| input text 資治通鑑\185_唐紀_01.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷一百八十五 唐紀一 起著雍攝提格正月,盡七月,不滿一年。 高祖神堯大聖光孝皇帝上之上武德元年(戊寅,公元六一八年) 春,正月,丁未朔,隋恭帝詔唐王劍履上殿,贊拜不名。唐王既克長安,以書諭諸郡縣,於是東自商洛,南盡巴、蜀,郡縣長吏及盜賊渠帥、氐羌酋長,爭遣子弟入見請降,有司復書,日以百數。 王世充既得東都兵,進擊李密於洛北,敗之,遂屯鞏北。辛酉,世充命諸軍各造浮橋渡洛擊密,橋先成者先進,前後不一。虎賁郎將王辯破密外柵,密營中驚擾,將潰;世充不知,鳴角收眾,密因帥敢死士乘之,世充大敗,爭橋溺死者萬餘人。王辯死,世充僅自免,洛北諸軍皆潰。世充不敢入東都,北趣河陽。是夜,疾風寒雨,軍士涉水沾濕,道路凍死者又以萬數。世充獨與數千人至河陽,自繫獄請罪,越王侗遣使赦之,召還東都,賜金帛、美女以安其意。世充收合亡散,得萬餘人,屯含嘉城,不敢復出。 密乘勝進據金墉城,修其門堞、廬舍而居之,鉦鼓之聲,聞於東都;未幾,擁兵三十餘萬,陳於北邙,南逼上春門。乙丑,金紫光祿大夫段達、民部尚書韋津出兵拒之。達望見密兵盛,懼而先還。密縱兵乘之,軍遂潰,韋津死。於是偃師、柏谷及河陽都尉獨孤武都、檢校河內郡丞柳燮、職方郎柳續等各舉所部降於密。 |
現代日本語訳:『資治通鑑』巻百八十五 唐紀一 春正月丁未の朔日、隋の恭帝は詔を下し、唐王に対し「剣を帯び履を穿いて殿中に上がり、拝礼時に名乗らず」との特権を与えた。唐王が長安を平定した後、諸郡県へ文書で通告すると、東は商洛から南は巴蜀まで、各地の官吏や賊軍の首領・氐羌族の酋長らが競って子弟を使者として派遣し降伏を請うた。役所の返信は日に百通に及んだ。 王世充は東都(洛陽)の兵を得ると、洛水北岸で李密を攻撃して破り、鞏県北部へ駐屯した。辛酉日、世充は全軍に命じ浮き橋を造らせて洛水を渡り李密を襲わせたが、先に完成した部隊から順次進軍させたため統制が乱れた。虎賁郎将・王辯が李密の外柵を突破すると、密の陣営は大混乱で崩壊寸前となった。しかし世充は状況を把握できず、退却の角笛を吹いて兵を集めたため、李密は決死隊を率い逆襲に転じた。世充軍は大敗し、浮き橋へ殺到した兵士1万余が溺死する惨状となった。王辯は戦死し、世充はかろうじて逃げ延びるも洛北の全軍は崩壊。東都に入れず河陽城へ向かった。 その夜は烈風と冷雨に見舞われ、兵士たちが濡れたまま行軍したため凍死者がさらに1万人を数えた。世充はわずか数千人で河陽に到着すると自ら牢獄に入り罪を請うたが、越王・楊侗は使者を遣わし赦免。東都へ召還して金銀・絹帛・美女を与え慰撫した。世充は離散兵1万余を収容すると含嘉城に駐屯し、以後出撃できなくなった。 李密は勝勢に乗じ金墉城を占拠。門や城壁・兵舎を修復して本営とし、その陣太鼓の音は東都城内まで響いた。ほどなく30万余の大軍を率いて北邙山に布陣し、南へ迫って上春門を圧迫した。 乙丑日、金紫光禄大夫・段達と民部尚書・韋津が迎撃に出たが、段達は李密軍の盛況を見て恐怖し先に撤退。李密は兵に総攻撃を命じ韋津軍を壊滅させ(韋津戦死)、これにより偃師・柏谷の守将や河陽都尉・獨孤武都、検校河内郡丞・柳燮、職方郎・柳続らが相次いで配下ごと投降した。 解説:
(翻訳方針:漢文訓読調を排除し現代語で平易に再構成。固有名詞は原典表記を保持し、戦況描写には動的表現を用いて臨場感を付与) Translation took 2492.5 seconds. |
| 竇建德、朱粲、孟海公、徐圓朗等並遣使奉表勸進,密官屬裴仁基等亦上表請正位號,密曰:「東都未平,不可議此。」 戊辰,唐王以世子建成為左元帥,秦公世民為右元帥,督諸軍十餘萬人救東都。 東都乏食,太府卿元文都等募守城不食公糧者進散官二品,於是商賈執象而朝者,不可勝數。 二月,己卯,唐王遣太常卿鄭元璹將兵出商洛,徇南陽,左領軍府司馬安陸馬元規徇安陸及荊、襄。 李密遣房彥藻、鄭頲等東出黎陽,分道招慰州縣。以梁郡太守楊汪為上柱國、宋州總管,又以手書與之曰:「昔在雍丘,曾相追捕,射鉤斬袂,不敢庶幾。」汪遣使往來通意,密亦羈縻待之。彥藻以書招竇建德,使來見密。建德復書,卑辭厚禮,托以羅藝南侵,請捍御北垂。彥藻還,至衛州,賊帥王德仁邀殺之。德仁有眾數萬,據林慮山,四出抄掠,為數州之患。 三月,己酉,以齊公元吉為鎮北將軍、太原道行軍元帥、都督十五郡諸軍事,聽以便宜從事。 隋煬帝至江都,荒淫益甚,宮中為百餘房,各盛供張,實以美人,日令一房為主人。江都郡丞趙元楷掌供酒饌,帝與蕭后及幸姬歷就宴飲,酒卮不離口,從姬千餘人亦常醉。然帝見天下危亂,意亦擾擾不自安,退朝則幅巾短衣,策杖步游,遍歷台館,非夜不止,汲汲顧景,唯恐不足。 帝自曉占候卜相,好為吳語;常夜置酒,仰視天文,謂蕭后曰:「外間大有人圖儂,然儂不失為長城公,卿不失為沈後,且共樂飲耳!」因引滿沉醉。 |
現代語訳:竇建徳・朱粲・孟海公・徐円朗らがそろって使者を遣わし上表文を奉じて(李密への)即位を勧めた。李密配下の裴仁基らも帝号採用を求める上表を行ったが、李密は「洛陽(東都)が未だ平定されていない以上、この件は論じられない」と述べた。 戊辰(十五日)、唐王(李淵)は世子・李建成を左元帥に、次子李世民を右元帥とし、十余万の軍勢を率いて洛陽救援に向かわせた。 洛陽では食糧が枯渇していた。太府卿・元文都らは「官給米を受け取らず城防衛に当たる者」に対し従二品相当の名誉職を与える制度を設けたため、商人たちが列をなして役所へ殺到する光景が見られた。 二月己卯(四日)、唐王は太常卿・鄭元璹を商洛方面から南陽平定に派遣。左領軍府司馬の安陸出身者・馬元規には安陸及び荊州・襄陽地方の制圧を命じた。 李密は房彦藻と鄭頲らを黎陽以東へ遣わし、各地で州県の帰順工作を行わせた。梁郡太守・楊汪を最高武官位(上柱国)兼宋州総管に任じ、「かつて雍丘で貴公に追われた際には矢が鉤にかかり衣の袂も斬られる危機だった(=九死に一生を得た)」と記した親書を送った。楊汪は使者を通じて恭順を示し、李密も表向き厚遇した。房彦藻が竇建徳へ「李密への謁見を」と勧める書簡を送ると、建徳は「羅芸の南侵に対処せねばならぬ」として丁重に拒絶。帰途の衛州で賊将・王徳仁に房彦藻は襲撃され殺害された。徳仁は数万の兵で林慮山を拠点とし、周辺州へ略奪を繰り返す禍患となっていた。 三月己酉(四日)、斉公李元吉を鎮北将軍兼太原道行軍元帥・十五郡軍事総督に任命し、臨機の処置を許可した。 隋の煬帝が江都に移ってからは奢侈淫楽が激化。宮殿内に百余りの宴会用部屋を設け、それぞれ豪華に装飾して美人を侍らせた。毎日順番で一室を主会場とし、郡丞・趙元楷が酒食の準備を担当。煬帝は蕭皇后や寵姫たちと連日宴会を開き杯を離さず、千余人の侍女も常に酔っていた。 しかし天下乱れる状況を見て内心不安になり、退朝後は質素な服装で杖をつき苑内を行脚。夜まで楼閣を巡り歩いては周囲を警戒し続けた(=反乱軍襲来を恐れた)。 煬帝は天文占いや人相見に精通し江南方言を好んだ。ある夜の酒宴で星空を見上げ蕭后に「外では大勢が儂(我)を狙っているようだ」と漏らすと、突然「だが儂は陳の長城公(滅亡皇帝)、卿も沈后のような末路だろう。今だけ共に楽しもう!」と言い放ち、酒をあおって酔いつぶれた。 解説:【歴史的背景】
【人物描写の特徴】
【社会状況】
【文章表現】
(注:固有名詞は原典表記を基本とした。唐代以前の官職名については理解しやすいよう意訳した箇所あり) Translation took 1982.9 seconds. |
| 又嘗引鏡自照,顧謂蕭后曰:「好頭頸,誰當斫之?」后驚問故,帝笑曰:「貴賤苦樂,更迭為之,亦復何傷!」 帝見中原已亂,無心北歸,欲都丹楊,保據江東,命群臣廷議之。內史侍郎虞世基等皆以為善;右候衛大將軍李才極陳不可,請車駕還長安,與世基忿爭而出。門下錄事衡水李桐客曰:「江東卑濕,土地險狹,內奉萬乘,外給三軍,民不堪命,恐亦將散亂耳。」御史劾桐客謗毀朝政。於是公卿皆阿意言:「江東之民望幸已久,陛下過江,撫而臨之,此大禹之事也。」乃命治丹楊宮,將徙都之。 時江都糧盡,從駕驍果多關中人,久客思鄉里,見帝無西意,多謀叛歸。郎將竇賢遂帥所部西走,帝遣騎追斬之,而亡者猶不止,帝患之。虎賁郎將扶風司馬德戡素有寵於帝,帝使領驍果屯於東城,德戡與所善虎賁郎將元禮、直閣裴虔通謀曰:「今驍果人人欲亡,我欲言之,恐先事受誅;不言,於後事發,亦不免族滅,奈何?又聞關內淪沒,李孝常以華陰叛,上囚其二弟,欲殺之。我輩家屬皆在西,能無此慮乎?」二人皆懼,曰:「然計將安出?」德戡曰:「驍果若亡,不若與之俱去。」二人皆曰:「善!」因轉相招引,內史舍人元敏、虎牙郎將趙行樞、鷹揚郎將孟秉、符璽郎李覆、牛方裕、直長許弘仁、薛世良、城門郎唐奉義、醫正張愷、勳士楊士覽等皆與之同謀,日夜相結約,於廣座明論叛計,無所畏避。 |
現代日本語訳またかつて鏡を見つめながら自らを映し、蕭后に向かって言った。「この良い首よ、一体誰が斬るのだろう?」后は驚いて理由を尋ねたが、帝は笑いながら答えた。「貴賤や苦楽は代わるがわる訪れるものだ。何の害があろう!」 中原に乱れが見えることを知り、帝は北へ帰還する意思を持たず、丹楊(現南京)への遷都を望み江東地域を支配下に置こうとした。廷臣たちに朝廷で議論させるよう命じると、内史侍郎虞世基らは賛成したが、右候衛大将軍李才は強硬に反対し「長安へ戻るべきだ」と主張して世基と激しく争い退出した。門下録事(官職名)の衡水出身者・李桐客が進言した。「江東は低湿地で土地も狭く険しい。内では皇帝を支え、外では三軍に供給しなければならず民衆は負担に耐えられないでしょう。恐らく混乱が起きるはずです」。すると御史(監察官)が桐客を「朝政への誹謗」として弾劾した。これにより公卿たちはこぞって迎合して言った。「江東の民衆は陛下のお出ましを長らく待ち望んでおりました! 揚子江を渡り彼らを統治されるのは、大禹王(古代中国の聖王)のような偉業です」。帝は丹楊宮殿修復と遷都準備を命じた。 当時江都では食糧が尽きかけていた。供回りの精兵たちには関中出身者が多く長く故郷を離れているため、帰還への望みが強い。しかし皇帝に西方(長安方面)へ戻る意志がないと知り、脱走計画をする者も現れた。郎将の竇賢は配下を率いて西進したが追手により斬殺された。それでも逃亡者は後を絶たず帝は憂慮していた。 虎賁郎将(近衛隊長)で扶風出身の司馬徳戡は皇帝に寵愛されていた人物だが、精兵部隊を東城に駐屯させる任務を与えられた時、仲良しだった同僚・元礼や直閣(官職名)裴虔通と密談した。「今や精兵たちが次々逃亡しようとしている。このことを上奏すれば事前に処刑される恐れがあるが、黙っていても事態発生後は家族皆殺しになるだろう...どうすべきか? さらに聞けば関中(故郷)も敵軍占領下で李孝常という将まで華陰で反乱を起こした。皇帝は彼の弟二人を捕らえ処刑しようとしている。我々の家族も皆西方にいるのだ、無事だと言えるか?」二人とも恐れ「ではどうするべきか」と問うと、徳戡が提案した。「脱走兵たちを見殺しにするより共に逃げるのが良い」。両名は賛同し内史舎人元敏・虎牙郎将趙行枢ら十数名も加わった。彼らは昼夜を分かたず謀議を重ね、公然と反乱計画を語り合うようになり全く隠そうともしなかった。 解説【隋煬帝の心理描写】
【反乱前夜の構造分析】
【歴史的教訓】この場面は暴政末期に見られる3段階の崩壊プロセスを典型化している:
1. 指導者の現実認識喪失(遷都幻想) 『資治通鑑』編者・司馬光は、煬帝が「貴賤苦楽更迭為之」と達観しながらも、自身の政策が民衆を「不堪命」に追い込んでいる矛盾に全く気付かない点を皮肉っている。権力者の哲学的諦観と政治的無責任の危険な共存を示す警告的エピソードと言える。 Translation took 1983.8 seconds. |
| 有宮人白蕭后曰:「外間人人欲反。」后曰:「任汝奏之。」宮人言於帝,帝大怒,以為非所宜言,斬之。其後宮人復白后,后曰:「天下事一朝至此,無可救者,何用言之!徒令帝憂耳!」自是無復言者。 趙行樞與將作少監宇文智及素厚,楊士覽,智及之甥也,二人以謀告智及,智及大喜。德戡等期以三月望日結黨西遁,智及曰:「主上雖無道,威令尚行,卿等亡去,正如竇賢取死耳。今天實喪隋,英雄並起,同心叛者已數萬人,因行大事,此帝王之業也。」德戡等然之。行樞、薛世良請以智及兄右屯衛將軍許公化及為主,結約既定,乃告化及。化及性駑怯,聞之,變色流汗,既而從之。 德戡使許弘仁、張愷入備身府,告所識者云:「陛下聞驍果欲叛,多醞毒酒,欲因享會,盡鴆殺之,獨與南人留此。」驍果皆懼,轉相告語,反謀益急。乙卯,德戡悉召驍果軍吏,諭以所為,皆曰:「唯將軍命!」是日,風霾晝昏。晡後,德戡盜御廄馬,潛厲兵刃。是夕,元禮、裴虔通直閣下,專主殿內;唐奉義主閉城門,與虔通相知,諸門皆不下鍵。至三更,德戡於東城集兵得數萬人,舉火與城外相應。帝望見火,且聞外喧囂,問何事。虔通對曰:「草坊失火,外人共救之耳。」時內外隔絕,帝以為然。智及與孟秉於城外集千餘人,劫候衛虎賁馮普樂佈兵分守衢巷。 |
現代日本語訳ある宮女が蕭皇后に告げた:「外面では皆、謀反を企てています」。后は言った「お前の好きに奏上せよ」。宮女が皇帝(煬帝)に報告すると、帝は激怒し、「口にするべきことではない」として彼女を斬首した。その後も別の宮女が皇后に同様の報告をしたところ、后は言った「天下の情勢がここまで乱れた以上、救いようがないのに何を今さら言う必要があろうか。ただ皇帝を苦しめるだけだ」。これ以来、誰も告げる者はいなくなった。 趙行樞と将作少監・宇文智及は平素から親密であり、楊士覧は智及の甥であった。二人が計画を智及に打ち明けると、智及は大いに喜んだ。徳戡らは3月15日に決起して西へ逃亡する予定だったが、智及は言った「主君たる皇帝は無道であっても威令はまだ有効だ。諸公の逃亡など竇賢(先に逃亡し処刑された将軍)と同じ末路を辿るだけである。今や天運は隋に見放され、英雄が続々と挙兵している。同心して叛く者すでに数万におよぶこの機に大事を行えば、帝王の業も成りせん」。徳戡らはこれに同意した。行枢・薛世良は智及の兄である右屯衛将軍・許公化及を首領とすることを提案し、盟約が定まってから初めて化及に伝えた。化及は生来愚鈍で臆病であり、計画を知ると顔色を変えて汗を流したものの、結局は従うことになった。 徳戡は許弘仁・張愷を使者として備身府(近衛兵詰所)へ遣わし、知り合いに触れ回らせた「陛下は驍果軍(精鋭親衛隊)が謀反を企てていると聞き、毒酒を大量に醸造させられた。宴会の機会を得次第、皆殺しにして江南出身者だけを残すおつもりだ」と。これを聞いた驍果兵たちは恐怖に駆られ、噂が広まるにつれ謀反の計画はいっそう急進化した。 乙卯(三月十日)、徳戡は驍果軍全将校を召集し決起の意図を伝えると、「将軍の命令のみ従います!」と一斉に応じた。この日は砂塵で日中も暗かった。昼過ぎ、徳戡が御厩から密かに馬を盗み出し、武器を研いだ。 その夜、元礼・裴虔通は宮門の宿直室に陣取り殿内を掌握した。唐奉義は城門管理を担当し、虔通と連携して全ての門にかぎをかけなかった。三更(深夜0時頃)になると、徳戡が東城で数万の兵を集結させ城外へ合図の烽火を上げた。帝が炎を見て騒ぎ声も聞こえたため「何事か」と問うと虔通は答えた「飼料倉庫での出火です。外の人々が消しに駆けつけております」。当時、宮中内外の連絡途絶しており帝はこれを信じた。 智及と孟秉は城外で千余人を集め、待衛府武官・馮普楽を脅迫して兵士を街道ごとに配置させた。 解説
※本訳文では原典漢文の四字句・典故を自然な現代日本語に変換しつつ、司馬光が描く緊迫した政変劇のリズム維持を重視した。 Translation took 911.2 seconds. |
| 燕王倓覺有變,夜,穿芳林門側水竇而入,至玄武門,詭奏曰:「臣猝中風,命懸俄頃,請得面辭。」裴虔通等不以聞,執囚之。丙辰,天未明,德戡授虔通兵,以代諸門衛士。虔通自門將數百騎至成象殿,宿衛者傳呼有賊;虔通乃還,閉諸門,獨開東門,驅殿內宿衛者令出,皆投仗而走。右屯衛將軍獨孤盛謂虔通曰:「何物兵,形勢太異!」虔通曰:「事勢已然,不預將軍事;將軍慎毋動!」盛大罵曰:「老賊,是何物語!」不及被甲,與左右十餘人拒戰,為亂兵所殺。盛,楷之弟也。千牛獨孤開遠帥殿內兵數百人詣玄武門,叩閣請曰:「兵仗尚全,猶堪破賊。陛下若出臨戰,人情自定;不然,禍今至矣!」竟無應者,軍士稍散。賊執開遠,義而釋之。先是,帝選驍健官奴數百人置玄武門,謂之給使,以備非常,待遇優厚,至以宮人賜之。司宮魏氏為帝所信,化及等結之使為內應。是日,魏氏矯詔悉聽給使出外,倉猝之際,無一人在者。 德戡等引兵自玄武門入,帝聞亂,易服逃西閣。虔通與元禮進兵排左閣,魏氏啟之,遂入永巷,問:「陛下安在?」有美人出,指之。校尉令狐行達拔刀直進,帝映窗扉謂行達曰:「汝欲殺我邪?」對曰:「臣不敢,但欲奉陛下西還耳。」因扶帝下閣。虔通,本帝為晉王時親信左右也,帝見之,謂曰:「卿非我敵人乎!何恨而反?」對曰:「臣不敢反,但將士思歸,欲奉陛下還京師耳。 |
現代日本語訳燕王楊倓は異変を察知し、夜中に芳林門わきの水路から宮殿内へ侵入。玄武門まで到達すると偽りの報告を行った:「私は突然中風になり命が危ういので直接お別れしたい」。しかし裴虔通らはこの訴えを皇帝に伝えず楊倓を拘束した。 三日目の未明、司馬徳戡が兵士を裴虔通に渡し宮門守備隊と交代させた。裴虔通は数百騎を率いて成象殿へ向かう途中、「賊軍だ!」という守衛の叫び声で一旦撤退。全ての門を閉じた後、東門だけ開けて殿内守衛兵を退出させると彼らは武器を捨てて逃走した。右屯衛将軍・独孤盛が詰め寄った:「これは何の兵力だ?様子がおかしい!」裴虔通は「情勢は既に決着している。貴方には関わるな」と警告すると、独孤盛は甲冑もつけず十数人の部下で応戦したが殺害された(彼は独孤楷の弟である)。 千牛備身・独孤開遠は数百兵を率いて玄武門へ駆けつけ、「武器は揃っており賊軍を撃破できます!陛下ご自身が出陣されれば人心も落ち着きます。さもなければ災いが迫っています!」と宮殿の扉を叩き訴えた。しかし返答なく兵士は次々離散し、捕らえられた独孤開遠は義心を評価されて解放された。 事前に煬帝は精鋭官奴数百人を玄武門に配置し「給使」と呼んで厚遇したが(宮女を与えるほど)、彼らを取り仕切る側近宦官・魏氏が宇文化及一派の内応者となっていた。当日、魏氏が偽詔で給使全員を外出させたため緊急時に守備兵は皆無だった。 司馬徳戡らが玄武門から侵入すると煬帝は慌てて変装し西閣へ逃亡した。裴虔通と元礼が左閣の扉を破ると魏氏が内側から開け、永巷に突入して「陛下はどこか?」と詰め寄った。一人の妃嬪が指さすと校尉・令狐行達が剣で迫る。煬帝が窓辺で「朕を殺すのか」と問うと、「恐れながら京師へお連れするだけです」と言い閣から降ろした。 裴虔通は元々晋王時代の煬帝側近だった。皇帝が見つめ「そなたは我が友ではないか!なぜ謀反を?」と叫ぶと、「兵士たちが郷里に帰りたがっております」とだけ答えた。 解説
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| 」帝曰:「朕方欲歸,正為上江米船未至,今與汝歸耳!」虔通因勒兵守之。 至旦,孟秉以甲騎迎化及,化及戰慄不能言,人有來謁之者,但俯首據鞍稱罪過。化及至城門,德戡迎謁,引入朝堂,號為丞相。裴虔通謂帝曰:「百官悉在朝堂,陛下須親出慰勞。」進其從騎,逼帝乘之;帝嫌其鞍勒弊,更易新者,乃乘之。虔通執轡挾刀出宮門,賊徒喜噪動地。化及揚言曰:「何用持此物出,亟還與手。」帝問:「世基何在?」賊黨馬文舉曰:「已梟首矣!」於是引帝還至寢殿,虔通、德戡等拔白刃侍立。帝歎曰:「我何罪至此?」文舉曰:「陛下違棄宗廟,巡遊不息,外勤征討,內極奢淫,使丁壯盡於矢刃,女弱填於溝壑,四民喪業,盜賊蜂起;專任佞諛,飾非拒諫;何謂無罪!」帝曰:「我實負百姓;至於爾輩,榮祿兼極,何乃如是!今日之事,孰為首邪?」德戡曰:「溥天同怨,何止一人!」化及又使封德彝數帝罪,帝曰:「卿乃士人,何為亦爾!」德彝赧然而退。帝愛子趙王杲,年十二,在帝側,號慟不已,虔通斬之,血濺御服。賊欲弒帝,帝曰:「天子死自有法,何得加以鋒刃!取鴆酒來!」文舉等不許,使令狐行達頓帝令坐。帝自解練巾授行達,縊殺之。初,帝自知必及於難,常以罌貯毒藥自隨,謂所幸諸姬曰:「若賊至,汝曹當先飲之,然後我飲。 |
現代日本語訳皇帝(煬帝)が言った。「私はちょうど帰ろうとしていたところだ。上江から米を積んだ船が到着していないのが気掛かりだったのだ。さあ、お前たちと共に戻るとしよう。」これを聞いた裴虔通は兵士に命じて皇帝の身柄を監視させた。 夜明け頃、孟秉が武装した騎兵を率いて宇文化及を迎えに行った。化及は恐怖で震え上がり一言も発せず、挨拶に来た者に対してはうつむいたまま鞍に手をつき「申し訳ない」と繰り返すばかりであった。城門に到着すると司馬徳戡が迎えに出て、「丞相(大臣の最高位)」と呼びながら朝廷へ案内した。 裴虔通が皇帝に進言した。「百官は皆、朝廷にお集まりです。陛下には自ら出向かれ慰労の言葉を賜る必要があります。」そして控えの馬を差し出して乗るよう強要した。皇帝が鞍と手綱の古びた様子を嫌うと、彼らは新品に交換させてから乗せた。虔通が手綱を取り刀を構えて宮門を出ると、反乱兵たちが地響きのような歓声を上げた。 宇文化及が大声で叫んだ。「こんな者(皇帝)を連れ出す必要などない!すぐ始末してしまえ!」これに対し皇帝は「虞世基(側近大臣)は何処におる?」と問うと、反乱軍の馬文挙が答えた。「すでに斬首いたしました」。彼らは皇帝を寝殿へ連れ戻した。裴虔通や司馬徳戡らが抜き身の刀を持って傍らに立つ中、皇帝は嘆息して言った。「私は何という罪があるのか?」 馬文挙が詰め寄った。「陛下は宗廟をお見捨てになり、贅沢な巡遊を繰り返し続けられた。外では無謀な遠征で兵士を使い果たし、内政では奢侈に耽り弱き者を見殺しにされた。壮年の者は戦場の露と消え、女や子供は溝に捨てられるまま。全ての民が職を失い賊徒が蜂起する中、陛下はおべっか使いだけを用いて過ちをごまかされ諫言をお拒みになった。これで無罪と言えるのですか!」 皇帝は反論した。「確かに私は人民に負うところがある。しかしお前たちには栄誉と禄を限りなく与えたではないか!どうしてこの仕打ちができる?今日の首謀者は誰だ?」徳戡は即座に答えた。「天が下の者すべてが怨んでいるのです、一人や二人などではありません!」 宇文化及は封徳彝(高級官僚)を呼び皇帝への罪状宣告させた。これを聞いた皇帝は言った。「卿こそ教養ある士大夫ではないか!なぜ彼らに加担するのか!」この言葉に徳彝は恥じ入って退がった。 その時、最愛の皇子である趙王・楊杲(12歳)が帝の傍で泣き叫び続けていた。裴虔通がこれを斬りつけると血しぶきが皇帝の衣に飛び散った。賊徒が刃を向けた瞬間、皇帝は言い放った。「天子には天子なりの死に方がある。刃物を用いるとは何事か!毒酒を持って参れ!」文挙らはこれを拒否し、令狐行達に命じて無理やり座らせた。帝は自ら白絹の帯を外して彼に渡すと、これによって縊殺された。 かつて煬帝が自身の最期を悟った際、常に毒薬入りの瓶を持ち歩いていたことを付け加える。寵姫たちに向かってこう言っていたものだ。「賊軍が攻め込んだらお前たちは先にこれを飲み干せ。その後で私も続くのだ」と。 解説
この場面が示すのは単なる暴君の末路ではなく、民衆を見捨てた権力構造全体への告発であり、歴史書編者・司馬光による「統治者の責任」を問うメッセージと解釈できる。 Translation took 1030.8 seconds. |
| 」及亂,顧索藥,左右皆逃散,竟不能得。蕭后與宮人撤漆床板為小棺,與趙王杲同殯於西院流珠堂。 帝每巡幸,常以蜀王秀自隨,囚於驍果營。化及弒帝,欲奉秀立之,眾議不可,乃殺秀及其七男。又殺齊王暕及其二子並燕王倓,隋氏宗室、外戚,無少長皆死。唯秦王浩素與智及往來,且以計全之。齊王暕素失愛於帝,恆相猜忌。帝聞亂,顧蕭后曰:「得非阿孩邪?」化及使人就第誅暕,暕謂帝使收之,曰:「詔使且緩兒,兒不負國家!」賊曳至街中,斬之,暕竟不知殺者為誰,父子至死不相明。又殺內史待郎虞世基、御史大夫裴蘊、左翊衛大將軍來護兒、秘書監袁充、右翊衛將軍宇文協、千牛宇文皛、梁公蕭鉅等及其子。鉅,琮之弟子也。 難將作,江陽長張惠紹馳告裴蘊,與惠紹謀矯詔發郭下兵收化及等,扣門援帝。議定,遣報虞世基;世基疑告反者不實,抑而不許。須臾,難作,蘊歎曰:「謀及播郎,竟誤人事!」虞世基宗人人及謂世基子符璽郎熙曰:「事勢已然,吾將濟卿南渡,同死何益?」熙曰:「棄父背君,求生何地?感尊之懷,自此決矣!」世基弟世南抱世基號泣,請以身代,化及不許。黃門侍郎裴矩知必將有亂,雖廝役皆厚遇之,又建策為驍果娶婦;及亂作,賊皆曰:「非裴黃門之罪。」既而化及至,矩迎拜馬首,故得免。 |
現代日本語訳: 混乱が起きると、帝は薬を求めたが、側近たちは逃げ散ってしまい、結局手に入れることができなかった。蕭后と宮女たちは漆塗りの寝台の板を取り外して小さな棺を作り、趙王杲(ちょうおうこう)と同じ西院の流珠堂に仮埋葬した。 帝が巡幸するたびに蜀王秀(しょくおうしゅう)を伴っていたので、(化及らは)驍果営(ぎょうかえい)に囚禁していた。宇文化及(うぶんかきゅう)が帝を弑逆した後、秀を奉じて擁立しようとしたが、人々の議論で不可能となり、結局秀とその七人の息子を殺害した。さらに斉王暕(せいおうかい)と二人の息子、燕王倓(えんおうたん)、ならびに隋王朝の宗室や外戚は幼い者も大人も皆殺しにされた。ただ秦王浩(しんおうこう)だけは普段から智及(ちきゅう)と交流があり、かつ策略によって命を全うした。 斉王暕はかねてより帝の寵愛を失っており、常にお互いに猜疑心を持っていた。帝が反乱を知った時、蕭后に振り返り言った。「もしかすると阿孩(あがい=楊暕の乳名)ではないのか?」化及が使者を遣わして邸宅で暕を誅殺しようとしたところ、暕は帝の使者が自分を捕らえに来たと思い、「詔使よどうか猶予を! 私は国家に対して背いたことはない!」と言った。賊兵は彼を路上へ引きずり出して斬首し、楊暕はついに殺した者が誰かを知ることもなく、父子ともども死ぬまで真相が明らかにならなかった。 さらに内史侍郎虞世基(ぐせいき)、御史大夫裴蘊(はいうん)、左翊衛大将軍来護児(らいごじ)、秘書監袁充(えんじゅう)、右翊衛将軍宇文協(うぶんきょう)、千牛備身の宇文皛(うぶんこう)、梁公蕭鉅(しょうきょ)らとその息子たちを殺害した。蕭鉅は蕭琮(しょうそう)の甥である。 乱が起ころうとする時、江陽長張惠紹(ちょうけいしょう)が駆けつけて裴蘊に報告し、共謀して偽詔を作り都下の兵を動かし化及らを捕縛しようとし、宮門を叩いて帝を救出する計画を立てた。協議が決まると虞世基に報告したところ、世基は反乱の報告が事実ではないかもしれないと考え、押さえつけて許可しなかった。ほどなくして叛乱発生となり、裴蘊は嘆息して言った。「播郎(ばろう=世基を指す)と謀議したのに、結局人々に誤りをもたらした!」虞世基の同族である虞伋が世基の子・符璽郎熙(ふじろうき)に向かって「情勢は既にこうなった。お前を連れて南へ渡る手助けをしよう、共に死ぬことに何の益がある?」と言うと、熙は答えた。「父を見捨て君主に背いて生き延びたところで行く場所などあるでしょうか?ご厚意には感謝しますが、覚悟は決まりました」。世基の弟・虞世南(ぐせいなん)が兄を抱きしめて号泣しながら身代わりになることを請うたが、化及は許さなかった。 黄門侍郎裴矩(はいく)は必ず乱が起こると予見しており、下僕に至るまで手厚く待遇していた。さらに献策して驍果のために妻を娶らせていたため、叛乱発生時に賊兵たち皆「これは裴黄門の罪ではない」と言った。やがて化及が到着すると、裴矩は馬前に迎え出て跪拝したので難を免れた。 解説: 1. 歴史的用語の現代化:「弑逆(しいぎゃく)→殺害」「詔使(しょうし)→皇帝の使者」など古語表現を平易な日本語に置換 2. 固有名詞の統一:楊暕(ようかい)は「斉王」と表記して初出時にルビなしで提示。複数登場人物については呼称を固定化 3. 心理描写の補強:「猜疑心を持っていた」「嘆息して言った」など原文の含蓄的表現を明確に解釈 4. 文法調整:漢文調の倒置法・省略構文を現代語順に整え(例「囚於驍果營→驍果営に囚禁していた」)、助詞を補完して流麗な口語体に変換 5. 文化背景注釈:「漆床板為小棺」「符璽郎」などの文物・官職名は説明なしで文脈から理解可能な訳文を優先 6. 倫理観の再現:当時の君臣関係や孝思想(虞熙の発言)を現代語で自然に表現するため「国家に対して背く」「父を見捨てる」などの価値観提示を明確化 この翻訳は『資治通鑑』の記述様式を尊重しつつ、現代日本語読者が隋末動乱期の緊迫した政治情勢と人間関係を直感的に把握できるよう、史的状況の再構成を試みた。特に政変における情報伝達の遅延(張恵紹→裴蘊→虞世基)や身分階層別対応(武人集団への懐柔策が功を奏した裴矩の事例)など、組織力学の描写に重点を置いた表現となっている。 Translation took 952.1 seconds. |
| 化及以蘇威不預朝政,亦免之。威名位素重,往參化及;化及集眾而見之,曲加殊禮。百官悉詣朝堂賀,給事郎許善心獨不至。許弘仁馳告之曰:「天子已崩,宇文將軍攝政,闔朝文武咸集。天道人事自有代終,何預於叔而低回若此?」善心怒,不肯行。弘仁反走上馬,泣而去。化及遣人就家擒至朝堂,既而釋之。善心不舞蹈而出,化及怒曰:「此人大負氣!」覆命擒還,殺之。其母範氏,年九十二,撫柩不哭,曰:「能死國難,吾有子矣!」因臥不食,十餘日而卒。唐王之入關也,張季珣之弟仲琰為上洛令,帥吏民拒守,部下殺之以降。宇文化及之亂,仲琰弟琮為千牛左右,化及殺之,兄弟三人皆死國難,時人愧之。 化及自稱大丞相,總百揆。以皇后令立秦王浩為帝,居別宮,令發詔畫敕書而已,仍以兵監守之。化及以弟智及為左僕射,士及為內史令,裴矩為右僕射。 乙卯,徙秦公世民為趙公。 戊辰,隋恭帝詔以十郡益唐國,仍以唐王為相國,總百揆,唐國置丞相以下官,又加九錫。王謂僚屬曰:「此諂諛者所為耳。孤秉大政而自加寵錫,可乎?必若循魏、晉之跡,彼皆繁文偽飾,欺天罔人;考其實不及五霸,而求名欲過三王,此孤常所非笑,竊亦恥之。」或曰:「歷代所行,亦何可廢!」王曰:「堯、舜、湯、武,各因其時,取與異道,皆推其至誠以應天順人,未聞夏、商之末必效唐、虞之禪也。 |
現代日本語訳化及(かきゅう)は蘇威(そい)が朝政に参与していないことを理由に彼を罷免した。しかし蘇威の名声と地位は元々重かったため、自ら進んで化及のもとに赴いた。化及は群臣を集めてこれに対面し、わざわざ格別な礼遇を示した。百官がこぞって朝廷に出向いて祝賀する中で、給事郎(きゅうじろう)の許善心(きょぜんしん)だけが参列しなかった。許弘仁(きょこうじん)は馬を走らせてこれを知らせ、「天子(煬帝)はすでに崩御され、宇文将軍(化及)が摂政となられた。朝廷の文武百官すべてが集まっているのに、なぜ叔父様だけがためらい迷っておられるのか」と言ったが、善心は怒り、行こうとしなかった。弘仁は馬に飛び乗って涙ながらに去っていった。 化及は使者を派遣して善心の家から朝廷へ連行させたものの、すぐに釈放した。しかし善心は跪拝(きはい)もせず退出したため、化及は激怒し「この男はひどく傲慢だ」と言い、再び捕らえて斬刑に処した。その母である範氏(92歳)は棺を撫でながら泣かず、「国難のために死ぬことができて、わが子は本望だった」と語り、その後寝込んで食事も取らず、十数日後に亡くなった。 唐王(李淵)が関中に入るとき、張季珣(ちょうけいしゅん)の弟である仲琰(ちゅうえん)が上洛県令として役人と民衆を率いて抵抗したが、部下に殺されて降伏した。宇文化及の乱では、彼の末弟・琮(そう)が千牛左右(禁衛武官)だったため化及に殺害され、兄弟三人すべて国難のために死んだのである。 一方で化及は自ら大丞相と称して全権を掌握し、皇后の命令として秦王浩(こう)を皇帝に擁立した。しかし実際には別宮に隔離し、詔書発布のみを名目上の役割とし、兵士による監視下に置いた。化及は弟・智及(ちきゅう)を左僕射、士及(しかつ)を内史令、裴矩(はいく)を右僕射とした。 乙卯の日には秦公世民が趙公へ移封され、戊辰の日に隋恭帝から十郡が唐国に加増される詔勅が出された。同時に唐王は相国・総百揆となり、九錫(くせき)を加えられた。しかし李淵は側近たちに向かってこう言った。「これは追従者のやることだ。私が政務を執りながら自ら恩寵を受けられるのか? もし魏晋の例に倣えば、彼らの儀式は複雑で偽装まみれであり、天を欺き人を惑わすものだった。実態は春秋五覇にも及ばないのに名声だけ三王(夏・殷・周)を超えようとする──私は常々これを嘲笑し恥じている」。側近が「歴代の先例も無視できません」と言うと、李淵は答えた。「堯舜や湯武はそれぞれ時代に応じて異なる道を取りながらも、至誠をもって天意を体し人心を得た。夏殷末期が唐虞(尭舜)禅譲の形骸だけ真似した話など聞いたことがない」。 解説
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| 若使少帝有知,必不肯為;若其無知,孤自尊而飾讓,平生素心所不為也。」但改丞相為相國府,其九錫殊禮,皆歸之有司。 宇文化及以左武衛將軍陳稜為江都太守,綜領留事。壬申,令內外戒嚴,雲欲還長安。皇后六宮皆依舊式為御宮,營前別立帳,化及視事其中,仗衛部伍,皆擬乘輿。奪江都人舟楫,取彭城水路西歸。以折衝郎將沈光驍勇,使將給使營於禁內。行至顯福宮,虎賁郎將麥孟才、虎牙郎錢傑與光謀曰:「吾儕受先帝厚恩,今俯首事仇,受其驅帥,何面目視息世間哉!吾必欲殺之,死無所恨!」光泣曰:「是所望於將軍也!」孟才乃糾合恩舊,帥所將數千人,期以晨起將發時襲化及。語洩,化及夜與腹心走出營外,留人告司馬德戡等,使討之。光聞營內喧,知事覺,即襲化及營,空無所獲,值內史侍郎元敏,數而斬之。德戡引兵入圍之,殺光,其麾下數百人皆斗死,一無降者,孟才亦死。孟才,鐵杖之子也。 武康沈法興,世為郡著姓,宗族數千家。法興為吳興太守,聞宇文化及弒逆,舉兵,以討化及為名。比至烏程,得精卒六萬,遂攻餘杭、毘陵、丹楊,皆下之,據江表十郡。自稱江南道大總管,承製置百官。 東國公竇抗,唐王之妃兄也。煬帝使行長城於靈武;聞唐王定關中,癸酉,帥靈武、鹽川等數郡來降。 夏,四月,稽胡寇富平,將軍王師仁擊破之。 |
現代日本語訳もし少帝に知性があれば、必ず承諾しないだろう。仮に無知であるならば、私が独断で尊号を称し禅譲の体裁を整えるなど、平生からの信念として行わないことだ。」ただ丞相の職名を相国府と改め、九錫などの特別な礼遇は全て担当官庁へ返上した。 宇文化及は左武衛将軍陳稜を江都太守に任じ、留守業務を統括させた。壬申(6日)、内外に戒厳令を発し長安帰還を示唆すると、皇后以下後宮の制度は従来通り「御宮」と称され、陣営前には別途天幕が設けられ化及がそこで政務を見た。儀仗兵や護衛隊の編成は全て皇帝に準じていた。江都住民の船舶を徴発し彭城経由で水路西進を図る中、折衝郎将沈光の勇猛さを評価して禁中警備部隊を指揮させた。 顕福宮に至った時、虎賁郎将麦孟才と虎牙郎銭傑が沈光に対し謀議した:「我らは先帝より厚恩を受けた身で今や仇敵に頭を垂れ駆使されるとは!この世に面目なく存命できぬ。必ず化及を殺害し、死しても恨みなし!」と。沈光は涙して「将軍のその言葉こそ待ち望んでいた」と応じた。孟才は旧恩ある者らを糾合し数千兵を率い、出発予定の早朝に化及を襲撃する計画を立てるが情報が漏洩。化及は夜陰に乗じて側近と脱出し、残った配下に司馬徳戡へ討伐を命じさせた。 騒ぎ声で察知した沈光は直ちに化及本営を襲うも空振りに終わり、内史侍郎元敏と遭遇して罪状を数え斬殺。徳戡が兵を率い包囲すると、沈光以下数百名は一人も降伏せず戦死し孟才も斃れた。孟才は麦鉄杖(隋の功臣)の子である。 武康出身の沈法興は郡内有数の名族で宗家数千戸を擁した。呉興太守として化及の弑逆を聞き、討伐を名目に挙兵。烏程へ進軍する間に精鋭六万を得て余杭・毘陵・丹陽を陥落させ江南十郡を制圧。「江南道大総管」を自称し皇帝権限で百官を任命した。 東国公竇抗は唐王(李淵)の妃の兄である。煬帝に霊武での長城巡視を命じられていたが、唐王の関中平定を知り癸酉(7日)、霊武・塩川など数郡を率いて帰順した。 同年夏四月、稽胡族が富平を侵すも将軍王師仁に撃退された。 解説
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| 又五萬餘人寇宜春,相國府咨議參軍竇軌將兵討之,戰於黃欽山。稽胡乘高縱火,官軍小卻;軌斬其部將十四人,拔隊中小校代之,勒兵復戰。軌自將數百騎居軍後,令之曰:「聞鼓聲有不進者,自後斬之!」既而鼓之,將士爭先赴敵,稽胡射之不能止;遂大破之,虜男女二萬口。 世子建成等至東都,軍於芒華苑;東都閉門不出,遣人招諭,不應。李密出軍爭之,小戰,各引去。城中多欲為內應者,趙公世民曰:「吾新定關中,根本未固,懸軍遠來,雖得東都,不能守也。」遂不受。戊寅,引軍還。世民曰:「城中見吾退,必來追躡。」乃設三伏於三王陵以待之;段達果將萬餘人追之,遇伏而敗。世民逐北,抵其城下,斬四千餘級。遂置新安、宜陽二郡,使行軍總管史萬寶、盛彥師將兵鎮宜陽,呂紹宗、任瑰將兵鎮新安而還。 初,五原通守櫟陽張長遜以中原大亂,舉郡附突厥,突厥以為割利特勒。郝瑗說薛舉,與梁師都及突厥連兵以取長安,舉從之。時啟民可汗之子咄苾,號莫賀咄設,建牙直五原之北,舉遣使與莫賀咄設謀入寇,莫賀咄設許之。唐王使都水監宇文歆賂莫賀咄設,且為陳利害,止其出兵,又說莫賀咄設遣張長遜入朝,以五原之地歸之中國,莫賀咄設並從之。已卯,武都、宕渠、五原等郡皆降,王即以長遜為五原太守。長遜又詐為詔書與莫賀咄設,示知其謀。 |
現代日本語訳:さらに五万余りの敵兵が宜春に侵攻したため、相国府諮議参軍の竇軌(とうき)は軍勢を率いて討伐し、黄欽山で交戦した。稽胡(けいこ)族が高地から火攻めを行ったため官軍は一時後退するが、竇軌は自軍の部将14名を処刑して下級士官を代わりに抜擢。部隊を再編成すると数百騎を率いて最後尾で指揮し、「進撃の太鼓後に前進しない者は背後から斬る」と厳命した。いざ開戦となると将士は我先にと突撃し、稽胡族の矢攻めも止められず大勝。男女2万人を捕虜とした。 皇太子李建成(りけんせい)らが東都洛陽に到着して芒華苑に駐屯すると、城門は固く閉ざされ招諭にも応じなかった。李密(りみつ)が出撃したため小競り合いとなるも双方撤退。城内では内通者が多数現れたが、趙公李世民(りせいみん)は「関中平定直後で基盤未固の我軍が遠征で東都を奪取しても守れぬ」と看破し戊寅日に撤兵した。世民は追撃を予見して三王陵に三重の伏兵を配置すると、案の定段達(だんたつ)率いる万余りの追撃部隊が壊滅。敗走する敵を城門まで追い討ち四千余級を斬首し、新安・宜陽二郡を設置して行軍総管史万宝(しばんぽう)と盛彦師(せいげんし)に宜陽防衛を、呂紹宗(りょしょうそう)と任瓌(じんかい)に新安警備を命じて帰還した。 当初、五原通守の張長遜(ちょうちょうそん)は中原大乱に乗じて突厥(とっけつ)へ帰順し「割利特勒(かりてき)」の称号を得ていた。郝瑗(かくえん)が薛挙(せつきょ)を唆して梁師都(りょうしと)及び突厥との連合で長安攻略を画策させると、啓民可汗(けいみんかがん)の子である莫賀咄設(ばくがとっせつ/咄苾〈とつひつ〉)は薛挙の使者に呼応して侵攻計画を承認。これに対し唐王李淵は都水監宇文歆(うぶんきん)を使者として派遣し、莫賀咄設へ賄賂と利害分析を示した上で出兵中止を約束させると共に張長遜の帰朝工作に成功。己卯日には武都・宕渠・五原等が降伏したため唐王は即座に長遜を五原太守に任命し、彼に偽詔を作成させて莫賀咄設へ「計画露見」を知らせた。 解説:
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| 莫賀咄設乃拒舉、師都等,不納其使。 戊戌,世子建成等還長安。 東都號令不出四門,人無固志,朝議郎段世弘等謀應西師。會西師已還,乃遣人招李密,期以己亥夜納之。事覺,越王命王世充討誅之。密聞城中已定,乃還。 宇文化及擁眾十餘萬,據有六宮,自奉養一如煬帝。每於帳中南面坐,人有白事者,嘿然不對;下牙,方取啟狀與唐奉義、牛方裕、薛世良、張愷等參決之。以少主浩付尚書省,令衛士十餘人守之,遣令史取其畫敕,百官不復朝參。至彭城,水路不通,復奪民車牛得二千兩,並載宮人珍寶;其戈甲戎器,悉令軍士負之,道遠疲劇,軍士始怨。司馬德戡竊謂趙行樞曰:「君大謬,誤我!當今撥亂,必藉英賢;化及庸暗,群小在側,事將必敗,若之何?」行樞曰:「在我等耳,廢之何難!」初,化及既得政,賜司馬德戡爵溫國公,加光祿大夫;以其專統驍果,心忌之。後數日,化及署諸將分配士卒,以德戡為禮部尚書,外示美遷,實奪其兵柄。德戡由是憤怨,所獲賞賜,皆以賂智及;智及為之言,乃使之將後軍萬餘人以從。於是德戡、行樞與諸將李本、尹正卿、宇文導師等謀以後軍襲殺化及,更立德戡為主;遣人詣孟海公,結為外助;遷延未發,待海公報。許弘仁、張愷知之,以告化及。化及遣宇文士及陽為遊獵,至後軍,德戡不知事露,出營迎謁,因執之。 |
現代日本語訳莫賀咄設(バガトゥル・シャド)は、梁師都らの使者を拒絶し受け入れなかった。 戊戌の日、世子李建成らは長安に帰還した。 東都洛陽では朝廷の命令が城門を出ず、人々に固い志がなく、朝議郎段世弘らは西軍(李世民軍)に呼応しようと謀った。しかし西軍がすでに撤退したため、李密を招き寄せ己亥の夜に城内へ迎え入れようとした。計画が発覚すると、越王楊侗は王世充に討伐を命じ誅殺させた。李密は洛陽の情勢が安定したと聞き、撤退した。 宇文化及は十数万の兵を擁し、後宮を占拠して煬帝同様の奢侈生活を送った。常に陣中で南面(帝王の座)につき、報告する者がいても黙って答えず、退出後に初めて唐奉義・牛方裕・薛世良・張愷らと文書を審議した。幼帝楊浩を尚書省に預け十数人の衛兵で監視させ、令史に詔勅の代筆を命じたため百官は朝参しなくなった。 彭城では水路が不通となり、民衆から車両と牛2,000頭を徴発して宮女や珍宝を運搬。武器甲冑は兵士に担わせたため行軍が疲弊し、不満が噴出した。司馬徳戡は趙行枢に密談で「君の誤った判断で我々は窮地に立った!天下平定には英傑が必要だが、化及は凡庸で小人ばかり側におり必ず失敗する」と述べると、行枢は「彼を廃すれば良いだけだ」と応じた。 当初、宇文化及は政権掌握後、司馬徳戡に温国公の爵位と光禄大夫の官職を与えたが、精鋭部隊を統率する彼を警戒していた。数日後、諸将への兵士配分で徳戡を礼部尚書に「栄転」させ実質的に軍権を剥奪。これに憤った徳戡は贈収賄で智及(化及の弟)を取り込み、後方部隊1万余りの指揮権を得た。 そこで徳戡・行枢らは李本・尹正卿・宇文導師と謀り、後軍で宇文化及を襲撃し徳戡を新主に擁立しようとした。孟海公との同盟工作も進めたが決断が遅れている間に、許弘仁・張愷の密告で計画が露見。化及は宇文士及に偽装狩猟させ後軍へ赴かせ、警戒していなかった徳戡を出迎えの場で捕縛した。 注釈
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| 化及讓之曰:「與公戮力共定海內,出於萬死。今始事成,方願共守富貴,公又何反也?」德戡曰:「本殺昏主,苦其淫虐;推立足下,而又甚之;逼於物情,不獲已也。」化及縊殺之,並殺其支黨十餘人。孟海公畏化及之強,帥眾具牛酒迎之。李密據鞏洛以拒化及,化及不得西,引兵向東郡,東郡通守王軌以城降之。 辛丑,李密將井陘王君廓帥眾來降。君廓本群盜,有眾數千人,與賊帥韋寶、鄧豹合軍虞鄉,唐王與李密俱遣使招之。寶、豹欲從唐王,君廓偽與之同,乘其無備,襲擊,破之,奪其輜重,奔李密;密不禮之,復來降,拜上柱國,假河內太守。 蕭銑即皇帝位,置百官,准梁室故事。謚其從父琮為孝靖皇帝,祖巖為河間忠烈王,父璿為文憲王,封董景珍等功臣七人皆為王。遣宋王楊道生擊南郡,下之,徒都江陵,修復園廟。引岑文本為中書侍郎,使典文翰,委以機密。又使魯王張繡徇嶺南,隋將張鎮周、王仁壽等拒之;既而聞煬帝遇弒,皆降於銑。欽州刺史寧長真亦以鬱林、始安之地附於銑。漢陽太守馮盎以蒼梧、高涼、珠崖、番禺之地附於林士弘。銑、士弘各遣人招交趾太守丘和,和不從。銑遣寧長真帥嶺南兵自海道攻和,和欲出迎之,司法書佐高士廉說和曰:「長真兵數雖多,懸軍遠至,不能持久,城中勝兵足以當之,奈何望風受制於人!」和從之,以士廉為軍司馬,將水陸諸軍逆擊,破之,長真僅以身免,盡俘其眾。 |
現代日本語訳:化及は彼を責めて言った。「私は君と力を合わせて天下平定に尽くし、幾度も死線を越えてきた。今ようやく事が成りったのに、共に富貴を守ろうという時に、なぜ裏切るのか?」徳戡は答えた。「本来は暴君を殺したのは、その淫虐にあえぐ民衆のためだ。しかしあなたを推戴してみれば、前よりさらに甚だしい悪政を行い、人心が離反している以上、やむを得ず決起したのだ」。化及は彼を絞殺し、配下十数名も皆殺しにした。 孟海公は化及の勢力を恐れ、牛と酒を携えて軍勢を率いて出迎えた。一方で李密は鞏洛を拠点に抵抗したため、化及は西進できず東郡へ転進すると、太守の王軌が城ごと降伏した。 辛丑(唐武徳元年六月)、李密配下の井陘出身者・王君廓が軍勢を率いて投降してきた。彼は元々盗賊団の頭目で数千兵を擁し、韋宝や鄧豹ら反乱勢力と虞郷で合流していた。唐王(李淵)も李密も使者を送って懐柔しようとした時、君廓は偽って韋宝らに同調するふりをして不意打ちをかけ、物資を奪い李密の下へ奔ったが冷遇されたため、改めて大唐に降伏。上柱国(最高位武官)兼河内太守代理に任じられた。 蕭銑は皇帝即位後、梁朝の制度にならい百官を整備した。叔父・琮には孝靖皇帝、祖父・巖には河間忠烈王、父・璿には文憲王と追号し、董景珍ら功臣七名も諸侯に封じた。宋王楊道生を南郡攻略に向かわせると占領できたため江陵へ遷都し、宗廟を再建した。岑文本は中書侍郎(秘書長官)として文書と機密を任され、魯王張繡には嶺南平定を命じる。隋将の張鎮周らは当初抵抗したが煬帝弑逆を知ると降伏し、欽州刺史・寧長真も鬱林・始安地域ごと帰順した。 一方で漢陽太守・馮盎は蒼梧など四郡を割拠する林士弘に帰属。蕭銑と林士弘が交趾太守・丘和への勧誘を試みるが拒否されると、寧長真率いる嶺南軍が海路から侵攻した。これに対し司法書佐(裁判補佐官)高士廉は「敵兵は遠征で疲弊している」と迎撃を進言。丘和の命を受けた彼は水陸両軍を指揮して完勝し、長真は単騎で逃れ全軍が捕虜となった。 解説:
(注:ルビ表記は厳禁条件のため省略し、固有名詞には適宜肩書き補足) Translation took 752.0 seconds. |
| 既而有驍果自江都至,得煬帝凶問,亦以郡附於銑。士廉,勱之子也。 始安郡丞李襲志,遷哲之孫也,隋末,散家財,募士得三千人,以保郡城;蕭銑、林士弘、曹武徹迭來攻之,皆不克。聞煬帝遇弒,帥吏民臨三日。或說襲志曰:「公中州貴族,久臨鄙郡,華、夷悅服。今隋室無主,海內鼎沸,以公威惠,號令嶺表,尉佗之業可坐致也。」襲志怒曰:「吾世繼忠貞,今江都雖覆,宗社尚存,尉佗狂僭,何足慕也!」欲斬說者,眾乃不敢言。堅守二年,外無聲援,城陷,為銑所虜,銑以為工部尚書,檢校桂州總管。於是東自九江,西抵三峽,南盡交趾,北距漢川,銑皆有之,勝兵四十餘萬。 煬帝凶問至長安,唐王哭之慟,曰:「吾北面事人,失道不能救,敢忘哀乎!」 五月,山南撫慰使馬元規擊朱粲於冠軍,破之。 王德仁既殺房彥澡,李密遣徐世勣討之。德仁兵敗,甲寅,與武安通守袁子幹皆來降,詔以德仁為鄴郡太守。 戊午,隋恭帝禪位於唐,遜居代邸。甲子,唐王即皇帝位於太極殿,遣刑部尚書蕭造告天於南郊,大赦,改元。罷郡,置州,以太守為剌史。推五運為土德,色尚黃。 隋煬帝凶問至東都,戊辰,留守官奉越王即皇帝位,大赦,改元皇泰。是日於朝堂宣旨,以時鐘金革,公私皆即日大祥。追謚大行曰明皇帝,廟號世祖;追尊元德太子曰成皇帝,廟號世宗。 |
現代日本語訳:ほどなく江都から勇猛な兵士が到着し、煬帝崩御の報せを得ると自らも郡ごと蕭銑に帰順した。この人物こそ房玄齢(士廉)であり、彼は勱(ぼうえんけん)の子である。 始安郡丞・李襲志は遷哲(りしょうてつ)の孫にあたる。隋末混乱期において私財を投じて兵三千人を募り、郡城を守備した。蕭銑や林士弘、曹武徹らが繰り返し攻撃するも陥落させられなかった。煬帝弑逆の報を受け官吏と民衆を率いて三日間喪に服すと、ある者が進言した。「貴公は中原名門でありながら長年この僻地を治め、漢人も異民族も心服しております。今や隋室に君主なく天下騒乱。貴公の威徳で嶺南(広東・广西)を号令されれば尉佗(前漢期の南越王)のような大業が成せましょう」と。これに対し襲志は激怒して「我が家代々忠義を貫いてきた!江都こそ陥ちたれど宗廟社稷なお存続す。僭称者・尉佗ごとき真似などできようか!」と言い放ち進言者の斬首を図ったため、以後誰も口にしなくなった。 二年間堅守するが援軍なく城陥落。蕭銑の捕虜となるものの工部尚書兼桂州総管代理に任命された。こうして蕭銑は東は九江(江西省)から西は三峡、南は交趾(ベトナム北部)、北は漢川(湖北省)までを制圧し精兵四十万余を擁する大勢力となった。 煬帝崩御の報が長安に届くと唐王李淵は慟哭して言う。「臣下として君に仕えながら過ちを救えなかった。この哀しみ忘れられようか!」 五月、山南撫慰使・馬元規が冠軍で朱粲軍を撃破した。 一方王徳仁が房彦藻(李密配下)殺害事件を起こすと、李密は徐世勣に討伐を命じた。甲寅の日戦いに敗れた徳仁は武安通守・袁子幹と共に降伏し詔により鄴郡太守となった。 戊午の日隋恭帝が正式に唐へ禅譲し居宅に退いた後、甲子日に李淵は太極殿で皇帝即位。刑部尚書蕭造を南郊祭祀に派遣して天に報告すると共に大赦令発布・元号武徳制定を行った。行政制度では郡制廃止と州制施行に伴い太守職名を刺史へ改称、五行思想においては土徳(唐朝正統性の象徴)採用し黄色を尊崇色とした。 煬帝凶報が洛陽に届いた戊辰の日、留守官らは越王楊侗を擁立して皇帝即位させた。大赦令発布と皇泰改元を宣言すると共に戦時下という特例から公私ともに即日「大祥」(喪服期間終了儀式)を行い、先帝(煬帝)へ明皇帝の諡号・世祖廟号を追贈、元徳太子には成皇帝・世宗廟号を奉った。 解説:
※本訳では『資治通鑑』原文の文体特性(簡潔な編年体)を現代日本語へ変換する際、主語補完や地名注記等を行いつつも史実厳正性を保持した。固有名詞は原則原漢字表記とし、当時の官職名・制度用語については最小限の説明的訳語を採用。 Translation took 2010.3 seconds. |
| 尊母劉良娣為皇太后。以段達為納言、陳國公,王世充為納言、鄭國公,元文都為內史令、魯國公,皇甫無逸為兵部尚書、杞國公,又以盧楚為內史令,郭文懿為內史侍郎,趙長文為黃門侍郎,共掌朝政,時人號「七貴」。皇泰主眉目如畫,溫厚仁愛,風格儼然。 辛未,突厥始畢可汗遣骨咄祿特勒來,宴之於太極殿,奏九部樂。時中國人避亂者多入突厥,突厥強盛,東自契丹、室韋,西盡吐谷渾、高昌,諸國皆臣之,控弦百餘萬。帝以初起資其兵馬,前後餉遺,不可勝紀。突厥恃功驕倨,每遣使者至長安,多暴橫,帝優容之。 壬申,命裴寂、劉文靜等修定律令。置國子、太學、四門生,合三百餘員,郡縣學亦各置生員。 六月,甲戌朔,以趙公世民為尚書令,黃台公瑗為刑部侍郎,相國府長史裴寂為右僕射、知政事,司馬劉文靜為納言,司錄竇威為內史令,李綱為禮部尚書、參掌選事,掾殷開山為吏部侍郎,屬趙慈景為兵部侍郎,韋義節為禮部侍郎,主簿陳叔達、博陵崔民幹並為黃門侍郎,唐儉為內史侍郎,錄事參軍裴晞為尚書右丞;以隋民部尚書蕭瑀為內史令,禮部尚書竇璡為戶部尚書,蔣公屈突通為兵部尚書,長安令獨孤懷恩為工部尚書。瑗,上之從子;懷恩,舅子也。 上待裴寂特厚,群臣無與為比,賞賜服玩,不可勝紀;命尚書奉御日以御膳賜寂,視朝必引與同坐,入閣則延之臥內;言無不從,稱為裴監而不名。 |
現代日本語訳母である劉良娣を皇太后として尊んだ。段達を納言・陳国公に、王世充を納言・鄭国公に、元文都を内史令・魯国公に、皇甫無逸を兵部尚書・杞国公に任命し、さらに盧楚を内史令に、郭文懿を内史侍郎に、趙長文を黄門侍郎に任じた。これら七名が朝廷の政務を共同で執り行い、当時の人々は「七貴」と呼んだ。 皇泰主(楊侗)は眉目秀麗にして絵のように美しく、温厚で仁愛に富み、威厳ある風格を備えていた。 辛未の日、突厥の始畢可汗が骨咄祿特勒を使者として派遣してきたため、太極殿で宴を催し、九部楽を演奏してもてなした。当時は中原の混乱を避ける人々が多く突厥に流入していたため、突厥は強大となり、東は契丹・室韋から西は吐谷渾・高昌まで、諸国は全て臣従し、弓兵だけで百余万を数えた。皇帝(李淵)は挙兵当初より彼らの軍馬を頼りにしており、前後して贈った貢ぎ物は数えきれないほどであった。突厥は功績を恃みに驕慢で、使者が長安に来るたびに横暴な振る舞いが多かったが、皇帝は寛大に扱って咎めなかった。 壬申の日、裴寂と劉文静らに律令の制定・修正を命じた。国子学・太学・四門学生を設置し、合わせて三百人余りとし、郡県の学校にもそれぞれ生徒を置いた。 六月甲戌朔(一日)、趙公李世民を尚書令に任命した。黄台公李瑗は刑部侍郎に、相国府長史裴寂は右僕射・知政事に、司馬劉文静は納言に、司録竇威は内史令に、李綱は礼部尚書兼選事担当に任命した。さらに掾(属官)殷開山を吏部侍郎に、趙慈景を兵部侍郎に、韋義節を礼部侍郎に昇格させた。主簿陳叔達と博陵の崔民幹はともに黄門侍郎となり、唐儉が内史侍郎に、録事参軍裴晞が尚書右丞となった。 また隋朝の民部尚書蕭瑀を内史令に、礼部尚書竇璡を戸部尚書に、蒋公屈突通を兵部尚書に、長安令独孤懐恩を工部尚書とした。李瑗は皇帝(李淵)の甥であり、独孤懐恩は母方の叔父の子である。 皇帝が裴寂に対して特に厚遇したことは群臣の中でも比類なく、衣服や珍玩の褒賞は数えきれなかった。尚書奉御に命じて毎日、宮中の食事を裴寂に賜り、朝廷では必ず同じ席に着かせ、内廷に入れば寝室まで招いた。その言うことは全て聞き入れ、「監(役職名)」と呼んで実名で呼ばなかった。 解説【政治体制の特徴】
【人事配置の意図】
【裴寂厚遇の政治的意味】
【制度整備の動き】
【描写技法】
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| 委蕭瑀以庶政,事無大小,莫不關掌。瑀亦孜孜盡力,繩違舉過,人皆憚之,毀之者眾,終不自理。上嘗有敕而內史不時宣行,上責其遲,瑀對曰:「大業之世,內史宣敕,或前後相違,有司不知所從,其易在前,其難在後;臣在省日久,備見其事。今王業經始,事系安危,遠方有疑,恐失機會,故臣每受一敕必勘審,使與前敕不違,始敢宣行;稽緩之愆,實由於此。」上曰:「卿用心如是,吾復何憂!」 初,帝遣馬元規慰撫山南,南陽郡丞河東呂子臧獨據郡不從;元規遣使數輩諭之,皆為子臧所殺。及煬帝遇弒,子臧發喪成禮,然後請降;拜鄧州刺史,封南郡公。 廢大業律令,頒新格。 上每視事,自稱名,引貴臣同榻而坐。劉文靜諫曰:「昔王導有言:『若太陽俯同萬物,使群生何以仰照!』今貴賤失位,非常久之道。」上曰:「昔漢光武與嚴子陵共寢,子陵加足於帝腹。今諸公皆名德舊齒,平生親友,宿昔之歡,何可忘也。公勿以為嫌!」 戊寅,隋安陽令呂鈱以相州來降,以為相州刺史。 己卯,祔四親廟主。追尊皇高祖瀛州府君曰宣簡公;皇曾祖司空曰懿王;皇祖景王曰景皇帝,廟號太祖,祖妣曰景烈皇后;皇考元王曰元皇帝,廟號世祖,妣獨孤氏曰元貞皇后;追謚妃竇氏曰穆皇后。每歲祀昊天上帝、皇地示氏、神州地示氏,以景帝配,感生帝、明堂,以元帝配。 |
現代日本語訳高祖(李淵)は蕭瑀に諸般の政務を委ねた。事柄の大小にかかわらず全て彼が関与し掌握した。蕭瑀もひたむきに尽力し、法令違反や過失を厳しく糾弾したため人々は皆恐れを抱き、誹謗する者も多かったが、終始自ら弁明しようとはしなかった。 ある時、高祖が出した勅命を内史(官職)が直ちに公布せず、高祖が遅延を責めたところ、蕭瑀は答えた。「隋の大業年間には、内史が勅命を公布する際に前後の内容が矛盾し役所が対応に困り、易き事柄ばかり先送りにして難題を後回しにする弊害がありました。私は省(官庁)で長く勤務したためその実情をつぶさに見てきました。今や王朝の基業が始まろうとしており一事一策は天下の安危に関わります。遠方で疑念が生じ機会を失う恐れがあるゆえ、私は勅命を受けるたびに必ず審査し前回との矛盾がないことを確認してから公布しているのです。遅延の過ちは実にこれによるものです。」高祖は言った。「卿がこれほど心を砕いているならば、私に何の憂いがあろうか!」 当初、帝(李淵)が馬元規を山南地方へ慰撫使として派遣した際、ただ一人南陽郡丞・河東出身の呂子臧だけが城に拠って従わなかった。元規は使者を数度送り諭したが全て殺された。煬帝(楊広)が弑逆される事件後になって初めて子臧は喪服を着て礼を尽くし、降伏を申し出たため鄧州刺史に任じられ南郡公に封ぜられた。 隋の大業年間の律令を廃止し新法令「格」を公布した。 高祖が政務を見る際は常に自ら名乗り、重臣たちと同席して同じ座敷台(長椅子)に座った。劉文静が諫めて言う。「かつて東晋の王導は『太陽たる者が万物と同じ高さにあれば生き物はいかに仰ぎ見られようか』と言いました。今や身分秩序を失えば国家永続の道とはなりません。」高祖は答えた。「昔、後漢の光武帝が厳子陵と共に寝所を同じくした時、子陵は足を帝の腹へ乗せた(『後漢書』逸民伝)。ここにいる諸公らは皆名声高い旧臣であり私にとって平生からの親友である。過去交わした歓びをどうして忘れられようか? 卿は遠慮には及ばぬ。」 戊寅の日、隋安陽県令・呂鈱が相州ごと降伏し高祖は彼を相州刺史に任じた。 毎年行う祭祀では昊天上帝・皇地祗・神州地祗(天地神)を祀る際は景帝(祖父)を配享し、感生帝祭や明堂祭には元皇帝(父)を配享した。 解説【政治的意図】
【人間関係の特徴】
劉文静諫言の本質:
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| 庚辰,立世子建成為皇太子,趙公世民為秦王,齊公元吉為齊王,宗室黃瓜公白駒為平原王,蜀公孝基為永安王,柱國道玄為淮陽王,長平公叔良為長平王,鄭公神通為永康王,安吉公神符為襄邑王,柱國德良為新興王,上柱國博叉為隴西王,上柱國奉慈為勃海王。孝基、叔良、神符、德良,帝之從父弟;博叉、奉慈,弟子;道玄,從父兄子也。 癸未,薛舉寇涇州。以秦王世民為元帥,將八總管兵以拒之。 遣太僕卿宇文明達招慰山東,以永安王孝基為陝州總管。時天下未定,凡邊要之州,皆置總管府,以統數州之兵。 乙酉,奉隋帝為酅國公。詔曰:「近世以來,時運遷革,前代親族,莫不誅夷。興亡之效,豈伊人力!其隋蔡王智積等子孫,並付所司,量才選用。」 東都聞宇文化及西來,上下震懼。有蓋琮者,上疏請說李密與之合勢拒化及。元文都謂盧楚等曰:「今仇恥未雪而兵力不足,若赦密罪使擊化及,兩賊自鬥,吾徐承其弊。化及既破,密兵亦疲;又其將士利吾官賞,易可離間,並密亦可擒也。」楚等皆以為然,即以琮為通直散騎常侍,繼敕書賜密。 丙申,隋信都郡丞東萊麴稜來降,拜冀州刺史。 丁酉,萬年縣法曹武城孫伏伽上表,以為:「隋以惡聞其過亡天下。陛下龍飛晉陽,遠近響應,未期年而登帝位;徒知得之之易,不知隋失之之不難也。 |
現代日本語訳庚辰の日、世子・李建成を皇太子に立てた。趙公李世民は秦王に、斉公李元吉は斉王に封じられた。宗室では黄瓜公白駒が平原王に、蜀公孝基が永安王に、柱国道玄が淮陽王に、長平公叔良が長平王に、鄭公神通が永康王に、安吉公神符が襄邑王に、柱国徳良が新興王に、上柱国博叉が隴西王に、上柱国奉慈が勃海王となった。孝基・叔良・神符・徳良は皇帝の従父弟(いとこ)、博叉と奉慈は甥、道玄はいとこの子である。 癸未の日、薛挙が涇州を侵攻したため、秦王李世民を元帥に任じ、八総管の軍勢を率いてこれを防がせた。太僕卿宇文明達を山東へ派遣して慰撫にあたらせるとともに、永安王孝基を陝州総管とした。当時は天下未平定であり、辺境要衝の州には全て総管府を設置し、数州にわたる軍勢を統括させていた。 乙酉の日、隋帝(恭帝)を酅国公として遇した。詔書で「近世では天命が変わり前王朝の皇族は皆殺害されてきたが、興亡は人の力だけによるものではない」と述べ、隋朝蔡王智積らの子孫については官庁に命じて能力に応じ登用させる旨を宣言した。 東都(洛陽)では宇文化及が西進するとの報せに朝廷上下が震え上がった。蓋琮なる人物が上疏し「李密と連合して化及に対抗すべし」と提案。元文都は盧楚らに「今や仇敵を討てぬまま兵力不足だ。李密の罪を赦して化及を攻撃させれば、両賊共倒れとなるだろう。その後で疲弊した彼らの隙をつけば良い。官位を与えれば李密配下も離反しやすい」と進言。盧楚らはこれに同意し、蓋琮を通直散騎常侍に任じ詔書を持たせて李密のもとへ派遣した。 丙申の日、隋朝信都郡丞・東莱出身の麴稜が降伏して来たため冀州刺史に任命した。 丁酉の日、万年県法曹(司法官)武城出身の孫伏伽が上表し「隋は過失を指摘されることを嫌い天下を失いました。陛下は晋陽で挙兵され短期間で帝位につかれましたが、『得ること易く失うこともまた容易』との道理をご理解ください」と諫言した。 解説
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| 臣謂宜易其覆轍,務盡下情。凡人君言動,不可不慎。竊見陛下今日即位而明日有獻鷂雛者,此乃少年之事,豈聖主所須哉!又,百戲散樂,亡國淫聲。近太常於民間借婦女裙襦五百餘襲以充妓衣,擬五月五日玄武門遊戲,此亦非所以為子孫法也。凡如此類,悉宜廢罷。善惡之習,朝夕漸染,易以移人。皇太子、諸王參僚左右,宜謹擇其人;其有門風不能雍睦,為人素無行義,專好奢靡,以聲色遊獵為事者,皆不可使之親近也。自古及今,骨肉乖離,以至敗國亡家,未有不因左右離間而然也。願陛下慎之。」上省表大悅,下詔褒稱,擢為治書侍御史,賜帛三百匹,仍頒示遠近。 辛丑,內史令延安靖公竇威薨。以將作大匠竇抗兼納言,黃門侍郎陳叔達判納言。 宇文化及留輜重於滑台,以王軌為刑部尚書,使守之,引兵北趣黎陽。李密將徐世勣據黎陽,畏其軍鋒,以兵西保倉城。化及渡河,保黎陽,分兵圍世勣。密帥步騎二萬,壁於清淇,與世勣以烽火相應,深溝高壘,不與化及戰。化及每攻倉城,密輒引兵以掎其後。密與化及隔水而語,密數之曰:「卿本匈奴皁隸破野頭耳,父兄子弟,並受隋恩,富貴累世,舉朝莫二。主上失德,不能死諫,反行弒逆,欲規篡奪。不追諸葛瞻之忠誠,乃為霍禹之惡逆,天地所不容,將欲何之!若速來歸我,尚可得全後嗣。 |
現代日本語訳臣が申し上げますに、過去の過ちを改め、民衆の実情を徹底的に把握すべきです。君主としての発言や行動には細心の注意が必要であります。陛下がご即位された翌日に既に鷹の雛を献上する者が現れたと伺いました。これは若者の遊び事であり、聖明なる君主が求めるものではございません。また、雑技や俗楽は亡国の淫靡な音楽です。近ごろ太常寺(礼儀をつかさどる役所)が民間から女性の上衣やスカート五百着余りを借り受け、芸人の衣装として五月五日の玄武門での遊興に充てようとしているとも聞きます。これも子孫が見習うべきことではございません。この種の行事はすべて廃止すべきです。 善悪の習慣は日々染み込みやすく、人を容易に変えてしまいます。皇太子や諸王が接する側近の人選には慎重である必要があります。家風が乱れている者、平素から品行が劣り贅沢を好む者、享楽や狩猟にふける者は決して近づけてはなりません。古来より身内の不和により国や家が滅んだ例は、すべて側近による離間工作が原因であります。陛下にはどうかご留意ください。 皇帝(太宗)は上奏文を読み大いに喜び、詔勅をもってこれを称賛するとともに、上奏者を治書侍御史に昇進させ絹三百匹を下賜し、その内容を広く公示した。 辛丑の日、内史令である延安靖公・竇威が逝去。将作大匠(宮廷建築長官)であった竇抗を兼職で納言とし、黄門侍郎(皇帝秘書官)陳叔達に納言事務を担当させた。 宇文化及は滑台に軍需物資を残置し、王軌を刑部尚書として守備につかせると、自ら兵を率いて北の黎陽へ向かった。李密配下の徐世勣が黎陽を占拠していたが、その軍勢の鋭鋒を恐れ、部隊を西の倉城に移動して防衛した。化及は黄河を渡って黎陽を確保すると、兵力を分けて世勣を包囲。李密は歩兵と騎兵合わせて二万を率い清淇付近に陣地を構築し、世勣とはのろしで連絡を取り合いながら深く堀を穿ち高い塁壁を築き、化及との決戦を避けた。化及が倉城を攻めるたびに李密は背後から牽制した。 両軍は川を隔てて対峙し、李密は宇文化及を非難して言った。「お前は元々匈奴の下僕(破野頭部族)出身だ。一族こぞって隋朝からの恩恵を受け富貴を極め朝廷に並ぶ者なき家柄であったのに、主君が過ちを犯しても命懸けで諫めることなく、逆に弑逆を働いて帝位簒奪を企てた。諸葛瞻の忠誠さにも及ばず霍禹(謀反人)のような悪行をするとは天地も容れぬ所業だ! 今すぐ降伏すれば子孫の命は助けてやろう」 解説
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| 」化及默然,俯視良久,瞋目大言曰:「與爾論相殺事,何須作書語邪!」密謂從者曰:「化及庸愚如此,忽欲圖為帝王,吾當折杖驅之耳!」化及盛修攻具以逼倉城,世勣於城外掘深溝以固守,化及阻塹,不得至城下。世勣於塹中為地道,出兵擊之,化及大敗,焚其攻具。 時密與東都相持日久,又東拒化及,常畏東都議其後。見蓋琮至,大喜,遂上表乞降,請討滅化及以贖罪,送所獲凶黨雄武郎將於洪建,遣元帥府記室參軍李儉、上開府徐師譽等入見。皇泰主命戮洪建於左掖門外,如斛斯政之法。元文都等以密降為誠實,盛飾賓館於宣仁門東。皇泰主引見儉等,以儉為司農卿,師譽為尚書右丞,使具導從,列鐃吹,還館,玉帛酒饌,中使相望。冊拜密太尉、尚書令、東南道大行台行軍元帥、魏國公,令先平化及,然後入朝輔政。以徐世勣為右武候大將軍。仍下詔稱密忠款,且曰:「其用兵機略,一稟魏公節度。」 元文都等喜於和解,謂天下可定,於上東門置酒作樂,自段達已下皆起舞。王世充作色謂起居侍郎崔長文曰:「朝廷官爵,乃以與賊,其志欲何為邪!」文都等亦疑世充欲以城應化及,由是有隙,然猶外相彌縫,陽為親善。 秋,七月,皇泰主遣大理卿張權、鴻臚卿崔善福賜李密書曰:「今日以前,鹹共刷蕩;使至以後,彼此通懷。 |
現代日本語訳宇文化及は黙り込み、うつむいてしばらく見下ろしていたが、突然目を見開き大声で言った。「お前と戦の話をするのに、なぜわざわざ文語を使うのだ!」李密は供の者にささやいた。「化及がこれほどまでに凡愚であるとは。帝位を狙うなど思い上がりも甚だしい。杖一本で追い払ってくれるわ」。 宇文化及は攻撃兵器を大規模に整備し倉城へ迫った。徐世勣(じょせいき)は城外に深い堀を掘って守りを固めると、化及軍は堀に阻まれて城壁まで到達できなかった。さらに世勣は堀の地下にトンネルを掘って奇襲部隊を送り込み、宇文化及軍を大敗させて攻撃兵器を焼き払った。 当時、李密は洛陽(東都)政府と長期対峙していた上、東方では宇文化及とも交戦中で、常に背後から洛陽軍に襲われることを警戒していた。そこへ蓋琮(がいそう)が使者として訪れると、李密は大いに喜び、降伏を願い出る表文を提出した。その内容は「宇文化及討伐によって罪を償いたい」というものであり、捕らえていた反乱軍の雄武郎将・於洪建(おこうけん)を護送しつつ、元帥府記室参軍の李儉(りけん)と上開府徐師誉(じょしよ)らを使者として派遣した。 皇泰主(こうたいしゅ/楊侗ようとう)は於洪建を左掖門外で処刑するよう命じ、斛斯政(こくせいせい)の先例通りに扱わせた。元文都(げんぶんと)ら李密降伏派は誠意があるものと考え、宣仁門東側に賓客館を豪華に設営した。皇泰主が使者団を引見すると、李儉を司農卿に、徐師誉を尚書右丞に任命し、儀仗兵や鼓吹楽隊を整列させて宿舎まで送還させた。その際には絹織物・宝玉・酒肴が絶え間なく宦官によって運ばれた。 李密へは詔勅により「太尉・尚書令・東南道大行台行軍元帥・魏国公」の官爵を授け、「まず宇文化及を平定し、その後朝廷に参内して政務を補佐せよ」と命じた。徐世勣(李勣)には右武候大将軍を与え、「李密への軍事指揮権は全て魏公の指示に従うこと」との詔書も発布された。 元文都ら和解派は和平が成立して天下平定に至ると喜び、上東門で宴席を設けて酒盛りした。段達(だんたつ)以下の高官全員が舞い踊る中、王世充(おうせいじゅう)だけが不満げな表情で起居侍郎の崔長文に言った。「朝廷の官爵を賊軍へ与えるとは、一体何の魂胆か?」。元文都らもまた王世充が城内から宇文化及と内通しようとしているのではないかと疑い始め、両者の間には亀裂が生じた。ただし表面上はまだ取り繕って仮装親善を続けていた。 秋七月、皇泰主は大理卿の張権(ちょうけん)と鴻臚卿の崔善福(さいぜんふく)を使者として派遣し、李密宛てに詔書を持たせた。その文面には「今日以前の過ちは全て清算しよう。使者到着後からは互いに心を開き協力せよ」と記されていた。 解説
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| 七政之重,佇公匡弼;九伐之利,委公指揮。」權等既至,密北面拜受詔書。既無西慮,悉以精兵東擊化及。密知化及軍糧且盡,因偽與和;化及大喜,恣其兵食,冀密饋之。會密下有人獲罪,亡抵化及,具言其情,化及大怒;其食又盡,乃渡永濟渠,與密戰於童山之下,自辰達酉;密為流矢所中,墮馬悶絕,左右奔散。追兵且至,唯秦叔寶獨捍衛之,密由是獲免。叔寶復收兵與之力戰,化及乃退。化及入汲郡求軍糧,又遣使拷掠東郡吏民以責米粟。王軌等不堪其弊,遣通事舍人許敬宗詣密請降;密以軌為滑州總管,以敬宗為元帥府記室,與魏徵共掌文翰。敬宗,善心之子也。房公蘇威在東郡,隨眾降密,密以其隋氏大臣,虛心禮之。威見密,初不言帝室艱危,唯再三舞蹈,稱「不圖今日復睹聖明!」時人鄙之。化及聞王軌叛,大懼,自汲郡引兵欲取以北諸郡,其將陳智略帥嶺南驍果萬餘人,樊文超帥江淮排,張童兒帥江東驍果數千人,皆降於密。文超,子蓋之子也。化及猶有眾二萬,北趣魏縣;密知其無能為,西還鞏洛,留徐世勣以備之。 乙巳,宣州刺史周超擊朱粲,敗之。 丁未,梁師都寇靈州,驃騎將軍藺興粲擊破之。 突厥闕可汗遣使內附。初,闕可汗附於李軌;隋西戎使者曹瓊據甘州誘之,乃更附瓊,與之拒軌;為軌所敗,竄於達斗拔谷,與吐谷渾相表裡,至是內附,上厚加慰撫。 |
現代日本語訳:七政(国家の重要政策)においては、公(李密を指す)に補佐を期待し、九伐(軍事行動)の利益については、公に指揮をお任せする。」権力者らが到着すると、李密は北面して詔書を拝受した。西方の憂いがなくなったため、精鋭部隊を全て率いて東方の宇文化及を攻撃した。 李密は宇文化及の軍糧が尽きかけていると察知し、偽って和睦を申し出た。化及は大いに喜び、兵士に食糧を自由に消費させるとともに、李密からの供給を期待した。ところが李密配下の罪人が逃亡して化及のもとに身を寄せ、内情を暴露したため、化及は激怒。食糧も完全に尽きたことから、永済渠を渡って童山の麓で李密と交戦し、辰(午前8時)から酉(午後6時)まで続いた。流れ矢を受けた李密が落馬して気絶すると、側近は散り散りに逃亡した。 追撃兵が迫る中、秦叔宝ただ一人が防衛にあたり、李密はかろうじて難を逃れた。叔宝はさらに兵力を集めて奮戦し、化及軍を撤退させた。その後、化及は汲郡で食糧調達に赴き、使者を派遣して東郡の役人・民衆から強制的に米穀を徴発した。 王軌らはその圧政に耐えかね、通事舍人(外交官)許敬宗を使者として李密のもとに送り降伏を願い出た。李密は王軌を滑州総管とし、許敬宗には元帥府記室の地位を与えて魏徴とともに文書を担当させた。なお許敬宗は許善心の子である。 一方、房公(高位官僚)蘇威が東郡にいた際、民衆に従って李密に降った。李密は彼が隋朝の重臣であったことを考慮し、敬意をもって遇した。ところが蘇威は王室の危機には一切触れず、ただ「再び聖明(天子)を拝することができようとは」と繰り返し舞踊を行うのみで、当時の人々から軽蔑された。 宇文化及は王軌の離反を知ると大いに恐れ、汲郡から北上して諸郡占領を図った。しかし配下の将軍陳智略(嶺南精鋭万余り)・樊文超(江淮部隊指揮官)・張童児(江東精鋭数千人)らが相次いで李密に投降した。樊文超は樊子蓋の子である。 結局、化及の兵力は二万に減じ魏県へ北上。これを見た李密は「彼にはもはや脅威なし」と判断し、西方の鞏洛へ帰還すると徐世勣を残留させて備えとした。 乙巳(5月13日)、宣州刺史周超が朱粲を撃破。 丁未(5月15日)、梁師都が霊州に侵攻したが、驃騎将軍藺興粲に敗北。 突厥の闕可汗が使者を遣わし帰順。当初は李軌に従属していたが、隋朝西戎使節曹瓊(甘州占拠)に誘われて離反。その後李軌との戦いに敗れ達斗抜谷へ逃亡して吐谷渾と結託したものの、この時点で唐へ帰順。皇帝(高祖李淵)は手厚く慰撫を与えた。 解説:
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| 尋為李軌所滅。 薛舉進逼高址,遊兵至於豳、岐,秦王世民深溝高壘不與戰。會世民得瘧疾,委軍事於長史、納言劉文靜、司馬殷開山,且戒之曰:「薛舉懸軍深入,食少兵疲,若來挑戰,慎勿應也。俟吾疾愈,為君等破之。」開山退,謂文靜曰:「王慮公不能辦,故有此言耳。且賊聞王有疾,必輕我,宜曜武以威之。」乃陳於高址西南,恃眾而不設備。舉潛師掩其後,壬子,戰於淺水原,八總管皆敗,士卒死者什五六,大將軍慕容羅□、李安遠、劉弘基皆沒,世民引兵還長安。舉遂拔高址,收唐兵死者為京觀;文靜等皆坐除名。 乙卯,榆林賊帥郭子和遣使來降。以為靈州總管。 李密每戰勝,輒遣使告捷於皇泰主。隋人皆喜,王世充獨謂其麾下曰:「元文都輩,刀筆吏耳,吾觀其勢,必為李密所擒。且吾軍士屢與密戰,沒其父兄子弟,前後已多,一旦為之下,吾屬無類矣!」欲以激怒其眾。文都聞之,大懼,與盧楚等謀因世充入朝,伏甲誅之。段達性庸懦,恐事不就,遣其婿張志以楚等謀告世充。戊午夜三鼓,世充勒兵襲含嘉門。元文都聞變,入奉皇泰主御乾陽殿,陳兵自衛,命諸將閉門拒守。將軍跋野綱將兵出,遇世充,下馬降之。將軍費曜、田闍戰於門外,不利。文都自將宿衛兵欲出玄武門以襲其後,長秋監段瑜稱求門鑰不獲,稽留遂久。 |
現代日本語訳薛挙はまもなく李軌によって滅ぼされるが、その前に高址へ進軍し遊撃部隊が豳州(びんしゅう)や岐州まで迫った。秦王李世民は深い堀と高い堡塁を築いて戦わず、瘧疾(マラリア)にかかったため軍事指揮を長史で納言の劉文静と司馬殷開山に託し、「薛挙軍は孤立して深入りしているうえ兵糧が少なく疲弊している。挑発されても決して応じてはいけない。私の回復を待てば必ず打ち破ってみせる」と戒めた。しかし殷開山は退出後、劉文静に「殿下は貴殿の力量を信用せずあえてそう言われたのだ。賊(薛挙)が殿下ご病床を知れば我々を見くびるだろうから、軍勢を示して威嚇すべきだ」と進言した。 乙卯の日(同年8月)、榆林賊徒の首領郭子和が降伏使節を派遣したため霊州総管に任命された。 注釈解説
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| 天且曙,文都引兵復欲出太陽門逆戰,還至乾陽殿,世充已攻太陽門得入。皇甫無逸棄母及妻子,斫右掖門,西奔長安。盧楚匿於太官署,世充之黨擒之,至興教門,見世充,世充令亂斬殺之;進攻紫微宮門。皇泰主使人登紫微觀。問:「稱兵欲何為?」世充下馬謝曰:「元文都、盧楚等橫見規圖;請殺文都,甘從刑典。」段達乃令將軍黃桃樹執送文都。文都顧謂皇泰主曰:「臣今朝死,陛下夕及矣!」皇泰主慟哭遣之,出興教門,亂斬如盧楚,並殺盧、元諸子。段達又以皇泰主命開門納世充,世充悉遣人代宿衛者,然後入見皇泰主於乾陽殿。皇泰主謂世充曰:「擅相誅殺,曾不聞奏,豈為臣之道乎!公欲肆其強力,敢及我邪!」世充拜伏流涕謝曰:「臣蒙先皇采拔,粉骨非報。文都等苞藏禍心,欲召李密以危社稷,疾臣違異,深積猜嫌;臣迫於救死,不暇聞奏。若內懷不臧,違負陛下,天地日月,實所照臨,使臣闔門殄滅,無復遺類。」詞淚俱發。皇泰主以為誠,引令升殿,與語久之,因與俱入見皇太后;世充被發為誓,稱不敢有貳心。乃以世充為左僕射、總督內外諸軍事。比及日中,捕獲趙長文、郭文懿,殺之。然後巡城,告諭以誅元、盧之意。世充自含嘉城移居尚書省,漸結黨援,恣行威福。用兄世惲為內史令,入居禁中,子弟鹹典兵馬,分政事為十頭,悉以其黨主之,勢震內外,莫不趨附,皇泰主拱手而已。 |
現代日本語訳夜が明けかけた頃、元文都は兵を率いて再び太陽門から出撃し逆襲しようとしたが、乾陽殿に戻ると、王世充は既に太陽門を攻略して侵入していた。皇甫無逸は母と妻子を見捨て、右掖門を破壊して西の長安へ逃走した。盧楚は太官署(宮廷厨房)に潜伏するも、王世充派の兵に捕らえられ、興教門まで連行されると斬殺された。王世充軍はさらに紫微宮門を攻撃すると、皇泰主(楊侗)が使者を使わし紫微観から「挙兵して何を望むのか」と問いただした。これに対し王世充は馬から降りて謝罪しながら「元文都らが私を謀殺しようとしたため、彼を誅戮するのみです」と弁明すると、段達(皇泰主側近)の命令で黄桃樹将軍が元文都を捕縛。文都は帝に「私が死ねば陛下も命は長くない」と叫んだが、泣く帝を見送られて興教門外で惨殺され、盧楚や両家の子息らも皆殺しとなった。 段達は皇泰主の名を借り城門開放を指示すると、王世充は護衛兵を全て自派に交代させてから乾陽殿へ謁見した。帝が「無断で重臣を誅戮するとは何事か!」と詰め寄ると、王世充は涙ながらに平伏し弁明:「先帝の恩義に背くはずなく文都らが李密を呼び賊を起こそうとしたため、やむを得ず急遽処断したのです」。その悲痛な演技に騙された皇泰主は彼を殿上へ招き入れ長談義し、ついには共に皇太后にも謁見させた。王世充は髪を振り乱して忠誠を誓ったため左僕射(宰相)兼全軍総司令官に任命される。正午までに残党の趙長文・郭文懿も捕殺し、都中へ「元・盧誅伐が正義だ」と触れ回ると、本拠地を尚書省に移して着々と権力を掌握した。 兄の王世惲を内史令(宮廷秘書長)として禁中に入らせ一族で軍政を独占し、政務を十部門に分割して全て自派で固めたため内外が震え上がり群臣はこぞって媚びへつらい、皇泰主は傀儡となるしかなかった。 解説
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| 李密將入朝,至溫,聞元文都等死,乃還金墉。東都大饑,私錢濫惡,太半雜以錫環,其細如線,米斛直錢八九萬。 初,李密嘗受業於儒生徐文遠。文遠為皇泰主國子祭酒,自出樵采,為密軍所執;密令文遠南面坐,備弟子禮,北面拜之。文遠曰:「老夫既荷厚禮,敢不盡言!未審將軍之志欲為伊、霍以繼絕扶傾乎?則老夫雖遲暮,猶願盡力;若為莽、卓,乘危邀利,則無所用老夫矣!」密頓首曰:「昨奉朝命,備位上公,冀竭庸虛,匡濟國難,此密之本志也。」文遠曰:「將軍名臣之子,失塗至此,若能不遠而復,猶不失為忠義之臣。」及王世充殺元文都等,密復問計於文遠。文遠曰:「世充亦門人也,其為人殘忍褊隘,既乘此勢,必有異圖,將軍前計為不諧矣。非破世充,不可入朝也。」密曰:「始謂先生儒者,不達時事,今乃坐決大計,何其明也!」文遠,孝嗣之玄孫也。 庚申,詔隋氏離宮游幸之所並廢之。 戊辰,遣黃台公瑗安撫山南。 己巳,以隋右武衛將軍皇甫無逸為刑部尚書。隋河間郡丞王琮守郡城以拒群盜,竇建德攻之,歲餘不下;聞煬帝凶問,帥吏士發喪,乘城者皆哭。建德遣使吊之,琮因使者請降,建德退捨具饌以待之。琮言及隋亡,俯伏流涕,建德亦為之泣。諸將曰:「琮久拒我軍,殺傷甚眾,力盡乃降,請烹之。 |
現代日本語訳李密が朝廷へ参内しようとしたところ、温県に至った際、元文都らが処刑されたと聞き、金墉城へ引き返した。東都(洛陽)では大飢饉が発生し、民間で流通する悪銭が横行していた。大半の銅銭には錫が混ざり、ひも状に細く劣化しており、米一斛(約60リットル)の価格は八九万銰にも達した。 かつて李密は儒学者・徐文遠のもとで学問を修めたことがあった。皇泰主(越王楊侗)が即位すると、徐文遠は国子監祭酒(国立大学長官)に任命されたが、自ら薪拾いに出かけた際、李密の軍勢に捕らえられた。李密は徐文遠を南面の上座に着かせ、弟子として北面から礼拝した。すると文遠は言った。「老生は厚遇を受けた以上、率直な意見を述べよう。将軍が伊尹や霍光のような補佐役となり王朝再興を志すなら、この年老いた身でも力を尽くそう。しかし王莽や董卓のように危機に乗じて私利を図る者ならば、老生は用無しだ」。李密は額づいて答えた。「先日朝廷より上公(高位の爵位)に任じられ、微力ながら国難救済を誓った。これが本懐である」。文遠は応じて言う。「将軍は名臣の家系でありながら道を見失い苦境にある。もし過ちを速やかに改めれば、なお忠義の臣として留まれよう」。 その後、王世充が元文都らを殺害すると、李密は再び徐文遠に助言を求めた。文遠は答えた。「王世充もかつて私の門弟だ。彼は残忍で狭量な人物ゆえ、今の勢いに乗じて必ず野心を抱く。将軍が朝廷へ戻る計画は実現不可能となった。まず王世充を撃破せねば参内できまい」。李密は感嘆して言う。「当初先生を時代に疎い儒者と思っていたが、ここで重大な決断を示されるとは驚きだ」。 徐文遠は南朝斉の宰相・徐孝嗣の玄孫にあたる。 庚申(8月26日)、詔勅により隋朝離宮や行幸地を全て廃止した。 戊辰(9月3日)、黄台公李瑗を山南道へ派遣し慰撫を行わせた。 己巳(9月4日)、元隋右武衛将軍・皇甫無逸を刑部尚書に任命した。 河間郡丞の王琮は郡城を守備して反乱軍と戦い、竇建徳の攻撃を一年以上も防ぎきった。煬帝崩御の報が届くと、配下官吏・兵士を率いて喪に服し、城壁の守備兵全員が慟哭した。これを見た竇建徳は使者を遣わして哀悼の意を示すと、王琮は降伏を申し出たため、竇軍は後退して饗応の準備を行った。席上で隋朝滅亡について語る王琮が俯いて涙を流すと、建徳も共に泣いた。配下将軍たちは言った。「王琮は長期にわたり我らを阻み、多くの死傷者が出た末の降伏です。煮殺すべきでしょう」。 解説
(訳注:原文中の紀年日付は当時の干支表記を保持し西暦換算併記。官職名等は日本で理解可能な範囲での意訳とした) Translation took 882.5 seconds. |
| 」建德曰:「琮,忠臣也,吾方賞之以勸事君,奈何殺之!往在高雞泊為盜,容可妄殺人;今欲安百姓,定天下,豈得害忠良乎!」乃徇軍中曰:「先與王琮有怨敢妄動者,夷三族!」以琮為瀛州刺史。於是河北郡縣聞之,爭附於建德。 先是,建德陷景城,執戶曹河東張玄素,將殺之,縣民千餘人號泣請代其死,曰:「戶曹清慎無比,大王殺之,何以勸善!」建德乃釋之,以為治書侍御史,固辭;及江都敗,復以為黃門侍郎,玄素乃起。饒陽令宋正本,博學有才氣,說建德以定河北之策,建德引為謀主。建德定都樂壽,命所居曰金城宮,備置百官。 |
現代日本語訳竇建徳は言った。「王琮こそ忠臣だ。私はこれから彼を表彰し、君主への忠誠を奨励しようとしているのに、なぜ殺すのか?かつて高鶏泊で賊を行っていた頃なら無闇に人を殺せたかもしれないが、今は民衆を安んじ天下を平定する時だ。どうして忠義ある善良な者を害することができようか!」そして軍中に布告した。「以前から王琮と遺恨のある者が勝手に動けば三族皆殺しにする」と。こうして王琮を瀛州刺史に任じたため、河北の郡県はこの知らせを聞くと争って建徳に帰順した。 先に竇建徳が景城を陥落させた際、戸曹(財務官吏)だった河東出身の張玄素を捕らえて処刑しようとしたところ、千人以上の民衆が号泣しながら「戸曹様は清廉で慎み深く比類ありません。大王がお殺しになればどうして善行を奨励できましょうか!」と代わりに死ぬことを懇願した。建徳は彼を釈放し治書侍御史に任命した(張玄素は固辞)。江都の変後、改めて黄門侍郎に任じるとようやく出仕した。また饒陽県令・宋正本は博学で才気があり、「河北平定策」を建徳に献策すると、軍師として重用された。こうして竇建徳は楽寿に都を定め、居城を金城宮と名付け百官を配置した。 解説
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| input text 資治通鑑\186_唐紀_02.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷一百八十六 唐紀二 起著雍攝提格八月,盡十二月,不滿一年。 高祖神堯大聖光孝皇帝上之中武德元年(戊寅,公元六一八年) 八月,薛舉遣其子仁果進圍寧州,刺史胡演擊卻之。郝瑗言於舉曰:「今唐兵新破,關中騷動,宜乘勝直取長安。」舉然之,會有疾而止。辛巳,舉卒。太子仁果立,居於折址城,謚舉曰武帝。 上欲與李軌共圖秦、隴,遣使潛詣涼州,招撫之,與之書,謂之從弟。軌大喜,遣其弟懋入貢。上以懋為大將軍,命鴻臚少卿張俟德冊拜軌為涼州總管,封涼王。 初,朝廷以安陽令呂鈱為相州刺史,更以相州刺史王德仁為巖州刺史。德仁由是怨憤,甲申,誘山東大使宇文明達入林慮山而殺之,叛歸王世充。 已丑,以秦王世民為元帥,擊薛仁果。 丁酉,臨洮等四郡來降。 隋江都太守陳稜求得煬帝之柩,取宇文化及所留輦輅鼓吹,粗備天子儀衛,改葬於江都宮西吳公台下,其王公以下,皆列瘞於帝塋之側。宇文化及之發江都也,以杜伏威為歷陽太守;伏威不受,仍上表於隋,皇泰主拜伏威為東道大總管,封楚王。沈法興亦上表於皇泰主。自稱大司馬、錄尚書事、天門公,承製置百官,以陳杲仁為司徒,孫士漢為司空,蔣元超為左僕射,殷芊為左丞,徐令言為右丞,劉子翼為選部侍郎,李百藥為府椽。百藥,德林之子也。 |
現代日本語訳八月 薛挙が息子・仁果を遣わして寧州を包囲させたが、刺史の胡演に撃退された。郝瑗が薛挙に進言した。「唐軍が敗れたばかりで関中は混乱しております。ここは勝ちに乗じて長安を直接攻めるべきです」。薛挙はこれに同意したが急病にかかり中止。辛巳(8月9日)、薛挙死去。太子の仁果が即位し折址城に入り、父に武帝と諡号を贈った。 唐王朝の工作 高祖(李淵)は李軌と連携して秦・隴地方を得ようと考え、密使を涼州へ派遣し懐柔策を実施。手紙で彼を「従弟」と呼んだところ、李軌は大いに喜び実弟の李懋を貢物を持たせて派遣した。高祖は李懋を大将軍に任命し、鴻臚少卿の張俟徳を使者として涼州総管・涼王への冊封に向かわせた。 相州刺史の謀反 朝廷が安陽令の呂鈱を新たな相州刺史とし、前任者の王徳仁を岩州刺史へ左遷した。これに憤慨した王徳仁は甲申(8月12日)、山東大使・宇文明達を林慮山におびき出して殺害し、王世充のもとに叛旗を翻した。 軍事行動 已丑(8月17日)に秦王李世民が元帥として薛仁果討伐軍を編成。丁酉(8月25日)、臨洮など四郡が唐へ降伏した。 隋朝遺臣の動向 隋江都太守・陳稜は煬帝の棺を見つけると、宇文化及が残した天子用の車駕や楽器で簡素な儀仗を整え、江都宮西の呉公台下へ改葬。王侯以下の関係者は全て陵墓の側に埋葬された。 江南勢力の自立
- 杜伏威:宇文化及から歴陽太守任命を受けたが拒否し、代わりに皇泰主(隋恭帝)帰順を表明。東道大総管・楚王に封じられる
- 沈法興:自ら「大司馬・録尚書事・天門公」と称して百官任命権を得て独自政権樹立:
- 陳杲仁(司徒)
- 孫士漢(司空)
- 蒋元超(左僕射)
- 殷芊(左丞) 歴史的考察
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| 九月,隋襄國通守陳君賓來降,拜邢州刺史。君賓,伯山之子也。 虞州刺史韋義節攻隋河東通守堯君素,久不下,軍數不利;壬子,以工部尚書獨孤懷恩代之。 初,李密既殺翟讓,頗自驕矜,不恤士眾;倉粟雖多,無府庫錢帛,戰士有功,無以為賞;又厚撫初附之人,眾心頗怨。徐世勣嘗因宴會刺譏其短;密不懌,使世勣出鎮黎陽,雖名委任,實亦疏之。 密開洛口倉散米,無防守典當者,又無文券,取之者隨意多少;或離倉之後,力不能致,委棄衢路,自倉城至郭門,米厚數寸,為車馬所躪踐;群盜來就食者並家屬近百萬口,無甕盎,織荊筐淘米,洛水兩岸十里之間,望之皆如白沙。密喜,謂賈閏甫曰:「此可謂足食矣!」閏甫對曰:「國以民為本,民以食為天。今民所以襁負如流而至者,以所天在此故也。而有司曾無愛吝,屑越如此!竊恐一旦米盡民散,明公孰與成大業哉!」密謝之,即以閏甫判司倉參軍事。 密以東都兵數敗微弱,而將相自相屠滅,謂朝夕可平。王世充既專大權,厚賞將士,繕治器械,亦陰圖取密。時隋軍乏食,而密軍少衣,世充請交易,密難之;長史邴元真等各求私利,勸密許之。先是,東都人歸密者,日以百數;既得食,降者益少,密悔而止。 密破宇文化及還,其勁卒良馬多死,士卒疲病。世充欲乘其弊擊之,恐人心不壹,乃詐稱左軍衛士張永通三夢周公,令宣意於世充,當勒兵相助擊賊。 |
現代日本語訳九月、隋の襄国通守であった陳君賓が降伏してきたため、彼を邢州刺史に任命した。君賓は伯山の子である。 虞州刺史韋義節が隋の河東通守堯君素を攻撃したが、長期にわたって落とせず、軍は何度も敗北した。壬子の日、工部尚書獨孤懷恩を代わりに任命した。 当初、李密は翟讓を殺害して以来、甚だしく驕り高ぶり、兵士や民衆を顧みなかった。倉庫には粟が多く蓄えられていたが、金銭や絹布の備えがなく、戦功を立てた兵士に褒賞を与えることができなかった。また新たに帰順した者たちを厚遇したため、人々の心は不満でいっぱいだった。徐世勣がある宴会の席で彼の欠点を風刺すると、李密は不快になり、世勣を黎陽鎮守として派遣した。表向きは重任だが、実質的には遠ざける意味合いであった。 李密が洛口倉を開放して米を配布した際、警備役も保管係もおらず、受取証も発行しなかったため、人々は好きなだけ持ち去った。中には倉庫から運び出した後で力尽き、路上に米を放棄する者もおり、倉城から外郭門までの道には数寸の厚さで米が積まれ、車馬に踏み固められた。盗賊集団やその家族を含む約百万人が食糧を得るため集まり、瓶や壺がない者は茨の籠を編んで米を淘ぎ、洛水両岸十里にわたって白い砂のように見える光景となった。李密は喜び賈閏甫に「これで十分な食糧確保だ」と言うと、閏甫は答えた。「国は民を本とし、民は食を天とする(最も大切なもの)。今、人々が背中に子供を負って流れ込むのは『天』がここにあるからです。しかし役人は惜しみもなく粗末に扱う。米が尽きて民が去れば、殿はいったい何をもって大業を成しますか」。李密はこれを謝罪し、直ちに閏甫を司倉参軍事の判官(副責任者)に任命した。 李密は洛陽軍が敗北を重ね弱体化し、将軍同士で殺し合っている状況から、短期間での制圧可能と考えていた。一方、王世充は権力を掌握すると兵士へ厚く褒賞を与え、兵器の整備を進めつつ密かに李密討伐を企てた。当時、隋軍は食糧不足だったが李密軍は衣類不足で、世充が物々交換を持ちかけると、李密は難色を示した。長史・邴元真らが私利を求めて勧めたため応じるが、これまで洛陽から百人単位で投降していた民衆が激減し、李密は後悔して取引を中止した。 宇文化及との戦いの帰還後、李密軍の精鋭や良馬は多くが死に、兵士も疲弊していた。世充はこの弱みを突こうとしたが兵士の結束を恐れ、「左軍衛士・張永通が三度周公の夢を見て『賊討伐を助けよ』と託宣した」との偽情報を用いて人心をまとめた。 解説
(訳注:固有名詞は原則として原表記を保持し、「通守」「長史」等の官職名も当時のまま訳出。現代語訳では受動態・敬語を最小化し、歴史的現在形で臨場感を再現) Translation took 883.6 seconds. |
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| 乃為周公立廟,每出兵,輒先祈禱。世充令巫宣言周公欲令僕射急討李密,當有大功,不即兵皆疫死。世充兵多楚人,信妖言,皆請戰。世充簡練精銳得二萬餘人,馬二千餘匹,壬子,出師擊密,旗幡之上皆書永通字,軍容甚盛。癸丑,至偃師,營於通濟渠南,作三橋於渠上。密留王伯當守金墉,自引精兵出偃師北,阻邙山以待之。 密召諸將會議,裴仁基曰:「世充悉眾而至,洛下必虛,可分兵守其要路,令不得東,簡精兵三萬,傍河西出以逼東都。世充還,我且按甲;世充再出,我又逼之。如此,則我有餘力,彼勞奔命,破之必矣。」密曰:「公言大善。今東都兵有三不可當:兵仗精銳,一也;決計深入,二也;食盡求戰,三也。我但乘城固守,蓄力以待之;彼欲斗不得,求走無路,不過十日,世充之頭可致麾下。」陳智略、樊文超、單雄信皆曰:「計世充戰卒甚少,屢經摧破,悉已喪膽。《兵法》曰『倍則戰』,況不啻倍哉!且江、淮新附之士,望因此機展其勳效;及其鋒而用之,可以得志。」於是諸將喧然,欲戰者什七八,密惑於眾議而從之。仁基苦爭不得,擊地歎曰:「公後必悔之!」魏徵言於長史鄭頲曰:「魏公雖驟勝,而驍將銳卒多死,戰士心怠,此二者難以應敵。且世充乏食,志在死戰,難與爭鋒,未若深溝高壘以拒之,不過旬月,世充糧盡,必自退,追而擊之,蔑不勝矣。 |
現代日本語訳:王世充は周公旦を祀る廟を建て、出兵するたびに必ず祈願を行った。彼は巫女を使い「周公が僕射(王世充)に対し李密を急ぎ討つよう命じており、従えば大功を得られるが、遅れれば全軍疫病で死ぬ」と宣言させた。配下の兵士は楚出身者が多く迷信深く、一斉に出撃を求めた。王世充は精鋭二万余りと軍馬二千余頭を選抜し、壬子の日(617年10月24日)、李密討伐に進発した。すべての軍旗には「永通」の文字が記され、威容は極めて壮観であった。 癸丑の日(10月25日)、偃師に到着すると通済渠南岸に布陣し、水路に三つの橋を架けた。李密は王伯當に金墉城を守らせると、自ら精鋭部隊を率いて邙山北麓で防衛線を構築した。 李密が諸将を集めて軍議すると、裴仁基が進言した:「王世充が全軍出撃すれば洛陽は手薄になる。要所を抑えて東進を阻みつつ三万の精鋭で黄河沿いに西進し東都(洛陽)を威嚇すべきだ。敵が撤退しても追わず、再び出て来たら再度圧迫する。これにより我々は余力を保ち相手は疲弊して必ず敗れる」。李密は「卓見だが」と反論した:「東都軍には三つの利点がある:装備精鋭(第一)、決死の覚悟(第二)、兵糧尽きて決戦を求める(第三)だ。城に籠り兵力温存すべきで、相手が戦えず退けぬまま十日もすれば王世充の首は届くだろう」。 これに対し陳智略・樊文超・単雄信らは反論した:「王世充軍は少兵で連敗による士気喪失中だ。『倍する兵力あれば戦え』(孫子)というのに我々は遥かに優位。さらに江淮からの新参兵が手柄を焦っている。勢いに乗じて攻めるべきだ!」諸将の十人中七八人が賛同し、李密も衆議に押され決戦を選択した。裴仁基は地を叩き「後悔されますぞ!」と嘆いた。 長史・鄭頲に進言した魏徴も警告した:「我が軍は連勝で猛将精兵を失い士気緩んでいる。一方、王世充は食糧不足ゆえ死力を尽くす。要害に拠って防衛し一ヶ月耐えれば敵は退却する。追撃すれば必ず勝利できる」。 解説:■戦術思想の根本的対立
■李密敗北の必然性
■『資治通鑑』が伝える教訓
■補足データ
■現代への示唆魏徴の指摘は「勝者の病」(連勝による慢心とリスク軽視)を看破。組織運営において「声大きい意見」が必ずしも正しいとは限らないことを示す古典的ケーススタディと言える。 (出典注記:『資治通鑑』巻184・隋紀8,義寧元年条の現代語訳及び分析) Translation took 1738.3 seconds. |
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| 」頲曰:「此老生之常談耳。」征曰:「此乃奇策,何謂常談!」拂衣而起。 程知節將內馬軍與密同營在北邙山上,單雄信將外馬軍營於偃師城北。世充遣數百騎渡通濟渠攻雄信營,密遣裴行儼與知節助之。行儼先馳赴敵,中流矢,附於地;知節救之,殺數人,世充軍披靡,乃抱行儼重騎而還;為世充騎所逐,刺槊洞過,知節回身捩折其槊,兼斬追者,與行儼俱免。會日暮,各斂兵還營。密驍將孫長樂等十餘人皆被重創。 密新破宇文化及,有輕世充之心,不設壁壘。世充夜遣二百餘騎潛入北山,伏溪谷中,命軍士皆秣馬蓐食。甲寅旦,將戰,世充誓眾曰:「今日之戰,非直爭勝負;死生之分,在此一舉。若其捷也,富貴固所不論;若其不捷,必無一人獲免。所爭者死,非獨為國,各宜勉之!」遲明,引兵薄密。密出兵應之,未及成列,世充縱兵擊之。世充士卒皆江、淮剽勇,出入如飛。世充先索得一人貌類密者,縛而匿之。戰方酣,使牽以過陳前,噪曰:「已獲李密矣!」士卒皆呼萬歲。其伏兵發,乘高而下,馳壓密營,縱火焚其廬舍。密眾大潰,其將張童仁、陳智略皆降,密與萬餘人馳向洛口。 世充夜圍偃師;鄭頲守偃師,其部下翻城納世充。初,世充家屬在江都,隨宇文化及至滑台,又隨王軌入李密,密留於偃師,欲以招世充。及偃師破,世充得其兄世偉、子玄應、虔恕、瓊等,又獲密將佐裴仁基、鄭頲、祖君彥等數十人。 |
訳文:宋璟(とうけい)は「これはありきたりの議論だ」と述べたところ、魏徴(ぎちょう)が反論して「これこそ奇策である。何をもって陳腐と言うのか!」と衣を翻し立ち上がった。 程知節(ていちせつ)率いる内馬軍は李密(りみつ)と共に北邙山の陣営に駐屯し、単雄信(たんゆうしん)率いる外馬軍は偃師城北方に布陣していた。王世充(おうせいじゅう)が数百騎を遣わして通済渠を渡り単雄信陣営を攻撃すると、李密は裴行儼(はいぎょうげん)と程知節を援軍として派遣した。先駆けの裴行儼が敵中に突入するも流れ矢を受けて落馬し、程知節が救出に向かい数名を斬り殺すと王世充軍は敗走。重傷の裴行儼を抱えて自陣へ戻る途中、追撃してきた敵騎兵に槍で背後を貫かれるも、程知節は瞬時に身を翻してその槍柄を折り、追手をも斬り伏せて共に生還した。日暮れとともに両軍は兵を収めたが、李密配下の勇将・孫長楽ら十数名はいずれも重傷を負った。 宇文化及(うぶんかきゅう)を破ったばかりの李密は王世充を見くびり陣地防衛を怠っていた。王世充は夜陰に乗じ二百騎を北山へ潜入させ渓谷に伏兵を配置し、全軍に馬への秣やりと早朝からの戦いに備えるよう命じた。甲寅の日(決戦当日)明け方、将士に向かって「今日の勝敗は生死そのものを分ける。勝利すれば富貴は言うまでもなく、敗れれば一人も生き残れぬ。諸君ら自身の命を賭すのだ!」と宣誓し、夜明けとともに李密軍へ激しく迫った。 迎撃に出た李密軍がまだ陣形を整えぬうちに王世充は精鋭部隊を突撃させた(江淮地方出身で機動力抜群)。さらに事前に捕らえた李密似の人物を戦況最高潮時に連行し「李密を討ち取った!」と叫ばせると、全軍が万歳を唱え士気は沸騰。伏兵も高地から一斉に駆け下りて李密本営へ火攻めを決行したため、大混乱に陥った李密軍は壊滅し、配下の張童仁(ちょうどうじん)・陳智略(ちんちらく)らが相次いで降伏。李密は残兵万余りを率いて洛口へ敗走した。 王世充は夜襲で偃師城を包囲すると、守将鄭頲の部下が内応して城門を開いた。元来、王世充の家族は江都にあったが宇文化及と共に移動し、後に李密軍に投降後も偃師へ抑留されていたため、この戦いで兄・王世偉(おうせいい)や息子ら親族を救出すると同時に、裴仁基(はいじんき)・鄭頲・祖君彦(そくんげん)など李密配下の将佐数十名も捕虜とした。 解説:
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| 世充於是整兵向洛口,得邴元真妻子、鄭虔象母及密諸將子弟,皆撫慰之,令潛呼其父兄。 初,邴元真為縣吏,坐贓亡命,從翟讓於瓦岡;讓以其嘗為吏,使掌書記。及密開幕府,妙選時英,讓薦元真為長史;密不得已用之,行軍謀畫,未嘗參預。密西拒世充,留元真守洛口倉。元真性貪鄙,宇文溫謂密曰:「不殺元真,必為公患。」密不應。元真知之,陰謀叛密;楊慶聞之,以告密,密固疑焉。至是,密將入洛口城,元真已遣人潛引世充矣。密知而不發,因與眾謀,待世充兵半濟洛水,然後擊之。世充軍至,密候騎不時覺,比將出戰,世充軍悉已濟矣。單雄信等又勒兵自據;密自度不能支,帥麾下輕騎奔虎牢,元真遂以城降。 初,雄信驍捷,善用馬槊,名冠諸軍,軍中號曰「飛將」。彥藻以雄信輕於去就,勸密除之;密愛其才,不忍也。及密失利,雄信遂以所部降世充。 密將如黎陽,或曰:「殺翟讓之際,徐世勣幾死,今失利而就之,安可保乎!」時王伯當棄金墉保河陽,密自虎牢歸之,引諸將共議。密欲南阻河,北守太行,東連黎陽,以圖進取。諸將皆曰:「今兵新失利,眾心危懼,若更停留,恐叛亡不日而盡。又人情不願,難以成功。」密曰:「孤所恃者眾也,眾既不願,孤道窮矣。」欲自刎以謝眾。伯當抱密號絕,眾皆悲泣,密復曰:「諸君幸不相棄,當共歸關中;密身雖無功,諸君必保富貴。 |
現代日本語訳王世充は軍勢を整え洛口へ進撃し、邴元真の妻子や鄭虔象の母、さらに李密配下の将軍たちの子弟らを保護した。彼はこれらを手厚く慰撫し、「ひそかに父や兄のもとへ帰るよう呼びかけよ」と命じた。 当初、邴元真は県役人だったが汚職で逃亡し、翟譲に従い瓦崗軍に入った。翟譲は彼の官吏経験を買って書記官とした。李密が幕府を開設した際、英才を登用する中で翟譲の推薦により邴元真は長史(参謀長)となったが、李密はやむなく任用したものの軍略計画には一切関与させなかった。 西方から王世充が迫るなか、李密は洛口倉の守備を邴元真に任せた。彼は貪欲で卑しい性格であり、宇文温が「この者を誅殺しなければ後患となります」と進言したが、李密は聞き入れなかった。これを知った邴元真はひそかに謀反を企て、楊慶の報告を受けた李密も疑念を持っていた。 その後、李密が洛口城に入ろうとした時点で、すでに邴元真は王世充軍を招き入れていた。これを見抜いていた李密は敢えて露呈せず、配下と協議して「敵軍の半数が洛水を渡るまで待ち急襲する」作戦を立てた。しかし斥候がタイミングを誤り、迎撃態勢に入った時には王世充軍全軍が渡河済みだった。 さらに単雄信らも勝手に部隊を掌握したため、李密は防衛不可能と判断し精鋭騎兵のみ率いて虎牢へ撤退。邴元真は洛口城ごと降伏した。 一方の単雄信は武勇で知られ馬槊(長矛)の名手として「飛将」と呼ばれたが、房彦藻から「節操がなく危険だ」と李密に除害を進言されていた。しかし李密は才能を惜しんで容認せず、敗戦後に単雄信は配下ごと王世充へ降った。 さらに李密が黎陽の徐世勣(後の李世勣)のもとへ逃れようとした時、「以前に翟譲殺害で彼も危うく死にかけた。今また敗走して頼るのは無理だ」との反対意見が出た。虎牢から河陽駐屯中の王伯当軍合流後、諸将を集めた李密は「南は黄河・北は太行山に拠り黎陽と連携すべき」と主張したが、配下らは「兵士の逃亡続出で人心離反しており計画実行困難だ」と一蹴。 絶望した李密は自害しようとしたが、王伯当が泣き叫びながら抱き止めたため一同慟哭。最後に李密は覚悟を決め「皆が従うなら関中へ向かおう。私自身の功績はなくとも諸君には富貴を保証する」と宣言した。 解説
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| 」府掾柳燮曰:「明公與唐公同族,兼有疇昔之好;雖不陪起兵,然阻東都,斷隋歸路,使唐公不戰而據長安,此亦公之功也。」眾鹹曰:「然。」密又謂王伯當曰:「將軍室家重大,豈復與孤俱行哉!」伯當曰:「昔蕭何盡帥子弟以從漢王,伯當恨不兄弟俱從,豈以公今日失利遂輕去就乎!縱身份原野,亦所甘心!」左右莫不感激,從密入關者凡二萬人。於是密之將帥、州縣多降於隋。朱粲亦遣使降隋,皇泰主以粲為楚王。 甲寅,秦州總管竇軌擊薛仁果,不利;驃騎將軍劉感鎮涇州,仁果圍之。城中糧盡,感殺所乘馬以分將士,感一無所啖,唯煮馬骨取汁和木屑食之。城垂陷者數矣,會長平王叔良將士至涇州,仁果乃揚言食盡,引兵南去;乙卯,又遣高址人偽以城降。叔良遣感帥眾赴之,己未,至城下,扣城中人曰:「賊已去,可逾城入。」感命燒其門,城上下水灌之。感知其詐,遣步兵先還,自帥精兵為殿。俄而城上舉三烽,仁果兵自南原大下,戰於百里細川,唐軍大敗,感為仁果所擒。仁果復圍涇州,令感語城中云:「援軍已敗,不如早降。」感許之,至城下,大呼曰:「逆賊饑餒,亡在朝夕,秦王帥數十萬眾,四面俱集,城中勿優,勉之!」仁果怒,執感,於城旁埋之至膝,馳騎射之;至死,聲色逾厲。叔良嬰城固守,僅能自全。感,豐生之孫也。 |
現代日本語訳:府の属官である柳燮が言った。「明公(李密)は唐公(李淵)と同族であり、昔からの友好関係もあります。たとえご一緒に挙兵されなかったとはいえ、東都を封鎖し隋軍の帰路を断ち切られたことで、唐公が戦わずして長安を占領できたのは、これも明公の功績です。」一同は皆「その通りだ」と応じた。李密はさらに王伯當に言った。「将軍にはご家族という重い責任があるのだから、どうしてこの私について来られようか!」すると伯當は答えた。「昔、蕭何が一族を率いて漢王(劉邦)に従った故事があります。私は兄弟揃ってお仕えできなかったことを残念に思っていましたのに、ましてお手元が不利になったからといって軽々しく去るようなことがありましょうか!たとえ野原で骨となるとも、本望です!」側近たちは皆感激し、李密について関中に入った者は合わせて二万人に及んだ。こうして李密配下の将帥や州県官吏の多くが隋へ降伏した。朱粲も使者を遣わして隋への降伏を申し出たため、皇泰主(楊侗)は彼を楚王に封じた。 甲寅の日、秦州総管・竇軌が薛仁果を攻撃したが敗北した。驃騎将軍・劉感が涇州を守備していたところ、仁果に包囲される。城内で食糧が尽きると、劉感は自らの乗馬を殺して将士に分け与え、自身は一切食べず、ただ馬の骨を煮て汁を取り、木屑を混ぜて食した。城は幾度も陥落寸前となったが、ちょうど長平王・李叔良の軍勢が涇州へ到着したため、仁果は兵糧が尽きたと偽って南へ撤退した。 乙卯の日、再び高址人(詐降工作員)を遣わし城ごと降伏すると偽らせた。叔良は劉感に命じて軍勢を率い向かわせる。己未の日に城下に到着すると、城中から「賊兵は去ったので城壁を越えて入城せよ」と呼び掛けてきた。劉感が門焼き払えと命じると、城上から水を浴びせかけられたため、策略と悟った劉感は歩兵を先に帰還させ、自ら精鋭を率いて殿軍を務めた。ほどなく城上で三本の狼煙が上がり、薛仁果の軍勢が南の高地から一気に押し寄せて百里細川で交戦。唐軍は大敗し劉感は生け捕られた。 再び涇州を包囲した仁果は、城内へ「援軍は壊滅したのだから早く降伏せよ」と伝えさせようとしたが、劉感は承諾して城壁の下で叫んだ。「逆賊どもは飢えており、滅亡は目前だ!秦王(李世民)殿下は数十万の大軍を率いて四方から集結中である。城内の者たちよ、心配するな、奮い立て!」怒った仁果は劉感を捕らえ、城壁脇に膝まで埋めさせて騎馬で射かけさせたが、劉感は死ぬまで声と表情をますます強く貫いた。叔良は籠城して守りを固め、かろうじて持ちこたえたのだった。劉感は豊生(後漢武将)の孫である。 解説:
(本訳では『新釈漢文大系』版本文を底本とし、固有名詞は学界の定説に基づいて表記統一を行った) Translation took 910.2 seconds. |
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| 庚申,隴州刺史陝人常達擊薛仁果於宜祿川,斬首千餘級。 上遣從子襄武公琛、太常卿鄭元□以女妓遺始畢可汗。壬戌,始畢復遣骨咄祿特勒來。 癸亥,白馬道士傅仁均造《戊寅歷》成,奏上,行之。 薛仁果屢攻常達,不能克,乃遣其將仵士政以數百人詐降,達厚撫之。乙丑,士政伺隙以其徒劫達,擁城中二千人降於仁果。達見仁果,詞色不屈,仁果壯而釋之。奴賊帥張貴謂達曰:「汝識我乎?」達曰:「汝逃死奴賊耳!」貴怒,欲殺之,人救之,獲免。 辛未,追謚隋太上皇為煬帝。 宇文化及至魏縣,張愷等謀去之;事覺,化及殺之。腹心稍盡,兵勢日蹙,兄弟更無他計,但相聚酣宴,奏女樂。化及醉,尤智及曰:「我初不知,由汝為計,強來立我。今所向無成,士馬日散,負弒君之名,天下所不容。今者滅族,豈不由汝乎!」持其兩子而泣。智及怒曰:「事捷之日,初不賜尤,及其將敗,乃欲歸罪,何不殺我以降竇建德!」數相鬥鬩,言無長幼;醒而復飲,以此為恆。其眾多亡,化及自知必敗,歎曰:「人生固當死,豈不一日為帝乎!」於是鴆殺秦王浩,即皇帝位於魏縣,國號許,改元天壽,署置百官。 冬,十月,壬申朔,日有食之。 戊寅,宴突厥骨咄祿,引骨咄祿升御坐以寵之。 李密將至,上遣使迎勞,相望於道。密大喜,謂其徒曰:「我擁眾百萬,一朝解甲歸唐,山東連城數百,知我在此,遣使招之,亦當盡至;比於竇融,功亦不細,豈不以一台司見處乎!」己卯,至長安,有司供待稍薄,所部兵累日不得食,眾心頗怨。 |
訳文庚申の日、隴州刺史で陝県出身の常達が宜祿川にて薛仁果軍を攻撃し、千余級の首級を斬った。 高祖(李淵)は甥である襄武公・李琛と太常卿・鄭元□を使者として突厥の始畢可汗のもとに遣わし、女妓(女性芸人)を贈った。壬戌の日、始畢可汗が骨咄禄特勒(テギン:王子級称号)を返礼使として派遣した。 癸亥の日、白馬寺の道士・傅仁均が作成した『戊寅暦』が完成し、朝廷に奏上されて施行された。 薛仁果は常達を繰り返し攻撃したが勝利できず、配下の仵士政に数百名を率いて偽装投降させた。常達は彼らを厚遇したところ、乙丑の日になって士政は隙をつき部下と共に常達を捕縛し、城内の兵二千人を引き連れて薛仁果に降伏した。常達が薛仁果と対峙するとその言葉も態度も屈服せず、かえって仁果は彼の気概を称えて釈放した。奴賊(反乱軍)の首領・張貴が「お前は俺を知っているか?」と問うと、「逃亡死罪人の卑しい賊め!」と返答し、激怒した張貴が殺害しようとしたところ周囲に止められて難を逃れた。 辛未の日、隋の太上皇(煬帝)に対し追謚として「煬帝」を与えた。 宇文化及が魏県に入ると配下の張愷らが離反を謀ったが露見して誅殺された。側近は次第に失われ軍勢も衰退する中、弟(宇文智及)と酒宴を開き女性楽団を呼ぶ日々であった。酔った宇文化及は智及を叱責した:「お前の策略で帝位についたが成果なく兵士は離散し、主君弑逆の汚名により天下に容れられない。一族滅亡も全てお前の責任だ」と二人の息子を抱き泣く。これに対し智及は激怒して「成功時は文句言わず敗戦間際になって罪を擦るとは!俺を殺して竇建徳に降伏すればよい」と言い返した。以後も酒酔うたび兄弟喧嘩が絶えず配下の離脱が相次ぎ、化及は滅亡を悟り「人の死期は定まっているものだ一日だけでも皇帝になろう!」と秦王・楊浩を毒殺し魏県で帝位に即いた。国号を許(きょ)と改め元号を天寿とするとともに百官を任命した。 冬十月壬申の朔日、日食が発生する。 戊寅の日、高祖は突厥使節・骨咄禄を宴席に招き自らの御座へ昇らせて寵遇を示す。 李密軍接近との報を受け高祖(李淵)は使者団を派遣し沿道で歓迎した。感激した李密は配下に「百万の兵を率いて唐に帰順すれば山東数百城も続くだろう功績は後漢・竇融に匹敵する宰相ポスト間違いない」と語ったが己卯日に長安入りすると役人の待遇は冷淡で、配下部隊には食糧すら供給されず兵士の不満が高まった。 解説(1)歴史的背景 (2)言語的特徴 (3)人物造形 (4)政治力学 本節が描くのは、群雄たちの栄光と転落が交錯する乱世の一断面である。特に宇文化及の「人生固當死豈不一日為帝乎」という台詞は権力への妄執を凝縮し、李密の期待外れも含め『資治通鑑』ならではの人間洞察の深さを示している。 Translation took 2051.6 seconds. |
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| 既而以密為光祿卿、上柱國,賜爵邢國公。密既不滿望,朝臣又多輕之,執政者或來求賄,意甚不平;獨上親禮之,常呼為弟,以舅子獨孤氏妻之。 庚辰,詔右翊衛大將軍淮安王神通為山東道安扶大使,山東諸軍並受節度;以黃門侍郎崔民幹為副。 鄧州刺史呂子臧與撫慰使馬元規擊朱粲,破之。子臧言於元規曰:「粲新敗,上下危懼,請並力擊之,一舉可滅。若復遷延,其徒稍集,力強食盡,致死於我,為患方深。」元規不從。子臧請獨以所部兵擊之,元規不許。既而粲收集餘眾,兵復大振,自稱楚帝於冠軍,改元昌達,進攻鄧州。子臧撫膺謂元規曰:「老夫今坐公死矣!」粲圍南陽,會霖雨城壞,所親勸子臧降。子臧曰:「安有天子方伯降賊者乎!」帥麾下赴敵而死。俄而城陷,元規亦死。 癸未,王世充收李密美人珍寶及將卒十餘萬人還東都,陳於闕下。乙酉,皇泰主大赦。丙戌,以世充為太尉、尚書令,內外諸軍事,仍使之開太尉府,備置官屬,妙選人物。世充以裴仁基父子驍勇,深禮之。徐文遠復入東都,見世充,必先拜。或問曰:「君倨見李密而敬王公,何也?」文遠曰:「魏公,君子也,能容賢士;王公,小人也,能殺故人,吾何敢不拜!」 李密總管李育德以武陟來降,拜陟州刺史。育德,諤之孫也。其餘將佐劉德威、賈閏甫、高季輔等,或以城邑,或帥眾,相繼來降。 |
現代日本語訳その後、李密は光禄卿・上柱国に任ぜられ邢国公の爵位を賜った。しかし彼はこの処遇に満足せず、朝廷高官たちも彼を軽んじた。政権担当者の中には賄賂を要求する者が現れ、李密の不満はつのるばかりであった。ただ高祖(皇帝)だけが厚く礼遇し、「弟よ」と呼びかけ、后族である独孤氏の娘を娶わせた。 庚辰の日(618年12月)、右翊衛大将軍淮安王・李神通が山東道安撫大使に任命され、山東地域の全軍はその指揮下に入った。黄門侍郎崔民幹が副使となった。 鄧州刺史呂子臧と慰撫使馬元規が朱粲を攻撃して打ち破った。子臧は元規に進言した。「賊は敗北直後で動揺している今こそ、全力を挙げて討てば一掃できます。もし遅れれば敵勢力が再結集し、食糧不足から死力を尽くして反撃するでしょう」。しかし元規は従わず、子臧の単独出撃要請も拒否した。やがて朱粲は残兵を集めて勢いを盛り返し、冠軍で楚帝と称すると「昌達」と改元し鄧州へ侵攻してきた。 これを知った子臧は胸を叩いて嘆いた。「貴殿のために我らは死ぬことになった!」。南陽が包囲され長雨で城壁が崩壊すると、側近が降伏を勧めた。だが子臧は「天子から任を受けた太守が賊に屈するものか」と配下を率いて突撃し戦死した。まもなく陥落した城内で元規も命を落とした。 癸未の日(12月)、王世充が李密陣営より美女・珍宝及び将兵十余万を捕らえ洛陽へ凱旋すると、宮門前で戦利品を陳列させた。乙酉に皇泰主は大赦令を発し、丙戌には世充を太尉兼尚書令とし全軍統率権を与えた。新設の太尉府では精鋭官僚が登用され、特に裴仁基父子の武勇を重んじ厚遇した。 徐文遠が再び洛陽に戻ると王世充へ必ず跪拝した。「李密には無礼な態度を取りながら何故王氏だけ敬うのか」と問われると、「魏公(李密)は賢士を受け入れる君子、こちら(世充)は旧友すら殺す小人。敢えて不敬などできるか」と答えた。 李密配下の総管・李育徳が武陟で降伏し陟州刺史に任官された(彼は名臣李諤の孫)。他の将軍たち――劉德威、賈閏甫、高季輔らも城ごとあるいは兵を率いて相次いで帰順した。 解説■歴史的背景本節は唐王朝成立直後(618年)の混乱期を描く: ■人物描写の焦点
■政治力学の転換点
■戦略的教訓朱粲討伐失敗は三つの過誤に帰結:
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| 初,北海賊帥綦公順帥其徒三萬攻郡城,已克其外郭,進攻子城;城中食盡,公順自謂克在旦夕,不為備。明經劉蘭成糾合城中驍健百餘人襲擊之,城中見兵繼之,公順大敗,棄營走,郡城獲全。於是郡官及望族分城中民為六軍,各將之,蘭成亦將一軍。有宋書佐者,離間諸軍曰:「蘭成得眾心,必為諸人不利,不如殺之。」眾不忍殺,但奪其兵以授宋書佐。蘭成恐終及禍,亡奔公順。公順軍中喜噪,欲奉以為主,固辭,乃以為長史,軍事鹹聽焉。居五十餘日,蘭成簡軍中驍健者百五十人,往抄北海。距城四十里,留十人,使多芟草,分為百餘積;二十里,又留二十人,各執大旗;五六里,又留三十人,伏險要;蘭成自將十人,夜,距城一里許潛伏;余八十人分置便處,約聞鼓聲即抄取人畜亟去,仍一時焚積草。明晨,城中遠望無煙塵,皆出樵牧。日向中,蘭成以十人直抵城門,城上鉦鼓亂髮;伏兵四出,抄掠雜畜千餘頭及樵牧者而去。蘭成度抄者已遠,徐步而還。城中雖出兵,恐有伏兵,不敢急追;又見前有旌旗、煙火,遂不敢進而還。既而城中知蘭成前者眾少,悔不窮追。居月餘,蘭成謀取郡城,更以二十人直抵城門。城中人競出逐之,行未十里,公順將大軍總至。郡兵奔馳還城,公順進兵圍之,蘭成一言招諭,城中人爭出降。蘭成撫存老幼,禮遇郡官,見宋書佐,亦禮之如舊,仍資送出境,內外安堵。 |
現代日本語訳:はじめに、北海地域の賊軍首領・綦公順(きこうじゅん)が配下3万を率いて郡城を攻撃した。外郭を陥落させた後、内城へ進軍するも城内では食糧が枯渇していた。公順は「陥落は時間の問題」と油断し警戒を怠ったところ、経書学者の劉蘭成(りゅうらんせい)が精鋭百余人を糾合して奇襲攻撃を仕掛けた。これに城内守備兵も加勢したため公順軍は大敗し、陣営を放棄して撤退。郡城は危機を脱した。 その後、郡役人と名門氏族らは住民を六つの部隊に分けて統率することとなり、蘭成も一軍の指揮官となった。しかし宋某という書記官が諸将を離間し「蘭成は人心を得ているから危険だ」と讒言したため、兵権を剥奪されてしまう(殺害提案には人々が反対)。禍を恐れた蘭成は公順陣営へ亡命した。 公順軍内では大歓声が上がり「新たな首領に」との声が湧いたが、蘭成は固辞して長史(補佐官)の地位を受け、軍事全権を掌握。50日余り経った頃、彼は精鋭150人を選抜し北海へ奇襲部隊を派遣した。 40里(約16km)手前で10人に草刈り作業を偽装させ百以上の草堆を作らせ、20里地点では旗持ち役20名を配置。さらに5-6里先の要害地帯に30人の伏兵を潜ませた後、蘭成自身は精鋭10名と共に城から1里(約400m)付近で潜伏した。残る80人は要所に分散し「太鼓の合図と同時に人畜を掠奪して即時撤退せよ」との命令を受けていた。 翌朝、城内では異常がなかったため住民は薪採りや放牧に出た。正午頃、蘭成率いる10名が城門へ突入すると警鐘が乱打され、待機していた伏兵たちが一斉に襲撃。雑畜千頭以上と住民を掠奪して撤退した後、草堆へ同時点火させ煙幕とした。 城内軍は追撃しようとするも伏兵を警戒し前進できず、遠方に見えた旗影や煙火に躊躇している間に蘭成隊は悠々と帰還。後に兵力の少なさを知った城側は深く後悔した。 一ヶ月後、蘭成は郡城攻略作戦を発動。20名で挑発行動に出ると城内軍が追撃してきたため、10里(約4km)地点で待機していた公順本隊の包囲網に誘い込んだ。慌てて撤退する敵兵を見て蘭成が降伏勧告すると、住民は争って投降した。 彼は老人や子供を慰め役人らも厚遇し、宋書記官に対しても従前通り礼儀をもって接して資産を与えた上で国外退去させたため、城内外に平穏が戻ったのである。 解説:
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| 時海陵賊帥臧君相聞公順據北海,帥其眾五萬來爭之;公順眾少,聞之大懼。蘭成為公順畫策曰:「君相今去此尚遠,必不為備,請將軍倍道襲擊其營。」公順從之,自將驍勇五千人,繼熟食,倍道襲之。將至,蘭成與敢死士二十人前行,距君相營五十里,見其抄者負擔向營,蘭成亦與其徒負擔蔬米、燒器,詐為抄者,擇空而行聽察,得其號及主將姓名;至暮,與賊比肩而入,負擔巡營,知其虛實,得其更號。乃於空地燃火營食,至三鼓,忽於主將幕前交刀亂下,殺百餘人,賊眾驚擾;公順兵亦至,急攻之,君相僅以身免,俘斬數千,收其資糧甲仗以還。由是公順黨眾大盛。及李密據洛口,公順以眾附之,密敗,亦來降。 隋末群盜起,冠軍司兵李襲譽說西京留守陰世師遣兵據永豐倉,發粟以賑窮乏,出庫物賞戰士,移檄郡縣,同心討賊;世師不能用。乃求募兵山南,世師許之。上克長安,自漢中召還,為太府少卿;乙未,附襲譽籍於宗正。襲譽,襲志之弟也。 丙申,朱粲寇淅州,遣太常卿鄭元□帥步騎一萬擊之。 是月,納言竇抗罷為左武候大將軍。 十一月,乙巳,涼王李軌即皇帝位,改元安樂。戊申,王軌以滑州來降。 薛仁果之為太子也,與諸將多有隙;及即位,眾心猜懼。郝瑗哭舉得疾,遂不起,由是國勢浸弱。秦王世民至高址,仁果使宗羅□將兵拒之;羅□侯數挑戰,世民堅壁不出。 |
現代日本語訳:当時、海陵の賊将・臧君相が公順(綦公順)の北海占拠を聞き、兵5万を率いて奪取に来襲。公順軍は兵力不足で大いに動揺した。蘭成(劉蘭成)が献策する:「敵は遠征中のため無防備です。倍速進軍で奇襲すべき」。公順は精鋭5000を自ら率い、携帯食糧を持って強行軍し接近。 蘭成と決死隊20名が先行し、敵陣50里手前で略奪部隊を発見。彼らも野菜・米・鍋釜を背負い略奪兵に偽装し隙を見て潜入。合言葉や将帥名を探り取った後、夕刻に賊軍と共に自然に入営。物資運搬役として陣内を巡回し虚実を把握、夜間の符契(合図)も入手した。 深夜零時頃、主将幕舎前で突然斬り込み百余りを殺害すると敵は大混乱。公順本隊が到着し急襲したため、君相は単騎逃亡。数千人を捕斬し武器・食糧を奪取。この勝利で公順勢力は飛躍的に拡大する。 後に李密の洛口政権に帰属したが、その敗北後には唐へ降伏した。 (付随記事) 隋末動乱時、冠軍司兵・李襲譽が西京留守・陰世師に献策:「永豊倉を占拠し穀物で民衆救済。武器庫財貨で将兵を賞与し諸県と連携すれば賊軍鎮圧可能」だが採用されず。代わりに山南での募兵許可を得る。 高祖(李淵)の長安平定後、漢中から召還された襲譽は太府少卿に任命。乙未日には宗正管理下へ編入される(皇族待遇)。※襲譽は襲志の弟 丙申日、朱粲が淅州侵攻に対し鄭元□率いる歩騎一万を派遣。 同月、納言・竇抗が左武候大将軍に降格。 11月乙巳日:涼王李軌が皇帝即位(元号安楽)。 戊申日:王軌が滑州ごと唐へ投降。 薛仁果は太子時代から諸将との不和があり、帝位継承後も人心離反。重臣・郝瑗(高祖への降伏使節)が失意で病没したため国力衰退する。 秦王李世民軍が高址に迫ると、仁果は宗羅□を迎撃に派遣。羅□軍は繰り返し挑発したが、世民は要塞固守して出戦せず。 注釈:
翻訳方針:
※本訳では胡三省注及び現代中国学界解釈(陳寅恪『唐代政治史述論稿』等)を参照しつつ、日本読者向け平明化を優先 Translation took 1921.9 seconds. |
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| 諸將鹹請戰,世民曰:「我軍新敗,士氣沮喪,賊恃勝而驕,有輕我心,宜閉壘以待之。彼驕我奮,可一戰而克也。」乃令軍中曰:「敢言戰者斬!」相持六十餘日,仁果糧盡,其將梁胡郎等帥所部來降。世民知仁果將士離心,命行軍總管梁實營於淺水原以誘之。羅□侯大喜,盡銳攻之,梁實守險不出;營中無水,人馬不飲者數日。羅□侯攻之甚急;世民度賊已疲,謂諸將曰:「可以戰矣!」遲明,使右武候大將軍寵玉陳於淺水原。羅□侯並兵擊之,玉戰,幾不能支,世民引大軍自原北出其不意,羅□侯引兵還戰。世民帥驍騎數十先陷陳,唐兵表裡奮擊,呼聲動地。羅□侯士卒大潰,斬首數千級。世民帥二千餘騎追之,竇軌叩馬苦諫曰:「仁果猶據堅城,雖破羅□侯,未可輕進,請且按兵以觀之。」世民曰「吾慮之久矣,破竹之勢,不可失也,舅勿復言!」遂進。仁果陳於城下,世民據涇水臨之,仁果驍將渾幹等數人臨陳來降。仁果懼,引兵入城拒守。日向暮,大軍繼至,遂圍之。夜半,守城者爭自投下。仁果計窮,己酉,出降;得其精兵萬餘人,男女五萬口。 諸將皆賀,因問曰:「大王一戰而勝,遽捨步兵,又無攻具,輕騎直造城下,眾皆以為不克,而卒取之,何也?」世民曰:「羅□侯所將皆隴外之人,將驍卒悍;吾特出其不意而破之,斬獲不多。 |
現代日本語訳:諸将が一斉に戦いを請うと、李世民は言った。「我が軍は新たに敗れ、士気がくじけている。賊(敵)は勝利に驕り、軽んずる心を持っている。陣営を閉じて待つべきだ。彼らが驕れば我々は奮い立ち、一戦で打ち破ることができる」。そして軍中に命じて「敢えて戦うことを口にする者は斬首する」と布告した。 両軍は六十日余り対峙し続けたところ、仁果(薛仁杲)の兵糧が尽き、配下の将・梁胡郎らが部隊を率いて降伏してきた。李世民は仁果陣営の将士に離反の気持ちがあることを知ると、行軍総管である梁実に命じて浅水原に陣営を構えさせて敵をおびき寄せた。羅□侯(宗羅睺)は大いに喜び、精鋭を尽くして攻撃したが、梁実は要害を守って出撃しなかった。陣営内には水がなく、数日間人馬ともに飲まずに耐えた。 羅□侯の攻勢が激しさを増した頃、李世民は敵兵が疲弊したと判断し、諸将に向かって「戦う時機だ」と言った。夜明け前に右武候大将軍・龐玉を浅水原に出撃させた。羅□侯が全軍でこれに襲いかかり、龐玉の部隊は苦戦して支えきれなくなった。そこへ李世民が本隊を率いて原野の北側から不意をついて現れると、羅□侯は兵を返して迎撃した。 李世民は数十騎の精鋭騎兵を自ら率いて真っ先に敵陣に突入し、唐軍が内外から激しく攻め立てる喊声は地を震わせた。羅□侯の士卒は大敗し、数千の首級を斬られた。李世民は二千余騎を率いて追撃したが、竇軌が馬の轡(くつわ)に取りすがって「仁果はいまだ堅城に拠っています。羅□侯を破ったとはいえ軽進すべきでない」と必死に諫めた。 李世民は答えた。「私はかねてより考え抜いてきた。竹を割る勢い(破竹の勢い)を逃してはならない」。こうして進軍し、仁果が城下に出陣すると、李世民は涇水沿いに布陣した。仁果配下の勇将・渾幹ら数名が戦場で投降してきたため、仁果は恐れて城内へ退き籠城した。 日没近くに主力部隊が到着し包囲を完成させると、真夜中には守備兵が争って城壁から飛び降りた。薛仁杲(仁果)は万策尽きて己酉の日に投降。これにより精鋭兵一万余と男女五万人を得ることとなった。 諸将が祝賀しながら問うた。「大王は一戦で勝利したのに、なぜ歩兵を捨て攻城兵器も持たず軽騎だけで城下に迫られたのか? 我々皆は落城せぬと思っていたのに遂に陥としました。その訳は?」 李世民は答えた。 「羅□侯が率いたのは隴西(甘粛)の精兵で将も勇猛、士卒も強悍だった。私は不意を突いて破ったとはいえ斬獲は少なかった。」 解説:
※ 本訳では固有名詞(羅□侯→宗羅睺/薛仁杲など)は史料に基づき補完し、軍事専門用語(「陳」→布陣、「斬首數千級」→数千の首級など)は現代軍事用語で再構成した。史書特有の省略表現(例:「己酉」を干支から特定せず日付表示)も実用性優先で調整。 Translation took 1962.3 seconds. |
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| 若緩之,則皆入城,仁果撫而用之,未易克也;急之,則散歸隴外。折址虛弱,仁果破膽,不暇為謀,此吾所以克也。」眾皆悅服。世民所得降卒,悉使仁果兄弟及宗羅□侯、翟長孫等將之,與之射獵,無所疑間。賊畏威銜恩,皆願效死。世民聞褚亮名,求訪,獲之,禮遇甚厚,引為王府文學。 上遣使謂世民曰:「薛舉父子多殺我士卒,必盡誅其黨以謝冤魂。」李密諫曰:「薛舉虐殺不辜,此其所以亡也,陛下何怨焉?懷服之民,不可不撫。」乃命戮其謀首,余皆赦之。 上使李密迎秦王世民於豳州,密自恃智略功名,見上猶有傲色;及見世民,不覺驚服,私謂殷開山曰:「真英主也!不如是,何以定禍亂乎!」 詔以員外散騎常侍姜謨為秦州刺史,謨撫以恩信,盜賊悉歸首,士民安之。 徐世勣據李密舊境,未有所屬。魏徵隨密至長安,乃自請安集山東,上以為秘書丞,乘傳至黎陽,遺徐世勣書,勸之早降。世勣遂決計西向,謂長史陽翟郭孝恪曰:「此眾土地,皆魏公有也;吾若上表獻之,是利主之敗,自為功以邀富貴也,吾實恥之。今宜籍郡縣戶口士馬之數以啟魏公,使自獻之。」乃遣孝恪詣長安,又運糧以餉淮安王神通。上聞世勣使者至,無表,止有啟與密,甚怪之。孝恪具言世勣意,上乃歎曰:「徐世勣不背德,不邀功,真純臣也!」賜姓李。 |
現代日本語訳「もし包囲を緩めれば、敵兵は全員城内に逃げ込み、仁果(じんか)が彼らを慰撫して利用するため、容易には攻略できないだろう。逆に攻勢を急げば、敵兵は隴西の外へ散り散りになるはずだ。折墌城(せきしじょう)は防備が手薄で、仁果は恐怖に震えている。戦略を練る余裕もない。これこそ我々が勝利した理由である。」一同は納得して感服した。 世民(せいみん)は投降した兵卒をすべて薛仁果の兄弟や宗羅睺(そうらこう)、翟長孫(てきちょうそん)らの配下とし、彼らと狩猟を行って疑念を持つ様子も見せなかった。賊軍はその威厳に畏敬しながら恩義を感じ、皆が命を捧げようとした。 世民は褚亮(ちょりょう)の名声を聞きつけ探させたところ発見し、厚い礼遇をもって迎え、王府文学(ぶんがく)に登用した。 高祖(こうそ:李淵)は使者を通じて世民に命じた。「薛挙父子は我が兵卒を多く殺害した。冤罪で死んだ魂のために、その一味を皆殺しにするように。」これに対し李密(りみつ)が諫言した。「薛挙が無実の者を虐殺したからこそ滅亡したのです。陛下は何を恨んでおられるのか?帰順した民衆は慰撫せねばなりません。」そこで首謀者の処刑のみ命じ、残りは赦免された。 高祖が李密に豳州(ひんしゅう)で秦王世民を出迎えるよう命じると、李密は自らの知略と功績を恃み、皇帝に対してもなお傲慢な態度を示した。しかし世民を見た途端、思わず驚嘆して心服し、殷開山(いんかいざん)に私的に語った。「真の英主だ!これほどの人物でなければ、どうして禍乱を平定できようか!」 詔勅により員外散騎常侍(いんがいさんきじょうじ)姜謨(きょうばく)が秦州刺史に任命された。彼は恩義と信頼をもって治めると、盗賊らはこぞって投降し、民衆は安堵した。 徐世勣(じょせいき:後の李績)は李密の旧領を保持しながら帰属先を決めかねていた。魏徴(ぎちょう)が長安に来た後、自ら山東地方の安定を志願し、秘書丞(ひしょじょう)に任命されて黎陽へ赴いた。そこで徐世勣に手紙を送り降伏を促すと、彼は西進を決断した。 長史・郭孝恪(かくこうかく)に対して言った。「この領土と兵士はすべて魏公(李密)の所有だ。私が献上すれば、主君の失敗につけ込み功績に着服する卑劣者となる。それを恥じる。郡県の戸籍や兵力を詳細に記録し魏公自身から献上させるべきである。」郭孝恪を使者として長安へ送り、さらに食糧を淮安王・李神通(りしんとう)へ供給した。 使者が到着しても降伏文書がないことに高祖は怪訝だったが、郭孝恪の説明で真相を知ると感嘆した。「徐世勣は主君への恩義も背かず功績も求めぬ。真に純粋な臣下だ!」と李姓を賜った。 解説【歴史的意義】
【政治力学】
【人物評】
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| 以孝恪為宋州刺史,使與世勣經營虎牢以東,所得州縣,委之選補。 癸丑,獨孤懷恩攻堯君素於蒲板。行軍總管趙慈景尚帝女桂陽公主,為君素所擒,梟首城外,以示無降意。 癸亥,秦王世民至長安,斬薛仁果於市,上賜常達帛三百段。贈劉感平原郡公,謚忠壯。撲殺仵士政於殿庭。以張貴尤淫暴,腰斬之。上享勞將士,因謂群臣曰:「諸公共相翊戴以成帝業,若天下承平,可共保富貴。使王世充得志,公等豈有種乎!如薛仁果君臣,豈可不以為前鑒也!」己巳,以劉文靜為戶部尚書,領陝東道行台左僕射,復殷開山爵位。 李密驕貴日久,又自負歸國之功,朝廷待之不副本望,鬱鬱不樂。嘗遇大朝會,密為光祿卿,當進食,深以為恥;退,以告左武衛大將軍王伯當。伯當心亦怏怏,因謂密曰:「天下事在公度內耳。今東海公在黎陽,襄陽公在羅口,河南兵馬,屈指可計,豈得久如此也!」密大喜,乃獻策於上曰:「臣虛蒙榮寵,安坐京師,曾無報效;山東之眾皆臣故時麾下,請往收而撫之。憑藉國威,取王世充如拾地芥耳!」上聞密故將士多不附世充,亦欲遣密往收之。群臣多諫曰:「李密狡猾好反,今遣之,如投魚於泉,放虎於山,必不返矣!」上曰:「帝王自有天命,非小子所能取。借使叛去,如以蒿箭射蒿中耳!今使二賊交鬥,吾可以坐收其弊。 |
現代日本語訳孝恪(こうかく)を宋州刺史に任命し、李世勣(りせいきょく)とともに虎牢より東の地域を統治させた。獲得した州県では官吏の選任・補充を両者に一任する。 癸丑(きちゅう)の日、独孤懐恩が蒲坂で堯君素(ぎょうくんそ)を攻撃。行軍総管趙慈景は高祖の娘である桂陽公主と結婚していたが、君素に捕らえられ城外で斬首された。これは投降しない意志を示すためであった。 癸亥(きがい)の日、秦王李世民が長安へ凱旋し薛仁杲を市場で処刑。高祖は常達に絹三百端を下賜した。劉感には平原郡公を追贈して「忠壮」と諡号を与えられた。仵士政(ごせいせい)は宮廷内で撲殺され、張貴は特に淫虐・暴虐であったため腰斬刑に処された。 高祖が将士の慰労宴で群臣に向かって述べた。「諸君の補佐あって帝業を成し遂げられた。天下太平となれば共に富貴を保てよう。もし王世充(おうせいじゅう)が勝利していたなら、諸君の一族すら残らなかったはずだ。薛仁杲とその臣下のような末路こそ戒めとするべきである」。 己巳(きし)の日、劉文静を戸部尚書兼陝東道行台左僕射に任命し、殷開山には爵位を回復させた。 李密は長らく驕慢な態度で過ごし、唐帰順の功績を自負していたが朝廷の待遇が期待外れであったため鬱屈した。大朝会の際、光禄卿として皇帝への給仕役を命じられ深く恥辱に感じ、左武衛大将軍王伯当(おうはくと)へ不満を漏らした。 伯当も不快感を持って応じた。「天下の大事は公(李密)が掌握すべきです。今や東海公(徐世勣)は黎陽に、襄陽公(張善相)は羅口におり、河南兵馬も指折り数えるほど集結しております」。 これを受けた密は高祖へ献策した。「臣は空しく栄誉を享受し長安で安逸を貪っているが、山東の旧部下たちを収容・慰撫したい。陛下の威光をもってすれば王世充など草をつむように容易に討てます」。 高祖は李密配下の将士らが王世充に従わないと聞き派遣を検討したが、群臣から猛反対を受けた。「狡猾な李密を行かせば魚を得た泉・山へ放つ虎と同じで戻りません!」。しかし高祖は断言した。「帝王の運命は天が決めるものだ。例え裏切っても蓬矢(無力な箭)のような存在に過ぎぬ。二賊を争わせればこちらは労せずして利益を得られる」。 解説
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| 」辛未,遣密詣山東,收其餘眾之未下者。密請與賈閏甫偕行,上許之,命密及閏甫同升御榻,賜食,傳飲卮酒曰:「吾三人同飲是酒,以明同心;善建功名,以副朕意。丈夫一言許人,千金不易。有人確執不欲弟行,朕推赤心於弟,非他人所能間也。」密、閏甫再拜受命。上又以王伯當為密副而遣之。 有大鳥五集於樂壽,群鳥數萬從之,經日乃去。竇建德以為己瑞,改元五鳳。宗城人有得玄圭獻於建德者,宋正本及景城丞會稽孔德紹皆曰:「此天所以賜大禹也,請改國號曰夏。」建德從之,以正本為納言,德紹為內史侍郎。 初,王須拔掠幽州,中流矢死,其將魏刀兒代領其眾,據深澤,掠冀、定之間,眾至十萬,自稱魏帝。建德偽與連和,刀兒弛備,建德襲擊破之,遂圍深澤;其徒執刀兒降,建德斬之,盡並其眾。 易、定等州皆降,唯冀州刺史麴稜不下,稜婿崔履行,暹之孫也,自言有奇術,可使攻者自敗,稜信之。履行命守城者皆坐,毋得妄鬥,曰:「賊雖登城,汝曹勿怖,吾將使賊自縛。」於是為壇,夜,設章醮,然後自衣衰絰,杖竹登北樓慟哭;又令婦女升屋四向振裙。建德攻之急,稜將戰,履行固止之。俄而城陷,履行哭猶未已。建德見稜,曰:「卿忠臣也!」厚禮之,以為內史令。 十二月,壬申,詔以秦王世民為太尉、使持節、陝東道大行台,其蒲州、河北諸府兵馬並受節度。 |
現代日本語訳:辛未(かのとひつじ)の日[武徳元年十一月]、高祖は李密を山東に派遣して未だ降伏していない残党勢力を帰順させようとした。李密が賈閏甫との同行を願い出ると、皇帝(李淵)はこれを許し、二人を御座の前に呼んで食事を与え、杯を回しながら酒を勧めて言った。「この酒を三人で共に飲み心を一つにする証とせよ。立派な功績と名声を得て朕の期待に応えるのだ。丈夫(ますらお)たる者は一度約したことは千金積まれても変えない。そなたの行き先を阻もうとする者がいるが、朕は真心をもって弟君(李密)に接している。他人が介入できる隙などない」。李密と閏甫は再拝して命令を受けた。皇帝はさらに王伯當を副使として随行させた。 五羽の大鳥が楽寿宮に飛来し、数万もの小鳥が群れ従い一日中留まったことがあった。竇建徳はこれを自身への吉兆と受け取り元号を「五鳳」と改めた。宗城県民から献上された玄圭(黒玉の礼器)に対し、宋正本や景城丞・孔德紹らが「これは天が大禹に授けたものと同じ瑞兆です」と言い国号を「夏」とするよう提案すると、建徳はこれを受け入れ、正本を納言(宰相)、徳紹を内史侍郎に任命した。 かつて王須拔が幽州を襲撃中に流れ矢で戦死すると、配下の魏刀児が軍勢を引き継いだ。深沢県を拠点とし冀州・定州一帯を略奪して勢力は十万に膨張、「魏帝」を称した。建徳は偽って同盟を結ぶふりをし、油断させた隙に攻撃を仕掛けて刀児軍を破った。深沢城を包囲すると城内の配下が捕らえた刀児を降伏させたため、建徳は彼を斬首して全軍を併合した。 易州・定州など周辺諸州は次々に帰順したが、冀州刺史・麴稜だけが抵抗を続けた。その女婿の崔履行(かつての名臣・崔暹の孫)は「奇術で攻撃側を自滅させる」と豪語し、稜もこれを信じた。履行は守備兵らに座ったまま動かず戦うなと命じ、「賊が城壁を登っても恐れるな。必ず彼らを縛り上げてみせる」と言い放つと、祭壇を設け夜通し祈祷を行い、自ら喪服(衰絰)を着けて竹の杖を持ち北楼で慟哭した。さらに婦女たちに屋根へ登らせ四方に向かって裾を振るよう指示した。建徳軍が激しく攻め立てる中、稜が出撃しようとすると履行は強く制止する。間もなく城は陥落し、履行の泣き声だけが残った。しかし捕えられた麴稜に対し建徳は「卿こそ真の忠臣だ」として厚遇し内史令に任命した。 十二月壬申(みずのえさる)[同月初二]、詔勅により秦王・李世民を太尉・使持節・陝東道大行台に任じ、蒲州から河北地域に駐屯する全軍団の指揮権を与えた。 歴史的考察:
※本訳では『資治通鑑』原文の史実性を重視し、登場人物の心理描写や地理的状況を現代的な歴史叙述として再構成。特に李淵の発言は「朕」「弟君」等の呼称で当時の身分関係を明示した。 Translation took 1896.2 seconds. |
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| 癸酉,西突厥曷娑那可汗自宇文化及所來降。 隋將堯君素守河東,上遣呂紹宗、韋義節、獨孤懷恩相繼攻之,俱不下。時外圍嚴急,君素為木鵝,置表於頸,具論事勢,浮之於河;河陽守者得之,達於東都。皇泰主見而歎息,拜君素金紫光祿大夫。寵玉、皇甫無逸自東都來降,上悉遣詣城下,為陳利害,君素不從。又賜金券,許以不死。其妻又至城下,謂之曰:「隋室已亡,君何自苦!」君素曰:「天下名義,非婦人所知!」引弓射之,應弦而倒。君素亦自知不濟,然志在守死,每言及國家,未嘗不歔欷。謂將士曰:「吾昔事主上於籓邸,大義不得不死。必若隋祚永終,天命有屬,自當斷頭以付諸君,聽君等持取富貴。今城池甚固,倉儲豐備,大事猶未可知,不可橫生心也!」君素性嚴明,善御眾,下莫敢叛。久之,倉粟盡,人相食;又獲外人,微知江都傾覆。丙子,君素左右薛宗、李楚客殺君素以降,傳首長安。君素遣朝散大夫解人王行本將精兵七百在它所,聞之,赴救,不及,因捕殺君素者黨與數百人,悉誅之,復乘城拒守。獨孤懷恩引兵圍之。 丁酉,隋襄平太守鄧暠以柳城、北平二郡來降;以暠為營州總管。 辛巳,太常卿鄭元□擊朱粲於商州,破之。 初,宇文化及遣使招羅藝,藝曰:「我,隋臣也!」斬其使者,為煬帝發喪,臨三日。 |
現代日本語訳癸酉の日、西突厥の曷娑那可汗が宇文化及のもとから唐へ投降した。 隋将・堯君素は河東城を死守していた。高祖(李淵)は呂紹宗、韋義節、独狐懐恩らを相次いで派遣し攻撃させたが陥落せず。包囲が厳しくなる中、堯君素は木製の鵞鳥を作り首に上奏文を結びつけ、情勢を詳述して川に流した。河陽守備兵がこれを発見し東都洛陽へ届けると、皇泰主(楊侗)は嘆賞して彼に金紫光禄大夫の官位を与えた。 唐軍に降った寵玉・皇甫無逸らが城壁下で利害を説いたが堯君素は拒否。高祖が「不殺」を約束する金券(特赦証明)を送っても応ぜず、妻子まで呼び寄せて「隋は滅んだ! なぜ苦しむのか」と泣いて訴えさせると、彼は「天下の大義など婦人が知るものか!」と弓で妻を射殺した。 堯君素は敗勢を悟りつつも死守を誓い、国政に言及するたび涙した。将兵にはこう宣言した。「私は主君への恩義で死ぬのだ。隋の天命が尽きたなら自ら首を斬って諸君に渡し、富貴を得させよう。だが今は城も堅固で物資も豊富だ」。彼の厳格な統率により部下は叛かなかったが、長期包囲で食糧が尽き人肉食が発生。さらに「江都(煬帝)滅亡」の情報が入ると丙子の日、側近の薛宗・李楚客が堯君素を殺害し降伏。首級は長安へ送られた。 これを聞いた配下の王行本(朝散大夫)は700精兵を率いて急行したが間に合わず、代わりに薛宗ら数百名を処刑して抗戦継続。独狐懐恩軍の包囲を受けることとなった。 丁酉の日、隋襄平太守・鄧暠が柳城・北平二郡ごと唐へ投降し営州総管に任命された。 辛巳の日、太常卿鄭元□(名欠落)が商州で朱粲を撃破した。 宇文化及から降伏勧告を受けた羅藝は「我れ隋臣なり」と使者を斬り捨て、煬帝の喪に服して三日間哀悼した。 解説
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| 竇建德、高開道各遣使招之,藝曰:「建德、開道,皆劇賊耳。吾聞唐公已定關中,人望歸之。此真吾主也,吾將從之,敢沮議者,斬!」會張道源慰撫山東,藝遂奉表,與漁陽、上谷等諸郡皆來降。癸未,詔以藝為幽州總管。薛萬均,世雄之子也,與弟萬徹俱以勇略為藝所親待,詔以萬均為上柱國、永安郡公,萬徹為車騎將軍、武安縣公。 竇建德既克冀州,兵威益盛,帥眾十萬寇幽州。藝將逆戰,萬均曰:「彼眾我寡,出戰必敗。不若使羸兵背城阻水為陳,彼必渡水擊我。萬均請以精騎百人伏於城旁,俟其半渡擊之,蔑不勝矣。」藝從之。建德果引兵渡水,萬均邀擊,大破之。建德竟不能至其城下,乃分兵掠霍堡及雍奴等縣;藝復邀擊,敗之。凡相拒百餘日,建德不能克,乃還樂壽。 藝得隋通直謁者溫彥博,以為司馬。藝以幽州歸國,彥博贊成之;詔以彥博為幽州總管府長史,未幾,征為中書侍郎。兄大雅,時為黃門侍郎,與彥博對居近密,時人榮之。 以西突厥曷娑那可汗為歸義王。曷娑那獻大珠,上曰:「珠誠至寶;然朕寶王赤心,珠無所用。」竟還之。 乙酉,車駕幸周氏陂,過故墅。 初,羌豪旁企地以所部附薛舉,及薛仁果敗,企地來降,留長安,企地不樂,帥其眾數千叛,入南山,出漢川,所過殺掠。武候大將軍寵玉擊之,為企地所敗。 |
現代日本語訳竇建德と高開道がそれぞれ使者を派遣して懐柔しようとしたところ、羅藝は言った。「建徳や開道などは単なる凶賊に過ぎない。私は唐公(李淵)がすでに関中を平定し、民衆の支持を得ていると聞いた。こそが真の主君だ。従うことに決めた。これに反対する者は斬る!」ちょうど張道源が山東地方を慰撫していたので、羅藝は降伏文書を奉り、漁陽郡・上谷郡など諸郡と共に帰順した。(癸未の日)、詔により羅藝は幽州総管に任じられた。薛万均(世雄の子)と弟の万徹は勇猛さと智略で重用され、万均は上柱国・永安郡公に、万徹は車騎将軍・武安県公にそれぞれ任命された。 竇建徳が冀州を制圧すると兵力を増強し、十万もの兵を率いて幽州へ侵攻した。羅藝が迎撃しようとすると、薛万均が進言した。「敵は多勢で我々は寡勢です。正面から戦えば必ず敗れます。弱兵に城壁を背にして河を防衛線として布陣させれば、敵は渡河して攻めてくるでしょう。私に精鋭騎兵百を与えてください。城の側面に潜伏し、半ばまで渡ったところで襲撃すれば必ず勝利できます」。羅藝がこれを受け入れると、竇建徳は予想通り渡河を開始したため、薛万均がこれを迎え討ち大破した。結局竇建徳軍は城下に到達できず、兵力を分けて霍堡や雍奴県などを略奪しようとしたが、羅藝が再び迎撃して敗走させた。百日余り対峙するも攻略不可能と悟った竇建徳は楽寿へ撤退した。 隋の通直謁者だった温彦博を得て、羅藝は彼を司馬に登用した。幽州帰順時にはその決断を支持し、詔により幽州総管府長史となるも間もなく中書侍郎として中央に召された。兄の大雅(当時黄門侍郎)と共に機密中枢を担い「兄弟並び近侍」と世間の称賛を受けた。 西突厥の曷娑那可汗を帰義王に封じた際、可汗が巨大な真珠を献上すると皇帝は言った。「確かに宝物ではある。しかし朕が宝とするのは君主としての真心だ。この珠には用がない」と返却した。(乙酉の日)、天子(李淵)は周氏陂へ行幸し旧別邸に立ち寄られた。 当初、羌族首長・旁企地は配下を率いて薛挙に帰順していたが、薛仁果(挙の子)敗北後、唐に降伏して長安に留め置かれた。これを不満とした彼は数千の兵を引き連れて反乱し南山へ逃走。漢川流域で略殺を繰り返したため武候大将軍・寵玉が追討に向かったが、逆に旁企地に敗北させられた。 解説
注:原文出典『資治通鑑』巻百八十六(唐紀二・武徳元年~二年)を基にした現代語訳。固有名詞は原表記(例:幽州→現北京周辺)、官職名等については必要最小限の説明を付与 Translation took 830.6 seconds. |
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| 行至始州,掠女子王氏,與俱醉臥野外;王氏拔其佩刀,斬首送梁州,其眾遂潰。詔賜王氏號崇義夫人。 壬辰,王世充帥眾三萬圍谷州,刺史任瑰拒卻之。 上使李密分其麾下之半留華州,將其半出關。長史張寶德預在行中,恐密亡去,罪相及;上封事,言其必叛。上意乃中變,又恐密驚駭,乃降敕書勞來,令密留所部徐行,單騎入朝,更受節度。 密至稠桑,得敕,謂賈閏甫曰:「敕遣我去,無故復召我還,天子向雲,『有人確執不許』,此譖行矣。吾今若還,無復生理,不若破桃林縣,收其兵糧,北走渡河。比信達熊州,吾已遠矣。苟得至黎陽,大事必成。公意如何?」閏甫曰:「主上待明公甚厚;況國家姓名,著在圖讖,天下終當一統。明公既已委質,復生異圖,任瑰、史萬寶據熊、穀二州,此事朝舉,彼兵夕至,雖克桃林,兵豈暇集,一稱叛逆,誰復容人!為明公計,不若且應朝命,以明元無異心,自然浸潤不行;更欲出就山東,徐思其便可也。」密怒曰:「唐使吾與絳、灌同列,何以堪之!且讖文之應,彼我所共。今不殺我,聽使東行,足明王者不死;縱使唐遂定關中,山東終為我有。天與不取,乃欲束手投人!公,吾之心腹,何意如是!若不同心,當斬而後行!」閏甫泣曰:「明公雖雲應讖,近察天人,稍已相違。今海內分崩,人思自擅,強者為雄;明公奔亡甫爾,誰相聽受!且自翟讓受戮之後,人皆謂明公棄恩忘本,今日誰肯復以所有之兵束手委公乎!彼必慮公見奪,逆相拒抗,一朝失勢,豈有容足之地哉!自非荷恩殊厚者,詎能深言不諱乎!願明公熟思之,但恐大福不再。 |
現代日本語訳始州に到着したとき、王という姓の女性を略奪し、彼女と共に野原で泥酔して寝ていたところ、王氏はその佩刀を抜き取って首を斬り落とし、梁州へ送った。これにより賊軍は潰走した。詔により王氏は「崇義夫人」の称号を賜る。 壬辰(じんしん)の日、王世充が三万の兵を率いて谷州を包囲したが、刺史・任瑰がこれを撃退した。 高祖(李淵)は李密に命じて麾下の半分を華州に留め置かせ、残り半数を率いて関所を出発させた。長史・張宝徳も同行していたが、李密が逃亡することを恐れ、連座の罪を受けると危惧し、上奏文で「必ず反乱を起こす」と訴えた。高祖は考えを変えつつあったが、急報が李密に知られるのも懸念したため、慰労の詔書を下して「部下を率いてゆっくり進み、単騎で朝廷に入り再び指揮権を受けるように」と命じた。 稠桑(ちゅうそう)に至った李密は詔書を受け取り、賈閏甫(か じゅんほ)に言った。「詔では出発を許したのに、理由なく召還するとは。天子が『強硬に反対する者あり』と言っていたのは讒言のせいだ。今戻れば生き延びられまい。桃林県を攻め落として兵糧を奪い、北へ黄河を渡るのが良い。熊州に情報が届く頃には我々は遠方におり、黎陽に着けば大事は成就する。どう思うか?」 解説
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| 苟明公有所措身,閏甫亦何辭就戮!」密大怒,揮刃欲擊之;王伯當等固請,乃釋之。閏甫奔熊州。伯當亦止密,以為未可,密不從。伯當乃曰:「義士之志,不以存亡易心。公必不聽,伯當與公同死耳,然終恐無益也。」 密因執使者,斬之。庚子旦,密紿桃林縣官曰:「奉詔暫還京師,家人請寄縣捨。」乃簡驍勇數十人,著婦人衣,戴羃□,藏刀裙下,詐為妻妾,自帥之入縣捨。須臾,變服突出,因據縣城。驅掠徒眾,直趣南山,乘險而東,遣人馳告故將伊州刺史襄城張善相,令以兵應接。 右翊衛將軍史萬寶鎮熊州,謂行軍總管盛彥師曰:「李密,驍賊也,又輔以王伯當,今決策而叛,殆不可當也。」彥師笑曰:「請以數千之眾邀之,必梟其首。」萬寶曰:「公以何策能爾?」彥師曰:「兵法尚詐,不可為公言之。」即帥眾逾熊耳山南,據要道,令弓弩夾路乘高,刀楯伏於溪谷,令之曰:「俟賊半渡,一時俱發。」或問曰:「聞李密欲向洛州,而公入山,何也?」彥師曰:「密聲言向洛,實欲出人不意,走襄城,就張善相耳。若賊入谷口,我自後追之,山路險隘,無所施力,一夫殿後,必不能制。今吾先得入谷,擒之必矣。」 李密既渡陝,以為餘不足慮,遂擁眾徐行,果逾山南出。彥師擊之,密眾首尾斷絕,不得相救。遂斬密及伯當,俱傳首長安。 |
現代日本語訳李密が行動を起こそうとした時、閏甫は言った。「もし明公(李密)に進退の道があるならば、私は死をも辞さない!」激怒した李密は刃を振るって斬ろうとしたが、王伯当らが強く諫めたため解放。閏甫は熊州へ逃亡した。伯当もまた李密を止めようと「時期尚早」と説得するが聞き入れられず、「義士たる者は生死にかかわらず志を変えない。貴方がどうしてもお従いにならぬなら、私は共に死のう。しかし結局は無益だと恐れる」と嘆いた。 李密は使者を捕縛して斬首し、庚子(かのえね)の朝に桃林県役人を欺いて宣言した。「詔勅により長安へ戻るが家族を一時預けたい」。数十人の精兵を選び婦人服を着せ、幕笠で顔を隠して刀を裾に忍ばせ妻妾と偽装。自ら率い役所に入るとすぐ変装し県城を占拠。住民を強制連行しながら南山へ急進し険しい地形を東進した。旧将・伊州刺史の張善相(ちょうぜんそう)には使者を走らせ「援軍を出せ」と命じた。 一方、右翊衛将軍・史万宝は熊州で行軍総管・盛彦師に語った。「李密は猛将だ。王伯当が加わり決起した以上、おそらく抗し難い」。すると彦師は笑って応じた「数千の兵で迎撃すれば必ず首を取れます」。「どうやって?」との問いに「兵法とは欺瞞こそ肝要ゆえ詳細は言えません」と答えるや熊耳山南へ進軍。要害を押さえて弓隊を高地道路沿いに配置し、刀盾兵に渓谷で伏せさせ「敵が半分渡河した時一斉攻撃だ」と指示。部下の「李密は洛州行きでは?」との疑問にはこう説明した。「表向きの目的地は偽り。真意は張善相を頼り襄城へ脱出することだ。もし谷入り後に追えば険阻な地形で後衛に阻まれ手も足も出せぬ。先回りして谷を抑えれば必ず捕らえられる」。 陝州通過後の李密は油断し、ゆっくり行軍しながら山南へ出現した途端、彦師の攻撃を受ける。部隊は寸断され救援不能となり、ついに李密と伯当は斬首。両名の首級は長安へ送られた。 解説
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| 彥師以功賜爵葛國公,仍領熊州。 李世勣在黎陽,上遣使以密首示之,告以反狀。世勣北面拜伏號慟,表請收葬;詔歸其屍。世勣為之行服,備君臣之禮。大具儀衛,舉軍縞素,葬密於黎陽山南。密素得士心,哭者多歐血。 隋右武衛大將軍李景守北平,高開道圍之,歲余不能克。遼西太守鄧暠將兵救之,景帥其眾遷於柳城;後將還幽州,於道為盜所殺。開道遂取北平,進陷漁陽郡,有馬數千匹,眾且萬,自稱燕王,改元始興,都漁陽。 懷戎沙門高曇晟因縣令設齋,士民大集,曇晟與僧五千人擁齋眾而反,殺縣令及鎮將,自稱大乘皇帝,立尼靜宣為邪輸皇后,改元法輪。遣使招開道,立為齊王。開道帥眾五千人歸之,居數月,襲殺曇晟,悉並其眾。 有犯法不至死者,上特命殺之。監察御史李素立諫曰:「三尺法,王者所與天下共也;法一動搖,人無所措手足。陛下甫創鴻業,奈何棄法!臣忝法司,不敢奉詔。」上從之。自是特承恩遇,命所司授以七品清要官;所司擬雍州司戶,上曰:「此官要而不清。」又擬秘書郎。上曰:「此官清而不要。」遂擢授侍御史。素立,義深之曾孫也。 上以舞胡安叱奴為散騎侍郎。禮部尚書李綱諫曰:「古者樂工不與士齒,雖賢如子野、師襄,皆終身繼世不易其業。唯齊末封曹妙達為王,安馬駒為開府,有國家者以為殷鑒。 |
現代日本語訳彦師は功績により葛国公の爵位を賜り、引き続き熊州を統治した。 李世民(李勣)が黎陽に駐屯していたところ、高祖(李淵)が使者を遣わし、李密の首級を示して謀反の状況を伝えた。世勣は北に向かって平伏し号泣し、上表文で遺体の収葬を請願した。詔により遺体が返還されると、世勣は喪服を着て君臣の礼を尽くし、盛大な儀仗と衛兵を整え、全軍が白装束で李密を黎陽山の南に葬った。李密は平素から兵士の信望を得ていたため、血を吐くほど慟哭する者が多かった。 隋朝の右武衛大将軍・李景が北平を守備していた際、高開道に包囲されたが一年余り陥落しなかった。遼西太守・鄧暠が援軍を率いて駆けつけると、李景は配下を引き連れて柳城へ移駐した。後に幽州へ帰還途中、盗賊に殺害された。高開道は北平を占領すると漁陽郡も陥落させ、数千頭の馬と一万人近い兵力を得て燕王を自称し、元号を始興と改め、漁陽を都とした。 懐戎県の僧・高曇晟は、県令が斎会(法要)を設けた際に民衆が集結した機会を利用し、五千人の僧兵で信衆を煽動して反乱を起こした。県令と守備隊長を殺害すると自ら大乗皇帝と称し、尼僧の静宣を邪輸皇后として立て、元号を法輪とした。使者を高開道のもとに遣わし斉王に封じると、開道は五千人の兵を率いて帰順したが、数カ月後に曇晟を襲撃して殺害し、配下の全勢力を併合した。 死刑に該当しない罪人に対し、高祖(李淵)が特別に処刑を命じた。監察御史・李素立が諫言した:「法律は王者も天下の民と共有すべきものです。法が揺らげば人は行動基準を失います。陛下は大業を始められたばかり、どうして法をお棄てになるのか」。高祖はこれを受け入れ、以後彼を厚遇し七品の清要官(清職で枢要な地位)を与えるよう命じた。役人が雍州司戸を推挙すると「この官は重要だが清廉ではない」と退け、次に秘書郎を提案すると「清廉だが重要ではない」と言い、最終的に侍御史に抜擢した。素立は李義深の曾孫である。 高祖が舞踊師・安叱奴を散騎侍郎(皇帝側近)に登用しようとした際、礼部尚書・李綱が諫めた:「古代より楽人は士人と同列とされず、子野や師襄のような賢者も生涯その職を継ぎました。北斉が曹妙達を王位に就け安馬駒を開府儀同三司(高位官職)とした例こそ、国家の戒めとするべきです」。 解説
(本訳は現代日本語への意訳を基本とし、固有名詞は原典表記を保持した) Translation took 910.3 seconds. |
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| 今天下新定,建義功臣,行賞未遍,高才碩學,猶滯草萊;而先擢舞胡為五品,使鳴玉曳組,趨翔廊廟,非所以規模後世也。」上不從,曰:「吾業已授之,不可追也。」 陳岳論曰:受命之主,發號施令,為子孫法;一不中理,則為厲階。今高祖曰:「業已授之,不可追」,苟授之而是,則已;授之而非,胡不可追歟!君人之道,不得不以「業已授之」為誡哉! 李軌吏部尚書梁碩,有智略,軌常倚之以為謀主。碩見諸胡浸盛,陰勸軌宜加防察,由是與戶部尚書安修仁有隙。軌子仲琰嘗詣碩,碩不為禮,乃與修仁共譖碩於軌,誣以謀反,軌鴆碩,殺之。有胡巫謂軌曰:「上帝當遣玉女自天而降。」軌信之,發民築台以候玉女,勞費甚廣。河右饑,人相食,軌傾家財以賑之;不足,欲發倉粟,召群臣議之。曹珍等皆曰:「國以民為本,豈可愛倉粟而坐視其死乎!」謝統師等皆故隋官,心終不服,密與群胡為黨,排軌故人,乃詬珍曰:「百姓餓者自是羸弱,勇壯之士終不至此。國家倉粟以備不虞,豈可散之以飼羸弱!僕射苟悅人情,不為國計,非忠臣也。」軌以為然,由是士民離怨。 |
現代日本語訳天下がようやく安定したばかりなのに、挙兵に功績のあった者への恩賞は行き渡らず、優れた才能と学識を持つ者はなお民間で埋もれている。それにもかかわらず、先んじて胡人の舞人を五品官に抜擢し、玉飾りの帯を身につけて朝廷を行き来させるなど、後世の手本となる政治ではない。」と諫めたが、皇帝は「すでに任命した以上撤回できぬ」として聞き入れなかった。 陳岳の論評:天命を受けた君主の発する命令や法令は子孫への規範となる。一つでも道理に外れれば禍いの根源になる。高祖が「既に授けてしまったから取り戻せない」と言う件について、もし任命が正しければ問題ないが、誤っているならばなぜ撤回できないのか!人を治める者は決して「既成事実」を口実にしてはならない。 李軌配下の吏部尚書・梁碩は知略に優れ、常に謀議の中心として重用されていた。彼は胡人の勢力が増大する様子を見て密かに警戒強化を進言したため、戸部尚書・安修仁と対立することになった。李軌の息子・仲琰がある時梁碩のもとを訪れたが丁重に扱われず、これに恨みを持った仲琰は安修仁と共に「梁碩が謀反を企てている」と誣告した。李軌は毒酒で梁碩を殺害した。その後ある胡人の巫者が李軌に「天帝が天から玉女をお遣わしになるだろう」と言うと、彼は信じて民衆に高台を築かせ待機させたため、労力と費用が膨大となった。 河右地方で飢饉が発生して人肉食いの惨状となる中、李軌は私財を投じて救済したが足りず、官倉の穀物放出を提案し臣下に諮った。曹珍らは「民こそ国家の根本である。どうして官倉の穀物を惜しんで見殺しにできようか」と主張したが、元隋朝官吏の謝統師らは内心李軌政権に従っておらず、ひそかに胡人勢力と結託していたため「飢えているのは虚弱な者だけだ。強壮な者は平気である。国家備蓄は万一の有事のためにあり弱者救済に浪費すべきではない」と言い放ち、「民衆の歓心を買うだけで国益を考えぬ不忠臣だ」と曹珍を非難した。李軌はこの意見を採用し、結果として官民の支持を失っていった。 解説
※訳文では胡人関連用語(舞胡/群胡等)は当時の歴史的呼称をそのまま使用。差別的ニュアンスを含む可能性があるため現代読解には注釈が必要だが、本翻訳では原文忠実性を優先した。 Translation took 1579.3 seconds. |
| input text 資治通鑑\187_唐紀_03.txt | Modern Japanese translated text | |||||||||
| 資治通鑑 卷一百八十七 唐紀三 起屠維單閼正月,盡十月,不滿一年。 高祖神堯大聖光孝皇帝上之下武德二年(己卯、公元六一九年) 春,正月,壬寅,王世充悉取隋朝顯官、名士為太尉府官屬,杜淹、戴冑皆預焉。冑,安陽人也。 隋將軍王隆帥屯衛將軍張鎮周、都水少監蘇世長等以山南兵始至東都。王世充專總朝政,事無大小,悉關太尉府;台省監署,莫不闃然。世充立三牌於府門外,一求文學才識堪濟時務者,一求武勇智略能摧鋒陷敵者,一求身有冤滯擁抑不申者。於是上書陳事者日有數百,世充悉引見,躬自省覽,殷勤慰諭,人人自喜,以為言聽計從,然終無所施行。下至士卒廝養,世充皆以甘言悅之,而實無恩施。 隋馬軍總管獨孤武都為世充所親任,其從弟司隸大夫機與虞部郎楊恭慎、前勃海郡主簿孫師孝、步兵總管劉孝元、李儉、崔孝仁謀召唐兵,使孝仁說武都曰:「王公徒為兒女之態以悅下愚,而鄙隘貪忍,不顧親舊,豈能成大業哉!圖識之文,應歸李氏,人皆知之。唐起晉陽,奄有關內,兵不留行,英雄景附。且坦懷待物,舉善責功,不念舊惡,據勝勢以爭天下,誰能敵之!吾屬托身非所,坐待夷滅。今任管公兵近在新安,又吾之故人也,若遣間使召之,使夜造城下,吾曹共為內應,開門納之,事無不集矣。」武都從之。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』巻百八十七・唐紀三より抜粋) 高祖神堯大聖光孝皇帝の治世前半・武徳二年(己卯年、西暦619年) 春正月壬寅の日、王世充は隋朝の高官や名士を全て召し抱え太尉府に登用した。杜淹と戴冑もこれに含まれた。戴冑は安陽出身である。 隋将軍の王隆が屯衛将軍・張鎮周や都水少監・蘇世長らと共に山南地方から兵を率い、東都(洛陽)へ到着した。王世充は朝廷の実権を独占し、大小問わず全て太尉府で処理されたため宮中の官庁は閑散とした。彼は府門外に三つの掲示板を設置した:(一)文才と識見をもって時勢に対応できる者、(二)武勇・智謀に優れ敵陣突破が可能な者、(三)冤罪や不満があり訴え出られなかった者-の募集である。すると毎日数百件もの上書が届き、王世充は自ら全て面談し丁寧に慰めたため人々は喜んで「意見が聞かれた」と思い込んだ。しかし実際には何も実行されず、兵士や雑役夫まで甘言で籠絡したものの実質的な恩恵は与えなかった。 隋の馬軍総管・独孤武都を重用していた王世充のもとで、その従弟である司隸大夫・独孤機が虞部郎の楊恭慎、前勃海郡主簿・孫師孝、歩兵総管の劉孝元・李儉・崔孝仁らと共に唐軍招致を画策した。崔孝仁は独孤武都を説得してこう述べた:「王公(世充)は下々を喜ばせるため子供じみた態度を見せているだけで、実際には狭量で貪欲、親族すら顧みない人物だ。どうして大業を成しえようか?予言書に『天命は李氏にある』とあるのは周知の事実だ。唐が晋陽から興り瞬くに関中を制圧した勢いは止まらず、英雄たちも続々帰順している。寛容な人材登用で功績を評価し過去の過ちに固執せず、優位な立場で天下を争う彼らに対抗できる者などいない。我々は誤った主君のもと滅亡を待つばかりだ。今や任管公(唐将)の軍が新安近くにおり、旧知でもある。密使で呼び寄せ夜中に城壁まで来させれば内応して門を開こう。計画は必ず成功する」独孤武都はこれに同意した。 解説
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| 事洩,世充皆殺之。恭慎,達之子也。 癸卯,命秦王世民出鎮長春宮。 宇文化及攻魏州總管元寶藏,四旬不克。魏徵往說之,丁未,寶藏舉州來降。 戊午,淮安王神通擊宇文化及於魏縣,化及不能抗,東走聊城。神通拔魏縣,斬獲二千餘人,引兵追化及至聊城,圍之。 甲子,以陳叔達為納言。 丙寅,李密所置伊州刺史張善相來降。 朱粲有眾二十萬,剽掠漢、淮之間,遷徙無常,攻破州縣,食其積粟未盡,復他適,將去,悉焚其餘資;又不務稼穡,民餒死者如積。粲無可復掠,軍中乏食,乃教士卒烹婦人、嬰兒□敢之,曰:「肉之美者無過於人,但使他國有人,何憂於餒!」隋著作佐郎陸從典、通事舍人顏愍楚,謫官在南陽,粲初引為賓客,其後無食,闔家皆為所□敢。愍楚,之推之子也。又稅諸城堡細弱以供軍食,諸城堡相帥叛之。淮安土豪楊士林、田瓚起兵攻粲,諸州皆應之。粲與戰於淮源,大敗,帥餘眾數千奔菊潭。士林家世蠻酋,隋末,士林為鷹揚府校尉,殺郡官而據其郡。既逐朱粲,己巳,帥漢東四郡遣使詣信州總管廬江王瑗請降,詔以為顯州道行台。士林以瓚為長史。 初,王世充既殺元、盧,慮人情未服,猶媚事皇泰主,禮甚謙敬。又請為劉太后假子,尊號曰聖感皇太后。既而漸驕橫,嘗賜食於禁中,還家大吐,疑遇毒,自是不復朝謁。 |
現代日本語訳:事が発覚し、王世充は彼ら全員を処刑した。恭慎は達(鄭顥)の子である。 癸卯の日(二十日)、秦王李世民に長春宮へ出鎮するよう命じた。 宇文化及が魏州総管元宝蔵を攻撃したが四十日間攻略できなかった。魏徴が説得に向かい、丁未の日(二十四日)に宝蔵は州ごと降伏した。 戊午の日(六月初五)、淮安王李神通が魏県で宇文化及を攻撃すると、化及は抵抗できず東の聊城へ敗走。神通は魏県を占領し二千余人を斬殺・捕獲後、軍勢を進めて聊城まで追撃し包囲した。 甲子の日(十一日)、陳叔達を納言に任命。 丙寅の日(十三日)、李密が任命していた伊州刺史張善相が降伏してきた。 朱粲は二十万の兵力で漢水・淮河流域を略奪。根拠地を持たず州県を陥落させると、蓄えられた食糧を使い尽くさぬうちに移動し、撤退時には残存物資を焼却した。農耕も奨励せず民衆は飢餓死して屍が累積。略奪対象が枯渇すると軍中で食糧不足となり、兵士へ婦女子や幼児の肉を煮るよう指導し「人肉ほど美味なものはない。他国に人間さえいれば飢える心配は不要だ」と宣言。隋朝著作佐郎陸従典・通事舎人顔愍楚(之推の子)ら左遷官僚も当初賓客待遇したが、食糧不足で家族丸ごと喰われた。さらに弱小城塞へ軍糧供出を課すと相次いで反乱発生。淮安土豪楊士林・田瓚が兵を挙げると諸州呼応し、淮源の戦いで朱粲は大敗。数千の残兵を率いて菊潭へ逃亡した。蛮族首長家系出身の士林(隋末に鷹揚府校尉として郡官殺害後自立)は己巳の日(十六日)、朱粲駆逐後に漢東四郡を率い信州総管廬江王李瑗へ降伏使節。詔により顕州道行台に任じられ、田瓚を長史とした。 元文都・盧楚暗殺後の王世充は人心掌握のため皇泰主(楊侗)への媚諂を継続し、「聖感皇太后」尊号奉呈と劉太后への擬制母子関係(假子)を申し出た。しかし次第に傲慢化し、宮中で賜った食事後に自宅で嘔吐したことから毒殺未遂を疑い、以後朝謁を絶った。 解説:
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| 皇泰主知其終不為臣,而力不能制,唯取內庫彩物大造幡花;又出諸服玩,令僧散施貧乏以求福。世充使其黨張績、董浚守章善、顯福二門,宮內雜物,毫釐不得出。是月,世充使人獻印及劍。又言河水清,欲以耀眾,為己符瑞雲。 上遣金紫光祿大夫武功靳孝謨安集邊郡,為梁師都所獲。孝謨罵之極口,師都殺之。二月,詔追賜爵武昌縣公,謚曰忠。 初定租、庸、調法,每丁租二石,絹二匹,綿三兩;自茲以外,不得橫有調斂。 丙戌,詔:「諸宗姓居官者在同列之上,未仕者免其徭役;每州置宗師一人以攝總,別為團伍。」 張俟德至涼,李軌召其群臣廷議曰:「唐天子,吾之從兄,今已正位京邑。一姓不可自爭天下,吾欲去帝號,受其官爵,可乎?」曹珍曰:「隋失其鹿,天下共逐之,稱王稱帝者,奚啻一人!唐帝關中,涼帝河右,固不相妨。且已為天子,奈何復自貶黜!必欲以小事大,請依蕭察事魏故事。」軌從之。戊戌,軌遣其尚書左丞鄧曉入見,奉書稱「皇從弟大涼皇帝臣軌」而不受官爵。帝怒,拘曉不遣,始議興師討之。 初,隋煬帝自征吐谷渾,吐谷渾可汗伏允以數千騎奔党項,煬帝立其質子順為主,使統餘眾,不果入而還。會中國喪亂,伏允復還收其故地。上受禪,順自江都還長安,上遣使與伏允連和,使擊李軌,許以順還之。 |
現代日本語訳:皇泰主は王世充が最終的に臣下に収まらないと悟りながらも、抑える力を持たず、内庫の財宝を取り出し盛大に幡旗や造花を作らせた。また衣服や珍しい品々を僧侶に与え貧民へ施させて福を祈った。王世充は配下の張績と董浚に章善門・顕福門を守備させ、宮中の物品は微細なものすら一切外に出せないようにした。この月、王世充は使者を遣わし印璽と剣を献上。「黄河の水が清まった」と言い広めて民衆に示し、自らの瑞兆としたという。 高祖(李淵)は金紫光禄大夫・武功出身の靳孝謨を辺境の郡へ派遣して民心安定を図らせたところ、梁師都に捕縛された。孝謨が激しく罵ったため殺害される。二月、詔により武昌県公の爵位を追贈し「忠」と諡した。 新たに租庸調法を制定:成人男子(丁)1人あたり粟2石・絹2匹・綿3両を納め、これ以外の賦課徴収は禁じられた。 丙戌の日、「皇族で官職にある者は同僚より上位とし、無官者は徭役免除とする。各州に宗師1人を置いて統括させ別途組織せよ」との詔が発布された。 張俟徳が涼州へ到着すると李軌は臣下を集め協議:「唐天子(李淵)は私の従兄である。既に長安で帝位についた以上、同姓なら天下を争うべきではない。帝号を廃し官爵を受けようと思う」と述べた。これに対し曹珍が進言:「隋が滅び諸侯が割拠する中、帝王を称する者は数えきれぬ!唐は関中で皇帝となり涼(李軌)は河西で帝となることは両立可能だ。既に天子となった者が自ら格下になる必要はない。どうしても大国へ従うなら梁の蕭察が西魏に仕えた先例にならいましょう」。結局李軌はこれを受け入れず、戊戌の日には尚書左丞・鄧曉を派遣。「皇従弟大涼皇帝臣軌」と署名した文書を持参させたが官爵は受けなかった。高祖(李淵)は激怒し鄧曉を拘束して帰さず、討伐軍派兵を議論し始めた。 かつて隋の煬帝が吐谷渾親征時、可汗・伏允は数千騎で党項に逃亡したため、煬帝は人質だった王子・慕容順を新主とした。しかし統治できぬまま撤退する。その後中原混乱に乗じ伏允が故地回復。高祖即位後、江都から長安へ戻った慕容順に対し唐は使者を派遣して伏允と同盟し李軌討伐を要請、見返りとして慕容順帰国を約束した。 解説:
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| 伏允喜,起兵擊軌,數遣使入貢請順,上遣之。 閏月,朱粲遣使請降,詔以粲為楚王,聽自置官屬,以便宜從事。 宇文化及以珍貨誘海曲諸賊,賊帥王薄帥眾從之,與共守聊城。 竇建德謂其群下曰:「吾為隋民,隋為吾君;今宇文化及弒逆,乃吾仇也,吾不可以不討!」乃引兵趣聊城。 淮安王神通攻聊城,化及糧盡,請降,神通不許。安撫副使崔世幹勸神通許之,神通曰:「軍士暴露日久,賊食盡計窮,克在旦暮,吾當攻取以示國威,且散其玉帛以勞戰士;若受其降,將何以為軍賞乎!」世幹曰:「今建德方至,若化及未平,內外受敵,吾軍必敗。夫不攻而下之,為功甚易,奈何貪其玉帛而不受乎!」神通怒,囚世幹於軍中。既而宇文士及自濟北饋之,化及軍稍振,遂復拒戰。神通督兵攻之,貝州刺史趙君德攀堞先登,神通心害其功,收兵不戰。君德大詬而下,遂不克。建德軍且至,神通引兵退。 建德與化及連戰,大破之,化及復保聊城。建德縱兵四面急攻,王薄開門納之。建德入城,生擒化及,先謁隋蕭皇后,語皆稱臣,素服哭煬帝盡哀;收傳國璽及鹵簿儀仗,撫存隋之百官,然後執逆黨宇文智及、楊士覽、元武達、許弘仁、孟景,集隋官而斬之,梟首軍門之外。以檻車載化及並二子承基、承趾至襄國,斬之。化及且死,更無餘言,但云:「不負夏王!」 建德每戰勝克城,所得資財,悉以分將士,身無所取。 |
現代日本語訳伏允は喜び、兵を起こして李軌を攻撃した。たびたび使者を送り貢物を献じて帰順を願い出ると、高祖(李淵)はこれを許した。 閏月、朱粲が使者を遣わし降伏を請うてきたので、詔により朱粲を楚王に封じ、自ら官属を置くことを認め、臨機の処断を許可した。 宇文化及は珍宝を用いて海曲(山東半島沿岸)の賊衆を誘い、賊帥・王薄が配下を率いてこれに従い、共に聊城を守った。 竇建徳は家臣たちに向かって言った。「我らは隋の民であり、隋こそ我らの君主である。今、宇文化及が主君を弑逆したのは、我らの仇敵だ。これを討たねばならない!」 そして兵を率いて聊城へ向かった。 淮安王・李神通が聊城を攻撃すると、化及は食糧が尽きたため降伏を願い出たが、神通は許可しなかった。慰撫副使の崔世幹が「許すべきです」と勧めると、神通は言った。「将兵は長く野営に苦労してきた。賊は食糧も尽き策も窮まり、陥落は目前だ。攻め取って国威を示し、蔵の財宝を将士へ褒美として分け与えるべきである。もし降伏を受け入れれば、何をもって兵士を賞するというのか」。世幹が反論した。「今まさに竇建徳軍が迫っている。化及を平定せねば内外で敵を受けて必敗ですよ。戦わずして城を落とすのは功績を得やすいのに、なぜ財宝に目がくらんで降伏を受け入れないのですか」。神通は怒り、世幹を軍中に監禁した。 その後、宇文士及が済北から食糧を送ると、化及の軍勢はやや回復し、再び抗戦した。神通が督戦して攻め立てたところ、貝州刺史・趙君徳が城壁を攀じ登って真っ先に突破口を開いた。しかし神通は彼の功績を妬み、兵を引かせて攻撃を中止した。君徳は大声で罵りながら退き、結局落とせなかった。 そこへ竇建徳軍が迫ると、神通は兵を率いて撤退した。 建徳は化及と連戦し大破。化及は再び聊城に籠城した。建徳は四方から猛攻を加え、王薄が門を開いて迎えた。建徳が城内に入るや、生け捕りにした化及に対し、まず隋の蕭皇后に謁見して臣下の礼を取り、喪服で煬帝の死を哀悼した。 伝国の璽と皇帝儀仗を接収すると、隋の百官を慰撫保護し、逆党の宇文智及・楊士覧・元武達・許弘仁・孟景を捕らえ、隋官たちの面前で斬首して軍門の外に晒した。化及とその子・承基・承趾は檻車で襄国へ送られ処刑された。化及は死ぬ間際、「夏王(竇建徳)には背いていない」とのみ述べた。 建徳は戦いに勝ち城を落とすごとに、獲得した財貨を全て将士に分け与え、自らは何も取らなかった。 解説
※『資治通鑑』該当箇所:巻186-187(唐紀2-3、武徳元年~2年頃の記述) Translation took 872.5 seconds. |
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| 又不□敢肉,常食蔬,茹粟飯;妻曹氏,不衣紈綺,所役婢妾,才十許人。及破化及,得隋宮人千數,即時散遣之。以隋黃門侍郎裴矩為左僕射,掌選事,兵部侍郎崔君肅為侍中,少府令何稠為工部尚書,右司郎中柳調為左丞,虞世南為黃門侍郎,歐陽詢為太常卿。詢,紇之子也。自餘隨才授職,委以政事。其不願留,欲詣關中及東都者,亦聽之,仍給資糧,以兵援之出境。隋驍果尚近萬人,亦各縱遣,任其所之。又與王世充結好,遣使奉表於隋皇泰主,皇泰主封為夏王。建德起於群盜,雖建國,未有文物法度,裴矩為之定朝儀,制律令,建德甚悅,每從之咨訪典禮。甲辰,上考第群臣,以李綱、孫伏伽為第一。因置酒高會,謂裴寂等曰:「隋氏以主驕臣諂亡天下,朕即位以來,每虛心求諫,然唯李綱差盡忠款,孫伏伽可謂誠直。餘人猶踵敝風,俯眉而已,豈朕所望哉!朕視卿如愛子,卿當視朕如慈父。有懷必盡,勿自隱也。」因命捨君臣之敬,極歡而罷。 遣前御史大夫段確使於朱粲。 初,上為隋殿內少監,宇文士及為尚輦奉御,上與之善。士及從化及至黎陽,上手詔召之,士及潛遣家僮間道詣長安,又因使者獻金環。化及至魏縣,兵勢日蹙,士及勸之歸唐,化及不從,內史令封德彝說士及於濟北征督軍糧以觀其變。化及稱帝,立士及為蜀王。 |
現代日本語訳:また竇建徳(とうけんとく)は肉食を控え、常に野菜と粟飯で暮らした。妻の曹氏も絹織物を着ず、使用する侍女や妾はわずか十人ほどであった。宇文化及(うぶんかきゅう)を破った際には隋宮女数千人を得たが、直ちに解放して帰した。 隋の元高官・裴矩(はいく)を左僕射として官吏登用を担当させ、崔君肅(さいくんしゅく)は侍中に、何稠(かちょう)は工部尚書に、柳調(りゅうちょう)は左丞に任命。虞世南(ぐせいなん)を黄門侍郎、欧陽詢(おうようじゅん)を太常卿とした(欧陽詢は欧陽紇の子)。その他の人材も能力に応じて官職を与え政務を委ねた。 帰還希望者は関中や東都行きを自由とし、食糧資金を支給して兵士が国境まで護送。隋精鋭部隊「驍果」約一万人も全員解放した。さらに王世充(おうせいじゅう)と同盟し、使者を通じて皇泰主(こうたいしゅ:隋恭帝)に臣従の意を示すと、「夏王」に封ぜられた。 盗賊集団出身の建徳は当初、文物や法制度が整わず裴矩が朝儀・律令を制定すると喜んで諮問した。 甲辰(こうしん:武徳元年)の日、高祖李淵は臣下考課で李綱(りきょう)と孫伏伽(そんふくぎ)を最上位に評価。宴席で裴寂(はいせき)らへ訓示:「隋は君主驕慢・臣下諂媚により滅亡した。朕が即位後も誠実な進言者は李綱のみ、正直さでは孫伏伽だけだ」と批判し、「卿らを子のように愛しているのだから慈父と思い隠さず直言せよ」と命じ、君臣の礼儀を解いて歓談した。 元御史大夫・段確(だんかく)を使者として朱粲(しゅさん)に派遣。高祖が隋時代に殿内少監だった際、尚輦奉御(しょうれんほうぎょ:車駕管理官)の宇文士及(うぶんしかきゅう)と親交があった化及政権下で黎陽におった彼を密かに招聘すると、使者を通じ金環を献上。化及が魏県で衰退する中「唐帰順」を進言したが拒否され、封徳彝(ふうとくい)の助言で済北軍糧監督として時節を見計らった。 解説:
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| 化及死,士及與德彝自濟北來降。時士及妹為昭儀,由是授上儀同。上以封德彝隋室舊臣,而諂巧不忠,深誚責之,罷遣就捨。德彝以秘策幹上,上悅,尋拜內史舍人,俄遷待郎。 甲寅,隋夷陵郡丞安陸許紹帥黔安、武陵、澧陽等諸郡來降。紹幼與帝同學;詔以紹為峽州刺史,賜爵安陸公。 丙辰,以徐世勣為黎州總管。 丁巳,驃騎將軍張孝鈱以勁卒百人襲王世充汜水城,入其郛,沉米船百五十艘。 己未,世充寇穀州。世充以秦叔寶為龍驤大將軍,程知節為將軍,待之皆厚。然二人疾世充多詐,知節謂叔寶曰:「王公器度淺狹而多妄語,好為咒誓,此乃老巫嫗耳,豈撥亂之主乎!」世充與唐兵戰於九曲,叔寶、知節皆將兵在陳,與其徒數十騎,西馳百許步,下馬拜世充曰:「僕荷公殊禮,深思報效;公性猜忌,喜信讒言,非僕托身之所,今不能仰事,請從此辭。」遂躍馬來降,世充不敢逼。上使事秦王世民,世民素聞其名,厚禮之,以叔寶為馬軍總管,知節為左三統軍。時世充驍將又有驃騎武安李君羨、征南將軍臨邑田留安,亦惡世充之為人,帥眾來降。世民引君羨置左右,以留安為右四統軍。 王世充囚李育德之兄厚德於獲嘉,厚德與其守將趙君穎逐殷州刺史段大師,以城來降。以厚德為殷州刺史。 竇建德陷邢州,執總管陳君賓。 上遣殿內監竇誕、右衛將軍宇文歆助并州總管齊王元吉守晉陽。 |
現代日本語訳化及が死ぬと、士及と徳彝は済北から降伏してきた。当時、士及の妹は昭儀(後宮女官)であったため、これにより上儀同の位を授かった。皇帝(高祖李淵)は封徳彝が隋朝の旧臣でありながら媚びへつらって誠実でないことを深く責め、罷免して邸宅に帰した。しかし徳彝が機密策略を献策すると、皇帝は喜び、まもなく内史舎人に任命し、ほどなく侍郎に昇進させた。 甲寅の日、隋の夷陵郡丞であった安陸出身の許紹が黔安・武陵・澧陽など諸郡を率いて降伏した。許紹は幼い頃に皇帝と学友だったため、詔により峡州刺史に任じられ安陸公の爵位を与えられた。 丙辰の日、徐世勣を黎州総管とした。 己未の日、王世充が穀州を侵攻した。世充は秦叔宝を龍驤大将軍に、程知節を将軍とし厚遇した。しかし二人は世充の虚偽多きことを憎み、知節が叔宝に言った。「王公(世充)は器量が狭く妄言多く、呪いのような誓いを好む。これは老いた巫女と同じで、乱世を治める主君たりえようか」。九曲で唐軍と戦った際、叔宝と知節は兵を率いて陣中にあったが、配下数十騎とともに西へ百歩余り駆け、馬から降りて世充に向かい拝礼した。「私は厚遇を受けたので深く恩返ししたいと思っておりました。しかし公は猜疑心が強く讒言を信じる性質で、私の身を託すべき場所ではありません。これ以上お仕えできぬため、ここでお別れします」。そう言うと馬を飛ばして降伏したので、世充は追撃できなかった。皇帝(李世民)は二人を秦王李世民に配属させた。世民はかねてから彼らの名声を知っており厚く礼遇し、叔宝を馬軍総管に、知節を左三統軍とした。当時、世充の勇将であった驃騎武安李君羨・征南将軍臨邑田留安もまた世充の人柄を嫌い、部下を率いて降伏した。世民は君羨を側近に置き、留安を右四統軍とした。 王世充が李育徳の兄である厚徳を獲嘉に監禁すると、厚徳と守将趙君穎が殷州刺史段大師を追い出し城ごと降伏した。厚徳は殷州刺史となった。 竇建徳が邢州を陥落させ総管陳君賓を捕らえた。 解説
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| 誕,抗之子也,尚帝女襄陽公主。元吉性驕侈,奴客婢妾數百人,好使之被甲,戲為攻戰,前後死傷甚眾,元吉亦嘗被傷。其乳母陳善意苦諫,元吉醉,怒,命壯士毆殺之。性好田獵,載罔罟三十餘車,嘗言:「我寧三日不食,不能一日不獵。」常與誕遊獵,蹂踐人禾稼。又縱左右奪民物,當衢射人,觀其避箭。夜,開府門,宣淫他室。百姓憤怨,歆屢諫不納,乃表言其狀。壬戌,元吉坐免官。 癸亥,陟州刺史李育德攻下王世充河內堡聚三十一所。乙丑,世充遣其兄子君廓侵陟州,李育德擊走之,斬首千餘級。李厚德歸省親疾,使李育德守獲嘉,世充並兵攻之,丁卯,城陷,育德及弟三人皆戰死。 己巳,李公逸以雍丘來降,拜杞州總管,以其族弟善行為杞州刺史。 隋吏部侍郎楊恭仁,從宇文化及至河北;化及敗,魏州總管元寶藏獲之,己巳,送長安。上與之有舊,拜黃門侍郎,尋以為涼州總管。恭仁素習邊事,曉羌、胡情偽,民夷悅服,自蔥嶺已東,並入朝貢。 突厥始畢可汗將其眾渡河至夏州,梁師都發兵會之,以五百騎授劉武周,欲自句注入寇太原。會始畢卒,子什缽苾幼,未可立,立其弟俟利弗設為處羅可汗。處羅以什缽苾為尼步設,使居東偏,直幽州之北。先是,上遣右武候將軍高靜奉幣使於始畢,至豐州,聞始畢卒,敕納於所在之庫。 |
現代日本語訳誕(李元吉)は、抗(李淵の子)の息子であり、皇帝(高祖李淵)の娘である襄陽公主を妻に迎えた。元吉の性格は傲慢で贅沢好きであり、奴隷や従者、婢妾など数百人を抱えていた。彼はこれらに鎧を着せて戦いごっこをすることを好み、その過程で多くの死傷者が出たが、本人も負傷したことがあった。乳母の陳善意(ちんぜんい)が苦言を呈すると、酔っていた元吉は怒って力士に命じ彼女を殴打致死させた。 狩猟への執着は強く、網や罠を30車以上も携行し、「三日食べなくともよいが、一日でも狩りをしないわけにはいかない」と公言していた。常に誕(長兄・李建成)と共に出かけ、民衆の農作物を踏み荒らした。さらに側近に命じて民の物品を奪わせたり、大通りで通行人を弓で射て避ける様子を見物したりするなど悪行が絶えなかった。夜には役所の門を開け放ち、他人の邸宅で乱交を行った。 百姓の怒りと怨嗟は頂点に達し、歆(宇文士及)が繰り返し諫めたが聞き入れられず、ついに上表して実態を報告した。壬戌の日(武徳2年9月17日)、元吉は官職を免じられた。 癸亥の日(18日)、陟州(河南省)刺史・李育德(りいくとく)が王世充(おうせいじゅう)配下の河内地方の堡塁31か所を攻略。乙丑の日(20日)、王世充は甥の君廓(くんかく)に陟州侵攻を命じるも、李育德が撃退し千余人を斬首した。この時、弟の厚徳(こうとく)が帰郷して父母の病気を見舞っていたため、育德が獲嘉県を守備していたところ、王世充が軍勢を集中させ攻撃。丁卯の日(22日)、陟州は陥落し、育徳と三人の弟は全員戦死した。 己巳の日(24日)、李公逸(りこういつ)が雍丘県(河南省)を献上して降伏。唐朝は彼を杞州総管に任命し、同族の弟・善行(ぜんこう)を杞州刺史とした。 隋朝の吏部侍郎だった楊恭仁(ようきょうじん)は宇文化及(うぶんかきゅう)に従って河北へ赴いたが、化及が敗れると魏州総管・元宝蔵(げんぽぞう)に捕らえられた。己巳の日(24日)、長安へ送還される。高祖とは旧知の間柄であったため黄門侍郎に任命され、すぐに涼州総管となった。恭仁は以前から辺境事情に精通し、羌族や胡族の実情に通暁していたため、漢人も異民族も心服した。これにより葱嶺以東の地域がこぞって唐朝へ朝貢するようになった。 突厥(とっけつ)の始畢可汗(しひつかがん)は軍勢を率いて黄河を渡り夏州(陝西省)に進出。梁師都(りょうしと)も兵を挙げて合流し、劉武周(りゅうぶしゅう)に騎兵500を与え句注山から太原侵攻を企図したが、その最中に始畢可汗が急死。息子の什鉢苾(じゅはつひつ)が幼少だったため弟の俟利弗設(ぎりふつせつ)を立てて処羅可汗(しょらかがん)とした。処羅可汗は什鉢苾を尼歩設(にほせつ)とし、幽州北方の東辺地域に駐屯させた。 これより先、高祖が右武候将軍・高静(こうせい)に財貨を持たせ始畢可汗へ派遣したところ、豊州到着時に可汗の死を知り、詔勅によって現地の倉庫へ納めさせることになった。 解説
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| 突厥聞之,怒,欲入寇;豐州總管張長遜遣高靜以幣出塞為朝廷致賻,突厥乃還。 三月,庚午,梁師都寇靈州,長史楊則擊走之。 壬申,王世充寇穀州,刺史史萬寶戰不利。 庚辰,隋北海通守鄭虔符、文登令方惠整及東海、齊郡、東平、任城、平陸、壽張、須昌賊帥王薄等並以其地來降。 王世充之寇新安也。外示攻取,實召文武之附己者議受禪。李世英深以為不可,曰:「四方所以奔馳歸附東都者,以公能中興隋室故也。今九州之地,未清其一,遽正位號,恐遠人皆思叛去矣!」世充曰:「公言是也!」長史韋節、楊續等曰:「隋氏數窮,在理昭然。夫非常之事,固不可與常人議之。」太史令樂德融曰:「昔歲長星出,乃除舊布新之征;今歲星在角、亢。亢,鄭之分野。若不亟順天道,恐王氣衰息。」世充從之。外兵曹參軍戴冑言於世充曰:「君臣猶父子也,休戚同之,明公莫若竭忠徇國,則家國俱安矣。」世充詭辭稱善而遣之,世充議受九錫,冑復固諫,世充怒,出為鄭州長史,使與兄子行本鎮虎牢。乃使段達等言於皇泰主,請加世充九錫。皇泰主曰:「鄭公近平李密,已拜太尉,自是以來,未有殊績,俟天下稍平,議之未晚。」段達曰:「太尉欲之。」皇泰主熟視達曰:「任公!」辛巳,達等以皇泰主之詔,命世充為相國,假黃鉞,總百揆,進爵鄭王,加九錫,鄭國置丞相以下官。 |
現代日本語訳突厥はこの情報を得て激怒し、侵攻しようとした。豊州総管・張長遜は高静を使者として貨幣を持たせ国境を越えさせ、「朝廷による弔意金」と称して贈り物を行ったため、突厥軍は撤退した。 三月庚午の日:梁師都が霊州に侵攻するも、長史・楊則がこれを撃退。 一方で新安を攻める王世充は「侵攻」を装い、実は配下の官僚や武将を集め禅譲(帝位継承)に関する密議を行った。李世英が強く反対し、「諸勢力が洛陽に馳せ参じたのは貴公が隋朝再興を約束したからだ。九州統一さえ成らないうちに皇帝即位など急げば、人々は離反するだろう」と述べると、王世充は「その通りだ」と返答。 しかし長史・韋節や楊続らは「隋の命運は尽きたのは明らか。非凡な事業を凡人に諮る必要はない」と主張。太史令(天文官)・楽徳融も「昨年の彗星出現は新旧交代の兆し、今年は歳星が鄭国に対応する亢宿にある。天意に従わねば帝王の気運が衰える」と言上したため、王世充は彼らの意見を採用。 外兵曹参軍・戴冑が進言:「君臣関係は父子のようなもの。苦楽を共にするべきです。貴公が忠誠を尽くせば家も国も安泰となる」。王世充は偽って「良い助言だ」と返しつつ彼を追い返す。その後戴冑が九錫(皇帝代理の証)受領に再度反対すると激怒し、鄭州長史へ左遷して甥・行本と共に虎牢関守備につかせた。 王世充は段達らを使者として皇泰主(恭帝侑)のもとに遣わし九錫授与を要求。皇泰主が「貴公は李密討伐功で太尉になったきり目立った業績がない。天下安定後に議論すべきだ」と拒むと、段達は「太尉自ら望んでおります」と迫る。皇泰主は彼を見据え「任せよ(どうぞ勝手に)」と言い放った。 辛巳の日:段達らは詔勅を偽造し王世充を相国・黄鉞仮授権限者・全政務統括者と任命。鄭王へ昇爵させ九錫を与え、さらに鄭国内で丞相以下の官職設置を認めた。 解説
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| 初,宇文化及以隋大理卿鄭善果為民部尚書。從至聊城,為化及督戰,中流矢。竇建德克聊城,王琮獲善果,責之曰:「公名臣之家,隋室大臣,奈何為弒君之賊效命,苦戰傷痍至此乎!」善果大慚,欲自殺,宋正本馳往救止之;建德復不為禮,乃奔相州,淮安王神通送之長安。庚午,善果至,上優禮之,拜左庶子、檢校內史待郎。 齊王元吉諷并州父老詣闕留己;甲申,復以元吉為并州總管。 戊子,淮南五州皆遣使來降。 辛卯,劉武周寇并州。 壬辰,營州總管鄧暠擊高開道,敗之。 甲午,王世充遣其將高毘寇義州。 東都道士桓法嗣獻《孔子閉房記》於王世充,言「相國當代隋為天子」。世充大悅,以法嗣為諫議大夫。世充又羅取雜鳥,書帛繫頸,自言符命而縱之。有得鳥來獻者,亦拜官爵。於是段達以皇泰主命,加世充殊禮。世充奉表三讓,百官勸進,設位於都常。納言蘇威年老,不任朝謁,世充以威隋氏重臣,欲以炫耀士民,每勸進,必冠威名。及受殊禮之日,扶威置百官之上,然後南面正坐受之。 夏,四月,劉武周引突厥之眾,軍於黃蛇嶺,兵鋒甚盛。齊王元吉使車騎將軍張達以步卒百人嘗寇;達辭以兵少不可往,元吉強遣之,至則俱沒。達忿恨,庚子,引武周襲榆次,陷之。 散騎常侍段確,性嗜酒,奉詔慰勞朱粲於菊潭。 |
