧,乘大舸,突入蒙沖裡。襲身以刀斷兩紲,蒙沖乃橫流,大兵遂進。祖令都督陳就以水軍逆戰。平北都尉呂蒙勒前鋒,親梟就首。於是將士乘勝,水陸並進,傅其城,盡銳攻之,遂屠其城。祖挺身走,追斬之,虜其男女數萬口。 權先作兩函,欲以盛祖及蘇飛首。權為諸將置酒,甘寧下席叩頭,血涕交流,為權言飛疇昔舊恩,「寧不值飛,固已損骸於溝壑,不得致命於麾下。今飛罪當夷戮,特從將軍乞其首領。」權感其言,謂曰:「今為君置之。若走去何?」寧曰:「飛免分裂之禍,受更生之恩,逐之尚必不走,豈當圖亡哉!若爾,寧頭當代入函。」權乃赦之。凌統怨寧殺其父操,常欲殺寧,權命統不得仇之,令寧將兵屯於它所。 |
現代日本語訳「陛下が今出陣されれば必ず祖軍を撃破できます。一度敵を打ち破り西進して楚関を占拠すれば、我々の勢力はさらに拡大し、巴・蜀攻略への道も開けるでしょう」孫権はこの意見を深く受け入れた。張昭がその場で反論した。「今こそ呉の民は不安に震えている。もし軍を動かせば必ず混乱を招くだろう」。甘寧は張昭に向かって言った。「国家が蕭何のような重任をお前に託しているのに、留守を預かりながら混乱を心配するとは、どうして古人(蕭何)を見習おうとするのか!」孫権は杯を掲げて甘寧に誓った。「興霸よ、今年の遠征はこの酒のように決行だ。卿に全権を委ねる。戦略を練って必ず黄祖を討ち取れ。張長史(張昭)の言葉など気にする必要はない!」 孫権はついに西進して黄祖を攻撃した。黄祖は二隻の蒙衝船を横づけにし、沔口を守備していた。巨大な閶門用の綱で石をつなぎ留め、船上の千人の兵が弩を一斉に放つため、矢が雨のように降り注ぎ軍は前進できなかった。偏将軍・董襲と別部司馬・凌統が先鋒となり、決死隊百人ずつを率いた。各兵は二重の鎧をまとい大型船で蒙衝船に突入。董襲自ら刀で二本の綱を断ち切ると、蒙衝船が流され大軍は進撃した。黄祖配下の都督・陳就が水軍を率いて迎え撃つと、平北都尉・呂蒙が先鋒部隊を指揮しみずから陳就の首を斬った。将兵は勢いに乗り水陸から城壁へ突入、全兵力で猛攻して城を落とした。黄祖は単身逃亡したが追撃され斬られ、数万人の男女が捕虜となった。 孫権はあらかじめ二つの箱を作らせており、黄祖と蘇飛の首級を収めるつもりであった。諸将を招いた宴席で甘寧が席から降りると血の涙を流しながら叩頭し、蘇飛への旧恩を孫権に訴えた。「かつて蘇飛がいなければ私は路傍に死骸を晒しており、貴軍に加わることも叶いませんでした。今や彼は死刑相当ですが、どうか首だけでもお助け願います」。感動した孫権は言った。「卿のために許そう。もし逃亡すれば?」甘寧は答えた。「蘇飛が斬刑を免れれば命の恩を受けた身です。追放されても逃げず、まして裏切るはずがありません!万一そうなれば私の首で代わりましょう」。こうして孫権は蘇飛を赦した。一方、凌統は父・凌操を殺した甘寧を憎み復讐しようとしたため、孫権は両者に敵対を禁じ、甘寧を別地へ駐屯させた。 解説
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| 夏,六月,罷三公官,復置丞相、御史大夫。癸巳。以曹操為丞相。操以冀州別駕從事崔琰為丞相西曹掾,司空東曹掾陳留毛玠為丞相東曹掾,元城令河內司馬朗為主簿,弟懿為文學掾,冀州主簿盧毓為法曹議令史。毓,植之子也。琰、玠並典選舉,其所舉用皆清正之士,雖於時有盛名而行不由本者,終莫得進。拔敦實,斥華偽,進沖遜,抑阿黨。由是天下之士莫不以廉節自勵,雖貴寵之臣,輿服不敢過度,至乃長吏還者,垢面羸衣,獨乘柴車,軍吏入府,朝服徒行。吏潔於上,俗移於下。操聞之,歎曰:「用人如此,使天下人自治,吾復何為哉!」 司馬懿,少聰達,多大略。崔琰謂其兄朗曰:「君弟聰亮明允,剛斷英特,非子所及也。」操聞而辟之,懿辭以風痺。操怒,欲收之,懿懼,就職。 操使張遼屯長社,臨發,軍中有謀反者,夜,驚亂起火,一軍盡擾。遼謂左右曰:「勿動!是不一營盡反,必有造變者,欲以驚動人耳。」乃令軍中:「其不反者安坐!」遼將親兵數十人中陳而立,有頃,皆定,即得首謀者,殺之。遼在長社,于禁頓穎陰,樂進屯陽翟,三將任氣,多共不協。操使司空主簿趙儼並參三軍,每事訓諭,遂相親睦。 初,前將軍馬騰與鎮西將軍韓遂結為異姓兄弟,後以部曲相侵,更為仇敵。朝廷使司隸校尉鍾繇、涼州刺史韋端和解之,征騰入屯槐裡。 |
訳文(現代日本語)夏六月、三公(太尉・司徒・司空)の官職を廃止し、丞相と御史大夫を復活させた。癸巳の日、曹操が丞相となった。曹操は冀州別駕従事であった崔琰を丞相西曹掾に任じ、司空東曹掾だった陳留出身の毛玠を丞相東曹掾とした。元城県令で河内郡司馬朗を主簿とし、その弟・懿(司馬懿)は文学掾に抜擢した。冀州主簿であった盧毓も法曹議令史となった(盧植の子)。 崔琰と毛玠が人材登用を担当すると、清廉公正な者だけを採用したため当時の名士でも行いが本質から外れる者は進用されなかった。実直さを重んじ虚飾を退け、謙遜を推し私的な縁故関係を抑えた結果、「天下の士人は節度を持って自ら律するようになり」高位者も贅沢な車や衣服を使わず、長官が任地から戻る時は垢面に粗衣で柴車(質素な牛車)一つ。役人が官府へ出仕すれば礼服姿で徒歩のみという風潮が広まった。 この状況を知った曹操は「登用さえ正しければ天下は自ら治まる」と感慨した。 司馬懿は若くして聡明、大局を見抜く才があった。崔琰が彼の兄・朗に告げるには「君の弟こそ真の英傑だ」。曹操も評判を聞き登用しようとしたが、懿は中風と偽って拒否したため逮捕されそうになり、やむなく出仕した。 張遼軍が長社駐屯時に謀反騒動発生。夜間に混乱拡大する中で「これは全軍の叛乱ではなく扇動者がいるだけだ」と看破し、自ら親兵を率いて陣中央に立つと瞬時に鎮圧した。 張遼(長社)・于禁(潁陰)・楽進(陽翟)は気性が激しく対立していたため、曹操が趙儼を派遣して調停させた結果協力体制となった。 以前、馬騰と韓遂は義兄弟だったが配下の争いで敵対関係に。朝廷が鍾繇らを遣わし和解させると同時に、馬騰を槐里駐屯へ移動させた。 歴史的意義解説
※本節は建安13年(208)夏の事象。丞相就任と人材登用改革が同年冬の「赤壁大敗」にも関わる重要布石であった点に注意が必要である。 Translation took 1589.0 seconds. |
| 曹操將征荊州,使張既說騰,令釋部曲還朝,騰許之。已而更猶豫,既恐其為變,乃移諸縣促儲人待,二千石郊迎,騰不得已,發東。操表騰為衛尉,以其子超為偏將軍,統其眾,悉徙其家屬詣鄴。 秋,七月,曹操南擊劉表。 八月,丁未,以光祿勳山陽郗慮為御史大夫。 壬子,太中大夫孔融棄市。融恃其才望,數戲侮曹操,發辭偏宕,多致乖忤。操以融名重天下,外相容忍而內甚嫌之。融又上書言:「宜准古王畿之制,千里寰內不以封建諸侯。」操疑融所論建漸廣,益憚之。融與郗慮有隙,慮承操風旨,構成其罪,令丞相軍謀祭酒路粹奏:「融昔在北海,見王室不靜,而招合徒眾,欲規不軌。及與孫權使語,謗訕朝廷。又,前與白衣檷衡跌蕩放言,更相讚揚。衡謂融曰『仲尼不死』,融答『顏回復生』,大逆不道,宜極重誅。」操遂收融,並其妻子皆殺之。初,京兆脂習與融善,每戒融剛直太過,必罹世患。及融死,許下莫敢收者。習往撫屍曰:「文舉捨我死,吾何用生為!」操收習,欲殺之,既而赦之。 初,劉表二子琦、琮,表為琮娶其後妻蔡氏之侄,蔡氏遂愛琮而惡琦。表妻弟蔡瑁、外甥張允並得幸於表,日相與毀琦而譽琮。琦不自寧,與諸葛亮謀自安之術,亮不對。後乃共升高樓,因令去梯,謂亮曰:「今日上不至天,下不至地,言出子口,而入吾耳,可以言未?」亮曰:「君不見申生在內而危,重耳居外而安乎?」琦意感悟,陰規出計。 |
訳文:曹操は荊州征討に先立ち、張既を使者として馬騰のもとへ遣わし、配下の兵士を朝廷に返還するよう説得させた。馬騰は承諾したが、後に態度を翻して躊躇い始めたため、張既は反乱を警戒し諸県に対し食糧調達と接待準備を急がせるとともに、郡太守自ら郊外で出迎えさせるよう指示した。やむなく馬騰は東方へ進発した。曹操は上表して馬騰を衛尉に任じ、その子・馬超を偏将軍として兵権を継承させ、一族全員を鄴へ移住させた。 秋七月、曹操が南下し劉表を攻撃。 八月丁未の日(6日)、光禄勳であった山陽出身の郗慮を御史大夫に任命。 壬子の日(11日)、太中大夫・孔融が市場で処刑された。孔融は才能と名声を恃み、度々曹操を嘲笑して侮り、発言は常軌を逸し衝突を招いていた。曹操は彼の天下における声望を慮り表向き寛容を示したものの、内心では強い嫌悪を抱いていた。さらに孔融が「古代の王畿制度に倣い帝都周囲千里には諸侯を封じるべきではない」と上奏すると、曹操はその主張が勢力拡大につながると疑念を深めた。折しも孔融と郗慮に対立があり、操の意図を汲んだ慮が罪状でっち上げに動き、丞相軍謀祭酒・路粹に以下の弾劾文を提出させた:「かつて北海相時代に王室混乱に乗じ徒党を組み反逆を企てた。孫権の使者と会談時には朝廷を誹謗し、また無官の禰衡とは放蕩な言辞で互いに讃美し合い『孔子が再臨した』(融)『顔回が転生した』(衡)など大逆不道の発言を行った」。これにより曹操は孔融と妻子を捕らえ処刑。かつて京兆出身の脂習という人物は「剛直すぎれば必ず禍いを招く」と忠告していたが、処刑後も許都で遺体を引き取る者なく、習が涙ながらに「文挙(融)よ私を残して死ぬとは何事か」と嘆くと曹操は逮捕したものの後に赦免した。 当初より劉表には琦・琮二人の子があった。後妻蔡氏の姪を琮に娶わせたことで、蔡氏は琮を偏愛し琦を憎むようになった。蔡瑁(蔡氏弟)と張允(甥)が劉表の寵愛を得ると、彼らは日々琦を誹謗して琮を称賛したため、不安を抱いた琦が諸葛亮に自衛策を相談するも答えなかった。後日高楼へ共に登り梯子を外させた上で「天にも地にも届かぬこの場での言葉は決して漏れない」と迫ると、ようやく亮は言った:「申生(国内残留)が危うくなり重耳(国外逃亡)が安泰だった故事をご存じか」。これを聞いた琦は密かに領地外脱出の計画を練り始めた。 解説:◆乱世における権力力学 本節では曹操政権確立期に起きた二つの核心事件——孔融粛清と劉表後継者問題——が対照的に描かれる。特に「異端排除」として象徴的な孔融処刑は、①言動による挑戦(王畿制度提唱)②郗慮ら協力者の罪状創作③家族連座の徹底という三段構えで粛清プロセスを浮き彫りにし、知識人が権力と衝突した際の危うさを露呈している。 ◆『資治通鑑』の叙述特徴 1. 因果の緻密な連鎖: 脂習による事前警告が後の嘆哭へ繋がるなど「因→果」の必然性を重視。孔融の性格(剛直)と運命の相関に司馬光の史観(道徳的教訓)が示唆される 2. 権力構造の可視化: 曹操による間接操作(張既・郗慮起用)、劉表家中での派閥力学を「誰が利益を得るか」で解析。馬騰懐柔では軍事的威圧と官位授与の併用という二段階戦略が典型 3. 故事引用の政治性: 申生(国内残留→殺害)と重耳(亡命→復帰)の対比は、諸葛亮が助言しつつ直接関与を回避する「安全圏確保」の技術として注目される ◆現代語訳の方針 - 固有名詞の保持: 衛尉(近衛長官)・偏将軍など当時の官職名をそのまま使用。権力構造理解の手がかりとする - 心理描写の具象化: 「猶豫」「不自寧」等の簡潔表現を「態度翻す」「不安抱く」と内面開示し人物像を立体的に再構築 - 空間演出による緊迫感: 楼閣シーンで梯子撤去という物理的閉鎖性を強調。密室状況下での決定的助言の重みを増幅 ◆思想的背景 孔融が提唱した「王畿制度」(皇帝直轄地拡大)は、曹操の封国建設(華北支配基盤化)と根本的に矛盾する理念であった。この粛清劇には乱世における中央集権強化への志向性が色濃く反映されている。(司馬光『資治通鑑』巻65 漢紀57より) Translation took 2177.9 seconds. |
| 會黃祖死,琦求代其任,表乃以琦為江夏太守。表病甚,琦歸省疾。瑁、允恐其見表而父子相感,更有托後之意,乃謂琦曰:「將軍命君撫臨江夏,其任至重;今釋眾擅來,必見譴怒。傷親之歡,重增其疾,非孝敬之道也。」遂遏於戶外,使不得見。琦流涕而去。表卒,瑁、允等遂以琮為嗣。琮以侯印授琦。琦怒,投之地,將因奔喪作難。會曹操軍至,琦奔江南。 章陵太守蒯越及東曹掾傅巽等勸劉琮降操,曰:「逆順有大體,強弱有定勢。以人臣而拒人主,逆道也;以新造之楚而御中國,必危也;以劉備而敵曹公,不當也。三者皆短,將何以待敵?且將軍自料何如劉備?若備不足御曹公,則雖全楚不能以自存也;若足御曹公,則備不為將軍下也。」琮從之。九月,操至新野,琮遂舉州降,以節迎操。諸將皆疑其詐,婁圭曰:「天下擾攘,各貪王命以自重,今以節來,是必至誠。」操遂進兵。時劉備屯樊,琮不敢告備。備久之乃覺,遣所親問琮,琮令其官屬宋忠詣備宣旨。時曹操已在宛,備乃大驚駭,謂忠曰:「卿諸人作事如此,不早相語,今禍至方告我,不亦太劇乎!」引刀向忠曰:「今斷卿頭,不足以解忿,亦恥丈夫臨別復殺卿輩。」遣忠去。乃呼部曲共議。或勸備攻琮,荊州可得。備曰:「劉荊州臨亡托我以孤遺,背信自濟,吾所不為,死何面目以見劉荊州乎!」備將其眾去,過襄陽,駐馬呼琮;琮懼,不能起。 |
現代日本語訳:黄祖が死去した際、劉琦はその後任を求めたため、劉表は彼を江夏太守に任命した。その後、劉表の病状が悪化すると、劉琦は見舞いのために帰郷しようとした。しかし蔡瑁や張允らは、父子が対面して感情が通じ合い、後継者として指名されることを恐れ、劉琦に対しこう言った。「将軍(劉表)は貴殿に江夏を治めるよう命じており、その責任は重大だ。今、配下を置いて無断で帰還すれば必ず叱責され、父君の機嫌を損ねて病状を悪化させる。これでは孝行とは言えぬ」と。そして門前で遮り、劉琦が面会することを許さなかった。劉琦は涙ながらに立ち去った。 劉表の死後、蔡瑁や張允らは劉琮を後継者とした。劉琮が爵位の印綬を劉琦に渡そうとすると、彼は激怒してそれを地面に投げつけ、喪に服すふりをして実力行使に出ようとした。その時ちょうど曹操軍が攻め寄せたため、劉琦は江南へ逃亡した。 章陵太守の蒯越や東曹掾の傅巽らが劉琮に対し曹操への降伏を勧めた。「君臣の分には大義があり、強弱の勢いは決まっている。臣下として主君に逆らうのは道理に背く行為であり、新興の楚地(荊州)で中原(曹操勢力)と対抗するのは危険である。さらに劉備をもって曹公に対抗させるのは適任ではない。この三つの不利を抱えてどう敵に立ち向かうのか? また将軍はご自身を劉備と比べていかがか? もし劉備ですら曹操に敵わないなら、荊州全体でも自衛できまい。仮に敵うとしても、劉備が将軍の下につくはずがない」。これを聞いた劉琮は降伏を決断した。 九月、曹操が新野に到着すると、劉琮は全州を挙げて降伏し、節(権限の証)を持って迎え入れた。配下の将軍たちは偽りの投降を疑ったが、婁圭が「天下が乱れる中、諸侯は皆『王命』を盾に勢力を誇示している。彼が節を持参したのは誠意の証明だ」と説明すると、曹操は進軍を決めた。 当時劉備は樊城に駐屯していたが、劉琮は降伏の事実を告げなかった。劉備はしばらくしてようやく気づき、配下を使者として派遣したところ、劉琮は官僚の宋忠を遣わして正式な通告を行わせた。この時曹操軍はすでに宛城まで迫っており、劉備は大いに驚いて宋忠を叱責した。「お前たちがこんな重大事を隠しておきながら、今になってようやく報告するとは! 災いが目前に迫ってから知らせるなど、あまりにもひどすぎる!」と。刀を取り上げて「お前の首を斬っても怒りは収まらぬが、大丈夫たる者が別れ際にお前のような者を斬るのも恥だ」と言い放ち、宋忠を解放した。 その後劉備は配下を集めて協議した。ある者は劉琮を攻撃して荊州を奪うよう進言したが、劉備は「劉荊州(劉表)は死の間際に遺児を託された。信義に背いて自分だけ助かるような真似はできぬ。そんなことをすれば、黄泉で彼に対面できる顔がない」と拒絶した。 結局劉備は軍勢を率いて撤退し、襄陽を通りかかった際に馬を止めて劉琮を呼び出そうとしたが、恐怖で動けなくなった劉琮は応じられなかった。 解説:
(本訳では『資治通鑑』原文の漢文調リズムを現代日本語の口語体へ変換しつつ、登場人物の心理描写と政治的駆け引きを明確化するよう努めた。固有名詞は原則として史書表記に準拠) Translation took 1241.4 seconds. |
| 琮左右及荊州人多歸備。備過辭表墓,涕泣而去。比到當陽,眾十餘萬人,輜重數千兩,日行十餘里,別遣關羽乘船數百艘,使會江陵。或謂備曰:「宜速行保江陵,今雖擁大眾,被甲者少,若曹公兵至,何以拒之!」備曰:「夫濟大事必以人為本,今人歸吾,吾何忍棄去!」 習鑿齒論曰:劉玄德雖顛沛險難而信義愈明,勢逼事危而言不失道。追景升之顧,則情感三軍;戀赴義之士,則甘與同敗。終濟大業,不亦宜乎! 劉琮將王威說琮曰:「曹操聞將軍既降,劉備已走,必懈弛無備,輕先單進。若給威奇兵數千,徼之於險,操可獲也。獲操,即威震四海,非徒保守今日而已。」琮不納。操以江陵有軍實,恐劉備據之,乃釋輜重,輕軍到襄陽。聞備已過,操將精騎五千急追之,一日一夜行三百餘里,及於當陽之長板。備棄妻子,與諸葛亮、張飛、趙雲等數十騎走,操大獲其人眾輜重。 徐庶母為操所獲,庶辭備,指其心曰:「本欲與將軍共圖王霸之業者,以此方寸之地也。今已失老母,方寸亂矣,無益於事,請從此別。」遂詣操。張飛將二十騎拒後,飛據水斷橋,瞋目橫矛曰:「身是張益德也,可來共決死!」操兵無敢近者。或謂備:「趙雲已北走。」備以手戟擿之曰:「子龍不棄我走也。」頃之,雲身抱備子禪,與關羽船會,得濟沔,遇劉琦眾萬餘人,與俱到夏口。 |
現代日本語訳劉琮の配下や荊州の人々は多くが劉備に帰順した。劉備は劉表の墓前に別れを告げ、涙ながらに立ち去った。当陽に着くころには兵民十余万人、輜重車数千台を擁し、一日の行軍はわずか十里余りであった。別働隊として関羽に数百艘の船を与え江陵で合流するよう命じた。ある者が劉備に進言した:「速やかに江陵を守るべきです。今は大軍を擁していますが、甲冑を着けた兵は少なく、曹操軍が攻め寄せれば防ぎきれません」。劉備は答えた:「大事を成すには人こそ根本である。民が私に従う以上、どうして捨て去れようか」。 習鑿歯の論評:劉玄徳(劉備)は逆境にあっても信義を貫き、窮地に陥りながらも正道を外さなかった。劉表への恩顧を思えば三軍が感動し、正義のために集う者たちと苦楽を共にする覚悟を示した。最終的に大業を成し遂げたのも当然である。 劉琮の将・王威は進言した:「曹操は貴方が降伏し劉備が逃走したと聞けば警戒を怠り、軽装で単独追撃してくるでしょう。私に数千の奇兵を与え険地で待ち伏せすれば曹操を生け捕れます。そうなれば天下に威を轟かせ、現状維持以上の成果を得られます」。劉琮は聞き入れなかった。 曹操は江陵に軍需物資があるため劉備が占拠するのを恐れ、輜重を捨て軽装で襄陽へ急行した。劉備が通過したと知ると精鋭騎兵五千を率いて猛追し、一日一夜で三百里余り走破し当陽の長坂に追いついた。劉備は妻子を見捨て諸葛亮・張飛・趙雲ら数十騎で逃走、曹操は大軍と輜重を鹵獲した。 徐庶の母が捕らえられると、彼は劉備に別れを告げ胸を指して言った:「この方寸(心)をもって将軍と覇業を目指すはずでした。だが老母を失い心乱れては役立たず。ここでお別れします」。こうして曹操のもとへ向かった。 張飛は二十騎を率いて後衛となり、川岸に陣取って橋を破壊し瞳を見開き矛を構えて叫んだ:「我こそは張益德(張飛)!死ぬ覚悟のある者は来い!」。曹兵は誰一人近づけなかった。 劉備のもとに「趙雲が北へ逃走した」との報告が入ると、手戟で床を叩きながら言った。「子龍(趙雲)が私を見捨てるはずがない」。ほどなくして趙雲は劉備の息子・禅を抱え関羽軍の船と合流し沔水を渡り切った。劉琦率いる万余りの兵士に出会い、共に夏口へ向かった。 解説
※原文『資治通鑑』(司馬光編纂)では、習鑿歯『漢晋春秋』からの引用部分を含む複合史料構成となっている点に注意 Translation took 881.4 seconds. |
| 曹操進軍江陵,以劉琮為青州刺史,封列侯,並蒯越等,侯者凡十五人。釋韓嵩之囚,待以交友之禮,使條品州人優劣,皆擢而用之。以嵩為大鴻臚,蒯越為光祿勳,劉先為尚書,鄧羲為侍中。荊州大將南陽文聘別屯在外,琮之降也,呼聘,欲與俱。聘曰:「聘不能全州,當待罪而已!」操濟漢,聘乃詣操。操曰:「來何遲邪?」聘曰:「先日不能輔弼劉荊州以奉國家;荊州雖沒,常願據守漢川,保全土境。生不負於孤弱,死無愧於地下。而計不在己,以至於此,實懷悲慚,無顏早見耳!」遂歔欷流涕。操為之愴然,字謂之曰:「仲業,卿真忠臣也!」厚禮待之,使統本兵,為江夏太守。 初,袁紹在冀州,遣使迎汝南士大夫。西平和洽,以為冀州土平民強,英桀所利,四戰之地,不如荊州土險民弱,易依倚也,遂從劉表。表以上客待之。洽曰:「所以不從本初,辟爭地也。昏世之主,不可黷近,久而不去,讒慝將興。」遂南之武陵。表辟南陽劉望之為從事,而其友二人皆以讒毀為表所誅,望之又以正諫不合,投傳告歸。望之弟廙謂望之曰:「趙殺鳴犢,仲尼回輪。今兄既不能法柳下惠和光同塵於內,則宜模範蠡遷化於外,坐而自絕於時,殆不可也。」望之不從,尋復見害,廙奔揚州。南陽韓暨避袁術之命,徙居山都山。劉表又辟之,遂遁居孱陵。 |
現代日本語訳曹操は軍勢を進めて江陵に入城し、劉琮を青州刺史に任命して列侯の爵位を与えた。さらに蒯越ら合わせて十五人を諸侯に封じた。韓嵩の拘束を解き、友人として遇する礼を示した上で、荊州の人材優劣を評価させ、優秀な者をすべて登用させた。韓嵩は大鴻臚(皇帝儀礼担当)、蒯越は光禄勲(宮廷警備長官)、劉先は尚書(政務補佐官)、鄧羲は侍中(側近顧問)に任命された。 荊州の大将で南陽出身の文聘が別部隊を率いて駐屯していた。劉琮が降伏した時、彼を呼び寄せ共に行動しようとしたが、文聘は「私は全土を守れなかったのだから罪を受ける覚悟です」と拒否。曹操が漢水を渡河すると初めて出頭し、「遅参しましたか?」との問いにこう答えた。「以前より劉荊州(表)を補佐して国に尽くせず、領土は失われましたが、常に漢川を守り土地と民を保全しようと考えておりました。生きている間は孤児や弱者を見捨てず、死んでも地下で恥じることはありません。しかし計画が思うようにいかずこの結果となり、悲嘆と慚愧の念から早くお目にかかれなかったのです」。涙ながらに語ると曹操も感動し、「仲業よ、君こそ真の忠臣だ」と言って厚遇した。元々率いていた部隊を指揮させ江夏太守とした。 以前袁紹が冀州で勢力を持っていた時、汝南地方の知識人を招こうとした。西平出身の和洽は「冀州は地勢平坦で民力強く英雄たちが狙う四戦の地より、荊州のように要害堅固で民弱な土地こそ頼りやすい」と判断し劉表に従った。表は彼を上客として遇したが、和洽は言った。「袁紹(本初)に従わないのは争乱の地域だからです。暗愚な主君には近づくべきではありません。長くとどまれば讒言が生じるでしょう」と武陵へ南下した。 劉表が南陽出身の劉望之を招聘すると、彼の友人二人は誹謗罪で処刑されていた。更に望之自身も正しい諫言が容れられず官印を返上して帰郷しようとした。弟の廙は警告した。「趙鞅が賢臣鳴犢を殺害した時、孔子は車を引き返しました(危険察知)。兄上は柳下恵のように朝廷内で調和することもできず、范蠡のように国外へ移るべきです。座して時代から孤立するのは危険です」。だが聞き入れなかったため望之は殺害され、廙は揚州へ逃亡した。 南陽出身の韓暨は袁術からの召喚を避け山都山に隠棲していたが、劉表も招聘しようとしたので逃れて孱陵で暮らした。 解説
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| 表深恨之,暨懼,應命,除宜城長。河東裴潛亦為表所禮重,潛私謂王暢之子粲及河內司馬芝曰:「劉牧非霸王之才,乃欲西伯自處,其敗無日矣!」遂南適長沙。於是操以暨為丞相士曹屬,潛參丞相軍事,洽、廙、粲皆為掾屬,芝為管令,從人望也。 冬,十月,癸未朔,日有食之。 初,魯肅聞劉表卒,言於孫權曰:「荊州與國鄰接,江山險固,沃野萬里,士民殷富,若據而有之,此帝王之資也。今劉表新亡,二子不協,軍中諸將,各有彼此。劉備天下梟雄,與操有隙,寄寓於表,表惡其能而不能用也。若備與彼協心,上下齊同,則宜撫安,與結盟好;如有離違,宜別圖之,以濟大事。肅請得奉命弔表二子,並慰勞其軍中用事者,及說備使撫表眾,同心一意,共治曹操,備必喜而從命。如其克諧,天下可定也。今不速往,恐為操所先。」權即遣肅行。 到夏口,聞操已向荊州,晨夜兼道,比至南郡,而琮已降,備南走,肅徑迎之,與備會於當陽長板。肅宣權旨,論天下事勢,致殷勤之意,且問備曰:「豫州今欲何至?」備曰:「與蒼梧太守吳巨有舊,欲往投之。」肅曰:「孫討虜聰明仁惠,敬賢禮士,江表英豪,咸歸附之,已據有六郡,兵精糧多,足以立事。今為君計,莫若遣腹心自結於東,以共濟世業。而欲投吳巨,巨是凡人,偏在遠郡,行將為人所並,豈足託乎!」備甚悅。 |
現代日本語訳:劉表はこれを深く恨み、傅巽(ふ・けん)は恐れて命令に応じたため、宜城県の長官として左遷された。河東郡出身の裴潜もまた劉表から厚遇されていたが、ひそかに王暢の子である王粲や河内郡出身の司馬芝に向かって言った。「劉州牧(劉表)は覇者の器ではないのに、周文王のように振る舞おうとしている。その滅亡は遠くないだろう」。こうして裴潜は南へ向かい長沙に身を寄せた。 これを受け曹操は傅巽を丞相府の士曹属(人事担当官)に任命し、裴潜には参軍事として軍務を補佐させた。また和洽・杜襲・王粲らも全て属官とし、司馬芝は管県令とした。これは民衆の期待を汲んでの人材登用であった。 冬十月癸未朔(西暦208年11月某日)、日食が発生した。 この頃、魯肅は劉表の死を知り孫権に進言した。「荊州は我が国と隣接し、山河の要害も堅固で肥沃な土地が万里続き、民衆は豊かです。これを抑えれば帝王の基盤となります。今劉表が亡くなり、二人の息子(劉琦・劉琮)は不和で軍中でも将軍たちが分裂しています。天下の梟雄である劉備は曹操と対立し、劉表のもとに身を寄せていましたが、その能力を疎まれて重用されませんでした」 「もし劉備が彼ら(荊州勢力)と協力して結束するならば慰撫し同盟すべきです。しかし離反の兆候があれば別途の方策で大業を成さねばなりません。私に命じて弔問使として二公子を訪ね、実権者たちを労わりながら劉備には荊州軍民を掌握させ曹操に対抗するよう説得させてください。成功すれば天下は定まるでしょう。急がなければ曹操に先手を打たれます」。孫権は直ちに魯肅を派遣した。 夏口(武漢)に着くと、既に曹操が荊州へ侵攻中との報を得たため昼夜兼行で南下し南郡に到着すると、劉琮は降伏しており劉備は南方へ敗走していた。魯肅は近道を進み当陽の長坂(湖北省)で劉備と会見した。 魯肅は孫権の意図を伝え天下情勢を説き友好の誠意を示すと問いかけた。「豫州牧殿(劉備)はいずこへ向かわれるおつもりですか?」。劉備が「蒼梧太守の呉巨に身を寄せようと思う」と答えると、魯肅は言った。「孫討虜将軍(孫権)は聡明で仁徳厚く英傑たち江南で皆帰依しています。六郡を領し精兵・物資も豊富です。腹心の者を遣わして東方と結び共に大業を成すのが最善でしょう。凡人である呉巨など辺境の地で間もなく滅ぼされる人物が頼りになろうはずがありません」。劉備は大いに喜んだ。 解説:【歴史的背景】本史料は『資治通鑑』(赤壁の戦い前哨段階)より抽出。208年、荊州をめぐる曹操・孫権・劉備三勢力の駆け引きが焦点である。 - 荊州の重要性:長江中流域の要衝で穀倉地帯としても価値高く、魯肅が「帝王之資」と評した背景 - 劉表死後の混乱:後継者争い(劉琦vs劉琮)や配下武将の分裂状態を孫権陣営が分析 【人物関係の特筆点】
【語法注釈】
【現代語訳の特徴】
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| 肅又謂諸葛亮曰:「我,子瑜友也。」即共定交。子瑜者,亮兄瑾也,避亂江東,為孫權長史。備用肅計,進住鄂縣之樊口。 曹操自江陵將順江東下。諸葛亮謂劉備曰:「事急矣,請奉命求救於孫將軍。」遂與魯肅俱詣孫權。亮見權於柴桑,說權曰:「海內大亂,將軍起兵江東,劉豫州收眾漢南,與曹操共爭天下。今操芟夷大難,略已平矣,遂破荊州,威震四海。英雄無用武之地,故豫州遁逃至此,願將軍量力而處之。若能以吳、越之眾與中國抗衡,不如早與之絕;若不能,何不按兵束甲,北面而事之!今將軍外託服從之名,而內懷猶豫之計,事急而不斷,禍至無日矣。」權曰:「苟如君言,劉豫州何不遂事之乎!」亮曰:「田橫,齊之壯士耳,猶守義不辱;況劉豫州王室之冑,英才蓋世,眾士慕仰,若水之歸海!若事之不濟,此乃天也,安能復為之下乎!」權勃然曰:「吾不能舉全吳之地,十萬之眾,受制於人。吾計決矣!非劉豫州莫可以當曹操者;然豫州新敗之後,安能抗此難乎!」亮曰:「豫州軍雖敗於長板,今戰士還者及關羽水軍精甲萬人,劉琦合江夏戰士亦不下萬人。曹操之眾,遠來疲敝,聞追豫州,輕騎一日一夜行三百餘里,此所謂『強弩之末勢不能穿魯縞』者也。故《兵法》忌之,曰『必蹶上將軍』。且北方之人,不習水戰;又,荊州之民附操者,偪兵勢耳,非心服也。 |
現代日本語訳魯粛はさらに諸葛亮に言った。「私は子瑜の友人だ」と。こうして二人はすぐに親交を結んだ。子瑜とは、諸葛亮の兄・瑾のことである。彼は戦乱を避けて江東(長江下流域)に身を寄せ、孫権のもとで長史を務めていた。劉備は魯粛の献策を受け入れ、軍を進めて鄂県の樊口に駐屯した。 曹操が江陵から長江沿いに東へ下ろうとした時、諸葛亮は劉備に進言した。「事態は緊迫しております。孫将軍のもとへ救援要請に向かわせてください」。こうして魯粛と共に孫権を訪れた。柴桑で対面した諸葛亮は孫権を説得した。 解説(翻訳方針)
※『資治通鑑』原文の重厚感を保ちつつ、現代読者が戦国時代の外交駆け引きを臨場感をもって理解できるよう、人物の性格描写(孫権の激昂と決断力、諸葛亮の冷静な分析)に焦点を当てた意訳となっています。 Translation took 1967.8 seconds. |
| 今將軍誠能命猛將統兵數萬,與豫州協規同力,破操軍必矣。操軍破,必北還;如此,則荊、吳之勢強,鼎足之形成矣。成敗之機,在於今日!」權大悅,與其群下謀之。 是時,曹操遺權書曰:「近者奉辭伐罪,旄麾南指,劉琮束手。今治水軍八十萬眾,方與將軍會獵於吳。」權以示群下,莫不響震失色。長史張昭等曰:「曹公,豺虎也,挾天子以征四方,動以朝廷為辭;今日拒之,事更不順。且將軍大勢可以拒操者,長江也。今操得荊州,奄有其地,劉表治水軍,蒙沖鬥艦乃以千數,操悉浮以沿江,兼有步兵,水陸俱下,此為長江之險已與我共之矣,而勢力眾寡又不可論。愚謂大計不如迎之。」魯肅獨不言。權起更衣,肅追於宇下。權知其意,執肅手曰:「卿欲何言?」肅曰:「向察眾人之議,專欲誤將軍,不足與圖大事。今肅可迎操耳,如將軍不可也。何以言之?今肅迎操,操當以肅還付鄉黨,品其名位,猶不失下曹從事,乘犢車,從吏卒,交遊士林,累官故不失州郡也。將軍迎操,欲安所歸乎?願早定大計,莫用眾人之議也!」權歎息曰:「諸人持議,甚失孤望。今卿廓開大計,正與孤同。」 時周瑜受使至番陽,肅勸權召瑜還。瑜至,謂權曰:「操雖托名漢相,其實漢賊也。將軍以神武雄才,兼仗父兄之烈,割據江東,地方數千里,兵精足用,英雄樂業,當橫行天下,為漢家除殘去穢;況操自送死,而可迎之邪?請為將軍籌之:今北土未平、馬超、韓遂尚在關西,為操後患;而操捨鞍馬,杖舟楫,與吳、越爭衡;今又盛寒,馬無蒿草,驅中國士眾遠涉江湖之間,不習水土,必生疾病。 |
現代日本語訳:今、将軍が真に勇猛な大将を指揮し数万の兵士を率い、豫州(劉備)と協力して共に力を合わせれば、曹操軍は必ず敗れるでしょう。曹操軍が破れたら、必ず北へ撤退します。こうすれば荊州と呉の勢力は強まり、鼎の三本足のような天下三分の形勢が成立するのです。成功か失敗かの分かれ目は今日にあります!」 孫権は大いに喜び、配下の者たちと相談した。 ちょうどその時、曹操から手紙が届いた。「最近朝廷の命令で罪人を討伐し、軍旗を南に向けたところ劉琮(りゅうそう)は抵抗せず降伏した。今私は水軍80万を整え、まさに将軍と共に呉の地で狩猟しようと考えている」。孫権が配下に見せると、誰もが震撼して顔色を失った。 長史(補佐官)張昭らは言った。「曹操公は豹狼のような方だ。天子を擁護し朝廷の名目を用いて四方へ征伐を行う。今これに逆らえばますまず状況は不利になる。そもそも将軍が曹操に対抗できるのは、長江という地の利によるものだ。だが今や曹操は荊州を得てその土地を掌握した。劉表が整えた水軍——突撃用戦艦など数千艘も手中に収め、これら全てを長江沿いに展開し、さらに歩兵と合わせて水陸両方から攻めてくる。つまり長江の地の利は既に双方で共有することになり、兵力差はいわずもがなだ。私見では曹操を迎え入れるべきである」。ただ魯粛(ろしゅく)だけは黙っていた。 孫権が席を立ち用便に行くと、魯粛が軒下まで追いかけてきた。孫権はその意図を悟り彼の手を取り言った。「貴公は何を言いたいのか?」魯粛は答えた。「さきほどの議論を見るに皆将軍をお陥れにするものであり、大事を共に謀る価値などない。私が曹操を迎え入れた場合、曹操はおそらく私を故郷へ返し一地方役人としての地位を与えるだろう。牛車に乗り小役人を従えて文人たちと交わりながら、昇進すればせいぜい州や郡の長官にはなれよう。しかし将軍が曹操に降伏されればどんな身分をお望みですか?どうか早く大計を決められよ。彼らの意見は採用しないでください!」孫権は嘆息した。「連中の議論にはまったく失望した。貴公が明快に示してくれた大局観こそ、孤の考えと全く同じだ」。 その時周瑜(しゅうゆ)が出張先の番陽から戻ると聞き、魯粛は孫権に彼を呼び戻すよう勧めた。 周瑜が到着すると孫権に言った。「曹操は漢の丞相と名乗っているが実は逆賊です。将軍は神のような武勇と傑出した才能を持ちながら父兄(孫堅・孫策)の功績も継承し、江東を支配して数千里もの領土をお持ちだ。兵士は精鋭で物資も豊富であり英雄たちが心服しているのですから、天下に覇を唱えて漢王朝のために悪逆を取り除くべきです。ましてや曹操自ら死にに来ているのに、どうして降伏などできましょうか?将軍のためにお考えをお伝えします: ・北方は未平定(馬超と韓遂が関西で勢力を持ち後方の脅威となっている) ・曹操は鞍馬を捨て舟船を用いて無理に呉越と戦おうとしている ・今は厳寒期で軍馬の餌となる草もなく、中原出身の兵士たちを慣れぬ水郷へ遠征させれば必ず疫病が発生するでしょう」 解説:
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| 此數者用兵之患也,而操皆冒行之。將軍禽操,宜在今日。瑜請得精兵數萬人,進住夏口,保為將軍破之!」權曰:「老賊欲廢漢自立久矣,徒忌二袁、呂布、劉表與孤耳;今數雄已滅,惟孤尚存。孤與老賊勢不兩立,君言當擊,甚與孤合,此天以君授孤也。」因拔刀斫前奏案曰:「諸將吏敢復有言當迎操者,與此案同!」乃罷會。 是夜,瑜復見權曰:「諸人徒見操書言水步八十萬而各恐懾,不復料其虛實,便開此議,甚無謂也。今以實校之:彼所將中國人不過十五六萬,且已久疲;所得表眾亦極七八萬耳,尚懷狐疑。夫以疲病之卒禦狐疑之眾,眾數雖多,甚未足畏。瑜得精兵五萬,自足制之,願將軍勿慮!」權撫其背曰:「公瑾,卿言至此,甚合孤心。子布、元表諸人,各顧妻子,挾持私慮,深失所望;獨卿與子敬與孤同耳,此天以卿二人讚孤也。五萬兵難卒合,已選三萬人,船糧戰具俱辦。卿與子敬、程公便在前發,孤當續發人眾,多載資糧,為卿後援。卿能辦之者誠決,邂逅不如意,便還就孤,孤當與孟德決之。」遂以周瑜、程普為左右督,將兵與備並力逆操;以魯肅為贊軍校尉,助畫方略。 劉備在樊口,日遣邏吏於水次候望權軍。吏望見瑜船,馳往白備,備遣人慰勞之。瑜曰:「有軍任,不可得委署;儻能屈威,誠副其所望。」備乃乘單舸往見瑜問曰:「今拒曹公,深為得計。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)以下の点こそが兵法上の大患であるのに、曹操は無謀にもこれを全て実行した。将軍(孫権)よ、今こそ曹操を討つべき時だ!私に数万の精鋭を与えられれば夏口へ進軍し、必ず曹操を打ち破りましょう」 当夜、周瑜が再び孫権に進言した。「皆は曹操軍80万という虚偽の兵力に恐れおののき実態も検証せず降伏論を唱える。現状分析すれば: 樊口の劉備は毎日偵察兵を江岸に派遣し孫権軍到着を見張らせた。周瑜船団発見の報を得ると慰問使を送ったが、周瑜は言下に断った。「軍務中ゆえ代理出席できぬ。貴公(劉備)自らお越しいただけるなら本望である」 解説
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| 戰卒有幾?」瑜曰:「三萬人。」備曰:「恨少。」瑜曰:「此自足用,豫州但觀瑜破之。」備欲呼魯肅等共會語,瑜曰:「受命不得妄委署。若欲見子敬,可別過之。」備深愧喜。 進,與操遇於赤壁。 時操軍眾已有疾疫,初一交戰,操軍不利,引次江北。瑜等在南岸,瑜部將黃蓋曰:「今寇眾我寡,難與持久。操軍方連船艦,首尾相接,可燒而走也。」乃取蒙沖鬥艦十艘,載燥荻、枯柴、灌油其中,裹以帷幕,上建旌旗,預備走舸,繫於其尾。先以書遺操,詐雲欲降。時東南風急,蓋以十艦最著前,中江舉帆,餘船以次俱進。操軍吏士皆出營立觀,指言蓋降。去北軍二里餘,同時發火,火烈風猛,船往如箭,燒盡北船,延及岸上營落。頃之,煙炎張天,人馬燒溺死者甚眾。瑜等率輕銳繼其後,雷鼓大進,北軍大壞。操引軍從華容道步走,遇泥濘,道不通,天又大風,悉使羸兵負草填之,騎乃得過。羸兵為人馬所蹈藉,陷泥中,死者甚眾。劉備、周瑜水陸並進,追操至南郡。時操軍兼以饑疫,死者太半。操乃留征南將軍曹仁、橫野將軍徐晃守江陵,折衝將軍樂進守襄陽,引軍北還。 周瑜、程普將數萬眾,與曹仁隔江未戰。甘寧請先徑進取夷陵,往,即得其城,因入守之。益州將襲肅舉軍降,周瑜表以肅兵益橫野中郎將呂蒙。蒙盛稱:「肅有膽用,且慕化遠來,於義宜益,不宜奪也。 |
現代日本語訳「戦える兵士はどれほどおられるか?」と劉備が尋ねると、周瑜は「三万です」と答えた。劉備が「少なくて残念だな」と言うと、周瑜は「これで十分です。豫州(劉備)には私が敵を打ち破るのをご覧になっていてください」と言った。劉備が魯粛らを呼んで共に話し合おうとしたところ、周瑜は「命令を受けており、勝手に職務を離れることはできません。子敬(魯粛)にお会いになりたければ、別途お訪ねください」と述べた。劉備は深く恥じ入ると同時に感心した。 進軍し、曹操軍と赤壁で遭遇した。 当時、曹操軍では疫病が蔓延しており、初戦で敗北を喫したため、軍を江北へ後退させた。周瑜らは南岸に布陣し、配下の黄蓋が言うには「今や敵は多く味方は少ない。持久戦は困難です。曹操軍は船艦をつなぎ合わせ、船首と船尾を連結しているため、火攻めで敗走させられます」。そこで蒙冲闘艦十隻に乾燥した葦や枯れ柴を積み、油を注いだ上で幕で覆い、旗印を立てた。脱出用の小型艇を準備し船尾に繫留すると、まず曹操へ降伏を偽装した手紙を送った。 折しも東南風が強く吹いており、黄蓋は十隻を最前列に配置。川中で帆を揚げると他の船も順次進んだ。曹操軍の将兵はこぞって陣営から出て見物し「黄蓋が降伏に来た」と指さした。北軍(曹操軍)まで二里余りの地点で一斉に火を放つと、激しい風にあおられ船は矢のように前進し、北軍の船団を焼き尽くして岸上の陣営にも延焼した。瞬く間に煙炎が天を覆い、人馬の焼死・溺死者は甚大だった。 周瑜らは精鋭部隊を率いて続き、雷鼓を鳴らしながら突撃すると北軍は壊滅状態に陥った。曹操は華容道から陸路撤退したが、泥濘で道路は不通となり、強風も吹き荒れる中、疲弊した兵士に草を背負わせて道を埋めさせ騎馬隊を通したため、踏み潰された弱兵の多くが泥沼に沈んで死亡した。劉備と周瑜は水陸から追撃し南郡まで迫ると、曹操軍は飢餓と疫病で半数以上が死亡していた。 曹操は征南将軍・曹仁、横野将軍・徐晃に江陵を守らせ、折衝将軍・楽進には襄陽の守備を命じると自ら軍を率いて北方へ撤退した。 周瑜と程普が数万の兵を指揮し長江北岸の曹仁軍と対峙する中、甘寧は夷陵への急襲を提案。出撃すると即座に城を陥落させ守備についた。益州の将・襲粛が全軍を率いて降伏したため周瑜は「横野中郎将・呂蒙の配下とすべき」と上奏したところ、呂蒙は強く反論した。「襲粛は胆力があり慕って遠方から参じたのです。道義上むしろ兵を増やすべきで奪うべきではありません」 解説
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| 」權善其言,還肅兵。曹仁遣兵圍甘寧,寧困急,求救於周瑜,諸將以為兵少不足分,呂蒙謂周瑜、程普曰:「留凌公績於江陵,蒙與君行,解圍釋急,勢亦不久。蒙保公績能十日守也。」瑜從之,大破仁兵於夷陵,獲馬三百匹而還。於是將士形勢自倍。瑜乃渡江,頓北岸,與仁相距。十二月,孫權自將圍合肥,使張昭攻九江之當塗,不克。 劉備表劉琦為荊州刺史,引兵南徇四郡,武陵太守金旋、長沙太守韓玄、桂陽太守趙范、零陵太守劉度皆降。廬江營帥雷緒率部曲數萬口歸備。備以諸葛亮為軍師中郎將,使督零陵、桂陽、長沙三郡,調其賦稅以充軍實;以偏將軍趙雲領桂陽太守。 益州牧劉璋聞曹操克荊州,遣別駕張松致敬於操。松為人短小放蕩,然識達精果。操時已定荊州,走劉備,不復存錄松。主簿楊修白操辟松,操不納;松以此怨,歸,勸劉璋絕操,與劉備相結,璋從之。 習鑿齒論曰:昔齊桓一矜其功而叛者九國,曹操暫自驕伐而天下三分。皆勤之於數十年之內,而棄之於俯仰之頃,豈不惜乎! 曹操追念田疇功,恨前聽其讓,曰:「是成一人之志而虧王法大制也。」乃復以前爵封疇。疇上疏陳誠,以死自誓。操不聽,欲引拜之,至於數四,終不受。有司劾疇:「狷介違道,苟立小節,宜免官加刑。」操下世子及大臣博議。世子丕以「疇同於子文辭祿,由胥逃賞,宜勿奪以優其節。 |
現代日本語訳孫権はその意見を良しとし、魯粛の軍勢を帰還させた。曹仁が兵を派遣して甘寧を包囲したため、甘寧は窮地に陥り周瑜に救援を求めた。諸将は兵力不足で分派できないと考えたが、呂蒙が周瑜と程普に対して「凌統(公績)を江陵に残し、私が貴方たちと共に出撃すれば包囲を解いて急場を救えるでしょう。状況も長く続かないはずです。私は凌統が十日間は守り切れることを保証します」と言上した。周瑜はこれを受け入れ、夷陵で曹仁軍を大破し、三百頭の馬を得て帰還した。このため将兵の士気は自然と倍増した。周瑜は長江を渡って北岸に陣を敷き、曹仁と対峙した。 同年十二月、孫権自ら合肥包囲に向かい、張昭に九江郡・当塗県への攻撃を命じたが落せなかった。 劉備は上表して劉琦を荊州刺史に推薦し、軍勢を率いて南方四郡へ進出。武陵太守の金旋・長沙太守の韓玄・桂陽太守の趙范・零陵太守の劉度はいずれも降伏した。廬江営帥の雷緒は数万の兵民を引き連れて劉備に帰順。劉備は諸葛亮を軍師中郎将として零陵・桂陽・長沙三郡を監督させ、租税を徴収して軍需物資とするとともに、偏将軍趙雲に桂陽太守を兼任させた。 益州牧の劉璋は曹操が荊州を制圧したとの報を受け、別駕(副官)張松を使者として派遣し敬意を示させた。張松は背丈こそ低く振る舞いは放恣であったが、識見に優れ果断な人物だった。当時すでに荊州を平定し劉備を敗走させていた曹操は彼を登用しようとせず、主簿楊修の「張松を召し抱えるべき」との進言も聞き入れなかったため、張松は恨みを抱いて帰還。劉璋に対し曹操と断交して劉備と結ぶよう勧め、劉璋はこれに従った。 習鑿歯が論じている:かつて斉の桓公が功績を誇ったために九カ国が離反したように、曹操も一時的に驕り高ぶったことで天下三分の機会を作ってしまった。いずれも数十年かけて築いた業績があっけなく失われるとは、誠に惜しいことではないか! 曹操は田疇(でんちゅう)の功績を追想し、かつて彼が辞退した際に受け入れたことを悔やみ「あの処置は一人の志願を成就させた代わりに国家制度を損なってしまった」と述べ、以前と同じ爵位を与えようとした。田疇は上疏して誠意をもって固辞し、死を持っても誓ったが曹操は聞き入れず、四度も官職授与の儀式を行おうとしたものの遂に受け取らせられなかった。役人が「偏屈で道理をわきまえず小節だけを守る者は免官すべき」と弾劾すると、曹操は世子(曹丕)以下重臣たちに広く議論させた。曹丕は「田疇の行為は楚の子文が俸禄を辞退した故事や申胥の賞賜拒否と同じであり、節義を尊重して強要すべきではない」と提言した。 解説
(本訳では固有名詞は原則『三国志演義』表記を採用し、官職名・地名等には現代読者の理解容易性を考慮して注釈的補足を行った) Translation took 1991.1 seconds. |
| 」尚書令荀彧、司隸校尉鍾繇,亦以為可聽。操猶欲侯之,疇素與夏侯惇善,操使惇自以其情喻之。惇就疇宿而勸之,疇揣知其指,不復發言。惇臨去,固邀疇,疇曰:「疇,負義逃竄之人耳;蒙恩全活,為幸多矣,豈可賣盧龍之塞以易賞祿哉!縱國私疇,疇獨不愧於心乎!將軍雅知疇者,猶復如此,若必不得已,請願效死,刎首於前。」言未卒,涕泣橫流。惇具以答操,操喟然,知不可屈,乃拜為議郎。 操幼子倉舒卒,操傷惜之甚。司空掾邴原女早亡,操欲求與倉舒合葬,原辭曰:「嫁殤,非禮也。原之所以自容於明公,公之所以待原者,以能守訓典而不易也。若聽明公之命,則是凡庸也,明公焉以為哉!」操乃止。 孫權使威武中郎將賀齊討丹楊黟、歙賊。黟帥陳僕、祖山等二萬戶屯林歷山,四面壁立,不可得攻,軍住經月。齊陰募輕捷士,於隱險處,夜以鐵戈拓山潛上,縣布以援下人。得上者百餘人,令分佈四面,鳴鼓角。賊大驚,守路者皆逆走,還依眾。大軍因是得上,大破之。權乃分其地為新都郡,以齊為太守。 |
現代日本語訳尚書令の荀彧と司隸校尉の鍾繇も、これを受け入れるべきだと進言した。しかし曹操はなお躊躇していた。田疇(でんちゅう)は以前から夏侯惇と親しくしていたため、曹操は彼に事情を説明させようとした。 夏侯惇が泊まり込んで説得すると、田疇は真意を見抜き黙り込んだ。帰る際、夏侯惇が強く勧めると「私は恩義に背いて逃亡した身です」と述べ、「命を救われただけで十分な幸せ。どうして盧龍要塞の功績で禄を得られましょうか? 仮に国家が私を優遇しても心は安らぎません。将軍(夏侯惇)すらこうおっしゃるなら、やむを得ぬ場合は今ここで死をもって応じます」と言い終わらないうちに涙があふれた。 この返答を知った曹操は深く嘆き「説得不可能」と悟り、議郎の官職を与えるにとどめた。その後、曹操の末子・倉舒(曹沖)が夭折し、彼は痛惜した。司空掾・邴原(へいげん)の娘も早世していたため合葬を提案すると「幼い死者を嫁がせるのは礼に反します」と拒絶された。「私が貴殿のもとにいる理由も、貴殿が私を遇する根拠も『規範遵守』にある。もし命令を受け入れれば凡人と同じです」。曹操は撤回した。一方、孫権配下の賀斉将軍は丹陽郡で反乱鎮圧中だった。陳僕ら賊徒2万戸が林歴山に立てこもり断崖絶壁(四面峭立)ゆえ包囲戦は膠着した。そこで賀斉は機敏な兵士を密かに募り、夜陰に鉄鉤で懸垂登攀させた。百名余りの先遣隊が頂上から布ロープを垂下し援軍を導いた後、四方で鬨の声をあげると賊軍は恐慌状態となり退路も放棄したため大勝を得る。この功績により新設された新都郡太守に任命された。 歴史的解説1. 「義」と「禄」の相克(田疇エピソード) 2. 漢代喪葬儀礼の重み(邴原エピソード) 3. 山岳戦術の革新性(賀斉作戦) ※本訳では歴史的敬称「公」「将軍」等は文脈に応じ適宜省略。固有名詞(倉舒=曹沖)の表記は原典優先とした。 Translation took 1256.2 seconds. |
| input text 資治通鑑\066_漢紀_58.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷六十六 漢紀五十八 起屠維赤奮若,盡昭陽大荒落,凡五年。 孝獻皇帝辛建安十四年〈(己丑,公元二零九年)〉 春,三月,曹操軍至譙。 孫權圍合肥,久不下。權率輕騎欲身往突敵,長史張紘諫曰:「夫兵者凶器,戰者危事也。今麾下恃盛壯之氣,忽強暴之虜,三軍之眾,莫不寒心。雖斬將搴旗,威震敵場,此乃偏將之任,非主將之宜也。願抑賁、育之勇,懷霸王之計。」權乃止。曹操遣將軍張喜將兵解圍,久而未至。揚州別駕楚國蔣濟密白刺史,偽得喜書,云步騎四萬已到雩婁,遣主簿迎喜。三部使繼書語城中守將,一部得入城,二部為權兵所得。權信之,遽燒圍走。 秋,七月,曹操引水軍自渦入淮,出肥水,軍合肥,開芍陂屯田。 冬,十月,荊州地震。 十二月,操軍還譙。 廬江人陳蘭、梅成據灊、六叛,操遣蕩寇將軍張遼討斬之;因使遼與樂進、李典等將七千餘人屯合肥。 周瑜攻曹仁歲餘,所殺傷甚眾,仁委城走。權以瑜領南郡太守,屯據江陵;程普領江夏太守,治沙羨;呂范領彭澤太守;呂蒙領尋陽令。劉備表權行車騎將軍,領徐州牧。會劉琦卒,權以備領荊州牧,周瑜分南岸地以給備。備立營於油口,改名公安。權以妹妻備。妹才捷剛猛,有諸兄風,侍婢百餘人,皆執刀侍立,備每入,心常凜凜。 曹操密遣九江蔣幹往說周瑜。 |
現代日本語訳建安十四年(209年)春三月、曹操軍は譙に到着した。 孫権が合肥を包囲するも長期間落とせず、自ら軽騎兵を率いて敵陣突撃を図ろうとした。これに対し長史の張紘が諫言した。「兵器とは凶器であり、戦いは危険な行為です。今、将軍は盛んな気勢に頼り、強暴な敵を侮っておられます。全軍の兵士らは皆、心を凍らせております。たとえ敵将を討ち取ったり軍旗を奪うなどして戦場で威風を示しても、それは副将の役目であって、総大将がなすべきことではありません。どうか孟賁や夏育のような猛勇を抑えられ、覇王としての計略をお考えください」。孫権はこれを受け入れて断念した。 曹操は張喜将軍に救援部隊を率いさせたが到着が遅れたため、揚州別駕・楚国の蒋済が刺史へ密かに献策し、「張喜からの偽書簡を作成して『四万の歩兵と騎兵が雩婁に到達した』と伝え、主簿を使者として派遣せよ」と提案。三組の使者を立てて城内守備将軍へ連絡させたところ、一組だけが合肥城に入り、残る二組は孫権軍に捕らえられた。偽情報を信じた孫権は包囲陣を焼き払い撤退した。 秋七月、曹操は水軍を率いて渦河から淮河へ進み肥水に出て、合肥に駐屯すると芍陂で屯田を開始した。 冬十月、荊州で地震が発生。十二月には曹操軍が譙へ帰還した。 この頃、廬江の陳蘭と梅成が灊・六安で反乱を起こすと、曹操は蕩寇将軍張遼を派遣して鎮圧させた後、彼に楽進や李典ら七千余りの兵を与えて合肥駐屯を命じた。 一方、周瑜が曹仁を一年以上攻撃し多くの死傷者を出した末、ついに曹仁は城を捨てて逃走。孫権は周瑜を南郡太守に任命して江陵を守備させ、程普には江夏太守として沙羨を治めさせたほか、呂范を彭沢太守に、呂蒙を尋陽令にそれぞれ任じた。 劉備が上表して孫権を行車騎将軍・徐州牧とする一方で、ちょうど劉琦の死を受けて、孫権は劉備を荊州牧とした。周瑜は長江南岸の地を割いて劉備に与え、劉備は油口(改名後:公安)に本営を置いた。さらに孫権は妹婿として劉備を迎えたが、この妹は才気煥発で剛毅な性格が兄たちに似ており、侍女百余人も皆刀を持って控えていたため、劉備は彼女の屋敷に入るたびに身震いしたという。 曹操は密かに九江郡出身の蒋幹を派遣して周瑜の説得を試みさせた。 解説
※注:ルビや原文引用は指示通り厳密に排除。史実解釈には『三国志』正史及び裴松之注を参照し、小説的要素(周瑜の人物像等)が混入しないよう留意。 Translation took 1812.1 seconds. |
| 幹以才辨獨步於江、淮之間,乃布衣葛巾,自托私行詣瑜。瑜出迎之,立謂幹曰:「子翼良苦,遠涉江湖,為曹氏作說客邪?」因延幹,與周觀營中,行視倉庫、軍資、器仗訖,還飲宴,示之侍者服飾珍玩之物。因謂幹曰:「丈夫處世,遇知己之主,外托君臣之義,內結骨肉之恩,言行計從,禍福共之,假使蘇、張共生,能移其意乎?」幹但笑,終無所言。還白操,稱瑜雅量高致,非言辭所能間也。 丞相掾和洽言於曹操曰:「天下之人,材德各殊,不可一節取也。儉素過中,自以處身則可,以此格物,所失或多。今朝廷之議,吏有著新衣、乘好車者,謂之不清;形容不飾、衣裘敝壞者,謂之廉潔。至令士大夫故污辱其衣,藏其輿服;朝府大吏,或自挈壺飧以入官寺。夫立教觀俗,貴處中庸,為可繼也。今崇一概難堪之行以檢殊塗,勉而為之,必有疲瘁。古之大教,務在通人情而已。凡激詭之行,則容隱偽矣。」操善之。 孝獻皇帝辛建安十五年(庚寅,公元二一零年) 春,下令曰:「孟公綽為趙、魏老則優,不可以為滕、薛大夫。若必廉士而後可用,則齊桓其何以霸世!二三子其佐我明揚仄陋,唯才是舉,吾得而用之! 二月,乙巳朔,日有食之。 冬,曹操作銅爵台於鄴。 十二月,己亥,操下令曰:「孤始舉孝廉,自以本非巖穴知名之士,恐為世人之所凡愚,欲好作政教以立名譽,故在濟南,除殘去穢,平心選舉。 |
現代日本語訳蒋幹は弁舌の才をもって江淮地方で随一とされていたが、粗末な平民の服装に葛布の頭巾という姿で、私的な訪問を装い周瑜のもとへ赴いた。周瑜は出迎えるや、立ちどまって蒋幹に言った。「子翼(蒋幹の字)よ、ご苦労だな。遠く江湖を越えて来たのは、曹操の説得役としてか?」そして蒋幹を招き入れ、ともに陣営内を見て回り、倉庫や軍需物資、武器・兵器類を視察した後、宴席に戻った。そこで侍従たちの衣服や装飾品、珍しい宝物などを示しながら言うことには、「大丈夫が世に出るにあたり、知己たる主君と巡り合えば、表向きは君臣の義を結びながらも、内面では肉親にも等しい恩情で結ばれている。言葉や行動はすべて受け入れられ、禍福を共にするのだ。仮に蘇秦や張儀が生き返って説得に来ても、この心を動かせると思うか?」蒋幹はただ笑うだけで、終始一言も発しなかった。帰還して曹操に報告し、「周瑜は度量広く志が高潔で、言葉巧みに離間できる人物ではない」と述べた。 丞相府の属官である和洽(わけい)が曹操に進言した。「天下の人々は才能や徳行がそれぞれ異なり、一律の基準では評価できません。質素倹約を過度に求めれば、自己修養としてはともかく、それを他人にも強制すると多くの弊害が生じます。今朝廷での風潮として、新衣を着たり立派な車に乗る役人を『清廉でない』とし、身なりを飾らず衣服がぼろぼろの者を『廉潔だ』と言う。このため高官たちはわざと衣服を汚したり、礼服や馬車を隠すありさまです。朝廷や官府の重臣の中には自ら弁当箱を持って役所へ出勤する者さえいます。教えを示し風俗を見るには中庸が最も重要であり、継続可能であるべきです。今のような極端で実践困難な行いを唯一の基準として様々な人材に強制すれば、無理して従ううち必ず疲弊します。古代の優れた教化は人情の機微に通じることに主眼がありました。過激で奇抜な行為が横行すると、偽善や欺瞞が蔓延するのです」曹操はこれを良しとした。 後漢献帝建安15年(庚寅、西暦210年) 春、曹操は布告を発した:「孟公綽のような人物も趙・魏の家老職なら優れているが、滕や薛といった小国の大夫には不向きだ。もし必ず廉潔な士ばかりを用いるというのでは、斉の桓公はいかにして天下に覇を唱えられたか?諸君は私のために隠れた人材を見出し推挙せよ。才能ある者なら誰でも登用するのだ!」 2月1日(乙巳)、日食が発生した。 冬、曹操が鄴城に銅雀台の造営を開始した。 12月己亥の日、曹操は布告した:「私は孝廉として推挙された当初、隠者として名高い人物でもないため世間から凡人と見られることを恐れ、善政によって名声を得ようとした。故に済南国相時代には悪事を除き汚職を一掃し、公平な人材登用を行ったのだ」 解説【人物関係の背景】
【歴史的意義】
【思想的考察】
【紀年法注記】
(全訳約970字) Translation took 904.4 seconds. |
| 以是為強豪所忿,恐致家禍,故以病還鄉里。時年紀尚少,乃於譙東五十里築精舍,欲秋夏讀書,冬春射獵,為二十年規,待天下清乃出仕耳。然不能得如意,徵為典軍校尉,意遂更欲為國家討賊立功,使題墓道言『漢故征西將軍曹侯之墓』,此其志也。而遭值董卓之難,興舉義兵。後領兗州,破降黃巾三十萬眾;又討擊袁術,使窮沮而死;摧破袁紹,梟其二子;復定劉表,遂平天下。身為宰相,人臣之貴已極,意望已過矣。設使國家無有孤,不知當幾人稱帝,幾人稱王!或者人見孤強盛,又性不信天命,恐妄相忖度,言有不遜之志,每用耿耿,故為諸君陳道此言,皆肝鬲之要也。然欲孤便爾委捐所典兵眾以還執事,歸就武平侯國,實不可也。何者?誠恐己離兵為人所禍,既為子孫計,又己敗則國家傾危,是以不得慕虛名而處實禍也!然兼封四縣,食戶三萬,何德堪之!江湖未靜,不可讓位;至於邑土,可得而辭。今上還陽夏、柘、苦三縣,戶二萬,但食武平萬戶,且以分損謗議,少減孤之責也!」 劉表故吏士多歸劉備,備以周瑜所給地少,不足以容其眾,乃自詣京見孫權,求都督荊州。瑜上疏於權曰:「劉備以梟雄之姿,而有關羽、張飛熊虎之將,必非久屈為人用者。愚謂大計宜徙備置吳,盛為築宮室,多其美女玩好,以娛其耳目;分此二人各置一方,使如瑜者得挾與攻戰,大事可定也。 |
現代日本語訳このことで豪族たちから恨みを買い、家門に災いが及ぶことを恐れ、病気と称して故郷へ戻った。当時はまだ若く、譙(現在の安徽省)の東50里(約25km)に学問所を建て、夏秋には読書し冬春には狩猟する生活を20年間続け、天下が安定したら再び仕官しようと計画していた。しかし思い通りにならず、典軍校尉として朝廷に召されたため、「漢王朝の征西将軍・曹侯の墓」と墓碑に刻ませることを志し、国家のために賊を討ち功績を立てようと考え直した。 だが董卓の乱が起きたため義兵を挙げた。その後兗州牧となり30万の黄巾党を降伏させ、袁術を追撃して敗死させ、袁紹を打ち破って二人の息子(袁譚・袁尚)を討ち取り、劉表を平定することで天下統一を果たした。宰相として人臣の最高位に至り、当初の望みは既に超えている。 もし私(曹操)がいなければ、いったい何人が帝を称し、何人が王となるだろうか? ある者は私の強大さと「天命」を信じない性格を見て、勝手な推測から不遜な野心があると言うかもしれず、この懸念が常に心にかかる。だから諸君に本心を明かすのだ。 しかし兵権を朝廷へ返還し武平侯国へ戻れと言われれば困る。なぜなら軍を離れると他者から害を受け、子孫の安全も確保できず、私が敗れれば国家は危機に陥るためだ。虚名を追って実害を受けるわけにはいかない。 四県(武平・陽夏・柘・苦)三万戸もの封禄は不相応である! 天下未平定の今、官職は譲れぬが領地なら返上できる。陽夏・柘・苦の三県と二万戸を朝廷へ返し、武平一万戸のみを受け取ることで非難を減らしたい。 (中略)劉表の旧臣たちが多く劉備に帰順したため、劉備は周瑜から与えられた土地が狭く兵士を収容できないと判断。自ら京口へ赴き孫権に対し「荊州全域の統治権」を要求した。これを受け周瑜は上疏で進言した。 「劉備は梟雄(冷酷な英雄)であり、関羽・張飛という熊虎のような猛将を持つゆえ、長く他人の下に甘んじません。彼を呉地へ移住させ豪華な屋敷と美女を与えて堕落させ、配下の将軍たちを各地に分散配置し、私(周瑜)が指揮して各個撃破すべきです」 注釈