現代日本語訳:はじめに、宇文化及が隋の大理卿であった鄭善果を民部尚書に任命した。彼は化及に従って聊城へ赴き、督戦中に流れ矢に当たった。竇建德が聊城を攻略すると、王琮が善果を捕らえ、「あなたは名臣の家系で隋の大臣であったのに、どうして君主を弑した逆賊のために力を尽くし、傷だらけになるまで苦戦したのか」と責めた。善果は深く恥じ入り自害しようとしたが、宋正本が駆けつけて止めさせた。しかし建德も礼遇せず、彼は相州へ逃亡。淮安王李神通の手引きで長安に送られた。庚午(6月15日)、善果が到着すると高祖(李淵)は厚遇し、左庶子・検校内史侍郎に任命した。 斉王李元吉は并州の父老を唆して朝廷へ赴かせ自身の留任を要請させた。甲申(6月29日)、元吉は再び并州総管となった。 戊子(7月3日)、淮南五州が使者を派遣し降伏した。 辛卯(7月6日)、劉武周が并州に侵攻。 壬辰(7月7日)、営州総管鄧暠が高開道を撃破。 甲午(7月9日)、王世充配下の将軍高毘が義州へ侵攻。 東都洛陽の道士桓法嗣が王世充に『孔子閉房記』を献上し、「相国(世充)こそ隋に代わる天子」と進言。世充は喜び彼を諫議大夫とした。さらに雑多な鳥を集め、布帛に文字を書いて首に結び付け「天命の証」として放った。その鳥を得て献上する者も官爵を与えられた。ここにおいて段達が皇泰主(楊侗)の命と称し世充へ特別礼遇を授けようとした。世充は三度辞退する表文を奉り、百官は即位を勧め都堂に座席を設置した。納言蘇威は老齢で朝儀に出仕できなかったが、世充は隋の重臣として民衆への示威効果を狙い、毎回「蘇威」の名を冒頭に加えて推戴させた。特別礼遇授与式当日には蘇威を百官最上位に据え、自ら南面して正式に受けた。 夏四月、劉武周が突厥軍を率いて黄蛇嶺へ布陣し猛威を振るった。斉王李元吉は車騎将軍張達に歩兵百人で偵察させようとしたが、張達は兵力不足と反論したため強制的に出撃命令。全滅すると張達は憤慨し、庚子(4月25日)、武周を引き入れて榆次を急襲・陥落させた。 散騎常侍段確は酒癖が悪く、詔を受けて菊潭で朱粲を慰労中であった。 解説:
(本訳では歴史的固有名詞は原則として原表記保持、官職名等は適宜現代的理解可能な範囲で漢字使用。符命工作など宗教的行為については当時の文脈を損ねぬよう直訳的処理) Translation took 857.7 seconds. |
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| 辛丑,乘醉侮粲曰:「聞卿好□敢人,人作何味?」粲曰:「□敢醉人正如糟藏彘肉。」確怒,罵曰:「狂賊入朝,為一頭奴耳,復得□敢人乎!」粲於座收確及從者數十人,悉烹之,以□敢左右。遂屠菊潭,奔王世充,世充以為龍驤大將軍。 王世充令長史韋節、楊續等及太常博士衡水孔穎達,造禪代儀,遣段達、雲定興等十餘人入奏皇泰主曰:「天命不常,鄭王功德甚盛,願陛下遵唐、虞之跡。」皇泰主斂膝據案,怒曰:「天下,高祖之天下,若隋祚未亡,此言不應輒發;必天命已改,何煩禪讓!公等或祖檷舊臣,或台鼎高位,既有斯言,朕復何望!」顏色凜冽,在廷者皆流汗。退朝,泣對太后。世充更使人謂之曰:「今海內未寧,須立長君,俟四方安集,當復子明辟,必如前誓。」癸卯,世充稱皇泰主命,禪位於鄭。遣其兄世惲幽皇泰主於含涼殿,雖有三表陳讓及敕書敦勸,皇泰主皆不知也。遣諸將引兵入清宮城,又遣術人以桃湯葦火祓除禁省。 隋將帥、郡縣及賊帥前後繼有降者,詔以王薄為齊州總管,伏德為濟州總管,鄭虔符為青州總管,綦公順為淮州總管,王孝師為滄州總管。甲辰,遣大理卿新樂郎楚之安撫山東,秘書監夏侯端安撫淮左。 乙巳,王世充備法駕入宮,即皇帝位。丙午,大赦,改元開明。 丁未,隋御衛將軍陳稜以江都來降;以稜為揚州總管。 |
現代日本語訳辛丑の日、段達は酔いに乗じて楊粲を侮辱し、「聞くところでは卿は人肉を好んで食らうそうだが、その味はいかほどか?」と問い質した。これに対し楊粲は「酔っぱらいの肉など酒粕漬けの豚肉同然」と応じた。段達が激怒して「お前ごとき賊徒が朝廷に入り込み、一介の下僕に過ぎぬ身で人を食らうとは!」と罵ると、楊粲はその場で段達及び従者数十名を捕縛し、ことごとく煮て側近たちに喰わせた。その後菊潭を虐殺し王世充の下へ奔り、龍驤大将軍に任じられた。 王世充は長史韋節・楊続らと太常博士(衡水出身)孔穎達に禅譲儀礼を作成させ、段達・雲定興ら十余名を皇泰主のもとに遣わし「天命は変わります。鄭王(王世充)の功徳は甚だ盛大ゆえ、陛下には堯舜の故事に倣われんことを」と奏上させた。これに対し皇泰主は膝を立て机に手をつき、「天下は高祖皇帝(文帝)より伝わるもの。隋の天命が続くならこの言葉出ずべからず。仮に変わったというなら禅讓など無用だ!卿らは元勲の子孫か高位高官でありながら、もはや朕には何の望みもない!」と怒声を浴びせた。その厳しい面持ちに廷臣たちは総べて汗を流した。退朝後、皇泰主は太后に向かい涙にくれたが、王世充は重ねて「今は天下未だ定まらず成年の君主が必要である。四方平定後に必ず位をお返しする」と伝えさせた。 癸卯の日、王世充は皇泰主の命として偽り鄭へ帝位を禅譲した。実兄王世惲に命じ皇泰主を含涼殿に幽閉し、三度の辞退上奏や勅書による説得も全て彼には知らせなかった。配下の将兵に宮城占拠を命じる一方、術師を使って桃湯と葦の火で禁中を清めさせた。 隋の将帥・地方官及び賊軍頭目が相次いで降伏したため、詔により王薄を斉州総管、伏徳を済州総管、鄭虔符を青州総管、綦公順を淮州総管、王孝師を滄州総管に任命。甲辰の日には大理卿(新楽出身)郎楚之を山東へ、秘書監夏侯端を淮左へ慰撫使として派遣した。 乙巳の日に王世充は正式な儀仗を整え宮中で帝位につき、丙午の大赦令で元号を開明と改めた。丁未には隋御衛将軍陳稜が江都より降伏し、揚州総管に任じられた。 解説■歴史的意義 ■人物描写の特徴 ■政権交代の演出術 ■『通鑑』の叙述技法
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| 戊申,王世充立子玄應為太子,玄恕為漢王,余兄弟宗族十九人皆為王。奉皇泰主為潞國公。以蘇威為太師,段達為司徒,雲定興為太尉,張僅為司空,楊續為納言,韋節為內史,王隆為左僕射,韋霽為右僕射,齊王世惲為尚書令,楊汪為吏部尚書,杜淹為少吏部,鄭頲為御史大夫。世惲,世充之兄也。又以國子助都吳人陸德明為漢王師,令玄恕就其家行束脩禮。德明恥之,故服巴豆散,臥稱病,玄恕入跪床下,對之遺利,竟不與語。德明名朗,以字行。 世充於闕下及玄武門等數處皆設榻,坐無常所,親受章表。或輕騎遊歷衢市,亦不清道,民但避路而已。世充按轡徐行,語之曰:「昔時天子深居九重,在下事情無由聞徹。今世充非貪天位,但欲救恤時危,正如一州刺史,親覽庶務,當與士庶共評朝政,尚恐門有禁限,今於門外設坐聽朝,宜各盡情。」又令西朝堂納冤抑,東朝堂納直諫。於是獻策上書者日有數百,條疏既煩,省覽難遍,數日後,不復更出。 竇建德聞王世充自立,乃絕之,始建天子旌旗,出警入蹕,下書稱詔,追謚隋煬帝為閔帝。齊王暕之死也,有遣腹子政道,建德立以為鄖公,然猶依倚突厥,以壯其兵勢。隋義成公主遣使迎蕭皇后及南陽公主,建德遣千餘騎送之,又傳宇文化及首以獻義成公主。 丙辰,劉武周圍并州,齊王元吉拒卻之。 |
現代日本語訳戊申(ぼしん)の日、王世充(おうせいじゅう)は息子・玄応(げんおう)を皇太子とし、玄恕(げんじょ)を漢王とした。他の兄弟や宗族19人も全員王に封じた。元皇帝(皇泰主)には潞国公の称号を与えた。蘇威(そい)を太師、段達(だんたつ)を司徒、雲定興(うんていこう)を太尉、張僅(ちょうきん)を司空に任命し、楊続(ようぞく)は納言、韋節(いせつ)は内史、王隆(おうりゅう)は左僕射、韋霽(いせい)は右僕射とした。兄の世惲(せいいん)を斉王・尚書令に据え、楊汪(ようおう)を吏部尚書、杜淹(とえん)を少吏部(吏部次官)、鄭頲(ていけい)を御史大夫とした。 国子助教の呉出身者・陸徳明(りくとくめい)を漢王玄恕の師傅に任命し、玄恕に命じて彼の自宅で束脩(正式な弟子入りの礼)を行わせた。しかし徳明はこれを恥辱と感じ、わざと巴豆散(下剤)を飲んで床に臥せり「病気だ」と称した。玄恕が寝台の前で跪いても、徳明は彼の面前で排便しながら遂に一言も口を開かなかった。徳明の本名は朗だが、字を通称とした。 王世充は宮門や玄武門など数箇所に机を置き、定位置を持たず自ら上奏文を受け取った。軽装の騎兵で街中を巡視する際も通行規制を行わず、民衆はただ道を避けるだけであった。「昔の天子は深い宮殿に閉じこもり、下々の実情を知る術がなかった」と手綱を緩めながら述べ、「私は帝位を貪っているわけではなく、この危機的時勢を救うために自ら州長官のように政務を見ている。士民と共に朝政を議論したいのだ」と言い、さらに「宮門の外で聴政するのは皆が自由に意見できるようにするためだ」と説明した。西側の建物には冤罪の訴えを、東側には直言諫言を受付けるよう命じたところ、献策や上書は日に数百件にも達し、内容が煩雑すぎて全て目を通せず、数日後には聴政を中止してしまった。 竇建徳(とうけんとく)は王世充の自立を知ると関係を断絶。天子用の旗印を用い始め、警護体制を厳重にし、文書では「詔」と呼称した。隋の煬帝には閔帝という諡号を追贈し、殺害された斉王楊暕(ようかい)の遺児・政道(せいどう)を鄖公(うんこう)に封じたが、依然として突厥への依存で軍勢を強化した。義成公主(突厥可汗妃)が蕭皇后と南陽公主を迎えに来ると、千騎余りの護衛をつけて送り届け、宇文化及の首級も持たせて献上させた。 丙辰(へいしん)の日、劉武周(りゅうぶしゅう)が并州を包囲したが、斉王李元吉(李世民の弟)はこれを撃退した。 解説
(注記:官職名「納言」「僕射」等は当時の制度を反映し現代語訳なし。陸徳明の薬物服用描写など『通鑑』特有の生々しい表現も忠実に再現) Translation took 1808.9 seconds. |
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| 戊午,詔太常卿李仲文將兵救并州。 王世充將軍丘懷義居門下內省。召越王君度、漢王玄恕、將軍郭士衡雜妓妾飲博,侍御史張蘊古彈之。世充大怒,令散手執君度、玄恕,批其耳數十;又命引入東上閣,仗之各數十。懷義、士衡不問。賞蘊古帛百段,遷太子舍人。君度,世充之兄子也。 世充每聽朝,殷勤誨諭,言詞重複,千端萬緒,侍衛之人不勝倦弊,百司奏事,疲於聽受。御史大夫蘇良諫曰:「陛下語太多而無領要,計云爾即可,何煩許辭也!」世充默然良久,亦不罪良,然性如是,終不能改也。 王世充數攻伊州,總管張善相拒之;糧盡,援兵不至,癸亥,城陷,善相罵世充極口而死。帝聞,歎曰:「吾負善相,善相不負吾也!」賜其子爵襄城郡公。 五月,王世充陷義州,復寇西濟州。遣右驍衛大將軍劉弘基將兵救之。 李軌將安修仁兄興貴,仕長安,表請說軌,諭以禍福。上曰:「軌阻兵恃險,連結吐谷渾、突厥,吾興兵擊之,尚恐不克,豈口舌所能下乎!」興貴曰:「臣家在涼州,奕世豪望,為民夷所附;弟修仁為軌所信任,子弟在機近者以十數。臣往說之,軌聽臣固善,若其不聽,圖之肘腋,易矣!」上乃遣之。 興貴至武威,軌以為左右衛大將軍。興貴乘間說軌曰:「涼地不過千里,土薄民貧。今唐起太原,取函秦,宰制中原。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)戊午の日、皇帝は太常卿・李仲文に軍勢を率いて并州救援へ向かうよう命じた。 王世充配下の将軍・丘懐義が門下内省に滞在していた際のこと。越王(王君度)、漢王(王玄恕)らと郭士衡将軍を呼び寄せ、芸妓や妾たちを交えて酒宴と賭博を行わせた。侍御史の張蘊古はこれを弾劾したが、世充は激怒し、護衛兵に君度と玄恕を捕えさせて数十回も耳を叩かせたうえ、東上閣へ引き立ててそれぞれ数十回の杖刑を加えさせた(丘懐義と郭士衡は不問)。一方で蘊古には絹百反を与えて太子舎人に昇進させた。君度は世充の甥にあたる。 王世充が政務を執るとき、その訓示は過剰なまでに熱心で言葉が繰り返され、千言万語と錯綜するため、側近たちは疲労困憊し、役所からの上奏も聞き取るのに苦労した。御史大夫の蘇良が諫めて言うには「陛下のお言葉は多くて要領を得ず『そうせよ』と言えば足りるものを、なぜわざわざ長々とおっしゃるのですか」と。世充は沈黙したものの、良を罰することなく、しかし本性が変わらぬため改善されなかった。 王世充が伊州を再三攻撃すると、総管・張善相は抵抗したが兵糧が尽き援軍も来ず、癸亥の日に陥落。善相は世充を激しく罵倒して死んだ。皇帝(李淵)はこれを聞き「朕は善相に背いたが、彼は朕に背かなかった」と嘆息し、その子に襄城郡公の爵位を与えた。 五月、王世充は義州を陥落させ西済州へ再侵攻した。右驍衛大将軍・劉弘基が兵を率いて救援に向かう。 李軌配下の安修仁の兄・安興貴が長安で官職につき「私に軌を説得させてください」と上奏した。高祖(李淵)は言った。「李軌は兵力と地勢を頼み、吐谷渾や突厥とも結んでいる。出兵しても勝てるか怪しいのに、口先だけで降伏させるなどできるのか?」興貴は答えた。「臣の一族は涼州で代々名門として異民族にも信望があり、弟・修仁は李軌に重用されています。子弟十数人が側近におりますので説得すれば成功するでしょう。もし聞き入れなければ内部から容易に対処できます」。高祖は彼を行かせた。 興貴が武威へ到着すると、李軌は左右衛大将軍の官位を与えた。その頃、興貴は隙を見て軌に進言した。「涼州の土地は千里にも満たず貧弱です。唐は太原から勃興し関中を掌握して中原を支配しています」。 解説
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| 戰必勝,攻必取,此殆天啟,非人力也。不若舉河西歸之,則竇融之功復見於今日矣!」軌曰:「吾據山河之固,彼雖強大,若我何?汝自唐來,為唐遊說耳。」興貴謝曰:「臣聞富貴不歸故鄉,如衣繡夜行。臣闔門受陛下榮祿,安肯附唐!但欲效其愚慮,可否在陛下耳。」於是退與修仁陰結諸胡起兵擊軌,軌出戰而敗,嬰城自守。興貴徇曰:「大唐遣我來誅李軌,敢助之者夷三族!」城中人爭出就興貴。軌計窮,與妻子登玉女台,置酒為別。庚辰,興貴執之以聞,河西悉平。鄧曉在長安,舞蹈稱慶,上曰:「汝為人使臣,聞國亡,不戚而喜,以求媚於朕。不忠於李軌,肯為朕用乎!」遂廢之終身。 軌至長安,並其子弟皆伏誅。以安興貴為右武候大將軍、上柱國、涼國公,賜帛萬段,安修仁為左武候大將軍、申國公。 隋末,離石胡劉龍兒擁兵數萬,自號劉王,以其子季真為太子;虎賁郎將梁德擊斬龍兒。至是,季真與弟六兒復舉兵為亂,引劉武周之眾攻陷石州,殺刺史王儉。季真自稱突利可汗,以六兒為拓定王。六兒隋使請降,詔以為嵐州總管。 壬午,以秦王世民為左武候大將軍、使持節、涼、甘等九州諸軍事、涼州總管,其太尉、尚書令、雍州牧、陝東道行台並如故。遣黃門侍郎楊恭仁安撫河西。 丙戌,劉武周陷平遙。 癸巳,梁州總管、山東道安撫副使陳政為麾下所殺,攜其首奔王世充。 |
現代日本語訳:戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず落とす。これは天の導きであって人の力ではない。河西(黄河以西)を挙げて唐に帰順するのがよいだろう。そうすれば竇融のような功績が今また現れるはずだ!」李軌は言った。「我は山河の険固な地形を頼りとしている。たとえ相手が強大でも、私には手出しできまい。お前は唐から来て、彼らのために説得に来たのだろう?」安興貴は平伏して答えた。「富貴を得ながら故郷へ帰らぬのは、刺繍の衣を着て夜道を行くようなものです。私と一族は陛下より厚い禄を受けております。どうして唐になびきましょう?ただ愚かな考えをお伝えしたいだけです。採否は陛下が決められること」。こう言って退出した後、安修仁と共に密かに諸胡族を糾合し兵を挙げて李軌を攻めた。迎撃に出た李軌は敗れ、城郭に籠もった。安興貴は宣言する。「大唐の命により李軌を討つ!加勢する者は三族皆殺しだ!」城内の人々が我先にと安興貴のもとに駆け寄る中、退路を断たれた李軌は妻子と玉女台に登り、別れの酒宴を開いた。庚辰の日(4月18日)、安興貴は彼を捕らえ報告したため河西は完全平定された。 長安に使者として滞在していた鄧曉が喜び踊って祝賀すると、高祖李淵は叱責した。「任国で君主を持ちながらその滅亡を知り、悲しまず逆に媚びようとするとは!李軌への忠義もない者が朕のために誠を尽くすと思うか?」彼を終身免職とした。 長安へ護送された李軌と息子兄弟は全員処刑。安興貴は右武候大将軍・上柱国・涼国公に任じられ絹帛万段を与えられ、弟の修仁も左武候大将軍・申国公となった。 隋末には離石地方の胡族劉龍児が数万兵を率いて「劉王」と称し、子の季真を太子とした。虎賁郎将梁徳に討たれた後、この時(619年)季真は弟六児と再挙兵して反乱を起こし、劉武周軍と呼応して石州を陥落させ刺史王儉を殺害した。季真が自ら「突利可汗」と名乗り六児を「拓定王」とする中、(唐に降った)六児は使者を通じて帰順を請い、嵐州総管の地位を得た。 壬午(4月20日)、秦王李世民が左武候大将軍・使持節(天子代理権限)・涼甘等九州諸軍事(九つの州の統帥)・涼州総管に任じられ、従来の太尉・尚書令・雍州牧・陝東道行台などの要職は維持された。黄門侍郎楊恭仁が河西鎮撫使として派遣される。 丙戌(4月24日)、劉武周軍が平遥を占拠した。 癸巳(5月1日)、梁州総管兼山東道安撫副使陳政が配下に暗殺され、首級は王世充の陣営へ持ち去られた。 歴史的考察:【権力移行期の力学】
【称号乱立と正統性】
【李世民の権力基盤】
【時間軸分析】干支記日を換算すると:
- 李軌滅亡(庚辰=4月18日)
- 李世民任命(壬午=4月20日):平定直後の空白地掌握
- 劉武周侵攻(丙戌=4月24日):山西方面脅威の急拡大
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| 政,茂之子也。 王世充以禮部尚書裴仁基、左輔大將軍裴行儼有威名,忌之。仁基父子知之,亦不自安,乃與尚書左丞宇文儒童、儒童弟尚食直長溫、散騎常侍崔德本謀殺世充及其黨,復尊立皇泰主;事洩,皆夷三族。齊王世惲言於世充曰:「儒童等謀反,正為皇泰主尚在故也,不如早除之。」世充從之,遣兄子唐王仁則及家奴梁百年鴆皇泰主。皇泰主曰:「更為請太尉,以往者之言,未應至此。」百年欲為啟陳,世惲不許;又請與皇太后辭決,亦不許。乃布度焚香禮佛:「願自今已往,不復生帝王家!」飲藥,不能絕,以帛縊殺之。謚曰恭皇帝。世充以其兄楚王世偉為太保,齊王世惲為太傅,領尚書令。 六月,庚子,竇建德陷滄州。 初,易州賊帥宋金剛,有眾萬餘,與魏刀兒連結。刀兒為竇建德所滅,金剛救之,戰敗,帥眾四千西奔劉武周,武周聞其善用兵,得之,甚喜,號曰宋王,委以軍事,中分家貲以遺之。金剛亦深自結,出其故妻,納武周之妹,因說武周圖晉陽,南向爭天下。武周以金剛為西南道大行台,使將兵三萬寇并州。丁未,武周進逼介州,沙門道澄以佛幡縋之入城,遂陷介州;詔左武衛大將軍姜寶誼、行軍總管李仲文擊之。武周將黃子英往來雀鼠谷,數以輕兵挑戰,兵才接,子英陽不勝而走,如是再三,寶宜、仲文悉眾逐之,伏兵發,唐兵大敗,寶誼、仲文皆為所虜。 |
現代日本語訳政(王世充の甥)は茂(王世惲か?)の子である。 王世充は礼部尚書・裴仁基と左輔大将軍・裴行儼が威名を持つことを妬み、警戒していた。仁基父子もその心情を察知し不安に感じていたため、彼らは尚書左丞・宇文儒童、儒童の弟で尚食直長(皇帝用膳担当)の温、散騎常侍・崔徳本と共謀して世充及びその一派を暗殺し、皇泰主(元隋帝楊侗)を再び擁立しようとした。しかし計画が露見し、彼らは皆三族(父方一族・母方一族・妻子)もろとも処刑された。 斉王・王世惲が世充に進言した:「宇文儒童らが謀反を起こそうとするのは、皇泰主がまだ生存しているからです。早急に始末すべきでしょう」。世充はこれを受け入れ、兄の子である唐王・仁則と家臣の梁百年を使い出し、毒薬で皇泰主を殺害させようとした。 皇泰主は訴えた:「もう一度太尉(王世充)にお願い申し上げてください。かつて約束したこととは違うではありませんか」。百年が取り次ごうとすると、世惲は許さなかった。さらに皇太后への別れの挨拶をしたいと懇願するもまた許可されない。そこで衣服を整え香を焚き仏に礼拝し「どうかこの身をもって、今後二度と帝王家には生まれませんように」と祈った。毒薬は致命的でなく(死ねなかったので)、絹布で首を締めて殺害された。後に恭皇帝の諡号が贈られた。 世充は兄である楚王・世偉を太保に、斉王・世惲を太傅兼尚書令に任命した。 六月庚子(12日)、竇建徳が滄州を陥落させた。 当初、易州の賊軍首領・宋金剛は一万余りの兵士を擁し、魏刀児と連合していた。ところが刀児が竇建徳に滅ぼされると、金剛は救援に向かうも戦いに敗れ、四千の兵卒を率いて西へ逃げ劉武周のもとに身を寄せた。 武周は彼の軍才を知り喜んで迎え入れ、「宋王」と称し軍事全権を委ねて信任すると共に自らの財産半分を与えた。金剛も深くこれに応え、先妻を離縁して武周の妹を娶った。そして晋陽(太原)攻略と天下争奪への進出を献策した。 劉武周は宋金剛を西南道大行台(方面総司令官)に任命し三万の兵を与えて并州へ侵攻させた。 丁未(19日)、武周が介州に迫ると、僧・道澄が仏旗を掲げて城壁から縄梯子を降ろしたため陥落した。唐朝廷は左武衛大将軍・姜宝誼と行軍総管・李仲文に討伐を命じた。 劉武周の部将・黄子英が雀鼠谷で活動し、軽装兵を用いて繰り返し挑発行動に出た。両軍が接触するとわざと敗走するふりを見せ、これを三度も行ったため宝誼らは全軍を率いて追撃したところ伏兵に遭い大敗、二人とも捕虜となってしまった。 解説
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| 既而俱逃歸,上復使二人將兵擊武周。 己酉,突厥遣使來告始畢可汗之喪,上舉哀於長樂門,廢朝三日,詔百官就館吊其使者。又遣內史舍人鄭德挺吊處羅可汗,賻帛三萬段。 上以劉武周入寇為憂,右僕射裴寂請自行。癸亥,以寂為晉州道行軍總管,討武周,聽以便宜從事。 秋,七月,初置十二軍,分關內諸府以隸焉,皆取天星為名,以車騎府統之。每軍將、副各一人,取威名素重者為之,督以耕戰之務。由是士馬精強,所向無敵。 海岱賊帥徐圓朗以數州之地請降,拜兗州總管,封魯國公。 王世充遣其將羅士信寇穀州,士信帥其眾千餘人來降。先是,士信從李密擊世充,兵敗,為世充所得,世充厚禮之,與同寢食。既而得邴元真等,待之如士信,士信恥之。士信有駿馬,世充兄子趙王道詢欲之,不與,世充奪之以賜道詢;士信怒,故來降。上聞其來,甚喜,遣使迎勞,賜帛五千段,稟食其所部,以士信為陝州道行軍總管。世充左龍驤將軍臨涇席辯與同列楊虔安、李君義皆帥所部來降。 丙子,王世充遣其將郭士衡寇穀州,刺史任瑰大破之,俘斬且盡。 甲申,行軍總管劉弘基遣其將種如願襲王世充河陽城,毀其河橋而還。 乙酉,西突厥統葉護可汗、高昌王麴伯雅各遣使入貢。 初,西突厥曷娑那可汗入朝於隋,隋人留之,國人立其叔父,號射匱可汗。 |
現代日本語訳:その後、両将はともに逃亡して帰還した。高祖(李淵)は再び二人に兵を率いて劉武周討伐に向かわせた。 己酉の日(6月24日)、突厥が使者を遣わし始畢可汗(シュビ・カガン)の訃報を伝えてきたため、高祖は長楽門で哀悼の意を示し、3日間朝政を停止。百官に命じて宿舎へ赴き使者を弔問させた。さらに内史舍人鄭徳挺を使者として処羅可汗(チュラ・カガン)のもとへ派遣し、絹三万段を葬儀の礼品とした。 高祖は劉武周の侵攻を憂慮していたところ、右僕射裴寂が自ら出陣を願い出た。癸亥の日(7月8日)、裴寂を晋州道行軍総管に任命し、劉武周討伐に向かわせるとともに、臨機応変の処置を許可した。 秋七月、初めて十二軍を設置。関内の諸府を分割してこれに所属させ、全て天象の星名を部隊名とした(注:例えば「参旗軍」「鼓旗軍」等)。各軍には車騎府が統括し、将軍・副将各1名を配した。着任者は威厳と名声が備わった者から選抜され、農耕と軍事の監督を担わせた。これにより兵馬は精鋭化し、向かうところ敵なしとなった。 海岱(山東地域)の賊将徐円朗が数州の領地を奉じて降伏。兗州総管に任じられ魯国公に封ぜられた。 王世充が配下の将軍羅士信を穀州侵攻に向かわせたところ、羅は兵千余人を率いて唐へ投降した。以前、羅士信は李密に従って王世充と交戦したが敗北し捕虜となった。王世充は彼を厚遇して寝食を共にしていたが、後に邴元真らも捕えると同じ待遇を与えたため、羅は屈辱を感じた。さらに羅の愛馬を王世充の甥・趙王道詢が所望した際、譲らなかったところ強奪されて道詢へ与えられたことに激怒し投降に至った。高祖はこの知らせを大いに喜び、使者を派遣して慰労するとともに絹五千段を与え、配下兵士への食糧支給を約束。羅士信を陝州道行軍総管に任命した。王世充陣営の左龍驤将軍・臨涇出身の席辯と同僚の楊虔安・李君義もまた配下を率いて投降してきた。 丙子の日(7月21日)、王世充が再び郭士衡を穀州侵攻に向かわせたが、刺史任瑰が大勝し敵兵はほぼ全滅した。 甲申の日(7月29日)、行軍総管劉弘基配下の種如願が王世充支配下の河陽城を急襲。黄河橋梁を破壊して帰還した。 乙酉の日(7月30日)、西突厥の統葉護可汗(トン・ヤブグ・カガン)と高昌王麹伯雅がそれぞれ使者を遣わし朝貢した。 初め、西突厥の曷娑那可汗(アシュナ・カガン)が隋へ入朝した際に抑留されると、国内では叔父を立てて射匱可汗(イシェグ・カガン)と称させた。 解説:
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| 射匱者,達頭可汗之孫也,既立,拓地東至金山,西至海,遂與北突厥為敵,建庭於龜茲北三彌山。射匱卒,弟統葉護立。統葉護勇而有謀,北並鐵勒,控弦數十萬,據烏孫故地,又移庭於石國北千泉;西域諸國皆臣之,葉護各遣吐屯監之,督其徵賦。 辛卯,宋金剛寇浩州,浹旬而退。 八月,丁酉,酅公薨,謚曰隋恭帝;無後,以族子行基嗣。 竇建德將兵十餘萬趣洺州,淮安王神通帥諸軍退保相州。己亥,建德兵至洺州城下。丙午,將軍秦武通軍至洛陽,敗王世充將葛彥璋。 丁未,竇建德陷洺州,總管袁子幹降之。乙卯,引兵趣相州,淮安王神通聞之。帥諸軍就李世勣於黎陽。 梁師都與突厥命數千騎寇延州,行軍總管段德操兵少不敵,閉壁不戰,伺師都稍怠,九月,丙寅,遣副總管梁禮將兵擊之。師都與禮戰方酣,德操以輕騎多張旗幟,掩擊其後,師都軍潰;逐北二百餘里,破其魏州,虜男女二千餘口。德操,孝先之子也。 蕭銑遣其將楊道生寇峽州,剌史許紹擊破之。銑又遣其將陳普環帥舟師上峽,規取巴、蜀。紹遣其子智仁及錄事參軍李弘節等追至西陵,大破之,擒普環。銑遣兵戍安蜀城及荊門城。 先是,上遣開府李靖詣夔州經略蕭銑。靖至峽州,阻銑兵,久不得進。上怒其遲留,陰敕許紹斬之;紹惜其才,為之奏請,獲免。 |
現代語訳:射匱(シャクイ)は達頭可汗の孫である。即位後、領土を東は金山まで、西は海に至る範囲で拡大し、北突厥と対立するようになったため、王庭を亀茲北方の三彌山に置いた。射匱が亡くなると弟の統葉護(トウヨウコ)が後継者となった。彼は勇敢かつ策略家であり、北で鉄勒族を併合して数十万もの兵力を得て烏孫の旧領土を支配下に収め、さらに王庭を石国北方の千泉へ移した。西域諸国は皆これに服属し、統葉護は各国に吐屯(トンドン:監察官)を派遣して税や貢物の取り立てを監督させた。 辛卯の日、宋金剛が浩州に侵攻したが十日ほどで撤退した。 八月丁酉の日に酅公(隋恭帝楊侑)が亡くなり、「隋恭帝」と諡された。後継者がいなかったため、一族の行基を養子として跡継ぎとした。 竇建徳は十万余りの兵を率いて洺州へ進軍した。これに対し淮安王李神通は諸軍を率いて相州に撤退して防衛線を敷いた。己亥の日には竇建徳が洺州城下に到達、丙午には唐将軍・秦武通が洛陽に到着し、王世充配下の葛彦璋を破った。 丁未に竇建徳は洺州を陥落させ総管袁子幹を降伏させた。乙卯になると兵を相州に向け進撃、淮安王李神通はこれを知り諸軍を率いて李世勣のいる黎陽へ移動した。 梁師都が突厥と連合し数千騎で延州に侵攻すると、行軍総管段徳操は兵力不足から防衛線を固め決戦を避けていた。敵の油断を見た九月丙寅、副総管梁礼に兵を与えて反撃させると両軍が激突した。その最中に段徳操が軽騎兵で旗幟を多数掲げて背後から奇襲し、梁師都軍は壊走した。二百里余り追撃して魏州を攻略し男女二千人以上を捕虜とした(段徳操は隋の将軍・段孝先の子である)。 蕭銑が配下楊道生に峡州侵攻を命じたが、刺史許紹に撃退された。さらに陳普環率いる水軍を三峡へ進出させ巴蜀制圧を企てるも、許紹は息子・智仁と録事参軍李弘節らに追撃させ西陵で大破し陳普環を捕縛した。蕭銑は安蜀城と荊門城に守備兵を配置した。 先述のように高祖(唐の李淵)が開府儀同三司・李靖を夔州へ派遣して蕭銑対策を命じていた。しかし李靖は峡州で敵軍に行く手を阻まれ長期停滞していた。高祖は遅延に激怒し許紹に密かに処刑命令を下したが、許紹は彼の才能を惜しみ上奏して助命させた。 解説:
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| 己巳,竇建德陷相州,殺刺史呂鈱。 民部尚書魯公劉文靜,自以才略功勳在裴寂之右,而位居其下,意甚不平。每廷議,寂有所是,文靜必非之,數侵侮寂,由是有隙。文靜與弟通直散騎常侍文起飲,酒酣,怨望,拔刀擊柱曰:「會當斬裴寂首!」家數有妖,文起召巫於星下被發銜刀為厭勝。文靜有妾無寵,使其兄上變告之。上以文靜屬吏,遣裴寂、蕭瑀問狀。文靜曰:「建義之初,忝為司馬,計與長史位望略同。今寂為僕射,據甲第;臣官賞不異眾人,東西征討,老母留京師,風雨無所庇,實有觖望之心,因醉怨言,不能自保。」上謂群臣曰:「觀文靜此言,反明白矣。」李綱、蕭瑀皆明其不反,秦王世民為之固請曰:「昔在晉陽,文靜先定非常之策,始告寂知;及克京城,任遇懸隔,令文靜觖望則有之,非敢謀反。」裴寂言於上曰:「文靜才略實冠時人,性復粗險,今天下未定,留之必貽後患。」上素親寂,低回久之,卒用寂言。辛未,文靜及文起坐死,籍沒其家。 沈法興既克毘陵,謂江、淮之南指摠可定,自稱梁王,都毘陵,改元延康,置百官。性殘忍,專尚威刑,將士小有過,即斬之,由是其下離怨。 時杜伏威據歷陽,陳稜據江都,李子通據海陵,俱有窺江表之心。法興軍數敗;會子通圍稜於江都,稜送質求救於法興及伏威,法興使其子綸將兵數萬,與伏威共救之。 |
現代日本語訳己巳の日、竇建徳が相州を陥落させ刺史・呂鈱を殺害した。 民部尚書である魯公・劉文静は、自身の才能と功績が裴寂より優れているのに官位が下位なことに強い不満を持っていた。朝廷での議論では毎回、裴寂が賛成すれば必ず反対し、度々侮辱的な態度を示したため両者の間に深刻な確執が生じていた。 ある時劉文静は弟(通直散騎常侍・文起)と酒を酌み交わし酔いが回ると、「いつか裴寂の首を斬ってやる」と叫びながら刀で柱を叩いた。また自宅では怪異現象が続発しており、文起は巫女に髪を乱させ剣を口にくわえさせる呪術を行わせた。 劉文静には寵愛していない妾がおり、その兄に命じて「謀反の兆候あり」と虚偽の告発をさせた。高祖(李淵)は裴寂と蕭瑀に取り調べを命令。これに対し劉文静は釈明した。「挙兵当初、私は司馬として長史(裴寂)とほぼ同等でしたが、今や彼は僕射となり豪邸に住む一方、私は一般臣下並みの待遇です。転戦する中で老母は都で雨露を凌げない屋根の下におります...不満から酔った勢いで妄言を吐いたのは事実ですが謀反など考えていません」 高祖は群臣に「この供述こそ逆心の証拠だ」と断言。李綱と蕭瑀が無罪を主張し、秦王・李世民も強く弁護した。「太原起兵時には文静が先に大計を立案し裴寂に伝えました。都占領後に待遇差で不満を持ったのは事実ですが謀反の意図はありません」。しかし裴寂は「彼の才略は確かに卓越していますが性格は粗暴危険です。天下未だ定まらぬ今、生かせば必ず禍根となります」と進言した。 高祖は平素から裴寂を信任しており、長く逡巡した末にその意見を採用。辛未の日、劉文静と弟・文起は死罪となり財産は没収された。 一方で江南では沈法興が毘陵制圧後、「江淮以南は平定済み」と宣言して梁王を自称し毘陵へ遷都。元号を延康と改め百官を任命した。しかし彼の統治は残忍な刑罰偏重となり、将兵の些細な過失でも即座に処刑したため配下の離反が相次いだ。 当時杜伏威(歴陽占拠)、陳稜(江都占拠)、李子通(海陵占拠)らが江南支配を虎視眈々と狙う中、沈法興軍は連敗。折しも李子通が江都で陳稜を包囲すると、陳稜は人質を送って沈法興と杜伏威に救援要請した。これを受け沈法興は息子・綸に数万の兵を与え杜伏威軍と共同作戦を取らせた。 解説
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| 伏威軍清流,綸軍揚子,相去數十里。子通納言毛文深獻策,募江南人詐為綸兵,夜襲伏威營,伏威怒,復遣兵襲綸。由是二人相疑,莫敢先進。子通得盡銳攻江都,克之,稜奔伏威。子通入江都,因縱擊綸,大破之,伏威亦引去。子通即皇帝位,國號吳,改元明政。丹楊賊帥樂伯通帥眾萬餘降之,子通以為左僕射。杜伏威請降;丁丑,以伏威為淮南安撫大使、和州總管。 裴寂至介休,宋金剛據城拒之。寂軍於度索原,營中飲澗水,金剛絕之,士卒渴乏。寂欲移營就水,金剛縱兵擊之,寂軍遂潰,失亡略盡,寂一日一夜馳至晉州。 先是,劉武周屢遣兵攻西河,浩州剌史劉贍拒之;李仲文引兵就之,與共守西河。及裴寂敗,自晉州以北城鎮俱沒,唯西河獨存。姜寶誼復為金剛所虜,謀逃歸,金剛殺之。裴寂上表謝罪,上慰諭之,復使鎮撫河東。 劉武周進逼并州,齊王元吉紿其司馬劉德威曰:「卿以老弱守城,吾以強兵出戰。」辛巳,元吉夜出兵,攜其妻妾棄州奔還長安。元吉始去,武周兵已至城下,晉陽土豪薛深以城納武周。上聞之,大怒,謂禮部尚書李綱曰:「元吉幼弱,未習時事,故遣竇誕、宇文歆輔之。晉陽強兵數萬,食支十年,興王之基,一旦棄之。聞宇文歆首畫此策,我當斬之!」綱曰:「王年少驕逸,竇誕曾無規諫,又掩覆之,使士民憤怨,今日之敗,誕之罪也。 |
現代語訳(『資治通鑑』抜粋)杜伏威軍は清流に、輔公祏(綸)軍は揚子にそれぞれ布陣し、両軍の間隔は数十里であった。李子通が側近の毛文深の献策を受け入れ、江南出身者を募って偽装した輔公祏兵とし、夜襲で杜伏威の本営を攻撃させた。激怒した杜伏威は報復として軍勢を差し向け輔公祏を急襲したため、両将は互いに疑心を生じ、率先して動こうとはしなくなった。 この隙に李子通は全兵力を投入して江都を攻撃し陥落させた。守将の陳稜は杜伏威のもとへ逃亡した。江都占領後、李子通は勢いに乗じて輔公祏軍を猛攻し壊滅的打撃を与え、杜伏威も撤退を余儀なくされた。こうして李子通は皇帝即位を宣言し国号を「呉」、元号を明政と定めた。丹楊の賊将・楽伯通が万余りの兵を率いて降伏すると、左僕射に任命した。 一方で杜伏威も降伏を申し出たため(同年十二月丁丑)、朝廷は彼を淮南安撫大使兼和州総管に任じている。 他方、裴寂軍が介休に到着すると宋金剛が城を固守して抵抗。裴寂は度索原に布陣したが、水源である渓流を宋金剛に遮断され兵士たちは極度の水不足に苦しんだ。新たな水源地へ移動中に宋金剛軍の攻撃を受け壊滅的敗北を喫し、ほぼ全兵力を喪失した裴寂は一日一夜かけて晋州まで逃げ延びた。 この時期、劉武周が度々西河への侵攻を行っていたが、浩州刺史・劉贍と援軍の李仲文が共同防衛で堅守していた。しかし裴寂敗退後、晋州以北の城塞は次々陥落する中、西河だけが孤立して抵抗を続けた。 捕虜となった姜宝誼が脱走を企てたため宋金剛に処刑される事件も発生した。敗軍の将・裴寂は謝罪表を提出したが、高祖(李淵)は慰留し引き続き河東鎮撫を命じている。 さらに劉武周軍が并州へ迫ると、斉王・李元吉は司馬・劉徳威に「貴殿は老兵弱兵で城防衛にあたれ。我こそ精鋭を率いて出撃する」と宣言し(同年十一月辛巳)、その夜ひそかに妻妾らを伴い長安へ逃亡した。李元吉が去るや否や劉武周軍が城下に迫り、土豪・薛深が内応して晋陽城は陥落した。 この報を受けた高祖は激怒し礼部尚書・李綱に対し「元吉は未熟ゆえ竇誕と宇文歆を補佐につけた。数万の精兵と十年分の糧秣を持つ王業の基盤を一朝で失わせた。逃亡計画の首謀者は宇文歆だ!斬刑に処す!」と宣言した。 これに対し李綱は「斉王殿下が驕慢なのは、竇誕が一切諫めず過ちを隠蔽した結果です。民衆の怨嗟も招いた今回の失態は彼の責任」と反論している。 解説
※本訳では『資治通鑑』原文の固有名詞は原則として唐代の発音に準拠し、現代日本語で通用する表記(例:杜伏威/李子通など)を採用した。軍事行動の時系列関係を明確化するため()内に対応干支や月を補記している。 Translation took 1804.2 seconds. |
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| 歆諫,王不悛,尋皆聞奏,乃忠臣也,豈可殺哉!」明日,上召綱入,升御座曰:「我得公,遂無濫刑。元吉自為不善,非二人所能禁也。」並誕赦之。衛尉少卿劉政會在太原,為武周所虜,政會密遣人奉表論武周形勢。武周據太原,遣宋金剛攻晉州,拔之,虜右驍衛大將軍劉弘基,弘基逃歸。金剛進逼絳州,陷龍門。 西突厥曷娑那可汗與北突厥有怨;曷娑那在長安,北突厥遣使請殺之,上不許。群臣皆曰:「保一人而失一國,後必為患!」秦王世民曰:「人窮來歸我,殺之不義。」上遲回久之,不得己,丙戌,引曷娑那於內殿宴飲,既而送中書省,縱北突厥使者使殺之。 禮部尚書李綱領太子詹事,太子建成始甚禮之。久之,太子漸暱近小人,疾秦王世民功高,頗相猜忌;綱屢諫不聽,乃乞骸骨。上罵之曰:「卿為何潘仁長史,乃恥為朕尚書邪!且方使卿輔導建成,而固求去,何也?」綱頓首曰:「潘仁,賊也,每欲妄殺人,臣諫之即止。為其長史,可以無愧。陛下創業明主,臣不才,所言如水投石,言於太子亦然,臣何敢久污天台,辱東朝乎!」上曰:「知公直士,勉留輔吾兒。」戊子,以綱為太子少保,尚書、詹事如故。綱復上書諫太子飲酒無節,及信讒慝,疏骨肉。太子不懌,而所為如故。綱鬱鬱不得志,是歲,固稱老病辭職,詔解尚書,仍為少保。 |
現代日本語訳:歆が諫言をしても王(李元吉)は改めなかった。後にこの件が皇帝(高祖・李淵)に報告されると、「あれらは忠臣である、どうして殺せようか!」と言った。翌日、皇帝は綱(李綱)を召し出し、玉座近くまで昇らせて言下に告げた。「卿を得たことで不必要な刑罰を行わずに済んだ。元吉が自ら悪事を働いたのであり、(監視役の)二人には阻止できなかったのだ」と述べ、関係者全員を赦免した。 衛尉少卿・劉政会は太原で劉武周の捕虜となったが、密かに使者を遣わし上表文を奉って武周軍の情勢を報告した。武周は太原を占拠すると宋金剛を派遣して晋州を攻撃させ陥落させた。右驍衛大将軍・劉弘基も捕らえられたが脱走帰還した。金剛はさらに進んで絳州に迫り、龍門を攻略した。 西突厥の曷娑那可汗と北突厥との間には遺恨があった。長安滞在中の曷娑那に対し、北突厥が使者を送って処刑を要求したが、皇帝は許可しなかった。群臣は一様に「一人のために一国(北突厥)を敵に回せば必ず後患となります」と主張する中で、秦王李世民だけは「窮地の身で我々のもとに逃れてきた者を殺すのは不義だ」と反論した。皇帝は長く逡巡した末やむなく承諾し、丙戌(ひのえいぬ)の日、内殿で曷娑那を宴席に招いた後、中書省へ送り届けさせ、北突厥使者に殺害させた。 礼部尚書・李綱が太子詹事(皇太子補佐官)となると、皇太子・建成は当初彼を厚遇した。しかし時が経つにつれ、太子は小人たちと親密になり、秦王李世民の功績の高さをねたんで猜疑心を強めたため、李綱は繰り返し諫言するも聞き入れられず辞職を願い出た。皇帝は怒って「卿は賊将・何潘仁の長史(幕僚長)だったのに朕の尚書となることを恥じるのか?まして建成補佐という重任がある時にどうして去ろうとする!」と詰った。李綱が平伏し答えた。「潘仁は賊でしたが、臣の諫言で妄殺をやめました。故にその長史として心に疚しくありません。陛下は創業の明君なのに、臣の進言は石に水(全く聞き入れられず)、太子に対しても同様です。どうして高位に居座り続け東宮をお汚しできましょうか!」皇帝は「卿が直臣であることは知っている。我が子を補佐せよ」と言い、戊子の日に李綱を太子少保(皇太子師傅)に任命した(尚書・詹事職は従来通り)。だが李綱は再び上疏し、太子の酒癖と奸臣への傾倒、兄弟不和を諫めた。太子は不機嫌になりながらも行いを改めず、李綱は鬱々として志を得られなかった。同年、老病を理由に尚書職辞任を固辞したため詔により解官されたが、少保職は留まった。 解説:
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| 淮安王神通使慰撫使張道源鎮趙州。庚寅,竇建德陷趙州,執總管張志昂及道源。建德以二人及邢州刺史陳君賓不早下,欲殺之。國子祭酒凌敬諫曰:「人臣各為其主用,彼堅守不下,乃忠臣也。今大王殺之,何以勵群下乎!」建德怒曰:「吾至城下,彼猶不降,力屈就擒,何可捨也!」敬曰:「今大王使大將高士興拒羅藝於易水,藝才至,士興即降,大王之意以為何如?」建德乃悟,即命釋之。 乙未,梁師都復寇延州,段德操擊破之,斬首二千餘級,師都以百餘騎遁去。德操以功拜柱國,賜爵平原郡公。鄜州刺史鄜城壯公梁禮戰沒。 冬,十月,己亥,就加涼州總管楊恭仁納言;賜幽州總管燕公羅藝姓李氏,封燕郡王。 辛丑,李藝破竇建德於衡水。 癸卯,以左武候大將軍龐玉為梁州總管。時集州獠反,玉討之,獠據險自守,軍不得進,糧且盡。熟獠與反者皆鄰里親黨,爭言賊不可擊,請玉還。玉揚言:「秋谷將熟,百姓毋得收刈,一切供軍,非平賊吾不返。」聞者大懼,曰:「大軍不去,吾曹皆將餒死。」其中壯士乃入賊營,與所親潛謀,斬其渠帥而降,餘黨皆散,玉追討,悉平之。 劉武周將宋金剛進攻澮州,陷之,軍勢甚銳。裴寂性怯,無將帥之略,唯發使駱驛,趣虞、泰二州收民入城堡,焚其積聚。民驚擾悉怨,皆思為盜。夏縣民呂崇茂聚眾自稱魏王,以應武周,寂討之,為所敗。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)淮安王李神通は慰撫使の張道源を趙州に駐留させたが、庚寅の日に竇建徳が趙州を陥落させ、総管の張志昂と道源を捕らえた。建徳は二人および邢州刺史の陳君賓が早期に降伏しなかったことを理由に処刑しようとした。国子祭酒の凌敬が諫めて言うには「人臣はそれぞれ主君のために尽くすものです。彼らが堅守して降らぬのは忠臣の証です。今大王がこれを殺せば、どうやって部下を奮い立たせましょうか」と。建徳は怒って「我が軍が城下に迫っても降らず、力尽きて捕らわれた者をなぜ許すのか」と反論したが、凌敬は「では大王の部将・高士興が易水で羅藝(李芸)を防いだ際、敵が現れるや即座に投降しました。その行為はいかがお考えですか?」と問うた。建徳はようやく悟り、直ちに釈放を命じた。 乙未の日、梁師都が再び延州を侵攻したが、段德操に撃破され二千余級を斬られ、百余騎で逃走した。德操は功績により柱国に任ぜられ平原郡公を賜り、鄜州刺史・鄜城壮公の梁礼は戦死した。 冬十月己亥、涼州総管・楊恭仁が納言(侍中)の官職を加授され、幽州総管・燕公羅藝は李氏の姓を賜って燕郡王に封じられた。 辛丑の日、李芸(羅藝)が衡水で竇建徳を破る。 癸卯の日、左武候大将軍・龐玉が梁州総管となる。この時集州の僚族が反乱し、龐玉は討伐に向かうも、賊は険阻に拠って守りを固め、兵糧が尽きかけていた。帰順した僚族たち(熟獠)は「反乱軍は制圧不能」と主張して撤兵を求めたが、龐玉は敢然と宣言する。「秋の穀物が実れば民衆は収穫禁止とする。全て軍需に充てる。賊を平らげねば戻らぬ」と。これを聞いた住民は恐慌し「大軍が駐留すれば我々は餓死する」と騒然となった。すると僚族の壮士たちが反乱軍陣営へ潜入し、内通者と謀って首魁を斬り降伏させたため残党は離散した。龐玉は追撃して全て平定した。 劉武周配下の宋金剛が澮州に進攻し陥落させるなど勢いが盛んだった。裴寂は性格的に臆病で将帥の才略なく、ただ虞・泰二州へ使者を頻発させて民衆を城砦に強制移住させ、蓄積物資を焼却したため民心が離反し、賊徒化する者が続出した。夏県の呂崇茂は「魏王」と称して兵を集め劉武周に呼応し、裴寂はこれを討とうとしたが逆に敗北した。 解説【歴史的意義】
【人物評価】
【社会背景】
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| 詔永安王孝基、工部尚書獨孤懷恩、陝州總管於筠、內史侍郎唐儉等將兵討之。 時王行本猶據蒲板,未下,亦與武周相應,關中震駭。上出手敕曰:「賊勢如此,難與爭鋒,宜棄大河以東,謹守關西而已。」秦王世民上表曰:「太原,王業所基,國之根本;河東殷實,京邑所資,若舉而棄之,臣竊憤恨。願假臣精兵三萬,必冀平殄武周,克復汾、晉。」上於是悉發關中兵以益世民所統,使擊武周,乙卯,幸華陰,至長春宮以送之。 竇建德引兵趣衛州。建德每行軍,常為三道,輜重、細弱居中央,步騎夾左右,相去二里許。建德以千騎前行,過黎陽三十里,李世勣遣騎將丘孝剛將二百騎偵之。孝剛驍勇,善馬槊,與建德遇,遂擊之,建德敗走;右方兵救之,擊斬孝剛。建德怒,還攻黎陽,克之,虜淮安王神通、李世勣父蓋、魏徵及帝妹同安公主。唯李世勣以數百騎走渡河,數日,以其父故,還詣建德降。衛州聞黎陽陷,亦降。建德以李世勣為左驍衛將軍,使守黎陽,常以其父蓋自隨為質。以魏徵為起居舍人。滑州刺史王軌奴殺軌,攜其首詣建德降。建德曰:「奴殺主大逆,吾何為受之!」立命斬奴,返其首於滑州。吏民感悅,即日請降。於是其旁州縣及徐圓朗等皆望風歸附。己未,建德還洺州,築萬春宮,徙都之。置淮安王神通於下博,待以客禮。 |
現代語訳詔によって永安王孝基、工部尚書獨孤懷恩、陝州總管於筠、内史侍郎唐儉らに兵を率いさせて討伐に向かわせた。当時、王行本はなお蒲坂(ほばん)に拠り、落ちていなかったため、劉武周と呼応し、関中一帯が震撼した。皇帝(高祖李淵)は自筆の詔書を下して「賊軍の勢いはこのようであり、正面から争うのは難しい。大河(黄河)以東を放棄し、関西のみを厳重に守るべきである」と述べた。秦王李世民が上表文で「太原は王朝創業の基盤であり国の根本です。河東地域は豊かで首都を支える要地。もしこれを放棄されれば臣は無念でなりません。精兵三万をお貸しください。必ず劉武周を討伐し汾州・晋陽を回復します」と奏上した。そこで皇帝は関中の全兵力を李世民の指揮下に付け、劉武周征討に向かわせた。乙卯(10月4日)、高祖自ら華陰に出向き長春宮で出征を見送った。 竇建徳が軍を率いて衛州へ進撃した。彼は行軍時、常に三つの隊列を組み──輜重と非戦闘員を中央に置き、歩兵・騎兵が左右両翼となり二里(約1km)間隔で並ぶ。竇建徳自ら千騎を率いて先行し、黎陽から三十里過ぎた地点で李世勣配下の騎将・丘孝剛が二百騎を指揮して偵察中に遭遇した。丘孝剛は勇猛で馬槊(馬上用長矛)の名手であり、ただちに攻撃を仕掛けて竇建徳を敗走させた。しかし右翼軍が救援に駆けつけ丘孝剛を討ち取った。激怒した竇建徳は引き返して黎陽を攻略し、淮安王李神通・李世勣の父である李蓋(りがい)・魏徴・皇帝妹の同安公主らを捕虜とした。李世勣のみ数百騎で黄河を渡って脱出したが数日後、父の身柄を案じて投降に戻った。衛州は黎陽陥落を知ると降伏した。竇建徳は李世勣を左驍衛将軍に任命して黎陽守備を命じたが、常にその父・李蓋を人質として側に置いた。魏徴には起居舎人の官職を与えた。 滑州刺史王軌の下僕が主人を殺害し首級を持って投降しようとした際、竇建徳は「主君を弑す大逆罪人を受け入れるわけがない」と即座に処刑し、首級を滑州へ送り返した。この処置に感動した官吏・民衆は同日中に降伏を申し出た。これにより周辺州县や徐円朗らも風聞に従い帰順した。己未(10月8日)、竇建徳は洺州へ戻り万春宮を築いて遷都すると、淮安王李神通を下博に住まわせ賓客の礼をもって遇した。 解説【歴史的背景】
【人物関係分析】
【統治手法比較】
【戦略的転換点】
(訳注:歴史用語は現代日本語に置換しつつ原意保持。「大河」→黄河、「馬槊」→馬上用長矛など。固有名詞は原則として原文表記を維持) Translation took 906.0 seconds. |
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| 行軍總管羅士信帥勇士夜入洛陽外郭,縱火焚清化裡而還。壬戌,士信拔青城堡。王世充自將兵徇地至滑台,臨黎陽;尉氏城主時德睿、汴州刺史王要漢、亳州刺史丁叔則遣使降之。以德睿為尉州刺史。要漢,伯當之兄也。 夏侯端至黎陽,李世勣發兵送之,自澶淵濟河,傳檄州縣,東至於海,南至於淮,二十餘州,皆遣使來降。行至譙州,會汴、亳降於王世充,還路遂絕。端素得眾心,所從二千人,雖糧盡不忍委去,端坐澤中,殺馬以饗士,因歔欷謂曰:「卿等鄉里皆已從賊,特以共事之情,未能見委。我奉王命,不可從卿;卿有妻子,無宜效我。可斬吾首歸賊,必獲富貴。」眾皆流涕曰:「公於唐室非有親屬,直以忠義,志不圖存。某等雖賤,心亦人也,寧肯害公以求利乎!」端曰:「卿不忍見殺,吾當自刎。」眾抱持之,乃復同進,潛行五日,餒死及為賊所擊奔潰相失者太半,唯餘五十三人同走,采豆生食之。端持節未嘗離身,屢遣從者散,自求生,眾又不可。時河南之地皆入世充,唯杞州刺史李公逸為唐堅守,遣兵迎端,館給之。世充遣使召端,解衣遺之,仍送除書,以端為淮南郡公、尚書少吏部。端對使者焚書毀衣,曰:「夏侯端天子大使,豈受王世充官乎!汝欲吾往,唯可取吾首耳。」因解節旄懷之,置刃於竿,自山中西走,無復蹊徑,冒踐荊棘,晝夜兼行,得達宜陽,從者附崖溺水,為虎狼所食,又喪其半;其存者鬢髮禿落,無復人狀。 |
現代日本語訳:行軍総管羅士信が精鋭部隊を率いて夜間に洛陽外郭へ侵入し、清化里に放火して撤退した。壬戌(じゅんじゅつ)の日、士信は青城堡を攻略した。王世充みずから軍を指揮して滑台まで領土拡張を行い、黎陽に迫ったところで、尉氏城主時徳叡・汴州刺史王要漢・亳州刺史丁叔則が使者を派遣し降伏した。世充は徳叡を尉州刺史とした。要漢は伯當の兄である。 夏侯端が黎陽へ到着すると、李世勣が護衛兵を送った。澶淵から黄河を渡り州県に檄文を伝えれば、東は海辺から南は淮河まで二十余州が次々と使者を派遣して降伏した。譙州に至った時、汴・亳両州が王世充へ降伏したため帰路が遮断された。端は日頃から人心を得ており、従者二千人は食糧が尽きても彼を見捨てようとしなかった。湿地帯で座り込み馬を殺して兵士に振る舞いながら涙声で言った。「諸君の故郷は既に賊軍(世充)に従っているのに、私への情誼だけで無理をする必要はない。私は天子の命令を受けた身だから諸君にはついて行けないが、妻子ある者は死を真似てはいけない。私の首を持って帰れば富貴を得られるだろう」。皆涙ながらに答えた。「貴方は唐王室と血縁もなく忠義心だけで生死をも顧みない。我々は卑しい身だが人間としての心がある。どうして利益のために貴方を害できようか!」端が「見殺しにするのが忍びないなら自刎する」と言うと、皆で抱き止めて再び進軍した。 密かに五日間移動中に餓死や賊襲による離散者が大半を占め、残り五十三人となった。豆を摘んで生のまま食いつなぐ中、端は使者の証である「節」を肌身から離さず持ち続けた。何度も従者たちに解散して生き延びるよう命じたが拒絶された。当時河南全域は世充支配下だったが、杞州刺史李公逸だけが唐のために守り抜き、兵を出して端を保護し食糧を供給した。世充が使者を遣わし衣服と淮南郡公・尚書少吏部の任命書を与えると、端は火で焼き捨て「私は天子の大使だ。王世充の官職など受けられぬ!行けと言うならこの首を持っていけ」と宣言した。 節旗を懐に隠し槍先を竿に結び付け山中を西へ逃走。獣道もない荊棘(いばら)の中昼夜兼行で宜陽に到達するが、崖から転落・溺死・虎狼の餌となり生存者は半減した。生き残った者も頭髪は抜け落ち、人相を失っていた。 解説:
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| 端詣闕見上,但謝無功,初不自言艱苦,上復以為秘書監。 郎楚之至山東,亦為竇建德所獲,楚之不屈,竟得還。 王世充遣其從弟世辯以徐、亳之兵攻雍丘。李公逸遣使求救,上以隔賊境,不能救。公逸乃留其屬李善行守雍丘,身帥輕騎入朝,至襄城,為世充伊州刺史張殷所獲。世充謂曰:「卿越鄭臣唐,其說安在?」公逸曰:「我於天下,唯知有唐,不知有鄭。」世充怒,斬之。善行亦沒。上以公逸子為襄邑公。 甲子,上祠華山。 |
現代日本語訳李端が朝廷へ参内し天子にお目通りを得た際、ただ功績のなさを謝罪するだけで、自らの苦労については全く語らなかった。そのため太宗は再び彼を秘書監に任命した。 一方で郎楚之が山東地方へ赴いたところ、竇建徳に捕縛されたものの屈服せず、ついに帰還を果たしている。 王世充はいとこの王世辯に徐州・亳州の兵を与えて雍丘城を攻撃させた。守将李公逸は救援要請の使者を送ったが、太宗(李世民)は敵地に阻まれて救えないと判断した。そこで公逸は部下の李善行に雍丘防衛を託し、自ら軽騎兵を率いて朝廷へ向かった。しかし襄城で王世充配下の伊州刺史・張殷に捕縛される。世充が「なぜ鄭(王世充政権)を裏切り唐に仕えるのか」と詰問すると、公逸は「私は天下においてただ唐のみを知り、鄭など知らぬ」と答え、処刑された。李善行も戦死した。太宗は後に李公逸の子息に襄邑公の爵位を授けた。 甲子(日付)には天子が華山で祭祀を行っている。 解説
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| input text 資治通鑑\188_唐紀_04.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷一百八十八 唐紀四 起屠維單閼十一月,盡重光大荒落二月,凡一年有奇。 高祖神堯大聖光孝皇帝中之上武德二年(己卯,公元六一九年) 十一月,己卯,劉武周寇浩州。 秦王世民引兵自龍門乘冰堅渡河,屯柏壁,與宋金剛相持。時河東州縣,俘掠之餘,未有倉廩,人情恇擾,聚入城堡,征斂無所得,軍中乏食。世民發教諭民,民聞世民為帥而來,莫不歸附,自近及遠,至者日多,然後漸收其糧食,軍食以充。乃休兵秣馬,唯令偏裨乘間抄掠,大軍堅壁不戰,由是賊勢日衰。 世民嘗自帥輕騎覘敵,騎皆四散,世民獨與一甲士登丘而寢。俄而賊兵四合,初不之覺,會有蛇逐鼠,觸甲士之面,甲士驚寤,遂白世民,俱上馬,馳百餘步,為賊所及,世民以大羽箭射殪其驍將,賊騎乃退。 李世勣欲歸唐,恐禍及其父,謀於郭孝恪。孝恪曰:「吾新事竇氏,動則見疑,宜先立效以取信,然後可圖也。」世勣從之。襲王世充獲嘉,破之,多所俘獲,以獻建德,建德由是親之。初,漳南人劉黑闥,少驍勇狡獪,與竇建德善,後為群盜,轉事郝孝德、李密、王世充。世充以為騎將,每見世充所為,竊笑之。世充使黑闥守新鄉,李世勣擊虜之,獻於建德。建德署為將軍,賜爵漢東公,常使將奇兵東西掩襲,或潛入敵境覘視虛實。黑闥往往乘間奮擊,克獲而還。 |
現代日本語訳十一月 劉武周が浩州へ侵攻した。秦王李世民は軍勢を率いて竜門から黄河の堅くなった氷上を渡り、柏壁に駐屯して宋金剛と対峙した。当時、河東地域の州県は略奪を受けた後で食糧備蓄がなく、住民は恐怖から城塞へ避難していたため徴税できず、軍中には食料が不足していた。李世民は民衆への布告を発し、「世民が指揮官として来た」と知らせると、遠近の民はこぞって帰順し、日に日に到着者が増えた。こうして漸く食糧徴収が可能となり軍需物資も充足した。 李世民は兵士を休養させ馬匹を肥やしながら、副将たちに機会を見て小規模攻撃を行わせた。主力部隊は陣地を固守し決戦を避けたため、賊軍の勢力は次第に衰退していった。 ある時、軽騎兵を率いて敵情視察中の李世民が従者と丘で休息していると、気づかぬうちに賊軍に包囲された。蛇が鼠を追って従者の顔にかかったことで目覚め、急ぎ馬に乗り百歩余り疾走したところを追いつかれそうになった。世民は大羽箭(大型の矢)で敵の勇将を射殺すると、賊騎兵たちは退却した。 李世勣と劉黒闥 李勣が唐へ帰順しようとした際、父への累及を恐れ郭孝恪に相談すると、「私は竇建徳に仕えたばかりで軽挙すれば疑われる。まず戦功を示し信頼を得るべきだ」との助言を受けた。これを受け王世充支配下の獲嘉を急襲して陥落させ、捕虜と物資を竇建徳へ献上したことで重用されるようになった。 もともと漳南出身の劉黒闥は若く勇猛で狡猾な人物であり、竇建徳とは旧知であったが群盗(郝孝徳・李密)を経て王世充に騎将として仕えていた。その行動を嘲笑していた彼は新郷守備中に李世勣の攻撃で捕らえられ、竇建徳へ引き渡された後「漢東公」に封ぜられた。奇襲部隊指揮官となった劉黒闥は敵地への潜入偵察や不意打ちを得意とし、常に戦果を得て帰還した。 背景解説
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| 十二月,庚申,上獵於華山。 於筠說永安王孝基急攻呂崇茂,獨孤懷恩請先成攻具,然後進,孝基從之。崇茂求救於宋金剛,金剛遣其將善陽尉遲敬德、尋相將兵奄至夏縣。孝基表裡受敵,軍遂大敗,孝基、懷恩、筠、唐儉及行軍總管劉世讓皆為所虜。敬德名恭,以字行。 上征裴寂入朝,責其敗軍,下吏,既而釋之,寵待彌厚。 尉遲敬德、尋相將還澮州,秦王世民遣兵部尚書殷開山、總管秦叔寶等邀之於美良川,大破之,斬首二千餘級。頃之,敬德、尋相潛引精騎援王行本於蒲板,世民自將步騎三千,從間道夜趨安邑,邀擊,大破之,敬德、相僅以身免,悉俘其眾,復歸柏壁。 諸將咸請與宋金剛戰,世民曰:「金剛懸軍深入,精兵猛將,咸聚於是。武周據太原,倚金剛為□蔽。金剛軍無蓄積,以虜掠為資,利在速戰。我閉營養銳以挫其鋒,分兵汾、隰,沖其心腹。彼糧盡計窮,自當遁走。當待此機,未宜速戰。」 永安壯王孝基謀逃歸,劉武周殺之。 李世勣復遣人說竇建德曰:「曹、戴二州,戶口完實,孟海公竊有其地,與鄭人外合內離;若以大軍臨之,指期可取。既得海公,以臨徐、兗,河南可不戰而定也。」建德以為然,欲自將徇河南,先遣其行臺曹旦等將兵五萬濟河,世勣引兵三千會之。 高祖神堯大聖光孝皇帝中之上武德三年(庚辰,公元六二零年) 春,正月,將軍秦武通攻王行本於蒲板。 |
現代日本語訳十二月庚申の日、高祖(李淵)は華山において狩猟を行った。 于筠が永安王・孝基に対し呂崇茂を急襲するよう進言したところ、独孤懐恩は「まず攻城兵器を整備してから攻撃すべきだ」と主張。孝基はこれに従った。しかし崇茂が宋金剛に援軍を要請すると、金剛は配下の将・善陽尉遅敬徳(本名は恭だが字で通称)と尋相に兵を率いさせ夏県へ急襲させた。孝基軍は挟み撃ちにあって大敗し、孝基や懐恩、于筠、唐儉ら行軍総管の劉世讓も捕虜となった。 高祖は裴寂を朝廷に召還して敗戦の責任を問い官吏に身柄を預けたが、まもなく釈放すると以前より厚遇した。 尉遅敬徳と尋相が澮州へ帰還しようとした際、秦王・李世民(後の太宗)は兵部尚書・殷開山や総管の秦叔宝らに命じ美良川で待ち伏せ攻撃を仕掛けさせ大勝。二千余級を斬首した。その後まもなく敬徳らが精鋭騎兵を率いて密かに蒲板の王行本救援に向かうと、世民自ら歩騎三千を指揮し裏道を通り夜陰に乗じて安邑へ急行。これを迎撃して再び大破し、敬徳らは辛くも単身で逃れたが全軍が捕虜となり柏壁へ帰還した。 諸将が宋金剛との決戦を主張する中、世民は見解を示す:「金剛の軍は深く侵入した孤軍だが精鋭が集結している。劉武周(金剛の主君)は太原に拠り彼らを盾としつつ兵糧なく略奪で凌ぐため速戦を望む。我は守勢で兵力を温存しつつ汾州・隰州方面へ別働隊を出して本営を脅かせば、食糧尽きて自ずと退却するだろう」。 永安壮王・孝基が脱走を企てたため劉武周に殺害される。 李世勣(徐世勣)が再び竇建徳へ進言:「曹州・戴州は戸籍も充実し孟海公が占拠中だが、鄭(王世充)勢力とは表裏がある。大軍で臨めば短期制圧可能だ」。これを認めた建徳は自ら河南平定に出陣する決意を固め、先に行台・曹旦らに五万の兵を与え黄河渡河を命じた。これに応じ世勣も三千兵を率いて合流した。 高祖神堯大聖光孝皇帝治世中期(武徳三年/庚辰年・西暦620年) 解説
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| 行本出戰而敗,糧盡援絕,欲突圍走,無隨之者,戊寅,開門出降。辛巳,上幸蒲州,斬行本。秦王世民輕騎謁上於蒲州。宋金剛圍絳州。癸巳,上還長安。 李世勣謀俟竇建德至河南,掩襲其營,殺之,冀得其父並建德土地以歸唐。會建德妻產,久之不至。 曹旦,建德之妻兄也,在河南,多所侵擾,諸賊羈屬者皆怨之。賊帥魏郡李文相,號李商胡,聚眾五千餘人,據孟津中水單;母霍氏,亦善騎射,自稱霍總管。世勣結商胡為昆弟,入拜商胡之母。母泣謂世勣曰:「竇氏無道,如何事之!」世勣曰:「母無憂,不過一月,當殺之,相與歸唐耳!」世勣辭去,母謂商胡曰:「東海公許我共圖此賊,事久變生,何必待其來,不如速決。」是夜,商胡召曹旦偏裨二十三人,飲之酒,盡殺之。旦別將高雅賢、阮君明尚在河北未濟,商胡以巨舟四艘濟河北之兵三百人,至中流,悉殺之。有獸醫游水得免,至南岸,告曹旦,旦嚴警為備。商胡既舉事,始遣人告李世勣。世勣與曹旦連營,郭孝恪勸世勣襲旦,世勣未決,聞旦已有備,遂與孝恪帥數十騎來奔。商胡復引精兵二千北襲阮君明,破之。高雅賢收眾去,商胡追之,不及而還。建德群臣請誅李蓋,建德曰:「世勣,唐臣,為我所虜,不忘本朝,乃忠臣也,其父何罪!」遂赦之。 甲午,世勣、孝恪至長安。 |
現代日本語訳行本は出撃して敗北し、食糧も尽き援軍の途絶えた状況で包囲突破を試みたが、付いてくる兵士はいなかった。戊寅の日(19日)、城門を開けて降伏した。 辛巳の日(22日)、高祖李淵は蒲州に行幸し行本を斬首した。 秦王李世民は軽騎兵を率い蒲州で皇帝に謁見した。 宋金剛が絳州を包囲した。 癸巳の日(5月4日)、高祖は長安へ帰還した。 李世勣は竇建徳が河南に到着する機会を待ち、不意打ちで陣営を襲撃し彼を殺害する計画を立てた。これにより父を取り戻すと同時に、建徳の領土を奪って唐へ帰還しようとした。 しかし折悪しく建徳の妻が出産したため、到着が大幅に遅れた。 曹旦は竇建徳の義兄で河南におり、周辺地域を頻繁に略奪していた。これにより賊軍に属する勢力から強い恨みを買っていた。賊将である魏郡の李文相(李商胡と号す)は五千余りの兵を集め孟津の中単城を占拠しており、その母霍氏も騎射に優れ「霍総管」を自称していた。 李世勣は商胡と兄弟の契りを結び、彼の母に謁見した。母は涙ながらに言った:「竇建徳は無道だというのに、なぜ仕えるのか?」世勣は答えた:「ご安心ください。一ヶ月もしないうちに必ず殺し、共に唐へ帰参いたします」 世勣が退出すると、母は商胡に進言した:「東海公(世勣)が賊を討つと約束してくれたが、時が経てば状況も変わる。わざわざ彼の到着を待たずとも、我々だけで早急に決行すべきだ」 その夜、商胡は曹旦配下の副将23名を酒宴に招いて皆殺しにした。 別働隊の高雅賢と阮君明はまだ河北におり渡河していなかったため、商胡は大型船4隻で三百人の兵士を迎えに行かせたが、川中流まで来た所で全員斬殺した。ただ一人獣医だけが泳いで逃げ延び、南岸の曹旦に急報したため、曹旦は厳戒態勢に入った。 商胡は決起後に初めて李世勣へ報告を送った。世勣軍と曹旦軍は隣接して陣営を構えていたが、郭孝恪が「今すぐ曹旦を襲うべき」と進言するも世勣は迷っていた。しかし曹旦の警戒を知ると、孝恪ら数十騎を率いて逃亡した。 商胡はさらに精鋭二千で北へ向かい阮君明を急襲して破った。高雅賢が兵をまとめて退却すると、商胡は追撃したものの及ばず撤退した。 建徳配下の臣僚たちは世勣の父・李蓋(李懋)の処刑を求めたが、建徳は言下に拒絶した:「世勣は唐の臣だ。捕虜となっても故国を忘れぬ忠臣である。その父に何の罪があろうか」こうして赦免された。 甲午の日(5月5日)、李世勣と郭孝恪は長安へ到着した。 解説
(訳注:原文では登場人物の姓と名が交互に表記されるため「李世民=太宗」「李世勣=李勣」等の同一性に留意しつつ整合性を保持) Translation took 909.7 seconds. |
| 曹旦遂取濟州,復還洺州。 二月,庚子,上幸華陰。 劉武周遣兵寇潞州,陷長子、壺關。潞州刺史郭子武不能御,上以將軍河東王行敏助之。行敏與子武不葉,或言子武將叛,行敏斬子武以徇。乙巳,武周復遣兵寇潞州,行敏擊破之。 壬子,開州蠻酋冉肇則陷通州。 甲寅,遣將軍桑顯和等攻呂崇茂於夏縣。 初,工部尚書獨孤懷恩攻蒲板,久不下,失亡多,上數以敕書誚讓之,懷恩由是怨望。上嘗戲謂懷恩曰:「姑之子皆已為天子,次應至舅之子乎?」懷恩亦頗以此自負,或時扼腕曰:「我家豈女獨貴乎?」遂與麾下元君寶謀反。會懷恩、君寶與唐儉皆沒於尉遲敬德,君寶謂儉曰:「獨孤尚書近謀大事,若能早決,豈有此辱哉!」及秦王世民敗敬德於美良川,懷恩逃歸,上復使之將兵攻蒲板。君寶又謂儉曰:「獨孤尚書遂拔難得還,復在蒲板,可謂王者不死!」儉恐懷恩遂成其謀,乃說尉遲敬德,請使劉世讓還與唐連和,敬德從之,遂以懷恩反狀聞。時王行本已降,懷恩入據其城,上方濟河幸懷恩營,已登舟矣,世讓適至。上大驚曰:「吾得免,豈非天也!」乃使召懷恩,懷恩未知事露,輕舟來至;即執以屬吏,分捕黨與。甲寅,誅懷恩及其黨。 竇建德攻李商胡,殺之。建德洺州勸課農桑,境內無盜,商旅野宿。 突厥處羅可汗迎楊政道,立為隋王。 |
現代語訳曹旦は済州を占領すると、すぐに洺州へ戻った。 二月六日、皇帝高祖が華陰に行幸された。劉武周が潞州へ侵攻し長子と壺関を陥落させたため、防衛できなかった刺史郭子武の補佐として将軍王行敏が派遣される。しかし両者は不仲で、「子武が謀反を企てている」との密告を受けた行敏は彼を斬首し晒し者にした。十一日、再び潞州へ侵攻してきた劉武周軍を行敏は撃退した。 十八日には開州の蛮族首長・冉肇則が通州を占領。二十日に将軍桑顯和らが夏県で呂崇茂討伐に向かった。 当初、工部尚書独孤懐恩は蒲板攻略を担当していたが長期にわたり落とせず損害も甚大であった。皇帝から繰り返し叱責された懐恩は恨みを抱くようになる。かつて皇帝が冗談交じりに「私の従兄弟たち(隋の皇帝一族)は皆天子となった。次は叔父(独孤家)の番か?」と言ったことを真に受け、「我が家で女性(隋文帝皇后独孤伽羅)だけが尊いわけがない」と野心を燃やすようになった。配下の元君宝と謀反を計画中、二人は唐儉と共に尉遅敬徳の捕虜となる。この時君宝が唐儉に「独孤尚書が近く大事(決起)を行う予定だったのに」と漏らした。 秦王李世民が美良川で敬徳を破ると懐恩は逃亡帰還し、皇帝から再び蒲板攻略を命じられる。捕虜となった君宝は唐儉に「独孤尚書が無事戻り蒲板へ赴任とは天命だ」と語ったため、謀反の成功を恐れた唐儉は敬徳を説得し劉世让を通じて唐朝との和睦工作を行わせた。これにより懐恩の謀反計画が発覚する。 ちょうど王行本(隋将)が降伏した直後、蒲板城に入った懐恩に対して皇帝が黄河渡河中に劉世让から報告を受ける場面では「これは天の加護だ」と驚嘆。ただちに呼び出された懐恩は事態を知らず軽舟で現れ逮捕され、同二十日に謀反罪で処刑された。 一方竇建徳は李商胡を討伐し洺州では農業奨励政策を推進したため「盗賊が消え商人も野宿できる」治安回復を実現。突厥の処羅可汗は煬帝の孫・楊政道を保護して隋王に擁立した。 解説
※注:現代語訳では固有名詞(例:独孤懐恩→獨孤懷恩)は原典表記を保持し、官職名「工部尚書」等もそのまま使用。擬古文調を排し因果関係を明確化した平明な表現に変換。 Translation took 1683.5 seconds. |
| 中國士民在北者,處羅悉以配之,有眾萬人。置百官,皆依隋制,居於定襄。 三月,乙丑,劉武周遣其將張萬歲寇浩州,李仲文擊走之,俘斬數千人。 改納言為侍中,內史令為中書令,給事郎為給事中。 甲戌,以內史侍郎卦德彝為中書令。 王世充將帥、州縣來降者,時月相繼。世充乃峻其法,一人亡叛,舉家無少長就戮,父子、兄弟、夫婦許相告而免之。又使五家為保,有舉家亡者,四鄰不覺,皆坐誅。殺人益多而亡者益甚,至於樵采之人,出入皆有限數;公私愁窘,人不聊生。又以宮城為大獄,意所忌者,並其家屬收系宮中;諸將出討,亦質其家屬於宮中,禁止者常不減萬口,餒死者日有數十。世充又以臺省官為司、鄭、管、原、伊、殷、梁、湊、嵩、谷、懷、德等十二州營田使,丞、郎得為此行者,喜若登仙。 甲申,行軍副總管張倫敗劉武周於浩州,俘斬千餘人。 西河公張綸、真鄉公李仲文引兵臨石州,劉季真懼而詐降。乙酉,以季真為石州總管,賜姓李氏,封彭山郡王。 蠻酋冉肇則寇信州,趙郡公孝恭與戰,不利。李靖將兵八百,襲擊,斬之,俘五千餘人;己丑,復開、通二州。孝恭又擊蕭銑東平王闍提,斬之。 夏,四月,丙申,上祠華山;壬寅,還長安。 置益州道行臺,以益、利、會、鄜、涇、遂六總管隸焉。 劉武周數攻浩州,為李仲文所敗。 |
現代日本語訳中国北部にいた士人や民衆は、処羅可汗がすべて配下に組み入れ、一万人以上の集団となった。百官を設置し、全て隋の制度に従い、定襄に居住した。 三月乙丑の日、劉武周は配下の将軍張万歳を派遣して浩州を攻撃させたが、李仲文がこれを撃退し、数千人を捕虜または斬殺した。 納言を侍中と改称し、内史令を中書令と改め、給事郎を給事中と改めた。 甲戌の日、内史侍郎卦徳彝を中書令に任命した。 王世充のもとから将帥や州県の役人たちが投降してくる者が後を絶たなかった。そこで世充は法令を厳格化し、一人でも逃亡・反逆すれば家族全員を老若問わず皆殺しとし、父子・兄弟・夫婦の間で密告させて罪を免れることを認めた。また五家ごとに保(相互監視組織)を作らせ、一家全体が逃亡した場合に四隣が気づかなければ全員処刑とした。殺人は増える一方なのに逃亡者はますます増え、薪取りの者さえ出入りに人数制限を設けるほどであった。公私ともに困窮し、人々は生きる望みを失った。さらに宮城を巨大な牢獄と化し、嫌疑をかけた者やその家族をことごとく宮中に拘束。将軍が出征する際も家族を宮中人質としたため、拘留者は常に一万人を下らず、餓死者は日に数十人出た。世充はさらに台省の高官を司・鄭・管など十二州の営田使(農業監督官)に任命し、この役職を得た丞や郎らは「仙人になったようだ」と喜んだ。 甲申の日、行軍副総管張倫が浩州で劉武周を破り、千余人を捕斬した。 西河公張綸と真郷公李仲文が軍勢を率いて石州に迫ると、劉季真は恐れて偽装降伏した。乙酉の日、季真を石州総管に任じ、李氏の姓を与え彭山郡王に封じた。 蛮族首長冉肇則が信州を襲撃し、趙郡公孝恭と交戦して敗北した。李靖は兵八百を率いて奇襲し彼を斬殺、五千余人を捕虜とした。己丑の日には開州・通州を奪還。孝恭はさらに蕭銑配下の東平王闍提を攻撃し斬った。 夏四月丙申の日、皇帝(高祖)が華山で祭祀を行い、壬寅の日に長安に帰還した。 益州道行台を設置し、益・利・会など六総管をその管轄下とした。 劉武周はたびたび浩州を攻めたが、李仲文に敗北させられた。 解説
(出典注記:本訳は『資治通鑑』巻187-188「唐紀三~四」高祖武徳年間の記事を基に現代語訳した) Translation took 755.6 seconds. |
| 宋金剛軍中食盡;丁未,金剛北走,秦王世民追之。 羅士信圍慈澗,王世充使太子玄應救之,士信刺玄應墜馬,人救之,得免。 壬子,以顯州道行臺楊士林為行臺尚書令。 甲寅,加秦王世民益州道行臺尚書令。 秦王世民追及尋相於呂州,大破之,乘勝逐北,一晝夜行二百餘里,戰數十合。至高壁嶺,總管劉弘基執轡諫曰:「大王破賊,逐北至此,功亦足矣。深入不已,不愛身乎!且士卒饑疲,宜留壁於此,俟兵糧畢集,然後復進,未晚也。」世民曰:「金剛計窮而走,眾心離沮;功難成而易敗,機難得而易失,必乘此勢取之。若更淹留,使之計立備成,不可復攻矣。吾竭忠徇國,豈顧身乎!」遂策馬而進,將士不敢復言饑。追及金剛於雀鼠谷,一日八戰,皆破之,俘斬數萬人。夜,宿於雀鼠谷西原,世民不食二日,不解甲三日矣,軍中止有一羊,世民與將士分而食之。丙辰,陝州總管於筠自金剛所逃來。世民引兵趣介休,金剛尚有眾二萬,戊午,出西門,背城布陳,南北七里。世民遣總管李世勣等與戰,小卻,為賊所乘。世民帥精騎擊之,出其陳後,金剛大敗,斬首三千級。金剛輕騎走,世民追之數十里,至張難堡。浩州行軍總管樊伯通、張德政據堡自守,世民免冑示之,堡中喜噪且泣。左右告以王不食,獻濁酒、脫粟飯。 尉遲敬德收餘眾守介休,世民遣任城王道宗、宇文士及往諭之,敬德與尋相舉介休及永安降。 |
現代日本語訳宋金剛軍で兵糧が尽きる。丁未の日、金剛は北へ逃走し、秦王李世民はこれを追撃した。 羅士信が慈澗を包囲すると、王世充は太子玄応に救援に向かわせた。士信が槍を突いて玄応を馬から落としたが、救出されたため命は助かった。 壬子の日、顕州道行臺であった楊士林を行台尚書令に任命した。 甲寅の日、秦王李世民に益州道行臺尚書令の地位を加えた。 秦王李世民は呂州で尋相軍に追いつき大破。勝利に乗じて敗走兵を追撃し、昼夜兼行で二百里余り進み数十度交戦した。高壁嶺に至った時、総管劉弘基が手綱を取って諫めた。「大王は賊を破りここまで追撃され、功績は十分です。これ以上深く進むのは危険ではありませんか? 兵も飢え疲れています。ここで陣営を構え、兵糧が整うのを待ち、その後進軍すべきでしょう」。世民は答えた。「金剛は策尽きて逃げたのだ。今こそ敵の士気は崩れている(衆心離沮)。功績は成し難く失い易く、好機は得難く逃しやすい。この勢いに乗じて討つべきだ! 遅延すれば態勢を立て直され攻められなくなる。私は国のために忠節を尽くす身、危険など顧みない」。こうして馬を進めたため将兵も飢えを訴えなくなった。 雀鼠谷で金剛軍に追いつき一日八度の戦いで全て勝利し、数万人を捕虜・斬首した。夜には雀鼠谷西原に野営し、世民は二日間食事せず三日甲冑を脱がなかった。全軍に羊一頭しかなく将兵と分け合った。 丙辰の日、陝州総管於筠が金剛陣営から逃亡して来た。世民は軍を率いて介休へ向かい、金剛にはなお二万の兵力があった。戊午の日、西門から出撃した金剛軍は城背に南北七里の陣形を布いた。李世民が総管李世勣らに戦わせると一時後退し敵に攻め立てられたため、自ら精鋭騎兵で背後を突く。金剛軍は大敗し三千の首級を斬った。金剛は軽騎で逃走したので数十里追撃し張難堡(ちょうなんほ)へ至る。 浩州行軍総管樊伯通と張徳政が堡塁を守っていたところ、世民が兜を脱いで正体を示すと歓喜して泣いた。側近が「王は食事も取っておられぬ」と告げると濁酒(どぶろく)と玄米飯を献じた。 尉遅敬徳が残兵を率いて介休を守る中、世民は任城王道宗と宇文士及を使者として派遣。敬徳は尋相と共に介休及び永安を挙げて降伏した。 解説
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| 世民得敬德,甚喜,以為右一府統軍,使將其舊眾八千,與諸營相參。屈突通慮其變,驟以為言,世民不聽。劉武周聞金剛敗,大懼,棄并州走突厥。金剛收其餘眾,欲復戰,眾莫肯從,亦與百餘騎走突厥。 世民至晉陽,武周所署僕射楊伏念以城降。唐儉封府庫以待世民,武周所得州縣皆入於唐。 未幾,金剛謀走上谷,突厥追獲,腰斬之。嵐州總管劉六兒從宋金剛在介休,秦王世民擒斬之。其兄季真,棄石州,奔劉武周將馬邑高滿政,滿政殺之。 武周之南寇也,其內史令苑君璋諫曰:「唐主舉一州之眾,直取長安,所向無敵,此乃天授,非人力也。晉陽以南,道路險隘,縣軍深入,無繼於後,君進戰不利,何以自還!不如北連突厥,南結唐朝,南面稱孤,足為長策。」武周不聽,留君璋守朔州。及敗,泣謂君璋曰:「不用君言,以至於此。」久之,武周謀亡歸馬邑,事洩,突厥殺之。突厥又以君璋為大行臺,統其餘眾,仍令郁射設督兵助鎮。 庚申,懷州總管黃君漢擊王世充太子玄應於西濟州,大破之;熊州行軍總管史萬寶邀之於九曲,又破之。 辛酉,王世充陷鄧州。 上聞并州平,大悅。壬戌,宴群臣,賜繒帛,使自入御府,盡力取之。復唐儉官爵,仍以為并州道安撫大使;所籍獨孤懷恩田宅資財,悉以賜之。 世民留李仲文鎮并州,劉武周數遣兵入寇,仲文輒擊破之,下城堡百餘所。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)李世民は尉遅敬徳を得て大いに喜び、右一府統軍に任命し、彼の旧配下8千を率いさせて諸営と連携させた。屈突通は変事を懸念して頻繁に諫めたが、世民は聞き入れなかった。 劉武周は宋金剛の敗北を知ると大いに恐れ、并州を捨て突厥へ逃亡した。金剛は残兵を集めて再戦しようとしたが兵が従わず、百余騎で同様に突厥へ奔った。 李世民が晋陽に到着すると、劉武周配下の僕射・楊伏念が城を明け渡して降伏。唐儉は倉庫を封じて世民を待ち受け、武周が占領した州県は全て唐の支配下に入った。 間もなく宋金剛が上谷へ逃亡しようとしたところを突厥に捕らえられ腰斬された。嵐州総管・劉六児(劉六兒)は介休で宋金剛に従っていたが、秦王李世民に捕縛され処刑。その兄・季真は石州を放棄し、劉武周の部将である馬邑の高満政を頼ったが殺害された。 劉武周が南方侵攻した際、内史令・苑君璋が諫めて言うには「唐公(李淵)は一州の兵で長安を攻略し、向かうところ敵なし。これは天運によるもので人の力ではありません。晋陽以南は険阻な地形であり、孤軍深入すれば後詰めもなく、戦いに利なければ帰還できません。突厥と結び唐と和睦し『南面称孤』(独立君主となる)こそが上策です」と。武周は聞き入れず君璋を朔州守備に残した。敗北後に泣いて「卿の言葉を用いなかった故にこの有様だ」と悔やんだ。 後日、劉武周が馬邑へ逃亡しようとしたが露見し突厥に殺害される。突厥は苑君璋を大行臺に任じ残兵を統率させ、郁射設に軍監として駐屯支援を命じた。 庚申の日(4月17日)、懐州総管・黄君漢が西済州で王世充の太子・玄応を撃破。熊州行軍総管・史万宝も九曲で迎撃し勝利した。 辛酉の日(4月18日)に王世充が鄧州を陥落させる。 高祖李淵は并州平定を聞いて大いに喜び、壬戌の日(4月19日)に群臣を宴席で招き絹帛を下賜。自ら御府に入り好きなだけ取ることを許した。唐儉の官爵を回復して并州道安撫大使とし、没収していた独孤懐恩の田宅財産を全て与えた。 李世民は李仲文に并州守備を任せたが、劉武周軍が度々侵攻するも仲文はこれを撃退。百余りの城塞を攻略している。 解説
※本訳では固有名詞は原則として原表記を保持し、読み困難な文字(如:劉六兒→「児」で代用)にのみ簡略化処理。史書の特徴である事実列挙型文体を、因果関係が明確になるよう接続詞補完により再構成した。 Translation took 854.0 seconds. |
| 詔仲文檢校并州總管。 五月,竇建德遣高士興擊李藝於幽州,不克,退軍籠火城。藝襲擊,大破之,斬首五千級。建德大將軍王伏寶,勇略冠軍中,諸將疾之,言其謀反,建德殺之,伏寶曰:「大王奈何聽讒言,自斬左右手乎!」 初,尉遲敬德將兵助呂崇茂守夏縣,上潛遣使赦崇茂罪,拜夏州刺史,使圖敬德,事洩,敬德殺之。敬德去,崇茂餘黨復據夏縣拒守。秦王世民引軍自晉州還攻夏縣,壬午,屠之。 辛卯,秦王世民至長安。 是月,突厥遣阿史那揭多獻馬千匹於王世充,且求婚;世充以宗女妻之,並與之互市。 六月,壬辰,詔以和州總管、東南道行臺尚書令楚王杜伏威為使持節、總管江淮以南諸軍事、揚州刺史、東南道行臺尚書令、淮南道安撫使,進封吳王,賜姓李氏。以輔公祏為行臺左僕射,封舒國公。丙午,立皇子元景為趙王,元昌為魯王,元亨為魯王。 顯州行臺尚書令楚公楊士林,雖受唐官爵,而北結王世充,南通蕭銑;詔廬江王瑗與安撫使李弘敏討之。兵未行,長史田瓚為士林所忌,甲寅,瓚殺士林,降於世充,世充以瓚為顯州總管。 秦王世民之討劉武周也,突厥處羅可汗遣其弟步利設帥二千騎助唐。武周既敗,是月,處羅至晉陽,總管李仲文不能制;又留倫特勒,使將數百人,雲助仲文鎮守,自石嶺以北,皆留兵戍之而去。 |
現代日本語訳詔により于仲文を并州総管に任命し監察を命じた。 五月、竇建徳は高士興を幽州の李芸攻撃に向かわせたが敗北。籠火城へ撤退中に李芸から追撃を受け大敗し、五千人の首級を奪われた。竇建徳配下で最も勇猛だった大将軍・王伏宝は諸将の嫉妬により謀反の讒言を受けた。処刑される際「大王よ、なぜ奸臣の言葉に惑わされ自らの手足を斬るのですか!」と叫んだ。 当初、尉遅敬徳が夏県守備の呂崇茂を支援していた。高祖(李淵)は密使で呂崇茂の罪を赦免し夏州刺史に任命、尉遅敬徳暗殺を指示したが露見して誅殺された。その後も残党が抵抗を続けたため、秦王李世民は晋州から軍を返し壬午日(五月二十四日)に住民ごと殲滅した。 辛卯日(六月三日)、秦王李世民は長安へ帰還。 同月、突厥の阿史那掲多が王世充のもとに馬千頭を献上し婚姻を要求。王世充は皇族の娘を与え交易権も認めた。 六月壬辰日(四日)詔:和州総管・東南道行台尚書令楚王杜伏威に対し「使持節」「江淮以南諸軍事統括」「揚州刺史」「淮南道安撫使」を兼務させ呉王に昇格、李氏の姓を与える。輔公祏を行台左僕射・舒国公に任命。丙午日(十八日)皇子李元景を趙王、李元昌と李元亨を魯王とする。 顕州行台尚書令楚公楊士林は唐官職を受けながら北で王世充、南で蕭銑と結託したため廬江王李瑗らに討伐命令。出兵前に長史田瓚が楊士林から疎まれたことから甲寅日(二十五日)、田瓚は主君を殺害し王世充へ降伏、顕州総管となった。 秦王李世民の劉武周征伐時、突厥処羅可汗が弟・歩利設に二千騎率いさせ唐軍支援に向かわせた。劉武周敗北後の同月、処羅自ら晋陽に来訪し李仲文はこれを制御できず。さらに倫特勒と数百兵士を「協力鎮守」の名目で残留させ石嶺以北に駐屯部隊を配置して去った。 歴史背景解説
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| 上議擊王世充,世充聞之,選諸州鎮驍勇皆集洛陽,置四鎮將軍,募人分守四城。秋,七月,壬戌,詔秦王世民督諸軍擊世充。陝東道行臺屈突通二子在洛陽,上謂通曰:「今欲使卿東征,如卿二子何?」通曰:「臣昔為俘囚,分當就死,陛下釋縛,加以恩禮。當是之時,臣心口相誓,期以更生餘年為陛下盡節,但恐不獲死所耳。今得備先驅,二兒何足顧乎!」上歎曰:「徇義之士,一至此乎!」 癸亥,突厥遣使潛詣王世充,潞州總管李襲譽邀擊,敗之,虜牛羊萬計。 驃騎大將軍可朱渾定遠告:「并州總管李仲文與突厥通謀,欲俟洛陽兵交,引胡騎直入長安。」甲戌,命皇太子鎮蒲板以備之,又遣禮部尚書唐儉安撫并州,暫廢并州總管府,征仲文入朝。 壬午,秦王世民至新安。王世充遣魏王弘烈鎮襄陽,荊王行本鎮虎牢,宋王泰鎮懷州,齊王世惲檢校南城,楚王世偉守寶城,太子玄應守東城,漢王玄恕守含嘉城,魯王道徇守曜儀城,世充自將戰兵,左輔大將軍楊公卿帥左龍驤二十八府騎兵,右游擊大將軍郭善才帥內軍二十八府步兵,左游擊大將軍跋野綱帥外軍二十八府步兵,總三萬人,以備唐。弘烈、行本,世偉之子;泰,世充之兄子也。 梁師都引突厥、稽胡兵入寇,行軍總管段德操擊破之,斬首千餘級。 羅士信將前鋒圍慈澗,王世充自將兵三萬救之。 |
現代日本語訳上(高祖李淵)は王世充討伐を議論した。これを聞いた王世充は、各州の精鋭部隊をかき集めて洛陽に結集させ、「四鎮将軍」を設置し、人員を募集して四方の城門を守備させた。 秋七月壬戌の日(621年)、詔勅が下り秦王李世民が諸軍を統率して王世充討伐に向かった。陝東道行台・屈突通の二人の息子は洛陽にいたため、上は彼に言った。「そなたを東方征伐に遣わそうと思うが、二人の息子のことはどう考えるか?」 屈突通は答えた。「かつて臣は捕虜となり死を覚悟しましたが、陛下は縄を解き恩礼をもって遇してくださいました。その時、心に誓いました。残りの命で陛下のために尽くすと。ただ不本意な死を迎えるだけが恐れでした。今や先鋒として出征できるこの身、二人の息子など顧みる価値がありましょうか!」 上は嘆じて言った。「義に殉ずる者とは、まさにここまでなるのか」 癸亥の日(622年)、突厥が密使を王世充のもとに派遣した。潞州総管・李襲誉がこれを迎撃し大破、牛馬数万頭を鹵獲した。 驃騎大将軍・可朱渾定遠が告発:「并州総管・李仲文は突厥と内通しており、洛陽で戦端が開かれたら、蛮族の騎兵を率いて長安に突入する計画だ」。甲戌の日(623年)、皇太子を蒲板に駐屯させ防備にあたらせるとともに、礼部尚書・唐儉を派遣して并州を鎮撫。并州総管府は一時廃止し、李仲文を朝廷へ召還した。 壬午の日(624年)、秦王李世民が新安に到着。王世充は魏王弘烈に襄陽守備、荊王行本に虎牢関守備、宋王泰に懐州守備を命じた。斉王世惲には南城検校を、楚王世偉には宝城守備を、太子玄応には東城守備を、漢王玄恕には含嘉城守備を、魯王道徇には曜儀城守備をそれぞれ委ねた。自身は精兵三万を率い、左輔大将軍・楊公卿に左龍驤二十八府騎兵を指揮させ、右游撃大将軍・郭善才に内軍二十八府歩兵を統括させ、左游撃大将軍・跋野綱には外軍二十八府歩兵を任せて唐軍に対峙した。弘烈と行本は世偉の子であり、泰は王世充の甥であった。 梁師都が突厥と稽胡(匈奴系民族)の兵を率いて侵攻すると、行軍総管・段徳操がこれを撃破し千余級を斬首した。 羅士信が先鋒として慈澗を包囲すると、王世充は自ら三万の兵を率いて救援に向かった。 注釈
(※注釈は現代の歴史学研究を踏まえつつ、原典の記述意図に沿って補足) Translation took 852.4 seconds. |
| 己丑,秦王世民將輕騎前覘世充,猝與之遇,眾寡不敵,道路險扼,為世充所圍。世民左右馳射,皆應弦而斃,獲其左建威將軍燕琪,世充乃退。世民還營,埃塵覆面,軍不復識,欲拒之,世民免冑自言,乃得入。旦日,帥步騎五萬進軍慈澗;世充拔慈澗之戍,歸於洛陽。世民遣行軍總管史萬寶自宜陽南據龍門,將軍劉德威自太行東圍河內,上谷公王君廓自洛口斷其餉道,懷州總管黃君漢自河陰攻回洛城;大軍屯於北邙,連營以逼之。世充洧州長史繁水張公謹與刺史崔樞以州城來降。 八月,丁酉,南寧西爨蠻遣使入貢。初,隋末蠻酋爨玩反,誅,諸子沒為官奴,棄其地。帝即位,以玩子弘達為昆州刺史,令持其父屍歸葬;益州刺史段綸因遣使招諭其部落,皆來降。 己亥,竇建德共州縣令唐綱殺刺史,以州來降。 鄧州土豪執王世充所署剌史來降。 癸卯,梁師都石堡留守張舉帥千餘人來降。 甲辰,黃君漢遣校尉張夜叉以舟師襲回洛城,克之,獲其將達奚善定,斷河陽南橋而還,降其堡聚二十餘。世充使太子玄應帥楊公卿等攻回洛,不克,乃築月城於其西,留兵戍之。 世充陳於青城宮,秦王世民亦置陳當之。世充隔水謂世民曰:「隋室傾覆,唐帝關中,鄭帝河南,世充未嘗西侵,王忽舉兵東來,何也?」世民使宇文士及應之曰:「四海咸仰皇風,唯公獨阻聲教,為此而來!」世充曰:「相與息兵講好,不亦善乎!」又應之曰:「奉詔取東都,不令講好也!」至暮,各引兵還。 |
現代日本語訳己丑の日、秦王李世民は軽騎兵を率いて王世充軍の偵察に向かったが、突然敵と遭遇した。兵力で劣り、道も険しかったため包囲されてしまう。しかし李世民は左右に馬を走らせ矢を射かけ、狙いは全て命中して敵を倒し、左建威将軍・燕琪を捕虜としたため、王世充軍は撤退した。 李世民が本営へ戻ると、顔中が埃で覆われており、兵士たちは誰だか判別できず入営を拒否しようとした。彼が兜を脱いで名乗ったため、ようやく入ることができた。翌日には歩騎兵五万を率いて慈澗へ進軍。王世充は慈澗の守備隊を撤退させ洛陽に帰還した。 李世民は各将領に次の作戦を指示した:行軍総管・史万宝に宜陽から南へ龍門を占拠させ、劉德威将軍には太行山以東で河内を包囲させた。上谷公・王君廓は洛口で補給路を遮断し、懐州総管・黄君漢は河陰から回洛城を攻撃させる。主力部隊は北邙に布陣し、連なる陣営で敵を圧迫した。この結果、王世充配下の洧州長史・張公謹(繁水出身)と刺史・崔枢が州ごと降伏してきた。 八月丁酉の日、南寧西爨蛮が使者を派遣し朝貢した。隋末に蛮族首長・爨玩が反乱を起こして処刑され、息子たちは官奴となったため土地は放棄されていた。唐皇帝即位後、彼らの子孫である弘達を昆州刺史とし、父の遺骸を持ち帰って埋葬させた。益州刺史・段綸も使者を派遣して諸部族を招き諭した結果、全て降伏した。 己亥の日、竇建徳配下の共州県令・唐綱が刺史を殺害し州ごと降伏。 鄧州では在地勢力が王世充任命の刺史を捕らえ投降。 癸卯には梁師都配下の石堡守備隊長・張挙が千余人を率いて投降した。 甲辰、黄君漢配下の校尉・張夜叉が水軍で回洛城を奇襲し占領。敵将・達奚善定を捕らえ、河陽南橋を破壊して撤退した後、周辺二十余りの堡塁も降伏させた。王世充は太子・玄応に楊公卿らを率いさせ反撃させるが奪還できず、西側に月城を築いて守備隊を残置した。 青城宮で両軍が対峙する中、王世充は川を隔てて李世民に叫んだ:「隋朝滅亡後、唐帝は関中を治め、我々鄭国(王世充)は河南を治める。私は西へ侵攻せぬのに、貴公が突然東征したのはなぜか?」宇文士及を通じた李世民主の返答:「天下は皆、天子(高祖李淵)に従う。ただ貴公だけが逆らい続ける故、討伐に来たのだ」。王世充が「休戦して和睦しませんか」と提案すると、「東都攻略の詔勅を受けた。和睦を許されぬ」と拒絶した。日没後両軍は兵を引き揚げた。 解説
※本訳では『資治通鑑』原文の史実性厳守。固有名詞は歴史事典に準じ(例:李世民=当時の秦王位表記)、「覘」→「偵察」、「冑」→「兜」など漢語を平易な日本語へ変換。戦闘描写では動詞の連続使用(馳射/応弦)を流れるような動作文に再構築した。 Translation took 2007.5 seconds. |
| 上遣使與竇建德連和,建德遣同安長公主隨使者俱還。 乙卯,劉德威襲懷州,入其外郭,下其堡聚。 九月,庚午,梁師都將劉旻以華池來降,以為林州總管。 癸酉,王世充顯州總管田瓚以所部二十五州來降;自是襄陽聲問與世充絕。 史萬寶進軍甘泉宮。丁丑,秦王世民遣右武衛將軍王君廓攻轘轅,拔之。王世充遣其將魏隱等擊君廓,君廓偽遁,設伏,大破之,遂東徇地,至管城而還。先是,王世充將郭士衡、許羅漢掠唐境,君廓以策擊卻之,詔勞之曰:「卿以十三人破賊一萬,自古以少制眾,未之有也。」 世充尉州剌史時德睿帥所部杞、夏、陳、隨、許、穎、尉七州來降。秦王世民以便宜命州縣官並依世充所署,無所變易,改尉州為南汴州,於是河南州縣相繼來降。 劉武周降將尋相等多叛去。諸將疑尉遲敬德,囚之軍中。行臺左僕射屈突通、尚書殷開山言於世民曰:「敬德驍勇絕倫,今既囚之,心必怨望,留之恐為後患,不如遂殺之。」世民曰:「不然。敬德若叛,豈在尋相之後邪!」遽命釋之,引入臥內,賜之金,曰:「丈夫意氣相期,勿以小嫌介意,吾終不信讒言以害忠良,公宜體之。必欲去者,以此金相資,表一時共事之情也。」辛巳,世民以五百騎行戰地,登魏宣武陵。王世充帥步騎萬餘猝至,圍之。單雄信引槊直趨世民,敬德躍馬大呼,橫刺雄信墜馬,世充兵稍卻,敬德翼世民出圍。 |
現代日本語訳皇帝(李淵)は使者を遣わし竇建徳との和睦交渉を行う。これに対し、竇建徳は同安長公主(高祖妹)を唐使に同行させて帰還させる。 乙卯の日(8月22日)、劉德威が懐州を急襲して外城を占領し、周辺堡塁集落を制圧した。 9月庚午(初7日)、梁師都配下の将軍・劉旻が華池守備隊ごと降伏。唐は彼を林州総管に任命する。 癸酉(10日)には王世充陣営から顕州総管・田瓚が管轄二十五州を率いて帰順。これにより襄陽地域の情報網は完全に遮断された。 史万宝軍団が甘泉宮へ進撃中、丁丑(14日)、秦王李世民配下の王君廓将軍が轘轅要塞を攻略する。反攻に出た王世充軍の魏隠部隊に対し、君廓は偽装撤退で伏兵を用い壊滅的打撃を与えつつ東進、管城まで勢力圏を拡大して帰還した。なお以前、郭士衡・許羅漢ら敵将が唐領を侵していた際も王君廓の奇策が退けている。皇帝は詔勅で「わずか13騎で1万の賊軍を破るとは、寡兵をもって大軍を制する史上稀なる功績」と称賛した。 続いて尉州刺史・時徳叡が杞州・夏州・陳州・随州・許州・潁州・尉州の七州ごと帰順。李世民は臨機応変に元王世充政権下の官吏を全員留任させ(尉州のみ南汴州と改称)、これにより河南地域諸州が相次いで唐への忠誠を誓った。 一方、劉武周から投降した尋相ら将兵の集団離脱が続発。疑念を抱いた諸将は同様に降伏していた尉遅敬徳を監禁し、「彼ほどの豪傑が囚われて怨まずにおくはずがない」(屈突通・殷開山進言)として処刑を主張した。しかし李世民は「離反するなら尋相より先だった」と即時解放を命じ、私室に招いて黄金を与えつつ宣言した。「男の信義において些末な猜疑など無用だ。讒言で忠臣を傷つける愚は犯さぬゆえ、去りたければこの金を持って行け」と。 辛巳(18日)、李世民が500騎を率いて前線視察中、魏宣武陵にて王世充軍1万の奇襲を受けて包囲される。敵将・単雄信が槍で突進してきた瞬間、敬徳は馬を飛ばし「賊め!」と叫びながら横合いから一撃で落馬させ、李世民救出のために身を盾に突破口を開いた。 歴史背景解説
※時系列は620年(武徳3年)、洛陽包囲戦最中。王世充・竇建徳連合軍との決戦前夜にあたる緊張局面でのエピソード群である。 Translation took 1581.5 seconds. |
| 世民、敬德更帥騎兵還戰,出入世充陳,往返無所礙。屈突通引大兵繼至,世充兵大敗,僅以身免。擒其冠軍大將軍陳智略,斬首千餘級,獲排槊兵六千。世民謂敬德曰:「公何相報之速也!」賜敬德金銀一篋,自是寵遇日隆。 敬德善避槊,每單騎入敵陳中,敵叢槊刺之,終莫能傷,又能奪敵槊返剌之。齊王元吉以善馬槊自負,聞敬德之能,請各去刃相與校勝負,敬德曰:「敬德謹當去之,王勿去也。」既而元吉刺之,終不能中。秦王世民問敬德曰:「避槊與奪槊,孰難?」敬德曰:「奪槊難。」乃命敬德奪元吉槊。元吉操槊躍馬,志在刺之,敬德須臾三奪其槊;元吉雖面相歎異,內甚恥之。 叛胡陷嵐州。 初,王世充以邴元真為滑州行臺僕射。濮州刺史杜才幹,李密故將也,恨元真叛密,詐以其眾降之。元真恃其官勢,自往招慰,才幹出迎,延入就坐,執而數之曰:「汝本庸才,魏化置汝元僚,不建毫髮之功,乃構滔天之禍,今來送死,是汝之分!」遂斬之,遣人繼其首至黎陽祭密墓。壬午,以濮州來降。 突厥莫賀咄設寇涼州,總管楊恭仁擊之,為所敗,掠男女數千人而去。 丙戌,以田瓚為顯州總管,賜爵蔡國公。 冬,十月,甲午,王世充大將軍張鎮周來降。 甲辰,行軍總管羅士信襲王世充硤石堡,拔之。士信又圍千金堡,堡中人罵之。 |
現代日本語訳:李世民と尉遅敬徳は騎兵を率いて再び戦場に戻り、王世充の軍陣の中を縦横無断に行き来した。屈突通が大軍を引き連れて追撃すると、王世充の軍は壊滅状態となり、彼自身はかろうじて逃げ延びたのみであった。李世民らは敵将・冠軍大将軍陳智略を捕らえ、千余りの首級を挙げ、盾と矛を持つ兵士六千名を捕虜とした。李世民は尉遅敬徳に「卿の恩返しの速さには驚いた」と語り、金銀一箱を与えた。これ以降、彼に対する寵愛は日増しに厚くなった。 尉遅敬徳は矛をかわす術に長け、単騎で敵陣に突入しても、敵が集中して矛を突き出しても決して傷つくことはなかった。さらに敵の矛を奪い返して逆に刺し返すこともできた。斉王・李元吉は自ら矛術の達人と自負していたが、敬徳の腕前を聞き及んで刃を外した状態で勝負を申し込んだ。これに対し敬徳は「私のみ刃を外しましょう。殿下はそのままで結構です」と応じた。果たして元吉が矛を繰り出しても全く当たらなかった。秦王・李世民が「矛をかわすことと奪うこと、どちらが難しいか」と問うと、敬徳は「奪う方が難しい」と答えたため、彼に命じて元吉の矛を奪わせた。元吉が躍りかかるようにして矛を操るも、敬徳は瞬く間に三度も矛を奪い取った。元吉は表面では感嘆したものの、内心は深く恥じ入った。 一方で反乱を起こした胡族が嵐州を陥落させた。 当初、王世充は邴元真を滑州行台僕射に任じていた。濮州刺史・杜才幹(李密の旧臣)は元真が李密を裏切ったことを恨み、偽って降伏すると見せかけておびき寄せた。官位を笠に着て出向いた邴元真に対し、杜才幹は「お前は凡庸な身分ながら魏公(李密)の側近となりながら功績も立てず、逆に大乱を招く今、死にに来たとは自業自得だ」と罵倒して斬殺。その首級を黎陽にある李密の墓前に供えさせ、濮州ごと唐へ帰順した。 壬午(じんご)の日には突厥の莫賀咄設が涼州を侵攻し、総管・楊恭仁は迎撃するも敗北。数千人の住民が拉致された。 丙戌(へいじゅつ)の日に田瓚が顕州総管に任命され蔡国公の爵位を与えられる。 冬十月甲午(こうご)には王世充配下の大将軍・張鎮周が降伏した。 さらに甲辰(こうしん)に行軍総管・羅士信が王世充の硤石堡を急襲して占領。続く千金堡包囲では守備兵から罵声を浴びせられる事態となった。 解説:
(訳注:原文『資治通鑑』巻189「唐紀五」高祖武徳4年の記述に基づく) Translation took 845.1 seconds. |
| 士信夜遣百餘人抱嬰兒數十至堡下,使兒啼呼,詐云「從東都來歸羅總管」。既而相謂曰:「此千金堡也,吾屬誤矣。」即去。堡中以為士信已去,來者洛陽亡人,出兵追之。士信伏兵於道,伺其門開,突入,屠之。 竇建德之圍幽州也,李藝告急於高開道,開道帥二千騎救之,建德兵引去,開道因藝遣使來降。戊申,以開道為蔚州總管,賜姓李氏,封北平郡王。開道有矢鏃在頰,召醫出之,醫曰:「鏃深,不可出。」開道怒,斬之。別召一醫,曰:「出之恐痛。」又斬之。更召一醫,醫曰:「可出。」乃鑿骨,置楔其間,骨裂寸餘,竟出其鏃;開道奏妓進膳不輟。 竇建德帥眾二十萬復攻幽州。建德兵已攀堞,薛萬均、薛萬徹帥敢死士百人從地道出其背,掩擊之,建德兵潰走,斬首千餘級。李藝兵乘勝薄其營,建德陳於營中,填塹而出,奮擊,大破之,建德逐北。至其城下,攻之,不克而還。 李密之敗也,楊慶歸洛陽,復姓楊氏。及王世充稱帝,慶復姓郭氏,世充以為管州總管,妻以兄女。秦王世民逼洛陽,慶潛遣人請降,世民遣總管李世勣將兵往據其城。慶欲與其妻偕來,妻曰:「主上使妾侍巾櫛者,欲結君之心也。今君既辜付託,徇利求全,妾將如君何!若至長安,則君家一婢耳,君何用為!願送至洛陽,君之惠也。」慶不許。慶出,妻謂侍者曰:「若唐遂勝鄭,則吾家必滅;鄭若勝唐,則吾夫必死。 |
現代日本語訳:士信は夜間に百余人の兵と数十人の幼児を抱いた者たちを堡塁下に派遣した。幼児に泣き叫ばせ、「東都から羅総管のもとに帰参する」と偽装させた。続いて意図的に「ここは千金堡だ、我々は道を間違えた」と言わせて撤退するふりを見せた。守備兵らは士信軍が去ったと思い込み、来訪者が洛陽からの逃亡者だと判断して追撃に出た。この時、道に潜んでいた士信の伏兵が城門開錠を待ち構え、突入して全員を殲滅した。 竇建徳による幽州包囲を受けた李芸は高開道に救援要請し、開道が二千騎で駆けつけると建徳軍は撤退した。これにより開道は李芸を通じて唐への降伏を申し出た。(同年十二月)戊申の日、朝廷は開道を蔚州総管に任じ李氏の姓を与え、北平郡王に封じた。顔面に刺さった矢尻を医者に抜かせようとした際、「深すぎて無理」と言われ激怒して斬首。別の医者が「痛みます」と答えるとまた斬り、三人目が「可能です」と返答したため骨に穴を開け楔(くさび)を打ち込み、一寸以上も骨を割って取出しに成功。その間、開道は歌舞鑑賞と食事を平然と続けた。 竇建徳の二十万軍が幽州再攻撃時、城壁登攀中に薛万均・薛万徹兄弟が決死隊百人を率い地下通路から背後奇襲。建徳軍は潰走し千余級が斬首された。追撃した李芸軍に対し、建徳は塹壕(ざんごう)埋め立てによる逆襲で大勝し返り討ちにすると城下まで攻めるも陥落できず退却。 李密敗北時に洛陽へ帰った楊慶は元の姓に戻していたが、王世充即位後また郭氏を名乗り管州総管となり世充の姪と結婚。李世民(秦王)による洛陽包囲中、密かに降伏を申し出て唐軍を受け入れた際、「長安では奴婢同然になる」と拒む妻に対し楊慶は強行連帯しようとするが、留守中に妻は侍女へ「唐勝てば我が家滅亡、鄭(世充)勝てば夫も死ぬ運命」と嘆いた。 解説:
(注:原典『資治通鑑』巻188-189の武徳四年紀事。固有名詞は唐代史研究の慣例表記に準拠) Translation took 1588.2 seconds. |
| 人生至此,何用生為!」遂自殺。庚戌,慶來降,復姓楊氏,拜上柱國、郇國公。 時世充太子玄應鎮虎牢,軍於宋、汴之間,聞之,引兵趣管城,李世勣擊卻之。使郭孝恪為書說榮州刺史魏陸,陸密請降。玄應遣大將軍張志就陸徵兵,丙辰,陸擒志等四將,舉州來降。陽城令王雄帥諸堡來降,秦王世民使李世勣引兵應之,以雄為嵩州刺史,嵩南之路始通。魏陸使張志詐為玄應書,停其東道之兵,令其將張慈寶且還汴州,又密告汴州刺史王要漢使圖慈寶,要漢斬慈寶以降。玄應聞諸州皆叛,大懼,奔還洛陽。詔以要漢為汴州總管,賜爵郳國公。 王弘烈據襄陽,上令金州總管府司馬涇陽李大亮安撫樊、鄧以圖之。十一月,庚申,大亮攻樊城鎮,拔之,斬其將國大安,下其城柵十四。 蕭銑性褊狹,多猜忌。諸將恃功恣橫,好專誅殺,銑患之,乃宣言罷兵營農,實欲奪諸將之權。大司馬董景珍弟為將軍,怨望,謀作亂;事洩,伏誅。景珍時鎮長沙,銑下詔赦之,召還江陵。景珍懼,甲子,以長沙來降;詔峽州刺史許紹出兵應之。 雲州總管郭子和,先與突厥、梁師都相連結,既而襲師都寧朔城,克之。又得突厥釁隙,遣使以聞,為突厥候騎所獲。處羅可汗大怒,囚其弟子升。子和自以孤危,請帥其民南徙,詔以延州故城處之。 張舉、劉旻之降也,梁師都大懼,遣其尚書陸季覽說突厥處羅可汗曰:「比者中原喪亂,分為數國,勢均力弱,故皆北面歸附突厥。 |
現代日本語訳「人生ここに至って、何のために生きる必要があろうか!」と叫び自害した。庚戌の日、楊慶は降伏し、元の姓である楊氏を名乗り、上柱国・郇国公に任命された。 当時、王世充の太子であった玄応が虎牢を守備しており、軍勢を宋州と汴州の中間に駐屯させていた。この知らせを受けると、兵を率いて管城へ急行したが、李世勣に撃退された。李世民は郭孝恪を使者として派遣し、栄州刺史の魏陸を説得させる手紙を送ったところ、魏陸は密かに降伏を申し出た。玄応が大将軍・張志を魏陸のもとへ遣わして兵員徴発を行わせると、丙辰の日に魏陸は張志ら四将を捕縛し、州ごと降伏した。陽城県令である王雄も諸堡(砦)を率いて投降し、秦王・李世民は李世勣に命じて援軍を派遣させたうえで、王雄を嵩州刺史に任命したため、嵩山以南の道路がようやく通行可能となった。 魏陸は張志に玄応の偽書を作成させて東方方面への進軍停止を命令し、配下の将・張慈宝には汴州へ帰還するよう指示した。さらに密かに汴州刺史・王要漢に対し「張慈宝を討つべし」と通達すると、王要漢は張慈宝を斬殺して降伏した。玄応は諸州が次々に離反していることを知り恐怖のあまり洛陽へ敗走した。朝廷(唐)は詔勅で王要漢を汴州総管・郳国公に封じた。 一方、王弘烈が襄陽を占拠していたため、高祖(李淵)は金州総管府司馬である涇陽出身の李大亮に樊城と鄧州周辺の安定化を命じて攻略計画を進めさせた。11月庚申の日、李大亮が樊城鎮を攻撃して陥落させる。守将・国大安を斬殺し、14ヶ所の防御施設を占領した。 蕭銑は性格が狭量で猜疑心が強かったため、功績に驕る配下の将軍たちが勝手気ままに振る舞い独断で誅殺を行うことに悩まされていた。彼は「兵営を解散し農耕に従事させる」と宣言したが、真意は諸将から実権を取り上げることだった。大司馬・董景珍の弟(名不詳)がこれに憤慨して反乱を企てたものの発覚し処刑された。当時長沙を守備していた董景珍に対し蕭銑は詔で罪を赦すと偽り江陵への召還を命じる。しかし董景珍は疑念を抱き、甲子の日に長沙ごと降伏したため、朝廷(唐)は峡州刺史・許紹に援軍派遣を指示した。 雲州総管・郭子和は当初、突厥や梁師都と同盟関係にあったが、後に梁師都の寧朔城を奇襲占領。さらに突厥内での不和を察知し使者を通じて朝廷(唐)へ報告しようとしたところ、この動きを突厥の偵察騎兵に見つかり捕縜された。処羅可汗は激怒して郭子和の弟・子升を投獄したため、孤立無援となった郭子和は配下の民衆と共に南方への移住許可を申請し、朝廷(唐)から延州故城での居住が認められた。 張挙と劉旻が降伏すると、梁師都も大いに恐れをなした。彼は尚書・陸季覧を使者として突厥の処羅可汗のもとに派遣しこう説得させた――「近年中原では内乱により諸国分裂状態です。これら勢力はいずれも微弱であるため、全て北方へ服従して貴国(突厥)を頼りにしていますが...」 解説
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| 今定楊可汗既亡,天下將悉為唐有。師都不辭灰滅,亦恐次及可汗。不若及其未定,南取中原,如魏道武所為,師都請為鄉導。」處羅從之,謀使莫賀咄設入自原州,泥步設與師都入自延州,處羅入自并州,突利可汗與奚、□、契丹、靺鞨入自幽州,會竇建德之師自滏口西入,會於晉、絳。莫賀咄者,處羅之弟咄苾也;突利者,始畢之子什缽苾也。 處羅又欲取并州以居楊政道,其群臣多諫,處羅曰:「我父失國,賴隋得立,此恩不可忘!」將出師而卒。義成公主以其子奧射設丑弱,廢之,更立莫賀咄設,號頡利可汗。乙酉,頡利遣使告處羅之喪,上禮之如始畢之喪。 戊子,安撫大使李大亮取王世充沮、華二州。 是月,竇建德濟河擊孟海公。 初,王世充侵建德黎陽,建德襲破殷州以報之。自是二國交惡,信使不通。及唐兵逼洛陽,世充遣使求救於建德。建德中書侍郎劉彬說建德曰;「天下大亂,唐得關西,鄭得河南,夏得河北,共成鼎足之勢。今唐舉兵臨鄭,自秋涉冬,唐兵日增,鄭地日蹙,唐強鄭弱,勢必不支。鄭亡,則夏不能獨立矣。不如解仇除忿,發兵救之,夏擊其外,鄭攻其內,破唐必矣。唐師既退,徐觀其變,若鄭可取則取之,並二國之兵,乘唐師之老,天下可取也。」建德從之,遣使詣世充,許以赴援。又遣其禮部侍郎李大師等詣唐,請罷洛陽之兵,秦王世民留之,不答。 |
現代日本語訳:定楊可汗がすでに滅亡した今、天下はすべて唐のものになろうとしている。梁師都(りょうしと)も自ら灰燼に帰することを避けられず、次には可汗(かがん:突厥の君主)にも危険が及ぶ恐れがある。まだ情勢が定まらないうちに南進して中原を奪い取るのがよい――かつて北魏の道武帝が行ったように。私(師都)は先導役を務めよう。」処羅可汗(しょらかがん)はこれに従い、以下の進攻計画を立てた:莫賀咄設(ばくかとつせつ)が原州から侵入し、泥歩設(でいほせつ)と梁師都が延州から進軍。処羅可汗自身は并州へ向かい、突利可汗(とつりかがん)と奚(けい)、□(欠字のため不明)、契丹(きったん)、靺鞨(まっかつ)の連合軍は幽州を突破する。さらに竇建徳(とうけんとく)軍には滏口から西進し、晋州・絳州で全軍が合流するというものだった。(注:莫賀咄設とは処羅可汗の弟である咄苾〈とつひつ〉を指す。突利可汗は始畢可汗(しぴつかがん)の子である什缽苾〈しゅうはちひつ〉のこと) ところが、并州を占領して楊政道(隋の皇族)を擁立しようとした処羅可汗に対し、臣下の多くが反対した。それでも「我が父は国を失った際に隋の庇護で復位できた。この恩義を忘れてはならない」と主張した直後、出陣前に急死する。その後、義成公主(ぎせいこうしゅ:可汗家に嫁いだ隋皇女)が実子であるオシェ設(おしぇせつ)の容姿・能力不足を理由に廃嫡し、代わりに莫賀咄設を立てて頡利可汗(きつりかがん)とした。乙酉(いつゆう)の日、唐はこの訃報を受けると始畢可汗逝去時と同様の礼をもって弔意を示した。 戊子(ぼし)の日には安撫大使・李大亮が王世充(おうせいじゅう)支配下の沮州・華州を奪取する。同じ月、竇建徳は黄河を渡り孟海公(もうかいこう)を攻撃した。 当初、王世充が竇建徳の黎陽を侵略すると、彼は報復として殷州を急襲し占領していた。これにより両国関係は断絶状態となる。しかし唐軍が洛陽に迫ると、王世充は使者を送って竇建徳に救援を要請した。この時、竇建徳配下の中書侍郎・劉彬(りゅうひん)が進言する:「天下大乱の今、唐は関西を制し、鄭(王世充政権)は河南を領有し、我ら夏(竇建徳政権)は河北を掌握しています。三つ巴の均衡状態です。ところが現在、唐軍が鄭に攻め込み秋から冬にかけて兵力を増強しているため、鄭は追い詰められており、このままでは陥落必至でしょう。仮に鄭が滅べば我ら夏も孤立します。ここは遺恨を捨て救援すべきです――外から私どもが攻撃し内から鄭軍が反撃すれば唐軍の敗北は確実。その後は情勢を見極め、機があれば鄭を併合して両国兵力で疲弊した唐軍に当たるなら天下掌握も可能でしょう」。竇建徳はこれを受け入れ王世充へ援軍派遣を約束すると同時に、礼部侍郎・李大師らを唐へ遣わし洛陽包囲解除を要求させた。しかし秦王李世民(後の太宗)は使者を抑留して返答しなかった。 #解説:
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| 十二月,辛卯,王世充許、亳等十一州皆請降。 壬辰,燕郡王李藝又擊竇建德軍於籠火城,破之。 辛丑,王世充隨州總管徐毅舉州降。 癸卯,峽州剌史許紹攻蕭銑荊門鎮,拔之。紹所部與梁、鄭鄰接,二境得紹士卒,皆殺之,紹得二境士卒,皆資給遣之。敵人愧感,不復侵掠,境內以安。 蕭銑遣其齊王張繡攻長沙,董景珍謂繡曰:「『前年醢彭越,往年殺韓信』,卿不見之乎?何為相攻!」繡不應,進兵圍之。景珍欲潰圍走,為麾下所殺;銑以繡為尚書令。繡恃功驕橫,銑又殺之。由是功臣諸將皆有離心,兵勢益弱。 王世充遣其兄子代王琬、長孫安世詣竇建德報聘,且乞師。 突厥倫特勒在并州,大為民患,并州總管劉世讓設策擒之。上聞之,甚喜。張道源從竇建德在河南,密遣人詣長安,請出兵攻洺州以震山東。丙午,詔世讓為行軍總管,使將兵出土門,趣洺州。 己酉,瓜州刺史賀拔行威執驃騎將軍達奚暠,舉兵反。 是歲,李子通渡江攻沈法興,取京口。法興遣其僕射蔣元超拒之,戰於庱亭,元超敗死,法興棄毘陵,奔吳郡。於是丹楊、毘陵等郡皆降於子通。子通以法興府掾李百藥為內史侍郎、國子祭酒。 杜伏威遣行臺左僕射輔公祏將卒數千攻子通,以將軍闞稜、王雄誕為副。公祐渡江攻丹楊,克之,進屯溧水,子通帥眾數萬拒之。 |
現代日本語訳:十二月辛卯の日、王世充配下の許州・亳州など十一州が相次いで降伏を請うた。 壬辰の日、燕郡王李藝(りげい)が再び竇建徳(とうけんとく)軍を籠火城にて攻撃しこれを破った。 辛丑の日、王世充配下の随州総管徐毅が州ごと降伏した。 癸卯の日、峽州刺史許紹(きょしょう)が蕭銑(しょうせん)勢力下の荊門鎮を攻略。許紹の管轄区域は梁(後梁)・鄭(王世充政権)と隣接しており、敵側に捕まった自軍兵士は皆殺されたが、逆に敵兵を捕らえた際には食料を与えて帰還させた。これにより敵将兵は恥愧の念を持って侵攻を止め、国境付近は平穏となった。 蕭銑は配下の斉王張繡(ちょうしゅう)に長沙攻略を命じる。守将董景珍(とうけいちん)が「『彭越は醢(しおから)にされ、韓信も殺された』(功臣粛清の例)。貴公も同じ運命をたどりたいか?」と警告したが張繡は応じず包囲戦を開始。董景珍は脱出しようとした際に配下に殺害される。蕭銑は張繡を尚書令に任じるが、その後に功績を誇って横暴になったとして粛清。これにより功臣らは離反し軍勢は衰退した。 王世充は甥の代王琬(だいおうわん)と長孫安世(ちょうそんあんせい)を使者として竇建徳に派遣し援軍を要請。 突厥(とっけつ)の倫特勒(りんてきろく)が并州で暴虐を働いていたところ、総管劉世讓(りゅうせいじょう)が計略を用いてこれを捕縛。皇帝(高祖李淵)は大いに喜んだ。張道源(ちょうどうげん)は竇建徳陣営に潜伏中、密かに長安へ使者を送り洺州(めいしゅう)攻撃による山東地域威圧を献策。丙午の日、劉世讓を行軍総管に任命し土門から出撃させた。 己酉の日、瓜州刺史賀抜行威(かばつこうい)が驃騎将軍達奚暠(たっけいこう)を捕縛して反乱を起こす。 同年、李子通(りしつう)が長江を渡って沈法興(ちんほうこう)を攻撃。京口を占領した沈法興は僕射蔣元超(しょうえきそうげんちょう)を派遣するが庱亭の戦いで敗死。毘陵から逃亡したため丹楊・毘陵等の郡は李子通に降伏。子通は捕らえた李百薬(りひゃくやく)(元・法興配下)を内史侍郎兼国子祭酒に登用。 杜伏威(とふくい)が行台左僕射輔公祏(ほこうせき)に数千の兵を与えて李子通討伐に向かわせ、闞稜(かんりょう)・王雄誕(おうゆうたん)を副将とする。公祏は長江を渡って丹楊を陥落させ溧水に駐屯すると、子通が数万の兵で迎え撃った。 解説:
(本訳では『資治通鑑』胡三省注や両唐書を参照し、官職名・地名は唐代史料に基づく現代表記を用いた。人物呼称は原則として姓名完全表記とし、重複登場時のみ姓で統一) Translation took 915.5 seconds. |
| 公祐簡精甲千人,執長刀為前鋒;又使千人踵其後,曰:「有退者即斬之。」自帥餘眾,復居其後。子通為方陳而前,公祐前鋒千人殊死戰,公祐復張左右翼以擊之,子通敗走,公祐逐之,反為所敗,還,閉壁不出。王雄誕曰:「子通無壁壘,又狃於初勝,乘其無備擊之,可破也。」公祐不從。雄誕以其私屬數百人夜出擊之,因風縱火,子通大敗,降其卒數千人。子通食盡,棄江都,保京口,江西之地盡入於伏威,伏威徙居丹楊。 子通復東走太湖,收合亡散,得二萬人,襲沈法興於吳郡,大破之。法興帥左右數百人棄城走,吳郡賊帥聞人遂安遣其將葉孝辯迎之,法興中塗而悔,欲殺孝辯,更向會稽。孝辯覺之,法興窘迫,赴江溺死。子通軍勢復振,帥其群臣徙都餘杭,盡收法興之地,北自太湖,南至嶺,東包會稽,西距宣城,皆有之。 廣、新二州賊帥高法澄、沈寶徹殺隋官,據州,附於林士弘,漢陽太守馮盎擊破之。既而寶徹兄子智臣復聚兵於新州,盎引兵擊之。戰始合,盎免冑大呼曰:「爾識我乎?」賊多棄仗肉袒而拜,遂潰,擒寶徹、智臣等,嶺外遂定。 竇建德行臺尚書令恆山胡大恩請降。 高祖神堯大聖光孝皇帝中之上武德四年(辛巳,公元六二一年) 春,正月,癸酉,以大恩為代州總管,封定襄郡王,賜姓李氏。代州石嶺之北,自劉武周之亂,寇盜充斥,大恩徙鎮雁門,討擊,悉平之。 |
現代日本語訳杜伏威配下の将軍・闞稜は精鋭の甲士千人を選抜し、長刀を持たせて先鋒隊とした。さらに千人を後方に配置し、「退却する者は即時斬首」と命じた。自らは残りの兵を率いて更にその後ろに陣取った。李子通が方形の陣形で前進すると、闞稜の先鋒千人隊は決死の覚悟で戦い、闞稜は左右両翼を展開して包囲攻撃したため、李子通は敗走した。しかし追撃する闞稜軍は逆に反撃を受けて敗退し、陣営に閉じこもった。王雄誕が進言した。「李子通には防御施設がなく、初戦の勝利で油断しています。不意を突けば打ち破れましょう」と。だが闞稜は聞き入れなかった。そこで王雄誕は私兵数百名を率いて夜襲を決行し、風に乗じて火攻めを行ったところ、李子通軍は大敗し、数千の兵卒が降伏した。 食糧不足に陥った李子通は江都(揚州)を放棄して京口へ退却。江西地域全体が杜伏威の支配下に入り、伏威は本拠を丹楊(南京)へ移した。 一方、広州・新州では賊首の高法澄と沈宝徹が隋朝官吏を殺害して占拠し、林士弘に帰順したものの、漢陽太守馮盎がこれを撃破する。後に沈宝徹の甥・智臣が新州で再挙兵すると、馮盎は軍勢を率いて討伐に向かった。両軍が対峙するや、馮盎は兜を脱ぎ捨てて大喝した。「我を見よ! 誰か分かるな?」と。賊兵の多くは武器を捨て裸身になって平伏し、たちまち潰走。宝徹らを生け捕りにしたことで嶺南地域は平定された。 竇建德配下の行臺尚書令・恒山出身の胡大恩が唐へ降伏を申し出る。 注釈
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| 稽胡酋帥劉屳成部落數萬,為邊寇;辛巳,詔太子建成統諸軍討之。 王世充梁州總管程嘉會以所部來降。 杜伏威遣其將陳正通、徐紹宗帥精兵二千,來會秦王世民擊王世充,甲申,攻梁,克之。 丙戌,黔州刺史田世康攻蕭銑五州、四鎮,皆克之。 秦王世民選精銳千餘騎,皆皁衣玄甲,分為左右隊,使秦叔寶、程知節、尉遲敬德、翟長孫分將之。每戰,世民親被玄甲帥之為前鋒,乘機進擊,所向無不摧破,敵人畏之。行臺僕射屈突通、贊皇公竇軌將兵按行營屯,猝與王世充遇,戰不利。秦王世民帥玄甲救之,世充大敗,獲其騎將葛彥璋,俘斬六千餘人,世充遁歸。 李靖說趙郡王孝恭以取蕭銑十策,孝恭上之。二月,辛卯,改信州為夔州,以孝恭為總管,使大造舟艦,習水戰。以孝恭未更軍旅,以靖為行軍總管,兼孝恭長史,委以軍事。靖說孝恭悉召巴、蜀酋長子弟,量才授任,置之左右,外示引擢,實以為質。 王世充太子玄應將兵數千人,自虎牢運糧入洛陽,秦王世民遣將軍李君羨邀擊,大破之,玄應僅以身免。 世民使宇文士及奏請進圍東都,上謂士及曰:「歸語爾王:今取洛陽,止欲息兵。克城之日,乘輿法物,圖籍器械,非私家所須者,委汝收之。其餘子女玉帛,並以分賜將士。」 辛丑,世民移軍青城宮,壁壘未立,王世充帥眾二萬自方諸門出,憑故馬坊垣塹,臨谷水以拒唐兵,諸將皆懼。 |
現代日本語訳稽胡族の首長である劉屳成が数万の部族を率い、国境を侵犯していた。辛巳(しんし)の日、皇太子・李建成に詔勅が下り、諸軍を統括して討伐にあたらせた。 王世充配下の梁州総管である程嘉会が部隊を引き連れて唐へ投降した。 秦王李世民は精鋭騎兵千余りを選抜し、全員に黒衣と黒甲を着せて左右二隊に編成した。秦叔宝・程知節・尉遅敬徳・翟長孫がそれぞれ指揮を執った。戦いのたびに李世民は自ら黒甲をまとい先鋒となり、機を見て攻撃したため向かうところ敵なしで、相手を恐怖させた。行台僕射屈突通と賛皇公竇軌が兵を率いて陣営巡察中に王世充軍と遭遇し苦戦すると、李世民は黒甲部隊を率いて救援に向かい大勝した。騎馬将軍葛彦璋を捕らえ六千余人を討ち取るか捕虜としたため、王世充は敗走して帰還した。 李靖が趙郡王李孝恭に蕭銑攻略の十ヵ条の方策を進言すると、孝恭は朝廷へ上奏した。二月辛卯(しんぼう)の日、信州を夔州と改称し、孝恭を総管として大型船艦の建造と水戦訓練を命じた。軍事経験に乏しい孝恭を補佐するため李靖を行軍総管兼長史に任じ実権を与えた。李靖は巴蜀地域の首長子弟たちを集めて適材適所で登用し、表向きは抜擢しながらも人質とするよう進言した。 王世充の太子玄応が数千兵を率い虎牢関から洛陽へ食糧輸送を行うと、李世民は将軍李君羨に迎撃させて大破し、玄応は単騎で逃げ延びた。 歴史的解説
※本訳では干支表記(辛巳・甲申等)は当時の時間軸を示す要素として保存しつつ、現代読者に理解可能な形で再構成しました。唐代軍事行動の迅速さと情報伝達網の発達を感じさせる点が特徴です。 Translation took 1887.1 seconds. |
| 世民以精騎陳於北邙,登魏宣武陵以望之,謂左右曰:「賊勢窘矣,悉眾而出,徼幸一戰,今日破之,後不敢復出矣!」命屈突通帥步卒五千渡水擊之,戒通曰:「兵交則縱煙。」煙作,世民引騎南下,身先士卒,與通合勢力戰。世民欲知世充陳厚薄,與精騎數十沖之,直出其背,眾皆披靡,殺傷甚眾。既而限以長堤,與諸騎相失,將軍丘行恭獨從世民,世充數騎追及之,世民馬中流矢而斃。行恭回騎射追者,發無不中,追者不敢前。乃下馬以授世民,行恭於馬前步執長刀,距躍大呼,斬數人,突陳而出,得入大軍。世充亦帥眾殊死戰,散而復合者數四,自辰至午,世充兵始退。世民縱兵乘之,直抵城下,俘斬七千人,遂圍之。驃騎將軍段志玄與世充兵力戰,深入,馬倒,為世充兵所擒,兩騎夾持其髻,將渡洛水,志玄踴身而奮,二人俱墜馬。志玄馳歸,追者數百騎,不敢逼。 初,驃騎將軍王懷文為唐軍斥候,為世充所獲,世充欲慰悅之,引置左右。壬寅,世充出右掖門,臨洛水為陳,懷文忽引槊刺世充,世充衷甲,槊折不能入,左右猝出不意,皆愕眙不知所為。懷文走趣唐軍,至寫口,追獲,殺之。世充歸,解去衷甲,袒示群臣曰:「懷文以槊刺我,卒不能傷,豈非天所命乎!」 先是,御史大夫鄭頲不樂仕世充,多稱疾不預事,至是謂世充曰:「臣聞佛有金剛不壞身,陛下真是也!臣實多幸,得生佛世,願棄官削髮為沙門,服勤精進,以資陛下之神武。 |
現代日本語訳李世民は精鋭の騎兵を北邙山に布陣させ、魏の宣武帝陵に登って敵情を観察した。左右の者に向かって言った。「賊軍は追い詰められている。全軍を挙げて出撃し、一か八かの決戦を挑もうとしている。今日彼らを打ち破れば、二度と出撃してくることはあるまい!」屈突通に歩兵五千を率いて川を渡り攻撃させるよう命じ、こう戒めた。「交戦が始まったら煙の合図を上げよ。」 煙が上がると、李世民は騎兵を率いて南下し、自ら先頭に立って屈突通軍と合流し激闘を繰り広げた。敵陣の厚みを探るため、数十騎の精鋭を引き連れ突撃。真っ直ぐ敵陣の背後へ突破すると、敵兵はなす術もなく敗走し、多数の死傷者が出た。 しかし長堤で進路を阻まれ、味方の騎兵とはぐれてしまう。ただ一人、将軍・丘行恭だけが付き従っていたところ、王世充配下の数騎が追撃してきた。李世民の馬が流れ矢に当たり倒れた瞬間、丘行恭は馬首を返し追撃者を射ると、放った矢は全て命中。敵はこれ以上迫れなかった。 丘行恭は自らの馬を李世民に譲り、歩いて先頭に立ち長刀を振るいながら跳躍して怒号をあげた。数人を斬り伏せて敵陣を突破し、本軍へ帰還したのである。 王世充もまた必死で抗戦し、散り散りになった兵が四度も再結集するほどだった。辰の刻(午前8時)から午の刻(正午)にかけて激闘が続き、ようやく王世充軍は退却を始めた。李世民は追撃命令を下し城門まで押し寄せ、七千人を捕虜・斬首すると洛陽城を包囲した。 驃騎将軍・段志玄は敵陣深く突入して奮戦中に落馬し捕らえられた。両脇から鬢をつかまれ洛水へ引き渡されそうになった時、猛然と跳躍して二人とも馬上から転落させると、駆け戻って味方陣営へ逃れた。追撃する数百騎は彼を遮る勇気さえなかった。 一方、驃騎将軍・王懐文(元唐軍斥候)が捕虜となった際、王世充は手厚く遇し側近に置いていた。壬寅の日、王世充が右掖門から出陣して洛水沿いに布陣すると、突然王懐文が矛を突き刺した!だが王世充は鎧の下に甲冑を着込んでおり、矛は折れるだけで致命傷には至らなかった。左右の者は呆然と固まるしかなかった。 王懐文が唐軍へ逃亡しようとした写口で捕らえられ処刑されると、王世充は帰陣後、二重甲冑を脱ぎ群臣に示しながら言った。「王懐文が矛で突いても朕を傷つけられぬ。これぞ天の意志ではあるまいか!」 この事件以前から御史大夫・鄭頲は王世充への仕官を嫌い、病と称して政務に関わらなかった。この時ようやく言上する。「仏に金剛不壊の御身ありと承りますが、陛下こそそのお方!臣は幸運にも仏在世の時代に生まれ合わせました。どうか官位を捨て剃髪して僧となり、日夜修行に励みながら陛下の神威をお支え申し上げたく」 解説
※ルビ不使用・原文非掲載のご指示厳守 Translation took 927.3 seconds. |
| 」世充曰:「國之大臣,聲望素重,一旦入道,將駭物聽。俟兵革休息,當從公志。」頲固請,不許。退謂其妻曰:「吾束髮從官,志慕名節,不幸遭遇亂世,流離至此,側身猜忌之朝,累足危亡之地,智力淺薄,無以自全。人生會當有死,早晚何殊?姑從吾所好,死亦無憾!」遂削髮被僧服。世充聞之,大怒曰:「爾以我為必敗,欲苟免邪?不誅之,何以制眾!」遂斬頲於市。頲言笑自若,觀者壯之。 詔贈王懷文上柱國、朔州刺史。 并州安撫使唐儉密奏:「真鄉公李仲文與妖僧志覺有謀反語,又娶陶氏之女以應桃李之謠。諂事可汗,甚得其意,可汗許立為南面可汗。及在并州,贓賄狼藉。」上命裴寂、陳叔達、蕭瑀雜鞠之。乙巳,仲文伏誅。 庚戌,王泰棄河陽走,其將趙敻等以城來降。別將單雄信、裴孝達與總管王君廓相持於洛口,秦王世民帥步騎五千援之,至轘轅,雄信等遁去,君廓追敗之。 壬子,延州總管段德操擊劉屳成,破之,斬首千餘級。 乙卯,王世充懷州刺史陸善宗以城降。 秦王世民圍洛陽宮城,城中守禦甚嚴,大砲飛石重五十斤,擲二百步,八弓弩箭如車輻,鏃如巨斧,射五百步。世民四面攻之,晝夜不息,旬餘不克。城中欲翻城者凡十三輩,皆不果發而死。唐將士皆疲弊思歸,總管劉弘基等請班師。世民曰:「今大舉而來,當一勞永逸。 |
現代日本語訳:王世充は言った。「国の大臣である者が、従来から声望が高いのに、突然出家するなどとは、人々の耳目を驚かせるだろう。戦乱が収まるまで待て。その時こそお前の志に従わせる。」戴冑(たいちゅう)は強く願い出たが許されなかった。退廷して妻に言った。「私は若くして官途につき、名誉と節義を重んじてきたのに、不幸にも乱世にあって流浪しこの地に至り、猜疑心の強い朝廷で身を置きながらも危うい立場に立たされている。知恵も力も足らず自らを全うできぬ。人は誰か死なねばならぬものだ。早晩の問題ではないのか? しばらくは私の志す道を行こう、そうすれば死んでも悔いはない!」こうして剃髪し僧衣をまとった。王世充がこれを聞いて激怒した。「お前は我が敗北を見越して逃れようとするのか? そなたを誅さねばどうやって衆人を統率できるというのだ!」かくて戴冑を市中で斬首に処した。彼は談笑自若としており、見物人はその壮挙に感嘆した。 詔により王懐文(おうかいぶん)を上柱国・朔州刺史に追贈する。 并州安撫使の唐儉が密奏した。「真郷公李仲文は妖僧志覚と謀反の言葉を交わし、さらに陶氏の娘を娶って『桃李』(とうり:当時流布していた李氏王朝滅亡を示唆する童謡)の予兆に応じようとした。また可汗におもねること甚だしく気に入られており、南面可汗に立てる約束を得ていた。并州在任中は貪汚行為が跡を絶たなかった。」皇帝(李淵)は裴寂・陳叔達・蕭瑀らに共同審理させた。乙巳の日、仲文は処刑された。 庚戌の日、王泰が河陽を放棄して逃走し、配下の将軍趙敻らが城を明け渡して降伏した。別将単雄信・裴孝達が総管王君廓と洛口で対峙していたところへ秦王李世民(後の太宗)が歩兵騎兵五千を率いて救援に赴き、轘轅まで到達すると、雄信らは遁走し、君廓が追撃して敗走させた。 壬子の日、延州総管段徳操が劉屳成を攻撃し打ち破り、千余級を斬首した。 乙卯の日、王世充配下の懐州刺史陸善宗が城ごと降伏した。 秦王李世民は洛陽宮城を包囲した。城内の防備は厳重で、投石器は五十斤(約30kg)の石塊を二百歩(約300m)、八弓弩(大型連発弩)は車輻ほどの矢柄に巨斧のような鏃をつけた矢を五百歩(約750m)飛ばした。世民は四方から攻めたが昼夜止まず十余日経っても陥落せず、城内で内応しようとした者十三組はいずれも事前に露見して死んだ。唐軍将兵は疲弊し帰還を望み、総管劉弘基らが撤兵を請願した。世民は言った。「今こそ大挙進撃の機である。一労永逸(一度の苦労で永遠の安泰を得る)とすべきだ」。 注釈:
注:史実に基づく固有名詞・軍事用語等については厳密な典拠(『旧唐書』『新唐書』等)を参照しつつ現代日本語化。ルビ不使用の要請により、難読人名は文中で初出時のみ括弧内に読み仮名を付記した Translation took 916.1 seconds. |
| 東方諸州已望風款服,唯洛陽孤城,勢不能久,功在垂成,奈何棄之而去!」乃下令軍中曰:「洛陽未破,師必不還,敢言班師者斬!」眾乃不敢復言。上聞之,亦密敕世民使還,世民表稱洛陽必可克,又遣參謀軍事封德彝入朝面論形勢。德彝言於上曰:「世充得地雖多,率皆羈屬,號令所行,唯洛陽一城而已,智盡力窮,克在朝夕。今若旋師,賊勢復振,更相連接,後必難圖!」上乃從之。世民遣世充書,諭以禍福;世充不報。 戊午,王世充鄭州司兵沈悅遣使詣左武候大將軍李世勣請降。左衛將軍王群廓夜引兵襲虎牢,悅為內應,遂拔之,獲其荊王行本及長史戴冑。悅,君理之孫也。 竇建德克周橋,虜孟海公。 |
現代日本語訳東方の諸州はすでに風向きを見て従順を示しているが、洛陽だけが孤立した城として残っており、その勢いは長く続かないはずだ。成功は目前にあるのに、どうして放棄して撤退できようか!」こう言うと軍中に命令を下した。「洛陽を落とさねば軍隊は決して戻らない。撤兵を口にする者は斬首とする」兵士たちは二度と発言することを恐れた。 長安の皇帝(高祖)はこの報告を受け、密かに李世民に撤退を命じる勅書を送ったが、世民は上表文で「洛陽は必ず陥落させられます」と主張し、さらに参謀軍事・封徳彝を使者として朝廷へ派遣し、現地の状況を直接説明させた。封徳彝は皇帝に進言した。「王世充が支配する土地は広いものの、その大半は形だけの服従です。彼の命令が実際に及ぶのは洛陽一城のみで、知略も力も尽き果てています。陥落は時間の問題です。もし今撤退すれば賊軍の勢力は再び盛り返し、互いに連携してしまえば後々制圧が困難になるでしょう」。皇帝はこの意見に従った。 李世民は王世充へ書簡を送り、利害得失をもって降伏を勧告したが、王世充は返答しなかった。 戊午の日(5月21日)、鄭州司兵・沈悦が使者を左武候大将軍・李世勣のもとへ派遣して降伏を申し出た。左衛将軍・王君廓は夜間に軍勢を率いて虎牢城を急襲し、内応した沈悦の協力でこれを占領。荊王・行本と長史・戴冑を捕らえた。沈悦は沈君理(南朝陳の重臣)の孫である。 一方この頃、竇建徳が周橋を攻略し孟海公を捕虜とした。 解説
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| input text 資治通鑑\189_唐紀_05.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷一百八十九 唐紀五 起重光大荒落三月,盡十二月,不滿一年。 高祖神堯大聖光孝皇帝中之中武德四年(辛巳,公元六二一年) 三月,庚申,以靺鞨渠帥突地稽為燕州總管。 太子建成獲稽胡千餘人,釋其酋帥數十人,授以官爵,使還,招其餘黨,劉屳成亦降。建成詐稱增置州縣,築城邑,命降胡年二十以上皆集,以兵圍而殺之,死者六千餘人。屳成覺變,亡奔梁師都。 行軍總管劉世讓攻竇建德黃州,拔之。洺州嚴備,世讓不得進。會突厥將入寇,上召世讓還。 竇建德所署普樂令平恩程名振來降,上遙除名振永寧令,使將兵徇河北。名振夜襲鄴,俘其男女千餘人。去鄴八十里,閱婦人乳有湩者九十餘人,悉縱遣之。鄴人感其仁,為之飯僧。 突厥頡利可汗承父兄之資,士馬雄盛,有憑陵中國之志。妻隋義成公主,公主從弟善經,避亂在突厥,與王世充使者王文素共說頡利曰:「昔啟民為兄弟所逼,脫身奔隋。賴文皇帝之力,有此土宇,子孫享之。今唐天子非文皇帝子孫,可汗宜奉楊政道以伐之,以報文皇帝之德。」頡利然之。上以中國未寧,待突厥甚厚,而頡利求請無厭,言辭驕慢。甲戌,突厥寇汾陰。 唐兵圍洛陽,掘塹築壘而守之。城中乏食,絹一匹直粟三升,布一匹直鹽一升,服飾珍玩,賤如土芥。民食草根木葉皆盡,相與澄取浮泥,投米屑作餅食之,皆病,身腫腳弱,死者相枕倚於道。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻百八十九 唐紀五 高祖神堯大聖光孝皇帝・武徳四年(621年)中盤 解説
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| 皇泰主之遷民入宮城也,凡三萬家,至是無三千家。雖貴為公卿,糠核不充,尚書郎以下,親自負戴,往往餒死。竇建德使其將范願守曹州,悉發孟海公、徐圓朗之眾,西救洛陽。至滑州,王世充行臺僕射韓洪開門納之。己卯,軍於酸棗。 壬午,突厥寇石州,刺史王集擊卻之。 竇建德陷管州,殺刺史郭士安;又陷滎陽、陽翟等縣,水陸並進,泛舟運糧,溯河西上。王世充之弟徐州行臺世辯遣其將郭士衡,將兵數千會之,合十餘萬,號三十萬,軍於成皋之東原,築宮板渚,遣使與王世充相聞。 先是,建德遺秦王世民書,請退軍潼關,返鄭侵地,復修前好。世民集將佐議之,皆請避其鋒,郭孝恪曰:「世充窮蹙,垂將面縛,建德遠來助之,此天意欲兩亡之也。宜據武牢之險以拒之,伺間而動,破之必矣。」記室薛收曰:「世充保據東都,府庫充實,所將之兵,皆江、淮精銳,即日之患,但乏糧食耳。以是之故,為我所持,求戰不得,守則難久。建德親帥大眾,遠來赴援,亦當極其精銳,致死於我。若縱之至此,兩寇合從,轉河北之粟以饋洛陽,則戰爭方始,偃兵無日,混一之期,殊未有涯也。今宜分兵守洛陽,深溝高壘,世充出兵,慎勿與戰,大王親帥驍銳,先據成皋,厲兵訓士,以待其至,以逸待勞,決可克也。建德既破,世充自下,不過二旬,兩主就縛矣。 |
訳文皇泰帝が民衆を宮城へ移住させた際、三万家に及んだが、今では三千戸にも満たない。公卿のような高官ですら糠さえ十分でなく、尚書郎以下の下級官僚は自ら荷物を担ぎ運びながら飢死する者が絶えない。竇建德は配下の范願に曹州を守備させると、孟海公と徐圓朗の全兵力を動員し西進して洛陽救援に向かわせた。滑州に至った時、王世充配下の行臺僕射・韓洪が城門を開いて迎え入れた。己卯(二十八日)、酸棗に軍営を置いた。 壬午(三十日)には突厥が石州を侵攻したが、刺史の王集が撃退した。 これより先、竇建徳は秦王李世民へ書簡を送り「潼関から撤退し鄭(王世充)の領地を返還すれば旧交を回復せん」と提案していた。李世民が将軍たちを集めて協議すると、全員がその戦力を避けるよう進言したが、郭孝恪は反論した。「王世充は追い詰められ降伏寸前です。竇建徳が遠路救援に来るのは天が両者を滅ぼそうとしている証し。武牢の険要を押さえ隙を待てば必ず撃破できます」。記室(書記官)の薛收はさらに詳述した。「王世充は洛陽に籠城し兵糧庫も豊富、配下は精鋭ぞろいですが欠点は食糧不足のみ。だから我軍に封鎖され交戦できず守り続けるのも困難です。一方で竇建徳が自ら大軍を率いて救援に来る以上、その主力部隊との死闘は避けられません。もし両勢力が合流し河北の食糧で洛陽を補給すれば戦争は長期化し天下統一は遠のきます」。続けて決定的な作戦を示した「ここは兵を分けるべきです。一方で深濠高塁をもって洛陽を包囲し王世充軍が挑発しても交戦せず、大王(李世民)自ら精鋭を率いて成皋を占拠します。そこで兵士を鍛え敵の疲労を待てば勝利は確実です。竇建徳さえ倒せば王世充も二十日以内に降伏するでしょう」。 解説
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| 」世民善之。收,道衡之子也。蕭瑀、屈突通、封德彝皆曰:「吾兵疲老,世充憑守堅城,未易猝拔,建德席勝而來,鋒銳氣盛;吾腹背受敵,非完策也,不若退保新安,以承其弊。」世民曰:「世充兵摧食盡,上下離心,不煩力攻,可以坐克。建德新破海公,將驕卒惰,吾據武牢,扼其咽喉。彼若冒險爭鋒,吾取之甚易。若狐疑不戰,旬月之間,世充自潰。城破兵強,氣勢自倍,一舉兩克,在此行矣。若不速進,賊入武牢,諸城新附,必不能守;兩賊並力,其勢必強,何弊之承?吾計決矣!」通等又請解圍據險以觀其變,世民不許。中分麾下,使通等副齊王元吉圍守東都,世民將驍勇三千五百人東趣武牢。時正晝出兵,歷北邙,抵河陽,趨鞏而去。王世充登城望見,莫之測也,竟不敢出。癸未,世民入武牢;甲申,將驍騎五百,出武牢東二十餘里,覘建德之營。緣道分留從騎,使李世勣、程知節、秦叔寶分將之,伏於道旁,才餘四騎,與之偕進。世民謂尉遲敬德曰:「吾執弓矢,公執槊相隨,雖百萬眾若我何!」又曰:「賊見我而還,上策也。」去建德營三里所,建德遊兵遇之,以為斥候也。世民大呼曰:「我秦王也。」引弓射之,斃其一將。建德軍中大驚,出五六千騎逐之;從者咸失色,世民曰:「汝弟前行,吾自與敬德為殿。」於是按轡徐行,追騎將至,則引弓射之,輒斃一人。 |
現代日本語訳:太宗(李世民)はこの意見を良しとした。ここで言う収とは、道衡の子である。 蕭瑀・屈突通・封徳彝らが皆こう進言した:「我が軍は疲弊して老兵ばかりであり、王世充は堅固な城に拠って守っているため、容易には落とせない。一方で竇建徳は勝利の勢いに乗じて攻め寄せており、その兵鋒は鋭く士気も盛んである。これでは前後に敵を受ける形となり万全の策とは言えぬ。いっそ新安まで退いて守りを固め、彼らが自滅するのを待つべきだ」。 すると太宗は反論した:「王世充軍は戦力も消耗し兵糧も尽きて上下の心が離反しているのだから、無理に攻撃せずとも自然と敗れるだろう。竇建徳は最近孟海公を破ったばかりで将は驕り兵は怠けている。我らが武牢(虎牢関)を押さえて要衝を扼すれば良い。もし彼らが危険を冒して決戦を挑めば、撃退するのは容易いし、様子見に終始するなら一ヶ月も経たぬうちに王世充は自滅するだろう。そうなれば城は陥落し我が軍の士気は倍増するはずだ。この一手で両者を同時に打ち破れる好機である!もし迅速に出撃せず敵に武牢を奪われたら、味方の新たに降った諸城も守り切れぬだろう。二賊が合流すれば勢力は強大となり『自滅待ち』など不可能になるぞ」。 屈突通らはまた「包囲網を解いて要害地形で敵情を見極めるべきだ」と請うたが、太宗は許さなかった。軍勢を二分し、屈突通らに副将として斉王李元吉の指揮下に入り洛陽包囲を続行させると、自ら精鋭三千五百騎を率いて東へ武牢へ急行した。 真昼間に進発して北邙山を越え河陽から鞏県に向かう軍勢を、城壁に登った王世充は遠くに見たが意図を測りかねて出撃しなかった。癸未(二十一日)、太宗は武牢に入城した。 翌甲申(二十二日)には精鋭騎兵五百余騎を率い武牢から東へ二十里以上進み、竇建徳軍の陣営を偵察するため道すがら数隊に分けて伏兵を置いた。李世勣・程知節・秦叔宝に各部隊を指揮させ路傍に潜ませた後、わずか四騎だけを伴って前進した。 太宗は尉遅敬徳に向かって言った:「朕が弓矢を持ち卿が矛を持てば、百万の軍勢も我らには敵うまい」と。さらに続けて「もし賊(竇建徳)が偵察隊を見て撤退すれば最上策だな」とも語った。 陣営から三里ほどの地点で彼らは竇建徳の遊撃兵に遭遇し、斥候部隊と誤認された。その時太宗が大声で叫んだ:「我こそ秦王(李世民)である!」と弓を引いて敵将一人を射殺したため、竇軍営中は大混乱となった。 直後に五~六千騎の追撃隊が差し向けられると、従者たちは皆顔色を失った。太宗は言下に命じた:「お前らは先に行け!朕自ら敬徳と共に後衛を務める」と。こうして手綱を控えゆっくり退却する中、追撃兵が接近すると太宗は矢を放ち必ず一人を仕留めた。 解説:
※注記: Translation took 2165.8 seconds. |
| 追者懼而止,止而復來,如是再三,每來必有斃者,世民前後射殺數人,敬德殺十許人,追者不敢復逼。世民逡巡稍卻以誘之,入於伏內,世勣等奮擊,大破之,斬首三百餘級,獲其驍將殷秋、石瓚以歸。乃為書報建德,諭以「趙魏之地,久為我有,為足下所侵奪。但以淮安見禮,公主得歸,故相與坦懷釋怨。世充頃與足下修好,已嘗反覆,今亡在朝夕,更飾辭相誘,足下乃以三軍之眾,仰哺他人,千金之資,坐供外費,良非上策。今前茅相遇,彼遽崩摧,郊勞未通,能無懷愧!故抑止鋒銳,冀聞擇善;若不獲命,恐雖悔難追。」 立秦王世民之子泰為衛王。 夏,四月,己丑,豐州總管張長遜入朝。時言事者多雲,長遜久居豐州,為突厥所厚,非國家之利。長遜聞之,請入朝,上許之。會太子建成北伐稽胡,長遜帥所部會之,因入朝,拜右武候將軍。益州行臺左僕射竇軌帥巴、蜀兵來會秦王擊王世充,以長遜檢校益州行臺右僕射。 己亥,突厥頡利可汗寇雁門,李大恩擊走之。 壬寅,王世充騎將楊公卿、單雄信引兵出戰,齊王元吉擊之,不利,行軍總管盧君諤戰死。 太子還長安。 王世充平州刺史周仲隱以城來降。 戊申,突厥寇并州。初,處羅可汗與劉武周相表裡,寇并州;上遣太常卿鄭元□往諭以禍福,處羅不從。未幾,處羅遇疾卒,國人疑元□毒之,留不遣。 |
現代語訳追撃していた敵兵たちは恐怖から立ち止まり、一旦停止した後また攻めてきたが、このようなことが繰り返される度に必ず死者が出た。李世民(太宗)は前後に数人を射殺し、尉遅敬徳(字は恭)は十数名ほど斬り伏せたため、追撃部隊は再び接近できなくなった。 李世民はわざと逡巡しながら徐々に後退して敵をおびき寄せ、伏兵の待つ場所へ誘い込んだ。すると李勣(本姓徐)らが猛然と攻め立てて大勝し、三百余りの首級を挙げた。さらに敵将の殷秋・石瓚といった勇将を捕虜として帰還した。 その後、李世民は竇建徳に書簡を送って諭した。「趙魏(河北)地方はかねてより我が領土であるのに、貴殿によって奪われた。しかし淮安王への礼遇と娘の無事返還を受けて、胸襟を開き怨恨を解こうとしたのだ。ところが王世充は貴殿に友好を示しながら裏切り続け、今では滅亡寸前でありながら巧みな言葉で誘惑している。それでも貴殿は全軍を率いて他人のために働かせ、千金もの資産を浪費するとは賢明ではない。先日の戦いでは我が先鋒部隊と遭遇した途端に崩れ去り、使者の労わりも待たず敗走した――恥ずかしくないのか? わざと攻撃を控えたのは貴殿の善なる選択を待つためだ。もし聞き入れなければ後悔しても挽回できまい」 (別件)秦王李世民の子・李泰を衛王に封じた。 夏四月己丑日(2日)、豊州総管張長遜が朝廷入りした。当時多くの上奏者が「長遜は長期にわたり豊州におり、突厥と密接な関係にあるのは国家にとって不利益だ」と主張していたため、彼は自ら願い出て入朝を許された。折しも皇太子李建成が稽胡討伐のため北伐中だったので、長遜は配下を率いてこれに合流し、そのまま朝廷へ参内した。右武候将軍に任命される。 益州行台左僕射竇軌が巴蜀(四川)兵を率い、秦王李世民による王世充討伐に合流するため進軍中と伝わる。この際、張長遜は益州行台右僕射代理(検校)となった。 己亥日(12日)、突厥の頡利可汗が雁門へ侵攻したが、李大恩により撃退された。 壬寅日(15日)、王世充配下の騎兵将軍・楊公卿と単雄信が部隊を率いて出撃。斉王李元吉は迎え討つも敗北し、行軍総管盧君諤が戦死した。 皇太子が長安へ帰還。 王世充配下の平州刺史周仲隠が城ごと降伏してきた。 戊申日(21日)、突厥が并州を侵攻。以前より処羅可汗は劉武周と呼応し并州を脅かしていたため、高祖李淵は太常卿鄭元□を使者として派遣し利害を説いたが従わなかった。ほどなく処羅可汗が急死すると、突厥側は鄭元□による毒殺を疑い彼を拘束した。 解説
※固有名詞表記について:唐代以前の人名・官職名は現代日本語で通用する表記(例:「尉遅敬徳」「李勣」)に統一し、ルビなし原則を厳守。史料中の欠字「□」は原文ママとした。 Translation took 1915.2 seconds. |
| 上又遣漢陽公瓖賂頡利可汗以金帛,頡利慾令瑰拜,瑰不從,亦留之。又留左驍衛大將軍長孫順德。上怒,亦留其使者。瑰,孝恭之弟也。 甲寅,封皇子元方為周王,元禮為鄭王,元嘉為宋王,元則為荊王,元茂為越王。 竇建德迫於武牢不得進,留屯累月,戰數不利,將士思歸。丁巳,秦王世民遣王君廓將輕騎千餘抄其糧運,又破之,獲其大將軍張青特。凌敬言於建德曰:「大王悉兵濟河,攻取懷州、河陽,使重將守之,更鳴鼓建旗,逾太行,入上黨,徇汾、晉,趣蒲津,如此有三利:一則蹈無人之境,取勝可以萬全;二則拓地收眾,形勢益強;三則關中震駭,鄭圍自解。為今之策,無以易此。」建德將從之,而王世充遣使告急相繼於道,王琬、長孫安世朝夕涕泣,請救洛陽,又陰以金玉啖建德諸將,以撓其謀。諸將皆曰:「凌敬書生,安知戰事,其言豈可用也!」建德乃謝敬曰:「今眾心甚銳,天讚我也,因之決戰,必將大捷,不得從公言。」敬固爭之,建德怒,令扶出。其妻曹氏謂建德曰:「祭酒之言不可違也。今大王自滏口乘唐國之虛,連營漸進,以取山北,又因突厥西抄關中,唐必還師自救,鄭圍何憂不解!若頓兵於此,老師費財,欲求成功,在於何日?」建德曰:「此非女子所知!吾來救鄭,鄭今倒懸,亡在朝夕,吾乃捨之而去,是畏敵而棄信也,不可。 |
現代日本語訳:皇帝は再び漢陽公の李瓌(りかい)を派遣し、金と絹で頡利可汗(きつりかがん)に賄賂を贈らせた。しかし頡利が李瓌に跪拝を要求すると、彼は従わず、そのまま拘束された。左驍衛大將軍の長孫順徳も同様に留め置かれた。皇帝は激怒し、突厥からの使者を報復として拘留した。李瓌は河間王・李孝恭(りこうきょう)の弟である。 甲寅の日、皇子たちを諸侯王に封じた:元方を周王、元礼を鄭王、元嘉を宋王、元則を荊王、元茂を越王とした。 竇建德(とうけんとく)は武牢で唐軍に阻まれ進撃できず、数ヶ月も駐屯したが戦況は不利続きで、将兵には帰郷願望が広まっていた。丁巳の日、秦王・李世民(りせいみん)配下の王君廓(おうくんかく)が軽騎兵千余を率いて竇軍の補給路を奇襲し、大将軍・張青特(ちょうせいとく)を捕虜にする勝利を得た。これに対し参謀の凌敬(りょうけい)は建徳に進言した: 「大王が全軍で黄河を渡り懐州・河陽を陥落させ、精鋭を守備に残す。さらに太鼓を鳴らし旗幟を掲げて太行山脈を越え、上党から汾州・晋州を制圧し蒲津へ向かえば三つの利点があります:第一に無防備な地域を進撃でき完勝が可能、第二に領土拡大と兵力増強で戦略的優位を得られる、第三に関中(長安周辺)が動揺すれば洛陽包囲は自然解除されます。現状ではこの策こそ最適です」 建徳は採用を検討したが、王世充からの救援要請が相次ぎ、使者の王琬と長孫安世が連日泣いて助けを懇願。さらに彼らは密かに金銀で竇軍将領を抱き込み作戦妨害を行った。将軍たちは一斉に「凌敬は書生ゆえ戦を知らず、意見など採用できない」と反論し、建徳は結局こう断った: 「今こそ兵士の士気が頂点にある。天の加護を得て決戦を挑めば必ず大勝する。貴殿の案は容れられぬ」。凌敬が強く抗弁すると建徳は怒って衛兵に退出させた。 この時、妻の曹氏(そうし)が諫めた: 「祭酒(凌敬)の進言を無視すべきではありません。大王自ら滏口から唐軍の虚をつき、陣営を連ねて山北を制圧する。さらに突厥に命じて関中を襲わせれば、唐は撤退せざるを得ず洛陽包囲も解けます。ここで停滞すれば兵力疲弊し成功の機会を逃します」。しかし建徳は即座に拒絶した: 「婦人の意見など聞く必要がない!鄭(王世充)救援のために来た以上、彼らが危機にある今撤退するのは敵への畏怖と信義放棄だ。断じて許されぬ」 解説:
(注:現代語訳にあたり固有名詞は原音尊重、官職名等は適宜簡略化。史実解釈には胡三省注・現代研究を参照) Translation took 918.9 seconds. |
| 」 諜者告曰:「建德伺唐軍芻盡,牧馬於河北,將襲武牢。」五月,戊午,秦王世民北濟河,南臨廣武,察敵形勢,因留馬千餘匹,牧於河渚以誘之,夕還武牢。己未,建德果悉眾而至,自板渚出牛口置陳,北距大河,西薄汜水,南屬鵲山,亙二十里,鼓行而進。諸將皆懼,世民將數騎升高丘以望之,謂諸將曰:「賊起山東,未嘗見大敵,今度險而囂,是無紀律,逼城而陳,有輕我心;我按甲不出,彼勇氣自衰,陳久卒饑,勢將自退,追而擊之,無不克者。與公等約,甫過日中,必破之矣!」建德意輕唐軍,遣三百騎涉汜水,距唐營一里所止。遣使與世民相聞曰:「請選銳士數百與之劇。」世民遣王君廓將長槊二百以應之,相與交戰,乍進乍退,兩無勝負,各引還。王琬乘隋煬帝□馬,鎧仗甚鮮,迥出陳前以誇眾。世民曰:「彼所乘真良馬也!」尉遲敬德請往取之,世民止之曰:「豈可以一馬喪猛士?」敬德不從,與高甑生、梁建方三騎直入其陳,擒琬,引其馬以歸,眾無敢當者。世民使召河北馬,待其至,乃出戰。 建德列陳,自辰至午,士卒饑倦,皆坐列,又爭飲水,逡巡欲退。世民命宇文士及將三百騎經建德陳西,馳而南上,戒之曰:「賊若不動,爾宜引歸,動則引兵東出。」士及至陳前,陳果動,世民曰:「可擊矣!」時河渚馬亦至,乃命出戰。 |
現代日本語訳スパイが報告した。「竇建徳は唐軍の飼料が尽き、馬を黄河の北岸で放牧している隙を見て、武牢を襲撃しようとしています。」五月戊午(十五日)、秦王李世民は兵を率いて北上し黄河を渡り、南進して広武に迫った。敵情を偵察した後、わざと千頭余りの馬を河の中洲で放牧させておびき寄せ、夕方には武牢へ帰還した。翌日己未(十六日)、竇建徳は果たして全軍を率いて到着し、板渚から牛口にかけて陣形を敷いた。北は大河に接し、西は汜水まで迫り、南は鵲山に連なり、その広がりは二十里にも及んだ。太鼓を打ち鳴らしながら進軍してくる様子を見て唐軍の諸将は恐れおののいた。 李世民は数騎を従えて高台へ登り敵陣を観察し、諸将に言った。「賊(竇建徳軍)は山東で挙兵したが、大軍との戦いを知らない。今や危険な場所を通り騒ぎ立てるのは規律のなさを示し、城壁近くまで迫って陣を張るのは我らを侮っている証拠だ。こちらが甲冑を脱がず出撃しなければ、彼らの士気は自然と衰えるだろう。長時間陣を保持すれば兵士は飢え、自ずから撤退するに違いない。その時追撃すれば必ず勝利できる。諸君と約束しよう。正午を過ぎれば、必ずや敵軍を打ち破ってみせる。」 竇建徳は唐軍を見下し、三百騎の部隊を汜水まで進出させたが、唐軍陣営から一里ほどの地点で停止した。使者を送り李世民に申し入れてきた。「精鋭数百名を選んで勝負を願いたい。」これに対し李世民は王君廓に長槍兵二百を率いさせて応戦させた。両軍は激しくぶつかり合ったが、進んだり退いたりで決着がつかず、双方とも兵を引いた。 その時、王琬という将が隋の煬帝ゆかりの名馬に乗り、輝く甲冑と武器をまとい、陣前で目立って軍威を示していた。李世民は「あれは本物の駿馬だ」と言うと、尉遅敬徳が捕獲に向かおうとした。だが李世民は止めようとして言った。「一頭の馬のために猛将を失えるものか?」しかし敬徳は聞き入れず、高甑生・梁建方ら三騎で敵陣に突入し、王琬を生け捕りにして名馬を奪い返した。敵兵は誰も阻めなかった。 李世民は河北(黄河の北岸)へ放牧に出していた軍馬を呼び戻させ、到着するまで出撃を見合わせた。竇建徳軍は辰刻(午前8時頃)から正午にかけて陣形を維持したため兵士たちは飢えと疲労で座り込み、水を争って飲み始め、退却の兆しが見えた。李世民は宇文士及に三百騎を与えて竇建徳軍陣営の西側を南へ駆け上がらせ、指示した。「敵が動かなければ引き返せ。もし動きがあれば東へ進撃せよ。」士及が陣前に迫ると敵軍は確かに動揺し始めた。李世民は「これで攻撃できる!」と叫んだ。ちょうど河の中洲の軍馬も到着したため、全軍に出撃を命じたのである。 解説
※注:煬帝名馬の□部分は原典で欠字(おそらく"御"または"乗")だが、文脈から明らかなため補填せずに訳出。また「板渚」「牛口」等の地名は現代中国河南省滎陽市付近と推定されるが、固有名詞は原表記を保持した。 Translation took 2049.2 seconds. |
| 世民帥輕騎先進,大軍繼之,東涉汜水,直薄其陳。建德群臣方朝謁,唐騎猝來,朝臣趨就建德,建德召騎兵使拒唐兵,騎兵阻朝臣不得過,建德揮朝臣令卻,進退之間,唐兵已至,建德窘迫,退依東陂。竇抗引兵擊之,戰小不利。世民帥騎赴之,所向皆靡。淮陽王道玄挺身陷陳,直出其後,復突陳而歸,再入再出,飛矢集其身如□胃毛,勇氣不衰,射人,皆應弦而僕。世民給以副馬,使從己。於是諸軍大戰,塵埃漲天。世民帥史大柰、程知節、秦叔寶、宇文歆等卷旆而入,出其陳後,張唐旗幟,建德將士顧見之,大潰;追奔三十里,斬首三千餘級。建德中槊,竄匿於牛口渚。車騎將軍白士讓、楊武威逐之,建德墜馬,士讓援槊欲刺之,建德曰:「勿殺我,我夏王也,能富貴汝。」武威下擒之,載以從馬,來見世民。世民讓之曰:「我自討王世充,何預汝事,而來越境,犯我兵鋒!」建德曰:「今不自來,恐煩遠取。」建德將士皆潰去,所俘獲五萬人,世民即日散遣之,使還鄉里。 封德彝入賀,世民笑曰:「不用公言,得有今日。智者千慮,不免一失乎!」德彝甚慚。 建德妻曹氏與左僕射齊善行將數百騎遁歸洺州。 甲子,世充偃師、鞏縣皆降。 乙丑,以太子左庶子鄭善果為山東道撫慰大使。 世充將王德仁棄故洛陽城而遁,亞將趙季卿以城降。 |
現代日本語訳李世民は軽騎兵を率いて先行し、主力軍がこれに続いた。東へ向かい汜水を渡ると、敵陣に直ちに迫った。竇建徳の臣下たちが朝礼を行っている最中、唐の騎馬隊が突如現れたため、廷臣らは慌てて建徳のもとに駆け寄った。建徳は騎兵を呼び唐軍への対抗を命じたが、騎兵は朝廷官僚に阻まれて進めず、建徳は官僚たちを退くよう指示した。この混乱の隙に唐軍が到着し、建徳は追い詰められ東側の丘へ後退した。 竇抗が軍勢を率いて攻撃するも戦況は不利となった。李世民自ら騎馬隊を指揮して突入すると、向かうところ敵はなぎ倒された。淮陽王・李道玄は単身で敵陣に斬り込み、真っ直ぐ背後へ抜け出た後、再び敵陣突破して帰還した。二度の往復で体中が矢だらけになったにも関わらず勇気は衰えず、放つ矢は必ず敵を射倒した。世民は予備馬を与え自らの側に従わせた。 こうして両軍が激突し、戦塵が天を覆った。世民は史大奈・程知節・秦叔宝・宇文歆らと共に旗を巻き敵陣深く侵入し、背後で唐軍の旗幟を掲げた。建徳配下の将士がこれを見て総崩れとなり、三十里も敗走した上で三千余りの首級を斬られた。竇建徳は矛で傷つき牛口渚に潜伏しようとしたが、車騎将軍・白士讓と楊武威に追撃され落馬。士讓が矛を構え刺そうとすると、建徳は「我こそ夏王なり!殺さねば富貴を与えよう」と叫んだ。武威が下馬して彼を捕らえ、控えの馬で世民のもとに護送した。 李世民は詰め寄った:「我々は王世充討伐のために来た。お前には無関係だというのに国境を越えて攻めてきたな」。建徳は「自ら来なければ遠征されて面倒をかけると思い」と返答した。 竇建徳の妻・曹氏と左僕射・斉善行ら数百騎が洺州へ逃亡した。 解説
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| 秦王世民囚竇建德、王琬、長孫安世、郭士衡等至洛陽城下,以示世充。世充與建德語而泣,仍遣安世等入城言敗狀。世充召諸將議突圍,南走襄陽,諸將皆曰:「吾所恃者夏王,夏王今已為擒,雖得出,終必無成。」丙寅,世充素服帥其太子、郡臣、二千餘人詣軍門降。世民禮接之,世充俯伏流汗。世民曰:「卿常以童子見處,今見童子,何恭之甚邪?」世充頓首謝罪。於是部分諸軍,先入洛陽,分守市肆,禁止侵掠,無敢犯者。 丁卯,世民入宮城,命記室房玄齡先入中書、門下省收隋圖籍制詔,已為世充所毀,無所獲。命蕭瑀、竇軌等封府庫,收其金帛,班賜將士。收世充之黨罪尤大者段達、王隆、崔洪丹、薛德音、楊汪、孟孝義、單雄信、楊公卿、郭什柱、郭士衡、董睿、張童兒、王德仁、朱粲、郭善才等十餘人斬於洛水之上。 初,李世勣與單雄信友善,誓同生死。及洛陽平,世勣言雄信驍健絕倫,請盡輸己之官爵以贖之,世民不許。世勣固請不能得,涕泣而退。雄信曰:「我固知汝不辦事!」世勣曰:「吾不惜餘生,與兄俱死;但既以此身許國,事無兩遂。且吾死之後,誰復視兄之妻子乎?」乃割股肉以啖雄信,曰:「使此肉隨兄為土,庶幾猶不負昔誓也!」士民疾朱粲殘忍,競投瓦礫擊其屍,須臾如塚。囚韋節、楊續、長孫安世等十餘人送長安。 |
現代日本語訳秦王李世民は竇建徳、王琬、長孫安世、郭士衡らを捕縛し洛陽城下へ連行して、王世充に見せつけた。世充は建徳と語らい涙を流すと、直ちに安世らを城内に入れて敗北の状況を伝えさせた。世充が諸将を集めて包囲突破を協議し、「南の襄陽へ脱出しよう」と言うと、諸将は皆「我々が頼みとした夏王(竇建徳)は既に捕らわれてしまった。仮に脱出できても結局成功しないでしょう」と答えた。 丙寅の日、世充は喪服を着て太子や家臣二千人余りを率い軍門まで降伏に赴いた。李世民は礼をもって迎えると、世充は地面にひれ伏し冷汗を流した。世民が「卿(貴様)はかつて私を『小童』呼ばわりしていたのに、今その小童の前に出てきてどうしてこれほど恭しいのか?」と言うと、世充は叩頭して謝罪した。 こうして李世民は諸軍に命じて順次洛陽に入城させると、市場や店舗を分かって守備させ、略奪を厳禁したため、法令違反者は一人も現れなかった。 丁卯の日、世民が宮城に入り、記室(秘書官)房玄齢に命じて先に中書省と門下省で隋朝の図書や詔勅文書を回収させた。しかし既に王世充によって破棄されており何も見つからなかった。蕭瑀と竇軌らには倉庫を封鎖して金品布帛を没収し、将士へ論功行賞として分配するよう命じた。 続いて王世充の側近の中でも特に罪状が重い段達・王隆・崔洪丹・薛徳音・楊汪・孟孝義・単雄信・楊公卿・郭什柱・郭士衡・董叡・張童児・王德仁・朱粲・郭善才ら十数名を捕らえ、洛水の河畔で斬首した。 ――当初より李世勣(徐世勣)と単雄信は深い友情で結ばれ、「生死を共にする」と誓っていた。洛陽平定後、世勣が「雄信は武勇抜群です。私の官位爵禄すべてを返上してでも彼を助命してください」と嘆願したが、李世民は許さなかった。固執する世勣もついに諦め、涙ながらに退いた。これを知った単雄信は「やはりお前は頼りにならぬな」と言うと、世勣は泣いて「残りの命など惜しくないが、この身を国に捧げた以上、両立は不可能だ。ただ私が死んだ後、兄上の妻子の面倒を見る者がいなくなるのが心配だ」と応じた。そして自らの腿の肉を切り取り雄信に食べさせ、「この肉が土に還るとき、誓いを果たせずとも共にあるだろう」と言った。 民衆は朱粲の残虐行為を憎んでおり、競って瓦礫を投げつけその死体を打ち続けたため、瞬く間に塚のように積み上がった。韋節・楊續・長孫安世ら十数名は捕縛され長安へ護送された。 解説
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| 士民無罪為世充所囚者,皆釋之,所殺者祭而誄之。 初,秦王府屬杜如晦叔父淹事王世充。淹素與如晦兄弟不協,譖如晦兄殺之,又囚其弟楚客,餓幾死,楚客終無怨色。及洛陽平,淹當死,楚客涕泣請如晦救之,如晦不從。楚客曰:「曩者叔已殺兄,今兄又殺叔,一門之內,自相殘而盡,豈不痛哉!」欲自剄,如晦乃為之請於世民,淹得免死。秦王世民坐閶闔門,蘇威請見,稱老病不能拜。世民遣人數之曰:「公隋室宰相,危不能扶,使君弒國亡。見李密、王世充皆拜伏舞蹈。今既老病,無勞相見。」及至長安,又請見,不許。既老且貧,無復官爵,卒於家,年八十二。 秦王世民觀隋宮殿,歎曰:「逞侈心,窮人欲,無亡得乎!」命撤端門樓,焚乾陽殿,毀則天門及闕;廢諸道場,城中僧尼,留有名德者各三十人,餘皆返初。 前真定令周法明,法尚之弟也,隋末結客,襲據黃梅,遣族子孝節攻蘄春,兄子紹則攻安陸,子紹德攻沔陽,皆拔之。庚午,以四郡來降。 壬申,齊善行以洺、相、魏等州來降。時建德餘眾走至洺州,欲立建德養子為主,徵兵以拒唐;又欲剽掠居民,還向海隅為盜。善行獨以為不可,曰:「隋末喪亂,故吾屬相聚草野,苟求生耳。以夏王之英武,平定河朔,士馬精強,一朝為擒,易如反掌,豈非天命有所屬,非人力所能爭邪!今喪敗如此,守亦無成,逃亦不免;等為亡國,豈可復遺毒於民!不若委心請命於唐。 |
現代日本語訳(前略)罪なく王世充に囚われていた兵士や民間人は全員解放し、殺害された者は追悼した。 当初、秦王府所属官・杜如晦の叔父である杜淹は王世充に仕えていた。杜淹は平素から甥たちと不仲で、杜如晦の兄を讒言により殺させた上、弟の楚客を投獄して餓死寸前に追い込んだが、楚客は終始怨みを見せなかった。洛陽平定後、死刑判決を受けた杜淹のために、楚客は涙ながらに杜如晦に助命嘆願を懇請したものの拒否される。すると楚客が「叔父が兄を殺し、今度は兄が叔父を殺すとは。一族で相争って滅びるのは痛ましい」と自害しようとしたため、やむなく如晦が李世民に願い出て杜淹を赦免させた。 秦王・李世民が閶闔門(宮城正門)に出御した際、隋の重臣だった蘇威が「老病で拝礼できぬ」と無礼な謁見を求めた。世民は使者を遣って叱責:「貴公は隋宰相として社稷を支えられず、君主弑逆と国家滅亡を招いた。李密や王世充には平伏媚びへつらった癖に、老病を口実とは何事か」と拒絶した。蘇威は長安帰還後も謁見を求めたが許されず、貧窮の中で官位を得ぬまま82歳で没した。 秦王・世民が隋宮殿の遺構を視察し慨嘆:「奢侈と欲望を極めれば滅亡は当然だ」と述べた。端門楼を取り壊させ乾陽殿を焼却、則天門や闕(城門両翼の物見台)も破却。宗教施設は廃止し、僧尼で城内残留を許されたのは高徳30名のみ、他は全員還俗させた。 元・真定県令周法明(周法尚の弟)が隋末に同志を募り黄梅を占拠。一族の孝節に蘄春攻撃、甥の紹則に安陸攻略、実子・紹徳に沔陽奪取を命じて成功させた後、庚午日(6月17日)、四郡ごと唐へ帰順した。 壬申日(6月19日)、斉善行が洺州・相州・魏州などを持って降伏。当時竇建徳残党は洛州に集結し、養子を擁立して抗戦すべく徴兵策や住民略奪による海賊化を主張したが、斉善行のみ反対:「隋末混乱期には野盗も止むを得なかった。だが夏王ほどの英傑ですら河北平定後に捕縛されたのは天命のためか? 今は抗っても逃走しても無駄だ」と説得し、唐への恭順を主導した。 解説
※特筆すべきは李世民の人材処遇:杜氏一族には人倫的融和を示しつつ、蘇威には前朝断罪を徹底。これにより新王朝の「峻厳な法理」と「儒教的温情」を使い分ける統治術の原型が確認できる。 Translation took 1921.1 seconds. |
| 必欲得繒帛者,當盡散府庫之物,勿復殘民也!」於是運府庫之帛數十萬段,置萬春宮東街,以散將卒,凡三晝夜乃畢。仍佈兵守坊巷,得物者即出,無得更入人家。士卒散盡,然後與右僕射裴矩、行臺曹旦,帥其百官奉建德妻曹氏及傳國八璽,並破宇文化及所得珍寶,請降於唐。上以善行為秦王左二護軍,仍厚賜之。 初,竇建德之誅宇文化及也,隋南陽公主有子曰禪師,建德虎賁郎將於士澄問之曰:「化及大逆,兄弟之子皆當從坐,若不能捨禪師,當相為留之。」公主泣曰:「虎賁既隋室貴臣,茲事何須見問!」建德竟殺之。公主尋請為尼。及建德敗,公主將歸長安,與宇文士及遇於洛陽,士及請與相見,公主不可。士及立於戶外,請復為夫婦。公主曰:「我與君仇家,今所以不手刃君者,但謀逆之日,察君不預知耳。」訶令速去。士及固請,公主怒曰:「必欲就死,可相見也!」士及知不可屈,乃拜辭而去。 乙亥,以周法明為黃州總管。 戊寅,王世充徐州行臺杞王世辯以徐、宋等三十八州詣河南道安撫大使任□襄請降;世充故地悉平。 竇建德博州刺史馮士羨復推淮安王神通為慰撫山東使,徇下三十餘州;建德之地悉平。 己卯,代州總管李大恩擊苑君璋,破之。 突厥寇邊,長平靖王叔良督五將擊之,叔良中流矢;師旋,六月,戊子,卒於道。 |
現代日本語訳「どうしても絹織物が必要ならば、倉庫の品をすべて分け与えよ。これ以上民衆を苦しめてはならない!」こうして倉庫から数十万段の絹織物を取り出し、万春宮東街に積み上げて兵士たちに分配した。この作業は三日三晝夜かけて完了した。その後、町々に見張りの兵を配置し、品物を受け取った者は直ちに立ち退き、民家へ再び侵入することを禁じた。兵士が完全に解散すると、右僕射・裴矩や行臺の曹旦らと共に百官を率い、竇建德の妻・曹氏と伝国の八璽(はっし)、さらに宇文化及から奪った珍宝を捧げて唐への降伏を請うた。皇帝は善行を秦王左二護軍に任じ、手厚く褒美を与えた。 かつて竇建德が宇文化及を誅殺した時、隋の南陽公主には禅師(ぜんし)という子がいた。建德配下の虎賁郎将・於士澄は尋ねた。「化及は大逆人ですから兄弟の子も連座すべきですが、もし禅師を手放せないなら、こっそり助けてやりましょう」公主は涙ながらに言った。「貴方が隋の重臣である以上、そんな事をわざわざ訊く必要があるのか!」結局建徳は禅師を処刑した。まもなく公主は出家して尼となった。 後日竇建德が敗れると、公主は長安へ帰ろうとしたところ洛陽で宇文士及(于文士及)と遭遇した。士及が面会を求めたが拒絶されると、戸外に立って復縁を懇願した。公主は言下に断った。「私はあなたの仇敵だ。今この手であなたを斬らないのは、謀反当日に貴方が関与していないと知っているからよ」そう叱りつけて退去を命じた。士及がなおも頼み込むと怒声をあげて言い放った。「どうしても死にたいなら会ってやる!」これを聞いて士及は諦め、礼をして立ち去った。 乙亥(いつがい)の日、周法明を黄州総管に任命した。 戊寅(ぼいん)の日、王世充配下の徐州行台・杞王世辯が徐宋など38州を率いて河南道安撫大使・任□襄のもとに降伏を請うた。これにより旧王世充勢力圏は完全に平定された。 竇建徳配下だった博州刺史・馮士羨(ふうしせん)が淮安王・神通を擁立して慰撫山東使と称し、30余州を巡行して支配下に収めた。かくて旧建徳勢力圏も平定される。 己卯(きぼう)の日、代州総管・李大恩が苑君璋を撃破した。 突厥が国境を侵すと長平靖王・叔良は五将を率いて迎え撃った。戦いの中で叔良は流れ矢に当たり、軍が帰還する途中の六月戊子(ぼし)の日に陣没した。 解説
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| 戊戌,孟海公餘黨蔣善合以鄆州,孟啖鬼以曹州來降。啖鬼,海公之從兄也。庚子,營州人石世則執總管晉文衍,舉州叛,奉靺鞨突地稽為主。 黃州總管周法明攻蕭銑安州,拔之,獲其總管馬貴遷。 乙巳,以右驍衛將軍盛彥師為宋州總管,安撫河南。 乙卯,海州賊帥臧君相以五州來降,拜海州總管。 秋,七月,庚申,王世充行臺王弘烈、王泰、左僕射豆盧行褒、右僕射蘇世長以襄州來降。上與行褒、世長皆有舊,先是,屢以書招之,行褒輒殺使者;既至長安,上誅行褒而責世長。世長曰:「隋失其鹿,天下共逐之。陛下既得之矣,豈可復忿同獵之徒,問爭肉之罪乎!」上笑而釋之,以為諫議大夫。嘗從校獵高陵,大獲禽獸,上顧群臣曰:「今日畋,樂乎?」世長對曰:「陛下遊獵,薄廢萬機,不滿十旬,未足為樂!」上變色,既而笑曰:「狂態復發邪?」對曰:「於臣則狂,於陛下甚忠。」嘗侍宴披香殿,酒酣,謂上曰:「此殿煬帝之所為邪?」上曰:「卿諫似直而實多詐,豈不知此殿朕所為,而謂之煬帝乎?」對曰:「臣實不知,但見其華侈如傾宮、鹿臺,非興王之所為故也。若陛下為之,誠非所宜。臣昔侍陛下於武功,見所居宅僅庇風雨,當時亦以為足。今因隋之宮室,已極侈矣,而又增之,將何以矯其失乎?」上深然之。 甲子,秦王世民至長安。 |
現代日本語訳戊戌の日、孟海公の残党である蒋善合が鄆州を、また孟啖鬼が曹州を献じて降伏した。啖鬼は海公の従兄にあたる。 庚子の日には営州の石世則が総管・晋文衍を捕らえ、州を挙げて反乱を起こし、靺鞨族の突地稽を主君として擁立した。 黄州総管・周法明が蕭銑配下の安州を攻撃してこれを占領し、その総管である馬貴遷を捕らえた。 乙巳の日には右驍衛将軍であった盛彦師を宋州総管に任命し、河南地方の統治にあたらせた。 乙卯の日には海州の賊軍首領・臧君相が五州を献じて降伏したため、彼を海州総管に任じた。 秋七月庚申の日、王世充配下の行台(出先機関)である王弘烈・王泰や左僕射の豆盧行褒、右僕射の蘇世長らが襄州を献じて降伏した。皇帝(李淵)は行褒と世長とは旧知であったが、以前何度も書簡で帰順を促しても行褒は使者を殺し続けていたため、長安に到着すると皇帝は行褒を処刑して世長を責めた。 これに対して世長は言った。「隋という鹿(天下)を見失い、誰もが追っていたのです。陛下が既にそれを得られた以上、同じ獲物を狙った者たちの罪を問うべきでしょうか」。これを聞いた皇帝は笑って彼を許し、諫議大夫(進言官)に任命した。 ある時世長が高陵での狩猟に随行すると、多くの獣が捕らえられた。皇帝が臣下に向かって「今日の狩りは楽しかったか?」と尋ねると、世長は答えた。「陛下が遊獵にふけることで政務を怠れば、たとえ百日楽しんでも真の喜びとは言えません」。これを聞いて皇帝は表情を曇らせたが、すぐ笑って「またお前の狂態か?」と言うと、「私にとっては狂気でも、陛下には忠誠の証です」と返した。 別の時、披香殿での宴席で酔った世長が「この宮殿は煬帝(暴君)が造られたのですか?」と尋ねた。皇帝は「お前の諫言は一見真っ直ぐだが実に狡猾だな。朕が建てたことを知りながら、わざと煬帝の作と言うのか」と不快を示すと、世長は答えた。「私は確かに存じ上げませんでしたが、傾宮や鹿台(古代暴君の豪華宮殿)のような贅沢さに驚いたのです。もし陛下ご自身で造られたならなおさら不適切です。昔武功時代に雨風を凌ぐだけの粗末な住まいを見て『これで十分』と感じたものでした。隋代の宮殿を受け継ぎながら更に増築するのは、どうして過ちを正すと言えましょうか?」皇帝はこの言葉を深く認めた。 甲子の日、秦王李世民が長安へ帰還した。 解説【歴史的背景】本文章は『資治通鑑』唐紀より隋末唐初(618年頃)の記録です。群雄割拠する中で李淵・李世民父子による唐朝樹立過程を描いており、特に降伏者処遇や君臣問答に当時の政治姿勢が表れています。 【人物分析】
【政治的手法】
【現代語訳の方針】
【特筆すべき修辞】
(本訳は『資治通鑑』唐紀五・武徳四年条を基に構成) Translation took 964.3 seconds. |
| 世民被黃金甲,齊王元吉、李世勣等二十五將從其後,鐵騎萬匹,甲士三萬人,前後部鼓吹,俘王世充、竇建德及隋乘輿、御物獻於太廟,行飲至之禮以饗之。 乙丑,高句麗王建武遣使入貢。建武,元之弟也。 上見王世充而數之,世充曰:「臣罪固當誅,然秦王許臣不死。」丙寅,詔赦世充為庶人,與兄弟子侄徙處蜀;斬竇建德於市。 丁卯,以天下略定,大赦。百姓給復一年。陝、鼎、函、虢、虞、芮六州,轉輸勞費,幽州管內,久隔寇戎,並給復二年。律、令、格、式,且用開皇舊制。赦令既下,而王、竇餘黨尚有遠徙者,治書侍御史孫伏伽上言:「兵、食可去,信不可去,陛下已赦而復徙之,是自違本心,使臣民何所憑依?且世充尚蒙寬宥,況於餘黨,所宜縱釋。」上從之。 王世充以防夫未備,置雍州廨捨。獨孤機之子定州刺史修德帥兄弟至其所,矯稱敕呼鄭王;世充與兄世惲趨出,修德等殺之。詔免修德官。其餘兄弟子侄等,於道亦以謀反誅。 隋末錢幣濫薄,至裁皮糊紙為之,民間不勝其弊。至是,初行開元通寶錢,逕八分,重二銖四參,積十錢重一兩,輕重大小最為折衷,遠近便之。命給事中歐陽詢撰其文並書,迴環可讀。 以屈突通為陝東道大行臺右僕射,鎮洛陽;以淮陽王道玄為洛州總管,李世勣父蓋竟無恙而還,詔復其官爵。 |
現代日本語訳李世民は黄金の鎧を身にまとい、弟である斉王・李元吉や李世勣ら二十五人の将軍が従い、鉄騎一万騎と甲冑兵三万人がこれに続いた。前後には鼓吹(儀仗楽隊)を配し、捕虜の王世充・竇建徳および隋王朝の皇帝用車輿や御物を太廟(皇室祖廟)に献上した。「飲至の礼」(戦勝報告宴)を行い将士をねぎらった。 乙丑の日(621年5月29日)、高句麗王・建武が使者を遣わして貢物を献じた。建武は先代国王・元の弟である。 高祖皇帝(李淵)が王世充を引見し罪状を列挙すると、彼は言った。「臣の罪は確かに死に値しますが、秦王(李世民)が助命をお約束されました」。丙寅の日(5月30日)、詔勅で王世充を庶人に落とすとともに兄弟や子・甥らと共に蜀へ移住させた一方、竇建徳は市場で公開処刑した。 丁卯の日(5月31日)、「天下がほぼ平定された」として大赦令を発布。民衆には1年間の租税免除を認めた。陝州・鼎州・函谷関・虢州・虞州・芮州の六地域は物資輸送の負担が重く、幽州管轄区は長らく賊軍に隔絶されていたため、いずれも2年間免税とした。法律体系(律令格式)については開皇期(隋文帝時代)の旧制度を暫定適用した。 赦令後も王世充・竇建徳残党で遠流刑となる者がいたため、治書侍御史・孫伏伽が諫言した。「兵糧は削れても信義は棄てられません。陛下が赦免しながら再び流罪にするのはご本意に反し臣民の拠り所を失わせます。王世充すら寛大に処遇されたのに、まして残党こそ放免されるべきです」。皇帝はこれを受け入れた。 王世充が護送兵到着待ちで雍州役舎に滞在中、独孤機の子・定州刺史修徳が兄弟を率い「勅命である」と偽って鄭王(王世充)を呼び出した。彼が兄・世惲と共に出向くと殺害された。詔により修徳は官職剥奪となったが、他の王族も移送途中に謀反容疑で誅殺されている。 隋末には粗悪貨幣が出回り皮革や紙を切って偽造される有様で民衆は困窮した。この時初めて「開元通宝」銭を発行。直径八分(約2.4cm)、重さ二銖四参(約4g)。十枚で一両の重量となり規格が適正だったため広く流通した。給事中・欧陽詢に命じた銘文は回読可能な配置となっている。 屈突通を陝東道大行台右僕射として洛陽鎮守とし、淮陽王・李道玄を洛州総管とした。李世勣の父・李蓋が無事帰還したため詔で官爵を回復させた。 解説
※当該記事は武徳4年(621)洛陽平定直後の政局。李世民29歳時の記録であり、「玄武門の変」(626年)以前の秦王時代における軍功と政治手腕が凝縮されている。 Translation took 1849.7 seconds. |
| 竇軌還益州。軌將兵征討,或經旬月不解甲。性嚴酷,將佐有犯,無貴賤立斬之,鞭撻吏民,常流血滿庭,所部重足屏息。 癸酉,置錢監於洛、並、幽、益等諸州,秦王世民、齊王元吉賜三爐,裴寂賜一爐,聽鑄錢。自餘敢盜鑄者,身死,家口配沒。 河北既平,上以陳君賓為洺州刺史。將軍秦武通等將兵屯洺州,欲使分鎮東方諸州;又以鄭善果等為慰撫大使,就洺州選補山東州縣官。 竇建德之敗也,其諸將多盜匿庫物,及居閭里,暴橫為民患,唐官吏以法繩之,或加捶撻,建德故將皆驚懼不安。高雅賢、王小胡家在洺州,欲竊其家以逃,官吏捕之,雅賢等亡命至貝州。會上征建德故將范願、董康買、曹湛及雅賢等,於是願等相謂曰:「王世充以洛陽降唐,其將相大臣段達、單雄信等皆夷滅;吾屬至長安,必不免矣。吾屬自十年以來,身經百戰,當死久矣,今何惜餘生,不以之立事。且夏王得淮安王,遇以客禮,唐得夏王即殺之。吾屬皆為夏王所厚,今不為之報仇,將無以見天下之士!」乃謀作亂,卜之,以劉氏為主吉,因相與之漳南,見建德故將劉雅,以其謀告之。雅曰:「天下適安定,吾將老於耕桑,不願復起兵!」眾怒,且恐洩其謀,遂殺之。故漢東公劉黑闥,時屏居漳南,諸將往詣之,告以其謀,黑闥欣然從之。黑闥方種蔬,即殺耕牛,與之共飲食定計,聚眾得百人。 |
現代語訳:竇軌が益州へ戻った。彼は兵を率いて遠征する際、十日から一月もの間甲冑を脱がないこともあった。性格は厳格で残酷であり、配下の将校や副官が過ちを犯すと、身分の貴賤に関わらず即座に斬首した。役人や民衆を鞭打つ時にはしばしば庭中に血が溢れ、管轄区域の人々は足を揃えて息を潜めるほど恐れた。 癸酉(きゆう)の日、洛州・并州・幽州・益州など諸州に銭貨鋳造所を設置した。秦王李世民と斉王李元吉には三基の炉、裴寂には一基が与えられ、貨幣の鋳造が許可された。これ以外で私的に鋳造する者は死刑とし、家族は没官(奴婢となる)とした。 河北地方平定後、皇帝(高祖李淵)は陳君賓を洺州(めいしゅう)刺史に任命した。将軍秦武通らには兵を率いて洺州に駐屯させ、東方諸州の分断統治にあたらせようとした。また鄭善果らを慰撫大使とし、洺州で山東地域の州県官吏選抜・補充を行わせた。 竇建徳が敗れた後、配下の将軍たちは多く官庫物資を盗み隠した。郷里に戻ると暴虐を働いて民衆を苦しめたため、唐の役人らは法で取り締まり鞭打ちなどで懲罰すると、竇建徳のもとの将軍らは皆おびえ不安になった。高雅賢(こうがいけん)と王小胡(おうしょうかこ)は家族が洺州にいたため密かに迎えに行こうとしたが、役人に捕まりそうになり貝州へ逃亡した。 ちょうど皇帝が竇建徳のもとの配下である范願・董康買(とうこうばい)・曹湛(そうたん)、及び高雅賢らを召喚する命令を出した。これに対し范願らは語り合った:「王世充が洛陽で唐に降伏したのに、彼の将相大臣だった段達や単雄信らは皆殺された。我々が長安に行けば必ず同じ運命だ。この十年間、幾多の戦場を生き抜いてきた身だ。死ぬのは本望だが、残った生命で大業を成そうではないか! 夏王(竇建徳)は淮安王(李神通)を捕らえた時には賓客として遇したのに、唐が夏王を捕えると即座に殺害した。我々は皆かつて夏王の厚恩を受けた者だ。復讐しなければ天下の士たる者の面目が立たぬ!」こうして反乱計画を練り上げた。 占いで「劉氏」を首領とするのが吉と出たため、一同は漳南(しょうなん)へ赴き竇建徳のもとの将軍だった劉雅に面会し謀議を伝えた。しかし劉雅は言った:「天下がようやく安定したのだから農耕で余生を過ごしたい。再び兵を起こす気などない」。怒り狂った一同は計画漏洩を恐れ、その場で彼を殺害した。 かつて漢東公(かんとうこう)の爵位を持っていた劉黒闥(りゅうこくたつ)が当時漳南に隠遁していた。将軍たちが訪ね謀議を伝えると、劉黒闥は喜んで従った。丁度野菜作り中だった彼は直ちに耕作牛を屠殺し、一同で酒食しながら作戦会議を行い、百人余りの兵を集めて決起した。 解説:
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| 甲戌,襲漳南縣據之。是時,諸道有事則置行臺尚書省,無事則罷之。朝廷聞黑闥作亂,乃置山東道行臺於洺州,魏、冀、定、滄並置總管府。丁丑,以淮安王神通為山東道臺右僕射。 辛巳,褒州道安撫使郭行方攻蕭銑鄀州,拔之。 孟海公與竇建德同伏誅,戴州刺史孟□敢鬼不自安,挾海公之子義以曹、戴二州反,以禹城令蔣善合為腹心;善合與其左右同謀斬之。 八月,丙戌朔,日有食之。 丁亥,命太子安撫北邊。 丁酉,劉黑闥陷鄃縣,魏州刺史權威、貝州刺史戴元祥與戰,皆敗死,黑闥悉收其餘眾及器械。竇建德舊黨稍稍出歸之,眾至二千人,為壇於漳南,祭建德,告以舉兵之意,自稱大將軍。詔發關中步騎三千,使將軍秦武通、定州總管藍田李玄通擊之;又詔幽州總管李藝引兵會擊黑闥。 癸卯,突厥寇代州,總管李大恩遣行軍總管王孝基拒之,舉軍皆沒。甲辰,進圍崞縣。乙巳,王孝基自突厥逃歸,李大恩眾少,據城自守,突厥不敢逼,月餘引去。 上以南方寇盜尚多,丙午,以左武候將軍張鎮周為淮南道行軍總管,大將軍陳智略為嶺南道行軍總管,鎮撫之。 丁未,劉黑闥陷歷亭,執屯衛將軍王行敏,使之拜,不可,遂殺之。 初,洛陽既平,徐圓朗請降,拜兗州總管,封魯郡公。劉黑闥作亂,陰與圓朗通謀。上使葛公盛彥師安集河南,行至任城;辛亥,圓朗執彥師,舉兵反。 |
現代日本語訳甲戌(かぼく)の日、漳南県を襲撃して占拠した。当時は諸地方で有事が生じた際には臨時の行台尚書省を設置し、収束後はこれを廃止する慣例であった。朝廷は劉黒闥(りゅうこくとう)の反乱を知ると、洺州に山東道行台を置き、魏州・冀州・定州・滄州にはそれぞれ総管府を設置した。丁丑(ていちゅう)の日、淮安王李神通(かあんおうりじんつう)を山東道行台右僕射に任命した。 辛巳(しんし)の日、褒州道安撫使郭行方が蕭銑配下の鄀州を攻撃して陥落させた。 孟海公は竇建徳と共に処刑されていた。戴州刺史であった孟某(名前欠字)は身の危険を感じ、孟海公の子・義を擁立し曹州・戴州で反乱を起こしたが、腹心とした禹城県令蒋善合らの謀略により殺害された。 八月丙戌朔日(ついたち)、日食が発生した。 丁亥(ていがい)の日、皇太子に北辺地域の鎮撫を命じた。 丁酉(ていゆう)の日、劉黒闥が鄃県を陥落させた。迎撃に出た魏州刺史権威と貝州刺史戴元祥は敗死し、劉黒闥は両軍の残存兵と兵器を接収した。これにより竇建徳の旧臣らが続々と合流し、兵力二千人に達すると漳南で祭壇を築き竇建徳を祀り挙兵の意志を告げ、「大将軍」を称した。朝廷は関中から歩兵・騎兵三千を派遣し、将軍秦武通(しんぶつう)と定州総管李玄通に討伐させると同時に、幽州総管李芸にも協力を命じた。 癸卯(きぼう)の日、突厥が代州へ侵攻した。李大恩総管は行軍総管王孝基を迎撃に向かわせたが全滅した。甲辰には崞県が包囲され、乙巳に王孝基が突厥から脱出して帰還するも、李大恩の兵力は少なく籠城せざるを得なかった。しかし突厥は攻めあぐね一月余りで撤退した。 南方では賊徒がなお跳梁していたため、丙午(へいご)には左武候将軍張鎮周を淮南道行軍総管に、大将軍陳智略を嶺南道行軍総管に任命し鎮撫にあたらせた。 丁未(ていび)の日、劉黒闥が歴亭を陥落させ屯衛将軍王行敏を捕縛した。跪礼を強要されたが拒絶したため処刑された。 当初、洛陽平定後に徐円朗は降伏し兗州総管・魯郡公に封ぜられていたが、劉黒闥の乱と連動して密かに通謀していた。皇帝が葛国公盛彦師を河南鎮撫のために派遣すると任城で捕らえられ、辛亥(しんがい)には徐円朗は公然と反旗を翻した。 注釈
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| 黑闥以圓朗為大行臺元帥,兗、鄆、陳、杞、伊、洛、曹、戴等八州豪右皆應之。圓朗厚禮彥師,使作書與其弟,令舉虞城降。彥師為書曰:「吾奉使無狀,為賊所擒,為臣不忠,誓之以死;汝善侍老母,勿以吾為念。」圓朗初色動,而彥師自若。圓朗乃笑曰:「盛將軍有壯節,不可殺也。」待之如舊。 河南道安撫大使任瑰行至宋州,屬圓朗反,副使柳浚勸瑰退保汴州,瑰笑曰:「柳以何怯也!」圓朗又攻陷楚丘,引兵將圍虞城,瑰遣部將崔樞、張公謹自鄢陵帥諸州豪右質子百餘人守虞城。濬曰:「樞與公謹皆王世充將,諸州質子父兄皆反,恐必為變。」瑰不應。樞至虞城,分質子使與土人合隊共守城。賊稍近,質子有叛者,樞斬其隊帥。於是諸隊帥皆懼,各殺其質子,樞不禁,梟其首於門外,遣使白瑰。瑰陽怒曰:「吾所以使與質子俱者,欲招其父兄耳,何罪而殺之!」退謂濬曰:「吾固知崔樞能辦此也。縣人既殺質子,與賊深仇,吾何患乎!」賊攻虞城,果不克而去。 初,竇建德以鄱陽崔元遜為深州刺史,及劉黑闥反,元遜與其黨數十人謀於野,伏甲士於車中,以禾覆其上,詐為農人,直入聽事,自禾中呼噪而出,執刺史裴晞殺之,傳首黑闥。 九月,乙卯,文登賊帥淳于難請降;置登州,以難為刺史。 突厥寇并州;遣左屯衛大將軍竇琮等擊之。 |
翻訳本文劉黒闥は孟円朗を行台元帥に任命すると、兗州・鄆州・陳州・杞州・伊州・洛州・曹州・戴州の八地域の豪族たちがこれに呼応した。円朗は盛彦師を厚遇し、弟への手紙を書かせて虞城の降伏を命じようとした。しかし彦師が記したのは「私は使命を果たさず賊に捕らわれた。臣として不忠だが死をもって誓う。お前は老母を大切にせよ、私のことは気にかけるな」という内容だった。円朗は最初動揺したものの、彦師が平静を保ったため笑いながら言った。「盛将軍には立派な節義があるゆえ殺すわけにはいかぬ」。従来通り厚遇し続けた。 河南道安撫大使である任瑰が宋州に到着すると、ちょうど円朗の反乱が起きていた。副使の柳濬は汴州へ撤退するよう進言したが、任瑰は笑って「君はなぜそう臆病なのか」と返した。やがて円朗軍は楚丘を陥落させ虞城包囲に向かう中、任瑰は配下の崔枢と張公謹に命じ、鄢陵から諸豪族の人質百余名を率いて虞城防衛にあたらせた。柳濬は懸念を示した。「崔枢らは元・王世充配下であり人質たちの父兄も反乱側です。必ず裏切るでしょう」と。しかし任瑰は聞き入れなかった。 虞城に着いた崔枢は、人質を現地部隊に分散配置して防衛させた。賊軍が接近すると一部の人質が離反しようとしたため、彼はその隊長を斬首した。これにより各隊長らは恐怖から自らの担当する人質を殺害し始めた。崔枢はこれを制止せず、首を城外に晒した上で任瑰へ報告した。任瑰は表向き激怒して「人質と共に行かせたのは彼らの父兄を懐柔するためだ!何の罪があって殺すのか!」と言いながら、裏では柳濬にこう語った。「崔枢なら必ずうまく処理すると確信していた。現地民が自ら人質を殺害した今は賊と深い仇敵となっているゆえ心配無用だ」。果たして虞城攻撃は失敗し、賊軍は撤退した。 かつて竇建徳に任命された深州刺史の崔元遜は、劉黒闥が反乱すると数十名の仲間と謀略を練った。兵士たちを穀物で覆い隠した車中に潜ませ農民を装い州役所へ侵入すると、突然叫び声をあげて現れ刺史裴晞を捕らえ殺害した。その首級は劉黒闥のもとへ送られた。 九月乙卯の日(陰暦)、文登の賊将・淳于難が降伏を申し出たため朝廷は登州を設置し、彼自身を刺史に任命した。 突厥が并州へ侵攻すると朝廷は左屯衛大将軍である竇琮らを派遣して迎撃させた。 注釈
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| 戊午,突厥寇原州;遣行軍總管尉遲敬德等擊之。 辛酉,徐圓朗自稱魯王。 隋末,歙州賊帥汪華據黟、歙等五州,有眾一萬,自稱吳王。甲子,遣使來降;拜歙州總管。 隋末,弋陽盧祖尚糾合壯士以衛鄉里,部分嚴整,群盜畏之。及煬帝遇弒,鄉人奉之為光州刺史;時年十九,奉表於皇泰主。及王世充自立,祖尚來降;丙子,以祖尚為光州總管。 己卯,詔括天下戶口。徐圓朗寇濟州,治中吳人及論擊走之。 癸未,詔以太常樂工皆前代因罪配沒,子孫相承,多歷年所,良可哀愍;宜並蠲除為民,且令執事,若仕宦入流,勿更追集。 甲申,靈州總管楊師道擊突厥,破之。師道,恭仁之弟也。 詔發巴、蜀兵,以趙郡王孝恭為荊湘道行軍總管,李靖攝行軍長史,統十二總管,自夔州順流東下;以廬江王瑗為荊郢道行軍元帥,出襄州道,黔州刺史田世康出辰州道,黃州總管周法明出夏口道,以擊蕭銑。是月,孝恭發夔州。時峽江方漲,諸將請俟水落進軍,李靖曰:「兵貴神速。今吾兵始集,銑尚未知,若乘江漲,倏忽抵其城下,掩其不備,此必有擒;不可失也!」孝恭從之。 淮安王神通將關內兵至冀州,與李藝兵合。又發邢、洺、相、魏、恆、趙等州兵合五萬餘人,與劉黑闥戰於饒陽城南,布陳十餘里;黑闥眾少,依堤單行而陳以當之。 |
現代日本語訳戊午の日、突厥が原州を侵したため、朝廷は行軍総管・尉遅敬徳らに迎撃させた。 辛酉の日、徐円朗が魯王を自称した。 隋末、歙州の賊将・汪華が黟(い)州や歙(きゅう)州など五州を占拠し、一万の兵を擁して呉王と称していた。甲子の日、彼は使者を派遣して降伏を申し出たため、朝廷は歙州総管に任命した。 隋末、弋陽(よくよう)出身の盧祖尚が郷里防衛のために壮士らを糾合し、軍備を厳正に整えたことで、賊徒らは彼を恐れた。煬帝が殺害されると、郷民たちは彼を光州刺史として擁立した(当時19歳)。その後、皇泰主へ忠誠を示すも、王世充が自立すると盧祖尚は唐に帰順し、丙子の日には朝廷から光州総管に任命された。 己卯の日、全国的な戸籍調査を命じる詔勅が出される。徐円朗が済州を襲撃したが、治中の呉人及(ごじんきゅう)が論戦によってこれを退けた。 癸未の日、「太常寺に属する楽工たちは前代から罪により没収された者の子孫で、世代を超えて継承されてきた。深く哀れむべきである」として詔勅が出され、全員を平民身分に解放するとともに役職を与える方針が示された(官途についた者は再び徴用しない旨も明記)。 甲申の日、霊州総管・楊師道が突厥を撃破した。楊師道は恭仁(きょうじん)の弟である。 趙郡王・李孝恭を荊湘道行軍総管に任命し、李靖を行軍長史代行とすることで巴蜀の兵を動員する詔勅が発布された。十二総管を統率して夔州(きしゅう)から長江沿いに東進させると同時に、廬江王・李瑗(りえん)には荊郢道行軍元帥として襄州(じょうしゅう)、黔州刺史の田世康には辰州、黄州総管の周法明には夏口からそれぞれ出撃させ蕭銑(しょうせん)を討伐する計画が立てられた。同月に李孝恭は夔州から進軍開始した。当時は長江の増水期であったため諸将は水位低下を待つよう主張したが、李靖は「戦機は迅速さこそ命である。今我々が集結した事実すら蕭銑は知らない。増水に乗じ一気に城下へ迫り不意を突けば必ず捕獲できる」と進言し、李孝恭はこれを受け入れた。 淮安王・李神通が関内兵を率いて冀州(きしゅう)へ到着し、燕郡王李芸の軍と合流。さらに邢州・洺州・相州・魏州・恒州・趙州などから五万余りの兵力を集結させ饒陽城南で劉黒闥(りゆうこくとう)と対峙した。唐軍は十余里に布陣し、劣勢の劉黒闥軍は堤防沿いに単列縦隊で応戦した。 解説
(本訳文は『資治通鑑』巻189-190を基に現代語化。固有名詞は原則として唐代音読を用い、軍事用語「総管」「行軍」等も当時の制度に従った) Translation took 902.6 seconds. |
| 會風雪,神通乘風擊之,既而風返,神通大敗,士馬軍資失亡三分之二。李藝居西偏,擊高雅賢,破之,逐奔數里,聞大軍不利,退保蒿城;黑闥就擊之,藝亦敗,薛萬均、萬徹皆為所虜,截發驅之。萬均兄弟亡歸,藝引兵歸幽州。黑闥兵勢大振。 上以秦王世民功大,前代官皆不足以稱之,特置天策上將,位在王公上。冬,十月,以世民為天策上將,領司徒、陝東道大行臺尚書令,增邑二萬戶,仍開天策府,置官屬,以齊王元吉為司空。世民以海內浸平,乃開館於宮西,延四方文學之士,出教以王府屬杜如晦、記室房玄齡、虞世南、文學褚亮、姚思廉、主簿李玄道、參軍蔡允恭、薛元敬、顏相時、咨議典簽蘇勖、天策府從事中郎於志宇、軍咨祭酒蘇世長、記室薛收、倉曹李守素、國子助教陸德明、孔穎達、信都蓋文達、宋州總管府戶曹許敬宗,並以本官兼文學館學士,分為三番,更日直宿,供給珍膳,恩禮優厚。世民朝謁公事之暇,輒至館中,引諸學士討論文籍,或夜分乃寢。又使庫直閻立本圖像,褚亮為贊,號十八學士。士大夫得預其選者,時人謂之「登瀛洲」。允恭,大寶之弟子;元敬,收之從子;相時,師古之弟;立本,毘之子也。 初,杜如晦為秦王府兵曹參軍,俄遷陝州長史。時府僚多補外官,世民患之。房玄齡曰:「餘人不足惜,至於杜如晦,王佐之才,大王欲經營四方,非如晦不可。 |
現代日本語訳大雪と強風が起こった際、李神通は風に乗じて攻撃を仕掛けた。しかし間もなく風向きが逆転し、李神通軍は大敗を喫する。兵士・馬匹・軍需物資の三分の二を失う惨状となった。西側に布陣していた李芸(李寿)は高雅賢を攻撃して破り、数里も追い討ちをかけたが、主力軍の敗北を知ると退却し藁城で防衛線を構築。劉黒闥(Liu Heita)が直ちに反撃に出て李芸軍も打ち破り、薛万均と薛万徹兄弟を捕虜とした。彼らは髪を切り落として辱めを受けた後、強制的に使役されたが、間もなく逃亡して帰還した。李芸は兵を率いて幽州へ撤退する。この勝利で劉黒闥の勢力は大いに拡大した。 高祖(李淵)は秦王李世民の功績があまりにも大きいため、従来の官位では不足と考え、新たに「天策上将」という職位を創設し王侯公卿よりも上位に置いた。同年冬十月、世民を天策上将に任命するとともに司徒・陝東道大行台尚書令を兼任させ、封戸二万戸を加増。さらに天策府を開設して官僚機構を整備し、斉王李元吉を司空とした。 天下が次第に平定される中で世民は宮殿西側に学問所(文学館)を設立。四方から文人学者を招集し、杜如晦・房玄齢ら王府属官18名に対し「学士」称号を与えた(本職兼任)。彼らを三班に分け日替わりで宿直させ、美食と厚遇をもって迎えた。世民は公務の合間に学問所へ赴き、学士たちと典籍について議論することを常とし、夜半まで語り明かすこともあった。また庫直(官職名)の閻立本に肖像画を描かせ、褚亮が賛文を作成。「十八学士」として称揚され、選ばれた士大夫は「瀛洲登仙」(仙境入りの誉れ)と羨望された。 解説
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| 」世民驚曰:「微公言,幾失之。」即奏為府屬。與玄齡常從世民征伐,參謀帷幄,軍中多事,如晦剖決如流。世民每破軍克城,諸將佐爭取寶貨,玄齡獨收采人物,致之幕府。又將佐有勇略者,玄齡必與之深相結,使為世民盡死力。世民每令玄齡入奏事,上歎曰:「玄齡為吾兒陳事,雖隔千里,皆如面談。」李玄道嘗事李密,為記室,密敗,官屬為王世充所虜,懼死,皆達曙不寐。獨玄道起居自若,曰:「死生有命,非憂可免!」眾服其識量。 庚寅,劉黑闥陷瀛州,殺刺史盧士睿。觀州人執刺史雷德備,以城降之。 辛卯,蕭銑鄂州刺史雷長穎以魯山來降。 趙郡王孝恭帥戰艦二千餘艘東下,蕭銑以江水方漲,殊不為備;孝恭等拔其荊門、宜都二鎮,進至夷陵。銑將文士弘將精兵數萬屯清江,癸巳,孝恭擊走之,獲戰艦三百餘艘,殺溺死者萬計;追奔至百里洲,士弘收兵復戰,又敗之,進入北江。銑江州總管蓋彥舉以五州來降。 毛州刺史趙元愷,性嚴急,下不堪命。丁卯,州民董燈明等作亂,殺元愷以應劉黑闥。 盛彥師自徐圓朗所逃歸。王薄因說青、萊、密諸州,皆下之。 蕭銑之罷兵營農也,才留宿衛數千人,聞唐兵至,文士弘敗,大懼,倉猝徵兵,皆在江、嶺之外,道塗阻遠,不能遽集,乃悉見兵出拒戰。孝恭將擊之,李靖止之曰:「彼救敗之師,策非素立,勢不能久,不若且泊南岸,緩之一日,彼必分其兵,或留拒我,或歸自守;兵分勢弱,我乘其懈而擊之,蔑不勝矣。 |
現代日本語訳:李世民は驚いて言った。「貴殿が言わなければ、危うく見逃すところだった」。すぐに彼を幕僚として登用した。房玄齢と杜如晦は常に李世民の遠征に従い、陣営で作戦計画に関与し、軍務が多忙な中でも杜如晦は淀みなく裁決を行った。李世民が敵軍を破り城を落とすたびに、諸将校が宝物や財貨を争奪する中、房玄齢だけは人材を見出して幕府に招致した。また勇敢で謀略ある将校には必ず深く交わり、彼らが李世民のために死力を尽くすように仕向けた。李世民が房玄齢に入朝させて報告させるたび、高祖(李淵)は感嘆して言った。「房玄齢が我が子の用件を奏上する様は、千里隔てていても面と向かって語る如しである」。 かつて李密に仕えた李玄道は記室(書記官)として働いていた。李密が敗れると官僚たちは王世充の捕虜となり、死を恐れて夜明けまで眠れなかった。しかし李玄道だけは普段通り振る舞い、「生死には天命がある。憂えても逃れられぬ」と言った。人々はその見識と度量に敬服した。 庚寅(こういん)の日、劉黒闥(りゅうこくたつ)が瀛州を陥落させ刺史・盧士睿を殺害した。観州では住民が刺史・雷徳備を捕らえ城ごと降伏した。 辛卯(しんぼう)の日、蕭銑(しょうせん)配下の鄂州刺史・雷長穎が魯山をもって唐に帰順した。 趙郡王・李孝恭は二千余隻の軍艦を率いて東進。蕭銑はちょうど長江が増水していたため全く警戒しておらず、李孝恭らは荊門・宜都二つの要衝を落とし夷陵に迫った。蕭銑配下の文士弘(ぶんしこう)は精兵数万を率いて清江に駐屯したが、癸巳(きし)の日に李孝恭に敗走させられ三百余隻の軍艦を奪われた。死者・溺死者は万単位に及び、百里洲まで追撃された文士弘は再び決戦したがまたも敗北し北江へ撤退した。蕭銑配下の江州総管・蓋彦挙(がいげんきょ)は五州を率いて降伏。 毛州刺史・趙元愷は厳格で苛烈、部下は命令に耐えられなかった。丁卯(ていぼう)の日、州民の董燈明らが反乱を起こし趙元愷を殺害して劉黒闥に呼応した。 盛彦師(せいげんし)が徐円朗のもとから脱出帰還。王薄(おうはく)は青・莱・密など諸州を説得してことごとく降伏させた。 蕭銑が兵士を解雇して農業に従事させていたため、残った護衛兵はわずか数千人だった。唐軍到来と文士弘敗北の報を受けるや大いに慌て急遽徴兵したが、兵力は長江以南や五嶺の外側に分散し道程も険遠で即時集結できず、手元の全兵力を率いて迎撃に出た。李孝恭が出撃しようとすると、李靖が制止して言った。「彼らは敗北後の救急部隊で事前計画なく勢いが続かない。南岸に一旦停泊し一日待てば必ず兵力分散する:一部は防衛線維持、残りは本拠地帰還となるだろう。兵力分散後なら脆弱となり、その隙を突けば確実に勝利できる」。 解説:
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| 今若急之,彼則並力死戰,楚兵剽銳,未易當也。」孝恭不從,留靖守營,自帥銳師出戰,果敗走,趣南岸。銑眾委舟收掠軍資,人皆負重,靖見其眾亂,縱兵奮擊,大破之,乘勝直抵江陵,入其外郭。又攻水城,拔之,大獲舟艦,李靖使孝恭盡散之江中。諸將皆曰:「破敵所獲,當藉其用,奈何棄以資敵?」靖曰:「蕭銑之地,南出嶺表,東距洞庭。吾懸軍深入,若攻城未拔,援兵四集,吾表裡受敵,進退不獲,雖有舟楫,將安用之?今棄舟艦,使塞江而下,援兵見之,必謂江陵已破,未敢輕進,往來覘伺,動淹旬月,吾取之必矣。」銑援兵見舟艦,果疑不進。其交州總管丘和、長史高士廉、司馬杜之松等將朝江陵,聞銑敗,悉詣孝恭降。 孝恭勒兵圍江陵,銑內外阻絕,問策於中書侍郎岑文本,文本勸銑降。銑乃謂群下曰:「天不祚梁,不可復支矣。若必待力屈,則百姓蒙患,奈何以我一人之故,陷百姓於塗炭乎!」乙巳,銑以太牢告於太廟,下令開門出降,守城者皆哭。銑帥群臣緦縗布幘詣軍門,曰:「當死者唯銑耳,百姓無罪,願不殺掠。」孝恭入據其城,諸將欲大掠,岑文本說孝恭曰:「江南之民,自隋末以來,困於虐政,重以群雄虎爭,今之存者,皆鋒鏑之餘,跂踵延頸以望真主,是以蕭氏君臣、江陵父老決計歸命,庶幾有所息肩。 |
現代日本語訳「もし急いで攻め立てれば、敵は結束して死闘を挑んでくるだろう。楚の兵士は鋭く勇猛であり、そう易々と対抗できる相手ではない」と進言したが、李孝恭は聞き入れなかった。彼は李靖に守備を任せると、自ら精鋭部隊を率いて出撃し、案の定敗走して南岸へ退却した。 敵兵たちは船を放棄して略奪に夢中になり、皆が戦利品で身動きが取れなくなっていた。李靖はその混乱を見逃さず、軍勢を一気に突撃させて大勝をおさめ、勢いに乗って江陵城の外郭まで攻め込んだ。さらに水軍基地も陥落させると、大量の船艦を鹵獲したが、李靖は孝恭に命じてそれら全てを長江へ放棄させるよう指示した。 諸将が「敵から奪った戦利品こそ活用すべきで、なぜかえって敵に渡すのか」と抗議すると、李靖は言下に答えた。「蕭銑の支配域は南は嶺表(広東)まで及び、東は洞庭湖に達する。我々が孤立して深く進軍した以上、もし城を落とせず援軍が四方から集結すれば挟み撃ちになる。その時は船があっても何の役にも立たぬ。今こそ舟艇を流し下らせよ――援軍がこれを見れば江陵陥落と思い込み、軽率に進軍できまい。偵察と躊躇で一月は無駄にするだろう。その隙に我々は必ず勝利を得る」 予想通り蕭銑の援軍は流れ下る船艦を目撃し、疑心暗鬼になって動けなかった。交州総管・丘和や長史・高士廉、司馬・杜之松らが江陵へ向かう途中で敗報を知り、孝恭のもとに降伏してきたのである。 李孝恭は軍を率いて江陵を包囲したため蕭銑は完全に孤立し、中書侍郎の岑文本に対策を求めた。彼は投降を勧めると、蕭銑は臣下たちに宣言する。「天が梁王朝を見放された以上、これ以上の抵抗は無意味だ。もし力尽きるまで戦えば民衆が被害を受ける。どうして朕一人のために万民を塗炭の苦しみに陥れられようか」 乙巳(10月21日)、蕭銑は太廟で隆重な祭祀を行った後、城門開放と降伏を命令した。守備兵たちは皆泣いた。蕭銑が臣下を率いて喪服姿で軍営へ赴き「死ぬべきは朕のみだ。民衆に罪はないから殺戮略奪を止めてほしい」と懇願すると、孝恭が城に入った。 諸将が略奪しようとした時、岑文本が諫めた。「江南の民衆は隋末以来、暴政と群雄割拠で疲弊しきっている。生き残った者たちこそ真の君主を待ち望んできたのだ。だから蕭氏君臣も江陵市民も降伏を決断した――ようやく安息を得られることを願ってのことだ」 解説
※ルビ(ふりがな)表記及び原文記載はご指示通り厳禁としました。 Translation took 771.1 seconds. |
| 今若縱兵俘掠,使士民失望,恐自此以南,無復向化之心矣!」孝恭稱善,遽禁止之。諸將又言:「梁之將帥與官軍拒斗死者,其罪既深,請籍沒其家,以賞將士。」李靖曰:「王者之師,宜使義聲先路。彼為其主斗死,乃忠臣也,豈可同叛逆之科籍其家乎!」於是城中安堵,秋毫無犯。南方州縣聞之,皆望風款附。銑降數日,援兵至者十餘萬,聞江陵不守,皆釋甲而降。 孝恭送銑於長安,上數之。銑曰:「隋失其鹿,天下共逐之。銑無天命,故至此;若以為罪,無所逃死!」竟斬於都市。詔以孝恭為荊州總管;李靖為上柱國,賜爵永康縣公,仍使之安撫嶺南,得承制拜授。 先是,銑遣黃門侍郎江陵劉洎略地嶺表,得五十餘城,未還而銑敗,洎以所得城來降;除南康州都督府長史。 戊申,徐圓朗昌州治中劉善行以須昌來降。 庚戌,詔陝東道大行臺尚書省自令、僕至郎中、主事,品秩皆與京師同,而員數差少,山東行臺及總管府、諸州並隸焉。其益州、襄州、山東、淮南、河北等道令、僕以下,各降京師一等,員數又減焉。行臺尚書令得承制補署。其秦王、齊王府官之外,各置左右六護軍府,及左右親事帳內府。 閏月,乙卯,上幸稷州;己未,幸武功舊墅;壬戌,獵於好畤;乙丑,獵於九嵕;丁卯,獵於仲山;戊辰,獵於清水谷,遂幸三原;辛未,幸周氏陂;壬申,還長安。 |
現代日本語訳:「もし今、兵に略奪や捕虜採取を許せば、士民の期待を裏切りかねない。おそらくこの地より南では、二度と帰順しようという心は起こらないだろう!」李孝恭はこれを認め、すぐに禁止した。諸将がまた進言した。「梁(蕭銑)の将帥で官軍に抵抗して戦死した者は罪深いため、彼らの家財を没収し将士への褒賞とすべきです」。これに対し李靖は言った。「王者の軍隊とは、正義の評判を先行させるものだ。彼らが主君のために戦って死んだのは忠臣の証である。どうして反逆者と同じ扱いで家財を没収できようか!」このおかげで城内は平穏を保ち、微細な物すら侵害されなかった。南方の州県がこれを聞くと、風評だけで次々と帰順した。蕭銑降伏から数日後、十余万の援軍が到着したが江陵陥落を知ると、武器を捨てて投降した。 李孝恭は蕭銑を長安へ送り、高祖(李淵)はその罪状を列挙して詰問した。蕭銑は言った。「隋が鹿(帝位)を見失い天下が争奪する中で、私は天命を得られなかったゆえにここまで至ったのです。もしこれを罪とするならば、死から逃れようもありません!」結局市中で斬首された。詔により李孝恭は荊州総管に任じられ、李靖には上柱国(最高位の武官称号)を授け永康県公に封ぜられた。さらに嶺南地域を慰撫する任務を与えられ、皇帝権限による官吏任命も許可された。 以前蕭銑が派遣した黄門侍郎・江陵出身の劉洎は嶺表(広東方面)で土地攻略し五十余城を得たが、帰還前に蕭銑が敗れたため、獲得した都市を携えて降伏した。南康州都督府長史に任命された。 戊申の日、徐圓朗配下の昌州治中・劉善行が須昌をもって投降してきた。 庚戌の日、詔勅が出た:陝東道大行臺尚書省は令(長官)や僕射(次官)から郎中・主事に至るまで、全ての官位等級と俸禄を京師(中央朝廷)と同じとする。ただし人員数は若干少なく設定し、山東行台及び総管府・諸州もこれに従属させる。益州や襄州、山東・淮南・河北などの道では令や僕射以下の官吏について、それぞれ京師より一品級低くするとともに人員数をさらに削減する。行臺尚書令は皇帝権限による臨時任命を許可される。秦王(李世民)府と斉王(李元吉)府の官属とは別に、左右六護軍府及び左右親事帳内府を設置せよ。 閏月乙卯の日、高祖は稷州へ行幸した。己未には武功旧邸に行幸し、壬戌には好畤で狩猟を行い、乙丑には九嵕山で、丁卯には仲山で、戊辰には清水谷で狩猟をなされ、続いて三原に立ち寄り、辛未には周氏陂へ行幸して、壬申の日に長安へ還られた。 解説:
※『資治通鑑』該当箇所:唐紀四(高祖武徳四年~五年)。司馬光はこの記述を通じて「仁義による征服」と「適切な行政制度設計」が王朝安定化の両輪であるとの教訓を提示している。 Translation took 1874.5 seconds. |
| 十一月,甲申,上祀圜丘。 杜伏威使其將王雄誕擊李子通,子通以精兵守獨松嶺。雄誕遣其裨將陳當將千餘人,乘高據險以逼之,多張旗幟,夜則縛炬火於樹,佈滿山澤。子通懼,燒營走保杭州;雄誕追擊之,又敗之於城下。庚寅,子通窮蹙請降。伏威執子通並其左僕射樂伯通送長安;上釋之。 先是,汪華據黟、歙,稱王十餘年。雄誕還軍擊之,華拒之於新安洞口,甲兵甚銳。雄誕伏精兵於山谷,帥羸弱數千犯其陳,戰才合,陽不勝,走還營;華進攻之,不能克,會日暮,引還,伏兵已據其洞口,華不得入,窘迫請降。 聞人遂安據昆山,無民屬,伏威使雄誕擊之。雄誕以昆山險隘,難以力勝,乃單騎造其城下,陳國威靈,示以禍福。遂安感悅,帥諸將出降。於是伏威盡有淮南、江東之地,南至嶺,東距海。雄誕以功除歙州總管,賜爵宜春郡公。 壬辰,林州總管劉旻擊劉屳成,大破之。屳成僅以身免,部落皆降。 李靖度嶺,遣使分道招撫諸州,所至皆下。蕭銑桂州總管李襲志帥所部諸州來降,趙郡王孝恭即以襲志為桂州總管,明年入朝。以李靖為嶺南撫慰大使,檢校桂州總管,引兵下九十六州,得戶六十餘萬。 壬寅,劉黑闥陷定州,執總管李玄通,黑闥愛其才,欲以為大將,玄通不可。故吏有以酒肉饋之者,玄通曰:「諸君哀吾幽辱,幸以酒肉來相開慰,當為諸君一醉。 |
訳文(現代日本語)十一月甲申の日、皇帝は圜丘で天を祀った。 杜伏威が配下の将軍・王雄誕に李子通討伐を命じると、子通は精鋭部隊で独松嶺を守備した。雄誕は副将・陳当に千余りの兵を与え、高地の険しい地形を占拠して圧力をかけさせた。大量の旗幟を掲げ、夜には木々にかがり火を結びつけ、山野一面に配置した。子通は恐れをなして陣営を焼き払い杭州へ撤退。雄誕は追撃し城下で再び打ち破った。庚寅の日、窮地に陥った子通が降伏を願い出たため、伏威は彼と左僕射・楽伯通を捕らえ長安へ護送。皇帝はこれを許した。 これより先、汪華が黟(い)・歙(きゅう)を占拠し十数年も王を称していた。雄誕が軍を返して攻めると、汪華は新安洞口で防戦し装備は極めて精鋭であった。雄誕は山谷に伏兵を潜ませ、数千の弱兵を率いて敵陣へ突入した。交戦するとすぐにわざと敗走し陣営へ撤退。汪華が攻め寄せたが陥落できず、日暮れに撤収しようとした時、既に伏兵が洞口を占拠しており退路を断たれたため降伏した。 聞人遂安は昆山を支配していたが民衆の支持を得ていなかった。伏威が雄誕に討伐させると、険阻な地形で武力制圧が困難と判断し単騎で城下へ赴いた。そこで朝廷の威光を示し利害を説くと、遂安は感激して配下諸将を率い降伏した。こうして杜伏威は淮南・江東一帯を掌握し、南は嶺南に達し東は海に至る領土を得た。雄誕は功績により歙州総管に任じられ宜春郡公の爵位を与えられた。 壬辰の日、林州総管・劉旻が劉屳成を攻撃して大勝した。屳成は単騎で逃れたのみで配下は全て降伏した。 李靖が嶺南に進出し使者を各路へ派遣すると、赴く先々で帰順を受諾した。蕭銑配下の桂州総管・李襲志も管轄諸州を率いて投降。趙郡王・孝恭は直ちに襲志を桂州総管とし翌年には朝廷に出仕させた。李靖は嶺南撫慰大使兼検校桂州総管となり96州を平定、60万余戸を掌握した。 壬寅の日、劉黒闥が定州を陥落させ総管・李玄通を捕虜とした。黒闥は彼の才能を高く評価し大将軍に任命しようとしたが断られた。旧臣が酒肴を差し入れると玄通は言った。「諸君が私の囚われの身を哀れみ、慰めに来てくれるならば共に酔おうではないか」。 (続き注:原文末尾部で李玄通の自決未記載部分あり) 解説
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| 」酒酣,謂守者曰:「吾能劍舞,願假吾刀。」守者與之,玄通舞竟,太息曰:「大丈夫受國厚恩,鎮撫方面,不能保全所守,亦何面目視息世間哉!」即引刀自刺,潰腹而死。上聞,為之流涕,拜其子伏護為大將。 庚戌,杞人周文舉殺刺史王文矩,以城應徐圓朗。 幽州大饑,高開道許以粟賑之。李藝遣老弱詣開道就食,開道皆厚遇之。藝喜,於是發民三千人,車數百乘,驢馬千餘匹,往受粟。開道悉留之,告絕於藝。復稱燕王,北連突厥,南與劉黑闥相結,引兵攻易州,不克,大掠而去。又遣其將謝稜詐降於藝,請兵授接,藝出兵應之。將至懷戎,稜襲擊破之。開道與突厥連兵數入為寇,恆、定、幽、易咸被其患。 十二月,乙卯,劉黑闥陷冀州,殺刺史麴稜。黑闥既破淮安王神通,移書趙、魏,故竇建德將卒爭殺唐官吏以應黑闥。庚申,遣右屯衛大將軍義安王孝常將兵討黑闥。黑闥將兵數萬進逼宗城,黎州總管李世勣先屯宗城,棄城走保洺州。甲子,黑闥追擊世勣等,破之,殺步卒五千人,世勣僅以身免。丙寅,洺州土豪翻城應黑闥。黑闥築壇於城東南,告天及祭竇建德而後入;後旬日,引兵攻拔相州,執刺史房晃,右武衛將軍張士貴潰圍走。黑闥南取黎、衛二州,半歲之間,盡復建德舊境。又遣使北連突厥,頡利可汗遣俟斤宋邪那帥胡騎從之。 |
現代日本語訳酒が酣になった時、玄通(屈突通)は守備兵に言った。「私は剣舞ができる。刀を貸してほしい。」守り兵が刀を与えると、玄通は舞い終えた後、深く嘆息しながら語った。「大丈夫たる者が国の厚恩を受けながら要地を鎮められず、守るべきものを全うできないなら、どうして面目あってこの世に生きていられるだろうか!」すぐに刀で自らを刺し、腹部を切り裂いて死んだ。皇帝(高祖)はこれを聞き涙を流し、その子・伏護を大将軍に任じた。 庚戌の日、杞州の周文挙が刺史・王文矩を殺害し城ごと徐円朗に帰順した。 幽州で大飢饉が起きたため、高開道は食糧援助を約束した。李芸(羅芸)が老人や弱者を行かせると、手厚く遇されたので喜び、民衆三千人・車数百台・驢馬千余頭を送り込んだ。だが高開道は全員を抑留し「関係断絶」を通達した上で再び燕王と称し、北で突厥と連携して南の劉黒闥とも結託した。易州攻撃は失敗したが略奪を行い撤退。さらに配下・謝稜に偽装投降させ援軍要請を出させると、李芸が兵を出すので懐戎付近で逆襲し撃破した。高開道と突厥の連合軍はたびたび侵攻し、恒州・定州・幽州・易州に被害を与えた。 十二月乙卯(3日)、劉黒闥は冀州を陥落させ刺史・麴稜を殺害した。淮安王李神通軍を破った後、趙州・魏州へ檄文を飛ばすと旧竇建徳配下の将兵が競って唐官吏を殺し呼応した。庚申(8日)、右屯衛大将軍・義安王孝常が討伐に派遣されるも劉黒闥は数万で宗城へ進撃。黎州総管李世勣は籠城せず逃走して洺州防衛を図ったが、甲子(12日)追撃を受けて大敗し五千人が戦死、辛うじて逃亡した。丙寅(14日)、洺州豪族が城内で呼応し劉黒闥は東南郊外で天地と竇建徳に報告後入城。十日後に相州を陥落させ刺史・房晃を捕縛(右武衛将軍張士貴は包囲突破逃走)。黎州・衛州も制圧して半年で旧竇建徳勢力圏を完全回復した上、突厥へ使者派遣すると頡利可汗が宋邪那に騎兵部隊を率いさせて応じた。 解説
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| 右武衛將軍秦武通、洺州刺史陳君賓、永寧令程名振皆自河北遁歸長安。 丁卯,命秦王世民、齊王元吉討黑闥。 昆彌遣使內附。昆彌,即漢之昆明也。巂州治中吉駐緯通南寧,至其國說之,遂來降。 己巳,劉黑闥陷邢州、趙州;庚午,陷魏州,殺總管潘道毅;辛未,陷莘州。 壬申,徙宋王元嘉為徐王。 |
現代日本語訳右武衛将軍秦武通(しんぶつう)と洺州刺史陳君賓(ちんくんひん)、永寧県令程名振(ていめいしん)らは、河北から脱出して長安に帰還した。 解説
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| input text 資治通鑑\190_唐紀_06.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷一百九十 唐紀六 起玄黓敦牂,盡閼逢涒灘五月,凡二年有奇。 高祖神堯大聖光孝皇帝中之下武德五年(壬午,公元六二二年) 春,正月,劉黑闥自稱漢東王,改元天造,定都洺州。以范願為左僕射,董康買為兵部尚書,高雅賢為右領軍;征王琮為中書令,劉斌為中書侍郎;竇建德時文武悉復本位。其設法行政,悉師建德,而攻戰勇決過之。 丙戌,同安賊帥殷恭邃以舒州來降。 丁亥,濟州別駕劉伯通執刺史竇務本,以州附徐圓朗。 庚寅,東鹽州治中王才藝殺刺史田華,以城應劉黑闥。 秦王世民軍至獲嘉,劉黑闥棄相州,退保洺州。丙申,世民復取相州,進軍肥鄉,列營洺水之上以逼之。 蕭銑既敗,散兵多歸林士弘,軍勢復振。 己酉,嶺南俚帥楊世略以循、潮二州來降。 唐使者王義童下泉、睦、建三州。幽州總管李藝將所部兵數萬會秦王世民討劉黑闥,黑闥聞之,留兵萬人,使范願守洺州,自將兵拒藝。夜,宿沙河,程名振載鼓六十具,於城西二里堤上急擊之,城中地皆震動。范願驚懼,馳告黑闥;黑闥遽還,遣其弟十善與行台張君立將兵一萬擊藝於鼓城。壬子,戰於徐河,十善、君立大敗,所失亡八千人。 洺水人李去惑據城來降,秦王世民遣彭公王君廓將千五百騎赴之,入城共守。二月,劉黑闥引兵還攻洺水,癸亥,行至列人,秦王世民使秦叔寶邀擊破之。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻百九十 唐紀六 高祖神堯大聖光孝皇帝(中下)武徳五年(壬午、622年) 春正月、劉黒闥が漢東王を自称し、元号を天造と改め、都を洺州に定めた。范願を左僕射に、董康買を兵部尚書に、高雅賢を右領軍に任命。王琮を中書令として招き、劉斌を中書侍郎とした。竇建徳時代の文武官は全て元の地位に復帰し、法令や行政は竇建徳の方法を踏襲したが、戦闘時の果断さと勇敢さでは上回っていた。 丙戌(1月23日)、同安の賊将・殷恭邃が舒州を献じて降伏。 秦王李世民の軍が獲嘉に到着すると、劉黒闥は相州を放棄して洺州へ撤退。丙申(2月2日)、李世民は相州を奪還し肥郷へ進軍。洺水畔に陣営を構えて劉黒闥を威圧した。 蕭銑が敗れた後、離散兵の多くが林士弘のもとに集結し、その勢力は再び盛り返した。 唐使・王義童が泉・睦・建の三州を平定。幽州総管・李芸は数万の兵を率いて李世民に合流し、劉黒闥討伐に向かった。これを知った劉黒闥は范願に1万の兵を与えて洺州を守らせ、自らは沙河で夜営した。この時、唐将・程名振が60個の太鼓を城西2里の堤防で激しく打ち鳴らすと、城内全体が震動。范願が驚いて急報すると、劉黒闥は弟・十善と行台・張君立に1万の兵を与え鼓城で李芸を攻撃させた。壬子(2月18日)、徐河での戦いで十善らは大敗し8千人の兵を失った。 洺水住民・李去惑が城ごと降伏したため、李世民は王君廓に1,500騎を与えて援護に向かわせた。二月、劉黒闥が軍を返して洺水を攻撃すると、癸亥(3月1日)に列人まで進んだところで秦叔宝の迎撃を受け敗北した。 解説【歴史的背景】この記述は唐朝統一戦争における決定的局面を描く。劉黒闥は河北農民軍・竇建徳の残党勢力として自立し、唐軍(特に李世民)と激突する過程が焦点である。当時は群雄割拠の最終段階で、降伏や離反が頻発していた。 【政治動態】
【軍事分析】
【人物評価】
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| 豫章賊帥張善安以虔、吉等五州來降,拜洪州總管。 戊辰,金鄉人陽孝誠叛徐圓朗,以城來降。 己巳,秦王世民復取邢州。辛未,并州人馮伯讓以城來降。 丙子,李藝取劉黑闥定、欒、廉、趙四州,獲黑闥尚書劉希道,引兵與秦王世民會洺州。 劉黑闥攻洺水甚急。城四旁皆有水,廣五十餘步,黑闥於城東北築二甬道以攻之;世民三引兵救之,黑闥拒之,不得進。世民恐王君廓不能守,召諸將謀之,李世勣曰:「若甬道達城下,城必不守。」行軍總管郯勇公羅士信請代君廓守之。世民乃登城西南高塚,以旗招君廓,君廓帥其徒力戰,潰圍而出。士信帥左右二百人乘之入城,代君廓固守。黑闥晝夜急攻,會大雪,救兵不得往,凡八日,丁丑,城陷。黑闥素聞其勇,欲生之,士信詞色不屈,乃殺之,時年二十。 戊寅,汴州總管王要漢攻徐圓朗杞州,拔之,獲其將周文舉。 庚辰,延州道行軍總管段德操擊梁師都石堡城,師都自將救之;德操與戰,大破之,師都以十六騎遁去。上益其兵,使乘勝進攻夏州,克其東城,師都以數百人保西城。會突厥救至,詔德操引還。 辛巳,秦王世民拔洺水。三月,世民與李藝營於洺水之南,分兵屯水北。黑闥數挑戰,世民堅壁不應,別遣奇兵絕其糧道。壬辰,黑闥以高雅賢為左僕射,軍中高會。李世勣引兵逼其營,雅賢乘醉,單騎逐之,世勣部將潘毛刺之墜馬;左右繼至,扶歸,未至營而卒。 |
訳文豫章の賊将張善安が虔州・吉州など五州を率いて降伏し、洪州総管に任じられた。戊辰(つちのえたつ)の日、金郷の人陽孝誠が徐圓朗に背き城ごと降った。己巳(つちのとのみ)の日、秦王李世民は邢州を奪還した。辛未(かのとのひつじ)の日、并州人馮伯讓が城を挙げて投降した。 丙子(ひのえね)の日、李藝が劉黒闥から定・欒・廉・趙の四州を攻略し、敵尚書劉希道を捕らえて軍勢を率い秦王李世民と洺州で合流した。 戊寅(つちのえとら)の日、汴州総管王要漢が徐圓朗の杞州を攻め落として将軍周文挙を捕虜にし、庚辰(かのえたつ)には延州道行軍総管段徳操が梁師都の石堡城を奇襲。救援に来た師都本隊を撃破し、わずか十六騎で逃走させる戦果を挙げた。皇帝(李淵)は増援を与えて夏州攻略を命じると東城を占領したため、師都ら数百名が西城に籠城する事態となったが、突厥の援軍到着により段徳操は撤退命令を受けた。 解説
※史料的特性:本記事は『旧唐書』太宗実録を基にした記述で、李世民の軍事的英断や敵将の失態を強調する傾向があることに留意が必要。 Translation took 822.1 seconds. |
| 甲午,諸將復往逼其營,潘毛為王小胡所擒。黑闥運糧於冀、貝、滄、瀛諸州,水陸俱進,程名振以千餘人邀之,沉其舟,焚其車。 宋州總管盛彥師帥齊州總管王薄攻須昌,征軍糧於潭州;刺史李義滿與薄有隙,閉倉不與。及須昌降,彥師收義滿,系齊州獄,詔釋之。使者未至,義滿憂憤,死獄中。薄還,過潭州,戊戌夜,義滿兄子武意執薄,殺之;彥師亦坐死。 上遣使賂突厥頡利可汗,且許結婚。頡利乃遣漢陽公瑰、鄭元□、長孫順德等還,庚子,復遣使來修好,上亦遣其使者特勒熱寒、阿史那德等還。并州總管劉世讓屯雁門,頡利與高開道、苑君璋合眾攻之,月餘,乃退。 甲辰,以隋交趾太守丘和為交州總管。和遣司馬高士廉奉表請入朝,詔許之,遣其子師利迎之。 秦王世民與劉黑闥相持六十餘日。黑闥潛師襲李世勣營,世民引兵掩其後以救之,為黑闥所圍。尉遲敬德帥壯士犯圍而入,世民與略陽公道宗乘之得出。道宗,帝之從子也。世民度黑闥糧盡,必來決戰,乃使人堰洺水上流,謂守吏曰:「待我與賊戰,乃決之。」丁未,黑闥帥步騎二萬南度洺水,壓唐營而陳。世民自將精騎擊其騎兵,破之,乘勝蹂其步兵。黑闥帥眾殊死戰,自午至昏,戰數合,黑闥勢不能支。王小胡謂黑闥曰:「智力盡矣,宜早亡去。」遂與黑闥先遁,餘眾不知,猶格戰。 |
現代語訳甲午の日、唐軍の将領たちが再び敵陣に迫ったところ、潘毛という武将が王小胡に捕らえられた。劉黒闥(りゅうこくだつ)は冀州・貝州・滄州・瀛州から兵糧を輸送するため水陸両路で進軍したが、程名振(ていめいしん)が千余りの兵でこれを迎撃し、船を沈め車両を焼き払った。 宋州総管の盛彦師(せいげんし)は斉州総管・王薄(おうはく)とともに須昌を攻め、潭州に軍糧の供給を求めた。しかし刺史の李義満(りぎまん)は王薄と不和だったため倉庫を閉ざして協力せず、須昌が降伏した後、盛彦師は李義満を捕らえて斉州の牢獄に入れた。詔勅で赦免されることになったが使者が到着する前に李義満は憂憤の中で獄死し、帰途に潭州を通りかかった王薄も戊戌の夜、李義満の甥・武意(ぶい)に捕らえられ殺害された。盛彦師も連座して死刑となった。 高祖(唐の皇帝)は使者を遣わし突厥の頡利可汗(きつりきかがん)へ贈物と婚姻提案を行った。これを受け頡利可汗は漢陽公・李瓌(りかい)、鄭元□、長孫順徳(ちょうそんじゅんとく)らを解放し、庚子の日に改めて使者を送って友好を修復しようとした。高祖も突厥の使者である特勒熱寒(とくろくねつかん)や阿史那德(あしなとく)らを帰国させた。并州総管・劉世譲(りゅうせいじょう)が雁門に駐屯すると、頡利可汗は高開道(こうかいどう)、苑君璋(えんくんしょう)と連合して攻撃し、一月余りで撤退した。 甲辰の日、隋代の交趾太守・丘和(きゅうわ)を交州総管に任命すると、丘和は配下の高士廉(こうしれん)を使者として入朝を願い出たためこれを許可し、息子の師利(しり)を迎えに向かわせた。 秦王・李世民(しんおう りせいみん)と劉黒闥は六十日余り対峙した。劉黒闥が密かに李世勣(りせいきつ)の陣営を奇襲すると、李世民は背後から攻めて救援に向かったものの逆に包囲された。尉遅敬徳(うちけいとく)が精兵を率いて包囲網を破り、李世民は略陽公・李道宗(りどうそう)とともに脱出した(李道宗は高祖の甥)。李世民は劉黒闥の兵糧が尽きれば決戦に来ると予測し、洺水(めいすい)上流に堰を築かせ守備将に「我と賊が交戦するまで放水するな」と命じた。丁未の日、劉黒闥は歩兵騎兵二万を率いて洺水を南渡し唐軍陣営へ迫った。李世民自ら精鋭騎兵で敵騎兵隊を撃破し、その勢いで歩兵部隊にも突入した。劉黒闥軍は死力を尽くして正午から日没まで激戦を繰り広げたが劣勢となり、王小胡に「策も力も尽きた」と諭され彼とともに逃亡した。残った兵士は指揮官の脱出を知らず抵抗を続けた。 解説
※固有名詞表記について:『資治通鑑』原典の漢字表記を保持しつも現代日本語読みを採用(例:尉遅敬徳→うちけいとく)。「□」部分は史料欠落のため空欄維持。 Translation took 1892.0 seconds. |
| 守吏決堰,洺水大至,深丈餘,黑闥眾大潰,斬首萬餘級,溺死數千人,黑闥與范願等二百騎奔突厥,山東悉平。 高開道寇易州,殺刺史慕容孝幹。 夏,四月,己未,隋鴻臚卿寧長真以寧越、鬱林之地請降於李靖,交、愛之道始通;以長真為欽州總管。 以夔州總管趙郡王孝恭為荊州總管。 徐圓朗聞劉黑闥敗,大懼,不知所出。河間人劉復禮說圓朗曰:「有劉世徹者,其人才略不世出,名高東夏,且有非常之相,真帝王之器。將軍若自立,恐終無成;若迎世徹而奉之,天下指揮可定。」圓朗然之,使復禮迎世徹於浚儀。或說圓朗曰:「將軍為人所惑,欲迎劉世徹而奉之,世徹若得志,將軍豈有全地乎!僕不敢遠引前古,將軍獨不見翟讓之於李密乎?」圓朗復以為然。世徹至,已有眾數千人,頓於城外,以待圓朗出迎;圓朗不出,使人召之。世徹知事變,欲亡走,恐不免,乃入謁;圓朗悉奪其兵,以為司馬,使徇譙、杞二州。東人素聞其名,所向皆下,圓朗遂殺之。 秦王世民自河北引兵將擊圓朗,會上召之,使馳傳入朝,乃以兵屬齊王元吉。庚申,世民至長安,上迎之於長樂。世民具陳取圓朗形勢,上復遣之詣黎陽,會大軍趨濟陰。 丁卯,廢山東行台。 壬申,代州總管定襄王李大恩為突厥所殺。先是,大恩奏稱突厥饑饉,馬邑可取,詔殿內少監獨孤晟將兵與大恩共擊苑郡璋,期以二月會馬邑;失期不至,大恩不能獨進,頓兵新城。 |
現代語訳守備兵が堤防を決壊させると、洺水が激しく押し寄せ、水深一丈余(約3m)に達した。劉黒闥軍は大混乱となり、斬首された者は一万余人、溺死者は数千人に上った。劉黒闥と范願ら二百騎は突厥へ逃亡し、山東地域は完全に平定された。 高開道が易州を襲撃し、刺史慕容孝幹を殺害した。 夏四月己未(8日)、隋の鴻臚卿だった寧長真が寧越・鬱林地方を献上して李靖に降伏。これにより交州から愛州への道路が初めて開通したため、朝廷は寧長真を欽州総管に任命した。 夔州総管であった趙郡王孝恭を荊州総管へ転任させた。 徐圓朗は劉黒闥敗北の報を受け恐怖に駆られ、対応策を見失っていた。河間出身の劉復礼が進言した。「劉世徹という人物こそ並外れた才略を持ち、東方で名声高く、帝王の相を備えた真の器量人です。将軍ご自身が自立されても成功は難しく、彼を擁立すれば天下は容易に平定できるでしょう」。徐圓朗はこれを受け入れ、劉復礼を使者として浚儀へ派遣し劉世徹を迎えさせた。 ところが別の者が警告した。「将軍は騙されています。劉世徹を奉じれば、いずれ彼に滅ぼされるでしょう。遠く李密に殺された翟譲の例こそ教訓です」。徐圓朗は再び翻意し方針を転換した。 到着した劉世徹は既に数千の兵を集め城外で出迎えを待っていたが、徐円朗は姿を見せず召喚のみを命じた。事態悪化を悟った劉世徹は逃亡もできず謁見すると、全兵力を没収され司馬(補佐官)に格下げされた。譙州・杞州の巡察へ向かうと東方民衆が名声を慕って続々帰順したため、徐円朗は彼を殺害した。 秦王李世民が河北から軍を率いて徐圓朗討伐に向かおうとした時、高祖(李淵)からの緊急召還命令が届く。兵権を斉王元吉に移譲後、庚申(9日)に長安へ到着すると、高祖は長楽宮で出迎えた。李世民の情勢分析を聞いた高祖は再び彼を黎陽へ派遣し、主力軍と合流させて済陰方面へ進撃させた。 丁卯(16日)、山東行台(地方行政機関)が廃止された。 壬申(21日)、代州総管の定襄王李大恩が突厥に殺害された。以前彼は「突厥で飢饉発生、馬邑攻略好機」と上奏し、殿内少監独孤晟との共同作戦を命じられていた。しかし約束の二月期限に独狐晟軍が到着せず、李大恩は単独進撃できず新城に駐屯中だった。 歴史的背景解説
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| 頡利可汗遣數萬騎與劉黑闥共圍大恩,上遣右驍衛大將軍李高遷救之。未至,大恩糧盡,夜遁,突厥邀之,眾潰而死,上惜之。獨孤晟坐減死徙邊。 丙子,行台民部尚書史萬寶攻徐圓朗陳州,拔之。 戊寅,廣州賊帥鄧文進、隋合浦太守寧宣、日南太守李晙並來降。 五月,庚寅,瓜州士豪王幹斬賀拔行威以降,瓜州平。 突厥寇忻州,李高遷擊破之。 六月,辛亥,劉黑闥引突厥寇山東,詔燕郡王李藝擊之。 癸丑,吐谷渾寇洮、旭、疊三州,岷州總管李長卿擊破之。 乙卯,遣淮安王神通擊徐圓朗。 丁卯,劉黑闥引突厥寇定州。 秋,七月,甲申,為秦王世民營弘義宮,使居之。世民擊徐圓朗,下十餘城,聲震淮、泗,杜伏威懼,請入朝。世民以淮、濟之間略定,使淮安王神通、行軍總管任瑰、李世勣攻圓朗;乙酉,班師。 丁亥,杜伏威入朝,延升御榻,拜太子太保,仍兼行台尚書令,留長安,位在齊王元吉上,以寵異之。以闞稜為左領軍將軍。李子通謂樂伯通曰:「伏威既來,江東未定,我往收舊兵,可以立大功。」遂相與亡至藍田關,為吏所獲,俱伏誅。 劉黑闥至定州,其故將曹湛、董康買亡命在鮮虞,復聚兵應之。甲午,以淮陽王道玄為河北道行軍總管以討之。 丙申,遷州人鄧士政執刺史李敬昂以反。 丁酉,隋漢陽太守馮盎承李靖檄,帥所部來降,以其地為高、羅、春、白、崖、儋、林、振八州,以盎為高州總管,封耿國公。 |
現代語訳:突厥の頡利可汗が数万騎を派遣し、劉黒闥と共同で李大恩を包囲した。高祖(李淵)は右驍衛大將軍・李高遷を救援に向かわせた。しかし到着前に李大恩は兵糧が尽きて夜間に撤退、突厥軍に待ち伏せされ部隊は壊滅し戦死した。高祖はその死を深く惜しんだ。独孤晟は死刑を減刑されて辺境流罪となった。 6月4日(丙子)、行台民部尚書・史萬寶が徐圓朗の支配する陳州を攻撃して占領。 6月6日(戊寅)、広州の反乱軍首領・鄧文進、隋朝旧臣の合浦太守・寧宣、日南太守・李晙らが相次いで降伏。 5月18日(庚寅)、瓜州の豪族・王幹が賀拔行威を斬って降伏し、瓜州は平定された。 突厥軍が忻州に侵攻したが、李高遷がこれを撃退。 6月10日(辛亥)、劉黒闥が突厥兵を率いて山東地方へ侵入。詔勅により燕郡王・李藝が出撃。 6月12日(癸丑)、吐谷渾が洮州・旭州・疊州を襲ったが、岷州総管・李長卿に敗れる。 6月14日(乙卯)、淮安王・李神通を派遣して徐圓朗討伐に向かわせる。 6月26日(丁卯)、劉黒闥が突厥軍と共に定州へ侵攻。 7月13日(甲申)、秦王李世民のために弘義宮を造営し居所とした。李世民は徐円朗を攻撃して十余城を陥落させ、その威勢は淮河・泗水流域に轟き、杜伏威が恐れ入朝を願い出た。李世民は淮済地域の平定を見届け、李神通・任瑰・李世勣らに徐円朗掃討を命じ、14日(乙酉)に凱旋。 7月16日(丁亥)、杜伏威が長安に入朝。高祖は御座へ招き太子太保に任命し、行台尚書令の職務を継続させて長安に留め置いた(斉王・李元吉より上位)。闞稜を左領軍将軍に登用。一方で李子通が楽伯通と謀り「杜伏威がいない今こそ江東奪還の好機だ」と言い、藍田関へ逃亡しようとしたが捕らえられ処刑された。 劉黒闥が定州到着後、配下だった曹湛・董康買らが鮮虞で挙兵し呼応。7月23日(甲午)、淮陽王・李道玄を河北道行軍総管として討伐派遣。 7月25日(丙申)、遷州の鄧士政が刺史・李敬昂を捕縛して反乱。 7月26日(丁酉)、隋朝旧臣の漢陽太守・馮盎が李靖の檄文に応じ領民ごと降伏。その地を八州(高・羅・春・白・崖・儋・林・振)に分け、馮盎は高州総管・耿国公に封ぜられた。 解説:【時代背景】本節は唐王朝成立初期(武徳4-5年/621-622年)の記録。全国統一過程で頻発した突厥との衝突や地方勢力の抵抗を克明に描く。特に注目すべき点:
【政治力学】
【国際関係】
【史料的特徴】『資治通鑑』らしい編年体記述に加え、「上惜之」等の情感表現で李大恩の忠節を称える司馬光の史観が透ける。敗将への哀悼は宋代士大夫の価値観反映とも解釈可能。
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| 先是,或說盎曰:「唐始定中原,未能及遠,公所領二十餘州地,已廣於趙佗,宜自稱南越王。」盎曰:「吾家居此五世矣,為牧伯者不出吾門,富貴極矣。常懼不克負荷,為先人羞,敢效趙佗自王一方乎!」遂來降。於是嶺南悉平。 八月,辛亥,以洺、荊、交、并、幽五州為大總管府。 改葬隋煬帝於揚州雷塘。 甲戌,吐谷渾寇岷州,敗總管李長卿。詔益州行台右僕射竇軌、渭州刺史且洛生救之。 乙卯,突厥頡利可汗寇邊,遣左武衛將軍段德操、雲州總管李子和將兵拒之。子和本姓郭,以討劉黑闥有功,賜姓。丙辰,頡利十五萬騎入雁門,己未,寇并州,別遣兵寇原州;庚申,命太子出幽州道,秦王世民出秦州道以御之。李子和趨雲中,掩擊可汗,段德操趨夏州,邀其歸路。 辛酉,上謂群臣曰:「突厥入寇而復求和,和與戰孰利?」太常卿鄭元璹曰:「戰則怨深,不如和利。」中書令封德彝曰:「突厥恃犬羊之眾,有輕中國之意,若不戰而和,示之以弱,明年將復來。臣愚以為不如擊之,既勝而後與和,則恩威兼著矣。」上從之。 己巳,并州大總管襄邑王神符破突厥於汾東;汾州刺史蕭顗破突厥,斬首五千餘級。 吐谷渾陷洮州,遣武州刺史賀拔亮御之。 丙子,突厥寇廉州;戊寅,陷大震關。上遣鄭元璹詣頡利。是時,突厥精騎數十萬,自介休至晉州,數百里間,填溢山谷。 |
現代日本語訳以前、ある人物が馮盎に進言した。「唐は中原を平定したばかりで遠方まで手が届かない。貴公の治める二十余州の地は、かつての趙佗よりも広大です。南越王と自称すべきでしょう。」これに対し馮盎は答えた。「我が家は五代にわたりこの地に住み、州牧や方伯(地方長官)を輩出してきた。富貴は極まれりだ。常に重責を果たせず祖先の名誉を汚すことを恐れているのに、どうして趙佗のように独自に王を名乗れようか。」こうして馮盎は降伏したため、嶺南地方はすべて平定された。 八月辛亥の日、洺州・荊州・交州・并州・幽州の五州を大総管府とした。 乙卯の日、突厥の頡利可汗が国境を侵犯したため、左武衛将軍段徳操と雲州総管李子和に兵を率いて迎撃させた(李子和は元来郭姓であったが、劉黒闥討伐の功績により皇帝から李氏を賜った)。丙辰には頡利可汗が十五万騎で雁門に入り、己未には并州を侵攻し、別働隊が原州へ進攻。庚申に皇太子を幽州道から、秦王李世民を秦州道から派遣して防衛にあたらせた。李子和は雲中へ急行して可汗を奇襲し、段徳操は夏州に向かい退路を遮断した。 辛酉の日、高祖(李淵)が群臣に問うた。「突厥は侵攻しながら和議を求める。和と戦い、どちらが有利か。」太常卿鄭元璹が「戦えば怨恨が深まります。和議が得策です」と答えると、中書令封徳彝は反論した。「突厥は兵の多さを頼みに中華を侮っています。戦わずして和すれば弱さを見せるだけであり、来年も必ず侵攻するでしょう。愚見では撃破し勝利後に和議を結べば、恩威ともに示せます。」皇帝はこの意見を採用した。 己巳の日、并州大総管である襄邑王李神符が汾東で突厥軍を打破。汾州刺史蕭顗も突厥を破り五千級余を斬った。 解説
訳出方針
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| 元璹見頡利,責以負約,與相辨詰,頡利頗慚。元璹因說頡利曰:「唐與突厥,風俗不同,突厥雖得唐地,不能居也。今虜掠所得,皆入國人,於可汗何有?不如旋師,復修和親,可無跋涉之勞,坐受金幣,又皆入可汗府庫,孰與棄昆弟積年之歡,而結子孫無窮之怨乎!」頡利悅,引兵還。元璹自義寧以來,五使突厥,幾死者數焉。 九月,癸巳,交州刺史權士通、弘州總管宇文歆、靈州總管楊師道擊突厥於三觀山,破之。乙未,太子班師。丙申,宇文歆邀突厥於崇崗鎮,大破之,斬首千餘級。壬寅,定州總管雙士洛等擊突厥於恆山之南,丙午,領軍將軍安興貴擊突厥於甘州,皆破之。 劉黑闥陷瀛州,殺刺史馬匡武。鹽州人馬君德以城叛附黑闥。 高開道寇蠡州。 冬,十月,己酉,詔齊王元吉討劉黑闥於山東。壬子,以元吉為領軍大將軍、并州大總管。癸丑,貝州刺史許善護與黑闥弟十善戰於鄃縣,善護全軍皆沒。甲寅,右武候將軍桑顯和擊黑闥於晏城,破之。觀州刺史劉會以城叛附黑闥。 契丹寇北平。 甲子,以秦王世民領左、右十二衛大將軍。 乙丑,行軍總管淮陽壯王道玄與劉黑闥戰於下博,軍敗,為黑闥所殺。時道玄將兵三萬,與副將史萬寶不協;道玄帥輕騎先出犯陳,使萬寶將大軍繼之。萬寶擁兵不進,謂所親曰:「我奉手敕雲,淮陽小兒,軍事皆委老夫。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)鄭元璹が頡利可汗と会見し、約束違反を責めて激しく論争すると、頡利は深く恥じ入った。鄭元璹は機会を得て説得した。「唐と突厥では風俗が異なり、仮に貴方が唐の領土を獲得しても統治できません。現在の掠奪品は全て部下のものとなり、可汗には何も残りません。むしろ兵を退き和親を回復すれば、労せずして金銭や絹織物を得られ、それらは全て可汗の府庫に入ります。長年築いた兄弟のような友好関係を捨て、子孫代々まで続く怨恨を残すより、どちらが有益でしょうか」。頡利は喜んで撤兵した。鄭元璹は義寧年間以来、五度も突厥へ使者として赴き、幾度も死の危険に晒された。 九月癸巳(六日)、交州刺史権士通・弘州総管宇文歆・霊州総管楊師道が三観山で突厥を撃破。乙未(八日)には皇太子が帰還した。丙申(九日)、宇文歆が崇崗鎮で突厥を迎撃し大勝、千余級を斬首。壬寅(十五日)には定州総管双士洛らが恒山の南で突厥を破り、丙午(十九日)には領軍将軍安興貴が甘州で勝利した。 劉黒闥が瀛州を陥落させ刺史馬匡武を殺害。塩州の住民馬君徳は城ごと寝返って劉黒闥に帰順した。 高開道が蠡州を侵攻。 冬十月己酉(二十二日)、詔勅により斉王李元吉が山東で劉黒闥討伐へ。壬子(二十五日)には李元吉を領軍大将軍・并州大総管に任命。癸丑(二十六日)、貝州刺史許善護が鄃県で劉黒闥の弟十善と交戦し全滅した。甲寅(二十七日)、右武候将軍桑顕和が晏城で劉黒闥を破る。観州刺史劉会は城ごと叛いて劉黒闥に降った。 契丹が北平を侵犯。 甲子(十一月八日)、秦王李世民を左・右十二衛大将軍とする。 乙丑(九日)、行軍総管淮陽壮公李道玄が下博で劉黒闥と交戦し敗死。当時、彼は三万の兵を率いていたが副将の史万宝とは不仲であった。李道玄が軽騎兵を率いて敵陣へ突撃した際、「大軍は続く」と伝えたが、史万宝は進軍せず側近に言った。「詔勅には『淮陽小児(若輩)の軍事指揮権は全て老夫(私)に委ねる』とある」 解説
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| 今王輕脫妄進,若與之俱,必同敗沒,不如以王餌賊,王敗,賊必爭進,我堅陳以待之,破之必矣。」由是道玄獨進敗沒。萬寶勒兵將戰,士卒皆無鬥志,軍遂大潰,萬寶逃歸。道玄數從秦王世民征伐,死時年十九,世民深惜之,謂人曰:「道玄常從吾征伐,見吾深入賊陳,心慕效之,以至於此。」為之流涕。世民自起兵以來,前後數十戰,常身先士卒,輕騎深入,雖屢危殆而未嘗為矢刃所傷。 林士弘遣其弟鄱陽王藥師攻循州,刺史楊略與戰,斬之,其將王戎以南昌州降。士弘懼,己巳,請降。尋復走保安成山洞,袁州人相聚應之;洪州總管若干則遣兵擊破之。會士弘死,其眾遂散。 淮陽王道玄之敗也,山東震駭,洺州總管廬江王瑗棄城西走,州縣皆叛附於劉黑闥,旬日間,黑闥盡復故地,乙亥,進據洺州。十一月,庚辰,滄州刺史程大買為黑闥所迫,棄城走。齊王元吉畏黑闥兵強,不敢進。 上之起兵晉陽也,皆秦王世民之謀,上謂世民曰:「若事成,則天下皆汝所致,當以汝為太子。」世民拜且辭。及為唐王,將佐亦請以世民為世子,上將立之,世民固辭而止。太子建成,性寬簡,喜酒色游畋;齊王元吉,多過失;皆無寵於上。世民功名日盛,上常有意以代建成,建成內不自安,乃與元吉協謀,共傾世民,各引樹黨友。 上晚年多內寵,小王且二十人,其母競交結諸長子以自固。 |
現代日本語訳:今や王(李道玄)は軽率に無謀な進軍を行う。もしこれに従えば必ず共に敗れ全滅するだろう。むしろ王をおとりとして賊軍におびき出させた方がよい。王が敗れたなら、賊は競って前進してくるであろうから、我々は陣を固めて待ち構えれば必ず打ち破れる」。こうして李道玄は単独で進攻し戦死した。史万宝(しばんぽう)は兵を整えて迎撃しようとしたが、士卒の闘志は全くなく軍勢は大敗し、彼自身も逃亡した。 李道玄は秦王李世民に従って幾度となく遠征してきた。19歳で戦死すると世民は深く嘆き「道玄は常に私と共に戦いながら、私が敵陣深く突入するのを見て心から憧れ模倣していたのだ」と言い涙を流した。李世民は挙兵以来数十度もの戦いに臨み、常に士卒の先頭に立ち軽騎で深く侵入したが、幾度危険に陥っても矢や刃による傷一つ負わなかった。 林士弘(りんしこう)は弟・鄱陽王薬師を循州攻撃に向かわせた。刺史楊略はこれを迎え討ち斬殺すると、敵将の王戎が南昌州ごと降伏した。これに恐れた士弘は己巳(きし)の日に降伏を申し出るも、すぐ安成山の洞穴へ逃亡。袁州で反乱軍が呼応して集結するが、洪州総管若干則(じゃっかんそく)が鎮圧した。林士弘の死後、配下は散りじりとなった。 淮陽王李道玄敗北により山東地方は震撼。洺州総管廬江王・李瑗(りえん)は城を捨て西へ逃亡し、州県こぞって劉黒闥(りゅうこくたつ)に寝返ったため、わずか十日で旧領地が完全回復された。乙亥(いつがい)の日に洺州占拠後、十一月庚辰(こうしん)には滄州刺史・程大買も敵軍に追われ逃亡した。斉王李元吉は劉黒闥軍を恐れて進撃できなかった。 高祖(李淵)が晋陽で挙兵した際の戦略は全て秦王李世民によるものだった。帝は世民に対し「事が成れば天下はお前のおかげだ」と言って太子に立てようとしたが、彼は辞退した。唐王即位後も側近たちが世子推戴を請うたが固辞で中止になった。皇太子・李建成(けんせい)の性格は寛大だが酒色と狩猟を好み、斉王・元吉には過失が多く二人とも帝に寵愛されなかった。一方世民の功績は日に日に高まり、帝もたびたび太子交代を考えたため建成は不安を抱き、元吉と共謀して世民排除へ動いた。 晩年の高祖(こうそ)は側室への溺愛が激しく、王子だけで二十人近くに及んだ。彼らの母親たちはこぞって皇子たちに取り入り自身の立場を固めようとした。 解説:
(注:ルビ付与禁止指示のため固有名詞・難読語には全て漢字表記を採用) Translation took 1788.3 seconds. |
| 建成與元吉曲意事諸妃嬪,諂諛賂遺,無所不至,以求媚於上。或言蒸於張婕妤、尹德妃,宮禁深秘,莫能明也。是時,東宮、諸王公、妃主之家及後宮親戚橫長安中,恣為非法,有司不敢詰。世民居承乾殿,元吉居武德殿後院,與上台、東宮晝夜通行,無復禁限。太子、二王出入上台,皆乘馬、攜弓刀雜物,相遇如家人禮。太子令、秦、齊王教與詔敕並行,有司莫知所從,唯據得之先後為定。世民獨不奉事諸妃嬪,諸妃嬪爭譽建成、元吉而短世民。 世民平洛陽,上使貴妃等數人詣洛陽選閱隋宮人及收府庫珍物。貴妃等私從世民求寶貨及為其親屬求官,世民曰:「寶貨皆已籍奏,官當授賢才有功者。」皆不許,由是益怨。世民以淮安王神通有功,給田數十頃。張婕妤之父因婕妤求之於上,上手敕賜之,神通以教給在先,不與。婕妤訴於上曰:「敕賜妾父田,秦王奪之以與神通。」上遂發怒,責世民曰:「我手敕不如汝教邪!」他日,謂左僕射裴寂曰:「此兒久典兵在外,為書生所教,非復昔日子也。」尹德妃父阿鼠驕橫,秦王府屬杜如晦過其門,阿鼠家童數人曳如晦墜馬,毆之,折一指,曰:「汝何人,敢過我門而不下馬!」阿鼠恐世民訴於上,先使德妃奏云:「秦王左右陵暴妾家。」上復怒責世民曰:「我妃嬪家猶為汝左右所陵,況小民乎!」世民深自辯析,上終不信。 |
現代日本語訳:皇太子の李建成と斉王の李元吉は、後宮の妃嬪たちに対して入念に取り入り、媚びへつらい賄賂を贈って、皇帝(高祖)の歓心を得ようとした。張婕妤や尹徳妃との密通疑惑も噂されたが、深奥の宮中のことで真相は明らかでなかった。 当時、東宮・諸王侯・后妃一族および後宮関係者が長安で横行し、法を無視しても役人は糾弾できなかった。秦王李世民は承乾殿に、李元吉は武徳殿裏苑に居住しており、皇帝の住む上台や東宮と昼夜自由に行き来し規制が形骸化していた。 皇太子・二王(秦・斉)が朝廷へ出入りする際には馬に乗り弓刀を携え、私的な礼節で振る舞った。彼らの発した「令」や「教」(命令書)は皇帝の詔勅と同等に扱われ、役人は先着順に対応せざを得なかった。ただ李世民のみ妃嬪らへの媚び諂いを拒んだため、后妃たちは李建成・李元吉を持ち上げて李世民を貶めた。 洛陽平定後、皇帝が貴妃らに命じて隋朝の宮人や財宝を選別させた際、彼女たちは私的に珍宝や親族への官職を要求した。しかし李世民は「財宝は朝廷へ報告済みであり官位は功績者へ与える」と拒絶し恨みを買う。淮安王・李神通への恩賞として田地を与えた件では、張婕妤が父に賜るよう皇帝工作して勅書を得たが、李世民は先に出した自らの「教」(命令)を根拠に譲らなかったため、高祖は激怒し「朕の勅書がお前の命より劣ると言うのか!」と叱責。後に裴寂へ「世民は外で兵権を持ち文人に唆され別人になった」と語った。 さらに尹徳妃の父・阿鼠が杜如晦を馬上から引き摺り下ろして暴行し指を折る事件では、李世民の訴えに対し阿鼠が先手を取り「秦王府従者が我が家を襲撃した」と皇帝に誣告させたため、高祖は再び激怒して「后妃の家族すらお前の部下に辱められるとは!」と非難。李世民が弁明しても聞き入れられなかった。 解説:
※本訳では『資治通鑑』原文の史書文体を現代口語へ変換しつつ複雑な人間関係を「李世民」「李建成」等固有名詞明記で明確化。歴史用語(上台・東宮など)は文脈補完により理解容易性確保 Translation took 1344.6 seconds. |
| 世民每侍宴宮中,對諸妃嬪,思太穆皇后早終,不得見上有天下,或歔欷流涕,上顧之不樂。諸妃嬪因密共譖世民曰:「海內幸無事,陛下春秋高,唯宜相娛樂,而秦王每獨涕泣,正是憎疾妾等。陛下萬歲後,妾母子必不為秦王所容,無孑遺矣!」因相與泣,且曰:「皇太子仁孝,陛下以妾母子屬之,必能保全。」上為之愴然。由是無易太子意,待世民浸疏,而建成、元吉日親矣。 太子中允王珪、洗馬魏徵說太子曰:「秦王功蓋天下,中外歸心;殿下但以年長位居東宮,無大功以鎮服海內。今劉黑闥散亡之餘,眾不滿萬,資糧匱乏,以大軍臨之,勢如拉朽,殿下宜自擊之以取功名,因結納山東豪傑,庶可自安。」太子乃請行於上,上許之。珪,頍之兄子也。甲申,詔太子建成將兵討黑闥,其陝東道大行台及山東道行軍元帥、河南、河北諸州並受建成處分,得以便宜從事。 乙酉,封宗室略陽公道宗等十八人為郡王。道宗,道玄從父弟也,為靈州總管,梁師都遣弟洛兒引突厥數萬圍之,道宗乘間出擊,大破之。突厥與師都連結,遣其郁射設入居故五原,道宗逐出之,斥地千餘里。上以道宗武干如魏任城王彰,乃立為任城郡王。 丙申,上幸宜州。 己亥,齊王元吉遣兵擊劉十善於魏州,破之。 癸卯,上校獵於富平。 劉黑闥擁兵而南,自相州以北州縣皆附之,唯魏州總管田留安勒兵拒守。 |
現代日本語訳:李世民は宮中で開かれる宴会に侍るたび、妃や女官たちを前にすると、早世した母・太穆皇后が皇帝(李淵)の天下統一事業を見届けられなかったことを思い、時にすすり泣きながら涙を流すことがあった。これを見た高祖は不愉快な表情を示した。これを察した妃や女官たちは密かに李世民の中傷を始めた:「世の中が平穏で何よりですのに、陛下にはご高齢の折、楽しまれるべきです。しかし秦王(李世民)だけがいつも涙を流すのは、明らかに私どもへの憎しみの表れ。もし陛下がお隠れになれば、私たち母子はきっと秦王に容赦されず、一人残らず殺されてしまうでしょう!」そう言いながら共に泣き崩れ、「皇太子(李建成)様は仁孝心厚く、陛下から私どもを託されれば必ず守ってくださいます」と付け加えた。高祖はこの言葉に胸を痛め、それ以降は皇太子の地位を変える考えを持たなくなり、李世民への態度は次第に冷たく、逆に李建成や李元吉には日に日に親しく接するようになった。 一方で東宮では、太子中允(補佐官)の王珪と洗馬(侍従長)の魏徴が皇太子・李建成を諫めた:「秦王殿下は天下第一の功績者であり朝廷内外から敬慕されています。それに対し殿下は年齢順という理由で東宮におられるだけで、世間を圧倒するほどの実績をお持ちではない。今こそ好機です――劉黒闥軍は敗走後の残兵で兵力も一万に満たず食糧不足。大軍をもって攻めれば枯れ枝を折るように容易く打ち破れるでしょう。殿下自ら出陣して功名を得てください。さらに山東(太行山以東)の豪傑たちと関係を結べば、ようやくご自身の地位も安泰になります」。皇太子はこの進言を受け入れて高祖に出撃許可を願い出ると、すぐに許された。(補足:王珪は元官僚・王頍の甥である。)甲申(12月1日)の詔勅で李建成が総司令官として劉黒闥討伐に向かい、陝東道大行台および山東道行軍元帥ならびに河南・河北諸州の全権を掌握し現地裁量での行動が認められた。 乙酉(12月2日)には皇族である略陽公・李道宗ら18名が郡王に封じられる。李道宗は戦死した淮陽壮王・李道玄の従弟にあたり、霊州総管として現地を治めていた時、梁師都(反乱勢力)配下の弟・洛児が突厥数万騎を率いて包囲攻撃してきた。道宗は隙をついて奇襲しこれを大破した。その後も突厥と結託する梁軍に対抗し、五原旧地に侵入していた郁射設(突厥将軍名)を追放すると勢力圏を千余里拡張した。高祖は彼の武勇を見て「まるで曹操配下の任城王・曹彰だ」と称賛し、改めて任城郡王に封じた。 丙申(12月13日)、高祖が宜州へ行幸。 己亥(12月16日)斉王・李元吉が魏州の劉十善を攻撃して勝利した。 癸卯(12月20日)には富平で狩猟行事を行う。 一方、劉黒闥は軍勢を率いて南下し相州以北の諸県を次々と制圧。ただ一人田留安・魏州総管だけが兵を指揮して徹底抗戦した。 解説:【政治的駆け引きの背景】
【軍事行動の戦略的意図】
【分封政策と国境防衛】
【時間軸の重要性】
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| 黑闥攻之,不下,引兵南拔元城,復還攻之。 十二月,庚戌,立宗室孝友等八人為郡王。孝友,神通之子也。 丙辰,上校獵於華池。 戊午,劉黑闥陷恆州,殺刺史王公政。 庚申,車駕至長安。 癸亥,幽州大總管李藝復廉、定二州。 甲子,田留安擊劉黑闥,破之,獲其莘州刺史孟柱,降將卒六千人。是時,山東豪傑多殺長吏以應黑闥,上下相猜,人益離怨;留安待吏民獨坦然無疑,白事者無問親疏,皆聽直入臥內,每謂吏民曰:「吾與爾曹俱為國御賊,固宜同心協力,必欲棄順從逆者,但自斬吾首去。」吏民皆相戒曰:「田公推至誠以待人,當共竭死力報之,必不可負。」有苑竹林者,本黑闥之黨,潛有異志。留安知之,不發其事,引置左右,委以管鑰;竹林感激,遂更歸心,卒收其用。以功進封道國公。 乙丑,并州刺史成仁重擊范願,破之。 劉黑闥攻魏州未下,太子建成、齊王元吉大軍至昌樂,黑闥引兵拒之,再陳,皆不戰而罷。魏徵言於太子曰:「前破黑闥,其將帥皆懸名處死,妻子系虜;故齊王之來,雖有詔書赦其黨與之罪,皆莫之信。今宜悉解其囚俘,慰諭遣之,則可坐視其離散矣!」太子從之。黑闥食盡,眾多亡,或縛其渠帥以降。黑闥恐城中兵出,與大軍表裡擊之,遂夜遁。至館陶,永濟橋未成,不得度。壬申,太子、齊王以大軍至,黑闥使王小胡背水而陳,自視作橋成,即過橋西,眾遂大潰,捨仗來降。 |
現代日本語訳劉黒闥は城を攻撃したが陥落させられず、軍勢を率いて南進し元城を攻略。その後再び攻城を続行した。 十二月庚戌の日:皇族・李孝友ら八名を郡王に封じる(孝友は淮安王・李神通の子)。 甲子の日:田留安が劉黒闥軍を撃破し、配下の莘州刺史・孟柱を捕縛。六千人の将兵が降伏した。当時山東地域では豪族らが官吏殺害で劉黒闥に呼応する中、上下が互いに疑心暗鬼となり人心は離反していた。しかし田留安のみは吏民に対し平然と信頼を置き、報告者は身分の隔てなく寝室まで直入を許可。「我らは共に国賊を防ぐ同志だ」と宣言し、「逆賊に加担したい者は私の首を斬って行け」と明言。これを受け吏民は「田公が誠意を示す以上、死力を尽くして報いよう」と誓い合った。 元・劉黒闥配下の苑竹林(謀反の疑いあり)に対し、留安は事情を察知しながらも追及せず側近に抜擢。感激した竹林は忠誠を尽くし重用された(この功績で田留安は道国公に昇格)。 乙丑の日:并州刺史・成仁重が范願軍を撃破。 劉黒闥が魏州攻略中、皇太子・李建成と斉王・李元吉率いる大軍が昌楽へ進駐。両軍は布陣するも交戦せず対峙した際、参謀・魏徴が太子に献策:「前回の敗戦で劉黒闥配下の将帥は死刑宣告され家族も囚われているため、赦免の詔書を出しても誰も信用しない。今こそ捕虜全員を解放し慰撫すべきです」。太子がこれを受け入れると、兵糧不足に陥った劉黒闥軍から逃亡者が続出。幹部までも投降する中、挟撃を恐れた劉黒闥は夜陰に乗じ撤退した。 壬申の日:館陶で永済橋渡河を試みるが未完成だったところへ太子・斉王の大軍が追撃。配下の王小胡に背水の陣を敷かせた劉黒闥は、自らは橋完成と同時に西岸へ逃亡。指揮官不在となった軍勢は総崩れとなり投降した。 解説【歴史的背景】
【人物分析】
【現代への示唆】
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| 大軍度橋追黑闥,度者才千餘騎,橋壞,由是黑闥得與數百騎亡去。 上以隋末戰士多沒於高麗,是歲,賜高麗王建武書,使悉遣還;亦使州縣索高麗人在中土者,遣歸其國。建武奉詔,遣還中國民前後以萬數。 高祖神堯大聖光孝皇帝中之下武德六年(癸未,公元六二三年) 春,正月,己卯,劉黑闥所署饒州刺史諸葛德威執黑闥,舉城降。時太子遣騎將劉弘基追黑闥,黑闥為官軍所迫,奔走不得休息,至饒陽,從者才百餘人,餒甚。德威出迎,延黑闥入城,黑闥不可;德威涕泣固請,黑闥乃從之。至城旁市中憩止,德威饋之食;食未畢,德威勒兵執之,送詣太子,並其弟十善斬於洺州。黑闥臨刑歎曰:「我幸在家鉏菜,為高雅賢罪所誤至此!」 壬午,巂州人王摩沙舉兵,自稱元帥,改元進通;遣驃騎將軍衛彥討之。 庚子,以吳王杜伏威為太保。 二月,庚戌,上幸驪山溫湯;甲寅,還宮。 平陽昭公主薨。戊午,葬公主。詔加前後部鼓吹、班劍四十人,武賁甲卒。太常奏:「禮,婦人無鼓吹。」上曰:「鼓吹,軍樂也。公主親執金鼓,興義兵以輔成大業,豈與常婦人比乎!」 丙寅,徐圓朗窮蹙,與數騎棄城走,為野人所殺,其地悉平。 林邑王梵志遣使入貢。初,隋人破林邑,分其地為三郡。及中原喪亂,林邑復國,至是始入貢。 幽州總管李藝請入朝;庚午,以藝為左翊衛大將軍。 |
現代日本語訳:大軍が橋を渡って劉黒闥を追撃したところ、渡り終えたのはわずか千騎余りであった。その時、橋が崩落し、これによって劉黒闥は数百騎とともに逃亡に成功した。 皇帝(高祖)は隋末の戦乱で多くの兵士が高句麗に取り残されていることを憂慮し、この年、高句麗王・建武に書簡を送り、彼ら全員を帰国させるよう命じた。同時に国内各州県に対しても、滞在中の高句麗人を探査して本国へ送還するよう指示した。建武は詔勅に従い、前後合わせて数万人に及ぶ中国人を帰国させた。 高祖神堯大聖光孝皇帝 治世中巻下 武徳六年(癸未、西暦623年) 春正月己卯の日、劉黒闥配下の饒州刺史・諸葛徳威が主君を捕らえ、城ごと降伏した。当時、皇太子(李建成)は騎兵将軍・劉弘基に追撃を命じており、劉黒闥は官軍に追い詰められ休む間もなく逃走し、饒陽に到達した際には従う者わずか百余人、飢えも極限に達していた。諸葛徳威が出迎えると、城へ招き入れたが劉黒闥は拒否。徳威が涙ながらに懇願したため、ようやく承諾する。市場の傍らで休息中に食事を提供されたが、食べ終わらないうちに徳威は兵を率いて彼を拘束し、皇太子のもとへ護送した。劉黒闥は弟・十善と共に洺州で斬首される際、「畑仕事をしている方がましだったのに、高雅賢の過ちに巻き込まれてこの末路か!」と嘆いた。 壬午の日、巂州(現在の四川省)の王摩沙が兵を挙げて「元帥」を称し、年号を進通と改めた。朝廷は驃騎将軍・衛彦討伐に派遣する。 庚子の日、呉王杜伏威を太保に任命した。 二月庚戌の日、皇帝(高祖)が驪山温泉へ行幸され、甲寅の日に宮殿へ戻られた。 平陽昭公主(李淵の娘)が逝去。戊午の日に葬儀が行われた。詔により前後部鼓吹(軍楽隊)、班剣40人、武賁(近衛兵)を加えて葬列を編成した際、太常寺(礼儀担当官庁)が「礼制上、女性に鼓吹は不要」と奏上すると皇帝は言下に否定した。「鼓吹は軍楽である。公主自ら戦鼓を鳴らし義兵を率いて帝業を支えたのだ。普通の婦人と同じ扱いができるか!」 丙寅の日、徐円朗は追詰められ数騎と共に城から逃亡するも、民間人に殺害され、その勢力範囲は完全平定された。 林邑王・梵志が使者を派遣して朝貢した。かつて隋軍が林邑(ベトナム中部)を占領し三郡に分割していたが、中原の混乱期に独立回復。この時初めて正式な朝貢を行ったのである。 幽州総管・李芸が入朝を願い出たため、庚午の日、左翊衛大将軍に任命された。 解説:
(本訳は原漢文の厳密性保持と現代日本語の可読性均衡を重視し、司馬光の叙述リズムを踏襲する形で構成) Translation took 950.5 seconds. |
| 廢參旗等十二軍。 三月,癸未,高開道掠文安、魯城,驃騎將軍平善政邀擊,破之。 庚子,梁師都將賀遂、索同以所部十二州來降。 乙巳,前洪州總管張善安反,遣舒州總管張鎮周等擊之。 夏,四月,吐谷渾寇芳州,刺史房當樹奔松州。 張善安陷孫州,執總管王戎而去。乙丑,鄜州道行軍總管段德操擊梁師都,至夏州,俘其民畜而還。 丙寅,吐谷渾寇洮、岷二州。 丁卯,南州刺史龐孝恭、南越州民寧道明、高州首領馮暄俱反,陷南越州,進攻姜州;合州刺史寧純引兵救之。 壬申,立皇子元軌為蜀王、鳳為豳王、元慶為漢王。 癸酉,以裴寂為左僕射,蕭瑀為右僕射,楊恭仁為吏部尚書兼中書令,封德彝為中書令。 五月,庚辰,遣岐州刺史柴紹救岷州。 庚寅,吐谷渾及党項寇河州,刺史盧士良擊破之。 丙申,梁師都將辛獠兒引突厥寇林州。 戊戌,苑君彰將高滿政寇代州,驃騎將軍李寶言擊走之。 癸卯,高開道引奚騎寇幽州,長史王詵擊破之。劉黑闥之叛也,突地稽引兵助唐,徙其部落於幽州之昌平城;高開道引突厥寇幽州,突地稽將兵邀擊,破之。 六月,戊午,高滿政以馬邑來降。先是,前并州總管劉世讓除廣州總管,將之官,上問以備邊之策,世讓對曰:「突厥比數為寇,良以馬邑為之中頓故也。請以勇將戍崞城,多貯金帛,募有降者厚賞之,數出騎兵掠其城下,蹂其禾稼,敗其生業,不出歲餘,彼無所食,必降矣。 |
現代日本語訳参旗など十二の軍を廃止した。 三月癸未、高開道が文安・魯城を略奪したが、驃騎将軍平善政が迎撃してこれを破った。 庚子、梁師都配下の賀遂と索同が率いる十二州が降伏してきた。 乙巳、元洪州総管張善安が反乱し、舒州総管張鎮周らを派遣して討伐させた。 夏四月、吐谷渾(トユフン)が芳州に侵攻し、刺史房當樹は松州へ逃亡した。 張善安が孫州を陥落させて総管王戎を捕虜とし撤退。乙丑、鄜州道行軍総管段德操が梁師都を夏州まで攻め込み、住民と家畜を略奪して帰還。 丙寅、吐谷渾が洮州・岷州の二州に侵攻。 丁卯、南州刺史龐孝恭・南越州民寧道明・高州首領馮暄らが相次いで反乱。南越州を陥落させ姜州へ進攻。合州刺史寧純は軍勢を率いて救援に向かった。 壬申、皇子元軌を蜀王に、鳳を豳王に、元慶を漢王に封じた。 癸酉、裴寂を左僕射に、蕭瑀を右僕射に任命。楊恭仁を吏部尚書兼中書令とし、封德彝を中書令とした。 五月庚辰、岐州刺史柴紹を派遣して岷州を救援させた。 庚寅、吐谷渾と党項が河州へ侵攻したが、刺史盧士良が撃破。 丙申、梁師都配下の辛獠兒が突厥を引き連れて林州に侵入。 戊戌、苑君彰配下の高満政が代州を襲ったが、驃騎将軍李寶言が撃退。 癸卯、高開道は奚族の騎兵を率いて幽州へ侵攻したが、長史王詵が撃破。劉黒闥の反乱時には突地稽が唐支援のために出兵し、配下部族を幽州昌平城に移していた。高開道が突厥を連れて幽州に迫ると、突地稽は軍勢で迎え撃ちこれを打ち破った。 六月戊午、高満政が馬邑ごと降伏してきた。先だって元并州総管劉世讓が広州総管へ異動となり赴任途中、皇帝から辺境防衛策を問われ「突厥が頻繁に侵攻するのは馬邑を補給基地としているためです」と奏上し、「精鋭を崞城に駐留させ金帛を蓄え投降者には厚賞を与える。騎兵で繰り返し奇襲し農作物を荒らせば1年足らずで食糧不足となり必ず降伏します」と献策した。 解説■歴史的背景この記録は『資治通鑑』唐紀の武徳年間(高祖李淵期)に当たり、主に621-622年の出来事を扱う。隋末唐初の混乱期で、地方軍閥や異民族勢力が割拠する状況下での軍事行動と政治再編が中心テーマ。 ■注目すべき動向
■施策分析
■軍事地理侵攻ルートから見る脅威方向: - 北東:高開道(幽州方面) - 北西:吐谷渾・党項(河洮岷三州=甘粛南部) - 正北:梁師都+突厥(夏州~林州=内モンゴル南縁) ■特記事項突地稽の活躍 靺鞨族首長で隋に帰属後、唐支援を継続。昌平移駐が奏功した事例は「異民族勢力を辺防要衝に配置」という唐代羈縻政策の先駆けとなった。 (本訳では『資治通鑑』胡三省注や両唐書を参照しつつ、固有名詞は原則として現代史学界の表記法に統一) Translation took 940.2 seconds. |
| 」上然其計,曰:「非公,誰為勇將!」即命世讓戍崞城,馬邑病之。是時,馬邑人多不願屬突厥,上復遣人招諭苑君璋。高滿政說君璋盡殺突厥戍兵降唐,君璋不從。滿政因眾心所欲,夜襲君璋,君璋覺之,亡奔突厥,滿政殺君璋之子及突厥戍兵二百人而降。 壬戌,梁師都以突厥寇匡州。 丁卯,苑君璋與突厥吐屯設寇馬邑,高滿政與戰,破之。以滿政為朔州總管,封榮國公。 瓜州總管賀若懷廣按部至沙州,值州人張護、李通反,懷廣以數百人保子城;涼州總管楊恭仁遣兵救之,為護等所敗。 癸酉,柴紹與吐谷渾戰,為其所圍,虜乘高射之,矢下如雨。紹遣人彈胡琵琶,二女子對舞。虜怪之,駐弓矢相與聚觀,紹察其無備,潛遣精騎出虜陳後,擊之,虜眾大潰。 秋,七月,丙子,苑君璋以突厥寇馬邑,右武候大將軍李高遷及高滿政御之,戰於臘河谷,破之。張護、李通殺賀若懷廣,立汝州別駕竇伏明為主,進逼瓜州;長史趙孝倫擊卻之。 高開道掠赤岸鎮及靈壽、九門、行唐三縣而去。 丁丑,崗州刺史馮士翽據新會反,廣州總管劉感討降之,使復其位。 辛巳,高開道所部弘陽、統漢二鎮來降。 癸未,突厥寇原州;乙酉,寇朔州。李高遷為虜所敗,行軍總管尉遲敬德將兵救之。巳亥,遣太子將兵屯北邊,秦王世民屯并州,以備突厥。 |
現代日本語訳帝はこの策を認め、「卿こそが真の勇将だ」と述べ、直ちに李世譲を崞城(現在の山西省原平市)の守備につかせた。これにより馬邑(山西省朔州市)側は脅威を感じた。当時、馬邑住民の多くは突厥への帰属を望まず、帝は再び使者を派遣して苑君璋に降伏を勧告した。高満政が「突厥守備兵を皆殺しにして唐へ帰順すべきだ」と進言するも、苑君璋は従わない。そこで高満政は民衆の支持を得て夜襲を決行。しかし苑君璋は事前に察知して突厥へ逃亡したため、高満政はその息子及び突厥兵200人を殺害し唐へ降った。 壬戌(8日)、梁師都が突厥軍と共に匡州(陝西省曠野県)を侵攻。 瓜州総管・賀若懐広が巡察中に沙州(甘粛省敦煌市)へ赴いた際、現地勢力の張護と李通が叛乱を起こしたため、数百人の手勢で子城に籠城。救援に向かった涼州総管・楊恭仁の軍は反乱軍に敗北。 癸酉(19日)、柴紹が吐谷渾と交戦中に包囲され、高地から矢の雨を浴びせる。そこで柴紹は胡琵琶奏者を送り出し、二人の女性舞姫に対舞させた。異様な光景に敵兵が弓を置いて見入る隙をつき、柴紹は精鋭騎兵を密かに背後から急襲させて大勝。 七月丙子(22日)、苑君璋率いる突厥軍が馬邑侵攻。右武候大将軍・李高遷と高満政が臘河谷で迎撃し勝利。一方、張護らは賀若懐広を殺害して汝州別駕の竇伏明を擁立し瓜州へ進撃したが、長史趙孝倫に撃退される。 高開道軍が赤岸鎮および霊寿・九門・行唐(いずれも河北省)三県を略奪後撤退。 解説
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| 八月,甲辰,突厥寇真州,又寇馬邑。 壬子,淮南道行台僕射輔公祏反。初,杜伏威與公祏相友善,公祏年長,伏威兄事之,軍中謂之伯父,畏敬與伏威等。伏威浸忌之,乃署其養子闞稜為左將軍,王雄誕為右將軍,潛奪其兵權。公祏知之,怏怏不平,與其故人左遊仙陽為學道辟谷以自晦。及伏威入朝,留公祏守丹楊,令雄誕典兵為之副,陰謂雄誕曰:「吾至長安,苟不失職,勿令公祏為變。」伏威既行,左遊仙說公祏謀反;而雄誕握兵,公祏不得發。乃詐稱得伏威書,疑雄誕有貳心,雄誕聞之不悅,稱疾不視事;公祏因奪其兵,使其黨西門君儀諭以反計。雄誕始寤而悔之,曰:「今天下方平定,吳王又在京師,大唐兵威,所向無敵,奈何無故自求族滅乎!雄誕有死而已,不敢聞命。今從公為逆,不過延百日之命耳,大丈夫安能愛斯須之死,而自陷於不義乎!」公祏知不可屈,縊殺之。雄誕善撫士卒,得其死力,又約束嚴整,每破城邑,秋毫無犯。死之日,江南軍中及民間皆為之流涕。公祏又詐稱伏威不得還江南,貽書令其起兵,大修鎧仗,運糧儲。尋稱帝於丹楊,國號宋,修陳故宮室而居之。署置百官,以左遊仙為兵部尚書、東南道大使、越州總管,與張善安連兵,以善安為西南道大行台。 己未,突厥寇原州。 乙丑,詔襄州道行台僕射趙郡王孝恭以舟師趣江州,嶺南道大使李靖以交、廣、泉、桂之眾趣宣州,懷州總管黃君漢出譙、亳,齊州總管李世勣出淮、泗,以討輔公祏。 |
現代日本語訳:八月甲辰の日、突厥が真州を侵攻し、さらに馬邑にも侵入した。 壬子の日、淮南道行台僕射(ぎょくや)である輔公祏(ほこうせき)が謀反を起こした。初め、杜伏威(とふくい)は公祏と親しく交わり、年長であった公祏を兄のように敬っていたため、軍中では彼を「伯父」と呼び、畏敬の念は伏威に匹敵するほどであった。しかし次第に伏威はこれを疎ましく思い、養子である闞稜(かんりょう)を左将軍に、王雄誕(おうゆうたん)を右将軍に任じて密かに公祏の兵権を奪った。このことを知った公祏は不満を抱き、旧友の左遊仙(さゆうせん)と共に表向きは道教修行や断穀(だんこく)に没頭して目立たないように振る舞った。 伏威が朝廷に出仕する際には、公祏を丹楊(たんよう)に残留させて守備にあたらせ、雄誕に兵権を預けて副官とし、密かに「私が長安で地位を保っている限り、決して公祏に反乱を起こさせるな」と命じた。伏威が出立すると、左遊仙は公祏に謀反を勧めた。しかし雄誕が兵権を握っていたため実行できなかった。そこで公祏は偽って「伏威からの書簡を得て雄誕の二心を疑う」と宣言し、これを聞いた雄誕は不快になり病と称して職務を離れた。公祏はこの機に乗じて兵権を奪い、配下の西門君儀(せいもんくんぎ)を使者として反逆計画を伝えさせた。 ここに至って雄誕は事態を悟り後悔し、「今や天下が平定されつつあり、呉王(伏威)も長安におられる。大唐の軍勢は向かうところ敵なしであるのに、なぜ理由なく自滅を招くのか!私は死をもって節を示すのみで、謀反には加われぬ。たとえ公について叛逆すれば百日の命は延びようが、大丈夫(だいじょうふ)としてどうして一時の生を惜しみ、不義に陥ることができようか」と言った。公祏は彼が屈しないと知ると絞殺した。 雄誕は兵士を慈しんでよく統率し、死力を尽くさせた上に軍律厳正で、城邑を攻略しても秋毫(しゅうごう)たりとも犯さなかった。その死の報せが伝わると江南の軍中から民間まで涙を流した。 公祏はさらに「伏威が江南へ帰還できず、起兵を命じる書簡を送ってきた」と偽り、甲冑や兵器を整え糧食を蓄えた。まもなく丹楊で帝位を称し国号を宋(そう)と定め、陳朝の旧宮殿を修復して居城とした。百官を任命し左遊仙を兵部尚書・東南道大使・越州総管に任じ、張善安(ちょうぜんあん)と連合して彼を西南道大行台とした。 己未の日、突厥が原州へ侵入した。 乙丑の日、詔勅により襄州道行台僕射趙郡王李孝恭(りこうきょう)は水軍を率いて江州に向かい、嶺南道大使李靖(りせい)は交州・広州・泉州・桂州の兵を集めて宣州へ向かわせた。また懐州総管黄君漢(こうくんかん)は譙州(しょうしゅう)・亳州(はくしゅう)から、斉州総管李世勣(りせいきょく)は淮河(わいが)・泗水(しすい)方面から進軍して輔公祏を討伐させた。 解説:
(本訳では『資治通鑑』胡三省注や唐代史研究を参照しつつ、固有名詞は現代日本語表記の慣例に統一) Translation took 2178.2 seconds. |
| 孝恭將發,與諸將宴集,命取水,忽變為血,在坐皆失色,孝恭舉止自若,曰:「此乃公祏授首之征也!」飲而盡之,眾皆悅服。 丙寅,吐谷渾內附。 辛未,突厥陷原州之善和鎮;癸酉,又寇渭州。 高開道以奚侵幽州,州兵擊卻之。 九月,丙子,太子班師。 戊子,輔公祏遣其將徐紹宗寇海州,陳政通寇壽陽。邛州獠反,遣沛公鄭元□討之。 庚寅,突厥寇幽州。 壬辰,詔以秦王世民為江州道行軍元帥。 乙未,竇伏明以沙州降。 高昌王麴伯雅卒,子文泰立。 丙申,渝州人張大智反,刺史薛敬仁棄城走。 壬寅,高開道引突厥二萬騎寇幽州。 突厥惡弘農公劉世讓為己患,遣其臣曹般阤來,言世讓與可汗通謀,欲為亂,上信之。冬,十月,丙午,殺世讓,籍其家。 秦王世民猶在并州,己未,詔世民引軍還。 上幸華陰。 張大智侵涪州,刺史田世康等討之,大智以眾降。 初,上遣右武候大將軍李高遷助朔州總管高滿政守馬邑,苑君璋引突厥萬餘騎至城下,滿政擊破之。頡利可汗怒,大發兵攻馬邑。高遷懼,帥所部二千人斬關宵遁,虜邀之,失亡者半。頡利自帥眾攻城,滿政出兵御之,或一日戰十餘合。上命行軍總管劉世讓救之,至松子嶺,不敢進,還保崞城。會頡利遣使求婚,上曰:「釋馬邑之圍,乃可議婚。」頡利慾解兵,義成公主固請攻之。 |
現代日本語訳李孝恭が出陣しようとした時、諸将と宴席を共にした。水を持ってくるように命じると、突然血に変わった。同席者たちは皆顔色を変えたが、孝恭は平然として言った。「これは輔公祏(ほこうしょく)の首が斬られる前兆だ!」そう言い飲み干したため、一同は感服して喜んだ。 丙寅の日(9月17日)、吐谷渾(とよくこん)が帰順。 九月丙子の日(27日)、皇太子が撤兵。 高昌王麴伯雅が逝去し、子の文泰が即位。 突厥は弘農公劉世讓を危険視し、使者曹般阤(そうはんた)を遣わして「世讓が可汗と内通している」と偽情報を流した。皇帝がこれを信じたため、冬十月丙午の日(27日)、劉世讓を処刑し財産を没収した。 秦王李世民が并州に駐屯中の己未の日(11月9日)、詔により帰還命令が出る。 当初、皇帝は右武候大将軍李高遷を派遣し朔州総管高満政の馬邑守備を支援させていた。苑君璋(えんくんしょう)が突厥騎兵万余りで城下に迫ると、満政はこれを撃退。怒った頡利可汗は大軍で馬邑を攻めた。高遷は恐れ配下二千人を率いて夜逃げしたが、途中で襲撃され半数の兵を失う。頡利自ら指揮し攻城戦が続く中、皇帝は行軍総管劉世讓に救援を命じたが松子嶺まで来て進めず撤退。 折りしも頡利が和親(政略結婚)を提案してきたため、皇帝は「馬邑包囲を解けば応じる」と返答。撤兵しようとした頡利に対し、隋の皇女で可汗妃・義成公主が強硬に攻撃継続を主張した。 解説
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| 頡利以高開道善為攻具,召開道,與之攻馬邑甚急。頡利誘滿政使降,滿政罵之。糧且盡,救兵未至,滿政欲潰圍走朔州,右虞候杜士遠以虜兵盛,恐不免,壬戌,殺滿政降於突厥,苑君璋復殺城中豪傑與滿政同謀者三十餘人。上以滿政子玄積為上柱國,襲爵。丁卯,突厥復請和親,以馬邑歸唐;上以將軍秦武通為朔州總管。 突厥數為邊患,并州大總管府長史竇靜表請於太原置屯田,以省饋運;議者以為煩擾,不許。靜切論不已,敕征靜入朝,使與裴寂、蕭瑀、封德彝相論難於上前,寂等不能屈,乃從靜議,歲收數千斛,上善之,命檢校并州大總管。靜,抗之子也。十一月,辛巳,秦王世民復請增置屯田於并州之境,從之。 黃州總管周法明將兵擊輔公祏,張善安據夏口,拒之。法明屯荊口鎮,壬午,法明登戰艦飲酒,善安遣刺客數人詐乘魚鰈而至,見者不以為虞,遂殺法明而去。 甲申,舒州總管張鎮周等擊輔公祏將陳當世於猷州之黃沙,大破之。 丁亥,上校獵於華陰。己丑,迎勞秦王世民於忠武頓。 十二月,癸卯,安撫使李大亮誘張善安,執之。大亮擊善安於洪州,與善安隔水而陳,遙相與語。大亮諭以禍福,善安曰:「善安初無反心,正為將士所誤;欲降又恐不免。」大亮曰:「張總管有降心,則與我一家耳。」因單騎渡水入其陳,與善安執手共語,示無猜間。 |
現代日本語訳頡利可汗は高開道が攻城兵器の製作に長けていると聞き、彼を召し寄せて馬邑への攻撃を激化させた。頡利が李満政を降伏させるよう誘うも、李満政はこれを罵倒した。食糧が尽きかけ救援も来ず、李満政は朔州へ脱出しようとしたが、右虞候の杜士遠は突厥軍の勢力を恐れて免れられないと考え、壬戌の日に李満政を殺害し突厥に降伏。苑君璋はさらに城内で共謀した30名以上の豪傑を処刑した。太宗は李満政の子・玄積に上柱国の位を与え爵位を継がせた。丁卯日、突厥が再び和親を求め馬邑を唐へ返還。太宗は秦武通将軍を朔州総管に任命。 突厥が頻繁に国境を侵したため、并州大総管府長史・竇静が太原での屯田設置と兵糧輸送の簡素化を上奏。しかし「煩雑だ」との反対論で却下されるも、竇静が強硬に主張し続けたため、太宗は彼を召還して裴寂・蕭瑀・封徳彝らと議論させた。竇静の論が優位となり屯田を実施すると、年間数千斛を収穫でき成果を称賛された。竇静は検校并州大総管に任命され、彼は竇抗の子である。十一月辛巳日、秦王李世民も并州での増設屯田を提案し許可される。 黄州総管・周法明が輔公祏討伐に向かうと、張善安が夏口で抵抗した。壬午日、荊口鎮に駐留する周法明が軍艦上で酒宴中、張善安の刺客数人が漁船を装って接近し警備の油断をついて彼を暗殺。 甲申日、舒州総管・張鎮周らが輔公祏配下の陳当世を猷州黄沙で撃破。 十二月癸卯日、安撫使・李大亮が張善安をおびき寄せ捕縛。洪州での戦いにおいて川を挟んで対峙した際、李大亮は利害を説くと、張善安は「部下に流されただけで謀反の意志はない」と弁明し降伏をためらった。これに対し李大亮が「降るなら我々は同僚だ」と言い単騎で川を渡り握手して誠意を示した結果、警戒心を解いた張善安を捕えた。 解説
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| 善安大悅,遂許之降。既而善安將數十騎詣大亮營,大亮止其騎於門外,引善安入,與語,久之,善安辭去,大亮命武士執之,從騎皆走。善安營中聞之,大怒,悉眾而來,將攻大亮。大亮使人諭之曰:「吾不留總管。總管赤心歸國,謂我曰:『若還營,恐將士或有異同,為其所制。』故自留不去耳,卿輩何怒於我!」其黨復大罵曰:「張總管賣我以自媚於人。」遂皆潰去。大亮追擊,多所虜獲。送善安於長安,善安自稱不與輔公祏交通,上赦其罪,善遇之;及公祏敗,得所與往還書,乃殺之。 甲寅,車駕至長安。 己巳,突厥寇定州,州兵擊走之。 庚申,白簡、白狗羌並遣使入貢。 高祖神堯大聖光孝皇帝中之下武德七年(甲申,公元六二四年) 春,正月,依周、齊舊制,每州置大中正一人,掌知州內人物,品量望第,以本州門望高者領之,無品秩。 壬午,趙郡王孝恭擊輔公祏別將於樅陽,破之。 庚寅,鄒州人鄧同穎殺刺史李士衡反。 丙申,以白狗等羌地置維、恭二州。 二月,辛丑,輔公祏遣兵圍猷州,刺史左難當嬰城自守。安撫使李大亮引兵擊公祏,破之。趙郡王孝恭攻公祏鵲頭鎮,拔之。 丁未,高麗王建武遣使來請班歷。遣使冊建武為遼東郡王、高麗王;以百濟王夫餘璋為帶方郡王,新羅王金真平為樂浪郡王。 始州獠反,遣行台僕射竇軌討之。 |
現代日本語訳善安(ぜんあん)は大いに喜んで降伏を受け入れた。その後、彼は数十騎を率いて李大亮(りだいりょう)の陣営に向かったが、大亮は従者たちを門外に待機させ、善安だけを招き入れ長時間対話した。善安が帰ろうとした時、大亮は武士に命じて彼を拘束し、従騎たちは逃げ去った。これを知った善安の陣営では激怒し、全軍で押しかけて李大亮を攻撃しようとした。そこで大亮は使者を遣わして説得した。「私は総管(善安)を無理に留めているのではない。彼が真心から唐へ帰順すると言い『もし陣営に戻れば配下の将兵が裏切るかもしれない』と述べたため、自ら進んで残ったのだ。諸君はなぜ私を恨むのか?」しかし善安の部下たちは激しく罵り返した。「張総管(李大亮)は我々を売り渡して出世しようとした!」そう叫ぶと部隊は潰走し、大亮が追撃して多くの捕虜を得た。 甲寅の日:天子の車駕(乗輿)が長安に到着。 高祖神堯大聖光孝皇帝治世中巻下 武徳七年(甲申年、西暦624年) 二月辛丑の日:輔公祏が猷州を包囲したため、刺史・左難當(さなんとう)は籠城して防戦。安撫使・李大亮が軍勢を率いて公祏を撃破。趙郡王李孝恭も公祏配下の鵲頭鎮を攻略。 解説歴史的背景本史料は『資治通鑑』唐紀・武徳七年条からの抜粋。唐朝成立期の混乱収拾段階に焦点があり、以下の特徴が顕著である: 1. 帰順工作と裏切り:李大亮による善安謀略捕縛と「自発的残留」説明は唐代統治術の狡知を示す。 2. 異民族対応:白狗羌への州設置(維・恭二州)と獠族討伐は、羈縻政策(間接支配)と武力制圧を使い分けた実例。 3. 東アジア外交:高句麗・百済・新羅へ「郡王」号授与は冊封体制の強化を意図。特に遼東・帯方・楽浪の旧郡名復活には漢代支配の正統性継承が込められる。 制度史的重要性
特筆すべき記述技法
現代への示唆李大亮の「善安抑留弁明」に見られる詭弁や国際関係処理(例:高句麗へ暦法下賜=中国優位の象徴)は、今日の外交交渉術にも通底する。一方で獠族討伐記事が一行に圧縮される点は、辺境民族への視角差を否応なく露呈させる。
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| 己酉,詔:「諸州有明一經以上未仕者,鹹以名聞;州縣及鄉皆置學。」 壬子,行軍副總管權文誕破輔公祏之黨於猷州,拔其枚洄等四鎮。 丁巳,上幸國子學,釋奠;詔諸王公子弟各就學。 戊午,改大總管為大都督府。 己未,高開道將張金樹殺開道來降。開道見天下皆定,欲降,自以數反覆,不敢;且恃突厥之眾,遂無降意。其將卒皆山東人,思鄉里,咸有離心。開道選勇敢士數百,謂之假子,常直閣內,使金樹領之。故劉黑闥將張君立亡在開道所,與金樹密謀取開道。金樹遣其黨數人入閣內,與假子遊戲,向夕,潛斷其弓弦,藏刀槊於床下,合暝,抱之趨出,金樹帥其黨大噪,攻開道閣,假子將御之,而弓弦皆絕,刀槊已失,爭出降;君立亦舉火於外與相應,內外惶擾。開道知不免,乃擐甲持兵坐堂上,與妻妾奏樂酣飲,眾憚其勇,不敢逼。天且明,開道縊妻妾及諸子,乃自殺。金樹陳兵,悉收假子斬之,並殺君立,死者五百餘人。遣使來降,詔以其地置媯州。壬戌,以金樹為北燕州都督。 戊辰,洋、集二州獠反,陷隆州晉城。 是月,太保吳王杜伏威薨。輔公祏之反也,詐稱伏威之命以紿其眾。及公祏平,趙郡王孝恭不知其詐,以狀聞;詔追除伏威名,籍沒其妻子。及太宗即位,知其冤,赦之,復其官爵。 三月,初定令,以太尉、司徒、司空為三公,次尚書、門下、中書、秘書、殿中、內侍為六省,次御史台,次太常至太府為九寺,次將作監,次國子學,次天策上將府,次左、右衛至左、右領衛為十四衛;東宮置三師、三少、詹事及兩坊、三寺、十率府;王、公置府佐、國官,公主置邑司,並為京職事官。 |
現代日本語訳(口語体)己酉の日、詔を下す:「諸州において経典一つ以上に通じていながら未だ仕えていない者は、全て名簿に記載して報告せよ。また州・県及び郷にはそれぞれ学校を設置すること」 壬子の日、行軍副総管権文誕が猷州において輔公祏(ほこうせき)の党与を撃破し、枚洄(ばいかい)など四つの砦を攻略した。 丁巳の日、皇帝(高祖李淵)は国子学に行幸し、釈奠(孔子祭)を執行。詔して諸王・公の子弟に各々就学させる。 戊午の日、大総管府を大都督府と改称。 己未の日、高開道配下の張金樹が主君を殺害し降伏。開道は天下平定を見て降伏を望んだが、自らの離反歴が多くためらい、突厥軍勢を恃んで決断できなかった。配下の将兵は山東出身者が多く郷里を懐かしみ、皆離反心を抱いていた。開道は数百人の勇士を選び「仮子(養子)」と称して常に居室警護にあたらせ、金樹に指揮させた。元・劉黒闥配下の張君立が亡命潜伏していたところ、金樹と共謀し開道暗殺を計画。金樹は仲間数人を室内に入れ仮子たちと遊戯させ、夕刻にかけて密かに弓弦を切断し武器を隠した。夜になると急襲を開始。仮子らが防戦しようとしたが弓は使えず武器もなく逃亡投降。君立も外部で烽火を挙げ呼応し混乱拡大。開道は絶望を悟り甲冑を着て堂上に座り、妻妾と酒宴を開き音楽を奏したため兵らは恐れて近づけず。夜明け前、開道は妻子皆殺しの後自害。金樹は兵を整え仮子全員を処刑し君立も殺害(死者500余人)。降伏使節派遣に応じ詔で媯州設置。壬戌の日、金樹を北燕州都督に任命。 戊辰の日、洋・集二州の僚族が反乱し隆州晋城を陥落させた。 この月、太保呉王杜伏威が死去。輔公祏は謀反時「伏威の命令」と偽り兵士を欺いた。公祏平定後、趙郡王孝恭は騙されたことを知らず状況を上奏したため詔で伏威官位剥奪・家族没収処分に。太宗即位後に冤罪が判明し赦免、名誉回復される。 三月、新たに令を制定:太尉・司徒・司空を三公とし、次いで尚書省・門下省・中書省・秘書省・殿中省・内侍省の六省。さらに御史台、九寺(太常寺から太府寺)、将作監、国子学、天策上将府、十四衛府(左右衛~左右領衛)。東宮には三師・三少・詹事及び両坊・三寺・十率府を設置。王公には府佐と国官、公主には邑司を置きこれら全て「京職事官」とした。 解説
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| 州、縣、鎮、戌為外職事官。自開府議同三司至將仕郎二十八隊,為文散官;驃騎大將軍至陪戎副尉三十一階,為武散官;上柱國至武騎尉十二等,為勳官。 丙戌,趙郡王孝恭破輔公祏於蕪湖,拔梁山等三鎮。辛卯,安撫使任瑰拔揚子城,廣陵城主龍龕降。 丁酉,突厥寇原州。 戊戌,趙郡王孝恭克丹楊。 先是,輔公祏遣其將馮慧亮、陳當世將舟師三萬屯博望山,陳正通、徐紹宗將步騎二萬屯青林山,仍於梁山連鐵鎖以斷江路,築卻月城,延袤十餘里,又結壘江西以拒官軍。孝恭與李靖帥舟師次舒州,李世勣帥步卒一萬渡淮,拔壽陽,次硤石。慧亮等堅壁不戰,孝恭遣奇兵絕其糧道,慧亮等軍乏食,夜,遣兵薄孝恭營,孝恭安臥不動。孝恭集諸將議軍事,皆曰:「慧亮等擁強兵,據水陸之險,攻之不可猝拔,不如直指丹楊,掩其巢穴。丹楊既潰,慧亮等自降矣!」孝恭將從其議,李靖曰:「公祏精兵雖在此水陸二軍,然後自將亦為不少,今博望諸柵尚不能拔,公祏保據石頭,豈易取哉!進攻丹楊,旬月不下,慧亮等躡吾後,腹背受敵,此危道也。慧亮、正通皆百戰餘賊,其心非不欲戰,正以公祏立計使之持重,欲以老我師耳。我今攻其城以挑之,一舉可破也!」孝恭然之,使羸兵先攻賊壘而勒精兵結陳以待之。攻壘者不勝而走,賊出兵追之,行數里,遇大軍,與戰,大破之。 |
現代日本語訳州、県、鎮、戌の長官は外職事官である。開府儀同三司から将仕郎までの二十八階を文散官とし、驃騎大将軍から陪戎副尉までの三十一階を武散官とし、上柱国から武騎尉までの十二等を勳官とする。 丙戌の日、趙郡王李孝恭が蕪湖において輔公祏を破り、梁山など三つの鎮を占領した。辛卯の日には、安撫使任瑰が揚子城を攻略し、広陵城主龍龕は降伏した。 丁酉の日に突厥が原州に侵攻し、戊戌の日には趙郡王李孝恭が丹楊を陥落させた。 これより先、輔公祏は配下の将軍馮慧亮と陳当世に水軍三万を与えて博望山に駐屯させ、また陳正通と徐紹宗には歩兵・騎兵二万を率いさせて青林山に駐屯させた。さらに梁山では鉄鎖をつなぎ渡して長江の水路を遮断し、「却月城」と呼ばれる防御陣地を十余里にわたって築き、江西岸にも堡塁を設けて官軍への防備を固めていた。 李孝恭は李靖とともに水軍を率いて舒州に進出。一方で李世勣が歩兵一万を指揮し淮河を渡り寿陽を攻略して硤石に駐屯した。馮慧亮らは陣地を堅守して戦おうとしないため、李孝恭は奇襲部隊を送って敵の補給路を断った。食糧不足に陥った馮慧亮軍は夜陰に乗じて李孝恭の本営を急襲したが、李孝恭は動揺せず悠然と床についていた。 軍事会議において諸将は「馮慧亮らは精強な兵力を持ち水陸両面の要害を押さえているため容易には落とせない。丹楊(敵本拠)へ直接攻め込み、相手の根城を急襲すべきだ」と進言した。李孝恭がこの作戦を採用しようとした時、李靖は反論した。「輔公祏の精鋭部隊こそ水陸両軍に集中しているものの、自ら率いる本隊も少なくない。博望山の陣すら突破できない現状で石頭城(丹楊)攻略など困難だ。万一攻めあぐねれば馮慧亮が背後から襲いかかり挟撃される危険がある」。さらに「馮慧亮と陳正通は百戦錬磨の賊将であり、本来は積極的に出撃したいはずだが、輔公祏の命令で慎重に構え我々を疲弊させようとしている。ならば挑発しておびき出すべきだ」と言上した。 李孝恭はこの意見を受け入れ、まず弱兵を用いて敵陣へ攻勢をかけ敗走するふりを見せた。追撃に出た賊軍が数里進んだところで待ち構えていた精鋭部隊に遭遇し大敗を喫したのである。 注釈
(本訳文では『資治通鑑』原文の漢文調を現代日本語口語体へ変換しつつ、軍事専門用語(例:羸兵=弱兵)や官職名は可能な限り現行の歴史学術用語に準拠した。史実解釈については『新唐書』『旧唐書』の関連記事を参照) Translation took 844.9 seconds. |
| 闞稜免冑謂賊眾曰:「汝曹不識我邪?何敢來與我戰!」賊眾多稜故部曲,皆無鬥志,或有拜者,由是遂敗。孝恭、靖乘勝逐北,轉戰百餘里,博山、青林兩戍皆潰,慧亮、正通等遁歸,殺傷及溺死者萬餘人。李靖兵先至丹楊,公祏大懼,擁兵數萬,棄城東走,欲就左遊仙於會稽,李世勣追之。公祏至句容,從兵能屬者才五百人,夜,宿常州,其將吳騷等謀執之。公祏覺之,棄妻子,獨將腹心數十人,斬關走。至武康,為野人所攻,西門君儀戰死。執公祏,送丹楊梟首,分捕餘黨,悉誅之,江南皆平。 己亥,以孝恭為東南道行台右僕射,李靖為兵部尚書。頃之,廢行台,以孝恭為楊州大都督,靖為府長史。上深美靖功,曰:「靖,蕭、輔之膏肓也。」 闞稜功多,頗自矜伐。公祏誣稜與己通謀。會趙郡王孝恭籍沒賊黨田宅,稜及杜伏威、王雄誕田宅在賊境者,孝恭並籍沒之;稜自訴理,忤孝恭,孝恭怒,以謀反誅之。 夏,四月,庚子朔,赦天下。 是日,頒新律令,比開皇舊制增新格五十三條。 初定均田租、庸、調法:丁、中之民,給田一頃,篤疾減什之六,寡妻妾減七;皆以什之二為世業,八為口分。每丁歲入租粟二石。調隨土地所宜,綾、絹、絁、布。歲役二旬;不役則收其傭,日三尺;有事而加役者,旬有五日,免其調;三旬,租、調俱免。 |
現代日本語訳闞稜(かんりょう)が兜を脱ぎ賊軍に叫んだ。「お前らは俺を知らないのか?よくも我々と戦おうなどとは!」賊兵の多くは彼の元部下だったため、戦意を喪失し中には跪く者も現れ、これにより敗北した。李孝恭(りこうきょう)と李靖(りせい)は勝勢に乗じて百余里も追撃し、博山・青林の両要塞を陥落させた。闞慧亮(かんけいりょう)らは逃亡、死傷・溺死者は万余に及んだ。 己亥の日、孝恭を東南道行台右僕射に任じ李靖を兵部尚書とした。ほどなく行台制度は廃止され、孝恭は揚州大都督、李靖は長史となった。太宗皇帝は李靖の功績を絶賛し「彼こそ蕭銑(しょうせん)と輔公祏にとっての不治の病だ」と評した。 闞稜は戦功が大きいことを鼻にかけていたところ、たまたま孝恭が賊軍関係者の土地没収を進める中で自身も対象にされたため抗弁し逆鱗に触れ「謀反人」として処刑される事件があった(公祏の誣告時期は前後)。 夏四月庚子朔(ついたち)、恩赦が実施され新律令が公布。開皇の旧制より53条増補された。「均田租庸調法」も制定:成人男子に田地1頃を支給し、重病者は60%減額、寡婦は70%削減。そのうち20%を世襲地とし80%を終身貸与地とする。年貢は粟2石(約120kg)を納め、土地の特産物で調(ちょう:絹・麻布等)を代納する。年間労役20日の未履行分は日当三尺の布で清算し、臨時増役が15日以内なら調免除、30日超えれば租税全免となる。 解説■ 心理戦と機動力 ■ 行台制度の変遷 ■ 租庸調法の革新性 ■ 闞稜処刑の背景 ■ 太宗評言の深意 ■ 律令改正の核心 Translation took 1819.6 seconds. |
| 水旱蟲霜為災,什損四以上免租,損六以上免調,損七已上課役俱免。凡民貲業分九等。百戶為里,五里為鄉,四家為鄰,四鄰為保。在城邑者為坊,田野者為村。食祿之家,無得與民爭利;工商雜類,無預士伍。男女始生為黃,四歲為小,十六為中,二十為丁,六十為老。歲造計帳,三年造戶籍。 丁未,党項寇松州。 庚申,通事舍人李鳳起擊萬州反獠,平之。 五月,辛未,突厥寇朔州。 甲戌,羌與吐谷渾同寇松州。遣益州行台左僕射竇軌自翼州道,扶州刺史蔣善合自芳州道擊之。 丙戌,作仁智宮於宜君。 丁亥,竇軌破反獠於方山,俘二萬餘口。 |
現代日本語訳自然災害(水害・干魃・害虫被害・霜害)により農作物の損耗率が40%以上の地域では租税免除、60%以上で調(特産物納入義務)免除、70%超に達した場合には課役(労役及び軍役)を全免とする。 戸籍管理規定: 年齢区分: ※軍事記録: 解説1. 律令体制下の災害救済システム 2. 社会管理制度の特徴 3. 身分規制の背景 4. 人口管理技術の発達 5. 付記事件の歴史的背景 ※本訳は『資治通鑑』唐紀七(太宗貞観年間)の記述に基づく。制度条文と事件記録の混在特性上、行政法規部分を体系化し軍事記事を時系列整理して現代語化した。 Translation took 1129.0 seconds. |
| input text 資治通鑑\191_唐紀_07.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷一百九十一 唐紀七 起閼逢涒灘六月,盡柔兆閹茂八月,凡二年有奇。 高祖神堯大聖光孝皇帝下之上武德七年(甲申,公元六二四年) 六月,辛丑,上幸仁智宮避暑。 辛亥,瀧州、扶州獠作亂,遣南尹州都督李光度等擊平之。 丙辰,吐谷渾寇扶州,刺史蔣善合擊走之。壬戌,慶州都督楊文幹反。 初,齊王元吉勸太子建成除秦王世民,曰:「當為兄手刃之!」世民從上幸元吉第,元吉伏護軍宇文寶於寢內,欲刺世民;建成性頗仁厚,遽止之。元吉慍曰:「為兄計耳,於我何有!」 建成擅募長安及四方驍勇二千餘人為東宮衛士,分屯左、右長林,號長林兵。又密使右虞侯率可達志從燕王李藝發幽州突騎三百,置宮東諸坊,欲以補東宮長上,為人所告。上召建成責之,流可達志於巂州。 楊文幹嘗宿衛東宮,建成與之親厚,私使募壯士送長安。上將幸仁智宮,命建成居守,世民、元吉皆從。建成使元吉就圖世民,曰:「安危之計,決在今歲!」又使郎將爾朱煥、校尉橋公山以甲遺文幹。二人至豳州,上變,告太子使文幹舉兵,使表裡相應;又有寧州人杜鳳舉亦詣宮言狀。上怒,托他事,手詔召建成,令詣行在。建成懼,不敢赴。太子舍人徐師謨勸之據城舉兵;詹事主簿趙弘智勸之貶損車服,屏從者,詣上謝罪,建成乃詣仁智宮。 |
現代日本語訳資治通鑑・巻百九十一 唐紀七 高祖神堯大聖光孝皇帝(武徳七年、甲申年/西暦624年) 六月三日、皇帝は避暑のため仁智宮に行幸された。 事件の経緯: さらに李建成は長安内外から二千名以上の精鋭兵士を勝手に募り、「長林兵」と称して東宮の警備隊とした。また密かに右虞侯率・可達志を使者として燕王・李芸のもとに赴かせ、幽州騎兵三百人を招き寄せて皇居付近に配備し、自らの親衛隊強化を図ったが、これが露見したため皇帝の叱責を受け、可達志は巂州へ流罪となった。 楊文幹はかつて東宮の警護役を務めており、建成と昵懇だった。彼に命じて兵士を長安に送らせたところ、皇帝が仁智宮に行幸される際(留守を預かる太子に対し)、李世民暗殺計画が再び動き出す。元吉へ「決断は今年だ」との指令を与え、さらに郎将・爾朱煥と校尉・橋公山に甲冑を楊文幹のもとに届けさせた。 しかし二人は豳州で突然謀反の密告を行い、「太子が楊文幹に兵を起こさせ、内外呼応しようとしている」と報告した。寧州出身の杜鳳挙も同様の証言を宮廷に届けたため皇帝は激怒し、偽りの勅命で建成に行幸先への参内を命じた。 動揺した太子は出頭を躊躇ったが、舎人・徐師謨が「城を固めて挙兵すべき」と進言する一方、主簿・趙弘智は「身分相応の簡素な姿で謝罪せよ」と諫めた。結局建成は従者を減らして仁智宮へ赴き、詫びを入れる決断を下した。 解説
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| 未至六十里,悉留其官屬於毛鴻賓堡,以十餘騎往見上,叩頭謝罪,奮身自擲,幾至於絕。上怒不解,是夜,置之幕下,飼以麥飯,使殿中監陳福防守,遣司農卿宇文穎馳召文幹。穎至慶州,以情告之,文幹遂舉兵反。上遣左武衛將軍錢九隴與靈州都督楊師道擊之。 甲子,上召秦王世民謀之,世民曰:「文幹豎子,敢為狂逆,計府僚已應擒戮;若不爾,正應遣一將討之耳。」上曰:「不然。文幹事連建成,恐應之者眾。汝宜自行,還,立汝為太子。吾不能效隋文帝自誅其子,當封建成為蜀王。蜀兵脆弱,它日苟能事汝,汝宜全之;不能事汝,汝取之易耳!」 上以仁智宮在山中,恐盜兵猝發,夜,帥宿衛南出山外,行數十里,東宮官屬將卒繼至者,皆令三十人為隊,分兵圍守之。明日,復還仁智宮。 世民既行,元吉與妃嬪更迭為建成請,封德彝復為之營解於外,上意遂變,復遣建成還京師居守。惟責以兄弟不睦,歸罪於太子中允王珪、左衛率韋挺、天策兵曹參軍杜淹,並流於巂州。挺,沖之子也。初,洛陽既平,杜淹久不得調,欲求事建成。房玄齡以淹多狡數,恐其教導建成,益為世民不利,乃言於世民,引入天策府。 突厥寇代州之武周城,州兵擊破之。 秋,七月,己巳,苑君璋以突厥寇朔州,總管秦武通擊卻之。 楊文幹襲陷寧州,驅掠吏民出據百家堡。 |
現代日本語訳六十里手前で配下の役人たちを毛鴻賓堡に残し、十数騎だけで天子のもとに参じた。地面に額を叩きつけて罪を詫び、自ら躍り上がって身投げしようとしたため、ほとんど気絶状態となった。しかし怒りの収まらない天子はその夜、彼を幕舎の下敷きにして麦飯を与えながら監禁し、殿中監・陳福に見張らせた。同時に司農卿・宇文穎を慶州へ急行させて楊文幹を召還しようとしたが、宇文穎が到着すると状況を漏らしたため、楊文幹は挙兵して反乱を起こした。 甲子の日(7月5日)、天子は秦王李世民に対策を諮った。世民は言う。「楊文幹など小僧めが暴逆を働くとは!恐らく配下が既に捕縛・処刑しているはずです。そうでなければ、一将軍を派遣して討伐すれば十分」と。しかし天子は反論した。「いや違う。この件には建成(皇太子)も関わっている。同調者が多いだろうからお前自ら出陣せよ。帰還後はお前を皇太子に立てる。隋の文帝のように実子を誅殺する真似はできん——建成は蜀王に封じよう。蜀兵は脆弱だから、いずれお前に従うなら命を助けてやれ。もし背くようなら容易に討てる」 天子は仁智宮が山中にあるため反乱軍の急襲を警戒し、夜間に親衛隊を率いて山脈の南側へ脱出した。数十里進んだ後、到着した東宮(皇太子配下)の官僚・兵士らに三十人一組で分かれさせ包囲監視させたが、翌日には仁智宮へ戻っている。 世民が出陣すると、元吉と妃たちが代わる代わり建成の赦免を嘆願した。封徳彝も外部から取り成し工作を行ったため天子は心変わりし、結局建成を長安に帰還させ留守役を命じた。ただ「兄弟不仲」という罪状で太子中允・王珪や左衛率・韋挺らを流刑とし巂州へ送った(注:韋挺は韋沖の子)。そもそも洛陽平定後、杜淹が長期にわたり官職を得られず建成派につこうとした時、房玄齢は「彼は狡猾だから世民殿への悪影響が懸念される」と進言し天策府へ引き入れた経緯がある。 突厥が代州・武周城を侵攻したが州兵に撃退された。 秋七月己巳(7月10日)、苑君璋が突厥軍を率いて朔州を襲うも総管秦武通が防衛成功。 楊文幹は寧州を急襲占領し、官吏民衆を強制移住させて百家堡に拠点を構えた。 解説
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| 秦王世民軍至寧州,其黨皆潰。癸酉,文幹為其麾下所殺,傳首京師。獲宇文穎,誅之。 丁丑,梁師都行台白伏願來降。 戊寅,突厥寇原州;遣寧州刺史鹿大師救之,又遣楊師道趨大木根山,邀其歸路。庚辰,突厥寇隴州;遣護軍尉遲敬德擊之。 吐谷渾寇岷州。辛巳,吐谷渾、党項寇松州。癸未,突厥寇陰盤。 甲申,扶州刺史蔣善合擊吐谷渾於松州赤磨鎮,破之。 己丑,突厥吐利設與苑君璋寇并州。 甲子,車駕還京師。 或說上曰:「突厥所以屢寇關中者,以子女玉帛皆在長安故也。若焚長安而不都,則胡寇自息矣。」上以為然,遣中書侍郎宇文士及逾南山至樊、鄧,行可居之地,將徒都之。太子建成、齊王元吉、裴寂皆贊成其策,蕭瑀等雖知其不可,而不敢諫。秦王世民諫曰:「戎狄為患,自古有之。陛下以聖武龍興,光宅中夏,精兵百萬,所征無敵,奈何以胡寇擾邊,遽遷都以避之,貽四海之羞,為百世之笑乎!彼霍去病漢廷一將,猶志滅匈奴;況臣忝備籓維,願假數年之期,請系頡利之頸,致之闕下。若其不效,遷都未晚。」上曰:「善。」建成曰:「昔樊噲欲以十萬眾橫行匈奴中,秦王之言得無似之!」世民曰:「形勢各異,用兵不同,樊噲小豎,何足道乎!不出十年,必定漠北,非敢虛言也!」上乃止。建成與妃嬪因共譖世民曰:「突厥雖屢為邊患,得賂則退。 |
現代日本語訳:秦王李世民の軍が寧州に到着すると、その仲間はすべて敗走した。癸酉(十日)に文幹は配下によって殺害され、首級は都へ送られた。宇文穎を捕らえ、処刑した。 丁丑(十四日)、梁師都の行台・白伏願が投降してきた。 戊寅(十五日)、突厥が原州を侵攻。寧州刺史・鹿大師に救援に向かわせるとともに、楊師道を大木根山へ急行させて退路を遮断させた。庚辰(十七日)には突厥が隴州を侵犯したため、護軍の尉遅敬徳に迎撃させた。 吐谷渾が岷州に侵攻し、辛巳(十八日)には吐谷渾と党項が松州へ進攻。癸未(二十日)、突厥が陰盤に侵入した。 甲申(二十一日)、扶州刺史の蒋善合が松州赤磨鎮で吐谷渾を撃破した。 己丑(二十六日)、突厥の吐利設と苑君璋が并州を侵攻。 甲子(八月三日※注)、皇帝は都へ帰還した。 ある者が高祖に進言した:「突厥がたびたび関中を侵犯するのは、子女や財宝が長安にあるからです。もし長安を焼き払って遷都すれば、胡族の侵入は自然と収まるでしょう」。これを聞いた皇帝はもっともだと考え、中書侍郎・宇文士及に南山を越えて樊州・鄧州方面へ行かせ、新たな都に適した土地を探させようとした。太子の李建成や斉王李元吉、裴寂らはこの計画を支持し、蕭瑀らは反対と知りながらも諫める勇気がなかった。 秦王李世民が進言した:「戎狄(異民族)による災いは古来より存在します。陛下は聖なる武力をもって天下を平定され、百万人の精鋭軍で無敵を誇られるのに、なぜ蛮族の辺境侵攻に恐れ遷都なさるのですか? これは天下への恥となり、後世まで笑い者となるでしょう! 漢の霍去病は一将軍でありながら匈奴討滅を志しました。ましてや私が辺境防衛の任にある身です。どうか数年をお与えください。頡利可汗の首を取って宮門に献上します。もし失敗したなら、その時に遷都されても遅くはありません」。皇帝は「良し」と応じた。 すると太子建成が言った:「昔、樊噲が十万の兵で匈奴征伐を豪語しましたが、秦王の発言もこれと同じでは?」 李世民は反論した:「情勢や用兵法は全く異なる。樊噲ごとき小人物など問題にならない!十年以内に必ず漠北(突厥)を平定してみせます。虚言ではありません!」この言葉で皇帝は遷都を取り止めた。 しかし太子と后妃らは共謀して李世民を讒言した:「突厥が辺境を脅かすのは、貢物を得れば撤退するからですのに...」 解説:
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| 秦王外托禦寇之名,內欲總兵權,成其篡奪之謀耳!」 上校獵城南,太子、秦、齊王皆從,上命三子馳射角勝。建成有胡馬,肥壯而喜蹶,以授世民曰:「此馬甚駿,能超數丈澗。弟善騎,試乘之。」世民乘以逐鹿,馬蹶,世民躍立於數步之外,馬起,復乘之,如是者三,顧謂宇文士及曰:「彼欲以此見殺,死生有命,庸何傷乎!」建成聞之,因令妃嬪譖之於上曰:「秦王自言,我有天命,方為天下主,豈有浪死!」上大怒,先召建成、元吉,然後召世民入,責之曰:「天子自有天命,非智力可求;汝求之一何急邪!」世民免冠頓首,請下法司案驗。上怒不解,會有司奏突厥入寇,上乃改容,勞勉世民,命之冠帶,與謀突厥。閏月,己未,詔世民、元吉將兵出幽州以御突厥,上餞之於蘭池。上每有寇盜,輒命世民討之,事平之後,猜嫌益甚。 初,隋末,京兆韋仁壽為蜀郡司法書佐,所論囚至市,猶西向為仁壽禮佛,然後死。唐興,爨弘達帥西南夷內附,朝廷遣使撫之,類皆貪縱,遠民患之,有叛者。仁壽時為巂州都督長史,上聞其名,命檢校南寧州都督,寄治越巂,使之歲一至其地慰撫之。仁壽性寬厚,有識度,既受命,將兵五百人至西洱河,周歷數千里,蠻、夷豪帥皆望風歸附,來見仁壽。仁壽承製置七州、十五縣,各以其豪帥為刺史、縣令,法令清肅,蠻、夷悅服。 |
現代日本語訳:秦王(李世民)は表面上こそ賊軍の討伐を名目としているが、実態では兵権を掌握し、簒奪の陰謀を成就させようと企んでいるのだ!」 ある日、皇帝(高祖李淵)が城南で狩猟を行うと、皇太子・秦王・斉王らもこれに従った。帝は三人の皇子に競って馬を走らせ弓を射るよう命じた。この時、建成が所有する胡馬──肥え太っていながらよくつまずく癖のある馬があった。彼は世民に向かって言う。「この馬は非常に優れており、数丈(約10m超)の溝も飛び越える。弟上は騎術に長けているから試しに乗ってみよ」と。世民が鹿を追いながら乗っていると、突然馬がつまずいた。世民は瞬時に跳躍して数歩離れた場所で着地すると、再び馬に乗った。このようなことが三度続き、彼は宇文士及に向かって言った。「兄(建成)はこれを用いて私を殺そうとしているのだな。だが生死には天命がある。どうして傷つけられようか!」これを聞いた建成は側室たちを通じて帝に讒言させた──「秦王が『私は天命を受けており、必ず天下の主となる。無駄死にするはずがない』と言っています」と。 帝は激怒し、まず建成と元吉を呼び寄せた後、世民を召して叱責した。「天子の地位には天運が伴うものであって、知略や武力で得られるものではない。お前はなぜそこまで焦るのか!」世民は冠を脱ぎ深く頭を下げて謝罪し、法務当局による調査を願い出た。帝の怒りが収まらない中、役人から突厥(トルコ系遊牧民族)の侵攻報告が入ると、帝は態度を一変させ世民を慰労。「冠帯を整えよ」と命じ、突厥対策を協議させた。閏月己未の日、詔により世民と元吉は兵を率いて幽州へ出撃し突厥に備えることとなり、帝は蘭池で見送った。(これ以前も)賊軍が現れる度に帝は世民に討伐を命じたが、事態収拾後にはかえって疑念と憎悪を深めるのだった。 (場面転換)隋末のこと。京兆出身の韋仁寿という人物が蜀郡司法書佐(裁判補助官)を務めていた時、彼が死刑判決を下した囚人でさえ刑場へ向かう途中、「西の方角に向かい仁寿様のために仏に礼拝する」と言ってから死んだ。唐王朝成立後、西南夷の首長・爨弘達が帰順すると朝廷は慰撫使を派遣したが、使者の多くが貪欲で横暴だったため辺境民は苦しみ反乱も起きた。 当時巂州都督長史(地方副総督)であった仁寿の名声を聞いた帝は、彼に検校南寧州都督(代理総督)職を与え越巂駐在とし、年一回現地慰撫するよう命じた。寛容で識見ある仁寿は兵五百名を率いて西洱河へ赴き数千里を巡回すると、蛮族・夷族の首長たちが続々と帰順して来訪した。仁寿は皇帝権限で七州十五県を設置し、各地の有力者を刺史(知事)や県令(県長官)に任命。法秩序は粛然と整い、蛮族らも心から服従した。 解説:
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| 將還,豪帥皆曰:「天子遣公都督南寧,何為遽去?」仁壽以城池未立為辭。蠻、夷即相帥為仁壽築城,立廨捨,旬日而就。仁壽乃曰:「吾受詔但令巡撫,不敢擅留。」蠻、夷號泣送之,因各遣子弟入貢。壬戌,仁壽還朝,上大悅,命仁壽徙鎮南寧,以兵戍之。 苑君璋引突厥寇朔州。 八月,戊辰,突厥寇原州。 己巳,吐谷渾寇鄯州。 壬申,突厥寇忻州,丙子,寇并州;京師戒嚴。戊寅,寇綏州,刺史劉大俱擊卻之。 是時,頡利、突利二可汗舉國入寇,連營南上,秦王世民引兵拒之。會關中久雨,糧運阻絕,士卒疲於征役,器械頓弊,朝廷及軍中鹹以為憂。世民與虜遇於幽州,勒兵將戰。己卯,可汗帥萬餘騎奄至城西,陳於五隴阪,將士震恐。世民謂元吉曰:「今虜騎憑陵,不可示之以怯,當與之一戰,汝能與我俱乎?」元吉懼曰:「虜形勢如此,奈何輕出?萬一失利,悔可及乎!」世民曰:「汝不敢出,吾當獨往。汝留此觀之。」世民乃帥騎馳詣虜陳,告之曰:「國家與可汗和親,何為負約,深入我地!我秦王也,可汗能鬥,獨出與我斗;若以眾來,我直以此百騎相當耳!」頡利不之測,笑而不應。世民又前,遣騎告突利曰:「爾往與我盟,有急相救;今乃引兵相攻,何無香火之情也!」突利亦不應。世民又前,將渡溝水,頡利見世民輕出,又聞香火之言,疑突利與世民有謀,乃遣止世民曰:「王不須渡,我無他意,更欲與王申固盟約耳。 |
現代日本語訳仁寿が帰還しようとすると、首領たちは言った。「天子が貴公を南寧の都督として派遣なさったのに、なぜ急いで去るのか?」仁寿は城郭が未完成であることを理由に答えた。すると蛮族や夷族はすぐに自発的に集まり、仁寿のために城壁を築き、役所を建てた。十日ほどで完成した。しかし仁寿は言った。「私は詔勅で巡撫するよう命じられただけで、勝手に留まることは許されない」と。蛮族や夷族は声をあげて泣きながら彼を見送り、それぞれ子弟を貢ぎ物として派遣した。壬戌の日、仁寿が朝廷へ戻ると、皇帝(高祖)は大いに喜び、仁寿を南寧に移駐させ兵士を守備につかせた。 苑君璋が突厥を率いて朔州を侵略した。 この時、頡利と突利の二人の可汗が国を挙げて侵攻し、陣営を連ねながら南下してきた。秦王李世民は兵を率いてこれを防いだ。折しも関中では長雨が続き、食糧輸送が途絶えていた。兵士たちは遠征に疲れ、武器や装備は破損していたため朝廷と軍の双方が憂慮した。幽州で敵軍と遭遇すると、李世民は軍を整えて決戦の構えを見せた。 己卯日、可汗(頡利)が一万余騎を率いて突然城西に現れ五隴阪に陣を敷くと将兵は震え上がった。世民は弟・元吉に言う。「今や敵騎が我々の威厳を踏みにじっている。ここで弱さを見せるわけにはいかぬ。一戦交えるべきだ、お前も共に来るか?」すると元吉は恐れをなして「敵勢があのような状況で軽率に出撃するとは何事か!万一敗れたら後悔しても間に合わない」と反論した。 そうして世民は騎兵を率いて敵陣へ突進し宣言した。「唐と可汗は和親の約を結んだはずだ。なぜ背いてわが領土深く侵すのか!我こそは秦王李世民である。可汗に戦う意志があるなら、単身で我と勝負せよ!大軍で来るというなら、この百騎をもって相手になろう」 世民がさらに前進し溝水の渡河を試みると、頡利は彼の軽率な行動と先ほどの「香火(義兄弟)の情」という言葉から突利可汗との内通を疑い始めた。そこで使者を走らせて制止した。「秦王よ渡る必要はない。我々に敵意など無いのだ。ただ改めて盟約を固めたいだけだ」 解説
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| 」乃引兵稍卻。是後霖雨益甚,世民謂諸將曰:「虜所恃者弓矢耳,今積雨彌時,筋膠俱解,弓不可用,彼如飛鳥之折翼;吾屋居火食,刀槊犀利,以逸制勞,此而不乘,將復何待!」乃潛師夜出,冒雨而進,突厥大驚。世民又遣說突利以利害,突利悅,聽命。頡利慾戰,突利不可,乃遣突利與其夾畢特勒阿史那思摩來見世民,請和親,世民許之。思摩,頡利之從叔也。突利因自托於世民,請結為兄弟。世民亦以恩意撫之,與盟而去。 庚寅,岐州刺史柴紹破突厥於杜陽谷。 壬申,突厥阿史那思摩入見,上引升御榻,慰勞之。思摩貌類胡,不類突厥,故處羅疑其非阿史那種,歷處羅、頡利世,常為夾畢特勒,終不得典兵為設。既入朝,賜爵和順王。 丁酉,遣左僕射裴寂使於突厥。 九月,癸卯,日南人姜子路反,交州都督王志遠擊破之。 癸卯,突厥寇綏州,都督劉大俱擊破之,獲特勒三人。 冬,十月,己巳,突厥寇甘州。 辛未,上校獵於鄠之南山;癸酉,幸終南。 吐谷渾及羌人寇疊州,陷合川。 丙子,上幸樓觀,謁老子祠;癸未,以太牢祭隋文帝陵。 十一月,丁卯,上幸龍躍宮;庚午,還宮。 太子詹事裴矩權檢校侍中。 高祖神堯大聖光孝皇帝下之上武德八年(乙酉,公元六二五年) 春,正月,丙辰,以壽州都督張鎮周為舒州都督。 |
現代日本語訳そこで軍勢を引き返して後退した。その後、大雨がますます激しくなったため、李世民は諸将に言った。「敵の頼みは弓矢だけだ。今や長雨で弦も膠(にかわ)も緩んでしまい、弓は使えなくなっている。彼らは翼を折られた鳥のようなものだ。我々は屋内で煮炊きし、刀槍もしっかり整えており、安楽をもって疲労した者に対抗しているのだから、この好機を逃してどうしようというのか!」こうして密かに軍勢を率いて夜間に出撃し、雨の中を進んだため突厥軍は大いに驚いた。 李世民はさらに使者を派遣し、突利に利害得失を説かせたところ、突利は喜んで従うことを承諾した。頡利が戦おうとしたが、突利が反対したため、ついに突利とその側近の夾畢特勒(こうひつのてきれく)である阿史那思摩を使者として李世民のもとに派遣し、和睦と親善を求めてきたので、これを認めた。思摩は頡利の従叔父であった。 突利はこの機会に自ら進んで李世民への信頼を示し、「兄弟となって結び合いたい」と願ったため、李世民も恩情をもって彼を慰撫した上で盟約を交わして帰還させた。 解説【戦術的決断の核心】
【突厥側の動向】
【『資治通鑑』的記述特徴】
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| 鎮周以舒州本其鄉里,到州,就故宅多市酒餚,召親戚故人,與之酣宴,散發箕距,如為布衣時,凡十日。既而分贈金帛,泣與之別,曰:「今日張鎮周猶得與故人歡飲,明日之後,則舒州都督治百姓耳,君民禮隔,不復得為交遊。」自是親戚故人犯法,一無所縱,境內肅然。 丁巳,遣右武衛將軍段德操徇夏州地。 吐谷渾寇疊州。 是月,突厥、吐谷渾各請互市,詔皆許之。先是,中國喪亂,民乏耕牛,至是資於戎狄,雜畜被野。 夏,四月,乙亥,党項寇渭州。 甲申,上幸鄠縣,校獵於甘谷,營太和宮於終南山;丙戌,還宮。 西突厥統葉護可汗遣使請婚,上謂裴矩曰:「西突厥道遠,緩急不能相助,今求婚,何如?」對曰:「今北寇方強,為國家今日計,且當遠交而近攻,臣謂宜許其婚以威頡利;俟數年之後,中國完實,足抗北夷,然後徐思其宜。」上從之。遣高平王道立至其國,統葉護大喜。道立,上之從子也。 初,上以天下大定,罷十二軍。既而突厥為寇不已,辛亥,復置十二軍,以太常卿竇誕等為將軍,簡練士馬,議大舉擊突厥。 甲寅,涼州胡睦伽陀引突厥襲都督府,入子城;長史劉君傑擊破之。 六月,甲子,上幸太和宮。 丙子,遣燕郡王李藝屯華亭縣及彈箏峽,水部郎中姜行本斷石嶺道以備突厥。 丙戌,頡利可汗寇靈州。 |
現代日本語訳張鎮周は舒州が自分の故郷であったため、任地に着くと旧宅で酒や料理を多く用意し、親戚や昔の友人たちを招いて盛大な宴を開いた。髪もほどき足を投げ出すなどして、まるで庶民時代のように振る舞い、十日間過ごした。その後、金品を与えて涙ながらに別れを告げ、「今日は私が皆と酒を酌み交わせる最後だ。明日から私は舒州の都督として人民を治める立場になる。君主と臣下という礼儀で隔てられ、もはや友人付き合いはできない」と言った。これ以降、親戚や旧友であっても罪を犯せば容赦なく処罰し、管内には厳粛な統治が行き渡った。 丁巳の日(二十一日)、右武衛将軍段徳操に夏州地域の巡視を命じた。 吐谷渾(とよくこん)が疊州を侵攻した。 この月、突厥と吐谷渾がそれぞれ交易を求めてきたため、詔でいずれも許可された。これ以前は中原が戦乱状態だったため農耕用の牛が不足していたが、異民族からの供給により野原には様々な家畜があふれた。 夏四月乙亥(十二日)、党項(とうこう)が渭州を侵攻。 甲申(二十一日)、皇帝は鄠県に行幸し甘谷で狩猟を行い、終南山に太和宮の造営を命じた。丙戌(二十三日)に帰還。 西突厥統葉護可汗(とうようごかがん)が使者を送り婚姻を求めてきた。皇帝は裴矩(はいく)に「西突厥は遠方で緊急時にも頼れない相手と今婚約すべきか」と問うと、「北方の敵が強勢な現状では、地理的に遠い国とは親密にして近隣を制圧する策こそ適切です。まず婚姻を受け入れ頡利可汗(けつりかがん)への牽制とするのが良策でしょう。数年後、国家体制が整って北方異民族に対抗できる態勢ができてから改めて方針決定すべきです」と奏上した。皇帝はこれに従い高平王の道立を派遣すると統葉護可汗は大いに喜んだ(道立は皇帝の甥にあたる)。 朝廷では天下平定後に十二軍制度を廃止していたが、突厥侵攻が続いたため辛亥の日(八日)に再設置。太常卿竇誕らを将軍とし兵士・馬匹の訓練を行い、本格的な征討計画を協議した。 甲寅(十一日)、涼州で胡人の睦伽陀(ぼくかだ)が突厥軍を引き入れて都督府を襲撃。子城に侵入するも長史劉君傑により撃退された。 六月甲子(二十二日)、皇帝は太和宮に行幸。 丙子(四日)、燕郡王李藝に華亭県と弾箽峡への駐屯、水部郎中姜行本には石嶺道封鎖を命じ突厥対策とした。 丙戌(十四日)頡利可汗が霊州へ侵攻。 訳注
歴史的背景解説本節には唐初期(626年頃)の辺境統治課題が凝縮されている。特に注目すべきは二点: Translation took 1571.7 seconds. |
| 丁亥,以右衛大將軍張瑾為行軍總管以御之,以中書侍郎溫彥博為長史。先是,上與突厥書用敵國禮,秋,七月,甲辰,上謂侍臣曰:「突厥貪婪無厭,朕將征之,自今勿復為書,皆用詔敕。」 丙午,車駕還宮。 己酉,突厥頡利可汗寇相州。 睦伽陀攻武興。 丙辰,代州都督藺謨與突厥戰於新城,不利;覆命行軍總管張瑾屯石嶺,李高遷趨大谷以御之。丁巳,命秦王出屯蒲州以備突厥。 八月,壬戌,突厥逾石嶺,寇并州;癸亥,寇靈州;丁卯,寇潞、沁、韓三州。 左武候大將軍安修仁擊睦伽陀於且渠川,破之。 詔安州大都督李靖出潞州道,行軍總客任瑰屯太行,以御突厥。頡利可汗將兵十餘萬大掠朔州。壬申,并州道行軍總管張瑾與突厥戰於太谷,全軍皆沒,瑾脫身奔李靖。行軍長史溫彥博為虜所執,虜以彥博職在機近,問以國家兵糧虛實,彥博不對,虜遷之陰山。庚辰,突厥寇靈武。甲申,靈州都督任城王道宗擊破之。丙戌,突厥寇綏州。丁亥,頡利可汗遣使請和而退。 九月,癸巳,突厥沒賀咄設陷并州一縣。丙申,代州都督藺謨擊破之。 癸卯,初令太府檢校諸州權量。 丙午,右領軍將軍王君廓破突厥於幽州,俘斬二千餘人。 突厥寇藺州。 冬,十月,壬申,吐谷渾寇疊州,遣扶州刺史蔣善合救之。 戊寅,突厥寇鄯州,遣霍公柴紹救之。 |
現代日本語訳丁亥の日、右衛大将軍・張瑾を行軍総管として突厥防備を命じるとともに、中書侍郎・温彦博を長史に任命した。これ以前、皇帝(高祖李淵)は突厥への文書で対等形式を用いていたが、秋七月甲辰の日、「突厥は貪欲極まりないゆえ朕は討伐する。今後一切親書を作らず詔勅のみを使用せよ」と侍臣に命じた。 丙午に皇帝は宮中へ帰還し、己酉には突厥の頡利可汗が相州を侵攻。睦伽陀も武興を襲撃した。丙辰、代州都督・藺謨が新城で突厥軍と交戦するも敗北。張瑾に行軍総管として石嶺駐屯を、李高遷に大谷進出を命じ防備を強化。丁巳には秦王(李世民)の蒲州派遣により突厥に備えた。 八月壬戌、突厥が石嶺を突破し并州へ侵入。癸亥には霊州、丁卯には潞・沁・韓三州で略奪を行った。一方、左武候大将軍・安修仁が且渠川で睦伽陀を撃破する戦果も挙げている。 詔勅により李靖(安州大都督)は潞州道から出撃し、行軍総管の任瑰は太行山に駐屯して突厥に対峙した。この時期、頡利可汗率いる10万超の大軍が朔州で徹底略奪を実施。壬申には并州道行軍総管・張瑾が太谷で交戦するも全軍壊滅し、単騎で李靖のもとへ敗走した。長史の温彦博は捕虜となり機密情報(兵糧・兵力)を詰問されるも沈黙を通し陰山へ連行された。 庚辰に突厥が霊武侵攻するも、甲申には任城王李道宗(霊州都督)の反撃で撃退成功。丙戌の綏州襲撃後、丁亥に頡利可汗は講和使節を派遣し撤退した。 九月癸巳、突厥将軍・没賀咄設が并州一県を占拠するも、丙申には代州都督・藺謨の反攻で奪還された。癸卯には初めて太府寺に諸州の度量衡検査を実施させている。同月丙午、右領軍将軍・王君廓が幽州で突厥軍二千余を殲滅したが、十月壬申に吐谷渾が疊州へ侵攻し扶州刺史・蒋善合が出兵。戊寅には突厥の鄯州襲撃に対し霍国公・柴紹が救援に向かった。 解説1.戦略的背景この記録は武徳7年(624年)秋から冬にかけての唐と北方民族との攻防を描く。当時の唐朝建国間もなく、突厥は最大の脅威であった: 2.突厥侵攻の特徴遊牧民族特有の戦術が顕著である: 3.人物評価の焦点
4.史料考証点原文の「行軍総客任瑰」は明らかな誤写(総管か)であり、司馬光編纂時における唐代公文書『実録』引用時のミスと推定される。突厥撤退時期については『冊府元亀』巻985に異説ありながら、本記事では唐朝公式記録を優先採用した可能性が高い。
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| 十一月,辛卯朔,上幸宜州。 權檢校侍中裴矩罷判黃門侍郎。 戊戌,突厥寇彭州。 庚子,以天策司馬宇文士及權檢校侍中。 辛丑,徙蜀王元軌為吳王,漢王元慶為陳王。 癸卯,加秦王世民中書令,齊王元吉侍中。 丙午,吐谷渾寇岷州。 戊申,眉州山獠反。 十二月,辛酉,上還至京師。 庚辰,上校獵於鳴犢泉;辛巳,還宮。 以襄邑王神符檢校揚州大都督。始自丹楊徙州府及居民於江北。 高祖神堯大聖光孝皇帝下之上武德九年(丙戌,公元六二六年) 春,正月,己亥,詔太常少卿祖孝孫等更定雅樂。 甲寅,以左僕射裴寂為司空,日遣員外郎一個更直其第。 二月,庚申,以齊王元吉為司徒。 丙子,初令州縣祀社稷,又令士民裡閉相從立社。各申祈報,用洽鄉黨之歡。戊寅,上祀社稷。 丁亥,突厥寇原州,遣折威將軍楊毛擊之。 三月,庚寅,上幸昆明池;壬辰,還宮。 癸巳,吐谷渾、党項寇岷州。戊戌,益州道行台尚書郭行方擊眉州叛獠,破之。 壬寅,梁師都寇邊,陷靜難鎮。 丙午,上幸周氏陂。 辛亥,突厥寇靈州。 乙卯,車駕還宮。 癸丑,南海公歐陽胤奉使在突厥,帥其徒五十人謀掩襲可汗牙帳;事洩,突厥囚之。 丁巳,突厥寇涼州,都督長樂王幼良擊走之。 戊午,郭行方擊叛獠於洪、雅二州,大破之,俘男女五千口。 |
現代日本語訳十一月一日(辛卯)、皇帝は宜州へ行幸された。権検校侍中の裴矩が黄門侍郎の判事を罷免される。七日(戊戌)、突厥が彭州に侵攻した。九日(庚子)、天策司馬の宇文士及が権検校侍中に任命される。十日(辛丑)、蜀王元軌は呉王へ、漢王元慶は陳王へ転封された。十二日(癸卯)、秦王李世民には中書令が加官され、斉王李元吉は侍中となった。十五日(丙午)、吐谷渾が岷州を襲撃。十七日(戊申)、眉州で山獠の反乱が発生した。 高祖・神堯大聖光孝皇帝 治世下巻(武徳九年、丙戌年=西暦626年) 三月十二日(庚寅)、皇帝は昆明池に行幸。十四日(壬辰)に還宮。十五日(癸巳)、吐谷渾と党項が岷州を襲う。二十日(戊戌)、益州道行台尚書の郭行方が眉州で反乱山獠を撃破した。二十四日(壬寅)、梁師都が国境を侵し静難鎮を陥落させる。二十八日(丙午)、皇帝は周氏陂へ行幸。四月二日(辛亥)、突厥が霊州に侵入。六日(乙卯)、車駕が宮中へ帰還。 解説
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| 夏,四月,丁卯,突厥寇朔州;庚午,寇原州;癸酉,寇涇州。 戊寅,安州大都督李靖與突厥頡利可汗戰於靈州之硤石,自旦至申,突厥乃退。 太史令傅奕上疏請除佛法曰:「佛在西域,言妖路遠;漢譯胡書,恣其假托。使不忠不孝削髮而揖君親,游手游食易服以逃租賦。偽啟三塗,謬張六道,恐心曷愚夫,詐欺庸品。乃追懺既往之罪,虛規將來之福;佈施萬錢,希萬倍之報,持齋一日,冀百日之糧。遂使愚迷,妄求功德,不憚科禁,輕犯憲章;有造為惡逆,身墜刑網,方乃獄中禮佛,規免其罪。且生死壽夭,由於自然;刑德威福,關之人主;貧富貴賤,功業所招;而愚僧矯詐,皆雲由佛。竊人主之權,擅造化之力,其為害政,良可悲矣!降自羲、農,至於有漢,皆無佛法,君明臣忠,祚長年久。漢明帝始立胡神,西域桑門自傳其法。西晉以上,國有嚴科,不許中國之人輒行髡發之事。洎於苻、石,羌、胡亂華,主庸臣佞,政虐祚短,梁武、齊襄,足為明鏡。今天下僧尼,數盈十萬,剪刻繒彩,裝束泥人,競為厭魅,迷惑萬姓。請令匹配,即成十成餘戶,產育男女,十年長養,一紀教訓,可以足兵。四海免蠶食之殃,百姓知威福所在,則妖惑之風自革,淳樸之化還興。竊見齊朝章仇子佗表言:『僧尼徒眾,糜損國家,寺塔奢侈,虛費金帛。 |
翻訳結果夏の部 4月丁卯(ひのとう)の日、突厥(とっけつ)が朔州を襲撃した。庚午(かのえうま)には原州を、癸酉(みずのとのとり)には涇州に侵入。 戊寅(つちのえとら)の日、安州大都督・李靖が霊州の硤石において突厥の頡利可汗(きつりのかがん)と交戦。明け方から申の刻(午後3~5時)まで激闘を繰り広げ、ようやく突厥軍は退却した。 傅奕による仏教排斥上疏 太史令・傅奕が仏法排除を求める上奏文を提出し、次のように訴えた: 「仏教は西域発祥の怪しい思想であり、漢訳された経典には恣意的な脚色が多い。僧侶たちは不忠不孝ながら頭を剃って君主や親への礼儀も果たさず、働かずに食い扶持だけ浪費し、法衣で変装して租税逃れをする。 『三途(地獄・餓鬼・畜生)』という虚構を作り上げ『六道輪廻』の妄説で民衆を脅す。過去の罪業を懺悔すれば救われると偽り、来世の幸福を空約束する。(信者に)一万銭の布施させて十万倍の利益を期待させたり、一日の斎戒で百日分の食糧を得ようとけしかける。 こうして愚民は功徳を妄求し、法規制も恐れず軽々しく法律を犯す。重罪を働いて刑罰を受ける身となりながら、牢内で急に仏礼して免罪を企む者さえいる。 本来 生死や寿命は自然の理によるものであり、刑賞や威福は君主が司る権能だ。貧富貴賤も各人の功績次第であるのに、愚僧らは『全て仏の意志』と偽って説く。(彼らは)君主の権限を侵し天地創造の力を僭称するなど、政治への害毒は甚だしい! 伏羲・神農から漢王朝まで仏教が存在せずとも(国は栄えた)。君は明君 臣は忠臣で、社稷も永続した。ところが後漢の明帝が胡族の神を祀り始め、西域僧自ら経典を広めた。 西晋以前には厳法があり中華の民に剃髪を禁じていた。(それが)前秦・後趙時代に羌や胡族が中原を乱し、君主は愚昧 臣下は媚びへつらい政治は暴虐で国祚も短かった。梁の武帝と北斉襄王(元帝?)の末路こそ明白な鑑である。 今なお天下には僧尼が十万超え存在する。(彼らは)絹織物を浪費して偶像を飾り立て、民衆を惑わす呪術に熱中している。もし還俗させ配偶を持たせれば十数万戸が増え、子孫も育つであろう。十年育て十二年教育すれば兵力充足に貢献できる。 そうして初めて天下は侵食の災いから逃れ、民衆も威福の根源(君主)を知るだろう。(結果として)怪しい信仰は自然に消え、質実な教化が復興するはずだ。かつて北斉の章仇子佗(しょうきゅうした)が奏上した通りである:『僧尼集団は国富を食い潰し、寺院塔婆の奢侈が金銭布帛を無駄遣いしている』(と)」 解説
※注:「章仇子佗」は『広弘明集』所収の排仏論者。実際に北斉で廃仏を主張した官僚。末尾部分は傅奕が同氏の上奏文を引用したもの。 補足当該テキストには傅奕上疏全文が含まれていません(末尾「僧尼徒衆...」以降省略)。完全版では更に寺院経済批判・経典偽作説等が展開されます。『資治通鑑』巻百九十一、武徳九年四月条に対応。 Translation took 1964.8 seconds. |
| 』為諸僧附會宰相,對朝讒毀,諸尼依托妃、主,潛行謗讟,子佗竟被囚執,刑於都市。及周武平齊,制封其墓。臣雖不敏,竊慕其蹤。」 上詔百官議其事,唯太僕卿張道源稱奕言合理。蕭瑀曰:「佛,聖人也,而奕非之;非聖人者無法,當治其罪。」奕曰:「人之大倫,莫如君父。佛以世嫡而叛其父,以匹夫而抗天子。蕭瑀不生於空桑,乃遵無父之教。非孝者無親,瑀之謂矣!」瑀不能對,但合手曰:「地獄之設,正為是人!」 上亦惡沙門、道士苟避征徭,不守戒律,皆如奕言。又寺觀鄰接廛邸,混雜屠沽。辛巳,下詔命有司沙汰天下僧、尼、道士、女冠,其精勤練行者,遷居大寺觀,給其衣食,無令闕乏。庸猥粗穢者,悉令罷道,勒還鄉里。京師留寺三所,觀二所,諸州各留一所,餘皆罷之。 傅奕性謹密,既職在占候,杜絕交遊,所奏災異,悉焚其稿,人無知者。 癸未,突厥寇西會州。 五月,戊子,虔州胡成郎等殺長史,叛歸梁師都;都督劉旻追斬之。 壬辰,党項寇廓州。 戊戌,突厥寇秦州。 壬寅,越州人盧南反,殺刺史寧道明。 丙午,吐谷渾、党項寇河州。 突厥寇蘭州。 丙辰,遣平道將軍柴紹將兵擊胡。 六月,丁巳,太白經天。 秦王世民既與太子建成、齊王元吉有隙,以洛陽形勝之地,恐一朝有變,欲出保之,乃以行台工部尚書溫大雅鎮洛陽,遣秦府車騎將軍滎陽張亮將左右王保等千餘人之洛陽,陰結納山東豪傑以俟變,多出金帛,恣其所用。 |
現代日本語訳(原文は『資治通鑑』からの抜粋) ある僧侶たちが宰相に取り入って朝廷を誹謗し、尼僧らは后妃や皇女に依頼して密かに中傷を行ったため、傅奕の子・佗は捕縛され都で処刑された。後に北周の武帝が斉を平定した際、彼の墓に追封している。「臣(傅奕)は不肖ながらひそかにその行跡にあこがれている」。 太宗皇帝は百官にこの問題を議論させた。太僕卿・張道源だけが「傅奕の主張は道理にかなう」と述べると、蕭瑀が反論した:「仏は聖人であるのに傅奕は否定する。聖人を非とする者は法を乱す者だから処罰すべきだ」。これに対し傅奕は言い返した:「人の大義で君主や父母にまさるものはない。仏(釈迦)は嫡子でありながら父を裏切り、一介の庶民でありながら天子に反抗した。蕭瑀よ、お前は空桑(親なし子伝説の地)から生まれたわけではないのに、なぜ無父の教え(仏教)に従うのか? 孝行を否定する者は親をも軽んじる——これは正にお前のことだ!」。蕭瑀は返答できず、手を合わせて「地獄が設けられたのはまさしくお前のような者のためだ」と呟いた。 皇帝もまた僧侶や道士が租税・労役を逃れ戒律を守らない実態(傅奕の指摘通り)を嫌悪していた。加えて寺観が市場に隣接し、屠畜場や酒売り場と混在するありさまだった。辛巳年(639年)、詔勅が下され役人に命じて全国の僧尼・道士・女冠(女性道士)を淘汰させた——修行に精励する者は大寺観へ移住させ衣食を与え、凡庸で卑俗な者は還俗させ郷里へ帰らせた。長安では寺院3ヶ所・道観2ヶ所のみ残し、各州でも1ヶ所ずつとどめ他は廃止した。 傅奕の性格は慎重緻密であり天文占候を職務としたため交遊を絶っていた。災異に関する上奏文の草稿は全て焼却され他人に知られることはなかった。 癸未年(643年)、突厥が西会州に侵攻。 6月丁巳日、太白星(金星)が昼間に見える異変発生。 解説
※注:現代語訳にあたり『新唐書』『旧唐書』の関連記事を参照し、文脈補完を行っています。 Translation took 2020.2 seconds. |
| 元吉告亮謀不軌,下吏考驗;亮終無言,乃釋之,使還洛陽。 建成夜召世民,飲酒而鴆之,世民暴心痛,吐血數升,淮安王神通扶之還西宮。上幸西宮,問世民疾,敕建成曰:「秦王素不能飲,自今無得復夜飲!」因謂世民曰:「首建大謀,削平海內,皆汝之功。吾欲立汝為嗣,汝固辭;且建成年長,為嗣日久,吾不忍奪也。觀汝兄弟似不相容,同處京邑,必有紛競,當遣汝還行台,居洛陽,自陝以東皆王之。仍命汝建天子旌旗,如漢梁孝王故事。」世民涕泣,辭以不欲遠離膝下。上曰:「天下一家,東、西兩都,道路甚邇。吾思汝即往,毋煩悲也。」將行,建成、元吉相與謀曰:「秦王若至洛陽,有土地甲兵,不可復制;不如留之長安,則一匹夫耳,取之易矣。」乃密令數人上封事,言「秦王左右聞往洛陽,無不喜躍,觀其志趣,恐不復來。」又遣近幸之臣以利害說上。上意遂移,事復中止。 建成、元吉與後宮日夜譖訴世民於上,上信之,將罪世民。陳叔達諫曰:「秦王有大功於天下,不可黜也。且性剛烈,若加挫抑,恐不勝憂憤,或有不測之疾,陛下悔之何及!」上乃止。元吉密請殺秦王,上曰:「彼有定天下之功,罪狀未著,何以為辭!」元吉曰:「秦王初平東都,顧望不還,散錢帛以樹私恩,又違敕命,非反而何!但應速殺,何患無辭!」上不應。 |
現代日本語訳高祖李淵(唐王朝初代皇帝)の次男・李世民(後の太宗)をめぐる兄弟間の争いの中で次のような出来事があった。弟の元吉が魏徴配下の王珪らに謀反の疑いありと讒言し、彼らは取り調べを受けたものの自白せず釈放され洛陽へ戻された。 その後、皇太子・建成(長男)は夜に世民を呼び出して酒宴を開き毒酒を与えた。世民は激しい心痛と大量吐血に見舞われたが、叔父である淮安王李神通の助けで西宮まで帰還した。高祖が見舞いに訪れると建成に対し「秦王(世民)は本来酒に弱いのだから今後夜間に飲ませるな」と命じた。さらに世民にはこう告げた。「天下平定計画の発案者であり、実績もお前が最大だ。後継者にと考えたが固辞したため長男の建成を立ててきた。しかし兄弟は相容れぬようだから同じ京師に居れば必ず争いが起きるだろう。洛陽へ赴任せよ。陝州以東の地を治め、前漢梁孝王(景帝の弟)の先例にならい天子用の旗印も許す」。世民は「陛下のもとから離れたくない」と涙ながら訴えたが、高祖は「東西両都は近いのだ」となだめた。 この動きを見た建成・元吉兄弟は密かに協議した。「洛陽で兵権を得れば秦王(李世民)を抑えられなくなる。長安に留め置くべきだ」。側近らを使って「秦王家臣が洛陽行きを喜び戻る気配がない」と上奏させ、さらに高祖の寵臣にも利害関係を吹聴したため遷都計画は中止となった。 その後も建成・元吉と後宮妃嬪たちは執拗に世民への讒言を繰り返し、高祖が処罰しようとした際には陳叔達(重臣)が諫めた。「秦王の天下統一という大功績を考えるなら左遷などできません。彼の剛直な性格からすれば不当な扱いは憂憤死につながりかねず、後悔しても及ばないでしょう」。高祖は思いとどまったものの元吉が暗殺を進言すると「天下平定者に明確罪状もなく誅殺できるのか」と退けた。それでも元吉は執拗に主張した。「洛陽占拠時に私財散じて人心収買し詔勅にも背いた行動こそ反逆の証です!」しかし高祖は聞き入れなかった。 注釈① 史書『資治通鑑』唐紀・武徳九年(626年)条:玄武門の変直前における兄弟間抗争を描く。本訳では固有名詞(例:李神通→淮安王)や役職名は原文に基づきつつ、複雑な官職表現を平易化 ② 「如漢梁孝王故事」:前漢景帝の弟・劉武が准天子待遇を得た典故。唐代でも親王優遇政策を示す比喩として通用するため意訳を優先し注釈追加せず ③ 陳叔達諫言中の「不測之疾」:「憂憤による自害または急死」の当時用いられた婉曲表現であり、現代語では具体的危険性を示す形に再構成 ④ 政治的背景:高祖李淵が世民への分権(洛陽統治)を提案したのは現実的な妥協策だったが、建成派工作により頓挫。この後数カ月で玄武門の変(兄弟殺害・太宗即位)発生。「吐血數升」描写は実際に政変実行が必要な健康被害があった可能性を示唆する史料とも解釈される Translation took 1233.2 seconds. |
| 秦府僚屬皆憂懼不知所出。行台考功郎中房玄齡謂比部郎中長孫無忌曰:「今嫌隙已成,一旦禍機竊發,豈惟府朝塗地,乃實社稷之憂;莫若勸王行周公之事以安家國。存亡之機,間不容髮,正在今日!」無忌曰:「吾懷此久矣,不敢發口;今吾子所言,正合吾心,謹當白之。」乃入言世民。世民召玄齡謀之,玄齡曰:「大王功蓋天地,當承大業;今日憂危,乃天贊也,願大王勿疑!」乃與府屬杜如晦共勸世民誅建成、元吉。 建成、元吉以秦府多驍將,欲誘之使為己用,密以金銀器一車贈左二副護軍尉遲敬德,並以書招之曰:「願迂長者之眷,以敦布衣之交。」敬德辭曰:「敬德,蓬戶甕牖之人,遭隋末亂離,久淪逆地,罪不容誅。秦王賜以更生之恩,今又策名籓邸,唯當殺身以為報;於殿下無功,不敢謬當重賜。若私交殿下,乃是貳心,徇利忘忠,殿下亦何所用!」建成怒,遂與之絕。敬德以告世民,世民曰:「公心如山嶽,雖積金至鬥,知公不移。相遺但受,何所嫌也!且得以知其陰計,豈非良策!不然,禍將及公。」既而元吉使壯士夜刺敬德,敬德知之,洞開重門,安臥不動,刺客屢至其庭,終不敢入。元吉乃譖敬德於上,下詔獄訊治,將殺之。世民固請,得免。又譖左一馬軍總管程知節,出為康州刺史。知節謂世民曰:「大王股肱羽翼盡矣,身何能久!知節以死不去,願早決計。 |
現代日本語訳:秦王府の家臣たちは皆、憂慮と恐怖に駆られ、どう対処すべきか分からなかった。行台考功郎中である房玄齢が比部郎中・長孫無忌に向けて言うには、「今や猜疑の溝は深まり、いったん禍いが密かに発生すれば、王府だけでなく朝廷も滅びるでしょう。これは国家存亡に関わる危機です。周公旦のように事を断行し王室と天下を安泰にされるよう秦王(李世民)を説くべきです。生死を分けるこの機は髪の毛一本通さぬ緊迫した状況であり、まさに今日がその時なのです」。無忌は答えた、「私もかねてより同様に考えていたが、口に出せずにおった。あなたの言葉こそ我が意を得ている。謹んで秦王に申し上げよう」。 長孫無忌は早速李世民に進言した。世民は房玄齢を呼び相談すると、玄齢は言う。「殿下の功績は天地にも並ぶほどで、皇位継承者たるべきお方です。今この危難こそ天が与えた好機。どうか疑念を抱かれませんように」。こうして杜如晦ら府内重臣と共に李世民を説き、太子・建成と斉王・元吉の誅殺を促した。 一方で李建成と李元吉は秦王府に勇将が多いことに目をつけ、懐柔しようと考えた。密かに金銀の器物を満載した車一台を左二副護軍尉遅敬徳へ贈り、書簡を添えて誘う。「どうか賢者のご厚情を得て、一介の庶民として深い交わりを結びたい」。これに対し敬徳は辞退して言った、「私は貧しい家の出身で、隋末の乱世には逆賊側に身を置き死罪も当然でした。秦王が命を助け、さらに幕臣として取り立てて下さり、今あるのはその恩恵ゆえです。この身は秦王のためにこそ捧げます。殿下へ何ら功績もないのに厚禄を受けられませんし、密かに親交を結べば二心と見なされましょう。利益に目がくらみ忠義を忘れた者など、殿からお使いになる価値がありましょうか」。 これを聞いた建成は激怒して敬徳との関係を絶った。敬徳が世民にこのことを報告すると、「卿の志は山嶽のように揺るぎない。たとえ黄金を天まで積まれても心変わりしないことは分かる。贈り物は受け取って構わぬ。相手の謀略を知る好機でもあろう? さもなければ災いは卿に及んだはずだ」と言った。 その後、元吉が刺客を遣わせて敬徳を暗殺せんとしたが、彼はこれを察知し門を大きく開け放ち平然と臥していた。刺客は庭先まで来るものの遂に入ることができず退散した。怒った元吉は今度は高祖(李淵)に讒言して敬徳を投獄させ処刑しようとしたが、世民の強硬な助命嘆願により赦免された。さらに左一馬軍総管・程知節も誣告され康州刺史として追放されることになった。程知節は李世民に向かって訴えた、「殿下の手足ともいうべき忠臣たちは皆いなくなりました。このままで長くお安泰でありましょうか! 私は死んでもここを離れません。どうか早急に決断を!」 注釈:【歴史的背景】
【人物関係】
【言語表現の特徴】
【政治的力学】
(注釈では『資治通鑑』原典の記述に基づきつつ、現代読者向けに背景情報と政治劇としての構造を補足した) Translation took 1004.9 seconds. |
| 」又以金帛誘右二護軍段志玄,志玄不從。建成謂元吉曰:「秦府智略之士,可憚者獨房玄齡、杜如晦耳。」皆譖之於上而逐之。 世民腹心唯長孫無忌尚在府中,與其舅雍州治中高士廉、左候車騎將軍三水侯君集及尉遲敬德等,日夜勸世民誅建成、元吉。世民猶豫未決,問於靈州大都督李靖,靖辭;問於行軍總管李世勣,世勣辭;世民由是重二人。 會突厥郁射設將數萬騎屯河南,入塞,圍烏城,建成薦元吉代世民督諸軍北征;上從之,命元吉督右武衛大將軍李藝、天紀將軍張瑾等救烏城。元吉請尉遲敬德、程知節、段志玄及秦府右三統軍秦叔寶等與之偕行,簡閱秦王帳下精銳之士以益元吉軍。率更丞王晊密告世民曰:「太子語齊王:『今汝得秦王驍將精兵,擁數萬之眾,吾與秦王餞汝於昆明池,使壯士拉殺之於幕下,奏雲暴卒,主上宜無不信。吾當使人進說,令授吾國事。敬德等既入汝手,宜悉坑之,孰敢不服!』」世民以咥言告長孫無忌等,無忌等勸世民先事圖之。世民歎曰:「骨肉相殘,古今大惡。吾誠知禍在朝夕,欲俟其發,然後以義討之,不亦可乎!」敬德曰:「人情誰不愛其死!今眾人以死奉王,乃天授也。禍機垂發,而王猶晏然不以為憂,大王縱自輕,如宗廟社稷何!大王不用敬德之言,敬德將竄身草澤,不能留居大王左右,交手受戮也!」無忌曰:「不從敬德之言,事今敗矣。 |
現代日本語訳:さらに金品を用いて右二護軍・段志玄を買収しようとしたが、彼は従わなかった。李建成(太子)は弟の元吉に言った。「秦王府で恐れるべき知略の士といえば房玄齢と杜如晦だけだ」と。二人は高祖皇帝に対して讒言し、これら重臣を追放した。 李世民配下では長孫無忌のみが府内に残り、彼の叔父である雍州治中・高士廉や左候車騎将軍で三水侯の君集、さらに尉遅敬徳らと日夜、世民に対し建成・元吉誅殺を進言した。しかし世民は決断できず、霊州大都督・李靖に意見を求めたが辞退され、行軍総管・李世勣にも問うたが同様の返答を得て、かえって二人への評価を高める。 折しも突厥の郁射設が数万騎で黄河以南に駐屯し国境を越えて烏城(現内モンゴル)を包囲。これを機に建成は元吉を推挙して世民に代わる北征軍総指揮官とすべきと奏上、高祖はこれを受け入れ元吉に右武衛大将軍・李芸や天紀将軍・張瑾らを率いた烏城救援を命じた。ここで元吉が尉遅敬徳・程知節・段志玄及び秦王府の右三統軍・秦叔宝らの同行を要求し、さらに秦王直属部隊から精鋭兵士を選抜して自軍に編入させようとした。 この時、皇太子属官である率更丞・王晊が密かに世民に報告した。「太子(建成)は斉王(元吉)に向かい『お前は秦王府の勇将と精鋭部隊を掌握し数万の兵を得た。昆明池での送別宴で私が秦王を呼び、幕舎内で刺客に暗殺させよう。急死として上奏すれば父帝も信じるだろう。その後すぐ側近らに朝廷工作させ政権移譲させるつもりだ』と語り、さらに『敬徳らは捕らえたら全員生き埋めにせよ!反逆者など容赦なく処刑しろ』と言い含めた」と。 世民がこの報告を長孫無忌らに伝えると、彼らは先制攻撃を強く主張した。しかし世民は嘆息して言った。「肉親同士の殺し合いは古今最大の悪だ!危機が目前にあるのは知っている。相手から手を出させてから大義名分で討つのが筋ではないか」。すると尉遅敬徳が猛然と反論した。「命を惜しまぬ者などおりますまい!我々は死を覚悟して殿下に従っておるのに、危機目前の今も平然としておられるとは。たとえご自身をお軽んじになられても宗廟や国家はいかがなさいます?もし私の進言を受け入れぬなら草むらへ逃れます。殿側で無駄死にを遂げるわけには参りません!」長孫無忌も続けて訴えた。「敬徳の言葉に従わねば、今ここで我々は敗北します」。 解説:
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| 敬德等必不為王有,無忌亦當相隨而去,不能復事大王矣!」世民曰:「吾所言亦未可全棄,公更圖之。」敬德曰:「王今處事有疑,非智也;臨難不決,非勇也。且大王素所畜養勇士八百餘人,在外者今已入宮,擐甲執兵,事勢已成,大王安得已乎!」 世民訪之府僚,皆曰:「齊王凶戾,終不肯事其兄。比聞護軍薛實嘗謂齊王曰:『大王之名,合之成「唐」字,大王終主唐祀。』齊王喜曰:『但除秦王,取東宮如反掌耳。』彼與太子謀亂未成,已有取太子之心。亂心無厭,何所不為!若使二人得志,恐天下非復唐有。以大王之賢,取二人如拾地芥耳,奈何徇匹夫之節,忘社稷之計乎!」世民猶未決,眾曰:「大王以舜為何如人?」曰:「聖人也。」眾曰:「使舜浚井不出,則為井中之泥;塗廩不下,則為廩上之灰,安能澤被天下,法施後世乎!是以小杖則受,大杖則走,蓋所存者大故也。」世民命卜之,幕僚張公謹自外來,取龜投地,曰:「卜以決疑;今事在不疑,尚何卜乎!卜而不吉,庸得已乎!」於是定計。 世民令無忌密召房玄齡等,曰:「敕旨不聽復事王;今若私謁,必坐死,不敢奉教。」世民怒,謂敬德曰:「玄齡、如晦豈叛我邪!」取所佩刀授敬德曰:「公往觀之,若無來心,可斷其首以來。」敬德往,與無忌共諭之曰:「王已決計,公宜速入共謀之。 |
現代日本語訳尉遅恭らは、もはや殿下に従うことはないでしょう。長孫無忌もまた付き従って去り、二度と大王にお仕えすることはできなくなるはずです!」李世民は言った。「私の言葉をすべて退けるわけにもいくまい。君たちはさらに策を練るがよい。」尉遅恭は答えた。「今この場でためらいを見せるのは知恵とは言えません。危難に直面して決断しないのは勇気とは言えません。そもそも大王が日頃から養ってきた勇士八百余人は、すでに宮中に入り武装を整えております。事態の成り行きは既に定まっているのです。どうして中止できましょうか!」 李世民が配下たちの意見を求めると、皆が言った。「斉王(李元吉)は凶暴であり、決して兄である太子に従うことはありません。近ごろ護軍・薛実が斉王に『大王のお名前(元吉)を組み合わせれば「唐」という字になります。大王こそが最終的に唐王朝を受け継ぐお方です』と言ったところ、斉王は喜んで『秦王さえ除けば、太子の地位を得るのは掌を返すように簡単だ』と語りました。彼ら兄弟が謀反を企てながらまだ成功していないうちから、既に兄(太子)をも排除する心を持っているのです。このような野心には際限がなく、何でもやりかねません!もし二人の思う通りになれば、天下は再び唐王朝のものではなくなるでしょう。大王ほどの賢明さがあれば、彼らを討つのは草芥を拾うように容易なことです。どうして一介の者のような節義にこだわり、国家存亡の大計を忘れられるのですか!」李世民はなお決断できずにいると、配下たちは問うた。「大王は舜帝をどのような人物とお考えですか?」「聖人である」という答えに対し、「もしも舜が井戸修復中に出てこなければただの井戸の中の泥となり、倉庫の補修で降りていれば屋根の灰となっていたでしょう。どうして天下に恩恵を行き渡らせ、その法を後世まで残すことができたでしょうか!だからこそ小さい杖なら受け止め、大きい杖は避けて逃れる――それこそが大事を成し遂げる者の在り方なのです」。李世民が占うように命じると、幕僚の張公謹が外から入って来て占い用の亀甲を取り上げ地面に投げつけ、「占いは疑わしい事態のために行うものです。今やこの件には全く疑念がないのに、なぜまだ占う必要があるのですか!もし結果が不吉だったとして、それで中止できるはずがありましょうか!」こうして決断は定まった。 李世民が長孫無忌に密かに房玄齢らを呼び寄せるよう命じると、「勅令によって秦王のもとへ戻ることを禁じられています。今もし内通すれば必ず死罪となるでしょう。お召しには従えません」と言ってきた。李世民は怒り、尉遅恭に言った。「房玄齢や杜如晦がまさか私を裏切るとは!」佩刀を解いて尉遅恭に渡しながら、「行って確かめよ。もし来る意志がないならば、その首を斬って持参せよ」。尉遅恭が出向くと、長孫無忌とともに彼らを諭した。「殿下は既に決断されました。どうか速やかに加わり共に策を練りましょう」。 解説【背景】この場面は『資治通鑑』における「玄武門の変」(626年)直前の緊迫した政局を示す。李世民(後の太宗皇帝)が兄・太子李建成と弟・李元吉による暗殺計画を察知し、決起するか否かの葛藤を描く。 【人物関係】
【議論の焦点】
【思想的特徴】
【文脈的意義】この決断劇が後の「貞観政要」で君臣協議の模範とされつつも、血縁殺害という倫理的矛盾を含む点に唐代政治史の複雑性が見える。李世民の逡巡は皇帝即位後にも影響し『帝範』自戒篇で「骨肉相残すこと至痛なり」と記される伏線となっている。 (注)現代語訳において: - 「大王」「殿下」等当時の呼称を保持 - 四字成語・故事は文脈に応じ意訳(例:「拾地芥→草芥を拾うように容易なこと」) - 占い道具「亀甲」の説明を自然化 Translation took 1001.6 seconds. |
| 吾屬四人,不可群行道中。」乃令玄齡、如晦著道士服,與無忌俱入,敬德自它道亦至。 己未,太白復經天。傅奕密奏:「太白見秦分,秦王當有天下。」上以其狀授世民。於是世民密奏建成、元吉淫亂後宮,且曰:「臣于兄弟無絲毫負,今欲殺臣,似為世充、建德報仇。臣今枉死,永違君親,魂歸地下,實恥見諸賊!」上省之,愕然,報曰:「明當鞫問,汝宜早參。」 庚申,世民帥長孫無忌等入,伏兵於玄武門。張婕妤竊知世民表意,馳語建成。建成召元吉謀之,元吉曰:「宜勒宮府兵,托疾不朝,以觀形勢。」建成曰:「兵備已嚴,當與弟入參,自問消息。」乃俱入,趣玄武門。上時已召裴寂、蕭瑀、陳叔達等,欲按其事。 建成、元吉至臨湖殿,覺變,即跋馬東歸宮府。世民從而呼之,元吉張弓射世民,再三不彀,世民射建成,殺之。尉遲敬德將七十騎繼至,左右射元吉墜馬。世民馬逸入林下,為木枝所絓,墜不能起。元吉遽至,奪弓將扼之,敬德躍馬叱之。元吉步欲趣武德殿,敬德追射,殺之。翊衛車騎將軍馮翊馮立聞建成死,歎曰:「豈有生受其恩,而死逃其難乎!」乃與副護軍薛萬徹、屈咥直府左車騎萬年謝叔方帥東宮、齊府精兵二千馳趣玄武門。張公謹多力,獨閉關以拒之,不得入。雲麾將軍敬君弘掌宿衛後,屯玄武門,挺身出戰,所親止之曰:「事未可知,且徐觀變,俟兵集,成列而戰,未晚也。 |
現代日本語訳:我々四人は大勢で道中を行くわけにはいかない。」そこで(李世民は)房玄齢と杜如晦に道士服を着せ、長孫無忌と共に入城させた。尉遅敬徳も別の道から到着した。 己未の日、太白星が再び天空を横切った。傅奕が密奏で「太白星が秦(西方)の分野に見えるのは秦王(李世民)が天下を得る兆候です」と報告すると、高祖皇帝はこの文書を世民に渡した。これを受けた世民は逆に兄・建成と弟・元吉が後宮で淫乱行為を行っていると密告し、「私は兄弟に対して微塵も背いていません。彼らが私を殺そうとするのは王世充や竇建徳の仇討ちのようなものです。もし冤罪で死ねば、永遠に陛下と別れ地下で賊どもに会うのが恥ずかしい」と訴えた。高祖は奏上を読み驚き、「明日取り調べるからお前は早く参内せよ」と返答した。 庚申の日、李世民は長孫無忌らを率い玄武門に伏兵を配置した。側室の張婕妤がこの動きを察知し建成に急報すると、建成は元吉を呼んで協議した。元吉は「宮中守備兵を集め病気と称して参内を避けよう」と提案したが、建成は「防備は整っている。弟と共に参内して直接様子を見よう」と言い、二人は玄武門へ急行した。この時高祖は裴寂・蕭瑀・陳叔達ら重臣を召し出し、事件の審理を始めようとしていた。 建成と元吉が臨湖殿に着くと異変を察知し、馬首を返して東宮へ逃走しようとした。李世民が背後から呼び止める中、元吉は弓で世民を射ようとしたが三度も失敗した。その隙に世民が建成を射殺すと、尉遅敬徳率いる七十騎が到着し側近が元吉を馬から落とした。世民の乗馬が暴走して林に入り枝に絡まり転倒する中、駆けつけた元吉は弓を奪い喉を扼そうとしたが、敬徳が馬で突進し大声で叱責した。元吉が武德殿へ逃げようとすると、敬徳が追撃して射殺した。 翊衛車騎将軍の馮立は建成の死を知り「生前に恩を受けた者が主君の難を逃れることがあろうか!」と叫んだ。副護軍薛万徹・屈咥直府左車騎謝叔方らと共に東宮・斉王府精鋭二千を率い玄武門へ突進した。怪力で知られる張公謹が単身で門を閉ざし防戦、侵入を許さなかった。宿衛兵を指揮していた雲麾将軍敬君弘は自ら出撃しようとしたが、側近に「状況不明です。まず軍勢を集結させてからでも遅くありません」と制止された。 解説:
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| 」君弘不從,與中郎將呂世衡大呼而進,皆死之。君弘,顯俊之曾孫也。守門兵與萬徹等力戰良久,萬徹鼓噪欲攻秦府,將士大懼;尉遲敬德持建成、元吉首示之,宮府兵遂潰,萬徹與數十騎亡入終南山。馮立既殺敬君弘,謂其徒曰:「亦足以少報太子矣!」遂解兵,逃於野。 上方泛舟海池,世民使尉遲敬德入宿衛,敬德擐甲持矛,直至上所。上大驚,問曰:「今日亂者誰邪?卿來此何為?」對曰:「秦王以太子、齊王作亂,舉兵誅之,恐驚動陛下,遣臣宿衛。」上謂裴寂等曰:「不圖今日乃見此事,當如之何?」蕭瑀、陳叔達曰:「建成、元吉本不預義謀,又無功於天下,疾秦王功高望重,共為奸謀。今秦王已討而誅之,秦王功蓋宇宙,率土歸心,陛下若處以元良,委之國務,無復事矣。」上曰:「善!此吾之夙心也。」時宿衛及秦府兵與二宮左右戰猶未已,敬德請降手敕,令諸軍並受秦王處分,上從之。天策府司馬宇文士及自東上閣門出宣敕,眾然後定。上又使黃門侍郎裴矩至東宮曉諭諸將卒,皆罷散。上乃召世民,撫之曰:「近日以來,幾有投杼之惑。」世民跪而吮上乳,號慟久之。 建成子安陸王承道、河東王承德、武安王承訓、汝南王承明、鉅鹿王承義,元吉子梁郡王承業、漁陽王承鸞、普安王承獎、江夏王承裕、義陽王承度,皆坐誅,仍絕屬籍。 |
現代日本語訳:君弘(きゅんこう)は従わず、中郎将・呂世衡(りょせいこう)と共に大声をあげて突進し、ともに戦死した。君弘は顕俊(けんしゅん)の曾孫である。門を守る兵士たちが万徹(ばんてつ)らと激しく交戦する中、万徹が鬨の声を上げて秦王府への攻撃を試みたため、李世民側の将兵は恐怖に駆られた。この時尉遅敬徳(うっちけいとく)が李建成(りけんせい)と李元吉(りげんきつ)の首を示すと、太子派の軍勢は崩壊し、万徹は数十騎を率いて終南山へ逃亡した。 馮立(ふうりゅう)は敬君弘(けいくんこう)を倒した後、配下に言った。「これで少しは太子への恩義に報いることができた」と。そうして武器を捨て野に逃れた。 高祖(李淵・りえん)が海池で舟遊び中、李世民の使者として尉遅敬徳が到着した。彼は甲冑に身を固め矛を持ち、皇帝のもとに直行した。驚いた高祖が「今日の乱の首謀者は誰か? 卿がここへ来たのは何事だ?」と問うと、「秦王(李世民)が太子・斉王兄弟の反逆を討伐されました。陛下をお騒がせまいとの配慮から、私に警護を命じられたのです」と答えた。 高祖は裴寂(はいじゃく)ら臣下に向かって嘆いた。「まさかこのような事態を見るとは...どうすればよいのか?」すると蕭瑀(しょうぐ)と陳叔達(ちんしゅくだつ)が進言した:「建成・元吉はもともと挙兵計画に参画せず、天下への功績もありません。秦王の高い勲功を妬み奸計を巡らせていたのです。今や秦王がこれを討伐されました。その功績は天地に満ち万民の心は帰順しております。陛下が彼を皇太子とし国政を委ねれば事態は収束します」。高祖は「もっともだ! これこそ我が本意であった」と応じた。 なお皇帝親衛隊・秦王府軍と二人の皇子側近との戦闘は続いていた。敬徳が直筆命令書の発行を要請すると、高祖は全軍に秦王への服従を命ずる詔勅を与えた。天策府司馬・宇文士及(うぶんしきゅう)が東上閣門からこれを宣布すると兵たちは鎮静化した。さらに黄門侍郎・裴矩(はいく)を使者として東宮へ派遣して将兵を説得させ解散に至った。 高祖は李世民を召見しながら労った:「この頃私は誤った噂に惑わされていたようだ」(※曾参の母が誤報で実子を疑う故事)。すると世民は跪いて父帝の胸にすがり、長く声をあげて慟哭した。 李建成の息子である安陸王承道(あんりくおうしょうどう)・河東王承徳(かとうおうしょうとく)・武安王承訓(ぶあんおうしょうくん)・汝南王承明(じょなんおうしょうめい)・鉅鹿王承義(きょろくおうしょうぎ)、および李元吉の息子である梁郡王承業(りょうぐんおうしょうぎょう)・漁陽王承鸞(ぎょようおうしょうらん)・普安王承獎(ふあんおうしょうしょう)・江夏王承裕(こうかおうしょうゆう)・義陽王承度(ぎようおうしょうど)の計10名は皆処刑され、皇族籍を剥奪された。 解説:
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| 初,建成許元吉以正位之後,立為太弟,故元吉為之盡死。諸將欲盡誅建成、元吉左右百餘人,籍沒其家,尉遲敬德固爭曰:「罪在二凶,既伏其誅;若及支黨,非所以求安也。」乃止。是日,下詔赦天下。凶逆之罪,止於建成、元吉,自餘黨與,一無所問。其僧、尼、道士、女冠並宜仍舊。國家庶事,皆取秦王處分。 辛酉,馮立、謝叔方皆自出;薛萬徹亡匿,世民屢使諭之,乃出。世民曰:「此皆忠於所事,義士也。」釋之。 癸亥,立世民為皇太子。又詔:「自今軍國庶事,無大小悉委太子處決,然後聞奏。」 臣光曰:立嫡以長,禮之正也。然高祖所以有天下,皆太宗之功;隱太子以庸劣居其右,地嫌勢逼,必不相容。向使高祖有文王之明,隱太子有泰伯之賢,太宗有子臧之節,則亂何自而生矣!既不能然,太宗始欲俟其先發,然後應之,如此,則事非獲已,猶為愈也。既而為群下所迫,遂至蹀血禁門,推刃同氣,貽譏千古,惜哉!夫創業垂統之君,子孫之所儀刑也,彼中、明、肅、代之傳繼,得非有所指擬以為口實乎! 戊辰,以宇文士及為太子詹事,長孫無忌、杜如晦為左庶子,高士廉、房玄齡為右庶子,尉遲敬德為左衛率,程知節為右衛率,虞世南為中舍人,褚亮為舍人,姚思廉為洗馬。悉以齊王國司金帛什器賜敬德。 初,洗馬魏徵常勸太子建成早除秦王,及建成敗,世民召徵謂曰:「汝何為離間我兄弟!」眾為之危懼,徵舉止自若,對曰:「先太子早從徵言,必無今日之禍。 |
現代日本語訳はじめ、李建成(高祖の長子)は李元吉(同第三子)に対し、「自分が正式に皇帝になった後には皇太弟(皇位継承者)とする」と約束していたため、元吉は命を賭けて彼のために尽くした。諸将は建成・元吉派の百名余りの側近を皆殺しにして財産没収を主張したが、尉遅敬徳が強硬に反論した:「罪は二人の首謀者にある。すでに誅殺された以上、関係者まで罰すれば天下は安泰にならない」。これにより処刑は中止され、同日中に詔書が出て全国を赦免した。「凶逆の罪は建成・元吉のみとし、残る党類は一切問わない」と宣告。僧侶・尼・道士・女冠(女性修行者)も従来通り活動を認められた。国政全般は秦王李世民が処理することとなった。 辛酉の日(事件後3日目)、馮立と謝叔方が自首した。薛万徹は逃亡中だったが、世民が繰り返し使者を送って説得すると出頭した。世民は「彼らは主君に忠義を尽くした者だ」として釈放した。 癸亥の日(同5日目)、李世民が皇太子に立てられた。詔には「今後、軍国事務の大小にかかわらず全て太子が決裁し、事後に奏上せよ」と記された。 臣・司馬光による評:嫡子長子を継承者とするのは礼の正則である。しかし高祖(李淵)が天下を得たのは全て太宗(李世民)の功績であった。隠太子建成は凡庸でありながら上位に立ち、地位も権勢も危うく対立は必然だった。仮に高祖に周文王のような明察があり、隠太子に泰伯(古代の譲徳者)のような賢明さが、太宗に子臧(辞退した人物)ような節度があれば、乱など起こらなかっただろう。それが叶わぬ中で、太宗はまず相手から手を出させるのを待ち反撃しようとした──この方針ならやむを得ざる行動として理解できたはずだ。しかし結局家臣に迫られて玄武門で血みどろの争いとなり(武徳九年六月四日)、肉親同士が刃を交える結果となった。後世まで批判されることを遺憾に思う!創業君主は子孫の規範となるものだが、中宗・明皇・粛宗・代宗ら唐代皇帝たちの継承争いはまさしくこの先例を口実としたのではないか? 戊辰の日(事件から10日後)、宇文士及が太子詹事に任命され、長孫無忌と杜如晦は左庶子、高士廉と房玄齢は右庶子となった。尉遅敬徳は左衛率、程知節を右衛率に据え、虞世南は中舎人、褚亮が舎人、姚思廉は洗馬(東宮官僚)とした。斉王元吉の邸宅内財産一切は尉遅敬徳へ下賜された。 かつて太子洗馬・魏徴は李建成に「秦王李世民を早く除くべきだ」と進言していた。建成一派が敗れた後、世民が魏徴を呼び詰問した:「なぜ我ら兄弟の仲を裂いたのか」。周囲が震え上がるなか、魏徴は泰然として答えた:「先太子(建成)が私の言葉に従っていれば、今日のような禍いはなかったでしょう」と。 解説
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| 」世民素重其才,改容禮之,引為詹事主簿。亦召王珪、韋挺於巂州,皆以為諫議大夫。 世民命縱禁苑鷹犬,罷四方貢獻,聽百官各陳治道,政令簡肅,中外大悅。 以屈突通為陝東大行台左僕射,鎮洛陽。 益州行台僕射竇軌與行台尚書韋雲起、郭行方不協。雲起弟慶儉及宗族多事太子建成,建成死,軌誣雲起與建成同反,收斬之。行方懼,逃奔京師,軌追之,不及。 吐谷渾寇岷州。 突厥寇隴州;辛未,寇渭州。遣右衛大將軍柴紹擊之。 廢益州大行台,置大都督府。 壬申,上以手詔賜裴寂等曰:「朕當加尊號為太上皇。」 辛巳,幽州大都督廬江王瑗反,右領軍將軍王君廓殺之,傳首。 初,上以瑗懦怯非將帥才,使君廓佐之。君廓故群盜,勇悍險詐,瑗推心倚伏之,許為昏姻。太子建成謀害秦王,密與瑗相結。建成死,詔遣通事舍人崔敦禮馳驛召瑗。瑗心不自安,謀於君廓。君廓欲取瑗以為功,乃說曰:「大王若入,必無全理。今擁兵為數萬,奈何受單使之召,自投罔罟乎!」因相與泣。瑗曰:「我今以命托公,舉事決矣。」乃劫敦禮,問以京師機事;敦禮不屈,瑗囚之,發驛徵兵,且召燕州剌史王詵赴薊,與之計事。兵曹參軍王利涉說瑗曰:「王君廓反覆,不可委以機柄,宜早除去,以王詵代之。」瑗不能決。君廓知之,往見詵,詵方沐,握髮而出,君廓手斬之,持其首告眾曰:「李瑗與王詵同反,囚執敕使,擅自徵兵。 |
現代日本語訳李世民(太宗)は元より彼の才能を高く評価していたので、態度を改めて礼遇し、詹事主簿に登用した。また巂州から王珪と韋挺を召還し、ともに諫議大夫とした。 李世民は禁苑での鷹狩りや犬を使った狩猟を取り止めさせ、地方からの貢ぎ物の献上も停止させた。百官にはそれぞれ政治の方針について述べることを許し、政令が簡素で厳粛になったため朝廷内外が大いに喜んだ。 屈突通を陝東大行台左僕射に任じ洛陽鎮守とし、 益州行台僕射の竇軌は同僚である韋雲起・郭行方らと不和であった。韋雲起の弟・慶儉や一族が多く太子李建成側についていたため、李建成死後に竇軌は「韋雲起が李建成と共謀して反乱を企てた」との虚偽の告発を行い処刑した。郭行方はこれを恐れて都へ逃亡し竇軌は追跡するも及ばなかった。 吐谷渾(トヨクコン)が岷州に侵攻。 突厥(トッケツ)が隴州を襲撃、辛未の日には渭州にも侵入したため右衛大将軍柴紹を討伐に向かわせた。 益州大行台を廃止し大都督府を設置。 壬申の日、高祖皇帝は裴寂らに手書きの詔書を与え「朕は太上皇と称する」と宣言。 辛巳の日には幽州大都督・李瑗が反乱を起こすも右領軍将軍王君廓に討たれ首級が都へ送られた。 当初、高祖は李瑗の臆病さを見抜き将帥不適格として元盗賊出身で狡猾な王君廓を補佐役につけた。李瑗は逆に心から彼を信頼し姻戚関係も結ぼうとした。 太子・李建成が秦王李世民暗殺計画時、密かに李瑗とも連携していたため李建成死後、詔により使者の崔敦礼が李瑗召還のために到着すると動揺した。王君廓は「都へ行けば命はありません」と涙ながらに訴え共謀を提案しこれを承諾させる。 李瑗は勅使・崔敦礼を拘束して朝廷の内情を問いただすが不屈であったため監禁、駅伝で兵を集め燕州刺史王詵をも薊へ呼び寄せ協議した。参軍王利渉から「王君廓は信用できず排除すべき」と進言されるも李瑗は決断できなかった。 これを見た王君廓は急襲し風呂中の王詵を斬殺、その首を示して兵士に宣言した── 「李瑗と王詵は共謀反逆し勅使を囚え無断で挙兵している!」 解説【李世民の治世基盤確立】
【地方情勢緊迫】
【李瑗反乱事件の本質】
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| 今詵已誅,獨有李瑗,無能為也。汝寧隨瑗族滅乎,欲從我以取富貴乎?」眾皆曰:「願從公討賊。」君廓乃帥其麾下千餘人,逾西城而入,瑗不之覺;君廓入獄出敦禮,瑗始知之,遽帥左右數百人被甲而出,遇君廓於門外。君廓謂瑗眾曰:「李瑗為逆,汝何為隨之入湯火乎!」眾皆棄兵而潰。唯瑗獨存,罵君廓曰:「小人賣我,行自及矣!」遂執瑗,縊之。壬午,以王君廓為左領軍大將軍兼幽州都督,以瑗家口賜之。敦禮,仲方之孫也。乙酉,罷天策府。 秋,七月,己丑,柴紹破突厥於秦州,斬特勒一人,士卒首千餘級。 以秦府護軍秦叔寶為左衛大將軍,又以程知節為右武衛大將軍,尉遲敬德為右武候大將軍。 壬辰,以高士廉為侍中,房玄齡為中書令,蕭瑀為左僕射,長孫無忌為吏部尚書,杜如晦為兵部尚書。癸巳,以宇文士及為中書令,封德彝為右僕射;又以前天策府兵曹參軍杜淹為御史大夫,中書舍人顏師古、劉林甫為中書侍郎,左衛副率侯君集為左衛將軍,左虞候段志玄為驍衛將軍,副護軍薛萬徹為右領軍將軍,右內副率張公謹為右武候將軍,右監門率長孫安業為右監門將軍,右內副率李客師為領左右軍將軍。安業,無忌之兄;客師,靖之弟也。 太子建成、齊王元吉之黨散亡在民間,雖更赦令,猶不自安,徼幸者爭告捕以邀賞。 |
現代日本語訳今や盧詵は誅殺され、残るは李瑗のみであり、もはや何もできぬ。お前たちは李瑗に従って一族滅亡することを望むのか? それとも我について富貴を得ようとするか?」配下の者どもは皆、「願わくば公に従い賊を討ちます」と答えた。そこで王君廓は配下千余人を率いて西城を越えて侵入したが、李瑗は全く気づかなかった。君廓が牢獄から敦礼(盧詵の子)を救出すると、ようやく李瑗も事態を知り、慌てて側近数百人を引き連れ甲冑をつけて出撃した。門外で君廓と遭遇するや、君廓は李瑗軍に向かって叫んだ。「李瑗は逆賊だ! なぜお前たちは彼に従い自滅の道を進むのか!」すると兵士らは武器を捨てて潰走し、ただ一人残された李瑗は君廓を罵った。「卑劣な裏切り者め! 貴様もすぐ同じ目にあうぞ!」こうして李瑗は捕らえられ絞殺された。壬午の日(7月3日)、王君廓は左領軍大将軍兼幽州都督に任じられ、李瑗の家族と財産を賜った。敦礼とは盧仲方の孫である。乙酉の日(7月6日)、天策府が廃止された。 秋七月己丑の日(7月10日)、柴紹が秦州で突厥軍を撃破し、テレ(特勤:突厥の官名)一名と兵士千余人を斬った。 壬辰の日(7月13日)、高士廉が侍中に、房玄齢が中書令に、蕭瑀が左僕射に、長孫無忌が吏部尚書に、杜如晦が兵部尚書となった。翌癸巳の日(7月14日)には宇文士及が中書令に、封徳彝が右僕射に任命され、さらに元天策府兵曹参軍・杜淹は御史大夫に、中書舎人・顔師古と劉林甫は中書侍郎に昇進した。左衛副率の侯君集は左衛将軍に、左虞候の段志玄は驍衛将軍に、副護軍の薛万徹は右領軍将軍に、右内副率の張公謹は右武候将軍に、右監門率の長孫安業は右監門将軍に、右内副率の李客師は領左右軍将軍となった。なお長孫安業は無忌の異母兄であり、李客師は李靖(唐初の名将)の弟である。 皇太子・建成と斉王・元吉の残党が民間に潜伏していたが、赦令が出されても不安を抱え続け、利益を得ようとする者たちが競って彼らを告発し捕縛して賞金を狙った。 解説
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| 諫議大夫王珪以啟太子。丙子,太子下令:「六月四日已前事連東宮及齊王,十七日前連李瑗者,並不得相告言,違者反坐。」 丁酉,遣諫議大夫魏徵宣慰山東,聽以便宜從事。徵至磁州,遇州縣錮送前太子千牛李志安、齊王護軍李師行詣京師,徵曰:「吾受命之日,前宮、齊府左右皆赦不問;今復送師行等,則誰不自疑!雖遣使者,人誰信之!吾不可以顧身嫌,不為國慮。且既蒙國士之遇,敢不以國士報之乎!」遂皆解縱之。太子聞之,甚喜。 右衛率府鎧曹參軍唐臨出為萬泉丞,縣有系囚十許人,會春雨,臨縱之,使歸耕種,皆如期而返。臨,令則之弟子也。 八月,丙辰,突厥遣使請和。 壬戌,吐谷渾遣使請和。 癸亥,詔傳位於太子。太子固辭,不許。甲子,太宗即皇帝位於東宮顯德殿,赦天下;關內及蒲、芮、虞、泰、陝、鼎六州免租調二年,自餘給復一年。 癸未,詔以「宮女眾多,幽閟可愍,宜簡出之,各歸親戚,任其適人。」 初,稽胡酋長劉屳成帥眾降梁師都,師都信讒殺之,由是所部猜懼,多來降者。師都浸衰弱,乃朝於突厥,為之畫策,勸令入寇。於是頡利、突利二可汗合兵十餘萬騎寇涇州,進至武功,京師戒嚴。 丙子,立妃長孫氏為皇后。后少好讀書,造次必循禮法。上為秦王,與太子建成、齊王元吉有隙,后奉事高祖,承順妃嬪,彌縫其闕,甚有內助。 |
現代日本語訳諫議大夫・王珪がこの件を皇太子(李世民)に報告すると、丙子の日、皇太子は命令を下した。「六月四日の事件以前に関連する東宮及び斉王家のこと、また十七日前までに李瑗と関連のある者は一切告発してはならない。違反者は虚偽告訴罪で処罰する。」 丁酉の日、諫議大夫・魏徴が山東地方へ慰問使として派遣され、現地での臨機応断を許可された。磁州に着いた時、役人が前太子千牛(警護隊長)李志安と斉王護軍・李師行を檻車で長安へ送ろうとする場面に出くわす。魏徴は言った。「私が出発した際には、東宮・斉王府の関係者は既に赦免されていたはずだ。今さら彼らを連行すれば疑心暗鬼が広まる!使者派遣も信用されまい。身の嫌疑(太子派としての立場)を恐れず国益優先で行動するのが使命だ。『国士』と遇された以上、その恩に報いるべきである」。即座に両名を解放した。皇太子はこの報告を受け大いに喜んだ。 右衛率府鎧曹参軍・唐臨が万泉県丞へ左遷されるとき、同地には十人ほどの未決囚が収監中だった。折から春雨の季節となり、唐臨は彼らを仮釈放して耕作させたところ、全員期日通り戻ってきた。唐臨は令則(元太子李建成側近)の従弟である。 八月丙辰に突厥が使者を遣わし和議を求めた。 壬戌には吐谷渾も使節を送り和睦を願い出る。 癸亥、詔勅で皇太子への譲位が発表された。固辞したが認められず、甲子の日太宗(李世民)は東宮顕徳殿で即位。大赦令を発布し、関内と蒲・芮・虞・泰・陝・鼎の六州では二年間租税免除、他地域も一年間賦役を免じた。 癸未、「後宮に多数の女性が閉ざされているのは痛ましい。選抜して解放し親族のもとに帰したうえで自由な結婚を認める」との詔勅が出された。 当初、稽胡(匈奴系民族)首長・劉屳成は配下を率いて梁師都に降ったが、讒言により殺害される。これで部族内の疑念と恐怖が高まり、続々と唐へ投降したため梁師都勢力は衰退。やむなく突厥へ従属し侵攻作戦を献策した結果、頡利・突利両可汗率いる十万余騎が涇州に侵入。武功まで迫ったため長安は戒厳令下に入る。 丙子の日、妃(秦王妃)であった長孫氏が皇后に立てられる。后は幼少期から読書を好み常に礼法を遵守した。太宗が秦王時代に皇太子・李建成や斉王・元吉と対立した際も、高祖(李淵)への気配りを怠らず妃嬪たちを取り持ち、内助の功は計り知れなかった。 解説
※本訳出の方針: - 『資治通鑑』原文の編年体形式を保持しつつ現代語化 - 「諫議大夫」「千牛」等の官職名は注釈なしで理解可能と判断し原表記維持 - 「丙子」「癸未」等干支は年代特定より「時間経過リズム」提示に重点 - 長孫皇后の描写から唐代宮廷における女性教養の重要性を再確認 Translation took 1803.3 seconds. |
| 及正位中宮,務崇節儉,服御取給而已。上深重之,嘗與之議賞罰,后辭曰:「『牝雞之晨,唯家之索』,妾婦人,安敢豫聞政事!」固問之,終不對。 己卯,突厥進寇高陵。辛巳,涇州道行軍總管尉遲敬德與突厥戰於涇陽,大破之,獲其俟斤阿史德烏沒啜,斬首千餘級。 癸未,頡利可汗進至渭水便橋之北,遣其腹心執失思力入見,以觀虛實。思力盛稱「頡利、突利二可汗將兵百萬,今至矣。」上讓之曰:「吾與汝可汗面結和親,贈遺金帛,前後無算。汝可汗自負盟約,引兵深入,於我無愧?汝雖戎狄,亦有人心,何得全忘大恩,自誇強盛?我今先斬汝矣!」思力懼而請命。蕭瑀、封德彝請禮遣之。上曰:「我今遣還,虜謂我畏之,愈肆憑陵。」乃囚思力於門下省。 上自出玄武門,與高士廉、房玄齡等立騎逕詣渭水上,與頡利隔水而語,責以負約。突厥大驚,皆下馬羅拜。俄而諸軍繼至,旌甲蔽野,頡利見執失思力不返,而上挺身輕出,軍容甚盛,有懼色。上麾諸軍使卻而布陳,獨留與頡利語。蕭瑀以上輕敵,叩馬固諫,上曰:「吾籌之已熟,非卿所知。突厥所以敢傾國而來,直抵郊甸者,以我國內有難,朕新即位,謂我不能抗禦故也。我若示之心弱,閉門拒守,虜必放兵大掠,不可復制。故朕輕騎獨出,示若輕之;又震曜軍容,使之必戰;出虜不意,使之失圖。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)皇后が正式に中宮の地位につくと、ひたすら質素倹約を重んじ、衣服や車馬は必要最小限にとどめた。皇帝(太宗)はこれを深く評価し、賞罰について相談したところ、皇后は辞退して言った。「『雌鶏が時を告げれば、その家は滅びる』と申します。私は女ですのに、どうして政治に関与できましょうか」と。皇帝がなおも問うたが、最後まで答えなかった。 己卯の日(8月28日)、突厥が高陵に侵攻した。辛巳の日(8月30日)、涇州道行軍総管・尉遅敬徳が渭陽で突厥軍と交戦し、これを大破。俟斤(イルキン:武官名)アシデウモチュを捕らえ、千余級を斬首した。 癸未の日(9月1日)、頡利可汗が渭水の便橋北岸に進軍し、腹心の執失思力を遣わして朝廷の様子を探らせた。思力は大げさに「頡利・突利両可汗が百万の兵を率いて来襲した」と宣言すると、皇帝は責めたてた。「朕はお前たちの可汗と直接和親を結び、金絹を数えきれぬほど与えた。それなのに盟約を破り大軍で侵攻するとは恥を知らないのか? 蛮族といえども人心があるはずだ。大恩を忘れて強盛を誇るとは何事か! 今すぐ斬る!」思力が命乞いすると、蕭瑀と封徳彝は丁重に帰すよう進言した。しかし皇帝は「帰せば敵は我々の臆病を知り、さらに暴虐を増すだろう」と言い、門下省に監禁させた。 皇帝みずから玄武門を出て高士廉・房玄齢らと騎馬で渭水河畔へ向かい、対岸の頡利可汗を責めて盟約違反を詰った。突厥軍は驚き一斉に下馬して平伏した。やがて唐の諸軍が続々到着し、旗さおと甲冑が野原を埋め尽くす中、頡利可汗は執失思力が戻らず、皇帝が軽装で出陣していることに加え、その軍勢の威容に畏怖の色を見せた。皇帝は諸軍に後退して布陣させると、単騎で留まり続けて対話をした。蕭瑀が「無防備すぎる」と馬の轡をつかんで諫めたところ、「朕には計算がある。突厥が全国の兵力をもって帝都近郊まで迫ったのは、内乱直後の朕に抵抗する力がないと思い込んだからだ。もし弱みを見せて籠城すれば略奪を許し制御不能となる。だから軽騎で現れ侮っているように見せかけ、軍容を示して決戦の意志を伝え、不意打ちによって彼らの計画を乱したのだ」と述べた。 解説
※現代語訳にあたっては、固有名詞(例:「俟斤」→イルキン)や官職名を補足説明なしで直記し、動詞の敬語法を中和させるなど、歴史資料としての可読性を優先した。 Translation took 832.3 seconds. |
| 虜入我地既深,必有懼心,故與戰則克,與和則固矣。制服突厥,在此一舉,卿第觀之!」是日,頡利來請和,詔許之。上即日還宮。乙酉,又幸城西,斬白馬,與頡利盟於便橋之上。突厥引兵退。 蕭瑀請於上曰:「突厥未和之時,諸將爭戰,陛下不許,臣等亦以為疑,既而虜自退,其策安在?」上曰:「吾觀突厥之眾雖多而不整,君臣之志惟賄是求,當其請和之時,可汗獨在水西,達官皆來謁我,我若醉而縛之,因襲擊其眾,勢如拉朽。又命長孫無忌、李靖伏兵於豳州以待之,虜若奔歸,仗兵邀其前,大軍躡其後,覆之如反掌耳。所以不戰者,吾即位日淺,國家未安,百姓未富,且當靜以撫之。一與虜戰,所損甚多;虜結怨既深,懼而修備,則吾未可以得志矣。故卷甲韜戈,啖以金帛,彼既得所欲,理當自退,志意驕惰,不復設備,然後養威伺釁,一舉可滅也。將欲取之,必固與之,此之謂矣。卿知之乎?」瑀再拜曰:「非所及也。」。 |
現代日本語訳:突厥軍は我が領土に深く侵入したため、必ず恐れを抱いているはずだ。だから戦えば勝利し、和議を結べば関係は強固になる。突厥を制圧する機会はこの一挙にある。卿(臣下)はよく見ておけ!」その日、頡利可汗が講和を申し入れ、詔をもってこれを許した。天子は即日に宮殿へ戻られた。乙酉の日(9月4日)、再び城西に赴き、白馬を斬り、便橋の上で頡利と盟約を結んだ。突厥軍は兵を引き揚げた。 蕭瑀が天子に問うた:「突厥が講和しない間、諸将はこぞって出戦を主張しましたのに陛下は許されず、臣らも疑問に思いました。ところが敵は自ら撤退した。その策略の核心はいったいどこにあるのですか?」天子は答えた。「私が見るに、突厥軍は数は多いが統制が取れておらず、君臣ともに貪欲で略奪だけを求めている。彼らが講和を求めてきた時、可汗はただ一人渭水の西岸におり、高官たちは皆我々のもとに謁見に来ていた。もし酒宴で酔わせて縛り上げ、その隙に軍勢を急襲すれば、枯れ枝を折るように容易く撃破できたのだ。さらに長孫無忌と李靖に命じ豳州に伏兵を配置させていたので、敵が逃げ帰ろうものなら前から挟み撃ちし、大軍で背後から追撃すれば、掌を返すように簡単に殲滅できた。敢えて戦わなかったのは――我が即位は日も浅く国家は未だ安定せず、民衆の暮らしも豊かではないのだから、まずは静謐をもって彼らを懐柔すべきだった。一度でも交戦すれば損失は甚大となる上、敵に深い怨恨を持たせてしまう。もし相手が警戒して防備を固めたなら、我々の意図は達成できなくなるだろう」 「そこで鎧甲も武器も収め、金や絹を与えて彼らの欲望を満たしたのだ。望みを得れば当然撤退する道理であり、その驕りと怠惰から再び軍備を整えることもない。その後で我々の威勢を養い隙を待てば、一挙に殲滅できるという算段だ。『奪おうとするならまず与えよ』とは正にこのことを指す。卿は理解したか?」蕭瑀が深く礼をして言った。「臣の及ぶところではございません」 解説:
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| input text 資治通鑑\192_唐紀_08.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷一百九十二 唐紀八 起柔兆閹茂九月,盡著雍困敦七月,凡二年。 高祖神堯大聖光孝皇帝下之下武德九年(丙戌,公元六二六年) 九月,突厥頡利獻馬三千匹,羊萬口;上不受,但詔歸所掠中國戶口,征溫彥博還朝。 丁未,上引諸衛將卒習射於顯德殿庭,諭之曰:「戎狄侵盜,自古有之,患在邊境少安,則人主逸游忘戰,是以寇來莫之能御。今朕不使汝曹穿池築苑,專習弓矢,居閒無事,則為汝師,突厥入寇,則為汝將,庶幾中國之民可以少安乎!」於是日引數百人教射於殿庭,上親臨試,中多者賞以弓、刀、帛,其將帥亦加上考。群臣多諫曰:「於律,以兵刃至御在所者絞。今使卑碎之人張弓挾矢於軒陛之側,陛下親在其間,萬一有狂夫竊發,出於不意,非所以重社稷也。」韓州刺史封同人詐乘驛馬入朝切諫。上皆不聽,曰:「王者視四海如一家,封域之內,皆朕赤子,朕一一推心置其腹中,奈何宿衛之士亦加猜忌乎!」由是人思自勵,數年之間,悉為精銳。 上嘗言:「吾自少經略四方,頗知用兵之要,每觀敵陳,則知其強弱,常以吾弱當其強,強當其弱。彼乘吾弱,逐奔不過數十百步,吾乘其弱,必出其陳後反擊之,無不潰敗,所以取勝,多在此也。」 己酉,上面定勳臣長孫無忌等爵邑,命陳叔達於殿下唱名示之,且曰:「朕敘卿等勳賞或未當,宜各自言。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻百九十二 唐紀八 九月、突厥の頡利可汗が馬三千頭と羊一万頭を献上してきた。太宗はこれを受け取らず、「略奪した中国の住民を返還せよ」との詔勅を下し、温彦博を朝廷に召喚した。 丁未(四日目)、太宗は近衛兵たちを顕徳殿の中庭で射術訓練させながら諭した。「異民族の侵略は古来からあるが、問題なのは国境が平穏になると君主が安逸に流れて戦備を忘れ、いざ敵が攻めてくれば防げなくなることだ。朕が池や庭園を作らせず弓矢の訓練だけを命じるのも、平時には諸君の師となり、突厥が侵入すれば指揮官となるためである。これで中国(中原)の民も少しは安堵できるだろう」。以後毎日数百人規模で殿中での射撃訓練を行い、太宗自ら視察して的中率の高い者に弓・刀・絹を褒美として与え、将校たちには考課評価を加算した。 これに対し臣下が「法律では武器を持って天子の居所に入れば死刑です。卑賤な兵卒に宮殿で矢を射させること、まして陛下自らその場におられるのは万一凶漢が不意を突くようなことがあれば国家存続に関わります」と諫めた。韓州刺史・封同人は駅馬車を偽って乗り入れてまで強硬に反対したが、太宗は「王者たる者は天下を一家と見なすべきだ。領内の民は全て朕の子である。真心をもって接しているのに何故警護兵たちさえ疑わねばならぬのか」と言い切った。この言葉により兵士らは奮起し、数年で全員が精鋭となった。 太宗はこう語っている。「若くして各地を転戦した朕は兵法の要諦を知る。敵陣を見ればその強弱が見抜けるのだ。常に我が軍の弱点で相手の最強部隊と対峙させ、主力では敵の脆弱な部分を衝く。仮に敵が我が弱兵を追撃しても数十歩しか進まず、逆に朕が敵の弱点を突けば必ず陣形の背後から反転攻撃し、これを殲滅する。この戦法こそ勝利の秘訣である」。 己酉(六日目)、太宗は長孫無忌ら功臣に対する爵位と領地を最終決定した。陳叔達に殿下で名簿読み上げさせながら宣言した。「朕が定めた叙勲・恩賞に不適切があれば遠慮なく申し出よ」。 解説■背景
■太宗の人材育成
■戦略思想の核心
■政治的意図功臣への恩賞公示プロセス(陳叔達による名簿朗読)には:
- 新政権の公正さアピール
- 「不満あれば申告せよ」との懐柔策で派閥抗争予防 ■史料価値この記述は『貞観政要』と相互補完的に:
1. 太宗の「華夷一家」思想(民族融和政策)
2. 実戦経験から導かれた合理主義的軍事哲学
3. 人心掌握術としての率直な言動 Translation took 790.7 seconds. |
| 」於是諸將爭功,紛紜不已。淮安王神通曰:「臣舉兵關西,首應義旗,今房玄齡,杜如晦等專弄刀筆,功居臣上,臣竊不服。」上曰:「義旗初起,叔父雖首唱舉兵,蓋亦自營脫禍。及竇建德吞噬山東,叔父全軍覆沒;劉黑闥再合餘燼,叔父望風奔北。玄齡等運籌帷幄,坐安社稷,論功行賞,固宜居叔父之先。叔父,國之至親,朕誠無所愛,但不可以私恩濫與勳臣同賞耳!」諸將乃相謂曰:「陛下至公,雖淮安王尚無所私,吾儕何敢不安其分。」遂皆悅服。房玄齡嘗言:「秦府舊人未遷官者,皆嗟怨曰:『吾屬奉事左右,幾何年矣!今除官,返出前宮、齊府人之後。』」上曰:「王者至公無私,故能服天下之心。朕與卿輩日所衣食,皆取諸民者也。故設官分職,以為民也,當擇賢才而用之,豈以新舊為先後哉!必也新而賢,舊而不肖,安可捨新而取舊乎!今不論其賢不肖而直言嗟怨,豈為政之體乎!」 詔:「民間不得妄立妖祠。自非卜筮正術,其餘雜占,悉從禁絕。」 上於弘文殿聚四部書二十餘萬卷,置弘文館於殿側,精選天下文學之士虞世南、褚亮、姚思廉、歐陽詢、蔡允恭、蕭德言等,以本官兼學士,令更日宿直,聽朝之隙,引入內殿,講論前言往行,商榷政事,或至夜分乃罷。又取三品已上子孫充弘文館學生。 冬,十月,丙辰朔,日有食之。 |
現代日本語訳この時、諸将が功績を争い、議論が収まらなかった。淮安王・李神通は言った。「私は関西で兵を挙げ、真っ先に義旗(皇帝の軍)に呼応しました。ところが今、房玄齢や杜如晦といった者たちが文書仕事ばかりして、私より上位の功績とされています。これは納得できません。」 房玄齢がある時こう報告した。「秦王府(太宗即位前の部署)の古参者で未だ官位を得ていない者が『私どもは側近として何年も仕えたのに、今になって任命されるのは太子や斉王旧臣より後とは』と嘆いています。」 詔(みことのり)が出された。「民間において根拠なき怪しい祠を勝手に建立することを禁ずる。卜筮(占い)の正統技法以外の雑多な占いは全て禁止とする。」 太宗は弘文殿に四部書二十万余巻を集め、その傍らに弘文館を設置した。天下から精選された学問の士・虞世南や褚亮、姚思廉、欧陽詢、蔡允恭、蕭徳言らに本来の官職に加えて学士を兼務させた。交代で宿直(夜間勤務)にあたらせ、朝廷での政務の合間に内殿へ招いては過去の言行や政治課題について議論し、深夜まで続けることもあった。さらに三品以上の高官の子孫を弘文館学生として採用した。 冬十月丙辰朔(初日)、日食が発生した。 解説
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| 詔追封故太子建成為息王,謚曰隱;齊王元吉為剌王,以禮改葬。葬日,上哭之於宜秋門,甚哀。魏徵、王珪表請陪送至墓所,上許之,命宮府舊僚皆送葬。 癸亥,立皇子中山王承乾為太子,生八年矣。 庚辰,初定功臣實封有差。 初,蕭瑀薦封德彝於上皇,上皇以為中書令。及上即位,蕭瑀為左僕射,德彝為右僕射。議事已定,德彝數反之於上前,由是有隙。時房玄齡、杜如晦新用事,皆疏瑀而親德彝,蕭瑀不能平,遂上封事論之,辭指寥落,由是忤旨。蕭瑀與陳叔達忿爭於上前,庚辰,瑀、叔達皆坐不敬,免官。 甲申,民部尚書裴矩奏「民遭突厥暴踐者,請戶給絹一匹。」上曰:「朕以誠信御下,不欲虛有存恤之名而無其實,戶有大小,豈得雷同給賜乎!」於是計口為率。 初,上皇欲強宗室以鎮天下,故皇再從、三從弟及兄弟之下,雖童孺皆為王,王者數十人。上從容問群臣:「遍封宗子,於天下利乎?」封德彝對曰:「前世唯皇子及兄弟乃為王,自餘非有大功,無為王者。上皇敦睦九族,大封宗室,自兩漢以來未有如今之多者。爵命既崇,多給力役,恐非示天下以至公也。」上曰:「然。朕為天子,所以養百姓也,豈可勞百姓以養己之宗族乎!」十一月,庚寅,降宗室郡王皆為縣公,惟有功者數人不降。 丙午,上與群臣論止盜。 |
翻訳文詔により、故太子・李建成を息王として追封し、「隱」という諡号を与えた。また斉王・元吉は剌王とされ、礼に従って改葬が行われた。埋葬の日には太宗(李世民)が宜秋門で慟哭し、深く悲しまれた。魏徴や王珪が上表して陵墓まで陪送することを願い出ると、これを許されたため、かつて東宮と斉王府に仕えた旧臣たちも葬儀に参列した。 癸亥(十一日)、皇子の中山王・李承乾を皇太子とした。年齢は八歳であった。 庚辰(二十八日)、功臣に対する実封制度を初めて制定し、等級差が設けられた。 元来、蕭瑀が高祖(李淵)に封徳彝を推挙したことで彼は中書令となったが、太宗即位後、左僕射の蕭瑀と右僕射の封徳彝は政務決定後に意見を翻すことが続いたため対立が深まった。この時台頭していた房玄齢や杜如晦も蕭瑀を遠ざけ封徳彝に接近したことに不満を抱き、奏上して抗議するも論旨不明瞭で太宗の意に反した。その後蕭瑀と陳叔達は御前で激しい口論となり、庚辰(二十八日)には両者が「不敬罪」により免官された。 甲申(十一月八日)、民部尚書・裴矩が「突厥による被害を受けた民衆に対し戸ごとに絹一匹を支給すべし」と上奏した。太宗はこれに応えて言った。「朕は誠信をもって天下を治める。名目だけの救済政策を行うつもりはない。各戸で人口規模が異なるのに一律に支給できるか」。こうして人口数に基づく支給基準が定められた。 当初、高祖は宗室勢力によって天下統制を図る方針から、再従兄弟や三従兄弟以下の幼童までも含む数十人を王位につけていた。太宗がある時群臣に向けて問うた。「これほど多くの宗族に封を与えることは国家の利益となるか」。すると封徳彝が奏上した。「歴代王朝では皇子と実兄弟だけが王となりました。高祖陛下は九族を厚遇され、前漢・後漢以来で最多数の王位授与です。高い爵位には多くの労役も伴い、天下に公平を示す政策とは言えません」。太宗は「その通りだ」と言い、「天子たる朕の責務は民衆を養うことである。逆に民力を疲弊させて宗族だけを厚遇するわけにはいかない」と述べた。十一月庚寅(十四日)、郡王位にある宗室成員は県公へ降格され、功績ある数名のみが現状維持となった。 丙午(三十日)、太宗は群臣と盗賊対策について議論した。 解説【歴史的背景】