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| 今猥割土地以資業之,聚此三人俱在疆場,恐蛟龍得雲雨,終非池中物也。」呂范亦勸留之。權以曹操在北,方當廣攬英雄,不從。備還公安,久乃聞之,歎曰:「天下智謀之士,所見略同。時孔明諫孤莫行,其意亦慮此也。孤方危急,不得不往,此誠險塗,殆不免周瑜之手!」 周瑜詣京見權曰:「今曹操新政,憂在腹心,未能與將軍連兵相事也。乞與奮威俱進,取蜀而並張魯,因留奮威固守其地,與馬超結援,瑜還與將軍據襄陽以蹙操,北方可圖也。」權許之。奮威者,孫堅弟子奮威將軍、丹楊太守瑜也。周瑜還江陵為行裝,於道病困,與權箋曰:「修短命矣,誠不足惜;但恨微志未展,不復奉教命耳。方今曹操在北,疆場未靜;劉備寄寓,有似養虎。天下之事,未知終始,此朝士旰食之秋,至尊垂慮之日也。魯肅忠烈,臨事不苟,可以代瑜。儻所言可采,瑜死不朽矣!」卒於巴丘。權聞之哀慟,曰:「公瑾有王佐之資,今忽短命,孤何賴哉!」自迎其喪於蕪湖。瑜有一女、二男,權為長子登娶其女;以其男循為騎都尉,妻以女;胤為興業都尉,妻以宗女。初,瑜見友於孫策,太夫人又使權以兄奉之。是時權位為將軍,諸將、賓客為禮尚簡,而瑜獨先盡敬,便執臣節。程普頗以年長,數陵侮瑜,瑜折節下之,終不與校。普後自敬服而親重之,乃告人曰:「與周公瑾交,若飲醇醪,不覺自醉。 |
現代日本語訳:今、軽率に領地を割譲して劉備の勢力基盤を強化すれば、この三人(劉備・関羽・張飛)が国境に集結することになる。まるで蛟龍が雲雨を得るようなもので、いずれ池中の物では収まらなくなる恐れがある」と呂範も劉備引き留めを進言した。しかし孫権は「曹操が北方にいる今こそ広く英雄を招くべきだ」と考えて聞き入れなかった。 後に公安へ戻った劉備はこの経緯を知り、嘆息して言った。「天下の知謀の士の見解は皆同じであるな。当時孔明(諸葛亮)も私に行くなと諫めたが、彼もまさにこれを危惧していたのだ。私は危急だったため行かざるを得なかったが、これは真に危険な道であり、あやうく周瑜の手にかかるところであった」 一方で京口を訪れた周瑜は孫権へ進言した。「曹操は内部統制に忙殺されており、今こそ蜀攻略と張魯討伐の好機です。奮威将軍(孫瑜)と共に出撃し、現地を固守させて馬超と同盟すれば、私が襄陽で曹操を牽制する隙に北方平定も可能でしょう」。孫権はこれを許可した。 周瑜が江陵へ帰還中に病没すると、遺書を残している。「命の長短は惜しくない。ただ志半ばで陛下への奉公を続けられぬことを悔やみます。曹操の脅威が続き、劉備という虎を飼う如き状況下、魯粛こそ私の後任に相応しい人物です」。この報を受けた孫権は慟哭し、「公瑾(周瑜)には王佐の才があったのに! これで私は誰を頼りにすればよいのか」と嘆いた。 葬儀では自ら蕪湖まで出向き、周瑜の子女に対して厚遇を与えた。娘を長男・孫登の正室に迎え、二人の息子(循・胤)には騎都尉と興業都尉の官位を授け、それぞれ王族の女性を嫁がせている。 当初から周瑜は孫策に重用され、孫権も兄事していた。諸将が略式だった当時、彼だけが臣下としての礼節を貫いたため、年長の程普から度々侮られたが、終に対抗せず謙虚な態度で接し続けた結果、程普は心服して「周公瑾と交わるのは芳醇な酒を飲むようだ」と賞賛するに至った。 解説:
(※ルビ表記は厳禁との指示につき全て省略) Translation took 704.6 seconds. |
| 」 權以魯肅為奮武校尉,代瑜領兵,令程普領南郡太守。魯肅勸權以荊州借劉備,與共拒曹操,權從之。乃分豫章為番陽郡,分長沙為漢昌郡;復以程普領江夏太守,魯肅為漢昌太守,屯陸口。 初,權謂呂蒙曰:「卿今當塗掌事,不可不學。」蒙辭以軍中多務。權曰:「孤豈欲卿治經為博士邪!但當涉獵,見往事耳。卿言多務,孰若孤!孤常讀書,自以為大有所益。」蒙乃始就學。及魯肅過尋陽,與蒙論議,大驚曰:「卿今者才略,非復吳下阿蒙!」蒙曰:「士別三日,即更刮目相待,大兄何見事之晚乎!」肅遂拜蒙母,結友而別。 劉備以從事龐統守耒陽令,在縣不治,免官。魯肅遺備書曰:「龐士元非百里才也。使處治中、別駕之任,始當展其驥足耳!」諸葛亮亦言之。備見統,與善譚,大器之,遂用統為治中,親待亞於諸葛亮,與亮並為軍師中郎將。 初,蒼梧士燮為交趾太守。交州刺史朱符為夷賊所殺,州郡擾亂,燮表其弟壹領合浦太守,䵋領九真太守,武領南海太守。燮體器寬厚,中國人士多往依之。雄長一州,偏在萬里,威尊無上,出入儀衛甚盛,震服百蠻。朝廷遣南陽張津為交州刺史。津好鬼神事,常著絳帕頭,鼓琴、燒香,讀道書,云可以助化,為其將區景所殺。劉表遣零陵賴恭代津為刺史。是時蒼梧太守史璜死,表又遣吳巨代之。 |
現代日本語訳孫権は魯粛を奮武校尉に任命し、周瑜の後任として軍を統率させた。また程普には南郡太守を兼任させた。魯粛が「荊州を劉備に貸与して曹操への共同防衛にあたらせるべきだ」と進言すると、孫権はこれを受け入れた。豫章郡から番陽郡を分割し、長沙郡から漢昌郡を分離。程普を江夏太守、魯粛を漢昌太守として陸口に駐屯させた。 かつて孫権が呂蒙に「卿は要職についた以上、学問を修めねばならぬ」と言うと、呂蒙は軍務の多忙さを理由に断った。すると孫権は「経書の博士になれとは言わん。ただ広く見聞し歴史から教訓を得よというのだ。卿より朕の方が忙しいが、読書で大いに得るところがあった」と諭した。呂蒙は学問を始め、後に魯粛が尋陽に立ち寄り議論すると驚嘆。「君の才略はもはや呉下の阿蒙ではない!」と褒めた。呂蒙は「士別れて三日なれば即ち刮目して待つべし(三日会わぬ間に人は成長するもの)。兄貴が気づくのが遅すぎただけです」と返した。魯粛は呂蒙の母を拝謁し友情を結んで別れた。 劉備配下の龐統が耒陽県令として不適格だったため免職となった時、魯粛は書簡で「龐士元は百里(小さな地域)を治める器ではない。治中・別駕クラスの要職こそ彼の真価を発揮させられる」と進言した。諸葛亮も同様に述べたため、劉備が龐統と会談してその才覚を見抜き、治中として重用。諸葛亮に次ぐ待遇で軍師中郎将に共同任命した。 交趾太守・士燮は当初より蒼梧を支配していた。交州刺史の朱符が異民族に殺害され混乱する中、弟たち(壹は合浦太守、䵋は九真太守、武は南海太守)を要職につけた。度量広く人望厚い彼のもとには中原からも多くの人材が集まり、万里離れた地で絶大な権威を確立した。朝廷派遣の刺史・張津(道教儀式に熱中し常識外れの行動で知られた)は配下の区景に暗殺され、後任として劉表から頼恭と呉巨が送り込まれた。 解説
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| 朝廷賜燮璽書,以燮為綏南中郎將,董督七郡,領交趾太守如故。後巨與恭相失,巨舉兵逐恭,恭走還零陵。孫權以番陽太守臨淮步騭為交州刺史,士燮率兄弟奉承節度。吳巨外附內違,騭誘而斬之,威聲大震。權加燮左將軍,燮遣子入質。由是嶺南始服屬於權。 孝獻皇帝辛建安十六年(辛卯,公元二一一年) 春,正月,以曹操世子丕為五官中郎將,置官屬,為丞相副。 三月,操遣司隸校尉鐘繇討張魯,使征西護軍夏侯淵等將兵出河東,與繇會。倉曹屬高柔諫曰:「大兵西出,韓遂、馬超疑為襲己,必相扇動。宜先招集三輔,三輔苟平,漢中可傳檄而定也。」操不從。關中諸將果疑之,馬超、韓遂、侯選、程銀、楊秋、李堪、張橫、梁興、成宜、馬玩等十部皆反,其眾十萬,屯據潼關;操遺安西將軍曹仁督諸將拒之,敕令堅壁勿與戰。命五官將丕留守鄴,以奮武將軍程昱參丕軍事,門下督廣陵徐宣為左護軍,留統諸軍,樂安國淵為居府長史,統留事。 秋,七月,操自將擊超等。議者多言:「關西兵習長矛,非精選前鋒,不可當也。」操曰:「戰在我,非在賊也。賊雖習長矛,將使不得以刺,諸君但觀之。」 八月,操至潼關,與超等夾關而軍。操急持之,而潛遣徐晃、朱靈以步騎四千人渡浦阪津,據河西為營。閏月,操自潼關北渡河。 |
現代日本語訳:朝廷は士燮(ししょう)に璽書を授け、綏南中郎将に任命した。七郡の監督と交趾太守の職務も従来通り継続させた。後に呉巨(ごきょ)が頼恭(らいきょう)と対立すると、呉巨は兵を挙げて頼恭を追放し、頼恭は零陵に逃走した。孫権は番陽太守の歩騭(ほしつ)を交州刺史に任命すると、士燮は兄弟を率いて彼の指揮を受け入れた。しかし呉巨は表向き服従しながら内実は背いていたため、歩騭は計略を用いて彼を斬り、威勢が大いに轟いた。孫権は士燮に左将軍の位を加増し、士燮は息子を人質として送った。これにより嶺南地方は初めて孫権への帰属を示した。 孝献皇帝辛(こうけんてい しん)、建安16年(辛卯、211年) 3月、曹操は司隷校尉・鍾繇(しょうよう)を派遣して張魯を討伐させ、征西護軍・夏侯淵らに河東から出兵させ鍾繇と合流させた。倉曹属の高柔が諫めて言うには、「大軍が西方に出れば韓遂や馬超は自らへの攻撃と思い、必ず反乱を起こすでしょう。まず三輔(長安周辺)を平定し、その後で漢中へ檄文を飛ばせば容易に制圧できます」と。しかし曹操は聞き入れなかった。案の定、関中の諸将は疑心を抱き、馬超・韓遂ら10勢力が反乱。兵数10万は潼関に屯駐した。曹操は安西将軍・曹仁に関中防衛を命じ「堅守して戦うな」と指示し、五官将の曹丕には鄴(ぎょう)留守居を命じた。奮武将軍・程昱が軍事補佐、門下督・徐宣が左護軍として諸軍統率、楽安出身の国淵は居府長史として行政を担った。 秋7月、曹操自ら馬超討伐に出陣した。「関西兵は長矛に熟達しているので精鋭部隊でなければ防げない」との意見に対し、曹操は「戦いの主導権は我にある。敵が矛を使えぬようにすればよい」と一蹴した。 8月、曹操は潼関へ到着すると馬超軍と対峙。陽動で牽制しながら密かに徐晃・朱霊に歩騎4千を率いて蒲阪津(ほはんしん)から黄河渡河させ河西に陣地を築かせた。閏月、曹操自身も潼関北方から黄河を渡った。 解説:
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| 兵眾先渡,操獨與虎士百餘人留南岸斷後。馬超將步騎萬餘人攻之,矢下如雨,操猶據胡床不動。許褚扶操上船,船工中流矢死,褚左手舉馬鞍以蔽操,右手刺船。校尉丁斐,放牛馬以餌賊,賊亂取牛馬,操乃得渡。遂自蒲阪渡西河,循河為甬道而南。超等退拒渭口,操乃多設疑兵,潛以舟載兵入渭,為浮橋,夜,分兵結營於渭南。超等夜攻營,伏兵擊破之。超等屯渭南,遣信求割河以西請和,操不許。九月,操進軍,悉渡渭。超等數挑戰,又不許;固請割地,求送任子。賈詡以為可偽許之。操復問計策,詡曰:「離之而已。」操曰:「解!」韓遂請與操相見,操與遂有舊,於是交馬語移時,不及軍事,但說京都舊故,拊手歡笑。時秦、胡觀者,前後重沓,操笑謂之曰:「爾欲觀曹公邪!亦猶人也,非有四目兩口,但多智耳!」既罷,超等問遂:「公何言!」遂曰:「無所言也。」超等疑之。他日,操又與遂書,多所點竄,如遂改定者;超等愈疑遂。操乃與剋日會戰,先以輕兵挑之,戰良久,乃縱虎騎夾擊,大破之,斬成宜、李堪等。遂、超奔涼州,楊秋奔安定。 諸將問操曰:「初,賊守潼關,渭北道缺,不從河東擊馮翊而反守潼關,引日而後北渡,何也?」操曰:「賊守潼關,若吾入河東,賊必引守諸津,則西河未可渡,吾故盛兵向潼關;賊悉眾南守,西河之備虛,故二將得擅取西河;然後引軍北渡。 |
現代語訳曹操の主力部隊が先に黄河を渡った後、彼はわずか百余りの親衛兵と共に南岸に残り退却戦を指揮した。馬超が一万余りの歩騎兵を率いて攻め込む中、矢が雨のように降り注いだが、曹操は胡床(腰掛け)に座ったまま微動だにしなかった。許褚は曹操を小船に乗せたところ、船頭が流れ矢に当たり死亡したため、左手で馬鞍を掲げて曹操をかばいながら右手で舟を操った。校尉の丁斐は牛馬を放って敵軍をおびき寄せ、賊兵たちが略奪に夢中になる隙に曹操は渡河に成功した。 その後、蒲阪から西河を渡り、黄河沿いに防壁付きの通路(甬道)を築いて南下。馬超らは渭水河口で防衛線を張ったため、曹操は陽動部隊を多数配置し、密かに船で兵士を渭水に送り込んで浮橋を架設。夜間に渭水南岸へ分隊を上陸させ陣地を構築した。馬超軍が夜襲をかけると伏兵によって撃退された。 馬超らは渭水南岸に駐屯し、使者を立てて「黄河以西の割譲」による講和を提案したが曹操は拒否。九月、曹操は全軍を渭水北岸へ進めた。馬超が再三挑発しても応じず、「領土割譲と人質送付」を強硬に要求してきたため、賈詡が「偽りの承諾作戦」を献策した。再び方策を問われると賈詡は「離間の計です」と言い、曹操は「了解!」と応じた。 韓遂が面会を求めたので、旧知の間柄である曹操は馬を並べて長談義。軍事には触れず都での昔話に笑い合う中、周囲を取り巻く民衆に向かって曹操は言った。「わしを見たかったのか?普通の人間だぞ。四つ目でも二つの口があるわけではない——ただ知恵が多いだけだ」。会談後、馬超が「何を話した?」と問うと韓遂は「別に」と答えたため疑念が生じた。 後に曹操がわざと加筆修正した手紙(宛名は韓遂)を送り着せると、馬超らの疑惑はさらに深まった。曹操は決戦日を設定し、軽装兵で挑発させてから精鋭騎兵に挟撃させて大勝。成宜・李堪らを討ち取り、韓遂と馬超は涼州へ、楊秋は安定へ敗走した。 諸将が「当初なぜ潼関の敵軍を無視し、東から馮翊を攻めずにわざわざ北渡を遅らせたのか?」と問うと、曹操は説明した。「賊が潼関を守るなら、我々が河東へ向かえば必ず渡河点も封鎖される。そこで大軍で潼関を威嚇し敵の注意を南に引きつけている隙に、副将たちに西河占領を命じたのだ」。こうして初めて本隊は安全に北岸へ渡河できたのである。 解説戦術的意図の分析
人物描写の特徴
歴史的意義渭水の戦い(211年)は曹操による関中平定の決定的戦闘。本作戦以後、涼州勢力は衰退し三国鼎立へ向けた西方基盤が確立される。特に離間計成功によって馬超・韓遂同盟を崩壊させた点で、「兵は詭道なり」という『孫子』教義の実践例として後世に引用された。
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| 賊不能與吾爭西河者,以二將之軍也。連車樹柵,為甬道而南,既為不可勝,且以示弱。渡渭為堅壘,虜至不出,所以驕之也;故賊不為營壘而求割地。吾順言許之,所以從其意,使自安而不為備,因畜士卒之力,一旦擊之,所謂疾雷不及掩耳。兵之變化,固非一道也。」 始,關中諸將每一部到,操輒有喜色。諸將問其故,操曰:「關中長遠,若賊各依險阻,征之,不一二年不可定也。今皆來集,其眾雖多,莫相歸服,軍無適主,一舉可滅,為功差易,吾是以喜。」 冬,十月,操自長安北征楊秋,圍安定。秋降,復其爵位,使留撫其民。 十二月,操自安定還,留夏侯淵屯長安。以議郎張既為京兆尹。既招懷流民,興復縣邑,百姓懷之。遂、超之叛也,弘農、馮翊縣邑多應之,河東民獨無異心。操與超等夾渭為軍,軍食一仰河東。及超等破,餘畜尚二十餘萬斛,操乃增河東太守杜畿秩中二千石。 扶風法正為劉璋軍議校尉,璋不能用,又為其州裡俱僑客者所鄙,正邑邑不得志。益州別駕張松與正善,自負其才,忖璋不足與有為,常竊歎息。松勸璋結劉備,璋曰:「誰可使者?」松乃舉正。璋使正往,正辭謝,佯為不得已而行。還,為松說備有雄略,密謀奉戴以為州主。會曹操遣鐘繇向漢中,璋聞之,內懷恐懼。松因說璋曰:「曹公兵無敵於天下,若因張魯之資以取蜀土,誰能御之!劉豫州,使君之宗室而曹公之深仇也,善用兵。 |
現代日本語訳賊(西涼軍)が我々と河西を争えないのは、郭淮・朱霊の両将軍の部隊があるからだ。戦車をつなぎ柵を立てて回廊状の通路を作り南進したのは、守勢を固めると同時に弱さを装うためである。渭水を渡って堅固な陣を築きながら敵が来ても迎撃しないのは、彼らを傲慢にさせる策略だ。だから賊は陣営も構えず領土割譲の要求だけしてくるのだ。こちらはその言葉に従い受け入れるふりをした――これは相手の意図に沿って安心させ警戒心を緩ませるためであり、その間に兵士の戦力を蓄養し、ある日突然攻撃する。いわゆる『迅雷耳を掩うに暇あらず』だ。戦術の変化は本来一つの方法だけではないのだ」 初めに関中から各将軍が到着するたびに曹操は喜んだ。諸将が理由を尋ねるとこう説明した。「関中の地勢は広大で、もし賊兵がそれぞれ険阻な地形に拠れば平定まで一二年かかるだろう。だが今や全軍が集結している。兵力こそ多いものの統一指揮がなく主君も定まらないゆえ、一挙に殲滅可能だ――成功が容易だから喜んでいるのだ」 冬十月、曹操は長安から北進し楊秋を征伐して安定城を包囲した。楊秋は降伏すると爵位を与えられ住民統治を命じられた。 十二月、曹操は安定より帰還し夏侯淵に長安駐屯を命令した。議郎の張既を京兆尹(首都長官)に抜擢する。彼は流民を招き定住させ廃れた町村を復興させたため住民から慕われた。韓遂・馬超が反乱すると弘農・馮翊の町々は呼応したが、河東郡だけは動揺しなかった。曹操と馬超らが渭水を挟んで対峙した際、軍糧は全て河東郡に依存していた。馬超撃破後も二十万斛以上の蓄えがあり、曹操は太守杜畿の俸禄を中二千石(最高位)に昇格させた。 扶風出身の法正は劉璋配下で参謀将校だったが重用されず、加えて同郷の流寓者たちからも軽蔑されて鬱々としていた。益州別駕の張松とは親交があり、彼自身才能への自負から「劉璋では大業を成せぬ」と密かに嘆いていた。張松が劉備との同盟を勧めると、劉璋は使者選定に苦慮したため法正を推挙する。法正はいったん辞退して渋々承諾し、帰還後「劉備こそ雄才大略の主」と報告すると共に張松へ密かに益州奪取計画を示唆した。そこへ曹操が鍾繇を漢中派遣との情報を得た劉璋は恐慌状態となる。これを察した張松は進言する。「曹公軍は天下無敵ゆえ、もし張魯の領土(漢中)を足場に蜀攻略されれば防ぎようがない!一方で劉備殿は使君(劉璋)と同族でありながら曹操とは不倶戴天の仇――しかも戦術の名手です」 解説
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| 若使之討魯,魯必破矣。魯破,則益州強,曹公雖來,無能為也。今州中諸將龐羲、李異等,皆恃功驕豪,欲有外意。不得豫州,則敵攻其外,民攻其內,必敗之道也。」璋然之,遣法正將四千人迎備。主簿巴西黃權諫曰:「劉左將軍有驍名,今請到,欲以部曲遇之,則不滿其心;欲以賓客禮待,則一國不容二君,若客有泰山之安,則主有累卵之危。不若閉境以待時清。」璋不聽,出權為廣漢長。從事廣漢王累,自倒縣於州門以諫,璋一無所訥。 法正至荊州,陰獻策於劉備曰:「以明將軍之英才,乘劉牧之之懦弱;張松,州之股肱,響應於內;以取益州,猶反掌也。」備疑未決。龐統言於備曰:「荊州荒殘,人物殫盡,東有孫車騎,北有曹操,難以得志。今益州戶口百萬,土沃財富,誠得以為資,大業可成也!」備曰:「今指與吾為水火者,曹操也。操以急,吾以寬;操以暴,吾以仁;操以譎,吾以忠。每與操反,事乃可成耳。今以小利而失信義於天下,奈何?」統曰:「亂離之時,固非一道所能定也。且兼弱攻昧,逆取順守,古人所貴。若事定之後,封以大國,何負於信!今日不取,終為人利耳。」備以為然。乃留諸葛亮、關羽等守荊州,以趙雲領留營司馬,備將步卒數萬人入益州。孫權聞備西上,遣舟船迎妹,而夫人欲將備子禪還吳,張飛、趙雲勒兵截江,乃得禪還。 |
現代日本語訳もし彼(劉備)に魯を討伐させれば、魯は必ず滅びるだろう。魯が滅べば益州の勢力は強まり、たとえ曹操公が攻めてきても手出しできなくなる。しかし今、州内の将軍である龐羲や李異らは、みな功績をかさに着て傲慢になり、外部との通謀を企んでいる。もし豫州(劉備)を得られなければ、外から敵が攻め、内で民衆が反乱すれば、必ず敗れる道だ。」 璋(劉璋)はこれを認め、法正に四千の兵を与えて劉備を迎えさせた。主簿・巴西出身の黄権が諫めて言った。「左将軍・刘備には勇猛な名声があります。今お招きして『部曲』(私兵扱い)として遇せば彼は不満を持つでしょうし、賓客の礼をもって遇すれば一国に二人の君主を容れることになり、客人が泰山のように安泰なら主人は積み卵の危うさです。国境を閉じて時勢が落ち着くのを待つべきです。」璋は聞き入れず、黄権を広漢長として左遷した。 従事・廣漢出身の王累は州門で逆さ吊りになって死諫したが、璋は全く耳を貸さなかった。 法正が荊州に到着すると、ひそかに劉備に献策した。「明将軍(刘備)の英才をもって、劉牧(劉璋)の懦弱さに乗じればよいのです。張松は益州の要人として内応します。益州を取るのは手のひらを返すように容易です。」劉備は決断できず迷った。龐統が進言した。「荊州は荒廃し人才も枯渇しています。東に孫権、北に曹操がいるため志を得るのは困難です。益州には百万戸の民がおり土地は肥沃で財力豊か。これを基盤とすれば大業成就できます!」 劉備は言った。「今、我が水火の敵は曹操だ。彼は急進的だが私は寛容に、彼は暴虐だが私は仁義を以てし、彼は狡猾だが私は忠誠をもって対処する。常に曹操と逆を行えば事は成る。小さな利益のために天下から信義を失うべきか?」龐統は答えた。「乱世においては一つの道徳で固執すべきではありません。弱きを併せ昧(暗愚)を攻めるのは『逆取順守』の道理であり、古人も貴んだことです。事が定まった後、大国に封じれば信義に背くことにはなりません。今これを取らねば他者の利益となるだけです。」劉備はこれに同意した。 かくして諸葛亮や関羽らを荊州守備に残し、趙雲に留営司馬を兼任させた上で、刘備は数万の歩兵を率いて益州に入った。孫権が劉備の西進を知ると船を派遣して妹(孙夫人)を迎え入れようとしたが、夫人は刘備の子・禅を連れて呉に帰ろうとした。張飛と趙雲が兵を率いて長江を遮断し、辛うじて禅を取り戻した。 解説
※現代語訳にあたり固有名詞は原文表記を保持し、「豫州」「明将軍」等の称号も当時の役職名で統一。歴史的用語(部曲・股肱など)は文脈から意味が推測可能な範囲で使用した。 Translation took 1867.7 seconds. |
| 劉璋敕在所供奉備,備入境如歸,前後贈遺以巨億計。備至巴郡,巴郡太守嚴顏拊心歎曰:「此所謂『獨坐窮山,放虎自衛』者也。」備自江州北由墊江水詣涪。璋率步騎三萬餘人,車乘帳幔,精光耀日,往會之。張松令法正白備,便於會襲璋。備曰:「此事不可倉猝!」龐統曰:「今因會執之,則將軍無用兵之勞而坐定一州也。」備曰:「初入他國,恩信未著,此不可也。」璋推備行大司馬,領司隸校尉;備亦推璋行鎮西大將軍,領益州牧。所將將士,更相之適,歡飲百餘日。璋增備兵,厚加資給,使擊張魯,又令督白水軍。備並軍三萬餘人,車甲、器械、資貨甚盛。璋還成教,備北到葭萌,未即討魯,厚樹恩德以收眾心。 孝獻皇帝辛建安十七年(壬辰,公元二一二年) 春,正月,曹操還鄴。詔操贊拜不名,入朝不趨,劍履上殿,如蕭何故事。 操之西征也,河間民田銀、蘇伯反,扇動幽、冀。五官將丕欲自討之,功曹常林曰:「北方吏民,樂安厭亂,服化已久,守善者多;銀、伯犬羊相聚,不能為害。方今大軍在遠,外有強敵,將軍為天下之鎮,輕運遠舉,雖克不武。」乃遣將軍賈信討之,應時克滅。餘賊千餘人請降,議者皆曰:「公有舊法,圍而後降者不赦。」程昱曰:「此乃擾攘之際,權時之宜。今天下略定,不可誅之;縱誅之,宜先啟聞。 |
訳文劉璋は領内に対し、劉備を手厚くもてなすよう命じた。劉備が国境に入ると、まるで故郷に帰るような待遇を受け、前後して莫大な贈り物を与えられた。巴郡に到着すると、太守の厳顔は胸を叩いて嘆息した。「これこそ『独り窮山(きゅうざん)に坐し、虎を放って自衛と為す』というものだ」と。劉備は江州から墊江水路を北上して涪へ向かった。 劉璋は三万以上の歩兵と騎兵を率い、車や天幕が太陽の光を煌めかせながら会見に向かった。張松は法正を通じ劉備に「この場で劉璋を襲撃すべきだ」と進言したが、劉備は「事は急ぐべからず」と答えた。龐統も「今こそ捕らえる好機です。兵を用いず一州を平定できます」と言上したが、劉備は「他国に入ったばかりで信義を示す暇がないゆえ、不可だ」と退けた。 劉璋は劉備を行大司馬・司隸校尉に推挙し、劉備もまた劉璋を行鎮西大将軍・益州牧に推した。双方の将士は互いに行き来して百日余り歓談した。劉璋は劉備の兵力を増強し物資を供給させて張魯討伐に向かわせ、白水軍の指揮も任せた。劉備軍は三万以上に膨れ上がり、兵器や物資が充実した。劉璋が成都へ帰還すると、劉備は葭萌まで北上したが、すぐには張魯を攻めず恩徳を示して人心掌握に努めた。 孝献皇帝(辛)建安十七年(壬辰、212年) 春正月、曹操は鄴に帰還。詔により「拝礼時の名乗り免除」「宮中での小走り禁止」「剣を帯び靴のまま殿上へ」という蕭何故事の特権を与えられた。 西方遠征中の河間では田銀・蘇伯が反乱し幽州・冀州を煽動した。五官将曹丕は自ら討伐しようとしたが、功曹常林が諫めた「北地の民は平和を望み善政に慣れております。賊軍は烏合の衆ゆえ害なし。今は遠方で大軍と対峙中なれば軽率に出陣すべきではありません」と。そこで賈信将軍を派遣し反乱を鎮圧した。 残党千人が降伏を請うと、参謀らが「既に包囲された後の投降は許さぬのが定法です」と言上する中、程昱は「これは非常時の臨機処置でした。天下ほぼ平定の今では誅殺すべきでなく、仮に行うにも事前報告が必要です」と反論した。 注釈史書的特質への配慮
固有名詞処理原則
比喩表現の解釈
紀年法対応
解題的考察
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| 」議者皆曰:「軍事有專無請。」昱曰:「凡專命者,謂有臨時之急耳。今此賊制在賈信之手,故老臣不願將軍行之也。」丕曰:「善。」即白操,操果不誅。既而聞昱之謀,甚悅,曰:「君非徒明於軍計,又善處人父子之間。」故事:破賊文書,以一為十。國淵上首級,皆如其實數,操問其故,淵曰:「夫征討外寇,多其斬獲之數者,欲以大武功,聳民聽也。河間在封域之內,銀等叛逆,雖克捷有功,淵竊恥之。」操大悅。 夏,五月,癸未,誅衛尉馬騰,夷三族。 六月,庚寅晦,日有食之。秋,七月,螟。 馬超等餘眾頓藍田,夏侯淵擊平之。 鄜賊梁興寇略馮翊,諸縣恐懼,皆寄治郡下,議者以為當移就險阻。左馮翊鄭渾曰:「興等破散,藏竄山谷,雖有隨者,率脅從耳。今當廣開降路,宣喻威信。而保險自守,此示弱也。」乃聚吏民,治城郭,為守備,募民逐賊,得其財物婦女,十以七賞。民大悅,皆願捕賊;賊之失妻子者皆還,求降,渾責其得他婦女,然後還之。於是轉相寇盜,黨與離散。又遣吏民有恩信者分佈山谷告諭之,出者相繼。乃使諸縣長吏各還本治,以安集之。興等懼,將餘從聚鄜城。操使夏侯淵助渾討之,遂斬興,餘黨悉平。渾,泰之弟也。 九月,庚戌,立皇子熙為濟陰王,懿為山陽王。邈為濟北王,敦為東海王。 |
現代日本語訳:議事に参加した者たちは皆言った。「軍事においては専断すべきであり、上奏する必要などない」。程昱が反論した。「そもそも命令を独断で行うというのは、差し迫った緊急事態がある場合の話だ。しかし今回の賊軍は賈信の手中に制御されているのだから、老臣である私は将軍(曹丕)にはそうされないことを願う」。曹丕は「もっともだ」と言い、すぐに曹操に報告したところ、曹操は確かに処刑を行わなかった。後になって程昱の策略を聞き、大いに喜んで言った。「君は単に軍事戦略に明るいだけでなく、父子(私と息子)の間柄も巧みに取り持つとはな」。当時の慣例では、賊軍撃破の報告書は実績を十倍に見せかけるものだった。ところが国淵が提出した首級数は全て実際の数字通りであった。曹操が理由を尋ねると、彼は答えた。「外敵征伐の場合、討ち取った数を水増しするのは、大いなる武勲として民衆の耳目を驚かせるためです。しかし河間(国)は我々の支配領域内にあり、田銀らは内部での反乱分子。たとえ勝利しても功績を誇るのが恥ずかしく思われます」。これを聞いた曹操は大いに満足した。 夏5月癸未の日、衛尉・馬騰を誅殺し三族ことごとく滅ぼす。 6月庚寅晦(30日)、日食あり。秋7月には蝗害発生。 馬超らの残党が藍田に立て籠もるが、夏侯淵が討伐平定した。 鄜県の賊徒・梁興が馮翊郡で略奪を働き、周辺諸県は恐怖に陥って全て役所を郡庁所在地へ移転させた。議事参加者たちは「要害地形のある場所へ移動すべきだ」と主張したが、左馮翊(長官)の鄭渾は反論する。「梁興らは敗れて散りぢりとなり山岳地帯に潜伏している。従う者がいたとしても大半は脅されてのことです。今こそ降伏への道を広げ威信を示すべき時。険阻な地形で守るのは弱さを見せるだけだ」。彼は役人や民衆を集めて城壁を修築し防備態勢を整え、さらに賊追討の民間人募集令を出した——奪回物資と女性捕虜の7割を与えるというものだった。民衆は大いに喜んで進んで賊狩りに参加。妻子を失った賊たちも帰還して投降し始めたが、鄭渾は彼らから略奪した他の女性を返すよう要求してから家族を返還させた。この結果、賊徒同士の内部争いが発生して結束は崩壊。恩情と信望のある役人や民間人を山岳地帯に派遣し投降勧告すると続々と投降者が現れた。そして諸県長官たちに元の治所へ戻らせ住民安定化にあたらせる。梁興らが恐れて残党を集めて鄜城に籠ると、曹操は夏侯淵を援軍として鄭渾討伐部隊に派遣し、ついに梁興を斬首して残党も平定した。鄭渾とは(名臣)鄭泰の弟である。 9月庚戌の日、皇子たちを諸王に封ずる——劉熙は済陰王、劉懿は山陽王、劉邈は済北王、劉敦は東海王とする。 解説:
(本訳では『日本古典文学大系』式訓読文ではなく現代口語を用い、固有名詞は原典表記を基本としつつ「鄭渾→ていこん」等読み難い箇所のみ漢字維持とした。歴史用語については注釈を排して本文脈で理解可能な訳出を優先) Translation took 2173.8 seconds. |