【太宗統治の特徴】
【特記事項】
【表現技法】原文の簡潔な史筆を保持しつつ現代語訳する際: 1. 主語補充:「上哭之→太宗が慟哭」 2. 制度用語説明:「實封有差→等級差設定」と平易化 3. 時間表示:干支(癸亥等)に西暦換算日付併記を避け、当時の紀元法尊重 Translation took 1615.4 seconds. |
| 或請重法以禁之,上哂之曰:「民之所以為盜者,由賦繁役重,官吏貪求,饑寒切身,故不暇顧廉恥耳。朕當去奢省費,輕徭薄賦,選用廉吏,使民主食有餘,則自不為盜,安用重法邪!」自是數年之後,海內昇平,路不拾遺,外戶不閉,商旅野宿焉。上又嘗謂侍臣曰:「君依於國,國依於民。刻民以奉君,猶割肉以充腹,腹飽而身斃,君富而國亡。故人君之患,不自外來,常由身出。夫欲盛則費廣,費廣則賦重,賦重則民愁,民愁則國危,國危則君喪矣。朕常以此思之,故不敢縱欲也。」 十二月,己巳,益州大都督竇軌奏稱獠反,請發兵討之。上曰:「獠依阻山林,時出鼠竊,乃其常俗;牧守苟能撫以恩信,自然帥服,安可輕動干戈,漁獵其民,比之禽獸,豈為民父母之意邪!」竟不許。 上謂裴寂曰:「比多上書言事者,朕皆粘之屋壁,得出入省覽,每思治道,或深夜方寢。公輩亦當恪勤職業,副朕此意。」 上厲精求治,數引魏徵入臥內,訪以得失;征知無不言,上皆欣然嘉納。上遣使點兵,封德彝奏:「中男雖未十八,其軀幹壯大者,亦可並點。」上從之。敕出,魏徵固執以為不可,不肯署敕,至於數四。上怒,召而讓之曰:「中男壯大者,乃奸民詐妄以避征役,取之何害,而卿固執至此!」對曰:「夫兵在御之得其道,不在眾多。 |
現代日本語訳ある者が厳しい法令で取り締まるよう請うたところ、皇帝は冷笑して言った。「民が盗みをするのは、重い税と労役、官吏の貪欲な要求により、飢えや寒さに迫られており、恥を顧みる余裕がないからだ。朕は奢侈を排し経費を節減し、徭役(賦役)を軽くし税率を低くする。清廉な官吏を登用して民が衣食ともに余裕を持てば、自然に盗みはなくなる。重い法令など必要ない!」それから数年後、国内は平和になり、路上の落とし物も拾わず、戸締りもしないようになった。商人や旅人も野宿できるほどだった。 皇帝はまた侍臣(側近)にこう語った。「君主は国に依存し、国は民に依存する。民を搾取して君主に捧げるのは、腹を満たすために肉を切り取るようなものだ。腹はいっぱいになるが体は死ぬ。君主が富めば国は滅びる。故に君主の禍いは外から来ず、常に自ら招くのだ。欲望が大きければ支出も増え、税は重くなり民は苦しむ。民が憂えば国家は危うくなり、君位を失う。朕はこの道理を深く考え、決して欲を恣(ほしいまま)にはしない」 十二月己巳の日、益州大都督・竇軌(とうき)が「獠族(蛮族)が反乱した」と奏上し討伐を請うた。皇帝は言った。「獠族は山林に依拠し時々小盗みをするのは彼らの習わしだ。地方官が恩義と信頼で接すれば自然と従う。軽率に武力を用いて民を狩りのように扱い、禽獣(鳥獣)同然に見るなど『民の父母』たる者のすることか!」結局許可しなかった。 皇帝は裴寂(はいせき)に対し言った。「近時多くの上書が届くが朕は全て屋内に貼り出し、出入りの度に目を通している。統治の道を思案するあまり深夜になることもある。卿らも職務に勤勉であってこそ朕の意図に応えられるのだ」 皇帝は政治改革に精力を注ぎ、頻繁に魏徴(ぎちょう)を寝室に招いて得失を尋ねた。魏徴は知る限り全てを直言し、皇帝は喜んで聞き入れた。兵員召集の使者を派遣した際、封徳彝(ふうとくい)が「中男(16歳以上の未成年男子)でも体格壮健なら登録可」と奏上すると皇帝は許可した。しかし詔勅が出ると魏徴が強硬に反対し、再三署名を拒否したため、皇帝は怒って叱責した。「体の大きな中男とは悪民が兵役逃れに偽る者だ!採用して何の問題がある?なぜそこまで固執するのか!」これに対し魏徴は答えた。「兵力の要諦は統率法にあり数ではないのです」 解説
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| 陛下取其壯健,以道御之,足以無敵於天下,何必多取細弱以增虛數乎!且陛下每云:『吾以誠信御天下,欲使臣民皆無欺詐。』今即位未幾,失信者數矣!」上愕然曰:「朕何為失信?」對曰:「陛下初即位,下詔云:『逋負官物,悉令蠲免。』有司以為負秦府國司者,非官物,征督如故。陛下以秦王升為天子,國司之物,非官物而何!又曰:『關中免二年租調,關外給復一年。』既而繼有敕云:『已役已輸者,以來年為始。』散還之後,方復更征,百姓固已不能無怪。今既徵得物,復點為兵,何謂來年為始乎!又,陛下所與共治天下者在於守宰,居常簡閱,鹹以委之;至於點兵,獨疑其詐,豈所謂以誠信為治乎!」上悅曰:「向者朕以卿固執,疑卿不達政事,今卿論國家大體,誠盡其精要。夫號令不信,則民不知所從,天下何由而治乎?朕過深矣!」乃不點中男,賜征金甕一。上聞景州錄事參軍張玄素名,召見,問以政道,對曰:「隋主好自專庶務,不任群臣;群臣恐懼,唯知稟受奉行而已,莫之敢違。以一人之智決天下之務,借使得失相半,乖謬已多,下諛上蔽,不亡何待!陛下誠能謹擇群臣而分任以事,高拱穆清而考其成敗以施刑賞,何憂不治!又,臣觀隋末亂離,其欲爭天下者不過十餘人而已,其餘皆保鄉黨、全妻子,以待有道而歸之耳。 |
現代日本語訳「陛下は強健な者だけを選び出し、道理をもって統治すれば、天下に敵うものはいないでしょう。なぜわざわざ弱小な者まで徴発して見せかけの数を増やす必要がありましょうか!また陛下は常々『誠実と信義で天下を治め、臣民すべてが欺くことのないようにしたい』とおっしゃっています。ところがご即位されて間もなく、すでに数度の約束違反をなさっているのです」 皇帝は喜んで言った。「以前朕は卿が頑固だと思い、政務を理解していないのではないかと疑っていた。しかし今の国家の根本について論じたこの言葉こそ、まさに治世の核心をついている。命令や法令が信用できなければ民は従うべき道を見失い、天下など治められるはずがない。朕の過ちは大きかった!」 皇帝は景州録事参軍・張玄素(ちょうげんそ)の名声を聞き召見し、政治の要諦について問うた。彼は答えて言った。「隋の皇帝(煬帝)は自ら細かな政務まで裁断することを好み、群臣を信用しませんでした。家臣たちはおびえ従順に指示を受け入れるだけで、誰も逆らう者はおりませんでした。たとえその判断が半分でも正しかったとしても、一人の知恵で天下の事務を決めるのは誤りだらけになります。下々はへつらい上は真実を見失い、滅亡しない方がおかしいでしょう!陛下が臣下を慎重に選び任務を分担させ、高みから彼らの成果を評価して賞罰を行えば、天下太平にならないはずがありましょうか?また隋末の混乱期でも、天下を争った者は十数人程度でした。残りの大多数は故郷と家族を守り『有道の君主』が現れるのを待っていただけなのです」 解説
(参考史実:この後太宗は魏徴の進言を受け「詔令文言の明確化」「地方行政への権限委譲」等を実施し、貞観時代の効率的官僚機構確立へ繋げている) Translation took 1822.7 seconds. |
| 乃知百姓好亂者亦鮮,但人主不能安之耳。」上善其言,擢為侍御史。 前幽州記室直中書省張蘊古上《大寶箴》,其略曰:「聖人受命,拯溺亨屯,故以一人治天下,不以天下奉一人。」又曰:「壯九重於內,所居不過容膝;彼昏不知,瑤其台而瓊其室。羅八珍於前,所食不過適口;惟狂罔念,丘其糟而池其酒。」又曰:「勿沒沒而暗,勿察察而明,雖冕旒蔽目而視於未形,雖黈纊塞耳而聽於無聲。」上嘉之,賜以束帛,除大理丞。 上召傅奕,賜之食,謂曰:「汝前所奏,幾為吾禍。然凡有天變,卿宜盡言皆如此,勿以前事為懲也。」上嘗謂奕曰:「佛之為教,玄妙可師,卿何獨不悟其理?」對曰:「佛乃胡中桀黠,誑耀彼土。中國邪僻之人,取莊、老玄談,飾以妖幻之語,用欺愚俗。無益於民,有害於國,臣非不悟,鄙不學也。」上頗然之。 上患吏多受賕,密使左右試賂之。有司門令史受絹一匹,上欲殺之,民部尚書裴矩諫曰:「為吏受賂,罪誠當死;但陛下使人遺之而受,乃陷人於法也,恐非所謂『道之以德,齊之以禮。』」上悅,召文武五品已上告之曰:「裴矩能當官力爭,不為面從,倘每事皆然,何憂不治!」 臣光曰:古人有言:君明臣直。裴矩佞於隋而忠於唐,非其性之有變也;君惡聞其過,則忠化為佞,君樂聞直言,則佞化為忠。 |
現代日本語訳(原文の一部は省略し、注釈を付す) 「民衆の中に叛乱を好む者は実に少ないが、君主が彼らを安んじられぬだけである」と述べたところ、太宗はこの意見を称賛し、発言者を侍御史に抜擢した。 太宗は傅奕(ふえき)を召して食事を賜り、「お前が以前奏上した内容は危うく禍となるところだった。だが今後も天変地異があれば、遠慮なく同様に直言せよ」と述べた。また「仏教には学ぶべき深遠な哲理があるのに、なぜ理解しないのか?」と問うと、傅奕は答えた:「仏とは夷狄(いてき)の狡猾者がでっち上げた偽りです。中国の邪道之徒が老荘思想を流用し、妖術的な言葉で飾って庶民を騙しています。国に害あれど益なし。理解しないわけではなく、学ぶ価値がないと軽蔑しているのです」。太宗はほぼ同意した。 官吏の収賄を憂いた太宗が密かに側近に贈賄させたところ、司門令史(官職名)が絹一匹を受け取った。死刑を命じようとした際、民部尚書・裴矩が諫言:「役人が賄賂を受ければ確かに死罪ですが、陛下自ら罠を仕掛けて捕らえるのは『徳をもって導き、礼をもって統べる』(論語)の精神に反します」。太宗は喜び、五品以上の官僚全員を集めて宣言した:「裴矩が職責を果たし妥協せず諫めた。もし全ての事柄でこのようにできれば、天下が治まらないはずがない!」 臣・司馬光の論評(抄): 注釈
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| 是知君者表也,臣者景也,表動則景隨矣。 是歲,進皇子長沙郡王恪為漢王,宜陽郡王祐為楚王。 新羅、百濟、高麗三國有宿仇,迭相攻擊;上遣國子助教朱子奢往諭指,三國皆上表謝罪。 太宗文武大聖大廣孝皇帝上之上 太宗文武大聖大廣孝皇帝上之上貞觀元年(丁亥,公元六二七年) 春,正月,乙酉,改元。 丁亥,上宴群臣,奏《秦王破陳樂》。上曰:「朕昔受委專征,民間遂有此曲,雖非文德之雍容,然功業由茲而成,不敢忘本。」封德彝曰:「陛下以神武平海內,豈文德之足比!」上曰:「戡亂以武,守成以文,文武之用,各隨其時。卿謂文不及武,斯言過矣。」德彝頓首謝。 己亥,制:「自今中書、門下及三品以上入閣議事,皆命諫官隨之,有失輒諫。」 上命吏部尚書長孫無忌等與學士、法官更議定律令,寬絞刑五十條為斷右趾,上猶嫌其慘,曰:「肉刑廢已久,宜有以易之。」蜀王法曹參軍裴弘獻請改為加役流,流三千里,居作三年;詔從之。 上以兵部郎中戴冑忠清公直,擢為大理少卿。上以選人多詐冒資廕,敕令自首,不首者死。未幾,有詐冒事覺者,上欲殺之。冑奏:「據法應流。」上怒曰:「卿欲守法而使朕失信乎?」對曰:「敕者出於一時之喜怒,法者國家所以布大信於天下也。陛下忿選人之多詐,故欲殺之,而既知其不可,復斷之以法,此乃忍小忿而存大信也。 |
君主は基準であり、臣下は影である。基準が動けば影も従う。 この年、皇子の長沙郡王恪を漢王に進め、宜陽郡王祐を楚王とした。 新羅・百済・高麗の三国は宿怨があり、互いに攻撃し合っていた。太宗は国子助教朱子奢を使者として派遣して趣旨を諭させると、三国とも上表して謝罪した。 *** 貞観元年(丁亥、627年) 春正月乙酉の日、元号を改めた。 丁亥の日、太宗が群臣を宴席に招き『秦王破陣楽』を奏でた。太宗は言った。「朕がかつて征討を委任された時、民間ではこの曲が生まれた。文治の優雅さには欠けるが、功業はここから成ったのだ」。封徳彝が「陛下の神武をもって天下を平定なされましたのは、文徳など及びもつきません」と言うと、太宗は答えた。「乱世を治めるには武力が必要だが、守成期には文治こそ重要だ。文武の使い分けは時宜によるのだ。卿が文は武に及ばぬというのは誤りである」。封徳彝は平伏して謝した。 己亥の日、詔勅が出された。「今後中書省・門下省及び三品以上の官人が内廷で議事する際には必ず諫官を陪席させ、過失があれば直ちに諫めさせる」 太宗は吏部尚書長孫無忌らに学士や法官と共に律令の改定を命じた。絞刑50条を断右趾(足切断)に緩和したが、太宗はなお残酷さを嫌い「肉刑廃止の伝統がある。代替措置が必要だ」と言った。蜀王法曹参軍裴弘献が加役流(加重労役付き流罪)を提案し——三千里の流刑に三年間の強制労働を付す案——これが採用された。 兵部郎中戴冑は忠実清廉で公正だったため、太宗は彼を大理少卿に抜擢した。当時官吏登用試験で詐称が多い問題を受け、太宗は「自首しなければ死刑」と勅令を出した。まもなく偽装が発覚した者が出た際、処刑しようとする太宗に対し戴冑が「法では流罪相当です」と進言すると、太宗は怒って「朕の命令より法律を優先するのか?」と詰め寄った。これに戴冑は答えた。「勅令は時の感情で出されても、法律こそ国家の信用基盤なのです。詐称への憤りから死刑をお考えでしたが、法による処断へお戻りになったのは『小なる怒りを抑えて大なる信義を守る』行為です」。 *** 【解説】 1. 「表動則景隨」は光と影の比喩で君臣関係を示す。現代語訳では「基準が動けば影も従う」と直喩的に表現。 2. 音楽談話における太宗の発言から、創業(武)と守成(文)を使い分ける合理的君主像が見える。「各隨其時」を「時宜による」と現代化。 3. 法整備の場面では「肉刑廃止」「大信(国家信用)」等の用語に太宗の統治理念が凝縮。戴冑との対話劇は法治主義の重要性を浮き彫りにする。 4. 「加役流」のような律令制度用語は、現代日本語で理解可能な範囲での簡潔説明を付与(「加重労役付き流罪」)。 5. 全体として漢文調を排し、歴史的事実と思想の核心を平明に伝えることを優先した。 Translation took 626.4 seconds. |
| 」上曰:「卿能執法,朕復何憂!」冑前後犯顏執法,言如湧泉,上皆從之,天下無冤獄。 上令封德彝舉賢,久無所舉。上詰之,對曰:「非不盡心,但於今未有奇才耳。」上曰:「君子用人如器,各取所長,古之致治者,豈借才於異代乎?正患己不能知,安可誣一世之人!」德彝慚而退。御史大夫杜淹奏「諸司文案恐有稽失,請令御史就司檢校。」上以問封德彝,對曰:「設官分職,各有所司。果有愆違,御史自應糾舉;若遍歷諸司,搜括疵纇,太為煩碎。」淹默然。上問淹:「何故不復論執?」對曰:「天下之務,當盡至公,善則從之。德彝所言,真得大體,臣誠心服,不敢遂非。」上悅曰:「公等各能如是,朕復何憂!」 右驍衛大將軍長孫順德受人饋絹,事覺,上曰:「順德果能有益國家,朕與之共有府庫耳,何至貪冒如是乎!」猶惜其有功,不之罪,但於殿庭賜絹數十匹。大理少卿胡演曰:「順德枉法受財,罪不可赦,奈何復賜之絹?」上曰:「彼有人性,得絹之辱,甚於受刑;如不知愧,一禽獸耳,殺之何益!」 辛丑,天節將軍燕郡王李藝據涇州反。 藝之初入朝也,恃功驕倨,秦王左右至其營,藝無故毆之。上皇怒,收藝繫獄,既而釋之。上即位,藝內不自安。曹州妖巫李五戒謂藝曰:「王貴色已發!」勸之反。藝乃詐稱奉密敕,勒兵入朝。 |
現代日本語訳太宗皇帝が言われた。「卿は法を守って職務を行う、朕に何の憂いがあろうか」戴冑(たいちゅう)は度々君主の不興を招くことを恐れず公正な裁きを行い、その言葉は泉のように湧き出て尽きることがなかった。皇帝はいずれも彼の意見を受け入れられたため、国内には不当裁判がなくなった。 帝は封徳彝(ほうとくい)に有能者を推挙するよう命じたが、長らく推薦者が現れない。問いただすと「精一杯探しましたが、今この世に傑出した人材はいません」と答えた。これに対し帝は言われた。「君子の人を用いるのは器を使うようなものだ。それぞれの長所を取ればよい。古代で治世を実現した者たちが、どうして他時代から人材を借りたりできようか?問題なのは自ら能力を見抜けないことであって、全世界の人間を不当に貶める必要はない」徳彝は恥じ入って退出した。 御史大夫(ぎょしたいふ)杜淹(とかん)が上奏した。「各官庁の公文書管理には不備がある恐れがあります。御史に巡回点検させてください」。帝が封徳彝の意見を求めると「役職ごとに管轄範囲は決まっています。もし問題があれば、御史自ら糾弾すべきでしょう。わざわざ各部署をくまなく回って欠点探しをするのは煩雑すぎます」と反論した。 帝が杜淹に問うた。「なぜ再び議論しないのか?」「国家の政務は公平第一です。正しい意見なら従います。徳彝の発言こそ本質を得ており、臣は心服しました。間違いを押し通すわけにはまいりません」と答えると、帝は喜んで言われた。「卿らが皆このようにできれば、朕に何の憂いがあろう!」 右驍衛大将軍(うぎょうえいたいしょうぐん)長孫順徳(ちょうそんじゅんどく)が賄賂の絹を受け取った。発覚すると帝は言われた。「もし彼が国家に貢献するなら、朕と共に国庫を分け与えてもよいのに、なぜここまで貪欲なのか」。しかし功績を惜しんで罪には問わず、宮殿で数十匹の絹を与えた。大理少卿(だいりしょうけい)胡演(こえん)が「法を曲げて財物を受け取ったのですから死刑相当ですのに、なぜ逆に褒美を?」と抗議すると、「もし人間らしさがあれば、この賜絹は刑罰より屈辱となる。反省しないなら禽獣同然であり、殺しても意味がない」と言われた。 辛丑の日(8月17日)、天節将軍燕郡王李藝が涇州で反乱を起こした。彼は朝廷入りすると功績に驕って横柄になり、秦王(李世民)の家臣が宿営へ来ても理由なく殴打していた。高祖皇帝が激怒して投獄したものの後に釈放され、太宗即位後は不安を抱くようになった。妖術師李五戒に「貴相が現れていますぞ」とそそのかされて反乱計画を立て、「密勅を受けた」と偽って兵を率いて朝廷へ向かった。 解説
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| 遂引兵至幽州,幽州治中趙慈皓馳出謁之,藝入據幽州。詔吏部尚書長孫無忌等為行軍總管以討之。趙慈皓聞官軍將至,密與統軍楊岌圖之,事洩,藝囚慈皓。岌在城外覺變,勒兵攻之,藝眾潰,棄妻子,將奔突厥。至烏氏,左右斬之,傳首長安。弟壽,為利州都督,亦坐誅。初,隋末喪亂,豪傑並起,擁眾據地,自相雄長;唐興,相帥來歸,上皇為之割置州縣以寵祿之,由是州縣之數,倍於開皇、大業之間。上以民少吏多,思革其弊;二月,命大加並省,因山川形便,分為十道:一曰關內,二曰河南,三曰河東,四曰河北,五曰山南,六曰隴右,七曰淮南,八曰江南,九曰劍南,十曰嶺南。 三月,癸巳,皇后帥內外命婦親蠶。 閏月,癸丑朔,日有食之。 壬申,上謂太子少師蕭瑀曰:「朕少好弓矢,得良弓十數,自謂無以加,近以示弓工,乃曰『皆非良材』。朕問其故,工曰:『木心不直,則脈理皆邪,弓雖勁而發矢不直。』朕始寤向者辨之未精也。朕以弓矢定四方,識之猶未能盡,況天下之務,其能遍知乎!」乃命京官五品以上更宿中書內省,數延見,問以民間疾苦,政事得失。 涼州都督長樂王幼良,性粗暴,左右百餘人,皆無賴子弟,侵暴百姓;又與羌、胡互市。或告幼良有異志,上遣中書令宇文士及馳驛代之,並按其事。左右懼,謀劫幼良入北虜,又欲殺士及據有河西。 |
現代日本語訳遂に軍勢を率いて幽州へ到着すると、幽州治中であった趙慈皓が馬を走らせ出迎えて拝謁した。羅芸はそのまま幽州城を占拠したため、朝廷では吏部尚書・長孫無忌らを行軍総管として派遣し討伐に向かわせた。これを知った趙慈皓は官軍が迫っていると聞き、密かに統軍の楊岌と共に羅芸打倒を謀るも計画が露見。捕らえられた趙慈皓は投獄された。城外で事変を知った楊岌は直ちに兵を集めて城を攻撃し、羅芸軍は潰走した。妻子を捨て突厥へ逃亡しようとした羅芸だったが、烏氏の地まで来たところで側近らによって斬殺され、その首級は長安へ送られた。弟の羅寿も利州都督であったが連座して処刑された。 そもそも隋末動乱期には各地に豪傑が現れ兵を集め領土を占拠し互いに覇権を争ったが、唐朝興隆後に相次いで帰順したため、太上皇(高祖李淵)は恩寵として新たな州県を設置して彼らに所領を与えた。その結果、行政区分の数は開皇・大業時代の倍以上にも増加していた。太宗皇帝(李世民)は「民が少なく官吏が多い」状態の問題点を見抜き改革を決断。2月には地形や自然的境界線に沿って全国を十道に再編した:第一関内、第二河南、第三河東、第四河北、第五山南、第六隴右、第七淮南、第八江南、第九剣南、第十嶺南である。 3月癸巳(10日)、長孫皇后が内外の命婦たちを率いて養蚕儀礼を行った。 壬申(20日)、太宗は太子少師・蕭瑀に向かって語りかけた:「朕は若い頃から弓矢を好み、優れた弓を十余り集めてこれ以上ないと自負していた。ところが最近工匠に見せたところ『どれも良材ではない』と言うのだ。理由を尋ねるとこう答えた──『木の芯が真直でなければ紋様(年輪)も歪む。強度があっても矢は正確に飛ばない』と。その言葉で朕は悟った、これまで自分が見誤っていたことに。弓矢をもって天下平定した者ですら鑑識眼が未熟だったのだ。ましてや天下の政務すべてを見通せるはずがない」。この体験から五品以上の京官に対して中書内省での宿直を義務づけ、頻繁に引見して民間の苦労や政治得失について直接諮問する制度を創設した。 涼州都督・長楽王李幼良は粗暴な性格で、百人余りの無頼者からなる側近集団が民衆を迫害していた。加えて羌族や突厥との私的貿易も行っており「謀反の疑いあり」と密告されるに至った。太宗は中書令宇文士及を緊急派遣して都督職務を交替させると同時に調査を命じた。これを知った側近たちは慌てふためき、幼良を拉致して北方異民族支配地域へ逃亡しようとした上、更には宇文士及殺害と河西地方占拠の計画まで企んだ。 歴史的考察
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| 復有告其謀者,夏,四月,癸巳,賜幼良死。 五月,苑君璋帥眾來降。初,君璋引突厥陷馬邑,殺高滿政,退保恆安。其眾皆中國人,多棄君璋來降。君璋懼,亦降,請捍北邊以贖罪,上皇許之。君璋請約契,上皇雁門人元普賜之金券。頡利可汗復遣人招之,君璋猶豫未決,恆安人郭子威說君璋以「恆安地險城堅,突厥方強,且當倚之以觀變,未可束手於人。」君璋乃執元普送突厥,復與之合,數與突厥入寇。至是,見頡利政亂,知其不足恃,遂帥眾來降。上以君璋為隰州都督、芮國公。 有上書請去佞臣者,上問:「佞臣為誰?」對曰:「臣居草澤,不能的知其人,願陛下與群臣言,或陽怒以試之,彼執理不屈者,直臣也,畏威順旨者,佞臣也。」上曰:「君,源也;臣,流也;濁其源而求其流之清,不可得矣。君自為詐,何以責臣下之直乎!朕方以至誠治天下,見前世帝王好以權譎小數接其臣下者,常竊恥之。卿策雖善,朕不取也。」 六月,辛巳,右僕射密明公封德彝薨。 壬辰,復以太子少師蕭瑀為左僕射。 戊申,上與侍臣論周、秦修短,蕭瑀對曰:「紂為不道,武王征之。周及六國無罪,始皇滅之。得天下雖同,人心則異。」上曰:「公知其一,未知其二。周得天下,增修仁義;秦得天下,益尚詐力;此修短之所以殊也。蓋取之或可以逆得,守之不可以不順故也。 |
現代日本語訳:また別の者が謀反を告発したため、貞観四年(630年)夏四月癸巳の日、李幼良に死を賜った。 五月、苑君璋が配下を率いて降伏してきた。当初、君璋は突厥を引き入れて馬邑を陥落させ高満政を殺害した後、恒安城に退却していた。彼の部下の多くは中原出身者で、次々と離反して唐に投降。君璋は恐れをなして自らも降伏し、「北辺防衛に尽力することで罪を償いたい」と申し出たため、高祖(李淵)がこれを許した。さらに君璋が誓約書の発行を求めたので、雁門出身の元普に金券(誓約証書)を与えたところ、頡利可汗から再び勧誘があった。迷っていた君璋に対し、恒安住民の郭子威が「この地は要害で城も堅固だ。突厥はいまだ強盛である以上、彼らを頼りに情勢を見極めるべきであり、軽々しく服従すべきではない」と進言すると、君璋は元普を捕えて突厥へ送還し、再び連合して唐への侵攻を繰り返した。しかし今回、頡利政権の乱れを見て頼りにならないと悟ったため、配下を率いて投降したのである。太宗(李世民)は君璋を隰州都督・芮国公に任命した。 佞臣(へつらいの臣下)排除を上奏する者が現れた際、皇帝が「その者とは誰か?」と問うと、「草莽の身ゆえ特定できませんが、陛下には群臣との会話でわざと怒って反応を見るべきです。道理に基づき屈しない者は忠臣、威圧に怯えて迎合する者は佞臣でしょう」と答えた。これに対し太宗は言った。「君主は水源であり、臣下は流れである。源を濁らせて清流を得ようとするのは不可能だ。自ら偽りを行いながら臣下の正直さを責めるとは何事か!朕が誠実をもって天下を治めていることは周知だろう(※)。歴代帝王で権謀術数を弄した者を、朕は常に恥ずべき行為と考えてきた。卿の献策自体は悪くないが採用しない」と。 六月辛巳の日、右僕射・密明公である封徳彝が逝去した。 壬辰には太子少師・蕭瑀を左僕射に再任し、 戊申の日に太宗が侍臣たちと周王朝・秦王朝の長短について議論すると、蕭瑀は「紂王の暴政に対し武王が討伐したのは正統である一方、無実の六国を滅ぼした始皇は非道でした。天下を得た点では同じでも人心掌握法に差があります」と述べた。太宗はそれを受け、「卿は表面的な事象しか見ていない。周王朝は仁義を重んじて治世を固め、秦朝は詐術と暴力で維持しようとした──ここに国祚の長短が生まれたのだ。天下獲得段階では逆行的手段もあり得るが(※)、守成には順徳(道理に沿った統治)が必要だという真理である」と論じた。 解説:1.歴史背景の特徴 - 突厥との複雑な関係: 苑君璋の離反→帰順→再離反劇は、当時唐王朝が直面した北方遊牧勢力との駆け引きを典型化。軍閥指導者が「利」と「脅威」で態度を変える現実政治力学を示す。 - 貞観の治の基調: 太宗の佞臣論に見られる「源清則流潔(源泉が清ければ流れも澄む)」思想は、君主自ら徳義を示すことを統治根幹とする儒教理想主義と、「誠実さ」を政治手段として明確に位置づけた画期性を持つ。 2.人物描写の深層 - 苑君璋: 反復する降伏劇で「保身型軍閥指導者像」が浮彫り。郭子威の進言は地政学的現実主義(恒安城防衛)と国際情勢判断(突厥依存)を体現。 - 太宗・蕭瑀問答: 単純な善悪史観(周=正義/秦=暴虐)に対し、太宗が「統治原理の差異」で分析する姿勢は『貞観政要』に通底する実践的教訓主義を反映。特に注記すべきは「取与守不同術」(奪取と維持は手法が異なる)という戦略的柔軟性の認識である。 3.文章表現技法 - 対比構造の妙: 苑君璋(節度なき変転)←→太宗(一貫した誠実統治理念)、蕭瑀(道義的正統論)←→太宗(現実的統治術論)という二重軸で貞観朝の政治的多面性を暗示。 - 水脈比喩の発展: 従来「君舟民水」に代表される皇帝-臣民関係の比喩体系に対し、本段は水源-河流モデルを用いて君臣一体不可分性(君主が根源的責任者)を深化させている点で思想的発展が見られる。 ※訳注: - 「朕方以至誠治天下」:原文「見前世帝王好以權譎小數接其臣下者」への批判を含意。権謀術数の対極概念としての「至誠」に貞観政治の核心が示されている。 - 「取之或可以逆得」:「武力革命等の逆行手段も一時的に正当化されうる」という現実主義的見解で、孟子の易姓革命思想を下敷きとしつつ王朝交代論を合理化した発言。 Translation took 955.8 seconds. |
| 」瑀謝不及。山東大旱,詔所在賑恤,無出今年租賦。 秋,七月,壬子,以吏部尚書長孫無忌為右僕射。無忌與上為布衣交,加以外戚,有佐命功,上委以腹心,其禮遇群臣莫及,欲用為宰相者數矣。文德皇后固請曰:「妾備位椒房,家之貴寵極矣,誠不願兄弟復執國政。呂、霍、上官,可為切骨之戒,幸陛下矜察!」上不聽,卒用之。 初,突厥性淳厚,政令質略。頡利可汗得華人趙德言,委用之。德言專其威福,多變更舊俗,政令煩苛,國人始不悅。頡利又好信任諸胡而疏突厥,胡人貪冒,多反覆,兵革歲動;會大雪,深數尺,雜畜多死,連年饑饉,民皆凍餒。頡利用度不給,重斂諸部,由是內外離怨,諸部多叛,兵浸弱。言事者多請擊之,上以問蕭瑀、長孫無忌曰:「頡利君臣昏虐,危亡可必。今擊之,則新與之盟;不擊,恐失機會;如何而可?」瑀請擊之。無忌對曰:「虜不犯塞而棄信勞民,非王者之師也。」上乃止。 上問公卿以享國久長之策,蕭瑀言:「三代封建而久長,秦孤立而速亡。」上以為然,於是始有封建之議。 黃門侍郎王珪有密奏,附侍中高士廉,寢而不言。上聞之,八月,戊戌,出士廉為安州大都督。 九月,庚戌朔,日有食之。 辛酉,中書令宇文士及罷為殿中監,御史大夫杜淹參豫朝政。他官參豫政事自此始。 |
現代日本語訳:(瑀は謝罪したが間に合わなかった)山東地方で大規模な旱魃が発生し、詔を下して現地での救済活動を行い、今年の租税と賦役を免除するよう命じた。 秋七月壬子の日、吏部尚書であった長孫無忌を右僕射に任命した。無忌は皇帝(太宗)とは平民時代からの交友があり、さらに外戚としての関係もあり、建国にも貢献していたため、皇帝は腹心として重用し、その待遇は他の臣下の及ぶところではなかった。何度か宰相に起用しようとしたが、文徳皇后が強く諫めて言うには「私は后妃の位にある身であり、すでに一族は栄華を極めています。兄弟まで政権の中枢に入れるのは望みません。呂氏・霍氏・上官氏のような外戚専横の例こそ深い戒めです」と。皇帝は聞き入れなかったが、結局起用した。 当初、突厥の民風は質朴で政治も簡素であった。ところが頡利可汗が中国人の趙徳言を登用すると、彼が権力を独占し旧来の慣習を無闇に変更、苛烈な法令を敷いたため国人の不満が高まった。さらに頡利は西域商人ら胡人を重用して突厥系部族を疎んじたため(胡人の貪欲さと変わりやすさから戦争が頻発)、折からの大雪で家畜が大量死し、飢饉が続いて民衆は凍え飢えた。財政難に陥った頡利は各部族への徴税を強化した結果、内外の離反相次ぎ兵力も衰退した。 朝廷では突厥討伐論が高まり、太宗が蕭瑀と長孫無忌に意見を求めたところ「今こそ彼ら君臣が暴虐で自滅必至です。ただ攻めれば新たな同盟違背となり民力消耗します」との無忌の反対で出兵は中止された。 国運永続の策を問われた蕭瑀が「周代の封建制こそ長寿の秘訣」と奏上すると、太宗も同意し諸侯封建論議が始まった。 黄門侍郎・王珪が密奏を侍中・高士廉に託したのに彼が黙殺。これを知った皇帝は八月戊戌日、高士廉を左遷して安州大都督とした。 九月庚戌朔(1日)、日食発生。 辛酉(12日)には中書令の宇文士及を更迭し殿中監に降格させた一方で、御史大夫・杜淹に政務参与権を与えた。これが「他官参預朝政」制度の起源となった。 解説:【歴史的背景】 1. 貞観政権構造:長孫無忌登用に見られる外戚と功臣集団(関隴貴族)による支配体制だが、太宗は皇后らの諫言も取り入れバランスを取る 2. 突厥衰退の要因: - 人為的要因:異文化官僚・胡人重用による統治失敗 - 自然災害:大雪→牧畜経済崩壊→徴税強化→部族離反連鎖 3. 制度革新点:「参豫朝政」は三省六部制を補完する実務者登用システムの萌芽 【政治力学】 - 諫言ルートの二重性:文徳皇后が外戚抑制論で果たした非公式なチェック機能 - 情報統制問題:高士廉による密奏隠蔽事件に見られる官僚機構の閉鎖性 【太宗の統治手法】 1. 災害対応では減税優先(山東旱魃) 2. 対外政策で「棄信労民」を警戒(無忌意見採用) 3. 封建制導入論議に象徴される復古主義的体制構想 4. 人事案件の迅速処理(高士廉左遷等) 【資治通鑑的特質】 - 天変地異(日食)と政治的事件を因果的に記述する「天人相関」思想 - 「突厥衰亡過程」を内政失敗モデルとして詳細に分析 (注:現代語訳にあたっては、固有名詞は現行の歴史表記基準に統一し、文語的表現を口語体へ変換。官職名等は適宜「侍中」「右僕射」など当時の制度が分かる形で保持) Translation took 733.1 seconds. |
| 淹薦刑部員外郎邸懷道,上問其行能,對曰:「煬帝將幸江都,召百官問行留之計,懷道為吏部主事,獨言不可。臣親見之。」上曰:「卿稱懷道為是,何為自不正諫?」對曰:「臣爾日不居重任,又知諫不從,徒死無益。」上曰:「卿知煬帝不可諫,何為立其朝?既立其朝,何得不諫?卿仕隋,容可雲位卑;後仕王世充,尊顯矣,何得亦不諫?」對曰:「臣於世充非不諫,但不從耳。」上曰:「世充若賢而納諫,不應亡國;若暴而拒諫,卿何得免禍?」淹不能對。上曰:「今日可謂尊任矣,可以諫未?」對曰:「願盡死。」上笑。 辛未,幽州都督王君廓謀叛,道死。 君廓在州,驕縱多不法,征入朝。長史李玄道,房玄齡從甥也,憑君廓附書,君廓私發之,不識草書,疑其告己罪,行至渭南,殺驛吏而逃;將奔突厥,為野人所殺。 嶺南酋長馮盎、談殿等迭相攻擊,久未入朝,諸州奏稱盎反,前後以十數;上命將軍藺謨等發江、嶺數十州兵討之。魏徵諫曰:「中國初定,嶺南瘴癘險遠,不可以宿大兵。且盎反狀未成,未宜動眾。」上曰:「告者道路不絕,何雲反狀未成?」對曰:「盎若反,必分兵據險,攻掠州縣。今告者已數年,而兵不出境,此不反明矣。諸州既疑其反,陛下又不遣使鎮撫,彼畏死,故不敢入朝。若遣信臣示以至誠,彼喜於免禍,可不煩兵而服。 |
現代日本語訳:温淹が刑部員外郎・邸懐道(ていかいどう)を推薦したところ、皇帝(太宗)はその品行と能力について尋ねた。温淹は答えた。「煬帝が江都に行幸しようとした際、百官に同行するか残留するかの意見を求めました。当時吏部主事であった邸懐道だけが『不可』と言いました。私はこれを自ら目撃しております」と。皇帝は「卿(きみ)は邸懐道の行動を正しいとするならば、なぜ自分自身で忠告しなかったのか?」と問いただした。温淹は「当時私は重要な地位に就いておらず、また諫言しても聞き入れられないことを承知していました。無駄死にするだけです」と弁解した。 皇帝はさらに詰め寄った。「煬帝が諌(いさ)めても受け入れぬ人物だと分かっていたならば、なぜその朝廷に仕え続けたのか?朝廷に立つ以上、どうして諫めなかったのだ?隋王朝の時代は地位が低かったと言えるかもしれない。しかしその後王世充(おうせいじゅう)に仕えた時には高位についたではないか。なぜそこでまた諌めなかった?」温淹は「私は王世充にも諫言しておりました!ただ聞き入れられなかっただけです」と答えると、皇帝は鋭く反論した。「もし王世充が賢明で忠告を受け入れる者なら国を滅ぼすはずがないし、暴君(ぼうくん)であれば卿はどうやって災禍から逃れたというのか?」温淹は返答に詰まった。皇帝は「今の卿の地位は高いのだから、これより諫めるか?」と問いかけ、「命を賭して尽くします」との答えを得て笑った。 辛未(かのとひつじ)の日:幽州都督・王君廓(おうくんかく)が謀反を企て逃亡中に死亡した。 経緯: - 王君廓は赴任先で傲慢放縦、法令違反も多かったため朝廷召還を受ける - 長史(ちょうし:副官)の李玄道(房玄齢(ぼうげんれい)の甥)が託した手紙を密かに開封する - 草書体が読めず「自分の罪状報告」と誤解、渭南で宿駅役人を殺害し逃亡 - 突厥へ亡命しようとする途中、原住民に討たれた 嶺南の首長・馮盎(ふうおう)や談殿らが相次いで争い、長期にわたり朝廷への参内がない。諸州から「馮盎謀反」との報告が十数回も届いたため、太宗は藺謨(りんばく)将軍らに命じ江陵・嶺南の数十州の兵を動員し討伐させようとした。 魏徴が諫言した:「中原地方は平定されたばかり。一方で嶺南は瘴気(しょうき:伝染病)が蔓延する険しい僻地です。大軍を駐留させるべきではありません。馮盎の謀反も未確定であり派兵すべきではない」と。 太宗「報告者は後を絶たぬのに『未確定』とは?」 魏徴は論理的に説明した:「もし本当に謀反なら要害を占拠し州県を攻撃しているはずです。しかし数年間も彼の軍勢が領外に出ていないのは、不反(ふへん:謀反していないこと)の明らかな証拠でしょう。諸州は疑心暗鬼となり陛下も使者で慰撫なさらなければ、馮盎側も死を恐れて入朝できないのです。信頼できる臣下を遣わし誠意を示せば禍(わざわい)から逃れられることを喜び、兵を用いずとも帰服するでしょう」 解説:
※歴史的教訓として現代にも通じる「情報検証システム」「言路開放」の必要性が核心主題。特に魏徴の指摘は、地方報告に潜む誇張や誤認を看破した優れた実例である。 (注)固有名詞・役職名は原則原文表記とし現代語読みを併記。史書特有の簡潔文体に対し「逃亡中死亡」→「逃亡途中で討たれる」など状況再構成を加味。「驛吏」「長史」等は当時の実態が分かる表現に統一。 Translation took 1850.8 seconds. |
| 」上乃罷兵。冬,十月,乙酉,遣員外散騎侍郎李公掩持節慰諭之,盎遣其子智戴隨使者入朝。上曰:「魏徵令我發一介之使,而嶺表遂安,勝十萬之師,不可不賞。」賜征絹五百匹。 十二月,壬午,左僕射蕭瑀坐事免。 戊申,利州都督義安王李孝常等謀反,伏誅。孝常因入朝,留京師,與右武衛將軍劉德裕及其甥統軍元弘善、監門將軍長孫安業互說符命,謀以宿衛兵作亂。安業,皇后之異母兄也,嗜酒無賴;父晟卒,弟無忌及後並幼,安業斥還舅氏。及上即位,後不以舊怨為意,恩禮甚厚。及反事覺,後涕泣為之固請曰:「安業罪誠當萬死。然不慈於妾,天下知之;今置以極刑,人必謂妾所為,恐亦為聖朝之累。」由是得減死,流巂州。 或告右丞魏徵私其親戚,上使御史大夫溫彥博按之,無狀。彥博言於上曰:「征不存形跡,遠避嫌疑,心雖無私,亦有可責。」上令彥博讓征,且曰:「自今宜存形跡。」它日,征入見,言於上曰:「臣聞君臣同體,宜相與盡誠;若上下但存形跡,則國之興喪尚未可知,臣不敢奉詔。」上瞿然曰:「吾已悔之。」征再拜曰:「臣幸得奉事陛下,願使臣為良臣,勿為忠臣。」上曰:「忠、良有以異乎?」對曰:「稷、契、皋陶,君臣協心,俱享尊榮,所謂良臣。龍逄、比干,面折廷爭,身誅國亡,所謂忠臣。 |
訳文皇帝は兵を退いた。冬十月乙酉の日、員外散騎侍郎(いんがいさんきじろう)李公掩(りこうえん)を使者として節を持たせて慰撫させると、馮盎(ふうおう)は息子・智戴(ちたい)を遣わして使者に随行し朝廷に入参させた。皇帝が言うには「魏徴(ぎちょう)が朕に一介の使者を派遣するよう進言した結果、嶺南地方は安定を得た。十万の兵にも勝る功績である」と述べ、絹五百匹を賜った。 十二月壬午の日、左僕射(さぼくや)蕭瑀(しょうう)が事に連座して免官となる。戊申、利州都督・義安王李孝常(りこうじょう)らが謀反を企て処刑された。孝常は入朝中に長安へ滞在し、右武衛将軍劉徳裕(りゅうとくゆう)、甥の統軍元弘善(げんこうぜん)、監門将軍長孫安業(ちょうそんあんぎょう)らと符命(天命の徴)について語らい、近衛兵を用いて反乱を起こそうとした。 或る者が右丞魏徴が親族をひいきしていると告発したため、皇帝は御史大夫温彦博(おんげんぱく)に調査させたが証拠はなかった。しかし彦博は「魏徴は行動の形跡に注意せず嫌疑回避も怠りました。心には私情なくとも責められるべきです」と報告した。皇帝は彦博を通じて魏徴を譴責し「今後は行跡(言動)に留意せよ」と命じた。 解説■ 歴史的価値 ■ 政治的背景 ■ 思想的意義 太宗がこれを容れた点、貞観の治が「君臣協働」モデルとして後世に影響を与えたことが窺える。 ■ 現代への示唆 Translation took 851.0 seconds. |
| 」上悅,賜絹五百匹。 上神采英毅,群臣進見者,皆失舉措;上知之,每見人奏事,必假以辭色,冀聞規諫。嘗謂公卿曰:「人欲自見其形,必資明鏡;君欲自知其過,必待忠臣。苟其君愎諫自賢,其臣阿諛順旨,君既失國,臣豈能獨全!如虞世基等諂事煬帝以保富貴,煬帝既弒,世基等亦誅。公輩宜用此為戒,事有得失,無毋盡言!」 或上言秦府舊兵,宜盡除武職,追入宿衛。上謂之曰:「朕以天下為家,惟賢是與,豈舊兵之外皆無可信者乎!汝之此意,非所以廣朕德於天下也。」 上謂公卿曰:「昔禹鑿山治水而民無謗讟者,與人同利故也。秦始皇營宮室而民怨叛者,病人以利己故也。夫靡麗珍奇,固人之所欲,若縱之不已,則危亡立至。朕欲營一殿,材用已具,鑒秦而止。王公已下,宜體朕此意。」由是二十年間,風俗素樸,衣無錦繡,公私富給。 上謂黃門侍郎王珪曰:「國家本置中書、門下以相檢察,中書詔敕或有差失,則門下當行駁正。人心所見,互有不同,苟論難往來,務求至當,捨己從人,亦復何傷!比來或護己之短,遂成怨隙,或苟避私怨,知非不正,順一人顏情,為兆民之深患,此乃亡國之政也。煬帝之世,內外庶官,務相順從,當是之時,皆自謂有智,禍不及身。及天下大亂,家國兩亡,雖其間萬一有得免者,亦為時論所貶,終古不磨。 |
現代日本語訳皇帝(太宗)は喜び、絹五百匹を賜った。 太宗の威厳と気概は鋭く輝いており、群臣が参内する際には皆緊張して挙措を失っていた。これを知った皇帝は、臣下が奏上するたびにわざと穏やかな表情で接し、諫言を聞き入れようとした。公卿たちに向かってこう述べたことがある:「人が自らの姿を見るには明鏡が必要だが、君主が過ちを知るには忠臣の直言を待たねばならない。もし主君が諫めを拒んで独善に陥り、臣下がへつらって意に沿うだけなら、君主が国を失えば臣下も安泰ではいられない。虞世基らが煬帝におもねって富貴を保った例のように、煬帝が弑されると彼らも誅殺されたのだ。卿たちはこれを戒めとせよ。政事の得失については遠慮なく言上するように」 ある者が「秦王府(太宗即位前の邸宅)の旧兵士は全員武官職から外し、宿衛(宮中警備隊)に配置換えすべきだ」と進言した。皇帝はこれに対し:「朕は天下をわが家と思うゆえ、賢才のみを登用する。旧兵以外に信頼できる者がいないというのか? お前の意見では、朕の徳が天下に行き渡らぬであろう」 公卿たちに向かってこう語った:「昔、禹王が山を開鑿して治水した時に民が非難しなかったのは、利益を共有したからだ。始皇帝が宮殿を造営して民が怨み反乱したのは、民を害して私利を図ったためである。豪華な珍宝は人の望むところだが、欲望のままに求めれば危亡は目前だ。朕も一時期は宮殿建設を計画し材木まで準備したが、秦の失敗を鑑みて中止した。諸侯以下の者たちはこの意志を体せよ」 これにより二十年間、世の中の風俗は質素となり衣服に錦繡を用いず、朝廷も民間も豊かになった。 黄門侍郎(皇帝側近官)王珪に対して述べた:「朝廷が中書省と門下省を設置したのは互いに監察させるためだ。中書省の出す詔勅に誤りがあれば門下省は訂正すべきである。人の見解にはそれぞれ違いがあるゆえ、議論を重ねて最善の結論を得るのであれば、己が非を認めて他者に従うことも妨げない。近ごろは自らの過ちを庇って恨みを生じたり、私怨を恐れて誤りを知りながら正さず、一人の機嫌を取り繕って万民の災いとなることがある。これは亡国の政治だ。煬帝の時代には朝廷内外の官人たちが互いに迎合し、当時は皆『賢明に振る舞っている』と自負していた。だが天下が大乱すると家も国も滅び、かろうじて難を逃れた者も後世の批判から免れず、汚名は永遠に消えなかった」 解説
※本訳では『資治通鑑』原文の格調高い文体を現代日本語へ変換しつつ、「謗讟(そしり)」→「非難」、「靡麗珍奇」→「豪華な珍宝」等、歴史的用語は平易に再現。皇帝の発言部分には話し言葉のニュアンスを付与して臨場感を保持した。 Translation took 1786.1 seconds. |
| 卿曹各當徇公忘私,勿雷同也!」 上謂侍臣曰:「吾聞西域賈胡得美珠,剖身以藏之,有諸?」侍臣曰:「有之。」上曰:「人皆知彼之愛珠而不愛其身也;吏受賕抵法,與帝王徇奢欲而亡國者,何以異於彼胡之可笑邪!」魏徵曰:「昔魯哀公謂孔子曰:『人有好忘者,徙宅而忘其妻。』孔子曰:『又有甚者,桀、紂乃忘其身。』亦猶是也。」上曰:「然。朕與公輩宜戮力相輔,庶免為人所笑也!」 青州有謀反者,州縣逮捕支黨,收系滿獄,詔殿中侍御史安喜崔仁師覆按之。仁師至,悉脫去杻械,與飲食湯沐,寬慰之,止坐其魁首十餘人,餘皆釋之。還報,敕使將往決之。大理少卿孫伏伽謂仁師曰:「足下平反者多,人情誰不貪生,恐見徒侶得免,未肯甘心,深為足下憂之。」仁師曰:「凡治獄當以平恕為本,豈可自規免罪,知其冤而不為伸邪!萬一暗短,誤有所縱,以一身易十囚之死,亦所願也。」伏伽慚而退。及敕使至,更訊諸囚,皆曰:「崔公平恕,事無枉濫,請速就死。」無一人異辭者。 上好騎射,孫伏伽諫,以為:「天子居則九門,行則警蹕,非欲苟自尊嚴,乃為社稷生民之計也。陛下好自走馬射的以娛悅近臣,此乃少年為諸王時所為,非今日天子事業也。既非所以安養聖躬,又非所以儀刑後世,臣竊為陛下不取。」上悅。未幾,以伏伽為諫議大夫。 |
現代日本語訳:「卿らはそれぞれ公務に忠実であって私情を忘れよ、決して付和雷同するな!」 皇帝が側近たちに言った。「聞くところによると西域の商人(胡商)は良い真珠を得ると体を切り裂いて中に隠すという。これは事実か?」側近が「その通りです」と答えると、皇帝は言った。「人は皆、彼らが真珠を愛して自身の身体を顧みないことを嘲笑するのに、官吏が賄賂を受け法に触れる者や、帝王が奢侈の欲望に駆られて国を滅ぼす者は、あの商人と同じく笑われるべきではないか?」魏徴が応じた。「昔、魯哀公が孔子に『家を移す時に妻を忘れる者がいる』と言ったところ、孔子は『それ以上に甚だしい者として桀王や紂王は自身さえも忘れた』と答えました。まさしくこれと同じです」皇帝は深く頷き、「その通りだ。朕と卿らが互いに力を合わせて補い合えば、人々の嘲笑を免れるであろう」 青州で謀反事件が発生し、州県官吏が関係者を逮捕して監獄があふれた。詔によって殿中侍御史・崔仁師(安喜出身)が再審理に赴いた。彼は到着すると囚人全員の枷を外し、食事や入浴を与えながら慰め、首謀者十数名のみを罰し残りを釈放した。帰還報告後、勅使が処刑執行に向かうと、大理少卿・孫伏伽は仁師に警告した:「貴殿の冤罪救済が多すぎる。人は誰でも生きたいものだ。仲間が赦されるのを見て不満を持つ者が必ず出ますぞ」しかし仁師は言下に否定した。「裁判官たる者、公正と寛容を本分とするのだ。自分への非難回避のために冤罪を知りながら救わぬことがあろうか!万一過誤で無実の囚人を死なせれば、この身をもって十人の命を代償する覚悟だ」伏伽は恥じて退いた。果たして勅使が再審すると、全員異口同音に「崔公は公正寛大で不当判決なし。速やかに死刑を受け入れます」と述べ、一人の例外もなかった。 皇帝が乗馬射撃を好んだ時、孫伏伽は進言した:「天子には九門警護・行幸時の清道(けいへつ)があるのは尊厳を示すためでなく国家人民保全の為です。陛下みずから走馬して的を射ち側近を楽しませる行為は皇子時代の遊戯に過ぎず、天子としてなすべき業ではありません。御体にも負担ならば後世への模範ともなり得ません」皇帝は喜んでこれを受け入れ、まもなく伏伽を諫議大夫(監察官)に抜擢した。 解説:
(本訳では『資治通鑑』原文の論理構造を保持しつつ、現代日本語での自然な政務会話リズムを再現。古典中の「臣曰」「上謂」等の定型句を状況に応じ「警告した/否定した/深く頷いて」など動作描写で置換) Translation took 838.9 seconds. |
| 隋世選人,十一月集,至春而罷,人患其期促。至是,吏部侍郎觀城劉林甫奏四時聽選,隨闕注擬,人以為便。 唐初,士大夫以亂離之後,不樂仕進,官員不充。省符下諸州差人赴選,州府及詔使多以赤牒補官。至是盡省之,勒赴省選,集者七千餘人,林甫隨才銓敘,各得其所,時人稱之。詔以關中米貴,始分人於洛州選。 上謂房玄齡曰:「官在得人,不在員多。」命玄齡並省,留文武總六百四十三員。 隋秘書監晉陵劉子翼,有學行,性剛直,朋友有過,常面責之。李百藥常稱:「劉四雖復罵人,人終不恨。」是歲,有詔征之,辭以母老,不至。 鄃令裴仁軌私役門夫,上怒,欲斬之。殿中侍御史長安李乾祐諫曰:「法者,陛下所與天下共也,非陛下所獨有也。今仁軌坐輕罪而抵極刑,臣恐人無所措手足。」上悅,免仁軌死,以乾祐為侍御史。 上嘗語及關中、山東人,意有同異。殿中侍御史義豐張行成跪奏曰:「天子以四海為家,不當有東西之異;恐示人以隘。」上善其言,厚賜之。自是每有大政,常使預議。 初,突厥既強,敕勒諸部分散,有薛延陀、回紇、都播、骨利干、多濫葛、同羅、僕固、拔野古、思結、渾、斛薛、結、阿跌、契苾、白□等十五部,皆居磧北,風俗大抵與突厥同;薛延陀於諸部為最強。 西突厥曷薩那可汗方強,敕勒諸部皆臣之。 |
現代日本語訳隋代、官吏登用試験は11月に受験者を集め春までで終了したため、期間が短すぎると不満があった。これを受け吏部侍郎・観城出身の劉林甫が「季節に関係なく欠員発生時に随時採用すべし」と奏上すると、効率的として歓迎された。 唐初期、知識人層は戦乱後の混乱を理由に官職を望まず役人が不足。中央から各州へ受験者派遣命令が出たものの、地方官府や勅使が勝手な任命書(赤牒)で補充する事態となった。劉林甫はこの慣行を廃止し全員を長安での正式選考に集めさせると7000人以上が集合。彼は能力適性に応じ配置し、当時の人々から高く評価された。米価高騰のため詔勅で試験地を洛州にも分割した。 太宗(李世民)は房玄齢に対し「官吏登用は人員数より有能者を得ることが重要だ」と述べた。これを受け房玄齢は官庁整理を実施し、文武官合わせ643名のみとした。 隋の秘書監・晋陵出身の劉子翼は学識高く剛直な人物で、友人にも遠慮なく直言した。李百薬が「彼に叱責されても恨まれることはない」と評するほどだった。詔勅による招聘があったものの老母を理由に出仕しなかった。 鄃県令・裴仁軌が門番を私用したため激怒した皇帝は処刑しようとした。これに対し殿中侍御史・長安出身の李乾祐が「法律は陛下専有物ではなく天下共有です」と諫言。太宗は喜んで減刑するとともに彼を昇格させた。 太宗が関中(陝西)と山東(華北)出身者の評価差に言及した際、殿中侍御史・義豊出身の張行成が跪いて「天子には地域による差別があってはなりません」と奏上。これを嘉んだ太宗は厚く賞賜し、以後重要政策決定時に必ず参加させた。 当初、突厥勢力拡大に伴い鉄勒諸部族(薛延陀・回紇など15部)が分散した。全般に漠北地域で遊牧生活を営み風俗は突厥と類似していたが、中でも薛延陀が最強だった。西突厥の曷薩那可汗が勢力拡大期には鉄勒各部族はいずれも彼に臣従していた。 解説
※注:原文中の欠字「白□」については『新唐書』等に基づき「霫(せき)」とする説が有力であるものの、本訳文では史料批判を避け表記を留めた。 Translation took 1449.7 seconds. |
| 曷薩那徵稅無度,諸部皆怨。曷薩那誅其渠帥百餘人,敕勒相帥叛之,共推契苾哥楞為易勿真莫賀可汗,居貪於山北。又以薛延陀乙失缽為也咥小可汗,居燕末山北。及射匱可汗兵復振,薛延陀、契苾二部並去可汗之號以臣之。 回紇等六部在郁督軍山者,東屬始畢可汗。統葉護可汗勢衰,乙失缽之孫夷男帥其部落七萬餘家,附於頡利可汗。頡利政亂,薛延陀與回紇、拔野古等相帥叛之。頡利遣其兄子欲谷設將十萬騎討之,回紇酋長菩薩將五千騎,與戰於馬鬣山,大破之。欲谷設走,菩薩追至天山,部眾多為所虜,回紇由是大振。薛延陀又破其四設,頡利不能制。 頡利益衰,國人離散。會大雪,平地數尺,羊馬多死,民大饑,頡利恐唐乘其弊,引兵入朔州境上,揚言會獵,實設備焉。鴻臚卿鄭元□使突厥還。言於上曰:「戎狄興衰,專以羊馬為侯。今突厥民饑畜瘦,此將亡之兆也,不過三年。」上然之。群臣多勸上乘間擊突厥,上曰:「新與人盟而背之,不信;利人之災,不仁;乘人之危以取勝,不武。縱使其種落盡叛,六畜無餘,朕終不擊,必待有罪,然後討之。」 西突厥統葉護可汗遣真珠統俟斤與高平王道立來,獻萬釘寶鈿金帶,馬五千匹,以迎公主。頡利不欲中國與之和親,數遣兵入寇,又遣人謂統葉護曰:「汝迎唐公主,要須經我國中過。 |
現代日本語訳曷薩那可汗は税を取り立てる際に限度を知らず、諸部族は皆不満を持った。可汗が百人以上の首長たちを処刑すると、敕勒(テュルク系民族)が相次いで反旗を翻し、共同で契苾哥楞(キビ・カラン)を易勿真莫賀可汗に推戴し、貪於山の北に居住させた。また薛延陀部の乙失缽(イルシビル)を也咥小可汗とし、燕末山の北に住まわせた。後に射匱可汗が勢力を回復すると、薛延陀と契苾の二部族は共に可汗号を捨てて臣従した。 郁督軍山周辺にいた回紇など六部族は東の始畢可汗に帰属していた。統葉護可汗が衰退すると、乙失缽の孫である夷男(イナン)が七万余りの部族集団を率い、頡利可汗のもとに身を寄せた。しかし頡利の政治は乱れ、薛延陀と回紇・拔野古らは相次いで反旗を翻した。 頡利は甥である欲谷設に十万騎を与えて討伐に向かわせたが、回紇酋長の菩薩(ボサト)が五千騎を率いて馬鬣山で迎え撃ち、これを大破した。敗走する欲谷設を天山まで追撃し、多くの兵卒を捕虜としたため、回紇はこれにより大きく勢力を伸ばした。薛延陀も頡利配下の四人の「設(軍司令官)」を打ち破り、頡利は制御できなくなった。 頡利の力がさらに衰えると、国内では離反が相次いだ。折しも大雪で平地に数尺積もり、羊や馬が多く死んで民衆は大飢饉に見舞われた。頡利は唐がこの機を突いて攻めてくるのを恐れ、朔州境界付近まで兵を進め、「狩猟を行う」と偽装しながら軍備を整えた。 鴻臚卿・鄭元□(史料上「鄭元璹」か)が突厥からの帰還後、太宗に報告した:「戎狄(北方民族)の盛衰は羊馬の状態で判断できます。今や突厥では民衆が飢え家畜は痩せ衰えており、これは滅亡の兆候です。三年を待たず瓦解するでしょう」。群臣の多くは「この機に乗じて攻撃すべき」と進言したが、太宗は言った。「新たに盟約を結んだばかりで背くのは不信である。他者の災いにつけ込むのは不仁である。危機に乗じ勝利を得るのは非武道的だ。仮に突厥の部族が全て離反し家畜も全滅しても、朕は決して攻めない。必ず罪状が明らかになってから討伐する」。 西突厥統葉護可汗は真珠統俟斤(シンジュテイ・イルキン)を高平王・李道立と共に派遣し、金装飾の帯や馬五千匹を献上して唐皇女降嫁を要請した。しかし頡利可汗は唐との同盟を阻もうとたびたび侵攻するとともに、統葉護へ警告した:「お前が迎える唐公主は必ず我々の領土を通れ」。 解説
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| 」統葉護患之,未成昏。 太宗文武大聖大廣孝皇帝上之上貞觀二年(戊子,公元六二八年) 春,正月,辛亥,右僕射長孫無忌罷。時有密表稱無忌權寵過盛者,上以表示之,曰:「朕於卿洞然無疑,若各懷所聞而不言,則君臣之意有不通。」又召百官謂之曰:「朕諸子皆幼,視無忌如子,非他人所能間也。」無忌自懼滿盈,固求遜位,皇后又力為之請,上乃許之,以為開府儀同三司。 置六司侍郎,副六尚書;並置左右司郎中各一人。 癸丑,吐谷渾寇岷州,都督李道彥擊走之。 丁巳,徙漢王恪為蜀王,衛王泰為越王,楚王祐為燕王。上問魏徵曰:「人主何為而明,何為而暗?」對曰:「兼聽則明,偏信則暗。昔堯清問下民,故有苗之惡得以上聞;舜明四目,達四聰,故共、鯀、歡兜不能蔽也。秦二世偏信趙高,以成望夷之禍;梁武帝偏信朱異,以取台城之辱;隋煬帝偏信虞世基,以致彭城閣之變。是故人君兼聽廣納,則貴臣不得擁蔽,而下情得以上通也。」上曰:「善!」 上謂黃門侍郎王珪曰:「開皇十四年大旱,隋文帝不許賑給,而令百姓就食山東,比至末年,天下儲積可供五十年。煬帝恃其富饒,侈心無厭,卒亡天下。但使倉廩之積足以備凶年,其餘何用哉!」 二月,上謂侍臣曰:「人言天子至尊,無所畏憚。朕則不然,上畏皇天之監臨,下憚群臣之瞻仰,兢兢業業,猶恐不合天意,未副人望。 |
現代日本語訳統葉護可汗はこのことを憂慮し、婚約を成立させなかった。
貞観二年(戊子の年、西暦628年)、太宗文武大聖大広孝皇帝・上之上巻 解説■ 歴史的背景 ■ 核心的政治哲学 ■ 人事配置の特徴 ■ 現代性 ■ 訳出方針 Translation took 858.8 seconds. |
| 」魏徵曰:「此誠致治之要,願陛下慎終如始,則善矣。」 上謂房玄齡等曰:「為政莫若至公。昔諸葛亮竄廖立、李嚴於南夷,亮卒而立、嚴皆悲泣,有死者,非至公能如是乎!又高熲為隋相,公平識治體,隋之興亡,系熲之存沒。朕既慕前世之明君,卿等不可不法前世之賢相也。」 三月,戊寅朔,日有食之。 壬子,大理少卿胡演進每月囚帳;上命自今大辟皆令中書、門下四品已上及尚書議之,庶無冤濫。既而引囚,至岐州刺史鄭善果,上謂胡演曰:「善果雖復有罪,官品不卑,豈可使與諸囚為伍。自今三品以上犯罪,不須引過,聽於朝堂俟進止。」 關內旱饑,民多賣子以接衣食;己巳,詔出御府金帛為贖之,歸其父母。庚午,詔以去歲霖雨,今茲旱、蝗,赦天下。詔書略曰:「若使年谷豐稔,天下又安,移災朕身,以存萬國,是所願也,甘心無吝。」會所在有雨,民大悅。 夏,四月,己卯,詔以「隋末亂離,因之饑饉,暴骸滿野,傷人心目,宜令所在官司收瘞。」 初,突厥突利可汗建牙直幽州之北,主東偏,奚、□等數十部多叛突厥來降,頡利可汗以其失眾責之。及薛延陀、回紇等敗欲谷設,頡利遣突利討之,突利兵又敗,輕騎奔還。頡利怒,拘之十餘日而撻之,突利由是怨,陰欲叛頡利。頡利數徵兵於突利,突利不與,表請入朝。 |
現代日本語訳魏徴が言った。「これはまさに天下を治める要諦でございます。どうか陛下には終わりを始めのごとく慎重にお務めくだされば、それに越したことはありません。」 太宗(李世民)は房玄齢ら臣下に向けて述べた。「政治を行うにあたり、公平無私ほど重要なものはない。昔、諸葛亮が廖立や李厳を南方の蛮地へ流罪としたのに、彼らの死後も二人は悲しみ涙を流し、中には殉死する者さえ出た。これこそ至極の公平なくして可能だろうか?また隋の宰相・高熲(こうけい)は公正に政務を見通し、隋の興亡は彼の生死にかかっていたのだ。朕が歴代の明君を慕うように、卿らも歴代の賢相に学ばねばならない。」 三月一日(戊寅)、日食があった。 四月五日(壬子)、大理寺少卿・胡演が月例の囚人名簿を進呈したところ、太宗は詔して言った。「今後は死刑判決すべてについて中書省と門下省の四品以上高官および尚書省で審議せよ。これにより冤罪や乱用を防げよう。」後に囚人を取り調べる際、岐州刺史・鄭善果が連行されると、太宗は胡演に命じた。「善果には罪があっても官位は低くない。どうして一般の囚人と同列に扱えようか?今より三品以上の官吏が罪を犯した場合は廷臣の面前で引見せず、朝廷での裁決を待て。」 関中地方では旱魃による飢饉が発生し、多くの民衆が子女を売って糊口を凌いでいた。四月二十二日(己巳)、太宗は詔して宮中の金銀や絹帛を用いてこれらを買い戻させ、実父母へ返還させるよう命じた。翌二十三日(庚午)には「昨年来の長雨と今年の旱魃・蝗害により天下に赦令を下す」と詔し、その中で次のように述べた。「もし五穀が豊穣となり天下が安泰ならば、災いを朕一身に受けようとも万民のために尽くすのが本望である。いさぎよく惜しまぬ。」ほどなく各地に雨が降り注ぎ、民衆は大いに喜んだ。 夏の四月某日(己卯)、詔して言った。「隋末の動乱とそれに続く飢饉により野には無数の遺骸が累々としている。目を背けたくなる惨状ゆえ、各地の役人はこれらを速やかに埋葬せよ。」 当初、突厥の突利可汗(トゥリ・カガン)は幽州北方に本拠を置き東方諸部族を統括していたが、奚(けい)や契丹(きったん)など数十部族が相次ぎ離反して唐へ帰順したため、颯利可汗(イルテリシュ・カガン)は兵力喪失の責めを突利に負わせた。さらに薛延陀(シルヤンテュ)や回紇(ウイグル)が突厥将軍ユグズシャドを破ると、颯利は討伐を命じるも逆に大敗し、突利は軽騎で逃げ帰った。激怒した颯利は彼を十日余り拘禁して鞭打ち刑に処す。このため突利は深く恨み、密かに離反を画策するようになる。その後颯利が再三援軍を要請しても応じず、逆に自ら長安へ入朝したいと上表した。 解説
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| 上謂侍臣曰:「向者突厥之強,控弦百萬,憑陵中夏,用是驕恣,以失其民。今自請入朝,非困窮,肯如是乎!朕聞之,且喜且懼。何則?突厥衰則邊境安矣,故喜。然朕或失道,它日亦將如突厥,能無懼乎!卿曹宜不惜苦諫,以輔朕之不逮也。」頡利發兵攻突利,丁亥,突利遣使來求救。上謀於大臣曰:「朕與突利為兄弟,有急不可不救。然頡利亦與之有盟,奈何?」兵部尚書杜如晦曰:「戎狄無信,終當負約,今不因其亂而取之,後悔無及。夫取亂侮亡,古之道也。」 丙申,契丹酋長帥其部落來降。頡利遣使請以梁師都易契丹,上謂使者曰:「契丹與突厥異類,今來歸附,何故索之!師都中國之人,盜我土地,暴我百姓,突厥受而庇之,我興兵致討,輒來救之,彼如魚游釜中,何患不為我有!借使不得,亦終不以降附之民易之也。」 先是,上知突厥政亂,不能庇梁師都,以書諭之,師都不從。上遣夏州都督長史劉旻、司馬劉蘭成圖之,旻等數遣輕騎踐其禾稼,多縱反間,離其君臣,其國漸虛,降者相屬。其名將李正寶等謀執師都,事洩,來奔,由是上下益相疑。旻等知可取,上表請兵。上遣右衛大將軍柴紹、殿中少監薛萬均擊之,又遣旻等據朔方東城以逼之。師都引突厥兵至城下,劉蘭成偃旗臥鼓不出。師都宵遁,蘭成追擊,破之。突厥大發兵救師都,柴紹等未至朔方數十里,與突厥遇,奮擊,大破之,遂圍朔方。 |
現代日本語訳皇帝(太宗)が侍臣に述べた:「以前、突厥が強大であった時は百万もの弓兵を擁し、中国を脅かして驕り高ぶり、民心を失ったのだ。今、自ら朝貢を願い出るのは困窮しているからこそだろう。朕はこれを聞き、喜びと恐れの両方を感じた。なぜなら突厥が衰えれば国境は平穏となるゆえに喜んだ一方で、もし朕が道を誤れば、いつか同じく突厥のような末路を辿るのではないかという畏怖も抱いたのだ。卿らは苦言を惜しまず諫めよ。」 頡利可汗(イルテペリ)が突利可汗(トゥリス)を攻撃すると、突利は使者を遣わして救援要請した。皇帝は大臣と協議し、「朕は突利とは兄弟の契りがあるゆえに救う必要がある。しかし頡利とも盟約を交わしているのだが…」と言った。兵部尚書・杜如晦(トウジョカイ)は進言:「戎狄には信義などないのです。必ず背くでしょう。今こそ混乱につけ込み討つべきです。」 契丹族の酋長が帰順した際、頡利可汗は「梁師都との捕虜交換」を要求してきた。皇帝は使者に言下に拒絶:「契丹と突厥は全く別民族だ。自ら降伏した者を取り戻すとは何事か! 一方の梁師都こそ反逆者であり、我が民衆を苦しめている。突厥が彼を匿う限り討伐するのは当然である。」 事前に皇帝は「突厥が内政混乱で梁師都を庇えない」と見抜き書簡で降伏勧告したが拒否されたため、夏州都督府の劉旻(リュウビン)らを派遣。彼らは農作物荒廃・離間工作など心理戦術を用い、遂に敵将軍・李正宝(リセイホウ)らの内応を得て体制崩壊へ追込む。態勢整うと大将軍・柴紹(サイショウ)が主力を率いて出陣し、朔方城で突厥の大部隊を撃破した。 解説
(注)固有名詞は原則として漢字表記のままとしたが、「頡利」「突利」等の突厥可汗名については現代日本語読解考慮してカナ併記。 Translation took 633.9 seconds. |
| 突厥不敢救,城中食盡。壬寅,師都從父弟洛仁殺師都,以城降,以其地為夏州。 太常少卿祖孝孫以為梁、陳之音多吳、楚,周、齊之音多胡、夷,於是斟酌南北,考以古聲,作《唐雅樂》,凡八十四調、三十一曲、十二和。詔協律郎張文收與孝孫同修定。六月,乙酉,孝孫等奏新樂。上曰:「禮樂者,蓋聖人緣情以設教耳,治之隆替,豈由於此?」御史大夫杜淹曰:「齊之將亡,作《伴侶曲》,陳之將亡,作《玉樹後庭花》,其聲哀思,行路聞之皆悲泣,何得言治之隆替不在樂也!」上曰:「不然。夫樂能感人,故樂者聞之則喜,憂者聞之則悲,悲喜在人心,非由樂也。將亡之政,民必愁苦,故聞樂而悲耳。今二曲具存,朕為公奏之,公豈悲乎?」右丞魏徵曰:「古人稱『禮雲禮雲,玉帛雲乎哉!樂雲樂雲,鐘鼓雲乎哉!』樂誠在人和,不在聲音也。」 臣光曰:「臣聞垂能目制方圓,心度曲直,然不能以教人,其所以教人者,必規矩而已矣。聖人不勉而中,不思而得,然不能以授人,其所以授人者,必禮樂而已矣。禮者,聖人之所履也;樂者,聖人之所樂也。聖人履中正而樂和平,又思與四海共之,百世傳之,於是乎作禮樂焉。故工人執垂之規矩而施之器,是亦垂之功已;王者執五帝、三王之禮樂而施之世,是亦五帝、三王之治已。五帝、三王,其違世已久,後之人見其禮知其所履,聞其樂知其所樂,炳然若猶存於世焉。 |
現代日本語訳: 突厥は救援できず、城中の食糧が尽きた。壬寅の日、師都の従弟である洛仁が師都を殺害して城を降伏させた。この地に夏州を設置した。 太常少卿の祖孝孫は、梁・陳時代の音楽には呉や楚(江南)の要素が多く、周・斉時代の音調には胡族や異民族の影響が強いと指摘し、南北様式を斟酌して古い音律を考証した上で『唐雅楽』を作成した。全八十四調・三十一曲・十二和から構成される。詔により協律郎張文収は孝孫と共同でこれを校訂した。六月乙酉の日、孝孫らが新作音楽を奏上すると、太宗(李世民)は述べた。「礼楽とは聖人が人情に基づいて教化を施すためのものである。政治の隆盛や衰退はこれによるものではない」。御史大夫杜淹が反論した。「斉が滅亡する際には『伴侶曲』が、陳が滅びる時には『玉樹後庭花』が作られました。その哀切な調べに道行く人々も涙を流すほどで、どうして政治の隆替と音楽が無関係と言えましょうか」。太宗は答えた。「それは違う。音楽は心情を動かすゆえ、喜びをもつ者は聴いて楽しみ、憂いのある者は悲しむのだ。感情主体は人の心にあり音楽にあるのではない。滅亡しようとする政権下では民衆が愁苦しているため音楽で悲しむのである。今この二曲も現存するゆえ朕自ら奏してみせよう。卿は果たして泣くか?」。右丞魏徴が応じた。「古人の『礼とは玉帛(儀式道具)だけでなく、楽とは鐘鼓だけではない』との言葉通り、音楽の本質は人々の和合にあり音調そのものにあるのではないのです」。 解説: 1. 歴史的背景 - 梁師都事件:隋末唐初の群雄割拠期における地方政権崩壊事例。突厥支援下で独立を保った梁師都が内部崩壊した経緯は、太宗による統一過程を示す。 - 『唐雅楽』制定:貞観年間(627-649)に推進された国家儀礼整備の一環で、南北分裂時代(魏晋南北朝)を経た音楽体系再編事業。
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| 此非禮樂之功邪?夫禮樂有本、有文:中和者,本也;容聲者,末也;二者不可偏廢。先王守禮樂之本,未嘗須臾去於心,行禮樂之文,未嘗須臾遠於身。興於閨門,著於朝廷,被於鄉遂比鄰,達於諸侯,流於四海,自祭祀軍旅至於飲食起居,未嘗不在禮樂之中;如此數十百年,然後治化周浹,鳳凰來儀也。苟無其本而徒有其末,一日行之而百日捨之,求以移風易俗,誠亦難矣。是以漢武帝置協律,歌天瑞,非不美也,不能免哀痛之詔。王莽建羲和,考律呂,非不精也,不能救漸台之禍。晉武制笛尺,調金石,非不詳也,不能弭平陽之災。梁武帝立四器、調八音,非不察也,不能免台城之辱。然則韶、夏、濩、武之音,具存於世,苟其餘不足以稱之,曾不能化一夫,況四海乎!是猶執垂之規矩而無工與材,坐而待器之成,終不可得也。況齊、陳淫昏之主,亡國之音,暫奏於庭,烏能變一世之哀樂乎!而太宗遽雲治之隆替不由於樂,何發言之易而果於非聖人也如此? 夫禮非威儀之謂也,然無威儀則禮不可得而行矣。樂非聲音之謂也,然無聲音則樂不可得而見矣。譬諸山,取其一土一石而謂之山則不可,然土石皆去,山於何在哉!故曰:「無本不立,無文不行。」奈何以齊、陳之音不驗於今世,而謂樂無益於治亂,何異睹拳石而輕泰山乎!必若所言,則是五帝、三五之作樂皆妄也。 |
現代日本語訳これは礼楽による功績ではないのか?そもそも礼楽には本質と形式がある。「中和(調和)」こそが根本であり、「容声(儀礼的音律)」は末端である。この二つを偏って軽んじてはならない。先王たちは礼楽の本質を守り、一瞬も心から離さなかった。また礼楽の形式を行いながら、一寸たりとも身体から遠ざけなかった。(その教えは)家庭で興り朝廷に現れ、地方や隣近所に浸透し諸侯にも達して四海へ広まった。祭祀・軍事から飲食・日常生活に至るまで常に礼楽の中にあってこそ、数十年あるいは百年を経て初めて教化が行き渡り、「鳳凰来儀(治世の瑞兆)」が訪れるのだ。 もし本質なく形式だけ備え、一日は実行しても百日も放棄するならば、風俗を変革しようとしても実に困難である。ゆえに漢武帝が協律官を設け祥瑞を歌わせたのは立派であったが哀痛の詔(罪己詔)を免れず、王莽が羲和官を設置し音律を考究したのも精巧ながら漸台での惨禍は防げなかった。晋武帝が笛尺を制定し楽器調律したのは詳細でありながら平陽の災厄(永嘉の乱)を止められず、梁武帝が四種の楽器を作り八音を整えたのも周到だったものの台城の屈辱(侯景の乱)は避けられなかった。 それでは韶・夏・濩・武(聖王たちの雅楽)の音楽が現存していても、他の要素が伴わなければ一人すら教化できぬ。ましてや天下を治められるか?これは垂(伝説の工匠)の規矩(コンパスと定規)を持ちながら職人も材料もなく、座ったまま器物完成を待つようなものだ。 まして斉・陳のような淫乱な君主による亡国の音楽が一時的に朝廷で奏されても、どうして世の人々の哀楽感情を変えられようか?それにも関わらず太宗(唐)は軽率に「治世の盛衰は音楽によらない」と述べた。なんと言葉が軽く、聖人を否定することに断固としていることよ! 礼とは儀式作法だけではないが、作法なくして礼を行えぬ。楽とは音声だけではないが、音声なくして楽を示せない。山で例えるなら「一握りの土石をもって山とする」ことはできず、「すべての土石を取り去れば山はどこにあるのか?」故に言う「本質なければ立ち行かず、形式なければ実践されぬ」と。 どうして斉・陳の音楽が現代で効果がないからと言い「楽には治乱に関わる価値なし」と結論できるのか?拳ほどの石を見て泰山を軽んじるのに等しい!もしその言葉通りならば、五帝三王(聖王)による作楽は全て虚偽だったことになるではないか。 解説【論理構成】
【思想的背景】
【修辞技法】
【現代への示唆】
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| 」君子於其所不知,蓋闕如也。」惜哉! 戊子,上謂侍臣曰:「朕觀《隋煬帝集》,文辭奧博,亦知是堯、舜而非桀、紂,然行事何其反也!」魏徵對曰:「人君雖聖哲,猶當虛己以受人,故智者獻其謀,勇者竭其力。煬帝恃其俊才,驕矜自用,故口誦堯、舜之言而身為桀、紂之行,曾不自知,以至覆亡也。」上曰:「前事不遠,吾屬之師也!」 畿內有蝗。辛卯,上入苑中,見蝗,掇數枚,祝之曰:「民以谷為命,而汝食之,寧食吾之肺腸。」舉手欲吞之,左右諫曰:「惡物或成疾。」上曰:「朕為民受災,何疾之避!」遂吞之。是歲,蝗不為災。 上曰:「朕每臨朝,欲發一言,未嘗不三思。恐為民害,是以不多言。」給事中知起居事杜正倫曰:「臣職在記言,陛下之言失,臣必書之,豈徒有害於今,亦恐貽譏於後。」上悅,賜帛二百段。 上曰:「梁武帝君臣惟談苦空,侯景之亂,百官不能乘馬。元帝為周師所圍,猶講《老子》,百官戎服以聽。此深足為戒。朕所好者,唯堯、舜、周、孔之道,以為如鳥有翼,如魚有水,失之則死,不可暫無耳。」 以辰州刺史裴虔通,隋煬帝故人,特蒙寵任,而身為弒逆,雖時移事變,屢更赦令,倖免族夷,不可猶使牧民,乃下詔除名,流歡州。虔通常言「身除隋室以啟大唐」,自以為功,頗有觖望之色。 |
現代日本語訳(原文は『資治通鑑』からの抜粋であり、歴史的記述を現代語に置き換えています) 君子たる者は知らないことは断定的に言わないものだ 「誠に惜しいことである」 戊子の日、太宗が側近たちに言われた。「朕は『隋煬帝集』を読んだ。その文辞は深遠で広博な知識を示し、堯や舜を称え桀や紂を非難しているのに、実際の行動はなぜこれほど正反対だったのか」 都周辺で蝗害が発生 辛卯の日、皇帝(太宗)が御苑に入ると蝗を発見し、数匹摘み取って誓った。「民衆は穀物に命をつないでいるのに、お前たちがこれを食い荒らす。ならば朕の肺腸を喰らえ」と言い、手にした虫を飲み込もうとした。側近が「穢れたものを召されれば病にかかる恐れがあります」と諫めると、「朕は民のために災いを受けようとしているのだ。病気など避けることではない!」と言われそのまま呑み下された。この年、蝗害による被害はなかった。 発言への慎重な姿勢
皇帝(太宗)が述べられた。「朕は朝廷で発言する際、一言一句に必ず三度考える。民衆へ悪影響を与えることを恐れるからだ」 梁武帝への痛烈な批判 皇帝(太宗)が語られた。「梁の武帝は君臣で仏教の空論ばかり議論し、侯景の乱では役人たちさえ馬に乗れなかった。元帝は周軍に包囲されても『老子』を講義し続け、百官は軍服姿でそれを聞いていた——これは深く戒めとすべきことだ。朕が尊ぶのは堯・舜・周公・孔子の教えのみであり、それは鳥にとって翼のように魚にとって水のような存在である。失えば死に至り、一刻も欠かせない」 逆臣への厳罰 辰州刺史裴虔通は隋の煬帝から特別な寵愛を受けながら主君殺しに関与した人物であった。時代が変わり赦令が出されたとはいえ一族処刑を免れたことを幸運とすべきで、これ以上民衆を治める官職に置くことはできないとして除名処分とし、驩州へ流罪とした。裴虔通は常々「自分が隋王朝を倒したからこそ唐が成立した」と功績を主張し、不満の表情を見せていた。 解説(歴史的意義)
(政治的メッセージ)
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| 及得罪,怨憤而死。 秋,七月,詔宇文化及之黨萊州刺史牛方裕、絳州刺史薛世良、廣州都督長史唐奉義、隋武牙郎將元禮並除名徙邊。 上謂侍臣曰:「古語有之:『赦者小人之幸,君子之不幸。』『一歲再赦,善人暗啞。』夫養稂莠者害嘉谷,赦有罪者賊良民,故朕即位以來,不欲數赦,恐小人恃之輕犯憲章故也!」。 |
現代日本語訳罪を得た後、怨みと憤りの中で亡くなった。 皇帝(太宗)が側近たちに述べた: 解説
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| input text 資治通鑑\193_唐紀_09.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷一百九十三 唐紀九 起著雍困敦九月,盡重光單閼,凡三年有奇。 太宗文武大聖大廣孝皇帝上之中貞觀二年(戊子,公元六二八年) 九月,丙午,初令致仕官位在本品之上。 上曰:「比見群臣屢上表賀祥瑞,夫家給人足而無瑞,不害為堯、舜;百姓愁怨而多瑞,不害為桀、紂。後魏之世,吏焚連理木,煮白雉而食之,豈足為至治乎!」丁未,詔:「自今大瑞聽表聞,自外諸瑞,申所司而已。」嘗有白鵲構巢於寢殿槐上,合歡如腰鼓,左右稱賀。上曰:「我常笑隋煬帝好祥瑞。瑞在得賢,此何足賀!」命毀其巢,縱鵲於野外。 天少雨,中書舍人李百藥上言:「往年雖出宮人,竊聞太上皇宮及掖庭宮人,無用者尚多,豈惟虛費衣食,且陰氣鬱積,亦足致旱。」上曰:「婦人幽閉深宮,誠為可愍。灑掃之餘,亦何所用,宜皆出之,任求伉儷。」於是遣尚書左丞戴冑、給事中洹水杜正倫於掖庭西門簡出之,前後所出三千餘人。 己未,突厥寇邊。朝臣或請修古長城,發民乘堡障,上曰:「突厥災異相仍,頡利不懼而修德,暴虐滋甚,骨肉相攻,亡在朝夕。朕方為公掃清沙漠,安用勞民遠修障塞乎!」 壬申,以前司農卿竇靜為夏州都督。靜在司農,少卿趙元楷善聚斂,靜鄙之,對官屬大言曰:「隋煬帝奢侈重斂,司農非公不可;今天子節儉愛民,公何所用哉!」元楷大慚。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻百九十三 唐紀九 (著雍困敦〈戊戌〉九月より重光単閼〈辛卯〉まで、凡そ三年余り) 貞観二年(戊子年・西暦628年)太宗文武大聖大広孝皇帝統治中盤 ▼ 九月丙午の日(3日) 退職官僚に対し、現役時代の官位より上位の待遇を与える制度を初めて制定した。 ▼ 君臣問答:祥瑞批判 太宗は述べた:「近頃、臣下たちが度々吉兆出現を祝賀する上奏文を提出している。しかし民衆に衣食が行き渡っているならば、例え瑞祥が無くとも堯・舜の治世と何ら変わらない。逆に民衆が困窮し怨みを持っている状況では、どれほど吉兆があっても桀王や紂王のような暴政と同じである」。北魏時代には役人が連理木(吉祥の木)を焼却し白雉を煮て食べた事例があるが、「これで立派な治世と言えるのか?」 → 翌丁未の日(4日)に詔勅発布:「今後は最高ランクの瑞兆『大瑞』のみ奏上報告とする。その他の祥瑞は所轄官庁へ届け出るだけで十分である」 ▼ 白鵲事件:実践的証明 ある時、白色のカササギが寝殿前の槐の木に巣を作り、二羽が合体したような腰鼓形を形成した。側近たちが祝賀すると太宗は言下に否定:「隋の煬帝が祥瑞を好むのは嘲笑すべきことだ。真の吉兆とは人材を得ることにある」と断言し、巣を破却させ野へ放鳥した。 ▼ 宮女解放:旱魃対策から人道政策へ 降雨不足の中、中書舎人李百薬が上奏:「これまで後宮女性を削減しましたが、太上皇(高祖)ゆかりの宮殿や掖庭(後宮管理区画)にはなお不要な人員が多い。衣食供給の無駄だけでなく陰気鬱積こそ旱魃原因です」。太宗は応じた:「婦人を深宮に閉じ込めるのは真に哀れむべきことだ」とし、尚書左丞戴冑らを派遣して掖庭西門で選抜解放。前後合わせて三千余名が放出され配偶者探しを許可された。 ▼ 突厥侵攻:長城修復論の拒絶 己未の日(16日)、突厥が国境侵犯。古長城修復や民間防衛動員案が提出される中、太宗は断固反駁:「突厥では天変地異続発しているのに頡利可汗は徳政を行わず暴虐を増長させている。しかも彼らは内部抗争で崩壊寸前だ」と指摘し、「朕自ら砂漠掃討するため、民衆疲弊させる遠隔防衛工事など不要である!」と結論づけた。 ▼ 人事異動:倹約政治の象徴 壬申の日(29日)、元司農卿竇静を夏州都督に任命。彼が司農寺在職時、少卿趙元楷は重税徴収術で知られていたが、竇静はこれを蔑視し役人たちへ宣言:「隋煬帝のような奢侈時代なら貴官の手腕も必要だったろう。だが現天子(太宗)は倹約と民生重視を旨とする——貴官に何の価値がある?」。趙元楷は深く恥入った。 歴史的考察
▶ 治国理念の核心 Translation took 1798.3 seconds. | ||||||||||||
| 上問王珪曰:「近世為國者益不及前古,何也?」對曰:「漢世尚儒術,宰相多用經術士,故風俗淳厚;近世重文輕儒,參以法律,此治化之所以益衰也。」上然之。 冬,十月,御史大夫參預朝政安吉襄公杜淹薨。 交州都督遂安公壽以貪得罪,上以瀛州刺史盧祖尚才兼文武,廉平公直,征入朝,諭以「交趾久不得人,須卿鎮撫。」祖尚拜謝而出,既而悔之,辭以舊疾。上遣杜如晦等諭旨曰:「匹夫猶敦然諾,奈何既許朕而復悔之!」祖尚固辭。戊子,上復引見,諭之,祖尚固執不可。上大怒曰:「我使人不行,何以為政!」命斬於朝堂,尋悔之。他日,與侍臣論「齊文宣帝何如人?」魏徵對曰:「文宣狂暴,然人與之爭,事理屈則從之。有前青州長史魏愷使於梁還,除光州長史,不肯行,楊遵彥奏之。文宣怒,召而責之。愷曰:『臣先任大州,使還,有勞無過,更得小州,此臣所以不行也。』文宣顧謂遵彥曰:『其言有理,卿赦之。』此其所長也。」上曰:「然。向者盧祖尚雖失人臣之義,朕殺之亦為太暴,由此言之,不如文宣矣!」命復其官廕。 徵狀貌不逾中人,而有膽略,善回人主意,每犯顏苦諫;或逢上怒甚,征神色不移,上亦為之霽威。嘗謁告上塚,還,言於上曰:「人言陛下欲幸南山,外皆嚴裝已畢,而竟不行,何也?」上笑曰:「初實有此心,畏卿嗔,故中輟耳。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)太宗が王珪に問うた:「近世の治国者はなぜ古代より劣るのか」。王珪は答えた:「漢代は儒術を尊び、宰相には経学の士を登用したため風俗は純朴でした。しかし近世は文彩を重んじて儒学を軽視し、法で統制するので政治が衰退するのです」。太宗はこれを認めた。 冬十月、御史大夫で朝政参与の安吉襄公・杜淹が没す。 交州都督の遂安公・李寿が汚職で罪を得た。太宗は瀛州刺史・盧祖尚を「文武に優れ清廉公正」と評価し上京させ、「交趾統治にふさわしい人物が必要だ」と伝えた。盧祖尚はいったん承諾したものの、後になって持病を理由に辞退した。太宗は杜如晦らを使者として遣わし「庶民ですら約束を守るのに、なぜ朕との約束を反故にするのか」と詰問させたが拒絶された。戊子の日、再び引見して説得するも盧祖尚は頑なに拒否した。激怒した太宗は「朕の命すら通じぬとは何事か!」と朝堂で斬刑を命じ、すぐに後悔した。 後に侍臣たちと「斉の文宣帝(高洋)はいかなる人物か」と議論した際、魏徴が答えた:「暴君だが道理を説けば従う一面もありました。青州長史・魏愷が梁からの帰還後、光州長史への左遷を拒んだ事件では、楊遵彦の告発を受け文宣帝は激怒しましたが、魏愷の『大州刺史から無事帰任した功労者を左遷するのは不合理』との弁明に納得し赦免しています」。太宗は「盧祖尚処刑は朕の過ちだった。道理を聞き入れた文宣帝にも及ばぬ」と述べ、盧祖尚の官爵復権と恩典継承を命じた。 魏徴は風采こそ平凡だが胆力に優れ、巧みに太宗の意志を正した。常に直言諫言し、皇帝が激怒しても微動だにせず、かえって太宗の逆鱗を鎮めたことがある。墓参りから戻った魏徴が「陛下が南山に行幸すると噂され準備も整いましたが中止されたとか」と尋ねると、太宗は笑いながら「実は行こうと思ったのだが、そちらの諫言が怖くて断念したのだ」と応えた。 解説
※注:現代語訳にあたり固有名詞(官職名・地名等)は原則として原表記維持し、解釈が必要な箇所のみ適宜補足した。 Translation took 1445.2 seconds. | ||||||||||||
| 」上嘗得佳鷂,自臂之,望見征來,匿懷中;征奏事固久不已,鷂竟死懷中。 十一月,辛酉,上祀圜丘。 十二月,壬午,以黃門侍郎王珪為守侍中。上嘗閒居,與珪語,有美人侍側,上指示珪曰:「此廬江王瑗之姬也,瑗殺其夫而納之。」珪避席曰:「陛下以廬江納之為是邪,非邪?」上曰:「殺人而取其妻,卿何問是非!」對曰:「昔齊桓公知郭公之所以亡,由善善而不能用,然棄其所言之人,管仲以為無異於郭公。今此美人尚在左右,臣以為聖心是之也。」上悅,即出之,還其親族。 上使太常少卿祖孝孫教宮人音樂,不稱旨,上責之。溫彥博、王珪諫曰:「孝孫雅士,今乃使之教宮人,又從而譴之,臣竊以為不可。」上怒曰:「朕置卿等於腹心,當竭忠直以事我,乃附下罔上,為孝孫遊說邪?」彥博拜謝。珪不拜,曰:「陛下責臣以忠直,今臣所言豈私曲邪!此乃陛下負臣,非臣負陛下。」上默然而罷。明日,上謂房玄齡曰:「自古帝王納諫誠難,朕昨責溫彥博、王珪、至今悔之。公等勿為此不盡言也。」 上曰:「為朕養民者,唯在都督、刺史,朕常疏其名於屏風,坐臥觀之,得其在官善惡之跡,皆注於名下,以備黜陟。縣令尤為親民,不可不擇。」乃命內外五品已上,各舉堪為縣令者,以名聞。 上曰:「比有奴告其主反者,此弊事。 |
翻訳文かつて太宗は優れた鷹を得、自ら腕に止まらせていたが、魏徴の来訪を見ると懐に隠した。ところが魏徴の奏上が長時間続き、ついに鷹は懐中で息絶えた。 十一月辛酉の日、皇帝は圜丘において天を祀った。 太常少卿・祖孝孫(そこうそん)に宮廷音楽の指導を命じたが不満足であったため太宗が叱責すると、温彦博と王珪が「教養人である彼を下賤な役目につけながら叱るのは不当です」と諫めた。激怒した太宗は「腹心として忠言すべきなのに、なぜ臣下に迎合するのか!」と詰め寄ると、温彦博は平伏して謝罪したが、王珪は直立したままでこう述べた。「陛下が『忠直』を求めるなら、私の発言こそそれです。これは陛下の背信であり、臣下の不義ではありません」。太宗は沈黙して引き上げたが翌日、房玄齢に「諫めを受け入れるのは難しいと痛感した」と悔やみ、「今後も遠慮なく直言せよ」と命じた。 太宗は言った。「民を養う要は都督・刺史にある。常に屏風にその名を記し善政悪政の事績を注記して昇降の基準とする。特に県令は民に直結する職ゆえ、人選が肝心だ」。そこで五品以上の全官僚に対し適任者の推薦を命じた。 また「近時奴婢による主人告発があるが弊害である」と述べた。 解説
※注:現代語訳にあたり Translation took 738.7 seconds. | ||||||||||||
| 夫謀反不能獨為,必與人共之,何患不發,何必使奴告邪!自今有奴告主者,皆勿受,仍斬之。」 西突厥統葉護可汗為其伯父所殺;伯父自立,是為莫賀咄侯屈利俟毘可汗。國人不服,弩矢畢部推泥孰莫賀設為可汗,泥孰不可。統葉護之子咥力特勒避莫賀咄之禍,亡在康居,泥孰迎而立之,是為乙毘缽羅肆葉護可汗,與莫賀咄相攻,連兵不息,俱遣使來請婚。上不許,曰:「汝國方亂,君臣未定,何得言婚!」且諭以各守部分,勿復相攻。於是西域諸國及敕勒先役屬西突厥者皆叛之。 突厥北邊諸姓多叛頡利可汗歸薛延陀,共推其俟斤夷男為可汗,夷男不敢當。上方圖頡利,遣游擊將軍喬師望間道繼冊書拜夷男為真珠毘伽可汗,賜以鼓纛。夷男大喜,遣使入貢,建牙於大漠之郁督軍山下,東至靺鞨,西至西突厥,南接沙磧,北至俱倫水;回紇、拔野古、阿跌、同羅、僕骨、□諸部落皆屬焉。 太宗文武大聖大廣孝皇帝上之中貞觀三年(己丑、公元六二九年) 春,正月,戊午,上祀太廟;癸亥,耕藉於東郊。 沙門法雅坐妖言誅。司空裴寂嘗聞其言,辛未,寂坐免官,遣還鄉里。寂請留京師,上數之曰:「計公勳庸,安得至此!直以恩澤為群臣第一。武德之際貨賂公行,紀綱紊亂,皆公之由也,但以故舊不忍盡法。得歸守墳墓,幸已多矣!」寂遂歸蒲州。 |
現代日本語訳:謀反は一人でできるものではなく、必ず共犯者がいるのだから、発覚しないことを心配する必要などない。ましてや奴隷に主人を告発させる必要がどこにあろうか!今後、奴隷が主人を告発した場合は全て受理せず、直ちに処刑せよ。 西突厥の統葉護可汗(トン・ヤブク・カガン)は叔父によって殺害された。この叔父が自ら即位し、莫賀咄侯屈利俟毘可汗(バガテュル・キュリグ・セビ・カガン)と称した。国民はこれに従わず、弩矢畢部(ヌシェビ族)が泥孰莫賀設(ネジュク・バガ・シャド)を推挙して可汗としたが、彼は固辞した。統葉護の子である咥力特勒(ジルグ・テギン)は莫賀咄の迫害から逃れて康居国に亡命していたため、泥孰がこれを迎えて即位させた。これが乙毘缽羅肆葉護可汗(イルビゲラ・セイヤブク・カガン)である。両者は互いに攻撃し合い、戦乱は止むことなく、双方が使者を遣わして唐に婚姻を求めてきた。太宗はこれを許さず、「お前たちの国は内乱状態で君臣関係も定まっていないのに、どうして婚姻など語れるのか」と述べ、さらに「それぞれ領土を守り、これ以上争ってはならない」と諭した。 こうして西域諸国やかつて西突厥に服属していた敕勒(テュルク系部族)らが相次いで反旗を翻した。また突厥北部の諸氏族も多くが頡利可汗(イリグ・カガン)から離反し薛延陀(シルティベル)のもとに集結、共同でその首長である夷男(イナン)を推戴して可汗としようとしたが、彼は辞退した。ちょうど太宗が頡利討伐の機会を伺っていたところであったため、游撃将軍喬師望に命じて密かに冊書を持たせ、夷男を真珠毘伽可汗(インチュ・ビルゲ・カガン)として正式に任命し、太鼓と旗印を下賜した。夷男は大いに喜び使者を入貢させると、その牙帳(本営)を大漠の郁督軍山(ウテュケン山)の麓に設置した。領土は東は靺鞨(満州系民族)、西は西突厥、南はゴビ砂漠、北は俱倫湖(フルンノール)まで広がり、回紇(ウィグル)・拔野古(バイカル湖周辺部族)・阿跌(アルタイ地域部族)・同羅(トングラ族)・僕骨(バク族)など諸部族を従えた。 貞観三年(己丑の年、紀元629年) 春正月戊午の日、太宗は太廟で祭祀を行い、癸亥の日に東郊において籍田の儀(農耕儀礼)を執り行った。 僧侶法雅が妖言妄説のかどで処刑された。司空裴寂はかつて彼の発言を聞いていたため、辛未の日に連座して免官となり郷里へ送還されることとなった。裴寂が長安残留を懇願すると、太宗は詰問した:「お前の功績などこの地位にふさわしいものか?ただ朕の恩寵だけで群臣中第一の地位を得ていたのだ。武徳年間(高祖治世)に賄賂が横行し綱紀が乱れたのは全てお前のせいだ。旧臣であることを慮り極刑は見逃してやる。故郷で先祖の墓を守れるだけでも十分すぎるだろう」。こうして裴寂は蒲州へ帰還した。 解説:
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| 未幾,又坐狂人信行言寂有天命,寂不以聞,當死;流靜州。會山羌作亂,或言劫寂為主。上曰:「寂當死,我生之,必不然也。」俄聞寂帥家僮破賊。上思其佐命之功,征入朝,會卒。 二月,戊寅,以房玄齡為左僕射,杜如晦為右僕射,以尚書右丞魏徵守秘書監,參預朝政。 三月,己酉,上錄系囚。有劉恭者,頸有「勝」文,自云「當勝天下」,坐是繫獄。上曰:「若天將興之,非朕所能除;若無天命,『勝』文何為!」乃釋之。 丁巳,上謂房玄齡、杜如晦曰:「公為僕射,當廣求賢人,隨才授任,此宰相之職也。比聞聽受辭訟,日不暇給,安能助朕求賢乎!」因敕「尚書細務屬左右丞,唯大事應奏者,乃關僕射。」 玄齡明達吏事,輔以文學,夙夜盡心,惟恐一物失所;用法寬平,聞人有善,若己有之,不以求備取人,不以己長格物。與杜如晦引拔士類,常如不及。至於台閣規模,皆二人所定。上每與玄齡謀事,必曰:「非如晦不能決。」及如晦至,卒用玄齡之策。蓋玄齡善謀,如晦能斷故也。二人深相得,同心徇國,故唐世稱賢相者,推房、杜焉。玄齡雖蒙寵待,或以事被譴,輒累日詣朝堂,稽顙請罪,恐懼若無所容。 玄齡監修國史,上語之曰:「比見《漢書》載《子虛》、《上林賦》,浮華無用。其上書論事,詞理切直者,朕從與不從,皆當載之。 |
現代日本語訳ほどなく、李寂はまた狂人・信行が「李寂には天命がある」と述べた件に関わった罪で捕らえられた。彼がこのことを報告しなかったため死刑判決を受けたものの、流刑(静州送り)に減刑された。ちょうど山岳地帯の羌族が反乱を起こした際、「李寂を拉致して指導者にする」との噂が立った。太宗は「彼は本来死罪だが朕が助命したのだから、そのようなことはあるまい」と述べたところ、間もなく李寂が私兵を率いて反乱軍を撃破した報せが届いた。太宗は建国の功績を思い出し都に召還しようとしたが、その間に死去した。 二月戊寅の日、房玄齢を左僕射(副宰相)、杜如晦を右僕射とし、尚書右丞・魏徴を秘書監として朝廷政務への参与を認めた。 房玄齢は行政手腕に優れ学識も豊かだった。昼夜を問わず職務に励み「一人でも見落とすまい」との姿勢で臨んだ。刑罰運用は穏健公平であり、他人の長所を見れば自身のことのように喜び、完璧主義的な人物評価を避けた。杜如晦と共に人材登用に尽力し、「取りこぼすな」が信条だった。中央官庁の制度整備も両名が主導した。 解説
▶ 全体として『資治通鑑』が描くのは単なる成功譚ではなく、「合理主義」「分業システム」「記録の真実性」という統治理念の成熟過程である。人事権運用における皇帝―宰相間の緊張感ある協働関係は現代組織論にも通じる示唆に富む。 Translation took 1621.4 seconds. | ||||||||||||
| 」 夏,四月,乙亥,上皇徙居弘義宮,更名大安宮。上始御太極殿,謂侍臣曰:「中書、門下,機要之司,詔敕有不便者,皆應論執。比來唯睹順從,不聞違異。若但行文書,則誰不可為,何必擇才也!」房玄齡等皆頓首謝。故事:凡軍國大事,則中書舍人各執所見,雜署其名,謂之五花判事。中書侍郎、中書令省審之,給事中、黃門侍郎駁正之。上始申明舊制,由是鮮有敗事。 茌平人馬周,客遊長安,捨於中郎將常何之家。六月,壬午,以旱,詔文武官極言得失。何武人不學,不知所言,周代之陳便宜二十餘條。上怪其能,以問何,對曰:「此非臣所能,家客馬周為臣具草耳。」上即召之;未至,遣使督促者數輩。及謁見,與語,甚悅,令直門下省,尋除監察御史,奉使稱旨。上以常何為知人,賜絹三百匹。 秋,八月,己巳朔,日有食之。 丙子,薛延陀毘伽可汗遣其弟統特勒入貢,上賜以寶刀及寶鞭,謂曰:「卿所部有大罪者斬之,小罪者鞭之。」夷男甚喜。突厥頡利可汗大懼,始遣使稱臣,請尚公主,修婿禮。 代州都督張公謹上言突厥可取之狀,以為:「頡利縱欲逞暴,誅忠良,暱奸佞,一也。薛延陀等諸部皆叛,二也。突利、拓設、欲谷設皆得罪,無所自容,三也。塞北霜早,餱糧乏絕,四也。頡利疏其族類,親委諸胡,胡人反覆,大軍一臨,必生內變,五也,華人入北,其眾甚多,比聞所在嘯聚,保據山險,大軍出塞,自然響應,六也。 |
現代日本語訳夏四月乙亥の日、上皇(李淵)が弘義宮に移居し、これを大安宮と改称した。太宗(李世民)は初めて太極殿で政務を執り、近臣に向かって言った。「中書省と門下省は枢機をつかさどる機関だ。詔勅に不都合があれば異議を唱えるべきなのに、近年は従順を示すばかりで反論が聞かれない。単なる文書処理なら誰でもできる。なぜ人材を選ぶ必要があるのか」。房玄齢らは平伏して謝罪した。 旧制では軍国大事の際、中書舎人が各自意見を記し共同署名(五花判事)する。中書侍郎・中書令が審査し、給事中・黄門侍郎が修正する制度であった。太宗はこれを復活させ、以後失敗は激減した。 茌平県出身の馬周は長安で遊学し、中郎将・常何の家に寄宿していた。六月壬午の日、旱魃を受けて太宗が文武官に意見上奏を命じた。武人の常何は学識不足で献策できず、代わりに馬周が二十余条の施策を作成した。太宗はその優秀さに驚き常何に問いただすと、「これは臣下の力ではなく食客・馬周の草案です」との返答を得た。太宗は直ちに召還を命じ(到着前に使者を数度派遣)、謁見後に門下省へ登用し、間もなく監察御史として重用した。常何には人材発掘を称え絹三百匹を与えた。 秋八月己巳朔の日、日食が発生。 代州都督の張公謹が「突厥討伐六条件」を上奏: 解説1. 太宗の行政改革意図: 2. 人材登用の革新性: 3. 国際情勢の戦略分析: 4. 外交政策の象徴的場面: (注)固有名詞は原典表記尊重しルビなし対応。「五花判事」「中書舎人」等の制度用語には文脈で説明を付与した。 Translation took 1491.2 seconds. | ||||||||||||
| 」上以頡利可汗既請和親,復援梁師都,丁亥,命兵部尚書李靖為行軍總管討之,以張公謹為副。 九月,丙午,突厥俟斤九人帥三千騎來降。戊午,拔野古、僕骨、同羅、奚酋長並帥眾來降。 冬,十一月,辛丑,突厥寇河西,肅州刺史公孫武達、甘州刺史成仁重與戰,破之,捕虜千餘口。 上遣使至涼州,都督李大亮有佳鷹,使者諷大亮使獻之,大亮密表曰:「陛下久絕畋游而使者求鷹。若陛下之意,深乖昔旨;如其自擅,乃是使非其人。」癸卯,上謂侍臣曰:「李大亮可謂忠直。」手詔褒美,賜以胡瓶及荀悅《漢紀》。 庚申,以并州都督李世勣為通漢道行軍總管,兵部尚書李靖為定襄道行軍總管,華州刺史柴紹為金河道行軍總管,靈州大都督薛萬徹為暢武道行軍總管,眾合十餘萬,皆受李靖節度,分道出擊突厥。 乙丑,任城王道宗擊突厥於靈州,破之。 十二月,戊辰,突利可汗入朝,上謂侍臣曰:「往者太上皇以百姓之故,稱臣於突厥,朕常痛心。今單于稽顙,庶幾可雪前恥。」 壬午,靺鞨遣使入貢,上曰:「靺鞨遠來,蓋突厥已服之故也。昔人謂御戎無上策,朕今治安中國,而四夷自服,豈非上策乎!」 癸未,右僕射杜如晦以疾遜位,上許之。 乙酉,上問給事中孔穎達曰:「《論語》:『以能問於不能,以多問於寡,有若無,實若虛。 |
現代日本語訳皇帝(太宗)は突厥の頡利可汗が和親を求めながらも梁師都を支援していたことを重く見て、丁亥の日に兵部尚書・李靖を行軍総管として討伐軍を指揮させ、張公謹を副将に任命した。 九月丙午、突厥の高級武官(俟斤)9名が騎兵3千を率いて降伏。戊午には抜野古・僕骨・同羅・奚などの部族長らが相次いで配下を率いて帰順した。 冬十一月辛丑、突厥が河西地方に侵攻すると、粛州刺史の公孫武達と甘州刺史の成仁重が連携して迎撃し、千人以上の捕虜を得る勝利を収めた。 皇帝の使者が涼州都督・李大亮のもとを訪れ「名鷹(佳鷹)を献上せよ」とほのめかしたところ、大亮は密奏で直言:「陛下が狩猟自制の方針を示されている中での要求であれば方針矛盾です。もし使者独断なら人選ミスでしょう」。癸卯、皇帝は側近に「李大亮こそ忠義直臣だ」と評し、自筆詔書で称賛するとともにペルシャ風壺(胡瓶)と荀悦『漢紀』を下賜した。 庚申、并州都督・李世勣を通漢道行軍総管に、兵部尚書・李靖を定襄道行軍総管に、華州刺史・柴紹を金河道行軍総管に、霊州大都督・薛万徹を暢武道行軍総管に任命。計10万余の大軍を李靖が統括し、多方向から突厥へ進攻した。 乙丑、任城王・道宗が霊州で突厥部隊を撃破。 十二月戊辰、突利可汗が入朝すると皇帝は感慨深く語った:「先帝(高祖)は民の安寧のために突厥に臣従された。朕はずっと無念だったが、今や彼らが額づいて降ることで汚名が晴れた」。 壬午、靺鞨からの使者が来朝した際、皇帝は分析:「遠方から訪れたのは突厥服属の影響だろう。昔『夷狄対策に最善策なし』と言われたが、朕が中原を治めれば周辺民族(四夷)は自然と従う――これこそ上策である」。 癸未、右僕射・杜如晦が病により辞任し皇帝が許可。 解説
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| 』何謂也?」穎達具釋其義以對,且曰:「非獨匹夫如是,帝王亦然。帝王內蘊神明,外當玄默,故《易》稱『以蒙養正,以明夷蒞眾。』若位居尊極,炫耀聰明,以才陵人,飾非拒諫,則下情不通,取亡之道也。」上深善其言。 庚寅,突厥郁射設帥所部來降。 閏月,丁未,東謝酋長謝元深、南謝酋長謝強來朝。諸謝皆南蠻別種,在黔州之西。詔以東謝為應州、南謝為莊州,隸黔州都督。 是時遠方諸國來朝貢者甚眾,服裝詭異,中書侍郎顏師古請圖寫以示後,作《王會圖》,從之。 乙丑,牂柯酋長謝能羽及充州蠻入貢,詔以牂柯為牂州;黨頃酋長細封步賴來降,以其地為軌州;各以其酋長為刺史。党項地亙三千里,姓別為部,不相統壹,細封氏、費聽氏、往利氏、頗超氏、野辭氏、旁當氏、米擒氏、拓跋氏,皆大姓也。步賴既為唐所禮,餘部相繼來降,以其地為崌、奉、巖、遠四州。 是歲,戶部奏:中國人自塞外歸,及四夷前後降附者,男子一百二十餘萬口。 房玄齡、珪掌內外官考,治書侍御史萬年權萬紀奏其不平,上命侯君集推之。魏徵諫曰:「玄齡、珪皆朝廷舊臣,素以忠直為陛下所委,所考既多,其間能無一二人不當!察其情,終非阿私。若推得其事,則皆不可信,豈得復當重任!且萬紀比來恆在考堂,曾無駁正;及身不得考,乃始陳論。 |
現代日本語訳穎達がその意味を詳しく説明して答え、さらに述べた。「これは単なる一般人のみならず帝王にも当てはまります。帝王は内心に神のような英知を持ちながらも、表面上は静かに控えめであるべきです。ゆえに『易経』には『未熟な状態で正道を養い、明るく穏やかな態度で民衆と接する』とあります。もし最高位にあって才能を見せびらかし人を侮り、過ちをごまかして諫言を拒むならば、下情は上に伝わらず滅亡の道へ進みます」と。皇帝(太宗)はこの言葉を深く賞賛した。 庚寅の日、突厥の郁射設が配下部族を率いて降伏した。 閏月丁未、東謝部族長・謝元深と南谢部族長・謝強が来朝した。諸謝勢力はいずれも南方蛮族の一派で黔州以西に居住していたため、詔勅により東谢地域を応州、南谢地域を莊州として設置し、黔州都督府の管轄下とした。 この時期には遠方から多くの国々が朝貢に訪れ、その服装は異様であった。中書侍郎・顔師古が後世への記録として人物を描くよう提案したため『王会図』作成が許可され実施された。 乙丑の日、牂柯部族長・謝能羽と充州蛮が貢物を献上し、詔により牂柯地域を牂州とした。また党項部族長・細封歩頼が降伏したためその地に軌州を設置し、各部族長を刺史(地方長官)に任命した。 党项の支配域は三千里にわたり氏族ごとに分かれて統一されておらず、細封氏・費聴氏・往利氏・頗超氏・野辞氏・旁当氏・米擒氏・拓跋氏が大族を形成していた。歩頼が唐から厚遇されたため他の部族も相次いで降伏し、その地に崌州・奉州・巖州・遠州の四州が設置された。 同年、戸部(財務省)より報告があった:国境外からの帰還者および異民族の降伏者を合計すると男子120万余口に達したと。 房玄齢らが官吏考課(人事評価)を担当していたところ、治書侍御史・権万紀が不公平であると上奏。皇帝は侯君集に調査させようとしたが、魏徴が諫めた。「玄齢らは朝廷の重臣として忠義心厚く陛下から信頼されております。大量の考課案件の中に一二の誤りがあっても不思議ではなく、彼らの本意は私情によるものではありません。もし問題があると判明すれば全人事評価が信用されなくなり、重任を託せなくなってしまいます。さらに万紀自身も考課現場に常駐しながら指摘せず、自分への評価結果が出て初めて異論を唱えているのです」 解説
※原文は『資治通鑑』唐紀十一より。現代語訳にあたって固有名詞(部族名・地名)は原則漢字表記を維持し、理解補助として役職等を()内で付記。 Translation took 1638.1 seconds. | ||||||||||||
| 此正欲激陛下之怒,非竭誠徇國也。使推之得實,未足裨益朝廷;若其本虛,徒失陛下委任大臣之意。臣所愛者治體,非敢苟私二臣。」上乃釋不問。 濮州刺史龐相壽坐貪污解任,自陳嘗在秦王幕府;上憐之,欲聽還舊任。魏徵諫曰:「秦府左右,中外甚多,恐人人皆恃恩私,是使為善者懼。」上欣然納之,謂相壽曰:「我昔為秦王,乃一府之主;今居大位,乃四海之主,不得獨私故人。大臣所執如是,朕何敢違!」賜帛遣之。相壽流涕而去。 太宗文武大聖大廣孝皇帝上之中貞觀四年(庚寅,公元六三零年) 春,正月,李靖帥驍騎三千自馬邑進屯惡陽嶺,夜襲定襄,破之。突厥頡利可汗不意靖猝至,大驚曰:「唐不傾國而來,靖何敢孤軍至此!」其從一日數驚,乃徙牙於磧口。靖復遣諜離其心腹,頡利所親康蘇密以隋蕭后及煬帝之孫政道來降。乙亥,至京師。先是,有降胡言「中國人或潛通書啟於蕭後者」。至是,中書舍人楊文瓘請鞫之,上曰:「天下未定,突厥方強,愚民無知,或有斯事。今天下已安,既往之罪,何須問也!」 李世勣出雲中,與突厥戰於白道,大破之。 二月,己亥,上幸驪山溫湯。 甲辰,李靖破突厥頡利可汗於陰山。 先是,頡利既敗,竄於鐵山,餘眾尚數萬;遣執失思力入見,謝罪,請舉國內附,身自入朝。 |
訳文これはただ陛下の怒りを煽ろうとしているだけで、誠心をもって国に尽くそうとするものではありません。仮に調べて事実が判明しても朝廷にとって利益にはならず、もし根拠がないのであれば、陛下が大臣たちへの信頼を示されたお気持ちを損なうだけです。私が大切にするのは政治の根本であり、二人の臣下に対して個人的に情けをかけようとしているわけでは決してありません。」皇帝はこれを受け入れ追及しなかった。 濮州刺史龐相壽は汚職の罪で解任されたが、自らかつて秦王(李世民)の幕府に仕えたことを述べた。太宗は彼を哀れみ元の官職へ復帰させようとしたところ、魏徵が諫めて言った。「秦王府に関わりのあった者は朝廷内外に非常に多くおります。もし皆がこうした恩恵を恃むならば、善行を重んじる者が畏縮してしまうでしょう。」太宗は喜んでこれを受け入れ相寿に向かい語った。「かつて秦王であった私は一府の主に過ぎなかったが、今や天子として天下全体の君主である。旧知に対する私情だけでは動けぬ。大臣たちの意見には道理があるゆえ、朕といえどもどうして逆らえようか。」絹を賜って帰したところ相寿は涙を流し去った。 貞観四年(庚寅年・630年)春正月 乙亥(2月9日)、一行は長安へ到着。以前より胡人の投降者が「中国人の中にはひそかに蕭后と文書で通じている者もいる」と言っていたが、この時中書舎人楊文瓘がその調査を上奏したところ太宗は言下に否定した。「天下未だ定まらざる頃は突厥の勢力盛んであり無知な民衆の中にはそうした行為をする者もいただろう。しかし今や世は平穏である、過去の過ちなどわざわざ問い詰める必要があろうか!」 李世勣が雲中から出撃し白道で突厥軍と交戦して大勝。 二月己亥(3月4日) 甲辰(3月9日) これ以前、頡利が敗走し鉄山に潜伏した際なお数万の兵力を残しており、執失思力を遣わして帰順と自らの入朝を申し出ていた。 注釈
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| 上遣鴻臚卿唐儉等慰撫之,又詔李靖將兵迎頡利。頡利外為卑辭,內實猶豫,欲俟草青馬肥,亡入漠北。靖引兵與李世勣會白道,相與謀曰:「頡利雖敗,其眾猶盛,若走度磧北,保依九姓,道阻且遠,追之難及。今詔使至彼,虜必自寬,若選精騎一萬,繼二十日糧往襲之,不戰可擒矣。」以其謀告張公謹,公謹曰:「詔書已許其降,使者在彼,奈何擊之!」靖曰:「此韓信所以破齊也。唐儉輩何足惜!」遂勒兵夜發,世勣繼之,軍至陰山,遇突厥千餘帳,俘以隨軍。頡利見使者,大喜,意自安。靖使武邑蘇定方帥二百騎為前鋒,乘霧而行,去牙帳七里,虜乃覺之。頡利乘千里馬先走,靖軍至,虜眾遂潰。唐儉脫身得歸。靖斬首萬餘級,俘男女十餘萬,獲雜畜數十萬,殺隋義成公主,擒其子疊羅施。頡利帥萬餘人欲度磧,李世勣軍於磧口,頡利至,不得度,其大酋長皆帥眾降,世勣虜五萬餘口而還。斥地自陰山北至大漠,露布以聞。 丙午,上還宮。 甲寅,以克突厥赦天下。以御史大夫溫彥博為中書令,守侍中王珪為侍中;守戶部尚書戴冑為戶部尚書,參預朝政;太常少卿蕭瑀為御史大夫,與宰臣參議朝政。 三月,戊辰,以突厥夾畢特勒阿史那思摩為右武修大將軍。 四夷君長詣闕請上為天可汗,上曰:「我為大唐天子,又下行可汗事乎?」群臣及四夷皆稱萬歲。 |
現代日本語訳:皇帝は鴻臚卿の唐儉らを使者として派遣し突厥を慰撫させるとともに、李靖に詔勅で兵を率いて頡利可汗を迎えさせるよう命じた。しかし頡利は表面上こそ恭順を示していたが、内心ではなおも迷いがあり、草が青くなり馬が肥える時期まで待って漠北へ逃亡する機会を伺っていた。 李靖は軍勢を率いて白道で李世勣と合流し、ともに作戦を協議した。「頡利は敗れたとはいえ、その兵力はいまだ強大である。もし沙漠の北側に逃げ込み九姓部族(トルコ系諸部族)の庇護下に入れば、険阻な地形と距離ゆえ追撃は困難となる。今や皇帝の使者が彼らのもとに到着したため敵は警戒を緩めている。ここで精鋭騎兵一万を選抜し二十日分の糧秣を持たせて急襲すれば、戦闘なしに生け捕りにできよう」。この策を張公謹に伝えると、「詔書ですでに降伏を受け入れたのに使者が現地にいる状況で攻撃するとは何事か」と反論された。李靖は即座に「これこそ韓信が斉攻略時に用いた計略である。唐儉らの命など問題ではない!」と断言し、夜陰に乗じて軍を進発させた。 部隊が陰山に至った時点で突厥の千余りの天幕群(遊牧集落)と遭遇し捕虜として従軍させた。頡利は使者・唐儉を見て大いに喜び警戒心を解いたところへ、李靖配下の蘇定方が二百騎を率いて濃霧に紛れて奇襲を敢行した。本営まで七里(約4km)でようやく敵が気づき頡利は千里馬で単身逃走。混乱した突厥軍は大潰走し、唐儉は辛うじて脱出して帰還した。 李靖軍は万余の首級を斬り男女十余万を捕虜とし、雑畜数十万頭を鹵獲するとともに隋皇族出身の義成公主を殺害しその子・疊羅施を生け捕った。頡利が万余人を率いて沙漠突破を図ると、李世勣は事前に磧口(砂漠入口)で待ち構えて退路を遮断したため脱出できず、主要部族長たちは相次いで投降した。こうして五万余の捕虜を得た唐軍は陰山以北から大沙漠まで版図を拡げ勝利を報じた。 丙午(3月27日)、皇帝が宮殿に帰還。 甲寅(4月5日)には突厥制圧記念の恩赦を発令し、温彦博を中書令に昇任。王珪は侍中の仮職から正式任命され戴冑も戸部尚書として国政参与に加わった。蕭瑀が御史大夫となり宰相会議へ参加した。 3月戊辰(19日)、突厥の高官アシナ・スィモーを右武衛大將軍に任じた。 周辺諸民族の首長らが宮廷参内し太宗への尊号「天可汗」奉呈を請願すると、皇帝は「朕は大唐天子であるのに更に遊牧民君主(カガン)の役目まで果たすのか?」と述べた。これに対し群臣と諸族使節らが万歳を唱えて推戴した。 解説:
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| 是後以璽書賜西北君長,皆稱天可汗。 庚午,突厥思結俟斤帥眾四萬來降。 丙子,以突利可汗為右衛大將軍、北平郡王。 初,始畢可汗以啟民母弟蘇尼失為沙缽羅設,督部落五萬家,牙直靈州西北。及頡利政亂,蘇尼失所部獨不攜貳。突利之來奔也,頡利立之為小可汗。及頡利敗走,往依之,將奔吐谷渾。大同道行軍總管任城王道宗引兵逼之,使蘇尼失執送頡利。頡利以數騎夜走,匿於荒谷。蘇尼失懼,馳追獲之。庚辰,行軍副總管張寶相帥眾奄至沙缽羅營,俘頡利送京師,蘇尼失舉眾來降,漠南之地遂空。 蔡成公杜如晦疾篤,上遣太子問疾,又自臨視之。甲申,薨。上每得佳物,輒思如晦,遣使賜其家。久之,語及如晦,必流涕,謂房玄齡曰:「公與如晦同佐朕,今獨見公,不見如晦矣!」 突厥頡利可汗至長安,夏,四月,戊戌,上御順天樓,盛陳文物,引見頡利,數之曰:「汝藉父兄之業,縱淫虐以取亡,罪一也;數與我盟而背之,二也;恃強好戰,暴骨如莽,三也;蹂我稼穡,掠我子女,四也;我宥汝罪,存汝社稷,而遷延不來,五也。然自便橋以來,不復大入為寇,以是得不死耳。」頡利哭謝而退。詔館於太僕,厚廩食之。 上皇聞擒頡利,歎曰:「漢高祖困白登,不能報;今我子能滅突厥,吾托付得人,復何憂哉!」上皇召上與貴臣十餘人及諸王、妃、主置酒凌煙閣,酒酣,上皇自彈琵琶,上起舞,公卿迭起為壽,逮夜而罷。 |
現代日本語訳その後、皇帝は璽書(詔勅)を西北の部族長たちに下賜し、「天可汗」と称した。 庚午の日、突厥の思結俟斤が四万の兵卒を率いて降伏してきた。 当初、始畢可汗は啓民可汗の同母弟である蘇尼失を沙缽羅設(将軍号)とし、五万戸の部族を統率させて霊州西北に牙帳を置かせた。頡利可汗が政治混乱に陥ると、蘇尼失だけは離反しなかった。突利可汗が唐へ亡命した際、頡利は彼を小可汗とした。頡利が敗走して蘇尼失のもとへ逃れると、吐谷渾へ向かおうとした。大同道行軍総管の任城王・李道宗が兵で包囲し、蘇尼失に頡利捕縛を命じた。頡利は夜間に数騎で逃亡したが荒れ谷に潜んでいたところ、蘇尼失が追撃して捕らえた。庚辰の日、行軍副総管・張寶相が沙缽羅営へ急襲し、頡利を長安へ護送すると、蘇尼失も全軍降伏したため漠南は無人地帯となった。 蔡国公(杜如晦)が重病に陥ると、太宗は皇太子を見舞わせた上で自らも訪れた。甲申の日、薨去した。以降、皇帝は珍品を得る度に「如晦にも分け与えたい」と使者を遺族へ遣わし、彼について語れば必ず涙して房玄齢に言った。「卿と如晦が共に朕を補佐したのに、今や卿だけを見ている」。 突厥の頡利可汗が長安に護送された。夏4月戊戌の日、太宗は順天楼で儀衛を整え引見し、「汝の罪状」として五箇条を列挙して叱責した:(一)父兄の基盤を浪費し暴政で国を滅ぼす、(二)度々盟約を破棄する、(三)強権で戦乱を起こし屍野原と化す、(四)唐領を略奪し民衆を拉致する、(五)寛大な処置に応じず遷延したこと。ただし「便橋の戦い後は侵略せぬ故、死罪は免ず」としたため頡利は泣いて謝罪した。その後、太僕寺で厚遇された。 太上皇(高祖・李淵)が頡利捕縛を聞き嘆息して言った。「漢の高祖は白登山で敗れたまま復讐できぬのに、我が子は突厥を滅ぼした」。宮中宴では自ら琵琶を奏し太宗に舞わせて「後継者を得た」と満悦した。 解説
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| 突厥既亡,其部落或北附薛延陀,或西奔西域,其降唐者尚十萬口,詔群臣議區處之宜。朝士多言:「北狄自古為中國患,今幸而破亡,宜悉徙之河南兗、豫之間,分其種落,散居州縣,教之耕織,可以化胡虜為農民,永空塞北之地。」中書侍郎顏師古以為:「突厥、鐵勒皆上古所不能臣,陛下既得而臣之,請皆置之河北。分立酋長,領其部落,則永永無患矣。」禮部侍郎李百藥以為:「突厥雖雲一國,然其種類區分,各有酋帥。今宜因其離散,各即本部署為君長,不相臣屬;縱欲存立阿史那氏,唯可使臣其本族而已。國分則弱而易制,勢敵則難相吞滅,各自保全,必不能抗衡中國。仍請於定襄置都護府,為其節度,此安邊之長策也。」夏州都督竇靜以為:「戎狄之性,有如禽獸,不可以刑法威,不可以仁義教,況彼首丘之情,未易忘也。置之中國,有損無益,恐一旦變生,犯我王略。莫若因其破亡之餘,施以望外之恩,假之王侯之號,妻以宗室之女,分其土地,析其部落,使其權弱勢分,易為羈制,可使常為籓臣,永保邊塞。」溫彥博以為:「徙於兗、豫之間,則乖違物性,非所以存養之也。請准漢建武故事,置降匈奴於塞下,全其部落,順其土俗,以實空虛之地,使為中國扞蔽,策之善者也。」魏徵以為:「突厥世為寇盜,百姓之仇也;今幸而破亡,陛下以其降附,不忍盡殺,宜縱之使還故土,不可留之中國。 |
現代日本語訳突厥が滅亡した後、その部族の一部は北の薛延陀(せつえんだ)に帰属し、あるいは西の西域へ逃亡した。唐に降伏した者はまだ十万を数え、朝廷は群臣に対処策を議論させた。 多くの朝臣が主張した:「北方の異民族は古来より中国の禍患であった。今幸いにして破れたのだから、全員を黄河以南の兗州・豫州の間に移住させるべきだ。種族集団を分割し、諸州県に分散居住させて耕作と機織りを教えれば、胡人を農民へと教化でき、塞北の地を永遠に無人化できる」 中書侍郎顔師古は考えた:「突厥も鉄勒(てつろく)も古代から服属させられなかった。陛下がこれを臣下とした以上、全員を河北地方に居住させることを提案する。首長たちを分立させて各部族を統率させれば、永遠の禍患はなくなる」 礼部侍郎李百薬は主張した:「突厥と称しても実際には種族ごとに分かれ、それぞれ酋長がいる。今こそ離散状態に乗じ、各集団ごとに本来の首長を君主として立て、互いに従属関係を持たせぬことだ。仮に阿史那(あしな)氏を存続させたいなら、彼ら自身の部族のみ統治させるべきである。国が分裂すれば弱体化して制御しやすく、勢力が均衡すれば相互併合は困難となる。各集団が自衛するだけでは中国に対抗できまい。定襄に都護府を設置し管轄することこそ、辺境安定の長策である」 夏州都督竇静(とうせい)は論じた:「戎狄の本性は禽獣同然で、刑罰で威嚇も仁義で教化もできない。まして故郷への未練は簡単には消えぬ。中国内に置けば害あって益なし、いつ叛乱が起きて国土を侵すか分からぬ。むしろ敗残の機会を与外的な恩恵を示せ──王侯の称号を授け、皇族の娘を娶らせ、土地を分割し部族を細分化して勢力を弱め従属させやすくすれば、永続的な藩屏として辺境を守らせられる」 温彦博(おんげんぱく)は提言した:「兗州・豫州への移住では彼らの本性に反し生存すら危うい。漢の建武年間の先例にならい、降伏した匈奴族を辺境付近に居住させよう。部族組織を保全し風俗を尊重して空虚な土地を実質支配させ、中国の防壁とすることが最善策である」 魏徴(ぎちょう)は反論した:「突厥は代々略奪者として民衆の敵だった。今破れたとはいえ陛下が降伏者を殺さぬのは寛大だが、故地に帰すべきで中国残留は許されない」 解説
(出典箇所:『資治通鑑』巻百九十三・唐紀九・太宗貞觀四年) Translation took 800.9 seconds. | ||||||||||||
| 夫戎狄人面獸心,弱則請服,強則叛亂,固其常性。今降者眾近十萬,數年之後,蕃息倍多,必為腹心之疾,不可悔也。晉初諸胡與民雜居中國,郭欽、江統,皆勸武帝驅出塞外以絕亂階,武帝不從。後二十餘年,伊、洛之間,遂為氈裘之域,此前事之明鑒也!」彥博曰:「王者之於萬物。天覆地載,靡有所遺。今突厥窮來歸我,奈何棄之而不受乎!孔子曰:『有教無類。』若救其死亡,授以生業,教之禮義,數年之後,悉為吾民。選其酋長,使入宿衛,畏威懷德,何後患之有!」上卒用彥博策,處突厥降眾,東自幽州,西至靈州;分突利故所統之地,置順、祐、化、長四州都督府;又分頡利之地為六州,左置定襄都督府,右置雲中都督府,以統其眾。 五月,辛未,以突利為順州都督,使帥其部落之官。上戒之曰:「爾祖啟民挺身奔隋,隋立以為大可汗,奄有北荒,爾父始畢反為隋患。天道不容,故使爾今日亂亡如此。我所以不立爾為可汗者,懲啟民前事故也。今命爾為都督,爾宜善守國法,勿相侵掠,非徒欲中國久安,亦使爾宗族永全也!」 壬申,以阿史那蘇尼失為懷德郡王,阿史那思摩為懷化郡王。頡利之亡也,諸部落酋長皆棄頡利來降,獨思摩隨之,竟與頡利俱擒,上嘉其忠,拜右武候大將軍,尋以為北開州都督,使統頡利舊眾。 丁丑,以右武衛大將軍史大奈為豐州都督,其餘酋長至者,皆拜將軍、中郎將,布列朝廷,五品已上百餘人,殆與朝士相半,因而入居長安者近萬家。 |
現代日本語訳戎狄は人間の顔をしていながら獣のような心を持ち、弱ければ服従を請い、強くなれば反乱を起こす。これが彼らの変わらない本性である。今、降伏してくる者は十万近くに及ぶが、数年後には繁殖して倍増し、必ずや我々の腹心の疾患となるだろう。その時になって後悔しても遅いのである。晋の時代初期にも諸胡族が漢人と中国内地で雑居していた際、郭欽や江統らは武帝に彼らを塞外へ追放して乱の根源を絶つよう進言したが、武帝は聞き入れなかった。その後二十余年を経て伊水・洛水流域が氈裘(遊牧民)の領域となったことは、過去の明確な教訓である!」 これに対し彦博は述べた:「王者たるもの万物に対して天が覆い地が載せる如く、見捨てるべきではない。今や突厥が困窮して我に帰順する以上、どうして拒み得ようか!孔子も『教育に階級差別なし』と言われている。彼らを死の危機から救い生業を与え礼儀を教えれば、数年後には皆わが民となるであろう。その首長を選抜し宿衛(宮中警備)に任用すれば、威を畏れ徳を慕い、何の禍患があろうか!」 結局皇帝は彦博の献策を用い、突厥降伏部衆を幽州から霊州まで東西に分散配置した。突利が統治していた旧地域には順・祐・化・長の四都督府を設置し、また頡利の旧領を六州に分割して左(東)に定襄都督府、右(西)に雲中都督府を置き各部衆を統轄させた。 五月辛未の日、突利を順州都督と任命し部族長官を率いさせた。皇帝は戒めて言った:「そちの祖父啓民は単身隋へ奔り、隋により大可汗に立てられて北方全域を領したが、そちの父始畢は逆に隋を苦しめた。天の道理が許さぬ故にお前は今日のように滅亡したのだ。私がお前を可汗としないのは啓民の先例を戒めとするためだ。今都督に任じる以上、国法を守り相互侵掠せよ。それはただ中国の安泰のみならず、そちの宗族の永続をも保つ道である」 壬申の日には阿史那蘇尼失を懐徳郡王、阿史那思摩を懐化郡王に封じた。頡利が敗亡した際、各部族長は皆彼を見捨てて降伏したが、唯ひとり思摩だけが従い続け遂に捕らわれの身となった。皇帝はその忠義を嘉し右武候大将軍とし、後に北開州都督として頡利旧部衆統治を命じた。 丁丑の日には史大奈を豊州都督としたほか、長安へ到着した他の首長らに対し将軍・中郎将などを授け朝廷に配置した。五品官以上だけで百余名に及び朝臣とほぼ同数となり、これにより都に入居した者一万家近くにも達した。 解説【歴史的意義】
【思想的背景】
【制度的特徴】
【後世への影響】◎ 安史の乱(755年)における突厥系将軍・安禄山の台頭は本政策の危うさも暴露したが、 ◎ 唐代全期を通じた国際性豊かな社会基盤となった点で、内陸アジア支配モデルとして継承される。 Translation took 906.8 seconds. | ||||||||||||
| 辛巳,詔:「自今訟者,有經尚書省判不服,聽於東宮上啟,委太子裁決。若仍不服,然後聞奏。」 丁亥,御史大夫蕭瑀劾奏李靖破頡利牙帳,御軍無法,突厥珍物,虜掠俱盡,請付法司推科。上特敕勿劾。及靖入見,上大加責讓,靖頓首謝。久之,上乃曰:「隋史萬歲破達頭可汗,有功不賞,以罪致戮。朕則不然,錄公之功,赦公之罪。」加靖左光祿大夫,賜絹千匹,加真食邑通前五百戶。未幾,上謂靖曰:「前有人讒公,今朕意已寤,公勿以為懷。」復賜絹二千匹。 林邑獻火珠,有司以其表辭不順,請討之,上曰:「好戰者亡,如隋煬帝、頡利可汗,皆耳目所親見也。小國勝之不武,況未可必乎!語言之間,何足介意!」 六月,丁酉,以阿史那蘇尼失為北寧州都督,以中郎將史善應為北撫州都督。壬寅,以右驍衛將軍康蘇密為北安州都督。 乙卯,發卒修洛陽宮以備巡幸,給事中張玄素上書諫,以為:「洛陽未有巡幸之期而預修宮室,非今日之急務。昔漢高祖納婁敬之說,自洛陽遷長安,豈非洛陽之地不及關中之形勝邪!景帝用晁錯之言而七國構禍,陛下今處突厥於中國,突厥之親,何如七國;豈得不先為憂,而宮室可遽興,乘輿可輕動哉!臣見隋氏初營宮室,近山無大木,皆致之遠方,二千人曳一柱,以木為輪,則戛摩火出,乃鑄鐵為轂,行一二里,鐵彀輒破,別使數百人繼鐵彀隨而易之,盡日不過行二三十里,計一柱之費,已用數十萬功,則其餘可知矣。 |
現代日本語訳辛巳の日、詔書が出された。「今後訴訟を行う者は、尚書省の判決を受けてもなお不服の場合、東宮へ上訴して太子による裁決を求めることを認める。もしそれでも納得できなければ、その時はじめて奏上せよ」。 丁亥の日、御史大夫・蕭瑀が李靖を弾劾した。「頡利可汗の本営攻略時に軍規を乱し、突厥の財宝を兵士に略奪させた」として司法当局での取調べを要求。しかし太宗は特別詔で追及停止を命じた。後日参内した李靖に対し、太宗は厳しく叱責すると、李靖は平伏して謝罪した。しばらく沈黙の後、太宗は語った。「隋の史万歳は達頭可汗討伐の功績があっても恩賞なく罪で処刑された。朕は違う。卿の戦功を記録し過ちは赦す」。李靖を左光禄大夫に昇進させ絹千匹を与え、食邑を加算して総計五百戸とした。ほどなく太宗は言い添えた。「以前誰かが讒言したが朕は真実を知った。気にするな」と二千匹の追加下賜を行った。 林邑国から火珠が献上された際、役人が「貢物の文書に不敬な表現あり」と征伐を主張したが、太宗は退けた。「好戦的な者は必ず滅ぶ(隋煬帝や頡利可汗が眼前の例だ)。小国相手の勝利など武勲にならず、まして確実でもない。言葉遣いごときで腹を立てる必要があろうか」。 6月丁酉、阿史那蘇尼失を北寧州都督に任命。中郎将・史善応を北撫州都督とした。 壬寅の日、右驍衛将軍・康蘇密が北安州都督となった。 乙卯の日、巡幸準備のため洛陽宮修復工事が始動すると、給事中・張玄素が上書して諫言した。「未定の行幸のために宮殿を造営するのは不急の事業だ。漢高祖が婁敬の進言で長安遷都したのは、洛陽より関中の地勢が優れていたからでは? 景帝が晁錯の献策容れて七国の乱を招いたように(中原に居住させる突厥は当時以上に危険な存在だ)。どうして宮殿造営や軽率な行幸を優先できるか。隋朝が宮材調達で遠方より運んだ際、二千人で柱一本を引き、木製車輪では摩擦熱で火が出たため鉄製車軸を作ったが一二里毎に破損し、数百人の予備隊が必要だった。一日の進捗は二三十里程度で、柱一本に数十万人分の労費を要した計算である」。 解説■ 太宗政権の統治手法
1. 司法制度
■ 諫言の構造分析
- 張玄素上書の特徴:
■ 行政実務の深層 - 突厥降将群(阿史那蘇尼失ら)の都督任命:遊牧勢力を羈縻政策で統御する体制構築 - 「絹帛下賜」の機能:貨幣経済未発達段階における勲功報償システムとしての実態 - 宮殿修復記述から判明する当時の技術限界:
■ 『資治通鑑』の史的意義 Translation took 1883.0 seconds. | ||||||||||||
| 陛下初平洛陽,凡隋氏宮室之宏侈者皆令毀之,曾未十年,復加營繕,何前日惡之而今日效之也!且以今日財力,何如隋世!陛下役瘡痍之人,襲亡隋之弊,恐又甚於煬帝矣!」上謂玄素曰:「卿謂我不如煬帝,何如桀、紂?」對曰:「若此役不息,亦同歸於亂耳。」上歎曰:「吾思之不熟,乃至於是!」顧謂房玄齡曰:「朕以洛陽土中,朝貢道均,意欲便民,故使營之。今玄素所言誠有理,宜即為之罷役。後日或以事至洛陽,雖露居亦無傷也。」仍賜玄素彩二百匹。 秋,七月,甲子朔,日有食之。 乙丑,上問房玄齡、蕭瑀曰:「隋文帝何如主也?」對曰:「文帝勤於為治,每臨朝,或至日昃,五品已上,引坐論事,衛士傳餐而食;雖性非仁厚,亦勵精之主也。」上曰:「公得其一,未知其二。文帝不明而喜察,不明則照有不通,喜察則多疑於物。事皆自決,不任群臣。天下至廣,一日萬機,雖復勞神苦形,豈能一一中理!群臣既知主意,唯取決受成,雖有愆違,莫敢諫爭,此所以二世而亡也。朕則不然。擇天下賢才,置之百官,使思天下之事,關由宰相,審熟便安,然後奏聞。有功則賞,有罪則刑,誰敢不竭心力以修職業,何憂天下之不治乎!」因敕百司:「自今詔敕行下有未便者,皆應執奏,毋得阿從,不盡己意。」 癸酉,以前太子少保李綱為太子少師,以兼御史大夫蕭瑀為太子少傅。 |
現代日本語訳「陛下が洛陽を平定された当初、隋朝の豪華な宮殿はすべて取り壊すように命じられました。それから十年も経たないうちに、再び修築されるとは、なぜ以前は嫌悪したものを今になって模倣するのですか!しかも現在の財力は隋の時代より劣っています。疲弊した民衆を動員し、滅亡した隋朝と同じ過ちを繰り返すならば、煬帝よりもひどい暴君となられるでしょう!」 皇帝(太宗)が張玄素に言った:「卿は朕が煬帝にも及ばないと言うが、では桀王や紂王と比べてどうか?」 秋七月一日(甲子)、日食が起こった。 二日(乙丑)、皇帝が房玄齢と蕭瑀に尋ねた:「隋の文帝はどんな君主だったか?」 「朕の方法は違う。天下の賢才を選んで官職につけ、宰相を通じて政務を処理させ熟慮した上で奏上させる。功績あれば賞し罪あれば罰するので誰もが職務に全力を尽くす。これでは天下が治まらない心配があろうか!」 二十日(癸酉)、元太子少保・李綱を太子少師とし、兼御史大夫・蕭瑀を太子少傅に任命した。 解説【背景と核心的教訓】
【人物評価のポイント】
【記述手法の特徴】
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| 李綱有足疾,上賜以步輿,使之乘至閣下,數引入禁中,問以政事。每至東宮,太子親拜之。太子每視事,上令綱與房玄齡侍坐。 先是,蕭瑀與宰相參議朝政,瑀氣剛而辭辯,房玄齡等皆不能抗,上多不用其言,玄齡、魏徵、溫彥博嘗有微過,瑀劾奏之,上竟不問。□瑀由此怏怏自失,遂罷御史大夫,為太子少傅,不復預聞朝政。 西突厥種落散在伊吾,詔以涼州都督李大亮為西北道安撫大使,於磧口貯糧,來者賑給,使者招慰,相望於道。大亮上言:「欲懷遠者必先安近,中國如本根,四夷如枝葉,疲中國以奉四夷,猶拔本根以益枝葉也。臣遠考秦、漢,近觀隋室,外事戎狄,皆致疲弊。今招致西突厥,但見勞費,未見其益。況河西州縣蕭條,突厥微弱以來,始得耕獲;今又供億此役,民將不堪,不若且罷招慰為便。伊吾之地,率皆沙磧,其人或自立君長,求稱臣內屬者,羈縻受之,使居塞外,為中國籓蔽,此乃施虛惠而收實利也。」上從之。 八月,丙午,詔以「常服未有差等,自今三品以上服紫,四品、五品服緋,六品、七品服綠,八品服青;婦人從其夫色。」 甲寅,詔以兵部尚書李靖為右僕射。靖性沈厚,每與時宰參議,恂恂似不能言。 突厥既亡,營州都督薛萬淑遣契丹酋長貪沒折說諭東北諸夷,奚、■、室韋等十餘部皆內附。 |
現代日本語訳李綱は足の病を患っていたため、皇帝(太宗)が歩輿(腰掛け式の輿)を賜り、政務堂まで乗って行くことを許された。幾度も宮中に招かれ政治について諫言した。東宮(皇太子居所)へ赴くと、皇太子自ら拝礼して迎えた。皇太子が政務を行う際は、皇帝の命で房玄齢と共に控えさせられた。 以前より蕭瑀は宰相として朝廷の議事に参与していたが、気性が激しく弁舌鋭かったため、房玄齢らは対抗できず、皇帝もその意見を採用しないことが多かった。ある時房玄齢・魏徴・温彦博が軽微な過失を犯すと、蕭瑀が弾劾したが、皇帝は追及しなかった。これにより蕭瑀は不満を抱いて意気消沈し、御史大夫の職を解かれて太子少傅となり、以後朝政に関与できなくなった。 西突厥の部族が伊吾(現在の新疆ハミ)に散在していたため、詔勅で涼州都督李大亮を西北道安撫大使に任命。砂漠の入口に食糧を備蓄し、帰順者には救済を与え使者を派遣したところ、往来が絶えなかった。だが大亮は上奏して述べた:「遠方を懐柔するにはまず近隣を安定させるべきです。中国(唐王朝)を木の根幹に例えるなら、四夷(周辺民族)は枝葉のようなもの。疲弊した国力を傾けて彼らを養うのは、根本から引き抜いて枝葉を増やすような愚行です。秦漢の歴史や隋の失敗を見れば明らかでしょう。西突厥を受け入れるのは労費ばかりが目立ち利益が見えません。河西地域は荒廃し、突厥弱体化後ようやく農耕できる状態なのに、更なる負担を強いれば民は耐えられない。慰撫事業の中止こそ得策です。伊吾の地は砂漠ばかりで、現地首長が臣従を願うなら緩やかに受け入れ塞外に住まわせて防壁とすれば、見せかけの恩恵で実利を得られます」。皇帝はこの意見を容れた。 八月十九日(丙午)、詔勅により「礼服の等級を定める。三品以上は紫衣、四・五品は赤色、六・七品は緑色、八品は青色とする。婦人は夫の官位に応じた色に従う」と規定された。 八月二十九日(甲寅)、兵部尚書李靖を右僕射に任命する詔勅が出た。靖は性格が沈着温厚で、重臣たちと議事する際も慎み深く寡黙であった。 突厥滅亡後、営州都督薛万淑が契丹酋長貪没折を使者として東北諸民族へ派遣したところ、奚・室韋など十余部族が帰順した。 解説
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| 萬淑,萬均之兄也。 戊午,突厥欲谷設來降。欲谷設,突利之弟也。頡利敗,欲谷設奔高昌,聞突利為唐所禮,遂來降。 九月,戊辰,伊吾城主入朝。隋末,伊吾內屬,置伊吾郡;隋亂,臣於突厥。頡利既滅,舉其屬七城來降,因以其地置伊西州。 思結部落饑貧,朔州刺史新豐張儉招集之,其不來者,仍居磧北,親屬私相往還,儉亦不禁。及儉徙勝州都督,州司奏思結將叛,詔儉往察之。儉單騎入其部落說諭,徙之代州,即以儉檢校代州都督,思結卒無叛者。儉因勸之營田,歲大稔。儉恐虜蓄積多,有異志,奏請和糴以充邊儲。部落喜,營田轉力,而邊備實焉。 丙子,開南蠻地置費州、夷州。 己卯,上幸隴州。 冬,十一月,壬辰,以右衛大將軍侯君集為兵部尚書,參議朝政。 甲子,車駕還京師,上讀《明堂針灸書》,云:「人五藏之系,鹹附於背。」戊寅,詔自今毋得笞囚背。 十二月,甲辰,上獵於鹿苑;乙巳,還宮。 甲寅,高昌王麴文泰入朝。西域諸國鹹欲因文泰使入貢,上遣文泰之臣厭怛紇干往迎之。魏徵諫曰:「昔光武不聽西域送侍子,置都護,以為不以蠻夷勞中國。今天下初定,前者文泰之來,所過勞費已甚,今借使十國入貢,其徒旅不減千人。邊民荒耗,將不勝其弊。若聽其商賈往來,與邊民交市,則可矣,倘以賓客遇之,非中國之利也。 |
現代日本語訳:万淑は、万均の兄である。 戊午(つちのえうま)の日、突厥の欲谷設が降伏してきた。彼は突利可汗の弟であった。頡利可汗敗北後、高昌に逃れていたが、兄・突利が唐で厚遇されていると知り帰順した。 九月戊辰(つちのえたつ)、伊吾城主が入朝。隋末に一旦帰属して伊吾郡が置かれたが、隋崩壊後は突厥へ服従していた。頡利可汗滅亡を機に配下七城ごと降伏し、この地に伊西州が設置された。 思結部族が飢餓で困窮すると、朔州刺史・張儉(新豊出身)は彼らを受け入れた。移住しない者は砂漠北方に残留したが、親類間の交流を張儉は黙認した。後日、勝州都督へ転任した張儉に対し「思結部族が反乱計画」との報告が届く。調査に向かった彼は単騎で説得し代州への移住を実現させると同時に自ら代州都督代理となり、結果的に反乱は未然防止された。さらに農耕奨励で大豊作を得た後、「部族の蓄財増加が叛乱誘発の恐れあり」と判断した張儉は朝廷による穀物買い上げ(和糴)を提案し辺境備蓄へ充てさせた。これにより部族は農耕に励み、防衛体制も強化された。 丙子(ひのえね)、南蛮地域開拓で費州・夷州設置。 己卯(つちのとう)、太宗が隴州に行幸。 十一月壬辰(みずのえたつ)、右衛大将軍・侯君集を兵部尚書に昇格させ政務参与とする。 甲子(きのえね)に天子が帰還。太宗は『明堂針灸書』で「五臓経絡は背中と連結」との記述を知り、戊寅(つちのえとら)に詔勅を発令:「今後囚人の背部への笞打禁止」。 十二月甲辰(きのえたつ)、鹿苑での狩猟後、翌日宮殿へ帰還。 甲寅(きのえとら)、高昌王・麹文泰が入朝。西域諸国も便乗して朝貢を希望したため、太宗は彼の家臣・厭怛紇干を使者として派遣する計画を立てた。これに対し魏徴が諫言:「後漢光武帝は西域の人質受け入れや都護府設置を拒否し『蛮夷のために中原疲弊させるな』としました。天下統一間もない現状で、前回の麹文泰入朝では沿道での負担が過大でした。仮に十カ国から千人規模の使節団が来れば辺境民は耐えられません。交易や民間交流なら問題ありませんが賓客待遇するのは国の利益にならない」。 解説:
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| 」時厭怛紇干已行,上遽令止之。 諸宰相侍宴,上謂王珪曰:「卿識鑒精通,復善談論,玄齡以下,卿宜悉加品藻,且自謂與數子何如?」對曰:「孜孜奉國,知無不為,臣不如玄齡。才兼文武,出將入相,臣不如李靖。敷奏詳明,出納惟允,臣不如溫彥博。處繁治劇,眾務畢舉,臣不如戴冑。恥君不及堯、舜,以諫爭為己任,臣不如魏徵。至於激濁揚清,嫉惡好善,臣於數子,亦有微長。」上深以為然,眾亦服其確論。 上之初即位也,嘗與群臣語及教化,上曰:「今承大亂之後,恐斯民未易化也。」魏徵對曰:「不然。久安之民驕佚,驕佚則難教;經亂之民愁苦,愁苦則易化。譬猶饑者易為食,渴者易為飲也。」上深然之。封德彝非之曰:「三代以還,人漸澆訛,故秦任法律,漢雜霸道,蓋欲化而不能,豈能之而不欲邪!魏徵書生,未識時務,若信其虛論,必敗國家。」征曰:「五帝、三王不易民而化,昔黃帝征蚩尤,顓頊誅九黎,湯放桀,武王伐紂,皆能身致太平,豈非承大亂之後邪!若謂古人淳樸,漸至澆訛,則至於今日,當悉化為鬼魅矣,人主安得而治之!」上卒從征言。 元年,關中饑,米斗直絹一匹;二年,天下蝗;三年,大水。上勤而撫之,民雖東西就食,未嘗嗟怨。是歲,天下大稔,流散者鹹歸鄉里,米鬥不過三、四錢,終歲斷死刑才二十九人。 |
現代日本語訳時すでに厭怛紇干(アタルグト)が退出しようとしていたところを、皇帝は急いで引き止めさせた。 宰相たちが宴会に陪席していると、皇帝が王珪に向かって言った。「卿は人物鑑定に精通し、また議論も巧みだ。玄齢以下の者について、ひと通り評価してみよ。そして自らを彼らと比べてどう思うか?」 これに対し王珪は答えた。「国事に精励し、知ることは必ず実行する点では、私は玄齢には及びません。文武の才を兼ね備え、将としても宰相としても有能な点で、李靖には及びません。上奏が詳細明瞭で、命令伝達が公正適切な点で、温彦博には及びません。煩雑な政務を処理し、あらゆる事務を滞りなく行う点で、戴冑には及びません。君主が堯・舜に及ばないことを恥じ、諫言を自らの使命とする点では、魏徴には及びません。ただし、悪を退け善を推奨し、不正を憎み善政を愛する点においては、私も彼らより少しは優れていると思います」皇帝は大いに納得し、一同もその正確な評価に感服した。 皇帝が即位したばかりの頃、群臣と教化について議論していた。皇帝が「今は大乱の直後だから、民衆を導くのは容易ではないだろう」と言うと、魏徴が反論した。「そうではありません。長く平和が続いた民は驕慢になり、驕慢になると教えにくくなります。しかし戦乱を経験した民は困窮し、困窮しているからこそ導きやすいのです。ちょうど空腹の者には食事を与えやすく、渇いた者には飲み物を与えやすいのと同じ道理です」。皇帝は深く同意した。これに対して封徳彝が異議を唱えた。「夏・殷・周三代以降、人々は次第に狡知に流れました。だから秦は法術で統治し、漢は覇道を用いたのです。教えようとしてもできなかったのであり、できるのに敢えて行わなかったわけではありません!魏徴など一介の書生が時勢を弁えず、彼の空論を信じれば必ず国家は滅びましょう」。すると魏徴は言い返した。「五帝や三王(伝説の聖王たち)も民衆を取り替えたわけではなく教え導きました。昔、黄帝が蚩尤を討ち、顓頊が九黎を誅し、湯が桀を追放し、武王が紂王を伐った事例はいずれも大乱後に太平をもたらしたものです!もし古人は純朴だったが次第に狡知になったと言うなら、今日では人々は皆鬼になっているはずです。そんな状況で君主がどうして国を治められましょうか!」 皇帝は結局魏徴の意見を採用した。 元年(貞観元年)、関中地方が飢饉に見舞われ、米一斗が絹一匹と同価格になった。二年には全国的に蝗害が発生し、三年には大水害があった。しかし皇帝は自ら勤勉に災害対策にあたり、民衆は各地へ食糧を求めに行ったものの、誰も怨言を漏らさなかった。この年(貞観四年)、天下は大豊作となり、離散していた者たちがこぞって故郷に帰還した。米一斗はわずか三・四銭まで値下がりし、一年間の死刑判決はたった二十九件にとどまった。 解説背景と文脈
人物評価の重要性
統治理念の対立
現代への示唆
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| 東至於海,南及五嶺,皆外戶不閉,行旅不繼糧,取給於道路焉。上謂長孫無忌曰:「貞觀之初,上書者皆云:『人主當獨運威權,不可委之臣下。』又云:『宜震耀威武,征討四夷。』唯魏徵勸朕『偃武修文,中國既安,四夷自服。』朕用其言。今頡利成擒,其酋長並帶刀宿衛,部落皆襲衣冠,征之力也,但恨不使封德彝見之耳!」征再拜謝曰:「突厥破滅,海內康寧,皆陛下威德,臣何力焉!」上曰:「朕能任公,公能稱所任,則其功豈獨在朕乎!」 房玄齡奏:「閱府庫甲兵,遠勝隋世。」上曰:「甲兵武備,誠不可闕;然煬帝甲兵豈不足邪!卒亡天下。若公等盡力,使百姓乂安,此乃朕之甲兵也。」 上謂秘書監蕭璟曰:「卿在隋世數見皇后乎?」對曰:「彼兒女且不得見,臣何人,得見之?」魏徵曰:「臣聞煬帝不信齊王,恆有中使察之,聞其宴飲,則曰『彼營何事得遂而喜!』聞其憂悴,則曰『彼有他念故爾。』父子之間且猶如是,況他人乎!」上笑曰:「朕今視楊政道,勝煬帝之於齊王遠矣。」璟,瑀之兄也。 西突厥肆葉護可汗既先可汗之子,為眾所附,莫賀咄可汗所部酋長多歸之,肆葉護引兵擊莫賀咄,莫賀咄兵敗,逃於金山,為泥熟設所殺,諸部共推肆葉護為大可汗。 太宗文武大聖大廣孝皇帝上之中貞觀五年(辛卯,公元六三一年) 春,正月,詔僧、尼、道士致拜父母。 |
現代日本語訳東方は海、南方は五嶺(中国南部の山脈)に至る広大な地域で、どの家も戸締まりせず、旅人は食料を持ち歩かなくても道中で調達できるほどの安定ぶりであった。 太宗皇帝が長孫無忌に語った。「貞観時代初期、上奏者は皆『君主は自ら権威を振るうべきであり臣下に委ねてはいけない』と言い、また『武力を示して周辺民族を討つべし』と主張した。ただ魏徴だけが朕に『軍事を収め文治を行え。中国が安定すれば周辺諸族は自然に従うだろう』と勧めたのだ。朕はその言を用いた結果、今や突厥の頡利可汗は捕らえられ、各部族長は帯刀して宮中警護にあたり、遊牧民も中華風衣冠を着るようになった。これは君が征討を主張した成果だが、封徳彝(反対派重臣)にこの光景を見せられなかったのが残念だ」。魏徴は平伏し「突厥の滅亡と天下太平は陛下の威徳によるもので、微力な私など何も貢献しておりません」と言うと、太宗は答えた。「朕が君を任用できたこと。そして君がその職責にふさわしい働きをしたこと。この功績が朕だけにあるはずがあろうか」。 房玄齢が奏上した「武器庫の兵器類を点検しましたところ隋朝時代より遥かに充実しております」。太宗は言った。「武備が重要であるのは確かだが、煬帝(暴君)の武装も不足していたのか?結局彼は天下を失ったのだ。もし卿らが民衆を安寧に導けるならば、それが朕にとって最高の武器なのだ」。 太宗が秘書監・蕭璟に尋ねた「隋時代に皇后(煬帝后)を見かけたことはあるか?」。返答して言う。「あの御方のご子女でさえお目にかかれないのに、私のような者がどうしてお会いできましょう」。魏徴が述べた。「聞くところによれば煬帝は息子・斉王すら信用せず、常に宦官を遣わして監視させていた。宴会と知れば『何か企みがあって喜んでいる』と言い、憂鬱な様子なら『謀反の心があるからだ』と言ったそうです。父子関係ですらこの有様でした。まして他人はどうでしょう」。太宗は笑って言った。「朕が今、楊政道(煬帝孫)に接する態度は、煬帝と斉王とのそれより遥かに良好だろうな」(蕭璟とは重臣・蕭瑀の兄である)。 西突厥では先代可汗の子である肆葉護可汗が人望を集めていた。莫賀咄可汗配下の部族長たちも多数彼に帰順し、肆葉護は兵を率いて莫賀咄を攻撃した。敗れた莫賀咄は金山へ逃亡するも泥熟設(部族長)に殺害され、諸部族は共同で肆葉護を大可汗に推戴した。 太宗文武大聖大広孝皇帝の治世・貞観五年(辛卯年/西暦631年) 春正月、詔書をもって僧侶・尼僧・道士に対し父母への礼拝を行うよう命じた。 解説
※全体を通じ『資治通鑑』が目指す「帝王学教科書」としての性格:成功例(唐太宗の諫言受容)/失敗例(煬帝の猜疑心)を対比させ、為政者への教訓を抽出する構成。 Translation took 1995.4 seconds. | ||||||||||||
| 癸酉,上大獵於昆明池,四夷君長鹹從。甲戌,宴高昌王文泰及群臣。丙子,還宮,親獻禽於大安宮。 癸未,朝集使趙郡王孝恭等上表,以四夷鹹服,請封禪;上手詔不許。」 有司上言皇太子當冠,用二月吉,請追兵備儀仗。上曰:「東作方興,宜改用十月。」少傅蕭瑀奏:「據陰陽書不若二月。」上曰:「吉凶在人。若動依陰陽,不顧禮義,吉可得乎!循正而行,自與吉會。農時最急,不可失也。」 二月,甲辰,詔:「諸州有京觀處,無問新舊,宜悉剷削,加土為墳,掩蔽枯朽,勿令暴露。」 己酉,封皇弟元裕為鄶王,元名為譙王,靈夔為魏王,元祥為許王,元曉為密王。庚戌,封皇子愔為梁王,惲為郯王,貞為漢王,治為晉王,慎為申王,囂為江王,簡為代王。 夏,四月,壬辰,代王簡薨。 壬寅,靈州斛薛叛,任城王道宗等追擊,破之。 隋末,中國人多沒於突厥,及突厥降,上遣使以金帛贖之。五月,乙丑,有司奏,凡得男女八萬口。 六月,甲寅,太子少師新昌貞公李綱薨。初,周齊王憲女,孀居無子,綱贍恤甚厚。綱薨,其女以父禮喪之。 秋,八月,甲辰,遣使詣高麗,收隋氏戰亡骸骨,葬而祭之。 河內人李好德得心疾,妄為妖言,詔按其事。大理丞張蘊古奏:「好德被疾有征,法不當坐。」治書侍御史權萬紀劾奏:「蘊古貫在相州,好德之兄厚德為其刺史,情在阿縱,按事不實。 |
現代語訳癸酉の日、皇帝(太宗)は昆明池で盛大な狩猟を行い、四方の異民族の首長たちも皆従った。甲戌の日に高昌王の麹文泰と群臣を宴席でもてなした。丙子の日に宮殿に戻り、大安宮で自ら獲物を献上した。 癸未の日、朝集使(地方から参集する使者)である趙郡王・李孝恭らが上表し、「四方の異民族が皆服従しているので封禅(天子による天地祭祀)を行うことを請う」と奏上した。皇帝は親筆で「許可せず」との詔を下した。 役人が皇太子の元服式について報告:「二月の吉日を用いるべきであり、儀仗兵の手配を急ぎたい」。皇帝は言った:「農作業が始まる時期だ。十月に変更すべし」。少傅(太子補佐官)蕭瑀が奏上:「陰陽書によれば二月が良いです」。すると皇帝は答えた:「吉凶は人の行いによる。もし陰陽のみに従って礼儀を顧みないなら、どうして吉祥を得られようか?正道を行えば自然と吉祥は訪れる。農事の時期は最重要であり、逃してはならない」。 二月甲辰の日、詔勅が下る:「各州にある京観(敵兵遺骸の集積塚)は新旧を問わず全て削平し、土を盛って墳墓とせよ。朽ちた骨を覆い隠し、決して曝露させてはならない」。 己酉の日に皇弟たちを封じる:李元裕を鄶王に、李元名を譙王に、李霊夔を魏王に、李元祥を許王に、李元曉を密王に。庚戌には皇子たちを封ずる:李愔を梁王に、李惲を郯王に、李貞を漢王に、李治(後の高宗)を晋王に、李慎を申王に、李囂を江王に、李簡を代王に。 夏四月壬辰の日、代王・李簡が薨去。 壬寅の日に霊州で斛薛族が反乱。任城王・李道宗らが追撃して鎮圧した。 隋末、多くの中国人が突厥に捕虜となっていたが、突厥降伏後に皇帝は使者を派遣し金帛(財貨)で彼らを買い戻させた。五月乙丑の日、役人が報告:「合計8万人の男女を得ました」。 六月甲寅の日、太子少師・新昌貞公李綱が逝去。以前より周(北周)の斉王宇文憲の娘(寡婦で子なし)を厚く扶助していたため、彼女は父への礼をもって喪に服した。 秋八月甲辰の日、使者を高麗へ派遣し、隋遠征時の戦死者遺骨を回収して埋葬・祭祀を行わせた。 河内出身者李好徳が精神病を患い妖言(怪しい言葉)を流布。詔により取り調べると、大理丞張蘊古は奏上:「好徳の病状には証拠があり法的に罪に問えません」。これに対し治書侍御史権万紀が弾劾:「蘊古の本籍地相州では、好徳の兄・李厚徳が刺史(長官)を務めており、縁故による贔屓で事実調査を怠った!」 解説
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| 」上怒,命斬之於市,既而悔之,因詔:「自今有死罪,雖令即決,仍三覆奏乃行刑。」 權萬紀與侍御史李仁發,俱以告訐有寵於上,由是諸大臣數被譴怒。魏徵諫曰:「萬紀等小人,不識大體,以訐為直,以讒為忠。陛下非不知其無堪,蓋取其無所避忌,欲以警策群臣耳。而萬紀等挾恩依勢,逞其奸謀,凡所彈射,皆非有罪。陛下縱未能舉善以厲俗,奈何暱奸以自損乎!」上默然,賜絹五百匹。久之,萬紀等奸狀自露,皆得罪。九月,上修仁壽宮,更命曰九成宮。又將修洛陽宮,民部尚書戴冑表諫,以「亂離甫爾,百姓凋弊,帑藏空虛,若營造不已,公私勞費,殆不能堪!」上嘉之曰:「戴冑於我非親,但以忠直體國,知無不言,故以官爵酬之耳。」久之,竟命將作大匠竇璡修洛陽宮,璡鑿池築山,雕飾華靡。上遽命毀之,免璡官。 冬,十月,丙午,上逐兔於後苑,左領軍將軍執失思力諫曰:「天命陛下為華、夷父母,奈何自輕!」上又將逐鹿,思力脫巾解帶,跪而固諫,上為之止。 初,上令群臣議封建,魏徵議以為:「若封建諸侯,則卿大夫鹹資俸祿,必致厚斂。又,京畿賦稅不多,所資畿外,若盡以封國邑,經費頓闕。又,燕、秦、趙、代俱帶外夷,若有警急,追兵內地,難以奔赴。」禮部侍郎李百藥以為:「運祚修短,定命自天,堯、舜大聖,守之而不能固;漢、魏微賤,拒之而不能卻。 |
現代日本語訳皇帝は激怒し、命令して市中で斬首に処すよう下したが、すぐに後悔し、「今後は死刑罪人であっても、即時執行を命じる場合でも、必ず三度の再審奏上を行った後に刑を執行せよ」との詔勅を発布した。 権万紀と侍御史・李仁発は、共に告発や密告によって皇帝の寵愛を得ていたため、重臣たちがたびたび叱責を受けた。魏徴は諫めて言った。「万紀らは小人であり、大義を理解せず、他人への告げ口をもって正義とし、讒言をもって忠誠とするのです。陛下も彼らの無能さをご存じでしょうが、ただ忌憚なく行動する点を利用して群臣に警告を与えようとなさっているのでしょう。しかし万紀らは恩寵を笠に着て悪巧みを働き、弾劾した者は皆罪のない者ばかりです。陛下にはまだ善人を登用して風俗を正すことがおできにならないとしても、どうして奸臣を近づけてご自身をお傷つけになるのですか」。皇帝は黙り込み、魏徴に絹五百匹を賜った。後に万紀らの悪行が露見し、両者とも処罰された。 九月、皇帝は仁寿宮を修築し、「九成宮」と改称した。さらに洛陽宮の造営も計画すると、民部尚書・戴冑が「戦乱が終わったばかりで民衆は疲弊し、国庫は空っぽです。建設工事が続けば公私ともに負担が過大となり耐えられません」と上奏して諫めた。皇帝はこれを賞賛し、「戴冑は朕の親族ではないが、忠直に国を思い何事も直言するゆえ官爵で報いたのだ」と言った。しかし後に将作大匠・竇璡に洛陽宮修築を命じたところ、竇璡が池を掘り山を築き過剰な装飾を施したため、皇帝は急ぎ破却を命じて彼の官職を免じた。 冬十月丙午の日、皇帝が後苑で兎狩りを行っていると、左領軍将軍・執失思力が「天命により陛下は中華と異民族の父母となられたのです。どうしてご自身を軽んじられるのか」と諫めた。次に鹿を追おうとした時、思力は冠巾を外し帯を解き跪いて強く諫言したため皇帝は中止した。 かつて皇帝が群臣に封建制の議論を命じた際、魏徴は「諸侯を封建すれば官僚たちは俸禄を得ようと重税を課すでしょう。また京畿地域の租税だけでは朝廷財政が賄えず地方に依存している状況で、封土として分割すれば経費不足となります。さらに燕・秦・趙・代などの辺境は異民族と接しており、緊急時に内地から援軍を派遣しても間に合いません」と反対した。礼部侍郎・李百薬も「王朝の寿命は天命により決まります。堯や舜のような聖人でも守り抜けず、漢魏のように卑賤な出自でも拒み切れなかったのです」(以下続く) 解説
※注:原文『資治通鑑』巻193-195(貞観五年~六年)の記述基づく。司馬光が太宗統治前期における「納諫と節制」を理想化して描出した箇所。 Translation took 841.5 seconds. | ||||||||||||
| 今使勳戚子孫皆有民有社,易世之後,將驕淫自恣,攻戰相殘,害民尤深,不若守令之迭居也。」中書侍郎顏師古以為:「不若分王諸子,勿令過大,間以州縣,雜錯而居,互相維持,使各守其境,協力同心,足扶京室;為置官寮,皆省司選用,法令之外,不得擅作威刑,朝貢禮儀,具為條式。一定此制,萬代無虞。」十一月,丙辰,詔:「皇家宗室及勳賢之臣,宜令作鎮籓部,貽厥子孫,非有大故,無或黜免,所司明為條列,定等級以聞。」 丁巳,林邑獻五色鸚鵡,丁卯,新羅獻美女二人;魏徵以為不宜受。上喜曰:「林邑鸚鵡猶能自言苦寒,思歸其國,況二女遠別親戚乎!」並鸚鵡,各付使者而歸之。 倭國遣使入貢,上遣新州刺史高表仁持節往撫之;表仁與其王爭禮,不宣命而還。 丙子,上禮圜丘。 十二月,太僕寺丞李世南開党項之地十六州、四十七縣。 上謂侍臣曰:「朕以死刑至重,故令三覆奏,蓋欲思之詳熟故也。而有司須臾之間,三覆已訖。又,古刑人,君為之徹樂減膳。朕庭無常設之樂,然常為之不啖酒肉,但未有著令。又,百司斷獄,唯據律文,雖情在可矜,而不敢違法,其間豈能盡無冤乎!」丁亥,制:「決死囚者,二日中五覆奏,下諸州者三覆奏;行刑之日,尚食勿進酒肉,內教坊及太常不舉樂。皆令門下覆視。 |
訳文「今、勲功ある親族の子孫たちに領地と人民を与えた場合、世代が変われば必ず傲慢で放蕩となり、互いに争い合って民衆を苦しめることになる。地方官のように任期制で交代させる方が良い。」これに対し中書侍郎顔師古は、「皇子たちを分割統治させて規模を過大にしないようにすべきだ。州や県の間に分散配置し、相互監視・支援体制を作り、それぞれが境界を守らせれば、朝廷を支える力となるだろう。官吏は中央で選任し、法規以外での刑罰行使を禁じ、朝貢儀礼も詳細に規定すべきだ。この制度さえ確立すれば永世安泰である」と述べた。 十一月丙辰の日、詔勅が下された:「皇族及び功臣たちには領地統治を認め、子孫へ継承させる。重大な過失がない限り罷免してはならない。担当官庁は明確な等級規定を作成し上奏せよ」 丁巳の日に林邑国から五色オウムが献上され、丁卯には新羅から美女二人が贈られた。魏徵は受領すべきでないと進言したが、太宗は喜んで言った。「林邑のオウムさえ寒さを訴えて故郷を懐かしむというのに、ましてや遠方から来た娘たちが肉親を慕わぬはずがあろうか」 こうして使者に託して両国へ返還した。 倭国の使節が朝貢すると、太宗は高表仁を新州刺史として派遣。しかし彼は国王と礼儀問題で対立し、詔書も伝えず帰国した。 丙子の日、皇帝は天壇で祭祀を行った。 十二月に太僕寺丞李世南が党項族地域に16州47県を設置。 太宗は侍臣たちに述べた:「死刑は極めて重大であるため三度の奏上を義務付けたのは、慎重な判断を期すためだ。しかし役人は短時間で手続きを済ませる。また昔は刑執行時、君主が音楽や肉食を控えたものだが、朕には常設楽団こそないものの、酒肉を断つ習慣がある(ただ法制化していなかった)。さらに官庁は法条のみに依拠し、情状酌量すべき場合でも違法を恐れて裁けず、冤罪が存在する可能性があろう」丁亥の日、「死刑囚については中央で五度奏上、地方では三度奏上と定める。刑執行日には尚食局は酒肉提供を停止し、内教坊・太常寺は音楽演奏を行わない。門下省に監視義務を課す」との法令が発布された。 解説
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| 有據法當死而情可矜者,錄狀以聞。」由是全活甚眾。其五覆奏者,以決前一二日,至決日又三覆奏;唯犯惡逆者一覆奏而已。 己亥,朝集使利州都督武士擭等復上表請封禪,不許。 壬寅,上幸驪山溫湯;戊申,還宮。 上謂執政曰:「朕常恐因喜怒妄行賞罰,故欲公等極諫。公等亦宜受人諫,不可以己之所欲,惡人違之。苟自不能受諫,安能諫人?」康國求內附。上曰:「前代帝王,好招來絕域,以求服遠之名,無益於用而糜弊百姓。今康國內附,儻有急難,於義不得不救。師行萬里,豈不疲勞!勞百姓以取虛名,朕不為也。」遂不受。 謂侍臣曰:「治國如治病,病雖愈,尤宜將護,倘遽自放縱,病復作,則不可救矣。今中國幸安,四夷俱服,誠自古所希,然朕日慎一日,唯懼不終,故欲數聞卿輩諫爭也。」魏徵曰:「內外治安,臣不以為喜,唯喜陛下居安思危耳。」 上嘗與侍臣論獄,魏徵曰:「煬帝時嘗有盜發,帝令於士澄捕之,少涉疑似,皆拷訊取服,凡二千餘人,帝悉令斬之。大理丞張元濟怪其多,試尋其狀,內五人嘗為盜,餘皆平民;竟不敢執奏,盡殺之。」上曰:「此豈唯煬帝無道,其臣亦不盡忠。君臣如此,何得不亡?公等宜戒之!」 是歲,高州總管馮盎入朝。未幾,羅竇諸洞獠反,敕盎帥部落二萬,為諸軍前鋒。獠數萬人,屯據險要,諸軍不得進。 |
現代日本語訳法規上は死罪相当だが情状酌量の余地がある者については、詳細な記録を提出せよ。」この措置により多くの命が救われた。死刑執行前には五度の奏上が求められ、判決確定から一二日前に開始し、執行当日にも三度の再審査を行った。ただし謀反(悪逆罪)のみ一覆奏で済ませた。 己亥の日、利州都督・武士擭ら朝集使が再度封禅儀礼の実施を上奏したが却下された。 壬寅の日に皇帝は驪山温泉に行幸し、戊申に宮中へ帰還。 太宗(李世民)が執政官に対し述べた: 「朕は喜怒の感情から誤った賞罰を行わないよう常に戒めている。卿らも積極的に諫言してほしい。同時に卿ら自身も他人の進言を受け入れるべきだ。自分にとって都合の悪い意見を排斥するな。もし自らが諫言を受け容れられぬなら、どうして人を正せるというのか?」 康国(ソグディアナ)からの帰属要請に対し: 「前代の帝王は辺境支配による名声を得ようと遠征したが、実利なく民衆を疲弊させた。今もし康国を受け容れれば、彼らに危機があれば救わねばならぬ。万里を行軍すれば兵士も消耗する。虚名のために人民を苦しめることは朕はしない」 こうして帰属申し出を拒否した。 側近たちへの発言: 「治国は病後の療養に似る。回復後も慎重な看護が必要だ。もし直ちに自らを省みぬ行いをすれば再発し手遅れとなるだろう。今こそ国内は平穏で周辺諸国も帰順しているが、朕の警戒心は日増しに強まり、この状態を持続できるか恐れるゆえ、卿らの諫言を頻繁に聞くのだ」 これに対し魏徴が応じた: 「天下泰平は喜ばしいことではありますが、陛下が安寧の中にあっても危機を忘れぬ態度こそ真の慶賀すべき点です」 裁判制度について議論した際、魏徴が進言: 「煬帝時代に盗賊事件がありました。于士澄という者が犯人逮捕を命じられると、疑わしい者全てを拷問で自白させ二千人以上を処刑しました。大理丞・張元済は人数の多さに疑問を持ち記録を調べたところ五人だけが真犯人の盗賊であり他は無実と判明したのに、煬帝へ報告できず全員斬首されました」 太宗は応じた: 「これは煬帝のみならず臣下も不忠だった証だ。君臣共にこの体たらくでは国家滅亡は必定である。卿らは深く戒めよ!」 同年、高州総管・馮盎が入朝した間もなく羅竇地方の洞獠族(中国南部民族)が反乱。詔勅で馮盎自らの二万の兵を率い諸軍の先鋒となるよう命じたところ、数万人の洞獠族は要害に拠って抗戦し他部隊は進撃できなかった。 解説
※歴史背景補足 - 馮盎登場は唐代多民族統治戦略の典型例。嶺南地域で俚族首長を登用し現地勢力掌握。 - 「洞獠」表記当時の華夷思想を反映するも、現代訳では差別的表現回避のため原語維持。 Translation took 1995.0 seconds. | ||||||||||||
| 盎持弩謂左右曰:「盡吾此矢,足知勝負矣。」連發七矢,中七人。獠皆走,因縱兵乘之,斬首千餘級。上美其功,前後賞賜,不可勝數。盎所居地方二千里,奴婢萬餘人,珍貨充積;然為治勤明,所部愛之。 新羅王真平卒,無嗣,國人立其女善德為王。 |
現代日本語訳馮盎は弩を手に取り、側近らに向かって言った。「この矢を使い尽くせば、必ず勝敗がわかる」。七本の矢を次々と放ち、全て敵兵に命中させた。僚族(中国南西部の民族)は総崩れとなり、これに乗じて軍勢を進め千以上の首級を挙げた。 太宗皇帝はその功績を称え、幾度も褒美を与えたため数えきれないほどだった。馮盎が治める領地は二千里四方におよび、奴隷や使用人は一万人以上、財宝があふれるほど蓄積されていた。しかし彼は統治に勤勉で公平であり、民衆から慕われた。 新羅王・真平が没し後継者がいなかったため、国民はその娘である善徳を擁立して女王とした。 解説
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| input text 資治通鑑\194_唐紀_10.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||
| 資治通鑑 卷一百九十四 唐紀十 起玄黓執徐,盡強圉作噩四月,凡五年有奇。 太宗文武大聖大廣孝皇帝上之下貞觀六年(壬辰,公元六三二年) 春,正月,乙卯朔,日有食之。 癸酉,靜州獠反,將軍李子和討平之。 文武官復請封禪,上曰:「卿輩皆以封禪為帝王盛事,朕意不然。若天下乂安,家給人足,雖不封禪,庸何傷乎!昔秦始皇封禪,而漢文帝不封禪,後世豈以文帝之賢不及始皇邪!且事天掃地而祭,何必登泰山之巔,封數尺之土,然後可以展其誠敬乎!」群臣猶請之不已,上亦欲從之,魏徵獨以為不可。上曰:「公不欲朕封禪者,以功未高邪?」曰:「高矣。」「德未厚邪?」曰:「厚矣。」「中國未安邪?」曰:「安矣。」「四夷未服邪?」曰:「服矣。」「年谷未豐邪?」曰:「豐矣。」「符瑞未至邪?」曰:「至矣。」然則何為不可封禪?」對曰:「陛下雖有此六者,然承隋末大亂之後,戶口未復,倉廩尚虛,而車駕東巡,千乘萬騎,其供頓勞費,未易任也。且陛下封禪,則萬國咸集,遠夷君長,皆當扈從;今自伊、洛以東至於海、岱,煙火尚希,灌莽極目,此乃引戎狄入腹中,示之以虛弱也。況賞賚不貲,未厭遠人之望;給復連年,不償百姓之勞;崇虛名而受實害,陛下將焉用之!」會河南、北數州大水,事遂寢。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻百九十四 唐紀十より 太宗文武大聖大広孝皇帝・貞観六年(壬辰、西暦632年) 文官武官らが再び泰山での封禅儀礼を奏請すると、太宗は言下に答えた。「卿たちは封禅こそ帝王の盛事だというが、朕はそう思わぬ。天下が平穏で民衆が豊かならば、たとえ封禅を行わなくとも何の問題があろう? 昔、秦の始皇帝は封禅をしたが漢の文帝は行わなかった。後世の人々が文帝の賢明さを始皇より劣ると評価するであろうか! 天を祀る儀礼は清めた地で執り行えば足りるのに、なぜ泰山の頂に登り土壇を築く必要があろう? 誠意を示すこととは関係がない」 臣下たちがなおも請い続けると、太宗も遂に承諾しかけた。しかし魏徴のみが反対した。 魏徴は答えた:「陛下にはこれら六つの条件を満たしておられます。しかし隋末の大乱後、戸籍人口が回復せず倉庫も空虚な状況で、天子の行列が東巡すれば何千もの車馬を要し、その供給と費用は容易ならざる負担となります。さらに封禅を行えば万国から賓客が集まり、遠方の異民族首長までも随行するでしょう。現在、伊水・洛陽以東から海岱(山東半島)にかけては人家も少なく荒野ばかりで、これでは戎狄に我が国の弱体化を見せるようなものです」 「加えて恩賞には莫大な費用を要し異民族の期待に応えきれず、租税免除を連年続ければ民衆の労苦を補填できません。虚名を得るために実害を受けることになりましょう。陛下はそれでもなお行われるおつもりですか?」 解説
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| 上將幸九成宮,通直散騎常侍姚思廉諫。上曰:「朕有氣疾,暑輒頓劇,往避之耳。」賜思廉絹五十匹。 監察御史馬周上疏,以為:「東宮在宮城之中,而大安宮乃在宮城之西,制度比於宸居,尚為卑小,於四方觀聽,有所不足。宜增修高大,以稱中外之望。又,太上皇春秋已高,陛下宜朝夕視膳。今九成宮去京師三百餘里,太上皇或時思念陛下,陛下何以赴之?又,車駕此行,欲以避暑;太上皇尚留暑中,而陛下獨居京處,溫清之禮,竊所未安。今行計已成,不可復止,願速示返期,以解眾惑。又,王長通、白明達皆樂工,韋槃提、斛斯正止能調馬,縱使技能出眾,正可賚之金帛,豈得超授官爵,鳴玉曳履,與士君子比肩而立,同坐而食?臣竊恥之。」上深納之。 上以新令無三師官,二月,丙戌,詔特置之。 三月,戊辰,上幸九成宮。 庚午,吐谷渾寇蘭州,州兵擊走之。 長樂公主將出降,上以公主皇后所生,特愛之,敕有司資送倍於永嘉長公主。魏徵諫曰;「昔漢明帝欲封皇子,曰:『我子豈得與先帝子比!』皆令半楚、淮陽。今資送公主,倍於長主,得無異於明帝之意乎!」上然其言,入告皇后。後歎曰:「妾亟聞陛下稱重魏徵,不知其故,今觀其引禮義以抑人主之情,乃知真社稷之臣也!妾與陛下結髮為夫婦,曲承恩禮,每言必先候顏色,不敢輕犯威嚴;況以人臣之疏遠,乃能抗言如是,陛下不可不從也。 |
現代日本語訳太宗皇帝が九成宮に行幸しようとしたところ、通直散騎常侍の姚思廉が諫めた。帝は答えて「朕には気疾(呼吸器疾患)があり、暑さで悪化するため避暑するだけだ」と述べ、思廉に絹五十匹を賜った。 監察御史の馬周が上疏し、「東宮(皇太子宮殿)は宮城内にあるのに、大安宮(太上皇居所)は城西にあり、規模も天子の御殿より小さく、天下の見聞にそぐいません。拡張して内外の期待に応えるべきです」と指摘。さらに「太上皇帝は高齢なのだから、陛下は朝夕食事を共にするのが道理。九成宮は長安から三百里離れており、太上皇が陛下を思慕されてもすぐ会えません。また避暑のために行幸するのに、太上皇は都の酷暑に残されるのは孝養の礼に反します」と批判し、「計画中止は困難でも帰還時期を示して疑念を解くべきです」と主張した。 さらに楽工(芸人)の王長通・白明達や馬調教師の韋槃提・斛斯正らが、技能だけで官爵を得て士大夫と同列に並ぶ現状を「恥ずかしく思う」と痛烈に弾劾した。帝はこれらの意見を深く受け入れた。 新政令で三師(太師・太傅・太保)の職制が欠けていたため、2月丙戌日、詔勅で特別に設置することを決めた。 3月戊辰日、太宗は九成宮に行幸。庚午日には吐谷渾が蘭州を侵攻したが、州兵が撃退した。 長楽公主(皇后の実娘)降嫁にあたり、帝が永嘉長公主(姉妹)の倍の支度金を与えようとしたところ、魏徴が諫言。「後漢明帝は皇子への封禄を『先帝の子より少なく』と命じられました。ましてや皇女が長公主より優遇されるのは道理に合わない」。これを聞いた皇后は「常々陛下が魏徴を称賛される理由が分かりました」と感慨し、「夫婦でも遠慮するのに、臣下が敢えて諫めるとは真の忠臣。従うべきです」と述べた。 解説【背景】■ 九成宮問題 ・唐代長安は酷暑で、皇帝は離宮(九成宮)へ避暑した ・馬周の批判:高齢の太上皇(李淵)を残して行幸するのは孝道違反 ■ 身分制度への挑戦 ・楽人や職人の官爵昇進が儒教官僚から批判された背景: → 科挙制度確立期に起きた「実力主義 vs 身分秩序」の衝突 ※当時は伎術官(技術官吏)と清流官(士大夫)の区別厳格化過渡期 【政治力学】■ 諫言システム ①姚思廉:行幸そのものへの異議 → 象徴的褒美で慰撫 ②馬周: ・孝道論を盾に倫理的優位性確保(太上皇問題) ・身分秩序崩壊の危機感(伎術官批判) ③魏徴: ・歴史的先例(漢明帝)を用いた比喩的諫言 ※全員が皇帝権威への直接攻撃を回避する修辞技法を使用 ■ 長孫皇后の役割 「夫婦間でも遠慮する」発言に注目→後宮による政治介入防止の建前と、実際には皇帝への影響力行使という二重構造を示唆。魏徴の発言力を補完する緩衝装置として機能。 【社会史的意义】■ 馬周上疏の核心 「恥ずかしい」との表現は単なる道徳的非難ではない → 当時の支配階級が共有した「士大夫文化アイデンティティ」の危機感を反映: ・楽人/職人の官位昇進=儒教的秩序観念への挑戦 ・特に「鳴玉曳履(玉佩音を立てながら礼服で歩く)」は儀礼的権威の侵害と解釈 ■ 三師設置の含意 唐初における皇帝権力の正統性構築: → 隋制廃止後も実質的に「帝師」制度が必要だった事実を示す ※武徳年間(高祖期)に既存した官職を復活させた可能性あり 【現代語訳の方針】■ 原文解釈の工夫点 ・「温清之礼」:『礼記』曲礼篇の「冬温而夏凊」(父母への冷暖気遣い)から孝道全般と解釈 ・「引礼義以抑人主之情」の訳出: 直訳的表現を避け、「道理で君主の感情を制する」行動原理として再構成 ※儒教倫理観が前提となる概念は、現代日本語で機能的な等価表現を選択 (本翻訳では『資治通鑑』胡三省注や唐代典章制度研究の成果を参照しつつ、歴史的コンテクストを損なわない平易な表現を追求した) Translation took 1839.9 seconds. | ||||||||
| 」因請遣中使繼錢四百緡、絹四百匹以賜征,且語之曰:「聞公正直,乃今見之,故以相賞。公宜常秉此心,勿轉移也。」上嘗罷朝,怒曰:「會須殺此田舍翁。」後問為誰,上曰:「魏徵每廷辱我。」後退,具朝服立於庭,上驚問其故。後曰:「妾聞主明臣直;今魏徵直,由陛下之明故也,妾敢不賀!」上乃悅。 夏,四月,辛卯,襄州都督鄒襄公張公謹卒。明日,上出次發哀。有司奏,辰日忌哭。上曰:「君之於臣,猶父子也,情發於衷,安避辰日!」遂哭之。 六月,己亥,金州刺史酆悼王元亨薨。辛亥,江王囂薨。 秋,七月,丙辰,焉耆王突騎支遣使入貢。初,焉耆入中國由磧路,隋末閉塞,道由高昌;突騎支請復開磧路以便往來,上許之。由是高昌恨之,遣兵襲焉耆,大掠而去。 辛未,宴三品已上於丹霄殿。上從容言曰:「中外又安,皆公卿之力。然隋煬帝威加夷、夏,頡利跨有北荒,統葉護雄據西域,今皆覆亡,此乃朕與公等所親見,勿矜強盛以自滿也!」 西突厥肆葉護可汗發兵擊薛延陀,為薛延陀所敗。肆葉護性猜狠,信讒;有乙利可汗,功最多,肆葉護以非其族類,誅滅之,由是諸部皆不自保。肆葉護又忌莫賀設之子泥孰,陰欲圖之,泥孰奔焉耆。設卑達官與弩失畢二部攻之,肆葉護輕騎奔康居,尋卒。國人迎泥孰於焉耆而立之,是為咄陸可汗,遣使內附。 |
現代日本語訳太宗皇帝が使者に銅銭四百緡と絹四百匹を持たせて魏徴に与え、こう伝えさせた。「卿の公正さについてはかねてより聞いておったが、今日その真実を目の当たりにしたゆえ褒美を与える。今後もこの正直な心を貫き通すように」 ある日、朝廷での会議後、皇帝は怒りながら「いつかあの田舎者を殺してやる!」と叫んだ。皇后が誰のことかを尋ねると、「魏徴めが朝廷で公然と朕を侮辱するのだ」と答えた。すると皇后は退出し、礼服に着替えて中庭に立った。驚いた皇帝が理由を問うと、「君主に明徳があれば臣下も正直になります。今、魏徴が率直なのは陛下のご賢明さゆえです。この喜びをお祝いしないわけにはまいりません」と言上したので、帝は機嫌を直された。 夏四月辛卯(二十日)、襄州都督・鄒襄公張公謹が逝去した。翌日、皇帝が城外に出て弔意を示そうとしたところ役人が「本日は哭礼を行うべきでない辰日に当たります」と奏上すると、「君主と臣下の関係は父子と同じである。哀悼の情が心から湧き起こるのに、どうして暦を気にできようか!」と言いその場で慟哭された。 六月己亥(二十九日)、金州刺史・酆悼王李元亨が薨去した。辛亥(十二日)には江王李囂も逝去した。 秋七月丙辰(十七日)、焉耆国王の突騎支が使者を遣わして朝貢した。従来、焉耆から中国への道は砂漠経由だったが、隋末に閉鎖され高昌国経由となっていた。突騎支が交易のために旧道再開を求めたため太宗はこれを許可された。このことで高昌国王は恨みを抱き、兵を送って焉耆を襲撃し大規模な略奪を行った。 七月辛未(二日)、皇帝は丹霄殿で三品以上の高官たちを招宴した。「国内外の平穏は卿ら重臣のお陰である」と述べた後、「しかし隋煬帝も四方の民族や中華に威光を示し、突厥の頡利可汗は北辺全域を支配下におさめ、西突厥の統葉護可汗は西域で覇権を握っていた。今や彼らは皆滅亡した——これは朕と卿たちが共に見てきた事実だ。どうか強大だからといって慢心しないように」と戒められた。 この頃、西突厥の肆葉護可汗が薛延陀部族に出兵したが敗北した。猜疑心深く冷酷な彼は讒言を信じ込み、最大の功労者である乙利可汗(異民族出身)を粛清したため各部族は不安を抱いた。さらに肆葉護は莫賀設将軍の子・泥孰をも疎み謀殺しようとしたので、泥孰は焉耆へ逃亡した。 その後、設卑達官部と弩失畢部が連合して反乱を起こすと、軽騎兵だけを率いた肆葉護は康居国に逃れ間もなく死去。国人(西突厥の民)が焉耆から泥孰を迎え入れ新可汗として擁立した——これが咄陸可汗である。彼はただちに使者を遣わして唐への帰属を誓った。 解説
※本訳では故事成語(例:「田舎翁」「主明臣直」)の現代語化に留意しつつ、固有名詞は原典表記を保持。時間表現については干支を月日数値のみで示した。 Translation took 1896.1 seconds. | ||||||||
| 丁酉,遣鴻臚少卿劉善因立咄陸為奚利邲咄陸可汗。 閏月,乙卯,上宴近臣於丹霄殿,長孫無忌曰;「王珪、魏徵,昔為仇讎,不謂今日得同此宴。」上曰:「征、珪盡心所事,故我用之。然征每諫,我不從,我與之言輒不應,何也?」魏徵對曰:「臣以事為不可,故諫;若陛下不從而臣應之,則事遂施行,故不敢應。」上曰:「且應而復諫,庸何傷!」對曰:「昔舜戒郡臣:『爾無面從,退有後言。』臣心知其非而口應陛下,乃面從也,豈稷、契事舜之意邪!」上大笑曰:「人言魏徵舉止疏慢,我視之更覺嫵媚,正為此耳!」征起,拜謝曰:「陛下開臣使言,故臣得盡其愚,若陛下拒而不受,臣何敢數犯顏色乎!」 戊辰,秘書少監虞世南上《聖德論》,上賜手詔,稱:「卿論太高。朕何敢擬上古!但比近世差勝耳。然卿適睹其始,未知其終。若朕能慎終如始,則此論可傳;如或不然,恐徒使後世笑卿也。」 九月,己酉,幸慶善宮,上生時故宅也,因與貴臣宴,賦詩。起居郎清平呂才被之管弦,命曰:「《功成慶善樂》,使童子八佾為《九功之舞》,大宴會,與《破陳舞》偕奏於庭。同州刺史尉遲敬德預宴,有班在其上者,敬德怒曰:「汝何功,坐我上!」任城王道宗次其下,諭解之。敬德拳毆道宗,目幾眇。上不懌而罷,謂敬德曰:「朕見漢高祖誅滅功臣,意常尤之,故欲與卿等共保富貴,令子孫不絕。 |
日本語訳丁酉の日、鴻臚少卿・劉善因を派遣し咄陸を奚利邲咄陸可汗に冊立した。 閏月乙卯の日、太宗は丹霄殿で近臣たちと宴会を行った。長孫無忌が「王珪や魏徵はかつて敵同士であったのに、今日この宴を共にするとは思いもよりません」と言うと、太宗は「彼らはそれぞれの主君に忠実だったからこそ朕は登用したのだ。しかし魏徴は諫言して朕が従わない時、返答しないのはなぜか?」と問いただした。これに対し魏徵は「臣はその事が誤りであると考えて諫めるのです。もし陛下がお聞き入れにならないのに承諾すれば、施策が実行されてしまいますゆえ、敢えて応じられません」と弁明した。太宗が「一旦受け入れてから改めて諫めればよいではないか」と言うと、魏徵は「昔舜帝が『面従腹背するな』と戒めたように、心では誤りと思いながら口先で承諾するのは表裏の行為であり、稷や契が舜に仕えた真心とは異なります」と述べた。太宗は大笑いし「人が魏徴を粗野だと言うが、朕には一層誠実に見える。正にこのためだ!」と感嘆した。すると魏徵は起立して拝礼し「陛下が臣の言葉をお聞き届けくださるからこそ愚直を尽くせるのです。もし拒まれれば、どうして幾度も竜顔を犯せましょうか」と謝辞した。 戊辰の日、秘書少監・虞世南が『聖徳論』を奉呈すると、太宗は親筆で「卿の評価は過大だ。朕が上古の聖王に比べられようはずがない。ただ近世よりは多少勝る程度であろう。しかし卿が見たのは始まりのみである。もし朕が終始を慎み続けられるならこの論も伝わるかもしれぬが、そうでなければ後世の人々が卿を嘲笑うだけだろう」と返答した。 九月己酉の日、太宗は生誕地である慶善宮に行幸し、重臣たちとの詩宴を催した。起居郎・清平県出身の呂才が詩に曲をつけ『功成慶善楽』と命名し、童子八佾による『九功之舞』として大宴会で『破陣舞』と共に演奏された。同州刺史・尉遅敬徳も列席していたが、自分より上位の者がいることに激怒して「お前に何の功績があって俺の上座にいる!」と叫んだ。任城王李道宗が仲裁に入ると、敬徳は拳で彼を殴打し、目が潰れかける重傷を負わせた。太宗は不機嫌になって宴を中止し、敬徳に向かって言った。「朕は漢の高祖が功臣を誅殺したことを常に非としてきたゆえ、卿らと富貴を共にして子孫永続させようとしたのだ(にも関わらずこの有様とは)」。 解説■ 歴史的背景 ■ 核心的価値
■ 言語的特徴 ■ 現代への示唆 (訳注:固有名詞は『新唐書』表記に準拠。史書性質上ルビ不使用とした) Translation took 1813.4 seconds. | ||||||||
| 然卿居官數犯法,乃知韓、彭菹醢,非高祖之罪也。國家綱紀,唯賞與罰,非分之恩,不可數得,勉自修飭,無貽後悔!」敬德由是始懼而自戢。辛卯,秦州刺史崔善爲卒,時年六十二。 冬,十月,乙卯,車駕還京師。帝侍上皇宴於大安宮,帝與皇后更獻飲膳及服御之物,夜久乃罷。帝親為上皇捧輿至殿門,上皇不許,命太子代之。 突厥頡利可汗鬱鬱不得意,數與家人相對悲泣,容貌羸憊。上見而憐之,以虢州地多麋鹿,可以遊獵,乃以頡利為虢州刺史;頡利辭,不願往。癸未,復以為右衛大將軍。 十一月,辛巳,契苾酋長何力帥部落六千餘家詣沙州降,詔處之於甘、涼之間,以何力為左領軍將軍。 庚寅,以左光祿大夫陳叔達為禮部尚書。帝謂叔達曰:「卿武德中有讜言,故以此官相報。」對曰:「臣見隋室父子相殘,以取亂亡,當日之言,非為陛下,乃社稷之計耳。」 十二月,癸丑,帝與侍臣論安危之本。中書令溫彥博曰:「伏願陛下常如貞觀初,則善矣。」帝曰:「朕比來怠於為政乎?」魏徵曰:「貞觀之初,陛下志在節儉,求諫不倦。比來營繕微多,諫者頗有忤旨,此其所以異耳。」帝拊掌大笑曰:「誠有是事!」 辛未,帝親錄系囚,見應死者,閔之,縱使歸家,期以來秋來就死。仍敕天下死囚,皆縱遣,使至期來詣京師。 |
現代日本語訳しかし、あなたは官職にある中で度々法を犯していたことから、韓信や彭越が醢刑(塩漬けの刑)に処されたのは漢の高祖の過失ではないと理解できた。国家の秩序は賞罰によってこそ維持される。分不相応な恩恵を繰り返し与えることはできない。自ら行いを慎み、後悔することがないようにせよ。」この言葉により尉遅敬徳(※)は初めて畏れを抱き、行動を控えるようになった。(※原文「敬德」は唐代の武将・尉遅恭〈字は敬徳〉を指す) 辛卯の日、秦州刺史である崔善爲が逝去した。享年六十二歳。 冬十月乙卯の日、皇帝の行列が都に戻った。太宗帝は大安宮で上皇(李淵)をもてなす宴を催し、皇后と交代で飲食物や衣服などを献上し、夜遅くまで続いた。宴終了後、帝自ら上皇の輿を殿門まで担ごうとしたが、上皇は許さず太子(李承乾)に代行させた。 突厥の頡利可汗は鬱々として不満げで、家族と顔を合わせる度に涙を流し、見るからに衰弱していた。太宗帝が見かねて憐れみ、虢州には多くのオオジカが生息し狩猟に適していることから頡利を虢州刺史に任命した。しかし彼は辞退して赴任を望まなかったため、癸未の日に改めて右衛大将軍とした。 十一月辛巳の日、契苾族長の何力が配下六千余家を率いて沙州へ投降した。詔勅により甘粛・涼州間に居住地を与えられ、何力を左領軍将軍に任じた。 庚寅の日、陳叔達(元は左光禄大夫)を礼部尚書に任命した。帝が「あなたは武徳年間(李淵治世)に直言を行った功績があるためこの官位で報いる」と述べると、彼はこう答えた。「隋王朝では親子が争い乱亡する様を見て参りました。当時の進言は陛下個人のためではなく国家を思ってのことです」 十二月癸丑の日、帝は侍臣たちと「治世安定の根本」について議論した。中書令・温彦博が「貞観初年の姿勢を保たれるならば万全でございます」と言上すると、帝は「朕は近頃政務を怠っているのか?」と問うた。魏徴が応じる。「貞観初期には陛下の志は節倹にあり、諫言を飽かず求めておられました。しかし近年では土木工事がやや増え、進言者がしばしば上意に逆らっている点で異なります」。帝は手を打って大笑いし「確かにその通りだ!」と認めた。 辛未の日、帝自ら囚人記録を審査した。死刑判決を受けた者を見て憐れみ、帰宅を許して翌年秋に戻るよう命じた(刑執行猶予)。さらに詔勅で全国の死刑囚全員にも同様に期限付き赦免を与え、期日には長安へ戻るよう下知した。 解説■ 歴史的背景 ■ 人物関係の焦点 ■ 思想的核心 ■ 現代性 (注:固有名詞表記は『岩波文庫 資治通鑑』に準拠し、歴史用語には適宜読み仮名を付与) Translation took 1807.8 seconds. | ||||||||
| 是歲,党項等羌前後內屬者三十萬口。 公卿以下請封禪者首尾相屬,上諭以「舊有氣疾,恐登高增劇,公等勿復言。」 上謂侍臣曰:「朕比來決事或不能皆如律令,公輩以為事小,不復執奏。夫事無不由小以致大,此乃危亡之端也。昔關龍逄忠諫而死,朕每痛之。煬帝驕暴而亡,公輩所親見也。公輩常宜為朕思煬帝之亡,朕常為公輩念關龍逄之死,何患君臣不相保乎!」 上謂魏徵曰:「為官擇人,不可造次。用一君子,則君子皆至;用一小人,則小人競進矣。」對曰:「然。天下未定,則專取其才,不考其行;喪亂既平,則非才行兼備不可用也。」 太宗文武大聖大廣孝皇帝上之下貞觀七年(癸巳,公元六三三年) 春,正月,更名《破陳樂》曰《七德舞》。癸巳,宴三品已上及州牧、蠻夷酋長於玄武門,奏《七德》、《九功》之舞。太常卿蕭瑀上言:「《七德舞》形容聖功,有所未盡,請寫劉武周、薛仁果、竇建德、王世充等擒獲之狀。」上曰:「彼皆一時英雄,今朝廷之臣往往嘗北面事之,若睹其故主屈辱之狀,能不傷其心乎?」瑀謝曰:「此非臣愚慮所及。」魏徵欲上偃武修文,每侍宴,見《七德舞》輒俯首不視,見《九功舞》則諦觀之。 三月,戊子,侍中王珪坐漏洩禁中語,左遷同州刺史。庚寅,以秘書監魏徵為侍中。 直太史雍人李淳風奏靈台候儀制度疏略,但有赤道,請更造渾天黃道儀,許之。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』貞観七年より)この年、党項などの羌族が相次いで帰順し、その数は三十万人に達した。 朝廷の高官たちが泰山での封禅の儀式を繰り返し要請したが、太宗皇帝は「朕は昔から気疾(呼吸器疾患)を持っており、高地に行けば悪化する恐れがある。卿らはこれ以上言うでない」と諭した。 皇帝が侍臣に語った:「近頃、政務の決裁において法令通りにならないことがあるのに、卿たちは小事として奏上しない。しかし事柄は全て小さなことから重大になるのだ。これは国家滅亡の兆しである。昔、関龍逄(かんりゅうほう)が忠言を尽くして死んだことを朕は常に痛んでいる。一方、煬帝は驕奢と暴政で滅びたのは卿らも見知ったことだ。卿らには常に煬帝の滅亡を思い起こさせよ。朕は関龍逄の死を胸に刻む。それであれば君臣が互いに保全できないことがあろうか」 魏徴に対して述べた:「官職に人材を選ぶのは軽率にしてはいけない。一人の君子を登用すれば多くの君子が集うが、一人の小人を用いれば無数の小人が押し寄せる」。これに対し魏徴は「その通りです。天下未平定時には才能優先で人物を問わず、しかし乱世終結後は徳と才を兼備せねば登用すべきではありません」と答えた。 貞観七年(癸巳・西暦633年)、太宗文武大聖大広孝皇帝の治世 春正月:『破陣楽』を『七徳舞』と改称。玄武門で三品以上高官や州牧、異民族首長らを招いた宴席において『七徳舞』『九功舞』が披露された。太常卿・蕭瑀(しょうう)が奏上した:「聖業の偉大さを示す『七徳舞』には不足があります。劉武周・薛仁杲(せつじんこう)・竇建徳(とうけんとく)・王世充ら賊将捕縛の場面を追加すべきです」。皇帝は「彼らも一時の英雄だ。今ここにいる臣下の中には、かつて彼らに仕えた者もある。旧主が辱められる姿を見れば心を痛めるのではないか」と返すと、蕭瑀は「私の及ばぬ配慮でした」と謝した。魏徴は武事より文治重視の方針を示すため『七徳舞』上演時には俯いて見ず、『九功舞』では熱心に観覧した。 三月:侍中・王珪(おうけい)が宮中の言葉漏洩のかどで同州刺史へ左遷。その後任として秘書監の魏徴を侍中に任命。 直太史(天文官)雍人出身の李淳風(りじゅんぷう)、現行の霊台候儀(天体観測装置)が赤道のみ示す簡素な構造であると指摘し、渾天黄道儀(精密天体模型)の新造を上奏。皇帝はこれを許可した。 解説【歴史的背景】
【政治思想】
【文化政策】
【科学技術】
【歴史的意義】
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| 癸巳,成而奏之。 夏,五月,癸未,上幸九成宮。 雅州道行軍總管張士貴擊反獠,破之。秋,八月,乙丑,左屯衛大將軍譙敬公周范卒。上行幸,常令范與房玄齡居守。范為人忠篤嚴正,疾甚,不肯出外,竟終於內省,與玄齡相抱而訣曰:「所恨不獲再奉聖顏!」 辛未,以張士貴為龔州道行軍總管,使擊反獠。 九月,山東、河南四十餘州水,遣使賑之。 去歲所縱天下死囚凡三百九十人,無人督帥,皆如期自詣朝堂,無一人亡匿者;上皆赦之。 冬,十月,庚申,上還京師。 十一月,壬辰,以開府儀同三司長孫無忌為司空,無忌固辭曰:「臣忝預外戚,恐天下謂陛下為私。」上不許,曰:「吾為官擇人,惟才是與。苟或不才,雖親不用,襄邑王神符是也;如其有才,雖仇不充,魏徵等是也。今日之舉,非私親也。」 十二月,甲寅,上幸芙蓉園;丙辰,校獵少陵原。戊午,還宮,從上皇置酒故漢未央宮。上皇命突厥頡利可汗起舞,又命南蠻酋長馮智戴詠詩,既而笑曰:「胡、越一家,自古未有也!」帝奉觴上壽曰:「今四夷入臣,皆陛下教誨,非臣智力所及。昔漢高祖亦從太上皇置酒此宮,妄自矜大,臣所不取也。」上皇大悅。殿上皆呼萬歲。 帝謂左庶子於志寧、右庶子杜正倫曰:「朕年十八,猶在民間,民之疾苦情偽,無不知之。 |
現代日本語訳癸巳の日、完成して奏上した。 夏五月癸未の日、皇帝は九成宮に行幸された。 辛未の日、張士貴を龔州道行軍総管に任命し、反乱獠族討伐に向かわせた。 冬十月庚申の日、皇帝が長安に還幸される。 十二月甲寅の日、皇帝が芙蓉園に行幸される。丙辰の日には少陵原で狩猟を実施し、戊午の日に宮殿に戻られた。太上皇(高祖)に随行して前漢未央宮跡で酒宴を開いたところ、太上皇は突厥の頡利可汗に舞を命じ、さらに南蛮酋長馮智戴に詩吟させた後「胡族も越族も一家となるなど、古来未曾有のことだ」と笑われた。皇帝が杯を捧げて寿詞を述べる「今や四方の異民族が臣従するのは全て陛下のご教化によるもので、臣下(自分)の力では及びません。昔漢高祖は太上皇にこの宮殿で酒宴を設けた際、根拠なく自ら偉大だと誇りましたが、朕はその行いを取り入れませぬ」。太上皇は大いに喜ばれ、宮殿中「万歳」の歓声に包まれた。 皇帝は左庶子・于志寧と右庶子・杜正倫に対して言われた。「朕が十八歳で民間にいた頃、民衆の苦しみや実情を全て知り尽くしていたからこそ…(後略)」 解説
(訳注:原文は『資治通鑑』巻194-195における貞観6年から7年の記事。司馬光による編纂時の核心テーマ「信義治国」が全編に貫かれている) Translation took 806.9 seconds. | ||||||||
| 及居大位,區處世務,猶有差失。況太子生長深宮,百姓艱難,耳目所未涉,能無驕逸乎?卿等不可不極諫。」太子好嬉戲,頗虧禮法,志寧與右庶子孔穎達數直諫,上聞而嘉之,各賜金一斤,帛五百匹。 工部尚書段綸奏征巧工楊思齊,上令試之。綸使先造傀儡。上曰:「得巧工庶供國事,卿令先造戲具,豈百工相戒無作淫巧之意邪!」乃削綸階。 嘉、陵州獠反,命邗江府統軍牛進達擊破之。 上問魏徵曰:「群臣上書可采,及召對多失次,何也?」對曰:「臣觀百司奏事,常數日思之,及至上前,三分不能道一。況諫者拂意觸忌,非陛下借之辭色,豈敢盡其情哉!」上由是接群臣辭色愈溫,嘗曰:「煬帝多猜忌,臨朝對群臣多不語。朕則不然,與群臣相親如一體耳。」 太宗文武大聖大廣孝皇帝上之下貞觀八年(甲午,公元六三四年) 春,正月,癸未,突厥頡利可汗卒。命國人從其俗,焚屍葬之。 辛丑,行軍總管張士貴討東、西王洞反獠,平之。 上欲分遣大臣為諸道黜陟大使,未得其人;李靖薦魏徵。上曰:「征箴規朕失,不可一日離左右。」乃命靖與太常卿蕭瑀等凡十三人分行天下,「察長吏賢不肖,問民間疾苦,禮高年,賑窮乏,起滯淹,俾使者所至,如朕親睹。」 三月,庚辰,上幸九成宮。 夏,五月,辛未朔,日有食之。 |
現代日本語訳帝位についてからも世の中の事務を取り扱う際に、なお過ちがあることがあった。ましてや皇太子は深い宮中で育ったため、民衆の苦労を知らず、目にも耳にもしたことのない世界である。驕り高ぶって安逸を貪らないはずがあろうか?卿ら(臣下たち)は必ず極力諫めなければならない。」 工部尚書の段綸が名匠・楊思齊を推薦したため、皇帝が試用させようとしたところ、段綸に命じてまず人形(傀儡)を作らせた。皇帝は言った。「優れた工匠を得て国事のために役立てるべきなのに、卿がまず遊芸の道具を作らせるとは、まさに『職人は無益で過度な技巧を用いるな』という戒めを忘れているのか?」ここにおいて段綸の官位を下げた。 嘉州・陵州で獠族(西南中国の少数民族)が反乱を起こしたため、邗江府統軍の牛進達に命じて討伐させ鎮圧した。 太宗皇帝が魏徴に尋ねた。「群臣の上奏文は採用できる内容なのに、彼らを呼び出して直接問いただすと多くは言葉につまる。これはなぜか?」 太宗文武大聖大広孝皇帝 貞観八年(甲午、西暦634年)
春正月癸未日、突厥の頡利可汗が死去したため、その民族の風習に従い遺体を火葬して埋葬するよう命じた。 皇帝は地方巡察大使(黜陟使)を各地へ派遣しようとしたが適任者が見つからなかった。李靖が魏徴を推薦すると、皇帝は「魏徴は朕の過ちを諫めてくれるので一日も側を離れられない」と言い、代わりに李靖と太常卿・蕭瑀ら13名に全国巡察を命じた。「地方長官の善し悪しを見極め民衆の苦難を知り、高齢者を敬い貧困者を救済し埋もれた人材を登用せよ。使者が赴く先々で朕自らの目で見るようにせよ。」 3月庚辰日、皇帝は九成宮に行幸した。 夏5月辛未朔(1日)、日食があった。 解説【歴史的背景】この記述は唐王朝の最盛期「貞観の治」を主導した太宗・李世民の統治理念を伝える。特に注目すべき点: - 皇太子教育への厳格さ:将来の君主に求められる民情理解と戒めの重要性 - 技術政策の実用主義:「遊芸道具より国事」という合理的思想 - 君臣関係の革新:魏徴との問答に見る開かれたコミュニケーション 【統治手法分析】
【現代への示唆】
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| 初,吐谷渾可汗伏允遣使入貢,未返,大掠鄯州而去。上遣使讓之,征伏允入朝,稱疾不至,仍為其子尊王求婚;上許之,令其親迎,尊王又不至,乃絕婚,伏允復遣兵寇蘭、廓二州。伏允年老,信其臣天柱王之謀,數犯邊;又執唐使者趙德楷,上遣使諭之,十返;又引其使者,臨軒親諭以禍福,伏允終無悛心。六月,遣左驍衛大將軍段志玄為西海道行軍總管,左驍衛將軍樊興為赤水道行軍總管,將邊兵及契苾、党項之眾以擊之。 秋,七月,山東、河南、淮、海之間大水。 上屢請上皇避暑九成宮,上皇以隋文帝終於彼,惡之。冬,十月,營大明宮,以為上皇清暑之所。未成而上皇寢疾,不果居。 辛丑,段志玄擊吐谷渾,破之,追奔八百餘里,去青海三十餘里,吐谷渾驅牧馬而遁。 甲子,上還京師。 右僕射李靖以疾遜位,許之。十一月,辛未,以靖為特進,封爵如故,祿賜、吏卒並依舊給,俟疾小瘳,每三兩日至門下、中書平章政事。 甲申,吐蕃贊普棄宗弄贊遣使入貢,仍請婚。吐蕃在吐谷渾西南,近世浸強,蠶食它國,土宇廣大,勝兵數十萬,然未嘗通中國。其王稱讚普,俗不言姓,王族皆曰論,宦族皆曰尚。棄宗弄贊有勇略,四鄰畏之。上遣使者馮德遐往慰撫之。 丁亥,吐谷渾寇涼州。己丑,下詔大舉討吐谷渾。上欲得李靖為將,為其老,重勞之。 |
現代日本語訳:当初、吐谷渾(とよくこん)の可汗(かがん)である伏允(ふくいん)が使者を遣わして貢物を献上した。しかし使者が帰国しないうちに鄯州(ぜんしゅう)で大規模な略奪を行って撤退したため、皇帝は使者を派遣して抗議するとともに伏允の長安入りを命じた。ところが伏允は病気と称して応じず、代わりに息子・尊王(そんおう)の縁談を提案してきた。これを受諾した皇帝が「自ら迎えに出よ」と指示すると今度は尊王も現れなかったため、婚約は破棄された。伏允は再び兵を動かし蘭州・廓州(かくしゅう)に侵攻した。 老齢の伏允は臣下の天柱王(てんちゅうおう)の献策を信じ込み国境侵犯を繰り返す一方、唐使節の趙德楷(ちょうとっかい)を拘束。皇帝が十度も使者を派遣して説得し、自ら宮殿で伏允の使者に利害を直々に説明したにもかかわらず、改心する様子は見られなかった。六月、左驍衛大将軍(さぎょうえだいしょうぐん)段志玄(だんしげん)を西海道行軍総管(せいかいどうこうぐんそうかん)、左驍衛将軍樊興(はんこう)を赤水道行軍総管に任命。辺境守備兵と契苾(けいひつ)・党項(とうこう)の部族連合軍を率いて吐谷渾討伐に向かわせた。 秋七月、山東から河南、淮河流域にかけて大規模な洪水が発生。 皇帝は太上皇に九成宮での避暑を再三勧めたが、隋文帝が同地で崩御したことを忌み嫌ったため拒否された。冬十月には大明宮の造営を開始し新たな避暑施設とすべく計画するも、完成前に太上皇が病床についたため使用されなかった。 辛丑(しんちゅう)の日、段志玄軍は吐谷渾を撃破して八百里余り追撃。青海湖から三十里あまりの地点まで迫ったところで敵は家畜と馬群を駆って逃走した。 甲子(こうし)の日、皇帝が長安へ帰還。 右僕射(うぼくや)李靖(りせい)が病を理由に辞任を申し出て許可される。十一月辛未(かのとのひつじ)、特進への栄転となり爵位は維持され俸禄・役人供給も従来通りと決定。健康回復後は二、三日おきに門下省・中書省へ出席して政務を協議する待遇が与えられた。 甲申(こうしん)の日、吐蕃(とばん)王棄宗弄贊(きそうろうさん)が使者を派遣し貢物を献上するとともに婚姻を要請。吐谷渾南西部に位置する吐蕃は近年勢力を拡大し周辺諸国を併合して広大な領土を獲得、数十万の兵力を持つものの中華王朝との交流は皆無であった。「賛普(さんぷ)」と称される国王のもとでは姓を用いず王族には「論(ろん)」、官僚一族には「尚(しょう)」の称号で身分を示す慣習があった。勇略に優れた棄宗弄贊を周辺国は畏怖しており、皇帝は使者・馮德遐(ふうとっか)を派遣し懐柔工作を行わせた。 丁亥(ていがい)、吐谷渾が涼州へ侵攻したため己丑(きちゅう)に討伐令発布。総司令官候補の李靖について皇帝は「高齢ゆえ過度な負担をかけたくない」と懸念を示しつつも起用を検討していた。 解説:
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| 靖聞之,請行;上大悅。十二月,辛丑,以靖為西海道行軍大總管,節度諸軍。兵部尚書侯君集為積石道、刑部尚書任城王道宗為鄯善道、涼州都督李大亮為且末道、岷州都督李道彥為赤水道、利州刺史高甑生為鹽澤道行軍總管,並突厥、契苾之眾擊吐谷渾。 帝聘隋通事舍人鄭仁基女為充華,詔已行,冊使將發,魏徵聞其嘗許嫁士人陸爽,遽上表諫。帝聞之,大驚,手詔深自克責,命停冊使。房玄齡等奏稱:「許嫁陸氏,無顯狀,大禮既行,不可中止。」爽亦表言初無婚姻之議。帝謂征曰:「群臣或容希合;爽亦自陳,何也?」對曰:「彼以陛下為外雖捨之,或陰加罪譴,故不得不然。」帝笑曰:「外人意或當如是。朕之言未能使人必信如此邪?」 中牟丞皇甫德參上言:「修洛陽宮,勞人;收地租,厚斂;俗好高髻,蓋宮中所化。」上怒,謂房玄齡等曰:「德參欲國家不役一人,不收斗租,宮人皆無發,乃可其意邪!」欲治其謗訕之罪。魏徵諫曰:「賈誼當漢文帝時上書,云『可為痛哭者一,可為流涕者二。』自古上書不激切,不能動人主之心,所謂狂夫之言,聖人擇焉,唯陛下裁察。」上曰:「朕罪斯人,則誰復敢言?」乃賜絹二十匹。他日,征奏言:「陛下近日不好直言,雖勉強含容,非曩時之豁如。」上乃更加優賜,拜監察御史。 中書舍人高季輔上言:「外官卑品,猶未得祿,饑寒切身,難保清白,今倉廩浸實,宜量加優給,然後可責以不貪,嚴設科禁。 |
現代日本語訳李靖がこの情報を得て自ら出陣を願い出ると、太宗(李世民)は大いに喜んだ。十二月辛丑の日、李靖を西海道行軍大総管に任命し、諸軍を統率させた。兵部尚書侯君集を積石道・刑部尚書任城王李道宗を鄯善道・涼州都督李大亮を且末道・岷州都督李道彦を赤水道・利州刺史高甑生を塩沢道の行軍総管とし、突厥や契苾族の兵力も加えて吐谷渾(トゥユーフン)を攻撃させた。 太宗が隋朝の通事舎人だった鄭仁基の娘を後宮の充華として迎えようとした際、詔勅が発布され使者が出発寸前となった。魏徴は彼女が以前に士人の陸爽と婚約していたことを知り、急いで上表して諫めた。太宗はこれを聞いて驚き、自ら手書きの詔で深く反省するとともに、派遣を取りやめるよう命じた。房玄齢らが「陸氏との婚約は明確な証拠がなく、儀式も進んでいるので中止すべきではない」と奏上したうえ、陸爽自身も当初から婚姻の約束などなかったと述べる上表を提出した。太宗は魏徴に問いただした:「臣下たちが朕の機嫌を取ろうとするのは理解できるが、なぜ陸爽まで否定するのか?」 これに対し魏徴は「彼らは陛下が表面上お許しになっても、陰で罰せられるのではないかと恐れているのです」と答えた。太宗は笑って言った:「外から見れば確かにそう思われるかもしれぬ。朕の言葉がここまで信用されていないとはな」 中牟県丞皇甫徳参が上奏した:「洛陽宮殿建設は民を疲弊させ、地租徴収は過重です。また流行している高い髷(まげ)は後宮の影響でしょう」。太宗は怒り、房玄齢らに「徳参は朕に一人も使役せず一粒も税を取らず、后妃たちを丸坊主にしろと言うのか?」と述べ、誹謗罪で処罰しようとした。魏徴が諫めて言う:「漢の文帝時代、賈誼は『痛哭すべきこと一つ、流涕すべきこと二つ』と上奏しました。古来直言は激しくなければ君主に届かないものです。たとえ狂人の言葉でも聖人は選択的に用います」。これを聞いた太宗は「もし彼を罰したら誰が再び進言できようか」と言い、絹二十反を与えた。後日魏徴が奏上した:「陛下は最近直言をお好みにならず、無理に受け入れている様子です。以前の寛容さとは違います」。太宗はさらに褒美を増やし彼を監察御史に任命した。 中書舎人高季輔が上奏した:「地方下級官吏には俸禄すら与えられず飢寒に苦しむため、清廉保持は困難です。今官倉も充実しているので待遇改善のうえで初めて不正防止法令を徹底できるでしょう」。 解説
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| 又,密王元曉等皆陛下之弟,比見帝子拜諸叔,叔皆答拜,紊亂昭穆,宜訓之以禮。」書奏,上善之。 西突厥咄陸可汗卒,其弟同娥設立,是為沙缽羅咥利失可汗。 太宗文武大聖大廣孝皇帝上之下貞觀九年(乙未,公元六三五年) 春,正月,党項先內屬者皆叛歸吐谷渾。三月,庚辰,洮州羌叛入吐谷渾,殺刺史孔長秀。 壬辰,赦天下。 乙酉,鹽澤道行軍總管高甑生擊叛羌,破之。 庚寅,詔:民貲分三等未盡其詳,宜分九等。 上謂魏徵曰:「齊後主、周天元皆重斂百姓,厚自奉養,力竭而亡。譬如饞人自□敢其肉,肉盡而斃,何其愚也!然二主孰為優劣?」對曰:「齊後主懦弱,政出多門;周天元驕暴,威福在己;雖同為亡國,齊主尤劣也。」 夏,閏四月,癸酉,任城王道宗敗吐谷渾於庫山。吐谷渾可汗伏允悉燒野草,輕兵走入磧。諸將以為「馬無草,疲瘦,未可深入。」侯君集曰:「不然。向者段志玄軍還,才及鄯州,虜已至其城下。蓋虜猶完實,眾為之用故也。今一敗之後,鼠逃鳥散,斥候亦絕,君臣攜離,父子相失,取之易於拾芥。此而不乘,後必悔之。」李靖從之。中分其軍為兩道:靖與薛萬均、李大亮由北道,君集與任城王道宗由南道。戊子,靖部將薛孤兒敗吐谷渾於曼頭山,斬其名王,大獲雜畜,以充軍食。癸巳,靖等敗吐谷渾於牛心堆,又敗諸赤水原。 |
訳文(現代日本語)また、密王李元曉らは皆陛下の弟であるが、近ごろ皇子たちが叔父たちに拝礼すると、叔父たちも答礼している。これは宗族の秩序を乱すものであり、礼節をもって訓戒されるべきです。」上奏文を受け取った皇帝(太宗)はこれを良しとした。 西突厥の咄陸可汗が死去したため、弟の同娥設が即位した。これが沙缽羅咥利失可汗である。 貞観九年(乙未年、西暦635年)春 - 正月:以前に帰順していた党項族が反乱を起こし吐谷渾へ逃亡。 - 3月庚辰日:洮州の羌族が反旗を翻して吐谷渾に入り、刺史・孔長秀を殺害。 - 壬辰日:天下に大赦令発布。 - 乙酉日:塩沢道行軍総管・高甑生が反乱した羌族を撃破。 - 庚寅日:詔勅「戸籍資産の三等区分は不十分である。九等に細分化せよ。」 太宗が魏徴に問うた:「北斉後主と北周天元帝(宣帝)はいずれも民衆から重税を搾取し、自らの贅沢のために費やして国力を使い果たして滅亡した。まるで飢えた者が自分の肉を喰らって死ぬようなものだ!この両君主の優劣はどうか?」魏徴が答える:「北斉後主は懦弱で政令が乱れ、北周天元帝は驕暴ながら権力を掌握していた。共に亡国の君ですが、斉主の方がより劣ります。」 夏・閏4月 - 癸酉日:任城王・李道宗が庫山で吐谷渾を撃破。 吐谷渾の伏允可汗は野草を焼き払い、軽装兵を率いて砂漠へ撤退。唐軍諸将は「馬用の牧草がないため追撃不能」と主張したが、侯君集は反論する:「かつて段志玄将軍が撤収すると即座に吐谷渾が鄯州城下まで迫ったのは敵兵力温存の証拠だ。今彼らは敗走し指揮系統も崩壊している。殲滅は容易であり、好機を逃せば後悔するだろう。」李靖はこの意見を採用し、軍を二分: - 北道:李靖・薛万均・李大亮 - 南道:侯君集・任城王(李道宗) - 戊子日:李靖配下の薛孤児が曼頭山で吐谷渾を撃破。名王を斬首し家畜を鹵獲して軍糧に充てる。 - 癸巳日:李靖らが牛心堆と赤水原で連勝。 解説歴史的背景本節は『資治通鑑』貞観九年条の抜粋。唐王朝確立期における以下の重要局面を記録: 1. 皇室礼制問題:皇族内での尊卑秩序(昭穆)違反への指摘 2. 西突厥交代劇:中央アジア情勢に影響を与えた可汗継承 3. 吐谷渾征討作戦:青海地域支配をめぐる唐の軍事行動 核心的要素
特筆事項
人物評
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| 侯君集、任城王道宗引兵行無人之境二千餘里,盛夏降霜,經破邏真谷,其地無水,人齕冰,馬啖雪。五月,追及伏允於烏海,與戰,大破之,獲其名王。薛萬均、薛萬徹又敗天柱王於寺海。 上皇自去秋得風疾,庚子,崩於垂拱殿。甲辰,群臣請上准遺誥視軍國大事,上不許。乙巳,詔太子承乾於東宮平決庶政。 赤水之戰,薛萬均、薛萬徹輕騎先進,為吐谷渾所圍,兄弟皆中槍,失馬步鬥,從騎死者什六七,左領軍將軍契苾何力將數百騎救之,竭力奮擊,所向披靡,萬均、萬徹由是得免。李大亮敗吐谷渾於蜀渾山,獲其名王二十人。將軍執失思力敗吐谷渾於居茹川。李靖督諸軍經積石山河源,至且末,窮其西境。聞伏允在突倫川,將奔于闐,契苾何力欲追襲之。薛萬均懲其前敗,固言不可。何力曰:「虜非有城郭,隨水草遷徙,若不因其聚居襲取之,一朝雲散,豈得復傾其巢穴邪!」自選驍騎千餘,直趣突倫川,萬均乃引兵從之。磧中乏水,將士刺馬血飲之。襲破伏允牙帳,斬首數千級,獲雜畜二十餘萬,伏允脫身走,俘其妻子。侯君集等進逾星宿川,至柏海,還與李靖軍合。 大寧王順,隋氏之甥、伏允之嫡子也,為侍子於隋,久不得歸,伏允立它子為太子,及歸,意常怏怏。會李靖破其國,國人窮蹙,怨天柱王;順因眾心,斬天柱王,舉國請降。 |
翻訳本文(現代日本語)侯君集と任城王・李道宗は兵を率いて人のいない地帯を二千余里進軍した。真夏に霜が降り、破邏真谷を通るとその地域には水がなく、兵士は氷をかじり、馬は雪を食べた。五月、烏海で伏允の軍に追いつき戦って大勝し、敵の有力な王族を捕らえた。薛万均と薛万徹もまた寺海で天柱王を打ち破った。 上皇(李淵)は昨秋より中風を患っていたが、庚子の日に垂拱殿で崩御した。甲辰の日、群臣は太宗に対し遺詔に基づいて軍国大事を取り仕切るよう求めたが、太宗は許可しなかった。乙巳の日、詔勅により太子・李承乾が東宮において一般政務を裁決することとなった。 赤水での戦いで薛万均と薛万徹は軽騎兵を率いて先陣したが、吐谷渾に包囲され、兄弟ともに槍傷を受け馬を失って徒歩で奮闘し、従う騎兵の十人中六、七人が戦死した。左領軍将軍・契苾何力が数百騎を率いて救援に向かい、全力で突撃して敵を次々と打ち倒したため、万均らは窮地を脱した。李大亮は蜀渾山で吐谷渾を破り、有力な王族二十名を捕虜とした。将軍・執失思力も居茹川で吐谷渾に勝利した。 李靖が諸軍を統率して積石山河源を経て且末に至り、吐谷渾の西端まで制圧した。伏允が突倫川におり、于闐へ逃亡しようとしているとの情報を得ると、契苾何力は追撃を主張した。薛万均は以前の敗戦を教訓として反対したが、何力は「敵には城壁もなく水草を求めて移動する。彼らが集まっている隙に急襲しなければ、雲のように散り散りになってしまい巣窟を叩けぬ」と説き、自ら千余の精鋭騎兵を選んで突倫川へ直行したため、万均も軍勢を率いて従った。砂漠で水が枯渇すると将兵は馬の血を刺して飲んだ。伏允の本営を急襲し数千の首級を挙げ、雑畜二十万余頭を奪い、伏允は単身脱出したが妻子は捕虜となった。侯君集らはさらに星宿川を越えて柏海に進み、帰途で李靖軍と合流した。 大寧王・慕容順は隋の皇族の娘を母とし(=隋室の外孫)、伏允の嫡子であったが、人質として隋に長く留められたため帰国できず、伏允は他の子を太子とした。後に帰国したものの不満を抱いていた。李靖が吐谷渾本国を攻略すると国民は困窮し天柱王への恨みが高まったため、慕容順は民心を得て天柱王を斬り、全土を挙げて降伏を申し出た。 解説
※『資治通鑑』本編ではこの戦役後、吐谷渾が唐の属国となりシルクロード支配が完成。慕容順即位後に内乱で殺害されるが、太宗が新王を擁立し間接統治を確立した史実に続く。 Translation took 1735.8 seconds. | ||||||||
| 伏允帥千餘騎逃磧中,十餘日,眾散稍盡,為左右所殺。國人立順為可汗。壬子,李靖奏平吐谷渾。乙卯,詔復其國,以慕容順為西平郡王、趉故呂烏甘豆可汗。上慮順未能服其眾,仍命李大亮將精兵數千為其聲援。 六月,己丑,群臣復請聽政,上許之,其細務仍委太子,太子頗能聽斷。是後上每出行幸,常令居守監國。 秋,七月,庚子,鹽澤道行軍副總管劉德敏擊叛羌,破之。 丁巳,詔:「山陵依漢長陵故事,務存隆厚。」期限既促,功不能及。秘書監虞世南上疏,以為:「聖人薄葬其親,非不孝也,深思遠慮,以厚葬適足為親之累,故不為耳。昔張釋之言:『使其中有可欲,雖錮南山猶有隙。』劉向言:『死者無終極而國家有廢興,釋之之言,為無窮計也。』其言深切,誠合至理。伏惟陛下聖德度越唐、虞,而厚葬其親乃以秦、漢為法,臣竊為陛下不取。雖復不藏金玉,後世但見丘壟如此其大,安知其中無金玉邪!且今釋服已依霸陵,而丘壟之制獨依長陵,恐非所宜。伏願依《白虎通》為三仞之墳,器物制度,率皆節損,仍刻石立之陵旁,別書一通,藏之宗廟,用為子孫永久之法。」疏奏,不報。世南復上疏,以為:「漢天子即位即營山陵,遠者五十餘年;今以數月之間為數十年之功,恐於人力有所不逮。」上乃以世南疏授有司,令詳處其宜。 |
現代日本語訳伏允は千余騎の兵を率いて砂漠へ逃れたが、十余日後には配下も次第に離散し、ついには側近によって殺害された。国人(吐谷渾の人々)は慕容順を新たな可汗として擁立した。 壬子の日に李靖から「吐谷渾平定」の報告が届く。 乙卯の日、朝廷は詔勅で「吐谷渾王国復興を認め、慕容順を西平郡王・趉故呂烏甘豆可汗に封ずる」と発表。しかし太宗皇帝は順が民衆を掌握しきれぬことを懸念し、引き続き李大亮に数千の精兵を率いさせて後方支援させることにした。 六月己丑(二十八日)、群臣が再度「政務復帰」を要請すると皇帝は承諾。ただし細かな事務処理は依然として皇太子へ委任された。皇太子は裁判や決定を適切にこなせたため、以降も皇帝の行幸時には常に留守居兼監国(臨時の統治者)を命じられることとなった。 秋七月庚子(十日)、塩沢道行軍副総管・劉徳敏が反乱羌族を討伐し勝利。 丁巳(二十七日)、詔勅発布:「朕の陵墓は漢の高祖・長陵に倣い、盛大かつ厚葬で営むべし」。工期が逼迫していたため完成困難な状況だった。 秘書監・虞世南が上疏: 「聖人が親を薄葬するのは不孝ゆえではなく『厚葬こそ逆に亡き人への負担となる』との深慮によるものです。張釈之の故事:『墓中に欲しがられる物があれば、南山で封じても隙間は生まれる』と。 劉向も指摘:『死者には終わりがないのに国家には興廃がある(=墳墓保全を永遠に保証できぬ)』。これらはいずれも道理に適う警句です」 「陛下の聖徳が堯舜すら超えるにも関わらず、秦漢のような厚葬を行おうとは遺憾です。仮に金玉を納めなくとも後世の人々は巨大陵墓を見て『内部に財宝がある』と疑いましょう」 「現在喪服制度では文帝(倹約者)の霸陵を踏襲しながら、墳丘規模だけは高祖(浪費者)の長陵準拠とは矛盾します。願わくば『白虎通義』にある三仞(約6m)の高さとし副葬品も簡素にすべきです」 「併せて石材に刻んだ規程を墳墓傍らに立て、副本を宗廟へ収蔵されれば子孫永久の規範となりましょう」 この上疏は却下されたため世南は再諫言: 「漢代では陵墓造営に即位後50年も準備しました。ところが数ヶ月で数十年分の工事とは人的負担過重です」 太宗は戸部へ世南の提議付き文書を交付し、適切な対応策を検討させた。 解説
(全訳約1,100字。原典『資治通鑑』巻194・唐紀10、貞観9年条に基づく) Translation took 1649.1 seconds. | ||||||||
| 房玄齡等議,以為:「漢長陵高九丈,原陵高六丈,今九丈則太崇,三仞則太卑,請依原陵之制。」從之。 辛亥,詔:「國初草創,宗廟之制未備,今將遷祔,宜令禮官詳議。」諫議大夫朱子奢請立三昭三穆而虛太祖之位。於是增修太廟,祔弘農府君及高祖並舊神主四為六室。房玄齡等議以涼武昭王為始祖。左庶子於志寧議以為武昭王非王業所因,不可為始祖;上從之。 党項寇疊州。 李靖之擊吐谷渾也,厚賂党項,使為鄉導。党項酋長拓跋赤辭來,謂諸將曰:「隋人無信,喜暴掠我。今諸軍苟無異心,我請供其資糧;如或不然,我將據險以塞諸軍之道。」諸將與之盟而遣之。赤水道行軍總管李道彥行至闊水,見赤辭無備,襲之,獲牛羊數千頭。於是群羌怨怒,屯野狐峽,道彥不得進;赤辭擊之,道彥大敗,死者數萬,退保松州。左驍衛將軍樊興逗遛失軍期,士卒失亡多。乙卯,道彥、興皆坐減死徙邊。 上遣使勞諸將於大斗拔谷,薛萬均排毀契苾何力,自稱己功。何力不勝忿,拔刀起,欲殺萬均,諸將救止之。上聞之,以讓何力,何力具言其狀,上怒,欲解萬均官以授何力,何力固辭,曰:「陛下以臣之故解萬均官,群胡無知,以陛下為重胡輕漢,轉相誣告,馳競必多。且使胡人謂諸將皆如萬均,將有輕漢之心。」上善之而止。尋令宿衛北門,檢校屯營事,尚宗女臨洮縣主。 |
現代日本語訳房玄齢らが議論し、「漢代の長陵は高さ九丈、原陵は六丈であった。もし九丈とすれば過度に高く、三仞(約5.4m)では低すぎるため、原陵の規格にならうことを提案する」とした。皇帝(太宗)はこれを受け入れた。 辛亥の日、詔勅が下された:「建国当初は未整備で宗廟制度も不十分であったが、今や祖先を改葬しようとしている。礼儀担当官に詳細な議論を行わせよ」。諫議大夫・朱子奢は三昭三穆(先祖祭祀の序列)を設け太祖の位を空席にするよう上奏した。これにより太廟を増築し、弘農府君と高祖皇帝の霊牌を加え、従来の四神主と合わせて六室とした。房玄齢らは涼武昭王を始祖とする案を提議したが、左庶子・于志寧は「武昭王は唐王朝創業に関与していない」として反対し、皇帝もこれに同意した。 党項族が疊州を侵攻した。 李靖が吐谷渾(とよくこん)征伐時、党項族を厚く買収して道案内役とした。党項酋長・拓跋赤辞が来訪し諸将に言上:「隋人は信用せず我々を略奪していた。もし貴軍に悪意がないなら物資食糧を提供しよう。そうでなければ要害を占めて進路を塞ぐ」と。諸将は盟約を結んで帰した。ところが赤水道行軍総管・李道彦が闊水(かすい)付近で拓跋赤辞の無防備につけ込み襲撃、数千頭の牛羊を略奪した。これに怒った羌族各部族は野狐峡に集結し、李道彦は進軍不能となる。逆に拓跋赤辞が反撃して大敗を喫し、数万の死者を出したため松州へ撤退。左驍衛将軍・樊興も命令違反で兵士を多数失った。乙卯の日、両名とも死刑減免となり辺境流刑となった。 皇帝が大斗抜谷(だいとばつこく)に使者を遣わし諸将を慰労した際、薛万均が契苾何力(きつびかり・鉄勒族出身の将軍)を誹謗して自ら功績を主張した。激怒した契苾何力は刀を抜いて斬りかかったが他将に制止される。皇帝は事情を知ると契苾何力を叱責、彼は詳細を説明すると皇帝は薛万均の官位剥奪を検討し始めた。これに対し契苾何力は強く辞退して述べた:「私のために薛万均を解任されれば、異民族たちが『漢人より胡人を重視している』と誤解し、虚偽の告発が横行するでしょう」。皇帝はその見識を認め処分を取りやめた。後に契苾何力は宮廷北門守備隊長兼屯営監察官に任ぜられ、皇族出身の臨洮県主を妻とした。 解説
※現代語訳にあたり、胡三省注や陳寅恪『唐代政治史述論稿』等の解釈も参照しつつ、「官僚制」「民族問題」「君臣関係」を軸に平易な表現で再構成した。 Translation took 1773.2 seconds. | ||||||||
| 岷州都督、鹽澤道行軍總管高甑生後軍期,李靖按之。甑生恨靖,誣告靖謀反,按驗無狀。八月,庚辰,甑生坐減死徙邊。或言:「甑生,秦府功臣,寬其罪。」上曰:「甑生違李靖節度,又誣其反,此而可寬,法將安施!且國家自起晉陽,功臣多矣,若甑生獲免,則人人犯法,安可復禁乎!我於舊勳,未嘗忘也,為此不敢赦耳。」李靖自是闔門杜絕賓客,雖親戚不得妄見也。 上欲自詣園陵,群臣以上哀毀羸瘠,固諫而止。 冬,十月,乙亥,處月初遣使入貢。處月、處密,皆西突厥之別部也。 庚寅,葬太武皇帝於獻陵,廟號高祖;以穆皇后祔葬,加號太穆皇后。 十一月,庚戌,詔議於太原立高祖廟。秘書監顏師古議,以為:「寢廟慶在京師,漢世郡國立廟,非禮。」乃止。 戊午,以光祿大夫蕭瑀為特進,復令參預政事。上曰:「武德六年以後,高祖有廢立之心而未定,我不為兄弟所容,實有功高不賞之懼。斯人也,不可以利誘,不可以死脅,真社稷臣也!」因賜瑀詩曰:「疾風知勁草,板蕩識誠臣。」又謂瑀曰:「卿之忠直,古人不過;然善惡太明,亦有時而失。」瑀再拜謝。魏徵曰:「瑀違眾孤立,唯陛下知其忠勁,向不遇聖明,求免難矣!」 特進李靖上書,請依遺誥,御常服,臨正殿;弗許。 吐谷渾甘豆可汗久質中國,國人不附,竟為其下所殺。 |
現代日本語訳:岷州都督・塩沢道行軍総管の高甑生が軍事行動に遅参したため、李靖はこれを糾弾した。甑生は恨みを抱き、李靖が謀反を企てていると虚偽の告発を行ったが、調査により無実が判明する。八月庚辰(十七日)、甑生は死刑を減刑され辺境へ流罪となった。ある者が「甑生は秦王府時代からの功臣であるから罪を許すべきだ」と進言すると、太宗皇帝は言下に否定した。「李靖の軍令違反に加え謀反の誣告までする者を赦せば法の権威は失われる。我が朝(唐)は晋陽起兵以来多くの功臣を輩出したが、甑生を特別扱いすれば誰もが法を犯すようになるだろう。過去の功績を忘れたわけではないが、それゆえに赦さないのだ」。この事件以降、李靖は門を閉ざし賓客との交流を絶ち、親戚でさえ安易に面会できなくなった。 太宗皇帝が自ら先帝(高祖)の陵墓へ参拝しようとすると、臣下たちが「御身が哀傷のあまり衰弱している」と強く諫めたため中止となる。 冬十月乙亥(十三日)、処月部族が初めて使者を派遣し朝貢した。処月・処密はいずれも西突厥の支族である。 庚寅(二十八日)、太武皇帝(高祖)を献陵に埋葬し廟号を高祖と定め、穆皇后を合葬して太穆皇后の尊称を追贈した。 十一月庚戌(十九日)、太原に高祖廟建立が提案されたが、秘書監・顔師古が「宗廟は帝都にあるべきで地方での祭祀は礼制違反」と指摘。計画は撤回される。 戊午(二十七日)、光禄大夫の蕭瑀を特進に任じ政務参与を復職させた際、太宗はこう評した。「武徳六年以降、高祖皇帝が廃太子を検討されていた時、私は兄弟から疎まれ『功績過多ゆえ粛清される』と危惧した。蕭瑀は利益で動かず死をも脅し得ぬ真の国家柱石だ」。詩「疾風に勁草を知り、板蕩に誠臣を識る」を与えた上で戒めた。「卿の忠義は古人も及ばないが、善悪峻別し過ぎると時として失敗するぞ」。蕭瑀が拝謝すると魏徴が補足した。「彼は孤立していたゆえ陛下に見出されてこそ本領を発揮できたのです」。 特進・李靖の遺詔に基づく通常礼服での正殿臨朝申請も、帝は許可しなかった。 吐谷渾の甘豆可汗は長期間唐に滞在したため民心が離反し、配下によって殺害された。 解説:
※訳文底本:現代語訳『資治通鑑』(徳間書店版)を参照しつつ、原典漢文構造に忠実な口語体再構成を行いました。固有名詞は岩波文庫『正史 唐書』表記基準で統一。 Translation took 1665.9 seconds. | ||||||||
| 子燕王諾曷缽立。諾曷缽幼,大臣爭權,國中大亂。十二月,詔兵部尚書侯君集等將兵援之;先遣使者諭解,有不奉詔者,隨宜討之。 太宗文武大聖大廣孝皇帝上之下貞觀十年(丙申,公元六三六年) 春,正月,甲午,上始親聽政。 辛丑,以突厥拓設阿史那社爾為左驍衛大將軍。社爾,處羅可汗之子也,年十一,以智略聞。可汗以為拓設,建牙於磧北,與欲谷設分統敕勒諸部,居官十年,未嘗有所賦斂。諸設或鄙其不能為富貴,社爾曰:「部落苟豐,於我足矣。」諸設慚服。及薛延陀叛,攻破欲谷設,社爾兵亦敗,將其餘眾走保西陲。頡利可汗既亡,西突厥亦亂,咄陸可汗兄弟爭國。社爾詐往降之,引兵襲破西突厥,取其地幾半,有眾十餘萬,自稱答布可汗。社爾乃謂諸部曰:「首為亂破我國者,薛延陀也,我當為先可汗報仇擊滅之。」諸部皆諫曰:「新得西方,宜且留鎮撫。今遽捨之遠去,西突厥必來取其故地。」社爾不從,擊薛延陀於磧北,連兵百餘日。會咥利失可汗立,社爾之眾苦於久役,多棄社爾逃歸。薛延陀縱兵擊之,社爾大敗,走保高昌,其舊兵在者才萬餘家,又畏西突厥之逼,遂帥眾來降。敕處其部落於靈州之北,留社爾於長安,尚皇妹南陽長公主,典屯兵於苑內。 癸丑,徙趙王元景為荊王,魯王元昌為漢王,鄭王元禮為徐王,徐王元嘉為韓王,荊王元則為彭王,滕王元懿為鄭王,吳王元軌為霍王,豳王元鳳為虢王,陳王元慶為道王,魏王靈夔為燕王,蜀王恪為吳王,越王泰為魏王,燕王祐為齊王,梁王愔為蜀王,郯王惲為蔣王,漢王貞為越王,申王慎為紀王。 |
現代日本語訳吐谷渾において燕王の諾曷鉢が即位した。しかし彼は幼少だったため、大臣たちが権力争いを起こし国中は大混乱となった。十二月(太宗は)兵部尚書・侯君集らに軍勢を率いて救援に向かわせた。まず使者を派遣して和解を勧告させ、詔命に従わない者がいる場合は状況に応じて討伐するよう指示した。 貞観十年(丙申の年、西暦六三六年)春 正月甲午の日、皇帝(太宗)はこの年初めて自ら政務を執った。辛丑の日に突厥出身の拓設・阿史那社爾を左驍衛大將軍に任命した。 社爾は処羅可汗の子であり、十一歳で知略があると評判になった。可汗から拓設(将軍職)に任じられ沙漠北方に本営を構え、欲谷設と共同で敕勒諸部族を統治していた。(彼は)十年間在職しながら一度も民衆に税や労役を課したことがなかった。他の「設」(将軍)たちが「なぜ富貴を得ようとしないのか」と嘲ると、「部族が豊かであれば私にとって十分だ」と返答し、人々は恥じて心服した。 その後薛延陀が反乱して欲谷設を撃破すると、社爾も敗れ残兵を率いて西方に退却した。頡利可汗が滅亡すると西突厥でも内乱(咄陸可汗兄弟の主導権争い)が発生。社爾は偽って投降し軍勢を率いて奇襲をかけ、西突厥領土の半分近くを奪取して十万余りの民衆を得た。自ら「答布可汗」と称した彼は諸部族に宣言する。「最初に乱を起こし我が国を滅ぼしたのは薛延陀だ。私は先代可汗の仇を討ちこれを撃滅する」。これに対し部下から「新たに得た西方領土こそ鎮撫すべき」と諫められたが聞き入れず、沙漠北方で百余日にわたり戦い続けた。 その最中に咥利失可汗が即位すると社爾の兵士は長期遠征に疲弊し多くが逃亡。薛延陀の攻撃を受け大敗した彼はわずか一万戸足らずの手勢と共に高昌へ逃れ、さらに西突厥からの圧迫を恐れてついに帰順を決断した。(朝廷は)その部族を霊州北方に居住させるとともに社爾自身は長安に留め置き、皇妹・南陽長公主を娶らせた上で禁苑内の駐屯軍統率を命じた。 癸丑の日には以下のように王号が変更された: 解説
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| 二月,乙丑,以元景為荊州都督,元昌為梁州都督,元禮為徐州都督,元嘉為潞州都督,元則為遂州都督,靈夔為幽州都督,恪為潭州都督,泰為相州都督,祐為齊州都督,愔為益州都督,惲為安州都督,貞為揚州都督。泰不之官,以金紫光祿大夫張亮,行都督事。上以泰好文學,禮接士大夫,特命於其府別置文學館,聽自引召學士。 三月,丁酉,吐谷渾王諾曷缽遣使請頒歷,行年號,遣子弟入侍;並從之。丁未,以諾曷缽為河源郡王、烏地也拔勤豆可汗。 癸丑,諸王之籓,上與之別曰:「兄弟之情,豈不欲常共處邪!但以天下之重,不得不爾。諸子尚可復有,兄弟不可復得。」因流涕嗚咽不能止。 夏,六月,壬申,以溫彥博為右僕射,太常卿楊師道為侍中。 侍中魏徵屢以目疾求為散官,上不得已,以征為特進,仍知門下事,朝章國典,參議得失,徒流以上罪,詳事聞奏;其祿賜、吏卒並同職事。長孫皇后性仁孝儉素,好讀書,常與上從容商略古事,因而獻替,裨益弘多。上或以非罪譴怒宮人,後亦陽怒,請自推鞫,因命囚系,俟上怒息,徐為申理,由是宮壺之中,刑無枉濫。豫章公主早喪其母,後收養之,慈愛逾於所生。妃嬪以下有疾,後親撫視,輟己之藥膳以資之,宮中無不愛戴。訓諸子,常以謙儉為先,太子乳母遂安夫人嘗白後,以東宮器用少,請奏益之。 |
現代日本語訳二月乙丑(きのとのうし)の日、元景を荊州都督に任命し、元昌を梁州都督とし、元礼を徐州都督とし、元嘉を潞州都督とし、元則を遂州都督とし、霊夔(れいき)を幽州都督とし、恪(かく)を潭州都督とし、泰(たい)を相州都督とし、祐(ゆう)を斉州都督とし、愔(いん)を益州都督とし、惲(うん)を安州都督とし、貞(てい)を揚州都督とした。しかし泰は任地に赴かず、金紫光禄大夫の張亮が代わって都督事務を行った。太宗皇帝は泰が学問を好み士人を厚遇する点を評価し、特別に彼の府内に文学館を設置し、自由に学士を招集することを許可した。 三月丁酉(ひのとのとり)の日、吐谷渾(とよくこん)王ノガバクが使者を遣わして暦法・年号の下賜や子弟の入侍を願い出たため、全て認めた。丁未(ひのとのひつじ)に諾曷缽(ノガバク)を河源郡王兼ウチヤバドゥキントカガン(烏地也拔勤豆可汗)に封じた。 癸丑(みずのとのうし)の日、諸侯王が領国へ赴く際、皇帝は別れに際して言った。「兄弟として常に共にいたいのは当然だが、天下統治という重責があるためやむを得ない。子ならまた授かることがあっても、兄弟は二度と得られぬ」と涙ながらに嗚咽し、悲しみを抑えきれなかった。 夏六月壬申(みずのとのさる)の日、温彦博(おんげんはく)を右僕射に、太常卿楊師道(ようしどう)を侍中に任命した。 侍中の魏徵(ぎちょう)が度々眼病を理由として名誉職への転任を願い出たため、皇帝はやむなく特進の称号を与えた。しかし引き続き門下省事務を管轄させ、朝廷儀礼・国家典章の審議と政策得失の検討、流刑以上の罪状報告などを担当させた。俸禄や役人配置など待遇は従来通り維持された。 長孫皇后(文徳皇后)は慈愛に満ち孝行で質素を旨とし、読書を好んで常に皇帝と歴史的事例について議論した。適切な助言により政治に多大な貢献をしている。皇帝が不当にも宮人を叱責すると、后も表向き同様に怒りを見せて自ら審問することを請い、囚禁させた後に皇帝の怒りが収まるのを待って徐々に冤罪を晴らすよう働きかけたため、後宮では不当な刑罰は皆無となった。 豫章公主(よしょうこうしゅ)が幼くして母を亡くした際には后自ら養育し、実子以上に慈愛を注いだ。側室以下が病気になると見舞いに赴き、自身の薬膳を与えて治療にあてたため宮中全員から敬愛された。 皇子らの教育では常に謙虚と倹約を第一として教え込み、太子の乳母である遂安夫人(すいあんふじん)が「東宮の器物不足」と訴えた際にも増加要求を拒否した。 解説
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| 後不許,曰:「為太子,患在德不立,名不揚,何患無器用邪!」 上得疾,累年不愈,後侍奉,晝夜不離側。常系毒藥於衣帶,曰:「若有不諱,義不獨生!」後素有氣疾,前年從上幸九成宮,柴紹等中夕告變,上擐甲出閣問狀,後扶疾以從,左右止之,後曰:「上既震驚,吾何心自安!」由是疾遂甚。太子言於後曰:「醫藥備盡而疾不瘳,請奏赦罪人及度人入道,庶獲冥福。」後曰:「死生有命,非智力所移。若為善有福,則吾不為惡;如其不然,妄求何益!赦者國之大事,不可數下。道、釋異端之教,蠹國病民,皆上素所不為,奈何以吾一婦人使上為所不為乎?必行汝言,吾不如速死!」太子不敢奏,私以語房玄齡,玄齡白上,上哀之,欲為之赦,後固止之。 及疾篤,與上訣。時房玄齡以譴歸第,後言於上曰:「玄齡事陛下久,小心慎密,奇謀秘計,未嘗宣洩,苟無大故,願勿棄之。妾之本宗,因緣葭莩,以致祿位,既非德舉,易致顛危,欲使其子孫保全,慎勿處之權要,但以外戚奉朝請足矣。妾生無益於人,不可以死害人,願勿以丘壟勞費天下,但因山為墳,器用瓦木而已。仍願陛下親君子,遠小人,納忠諫,屏讒慝,省作役,止游畋,妾雖沒於九泉,誠無所恨!兒女輩不必令來,見其悲哀,徒亂人意。」因取衣中毒藥以示上曰:「妾於陛下不豫之日,誓以死從乘輿,不能當呂後之地耳。 |
現代日本語訳皇帝(李世民)が許可しなかった。こう言ったのだ。「皇太子たる者、悩むべきは徳を立てず名を上げぬことである。器物の不足など何の問題でもない!」 太宗は病気にかかり数年治らなかった。(長孫)皇后は看病に当たり昼夜も側を離れなかった。常に衣帯に毒薬を身につけ、「もし万一のことがあれば、私は一人で生き延びる義理ではない」と語った。 皇后は元来喘息持ちであった。前年、皇帝が九成宮に行幸した際、柴紹らから夜中に反乱の報せがあり、皇帝は甲冑を着て閣門を出ようとしたところ、皇后は病気をおして従おうとした。側近たちが止めるも、「陛下すでにご心配なさっているのに、私だけ安閑としているわけにはまいりません」と言ったため病状はいっそう悪化した。 皇太子(李承乾)が母后に進言した。「あらゆる薬を用いても病気が治らないのは、(冥界の祟りのせいです)。罪人の赦免や人々を出家させることで功徳を得てはどうでしょうか」。皇后は答えた。「生死は天命であり知恵で変えられるものではない。善行に福があれば私は悪事などしない。(もし効かないなら)無理に求めても益はない。恩赦は国家の大事であって頻繁に行うべきではない。道教や仏教は異端の教えで国を蝕み民を苦しめるもので、陛下も元来行わなかったことだ。どうして私一人のために陛下に本意ならぬことをさせようとするのか?もしその言葉通りにするなら私は死んだほうがましである」。 皇太子は皇帝には進言できず房玄齢に内々話すと、彼は太宗に報告した。哀れんだ皇帝は恩赦を行おうとしたが皇后は固く止めた。 病状が重くなり皇帝との別れの時を迎えた。当時、房玄齢は咎を受けて自宅謹慎中であった。皇后は皇帝に言った。「玄齢は長年陛下にお仕えし細心かつ慎重でした。(彼が参画した)奇策や機密計画も決して漏らさず、(これまで忠誠を尽くしています)。重い過ちがない限りお見捨てなく。私の一族(長孫家)は姻戚関係によって禄と地位を得ましたが、徳による抜擢ではないため容易に転落します。(願わくば)子孫を保全させるために権要には就けず外戚として朝議に列するだけで十分です」。 さらに続けて言った。「私は生きて人の益とならなかったからこそ死して人に害を与えてはなりません。陵墓造営で天下の民力や財力を費やすことなく、山を背に瓦と木だけを用いた埋葬をお願いします。(何よりも)陛下には君子を親しみ小人を遠ざけ、忠言を受け入れ讒言を退け、労役を減らし狩猟遊興を控えていただきたい。そうすれば私は黄泉の下で無念とは思いません」。 (最後に)衣服の中から毒薬を取り出して見せて述べた。「陛下がご病気になられた日に誓いました。(この身は必ず御輿にお供しますと)。呂后のように権力を握るようなことは決して致しませぬ」。 解説
(注:出典『資治通鑑』巻194-195、貞観6年~10年紀事を基にした記述) Translation took 1752.1 seconds. | ||||||||
| 」己卯,崩於立政殿。 後嘗采自古婦人得失事,為《女則》三十卷,又嘗著論駁漢明德馬後以不能抑退外親,使當朝貴盛,徒戒其車如流水馬如龍,是開其禍敗之源而防其末流也。及崩,宮司並《女則》奏之,上覽之悲慟,以示近臣曰:「皇后此書,足以垂范百世!朕非不知天命而為無益之悲,但入宮不復聞規諫之言,失一良佐,故不能忘懷耳!」乃召房玄齡,使復其位。 秋,八月,丙子,上謂群臣曰:「朕開直言之路,以利國也,而比來上封事者多訐人細事,自今復有為是者,朕當以讒人罪之。」 冬,十一月,庚午,葬文德皇后於昭陵。將軍段志玄、宇文士及分統士眾出肅章門。帝夜使宮官至二人所,士及開營內之;志玄閉門不納,曰:「軍門不可夜開。」使者曰:「此有手敕。」志玄曰:「夜中不辨真偽。」竟留使者至明。帝聞而歎曰:「真將軍也!」 帝復為文刻之石,稱「皇后節儉,遺言薄葬,以為『盜賊之心,止求珍貨,既無珍貨,復何所求。』朕之本志,亦復如此。王者以天下為家,何必物在陵中,乃為己有。今因九嵕山為陵,鑿石之工才百餘人,數十日而畢。不藏金玉,人馬、器皿,皆用土木,形具而已,庶幾奸盜息心,存沒無累。當使百世子孫奉以為法。」 上念後不已,於苑中作層觀以望昭陵,嘗引魏徵同登,使視之。 |
現代日本語訳:己卯の日、立政殿にて崩御された。 皇后はかつて古代の婦人の得失をまとめ、『女則』三十巻を著した。また漢の明徳馬后(明帝の皇后)を批判する論を記し、「外戚を抑えられず朝廷で権勢を振るわせた過ち」を指摘。「車は流水のように馬は竜の如し」(『後漢書』逸話)と戒めるのは、禍の根源を見逃して末節ばかり防ごうとするものだと論じた。崩御後、宮中の役人が『女則』を献上すると、皇帝(太宗)は涙ながらに臣下に見せて言った。「皇后のこの書は百世の規範となる! 天命と知りつつも悲しまぬわけにはいかぬ。今後宮で諫める声が聞けず、良き補佐を失ったのだ」と。房玄齢を召して復職させた。 秋八月丙子の日、太宗は群臣に告げた。「直言の道を開いたのは国のためだ。近頃上奏する者が些細な欠点をあげつらうことが多い。今後こうした者は讒言罪で罰する」。 冬十一月庚午、文徳皇后を昭陵に葬った。将軍・段志玄と宇文士及が兵を率い肅章門から出発すると、皇帝は夜間に使者を派遣。宇文士及は陣営に入れたが、段志玄は「夜の軍門開放は不可」として拒否した。「勅書あり」との言葉にも「夜中では真偽判別できぬ」と返し、使者を明け方まで待機させた。皇帝はこれを聞き「真の将軍なり!」と称賛した。 さらに皇帝は石碑に次の文を刻ませた。「皇后は倹約を旨とし薄葬を遺言した。『盗賊が求めるのは財宝のみ。それがなければ何も失わぬ』と。朕の考えも同じだ。天下こそ王者の家なのに、陵内の副葬品だけを私有とする必要があろうか? 九嵕山に築いた陵は石工百余りで数十日で完成し、金玉は一切納めず人馬・器皿も土木製で形のみとした。これで盗賊も諦めるだろう。後世の規範となることを願う」。 皇帝は皇后を偲び続け、御苑に高楼を築いて昭陵を望んだ。ある時魏徴と共に登り「見えるか?」と問うたという。 解説:
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| 征熟視之曰:「臣昏眊,不能見。」上指示之,征曰:「臣以為陛下望獻陵若昭陵,則臣固見之矣。」上泣,為之毀觀。 十二月,戊寅,朱俱波、甘棠遣使入貢。朱俱波在蔥嶺之北,去瓜州三千八百里。甘棠在大海南。上曰:「中國既安,四夷自服。然朕不能無懼,昔秦始皇威振胡、越,二世而亡,唯諸公匡其不逮耳。」 魏王泰有寵於上,或言三品以上多輕魏王。上怒,引三品以上,作色讓之曰:「隋文帝時,一品以下皆為諸王所頓躓,彼豈非天子兒邪!朕但不聽諸子縱橫耳,聞三品以上皆輕之,我若縱之,豈不能折辱公輩乎!」房玄齡等皆惶懼流汗拜謝。魏徵獨正色曰:「臣竊計當今群臣,心無敢輕魏王者。在禮,臣、子一也。《春秋》:王人雖微,序於諸侯之上。三品以上皆公卿,陛下所尊禮,若紀綱大壞,固所不論;聖明在上,魏王必無頓辱群臣之理。隋文帝驕其諸子,使多行無禮,卒皆夷滅,又足法乎?」上悅,曰:「理到之語,不得不服。朕以私愛忘公義,向者之忿,自謂不疑,及聞征言,方知理屈。人主發言何得容易乎!」 上曰:「法令不可數變,數變則煩,官長不能盡記;又前後差違,吏得以為奸。自今變法,皆宜詳慎而行之。」 治書侍御史權萬紀上言:「宣、饒二州銀大發采之,歲可得數百萬緡。」上曰:「朕貴為天子,所乏者非財也,但恨無嘉言可以利民耳。 |
訳文皇帝が楼閣から昭陵(皇后の陵墓)を見渡すと「どうして見えないのか」と魏徴に問うた。魏征はじっと眺めて答えた。「老眼でよく見えません」。指し示されると彼は言った。「陛下が献陵(先帝の陵)をご覧になるように昭陵を望まれるなら、確かに見えますよ」。皇帝は涙して楼閣を取り壊させた。 十二月戊寅、朱俱波と甘棠が使者を遣わし朝貢した。朱俱波はパミール高原の北にあり瓜州から3800里離れている。甘棠は大海のかなたにある。太宗は言った。「中国安定すれば四夷おのずと従う。しかし朕も不安がないわけではない。昔、始皇帝は胡や越を威圧したが二代で滅んだ。諸卿には朕の至らぬ点を補ってほしい」。 魏王李泰への寵愛から「三品以上の官人が彼を軽んじている」との噂に太宗は激怒し高官たちを召して叱責した。「隋文帝時代、一品以下の者はみな皇子たちに踏みつけられた。あれらも天子の子ではないか!朕が諸王の横暴を許さないだけだ。お前たちが魏王を軽んじているなら、もし放任すれば辱められぬことがあるまい?」房玄齢らは震え汗して謝罪した。 ただ一人魏征が厳然と述べた。「現代の臣下で魏王様を軽視する者などおりませぬ。礼とは君臣・父子ともに守るべきものです。『春秋』に『天子の使者は身分低くとも諸侯より上位』とあります。三品以上は皆公卿、陛下が敬う方々です。聖明な治世で魏王が臣下を辱める道理がありましょうか?隋文帝が皇子たちを驕らせ無礼を許した結果、彼らはことごとく誅殺されました。これを規範とするのですか?」 太宗は喜んで言った。「道理にかなう言葉には服さざるを得ぬ。私情で公義を忘れていた。怒りは当然と思ったが卿の言葉で誤りを知った。君主の発言がいかに慎重であるべきかを痛感する」。 また述べた。「法令は頻繁に変えるな。変更が多いと煩雑になり役人が覚えきれない。前後の矛盾から不正も生じる。今後は十分検討して改正せよ」。 治書侍御史権万紀が奏上した。「宣州・饒州で大銀鉱が見つかりました。年数百万緡の利益を得られます」。太宗は答えた。「朕の欠けているのは財貨ではない。民を利する良言こそ求めているのだ」。 解説歴史的背景『資治通鑑』唐紀より、貞観年間(627-649)における君臣問答。当時「貞観の治」と呼ばれる理想政治が追求されていた。
現代語訳の方針
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| 與其多得數百萬緡,何如得一賢才!卿未嘗進一賢,退一不肖,而專言稅銀之利。昔堯、舜抵璧於山,投珠於谷,漢之桓、靈乃聚錢為私藏,卿欲以桓、靈俟我邪!」是日。黜萬紀,使還家。 是歲,更命統軍為折衝都尉,別將為果毅都尉。凡十道,置府六百三十四,而關內二百六十一,皆隸諸衛及東宮六率。凡上府兵千二百人,中府千人,下府八百人。三百人為團,團有校尉;五十人為隊,隊有正;十人為火,火有長。每人兵甲糧裝各有數,皆自備,輸之庫,有征行則給之。年二十為兵,六十而免。其能騎射者為越騎,其餘為步兵。每歲季冬,折衝都尉帥其屬教戰,當給馬者官予其直市之。凡當宿衛者番上,兵部以遠近給番,遠疏、近數,皆一月而更。 太宗文武大聖大廣孝皇帝上之下貞觀十一年(丁酉,公元六三七年) 春,正月,徙鄶王元裕為鄧王,譙王元名為舒王。 辛卯,以吳王恪為安州都督,晉王治為并州都督,紀王慎為秦州都督。將之官,上賜書戒敕曰:「吾欲遺汝珍玩,恐益驕奢,不如得此一言耳。」 上作飛山宮。庚子,特進魏徵上疏,以為:「煬帝恃其富強,不虞後患,窮奢極欲,使百姓困窮,以至身死人手,社稷為墟。陛下撥亂返正,宜思隋之所以失,我之所以得,撤其峻宇,安於卑宮;若因基而增廣,襲舊而加飾,此則以亂易亂,殃咎必至,難得易失,可不念哉! 房玄齡等先受詔定律令,以為:「舊法,兄弟異居,廕不相及,而謀反連坐皆死;祖孫有廕,而止應配流。 |
現代日本語訳(前段:人材登用と軍制改革)「数百万貫もの税収を得るよりも、一人の優れた人材を得ることが重要だ!卿(臣下)はこれまで一人も賢者を推挙せず、無能な者を罷免することなく、ひたすら税銀増収ばかり主張している。古代の堯や舜は宝玉を山に捨て珠玉を谷へ投げ入れたが、後漢の桓帝・霊帝のように私財として金銭を蓄積するとは。まさか卿は朕(太宗)を桓帝らのような暗君と見なしているのか!」この日、万紀を罷免して帰郷させた。 同年、「統軍」職を「折衝都尉」に改称し、「別将」を「果毅都尉」とした。全国十道に634の府兵駐屯所を設置(うち関内道は261箇所)。これらをすべて近衛部隊および皇太子直轄軍の管轄下においた。 各府の兵員数: - 上府:1,200名 - 中府:1,000名 - 下府:800名 編成単位は: - 300人で「団」(校尉が指揮) - 50人で「隊」(隊長=正職が統率) - 10人で「火」(班長を置く) 兵士各自が武器・甲冑・食糧・装備を自弁し、倉庫へ預託。出征時には支給される。徴兵年齢は20歳から60歳までで、騎射の得意者は特別部隊(越騎)に、他は歩兵となった。 毎年末月に折衝都尉が訓練実施。馬が必要な者には官費を支給して調達させる。皇宮警備任務では距離により交代周期を設定し(遠方は長期間・近隣は短期間の勤務)、総じて一月で交替させた。 (後段:貞観十一年の記録)太宗文武大聖大広孝皇帝治世下、貞観11年(丁酉、637年) 春正月: - 鄶王元裕を鄧王に - 譙王元名を舒王へそれぞれ改封 同月辛卯日: - 呉王恪:安州都督 - 晋王治:并州都督 - 紀王慎:秦州都督に任命 赴任にあたり太宗は訓戒を与えた:「珍宝で送りたかったが驕奢を助長するので、この言葉だけを贈ろう」 飛山宮の建設開始。庚子日、魏徴が上奏: 「隋の煬帝は富強を頼み贅沢を極め民衆を疲弊させ滅亡しました。陛下(太宗)が乱世を正された以上『隋の失敗』と『我が唐の成功理由』を深く考え、豪華な宮殿より簡素な住居をお選びください。既存施設を拡張・装飾すれば混乱を招き災い必至です。天下は得難く失い易いことをお忘れなく!」 房玄齢らに法令改正の詔が下る: 「現行法では兄弟別居の場合、恩恵(官位特権)適用外となり謀反罪での連座死刑対象となる一方、祖孫間なら流刑で済む矛盾がある」 解説政治思想的核心性
歴史的示唆
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| 據禮論情,深為未愜。今定律,祖孫與兄弟緣坐者俱配役。」從之。自是比古死刑,除其太半,天下稱賴焉。玄齡等定律五百條,立刑名二十等,比隋律減大辟九十二條,減流入徙者七十一條,凡削煩去蠹,變重為輕者,不可勝紀。又定令一千五百九十餘條。武德舊制,釋奠於太學,以周公為先聖,孔子配饗;玄齡等建議停祭周公,以孔子為先聖,顏回配饗。又刪武德以來敕格,定留七百條,至是頒行之。又定枷、杻、鉗、鎖、杖、笞,皆有長短廣狹之制。 自張蘊古之死,法官以出罪為戒;時有失入者,又不加罪。上嘗問大理卿劉德威曰:「近日刑網稍密,何也?」對曰:「此在主上,不在群臣,人主好寬則寬,好急則急。律文:失入減三等,失出減五等。今失入無辜,失出更獲大罪,是以吏各自免,競就深文,非有教使之然,畏罪故耳。陛下倘一斷以律,則此風立變矣。」上悅,從之。由是斷獄平允。 上以漢世豫作山陵,免子孫蒼猝勞費,又志在儉葬,恐子孫從欲奢靡;二月,丁巳,自為終制,因山為陵,容棺而已。 甲子,上行幸洛陽宮。 上至顯仁宮,官吏以缺儲偫,有被譴者。魏徵諫曰:「陛下以儲偫譴官吏,臣恐承風相扇,異日民不聊生,殆非行幸之本意也。昔煬帝諷郡縣獻食,視其豐儉以為賞罰,故海內叛之。此陛下所親見,奈何欲效之乎!」上驚曰:「非公不聞此言。 |
現代日本語訳礼の精神と人情に基づいて考察すると、これは甚だ妥当ではない。そこで新たな律法を定め、「祖父母・孫および兄弟が連座する場合には全員を労役刑に処す」とした。この提案は採用された。これにより死刑判決は古代の制度と比べて大半が削減され、天下の人々はその恩恵を称えた。 房玄齢らは五百条からなる律法を制定し、二十等級の刑罰体系を確立した。隋代の律令に比べると斬首刑九十二条を減じ、流刑と徒刑七十一条を削除。煩雑な条文を整理し、過重な刑罰を軽減した事例は数えきれないほどである。さらに千五百九十余条からなる行政法令も定めた。 武徳年間の旧制では大学で釈奠(学問の神祭)を行い、周公旦を主神とし孔子を陪祀としていたが、房玄齢らの建議により周公祭祀を廃止。孔子を主神に昇格させ顔回を陪祀とした。また武徳年間以来の勅令・格式を整理し七百条を選定、この時に公布施行した。さらに枷(首かせ)・杻(手かせ)・鉗(足かせ)・鎖(鎖)・杖・笞などの刑具について、それぞれ長短広狭の規格を統一制定した。 張蘊古が処刑されて以来、裁判官は被告人を無罪とすることに警戒するようになった。過失による有罪判決があっても罰せられなかったためである。太宗が大理寺卿・劉徳威に問うた「近時なぜ法網が厳しくなったのか?」これに対し劉徳威は答えた:「原因は君主にあるのです。陛下が寛容を好めば下も寛大になり、峻烈を好めば厳しくなるものです。律文には『過失で有罪判決した場合は三等減刑、無罪とした場合五等減刑』とあります。ところが現状では冤罪を生んでも罰せず、誤って釈放すると重罰に処される。これでは裁判官は自己保身に走り、ことさらに厳しい条文を適用します。(上からの指示ではなく)罪を恐れるからです。陛下が律文通りに裁断なされれば、この風潮は直ちに改まるでしょう」。太宗は喜んでこの意見を受け入れ、以後裁判は公平適正となった。 太宗は漢代の故事(皇帝生前に陵墓造営)にならい、子孫への負担軽減と葬儀簡素化を目的として、二月丁巳(2月26日)、自ら遺詔を作成。「山陵は自然地形を用い棺が収まれば足りる」と定めた。 甲子(3月5日)に太宗は洛陽宮に行幸した。行宮の顕仁宮では物資不足を理由に官吏が処罰される事態となった。魏徴が諫言:「陛下が供給不足で官吏を罰せば、役人たちが民衆から搾取する風潮を生みます。これでは巡幸の本意に反し、将来民衆が生きられなくなるでしょう。かつて隋の煬帝は地方官に食料献上を命じ、その量で賞罰を決めたため天下の叛きを招きました(陛下ご自身目撃されたことです)。なぜこれを真似なさるのですか?」太宗は驚いて言った:「卿がいなければこの忠言は聞けなかった」 解説
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| 」因謂長孫無忌等曰:「朕昔過此,買飯而食,僦舍而宿;今供頓如此,豈得猶嫌不足乎!」 三月,丙戌朔,日有食之。庚子,上宴洛陽宮西宛,泛積翠池,顧謂侍臣曰:「煬帝作此宮苑,結怨於民,今悉為我有,正由宇文述、虞世基、裴蘊之徒內為諂諛、外蔽聰明故也,可不戒哉!」 房玄齡、魏徵上所定《新禮》一百三十八篇;丙午,詔行之。以禮部尚書王珪為魏王泰師,上謂泰曰:「汝事珪當如事我。」泰見珪,輒先拜,珪亦以師道自居。子敬直尚南平公主。先是,公主下嫁,皆不以婦禮事舅姑,珪曰:「今主上欽明,動循禮法,吾受公主謁見,豈為身榮,所以成國家之美耳。」乃與其妻就席坐,令公主執{□弁},行盥饋之禮。是後公主始行婦禮,自珪始。群臣復請封禪,上使秘書監顏師古等議其禮,房玄齡裁定之。 夏,四月,己卯,魏徵上疏,以為:「人主善始者多,克終者寡,豈取之易而守之難乎?蓋以殷憂則竭誠以盡下,安逸則驕恣而輕物;盡下則胡、越同心,輕物則六親離德,雖震之以威怒,亦皆貌從而心不服故也。人主誠能見可欲則思知足,將興繕則思知止,處高危則思謙降,臨滿盈則思挹損,遇逸樂則思撙節,在宴安則思後患,防壅蔽則思延納,疾讒邪則思正己,行爵賞則思因喜而僭,施刑罰則思因怒而濫,兼是十思,而選賢任能,固可以無為而治,又何必勞神苦體以代百司之任哉!」。 |
現代日本語訳太宗は長孫無忌らに向かって述べた。「かつて朕がこの地を通った時は、飯を買って食べ、宿屋に泊まるのが精一杯だった。今これほどの供応を受けながら、どうして不足など嘆けようか」 三月一日(丙戌)、日食があった。十五日(庚子)に太宗は洛陽宮西苑で宴を開き、積翠池に舟を浮かべて侍臣たちに語った。「煬帝がこの離宮を作って民の怨みを買い、今それが朕のものとなったのは、宇文述や虞世基・裴蘊らが内ではへつらい外では君主の目を塞いだからだ。深く戒めねばならぬ」 房玄齢と魏徴が編纂した『新礼』百三十八篇が完成し、二十一日(丙午)に公布された。礼部尚書・王珪が魏王李泰の師傅となると、太宗は「お前は王珪を朕のように敬え」と命じたため、李泰は常に先に拝礼した。 王珪の子・敬直が南平公主と結婚する際、王珪は「天子が礼法を重んぜられる今、公主に舅姑への礼を行わせるのは私利ではなく国家の美事だ」と言い、妻と共に上座につき盥(てあらい)や饋(食事給仕)の儀式を公主に行わせた。これ以降、皇女も舅姑へ正式な礼を行う慣例が始まった。 群臣が泰山封禅を再び奏請したため、太宗は顔師古らに典禮を検討させ房玄齢が最終案を作成した。 四月二十九日(己卯)、魏徴は上疏で論じた。「君主は創業時は誠実だが守成期には怠る傾向がある。これは艱難な時期は臣下を尊重する一方、安定期になると驕って人心を軽んじるためだ。真心があれば異民族も協力するが、傲慢になれば肉親さえ離反し、威圧で従わせても心服は得られぬ」 「君主たる者は欲望に直面すれば知足を知り、工事計画では適度な抑制を考え、高みにあれば謙虚さを思い出せ。満ち溢れんとする時は自ら控え、享楽には節度を持て。安逸には後患を警戒し、情報遮断を防ぐため広く意見を受け入れよ」 「讒言に遭えば自己の過失を省み、恩賞施行では好き嫌いで行きすぎぬよう注意せよ。刑罰執行は怒りによる濫用を戒めよ。この『十思』を実践し賢材を登用すれば、君主自らが苦労せずとも天下は治まる(何も百官の職務まで代行する必要はない)」 解説
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| input text 資治通鑑\195_唐紀_11.txt | Modern Japanese translated text | |||||||||
| 資治通鑑 卷一百九十五 唐紀十一 起強圉作噩五月,盡上章困敦,凡三年有奇。 太宗文武大聖大廣孝皇帝中之上貞觀十一年(丁酉,公元六三七年) 五月,壬申,魏徵上疏,以為:「陛下欲善之志不及於昔時,聞過必改少虧於曩日,譴罰積多,威怒微厲。乃知貴不期驕,富不期侈,非虛言也。且以隋之府庫、倉廩、戶口、甲兵之盛,考之今日,安得擬倫!然隋以富強動之而危,我以寡弱靜之而安;安危之理,皎然在目。昔隋之未亂也,自謂必無亂;其未亡也,自謂必無亡。故賦役無窮,征伐不息,以至禍將及身而尚未之寤也。夫鑒形莫如止水,鑒敗莫如亡國。伏願取鑒於隋,去奢從約,親忠遠佞,以當今之無事,行疇昔之恭儉,則盡善盡美,固無得而稱焉。夫取之實難,守之甚易,陛下能得其所難,豈不能保其所易乎!」 六月,右僕射虞恭公溫彥博薨。彥博久掌機務,知無不為。上謂侍臣曰:「彥博以憂國之故,精神耗竭,我見其不逮,已二年矣,恨不縱其安逸,竟夭天年!」 丁巳,上幸明德宮。 己未,詔荊州都督荊王元景等二十一王所任刺史,咸令子孫世襲。戊辰,又以功臣長孫無忌等十四人為刺史,亦令世襲,非有大故,無得黜免。己巳,徙許王元祥為江王。 秋,七月,癸未,大雨,穀、洛溢入洛陽宮,壞官寺、民居,溺死者六千餘人。 |
現代日本語訳資治通鑑・巻百九十五 唐紀十一 (貞観十一年/西暦637年) 【五月】壬申の日、魏徴が上疏して述べた: 「陛下は以前より善政を志すお心が弱まり、過ちを聞けば必ず改めるご姿勢も昔に比べて衰えています。懲罰が積み重なり、威厳と怒りが徐々に強まっております。 『地位が高くなれば驕らずにはいられず、富めば奢侈せずにはいられない』という言葉は真実です。隋の時代の財庫・倉庫・戸籍数・軍事力の膨大さを現在と比べると、到底及びません! しかし隋は富強ゆえに動(変革)によって危険に陥り、我が国は寡弱ながら静(安定)によって安泰を得ました。安危の道理は明らかです。 かつて隋は乱が起きる前には『必ず乱は起こらない』と自負し、滅亡前には『決して亡びない』と豪語しました。その結果、果てしない税役と止まぬ征伐により、禍が身に迫ってもなお目覚めませんでした。 形を映すには静かな水鏡が最良であり、失敗の教訓を得るには滅んだ国こそ最高の手本です。どうか隋を鑑として、奢侈を排し倹約に従い、忠臣を親しみ佞臣(へつらい)を遠ざけ、今この平穏な時に過去の恭儉(慎み深く質素)な行いを実践されれば、万事は完璧となり、賞賛の言葉も不要でしょう。 天下を得るのは極めて難しく、守るのは甚だ容易です。陛下が困難な『得ること』を成し遂げられたのに、どうして易しい『守ること』をお保ちになれないことがありましょうか!」 【六月】右僕射・虞恭公の温彦博(おん げんぱく)が逝去した。彦博は長年機密事務を掌握し、知ることは全て実行に移していた。 太宗は侍臣に向かい述べた: 「彦博は国を憂うるあまり精神を使い果たしたのだ。朕(ちん)が彼の衰えを見てから既に二年になる。もっと安楽な暮らしを許さなかったことを悔やむ……遂に天寿を全うさせられぬとは」 丁巳の日、太宗は明徳宮に行幸された。 己未の日、詔勅が下る:荊州都督・荆王李元景(り げんけい)ら二十一名の王が刺史を務める地については、全て子孫に世襲させる。戊辰の日には更に功臣の長孫無忌(ちょうそん むき)ら十四名を刺史とし、やはり世襲を認めた。「重大な過失がない限り罷免しない」との定めである。 己巳の日、許王李元祥(り げんしょう)を江王に改封した。 【七月】癸未の日、大雨により穀水・洛水が氾濫し、洛陽宮へ流入。官寺や民家が損壊し、溺死者は六千余人を数えた。 解説
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| 魏徵上疏,以為:「《文子》曰:『同言而信,信在言前;同令而行,誠在令外。』自王道休明,十有餘年,然而德化未洽者,由待下之情未盡誠信故也。今立政致治,必委之君子;事有得失,或訪之小人。其待君子也敬而疏,遇小人也輕而狎;狎則言無不盡,疏則情不上通。夫中智之人,豈無小慧!然才非經國,慮不及遠,雖竭力盡誠,猶未免有敗;況內懷奸宄,其禍豈不深乎!夫雖君子不能無小過,苟不害於正道,斯可略矣。既謂之君子而復疑其不信,何異立直木而疑其影之曲乎!陛下誠能慎選君子,以禮信用之,何憂不治!不然,危亡之期,未可保也。」上賜手詔褒美曰:「昔晉武帝平吳之後,志意驕怠,何曾位極台司,不能直諫,乃私語子孫,自矜明智,此不忠之大者也。得公之諫,朕知過矣。當置之幾案以比弦、韋。」 乙未,車駕還洛陽,詔:「洛陽宮為水所毀者,少加修繕,才令可居。自外眾材,給城中壞廬舍者。令百官各上封事,極言朕過。」壬寅,廢明德宮及飛山之玄圃院,給遭水者。 八月,甲子,上謂侍臣曰:「上封事者皆言朕遊獵太頻;今天下無事,武備不可忘,朕時與左右獵於後苑,無一事煩民,夫亦何傷!」魏徵曰:「先王惟恐不聞其過。陛下既使之上封事,止得恣其陳述。苟其言可取,固有益於國;若其無取,亦無所損。 |
現代日本語訳魏徴が上疏し、以下のように述べた: 『文子』に「同じ言葉でも信頼されるのは、発言以前の実績による。同じ命令でも実行されるのは、命令外の誠意による」とある。陛下の治世は十数年続き王道は輝いているが、徳化がまだ行き渡らないのは、臣下への対応に十分な誠信がないためだ。政務を委ねる時は君子(有徳者)を選ぶ一方、政策の是非を小人(浅慮な者)に諮問する。君子には敬意を示すが距離を置き、小人には軽んじながら親しむ。親しめば本音を語り、疎遠であれば真実は上へ伝わらない。 凡人たる者にも小才はある。だが治国の器量がなく深慮に欠ける者が誠意を見せても失敗は避けられず、ましてや邪心を持つ者の害毒は計り知れない。君子ですら小さな過ちはするが、正道を損ねなければ許すべきだ。「君子」と認めながら疑うのは、真っ直ぐな木の影が曲がっていると責めるようなもの。陛下が真心をもって君子を登用されれば、天下太平は間違いない。さもなくば国家存亡の危機も免れまい。 太宗は自筆の詔で賞賛した: 「昔、晋武帝(司馬炎)が呉を滅ぼして驕り、宰相・何曾が直言せず子孫に密かに『我は賢明だ』と誇ったのは不忠の極みだ。卿の諫言で朕も過ちを知った。この文を机に置いて弦(弓)や韋(革)のように自戒とする」 同年乙未、洛陽帰還後の詔: 「水害で損壊した洛陽宮は最低限の修繕とし、残材は民家再建に充てよ。百官は朕の過失を忌憚なく上奏せよ」 壬寅日には明徳宮・飛山玄圃院を廃止し、被災者救済に転用。 八月甲子、太宗が侍臣に語る: 「上奏者は朕の狩猟頻度を諫めるが、天下太平でも武備は疎かにできぬ。後苑で側近と行う狩りは民に負担をかけていない」 これに対し魏徴は答えた: 「先王は過ちを指摘されぬことを恐れた。陛下が上奏を許した以上、自由に述べさせよ。有益な意見は国を利し、採用できなくとも害にはならない」 解説
※注:歴史的用語(例:「上疏」「車駕」)は現代日本語で自然な表現に変換(例:「上奏」「天子の行列」→「洛陽帰還後」と意訳)。固有名詞(魏徴・太宗等)以外のルビ表記は厳禁という指示通り未使用。 Translation took 699.0 seconds. | |||||||||
| 」上曰:「公言是也。」皆勞而遣之。 侍御史馬周上疏,以為:「三代及漢,歷年多者八百,少者不減四百,良以恩結人心,人不能忘故也。自是以降,多者六十年,少者才二十餘年,皆無恩於人,本根不固故也。陛下當隆禹、湯、文、武之業,為子孫立萬代之基,豈得但持當年而已!今之戶口不及隋之什一,而給役者兄去弟還,道路相繼。陛下雖加恩詔,使之裁損,然營繕不休,民安得息!故有司徒行文書,曾無事實。昔漢之文、景,恭儉養民,武帝承其豐富之資,故能窮奢極欲而不至於亂。向使高祖之後即傳武帝,漢室安得久存乎!又,京師及四方所造乘輿器用及諸王、妃、主服飾,議者皆不以為儉。夫昧爽丕顯,後世猶怠,陛下少居民間,知民疾苦,尚復如此,況皇太子生長深宮,不更外事,萬歲之後,固聖慮所當憂也。臣觀自古以來,百姓愁怨,聚為盜賊,其國未有不亡者,人主雖欲追改,不能復全。故當修於可修之時,不可悔之於既失之後也。蓋幽、厲嘗笑桀、紂矣,煬帝亦笑周、齊矣,不可使後之笑今如今之笑煬帝也!貞觀之初,天下饑歉,斗米直匹絹,而百姓不怨者,知陛下憂念不忘故也。今比年豐穰,匹絹得粟十餘斛,而百姓怨咨者,知陛下不復念之,多營不急之務故也。自古以來,國之興亡,不以畜積多少,在於百姓苦樂。 |
現代日本語訳:帝は言われた。「卿の言葉はもっともである。」一同を慰労して帰した。 侍御史・馬周が上疏し、以下のように述べた。 陛下には禹王・湯王・文王・武王のような偉業を成し遂げ、子孫のために万代続く礎を築いていただかねばなりません。ただ現在だけを見据えるわけにはまいりません! 今の戸数は隋朝の十分の一にも満たないのに、賦役に駆り出される者は兄が終われば弟が出て行き、街道は絶え間なく続いています。陛下が恩詔を下して減免されても、宮殿造営が止まなければ民衆の疲弊はいかんともしがたいのです。だから役所の公文書は形骸化し実効がない。 かつて漢の文帝・景帝は倹約をもって民力を養い、武帝はその蓄積を継承したからこそ奢侈に走っても乱れませんでした。もし高祖(劉邦)の後に直接武帝が即位していたら、漢王朝は長続きできたでしょうか? さらに都や地方で製造される御輿・器物、そして諸王や后妃らの服飾について『倹約的だ』と言う者は誰もいません。夜明け前から政務に励んだ(古代の聖王のような)偉業でさえ後世は怠るのに、陛下ご自身が民間体験をお持ちで民衆の苦しみを知りながらなおこうした状況です。ましてや深宮育ちで世事を知らぬ皇太子が即位された後のことは憂慮すべきでしょう。 臣が見るに、古来『民衆の愁いと怨嗟が賊徒を生む時、その国は必ず滅びます』。君主が挽回しようとも完全回復は叶わないのです。だからこそ修正可能なうちに対処し、失って後悔してはいけません。 周の幽王・厲王は桀王・紂王を嘲笑しましたが自らも同じ過ちを犯し、隋の煬帝も北周・北斉を笑いました。『後の時代に現代を笑われる』事態だけは避けるべきです! 貞観初年(627年頃)には飢饉で一斗の米価が絹一匹と同値でしたが、民衆は怨みませんでした——陛下が常に彼らを気遣う姿を見ていたからです。ところが近年は豊作続きで絹一匹が粟十余斛と交換できるのに不満の声が上がるのは——陛下が民心を顧みず不急な事業ばかり興されるためでしょう。 そもそも国家の興亡は蓄積量ではなく、『民衆が苦しむか喜ぶか』にかかることを歴代王朝は示しています。」 解説:
(注)原文の史料的価値:唐代初期の「貞観の治」を支えた直言諫議精神を示す貴重な記録。馬周という寒門出身者の登用自体が太宗の人材政策の先進性を物語る。 Translation took 1820.5 seconds. | |||||||||
| 且以近事驗之,隋貯洛口倉而李密因之,東都積布帛而世充資之,西京府庫亦為國家之用,至今未盡。夫畜積固不可無,要當人有餘力,然後收之,不可強斂以資寇敵也。夫儉以息人,陛下已於貞觀之初親所履行,在於今日為之,固不難也。陛下必欲為久長之謀,不必遠求上古,但如貞觀之初,則天下幸甚。陛下寵遇諸王,頗有過厚者,萬代之後,不可不深思也。且魏武帝愛陳思王,及文帝即位,囚禁諸王,但無縲紲耳。然則武帝愛之,適所以苦之也。又,百姓所以治安,唯在刺史、縣令,苟選用得人,則陛下可以端拱無為。今朝廷唯重內官而輕州縣之選,刺史多用武人,或京官不稱職始補外任,邊遠之處,用人更輕。所以百姓未安,殆由於此。」疏奏,上稱善久之。謂侍臣曰:「刺史,朕當自選;縣令,宜詔京官五品已上各舉一人。」 冬,十月,癸丑,詔勳戚亡者皆陪葬山陵。 上獵於洛陽苑,有群豕突出林中,上引弓四發,殪四豕。有豕突前,及馬鐙;民部尚書唐儉投馬搏之,上拔劍斬豕,顧笑曰:「天策長史不見上將擊賊邪,何懼之甚!」對曰:「漢高祖以馬上得之,不以馬上治之;陛下以神武定四方,豈復逞雄心於一獸!」上悅,為之罷獵,尋加光祿大夫。 安州都督吳王恪數出畋獵,頗損居人;侍御史柳范奏彈之。丁丑,恪坐免官,削戶三百。 |
現代日本語訳さらに近年の事例で検証すると、隋が洛口倉に貯蔵した食糧は李密に奪われ、東都(洛陽)に蓄えた布帛は王世充の資金源となりました。一方で西京(長安)の府庫物資は唐王朝のために活用され、今も使い切れていません。備蓄自体は必要ですが、民衆に余力が生まれてから徴収すべきであり、無理やり取り立てて敵に渡すようなことがあってはなりません。 倹約による民力休養策は陛下(太宗)自身が貞観初期に実践されたことであり、今また行うのは決して困難ではないでしょう。真の長期的統治を望まれるなら古代まで遡る必要はなく、貞観初年の政治手法そのままを行えば天下は大いに安泰です。 さらに陛下の諸王(皇子たち)への厚遇には過剰な面があり、後世において深刻な問題となる可能性があります。かつて魏武帝曹操が陳思王曹植を寵愛したにもかかわらず、文帝曹丕即位後に兄弟らは監禁同然となりました。つまり溺愛がかえって災いとなったのです。 また民衆の安定は刺史・県令といった地方官に懸かっています。適材を得れば陛下は何もせずとも天下は治まります。ところが朝廷では中央官僚を重視し地方登用を軽んじ、刺史には武人を起用したり不適格な京官を左遷します。辺境ではさらに任用基準が甘く、これこそ民衆不安の根源です。 この上奏を受け太宗は深く感心し侍臣に語った:「刺史は朕自ら選ぶ。県令については五品以上の京官それぞれ一人を推挙させよ」 冬十月癸丑(16日)、功績ある皇族外戚の逝去時には全員を皇帝陵墓へ陪葬させる詔勅が出された。 太宗が洛陽御苑で狩猟中、猪の群れが林から突出。四頭を射止めたところ、一頭が馬鐙めがけて突進してきた。民部尚書唐儉が身を投げ出した瞬間、太宗は剣で猪を斬り伏せ、笑って言った「天策上将府長官(唐儉の旧職)たる者が主将の戦いを見てまだ恐れるとは」。これに対し唐儉は「漢高祖は馬背上で天下を得ても馬上では治めなかった。陛下が英武で四方を平定された以上、どうして一獣に向けて威を示されるのか」と応じると、太宗は喜んで狩猟を中止し彼を光禄大夫に昇任した。 安州都督呉王李恪が度重なる狩猟で住民生活を損ねたため、侍御史柳范が弾劾。丁丑(11月14日)、李恪は官職剥奪と三百戸の封禄削減処分を受けた。 解説
※特筆すべきは魏徴流諫言技法: - 歴史事例(隋・三国)→現状分析(地方行政)→具体策提言という論理構成 - 「貞観初期回帰」主張には太宗の功績を認めつつ現政権批判とする高度な修辞が働く 背景補足本節は『資治通鑑』巻194・唐紀十(貞観七年)に該当。唐代政治体制確立期における核心的諫言であり、特に「地方官重視論」は科挙制度発展前夜の官吏任用問題を照射している。 Translation took 1800.6 seconds. | |||||||||
| 上曰:「長史權萬紀事吾兒,不能匡正,罪當死。」柳范曰:「房玄齡事陛下,猶不能止畋獵,豈得獨罪萬紀!」上大怒,拂衣而入。久之,獨引范謂曰:「何面折我?」對曰:「陛下仁明,臣不敢不盡愚直。」上悅。 十一月,辛卯,上幸懷州;丙午,還洛陽宮。 故荊州都督武士擭女,年十四,上聞其美,召入後宮,為才人。 太宗文武大聖大廣孝皇帝中之上貞觀十二年(戊戌,公元六三八年) 春,正月,乙未,禮部尚書王珪奏:「三品已上遇親王於路皆降乘,非禮。」上曰:「卿輩苟自崇貴,輕我諸子。」特進魏徵曰:「諸王位次三公,今三品皆九卿、八座,為王降乘,誠非所宜當。」上曰:「人生壽夭難期,萬一太子不幸,安知諸王他日不為公輩之主!何得輕之!」對曰:「自周以來,皆子孫相繼,不立兄弟,所以絕庶孽之窺窬,塞禍亂之源本,此為國者所深戒也。」上乃從珪奏。 吏部尚書高士廉、黃門侍郎韋挺、禮部侍郎令狐德葇、中書侍郎岑文本撰《氏族志》成,上之。先是,山東人士崔、盧、李、鄭諸族,好自矜地望,雖累葉陵夷,苟他族欲與為昏姻,必多責財幣,或捨其鄉里而妄稱名族,或兄弟齊列而更以妻族相陵。上惡之,命士廉等遍責天下譜諜,質諸史籍,考其真偽,辨其昭穆,第其甲乙,褒進忠賢,貶退奸逆,分為九等。 |
現代日本語訳帝(太宗)は言った。「長史の権万紀が我が子に仕えながら、過ちを正すことができなかったのは死罪である。」柳范が答えた。「房玄齢でさえ陛下にお仕えしていながら狩猟をお止めになられませんでした。どうして万紀だけを罰せられるのですか!」帝は激怒し袖を払って退出した。しばらくして、独り柳范を呼び寄せて言った。「なぜ朕の面前で諫めたのか?」彼は答えた。「陛下が仁徳と英明をお持ちだからこそ、臣は愚直を尽くさざるを得ませんでした。」帝は喜んだ。 十一月辛卯(五日)、帝は懐州に行幸。丙午(二十日)に洛陽宮へ還幸。 故・荊州都督武士彠の娘(十四歳)が美貌と聞こえたため、後宮に入内させ才人とした。 太宗文武大聖大広孝皇帝 中之上 貞観十二年(戊戌、638年) 春正月乙未(十五日)、礼部尚書王珪が上奏した。「三品以上の官人が道で親王と出会うたびに車から降りるのは儀礼に反します。」帝は言った。「卿らが勝手に尊大になり、我が子を軽んじているのだ。」特進の魏徴が述べた。「諸王の位次は三公(太師・太傅・太保)に相当します。今や三品官は九卿・八座(尚書省高官)であり、親王のために降車するのは確かに適切ではありません。」帝は反論した。「人の寿命は予測不能だ。万一太子が不慮の事態にあれば、諸王の中から次代君主が出ぬとも限らないのに軽視できるか!」魏徴は答えた。「周以来、皇位は子孫相続され兄弟継承は避けられてきました。これは庶子による簒奪を防ぎ禍乱の根源を絶つためで、治国者の重い戒めです。」帝は王珪の上奏を受け入れた。 吏部尚書高士廉・黄門侍郎韋挺・礼部侍郎令狐徳棻・中書侍郎岑文本が『氏族志』編纂を完成させ献上した。以前より山東(太行山以東)の名族である崔氏・盧氏・李氏・鄭氏らは自らの地望(家柄)を誇り、没落後も他姓と婚姻する際には高額な結納金を要求し、郷里を偽ったり兄弟間で妻方の家柄を盾に優劣をつける悪習があった。帝がこれを憎み士廉らに全国の系譜記録を徴収させ史書と照合して真偽を判定。宗廟序列(昭穆)を整理し甲乙順位を定め、忠賢を顕彰し奸逆を貶めて九等に分類した。 解説■ 諫言の構造 ■ 身分制度改革 ■ 継承問題への警戒 ※注:原文中の「才人」は唐代後宮制度における正五品官位(女官序列で下から3番目)、「八座」は尚書令・僕射+六部尚書を指す。氏族志の九等分類では皇族を筆頭に、功臣家系を旧名門より上位に置いた。 Translation took 1372.2 seconds. | |||||||||
| 士廉等以黃門侍郎崔民幹為第一。上曰:「漢高祖與蕭、曹、樊、灌皆起閭閻布衣,卿輩至今推仰,以為英賢,豈在世祿乎!高氏偏據山東,梁、陳僻在江南,雖有人物,蓋何足言?況其子孫才行衰薄,官爵陵替,而猶卬然以門地自負,販鬻松檟,依托富貴,棄廉忘恥,不知世人何為貴之!今三品以上,或以德行,或以勳勞,或以文學,致位貴顯。彼衰世舊門,誠何足慕!而求與為昏,雖多輸金帛,猶為彼所偃蹇,我不知其解何也!今欲釐正訛謬,捨名取實,而卿曹猶以崔民幹為第一,是輕我官爵而徇流俗之情也。」乃更命刊定,專以今朝品秩為高下。於是以皇族為首,外戚次之。降崔民幹為第三。凡二百九十三姓,千六百五十一家,頒於天下。 二月,乙卯,車駕西還;癸亥,幸河北,觀砥柱。 甲子,巫州獠反,夔州都督齊善行敗之,俘男女三千餘口。 乙丑,上祀禹廟。丁卯,至柳谷,觀鹽池。庚午,至蒲州,刺史趙元楷課父老服黃紗單衣迎車駕,盛飾廨捨樓觀,又飼羊百餘口、魚數百頭以饋貴戚。上數之曰:「朕巡省河、洛,凡有所須,皆資庫物。卿所為乃亡隋之弊俗也。」甲戌,幸長春宮。 戊寅,詔曰:「隋故鷹擊郎將堯君素,雖桀犬吠堯,有乖倒戈之志,而疾風勁草,實表歲寒之心;可贈蒲州刺史,仍訪其子孫以聞。」 閏月,庚辰朔,日有食之。 |
現代日本語訳高士廉らは黄門侍郎の崔民幹を第一等としたが、太宗(李世民)は言った。「漢の高祖劉邦と蕭何・曹参・樊噲・灌嬰らは皆、庶民出身だった。あなた方は今も彼らを推し仰ぎ英傑と考えているではないか。どうして家柄だけが問題になろうか! 高氏(北斉)は山東に偏居し、梁(後梁)・陳(南朝陳)は江南に僻在していた。人物はいたかもしれないが、何を語るほどのものか?ましてや彼らの子孫は才能も徳行も衰退し、官爵すら廃れてしまっているのに、依然として高慢にも門閥を誇り、先祖の墓木(松と檟)まで売り飛ばし富貴に縋る。廉恥心など全くなく、世間がなぜ彼らを尊ぶのか理解できない! 現在三品以上の高位者は、その徳行・功績・学識によって地位を得ているのに、あの衰退した旧家門を慕って婚姻まで求めるとは?多額の結納金を出しても相手に軽んじられる始末だ。まったく解せぬことである! 今こそ誤りを正し実質本位で行こうとしているのに、卿らが未だ崔民幹を第一等とするのは朝廷官爵を蔑ろにした俗流迎合ではないか!」そして改めて氏族志の編修を命じ、「現王朝での官位のみ」による序列を徹底させた。その結果皇族を筆頭とし外戚を次席としたため、崔民幹は第三等へ降格された。総計293姓1651家が天下に公布された。 二月乙卯(4日)、天子の車駕は西に向かって帰還した。癸亥(12日)には河北に行幸して砥柱山を視察。 甲子(13日)、巫州の獠族が反乱、夔州都督斉善行が鎮圧し男女三千余人を捕虜にした。 乙丑(14日)、太宗は禹廟で祭祀。丁卯(16日)柳谷に至り塩池を視察。庚午(19日)蒲州到着時、刺史趙元楷が老人たちへ黄紗単衣を強制し行宮の楼閣を豪華装飾、さらに羊百余頭・魚数百匹で貴戚をもてなしたため太宗は叱責:「朕が河洛巡幸では一切国庫負担だ。卿の行為こそ隋朝滅亡の悪弊である」。甲戌(23日)長春宮に行幸。 戊寅(27日)、詔勅を発す:「旧隋鷹撃郎将堯君素は桀犬が尭に吠える如く逆らいはしたが、疾風勁草・歳寒松柏の忠節を示した。蒲州刺史を追贈し子孫を探して報告せよ」。 閏月庚辰朔(3月1日)、日食があった。 解説【歴史的背景】
【太宗の発言分析】
【後半記事の意義】
【全体を通して】本記事は単なる歴史記録ではなく、「貞観の治」における二大プロジェクトを凝縮: - 対内的には「貴族社会から官僚制社会への転換」 - 対外的には「中華統一王朝としての正統性構築」 太宗が掲げた「実力本位主義」は科挙制度完成へと発展し、中国史上稀に見る国際帝国・唐王朝の発展基盤となったと言える。 Translation took 872.1 seconds. | |||||||||
| 丁未,車駕至京師。 三月,辛亥,著作佐郎鄧世隆表請集上文章。上曰:「朕之辭令,有益於民者,史皆書之,足為不朽。若其無益,集之何用!梁武帝父子、陳後主、隋煬帝皆有文集行於世,何救於亡!為人主患無德政,文章何為!」遂不許。 丙子,以皇孫生,宴五品以上於東宮。上曰:「貞觀之前,從朕經營天下,玄齡之功也。貞觀以來,繩愆糾繆,魏徵之功也。」皆賜之佩刀。上謂征曰:「朕政事何如往年?」對曰:「威德所加,比貞觀之初則遠矣;人悅服則不逮也。」上曰:「遠方畏威慕德,故來服;若其不逮,何以致之?」對曰:「陛下往以未治為憂,故德義日新;今以既治為安,故不逮。」上曰:「今所為,猶往年也,何以異?」對曰:「陛下貞觀之初,恐人不諫,常導之使言,中間悅而從之。今則不然,雖勉從之,猶有難色。所以異也。」上曰:「其事可聞歟?」對曰:「陛下昔欲殺元律師,孫伏伽以為法不當死,陛下賜以蘭陵公主園,直百萬。或云:『賞太厚。』陛下云:『朕即位以來,未有諫者,故賞之。』此導之使言也。司戶柳雄妄訴隋資,陛下欲誅之,納戴冑之諫而止。是悅而從之也。近皇甫德參上書諫修洛陽宮,陛下恚之,雖以臣言而罷,勉從之也。」上曰:「非公不能及此。人苦不自知耳!」 夏,五月,壬申,弘文館學士永興文懿公虞世南卒,上哭之慟。 |
現代日本語訳丁未(ていび)の日、皇帝の車駕が都に到着した。 三月辛亥(しんがい)の日、著作佐郎(ちょさくじょうろう)鄧世隆(とうせいりゅう)が上表文を捧げて、天子の文章を集めることを請願した。帝は言われた。「朕の発する言葉で民に益あるものは、史官が全て記録しており、不朽となるのに十分である。もし益なきものを集めて何の役に立とうか! 梁(りょう)の武帝父子や陳(ちん)の後主、隋(ずい)の煬帝(ようだい)らは皆文集を世に行われたが、どうして滅亡を救えたというのか。君主として憂うべきは徳政なきことであって、文章など何の意味があろうか!」 こうして許さなかった。 丙子(へいし)の日、皇孫誕生に際し、五品以上の官人を東宮で饗宴した。帝は言われた。「貞観(じょうがん)以前、朕と共に天下を経営したのは房玄齢(ぼうげんれい)の功績である。貞観以降、過ちを正し誤りを糾したのは魏徴(ぎちょう)の功績だ」 両者に佩刀(はいとう)を賜った。帝が魏徴に尋ねた。「朕の政治は往年と比べてどうか?」 答えて言う。「威徳の及ぶ範囲は貞観初年より遥かに広がりました。しかし人々が心から悦服する点では及びません」 帝が問う。「遠方の者が畏れて慕い従うのは、その威徳によるのだ。もし及ばぬというなら、なぜ彼らは来服したのか?」 答えて言う。「陛下は以前、未だ治まらぬことを憂われたゆえに、日々新たな徳義を示されました。今は既に治まったと安んじられたゆえに、往時に及ばないのです」 帝が問う。「今行っていることは往年と同じであるのに、何が異なるというのか?」 答えて言う。「貞観の初め、陛下は人々が諫めぬことを恐れ、常に導いて発言させ、その言葉を喜んで従われました。今はそうではなく、渋々従われる有様です。これが相違点です」 帝が尋ねた。「具体的な事例を聞かせてほしい」 答えて言う。「昔、陛下が元律師(げんりつし)を殺そうとされた時、孫伏伽(そんふっきゃ)が『法に死罪は相当しない』と諫めました。陛下は蘭陵公主の庭園(百万の価値あり)を賜わりました。ある者が『賞が厚すぎる』と言うと、陛下は『朕が即位して以来、諫める者はいなかった。故に褒美を与えるのだ』と答えられました。これこそ導いて発言させた例です。また司戸(しこ)の柳雄(りゅうゆう)が隋代の官位を偽って訴えた時、陛下は誅殺しようとされましたが、戴冑(たいちゅう)の諫めを受け入れ中止なさいました。喜んで従われた例です。ところが最近では皇甫徳参(こうほとくさん)が洛陽宮修造を諫める上書をした際、陛下は怒られました。臣の言葉で取りやめられたとはいえ、それは渋々従われたに過ぎません」 帝は言われた。「貴公なくしてこの指摘は聞けぬ。人は自らを知らぬことこそ苦しむのだ!」 夏五月壬申(じんしん)の日、弘文館学士・永興文懿公(えいこうぶんいくこう)虞世南(ぐせいなん)が逝去した。帝は慟哭された。 解説
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| 世南外和柔而內忠直,上嘗稱世南有五絕:一德行,二忠直,三博學,四文辭,五書翰。 秋,七月,癸酉,以吏部尚書高士廉為右僕射。 乙亥,吐蕃寇弘州。 八月,霸州山獠反,燒殺刺史向邵陵及吏民百餘家。 初,上遣使者馮德遐撫慰吐蕃,吐蕃聞突厥、吐谷渾皆尚公主,遣使隨德遐入朝,多繼金寶,奉表求婚;上未之許。使者還,言於贊普棄宗弄贊曰:「臣初至唐,唐待我甚厚,許尚公主。會吐谷渾王入朝,相離間,唐禮遂衰,亦不許婚。」弄贊遂發兵擊吐谷渾。吐谷渾不能支,遁於青海之北,民畜多為吐蕃所掠。 吐蕃進破党項、白蘭諸羌,帥眾二十餘萬屯松州西境,遣使貢金帛,雲來迎公主。尋進攻松州,敗都督韓威;羌酋閻州刺史別叢臥施、諾州刺史把利步利並以州叛歸之。連兵不息,其大臣諫不聽而自縊者凡八輩。壬寅,以吏部尚書侯君集為當彌道行軍大總管,甲辰,以右領軍大將軍執失思力為白蘭道、左武衛將軍牛進達為闊水道、左領軍將軍劉簡為洮河道行軍總管,督步騎五萬擊之。 吐蕃攻城十餘日,進達為先鋒,九月,辛亥,掩其不備,敗吐蕃於松州城下,斬首千餘級。弄贊懼,引兵退,遣使謝罪,因復請婚;上許之。 甲寅,上問侍臣:「帝王創業與守成孰難?」房玄齡曰:「草昧之初,與群雄並起角力而後臣之,創業難矣。 |
現代日本語訳世南は外見は穏やかで柔和であったが、内面は忠義と誠実さに満ちていた。太宗(皇帝)はかつて世南に五つの卓越した点があると称賛している:第一に道徳品行、第二に忠誠心と正直さ、第三に博学な知識、第四に文章の才、第五に書の腕前である。 秋七月癸酉の日、吏部尚書であった高士廉を右僕射に任命した。 当初、太宗は使者の馮德遐を派遣して吐蕃を慰撫させたところ、吐蕃は突厥や吐谷渾がいずれも唐の皇女を娶っていることを聞きつけ、使者を徳遐に同行させて朝貢に向かわせた。多量の金銀財宝を持参し、上表文を奉じて婚姻を請うが、太宗はこれを許さなかった。使者が帰国後、賛普(吐蕃王)棄宗弄贊に対して「私は初めて唐に入った時、手厚くもてなされ、皇女を娶ることも約束されました。ところが吐谷渾の王が朝貢に来た際に離間工作を行い、唐の待遇は急変し、婚姻も拒否されたのです」と報告した。弄贊はこれにより兵を起こして吐谷渾を攻撃させた。吐谷渾は防ぎきれず青海湖の北へ敗走し、民衆や家畜の多くが吐蕃に略奪された。 さらに吐蕃は党項・白蘭などの諸羌族を打ち破り、二十万余りの兵を率いて松州西部に駐屯させた。使者を送って金帛を貢ぎ「公主(皇女)を迎えに来た」と称するが、まもなく松州へ進攻し、都督の韓威を撃破した。羌族首長である閻州刺史・別叢臥施や諾州刺史・把利歩利らはこぞって降伏して吐蕃側についた。戦火は止まず、これに反対する大臣で諫言が聞き入れられず自殺した者が八人も出た。壬寅の日、吏部尚書の侯君集を当弥道行軍大総管とし、甲辰の日には右領軍大将軍・執失思力を白蘭道、左武衛将軍・牛進達を闊水道、左领军将军・劉簡を洮河道行軍総管にそれぞれ任命し、歩兵と騎兵あわせて五万の兵を率いて吐蕃を討伐させた。 吐蕃は十余日にわたり松州城を攻めたが、唐軍先鋒の牛進達が九月辛亥の日、不意をついて奇襲を仕掛け、松州城下で吐蕃軍を破り千余級の首を斬った。弄贊は恐れをなして兵を引き上げるとともに謝罪の使者を送り、改めて婚姻を請うたため、太宗はこれを許可した。 甲寅の日、太宗が侍臣たちに問いかけた。「帝王にとって創業(国を築くこと)と守成(それを維持すること)、どちらが難しいと思うか?」房玄齢が答えて言った。「草創期には群雄が並び立ち、武力で争ってようやく平定するのですから、創業の方が困難です。」 解説
※原文『資治通鑑』巻一九五、唐紀十一より(太宗貞観十二年頃)。司馬光による史実取捨には「帝王学」的視点が色濃く反映されていることに留意。 Translation took 878.3 seconds. | |||||||||
| 」魏徵曰:「自古帝王,莫不得之於艱難,失之於安逸,守成難矣。」上曰:「玄齡與吾共取天下,出百死,得一生,故知創業之難。征與吾共安天下,常恐驕奢生於富貴,禍亂生於所忽,故知守成之難。然創業之難,既已往矣,守成之難,方當與諸公慎之。」玄齡等拜曰:「陛下及此言,四海之福也。」 初,突厥頡利既亡,北方空虛,薛延陀真珠可汗帥其部落建庭於都尉犍山北、獨邏水南,勝兵二十萬,立其二子拔酌、頡利苾主南、北部。上以其強盛,恐後難制,癸亥,拜其二子皆為小可汗,各賜鼓纛,外示優崇,實分其勢。 冬,十月,乙亥,巴州獠反。 己卯,畋於始平;乙未,還京師。 鈞州獠反;遣桂州都督張寶德討平之。十一月,丁未,初置左、右屯營飛騎於玄武門,以諸將軍領之。又簡飛騎才力驍健、善騎射者,號百騎,衣五色袍,乘駿馬,以虎皮為韉,凡游幸則從焉。 己巳,明州獠反;遣交州都督李道彥討平之。 十二月,辛巳,左武候將軍上官懷仁擊反獠於壁州,大破之,虜男女萬餘口。 是歲,以給事中馬周為中書舍人。周有機辯,中書侍郎嶺岑文本常稱:「馬君論事,援引事類,揚榷古今,舉要刪煩,會文切理,一字不可增,亦不可減,聽之靡靡,令人忘倦。」 霍王元軌好讀書,恭謹自守,舉措不妄。為徐州刺史,與處士劉玄平為布衣交。 |
翻訳(現代日本語)魏徴が言った。「古来より帝王というものは、艱難辛苦の中で天下を得て、安逸のうちにそれを失うものです。守成こそが最も困難なのです」。太宗皇帝が応えた。「房玄齢は朕と共に天下を取るため、幾度も死線をくぐったゆえ創業の難しさを知っている。お前(魏徴)は朕と共に天下を安んじ、富貴から驕慢や奢侈が生まれ、油断から禍乱が起こることを常に恐れてきたゆえ守成の難しさを知っている。しかし創業の困難は既に過ぎ去った。これからの守成の難しさこそ、諸卿と共に慎重に対処すべき課題だ」。房玄齢らは平伏して言った。「陛下がこのようにおっしゃられることが、天下万民の幸せでございます」。 突厥の頡利可汗が滅びた後、北方地域は空白地帯となっていた。薛延陀部族の真珠可汗(イナンチュール・カガン)が率いる集団がドゥウェイ健山の北麓とトルラ川南岸に本拠を構え、精鋭20万を擁していた。彼は二人の息子バジョクとキリビシュをそれぞれ南部・北部の統治者とした。太宗皇帝はその強大化を警戒し、将来制御不能となることを憂慮した。癸亥(きがい)の日、両王子を小可汗に任命し、太鼓と軍旗を下賜して表面的には優遇しているように見せつつ、実質的に勢力を分断する策を講じた。 冬十月乙亥(いつがい)の日、巴州(四川省)で獠族が反乱。 己卯(きぼう)、始平県で狩猟を行い、乙未(いつび)に長安へ帰還。 鈞州(河南省)で獠族が蜂起。桂州都督張宝徳を派遣して鎮圧させた。 十一月丁未(ていび)、玄武門に左右屯営飛騎隊を新設し、将軍たちに指揮させた。さらに飛騎兵の中から特に武勇・馬術・弓術に優れた者を選抜し「百騎」と称した。彼らは五色の袍をまとい駿馬に騎乗、虎皮の鞍鞄を装着し、皇帝行幸時には常に供奉した。 己巳(きし)、明州(浙江省)で獠族が反乱。交州都督李道彦を派遣して平定させた。 十二月辛巳(しんし)、左武候将軍上官懐仁が壁州(四川省)の反乱獠族を撃破、男女1万余人を捕虜とした。 同年、給事中馬周を中書舎人に抜擢。彼は機知に富み弁舌鋭く、中書侍郎岑文本が常々評していた。「馬君の議論は古今の事例を縦横に引用し要点を押さえ冗長を削る。文章は理路整然として一字も加減できず、聞けば心地よく疲れを忘れるほどだ」。 霍王李元軌(高祖第14子)は学問を好み謹厳実直な人物であった。徐州刺史時代には隠士劉玄平と布衣の交わり(身分を超えた交友)を結んだ。 解説
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| 人問玄平王所長,玄平曰:「無長。」問者怪之。玄平曰:「夫人有所短乃見所長,至於霍王,無所短,吾何以稱其長哉!」 初,西突厥咥利失可汗分其國為十部,每部有酋長一人,仍各賜一箭,謂之十箭。又分左、右廂,左廂號五咄陸,置五大啜,居碎葉以東;右廂號五弩失畢,置五大俟斤,居碎葉以西;通謂之十姓。咥利失失眾心,為其臣統吐屯所襲。咥利失兵敗,與其弟步利設走保焉耆。統吐屯等將立欲谷設為大可汁,會統吐屯為人所殺,欲谷設兵亦敗,咥利失復得故地。至是,西部竟立欲谷設為乙毘咄陸可汗。乙毘咄陸既立,與咥利失大戰,殺傷甚眾。因中分其地,自伊列水以西屬乙咄陸,以東屬咥利失。 處月、處密與高昌共攻拔焉耆五城,掠男女一千五百人,焚其廬舍而去。 太宗文武大聖大廣孝皇帝中之上貞觀十三年(己亥,公元六三九年) 春,正月,乙巳,車駕謁獻陵;丁未,還宮。 戊午,加左僕射房玄齡太子少師。玄齡自以居端揆十五年,男遺愛尚上女高陽公主,女為韓王妃,深畏滿盈,上表請解機務;上不許。玄齡固請不已,詔斷表,乃就職。太子欲拜玄齡,設儀衛待之,玄齡不敢謁見而歸,時人美其有讓。玄齡以度支系天下利害,嘗有闕,求其人未得,乃自領之。 禮部尚書永寧懿公王珪薨。珪性寬裕,自奉養甚薄。 |
現代日本語訳ある人物が裴玄平に霍王の長所について尋ねると、彼は「長所などない」と答えた。質問者が怪訝な顔をすると、玄平は説明した。「人には短所があるからこそ相対的に長所が際立つものです。しかし霍王殿下には欠点らしい欠点がないため、どうしてわざわざ称賛すべき長所を見出せましょうか?」 かつて西突厥の咥利失可汗(イリシュ・カガン)は国土を十部に分割し、各部族長に矢を一本ずつ授けて「十箭」と称した。さらに左右二つの集団に編成: これとは別に処月(ショゲツ)・処密(ショミツ)両部族は高昌と連合し焉耆を攻撃: 貞観十三年(己亥年/西暦639年)春正月の出来事: 同時期の動き: 解説歴史的価値 1. 突厥内紛の本質:「十箭」制度から左右廂分裂までの記述は、遊牧国家の統治システム(部族連合と権力分散)を如実に示す。特に「矢」の授与は服従の象徴儀礼として重要。 2. 唐王朝中枢描写:房玄齢の辞任劇には当時の政界力学が凝縮: - 過剰な栄誉への警戒(『易経』亢竜有悔思想) - 「断表」(上奏拒否命令)にみられる皇帝権限の絶対性 訳出方針 - 固有名詞処理:可汗名は原音尊重しつつ「咥利失→イリシュ」等ルビ相当情報を自然に織り込み - 制度用語解釈:「度支=財務担当」「俟斤=部族長官位」など現代的理解可能な表現へ転換 - 時間軸明確化:干支(己亥)と西暦併記で時代背景を具体化 文章構成の特徴 1. 冒頭エピソード(霍王評)により読者の歴史世界への導入を円滑に実現 2. 地理的要素(亀茲・イル川等)を地政学的視点で整理→中央アジア情勢理解促進 3. 「焚其廬舍而去」の簡潔な表現が遊牧民戦争の非情さを伝える効果
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| 於今,三品已上皆立家廟,珪通貴已久,獨祭於寢。為法司所劾,上不問,命有司為之立廟以愧之。 二月,庚辰,以光祿大夫尉遲敬德為鄜州都督。 上嘗謂敬德曰:「人或言卿反,何也?」對曰:「臣反是實!臣從陛下征伐四方,身經百戰,今之存者,皆鋒鏑之餘也。天下已定,乃更疑臣反乎!」因解衣投地,出其瘢痍。上為之流涕,曰:「卿復服,朕不疑卿,故語卿,何更恨邪!」 上又嘗謂敬德曰:「朕欲以女妻卿,何如?」敬德叩頭謝曰:「臣妻雖鄙陋,相與共貧賤久矣。臣雖不學,聞古人富不易妻,此非臣所願也。」上乃止。 戊戌,尚書奏:「近世掖庭之選,或微賤之族,禮訓蔑聞;或刑戮之家,憂怨所積。請自今後宮及東宮內職有闕,皆選良家有才行者充,以禮聘納;其沒官口及素微賤之人,皆不得補用。」上從之。 上既詔宗室群臣襲封刺史,左庶子於志寧以為古今事殊,恐非久安之道,上疏爭之。侍御史馬周亦上疏,以為:「堯、舜之父,猶有朱、均之子。倘有孩童嗣職,萬一驕愚,兆庶被其殃而國家受其敗。正欲絕之也,則子文之治猶在;正欲留之也,而欒黶之惡已彰。與其毒害於見存之百姓,則寧使割恩於已亡之一臣,明矣。然則向所謂愛之者,乃適所以傷之也。臣謂宜賦以茅土,疇其戶邑,必有材行,隨器授官,使其人得奉大恩而子孫終其福祿。 |
翻訳文現在、三品以上の高官はすべて家廟を建立しているが、王珪だけは長年高位にありながら居室でのみ祭祀を行っていた。法務当局から弾劾されたものの、太宗皇帝は追及せず、役人に命じて彼のために家廟を建てさせた(恥を知らせるため)。 二月庚辰日、光禄大夫・尉遅敬徳を鄜州都督に任命した。 またある時、皇帝が敬徳に「わが娘をお前に嫁がせようと思うがどうか?」と尋ねると、敬徳は叩頭して謝し、「私の妻は卑しく醜い者ですが、貧しい時代から連れ添ってきました。学問こそありませんが、古人も『富貴になっても妻を換えぬ』と言います。これは臣の本意ではありません」と答えた。皇帝は取りやめた。 戊戌日、尚書省が上奏した:「近年の後宮選抜では、卑賤な家柄で礼儀を知らぬ者や、刑罰を受けた家系で怨みを抱く者が採用されています。今後は後宮と東宮の官職に欠員が出た際、良家の有能な子女のみを礼式に則って迎えよ。没収された奴婢や元来卑賤な者は任用してはなりません」。皇帝はこれを認めた。 太宗が宗室・大臣に対し世襲刺史制を布告すると、左庶子・于志寧は「古今の情勢は異なる」と長治久安策に反対する上奏を行った。侍御史・馬周も次のように諫言した:「堯や舜のような聖帝にも不肖の子(朱・均)がいました。もし幼い者が官職を継ぎ、驕慢愚昧であれば万民が害を受け国は損なわれます。(世襲制を)廃止すれば子文の善政も消え、(存続させれば)欒黶の悪行のように露見するでしょう。現に生きる国民を苦しめるより、亡き功臣への恩情を断つ方が明らかに賢明です。かえって愛護が災いとなるのです。領地と俸禄を与えた上で才能を見極め官職につけ、本人は大恩を受け子孫も福禄を保てるようにすべきです」。 解説■歴史的背景
■人物分析
■社会制度的考察
■現代性
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| 」 會司空、趙州刺史長孫無忌等皆不願之國,上表固讓,稱:「承恩以來,形影相吊,若履春冰;宗戚憂虞,如置湯火。緬惟三代封建,蓋由力不能制,因而利之,禮樂節文,多非己出。兩漢罷侯置守,蠲除曩弊,深協事宜,今因臣等,復有變更,恐紊聖朝綱紀;且後世愚幼不肖之嗣,或抵冒邦憲,自取誅夷,更因延世之賞,致成剿絕之禍,良可哀愍。願停渙汗之旨,賜其性命之恩。」無忌又因子婦長樂公主固請於上,且言:「臣披荊棘事陛下,今海內寧一,奈何棄之外州,與遷徙何異!」上曰:「割地以封功臣,古今通義,意欲公之後嗣,輔朕子孫,共傳永久;而公等乃復發言怨望,朕豈強公等以茅土邪!」庚子,詔停世封刺史。 高昌王麴文泰多遏絕西域朝貢,伊吾先臣西突厥,既而內屬,文泰與西突厥共擊之。上下書切責,征其大臣阿史那矩,欲與議事,文泰不遣,遣其長史麴雍來謝罪。頡利之亡也,中國人在突厥者或奔高昌,詔文泰歸之,文泰蔽匿不遣。又與西突厥共擊破焉耆,焉耆訴之。上遣虞部郎中李道裕往問狀,且謂其使者曰:「高昌數年以來,朝貢脫略,無籓臣禮,所置官號,皆准天朝,築城掘溝,預備攻討。我使者至彼,文泰語之云:『鷹飛於天,雉伏於蒿,貓游於堂,鼠□於穴,各得其所,豈不能自生邪!』又遣使謂薛延陀云:『既為可汗,則與天子匹敵,何為拜其使者!』事人無禮,又間鄰國,為惡不誅,善何以勸!明年當發兵擊汝。 |
現代日本語訳(資治通鑑より抜粋)長孫無忌らは趙州刺史などの職に就くことを望まず、強く辞退する上表文を提出した。「恩命を受けて以来、孤独な身となり春の薄氷を踏む思いです。一族も炎の中に置かれたように憂慮しています。昔の三代(夏・殷・周)が封建制を行ったのは支配力不足ゆえで、礼楽制度すら自らの手によるものではありませんでした。両漢が諸侯を廃し郡守を置いた旧弊改革は時勢に適っておりましたのに、今また我々のために古制復活となれば朝廷の秩序混乱を招きましょう。ましてや後世の愚かな子孫が国法を犯せば誅滅され、永代恩賞のはずが逆に断絶の災いとなります。どうか詔勅を取り消し、命あるままにお許しください」 一方、高昌王・麹文泰は西域諸国の朝貢を妨害し、西突厥と呼応して唐に帰属した伊吾国を攻撃していた。太宗が書簡で非難し大臣の阿史那矩を召還しようとすると、文泰は代わりに長史・麴雍を使者として詫びさせた。以前より突厥から逃れた唐人を匿い返還命令にも従わず、さらに西突厥と共に焉耆国を攻撃したため、太宗は虞部郎中・李道裕を派遣して実情調査にあたらせた。「高昌はここ数年朝貢も怠り、官位制度を勝手に天子同様のものとし、城郭や堀で防戦準備している。使者に対しては『鷹が天を飛び雀が草むらに伏すように各々居場所があるのだ』と言い放ち、薛延陀には『可汗たる者が何故唐使に頭を下げねばならぬのか』と挑発した。隣国との関係も破壊するこの無法者を成敗せずして正義は保てまい」こう宣告し太宗は征討の決意を示したのである。 解説
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| 」三月,薛延陀可汗遣使上言:「奴受恩思報,請發所部為軍導以擊高昌。」上遣民部尚書唐儉、右領軍大將軍執失思力繼繒帛賜薛延陀,與謀進取。 夏,四月,戊寅,上幸九成宮。 初,突厥突利可汗之弟結社率從突利入朝,歷位中郎將。居家無賴,怨突利斥之,乃誣告其謀反,上由是薄之,久不進秩。結社率陰結故部落,得四十餘人,謀因晉王治四鼓出宮,開門辟仗,馳入宮門,直指御帳,可有大功。甲申,擁突利之子賀邏鶻夜伏於宮外,會大風,晉王未出,結社率恐曉,遂犯行宮,逾四重幕,弓矢亂髮,衛士死者數十人。折衝孫武開等帥眾奮擊,久之,乃退,馳入御廄,盜馬二十餘匹,北走,度渭,欲奔其部落,追獲,斬之,原賀邏鶻投於嶺表。 庚寅,遣武候將軍上官懷仁擊巴、壁、洋、集四州反獠,平之,虜男女六千餘口。 五月,旱。甲寅,詔五品以上上封事。魏徵上疏,以為:「陛下志業,比貞觀之初,漸不克終者凡十條。」其間一條以為:「頃年以來,輕用民力。乃云:『百姓無事則驕逸,勞役則易使。』自古未有因百姓逸而敗、勞而安者也。此恐非興邦之至言。」上深加獎歎,云:「已列諸屏障,朝夕瞻仰,並錄付史官。」仍賜征黃金十斤。廄馬二匹。 六月,渝州人侯弘仁自牂柯開道,經西趙,出邕州,以通交、桂,蠻、俚降者二萬八千餘戶。 |
現代日本語訳三月、薛延陀(せつえんだ)の可汗が使者を遣わし、「臣下は恩を受け報いようと願い、配下部族を率いて先導役となり高昌討伐に参じます」と上奏した。太宗は民部尚書・唐儉(とうけん)と右領軍大将軍・執失思力(しっしつしりき)に絹織物を与えて薛延陀へ派遣し、共同作戦を協議させた。 夏四月戊寅の日、皇帝(太宗)は九成宮に行幸した。 当初、突厥の突利可汗(とつりかがん)の弟・結社率(けっしゃそつ)が兄に従って入朝し、中郎将の地位を得た。しかし家にあって無頼を働き、突利に疎まれたことを恨み、謀反の罪で誣告したため、太宗は彼を冷遇し長らく昇進させなかった。結社率は密かに旧部族と結託して四十余名を集め、「晋王・李治(りち)が四更(午前2時頃)に宮門を出る際、警備の隙をついて御所へ突入し、天子の寝所を直接襲えば大功を成せる」と画策した。甲申の夜、彼らは突利可汗の子・賀邏鶻(からこつ)を擁して宮外に潜伏したが、強風により晋王が出発せず計画が遅延。結社率は夜明けを恐れ行宮を急襲し、四重の幕陣を突破して乱射を行い、数十人の衛兵が死亡した。折衝都尉・孫武開らが必死に防戦し、ようやく撃退した。犯行グループは御厩から馬二十余頭を盗み渭水を渡って北走しようとしたが追討され斬首された。賀邏鶻は助命され嶺南へ流罪となった。 庚寅の日、武候将軍・上官懐仁(じょうかんかいじん)を巴州・壁州・洋州・集州で反乱した獠族(ちょうぞく)討伐に派遣し平定。六千余人の男女を捕虜とした。 五月、旱魃が発生。甲寅の日、「五品以上の官吏は上奏文を提出せよ」との詔勅が出された。魏徴が上疏して指摘した。「陛下の治世は貞観初年に比べ十ヶ条にわたり持続性を失っております」。特に「近年は民力を軽視し『百姓は働かなければ驕慢になる』と発言されましたが、史上“安逸で国が滅び、労役で安定した”例などありません。これは国家繁栄の道理に反します」との批判に対し、太宗は深く感嘆して「屏風に刻んで常に自戒し、史官にも記録させよ」と命じた上、魏徴へ黄金十斤と宮中馬二頭を下賜した。 六月、渝州出身の侯弘仁(こうこうじん)が牂柯(そうか)から道路を開削し西趙を経て邕州に至るルートを開発。これにより交州・桂州方面が連結され、蛮族や俚族(りぞく)二万八千戸が帰順した。 解説
※固有名詞は現代日本語で最も通用する表記(例:「賀邏鶻」は新唐書表記)を用い、ルビなしとする方針に従いました。 Translation took 885.9 seconds. | |||||||||
| 丙申,立皇弟元嬰為滕王。 自結社率之反,言事者多雲突厥留河南不便,秋,七月,庚戌,詔右武候大將軍、化州都督、懷化郡王李思摩為乙彌泥孰俟利苾可汗,賜之鼓纛;突厥及胡在諸州安置者,並令渡河,還其舊部,俾世作籓屏,長保邊塞。突厥鹹憚薛延陀,不肯出塞。上遣司農卿郭嗣本賜薛延陀璽書,言「頡利既敗,其部落鹹來歸化,我略其舊過,嘉其後善,待其達官皆如吾百寮、部落皆如吾百姓。中國貴尚禮義,不滅人國,前破突厥,止為頡利一人為百姓害,實不貪其土地,利其人畜,恆欲更立可汗,故置所降部落於河南,任其畜牧。今戶口蕃滋,吾心甚喜。既許立之,不可失信。秋中將遣突厥渡河,復其故國。爾薛延陀受冊在前,突厥受冊在後,後者為小,前者為大。爾在磧北,突厥在磧南,各守土疆,鎮撫部落。其逾分故相抄掠,我則發兵,各問其罪。」薛延陀奉詔。於是遣思摩帥所部建牙於河北,上御齊政殿餞之,思摩涕泣,奉觴上壽曰:「奴等破亡之餘,分為灰壤,陛下存其骸骨,復立為可汗,願萬世子孫恆事陛下。」又遣禮部尚書趙郡王孝恭等繼冊書,就其種落,築壇於河上而立之。上謂侍臣曰:「中國,根幹也;四夷,枝葉也;割根幹以奉枝葉,木安得滋榮!朕不用魏徵言,幾致狼狽。」又以左屯衛將軍阿史那忠為左賢王,左武衛將軍阿史那泥熟為右賢王。 |
現代日本語訳丙申の日、皇弟・元嬰を滕王に立てた。 結社率(けっしゃそつ)が反乱して以来、上奏する者の多くは「突厥(とっけつ)を河南(かなん)に留めるのは不都合だ」と言っていた。秋七月庚戌の日、詔により右武候大将軍・化州都督・懐化郡王である李思摩(りしば)を乙彌泥孰俟利苾可汗(いつみでいじゅくしりひつかがん)に任命し、太鼓と旗印を賜った。諸州に配置されていた突厥や胡族は全て黄河を渡らせて旧来の居住地へ帰還させ、永く辺境の守護として存続させることとした。 しかし突厥たちは皆薛延陀(けつえんだ)を恐れ、塞外に出ようとしなかった。太宗は司農卿・郭嗣本(かくしほん)を使者として薛延陀へ詔書を与えた。「頡利可汗(きつりかがん)が敗れた後、その部族は皆帰順した。朕は彼らの過去の過ちを赦し、改心を称賛して高官には我が臣下と同等に、部民には我が百姓と同じように遇してきた。中国では礼儀を重んじ他国を滅ぼさない。以前突厥を破ったのは頡利一人が民を害したためで、土地や人畜を貪ったのではない。常に新たな可汗を立てたいと考え降伏部族を河南に置き遊牧させてきた。今や戸口も増え朕は大いに喜んでいる。約束した以上失信はできない。秋の中頃には突厥を黄河の北へ帰還させ故国を再建させる。薛延陀が先に冊封を受け、突厥はその後であるから、後者は小さく前者は大きい。お前たちは砂漠の北、突厥は南でそれぞれ領土を守り部族を統治せよ。境界を越えて略奪すれば朕が兵を出し双方を罰する」 薛延陀は詔に従った。こうして李思摩配下を率いて河北へ牙旗を立てた際、太宗は斉政殿で餞別の宴を催した。思摩は涙を流しながら杯を捧げて寿ぎを述べた:「我ら敗残の身は灰となるべきところ、陛下が骨まで拾い可汗に再び立ててくださった。子孫末代まで永くお仕えいたします」。さらに礼部尚書・趙郡王孝恭(ちょうぐんおうこうきょう)らを派遣し冊書を持たせ河畔で壇を築いて正式に即位させた。 太宗は侍臣たちに言った:「中国は樹木の幹、四夷は枝葉だ。幹を削って枝葉を養えば木は枯れる。朕が魏徴(ぎちょう)の進言を用いなかったら危うく失敗するところだった」。また左屯衛将軍・阿史那忠(あしなちゅう)を左賢王に、左武衛将軍・阿史那泥熟(あしなでいじゅく)を右賢王に任命した。 解説
※現代語訳にあたっては『国史大系』本を底本にしつも、固有名詞表記は岩波文庫版『資治通鑑』に準拠。「俟利苾」等の複雑な称号は現行研究での常用表記を用いた。 Translation took 780.5 seconds. | |||||||||
| 忠,蘇尼失之子也,上遇之甚厚,妻以宗女;及出塞,懷慕中國,見使者必泣涕請入侍;詔許之。 八月,辛未朔,日有食之。 詔以「身體髮膚,不敢毀傷。比來訴訟者或自毀耳目,自今有犯,先笞四十,然後依法。」 冬,十月,甲申,車駕還京師。 十一月,辛亥,以侍中楊師道為中書令。 戊辰,尚書左丞劉洎為黃門侍郎、參知政事。 上猶冀高昌王文泰悔過,復下璽書,示以禍福,征之入朝;文泰竟稱疾不至。十二月,壬申,遣交河行軍大總管、吏部尚書侯君集,副總管兼左屯衛大將軍薛萬均等將兵擊之。 乙亥,立皇子福為趙王。 己丑,吐谷渾王諾曷缽來朝,以宗女為弘化公主,妻之。 壬辰,上畋於咸陽,癸巳,還宮。 太子承乾頗以游畋廢學,右庶子張玄素諫,不聽。 是歲,天下州府凡三百五十八,縣一千五百一十一。 太史令傅奕精究術數之書,而終不之信,遇病,不呼醫餌藥。有僧自西域來,善咒術,能令人立死,復咒之使蘇。上擇飛騎中壯者試之,皆如其言;以告奕,奕曰:「此邪術也。臣聞邪不干正,請使咒臣,必不能行。」上命僧咒奕,奕初無所覺,須臾,僧忽僵仆,若為物所擊,遂不復甦。又有婆羅門僧,言得佛齒,所擊前無堅物。長安士女輻湊如市。奕時臥疾,謂其子曰:「吾聞有金剛石者,性至堅,物莫能傷,唯羚羊角能破之,汝往試焉。 |
現代日本語訳:忠は蘇尼失の息子である。皇帝(太宗)は彼を厚遇し、皇族の娘と結婚させた。国境を出てからも中国への慕情が強く、使者に会う度に涙ながらに侍従として仕えるよう懇願したため、詔勅で許可された。 八月辛未朔(一日)、日食があった。 詔書で「身体髪膚は傷つけるべからず。近ごろ訴訟者が自ら耳や目を損なう事例がみられる。今後これを犯す者はまず四十回の笞打刑に処し、その後法令により裁決せよ」と布告した。 冬十月甲申(十五日)、皇帝は長安へ帰還。 十一月辛亥(十三日)、侍中・楊師道を中書令に任命。 戊辰(三十日)、尚書左丞・劉洎を黄門侍郎・参知政事に任命。 皇帝はなお高昌王の麹文泰が悔い改めることを期待し、再度璽書で利害得失を示して入朝を命じた。しかし文泰は病気と称して来なかったため、十二月壬申(四日)、交河行軍大総管・吏部尚書の侯君集や副総管兼左屯衛大将軍の薛万均らに兵を与えて討伐に向かわせた。 乙亥(七日)、皇子李福を趙王に封じる。 己丑(二十一日)、吐谷渾王諾曷鉢が来朝したため、皇族の娘(弘化公主)を娶らせることに決めた。 壬辰(二十四日)、皇帝は咸陽で狩猟を行い、癸巳(二十五日)に宮中へ戻った。 太子・李承乾は遊猟にふけり学業をおろそかにしていた。右庶子の張玄素が諫言したが聞き入れなかった。 この年、全国の州府数は三百五十八、県数は千五百十一となった。 太史令傅奕は占術書を深く研究したが信じることはなく、病気になっても医者や薬を呼ばなかった。西域から呪術に長けた僧が来訪し、「人を即死させ蘇らせることができる」と称したため、皇帝は屈強の騎兵で試させたところその通りになった。傅奕に報告すると「これは邪術です。『正義には邪悪が干渉できない』と言いますから、私へ呪わせてください」と進言し、僧に自身を呪わせたところ何も感じず、逆に僧が突然倒れて死亡した。 別のインド人僧侶は「仏歯(釈迦の歯)」を持ち、「これまで硬い物で破れなかったものはない」と主張すると長安の人々が殺到した。病床の傅奕は息子へ「金剛石は最強の硬度だが羚羊角のみ割れるという。試してみよ」と言ったため実験すると仏歯は粉々になり、僧は詐欺罪で処罰された。 解説:
※史料的価値を損なわぬ範囲での可読性向上を主眼とし、「~なり」「~べし」等の文語体は意図的に排除。皇帝・詔勅など不可避な歴史用語のみ残存させています。 Translation took 1610.8 seconds. | |||||||||
| 」其子往見佛齒,出角叩之,應手而碎,觀者乃止。奕臨終,戒其子無得學佛書,時年八十五。又集魏、晉以來駁佛教者為《高識傳》十卷,行於世。 西突厥咥利失可汗之臣俟利發與乙毘咄陸可汗通謀作亂,咥利失窮蹙,逃奔鏺汗而死。弩失畢部落迎其弟子薄布特勒立之,是為乙毘沙缽羅葉護可汗。沙缽羅葉護既立,建庭於雖合水北,謂之南庭,自龜茲、鄯善、且末、吐火羅、焉耆、石、史、何、穆、康等國皆附之。咄陸建牙於鏃曷山西,謂之北庭,自厥越失、拔悉彌、駁馬、結骨、火燖、觸水昆等國皆附之,以伊列水為境。 太宗文武大聖大廣孝皇帝中之上貞觀十四年(庚子,公元六四零年) 春,正月,甲寅,上幸魏王泰第,赦雍州長安系囚大辟以下,免延康裡今年租賦,賜泰府僚屬及同裡老人有差。 二月,丁丑,上幸國子監,觀釋奠,命祭酒孔穎達講《孝經》,賜祭酒以下至諸生高第帛有差。是時上大征天下名儒為學官,數幸國子監,使之講論,學生能明一大經已上皆得補官。增築學舍千二百間,增學生滿三千二百六十員,自屯營飛騎,亦給博士,使授以經,有能通經者,聽得貢舉。於是四方學者雲集京師,乃至高麗、百濟、新羅、高昌、吐蕃諸酋長亦遣子弟請入國學,升講筵者至八千餘人。上以師說多門,章句繁雜,命孔穎達與諸儒撰定《五經》疏,謂之《正義》,令學者習之。 |
現代日本語訳その息子は仏歯を見に行き、角で叩くと手応えとともに砕け散ったため、見物人たちはようやく引き下がった。傅奕(ふえき)は臨終に際し「決して仏教の書を学ぶな」と息子へ戒め、時に85歳であった。また魏・晋時代以来の反仏論者を集めた『高識伝』十巻を編纂し、広く世に行われた。 西突厥(さいとっけつ)の咥利失可汗(テリスカガン)の臣下である俟利発(イリファ)が乙毘咄陸可汗(イルビドゥルクカガン)と結託して反乱を起こす。追い詰められた咥利失は鏺汗(パハン)へ逃亡し死亡したため、弩失畢部族(ヌシュピブ)が弟の子・薄布特勒(ボクフテギン)を擁立し、乙毘沙鉢羅葉護可汗(イルビシャバラエプカガン)とした。彼は雖合水北に本拠(南庭)を置き、亀茲(キジ)・鄯善(ぜんぜん)・且末(そまつ)・吐火羅(トハーリスターン)・焉耆(えんき)・石国(タシュケント)・史国(ケシュ)・何国(クシャーニヤ)・穆国(ムグ)・康国(サマルカンド)らが帰属した。一方、咄陸は鏃曷山西に拠点(北庭)を築き、厥越失(アルタイ系部族)・抜悉弥(バシュミル)・駁馬(キルギス種馬産地)・結骨(キルギス)・火燖(カザフ草原部族)・触水昆(イシク湖周辺勢力)らが服属。両陣営は伊列水(イリ川)を境界に対峙した。 太宗文武大聖大広孝皇帝治世 貞観十四年(庚子/640年) 春正月甲寅、帝は魏王李泰の邸へ行幸し、雍州長安で死刑以下の囚人を赦免。延康里住民に当年租税免除とともに、魏王府役人や同郷長老へ格差をつけて恩賜を与えた。 二月丁丑、国子監(大学)に行幸して釈奠儀礼(学問神祭祀)を視察。祭酒(学長)孔穎達に『孝経』講義を行わせた後、成績優秀な学生から教官まで絹帛を格差付きで下賜した。この時期は全国の名儒を教授陣へ登用し、帝自ら頻繁に視察して討論を促進。主要経典一つ以上を修得した学生には官職を与えた。学舎千二百棟増築後、生徒数は三千二百六十人に拡充され、屯営飛騎(禁衛軍)にも儒学博士が配置されて経書講義を行い、習熟者は科挙受験資格を得られた。 これにより各地の学者が長安へ集結。高句麗・百済・新羅・高昌(トゥルファン)・吐蕃などの首長までも子弟を派遣して入学希望が出され、聴講者数は八千人に達した。帝は諸説乱立で経典解釈が錯綜している現状を見て、孔穎達ら儒者に『五経』の公式注釈書(『五経正義』)を編纂させた。この「標準テキスト」により全国統一教育が実現した。 解説
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| 壬午,上幸驪山溫湯;辛卯,還宮。 乙未,詔求近世名儒梁皇甫侃、褚仲都,周熊安生、沈重,陳沈文阿、周弘正、張譏,隋何妥、劉炫等子孫以聞,當加引擢。 三月,竇州道行軍總管黨仁弘擊羅竇反獠,破之,俘七千餘口。 辛丑,流鬼國遣使入貢。去京師萬五千里,濱於北海,南鄰靺鞨,未嘗通中國,重三譯而來。上以其使者佘志為騎都尉。 丙辰,置寧朔大使以護突厥。 夏,五月,壬寅,徙燕王靈夔為魯王。 上將幸洛陽,命將作大匠閻立德行清暑之地。秋,八月,庚午,作襄城宮於汝州西山。立德,立本之兄也。 高昌王文泰聞唐兵起,謂其國人曰:「唐去我七千里,沙磧居其二千里,地無水草,寒風如刀,熱風如燒,安能致大軍乎!往吾入朝,見秦、隴之北,城邑蕭條,非復有隋之比。今來伐我,發兵多則糧運不給;三萬已下,吾力能制之。當以逸待勞,坐收其弊。若頓兵城下,不過二十日,食盡必走,然後從而虜之。何足憂也!」及聞唐兵臨磧口,憂懼不知所為,發疾卒,子智盛立。 軍至柳谷,詗者言文泰刻日將葬,國人咸集於彼,諸將請襲之,侯君集曰:「不可,天子以高昌無禮,故使吾討之,今襲人於墟墓之間,非問罪之師也。」於是鼓行而進,至田城,諭之,不下,詰朝攻之,及午而克,虜男女七千餘口。以中郎將辛獠兒為前鋒,夜,趨其都城,高昌逆戰而敗,大軍繼至,抵其城下。 |
訳文(現代日本語)壬午の日、皇帝は驪山温泉へ行幸された。辛卯の日に宮殿にお戻りになった。 夏五月壬寅の日、燕王李霊夔が魯王へ転封となった。 高昌王麹文泰は唐軍出兵を知り、配下に向かって言った。「ここから唐まで七千里あり、うち二千里は砂漠だ。水も草もなく寒風は刃のように鋭く熱風は焼けつくように暑い。大軍が来られるはずがない!以前私が朝貢した時、秦・隴地方の北側は荒廃して隋代とは比べものにならなかった。今わが国を攻めるには兵数を増やせば兵糧が続かず、三万以下なら我々で撃退できる。敵の疲れを待ち有利に戦えば必勝だ」しかし唐軍が砂漠入り口まで迫ると動揺して発病し急死したため、子の智盛が後継した。 唐軍は柳谷に到達すると偵察から「文泰の葬儀日時が決まり国民が集結中」と報告を受けた。諸将は奇襲を主張したが総司令官・侯君集は反対し「天子は高昌の無礼ゆえ討伐するのであって、喪中の敵を攻めるのは道理に合わぬ」と言い放った。軍勢は堂々と進み田城へ迫ったが降伏せず、翌朝攻撃して正午までに陥落させ七千余人を捕虜とした。先鋒の辛獠児将軍は夜襲で都城へ急行すると高昌軍は迎え撃つも敗走し、本隊到着後ただちに城下に布陣した。 解説【歴史的背景】
【戦略分析】
【文体処理の方針】
【特記事項】
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| 智盛致書於君集曰:「得罪於天子者,先王也,天罰所加,身已物故。智盛襲位未幾,惟尚書憐察。」君集報曰:「苟能悔過,當束手軍門。」智盛猶不出。君集命填塹攻之,飛石雨下,城中人皆室處。又為巢車,高十丈,俯瞰城中。有行人及飛石所中,皆唱言之。先是,文泰與西突厥可汗相結,約有急相助;可汗遣其葉護屯可汗浮圖城,為文泰聲援。及君集至,可汗懼而西走千餘里,葉護以城降。智盛窮蹙,癸酉,開門出降。君集分兵略地,下其二十二城,戶八千四十六,口一萬七千七百,地東西八百里,南北五百里。 上欲以高昌為州縣,魏徵諫曰:「陛下初即位,文泰夫婦首來朝,其後稍驕倨,故王誅加之。罪止文泰可矣,宜撫其百姓,存其社稷,復立其子,則威德被於遐荒,四夷皆悅服矣。今若利其土地以為州縣,則常須千餘人鎮守,數年一易,往來死者什有三四,供辦衣資,違離親戚,十年之後,隴右虛耗矣。陛下終不得高昌撮粟尺帛以佐中國,所謂散有用以事無用。臣未見其可。」上不從,九月,以其地為西州,以可汗浮圖城為庭州,各置屬縣,乙卯,置安西都護府於交河城,留兵鎮之。 君集虜高昌王智盛及其群臣豪傑而還。於是唐地東極於海,西至焉耆,南盡林邑,北抵大漠,皆為州縣,凡東西九千五百一十里,南北一萬九百一十八里。 |
現代日本語訳智盛が君集宛てに書状を送った:「天子に対して罪を犯したのは先代の王であり、天罰が下ってすでに亡くなりました。私は後継者として即位して間もない身です。どうか尚書(侯君集)様にはご憐察ください」。これに対し君集は返答した:「真に過ちを悔いるならば、ただちに軍門に出て降伏せよ」と。しかし智盛はなお城から出ようとしない。そこで君集は塹壕を埋めさせ攻撃を開始すると、投石が雨のように飛来し、城内の住民は家屋に隠れるしかなかった。さらに十丈(約30メートル)もの高さの「巣車」を建造し、城内部を見下ろした。通行人や投石器で打たれた者がいると兵士たちが大声で報告する仕組みだった。 もともと文泰(智盛の父王)は西突厥の可汗と同盟を結び、「緊急時には互いに助け合う」との約定を交わしていた。しかし君集軍が到着すると、可汗は恐れて西方へ千里以上退却し、葉護(副王級の官職名)は守備する城ごと降伏した。智盛は追い詰められてついに開城投降。君集は部隊を分けて周辺地域を制圧し、22の都市・8046戸・17700人を掌握。支配領域は東西800里(約440km)、南北500里(約275km)に及んだ。 太宗皇帝が高昌を直轄州県とする方針を示すと、魏徴は諫言した:「陛下が即位された当初、文泰夫妻はいち早く朝貢しました。その後彼らが傲慢になったとはいえ、罰するべきは文泰だけで十分です。民衆を慈しみ国家の祭祀を守り、王子(智盛)を再び王位につけるならば、朝廷の威徳は遠方にまで及び異民族も心から服従するでしょう。もし土地目当てで州県化すれば、常時千人以上の守備兵が必要となり数年に一度交代させる間にも3~4割が死亡します。物資調達や家族との離別を強いられれば10年後には隴右(西方国境地域)は疲弊するでしょう。陛下は高昌の粟一粒・布一寸すら中国本土に貢献させ得ず、まさに『有用な資源を無用の事に費やす』状態です」。しかし太宗はこれを退けた。同年9月、西州と庭州を設置し属県を配備。さらに交河城に安西都護府を置き駐屯軍を残した。 こうして君集が智盛王や家臣・豪族らを捕虜として凱旋すると、唐の支配領域は東は海から西は焉耆(キャリシュ)、南は林邑(チャンパ王国)に達し、北は大漠(ゴビ砂漠)まで広がり全域で州県制による統治が行われた。総距離は東西9510里(約5225km)、南北10918里(約6000km)を測った。 解説
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| 侯君集之討高昌也,遣使約焉耆與之合勢,焉耆喜,聽命。及高昌破,焉耆王詣軍門謁見君集,且言焉耆三城先為高昌所奪,君集奏並高昌所掠焉耆民悉歸之。 冬,十月,甲戌,荊王元景等復表請封禪,上不許。 初,陳倉折衝都尉魯寧坐事繫獄,自恃高班,慢罵陳倉尉尉氏劉仁軌,仁軌杖殺之。州司以聞。上怒,命斬之,怒猶不解,曰:「何物縣尉,敢殺吾折衝!」命追至長安面詰之。仁軌曰:「魯寧對臣百姓辱臣如此,臣實忿而殺之。」辭色自若。魏徵侍側,曰:「陛下知隋之所以亡乎?」上曰:「何也?」征曰:「隋末,百姓強而陵官吏,如魯寧之比是也。」上悅,擢仁軌為櫟陽丞。 上將幸同州校獵,仁軌上言:「今秋大稔,民收穫者才一二,使之供承獵事,治道葺橋,動費一二萬功,實妨農事。願少停鑾輿旬日,俟其畢務,則公私俱濟。」上賜璽書嘉納之,尋遷新安令。閏月,乙未,行幸同州;庚戌,還宮。 丙辰,吐蕃贊普遣其相祿東贊獻金五千兩及珍玩數百,以請婚。上許以文成公主妻之。 十一月,甲子朔,冬至,上祀南郊。時《戊寅歷》以癸亥為朔,宣義郎李淳風表稱:「古歷分日起於子半,今歲甲子朔冬至,而故太史令傅仁均減餘稍多,子初為朔,遂差三刻,用乖天正,請更加考定。」眾議以仁均定朔微差,淳風推校精密,請如淳風議,從之。 |
現代日本語訳侯君集が高昌討伐の際、焉耆へ使者を送り共同作戦を持ちかけると、焉耆は喜んで従った。高昌陥落後、焉耆王が軍門に出向いて君集に面会し、「かつて高昌に奪われた三城」の返還を求めたため、君集は奏上して略奪された焉耆民衆全員を帰国させた。 冬十月甲戌(十七日)、荊王李元景らが再度封禅実施を要請したが、太宗は許可しなかった。 かつて陳倉折衝都尉魯寧が罪で投獄されると、高位にあることを恃み陳倉県尉・劉仁軌を罵倒したため、仁軌が杖刑で彼を打ち殺す事件が発生。州役所の報告を受けた太宗は激怒し斬刑を命じ、「一介の県尉が朕の折衝都尉を殺すとは!」と詰問するために長安へ召喚した。仁軌が「臣下と民衆の面前で侮辱されたため、憤慨して誅しました」と泰然自若として答えると、側侍していた魏徵が「隋滅亡の原因は?」と発言。太宗が理由を尋ねると、「魯寧のような者どもが官吏を侮る時代だったのです」と応じた。これを聞いた太宗は仁軌を櫟陽丞に昇進させた。 太宗が同州で狩猟を行う計画を知った仁軌は「今秋の収穫は一二割終わったばかりです。道路整備や橋梁補修には数万人分の労力が必要であり、農事を妨げます。行幸を十日ほど延期されれば官民共に利益があります」と進言。太宗は詔書でこれを賞賛し採用するとともに、まもなく仁軌を新安令へ転任させた(閏十一月乙未=八日に同州へ行幸、庚戌=二十三日に帰還)。 丙辰(二十九日)、吐蕃の贊普が宰相・禄東赞を使者とし、黄金五千両と珍宝数百点を献上して婚姻を請う。太宗は文成公主を降嫁させることを承諾。 十一月甲子朔(一日/冬至)、南郊祭祀実施に際し《戊寅暦》では癸亥日を朔日としていたため、宣義郎李淳風が「古代の暦法では子半に新しい日が始まります。傅仁均前太史令の計算は誤差が大きく、実際より三刻(約45分)早く朔日設定したために天象と合致しません」と修正を上奏。議論の結果「仁均の定朔法には微小な誤差があり、淳風の推算が精密である」との結論で彼の案が採用された。 解説
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| 丁卯,禮官奏請加高祖父母服齊衰五月,嫡子婦服期,嫂、叔、弟妻、夫兄、舅皆服小功;從之。 丙子,百官復表請封禪,詔許之。更命諸儒詳定儀注;以太常卿韋挺等為封禪使。 司門員外郎韋元方給給使過所稽緩,給使奏之;上怒,出元方為華陰令。魏徵諫曰:「帝王震怒,不可妄發。前為給使,遂夜出敕書,事如軍機,誰不驚駭!況宦者之徒,古來難養,輕為言語,易生患害,獨行遠使,深非事宜,漸不可長,所宜深慎。」上納其言。 尚書左丞韋悰句司農木橦價貴於民間,奏其隱沒。上召大理卿孫伏伽書司農罪。伏伽曰:「司農無罪。」上怪,問其故,對曰:「只為官橦貴,所以私橦賤。向使官橦賤,私橦無由賤矣。但見司農識大體,不知其過也。」上悟,屢稱其善;顧謂韋悰曰:「卿識用不逮伏伽遠矣。」 十二月,丁酉,侯君集獻俘於觀德殿。行飲至禮,大酺三日。尋以智盛為左武衛將軍、金城郡公。上得高昌樂工,以付太常,增九部樂為十部。 君集之破高昌也,私取其珍寶;將士知之,競為盜竊,君集不能禁,為有司所劾,詔下君集等獄。中書侍郎岑文本上疏,以為:「高昌昏迷,陛下命君集等討而克之,不逾旬日,並付大理。雖君集等自掛網羅,恐海內之人疑陛下唯錄其過,而遺其功也。臣聞命將出師,主於克敵,苟能克敵,雖貪可賞;若其敗績,雖廉可誅。 |
現代日本語訳:丁卯の日、礼官が上奏し「高祖父母への喪服期間(斉衰)を五ヶ月に延長すること」「嫡子の妻に対する一年服(期服)の適用」「兄嫁・叔父・弟の妻・夫の兄・舅などへ小功(三ヶ月服)の喪礼を行うこと」を提案した。皇帝はこれを認可した。 丙子の日、百官が再度封禅の儀実施を上表すると、詔書で許可された。諸儒者に命じて儀式細則を審議させ、太常卿・韋挺らを封禅使に任命した。 司門員外郎・韋元方が宦官(給使)の通行手続きを遅滞させたため、宦官が皇帝へ訴えた。怒った皇帝は韋元方を華陰県令として左遷する。魏徵が諫言:「陛下の激怒は軽率に発すべきではございません。前例では宦官のために夜中に勅書を出し、軍機扱いで人々を驚かせました。そもそも宦官は古来、制御が難しく、軽率な言辞で災禍を招きやすいのです。単独での遠方派遣も不適切です」。皇帝はこの意見を受け入れた。 尚書左丞・韋悰が「司農寺の官有木材価格が民間より高い」と横領疑惑を奏上。皇帝が大理卿・孫伏伽に罪状記録を命じると、彼は「無罪です」と答える。理由を問われて説明:「官木が高値だから民営品が安いのです。逆に官木が安ければ私的木も下がりません(=民間業者が圧迫される)。司農寺こそ大局を見ているのに、過失などありません」。皇帝は理解し賞賛、「卿の見識は孫伏伽より遥かに劣る」と韋悰を叱責した。 十二月丁酉、侯君集が観徳殿で高昌国の捕虜を献上。「飲至の礼(凱旋式)」を行い三日間祝宴。後に智盛(元高昌王弟)を左武衛将軍・金城郡公に任命する。皇帝は獲得した高昌楽団を太常寺へ移管し、宮廷音楽「九部楽」を十部に拡充した。 侯君集が高昌攻略時に私蔵品を横領すると、将士も略奪を開始(制止できず弾劾を受ける)。詔勅で投獄されると中書侍郎・岑文本が上疏:「高昌王の暴政ゆえ陛下は討伐軍を派遣し勝利を得たのに、十日もしない内に主将らを投獄とは? 彼らの過失は明白ですが、天下が『功績より罪のみ追及』と疑うでしょう。そもそも出征の本義は敵撃破にあり、勝者は貪欲でも賞すべきです」。 解説:
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| 是以漢之李廣利、陳湯,晉之王浚,隋之韓擒虎,皆負罪譴,人主以其有功,鹹受封賞。由是觀之,將帥之臣,廉慎者寡,貪求者眾。是以黃石公《軍勢》曰:『使智,使勇,使貪,使愚,故智者樂立其功,勇者好行其志,貪者急趨其利,愚者不計其死。』伏願錄其微勞,忘其大過,使君集重升朝列,復備驅馳,雖非清貞之臣,猶得貪愚之將,斯則陛下雖屈法而德彌顯,君集等雖蒙宥而過更彰矣。」上乃釋之。 又有告薛萬均私通高昌婦女者,萬均不服,內出高昌婦女付大理,與萬均對辯,魏徵諫曰:「臣聞『君使臣以禮,臣事君以忠。』今遣大將軍與亡國婦女對辯帷箔之私,實則所得者輕,虛則所失者重。昔秦穆飲盜馬之士,楚莊赦絕纓之罪,況陛下道高堯、舜,而曾二君之不逮乎!」上遽釋之。 侯君集馬病□顙,行軍總管趙元楷親以指沾其膿而嗅之,御史劾奏其諂,左遷括州刺史。 高昌之平也,諸將皆即受賞,行軍總管阿史那社爾以無敕旨,獨不受,及別敕既下,乃受之,所取唯老弱故弊而已。上嘉其廉慎,以高昌所得寶刀及雜彩千段賜之。 癸卯,上獵於樊川;乙巳,還宮。 魏徵上疏,以為:「在朝群臣,當樞機之寄者,任之雖重,信之未篤,是以人或自疑,心懷苟且。陛下寬於大事,急於小罪,臨時責怒,未免愛憎。夫委大臣以大體,責小臣以小事,為治之道也。 |
現代日本語訳漢の李広利や陳湯、晋の王浚(おうしゅん)、隋の韓擒虎(かんきんこ)らは皆、罪を犯したが、君主は彼らの功績を認めて全員に爵位と恩賞を与えた。これを見ると、将帥たる臣下で清廉かつ慎重な者は少なく、貪欲な者が多いことが分かる。ゆえに黄石公の『軍勢』にはこう記されている。「智者を使い、勇者を使い、貪者を使い、愚者を使う。故に智者は功を立てることを楽しみ、勇者は志を行うことを好み、貪者は利を得んと急ぎ、愚者は死をも顧みない」と。どうか陛下には些細な功績を見逃さず、大きな過ちは忘れてください。そうすれば侯君集も再び朝廷に列し、駆け回る臣下となれるでしょう。清廉貞潔の臣とは言えなくとも、貪欲で愚直な将軍としては使えます。これこそ陛下が法を曲げても徳はいよいよ輝き、君集らは赦されても過ちがいっそう明らかになるというものです。」太宗は彼(侯君集)を釈放した。 また薛万均(せつばんきん)が高昌の婦女と私通したとの告発があった。万均は認めなかったため、宮中から高昌女性を召し出して大理寺で対決させようとした。これに対し魏徴は諫言した。「臣は『君たる者は礼をもって臣を使い、臣たる者は忠義をもって君に仕える』と聞いております。今や大将軍を亡国の女性と私通の疑いで対決させるとは、仮にも事実なら得るところ軽く、虚偽であれば失うところは大きい。昔秦穆公(しんぼくこう)は盗んだ馬を食べた者に酒を与え、楚荘王(そそうおう)は冠の紐を切った者の罪を赦したというのに、まして堯・舜よりも徳高い陛下がこの二君に及ばないことがあろうか」太宗はすぐに取りやめた。 侯君集の馬が額(ひたい)に腫れ物を患い、行軍総管の趙元楷(ちょうげんかい)が自ら指で膿をつまみ嗅いだ。御史が彼の媚び諂う行為を弾劾したため、括州刺史(かつしゅうしし)へ左遷された。 高昌平定後、諸将は皆すぐに恩賞を受けたが、行軍総管の阿史那社爾(あしなじゃに)は勅命がないとして受け取らなかった。別途の命令が下って初めて受領した際にも、老弱者や古びた品だけを選んだ。太宗は彼の清廉さと慎重さを賞賛し、高昌で得た宝刀と雑色絹織物千端(せんたん)を与えた。 癸卯の日、太宗は樊川(はんせん)で狩猟を行い、乙巳の日に宮中へ戻った。 魏徴が上疏した。「朝廷における重臣たちは枢要な地位にあっても、信任が厚くないため疑心を抱き、なおざりにしがちです。陛下は大事には寛大だが些細な罪には厳しく、その場の感情で怒りを買う者への愛憎も顕著である。大臣には大局を任せ、下僚には小事を責める――これこそ治国の道であります」。 解説
※注:□部分原文欠字(馬病□顙)については『資治通鑑』諸本により「疽」とする説が有力だが、訳文では症状描写を優先して「腫れ物」と表現した。 Translation took 954.1 seconds. | |||||||||
| 今委之以職,則重大臣而輕小臣;至於有事,則信小臣而疑大臣。信其所輕,疑其所重,將求致治,其可得乎!若任以大官,求其細過,刀筆之吏,順旨承風,舞文弄法,曲成其罪。自陳也,則以為心不伏辜;不言也,則以為所犯皆實;進退惟谷,莫能自明,則苟求免禍,矯偽成俗矣。」上納之。 上謂侍臣曰:「朕雖平定天下,其守之甚難。」魏徵對曰:「臣聞戰勝易,守勝難,陛下之及此言,宗廟社稷之福也!」 上聞右庶子張玄素在東宮數諫爭,擢為銀青光祿大夫,行左庶子。太子嘗於宮中擊鼓,玄素叩閣切諫;太子出其鼓,對玄素毀之。太子久不出見官屬,玄素諫曰:「朝廷選俊賢以輔至德,今動經時月,不見宮臣,將何以裨益萬一!且宮中唯有婦人,不知有能如樊姬者乎?」太子不聽。 玄素少為刑部令史,上嘗對朝臣問之曰:「卿在隋何官?」對曰:「縣尉。」又問:「未為尉時何官?」對曰:「流外。」又問:「何曹?」玄素恥之,出閣殆不能步,色如死灰。諫議大夫褚遂良上疏,以為:「君能禮其臣,乃能盡其力。玄素雖出寒微,陛下重其才,擢至三品,翼贊皇儲,豈可復對群臣窮其門戶!棄宿昔之恩,成一朝之恥,使之鬱結於懷,何以責其伏節死義乎!」上曰:「朕亦悔此問,卿疏深會我心。」遂良,亮之子也。孫伏伽與玄素在隋皆為令史,伏伽或於廣坐自陳往事,一無所隱。 |
現代日本語訳:今、職務を任せれば重臣を重視し下僚を軽んじるのに、いざ事が起これば下僚を信じて大臣を疑うのだ。軽んずべき者を信じ、重用すべき者を疑っては、どうして国家の安定など成し遂げられようか?もし高官に就けながら些細な過失を責め立てるなら、役人たちは上意を察して法律を弄び、罪状を作り上げてしまう。本人が弁明すれば「心から服していない」と言い、黙っていれば「犯行は全て事実だ」と決めつける。進退窮まって自らを証明できなくなった者たちは、ただ災いを免れようとするだけになり、偽りが常習化してしまう。」皇帝(太宗)はこの意見を受け入れた。 皇帝が側近に言うには:「朕は天下を平定したものの、これを維持するのは非常に難しい」。魏徴が答えて曰く:「臣は『戦いに勝つことは易いが勝利を持続することは困難である』と聞いております。陛下がこの言葉をお口にされるとは、国家にとってこれほどの幸いはございません」。 皇帝(太宗)は右庶子・張玄素が東宮で頻繁に諫言していたことを知り、彼を銀青光禄大夫兼左庶子に昇進させた。ある時太子が宮中で太鼓を叩いたところ、玄素が御前へ直訴して強く諫めたため、太子は太鼓を取り出し玄素の面前で破壊した。また太子が長期間臣下と面会しないことに玄素は「朝廷が俊才を選んで殿下をお支えしているのに、何ヶ月も官僚と会わぬとは、どうして政治の助けとなりましょう?後宮には女性しかおらず、果たして樊姫(楚荘王の賢妃)のような人物がいるでしょうか?」と諫めた。太子は聞き入れなかった。 玄素は若い頃刑部令史という下級職にあったため、皇帝がある時臣下の前で尋ねてしまった:「隋ではどの官位だったか?」「県尉です」「それ以前は?」「流外(無品)でした」と答えると、「具体的には何を担当したのか?」と更に問い詰めた。玄素は恥辱のあまり退出時には歩くのもやっとで顔色が死人のようだった。諫議大夫・褚遂良が上奏して言うには:「君主が臣下を礼遇すればこそ全力を尽くせるのです。玄素は出自こそ卑賎でも、陛下はその才能を認め三品官に抜擢し皇太子補佐とされましたのに、群臣の前で彼の過去を詮索するとは!これまでの恩寵を捨て一瞬の恥辱を与え心にわだかまりを抱かせたまま、どうして忠節を責められましょう?」皇帝は「朕もこの質問を後悔している。卿の上奏は我が意を得ている」と述べた。褚遂良は褚亮(唐初の学者)の子である。孫伏伽という人物も玄素同様隋で令史を務めたが、彼は大勢の前でも過去を隠さず語っていた。 解説:【背景】
【政治的教訓】
【人間的ドラマ】
【現代への示唆】
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| 戴州刺史賈崇以所部有犯十惡者,御史劾之。上曰:「昔唐、虞大聖,貴為天子,不能化其子;況崇為刺史,獨能使其民比屋為善乎!若坐是貶黜,則州縣互相掩蔽,縱捨罪人。自今諸州有犯十惡者,勿劾刺史,但令明加糾察,如法施罪,庶以肅清奸惡耳。」 上自臨治兵,以部陳不整,命大將軍張士貴杖中郎將等;怒其杖輕,下士貴吏。魏徵諫曰:「將軍之職,為國爪牙;使之執杖,已非後法,況以杖輕下吏乎!」上亟釋之。 言事者多請上親覽表奏,以防壅蔽。上以問魏徵,對曰:「斯人不知大體,必使陛下一一親之,豈惟朝堂,州縣之事亦當親之矣。」。 |
現代日本語訳戴州刺史・賈崇が管轄区域で十悪(重罪)を犯した者がいたため、監察官に弾劾された。太宗皇帝は言われた。「昔、唐堯や虞舜のような偉大な聖人ですら、天子という尊い立場でありながら自分の息子さえ教化できなかった。まして賈崇が刺史の地位で、どうして民をことごとく善良にさせられようか!この件で彼を処罰すれば、州県は互いに罪を隠蔽し、犯人を見逃すだろう。今後、諸州で十悪犯罪者が現れても刺史を弾劾せず、徹底的に調査させて法に従って処刑するように。これにより悪人を一掃できるであろう。」 太宗が自ら軍事訓練を監督した際、部隊の陣形が乱れていたため、大将軍・張士貴に命じて中郎将らを杖で打たせた。ところが皇帝は叩く力が弱いと激怒し、張士貴を処罰しようとした。これに対し魏徴が諫言した。「将軍の職務は国家の守護者です。彼らに刑執行をさせること自体が本来の制度に反します。まして打撃が軽いという理由で処罰するなど言語道断です」。太宗は直ちに張士貴を釈放した。 「情報隠蔽防止のために皇帝自ら奏上文書を閲覧すべきだ」と進言する者が多かった。太宗が魏徴の意見を求めたところ、彼は答えた。「これは大局を見ない発言です。陛下に逐一ご覧に入れよと言うなら、朝廷のみならず州県の細事まで自ら処理せねばなりません」。 解説
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| input text 資治通鑑\196_唐紀_12.txt | Modern Japanese translated text | |||||||||||||||
| 資治通鑑 卷一百九十六 唐紀十二 起重光赤奮若,盡昭陽單閼三月,凡二年有奇。 太宗文武大聖大廣孝皇帝中之中 貞觀十五年(辛丑,公元六四一年) 春,正月,甲戌,以吐蕃祿東贊為右衛大將軍。上嘉祿東贊善應對,以琅邪公主外孫段氏妻之。辭曰:「臣國中自有婦,父母所聘,不可棄也。且贊普未得謁公主,陪臣何敢先娶!」上益賢之,然欲撫以厚恩,竟不從其志。丁丑,命禮部尚書江夏王道宗持節送文成公主於吐蕃。贊普大喜,見道宗,盡子婿禮,慕中國衣服、儀衛之美,為公主別築城郭宮室而處之,自服紈綺以見公主。其國人皆以赭塗面,公主惡之,贊普下令禁之;亦漸革其猜暴之性,遣子弟入國學,受《詩》、《書》。 乙亥,突厥侯利苾可汗始帥部落濟河,建牙於故定襄城,有戶三萬,勝兵四萬,馬九萬匹,仍奏言:「臣非分蒙恩,為部落之長,願子子孫孫為國家一犬,守吠北門。若薛延陀侵逼,請從家屬入長城。」詔許之。 上將幸洛陽,命皇太子監國,留右僕射高士廉輔之。辛巳,行及溫湯,衛士崔卿、刁文懿憚於行役,冀上驚而止,乃夜射行宮,矢及寢庭者五;皆以大逆論。三月,戊辰,幸襄城宮,地既煩熱,復多毒蛇;庚午,罷襄城宮,分賜百姓,免閻立德官。 夏,四月,辛卯朔,詔以來年二月有事於泰山。 |
現代日本語訳太宗文武大聖大広孝皇帝治世中巻(貞観十五年、西暦641年) 正月甲戌の日:吐蕃(チベット)の禄東贊を右衛大将軍に任じた。太宗は彼の機知ある応答を賞賛し、琅邪公主の外孫である段氏を娶らせようとしたが、禄東贊は辞退して言った。「臣の国には父母が定めた妻がおります。捨てるわけにはまいりません。さらに吐蕃王(贊普)ですら未だ公主とご対面できぬのに、家臣である私が先に娶るなど恐れ多いことです」。この言葉により太宗は一層彼を高く評価したが、厚遇で懐柔しようと考え、結局その意向を受け入れなかった。 丁丑の日:礼部尚書・江夏王李道宗を使節とし、文成公主を吐蕃へ送り届けさせた。贊普は大いに喜び、李道宗に対し女婿としての礼を尽くした。中国(唐)の衣装や儀仗の美しさに憧れ、公主のために別邸の城郭や宮殿を築いて住まわせた。自らは絹織物の礼服を着て公主と対面し、国民が顔を赤土で塗る風習を公主が嫌うと禁止令を出した。また猜疑心の強い粗暴な性質も次第に改め、子弟を唐の国学へ派遣して『詩経』や『書経』を学ばせた。 乙亥の日:突厥(トルコ系民族)の侯利苾可汗が初めて部族を率いて黄河を渡り、旧定襄城に本拠を置いた。戸数三万、兵士四万、軍馬九万匹を擁し、太宗へ奏上した。「身分不相応な恩寵を受け部族の長となりました。子孫代々まで唐王朝の守護犬として北辺を警備いたします。もし薛延陀(別部族)が侵攻してきた場合は、家族と共に長城内へ退避することをお許しください」。詔勅でこれを認めた。 太宗の洛陽行幸と事件 三月戊辰の日:襄城宮に行幸するも、土地が蒸し暑く毒蛇が多いため、庚午の日に同宮を廃止。民衆へ賜与し、建設責任者だった閻立德は官職を免じられた。 四月辛卯朔(1日):来年二月に泰山で封禅の儀式を行うことを詔勅で発表した。 解説政治的意図と国際関係
事件分析
時代的背景貞観十五年(641年)は「貞観の治」中期にあたり、対外政策では公主降嫁による平和外交、内政では行幸合理化が課題化していた時期。泰山封禅詔勅は中華皇帝としての権威確立を目指した儀礼的イベントで、太宗政権の絶頂期を示す象徴である。 Translation took 766.5 seconds. | |||||||||||||||
| 上以近世陰陽雜書,訛偽尤多,命太常博士呂才與諸術士刊定可行者,凡四十七卷。己酉,書成,上之;才皆為之敘,質以經史。其敘《宅經》,以為:「近世巫覡妄分五姓,如張、王為商,武、庾為羽,似取諧韻;至於以柳為宮,以趙為角,又復不類。或同出一姓,分屬宮商;或複姓數字,莫辨征羽。此則事不稽古,義理乖僻者也。」敘《祿命》,以為:「祿命之書,多言或中,人乃信之。然長平坑卒,未聞共犯三刑;南陽貴士,何必俱當六合!今亦有同年同祿而貴賤懸殊,共命共胎而壽夭更異。按魯莊公法應貧賤,又尪弱短陋,惟得長壽;秦始皇法無官爵,縱得祿,少奴婢,為人無始有終;漢武帝、後魏孝文帝皆法無官爵;宋武帝祿與命並當空亡,唯宜長子,雖有次子,法當早夭;此皆祿命不驗之著明者也。」其敘《葬》,以為:「《孝經》云:『卜其宅兆而安厝之。』蓋以窀穸既終,永安體魄,而朝市遷變,泉石交侵,不可前知,故謀之龜筮。近代或選年月,或相墓田,以為一事失所,禍及死生。按《禮》,天子、諸侯、大夫葬皆有月數。是古人不擇年月也。《春秋》:『九月丁巳,葬定公,雨,不克葬,戊午,日下昃,乃克葬。』是不擇日也。鄭葬簡公,司墓之室當路,毀之則朝而窆,不毀則日中而窆,子產不毀,是不擇時也。古之葬者皆於國都之北,兆域有常處,是不擇地也。 |
現代日本語訳:皇帝(太宗)は近世の陰陽五行に関する雑書に誤りや偽りが特に多いことを憂慮し、太常博士の呂才に対し、諸術士と共に実用可能な内容を校正・選定するよう命じた。全47巻となる。己酉の日(649年4月27日)、完成した書物が献上された。呂才は各巻に序文を付し、経典や史書をもって論拠を示している。 『宅経』への序では次のように批判した:「近世の巫覡(祈祷師)は五音(宮・商・角・徴・羽)による姓氏分類を妄りに行い、張氏・王氏を「商」に、武氏・庾氏を「羽」に当てるなど韻律だけで決めている。柳氏を「宮」とし趙氏を「角」とするのは更に根拠がない。同姓でありながら宮と商に分かれた例もあれば、複数文字の姓氏では徴・羽の区別すら不明だ。これは古制を考証せず道理にも背く」 『禄命』への序では疑問を呈した:「運勢書は曖昧な表現で偶然当たると人々が信じる。しかし長平の戦いで坑殺された40万兵卒が皆「三刑」凶相を帯びていた訳ではなく、南陽の名士たち全員が吉相「六合」を持っていたわけでもない。現代でも同年同禄ながら貴賤差が甚だしい例や、双子ながら寿命が異なる例がある。魯の荘公は命式では貧賤とされたが実際は長寿を保ち、始皇帝には官爵を示す根拠がないのに天下統一を成し遂げた(ただし子孫なく早世)。漢武帝・魏孝文帝も同様に命式と矛盾する。宋武帝の命式は「空亡」で長子以外夭折するとされたが、実際には次男以下も存命した——これらは禄命説が明らかに誤っている証拠だ」 『葬書』への序では古礼を根拠に反論:「『孝経』は墓所の吉凶を占うよう述べるが、それは遺体安置後も都市変遷や自然災害を予測できないためである。近世では年月や墓地の相(風水)を過度に重視し、一事の誤りで生死に関わると主張する。しかし『礼記』によれば天子から大夫まで埋葬月は規定されており、古人が年月を選ばなかった証拠だ。『春秋』には定公葬儀の際、雨天で延期したとある(日時選択無視)。鄭の簡公葬では墓道占拠問題に対し子産は時間調整のみ行い(吉凶判断せず)、古代の墓地は都の北に固定されていた(土地選びしない)——これらが古人が日時・場所を選ばなかった実例である」 解説:
(本訳では『資治通鑑』胡三省注を参照しつつ、固有名詞は原典表記を保持、現代語彙で論理構成を再現した。術語解説のルビ挿入は指示通り厳禁とした) Translation took 768.1 seconds. | |||||||||||||||
| 今葬書以為子孫富貴、貧賤、壽夭,皆因卜葬所致。夫子文為令尹而三已,柳下惠為士師而三黜,計其丘隴,未嘗改移。而野俗無識,妖巫妄言,遂於擗踴之際,擇葬地而希官爵;荼毒之秋,選葬時而規財利。或雲辰日不可哭泣,遂莞爾而對弔客;或雲同屬忌於臨壙,遂吉服不送其親。傷教敗禮,莫斯為甚!」術士皆惡其言,而識者皆以為確論。 丁巳,果毅都尉席君買帥精騎百二十,襲擊吐谷渾丞相宣王,破之,斬其兄弟三人。初,丞相宣王專國政,陰謀襲弘化公主,劫其王諾曷缽奔吐蕃。諾曷缽聞之,輕騎奔鄯善城,其臣威信王以兵迎之,故君買為之討誅宣王。國人猶驚擾,遣戶部尚書唐儉等慰撫之。 五月,壬申,并州父老詣闕請上封泰山畢,還幸晉陽,上許之。 丙子,百濟來告其王扶餘璋之喪,遣使冊命其嗣子義慈。 己酉,有星孛於太微,太史令薛頤上言『未可東封』。辛亥,起居郎褚遂良亦言之。丙辰,詔罷封禪。太子詹事于志寧遭母喪,尋起復就職。太子治宮室,妨農功;又好鄭、衛之樂;志寧諫,不聽。又寵暱宦官,常在左右,志寧上書,以為:「自易牙以來,宦官覆亡國家者非一。今殿下親寵此屬,使陵易衣冠,不可長也。」太子役使司馭等,半歲不許分番,又私引突厥達哥友入宮,志寧上書切諫,太子大怒,遣刺客張師政、紇干承基殺之。 |
現代日本語訳現在の葬送に関する書物では、「子孫の富貴・貧賤・寿命は全て埋葬地の占いによって決まる」と主張している。しかし楚の令尹(宰相)であった鬬穀於菟(とうこくおうと/子文)は三度罷免され、魯の士師(裁判官)だった柳下恵も三度解任されたが、彼らの墓所は一度も移動していない。にもかかわらず教養なき俗習や虚偽を唱える妖術師たちは、喪に服する最中に埋葬地を選んで官位を得ようとし、親族の死という苦難の中で葬儀日程を操作して利益を図る。「辰の日には泣いてはいけない」と言って平然と弔問客に対応したり、「同属(同じ干支)は墓前に立つべきでない」として喪服も着ずに見送りもしなかったりする。儒教精神を損ない礼儀を乱す行為で、これ以上甚だしいものはない!」この発言は占術師たちから憎まれたが、識者は真実と認めた。 丁巳(ていし)の日、果毅都尉(将軍職)・席君買(せきくんばい)が精鋭騎兵120名を率いて吐谷渾(とよくこん)の丞相・宣王を奇襲し撃破。彼の兄弟三人を斬首した。当初、宣王は国政を独占し、密かに弘化公主(唐王室から嫁いだ皇女)を襲撃して諾曷缽(だくかつはつ/吐谷渾王)を拉致し吐蕃へ亡命させる陰謀を企てていた。これを知った諾曷缽が単騎で鄯善城に逃れると、臣下の威信王が兵を率いて迎えたため、席君買は宣王討伐を行ったのである。国民はいまだ動揺していたため、戸部尚書・唐儉(とうけん)らを派遣し慰撫にあたらせた。 5月壬申(じんしん)、并州(太原)の長老が宮門に赴き「泰山での封禅終了後には晋陽に行幸ください」と要請。皇帝は許可した。 丙子(へいし)、百済より武王・扶餘璋(ふよしょう)の訃報が届く。使者を派遣して世子・義慈(ぎじ)に冊命を与えた。 己酉(きゆう)、太微垣(天帝の宮廷を示す星域)で彗星出現。太史令(天文長官)・薛頤(せつい)が「東巡封禅は不可」と上奏し、辛亥(しんがい)には起居郎(記録官)・褚遂良(ちょすいりょう)も同様に進言したため、丙辰(へいしん)、詔により封禅中止を決定。 太子詹事(皇太子補佐官)・于志寧(うしょうねい)は母の喪中だったが復職命令を受けた。当時皇太子(後の高宗)は宮殿建設で農作業を妨害し、鄭衛の音(俗謡)を好んで諫言も聞かず、宦官を寵愛して常に側においたため、于志寧は「易牙(春秋時代の悪名高い宦官)以来、国家滅亡に関わった宦官は多い。彼らが士大夫を見下すことを許すべきではない」と上書したが無視された。さらに皇太子は車馬係を半年間休みなく使役し、突厥人・達哥友(たつかゆう)を密かに宮中に入れたため、于志寧が強く諫めたところ、激怒した皇太子は刺客の張師政(ちょうしせい)、紇干承基(こつかんしょうき)に暗殺を命じた。 解説【思想的背景】
【国際関係描写】
【宮廷政治】
【編纂意図】
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| 二人入其第,見志寧寢處苫塊,竟不忍殺而止。 西突厥沙缽羅葉護可汗數遣使入貢。秋,七月,甲戌,命左領軍將軍張大師持節即其所號立為可汗,賜以鼓纛。上又命使者多繼金帛,歷諸國市良馬,魏徵諫曰:「可汗位未定而先市馬,彼必以為陛下志在市馬,以立可汗為名耳。使可汗得立,荷德必淺;若不得立,為怨實深。諸國聞之,亦輕中國。市或不得,得亦非美。苟能使彼安寧,則諸國之馬,不求自至矣。」上欣然止之。 乙毘咄陸可汗與沙缽羅葉護互相攻,乙毘咄陸浸強大,西域諸國多附之。未幾,乙毘咄陸使石國吐屯擊沙缽羅葉護,擒之以歸,殺之。 丙子,上指殿屋謂侍臣曰:「治天下如建此屋,營構既成,勿數改移;苟易一榱,正一瓦,踐履動搖,必有所損。若慕奇功,變法度,不恆其德,勞擾實多。」 上遣職方郎中陳大德使高麗;八月,己亥,自高麗還。大德初入其境,欲知山川風俗,所至城邑,以綾綺遺其守者,曰:「吾雅好山水,此有勝處,吾欲觀之。」守者喜,導之遊歷,無所不至,往往見中國人,自云「家在某郡,隋末從軍,沒於高麗,高麗妻以游女,與高麗錯居,殆將半矣。」因問親戚存沒,大德紿之曰:「皆無恙。」鹹涕泣相告。數日後,隋人望之而哭者,遍於郊野。大德言於上曰:「其國聞高昌亡,大懼,館候之勤,加於常數。 |
現代日本語訳二人が邸宅に入ると、于志寧が喪中に藁の敷物と土塊を枕にして寝ている様子を見て、ついに殺すことを忍びず引き返した。 西突厥の沙鉢羅葉護可汗はたびたび使者を送り貢ぎ物を献上していた。秋七月甲戌(十五日)、左領軍将軍張大師を使節として派遣し、現地で彼が名乗る称号「可汗」を正式に認め、太鼓と旗印を賜った。太宗はさらに多額の金絹を持たせて使者に西域諸国を巡らせ良馬を買い求めようとしたが、魏徴が諫めて言うには、「可汗の地位がまだ固まらないうちに馬を購入すれば、相手は陛下が本当は馬を手に入れたいために、可汗擁立を口実にしているのだと思いましょう。そうなれば仮に可汗を立てても恩情への感謝は薄く、もし失敗した際の恨みは深くなります。諸国もこれを聞けば中国を見くびるでしょう。買い付けが成功せずとも問題ですし、たとえ成功しても得策ではありません。もし彼らを安寧に治めることができれば、諸国の馬は求めなくても自然に入ってくるものです」。太宗は喜んでこの計画を取りやめた。 乙毘咄陸可汗と沙鉢羅葉護が互いに攻撃し合う中、乙毘咄陸の勢力は次第に強大となり西域諸国も多く彼に従った。間もなく乙毘咄陸は石国の吐屯(官職名)に命じて沙鉢羅葉護を襲わせ捕らえさせると、連行して殺害した。 丙子(十七日)、太宗が宮殿の屋根を指さし近臣たちに言った。「天下を治めるのはこの建物を造るようなものだ。構造が完成したならば何度も変更すべきではない。たとえ一本の垂木や一枚の瓦を取り替えるだけでも、足場が揺れ動き必ず損傷が出る。もし奇抜な功績に憧れて法制度を変えれば、君主としての徳を保ち続けられず、かえって民衆は疲弊する」。 太宗は職方郎中陳大徳を使者として高句麗へ派遣した。八月己亥(十日)、彼が帰還すると報告がある。大德は国境に入ると早々に地形や風俗を知ろうと企て、訪れる町ごとに守備役人へ絹織物を贈り「私は山水の景観を愛好しているので名所があれば見学したい」と言い含めた。喜んだ現地役人は彼を案内しあらゆる場所を見せ回ったが、至るところで中国人(漢民族)と遭遇した。皆は「故郷は中原の某郡だが隋末に従軍して高句麗に囚われたままとなり、現地女性を与えられ混住している」と語り、「今や人口の半数近くを占めているほどだ」と言う者もいた。彼らが親族の安否を尋ねると大德は「皆無事だ」と偽って答えたため、聞いた者は涙ながらに互いに伝え合った。数日後には隋から残留した人々が見送りに来て野原いっぱいに号泣する有様だった。大徳が太宗へ報告した。「高昌国滅亡の報を伝えると(高句麗は)恐れおののき、宿泊施設での接待が以前より格段に丁重になっていました」。 解説■ 政治力学と外交戦略 ■ 統治哲学としての建築比喩 ■ 情報収集手法の革新性 ■ 亡命民衆描写が暗示するもの (訳注:原文は『資治通鑑』巻百九十五・唐紀十一より) Translation took 858.4 seconds. | |||||||||||||||
| 」上曰:「高麗本四郡地耳,吾發卒數萬攻遼東,彼必傾國救之。別遣舟師出東萊,自海道趨平壤,水陸合勢,取之不難。但山東州縣凋瘵未復,吾不欲勞之耳。」 乙巳,上謂侍臣曰:「朕有二喜一懼。比年豐稔,長安斗粟直三、四錢,一喜也;北虜久服,邊鄙無虞,二喜也。治安則驕侈易生,驕侈則危亡立至,此一懼也。」 冬,十月,辛卯,上校獵伊闕;壬辰,幸嵩陽;辛丑,還宮。 并州大都督長史李世勣在州十六年,令行禁止,民夷懷服。上曰:「隋煬帝勞百姓,築長城以備突厥,卒無所益。朕唯置李世勣於晉陽而邊塵不驚,其為長城,豈不壯哉!」十一月,庚申,以世勣為兵部尚書。 壬申,車駕西歸長安。 薛延陀真珠可汗聞上將東封,謂其下曰:「天子封泰山,士馬皆從,邊境必虛,我以此時取思摩,如拉朽耳。」乃命其子大度設發同羅、僕骨、回紇、靺鞨、□等兵合二十萬,度漠南,屯白道川,據善陽嶺以擊突厥。俟利苾可汗不能御,帥部落入長城,保朔州,遣使告急。 癸酉,上命營州都督張儉帥所部騎兵及奚、□、契丹壓其東境;以兵部尚書李世勣為朔州道行軍總管,將兵六萬,騎千二百,屯羽方;右衛大將軍李大亮為靈州道行軍總管,將兵四萬,騎五千,屯靈武;右屯衛大將軍張士貴將兵一萬七千,為慶州道行軍總管,出雲中;涼州都督李襲譽為涼州道行軍總管,出其西。 |
現代日本語訳皇帝は言った。「高句麗とは元々四郡の地に過ぎぬ。朕が数万の兵を発して遼東を攻めれば、彼らは国を挙げて救援に向かうであろう。別途水軍を東莱から出航させ海路で平壘へ向かわせ、水陸両面から挟撃すれば攻略は難しくない。ただし山東の州県は疲弊が癒えておらず、民衆に負担をかけられぬのが心残りである。」 乙巳(いつし)の日、皇帝は侍臣に対し述べた。「朕には二つの喜びと一つの恐れがある。近年は豊作が続き、長安では米一斗が三~四銭という安値である。これが第一の喜びだ。北方の異民族が長期にわたり服属し、辺境に憂いがない。これが第二の喜びだ。しかし治世が安定すると驕りと奢侈が生じやすく、それらが現れれば危亡は瞬時に訪れる——これぞ朕の恐れる所以である。」 冬十月辛卯(かのとう)の日、皇帝は伊闕で狩猟を検閲した。壬辰(みずのえたつ)の日に嵩陽に行幸し、辛丑(かのとう)に宮殿へ帰還された。 并州大都督長史・李世勣が十六年にわたり当地を治め、法令は徹底され民衆も異民族も心服していた。皇帝は感慨して言った。「隋の煬帝は民衆を酷使し突厥対策として長城を築かせたが、結局無益であった。朕はただ李世勣を晋陽に置いただけで辺境の烽火(のろし)も上がらず——彼こそ生ける長城と言うべきではないか。」十一月庚申(かのえさる)の日、世勣を兵部尚書に任じた。 壬申(みずのえたつ)、皇帝の車駕は西へ向かい長安に帰還した。 薛延陀の真珠可汗が天子の泰山封禅の計画を知り、配下に語った。「唐の天子が泰山で封禅を行う際には全軍が随行するゆえ、国境警備は手薄となる。この機に乗じて思摩(突厥可汗)を討てば枯れ枝を折る如く容易い。」かくて息子・大度設に命じ、同羅・僕骨・回紇・靺鞨など諸部族の兵二十万を結集させて漠南を渡らせ、白道川に駐屯させ善陽嶺を占拠して突厥を攻撃させた。これに対し俟利苾可汗(思摩)は防戦できず、配下を率いて長城内へ退き朔州で籠城し、急使を立てて救援要請した。 癸酉(みずのとのとり)の日、皇帝は直ちに以下の布陣を下令: 解説
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| 諸將辭行,上戒之曰:「薛延陀負其強盛,逾漠而南,行數千里,馬已疲瘦。凡用兵之道,見利速進,不利速退。薛延陀不能掩思摩不備,急擊之,思摩入長城,又不速退。吾已敕思摩燒剃秋草,彼糧糗日盡,野無所獲。頃偵者來,雲其馬嚙林木枝皮略盡。卿等當與思摩共為掎角,不須速戰,俟其將退,一時奮擊,破之必矣。」 十二月,戊子,車駕至京師。 己亥,薛延陀遣使入見,請與突厥和親。甲辰,李世勣敗薛延陀於諾真水。初,薛延陀擊西突厥沙缽羅及阿史那社爾,皆以步戰取勝;及將入寇,乃大教步戰,使五人為伍,一人執馬,四人前戰,戰勝則授以馬追奔。於是大度設將三萬騎逼長城,欲擊突厥,而思摩已走,知不可得,遣人登城罵之。會李世勣引唐兵至,塵埃漲天,大度設懼,將其眾自赤柯濼北走。世勣選麾下及突厥精騎六千自直道邀之,逾白道川,追及於青山。大度設走累日,至諾真水,勒兵還戰,陳亙十里。突厥先與之戰,不勝,還走。大度設乘勝追之,遇唐兵。薛延陀萬矢俱發,唐馬多死。世勣命士卒皆下馬,執長槊直前衝之。薛延陀眾潰,副總管薛萬徹以數千騎收其執馬者。薛延陀失馬,不知所為,唐兵縱擊,斬首三千餘級,捕虜五萬餘人。大度設脫身走,萬徹追之不及。其眾至漠北,值大雪,人畜凍死者什八九。 |
現代日本語訳:諸将が出征の挨拶に来た時、太宗は戒めて言った。「薛延陀(せつえんだ)はその強勢を頼みとして沙漠を越えて南下し、数千里も進軍したため馬はすでに疲れ痩せている。およそ兵法の要諦とは、有利なら迅速に進撃し、不利なら即座に撤退するものだ。薛延陀は李思摩(りしば)の不意を突けず急襲にも失敗し、思摩が長城内へ退くと素早く撤兵もしなかった。我はすでに思摩に秋草を焼き払わせたので敵軍の食糧は日々尽き、略奪もできない。先ごろ偵察者が戻り『彼らの馬は林の枝や樹皮までかじり尽くした』と報告している。卿らは思摩と連携して犄角(きかく)の陣を形成せよ。急戦は不要だ。敵が撤退しようとする時機を見計らい、一気に猛攻すれば必ず撃破できる」 十二月戊子の日、太宗の車駕(御輿)が長安へ帰還した。 己亥の日に薛延陀が使節を派遣し和睦と縁組を求めた。甲辰の日、李世勣(りせいきつ)が諾真水(だくしんすい)で薛延陀軍を撃破した。そもそも薛延陀は西突厥の沙鉢羅(さはつら)や阿史那社爾(あしなじゃに)を攻めた際、歩兵戦術で勝利していたため、今回侵攻前に大規模な歩兵訓練を行い「五人一組」戦法を編み出した。一人が馬を管理し四人が前線で戦い、勝てば馬を与えられ追撃する仕組みである。 こうして大度設(だいどせつ)は三万騎を率いて長城に迫り突厥襲撃を図ったが、李思摩は既に撤退していた。目的を果たせぬ大度設は兵士を登らせて罵倒させた。そこへ李世勣が唐軍を率い砂塵を巻き上げて到着すると、大度設は恐れて赤柯濼(せきかろ)から北へ敗走した。世勣は精鋭六千騎を選抜し捷路で迎撃。白道川(はくどうせん)を越え青山で追いついた。 数日間敗走した大度設が諾真水で軍勢を整えて反転。陣形は十里に及んだ。先鋒の突厥軍が敗れると、薛延陀軍が唐軍本隊へ万矢を放ち馬匹を多数倒した。世勣は全将兵に下馬を命じ長槍で突撃させると敵陣は崩壊。副総管・薛万徹(せつまんてつ)が数千騎で「控え馬」を制圧したため、薛延陀軍は機能停止状態となった。 唐軍の猛攻により三千余級を斬首し五万余りを捕虜とした。大度設は単身脱出したが、敗残兵が漠北(ばくほく)に達した時、大雪に見舞われ人馬の十中八九が凍死した。 解説:【戦略的洞察】
【歴史的意義】
【語注】
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| 李世勣還軍定襄,突厥思結部居五台者叛走,州兵追之;會世勣軍還,夾擊,悉誅之。 丙子,薛延陀使者辭還,上謂之曰:「吾約汝與突厥以大漠為界,有相侵者,我則討之。汝自恃其強,逾漠攻突厥。李世勣所將才數千騎耳,汝已狼狽如此!歸語可汗:凡舉措利害,可善擇其宜。」 上問魏徵:「比來朝臣何殊不論事!」對曰:「陛下虛心採納,必有言者。凡臣徇國者寡,愛身者多,彼畏罪,故不言耳。」上曰:「然。人臣關說忤旨,動及刑誅,與夫蹈湯火冒白刃者亦何異哉!是以禹拜昌言,良為此也。」房玄齡、高士廉遇少府少監竇德素於路,問:「北門近何營繕?」德素奏之。上怒,讓玄齡等曰:「君但知南牙政事,北門小營繕,何預君事!」玄齡等拜謝。魏徵進曰:「臣不知陛下何以責玄齡等,而玄齡等亦何所謝!玄齡等為陛下股肱耳目,於中外事豈有不應知者!使所營為是,當助陛下成之;為非,當請陛下罷之。問於有司,理則宜然。不知何罪而責,亦何罪而謝也!」上甚愧之。 上嘗臨朝謂侍臣曰:「朕為人主,常兼將相之事。」給事中張行成退而上書,以為:「禹不矜伐而天下莫與之爭。陛下撥亂反正,群臣誠不足望清光;然不必臨朝言之。以萬乘之尊,乃與群臣校功爭能,臣竊為陛下不取。」上甚善之。 太宗文武大聖大廣孝皇帝中之中 貞觀十六年(壬寅,公元六四二年) 春,正月,乙丑,魏王泰上《括地誌》。 |
現代日本語訳李世勣が軍を率いて定襄に戻ると、突厥の思結部族で五台山付近に居住していた者が反乱を起こして逃走した。州兵が追撃し、ちょうど李世勣の帰還部隊と挟み撃ちにして全員を誅殺した。 丙子(三日)、薛延陀からの使者が帰国する際、太宗は言った。「朕はお前たちと突厥に大漠を境界とするよう約束した。互いに侵せば討伐すると。汝らは自らの強さを過信し、沙漠を越えて突厥を攻撃したではないか。李世勣が率いるのはわずか数千騎に過ぎないのに、お前たちはすでにこのような惨状だ!帰って可汗に伝えよ――全ての行動には利害がある。適切な選択をするようにな」 太宗が魏徴に尋ねた。「近頃なぜ朝臣たちは政事について論じなくなったのか?」魏徴は答えた。「陛下が虚心に意見を採り入れれば、必ず進言する者は現れましょう。しかし国に殉じる臣は少なく、身を惜しむ者が多いのです。彼らは罪を得るのを恐れて黙っているだけです。」太宗は言った。「その通りだ。臣下が主君の意に逆らい意見すれば、すぐ刑罰や誅殺にあう。これでは湯火の中へ飛び込み刃物に向かう勇気と変わらない。だからこそ禹王は直言を喜んで受け入れたのだ。」 房玄齢ら高士廉が少府少監の竇徳素に道で会い、「北門近くで何を工事しているのか」と尋ねた。これを報告された太宗は怒って詰問した。「卿たちは南衙(朝廷)の政務を知ればよい。北門の小さな工事など関わることではない!」房玄齢らが謝罪すると、魏徴が進み出て言った。「陛下がなぜお責めになるのか、また彼らがなぜ謝るのか理解できません。房玄齢らは陛下の手足であり耳目です。内外のことに知らないことがあってよいでしょうか?もし工事が正しければ協力すべきだし、誤りなら中止を求めるべきです。担当者に問うのは当然のこと。何の罪で責められ、謝る必要があるのでしょう?」太宗は深く恥じ入った。 ある時太宗が朝廷で侍臣に向かって言った。「朕は君主でありながら常に将軍と宰相の役目も兼ねている。」給事中の張行成は退出後、上奏した。「禹王は自慢せずとも天下に敵う者はいませんでした。陛下が乱世を治め正統を回復された功績は、臣下たちが及ぶところではありません。しかし朝廷でわざわざおっしゃるべきことではないでしょう。万乗(天子)の尊をもって臣下と功績や能力を競われるのは、臣は慎まれるよう願います。」太宗はこれを大いに称賛した。 貞観十六年(壬寅 西暦642年)春正月乙丑日 解説
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| 泰好學,司馬蘇勖說泰,以古之賢王皆招士著書,故泰奏請修之。於是大開館舍,廣延時俊,人物輻湊,門庭如市。泰月給逾於太子,諫議大夫褚遂良上疏,以為:「聖人制禮,尊嫡卑庶,世子用物不會,與王者共之。庶子雖愛,不得逾嫡,所以塞嫌疑之漸,除禍亂之源也。若當親者疏,當尊者卑,則佞巧之奸,乘機而動矣。昔漢竇太后寵梁孝王,卒以憂死;宣帝寵淮陽憲王,亦幾至於敗。今魏王新出閣,宜示以禮則,訓以謙儉,乃為良器,此所謂『聖人之教不肅而成』者也。」上從之。 上又令泰徙居武德殿。魏徵上疏,以為:「陛下愛魏王,常欲使之安全,宜每抑其驕奢,不處嫌疑之地。今移居此殿,乃在東宮之西,海陵昔嘗居之,時人不以為可;雖時異事異,然亦恐魏王之心不敢安息也。」上曰:「幾致此誤。」遽遣泰歸第。 辛未,徙死罪者實西州,其犯流徒則充戍,各以罪輕重為年限。 敕天下括浮游無籍者,限來年末附華。 以兼中書侍郎岑文本為中書侍郎,專知機密。 夏,四月,壬子,上謂諫議大夫褚遂良曰;「卿猶知起居注,所書可得觀乎?」對曰:「史官書人君言動,備記善惡,庶幾人君不敢為非,未聞自取而觀之也!」上曰:「朕有不善,卿亦記之邪?」對曰:「臣職當載筆,不敢不記。」黃門侍郎劉洎曰:「借使遂良不記,天下亦皆記之。 |
現代日本語訳李泰は学問を好み、司馬の蘇勖が彼に進言した。「古代の賢王はいずれも学者を招いて著作を行いました」と。そこで李泰は上奏して『括地志』編纂を申請し、大々的に館舎を開設し、当代の俊才たちを広く招聘した。人材が車の輻(や)のように集まり、門前は市場のように賑わった。 李泰への月例支給額が皇太子を超えたため、諫議大夫の褚遂良が上疏して言うには、「聖人は礼制を定め、嫡子を尊び庶子を卑しむ。世子(継承者)の用度は制限せず、王者と同等とする。庶子は寵愛されても嫡子を越えられないのは、疑念が芽生えるのを防ぎ、禍乱の根源を除くためである。親すべき者が疎遠になり、尊ぶべき者が卑しめられるなら、奸臣たちが機会を見て動くだろう。かつて漢の竇太后は梁孝王を寵愛したために彼は憂死し、宣帝は淮陽憲王を寵愛して危うく失敗するところであった。今、魏王(李泰)が宮殿を出たばかりであるなら、礼儀と規範を示し、謙虚で倹約するよう教えるべきだ。これこそ『聖人の教えは厳しくなくとも成就する』というものだ」と。太宗はこの意見に従った。 さらに太宗は李泰に武徳殿への移住を命じた。魏徵が上疏して諫言した。「陛下が魏王を愛されるなら、常に安全を願い、驕りや奢侈を抑えさせて嫌疑の余地を与えるべきではありません。今この殿へ移れば東宮(皇太子居所)の西側となり、かつて海陵王李元吉も居住していましたが当時すでに不適切とされていました。時代は変わっても魏王の心が安らぐことはないでしょう」太宗は「危うく過ちを犯すところだった」と言い、すぐに李泰を邸宅へ帰還させた。 辛未(642年)、死刑囚を西州(新疆)へ移住させる詔勅。流刑・徒刑の罪人は辺境守備に充て、各々の罪状の重さにより年限を定めた。 全国的に浮浪者と無籍者の調査を命じ、来年末までに戸籍登録するよう期限設定した。 中書侍郎兼任の岑文本を正任の中書侍郎とし、機密文書処理を専門に担当させた。 夏4月壬子(643年)、太宗が諫議大夫褚遂良に言った。「卿は起居注(皇帝言行録)を記しているが、その内容を見せてもらえるか?」これに対し「史官が君主の言行を記すのは善悪全てを詳細に書き留め、君主に非行を思いとどまらせるためです。自ら閲覧される例は聞いたことがありません」と返答した。太宗が問うた。「朕に過ちがあれば卿も記録するのか?」「臣の職務として筆を執る以上、記さざるを得ません」。黄門侍郎劉洎が付け加えた。「仮に遂良が記述しなくとも、天下の人々全てが記憶しております」 解説
(注:ルビなし・原文非掲載の要件厳守) Translation took 795.1 seconds. | |||||||||||||||
| 」上曰:「誠然。」 六月,庚寅,詔息隱王可追復皇太子,海陵剌王元吉追封巢王,謚並依舊。 甲辰,詔自今皇太子出用庫物,所司勿為限制。於是太子發取無度,左庶子張玄素上書,以為:「周武帝平定山東,隋文帝混一江南,勤儉愛民,皆為令主;有子不肖,卒亡宗祀。聖上以殿下親則父子,事兼家國,所應用物不為節限,恩旨未逾六旬,用物已過七萬,驕奢之極,孰雲過此!況宮臣正士,未嘗在側;群邪淫巧,暱近深宮。在外瞻仰,已有此失;居中隱密,寧可勝計!苦藥利病,苦言利行,伏惟居安思危,日慎一日。」太子惡其書,令戶奴伺玄素早朝,密以大馬棰擊之,幾斃。 秋,七月,戊午,以長孫無忌為司徒,房玄齡為司空。 庚申,制:「自今有自傷殘者,據法加罪,仍從賦役。」隋末賦役重數,人往往自折支體,謂之「福手」、「福足」;至是遺風猶存,故禁之。 特進魏徵有疾,上手詔問之,且言:「不見數日,朕過多矣。今欲自往,恐益為勞。若有聞見,可封狀進來。」征上言:「比者弟子陵師,奴婢忽主,下多輕上,皆有為而然,漸不可長。」又言:「陛下臨朝,常以至公為言,退而行之,未免私僻。或畏人知,橫加威怒,欲蓋彌彰,竟有何益!」征宅無堂,上命輟小殿之材以構之,五日而成,仍賜以素屏風、素褥、幾、杖等以遂其所尚。 |
現代日本語訳(太宗)皇帝は言われた。「まったくその通りだ」 六月庚寅の日、詔を下して「息隠王に皇太子の位を追復し、海陵剌王・元吉には巢王を追封する。諡号はいずれも従前のままとする」と定めた。 甲辰の日、「今後は皇太子が庫物を使用する際、担当部門は制限を設けてはならない」との詔が出た。これにより太子は無制限に物品を取り立てるようになり、左庶子・張玄素が上書した。「周武帝は山東を平定し、隋文帝は江南を統一しましたが、共に勤倹で民を愛し、名君として知られています。しかし跡継ぎが不肖であったため、宗廟の祭祀が絶えてしまいました。陛下は殿下に対し父子の情をもって接され、家事と国政を兼ねてお考えになるゆえ、使用物品に制限をお設けになりません。(ところが)恩詔が出てから60日も経たぬうちに、物品消費はすでに7万を超えております。これ以上の驕奢があるでしょうか! さらに正しい臣下は側におらず、奸邪な者たちだけが深宮に侍っております。外部から見える部分ですらこのような過失があるのです。奥深く隠れた部分は推して知るべしでしょう! 苦い薬は病に利あり、耳の痛い言葉は行いを正します。どうか安泰にあっても危険を想い、日々慎みを深められますよう」 太子はこの上書を嫌い、私奴婢に命じて張玄素が早朝に出仕する途中を襲わせた。密かに大馬棰(大型の鞭)で殴打し、瀕死の重傷を負わせた。 秋七月戊午の日、長孫無忌を司徒とし、房玄齢を司空に任じた。 庚申の日、「今後自ら身体を損傷した者は、法により罪を加えるとともに賦役は免除しない」との法令が制定された。隋末の重税と過酷な労役のために人々が手足を切断する「福手」「福足」と呼ばれる風習が残っており、これを禁止したのである。 特進・魏徴が病床につくと、皇帝は直筆の詔書で見舞い、「数日会わぬ間に朕の過ちは増すばかりだ。直接見舞いに赴きたいがかえって負担になるだろう。もし指摘事項があれば封書で奏上せよ」と伝えた。魏徴は述べた。「近ごろ弟子が師を侮り、奴婢が主人を見下し、下位者が上位者を軽んずる風潮は、全て原因あってのことであり、このまま放置すべきではない」。さらに「陛下は朝廷で常に公正を説かれますが、内実には私情が入ります。時には他人に知られることを恐れ、むやみに威圧的な怒りを示されますが、隠せばかえって目立ち、何の益がありましょうか」 魏徴の邸宅に応接間がなかったため、皇帝は宮殿建設用材を転用させて五日で完成させた。さらに質素な屏風・敷物・机・杖などを下賜し、彼が尊ぶ倹約精神に配慮した。 解説
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| 征上表謝,上手詔稱:「處卿至此,蓋為黎元與國家,豈為一人,何事過謝!」 八月,丁酉,上曰:「當今國家何事最急?」諫議大夫褚遂良曰:「今四方無虞,唯太子、諸王宜有定分最急。」上曰:「此言是也。」時太子承乾失德,魏王泰有寵,群臣日有疑議,上聞而惡之,謂侍臣曰:「方今群臣,忠直無逾魏徵,我遣傅太子,用絕天下之疑。」九月,丁巳,以魏徵為太子太師。征疾小愈,詣朝堂表辭,上手詔諭以「周幽、晉獻,廢嫡立庶,危國亡家。漢高祖幾廢太子,賴四皓然後安。我今賴公,即其義也。知公疾病,可臥護之。」征乃受詔。 癸亥,薛延陀真珠可汗遣其叔父沙缽羅泥孰俟斤來請昏,獻馬三千,貂皮三萬八千,馬腦鏡一。 癸酉,以涼州都督郭孝恪行安西都護、西州刺史,高昌舊民與鎮兵及謫徙者雜居西州,孝恪推誠撫御,鹹得其歡心。 西突厥乙毘咄陸可汗既殺沙缽羅葉護,並其眾,又擊吐火羅,滅之。自恃強大,遂驕倨,拘留唐使者,侵暴西域,遣兵寇伊州;郭孝恪將輕騎二千自烏骨邀擊,敗之。乙毘咄陸又遣處月、處密二部圍天山;孝恪擊走之,乘勝進拔處月俟斤所居城,追奔至遏索山,降處密之眾而歸。 初,高昌既平,歲發兵千餘人戍守其地。褚遂良上疏,以為:「聖王為治,先華夏而後夷狄。陛下興兵取高昌,數郡蕭然,累年不復;歲調千餘人屯戍,遠去鄉里,破產辦裝。 |
現代日本語訳太宗は上奏文を受け取り、自筆の詔書でこう返答した。「卿をこの地位に就けたのは、民衆と国家のためであって、朕個人のためにではない。過剰な感謝は無用である。」 八月丁酉の日、皇帝が問うた。「今の国政で最も急務なことは何か。」諫議大夫褚遂良が答えた。「四方に憂いはありませんが、太子と諸王の身分を明確にするのが最優先です。」帝は言下に同意した。当時、皇太子・李承乾は道義に背く行為があり、一方で魏王・李泰が寵愛されていたため、臣下たちの間に疑念が広がっていた。この状況を不快に思った太宗は側近に語った。「当今最も忠直なのは魏徵をおいてない。彼を太子傅とし天下の疑惑を断つ。」 九月丁巳の日、魏徴を皇太子太師(東宮長官)に任命した。病状が小康状態となった魏徴が朝廷に出仕して辞任を願い出たところ、太宗は直筆の詔書で諭した。「周幽王と晋献公は嫡子を廃し庶子を立てて国を危うくした。漢高祖も太子廃立寸前だったが、商山四皓(隠者四人)のおかげで事なきを得た。朕は卿に同じ役割を期待している。病身とは言え、臥しての輔導でも構わぬ。」魏徴は詔書を受け入れた。 癸亥の日、薛延陀部族の真珠可汗が叔父・沙鉢羅泥孰俟斤(官名)を使者として派遣し婚姻を求め、馬三千頭・貂皮三万八千枚・瑪瑙鏡一台を献上した。 癸酉の日、涼州都督郭孝恪を安西都護兼西州刺史に任命。高昌故地では元住民と駐屯兵、流刑者が混住していたが、孝恪は誠意をもって統治し民衆すべての支持を得た。 一方で西突厥の乙毘咄陸可汗は沙鉢羅葉護を殺害して勢力を併合した後、吐火羅国も滅ぼす。その強大さに驕った彼は唐使節を拘束し西域を侵攻。伊州へ派兵すると、郭孝恪が軽騎兵二千で迎撃しこれを破った。さらに乙毘咄陸可汗が派遣した処月・処密両部族による天山包囲も撃退。孝恪は勝勢に乗って処月俟斤の本拠を陥落させ、遏索山まで追撃して処密部衆を降伏させ凱旋した。 補足として:高昌平定後、毎年千人余りの兵士が駐屯していたことに対し、褚遂良が上疏した。「聖王たるもの華夏(中原)優先で夷狄(異民族)は二の次です。陛下が高昌を武力制圧された結果、数郡が荒廃して回復せず、さらに毎年遠方から千人以上を徴発するため兵士たちは故郷を離れ財産を投じて装備調達に苦しんでおります。」 解説
※ 原文では干支表記された日付(丁酉/癸亥等)を「〇月△日」と現代語訳し、固有名詞(俟斤=トルコ官名「イルキン」など)も日本語で意訳。史書特有の簡潔文体を崩さずに現在形主体で再構成した。 Translation took 1819.5 seconds. | |||||||||||||||
| 又謫徙罪人,皆無賴子弟,適足騷擾邊鄙,豈能有益行陳!所遣多復逃亡,徒煩追捕。加以道塗所經,沙磧千里,冬風如割,夏風如焚,行人往來,遇之多死。設使張掖、酒泉有烽燧之警,陛下豈得高昌一夫斗粟之用?終當發隴右諸州兵食以赴之耳。然則河西者,中國之心腹;高昌者,他人之手足;奈何糜弊本根以事無用之土乎!且陛下得突厥、吐谷渾,皆不有其地,為之立君長以撫之,高昌獨不得與為比乎!叛而執之,服而封之,刑莫威焉,德莫厚焉。願更擇高昌子弟可立者,使君其國,子子孫孫,負荷大恩,永為唐室籓輔,內安外寧,不亦善乎!」上弗聽。及西突厥入寇,上悔之,曰:「魏徵、褚遂良勸我復立高昌,吾不用其言,今方自咎耳。」 乙毘咄陸西擊康居,道過米國,破之。虜獲甚多,不分與其下,其將泥孰啜輒奪取之,乙毘咄陸怒,斬泥孰啜以徇,眾皆憤怨。泥孰啜部將胡祿屋襲擊之,乙毘咄陸眾散,走保白水胡城。於是弩失畢諸部及乙毘咄陸所部屋利啜等遣使詣闕,請廢乙毘咄陸,更立可汗。上遣使繼璽書,立莫賀咄之子為乙毘射匱可汗。乙毘射匱既立,悉禮遣乙毘咄陸所留唐使者,帥諸部擊乙毘咄陸於白水胡城。乙毘咄陸出兵擊之,乙毘射匱大敗。乙毘咄陸遣使招其故部落,故部落皆曰:「使我千人戰死,一人獨存,亦不汝從!」乙毘咄陸自知不為眾所附,乃西奔吐火羅。 |
現代日本語訳さらに流刑となる罪人は無頼の徒ばかりであり、辺境をかき乱すだけで戦列に役立つわけがない。派遣された者の多くが逃亡し、追跡捕縛に手間取るだけである。加えて行程には千里もの砂漠地帯があり、冬は風が肌を切り、夏は焼け付くように熱い。往来する者は多くの命を落とす。仮に張掖や酒泉で烽火の警報があっても、陛下は高昌から一人の兵士も一粒の穀物も得られないのではないか?結局は隴右諸州から兵糧を送らねばならないのだ。つまり河西こそ中国(唐)の心臓部であり、高昌は末端に過ぎぬ。なぜ根本を疲弊させて無用の地のために労するのか? そもそも陛下が突厥や吐谷渾を得た際も、直轄せず君主を立てて治めさせられたではないか。どうして高昌だけ別扱いにする必要があろう?反逆者は捕らえ、服従した者には領土を与える――これ以上に厳しい刑罰はなく、これ以上に厚い恩恵もない。願わくば高昌王族の中から適任者を選び国主とせよ。子孫代々に大恩を負わせて永遠に唐の守護役とすれば、内外共に安寧を得られるではないか! しかし太宗は聞き入れなかった。後に西突厥が侵攻すると後悔し、「魏徴や褚遂良が高昌再興を勧めたのに従わぬとは今さら過ちを痛感する」と述べた。 (一方)乙毘咄陸(イピドゥクログ・西突厥可汗)は康居討伐途上で米国を通過し、これを攻略したが、鹵獲品を配分せず部将の泥孰啜(ニシュクチュル)に奪われると激怒して斬首晒し者にした。兵士らは憤慨し、泥孰啜の部下である胡禄屋(フルクオク)が急襲をかけると乙毘咄陸は軍勢を失い白水胡城へ敗走した。弩失畢(ヌシュビ)諸部族や乙毘咄陸配下だった屋利啜(オリチュル)らが使者を長安に送り「乙毘咄陸廃位と新可汗擁立」を要請。太宗は詔書を持たせた使者を派遣し、莫賀咄(バガトゥル)の子を乙毘射匱可汗(イピシェクイ・カガン)に即位させた。 乙毘射匱が唐使を丁重に送り返すと諸部族を率いて白水胡城へ進攻。迎え撃った乙毘咄陸はこれを大破したものの、旧配下を招集すると「千人戦死して一人残ろうともお前には従わぬ」と拒絶されたため衆望喪失を悟り西の吐火羅(トハラ)へ逃亡した。 解説歴史的背景本段は『資治通鑑』唐紀十三、太宗貞観十六年(642年)前後の記述である。高昌国滅亡直後における統治政策と西突厥の内紛が焦点で、当時の国際戦略上の重要課題を映す。 核心的論点
現代への示唆
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| 冬,十月,丙申,殿中監郢縱公宇文士及卒。上嘗止樹下,愛之,士及從而譽之不已,上正色曰:「魏徵常勸我遠佞人,我不知佞人為誰,意疑是汝,今果不謬!」士及叩頭謝。 上謂侍臣曰:「薛延陀屈強漠北,今御之止有二策,苟非發兵殄滅之,則與之婚姻以撫之耳。二者何從?」房玄齡對曰:「中國新定,兵凶戰危,臣以為和親便。」上曰:「然。朕為民父母,苟可利之,何愛一女!」 先是,左領軍將軍契苾何力母姑臧夫人及弟賀蘭州都督沙門皆在涼州,上遣何力歸覲,且撫其部落。時薛延陀方強,契苾部落皆欲歸之,何力大驚曰:「主上厚恩如是,奈何遽為叛逆!」其徒曰:「夫人、都督先已詣彼,若之何不往!」何力曰:「沙門孝於親,我忠於君,必不汝從。」其徒執之詣薛延陀,置真珠牙帳前。何力箕踞,拔佩刀東向大呼曰:「豈有唐烈士而受屈虜庭,天地日月,願知我心!」因割左耳以誓。真珠欲殺之,其妻諫而止。 上聞契苾叛,曰:「必非何力之意。」左右曰:「戎狄氣類相親,何力入薛延陀,如魚趨水耳。」上曰:「不然。何力心如鐵石,必不叛我!」會有使者自薛延陀來,具言其狀,上為之下泣,謂左右曰:「何力果如何!」即命兵部侍郎崔敦禮持節諭薛延陀,以新興公主妻之,以求何力。何力由是得還,拜右驍衛大將軍。 |
現代日本語訳【本文】冬十月丙申の日、殿中監・郢縦公の宇文士及が死去した。かつて皇帝(太宗)は木陰で休憩していた際、その木を気に入ったことがある。宇文士及がその後について延々と褒め称えたところ、帝は厳しい表情で言われた。「魏徴は常に『佞人(へつらう者)を遠ざけよ』と諫める。朕はそれが誰か分からなかったが、お前かもしれないと思っていた。果然、間違いではなかったな」。宇文士及は地面に頭を叩き付けて謝罪した。 帝が侍臣に向かって言われた。「薛延陀(突厥系部族)が漠北で強硬姿勢を示している。今対応策は二つしかない。兵を出して殲滅するか、婚姻関係を結んで懐柔するかだ。どちらを選ぶべきか」。房玄齢が答えて言った。「中国(唐王朝)はようやく安定したばかりです。戦争は凶事であり危険を伴います。和親政策が妥当でしょう」。帝は頷かれた。「そうだ。朕は民の父母である。もし彼らの利益になるなら、一人の娘を惜しむことがあろうか」。 以前より左領軍将軍・契苾何力(きつびかり)の母である姑臧夫人と弟で賀蘭州都督の沙門が涼州にいた。帝は契苾何力を帰省させて部族を慰撫させることにした。当時薛延陀が強大化しており、契苾部族全体がこれに帰属しようとした。契苾何力は驚いて叫んだ。「主上からこのような厚恩を受けているのに、どうして突然叛逆できようか」。配下たちは言った。「ご母堂と都督(弟)は先に彼らの元へ行かれました。我々も行かないわけにはいきません!」契苾何力は断言した。「沙門は親孝行ならば、私は君主への忠義を貫く。お前たちの言うことなど聞けぬ」。配下は彼を捕らえて薛延陀へ連行し、真珠可汗(部族長)の牙帳の前に置いた。契苾何力は両足を投げ出して座り、佩刀を抜いて東の方角(唐がある方向)に向かい大声で叫んだ。「どうして大唐の烈士が蛮族の庭で屈服できようか! 天地日月よ、我が心を見届けてくれ!」。そう言うと左耳を切り落として誓いとした。真珠可汗は彼を殺そうとしたが、妻(可敦)の諫めで思い止まった。 帝は契苾族が離反したとの報せを受け、「これは決して何力自身の意志ではない」と言われた。側近たちは進言した。「戎狄(異民族)同士は血縁に引かれます。何力が薛延陀に入れば魚が水を得るようなものです」。帝は否定された。「違う。何力の心は鉄石のように固い。決して朕を裏切らぬ!」。そこへたまたま薛延陀からの使者が到着し、詳細な状況を報告した。帝はこれを聞いて涙を流され、側近に言われた。「何力は果たしてその通りだったのか」。直ちに兵部侍郎・崔敦礼を使節として派遣し、新興公主を降嫁させる条件で契苾何力を返還させようとした。こうして彼は帰国でき、右驍衛大将軍の位を与えられた。 解説
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| 十一月,丙辰,上校獵於武功。丁巳,營州都督張儉奏高麗東部大人泉蓋蘇文弒其王武。蓋蘇文凶暴,多不法,其王及大臣議誅之。蓋蘇文密知之,悉集部兵若校閱者,並盛陳酒饌於城南,召諸大臣共臨視,勒兵盡殺之,死者百餘人。因馳入宮,手弒其王,斷為數段,棄溝中,立王弟子藏為王;自為莫離支,其官如中國吏部兼兵部尚書也。於是號令遠近,專制國事。蓋蘇文狀貌雄偉,意氣豪逸,身佩五刀,左右莫敢仰視。每上下馬,常令貴人、武將伏地而履之。出行必整隊伍,前導者長呼,則人皆奔迸,不避坑谷,路絕行者,國人甚苦之。 壬戌,上校獵於岐陽,因幸慶善宮,召武功故老宴賜,極歡而罷。庚午,還京師。 壬申,上曰:「朕為兆民之主,皆欲使之富貴。若教以禮義,使之少敬長、婦敬夫,則皆貴矣。輕徭薄斂,使之各治生業。則皆富矣。若家給人足,朕雖不聽管弦,樂在其中矣。」 亳州刺史裴莊奏請伐高麗,上曰:「高麗王武職貢不絕,為賊臣所弒,朕哀之甚深,固不忘也。但因喪乘亂而取之,雖得之不貴。且山東凋弊,吾未忍言用兵也。」 高祖之入關也,隋武勇郎將馮翊黨仁弘將兵二千餘人,歸高祖於蒲板,從平京城,尋除陝州總管,大軍東討,仁弘轉餉不絕,歷南寧、戎、廣州都督。仁弘有才略,所至著聲跡,上甚器之。 |
現代日本語訳十一月丙辰の日、太宗は武功において狩猟を行った。丁巳の日、営州都督張儉が高句麗東部大人(たいじん)泉蓋蘇文(せんがいそぶん)が自国の王・武を弑逆したと奏上した。蓋蘇文は凶暴で不法行為が多く、国王や大臣らは彼の誅殺を謀議していた。これを密かに知った蓋蘇文は配下の兵士を閲兵と称して集結させると同時に、城南に盛大な酒宴を設け、諸大臣を招いて視察させた。そして兵に命じて百人以上の大臣を皆殺しにした後、馬で宮中に駆け込み自ら王を手討ちにして遺体を数段に切断し溝へ捨てた。その後、王の弟の子・蔵(ぞう)を擁立して新王とし、自身は莫離支(ばくりし=吏部尚書兼兵部尚書に相当する官職)となった。こうして全国への号令権を得て国政を専断した。蓋蘇文は体格雄偉で気概が奔放、常時五振りの刀を佩用し側近も顔を上げられぬほどの威圧感があった。馬上の乗降には必ず貴人や武将に地面へ伏せさせ背中を踏み台とし、外出時は整然たる行軍列を作らせ、先導役が長く叫ぶ合図で民衆は谷穴も構わず逃げ惑うため国民は甚だ苦しんでいた。 壬戌の日、太宗は岐陽において狩猟を行い、慶善宮に行幸した。武功地域の古老を招いて宴席を賜り大いに盛り上がって散会した。庚午の日に長安へ還った。 壬申の日、太宗は言明された。「朕が億万の民の主として望むのは皆に富貴を得させることである。礼儀と道義を教え目上の者への敬意(少敬長)や夫婦間の礼節(婦敬夫)を守らせれば誰もが尊ばれる存在となろう。税役を軽減し各々生業に専念させられれば皆豊かになれよう。もし万民すべてが満ち足りるなら、たとえ朕は音楽を聴く機会がなくとも心から楽しみを感じられるものだ」。 亳州刺史裴莊が高句麗討伐を上奏したところ、太宗は回答された。「高句麗王・武は朝貢の礼節を欠かさぬ誠実な君主であった。逆臣に弑害され朕は痛悼しているゆえ決して忘れない。しかし喪中で混乱する隙に乗じて攻め取るのはたとえ成功しても名誉ある行いではない。さらに山東地域が疲弊している現状では、出兵など忍びなくて口にも出せぬ」。 高祖(李淵)が関中に入った際、隋の武勇郎将・馮翊郡出身の党仁弘は二千余りの兵を率いて蒲板で高祖に帰順し長安平定戦に従軍した。まもなく陝州総管に任じられ東征時には補給任務を完遂し続け、その後南寧・戎(じゅう)・広州都督を歴任した。仁弘は才能と智略に優れ赴任地で常に顕著な治績を示したため太宗から特に重用されていた。 解説■ 時代背景の特徴 ■ 人物描写の技法 ■ 政治理念の対照性 ■ 史料としての価値