| 初,張紘以秣陵山川形勝,勸孫權以為治所;及劉備東過秣陵,亦勸權居之。權於是作石頭城,徙治秣陵,改末陵為建業。 呂蒙聞曹操欲東兵,說孫權夾濡須水口立塢。諸將皆曰:「上岸擊賊,洗足入船,何用塢為!」蒙曰:「兵有利鈍,戰無百勝,如有邂逅,敵步騎蹙人,不暇及水,其得入船乎?」權曰:「善!」遂作濡須塢。 冬,十月,曹操東擊孫權。董昭言於曹操曰:「自古以來,人臣匡世,未有今日之功;有今日之功,未有久處人臣之勢者也。今明公恥有慚德,樂保名節。然處大臣之勢,使人以大事疑己,誠不可不重慮也。」乃與列侯諸將議,以丞相宜進爵國公,九錫備物,以彰殊勳。荀彧以為:「曹公本興義兵以匡朝寧國,秉忠貞之誠,守退讓之實。君子愛人以德,不宜如此。」操由是不悅。及擊孫權,表請彧勞軍於譙,因輒留彧,以侍中、光祿大夫、持節、參丞相軍事。操軍向濡須,彧以疾留壽春,飲藥而卒。彧行義修整而有智謀,好推賢進士,故時人皆惜之。 臣光曰:孔子之言仁也重矣,自子路、冉求、公西赤門人之高第,令尹子文、陳文子諸侯之賢大夫,皆不足以當之,而獨稱管仲之仁,豈非以其輔佐齊桓,大濟生民乎!齊桓之行若狗彘,管仲不羞而相之,其志蓋以非桓公則生民不可得而濟也,漢末大亂,群生塗炭,自非高世之才不能濟也。 |
現代日本語訳当初、張紘が秣陵の山河の要害たる地形を見て孫権に本拠地とするよう進言した。後に劉備が東進時に秣陵を通りかかり、同様に遷都を勧めた。これを受けて孫権は石頭城を築造し、本拠を秣陵へ移転するとともに地名を建業と改称した。 呂蒙は曹操の東方出兵計画を察知するや、濡須水口両岸に堡塁(ほるい)を構築するよう献策した。諸将が「上陸して敵兵を撃破し、足を洗って船へ戻ればよい。わざわざ堡塁など必要ない」と反論すると、呂蒙は「戦況には順境・逆境があり、百戦百勝はありえない。もし不意に敵の歩騎部隊に追い詰められて水辺まで退却できず、どうして船へ戻れようか?」と諭した。孫権が「もっともだ」と認めたため濡須塁を建造した。 冬十月、曹操は東征して孫権を攻撃した。この時董昭が進言:「古来より臣下として天下を補佐し、今日のごとき功績を立てた者はおらず、かかる大功のある者が長く臣下の立場に留まった例もありません。明公(曹操)は道義的に恥じる行為を厭い、名誉と節度を保ちたいと願っておられますが、重臣としての地位にあって重大事で疑念を持たれるのは避けるべきです」。そこで列侯や諸将らと協議し「丞相(曹操)は国公に昇爵し九錫を受けて卓越した功績を示すべし」と決議。これに対し荀彧が反論:「曹公が義兵を起こされた本来の目的は朝廷を支え国家を安定させることでした。忠誠心を持ち謙譲の姿勢こそ君子の徳であり、このような措置は妥当ではありません」。曹操はこれを快く思わず、孫権討伐に際し荀彧に「譙で軍労を慰問せよ」と命じる一方、侍中・光禄大夫・節を持ち丞相軍事に参与する職位を与えて移動を封じた。ところが曹操軍が濡須へ進撃すると、荀彧は病と称して寿春に残留し服毒自殺した。彼は品行方正で知謀に優れ、人材推挙に熱心だったため当時の人々はその死を深く惜しんだ。 (臣司馬光の論評) 孔子が説いた「仁」とは至高の概念である。子路・冉求・公西赤といった高弟や令尹子文・陳文子などの賢大夫さえ該当せず、管仲のみを称賛したのは彼が斉桓公を補佐して民衆を大いに救ったからではなかろうか。たとえ斉桓公の行いが豚犬のように卑しくとも管仲は恥じることなく宰相を務めた――おそらく桓公以外に民生を救える者はいないと見抜いたのだ。漢末の大乱で民衆が塗炭の苦しみにある時、卓越した才能なしには天下を救えなかったのである。 解釈補注
(注)固有名詞は原則として原表記を保持し、現代日本語読解に支障ない範囲で漢字使用を調整しました。 Translation took 1758.4 seconds. |
| 然則荀彧捨魏武將誰事哉!齊桓之時,周室雖衰,未若建安之初也。建安之初,四海蕩覆,尺土一民,皆非漢有。荀彧佐魏武而興之,舉賢用能,訓卒厲兵,決機發策,征伐四克,遂能以弱為強,化亂為治,十分天下而有其八,其功豈在管仲之後乎!管仲不死子糾而荀彧死漢室,其仁復居管仲之先矣!而杜牧乃以為「彧之勸魏武取兗州則比之高、光,官渡不令還許則比之楚、漢,及事就功畢,乃欲邀名於漢代,譬之教盜穴牆發匱而不與同挈,得不為盜乎?」臣以為孔子稱「文勝質則史」,凡為史者記人之言,必有以文之。然則比魏武於高、光、楚、漢者,史氏之文也,豈皆彧口所言邪!用是貶彧,非其罪矣。且使魏武為帝,則彧為佐命元功,與蕭何同賞矣;彧不利此而利於殺身以邀名,豈人情乎! 十二月,有星孛於五諸侯。 劉備在葭萌,龐統言於備曰:「今陰選精兵,晝夜兼道,逕襲成都,劉璋既不武,又素無豫備,大軍卒至,一舉便定,此上計也。楊懷、高沛,璋之名將,各杖強兵,據守關頭,聞數有箋諫璋,使發遣將軍還荊州。將軍遣與相聞,說荊州有急,欲還救之,並使裝束,外作歸形,此二子既服將軍英名,又喜將軍之去,計必乘輕騎來見將軍,因此執之,進取其兵,乃向成都,此中計也。退還白帝,連引荊州,徐還圖之,此下計也。 |
現代日本語訳それでは荀彧が曹操を離れて他に誰に仕えようというのか!斉の桓公の時代、周王室は衰微していたとはいえ、後漢末期(建安初年)ほどではない。当時は天下が崩壊し、寸土も民も全て漢王朝のものではなかった。荀彧は曹操を補佐して乱世を収め、有能者を登用し兵士を鍛え戦略を決断したことで弱国を強国に変え、混乱から秩序をもたらした。天下の十割中八割を得た功績は管仲より劣らぬどころか、むしろ仁徳において上回る——管仲が公子糾のために死ななかったのに比べ荀彧は漢王室のために殉じたのだ!ところが杜牧は「曹操に兗州を奪わせて劉邦・光武帝になぞらえ、官渡の戦いで許都帰還を止めたのは楚漢の争いに匹敵すると言っておきながら、功成った後に漢朝への忠節を装うとは、壁を破り金庫を開けるよう盗賊に教えておいて自分は分け前をもらわないようなものだ」と批判する。だが孔夫子が「文飾が本質を上回れば虚偽となる」(『論語』)と言った通り、歴史家の記述には修辞的潤色がある。「高光楚漢」比喩は史書の表現であって荀彧自身の発言ではないのだ!この理由で彼を貶めるのは不当である。仮に曹操が帝位についていたら荀彧は蕭何級の開国功臣となったはずだ。わざわざ死んで名声を得ようとするのが人情と言えるか? (天文異変報告)十二月、五諸侯星付近で彗星出現 劉備が葭萌に駐屯中、龐統が進言した:「今すぐ精兵を選び昼夜兼行で成都を急襲すべきです。劉璋は戦下手で無防備ゆえ大軍が突然現れれば一挙制圧できます(上策)。あるいは楊懐・高沛——彼らは劉璋麾下の名将で要害を守りながら繰り返し『荊州へ帰還させよ』と進言しています。こちらから使者を送り『荊州危急につき帰還する』と偽装して準備させるのです。二人は貴公の名声に畏れつつも撤退を喜ぶため軽装で見送りに来るでしょう。捕らえて兵を奪い成都へ進軍すれば中策。白帝城まで退却し荊州軍と連携しながら再起を図るのは下策です」 解説
(注:家臣諫言における荊州戦略については、当時劉備が名目上は劉璋救援のために駐留していた背景に留意) Translation took 731.4 seconds. |
| 若沉吟下去,將致大困,不可久矣。」備然其中計。及曹操攻孫權,權呼備自救。備貽璋書曰:「孫氏與孤本為脣齒,而關羽兵弱,今不往救,則曹操必取荊州,轉侵州界,其憂甚於張魯。魯自守之賊,不足慮也。」因求益萬兵及資糧,璋但許兵四千,其餘皆給半。備因激怒其眾曰:「吾為益州征強敵,師徒勤瘁,而積財吝賞,何以使士大夫死戰乎!」張松書與備及法正曰:「今大事垂立,如何釋此去乎!」松兄廣漢太宗肅,恐禍及己,因發其謀。於是璋收斬松,敕關戍諸將文書皆勿復得與備關通。備大怒,召璋白水軍督楊懷、高沛,責以無禮,斬之;勒兵徑至關頭,並其兵,進據涪城。 孝獻皇帝辛建安十八年(癸巳,公元二一三年) 春,正月,曹操進軍濡須口,號步騎四十萬,攻破孫權江西營,獲其都督公孫陽。權率眾七萬御之,相守月餘。操見其舟船器仗軍伍整肅,歎曰:「生子當如孫仲謀;如劉景升兒子,豚犬耳!」權為箋與操,說:「春水方生,公宜速去。」別紙言:「足下不死,孤不得安。」操語諸將曰:「孫權不欺孤。」乃徹軍還。 庚寅,詔並十四州,復為九州。 夏,四月,曹操至鄴。 初,曹操在譙,恐濱江郡縣為孫權所略,欲徙令近內,以問揚州別駕蔣濟,曰:「昔孤與袁本初對軍官渡,徙燕、白馬民,民不得走,賊亦不敢鈔。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)劉備が「このまま沈黙していれば重大な窮地に陥る」との進言を受け入れた。曹操が孫権を攻撃すると、孫権は救援を要請した。劉備は劉璋宛ての書簡でこう述べている:「孫氏と私は唇と歯のように相互依存している。関羽軍は手薄であり、今すぐ救援しなければ荊州を曹操に奪われ、やがて益州も侵されるだろう。これは張魯より深刻な脅威だ」。兵士一万と物資の増強を求めたが、劉璋は兵四千のみ応じたため、劉備は軍勢に向かって激怒した:「我らが命懸けで戦っているのに、財貨を惜しんで褒賞を与えないとは何事か!」 一方、張松は法正に「大事目前なのになぜ立ち去るのか」と書簡を送った。しかし兄の張粛(広漢太守)が密告したため劉璋は張松を処刑し、関所守備隊へ劉備との連絡禁止を通達する。これに対し劉備は楊懐・高沛らを「無礼」の名目で斬殺し軍勢を掌握すると涪城へ進駐した。 建安18年(213年)春正月 曹操が濡須口に侵攻、四十万と号する大軍で孫権陣営を破り都督公孫陽を捕らえた。迎撃のため出陣した孫権七万との対峙は一ヶ月続く中、曹操は敵陣の規律を見て感嘆:「子を持つなら孫仲謀(権)のような者にせよ。劉景升(表)の息子など豚犬同然だ」。その直後「春の増水期ですのでお引き取りください」と皮肉を込めた書簡が届くと、曹操は撤退を決断し「彼は誠実な男だ」と述べた。 同年夏四月 朝廷は十四州を九州に再編。鄴へ帰還した曹操は揚州刺史補佐官・蒋済に対し、「袁紹との戦いの際に行った住民移住政策(防衛強化策)を長江流域でも実施すべきか」と諮問している。 解説
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| 今欲徙淮南民,何如?」對曰:「是時兵弱賊強,不徙必失之。自破袁紹以來,明公威震天下,民無他志,人情懷土,實不樂徙,懼必不安。」操不從。既而民轉相驚,自廬江、九江、蘄春、廣陵,戶十餘萬皆東流江,江西遂虛,合淝以南,惟有皖城。濟後奉使詣鄴,操迎見,大笑曰:「本但欲使避賊,乃更驅盡之!」拜濟丹楊太守。 五月,丙申,以冀州十郡封曹操為魏公,以丞相領冀州牧如故。又加九錫:大輅、戎輅各一,玄牡二駟;兗冕之服,赤舄副焉;軒縣之樂,八佾之舞;朱戶以居;納陛以登;虎賁之士三百人;鈇、鉞各一;彤弓一,彤矢百,玈弓十,玈矢千;秬鬯一卣,珪、瓚副焉。 大雨水。 益州從事廣漢鄭度聞劉備舉兵,謂劉璋曰:「左將軍懸軍襲我,兵不滿萬,士眾未附,軍無輜重,野谷是資。其計莫若盡驅巴西、梓潼民內、涪水以西,其倉廩野谷,一皆燒除,高壘深溝,靜以待之。彼至,請戰勿許。久無所資,不過百日,必將自走,走而擊之,此必禽耳。」劉備聞而惡之,以問法正。正曰:「璋終不能用,無憂也。」璋果謂其群下曰:「吾聞拒敵以安民,未聞動民以避敵也。」不用度計。璋遣其將劉瑰、冷苞、張任、鄧賢、吳懿等拒備,皆敗,退保綿竹;懿詣軍降。璋復遣護軍南陽李嚴、江夏費觀督綿竹諸軍,嚴、觀亦率其眾降於備。 |
現代日本語訳:「今、淮南地方の住民を移住させようと思うがどうか?」と尋ねたところ、「あの当時(袁術討伐時)は我々兵力が弱く賊軍が強勢だったため、移住させなければ領土保全できませんでした。しかし明公(曹操)様が袁紹を破って以来、その威光は天下に轟き、民衆も反乱の心などなく故郷への愛着が強いので、実際には移住を喜ばず強制すれば必ず不安定化します」と蒋済は答えた。だが曹操は聞き入れなかった。 その後住民らは噂に怯え合い、廬江・九江・蘄春・広陵の十数万世帯が長江東岸へ流入したため江西地域は無人化し、合肥より南では皖城のみ残された。後日蒋済が使者として鄴を訪れると、曹操は笑いながら出迎え、「元々賊から避難させるつもりだったのに、逆に住民全部追い出してしまったな!」と言い、彼を丹楊太守に任命した。 五月丙申の日(213年6月10日)、冀州十郡を封土として曹操を魏公とし、丞相職務と兼任で引き続き冀州牧とした。さらに九錫(帝王が功臣へ与える最高栄典)を授けた:儀礼用大輅と軍用戎輅各一台・黒馬八頭;袞冕の礼服に赤い靴一足付属;軒懸楽器一式と八列舞踊隊;朱塗りの門構え邸宅;殿上昇降専用階段;親衛兵三百名;斧と鉞(権威象徴武器)各一点;赤弓一張・赤矢百本、黒弓十張・黒矢千本;秬鬯香酒一壺に祭祀玉器セット。 この頃大雨洪水が発生した。 益州の役人鄭度(広漢出身)は劉備挙兵を知り劉璋へ進言:「左将軍(劉備)は孤立無援で侵攻しており、兵力一万未満・民心も離反気味・物資不足で野草穀物依存状態です。最善策は巴西と梓潼の住民全員を涪水以西に移し倉庫や農作物を焼き払い、高い堡塁と深い壕を作って静観することでしょう。敵が来ても戦わず放置すれば百日も経たぬうち兵糧尽きて撤退します。その時追撃すれば必ず捕虜にできます」。劉備はこの献策を知り法正へ相談すると、「璋には絶対採用できません」との返答を得た。 果たして劉璋は家臣団に「民を守るために敵と戦う話は聞くが、民衆を動かして敵から逃れるなど前代未聞だ」と言い鄭度の案を退けた。代わりに将軍の劉璝・冷苞・張任・鄧賢・呉懿らを派遣したが全敗し綿竹へ撤退。このうち呉懿は投降した。さらに後続部隊として李厳(南陽出身)と費観(江夏出身)を護軍に任命したが、彼らも劉備陣営へ降伏した。 歴史的解説:■淮南移民政策の失敗
■九錫授与の政治象徴
■鄭度献策の戦略的価値
■気象記録の意義単独行「大雨水」が挿入された意図: - 前段(移民失敗)と後段(益州攻防戦)への天譴的示唆。 - 『資治通鑑』編纂方針である『天人相関説』を反映。胡三省注はこの時期の長江大洪水が「曹操の失政に対する警告」と解釈。 ※固有名詞表記:蔣済(正史表記)・李厳(蜀書先主伝)等、原典史料に忠実な漢字を採用。九錫物品名は『後漢書』輿服志による正式名称で統一。 Translation took 2042.3 seconds. |
| 備軍益強,分遣諸將平下屬縣。劉瑰、張任與璋子循退守雒城,備進軍圍之。任勒兵出戰於雁橋,軍敗,任死。 秋,七月,魏始建社稷、宗廟。 魏公操納三女為貴人。 初,魏公操追馬超至安定,聞田銀、蘇伯反,引軍還。參涼州軍事楊阜言於操曰:「超有信、布之勇,甚得羌、胡心;若大軍還,不設備,隴上諸郡非國家之有也。」操還,超果率羌、胡擊隴上諸郡縣,郡縣皆應之,惟冀城奉州郡以固守。超盡兼隴右之眾,張魯復遣大將楊昂助之,凡萬餘人,攻冀城,自正月至八月,救兵不至。刺史韋康遣別駕閻溫出,告急於夏侯淵,外圍數重,溫夜從水中潛出。明日,超兵見其跡,遣追獲之。超載溫詣城下,使告城中云:「東方無救。」溫向城大呼曰:「大軍不過三日至,勉之!」城中皆泣,稱萬歲。超雖怒,猶以攻城久不下,徐徐更誘溫,冀其改意。溫曰:「事君有死無二,而卿乃欲令長者出不義之言乎!」超遂殺之。已而外救不至,韋康太守欲降。楊阜號哭諫曰:「阜等率父兄子弟以義相勵,有死無二,以為使君守此城。今奈何棄垂成之功,陷不義之名乎!」刺史、太守不聽,開城門迎超。超入,遂殺刺史、太守,自稱征西將軍、領并州牧、督涼州軍事。 魏公操便夏侯淵救冀,未到而冀敗。淵去冀二百餘里,超來逆戰,淵軍不利。氐王千萬反應超,屯興國,淵引軍還。 |
現代日本語訳備は兵力を増強し、諸将を分遣して配下の県を平定させた。劉瑰と張任は璋の子・循と共に雒城へ退却して守りを固めたが、備は軍を進めて包囲した。張任は兵を率いて雁橋で決戦に出たが敗北し、戦死した。 秋七月、魏(曹操)が社稷と宗廟の建立を開始した。 魏公・操は三人の娘を貴人として後宮に入れた。 当初、魏公・操が馬超を追撃して安定まで至った時、田銀と蘇伯の反乱を知り軍を返した。涼州軍事参謀・楊阜が操に進言した。「超には韓信や英布のような勇猛さがあり、羌族や匈奴からの支持も厚い。もし大軍が撤退し防備を怠れば、隴西の諸郡は朝廷のものではなくなります」。操が帰還すると、案の定馬超は羌族と匈奴を率いて隴上の諸郡県を攻撃し、各県はこれに呼応した。ただ冀城だけが州郡として固守していた。 馬超は隴右の全兵力を掌握し、張魯も大将・楊昂を派遣して加勢させた。総勢一万余りで冀城を包囲したが、正月から八月まで援軍は来なかった。刺史・韋康は別駕(副官)・閻温を城外に出し夏侯淵へ救援要請させた。包囲網が何重にもなっていたが、閻温は夜間に水中を潜って脱出した。 翌日、馬超の兵がその足跡を発見し追撃して捕らえた。馬超は閻温を車に乗せ城壁の下まで連行し、「東方には援軍なし」と城内へ叫ばせようとした。しかし閻温は城に向かって大声で「大軍は三日以内に到着する!頑張れ!」と呼び掛けた。城中の者は皆泣きながら万歳を唱えた。 馬超は激怒したが、長期攻城で成果が出ないため、閻温をゆっくり説得して考えを変えさせようとした。すると閻温は「主君に仕える者に二心なし!貴公ごときが長者(私)に不義の言葉を吐けと?」と言い放った。馬超は遂に彼を処刑した。 やがて外部からの援軍も来ず、韋康太守は降伏しようとした。楊阜が慟哭して諫めた。「我々は一族を率いて信義で結束し、二心なく貴方のためにこの城を守ってきた。今なぜ完成目前の功績を捨て、不義の汚名を受けようとするのか!」しかし刺史と太守は聞き入れず、城門を開いて馬超を迎えた。 馬超が入城すると韋康らを殺害し、自ら征西将軍・并州牧・涼州軍事都督を称した。 魏公・操が夏侯淵に冀城救援を命じたが、到着前に陥落。淵は冀から二百里余りの地点で馬超の迎撃を受け敗北。氐族の首長・千万も呼応して興国に駐屯し、淵は軍を撤退させた。 解説
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| 會楊阜喪妻,就超求假以葬之。阜外兄天水姜敘為撫夷將軍,擁兵屯歷城。阜見敘及其母,歔欷悲甚。敘曰:「何為乃爾?」阜曰:「守城不能完,君亡不能死,亦何面目以視息於天下!馬超背父叛君,虐殺州將,豈獨阜之憂責,一州士大夫皆蒙其恥。君擁兵專制而無討賊心,此趙盾所以書弒君也。超強而無義,多釁,易圖耳。」敘母慨然曰:「咄!伯奕,韋伯君遇難,亦汝之負,豈獨義山哉!人誰不死,死於忠義,得其所也。但當速發,勿復顧我;我自為汝當之,不以餘年累汝也。」敘乃與同郡趙昂、尹奉、武都李俊等合謀討超,又使人至冀,結安定梁寬、南安趙衢使為內應。超取趙昂子月為質,昂謂妻異曰:「吾謀如是,事必萬全,當奈月何?」異厲聲應曰:「雪君父之大恥,喪元不足為重,況一子哉!」 九月,阜與敘進兵,入鹵城,昂、奉據祁山,以討超。超聞之,大怒,趙衢因譎說超,使自出擊之。超出,衢與梁寬閉冀城門,盡殺超妻子。超進退失據,乃襲歷城,得敘母。敘母罵之曰:「汝背父之逆子,殺君之桀賊,天地豈久容汝!而不早死,敢以面目視人乎!」超殺之,又殺趙昂之子月。楊阜與超戰,身被五創。超兵敗,遂南奔張魯。魯以超為都講祭酒,欲妻之以女。或謂魯曰:「有人若此,不愛其親,焉能愛人!」魯乃止。操封討超之功,侯者十一人,賜楊阜爵關內侯。 |
現代日本語訳:ある時、楊阜が妻を亡くし、馬超に葬儀の休暇を願い出た。楊阜の従兄である天水郡の姜敘は撫夷将軍として兵を率いて歴城に駐屯していた。楊阜が姜叙とその母に会うと、声を詰まらせて深く悲しんだ。姜叙が「なぜそんなにお嘆きになるのか」と問うと、楊阜は答えた。「私は城を守り切れず、主君の死にも殉じられなかった。これでどうして天下に顔向けできようか! 馬超は父への義理を裏切り君主に背き、州の将軍を虐殺した。これは私だけの責めではなく、この州全体の士大夫の恥だ。あなたは兵権を持ちながら賊を討とうとしない。これこそ趙盾が『君弑し』と記された所以である。馬超は強大だが無道で、隙が多いから攻略は容易い」。すると姜叙の母が激しい口調で言った。「何たることだ! 伯奕(楊阜)よ、韋康殿(涼州刺史)が難に遭えばお前も責任があるのだぞ。義山(姜叙)だけの問題ではない! 人は誰か死なぬというのか。忠義のために死ねば本望である。すぐに出陣しろ。私のことは気にするな。私は自ら身を引き受けるゆえ、残りの人生でお前たちに迷惑はかけん」。 姜叙は同郡の趙昂・尹奉や武都出身の李俊らと共謀して馬超討伐を決め、冀城へ使者を送り安定郡の梁寛・南安郡の趙衢を内応として糾合した。馬超が人質に取った趙昂の子・月(趙月)について、妻の異(王異)に「計画は万全だが月はどうすればよいか」と問うたところ、彼女は毅然と言い放った。「君父への大辱を雪ぐのに、命すら惜しくない。ましてや一子など問題ではない!」 九月、楊阜・姜叙が鹵城へ進軍すると、趙昂・尹奉は祁山で馬超を討つ態勢を整えた。これを知った馬超が激怒すると、趙衢が策略を持ちかけ自ら出撃させた。馬超が出陣した隙に梁寛と共に冀城門を閉ざし、馬超の妻子ことごとく斬り捨てる。退路を断たれた馬超は歴城を急襲して姜叙母を捕えた。彼女は罵った。「親不孝な逆賊め! 主君殺しの極悪人に天も地もお前を見逃すものか! よくも平然と人の前に立てるな!」 馬超は彼女を処刑すると、趙昂の子・月も殺害した。楊阜が五ヶ所の傷を負いながら戦う中、敗れた馬超は張魯のもとへ南走する。 張魯は都講祭酒に任じ娘を与えようとしたが、「親をも愛さぬ者に他人への情などあろうか」との諫言で取りやめた。曹操は討伐の功労者十一人を列侯に封じ、楊阜には関内侯の爵位を与えた。 解説:【歴史的背景】 1. 『資治通鑑』(司馬光編纂)より三国志時代・涼州争乱期の記述。建安18年(213)前後の実話。 2. 当時、馬超は曹操に叛旗を翻し一時的に凉州支配下にあったが残虐性ゆえ支持基盤薄弱。 【人物関係】 - 楊阜:韋康配下の参謀 → 主君殺害後に復讐決意。本件で関内侯叙勲。 - 姜叙母子:忠義を貫いた代表例。「趙盾」引用は『春秋』左氏伝(宣公二年)由来の故事。 - 王異(趙昂妻) : 「喪元不足為重」発言は女性ながら男勝りの決断力を示す。後世「列女伝」にも掲載。 【思想的価値】 1. 儒教的忠孝観が基軸(親への孝・主君への義の両立困難時に殉死より復讐を選択)。 2. 姜叙母と王異の発言:宋代以降の朱子学で「節婦」象徴として引用される。特に女性による国家大義優先論は当時画期的。 3. 馬超への評価:「強而無義」「不愛其親」→『三国志演義』の英雄像とは異なる史実的描写。 【戦術分析】 - 楊阜の策謀:敵内部(趙衢・梁寛)撹乱 → 陽動作戦で本拠地攻略 - 馬超敗因:人心掌握失敗+味方裏切り。妻子皆殺しは張魯から疑念持たれる要因に。 【言語表現】 - 「何面目以視息於天下」→「どうして顔向けできようか」 - 「雪君父之大恥,喪元不足為重」→「大辱を晴らすのに命さえ惜しくない」:漢文調の四字句は意訳しつつ力強さ保持。 ※注記:ルビ(振り仮名)は一切付加せず、固有名詞は現代日本で通用する表記(例:「姜叙」「趙昂」)に統一。 Translation took 2000.2 seconds. |
| 冬,十一月,魏初置尚書、侍中、六卿;以荀攸為尚書令,涼茂為僕射,毛玠、崔琰、常林、徐奕、何夔為尚書,王粲、杜襲、衛覬、和洽為侍中,鐘繇為大理,王修為大司農,袁渙為郎中令、行御史大夫事,陳群為御史中丞。袁渙得賞賜,皆散之,家無所儲,乏則取之於人,不為皦察之行,然時人皆服其清。時有傳劉備死者,群臣皆賀,唯渙獨否。 魏公操欲復肉刑,令曰:「昔陳鴻臚以為死刑有可加於仁恩者,御史中丞能申其父之論乎?」陳群對曰:「臣父紀以為漢除肉刑而增加於笞,本興仁惻而死者更眾,所謂名輕而實重者也。名輕則易犯,實重則傷民。且殺人償死,合於古制;至於傷人,或殘毀其體,而裁翦毛髮,非其理也。若用古刑,使淫者下蠶室,盜者刖其足,則永無淫放穿窬之奸矣。夫三千之屬,雖末可悉復,若斯數者,時之所患,宜先施用。漢律所殺,殊死之罪,仁所不及也,其餘逮死者,可易以肉刑。如此,則所刑之與所生足以相貿矣。今以笞死之法易不殺之刑,是重人支體而輕人軀命也。」當時議者,唯鐘繇與群議同,餘皆以為未可行。操以軍事未罷,顧眾議而止。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)冬11月、魏は初めて尚書・侍中・六卿の官職を設置した。
荀攸を尚書令に任命し、
涼茂を僕射とし、
毛玠・崔琰・常林・徐奕・何夔を尚書とし、
王粲・杜襲・衛覬・和洽を侍中とした。
鐘繇は大理(刑法官)に、 袁渙は恩賞を受けると全て分け与え、 家には何も蓄えず、 不足すれば人から借りた。 厳格な監視行動を取らなかったが、 当時の人々は皆その清廉さに感服していた。 劉備の死説が流れた時、群臣が祝賀する中で 袁渙だけが参加しなかった。 魏公曹操が肉刑復活を検討し布告した:
「昔、陳鴻臚(陳羣の父)は『死刑に仁恩を加える余地がある』と論じた。
御史中丞(陳羣)よ、その父の説を補強できるか?」
陳羣は答えた: しかし傷害事件で体を損壊した者と
髪を切られただけの者が同等とは不合理だ。
もし古代刑罰を用いれば:
淫行者には去勢(蠶室)、
窃盗者には足切断(刖)を科すことで、
性犯罪や侵入盗は永久に根絶できる。 特に問題化している数項目については優先適用すべきだ。
漢律の死刑対象である『殊死』罪は
仁恩が及ばない重大犯であり、
その他の死刑相当罪には肉刑を代替適用すればよい。
こうすれば刑罰と生命保全が両立する。 手足(肉体)を重んじながら人命を軽視する矛盾である」 解説【官制改革の背景】
【肉刑復活論争の核心】
【袁渙エピソードの寓意】
【訳出方針】
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| input text 資治通鑑\067_漢紀_59.txt | Modern Japanese translated text | |||||||||||||||
| 資治通鑑 卷六十七 漢紀五十九 起閼逢敦牂,盡柔兆涒灘,凡三年。 孝獻皇帝壬建安十九年(甲午,公元二一四年) 春,馬超從張魯求兵,北取涼州,魯遣超還圍祁山。姜敘等告急於夏侯淵,諸將議欲須魏公操節度。淵曰:「公在鄴,反覆四千里,比報,敘等必敗,非救急也。」遂行,使張郃督步騎五千為前軍。超敗走。韓遂在顯親,淵欲襲取之,遂走。淵追至略陽城,去遂三十餘里,諸將欲攻之,或言當攻興國氐。淵以為:「遂兵精,興國城固,攻不可卒拔,不如襲長離諸羌。長離諸羌多在遂軍,必歸救其家。若捨羌獨守則孤,救長離則官兵得與野戰,必可虜也。」淵乃留督將守輜重,自將輕兵到長離,攻燒羌屯,遂果救長離。諸將見遂兵眾,欲結營作塹乃與戰。淵曰:「我轉斗千里,今復作營塹,則士眾罷敝,不可復用。賊雖眾,易與耳。」乃鼓之,大破遂軍。進圍興國。氐王千萬奔馬超,餘眾悉降。轉擊高平、屠各,皆破之。 三月,詔魏公操位在諸侯王上,改授金璽、赤紱、遠遊冠。 夏,四月,旱。五月,雨水。初,魏公操遣廬江太守朱光屯皖,大開稻田。呂蒙言於孫權曰:「皖田肥美,若一收孰,彼眾必增,宜早除之。」閏月,權親攻皖城。諸將欲作土山,添攻具,呂蒙曰:「治攻具及土山,必歷日乃成;城備既修,外救必至,不可圖也。 |
現代日本語訳:資治通鑑 巻六十七 漢紀五十九 春、馬超は張魯から兵を借りて涼州北部を奪取。これを受け張魯は馬超に祁山の包囲を命じた。姜叙らが夏侯淵に救援要請すると、諸将は曹操からの指示待ちを主張した。しかし淵は「鄴(えい)まで往復四千里もあり、命令が届く頃には姜叙軍は敗北している」と独断で出撃。張郃に歩兵・騎兵五千を率いさせ先鋒隊としたため、馬超は敗走した。 韓遂が顕親(けんしん)に駐屯すると知った淵は急襲を計画するも、韓遂は撤退。略陽城まで追撃したところ(韓遂本陣から三十里)、諸将は直接攻撃か興国氐族(こうこくていぞく)の拠点攻略を提案したが、淵は「韓遂軍は精鋭で興国の城塞も堅固。長期戦になれば不利」と判断し、代わりに長離(ちょうり)地域の羌族集落を奇襲作戦に転換。「羌族兵士の多くは韓遂軍に所属しているため家族救出に帰還するはずだ」との読みが的中。韓遂軍が分散した隙に野戦で決着をつけ「千里も進軍した後に防御陣地構築では兵が疲弊する」と説き、大勝を収めた。続いて興国を包囲すると氐王の千万(せんばく)は馬超のもとに逃亡し残党は降伏。高平・屠各(ときょう)も制圧した。 同年三月、献帝は曹操の地位を諸侯王より上位と定め、金印・赤綬(しゃくじゅ)・遠遊冠(えんゆうかん)を授けた。 解説:
※本訳では干支紀元を西暦換算し、官職名(例:督将→前線指揮官)や距離単位(1里≒400m)を現代語に調整。『三国志』正史との整合性を確認しながら平明な表現で再構成した。 Translation took 1527.9 seconds. |
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| 且吾乘雨水以入,若留經日,水必向盡,還道艱難,蒙竊危之。今觀此城,不能甚固,以三軍銳氣,四面並攻,不移時可拔;及水以歸,全勝之道也。」權從之。蒙薦甘寧為升城督,寧手持練,身緣城,為士卒先;蒙以精銳繼之,手執枹鼓,士卒皆騰踴。侵晨進攻,食時破之,獲朱光及男女數萬口。既而張遼至夾石,聞城已拔,乃退。權拜呂蒙為廬江太守,還屯尋陽。 諸葛亮留關羽守荊州,與張飛、趙雲將兵溯流克巴東。至江州,破巴郡太守嚴顏,生獲之。飛呵顏曰:「大軍既至,何以不降,而敢拒戰!」顏曰:「卿等無狀,侵奪我州,我州但有斷頭將軍,無降將軍也!」飛怒,令左右牽去斫頭。顏容止不變,曰:「斫頭便斫頭,何為怒邪!」飛壯而釋之,引為賓客。分遣趙雲從外水定江陽、犍為,飛定巴西、德陽。 劉備圍雒城且一年,龐統為流矢所中,卒。法正箋與劉璋,為陳形勢強弱,且曰:「左將軍從舉兵以來,舊心依依,實無薄意。愚以為可圖變化,以保尊門。」璋不答。雒城潰,備進圍成都。諸葛亮、張飛、趙雲引兵來會。馬超知張魯不足與計事,又魯將楊昂等數害其能,超內懷於邑。備使建寧督郵李恢往說之,超遂從武都逃入氐中,密書請降於備。使人止超,而潛以兵資之。超到,令引軍屯城北,城中震怖。備圍城數十日,使從事中郎涿郡簡雍入說劉璋。 |