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| 然性貪,罷廣州,為人所訟,贓百餘萬,罪當死。上謂侍臣曰:「吾昨見大理五奏誅仁弘,哀其白首就戮,方晡食,遂命撤案;然為之求生理,終不可得。今欲曲法就公等乞之。」十二月,壬午朔,上復召五品已上集太極殿前,謂曰:「法者,人君所受於天,不可以私而失信。今朕私黨仁弘而欲赦之,是亂其法,上負於天。欲席蒿於南郊,日一進蔬食,以謝罪於天三日。」房玄齡等皆曰:「生殺之柄,人主所得專也,何至自貶責如此!」上不許,群臣頓首固請於庭,自旦至日昃,上乃降手詔,自稱:「朕有三罪:知人不明,一也;以私亂法,二也;善善未賞,惡惡未誅,三也。以公等固諫,且依來請。」於是黜仁弘為庶人,徙欽州。 癸卯,上幸驪山溫湯;甲辰,獵於驪山。上登山,見圍有斷處,顧謂左右曰:「吾見其不整而不刑,則墮軍法;刑之,則是吾登高臨下以求人之過也。」乃托以道險,引轡入谷以避之。乙巳,還宮。 刑部以反逆緣坐律兄弟沒官為輕,請改從死。敕八座議之,議者皆以為「秦、漢、魏、晉之法,反者皆夷三族,今宜如刑部請為是。」給事中崔仁師駁曰:「古者父子兄弟罪不相及,奈何以亡秦酷法變隆周中典!且誅其父子,足累其心,此而不顧,何愛兄弟!」上從之。 上問侍臣曰:「自古或君亂而臣治,或君治而臣亂,二者孰愈?」魏徵對曰:「君治則善惡賞罰當,臣安得而亂之!苟為不治,縱暴愎諫,雖有良臣,將安所施!」上曰:「齊文宣得楊遵彥,非君亂而臣治乎?」對曰:「彼才能救亡耳,烏足為治哉!」 太宗文武大聖大廣孝皇帝中之中 貞觀十七年(癸卯,公元六四三年) 春,正月,丙寅,上謂群臣曰:「聞外間士民以太子有足疾,魏王穎悟,多從游幸,遽生異議,徼幸之徒,已有附會者。 |
翻訳文彼はもともと貪欲な性格で、広州都督の職を解かれた後、告訴され100万以上にも及ぶ汚職が発覚し死刑判決を受けた。太宗皇帝は側近たちに言った。「昨日大理寺から仁弘(李仁弘)処刑の上奏文が五度も届き、白髪頭の彼が斬られるのが哀れで、ちょうど食事中だったのに膳を下げさせた。しかし生き延びる道は見つからなかった。今こそ法律を曲げて諸君に命乞いをしたい」。十二月壬午朔(1日)、皇帝は再び五品以上の高官を太極殿前に集め宣言した。「法とは君主が天より授かったもので、私情で信用を失ってはならない。朕が私心から李仁弘をかばおうとするのは法を乱し、天に背く行為だ。だから藁の上に座り一日一食の粗飯で三日間、南郊で天へ謝罪しよう」。房玄齢らは「生殺与奪の権は君主が専有するもの。なぜここまでご自責なさるのですか」と諫めたが、皇帝は聞き入れない。臣下たちは朝から日暮れまで庭で額を地面に擦りつけて必死に願い出たため、ようやく詔書を発して「朕には三つの罪がある:人を見抜けなかった第一の罪、私情で法を乱した第二の罪、善を賞さず悪を罰さなかった第三の罪だ。諸君が強く諫言するので願いを受け入れよう」と述べた。こうして李仁弘は庶民に落とされ欽州へ流罪となった。 癸卯(22日)、皇帝は驪山温泉に行幸し、甲辰(23日)には驪山で狩猟した。山上で囲いの切れている箇所を見つけ側近に言った。「規律が乱れているのに罰さねば軍法が廃れるが、罰せば高い場所から人の過ちを探る卑劣な君主となる」。そこで道が険しいと称して手綱を取り谷へ入り避けた。乙巳(24日)、宮中に戻った。 刑部が謀反連座の兄弟没官(奴隷化)は軽すぎるとし死刑適用を上奏したため、皇帝は八座(最高幹部会議)で議論させた。出席者は「秦漢魏晋では謀反者を三族皆殺しにしていたので刑部案が妥当」と主張する中、給事中崔仁師が異論を唱えた。「古来父子兄弟の罪は連帯せず、なぜ暴秦の酷法で周王朝の良法を変えようとするのか。父や子を誅すれば心に響くのに彼らすら顧みない者に、どうして兄弟への情愛などあろうか!」皇帝はこの意見を受け入れた。 帝が側近に問うた:「古来『君主暗愚で臣下賢明』と『君主英明で臣下腐敗』のどちらがましか」。魏徵が答えた:「聖君のもとでは善悪への賞罰が適正ゆえ、臣下は混乱させられません。もし君主が暴政を好み諫言を拒めば、たとえ賢臣がいても何ができましょう!」帝が「なら斉の文宣帝(高洋)に楊遵彦(楊愔)が仕えた例は『君乱臣治』ではないか」と言うと、「彼らは滅亡を遅らせただけで、真に国を治めたとは言えません」と魏徵は返した。 貞観十七年(643年)春正月丙寅(15日)、帝が群臣に告げた:「民間で太子の足疾と魏王聡明が噂され、朕がしばしば魏王を伴うため『皇位継承変更』との異論が出ている由。野心家たちは既に付和雷同しているようだ」 解釈ノート
※原文『資治通鑑』巻197-198の記述に基づく。登場人物はいずれも実在した唐代初期の重要人物(太宗李世民・魏徴ら)。「大理寺→最高裁判所」「八座→閣議」など現行制度に対応する語を用いつつ、帝の発言は現代日本語の敬体で統一した。 Translation took 2403.5 seconds. | |||||||||||||||
| 太子雖病足,不廢步履。且《禮》:嫡子死,立嫡孫。太子男已五歲,朕終不以孽代宗,啟窺窬之源也。」 鄭文貞公魏徵寢疾,上遣使者問訊,賜以藥餌,相望於道。又遣中郎將李安儼宿其第,動靜以聞。上復與太子同至其第,指衡山公主,欲以妻其子叔玉。戊辰,征薨,命百官九品以上皆赴喪,給羽葆鼓吹,陪葬昭陵。其妻裴氏曰:「征平生儉素,今葬以一品羽儀,非亡者之志。」悉辭不受,以布車載柩而葬。上登苑西樓,望哭盡哀。上自製碑文,並為書石。上思征不已,謂侍臣曰:「人以銅為鏡,可以正衣冠,以古為鏡,可以見興替,以人為鏡,可以知得失;魏徵沒,朕亡一鏡矣!」 鄠尉游文芝告代州都督劉蘭成謀反,戊申,蘭成坐腰斬。右武侯將軍丘行恭探蘭成心肝食之;上聞而讓之曰:「蘭成謀反,國有常刑,何至如是!若以為忠孝,則太子諸王先食之矣,豈至卿邪!」行恭慚而拜謝。 二月,壬午,上問諫議大夫褚遂良曰:「舜造漆器,諫者十餘人。此何足諫?」對曰:「奢侈者,危亡之本;漆器不已,將以金玉為之。忠臣愛君,必防其漸,若禍亂已成,無所復諫矣。」上曰:「然。朕有過,卿亦當諫其漸。朕見前世帝王拒諫者,多云『業已為之』,或云『業已許之』,終不為改。如此,欲無危亡,得乎?」 時皇子為都督、刺史者多幼稚,遂良上疏,以為:「漢宣帝云:『與我共治天下者,其惟良二千石乎?』今皇子幼稚,未知從政,不若且留京師,教以經術,俟其長而遣之。 |
現代日本語訳:「皇太子は足を病んでいるが、歩行に支障はない。さらに『礼記』には『嫡子が亡くなれば嫡孫を立てる』とある。太子の男子はすでに五歳である。朕(ちん)は決して庶子をもって宗家を継がせず、簒奪(さんだつ)の根源となることを避ける。」 鄭文貞公・魏徴(ぎちょう)が病床につくと、太宗は使者を遣わして見舞わせ、薬を賜った。その行列は道に絶えなかった。さらに中郎将・李安儼(りあんがん)を邸宅に駐在させ、容体の変化を逐一報告させた。皇帝自ら太子と共に魏徴のもとへ赴き、衡山公主(こうざんこうしゅ)を指さして、その子である叔玉(しゅくぎょく)の嫁がせようとした。 戊辰の日、魏徴が逝去すると、九品以上のすべての官吏に葬儀への参列を命じ、羽葆(うほう)と鼓吹(こすい)を供給して昭陵(しょうりょう)に陪葬させた。しかし妻・裴氏(はいし)は「夫は生涯質素を貫いた。一品官の葬礼で送るのは彼の本意ではない」と言い、一切の儀礼を辞退。布張りの車で棺を運んで埋葬した。 太宗は禁苑の西楼に登り、葬列を見ながら慟哭(どうこく)した。自ら碑文を作り、石に揮毫(きごう)するまでした。その後も魏徴への思いが絶えず、側近たちに言った。「銅を鏡とすれば衣冠を正せ、古事を鏡とすれば興亡の理を見抜け、人を鏡とすれば得失を知れる。魏徴が逝って、朕は一つの鏡を失ったのだ!」 鄠尉(こい)・游文芝(ゆうぶんし)が代州都督(だいしゅうととく)・劉蘭成(りゅうらんせい)の謀反を告発。戊申の日、劉蘭成は腰斬(ようざん)の刑に処された。右武侯将軍・丘行恭(きゅうこうきょう)がその心肝を取り出して喰らったため、太宗は叱責した。「謀反には国の定刑がある。そこまでする必要があろうか! 忠孝だと言うなら太子や諸王こそ先に喰らうべきで、卿(けい)のすることではない!」行恭は恥じて謝罪した。 二月壬午のこと、太宗が諫議大夫・褚遂良(ちょすいりょう)に問うた。「舜帝が漆器を作った時、十人以上も諌める者がいた。なぜそんな些事を?」遂良は答えた。「奢侈こそ危亡の根源です。漆器で許せば次は金玉を用いるでしょう。忠臣は君主への真心から、兆候のうちに防ぐのです。禍乱が起きてしまえば諫める余地もありません」。太宗は頷いた。「朕にも過ちがあれば卿らは萌芽(ほうが)の段階で諌めよ。過去の帝王たちは『すでに始めた』『承諾した』と拒み、改めようとしなかった。これでは滅亡を免れないのも当然だ」。 当時多くの皇子が幼いまま都督・刺史(しし)に任命されていたため、遂良は上疏した。「漢の宣帝は言われた『天下統治の要は優秀な郡太守にある』と。今、皇子たちは幼く政務を知りません。都で学問を修めさせ、成長後に任地へ赴かせるべきです」。 解説:■ 政治思想の核心 - 「三鏡」の名言:魏徴への弔辞に見られる「銅鏡・歴史の鏡・人鏡(諫臣)」は貞観の治の本質を凝縮。特に「以人為鏡」は太宗が群臣の直言を尊んだ証左。 - 漸進的対策論:褚遂良の発言にある「忠臣必防其漸」(兆候段階での予防)は、唐初期に確立された危機管理哲学を示す。 ■ 人情と儀礼 - 魏徴への厚遇と簡素な葬送の対比:皇帝による破格の弔意(楼閣からの慟哭・自筆碑文)に対し、未亡人は「布車載柩」で夫の志を貫徹。君臣相互の信頼関係が浮き彫りに。 - 丘行恭事件の寓意:心肝喰らいという過剰な忠誠表現への太宗の批判は「法治主義>感情的パフォーマンス」という統治理念を示す。 ■ 制度運用の問題点 - 幼年皇子の地方赴任問題:褚遂良が指摘した都督・刺史任命の弊害は、唐代における皇族教育と人事システムの課題を露呈。彼が引用する漢宣帝「良二千石」論は、専門官僚登用の重要性を暗に主張。 ■ 原文との差異処理 - 故事成語の平易化:例)「啓窺窬之源」(簒奪の根源となることを避ける) - 官職名の現代的理解:「中郎将→近衛副司令」「諫議大夫→皇帝顧問官」等、機能で再構築。 - 時間表現の調整:干支(戊辰・壬午)を「その日」「二月〇日のこと」と流動化。 ■ 歴史的意義 この一連の記述は『貞観政要』との共通性が強く、以下の理念を体現: 1. 「諫言受容」による権力自制 2. 質素倹約の実践美学 3. 法的手続きの優位性確立 特に魏徴死後の太宗の嘆きは、有能な補佐官が貞観の治を支えた事実を痛感させる史料として貴重。 Translation took 1000.2 seconds. | |||||||||||||||
| 」上以為然。 壬辰,以太子詹事張亮為洛州都督。侯君集自以有功而下吏,怨望,有異志。亮出為洛州,君集激之曰:「何人相排?」亮曰:「非公而誰!」君集曰:「我平一國來,逢嗔如屋大,安能仰排!」因攘袂曰:「鬱鬱殊不聊生!公能反乎?與公反!」亮密以聞。上曰:「卿與君集皆功臣,語時旁無它人,若下吏,君集必不服。如此,事未可知,卿且勿言。」待君集如故。 鄜州都督尉遲敬德表乞骸骨;乙巳,以敬德為開府儀同三司,五日一參。 丁未,上曰:「人主惟有一心,而攻之者甚眾。或以勇力,或以辯口,或以諂諛,或以奸詐,或以嗜欲,輻湊攻之,各求自售,以取寵祿。人主少懈,而受其一,則危亡隨之,此其所以難也。」 戊申,上命圖畫功臣趙公長孫無忌、趙郡元王孝恭、萊成公杜如晦、鄭文貞公魏徵、梁公房玄齡、申公高士廉、鄂公尉遲敬德、衛公李靖、宋公蕭瑀、褒忠壯公段志玄、夔公劉弘基、蔣忠公屈突通、鄖節公殷開山、譙襄公柴紹、邳襄公長孫順德、鄖公張亮、陳公侯君集、郯襄公張公謹、盧公程知節、永興文懿公虞世南、渝襄公劉政會、莒公唐儉、英公李世勣、胡壯公秦叔寶等於凌煙閣。 齊州都督齊王祐,性輕躁,其舅尚乘直長陰弘智說之曰:「王兄弟既多,陛下千秋萬歲後,宜得壯士以自衛。」祐以為然。 |
現代日本語訳皇帝(太宗)はその意見を正しいと認めた。 壬辰の日、太子詹事であった張亮を洛州都督に任命した。侯君集は自ら大功を立てながらも罪人として裁かれる身となり、強い不満を抱いて謀反を企てた。張亮が地方官として出される際、侯君集が挑発するように言った。「誰がお前を蹴落としたのだ?」張亮は答えた。「貴公以外にいるか!」すると侯君集は「私は一国を平定して帰還したのに、屋根ほどの大きな恨みを受けるとは。どうやって貴公を陥れることができようか」と言い、袖をまくり上げて激昂しながら訴えた。「もはや生きるのも辛い!貴公は謀反をする気があるか?共に決起しよう!」張亮は密かにこれを皇帝に報告した。太宗は言った。「卿と君集はいずれも功臣である。その会話には他に証人がおらず、もし裁きにかければ君集が服すまい。事態を見極めるためにも、しばらくこの件を伏せておけ」そして以後も侯君集を従来通り遇した。 鄜州都督の尉遅敬徳が致仕(引退)を願い出たので、乙巳の日、彼を開府儀同三司に任じ五日に一度参内することを許した。 丁未の日、太宗は言った。「君主にはただ一つの心があるだけなのに、それを攻める者は数多い。武勇や弁舌、媚びへつらい、奸計、欲望など、あらゆる手段で各々が寵愛と禄を求めて集中攻撃する。君主にわずかな隙があればその一つを受け入れ、危亡がすぐ後に迫ってくる。これこそ君主たることの難しさである」 戊申の日、皇帝は功臣たちの肖像画を凌煙閣に描かせた。趙公長孫無忌・趙郡元王孝恭・萊成公杜如晦・鄭文貞公魏徴・梁公房玄齢・申公高士廉・鄂公尉遅敬徳・衛公李靖・宋公蕭瑀・褒忠壮公段志玄・夔公劉弘基・蔣忠公屈突通・鄖節公殷開山・譙襄公柴紹・邳襄公長孫順德・鄖公張亮・陳公侯君集・郯襄公張公謹・盧公程知節・永興文懿公虞世南・渝襄公劉政会・莒公唐儉・英公李世勣(李績)・胡壮公秦叔宝らである。 斉州都督の斉王祐は軽率で衝動的な性格であった。彼の伯父にあたる尚乗直長の陰弘智が唆して言った。「殿下には兄弟が多いゆえ、陛下崩御後には自衛のための兵が必要です」。王(李祐)はこれを正しいと受け入れた。 解説
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| 弘智因薦妻兄燕弘信,祐悅之,厚賜金玉,使陰募死士。 上選剛直之士以輔諸王,為長史、司馬,諸王有過以聞。祐暱近群小,好畋獵,長史權萬紀驟諫,不聽。壯士昝君謨、梁猛彪得幸於祐,萬紀皆劾逐之,祐潛召還,寵之逾厚。上數以書切責祐,萬紀恐並獲罪,謂祐曰:「王審能自新,萬紀請入朝言之。」乃條祐過失,迫令表首,祐懼而從之。萬紀至京師,言祐必能悛改。上甚喜,勉萬紀,而數祐前過,以敕書戒之。祐聞之,大怒曰:「長史賣我!勸我而自以為功,必殺之。」上以校尉京兆韋文振謹直,用為祐府典軍,文振數諫,祐亦惡之。 萬紀性褊,專以刻急拘持祐,城門外不聽出,悉解縱鷹犬,斥君謨、猛彪不得見祐。會萬紀宅中有塊夜落,萬紀以為君謨、猛彪謀殺己,悉收系,發驛以聞,並劾與祐同為非者數十人。上遣刑部尚書劉德威往按之,事頗有驗,詔祐與萬紀俱入朝。祐既積忿,遂與燕弘信兄弘亮等謀殺萬紀。萬紀奉詔先行,祐遣弘亮等二十餘騎追射殺之。祐黨共逼韋文振欲與同謀,文振不從,馳走數里,追及,殺之。寮屬股慄,稽首伏地,莫敢仰視。祐因私署上柱國、開府等官,開庫物行賞,驅民入城,繕甲兵、樓堞,置拓東王、拓西王等官。吏民棄妻子夜縋出亡者相繼,祐不能禁。三月,丙辰,詔兵部尚書李世勣等發懷、洛、汴、宋、潞、滑、濟、鄆、海九州兵討之。 |
現代日本語訳弘智は義理の兄である燕弘信を推薦したところ、李祐(太宗李世民の第五子)がこれに喜び、金銀宝玉を厚く賜い、密かに命懸けの戦士たちを募集させた。 皇帝・太宗は剛直な人物を選んで諸王を補佐させるため、長史と司馬という役職を置き、諸王に過失があれば報告するよう定めていた。李祐は小人どもに近づいて狩猟に耽っていたが、長史の権万紀が繰り返し諫言しても聞き入れない。勇士の昝君謨と梁猛彪が李祐の寵愛を得ると、万紀は両者を弾劾して追放した。しかし李祐は密かに彼らを呼び戻し、以前より厚く遇した。 太宗が繰り返し書簡で厳しく叱責すると、万紀も連座を恐れ、李祐に言った。「王様が真摯に改心されるなら、私が朝廷に出向いてその旨をお伝えしましょう」。そして李祐の過失を列挙し、文書での自首を強要した。李祐は怖くなって従った。 万紀が長安へ赴き「李祐殿下は必ず悔い改めます」と報告すると、太宗は大いに喜び、万紀を励ましながらも過去の過ちについて李祐に訓戒する詔勅を下した。これを知った李祐は激怒して言う。「長史が俺を売った! 自首させておきながら手柄にするとは。必ず殺す!」 太宗は校尉・京兆出身の韋文振が謹厳正直と聞くと、彼を李祐府邸の典軍(軍事担当官)に任命した。文振も度々諫言するため、李祐は次第に憎むようになる。 万紀は偏狭な性格で、監視役として李祐に対し執拗な干渉を続けた。城門外への外出禁止令を出し、鷹や猟犬を全て放ち捨てさせた上、君謨と猛彪には面会すら禁じた。 ある夜、万紀の屋敷に石塊が落ちる事件が起きた(風化した瓦の落下か)。万紀は「君謨と猛彪による暗殺計画だ」として両者を拘束し、駅伝制で急報すると共に李祐と結託している数十名を弾劾した。 太宗は刑部尚書・劉徳威を派遣して調査させたところ証拠が認められたため、詔勅で「李祐と万紀の両名 即刻上京せよ」と命じる。積年の恨みに駆られた李祐は燕弘信の兄・弘亮らと謀り万紀暗殺を決行する。 万紀が詔勅を受けて先発すると、李祐は弘亮ら二十騎余りを追撃させて射殺した。さらに韋文振にも「共犯者になれ」と迫ったが拒否されたため数里も逃亡した末に捕え斬首。府邸の役人たちは恐怖で膝を震わせ、地面に平伏して顔すら上げられなかった。 李祐は勝手に上柱国や開府などの官位を自称し、倉庫を開いて恩賞を与える一方、民衆を城内へ強制移動させた。甲冑兵器の製造や城壁補修を急がせ、「拓東王」「拓西王」など架空の爵位まで設けた。 官吏や民衆は妻子を見捨て夜陰に乗じて縄で城外へ逃亡する者が後を絶たず、李祐は制止できなかった。三月丙辰(6日)、兵部尚書・李世勣らに対し懐州など九州の軍勢を動員して討伐せよとの詔が下った。 解説政治力学と悲劇的結末
李祐の心理的変遷
行政システムの機能不全
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| 上賜祐手敕曰:「吾常戒汝勿近小人,正為此耳。」 祐召燕弘亮等五人宿於臥內,餘黨分統士眾,巡城自守。祐每夜與弘亮等對妃宴飲,以為得志;戲笑之際,語及官軍,弘亮等曰:「王不須憂!弘亮等右手持酒卮,左手為王揮刀拂之!」祐喜,以為信然。傳檄諸縣,皆莫肯從。時李世勣兵未至,而青、淄等數州兵已集其境。齊府兵曹杜行敏等陰謀執祐,祐左右及吏民非同謀者無不響應。庚申,夜,四面鼓噪,聲聞數十里。祐黨有居外者,眾皆攢刃殺之。祐問何聲,左右紿云:「英公統飛騎已登城矣。」行敏分兵鑿垣而入,祐與弘亮等被甲執兵之室,閉扉拒戰,行敏等千餘人圍之,自旦至日中,不克。行敏謂祐曰:「王昔為帝子,今乃國賊,不速降,立為煨燼矣。」因命積薪,欲焚之。祐自牖間謂行敏曰:「即啟扉,獨慮燕弘亮兄弟死耳。」行敏曰:「必相全。」祐等乃出。或抉弘亮目,投睛於地,餘皆撾折其股而殺之。執祐出牙前示吏民,還,鎖之於東廂,齊州悉平。乙丑,敕李世勣等罷兵。祐至京師,賜死於內侍省,同黨誅者四十四人,餘皆不問。 祐之初反也,齊州人羅石頭面數其罪,援槍前,欲刺之,為燕弘亮所殺。祐引騎擊高村,村人高君狀遙責祐曰:「主上提三尺劍取天下,億兆蒙德,仰之如天。王忽驅城中數百人欲為逆亂以犯君父,無異一手搖泰山,何不自量之甚也!」祐縱擊,虜之,慚不能殺。 |
現代日本語訳:皇帝は李祐へ親書を与えて諭した。「常々お前に近づく小人を避けるよう戒めてきたのは、まさしくこの事態のためだ」。 解説:
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| 敕贈石頭亳州刺史。以君狀為榆社令,以杜行敏為巴州刺史,封南陽郡公;其同謀執祐者官賞有差。 上檢祐家文疏,得記室郟城孫處約諫書,嗟賞之,累遷中書舍人。庚午,贈權萬紀齊州都督,賜爵武都郡公,謚曰敬;韋文振左武衛將軍,賜爵襄陽縣公。 初,太子承乾喜聲色及畋獵,所為奢靡,畏上知之,對宮臣常論忠孝,或至於涕泣,退歸宮中,則與群小相褻狎。宮臣有欲諫者,太子先揣知其意,輒迎拜,斂容危坐,引咎自責,言辭辯給,宮臣拜答不暇。宮省秘密,外人莫知,故時論初皆稱賢。 太子作八尺銅爐、六隔大鼎,募亡奴盜民間馬牛,親臨烹者,與所幸廝役共食之。又好效突厥語及其服飾,選左右貌類突厥者五人為一落,辮發羊裘而牧羊,作五狼頭纛及幡旗,設穹廬,太子自處其中,斂羊而烹之,抽佩刀割肉相啖。又嘗謂左右曰:「我試作可汗死,汝曹效其喪儀。」因僵臥於地,眾悉號哭,跨馬環走,臨其身,剺面。良久,太欻起,曰:「一朝有天下,當帥數萬騎獵於金城西,然後解發為突厥,委身思摩,若當一設,不居人後矣。」 左庶子于志寧、右庶子孔穎達數諫太子,上嘉之,賜二人金帛以風勵太子,仍遷志寧為詹事。志寧與左庶子張玄素數上書切諫,太子陰使人殺之,不果。 漢王元昌所為多不法,上數譴責之,由是怨望。 |
現代日本語訳皇帝は石頭に対し死後「亳州刺史」の官職を追贈した。君状を榆社令に任命し、杜行敏には巴州刺史の地位と南陽郡公の爵位を与えた。李祐の逮捕に関わった者たちにもそれぞれ官位と褒賞が授けられた。 皇帝は李祐の邸宅から没収した文書の中に記室(秘書官)・郟城出身の孫処約による諫言書を発見し、その内容を称賛して中書舎人へ昇進させた。6月19日には権万紀に対し斉州都督を追贈するとともに武都郡公の爵位と「敬」という謚号を授け、韋文振には左武衛将軍を追贈し襄陽県公の爵位を与えた。 当初、皇太子・李承乾は音楽や女遊び、狩猟に耽り贅沢三昧の生活を送っていたが、皇帝に知られることを恐れ、東宮の官僚たちとの面会時には忠義と孝行について熱心に語り涙を流すこともあった。しかし後宮へ戻ると側近たちと卑猥な遊びに興じた。諫めようとする臣下がいれば太子は先回りしてその意図を見抜き、わざわざ出迎えて恭しい態度で正座し「すべて私の過ちです」と言い訳がましく詫びるため、官僚たちは反論する隙もなかった。宮廷内部の事情は外部に漏れず、当時は世間から賢明な太子と評価されていた。 太子は高さ八尺(約2.4m)の銅製炉や六つの区画を持つ大鍋を作らせ、逃亡奴隷を使って民間の牛馬を盗ませた。自ら調理現場に立ち、お気に入りの下僕たちと共にそれを食した。また突厥の言葉や服装を真似ることを好み、側近の中から容姿が突厥人に似ている者5人を選び「一つの集団」として辮髪(編んだ髪)と羊皮衣を着用させて羊飼いに扮装させた。五匹の狼頭を描いた軍旗を作りテント(穹廬)を設営すると、太子はその中で盗んできた羊を煮炊きし佩剣で肉を切り分けて食べ合った。さらに側近に「可汗が死んだ様子を見せよう」と言い地面へ倒れると、皆が号泣しながら馬で周囲を駆け回り、太子の遺体に見立てた場所で顔を刃物で傷つける突厥式葬儀(剺面)を行った。しばらくして突然起き上がると「帝位を得たら数万騎を率いて金城西で狩猟し、その後は髪をほどいて阿史那思摩の下へ身を投じる。一設(突厥高官)になれれば本望だ」と宣言した。 左庶子・于志寧と右庶子・孔穎達が度々太子を諫めたため皇帝は二人に金品と絹を与えて賞賛し、さらに志寧を詹事へ昇進させた。しかし志寧と張玄素(左庶子)が厳しい内容の諫言書を提出すると、太子は陰で刺客を送ったが失敗した。 漢王・李元昌は数々の不法行為を働いていたため皇帝から繰り返し叱責されており、深く恨みを持っていた。 解説【歴史的背景】この記述は唐王朝第二代皇帝・太宗(李世民)の治世における皇太子問題と諸侯叛乱の顛末を描いたもの。『資治通鑑』は北宋期に司馬光が編纂した編年体史書であり、特に唐代部分では「後継者教育の失敗」が王朝衰退の要因として強調される特徴がある。 【人物関係図】
【社会学的考察】
【原文表現の特徴】
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| 太子與之親善,朝夕同遊戲,分左右為二隊,太子與元昌各統其一,被氈甲,操手槊,布陳大呼交戰,擊刺流血,以為娛樂。有不用命者,披樹撾之,至有死者。且曰:「使我今日作天子,明日於苑中置萬人營,與漢王分將,觀其戰鬥,豈不樂哉!」又曰:「我為天子,極情縱欲,有諫者輒殺之,不過殺數百人,眾自定矣。」 魏王泰多藝能,有寵於上,見太子有足疾,潛有奪嫡之志,折節下士以求聲譽。上命黃門侍郎韋挺攝泰府事,後命工部尚書杜楚客代之,二人俱為泰要結朝士。楚客或懷金以賂權貴,因說以魏王聰明,宜為上嗣;文武之臣,各有附托,潛為朋黨。太子畏其逼,遣人詐為泰府典簽上封事,其中皆言泰罪惡,敕捕之,不獲。 太子私幸太常樂童稱心,與同臥起。道士秦英、韋靈符挾左道,得幸太子。上聞之,大怒,悉收稱心等殺之,連坐死者數人,誚讓太子甚至。太子意泰告之,怨怒逾甚,思念稱心不已,於宮中構室,立其像,朝夕奠祭,徘徊流涕。又於苑中作塚,私贈官樹碑。上意浸不懌,太子亦知之,稱疾不朝謁者動涉數月;陰養刺客紇干承基等及壯士百餘人,謀殺魏王泰。 吏部尚書侯君集之婿賀蘭楚石為東宮千牛,太子知君集怨望,數令楚石引君集入東宮,問以自安之術。君集以太子暗劣,欲乘釁圖之,因勸之反,舉手謂太子曰:「此好手,當為殿下用之。 |
現代日本語訳皇太子(李承乾)は漢王元昌と親密な間柄で、朝夕共に遊戯を楽しんだ。左右を二隊に分け、それぞれが率いてフェルトの甲冑を着用し、手槊(短矛)を持って陣形を整え、大声で叫びながら交戦した。突き刺して流血するまで及ぶことを娯楽とし、命令に従わない者は木の枝で殴打し、死者が出ることもあった。皇太子は「私が今日天子となれば、明日には禁苑に万人規模の兵営を設け、漢王と分かれて将軍となり、その戦いを見物しようではないか!これ以上楽しいことがあろうか」とも語った。さらに続けて言うには、「私は天子として欲望のままに振る舞い、諫める者がいれば即座に斬り捨てる。たかだか数百人を殺せば、民衆は自然と従うであろう」と。 魏王・李泰は多才で芸能に秀でていたため太宗(李世民)の寵愛を受け、皇太子が足疾を持っているのを見て密かに後継者の座を奪おうとする意志をもち、わざわざ身分を低く見せて士人たちへ接近し名声を得ようとした。太宗は黄門侍郎・韋挺に魏王府の事務代行を命じたが、後に工部尚書・杜楚客と交代させた。二人とも李泰のために朝廷官吏との結託工作を行った。特に杜楚客は時には金品を持って権力者へ賄賂を贈り、「魏王殿下は聡明ゆえ皇太子に相応しい」と説いて回ることもあった。文武の官僚もそれぞれ派閥に加わり、密かに党派を作っていた。 皇太子はその圧迫を恐れ、偽って魏王府の典籤(書記官)になりすました者を使い密封上奏文を提出させたが、内容にはことごとく李泰の罪状が記されていた。太宗は犯人逮捕を命じたが捕まえられなかった。 皇太子は密かに太常寺所属の楽童・称心(少年演奏家)を寵愛し寝起きを共にした。道士の秦英や韋霊符も妖術を用いて皇太子のお気に入りとなった。太宗はこの噂を聞くと激怒して称心ら全員を捕縛処刑し、連座で死者まで出た上に皇太子へ厳しく譴責した。 皇太子は李泰の密告だと思い込み怨恨が頂点に達し、称心への思い断ち難く宮中に祠堂を建てその像を安置して朝夕供物を捧げ歩き回って涙した。さらに禁苑内で墓所を作り、ひそかに官位を追贈するとともに石碑まで建立した。 太宗の不快感は日に日に増していったが皇太子もそれを察し、「病気」と称して数か月もの間参朝せず陰では刺客・紇干承基ら壮士百余人を養い、魏王李泰暗殺計画を進めたのである。 吏部尚書・侯君集の女婿である賀蘭楚石は東宮(皇太子宮)で千牛衛(護衛官)として勤務していた。皇太子が侯君集に朝廷への不満があることを知ると、たびたび賀蘭楚石を通じて彼を東宮へ招き「身の安全を図る方法」について相談した。侯君集はこの暗愚な皇太子につけ込もうと企み謀反を勧めた。(議論中)手を挙げて皇太子に宣言するには、「この腕前よ!必ず殿下のために使いこなしてみせましょうぞ!」と。 解説
※現代語訳にあたり原文の動詞表現「撾之」「誚讓」等には暴力性/権威的叱責のニュアンスを反映。史書特有の簡潔文体は情景描写を残しつつ平易化した。 Translation took 1927.6 seconds. | |||||||||||||||
| 」又曰:「魏王為上所愛,恐殿下有庶人勇之禍,若有敕召,宜密為之備。」太子大然之。太子厚賂君集及左屯衛中郎將頓丘李安儼,使詗上意,動靜相語。安儼先事隱太子,隱太子敗,安儼為之力戰,上以為忠,故親任之,使典宿衛。安儼深自托於太子。 漢王元昌亦勸太子反,且曰:「比見上側有美人,善彈琵琶,事成,願以垂賜。」太子許之。洋州刺史開化公趙節,慈景之子也,母曰長廣公主;駙馬都尉杜荷,如晦之子也,尚城陽公主;皆為太子所親暱,預其反謀。凡同謀者皆割臂,以帛拭血,燒灰和酒飲之,誓同生死,潛謀引兵入西宮。杜荷謂太子曰:「天文有變,當速發以應之,殿下但稱暴疾危篤,主上必親臨視,因茲可以得志。」太子聞齊王祐反於齊州,謂紇干承基等曰:「我宮西牆,去大內正可二十步耳,與卿為大事,豈比齊王乎!」會治祐反事,連承基,承基坐系大理獄,當死。 |
現代日本語訳さらにこう述べた。「魏王(李泰)は陛下の寵愛を受けております。(このままでは)殿下には庶人・勇(廃太子楊勇)のような災いが及ぶ恐れがあります。もし勅命で召されることがあれば、密かに備えをなさるべきです」。皇太子(李承乾)は大いにこれに同意した。 解説
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| input text 資治通鑑\197_唐紀_13.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷一百九十七 唐紀十三 趣昭陽單閼四月,盡旃蒙大荒落五月,凡二年有奇。 太宗文武大聖大廣孝皇帝中之下貞觀十七年(癸卯,公元六四三年) 夏,四月,庚辰朔,承基上變,告太子謀反。敕長孫無忌、房玄齡、蕭瑀、李世勣與大理、中書、門下參鞫之,反形已具。上謂侍臣:「將何以處承乾?」群臣莫敢對,通事舍人來濟進曰:「陛下不失為慈父,太子得盡天年,則善矣!」上從之。濟,護兒之子也。 乙酉,詔廢太子承乾為庶人,幽於右領軍府。上欲免漢王元昌死,群臣固爭,乃賜自盡於家,而宥其母、妻、子。侯君集、李安儼、趙節、杜荷等皆伏誅。左庶子張玄素、右庶子趙弘智、令狐德棻等以不能諫爭,皆坐免為庶人。餘當連坐者,悉赦之。詹事於志寧以數諫,獨蒙勞勉。以紇干承基為祐川府折衝都尉,爵平棘縣公。 侯君集被收,賀蘭楚石復詣闕告其事,上引君集謂曰:「朕不欲令刀筆吏辱公,故自鞫公耳。」君集初不承。引楚石具陳始未,又以所與承乾往來啟示之,君集辭窮,乃服。上謂侍臣曰:「君集有功,欲乞其生,可乎?」群臣以為不可。上乃謂君集曰:「與公長訣矣!」因泣下,君集亦自投於地;遂斬之於市。君集臨刑,謂監刑將軍曰:「君集蹉跌至此!然事陛下於籓邸,擊取二國,乞全一子以奉祭祀。 |
訳文『資治通鑑』巻百九十七 唐紀十三 太宗文武大聖大広孝皇帝 中之下 貞観十七年(癸卯、西暦643年) 乙酉(六日)、詔して太子承乾を廃し庶人とし、右領軍府に幽閉した。太宗は漢王李元昌の死罪を免じようとしたが、群臣が強く反対したため、自宅での自尽を賜り、その母・妻・子は赦された。侯君集・李安儼・趙節・杜荷らは皆処刑された。左庶子張玄素・右庶子趙弘智・令狐徳棻らは諫めず争わなかった罪で連座し、全員免職の上庶人に落とされた。その他連坐すべき者たちは全て赦免した。詹事の于志寧は度々諫言していた功績により、特別に労をねぎらわれた。紇干承基には祐川府折衝都尉の官職と平棘県公の爵位を与えた。 侯君集が捕らえられると、賀蘭楚石が再び宮中に出向き彼の罪状を通報した。太宗は君集を召し出して言った。「朕は役人にお前を辱めさせたくないので、自ら審理する」。君集は最初否認したが、楚石に始末を詳細に述べさせ、さらに承乾との往復文書を見せつけると、言葉を失い服罪した。太宗は侍臣たちに「君集には功績がある。一命だけは助けてやりたい」と言うと、群臣は許すべきでないと反論した。そこで君集に向かって「これが貴公との永遠の別れだ」と言い、涙を流すと、君集も地面にひざまずいた。こうして市中で斬首された。刑に臨む際、監刑将軍に対し「私はここまで落ちぶれたが、陛下が王だった頃から仕え二国を攻略した功績がある。せめて一子だけでも残し祭祀を続けさせてほしい」と訴えた。 解説■ 歴史的背景 ■ 訳出方針
■ 政治的含意 Translation took 1753.0 seconds. | ||||||||||||
| 」上乃原其妻及子,徙嶺南。籍沒其家,得二美人,自幼飲人乳而不食。 初,上使李靖教君集兵法,君集言於上曰:「李靖將反矣。」上問其故,對曰:「靖獨教臣以其粗而匿其精,以是知之。」上以問靖,靖對曰:「此乃君集欲反耳。今諸夏已定,臣之所教,足以制四夷,而君集固求盡臣之術,非反而何!」江夏王道宗嘗從容言於上曰:「君集志大而智小,自負微功,恥在房玄齡、李靖之下,雖為吏部尚書,未滿其志。以臣觀之,必將為亂。」上曰:「君集材器,亦何施不可!朕豈惜重位,但次第未至耳,豈可億度,妄生猜貳邪!」及君集反誅,上乃謝道宗曰:「果如卿言!」 李安儼父,年九十餘,上愍之,賜奴婢以養之。 太子承乾既獲罪,魏王泰日入侍奉,上面許立為太子,岑文本、劉洎亦勸之;長孫無忌固請立晉王治。上謂侍臣曰:「昨青雀投我懷云:『臣今日始得為陛下子,乃更生之日也。臣有一子,臣死之日,當為陛下殺之,傳位晉王。』人誰不愛其子,朕見其如此,甚憐之。」諫議大夫褚遂良曰:「陛下言大失。願審思,勿誤也!安有陛下萬歲後,魏王據天下,肯殺其愛子,傳位晉王者乎!陛下日者既立承乾為太子,復寵魏王,禮秩過於承乾,以成今日之禍。前事不遠,足以為鑒。陛下今立魏王,願先措置晉王,始得安全耳。 |
現代日本語訳皇帝は侯君集の妻子を許して嶺南へ流罪とした。財産を没収した際、二人の美しい女性が見つかり、彼女たちは幼い頃から人乳だけで育てられ食物を摂らなかったという。 かつて太宗が李靖に命じて侯君集に兵法を教えさせた時、侯君集は皇帝へ「李靖は謀反を企んでいます」と訴えた。理由を問われると「彼は基礎だけ教えて奥義を隠しているからです」と答えた。太宗が李靖に尋ねると、「これは逆に侯君集が謀反を計画している証拠です。中原は既に平定され、私の教えで四方の異民族に対処するには十分ですが、彼が無理に全ての術を求めているのは謀反以外考えられません」と返した。江夏王・李道宗も以前から「侯君集は野心は大きいが器量が小さく、微功を誇って房玄齢や李靖より下位なのを恥じています。吏部尚書になっても満足せず、必ず乱を起こすでしょう」と警告していた。しかし太宗は「彼の才能ならどんな職務でもこなせる。朕が高位を与えないのは順序の問題だ。憶測で疑ってはいけない」と退けた。侯君集謀反後に処刑されると、皇帝は李道宗に謝罪した。「卿の言う通りであった」。 九十歳を超えた李安儼の父を太宗は哀れみ、奴婢を与えて養わせた。 皇太子・承乾が失脚すると魏王泰が毎日伺候し、太宗は彼を後継と示唆。岑文本や劉洎も賛同したが、長孫無忌だけが晋王治の擁立を強硬に主張した。太宗は侍臣たちに語った。「先日『青雀』(魏王泰)が朕の胸に飛び込んで言うには『今日こそ真の皇子となれました。これが再生の日です。私に一子おりますので、死ぬ際には必ず殺して晋王に皇位を譲ります』と。わが子を愛さない者などいるか? その言葉に深く心を打たれた」。諫議大夫・褚遂良は即座に反論した。「陛下の見解は誤りです!よく考えてください。陛下崩御後に魏王が天下を得て、どうして愛子を殺し晋王へ譲るでしょうか? かつて承乾を太子としながら魏王を過度に寵愛したため今日の禍を招きました。この教訓こそ鑑とすべきです。もし魏王を立てるなら、まず晋王の安全策をお考えください」。 解説
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| 」上流涕曰:「我不能爾!」因起,入宮。魏王泰恐上立晉王治,謂之曰:「汝與元昌善,元昌今敗,得無憂乎?」治由是憂形於色,上怪,屢問其故,治乃以狀告;上憮然,始悔立泰之言矣。上面責承乾,承乾曰:「臣為太子,復何所求!但為泰所圖,時與朝臣謀自安之術,不逞之人遂教臣為不軌耳。今若泰為太子,所謂落其度內。」 承乾既廢,上御兩儀殿,群臣俱出,獨留長孫無忌、房玄齡、李世勣、褚遂良,謂曰:「我三子一弟,所為如是,我心誠無聊賴!」因自投於床,無忌等爭前扶抱;上又抽佩刀欲自刺,遂良奪刀以授晉王治。無忌等請上所欲,上曰:「我欲立晉王。」無忌曰:「謹奉詔;有異議者,臣請斬之!」上謂治曰:「汝舅許汝矣,宜拜謝。」治因拜之。上謂無忌等曰:「公等已同我意,未知外議何如?」對曰:「晉王仁孝,天下屬心久矣,乞陛下試召問百官,有不同者,臣負陛下萬死。」上乃御太極殿,召文武六品以上,謂曰:「承乾悖逆,泰亦凶險,皆不可立。朕欲選諸子為嗣,誰可者?卿輩明言之。」眾皆歡呼曰:「晉王仁孝,當為嗣。」上悅,是日,泰從百餘騎至永安門;敕門司盡辟其騎,引泰入肅章門,幽於北苑。丙戌,詔立晉王治為皇太子,御承天門樓,赦天下,酺三日。上謂侍臣曰:「我若立泰,則是太子之位可經營而得。 |
現代日本語訳皇帝は涙を流して言った。「私はそれ(自殺)を許さぬ」と。そう言って立ち上がり、宮中へ入っていった。魏王・李泰は、皇帝が晋王・治を皇太子に立てるのではないかと恐れ、こう言った。「お前は元昌(謀反人)と親しかったではないか。今や元昌は敗れた。心配ではないのか?」これを聞いた晋王・治は憂いの表情を浮かべた。皇帝が怪しんで何度も理由を尋ねると、治は事の次第を報告した。皇帝は茫然とし、李泰を皇太子にしようとした言葉を初めて後悔した。 帝が承乾(前皇太子)を面責すると、承乾は言った。「私は既に太子でした。これ以上何を求める必要がありましょうか! ただ李泰に付け狙われたため、当時は朝臣と共に身の安全を図る策を謀りましたが、その過程で不逞の輩が私を悪事へ導いたのです。もし今、李泰が太子となれば、まさしく彼の思う壺というものです」 承乾が廃されると、皇帝は両儀殿にて群臣に向かった。退出する臣下たちの中から長孫無忌・房玄齢・李世勣(徐世勣)・褚遂良だけを残し、言った。「我が三人の息子と一人の弟(漢王元昌)がこのような行為をするとは、私は全く生きる気力も失せた!」そう叫ぶと自ら床に倒れ込んだ。無忌らは我先にと抱き起したが、帝は佩刀を抜いて自害しようとしたため、褚遂良が刀を奪い晋王・治に渡した。 長孫無忌らが皇帝の御意志をお尋ねすると、帝は言った。「私は晋王(治)を皇太子に立てたい」と。長孫無忌は即座に「謹んで詔を奉じます。異議ある者は臣が斬り捨てましょう!」と答えた。帝が治に向かって「お前の叔父(母方伯父)が承諾したぞ、礼を述べよ」と言うと、治は恭しく拝礼した。 さらに皇帝は無忌らに問うた。「卿たちは私と同じ考えだが、外廷(百官)の意見はどうか?」彼らは答えた。「晋王殿下は仁孝で、天下の人々が長く心を寄せております。陛下ぜひ百官を召してご質問ください。もし反対する者がいれば、臣どもが万死をもって責めを負います」 そこで皇帝は太極殿に臨み、六品以上の文武官を集めて宣言した。「承乾は謀逆し、李泰も凶悪だ。どちらも太子にはふさわしくない。諸皇子の中から後継者を選びたいが、誰が適任か? 卿たち率直に申せ」すると群臣は歓声を上げた。「晋王こそ仁孝の徳をお持ちです!皇太子とすべきです!」帝は大いに喜んだ。 その日、李泰が百余騎を従えて永安門へ来ると、皇帝は守衛に命じて護衛兵を全て追い返させ、ただ一人で肅章門に入るよう指示した。そして北苑に幽閉したのである。丙戌の日(4月7日)、詔書をもって晋王・治を皇太子と定め、承天門楼において大赦令を発布し、三日間民衆に酒宴を許した。 最後に皇帝は侍臣に向かって述懐した。「もし私が李泰を立てていたならば、『太子の地位は策略で得られる』という悪例を作るところだった」 解説■背景と核心的教訓:この場面(資治通鑑・唐紀十二)は貞観17年(643年)における「承乾廃太子事件」の決着部分です。李世民(太宗皇帝)が息子たちの権力闘争に直面し、「後継者選定の本質とは何か」という普遍的な課題を提示しています。 ■心理描写の深層:
■政治力学:
■歴史的意義:この後継者問題解決法は唐代典範事例となりました。特に
■現代への示唆:組織リーダーシップ論として読む時、「有能だが手段を選ばない者(李泰)」より「凡庸でも共感力ある後継者(李治)が長期安定をもたらす」という逆説は、今日の企業経営や政治においても色褪せぬ教訓を含んでいます。 Translation took 971.7 seconds. | ||||||||||||
| 自今太子失道,籓王窺伺者,皆兩棄之,傳諸子孫,永為後法。且泰立,則承乾與治皆不全;治立,則承乾與泰皆無恙矣。」 臣光曰:唐太宗不以天下大器私其所愛,以杜禍亂之原,可謂能遠謀矣! 丁亥,以中書令楊師道為吏部尚書。初,長廣公主適趙慈景,生節;慈景死,更適師道。師道與長孫無忌等共鞫承乾獄,陰為趙節道地,由是獲譴。上至公主所,公主以首擊地,泣謝子罪,上亦拜泣曰:「賞不避仇讎,罰不阿親戚,此天下至公之道,不敢違也,以是負姊。」 己丑,詔以長孫無忌為太子太師,房玄齡為太傅,蕭瑀為太保,李世勣為詹事,瑀、世勣並同中書門下三品。同中書門下三品自此始。又以左衛大將軍李大亮領右衛率,前詹事於志寧、中書侍郎馬周為左庶子,吏部侍郎蘇勖、中書舍人高季輔為右庶子,刑部侍郎張行成為少詹事,諫議大夫褚遂良為賓客。 李世勣嘗得暴疾,方云「須灰可療」;上自剪須,為之和藥。世勣頓首出血泣謝。上曰:「為社稷,非為卿也,何謝之有!」世勣嘗侍宴,上從容謂曰:「朕求群臣可托幼孤者,無以逾公,公往不負李密,豈負朕哉!」世勣流涕辭謝,嚙指出血,因飲沉醉;上解御服以覆之。 癸巳,詔解魏王泰雍州牧、相州都督、左武侯大將軍,降爵為東萊郡王。泰府僚屬為泰所親狎者,皆遷嶺表;以杜楚客兄如晦有功,免死,廢為庶子。 |
現代日本語訳今後、皇太子が道を踏み外し、藩王(諸王)がその地位を窺うようなことがあれば、双方とも廃嫡とし、この決まりを子孫に伝え、永く後世の規範とする。さらに李泰を立てれば承乾と治は共に命を全うできず、治を立てれば承乾と泰は共に無事である。 臣・司馬光が評す:唐の太宗は天下という重器を偏愛する者に私さず、禍乱の根源を断とうとした。これこそ遠大な謀略を持つ者と言えよう! 丁亥(21日)、中書令であった楊師道を吏部尚書に任命した。当初、長広公主は趙慈景に嫁ぎ趙節を産んだが、慈景の死後、師道と再婚していた。師道は長孫無忌らと共に承乾の謀反事件を取り調べた際、密かに趙節(継子)のために便宜を図り、これにより処罰された。皇帝(太宗)が公主のもとを訪れると、公主は地面に頭を叩きつけながら泣いて息子の罪を詫びた。皇帝も涙を流して拝礼し言った。「賞を与えるには仇敵をも避けず、罰するには親族にも媚びぬ。これが天下の最も公正な道理である。朕はこれを背くことはできないゆえ、姉上に申し訳なく思う」 己丑(23日)、詔を下して長孫無忌を太子太師、房玄齢を太傅、蕭瑀を太保、李世勣を詹事とし、蕭瑀と李世勣には「同中書門下三品」の職を兼任させた。「同中書門下三品」という官制はここに始まる。さらに左衛大将軍李大亮に右衛率を兼務させ、前詹事の于志寧と中書侍郎馬周を左庶子とし、吏部侍郎蘇勖と中書舎人高季輔を右庶子とし、刑部侍郎張行成を少詹事とし、諫議大夫褚遂良を賓客(太子賓客)に任命した。 李世勣が急病にかかった時、「ひげの灰が必要」との処方があり、皇帝は自ら自分のひげを切り取り薬を調合させた。世勣は額を地面に擦りつけて血が出るほど叩頭し泣いて感謝した。皇帝は言った。「国家のためにするのだ。卿個人のためではない。何を謝ることがあろうか!」ある時、世勣が宴席に侍ると、皇帝は静かに言われた。「朕には幼い孤児(後の高宗)を託せる臣下を探しているが、卿に勝る者はいない。かつて李密に対し背かなかった卿が、どうして朕を裏切ろうか?」世勣は涙を流して辞退の意を示し、指を噛んで血を出した後、深く酔いつぶれた。皇帝は自らの衣を脱いで彼に掛けた。 癸巳(27日)、詔により魏王李泰から雍州牧・相州都督・左武侯大将軍の官職を剥奪し、爵位を東萊郡王に降格した。李泰と親密だった王府の役人たちは全員嶺南地方へ流罪としたが、杜楚客(処刑された)の兄である杜如晦に功績があったため死罪を免じ庶民に落とした。 解説【制度・用語】
【政治的背景】
【人間関係】
【思想的意義】太宗の行動原理は司馬光による理想化が含まれる: - 天下為公:私情より共同体利益優先 - 予防的統治:「禍乱之原」を未然に断つ先見性 これらは『資治通鑑』編纂目的(帝王への教科書)に合致する演出と言える。 補足
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| 給事中崔仁師嘗密請立魏王泰為太子,左遷鴻臚少卿。 庚子,定太子見三師儀:迎於殿門外,先拜,三師答拜;每門讓於三師。三師坐,太子乃坐。其與三師書,前後稱名、「惶恐」。 五月,癸酉,太子上表,以「承乾、泰衣服不過隨身,飲食不能適口,幽憂可愍,乞敕有司,優加供給。」上從之。 黃門侍郎劉洎上言,以「太子宜勤學問,親師友。今入侍宮闈,動逾旬朔,師保以下,接對甚希,伏願少抑下流之愛,弘遠大之規,則海內幸甚!」上乃命洎與岑文本、褚遂良、馬周更日詣東宮,與太子游處談論。 六月,己卯朔,日有食之。 丁亥,太常丞鄧素使高麗還,請於懷遠鎮增戍兵以逼高麗。上曰:「『遠人不服,則修文德以來之』。未聞一二百戍兵能威絕域者也!」丁酉,右僕射高士廉遜位,許之,其開府儀同三司、勳封如故,仍同門下中書三品,知政事。閏月,辛亥,上謂侍臣曰:「朕自立太子,遇物則誨之,見其飯,則曰:『汝知稼穡之艱難,則常有斯飯矣。』見其乘馬,則曰:『汝知其勞逸,不竭其力,則常得乘之矣。』見其乘舟,則曰:『水所以載舟,亦所以覆舟,民猶水也,君猶舟也。』見其息於木下,則曰:『木從繩則正,後從諫則聖。』」 丁巳,詔太子知左、右屯營兵馬事,其大將軍以下並受處分。 薛延陀真珠可汗使其侄突利設來納幣,獻馬五萬匹,牛、橐駝萬頭,羊十萬口。 |
現代日本語訳給事中であった崔仁師はかつて密かに魏王李泰を皇太子に立てるよう請願し、左遷されて鴻臚少卿となった。 庚子の日、皇太子が三師(太師・太傅・太保)と対面する礼儀を定めた:宮殿の門外で出迎え、先に拝礼すると三師は答礼する。全ての門では三師に道を譲る。三師が着席してから太子も座る。三師への書簡には前文と後文に自らの名を記し「惶恐」の語を添えること。 五月癸酉、皇太子は上表し「承乾(廃太子)と李泰は衣服は身につける分のみで、飲食も満足できず、憂いに沈み気の毒です。役人に命じて手厚く供給させてください」と奏上した。太宗はこれを認めた。 黄門侍郎劉洎が進言した:「皇太子は学問に励み師友と親しむべきですが、今は後宮に入り侍ることが十日あるいは一月以上続き、師保以下の者とはほとんど面会できません。どうか陛下の溺愛を抑えられて遠大な御計画を示されば天下の幸いです」。太宗は劉洎・岑文本・褚遂良・馬周に命じ、交替で東宮へ赴いて皇太子と交わり議論させた。 六月己卯朔(1日)、日食が起こった。 丁亥(9日)、太常丞鄧素が高句麗から帰国し、懐遠鎮の守備兵を増強して高句麗を威圧するよう提案した。太宗は言下に否定した:「『遠方の人々が従わないなら徳政を行って招く』(論語)とある。一二百の守備兵で辺境を威圧できるとは聞いたことがない」。丁酉(19日)、右僕射高士廉が辞任を申し出て許された。開府儀同三司の位と勲爵は従来通りとされ、引き続き門下中書三品として政務を執ることとなった。 閏月辛亥(4日)、太宗は側近に語った:「朕が皇太子を立てた後、物事に出会う度に教訓を与えてきた。食事を見れば『農耕の苦労を知れば常にこの飯がある』と言い、馬に乗る様子を見れば『その疲れと休息を知り力を使い尽くさなければ常に乗れる』と言った。舟に乗せば『水は舟を浮かべもするが覆してもする。民は水の如く、君主は舟のようなものだ』と。木陰で休めば『木材は墨縄に従えば真っ直ぐになるように、君主は諫言に従って聖となる』と言ったのだ」。 丁巳(10日)、詔勅が下り皇太子に左右屯営の兵馬を管轄させることが決まった。大将軍以下は全てその指揮を受けることとなった。 薛延陀の真珠可汗が甥の突利設を使者として派遣し、結納品を献上した。馬5万頭・牛と駱駝1万頭・羊10万頭であった。 解説■ 政治的背景 ■ 制度的特徴 ■ 治国理念 ■ 人物評価 (注)本訳では史書特有の干支表記を日付に変換し、固有名詞は『旧唐書』等の表記基準で統一した。原文の訓読調を現代口語体へ転換する際、「惶恐」「納幣」等の歴史用語は文脈から意味を再構成している。 Translation took 1882.1 seconds. | ||||||||||||
| 庚申,突利設獻饌,上御相思殿,大饗群臣,設十部樂,突利設再拜上壽,賜賚甚厚。 契苾何力上言:「薛延陀不可與昏。」上曰:「吾已許之矣,豈可為天子而食言乎!」何力對曰:「臣非欲陛下遽絕之也,願且遷延其事。臣聞古有親迎之禮,若敕夷男使親迎,雖不至京師,亦應至靈州;彼必不敢來,則絕之有名矣。夷男性剛戾,既不成昏,其下復攜貳,不過一二年必病死,二爭立,則可以坐制之矣!」上從之,乃征真珠可汁使親迎,仍發詔將幸靈州與之會。真珠大喜,欲詣靈州,其臣諫曰:「脫為所留,悔之無及!」真珠曰:「吾聞唐天子有聖德,我得身往見之,死無所恨,且漠北必當有主。我行決矣,勿復多言!」上發使三道,受其所獻雜蓄。薛延陀先天庫廄,真珠調斂諸部,往返萬里,道涉沙磧,無水草,耗死將半,失期不至。議者或以為聘財未備而與為昏,將使戎狄輕中國,上乃下詔絕其昏,停幸靈州,追還三使。 褚遂良上疏,以為:「薛延陀本一俟斤,陛下蕩平沙塞,萬里蕭條,餘寇奔波,須有酋長,璽書鼓纛,立為可汗。比者復降鴻私,許其姻媾,西告吐蕃,北諭思摩,中國童幼,靡不知之。御幸北門,受其獻食,群臣四夷,宴樂終日。鹹言陛下欲安百姓,不愛一女,凡在含生,孰不懷德。今一朝生進退之意,有改悔之心,臣為國家惜茲聲聽;所顧甚少,所失殊多,嫌隙既生,必構邊患。 |
現代日本語訳庚申の日、突利設が食膳を献上したので、皇帝は相思殿に出御し、群臣を盛大にもてなされた。十部楽を演奏させたところ、突利設は再拝して長寿を祝い、皇帝から多額の恩賞を受けた。 契苾何力が進言した:「薛延陀とは婚姻関係を結ぶべきではありません」。太宗は答えた:「朕はすでに承諾している。天子として約束を破れるか?」 これに対し何力は応じた:「陛下に直ちに絶交せよと言うのではございません。まずは事態を引き延ばしましょう。古来、新郎自ら迎えに行く礼儀があります。夷男(真珠可汗)に霊州まで親迎するよう命じてみてはいかがでしょうか? 彼が都へは来なくとも霊州までは来るはずです。しかし実際には必ず来られないでしょうから、その時こそ断交の大義名分が立ちます。夷男は性格が剛愎で、婚姻が成立しなければ配下も離反します。一二年もしないうちに病死するか、後継者争いが起きるはずです。そうなれば我々は何もしなくとも制圧できるのです」。太宗はこれに従い、真珠可汗に親迎を命じると共に、自ら霊州で会見すると詔勅を発した。 真珠可汗は大いに喜び霊州行きを決意するが、臣下が諫めた:「もし拘留されたら後悔しても遅い!」。これに対し可汗は言う:「唐の天子には聖徳があると聞く。直接会えれば死んでも本望だ。そもそも漠北には必ず支配者が現れるものだ。決行するからこれ以上言うな」。太宗は三方向に使者を派遣し、薛延陀からの貢物を受け取らせた。しかし薛延陀側では元々財政基盤が弱く、真珠可汗が各部族から徴発した財貨の運搬は万里にも及んだ。砂漠地帯で水草もなく、輸送中にほぼ半数を失い、期限までに到着できなかった。 朝廷内には「結納品さえ揃わぬ相手と婚姻すれば夷狄に侮られる」との意見が上がったため、太宗は詔勅によって婚約破棄・霊州行幸中止・使者召還を命じた。 この時褚遂良が上疏した:「そもそも薛延陀の首長は単なる俟斤(部族長)に過ぎませんでした。陛下が沙塞を平定され、辺境が安定する中で残党の統率者が必要となり、詔書と旗鼓を与えて可汗としたのです。さらに恩寵を加え婚姻を許したことは吐蕃にも思摩にも伝わり、唐国内では子供にさえ知れ渡っています。北門での献食受諾や終日の宴楽は『陛下が民の安定のために皇女すら惜しまない』と示し、生きとし生けるものが感銘を受けぬはずがありませんでした。今になって突然方針を翻せば、信用失墜は国家の損失です。わずかな懸念(貢物未到着)で重大な弊害(国威損傷)をもたらすでしょう。不信が生じれば必ず辺境に禍根を残します」。 解説■歴史的状況と政治力学
■政策転換の問題点
■『資治通鑑』が描く教訓本編は司馬光による「為政者の信用こそ国家存立の基盤」とのメッセージを内包。外交戦略(何力)と道義論(遂良)、現実主義と理念の相克が、現代国際政治にも通底する普遍性を持つ。
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| 彼國蓄見欺之怒,此民懷負約之慚,恐非所以服遠人、訓戎士也。陛下君臨天下十有七載,以仁恩結庶類,以信義撫戎夷,莫不欣然,負之無力,何惜不使有始有卒乎!夫龍沙以北,部落無算,中國誅之,終不能盡,當懷之以德,使為惡者在夷不在華,失信者在彼不在此,則堯、舜、禹、湯不及陛下遠矣!」上不聽。 是時,群臣多言:「國家既許其昏,受其聘幣,不可失信戎狄,更生邊患。」上曰:「卿曹皆知古而不知今。昔漢初匈奴強,中國弱,故飾子女、捐金絮以餌之,得事之宜。今中國強,戎狄弱,以我徒兵一千,可擊胡騎數萬。薛延陀所以匍匐稽顙,惟我所欲,不敢驕慢者,以新為君長,雜姓非其種族,欲假中國之勢以威服之耳。彼同羅、僕骨、回紇等十餘部,兵各數萬,並力攻之,立可破滅,所以不敢發者,畏中國所立故也。今以女妻之,彼自恃大國之婿,雜姓誰敢不服!戎狄人面獸心,一旦微不得意,必反噬為害。今吾絕其昏,殺其禮,雜姓知我棄之,不日將瓜剖之矣,卿曹第志之。」 臣光曰:孔子稱去食、去兵,不可去信。唐太宗審知薛延陀不可妻,則初勿許其昏可也;既許之矣,乃復恃強棄信而絕之,雖滅薛延陀,猶可羞也。王者發言出令,可不慎哉!」 上曰:「蓋蘇文弒其君而專國政,誠不可忍。以今日兵力,取之不難,但不欲勞百姓,吾欲且使契丹、靺鞨擾之,何如?」長孫無忌曰:「蓋蘇文自知罪大,畏大國之討,必嚴設守備,陛下姑為之隱忍,彼得以自安,必更驕惰,愈肆其惡,然後討之,未晚也。 |
現代日本語訳あの国(薛延陀)は欺かれた怒りを蓄え、こちらの民衆は約束違反の恥じらいを抱いている。これでは遠方の人々を従わせる方策でもなければ、兵士たちへの教訓にもならないでしょう。陛下が天下を治めて十七年、仁愛の恩情で人々と結びつき、信義をもって異民族を懐柔されてきた結果、誰もが喜んで帰順し、背く力はありません。どうして最後まで誠意を通そうとなさらないのか? 竜沙(ゴビ砂漠)以北には数えきれぬ部族があり、中国が征伐しても決して尽きることはありません。徳をもって懐柔し、悪事を行う者を異民族側の責任とし、信義を失う者を彼らに帰させるべきです。そうすれば堯・舜・禹・湯といった聖王さえ陛下には遠く及ばないでしょう!」しかし皇帝(太宗)は聞き入れなかった。 当時、多くの臣下が「国家すでに縁組を認め、結納品を受け取った以上、夷狄に対して信義を失って再び辺境の禍根を作るべきではない」と進言した。これに対し皇帝は述べた:「卿らは皆、古代を知りながら現代を見ていない。かつて漢王朝初期には匈奴が強く中国が弱かったため、子女や財貨を与えて懐柔する必要があった(時代の道理に適っていた)。しかし今や中国は強く夷狄は弱い。わが歩兵一千をもってすれば胡族騎兵数万を撃破できる。薛延陀が跪拝し我々の意のままになっているのは、彼らが新たに君主を立てたばかりで複数の部族による寄り合い所帯だからだ。中国の威光を借りて他部族を従わせようとしているのである。同羅・僕骨・回紇など十余りの部族は各々数万の兵力を持ち、協力すれば薛延陀を直ちに滅ぼせるが、実行しないのは我々(唐)が立てた君主だからこそ恐れているのだ。ここで皇女を与えれば彼らは大国の婿と自負し、諸部族も従わざるを得なくなる。しかし夷狄は人面獣心であり、少しでも不満があれば必ず牙をむいて害をなす。今や縁組を断ち待遇を格下げすれば、各部族が我々の見放しを知り、まもなく薛延陀を分割するだろう(自滅させる)。卿らはその結末を見届けよ」。 臣・光(司馬光)の評:孔子は「食糧も兵備も捨てうるが信義だけは守れ」と説いた。太宗が皇女を嫁がせられぬと判断したなら、初めから縁組を承諾すべきではなかった。許しておきながら強大な国力に任せて約束を破り拒絶するのは、たとえ薛延陀を滅ぼしてもなお恥ずべき行為である。王者の発言や命令は慎重さが求められるのだ。 (次の議題で)皇帝が述べた:「蓋蘇文(がいそぶん)が君主を弑逆し国政を独占するのは誠に許し難い。現在の兵力で討伐は容易だが、民衆を疲弊させたくない。契丹や靺鞨(まつかつ)に攻撃させようと思うがどうか?」長孫無忌が奏上した:「蓋蘇文は自らの大罪を知り、大国の征伐を恐れて必ず厳重な守備を整えております。陛下はひとまず耐え忍ばれよ。彼らに安心させれば驕慢となり悪行を増すでしょう。その後に討てば遅くありません」。 解説【歴史的背景】
【太宗論理の分析】
【現代への示唆】
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| 」上曰:「善!」戊辰,詔以高麗王藏為上柱國、遼東郡王、高麗王,遣使持節冊命。 丙子,徙東萊王泰為順陽王。 初,太子承乾失德,上密謂中書侍郎兼左庶子杜正倫曰:「吾兒足疾乃可耳,但疏遠賢良,狎暱群小,卿可察之。果不可教示,當來告我。」正倫屢諫,不聽,乃以上語告之。太子抗表以聞,上責正倫漏洩,對曰:「臣以此恐之,冀其遷善耳。」上怒,出正倫為穀州刺史。及承乾敗,秋,七月,辛卯,復左遷正倫為交州都督。初,魏徵嘗薦正倫及侯君集有宰相材,請以君集為僕射,且曰:「國家安不忘危,不可無大將,諸衛兵馬宜委君集專知。」上以君集好夸誕,不用。及正倫以罪黜,君集謀反誅,上始疑征阿黨。又有言征自錄前後諫辭以示起居郎褚遂良者,上愈不悅,乃罷叔玉尚主,而踣所撰碑。 初,上謂監修國史房玄齡曰:「前世史官所記,皆不令人主見之,何也?」對曰:「史官不虛美,不隱惡,若人主見之必怒,故不敢獻也。」上曰:「朕之為心,異於前世帝王。欲自觀國史,知前日之惡,為後來之戒,公可撰次以聞。」諫議大夫朱子奢上言:「陛下聖德在躬,舉無過事,史官所述,義歸盡善。陛下獨覽《起居》,於事無失,若以此法傳示子孫,竊恐曾、玄之後或非上智,飾非護短,史官必不免刑誅。如此,則莫不希風順旨,全身遠害,悠悠千載,何所信乎!所以前代不觀,蓋為此也。 |
現代日本語訳皇帝の決定 太宗は「良し」と述べた。戊辰(ぼしん)の日、詔書を発して高句麗王・蔵(こうくらいおう・ぞう)を上柱国(じょうちゅうこく)、遼東郡王(りょうとうぐんおう)、高句麗王に任命し、使者を派遣して節(せつ:権限の証)を持たせ正式な冊命を行った。丙子(へいし)の日には、東萊王・泰(とうらいおう・たい)を順陽王(じゅんようおう)に移封した。 太子承乾と杜正倫の事件 かつて皇太子・承乾(しょうけん)が品行を乱していた時、太宗は中書侍郎兼左庶子(ちゅうしょじろうけんさしょし:東宮官僚)の杜正倫(とせいりん)に密かに命じた。「我が子の足の病はまだ許容範囲だが、賢臣を遠ざけ小人たちと親密になっている点こそ問題だ。卿は厳しく監視せよ。もし教育不能と思えば直ちに朕へ報告せよ」。正倫は繰り返し諫言したが聞き入れられず、ついに皇帝の言葉そのままを太子に伝えた。すると皇太子が抗議の上奏文でこの件を暴露したため、太宗は正倫を「情報漏洩」で厳しく詰問した。これに対し正倫は「陛下のお言葉で脅して改心させようとしたのです」と弁明したが、皇帝は激怒し彼を穀州刺史(こしゅうのしし:地方長官)に左遷した。 秋七月辛卯(かのとうぼく)の日、承乾が廃太子となった後に、正倫はさらに交州都督(こうしゅうととく:辺境の軍政官)へ再左遷された。背景には以前、魏徴(ぎちょう)が「杜正倫と侯君集(こうくんしゅう)に宰相の才あり」と推薦していた事情があった。特に君集については「国家安泰時も危機を忘れず大将軍が必要だ」として兵権委任を進言したが、太宗は「彼は虚勢を好む」として採用しなかった。正倫失脚と君集謀反処刑後、皇帝は魏徴が私情で仲間を推挙していたのではないかと疑い始める。 さらに「魏徴が自身の諫言記録を起居郎(ききょろう:記録官)・褚遂良(ちょすいりょう)に見せていた」との報告を受けるや太宗は不快感を増し、娘と魏徴の息子・叔玉(しゅくぎょく)との婚約を取り消した上で自ら建立した顕彰碑も破壊させた。 史書閲覧問題 かつて皇帝が国史編纂責任者・房玄齢(ぼうげんれい)に問うた。「何故前代の史官は記録を天子に見せないのか」。これに対し「歴史家は虚飾なく悪事も記すため、君主必ず怒るからです」と答えた。太宗は宣言した。「朕の発想は歴代帝王とは異なる。自ら国史を見て過ちを知り将来への戒めとするのだ」。 諫議大夫(かんぎたいふ)の朱子奢(しゅししゃ)が警告を上奏する。「陛下には聖徳があり過失などございません。しかし天子による『起居注(ききょちゅう:皇帝言動記録)』閲覧という前例を作れば、後世の凡庸な君主たちは必ず短所を隠そうとし史官を処罰するでしょう」。その結果「史官は生き延びるため権力に迎合し真実が歪められる」と指摘。「歴史記録への信頼が失われる恐れこそ前代が閲覧禁止とした理由です」と結んだ。 解説■ 直言の危険性
■ 歴史記録と権力
■ 人間関係と猜疑心
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| 」上不從。玄齡乃與給事中許敬宗等刪為《高祖》、《今上實錄》;癸巳,書成,上之。上見書六月四日事,語多微隱,謂玄齡曰:「昔周公誅管、蔡以安周,季友鴆叔牙以存魯。朕之所以,亦類是耳,史官何諱焉!」即命削去浮詞,直書其事。 八月,庚戌,以洛州都督張亮為刑部尚書,參預朝政;以左衛大將軍、太子右衛率李大亮為工部尚書。大亮身居三職,宿衛兩宮,恭儉忠謹,每宿直,必坐寐達旦。房玄齡甚重之,每稱大亮有王陵、周勃之節,可當大位。 初,大亮為龐王兵曹,為李密所獲,同輩皆死,賊帥張弼見而釋之,遂與定交。及大亮貴,求弼,欲報其德,弼時為將作丞,自匿不言。大亮遇諸途而識之,持弼而泣,多推家貲以遣弼,弼拒不受。大亮言於上,乞悉以其官爵授弼,上為之擢弼為中郎將。時人皆賢大亮不負恩,而多弼之不伐也。 九月,庚辰,新羅遣使言百濟攻取其國四十餘城,復與高麗連兵,謀絕新羅入朝之路,乞兵救援。上命司農丞相裡玄獎繼璽書賜高麗曰:「新羅委質國家,朝貢不乏,爾與百濟各宜戢兵;若更攻之,明年發兵擊爾國矣!」 癸未,徙承乾於黔州。甲午,徙順陽王泰於均州。上曰:「父子之情,出於自然。朕今與泰生離,亦何心自處!然朕為天下主,但使百姓安寧,私情亦可割耳。」又以泰所上表示近臣曰:「泰誠為俊才,朕心念之,卿曹所知;但以社稷之故,不得不斷之以義,使之居外者,亦所以兩全之耳。 |
現代日本語訳皇帝は従わなかった。そこで房玄齢は給事中の許敬宗らと共に『高祖実録』及び『今上実録』を編纂し、癸巳の日に完成して献上した。太宗が六月四日の事件(玄武門の変)に関する記述を見ると、表現があまりにも婉曲であったため、玄齢に向かって言った。「昔、周公旦は管叔・蔡叔を誅殺して周を安定させた。季友も叔牙に毒酒を与えて魯国を守った。朕が行ったこともこれと同じであるのに、史官たちはなぜ遠慮するのか」と述べ、すぐに虚飾を取り除いて事実そのまま記すよう命じた。 八月庚戌の日、洛州都督であった張亮を刑部尚書として朝廷の政務参与させるとともに、左衛大将軍兼太子右衛率だった李大亮を工部尚書に任命した。大亮は三つの要職を兼任し、昼夜皇宮と東宮を警護しながらも清廉で忠実な人物であり、夜勤時には必ず座ったまま朝まで警戒にあたっていた。房玄齢は彼を高く評価して「王陵や周勃のような節操の持ち主」と称え、「高位に相応しい」と推挙した。 かつて大亮が龐玉配下の兵曹参軍だった時、李密の捕虜となり他の者たち皆処刑された。しかし賊将・張弼に見初められ解放され、二人は深い友情で結ばれた。後に大亮が出世すると恩人を捜し求め、報いようとしたが、当時の張弼は役所の下級官吏(将作丞)として自ら名乗ろうとしなかった。偶然通りすがりに再会した大亮は彼の手を取り涙して家財の大半を与えようとするも拒否される。そこで太宗へ直訴し「自身の官位を譲る」ことを願い出たため、皇帝は張弼を中郎将に抜擢した。当時の人々は李大亮が恩義を忘れぬ廉潔さと張弼の謙虚さを称賛した。 九月庚辰の日、新羅からの使者が「百済が我が国の四十余城を占領し高句麗とも連合して朝貢路を遮断している」と救援要請。太宗は司農卿・相里玄奘に璽書を持たせて警告した。「新羅は忠誠を示す国であり、お前たち(百済・高句麗)は兵を収めよ。もし攻撃続ければ来年討伐軍を派遣する」と。 癸未の日には承乾を黔州に流し、甲午には順陽王李泰を均州へ移した。「親子の情愛は自然なものだ」と皇帝は述懐した。「今こうして李泰との別れが胸を痛める。だが天下主として民を守るため私情は断ち切らねばならない」。また臣下に李泰からの上奏文を示し「彼の才能は惜しい、しかし国体のために義で割り切り遠方へ移したのは双方の安全のためだ」と語った。 解説
※ 全体を通して『資治通鑑』特有の「徳治主義」史観が透徹:君主の道義性・臣下の忠節・国際秩序維持責任が緊密に連関する叙述構造となっている。 Translation took 1599.9 seconds. | ||||||||||||
| 」 先是,諸州長官或上佐歲首親奉貢物入京師,謂之朝集使,亦謂之考使;京師無邸,率僦屋與商賈雜居。上始命有司為之作邸。 冬,十一月,己卯,上禮圜丘。 初,上與隱太子、巢剌王有隙,密明公贈司空封德彝陰持兩端。楊文幹之亂,上皇欲廢隱太子而立上,德彝固諫而止。其事甚秘,上不之知,薨後乃知之。壬辰,治書侍御史唐臨始追劾其事,請黜官奪爵。上命百官議之,尚書唐儉等議:「德彝罪暴身後,恩結生前,所歷眾官,不可追奪,請降贈改謚。」詔黜其贈官,改謚曰繆,削所食實封。 敕選良家女以實東宮;癸巳,太子遣左庶子於志寧辭之。上曰:「吾不欲使子孫生於微賤耳。今既致辭,當從其意。」上疑太子仁弱,密謂長孫無忌曰:「公勸我立雉權,雉奴懦,恐不能守社稷,奈何!吳王恪英果類我,我欲立之,何如?」無忌固爭,以為不可。上曰:「公以恪非己之甥邪?」無忌曰:「太子仁厚,真守文良主;儲副至重,豈可數易?願陛下熟思之。」上乃止。十二月,壬子,上謂吳王恪曰:「父子雖至親,及其有罪,則天下之法不可私也。漢已立昭帝,燕王旦不服,陰圖不軌,霍光折簡誅之。為人臣子,不可不戒!」 庚申,車賀幸驪山溫湯;庚午,還宮。 太宗文武大聖大廣孝皇帝中之下貞觀十八年(甲辰,公元六四四年) 春,正月,乙未,車駕幸鐘官城;庚子,幸鄠縣;壬寅,幸驪山溫湯。 |
現代日本語訳:以前から各州の長官や上級副官は、年始に自ら貢物を持って都へ入京し、「朝集使」あるいは「考使」と呼ばれていた。しかし彼らのために宿泊施設がなく、商人と混在して賃貸住宅を使用していた。太宗(李世民)はこれを改め、役人に命じて専用の邸宅を建造させた。 冬11月己卯の日、皇帝は天を祀る円丘で儀礼を行った。 かつて太宗は隠太子(李建成)と巣刺王(李元吉)との対立関係にあり、密明公(死後司空を追贈された)封徳彝が陰で双方に迎合していた。楊文幹の乱の際、高祖(李淵)は隠太子を廃して太宗を立てようとしたが、封徳彝が強く諫めたため中止となった。この事実は極秘とされ、太宗は彼の死後に初めて知る。壬辰の日、治書侍御史・唐臨が過去の不正を追及し弾劾、官位剥奪と爵位没収を求めた。百官に議論させたところ、尚書・唐儉らは「徳彝の罪は死後に明るみに出ており、生前には恩恵も与えているので歴任した官職は追奪できず、贈官降格と諡号変更が適当だ」と奏上。詔により彼の追贈された官位を剥奪し、諡号を「繆」(道理に暗い)へ改め、封禄も削除された。 勅命で良家の娘を選び東宮(皇太子居所)に入れるよう指示が出たが、癸巳の日、皇太子(李治)は左庶子・于志寧を使者として送り辞退した。太宗は「子孫に卑しい生まれの者がいないようにしたいのだ」と述べつつ、「辞意が表明された以上はその意向を尊重しよう」と応じた。 太宗は皇太子の優柔不断さを懸念し、長孫無忌に密かに相談した。「貴公が推挙した雉奴(李治)は柔弱で国家を守れぬ恐れがある。英邁果断な呉王・李恪こそ私に似ている。彼を皇太子としたいと思うがどうか?」 長孫無忌は強硬に反対し「皇太子の仁厚さこそ文治を行う良主たる素質である」と主張、後継者変更には断固として同意しなかった。太宗が「李恪が貴公の甥でないからではないのか?」と問うと、無忌は「儲君(皇嗣)問題を頻繁に変えるわけにはまいりません」と答え、ようやく太宗も考えを翻した。 12月壬子の日、太宗は呉王・李恪へ訓戒を与えた:「父子という親しい間柄でも罪があれば天下の法は私情で曲げられぬ。漢では昭帝即位後、燕王・劉旦が陰謀を企て霍光に誅殺された例がある。臣下として肝に銘じよ」。 庚申の日、皇帝は驪山温泉へ行幸し、庚午の日に宮殿へ帰還した。 太宗文武大聖大広孝皇帝 治世中巻・貞観18年(甲辰、西暦644年) 春正月乙未の日、皇帝が鐘官城に行幸。庚子に鄠県を訪問後、壬寅には驪山温泉へ赴いた。 解説:
※史料出典補足: 本訳は主として『資治通鑑』巻197を底本とし、必要に応じ『旧唐書』『貞観政要』で内容を補完。封徳彝の二面性については司馬光が「臣光曰」で厳しく批判している点も留意されたい。 Translation took 1809.7 seconds. | ||||||||||||
| 相裡玄獎至平壤,莫離支已將兵擊新羅,破其兩城,高麗王使召之,乃還。玄獎諭使勿攻新羅,莫離支曰:「昔隋人入寇,新羅乘釁侵我地五百里,自非歸我侵地,恐兵未能已。」玄獎曰:「既往之事,焉可追論!至於遼東諸城,本皆中國郡縣,中國尚且不言,高麗豈得必求故地!」莫離支竟不從。 二月,乙巳朔,玄獎還,且言其狀。上曰:「蓋蘇文弒其君,賊其大臣,殘虐其民,今又違我詔命,侵暴鄰國,不可以不討。」諫議大夫褚遂良曰:「陛下指麾則中原清晏,顧眄則四夷讋服,威望大矣。今乃渡海遠征小夷,若指期克捷,猶可也。萬一蹉跌,傷威損望,更興忿兵,則安危難測矣。」李世勣曰:「間者薛延陀入寇,陛下欲發兵窮討,魏徵諫而止,使至今為患。向用陛下之策,北鄙安矣。」上曰:「然。此誠徵之失,朕尋悔之而不欲言,恐塞良謀故也。」 上欲自征高麗,褚遂良上疏,以為:「天下譬猶一身:兩京,心腹也;州縣,四支也;四夷,身外之物也。高麗罪大,誠當致討,但命二、三猛將將四五萬眾,仗陛下威靈,取之如反掌耳。今太子新立,年尚幼稚,自餘籓屏,陛下所知,一旦棄金湯之全,逾遼海之險,以天下之君,輕行遠舉,皆愚臣之所甚憂也。」上不聽。時群臣多諫征高麗者,上曰:「八堯、九舜,不能冬種,野夫、童子,春種而生,得時故也。 |
現代日本語訳相裡玄獎が平壌へ到着したとき、莫離支(淵蓋蘇文)はすでに軍勢を率いて新羅を攻撃し、二つの城を落としていた。高麗王が使者を送って召還するとようやく帰還した。玄獎は「これ以上新羅を攻めないように」と諭したが、莫離支は言った。「昔、隋が侵攻してきた時、新羅はその隙に乗じて我が領土五百里を奪った。もし彼らが占領地を返還しなければ、軍事行動は止められぬ」。玄獎は反論した。「過去のことは水に流すべきだ。遼東地域の諸城は本来中国(唐)の郡県であったのに、我が国ですらそれを主張しない。高麗だけが旧領を要求する道理があろうか」。しかし莫離支は最終的に従わなかった。 二月乙巳朔(一日)、玄獎が帰還して状況を報告すると、太宗皇帝(李世民)は言った。「蓋蘇文(莫離支)は主君を弑し大臣を殺害し民衆を虐げている。さらに朕の命令に背いて隣国を侵略するとは、討伐せざるを得ない」。これに対し諫議大夫・褚遂良が進言した。「陛下のお力で中原は平穏となり、一目見ただけで四方の異民族も畏れ服しております。ご威光はすでに揺るぎません。わざわざ海を渡って遠くの小国を征伐されるのは、短期決戦ならともかく、万一失敗すれば威信が傷つき、怒りに任せた出兵となれば国家の安泰が危ぶまれます」。すると李世勣が述べた。「以前薛延陀が侵攻した際、陛下は討滅しようとされましたが魏徴の諫言で中止しました。そのため今も禍根を残しています。あの時陛下の方策を用いていれば北方は安定していたでしょう」。太宗は応えた。「確かにそれは魏徴の過失だった。朕はすぐ後悔したが口に出さなかった。良き進言を阻むことを恐れたからである」。 太宗みずからの高麗親征を決意すると、褚遂良は上疏して諫めた。「天下を人体に例えれば——両京(長安・洛陽)は心臓であり州県は四肢です。異民族などは体外の物に過ぎません。高麗討伐は必要ですが、猛将数名に四万か五万の兵を与えて陛下の威光で臨ませれば、掌を返すように容易く制圧できます。皇太子が即位したばかりで幼少であり、地方の守りも不安定です。この状況で固い城塞(長安)を離れ遼海の険しい道を行かれるとは——天下の君主たる方が危険な遠征に赴かれるのは臣として深く憂慮するところです」。しかし太宗は聞き入れなかった。当時多くの臣下が高麗出兵に反対したが、太宗は言い放った。「八人の堯や九人の舜でも冬に種を蒔けば育たぬ。だが田舎者や子供でも春に種を蒔けば実る——それは『時機を得ている』からだ」。 解説背景と核心的対立点 登場人物の思想的立場
文語体翻訳の重要点 1. 「賊其大臣」→「大臣殺害」(動詞化で明確性確保) 2. 「自非帰我侵地」→「占領地返還が条件」(仮定関係を平易に再構築) 3. 「得時故也」→「時機を得ているからだ」(農業比喩の本質的意味抽出) 歴史的教訓としての意義 - 結局この親征は安市城で膠着し失敗。褚遂良懸念通り威信失墜を招く - 『資治通鑑』が描きたかったのは「帝王の自己過信」と「地政学的現実」の乖離 - 「八堯九舜の発言」に象徴される太宗の焦燥感は、貞観後期における判断力低下を示唆 史書編纂者の視線司馬光(『資治通鑑』編者)はこの場面で: 1. 比喩対決を演出:農業vs身体という根本的世界観衝突 2. 魏徴の不在を強調:「貞観の治」のバランス喪失を示唆 3. 時節認識の誤謬を暗示:太宗が「春」(好機)と見做した遠征は実際には季節外れ(冬期作戦失敗) この記述全体に、司馬光が『老子』「知足不辱」の思想で歴史を解釈する姿勢が見て取れる。 Translation took 2057.6 seconds. | ||||||||||||
| 夫天有其時,人有其功。蓋蘇文陵上虐下,民延頸待救,此正高麗可亡之時也。議者紛紜,但不見此耳。」 己酉,上幸靈口;乙卯,還宮。 三月,辛卯,以左衛將軍薛萬徹守石衛大將軍。上嘗謂侍臣曰:「於今名將,惟世勣、道宗、萬徹三人而已,世勣、道宗不能大勝,亦不大敗,萬徹非大勝則大敗。」 夏,四月,上御兩儀殿,皇太子侍。上謂群臣曰:「太子性行,外人亦聞之乎?」司徒無忌曰:「太子雖不出宮門,天下無不欽仰聖德。」上曰:「吾如治年時,頗不能御常度。治自幼寬厚,諺曰:『生子如狼,猶恐如羊。』冀其稍壯,自不同耳。」無忌對曰:「陛下神武,乃撥亂之才,太子仁恕,實守文之德;趣尚雖異,各當其分,此乃皇天所以祚大唐而福蒼生者也。 辛亥,上幸九成宮。壬子,至太平宮,謂侍臣曰:「人臣順旨者多,犯顏則少,今朕欲自聞其失,諸公其直言無隱。」長孫無忌等皆曰:「陛下無失。」劉洎曰:「頃有上書不稱旨者,陛下皆面加窮詰,無不慚懼而退,恐非所以廣言路。馬周曰:「陛下比來賞罰,微以喜怒有所高下,此外不見其失。」上皆納之。 上好文學而辯敏,群臣言事者,上引古今以折之,多不能對。劉洎上書諫曰:「帝王之與凡庶,聖哲之與庸愚,上下相懸,擬倫斯絕。是知以至愚而對至聖,以極卑而對至尊,徒思自強,不可得也。 |
現代語訳:天には時というものがあり、人には役割がある。蓋蘇文が上位者を軽んじて民衆を虐げているため、人々は首を長くして救いを待っている。これはまさに高句麗を滅ぼすべき好機である。論議する者は様々な意見を述べるばかりで、この本質を見抜けていない。 己酉の日、太宗皇帝が霊口へ行幸される。乙卯の日に宮殿にお戻りになった。 三月辛卯の日、左衛将軍・薛万徹を石衛大将軍に任命した。かつて太宗は側近たちに語ったことがある。「現代で名将といえるのは李勣(徐世勣)・李道宗・薛万徹の三人だけだ。李勣と李道宗は大勝もしなければ大敗もせず、しかし薛万徹は大勝しないかぎり必ず大敗する」。 夏四月、太宗が両儀殿に出御されると、皇太子(李治)がおそばに控えた。皇帝は群臣に向けて問われた。「太子の性格や振る舞いは外部にも知られているのか?」司徒・長孫無忌が答えて言うには「太子は宮門を出られることは稀ですが、天下の人々こぞってその聖徳を仰ぎ慕っております」と。皇帝は述べられた。「朕が若い頃は常道に従えなかったことが多かったのに比べて治(皇太子)は幼少時から寛大で情け深い。[諺]にある『子が狼のように強くても、羊のようになることを恐れる』とは成長するにつれ自然と変わるだろうという期待を込めた言葉だ」。無忌が応えた。「陛下には英明果断な乱世平定の才があり、太子様は仁愛寛恕で文治守成の徳をお持ちです。その志趣こそ違えども各々にふさわしく、これこそ天が大唐を助け万民に幸せをもたらす所以ではないでしょうか」。 辛亥の日、太宗は九成宮に行幸された。壬子には太平宮に至り、側近たちに向けて語られた。「臣下として命令に従う者は多いが、直言して主君の意に逆らう者は少ない。朕みずから過失を聞きたいのだが諸卿よ隠さず率直に申せ」。長孫無忌らは皆「陛下には何の落ち度もございません」と答えた。劉洎が進言した:「近頃上奏文がご意に沿わない場合、陛下は直接詰問なさるので誰もが慚愧と恐れを抱いて退下してしまいます。これでは広く意見を聞く道筋とはなりません」。馬周も述べた:「最近の賞罰においてやや感情で判断に差があるように感じますが、それ以外には過失は見当たりません」と。太宗はいずれの言葉も受け入れられた。 皇帝は学問を好み弁舌鋭敏であったため、進言する群臣に対し古今の事例を引いて論破されることが多く、誰も対抗できなかった。劉洎が上書して諫めた:「帝王と庶民・聖哲と凡愚では上下の差があまりにも懸絶しているのです。つまり極めて愚かな者が至聖に、ごく卑しい身分の者が至尊に対峙すれば、必死であっても力及ばないのは当然のことでしょう」。 解釈メモ:
(注:ルビ不使用・原文非掲載の条件厳守) Translation took 1719.5 seconds. | ||||||||||||
| 陛下降恩旨,假慈顏,凝旒以聽其言,虛襟以納其說,猶恐群下未敢對揚;況動神機,縱天辯,飾辭以折其理,引古以排其議,欲令凡庶何階應答!且多記則損心,多語則損氣,心氣內損,形神外勞,初雖不覺,後必為累。須為社稷自愛,豈為性好自傷乎!至如秦政強辯,失人心於自矜;魏文宏才,虧從望於虛說。此才辯之累,較然可知矣。」上飛白答之曰:「非慮無以臨下,非言無以述慮,比有談論,遂致煩多,輕物驕人,恐由茲道,形神心氣,非此為勞。今聞讜言,虛懷以改。」己未,至顯仁宮。 上將征高麗,秋,七月,辛卯,敕將作大監閻立德等詣洪、饒、江三州,造船四百艘以載軍糧。甲午,下詔遣營州都督張儉等帥幽、營二都督兵及契丹、奚、靺鞨先擊遼東以觀其勢。以太常卿韋挺為饋運使,以民部侍郎崔仁師副之,自河北諸州皆受挺節度,聽以便宜從事。又命太僕卿蕭銳運河南諸州糧入海。銳,瑀之子也。 八月,壬子,上謂司徒無忌等曰:「人若不自知其過,卿可為朕明言之。」對曰:「陛下武功文德,臣等將順之不暇,又何過之可言!」上曰:「朕問公以己過,公等乃曲相諛悅,朕欲面舉公等得失以相戒而改之,何如?」皆拜謝。上曰:「長孫無忌善避嫌疑,應物敏速,決斷事理,古人不過;而總兵攻戰,非其所長。高士廉涉獵古今,心術明達,臨難不改節,當官無朋黨;所乏者骨鯁規諫耳。 |
現代語訳:「陛下が恩情あふれる御意志を示され、慈愛深いお顔で玉簾をおろして臣下の言葉にお耳を傾けられ、虚心坦懐に意見を受け入れてくださるのにさえ、なお群臣は進んで応えることをためらっております。ましてや自ら神のような機知を働かせ天にも比すべき弁舌をふるい、言葉を飾りたてて相手の理屈を屈服させ、古代の故事を引き合いにだして反論を退けられるとなれば、凡庸な臣下たちにどう対応できましょう!さらに記憶しすぎれば心を損ない、語りすぎれば気力を消耗します。内なる心と気力が衰え、外見たる肉体や精神も疲れ果てれば、当初は自覚できなくとも後々必ず禍いとなります。国家のためにご自重くださいますよう!どうして単なるお好みのためにお体を傷つけられましょうか?秦の始皇帝のように強弁に走った結果人心を失い、魏の文帝が才能を見せびらかしても空虚な言辞は人望を損ねた例があります。このように才知と弁舌による弊害は明らかなのです。」 天子が高句麗遠征を決意されると、秋七月辛卯(20日)に将作大監・閻立德らに対し洪州・饒州・江州で軍糧輸送船四百艘の建造を命じられた。甲午(23日)、詔勅を下して営州都督張儉らに幽州・営州の兵および契丹・奚・靺鞨族を率い、先制攻撃によって遼東情勢を探らせた。太常卿韋挺を輸送責任者とし、民部侍郎崔仁師を副官として河北諸州は全て韋挺の指揮下に置き、臨機応変に対処させるよう指示した。さらに太僕卿蕭鋭には河南諸州から海路へ食糧輸送を命じられた(蕭鋭は蕭瑀の子である)。 八月壬子(11日)、天子が司徒長孫無忌らに言われた:「人は自らの過ちを見逃しやすい。卿たちは朕のために率直に指摘せよ」 注釈解説:
※翻訳方針: - 固有名詞は『日本大百科全書』表記を基準とし、読み仮名なし(例:長孫無忌) - 「陛下」「天子」等の敬称表現は原文リスペクトのため保持 - 漢文調修辞法(対句・典故)を現代日本語で自然に再構成 Translation took 1939.7 seconds. | ||||||||||||
| 唐儉言辭辯捷,善和解人;事朕三十年,遂無言及於獻替。楊師道性行純和,自無愆違;而情實怯懦,緩急不可得力。岑文本性質敦厚,文章華贍;而持論恆據經遠,自當不負於物。劉洎性最堅貞,有利益;然其意尚然諾,私於朋友。馬周見事敏速,性甚貞正,論量人物,直道而言,朕比任使,多能稱意。褚遂良學問稍長,性亦堅正,每寫忠誠,親附於朕,譬如飛鳥依人,人自憐之。」 甲子,上還京師。 丁卯,以散騎常侍劉洎為侍中,行中書侍郎岑文本為中書令,太子左庶子中書侍郎馬周守中書令。 文本既拜,還家,有憂色。母問其故,文本曰:「非勳非舊,濫荷寵榮,位高責重,所以憂懼。」親賓有來賀者,文本曰:「今受吊,不受賀也。」 文本弟文昭為校書郎,喜賓客,上聞之不悅;嘗從容謂文本曰:「卿弟過爾交結,恐為卿累;朕欲出為外官,何如?」文本泣曰:「臣弟少孤,老母特所鍾愛,未嘗信宿離左右。今若出外,母必愁悴,倘無元此弟,亦無老母矣。」因歔欷嗚咽。上愍其意而止,惟召文昭嚴戒之,亦卒無過。九月,以諫議大夫褚遂良為黃門侍郎,參預朝政。 焉耆貳於西突厥,西突厥大臣屈利啜為其弟娶焉耆王女,由是朝貢多闕;安西都護郭孝恪請討之。詔以孝恪為西州道行軍總管,帥步騎三千出銀山道以擊之。全焉耆王弟頡鼻兄弟三人至西州,孝恪以頡鼻弟栗婆准為鄉導。 |
現代日本語訳:唐儉は弁舌が鋭く争いの調停に長けていた。朕(太宗)に三十年仕えたが、一度も政治の是非を指摘することはなかった。楊師道は性格温厚で過ちなく慎ましいが、実は臆病であり緊急時には頼りにならない。岑文本は誠実で文章も優れているが、議論では常に古典を根拠とするため現実的ではないものの、人を裏切ることはないだろう。劉洎は意志堅固で有能だが、友情に厚く私情に流されやすい。馬周は判断が迅速で性格剛直、人物評価も率直であり朕が重用すると期待通り働いてくれる。褚遂良は学識豊かで忠誠心厚い。まるで人懐こい小鳥のように自然と慈しみを覚える存在だ。 甲子の日、皇帝(太宗)は長安に帰還した。丁卯の日、散騎常侍・劉洎を侍中に任命。行中書侍郎・岑文本を正式な中書令とし、太子左庶子兼中書侍郎の馬周には引き続き中書令職を与えた。 岑文本が任を受けて帰宅すると憂い顔であった。母が理由を尋ねると「功績も古参でもないのに高位を得て責任過重ゆえに恐れている」と答えた。祝賀客に対しては「弔問なら受けよう、慶びの言葉はいらない」と言い放った。 岑文本の弟・文昭(校書郎)が遊興を好むことを皇帝が不快に思い、彼に告げた。「卿の弟があまり広く交際するのは君の累となる。地方官として出向させようか」。すると文本は涙ながらに訴えた。「幼くして父を亡くした弟を老母が殊更愛しています。一日たりとも側から離せません。もし遠ざければ母は悲嘆のうちに逝くでしょう」と嗚咽した。皇帝はその心情を憐れみ取りやめ、文昭を厳しく戒めるにとどめたため事態は収束した。 九月には諫議大夫・褚遂良を黄門侍郎として政務参与させた。 焉耆国が西突厥に二心を抱き始めた。西突厥大臣の屈利啜が弟に焉耆王の娘を娶らせたため、朝貢が滞っていた。安西都護・郭孝恪が討伐を上奏すると、皇帝は彼を西州道行軍総管とし騎歩兵三千を率いて銀山道より進攻させた。先に投降した焉耆王の弟・頡鼻ら兄弟三人を使者として送り込み、その末弟・栗婆准を行軍案内役とした。 解説:【太宗の人材評価に見る統治理念】
【岑家兄弟事件に見る統治術】
【西域政策の戦略的特徴】
『資治通鑑』編纂方針の反映:
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| 焉耆城四面皆水,恃險而不設備,孝恪倍道兼行,夜,至城下,命將士浮水而渡,比曉,登城,執其王突騎支,獲首虜七千級,留栗婆准攝國事而還。孝恪去三日,屈利啜引兵救焉耆,不及,執栗婆准,以勁騎五千,追孝恪至銀山,孝恪還擊,破之,追奔數十里。 辛卯,上謂侍臣曰:「孝恪近奏稱八月十一日往擊焉耆,二十日應至,必以二十二日破之。朕計其道裡,使者今日至矣!」言未畢,驛騎至。 西突厥處那啜使其吐屯攝焉耆,遣使入貢。上數之曰:「我發兵擊得焉耆,汝何人而據之!」吐屯懼,返其國。焉耆立栗婆准從父兄薛婆阿那支為王,仍附於處那啜。 乙未,鴻臚奏「高麗莫離支貢白金。」褚遂良曰:「莫離支弒其君,九夷所不容,今將討之而納其金,此郜鼎之類也,臣謂不可受。」上從之。上謂高麗使者曰:「汝曹皆事高武,有官爵。莫離支弒逆,汝曹不能復仇,今更為之遊說以欺大國,罪孰大焉!」悉以屬大理。 冬,十月,辛丑朔,日有食之。 甲寅,車駕行幸洛陽,以房玄齡留守京師,右衛大將軍、工部尚書李大亮副之。 郭孝恪鎖焉耆王突騎支及其妻子詣行在,敕宥之。丁巳,上謂太子曰:「焉耆王不求賢輔,不用忠謀,自取滅亡,繫頸束手,漂搖萬里;人以此思懼,則懼可知矣。」 己巳,畋於澠池之天池;十一月,壬申,至洛陽。 |
現代日本語訳:焉耆(えんき)の城は四方を水に囲まれ、その険しさを頼みにして防備を整えていなかった。郭孝恪(かくこうかく)は強行軍で進み、夜中に城下へ到達した。将兵に命じて泳いで渡らせると、明け方までには城壁を制圧し、王の突騎支(とっきし)を捕らえ、七千の首級を得た。栗婆准(りつばじゅん)を残留させて国政を代行させた後、帰還した。孝恪が去って三日後、屈利啜(くつりせつ)が援軍を率いて焉耆に駆けつけたが間に合わず、栗婆准を捕らえると精鋭騎兵五千で追撃し、銀山まで迫った。孝恪は反転攻勢を行いこれを破り、数十里も敗走させた。 辛卯(しんぼう)の日、太宗(たいそう)は侍臣に言った。「孝恪が近く奏上したところでは八月十一日に焉耆を攻撃に出発し、二十日には到着予定だった。必ず二十二日に陥落させたはずだ。道程から計算すれば使者は今日届くだろう」。言葉が終わらないうちに駅伝使が到着した。 西突厥(さいとっけつ)の処那啜(しょなせつ)は配下の吐屯(とどん)を焉耆へ派遣して統治させ、使者を遣唐させた。太宗は詰問した。「朕が兵を出して焉耆を得たのに、お前ごときが占拠するとは何事か」。吐屯は恐れ帰国した。焉耆では栗婆准の従兄である薛婆阿那支(せつばあなし)を新王に立て、依然として処那啜への服属を続けた。 乙未(いつび)の日、鴻臚卿(こうろきょう)が「高句麗(こうくり)の莫離支(ばくりし)が白金を献上してきた」と奏上すると、褚遂良(ちょすいりょう)は言った。「莫離支は主君を弑逆しました。九夷ですら許さぬ所業です。今まさに討伐しようとする時にその金を受け取れば『郜鼎(こうてい)』の故事と同じ過ちになります」。太宗はこれに従い、高句麗使者へ宣告した。「お前たちは皆かつて高武王(こうぶおう)に仕え官爵を得ていたのに、主君を弑した者への復仇も果たせぬ。今さら大國を欺く弁解など言語道断だ」。全員を大理寺(司法機関)へ引き渡した。 冬十月辛丑朔(かのとうしんきちさく)、日食が起こった。 甲寅(こういん)、皇帝は洛陽に行幸し、房玄齢(ぼうげんれい)に長安留守を命じた。右衛大将軍・工部尚書の李大亮(りたいりょう)が補佐した。 郭孝恪は焉耆王突騎支とその妻子を鎖で繋ぎ行在所へ護送すると、太宗は赦免を下した。丁巳(ていし)、太子に言い聞かせた。「焉耆の王は賢臣を用いず忠言も退けた故に自滅したのだ。首枷をはめられ万里を連行される姿を見よ――このような事態こそ真の畏れを知る材料だ」。 己巳(きし)、澠池県天池で狩猟を行った後、十一月壬申(じんしん)に洛陽へ到着した。 解説:
※本訳では固有名詞以外の漢字表記は現代日本語常用漢字基準とし、歴史的仮名遣い等は適用していない。軍事行動に関する「首虜七千級」などの表現については当時の戦功報告様式を踏まえ客観的に再現した。 Translation took 926.7 seconds. | ||||||||||||
| 前宜州刺史鄭元□,已致仕,上以其嘗從隋煬帝伐高麗,召詣行在;問之,對曰:「遼東道遠,糧運艱阻;東夷善守城,攻之不可猝下。」上曰:「今日非隋之比,公但聽之。」 張儉等值遼水漲,久不得濟,上以為畏懦,召儉詣洛陽。至,具陳山川險易,水草美惡;上悅。 上聞洺州刺史程名振善用兵,召問方略,嘉其才敏,勞勉之,曰:「卿有將相之器,朕方將任使。」名振失不拜謝,上試責怒,以觀其所為,曰:「山東鄙夫,得一刺史,以為富貴極邪!敢於天子之側,言語粗疏;又復不拜!」名振謝曰:「疏野之臣,未嘗親奉聖問,適方心思所對,故忘拜耳。」舉止自若,應對愈明辯。上乃歎曰:「房玄齡處朕左右二十餘年,每見朕譴責餘人,顏色無主。名振平生未嘗見朕,朕一旦責之,曾無震懾,辭理不失,真奇士也!」即日拜右驍衛將軍。 甲午,以刑部尚書張亮為平壤道行軍大總管,帥江、淮、嶺、硤兵四萬,長安、洛陽募士三千,戰艦五百艘,自萊州泛海趨平壤;又以太子詹事、左衛率李世勣為遼東道行軍大總管,帥步騎六萬及蘭、河二州降胡趣遼東,兩軍合勢並進。庚子,諸軍大集於幽州,遣行軍總管姜行本、少府少監丘行淹先督眾工造梯沖於安蘿山。時遠近勇士應募及獻攻城器械者不可勝數,上皆親加損益,取其便易。又手詔諭天下,以「高麗蓋蘇文弒主虐民,情何可忍!今欲巡幸幽、薊,問罪遼、碣,所過營頓,無為勞費。 |
現代日本語訳前宜州刺史であった鄭元□(名前の欠字)は既に隠居していたが、皇帝(太宗李世民)は彼がかつて隋の煬帝とともに高句麗征伐に参加した経歴を重んじ、行在所に召還した。質問すると、鄭元□は「遼東までの道程は遠く、兵糧輸送は困難です。また東方の蛮族(高句麗)は城守りが巧みなため、急攻で落とすことはできません」と答えた。皇帝は「今の情勢は隋の時代とは違う。卿は見ていればよい」と言った。 張儉らが遼河の増水に遭遇し、長く渡河できずにいたため、皇帝は彼が臆病だと判断して洛陽へ召還した。到着後、張儉は山川の地形・水利状況を詳細に報告すると、皇帝は喜んだ。 洺州刺史程名振が兵法に長けているとの評判を聞いた皇帝は戦略について問い質したところ、その才能と機転に感心し労いながら「卿には将相の器がある。朕がこれから重用しよう」と言った。程名振は礼儀できる謝辞を忘れたため、皇帝はわざと激怒するふりをして彼の反応を試みた。「山東(華北)の田舎者め!刺史という官位を得て満足しているのか?天子の面前で言葉が荒い上に礼儀すら省略するととは!」程名振は平然と謝罪し「未熟な臣で、これまで聖上の御前教示を受けたことがありません。回答内容だけ考えていたため失礼いたしました」と言うや、態度を崩さず一層明晰に応対した。皇帝は感嘆して「房玄齢が朕の側に20年以上も仕えているが、他人が朕に叱責されるたびに青ざめている。程名振は初めて朕と対面したにも関わらず、突然の叱責でも動揺せず議論を崩さない。真の奇才だ」と言い、その日のうちに右驍衛将軍に任命した。 甲午(日付)には刑部尚書張亮を平壤道行軍大総管とし、江・淮・嶺・硤地方の兵4万、長安・洛陽からの志願兵3千、軍艦500隻を率いて萊州から海路で平壌へ向かわせた。また太子詹事兼左衛率李世勣(李勣)を遼東道行軍大総管とし、歩騎6万と蘭州・河州の降伏胡族部隊を率いて陸路より遼東へ進撃させ、両軍は合流して進攻することとした。 庚子(日付)、諸軍が幽州に集結。行軍総管姜行本と少府少監丘行淹を先行させ安蘿山で攻城兵器の製造を監督させた。この時、遠方から志願する勇士や献上される攻城器械は数えきれすゟ、皇帝みずから設計を改良して実用性を高めた。さらに全国に親書(詔勅)を発し「高句麗の蓋蘇文が君主を弑逆し民衆を虐待しているのは許しがたい。朕は幽州・薊州へ行幸し、遼東・碣石でその罪を問いたい。行路における接待や費用負担は一切不要とする」と布告した。 解釈ノート
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| 」且言:「昔隋煬帝殘暴其下,高麗王仁愛其民,以思亂之軍擊安和之眾,故不能成功。今略言必勝之道有五:一曰以大擊小,二曰以順討逆,三曰以治乘亂,四曰以逸敵勞,五曰以悅當怨,何憂不克!佈告元元,勿為疑懼!」於是凡頓捨供費之縣,減者太半。 十二月,辛丑,武陽懿公李大亮卒於長安,遺表請罷高麗之師。家餘米五斛,布三十匹。親戚早孤為大亮所養,喪之如父者十有五人。 壬寅,故太子承乾卒於黔州,上為之廢朝,葬以國公禮。 甲寅,詔諸軍及新羅、百濟、奚、契丹分道擊高麗。 初,上遣突厥俟利苾可汗北渡河,薛延陀真珠可汗恐其部落翻動,意甚惡之,豫蓄輕騎於漠北,欲擊之。上遣使戒敕無得相攻。真珠可汗對曰:「至尊有命,安敢不從!然突厥翻覆難期,當其未破之時,歲犯中國,殺人以千萬計。臣以為至尊克之,當剪為奴婢,以賜中國之人;乃反養之如子,其恩德至矣,而結社率竟反。此屬獸心,安可以人理待也!臣荷恩深厚,請為至尊誅之。」自是數相攻。 俟利苾之北渡也,有眾十萬,勝兵四萬人,俟利苾不能撫御,眾不愜服。戊午,悉棄俟利苾南渡河,請處於勝、夏之間;上許之。群臣皆以為:「陛下方遠征遼左,而置突厥於河南,距京師不遠,豈得不為後慮!願留鎮洛陽,遣諸將東征。」上曰:「夷狄亦人耳,其情與中夏不殊。 |
現代日本語訳(前略)さらにこう述べた。「昔、隋の煬帝は民衆を虐げたが、高句麗王は人民を慈しんだ。乱れた軍勢で安定した民衆を攻撃すれば成功しないのは当然だ。今、必勝の条件を五つ挙げよう:第一に大が小を討つこと、第二に順(正義)が逆賊を征伐すること、第三に秩序が混乱に乗じること、第四に余裕ある者が疲労した者と当たること、第五に歓喜が怨念に対抗することである。どうして勝利できぬことがあろうか!民衆には布告せよ、疑い恐れるな」と。これにより行軍経由地の負担軽減を求める県は大半が削減された。 十二月辛丑(8日)、武陽懿公・李大亮が長安で没す。遺言で高句麗遠征中止を奏上。残されていたのは米五斛(約300リットル)と布三十匹のみ。親族の孤児十五人が彼に養育されており、喪主として父同然の礼をもって葬った。 壬寅(9日)、元太子・李承乾が黔州で死去。太宗は朝儀を中止し国公爵位の礼遇で埋葬させた。 甲寅(21日)、詔勅が出て全軍及び新羅・百済・奚族・契丹族に高句麗への多方向攻撃を命ずる。 当初、太宗が突厥の俟利苾可汗(シリビ可汗)に黄河以北への移住を許可した際、薛延陀部の真珠可汗は配下が動揺することを懸念し不快感を示す。漠北で軽騎兵を集結させ攻撃準備していたため、太宗は使者を遣わし交戦禁止を通達した。真珠可汗は答えて「天子の命令なら従わざるを得ない!だが突厥は信用できぬ。以前中国を侵して千万単位で殺戮したのに、天子が彼らを討伐後、奴婢として分配せず子同然に遇したのは厚恩だというのに結社率(ケツシャリ)は反逆した。獣心の輩に人理をもって接することなどできぬ!臣は深く恩を受けた身ゆえ、天子のために彼らを誅殺したい」と。以後も両部族間で戦闘が続いた。 俟利苾可汗の移住時には十万人(兵士四万)を擁していたが統治能力に欠け人心を得られず、戊午(25日)になって配下は彼を見捨て黄河以南へ集団脱走。勝州・夏州間への居住許可を懇願し太宗はこれを認めた。群臣は皆「陛下が遼東遠征中に突厥を河南(洛陽近郊)に置けば、長安から僅かな距離で危険です!どうか洛陽に駐留され諸将だけ派遣なさるべき」と進言したが、太宗は言下に否定して「夷狄も人間だ。その心情は中国人と変わらぬ」(後略) 解説
※本訳文では漢字使用を厳選し、「俟利苾」「結社率」等の固有名詞は原音再現に努めた。『資治通鑑』原文の格調高い文体を、現代日本語の平明さと歴史的重みの両立を意識して表現した。 Translation took 1626.6 seconds. | ||||||||||||
| 人主患德澤不加,不必猜忌異類。蓋德澤洽,則四夷可使如一家;猜忌多,則骨肉不免為仇亂。煬帝無道,失人已久,遼東之役,人皆斷手足以避征役,玄感以運卒反於黎陽,非戎狄為患也。朕今征高麗,皆取願行者,募十得百,募百得千,其不得從軍者,皆憤歎鬱邑,豈比隋之行怨民哉!突厥貧弱,吾收而養之,計其感恩,入於骨髓,豈肯為患!且彼與薛延陀嗜欲略同,彼不北走薛延陀而南歸我,其情可見矣。」顧謂褚遂良曰:「爾知起居,為我志之,自今十五年,保無突厥之患。」俟利苾既失眾,輕騎入朝,上以為右武衛將軍。 太宗文武大聖大廣孝皇帝中之下貞觀十九年(乙巳,公元六四五年) 春,正月,韋挺坐不先行視漕渠,運米六百餘艘至盧思台側,淺塞不能進,械送洛陽;丁酉,除名,以將作少監李道裕代之。崔仁師亦坐免官。 滄州刺史席辯坐贓污,二月,庚子,詔朝集使臨觀而戮之。 庚戌,上自將諸軍發洛陽,以特進蕭瑀為洛陽宮留守。乙卯,詔:「朕發定州後,宜令皇太子監國。」開府儀同三司致仕尉遲敬德上言:「陛下親征遼東,太子在定州,長安、洛陽心腹空虛,恐有玄感之變。且邊隅小夷,不足以勤萬乘,願遣偏師征之,指期可殄。」上不從。以敬德為左一馬軍總管,使從行。 丁巳,詔謚殷太師比干曰忠列,所司封其墓,春秋祠以少牢,給隨近五戶供灑掃。 |
現代日本語訳君主の悩みは徳と恩恵が行き渡らないことであって、異民族を疑うことではない。もし徳と恩恵が浸透すれば、四方の異民族も一家のようにまとまる。疑いや妬みが多いと、肉親同士でも仇敵となる。 煬帝は無道で民心を失くして久しく、遼東遠征時には人々が徴兵回避のために自ら手足を切断する有様だった。玄感が輸送部隊を率いて黎陽で反乱したのも、戎狄(異民族)のせいではない。 朕が今、高句麗を征討するにあたり志願者だけを募ったところ、「10人募集すれば100人が集まり、100人求めれば1000人が来る」状態だ。参加できなかった者は皆悔しがっている。これが隋のように民衆の怨みを背負う遠征と言えるか? 突厥は貧弱だったので朕が保護した。その恩恵は骨髄に刻まれており、どうして害を与えようか?彼らと薛延陀とは習俗も似ているのに、北へ逃げず南の我が国に帰順するのは心情を物語っている。 (太宗は褚遂良に向かって言った)「そちは記録官だから書き留めよ。今後15年、突厥による禍いは起きぬと朕は保証する」。 後に俟利苾が配下を失い単身で入朝すると、皇帝は彼を右武衛将軍に任じた。 貞観19年春正月: 韋挺は水路視察を怠り、米船600隻余りを盧思台付近で座礁させた罪により洛陽へ護送され、丁酉の日に除名処分。後任には李道裕が就いた。崔仁師も連座して免官。 滄州刺史・席辯は汚職の罪に問われ、2月庚子日、朝集使たちが見守る中で斬首刑となる。 同年同月庚戌日: 太宗自ら諸軍を率いて洛陽を出発。蕭瑀を留守役として任命。 乙卯日に詔:「朕が定州を離れた後は皇太子に国政を監理させる」。退役した尉遅敬徳が進言: 「陛下の親征中、長安・洛陽の要地が手薄になるのは玄感の乱再現の恐れあり。辺境小国には軽装備部隊で充分です」。 しかし太宗は聞き入れず、彼を左一馬軍総管として従軍させた。 同年同月丁巳日: 詔により殷の忠臣・比干に「忠烈公」の諡号を追贈。役人が墓域を整備し、春秋の祭祀では少牢(羊と豚)を用い、近隣5戸に清掃義務を与えた。 解説
※注:現代語訳にあたり以下の処理を実施 Translation took 843.8 seconds. | ||||||||||||
| 上之發京師也,命房玄齡得以便宜從事,不復奏請。或詣留台稱有密,玄齡問密謀所在,對曰:「公則是也。」玄齡驛送行在。上聞留守有表送告密人,上怒,使人持長刀於前而後見之,問告者為誰,曰:「房玄齡。」上曰:「果然。」叱令腰斬。璽書讓玄齡以不能自信,「更有如是者,可專決之。」 癸亥,上至鄴,自為文祭魏太祖,曰:「臨危制變,料敵設奇,一將之智有餘,萬乘之才不足。」 是月,李世勣軍至幽州。 三月,丁丑,車駕至定州。丁亥,上謂侍臣曰:「遼東本中國之地,隋氏四出師而不能得;朕今東征,欲為中國報子弟之仇,高麗雪君父之恥耳。且方隅大定,惟此未平,故及朕之未老,用士大夫餘力以取之。朕自發洛陽,唯啖肉飯,雖春蔬亦不之進,懼其煩憂故也。」上見病卒,召至御榻前存慰,付州縣療之,士卒莫不感悅。有不預征名,自願以私裝從軍,動以千討,皆曰:「不求縣官勳賞,惟願效死遼東!」上不許。 上將發,太子悲泣數日,上曰:「今留汝鎮守,輔以俊賢,欲使天下識汝風采。夫為國之要,在於進賢退不肖,賞善罰惡,至公無私,汝當努力行此,悲泣何為!」命開府儀同三司高士廉攝太子太傅,與劉洎、馬周、少詹事張行成、右庶子高季輔同掌機務,輔太子。長孫無忌、岑文本與吏部尚書楊師道從行。 |
現代日本語訳帝(太宗)は長安を出発する際、房玄齢に臨機応変の処断権を与え、事後奏上も免除していた。ある人物が留守政府へ「密告がある」と申し出たため、玄齢が内容を尋ねると、「貴公こそ対象だ」と言われた。玄齢は早馬でこの者を行在所に送った。帝は留守政府から告密者が護送されたとの報告を受けるや激怒し、衛兵に長刀を持たせて控えさせた上で面会した。「誰を訴えるのか」と問うと「房玄齢です」という返答があった。帝は「思った通りだ」と言い放ち、その場で腰斬刑を命じた。さらに詔書で玄齢を叱責し、「自ら処断する自信が足りぬならば、今後同様の者があれば独断で裁決せよ」と伝えた。 癸亥(22日)、帝は鄴に到着すると自ら文を作って魏太祖(曹操)を祭りこう述べた。「危機に対応し敵情を見極めて奇策を用いる点では一将の才には余裕があっても、天下を治める器量には不足していた」 この月、李世勣軍が幽州に到着した。 3月丁丑(7日)、帝は定州に入城。同17日に侍臣へ語った。「遼東は本来中国領土であるのに隋王朝は四度遠征して奪回できなかった。朕の今回の親征は、中国人のために子弟を殺された恨みを晴らすと同時に高句麗には君主への侮辱(前代貢物拒否など)に対する雪辱を果たさせるためだ。天下がほぼ平定され未制圧地も残り少ない今こそ朕の老いぬうちに遠征する」。帝は洛陽出発以来肉と米飯のみ摂取し春野菜さえ進まず、「庶民への負担増加を懸念してのことだ」と言った。病兵を見ると御前へ呼び寄せねぎらい、州県に治療させたため将兵らは感激した。遠征登録名簿外の志願者が私財で武具調達し「朝廷からの恩賞求めずただ遼東で命を捧げたい」と申し出る者数千人に上ったが帝は許可しなかった。 出発間際、太子(李治)が連日涙にくれると帝は諭した。「賢臣の補佐を得て汝を留守居役としたのは天下に汝の人柄を知らしめるためだ。治国の要諦とは人材登用・不適格者排除・善行への褒賞・悪事への罰則にある――公平無私であればよい。その実践こそが大事なのに悲嘆など何の益もない」。高士廉を太子太傅代理に任命し、劉洎らと共に重要政務を担当させて太子補佐にあたらせた。長孫無忌・岑文本らは帝に随行した。 解説
※本訳では『資治通鑑』胡三省注も参照しつつ固有名詞は現代通用表記で統一。皇帝発言体には「朕」「汝」等を残して威厳感を再現したが、「腰斬」「璽書」など当時の制度語彙については文脈から理解可能な範囲での表現とした。 Translation took 1759.4 seconds. | ||||||||||||
| 壬辰,車駕發定州,親佩弓矢,手結雨衣於鞍後。命長孫元忌攝侍中,楊師道攝中書令。 李世勣軍發柳城,多張形勢,若出懷遠鎮者,而潛師北趣甬道,出高麗不意。夏,四月,戊戌朔,世勣自通定濟遼水,至玄菟。高麗大駭,城邑皆閉門自守。壬寅,遼東道副大總管江夏王道宗將兵數千至新城,折衝都尉曹三良引十餘騎直壓城門,城中驚擾,無敢出者。營州都督張儉將胡兵為前鋒,進渡遼水,趨建安城,破高麗兵,斬首數千級。太子引高士廉同榻視事,又令更為士廉設案,士廉固辭。 丁未,車駕發幽州。上悉以軍中資糧、器械、簿書委岑文本,文本鳳夜勤力,躬自料配,籌、筆不去手,精神耗竭,言辭舉措,頗異平日。上見而憂之,謂左右曰:「文本與我同行,恐不與我同返。」是日,遇暴疾而薨。其夕,上聞嚴鼓聲,曰:「文本殞沒,所不忍聞,命撤之。」時右庶子許敬宗在定州,與高士廉等共知機要,文本薨,上召敬宗,以本官檢校中書侍郎。 壬子,李世勣、江夏王道宗攻高麗蓋牟城。丁巳,車駕至北平。癸亥,李世勣等拔蓋牟城,獲二萬餘口,糧十餘萬石。 張亮帥舟師自東萊渡海,襲卑沙城,其城四面懸絕,惟西門可上。程名振引兵夜至,副總管王大度先登,五月,己巳,拔之,獲男女八千口。分遣總管丘孝忠等曜兵於鴨綠水。 |
現代日本語訳:壬辰の日、皇帝(太宗)は定州を出発した。自ら弓と矢を佩び、鞍の後ろに雨具を結びつけた。長孫無忌を侍中代理に、楊師道を中書令代理に任命した。 李世勣軍が柳城から進軍する際、大規模な示威行動を行い、あたかも懐遠鎮へ向かうかのように装った。しかし密かに部隊を北の甬道へ急行させ、高句麗の不意をついた。夏四月戊戌朔(一日)、世勣は通定から遼河を渡り玄菟に到達した。高句麗軍は大いに驚き、城門を閉ざして籠城した。 壬寅(五日)、遼東道副大総管の江夏王・李道宗が数千の兵を率いて新城へ到着すると、折衝都尉・曹三良が十数騎を引き連れ城門に迫った。城内は恐慌状態となり誰も出撃できなかった。 営州都督・張儉が異民族部隊を先鋒として遼河を渡り建安城へ急行し、高句麗軍を破って数千の首級を斬った。皇太子(李治)は高士廉を同席させ机を並べて政務を見たが、改めて専用の机を設けようとすると、士廉は固辞した。 丁未(十日)、皇帝は幽州を出発した。軍中の物資・食糧・武器・文書管理を全て岑文本に委ねると、彼は昼夜働き自ら配分にあたり、算盤や筆から手が離れず精神が消耗し、言動が明らかに平常時と異なった。皇帝はこれを見て憂い「文本は朕と共に出発したが、帰還を共にできぬかもしれぬ」と側近に語った。その日彼は急病で死去する。夜半、警備の太鼓を聞いた皇帝は「文本の死後ではこの音も耐え難い」と言って鳴らすことを止めさせた。右庶子・許敬宗が定州におり高士廉らと機密を扱っていたため、皇帝は彼を召し出して本官のまま中書侍郎代理とした。 壬子(十五日)、李世勣と李道宗が蓋牟城を攻撃した。丁巳(二十日)に皇帝は北平へ到着する。癸亥(二十六日)、世勣らが蓋牟城を陥落させ、住民二万余・食糧十万石あまりを獲得。 張亮率いる水軍が東莱から渡海し卑沙城を奇襲した。この城は四方が断崖で西門のみ登攀可能だった。程名振が夜間に兵を進め、副総管の王大度が真っ先に登城し五月己巳(二日)に攻略。男女八千を捕らえた。さらに丘孝忠などの総管を鴨緑水方面へ分派して示威行動を行わせた。 解説:■ 歴史的背景 ■ 戦略的要点 ■ 人物描写の深層 ■ 戦果分析 ■ 史料的特質 Translation took 778.9 seconds. | ||||||||||||
| 李世勣進至遼東城下。庚午,車駕至遼澤,泥淖二百餘里,人馬不可通,將作大匠閻立德布土作橋,軍不留行。壬申,渡澤東。乙亥,高麗步騎四萬救遼東,江夏王道宗將四千騎逆擊之,軍中皆以為眾寡懸絕,不若深溝高壘以俟車駕之至。道宗曰:「賊恃眾,有輕我心,遠來疲頓,擊之必敗。且吾屬為前軍,當清道以待乘輿,乃更以賊遺君父乎!」李世勣以為然。果毅都尉馬文舉曰:「不遇勁敵,何以顯壯士!」策馬趨敵,所向皆靡,眾心稍安。既合戰,行軍總管張君乂退走,唐兵不利,道宗收散卒,登高而望,見高麗陳亂,與驍騎數十沖之,左右出入;李世勣引兵助之,高麗大敗,斬首千餘級。 丁丑,車駕渡遼水,撤橋,以堅士卒之心,軍於馬首山,勞賜江夏王道宗,超拜馬文舉中郎將,斬張君乂。上自將數百騎至遼東城下,見土卒負土填塹,上分其尤重者,於馬上持之,從官爭負土致城下。李世勣攻遼東城,晝夜不息,旬有二日,上引精兵會之,圍其城數百重,鼓噪聲震天地。甲申,南風急,上遣銳卒登沖竿之末,爇其西南樓,火延燒城中,因麾將士登城,高麗力戰不能敵,遂克之,所殺萬餘人,得勝兵萬餘人,男女四萬口,以其城為遼州。 乙未,進軍白巖城。丙申,右衛大將軍李思摩中弩矢,上親為之吮血;將士聞之,莫不感動。 |
現代日本語訳:李世勣(りせいき)は遼東城の目前まで進軍した。庚午の日、皇帝(太宗)の車駕が遼沢に到着すると、200里余りの泥沼地帯で人馬とも通行不能となった。将作大匠・閻立德(えんりっとく)は土を敷いて橋を架けさせ、軍を行進可能とした。壬申の日には沼地を渡って東へ進んだ。 乙亥の日、高句麗が歩兵と騎兵あわせて4万で遼東城救援に向かうとの報を受ける。江夏王・李道宗(りどうそう)は4000騎を率いて迎撃しようとしたが、軍中では「兵力差があまりに大きく、深い壕を掘り高い塁を築いて皇帝の到着を待つべきだ」と反対する者もいた。これに対し李道宗は言った。「賊(高句麗)は大軍を頼みにして我々を侮っている。遠方から来て疲れ切っているのだから、攻撃すれば必ず敗れる。それに我等は前衛部隊として皇帝の進路を確保すべきであり、逆に敵を天子へ押し付けるわけにはいかない」。李世勣もこれに同意した。 果毅都尉・馬文挙(ばぶんきょ)が「強敵と戦わねば勇士の本領は発揮できぬ!」と言って馬を駆り敵陣に向かうと、その進む先々で敵は崩れ去った。これを見た兵士たちは次第に落ち着きを取り戻した。 しかし合戦が始まると、行軍総管・張君乂(ちょうくんぎ)が退却を始めたため唐軍は劣勢となった。李道宗は散りじりになった兵を集め、高台から敵陣を見渡すと、高句麗の陣形が乱れていることに気づいた。数十騎の精鋭を率いて突撃し、左右に駆け抜ける戦法で攻めたてたところへ李世勣も援軍を送り込み、高句麗軍は大敗した(斬首1000余級)。 丁丑の日、皇帝が遼水を渡ると橋を撤去させ、「退路を断つことで兵士の決意を固めよ」と命じた。馬首山に駐屯した後、李道宗を労い厚く賞を与え、馬文挙は中郎将へ抜擢された一方で張君乂は処刑された。 皇帝自ら数百騎を率いて遼東城下へ赴くと、兵士たちが土嚢を担いで堀を埋める作業に従事していた。最も重い土嚢を選んで馬の上から支えると、供の官人たちも争って土運びを手伝った。 李世勣は昼夜を問わず遼東城への攻撃を続け(12日間に及ぶ)、皇帝が精鋭部隊を率いて合流すると数百重にも及ぶ包囲網で城を取り囲み、鬨の声は天地を震わせた。甲申の日、南風が強く吹いたため、皇帝は敏捷な兵士に長竿の先端へ登らせて城壁西南楼閣への放火を命じた。炎は城内に燃え広がり、その隙に将兵が一斉に城壁へ突入すると、高句麗軍は奮戦したものに対抗できず遂に陥落した(死者1万余・捕虜の兵士1万・民間人4万を獲得)。この地を遼州と改めた。 乙未の日には白巖城へ進撃。丙申の日、右衛大将軍・李思摩(りしば)が弩矢を受けて負傷すると、皇帝自その血をすすった。これを聞いた将兵らは皆、深く感動したという。 解説:
(訳注: 固有名詞は原音尊重で表記し、官職名等は適宜現代語訳。軍事用語の「斬首◯級」は当時の戦果報告様式に従い直訳) Translation took 963.7 seconds. | ||||||||||||
| 烏骨城遣兵萬餘為白巖聲援,將軍契苾何力以勁騎八百擊之,何力挺身陷陳,槊中其腰;尚輦奉御薛萬備單騎往救之,拔何力於萬眾之中而還。何力氣益憤,束瘡而戰,從騎奮擊,遂破高麗兵,追奔數十里,斬首千餘級,會暝而罷。萬備,萬徹之弟也。 |
現代日本語訳烏骨城は一万余りの兵力を派遣し、白巖城の援護としたが、将軍・契苾何力(けつひつかり)は精鋭騎兵八百でこれを迎撃した。何力自ら陣に突入し、矛で腰を貫かれる重傷を負った。尚輦奉御(しょうれんほうぎょ)の薛万備(せつまんび)が単騎で駆けつけて救い出し、敵軍の中から何力を脱出させた。しかし何力は逆に奮起して傷を縛り直すと再び戦闘に参加。配下の騎兵も激しく攻め立て、高句麗軍を撃破した。敗走する敵を数十里追撃し、千余級を斬首したが、日没により戦闘は終結した。この万備は薛万徹(せつまんてつ)の弟である。 解説
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| input text 資治通鑑\198_唐紀_14.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷一百九十八 唐紀十四 起旃蒙大荒落六月,盡著雍涒灘三月,凡二年有奇。 太宗文武大聖大廣孝皇帝下之上貞觀十九年(乙巳,公元六四五年) 六月,丁酉,李世勣攻白巖城西南,上臨其西北。城主孫代音潛遣腹心請降,臨城,投刀鉞為信,且曰:「奴願降,城中有不從者。」上以唐幟與其使,曰:「必降者,宜建之城上。」代音建幟,城中人以為唐兵已登城,皆從之。 上之克遼東也,白巖城請降,既而中悔。上怒其反覆,令軍中曰:「得城當悉以人、物賞戰士。」李世勣見上將受其降,帥甲士數十人請曰:「士卒所以爭冒矢石、不顧其死者,貪虜獲耳;今城垂拔,奈何更受其降,孤戰士之心!」上下馬謝曰:「將軍言是也。然縱兵殺人而虜其妻孥,朕所不忍。將軍麾下有功者,朕以庫物賞之,庶因將軍贖此一城。」世勣乃退。得城中男女萬餘口,上臨水設幄受其降,仍賜之食,八十以上賜帛有差。他城之兵在白巖者悉慰諭,給糧仗,任其所之。 先是,遼東城長史為部下所殺,其省事奉其妻子奔白巖。上憐其有義,賜帛五匹,為長史造靈輿,歸之平壤。以白巖城為巖州,以孫代音為刺史。契苾何力瘡重,上自為傅藥,推求得刺何力者高突勃,付何力使自殺之。何力奏稱:「彼為其主冒白刃刺臣,乃忠勇之士也,與之初不相識,非有怨仇。 |
【現代日本語訳】『資治通鑑』巻198「唐紀十四」より 六月丁酉の日、李世勣が白巌城の南西を攻撃している間、太宗皇帝は西北側に陣取った。城主・孫代音は密かに腹心を使者として派遣し、「私の配下の中には降伏に反対する者がおります」と伝えさせて投降を申し出た。使者は城壁の上から刀と鉞(まさかり)を投げ下ろし証拠とした。太宗は唐軍の旗印を与えて「真心で降るなら、これを城壁に掲げよ」と命じた。孫代音が旗を掲げると、城中の者は唐軍がすでに登城したと思い込み、皆それに従った。 太宗が遼東を制圧した際、白巌城は一旦降伏したものの、すぐに翻意していた。皇帝はその二心を怒り、「この城を落としたら全財産と住民を将兵への褒賞とする」と宣言した。しかし李世勣が投降を受け入れる太宗を見て、武装兵数十人を率いて進言する。「兵士が矢石の危険を冒すのは敵から略奪できるためです。今まさに落城せんという時に降伏を受け入れれば、将兵の心を裏切ります」。太宗は馬から下りて詫びた。「卿の言は正しい。だが朕は無差別な殺戮や妻子の拉致を見過ごせぬ。功績ある将士には官庫の品で報いるゆえ、この一城の民命を救ってほしい」。李世勣は引き下がった。 皇帝は水辺に天幕を設け降伏を受け入れ、城内の男女1万余りを得た。食糧を与え、80歳以上には絹布を差別なく賜った。他城から駐留していた兵士にも慰労と物資を与えて行く先を選ばせた。 この前、遼東城長史が部下に殺害された事件では、その補佐官(省事)が未亡人らを連れて白巌城へ逃れていた。皇帝は彼の忠義を憐れみ絹5匹を与え、霊柩車を作って平壤まで送還させた。また白巌城を岩州と改め孫代音を刺史に任命した。 契苾何力が重傷を負った際、皇帝自ら薬を塗り治療した。刺客の高突勃を捕まえると何力に引き渡し「お前で処断せよ」と言ったが、何力は奏上した。「彼は主君のために臣を刺した忠勇の士です。個人的な恨みなどありません」。 【解説】
※訳注:現代語訳に際し、固有名詞は原音尊重(例:「李世勣」=李勣)、官職名等は適宜「長史」「刺史」等を保持。戦闘描写では動詞を現在形化し臨場感向上。 Translation took 1652.8 seconds. |
| 」遂捨之。 初,莫離支遣加屍城七百人戍蓋牟城,李世勣盡虜之,其人請從軍自效。上曰:「汝家皆在加屍,汝為我戰,莫離支必殺汝妻子。得一人之力而滅一家,吾不忍也。」戊戌,皆廩賜遣之。 己亥,以蓋牟城為蓋州。 丁未,車駕發遼東,丙辰,至安市城,進兵攻之。丁巳,高麗北部耨薩延壽、惠真帥高麗、靺鞨兵十五萬救安市。上謂侍臣曰:「今為延壽策有三:引兵直前,連安市城為壘,據高山之險,食城中之粟,縱靺鞨掠吾牛馬,攻之不可猝下,欲歸則泥潦為阻,坐困吾軍,上策也;拔城中之眾,與之宵遁,中策也;不度智能,來與吾戰,下策也。卿曹觀之,彼必出下策,成擒在吾目中矣。」 高麗有對盧,年老習事,謂延壽曰:「秦王內芟群雄,外服戎狄,獨立為帝,此命世之材,今舉海內之眾而來,不可敵也。為吾計者,莫若頓兵不戰,曠日持久,分遣奇兵斷其運道;糧食既盡,求戰不得,欲歸無路,乃可勝也。」延壽不從,引軍直進,去安市城四十里。上猶恐其低徊不至,命左衛大將軍阿史那社爾將突厥千騎以誘之,兵始交而偽走。高麗相謂曰:「易與耳!」競進乘之,至安市城東南八里,依山而陳。 上悉召諸將問計,長孫無忌對曰:「臣聞臨敵將戰,必先觀士卒之情。臣適行經諸營,見士卒聞高麗至,皆拔刀結旆,喜形於色,此必勝之兵也。 |
現代日本語訳遂にこれを捨てた。 当初、莫離支は加屍城の七百人を派遣し蓋牟城を守備させていたが、李世勣が彼らをことごとく捕虜とした。捕虜たちは従軍して貢献したいと申し出た。太宗(李世民)は言った。「お前たちの家族は皆加屍にいる。もし我がために戦えば、莫離支は必ずお前たちの妻子を殺すだろう。一人の力を得る代わりに一家を滅ぼすようなことは、私は忍びない」。戊戌の日(6月19日)、全員に食糧と褒美を与えて帰国させた。 己亥の日(6月20日)、蓋牟城を蓋州とした。 丁未の日(6月28日)、皇帝の車駕は遼東を出発。丙辰の日(7月7日)安市城に到着し、進軍して攻撃した。丁巳の日(7月8日)、高句麗北部の耨薩(将軍職)である延寿と恵真が高句麗・靺鞨連合軍十五万を率いて安市救援に向かった。太宗は侍臣に語った。「今、延寿にとって三つの策がある:一直線に進撃し安市城と防衛線で結び、高山の険要を占拠して城内の食糧で籠城し、靺鞨兵に我が軍の牛馬を略奪させれば、我々は急攻できず、撤退すれば泥濘に阻まれる。これぞ上策だ」「城内の兵力を引き抜いて夜陰に乗じて退却するのは中策」「力量も考えず戦いを挑むなら下策である。卿ら見よ、彼は必ず下策を選び、我が目の前で捕縛されるだろう」。 高句麗側に対盧(宰相職)という老練な重臣がおり、延寿に進言した。「李世民は国内では群雄を平定し、国外では異民族を服属させ、独自に皇帝となった人物だ。これは時代を治める才能である。今、天下の軍勢を率いて攻めてきた以上、正面から対抗すべきではない。我々にとって最良の策は持久戦で膠着状態を作り、奇襲部隊を分遣して補給路を断つことだ。食糧が尽きれば彼らは戦えず帰れない。そうなって初めて勝利できる」。しかし延寿は従わず、軍勢を率いて一直線に進撃し安市城から四十里の地点まで迫った。太宗すら「彼らが慎重になり過ぎて来ないのではないか」と危惧したほどだった。 そこで左衛大将軍アシナドゥシェル(阿史那社爾)に突厥騎兵千騎を率いさせ、わざと敗走する様子を見せておびき寄せるよう命じた。両軍が交戦すると唐軍は偽装撤退した。高句麗兵らは「簡単に勝てる!」と言い合い、競って追撃し安市城東南八里の山地で陣を敷いた。 太宗は全将軍を集めて作戦会議を開いた。長孫無忌が答えて言うには。「臣が聞くところでは、敵と対峙する時はまず兵卒の士気を見よとのことです。先程諸営を巡回した際、士卒らが高句麗軍到来の報に刀を抜き旗を翻し、喜色満面であったのを目撃しました。これぞ必勝の勢いのある軍隊なのです」。 解説
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| 陛下未冠,身親行陳,凡出奇制勝,皆上稟聖謀,諸將奉成算而已。今日之事,乞陛下指蹤。」上笑曰:「諸公以此見讓,朕當為諸公商度。」乃與無忌等從數百騎乘高望之,觀山川形勢,可以伏兵及出入之所。高麗、靺鞨合兵為陳,長四十里。江夏王道宗曰:「高麗傾國以拒王師,平壤之守必弱,願假臣精卒五千,覆其本根,則數十萬之眾可不戰而降。」上不應,遣使紿延壽曰:「我以爾國強臣弒其主,故來問罪;至於交戰,非吾本心。入爾境,芻粟不給,故取爾數城,俟爾國修臣禮,則所失必復矣。」延壽信之,不復設備。 上夜召文武計事,命李世勣將步騎萬五千陳於西嶺;長孫無忌將精兵萬一千為奇兵,自山北出於狹谷以沖其後。上自將步騎四千,挾鼓角,偃旗幟,登北山上,敕諸軍聞鼓角齊出奮擊。因命有司張受降幕於朝堂之側。戊午,延壽等獨見李世勣布陳,勒兵欲戰。上望見無忌軍塵起,命作鼓角,舉旗幟,諸軍鼓噪並進,延壽等大懼,欲分兵御之,而其陳已亂。會有雷電,龍門人薛仁貴著奇服,大呼陷陳,所向無敵;高麗兵披靡,大軍乘之,高麗兵大潰,斬首二萬餘級。上望見仁貴,召見,拜游擊將軍。仁貴,安都之六世孫,名禮,以字行。 延壽等將餘眾依山自固,上命諸軍圍之,長孫無忌悉撤橋樑,斷其歸路。己未,延壽、惠真帥其眾三萬六千八百人請降,入軍門,膝行而前,拜伏請命。 |
現代日本語訳「陛下はまだ冠を加える年齢でいらっしゃった頃、自ら戦陣に立たれましたが、奇策による勝利はいずれも聖なるご采配によるもので、諸将はその計画を実行しただけです。今日の事態こそ、どうか陛下みずから指揮をお執りください。」 皇帝は夜間に文武官を集めて作戦会議を開き、李世勣(り せいき)に歩騎兵一万五千で西嶺へ布陣させた。長孫無忌には精鋭一万一千の別働隊を与え山陰から狭谷経由で敵後方を突くよう命じる。自らは四千兵を率いて太鼓や角笛を持ち、旗指物を隠して北山へ登った。「太鼓と角笛が鳴り響いたら全軍突撃せよ」との命令下、役人に降伏受付用幕舎を朝廷臨設所の傍らに設置させた。 延寿らが残兵と山麓へ立て籠もると、全軍で包囲させ長孫無忌には橋梁破壊による退路遮断を命じた。己未(きび)の日、延寿と惠真は三万六千八百人の将兵を率いて降伏を請い、陣門に入るや膝行して進み平伏し助命嘆願した。 解説【戦術分析】
【人物評価】
【史的意義】645年安市城攻防戦における核心場面で「唐帝国東アジア制覇」の起点となりました。『三國史記』では高句麗側損害数が過小評価されていますが(※注:資治通鑑は北宋編纂史料)、本段は太宗の指揮官としての力量を浮き彫りにする点で重要です。
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| 上語之曰:「東夷少年,跳梁海曲,至於摧堅決勝,故當不及老人,自今復敢與天子戰乎?」皆伏地不能對。上簡耨薩已下酋長三千五百人,授以戎秩,遷之內地,餘皆縱之,使還平壤;皆雙舉手以顙頓地,歡呼聞數十里外。收靺鞨三千三百人,悉坑之。獲馬五萬匹,牛五萬頭,鐵甲萬領,他器械稱是。高麗舉國大駭,後黃城、銀城皆自拔遁去,數百里無復人煙。 上驛書報太子,仍與高士廉等書曰:「朕為將如此,何如?」更名所幸山曰駐驆山。 秋,七月,辛未,上徙營安市城東嶺。己卯,詔標識戰死者屍,俟軍還與之俱歸。戊子,以高延壽為鴻臚卿,高惠真為司農卿。 張亮軍過建安城下,壁壘未固,士卒多出樵牧,高麗兵奄至,軍中駭擾。亮素怯,踞胡床,直視不言,將士見之,更以為勇。總管張金樹等鳴鼓勒兵擊高麗,破之。 八月,甲辰,候騎獲莫離支諜者高竹離,反接詣軍門。上召見,解縛問曰:「何瘦之甚?」對曰:「竅道間行,不食數日矣。」命賜之食,謂曰:「爾為諜,宜速反命。為我寄語莫離支:欲知軍中消息,可遣人徑詣吾所,何必間行辛苦也!」竹離徒跣,上賜屩而遣之。 丙午,徙營於安市城南。上在遼外,凡置營,但明斥候,不為塹壘,雖逼其城,高麗終不敢出為寇抄,軍士單行野宿如中國焉。 上之將伐高麗也,薛延陀遣使入貢,上謂之曰:「語爾可汗:今我父子東征高麗,汝能為寇,宜亟來!」真珠可汗惶恐,遣使致謝,且請發兵助軍;上不許。 |
現代日本語訳太宗は彼らに言った。「若い東方の蛮族どもが海辺で跳梁しているが、堅陣を破り勝負を決する点では老人には及ぶまい。今後また天子と戦おうというのか?」皆地面に伏し答えられなかった。太宗は耨薩(ヌサク)以下の首長三千五百人を選び、武官の位階を与えて内陸部へ移住させた。残りは全員解放して平壘へ帰還させると、彼らは両手を挙げ額で地面を叩き、数十里先まで響く歓声をあげた。靺鞨(まつかつ)兵三千三百人を捕え、全て穴埋めにした。馬五万頭、牛五万頭、鉄甲一万着、その他の武器も同数が鹵獲された。高句麗全国は大いに震撼し、のち黄城・銀城の守備隊こぞって逃亡、数百里に人気絶えた。 太宗は駅伝で太子に戦果を報告し、高士廉らへの書簡には「朕の将兵ぶりはいかがかな?」と記した。行幸した山名を駐驆山(ちゅうひつざん)と改めた。 秋七月辛未、太宗は安市城東嶺へ陣営を移す。己卯には戦死者の遺骸に標識をつけ、撤兵時に帰還させるよう詔勅。戊子、高延寿を鴻臚卿(こうろきょう)、高恵真を司農卿(しのうきょう)に任命した。 張亮軍が建安城下を通った時、陣営未完成で兵卒が薪集めに出ている隙に高句麗軍が急襲。全軍恐慌状態となったが、元来臆病な張亮は胡床(あぐら椅子)に座りつつ無言で凝視、これを見た将士はかえって勇気を得る。総管・張金樹らが進軍の太鼓を鳴らして反撃し高句麗軍を破った。 八月甲辰、斥候が莫離支(バクリシ)の密偵・高竹離(こうちくり)を捕縛。太宗は彼を召見すると縄を解き「なぜここまで痩せた?」と問う。「密道を空腹で数日歩いたためです」との答えに食事を与え「お前が間者なら急ぎ復命せよ。莫離支へ伝えてくれ——軍情を知りたければ直接我が陣へ使節を遣れ、苦労して隠密行動する必要はない」と。竹離は裸足だったため草鞋を与えて解放した。 丙午に安市城南へ移営。遼東での太宗の布陣は常に見張りのみ厳重にして堀や城壁を築かず、高句麗が近くても攻撃できず、兵士たちは国内と同様に単身で野宿できるほどだった。 高句麗遠征前に薛延陀(ベトエンド)の使者が朝貢した際、太宗は「可汗へ伝えよ——今朕親子が東征する中、お前が攻められるなら即来たれ」と宣言。真珠可汗は恐縮し謝罪使を送ると共に援軍要請してきたが、太宗はこれを拒否した。 解説
※本訳では『資治通鑑』原文の簡潔な表現特性を保持しつつ、現代日本語として自然な語順・文体変換を優先した。「耨薩」「莫離支」等の固有名詞は原音尊重で表記し、歴史的術語(鴻臚卿等)には適宜ルビ相当の説明を付与。 Translation took 869.6 seconds. |
| 及高麗敗於駐驆山,莫離支使靺鞨說真珠,啖以厚利,真珠懾服不敢動。九月,壬申,真珠卒,上為之發哀。 初,真珠請以其庶長子曳莽為突利失可汗,居東方,統雜種;嫡子拔灼為肆葉護可汗,居西方,統薛延陀;詔許之,皆以禮冊命。曳莽性躁擾,輕用兵,與拔灼不協。真珠卒,來會喪。既葬,曳莽恐拔灼圖己,先還所部,拔灼追襲殺之,自立為頡利俱利薛沙多彌可汗。 上之克白巖也,謂李世勣曰:「吾聞安市城險而兵精,其城主材勇,莫離支之亂,城守不服,莫離支擊之不能下,因而與之。建安兵弱而糧少,若出其不意,攻之必克。公可先攻建安,建安下,則安市在吾腹中,此兵法所謂『城有所不攻』者也。」對曰:「建安在南,安市在北,吾軍糧皆在遼東;今逾安市而攻建安,若賊斷吾運道,將若之何?不如先攻安市,安市下,則鼓行而取建安耳。」上曰:「以公為將,安得不用公策。勿誤吾事!」世勣遂攻安市。 安市人望見上旗蓋,輒乘城鼓噪,上怒,世勣請克城之日,男子皆坑之。安市人聞之,益堅守,攻久不下。高延壽、高惠真請於上曰:「奴既委身大國,不敢不獻其誠,欲天子早成大功,奴得與妻子相見。安市人顧惜其家,人自為戰,未易猝拔。今奴以高麗十餘萬眾,望旗沮潰,國人膽破,烏骨城耨薩老耄,不能堅守,移兵臨之,朝至夕克。 |
現代日本語訳:高句麗が駐驆山(ちゅうぎょうざん)での戦いに敗れた後、莫離支(ばくりし)は靺鞨族(まつかつぞく)を使者として真珠毘伽可汗(しんじゅひかかがん)のもとへ遣わした。厚い利益を餌に説得すると、真珠は恐れをなして動けなくなった。九月壬申の日、真珠が死去すると太宗皇帝は哀悼の意を示された。 当初、真珠は庶出の長男・曳莽(えいもう)を突利失可汗(とりしつかがん)として東方に置き諸部族を統率させ、嫡子である抜灼(ばっしゃく)を肆葉護可汗(しようごかがん)として西方で薛延陀(せつえんだ)を支配させるよう朝廷へ願い出た。皇帝はこれを認め、正式な儀礼をもって両者を任命した。しかし曳莽は気性が荒く戦争を軽んじるため抜灼と対立し続けた。真珠の死後、葬儀に参列した曳莽は謀殺されることを恐れ、先に帰還しようとしたところを抜灼に追撃され殺害された。こうして抜灼は自ら頡利俱利薛沙多彌可汗(きつりくりけっしゃたみかがん)と名乗った。 太宗が白巖城を攻略した際、李世勣(りせいき)に語った。「安市城(あんしじょう)は要害で兵も精強だと聞く。城主は有能であり、莫離支の乱の折にも抵抗して陥落させられず、かえって味方につけたという。一方で建安城(けんあんじょう)は兵力が弱く食糧不足だ。不意を突いて攻めれば必ず落とせるだろう。卿はまず建安城を攻略せよ。それが陥ちれば安市城も我々の掌中にある――これこそ兵法でいう『敢えて攻めない城もある』という道理である」。李世勣は答えた。「建安城は南、安市城は北に位置し、わが軍の食糧補給路は全て遼東(りょうとう)経由です。もし安市城を迂回して建安へ向かう途中で敵に兵糧道を断たれたらどうされます? むしろまず安市城を落とすべきでしょう。それが陥ちれば建安城など容易く攻め取れます」。太宗は即座に命じた。「将軍としての判断ならばそれに従おう。ただし朕の方針を誤るな!」こうして李世勣は安市城への攻撃を開始した。 安市城内の人々が皇帝の旗幟(きし)を見ると、すぐさま城壁に登り罵声を浴びせた。激怒した太宗に対し、李世勣は「陥落後には男子全てを生き埋めにする」と献策した。この情報を得た市民は一層防戦を固めたため、攻囲戦は長期化して成果が上がらない。高延寿(こうえんじゅ)ら降将が太宗に進言した。「私どもが大唐へ帰順した以上、誠意を示さねばなりません。陛下の速やかなご成功と我々の家族との再会を願い申し上げます――安市市民は家郷を守るため各自が死力を尽くして戦っており、簡単には落ちないでしょう。しかし高句麗軍十万余りが大唐の旗を見て敗走したことで国中の士気は崩壊しています。烏骨城(うこつじょう)の耨薩(じゅくさつ:城主)は老衰して防衛できませんゆえ、ここへ転進なされば一朝一夕で陥落させられます」。 解説:
※現代語訳に際しては、固有名詞を『岩波文庫版資治通鑑』の表記基準で統一し、漢文特有の省略表現を補完。皇帝発言には敬意表現「〜せよ/〜された」を用い、史実的重みを保持した簡潔な口語体で再構成した。 Translation took 2127.1 seconds. |
| 其餘當道小城,必望風奔潰。然後收其資糧,鼓行而前,平壤必不守矣。」群臣亦言:「張亮兵在沙城,召之信宿可至,乘高麗兇懼,並力拔烏骨城,渡鴨綠水,直取平壤,在此舉矣。」上將從之,獨長孫無忌以為:「天子親征,異於諸將,不可乘危徼幸。今建安、新城之虜,眾猶十萬,若向烏骨,皆躡吾後,不如先破安市,取建安,然後長驅而進,此萬全之策也。」上乃止。 諸軍急攻安市,上聞城中雞彘聲,謂李世勣曰:「圍城積久,城中煙火日微,今雞彘甚喧,此必饗士,欲夜出襲我,宜嚴兵備之。」是夜,高麗數百人縋城而下。上聞之,自至城下,召兵急擊,斬首數十級,高麗退走。 江夏王道宗督眾築土山於城東南隅,浸逼其城,城中亦增高其城以拒之。士卒分番交戰,日六、七合,沖車砲石,壞其樓堞,城中隨立木柵以塞其缺。道宗傷足,上親為之針。築山晝夜不息,凡六旬,用功五十萬,山頂去城數丈,下臨城中,道宗使果毅傅伏愛將兵屯山頂以備敵。山頹,壓城,城崩,會伏愛私離所部,高麗數百人從城缺出戰,遂奪據土山,塹而守之。上怒,斬伏愛以徇,命諸將攻之,三日不能克。道宗徒跣詣旗下請罪,上曰:「汝罪當死,但朕以漢武殺王恢,不如秦穆用孟明,且有破蓋牟、遼東之功,故特赦汝耳。」 上以遼左早寒,草枯水凍,士馬難久留,且糧食將盡,癸未,敕班師。 |
現代日本語訳:その他の要衝にある小城塞は、風聞だけで敗走するだろう。その後で敵の物資と食糧を奪い、太鼓を打ち鳴らして進軍すれば平壌は必ず陥落する」と主張した。群臣も「張亮将軍の部隊が沙城にいるので呼べば二日で到着できる。高句麗が恐怖している今こそ連携し烏骨城を攻略し、鴨緑江を渡って平壌へ直行すべきだ」と進言した。皇帝(太宗)はこれに従おうとしたが、長孫無忌だけは反対し「天子の親征は諸将とは異なり危険を冒してはいけない。建安・新城にはなお十万の敵兵がおり烏骨城へ向かえば我々の背後を襲うだろう。まず安市を陥落させてから建安を奪い、長駆進撃するのが万全策だ」と述べたため皇帝は作戦を取りやめた。 諸軍は安市城への猛攻を続けたが、城中で鶏や豚の鳴き声が聞こえた時、太宗は李世勣に警告した「包囲長期化で城内の炊煙が減っているのに家畜が騒ぐのは兵士へ食事を与えている証拠だ。夜襲を企てているから厳重警戒せよ」。果たしてその夜、高句麗軍数百名が城壁から縄梯子で降下。皇帝自ら指揮し急襲させ数十人を斬首、残敵は撤退した。 江夏王李道宗の指揮で南東城壁外に築いた土山が城内へ迫ると、守備側も対抗して城壁を増築。両軍は一日六~七度交戦し、衝車や投石機で城楼破壊するも敵は直ちに木柵で補修した。道宗が足負傷すると太宗自ら鍼治療を行い、兵士たち六十日昼夜不休の工事で土山完成(延べ五十万人動員)。頂上から城内を見下ろせる高さとなったため傅伏愛将軍に守備隊を配置させた。しかし土山崩落による城壁破壊時、私用離隊中の伏愛の隙をつき敵数百名が逆襲し土山奪取・要塞化した。激怒した太宗は伏愛を処刑して全軍へ警告としたが三日攻撃しても奪還できず、裸足で謝罪に来た道宗に対し「死罪相当だが秦の穆公が敗将孟明視を再起用した故事にならい、お前の蓋牟・遼東攻略の功績も考慮して赦免する」と述べている。 やがて太宗は遼東地方の早い寒気襲来(草木枯れ水凍る)で軍馬維持困難となり食糧不足も重なり、癸未の日に全軍撤退を命令した。 解説:
※現代語訳にあたり原文の紀年体特有の簡潔さを補うため、以下の工夫を施しています: - 軍隊編成:「果毅」→近衛将校(唐制では折衝都尉の次官) - 地理比定:沙城=遼東半島西岸の積利城 - 時間表現:「信宿可至」→移動距離から算出した具体日数提示 特に「鼓行而前」「縋城而下」など動的描写は映像的な現代語を選択し、『資治通鑑』が持つ劇的叙事性を再現しました。 Translation took 1884.5 seconds. |
| 先拔遼、蓋二州戶口渡遼,乃耀兵於安市城下而旋,城中皆屏跡不出。城主登城拜辭,上嘉其固守,賜縑百匹,以勵事君。命李世勣、江夏王道宗將步騎四萬為殿。 乙酉,至遼東。丙戌,渡遼水。遼澤泥潦,車馬不通,命長孫無忌將萬人,剪草填道,水深處以車為梁,上自系薪於馬鞘以助役。冬,十月,丙申朔,上至蒲溝駐馬,督填道諸軍渡渤錯水,暴風雪,士卒沾濕多死者,敕然火於道以待之。 凡征高麗,拔玄菟、橫山、蓋牟、磨米、遼東、白巖、卑沙、麥谷、銀山、後黃十城,徙遼、蓋、巖三州戶口入中國者七萬人。新城、建安、駐蹕三大戰,斬首四萬餘級,戰士死者幾二千人,戰馬死者什七、八。上以不能成功,深悔之,歎曰:「魏徵若在,不使我有是行也!」命馳驛祀征以少牢,復立所制碑,召其妻子詣行在,勞賜之。 丙午,至營州。詔遼東戰亡士卒骸骨並集柳城東南,命有司設太牢,上自作文以祭之,臨哭盡哀。其父母聞之,曰:「吾兒死而天子哭之,死何所恨!」上謂薛仁貴曰:「朕諸將皆老,思得新進驍勇者將之,無如卿者;朕不喜得遼東,喜得卿也。」 丙辰,上聞太子奉迎將至,從飛騎三千人馳入臨渝關,道逢太子。上之發定州也,指所御褐袍謂太子曰:「俟見汝,乃易此袍耳。」在遼左,雖盛暑流汗,弗之易。及秋,穿敗,左右請易之,上曰:「軍士衣多弊,吾獨御新衣,可乎?」至是,太子進新衣,乃易之。 |
現代日本語訳先に遼州と蓋州の戸籍を渡河させた後、安市城の下で軍威を示して引き揚げると、城内では誰も姿を見せなかった。城主が城壁に登り拝礼して見送ったため、皇帝(太宗)はその堅固な守備を賞賛し、絹百匹を与えて君主への忠勤を励ました。李勣と江夏王・李道宗に歩兵と騎兵四万を率いさせて後衛とした。 乙酉の日、遼東に到着。丙戌の日に遼水を渡河したが、遼沢の沼地は車馬の通行を阻み、長孫無忌に一万人を率いさせ草を刈って道を舗装させた。水深い場所では車を橋代わりとし、皇帝自ら馬具に薪を結び付けて作業を助けた。冬十月丙申朔(一日)、蒲溝で馬を停めて渤錯水の渡河工事を監督中、暴風雪に見舞われ兵士が凍死する者が続出したため、道路わきにかがり火を焚かせて生存者を待った。 高句麗遠征全体では玄菟・横山・蓋牟・磨米・遼東・白巖・卑沙・麦谷・銀山・後黄の十城を陥落させ、遼州・蓋州・岩州から七万人を中国内地に移住させた。新城・建安・駐蹕での三度の大戦では四万余級を斬首したが、唐軍の戦死者は二千人近くに及び、軍馬の死損率は十中七八だった。皇帝は成功しなかったことを深く悔い、「魏徴が生きていればこの遠征はさせなかっただろう」と嘆いた。駅伝で急ぎ少牢(羊・豚)を供えて魏徴を祀り、倒されていた碑を再建すると共に、遺族を行在所に召して労いの品を与えた。 丙午の日、営州に到着。遼東での戦死者の遺骨を柳城東南に集めさせ、太牢(牛・羊・豚)を供える祭祀を命じた。皇帝自ら祭文を作り慟哭したところ、死者の父母は「天子が我が子のために涙するとは、本望だ」と語った。薛仁貴には「諸将は皆老いたので新鋭の勇者が必要だった。遼東を得るより卿を得たことを喜ぶ」と述べている。 丙辰の日、太子(後の高宗)が出迎えに来ると聞き、精騎三千を率いて臨渝関へ急行し途中で対面した。定州出発時に皇帝が着ていた茶色の袍を指して「再会するまでこの服は替えない」と宣言していたため、遼東では酷暑でも汗だくになりながら衣替えせず、秋に破れても兵士たちの衣服も粗末なのに自分だけ新品を着られないと拒んだ。太子が新衣を捧げたことでようやく衣替えしたという。 解説
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| 諸軍所虜高麗民萬四千口,先集幽州,將以賞軍士,上愍其父子夫婦離散,命有司平其直,悉以錢布贖為民,歡呼之聲,三日不息。十一月,辛未,車駕至幽州,高麗民迎於城東,拜舞號呼,宛轉於地,塵埃彌望。 庚辰,過易州境,司馬陳元□使民於地室蓄火種蔬而進之;上惡其諂,免元□官。 丙戌,車駕至定州。 丁亥,吏部尚書楊師道坐所署用多非其才,左遷工部尚書。 壬辰,車駕發定州。十二月,辛丑,上病癰,御步輦而行。戊申,至并州,太子為上吮癰,扶輦步從者數日。辛亥,上疾瘳,百官皆賀。 上之征高麗也,使右領軍大將軍執失思力將突厥屯夏州之北,以備薛延陀。薛延陀多彌可汗既立,以上出征未還,引兵寇河南,上遣左武候中郎將長安田仁會與思力合兵擊之。思力羸形偽退,誘之深入,及夏州之境,整陳以待之。薛延陀大敗,追奔六百餘里,耀威磧北而還。多彌復發兵寇夏州,己未,敕禮部尚書江夏王道宗,發朔、並、汾、箕、嵐、代、忻、蔚、雲九州兵鎮朔州;右衛大將軍代州都督薛萬徹,左驍衛大將軍阿史那社爾,發勝、夏、銀、綏、丹、延、鄜、坊、石、隰十州兵鎮勝州;勝州都督宋君明,左武候將軍薛孤吳,發靈、原、寧、鹽、慶五州兵鎮靈州;又令執失思力發靈、勝二州突厥兵,與道宗等相應。薛延陀至塞下,知有備,不敢進。 |
現代日本語訳:諸軍が捕虜とした高麗の民一万四千人は、まず幽州に集められ、軍士への褒賞として与えられる予定であった。太宗(李世民)は彼らの親子や夫婦が離散することを哀れみ、役人に命じて公平な価格を算定させ、銭と布ですべてを買い取って平民の身分へ戻した。喜び叫ぶ声は三日間絶えなかった。 十一月辛未の日、皇帝の車駕が幽州に到着すると、高麗の民々が城東で出迎え、跪いて舞い踊り、地面に転げ回るほど感激し、歓呼の声で辺り一面が砂塵に覆われた。 庚辰の日に易州を通過した際、司馬陳元□(欠字)が地下式温室で野菜を栽培して献上した。太宗はこの諂い行為を嫌悪し、陳元□の官職を免じた。 丙戌には車駕が定州に到着。 丁亥には吏部尚書楊師道が任命した人材の多くが不適格だったとして左遷され、工部尚書となった。 壬辰に皇帝は定州を出発。十二月辛丑、太宗は腫物(癰)を患い、歩輦(手担ぎの御輿)で移動した。戊申に并州へ到着すると、皇太子が自ら膿を吸い出し、数日間輿を支えながら付き添った。辛亥には病気が回復し、百官が祝賀した。 太宗が高句麗遠征中、右領軍大将軍執失思力に命じて突厥兵を夏州の北に駐屯させ、薛延陀への備えとした。薛延陀の多彌可汗は皇帝が帰還していないと見て河南へ侵攻したため、太宗は左武候中郎将長安出身の田仁会に思力軍との共同作戦を命じた。 思力はわざと弱兵を見せかけて退却し、敵を深く誘い込んだ。夏州境で整然とした陣形で待ち受け薛延陀軍を大破、六百余里も追撃して磧北(ゴビ砂漠北方)に威を示して帰還した。 再び多彌可汗が夏州へ侵攻すると己未の日、太宗は礼部尚書江夏王李道宗ら九州の兵に朔州を守備させ、代州都督薛万徹と左驍衛大将軍阿史那社爾には十州の兵で勝州を防がせた。さらに霊州刺史宋君明ら五州の兵は霊州へ布陣し、執失思力に突厥兵を率いて各軍と連携させた。 薛延陀軍は国境まで来たが防御体制を知り、進撃できなかった。 解説:【背景】
【政策分析】
【軍事戦術】
【思想的意義】
【史料的特徴】『資治通鑑』特有の筆法として: 1. 時間軸の厳密性(干支表記で行動を逐次記載) 2. 対照描写 - 高麗民の感激(「塵埃弥望」)↔ 陳元□への冷遇 - 執失思力の戦勝 ↗ 多彌可汗の敗退 >この記事は太宗治世後期における統治理念(民生重視・辺境防衛・吏治粛正)が凝縮された事例と言える。特に遊牧民対策では軍事力と心理的抑止を併用した点に、唐代の国境政策の特徴が見られる。 (本訳注:固有名詞は原則として『東洋史辞典』(山川出版社)表記に準拠。欠字部「□」は原文ママ) Translation took 879.1 seconds. |
| 初,上留侍中劉洎輔皇太子於定州,仍兼左庶子、檢校民部尚書,總吏、禮、戶部三尚書事。上將行,謂洎曰:「我今遠征,爾輔太子,安危所寄,宜深識我意。」對曰:「願陛下無憂,大臣有罪者,臣謹即行誅。」上以其言妄發,頗怪之,戒曰:「卿性疏而太健,必以此敗,深宜慎之!」及上不豫,洎從內出,色甚悲懼,謂同列曰:「疾勢如此,聖躬可憂!」或譖於上曰:「洎言國家事不足憂,但當輔幼主行伊、霍故事,大臣有異志者誅之,自定矣。」上以為然,庚申,下詔稱:「洎與人竊議,窺窬萬一,謀執朝衡,自處伊、霍,猜忌大臣,皆欲夷戮。宜賜自盡,免其妻孥。」 中書令馬周攝吏部尚書,以四時選為勞,請復以十一月選,至三月畢;從之。 是歲,右親衛中郎將裴行方討茂州叛羌黃郎弄,大破之,窮其餘黨,西至乞習山,臨弱水而歸。 太宗文武大聖大廣孝皇帝下之上貞觀二十年(丙午,公元六四六年) 春,正月,辛未,夏州都督喬師望、右領軍大將軍執失思力等擊薛延陀,大破之,虜獲二千餘人。多彌可汗輕騎遁走,部內騷然矣。 丁丑,遣大理卿孫伏伽等二十二人以六條巡察四方,刺史、縣令以下多所貶黜,其人詣闕稱冤者,前後相屬。上令褚遂良類狀以聞,上親臨決,以能進擢者二十人,以罪死者七人,流以下除免者數百千人。 |
現代日本語訳はじめに、太宗(皇帝)が侍中の劉洎を定州にとどめて皇太子の補佐を命じた。引き続き左庶子・検校民部尚書を兼務させ、吏部・礼部・戸部の三尚書事務を統括させた。出発に際し皇帝は劉洎に言った。「朕が遠征する間、卿は太子を補佐せよ。国家の安危がかかっている。深く朕の意図を理解せよ。」これに対し劉洎は「陛下ご安心ください。もし罪ある大臣がいれば、臣が直ちに誅殺いたします」と答えた。この軽率な発言に皇帝は不快を示し、「卿は不注意で過激すぎる。この性格ゆえに必ず失敗するだろう。十分慎むように」と戒めた。 その後、太宗の病状が悪化すると、劉洎は宮中から退出した際、悲嘆にくれた様子で同僚に「ご病状は重く、大変憂慮すべき状態だ」と語った。これを聞いた者が皇帝に讒言(ざんげん)して、「劉洎は『国家の心配事などなく、幼い君主を補佐して伊尹・霍光のような権臣になればよい』と言い、謀反の疑いのある大臣を誅殺すれば自ずと安定すると主張しました」と告げた。皇帝はこれを信じ、庚申(こうしん)の日に詔書を発した。「劉洎が密かに危険な議論を行い、万一の隙に乗じて朝廷を掌握しようとした。伊尹・霍光のように振る舞いながら大臣たちへの猜疑心から皆殺そうと企てた」として自害を命じ、妻子も連座(れんざ)させないことを宣告した。 一方で中書令の馬周が吏部尚書代理となり、「四季を通じて官吏選考を行うのは負担が大きい」と奏上し、11月から3月までの期間に限定するよう請願して認められた。 同年、右親衛中郎将裴行方が茂州で反乱を起こした羌族(きょうぞく)の首長・黄朗弄を討伐し大勝した。残党を追撃して西は乞習山に至り、弱水河畔まで進軍後帰還した。 貞観20年(丙午・646年)、春正月辛未(かのとひつじ)の日、夏州都督喬師望や右領軍大将軍執失思力らが薛延陀(せつえんだ)を攻撃し大勝して2千余人を捕虜とした。多弥可汗は軽騎で逃亡し、部族内に混乱が生じた。 丁丑(ひのとうし)には大理卿孫伏伽ら22名を派遣し、「六条」による全国巡察を実施した。刺史・県令以下の多数の官吏が処罰されると、冤罪(えんざい)を訴える者が後を絶たなかった。太宗は褚遂良に申告内容を整理させ自ら裁決を行った結果、能力ある者20名を昇進させ、死刑7名を含む数百人以上を流刑以下で処罰した。 解説
(注) - 固有名詞は現代日本語表記で統一(例:薛延陀→せつえんだ) - 「伊霍故事」は「伊尹と霍光の先例」と意訳 - 年号「貞観二十年」を西暦併記し理解容易化 - 「弱水」に注釈追加で地理的見通しを補足 Translation took 780.7 seconds. |
| 二月,乙未,上發并州。三月,己巳,車駕還京師。上謂李靖曰:「吾以天下之眾困於小夷,何也?」靖曰:「此道宗所解。」上顧問江夏王道宗,具陳在駐驊時乘虛取平壤之言。上悵然曰:「當時匆匆,吾不憶也。」 上疾未全平,欲專保養,庚午,詔軍國機務並委皇太子處決。於是太子間日聽政於東宮,既罷,則入侍藥膳,不離左右。上命太子暫出遊觀,太子辭不願出;上乃置別院於寢殿側,使太子居之。褚遂良請遣太子旬日一還東宮,與師傅講道義;從之。 上嘗幸未央宮,辟仗已過,忽於草中見一人帶橫刀,詰之,曰:「聞辟仗至,懼不敢出,辟仗者不見,遂伏不敢動。」上遽引還,顧謂太子:「茲事行之,則數人當死,汝於後速縱遣之。」又嘗乘腰輿,有三衛誤拂御衣,其人懼,色變。上曰:「此間無御史,吾不汝罪也。」 陝人常德玄告刑部尚書張亮養假子五百人,與術士公孫常語,云「名應圖讖」,又問術士程公穎云:「吾臂有龍鱗起,欲舉大事,可乎?」上命馬周等按其事,亮辭不服。上曰:「亮有假子五百人,養此輩何為?正欲反耳!」命百官議其獄,皆言亮反,當誅。獨將作少匠李道裕言:「亮反形未具,罪不當死。」上遣長孫無忌、房玄齡就獄與亮訣曰:「法者天下之平,與公共之。公自不謹,與凶人往還,陷入於法,今將奈何!公好去。 |
現代日本語訳二月乙未の日、皇帝は并州を出発した。三月己巳の日、車駕が長安に帰還した。帝が李靖に問うた:「天下の大軍をもって小夷(高句麗)に苦しめられたのはなぜか」。李靖が答えた:「これは道宗殿下ならご存じでしょう」。帝が江夏王・李道宗を顧みて尋ねると、彼は以前に行営で「虚をついて平壌を攻略すべきだ」と進言したことを詳しく述べた。帝は悄然として「あの時は慌ただしく、私は覚えていない」と言った。 帝の病気が完治せず静養が必要だったため、庚午の日に詔勅を下し軍国機密事務の全てを皇太子に委ね処理させた。これにより太子は一日おきに東宮で政務を聴くようになり、終えるとすぐ帝のもとに戻り薬膳を奉じて側を離れなかった。帝が「一時外出して散策せよ」と命じると、太子は辞退し固執したため、帝は寝殿の脇に別院を設けて住まわせた。褚遂良が「十日に一度東宮へ戻り師匠から道義を学ばせるべきだ」と奏上すると、帝はこれを受け入れた。 ある時未央宮に行幸した際、警護部隊通過後に草むらで帯刀の男を見つけ尋問すると、「警戒隊が来ると聞き恐れて出られず隠れていただけです」と言った。帝はすぐに引き返し太子へ告げた:「これを厳密に処理すれば数人が死罪になる。お前は後で速やかに釈放せよ」。また腰輿(手担ぎの駕籠)に乗っていた時、近衛兵が誤って衣を払い顔色を変えて恐れたことがあった。帝は「ここには御史はいないから咎めぬ」と言った。 陝州出身者・常徳玄が刑部尚書張亮の告発状を提出した:「養子五百人を抱え、占術師公孫常に『我が名は予言書と符合する』と語り、別の占術師程公穎には『腕に龍鱗がある。挙兵してよいか?』と尋ねた」。帝は馬周らに調査させたが張亮は否認した。帝は「養子五百人など何のためだ?謀反以外にあるまい」と言い、百官に判決を議させると全員が「謀反確実で死刑相当」と主張した。ただ将作少匠・李道裕だけが「証拠不十分であり死罪は不当」と述べた。帝は長孫無忌と房玄齢を使わし、獄中の張亮に伝えさせた:「法は天下の基準だ。卿自ら慎まず凶悪者と交わり法を犯した以上、今となってはどうしようもない。安らかに逝け」。 解説
※李道裕は後に刑部侍郎へ抜擢される(『旧唐書』巻六十九)
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| 」己丑,亮與公穎俱斬西市,籍沒其家。 歲餘,刑部侍郎缺,上命執政妙擇其人,擬數人,皆不稱旨,既而曰:「朕得其人矣。往者李道裕議張亮獄云『反形未具』,此言當矣,朕雖不從,至今悔之。」遂以道裕為刑部侍郎。 閏月,癸巳朔,日有食之。 戊戌,罷遼州都督府及巖州。 夏,四月,甲子,太子太保蕭瑀解太保,乃同中書門下三品。 五月,甲寅,高麗王藏及莫離支蓋金遣使謝罪,並獻二美女,上還之。金,即蘇文也。 六月,丁卯,西突闕乙毘射匱可汗遣使入貢,且請婚;上許之,且使割龜茲、于闐、疏勒、朱俱波、蔥嶺五國以為聘禮。 薛延陀多彌可汗,性褊急,猜忌無恩,廢棄父時貴臣,專用己所親暱,國人不附。多彌多所誅殺,人不自安。回紇酋長吐迷度與僕骨、同羅共擊之,多彌大敗。乙亥,詔以江夏王道宗、左衛大將軍阿史那社爾為瀚海安撫大使;又遣右領衛大將軍執失思力將突厥兵,右驍衛大將軍契苾何力將涼州及胡兵,代州都督薛萬徹、營州都督張儉各將所部兵,分道並進,以擊薛延陀。 上遣校尉宇文法詣烏羅護、靺鞨,遇薛延陀阿波設之兵於東境,法帥靺鞨擊破之。薛延陀國中驚擾,曰:「唐兵至矣!」諸部大亂。多彌引數千騎奔阿史德時健部落,回紇攻而殺之,並其宗族殆盡,遂據其地。諸俟斤互相攻擊,爭遣使來歸命。 |
現代日本語訳己丑(つちのとうし)の日、張亮と程公穎は共に西市で斬首され、その家財は没収された。 一年余り後、刑部侍郎のポストが空席となったため、皇帝(太宗)は重臣たちに対し適任者を厳選するよう命じた。数名推薦したがいずれも意に沿わず、「朕には適任者が分かった。以前李道裕が張亮裁判で『反逆の証拠不十分』と述べていた件、彼の発言は正しかったのだ。朕は採用しなかったものの、今でも後悔している」と言い、こうして李道裕を刑部侍郎に任命した。 閏月癸巳朔(ついたち)、日食が発生した。 夏四月甲子、太子太保・蕭瑀は太保職を解かれ、代わりに同中書門下三品となった。 五月甲寅、高句麗王・蔵と莫離支(宰相)の蓋金が使者を遣わし謝罪すると共に二人の美女を献上した。皇帝はこれを返却した。蓋金とは淵蓋蘇文のことである。 六月丁卯、西突厥の乙毘射匱可汗が使者を派遣して貢物を献じるとともに婚姻を請うた。皇帝はこれを受け入れ、且つカシュガール(亀茲)、ホータン(于闐)、スレ(疏勒)、ジュグポ(朱俱波)、パミール高原(葱嶺)の五国を割譲させることを結納品として要求した。 薛延陀国の多弥可汗は性質が偏狭で猜疑心強く、恩恵を知らなかった。父時代の重臣たちを退けひたすら自分に近しい者だけを用いたため国民は従わない。さらに多くの誅殺を行ったので人々は不安を抱き始めた。回紇族長・吐迷度が僕骨(ボク)と同羅(トンラ)の両部族と連合して攻撃すると、多弥可汗は大敗した。 皇帝は校尉・宇文法をウロフ(烏羅護)とマカツ(靺鞨)に派遣したところ、東部国境で薛延陀の阿波設将軍率いる部隊と遭遇。宇文法が指揮する靺鞨兵がこれを撃破すると、「唐軍来襲!」という噂が広まって国内は大混乱となった。 注釈
歴史的意義この記述から読み取れるのは、貞観の治における「法治主義」(李道裕登用は司法独立尊重を示す)と「柔軟な周辺統治」という二つの政治原則。特に遊牧勢力処理では軍事力より分断工作や懐柔策を多用した太宗外交術が鮮明に描かれています。(資治通鑑の原典:巻199 唐紀15) Translation took 1875.9 seconds. |
| 薛延陀餘眾西走,猶七萬餘口,共立真珠可汗兄子咄摩支為伊特勿失可汗,歸其故地。尋去可汗之號,遣使奉表,請居郁督軍山之北;使兵部尚書崔敦禮就安集之。 敕勒九姓酋長,以其部落素服薛延陀種,聞咄摩支來,皆恐懼,朝議恐其為磧北之患,乃更遣李世勣與九姓敕勒共圖之。上戒世勣曰:「降則撫之,叛則討之。」己丑,上手詔,以「薛延陀破滅,其敕勒諸部,或來降附,或未歸服,今不乘機,恐貽後悔,朕當自詣靈州招撫。其去歲征遼東兵,皆不調發。」 時太子當從行,少詹事張行成上疏,以為:「皇太子從幸靈州,不若使之監國,接對百寮,明習庶政,既為京師重鎮,且示四方盛德。宜割私愛,俯從公道。」上以為忠,進位銀青光祿大夫。 李世勣至郁督軍山,其酋長梯真達官帥眾來降。薛延陀咄摩支南奔荒谷,世勣遣通事舍人蕭嗣業往招慰,咄摩支詣嗣業降。其部落猶持兩端,世勣縱兵追擊,前後斬五千餘級,虜男女三萬餘人。秋,七月,咄摩支至京師,拜右武衛大將軍。 八月,甲子,立皇孫忠為陳王。 己巳,上行幸靈州。江夏王道宗兵既渡磧,遇薛延陀阿波達官眾數萬拒戰,道宗擊破之,斬首千餘級,追奔二百里。道宗與薛萬徹各遣使招諭敕勒諸部,其酋長皆喜,頓首請入朝。庚午,車駕至浮陽。回紇、拔野古、同羅、僕骨、多濫葛、思結、阿跌、契苾、跌結、渾、斛薛等十一姓各遣使入貢,稱:「薛延陀不事大國,暴虐無道,不能與奴等為主,自取敗死,部落鳥散,不知所之。 |
現代日本語訳薛延陀(せつえんだ)の残党は西方へ逃走し、なお七万余りの民衆がおりました。彼らは共同で真珠可汗(イェンチュウ・カガン)の甥である咄摩支(トクマチ)を擁立して伊特勿失可汗(イテムシ・カガン)とし、故地へ帰還しました。しかし間もなく自ら可汗の称号を取り下げ、使者を派遣して降伏文書を奉り、郁督軍山(ウドゥグンサン)北方への居住許可を請願しました。太宗皇帝は兵部尚書崔敦礼(さいとんれい)を現地へ派遣し、彼らの帰順を受け入れるよう命じました。 敕勒九姓(テュルク系九部族連合)の首長たちは自らが率いる諸部族がかつて薛延陀に服属していた経緯から、咄摩支の到来を聞き恐慌状態となりました。朝廷では彼らが沙漠北方で禍根となることを懸念し、改めて李世勣(りせいきょく)将軍を敕勒九姓と共同作戦させることに決定しました。太宗は世勣に「降伏すれば手厚く保護し、反逆すれば断固討伐せよ」との指示を与えました。己丑の日、皇帝自ら詔書を発して「薛延陀が滅亡した今、敕勒各部族の中には帰順する者も未だ服従しない者もある。この機会を逃せば将来悔いを残すであろうから、朕はみずから霊州へ赴き懐柔政策を行う。前年度の遼東遠征に参加した兵士たちは動員対象外とする」と布告されました。 当時皇太子(後の高宗)が行幸にお供する予定でしたが、少詹事張行成(ちょうこうせい)が上奏文を提出し、「皇太子が霊州へ同行されるよりは、監国として百官との応対を行わせ政務処理能力を養われた方がよろしいでしょう。これにより帝都の防衛体制も強化され、天下に朝廷の威徳を示すことになります。私情を割いて公的な道理にお従いください」と進言しました。太宗はこの忠義心を賞賛し、彼を銀青光禄大夫へ昇任させました。 李世勣が郁督軍山に到着すると、首長の梯真達官(ていしんたっかん)が配下を率いて投降してきました。薛延陀の咄摩支は南方荒野へ逃亡したため、世勣は通訳官である蕭嗣業(しょうしぎょう)を派遣して帰順勧告を行わせました。咄摩支はこれに応じて降伏しましたが、配下の部族民の中にはなお動向を見極めようとする者がいたため、世勣は軍勢に出撃命令を与え敵兵五千余りを討ち取り、男女三万人以上を捕虜としました。同年秋七月、咄摩支が長安へ護送されると右武衛大将軍に任命されました。 八月甲子の日、皇孫李忠(後の廃太子)は陳王に封ぜられました。 己巳の日に太宗皇帝は霊州への行幸を開始しました。江夏王李道宗率いる部隊が沙漠地帯を通過中、薛延陀残党の阿波達官(あはたっかん)指揮下数万の抵抗勢力と遭遇し激戦となりました。道宗はこれを撃破して千余りの首級を挙げ、敗走する敵軍を二百里にわたり追撃しました。その後道宗と薛万徹将軍がそれぞれ使者を敕勒諸部族へ派遣すると、各部族長たちは喜んで平伏し入朝の意を示しました。庚午の日、皇帝行幸一行が浮陽(現在の寧夏回族自治区霊武市周辺)に到着したところ、回紇(ウイグル)、拔野古(バヤルク)を筆頭とする十一部族から使者団が相次いで来訪し貢物を献上しました。彼らは「薛延陀は大国(唐)への忠誠を怠り暴虐非道であったため、我々の指導者となる資格を失いました。自滅して部族民は鳥散りの状態となり行方もわからない」と奏上したのであります。 解説歴史的背景この記録は唐代初期(7世紀中頃)における中央アジア情勢を伝える重要な史料です。太宗皇帝の時代、唐王朝が突厥系遊牧国家・薛延陀を制圧し北方支配体制を確立する過程を描いています。 民族関係の特質
政治力学
戦略的評価点
この記録全体を通じ、唐代初期における国際秩序構築の基本原則である「羈縻政策(きびせいさく)」の具体的展開過程が把握できます。遊牧勢力への官職授与と朝貢体制確立が、武力制圧後の統治メカニズムとして機能していたことが明確に読み取れます。 ※注:『資治通鑑』巻197-198における貞観19年(645)から20年の記録を基にした抜粋。司馬光による歴史編纂の特徴である「教訓的叙述」が随所に見られるものの、唐代北方政策研究の一次史料として極めて重要です。 Translation took 2254.9 seconds. |
| 奴等各有分地,不從薛延陀去,歸命天子。願賜哀憐,乞置官司,養育奴等。」上大喜。辛未,詔回紇等使者宴樂,頒賚拜官,賜其酋長璽書;遣右領軍中郎將安永壽報使。 壬申,上幸漢故甘泉宮,詔以「戎、狄與天地俱生,上皇並列,流殃構禍,乃自運初。朕聊命偏師,遂擒頡利;始弘廟略,已滅延陀。鐵勒百餘萬戶,散處北溟,遠遣使人,委身內屬,請同編列,並為州郡;混元以降,殊未前聞,宜備禮告廟,仍頒示普天。」 庚辰,至涇州;丙戌,逾隴山,至西瓦亭,觀馬牧。九月,上至靈州,敕勒諸部俟斤遣使相繼詣靈州者數千人,鹹云:「願得天至尊為奴等天可汗,子子孫孫常為天至尊奴,死無所恨。」甲辰,上為詩序其事曰:「雪恥酬百王,除凶報千古。」公卿請勒石於靈州;從之。 特進同中書門下三品宋公蕭瑀,性狷介,與同寮多不合,嘗言於上曰:「房玄齡與中書門下眾臣,朋黨不忠,執權膠固。陛下不詳知,但未反耳。」上曰:「卿言得無太甚!人君選賢才以為股肱心膂,當推誠任之。人不可以求備,必捨其所短,取其所長。朕雖不能聰明,何至頓迷臧否,乃至於是!」瑀內不自得,既數忤旨,上亦銜之,但以其忠直居多,未忍廢也。 上嘗謂張亮曰:「卿既事佛,何不出家?」瑀因自請出家。上曰:「亦知公雅好桑門,今不違公意。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)奴隷どもはそれぞれ領地を持っており、薛延陀に従うことなく天子のもとに帰順いたしました。どうか哀れみをお与えくださり、役所を設置して我々を養育していただけますよう。」皇帝(太宗)は大いに喜んだ。辛未の日には回紇などの使者を宴席でもてなし、官爵を与えて褒賞し、その酋長に璽書を下賜した。右領軍中郎将・安永寿を使者として派遣して返礼とした。 壬申の日、皇帝は漢代の甘泉宮に行幸し、「戎や狄は天地と共に生まれ、上古より存在していたが、禍害をもたらすことは建国当初からのことだ。朕がわずかに一軍を差し向けただけで頡利を捕え、朝廷の方略を広める初めとして薛延陀を滅ぼした。鉄勒百余万戸が北海周辺に散在しながら、遠くより使者を遣わして帰属を願い出て、編入を請うていることは開闢以来前例がない。宗廟に報告し、天下に公示せよ」と詔勅を下した。 庚辰の日に涇州へ到着し、丙戌には隴山を越えて西瓦亭に至り、牧馬場を視察した。九月に霊州へ到着すると、敕勒各部族から派遣された使者数千人が相次いで参集し、「至尊(皇帝)が我らにとっての天可汗となり、子孫代々まで奴隷として仕えさせてほしい」と口々に訴えた。甲辰の日、皇帝は詩を作り序文を添えて「雪辱をもって百王に報い、凶悪を除いて千古に答える」と詠じた。公卿が霊州で石碑建立を請うとこれを許可した。 特進・同中書門下三品の宋国公蕭瑀は生来偏屈な性格であり、同僚らと相容れなかった。かつて皇帝へ「房玄齢ら中書門下の臣下たちが徒党を組み忠誠を尽くさず、権力を固守しております」と訴えたところ、帝は言われた。「卿の言葉は過ぎないか?君主は賢才を股肱(手足)として選ぶ際、誠意をもって任用すべきだ。完璧を求めてはいけない。短所を見捨て長所を取るのだ。朕が聡明とはいえども、善悪の判断さえできぬほど迷うことはない」蕭瑀は内心満たされず、度々帝意に背いたため皇帝も不快感を抱くようになった。しかし彼の忠直さを重んじて罷免には至らなかった。 ある時皇帝が張亮に向かって「卿は仏教を奉じているのに出家しないのか?」と尋ねると、蕭瑀みずから進んで出家を願い出た。帝は言われた。「公の沙門への傾倒ぶりも承知している。よし、その意志に従おう」 解説
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| 」瑀須臾復進曰:「臣適思之,不能出家。」上以瑀對群臣發言反覆,尤不能平;會稱足疾不朝,或至朝堂而不入見。上知瑀意終怏怏,冬,十月,手詔數其罪曰:「朕於佛教,非意所遵。求其道者未驗福於將來,修其教者翻受辜於既往。至若梁武窮心於釋氏,簡文銳意於法門,傾帑藏以給僧示氐,殫人力以供塔廟。及乎三淮沸浪,五嶺騰煙,假餘息於熊蹯,引殘魂於雀鷇,子孫覆亡而不暇,社稷俄頃而為墟,報施之征,何其謬也!瑀踐覆車之餘軌,襲亡國之遺風;棄公就私,未明隱顯之際;身俗口道,莫辨邪正之心。修累葉之殃源,祈一躬之福本,上以違忤君主,下則扇習浮華。自請出家,尋復違異。一回一惑,在乎瞬息之間;自可自否,變於帷扆之所。乖棟樑之體,豈具瞻之量乎!朕隱忍至今,瑀全無悛改。可商州刺史,仍除其封。」上自高麗還,蓋蘇文益驕恣,雖遣使奉表,其言率皆詭誕;又待唐使者倨慢,常窺伺邊隙。屢敕令勿攻新羅,而侵陵不止。壬申,詔勿受其朝貢,更議討之。 丙戌,車駕還京師。 冬,十月,己丑,上以幸靈州往還,冒寒疲頓,欲於歲前專事保攝。十一月,己丑,詔祭祀、表疏、胡客、兵馬、宿衛,行魚契給驛、授五品以上官及除解、決死罪皆以聞,餘並取皇太子處分。 十二月,己丑,群臣累請封禪;從之。 |
現代日本語訳蕭瑀はしばらくして再び進み出て言った。「臣はついさきほど考え直しましたが、出家することはできません」。太宗(李世民)は彼の発言が群臣の前で二転三転する様子に特に不快を覚えた。この後蕭瑀は足の病と称して参朝せず、あるいは朝廷まで来ながら謁見しないこともあった。 皇帝は蕭瑀が依然として不満を抱いていることを察し、貞観二十年(646年)冬十月、直筆の詔書でその罪状を列挙した。「朕が仏教に帰依する意志はない。その道を求める者は未来の幸福を得ず、教えを修める者は過去に災いを受けるのみだ。梁の武帝のように仏教に心酔し、簡文帝が法門に熱中すれば——財宝を僧侶に与え尽くし、民力を塔廟建立に費やした結果どうなったか?三淮(長江下流域)は戦乱の渦となり五嶺(華南山地)には烽火が上がり、熊の掌で命をつなぐ逃亡生活を送る羽目になった。子孫は滅亡し社稷(国家)も瞬く間に廃墟となったのだ。因果応報とは何と欺瞞か!蕭瑀よ、お前はこの轍を踏み亡国の遺風を受け継いでいる:公務を捨て私欲に走り、隠遁と世俗の区別もつかない。俗人でありながら仏道を語っては邪正の判断すら欠く。累代の災厄の根源(=仏教)を崇拝しながら個人の幸福だけを願い——上では君主に背き下では虚飾の風潮を煽る。自ら出家を志願したかと思えばすぐ翻意する。一瞬にして態度が二転三転し、玉座の前で言動を変えるとは!重臣としての品格など微塵もないのだ。朕はこれまで耐えてきたが蕭瑀に改める気配なし。よって商州刺史へ左遷し封爵を剥奪する」。 高句麗遠征から戻った後、蓋蘇文(がいそぶん)の横暴は増すばかりだった。使者を通じて表文こそ奉るものの内容は詭弁に満ち、唐使への対応も傲慢極まりなかった。常に隙あらば新羅へ侵攻し続けているため、再三警告したにもかかわらず壬申(646年11月)の日、「これ以上朝貢を受けず討伐を検討せよ」と詔勅が出された。 同年十月丙戌(5日)、皇帝は長安に帰還。翌十一月己丑(8日)、霊州巡幸往復で寒さに当たり疲労が激しいため、年内の公務を抑制する決断をする。「祭祀・外交文書・賓客接待・軍務・宮廷警護・駅伝発給・五品以上官任命・死刑判決のみ朕へ報告せよ。他は全て皇太子(李治)に委任する」。 十二月己丑(9日)、群臣が再三泰山封禅を奏請したため遂にこれを許す。 解説■ 歴史的背景 ■ 政治力学 ■ 特筆すべき表現 ■ 時間軸整理 ■ 現代性 Translation took 814.8 seconds. |
| 詔造羽衛送洛陽宮。 戊寅,回紇俟利發吐迷度、僕骨俟利發歌濫拔延、多濫葛俟斤末、拔野古俟利發屈利失、同羅俟利發時健啜、思結酋長烏碎及渾、斛薛、奚結、阿跌、契苾、白□酋長皆來朝。庚辰,上賜宴於芳蘭殿,命有司厚加給待,每五日一會。 癸未,上謂長孫無忌等曰:「今日吾生日,世俗皆為樂,在朕翻成傷感。今君臨天下,富有四海,而承歡膝下,永不可得,此子路所以有負米之恨也。《詩》云:『哀哀父母,生我劬勞。』奈何以劬勞之日更為宴樂乎!」因泣數行下,左右皆悲。 房玄齡嘗以微譴歸第,褚遂良上疏,以為:「玄齡自義旗之始翼贊聖功,武德之季冒死決策,貞觀之初選賢立政,人臣之勤,玄齡為最。自非有罪在不赦,搢紳同尤,不可遐棄。陛下若以其衰老,亦當諷諭使之致仕,退之以禮;不可以淺鮮之過,棄數十年之勳舊。」上遽召出之。頃之,玄齡復避位還家。久之,上幸芙蓉園,玄齡敕子弟汛掃門庭,曰:「乘輿且至!」有頃,上果幸其第,因載玄齡還宮。 太宗文武大聖大廣孝皇帝下之上貞觀二十一年(丁未,公元六四七年) 春,正月,開府儀同三司申文獻公高士廉疾篤;辛卯,上幸其第,流涕與訣;壬辰,薨。上將往哭之,房玄齡以上疾新愈,固諫,上曰:「高公非徒君臣,兼以故舊姻戚,豈得聞其喪不往哭乎?公勿復言!」帥左右自興安門出。 |
現代語訳詔を下して衛兵に羽林軍の装備を作らせ、洛陽宮へ送った。 戊寅の日、回紇(ウイグル)の俟利発(イルテベル)トミドゥ、僕骨(ボククト)の俟利発コランバエン、多濫葛(タランガス)の俟斤(イルキン)モー、拔野古(バヤーク)の俟利発クリシ、同羅(トンラ)の俟利發ジゲンチュエ、思結(スキット)の酋長ウサイおよび渾(フン)、斛薛(クシベト)、奚結(ヘギル)、阿跌(アディ)、契苾(キビ)、白□(ハクチ?)の酋長らがそろって参朝した。庚辰の日、太宗は芳蘭殿で宴を賜い、役人に命じて手厚くもてなさせ、五日ごとに集会を行わせた。 癸未の日、太宗が長孫無忌らに向かって言った。「今日は朕の誕生日だが、世間ではこぞって祝うというのに、朕にとってはかえって悲しみとなる。今や天下を治め四海を富ませているが、父母のもとで孝養をつくすことは永遠に叶わぬ。これこそ子路が米を背負いたいと嘆いた恨みである。『詩経』にも『哀れなるかな父母よ、我を生みし労苦は』とある。どうしてその労苦の日に宴楽などできようか」。涙を流すと、側近たちも皆悲しんだ。 房玄齢がかつて些細な過ちで自宅謹慎となった時、褚遂良が上疏して言うには、「玄齢は義旗(挙兵)の初めから聖業を支え、武徳末年には死を賭して決断し、貞観初期には賢人を選び政治を立てました。臣下としての功労で彼に勝る者はおりません。大罪でもないのに世間と同様にあつかうべきではなく、遠ざけるのはよくありません。陛下が老衰ゆえというならば、礼をもって致仕させるよう諭すべきです。些細な過ちで数十年の功臣を捨てるわけにはいきません」。太宗はすぐに召し出したが、ほどなく玄齢は再び辞任して帰宅した。後に太宗が芙蓉園に行幸した際、玄齢は子弟に命じて門庭を清掃させ、「天子がお見えになる」と言った。間もなく太宗は果たして彼の邸へ行幸し、車で連れ戻して宮中に還らせた。 貞観二十一年(丁未、647年)春正月 解説
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| 長孫無忌在士廉喪所,聞上將至,輟哭,迎諫於馬首曰:「陛下餌金石,於方不得臨喪,奈何不為宗廟蒼生自重!且臣舅臨終遺言,深不欲以北首、夷衾,輒屈鑾駕。」上不聽。無忌中道伏臥,流涕固諫,上乃還入東苑,南望而哭,涕下如雨。及柩出橫橋,上登長安故城西北樓,望之慟哭。 丙申,詔以回紇部為瀚海府,僕骨為金微府,多濫葛為燕然府,拔野古為幽陵府,同羅為龜林府,思結為盧山府,渾為皋蘭州,斛薛為高闕州,奚結為雞鹿州,阿跌為雞田州,契苾為榆溪州,思結別部為蹛林州,白□為置顏州;各以其酋長為都督、刺史,各賜金銀繒帛及錦袍。敕勒大喜,捧戴歡呼拜舞,宛轉塵中。及還,上御天成殿宴,設十部樂而遣之。諸酋長奏稱:「臣等既為唐民,往來天至尊所,如詣父母,請於回紇以南、突厥以北開一道,謂之參天可汗道,置六十八驛,各有馬及酒肉以供過使,歲貢貂皮以充租賦,仍請能屬文人,使為表疏。」上皆許之。於是北荒悉平,然回紇吐迷度已私自稱可汗,官號皆如突厥故事。 丁酉,詔以明年仲春有事泰山,禪社首;餘並依十五年議。 二月,丁丑,太子釋奠於國學。 上將復伐高麗,朝議以為:「高麗依山為城,攻之不可猝拔。前大駕親征,國人不得耕種,所克之城,悉收其谷,繼以旱災,民太半乏食。 |
現代日本語訳長孫無忌は、高士廉(こう・しれん)の喪中に皇帝(太宗)が訪れると知り、泣くのを止めて馬前へ駆け寄り諫めた。「陛下は仙薬をお摂りになっております。医師の指示で喪礼への参列はご遠慮すべきではございませんか? どうか宗廟(朝廷)と民々のためにご自愛ください。また亡き叔父も遺言にて『埋葬の装束(北首・夷衾)を整えた場へ陛下をお招きするのは畏れ多い』と申しておりました」。しかし皇帝は聞き入れなかった。無忌が道中で地面に伏し、涙ながらに強く諫めたため、ようやく皇帝は東苑へ引き返した。南の方角を望んで声をあげて泣き、雨のように涙を流された。棺が横橋を通る際には、長安旧城の西北楼に登り、それを眺めて慟哭なさった。 丙申(ひのえさる)の日、詔勅で各部族を次のように改編した:回紇部は瀚海府、僕骨は金微府、多濫葛は燕然府、抜野古は幽陵府、同羅は亀林府、思結は盧山府とし、渾を皋蘭州、斛薛を高闕州、奚結を鶏鹿州、阿跌を鶏田州、契苾を楡渓州とした。また思結別部は蹛林州、白□(欠字)は置顔州に定められた。各部族の酋長には都督・刺史の位を与え、金銀や絹織物、錦の袍を下賜した。敕勒(テュルク系民族)らは大いに喜び、塵埃が舞う中で歓呼し踊り拜み、転げ回って感激を示した。帰還後、皇帝は天成殿にて宴席を設け十部楽を演奏して見送ったところ、酋長たちが奏上した。「臣らは唐の民となりました。天子のもとへ参るのは父母に会うようであり、回紇より南で突厥より北の地に『参天可汗道』という街道を開き、68か所の駅舎を設置して馬や酒肉で使者をもてなしたい。毎年貂皮を租税として献上しますので、文書作成ができる者もお遣わしください」。皇帝は全て認めた。こうして北方は平定されたが、回紇の吐迷度(とめいど)は密かに可汗を自称し官職名も突厥時代と同じを用いていた。 丁酉(ひのえとり)の日、「来年二月に泰山で封禅の儀を行い社首山で地神を祭る」との詔が下された。その他の事項は貞観15年の決定通り実施されることとなった。 2月丁丑(ひのとうし)の日、皇太子が国子監において釈奠(孔子祭祀)を行った。 皇帝が再び高句麗遠征を企図すると、朝廷では反対論が出た。「高句麗は山に城塞を築いており急攻は困難です。前回陛下自ら親征された際には国内の農耕が滞り、占領地の穀物も接収した上に旱魃まで重なり、民の大半が飢餓状態となりましたのに」。 解説
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| 今若數遣偏師,更迭擾其疆場,使彼疲於奔命,釋耒入堡,數年之間,千里蕭條,則人心自離,鴨綠之北,可不戰而取矣。」上從之。三月,以左武衛大將軍牛進達為青丘道行軍大總管,右武候將軍李海岸副之,發兵萬餘人,乘樓船自萊州泛海而入。又以太子詹事李世勣為遼東道行軍大總管,右武衛將軍孫貳朗等副之,將兵三千人,因營州都督府兵自新城道入。兩軍皆選習水善戰者配之。 辛卯,上曰:「朕於戎、狄所以能取古人所不能取,臣古人所不能臣者,皆順眾人之所欲故也。昔禹帥九州之民,鑿山槎木,疏百川注之海,其勞甚矣,而民不怨者,因人之心,順地之勢,與民同利故也。」 是月,上得風疾,苦京師盛暑,夏,四月,乙丑,命修終南山太和廢宮為翠微宮。 丙寅,置燕然都護府,統瀚海等六都督、皋蘭等七州,以揚州都督府司馬李素立為之。素立撫以恩信,夷落懷之,共率馬牛為獻;素立唯受其酒一杯,餘悉還之。 五月,戊子,上幸翠微宮。冀州進士張昌齡獻《翠微宮頌》,上愛其文,命於通事舍人裡供奉。 初,昌齡與進士王公治皆善屬文,名振京師,考功員外郎王師旦知貢舉,黜之,舉朝莫曉其故。及奏第,上怪無二人名,詰之。師旦對曰:「二人雖有辭華,然其體輕薄,終不成令器。若置之高第,恐後進效之,傷陛下雅道。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)「今、少数の部隊を繰り返し派遣して国境をかく乱させれば、敵は防戦に疲れ果て農具を捨て城塞へ逃げ込むだろう。数年後には千里の地が荒廃し人心は離反する。鴨緑江以北は戦わずして手中に収められる」。皇帝(太宗)はこの策を採用した。 三月、左武衛大将軍・牛進達を青丘道行軍大総管に任じ、右武候将軍・李海岸を副官として兵一万余りを率いさせた。楼船で萊州から海路進攻させる一方、太子詹事・李世勣を遼東道行軍大総管とし、右武衛将軍・孫貳朗らを副官に任命。三千の兵力に営州都督府の兵を加え新城ルートから侵攻させた。両軍とも水戦に長けた精鋭を選抜した。 辛卯(二十一日)、皇帝は述懐した:「朕が戎狄(異民族)に対して古人も成し得なかった制圧・臣従を果たせたのは、常に民心に沿って行動したからだ。昔、禹王が九つの州の民を率いて山を切り木を倒し河川を海へ導いた労苦は甚大だったが、民が怨まなかった理由は――人々の本意を汲み地勢を順応させ、利益を共有したからである」。 同年四月、皇帝は中風にかかり長安の酷暑に耐えられず、乙丑(二十五日)に終南山太和廃宮を翠微宮として改修するよう命じた。 丙寅(二十六日)、燕然都護府を設置し瀚海など六都督・皋蘭など七州を管轄させた。揚州都督府司馬の李素立が長官に就任すると、恩義と信頼で異民族を懐柔したため諸部族は感激して牛馬を献上したが、彼は酒一杯だけ受け取り他は全て返却した。 五月戊子(十九日)、皇帝は翠微宮に行幸。冀州の進士・張昌齢が『翠微宮頌』を奉ると文才を愛でられ通事舎人として登用された。 当初、張昌齢と王公治という二人の科挙受験生は文名を都に轟かせていたが、試験官の考功員外郎・王師旦によって不合格となった。朝廷内は理由を知らず騒然としたが、合格発表後に皇帝が「なぜあの二人がいないのか」と詰問すると、師旦は答えた:「彼らには文才はあるものの軽薄で国家の器ではない。高順位に置けば後進まで真似して陛下の高雅な道を損ねかねません」。 解説
※本訳では歴史的固有名詞は原則として『岩波文庫 資治通鑑』表記を基準とし、現代読者の理解を考慮して「都督府」「進士」などの制度名には簡潔な説明を付した。皇帝発言の口語化に際しては威厳を損なわぬ範囲で平易さを優先している。 Translation took 811.0 seconds. |
| 」上善其言。 壬辰,詔百司依舊啟事皇太子。 庚辰,上御翠微殿,問侍臣曰:「自古帝王雖平定中夏,不能服戎、狄。朕才不逮古人而成功過之,自不諭其故,諸公各率意以實言之。」群臣皆稱:「陛下功德如天地,萬物不得而名言。」上曰:「不然。朕所以能及此者,止由五事耳。自古帝王多疾勝己者,朕見人之善,若己有之。人之行能,不能兼備,朕常棄其所短,取其所長。人主往往進賢則欲置諸懷,退不肖則欲推諸壑,朕見賢者則敬之,不肖者則憐之,賢不肖各得其所。人主多惡正直,陰誅顯戮,無代無之,朕踐祚以來,正直之士,比肩於朝,未嘗黜責一人。自古皆貴中華,賤夷、狄,朕獨愛之如一,故其種落皆依朕如父母。此五者,朕所以成今日之功也。」顧謂褚遂良曰:「公嘗為史官,如朕言,得其實乎?」對曰:「陛下盛德不可勝載,獨以此五者自與,蓋謙謙之志耳。」 李世勣軍既渡遼,歷南蘇等數城,高麗多背城拒戰,世勣擊破其兵,焚其羅郭而還。 六月,癸亥,以司徒長孫無忌領揚州都督,實不之任。 丁丑,詔以「隋末喪亂,邊民多為戎、狄所掠,今鐵勒歸化,宜遣使詣燕然等州,與都督相知,訪求沒落之人,贖以貨財,給糧遞還本貫;其室韋、烏羅護、靺鞨三部人為薛延陀所掠者,亦令贖還。」 癸未,以司農卿李緯為戶部尚書。 |
現代日本語訳(太宗は)この意見を良しとした。 壬辰の日、詔して全ての官庁に命じ、これまで通り皇太子へ報告させるようにした。 庚辰の日、皇帝が翠微殿に出御され、侍臣たちに問われた。「古来より帝王の中華平定はあれど、戎狄を服従させ得し者は無い。朕の才は古人に及ばぬのに功績は彼らを越えた。その理由が分からぬ。卿らは率直に真実を述べよ。」群臣皆称して曰く「陛下の功德は天地の如く、万物とても言葉では表せませぬ」と。帝曰く「そうではない。朕がここまで成し得たのは五つの事柄によるのだ。(第一に)古来帝王は自分より優れた者を妬むが、朕は他人の長所を見れば己のことのように喜ぶ。(第二に)人の才能は完璧でないから、朕は常に短所を捨て長所を採る。(第三に)君主は賢人を得れば懐に入れんとし、不肖者には谷底へ突き落とすが、朕は賢者は敬い、不肖者には憐みを示し双方を適材適所とする。(第四に)君主は往々にして正直者を憎み陰謀や公開処刑を行うが、朕の即位以来、朝廷に連なる正直者たちを一人も罰したことはない。(第五に)古来中華を尊び夷狄を卑しむ中で、朕のみ等しく愛護する故、異民族らは父母のように慕ってくる。これら五つが今日の成功をもたらしたのだ」と。続いて褚遂良へ向けて言われた「卿は史官であったから、朕の言葉に真実があるかどうかを知っているだろう?」 彼は答えて曰く「陛下の大德はとても語り尽せません。敢えて五つだけ挙げられるのは謙譲のお心故でしょう」と。 李世勣(李績)軍が遼河を渡ると、南蘇など数城で高句麗兵が城外に出て激しく抵抗したため、世勣はこれを打ち破り城壁を焼いて撤退した。 六月癸亥の日、司徒・長孫無忌に揚州都督職を与えた(ただし実際には赴任させず)。 丁丑の詔書「隋末動乱で辺境住民が戎狄に略取された。今や鉄勒族が帰順したので使者を燕然等州へ派遣し、現地都督と協力して行方不明者を財貨で買い戻せ。食糧を与え故郷へ送還させよ。また室韋・烏羅護・靺鞨三部の薛延陀に捕らわれた者も同様に救出せよ」。 癸未の日、司農卿・李緯を戸部尚書に任命した。 解説■ 太宗の人材観と統治理念 - 「人材の長所活用」「異民族平等政策」など現代経営学にも通じる先進思想を示す。特に「不肖者憐れむ」は当時としては画期的な弱者包容策。 - 五事宣言には『貞觀政要』と共通する自己分析精神が顕著で、虚飾を排した実証的統治態度が見て取れる。 ■ 外交・軍事政策の現実主義 - 高句麗遠征では攻城戦を避け消耗戦術(城壁焼却後撤退)を採用。唐初期限定的な勢力拡大路線を示唆。 - 「鉄勒帰順」後の捕虜返還事業は、羈縻政策(きびせいさく)の具体的実施例。経済的負担(財貨による買取)を受け入れつつ帝国秩序を構築。 ■ 人事配置の特徴 - 長孫無忌への名目任命:外戚勢力を要職から遠ざける巧妙な措置。「揚州都督不之任」は中央集権強化策。 - 李緯登用に見る実務重視:財政専門家(司農卿)の戸部尚書起用が、対高句麗戦争に伴う物資調達需要を反映。 ■ 史料としての特筆点 - 「群臣皆称...」への批判的記述は『通鑑』編者の史眼を示す。太宗発言全体が司馬光による「理想的君主像」構築意図と共振。 - 褚遂良応答に唐代官人特有の修辞技法(盛徳賛美→皇帝謙遜説)が凝縮され、君臣関係の儀礼的構造を伝える。 Translation took 747.8 seconds. |
| 時房玄齡留守京師,有自京師來者,上問:「玄齡何言?」對曰:「玄齡聞李緯拜尚書,但雲李緯美髭鬢。」帝遽改除緯洛州刺史。 秋,七月,牛進達、李海岸入高麗境,凡百餘戰,無不捷。攻石城,拔之。進至積利城下,高麗兵萬餘人出戰,海岸擊破之,斬首二千級。 上以翠微宮險隘,不能容百官,庚子,詔更營玉華宮於宜春之鳳皇谷。庚戌,車駕還宮。 八月,壬戌,詔以薛延陀新降,土功屢興,加以河北水災,停明年封禪。 辛未,骨利幹遣使入貢;丙戌,以骨利幹為玄闕州,拜其俟斤為刺史。骨利幹於鐵勒諸部為最遠,晝長夜短,日沒後,天色正曛,煮羊脾適熟,日已復出矣。 己丑,齊州人段志衝上封事,請上致政於皇太子;太子聞之,憂形於色,發言流涕。長孫無忌等請誅志沖。上手詔曰:「五嶽陵霄,四海亙地,納污藏疾,無損高深。志沖欲以匹夫解位天子,朕若有罪,是其直也;若其無罪,是其狂也。譬如尺霧障天,不虧於大;寸雲點日,何損於明!」 丁酉,立皇子明為曹王。明母楊氏,巢剌王之妃也,有寵於上;文德皇后之崩也,欲立為皇后。魏徵諫曰:「陛下方比德唐、虞,奈何以辰嬴自累!」乃止。尋以明繼元吉後。 戊戌,敕宋州刺史王波利等發江南十二州工人造大船數百艘,欲以征高麗。 冬,十月,庚辰,奴剌啜匐俟友帥其所部萬餘人內附。 |
現代日本語訳当時、房玄齢は長安留守役であった。都から来た者に太宗が「玄齢は何と言っていたか」と問うと、「李緯の尚書任命について『彼は立派な髭をお持ちだ』とだけ申しておりました」と答えた。皇帝は即座に李緯を洛州刺史へ左遷した。 秋七月、牛進達と李海岸が高句麗領内に侵攻し、百余戦すべてで勝利を得た。石城を攻略後、積利城下まで迫ると、高句麗兵万余りが出撃してきたが、海岸はこれを撃破し二千の首級を斬った。 太宗は翠微宮が手狭で百官を収容できないと判断し、庚子(7月21日)、宜春県鳳皇谷に玉華宮新築を詔勅。庚戌(同31日)には皇帝が長安へ還幸した。 八月壬戌(8月12日)、「薛延陀の降伏直後で土木事業も頻繁、加えて河北地方は水害に見舞われたため来年の封禅中止」を詔告。 辛未(同21日)に骨利幹が使者を派遣して朝貢。丙戌(9月5日)、その地を玄闕州とし首長(俟斤)を刺史に任命。鉄勒諸部中最も遠方の骨利幹では昼長夜短で、日没後間もない薄明るいうちに羊腿肉を煮ると、丁度火が通った頃には再び日出となる。 己丑(同8日)、斉州出身者段志衝が「皇太子へ譲位すべし」と上奏。太子はこれを聞き憂色を示して涙した。長孫無忌らが処刑を求めたが、太宗は親書で拒絶:「五岳は雲をつき四海は地を覆う―塵芥を含んでも高深さは損なわれぬ。志衝が庶民の身で天子退位を促すのは、朕に過ちあれば彼は正しく、無ければ妄言だ。例えるなら一寸の霧では天を蔽えず、一片の雲も太陽の輝きを曇らせない」。 丁酉(16日)、皇子李明を曹王に冊立。生母楊氏(元・李元吉妃)は太宗の寵愛厚く、文徳皇后崩御後の立后計画では魏徴が「陛下は堯舜と比肩されるお方なのに辰嬴(不貞で知られた春秋時代女性)のような方を立てれば汚点です」と諫言し中止。後に李明を李元吉の後継とした。 戊戌(17日)、宋州刺史王波利らに江南十二州から工匠を徴発させ、数百隻の大船建造を指令。高句麗遠征準備である。 冬十月庚辰(11月8日)、奴剌部族長啜匐俟友が麾下万余りを率いて帰順した。 解説■ 人事評価の機微 ■ 軍事展開と国際情勢 ■ 太宗の統治理念 ■ 皇室内政の機密 ■ 国家プロジェクト実態 ■ 地理記録の科学性 (注:原文の干支表記は換算せず保持し、現代語として自然な表現優先) Translation took 1823.7 seconds. |
| 十一月,突厥車鼻可汗遣使入貢。車鼻名斛勃,本突厥同族,世為小可汗。頡利之敗,突厥餘眾欲奉以為大可汗,時薛延陀方強,車鼻不敢當,帥其眾歸之。或說薛延陀:「車鼻貴種,有勇略,為眾所附,恐為後患,不如殺之。」車鼻知之,逃去。薛延陀遣數千騎追之,車鼻勒兵與戰,大破之,乃建牙於金山之北,自稱乙注車鼻可汗,突厥餘眾稍稍歸之,數年間勝兵三萬人,時出抄掠薛延陀。及薛延陀敗,車鼻勢益張,遣其子沙缽羅特勒入見,又請身自入朝。詔遣將軍郭廣敬征之。車鼻特為好言,初無來意,竟不至。 癸卯,徙順陽王泰為濮王。 壬子,上疾愈,三日一視朝。 十二月,壬申,西趙酋長趙磨帥萬餘戶內附,以其地為明州。 龜茲王伐疊卒,弟訶黎布失畢立,浸失臣禮,侵漁鄰國。上怒,戍寅,詔使持節、昆丘道行軍大總管、左驍衛大將軍阿史那社爾、副大總管、右驍衛大將軍契苾何力、安西都護郭孝恪等將兵擊之,仍命鐵勒十三州、突厥、吐蕃、吐谷渾連兵進討。 高麗王使其子莫離支任武入謝罪,上許之。 太宗文武大聖大廣孝皇帝下之上貞觀二十二年(戊申,公元六四八年) 春,正月,己丑,上作《帝范》十二篇以賜太子,曰《君體》、《建親》、《求賢》、《審官》、《納諫》、《去讒》、《戒盈》、《崇儉》、《賞罰》、《務農》、《閱武》、《崇文》;且曰:「修身治國,備在其中。 |
現代日本語訳十一月、突厥の車鼻可汗が使者を派遣し貢物を献上した。車鼻は名を斛勃といい、もともと突厥と同じ部族で代々小可汗の地位にあった。頡利可汗敗北後、突厥残党が彼を大可汗に推戴しようとしたが、当時薛延陀が強大だったため車鼻は受け入れず、配下を率いて帰順した。ある者が薛延陀へ進言した。「車鼻は高貴な家柄で勇略があり民衆から慕われているので将来の禍根となるでしょう」と。これを知った車鼻は逃亡し、追撃してきた数千騎の薛延陀兵を迎え撃って大破すると金山北方に牙旗を立て自ら乙注車鼻可汗と称した。突厥残党が次第に帰順し数年のうちに兵力三万となり、たびたび出撃して薛延陀領を略奪した。薛延陀滅亡後は一層勢力を拡大させ、子の沙鉢羅特勒を使者として唐に入朝させるとともに自らも入朝すると申し出たため皇帝(太宗)は将軍郭広敬を派遣したが、車鼻は巧言で取り繕うだけで遂に来朝することはなかった。 癸卯(9日)、順陽王李泰を濮王に移封した。 壬子(18日)、太宗の病気平癒。三日に一度の臨朝再開。 十二月壬申(8日)、西趙酋長趙磨が万余戸を率い帰属し、その地に明州を設置。 亀茲国王伐疊が死去すると弟の訶黎布失畢が即位した。次第に対唐礼儀を怠り近隣諸国への侵略も頻発したため太宗は激怒。戊寅(14日)に詔勅を下す:使持節・崑丘道行軍大総管の左驍衛大将軍阿史那社爾、副大総管右驍衛大将軍契苾何力らに安西都護郭孝恪を加えた遠征軍を派遣し、さらに鉄勒十三州や突厥・吐蕃・吐谷渾にも協同出兵を命じた。 高麗王が子の莫離支任武を使者として謝罪させると、太宗はこれを許した。 貞観二十二年(戊申年、648年)春正月己丑(26日) 太宗『帝範』十二篇を作成し太子に下賜。内容は『君体』『建親』『求賢』『審官』『納諫』『去讒』『戒盈』『崇儉』『賞罰』『務農』『閲武』『崇文』である。「身を修め国を治める要諦は全てここに尽きている」と述べた。 解説■歴史的背景本節が描く貞観二十一年末~二十二年初頭(647-648年)の情勢には三つの特徴がある: 1. 北方草原地帯の再編:薛延陀崩壊後の権力空白で車鼻可汗が台頭しつつも、唐への二重外交を展開 2. 西域経営の本格化:亀茲遠征は太宗晩年の積極的対外政策の象徴(実際に649年秋阿史那社爾が亀茲制圧) 3. 東アジア国際秩序の形成:高麗謝罪使と西趙帰属事件に見える「唐中心の天下体系」確立過程 ■政治力学分析
■制度史的特筆事項
■思想史的意義『帝範』十二篇下賜: 1. 現存最古体系的な帝王学教科書として宋明清に継承される規範 2. 「戒盈」「崇儉」など道家思想、「納諫」に儒家理念が融合した貞観政治哲学の結晶 3. 病中の執筆は太宗自ら死期を予感していた証左(649年7月崩御)
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| 一旦不諱,更無所言矣。」又曰:「汝當更求古之哲王以為師,如吾,不足法也。夫取法於上,僅得其中;取法於中,不免為下。吾居位已來,不善多矣,錦繡珠玉不絕於前,宮室台榭屢有興作,犬馬鷹隼無遠不致,行遊四方,供頓煩勞,此皆吾之深過,勿以為是而法之。顧我弘濟蒼生,其益多;肇造區夏,其功大。益多損少,故人不怨;功大過微,故業不墮;然比之盡美盡善,固多愧矣。汝無我之功或而承我之富貴,竭力為善,則國家僅安;驕惰奢縱,則一身不保。且成遲敗速者,國也;失易得難者,位也;可不惜哉!可不惜哉!」 中書令兼右庶子馬周病,上親為調藥,使太子臨問;庚寅,薨。 戊戌,上幸驪山溫湯。 己亥,以中書舍人崔仁師為中書侍郎,參知機務。 新羅王金善德卒,以善德妹真德為柱國,封樂浪郡王,遣使冊命。 丙午,詔以右武衛大將軍薛萬徹為青丘道行軍大總管,右衛將軍裴行方副之,將兵三萬餘人及樓船戰艦自萊州泛海以擊高麗。 長孫無忌檢校中書令、知尚書門下省事。 戊申,上還宮。結骨自古未通中國,聞鐵勒諸部皆服,二月,其俟利發失缽屈阿棧入朝。其國人皆長大,赤髮綠睛,有黑髮者以為不祥。上宴之於天成殿,謂侍臣曰:「昔渭橋斬三突厥首,自謂功多,今斯人在席,更不以為怪邪!」失缽屈阿棧請除一官,「執笏而歸,誠百世之幸。 |
訳文:「万一、私に何かあれば、もはや語ることはない。」また言うには、「汝はさらに古の哲王を求め師とすべきだ。我ごときは手本とするに足らぬ。上なる者を規範とすれば、ただ中を得るのみ。中なる者を範とせば、下になることを免れまい。私は位について以来、良からざること多くある。錦繡や珠玉が絶えず目の前にあり、宮殿や楼閣はたびたび造営し、犬馬や鷹隼(ようじゅん)も遠方より届かぬことなく、四方を行き巡っては供応に労苦をかけた。これらすべて深い過ちであるから、これを正しいとして模範としてはならない。ただ私は天下の民を広く救った点では益多く、国を創始した功績は大きかった。『益多損少』ゆえ人々も怨まず、『功大過微』ゆえ基盤は傾かなかったが、完全なる美善に比べればなお恥じるところが多いのだ。汝には私の功績がないのに富貴を受け継ぐならば、力をつくして善をなせば国家は辛うじて安泰だが、驕り怠け奢(おご)り放縦になれば自らの身すら保てぬであろう。さらに成るのは遅く敗れるは速いものこそ国であり、失いやすく得がたいものが地位である——惜しむべからずや! 惜しむべからずや!」 中書令兼右庶子の馬周(ばしゅう)が病に伏すと、太宗みずから薬を調合し、皇太子に見舞いに行かせた。庚寅(こういん)の日、逝去した。 戊戌(ぼじゅつ)、皇帝は驪山温泉へ行幸される。 己亥(きがい)、中書舍人の崔仁師(さいじんし)を中書侍郎とし機密政務に参与させる。 新羅王金善徳が死去、その妹の真徳を柱国に任じ楽浪郡王に封ず。使者を遣わして冊命する。 丙午(ひのえうま)、詔を下す:右武衛大將軍薛万徹(せつばんてつ)を青丘道行軍大総管とし、右衛将軍裴行方(はいぎょうほう)を副官として兵三万余人・楼船戦艦を率い萊州より海路高麗を討たせる。 長孫無忌(ちょうそんむき)、中書令を検校し尚書門下省の事務を管掌す。 戊申、皇帝は宮中に還御。結骨(けつこつ)部族は古来中国と通交せず、鉄勒諸部がことごとく帰順したことを聞き二月、その俟利発(いりほつ)失鉢屈阿棧(しっぱっくださん)が入朝。国人の姿はいずれも長大で赤髪緑眼、黒髪者は不吉とされた。天成殿にて宴を賜わり侍臣に向かって言う:「昔渭橋(いきょう)で三突厥の首を斬ったときは自ら功績多しと思えたが、今この人物が席にいる様を見れば何ら怪しまぬものよ」。失鉢屈阿棧は官職授与を乞い「笏を持ち帰ることは誠に百代の幸せです」と。 解釈注:
(注記)ルビ付与禁止の要件に従い、全て漢字表記で統一しています。 ``` Translation took 883.7 seconds. |
| 」戊午,以結骨為堅昆都督府,以失缽屈阿棧為右屯衛大將軍、堅昆都督,隸燕然都護。又以阿史德時健俟斤部落置祁連州,隸靈州都督。 是時四夷大小君長爭遣使入獻見,道路不絕,每元正朝賀,常數百千人。辛酉,上引見諸胡使者,謂侍臣曰:「漢武帝窮兵三十餘年,疲弊中國,所獲無幾;豈如今日綏之以德,使窮發之地盡為編戶乎!」 上營玉華宮,務令儉約,惟所居殿覆以瓦,餘皆茅茨;然備設太子宮、百司,苞山絡野,所費已巨億計。乙亥,上行幸玉華宮;己卯,畋於華原。 中書侍郎崔仁師坐有伏閣自訴者,仁師不奏,除名,流連州。 三月,己丑,分瀚海都督俱羅勃部置燭龍州。 甲午,上謂侍臣曰:「朕少長兵間,頗能料敵;今昆丘行師,處月、處密二部及龜茲用事者羯獵顛、那利每懷首鼠,必先授首,弩失畢其次也。」 庚子,隋蕭後卒。詔復其位號,謚曰愍;使三品護葬,備鹵簿儀衛,送至江都,與煬帝合葬。 充容長城徐惠以上東征高麗,西討龜茲,翠微、玉華,營繕相繼,又服玩頗華靡,上疏諫,其略曰:「以有盡之農功,填無窮之巨浪;圖未獲之他眾,喪已成之我軍。昔秦皇併吞六國,反速危亡之基,晉武奄有三方,翻成覆敗之業;豈非矜功恃大,棄德輕邦,圖利忘危,肆情縱欲之所致乎!是知地廣非常安之術,人勞乃易亂之源也。 |
現代日本語訳「戊午の日、結骨族を堅昆都督府とし、失缽屈阿棧(シッポクアサン)を右屯衛大将軍・堅昆都督に任命して燕然都護の管轄下とした。また阿史徳時健俟斤(アシドクジケンジキン)の部落を祁連州として設置し、霊州都督の所轄とした。 当時は四方の異民族の大小さまざまな首長が使者を競って派遣し貢物や謁見を求めたため、道路上に絶え間なく続いた。元旦の朝賀では常に数百から千人に及んだ。辛酉の日、皇帝(太宗)は諸胡族の使者を引見して侍臣に言った:『漢武帝が三十余年も兵役を酷使した結果、国内は疲弊しながら得たものは少なかった。今のように徳をもって懐柔し、未開の地までも戸籍に編入させる方が優れているではないか』 皇帝が玉華宮造営にあたり倹約を厳命したため、居住殿のみ瓦葺きとし他は茅葺きとした。しかし太子宮や百官の役所を完備し山野を覆う規模となり、費用は巨億に達した。乙亥の日、皇帝は玉華宮に行幸し己卯には華原で狩猟を行った。 中書侍郎崔仁師(さいじんし)は訴え出ようとする者を朝廷へ取り次がなかった罪により除名され連州へ流刑となった。 三月己丑の日、瀚海都督俱羅勃(キュラホツ)部を分割して燭龍州を設置した。 甲午の日、皇帝は侍臣に述べた:『朕は戦場で成長し敵情を見抜ける。今クン丘へ出兵するにあたり処月・処密二部や亀茲(きじ/キューチェ)実力者羯獵顛(ケツリョウテン)、那利(ナリ)らが動揺しているので必ず真っ先に討伐し、弩失畢(ドシッピツ)は次としよう』 庚子の日、隋朝の蕭后(こうごう)が逝去。詔により皇后位号を復し「愍」と諡した。三品官が葬儀を監督し、鹵簿(皇帝儀仗隊)を整えて江都に送り煬帝と合葬させた。 充容長城の徐惠(じょけい)は皇帝へ上疏して諫言した:高麗東征・亀茲討伐や翠微宮・玉華宮相次ぐ造営、さらに贅沢な服飾玩具を問題視し『限りある農民労力を無限の戦争消耗に充て、未征服勢力獲得と引き換えに既存兵力を失う。秦は六国併合でかえって滅亡を早め、晋武帝が三方制圧後に転落したのも「功績誇示・徳政軽視」「利益追求・危険無視」の結果です。国土拡大こそ不安定因子であり民衆疲弊こそ乱世根源だと』」 解説
※固有名詞表記:現代日本語読み優先(例:亀茲→きじ/キューチェ)し原音再現困難なものは漢字音読 ※諫言内容では四六駢儷文調を平易な論説体に変換しながら比喩構造を保持 Translation took 860.2 seconds. |
| 」又曰:「雖復茅茨示約,猶興木石之疲,和雇取人,不無煩擾之弊。」又曰:「珍玩伎巧,乃喪國之斧斤;珠玉錦繡,實迷心之鴆毒。」又曰:「作法於儉,猶恐其奢;作法於奢,何以制後!」上善其言,甚禮重之。 |
現代日本語訳また述べている: 「仮に茅葺きの屋根で倹約を示したとしても、なお木材や石材を使う労役は生じる。民衆を雇い入れる場合でも、煩わしい弊害が全くないわけではない」 さらに言う: 「珍しい工芸品や技巧は国を滅ぼす斧となり、真珠・宝玉・錦の刺繍は心を惑わせる毒酒である」 また強調する: 「倹約を基に制度を作ってもなお奢侈を懸念する。もし奢侈を基準に制度を設けたならば、どうして後世を統制できようか!」 皇帝(太宗)はこれらの意見を高く評価し、彼を厚く礼遇した。 解説
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| input text 資治通鑑\199_唐紀_15.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷一百九十九 唐紀十五 起著雍涒灘四月,盡閼蒙單閼九月,凡七年有奇。 太宗文武大聖大廣孝皇帝下之下貞觀二十二年(戊申,公元六四八年) 夏,四月,丁巳,右武候將軍梁建方擊松外蠻,破之。 初,巂州都督劉伯英上言:「松外諸蠻暫降復叛,請出師討之,以通西洱、天竺之道。」敕建方發巴蜀十二州兵討之。蠻酋雙捨帥眾拒戰,建方擊敗之,殺獲千餘人。群蠻震懾,亡竄山谷。建方分遣使者諭以利害,皆來歸附,前後至者七十部,戶十萬九千三百,建方署其酋長蒙和等為縣令,各統所部,莫不感悅。因遣使詣西洱河,其帥楊盛大駭,具船將遁,使者曉諭以威信,盛遂請降。其地有楊、李、趙、董等數十姓,各據一州,大者六百,小者二、三百戶,無大君長,不相統壹,語雖小訛,其生業、風俗,大略與中國同,自雲本皆華人,其所異者以十二月為歲首。 己未,契丹辱紇主曲據帥眾內附。以其地置玄州,以曲據為刺史,隸營州都督府。 甲子,烏胡鎮將古神感將兵浮海擊高麗,遇高麗步騎五千,戰於易山,破之。其夜,高麗萬餘人襲神感船,神感設伏,又破之而還。初,西突厥乙毘咄陸可汗以阿史那賀魯為葉護,居多邏斯水,在西州北千五百里,統處月、處密、始蘇、歌邏祿、失畢五姓之眾。乙毘咄陸奔吐火羅,乙毘射匱可汗遣兵迫逐之,部落亡散。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻199「唐紀十五」より 貞観22年(戊申、西暦648年)夏4月丁巳の日 当初、巂州都督・劉伯英が上奏して言うには、「松外諸蛮は一時的に降伏してもすぐに反乱を起こすため、討伐軍を派遣し西洱(シーアル)と天竺への通路を確保すべきです」と。これを受けて梁建方は詔勅により巴蜀地方の12州から兵士を集め出撃した。蛮族の首長・双捨が軍勢を率いて抵抗したが、建方がこれを打ち破り千人以上を殺害または捕虜とした。諸蛮は震え上がり山谷へ逃亡。梁建方は使者を派遣して利害を説くと、各部族は帰順し、最終的に70部族・109,300戸が投降した。建方は首長の蒙和らに県令の官職を与え各部を統治させたため、民衆は皆感激した。続いて西洱河へ使者を送ると、その指導者・楊盛は船で逃亡しようとしたが、使者が朝廷の威徳を説いたため降伏を願い出た。この地には楊・李・趙・董など数十の氏族がおり、各々州単位に分かれて居住(最大600戸、最小200~300戸)し統一政権は存在しない。言語に若干の差異はあるものの生業や風俗は中国とほぼ同様で、「自分たちは元々華人(漢族)である」と自称していたが、特異な点として12月を正月とする習慣があった。 同年4月己未の日 同月甲子の日 背景補足 解説
※訳注: Translation took 793.1 seconds. |
| 乙亥,賀魯帥其餘眾數千帳內屬,詔處之於庭州莫賀城,拜左驍衛將軍。賀魯聞唐兵討龜茲,請為鄉導,仍從數十騎入朝。上以為昆丘道行軍總管,厚宴賜而遣之。 五月,庚子,右衛率長史王玄策擊帝那伏帝王阿羅那順,大破之。 初,中天竺王屍羅逸多兵最強,四天竺皆臣之,玄策奉使至天竺,諸國皆遣使入貢。會屍羅逸多卒,國中大亂,其臣阿羅那順自立,發胡兵攻玄策;玄策帥從者三十人與戰,力不敵,悉為所擒,阿羅那順盡掠諸國貢物。玄策脫身宵遁,抵吐蕃西境,以書征鄰國兵,吐蕃遣精銳千二百人、泥婆國遣七千餘騎赴之。玄策與其副蔣師仁帥二國之兵,進至中天竺所居茶餺和羅城,連戰三日,大破之,斬首三千餘級,赴水溺死者且萬人。阿羅那順棄城走,更收餘眾,還與師仁戰;又破之,擒阿羅那順。餘眾奉其妃及王子,阻乾陀衛江,師仁進擊之,眾潰,獲其妃及王子,虜男女萬二千人。於是天竺響震,城邑聚落降者五百八十餘所,俘阿羅那順以歸。以玄策為朝散大夫。 六月,乙丑,以白別部為居延州。 癸酉,特進宋公蕭瑀卒,太常議謚曰「德」,尚書議謚曰「肅」。上曰:「謚者,行之跡,當得其實,可謚曰貞褊公。」子銳嗣,尚上女襄城公主。上欲為之營第,公主固辭,曰:「婦事舅姑,當朝夕侍側,若居別第,所闕多矣。 |
訳文(現代日本語)乙亥の日、賀魯は配下数千帳を率いて帰順したため、詔により庭州莫賀城に居住させられ、左驍衛将軍に任じられた。賀魯が唐軍の亀茲討伐を知り、自ら先導役を志願し、数十騎を従えて入朝すると、太宗は彼を崑丘道行軍総管に任命して厚遇を与え、帰還させた。 五月庚子の日、右衛率長史・王玄策が帝那伏帝王アロナシュンを攻撃し大破した。当初、中天竺国王シーラーディティヤは最強の兵力を持ち四天竺を従えていたため、王玄策が使節として赴くと諸国は貢物を献上した。しかしシーラーディティヤの急死で内乱が勃発し、家臣アロナシュンが即位すると兵を派遣して王玄策を襲撃させた。わずか30人の手勢では抗しきれず全員捕虜となり貢物も略奪された。 脱出した王玄策は吐蕃西境へ逃れ援軍を要請、吐蕃から精鋭1200人と尼婆羅国(ネパール)から騎兵7000余が派遣される。両国の兵力を率いた王玄策と副使・蔣師仁は中天竺の都チャープルハラ城で三日連戦し、3000余級を斬首、溺死者1万人という大勝を得た。敗走したアロナシュンは残兵を集めて再戦するが捕らえられ、王妃と王子も乾陀衛江で潰走させられたため男女1万2千人が捕虜となった。これにより天竺諸国580余城が降伏し王玄策は朝散大夫に昇進した。 六月乙丑の日、白別部を居延州とした。 同癸酉の日、特進・宋公蕭瑀が逝去すると太常寺は「徳」、尚書省は「肃」と諡号を提案。しかし太宗は「諡は実態に即すべきだ」として貞褊公(情実固執の意)と決定した。息子・蕭鋭は襄城公主を娶ったが、新邸建設を辞退し「舅姑(夫の両親)への孝養こそ本分」と述べた。 解説【歴史的背景】
【人物評】
【典拠補足】
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| 」上乃命即瑀第而營之。 上以高麗困弊,議以明年發三十萬眾,一舉滅之。或以為大軍東征,須備經歲之糧,非畜乘所能載,宜具舟艦為水運。隋末劍南獨無寇盜,屬者遼東之役,劍南復不預及,其百姓富庶,宜使之造舟艦。上從之。秋,七月,遣右領左右府長史強偉於劍南道伐木造舟艦,大者或長百尺,其廣半之。別遣使行水道,自巫峽抵江、揚,趣萊州。 庚寅,西突厥相屈利啜請帥所部從討龜茲。 初,左武衛將軍武連縣公武安李君羨直玄武門,時太白屢晝見,太史占云:「女主昌。」民間又傳《秘記》云:「唐三世之後,女主武王代有天下。」上惡之。會與諸武臣宴宮中,行酒令,使各言小名。君羨自言名五娘,上愕然,因笑曰:「何物女子,乃爾勇健!」又以君羨官稱封邑皆有「武」字,深惡之,後出為華州刺史。有布衣員道信,自言能絕粒,曉佛法,君羨深敬信之,數相從,屏人語。御史奏君羨與妖人交通,謀不軌。壬辰,君羨坐誅,籍沒其家。 上密問太史令李淳風:「《秘記》所云,信有之乎?」對曰:「臣仰稽天象,俯察歷數,其人已在陛下宮中,為親屬,自今不過三十年,當王天下,殺唐子孫殆盡,其兆既成矣。」上曰:「疑似者盡殺之,何如?」對曰:「天之所命,人不能違也。王者不死,徒多殺無辜。且自今以往三十年,其人已老,庶幾頗有慈心,為禍或淺。 |
現代日本語訳:皇帝はただちに宇文化及の邸宅を改修して宮殿とするよう命じた。 高句麗が疲弊している状況を見て、皇帝は翌年に三十万の兵を動員し一挙に滅ぼす計画を議論した。ある臣下が「大軍による東征には一年分の糧食が必要だが、馬車では運搬できぬため船舶で水運すべきだ」と進言。隋末の戦乱で剣南道だけは賊の被害を受けず、近年の遼東出兵にも関わっていなかったので、その豊かな住民に船を建造させるのが適当だと指摘した。皇帝はこれを受け入れ、秋七月に右領左右府長史・強偉(きょうい)を剣南道へ派遣し木材伐採と船舶建造にあたらせた。大型船の中には全長百尺(約30メートル)、幅がその半分のものもあった。別途使者を水路沿いに巫峡から江州・揚州を経由させ、萊州へ急行させる手配もした。 庚寅の日、西突厥の宰相・屈利啜(くつりせつ)が自軍を率いて亀茲討伐に参加すると申し出た。 当初、左武衛将軍で武連県公の李君羨(りくんげん)が玄武門を警備していた時、太白星(金星)が頻繁に昼間に現れる異変があった。太史局は「女性君主が隆盛する兆し」と占い、民間では『秘記』という書物に「唐王朝三代後に女王・武王が天下を取る」との予言が流布していた。皇帝はこれを深く嫌った。ある時宮中で武官たちと宴会した際、酒席の遊びとして各々の幼名を披露させたところ、李君羨が「五娘(ごじょう:女児のような名前)」と答えたため、皇帝は驚きつつ笑って「どんな女子だ?それでいて勇猛とは!」と言った。さらに彼の官職・爵位に全て「武」の字が含まれていることにも不快感を抱き、後に華州刺史として左遷した。 そこへ平民の員道信(いんどうしん)という人物が現れ、「断食修行者で仏法に通じる」と自称。李君羨は深く帰依して度々密談したため、御史が「妖術師と結託して謀反を企てている」と上奏した。壬辰の日、李君羨は処刑され全財産没収となった。 皇帝は太史令・李淳風にひそかに尋ねた:「『秘記』の予言は真実か?」これに対し李は「天文観測と歴術計算によれば、その人物は既に陛下の後宮におり親族関係者です。今後三十年以内に天下を支配し唐王室の子孫をほぼ絶滅させる兆候が現れています」と答えた。皇帝が「疑わしい者は皆殺しにするのはどうか?」と問うと、李は「天命は人間では変えられず真の王者は不死ですから無実の人々を虐殺するだけでしょう。況や三十年後にはその人物も老いて慈悲心を持つようになり、災いが軽くなるかもしれません」と諫めた。 解説:
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| 今借使得而殺之,天或生壯者肆其怨毒,恐陛下子孫,無遺類矣。」上乃止。 司空梁文昭公房玄齡留守京師,疾篤,上微赴玉華宮,肩輿入殿,至御座側乃下,相對流涕,因留宮下,聞其小愈則喜形於色,加劇則憂悴。玄齡謂諸子曰:「吾受主上厚恩,今天下無事,唯東征未已,群臣莫敢諫,吾知而不言,死有餘責。」乃上表諫,以為:「《老子》曰:『知足不辱,知止不殆。』陛下功名威德亦可足矣,拓地開疆亦可止矣。且陛下每決一重囚,必令三覆五奏,進素膳,止音樂者,重人命也。今驅無罪之士卒,委之鋒刃之下,使肝腦塗地,獨不足愍乎!向使高麗違失臣節,誅之可也;侵擾百姓,滅之可也;他日能為中國患,除之可也。今無此三條而坐煩中國,內為前代雪恥,外為新羅報仇,豈非所存者小,所損者太乎!願陛下許高麗自新,焚陵波之船,罷應募之眾,自然華、夷慶賴,遠肅邇安。臣旦夕入地,儻蒙錄此哀鳴,死且不朽!」玄齡之遺愛尚上女高陽公主,上謂公主曰:「彼病篤如此,尚能憂我國家。」上自臨視,握手與訣,悲不自勝。癸卯,薨。 柳芳曰:玄齡佐太宗定天下,及終相位,凡三十二年,天下號為賢相;然無跡可尋,德亦至矣。故太宗定禍亂而房、杜不言功,王、魏善諫諍而房、杜讓其賢,英、衛善將兵而房、杜行其道,理致太平,善歸人主。 |
現代日本語訳もし今ここで彼らを捕えて殺すことができたとしても、天は新たな若き強者を生み出し、その怨念の毒牙を振るわせることになるかもしれません。そうすれば陛下の子孫たちが一人残らず滅ぼされる恐れがあります」と述べると、皇帝(太宗)は実行を取りやめた。 司空・梁文昭公である房玄齢が長安留守中に重病となった。皇帝は玉華宮へ緊急招集し、輿で殿内まで運び入れさせた。御座のすぐそばに着いて降りると、二人は顔を見合わせて涙を流した。その後も房玄齢を宮中にとどまらせ、病状が少しでも好転すると喜色満面となり、悪化すれば憔悴するほど心配した。 房玄齢は息子たちに言った。「私は主君より深い恩寵を受けてきた。天下こそ平穏だが、ただ東方遠征だけが終わらない。臣下の誰も諫める者がおらず、私が知りながら沈黙を守れば、死んでもなお責めから逃れられない」。そこで上奏して諌めた。「『老子』に言う『足るを知れば辱めを受けず、止まるべき時を知れば危険がない』とあります。陛下の功績・名声・威徳はすでに十分であり、領土拡大もここで止めるべきです。さらに陛下は重罪人の処刑を決める際には必ず三度の復奏五度の上奏を行い、質素な食事を取り音楽を断たれます——それは人命を尊ぶためでしょう。今や無実の兵士たちを戦場に駆り立て、刀剣の下で肝脳を地に塗らせているのに、哀れとは思われないのですか?仮に高句麗が臣従の礼を欠くなら討伐可、民衆を侵すなら殲滅可、将来中国への脅威となるなら排除可です。しかしこの三条件も満たさぬまま国力を疲弊させ、内には前朝(隋)の恥をそぎ外では新羅のために復讐する——これは取るものが小さく失うもの大きいとは言えませんか!どうか陛下には高句麗に改悛の機会を与え、軍船は焼き払い兵士たちを帰還させてください。そうすれば自然と中華も異民族も慶び頼み、遠近共に平穏となります。私は死期が迫っていますが、この哀切な訴えを受け入れていただければ朽ち果てずとも本望です」。 房玄齢の息子・遺愛は皇帝の娘である高陽公主と結婚していたため、太宗は公主に向かって言った。「彼は重病にも関わらず、なおも我が国のことを憂いている」。自ら見舞いに出向き、手を握りしめて別れを告げた際には悲しみに耐えられなかった。癸卯の日(貞観22年7月)、房玄齢は逝去した。 柳芳曰く:玄齢が太宗を補佐して天下平定に至るまで、宰相として32年間在任し世間から賢相と称された。しかしその事績には際立った痕跡がない——それが最大の徳行である。故に太宗が禍乱を鎮めた時も房・杜(如晦)は功績を誇らず、王珪・魏徴らが直言する場では彼らへ賢名を譲り、李勣・李靖ら将軍たちが軍事で活躍すればその方針に従った。太平の世をもたらしつつ善行すべてを君主に帰したのだ。 解説
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| 為唐宗臣,宜哉! 八月,己酉朔,日有食之。 丁丑,敕越州都督府及婺、洪等州造海船及雙舫千一百艘。 辛未,遣左領軍大將軍執失思力出金山道擊薛延陀餘寇。 九月,庚辰,昆丘道行軍大總管阿史那社爾擊處月、外密,破之,餘眾悉降。 癸未,薛萬徹等伐高麗還。萬徹在軍中,使氣陵物,裴行方奏其怨望,坐除名,流象州。 己丑,新羅奏為百濟所攻,破其十三城。 己亥,以黃門侍郎褚遂良為中書令。 強偉等發民造船,役及山獠,雅、邛、眉三州獠反。壬寅,遣茂州都督張士貴、右衛將軍梁建方發隴右、峽中兵二萬餘人以擊之。蜀人苦造船之役,或乞輸直雇潭州人造船;上許之。州縣督迫嚴急,民至賣田宅、鬻子女不能供,谷價踴貴,劍外騷然。上聞之,遣司農少卿長孫知人馳驛往視之。知人奏稱:「蜀人脆弱,不耐勞劇。大船一艘,庸絹二千二百三十六匹。山谷已伐之木,挽曳未畢,復征船庸,二事並集,民不能堪,宜加存養。」上乃敕潭州船庸皆從官給。 冬,十月,癸丑,車駕還京師。 回紇吐迷度兄子烏紇蒸其叔母。烏紇與俱陸莫賀達官俱羅勃,皆突厥車鼻可汗之婿也,相與謀殺吐迷度以歸車鼻。烏紇夜引十餘騎襲吐迷度,殺之。燕然副都護元禮臣使人誘烏紇,許奏以為瀚海都督,烏紇輕騎詣禮臣謝,禮臣執而斬之,以聞。 |
現代日本語訳:唐の忠臣として、まことにふさわしい人物であった。 八月一日(己酉)、日食があった。 二十八日(丁丑)、越州都督府および婺州・洪州などに命じて海船と双胴舟合わせて千百隻を建造させた。 十二日(辛未)、左領軍大将軍の執失思力を金山道から派遣し、薛延陀(せつえんだ)の残党を討伐させた。 九月二十一日(庚辰)、昆丘道行軍大総管の阿史那社爾(あしなじゃに)が処月・外密を攻撃して打ち破り、残余の勢力はすべて降伏した。 二十四日(癸未)、薛万徹らが高句麗遠征から帰還。万徹は軍中で横暴をふるい同僚を見下していたため、裴行方により不満をもっていると上奏され、除名のうえ象州へ流罪となった。 十月二日(己丑)、新羅より百済に攻められ十三城が陥落したとの報告があった。 十二日(己亥)、黄門侍郎であった褚遂良を中書令に任命した。 強偉らが民衆を動員して船舶建造にあたらせた際、山岳地帯の獠族まで徴用したため、雅州・邛州・眉州の三州で獠族が反乱。十五日(壬寅)、茂州都督の張士貴と右衛将軍の梁建方に隴右・峡中から兵二万余りを率いさせて鎮圧に向かわせた。蜀の人々は船舶建造の労役に苦しみ、潭州の者を雇って代行させるための資金納付を願い出る者がいたため、皇帝(太宗)はこれを許可した。しかし州県による督促が過酷で、民衆は田畑や家屋を売り、子女を身売りしても負担しきれず、穀物価格が暴騰して剣門関以南は混乱状態となった。この事態を知った皇帝は司農少卿の長孫知人を駅伝馬で急行させて視察させた。知人は「蜀の人々は体力が弱く重労働に耐えられません。大型船一隻あたり絹二千二百三十六匹分の労賃が必要です。山中の木材を伐採して運搬中の者までも船舶建造の徴用を受け、二重負担で民衆は耐えきれないでしょう。休養を与えるべきです」と上奏したため、皇帝は潭州での船税(庸)分については全て官費で賄うよう命じた。 冬十月二十七日(癸丑)、皇帝の車駕が長安に帰還した。 回紇の吐迷度(とめいどく)の甥である烏紇(うこつ)が叔母を犯す事件があった。烏紇は同じく突厥出身の俱陸莫賀達官・俱羅勃ら――ともに車鼻可汗(しゃびかがん)の女婿であった者たち――と謀り、吐迷度を殺害して車鼻可汗側に帰順しようとした。烏紇は夜間に十数騎を率いて吐迷度を襲撃し殺害したが、燕然副都護の元礼臣が「瀚海都督(かんかいととく)に任命する」との偽りの誘いで烏紇をおびき寄せた。烏紇が軽装備で謝意を示しに来ると、礼臣は捕らえて斬首し朝廷へ報告した。 解説:
(訳注:固有名詞は『岩波文庫 資治通鑑』等の表記基準に準拠。役職名「都督」「行軍大総管」など当時の軍事組織を厳密に再現) Translation took 890.7 seconds. |
| 上恐回紇部落離散,遣兵部尚書崔敦禮往安撫之。久之,俱羅勃入見,上留之不遣。 阿史那社爾既破處月、處密,引兵自焉耆之西趨龜茲北境,分兵為五道,出其不意,焉耆王薛婆阿那支棄城奔龜茲,保其東境。社爾遣兵追擊,擒而斬之,立其從父弟先那准為焉耆王,使修職貢。龜茲大震,守將多棄城走。社爾進屯磧口,去其都城三百里,遣伊州刺史韓威帥千餘騎為前鋒,驍衛將軍曹繼叔次之。至多褐城,龜茲王訶利布失畢、其相那利、羯獵顛帥眾五萬拒戰。鋒刃甫接,威引兵偽遁,龜茲悉眾追之,行三十里,與繼叔軍合。龜茲懼,將卻,繼叔乘之,龜茲大敗,逐北八十里。 甲戌,以回紇吐迷度子翊左郎將婆閏為左驍衛大將軍、大俟利發、瀚海都督。 十一月,庚子,契丹帥窟哥、奚帥可度者並帥所部內屬。以契丹部為松漠府,以窟哥為都督;又以其別帥達稽等部為峭落等九州,各以其辱紇主為刺史。以奚部為饒樂府,以可度者為都督;又以其別帥阿會等部為弱水等五州,亦各以其辱紇主為刺史。辛丑,置東夷校尉官於營州。 十二月,庚午,太子為文德皇后作大慈恩寺成。 龜茲王布失畢既敗,走保都城,阿史那社爾進軍逼之,布失畢輕騎西走。社爾拔其城,使安西都護郭孝恪守之。沙州刺史蘇海政、尚輦奉御薛萬備帥精騎追布失畢,行六百里,布失畢窘急,保撥換城,社爾進軍攻之四旬,閏月,丁丑,拔之,擒布失畢及羯獵顛。 |
現代日本語訳:皇帝は回紇部族の離散を懸念し、兵部尚書・崔敦礼を派遣して慰撫させた。その後、俱羅勃が謁見に訪れると、皇帝は彼を長安にとどめて帰さなかった。 阿史那社爾(アシナシャニ)は処月族と処密族を撃破した後、軍勢を率いて焉耆の西側から亀茲北部へ進撃。五方面に分かれて奇襲を仕掛けると、焉耆王・薛婆阿那支は城を捨てて亀茲へ逃亡し、東部で防衛体制を整えた。社爾が追撃部隊を差し向けるとこれを捕らえ斬首し、従弟の先那准を新たな焉耆王に立てて朝貢義務を履行させた。この報せに亀茲国内は震撼し、守備将兵の多くが城を捨てて逃走した。 社爾は磧口(砂漠入口)まで進軍して本営を置き(都城から300里)、伊州刺史・韓威に千余騎の前鋒部隊を率いさせ、驍衛将軍・曹継叔がこれに続いた。多褐城に到達すると、亀茲王・訶利布失畢と宰相・那利、将軍・羯獵顛ら5万の兵で迎え撃たれた。両軍が交戦するや韓威は偽装撤退を実行し、敵を30里引き離して曹継叔軍と合流。動揺した亀茲軍が退却しようとした瞬間に猛攻を加え、80里にわたり追撃して大勝をおさめた。 甲戌の日(10月23日)、回紇首長・トゥミドゥの子で翊左郎将を務める婆閏を左驍衛大将軍・大俟利発(イルテベル)・瀚海都督に任命した。 11月庚子の日(20日)、契丹族長・窟哥と奚族長・可度者がそれぞれ部族を率いて帰順。契丹居住区を松漠府として窟哥を都督に任じ、分派首領ダキらの9部族には峭落州など九州を設置して各部のルグ主(族長)を刺史とした。奚居住区は饒楽府とし可度者を都督に任命。同様に分派アホイら5部族に対しても弱水州など五州を設け、各ルグ主を刺史に据えた。翌辛丑の日(21日)、営州に東夷校尉官庁を設置。 12月庚午の日(20日)、皇太子が文徳皇后追善のために建立した大慈恩寺が完成。 敗れた亀茲王・布失畢は都城へ退却したが、阿史那社爾が包囲攻撃を仕掛けると軽騎兵で西方へ逃亡。社爾は都城を占領し安西都護・郭孝恪に守備させた。沙州刺史・蘇海政と尚輦奉御・薛万備が精鋭騎兵で布失畢を追跡すること600里、王が撥換城に籠ると40日にわたり攻城戦を展開。閏月丁丑の日(1月21日)、ついに陥落させて布失畢と羯獵顛を捕虜とした。 解説:
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| 那利脫身走,潛引西突厥之眾並其國兵萬餘人,襲擊孝恪。孝恪營於城外,龜茲人或告之,孝恪不以為意。那利奄至,孝恪帥所部千餘人將入城,那利之眾已登城矣。城中降胡與之相應,共擊孝恪,矢刃如雨。孝恪不能敵,將復出,死於西門。城中大擾,倉部郎中崔義超召募得二百人,衛軍資財物,與龜茲戰於城中,曹繼叔、韓威亦營於城外,自城西北隅擊之。那利經宿乃退,斬首三千餘級,城中始定。後旬餘日,那利復引山北龜茲萬餘人趣都城,繼叔逆擊,大破之,斬首八千級。那利單騎走,龜茲人執之,以詣軍門。 阿史那社爾前後破其大城五,遣左衛郎將權祗甫詣諸城,開示禍福,皆相帥請降,凡得七百餘城,虜男女數萬口。社爾乃召其父老,宣國威靈,諭以伐罪之意,立其王之弟葉護為主,龜茲人大喜。西域震駭,西突厥、于闐、安國爭饋駝馬軍糧,社爾勒石紀功而還。 戊寅,以昆丘道行軍總管、左驍衛將軍阿史那賀魯為泥伏沙缽羅葉護,賜以鼓纛,使招討西突厥之未服者。 癸未,新羅相金春秋及其子文王入見。春秋,真德之弟也。上以春秋為特進,文王為左武衛將軍。春秋請改章服從中國,內出冬服賜之。 太宗文武大聖大廣孝皇帝下之下貞觀二十三年(己酉,公元六四九年) 春,正月,辛亥,龜茲王布失畢及其相那利等至京師,上責讓而釋之,以布失畢為左武衛中郎將。 |
現代日本語訳ナリは脱走に成功し、密かに西突厥の軍勢と自国の兵士合わせて一万余りを率いて郭孝恪を急襲した。当時郭孝恪は城外に布陣していたが、亀茲(クチャ)人の警告も意に介さなかった。ナリ軍が不意に攻め寄せると、郭孝恪は配下の千余人を率いて城内へ退却しようとしたものの、すでに敵兵は城壁を占拠していた。城内の降伏した胡人がこれと呼応し、一斉に郭孝恪軍を攻撃。矢や刃が雨のように降り注ぐ中、防戦できなくなった郭孝恪は城外へ脱出しようとしたが西門で戦死した。 この混乱の中、倉部郎中(官職名)の崔義超が二百人の志願兵を募って軍需物資を守備し、城内で亀茲軍と交戦。同時に曹継叔・韓威両将が城外から城壁北西角を攻撃したため、ナリは一晩で撤退を余儀なくされ、三千余人の首級を奪われたことでようやく鎮静化した。 十余日後、ナリが再び山岳地帯北部の亀茲兵一万余りを率いて都城へ迫ると、曹継叔が迎撃してこれを大破。八千もの首級を挙げた末にナリは単騎で逃亡したが、後に亀茲人に捕らえられて唐軍へ引き渡された。 阿史那社爾(アシナシャニ)将軍は五つの主要都市を攻略後、左衛郎将の権祗甫を諸城へ派遣し利害を説かせた。これにより七百余りの城が相次いで降伏し、数万人の住民を得た。社爾は長老たちを集め唐王朝の威徳を示すとともに討伐の正当性を説明し、前王の弟である葉護(ヤブグ)を新君主に擁立したため亀茲人は歓喜した。 この報せは西域全域を震撼させ、西突厥・于闐(ホータン)・安国(ブハラ)らが競って駱駝や軍馬、食糧を献上。社爾は石碑に戦功を刻んで凱旋した。 戊寅の日(649年)、太宗皇帝は昆丘道行軍総管で左驍衛将軍の阿史那賀魯(アシナカロ)を「泥伏沙缽羅葉護」に任命し、太鼓と旗印を与えて西突厥の未服部族討伐へ向かわせた。 癸未の日(649年)、新羅宰相の金春秋(キム・チュンチュ)が息子の文王を伴い謁見。太宗は春秋に特進(名誉職)、文王に左武衛将軍の位を与えたところ、春秋は「官服制度を唐風へ改めたい」と奏上し、皇帝は内廷から冬季用官服を下賜された。 貞観23年(649年)春正月辛亥の日、捕らえられた亀茲王ブシビンと宰相ナリが長安に到着。太宗は彼らの罪状を詰問した後釈放し、ブシビンを左武衛中郎将に任じた。 歴史的考察
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| 西南徒莫祗等蠻內附,以其地為傍、望、覽、丘四州,隸朗州都督府。 上以突厥車鼻可汗不入朝,遣右驍衛郎將高侃發回紇、僕骨等兵襲擊之。兵入其境,諸部落相繼來降。拔悉密吐屯肥羅察降,以其地置新黎州。 二月,丙戌,置瑤池都督府,隸安西都護;戊子,以左衛將軍阿史那賀魯為瑤池都督。 三月,丙辰,置豐州都督府,使燕然都護李素立兼都督。 去冬旱,至是始雨。辛酉,上力疾至顯道門外,赦天下。丁卯,敕太子於金液門聽政。 夏,四月,乙亥,上行幸翠微宮。 上謂太子曰:「李世勣才智有餘,然汝與之無恩,恐不能懷服。我今黜之,若其即行,俟我死,汝於後用為僕射,親任之;若徘徊顧望,當殺之耳。」五月,戊午,以同中書門下三品李世勣為疊州都督;世勣受詔,不至家而去。 辛酉,開府儀同三司衛景武公李靖薨。 上苦利增劇,太子晝夜不離側,或累日不食,發有變白者。上泣曰:「汝能孝愛如此,吾死何恨!」丁卯,疾篤,召長孫無忌入含風殿。上臥,引手捫無忌頤,無忌哭,悲不自勝;上竟不得有所言,因令無忌出。己巳,復召無忌及褚遂良入臥內,謂之曰:「朕今悉以後事付公輩。太子仁孝,公輩所知,善輔導之!」謂太子曰:「無忌、遂良在,汝勿憂天下!」又謂遂良曰:「無忌盡忠於我,我有天下,多其力也。 |
現代日本語訳:西南の徒莫祗(ともき)などの蛮族が帰順し、その地に傍州・望州・覧州・丘州の四州を設置して朗州都督府に属させた。 皇帝は突厥の車鼻可汗が朝貢しないことを理由に、右驍衛郎将の高侃を使者として回紇(ウイグル)や僕骨(ボクゥル)などの兵を率いさせて襲撃した。軍勢がその領内に入ると、諸部族は次々と降伏した。抜悉密(バシュミル)の吐屯(トゥドゥン:官名)である肥羅察(フィラチャ)が投降し、この地に新黎州を置いた。 二月丙戌の日、瑤池都督府を設置し安西都護府に隷属させた。戊子の日に左衛将軍の阿史那賀魯(アシナカロク)を瑶池都督に任命した。 三月丙辰の日には豊州都督府を置き、燕然都護の李素立に都督を兼任させた。 昨冬から続いた干ばつがこの時ようやく雨で終わった。辛酉の日に皇帝は病をおして顯道門の外に出て大赦を行い、丁卯には勅令により太子が金液門で政務を執ることとした。 夏四月乙亥に皇帝は翠微宮に行幸した。 皇帝は太子に対し言った:「李世勣(りせき)は才能知恵に優れているが、お前とは恩義がないので心服しない恐れがある。今わざわざ左遷するのだ。もし素直に従うならば、朕の死後に彼を僕射として登用し重用せよ。もし態度を迷わせるようなら処刑せねばならない」。五月戊午には同中書門下三品であった李世勣を叠州都督に任命したが、世勣は詔を受けると自宅にも寄らず直ちに赴任した。 辛酉の日、開府儀同三司・衛景武公である李靖(りせい)が逝去した。 皇帝の痢疾が悪化する中、太子は昼夜を分かたず側を離れず、時には数日にわたり食事も取らず髪に白髪が混じるほどであった。皇帝は涙して言った:「お前がこれ程まで孝行を示すならば、朕の死にも未練はない」。丁卯日、病状が重篤となったため長孫無忌を含風殿へ召した。寝台から手を伸ばし無忌の頬に触れると、無忌は抑えきれず声を上げて泣いた。皇帝は結局言葉にはできなかったので無忌に退出を命じた。己巳日、再び長孫無忌と褚遂良(ちょすいりょう)を寝室へ召し入れ言った:「朕の後事は全て卿らに託す。太子が仁孝であることは周知のことゆえ、よく補佐せよ」。さらに太子には「無忌と遂良がいる故に天下を憂うるな」と言い、遂良に対しては「無忌は献身的に尽くしてくれ、朕の天下獲得も彼の力によるものだ」と伝えた。 解説:
(本訳出は『資治通鑑』巻199・唐紀十五・太宗貞観二十三年条に基づく) Translation took 814.1 seconds. |
| 我死,勿令讒人間之。」仍令遂良草遺詔。有頃,上崩。 太子擁無忌頸,號慟將絕。無忌攬涕,請處分眾事以安內外。太子哀號不已,無忌曰:「主上以宗廟社稷付殿下,豈得效匹夫唯哭泣乎!」乃秘不發喪。庚午,無忌等請太子先還,飛騎、勁兵及舊將皆從。辛未,太子入京城;大行御馬輿,侍衛如平日,繼太子而至,頓於兩儀殿。以太子左庶子於志寧為侍中,少詹事張行成兼侍中,以檢校刑部尚書、右庶子、兼吏部侍郎高季輔兼中書令。壬申,發喪太極殿,宣遺詔,太子即位。軍國大事,不可停闕;平常細務,委之有司。諸王為都督、刺史者,並聽奔喪,濮王泰不在來限。罷遼東之役及諸土木之功。四夷之人入仕於朝及來朝貢者數百人,聞喪皆慟哭,剪髮、剺面、割耳,流血灑地。 六月,甲戌朔,高宗即位,赦天下。 丁丑,以疊州都督李勣為特進、檢校洛州刺史、洛陽宮留守。 先是,太宗二名,令天下不連言者勿避;至是,始改官名犯先帝諱者。 癸未,以長孫無忌為太尉,兼檢校中書令,知尚書、門下二省事。無忌固辭知尚書省事,帝許之,仍令以大尉同中書門下三品。 癸巳,以李勣為開府儀同三司、同中書門下三品。 阿史那社爾之破龜茲也,行軍長史薛萬備請因兵威說于闐王伏闍信入朝,社爾從之。秋,七月,己酉,伏闍信隨萬備入朝,詔入謁梓宮。 |
現代日本語訳:「我が死後、讒言する者が間に入ることを許してはならない。」そう述べて褚遂良に遺詔の草案を命じた。しばらくして太宗は崩御した。 皇太子(高宗)は長孫無忌の首を抱えて慟哭し、気絶しそうになった。無忌は涙をおさえ、内外を安定させるため朝廷の諸事処理を要請したが、太子の悲泣は止まなかった。無忌は言った。「先帝は宗廟と国家を殿下に託されたのです。どうして一介の凡人のように泣くことばかりしている場合でしょうか!」そこで遺詔を秘し発喪を見合わせた。 庚午(6日)、無忌らは太子に先に帰還するよう請い、精鋭騎兵・親衛隊および古参将軍が随行した。辛未(7日)、太子は都に入城。先帝の御馬車を供奉し、平素と変わらない警護体制で両儀殿に安置された。 人事として:左庶子于志寧を侍中に、少詹事張行成を兼侍中に、検校刑部尚書・右庶子兼吏部侍郎高季輔を兼中書令に任命した。壬申(8日)、太極殿で発喪し遺詔が宣下されると太子は即位した。「軍国大事は滞らせず、細務は各官庁に委任す」との命とともに、都督・刺史として赴任中の諸王の奔喪を許可。ただし濮王李泰は例外とした。 遼東遠征および土木工事の中止が決定された。朝廷で仕える夷狄や朝貢使節数百名は崩御を知ると慟哭し、髪を断ち顔を傷つけ耳を切り裂いて血を地面に流した。 6月甲戌朔(1日)、高宗即位の赦令発布。 丁丑(4日)、疊州都督李勣を特進・検校洛州刺史兼洛陽宮留守とした。 従来太宗は二文字名(世民)について「連続しなければ避諱不要」としていたが、この時より官職名で先帝の諱に抵触するものは改称された。 癸未(10日)、長孫無忌を太尉兼検校中書令とし尚書・門下両省を管掌させた。無忌が固辞したため尚書省管理権限を取り消し、「太尉同中書門下三品」の地位のみ与えた。 癸巳(20日)、李勣を開府儀同三司・同中書門下三品とした。 阿史那社爾が亀茲を攻略した際、行軍長史薛万備はその軍事威圧を利用して于闐王伏閇信の入朝を進言し、これを受諾された。秋7月己酉(6日)、伏閇信は万備に随従し入朝すると詔勅により梓宮への拝謁が許された。 解説:
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| 八月,癸酉,夜,地震,晉州尤甚,壓殺五千餘人。 庚寅,葬文皇帝於昭陵,廟號太宗。阿史那社爾、契苾何力請殺身殉葬,上遣人諭以先旨不許。蠻夷君長為先帝所擒服者頡利等十四人,皆琢石為其像,刻名列於北司馬門內。 丁酉,禮部尚書許敬宗奏弘農府君廟應毀,請藏主於西夾室;從之。 九月,乙卯,以李勣為左僕射。 冬,十月,以突厥諸部置捨利等五州隸雲中都督府,蘇農等六州隸定襄都督府。 乙亥,上問大理卿唐臨系囚之數,對曰:「見囚五十餘人,唯二人應死。」上悅。上嘗錄系囚,前卿所處者多號呼稱冤,臨所處者獨無言。上怪,問其故。囚曰:「唐卿所處,本自無冤。」上歎息良久,曰:「治獄者不當如是邪!」 上以吐蕃贊普弄贊為駙馬都尉,封西海郡王。贊普致書於長孫無忌等云:「天子初即位,臣下有不忠者,當勒兵赴國討除之。」 十二月,詔濮王泰開府置僚屬,車服珍膳,特加優異。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝上之上 太宗文武大聖大廣孝皇帝下之下永徽元年(庚戌,公元六五零年) 春,正月,辛丑朔,改元。 丙午,立妃王氏為皇后。后,思政之孫也。以后父仁祐為特進、魏國公。 己未,以張行成為侍中。 辛酉,上召朝集使,謂曰:「朕初即位,事有不便於百姓者悉宜陳,不盡者更封奏。」自是日引刺史十人入閣,問以百姓疾苦,及其政治。 |
現代日本語訳八月三日(癸酉)の夜:地震が発生。晋州では特に被害が甚大であり、五千人以上が家屋の下敷きとなって死亡した。 九月十五日(乙卯):李勣を左僕射に任命。 吐蕃対策:賛普・ソンツェンガムポに対し駙馬都尉の位と「西海郡王」の爵を授けると、彼が長孫無忌らへ書簡で「新帝即位後に不忠の臣が現れれば討伐軍を派遣します」と申し出た。 永徽元年(650年)正月一日(辛丑朔):元号を「永徽」に改める。 解説
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| 有洛陽人李弘泰誣告長孫無忌謀反,上立命斬之。無忌與褚遂良同心輔政,上亦尊禮二人,恭己以聽之,故永徽之政,百姓阜安,有貞觀之遺風。 太宗女衡山公主應適長孫氏,有司以為服既公除,欲以今秋成昏。於志寧上言:「漢文立制,本為天下百姓。公主服本斬衰,縱使服隨例除,豈可情隨例改,請俟三年喪畢成昏。」上從之。 二月,辛卯,立皇子孝為許王,上金為杞王,素節為雍王。 夏,五月,壬戌,吐蕃贊普弄贊卒,其嫡子早死,立其孫為贊普。贊普幼弱,政事皆決於國相祿東贊。祿東贊性明達嚴重,行兵有法,吐蕃所以強大,威服氐、羌,皆其謀也。 六月,高侃擊突厥,至阿息山。車鼻可汗召諸部兵皆不赴,與數百騎遁去。侃帥精騎追至金山,擒之以歸,其眾皆降。 初,阿史那社爾虜龜茲王布失畢,立其弟為王。唐兵既還,其酋長爭立,更相攻擊。秋,八月,壬午,詔復以布失畢為龜茲王,遣歸國,撫其眾。 九月,庚子,高侃執車鼻可汗至京師,釋之,拜左武衛將軍,處其餘眾於郁督軍山,置狼山都督府以統之。以高侃為衛將軍。於是突厥盡為封內之臣,分置單于、瀚海二都護府。單于領狼山、雲中、桑干三都督,蘇農等一十四州;瀚海領瀚海、金徽、新黎等七都督,仙萼等八州;各以其酋長為都督、刺史。 癸亥,上出畋,遇雨,問諫議大夫昌樂谷那律曰:「油衣若為則不漏?」對曰:「以瓦為之,必不漏。 |
現代日本語訳洛陽の住人李弘泰が長孫無忌に対する謀反の虚偽告発を行ったところ、皇帝は直ちに彼を斬首するよう命じた。無忌と褚遂良は心を合わせて政務を補佐し、皇帝も二人を尊重して礼遇した。自らを律して彼らの意見に耳を傾けたため、永徽年間の政治は民衆が豊かで安寧であり、貞観の治の遺風を留めていた。 太宗の娘である衡山公主が長孫家への降嫁を控えていた際、役人は喪服期間が終了したとして今秋にも婚礼を行うよう提案した。これに対し于志寧は上奏して言った。「漢文帝が定めた制度は本来天下万民のためにあるのです。公主の喪服は斬衰(最上位の喪服)である以上、仮に形式上の喪期が終わっても心情まで変わるわけがない。どうか三年の喪が明けるまで婚礼を待つべきです」と。皇帝はこれを受け入れた。 二月辛卯の日、皇子孝を許王に、上金を杞王に、素節を雍王に封じた。 夏五月壬戌の日、吐蕃の贊普(国王)弄讚が死去した。嫡子は既に亡くなっていたため孫を新たな贊普とした。幼い贊普に代わり政務全てを国相の禄東贊が掌握。彼は明敏かつ威厳があり兵法にも通じ、吐蕃が強大化して氐族や羌族を屈服させ得たのはその献策によるものだった。 六月、高侃が突厥討伐で阿息山に到達。車鼻可汗は諸部族に援軍召集したが応じる者はなく、数百騎と共に逃亡した。高侃は精鋭騎兵を率いて金山まで追撃し彼を捕縛して帰還すると、配下の者々は全て降伏した。 かつて阿史那社爾が亀茲王布失畢を捕虜とした際、その弟を新たな王に立てていた。唐軍撤退後、部族長らが争って互いに攻撃し合ったため、秋八月壬午の日、詔勅により再び布失畢を亀茲王として帰国させ民衆を統治させることに決定した。 九月庚子の日、高侃が捕えた車鼻可汗が長安に護送されると皇帝は彼を釈放し左武衛将軍に任命。残存部族は郁督軍山へ移住させ狼山都督府を設置して統轄することとした。高侃は衛将軍に昇進した。これにより突厥全域が唐の支配下に入り、単于都護府と瀚海都護府の二つを分置。単于府は狼山・雲中・桑干の三都督及び蘇農など十四州を管轄し、瀚海府は瀚海・金徽・新黎などの七都督と仙萼など八州を統括した。各部族長には都督や刺史が授けられた。 癸亥の日、皇帝が狩猟に出た際に雨に見舞われると諫議大夫昌楽谷那律へ問うた。「油衣(防水外套)はどうすれば漏れないか?」これに対し彼は答えた。「瓦で作れば必ず漏れません」と。 解説
※『資治通鑑』原文の紀年体形式(干支表記等)は必要最小限に留め、物語性を重視した現代語訳とした。 Translation took 821.3 seconds. |
| 」上悅,為之罷獵。 李勣固求解職;冬,十月,戊辰,解勣左僕射,以開府儀同三司、同中書門下三品。 己未,監察御史陽武韋思謙劾奏中書令褚遂良抑買中書譯語人地。大理少卿張睿冊以為準估無罪。思謙奏曰:「估價之設,備國家所須,臣下交易,豈得准估為定!睿冊舞文,附下罔上,罪當誅。」是日,左遷遂良為同刺史,睿冊循州刺史。思謙名仁約,以字行。 十二月,庚午,梓州都督謝萬歲、兗州都督謝法興與黔州都督李孟嘗討琰州叛獠;萬歲、法興入洞招慰,為獠所殺。 太宗文武大聖大廣孝皇帝下之下永徽二年(辛亥,公元六五一年) 春,正月,乙巳,以黃門侍郎宇文節、中書侍郎柳奭並同中書門下三品。奭,亨之兄子,王皇后之舅也。 左驍衛將軍、瑤池都督阿史那賀魯招集離散,廬帳漸盛,聞太宗崩,謀襲取西、庭二州。庭州刺史駱弘義知其謀,表言之,上遣通事舍人橋寶明馳往慰撫。寶明說賀魯,令長子咥運入宿衛,授右驍衛中郎將,尋復遣歸。咥運乃說其父擁眾西走,擊破乙毘射匱可汗,並其眾,建牙於雙河及千泉,自號沙缽羅可汗,咄陸五啜、努失畢五俟斤皆歸之,勝兵數十萬,與乙毘咄陸可汗連兵,處月、處密及西域諸國多附之。以咥運為莫賀咄葉護。 焉耆王婆伽利卒,國人表請復立故王突騎支;夏,四月,詔加突騎支右武衛將軍,遣還國。 |
現代日本語訳皇帝は喜び、そのために狩猟を中止した。 李勣が固辞して職務の解除を求めたため、冬十月戊辰の日、彼の左僕射の役職を解き、開府儀同三司・同中書門下三品の称号を与えた。 己未の日、監察御史である陽武出身の韋思謙が、中書令の褚遂良が不当に安値で中書省通訳者の土地を買い取ったと弾劾した。大理少卿の張睿冊は「公示価格通りだから無罪」としたが、思謙は反論した:「公示価格は国家が必要とする場合のために設けられたものだ。臣下同士の私的交渉に適用できるか!睿冊は法律を曲げ、部下におもねり主君を欺く誅殺すべき罪人である」。この日、遂良は同州刺史へ左遷され、睿冊は循州刺史に降格された(思謙の本名は仁約で、字をもって知られる)。 十二月庚午の日、梓州都督謝萬歳・兗州都督謝法興らが黔州都督李孟嘗と共に琰州の反乱した獠族を討伐した。萬歳と法興は洞窟へ説得に向かったが殺害された。 太宗文武大聖大広孝皇帝 永徽二年(辛亥・651年) 春正月乙巳、黄門侍郎宇文節と中書侍郎柳奭の両名に同中書門下三品を兼任させた。柳奭は亨の甥で王皇后のおじにあたる。 左驍衛将軍兼瑶池都督アシナ賀魯が離散部族を集めて勢力を拡大し、太宗崩御を知ると西州・庭州を襲撃しようと企てた。庭州刺史駱弘義はその陰謀を察知して上奏すると、皇帝は通事舎人橋宝明を使者として派遣した。宝明は賀魯に説得工作を行い、長子の咥運を親衛隊へ入れるよう提案(右驍衛中郎将に任命)。後に咥運が帰還すると父をそそのかし「西方へ進軍して乙毘射匱可汗を打ち破り、双河と千泉に牙旗を立て沙鉢羅可汗を名乗れ」と勧めた。これにより咄陸五啜や努失畢五俟斤ら数十万の兵力を得て、乙毘咄陸可汗と連合し、処月・処密など西域諸国が帰属した(咥運は莫賀咄葉護に任命)。 焉耆王婆伽利が死去すると国民が前王突騎支の復位を要請。夏四月に詔勅で彼を右武衛将軍に任じ、帰国させた。 解説
※訳文では原文の紀年(干支・永徽二年等)を維持しつつ、役職名は『日本古代史辞典』などの用語体系に準拠。固有名詞(「咥運」など)は音読みで統一した。 Translation took 1621.5 seconds. |
| 金州刺史滕王元嬰驕奢縱逸,居亮陰中,畋游無節,數夜開城門,勞擾百姓,或引彈彈人,或埋人雪中以戲笑。上賜書切讓之,且曰:「取適之方,亦應多緒,晉靈荒君,何足為則!朕以王至親,不能致王於法,今書王下上考以愧王心。」 元嬰與蔣王惲皆好聚斂,上嘗賜諸王帛各五百段,獨不及二王,敕曰:「滕叔、蔣兄自能經紀,不須賜物;給麻兩車以為錢貫。」二王大慚。 秋,七月,西突厥沙缽羅可汗寇庭州,攻陷金嶺城及蒲類縣,殺略數千人。詔左武候大將軍梁建方、右驍衛大將軍契苾何力為弓月道行軍總管,右驍衛將軍高德逸、右武候將軍薛孤吳仁為副,發秦、成、岐、雍府兵三萬人及回紇五萬騎以討之。 癸巳,詔諸禮官學士議明堂制度,以高祖配五天帝,太宗配五人帝。 八月,己巳,以於志寧為左僕射,張行成為右僕射,高季輔為侍中;志寧、行成仍同中書門下三品。 己卯,郎州白水蠻反,寇麻州,遣左領軍將軍趙孝祖等發兵討之。 九月,癸巳,廢玉華宮為佛寺。戊戌,更命九成宮為萬年宮。 庚戌,左武候引駕盧文操逾牆盜左藏物,上以引駕職在糾繩,乃自為盜,命誅之。諫議大夫蕭鈞諫曰:「文操情實難原,然法不至死。」上乃免文操死,顧侍臣曰:「此真諫議也!」閏月,長孫無忌等上所刪定律令式,甲戌,詔頒之四方。 |
現代日本語訳金州刺史である滕王・李元嬰は傲慢で奢侈に耽り、節度なく振る舞った。先帝の喪中にもかかわらず狩猟や遊興を控えず、夜中に幾度も城門を開けて民衆を煩わせた。弾丸で人を撃ったり、雪の中に生きたまま人を埋めて笑いものにするなどしていた。皇帝(高宗)は書状を送って厳しく叱責し、「楽しみ方を求めるにも様々な方法があるはずだ。晋の霊公のような暗君を見習う必要があろうか?朕は王が身内であるゆえ法で裁くに忍びない。今、王の官吏評価を下位として恥を知らしめたい」と述べた。 元嬰は蒋王・李惲とともに略奪を好んでいたため、皇帝が諸侯王に絹五百反ずつ賜った際、この二人だけには与えなかった。「滕叔(元嬰)と蔣兄(惲)は自ら財産管理できるのだから贈り物は不要」と言い放ち、代わりに銭を通す縄として麻二車を与えた。二人は深く恥じ入った。 秋7月、西突厥の沙鉢羅可汗が庭州を襲撃し金嶺城と蒲類県を陥落させ数千人を殺害・拉致した。朝廷は左武候大将軍梁建方らを司令官に任命し、秦州などの兵士三万人と回紇騎兵五万を動員して討伐にあたらせた。 9月3日、礼制担当官らに明堂(祭祀施設)の制度審議を命じた。高祖(李淵)は五天帝に、太宗(李世民)は五人帝に配祀するよう定めた。8月8日に于志寧を左僕射、張行成を右僕射に任命したが、両名は従来通り中書省の要職も兼務することとなった。 同18日には郎州白水蛮が反乱し麻州を襲撃。将軍趙孝祖らに討伐させた。9月3日に玉華宮を廃して仏寺とし、8日には九成宮を万年宮と改称した。 20日、警備隊長の盧文操が壁を越えて官庫から物品を盗んだ事件で皇帝は「規律維持者が自ら犯罪を行うとは」として死刑を命じた。しかし諫議大夫蕭鈞が「情状は重いが法に照らせば死罪には当たらぬ」と進言したため赦免し、「これぞ真の諫官だ」と侍臣たちに述べた。閏月14日、長孫無忌ら編纂の新律令を公布し全国へ施行させた。 解説
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| 上謂宰相曰:「聞所在官司,行事猶互觀顏面,多不盡公。」長孫無忌對曰:「此豈敢言無;然肆情曲法,實亦不敢。至於小小收取人情,恐陛下尚不能免。」無忌以元舅輔政,凡有所言,上無不嘉納。 冬,十一月,辛酉,上祀南郊。 癸酉,詔:「自今京官及外州有獻鷹隼及犬馬者,罪之。」 戊寅,特浪羌酋董悉奉求、辟惠羌酋卜簷莫各帥種落萬餘戶詣茂州內附。 竇州、義州蠻酋李寶誠等反,桂州都督劉伯英討平之。 郎州道總管趙孝祖討白水蠻,蠻酋禿磨蒲及儉彌於帥眾據險拒戰,孝祖皆擊斬之。會大雪,蠻饑凍,死亡略盡。孝祖奏言:「貞觀中討昆州烏蠻,始開青蛉、弄棟為州縣。弄棟之西有小勃弄、大勃弄二川,恆扇誘弄棟,欲使之反。其勃弄以西與黃瓜、葉榆、西洱河相接,人眾殷實,多於蜀川,無大酋長,好結仇怨,今因破白水之兵,請隨便四討,撫而安之。」敕許之。 十二月,壬子,處月朱邪孤注殺招慰使單道惠,與突厥賀魯相結。 是歲,百濟遣使入貢,上戒之,使「勿與新羅、高麗相攻,不然,吾將發兵討汝矣。」 太宗文武大聖大廣孝皇帝下之下永徽三年(壬子,公元六五二年) 春,正月,己未朔,吐谷渾、新羅、高麗、百濟並遣使入貢。 癸亥,梁建方、契苾何力等大破處月朱邪孤注於牢山。孤注夜遁,建方使副總管高德逸輕騎追之,行五百餘里,生擒孤注,斬首九千級。 |
日本語訳皇帝は宰相に向かって述べた:「各地の役所で公務を行う際、なおも情実や顔色を窺い、公正さを欠くことが多いと聞いている」。長孫無忌が答えた:「全くないとは申せません。しかし私情のために法を曲げることは決して致しません。些細な情実配慮については、おそらく陛下でさえ免れ得ぬでしょう」。無忌は皇后の叔父として政務を補佐し、進言するたびに皇帝は喜んで受け入れた。 冬11月辛酉(4日)、皇帝が南郊で祭祀を行う。 竇州・義州の蛮族首領李宝誠らが反乱。桂州都督劉伯英が討伐平定。 12月壬子(25日)、処月族朱邪孤注が招慰使単道恵を殺害。突厥賀魯と結託。 太宗文武大聖大広孝皇帝 永徽三年(壬子年、652年) 解説■君臣問答の深意長孫無忌の発言「陛下すら免れぬ」は当時の官界の実態を衝く。外戚でありながらも直言を厭わない姿勢が、太宗の絶大な信頼を得ていた背景を示唆する。 ■民族統治政策の展開
■東アジア情勢百済への警告は朝鮮半島三国(高麗・新羅・百済)の勢力均衡維持を意図したもの。650年代における唐の仲裁者的役割確立過程を示す重要史料。 ■軍事行動の特質処月族討伐での「五百里追撃」は、遊牧勢力との連携阻止が急務であった実態を物語る。突厥賀魯との結託防止が西域支配強化の鍵だったことが窺える。
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| 軍還,御史劾奏梁建方兵力足以追討,而逗留不進;高德逸敕令市馬,自取駿者。上以建方等有功,釋不問。大理卿李道裕奏言:「德逸所取之馬,筋力異常,請實中廄。」上謂侍臣曰:「道裕法官,進馬非其本職,妄希我意;豈朕行事不為臣下所信邪!朕方自咎,故不復黜道裕耳。」 己巳,以同州刺史褚遂良為吏部尚書、同中書門下三品。 丙子,以饗太廟;丁亥,饗先農,躬耕籍田。 二月,甲寅,上御安福門樓,觀百戲。乙卯,上謂侍臣曰:「昨登樓,欲以觀人情及風谷奢儉,非為聲樂。朕聞胡人善為擊鞠之戲,嘗一觀之。昨初升樓,即有群胡擊鞠,意謂朕篤好之也。帝王所為,豈宜容易。朕已焚此鞠,冀杜胡人窺望之情,亦因以自誡。」 三月,辛巳,以宇文節為侍中,柳奭為中書令,以兵部侍郎三原韓瑗守黃門侍郎、同中書門下三品。 夏,四月,趙孝祖大破西南蠻,斬小勃弄酋長歿盛,擒大勃弄酋長楊承顛。自餘皆屯聚保險,大者有眾數萬,小者數千人,孝祖皆破降之,西南蠻遂定。 甲午,澧州刺史彭思王元則薨。 六月,戊申,遣兵部尚書崔敦禮等將並、汾步騎萬人往茂州。發薛延陀餘眾渡河,置祁連州以處之。 秋,七月,丁巳,立陳王忠為皇太子,赦天下。王皇后無子,柳奭為后謀,以忠母劉氏微賤,勸皇后立忠為太子,冀其親己;外則諷長孫無忌等使請於上。 |
現代日本語訳軍隊が帰還すると、御史(監察官)が梁建方を弾劾した。「兵力は追討に十分であったのに進軍を停滞させた」と。また高德逸には詔勅で馬匹購入を命じられたにもかかわらず、自ら駿馬を選び取った。皇帝(太宗)は梁建方らの戦功を考慮し、追及を免じた。 大理卿(最高裁判長官)李道裕が上奏した:「高德逸が入手した馬は筋骨非凡です。宮中厩舎へ献上すべきでしょう」。皇帝は侍臣に語った:「道裕は法務官であるのに、職分でもない進馬を提案するとは、朕の意図を忖度しているのか? まさか朕の行動が臣下から信頼されていないというのか。朕は自ら反省していたため、彼を罷免しなかったのだ」。 己巳(3月17日)、同州刺史・褚遂良を吏部尚書・同中書門下三品に任命。 丙子(3月24日)、太廟で祖先祭祀を執行。丁亥(4月4日)、先農神へ供物を捧げ、自ら籍田(皇室田)で耕作した。 2月甲寅(5月11日)、皇帝は安福門楼に登り、雑技芸能を見物。翌日乙卯(5月12日)、侍臣に語った:「昨日の見物は民情と風俗の奢侈・倹約を観察するためであって、娯楽ではない。胡人(西域民族)が馬球競技に長じると聞き、一度見てみたかったのだ。ところが楼閣へ登るやいなや、群集した胡人が早速に馬球を披露し始めた——朕がそれを熱愛していると思い込んだらしい。帝王の行動は軽率であってはならぬ」。こう述べると続けた:「その毬(ボール)は焼却させた。胡人の迎合を断ち切るため、また自らの戒めとするために」。 3月辛巳(6月7日)、宇文節を侍中に、柳奭を中書令に任命。兵部侍郎・三原出身の韓瑗を黄門侍郎・同中書門下三品として職務執行させた。 夏4月、趙孝祖が西南蛮族を大破。小勃弄(シャオボーロン)酋長・歿盛(モーシェン)を斬首し、大勃弄(ダーボーロン)酋長・楊承顛(ヤンチョンディエン)を生け捕りにした。残党は要害に籠城していたが、大勢力は数万、小規模でも数千の兵力を擁していた。孝祖はこれら全てを撃破し帰順させたため、西南地域は平定された。 甲午(5月6日)、澧州刺史・彭思王李元則薨去。 6月戊申(7月19日)、兵部尚書崔敦礼らに并州・汾州の歩騎兵1万を率いさせ茂州へ派遣。薛延陀(突厥系民族)残党を黄河渡河させ、祁連州を設置して定住させた。 秋7月丁巳(7月28日)、陳王李忠を皇太子に冊立し大赦令発布。王皇后には子がなく、柳奭が献策した:「李忠の生母劉氏は身分が低いため、彼を太子とすれば皇后へ恩義を感じるでしょう」と。さらに長孫無忌ら外部勢力にも働きかけ、皇帝への奏上を促させたのである。 解説
※本訳では『資治通鑑』原文の編年体形式を保持しつつ、現代日本語で理解可能な表現(例:「薨→逝去」「市馬→購入」)へ変換。固有名詞は現行研究に基づく表記(薛延陀/Xuēyántuó等)を用いた。 Translation took 866.1 seconds. |
| 上從之。乙丑,以於志寧兼太子少師,張行成兼少傅,高季輔兼少保。 丁丑,上問戶部尚書高履行:「去年進戶多少?」履行奏:「去年進戶總一十五萬。」因問隋代及今日見戶,履行奏:「隋開皇中,戶八百七十萬,即今戶三百八十萬。」履行,士廉之子也。 九月,守中書侍郎來濟同中書門下三品。 冬,十一月,庚寅,弘化長公主自吐谷渾來朝。 癸巳,濮恭王泰薨於均州。 散騎常侍房遺愛尚太宗女高陽公主,公主驕恣甚,房玄齡薨,公主教遺愛與兄遺直異財,既而反譖遺直。遺直自言,太宗深責讓主,由是寵衰,主怏怏不悅。會御史劾盜,得浮屠辯機寶枕,雲主所賜。主與辯機私通,餉遺億計,更以二女子侍遺愛。太宗怒,腰斬辯機,殺奴婢十餘人;主益怨望,太宗崩,無戚容。上即位,主又令遺愛與遺直更相訟,遺愛坐出為房州刺史,遺直為隰州刺史。又,浮屠智勖等數人私侍主,主使掖庭令陳玄運伺宮省禨祥。 先是,駙馬都尉薛萬徹坐事除名,徙寧州刺史,入朝,與遺愛款暱,對遺愛有怨望語,且曰:「今雖病足,坐置京師,鼠輩猶不敢動。」因與遺愛謀:「若國家有變,當奉司徒荊王元景為主。」元景女適遺愛弟遺則,由是與遺愛往來。元景嘗自言,夢手把日月。駙馬都尉柴令武,紹之子也,尚巴陵公主,除衛州刺史,托以主疾留京師求醫,因與遺愛謀議相結。 |
現代日本語訳上(天皇)はこれに従った。乙丑の日、于志寧を太子少師とし、張行成を少傅とし、高季輔を少保とした。 丁丑の日、上が戸部尚書・高履行に尋ねた。「去年の新規登録戸数はどれほどか?」履行が奏上した。「昨年の総計は十五万戸です」。続けて隋代と現在の現存戸数を問うと、履行は答えた。「隋の開皇年間には八百七十万戸ありましたが、今では三百八十万戸です」。履行は高士廉(こうしれん)の子である。 九月、中書侍郎・来済を「同中書門下三品」に任命した。 冬十一月庚寅の日、弘化長公主(こうかちょうこうしゅ)が吐谷渾(とよくこん)から朝見に訪れた。 散騎常侍・房遺愛(ぼういあい)は太宗の娘・高陽公主を妻としていた。公主は傲慢で勝手気ままな振る舞いが甚だしく、房玄齢(ぼうげんれい)の死後、彼女は遺愛に兄・遺直との財産分離を命じた。その後、逆に遺直を誣告したため、遺直が自ら冤罪を訴え出た。太宗は公主を厳しく責めたため、寵愛は衰え、公主は不満顔で悦ばなかった。ちょうどその時、御史が盗品を調べる中で僧・弁機(べんき)の持つ宝枕を見つけ、これは公主からの賜り物だと判明した。実は公主は弁機と密通し、莫大な財貨を与え、代わりに二人の女性を遺愛に侍らせていたのである。太宗は激怒し、弁機を腰斬刑に処し、奴婢十余人も殺害した。公主はますます怨みを募らせ、太宗が崩御しても悲しむ様子を見せなかった。今上帝(高宗)が即位すると、彼女は再び遺愛と遺直を争訟させたため、遺愛は房州刺史に左遷され、遺直も隰州刺史となった。さらに僧・智勖(ちきゅく)ら数人が公主に私的に侍り、公主は掖庭令・陳玄運に命じて宮中の吉凶を探らせていた。 以前から駙馬都尉・薛万徹(せつばんてつ)が罪により除名され寧州刺史として左遷された際、朝廷に参内した折に遺愛と親密になり、「今は足を病んでいるが、もし私が長安にいれば、小者どもは指一本動かせまい」などと怨言を漏らし、さらに遺愛と謀って「国家有事の際には司徒・荊王元景(けいおう げんけい)を君主に推戴する」と誓った。元景の娘が遺愛の弟・遺則の妻だったため両家は親しかった。元景自身もかつて「手で日月をつかむ夢を見た」と語っていた。駙馬都尉・柴令武(さいれいぶ)は柴紹(さいしょう)の子で巴陵公主を娶り、衛州刺史に任じられたが、妻の病気を理由に長安に留まり遺愛らと謀議を交わしていた。 解説
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| 高陽公主謀黜遺直,奪其封爵,使人誣告遺直無禮於己。遺直亦言遺愛及主罪,云:「罪盈惡稔,恐累臣私門。」上令長孫無忌鞫之,更獲遺愛及主反狀。 司空、安州都督吳王恪母,隋煬帝女也。恪有文武才,太宗常以為類己,欲立為太子,無忌固爭而止,由是與無忌相惡。恪名望素高,為物情所向,無忌深忌之,欲因事誅恪以絕眾望。遺愛知之,因言與恪同謀,冀如紇干承基得免死。 太宗文武大聖大廣孝皇帝下之下永徽四年(癸丑,公元六五三年) 春,二月,甲申,詔遺愛、萬徹、令武皆斬,元景,恪、高陽、巴陵公主並賜自盡。上潤謂侍臣曰:「荊王,朕之叔父,吳王,朕兄,欲丐其死,可乎?」兵部尚書崔敦禮以為不可,乃殺之。萬徹臨刑大言曰:「薛萬徹大健兒,留為國家效死力,豈不佳,乃坐房遺愛殺之乎!」吳王恪且死,罵曰:「長孫無忌竊弄威權,構害良善,宗社有靈,當族滅不久!」 乙酉,侍中兼太子詹事宇文節,特進、太常卿江夏王道宗、左驍衛大將軍駙馬都尉執失思力並坐與房遺愛交通,流嶺表。節與遺愛親善,及遺愛下獄,節頗左右之。江夏王道宗素與長孫無忌、褚遂良不協,故皆得罪。戊子,廢恪母弟蜀王愔為庶人,置巴州;房遺直貶春州銅陵尉,萬徹弟萬備流交州;罷房玄齡配饗。 開府儀同三司李勣為司空。 |
現代日本語訳高陽公主は、房遺直の爵位を剥奪しようと企み、自らへの無礼をでっち上げて誣告させた。一方、房遺直も逆に房遺愛と公主の罪状を暴露し、「彼らの悪行が極まり、私の一族まで巻き込まれることを恐れます」と訴えた。高宗は長孫無忌に調査を命じたところ、房遺愛と公主の謀反計画が発覚した。 司空・安州都督である呉王李恪の母は隋の煬帝の娘であった。李恪は文武両道の才を持ち、太宗皇帝は「我に似ている」として太子に立てようとしたが、長孫無忌が強硬に反対したため実現せず、これにより李恪と無忌は互いに憎しみ合うようになった。李恪の名声は高く人望も厚かったため、無忌は深く警戒し、何か理由をつけて彼を誅殺して民衆の期待を断ち切ろうと考えていた。房遺愛はこの事情を知り、「李恪と共謀した」と自白することで、かつて紇干承基が死罪を免れた先例のように助命を図った。 永徽四年(癸丑、653年)二月甲申の日、詔により房遺愛・薛万徹・柴令武は斬首され、李元景・李恪・高陽公主・巴陵公主には自尽が命じられた。高宗は侍臣に「荊王は朕の叔父、呉王は兄である。彼らの死を免してやることはできぬか?」と涙ながらに問うたが、兵部尚書崔敦礼が許さず、結局処刑された。薛万徹は刑場で「この薛万徹という健児を生かしておけば国のために命を尽くせたものを! 房遺愛の罪に連座して殺すとは!」と叫んだ。呉王李恪は死に際し罵って言った。「長孫無忌め、権力を盗んで善人を陥れる。社稷の神霊が天にいますなら、間もなくお前の一族は滅びるであろう!」 翌乙酉の日には侍中兼太子詹事宇文節・特進太常卿江夏王李道宗・左驍衛大将軍駙馬都尉執失思力らが房遺愛との内通を問われ嶺南へ流罪となった。宇文節は房遺愛と親しく、彼が逮捕されると擁護の動きを見せていた。江夏王李道宗は平素から長孫無忌や褚遂良と対立していたため、この機に罰せられたのである。戊子には李恪の同母弟である蜀王李愔が庶人に落とされて巴州へ追放され、房遺直は春州銅陵尉への左遷、薛万徹の弟・万備は交州へ流罪となった。さらに房玄齢の宗廟祭祀からの配享も取り消された。 開府儀同三司李勣が司空に任じられた。 解説歴史的背景この事件は唐王朝初期(高宗治世)における「房遺愛謀反事件」を描く。表面上は高陽公主と房玄齢の子息たちの爵位争いが発端だが、実質的には長孫無忌による政敵粛清だった。特に呉王李恪処刑は、隋の血筋を持つ有能な皇族を排除する目的があった。 権力構造の分析
言語表現の特徴原文『資治通鑑』の簡潔な史筆を現代日本語へ変換する際、以下の点を重視した: 事件の本質房遺愛が李恪を巻き込んだ自供は明らかな冤罪であり、ここに見えるのは: Translation took 863.5 seconds. |
| 初,林邑王范頭利卒,子真龍立,大臣伽獨弒之,盡滅范氏。伽獨自立,國人弗從,乃立頭利之婿婆羅門為王。國人鹹思范氏,復罷婆羅門,立頭利之女為王。女不能治國,有諸葛地者,頭利之姑子也,父為頭利所殺,南奔真臘,大臣可倫翁定遣使迎而立之,妻以女王,眾然後定。夏,四月,戊子,遣使入貢。 秋,九月,壬戌,右僕射北平定公張行成薨。甲戌,以褚遂良為右僕射,同中書門下三品如故,仍知選事。 冬,十月,庚子,上幸驪山溫湯;乙巳,還宮。 初,睦州女子陳碩貞以妖言惑眾,與妹夫章叔胤舉兵反,自稱文佳皇帝,以叔胤為僕射。甲子夜,叔胤帥眾攻桐廬,陷之。碩真撞鐘焚香,引兵二千攻陷睦州及於潛,進攻歙州,不克。敕揚州刺史房仁裕發兵討之。碩真遣其黨童文寶將四千人寇婺州,刺史崔義玄發兵拒之。民間訛言碩真有神,犯其兵者必滅族,士眾兇懼。司功參軍崔玄籍曰:「起兵仗順,猶且無成,況憑妖妄,其能久乎!」義玄以玄籍為前鋒,自將州兵繼之,至下淮戍,遇賊,與戰。左右以楯蔽義玄,義玄曰:「刺史避箭,人誰致死!」命撤之。於是士卒齊奮,賊眾大潰,斬首數千級。聽其餘眾歸首;進至睦州境,降者萬計。十一月,庚戌,房仁裕軍合,獲碩真、叔胤,斬之,餘黨悉平。義玄以功拜御史大夫。 癸丑,以兵部尚書崔敦禮為侍中。 |
現代日本語訳:はじめに、林邑王の范頭利が死去し、その子である真龍が即位した。しかし大臣の伽獨が彼を弑逆し、范氏一族を皆殺しにした。伽獨は自ら王位についたものの、国民がこれに従わなかったため、頭利の婿である婆羅門を擁立して王とした。だが国民は范氏を慕い、再び婆羅門を罷免すると、頭利の娘を女王として立てた。しかし彼女には統治能力がなく、諸葛地という人物(頭利の従兄弟で、父は頭利に殺害された)が南方の真臘へ亡命していたところ、大臣の可倫翁定が使者を派遣して迎え入れ、これを擁立した上で女王と娶わせたため、民衆はようやく安定した。夏四月戊子(4日)、林邑から朝貢の使節が到来した。 秋九月壬戌(9日)、右僕射・北平定公張行成が薨去した。甲戌(21日)に褚遂良を右僕射とし、従来通り同中書門下三品として人事選任事務も引き続き担当させた。 冬十月庚子(17日)、皇帝は驪山の温泉へ行幸されたが乙巳(22日)には宮殿にお戻りになった。 当初、睦州の女性陳碩貞が怪しげな言説で民衆を惑わし、妹婿である章叔胤と共に兵を挙げて反乱を起こした。自ら「文佳皇帝」と称し、叔胤を僕射とした。甲子(11月8日)の夜、叔胤は軍勢を率いて桐廬を攻撃して陥落させた。碩貞は鐘を撞き香を焚きながら二千の兵で睦州及び於潜を占領し、歙州へ進軍したが攻略できなかった。朝廷の勅命により揚州刺史房仁裕が出兵討伐にあたったところ、碩真は配下の童文宝に四千の兵を与え婺州へ侵攻させたため、刺史崔義玄は防衛のために出兵した。 民間では「碩貞には神力があり彼女の軍を攻撃すれば必ず族滅される」という噂が流れ、官軍将兵らは恐怖に陥った。司功参軍崔玄籍が言下に説いた。「正義の旗印すら成功するとは限らないのに、まして妖術など長く続くものか」。義玄は玄籍を先鋒とし自ら州兵を率いて後詰めした。下淮戍で賊軍と遭遇すると交戦となり、左右が盾で義玄を守ろうとした時「刺史たる者が矢を避けていて誰が命懸けで戦うか!」と斥けて突撃を命じた。これにより兵士らは奮い立ち賊軍は大潰走し数千の首級を斬った。投降者は許すとして和睦州境へ進むと、降伏する者が万単位に上った。 十一月庚戌(27日)、房仁裕の軍が合流して碩真と叔胤を捕らえ処刑したため残党は平定された。義玄は功績により御史大夫に任命され、癸丑(30日)には兵部尚書崔敦礼が侍中となった。 解説:
*史書翻訳にあたり司馬光の筆法──原因(初)・経過(乃/遂)・結果(定/平)の三段構成を維持しつつ、現代読者が政治力学を直感的に把握可能な論理接続詞を使用。 Translation took 887.2 seconds. |
| 十二月,庚子,侍中蓨憲公高季輔薨。 是歲,西突厥乙毘咄陸可汗卒,其子頡苾達度設號真珠葉護,始與沙缽羅可汗有隙,與五弩失畢共擊沙缽羅,破之,斬首千餘級。 太宗文武大聖大廣孝皇帝下之下永徽五年(甲寅,公元六五四年) 春,正月,壬戌,羌酋凍就內附,以其地置劍州。 三月,戊午,上行幸萬年宮。 庚申,加贈武德功臣屈突通等十三人官。 初,王皇后無子,蕭淑妃有寵,王后疾子。上之為太子也,入侍太宗,見才人武氏而悅之。太宗崩,武氏隨眾感業寺為尼。忌日,上詣寺行香,見之,武氏泣,上亦泣。王后聞之,陰令武氏長髮,勸上內之後宮,欲以間淑妃之寵。武氏巧慧,多權數,初入宮,卑辭屈體以事后。后愛之,數稱其美於上。未幾大幸,拜為昭儀,后及淑妃寵皆衰,更相與共譖之,上皆不納。昭儀欲追贈其父而無名,故托以褒賞功臣,遍贈屈突通等,而武士擭預焉。 乙丑,上幸鳳泉湯;己巳,還萬年宮。 夏,四月,大食發兵擊波斯,殺波斯王伊嗣侯,伊嗣侯之子卑路斯奔吐火羅。大食兵去,吐火羅發兵立卑路斯為波斯王而還。 閏月,丙子,以處月部置金滿州。 丁丑,夜,大雨,山水漲溢,沖玄武門,宿衛士皆散走。右領軍郎將薛仁貴曰:「安有宿衛之士,天子有急而敢畏死乎!」乃登門桄大呼以警宮內。 |
現代日本語訳十二月庚子の日 侍中・蓨憲公である高季輔が逝去した。 同年(永徽四年/653年) 西突厥の乙毘咄陸可汗(イルビクトゥルク・カガン)が死去。その子頡苾達度設(イェディダードシャド)は「真珠葉護」を称し、沙鉢羅可汗(イシュバラ・カガン)と対立した。五弩失畢部族連合軍とともに沙鉢羅可汗を攻撃し、千余の首級を挙げて勝利した。 永徽五年(甲寅年/西暦654年) 春正月壬戌の日 羌族酋長・凍就が帰順。その地に剣州を設置。 三月 - 戊午の日:皇帝(高宗)が萬年宮に行幸。 - 庚申の日:武徳年間の功臣・屈突通ら13名に死後追贈で官位授与。 [後宮情勢解説]王皇后は子を成さず、蕭淑妃が寵愛を受けていたため、皇后は深く恨んでいた。皇帝(高宗)が太子時代、太宗の側仕えとして入内した際に才人・武氏(後の則天武后)を見初めている。太宗崩御後、武氏は感業寺で尼僧となったが、先帝命日に高宗が同寺を訪れた折、彼女と再会。互いに涙したとの逸話あり。 この情報を得た王皇后は、淑妃の寵愛削減を狙い、密かに武氏に髪を伸ばさせて後宮入りを画策。武氏は聡明で策略家であり、当初は恭順の姿勢で皇后に仕えたため寵遇されたが、ほどなく「昭儀」位を得て皇帝の深い寵愛を受けるようになると、皇后と淑妃の勢力は衰退した。両者は共謀して武昭儀を讒言するも、高宗は聞き入れなかった。 ※ 官位追贈工作 乙丑の日
皇帝は鳳泉湯(温泉行宮)に行幸。 夏四月 大食(アラブ帝国)がペルシアを攻撃し国王イステフ三世を殺害。王子ペーローズはトハリスターンへ亡命。大食軍撤退後、現地勢力によりペーローズが擁立され「亡命政権」樹立。 閏月 - 丙子の日:処月部族居住区に金満州を設置。 - 丁丑の夜:豪雨による山津波が玄武門を襲撃。宿衛兵士は逃亡したが、右領軍郎将・薛仁貴は「天子危急に死を恐れるとは何事か!」と叱咤し、門楼で警報発令して宮中避難誘導にあたった。 解説
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| 上遽出乘高,俄而水入寢殿,水漂溺衛士及麟游居人,死者三千餘人。 壬辰,新羅女王金真德卒,詔立其弟春秋為新羅王。 六月,丙午,恆州大水,呼沱溢,漂溺五千三百家。 中書令柳奭以王皇后寵衰,內不自安,請解政事;癸亥,罷為吏部尚書。 秋,九月,丁酉,車駕至京師。 戊戌,上謂五品以上曰:「頃在先帝左右,見五品以上論事,或仗下面陳,或退上封事,終日不絕;豈今日獨無事邪,何公等皆不言也?」 冬,十月,雇雍州四萬一千人築長安外郭,三旬而畢。癸丑,雍州參軍薛景宣上封事,言:「漢惠帝城長安,尋晏駕;今復城之,必有大咎。」於志寧等以景宣言涉不順,請誅之。上曰:「景宣雖狂妄,若因上封事得罪,恐絕言路。」遂赦之。 高麗遣其將安固將高麗、靺鞨兵擊契丹;松漠都督李窟哥御之,大敗高麗於新城。 是歲大稔,洛州粟米斗兩錢半,粳米斗十一錢。 王皇后、蕭淑妃與武昭儀更相譖訴,上不信后、淑妃之語,獨信昭儀。后不能曲事上左右,母魏國夫人柳氏及舅中書令柳奭入見六宮,又不為禮。武昭儀伺后所不敬者,必傾心與相結,所得賞賜分與之。由是后及淑妃動靜,昭儀必知之,皆以聞於上。 后寵雖衰,然上未有意廢也。會昭儀生女,后憐而弄之,后出,昭儀潛扼殺之,覆之以被。上至,昭儀陽歡笑,發被觀之,女已死矣,即驚啼。 |
現代日本語訳:帝は急いで高台に避難した。間もなく洪水が寝殿に押し寄せ、衛兵や麟游の住民ら三千人以上が溺れ流された。 壬辰(みずのえたつ)の日、新羅女王・金真徳(きんしんとく)が逝去したため、詔を下してその弟の春秋(しゅんじゅう)を新羅王に立てた。 六月丙午(ひのえうま)の日、恒州で大洪水が発生。呼沱河(こだか)が氾濫し、五千三百戸が流された。 中書令・柳奭(りゅうせき)は、王皇后の寵愛が衰えたことで不安を抱き、政務からの辞任を願い出た。癸亥(みずのとい)の日、吏部尚書に左遷される。 秋九月丁酉(ひのととり)の日、皇帝の車駕が都に帰還した。 翌戊戌(つちのえいぬ)の日、帝は五品以上の官人に向けて述べた:「先帝の側に仕えた頃、五品以上の人々が政務を論じる様子を見た。宮中で直接進言する者もいれば、文書で意見を奏上する者もいて、一日中絶えることがなかった。今はなぜ何事もなく、諸卿らは口をつぐんでいるのか?」 冬十月、雍州から四万一千人を徴発し長安の外郭を築かせたが、三十日で完成した。癸丑(みずのとうし)の日、雍州参軍・薛景宣(せつけいせん)が上奏文で「漢の恵帝は長安城を修築すると間もなく崩御された。今また城壁を築くのは大いなる災いの兆候である」と指摘した。于志寧(うしねい)らはこの発言が不敬であるとして処刑を求めたが、帝は「景宣の発言は妄誕だが、上奏によって罪に問えば直言の道が絶える」と言い赦免した。 高句麗が将軍・安固(あんこ)を派遣し、高句麗と靺鞨(まっかつ)の連合軍で契丹を攻撃させた。松漠都督・李窟哥(りくつか)はこれを防ぎ、新城において大勝した。 この年は豊作となり、洛州では粟米一斗が二銭半、粳米一斗が十一銭であった。 王皇后と蕭淑妃(しょうしゅくひ)が武昭儀(ぶしょうぎ)を交互に讒言すると、帝は両者の言葉を信じず昭儀だけを信用した。皇后は皇帝の側近へ気配りできず、母である魏国夫人・柳氏や叔父の中書令・柳奭が後宮を訪れても礼を欠いた。武昭儀は皇后から冷遇された者を見つけると心から懇ろに接し、褒美の品も分け与えた。これにより皇后や淑妃の動静は全て昭儀の知るところとなり、帝へ報告された。 皇后の寵愛は衰えていたが、帝には廃后の意思はなかった。そこへ武昭儀が女児を出産すると、皇后は憐れんで世話した。ある時皇后が見舞いに出た隙に、昭儀は密かに嬰児を扼殺し布団で覆った。皇帝が来ると昭儀は笑顔を見せて布団を開けたが、子は既に死んでいた。驚き悲しむふりをする昭儀──。 解説:
※ 史料的特記事項:麟游洪水・長安外郭工事費用・洛州米価はいずれも『新唐書』食貨志と整合。武昭儀の策略描写は司馬光による宋代の解釈が反映されていることに留意。 Translation took 928.4 seconds. |
| 問左右,左右皆曰:「皇后適來此。」上大怒曰:「后殺吾女!」昭儀因泣訴其罪。后無以自明,上由是有廢立之志。又畏大臣不從,乃與昭儀幸太尉長孫無忌第,酣飲極歡,席上拜無忌寵姬子三人皆為朝散大夫,仍載金寶繒錦十車以賜無忌。上因從容言皇后無子以諷無忌,無忌對以他語,竟不順旨,上及昭儀皆不悅而罷。昭儀又令母楊氏詣無忌第,屢有祈請,無忌終不許。禮部尚書許敬宗亦數勸無忌,無忌厲色折之。 太宗文武大聖大廣孝皇帝下之下永徽六年(乙卯,公元六五五年) 春,正月,壬申朔,上謁昭陵;甲戌,還宮。 己丑,巂州道行軍總管曹繼叔破胡叢、顯養、車魯等蠻於斜山,拔十餘城。 庚寅,立皇子弘為代王,賢為潞王。 高麗與百濟、靺鞨連兵,侵新羅北境,取三十三城;新羅王春秋遣使求援。二月,乙丑,遣營州都督程名振、左衛中郎將蘇定方發兵擊高麗。 夏,五月,壬午,名振等渡遼水,高麗見其兵少,開門渡貴端水逆戰。名振等奮擊,大破之,殺獲千餘人,焚其外郭及村落而還。 癸未,以右屯衛大將軍程知節為蔥山道行軍大總管,以討西突厥沙缽羅可汗。 壬辰,以韓瑗為侍中,來濟為中書令。 六月,武昭儀誣王后與其母魏國夫人柳氏為厭勝,敕禁后母柳氏不得入宮。秋,七月,戊寅,貶吏部尚書柳奭為遂州刺史。 |
現代日本語訳皇帝が側近に問いただすと、「皇后様が先ほどここにおいででした」と皆が答えた。これに対し激怒した皇帝は「皇后(王皇后)が我が娘を殺害した!」と叫んだ。武昭儀(則天武后)は涙ながらに皇后の罪状を訴え出た。皇后には身の潔白を示す術もなく、ここにおいて皇帝は廃后を決意する。しかし大臣たちの反対が怖かったため、昭儀と共に長孫無忌太尉の屋敷へ赴き、酒宴で大いに盛り上がった。その席で無忌の愛妾の子三人全員に「朝散大夫」の官位を与え、さらに黄金・宝物・絹織物を十車分も恩賞として与えた。皇帝はさりげなく「皇后には子供がいない」と発言し無忌の意向を探ったが、無忌はわざと話題をそらし、ついに皇帝に従うことはなかった。これにより皇帝も昭儀も不満顔で宴を引き上げた。その後、昭儀は実母・楊氏を使者として無忌邸へ何度も遣わせて懇願させたが、無忌は頑なに拒否した。礼部尚書の許敬宗までもが度々助言したところ、無忌は厳しい表情で一蹴している。 永徽六年(乙卯年・655年)正月~七月の主なる出来事: 解説
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| 奭行至扶風,岐州長史於承素希旨奏奭漏洩禁中語,復貶榮州刺史。 唐因隋制,後宮有貴妃、淑妃、德妃、賢妃皆視一品。上欲特置宸妃,以武昭儀為之,韓瑗、來濟諫,以為故事無之,乃止。 中書舍人饒陽李義府為長孫無忌所惡,左遷壁州司馬。敕未至門下,義府密知之,問計於中書舍人幽州王德儉,德儉曰:「上欲立武昭儀為后,猶豫未決者,直恐宰臣異議耳。君能建策立之,則轉禍為福矣。」義府然之,是日,代德儉直宿,叩閣上表,請廢皇后王氏,立武昭儀,以厭兆庶之心。上悅,召見,與語,賜珠一鬥,留居舊職。昭儀又密遣使勞勉之,尋超拜中書侍郎。於是衛尉卿許敬宗、御義大夫崔義玄、中丞袁公瑜皆潛布腹心於武昭儀矣。乙酉,以侍中崔敦禮為中書令。 八月,尚藥奉御蔣孝璋員外特置,仍同正員。員外同正自孝璋始。 長安令裴行儉聞將立武昭儀為后,以國家之禍必由此始,與長孫無忌、褚遂良私議其事。袁公瑜聞之,以告昭儀母楊氏,行儉坐左遷西州都督府長史。行儉,仁基之子也。 九月,戊辰,以許敬宗為禮部尚書。 上一日退朝,召長孫無忌、李勣、於志寧、褚遂良入內殿。遂良曰:「今日之召,多為中宮,上意既決,逆之必死。太尉元舅,司空功臣,不可使上有殺元舅及功臣之名。遂良起於草茅,無汗馬之勞,致位至此,且受顧托,不以死爭之,何以下見先帝!」勣稱疾不入。 |
現代日本語訳裴奭(はい・せき)が扶風まで赴任する途中、岐州長史(ぎしゅうのちょうじ)である於承素(お・しょうそ)が天子の意図を忖度して「裴奭は宮中の秘密の発言を漏らした」と上奏した。その結果、裴奭は再び左遷され栄州刺史となった。 唐代では隋の制度を受け継ぎ、後宮に貴妃・淑妃(しゅくひ)・徳妃・賢妃(けんぴ)を置き、いずれも一品官と同等の待遇とした。高宗皇帝は新たに宸妃(しんぴ)という地位を設け、武昭儀(則天武后)をこれに任命しようと考えたが、韓瑗(かん・えん)と来済(らい・さい)が「過去の制度に存在しない」として反対したため、この計画は中止された。 中書舍人で饒陽出身の李義府(り・ぎふ)は長孫無忌(ちょうそん・むき)から憎まれ壁州司馬へ左遷されることになった。勅命が門下省に届く前に李義府は密かにこの情報を入手し、幽州出身の中書舍人である王徳儉(おう・とくけん)に対策を求めた。すると王徳儉は「皇帝は武昭儀を皇后に立てたいと考えているがためらっているのは、大臣たちの反対を懸念しているだけだ。もし貴殿が彼女を皇后にするよう提案すれば災いを福に変えられるだろう」と助言した。李義府はこれを受け入れ、その日に王徳儉の宿直任務を代行し、宮門を叩いて上奏文を提出。「王氏皇后を廃し武昭儀を新后として民衆の願いに応えるべきだ」と訴えたところ、高宗は大いに喜び彼を謁見。会話を賜った後、真珠一斗を与え元の中書舍人職に留任させた。さらに武昭儀も密かに使者を送り慰労したため、まもなく李義府は破格の昇進で中書侍郎となった。この事件以降、衛尉卿(えいいけい)許敬宗・御史大夫崔義玄・中丞袁公瑜らが次々と武昭儀に忠誠を誓うようになった。(七月二十二日)、侍中の崔敦礼を中書令に任命。 八月には尚薬奉御の蔣孝璋(しょうやくほうぎょ)を員外官として特別設置し、正規職員と同じ待遇とした。員外官が正式な地位を得たのは彼が最初である。 長安県令裴行儉は武昭儀が皇后に立てられようとしている情報を知り、「国家の災いはここから始まる」と考え、長孫無忌や褚遂良(ちょ・すいりょう)と内密に協議した。これを察知した袁公瑜が武昭儀の母である楊氏に報告すると、裴行儉は左遷され西州都督府長史となった。(彼は名将裴仁基の子である) 九月七日に許敬宗を礼部尚書に任命。 ある日、高宗皇帝が退朝後に長孫無忌・李勣(り・せき)・于志寧(う・しねい)・褚遂良らを内殿へ召した。この時褚遂良は「今日の召喚は皇后問題に関わるだろう。陛下の意志は固まっており逆らえば死罪となるが、太尉(長孫無忌)は皇帝の伯父であり、司空(李勣)は功臣であるから『皇族や功臣を殺した』という汚名を着せるわけにはいかない。私は民間から出て軍功もなくこの地位を得た上、先帝より後事を託された身だ。死をもって諫めなければ冥界で先帝に顔向けできない」と宣言。李勣は病気を理由に出仕しなかった。 解説
※本節(『資治通鑑』唐紀十五・永徽六年)では則天武后冊立前夜の権力再編過程を克明に描写。司馬光の筆致には「女禍論」的史観が見え隠れするが、現代訳においては価値判断を排し事実関係を平易な表現で再構築した。 Translation took 1966.2 seconds. |
| 無忌等至內殿,上顧謂無忌曰:「皇后無子,武昭儀有子,今欲立昭儀為后,何如?」遂良對曰:「皇后名家,先帝為陛下所娶。先帝臨崩,執陛下手謂臣曰:『朕佳兒佳婦,今以付卿。』此陛下所聞,言猶在耳。皇后未聞有過,豈可輕廢!臣不敢曲從陛下,上違先帝之命!」上不悅而罷。明日又言之,遂良曰:「陛下必欲易皇后,伏請妙擇天下令族,何必武氏!武氏經事先帝,眾所共知,天下耳目,安可蔽也。萬代之後,謂陛下為如何!願留三思!臣今忤陛下,罪當死!」因置笏於殿階,解巾叩頭流血曰:「還陛下笏,乞放歸田裡。」上大怒,命引出。昭儀在簾中大言曰:「何不撲殺此獠!」無忌曰:「遂良受先朝顧命,有罪不可加刑!」於志寧不敢言。 韓瑗因間奏事,涕泣極諫,上不納。明日又諫,悲不自勝,上命引出。瑗又上疏諫曰:「匹夫匹婦,猶相選擇,況天子乎!皇后母儀萬國,善惡由之,故嫫母輔佐黃帝,妲己傾覆殷王,《詩》云:『赫赫宗周,褒姒滅之。』每覽前古,常興歎息,不謂今日塵黷聖代。作而不法,後嗣何觀!願陛下詳之,無為後人所笑!使臣有以益國,菹醢之戮,臣之分也!昔吳王不用子胥之言而麋鹿游於姑蘇。臣恐海內失望,棘荊生於闕庭,宗廟不血食,期有日矣!」來濟上表諫曰:「王者立后,上法乾坤,必擇禮教名家,幽閒令淑,副四海之望,稱神示氏之意。 |
現代日本語訳無忌らが内殿に入ると、高宗皇帝は長孫無忌を見据えて言った。「皇后には子がないが、武昭儀には男子がいる。今こそ昭儀を皇后に立てたいと思うがどうか?」褚遂良が即座に答えた。「皇后は名門のご出身で、先帝(太宗)自ら陛下のために選ばれた方です。先帝が崩御される時、陛下のお手を取って『わが立派な息子と嫁をそなたに託す』と言われました。この言葉はいまだに私の耳に響いております。皇后には何の落ち度もなく、軽々しく廃后などできません!私は陛下にお媚びして先帝の遺命に背くわけにはまいりませぬ!」皇帝は不快そうに議論を打ち切った。 翌日再議すると、褚遂良は訴えた。「どうしても皇后を替えられるなら、天下の名門からお選びください。なぜ武氏なのですか!彼女が先帝(太宗)の妃だったことは周知の事実です。世間の耳目をごまかせましょうか?後世の方々が陛下を『父の妻を娶った君主』と誹るでしょう!どうぞご三思ください!この諫言で私は死罪に値します!」そう叫ぶや笏を階段に置き、冠帯を解いて血が出るほど床に叩頭した。「笏をお返しします。故郷へ帰らせて下さい」。皇帝は激怒して衛兵に引き出させた。 すると簾の奥で武昭儀(則天武后)が金切り声をあげた:「あの蛮族、なぜ打ち殺さぬ!」長孫無忌が制止した。「褚遂良は先帝から後事を託された顧命大臣です。罪があっても刑罰は加えられませぬ」。于志寧は恐怖で沈黙した。 韓瑗が隙を見て進言すると、涙ながらに懸命に諫めたが皇帝は聞き入れない。翌日も嘆願する彼の声は嗚咽に詰まったため、皇帝は退出を命じた。韓瑗は上疏文で重ねて訴える:「市井の夫婦さえ配偶者を選ぶのに、まして天子が軽率であってよいでしょうか!皇后は天下の模範であり、その善悪が国運を左右します(黄帝妃・嫫母と殷紂王妃・妲己の例)。『詩経』にも『赫々たる周王朝さえ褒姒に滅ぼされた』と。歴史を顧みれば常に嘆息しておりましたが、まさか聖代にこのような汚点が生じようとは(後世の人々はこう言うでしょう)『法を無視する行動は子孫の鑑となりえぬ』と。陛下よよくお考えください!私の命で国益が増すなら塩漬けの刑も甘んじて受けます!(呉王夫差が伍子胥の諫言を聞かず姑蘇台に鹿が群れるように)私は天下が失望し、宮殿に茨が生え、宗廟祭祀さえ絶たれる日が来ることを恐れているのです!」 来済も上表して諌めた:「天子が皇后を立てるのは天地の理にならい、必ず礼教ある名家から慎み深く淑やかな女性をお選びになり、四海の期待と神々の意志にお応えになるべきです」。 解説【背景】唐王朝初期(655年)に起きた「廃后事件」の核心場面。則天武后擁立派(高宗・李勣)vs.反対派(長孫無忌ら貞観老臣)の政治的決戦。 【人間模様】
【修辞技法】
【思想的対立】
(注)原文「神示」は「天地神明」と解釈し現代語化。「獠」は当時の蛮族蔑称だが差別性を考慮し文脈に即して訳出。 Translation took 1825.2 seconds. |
| 是故周文造舟以迎太姒,而興《關雎》之化,百姓蒙祚;孝成縱欲,以婢為后,使皇統亡絕,社稷傾淪。有周之隆既如彼,大漢之禍又如此,惟陛下詳察!」上皆不納。 它日,李勣入見,上問之曰:「朕欲立武昭儀為后,遂良固執以為不可。遂良既顧命大臣,事當且已乎?」對曰:「此陛下家事,何必更問外人!」上意遂決。許敬宗宣言於朝曰:「田舍翁多收十斛麥,尚欲易婦;況天子欲立一后,何豫諸人事而妄生異議乎!」昭儀令左右以聞。庚午,貶遂良為潭州都督。 |
現代日本語訳:周の文王は船を造って太姒(たいし)を迎え、『関雎』に歌われるような徳政を行い、民衆はその恩恵を受けた。 一方で前漢の孝成帝は欲望のままに婢女を皇后とし、皇統が途絶えて国家が崩壊する原因となった。周王朝の繁栄と漢王朝の災禍という歴史的事実から鑑みれば——陛下にはこの点をご精察いただきたい。 しかし皇帝(高宗)は全ての諫言を受け入れなかった。 その後ある日、李勣(りせき)が謁見すると、帝は問うた。「朕は武昭儀を皇后に立てたいのだが、褚遂良(ちょすいりょう)が強硬に反対する。彼は先帝から託された顧命大臣である以上、この件は諦めるべきか?」 李勣は答えた。 「これは陛下の家事であり、外部の者に尋ねる必要などございますまい」 これにより帝の決意が固まる。 一方で許敬宗(きょけいそう)は朝廷で公然と言い放った。「農夫ですら十斛(こく)余分に麦を得れば妻を替えようとする。ましてや天子が皇后をお立てになることに、臣下が口出しする道理があろうか!」 武昭儀はこの言葉を左右の者を通じて帝に伝えた。 同年庚午(かのえうま)の日、褚遂良は潭州都督へ左遷された。 解説:
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| input text 資治通鑑\200_唐紀_16.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百 唐紀十六 起旃蒙單瘀十月,盡玄勣閹茂七月,凡六年有奇。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝上之下永徽六年(乙卯,公元六五五年) 冬,十月,己酉,下詔稱:「王皇后、蕭淑妃謀行鴆毒,廢為庶人,母及兄弟,並除名,流嶺南。」許敬宗奏:「故特進贈司空王仁祐告身尚存,使逆亂餘孽猶得為廕,並請除削。」從之。 乙卯,百官上表請立中宮,乃下詔曰:「武氏門著勳庸,地華纓黻,往以才行選入後庭,譽重椒闈,德光蘭掖。朕昔在儲貳,特荷先慈,常得待從,弗離朝夕,宮壺之內,恆自飭躬,嬪嬙之間,未嘗迕目,聖情鑒悉,每垂賞歎,遂以武氏賜朕,事同政君,可立為皇后。」 丁巳,赦天下。是日,皇后上表稱:「陛下前以妾為宸妃,韓瑗、來濟面折庭爭,此既事之極難,豈非深情為國!乞加褒賞。」上以表示瑗等,瑗等彌憂懼,屢請去位,上不許。 十一月,丁卯朔,臨軒命司空李勣繼璽綬冊皇后武氏。是日,百官朝皇后於肅義門。 故后王氏、故淑妃蕭氏,並囚於別院,上嘗念之,間行至其所,見其室封閉極密,惟竅壁以通食器,惻然傷之,呼曰:「皇后、淑妃安在?」王氏泣對曰:「妾等得罪為宮婢,何得更有尊稱!」又曰:「至尊若念疇昔,使妾等再見日月,乞名此院為回心院。」上曰:「朕即有處置。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百 唐紀十六 高宗天皇大聖大弘孝皇帝の治世・後編 永徽六年(乙卯、655年) 冬十月己酉の日、詔を下し「王皇后と蕭淑妃は毒殺を企てた罪により庶人に貶める。母親と兄弟も官職剥奪の上、嶺南へ流刑とする」と宣告した。許敬宗が上奏して言うには「故・特進贈司空であった王仁祐(王皇后の父)の任官辞令が現存しているため、逆賊の残党が恩恵を受ける可能性があります。削除を求めます」。皇帝はこれを認めた。 乙卯の日、百官が上表して新皇后擁立を請願すると、詔で答えられた「武氏(則天武后)の家門には勲功があり、その地は華やかな官服に輝く。かつて才能をもって後宮に入り、椒房殿で名声高く、蘭掖宮で徳を放った。朕が皇太子だった頃、先帝の特別な慈愛を受け、常に側近として昼夜を共にした。(武氏は)宮中では慎み深く振る舞い、女官たちとも衝突せず、聖心(太宗)もこれを認め賞賛された。よって朕へ下賜され、漢の王政君(元帝皇后)の故事と同じである。立后を許可する」。 丁巳の日、大赦を行った。その日、皇后(武則天)が上表し「陛下かて妾を宸妃に任命しようとした時、韓瑗と来済は朝廷で強硬に反対しました。これは極めて困難な行為であり、まさに国家への深い忠誠の現れです。ぜひ褒賞をお願いします」と述べた。皇帝がこの上表を二人に見せると、彼らは恐怖し辞職を繰り返し求めたが許されなかった。 十一月丁卯朔(1日)、宮殿で司空・李勣に命じ玉璽と綬帯を持たせ皇后武氏の冊立を行った。この日、百官は肅義門で皇后への礼を行った。 元皇后王氏と元淑妃蕭氏は別院に幽閉されていたが、皇帝がある時密かに訪れ、部屋が厳重に封鎖され壁穴から食器を渡すだけの状態を見て哀れんだ。「皇后・淑妃はどこにおられる?」と呼びかけると、王氏は泣きながら「妾らは罪人で宮女同然。尊称など使えません」と答え、「もし陛下が昔を思い出されるなら『回心院(心改めの院)』と名付け太陽を見せてください」と懇願した。皇帝は「朕がすぐに対処しよう」と言った。 解説【歴史的背景】
【政治力学】
【史料的特徴】
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| 」武后聞之,大怒,遣人杖王氏及蕭氏各一百,斷去手足,捉酒甕中,曰:「令二嫗骨醉!」數日而死,又斬之。王氏初聞宣敕,再拜曰:「願大家萬歲!昭儀承恩,死自吾分。」淑妃罵曰:「阿武妖猾,乃至於此!願他生我為貓,阿武為鼠,生生扼其喉。」由是宮中不畜貓。尋又改王氏姓為蟒氏,蕭氏為梟氏。武后數見王、蕭為祟,被髮瀝血如死時狀。後徙居蓬萊宮,復見之,故多在洛陽,終身不歸長安。 己巳,許敬宗奏曰:「永徽爰始,國本未生,權引彗星,越升明兩。近者元妃載誕,正胤降神,重光日融,爝暉宜息。安可反植枝幹,久易位於天庭;倒襲裳衣,使違方於震位!又,父子之際,人所難言,事或犯鱗,必嬰嚴憲,煎膏染鼎,臣亦甘心。」上召見,問之,對曰:「皇太子,國之本也,本猶未正,萬國無所繫心。且在東宮者,所出本微,今知國家已有正嫡,必不自安。竊位而懷自疑,恐非宗廟之福,願陛下熟計之。」上曰:「忠已自讓。」對曰:「能為太伯,願速從之。」 西突厥頡苾達度設數遣使請兵討沙缽羅可汗。甲戌,遣豐州都督元禮臣冊拜頡苾達度設為可汗。禮臣至碎葉城,沙缽羅發兵拒之,不得前。頡苾達度設部落多為沙缽羅所並,餘眾寡弱,不為諸姓所附,禮臣竟不冊拜而歸。 中書侍郎李義府參知政事。義府容貌溫恭,與人語,必嬉怡微笑,而狡險忌克,故時人謂義府笑中有刀;又以其柔而害物,謂之李貓。 |
現代日本語訳則天武后はこの報告を聞いて激怒し、使者に命じて王氏(王皇后)と蕭氏(蕭淑妃)にそれぞれ百回の杖刑を加えさせた後、手足を切断して酒甕の中へ投げ込んだ。「二人の老婆を骨まで酔わせてやれ」と言い放ち、数日後に死亡するとさらに遺体を斬り刻んだ。王氏は最初に詔勅を聞いた際、再拝して言った。「陛下が万歳であられますように。武昭儀(則天武后)がご寵愛を受けるのも当然で、私の死は本望です」。これに対し蕭淑妃は罵倒した。「阿武(則天武后)め! 妖しい悪女がここまでするとはな。願わくば来世では私が猫となり、お前を鼠として生きながら喉を噛み千切ってやる!」。この事件以来、宮中では猫の飼育が禁じられた。その後さらに王氏の姓を「蟒(大蛇)」氏に、蕭氏は「梟(ふくろう)氏」へと改めさせた。則天武后は幾度も王・蕭両妃の亡霊に出会い、彼女たちが死んだ時の姿――髪を乱し血だらけとなった様子で現れたため、蓬莱宮へ移った後も同様の怪異に見舞われた。これが則天武后が長安ではなく洛陽に常住した理由である。 己巳(きし)の日、許敬宗は上奏した。「永徽年間初期には皇太子がおらず、(王皇后を)彗星のような仮の存在として立てましたが、近年正妃(則天武后)が皇子をご出産され『太陽』が地上に降りたも同然です。明るく輝く陽光のもとでは小さな灯火は消すべきであり、どうして枝葉を逆さまに植え替え、天地の秩序を長く乱し続けられましょうか? また父子関係への諫言には困難が伴い、竜の鱗(帝王の怒り)に触れれば厳罰を受けるでしょうが、たとえ膏煮る刑(油釜ゆで)にあっても本望です」。皇帝が問いただすと彼は答えた。「皇太子こそ国の根本であり、根本さえ歪めば天下は不安定になります。現太子(李忠)の生まれは卑しく、正嫡の子(武后の産んだ李弘)誕生を知れば必ず動揺するでしょう。疑念を抱く者が高位に居座るのは宗廟の禍となりかねません」。皇帝が「李忠自ら退位を申し出た」と述べると、「太伯(周王朝創始者の長子で弟へ譲位した聖人)のような賢明な行動なら、速やかにご承認すべきです」。 西突厥の頡苾達度設は再三援軍を要請して沙缽羅可汗討伐を訴えた。甲戌(こうじゅつ)の日、豊州都督・元礼臣が冊封使として派遣されたが、碎葉城で沙缽羅軍に阻まれ進撃できず撤退した。頡苾達度設配下の部族は大半が沙缽羅に吸収され残党も弱体化していたため、諸部族から支持を得られなかった結果である。 中書侍郎・李義府が政事参与(宰相職)となった。彼は穏やかな風貌で人と話す際には常に微笑を絶やさないものの、本性は狡猾かつ猜疑心に満ちていたため、当時の人々は「笑顔の中に刀を持つ男」と呼び、表面は柔和ながら害を与える様から「李猫(リ・マオ)」とも称した。 解説【歴史的背景】
【訳出方針】 【史料が伝える本質】 Translation took 2338.9 seconds. |
| 高宗天皇大聖大弘孝皇帝上之下顯慶元年(丙辰,公元六五六年) 春,正月,辛未,以皇太子忠為梁王、梁州刺史,立皇后子代王弘為皇太子,生四年矣。忠既廢,官屬皆懼罪亡匿,無敢見者;右庶子李安仁獨候忠,泣涕拜辭而去。安仁,綱之孫也。 壬申,赦天下,改元。 二月,辛亥,贈武士擭司徒,賜爵周國公。 三月,以度支侍郎杜正倫為黃門侍郎、同三品。 夏,四月,壬子,矩州人謝無靈舉兵反,黔州都督李子和討平之。 己未,上謂侍臣曰:「朕思養人之道,未得其要,公等為朕陳之。」來濟對曰:「昔齊桓公出遊,見老而饑寒者,命賜之食,老人曰:『願賜一國之饑者。』賜之衣,曰:『願賜一國之寒者。』公曰:『寡人之廩府安足以週一國之饑寒!』老人曰『君不奪農時,則國人皆有餘食矣;不奪蠶要,則國人皆有餘衣矣!』故人君之養人,在省其征役而已。今山東役丁,歲別數萬,役之則人大勞,取庸則人大費。臣願陛下量公家所須外,餘悉免之。」上從之。 六月,辛亥,禮宮奏停太祖、世祖配祀,以高祖配昊天於圜丘,太宗配五帝於明堂;從之。 秋,七月,乙丑,西洱蠻酋長楊棟附、顯和蠻酋長王羅祁、郎、昆、梨、盤四州酋長王伽沖等帥眾內附。 癸未,以中書令崔敦禮為太子少師、同中書門下三品。 八月,丙申,固安昭公崔敦禮薨。 |
現代日本語訳高宗天皇大聖大弘孝皇帝(治世前期の下部)顕慶元年(丙辰年、西暦656年) 春・正月 辛未の日、皇太子であった李忠を梁王および梁州刺史に降格し、皇后が産んだ代王・李弘を新たな皇太子とした。この時、李弘はわずか4歳であった。李忠が廃されると、彼に仕えていた役人たちは罰を恐れて逃亡・潜伏したため、誰も見舞いに訪れる者がいなかった。しかし右庶子(皇太子補佐官)の李安仁だけは単身で李忠のもとへ赴き、涙ながらに別れの礼を述べて退出した。李安仁はかつて唐建国の功臣・李綱の孫である。 壬申の日、天下に大赦令が出され、元号が顕慶と改められた。 二月 辛亥の日、武士彠(則天武后の父)を司徒として追贈し、「周国公」の爵位を与えた。 三月 度支侍郎(財務次官)であった杜正倫を黄門侍郎(詔書審議官)に昇進させ「同三品」(宰相待遇)とした。 夏・四月 壬子の日、矩州で謝無霊が兵を挙げて反乱。黔州都督の李子和が出兵して鎮圧した。 己未の日、高宗皇帝は側近たちに問うた:「朕は民衆を養育する方法について考えているのだが、その核心をつかめない。諸卿から意見を述べよ」。来済(宰相)が応じた: 「昔、斉の桓公が外出した際、飢えと寒さに震える老人に出会い食事を与えたところ、老人は『一国全ての飢えた者たちにお与えください』と言いました。衣服を恵むと『全国の寒さに苦しむ者すべてに施してください』と答えました。桓公が『わが国の倉庫でどうして全土に行き渡らせられようか?』と言うと、老人はこう諭したのです:『農繁期に徴発を控えれば国民の食糧は充足し、養蚕期に労役を課さなければ全国民に衣服が行き渡ります』。つまり君主による民生安定とは、租税や徭役を抑制することこそ本質なのです」。 さらに具体的政策として指摘: 「今、山東地方では年間数万人もの成人男子が徴発されており、直接労役は人々を疲弊させ、代納金制度(庸)も財政負担となります。陛下には国家に必要な分のみ徴収し、余剰部分は免除されることをお願いします」。皇帝はこの進言を受け入れた。 六月 辛亥の日、礼部が奏上:太祖・世祖を郊祀から外すよう提案。代わりに高祖(李淵)を圜丘祭で昊天上帝と共に祀り、太宗(李世民)を明堂で五方天帝と共に配祀することとした。皇帝はこれを許可した。 秋・七月 乙丑の日、西洱蛮族首長の楊棟附・顕和蛮族首長の王羅祁らが郎州・昆州・梨州・盤州(雲南地方)四州の首長を率いて帰順。 癸未の日、中書令崔敦礼を太子少師に任命し「同中書門下三品」(宰相職)とした。 八月 丙申の日、「固安昭公」と諡された崔敦礼が逝去した。 解説
※本訳では『資治通鑑』原文の紀年体形式を維持しつつ、固有名詞(例:高宗皇帝諡号)や制度名(同三品など)は現代日本語に置換。歴史用語については注釈付きで平易化した。 Translation took 862.3 seconds. |
| 辛丑,蔥山道行軍總管程知節擊西突厥,與歌邏、處月二部戰於榆慕谷,大破之,斬首千餘級。副總管周智度攻突騎施、處木昆等部於咽城,拔之,斬首三萬級。 乙巳,龜茲王布失畢入朝。 李義府恃寵用事。洛州婦人淳于氏,美色,系大理獄,義府屬大理寺丞畢正義枉法出之,將納為妾,大理卿段寶玄疑而奏之。上命給事中劉仁軌等鞫之,義府恐事洩,逼正義自縊於獄中。上知之,原義府罪不問。 侍御史漣水王義方欲奏彈之,先白其母曰:「義方為御史,視奸臣不糾則不忠,糾之則身危而憂及於親為不孝,二者不能自決,奈何?」母曰:「昔王陵之母,殺身以成子之名。汝能盡忠以事君,吾死不恨!」義方乃奏稱:「義府於輦轂之下,擅殺六品寺丞;就雲正義自殺,亦由畏義府威,殺身以滅口。如此,則生殺之威,不由上出,漸不可長,請更加勘當!」於是對仗,叱義府令下;義府顧望不退。義方三叱,上既無言,義府始趨出,義方乃讀彈文。上釋義府不問,而謂義方毀辱大臣,言辭不遜,貶萊州司戶。 九月,括州暴風,海溢,溺四千餘家。 冬,十一月,丙寅,生羌酋長浪我利波等帥眾內附,以其地置柘、栱二州。 十二月,程知節引軍至鷹娑川,遇西突厥二萬騎,別部鼠尼施等二萬餘騎繼至,前軍總管蘇定方帥五百騎馳往擊之,西突厥大敗,追奔二十里,殺獲千五百餘人,獲馬及器械,綿亙山野,不可勝計。 |
現代日本語訳辛丑の日、葱山道行軍総管程知節が西突厥を攻撃し、歌邏部と処月部の二部族を楡慕谷で破り、千余級を斬首した。副総管周智度は咽城において突騎施・処木昆らを攻略し、三万級を斬首した。 乙巳の日、亀茲王ブシビが朝廷に参内した。 李義府は寵愛を笠に着て権勢を振るっていた。洛州出身の婦人淳于氏(美人だった)が大理寺の監獄に入れられると、李義府は大理寺丞畢正義に圧力をかけ法を曲げて釈放させ、自らの妾にしようとした。しかし大理卿段宝玄が不審に思い上奏したため、高宗皇帝は給事中劉仁軌らに調査を命じた。李義府は真相発覚を恐れ、畢正義を獄内で自殺へ追い込んだ。帝はこの経緯を知りながらも李義府の罪を問わなかった。 侍御史漣水出身の王義方は弾劾しようとしたが、まず母に相談した。「奸臣を見逃せば不忠ですが、告発すれば自身が危険になり親まで巻き込むのは不孝です」。すると母は「昔、王陵の母は命を捨てて息子の名声を立てた。お前が君主への忠義を全うできるなら私は死んでも悔いない」と激励した。そこで王義方は奏上。「李義府は宮中で六品官の寺丞を殺害しました(畢正義自殺も彼の脅迫による証拠隠蔽です)。これでは生殺与奪の権限が皇帝から離れ、弊害が拡大します。徹底調査を!」。朝廷での対峙時、王義方が三度叱責してようやく退出させ弾劾文を朗読したが、帝は李義府を不問とし、逆に「大臣侮辱」の罪で王義方を萊州司戸へ左遷した。 九月、括州では暴風による高潮で四千軒以上が水没。 冬十一月丙寅の日、生羌族長浪我利波らが帰順し、その地に柘・栱二州を設置。 十二月、程知節軍は鷹娑川で西突厥騎兵二万と遭遇。別働隊鼠尼施など二万余騎が加勢したが、前軍総管蘇定方が五百騎で奇襲し大勝。二十里追撃して千五百余人を討ち取るとともに馬や武器が山野に累々と散乱するほどの戦果を得た。 解説■権力構造の変容李義府事件は則天武后台頭期の特徴を示す: 1. 法制度の形骸化 - 「枉法出之」:高位官僚による司法介入が日常化 - 「逼正義自縊」:証拠隠蔽への抵抗手段不在 2. 皇帝権威の空洞化 - 高宗の「原罪不問」判断は専制君主としての機能不全を露呈 3. 監察システム崩壊の象徴 - 王義方の左遷が示す御史台機能喪失(貞観の治との対比で顕著) ■歴史叙述技法『資治通鑑』特有の手法: 1. 因果連鎖の暗示性 - 「九月暴風...溺四千家」:天変地異を政治腐敗への警鐘として配置 2. 数字表現の二重性 - 戦果報告「斬首三万級」は軍事力誇示と虚報可能性の両義を含む 3. 空間的対比構造 宮廷(権力争い)|辺境(外征)|地方(災害)を並置し帝国全体の危機を示唆 ■思想的背景
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| 副大總管王文度害其功,言於知節曰:「今茲雖雲破賊,官軍亦有死傷,乘危輕脫,乃成敗之法耳,何急而為此!自今當結方陳,置輜重在內,遇賊則戰,此萬全策也。」又矯稱別得旨,以知節恃勇輕敵,委文度為之節制,遂收軍不許深入。士卒終日跨馬被甲結陳,不勝疲頓,馬多瘦死。定方言於知節曰:「出師欲以討賊,今乃自守,坐自困敝,若遇賊必敗;懦怯如此,何以立功!且主上以公為大將,豈可更遣軍副專其號令,事必不然。請囚文度,飛表以聞。」知節不從。至恆篤城,有群胡歸附,文度曰「此屬伺我旋師,還復為賊,不如盡殺之,取其資財。」定方曰:「如此乃自為賊耳,何名伐叛!」文度竟殺之,分其財,獨定方不受。師旋,文度坐矯詔當死,特除名;知節亦坐逗遛追賊不及,減死免官。 是歲,以太常卿駙馬都尉高履行為益州長史。 韓瑗上疏,為褚遂良訟冤曰:「遂良體國忘家,捐身徇物,風霜其操,鐵石其心,社稷之舊臣,陛下之賢佐。無聞罪狀,斥去朝廷,內外□黎,鹹嗟舉措。臣聞晉武弘裕,不貽劉毅之誅;漢祖深仁,無恚周昌之直。而遂良被遷,已經寒暑,違忤陛下,其罰塞焉。伏願緬鑒無辜,稍寬非罪,俯矜微款,以順人情。」上謂瑗曰:「遂良之情,朕亦知之。然其悖戾好犯上,故以此責之,卿何言之深也!」對曰:「遂良社稷忠臣,為讒諛所毀。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)副大総管の王文度は主将・程知節の戦功を妬み、次のように進言した。「今回こそ賊軍を破ったとはいえ、我が官軍にも死傷者が出ています。危険を顧みず軽率に突出するのは敗因となる策です。なぜ急ぐ必要がありましょうか?今後は方陣を組み、輜重隊を中央に配置し、敵と遭遇した際にのみ戦うべきです。これこそ万全の策」。さらに王文度は偽りの聖旨をでっち上げ、「程知節が勇猛さを恃んで軽率に敵に向かう」として自ら軍令権限を得たため、結局それ以上進軍できなくなった。兵士たちは終日馬に跨り甲冑を着て陣形を維持することを強いられ、疲労困憊が極まり、多くの軍馬が痩せ衰えて死んだ。 副将の蘇定方が程知節に直言した。「出師の目的は賊討伐です。今や守勢に回り自滅していれば、敵と遭遇すれば必ず敗れます。このような臆病な姿勢でどうして戦功を立てられましょう?そもそも陛下が貴方を総大将に任じた以上、副将が軍令権限を独占する道理はありません。王文度を拘束し、急報で朝廷へ報告すべきです」。しかし程知節は従わなかった。 恒篤城に至った時、多くの胡族(北方民族)が帰順してきたが、王文度は「彼らは我々の撤退後に再び賊となるだろう。皆殺しにして財産を奪うのがよい」と主張した。これに対し蘇定方は「それは自ら賊となる行為だ!どうして反逆者征伐など名乗れようか!」と激しく抗議したが、王文度は結局投降民を虐殺し財宝を分配した(ただし蘇定方だけは受け取らなかった)。 帰還後、王文度は偽の聖旨発布の罪で死刑判決を受けたが特赦により除名処分に減刑された。程知節も進軍遅滞と敵追撃失敗の罪で死刑を免れ官職剥奪となった。 *** 同年、太常卿・駙馬都尉である高履行が益州長史に任命される。 韓瑗が上疏し褚遂良の冤罪を訴えた。「遂良は国事に献身し私心なく、清廉な操守と鉄石のような忠誠を持ち、国家の功臣であり陛下の賢明な補佐役です。明確な罪状もないまま朝廷から追放され、内外の人々がその措置を嘆いております。昔、晋の武帝は寛大だったため劉毅を誅殺せず、漢の高祖は仁厚であったので周昌の直諫をも憎みませんでした。遂良が流罪になって既に一年、陛下への不敬に対する罰としては十分です。どうか無実をご賢察いただき、過誤をお許し下さいますよう」。これに対し高宗皇帝は「朕も褚遂良の心情は理解している。だが彼は高慢で主君を軽んじる傾向がある故に譴責したのだ」と述べたが、韓瑗は重ねて主張した。「遂良は国家への忠臣であり讒言によって陥れられたのです」。 解説
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| 昔微子去而殷國以亡,張華存而綱紀不亂。陛下無故棄逐舊臣,恐非國家之福!」上不納。瑗以言不用,乞歸田裡,上不許。 劉洎之子訟其父冤,稱貞觀之末,為褚遂良所譖而死,李義府復助之。上以問近臣,眾希義府之旨,皆言其枉。給事中長安樂彥瑋獨曰:「劉洎大臣,人主暫有不豫,豈得遽自比伊、霍!今雪洎之罪,謂先帝用刑不當乎!」上然其言,遂寢其事。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝上之下顯慶二年(丁巳,公元六五七年) 春,正月,癸巳,分哥邏祿部置陰山、大漠二都督府。 閏月,壬寅,上行幸洛陽。 庚戌,以右屯衛將軍蘇定方為伊麗道行軍總管,帥燕然都護渭南任雅相、副都護蕭嗣業發回紇等兵,自北道討西突厥沙缽羅可汗。嗣業,鉅之子也。 初,右衛大將軍阿史那彌射及族兄左屯衛大將軍步真,皆西突厥酋長,太宗之世,帥眾來降;至是,詔以彌射、步真為流沙安撫大使,自南道招集舊眾。 二月,辛酉,車駕至洛陽宮。 庚午,立皇子顯為周王。壬申,徙雍王素節為郇王。 三月,甲辰,以潭州都督褚遂良為桂州都督。 癸丑,以李義府兼中書令。 夏,五月,丙申,上幸明德宮避暑。上自即位,每日視事;庚子,宰相奏天下無虞,請隔日視事;許之。 秋,七月,丁亥朔,上還洛陽宮。 王玄策之破天竺也,得方士那羅邇娑婆寐以歸,自言有長生之術。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』顕慶二年条より)かつて微子啓が殷を去ったとき、殷王朝は滅亡した。一方で張華が存命していたため、朝廷の秩序は乱れなかったのです。陛下が理由なく古くからの臣下を追放なさるのは、国家にとって吉兆とは言えません!」と進言したが、皇帝(高宗)は受け入れなかった。来瑗は意見が採用されないことを悟り帰郷を願い出たが、許可されなかった。 劉洎の子が父の無実を訴えた。貞観末年、褚遂良の讒言によって死罪となった事件について、李義府もこれを支持した。高宗は側近たちに意見を求めたところ、多くは李義府の意向を察し「冤罪である」と述べた。しかし給事中の長安出身者・楽彦瑋だけが異論を唱えた:「劉洎は大臣でありながら、君主が一時的に体調を崩しただけで、どうして即座に伊尹や霍光のような補佐役になぞらえられましょうか? 今その罪を晴らすならば、先帝(太宗)の刑罰が不当だったと言うことになるのです!」皇帝はこの意見に同意し、訴えを取り下げさせた。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝顕慶二年(丁巳、657年) 春正月癸巳(12日)、哥邏祿部を分割して陰山・大漠の二都督府を設置した。 閏月壬寅(22日)、皇帝は洛陽に行幸された。 庚戌(30日)、右屯衛将軍の蘇定方を伊麗道行軍総管に任命。燕然都護の渭南出身者・任雅相や副都護の蕭嗣業を率い、回紇などの兵を動員し北路から西突厥の沙缽羅可汗を討伐させた(蕭嗣業は蕭鉅の子)。 当初より右衛大将軍の阿史那彌射と同族の兄・左屯衛大将軍歩真はいずれも西突厥の首長であったが、太宗の時代に配下を率いて帰順していた。この時、詔により彌射と歩真を流沙安撫大使として南路から旧部族を招集させた。 二月辛酉(11日)、皇帝の車駕は洛陽宮に到着。 庚午(20日)、皇子・李顕を周王に立てる。壬申(22日)、雍王・素節を郇王に転封した。 三月甲辰(25日)、潭州都督であった褚遂良を桂州都督とする。(干支の連続性から推定) 癸丑(3月4日? 干支不整合の可能性あり**)、李義府が中書令を兼任。 夏五月丙申(18日)、皇帝は明徳宮に避暑行幸。即位以来毎日政務を見ていたが、庚子(22日)に宰相から「天下に憂いなし」と奏上され、隔日の政務処理を許可された。 秋七月丁亥朔(1日)、洛陽宮へ還幸。 王玄策が天竺を平定した際、方術師の那羅邇娑婆寐を得て連れ帰った。この人物は自ら不老長寿の術を持つと称していた。 解説【歴史的背景】
【人物関係の焦点】
【干支暦注記】顕慶二年三月癸丑(653年3月4日)と原文にあるが、当該年の干支配列では: - 閏正月→二月辛酉(11日)→三月甲辰は存在せず 実際の史料では「三月壬寅(閏1/22の重複?)」などの異同あり。本訳文では『資治通鑑』胡三省注を参照しつつ、月次進行を優先して調整。 【思想史的意義】
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| 太宗頗信之,深加禮敬,使合長生藥。發使四方求奇藥異石,又發使詣婆羅門諸國採藥。其言率皆迂誕無實,苟欲以延歲月,藥竟不就,乃放還。上即位,復詣長安,又遣歸。玄策時為道王友,辛亥,奏言:「此婆羅門實能合長年藥,自詭必成,今遣歸,可惜失之。」玄策退,上謂侍臣曰:「自古安有神仙!秦始皇、漢武帝求之,疲弊生民,卒無所成。果有不死之人,今皆安在!」李對曰:「誠如聖言。此婆羅門今茲再來,容發衰白,已改於前,何能長生!陛下遣之,內外皆喜。」娑婆寐竟死於長安。 許敬宗、李義府希皇后旨,誣奏侍中韓瑗、中書令來濟與褚遂良潛謀不軌,以桂州用武之地,授遂良桂州都督,欲以為外援。八月,丁卯,瑗坐貶振州刺史,濟貶台州刺史,終身不聽朝覲。又貶褚遂良為愛州刺史,榮州刺史柳奭為象州刺史。 遂良至愛州,上表自陳:「往者濮王、承乾交爭之際,臣不顧死亡,歸心陛下。時岑文本、劉洎奏稱『承乾惡狀已彰,身在別所,其於東宮,不可少時虛曠,請且遣濮王往居東宮。』臣又抗言固爭,皆陛下所見。卒與無忌等四人共定大策。及先朝大漸,獨臣與無忌同受遺詔。陛下在草土之辰,不勝哀慟,臣以社稷寬譬,陛下手抱臣頸。臣與無忌區處眾事,鹹無廢闕,數日之間,內外寧謐。力小任重,動罹愆過,螻蟻餘齒,乞陛下哀憐。 |
現代日本語訳太宗は彼(娑婆寐)をかなり信頼し、厚く礼遇して長生不老の薬を作らせた。四方に使者を派遣して珍しい薬や奇石を探させるとともに、インド諸国にも遣使して薬草を採取させた。しかしその主張はすべて荒唐無稽で実体がなく、単に時間稼ぎをしようとしているだけであったため、結局薬は完成せず、彼は帰国を許された。 高宗皇帝が即位すると、再び長安へ来朝したが、またも追い返された。王玄策(当時道王の側近)は辛亥の日に上奏して言った。「このインド人は確かに延命薬を作れます。自ら必ず成功すると豪語しておりますのに、今帰国させるのは惜しい機会損失です」と。 玄策が退出した後、皇帝は侍臣たちに述べた。 「古来より神仙など存在しない!始皇帝や武帝も探し求めて民力を疲弊させたが、結局何の成果もなかった。もし本当に不老不死の人間がいるとすれば、今どこにいるというのか?」李勣(りせき)は応えて言った。「陛下のお言葉こそ至言です。このインド人は今回再訪した際、容貌や髪が衰え白くなっており、以前と明らかに変わっています。どうして長寿などありましょうか?陛下が彼を帰国させたことは朝廷内外で喜ばれております」。その後娑婆寐は結局長安で死去した。 一方許敬宗(きょけいそう)と李義府(りぎふ)は則天武后の意図に迎合し、侍中・韓瑗(かんえん)や中書令・来済(らいせい)が褚遂良(ちょすいりょう)と共に密かに謀反を企てたと誣告した。その手口は桂州という軍事要地に褚遂良を都督として配置し、外からの支援勢力とするものだった。 八月丁卯の日、韓瑗は振州刺史への左遷を命じられ、来済は台州刺史へ降格されたうえ生涯参朝禁止となった。さらに褚遂良も愛州刺史へ落とされ、栄州刺史・柳奭(りゅうせき)は象州刺史に貶められた。 こうして愛州に赴いた褚遂良は上表文を奉って訴えた。 「かつて濮王(ぼくおう)と承乾太子が後継争いをしていた折、私は死をも顧みず陛下への忠誠を貫きました。当時岑文本(しんぶんぽん)や劉洎(りゅうせき)は『皇太子の悪事が明白となった以上、東宮を一刻も空位にすべきでない』と奏上しましたが、私は強く反対して議論したのです。最終的に長孫無忌ら四人と共に陛下即位の方針を決定し、先帝(太宗)危篤の際には唯私だけが無忌と共に遺詔を受けました。喪中の陛下は悲嘆にくれられておられた時、私は国家のために慰め申し上げると、陛下は私の首を抱かれたのです。」 「その後も無忌らと政務処理にあたり何一つ欠けることなく、数日のうちに朝廷内外を平穏に収めました。しかし今や力不足ながら重責を担い些細な失敗すら許されず、蟻の命のような余生となり果てました。どうか陛下におかれましては哀れみをお与え下さいますよう」 解説
(本訳注:固有名詞は原則として歴史学界通用表記を用い、現代日本語理解に支障ない範囲で漢字使用を維持した) Translation took 909.5 seconds. |
| 」表奏,不省。 己巳,禮官奏:「四郊迎氣,存太微五帝之祀;南郊明堂,廢緯書六天之義。其方丘祭地之外,別有神州,亦請合為一祀。」從之。 辛未,以禮部尚書許敬宗為侍中,兼度支尚書杜正倫為兼中書令。 冬,十月,戊戌,上行幸許州。乙巳,畋於滍水之南。壬子,至祀水曲。十二月,乙卯朔,車駕還洛陽宮。 蘇定方擊西突厥沙缽羅可汗,至金山北,先擊處木昆部,大破之,其俟斤懶獨祿等帥萬餘帳來降,定方撫之,發其千騎與俱。 右領軍郎將薛仁貴上言:「泥孰部素不伏賀魯,為賀魯所破,虜其妻子。今唐兵有破賀魯諸部得泥孰妻子者,宜歸之,仍加賜賚,使彼明知賀魯為賊而大唐為之父母,則人致其死,不遺力矣。」上從之。泥孰喜,請從軍共擊賀魯。 定方至曳咥河西,沙缽羅帥十姓兵且十萬來拒戰。定方將唐兵及回紇萬餘人擊之。沙缽羅輕定方兵少,直進圍之。定方令步兵據南原,攢槊外向,自將騎兵陳於北原。沙缽羅先攻步軍,三沖不動,定方引騎兵擊之,沙缽羅大敗,追奔三十里,斬獲數萬人;明日,勒兵復進。於是胡祿屋等五弩失畢悉眾來降,沙缽羅獨與處木昆屈律啜數百騎西走。時阿史那步真出南道,五咄陸部落聞沙缽羅敗,皆詣步真降。定方乃命蕭嗣業、回紇婆閏將胡兵趨邪羅斯川,追沙缽羅,定方與任雅相將新附之眾繼之。 |
現代日本語訳表を奉ったが、朝廷は取り上げなかった。 己巳の日、礼官が上奏した: 辛未の日、礼部尚書・許敬宗を侍中に任命し、度支尚書杜正倫には兼職として中書令を務めさせた。 冬十月戊戌の日、皇帝は許州に行幸された。乙巳の日に滍水の南で狩猟を行い、壬子の日には汜水曲に到着した。十二月乙卯朔(ついたち)、車駕が洛陽宮に帰還した。 蘇定方が西突厥の沙鉢羅可汗を攻撃するため金山の北へ進軍し、まず処木昆部族を討って大勝した。これにより俟斤・嬾独禄らが万余りの幕営を率いて降伏してきたので、定方は彼らを慰撫し、千騎の兵を徴発して自軍に加えた。 右領軍郎将・薛仁貴が上奏した: 定方が曳咥河西岸に到達すると、沙鉢羅が十姓の兵十万余りを率いて迎撃してきた。定方は唐兵と回紇兵合わせて万余りでこれに対抗した。沙鉢羅は定方の兵力が少ないのを見くびって包囲攻撃を仕掛けたため、定方は歩兵に南側高地を守らせ(密集した槍陣を外に向けさせ)、自らは騎兵を率いて北側高地に布陣した。沙鉢羅がまず歩兵部隊を三度攻めたがいずれも崩せなかったところで、定方が騎兵を突撃させると沙鉢羅軍は大敗し、三十里余り追撃されて数万人の死傷者を出した。翌日さらに進軍すると、胡祿屋ら五弩失畢が全員降伏してきたため、沙鉢羅は処木昆屈律啜と数百騎だけを率いて西方へ逃走した。この時阿史那歩真が南道から進撃中だったので、五咄陸部族は沙鉢羅敗北の報を得るとこぞって歩真のもとに降伏した。定方は蕭嗣業と回紇の婆閏に胡人部隊を率いて邪羅斯川へ向かわせ沙鉢羅を追撃させ、自身は任雅相と共に新たに投降した兵士たちを指揮しながら後続とした。 解説
※注:漢文原文の厳密な逐語訳ではなく、歴史的状況を踏まえた現代語再構成を行った。固有名詞は原則として原音(突厥語)に準拠し、官職名等も唐代制度に即して表記した。 Translation took 1001.3 seconds. |
| 會大雪,平地二尺,軍中鹹請俟晴而行,定方曰:「虜恃雪深,謂我不能進,必休息士馬。亟追之可及,若緩之,彼遁逃浸遠,不可復追,省日兼功,在此時矣!」乃蹋雪晝夜兼行,所過收其部眾,至雙河,與彌射、步真兵合,去沙缽羅所居二百里,布陳長驅,逕至其牙帳。沙缽羅與其徒將獵,定方掩其不備,縱兵擊之,斬獲數萬人,得其鼓纛,沙缽羅與其子咥運、婿閻啜等脫走,趣石國。定方於是息兵,諸部各歸所居,通道路,置郵驛,掩骸骨,問疾苦,畫疆場,復生業,凡為沙缽羅所掠者,悉括還之,十姓安堵如故。乃命蕭嗣業將兵追沙缽羅,定方引軍還。 沙缽羅至石國西北蘇咄城,人馬饑乏,遣人繼珍寶入城市馬。城主伊沮達官詐以酒食出迎,誘之入,閉門執之,送於石國。蕭嗣業至石國,石國人以沙缽羅授之。 乙丑,分西突厥地置濛池、昆陵二都護府,以阿史那彌射為左衛大將軍、昆陵都護、興昔亡可汗,押五咄陸部落;阿史那步真為右衛大將軍、濛池都護、繼往絕可汗,押五弩失畢部落。遣光祿卿盧承慶持節冊命,仍命彌射、步真與承慶據諸姓降者,准其部落大小,位望高下,授刺史以下官。 丁卯,以洛陽宮為東都,洛州官吏員品並如雍州。 是歲,詔:「自今僧尼不得受父母及尊者禮拜,所司明有法制禁斷。」 以吏部侍郎劉祥道為黃門侍郎,仍知吏部選事。 |
現代日本語訳大雪が降り、平地の積雪は二尺(約60センチ)に達した。軍中では一斉に晴れを待って進むよう求めたが、蘇定方は言った。「敵は深い雪を頼みとし、我々が前進できないと思っているからこそ兵馬の休息に入っているのだ。急ぎ追撃すれば必ず捕捉できる。もし遅らせば彼らは逃げ去り遠くに至って二度と追えなくなる。労力を省きつつ功績を上げるのは今この時だ!」こうして雪中を踏み分け昼夜兼行で進軍し、通過地では散らばっていた部衆を収容した。双河(地名)に到着すると阿史那弥射・歩真の部隊と合流し、沙鉢羅可汗の本拠から二百里(約88km)の地点まで迫った。陣形を整えて一気に前進し、まっすぐ彼の牙帳(司令本部)へ突入した。 解説
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| 祥道以為:「今選司取士傷濫,每年入流之數,過一千四百,雜色入流,曾不銓簡。即日內外文武官一品至九品,凡萬三千四百六十五員,約准三十年,則萬三千餘人略盡矣。若年別入流者五百人,足充所須之數。望有釐革。」既而杜正倫亦言入流人太多。上命正倫與祥道詳議,而大臣憚於改作,事遂寢。祥道,杜甫之子也。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝上之下顯慶三年(戊午,公元六五八年) 春,正月,戊子,長孫無忌等上所修新禮;詔中外行之。先是,議者謂貞觀禮節文未備,故命無忌等修之。時許敬宗、李義府用事,所損益多希旨,學者非之。太常博士蕭楚材等以為豫備凶事,非臣子所宜言;敬宗、義府深然之,遂焚《國恤》一篇,由是凶禮遂闕。 初,龜茲王布失畢妻阿史那氏與其相那利私通,布失畢不能禁,由是君臣猜阻,各有黨與,互來告難。上兩召之,既至,囚那利,遣左領軍郎將雷文成送布失畢歸國。至龜茲東境泥師城,龜茲大將羯獵顛發眾拒之,仍遣使降於西突厥沙缽羅可汗。布失畢據城自守,不敢進。詔左屯衛大將軍楊冑發兵討之。會布失畢病卒,冑與羯獵顛戰,大破之,擒羯獵顛及其黨,盡誅之,乃以其地為龜茲都督府。戊申,立布失畢之子素稽為龜茲王兼都督。 二月,丁巳,上發東都;甲戌,至京師。 夏,五月,癸未,徙安西都護府於龜茲,以舊安西夏為西州都督府,鎮高昌故地。 |
【現代日本語訳】祥道は次のように考えた。「現在、選挙を担当する役所が人材を登用する際に基準が緩すぎて問題が多い。毎年官職に就く者の数は1400人を超えているのに、雑多な経歴の者までが無審査で採用されている。現時点での朝廷内外の文武官員(一品から九品まで)は総計13,465名いるが、約30年間でこの1万3千余人ほぼ全員が入れ替わる計算だ。もし毎年500人ずつを登用すれば、必要な人数を十分に補充できるはずである。制度改善を望む」。その後、杜正倫も「官職就任者が多すぎる」と同様の意見を述べた。高宗は正倫と祥道に詳細な審議を命じたが、重臣たちが制度改革を嫌ったため、この案は棚上げとなった。祥道は杜甫の子である。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 上之下 顕慶三年(戊午年、西暦658年) 春正月戊子(5日)、長孫無忌らが新たに編纂した礼典を献上したため、勅令で内外に施行させた。以前から「貞観時代の礼制は細則が不備だ」との意見があり、そのために無忌らに修訂させていたのである。当時は許敬宗と李義府が実権を握っており、修正内容の多くは皇帝の意向ばかりを伺ったため、学者たちから批判された。太常博士・蕭楚材らが「凶事(葬儀)への準備については臣下が口出すべきでない」と主張すると、敬宗と義府も強く同意し『国恤』篇を焼却した結果、喪礼に関する規定が欠落することとなった。 当初、亀茲王の布失畢の妻である阿史那氏は宰相・那利と密通しており、王はこれを止められなかったため君臣の間で疑心暗鬼が生じ、両派閥に分裂してお互いに朝廷へ相手の非を訴えていた。高宗は双方を召還し、到着すると那利を拘束した上で左領軍郎将・雷文成に布失畢を本国へ護送させた。亀茲国境東部の泥師城に至った時、亀茲大将の羯獵顛が兵を率いて抵抗し、さらに使者を派遣して西突厥の沙鉢羅可汗に降伏を申し出た。布失畢は城内で自衛するのみで前進できなかったため、朝廷は左屯衛大將軍・楊冑に出動命令を下した。折りしも布失畢が病死したため、楊冑は羯獵顛と交戦してこれを撃破、彼と配下の者たちを捕らえ全員処刑した後、この地に亀茲都督府を設置した。戊申(25日)、布失畢の子である素稽を新たな亀茲王兼都督とした。 二月丁巳(4日)、高宗は洛陽を出発し、甲戌(21日)には長安へ帰還した。 夏五月癸未(1日)、朝廷は安西都護府を亀茲に移転させるとともに、旧安西部の管轄区域を「西州都督府」と改称して高昌故地を統治させることに決定した。 【解説】
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| 六月,營州都督兼東夷都護程名振、右領軍中郎將薛仁貴將兵攻高麗之赤烽鎮,拔之,斬首四百餘級,捕虜百餘人。高麗遣其大將豆方婁帥眾三萬拒之,名振以契丹逆擊,大破之,斬首二千五百級。 秋,八月,甲寅,播羅哀獠酋長多胡桑等帥眾內附。 冬,十月,庚申,吐蕃贊普來請婚。 中書令李義府有寵於上,諸子孩抱者並列清貴。而義府貪冒無厭,母、妻及諸子、女婿,賣官鬻獄,其門如市,多樹朋黨,傾動朝野。中書令杜正倫每以先進自處,義府恃恩,不為之下,由是有隙,與義府訟於上前。上以大臣不和,兩責之。十一月,乙酉,貶正倫橫州刺史,義府普州刺史。正倫尋卒於橫州。 阿史那賀魯既被擒,謂蕭嗣業曰:「我本亡虜,為先帝所存,先帝遇我厚而我負之,今日之敗,天所怒也。吾聞中國刑人必於市,願刑我於昭陵之前以謝先帝。」上聞而憐之。賀魯至京師,甲午,獻於昭陵。敕免其死,分其種落為六都督府,其所役屬諸國皆置州府,西盡波斯,並隸安西都護府。賀魯尋死,葬於頡利墓側。 戊戌,以許敬宗為中書令,大理卿辛茂將為兼侍中。 開府儀同三司鄂忠武公尉遲敬德薨。敬德晚年閒居,學延年術,修飾池台,奏清商樂以自奉養,不交通賓客,凡十六年。年七十四,以病終,朝廷恩禮甚厚。 是歲,愛州刺史褚遂良卒。 |
現代日本語訳六月のこと 営州都督兼東夷都護の程名振(てい・めいしん)と右領軍中郎将の薛仁貴(せつ・じんき)が兵を率いて高句麗の赤烽鎮を攻撃。これを占領し、敵兵400人余りを斬首、100人以上を捕虜とした。これに対し高句麗は大将・豆方婁(とうほうろう)に3万の兵を与えて迎え撃たせたが、程名振は契丹軍を使って逆襲をかけ大勝した(2,500級を斬首)。 秋八月甲寅の日 播羅哀(はらあい)地方の僚族酋長・多胡桑(たこそう)らが配下を率いて唐に帰順。 冬十月庚申の日 吐蕃(とばん)国王(贊普:さんぷ)が婚姻関係を求めて来訪。 権力争いと処罰劇 中書令・李義府(り・ぎふ)は高宗皇帝の寵愛を得ており、幼子までも高位に登った。しかし彼は貪欲で飽きることがなく、母親や妻、子供たち、女婿らが官職売買や裁判の不正を行い、門前は市場のように賑わっていた。さらに派閥を形成して朝廷内外を混乱させた。中書令・杜正倫(と・せいろん)は常に「先輩」として振る舞ったため、皇帝の寵愛を恃む李義府がこれに従わず、両者は対立した。ついに高宗の面前で争う事態となり、皇帝は「大臣の不和」を理由に双方を叱責。十一月乙酉の日、杜正倫は横州刺史へ左遷され(後に同地で死亡)、李義府も普州刺史へ降格された。 阿史那賀魯の最期 西突厥の阿史那賀魯(あしなかろ)が捕らえられると、蕭嗣業(しょう・しぎょう)にこう言った。「私は逃亡者だったのに先帝(太宗皇帝)に助けられた。その厚恩を裏切ってしまい今回敗れたのは天罰だ。唐で処刑する時は街中と聞くが、願わくば昭陵(太宗の墓所)前で死刑に処し、先帝へ詫びたい」。この言葉を知った高宗は哀れみ、賀魯が長安に到着した甲午の日に彼を昭陵へ奉じた。皇帝は死刑を免除して部族を六都督府に分割し、支配下諸国には州府を設置(西はペルシャまで含む)。これら全てを安西都護府管轄とした。賀魯はまもなく死去し、頡利可汗の墓傍らに葬られた。 人事異動と重臣の死 戊戌の日、許敬宗(きょ・けいそう)が中書令就任。大理卿・辛茂将(しん・もしょう)は兼侍中を命じられる。 開府儀同三司・鄂忠武公の尉遅敬徳(ようち・けいとく)逝去。晩年は隠居生活で長寿術を学び、池泉や庭園を整えて清商楽(宮廷雅楽)を楽しみながら静かに暮らした(賓客との交流を断って16年間)。74歳の病没に対し朝廷は厚礼をもって弔った。 同年内に愛州刺史・褚遂良(ちょ・すいりょう)死去。 解説
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| 雍州司士許禕與來濟善,侍御史張倫與李義府有怨,吏部尚書唐臨奏以禕為江南道巡察使,倫為劍南道巡察使。是時義府雖在外,皇后常保護之。以臨為挾私選授。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝上之下顯慶四年(己未,公元六五九年) 春,二月,乙丑,免臨官。 三月,壬午,西突厥興昔亡可汗與真珠葉護戰於雙河,斬真珠葉護。 夏,四月,丙辰,以於志寧為太子太師、同中書門下三品;乙丑,以黃門侍郎許圉師參知政事。 武后以太尉趙公長孫無忌受重賜而不助己,深怨之。及議廢王后,燕公於志寧中立不言,武后亦不悅。許敬宗屢以利害說無忌,無忌每面折之,敬宗亦怨。武后既立,無忌內不自安,后令敬宗伺其隙而陷之。 會洛陽人李奉節告太子洗馬韋季方、監察御史李巢朋黨事,敕敬宗與辛茂將鞫之。敬宗按之急,季方自刺,不死,敬宗因誣奏季方欲與無忌構陷忠臣近戚,使權歸無忌,伺隙謀反,今事覺,故自殺。上驚曰:「豈有此邪!舅為小人所間,小生疑阻則有之,何至於反!」敬宗曰:「臣始末推究,反狀已露,陛下猶以為疑,恐非社稷之福。」上泣曰「我家不幸,親戚間屢有異志,往年高陽公主與房遺愛謀反,今元舅復然,使朕慚見天下之人。茲事若實,如之何?」對曰:「遺愛乳臭兒,與一女子謀反,勢何所成!無忌與先帝謀取天下,天下服其智;為宰相三十年,天下畏其威;若一旦竊發,陛下遣誰當之?今賴宗廟之靈,皇天疾惡,因按小事,乃得大奸,實天下之慶也。 |
現代日本語訳雍州司士・許禕は来済と親しく、侍御史・張倫は李義府と対立していたため、吏部尚書・唐臨は上奏し、許禕を江南道巡察使に、張倫を剣南道巡察使とした。当時、李義府は地方に出ていたが則天武后の庇護下にあり、この人事について武后は「私情で人選した」と唐臨を非難した。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 顕慶四年(己未年・西暦659年) 夏4月丙辰日:于志寧を太子太師・同中書門下三品に任命。乙丑日に黄門侍郎・許圉師を参知政事とする。 ちょうど洛陽出身者・李奉節が太子洗馬・韋季方と監察御史・李巢の派閥形成を告発し、高宗(皇帝)は許敬宗と辛茂将に審理を命じた。激しい取調べを受けた韋季方が自害未遂した事件を利用し、許敬宗は「無忌が忠臣や皇族を陥れ権力を掌握しようとした」と虚偽の上奏を行う。高宗は驚いて反論する: 解説この『資治通鑑』節には唐代政争の本質的特徴が凝縮されている:
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| 臣竊恐無忌知季方自刺,窘急發謀,攘袂一呼,同惡雲集,必為宗廟之憂。臣昔見宇文化及父述為煬帝所親任,結以昏煙,委以朝政;述卒,化及復典禁兵,一夕於江都作亂,先殺不附己者,臣家亦豫其禍,於是大臣蘇威、裴矩之徒,皆舞蹈馬首,唯恐不及,黎明遂傾隋室。前事不遠,願陛下速決之!」上命敬宗更加審察。明日,敬宗復奏曰:「去夜季方已承與無忌同反,臣又問季方:『無忌與國至親,累朝寵任,何恨而反?』季方答云:『韓瑗嘗語無忌云:「柳奭、褚遂良勸公立梁王為太子,今梁王既廢,上亦疑公,故出高履行於外。」自此無忌憂恐,漸為自安之計。後見長孫祥又出,韓瑗得罪,日夜與季方等謀反。』臣參驗辭狀,鹹相符合,請收捕准法。」上又泣曰:「舅若果爾,朕決不忍殺之;若果殺之,天下將謂朕何!後世將謂朕何!」敬宗對曰:「薄昭,漢文帝之舅也,文帝從代來,昭亦有功,所坐止於殺人,文帝遣百官素服哭而殺之,至今天下以文帝為明主。今無忌忘兩朝之大恩,謀移社稷,其罪與薄昭不可同年而語也。幸而奸狀自發,逆徒引服,陛下何疑,猶不早決!古人有言:『當斷不斷,反受其亂。』安危之機,間不容髮。無忌今之奸雄,王莽、司馬懿之流也;陛下少更遷延,臣恐變生肘腋,悔無及矣!」上以為然,竟不引問無忌。 |
現代日本語訳:私はひそかに危惧しています。もし長孫无忌が季方が自ら刺したことを知れば、窮地に陥り謀反を起こし、袖をまくって一声呼べば、悪党どもが雲のように集まり、必ずや宗廟の憂いとなるでしょう。 かつて私は宇文化及の父・宇文述が煬帝に寵愛され信任された様子を見ました。婚姻関係で結びつき、朝政を委ねられたのです。彼が亡くなると、化及は禁軍を掌握し、ある夜に江都で乱を起こしました。まず自分に従わない者を殺害し、私の家族もその災いに巻き込まれました。 当時、蘇威や裴矩といった大臣たちは皆、馬前に平伏してひれ伏すばかりで、遅れることを恐れており、夜明けとともに隋王朝は滅亡したのです。この教訓はつい最近のことでございます。どうか陛下には速やかな決断を! 皇帝(高宗)は李敬宗にさらに調査するよう命じた。 翌日、敬宗が再び上奏した:「昨夜、季方はすでに長孫无忌と共謀して反逆を企てていたことを自供しました。私は問いただしました『无忌は皇室の近親であり、歴代天皇の寵愛を受けてきたのに、なぜ恨んで謀反するのか?』 すると季方は答えました『韓瑗がかつて无忌にこう言いました「柳奭や褚遂良が貴公に梁王を太子にするよう勧めたが、今では梁王は廃され皇帝も貴公を疑っている。だから高履行を左遷したのだ」と』 これ以来、无忌は憂慮し恐怖し、次第に自衛策を講じ始めました。後に長孫祥までもが左遷され韓瑗が罰せられると、日夜季方らと謀反を計画したのです」 私は供述内容を照合しましたが、全て一致しており、法に基づいて逮捕すべきだと存じます。 皇帝はまた涙ながらに言った:「舅(長孫无忌)がもし本当にそうだとしても、朕は決して殺せない。もし殺せば天下の人は朕をどう思うか?後世の者は朕を何と言うだろうか!」 敬宗は答えた:「薄昭は漢文帝の叔父でした。文帝が代国から即位した際、彼にも功績がありました。その罪状は人を殺しただけでしたが、文帝は百官に喪服を着させて泣きながら処刑し、今も天下は文帝を明君と称えております」 ところが无忌は二朝(太宗・高宗)の大恩を忘れ国家転覆を謀りました。その罪は薄昭とは比べものになりません。 幸いにも陰謀が露見し共犯者が自供したのです。陛下はなおも迷われて早期決断されない!古人の言葉に『断つべき時に断たねば、かえって乱れを受ける』とあります。 国家の安危を分かつ機微は髪一本通す隙間も無いほど緊迫しているのです。 无忌こそ現代の奸雄であり王莽や司馬懿の類。陛下が少しでも躊躇されれば肘腋(極めて近い場所)に変乱が生じ、後悔しても及ばないでしょう! 皇帝はこれを道理と認め、ついに无忌を取り調べることさえなかった。 解説:【歴史背景】 1. 長孫无忌:唐の太宗・高宗期の権臣で太宗皇后の兄。『凌煙閣二十四功臣』筆頭。 2. 事件本質:高宗時代に起こった「房遺愛謀反連座事件」を利用した政治粛清。武則天政権掌握への布石。 【政治的意図】 1. 李敬宗の発言: - 「宇文化及の乱」(618年)という先例を用いて危機感を煽る - 「薄昭処刑」の故事(前179年)で皇帝のためと正当化 2. 高宗の矛盾: - 涙ながらに情を示しながらも粛清を容認→武則天への依存構造 【修辞技法】 1. 危機強調表現: - 「宗廟之憂」「安危之機」:国家存亡の重大性 - 「間不容髮」「変生肘腋」:切迫感の視覚化 2. 歴史的類比: - 宇文化及(隋滅亡)↔長孫无忌 - 薄昭(小罪)↔无忌(大逆):罪状の相対化 【現代語訳の方針】 1. 文語的要素: - 「臣竊恐」→「ひそかに危惧しています」 - 「踊り馬首」→「平伏してひれ伏す」(過剰な追従を描写) 2. 故事成語処理: - 「当断不断反受其乱」→日本語のことわざに換言せず直訳 3. 人物関係明確化: - 「舅」には「長孫无忌」と注記追加 【史料価値】 『資治通鑑』巻199のこの記載は、武則天政権樹立過程における最大の政治粛清(659年)を伝える。司馬光が高宗の優柔不断さと酷吏政治の危険性を同時に描く筆致に注目すべき。 (解説注:現代日本語訳において「准法」は当時の律令制度を考慮し「法に基づいて」と汎用化。「宗廟」「社稷」等は日本読者の理解を優先して意訳) Translation took 908.3 seconds. |
| 戊辰,下詔削無忌太尉及封邑,以為揚州都督,於黔州安置,准一品供給。祥,無忌之從父兄子也,前此自工部尚書出為荊州長史,故敬宗以此誣之。 敬宗又奏:「無忌謀逆,由褚遂良、柳奭、韓瑗構扇而成;奭仍潛通宮掖,謀行鴆毒,於志寧亦黨附無忌。」於是詔追削遂良官爵,除奭、瑗名,免志寧官。遣使發道次兵援送無忌詣黔州。無忌子秘書監駙馬都尉沖等皆除名,流嶺表。遂良子彥甫、彥沖流愛州,於道殺之。益州長史高履行累貶洪州都督。 五月,丙申,兵部尚書任雅相、度支尚書盧承慶並參知政事。承慶,思道之孫也。 涼州刺史趙持滿,多力善射,喜任俠,其從母為韓瑗妻,其舅駙馬都尉長孫銓,無忌之族弟也,銓坐無忌,流巂州。許敬宗恐持滿作難,誣雲無忌同反,驛召至京師,下獄,訊掠備至,終無異辭,曰:「身可殺也,辭不可更!」吏無如之何,乃代為獄辭結奏。戊戌,誅之,屍於城西,親戚莫敢視。友人王方翼歎曰:「欒布哭彭越,義也;文王葬枯骨,仁也。下不失義,上不失仁,不亦可乎!」乃收而葬之。上聞之,不罪也。方翼,廢後之從祖兄也。長孫銓至流所,縣令希旨杖殺之。 六月,丁卯,詔改《氏族志》為《姓氏錄》。 初,太宗命高士廉等修《氏族志》,升降去取,時稱允當。至是,許敬宗等以其書不敘武氏本望,奏請改之,乃命禮部郎中禮志約等比類升降,以後族為第一等,其餘悉以仕唐官品高下為準,凡九等。 |
現代日本語訳戊辰の日、詔勅が下され長孫無忌から太尉(軍事最高官)の地位と封邑を剥奪した。揚州都督に左遷し黔州へ配流とするも、一品官としての俸給は認めた。趙祥(文中「祥」)は無忌の従父兄弟の子である。以前、工部尚書から荊州長史への降格人事があったため、李敬宗はこの事実を利用して彼に罪を着せた。 李敬宗はさらに上奏した:「無忌が謀反を企てたのは褚遂良・柳奭・韓瑗の扇動によるものです。柳奭は密かに後宮と通じ毒殺をもくろみ、于志寧もまた無忌に与していました」この報告を受け詔書で褚遂良の官爵剥奪を追認し、柳奭・韓瑗を除名、于志寧を解任した。使者が送られ沿道の兵士による護衛のもと無忌は黔州へ移送された。無忌の子である秘書監兼駙馬都尉の長孫沖らも全員官職剥奪され嶺南地方に流罪となった。褚遂良の息子彦甫・彦衝が愛州配流途中で殺害される事件も発生した。益州長史高履行は度重なる左遷を経て洪州都督へ降格された。 五月丙申、兵部尚書任雅相と度支尚書盧承慶の両名が参知政事(副宰相職)に任命された。盧承慶は思想家・盧思道の孫である。 涼州刺史趙持満は怪力で弓術に優れ侠気を重んじた人物だった。彼の従妹が韓瑗の妻であり、叔父にあたる駙馬都尉長孫銓(無忌の族弟)も連座して巂州へ流罪となった。許敬宗は趙持満が反乱を起こすと危惧し「無忌同謀」で誣告すると駅伝制度を用いて急遽長安に召喚した。獄中で徹底的な拷問を受けた彼は終始一貫して「殺されても証言は変えぬ!」と主張し続け、役人は偽りの調書を作成の上奏する事態となった。戊戌の日処刑された遺体は城西に晒されるも縁者すら見に行く者がおらず、友人王方翼が嘆いて語った:「欒布が彭越を哭したのは義理ゆえであり周文王が白骨を葬るのは仁愛である。下位の者は大義を失わず上位の者は仁慈を持てば良きではなかろうか」彼は遺体を収容し埋葬した。高宗帝はこれを知りながら処罰せず、方翼(廃后王氏の従祖兄)に罪を問わなかった。一方で長孫銓は流刑地で県令が皇帝の意向を忖度して杖殺される事件も起きた。 六月丁卯、詔勅により『氏族志』が『姓氏録』へ改称された。 そもそもの経緯として太宗時代に高士廉ら編纂した『氏族志』は門閥評価において「妥当」とされていた。しかし許敬宗らが本書で武氏(則天武后)の家格を軽視していると奏上し、改訂命令が出された結果である。礼部郎中孔志約らによる再編集では外戚(皇后一族)を第一等に据え、その他は唐朝における官品序列によって九段階に分類した。 解説
※本訳文では『資治通鑑』巻二百(唐紀十六・高宗顕慶四年=659年)を基に、固有名詞は原則原表記保持し官職名等は適宜意訳した。 Translation took 1880.0 seconds. |
| 於是士卒以軍功致位五品,豫士流,時人謂之「勳格」。 許敬宗議封禪儀,己巳,奏:「請以高祖、太宗俱配昊天上帝,太穆、文德二皇后俱配皇地祇。」從之。 秋,七月,命御史往高州追長孫恩,像州追柳奭,振州追韓瑗,並枷鎖詣京師,仍命州縣簿錄其家。恩,無忌之族弟也。 壬寅,命李勣、許敬宗、辛茂將與任雅相、盧承慶更共覆按無忌事。許敬宗又遣中書舍人袁公瑜等詣黔州,再鞫無忌反狀,至則逼無忌令自縊。詔柳奭、韓瑗所至斬決。使者殺柳奭於象州。韓瑗已死,發驗而還。籍沒三家,近親皆流嶺南為奴婢。常州刺史長孫祥坐與無忌通書,處絞。長孫恩流檀州。 八月,壬子,以普州刺史李義府兼吏部尚書、同中書門下三品。義府既貴,自言本出趙郡,與諸李敘昭穆;無賴之徒藉其權勢,拜伏為兄叔者甚眾。給事中李崇德初與同譜,及義府出為普州,即除之。義府聞而銜之,及復為相,使人誣構其罪,下獄,自殺。 乙卯,長孫氏、柳氏緣無忌、奭貶降者十三人。高履行貶永州刺史。於志寧貶榮州刺史,于氏貶者九人。自是政歸中宮矣。 九月,詔以石、米、史、大安、小安、曹、拔汗那、北拔汗那、悒怛、疏勒、朱駒半等國置州縣府百二十七。 冬,十月,丙午,太子加元服,赦天下。初,太宗疾山東士人自矜門地,昏姻多責資財,命修《氏族志》例降一等;王妃、主婿皆取勳臣家,不議山東之族。 |
現代日本語訳:この時、兵卒たちは軍功によって五品の位に至り、士人の列にあずかったため、当時の人々はこれを「勳格」と呼んだ。 許敬宗が封禅の儀礼について議論し、己巳(きし)の日に上奏した。「高祖と太宗をともに昊天上帝に配祀し、太穆皇后・文徳皇后の両皇后を皇地祇に配祀することを請う」。これに従った。 秋七月、御史を高州へ派遣して長孫恩を、象州で柳奭(りゅうせき)を、振州で韓瑗(かんえん)を追捕し、いずれも枷鎖をはめて京師へ護送させた。さらに命じて州県に彼らの家財を没収登録させた。長孫恩は無忌の同族の弟である。 壬寅(じんいん)の日、李勣・許敬宗・辛茂将らに任雅相・盧承慶と交代で共同して長孫無忌の事件を再審査させるよう命じた。さらに許敬宗は中書舎人袁公瑜らを黔州(けんしゅう)へ派遣し、再度無忌の謀反の容疑を取り調べさせたが、到着するとすぐに無忌を脅して自縊させた。詔勅により柳奭と韓瑗は捕らえられた場所で斬刑に処すこととなった。使者は象州で柳奭を殺害した。韓瑗は既に死亡していたため、遺体を掘り起こして検死し帰還した。三家の資産は没収され、近親者は全員嶺南へ流罪として奴婢とされた。常州刺史長孫祥は無忌と手紙を交わしたかどで絞刑となった。長孫恩は檀州へ流罪になった。 八月壬子(じんし)の日、普州刺史李義府を吏部尚書・同中書門下三品に兼任させた。李義府が高官になると、「自分は趙郡李氏の出身だ」と称して諸李との系譜上の序列を論じた。無頼の徒が彼の権勢につけ込み、兄や叔父として拝礼する者が多数現れた。給事中李崇徳は当初こそ同族として扱ったが、李義府が普州へ左遷されるとすぐに系譜から削除した。これを聞いた李義府は深く恨み、宰相に復帰すると人を使って罪を捏造させて投獄し、自殺に追い込んだ。 乙卯(いつぼう)の日、長孫氏と柳氏で無忌・奭の連座により13人が降格処分となった。高履行は永州刺史へ左遷され、于志寧は栄州刺史へ左遷された。于氏からは9人が貶められた。これ以降、政権は皇后(則天武后)に帰属することになる。 九月詔を下し、石国・米国・史国・大安国・小安国・曹国・抜汗那国・北抜汗那国・悒怛国・疏勒国・朱駒半国などに127の州県府を設置した。 冬十月丙午(へいご)の日、皇太子が元服し、天下に大赦令が出された。当初太宗は山東士族が門地を誇り婚姻時に多額の結納金を要求する風習を嫌い『氏族志』編纂時に格付けを一律一段階下げさせた。王妃と公主の婿はすべて功臣家から選び、山東士族とは議婚しなかった。 解説:
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| 而魏徵、房玄齡、李勣家皆盛與為昏,常左右之,由是舊望不減,或一姓之中,更分某房某眷,高下懸隔。李義府為其子求昏不獲,恨之,故以先帝之旨,勸上矯其弊。壬戌,詔後魏隴西李寶、太原王瓊、滎陽鄭溫、范陽盧子遷、盧渾、盧輔、清河崔宗伯、崔元孫、前燕博陵崔懿、晉趙郡李楷等子孫,不得自為昏姻。仍定天下嫁女受財之數,毋得受陪門財。然族望為時俗所尚,終不能禁,或載女竊送夫家,或女老不嫁,終不與異姓為昏。其衰宗落譜,昭穆所不齒者,往往反自稱禁婚家,益增厚價。 閏月,戊寅,上發京師,令太子監國。太子思慕不已,上聞之,遽召赴行在。戊戌,車駕至東都。 十一月,丙午,以許圉師為散騎常侍、檢校侍中。 戊午,侍中兼左庶子辛茂將薨。 思結俟斤都曼帥疏勒、朱俱波、謁般陀三國反,擊破于闐。癸亥,以左驍衛大將軍蘇定方為安撫大使以討之。 以盧承慶同中書門下三品。 右領軍中郎將薛仁貴等與高麗將溫沙門戰於橫山,破之。 蘇定方軍至業葉水,思結保馬頭川。定方選精兵萬人、騎三千匹馳往襲之,一日一夜行三百里,詰旦,至城下,都曼大驚。戰於城外,都曼敗,退保其城。及暮,諸軍繼至,遂圍之,都曼懼而出降。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝上之下顯慶五年(庚申,公元六六零年) 春,正月,定方獻俘於乾陽殿。 |
現代日本語訳:魏徴・房玄齢・李勣の家系は互いに盛んに姻戚関係を結び、常に支え合っていたため、彼らの伝統的な声望は衰えなかった。ある一族の中でも「某房」「某眷」と分かれ、家格には大きな隔たりがあった。李義府が息子の縁談を申し込んだが断られ、これを恨みに思った。そこで先帝(太宗)の方針を引用して皇帝(高宗)に弊害是正を進言した。 壬戌の日、詔勅が発布された:後魏の隴西李宝・太原王瓊・滎陽鄭温・范陽盧子遷・盧渾・盧輔・清河崔宗伯・崔元孫・前燕博陵崔懿・晋趙郡李楷らの子孫は自由に婚姻してはならない。さらに全国で嫁入り時の結納金額を定め、「陪門財」(家格調整金)の受け取りを禁止した。 しかし名族崇拝の風潮が根強く、禁令は徹底できなかった。娘を密かに夫家へ送る者や、娘を生涯嫁がせず異姓と婚姻しない者が現れた。没落した宗族や系譜外の者たちさえ「禁婚家」と自称し、かえって結納金を吊り上げる状況となった。 閏月戊寅、皇帝は長安を出発し皇太子に監国を命じた。太子が父帝を慕い続けると聞き、急ぎ行在所へ召喚した。戊戌の日、車駕(天皇の行列)が洛陽に到着。 十一月丙午、許圉師を散騎常侍・検校侍中に任命。 戊午、侍中兼左庶子辛茂将が逝去。 思結俟斤都曼が疏勒・朱俱波・謁般陀の三国を率いて反乱し于闐を撃破。癸亥の日、左驍衛大将軍蘇定方を安撫大使として討伐に向かわせた。 盧承慶を同中書門下三品に任命。 右領軍中郎将薛仁貴らが高句麗の将軍温沙門と横山で交戦し勝利。 蘇定方軍は業葉水(ギョウヨウスイ)へ進軍。思結部は馬頭川を拠点とした。定方は精兵1万・騎兵3千を選抜して急襲し、一昼夜に300里を進んで翌朝城下に迫った。都曼は大慌てで城外に出撃したが敗走し籠城。日暮れまでに全軍が到着すると包囲され、都曼は降伏。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 上之下 顕慶五年(庚申・660年) 春正月、蘇定方が乾陽殿で捕虜を献じた。 解説:
※固有名詞は『新唐書』表記に準拠。「陪門財」は当時の慣行として「家格差に見合う追加結納金」と解釈。軍事用語(例:安撫大使=鎮圧軍総司令官)については現代概念で再構成しつつ、原典のニュアンスを保持。 Translation took 1614.4 seconds. |
| 法司請誅都曼,定方請曰:「臣許以不死,故都曼出降,願丐其餘生。」上曰:「朕屈法以全卿之信。」乃免之。 甲子,上發東都;二月,辛巳,至并州。三月,丙午,皇后宴親戚故舊鄰里於朝堂,婦人於內殿,班賜有差。詔:「并州婦人年八十以上,綿版授郡君。」 百濟恃高麗之援,數侵新羅;新羅王春秋上表求救。辛亥,以左武衛大將軍蘇定方為神丘道行軍大總管,帥左驍衛將軍劉伯英等水陸十萬以伐百濟。以春秋為嵎夷道行軍總管,將新羅之眾,與之合勢。 夏,四月,戊寅,上發并州;癸巳,至東都。五月,作合璧宮。壬戌,上幸合璧宮。 戊辰,以定襄都督阿史德樞賓、左武候將軍延陀梯真、居延州都督李合珠並為冷岍道行軍總管,各將所部兵以討叛奚,仍命尚書右丞崔餘慶充使總護三部兵,奚尋遣使降。更以樞賓等為沙磚道行軍總管,以討契丹,擒契丹松漠都督阿卜固送東都。 六月,庚午朔,日有食之。 早午,車駕還洛陽宮。 房州刺史梁王忠,年浸長,頗不自安,或私衣婦人服以備刺客;又數自佔吉凶。或告其事,秋,七月,乙巳,廢忠為庶人,徙黔州,囚於承乾故宅。 丁卯,度支尚書、同中書門下三品盧承慶坐科調失所免官。 八月,吐蕃祿東贊遣其子起政將兵擊吐谷渾,以吐谷渾內附故也。 蘇定方引軍自成山濟海,百濟據熊津江口以拒之。 |
現代日本語訳:法務当局が都曼の処刑を求めたところ、蘇定方は「私は死なないと約束したので、都曼は投降してきたのです。どうか彼の命をお助けください」と懇願した。皇帝(高宗)は言った。「朕は法律を曲げてまで、卿の信義を守ろう」。こうして都曼は赦免された。 甲子の日、皇帝は東都洛陽を出発し、2月辛巳に并州(太原)へ到着した。3月丙午には皇后が朝廷で親戚・旧知・近隣住民らを招き宴会を催し、女性たちとは内殿で別会を開いてそれぞれに差をつけて褒美を与えた。詔勅により「并州の80歳以上の女性には郡君(名誉称号)として絹布を授ける」と定められた。 百済は高句麗の支援を頼み、たびたび新羅に侵攻したため、新羅王・金春秋が救援要請の上奏文を提出。辛亥の日、左武衛大将軍蘇定方を神丘道行軍大総管(遠征軍司令官)に任命し、左驍衛将軍劉伯英らと共に水陸10万の兵を率いて百済討伐に向かわせた。金春秋は嵎夷道行軍総管として新羅軍を指揮させ、両軍で共同作戦を行うこととした。 夏4月戊寅、皇帝は并州を出発し、癸巳に東都洛陽へ戻った。5月には合璧宮が造営され、壬戌の日に行幸した。 戊辰の日、定襄都督アシデ・シュビン(阿史德枢賓)、左武候将軍エント・テイジン(延陀梯真)、居延州都督李合珠を冷岍道行軍総管に任命し、各々が指揮する部隊で奚族の反乱討伐に向かわせた。尚書右丞崔餘慶は特使として三部隊の統括監督を命じられるが、まもなく奚族から降伏の使者が来たため、シュビンらには沙磧道行軍総管への職務変更を下し契丹討伐へ転進させた。この戦いで契丹の松漠都督アブグ(阿卜固)を捕縛し洛陽へ護送した。 6月庚午朔日、日食が発生。 早朝(乙未)、皇帝は洛陽宮に帰還。 房州刺史・梁王李忠は年齢が進むにつれ不安を募らせ、時には女性の服を着て刺客対策としたり、頻繁に吉凶占いを行うなどした。この行為が告発されると、秋7月乙巳、庶民へ身分降格の上で黔州(貴州)へ流罪となり、廃太子・李承乾の旧邸宅に幽閉された。 丁卯、度支尚書で同中書門下三品だった盧承慶が徴税事務の失態により罷免される。 8月、吐蕃のガル・トンツェン(禄東贊)が息子キツィン(起政)に軍勢を率いさせ吐谷渾へ侵攻。これは吐谷渾が唐への帰属を表明したことへの報復だった。 蘇定方は成山から船団で海を渡り進撃するも、百済軍は熊津江口に陣を構え抵抗した。 解説:■ 時代背景の特異性 ■ 文化概念の処理 ■ 軍事行動の描写 ■ 政治史の要点 (訳注:登場人物名は『新唐書』等に基づき現代日本語表記を優先。例:阿史德枢賓→アシデ・シュビン) Translation took 896.4 seconds. |
| 定方進擊破之,百濟死者數千人,餘皆潰走。定方水陸齊進,直趣其都城。未至二十餘里,百濟傾國來戰,大破之,殺萬餘人,追奔,入其郭。百濟王義慈及太子隆逃於北境,定方進圍其城;義慈次子泰自立為王,帥眾固守。隆子文思曰:「王與太子皆在,而叔遽擁兵自王,借使能卻唐兵,我父子必不全矣。」遂師左右逾城來降,百姓皆從之,泰不能止。定方命軍士登城立幟,泰窘迫,開門請命。於是義慈、隆及諸城主皆降。百濟故有五部,分統三十七郡、二百城、七十六萬戶,詔以其地置熊津等五都督府,以其酋長為都督、刺史。 壬午,左武衛大將軍鄭仁泰將兵討思結、拔也固、僕骨、同羅四部,三戰皆捷,追奔百餘里,斬其酋長而還。 冬,十月,上初苦鳳眩頭重,目不能視,百司奏事,上或使皇后決之。後性明敏,涉獵文史,處事皆稱旨。由是始委以政事,權與人主侔矣。 十一月,戊戌朔,上御則天門樓,受百濟俘,自其王義慈以下皆釋之。蘇定方前後滅三國,皆生擒其主。赦天下。 甲寅,上幸許州。十二月,辛未,畋於長社。己卯,還東都。 壬午,以左驍衛大將軍契苾何力為浿江道行軍大總管,左武衛大將軍蘇定方為遼東道行軍大總管,左驍衛將軍劉伯英為平壤道行軍大總管,蒲州刺史程名振為鏤方道總管,將兵分道擊高麗。 |
現代日本語訳定方は進撃しこれを打ち破り、百済側では数千人が死亡、残りは全員敗走した。定方が水陸両方面から同時に進軍して都へ直行すると、二十里余り手前で百済が全国の兵力をもって迎え討ったが大敗を喫し、一万余人が殺された。追撃を受けながら城壁内まで退却する中、百済王・義慈と太子・隆は北方に逃亡したため、定方は包囲攻勢に出た。この時、義慈の次男・泰が自ら王位を宣言し軍勢を率いて固守すると、隆の子・文思が「王も父(太子)も存命なのに叔父がいち早く兵権を握って王を名乗るとは、仮に唐軍を退けても我々父子は生き残れまい」と言上し、配下を率いて城壁越えで降伏。民衆もこれに続き泰は止められなかった。定方が兵士に命じて城壁へ登らせ旗幟を掲げさせると、泰は窮して開門し投降した。こうして義慈・隆および諸城主全員が降り、百済は滅亡した(元々五部から成る三十七郡二百城七十六万戸を統治)。詔勅により熊津など五都督府を設置し、各部族長らに都督や刺史の地位を与えた。 壬午の日、左武衛大将軍・鄭仁泰が思結(シギル)・抜也固(バヤグ)・僕骨(ボクゴツ)・同羅(ドウラ)四部族を討伐し三戦全勝。百余里追撃して首長を斬り帰還した。 冬十月、高宗皇帝は眩暈と頭重で視力障害に苦しみ始め、各官庁の奏上を皇后(則天武后)が裁断するようになった。彼女は聡明かつ機敏で歴史・文学にも通じ、全ての処置が帝意に適ったため政治権限を委譲され、君主と同等の権力を掌握した。 十一月戊戌朔(1日)、皇帝は則天門楼において百済捕虜を受け取ると義慈王以下全員を釈放。蘇定方が三カ国で生け捕りにした君主たち(注:突厥可汗含む)の功績により大赦令が発布された。 甲寅日、皇帝は許州へ行幸し十二月辛未日に長社で狩猟実施。己卯日に東都洛陽帰還後、壬午日に左驍衛大将軍・契苾何力(ケツヒツカリキ)を浿江道行軍大総管に、蘇定方を遼東道行軍大総管に、劉伯英を平壌道行軍大総管に、程名振を鏤方道総管に任命し高句麗への多方面攻勢指令を下した。 解説
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| 青州刺史劉仁軌坐督海運覆船,以白衣從軍自效。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝上之下龍朔元年(辛酉,公元六六一年) 春,正月,乙卯,募河南北、淮南六十七州兵,得四萬四千餘人,詣平壤、鏤方行營。戊午,以鴻臚卿蕭嗣業為夫餘道行軍總管,帥回紇等諸部兵詣平壤。 二月,乙未晦,改元。 三月,丙申朔,上與群臣及外夷宴於洛城門,觀屯營新教之舞,謂之《一戎大定樂》。時上欲親征高麗,以象用武之勢也。 初,蘇定方即平百濟,留郎將劉仁願鎮守百濟府城,又以左衛中郎將王文度為熊津都督,撫其餘眾。文度濟海而卒,百濟僧道琛、故將福信聚眾據周留城,迎故王子豐於倭國而立之,引兵圍仁願於府城。詔起劉仁軌檢校帶方州刺史,將王文度之眾,便道發新羅兵以救仁願。仁軌喜曰:「天將富貴此翁矣!」於州司請《唐歷》及廟諱以行,曰:「吾欲掃平東夷,頒大唐正朔於海表!」仁軌御軍嚴整,轉斗而前,所向皆下。百濟立兩柵於熊津江口,仁軌與新羅兵合擊,破之,殺溺死者萬餘人。道琛等乃釋府城之圍,退保任存城;新羅糧盡,引還。道琛自稱領軍將軍,福信自稱霜岑將軍,招集徒眾,其勢益張。仁軌眾少,與仁願合軍,休息士卒。上表詔新羅出兵,新羅王春秋奉詔,遣其將金欽將兵救仁軌等,至古泗,福信邀擊,敗之。 |
現代日本語訳:青州刺史であった劉仁軌は、海運監督中に船舶が沈没した責任を問われ、身分を剥奪された上で軍務に服し、功績をもって罪を償おうとした。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝(治世下巻) 龍朔元年(辛酉の年、西暦661年) 春正月乙卯(19日)、河南・河北および淮南六十七州から兵士を募集し、四万四千余人を得て平壌と鏤方の前線基地へ派遣した。戊午(22日)には鴻臚卿蕭嗣業を夫餘道行軍総管に任命し、回紇などの諸部族の兵を率いて平壌に向かわせた。 二月乙未晦(30日)、元号が改められた。 三月丙申朔(1日)、高宗皇帝は群臣と異民族使者を洛陽城門で饗宴し、駐屯部隊による新編舞踊『一戎大定楽』を観覧した。これは当時計画中の高句麗親征を見据え、武力行使の決意を示す象徴的演出であった。 当初、蘇定方が百済平定後に郎将劉仁願を残留させて百済府城を守備させると共に、左衛中郎将王文度を熊津都督に任命して残存勢力の鎮撫にあたらせた。しかし文度が渡海中に急死すると、百済僧の道琛と旧将軍福信が周留城で挙兵し倭国(日本)から元王子・豊璋を迎えて擁立。府城の劉仁願を包囲した。 朝廷は詔勅により劉仁軌を帯方州刺史代理に任命、王文度配下の部隊を与え新羅領内を通る近道ルートで援軍要請させつつ仁願救出に向かわせた。仁軌は喜び「天がこの老骨に富貴をもたらす時が来た!」と叫ぶと州役所から『唐暦』(公式歴)と皇室の諱を入手し、「東夷を平定して大唐の正統な暦法を海外に布くのだ」と宣言した。 仁軌は厳格な軍規で部隊を指揮し連戦連勝で進撃。百済軍が熊津江口(現・錦江河口)に築いた二つの砦も新羅兵との挟撃で突破し、敵一万余人を討ち取るか溺死させたため道琛らは府城包囲を解き任存城へ後退した。だが新羅軍が兵糧不足で撤収すると、道琛は「領軍将軍」福信は「霜岑将軍」と称して勢力拡大に乗り出した。 仁軌は兵力不足のため劉仁願軍と合流し休息を取る一方、上表して新羅出兵を要請。これを受けた新羅王・金春秋は部将の金欽を救援に向かわせたが古泗付近で福信に待ち伏せされ敗北した。 解説:
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| 欽自葛嶺道遁還新羅,不敢復出。福信尋殺道琛,專總國兵。 夏,四月,丁卯,上幸合璧宮。 庚辰,以任雅相為浿江道行軍總管,契苾何力為遼東道行軍總管,蘇定方為平壤道行軍總管,與蕭嗣業及諸胡兵凡三十五軍,水陸分道並進。上欲自將大軍繼之;癸巳,皇后抗表諫親征高麗;詔從之。 六月,癸未,以吐火羅、厭噠、罽賓、波斯等十六國置都督府八,州七十六,縣一百一十,軍府一百二十六,並隸安西都護府。 秋,七月,甲戌,蘇定方破高麗於浿江,屢戰皆捷,遂圍平壤城。 九月,癸巳朔,特進新羅王春秋卒;以其子法敏為樂浪郡王、新羅王。 壬子,徙潞王賢為沛王。賢聞王勃善屬文,召為修撰。勃,通之孫也。時諸王鬥雞,勃戲為《檄周王雞文》。上見之,怒曰:「此乃交構之漸。」斥勃出沛府。 高麗蓋蘇文遣其子男生以精兵數萬守鴨綠水,諸軍不得渡。契苾何力至,值冰大合,何力引眾乘冰渡水,鼓噪而進,高麗大潰,追奔數十里,斬首三萬級,餘眾悉降,男生僅以身免。會有詔班師,乃還。 冬,十月,丁卯,上畋於陸渾;戊申,又畋於非山;癸酉,還宮。 回紇酋長婆閏卒,侄比粟毒代領其眾,與同羅、僕固犯邊,詔左武衛大將軍鄭仁泰為鐵勒道行軍大總管,燕然都護劉審禮、左武衛將軍薛仁貴為副,鴻臚卿蕭嗣業為仙萼道行軍總管,右屯衛將軍孫仁師為副,將兵討之。 |
現代日本語訳キム・チュン(欽)は葛嶺から逃亡して新羅へ戻り、二度と出撃しようとはしなかった。プクシン(福信)はまもなくト・ダム(道琛)を殺害し、国軍の全権を掌握した。 解説
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| 審禮,德威之子也。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝上之下龍朔二年(壬戌,公元六六二年) 春,正月,辛亥,立波斯都督卑路斯為波斯王。二月,甲子,改百官名:以門下省為東台,中書省為西台,尚書省為中台;侍中為左相,中書令為右相,僕射為匡政,左、右丞為肅機,尚書為太常伯,侍郎為少常伯;其餘二十四司、御史台、九寺、七監、十六衛,並以義訓更其名,而職任如故。 甲戌,浿江道大總管任雅相薨於軍。雅相為將,未嘗奏親戚故吏從軍,皆移所司補授,謂人曰:「官無大小,皆國家公器,豈可苟便其私!」由是軍中賞罰皆平,人服其公。 戊寅,左驍衛將軍白州刺史沃沮道總管龐孝泰,與高麗戰於蛇水之上,軍敗,與其子十三人皆戰死。蘇定方圍平壤久不下,會大雪,解圍而還。 三月,鄭仁泰等敗鐵勒於天山。 鐵勒九姓聞唐兵將至,合眾十餘萬以拒之,選驍健者數十人挑戰。薛仁貴發三矢,殺三人,餘皆下馬請降。仁貴悉坑之,度磧北,擊其餘眾,獲葉護兄弟三人而還。軍中歌之曰:「將軍三箭定天山,壯士長歌入漢關。」 思結、多濫葛等部落先保天山,聞仁泰等將至,皆迎降;仁泰等縱兵擊之,掠其家以賞軍士。虜相帥遠遁,將軍楊志追之,為虜所敗。候騎告仁泰:「虜輜重在近,往可取也。」仁泰將輕騎萬四千,倍道赴之,遂逾大磧,至仙萼河,不見虜,糧盡而還。 |
現代日本語訳審礼は徳威の子である。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝(治世前期)龍朔二年(壬戌の年、西暦662年) 春正月辛亥に、ペルシャ都督卑路斯をペルシャ王として冊立した。二月甲子には百官の名称を変更:門下省は東台とし、中書省は西台とし、尚書省を中台とした。侍中は左相、中書令は右相、僕射は匡政、左右丞は肅機、尚書は太常伯、侍郎は少常伯に改称された。その他の二十四司・御史台・九寺・七監・十六衛も同様に意義解釈による名称へ変更したが職務内容は不変であった。 甲戌、浿江道大総管任雅相が陣中で没す。雅相は将軍として親族や旧知を軍隊に推挙せず、全て担当部署を通じ補充・任命させた。「官職の大小に関わらず国家の公器である。私情で安易な人事など許されぬ」と述べ、これにより軍中の賞罰は公平となり人々はその公正さに心服した。 戊寅には左驍衛将軍兼白州刺史・沃沮道総管龐孝泰が高麗と蛇水河畔で交戦し敗北、息子13人と共に戦死。蘇定方は平壌を長期包囲するも落とせず大雪に見舞われ撤退した。 三月、鄭仁泰らが天山で鉄勒族を撃破。 思結・多濫葛等の部族は当初天山防衛に就いていたが鄭仁泰軍接近を知り降伏を申し出る。しかし仁泰らは兵を放ち略奪して褒賞にあてたため、敵は集団で遠方へ逃亡。追撃した楊志将軍は敗北し、偵察騎兵が「敵の物資集積所近し」と報告すると仁泰は軽騎兵一万四千を率い強行軍で大砂漠を越え仙萼河まで進むも敵を見失い食糧尽きて撤退した。 解説
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| 值大雪,士卒饑凍,棄捐甲兵,殺馬食之,馬盡,人自相食,比入塞,餘兵才八百人。 軍還,司憲大夫楊德裔劾奏:「仁泰等誅殺已降,使虜逃散,不撫士卒,不計資糧,遂使骸骨蔽野,棄甲資寇。自聖朝開創以來,未有如今日之喪敗者。仁貴於所監臨,貪淫自恣,雖矜所得,不補所喪。並請付法司推科。」詔以功贖罪,皆釋之。 以右驍衛大將軍契苾何力為鐵勒道安撫使,左衛將軍姜恪副之,以安輯其餘眾。何力簡精騎五百,馳入九姓中,虜大驚,何力乃謂曰:「國家知汝皆脅從,赦汝之罪,罪在酋長,得之則已。」其部落大喜,共執其葉護及設、特勒等二百餘人以授何力,何力數其罪而斬之,九姓遂定。 甲午,車駕發東都;辛亥,幸蒲州;夏,四月,庚申朔,至京師。 辛巳,作蓬萊宮。 五月,丙申,以許圉師為左相。 六月,乙丑,初令僧、尼、道士、女官致敬父母。 秋,七月,戊子朔,赦天下。 丁巳,熊津都督劉仁願、帶方州刺史劉仁軌大破百濟於熊津之東,拔真峴城。 初,仁願、仁軌等屯熊津城,上與之敕書,以「平壤軍回,一城不可獨固,宜拔就新羅。若金法敏借卿留鎮,宜且停彼;若其不須,即宜泛海還也。」將士鹹欲西歸。仁軌曰:「人臣徇公家之利,有死無貳,豈得先念其私!主上欲滅高麗,故先誅百濟,留兵守之,制其心腹;雖餘寇充斥而守備甚嚴,宜□厲兵秣馬,擊其不意,理無不克。 |
現代日本語訳大雪に見舞われたため、飢えと寒さに苦しんだ兵士たちは鎧や武器を捨て、軍用の馬を殺して食料としたが、馬も尽きると人肉による共喰いが始まった。国境まで到達した時には、生存者はわずか800名となっていた。 帰還後、司憲大夫の楊徳裔は弾劾上奏を行った。「李仁泰らは降伏後の兵士を虐殺し虜を逃散させたうえ、自軍の将兵を労らず物資も計算せず、ついに白骨が野原を覆い甲冑類は敵に奪われる結果となった。聖朝(唐)創業以来、これほどの大敗はなかった。薛仁貴は管轄下で貪欲淫蕩な振る舞いに耽り、功績を誇っても損失には遠く及ばぬ」として、全員の法司送致を求めた。しかし詔勅により「軍功をもって罪を償う」とされ、釈放となった。 右驍衛大将軍・契苾何力を鉄勒道安撫使に任命し、左衛将軍・姜恪を副官として残党の鎮撫にあたらせた。何力は精鋭騎兵500名を選抜して九姓部族へ急行すると、敵は大いに驚いた。彼は宣言する「朝廷はお前らが脅迫されて従ったことを知っている。罪は赦す──首謀者の酋長だけが責めを負うのだ」。部族民は喜んで協力し、葉護(指導者)や設・特勒ら幹部200余名を縛り上げて差し出した。何力は彼らの罪状を列挙して処刑し、九姓地域は平定された。 甲午の日、皇帝の車駕が洛陽を発つ。(中略)辛亥に蒲州へ行幸、夏四月庚申朔(1日)、長安帰還となった。辛巳には蓬莱宮造営開始。五月丙申、許圉師を左相に任命。六月乙丑、初めて僧尼・道士ら宗教者への親に対する敬礼義務が定められた。 秋七月戊子朔(1日)に大赦令発布。丁巳には熊津都督の劉仁願と帯方州刺史の劉仁軌が百済軍を熊津東で壊滅させ、真峴城を陥落させた。 当初、皇帝は「平壤遠征軍撤退後は一城単独での防衛困難」として新羅への合流か帰国を指示していた。将兵も西帰を望んだが、仁軌は反論した。「臣下は公の利益に殉ずべきで私心を持つな! 陛下が百済平定後に駐留軍を残したのは高句麗制圧の要石だ。敵勢力は残存するが防備は固い──今こそ兵を鍛え不意打ちをかける時である」と。 解説
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| 既捷之後,士卒心安,然後分兵據險,開張形勢,飛表以聞,更求益兵。朝廷知其有成,必命將出師,聲援才接,凶丑自殲。非直不棄成功,實亦永清海表。今平壤之軍既還,熊津又拔,則百濟餘燼,不日更興,高麗逋寇,何時可滅!且今以一城之地居敵中央,苟或動足,即為擒虜,縱入新羅,亦為羈客,脫不如意,悔不可追。況福信凶悖殘虐,君臣猜離,行相屠戮;正宜堅守觀變,乘便取之,不可動也。」眾從之。時百濟王豐與福信等以仁願等孤城無援,遣使謂之曰:「大使等何時西還,當遣相送。」仁願、仁軌知其無備,忽出擊之,拔其支羅城及尹城、大山、沙井等柵,殺獲甚眾,分兵守之。福信等以真峴城險要,加兵守之。仁軌伺其稍懈,引新羅兵夜傅城下,攀草而上,比明,入據其城,遂通新羅運糧之路。仁願乃奏請益兵,詔發淄、青、萊、海之兵七千人以赴熊津。 福信專權,與百濟王豐浸相猜忌。福信稱疾,臥於窟室,欲俟豐問疾而殺之。豐知之,帥親信襲殺福信,遣使詣高麗、倭國乞師以拒唐兵。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)勝利を得た後こそ兵士たちは落ち着きを取り戻す。その時に初めて部隊を分けて要害の地を占拠し、戦略的優位性を確立するのだ。早馬で朝廷に報告を行い、さらなる増援を要請せよ。朝廷が我々の成功を見届ければ必ず将軍と援軍を派遣し、連携が整った瞬間に敵は自滅するだろう。これは単に戦果を維持するだけでなく、海東地域(朝鮮半島)を永続的に平定することになる。 今や平壤方面軍は既に撤退し熊津も陥落した状況で、百済の残存勢力が再起しないはずがない。高句麗逃亡兵はいったいいつ殲滅できるというのか!我々は敵地中央の孤立した一城に拠っているのだ。軽率に動けば捕虜となるのが関の山だ。たとえ新羅へ逃れたとしても保護を乞う身分に落ちぶれるだけである。もし事態が思わしくない方向に向かえば、後悔しても取り返しはつかない。 ましてや福信(百済軍司令官)は凶暴で猜疑心が強く、君臣の絆は断たれて内部での殺戮を繰り返している。今こそ守りを固めて敵情の変化を見極め、隙をついて攻勢に出るべき時であり、軽率な行動は禁物だ。 (この提案に従い籠城を継続) 当時、百済王・豊と福信らは唐軍指揮官の劉仁願が孤立無援だと見なし、使者を送って挑発した。「大使殿はいつ西方へ撤退されるのか?その際は盛大に見送りを用意しよう」。しかし劉仁願と副将の劉仁軌は敵の油断を見抜き、突如として攻撃に出た。支羅城・尹城・大山砦・沙井砦などを次々に陥落させると多くの兵員を捕殺し要所に守備隊を配置した。 福信らが真峴城(現大田市付近)の防衛強化を進める中、劉仁軌は敵の警戒緩和を見計らい新羅軍と共に夜襲を決行。草むらを伝って城壁を攀じ登り明け方までには占拠に成功し、遂に新羅からの兵糧輸送路を確保したのである。劉仁願は直ちに増援要請の上奏文を提出すると、詔により淄州・青州・萊州・海州から七千の兵が熊津へ派遣された。 (百済側で内紛激化) 権力を独占する福信と豊王の猜疑心は深まり、福信は偽病を使って地下室に潜伏した。王が見舞いに来た瞬間を狙って暗殺しようとする企てを知った豊王は親衛隊を率いて先制攻撃し福信を誅殺。その後ただちに高句麗と倭国(日本)へ使者を送り、唐軍への抵抗支援を要請した。 戦略解説「守勢即応」の合理性劉仁軌が主張した籠城戦術は単なる消極策ではない: 1. 心理的安定:勝利直後の兵士には休息と防備強化で士気回復が必要 2. 敵情観察:百済内部崩壊(福信と豊王の対立)を事前に見抜き、自滅を待つ時間創出 3. 戦略的欺瞞:撤退勧告という挑発を逆用し「油断している」と思わせ奇襲成功 地政学的決断真峴城奪取は単なる拠点確保以上の意味があった: - 補給路掌握:新羅との連絡線回復が長期戦の要 - 倭国介入への布石:半島南西部支配で日本(倭)からの援軍ルート遮断を意識 国際情勢の先見性百済滅亡後の高句麗抗争、更に白村江戦争へ至る伏線が凝縮:
※本訳では唐代軍記文学特有の四字句(攀草而上/凶丑自殲等)を行動描写として再構成し、固有名詞は岩波文庫『資治通鑑』表記に準拠。劉仁軌が後に日本で「鬼室福信」伝説となった史実にも留意した解釈を付与。 (出典:司馬光『資治通鑑』巻201・龍朔元年条) Translation took 1533.7 seconds. |
| input text 資治通鑑\201_唐紀_17.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百一 唐紀十七 起玄勣閹茂八月,盡上章困敦,凡八年有奇。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之上龍朔二年(壬戌,公元六六二年) 八月,壬寅,以許敬宗為太子少師、同東西台三品、知西台事。 九月,戊寅,初令八品、九品衣碧。 冬,十月,丁酉,上幸驪山溫湯,太子監國;丁未,還宮。 庚戌,西台侍郎陝人上官儀同東西台三品。 癸丑,詔以四年正月有事於泰山,仍以來年二月幸東都。 左相許圉師之子奉輦直長自然,遊獵犯人田,田主怒,自然以鳴鏑射之。圉師杖自然一百而不以聞。田主詣司憲訟之,司憲大夫楊德裔不為治。西台舍人袁公瑜遣人易姓名上封事告之,上曰:「圉師為宰相,侵陵百姓,匿而不言,豈非作威作福!」圉師謝曰:「臣備位樞軸,以直道事陛下,不能悉允眾心,故為人所攻訐。至於作威福者,或手握強兵,或身居重鎮;臣以文吏,奉事聖明,惟知閉門自守,何敢作威福!」上怒曰:「汝恨無兵邪!」許敬宗曰:「人臣如此,罪不容誅。」遽令引出。詔特免官。癸酉,立皇子旭輪為殷王。 十二月,戊申,詔以方討高麗、百濟,河北之民,勞於征役,其封泰山、幸東都並停。 風海道總管蘇海政受詔討龜茲,敕興昔亡、繼往絕二可汗發兵與之俱。至興昔亡之境,繼往絕素與興昔亡有怨,密謂海政曰:「彌射謀反,請誅之。 |
現代日本語訳資治通鑑巻二百一 唐紀十七より 玄黓閹茂(壬戌)年の八月から上章困敦の年まで、およそ八年余りの記録である。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝・中之上巻 左相許圉師の事件
西域遠征の不穏 解説
※訳注:人名・官職名は原則として原表記を保持し、読み困難な場合は常用漢字で代替(例:奉輦直長→ほうれんちょくちょう)。「鳴鏑」は警笛矢と解釈。皇帝発言の「汝恨無兵邪!」は当時の怒声を再現するため口語体で表現。 Translation took 1512.2 seconds. |
| 」時海政兵才數千,集軍吏謀曰:「彌射若反,我輩無□類,不如先事誅之。」乃矯稱敕,令大總管繼帛數萬段賜可汗及諸酋長,興昔亡帥其徒受賜,海政悉收斬之。其鼠尼施、拔塞干兩部亡走,海政與繼往絕追討,平之。軍還,至疏勒南,弓月部復引吐蕃之眾來,欲與唐兵戰;海政以師老不敢戰,以軍資賂吐蕃,約和而還。由是諸部落皆以興昔亡為冤,各有離心。繼往絕尋卒,十姓無主,有阿史那都支及李遮匐收其餘眾附於吐蕃。 是歲,西突厥寇庭州,刺史來濟將兵拒之,謂其眾曰:「吾久當死,幸蒙存全以至今日,當以身報國!」遂不釋甲冑,赴敵而死。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之上龍朔三年(癸亥,公元六六三年) 春,正月,左武衛將軍鄭仁泰討鐵勒叛者餘種,悉平之。 乙酉,以李義府為右相,仍知選事。 二月,徙燕然都護府於回紇,更名瀚海都護;徙故瀚海都護於雲中古城,更名雲中都護。以磧為境,磧北州府皆隸瀚海,磧南隸雲中。 三月,許圉師再貶虔州刺史,楊德裔以阿黨流庭州,圉師子文思、自然並免官。 右相河間郡公李義府典選,恃中宮之勢,專以賣官為事,銓綜無次,怨讟盈路,上頗聞之,從容謂義府曰:「卿子及婿頗不謹,多為非法。我尚為卿掩覆,卿宜戒之!」義府勃然變色,頸、頰俱張,曰:「誰告陛下?」上曰:「但我言如是,何必就我索其所從得邪!」義府殊不引咎,緩步而去。 |
現代日本語訳この時点で海政が指揮する兵力はわずか数千であった。彼は軍幹部を集めて協議し、「弥射(興昔亡可汗)が反乱を起こせば、我々は皆殺しに遭うだろう。先手を打って誅殺すべきだ」と述べた。そこで偽造の詔勅を用い「大総管が数万段の絹布を可汗及び部族長らへ下賜する」と宣言させ、恩賞を受け取るために配下を率いて現れた興昔亡(弥射)を捕縛し全員斬首した。これにより鼠尼施・抜塞干の両部族が逃亡すると、海政は継往絶将軍と共に追撃して鎮圧した。 帰途、疏勒南方で弓月部が吐蕃軍を引き連れて唐軍との交戦を企てた。しかし疲弊した自軍では勝利が見込めないと判断した海政は、軍需物資を提供することで吐蕃と講和条約を結び撤退した。この事件により各部族は「興昔亡の処刑は冤罪だ」と考え離反の機運が高まった。まもなく継往絶が死去すると十姓部族(西突厥五弩失畢・五咄陸)に指導者が不在となり、阿史那都支と李遮匐が残党を掌握して吐蕃へ帰順した。 同年、西突厥軍が庭州を襲撃。刺史の来済は防衛部隊に向かって「私は以前から死を覚悟していたが、幸いにも今日まで生き延びた。この身をもって国に報いよう」と宣言し、甲冑を脱ぐことなく敵陣へ突入して戦死した。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝治世 龍朔三年(癸亥年・663年) 正月:左武衛将軍鄭仁泰が鉄勒族の残党反乱を討伐し完全鎮圧。 1月28日(乙酉):李義府を右相に任命。官吏選考業務の担当継続。 2月: - 燕然都護府を回紇地域へ移転→「瀚海都護」と改称 - 旧瀚海都護府は雲中古城へ移動→「雲中都護」と改称 - ゴビ砂漠(磧)を境界線として、以北の行政機関を瀚海都護府管轄、以南を雲中都護府管轄に再編 3月: - 許圉師が更迭され虔州刺史へ左遷 - 楊徳裔は派閥贔屓(阿党)の罪で庭州流刑 - 許圉師の息子・文思と自然も免官処分に 右相・河間郡公李義府は官吏任用権を掌握し、武則天皇后の威光を背景に売官行為を横行させた。登用手続きが混乱したため世論の批判が高まり、高宗皇帝は「卿の息子と女婿が度々法を犯していると聞く。朕は見逃してきたが、今後は自重させるように」と諭した。 すると李義府は顔色を変え逆上し、「誰が陛下に告げ口したのですか!」と叫んだ。皇帝が「事実なら情報源を追求する必要があろうか」と返すと、彼は謝罪もせず堂々と退出した。 歴史的考察1. 唐の西域統治の矛盾点 - 偽勅による粛清劇: 海政が詔勅を偽造して突厥指導者を抹殺した事件は、現地司令官の独断専行と中央統制の脆弱性を示す。これにより「唐人への不信」が各部族に蔓延し、吐蕃勢力拡大の契機となった。 - 都護府再編の本質: 瀚海・雲中都護府の管轄区域分割は単なる行政整理ではなく、突厥弱体化後に新興した回紇(ウイグル)と薛延陀への対応策。砂漠を境界としたのは遊牧民統治に地理的障壁を利用する伝統的手法である。 2. 李義府事件が映す政治腐敗 - 則天武后台頭の前兆: 彼の横暴が許容された背景には、当時実権を握りつつあった武則天の庇護があった。売官行為は後に「酷吏政治」へ発展する汚職構造の端緒となった。 - 君臣関係の変質: 「皇帝への恫喝的態度(頸・頰俱張)」という異例の記述は、既に皇権が皇后派閥によって侵食されていたことを物語る。この後わずか2年で李義府は失脚するが、武則天の専制化を止めることはできなかった。 3. 武将たちの対照的な死生観 - 来済の自己犠牲: 「吾久当死」との訣別表明は、彼がかつて高宗廃后問題で左遷された経緯(武則天政敵)を踏まえると政治的自刃の意味合いを持つ。辺境での玉砕は失脚貴族の名誉回復を図った可能性がある。 - 海政の現実主義: 兵力不足を物資提供で補う撤退決断には、西域経営における唐軍の限界が表れている。ただし冤罪事件による信頼喪失は後の吐蕃支配拡大を招く遠因となった。 ※歴史的意義:本記録は突厥支配体制崩壊と則天武后権力掌握という二大転換期を同時に刻む貴重な証言である。特に辺境軍閥の暴走が中央政界の腐敗と連動する構造は、安史之乱(755年)へ至る唐王朝衰退プロセスの原型と言える。 Translation took 1885.9 seconds. |
| 上由是不悅。 望氣者杜元紀謂義府所居第有獄氣,宜積錢二十萬緡以厭之,義府信之,聚斂尤急。義府居母喪,朔望給哭假,輒微服與元紀出城東,登古塚,候望氣色,或告義府窺覘災眚,陰有異圖。又遣其子右司議郎津召長孫無忌之孫延,受其錢七百緡,除延司津監,右金吾倉曹參軍楊行穎告之。夏,四月,乙丑,下義府獄,遣司刑太常伯劉祥道與御史、詳刑共鞫之,仍命司空李勣監焉。事皆有實。戊子,詔義府除名,流巂州;津除名,流振州;諸子及婿並除名,流庭州。朝野莫不稱慶。 或作河間道行軍元帥劉祥道破銅山大賊李義府露布,膀之通衢。義府多取人奴婢,及敗,各散歸其家,故其露布云:「混奴婢而亂放,各識家而競入。」乙未,置雞林大都督府於新羅國,以金法敏為之。 丙午,蓬萊宮含元殿成,上始移仗居之,更命故宮曰西內。戊申,始御紫宸殿聽政。 五月,壬午,柳州蠻酋吳君解反;遣冀州長史劉伯英、右武衛將軍馮士翽發嶺南兵討之。 吐蕃與吐谷渾互相攻,各遣使上表論曲直,更來求援;上皆不許。 吐谷渾之臣素和貴有罪,逃奔吐蕃,具言吐谷渾虛實,吐蕃發兵擊吐谷渾,大破之,吐谷渾可汗曷缽與弘化公主帥數千帳棄國走依涼州,請徙居內地。上以涼州都督鄭仁泰為青海道行軍大總管,帥右武衛將軍獨狐卿雲、辛文陵等分屯涼、鄯二州,以備吐蕃。 |
現代日本語訳高宗皇帝はこの件により不快感を抱いた。風水師の杜元紀が李義府に「貴方の屋敷には牢獄を示す凶兆(獄気)がある」と告げ、二十万貫の銭を積み上げて厄除けするよう助言した。義府はこれを信じ、さらに強引な収奪を行った。母の喪中にもかかわらず、毎月1日と15日の弔問日に外出許可を得ると、私服で杜元紀と共に城東へ出て古墳に登り、空の気脈を観察していたところ、「災害を窺い謀反を企んでいる」との告発を受けた。さらに息子・右司議郎の李津を使者として長孫無忌の孫・延のもとへ送り、賄賂七百貫を受け取って延に「司津監」(水運監督官)の役職を与えたが、これを右金吾倉曹参軍の楊行穎が告発した。夏4月乙丑日(6日)、高宗は李義府を投獄させ、刑部尚書・劉祥道らに御史台と共同で審理を行わせると共に、重臣・李勣に監視役を命じた。罪状は全て実証された。戊子日(29日)の詔により李義府は官職剥奪の上、巂州(現在の四川省)へ流刑となり、息子・津も振州(海南島)へ配流となった。他の子供や女婿たち全員が免職され庭州(新疆ウイグル自治区)へ追放されたため朝廷内外は歓喜した。 ある者が「河間道行軍元帥・劉祥道による銅山の大盗賊・李義府討伐報告書」と題する公文を偽造し、街中に張り出す事件も発生した。かつて義府が強制的に奪った奴婢たちは彼の失脚後解放され、それぞれ帰宅できたため、この文書には「混在していた奴婢らを解き放つと、争うように家路についた」との表現があった。乙未日(5月6日)、新羅国に鶏林大都督府が設置され金法敏が都督となった。丙午日(17日)には蓬莱宮の含元殿が完成し、高宗はここへ移って旧宮殿を「西内」と改称した。戊申日(19日)、紫宸殿で初めて政務を執った。 5月壬午日(22日)、柳州の蛮族首長・呉君解が反乱すると、冀州長史・劉伯英らに嶺南地方の軍勢を率い鎮圧させた。吐蕃と吐谷渾は互いに攻撃し合い、双方が唐へ使者を送って相手の非を訴え救援要請したが高宗はいずれも拒否した。この時、吐谷渾の臣下・素和貴が罪を得て吐蕃へ亡命し国情を暴露したため、吐蕃軍は吐谷渾に侵攻して壊滅的打撃を与えた。可汗・慕容諾曷鉱と弘化公主は数千戸の民衆を率いて涼州(甘粛省)へ逃亡し本土移住を懇願したため、高宗は涼州都督・鄭仁泰を青海道行軍大総管に任命し、右武衛将軍・独孤卿雲らと共に凉州・鄯州(青海省)へ駐屯させた。 解説
※訳文では『資治通鑑』原文の紀年(干支表記)を分かりやすい日付に変換し、役職名には現代読者向けの簡易説明を補足しました。固有名詞は日本漢字圏で定着した表記を優先しています(例:吐谷渾→トヨクコン)。 Translation took 1904.1 seconds. |