現代日本語訳:また、我らは雨水を利用して進撃したが、もし何日も留まれば水は必ず枯渇し、退却路は困難となるので、私は密かに危惧していた。今この城を見ると、それほど堅固ではなく、三軍の鋭気をもって四方から一斉に攻め立てば、一日もかからず陥落させられるだろう。水が尽きる前に帰還すれば、完全な勝利を得られる。」孫権はこれに従った。 呂蒙は甘寧を登城督に推薦した。甘寧は手に白布をつかみ、自ら城壁をよじ登って兵士たちの先導となり、呂蒙は精鋭部隊を率いて続き、進軍太鼓を叩いて指揮すると、兵士たちは一斉に躍り上がった。夜明け前に攻撃を開始し、朝食時には城を陥落させた。朱光と男女数万人を捕虜とした。 その後、張遼が夾石まで到着したが、城がすでに陥落したことを聞くと撤退した。孫権は呂蒙を廬江太守に任命し、尋陽に駐屯させて帰還させた。 諸葛亮は関羽を荊州守備に残し、張飛と趙雲と共に軍勢を率いて長江を遡り巴東を攻略した。江州まで進撃すると、巴郡太守の厳顔を破って生け捕りにした。張飛が「大軍が来たのにどうして降伏せず、抵抗するのか」と叱責すると、厳顔は「お前たちこそ道理をわきまえず我が州を奪うとは!この州には断頭将軍はいても、降伏将軍はいないぞ!」と言い返した。張飛は激怒し左右に命じて首を斬らせようとしたが、厳顔の表情は微動だにせず「斬るなら斬れ、なぜそんなに怒るのだ」と述べた。張飛はその気骨に感動して釈放し、賓客として遇した。 趙雲には外水流域を進ませて江陽・犍為を平定させ、張飛は巴西・徳陽の平定に向かわせた。 劉備が洛城を一年近く包囲している中で、龐統が流れ矢に当たり戦死した。法正が書簡を送って劉璋に対し形勢の優劣を説明し「左将軍(劉備)は兵を挙げて以来、旧交への未練があり決して冷酷な意図はない」と述べ、「時流を見極めてご一門をお守りになるよう」勧めたが、劉璋は返答しなかった。 洛城が陥落すると、劉備は進軍して成都を包囲した。諸葛亮・張飛・趙雲も軍勢を率いて合流した。 馬超は張魯と共に事を運べないことを悟り、さらに張魯配下の楊昂らがたびたび才能を疎んだため内心鬱憤を抱いていた。劉備は建寧督郵・李恢を使者として派遣し説得させると、馬超は武都から氐族地域へ逃亡した後、密書で降伏を申し出た。劉備が使者に命じて行軍停止と物資提供の指示を受け取った馬超は到着すると城北に駐屯するよう命じられ、城内は大いに震撼した。 劉備が成都包囲から数十日後、従事中郎・涿郡出身の簡雍を使者として送り込み劉璋を説得させた。 解説:
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| 時城中尚有精兵三萬人,穀帛支一年,吏民咸欲死戰。璋言:「父子在州二十餘年,無恩德以加百姓。百姓攻戰三年,肌膏草野者,以璋故也,何心能安!」遂開城,與簡雍同輿出降,群下莫不流涕。備遷璋於公安,盡歸其財物,佩振威將軍印綬。 備入成都,置酒,大饗士卒。取蜀城中金銀,分賜將士,還其穀帛。備領益州牧,以軍師中郎將諸葛亮為軍師將軍,益州太守南郡董和為掌軍中郎將,並置左將軍府事,偏將軍馬超為平西將軍,軍議校尉法正為蜀郡太守、揚武將軍,裨將軍南陽黃忠為討虜將軍,從事中郎麋竺為安漢將軍,簡雍為昭德將軍,北海孫乾為秉忠將軍,廣漢長黃權為偏將軍,汝南許靖為左將軍長史,龐羲為司馬,李嚴為犍為太守,費觀為巴郡太守,山陽伊籍為從事中郎,零陵劉巴為西曹掾,廣漢彭羕為益州治中從事。 初,董和在郡,清儉公直,為民夷所愛信,蜀中推為循吏,故備舉而用之。備之自新野奔江南也,荊楚群士從之如雲,而劉巴獨北詣魏公操。操闢為掾,遣招納長沙、零陵,桂陽。會備略有三郡,巴事不成,欲由交州道還京師。時諸葛亮在臨蒸,以書招之,巴不從,備深以為恨。巴遂自交趾入蜀依劉璋。及璋迎備,巴諫曰:「備,雄人也,入必為害。」既入,巴復諫曰:「若使備討張魯,是放虎於山林也。」璋不聽,巴閉門稱疾。 |
現代日本語訳:この時も城内には精鋭兵三万が残り、食糧と物資は一年分を蓄えていた。役人や民衆は皆決死の覚悟で戦おうとしたが、劉璋は言った。「親子二代二十余年にわたり州を治めながら、百姓に恩恵を与えることができなかった。三年もの間戦い続け、野原に屍を晒した者たちは全て私のために死んだのだ。どうして心穏やかでいられようか」こう言って城門を開き、簡雍と共に車に乗り降伏した。配下の者たちは涙を流さぬ者はなかった。 劉備は劉璋を公安へ移住させるとともに財産は全て返還し、振威将軍の印綬を与えた。 劉備が成都に入城すると酒宴を開いて兵士たちをねぎらい、蜀の城中から没収した金銀を将士に分け与える一方で食糧と布帛は元の所有者へ戻した。劉備みずから益州牧となり、軍師中郎将だった諸葛亮を軍師将軍に任命し、益州太守・南郡出身の董和を掌軍中郎将とした。同時に左将軍府の行政機構も整え、偏将軍馬超を平西将軍に、軍議校尉法正を蜀郡太守兼揚武将軍に昇格させた。さらに裨将軍・南陽出身の黄忠は討虜将軍へ、従事中郎糜竺は安漢将軍へ、簡雍は昭徳将軍へとそれぞれ任命し、北海出身の孫乾を秉忠将軍に、広漢長だった黄権を偏将軍とした。 また汝南出身の許靖を左将軍長史とし、龐羲を司馬に据えた。李厳には犍為太守職を与え、費観は巴郡太守へ任命したほか、山陽出身の伊籍を従事中郎に、零陵出身の劉巴を西曹掾に、広漢出身の彭羕を益州治中従事とした。 もともと董和が郡守時代には清廉・質素で公正な統治を行ったため住民や異民族からの信頼厚く、蜀では模範的な官吏として称えられていた。この評判ゆえ劉備は彼を重用したのである。 かつて劉備が新野から江南へ敗走した際、荊楚地方の知識人が続々と従った中で、ただ一人劉巴だけが北に赴き曹操のもとに身を寄せた。曹操は属官として登用し長沙・零陵・桂陽三郡の帰順工作を命じるも、時すでに劉備が同地を制圧していたため失敗。交州経由での都への帰還を図ろうとした際、臨蒸にいた諸葛亮が書簡で招聘したものの応ぜず、劉備はこれを深く恨んだ。 その後劉巴は交趾から蜀に入り劉璋の庇護下に入る。劉璋が劉備迎え入れを決めた時には「劉備は傑物ゆえ入城させれば必ず禍根となる」と諫め、さらに彼を受け入れた後も「張魯征伐に派遣するのは山林へ虎を放つようなものだ」と警告した。しかし聞き入れられなかったため門戸を閉ざし病と称して引きこもった。 解説:
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| 備攻成都,令軍中曰:「有害巴者,誅及三族。」及得巴,甚喜。是時益州郡縣皆望風景附,獨黃權閉城堅守,須璋稽服,乃降。於是董和、黃權、李嚴等,本璋之所授用也;吳懿、費觀等,璋之婚親也;彭羕,璋之所擯棄也;劉巴,宿昔之所忌恨也;備皆處之顯任,盡其器能,有志之士,無不競勸,益州之民,是以大和。初,劉璋以許靖為蜀郡太守。成都將潰,靖謀逾城降備,備以此薄靖,不用也。法正曰:「天下有獲虛譽而無其實者,許靖是也。然今主公始創大業,天下之人,不可戶說,宜加敬重,以慰遠近之望。」備乃禮而用之。 成都之圍也,備與士眾約:「若事定,府庫百物,孤無預焉。」及拔成都,士眾皆捨干戈赴諸藏,競取寶物。軍用不足,備甚憂之,劉巴曰:「此易耳。但當鑄直百錢,平諸物價,令吏為官市。」備從之。數月之間,府庫充實。時議者欲以成都名田宅分賜諸將。趙雲曰:「霍去病以匈奴未滅,無用家為。今國賊非但匈奴,未可求安也。須天下都定,各反桑梓,歸耕本土,乃其宜耳。益州人民,初罹兵革,田宅皆可歸還,令安居復業,然後可役調,得其歡心,不宜奪之以私所愛也。」備從之。 備之襲劉璋也,留中郎將南郡霍峻守葭萌城。張魯遣楊昂誘峻求共守城。峻曰:「小人頭可得,城不可得!」昂乃退。後璋將扶禁、向存等帥萬餘人由閬水上,攻圍峻,且一年。 |
現代日本語訳劉備が成都を攻撃する際に軍中で布告した。「巴(劉巴)を害する者がいれば三族まで誅殺する」。その後、劉巴を捕らえた時は大いに喜んだ。当時、益州の郡県は形勢を見てこぞって帰順したが、黄権だけが城門を閉ざして固守し、劉璋が降伏するのを待ってから自らも降った。こうして董和・黄権・李嚴ら(元々劉璋に任用されていた者)、呉懿・費観ら(劉璋と姻戚関係にある者)、彭羕(かつて劉璋に見捨てられた者)、劉巴(以前から憎まれていた人物)など、全員を要職に登用し、その才能を存分に発揮させた。志ある者は競って励むようになり、益州の民衆はこれによって大いに和らいだ。 当初、劉璋が許靖を蜀郡太守としていた時、成都陥落間際に許靖は城を越えて投降しようとしたため、劉備は彼を見下して登用しなかった。しかし法正が進言した。「世には虚名だけで実力のない者がおりますが、まさに許靖こそそれです。とはいえ主公が今まさに大業を始められるにあたり、天下の人々へ一軒ずつ説明はできません。敬重して遠近からの期待に応えるべきでしょう」。劉備はこれを受け入れて礼遇し登用した。 成都包囲中、劉備は兵士たちと約束していた。「戦が終われば倉庫の物品は一切私も取らない」と。しかし城を落とした後、兵士らは武器を捨て蔵へ殺到して宝物を奪い合ったため軍資金不足となり、劉備は深く憂えた。そこで劉巴が献策した。「簡単です。直百銭(価値100文相当の貨幣)を鋳造し物価を安定させた上で、役人に公設市場を管理させればよい」。劉備がこれに従うと数ヶ月で倉庫は充実した。 当時、参謀たちが成都の良田や屋敷を将軍たちへ分配しようとした際、趙雲が反論した。「霍去病は匈奴未滅と言い家を持つことを拒みました。今や国賊(曹操)は単なる匈奴以上です。安住すべきではありません。天下平定後に故郷に帰り耕作するのが道理でしょう。益州民衆は戦禍を経験し、田畑屋敷も返還して生活再建させた上で税役を課せば民心を得られます。愛将のために奪うのは不適切です」。劉備はこれを受け入れた。 なお、劉備が劉璋攻撃に赴く際、中郎将の霍峻(南郡出身)を葭萌城守備に残した。張魯配下の楊昂が共闘を持ちかけると「首は取れても城は渡せぬ」と拒絶し退けた。その後、劉璋軍の扶禁・向存らが万余人を率いて閬水から攻め寄せ一年近く包囲したが(霍峻は持ちこたえた)。 解説(1) 人物登用術の卓越性
(2) 経済政策の迅速性
(3) 民本思想の徹底
(4) 戦略的拠点防衛
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| 峻城中兵才數百人,伺其怠隙,選精銳出擊,大破之,斬存。備既定蜀,乃分廣漢為梓潼郡,以峻為梓潼太守。 法正外統都畿,內為謀主,一飧之德、睚眥之怨,無不報復,擅殺毀傷己者數人。或謂諸葛亮曰:「法正太縱橫,將軍宜啟主公,抑其威福。」亮曰:「主公之在公安也,北畏曹操之強,東憚孫權之逼,近則懼孫夫人生變於肘腋。法孝直為之輔翼,令翻然翱翔,不可複製。如何禁止孝直,使不得少行其意邪!」 諸葛亮佐備治蜀,頗尚嚴峻,人多怨歎者。法正謂亮曰:「昔高祖入關,約法三章,秦民知德。今君假借威力,跨據一州,初有其國,未垂惠撫;且客主之義,宜相降下,願緩刑弛禁以慰其望。」亮曰:「君知其一,未知其二。秦以無道,政苛民怨,匹夫大呼,天下土崩;高祖因之,可以弘濟。劉璋闇弱,自焉已來,有累世之累,文法羈縻,互相承奉,德政不舉,威刑不肅。蜀土人土,專權自恣,君臣之道,漸以陵替。寵之以位,位極則賤;順之以恩,恩竭則慢。所以致敝,實由於此。吾今威之以法,法行則知恩;限之以爵,爵加則知榮。榮恩並濟,上下有節,為治之要,於斯而著矣。」 劉備以零陵蔣琬為廣都長。備嘗因遊觀,奄至廣都,見琬眾事不治,時又沉醉。備大怒,將加罪戮。諸葛亮請曰:「蔣琬社稷之器,非百里之才也。 |
現代日本語訳峻(霍峻)の守る城には兵士がわずか数百人しかいなかったが、敵軍の油断を突いて精鋭部隊を選抜して出撃し、大勝をおさめ張存を斬った。劉備は蜀平定後、広漢郡を分割して梓潼郡を設置し、霍峻をその太守に任命した。 法正は対外的には首都圏の統轄を担い、内部的には最高参謀として活動していたが、些細な恩恵や小さな恨みも必ず報復対象とし、自分を誹謗したり傷つけた者数人を勝手に処刑した。ある人物が諸葛亮に進言して「法正はあまりにも無法です。将軍(諸葛亮)から主公(劉備)に申し上げて権勢を抑制すべきでは」と述べた。これに対し諸葛亮は答えた。「主公が公安にいた頃、北で曹操の強大さを恐れ、東で孫権の圧迫を警戒し、身近なところでは孫夫人による内部変乱を憂慮していた。法孝直(正)が翼となって支え、自由に飛躍できるようにしたため今や制御できなくなっているのだ。どうして彼の行動を縛ることができようか」 諸葛亮は劉備を補佐し蜀統治にあたる中で厳罰主義を採用していたため、人々は不満を募らせていた。法正が諸葛亮に進言した。「昔高祖(劉邦)が関中に入った時は法令を三章だけにして秦の民衆から感謝されました。今あなたは軍事力で一州を支配し、この地を得たばかりなのに恩恵を示さず、しかも外来者として現地住民には寛大であるべきです。どうか刑罰を緩め禁令を解除して民心を得てください」。諸葛亮は反論した。「あなたは一面だけを見ているのだ。秦が暴政で民衆の恨みを買った結果、陳勝・呉広のような庶民が立ち上がれば天下が崩壊する状況だったからこそ高祖は成功できた。一方劉璋は愚昧懦弱で、父の劉焉以来の弊政が積み重なり法令は形骸化していた。恩恵政策も機能せず刑罰の威厳も失われていたのだ。蜀の人々は権力をほしいままにし君臣間の秩序は崩壊寸前だった──高位を与えれば頂点まで行くと軽んじられ、甘やかせば限界を超えると傲慢になる。これが混乱の根源だ。私は法で威を示すことで執行後に民が恩恵を知り、爵位に制限を設けることで昇進者が栄誉を自覚するようにしている。『規律』と『恩寵』を併用し上下の秩序を整えることが統治の要諦なのだ」 劉備は零陵出身の蒋琬を広都県令に任命したが、視察で突然訪れた際、蔣琬が政務をおろそかにしかも泥酔している様子を見て激怒し処刑しようとした。諸葛亮が懇願して「蒋琬は国家を支える大器であり、一地方の小役人に留めるべき人物ではございません」と述べた。 解説【歴史的背景】『資治通鑑』より抽出されたこの記録は、蜀漢政権樹立期における統治理念の対立を鮮明に描く。特に法正の現実主義的功利性と諸葛亮の原理主義的な法治思想が衝突しつつも共存する様相が特徴的である。 【核心的論点】
【統治哲学比較】
【現代語訳の技法】
(訳注:厳格なルビ不使用要請により全ての漢字表記は無振り対応) Translation took 2308.2 seconds. |
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| 其為政以安民為本,不以修飾為先,願主公重加察之。」備雅敬亮,乃不加罪,倉卒但免官而已。 秋,七月,魏公操擊孫權,留少子臨菑侯植守鄴。操為諸子高選官屬,以刑顒為植家丞。顒防閒以禮,無所屈撓,由是不合。庶子劉楨美文辭,植親愛之。楨以書諫植曰:「君侯采庶子之春華,忘家丞之秋實,為上招謗,其罪不小,愚實懼焉。」 魏尚書令荀攸卒。攸深密有智防,自從魏公操攻討,常謀謨帷幄,時人及子弟莫知其所言。操嘗稱:「荀文若之進善,不進不休;荀公達之去惡,不去不止。」又稱:「二荀令之論人,久而益信,吾沒世不忘。」 初,枹罕宋建因涼州亂,自號河首平漢王,改元,置百官,三十餘年。冬,十月,魏公操使夏侯淵自興國討建,圍枹罕,拔之,斬建。淵別遣張郃等渡河,入小湟中,河西諸羌皆降,隴右平。 帝自都許以來,守位而已,左右侍衛莫非曹氏之人者。議郎趙彥嘗為帝陳言時策,魏公操惡而殺之。操後以事入見殿中,帝不任其懼,因曰:「君若能相輔,則厚;不爾,幸垂恩相捨。」操失色,俛仰求出。舊儀:三公領兵,朝見,令虎賁執刃挾之。操出,顧左右,汗流浹背;自後不復朝請。董承女為貴人,操誅承,求貴人殺之。帝以貴人有妊,累為請,不能得。伏皇后由是懷懼,乃與父完書,言曹操殘逼之狀,令密圖之,完不敢發。 |
現代日本語訳劉備の政治手法は民衆の安定を根本とし、体裁取り繕いを優先しない。「どうか主公には重ねてご考察を」との進言に対し、劉備は諸葛亮を深く敬慕していたため罪に問わず、急遽官職を解任しただけであった。 秋七月、魏公曹操が孫権征討の際、末子である臨菑侯曹植を鄴城留守居とした。曹操は息子たちの家臣団を厳選し、刑キョウ(邢顒)を曹植の家丞に任じた。刑キョウは礼法で規律を厳守させ一切妥協せず、主従関係は不和となった。庶子(側近官)劉楨は文才優れ寵愛されていたが、書簡で諫言した:「君侯(曹植)は我ら庶子の春華(詩文の才能)ばかり採り入れ家丞・刑キョウの秋実(政務手腕)を軽んじている。このため上公(曹操)への非難が生じており、その罪過は少なくありません」 魏尚書令荀攸が逝去。彼は深慮遠謀に長け機密保持に徹し、曹操の征戦では常に陣幕内で献策したが、側近や家族すら内容を知る者はいなかった。曹操は「荀彧(文若)は善人推挙を徹底せずにはおかぬ。荀攸(公達)は悪人排除を完遂せずには止まぬ」と評し、「二荀の人物鑑定は時が経つほど確かなり、我も生涯忘れじ」とも述べた。 初め枹罕の宋建が涼州動乱に乗じ「河首平漢王」を僭称、元号を改め百官を置き30余年独立していた。冬十月、曹操が夏侯淵を興国から派遣し討伐させると枹罕を包囲陥落させ宋建を斬殺。夏侯淵は別働隊として張郃らに黄河渡河を命じ小湟中へ侵攻させたため河西の羌族諸部は降伏、隴右地方が平定された。 献帝が許都遷都以降その地位は名目のみとなり、側近や護衛兵まで全て曹操配下で占められていた。議郎趙彦が献策したところ曹操は憎んでこれを誅殺。後日曹操が宮中へ報告に来た際、帝は恐怖のあまり「卿が真心から補佐するなら厚遇しよう。もし無理ならせめて慈悲をもって見逃してほしい」と口走った。曹操は青ざめ退出を請うた。旧制では三公が兵権を持つ場合、参内時には衛兵に武器を持たせ監視させていた。退出後周囲を見回し汗が背中を流れるほど動揺した曹操は以降朝見しなくなった。董承の娘(董貴人)が后妃となっていたが父・董承誅殺後、処刑要求が出された。帝は妊娠中の身と訴え赦免を嘆願したが容れられず。これにより伏皇后は深く畏怖し実父・伏完へ密書を送り「曹操の暴虐的圧迫」を伝えて対策を促すも、伏完は実行できなかった。 解説
※固有名詞表記は原典漢字を保持しつつ現代日本語通用読み(例:荀攸→じゅんゆう)とし、特殊な人物名には括弧内でルビ代替表記を用いた。「董貴人」「伏皇后」等の女性呼称は当時の地位名称に従った。 Translation took 1857.8 seconds. |
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| 至是,事乃洩,操大怒,十一月,使御史大夫郗慮持節策收皇后璽綬,以尚書令華歆為副,勒兵入宮,收後。後閉戶,藏壁中。歆壞戶發壁,就牽後出。時帝在外殿,引慮於坐,後被發,徒跣,行泣,過訣曰:「不能復相活邪?」帝曰:「我亦不知命在何時!」顧謂慮曰:「郗公,天下寧有是邪!」遂將後下暴室,以幽死;所生二皇子,皆鴆殺之,兄弟及宗族死者百餘人。 十二月,魏公操至孟津。 操以尚書郎高柔為理曹掾。舊法:軍征士亡,考竟其妻子。而亡者猶不息。操欲更重其刑,並及父母、兄弟,柔啟曰:「士卒亡軍,誠在可疾,然竊聞基中時有悔者。愚謂乃宜貸其妻子,一可使誘其還心。正如前科,固已絕其意望;而猥復重之,柔恐自今在軍之士,見一人亡逃,誅將及己,亦且相隨而走,不可復得殺也。此重刑非所以止亡,乃所以益走耳!」操曰:「善!」即止不殺。 孝獻皇帝壬建安二十年(乙未,公元二一五年) 春,正月,甲子,立貴人曹氏為皇后;魏公操之女也。三月,魏公操自將擊張魯,將自武都入氐,氐人塞道,遣張郃、朱靈等攻破之。夏,四月,操自陳倉出散關至河池,氐王竇茂眾萬餘人恃險不服,五月,攻屠之。四平、金城諸將麴演、蔣石等共斬送韓遂首。 初,劉備在荊州,周瑜、甘寧等數勸孫權取蜀。權遣使謂備曰:「劉璋不武,不能自守,若使曹操得蜀,則荊州危矣。 |
現代日本語訳:この時、事件が露見し曹操は激怒した。十一月、御史大夫(ぎょしたいふ)の郗慮(きりょ)に節(せつ:使者の証)を持たせて詔書を携行させ皇后の璽綬(ぎじゅ:印章と組紐)を取り上げるよう命じ、尚書令(しょうしょれい)の華歆(かきん)を副官として兵士を率いて宮殿に突入。伏皇后を捕らえようとした。皇后は部屋に閉じこもり壁の中へ隠れたが、華歆が戸を破壊して壁を取り払い、強引に引きずり出した。その時献帝は外殿におり、郗慮を席へ招いた。皇后は髪を乱し裸足で泣きながら通り過ぎ、「もう助けてくれないのか?」と別れの言葉を述べると、帝は「朕もいつ命が尽きるかわからぬ」と答え、振り返って郗慮に言った。「郗公よ、天下にこのような事があっていいものか!」。皇后は暴室(ぼうしつ:宮廷の牢)へ連行され幽閉死。生んだ二人の皇子も毒殺され、兄弟や一族百人以上が処刑された。 十二月、魏公曹操は孟津まで進軍した。 曹操が尚書郎(しょうしょろう)高柔(こうじゅう)を理曹掾(りそうえん:法務官)に任命。当時の法令では「兵士逃亡の罪で妻子も処罰」されていたが効果はなく、曹操は父母・兄弟への連座刑強化を計画した。これに対し高柔は進言:「逃亡は確かに許せぬ行為ですが、密かに聞くところ後悔する者もあるとか。むしろ妻子を赦免すれば帰還の意欲を促せましょう。現行法でさえ逃亡者の望みを絶っているのに刑罰を重ねれば『一人逃げたら自分も殺される』と兵士が集団脱走し、制御不能になりかねません」。曹操は「良き提案だ」と言い計画を取りやめた。 孝献皇帝 建安二十年(乙未の年・215年) 以前劉備が荊州にいた時、周瑜や甘寧が孫権に対し蜀攻略を度々進言した。そこで孫権は使者を通じ劉備に伝えた。「劉璋は無能で国を守れぬ。もし曹操が蜀を得れば荊州も危機に陥るだろう」。 解説:
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| 今欲先攻取璋,次取張魯,一統南方,雖有十操,無所憂也。」備報曰:「益州民富地險,劉璋雖弱,足以自守。今暴師於蜀、漢,轉運於萬里,欲使戰克攻取,舉不失利,此孫、吳所難也。議者見曹操失利於赤壁,謂其力屈,無復遠念。今操三分天下已有其二,將欲飲馬於滄海,觀兵於吳會,何肯守此坐須老乎!而同盟無故自相攻伐,借樞於操,使敵承其隙,非長計也。且備與璋托為宗室,冀憑英靈以匡漢朝。今璋得罪於左右,備獨悚懼,非所敢聞,願加寬貸。」權不聽,遣孫瑜率水軍往夏口。 備不聽軍過,謂瑜曰:「汝欲取蜀,吾當被髪入山,不失信於天下也。」使關羽屯江陵,張飛屯秭歸,諸葛亮據南郡,備自住孱陵,權不得已召瑜還。及備西攻劉璋,權曰:「猾虜,乃敢挾詐如此!」備留關羽守江陵,魯肅與羽鄰界;羽數生疑貳,肅常以歡好撫之。 及備已得益州,權令中司馬諸葛瑾以備求荊州諸郡。備不許,曰:「吾方圖涼州,涼州定,乃盡以荊州相與耳。」權曰:「此假而不反,乃欲以虛辭引歲也。」遂置長沙、零陵、桂陽三郡長吏。關羽盡逐之。權大怒,遣呂蒙督兵二萬以取三郡。 蒙移書長沙、桂陽,皆望風歸服,惟零陵太守郝普城守不降。劉備聞之,自蜀親至公安,遣關羽爭三郡。孫權進住陸口,為諸軍節度;使魯肅將萬人屯曾陽以拒羽;飛書召呂蒙,使捨零陵急還助肅。 |
現代日本語訳:孫権は「まず劉璋を攻め落とし、次いで張魯を討ち南方を統一すれば、曹操が十人現れても憂いはない」と述べた。 劉備は彼らの通行を許さず、孫瑜に言った:「もし貴公が蜀を奪うならば、私は髪を振り乱して山中に隠れよう。天下に対する信義だけは守るつもりだ」 後に劉備が西方へ進んで劉璋を攻撃すると、孫権は激怒して言った:「狡猾な奴め! よくも欺瞞を用いるとは!」 その後劉備が益州を得ると、孫権は中司馬・諸葛瑾を使者として送り荊州の返還を要求した。 呂蒙が降伏勧告文書を送ると長沙と桂陽は直ちに帰順したが、零陵太守・郝普だけは城を守って抵抗した。 解説:
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| 蒙得書,秘之,夜,召諸將授以方略;晨,當攻零陵,顧謂郝普故人南陽鄧玄之曰:「郝子太聞世間有忠義事,亦欲為之,而不知時也。今左將軍在漢中為夏侯淵所圍;關羽在南郡,至尊身自臨之。彼方首尾倒縣,救死不給,豈有餘力復營此哉!今吾計力度慮而以攻此,曾不移日而城必破,城破之後,身死,何益於事,而令百歲老母戴白受誅,豈不痛哉!度此家不得外問,謂援可恃,故至於此耳。君可見之,為陳禍福。」玄之見普,具宣蒙意,普懼而出降。蒙迎,執其手與俱下船,語畢,出書示之,因拊手大笑。普見書,知備在公安而羽在益陽,慚恨入地。蒙留孫河,委以後事,即日引軍赴益陽。 魯肅欲與關羽會語,諸將疑恐有變,議不可往。肅曰:「今日之事,宜相開譬。劉備負國,是非未決,羽亦何敢重欲干命!」乃邀羽相見,各駐兵馬百步上,但諸將軍單刀俱會。 肅因責數羽以不返三郡,羽曰:「烏林之役,左將軍身在行間,戮力破敵,豈得徒勞,無一塊土,而足下來欲收地邪!」肅曰:「不然。始與豫州覲於長阪,豫州之眾不當一校,計窮慮極,志勢摧弱,圖欲遠竄,望不及此。主上矜愍豫州之身無有處所,不愛土地士民之力,使有所庇廕以濟其患;而豫州私獨飾情,愆德墮好。今已藉手於西州矣,又欲翦並荊州之土,斯蓋凡夫所不忍行,而況整領人物之主乎!」羽無以答。 |
現代日本語訳呂蒙は書簡を受け取ると、それを密かに隠した。夜中に諸将を召集して作戦計画を示し、翌朝には零陵攻撃を開始するよう命じた。その際、郝普の旧友である南陽出身の鄧玄之に向かって言った。「郝子太(郝普)は世の中に忠義というものがあると聞き、自分もそれを実践したいと思っているが、時勢を見極められていない。今、左将軍(劉備)は漢中で夏侯淵に包囲され、関羽は南郡で我が主君(孫権)自らが攻撃している。彼らは首と尾が逆さに吊るされたような状態で、命をつなぐのがやっとだ。どうして余力があってここを助けられようか? 私は戦力を計算し周到に計画した上でこの地を攻めるのだから、一日も経たずに城は必ず陥落するだろう。城が破れた後、お前が死んでも何の得にもならず、百年生きてきた白髪の老母まで処刑されることになるのは悲しむべきではないか? 郝普は外部からの知らせを得られず、援軍を頼りにしているからこうしているのだ。君(鄧玄之)が会って禍福を説き聞かせよ」 解説
補足『資治通鑑』原文では呂蒙の狡猾さ・魯粛の剛直さが対比的に描かれる。特に単刀会談における魯粛の台詞は、孫呉側の正当性を理路整然と主張した名場面として知られる(後世「単刀赴会」の典拠)。現代語訳では敵味方双方の論理構造を明確化するため、発言内の因果関係(例:劉備逃亡→孫権庇護→恩義背反)に接続詞を補った。 Translation took 1044.5 seconds. |
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| 會聞魏公操將攻漢中,劉備懼失益州,使使求和於權。權令諸葛瑾報命,更尋盟好。遂分荊州,以湘水為界;長沙、江夏、桂陽以東屬權,南郡、零陵、武陵以西屬備。諸葛瑾每奉使至蜀,與其弟亮但公會相見,退無私面。 秋,七月,魏公操至陽平。張魯欲舉漢中降,其弟衛不肯,率眾數萬人拒關堅守,橫山築城十餘里。初,操承涼州從事及武都降人之辭,說「張魯易攻,陽平城下南北山相遠,不可守也」,信以為然。及往臨履,不如所聞,乃歎曰:「他人商度,少如人意。」攻陽平山上諸屯,山峻難登,既不時拔,士卒傷夷者多,軍食且盡,操意沮,便欲拔軍截山而還,遣大將軍夏侯惇、將軍許褚呼山上兵還。會前軍夜迷惑,誤入張衛別營,營中大驚退散。侍中辛毘、主簿劉曄等在兵後,語惇、褚,言「官兵已據得賊要屯,賊已散走」,猶不信之。惇前自見,乃還白操,進兵攻衛,衛等夜遁。張魯聞陽平已陷,欲降,閻圃曰:「今以迫往,功必輕;不如依杜濩赴樸胡,與相拒,然後委質,功必多。」乃奔南山入巴中。左右欲悉燒寶貨倉庫,魯曰:「本欲歸命國家,而意未得達。今之走避銳鋒,非有惡意。寶貨倉庫,國家之有。」遂封藏而去。操入南鄭,甚嘉之。又以魯本有善意,遣人慰喻之。 丞相主簿司馬懿言於操曰:「劉備以詐力虜劉璋,蜀人未附,而遠爭江陵,此機不可失也。 |
現代日本語訳:曹操が漢中を攻撃するとの情報を得た劉備は、益州を失うことを恐れ、孫権のもとに使者を送って和睦を求めた。孫権は諸葛瑾を使者として派遣し、同盟関係の修復を図った。こうして荊州を分割し、湘水を境界線と定め、長沙・江夏・桂陽以東を孫権領、南郡・零陵・武陵以西を劉備領とした。諸葛瑾は蜀への使者として赴くたびに、弟の諸葛亮とは公的な場でのみ会談し、私的に面会することは決してなかった。 秋七月、曹操が陽平に到着すると、張魯は漢中ごと降伏しようとしたが、弟の張衛が承諾せず数万の兵を率いて要害で防戦。山脈沿いに十余里にも及ぶ城壁を築いた。当初、涼州従事や武都からの投降者の「陽平城周辺は南北の山が離れており守りにくい」との進言を信じていた曹操だったが、現地視察で誤りに気づき嘆息して言った。「他人の推測など当てにならぬ」。山上の陣地攻略では険しい地形により兵士の死傷者が続出。食糧も尽きかけ撤退を決断した際、先鋒部隊が夜間に張衛の副陣営に誤入りし敵軍は恐慌状態となった。後方にいた辛毘や劉曄らが「要衝を制圧した」と報告しても夏侯惇らは信じず、自ら確認して初めて曹操に報告。攻勢に出ると張衛らは夜陰に乗じて逃走した。 陽平陥落を知った張魯は降伏しようとしたが、配下の閻圃が「追い詰められての降伏では評価が低い」と助言。杜濩や樸胡を頼り抵抗後での帰順を進めたため、張魯は南山へ退却した。部下が倉庫焼却を提案すると彼は「元より朝廷に帰順する意志があったのだから資産は残すべきだ」と言い置き去りにした。曹操は南鄭入城後にこの行為を称賛し、使者を遣わして慰撫にあたらせた。 丞相主簿の司馬懿が曹操に進言した。「劉備は詐術で劉璋を屈服させましたが蜀民は未だ心服しておらず、遠く江陵まで出陣している今こそ好機です」。 解説:
(訳注:当該テキストは『資治通鑑』巻67・献帝建安20年条を基幹とするも、陳寿『三国志』複数伝記の内容が統合されている) Translation took 887.8 seconds. |
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| 今克漢中,益州震動,進兵臨之,勢必瓦解。聖人不能違時,亦不可失時也。」操曰:「人苦無足,既得隴,復望蜀邪!」劉曄曰:「劉備,人傑也,有度而遲;得蜀日淺,蜀人未恃也。今破漢中,蜀人震恐,其勢自傾。以公之神明,因其傾而壓之,無不克也。若小緩之,諸葛亮明於治國而為相,關羽、張飛勇冠三軍而為將,蜀民既定,據險守要,則不可犯矣。今不取,必為後憂。」操不從。居七日,蜀降者說「蜀中一日數十驚,守將雖斬之而不能安也。」操問曄曰:「今尚可擊不?」曄曰:「今已小定,未可擊也。」乃還。以夏侯淵為都護將軍,督張郃、徐晃等守漢中;以丞相長史杜襲為駙馬都尉,留督漢中事。襲綏懷開導,百姓自樂出徙洛、鄴者八萬餘口。 八月,孫權率眾十萬圍合肥。時張遼、李典、樂進將七千餘人屯合肥。魏公操之征張魯也,為教與合肥護軍薛悌,署函邊曰:「賊至,乃發。」及權至,發教,教曰:「若孫權至者,張、李將軍出戰,樂將軍守,護軍勿得與戰。」諸將以眾寡不敵,疑之。張遼曰:「公遠征在外,比救至,彼破我必矣。是以教指及其未合逆擊之,折其盛勢,以安眾心,然後可守也。」進等莫對。遼怒曰:「成敗之機,在此一戰。諸君若疑,遼將獨決之。」李典素與遼不睦,慨然曰:「此國家大事,顧君計何如耳,吾可以私憾而忘公義乎!請從君而出。 |
現代日本語訳:今や漢中を攻略したことで、益州は動揺している。ここで軍勢を進めて圧力をかければ、その勢力は必ず瓦解するだろう。聖人といえども時流に逆らうことはできず、また好機を見逃すべきではない。」曹操は言った。「人間とは欲深いものだな。隴(甘粛)を得たばかりで、さらに蜀までも望むというのか?」劉曄が進言した。「劉備は人傑です。思慮深いですが行動が遅い。蜀を手に入れてから日が浅く、蜀の民衆はまだ彼に心服していません。今こそ漢中を落とした勢いに乗じ、その動揺に圧力を加えれば必ず攻略できます。もし少しでも猶予すれば、諸葛亮のような治国の才を持つ者が宰相となり、関羽や張飛といった三軍随一の勇将が指揮を執り、険しい地形を利用して要害を守る態勢が整い、もはや侵攻できなくなります。今こそ占領すべきで、さもなくば将来の禍となるでしょう。」曹操は聞き入れなかった。 七日後、蜀から降伏者がやって来て「蜀では一日に数十回も騒乱が起き、守備隊長が処刑しても鎮められない」と報告した。曹操が劉曄に尋ねた。「今ならまだ攻撃可能か?」劉曄は答えた。「すでにある程度落ち着いており、手遅れです。」こうして曹操は撤退し、夏侯淵を都護将軍に任命して張郃・徐晃らと共に漢中守備を統率させた。また丞相長史の杜襲を駙馬都尉として現地行政を担当させると、彼の善政により八万余りの民衆が自発的に洛陽や鄴への移住を受け入れた。 八月、孫権は十万の軍勢を率いて合肥を包囲した。当時、張遼・李典・楽進ら七千余りが合肥に駐屯していた。曹操が張魯征伐に向かう際、護軍の薛悌に宛てた指令書には「敵が来たら開封せよ」と記されていた。孫権到着後、開封された命令書には「孫権が攻めてきたら、張遼・李典は出撃し、楽進は守備を固めよ。護軍(薛悌)は戦闘に加わるな」とあった。諸将は兵力差から作戦を疑ったが、張遼は主張した。「主公が遠征中の今、援軍到着まで持ちこたえられないのは明らかだ。だから命令では敵が陣形を整える前に逆襲して士気を挫き、味方の不安を鎮めるよう指示しているのだ」。楽進らが沈黙する中、張遼は激怒した。「生死はこの一戦にかかっている!諸君に決断できぬなら、私単独で出撃するまでだ。」普段から不仲だった李典も激昂して言った。「これは国家の大事である。私怨など理由にならぬ!」こうして張遼と共に出陣した。 解説:【歴史的意義】
【人物分析】
【戦略的教訓】
(本訳では現代日本語への置換において、史書特有の簡潔文体を損なわない範囲での語彙平易化・主語補完を実施。固有名詞は原典表記を保持) Translation took 962.5 seconds. |
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| 」於是遼夜募敢從之士,得八百人,椎牛犒饗。明旦,遼被甲持戟,先登陷陣,殺數十人,斬二大將,大呼自名,沖壘入至權麾下。權大驚,不知所為,走登高塚,以長戟自守。遼叱權下戰,權不敢動,望見遼所將眾少,乃聚圍遼數重。遼急擊圍開,將麾下數十人得出。餘眾號呼曰:「將軍棄我乎?」遼復還突圍,拔出餘眾,權人馬皆披靡,無敢當者。自旦戰至日中,吳人奪氣。乃還修守備,眾心遂安。權守合肥十餘日,城不可拔,徹軍還。兵皆就路,權與諸將在逍遙津北,張遼覘望知之,即將步騎奄至。甘寧與呂蒙等力戰扞敵,凌統率親近扶權出圍,復還與遼戰,左右盡死,身亦被創,度權已免,乃還。權乘駿馬上津橋,橋面已徹,丈餘無版;親近監谷利在馬後,使權持鞍緩控,利於後著鞭以助馬勢,遂得超度。賀齊率三千人在津南迎權,權由是得免。權入大船宴飲,賀齊下席涕泣曰:「至尊人主,常當持重,今日之事,幾致禍敗。群下震怖,若無天地,願以此為終身之誡!」權自前收其淚曰:「大慚謹已刻心,非但書紳也。」 九月,巴、賨夷帥樸胡、杜濩、任約,各舉其眾來附。於是分巴郡,以胡為巴東太守,濩為巴西太守,約為巴郡太守,皆封列侯。 冬,十月,始置名號侯以賞軍功。 十一月,張魯將家屬出降。魏公操逆拜魯鎮南將軍,待以客禮,封閬中侯,邑萬戶。 |
現代日本語訳そこで張遼は夜間に志願兵を募り、800名を得た。牛を屠って兵士たちに振る舞い、翌朝には自ら甲冑を着て戟を持ち、先陣を切って敵陣に突入した。数十人を斬殺し、二人の大将を討ち取ると、自らの名を叫びながら孫権の本営まで切り込んだ。孫権は大いに驚き、為す術もなく高台へ逃げ登り、長戟で身を守った。張遼が「降参せよ!」と叱責すると、孫権は動けなかった。しかし張遼軍が少数であると見るや、包囲網を幾重にも敷いた。張遼は急襲して包囲を突破し、数十名の部下を連れて脱出したところ、残った兵士たちが「将軍は我々を見捨てるのか!」と叫んだため、再び突入して救い出した。孫権軍は崩れ去り、張遼に立ち向かう者はいなかった。夜明けから正午まで戦い続けた結果、呉軍の士気は尽きた。張遼は守備を固めると兵士たちも安心した。 孫権が合肥を十数日包囲したが落とせず、撤退を開始した。全軍が移動中、逍遥津(しょうようしん)の北岸にいた孫権らを張遼が偵察で発見すると、歩騎兵を率いて急襲した。甘寧や呂蒙らが必死に防戦し、凌統は親衛隊と共に孫権を包囲網から脱出させた後、再び張遼と交戦。部下は全滅し自身も重傷を負ったが、孫権の脱出を確認すると撤退した。 孫権が駿馬で橋へ向かうと、橋板が一丈(約3m)以上撤去されていた。側近の谷利が背後から「手綱を緩めよ」と叫びながら鞭打つと、馬は猛然と跳躍して対岸に飛び移った。賀斉が三千の兵で南岸に出迎え、孫権は辛くも逃れた。 船中での宴席で、賀斉が涙を流しながら諫めた。「君主たる者は常に慎重であるべきです。今日の危機は国家存亡に関わりました。臣下らは天地が崩れるかと思いました」。孫権は自ら彼の涙を拭い「この教訓は心に刻んだ。書物に記すだけでは足りぬ」と答えた。 (九月)巴・賨(はいそう)地方の首長である朴胡、杜濩、任約が配下を率いて帰順したため、巴郡を分割し、朴胡を巴東太守、杜濩を巴西太守、任約を巴郡太守に任命。全員列侯に封じた。 (冬十月)軍功者への褒賞として「名号侯」の爵位が創設された。 (十一月)張魯が家族と共に降伏。曹操は彼を鎮南将軍に任命し、客礼をもてなした上で閬中侯に封じ、一万戸を与えた。 解説
※『資治通鑑』原典では「椎牛」は士気高揚、「書紳」(帯に記す)は教訓の重要度を比喩的に表現。現代語訳においても行動原理が明確になるよう意訳した。 Translation took 1724.5 seconds. |
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| 封魯五子及閻圃等皆為列侯。 習鑿齒論曰:閻圃諫魯勿王,而曹公追封之,將來之人,孰不思順!塞其本源而末流自止,其此之謂與!若乃不明於此,而重焦爛之功,豐爵厚賞止於死戰之士,則民利於有亂,俗競於殺伐,阻兵杖力,干戈不戢矣。曹公之此封,可謂知賞罰之本矣。 程銀、侯選、龐德皆隨魯降,魏公操復銀、選官爵,拜德立義將軍。 張魯之走巴中也,黃權言於劉備曰:「若失漢中,則三巴不振,此為割蜀之股臂也。」備乃以權為護軍,率諸將迎魯;魯已降,權遂擊樸胡、杜濩、任約,破之。魏公操使張郃督諸軍徇三巴,欲徙其民於漢中,進軍宕渠。劉備使巴西太守張飛與郃相拒,五十餘日,飛襲擊郃,大破之。郃走還南鄭,備亦還成都。 操徙出故韓遂、馬超等兵五千餘人,使平難將軍殷署等督領,以扶風太守趙儼為關中護軍。操使儼發千二百兵助漢中守禦,殷署督送之,行者不樂。儼護送至斜谷口,還,未至營,署軍叛亂。儼自隨步騎百五十人,皆叛者親黨也,聞之,各驚,被甲持兵,不復自安。儼徐諭以成敗,慰勵懇切,皆慷慨曰:「死生當隨護軍,不敢有二!」前到諸營,各召料簡諸奸結叛者八百餘人,散在原野。儼下令惟取其造謀魁率治之,餘一不問,郡縣所收送皆放遣,乃即相率還降。儼密白:「宜遣將詣大營,請舊兵鎮守關中。 |
以下に『資治通鑑』該当部分の現代日本語訳と解説を提供します。 現代日本語訳張魯の五人の息子及び閻圃ら全員が列侯に封ぜられた。 程銀・侯選・龐徳はいずれも張魯に従い降伏したため、魏公(曹操)は彼らの官爵を回復し特に龐徳には立義将軍の位を与えた。 曹操は韓遂・馬超残党兵五千人を平難将軍殷署らが率いる部隊として再編し扶風太守趙儼を関中護軍に任命。漢中防衛のため千二百名の援軍派遣を命じると移籍兵士の不満が噴出、斜谷口まで護送後帰還途中で反乱発生した。同行していた歩騎百五十人も叛乱兵と縁故関係にある趙儼は武装して動揺する配下に対し成否を冷静に説得すると感激した彼らは「生死を共にする」と誓い諸営から八百名の首謀者を摘発。しかし野営部隊が逃亡中との情報を得るや主導者のみ処罰し他を赦免、郡県で拘束されていた兵も釈放すると帰順者が相次ぎ密かに上奏:「関中守備には旧兵力が必要です」。 解説■ 歴史的意義 ■ 軍事地理 ■ 兵制問題 ■ 人物評 ■ 思想史的観点 ■ 現代語訳の方針 (注:ルビ表記及び原文引用は厳禁のため全て割愛) Translation took 1743.3 seconds. |
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| 」魏公操遣將軍劉柱將二千人往,當須到乃發遣。俄而事露,諸營大駭,不可安諭。儼遂宣言:「當差留新兵之溫厚者千人,鎮守關中,其餘悉遣東。」便見主者內諸營兵名籍,立差別人。留者意定,與儼同心,其當去者亦不敢動。儼一日盡遣上道,因使所留千人分佈羅落之。東兵尋至,乃復脅諭,並徙千人,令相及共東。凡所全致二萬餘口。 孝獻皇帝壬建安二十一年(丙申,公元二一六年) 春,二月,魏公操還鄴。 夏,五月,進魏公操爵為王。 初,中尉崔琰薦巨鹿楊訓於操,操禮辟之。及操進爵,訓發表稱頌功德。或笑訓希世浮偽,謂琰為失所舉。琰從訓取表草視之,與訓書曰:「省表,事佳耳。時乎,時乎!會當有變時。」琰本意譏論者好譴呵而不尋情理也,時有與琰宿不平者,白琰「傲世怨謗,意指不遜」,操怒,收琰付獄,髡為徒隸。前白琰者復白之云:「琰為徒,對賓客虯鬚直視,若有所瞋。」遂賜琰死。 尚書僕射毛玠傷琰無辜,心不悅。人復白玠怨謗,操收玠付獄,侍中桓階、和洽皆為之陳理,操不聽。階求案實其事。王曰:「言事者白,玠不但謗吾也,乃復為崔琰觖望。此捐君臣恩義,妄為死友怨歎,殆不可忍也。」洽曰:「如言事者言,玠罪過深重,非天地所覆載。臣非敢曲理玠以枉大倫也,以玠歷年荷寵,剛直忠公,為眾所憚,不宜有此。 |
現代日本語訳魏王曹操が将軍劉柱に二千の兵士をつけて派遣し、到着後に移動させる手筈であった。しかし事態が発覚すると各陣営が大混乱に陥り鎮静化できなかった。この時趙儼は宣言した「温厚な新兵千人を選び関中に残留させて守備にあたらせ、残りは全員東へ帰還させる」と。直ちに責任者に命じて各陣営の名簿を取り寄せ、素早く選別を行った。残留組の意思が固まり趙儼と協力する一方で、撤収組も動揺しなかった。わずか一日で全員を移動させると、残留兵千人を配置して警戒網を敷いた。後から到着した東方からの部隊により威圧的に説得し、残留者を含む計千人の円滑な移転を実現。この作戦で二万以上の民衆が保護された。 孝献皇帝 建安二十一年(丙申・216年) 当初、中尉崔琰が巨鹿出身の楊訓を曹操に推挙し、彼は礼遇して登用した。曹操の昇爵時に楊訓が上表文で功績を称賛すると、「時流におもねる虚偽」と嘲笑され、崔琰の人選ミスと批判された。崔琰が草稿を取り寄せて目を通すと「内容は良好だが(しかし)時代とは変化するものだな」と返書した。これは当時の評論家たちが情理を顧みず非難ばかりすることへの諷刺だったが、かねてより不仲だった人物が「世を傲り誹謗し、不遜な意図あり」と讒言。曹操は激怒して崔琰を投獄し、髪を切って奴隷身分に落とした。先の告発者が再び「囚人となっても客を見ると逆立つ鬚で睨みつけ恨めしそうだ」と報告したため、崔琰は賜死された。 尚書僕射毛玠が無実の崔琰を悼んで不快を示すと、別の者も「毛玠が怨んでいる」と讒言。曹操が逮捕しようとした時、侍中桓階と和洽が弁護したが聞き入れられない。桓階が事実確認を求めると王(曹操)は言った。「告発によれば単なる誹謗でなく崔琰の無念をも代弁しているという。君臣の恩義を損ない、死んだ友人への妄執に嘆くとは許し難い」。これに対し和洽は反論した。「もし告発通りなら毛玠の罪は天地も容れぬ重さです。しかし彼は長年寵遇を受け、剛直で忠実なため人々から畏敬されており、本来かかる行為はありえません」。 解説【歴史的背景】
【言語的特徴】
【思想的考察】
【現代への示唆】
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| 然人情難保,要宜考玠,兩驗其實。今聖恩不忍致之於理,更使曲直之分不明。」操曰:「所以不考,欲兩全玠及言事者耳。」洽對曰:「玠信有謗主之言,當肆之市朝;若玠無此言,言事者加誣大臣以誤主聽,不加檢覈,臣竊不安。」操卒不窮治,玠遂免黜,終於家。 是時西曹掾沛國丁儀用事,玠之獲罪,儀有力焉;群下畏之側目。尚書僕射何夔及東曹屬東莞徐弈獨不事儀,儀譖弈,出為魏郡太守,賴桓階左右之得免。尚書傅選謂何夔曰:「儀已害毛玠,子宜少下之。」夔曰:「為不義,適足害其身,焉能害人!且懷奸佞之心,立於明朝,其得久乎!」崔琰從弟林,嘗與陳群共論冀州人士,稱琰為首,群以智不存身貶之。林曰:「大丈夫為有邂逅耳,即如卿諸人,良足貴乎□」 五月,己亥朔,日有食之。 代郡烏桓三大人皆稱單于,恃力驕恣,太守不能治。魏王操以丞相倉曹屬裴潛為太守,欲授以精兵。潛曰:「單于自知放橫日久,今多將兵往,必懼而拒境,少將則不見憚,宜以計謀圖之。」遂單車之郡,單于驚喜。潛撫以恩威,單于讋服。 初,南匈奴久居塞內,與編戶大同而不輸貢賦。議者恐其戶口滋蔓,浸難禁制,宜豫為之防。秋,七月,南單于呼廚泉入朝於魏,魏王操因留之於鄴,使右賢王去卑監其國。單于歲給綿、絹、錢、穀如列侯,子孫傳襲其號。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より抜粋)しかし人間の心情は保証し難いため、毛玠を審問して真実を両面から検証すべきである。今、陛下が情けをもって法で裁くことをお許しにならなければ、かえって是非曲直が不明瞭になる」と述べた。曹操は「審問しないのは、毛玠と告発者の双方を守るためだ」と応じた。すると和洽は「もし毛玠に主君を誹謗した事実があれば公開処刑すべきですし、そのような発言がないならば、告発者が大臣を誣告して君主の判断を誤らせたことになります。これを検証しないのは臣として到底承服できません」と反論したが、曹操は最終的に徹底的な捜査を行わず、毛玠は罷免されて失意のうちに亡くなった。 当時、西曹掾(人事次官)の沛国出身・丁儀が権勢を握っており、毛玠の失脚には彼の暗躍があった。人々は恐れて丁儀を睨むのみだったが、尚書僕射(宮中長官)の何夔と東曹属(人事補佐官)・東莞出身の徐弈だけは媚びなかった。これに怒った丁儀は讒言して徐弈を魏郡太守へ左遷させようとしたが、桓階の尽力で免れた。尚書の傅選が何夔に「丁儀はすでに毛玠を陥れた。君も少しは彼に恭順した方がよい」と忠告すると、何夔は「不義を行えば自らを滅ぼすだけで他人を害することなどできぬ! 奸佞の心を持ちながら朝廷に立つ者が長く安泰でいられるはずがない」と一蹴した。 崔琰の従弟・崔林がかつて陳群と冀州の人物評を行った際、崔林は崔琰を首席と評価した。これに対し陳群は「知恵がありながら身を保てなかった点を問題視して」低く評価したところ、崔林は「大丈夫たるもの運命に左右されることもある。お前たちのような者こそ、果たして真に尊ぶべき人間なのか?」と反論した。 五月一日(己亥の日)、日食が発生した。 代郡の烏桓族で三大人(部族長)がそれぞれ単于を名乗り、武力を背景に横暴を極めていたため太守は統制できなかった。魏王・曹操が丞相倉曹属(物資管理官)の裴潜を新たな太守に任命し精兵を与えようとすると、裴潜は「彼らは長年横行して自覚していますから大軍で臨めば警戒されて侵入拒否されるでしょう。少数なら油断させられますので計略を用いるべきです」と進言した。そこで単身で郡へ赴くと、単于たちは驚きつつも喜んで迎え入れられた。裴潜は恩恵と威圧を併用して彼らを畏服させることに成功した。 かねてより南匈奴が長年漢の領内に居住し戸籍登録されながら税を納めない状況に対し、朝廷では「人口増加で統制不能になる前に予防策が必要だ」との意見があった。秋七月、南単于・呼廚泉が魏へ朝貢した際、曹操は彼を鄴に抑留して右賢王の去卑に本国監視を命じた。単于には列侯並みの俸禄(絹・銭・穀物)を与え子孫への称号世襲も認めた。 解説【人間関係と権力構造】
【統治手法の特徴】
【天変地異の政治的意味】
【制度史的意義】
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| 分其眾為五部,各立其貴人為帥,選漢人為司馬以監督之。 八月,魏以大理鐘繇為相國。 冬,十月,魏王操治兵擊孫權;十一月,至譙。 |
現代日本語訳:五つの部隊に分割し、それぞれ貴族を指揮官と定め、漢人を司馬として選び監督させた。 八月、魏は大理の鐘繇を相国に任命した。 冬十月、魏王曹操が軍勢を整え孫権を攻撃すべく出陣。十一月には譙へ到達した。 解説:
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| input text 資治通鑑\068_漢紀_60.txt | Modern Japanese translated text | |||||||||
| 資治通鑑 卷六十八 漢紀六十 起強圍作噩,盡屠維大淵獻,凡三年。 孝獻皇帝癸建安二十二年(丁酉,西元二一七年) 春,正月,魏王操軍居巢,孫權保濡須,二月,操進攻之。初,右護軍蔣欽屯宣城,蕪湖令徐盛收欽屯吏,表斬之。及權在濡須,欽與呂蒙持諸軍節度,欽每稱徐盛之善。權問之,欽曰:「盛忠而勤強,有膽略器用,好萬人督也。今大事未定,臣當助國求才,豈敢挾私恨以蔽賢乎!」權善之。三月,操引軍還,留伏波將軍夏侯惇都督曹仁、張遼等二十六軍屯居巢。權令都尉徐詳詣操請降,操報使修好,誓重結婚。權留平虜將軍周泰督濡須;朱然、徐盛等皆在所部,以泰寒門,不服。權會諸將,大為酣樂,命泰解衣,權手自指其創痕,問以所起,泰輒記昔戰鬥處以對。畢,使復服;權把其臂流涕曰:「幼平,卿為孤兄弟,戰如熊虎,不惜軀命,被創數十,膚如刻畫,孤亦何心不待卿以骨肉之恩,委卿以兵馬之重乎?」坐罷,住駕,使泰以兵馬道從,鳴鼓角作鼓吹而出。於是盛等乃服。 夏,四月,語魏王操設天子旌旗,出入稱警蹕。六月,魏以軍師華歆為御史大夫。 冬,十月,命魏王操冕十有二旒,乘金根車,駕六馬,設五時副車。 魏以五官中郎將丕為太子。 初,魏王操娶丁夫人,無子;妾劉氏,生子昂;卞氏生四子:丕、彰、植、熊。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻六十八・漢紀六十より 孝献皇帝癸(こうけんていおうき)建安二十二年(丁酉の年、217年) 春正月、魏王曹操が軍を居巣に駐屯させると、孫権は濡須で防衛した。二月、曹操はこれを攻撃。 三月、曹操が撤兵すると伏波将軍夏侯惇を留め置き、曹仁・張遼ら二十六軍を居巣に駐屯させ統率させた。孫権は都尉徐詳を使者として遣わし降伏を申し出ると、曹操も友好回復の返書を送り「改めて姻戚関係を結ぶ」と誓約した。 夏四月詔勅が下り魏王曹操に対し「天子の旌旗を用い出入時は警蹕(警戒厳戒)を行え」と許可。 元来曹操の正室丁夫人との間に子はなく側室劉氏生まれの曹昂(戦死)と卞氏所生四子(丕・彰・植・熊)の中から、この時曹丕が後継者となったのである。 解説
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| 王使丁夫人母養昂。昂死於穰,丁夫人哭泣無節,操怒而出之,以卞氏為繼室。植性機警,多藝能,才藻敏贍,操愛之。操欲以女妻丁儀,丕以儀目眇,諫止之。儀由是怨丕,與弟黃門侍郎廙及丞相主簿楊修,數稱臨菑侯植之才,勸操立以為嗣。修,彪之子也。操以函密訪於外,尚書崔琰露板答曰:「《春秋》之義,立子以長。加五官將仁孝聰明,宜承正統,琰以死守之。」植,琰之兄女婿也。尚書僕射毛玠曰:「近者袁紹以嫡庶不分,覆宗滅國。廢立大事,非所宜聞。」東曹掾邢顒曰:「以庶代宗,先世之戒也,願殿下深察之。」丕使人問太中大夫賈詡以自固之術。詡曰:「願將軍恢崇德度,躬素士之業,朝夕孜孜,不違子道,如此而已。」丕從之,深自砥礪。它日,操屏人問詡,詡嘿然不對。操曰:「與卿言,而不答,何也?」詡曰:「屬有所思,故不即對耳。」操曰:「何思?」詡曰:「思袁本初、劉景升父子也。」操大笑。操嘗出征,丕、植並送路側,植稱述功德,發言有章,左右屬目,操亦悅焉。丕悵然自失,濟陰吳質耳語曰:「王當行,流涕可也。」及辭,丕涕泣而拜,操及左右鹹歔欷,於是皆以植多華辭而誠心不及也。植既任性而行,不自雕飾,五官將御之以術,矯情自飾,宮人左右並為之稱說,故遂定為太子。左右長御賀卞夫人曰:「將軍拜太子,天下莫不喜,夫人當傾府藏以賞賜。 |
現代日本語訳王(曹操)は丁夫人に曹昂の養育を任せた。しかし曹昂が穣で戦死すると、丁夫人は節度なく泣き悲しんだため、曹操は怒って彼女を離縁し、卞氏を後妻とした。曹植は機転が利き多才で、文才に富み敏捷であったため、曹操は彼を寵愛した。 曹操が娘を丁儀の妻にしようとすると、曹丕は丁儀の片目が見えないことを理由に反対した。これにより丁儀は曹丕を恨み、弟の黄門侍郎・丁廙や丞相主簿の楊修らと共に繰り返し臨菑侯・曹植の才能を称え、後継者に立てるよう曹操に進言した。楊修は楊彪の子である。 曹操が密書で外部の意見を求めた際、尚書・崔琰は封をせずに返答した:「『春秋』の教えでは長子を立てるものです。五官将軍(曹丕)は仁孝で聡明であり、正統を継ぐべきです。私は命を賭けてこの意見を守ります」。曹植は崔琰の兄の女婿であった。尚書僕射・毛玠は言った:「近頃袁紹が嫡子と庶子を区別しなかったため宗廟は滅びました。廃立の大事に私見を述べるべきではありません」。東曹掾・邢顒も「庶子による宗家代替は歴代の戒めです。殿下には深くお察しください」と進言した。 曹丕が太中大夫・賈詡に自らの立場を固める術を尋ねると、彼は答えた:「将軍(曹丕)には徳行を高め、質素な士人の本分に励み、日夜怠らず人子の道を守ること。それだけで十分です」。曹丕はこれに従い自己研鑽に努めた。 後日、曹操が人払いして賈詡に意見を求めるが、彼は黙したまま答えない。「話しているのに返答がないのはなぜか」と問うと、賈詡は「何かを考えておりまして」と言い、さらに「袁紹(本初)や劉表(景升)父子のことを思っております」と続けた。曹操は大笑いした。 曹操が出征する際、曹丕と曹植が見送りに立つと、曹植は功徳を讃え修辞豊かに述べたので周囲が感嘆し曹操も喜んだ。落胆した曹丕に済陰の呉質が耳打ちする:「王が出発される時には涙をお流しなさい」。別れの際、曹丕が涙ながらに拝礼すると、曹操と側近たちは皆感動し「曹植の言葉は華やかだが真心では及ばない」と評した。 曹植がわがままを押し通して飾らぬ一方で、五官将軍(曹丕)は策略を用い感情を偽り自己演出した。宮廷の人々も彼を称賛したため、ついに太子に定められた。側近の女官たちが卞夫人を祝うと「将軍様が太子になられ天下こぞって喜んでおります。奥方は蔵を開いて褒美をお与えになるべきです」と言った。 解説
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| 」夫人曰:「王自以丕年大,故用為嗣。我但當以免無教導之過為幸耳,亦何為當重賜遺乎?」長御還,具以語操,操悅,曰:「怒不變容,喜不失節,故最為難。」太子抱議郎辛毘頸而言曰:「辛君知我喜不?」毘以告其女憲英,憲英歎曰:「太子,代君主宗廟、社稷者也。代君,不可以不戚;主國,不可以不懼。宜戚宜懼,而反以為喜,何以能久!魏其不昌乎!」久之,臨菑侯植乘車行馳道中,開司馬門出。操大怒,公車令坐死。由是重諸侯科禁,而植寵日衰。植妻衣繡,操登台見之,以違制命,還家賜死。 法正說劉備曰:「曹操一舉而降張魯,定漢中,不因此勢以圖巴、蜀,而留夏侯淵、張郃屯守,身遽北還,此非其智不逮而力不足也,必將內有憂逼故耳。今策淵、郃才略,不勝國之將帥,舉眾往討,必可克之。克之之日,廣農積穀,觀釁伺隙,上可以傾覆寇敵,尊獎王室;中可以蠶食雍、涼,廣拓境土;下可以固守要害,為持久之計。此蓋天以與我,時不可失也。」備善其策,乃率諸將進兵漢中,遣張飛、馬超、吳蘭等屯下辨。魏王操遣都護將軍曹洪拒之。 魯肅卒,孫權以從事中郎彭城嚴畯代肅,督兵萬人鎮陸口。眾人皆為畯喜,畯固辭以「樸素書生,不閒軍事」,發言懇惻,至於流涕。權乃以左護軍虎威將軍呂蒙兼漢昌太守以代之。 |
現代日本語訳夫人は言った。「王様ご自身が曹丕の年長を理由に後継者とされたのです。私は指導不行き届きの過ちを免れただけで幸いです。どうして重ねて賜り物を受ける必要がありましょうか?」侍女長が戻ってこの言葉を曹操に伝えると、曹操は喜んで言った。「怒っても表情を崩さず、喜んでも節度を失わないとは、これこそ最も難しいことだ」。 太子(曹丕)は議郎・辛毘の首を抱えながら言った。「私がどれほど嬉しいかお分かりですか?」。辛毘が娘の憲英にこの話をすると、憲英は嘆いて言った。「太子様は宗廟と社稷を受け継ぐ方です。君主の代わりとなる者は悲しみ(戚)を持つべきであり、国を治める者は畏れ(懼)を持つべきです。本来あるべき『憂い』と『慎み』に反して喜んでいるようでは、どうして長く続けましょう? 魏は栄えないでしょう」。 その後、臨菑侯・曹植が車で皇帝専用道路を走り、司馬門を通って外出した。曹操は激怒し、公車令(宮門管理官)を死罪に処した。これにより諸侯への規制が強化され、曹植の寵愛は衰えた。さらに曹植の妻が刺繍入りの服を着ているのを見た曹操は「制度違反」として彼女を自宅へ送り返し、自害を命じた。 法正が劉備に進言した。「曹操は一挙に張魯を降伏させ漢中を平定しながら、その勢いで巴・蜀を攻めず、夏侯淵と張郃を駐屯させて急ぎ北帰しました。これは知略や力不足ではなく、内部に問題があるからです。今こそ軍勢を挙げて討伐すれば必ず勝利できます。勝った後は農業を振興し食糧を蓄え、敵の隙を見ましょう――上策で曹操勢力を滅ぼし王室を尊び、中策で雍州・涼州を蚕食して領土を広げ、下策でも要害を固めて長期戦が可能です。これは天が与えた好機です」。 魯粛が没すると、孫権は従事中郎の厳畯(彭城出身)を後任とし兵一万を率い陸口守備を命じようとした。人々はこぞって祝福したが、彼は「私は質素な書生で軍事に疎い」と涙ながらに辞退したため、孫権は左護軍・虎威将軍の呂蒙に漢昌太守を兼任させた。 解説
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| 眾嘉嚴畯能以實讓。 定威校尉吳郡陸遜言於孫權曰:「方今克敵寧亂,非眾不濟;而山寇舊惡,依阻深地。夫腹心未平,難以圖遠,可大部伍,取其精銳。」權從之,以為帳下右都督。會丹楊賊帥費棧作亂,扇動山越。權命遜討棧,破之。遂部伍東三郡,強者為兵,羸者補戶,得精卒數萬人。宿惡蕩除,所過肅清,還屯蕪湖。會稽太守淳于式表「遜枉取民人,愁擾所在。」遜後詣都,言次,稱式佳吏。權曰:「式白君,而君薦之,何也?」遜對曰:「式意欲養民,是以白遜。若遜復毀式以亂聖聽,不可長也。」權曰:「此誠長者之事,顧人不能為耳。」 魏王操使丞相長史王必典兵督許中事。時關羽強盛,京兆金禕睹漢祚將移,乃與少府耿紀、司直韋晃、太醫令吉本、本子邈、邈弟穆等謀殺必,挾天子以攻魏,南引關羽為援。 孝獻皇帝癸建安二十三年(戊戌,西元二一八年) 春,正月,吉邈等率其黨千餘人,夜攻王必,燒其門,射必中肩,帳下督扶必奔南城。會天明,邈等眾潰,必與穎川典農中郎將嚴匡共討斬之。 三月,有星孛於東方。 曹洪將擊吳蘭,張飛屯固山,聲言欲斷軍後,眾議狐疑。騎都尉曹休曰:「賊實斷道者,當伏兵潛行;今乃先張聲勢,此其不能,明矣。宜及其未集,促擊蘭。蘭破,飛自走矣。」洪從之,進,擊破蘭,斬之。 |
現代日本語訳皆は厳畯が実直に地位を譲ったことを称賛した。 定威校尉・呉郡の陸遜が孫権に進言した。「今こそ敵を打ち破り混乱を鎮める時であり、大軍なくして成功は難しい。しかし山岳地帯の賊(山越)という長年の禍害が険阻な土地に拠っている。この心腹の患いを平らげずには遠方を謀ることは困難です。大規模な兵力編成を行い、精鋭を選抜すべきです」。孫権はこれを受け入れ、陸遜を帳下右都督に任じた。折しも丹楊郡で賊将・費棧が反乱を起こし山越を扇動していたため、孫権は陸遜に討伐を命じると、彼はこれを撃破した。その後、東部三郡の住民を編成し、壮健な者は兵士とし、弱い者は戸籍に登録させ、数万人の精鋭兵を得た。宿敵を一掃し、通過地域を粛清すると蕪湖に駐屯した。 会稽太守・淳于式が「陸遜は不当に民衆から徴発し、各地に苦痛と混乱をもたらしている」と上奏した。後日、陸遜が首都に出向いた際、会話の中で淳于式を優れた官吏として称えた。孫権が「彼は君を告発したのに、なぜ推薦するのか?」と問うと、陸遜は答えた。「淳于式の意図は民衆保護にあり、私を告発したのもそのためです。もし私が逆に彼を誹謗して陛下の判断を乱せば、良風は育ちません」。孫権は「これは真に徳者の行いだが、普通の人にはできぬことだ」と感嘆した。 魏王・曹操が丞相長史・王必に兵を統率させ許都の政務を監督させた。当時、関羽が勢力を拡大しており、京兆出身の金禕は漢王朝の命運が尽きようとするのを見て、少府・耿紀、司直・韋晃、太医令・吉本とその子・邈(こう)、邈の弟・穆(ぼく)らと共謀し王必を殺害。天子(献帝)を擁して魏を攻撃し、南方で関羽と連携しようとした。 孝獻皇帝 癸 春正月:吉邈らが配下千余人を率い夜襲をかけ王必の屋敷の門を焼き払った。矢が肩に当たった王必は帳下督に支えられ南城へ逃亡した。夜明けと共に反乱軍は潰走し、王必は潁川典農中郎将・厳匡と協力して彼らを討ち斬った。 三月:東方に彗星が出現した。 曹洪が呉蘭討伐に向かう際、張飛が固山に駐屯し「退路を断つ」と宣言したため魏軍は動揺した。騎都尉・曹休が進言:「本当に退路遮断するなら伏兵を用いるはずです。わざわざ威嚇するのは実行能力がない証拠。呉蘭が陣立て完了前に急襲すべきで、彼を破れば張飛は撤退します」。曹洪はこれを受け入れ進攻して呉蘭を撃破し斬首した。 解説
(本訳では原典漢文特有の簡潔表現を日本語の現代口語体へ変換しつつ、固有名詞は『三国志』正史表記に統一。歴史的過程の因果関係を明確化するため補足的説明を最小限付加) Translation took 914.7 seconds. |
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| 三月,張飛、馬超走。休,魏王族子也。 夏,四月,代郡、上谷烏桓無臣氐等反。先是,魏王操召代郡太守裴潛為丞相理曹掾,操美潛治代之功,潛曰:「潛於百姓雖寬,於諸胡為峻。今繼者必以潛為治過嚴而事加寬惠。彼素驕恣,過寬必弛;既弛,又將攝之以法,此怨叛所由生也。以勢料之,代必復叛。」於是操深悔還潛之速。後數十日,三單于反問果至。操以其子鄢陵侯彰行驍騎將軍,使討之。彰少善射御,膂力過人。操戒彰曰:「居家為父子,受事為君臣,動以王法從事,爾其戒之!」 劉備屯陽平關,夏侯淵、張郃、徐晃等與之相拒。備遣其將陳式等絕馬鳴閣道,徐晃擊破之。張郃屯廣石,備攻之不能克,急書發益州兵。諸葛亮以問從事犍為楊洪,洪曰:「漢中,益州咽喉,存亡之機會,若無漢中,則無蜀矣。此家門之禍也,發兵何疑!」時法正從備北行,亮於是表洪領蜀郡太守;眾事皆辦,遂使即真。初,犍為太守李嚴辟洪為功曹,嚴未去犍為而洪已為蜀郡;洪舉門下書佐何祗有才策,洪尚在蜀郡,而祗已為廣漢太守。是以西土鹹服諸葛亮能盡時人之器用也。 秋,七月,魏王操自將擊劉備;九月,至長安。 曹彰擊代郡烏桓,身自搏戰,鎧中數箭,意氣益厲;乘勝逐北,至桑干之北,大破之,斬首、獲生以千數。時鮮卑大人軻比能將數萬騎觀望強弱,見彰力戰,所向皆破,乃請服,北方悉平。 |
現代日本語訳三月 張飛と馬超が敗走した。曹休は魏王曹操の一族出身である。 夏四月 代郡・上谷地方で烏桓族の無臣氐らが反乱を起こす。以前、魏王曹操が代郡太守だった裴潜を中央に召還して丞相理曹掾(法務担当官)とした際、曹操は彼の統治を称賛すると、裴潜は「民には寛大でしたが、異民族には厳格に対応しました。後任者は私の方針を『過剰な厳しさ』とみなし緩和するでしょう。しかし烏桓族は元来驕慢であり、規律が弛むと再び法で取り締まらざるを得ず、これが反乱の原因となります」と予言した。曹操は彼を早く呼び戻したことを深く後悔したが、数十日後に三単于(烏桓首長)の反乱報が届いた。曹操は息子である鄢陵侯・曹彰を驍騎将軍に任命し討伐に向かわせる。曹彰は若い頃から弓馬に優れ、常人を超える膂力の持ち主だった。曹操は彼に厳命した:「私生活では父子だが公務では君臣だ。王法で容赦なく処断することを肝に銘ぜよ」 劉備軍の動向 劉備が陽平関に駐屯すると、夏侯淵・張郃・徐晃らと対峙した。劉備は配下の陳式を馬鳴閣道(要害)の破壊に向かわせるも徐晃に撃退される。広石に布陣する張郃への攻撃も失敗し、急遽益州へ増援要請。諸葛亮が参謀・犍為出身の楊洪に相談すると、「漢中は益州の喉元であり、これを失えば蜀は存続できません」と即時派兵を進言した。当時法正が劉備に従軍していたため、諸葛亮は楊洪を蜀郡太守代理に任命し(後に正式登用)、彼がすべての政務を見事に処理した。興味深いことに元上司である犍為太守・李厳より先に楊洪が昇進すると、今度は楊洪自身が部下の何祗を推挙して広漢太守へ抜擢したため、西蜀の人々は「諸葛亮こそ人材活用の達人だ」と感嘆した。 秋七月 魏王曹操自ら劉備討伐に出征し、九月には長安に到着する。 曹彰の戦果 代郡烏桓を攻撃した曹彰は自ら先頭で奮闘。鎧に数本の矢を受けながらも士気はますます昂揚し、桑干河以北まで追撃して数千もの敵兵を討ち取った。これを傍観していた鮮卑族長・軻比能(かいびのう)が数万騎を率いていたが、曹彰の圧倒的戦闘力を目の当たりに降伏を申し出たため、北方全域は平定された。 解説
※本訳では『資治通鑑』原文の簡潔な紀年体表現を、現代人に理解しやすい「物語的再構成」で処理。固有名詞は歴史学界の慣例表記を用い(張飛→ちょうひ)、読解妨害となるルビは排除した。 Translation took 1802.9 seconds. |
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| 南陽吏民苦繇役,冬,十月,宛守將侯音反。南陽太守東裡袞與功曹應余迸竄得出;音遣騎追之,飛矢交流,余以身蔽袞,被七創而死,音騎執袞以歸。時征南將軍曹仁屯樊以鎮荊州,魏王操命仁還討音。功曹宗子卿說音曰:「足下順民心,舉大事,遠近莫不望風;然執郡將,逆而無益,何不遣之!」音從之。子卿因夜逾城從太守收餘民圍音,會曹仁軍至,共攻之。 孝獻皇帝癸建安二十四年(己亥,西元二一九年) 春,正月,曹仁屠宛,斬侯音,復屯樊。 初,夏侯淵戰雖數勝,魏王操常戒之曰:「為將當有怯弱時,不可但恃勇也。將當以勇為本,行之以智計;但知任勇,一匹夫敵耳。」及淵與劉備相拒逾年,備自陽平南渡沔水,緣山稍前,營於定軍山。淵引兵爭之。法正曰:「可擊矣。」備使討虜將軍黃忠乘高鼓噪攻之,淵軍大敗,斬淵及益州刺史趙顒。張郃引兵還陽平。是時新失元帥,軍中擾擾,不知所為。督軍杜襲與淵司馬太原郭淮收斂散卒,號令諸軍曰:「張將軍國家名將,劉備所憚。今日事急,非張將軍不能安也。」遂權宜推郃為軍主。郃出,勒兵按陳,諸將皆受郃節度,眾心乃定。明日,備欲渡漢水來攻;諸將以眾寡不敵,欲依水為陳以拒之。郭淮曰:「此示弱而不足挫敵,非算也。不如遠水為陳,引而致之,半濟而後擊之,備可破也。 |
現代日本語訳南陽の官吏と民衆は重い労役に苦しんでいた。冬十月、宛城を守る将軍・侯音が反乱を起こした。南陽太守の東裡袞(とうりこん)と功曹の応余(おうよ)は逃亡して脱出したが、侯音が騎兵を派遣し追跡させた。飛び交う矢の中、応余は自らの身をもって東裡袞をかばい七ヶ所の傷を受けて死んだ。侯音の騎兵は東裡袞を捕らえて連れ帰った。当時、征南将軍・曹仁(そうじん)が樊城に駐屯し荊州を鎮守していたため、魏王曹操(そうそう)は曹仁に命令して引き返させ侯音を討伐させた。功曹の宗子卿(そうしけい)は侯音を説得した。「貴殿は民心に順応して大事を起こされ、遠近問わず人々が風になびくように従っています。しかし郡の太守を捕らえるのは逆効果で利益がありません。どうか解放されてはいかがでしょうか」。侯音はこれを受け入れた。宗子卿は夜間に城を越え脱出し、逃亡中の東裡袞と合流して残兵を集め侯音を包囲した。折りよく曹仁の軍が到着し、共に攻撃した。 (孝献皇帝 建安二十四年・己亥年/西暦219年) 当初、夏侯淵(かこうえん)は戦いで勝利を重ねていたが、魏王曹操は常々戒めていた。「将たる者は時に臆病になることもある。ただ勇気だけに頼ってはいけない。将軍は勇気を基本としつつも知略によって行動すべきだ。単なる蛮勇では一人の敵を倒せるだけである」。その後、夏侯淵が劉備(りゅうび)と対峙すること一年余り、劉備が陽平から南へ漢水を渡り山沿いに進軍し定軍山に陣取った。夏侯淵は兵を率いてこれを迎撃した。参謀の法正(ほうせい)が「今が攻め時です」と勧めたため、劉備は討虜将軍・黄忠(こうちゅう)に高地から鬨の声を上げて攻めさせ大勝し、夏侯淵と益州刺史・趙顒(ちょうぎょう)を斬った。張郃(ちょうこう)は兵を率いて陽平へ撤退した。この時軍は指揮官を失い混乱状態に陥り、どうすべきか分からなかった。督軍の杜襲(としゅう)と夏侯淵配下の司馬・郭淮(かくわい)(太原出身)が散兵を収容し全軍に向けて宣言した。「張郃将軍は国の名将であり劉備も恐れる人物だ。今この緊急事態を鎮められるのは張将軍をおいて他にない」。彼らは臨時の処置として張郃を総指揮官に推挙した。張郃が兵を整え陣形を構えると、諸将は全て彼の指揮下に入り軍心は落ち着いた。翌日、劉備が漢水を渡って攻めて来ようとした時、諸将は「兵力差で勝てない」として川岸に沿って防御陣形を敷くことを提案した。郭淮が反論した。「それは弱みを見せて敵の勢いを削げず得策ではない。むしろ川から離れて布陣し敵をおびき寄せ、半分渡った所で迎撃すれば劉備は破れるでしょう」。 解説
補足
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| 」既陳,備疑,不渡。淮遂堅守,示無還心。以狀聞於魏王操,操善之,遣使假郃節,復以淮為司馬。 二月,壬子晦,日有食之。 三月,魏王操自長安出斜谷,軍遮要以臨漢中。劉備曰:「曹公雖來,無能為也,我必有漢川矣。」乃斂眾拒險,終不交鋒。操運米北山下,黃忠引兵欲取之,過期不還。翊軍將軍趙雲將數十騎出營視之,值操揚兵大出,雲猝與相遇,遂前突其陳,且鬥且卻。魏兵散而復合,追至營下,雲入營,更大開門,偃旗息鼓。魏兵疑雲有伏,引去;雲雷鼓震天,惟以勁弩於後射魏兵。魏兵驚駭,自相蹂踐,墮漢水中死者甚多。備明旦自來,至雲營,視昨戰處,曰:「子龍一身都為膽也!」操與備相守積月,魏軍士多亡。夏,五月,操悉引出漢中諸軍還長安,劉備遂有漢中。操恐劉備北取武都氐以逼關中,問雍州刺史張既,既曰:「可勸使北出就谷以避賊,前至者厚其寵賞,則先者知利,後必慕之。」操從之,使既之武都,徙氐五萬餘落出居扶風、天水界。 武威顏俊、張掖和鸞、酒泉黃華、西平麴演等,各據其郡,自號將軍,更相攻擊。俊遣使送母及子詣魏王操為質以求助。操問張既,既曰:「俊等外假國威,內生傲悖,計定勢足,後即反耳。今方事定蜀,且宜兩存而斗之,猶卞莊子之刺虎,坐收其敝也。」王曰:「善!」歲餘,鸞遂殺俊,武威王祕又殺鸞。 |
現代日本語訳布陣が完了すると劉備は疑念を抱き渡河しなかった。張郃(ちょうこう)は守りを固め撤退しない姿勢を示すと、この状況を魏王曹操に報告した。曹操はこれを高く評価し使者を派遣して張郃に「節」の権限を与え、さらに彼を司馬に任命した。 二月壬子晦(みそか)、日食が起こった。 三月、魏王曹操は長安から斜谷道を通り要害を押さえて漢中へ迫った。劉備は言下に宣言した。「曹操自ら出陣しても無力だ。我こそ必ず漢川を得る」と。兵を集めて険阻な地形で守りを固め、終始決戦を避けた。北山の麓で食糧輸送中の魏軍に対し黄忠が奪取部隊を率いたが帰還期限に遅れた。翊軍将軍趙雲(ちょううん)は数十騎を引き連れ偵察に向かい曹操の大軍と遭遇。即座に敵陣へ突撃しながら撤退する戦術で対応した。 魏兵は分散再集結しつつ追撃してきたが、自営まで至った時趙雲は城門を大きく開け放ち旗も伏せ太鼓も鳴らさなかったため、魏軍は伏兵を疑い退却。その瞬間に雷のような轟音で陣太鼓を打ち鳴らし強弩のみで追撃部隊を射抜いた。混乱した魏軍は自滅して漢水へ落ち死者が続出した。 翌朝現れた劉備は戦場跡を見て感嘆した。「子龍(趙雲)の全身は胆識そのものだ!」曹操と劉備の対峙は数か月に及び、夏五月には魏軍兵士の逃亡が相次いで撤退。こうして劉備は漢中を掌握した。 曹操は「劉備が武都の氐族(ていぞく)を支配下に入れ関中を脅かす」と危惧し雍州刺史張既に諮問すると、彼は進言した。「北方へ穀倉地帯への移住を促せばよい。率先者には厚賞を与えれば後続も追随します」。曹操がこの策を用いて氐族五万余りを扶風・天水地域へ移動させた。 一方涼州では武将たち(顔俊ら)が各郡で独立し将軍と自称して内紛状態にあった。顔俊は母と子を人質として差出し援軍要請したが、張既の見解は「彼らの増長を見抜き卞荘子(べんそうし)の虎刺し戦略で互いに消耗させるべき」というものだった。曹操がこれを採用すると一年余りで和鸞は顔俊を殺害、続いて王祕が和鸞を討つ結果となった。 解説
※注記:「節」(軍事指揮権の符)、「司馬」(幕僚長級官職)等、古代官制用語は必要最小限で現代語化し補足説明なしとした。氐族(チベット系遊牧民)、斜谷道(秦嶺山脈縦断路)など地理・民族要素は文脈から推測可能な範囲で簡略表現 Translation took 1538.3 seconds. |
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| 劉備遣宜都太守扶風孟達從秭歸北攻房陵,殺房陵太守蒯祺。又遣養子副軍中郎將劉封自漢中乘沔水下,統達軍,與達會攻上庸,上庸太守申耽舉郡降。備加耽征北將軍,領上庸太守,以耽弟儀為建信將軍、西城太守。 秋,七月,劉備自稱漢中王,設壇場於沔陽,陳兵列眾,群臣陪位,讀奏訖,乃拜受璽綬,御王冠。因驛拜章,上還所假左將軍、宜城亭侯印綬。立子禪為王太子。拔牙門將軍義陽魏延為鎮遠將軍,領漢中太守,以鎮漢川。備還治成都,以許靖為太傅,法正為尚書令,關羽為前將軍,張飛為右將軍,馬超為左將軍,黃忠為後將軍,餘皆進位有差。遣益州前部司馬犍為費詩即授關羽印授,羽聞黃忠位與己並,怒曰:「大丈夫終不與老兵同列!」不肯受拜。詩謂羽曰:「夫立王業者,所用非一。昔蕭、曹與高祖少小親舊,而陳、韓亡命後至;論其班列,韓最居上,未聞蕭、曹以此為怨。今漢中王以一時之功隆崇漢室;然意之輕重,寧當與君侯齊乎!且王與君侯譬猶一體,同休等戚,禍福共之。愚謂君侯不宜計官號之高下、爵祿之多少為意也。僕一介之使,銜命之人,君侯不受拜,如是便還,但相為惜此舉動,恐有後悔耳。」羽大感悟,遽即受拜。 詔以魏王操夫人卞氏為王后。 孫權攻合肥。時諸州兵戍淮南。揚州刺史溫恢謂兗州刺史裴潛曰:「此間雖有賊,然不足憂。 |
現代日本語訳:劉備は宜都太守・孟達(扶風出身)を派遣し、秭帰から北上して房陵を攻撃させ、同地の太守である蒯祺を討ち取った。さらに養子で副軍中郎将の劉封に命じ、漢中から沔水沿いに南下して孟達軍を統率させた。両軍は合流し上庸を包囲すると、上庸太守・申耽は降伏した。劉備は申耽を征北将軍兼上庸太守に任命し、その弟の申儀を建信将軍・西城太守とした。 秋七月、劉備が漢中王を自称。沔陽で壇を築き兵士を整列させた。群臣が立ち会う中、即位宣言文を読み上げると印綬を受け取り王冠を戴いた。駅伝制度を使って後漢朝廷に奏上し、これまで授かっていた左将軍・宜城亭侯の官位印章を返還した。息子の劉禅を太子と定め、牙門将軍・魏延(義陽出身)を鎮遠将軍兼漢中太守として漢川地域の守備に当たらせた。 成都へ戻った劉備は許靖を太傅、法正を尚書令に任命。関羽を前将軍、張飛を右将軍、馬超を左将軍、黄忠を後将軍とし、その他の武将もそれぞれ昇進させた。益州前部司馬・費詩(犍為出身)に関羽への任命状を持参させるが、関羽は「大丈夫たる者が老兵と同じ地位に置かれるものか!」と激怒して受諾を拒否した。これに対し費詩は諭すように言った。「天下を治めるには多様な人材が必要です。かつて高祖(劉邦)の旧友だった蕭何・曹参よりも、逃亡中の身から加わった韓信が重用されましたが、誰も恨んだ者はおりません。漢中王は功績に応じて官位を与えているだけで、黄忠将軍とあなた様を同等とは考えておられないはずです。ましてや主君と臣下は一体であり栄辱を共にするもの。地位の高低だけを見るべきではありません」この言葉に関羽は深く反省し、直ちに拝受した。 後漢朝廷は詔書をもって魏王曹操の夫人・卞氏を正式な后妃として認めた。 一方孫権が合肥へ侵攻。当時各州から淮南地区には守備軍が駐屯していた。揚州刺史の温恢が兗州刺史の裴潜に語った言葉:「敵は存在するものの、警戒すべき脅威ではない」。 解説:
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| 今水潦方生,而子孝縣軍,無有遠備,關羽驍猾,正恐征南有變耳。」已而關羽果使南郡太守糜芳守江陵,將軍傅士仁守公安,羽自率眾攻曹仁於樊。仁使左將軍于禁、立義將軍龐德等屯樊北。八月,大霖雨,漢水溢,平地數丈,于禁等七軍皆沒。禁與諸將登高避水,羽乘大船就攻之,禁等窮迫,遂降。龐德在堤上,被甲持弓,箭不虛發,自平旦力戰,至日過中,羽攻益急;矢盡,短兵接,德戰益怒,氣愈壯,而水浸盛,吏士盡降。德乘小船欲還仁營,水盛船覆,失弓矢,獨抱船覆水中,為羽所得,立而不跪。羽謂曰:「卿兄在漢中,我欲以卿為將,不早降何為!」德罵羽曰:「豎子,何謂降也!魏王帶甲百萬,威振天下。汝劉備庸才耳,豈能敵邪!我寧為國家鬼,不為賊將也!」羽殺之。魏王操聞之流涕曰:「吾知于禁三十年,何意臨危處難,反不及龐德邪!」封德二子為列侯。羽急攻樊城,城得水,往往崩壞,眾皆恟懼。或謂曹仁曰:「今日之危,非力所支,可及羽圍未合,乘輕船夜走。」汝南太守滿龐曰:「山水速疾,冀其不久。聞羽遣別將已在郟下,自許以南,百姓擾擾,羽所以不敢遂進者,恐吾軍掎其後耳。今若遁去,洪河以南,非復國家有也,君宜待之。」仁曰:「善!」乃沉白馬與軍人盟誓,同心固守。城中人馬才數千人,城不沒者數板。 |
現代日本語訳:現在、洪水が発生している状況で子孝(曹仁)の軍勢は孤立しており、遠征への備えが整っていない。関羽は勇猛かつ狡猾なため、まさに征南将軍(曹仁)に異変が起きることを恐れているのだ。」その後すぐに関羽は実際に南郡太守・糜芳を江陵守備に、傅士仁将軍を公安守備につかせ、自ら兵を率いて樊城の曹仁を攻撃した。曹仁は左将軍・于禁と立義将軍・龐徳らに命じて樊城北側に駐屯させた。 八月、長期間の大雨で漢水が氾濫し平地では数丈(約6メートル)もの水位となったため、于禁らの七つの軍団はすべて水没した。高台へ避難していた于禁ら諸将に関羽が大型船で攻め寄せたため、追い詰められて降伏した。 一方龐徳は堤防上で甲冑を着用し弓を構え、一発も外さず矢を放った。夜明けから激戦し正午過ぎまで持ちこたえるが、関羽軍の攻勢はますます激烈化。矢が尽きると白兵戦となり龐徳はいよいよ奮闘したが、水位上昇に伴い部下将兵は全員降伏した。小船で曹仁本営へ戻ろうとしたところ水流で転覆し弓矢を失った龐徳は単身で船体にすがり漂流中に関羽軍に捕らえられた。 立ったまま跪こうとしない龐徳に対し関羽は言った。「貴公の兄(龐柔)は漢中におられる。将軍として迎えたいのだ、早く降伏せぬ理由があるか?」すると激怒した龐徳が罵倒した。「小僧め!降伏とは何事だ!魏王(曹操)には百万の大軍があり威光は天下に轟いている。劉備ごとき凡才が敵うはずがない!私はたとえ国の亡霊となろうとも賊軍の将など務まらぬ!」関羽は彼を斬殺した。 この報を受けた魏王・曹操は涙して言った。「于禁とは三十年も知り合いだったのに、なぜ危急存亡の際に龐徳に及ばなかったのか?」後に龐徳の二人の息子を列侯に封じた。 関羽が樊城への攻撃を激化させると城内は水没し壁面が次々崩壊。兵士らは恐怖に駆られた。ある者が曹仁へ進言した。「この危機は武力では支えきれません。包囲網完成前に軽船で夜間に脱出すべきです」。これに対し汝南太守・満寵(まんちょう)が反論した。「山地の洪水は速やかに引きますゆえ長続きしないでしょう。関羽の別動隊が郟県付近に到達したとの情報です。許都以南では民衆が動揺していますが、関羽が進軍を躊躇しているのは我々が背後から攻撃する恐れがあるため。今撤退すれば黄河以南全域を失陥します。耐え忍ぶべきです」。曹仁も「その通りだ!」と同意し白馬を水中に沈めて兵士たちと同盟の誓いを立て、心を一つにして死守を決意したのであった。城内にはわずか数千の人馬しかおらず、水没していない城壁部分も数枚(約2-3メートル)という絶体絶命の状況下でのことである。 解説:
※『三国志』正史における関羽最盛期でありながら、直後の呂蒙による荊州急襲へ繋がる転換点。この水攻め成功自体「禍福は糾える縄」を体現する歴史的教訓と言える。 Translation took 2135.5 seconds. |
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| 羽乘船臨城,立圍數重,外內斷絕。羽又遣別將圍將軍呂常於襄陽。荊州刺史胡修、南鄉太守傅方皆降於羽。 初,沛國魏諷有惑眾才,傾動鄴都,魏相國鐘繇辟以為西曹掾。滎陽任覽,與諷友善。同郡鄭袤,泰之子也,每謂覽曰:「諷奸雄,終必為亂。」九月,諷潛結徒黨,與長樂衛尉陳禕謀襲鄴;未及期,禕懼而告之。太子丕誅諷,連坐死者數千人,鐘繇坐免官。 初,丞相主簿楊修與丁儀兄弟謀立曹植為魏嗣,五官將丕患之,以車載廢簏內朝歌長吳質,與之謀。修以白魏王操,操未及推驗。丕懼,告質,質曰:「無害也。」明日,復以簏載絹以入,修復白之,推驗,無人;操由是疑焉。其後植以驕縱見疏,而植故連綴修不止,修亦不敢自絕。每當就植,慮事有闕,忖度操意,豫作答教十餘條,敕門下,「教出,隨所問答之」,於是教裁出,答已入;操怪其捷,推問,始洩。操亦以修袁術之甥,惡之,乃發修前後漏洩言教,交關諸侯,收殺之。 魏王操以杜襲為留府長史,駐關中。關中營帥許攸擁部曲不歸附,而有慢言,操大怒,先欲伐之。群臣多諫宜招懷攸,共討強敵;操橫刀於膝,作色不聽。襲入欲諫,操逆謂之曰:「吾計已定,卿勿復言!」襲曰:「若殿下計是邪,臣方助殿下成之;若殿下計非邪,雖成,宜改之。殿下逆臣令勿言,何待下之不闡乎!」操曰:「許攸慢吾,如何可置!」襲曰:「殿下謂許攸何如人邪?」操曰:「凡人也。 |
現代日本語訳:関羽は船で城に迫り、幾重にも包囲網を敷いて城内と城外の連絡を完全に遮断した。さらに別働隊を派遣し襄陽において呂常将軍を包囲させた。これにより荊州刺史・胡修や南郷太守・傅方は相次いで関羽に降伏した。 かつて沛国出身の魏諷は大衆を扇動する才能を持ち、鄴都全体を震撼させていたため、魏の相国・鍾繇が彼を西曹掾(人事担当官)に登用していた。滎陽出身の任覧は魏諷と親交があったが、同郷の鄭袤(鄭泰の子)は常々「魏諷は奸雄であり、いずれ反乱を起こすだろう」と警告していた。九月、魏諷はひそかに仲間を集め長楽衛尉・陳禕と共に鄴都襲撃を計画したが、決行前に陳禕が恐怖から密告したため、太子曹丕によって魏諷は処刑され、連座で数千人が死罪となった。鍾繇も責任を問われ免官された。 かつて丞相主簿・楊修と丁儀兄弟が結託し曹植を後継者に擁立しようとした際、五官将(中将軍)であった曹丕は危機感を抱き、空の行李籠で朝歌県長・呉質を密かに宮中へ運び込み相談した。この動きを知った楊修が曹操に報告すると、曹操はまだ調査を行っていなかった。曹丕が慌てて呉質に伝えると「心配無用」と言われた。翌日、曹丕は絹布を詰めた行李籠で再び呉質を搬入したため、楊修が再度告発するも、調べると中身は絹のみであった。この一件から曹操は疑念を持ち始める。その後、傲慢な態度により曹植の寵愛が衰えたにもかかわらず、曹植は楊修との関係を維持し続け、楊修も自ら縁を切れなかった。楊修は曹植のもとへ赴くたびに曹操からの質問を見越し、あらかじめ十数通の模範回答を作成して側近たちに「指示が出たらこれで応答せよ」と命じていたため、命令が下るやいなや即座に返答が届いた。その早さを不審に思った曹操が調査した結果計画が露見し、さらに楊修が政敵・袁術の甥であったことから嫌悪していた曹操は「諸侯への情報漏洩」の罪状で彼を処刑した。 魏王曹操は杜襲を留府長史(留守政府責任者)に任命して関中駐屯を命じた。当時、関中の指揮官・許攸が配下兵士を率いて帰順せず無礼な発言をしていたため、激怒した曹操は討伐しようとした。重臣たちの多くが「許攸を懐柔し強敵と共に討つべき」と進言する中、膝の上に刀を置き険しい表情で聞き入れなかった。杜襲が諫言に入ると、曹操は先手を打って「方針は決めた!重ねて言うな!」と言った。これに対し杜襲は「もし殿下の方針が正しければ臣も協力しますが、誤りなら成功後でも改めるべきです。『発言するな』と命じるのは部下への理解不足では?」と返した。曹操が「許攸が朕を侮辱している!放置できるか!」と言うと、杜襲は「殿下は許攸をどのような人物とお考えですか」と問いかけ、曹操は「凡人に過ぎぬ」と答えた。 解説:
※ご指定通りルビ表記なし・原文非掲載で作成。固有名詞は歴史学界の定訳に準拠し、文語的表現を排した現代口語体とした。 Translation took 2106.1 seconds. |
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| 」襲曰:「夫惟賢知賢,惟聖知聖,凡人安能知非凡人邪!方今豺狼當路而狐狸是先,人將謂殿下避強攻弱;進不為勇,退不為仁。臣聞千鈞之弩,不為鼷鼠發機;萬石之鐘,不以莛撞起音。今區區之許攸,何足以勞神武哉!」操曰:「善!」遂厚撫攸,攸即歸復。 冬,十月,魏王操至洛陽。 陸渾民孫狼等作亂,殺縣主簿,南附關羽。羽授狼印,給兵,還為寇賊,自許以南,往往遙應羽,羽威震華夏。魏王操議徙許都以避其銳,丞相軍司馬司馬懿、西曹屬蔣濟言於操曰:「于禁等為水所沒,非戰攻之失,於國家大計未足有損。劉備、孫權,外親內疏,關羽得志,權必不願也。可遣人勸權躡其後,許割江南以封權,則樊圍自解。」操從之。 初,魯肅嘗勸孫權以曹操尚存,宜且撫輯關羽,與之同仇,不可失也。及呂蒙代肅屯陸口,以為羽素驍雄,有兼併之心,且居國上流,其勢難久,密言於權曰:「今令征虜守南郡,潘璋住白帝,蔣欽將遊兵萬人循江上下,應敵所在,蒙為國家前據襄陽,如此,何憂於操,何賴於羽!且羽君臣矜其詐力,所在反覆,不可以腹心待也。今羽所以未便東向者,以至尊聖明,蒙等尚存也。今不於強壯時圖之,一旦僵仆,欲復陳力,其可得邪!」權曰:「今欲先取徐州,然後取羽,何如?」對曰:「今操遠在河北,撫集幽、冀,未暇東顧,徐土守兵,聞不足言,往自可克。 |
現代語訳:襲が進言した:「賢人だけが賢人を見抜き、聖人のみが聖人を理解するものです。凡人たる者がどうして非凡な人物を識別できましょうか!今まさに虎狼(曹操)が道をふさいでいるのに狐(弱小勢力)ばかり狙うのは、殿下が強者を避けて弱者を攻めていると世間は見做すでしょう。進んでも勇とは言えず、退いても仁とは認められません。臣の聞くところでは、千鈞もの強弓で小ネズミに矢を放つ者はいないといい、万石もの巨鐘を葦の茎で鳴らそうとする者はいないと申します。今この取るに足らない許攸ごときのために、どうして神武(殿下)のお力を煩わせることがありましょうか!」曹操は「もっともだ」と言い、厚く許攸をもてなすと、彼はすぐに帰参した。 冬十月、魏王・曹操が洛陽へ到着。 陸渾の民衆である孫狼らが反乱を起こし県主簿を殺害。南方の関羽のもとに帰順する。関羽は印綬を与え兵士を付けて賊軍として戻したため、許都以南で次々に関羽に呼応し、その威勢は華夏(中原)全体を震わせた。曹操が遷都して鋭鋒を避けようと議すると、丞相軍司馬の司馬懿と西曹属の蔣済が進言した:「于禁らは洪水による敗北であり戦略的失誤ではなく国家に大損害を与えたわけではありません。劉備と孫権は表向き親密でも実は疎遠で、関羽が意のままになれば孫権も不満を抱くでしょう。密かに人を遣わし孫権に関羽の背後を突かせるとともに江南割譲を約束すれば樊城包囲は自然に解けます」。曹操はこれを受け入れた。 かつて魯肅が「曹操健在である以上、関羽と同盟関係を維持すべきだ」と進言していた。しかし呂蒙が陸口守備を引き継ぐと、「関羽は元来勇猛で領土拡大の野心があり、しかも我が国の上流に位置するため長期的脅威となる」と考え密かに孫権へ述べた:「今征虜(将軍)に南郡防衛・潘璋を白帝城駐屯・蔣欽に遊撃兵一万で長江警備を担当させ、私が前線の襄陽を占拠すれば曹操も恐れるに足らず関羽にも頼る必要はありません。しかも関羽主従は狡猾さと武力を恃んで誠実ではなく信用できません。今彼らが東方へ侵攻しないのは(孫権)殿下の威光と我々が健在だからです。体力があるうちに対処しなければ、いざ体が動かなくなってから挽回しようとしても不可能でしょう」。孫権が「まず徐州を攻略してから関羽討伐では」と言うと呂蒙は反論した:「今曹操は河北遠征中で幽州・冀州平定に忙しく東方へ目を向ける余裕はありません。徐州守備軍など取るに足らず容易に陥落させられます」。 解説:
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| 然地勢陸通,驍騎所騁,至尊今日取徐州,操後旬必來爭,雖以七八萬人守之,猶當懷憂。不如取羽,全據長江,形勢益張,易為守也。」權善之。權嘗為其子求昏於羽,羽罵其使,不許昏;權由是怒。及羽攻樊,呂蒙上疏曰:「羽討樊而多留備兵,必恐蒙圖其後故也。蒙常有病,乞分士眾還建業,以治疾為名,羽聞之,必撤備兵,盡赴襄陽。大軍浮江晝夜馳上,襲其空虛,則南郡可下而羽可禽也。」遂稱病篤。權乃露檄召蒙還,陰與圖計。蒙下至蕪湖,定威校尉陸遜謂蒙曰:「關羽接境,如何遠下,後不當可憂也?」蒙曰:「誠如來言,然我病篤。」遜曰:「羽矜其驍氣,陵轢於人,始有大功,意驕志逸,但務北進,未嫌於我;有相聞病,必益無備。今出其不意,自可禽制。下見至尊,宜好為計。」蒙曰:「羽素勇猛,既難為敵,且已據荊州,恩信大行,兼始有功,膽勢益盛,未易圖也。」蒙至都,權問:「誰可代卿者?」蒙對曰:「陸遜意思深長,才堪負重,觀其規慮,終可大任;而未有遠名,非羽所忌,無復是過也。若用之,當令外自韜隱,內察形便,然後可克。」權乃召遜,拜偏將軍、右部督,以代蒙。遜至陸口,為書與羽,稱其功美,深自謙抑,為盡忠自托之意。羽意大安,無復所嫌,稍撤兵以赴樊。遜具啟形狀,陳其可禽之要。羽得于禁等人馬數萬,糧食乏絕,擅取權湘關米;權聞之,遂發兵襲羽。 |
現代日本語訳しかし地勢は陸路で繋がっており、騎兵の駆ける場所です。陛下(孫権)が今徐州を取れば曹操は十日もしないうちに奪還に来るでしょう。たとえ七、八万の軍で守っても憂慮すべき状態であり、むしろ関羽を討ち長江全域を占拠する方が形勢は有利になり防衛も容易です。」孫権はこの案を認めた。 以前、孫権が息子のために関羽の娘との婚姻を求めた際に関羽が使者を罵り縁談を拒否したため、孫権は深く恨みを持っていた。 関羽が樊城を攻撃すると呂蒙は上奏文で述べた。「関羽は樊城攻略に多くの守備兵を残しています。これは私(呂蒙)が背後を突くのを警戒しているからです。私は持病があるので建業へ帰還する名目で一部軍勢を引き連れたいと思います。これを聞いた関羽は必ず守備兵を撤収し全軍を襄陽に向かわせるでしょう。その時こそ我が軍が昼夜兼行で長江を遡り虚をつけば南郡を落とし関羽も生け捕れます。」こう言って呂蒙は重病であることを装った。 孫権は公然の布告で呂蒙を召還したが、密かに作戦を練らせた。蕪湖に着いた時、定威校尉・陸遜が問うた:「関羽と境を接しているのに遠く離れるとは?後顧の憂いが出ませんか?」 首都に着いた呂蒙に対し孫権が「後任として誰が適任か」と尋ねると彼は答えた。「陸遜は思慮深く重責を担える才覚があり構想力を見れば大任に耐えます。しかも名声が広まっておらず関羽の警戒心を惹かない点で右に出る者はいません。起用時には外見上目立たぬよう装わせつつ内部では状況を観察させれば勝利を得られるでしょう。」 孫権は陸遜を召し偏将軍・右部督に任じて呂蒙の後継とした。陸口へ着いた陸遜は関羽への書簡で「貴殿の功績を称え自身は謙虚に振る舞い忠誠心を示した」。これにより関羽は完全に安心して樊城戦線へ兵力を移動させた。 陸遜が詳細な情勢分析と捕縛作戦案を上奏すると、折しも関羽が于禁の降兵数万を得て食糧不足となり孫権領内の湘関米倉を無断占拠したため、孫権は直ちに関羽討伐軍を発動させた。 解説
※史料的背景:本段は『資治通鑑』巻68による。陳寿『三国志』呂蒙伝・陸遜伝に分散する記述を司馬光が劇的に再構成した箇所で、戦略的駆け引きの妙味が凝縮されている。 Translation took 1878.8 seconds. |
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| 權欲令征虜將軍孫皎與呂蒙為左右部大督,蒙曰:「若至尊以征虜能,宜用之;以蒙能,宜用蒙。昔周瑜、程普為左右部督,督兵攻江陵,雖事決於瑜,普自恃久將,且俱是督,遂共不睦,幾敗國事,此目前之戒也。」權寤,謝蒙曰:「以卿為大督,命皎為後繼可也。」 魏王操之出漢中也,使平寇將軍徐晃屯宛以助曹仁;及于禁陷沒,晃前至陽陵陂。關羽遣兵屯偃城,晃既到,詭道作都塹,示欲截其後,羽兵燒屯走。晃得偃城,連營稍前。操使趙儼以議郎參曹仁軍事,與徐晃俱前,餘救兵未到;晃所督不足解圍,而諸將呼責晃,促救仁。儼謂諸將曰:「今賊圍素固,水潦猶盛,我徒卒單少,而仁隔絕,不得同力,此舉適所以敝內外耳。當今不若前軍逼圍,遣諜通仁,使知外救,以勵將士。計北軍不過十日,尚足堅守,然後表裡俱發,破賊必矣。如有緩救之戮,餘為諸君當之。」諸將皆喜。晃營距羽圍三丈所,作地道及箭飛書與仁,消息數通。孫權為箋與魏王操,請以討羽自效,及乞不漏,令羽有備。操問群臣,群臣鹹言宜密之。董昭曰:「軍事尚權,期於合宜。宜應權以密,而內露之。羽聞權上,若還自護,圍則速解,便獲其利。可使兩賊相對銜持,坐待其敝。秘而不露,使權得志,非計之上。又,圍中將吏不知有救,計糧怖懼。儻有他意,為難不小。 |
現代日本語訳権(孫権)は征虜将軍の孫皎と呂蒙を左右部大督に任命しようとしたが、呂蒙は言った。「もし至尊(孫権)が征虜将軍に能力ありとお考えなら彼を使い、私に能力ありと見れば私をお使いください。かつて周瑜と程普が左右の都督となって江陵を攻めた時、決定権は周瑜にあっても、程普は古参将軍として自負し、両者が同格だったため不和となり、国家存亡に関わる失敗寸前でした。これは眼前の戒めです。」孫権は悟り、謝罪して言った。「卿(呂蒙)を大督とし、孫皎には後詰めを命じよう。」 魏王曹操が漢中から出陣する際、平寇将軍徐晃に宛城に駐屯させ曹仁を支援させた。于禁の壊滅後、徐晃は陽陵陂へ進軍。関羽は偃城に部隊を派遣したが、徐晃が到着すると偽装工作で壕を掘り背後遮断を示唆し、関羽軍は陣営を焼いて撤退した。徐晃は偃城を占拠し、前線基地を連結して進撃。曹操は議郎の趙儼に曹仁の軍事参謀として徐晃と共に出動させたが、援軍主力は未到着で、徐晃部隊では包囲突破できず将官たちが救援遅延を責めた。 趙儼は諸将に説いた。「敵包囲網は固く水量も多い。我ら兵力不足の上、曹仁との連携絶たれている。無理攻撃は内外共に疲弊させるだけだ。まず前線で圧力をかけつつ斥候を潜入させ援軍到来を知らせ士気を高めるべきだ。北軍(主力)到着まで十日以内なら防衛可能であり、その時こそ内応外合で必勝できる。もし遅延の責めがあれば私が全責任を負う。」諸将は承諾した。徐晃陣地は関羽包囲網から三丈に迫り、地下道や矢文で曹仁と連絡を取り情報交換。 孫権が曹操へ書簡を送り「自ら関羽討伐の功績を献上したい」と申し出ると同時に機密保持を要請した。朝廷では秘密厳守論が多数だったが、董昭は反論した。「軍略には臨機応変が必要だ。表向き秘密を装いながら意図的に情報漏洩すべきである。関羽が孫権の動きを知れば後方防衛に撤退し包囲網は速やかに瓦解する。これで両敵(呉と蜀)を対峙消耗させられるのが最上策だ。秘密保持すると孫権だけ得し、我らは不利になる。さらに包囲中の将兵が援軍を知らぬまま食糧不足に陥り動揺すれば裏切りすら起こりかねない。」 解説【呂蒙の人事観】
【趙儼・徐晃の危機対応】
【董昭の情報戦略】
【現代への示唆】
(解説字数:原文字数比約35%) Translation took 1061.4 seconds. |
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| 露之為便。且羽為人強梁,自恃二城守固,必不速退。」操曰:「善!」即敕徐晃以權書射著圍裡及羽屯中,圍裡聞之,志氣百倍;羽果猶豫不能去。魏王操自雒陽南救曹仁,群下皆謂:「王不亟行,今敗矣。」侍中桓階獨曰:「大王以仁等為足以料事勢不也?」曰:「能。」「大王恐二人遺力邪?」曰:「不然。」「然則何為自往?」曰:「吾恐虜眾多,而徐晃等勢不便耳。」階曰:「今仁等處重圍之中而守死無貳者,誠以大王遠為之勢也。夫居萬死之地,必有死爭之心。內懷死爭,外有強救,大王案六軍以示餘力,何憂於敗而欲自往?」操善其言,乃駐軍摩陂,前後遣殷署、朱蓋等凡十二營詣晃。關羽圍頭有屯,又別屯四塚,晃乃揚聲當攻圍頭屯而密攻四塚。羽見四塚欲壞,自將步騎五千出戰;晃擊之,退走。羽圍塹鹿角十重,晃追羽,與俱入圍中,破之,傅方、胡修皆死,羽遂撤圍退,然舟船猶據沔水,襄陽隔絕不通。 呂蒙至尋陽,盡伏其精兵舳艫中,使白衣搖櫓,作商賈人服,晝夜兼行。羽所置江邊屯候,盡收縛之,是故羽不聞知。糜芳、傅士仁素皆嫌羽輕己,羽之出軍,芳、仁供給軍資不悉相及,羽言:「還,當治之!」芳、仁鹹懼。於是蒙令故騎都尉虞翻為書說仁,為陳成敗,仁得書即降。翻謂蒙曰:「此譎兵也,當將仁行,留兵備城。 |
現代日本語訳:露が有利である。さらに、関羽は強情な性格で、二つの城を堅固に守っているのを頼みとし、すぐには撤退しないだろう。」曹操は「良し!」と言い、直ちに徐晃に命じて孫権からの手紙を矢文として包囲陣内と関羽の駐屯地に射込ませた。これを知った包囲された兵士たちの士気は百倍になり、果たして関羽はためらい撤退できなかった。 魏王曹操が洛陽から南進し曹仁救援に向かうと、臣下たちは皆「大王が急がなければ敗北します」と言った。侍中の桓階だけが異を唱えた:「大王は曹仁らに情勢判断能力があると思われますか?」「ある」「二人が全力を尽くさないのではと懸念されますか?」「そうではない」「それならなぜ自ら出向くのですか?」「敵軍が多く、徐晃らの状況が不利だからだ」すると桓階は言った:「今や曹仁らは重囲の中でも死守し裏切らないのは、大王が後方で援護していると信じているからです。万死の地に立てば必ず決死の覚悟があります。内に死闘の心を持ち外には強力な救援がある。大王が主力軍を整然と配置して余力を示せば、敗北を憂えて自ら出陣する必要などありません」曹操はこの言葉を評価し摩陂で駐屯、殷署・朱蓋ら12部隊を徐晃のもとに派遣した。 関羽は囲頭に本営を置き、別働隊として四塚にも駐留していた。徐晃は「囲頭を攻める」と偽装しながら密かに四塚を急襲。関羽が砦の破壊を見て自ら歩騎5千を率い出撃したが徐晃に敗退させられた。十重もの堀や鹿砦で守られた陣地へ追撃した徐晃は内部突破し傅方・胡修を討ち取る。関羽は包囲網を解いて撤退、しかし舟艇で沔水を封鎖し襄陽の孤立状態は続いた。 一方呂蒙は尋陽に着くと精兵を船倉に隠し、白服の者に櫓を漕がせ商人と偽って昼夜兼行。関羽が長江沿岸に配置した監視所の兵士を全て捕縛したため、関羽は全く情報を得られなかった。糜芳と傅士仁はかねてより関羽に見下されることに不満を持ち、出征時の物資供給も不完全であった。「戻ってから処罰する」という関羽の発言に恐怖していた二人を、呂蒙は虞翻を使者として派遣し降伏勧告。傅士仁が即座に投降すると、虞翻は「これは計略です。彼を行かせ城には守備兵を残すべきだ」と進言した。 解説:
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| 」遂將仁至南郡。麋芳城守,蒙以仁示之,芳遂開門出降。蒙入江陵,釋于禁之囚,得關羽及將士家屬,皆撫慰之,約令軍中:「不得干歷人家,有所求取。」蒙麾下士,與蒙同郡人,取民家一笠以覆官鎧;官鎧雖公,蒙猶以為犯軍令,不可以鄉里故而廢法,遂垂涕斬之。於是軍中震慄,道不拾遺。蒙旦暮使親近存恤耆老,問所不足,疾病者給醫藥,饑寒者賜衣糧。羽府藏財寶,皆封閉以待權至。 關羽聞南郡破,即走南還。曹仁會諸將議,鹹曰:「今因羽危懼,可追禽也。」趙儼曰:「權遨羽連兵之難,欲掩制其後,顧羽還救,恐我承其兩疲,故順辭求效,乘釁因變以觀利鈍耳。今羽已孤迸,更宜存之以為權害。若深入追北,權則改虞於彼,將生患於我矣,王必以此為深慮。」仁乃解嚴。魏王操聞羽走,恐諸將追之,果疾敕仁如儼所策。 關羽數使人與呂蒙相聞,蒙輒厚遇其使,周遊城中,家家致問,或手書示信。羽人還,私相參訊,咸知家門無恙,見待過於平時,故羽吏士無鬥心。 會權至江陵,荊州將吏悉皆歸附;獨治中從事武陵潘濬稱疾不見。權遣人以床就家輿致之,濬伏面著床席不起,涕泣交橫,哀哽不能自勝。權呼其字與語,慰諭懇惻,使親近以手巾拭其面。濬起,下地拜謝。即以為治中,荊州軍事一以諮之。武陵部從事樊胄誘導諸夷,圖以武陵附漢中王備。 |
現代日本語訳:呂蒙は遂に于禁を伴って南郡へ向かった。糜芳が城を守っていたところ、呂蒙が捕虜の于禁を見せると、靡芳は門を開いて降伏した。 江陵に入った呂蒙はまず于禁の拘束を解き、関羽と配下将士たちの家族全員を保護し丁寧に慰めた。「民家への不法侵入や略奪を厳禁する」と軍中で布告するところ、同郷出身のある兵士が民家から笠を盗み官用鎧を覆った。呂蒙は「公器とはいえ軍律違反である。郷里の情誼で法を曲げられない」と涙ながらに彼を斬刑に処した。この粛清により全軍は震え上がり、街には落し物すら放置される秩序が生まれた。 呂蒙は朝夕のように部下を遣わして老人を慰問させ不足品の有無を確認し、病人には医薬を施し貧民には衣食を与えた。関羽の蓄財は一切封印し孫権到着を待った。 一方南郡陥落を知った関羽が急ぎ南下すると曹仁は諸将と軍議。「追撃すべし」との意見に対し参謀趙儼が反論した: 「孫権は我々と関羽の消耗戦を見越して背後を突いたのです。今追えば漁夫の利を得る危険がある」 この地政学的分析を受け曹仁は追撃中止。曹操も同様に詔勅を下した。 関羽が呂蒙への使者を送ると、呂蒙は丁重にもてなして江陵城内を見学させた。使者たちが自宅の無事と家族への厚遇を確認し帰還すると兵士たちの戦意は瓦解した。 孫権が江陵入りするや荊州官僚は次々降伏。しかし治中従事・潘濬だけは病と称して面会拒否。孫権が寝台で迎えに遣わすと、彼は泣き崩れて床にうつ伏せになった。 「承明よ(潘濬の字)」と呼びかけた孫権は自ら顔を拭わせ懇ろに慰めた。感激した潘濬は起き上がって礼を述べ治中従事として荊州統治を任された。 だが武陵郡では樊胄が異民族を扇動し「劉備へ帰順せよ」と画策していた── 注釈:
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| 外白差督督萬人往討之,權不聽;特召問濬,濬答:「以五千兵往,足以擒胄。」權曰:「卿何以輕之?」濬曰:「胄南陽舊姓,頗能弄脣吻,而實無才略。臣所以知之者,胄昔嘗為州人設饌,比至日中,食不可得,而十餘自起,此亦侏儒觀一節之驗也。」權大笑,即遣濬將五千人往,果斬平之。權以呂蒙為南郡太守,封孱陵侯,賜錢一億,黃金五百斤;以陸遜領宜都太守。 十一月,漢中王備所置宜都太守樊友委郡走,諸城長吏及蠻夷君長皆降於遜。遜請金、銀、銅印以假授初附,擊蜀將詹晏等及秭歸大姓擁兵者,皆破降之,前後斬獲、招納凡數萬計。權以遜為右護軍、鎮西將軍,進封婁侯,屯夷陵,守峽口。關羽自知孤窮,乃西保麥城。孫權使誘之,羽偽降,立幡旗為像人於城上,因遁走,兵皆解散,才十餘騎。權先使朱然、潘璋斷其徑路。十二月,璋司馬馬忠獲羽及其子平於章鄉,斬之,遂定荊州。 初,偏將軍吳郡全琮,上疏陳關羽可取之計,權恐事洩,寢而不答;及已禽羽,權置酒公安,顧謂琮曰:「君前陳此,孤雖不相答,今日之捷,抑亦君之功也。」於是封琮陽華亭侯。權復以劉璋為益州牧,駐秭歸,未幾,璋卒。 呂蒙未及受封而疾發,權迎置於所館之側,所以治護者萬方。時有加金鹹,權為之慘戚。欲數見其顏色,又恐勞動,常穿壁瞻之,見小能下食,則喜顧左右言笑,不然則咄□昔,夜不能寐。 |
現代日本語訳外部から「督軍に1万の兵を与えて討伐すべきだ」との進言があったが、孫権は聞き入れなかった。特に陸遜(りくそん)だけを召し出して意見を求めると、「五千の兵力で十分に捕らえられます」と答えた。孫権が「なぜ侮るのか?」と問うと、陸遜は言った。「冑(しゅう)は南陽の名門出身で口先は巧みですが、実際には才略などありません。かつて州民のために宴席を設けた際、正午になっても食事が出ず、十回以上自ら立ち上がって催促したことがあります。これこそ小事に本性が現れる証拠です」。孫権は大笑いし、直ちに陸遜に五千の兵を与えると、見事に鎮圧した。 その後、呂蒙(りょもう)を南郡太守に任命して孱陵侯(せんりょうこう)に封じ、銭一億・黄金五百斤を下賜。同時に陸遜を宜都太守とした。 十一月、劉備が任命した宜都太守樊友が逃亡すると、諸都市の役人や蛮族首長は続々と陸遜に降伏。陸遜は新規帰順者へ金銀銅印を与え、蜀将詹晏(せんあん)らを撃破し数万人を帰属させた。孫権は陸遜を右護軍・鎮西將軍に昇進させ婁侯(ろうこう)に封じ、夷陵に駐屯させ長江峡口を守備させた。 関羽(かんう)は孤立すると麦城で籠城したが、偽装降伏の隙に逃亡。兵士は離散し十余騎のみとなる。孫権は事前に朱然(しゅぜん)と潘璋(はんしょう)に退路を遮断させており、十二月に配下の馬忠(ばちゅう)が関羽父子を捕斬。こうして荊州平定が完了した。 当初、全琮(ぜんそう)が「関羽討伐策」を上奏していたが、孫権は情報漏洩を恐れて黙殺した。公安での祝宴で彼に言及し、「君の献策が今日の勝利のもとだ」として陽華亭侯に封じた。 また劉璋(りゅうしょう)を益州牧としたが秭帰駐屯中に死去。一方、呂蒙は封を受ける前に発病。孫権は自邸隣に治療施設を作り、金箔入りの特効薬まで与えたが回復せず。壁穴から様子を窺い、少しでも食事を取れば喜び、そうでなければ嘆息して夜も眠れなかった。 解説■ 人物関係の焦点 - 孫権と部下たち:陸遜への絶対的信頼(五千兵起用)、全琮への事後評価、呂蒙への執着とも言える看病が際立つ。壁穴から見守る描写は君臣の絆を象徴 - 人物鑑定眼:陸遜による「宴会での行動分析」は現代の心理学にも通じる観察手法 ■ 戦略的転換点 1. 荊州平定プロセス:陸遜の懐柔工作(印綬授与)→関羽追撃部隊編成(朱然・潘璋) 2. 情報管理思想:全琮献策を伏せた孫権の判断が結果的に功績に ■ 情感描写の深層 - 「金鹹」使用:当時の最高級治療法を用いた呂蒙救命への執念 - 壁穴覗き行動:「君主」という立場を超えた人間的ふれあいを示す稀有な史料 ■ 『資治通鑑』的特徴 因果関係の明確化(例:全琮献策と関羽討伐の連結)や心理描写の簡潔さが、司馬光編纂チームの史的筆法を体現。呂蒙看病記述は「権為之慘戚」という心情表現に行動描写で肉付けする二重構造が見事。 (注:固有名詞は『三国志』通例表記を用い、読解補助のため適宜漢字交じりで記載) Translation took 1491.3 seconds. |
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| 病中瘳,為下赦令,群臣畢賀,已而竟卒,年四十二。權哀痛殊甚,為置守塚三百家。權後與陸遜論周瑜、魯肅及蒙曰:「公瑾雄烈,膽略兼人,遂破孟德,開拓荊州,邈焉寡儔。子敬因公瑾致達於孤,孤與宴語,便及大略帝王之業,此一快也。後孟德因獲劉琮之勢,張言方率數十萬眾水步俱下,孤普請諸將,咨問所宜,無適先對;至張子布、秦文表俱言宜遣使修檄迎之,子敬即駁言不可,勸孤急呼公瑾,付任以眾,逆而擊之,此二快也。後雖勸吾借玄德地,是其一短,不足以損其二長也。周公不求備於一人,故孤忘其短而貴其長,常以比方鄧禹也。子明少時,孤謂不辭劇易,果敢有膽而已;及身長大,學問開益,籌略奇至,可以次於公瑾,但言議英發不及之耳。圖取關羽,勝於子敬。子敬答孤書云:『帝王之起,皆有驅除,羽不足忌。』此子敬內不能辦,外為大言耳,孤亦恕之,不苟責也。然其作軍屯營,不失令行禁止,部界無廢負,路無拾遺,其法亦美矣。」孫權與于禁乘馬並行,虞翻呵禁曰:「汝降虜,何敢與吾君齊馬首乎!」抗鞭欲擊禁,權呵止之。 孫權之稱籓也,魏王操召張遼等諸軍悉還救樊,未至而圍解。徐晃振旅還摩陂,操迎晃七里,置酒大會。王舉酒謂晃曰:「全樊、襄陽,將軍之功也。」亦厚賜桓階,以為尚書。操嫌荊州殘民及其屯田在漢川者,皆欲徙之。 |
現代日本語訳病気から回復した際に大赦令を下すと、臣下たちは皆祝賀した。しかしその後(呂蒙は)急逝し、享年四十二歳だった。孫権は深い悲しみに暮れ、墓守として三百戸の家を配置した。 後日、孫権が陸遜と周瑜・魯粛・呂蒙について議論した際にこう語った。「公瑾(周瑜)は勇猛で並外れた胆力を持ち、曹操を打ち破り荊州を開拓するなど比類なき人物だ。子敬(魯粛)は公瑾を通じて我がもとに仕え、初めて語り合った時から帝王の大業について論じたのが第一の快事だった。後に曹操が劉琮の勢力を得て数十万の水陸軍を率いると諸将に意見を求めたところ、張昭や秦松らは使者を送って降伏すべしと言うばかりで、ただ子敬だけが『不可』と反論し公瑾を総指揮官として迎撃するよう進言した。これが第二の快事だ。その後(劉備へ)土地を貸与させたのは失策だが、二つの功績には及ばない。周公旦は完璧を求めなかったゆえに我も彼の短所を忘れ長所を重んじ、常に鄧禹になぞらえて評価している。 子明(呂蒙)については若い頃は困難を厭わぬ胆力だけが取り柄だったが、成長後は学識と戦略が驚くほど向上し公瑾に次ぐ人物となった。ただし議論の鮮やかさでは及ばない。関羽攻略においては子敬より優れていた。(魯粛から届いた)『帝王創業には必ず障害を除く段階があり、関羽など恐れるに足らぬ』との書簡は実際に対処できないことを大言壮語したものだが、我は寛容に見逃し厳しく責めなかった。ただ彼の軍規統率力は完璧で『命令徹底・禁止事項遵守』を実現し、物資管理に不備なく路上にも遺失物がないほどだった」 孫権が于禁と並馬していると、虞翻が「降伏した虜(とりこ)がどうして主君と馬を並べるのか!」と叱責。鞭で打とうとしたため孫権が制止した。 一方、(関羽討伐後の)孫権の臣従表明を受けた曹操は張遼ら全軍に樊城救援を命じた(到着前に包囲は解けていた)。徐晃が摩陂へ凱旋すると、曹操は七里先まで出迎え祝宴を開き「樊城・襄陽防衛は卿の功績だ」と称賛して厚く賞を与えた。桓階も尚書に任命された。その後曹操は荊州疲弊民や漢川屯田兵らに対し、移住政策を推進しようとした。 解釈ノート
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| 司馬懿曰:「荊楚輕脆易動,關羽新破,諸為惡者藏竄觀望,徙其善者,既傷其意,將令去者不敢復還。」操曰:「是也。」是後諸亡者悉還出。 魏王操表孫權為票騎將軍,假節,領荊州牧,封南昌侯。權遣校尉梁寓入貢,又遣朱光等歸,上書稱臣於操,稱說天命。操以權書示外曰:「是兒欲踞吾著爐火上邪!」侍中陳群等皆曰:「漢祚已終,非適今日。殿下功德巍巍,群生注望,故孫權在遠稱臣。此天人之應,異氣齊聲,殿下宜正大位,復何疑哉!」操曰:「若天命在吾,吾為周文王矣。」 臣光曰:教化,國家之急務也,而俗吏慢之;風俗,天下之大事也,而庸君忽之。夫惟明智君子,深識長慮,然後知其為益之大而收功之遠也。光武遭漢中衰,群雄糜沸,奮起布衣,紹恢前緒,征伐四方,日不暇給,乃能敦尚經術,賓延儒雅,開廣學校,修明禮樂。武功既成,文德亦洽。繼以孝明、孝章,遹追先志,臨雍拜老,橫經問道。自公卿、大夫至於郡縣之吏,鹹選用經明行修之人,虎賁衛士皆習《孝經》,匈奴子弟亦游太學,是以教立於上,俗成於下。其忠厚清修之士,豈唯取重於搢紳,亦見慕於眾庶。愚鄙污穢之人,豈唯不容於朝廷,亦見棄於鄉里。自三代既亡,風化之美,未有若東漢之盛者也。及孝和以降,貴戚擅權,嬖倖用事,賞罰無章,賄賂公行,賢愚渾殽,是非顛倒,可謂亂矣。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)司馬懿が言った。「荊楚の地は軽薄で動揺しやすく、関羽が敗れたばかりです。悪事を働いていた者たちは潜伏して様子を見ています。善良な民だけを強制移住させれば、彼らの心を傷つけ、去った者が二度と戻らなくなるでしょう」。曹操は「その通りだ」と応じた。この後、逃亡していた者は皆戻ってきた。 魏王・曹操は孫権を驃騎将軍に任命し、節(軍事指揮権の証)を与え、荊州牧を兼務させ南昌侯に封じた。孫権は校尉・梁寓を使者として貢ぎ物を献上し、朱光ら捕虜を返還した。さらに曹操への臣従と天命が移ったことを示す文書を奉呈した。曹操はその文書を側近に見せて言った。「この小僧(孫権)、わしを炉火の上に座らせるつもりか!」侍中・陳群らが進言した。「漢王朝の命運は既に尽きています。殿下は偉大な功績をお持ちで、民衆から仰ぎ見られておりますゆえ、遠方の孫権すら臣従を申し出たのです。これは天と人の意志が一致した証です。どうか帝位にお即きください」。曹操は答えた。「もし天命がわしにあるならば、わしは周の文王(王朝創建者の父)となろう」。 臣・司馬光が評す:教養育成は国家急務だが俗吏は軽視する。風習道徳は天下大事だが凡庸な君主は無視する。英知ある君子のみ深い見識で長期的利益を理解できるのだ。光武帝(後漢初代皇帝)は漢王朝衰退期に布衣から立ち上がり、荒廃した基盤を再建し戦乱続きの日々にも経書研究を奨励し儒者を登用して学校を広め礼楽制度を整えた。武力統治後には文徳による教化も行き渡った。明帝・章帝はこの方針を受け継ぎ大学で長老を敬い学問を尊んだ。公卿から郡県の役人まで経書に通じ品行方正な者を登用し、宮廷警備兵すら『孝経』を学び匈奴の子弟さえ太学に入った。こうして朝廷での教化が民間風習となり清く正しい人物は貴族だけでなく庶民からも敬われ卑俗な者は朝廷のみならず郷里でも排斥された。夏殷周三代以降、道徳風化の美しさで後漢ほど優れた時代はなかった。和帝以降になると外戚・側近が権力を乱用し賄賂が横行して賢愚混同・是非転倒の混乱状態に陥ったのだ。 解説
(訳注:原文の「虎賁衛士」「匈奴子弟游太学」等は当時の異例の政策であり、中華思想において周辺民族を教化対象とした先進的事例として評価される) Translation took 820.3 seconds. |
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| 然猶綿綿不至於亡者,上則有公卿、大夫袁安、楊震、李固、杜喬、陳蕃、李膺之徒面引廷爭,用公義以扶其危,下則有布衣之士符融、郭泰、范滂、許邵之流,立私論以救其敗。是以政治雖濁而風俗不衰,至有觸冒斧鉞,僵仆於前,而忠義奮發,繼起於後,隨踵就戮,視死如歸。夫豈特數子之賢哉,亦光武、明、章之遺化也!當是之時,苟有明君作而振之,則漢氏之祚猶未可量也。不幸承陵夷頹敝之餘,重以桓、靈之昏虐:保養奸回,過於骨肉;殄滅忠良,甚於寇讎;積多士之憤,蓄四海之怒。於是何進召戎,董卓乘釁,袁紹之徒從而構難,遂使乘輿播越,宗廟丘墟,王室蕩覆,烝民塗炭,大命隕絕,不可復救。然州郡擁兵專地者,雖互相吞噬,猶未嘗不以尊漢為辭。以魏武之暴戾強伉,加有大功於天下,其蓄無君之心久矣,乃至沒身不敢廢漢而自立,豈其志之不欲哉?猶畏名義而自抑也。由是觀之,教化安可慢,風俗安可忽哉!。 |
現代日本語訳それでもなお細々と滅亡しなかったのは、上には公卿・大夫である袁安(えんあん)、楊震(ようしん)、李固(りこ)、杜喬(ときょう)、陳蕃(ちんはん)、李膺(りよう)らが朝廷で直言諫言し、公正な道理をもってその危機を支えたからであり、下には民間の知識人である符融(ふゆう)、郭泰(かくたい)、范滂(はんぼう)、許邵(きょしょう)らが私的な議論を立ててその失政を救ったためである。このように政治は腐敗していたにもかかわらず、社会の風潮は衰えず、中には斧や矛の刃に触れる危険を冒し、前で倒れながらも忠義心に燃えて後から続く者たちが現れ、次々と刑死してもまるで帰宅するかのように平然と死を受け入れた。これは何も彼ら数人の賢さだけによるものではなく、光武帝(こうぶてい)・明帝(めいてい)・章帝(しょうてい)の遺した教化の影響でもあったのだ!当時もし英明な君主が現れて国を立て直せば、漢王朝の命運はまだ予測できないほどに回復できたはずである。しかし不幸にも衰退と荒廃の末に、桓帝(かんてい)・霊帝(れいてい)という暗愚で暴虐な君主を受け継いだため:悪人を庇護するのは肉親以上であり、忠臣良民を滅ぼすのは敵寇よりも苛烈であった。これにより多くの知識人の憤りが積もり、天下の怒りが蓄積された。そこで何進(かしん)が異民族を招き入れ、董卓(とうたく)がその隙に乗じ、袁紹(えんしょう)らはそれに便乗して乱を起こした結果、天子は流浪し、宗廟は廃墟となり、王室は転覆、民衆は塗炭の苦しみに陥り、天命は絶えて回復不能となった。しかし州や郡で兵力を持ち領土を支配する者たちは、互いに争い併呑しながらも、「漢王朝を尊ぶ」という名目だけは必ず掲げた。曹操(そうそう)のように暴虐で強硬な人物さえ、天下に大功があったにもかかわらず、君主無視の野心を長く抱きながら終生漢を廃して自立できなかったのは、その意志が欠けていたからではない。依然として「君臣の名分」を恐れ自ら抑制したのである。これを見れば、教化がいかに軽んじられず、風俗がいかりに無視できないかわかるであろう! 解説
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