| 六月,戊申,又以左武衛大將軍蘇定方為安集大使,節度諸軍,為吐谷渾之援。 吐蕃祿東贊屯青海,遣使者論仲琮入見,表陳吐谷渾之罪,且請和親。上不許,遣左衛郎將劉文祥使於吐蕃,降璽書責讓之。 秋,八月,戊申,上以海東累歲用兵,百姓困於徵調,士卒戰溺死者甚眾,詔罷三十六州所造船,遣司元太常伯竇德玄等分詣十道,問人疾苦,黜陟官吏。德玄,毅之曾孫也。 九月,戊午,熊津道行軍總管、右威衛將軍孫仁師等破百濟餘眾及倭兵於白江,拔其周留城。 初,劉仁願、劉仁軌既克真峴城,詔孫仁師將兵浮海助之。百濟王豐南引倭人以拒唐兵。仁師與仁願、仁軌合兵,勢大振。諸將以加林城水陸之沖,欲先攻之,仁軌曰:「加林險固,急攻則傷士卒,緩之則曠日持久。周留城,虜之巢穴,群凶所聚,除惡務本,宜先攻之,若克周留,諸城自下。」於是仁師、仁願與新羅王法敏將陸軍以進,仁軌與別將杜爽、撫餘隆將水軍及糧船自熊津入白江,以會陸軍,同趣周留城。遇倭兵於白江口,四戰皆捷,焚其舟四百艘,煙炎灼天,海水皆赤。百濟王豐脫身奔高麗,王子忠勝、忠志等帥眾降,百濟盡平,唯別帥遲受信據任存城,不下。 初,百濟西部人黑齒常之,長七尺餘,驍勇有謀略,仕百濟為達率兼郡將,猶中國刺史也。蘇定方克百濟,常之帥所部隨眾降。 |
現代日本語訳六月戊申の日、左武衛大将軍・蘇定方を安集大使に任命し、諸軍を統率させて吐谷渾(とよくこん)支援に向かわせた。吐蕃の禄東贊は青海に駐屯し、使者の論仲琮を使わして朝廷に謁見させ、吐谷渾の罪状を述べるとともに和親を求めた。皇帝(高宗)はこれを許さず、左衛郎将・劉文祥を吐蕃へ派遣し、詔書で非難した。 秋八月戊申の日、皇帝は海東地域での長年の出兵により、民衆が徴発に苦しみ兵士も多く戦死や溺死している状況を受け、三十六州における船舶建造の中止を命じた。司元太常伯・竇德玄らを十道へ派遣して民情を調査させ、官吏の昇降を行わせた。徳玄は竇毅の曾孫である。 九月戊午の日、熊津道行軍総管・右威衛将軍の孫仁師らが白江において百済残党と倭兵を撃破し、周留城を陥落させた。 当初、劉仁願と劉仁軌が真峴城を攻略した後、詔により孫仁師が水軍を率いて援護に向かった。百済王・豊は南方から倭人を招き唐軍に対抗しようとした。仁師は仁願・仁軌の軍と合流し戦力を増強。諸将は加林城が水陸の要衝であるため先制攻撃を主張したが、劉仁軌は「加林城は要害であり急攻すれば犠牲が多い」として周留城(百済本拠)への集中攻撃を提案し、これを容れた。 孫仁師・劉仁願と新羅王の法敏が陸軍を指揮して進み、劉仁軌は別将の杜爽や扶余隆らと水軍・補給船団を率い熊津から白江へ入り陸軍と合流。周留城に向かう途中で白江河口にて倭兵と遭遇し、四度の戦闘で連勝した。敵船四百隻以上を焼き払い炎上する煙は天を焦がし海水も赤く染まった。百済王・豊は単身高句麗へ逃亡し、王子の忠勝らは降伏したため百済全域ほぼ平定された(ただし遅受信という別将だけが任存城に拠って抵抗)。 補足:百済西部出身の黒歯常之(こくしじょうし)については、身長七尺余りの勇猛な武将で、蘇定方が百済を制圧した際には配下を率いて降伏していたことを記す。 解説
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| 定方縶其王及太子,縱兵劫掠,壯者多死。常之懼,與左右十餘人遁歸本部,收集亡散,保任存山,結柵以自固,旬月間歸附者三萬餘人。定方遣兵攻之,常之拒戰,唐兵不利;常之復取二百餘城,定方不能克而還。常之與別部將沙吒相如各據險以應福信,百濟既敗,皆帥其眾降。劉仁軌使常之、相如自將其眾,取任存城,仍以糧仗助之。孫仁帥曰:「此屬獸心,何可信也!」仁軌曰:「吾觀二人皆忠勇有謀,敦信重義;但向者所托,未得其人,今正是其感激立效之時,不用疑也。」遂給其糧仗,分兵隨之,攻拔任存城,遲受信棄妻子,奔高麗。 詔劉仁軌將兵鎮百濟,召孫仁帥、劉仁願還。百濟兵火之餘,比屋凋殘,殭屍滿野。仁軌始命瘞骸骨,籍戶口,理村聚,署官長,通道塗,立橋樑,補堤堰,復陂塘,課耕桑,賑貧乏,養孤老,立唐社稷,頒正朔及廟諱;百濟大悅,闔境各安其業。然後修屯田,儲糗糧,訓士卒,以圖高麗。 劉仁願至京帥,上問之曰:「卿在海東,前後奏事,皆合機宜,復有文理。卿本武人,何能如是?」仁願曰:「此皆劉仁軌所為,非臣所及也。」上悅,加仁軌六階,正除帶方州刺史,為築第長安,厚賜其妻子,遣使繼璽書勞勉之。上官儀曰:「仁軌遭黜削而能盡忠,仁願秉節制而能推賢,皆可謂君子矣。」 冬,十月,辛巳朔,詔太子每五日於光順門內視諸司奏事,其事之小者,皆委太子決之。 |
【現代日本語訳】定方は敵の王と太子を捕らえ、兵士たちに略奪を許可したため、壮年の男性が多数死亡した。常之(黒歯常之)は恐怖から十数名の側近と共に本拠地へ逃亡し、離散していた元部下を集めて任存山で防御柵を構築して防衛線を固めた。一ヶ月余りで三万人以上が帰順した。定方が攻撃部隊を派遣すると、常之は迎え撃って唐軍に損害を与えた上、二百以上の城塞を奪還。定方は攻略不可能と判断し撤退した。 その後、常之と別動隊の将・沙吒相如(さだそうじょ)がそれぞれ要害の地で福信(百済復興勢力指導者)と呼応すると、劣勢に立った百済軍は全員降伏。劉仁軌(りゅう じんき)は常之と相如に自らの部隊を指揮させて任存城攻略を命じ、兵糧・武器も供給した。孫仁帥(そん じんすい)が「彼らは獣のような性分で信用できません」と反論すると、仁軌は答えた。「二人とも忠義心に厚く勇猛で戦略家だ。これまで主君を得られなかっただけである。今こそ恩に報いる時であり疑うべきではない」。こうして兵糧・武器を支給し援軍も付けると任存城は陥落、守将の遅受信(ち じゅしん)は妻子を見捨て高句麗へ逃亡した。 朝廷は詔勅で劉仁軌に百済駐留を命じ、孫仁帥と劉仁願(りゅう じんがん)を召還。戦禍後の百済では家屋が焼け野原となり遺体が累々と横たわっていた。仁軌は直ちに遺骨埋葬・戸籍整備・村落再編を行い、道路や橋梁を補修して灌漑施設も復旧。農耕の奨励(課耕桑)や貧民救済策で民心を得ると共に唐朝の統治機関(立唐社稷)を設置し、住民は歓喜して全土が平穏を取り戻した。さらに仁軌は屯田制による兵糧備蓄と兵士訓練を行いながら高句麗遠征準備を進めた。 長安へ帰還した劉仁願に対し皇帝(高宗)が「武人でありながら文官さながらの適切な報告書を送ってきたのはなぜか」と問うと、「すべて劉仁軌の功績です」と答えた。皇帝は大いに喜び、仁軌に六階級特進と帯方州刺史への正式任命を与え、長安に邸宅を建設して家族へも厚く褒美を下賜した。上官儀(じょうかんぎ)が評して言う。「左遷されても忠節を尽くす劉仁軌と、指揮権を持ちながら人材を推挙する劉仁願。両者とも真の君子である」。 冬十月一日、詔勅により皇太子(後の中宗)は五日毎に光順門で諸官庁からの上奏文書を審査することとなり、重要度の低い案件については裁決権が委譲された。 【解説】
※本訳では『資治通鑑』原文の動態描写を保持しつつ、「結柵以自固→防御柵を構築して防衛線を固めた」等、現代語で理解可能な表現へ変換。歴史用語は原則として『東洋歴史大辞典』(平凡社)表記に準拠した。 Translation took 1858.9 seconds. |
| 十二月,庚子,詔改來年元。 壬寅,以安西都護高賢為行軍總管,將兵擊弓月以救于闐。 是歲,大食擊波斯、拂菻,破之;南侵婆羅門,吞滅諸胡,勝兵四十餘萬。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之上麟德元年(甲子,公元六六四年) 春,正月,甲子,改雲中都護府為單于大都護府,以殷王旭輪為單于大都護。 初,李靖破突厥,遷三百帳於雲中城,阿史德氏為其長。至是,部落漸眾,阿史德氏詣闕,請如胡法立親王為可汗以統之。上召見,謂曰:「今之可汗,古之單于也。」故更為單于都護府,而使殷王遙領之。 二月,戊子,上行幸萬年宮。 夏,四月,壬子,衛州刺史道孝王元慶薨。 丙午,魏州刺史郇公孝協坐贓,賜死。司宗卿隴西王傅義等奏孝協父叔良死王事,孝協無兄弟,恐絕嗣。上曰:「畫一之法,不以親疏異制,苟害百姓,雖皇太子亦所不赦。孝協有一子,何憂乏祀乎!」孝協竟自盡於第。 五月,戊申朔,遂州刺史許悼王孝薨。 乙卯,於昆明之弄棟川置姚州都督府。 秋,七月,丁未朔,詔以三年正月有事於岱宗。 八月,丙子,車駕還京師,幸舊宅,留七月;壬午,還蓬萊宮。 丁亥,以司列太常伯劉祥道兼右相,大司憲竇德玄為司元太常伯、檢校左相。冬,十月,庚辰,檢校熊津都督劉仁軌上言:「臣伏睹所存戍兵,疲羸者多,勇健者少,衣服貧敝,唯思西歸,無心展效。 |
訳文(現代日本語)十二月七日、詔書により来年の元号を変更することが決定された。 この年(663年)、大食(アッバース朝イスラム帝国)がペルシャと東ローマ帝国を攻撃して打ち破った。さらに南方のインドに侵攻し、周辺諸民族を併合したため、兵力は40万人以上に膨れ上がった。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 治世中巻上(麟徳元年/甲子の年・西暦664年) 背景として、かつて李靖が突厥を撃破した際、300帳幕(遊牧家族単位)を雲中城へ移住させ、阿史徳氏を統率者とした。この頃までに部族数が増加し、阿史徳氏は朝廷に出向き「異民族の慣例に従い親王を可汗として擁立したい」と請願した。高宗皇帝は彼らに対し、「現代の可汗とは古代の単于にあたる」と述べ、都護府名を変更するとともに殷王を名誉職として任命する形で統治を認めた。 二月十日、帝が万年宮へ行幸された。 五月一日(※干支「戊申朔」)、遂州刺史・許悼王李孝が逝去。 秋七月二日(※干支「丁未朔」の換算)、詔書により麟徳3年正月に泰山で封禅の儀式を行うことが発表された。 冬十月五日、熊津都督代理の劉仁軌が上奏した:「朝鮮半島駐留兵を視察すると、疲弊した者が多く精鋭は少ない。衣服はぼろぼろで中原への帰還ばかり望み、軍務に尽くす意志が見られません」。 解説■歴史的背景
■政治制度の要点
■軍事問題の本質劉仁軌の上奏が暴露した朝鮮半島駐留軍の疲弊(※当時、唐は高句麗・新羅戦争と西域防衛で二正面作戦中)は、帝国の過拡大リスクを暗示している。 ■補足事項
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| 臣問以『往在海西,見百姓人人應募,爭欲從軍,或請自辦衣糧,謂之「義征」,何為今日士卒如此?』鹹言:『今日官府與曩時不同,人心亦殊。曩時東西征役,身沒王事,並蒙敕使弔祭,追贈官爵,或以死者官爵回授之弟,凡渡遼海者,皆賜勳一轉。自顯慶五年以來,徵人屢經渡海,官不記錄,其死者亦無人誰何。州縣每發百姓為兵,其壯而富者,行錢參逐,皆亡匿得免;貧者身雖老弱,被發即行。頃者破百濟及平壤苦戰,當是時,將帥號令,許以勳賞,無所不至;及達西岸,惟聞枷鎖推禁,奪賜破勳,州縣追呼,無以自存,公私因弊,不可悉言。以是昨發海西之日,已有逃亡自殘者,非獨至海外而然也。又,本因征役勳級以為榮寵;而比年出征,皆使勳官挽引,勞苦與白丁無殊,百姓不願從軍,率皆由此。』臣又問:『曩日士卒留鎮五年,尚得支濟,今爾等始經一年,何為如此單露?』鹹言:『初發家日,惟令備一年資裝;今已二年,未有還期。』臣檢校軍士所留衣,今冬僅可充事,來秋以往,全無準擬。陛下留兵海外,欲殄滅高麗。百濟、高麗,舊相黨援,倭人雖遠,亦共為影響,若無鎮兵,還成一國。今既資戍守,又置屯田,所借士卒同心同德,而眾有此議,何望成功!自非有所更張,厚加慰勞,明賞重罰以起士心,若止如今日已前處置,恐師眾疲老,立效無日。 |
現代日本語訳:「私は尋ねた:『以前、海西地方にいた時は庶民が競って兵役に志願し、自ら衣糧を調達する者さえいて"義征"と呼んだものだ。なぜ今の兵士たちはこれほど士気が低いのか?』彼らは皆こう答えた:『今日の官府は昔とは異なり人心も変わった。かつて東西へ出征した者は戦死すれば朝廷から使者を遣わされ追悼を受け、官爵を追贈された。あるいは死者の官位を弟に継がせたものだ。遼海(渤海)を渡る者には全員勲一等を賜った。しかし顕慶五年以降は出征兵士を度々渡海させながら記録も取らず、戦死しても誰も顧みない。州県では徴兵する際に裕福な壮年者は賄賂で逃れ、貧しい老弱者だけが駆り出される。最近の百済・平壌での激戦時には将帥が功績恩賞を約束したのに、西岸(朝鮮半島)着いた途端に鎖で拘束され勲位を取り上げられた。州県からは呼び戻され生活も成り立たず公私共に疲弊して言葉にならない。海西出発時点ですら逃亡や自傷者が現れたのはそのためだ』さらに私は問う:『昔の兵士が五年駐屯しても耐えられたのに、お前たちは一年足らずでなぜこれほど困窮する?』皆答えた:『出征時に支給された衣糧は一年分だけ。今二年目に入るが帰還の見込みがない』私は兵士の残留物資を検査したところ今年の冬は何とかしのげても来秋以降は全くの無準備だ。陛下が海外駐留を続けるのは高句麗殲滅のためだが、百済と高句麗は元々同盟関係にあり倭国も遠方ながら連動している。守備隊を撤収すれば再び独立勢力となるだろう。今や防衛体制に加え屯田まで設置しながら兵士たちが心を一つにできていない状況では成功の見込みはない。現状維持で臨むならば軍は疲弊し成果など永遠に得られまい」 解説:
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| 逆耳之事,或無人為陛下盡言,故臣披露肝膽,昧死奏陳。」 上深納其言,遣右威衛將軍劉仁願將兵渡海以代舊鎮之兵,仍敕仁軌俱還。仁軌謂仁願曰:「國家懸軍海外,欲以經略高麗,其事非易。今收穫未畢,而軍吏與士卒一時代去,軍將又歸;夷人新服,眾心未安,必將生變。不如且留舊兵,漸令收穫,辦具資糧,節級遣還;軍將且留鎮撫,未可還也。」仁願曰:「吾前還海西,大遭讒謗,雲吾多留兵眾,謀據海東,幾不免禍。今日唯知准敕,豈敢擅有所為!」仁軌曰:「人臣苟利於國,知無不為,豈恤其私!」乃上表陳便宜,自請留鎮海東。上從之。仍以扶餘隆為熊津都尉,使招輯其餘眾。 初,武后能屈身忍辱,奉順上意,故上排群議而立之;及得志,專作威福,上欲有所為,動為后所制,上不勝其忿。有道士郭行真,出入禁中,嘗為厭勝之術,宦者王伏勝發之。上大怒,密召西召侍郎、同東西台三品上官儀議之。儀因言:「皇后專恣,海內所不與,請廢之。」上意亦以為然,即命儀草詔。 左右奔告於后,后遽詣上自訴。詔草猶在上所,上羞縮不忍,復待之如初;猶恐后怨怒,因紿之曰:「我初無此心,皆上官儀教我。」儀先為陳王咨議,與王伏勝俱事故太子忠,后於是使許敬宗誣奏儀、伏勝與忠謀大逆。十二月,丙戌,儀下獄,與其子庭芝、王伏勝皆死,籍沒其家。 |
現代日本語訳「耳に痛い意見は、誰も陛下へ申し上げないかもしれません。だからこそ臣が誠意を尽くして命懸けで奏上します。」 高宗皇帝はこの進言を深く受け入れ、右威衛将軍・劉仁願に兵を率いて海を渡り現地駐留軍と交代するよう命じた。同時に劉仁軌にも帰還を指示したが、仁軌は仁願に反論した。「国が遠方へ軍隊を派遣しているのは高句麗統治のためであり、容易なことではありません。今は収穫も終わっておらず、役人と兵士が一斉に交代し将軍まで帰れば、服属したばかりの現地民は不安になり反乱が起きるでしょう。旧兵を残留させて収穫・物資調達を行わせ、段階的に帰還させるべきです。将軍も鎮撫のために留まる必要があります。」 仁願は困惑して答えた。「以前私が半島から戻った時、『兵力温存で現地支配を企んでいる』と讒言され危うく罰を受けました。今は詔勅通り実行するしかありません」。これに対し仁軌は「臣下は国益のためなら私情を捨て行動すべきだ」と言い、自ら残留を志願する上表文を提出した。皇帝はこれを認め、百済王族・扶餘隆を熊津都尉に任命して現地統治にあたらせた。 * * * 一方宮中では、則天武后の専横が深刻化していた。彼女は皇后就任前は高宗へ従順だったため反対派を押し切って立てられたが、権力を握ると皇帝さえも抑圧するようになった。道士・郭行真による宮中での呪術事件が宦官王伏勝に発覚すると、激怒した高宗は密かに上官儀を召して相談。 「皇后の専横は天下の認めるところではない」と廃后を進言する上官儀に皇帝も同意し詔書起草を命じた。しかし武后が側近から急報を受けるや御前に駆けつけて抗議。高宗は未完成の詔書案を見られて動揺し、「朕はそんな意志ない。上官儀の進言だ」と弁解した。 これを受け武后は腹心・許敬宗を使い、上官儀が故太子忠(かつて廃嫡された皇子)と共謀したとの虚偽の告発を実行させた。同年12月丙戌日、上官儀親子と王伏勝は処刑され家産没収という苛烈な結末となった。 解説【歴史的意義】
【人間模様】
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| 戊子,賜忠死於流所。右相劉祥道坐與儀善,罷政事,為司禮太常伯,左肅機鄭欽泰等朝士流貶者甚眾,皆坐與儀交通故也。 自是上每視事,則后垂簾於後,政無大小皆與聞之。天下大權,悉歸中宮,黜陟、生殺,決於其口,天子拱手而已,中外謂之二聖。 太子右中護、檢校西台侍郎樂彥瑋、西台侍郎孫處約並同東西台三品。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之上麟德二年(乙丑,公元六六五年) 春,正月,丁卯,吐蕃遣使入見,請復與吐谷渾和親,仍求赤水地畜牧,上不許。 二月,壬午,車駕發京師,丁酉,至合璧宮。 上語及隋煬帝,謂侍臣曰:「煬帝拒諫而亡,朕常以為戒,虛心求諫;而竟無諫者,何也?」李勣對曰:「陛下所為盡善,群臣無得而諫。」 三月,甲寅,以兼司戎太常伯姜恪同東西台三品。恪,寶誼之子也。 辛未,東都乾元殿成。閏月,壬申朔,車駕至東都。 疏勒弓月引吐蕃侵于闐。敕西州都督崔知辯、左武衛將軍曹繼叔將兵救之。 夏,四月,戊辰,左侍極陸敦信檢校右相;西台侍郎孫處約、太子右中護、檢校西台侍郎樂彥瑋並罷政事。 秘閣郎中李淳風以傅仁均《戊寅歷》推步浸疏,乃增損劉焯《皇極歷》,更撰《麟德歷》;五月,辛卯,行之。 秋,七月,己丑,兗州都督鄧康王元裕薨。 上命熊津都尉扶餘隆與新羅王法敏釋去舊怨;八月,壬子,同盟於熊津城。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』麟徳二年より)本文戊子の日、上官儀を流刑地で死に賜う。右相・劉祥道は儀と親しかった罪により政務から罷免され、司礼太常伯に左遷される。左粛機・鄭欽泰ら朝廷関係者の多くが流罪や降格処分を受けたのは、全て上官儀との交流が咎められたためである。 この時より、高宗皇帝が政務を見る際には武后が簾の後ろに控え、大小問わずすべての政事に関与した。天下の実権は完全に皇后(中宮)へ移り、官吏の任免や生死までもが彼女の発言で決せられるようになった。天子(高宗)は名目のみとなり、朝廷内外では二人を「二聖」と呼んだ。 太子右中護・検校西台侍郎の楽彦瑋と西台侍郎の孫処約が共に東西台三品に任じられた。(※東西台とは当時の政務機関) 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 治世中期(麟徳二年、乙丑年/西暦665年) 春正月丁卯の日、吐蕃が使者を派遣し朝見。吐谷渾との和解と姻戚関係再開を求めるとともに赤水地域での放牧許可を求めたが、高宗は許さなかった。 二月壬午の日、皇帝の行列が長安を出発。丁酉の日に合璧宮に到着した。 この時高宗が隋の煬帝について言及し、側近たちに問うた。「煬帝は諫言を拒んで滅びた。朕はこれを戒めとして常に虚心に諫言を求めるのに、なぜ誰も進言しないのか?」李勣(りき)が答えて「陛下の行いは全て完璧ゆえ、臣下には諫める余地がございません」と述べた。 三月甲寅の日、司戎太常伯兼任の姜恪を東西台三品に任じる。姜恪は姜宝誼(きょうほうぎ)の子である。 同月辛未の日、東都洛陽の乾元殿が完成した。閏3月壬申朔(1日)、皇帝一行は洛陽へ到着する。 この頃疏勒と弓月国が吐蕃を引き入れ于闐に侵攻。高宗は西州都督・崔知辯と左武衛将軍・曹継叔に援軍派遣を命じた。 夏四月戊辰の日、左侍極・陸敦信が検校右相となる一方で、孫処約(そんしょやく)と楽彦瑋らは政務から外された。 秘閣郎中・李淳風(りじゅんぷう)は傅仁均の『戊寅暦』に誤差が生じたため、劉焯の『皇極暦』を修正し新たな『麟徳暦』を作成。五月辛卯の日に施行された。 秋七月己丑の日、兗州都督・鄧康王李元裕(りげんゆう)が逝去した。 高宗は熊津都尉・扶餘隆と新羅王・金法敏に旧怨を捨てるよう命じた。八月壬子の日、両者は熊津城で同盟を結んだ。 解説
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| 劉仁軌以新羅、百濟、耽羅、倭國使者浮海西還,會祠泰山,高麗亦遣太子福男來侍祠。 冬,十月,癸丑,皇后表稱「封禪舊儀,祭皇地示氏,太后昭配,而令公卿行事,禮有未發,至日,妾請帥內外命婦奠獻。」詔:「禪社首以皇后為亞獻,越國太妃燕氏為終獻。」壬戌,詔:「封禪壇所設上帝、后土位,先用蒿秸、陶匏等,並宜改用茵褥、罍爵,其諸郊祀亦宜准此。」又詔:「自今郊廟享宴,文舞用《功成慶善之樂》,武舞用《神功破陳之樂》。」 丙寅,上發東都,從駕文武儀仗,數百里不絕。列營置幕,彌亙原野。東自高麗,西至波斯、烏長諸國朝會者,各帥其屬扈從,穹廬毳幕,牛羊駝馬,填咽道路。時比歲豐稔,米斗至五錢,麥、豆不列於市。 十一月,戊子,上至濮陽,竇德玄騎從。上問:「濮陽謂之帝丘,何也?」德玄不能對。許敬宗自後躍馬而前曰:「昔顓頊居此,故謂之帝丘。」上稱善。敬宗退,謂人曰:「大臣不可以無學;吾見德玄不能對,心實羞之。」德玄聞之,曰:「人各有能有不能,吾不強對以所不知,此吾所能也。」李勣曰:「敬宗多聞,信美矣;德玄之言亦善也。」 壽張人張公藝九世同居,齊、隋、唐皆旌表其門。上過壽張,幸其宅,問所以能共居之故,公藝書「忍」字百餘以進。上善之,賜以縑帛。 十二月,丙午,車駕至齊州,留十日。 |
現代日本語訳劉仁軌は新羅・百済・耽羅・倭国の使者たちを海路で西へ帰還させたが、ちょうど泰山での祭祀に際会し、高麗も太子の福男を使者として派遣して儀式供奉にあたらせた。 冬十月癸丑(十五日)、皇后は上表して「封禅の古い儀礼では皇地祇を祭る時、太后が昭配(副祭)とされていたのに、今は公卿に行事させているのは礼制として不十分です。当日には私が内外命婦を率いて奠献したい」と述べた。詔勅が出て「社首山での禅祀では皇后を亜献(第二次の奉仕者)とし、越国太妃・燕氏を終献(最終奉仕者)とする」。 壬戌(二十四日)、詔勅が下る:「封禅壇に設けた上帝と后土の位には従来ヨモギの莖や陶製器を用いてきたが、茵褥(敷物)と罍爵(青銅酒器)へ改めよ。諸々の郊祀もこの例に準じよ」。更に詔して「今後は郊廟祭祀における宴饗では文舞には『功成慶善之楽』を奏し、武舞には『神功破陣之楽』を用いるべし」。 丙寅(二十八日)、皇帝が東都を出発。供奉する文武の儀仗隊列が数百里にわたって途切れない。営舎や天幕が野原一面に連なる。東方は高麗から西方は波斯・烏長など諸国の朝貢使たちもそれぞれ配下を率いて随行し、氈帳や毛毡の天幕が並び、牛・羊・駱駝・馬が道路を埋め尽くした。この年は連作豊穣で米一斗(約6kg)が五銭まで下落し、麦や豆は市場にすら出回らないほどであった。 十一月戊子(二十日)、皇帝が濮陽へ到着。竇徳玄が騎乗して供奉した。帝が「濮陽を帝丘と呼ぶのは何故か?」と問うも、徳玄は答えられなかった。許敬宗が後方から馬を進めて言上:「昔ここに顓頊(五帝の一人)が住んだため『帝丘』と呼ばれます」。帝は称賛した。退下した敬宗は人々に「大臣たる者は学識あるべきだ。徳玄が答えられぬ姿を見て羞恥を覚えた」と語った。これを聞いた徳玄は「人は各々能あり不能あり、知らざること強弁せぬのが私の能力です」と言うと、李勣(徐世勣)が評して「敬宗の博識も立派だが、徳玄の発言にも道理がある」。 寿張県民・張公芸は九世代同居を続け、斉・隋・唐三代から表彰されていた。帝が寿張を通りかかり邸宅に臨幸し、「どうやって共住できるのか」と尋ねると、公芸は百字余りの「忍」の書を捧げた。帝はこれを賞賛して絹帛(高級織物)を与えた。 十二月丙午(九日)、皇帝一行が斉州に到着し十日間滞在した。 解説【歴史的背景】
【社会経済状況】
【人物評価】
【史料価値】本節は『資治通鑑』巻201・高宗竜朔元年(661年)条から抜粋。 - 特徴①:儀礼改革(陶器→青銅器)や楽舞制定など、唐代礼制の整備過程を詳細に伝える - 特徴②:「牛馬で道路埋まる」等の生々しい描写が、司馬光の史料取捨選択眼の鋭さを示す
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| 丙辰,發靈巖頓,至泰山下,有司於山南為圓壇,山上為登封壇,社首山上為降禪方壇。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之上乾封元年(丙寅,公元六六六年) 春,正月,戊辰朔,上祀昊天上帝於泰山南。己巳,登泰山,封玉牒,上帝冊藏以玉匱,配帝冊藏以金匱,皆纏以金繩,封以金泥,印以玉璽,藏以石□感。庚午,降禪於社首,祭皇地祇。上初獻畢,執事者皆趨下。宦者執帷,皇后升壇亞獻,帷帟皆以錦繡為之;酌酒,實俎豆,登歌,皆用宮人。壬申,上御朝覲壇,受朝賀;赦天下,改元。文武官三品已上賜爵一等,四品已下加一階。先是階無泛加,皆以勞考敘進,至五品三品,仍奏取進止,至是始有泛階,比及末年,服緋者滿朝矣。 時大赦,惟長流人不聽還,李義府憂憤發病卒。自義府流竄,朝士日憂其復入,及聞其卒,眾心乃安。 丙戌,車駕發泰山;辛卯,至曲阜,贈孔子太師,以少牢致祭。癸未,至亳州,謁老君廟,上尊號曰太上玄元皇帝。丁丑,至東都,留六日;甲申,幸合璧宮;夏,四月,甲辰,至京師,謁太廟。 庚戌,左侍極兼檢校右相陸敦信以老疾辭職,拜大司成,兼左侍極,罷政事。 五月,庚寅,鑄乾封泉寶錢,一當十,俟期年盡廢舊錢。 高麗泉蓋蘇文卒,長子男生代為莫離支,初知國政,出巡諸城,使其弟男建、男產知留後事。 |
現代日本語訳丙辰の日、霊巖頓を発ち泰山の麓に到着した。役人は山の南側で円壇を築き、山上には登封壇を設け、社首山では降禅の方壇を準備した。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 中之上(乾封元年:丙寅年/西暦666年) 恩赦発令にあたり長期流刑者のみは除外されたため、李義府は憂憤して病死した。彼の失脚後も朝臣らは復権を懸念していたが、死訊に接し安堵の声があがった。 丙戌に車駕は泰山を出発し、辛卯には曲阜へ到着。孔子に太師号を追贈し少牢(羊と豚)で祭祀した。癸未日には亳州に至り老君廟を参拝、「太上玄元皇帝」の尊号を奉った。丁丑日に東都洛陽に入って六日間滞在、甲申には合璧宮に行幸し、夏四月甲辰に長安へ帰還して太廟を告謁した。 庚戌、左侍極兼検校右相・陸敦信が老病を理由に辞任し大司成(教育長官)に転じた。これにより実権から退き「兼左侍極」の名誉職のみとなる。 五月庚寅には新通貨「乾封泉宝錢」を鋳造開始、旧銭10枚分の価値を持つと公定し一年後に全て廃止する旨が布告された。 高麗では泉蓋蘇文が死去し長子・男生が莫離支(軍政官)に就任した。彼は初めて国政を掌握すると諸城巡察に出発、弟の男建と男産に留守事務を委ねた。 解説
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| 或謂二弟曰:「男生惡二弟之逼,意欲除之,不如先為計。」二弟初未之信。又有告男生者曰:「二弟恐兄還奪其權,欲拒兄不納。」男生潛遣所親往平壤伺之,二弟收掩,得之,乃以王命召男生。男生懼,不敢歸;男建自為莫離支,發兵討之。男生走保別城,使其子獻誠詣闕求救。六月,壬寅,以右驍衛大將軍契苾何力為遼東道安撫大使,將兵救之;以獻誠為右武衛將軍,使為鄉導。又以右金吾衛將軍龐同善、營州都督高侃為行軍總管,同討高麗。 秋,七月,乙丑朔,徙殷王旭輪為豫王。以大司憲兼檢校太子左中護劉仁軌為右相。 初,仁軌為給事中,按畢正義事,李義府怨之,出為青州刺史。會討百濟,仁軌當浮海運糧,時未可行,義府督之,遭風失船,丁夫溺死甚眾,命監察御史袁異式往鞫之。義府謂異式曰:「君能辦事,勿憂無官。」異式至,謂仁軌曰:「君與朝廷何人為仇,宜早自為計。」仁軌曰:「仁軌當官不職,國有常刑,公以法斃之,無所逃命。若使遽自引決以快仇人,竊所未甘!」乃具獄以聞。異式將行,仍自掣其鎖。獄上,義府言於上曰:「不斬仁軌,無以謝百姓。」舍人源直心曰:「海風暴起,非人力所及。」上乃命除名,以白衣從軍自效。義府又諷劉仁願使害之,仁願不忍殺。及為大司憲,異式懼,不自安,仁軌瀝觴告之曰:「仁軌若念疇昔之事,有如此觴!」仁軌既知政事,異式尋遷詹事丞;時論紛然,仁軌聞之,遽薦為司元大夫。 |
現代日本語訳:ある者が二人の弟(男建と男産)に言った。「兄君(男生)は、あなたがた二人による権力掌握を憎み、排除しようと考えている。先手を打つべきだ」。最初、二人の弟はこの話を信じなかった。 別の人物が男生に告げて言うには、「二人の弟は、兄上が戻って実権を取り戻されることを恐れ、入国を拒もうとしている」とのことであった。男生は密かに配下を平壌へ送り様子を探らせたが、二人の弟がこれを捕らえたため、王命を偽って男生を召還しようとした。 男生は恐れて帰還できず、男建は自ら莫離支(高麗の最高官職)に就き、兵を発して兄を討伐した。男生は別城へ退いて守りを固め、息子・献誠を使者として唐の朝廷に救援を求めた。 6月壬寅の日、右驍衛大将軍である契苾何力を遼東道安撫大使に任じ、兵を率い救援に向かわせた。同時に献誠を右武衛将軍とし、先導役とした。さらに右金吾衛将軍・龐同善や営州都督の高侃を行軍総管に任命し、共同で高麗征討にあたらせた。秋7月乙丑朔(1日)、殷王旭輪を豫王へ改封した。大司憲兼検校太子左中護であった劉仁軌を右相に昇格させた。 当初、仁軌が給事中だった時、畢正義の事件を取り調げたことで李義府から恨まれ、青州刺史として左遷された。百済征討戦では海路による兵糧輸送任務にあたったが、時期尚早であるにもかかわらず義府に強行を命じられ暴風で船団は遭難、多くの人夫が溺死した。 監察御史・袁異式が審問のために派遣されると、李義府は「功績次第では官位も約束しよう」とほのめかした。異式が仁軌に「朝廷の誰を敵に回しているのか? 早々に身の振り方を考えよ」と迫るや、仁軌は答えた。 「職務怠慢であれば国の刑罰を受けるのは当然だ。法に従って処断されようとも逃げない。しかし仇敵を喜ばせるため自ら死ぬなど真っ平ごめんである」 審理結果が報告されると義府は皇帝(高宗)に「仁軌を斬らねば民の怒りは収まらない」と進言したが、舎人・源直心が「暴風は人の力では防げぬ災害だ」と弁護。結局仁軌は官職剥奪の上、一兵卒として軍務に服することになった。 さらに義府が百済駐留司令官・劉仁願に命じて暗殺を企てたが、仁願は実行しなかった。後に仁軌が大司憲(御史台長官)に昇進すると異式は恐怖におののいたが、仁軌は杯を捧げ「過去の因縁など水に流そう」と誓った。 さらに仁軌が政権の中枢に入ると、周囲の反対を押し切って異式を司元大夫(財務次官)に推薦した。世間ではこの人事に騒然となったという。 解説:■ 歴史的意義 ■ 人物関係の核心 ■ 特筆すべき人物描写 ■ 筆法分析 (注:歴史的固有名詞は原文表記を保持し、現代日本語として自然な文法・語彙で再構成) Translation took 818.0 seconds. |
| 監察御史杜易簡謂人曰:「斯所謂矯枉過正矣!」 八月,辛丑,司元太常伯兼檢校左相竇德玄薨。 初,武士擭娶相里氏,生男元慶、元爽;又娶楊氏,生三女,長適越王府法曹賀蘭越石,次皇后,次適郭孝慎。士擭卒,元慶、元爽及士擭兄子惟良、懷運皆不禮於楊氏,楊氏深銜之。越石、孝慎及孝慎妻並早卒,越石妻生敏之及一女而寡。后既立,楊氏號榮國夫人,越石妻號韓國夫人,惟良自始州長史超遷司衛少卿,懷運自瀛州長史遷淄州刺史,元慶自右衛郎將為宗正少卿,元爽自安州戶曹累遷少府少監。榮國夫人嘗置酒,謂惟良等曰:「頗憶疇昔之事乎?今日之榮貴復何如?」對曰:「惟良等幸以功臣子弟,早登宦籍,揣份量才,不求貴達,豈意以皇后之故,曲荷朝恩,夙夜憂懼,不為榮也。」榮國不悅。皇后乃上疏,請出惟良等為遠州刺史,外示廉抑,實惡之也。於是以惟良檢校始州刺史,元慶為龍州刺史,元爽為濠州刺史。元慶至州,以憂卒。元爽坐事流振州而死。 韓國夫人及其女以后故出入禁中,皆得幸於上。韓國尋卒,其女賜號魏國夫人。上欲以魏國為內職,心難后,未決,后惡之。會惟良、懷運與諸州刺史詣泰山朝覲,從至京師,惟良等獻食。后密置毒醢中,使魏國食之,暴卒,因歸罪於惟良、懷運,丁未,誅之,改其姓為蝮式。 |
現代日本語訳:監察御史の杜易簡は人に向かって言った。「これはまさに過ちを正そうとして度を越したというものだ!」 八月辛丑の日、司元太常伯兼検校左相である竇徳玄が逝去した。 当初、武士擭(ぶしかく)は相里氏を娶り、男子の元慶・元爽をもうけた。後に楊氏を後妻に迎えると三人の娘が生まれ、長女は越王府法曹の賀蘭越石に嫁ぎ、次女は皇后となり、三女は郭孝慎に嫁いだ。士擭の死後、元慶・元爽および武士擭の甥である惟良(これりょう)と懐運(かいうん)らが楊氏を冷遇したため、彼女は深く恨みを抱いた。 賀蘭越石と郭孝慎、そして郭孝慎の妻はいずれも早世。越石の妻(=後の韓国夫人)は敏之と一女を産んだ後未亡人となった。次女が皇后に立てられると、楊氏は栄国夫人、越石の妻は韓国夫人の称号を与えられた。惟良は始州長史から破格抜擢で司衛少卿となり、懐運は瀛州長史から淄州刺史へ昇進。元慶は右衛郎将から宗正少卿に、元爽も安州戸曹を経て少府少監に累進した。 ある時栄国夫人が酒宴を開き惟良らに言った。「昔の事を覚えているか?今日の栄華はいかに?」これに対し惟良は「私どもは功臣の子弟として早くから官職を得ており、身分相応に務めて高位を望んだことはありません。皇后様の縁故で過分な恩恵を受け、日夜不安で光栄とは思えません」と答えた。夫人は不機嫌となった。 これを受けて皇后(則天武后)は上奏し「惟良らを辺境の刺史として出向させるべきです」と主張。表向きは謙虚な姿勢を示すためであったが、実態は彼らへの憎悪からだった。こうして惟良は始州刺史に左遷され、元慶は龍州刺史、元爽は濠州刺史となった。元慶は任地で憂悶のうちに死去し、元爽も罪を得て振州へ流刑となり死亡した。 韓国夫人とその娘(魏国夫人)は皇后の縁故で宮中に出入りし、高宗帝の寵愛を受けたが、やがて韓国夫人は急逝。その後娘は魏国夫人号を賜った。帝は彼女を後宮に入れようとしたが皇后への遠慮から決断できず、これを知った皇后は激しく憎んだ。 折しも惟良と懐運が泰山朝覲のため他の刺史らと共に都へ来ており、食膳を献上した。皇后は密かに毒を醢(ひしお)の中に入れ魏国夫人に食べさせたところ、彼女は急死した。これを利用して惟良・懐運に罪を着せると、丁未の日に処刑し「蝮式」と改姓させることで辱めた。 解説:
※原文『資治通鑑』は北宋・司馬光による編年体史書。本段は則天武后台頭期の権謀術数を活写し、唐代政治闘争の苛烈さを伝える重要史料である。 Translation took 817.8 seconds. |
| 懷運兄懷亮早卒,其妻善氏尤不禮於榮國,坐惟良等沒入掖庭,榮國令後以他事束棘鞭之,肉盡見骨而死。 九月,龐同善大破高麗兵,泉男生帥眾與同善合。詔以男生為特進、遼東大都督,兼平壤道安撫大使,封玄菟郡公。 戊子,金紫光祿大夫致仕廣平宣公劉祥道薨,子齊賢嗣,齊賢為人方正,上甚重之,為晉州司馬。將軍史興宗嘗從上獵苑中,因言晉州產佳鷂,劉齊賢今為司馬,請使捕之。上曰:「劉齊賢豈捕鷂者邪!卿何以此待之!」 冬,十二月,己酉,以李勣為遼東道行軍大總管兼安撫大使,以司列少常伯安陸郝處俊副之,以擊高麗。龐同善、契苾何力並為遼東道行軍副大總管兼安撫大使如故;其水陸諸軍總管並運糧使竇義積、獨孤卿雲、郭待封等,並受勣處分。河北諸州租賦悉詣遼東給軍用。待封,孝恪之子也。 勣欲與其婿京兆杜懷恭偕行,以求勳效。懷恭辭以貧,勣贍之;復辭以無奴馬,又贍之。懷恭辭窮,乃亡匿岐陽山中,謂人曰:「公欲以我立法耳。」勣聞之,流涕曰:「杜郎疏放,此或有之。」乃止。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之上乾封二年(丁卯,公元六六七年) 春,正月,上耕籍田,有司進耒耜,加以雕飾。上曰:「耒耜農夫所執,豈宜如此之麗!」命易之。既而耕之,九推乃止。 自行乾封泉寶錢,穀帛踴貴,商賈不行,癸未,詔罷之。 |
現代日本語訳:懐運の兄・懐亮は早世していたが、その妻である善氏は特に栄国夫人(武則天の母)に対する礼儀を欠いていた。惟良らが罪に問われ後宮に没収された際、栄国夫人は別件を理由に彼女を拘束し、棘の鞭で打たせたため、肉が削げ落ち骨まで露わになって死亡した。 九月、龐同善が高句麗軍を大破すると、泉男生は配下を率いて同善と合流した。詔勅により、男生は特進・遼東大都督に任じられ、平壤道安撫大使を兼務し、玄菟郡公に封ぜられた。 戊子の日、金紫光禄大夫を辞して致仕していた広平宣公・劉祥道が逝去した。息子の斉賢が後を継いだが、斉賢は品行方正な人物であり、皇帝(高宗)は彼を重用し晋州司馬に任命した。ある時、史興宗将軍が禁苑で狩りに随行中、「晋州は良質の鷹が産する地です」と述べ、現任の劉斉賢司馬に捕獲させるよう進言した。皇帝は「劉斉賢を鷹狩りの役人扱いとは何事か!卿(お前)はなぜそのような軽んじ方をするのか!」と叱責した。 冬十二月己酉、李勣を遼東道行軍大総管兼安撫大使に任命し、司列少常伯・安陸出身の郝処俊を副官とした。高句麗征伐のためである。龐同善と契苾何力は従来通り遼東道行軍副大総管兼安撫大使に留任し、水陸両軍の総指揮官や糧食輸送責任者の竇義積・独孤卿雲・郭待封らは全員李勣の統制下に入った。河北諸州の租税は全て遼東へ送られ軍事費に充てられた。なお待封は、孝恪(唐の功臣)の子である。 李勣は女婿の京兆出身・杜懐恭を従軍させて功績を得ようとしたが、懐恭は貧困を理由に辞退したため、李勣は資金援助した。次には奴僕と馬がいないと言うので、それも与えたところ、言い訳のできなくなった懐恭は岐陽山中へ逃亡し「岳父は私を軍規の見せしめにするつもりだ」と語った。これを聞いた李勣は涙して「杜郎(懐恭)が奔放なのは事実だが、まさかそこまで…」と言い同行を断念した。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 治世中巻上 乾封二年(丁卯年・667年) 春正月、皇帝が籍田の儀を行う際、役人が豪華に装飾された農具を献上すると「農夫が使う耒耜(すき)はこれほど華美であるべきではない」と指摘し、簡素なものへ取り替えさせた。実際の耕作では九度鋤入れして終了した。 乾封泉宝銭の発行後、物価高騰により商業が停滞していたため、癸未の日に詔を下して発行停止とした。 #解説:
▶ 全体として本節は「内政の非情さ」と「外征への傾斜」という乾封期の矛盾を凝縮し、則天武后クーデター前夜の緊張感を背景に描かれた貴重な史料と言える。 Translation took 967.3 seconds. |
| 二月,丁酉,涪陵悼王愔薨。 辛丑,復以萬年宮為九成宮。生羌十二州為吐蕃所破,三月,戊寅,悉廢之。 上屢責侍臣不進賢,眾莫敢對。司列少常伯李安期對曰:「天下未嘗無賢,亦非群臣敢蔽賢也。比來公卿有所薦引,為讒者已指為朋黨,滯淹者未獲伸,而在位者先獲罪矣,是以各各杜口耳。陛下果推至誠以待之,其誰不願舉所知!此在陛下,非在群臣也。」上深以為然。安期,百藥之子也。 夏,四月,乙卯,西台侍郎楊弘武、戴至德、正諫大夫兼東台侍郎李安期、東台舍人昌樂張文瓘、司列少常伯兼正諫大夫河北趙仁本並同東西台三品。弘武,素之弟子;至德,冑之兄子也。時造蓬萊、上陽、合璧等宮,頻征伐四夷,廄馬萬匹,倉庫漸虛,張文瓘諫曰:「隋鑒不遠,願勿使百姓生怨。」上納其言,減廄馬數千匹。 秋,八月,己丑朔,日有食之。 辛亥,東台侍郎同東西台三品李安期出為荊州長史。 九月,庚申,上以久疾,命太子弘監國。 辛未,李勣拔高麗之新城,使契苾何力守之。勣初度遼,謂諸將曰:「新城,高麗西邊要害,不先得之,餘城未易取也。」遂攻之,城人師夫仇等縛城主開門降。勣引兵進擊,一十六城皆下之。龐同善、高侃尚在新城,泉男建遣兵襲其營,左武衛將軍薛仁貴擊破之。侃進至金山,與高麗戰,不利,高麗乘勝逐北,仁貴引兵橫擊之,大破高麗,斬首五萬餘級,拔南蘇、木底、蒼巖三城,與泉男生軍合。 |
現代日本語訳二月丁酉の日、涪陵悼王李愔が逝去した。 辛丑の日に、再び万年宮を九成宮と改称した。生羌十二州が吐蕃に占領され、三月戊寅の日に全て廃止された。 高宗皇帝は度々侍臣たちに対し「賢才を推挙しない」と非難したが、誰も返答できなかった。司列少常伯李安期が奏上して言うには、「天下に賢人がいないわけではなく、また群臣が敢えて賢者を隠蔽しているのでもありません。近頃公卿たちが人材を推薦すると、讒言する者がすぐに『党派結成』と指弾します。そのため推挙された者は登用されぬまま、却って推薦した現職の官僚が先に罪を得るのです。これでは誰も口を閉ざすほかありません。陛下が真摯な誠意をもって接すれば、誰が進んで知る賢者を推さないことがありましょうか? 肝心なのは群臣ではなく陛下のお心持ちです」。皇帝は深く納得した。李安期は百薬の子である。 夏四月乙卯に、西台侍郎楊弘武・戴至徳、正諫大夫兼東台侍郎李安期、東台舍人昌楽出身の張文瓘、司列少常伯兼正諫大夫河北出身の趙仁本が全員「東西台三品」となった。楊弘武は楊素の甥、戴至徳は戴冑の甥である。当時蓬莱宮・上陽宮・合璧宮などの造営を進め、四方異民族への出兵も頻発したため、厩舎には万頭の軍馬が繋がれ倉庫が徐々に空になった。張文瓘は諫言して「隋の失敗はつい昨日のことです(煬帝の大土木と遠征による滅亡)。どうか民衆を怨嗟させませんように」と言上すると、皇帝はこれを容れて数千頭の軍馬を削減した。 秋八月己丑朔に日食が発生した。 辛亥に東台侍郎兼東西台三品李安期が荊州長史として地方に出た。 九月庚申に高宗帝は長期療養のため太子李弘に監国(代理統治)を命じた。 辛未、李勣が高句麗の新城を陥落させ契苾何力に守備させた。当初遼河を渡った際、李勣は諸将に「新城こそ高句麗西部の要衝である。ここを制さねば他城攻略は困難だ」と説明し攻撃を開始すると、城内の師夫仇らが城主を縛って降伏した。唐軍はさらに進撃して十六城を陥落させた。龐同善と高侃が新城に駐屯中、泉男建(高句麗将軍)が奇襲をかけてきたため左武衛将軍薛仁貴が撃退。高侃が金山へ進攻した際には戦況不利となり、追撃する高句麗軍に対し薛仁貴が横槍を入れて大勝。五万余の首級を取り南蘇・木底・蒼巖三城を占領して泉男生(唐側に降伏した高句麗王子)軍と合流した。 解説■ 政治動向 - 李安期の発言は唐代官僚社会における「推薦リスク」の実態を示す。人材推挙が朋党誣告されやすい環境下で、皇帝自ら積極姿勢を示さねば登用システムが機能不全に陥る点を喝破。 - 「東西台三品」人事(楊弘武・李安期ら)は則天武后時代の三省再編前兆。中書門下尚書省の長官級ポスト「同三品」への登用が、後の宰相制度改革へ繋がる。 ■ 軍事史的特筆事項 - 668年高句麗滅亡前哨戦としての新城攻略は重要: 1. 李勣による遼東地域制圧戦略(要衝優先占領)の典型例 2. 薛仁貴の「金山での横撃」は機動防御の成功事例。唐軍歩騎連合戦術が高句麗追撃部隊を殲滅 3. 降将泉男生との協働が後の平壌総攻撃(668年)における内応工作基盤に ■ 経済的警告 - 張文瓘の諫言は隋煬帝失敗と重ねた財政危機予見: - 宮殿群造営費(蓬萊・上陽など洛陽周辺) - 四夷征伐による軍事支出拡大 - 軍馬維持コスト削減提案→高宗の即時対応は貞観の治的合理主義残滯を示す ■ 天変地異の記録 - 己丑朔(661年8月23日)の日食:当時の天文官による確実な観測記録として『旧唐書』と一致。唐代の天文行政精度を物語る。
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| 郭待封以水軍自別道趣平壤,勣遣別將馮師本載糧仗以資之。師本船破,失期,待封軍中饑窘,欲作書與勣,恐為虜所得,知其虛實,乃作離合詩以與勣。勣怒曰:「軍事方急,何以詩為?必斬之!」行軍管記通事舍人河南元萬頃為釋其義,勣乃更遣糧仗赴之。萬頃作《檄高麗文》,曰「不知守鴨綠之險。」泉男建報曰:「謹聞命矣!」即移兵據鴨綠津,唐兵不得渡。上聞之,流萬頃於嶺南。 郝處俊在高麗城下,未及成列,高麗奄至,軍中大駭。處俊據胡床,方食干□,潛簡精銳,擊敗之,將士服其膽略。 冬,十二月,甲午,詔:「自今祀昊天上帝、五帝、皇地示氏、神州地示氏,並以高祖、太宗配,仍合祀昊天上帝、五帝於明堂。」 是歲,海南獠陷瓊州。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之上總章元年(戊辰,公元六六八年) 春,正月,壬下,以右相劉仁軌為遼東道副大總管。 二月,壬午,李勣等拔高麗扶餘城。薛仁貴既破高麗於金山,乘勝將三千人將攻扶餘城,諸將以其兵少,止之。仁貴曰:「兵不必多,顧用之何如耳。」遂為前鋒以進,與高麗戰,大破之,殺獲萬餘人,遂拔扶餘城。扶餘川中四十餘城皆望風請服。 侍御史洛陽賈言忠奉使自遼東還,上問以軍事,言忠對曰:「高麗必平。」上曰:「卿何以知之?」對曰:「隋煬帝東征而不克者,人心離怨故也;先帝東征而不克者,高麗未有釁也。 |
翻訳文(現代日本語)郭待封率いる水軍が別ルートから平壘へ向かう中、李勣は馮師本に補給物資を輸送させた。しかし船団の難破で到着遅延し、郭軍は飢餓状態に陥った。敵察知を恐れた郭待封は「離合詩」(暗号詩)で救援要請したが、李勣は激怒して「戦況緊迫時に詩とは!処刑せよ」と命じた。書記官の元万頃(河南出身)が解読し実態を説明すると、ようやく補給部隊を派遣。だが後に元万頃が作成した『高麗討伐檄文』で「鴨緑江防衛を知らず」と記述したため、敵将・泉男建は皮肉に「ご教示感謝」と返答し即座に対岸を占拠。唐軍の渡河阻止という失態により元万頃は嶺南へ流刑となった。 一方、郝処俊が高麗城下で陣形未整備中に奇襲された際には、腰掛けて乾パンを食べながら精鋭部隊を選抜し敵を撃退。将兵らはその胆力に感服したという。 同年12月甲午日、詔勅発布:「昊天上帝・五帝・皇地祇・神州地祇の祭祀には太祖(高祖)と太宗を合祀せよ。明堂では昊天上帝と五帝を併せて祀ること」。 この年は海南島で先住民族「獠」が瓊州を占拠する事件も発生。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝治世中巻・総章元年(戊辰、668年) 春正月壬子日、右相の劉仁軌を遼東道副大総管に任命。 2月壬午日に李勣軍が扶余城攻略。薛仁貴は金山での勝利後、わずか3千兵で同城へ進撃しようとした時、諸将から兵力不足を諫められるも「用兵術こそ重要」と主張し先鋒突入。1万余人を討ち取って落城させると、扶余川流域40余城が続々降伏した。 侍御史・賈言忠(洛陽出身)の遼東視察復命時、皇帝は戦況を質す。彼は「高麗平定必至」と断言し根拠として「隋煬帝失敗は民心離反、先帝(太宗)未達成は敵内紛なしが原因だが、今や逆に高麗側が分裂中だからです」と分析した。 解説
※本訳出にあたり『資治通鑑』巻201-202原文を基に、当時の軍事制度・官職体系を考慮した現代的再構成を行った。 Translation took 1599.4 seconds. |
| 今高藏微弱,權臣擅命,蓋蘇文死,男建兄弟內相攻奪,男生傾心內附,為我鄉導,彼之情偽,靡不知之。以陛下明聖,國家富強,將士盡力,以乘高麗之亂,其勢必克,不俟再舉矣。且高麗連年饑饉,妖異屢降,人心危駭,其亡可翹足待也。」上又問:「遼東諸將孰賢?」對曰:「薛仁貴勇冠三軍;龐同善雖不善鬥,而持軍嚴整;高侃勤儉自處,忠果有謀;契苾何力沉毅能斷,雖頗忌前,而有統御之才;然夙夜小心,忘身憂國,皆莫及李勣也。」上深然其言。 泉男建復遣兵五萬人救扶餘城,與李勣等遇於薛賀水,合戰,大破之,斬獲三萬餘人,進攻大行城,拔之。 朝廷議明堂制度略定,三月,庚寅,赦天下,改元。 戊寅,上幸九成宮。夏,四月,丙辰,彗星見於五車。上避正殿,減常膳,撤樂。許敬宗等奏請復常,曰:「彗見東北,高麗將滅之兆也。」上曰:「朕之不德,謫見於天,豈可歸咎小夷!且高麗百姓,亦朕之百姓也。」不許。戊辰,彗星見。 辛巳,西台侍郎、同東西台三品楊弘武薨。 八月,辛酉,卑列道行軍總管、右威衛將軍劉仁願坐征高麗逗留,流姚州。 癸酉,車駕還京師。 九月,癸巳,李勣拔平壤。勣既克大行城,諸軍出他道者皆與勣會,進至鴨綠柵,高麗發兵拒戰,勣等奮擊,大破之,追奔二百餘里,拔辰夷城,諸城遁逃及降者相繼。 |
現代日本語訳現在、高句麗王・高宗は弱体化しており、権臣が勝手に命令を発している状況だ。蓋蘇文の死後、息子たちである男建兄弟らは内輪もめで争い合っている上に、その弟である男生(泉男生)は心から我々唐へ帰順する意志を示し、道案内まで申し出ているため、彼らの内部事情については何一つ知らないことはない。陛下の英明さと国家の豊かさ強さ、そして将兵たちが全力を尽くしている現状において、まさに高句麗混乱の隙をつけば、必ず勝利を得られるだろう。再度攻め込む必要などあるまい。 さらに高句麗では飢饉が何年も続き不吉な兆しが頻発しており、人々は恐怖に震えているのだから、滅亡を待つだけの状態だと言っても過言ではない。 皇帝(高宗)が重ねて質問した。「遼東戦線における諸将の中で誰が有能か?」すると回答があった。「薛仁貴は三軍随一の勇者であり、龐同善は戦闘指揮こそ得意でないものの軍隊統率には厳格さを持ち合わせている。高侃は質素倹約を心掛け忠誠心厚く計略に長ける。契苾何力は沈着剛毅かつ決断力があり、少々他人より目立ちたがる傾向こそあるものの統率能力には優れている。しかしながら昼夜を問わず細やかな配慮を忘れず身命をも顧みず国事に尽くす点では、李勣(りせき)将軍には誰も及ばない」と。皇帝はこの意見に深く同意を示した。 泉男建がさらに兵5万を送って扶余城の救援に向かわせたところ、薛賀水で李勣らの軍勢と遭遇し交戦となった結果、唐軍は敵を大いに打ち破り3万余りの首級や捕虜を得て勝利。続いて大行城へ進撃してこれを攻略した。 朝廷では明堂(正殿)の建築様式に関する議論がほぼ決着を見たため、三月庚寅の日に恩赦を施行し元号も改められた。 戊寅には皇帝が九成宮に行幸された。夏四月丙辰になると五車星付近に彗星が出現したため、皇帝は正殿での政務を取り止めて食事を簡素化し音楽演奏も停止させた。許敬宗ら臣下が「彗星の東北方向への出現こそ高句麗滅亡の兆候」と奏上して元通りの生活に戻るよう進言したところ、皇帝はこう述べられた。「天に咎められるのは朕の不徳故であって、どうして小さな異民族(高句麗)のせいにできようか。それに高句麗の民衆もまた朕の子同然である」と許可しなかった。 戊辰にも再び彗星が観測された。 辛巳には西台侍郎・同東西台三品であった楊弘武が逝去した。 八月辛酉、卑列道行軍総管兼右威衛将軍劉仁願は高句麗遠征での進軍遅延の罪により姚州へ流刑となった。 癸酉に皇帝一行は長安へ還幸された。 九月癸巳、李勣がついに平壤城を陥落させた。大行城攻略後、他の方面から出撃していた全軍が李勣のもとに集結し鴨緑江の防衛線まで進軍すると、高句麗は迎撃に打って出てきたものの唐軍は奮戦してこれを壊滅的打撃を与え二百余里も追撃した。辰夷城を制圧する過程では各都市が次々と逃亡または降伏し、抵抗勢力は瓦解していった。 解説
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| 契苾何力先引兵至平壤城下,勣軍繼之,圍平壤月餘,高麗王藏遣泉男產帥首領九十八人,持白幡詣勣降,勣以禮接之。泉男建猶閉門拒守,頻遣兵出戰,皆敗。男建以軍事委僧信誠,信誠密遣人詣勣,請為內應。後五日,信誠開門,勣縱兵登城鼓噪,焚城四周,男建自刺,不死,遂擒之。高麗悉平。 冬,十月,戊午,以烏茶國婆羅門盧迦逸多為懷化大將軍。逸多自言能合不死藥,上將餌之。東台侍郎郝處俊諫曰:「修短有命,非藥可延。貞觀之末,先帝服那羅邇娑婆寐藥,竟無效;大漸之際,名醫不知所為,議者歸罪娑婆寐,將加顯戮,恐取笑戎狄而止。前鑒不遠,願陛下深察。」上乃止。 李勣將至,上命先以高藏等獻於昭陵,具軍容,奏凱歌,入京師,獻於太廟。十二月,丁巳,上受俘於含元殿。以高藏政非己出,赦以為司平太常伯、員外同正。以泉男產為司宰少卿,僧信誠為銀青光祿大夫,泉男生為右衛大將軍。李勣以下,封賞有差。泉男建流黔州,扶餘豐流嶺南,分高麗五部、百七十六城、六十九萬餘戶,為九都督府、四十二州、百縣,置安東都護府於平壤以統之。擢其酋帥有功者為都督、刺史、縣令,與華人參理。以右威衛大將軍薛仁貴檢校安東都護,總兵二萬人以鎮撫之。 丁卯,上祀南郊,告平高麗,以李勣為亞獻。己巳,謁太廟。 |
現代日本語訳契苾何力(けいひつかりょく)が先に軍を率いて平壌城下に到着し、李世勣(りせいきち)の軍はその後を追った。平壌を一月余り包囲したところ、高句麗王・蔵(こう)は泉男産(せんなんさん)を派遣し、首長98人とともに白旗を持たせて李世勣のもとに降伏させた。世勣は礼をもって彼らを受け入れた。一方で泉男建(せんなんけん)は依然として城門を閉ざして抵抗を続け、再三兵士を出撃させるもことごとく敗北した。男建が軍事の全権を僧・信誠に委ねたところ、信誠は密かに李世勣のもとに使者を送り内応を持ちかけた。 五日後、信誠が城門を開くと、世勣は兵士たちに城壁への登攀と鬨(とき)の声を上げるよう命じ、四方に火を放った。男建は自ら刺し違えようとしたが死にきれず、ついに捕らえられた。こうして高句麗は完全に平定された。 冬十月戊午の日、烏荼国(うとこく)のバラモンである盧迦逸多(ろかいった)を懐化大将軍に任命した。逸多は「不死の薬を作れる」と自称し、高宗皇帝が服用しようとした。東台侍郎・郝処俊(かくしょしゅん)が諫めて言うには、「寿命は天命で決まり、薬では延ばせません。貞観末期に先帝(太宗)が那羅邇娑婆寐(ならじさまい)の薬を服用されましたが効果なく、危篤時に名医さえ手の施しようがありませんでした。当時は娑婆寐への処刑も議論されましたが、夷狄に笑われる恐れがあって見送られたのです。この教訓はつい最近のことですから、陛下には深くお考えください」。皇帝はこれにより服用を中止した。 李世勣の帰還前に高宗は命じた:高蔵らをまず昭陵(太宗陵)へ奉り、軍列を整え凱歌を奏しながら都に入れ、太廟で献上せよと。十二月丁巳の日、皇帝は含元殿で捕虜を受けた。高蔵が実権を持っていなかったことを考慮し赦免して司平太常伯・員外同正とした。泉男産には司宰少卿を、僧信誠には銀青光禄大夫を、泉男生(せんなんせい)には右衛大将軍を与えた。李世勣以下にも差等をつけて封賞を行った。 一方で泉男建は黔州へ流罪、扶余豊(ふよほう)は嶺南に流された。高句麗の五部・176城・69万余戸を九都督府・四十二州・百県に分割し、平壌に安東都護府を設置して統轄させた。功績ある酋長らを都督・刺史・縣令に抜擢し唐人と共同で政務にあたらせた。右威衛大将軍・薛仁貴(せつじんき)を検校安東都護とし兵二万を率い鎮撫させた。 丁卯の日、皇帝は南郊で天地祭祀を行って高句麗平定を報告し、李世勣を亜献(祭礼次席)とした。己巳には太廟参拝した。 解説
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| 渭南尉劉延祐,弱冠登進士第,政事為畿縣最。李勣謂之曰:「足下春秋甫爾,遽擅大名,宜稍自貶抑,無為獨出人右也。」 時有敕,征遼軍士逃亡,限內不首及首而更逃者,身斬,妻子籍沒。太子上表,以為:「如此之比,其數至多。或遇病不及隊伍,怖懼而逃;或因樵采為賊所掠;或渡海漂沒;或深入賊庭,為所傷殺。軍法嚴重,同隊恐並獲罪,即舉以為逃,軍旅之中,不暇勘當,直據隊司通狀關移所屬,妻子沒官,情實可哀。《書》曰:『與其殺不辜,寧失不經。』伏願逃亡之家,免其配沒。」從之。甲戌,司戎太常伯姜恪兼檢校左相,司平太常伯閻立本守右相。 是歲,京師及山東、江、淮旱、饑。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之上總章二年(己巳,公元六六九年) 春,二月,辛酉,以張文瓘為東台侍郎,以右肅機、檢校太子中護譙人李敬玄為西台侍郎,並同東西台三品。先是同三品不入銜,至是始入銜。 癸亥,以雍州長史盧承慶為司刑太常伯。承慶嘗考內外官,有一官督運,遭風失米,承慶考之曰:「監運損糧,考中下。」其人容色自若,無言而退。承慶重期雅量,改注曰:「非力所及,考中中。」既無喜容,亦無愧詞。又改曰:「寵辱不驚,考中上。」 三月,丙戌,東台侍郎郝處俊同東、西台三品。 丁亥,詔定明堂制度:其基八觚,其宇上圓,覆以清陽玉葉,其門牆階級,窗欞楣柱,柳楶枅栱,皆法天地陰陽律歷之數。 |
【現代日本語訳】渭南県尉劉延祐は、弱冠にして進士科に合格し、その政務成績は京畿地方の最優秀と評された。李勣が彼に諭して言うには、「君は年齢若くして急に名声を得たのだから、少し自らを抑えるべきだ。決して独りよがりの振る舞いで他人より目立つようなことをするな」。 当時詔勅が出ており、遼東征伐の兵士で逃亡した者は、期限内に自首しない者や一度自首して再び逃亡した者は斬刑とし、妻子は没官(奴隷として没収)すると定められていた。皇太子が上表して諫言した:「このような事例は極めて多い。病気で部隊から遅れ恐怖のあまり逃げた者、薪採り中に敵に捕らえられた者、渡海中に海難遭難した者、敵地深く侵入し殺傷された者がいる。軍法が厳格ゆえ同隊兵士は連座を恐れて逃亡と報告し、戦陣では調査する暇もなく部隊の通達のみで所属部署へ移送される。妻子まで没官されるのは誠に痛ましい。(書経)には『無実者を殺すよりは法規執行の不徹底を選べ』とある。どうか逃亡者の家族への連座処分をお赦しください」。この意見が採用された。 甲戌(十二日)、司戎太常伯姜恪が左相を兼務し、司平太常伯閻立本は右相に就任した。 同年、長安と山東・江淮地方で旱魃と飢饉発生す。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝治世中巻(総章二年 己巳年/西暦669年) 春二月辛酉(八日)、張文瓘を東台侍郎に任命。右粛機・検校太子中護の譙県人李敬玄を西台侍郎とし、ともに「同東西台三品」称号を与える。これ以前は「同三品」が官職名に入らなかったが、この時から正式呼称となった。 癸亥(十日)、雍州長史盧承慶を司刑太常伯に任命。かつて内外官僚の考課評価を行った際、ある役人が物資輸送中に風害で米を喪失した案件があった。当初は「監督不行届による損耗」として「中下」と評価すると、当人は表情も変えず黙礼して退出した。盧承慶がその度量の大きさに感心し、「不可抗力事故」と修正して「中中」としたところ、相手は喜色も反省も見せなかったため、さらに「栄辱動ぜざる器量」として最終的に「中上」評価を与えた。 三月丙戌(五日)、東台侍郎郝処俊が同東西台三品となる。 丁亥(六日)詔勅を発し明堂祭祀殿の規格制定:基壇は八角形、屋根は円形とし清陽玉葉で葺く。門壁・階段から窓枠・梁柱に至るまで装飾細部すべて天地陰陽と暦法数理に則って設計せよ。 【解説】
※本訳文出典:『資治通鑑』巻第二百一 唐紀十七(高宗総章二年条) Translation took 1662.1 seconds. |
| 詔下之後,眾議猶未決,又會饑饉,竟不果立。 夏,四月,己酉朔,上幸九成宮。 高麗之民多離叛者,敕徙高麗戶三萬八千二百於江、淮之南,及山南、京西諸州空曠之地,留其貧弱者,使守安東。 六月,戊申朔,日有食之。 秋,八月,丁未朔,詔以十月幸涼州。時隴右虛耗,議者多以為未宜游幸。上聞之,辛亥,御延福殿,召五品已上謂曰:「自古帝王,莫不巡守,故朕欲巡視遠俗。若果為不可,何不面陳,而退有後言,何也?」自宰相以下莫敢對。詳刑大夫來公敏獨進曰:「巡守雖帝王常事,然高麗新平,餘寇尚多,西邊經略,亦未息兵。隴右戶口凋弊,鑾輿所至,供億百端,誠為未易。外間實有竊議,但明制已行,故群臣不敢陳論耳。」上善其言,為之罷西巡。未幾,擢公敏為黃門侍郎。 甲戌,改瀚海都護府為安北都護府。 九月,丁丑朔,詔徙吐谷渾部落就涼州南山。議者恐吐蕃侵暴,使不能自存,欲先發兵擊吐蕃。右相閻立本以為去歲饑歉,未可興師。議久不決,竟不果徙。 庚寅,大風,海溢,漂永嘉、安固六千餘家。 冬,十月,丁巳,車駕還京師。 十一月,丁亥,徙豫王旭輪為冀王,更名輪。 司空、太子太師、英貞武公李勣寢疾,上悉召其子弟在外者,使歸侍疾。上及太子所賜藥,勣則餌之;子弟為之迎醫,皆不聽進,曰:「吾本山東田夫,遭值聖明,致位三公,年將八十,豈非命邪!修短有期,豈能復就醫工求活!」一旦,忽謂其弟司衛少卿弼曰:「吾今日小愈,可共置酒為樂。 |
現代日本語訳詔が下された後も議論は収まらず、さらに飢饉に見舞われたため結局実施されなかった。 夏4月己酉の朔(ついたち)、皇帝は九成宮に行幸した。 6月戊申の朔(ついたち)、日食が発生した。 甲戌、瀚海都護府を安北都護府へ改称。 冬10月丁巳、皇帝は都に帰還した。 司空(三公)李勣が病床につくと、皇帝は地方勤務の子弟全員を呼び寄せ看病にあたらせた。皇帝や皇太子から賜った薬だけ服用し「私は山東の農夫だったが天子に遇され三公まで上り詰め八十歳近くになった。寿命には定めがある」と言って医者の診察を拒絶。ある日突然弟・司衛少卿李弼に「今日は体調が良いから酒宴を催そう」と告げた。 考釈■歴史的背景の要点
■訳出方針
■本文解釈上の留意点
詔が下された後も議論は収まらず、さらに飢饉に見舞われたため結局実施されなかった。 夏4月己酉の朔(ついたち)、皇帝は九成宮に行幸した。 6月戊申の朔(ついたち)、日食が発生した。 甲戌、瀚海都護府を安北都護府へ改称。 冬10月丁巳、皇帝は都に帰還した。 司空(三公)李勣が病床につくと、皇帝は地方勤務の子弟全員を呼び寄せ看病にあたらせた。皇帝や皇太子から賜った薬だけ服用し「私は山東の農夫だったが天子に遇され三公まで上り詰め八十歳近くになった。寿命には定めがある」と言って医者の診察を拒絶。ある日突然弟・司衛少卿李弼に「今日は体調が良いから酒宴を催そう」と告げた。 考釈■歴史的背景の要点
■訳出方針
■本文解釈上の留意点
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| 」於是子孫悉集,酒闌,謂弼曰:「吾自度必不起,故欲與汝曹為別耳。汝曹勿悲泣,聽我約束。我見房、杜平生勤苦,僅能立門戶,遭不肖子,蕩覆無餘。吾有此子孫,今悉付汝。葬畢,汝即遷入我堂,撫養孤幼,謹察視之。其有志氣不倫,交遊非類者,皆先撾殺,然後以聞。」自是不復更言。十二月,戊申,薨。上聞之悲泣,葬日,幸未央宮,登樓望輀車慟哭。起塚象陰山、鐵山、烏德鞬山,以旌其破突厥、薛延陀之功。 勣為將,有謀善斷;與人議事,從善如流。戰勝則歸功於下,所得金帛,悉散之將士,故人思致死,所向克捷。臨事選將,必訾相其狀貌豐厚者遣之。或問其故,勣曰:「薄命之人,不足與成功名。」閨門雍睦而嚴。其姊嘗病,勣已為僕射,親為之煮粥。風回,爇其鬚鬢。姊曰:「僕妾幸多,何自苦如是!」勣曰:「非為無人使令也,顧姊老,勣亦老,雖欲久為姊煮粥,其可得乎!」勣常謂人:「我年十二三時為亡賴賊,逢人則殺。十四五為難當賊,有所不愜則殺人。十七八為佳賊,臨陳乃殺之。二十為大將,用兵以救人死。」勣長子震早卒,震子敬業襲爵。 時承平既久,選人益多,是歲,司列少常伯裴行儉始與員外郎張仁示韋,設長名姓歷榜,引銓注之法。又定州縣升降、官資高下。其後遂為永制,無能革之者。 大略唐之選法,取人以身、言、書、判,計資量勞而擬官。 |
【現代日本語訳】そこで子孫たちを全て集め、酒宴も終わりに近づいた時、李勣は彼らに向かって言った。「私は自分の病状が回復しないと覚悟したので、お前たちと別れを告げようと思っている。悲しんだり泣きたりせず、私の言葉をよく聞け。私は房玄齢や杜如晦(唐初の名臣)が生涯苦労して築いた家門も、不肖な息子のために跡形もなく滅ぼされるのを見てきた。私はお前たちこれらの子孫を持つが、今全てをお前に託す。葬儀が終わったら、すぐに私の屋敷に移り住み、幼い孤児を養育し、厳しく監視せよ。志気が乱れていて常軌を逸したり、交際する者が良からぬ者ばかりというような輩は、まず打ち殺してから報告せよ。」その後、彼は二度と口をきくことはなかった。十二月戊申の日、李勣は死去した。太宗皇帝(李世民)はこの知らせを聞くと悲しみ涙を流し、葬儀の日に未央宮に行幸して楼閣に登り、柩車を見送りながら慟哭した。墓には陰山・鉄山・ウテケン山の形を造営し、突厥(トルコ系遊牧国家)と薛延陀(せつえんだ、鉄勒族の一部族連合)を撃破した功績を顕彰した。 李勣は将軍として優れた謀略を持ち決断力に富み、人々と議論する際には善い意見があれば素直に従った。戦いに勝利すれば功績を部下に帰し、得た金銭や絹布は全て将士たちに分け与えたため、配下の者は死をも厭わず働き、指向するところ必ず勝利を得た。事に臨んで将を選ぶ際には、必ずその容貌が豊かで堂々とした者を選んで派遣した。ある者がその理由を尋ねると、李勣は答えた。「薄命の者は、共に成功や名声を築くことはできないのだ。」家庭内では和やかでありながら厳格であった。姉が病気になった時、既に僕射(宰相職)となっていた李勣自ら粥を煮て差し上げた。風向きが変わり火が彼のひげと鬢を焦がした。すると姉は言った。「使用人はたくさんいるのに、なぜ自らこんな苦労をするのか。」李勣は答えた。「人がいないからではないのです。姉上も老い、私も年を取りました。長く粥を作り続けたいと思っても、果たしてそれが叶うでしょうか。」 李勣はよく人々に語っていた。「私は十二三歳の頃なら無頼漢で、出会った者は皆殺した。十四五では手強い賊となり、気に入らぬことがあれば人を殺した。十七八には良き賊となり戦場においてのみ命を奪い、二十にして大将軍となって兵を用いることで人々の死を救うようになった。」李勣の長男・震は早世し、その子・敬業が爵位を継承した。 この頃、太平の世が続いたため登用候補者が激増していた。同年、司列少常伯(吏部次官)裴行儉が員外郎張仁禕と協力して初めて「長名姓歴榜」を作成し、官吏選考方法を整備した。また州県の格付けや官職序列制度を確立した。この制度は後世まで永続的なものとなり、これを改める者は現れなかった。 概ね唐代の官吏登用法では、人物評価(身)・弁舌能力(言)・書道技能(書)・判決文作成力(判)に基づき採用者を選抜し、経歴と功績を勘案して官職を決定したものである。 【解説】
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| 始集而試,觀其書、判;已試而銓,察其身、言;已銓而注,詢其便利;已注而唱,集眾告之。然後類以為甲,先簡僕射,乃上門下,給事中讀,侍郎省,侍中審之,不當者駁下。既審,然後上聞,主者受旨奉行,各給以符,謂之告身。兵部武選亦然。課試之法,以騎射及翹關、負米。人有格限未至,而能試文三篇,謂之宏詞,試判三條,謂之拔萃,入等者得不限而授。其黔中、嶺南、閩中州縣官,不由吏部,委都督選擇士人補授。凡居官以年為考,六品以下,四考為滿。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之上咸亨元年(庚午,公元六七零年) 春,正月,丁丑,右相劉仁軌請致仕;許之。 三月,甲戌朔,以旱,赦天下,改元。 丁丑,改蓬萊宮為含元宮。 壬辰,太子少師許敬宗請致仕;許之。 敕突厥酋長子弟事東宮。西台舍人徐齊聃上疏,以為:「皇太子當引文學端良之士置左右,豈可使戎狄丑類入侍軒闥!」又奏:「齊獻公即陛下外祖,雖子孫有犯,豈應上延祖檷!今周忠孝公廟甚修,而齊獻公廟毀廢,不審陛下何以垂示海內,彰孝理之風!」上皆從之。齊聃,充容之弟也。 夏,四月,吐蕃陷西域十八州,又與于闐襲龜茲撥換城,陷之。罷龜茲、于闐、焉耆、疏勒四鎮。辛亥,以右衛大將軍薛仁貴為邏娑道行軍大總管,左衛員外大將軍阿史那道真、左衛將軍郭待封副之,以討吐蕃,且援送吐谷渾還故地。 |
現代日本語訳:まず候補者を集めて試験を行い、書類の内容と判断力を観察する(試其書判)。試験後は選考により身体的特徴と言語能力を審査し(銓其身言)、選考後に官職への配属意向を確認する(注詢便利)。配属が決まると公表して関係者に通知する。その後成績順にランク分けし、まず尚書僕射の承認を得て門下省へ提出する。給事中が朗読した後、侍郎が検討し、侍中が最終審査を行い不適格者は差し戻す。全過程を経て皇帝に上奏され、担当部署が詔勅を受けて執行し、任命書(告身)を交付する。兵部の武官選抜も同様である。 試験方法は騎射・力試し(翹関=門を持ち上げる動作)・米俵運搬で実施される。規定基準に達しない者でも文三篇を作成できれば「宏詞」、判決文三条が書ければ「拔萃」と認められ、成績優秀者は任用制限を免除された。黔中(貴州)・嶺南(広東・広西)・閩中(福建)の地方官は吏部を経ず現地都督が選抜する。官吏の勤務評定は年単位で行われ、六品以下は四年任期制である。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝治世中期 咸亨元年(庚午、670年) 春正月丁丑日(7日)、右相劉仁軌が致仕(引退)を願い出て許可される。 三月甲戌朔日(1日)、旱魃により全国規模の恩赦と改元実施。 同月丁丑日(4日)、蓬萊宮を含元宮に改称。 壬辰日(19日)、太子少師許敬宗の致仕が認可。 突厥首長の子弟を東宮勤務とする勅命に対し、西台舎人徐斉聡が上疏:「皇太子には教養ある良識者を側近とすべきであり、蛮族を侍従させるのは不適切(豈可使戎狄丑類入侍軒闥)」と諫言。さらに「陛下の外祖父・齊献公廟が荒廃しているのに周忠孝公廟だけ整備されている状況では天下に孝道を示せない」と指摘し、皇帝は両意見を容れた(徐斉聡は武則天側近・充容の弟)。 夏四月、吐蕃が西域十八州を占領。于闐と共謀して亀茲拠点・撥換城も陥落させる。これにより亀茲・于闐・焉耆・疏勒の四鎮廃止。辛亥日(9日)、右衛大将軍薛仁貴を邏娑道行軍大総管に任命し、阿史那道真と郭待封を副将として吐蕃討伐及び吐谷渾故地帰還支援を命じる。 解説:
※歴史的補足:本紀年における皇帝称号「高宗天皇...」は玄宗時代(749年)に追尊されたもので、司馬光ら『資治通鑑』編纂時の呼称を用いている。咸亨元年の旱魃と改元は当時頻発した天変地異への対応として典型例である。 Translation took 1579.9 seconds. |
| 庚午,上幸九成宮。 高麗酋長劍牟岑反,立高藏外孫安舜為主。以左監門大將軍高侃為東州道行軍總管,發兵討之,安舜殺劍牟岑,奔新羅。 六月,壬寅朔,日有食之。 秋,八月,丁巳,車駕還京師。 郭待封先與薛仁貴並列,及征吐蕃,恥居其下,仁貴所言,待封多違之。軍至大非川,將趣烏海,仁貴曰:「烏海險遠,軍行甚難,輜重自隨,難以趨利;宜留二萬人,為兩柵於大非嶺上,輜重悉置柵內,吾屬帥輕銳,倍道兼行,掩其未備,破之必矣。」仁貴帥所部前行,擊吐蕃於河口,大破之,斬獲甚眾,進屯烏海以俟待封。待封不用仁貴策,將輜重徐進,未至烏海,遇吐蕃二十餘萬,待封軍大敗,還走,悉棄輜重。仁貴退屯大非川,吐蕃相論欽陵將兵四十餘萬就擊之,唐兵大敗,死傷略盡。仁貴、待封與阿史那道真並脫身免,與欽陵約和而還。敕大司憲樂彥瑋即軍中按其敗狀,械送京師,三人皆免死除名。 欽陵,祿東贊之子也,與弟贊婆、悉多於、勃論皆有才略。祿東贊卒,欽陵代之秉政,三弟將兵居外,鄰國畏之。 關中旱,饑。九月,丁丑,詔以明年正月幸東都。 甲申,皇后母魯國忠烈夫人楊氏卒,敕文武九品以上及外命婦並詣宅吊哭。 閨月,癸卯,皇后以久旱,請避位;不許。 壬子,加贈司徒周忠孝公武士擭為太尉、太原王,夫人為王妃。 |
現代日本語訳庚午の日、皇帝が九成宮に行幸された。 高麗族長剣牟岑が反乱を起こし、高蔵王の外孫安舜を擁立した。朝廷は左監門大将軍・高侃を東州道行軍総管に任命して討伐軍を派遣すると、安舜は剣牟岑を殺害し新羅へ逃亡した。 六月壬寅朔(1日)、日食が発生した。 秋八月丁巳の日、皇帝一行が長安に還幸された。 郭待封は元々薛仁貴と同格であったため吐蕃征討でその下位となることを恥じ、しばしば仁貴の命令を無視した。大非川到着後、烏海進軍にあたり仁貴は「道険遠く輜重が足かせになる」として主力2万に防塁建設を命じ自ら軽装兵で急襲作戦を提案。河口で吐蕃軍を撃破し烏海占領後に待封到着を待った。 しかし郭待封は命令を無視して輜重隊と緩慢進軍、途中で20万の吐蕃軍に壊滅的打撃を受け全物資を放棄敗走した。仁貴も大非川へ撤退するが論欽陵率いる40万大軍に包囲され唐軍はほぼ全滅。辛うじて脱出した三人(薛・郭・阿史那道真)は和議を結んで帰還し、死罪免除の上で官職剥奪となった。 この欽陵は吐蕃宰相禄東贊の子であり弟たちと共に強大な軍事力を掌握、周辺国から恐れられていた。 関中地方が大旱魃に見舞われる。九月丁丑日詔勅により翌年正月の洛陽行幸が決定された。 甲申日に皇后(武則天)生母楊氏逝去。九品以上の全官吏と外命婦に弔問を命令した。 閏月癸卯、旱魃続きを憂慮し皇后自ら退位を願い出たが却下される。 壬子日には故武士擭(武則天父)へ太尉・太原王の追贈と夫人への王妃号授与が行われた。 解説軍事指揮系統の問題点 郭待封の作戦不服従は単なる私怨を超える重大な軍規違反だった。当時左監門大将軍(正三品)クラスの高級将官でさえ行軍総管(臨時司令官)への絶対服従が求められており、この抗命行為が唐・吐蕃戦力差以上に敗因となったことが『械送京師』の厳罰処分から窺える。 自然災害と政治儀礼 日食記録(6月壬寅朔)は当時の天文観測精度を示す貴重資料。特に皇后武則天が旱魃を「自らの不徳」と称し退位申し出た件(閏月癸卯)は、『災異譴告説』に基づく儀礼的行為であり却下されたことで逆に権威強化につながった点が注目される。 吐蕃台頭の背景 論欽陵兄弟による集団指導体制(禄東贊没後の政軍分掌)が最大の強みであった。『三弟將兵居外』とある通り、彼らが河西回廊から四川方面まで広域支配した軍事ネットワークは唐側に「鄰國畏之」と言わしめた。 武則天権力基盤形成 本節末尾(壬子条)の武士擭夫妻への追贈劇は単なる名誉回復を超え、皇后としての正統性創出装置だった。当時すでに実父が「周忠孝公」という異例の諡号を得ていた背景には、山東貴族に対抗する新興勢力の盟主としての位置付けがあった。 ※固有名詞は原典根拠のある現代通用形(例:薛仁貴=せつじんき)で統一。古代官職名も可能な限り現行制度に即した訳語を採用した(行軍総管→司令官など)。 Translation took 1635.4 seconds. |
| 甲寅,以左相姜恪為涼州道行軍大總管,以御吐蕃。 冬,十月,乙未,太子右中護、同東西台三品趙仁本為左肅機,罷政事。 庚寅,詔官名皆復舊。 |
翻訳結果甲寅の日、左相・姜恪を涼州道行軍大総管に任命し、吐蕃に対応させた。 冬十月乙未の日、太子右中護で同東西台三品であった趙仁本が左肅機に転じ、政務から離れた。 庚寅の日、詔書により官名を全て旧来の名称へ戻すことを命じた。 解説
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| input text 資治通鑑\202_唐紀_18.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百二 唐紀十八 起重光協洽,盡重光大荒落,凡十一年。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之下咸亨二年〈(辛未,公元六七一年)〉 春,正月,甲子,上幸東都。 夏,四月,甲申,以西突厥阿史那都支為左驍衛大將軍兼匐延都督,以安集五咄陸之眾。 初,武元慶等既死,皇后奏以其姊子賀蘭敏之為士擭之嗣,襲爵周公,改姓武氏,累遷弘文館學士、左散騎常侍。魏國夫人之死也,上見敏之,悲泣曰:「向吾出視朝猶無恙,退朝已不救,何倉卒如此!」敏之號哭不對。后聞之,曰:「此兒疑我!」由是惡之。敏之貌美,蒸於太原王妃;及居妃喪,釋衰絰,奏妓。司衛少卿楊思儉女,有殊色,上及后自選以為太子妃,昏有日矣,敏之逼而淫之。后於是表言敏之前後罪惡,請加竄逐。六月,丙子,敕流雷州,復其本姓。至韶州,以馬韁絞死。朝士坐與敏之交遊,流嶺南者甚眾。 秋,七月,乙未朔,高侃破高麗餘眾於安市城。九月,丙申,潞州刺史徐王元禮薨。 冬,十一月,甲午朔,日有食之。 車駕自東都幸許、汝;十二月,癸酉,校獵於葉縣;丙戌,還東都。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之下咸亨三年〈(壬申,公元六七二年)〉 春,正月,辛丑,以太子右衛副率梁積壽為姚州道行軍總管,將兵討叛蠻。 庚戌,昆明蠻十四姓二萬三千戶內附,置殷、敦、總三州。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻二百二 唐紀十八 重光協洽(辛未)の年から重光大荒落(辛巳)の年に至るまで、十一年間を記す。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝・中之下 咸亨二年(辛未、671年) 初め、武元慶らが死去すると、則天武后は姉の子である賀蘭敏之を武士彠(武則天の父)の後継者とし、周国公の爵位を継承させて武姓に改めた。その後、弘文館学士・左散騎常侍へ累進したが、魏国夫人(武后の姉)が死去した際、帝は敏之に対面して悲嘆しながら言った。「朝見に出た時には無事だったのに、退朝後にはもう救えなかった。どうしてこんなに突然なのか」と。敏之は号泣するのみで答えず、武后はこれを聞いて「この子は私を疑っている」と言い、以後彼を憎むようになった。 さらに賀蘭敏之は美貌であったが、太原王妃(武士彠の正室)と密通し、妃の喪中にもかかわらず喪服を脱ぎ捨て妓楽を奏させた。また司衛少卿・楊思儉の娘(容色非凡で帝と武后自ら太子妃に選んだ女性)が婚約直前にいたが、敏之は彼女を強姦した。このため武后は上表し、敏之の罪状を列挙して流刑を請願。六月丙子、勅命により雷州へ流罪とされ本姓(賀蘭氏)に復すこととなったが、韶州まで赴く途上で馬の手綱を用いて絞殺された。彼と交流した朝廷官吏も多くが嶺南への流刑となった。 秋七月乙未朔(1日)、高侃が安市城で高句麗残党を撃破。九月丙申、潞州刺史・徐王元礼が薨去。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝・中之下 咸亨三年(壬申、672年) 解説
※注:原文中の年号・干支は西暦併記し、爵位名(周公)や官職名(左驍衛大将軍等)には適宜現代語訳を付与しました。固有名詞のルビ表記は指示通り省略しています。 Translation took 1789.3 seconds. |
| 二月,庚午,徙吐谷渾於鄯州浩亹水南。吐谷渾畏吐蕃之強,不安其居,又鄯州地狹,尋徙靈州,以其部落置安樂州,以可汗諾曷缽為刺史。吐谷渾故地皆入於吐蕃。 己卯,侍中永安郡公姜恪薨。 夏,四月,庚午,上幸合璧宮。 吐蕃遣其大臣仲琮入貢,上問以吐蕃風俗,對曰:「吐蕃地薄氣寒,風俗樸魯;然法令嚴整,上下一心,議事常自下而起,因人所利而行之,斯所以能持久也。」上詰以吞滅吐谷渾、敗薛仁貴、寇逼涼州事,對曰:「臣受命貢獻而已,軍旅之事,非所聞也。」上厚賜而遣之。癸未,遣都水使者黃仁素使於吐蕃。 秋,八月,壬午,特進高陽郡公許敬宗卒。太常博士袁思古議:「敬宗棄長子於荒徼,嫁少女於夷貊。按《謚法》,『名與實爽曰繆,』請謚為繆。」敬宗孫太子舍人彥伯訟思古與許氏有怨,請改謚。太常博士王福畤議,以為:「謚者得失一朝,榮辱千載。若嫌隙有實,當據法推繩;如其不然,義不可奪。」戶部尚書戴至德謂福畤曰:「高陽公任遇如是,保以謚之為繆?」對曰:「昔晉司空何曾既忠且孝,徒以日食萬錢,秦秀謚之曰『繆』。許敬宗忠孝不逮於曾,而飲食男女之累過之,謚之曰『繆』,無負許氏矣。」詔集五品已上更議,禮部尚書陽思敬議:「按《謚法》,既過能改曰恭。請謚曰恭。」詔從之。 |
現代日本語訳二月庚午の日、吐谷渾(とよくこん)を鄯州(ぜんしゅう)浩亹水(こうもんすい)の南に移住させた。しかし吐谷渾は吐蕃(とばん)の強大さを恐れ、居住地に不安を感じていた。さらに鄯州の土地が狭かったため、まもなく霊州(れいしゅう)へ再移住となった。その部族には安楽州(あんらくしゅう)を設置し、可汗ノガボを刺史(しし)に任命した。こうして吐谷渾の旧領土はすべて吐蕃に併合された。 己卯の日、侍中永安郡公姜恪(きょうかく)が死去した。 夏四月庚午の日、皇帝は合璧宮(ごうへききゅう)に行幸した。 吐蕃は大臣チュクツンを遣わして貢物を献上した。皇帝が吐蕃の風俗について問うと、彼は答えて言った。「吐蕃は土地が痩せて寒冷であり、風俗は質朴で粗野です。しかし法令は厳正に整えられ、上下が心を一つにしており、議事は常に下位から始まり、民の利益となることを基に行われています。これこそ永続する所以(ゆえん)でしょう」。皇帝が吐谷渾併合や薛仁貴(せつじんき)撃破、涼州侵攻について詰問すると、「私は貢献の命令を受けただけで、軍務については聞いておりません」と答えた。皇帝は手厚く下賜して帰国させた。癸未の日には都水使者黄仁素を吐蕃に派遣した。 秋八月壬午の日、特進高陽郡公許敬宗(きょけいそう)が死去した。太常博士袁思古(えんしこ)は「敬宗は長子を辺境に見捨て、幼い娘を異民族に嫁がせた」と指摘。「謚法(しほう)によれば『名実伴わざるを繆(びゅう)という』ので『繆』の諡号を賜わるべきだ」と主張した。敬宗の孫で太子舎人の彦伯は「袁思古には許氏への恨みがある」として改謚を訴えたが、太常博士王福畤(おうふくち)は「諡号は一時の得失ではなく千年の栄辱を決めるもの。怨恨事実があれば法に基づき糾弾すべきだが、そうでなければ既定評価は覆せない」と反論した。 戸部尚書戴至徳(たいしとく)が王福畤に「高陽公ほどの人物に『繆』とは何事か」と詰め寄ると、「かつて晋の司空何曾(かそう)は忠孝を全うしながら、奢侈(ぜいたく)で日食万銭を使ったため秦秀から『謬』の諡号を与えられました。敬宗は何曾にも及ばぬ忠孝心に加え、享楽と女性問題が甚だしかったのです」との答え。最終的に五品以上官僚による再議で礼部尚書陽思敬(ようしけい)が「『過ち改むるを恭という』の条文により『恭』を与えるべき」と提案し、皇帝はこれに従って決定した。 解説
※本訳文では『資治通鑑』原文に忠実でありながら現代語として自然な表現を採用し、固有名詞は最新研究(例:ノガボ可汗の音写)に基づいて表記しています。 Translation took 811.0 seconds. |
| 敬宗嘗奏流其子昂於嶺南,又以女嫁蠻酋馮盎之子,多納其貨,故思古議及之。福畤,勃之父也。 九月,癸卯,徙沛王賢為雍王。 冬,十月,己未,詔太子監國。 壬戌,車駕發東都。 十一月,戊子朔,日有食之。 甲辰,車駕至京師。 十二月,高侃與高麗餘眾戰於白水山,破之。新羅遣兵救高麗,侃擊破之。 癸卯,以左庶子劉仁軌同中書門下三品。太子罕接宮臣,典膳丞全椒邢文偉輒減所供膳,並上書諫太子。太子復書,謝以多疾及入侍少暇,嘉納其意。頃之,右史缺,上曰:「邢文偉事吾子,能撤膳進諫,此直士也。」擢為右史。太子因宴集,命宮臣擲倒,次至左奉裕率王及善,及善曰:「擲倒自有伶官,臣若奉令,恐非所以羽翼殿下也。」太子謝之。上聞之,賜及善縑百匹,尋遷左千牛衛將軍。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之下咸亨四年〈(癸酉,公元六七三年)〉 春,正月,丙辰,絳州刺史鄭惠王元懿薨。 三月,丙申,詔劉仁軌等改修國史,以許敬宗等所記多不實故也。 夏,四月,丙子,車駕幸九成宮。 閏五月,燕山道總管、右領軍大將軍李謹行大破高麗叛者於瓠蘆河之西,俘獲數千人,餘眾皆奔新羅。時謹行妻劉氏留伐奴城,高麗引靺鞨攻之,劉氏擐甲帥眾守城,久之,虜退。上嘉其功,封燕國夫人。謹行,靺鞨人突地稽之子也,武力絕人,為眾夷所憚。 |
現代語訳:敬宗(許敬宗)はかつて自らの息子である昂を嶺南へ流罪にするよう上奏したことがあり、また娘を蛮族の首長・馮盎の息子に嫁がせ、多額の財貨を受け取っていた。このため思古(上官儀)がその問題点を指摘したのである。福畤は王勃の父である。 九月癸卯の日、沛王李賢を雍王に転封する。 冬十月己未の日、詔勅により皇太子に国政監視を命じる。 壬戌の日、皇帝一行が東都洛陽を出発。 十一月戊丑朔(1日)、日食が発生。 甲辰の日、皇帝一行が長安に到着。 十二月、高侃が白水山で高句麗残党と交戦し撃破。新羅が救援軍を派遣したが高侃はこれを打ち砕く。 癸卯の日、左庶子劉仁軌を同中書門下三品(実質的な宰相)に任命。皇太子が側近官僚との接触を怠っていたため、典膳丞・邢文偉が供給される食事量を意図的に減らし、上奏して諫めた。太子は返書で「病弱なうえ侍従の暇がない」と弁明しながらも彼の忠義を称賛。 その後右史(記録官)の職が空席となると、皇帝は「邢文偉は我が子のために敢えて食事を減らして諫めた真っ直ぐな人物だ」として抜擢した。ある時太子が宴会で側近に雑技を命じたところ、左奉裕率・王及善が「曲芸は専門の役人がおります。臣がこれを行うのは殿下をお守りする道ではありません」と拒否。太子は謝罪し、皇帝はこの話を聞いて王及善に絹百匹を与え、まもなく左千牛衛将軍に昇進させた。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 咸亨四年(癸酉年・673年) 春正月丙辰の日、絳州刺史で鄭恵王の李元懿が逝去。 三月丙申の日、詔勅により劉仁軌らに対し国史編纂を修正させた。許敬宗らの記述に虚偽が多いためである。 夏四月丙子の日、皇帝一行が九成宮に行幸。 閏五月、燕山道総管・右領軍大将軍李謹行が瓠蘆河西岸で高句麗反乱軍を撃破し数千人を捕虜。残党は新羅へ敗走。 この時、李謹行の妻劉氏が伐奴城に残留していたところ、高句麗が靺鞨兵を率いて攻め寄せたが、劉氏みずから甲冑を着て防衛指揮にあたり敵を撃退。皇帝はその功績を称え燕国夫人に封じる。 李謹行は靺鞨族首長・突地稽の子で、並外れた武勇を持ち周辺諸民族から畏怖されていた。 解説:
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| 秋,七月,辛巳,婺州大水,溺死者五千人。 八月,辛丑,上以瘧疾,令太子於延福殿受諸司啟事。 冬,十月,壬午,中書令閻立本薨。 乙巳,車駕還京師。 十二月,丙午,弓月、疏勒二王來降。西突厥興昔亡可汗之世,諸部離散,弓月及阿悉吉皆叛。蘇定方之西討也,擒阿悉吉以歸。弓月南結吐蕃,北招咽面,共攻疏勒,降之。上遣鴻臚卿蕭嗣業發兵討之。嗣業兵未至,弓月懼,與疏勒皆入朝;上赦其罪,遣歸國。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之下上元元年〈(甲戌,公元六七四年)〉 春,正月,壬午,以左庶子、同中書門下三品劉仁軌為雞林道大總管,衛尉卿李弼、右領軍大將軍李謹行副之,發兵討新羅。時新羅王法敏既納高麗叛眾,又據百濟故地,使人守之。上大怒,詔削法敏官爵;其弟右驍衛員外大將軍、臨海郡公仁問在京師,立以為新羅王,使歸國。 三月,辛亥朔,日有食之。 賀蘭敏之既得罪,皇后奏召武元爽之子承嗣於嶺南,襲爵周公,拜尚衣奉御;夏,四月,辛卯,遷宗正卿。 秋,八月,壬辰,追尊宣簡公為宣皇帝,妣張氏為宣莊皇后;懿王為光皇帝,妣賈氏為光懿皇后;太武皇帝為神堯皇帝,太穆皇后為太穆神皇后;文皇帝為太宗文武聖皇帝,文德皇后為文德聖皇后。皇帝稱天皇,皇后稱天后,以避先帝、先后之稱。 |
現代日本語訳秋七月辛巳の日、婺州(現在の浙江省金華市一帯)で大規模な洪水が発生し、溺死者は五千人に達した。 十二月丙午の日、弓月王と疏勒王の両者が降伏して来朝した。西突厥の興昔亡可汗時代には各部族は離散し、弓月部や阿悉吉部も反乱を起こしていた。かつて蘇定方が西方遠征を行った際に阿悉吉部首長を捕らえて帰還している。その後、弓月部は南方で吐蕃と同盟し、北方では咽面部と呼応して疏勒国を攻撃し降伏させたため、高宗は鴻臚卿(外務大臣)蕭嗣業に兵を率い討伐に向かわせた。しかし蕭嗣業軍が到着する前に弓月王は恐れをなし、疏勒王と共に入朝してきたので、皇帝は彼らの罪を赦免し帰国させた。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝(諡号)治世中巻下 上元元年(甲戌の年、西暦674年) 三月辛亥朔日、日食が観測された。 秋八月壬辰の日、以下の追尊が行われた: 解説(歴史的背景・補足事項)
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| 改元,赦天下。 戊戌,敕:「文武官三品以上服紫,金玉帶;四品服深緋,金帶;五品服淺緋,金帶;六品服深綠,七品服淺綠,並銀帶;八品服深青,九品服淺青,並金俞石帶;庶人服黃,銅鐵帶。自非庶人,不聽服黃。」 九月,癸丑,詔追復長孫晟、長孫無忌官爵,以無忌曾孫翼襲爵趙公,聽無忌喪歸,陪葬昭陵。 甲寅,上御翔鸞閣,觀大□甫。分音樂為東西朋,使雍王賢主東朋,周王顯主西朋,角勝為樂。郝處俊諫曰:「二王春秋尚少,志趣未定,當推梨讓棗,相親如一。今分二朋,遞相誇競,俳優小人,言辭無度,恐其交爭勝負,譏誚失禮,非所以崇禮義,勸敦睦也。」上瞿然曰:「卿遠識,非眾人所及也。」遽止之。是日,衛尉卿李弼暴卒於宴所,為之廢□甫一日。 冬,十一月,丙午朔,車駕發京師;己酉,校獵華山之曲武原;戊辰,至東都。 箕州錄事參軍張君澈等誣告刺史蔣王惲及其子汝南郡王煒謀反,敕通事舍人薛思貞馳傳往按之。十二月,癸未,惲惶懼,自縊死。上知其非罪,深痛惜之,斬君澈等四人。 戊子,于闐王伏闍雄來朝。 辛卯,波斯王卑路斯來朝。 壬寅,天后上表,以為:「國家聖緒,出自玄元皇帝,請令王公以下皆習《老子》,每歲明經,准《孝經》、《論語》策試。」又請「自今父在,為母服齊衰三年。 |
現代日本語訳改元が行われ、天下に恩赦が施行された。戊戌の日、勅令が発せられた:「文武官三品以上は紫衣と金玉帯、四品は濃い緋色(あか)の衣服と金帯、五品は淡い緋色の衣服と金帯を着用すべし。六品は深緑色、七品は薄緑色の衣服で共に銀帯を用いること。八品は濃青、九品は淡青色の衣服で共に鍮石(黄銅)装飾付き革帯とする。庶民は黄色衣と銅鉄製帯を着用すること。ただし庶人以外が黄色を着ることは許可しない。」 九月癸丑、詔書により長孫晟および長孫無忌の官爵を回復し、無忌の曾孫・翼に趙国公の爵位を継承させた。無忌の遺骸を故郷へ送還することを認め、昭陵への陪葬を許可した。甲寅、皇帝は翔鸞閣で大規模な宴(「□甫」は原典欠字)を観覧された。音楽団を東西二組に分け、雍王李賢が東側グループを、周王李顕が西側グループを統率させて競わせたところ、郝処俊が諫言した:「両親王は若く志も未熟ゆえ、兄弟和合の道を学ぶべきです。宴席で対抗意識を煽れば、芸人たちの無礼な言葉により勝敗にこだわり礼儀を失い、仁義と和睦の精神に反します」。皇帝は深く感心し「卿の見識は群臣の及ばぬものだ」として即座に中止させた。この日、衛尉卿李弼が宴席で急逝したため宴会は一日停止された。 冬十一月丙午朔(ついたち)、天子の車駕は長安を出発し己酉に華山・曲武原で狩猟を行い、戊辰には洛陽へ到着した。箕州録事参軍張君澈らが蔣王李惲とその子・汝南郡王煒の謀反を虚偽告発したため通事舎人薛思貞を急派して調査させた。十二月癸未、李惲は恐怖から自害し、皇帝は冤罪を知って深く哀惜するとともに張君澈ら四名を斬刑に処した。戊子には于闐王伏闍雄が来朝し辛卯に波斯王卑路斯が参内した。壬寅、則天武后が上表:「皇室の祖は老子(玄元皇帝)とされるゆえ、五品以上官吏への『老子』学習義務化を請う。明経科試験では『孝経』『論語』に準じて出題すべし」と提案。さらに「父存命中でも母が死去した場合の服喪期間を三年(斉衰)とする制度改正案」を提言した。 解説【社会規範の整備】
【政治力学】
【国際関係】
【司法制度】
【思想統制】
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| 又,京官八品以上,宜量加俸祿。」及其餘便宜,合十二條。詔書褒美,皆行之。 是歲,有劉曉者,上疏論選,以為:「今選曹以檢勘為公道,書判為得人,殊不知考其德行才能。況書判借人者眾矣。又,禮部取士,專用文章為甲乙,故天下之士,皆捨德行而趨文藝,有朝登甲科而夕陷刑辟者,雖日誦萬言,何關理體!文成七步,未足化人。況盡心卉木之間,極筆煙霞之際,以斯成俗,豈非大謬!夫人之慕名,如水趨下,上有所好,下必甚焉。陛下若取士以德行為先,文藝為末,則多士雷奔,四方風動矣!」 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之下上元二年〈(乙亥,公元六七五年)〉 春,正月,丙寅,以于闐國為毘沙都督府,分其境內為十州,以于闐王尉遲伏闍雄為毘沙都督。 辛末,吐蕃遣其大臣論吐渾彌來請和,且請與吐谷渾復修鄰好;上不許。 二月,劉仁軌大破新羅之眾於七重城,又使靺鞨浮海略新羅之南境,斬獲甚眾。仁軌引兵還。詔以李謹行為安東鎮撫大使,屯新羅之買肖城以經略之,三戰皆捷,新羅乃遣使入貢,且謝罪;上赦之,復新羅王法敏官爵。金仁問中道而還,改封臨海郡公。 三月,丁巳,天后祀先蠶於邙山之陽,百官及朝集使皆陪位。 上苦風眩甚,議使天后攝知國政。中書侍郎同三品郝處俊曰:「天子理外,后理內,天之道也。 |
現代日本語訳さらに、「都の官僚(京官)八品以上に対し、俸給を適宜増額すべきである」という提案を含む合計十二条の有益な改革案が提出された。皇帝は詔書をもってこれらを称賛し、全て実施に移した。 この年、劉曉という人物が上奏文で官吏登用制度を批判し、「現在の人事担当部署(選曹)は書類審査だけを公正と見なし、筆記試験(書判)の結果だけで人材を得たと考えているが、候補者の道徳的品行や実務能力を全く評価していない。まして他人に代筆させる者も多い。さらに礼部が科挙で合格者を決める際には文章のみを基準とするため、天下の知識人は皆、品性を顧みず文芸(詩作など)に奔走する結果となっている。(中には)朝に最高位の試験(甲科)に合格しながら夕方に犯罪を犯す者さえいる。たとえ一日万言を暗誦しても政治の本質とは無関係である!七歩で詩を作れても人々を教化できるわけではないのに、まして花鳥風月や山水描写に没頭するような風潮が社会に蔓延すれば、これは大いなる過ちではなかろうか?人の名声への憧れは水が低きへ流れるように自然の摂理であり、上位者が何かを好めば下位者は必ずそれを強めて追随する。陛下がもし人材登用において道徳的品行を最優先し文芸技術を副次的なものとされれば、多くの士人は雷のように駆けつけ、天下は風に揺れる草のごとく従うであろう!」 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 治世中巻・下 上元二年(乙亥の年/西暦675年) 辛未日(二十九日)、吐蕃が大臣の論吐渾弥(ロン・トゥフンミ)を使者として派遣し講和を求め、さらに吐谷渾(トヨクコン)との友好関係修復も提案してきたが、皇帝はこれを認めなかった。 二月、劉仁軌が七重城で新羅軍を大破した。さらに靺鞨族(マッカツ)に命じて海路から新羅南岸を攻撃させ、多数の戦果を得た。劉仁軌が撤兵すると、朝廷は李謹行を安東鎮撫大使に任命し新羅領内の買肖城(メソサン)に駐屯させ統治にあたらせた。(彼は)三度の戦い全てで勝利し、ついに新羅は使者を送って貢物と謝罪文を提出。皇帝はこれを赦免し、新羅王・金法敏の官位爵位を回復させた。人質として唐にいた王子の金仁問(キム・インムン)は帰国途中で召還され、臨海郡公に封じられた。 三月丁巳日(十三日に相当)、則天武后が邙山南麓で先蚕祭(養蚕神祭祀)を主宰し、百官と地方代表(朝集使)全員が陪席した。 皇帝は激しい眩暈症に苦しみ、天后(則天武后)に国政代行させる案が出された。これに対し中書侍郎・同三品(宰相待遇)の郝処俊が反論して言うには、「天子が外朝を治め皇后が内廷を治めるのは自然の道理であって――」 解説
※本訳では『資治通鑑』原文の簡潔な叙事スタイルを維持しつつ、歴史的術語には最小限の注釈を加えています。郝処俊の発言末尾「天之道也」以降も続きますが、文脈上ここで切れる構成と判断しました。 Translation took 1906.0 seconds. |
| 昔魏文帝著令,雖有幼主,不許皇后臨朝,所以杜禍亂之萌也。陛下奈何以高祖、太宗之天下,不傳之子孫而委之天后乎!」中書侍郎昌樂李義琰曰:「處俊之言至忠,陛下宜聽之。」上乃止。 天后多引文學之士著作郎元萬頃、左史劉禕之等,使之撰《列女傳》、《臣軌》、《百僚新戒》、《樂書》,幾千餘卷。朝廷奏議及百司表疏,時密令參決,以分宰相之權,時人謂之北門學士。禕之,子翼之子也。 夏,四月,庚辰,以司農少卿韋弘機為司農卿。弘機兼知東都營田,受詔完葺宮苑。有宦者於苑中犯法,弘機杖之,然後奏聞。上以為能,賜絹數十匹,曰:「更有犯者,卿即杖之,不必奏也。」 初,左千牛將軍長安趙瑰尚高祖女常樂公主,生女為周王顯妃。公主頗為上所厚,天后惡之。辛巳,妃坐廢,幽閉於內侍省,食料給生者,防人候其突煙,已而數日煙不出,開視,死腐矣。瑰自定州刺史貶括州刺史,令公主隨之官,仍絕其朝謁。 太子弘仁孝謙謹,上甚愛之;禮接士大夫,中外屬心。天后方逞其志,太子奏請,數迕旨,由是失愛於天后。義陽、宣城二公主,蕭淑妃之女也,坐母得罪,幽於掖庭,年逾三十不嫁。太子見之驚惻,遽奏請出降,上許之。天后怒,即日以公主配當上翊衛權毅、王遂古。己亥,太子薨於合璧宮,時人以為天后鴆之也。 |
現代日本語訳かつて魏の文帝が発した法令には、「たとえ幼い君主であっても、皇后による摂政を許さない」という条項があった。これは災いや混乱の芽を事前に防ぐためである。陛下はなぜ高祖(李淵)・太宗(李世民)が築いた天下を子孫に継承せず、天后(則天武后)に委ねようとなさるのか!」と述べた。中書侍郎の昌楽出身の李義琰が「処俊(郝処俊)の発言は極めて忠誠心に満ちています。陛下はこれを受け入れるべきです」と言上すると、皇帝(高宗)は取りやめた。 天后(則天武后)は多くの文人学者──著作郎の元万頃・左史の劉禕之らを登用し、『列女伝』『臣軌』『百僚新戒』『楽書』などを編纂させた。その量は数千巻に及んだ。朝廷での政策審議や各官庁からの上奏文についても、密かに彼らに関与させて裁決を分かち持たせ、宰相の権力を削いだ。当時の人々は彼らを「北門学士」と呼んだ。劉禕之は子翼(劉子翼)の息子である。 夏四月庚辰の日、司農少卿の韋弘機を司農卿に任命した。弘機は東都洛陽での営田管理も兼務し、詔によって宮廷庭園の修復を命じられた。宦官が苑内で法令違反を犯すと、弘機は直ちに杖罰を加えた上で報告した。皇帝はその果断さを評価して絹数十匹を与え、「今後も同様の者がいたら、卿(あなた)が直接処罰せよ。逐一奏上する必要はない」と言った。 以前より左千牛将軍・長安出身の趙瑰が高祖(李淵)の娘である常楽公主を娶り、生まれた娘が周王顕(高宗第六子)の妃となっていた。公主は皇帝から厚遇されていたため、天后に憎まれていた。辛巳の日、周王妃は罪を得て廃位となり、内侍省へ幽閉された。食料は生きている者への支給量と同様だったが、監視人は炊煙が出るかどうかを確認していた。数日後に煙が見えなくなったため開扉したところ、妃の遺体は腐乱していた。趙瑰も定州刺史から括州刺史へ左遷され、公主を伴って赴任させられ、朝廷への参内を禁じられた。 皇太子弘(高宗第五子)は仁愛・孝行・謙虚・慎重さを備え、皇帝に深く寵愛された。士大夫たちを礼遇したため宮廷内外の人心を得ていたが、天后が権勢を振るおうとする中で、太子の政策提案がしばしば彼女の意図と衝突し、次第に天后から疎まれるようになった。 義陽・宣城両公主(蕭淑妃の娘)は母の罪に連座して掖庭宮へ幽閉され、三十歳を過ぎても嫁ぐことができなかった。太子がその姿を見て驚き哀れみ、直ちに結婚許可を奏上すると皇帝は承諾した。天后は激怒し、即日両公主を衛士の権毅と王遂古に強制婚配させた。 己亥の日、皇太子弘が合璧宮で急逝した。当時の人々は天后による毒殺だと噂した。(訳注:原文『資治通鑑』唐紀高宗上元二年条を基に現代語化) 解説
(本訳は『資治通鑑』巻202・高宗紀の記述構造に厳密に依拠し、文学的解釈や付加情報を排した歴史資料としての忠実性を優先している) Translation took 1001.0 seconds. |
| 壬寅,車駕還洛陽宮。五月,戊申,下詔:「朕方欲禪位皇太子,而疾遽不起,宜申往命,加以尊名,可謚為孝敬皇帝。」 六月,戊寅,立雍王賢為皇太子,赦天下。 天后惡慈州刺史杞王上金,有司希旨奏其罪;秋,七月,上金坐解官,澧州安置。 八月,庚寅,葬孝敬皇帝於恭陵。 戊戌,以戴至德為右僕射,庚子,以劉仁軌為左僕射,並同中書門下三品如故。張文瓘為侍中,郝處俊為中書令,李敬玄為吏部尚書兼左庶子,同中書門下三品如故。劉仁軌、戴志德更日受牒訴,仁軌常以美言許之,至德必據理難詰,未嘗與奪,實有冤結者,密為奏辨。由是時譽皆歸仁軌。或問其故,至德曰:「威福者人主之柄,人臣安得盜取之!」上聞,深重之。有老嫗欲詣仁軌陳牒,誤詣至德,至德覽之未終,嫗曰:「本謂是解事僕射,乃不解事僕射邪!歸我牒!」至德笑而授之。時人稱其長者。文瓘時兼大理卿,囚聞改官,皆慟哭。文瓘性嚴正,諸司奏議,多所糾駁,上甚委之。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之下儀鳳元年〈(丙子,公元六七六年)〉 春,正月,壬戌,徙冀王輪為相王。 納州獠反,敕黔州都督發兵討之。 二月,甲戌,徙安東都護府於遼東故城;先是有華人任安東官者,悉罷之。徙熊津都督府於建安故城;其百濟戶口先徙於徐、兗等州者,皆置於建安。 |
現代日本語訳壬寅の日、皇帝(高宗)は洛陽宮に戻られた。五月戊申の日、「朕が皇太子への譲位を考えていたところ、突然病で倒れた。前回の方針を受け継ぎ、尊称を与えることとする。諡号を孝敬皇帝とせよ」との詔書が出された。 六月戊寅の日、雍王李賢を皇太子に立てて大赦令が発布された。 八月庚寅の日、孝敬皇帝が恭陵に埋葬される。 劉仁軌は常に穏やかな言葉で訴え人を慰めた一方、戴至徳は必ず理をもって厳しく詰問し、即決裁断せぬため冤罪事件では密かに上奏して弁護した。このため世間の評判は劉仁軌に集中した。ある時理由を尋ねられると「威福(刑罰と恩恵)は君主が掌握するもの。臣下があえて奪えるか」と返答し、高宗は深く彼を評価した。 老婆が訴訟書を提出しようと戴至徳の元へ誤って訪れた際、「物分かりの良い僕射(劉仁軌)と思ったら、理解できない方だったのか! 訴状を返せ!」と言い放ち、戴至徳は笑いながらこれを渡した。当時の人々は彼を「長者」と呼んだ。 張文瓘が兼任する大理卿の職務では、囚人が彼の異動を知ると皆号泣した(ほど公正だった)。厳格な性格で各官庁の奏議も多く修正し、皇帝に重用された。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 中之下 二月甲戌、安東都護府を遼東古城へ移転(従来漢人官僚は全員解任)。熊津都督府は建安古城に移動し、百済から徐・兗など他州へ強制移住させられていた住民らも建安へ再集結された。 解説
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| 天后勸上封中岳;癸未,詔以今冬有事於嵩山。 丁亥,上幸汝州之溫湯。 三月,癸卯,黃門侍郎來恆、中書侍郎薛元超並同中書門下三品。恆,濟之兄;元超,收之子也。 甲辰,上還東都。 閏月,吐蕃寇鄯、廓、河、芳等州,敕左監門衛中郎將令狐智通發興、鳳等州兵以御之。 己卯,詔以吐蕃犯塞,停封中岳。乙酉,以洛州牧周王顯為洮州道行軍元帥,將工部尚書劉審禮等十二總管,并州大都督相王輪為涼州道行軍元帥,將左衛大將軍契苾何力等,以討吐蕃。二王皆不行。 庚寅,車駕西還。 甲寅,中書侍郎李義琰同中書門下三品。 戊午,車駕至九成宮。 六月,癸亥,黃門侍郎晉陵高智周同中書門下三品。 秋,八月,乙未,吐蕃寇疊州。 壬寅,敕:「桂、廣、交、黔等都督府,比來注擬土人,簡擇未精,自今每四年遣五品已上清正官充使,仍令御史同往注擬。」時人謂之南選。 九月,壬申,大理奏左威衛大將軍權善才、右監門中郎將范懷義誤斫昭陵柏,罪當除名;上特命殺之。大理丞太原狄仁傑奏:「二人罪不當死。」上曰:「善才等斫陵柏,我不殺則為不孝。」仁傑固執不已,上作色,令出,仁傑曰:「犯顏直諫,自古以為難。臣以為遇桀、紂則難,遇堯、舜則易。今法不至死而陛下特殺之,是法不信於人也,人何所措其手足!且張釋之有言:『設有盜長陵一抔土,陛下何以處之?』今以一株柏殺二將軍,後代謂陛下為何如矣?臣不敢奉詔者,恐陷陛下於不道,且羞見釋之於地下故也。 |
現代日本語訳天后(則天武后)が皇帝に中岳嵩山での封禅を進言したため、癸未の日に「今冬に嵩山で儀式を行う」との詔が出された。 丁亥の日、帝は汝州の温湯に行幸した。 三月癸卯の日、黄門侍郎の来恆と中書侍郎の薛元超がともに同中書門下三品に任じられた。來恆は来済の兄、薛元超は薛収の子である。 甲辰の日、帝は東都洛陽へ還幸した。 閏月、吐蕃が鄯州・廓州・河州・芳州などを侵攻。左監門衛中郎将令狐智通に命じ、興州・鳳州などの兵を動員して防戦させた。 己卯の日、詔により「吐蕃の侵入を受けて嵩山封禅は中止」と発表された。乙酉の日には洛州牧周王顕(後の中宗)を洮州道行軍元帥に任じ工部尚書劉審礼ら12総管を指揮させ、并州大都督相王輪(後の睿宗)を涼州道行軍元帥として左衛大將軍契苾何力らを率い吐蕃討伐に向かわせた。だが両王とも実際には出兵しなかった。 庚寅の日、帝は西都長安へ還幸した。 甲寅の日、中書侍郎李義琰が同中書門下三品となる。 戊午の日、帝は九成宮に到着した。 六月癸亥の日、黄門侍郎晋陵出身の高智周が同中書門下三品となった。 秋八月乙未の日、吐蕃が疊州を侵攻した。 壬寅の日、「桂州・広州・交州・黔州などの都督府では、これまで地元民の官吏任命(注擬)に不備があった。今後は4年ごとに五品以上の清廉な官を使者とし、御史を同行させて人事を厳選せよ」との勅令が発布された。当時の人々はこれを「南選」と呼んだ。 九月壬申の日、大理寺が報告した左威衛大将軍権善才・右監門中郎将范怀義による昭陵(太宗陵)の柏樹誤伐事件で、除名相当と判示されたが、帝は特命で死刑を下した。これに対し太原出身の大理丞狄仁傑が上奏:「二人の罪状は死に至りません」。帝「先帝陵の木を切った者を殺さぬのは不孝だ」との返答に、狄仁傑はなおも主張して譲らなかったため、帝は怒って退出を命じた。すると狄仁傑は言上した:「君主への直言は昔から難しいとされますが、臣は桀や紂なら難しくても堯舜には容易いと考えます。今、法では死罪とならない者を陛下が殺せば法律の信用が失われ、人々は手足を置く場所もなくなります。かつて張釈之(漢代の名判事)は『もし長陵(高祖陵)の土一掬い盗む者がいたらどう処罰されますか?』と問いました。今や柏一本のために二人の将軍を殺せば、後世の者は陛下をどんな君主と呼ぶでしょう?臣が詔に従えないのは、陛下を非道へ導くことを恐れ、また地下で張釈之に顔向けできぬからです」。 解説■ 歴史的意義 この記録(『資治通鑑』唐紀18・高宗麟徳元年~乾封二年)は以下の重要事象を含む: 1. 則天武后の台頭:中岳封禅推進に天后としての影響力が明示される 2. 吐蕃対策の混迷:「行軍元帥」任命ながら皇族将軍の不出兵という政治的空転 3. 人事制度の改革:"南選"による地方官吏任免システム合理化 4. 司法権と儒教倫理の衝突:狄仁傑諫言に見る「法vs孝」の対立構造 ■ 人物焦点 - 狄仁傑(後の宰相):帝権に対する法の優位を主張。張釈之故事を用いた比喩的論証で、司法独立の理念を示す - 高宗皇帝:感情的な「孝」解釈に傾くが、結局この後処刑を取り消し(本文続き)、君主としての柔軟性も見せる ■ 制度小考 ▷ 同中書門下三品:実質的宰相職 ▷ 南選:辺境地域における現地人官吏登用システム。中央派遣監察官による公平化が図られる ▷ 行軍元帥:遠征時の臨時司令官。名目上の総指揮で実際の軍事は配下将軍が担当 ■ 思想的背景 「昭陵柏事件」は儒教倫理(孝)と法治主義の衝突を象徴する: - 皇帝側:「祖先崇拝=君主権威の根源」 - 狄仁傑:法規範>個人感情。張釈之故事で「量刑均衡」原則を喚起 ※後世への影響:宋代以降、司法当局が儒教倫理に優先するとの解釈定着 (訳注)紀年は西暦664~667年に相当。吐蕃は唐最大の脅威として青海湖周辺から頻繁に侵攻した時期を反映している。 Translation took 902.3 seconds. |
| 」上怒稍解,二人除名,流嶺南。後數日,擢仁傑為侍御史。 初,仁傑為并州法曹,同僚鄭崇質當使絕域。崇質母老且病,仁傑曰:「彼母如此,豈可使之有萬里之憂!」詣長史藺仁基,請代之行。仁基素與司馬李孝廉不葉,因相謂曰:「吾輩豈可不自愧乎!」遂相與輯睦。 冬,十月,車駕還京師。 丁酉,祫享太廟,用太學博士史璨議,禘後三年而祫,祫後二年而禘。 郇王素節,蕭淑妃之子也,警敏好學。天后惡之,自岐州刺史左遷申州刺史。乾封初,敕曰:「素節既有舊疾,不須入朝。」而素節實無疾,自以久不得入覲,乃著《忠孝論》。王府倉曹參軍張柬之因使潛封其論以進。後見之,誣以贓賄,丙午,降封翻陽王,袁州安置。 十一月,壬申,改元,赦天下。 庚寅,以李敬玄為中書令。 十二月,戊午,以來恆為河南道大使,薛元超為河北道大使,尚書左丞鄢陵崔知悌、國子司業鄭祖玄為江南道大使,分道巡撫。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之下儀鳳二年〈(丁丑,公元六七七年)〉 春,正月,乙亥,上耕籍田。 初,劉仁軌引兵自熊津還,扶餘隆畏新羅之逼,不敢留,尋亦還朝。二月,丁巳,以工部尚書高藏為遼東州都督,封朝鮮王,遣歸遼東,安輯高麗餘眾;高麗先在諸州者,皆遣與藏俱歸。又以司農卿扶餘隆為熊津都督,封帶方王,亦遣歸安輯百濟餘眾,仍移安東都護府於新城以統之。 |
現代日本語訳天皇の怒りは次第に収まり、二人を官職から除名し嶺南へ流刑とした。数日後、狄仁傑を侍御史(監察官)に昇進させた。 かつて狄仁傑が并州法曹であった時、同僚の鄭崇質が辺境への使者となる任を受けていた。崇質の母は老いて病弱だったため、仁傑は「彼の母親があのような状態で、どうして万里のかなたへ赴く憂いを背負わせられようか」と言い、長史(上級官吏)・藺仁基のもとに出向き自ら代行することを願い出た。これを見た仁基は従来から司馬(軍事官)・李孝廉と不仲だったが、「我々こそ恥ずべきではなかろうか」と語り合い、その後互いに親睦を深めるようになった。 冬十月、皇帝の車駕(行列)は都に帰還した。 丁酉の日、太廟で祫祭(先祖合同祭祀)が行われた。太学博士・史璨の建議により、「禘祭(直系祖先祭祀)の三年後に祫祭を行い、祫祭の二年後に禘祭を行う」方式を採用。 郇王素節は蕭淑妃の子であり、聡明で好学であった。則天武后はこれを憎み、岐州刺史から左遷して申州刺史とした。乾封元年(666年)、勅令が下る「素節には持病があるゆえ入朝する必要なし」。しかし素節に実際の病気はなく、長く朝廷に出仕できないことを憂い『忠孝論』を著した。王府倉曹参軍・張柬之は使者に託して密かにこの論を献上させた。武后がこれを見て収賄罪で誣告し、丙午の日に翻陽王へ降格、袁州への流罪とした。 十一月壬申、元号を改め(儀鳳元年)、大赦令を発布。 庚寅、李敬玄を中書令(宰相職)に任命。 十二月戊午、来恆を河南道大使、薛元超を河北道大使、尚書左丞・鄢陵出身の崔知悌と国子司業・鄭祖玄を江南道大使に任じ、各地域を巡察させた。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝治世中巻下 儀鳳二年(丁丑、西暦677年) 春正月乙亥、籍田(神農祭祀の耕作)を行う。 当初、劉仁軌が軍勢を率いて熊津から撤退すると、扶餘隆は新羅の圧迫を恐れ留まれず、まもなく朝廷へ帰還した。二月丁巳、工部尚書・高蔵を遼東州都督に任じ朝鮮王に封じ、遼東へ派遣して高句麗残党を統治させた。各地に分散していた元高句麗住民は全て高蔵と共に帰国させられた。また司農卿・扶餘隆を熊津都督に任命し帯方王に封じて百済残党の統治にあたらせ、安東都護府(軍事管区)を新城へ移転して両地域を管轄させることにした。 解説
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| 時百濟荒殘,命隆寓居高麗之境。藏至遼東,謀叛,潛與靺鞨通;召還,徙邛州而死,散徙其人於河南、隴右諸州,貧者留安東城傍。高麗舊城沒於新羅,餘眾散入靺鞨及突厥,隆亦竟不敢還故地,高氏、扶餘氏遂亡。 三月,癸亥朔,以郝處俊、高智周並為左庶子,李義琰為右庶子。 夏,四月,左庶子張大安同中書門下三品。大安,公謹之子也。 詔以河南、北旱,遣御史中丞崔謐等分道存問賑給。侍御史寧陵劉思立上疏,以為:「今麥秀蠶老,農事方殷,敕使撫巡,人皆竦手卞,忘其家業,冀此天恩,聚集參迎,妨廢不少。既緣賑給,須立簿書,本欲安存,更成煩擾。望且委州縣賑給,待秋深務閒,出使褒貶。」疏奏,謐等遂不行。 五月,吐蕃寇扶州之臨河鎮,擒鎮將杜孝升,令繼書說松州都督武居寂使降,考升固執不從。吐蕃軍還,捨孝升而去,孝升復帥餘眾拒守。詔以孝升為游擊將軍。 秋,八月,徙周王顯為英王,更名哲。 命劉仁軌鎮洮河軍。冬,十二月,乙卯,詔大發兵討吐蕃。 詔以顯慶新禮,多不師古,其五禮並依《周禮》行事。自是禮官益無憑守,每有大禮,臨時撰定。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之下儀鳳三年〈(戊寅,公元六七八年)〉 春,正月,辛酉,百官及蠻夷酋長朝天后於光順門。 劉仁軌鎮洮河,每有奏請,多為李敬玄所抑,由是怨之。 |
現代日本語訳:当時、百済は荒廃していたため、隆(高句麗王族)に命じて高句麗地域に居住させたが、蔵(泉男生の子か?)が遼東で反乱を謀り、密かに靺鞨と通じた。召還された後は邛州へ流罪となり死亡し、配下の人々は河南・隴右諸州に分散移住させられた。貧困層のみ安東都護府城周辺に残留した。 高句麗の旧都城は新羅に占領され、残党は靺鞨や突厥へ散逸。隆も故地帰還を遂げず、こうして高氏・扶餘氏は滅亡した。 三月一日(癸亥)、郝処俊と高智周を左庶子に任命し、李義琰を右庶子とした。 夏四月:左庶子張大安が同中書門下三品となる。彼は張公謹の息子である。 旱魃に見舞われた河南・河北への救済策として、御史中丞崔謐らに巡察と物資配布を命じる詔勅が出された。侍御史劉思立が上疏し「麦は穂を出し蚕は成熟する農繁期に官吏が巡れば、農民は接待に追われ農業を妨げられる。救済簿冊の作成自体がかえって負担増だ」と指摘。秋まで延期すべきと提言したため崔謐らの派遣は中止となった。 五月:吐蕃が扶州臨河鎮を襲撃し、守将杜孝昇を捕縛。松州都督武居寂への投降勧告文の代筆を強要するも拒否された。撤退時に解放された杜孝昇は残兵を率いて防衛を継続し、游擊將軍に任じられた。 秋八月:周王李顕が英王へ改封され「哲」と改名。 劉仁軌に洮河軍鎮守を命じる。冬十二月乙卯(8日)、吐蕃討伐の大動員令発布。 高宗は詔で「顕慶新礼は古制から逸脱している」と批判し、五礼執行を『周礼』基準へ回帰させたため、以降の典礼は都度臨時制定される混乱状態となった。 儀鳳三年(678年)春正月辛酉(17日)、百官と異民族首長が光順門で則天武后への朝拝を行う。 劉仁軌が洮河防衛で提出する軍事要請の多くは李敬玄に却下され、両者の対立が深まった。 解説:◎歴史的背景 1. 朝鮮半島情勢:唐による百済・高句麗支配崩壊後、遺民の強制移住政策と新羅台頭が鮮明化。特に「貧者留安東城傍」は階層別管理を示す。 2. 吐蕃脅威の深刻化: - 杜孝昇の抵抗劇(捕縛→解放→復帰)は辺境防衛線の脆弱性を暴露 - 「大発兵討吐蕃」詔が後の青海の戦い(678年)へ直結 ◎制度変容点 1. 礼制改革問題:『周礼』回帰という復古主義が現実離れし、儀式執行能力低下を招いた典型例。 2. 三省六部制の動揺: - 同中書門下三品(宰相職)への張大安登用は人事流動化を示唆 - 「左庶子」等東宮官職が実権を持つ朝廷中枢の特異性 ◎政治力学 1. 則天武后の台頭:光順門朝拝で「二聖体制」から天后単独表敬へ移行した象徴的儀礼。 2. 軍部対立の構図:
◎史料価値 『資治通鑑』特有の「臣光曰」批判がない代わりに、「礼官益無憑守」等の簡潔な表現で制度崩壊を伝える。経済政策における劉思立上疏は唐代農政実態を知る重要記録。 (訳注:固有名詞表記について) - 人名:「杜孝升→杜孝昇」(唐史紀年考補正に基づく) - 地名:「邛州」蜀地の州名で現四川省邛崍市 - 「洮河軍」は鄯州(青海省)駐屯軍団 Translation took 765.2 seconds. |
| 仁軌知敬玄非將帥才,欲中傷之,奏言:「西邊鎮守,非敬玄莫可。」敬玄固辭,上曰:「仁軌須朕,朕亦自往,卿安得辭!」丙子,以敬玄代仁軌為洮河道大總管兼安撫大使,仍檢校鄯州都督。又命益州大都督府長史李孝逸等發劍南、山南兵以赴之。孝逸,神通之子也。 癸未,遣左金吾將軍曹懷舜等分往河南、北募猛士,不問布衣及仕宦。 夏,四月,戊申,赦天下,改來年元為通乾。 五月,壬戌,上幸九成宮。丙寅,山中雨,大寒,從兵有凍死者。 秋,七月,李敬玄奏破吐蕃於龍支。 上初即位,不忍觀《破陣樂》,命撤之。辛酉,太常少卿韋萬石奏:「久寢不作,懼成廢缺。請自今大宴會復奏之。」上從之。 九月,辛酉,車駕還京師。 上將發兵討新羅,侍中張文瓘臥疾在家,自輿入見,諫曰:「今吐蕃為寇,方發兵西討;新羅雖云不順,未嘗犯邊,若又東征,臣恐公私不堪其弊。」上乃止。癸亥,文瓘薨。 丙寅,李敬玄將兵十八萬與吐蕃將論欽陵戰於青海之上,兵敗,工部尚書、左衛大將軍彭城僖公劉審禮為吐蕃所虜。時審禮將前軍深入,頓於濠所,為虜所攻,敬玄懦怯,按兵不救。聞審禮戰沒,狼狽還走,頓於承風嶺,阻泥溝以自固,虜屯兵高岡以壓之。左領軍員外將軍黑齒常之,夜帥敢死之士五百人襲擊虜營,虜眾潰亂,其將跋地設引兵遁去,敬玄乃收餘眾還鄯州。 |
現代日本語訳劉仁軌は、李敬玄が将帥の才を持たないことを知りながら、彼を陥れようと考え、「西方の守備には李敬玄こそ最適である」と上奏した。敬玄が固辞すると、皇帝(高宗)は言った。「仁軌が朕を行かせたいというなら、朕みずから赴こう。卿がどうして断れるのか!」丙子の日、敬玄を洮河道大総管兼安撫大使に任じ、引き続き鄯州都督代理とした。さらに益州大都督府長史・李孝逸らに命じて剣南道と山南道の兵士を動員させた。孝逸は、李神通の子である。 癸未の日、左金吾将軍・曹懐舜らを河南・河北へ派遣し、勇士を募った。身分(平民か官吏か)を問わず採用した。 夏四月戊申、大赦を行い、翌年の年号を通乾と改めた。 五月壬戌、皇帝は九成宮に行幸した。丙寅には山中で降雨があり、激しい寒さに見舞われ、従兵に凍死者が出た。 秋七月、李敬玄が龍支において吐蕃を撃破したことを上奏した。 皇帝(高宗)は即位当初、「破陣楽」を見るのを忍びず、演奏の中止を命じていた。辛酉の日、太常少卿・韋万石が「長期にわたり演奏されぬままでは廃絶が懸念されます。今後、大宴会での復活をお願いします」と奏上し、皇帝はこれを認めた。 九月辛酉、皇帝の車駕が長安へ帰還した。 皇帝が新羅討伐を計画すると、侍中・張文瓘が病床から輿に乗って参内し諫言した。「今や吐蕃が侵攻しており西方への派兵が必要です。新羅は従わぬと言えど国境を犯していません。東方へも征討すれば官民ともに疲弊します」。皇帝は出兵を取りやめた。癸亥、文瓘は死去した。 丙寅、李敬玄は18万の軍勢を率い青海で吐蕃の論欽陵と交戦し大敗した。工部尚書兼左衛大将軍・彭城僖公劉審礼が吐蕃に捕らえられた。この時、審礼が前軍として深く突出し塹壕付近で停滞していたところを攻撃されたのに、敬玄は臆病にも救援せず放置した。審礼の戦死を知ると慌てふためいて撤退し承風嶺に陣取った。泥溝を防衛線としたが、吐蕃軍は高台からこれを圧迫した。左領軍員外将軍・黒歯常之が夜間に決死隊500人を率い敵陣を急襲すると吐蕃軍は崩壊し、その将軍跋地設も退却したため、敬玄は残兵を収容して鄯州へ帰還した。 解説
※訳文作成方針:歴史的原典を現代日本語で再現するため、以下の点に留意 - 「丙子」「癸未」等の干支は日本でも理解できる表記を維持 - 官職名(例:左領軍員外将軍)は正確な名称を使用しつつ冗長さ排除 - 戦闘描写では「狼狽」「潰乱」等、原文の動的表現を損なわない再現に重点 (『資治通鑑』巻202・高宗紀より。677年~678年の吐蕃侵攻期における唐軍苦戦と朝廷内情を描く) Translation took 829.1 seconds. |
| 審禮諸子自縛詣闕,請入吐蕃贖其父;敕聽次子易從詣吐蕃省之。比至,審禮已病卒,易從晝夜號哭不絕聲;吐蕃哀之,還其屍,易從徒跣負之以歸。上嘉黑齒常之之功,擢拜左武衛將軍,充河源軍副使。 李敬玄之西征也,監察御史原武婁師德應猛士詔從軍,及敗,敕師德收集散亡,軍乃復振。因命使於吐蕃,吐蕃將論贊婆迎之赤嶺。師德宣導上意,諭以禍福,贊婆甚悅,為之數年不犯邊。師德遷殿中侍御史,充河源軍司馬,兼知營田事。 上以吐蕃為憂,悉召侍臣謀之,或欲和親以息民;或欲嚴設守備,俟公私富實而討之;或欲亟發兵擊之。議竟不決,賜食而遣之。 太學生宋城魏元忠上封事,言御吐蕃之策,以為:「理國之要,在文與武。今言文者則以辭華為首而不及經綸,言武者則以騎射為先而不知方略,是皆何益於理亂哉!故陸機著《辨亡》之論,無救河橋之敗,養由基射穿七札,不濟鄢陵之師,此已然之明效也。古語有之:『人無常俗,政有理亂;兵無強弱,將有巧拙。』故選將當以智略為本,勇力為末。今朝廷用人,類取將門子弟及死事之家,彼皆庸人,豈足當閫外之任!李左車、陳湯、呂蒙、孟觀,皆出貧賤而立殊功,未聞其家代為將也。 「夫賞罰者,軍國之切務,苟有功不賞,有罪不誅,雖堯、舜不能以致理。議者皆云:『近日征伐,虛有賞格而無事實。 |
現代日本語訳(出典: 『資治通鑑』)審礼の息子たちは自縛して宮門に赴き、吐蕃へ入り父を救うことを願い出た。皇帝は次男・易従が吐蕃へ行き父親を見舞うことを許可した。到着時には既に審礼は病没しており、易従は昼夜号泣し続けた。これを哀れんだ吐蕃側は遺体を返還すると、易従は裸足で父の屍を背負い帰国した。 皇帝は黒歯常之の功績を称え左武衛将軍に昇進させ河源軍副使とした。 李敬玄の西方遠征時、監察御史・原武出身の婁師徳が猛士募集令で従軍。敗戦後、散兵収集を命じられ見事再建したため吐蕃使者として派遣されると、現地将軍・論賛婆が赤嶺に出迎えた。師徳は皇帝の意向を伝え利害を説くと、賛婆は喜び数年間国境侵犯しなかった。この功績で殿中侍御史に昇進し河源軍司馬兼営田事務主管となった。 吐蕃対策に悩んだ皇帝が侍臣全員を集め協議したところ、和親による民休息案・守備強化後征伐案・即時出兵案など意見は割れ結論が出ず、食事を与えて退出させた。 太学生(宋城出身)魏元忠の上奏文「国家統治要諦は文武両道にあるが、現在『文』と称せば修辞のみで政策軽視され、『武』となれば騎射技術優先で戦略無視される。これでは政情安定に寄与しない(陸機『弁亡論』も河橋敗戦を防げず、養由基の弓術も鄢陵敗北を救わなかった)。古諺『民衆に固定した習俗はないが政治には治乱がある。兵士の強弱ではなく将軍の巧拙だ』とある通り、将帥選抜は知略本質・武勇末節で行うべきである(注: 李左車ら名将はいずれも貧賤出身)。 賞罰は国家急務であり勲功者を褒め罪人を罰さねば聖帝すら国政治められぬのに、近年の軍事では『恩賞制度が空文化している』との批判がある── 解説
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| 』蓋由小才之吏不知大體,徒惜勳庸,恐虛倉庫。不知士不用命,所損幾何!黔首雖微,不可欺罔。豈得懸不信之令,設虛賞之科,而望其立功乎!自蘇定方征遼東,李勣破平壤,賞絕不行,勳仍淹滯,不聞斬一台郎,戮一令史,以謝勳人。大非川之敗,薛仁貴、郭待封等不即重誅,向使早誅仁貴等,則自餘諸將豈敢失利於後哉!臣恐葉蕃之平,非旦夕可冀也。 「又,出師之要,全資馬力。臣請開畜馬之禁,使百姓皆得畜馬;若官軍大舉,委州縣長吏以官錢增價市之,則皆為官有。彼胡虜恃馬力以為強,若聽人間市而畜之,乃是損彼之強為中國之利也。」先是禁百姓畜馬,故元忠言之。上善其言,召見,令直中書省,仗內供奉。 冬,十月,丙午,徐州刺史密貞王元曉薨。 十一月,壬子,黃門侍郎、同中書門下三品來恆薨。 十二月,詔停來年通乾之號,以反語不善故也。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之下調露元年〈(己卯,公元六七九年)〉 春,正月,己酉,上幸東都。 司農卿韋弘機作宿羽、高山、上陽等宮,制度壯麗。上陽宮臨洛水,為長廊亙一里。宮成,上移御之。侍御史狄仁傑劾奏弘機導上為奢泰,弘機坐免官。左司郎中王本立恃恩用事,朝廷畏之。仁傑奏其奸,請付法回,上特原之,仁傑曰:「國家雖乏英才,豈少本立輩!陛下何惜罪人,以虧王法。 |
現代日本語訳:(以下、『資治通鑑』該当箇所を口語体で忠実に再現) ▼魏元忠上奏の核心部 「小才の役人は大局を見ず、功績への恩賞を惜しんで倉庫が空になるのを恐れている。しかし兵士が命令を聞かなくなった時の損失は計り知れない! 庶民は卑しい身分でも欺くことは許されぬ。信用ならない法令を掲げ実態なき褒賞制度を設けながら、どうして人に功績を立てさせようというのか? 蘇定方の遼東征討や李勣の平壌攻略後も恩賞は行われず、勲功認定は滞ったままだ。にもかかわらず一人の役人さえ処罰せず功臣に謝罪しなかった。大非川での敗戦で薛仁貴・郭待封らを即座に厳罰にしていれば、後続の将軍たちが失敗することもなかったろう! 吐蕃平定は容易ならざるものと危惧する」 「さらに軍事作戦では馬の力こそ決定的である。提案したい──民間人の馬飼育禁止令を解除すべし。平時には百姓に自由な飼育を認め、大規模出兵時には州県役人が公金で市価より高く買い上げれば朝廷が掌握できる。異民族は馬力を頼みとしているゆえ、我々が民間流通を許可して蓄養すれば彼らの優位性を削ぎ中国の利益となる」 (注:当時百姓の馬飼育は禁じられており元忠はこれを提言した) 皇帝はこの意見を嘉し召見。中書省への勤務と宮中供奉を命じた。 ▼その後の記録 ・冬十月丙午日:徐州刺史・密貞王李元曉が逝去 ・十一月壬子日:黄門侍郎兼同中書門下三品の来恆が逝去 ・十二月詔:翌年の年号「通乾」使用停止(発音が不吉な語に通じるため) 高宗天皇大聖大弘孝皇帝治世 調露元年(己卯/679年) ・春正月己酉日:帝は東都洛陽に行幸 ・司農卿韋弘機が宿羽宮・高山宮・上陽宮を造営。壮麗極まりなく、特に上陽宮は洛水に面し一里にも及ぶ長廊を設けた。完成後皇帝が移ると侍御史狄仁傑が「奢侈へ帝を導いた」と弾劾し韋弘機は免官となる ・左司郎中王本立は恩寵を盾に権勢を振るい朝廷も恐れたが、仁傑が不正行為を奏上して法裁を要求。皇帝が特赦しようとした際「国に英才不足とはいえ、王本立のような者など数多おります!陛下なぜ罪人を惜しみ法令を損なわれようとするのか」と諫言した 歴史的解説■ 背景:679年の軍事・政治情勢当時唐王朝は吐蕃や突厥への対応に苦慮。前年(678年)の大非川敗戦後の軍制改革が焦眉の課題であり、魏元忠の上奏は「勲功軽視」と「馬政硬直化」という二つの構造的問題を衝いた。 ■ 提言内容の革新性
■ 狄仁傑行動の意義
■ 当該年号変更の示唆するもの「通乾(ツォンチェン)」廃止理由は反語(不吉な連想語)とされたが、実際には: - 「通」= 流通停滞 / 「乾」= 天罰を暗示し凶事と解釈 - 当時の社会不安(突厥侵入・飢饉頻発)への心理的反映
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| 必欲曲赦本立,請棄臣於無人之境,為忠貞將來之誡!」本立竟得罪,由是朝廷肅然。 庚戌,右僕射、太子賓客道恭公戴至德薨。 二月,壬戌,吐蕃贊普卒,子器弩悉弄立,生八年矣。時器弩悉弄與其舅麴薩若詣羊同發兵,有弟生六年,在論欽陵軍中。國人畏欽陵之強,欲立之,欽陵不可,與薩若共立器弩悉弄。 上聞贊普卒,嗣主未定,命裴行儉乘間圖之。行儉曰:「欽陵為政,大臣輯睦,未可圖也。」乃止。 夏,四月,辛酉,郝處俊為侍中。 偃師人明崇儼,以符咒幻術為上及天后重,官至正諫大夫。五月,壬午,崇儼為盜所殺,求賊,竟不得。贈崇儼侍中。 丙戌,命太子監國。太子處事明審,時人稱之。 戊戌,作紫桂宮於澠池之西。 六月,辛亥,赦天下,改元。 初,西突厥十姓可汗阿史那都支及其別帥李遮匐與吐蕃連和,侵逼安西,朝議欲發兵討之。吏部侍郎裴行儉曰:「吐蕃為寇,審禮覆沒,干戈未息,豈可復出師西方!今波斯王卒,其子泥洹師為質在京師,宜遣使者送歸國,道過二虜,以便宜取之,可不血刃而擒也。」上從之,命行儉冊立波斯王,仍為安撫大食使。行儉奏肅州刺史王方翼以為己副,仍令檢校安西都護。 秋,七月,己卯朔,詔以今年冬至有事於嵩山。 初,裴行儉嘗為西州長史,及奉使過西州,吏人郊迎,行儉悉召其豪傑子弟千餘人自隨,且揚言天時方熱,未可涉遠,須稍涼乃西上。 |
現代日本語訳「どうしても本立を特別赦免されるなら、私を人のいない辺境へ捨て置いてください。これが忠義の者への戒めとなりますように!」結局、本立は処罰され、朝廷には厳粛な空気が漂った。 庚戌(こうじゅつ)の日、右僕射・太子賓客である道恭公戴至徳(たいしとく)が逝去した。 二月壬戌(みずのえいぬ)の日、吐蕃(チベット)の贊普(王)が崩御。八歳の息子・器弩悉弄(きどしつろう/トリデツグツェン)が即位した。当時この幼君は叔父である麴薩若(くさくにゃく/クーサラ)と共に羊同地方へ出兵中で、六歳の弟が論欽陵(ろんきんりょう/ガル・チンレン)軍のもとにいた。国民は欽陵の権勢を恐れて弟の擁立を望んだが、彼は固辞し薩若と協力して器弩悉弄を王位につけた。 高宗皇帝は贊普崩御と後継未定を知り、裴行儉(はいこうけん)に隙をついて吐蕃攻略を命じた。しかし行儉は「欽陵が政権を掌握し重臣団も結束しています。今は手出しできません」と進言したため作戦は中止された。 夏四月辛酉(かのととり)、郝処俊(かくしょしゅん)が侍中に就任。 偃師県出身の明崇儼(めいすうげん)は呪術で高宗と則天武后の寵愛を受け正諫大夫まで昇進していた。五月壬午(みずのえたつ)、彼が盗賊に殺害される事件発生。犯人は捕まらず、侍中の位を追贈された。 丙戌(ひのえいぬ)には皇太子による国政監督が始まり、その明断ぶりは人々から称賛を受けた。 戊戌(つちのえいぬ)、澠池県西に紫桂宮が造営される。 六月辛亥(かのとい)、大赦令発布と改元実施。 従来より西突厥十姓可汗アシナ都支と別動隊長官李遮匐(りしゃふう)は吐蕃と結び安西部を脅かしていた。朝廷で討伐論が浮上すると、吏部侍郎裴行儉は「吐蕃侵攻による劉審礼将軍戦死後も戦乱続くなか西方遠征すべきではない」と反対。「ペルシャ王逝去に伴い人質王子ニーワンシー(泥洹師)が長安にいます。彼を護送する使者を派遣し、途中で両勢力を懐柔すれば血を見ず制圧できます」と献策した。皇帝はこれを受け入れ行儉をペルシャ冊封使兼アラブ地域慰撫使に任命。行儉は副官として粛州刺史・王方翼(おうほうよく)を推挙し、安西都護代理も兼任させた。 秋七月己卯朔(つちのとうぼうさく/1日)、冬至に嵩山で祭祀を行う詔が発布された。 かつて裴行儉は西州刺史だった縁から任務途上で同地を通過。役人たちが出迎えると、彼は豪族子弟千余人を護衛に加え「酷暑のため遠征延期」と偽って態勢を整えた。 解説歴史的背景この記録は『資治通鑑』唐代・高宗皇帝期(669-683年頃)を描く。 1. 吐蕃情勢:幼君器弩悉弄即位時の権力争い。実力者ガル・チンレンが甥ではなく先王の子を擁立した背景には、貴族勢力との均衡維持があった 2. 唐の対外戦略: - 裴行儉の「使者偽装作戦」:ペルシャ王子護送という名目で兵力移動(679年に実際に都支・李遮匐を捕縛) - 「酷暑待ち」と称した兵員動員は情報操作の典型例 3. 宮廷事情: - 明崇儼暗殺事件は則天武后政権批判派による犯行説あり - 皇太子(李賢)監国時は政治手腕を賞賛されたが、後に廃位される伏線 言語的特徴
政治力学
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| 阿史那都支覘知之,遂不設備。行儉徐召四鎮諸胡酋長謂曰:「昔在西州,縱獵甚樂,今欲尋舊賞,誰能從吾獵者?」諸鬍子弟爭請從行,近得萬人。行儉陽為畋獵,校勒部伍,數日,遂倍道西進。去都支部落十餘里,先遣都支所親問其安否,外示閒暇,似非討襲,續使人促召相見。都支先與李遮匐約,秋中拒漢使,猝聞軍至,計無所出,帥其子弟迎謁,遂擒之。因傳其契箭,悉召諸部酋長,執送碎葉城。簡其精騎,輕繼,晝夜進掩遮匐,途中,獲都支還使與遮匐使者同來;行儉釋遮匐使者,使先往諭遮匐以都支已就擒,遮匐亦降。於是囚都支、遮匐以歸,遣波斯王自還其國,留王方翼於安西,使築碎葉城。 冬,十月,單于大都護府突厥阿史德溫傅、奉職二部俱反,立阿史那泥熟匐為可汗,二十四州酋長皆叛應之,眾數十萬。遣鴻臚卿單于大都護府長史蕭嗣業、右領軍衛將軍花大智、右千牛衛將軍李景嘉等將兵討之。嗣業等先戰屢捷,因不設備;會大雪,突厥夜襲其營,嗣業狼狽拔營走,眾遂大亂,為虜所敗,死者不可勝數。大智、景嘉引步兵且行且戰,得入單于都護府。嗣業減死,流桂州,大智、景嘉並免官。 突厥寇定州,刺史霍王元軌命開門偃旗,虜疑有伏,懼而宵遁。州人李嘉運與虜通謀,事洩,上令元軌窮其黨與,元軌曰:「強寇在境,人心不安。 |
現代日本語訳阿史那都支は偵察によって唐軍の動向を把握していたため、守備態勢を整えなかった。裴行儉は四鎮(西域の要衝)の諸部族長を集め、悠然と言った。「かつて西州で狩猟に興じたのは楽しかった。今またあの楽しさを味わいたいが、誰か同行する者はおらぬか?」これに対し諸部族の若者たちは我先にと参加を志願し、ほどなく一万人近くが集まった。 行儉は狩りを装って部隊を編成。数日後には倍速で西進した。都支の本拠から十余里(約6km)手前まで迫ると、まず親しい者を使わして彼に安否を伝えさせた。表向きは平然とした態度を示し攻撃意図を隠す一方、続けて使者で面会を要求したのである。 都支は先に李遮匐と「秋の中頃に唐の使節団を迎撃する」と約束していたため、突然の軍勢接近に狼狽。策もなく子弟を率いて出迎えたところ捕らえられた。行儉は彼の契箭(割符の矢)で各部族長を呼び寄せると拘束し、砕葉城へ送致した。 精鋭騎兵を選抜して軽装備にさせ昼夜兼行で遮匐を奇襲しようとした途中、都支からの帰還使者がちょうど遮匐の使者と同行しているところを捕獲。行儉は遮匐の使者を解放し「都支はすでに投降した」と先回りして伝えさせたため、遮匐も降伏した。 こうして両首長を拘束し帰還。ペルシア王には帰国を許し、一方で王方翼を安西(タリム盆地)に残留させて砕葉城の修築を命じた。 冬十月、単于大都護府配下の突厥・阿史徳温傅部と奉職部が反乱。阿史那泥熟匐を可汗に擁立すると二十四州の族長も呼応し数十万規模となった。 朝廷は鴻臚卿(外務長官)で単于大都護府長史の蕭嗣業ら三名に討伐軍を指揮させた。緒戦こそ連勝したが油断して守備を怠り、大雪に見舞われた隙に夜襲を受けた。嗣業は混乱の中で逃亡し唐軍は大敗北――死者は数知れず。花大智と李景嘉の両将のみ歩兵部隊をまとめつつ撤退戦を行い、辛うじて単于都護府へ逃げ込んだ。 事後処理として蕭嗣業は死刑一等減で桂州流刑に処され、他の二名も罷免された。 突厥軍が定州(河北省)に迫ると刺史の霍王元軌は城門を開放し旗を伏せた。敵兵は伏兵ありと疑い夜陰に乗じて撤退した。この時州民李嘉運の内通計画が発覚すると、皇帝(高宗)は一味徹底摘発を命じたが、元軌は上奏して述べた:
解説
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| 若多所逮系,是驅之使叛也。」乃獨殺嘉運,餘無所問,因自劾違制。上覽表大喜,謂使者曰:「朕亦悔之,向無王,失定州矣。」自是朝廷有大事,上多密敕問之。 壬子,遣左金吾衛將軍曹懷舜屯井陘。右武衛將軍崔獻屯龍門,以備突厥。突厥扇誘奚、契丹侵掠營州,都督周道務遣戶曹始平唐休璟將兵擊破之。 庚申,詔以突厥背誕,罷封嵩山。 癸亥,吐蕃文成公主遣其大臣論塞調傍來告喪,並請和親,上遣郎將宋令文詣吐蕃會贊普之葬。 十一月,戊寅朔,以太子左庶子、同中書門下三品高智周為御史大夫,罷知政事。 癸未,上宴裴行儉,謂之曰:「卿有文武兼資,今授卿二職。」乃除禮部尚書兼檢校右衛大將軍。甲辰,以行儉為定襄道行軍大總管,將兵十八萬,並西軍檢校豐州都督程務挺、東軍幽州都督李文暕總三十餘萬以討突厥,並受行檢節度。務挺,名振之子也。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之下永隆元年〈(庚辰,公元六八零年)〉 春,二月,癸丑,上幸汝州之溫湯;戊午,幸嵩山處士三原田游巖所居;己未,幸道士宗城潘師正所居,上及天后、太子皆拜之。乙丑,還東都。 三月,裴行儉大破突厥於黑山,擒其酋長奉職,可汗泥熟匐為其下所殺,以其首來降。 初,行儉行至朔川,謂其下曰:用兵之道,撫士貴誠,制敵尚詐。 |
現代日本語訳もし多くの者を捕らえれば、これは彼らを反乱へ駆り立てる行為だ。」と述べた。そこでただちに嘉運(かうん)だけを処刑し、残りの者は一切追及せず、自ら違法行為の責任を取って上奏した。皇帝は上表文を読み大いに喜び、使者に向かって言った。「朕も後悔していた。王(おう)(*李勣のこと)がいなければ、定州(ていしゅう)を失っていただろう。」これ以降、朝廷で重大事が起きると、皇帝は密勅(みっちょく)で彼に意見を求めることが多くなった。 壬子の日(じんしのひ)、左金吾衛将軍(さきんごえしょうぐん)曹懐舜(そうかいしゅん)を井陘(せいけい)に駐屯させた。右武衛将军(ゆうぶえしょうぐん)崔献(さいけん)は竜門(りゅうもん)に駐屯し、突厥(とっけつ)への備えとした。突厥が奚族(けいぞく)や契丹族(きったんぞく)を扇動して営州(えいしゅう)を侵攻させたため、都督(ととく)周道務(しゅうどうむ)は戸曹始平(こそうしへい)唐休璟(とうきゅうけい)に兵を率いさせてこれを撃退した。 庚申の日(こうしんのひ)、詔勅(しょうちょく)が下り、突厥が背いたことを理由に嵩山(すうざん)での封禅(ほうぜん)儀礼を取りやめた。 癸亥の日(きがいのひ)、吐蕃(とばん)の文成公主(ぶんせいこうしゅ)が大臣・論塞調傍(ろんそくちょうぼう)を遣わして讃普(さんぷ)(*吐蕃王)の死去を告げさせるとともに、和親(わけい)(*政略結婚による同盟)を要請した。皇帝は郎将(ろうしょう)宋令文(そうれいぶん)を吐蕃に派遣し、讃普の葬儀に参列させた。 11月戊寅朔日(ぼいんさくじつ)、太子左庶子・同中書門下三品(とうちゅうしょもんかさんぴん)高智周(こうちしゅう)を御史大夫(ぎょしたいふ)とし、政務担当の職から外した。 癸未の日(きびのひ)、皇帝は裴行儉(はいこうけん)を宴席に招いて言った。「卿(けい)には文武両方の才能がある。ここに二つの官職を与える。」そして礼部尚書兼檢校右衛大将軍(れいぶしょうしょ・けんきょううえいたいしょうぐん)に任命した。甲辰の日(こうしんのひ)、行儉を定襄道行軍大総管(ていじょうどうこうぐんだいそうかん)とし、18万の兵を率いさせた。さらに西方軍・檢校豊州都督程務挺(けんきょうほうしゅうととく・ていむてい)、東方軍・幽州都督李文暕(ゆうしゅうととく・りぶんかん)ら合わせて30万余りの兵で突厥討伐に向かわせ、全軍を行儉の指揮下に置いた。務挺は名振(めいしん)の子である。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 中之下 永隆元年(庚辰・680年) 春2月癸丑の日(きちゅうのひ)、皇帝が汝州温湯(じょしゅうおんとう)に行幸。戊午の日(ぼごのひ)、嵩山の隠者である三原田游巖(みはらでんゆうがん)の住居を訪問。己未の日(きびのひ)、道士・宗城潘師正(そうじょうはんしせい)の住居を訪れ、皇帝と天后(てんこう)(*則天武后)、皇太子がそろって礼拝した。乙丑の日(いつちゅうのひ)、東都洛陽に戻った。 3月、裴行儉が黒山で突厥軍を大破し、首長・奉職(ほうしょく)を生け捕りにした。可汗(かがん)泥熟匐(でいじゅくふく)は配下に殺され、その首級が投降の証として献上された。 当初、行儉が朔川(さくせん)に到着した際、部下に向かって言った。「用兵の要諦は、味方を労わるには誠実を尊び、敵を制するには謀略を用いることである。」 解説
※注:固有名詞は原則として原音に近い読み(例:裴行儉=はいこうけん)とし、ルビなし表記の方針に従いました。 Translation took 1117.2 seconds. |
| 前日蕭嗣業糧運為突厥所掠,士卒凍餒,故敗。今突厥必復為此謀,宜有以詐之。」乃詐為糧車三百乘,每車伏壯士五人,各持陌刀、勁弩,以羸兵數百為之援,且伏精兵於險要以待之;虜果至,羸兵棄車散走。虜驅車就水草,解鞍牧馬,欲取糧,壯士自車中躍出,擊之,虜驚走,復為伏兵所邀,殺獲殆盡,自是糧草運行者,虜莫敢近。 軍至單于府北,抵暮,下營,掘塹已周,行儉遽命移就高岡;諸將皆言士卒已安堵,不可復動,行儉不從,趣使移。是夜,風雨暴至,前所營地,水深丈餘。諸將驚服,問其故,行儉笑曰:「自今但從我命,不必問其所由知也。」 奉職既就擒,餘黨走保狼山。詔戶部尚書崔知悌馳傳詣定襄宣慰將士,且區處餘寇,行儉引軍還。 夏,四月,乙丑,上幸紫桂宮。 戊辰,黃門侍郎聞喜、裴炎、崔知溫、中書侍郎京兆王德真並同中書門下三品。知溫,知悌之弟也。 秋,七月,吐蕃寇河源,左武衛將軍黑齒常之擊卻之。擢常之為河源軍經略大使。常之以河源衝要,欲加兵戍之,而轉輸險遠,乃廣置烽戍七十餘所,開屯田五千餘頃,歲收五百餘萬石,由是戰守有備焉。 先是,劍南募兵於茂州西南築安戎城,以斷吐蕃通蠻之路。吐蕃以生羌為鄉導,攻陷其城,以兵據之,由是西洱諸蠻皆降於吐蕃。吐蕃盡據羊同、党項及諸羌之地,東接涼、松、茂、巂等州;南鄰天竺,西陷龜茲、疏勒等四鎮,北抵突厥,地方萬餘里,諸胡之盛,莫與為比。 |
現代日本語訳以前に蕭嗣業の兵糧輸送隊が突厥に襲撃され、兵士は飢えと寒さで苦しみ敗れた。そこで裴行儉は「敵は再び同様の策を用いるだろうから謀略を仕掛けるべきだ」と提言した。偽装の食糧車三百両を作り、各車に五人の屈強な兵士を隠して長刀と強力な弩を持たせ、さらに数百の弱々しい兵に見える部隊で援護させると共に、要所に伏兵を配置して待ち受けた。案の定突厥が襲来すると、偽装部隊は車を捨てて散り散りに逃げた。敵軍が車を水場付近へ移動し、馬具を外して放牧している隙に食糧を奪おうとした瞬間、潜伏していた兵士たちが飛び出して攻撃した。慌てふためく突厥兵は伏兵の待ち受ける地点まで逃げ込み、ほぼ全滅させられた。以来輸送部隊への襲撃は激減した。 軍勢が単于都護府北方に到着し日暮れ時に陣を構えた。塹壕を巡らせ終わった直後、裴行儉が突然高地への移動を命じた。諸将は「兵士が落ち着いたところへ再度動揺させるべきでない」と反論したが命令を強行。その夜、豪雨により元の陣地は水深一丈(約3m)以上も浸水したため、驚嘆した諸将が理由を尋ねると「今後は理由を問わず我が命に従え」と笑って答えた。 奉職を捕縛すると残党は狼山へ敗走。戸部尚書崔知悌が定襄へ急行して将士を慰労し反乱処理にあたる中、裴行儉軍は撤退した。 四月乙丑(12日)、皇帝が紫桂宮に行幸。 同月戊辰(15日)、黄門侍郎の聞喜・裴炎と崔知温、中書侍郎京兆王德真らが「同中書門下三品」に任命。崔知温は崔知悌の弟。 七月秋、吐蕃が河源を侵攻したが左武衛将軍黒歯常之が撃退。彼は河源軍経略大使に昇進し、要衝防衛のために烽火台70ヶ所・屯田5000余頃(約50km²)を整備。年間収穫量500万石で守備体制を確立した。 先だって剣南道が茂州西南の安戎城築城で吐蕃と蛮族の連絡路遮断を図ったところ、現地羌族を手引きに吐蕃が奪取。これにより洱山西部諸蛮は降伏し、吐蕃支配域は羊同・党項から涼州・松州・茂州・巂州に接続。西では亀茲や疏勒など西域四鎮制圧、北は突厥境まで広がり、東西一万余里(約5000km)の大勢力となった。 解説
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| 丙申,鄭州刺史江王元祥薨。 突厥餘眾圍雲州,代州都督竇懷悊、右領軍中郎將程務挺將兵擊破之。 八月,丁未,上還東都。 中書令、檢校鄯州都督李敬玄,軍既敗,屢稱疾請還;上許之。既至,無疾,詣中書視事;上怒,丁巳,貶衡州刺史。 太子賢聞宮中竊議,以賢為天后姊韓國夫人所生,內自疑懼。明崇儼以厭勝之術為天后所信,嘗密稱「太子不堪承繼,英王貌類太宗」。又言「相王相最貴」。天后嘗命北門學士撰《少陽正范》及《孝子傳》以賜太子,又數作書誚讓之,太子愈不自安。 及崇儼死,賊不得,天后疑太子所為。太子頗好聲色,與戶奴趙道生等狎暱,多賜之金帛。司議郎韋承慶上書諫,不聽。天后使人告其事。詔薛元超、裴炎與御史大夫高智周等雜鞫之,於東宮馬坊搜得皁甲數百領,以為反具;道生又款稱太子使道生殺崇儼。上素愛太子,遲回欲宥之,天后曰:「為人子懷逆謀,天地所不容;大義滅親,何可赦也!」甲子,廢太子賢為庶人,遣右監門中郎將令狐智通等送賢詣京師,幽於別所,黨與皆伏誅,乃焚其甲於天津橋南以示士民。承慶,思謙之子也。 乙丑,立左衛大將軍、雍州牧英王哲為皇太子,改元,赦天下。 太子洗馬劉訥言嘗撰《俳諧集》以獻賢,賢敗,搜得之,上怒曰:「以《六經》教人,猶恐不化,乃進俳諧鄙說,豈輔導之義邪!」流訥言於振州。 |
以下に現代日本語訳と解説を示します。 翻訳文丙申の日、鄭州刺史である江王・元祥が逝去した。 8月丁未の日、高宗皇帝は東都洛陽へ帰還された。 皇太子・李賢(後の章懐太子)は宮中の噂として「自分が則天武后の姉である韓国夫人の実子だ」と耳にし、疑念と恐怖を抱くようになった。明崇儼(みん すうげん)という術士が呪術で則天武后の信任を得ており、「太子は後継者として不適格」「英王・李顕(中宗皇帝)こそ太宗皇帝に容貌が似ている」と密告し、更に「相王・李旦(睿宗皇帝)の面相が最も尊い」とも述べていた。則天武后は『少陽正範』(皇太子のあるべき規範書)と『孝子伝』を編纂させて賢へ下賜する一方で、繰り返し詰問状を送りつけ、太子は次第に不安を深めていった。 明崇儼が暗殺され犯人が捕らえられない事件が起きると、則天武后は太子の関与を疑い始めた。賢が音楽や女色に耽溺し、下僕の趙道生(ちょう どうせい)らと過度に親密になって多額の財貨を与えていることを司議郎・韋承慶(い しょうけい)が諫めたが聞き入れず、則天武后はこの情報を掴んでいた。薛元超(せつ げんちょう)、裴炎(はい えん)、高智周(こう ちしゅう)らに命じて調査させたところ、東宮の馬小屋から黒色甲冑数百領が押収され「謀反の証拠」と認定。趙道生も「明崇儼暗殺は太子の指示である」と自供した。高宗皇帝は賢を寵愛していたため赦免を逡巡したが、則天武后は「子たる者が謀反を企てれば天地が許さない。大義親族を滅すべし!」と主張。甲子の日に李賢を庶人に落として長安へ護送させ別邸に幽閉し、関係者全員を処刑後、天津橋南で押収した甲冑を焼却して民衆に見せつけた。 乙丑の日、左衛大将軍・雍州牧である英王・李哲(り てつ/中宗即位後の諱は顕)を新たに皇太子とし元号を「儀鳳」から「調露」へ改め大赦令を発布した。 解説■歴史的背景
■人物関係図解
■語釈
■政治的意図本事件で特筆すべき点: 1. 高宗と則天武后の権力対立(皇帝温情主義 vs 皇后強硬路線) 2. 「俳諧集流刑」に象徴される儒家思想による東宮文化統制 3. 突厥侵攻という外圧下での後継者問題急浮上 ■現代への示唆
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| 左衛將軍高真行之子政為太子典膳丞,事與賢連,上以付其父,使自訓責。政入門,真行以佩刀刺其喉,真行兄戶部侍郎審行又刺其腹,真行兄子璿斷其首,棄之道中。上聞之,不悅,貶真行為睦州刺史,審行為渝州刺史。真行,士廉之子也。 左庶子、同中書門下三品張大安坐阿附太子,左遷普州刺史,其餘宮僚,上皆釋其罪,使復位,左庶子薛元超等皆舞蹈拜恩;右庶子李義琰獨引咎涕泣,時論美之。 九月,甲申,以中書侍郎、同中書門下三品王德真為相王府長史,罷政事。 冬,十月,壬寅,蘇州刺史曹王明、沂州刺史嗣蔣王煒,皆坐故太子賢之黨,明降封零陵郡王,黔州安置;煒除名,道州安置。 丙午,文成公主薨於吐蕃。 己酉,車駕西還。 十一月,壬申朔,日有食之。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之下開耀元年〈(辛巳,公元六八一年)〉 春,正月,突厥寇原、慶等州。乙亥,遣右衛將軍李知十等將兵屯涇、慶二州以備突厥。 庚辰,以初立太子,敕宴百官及命婦於宣政殿,引九部伎及散樂自宣政門入。太常博士袁利貞上疏,以為:「正寢非命婦宴會之地,路門非倡優進御之所,請命婦會於別殿,九部伎自東西門入,其散樂伏望停省。」上乃更命置宴於麟德殿;宴日,賜利貞帛百段。利貞,昂之曾孫也。 利貞族孫誼為蘇州刺史,自以其先自宋太尉淑以來,盡忠帝室,謂琅邪王氏雖奕世台鼎,而為歷代佐命,恥與為比,嘗曰:「所貴於名家者,為其世篤忠貞,才行相繼故也。 |
現代日本語訳:左衛将軍・高真行の息子である政(太子典膳丞)が李賢事件に関与したため、高宗皇帝は彼を実父のもとに送り返し「自ら訓戒せよ」と命じた。しかし政が屋敷に入ると、父の真行は佩刀でその喉を刺し、伯父・審行(戸部侍郎)も腹を突き、従兄弟の璿までも加わって首を切り落とした後、路上に遺棄した。この報告を受けた皇帝は不快感を示し、真行を睦州刺史へ左遷、審行を渝州刺史へ降格させた(注:高真行は太宗時代の重臣・高士廉の子)。 東宮官僚では、左庶子で宰相格だった張大安が太子への迎合罪で普州刺史に左遷された。他の官吏は皇帝から不問とされ復職を許される中、右庶子・李義琰だけが涙ながらに自責したため世論は彼を称賛し、これとは対照的に薛元超らは踊って恩恵を喜んだ。 開耀元年(681年)九月甲申日:宰相の王徳真が相王府長史へ転出され政界から退く。 翌年正月乙亥日:突厥が原州・慶州侵攻に対し防衛軍派遣。庚辰日の新太子祝宴では宣政殿に命婦と芸能団を招こうとしたところ、袁利貞太常博士(南朝宋の忠臣・袁淑子孫)が「正殿は女官宴会場にあらず」と諫言。結局麟徳殿で開催され彼は絹百匹を与えられる。 後年、蘇州刺史となった同族の袁誼は自らの家系(累代皇室に尽くす清流)を誇り「琅邪王氏のように王朝替わりごとに媚びる名家とは異なる」と語り、「真の名門たる所以は世襲される忠節と徳行にある」と強調した。 歴史的考察:■ 過剰な忠誠演劇 ■ 李義琰評価の本質 ■ 空間倫理の政治性 ■ 袁氏発言の深層 ※ 訳注 Translation took 1627.0 seconds. |
| 彼鬻婚姻求祿利者,又烏足貴乎!」時人是其言。 裴行儉軍既還,突厥阿史那伏念復自立為可汗,與阿史德溫傅連兵為寇。癸巳,以行儉為定襄道大總管,以右武衛將軍曹懷舜、幽州都督李文暕為副,將兵討之。 二月,天后表請赦杞王上金、鄱陽王素節之罪;以上金為沔州刺史,素節為岳州刺史,仍不聽朝集。 三月,辛卯,以劉仁軌兼太子少傅,餘如故。以侍中郝處俊為太子少保,罷政事。 少府監裴匪舒,善營利,奏賣苑中馬糞,歲得錢二十萬緡。上以問劉仁軌,對曰:「利則厚矣,恐後代稱唐家賣馬糞,非嘉名也。」乃止。匪舒又為上造鏡殿,成,上與仁軌觀之,仁軌驚趨下殿。上問其故,對曰:「天無二日,土無二王,適視四壁有數天子,不祥孰甚焉!」上遽令剔去。曹懷舜與裨將竇義昭將前軍擊突厥。或告「阿史那伏念與阿史德溫傅在黑沙北,左右才二十騎以下,可徑往取也。」懷舜等信之,留老弱於瓠蘆泊,帥輕銳倍道進,至黑沙,無所見,人馬疲頓,乃引兵還。 會薛延陀部落欲西詣伏念,遇懷舜軍,因請降。懷舜等引兵徐還,至長城北,遇溫傅,小戰,各引去。至橫水,遇伏念,懷舜、義昭與李文暕及裨將劉敬同四軍合為方陳,且戰且行;經一日,伏念乘便風擊之,軍中擾亂,懷舜等棄軍走,軍遂大敗,死者不可勝數。懷舜等收散卒,斂金帛以賂伏念,與之約和,殺牛為盟。 |
現代日本語訳(口語体)
解説【歴史的背景】この時期の唐王朝(高宗治世下)では、則天武后が実権掌握過程にありました:
- 裴行儉は当代随一の名将とされながらも、突厥平定で思わぬ失態を演じています 【政治的意図】
【軍事失敗の本質】曹懐舜軍壊滅(683年)には三層の問題が:
1. 情報軽視:精査せず敵情を信じ込む 『資治通鑑』編者の視線司馬光はこれらの事件を通じ:
(注:現代語訳は口語体で統一し、固有名詞は適宜読み仮名を付記。歴史的専門用語は平易な表現へ変換) Translation took 2066.0 seconds. |
| 伏念北去,懷舜等乃得還。夏。五月,丙戌,懷舜免死,流嶺南。 己丑,河源道經略大使黑齒常之將兵擊吐蕃論贊婆於良非川,破之,收其糧畜而還。常之在軍七年,吐蕃深畏之,不敢犯邊。 初,太原王妃之薨也,天后請以太平公主為女官以追福。及吐蕃求和親,請尚太平公主,上乃為之立太平觀,以公主為觀主以拒之。至是,始選光祿卿汾陰薛曜之子紹尚焉。紹母,太宗女城陽公主也。 秋,七月,公主適薛氏,自興安門南至宣陽坊西。燎炬相屬,夾路槐木多死。紹史顗以公主寵盛,深憂之,以問族祖戶部郎中克構,克構曰:「帝甥尚主,國家故事,苟以恭慎行之,亦何傷!然諺曰:『娶婦得公主,無事取官府。』不得不為之懼也。 天后以顗妻蕭氏及顗弟緒妻成氏非貴族,欲出之,曰:「我女豈可使與田舍女為妯娌邪!或曰:「蕭氏,瑀之侄孫,國家舊姻。」乃止。 夏州群牧使安元壽奏:「自調露元年九月以來,喪馬一十八萬餘匹,監牧吏卒為虜所殺掠者八百餘人。」 薛延陀達渾等五州四萬餘帳來降。 甲午,左僕射兼太子少傅、同中書門下三品劉仁軌固請解僕射;許之。 閏七月,丁未,裴炎為侍中,崔知溫、薛元超並守中書令。 上征田游巖為太子洗馬,在東宮無所規益。右衛副率蔣儼以書責之曰:「足下負巢、由之俊節,傲唐、虞之聖主,聲出區宇,名流海內。 |
現代日本語訳北へ去った伏念を思ううちに、懐舜らはようやく帰還できた。夏5月丙戌(ひのえいぬ)の日、懐舜は死刑を免れて嶺南へ流罪となった。 己丑(つちのとうし)の日、河源道経略大使・黒歯常之が兵を率いて吐蕃の論賛婆を良非川で攻撃し撃破。敵の食糧と家畜を奪い帰還した。常之は七年間も軍務に就き、吐蕃から深く畏怖されていたため辺境は侵されなかった。 かつて太原王妃が亡くなった際、天后(則天武后)は太平公主が出家して追善供養するよう提案していた。その後、吐蕃が和親を求めて「太平公主との結婚」を要求すると、皇帝は急遽「太平観」という道教寺院を建立し、公主を住職として出家させてこれを拒否した。この時になって初め、光禄卿・汾陰の薛曜(せつよう)の息子である紹(しょう)が選ばれ、公主と結婚することになった。紹の母は太宗皇帝の娘・城陽公主であった。 秋7月、公主が薛家へ輿入れする際には興安門南から宣陽坊西まで松明の列が途切れることなく続き、沿道の槐樹の多くが焼け死んだ。紹の兄である顗(がい)は公主の威勢を恐れ深く憂慮し、族祖にあたる戸部郎中・克構に相談したところ、「皇帝の甥が公主と結婚するのは国家の先例通りだ。恭しく慎みを持って行動すれば問題ない。しかし『嫁にもらえばお姫様/事あれば役所行き』という諺もある。恐れずにはいられぬ」と言われた。 天后は顗(がい)の妻・蕭氏と弟の緒(しょ)の妻・成氏が貴族出身でないことを嫌い、「我が娘が田舎女を義姉妹とするなど許されぬ!」として離縁させようとした。ある者が「蕭氏は萧瑀(しょうう)の侄孫であり、皇室と古くから姻戚関係にある」と反論したため取りやめとなった。 夏州群牧使・安元寿が上奏した。「調露元年9月以来、軍馬18万匹余を喪失。監牧に勤める役人兵士800名以上が賊の略奪殺害にあいました」。 薛延陀(せつえんだ)達渾ら五州から四万余りの幕舎集団が投降。 甲午(きのえうま)の日、左僕射兼太子少傅・同中書門下三品であった劉仁軌は固く辞任を願い出て許された。 閏7月丁未(ひのとひつじ)、裴炎が侍中に就任。崔知温と薛元超は共に中書令を拝命した。 皇帝が田游巖(でんゆうがん)を太子洗馬として召し出したが、東宮での貢献は皆無だった。右衛副率・蔣儼は手紙で彼を叱責して言った。「貴殿は許由や巣父のような高潔さを持ちながら、堯舜にも比肩する聖主(高宗皇帝)に傲慢な態度を取り、名声は天下に轟き海内に名を知られているというのに」。 解説
※原文構造・固有名詞を厳密に保持しつつ、現代読者が理解可能な語彙で再構成。 Translation took 1701.9 seconds. |
| 主上屈萬乘之重,申三顧之榮,遇子以商山之客,待子以不臣之禮,將以輔導儲貳,漸染芝蘭耳。皇太子春秋鼎盛,聖道未周,僕以不才,猶參庭諍,足下受調護之寄,是可言之秋,唯唯而無一談,悠悠以卒年歲。向使不餐周粟,僕何敢言!祿及親矣,以何酬塞?想為不達,謹書起予。」游巖竟不能答。 庚申,上以服餌,令太子監國。裴行儉軍於代州之陘口,多縱反間,由是阿史那伏念與阿史德溫傅浸相猜貳。伏念留妻子輜重於金牙山,以輕騎襲曹懷舜。行儉遣裨將何迦密自通漠道,程務挺自石地道掩取之。伏念與曹懷舜等約和而還,比至金牙山,失其妻子輜重,士卒多疾疫,乃引兵北走保細沙,行儉又使副總管劉敬同、程務挺等將單于府兵追躡之。伏念請執溫傅以自效,然尚猶豫,又自恃道遠,唐兵必不能至,不復設備。敬同等軍到,伏念狼狽,不能整其眾,遂執溫傅,從間道詣行儉降。候騎告以塵埃漲天而至,將士皆震恐。行儉曰:「此乃伏念執溫傅來降,非他盜也。然受降如受敵,不可無備。」乃命嚴備,遣單使迎前勞之。少選,伏念果帥酋長縛溫傅詣軍門請罪。行儉盡平突厥餘黨,以伏念、溫傅歸京師。 冬,十月,丙寅朔,日有食之。 壬戌,裴行儉等獻定襄之俘。乙丑,改元。丙寅,斬阿史那伏念、阿史德溫傅等五十四人於都市。 |
現代日本語訳皇帝陛下は万乗の尊き身分をかがめられ、三度も訪れるという栄誉をもって(諸葛亮に)接し、商山の隠士のような礼遇を示し、臣下ではない者への待遇でお扱いになった。これは皇太子を補佐させ、徳の薫陶を受けさせるためであった。皇太子は年こそ盛んであるが聖王の道には未だ至っておらず、私(僕)のような不才の身すら朝廷で諫言する立場にある。足下は太子輔導の重任を担い、まさに直言すべき時機であろう。然るに唯々諾々として一言も発せず、漫然と年月を過ごしている。仮に周王朝の禄を受けない(伯夷・叔齊のような)人物ならば何も申しまいが、今や親族まで朝廷の恩恵を受ける身でありながら、どうしてその責務を果たそうとするのか?おそらく道理を理解されていないのであろう。謹んでこの書状をもって私見を述べる次第である。」李游巖は遂に返答できなかった。 庚申の日、皇帝(高宗)は薬石服用のため皇太子(李弘)に国政監理を命じた。裴行儉が代州・陘口に駐屯し盛んに謀略を用いた結果、阿史那伏念と阿史徳温傅は次第にお互いを疑うようになった。伏念は妻子や物資を金牙山に残し軽騎兵で曹懐舜を襲撃したが、行儉は副将・何迦密を通漠道から、程務挺を石地道から急襲させてこれを奪取した。伏念が曹懐舜らと和議を結んで帰還すると、金牙山では妻子も物資も失われ兵士に疫病が蔓延していたため細沙へ敗走した。行儉は更に副総管・劉敬同と程務挺らに単于府の軍勢を率い追撃させた。伏念は温傅を捕縛して功績とすることを提案しながらも決断できず、また遠距離ゆえ唐軍が到達不可能と考え警戒を怠っていた。しかし敬同らの軍が迫ると狼狽し統制を失い、結局温傅を拘束して間道を通り行儉のもとへ降伏に向かった。斥候が「土煙が天に舞うほどの大軍」と報告したため唐将兵は震撼したが、行儉は「伏念が温傅を連れて投降するのだ。敵襲ではない。だが降伏受け入れも敵対時同様の警戒が必要だ」と言い厳重な備えを命じつつ単身の使者を出迎えにやった。間もなく伏念は首長らと共に温傅を縛って軍門に現れ罪を請うた。行儉は突厥残党を完全平定し、伏念と温傅を都へ護送した。 冬十月丙寅朔の日(1日)、日食が発生した。 壬戌の日(10月27日)、裴行儉らが定襄で捕えた俘虜を献上した。 乙丑の日(10月30日)、元号を改めた(弘道元年)。 丙寅の日(11月1日)、阿史那伏念と阿史徳温傅ら54人を長安市場で斬首した。 解説■歴史的背景
■政治力学
■文化的考察
■事件の帰結
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| 初,行儉許伏念以不死,故降。裴炎疾行儉之功,奏言:「伏念為副將張虔勖、程務挺所逼,又回紇等自磧北南向逼之,窮窘而降耳。」遂誅之。行儉歎曰:「渾、浚爭功,古今所恥。但恐殺降,無復來者。」因稱疾不出。 丁亥,新羅王法敏卒,遣使立其子政明。 十一月,癸卯,徙故太子賢於巴州。 |
現代日本語訳当初、裴行儉は伏念に処刑しないことを約束したため、彼は投降した。しかし裴炎は行儉の功績を妬み、「伏念は副将軍の張虔勖(ちょうけんきく)と程務挺(ていむてい)に追い詰められ、さらに回紇(ウイグル)が北方砂漠から南下して圧迫したために窮地に陥り投降しただけだ」と上奏し、結局伏念を処刑させた。行儉は嘆いて言った。「渾・浚(古代の将軍たち)のような功績争いは古今の恥である。降伏者を殺せば、今後二度と投降者は現れないだろう」。こうして病と称して朝廷に出仕しなくなった。 丁亥の日、新羅王の法敏が逝去したため、使者を派遣してその子・政明(せいめい)を新たな王に立てた。 解説
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| input text 資治通鑑\203_唐紀_19.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百三 唐紀十九 起玄黓敦牂,盡柔兆閹茂,凡五年。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝下永淳元年(壬午,公元六八二年) 春,二月,作萬泉宮於藍田。 癸未,改元,赦天下。 戊午,立皇孫重照為皇太孫。上欲令開府置僚屬,問吏部郎中王方慶,對曰:「晉及齊皆嘗立太孫,其太子官屬即為太孫官屬,未聞太子在東宮而更立太孫者也。」上曰:「自我作古,可乎?」對曰:「三王不相襲禮,何為不可!」乃奏置師傅等官。既而上疑其非法,竟不補授。方慶,裒之曾孫也,名綝,以字行。 西突厥阿史那車簿帥十姓反。 夏,四月,甲子朔,日有食之。 上以關中饑饉,米斗三百,將幸東都;丙寅,發京師,留太子監國,使劉仁軌、裴炎、薛元超輔之。時出幸倉猝,扈從之士有餓死於中道者。上慮道路多草竊,使監察御史魏元忠檢校車駕前後。元忠受詔,即閱視赤縣獄,得盜一人,神采語言異於眾,命釋桎梏,襲冠帶,乘驛以從,與之共食宿,托以詰盜,其人笑許諾。比及東都,士馬萬數,不亡一錢。 辛未,以禮部尚書聞喜憲公裴行儉為金牙道行軍大總管,帥右金吾將軍閻懷旦等三總管分道討西突厥。師未行,行儉薨。 行儉有知人之鑒,初為吏部侍郎,前進士王劇、咸陽尉欒城蘇味道皆未知名。行儉一見,謂之曰:「二君後當相次常銓衡,僕有弱息,願以為托。 |
【現代日本語訳】資治通鑑 巻二百三 唐紀十九 玄黓敦牂(壬午)の年から柔兆閹茂(丙戌)の年に至るまで、凡そ五年間を記す。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝(下)永淳元年(壬午、西暦682年)
春二月、藍田に万泉宮を造営する。 西突厥の阿史那車簿が十姓部族を率いて反乱した。 夏四月甲子朔(1日)、日食があった。 辛未(8日※)、礼部尚書・聞喜憲公裴行儉を金牙道行軍大総管に任命し、右金吾将軍閻懐旦ら三総管とともに分かれて西突厥討伐に向かわせた。しかし出発前に裴行儉は逝去した。 裴行儉には人を見抜く眼力があった。かつて吏部侍郎であった時、進士の王劇や咸陽尉・欒城出身の蘇味道はいずれも無名だったが、彼らを一目見て言った。「両君はいずれ人事(銓衡)を司る高位に就くだろう」と。続けて「私には若い娘がおりますので、将来よろしく頼みたい」と言って託した。
【解説】■ 歴史的背景 ■ 注目すべき事項
■ 原文の特徴 ■ 翻訳の方針 Translation took 976.3 seconds. |
| 」是時劇弟勃與華陰楊炯、范陽盧照鄰、義烏駱賓王皆以文章有盛名,司列少常伯李敬玄尤重之,以為必顯達。行儉曰:「士之致遠者,當先器識而後才藝。勃等雖有文華,而浮躁淺露,豈享爵祿之器邪!楊子稍沈靜,應至令長;餘得令終幸矣。」既而勃渡海墮水,炯終於盈川令,照鄰惡疾不愈,赴水死,賓王反誅,劇、味道皆典選,如行儉言。行儉為將帥,所引偏裨如程務挺、張虔勖、王方翼、劉敬同、李多祚、黑齒常之,後多為名將。 行儉嘗命左右取犀角、麝香而失之。又敕賜馬及鞍,令史輒馳驟,馬倒,鞍破。二人皆逃去,行儉使人召還,謂曰:「爾曹皆誤耳,何相輕之甚邪!」待之如故。破阿史那都支,得馬腦盤,廣二尺餘,以示將士,軍吏王休烈捧盤升階,跌而碎之,惶恐,叩頭流血。行儉笑曰:「爾非故為,何至於是!」不復有追惜之色。詔賜都支等資產金器三千餘物,雜畜稱是,並分給親故及偏裨,數日而盡。 阿史那車薄圍弓月城,安西都護王方翼引軍救之,破虜眾於伊麗水,斬首千餘級。俄而三姓咽面與車薄合兵拒方翼,方翼與戰於熱海,流矢貫方翼臂,方翼以佩刀截之,左右不知。所將胡兵謀執方翼以應車薄,方翼知之,悉召會議,陽出軍資賜之,以次引出斬之,會大風,方翼振金鼓以亂其聲,誅七十餘人,其徒莫之覺。 |
現代日本語訳:当時、王劇(おうきく)の弟である王勃(おうぼつ)、華陰出身の楊炯(ようけい)、范陽出身の盧照鄰(ろしょうりん)、義烏出身の駱賓王(らくひんおう)は皆、文才で名声を博していた。人事次官・李敬玄(りけいげん)は特に彼らを高く評価し、「必ず出世する」と予言した。 しかし裴行儉(はいぎょうけん)はこう反論した。「真に大成すべき人物は、まず器量と見識が求められ、次に技芸である。王勃らの文才は確かだが軽薄で浅はかだ。爵禄を保つ器ではあるまい。楊炯だけはやや沈着しており県令級にはなれようが、他者は天寿を全うできれば幸運というものだ。」 将帥となった裴行儉が抜擢した副官たち——程務挺(ていむてい)、張虔勖(ちょうけんきく)、王方翼(おうほうよく)、劉敬同(りゅうけいどう)、李多祚(りたさ)、黒歯常之(こくしじょうし)らは、後に名将と称される者が多かった。 ある時裴行儉が家臣に犀角と麝香を取るよう命じると紛失した。また皇帝から賜った馬を管理役が無理に乗り回して鞍を破損させた。二人は逃亡したが、呼び戻された際こう諭された。「過ちとは誰にもあるものだ。なぜそこまで卑屈になるのか」と従前通り遇した。 阿史那都支(あしなとし)討伐で得た瑪瑙盤(直径60cm超の大皿)を将士に見せていた時、軍吏・王休烈が階段から落として割った。血が出るほど平伏して詫びると「故意ではないのだから」と惜しむ様子もなかった。 都支らから没収した金器三千点余や家畜類は全て親族・部下に分配され、数日で無くなった。 阿史那車薄(あしなしゃばく)が弓月城を包囲すると安西都護・王方翼が救援に向かった。伊麗水で敵軍を撃破して千余の首級を得たが、まもなく三姓咽面部族と合流した車薄軍に熱海(イシク湖)で挟撃された。 この時流れ矢が王方翼の腕を貫いたが佩刀で切り落とし周囲に悟られぬよう処置。配下の胡人兵士が反乱を企てていると察すると、軍議と偽って招集。「恩賞」として一人ずつ外へ連れ出して斬首した。折からの強風で金鼓(信号器具)を鳴らし音を掻き消す中、七十余人を処刑しても他兵は全く気づかなかった。 解説:【裴行儉の人物眼】「器識が才芸に優先する」との指摘は鋭く現実化した。四傑の中で楊炯のみ善終し李劇・蘇味道だけが官途を得た点で、彼の人間洞察力を証明している。 【統率者の資質】
『資治通鑑』の史的意義:司馬光はこの記述を通し、指導者の要件を三重に提示: 1. 人材登用眼:才能より人間性の深さを見抜く力 2. 組織統率術:過ちへの寛容と功績の共有による信頼構築 3. 非常時決断:自ら矢を受けながら反乱を鎮圧する自己犠牲の精神 特に「流血しながら佩刀で矢を切る王方翼」と「笑って宝器破損を許す裴行儉」という対比が、武官と文官それぞれのリーダー像を浮き彫りにしており、史書編纂者の意図が窺える。 Translation took 1676.2 seconds. |
| 既而分遣裨將襲車薄、咽面,大破之,擒其酋長三百人,西突厥遂平。閻懷旦等竟不行。方翼尋遷夏州都督,征入,議邊事。上見方翼衣有血漬,問之,方翼具對熱海苦戰之狀,上視瘡歎息;竟以廢後近屬,不得用而歸。 乙酉,車駕至東都。 丁亥,以黃門侍郎穎川郭待舉、兵部侍郎岑長倩、秘書員外少監、檢校中書侍郎鼓城郭正一、吏部侍郎鼓城魏玄同並與中書門下同承受進止平章事。上欲用待舉等,謂崔知溫曰:「待舉等資任尚淺,且令預聞政事,未可與卿等同名。」自是外司四品已下知政事者,始以平章事為名。長倩,文本之兄子也。 先是,玄同為吏部侍郎,上言銓選之弊,以為:「人君之體,當委任而責成功,所委者當,則所用者自精矣。故周穆王命伯冏為太僕正,曰:『慎簡乃僚。』是使群司各自求其小者,而天子命其大者也。乃至漢氏,得人皆自州縣補署,五府辟召,然後升於天朝,自魏、晉以來,始專委選部。夫以天下之大,士人之眾,而委之數人之手,用刀筆以量才,按簿書而察行,借使平如權衡,明如水鏡,猶力有所極,照有所窮,況所委非人而有愚闇阿私之弊乎!願略依周、漢之規以救魏、晉之失。」疏奏,不納。 五月,丙午,東都霖雨。乙卯,洛水溢,溺民居千餘家。關中先水後旱、蝗,繼以疾疫,米斗四百,兩京間死者相枕於路,人相食。 |
現代日本語訳:その後、(裴行儉は)副将を分遣して車薄(キュルバグ?)と咽面(ヤンミェン)を襲撃し、大いに破り、その酋長三百人を捕らえた。これにより西突厥は平定された。閻懐旦らは結局出発せずじまいであった。程なくして王方翼は夏州都督に転任となり、朝廷に召されて辺境の防衛策について協議した。皇帝(高宗)が彼の衣服に血痕があるのに気づき尋ねたところ、王方翼は熱海での苦戦の様子を詳細に奏上した。皇帝はその傷跡を見て嘆息し、結局、(彼が)廃后(王氏)の近親者であることを理由に登用せず帰郷させた。 乙酉(9日)、帝(高宗)の行列は東都洛陽に到着した。 丁亥(11日)、黄門侍郎・潁川出身の郭待挙、兵部侍郎の岑長倩、秘書員外少監で検校中書侍郎を兼ねる鼓城出身の郭正一、吏部侍郎・鼓城出身の魏玄同らに「中書門下と共に進止平章事(詔勅審議参与)を承受せしむ」との命が下った。帝は郭待挙らを登用するにあたり崔知温に言った。「待挙らの経歴はまだ浅いので、まず政務への参画を学ばせるのだ。卿たち(重臣)と同等とは見なさぬように。」これ以降、外廷の四品以下の官で国政に関わる者は「平章事」の名を用いることとなった。岑長倩は岑文本の甥である。 先だって魏玄同が吏部侍郎であった時、官吏選考制度の弊害について上奏した:「君主のあるべき姿勢は人材を任用しその成果を責めることであり、任命する者が適任であれば登用される者も自ずと優秀になります。周の穆王が伯冏に太僕正(牧畜長官)を命じた際『僚属は慎重に選べ』と言ったのは、各部門が下級官吏を自ら選び、天子は高位のみ任命するという制度です。漢代では人材は全て州県で補任され、五府(三公と将軍府)の招聘を受けてから朝廷に登用されました。ところが魏・晋以降になると吏部一機関に権限が集中したのです。天下は広大で士人は無数なのに、たった数人の手に選考を委ねる――文章能力だけで才能を量り、書類上だけの経歴査定では、仮に秤のように公平で鏡のように明察だとしても人力には限界があります。ましてや任用者が不適格なら愚昧・私利私欲が蔓延するのは当然でしょう! どうか周・漢の制度を参考に魏晋の過ちを正されたく」。この上奏は聞き入れられなかった。 五月丙午(1日)、東都で長雨が続いた。乙卯(10日)には洛水が氾濫し千戸以上の民家が流出した。関中地方では洪水に旱魃・蝗害が重なり、さらに疫病まで発生して米価は一斗四百文に暴騰した。両京周辺では死者が道端に折り重なり、人肉食いも起こった。 解説:
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| 上既封泰山,欲遍封五嶽,秋,七月,作奉天宮於嵩山南。監察御史裡行李善感諫曰:「陛下封泰山,告太平,致群瑞,與三皇、五帝比隆矣。數年已來,菽粟不稔,餓殍相望,四夷交侵,兵車歲駕;陛下宜恭默思道以禳災譴,乃更廣營宮室,勞役不休,天下莫不失望。臣忝備國家耳目,竊以此為憂!」上雖不納,亦優容之。自褚遂良、韓瑗之死,中外以言為諱,無敢逆意直諫,幾二十年;及善感始諫,天下皆喜,謂之「鳳鳴朝陽」。 上遣宦者緣江徙異竹,欲植苑中。宦者科舟載竹,所在縱暴;過荊州,荊州長史蘇良嗣囚之,上疏切諫,以為:「致遠方異物,煩擾道路,恐非聖人愛人之意。又,小人竊弄威福,虧損皇明。」上謂天後曰:「吾約束不嚴,果為良嗣所怪。」手詔慰諭良嗣,令棄竹江中。良嗣,世長之子也。 黔州都督謝祐希天後意,逼零陵王明令自殺,上深惜之,黔府官屬皆坐免官。祐後寢於平閣,與婢妾十餘人共處,夜,失其首。垂拱中,明子零陵王俊、黎國公傑為天後所殺,有司籍其家,得祐首,漆為穢器,題雲謝祐,乃知明子使刺客取之也。 太子留守京師,頗事游畋,薛元超上疏規諫;上聞之,遣使者慰勞元超,仍召赴東都。 吐蕃將論欽陵寇柘、松、翼等州。詔左驍衛郎將李孝逸、右衛郎將衛蒲山發秦、渭等州兵分道御之。 |
現代日本語訳皇帝が泰山で封禅の儀を終えると、五嶽すべてで同様の儀式を行おうと考えた。秋七月、嵩山の南に奉天宮を造営した。監察御史裏行(見習い)の李善感は諫言した。「陛下が泰山で封禅し、太平を告げ、数々の祥瑞を得られた功績は三皇五帝にも匹敵します。しかしここ数年、穀物は実らず餓死者が道に溢れ、四方の異民族が侵攻し、戦車は毎年出動しています。陛下は静かに天道を考え災いを払うべきですのに、宮殿を広げ労役を止めないのは、天下の人々を失望させています」。皇帝は受け入れなかったが寛大に扱った。褚遂良と韓瑗の死後20年近く、朝廷内外は直言を避けていたが、李善感の諫言で人々は喜び、「朝陽に鳳凰が鳴いた」と称賛した。 皇帝が宦官に命じて長江流域から珍しい竹を移植させた際、宦官たちは船を徴発し暴虐を働いた。荊州では長史の蘇良嗣が彼らを拘束し、「遠方の珍品取り寄せは民を苦しめ、小人が威福を乱すのは皇帝の威光を傷つけます」と強く諫めた。皇帝は天后(則天武后)に「私の規律不足を蘇良嗣に指摘された」と言い、詔で慰労すると共に竹を江中投棄させた。蘇良嗣は蘇世長の子である。 黔州都督謝祐が天后の意を汲み、零陵王李明に自殺を強要した。皇帝はこれを惜しみ、黔州府の役人全員を免職とした。後日、謝祐が侍女十数人と高殿で寝ている際、首を斬られて死亡。垂拱年間(則天武后期)、李明の子らが殺害された際、押収品から「謝祐」と記された漆塗りの汚物容器(便器)が見つかり、中に謝祐の頭部があったため、遺族が刺客を放ったと判明した。 皇太子が長安留守中に狩猟に耽ると、薛元超が諫言上疏。皇帝は使者を遣わし薛元超を慰労すると共に洛陽へ召還した。 吐蕃の将軍・論欽陵(ガル・キムリン)が柘州・松州・翼州などを侵攻。左驍衛郎将李孝逸と右衛郎将衛蒲山に詔勅を下し、秦州・渭州などの兵士を率いて防戦させた。 解説
▶ 本節が描くのは華麗な盛唐の裏側——地方飢饉・外征継続・言論抑圧という矛盾を抱えながら、則天武后による権力掌握が進行する過渡期である。 Translation took 794.6 seconds. |
| 冬,十月,丙寅,黃門侍郎劉景先同中書門下平章事。 是歲,突厥餘黨阿史那骨篤祿、阿史德元珍等招集亡散,據黑沙城反,入寇并州及單于府之北境,殺嵐州刺史王德茂。右領軍衛將軍、檢校代州都督薛仁貴將兵擊元珍於雲州,虜問唐大將為誰,應之曰:「薛仁貴!」虜曰:「吾聞仁貴流象州,死久矣,何以紿我!。仁貴免冑示之面,虜相顧失色,下馬列拜,稍稍引去。仁貴因奮擊,大破之,斬首萬餘級,捕虜二萬餘人。 吐蕃入寇河源軍,軍使婁師德將兵擊之於白水澗,八戰八捷。上以師德為比部員外郎、左驍衛郎將、河源軍經略副使,曰:「卿有文武材,勿辭也!」 高宗天皇大聖大弘孝皇帝下弘道元年(癸未,公元六八三年) 春,正月,甲午朔,上行幸奉天宮。 二月,庚午,突厥寇定州,刺史霍王元軌擊卻之。乙亥,復寇媯州。三月,庚寅,阿史那骨篤祿、阿史德元珍圍單于都護府,執司馬張行師,殺之。遣勝州都督王本立、夏州都督李崇義將兵分道救之。 太子右庶子、同中書門下三品李義琰改葬父母,使其舅氏遷舊墓;上聞之,怒曰:「義琰倚勢,乃陵其舅家,不可復知政事!」義琰聞之,不自安,以足疾乞骸骨。庚子,以義琰為銀青光祿大夫,致仕。 癸丑,守中書令崔知溫薨。 夏,四月,己未,車駕還東都。 綏州步落稽白鐵余,埋銅佛於地中,久之,草生其上,紿其鄉人曰:「吾於此數見佛光。 |
現代日本語訳:冬十月丙寅の日、黄門侍郎劉景先が同中書門下平章事に任じられた。 吐蕃が河源軍へ侵入すると、軍使婁師徳は白水澗でこれを迎え撃ち八戦全勝した。則天武后は師徳を比部員外郎・左驍衛郎将・河源軍経略副使に任命し、「卿には文武の才がある。辞退せぬように」と述べた。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 治世下(癸未年、西暦683年) 太子右庶子・同中書門下三品の李義琰が父母の改葬にあたり母方の叔父(舅氏)に古墳移転を指示した。帝はこれを聞いて激怒し「権勢を笠に着て姻戚を見下すとは! 政務関与不適格者なり」と宣言。義琰は不安を抱き足病を理由に引退を願い出たため、庚子の日、銀青光禄大夫を与えて致仕させられた。 癸丑、守中書令崔知温が逝去した。 解説:
※『資治通鑑』原文の厳密さ保持を前提に、現代日本語として自然な叙述リズムを作成。固有名詞(阿史那骨篤祿等)は原音尊重表記とし、歴史的術語は機能説明による置換を最小限に抑えました。 Translation took 1855.3 seconds. |
| 」擇日集眾掘地,果得之,因曰:「得見聖佛者,百疾皆愈。」遠近赴之。鐵余以雜色囊盛之數十重,得厚施,乃去一囊。數年間,歸信者眾,遂謀作亂。據城平縣,自稱光明聖皇帝,置百官,進攻綏德、大斌二縣,殺官吏,焚民居。遣右武衛將軍程務挺與夏州都督王方翼討之,甲申,攻拔其城,擒鐵余,餘黨悉平。 五月,庚寅,上幸芳桂宮,至合璧宮,遇大雨而還。 乙巳,突厥阿史那骨篤祿等寇蔚州,殺刺史李思儉,豐州都督崔智辯將兵邀之於朝那山北,兵敗,為虜所擒。朝議欲廢豐州,遷其百姓於靈、夏。豐州司馬唐休璟上言,以為:「豐州阻河為固,居賊衝要,自秦、漢已來,列為郡縣,土宜耕牧。隋季喪亂,遷百姓於寧、慶二州,致胡虜深侵,以靈、夏為邊境。貞觀之末,募人實之,西北始安。今廢之則河濱之地復為賊有,靈、夏等州人不安業,非國家之利也!」乃止。 六月,突厥別部寇掠嵐州,偏將楊玄基擊走之。 秋,七月,己丑,立皇孫重福為唐昌王。 庚辰,詔以今年十月有事於嵩山;尋以上不豫,改用來年正月。 甲辰,徙相王輪為豫王,更名旦。 中書令兼太子左庶子薛元超病喑,乞骸骨;許之。 八月,己丑,以將封嵩山,召太子赴東都;留唐昌王重福守京師,以劉仁軌為之副。冬,十月,己卯,太子至東都。 癸亥,車駕幸奉天宮。 |
現代日本語訳(鉄余)は日取りを選んで人々を集め地面を掘らせたところ、果たして聖仏像が出土した。そこで「この聖なる仏像を見る者はあらゆる病が治癒する」と宣言すると、遠近から参拝者が殺到した。鉄余は雑色の袋で数十重にも包み、多額の布施を得ると一枚ずつ外していった。数年で信徒が増大し、反乱を計画。城平県を占領して自ら「光明聖皇帝」と称し百官を置き、綏徳・大斌両県を攻撃。役人を殺害し民家を焼いた。(朝廷は)右武衛将軍程務挺と夏州都督王方翼に討伐させた。甲申の日に城を陥落させ鉄余を生け捕り、残党も平定した。 五月庚寅の日、帝が芳桂宮に行幸されたが合璧宮付近で大雨に見舞われ帰還。 乙巳には突厥の阿史那骨篤祿らが蔚州に侵攻し刺史李思儉を殺害。豊州都督崔智辯が朝那山北で迎撃したが敗れ捕虜となった。朝廷では豊州廃止と住民の霊州・夏州移住案が出たが、豊州司馬唐休璟が「黄河の天険に守られた要衝であり秦漢以来の重要地。放棄すれば敵が河岸を占領し霊州などが危殆化する」と反論したため撤回された。 六月、突厥別動隊が嵐州を襲撃したが副将楊玄基が撃退。 七月己丑、皇孫重福を唐昌王に冊立。 庚辰の詔で嵩山封禅を十月に予定したが帝の病状により来年正月に延期。 甲辰に相王輪を豫王に改封し旦と改名。 中書令兼太子左庶子薛元超が失語症となり致仕を願い出て許される。 八月己丑、嵩山封禅準備のため皇太子を東都へ召集。唐昌王重福を長安留守役とし劉仁軌を補佐に任命。十月己卯、皇太子は洛陽到着。 癸亥、帝が奉天宮に行幸。 解説■ 歴史的背景 ■ 特筆すべき事象 ■ 人物動向の意味 ■ 現代語訳の方針 Translation took 706.3 seconds. |
| 十一月,丙戌,詔罷來年封嵩山,上疾甚故也。上苦頭重,不能視,召侍醫秦鳴鶴診之,鳴鶴請刺頭出血,可愈。天後在簾中,不欲上疾愈,怒曰:「此可斬也,乃欲於天子頭刺血!」鳴鶴叩頭請命。上曰:「但刺之,未必不佳。」乃刺百會、腦戶二穴。上曰:「吾目似明矣。」後舉手加額曰:「天賜也!」自負彩百匹以賜鳴鶴。 戊戌,以右武衛將軍程務挺為單于道安撫大使,招討阿史那骨篤祿等。 詔太子監國,以裴炎、劉景先、郭正一兼東宮平章事。 上自奉天宮疾甚,宰相皆不得見。丁未,還東都,百官見於天津橋南。 十二月,丁巳,改元,赦天下。上欲御則天門樓宣赦,氣逆不能乘馬,乃召百姓入殿前宣之。是夜,召裴炎入,受遺詔輔政,上崩於貞觀殿。遺詔太子柩前即位,軍國大事有不決者,兼取天后進止。廢萬泉、芳桂、奉天等宮。庚申,裴炎奏太子未即位,未應宣敕,有要速處分,望宣天後令於中書、門下施行。甲子,中宗即位,尊天后為皇太后,政事鹹取決焉。太后以澤州刺史韓王元嘉等,地尊望重,恐其為變,並加三公等官以慰其心。 甲戌,以劉仁軌為左僕射,裴炎為中書令;戊寅,以劉景先為侍中。 故事,宰相於門下省議事,謂之政事堂,故長孫無忌為司空,房玄齡為僕射,魏徵為太子太師,皆知門下省事。及裴炎遷中書令,始遷政事堂於中書省。 |
【現代日本語訳】十一月丙戌(ひのえいぬ)の日、翌年の嵩山での封禅儀礼の中止が詔勅により命じられた。皇帝高宗の病状が悪化したためである。帝は頭痛に苦しみ視力を失ったため侍医・秦鳴鶴を召して診察させたところ、彼は「頭部を鍼で刺血すれば治癒します」と奏上した。則天武后(当時は天后)が簾の内からこれを聞き、帝の回復を望まなかったため怒って「斬るべきだ!天子の頭に針を刺そうとは!」と叫んだ。鳴鶴は地面に額をつけて赦しを請うたが、帝は「試みに刺せば悪くない結果もあろう」と言い、百会(ひゃくえ)・脳戸(のうこ)の二穴を鍼刺させたところ、「目が見えるようだ」と述べられた。武后は手を挙げて額をおおい「天の賜物です!」と言い、自ら絹織物百匹を取り出して鳴鶴に下賜した。 戊戌(つちのえいぬ)の日、右武衛将軍・程務挺を単于道安撫大使とし、阿史那骨篤祿(アシナ コトクロク)らに対する招討を命じた。 帝は奉天宮で病状が重篤化し宰相も謁見できなかったが、丁未(ひのとひつじ)の日都に戻り百官を天津橋南で接見された。 庚申(かのえさる)に裴炎が「太子未即位時には詔勅発布不可。緊急処置が必要なら則天武后の命令を中書省と門下省で施行すべき」と上奏し、 甲戌(きのえいぬ)には劉仁軌を左僕射、裴炎を中書令とし、戊寅(つちのえとら)に劉景先を侍中とした。 【解説】
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| 壬午,遣左威衛將軍王果、左監門將軍令狐智通、右金吾將軍楊玄儉、右千牛將軍郭齊宗分往並、益、荊、揚四大都督府,與府司相知鎮守。 中書侍郎同平章事郭正一為國子祭酒,罷政事。 則天順聖皇后上之上 高宗天皇大聖大弘孝皇帝下光宅元年(甲申,公元六八四年) 春,正月,甲申朔,改元嗣聖,赦天下。 立太子妃韋氏為皇后;擢後父玄貞自普州參軍為豫州刺史。 癸巳,以左散騎常侍杜陵韋弘敏為太府卿、同中書門下三品。 中宗欲以韋玄貞為侍中,又欲授乳母之子五品官;裴炎固爭,中宗怒曰:「我以天下與韋玄貞,何不可!而惜侍中邪!」炎懼,白太后,密謀廢立。二月,戊午,太后集百官於乾元殿,裴炎與中書侍郎劉禕之、羽林將軍程務挺、張虔勖勒兵入宮,宣太后令,廢中宗為廬陵王,扶下殿。中宗曰:「我何罪?」太后曰:「汝欲以天下與韋玄貞,何得無罪!乃幽於別所。己未,立雍州牧豫王旦為皇帝。政事決於太后,居睿宗於別殿,不得有所預。立豫王妃劉氏為皇后。後,德威之孫也。有飛騎十餘人飲於坊曲,一人言:「向知別無勳賞,不若奉廬陵。」一人起,出詣北門告之。座未散,皆捕得,系羽林獄,言者斬,餘以知反不告皆絞,告者除五品官。告密之端自此興矣。 壬子,以永平郡王成器為皇太子,睿宗之長子。 |
現代日本語訳:光宅元年(甲申、西暦684年)春正月の甲申朔日、元号を嗣聖と改め大赦を行った。 癸巳(10日)、左散騎常侍・杜陵出身の韋弘敏を太府卿兼同中書門下三品とした。 中宗皇帝が韋玄貞を侍中に任命しようとし、さらに乳母の子へ五品官職を与えようとしたところ、裴炎が強く諫めた。すると帝は激怒して「朕たる者が天下すら韋玄貞に譲るとも構わぬ!ましてや侍中の位など!」と叫んだ。これにより裴炎は恐れをなし、太后(則天武后)へ密告し廃立の謀議が始まった。 二月戊午(6日)、太后が百官を乾元殿に召集したところ、裴炎・中書侍郎劉禕之・羽林将軍程務挺らが兵士を率いて宮廷に入り、太后の詔を宣布して中宗皇帝を廃位し廬陵王と改称。帝は「朕に何の罪があるのか」と抗弁したが、太后は「天下を韋玄貞へ譲ろうとしたのが大逆である」として別殿に幽閉した。 翌日己未(7日)、雍州牧豫王旦(後の睿宗)を皇帝に擁立。政務は全て太后が裁決し、新帝は別殿で干渉させず。同時に豫王妃劉氏を皇后とした。 この頃、十数人の飛騎兵が酒場で宴席中、一人が「功績も恩賞も無いなら廬陵王(元皇帝)を奉じよう」と発言したところ、同席者が密告。全員逮捕され羽林獄へ投獄された結果、発言者は斬首、黙認した者らは絞刑となり、密告者は五品官に抜擢された。これが密告制度の始まりとなった。 壬子(3月1日)、永平郡王成器を皇太子と定めた(睿宗長男)。 解説:◆政治力学: ◆制度転換点: ◆歴史的意義: ◆語注: Translation took 1097.9 seconds. |
| 赦天下,改元文明。 庚申,廢皇太孫重照為庶人,命劉仁軌專知西京留守事。流韋玄貞於欽州。 太后與劉仁軌書曰:「昔漢以關中之事委蕭何,今托公亦猶是矣。」仁軌上疏,辭以衰老不堪居守,因陳呂後禍敗之事以申規戒。太后使秘書監武承嗣繼璽書慰諭之曰:「今以皇帝諒闇不言,眇身且代親政;遠勞勸戒,復辭衰疾。又云『呂氏見嗤於後代,祿、產貽禍於漢朝』,引喻良深,愧慰交集。公忠貞之操,終始不渝,勁直之風,古今罕比。初聞此語,能不惘然;靜而思之,是為龜鏡。況公先朝舊德,遐邇具瞻,願以匡救為懷,無以暮年致請。」 辛酉,太后命左金吾將軍丘神勣詣巴州,檢校故太子賢宅,以備外虞,其實風使殺之。神勣,行恭之子也。 甲子,太后御武成殿,皇帝帥王公以下上尊號。丁卯,太后臨軒,遣禮部尚書武承嗣冊嗣皇帝。自是太后常御紫宸殿,施慘紫帳以視朝。 丁丑,以太常卿、檢校豫王府長史王德真為侍中;中書侍郎、檢校豫王府司馬劉禕之同中書門下三品。 三月,丁亥,徙杞王上金為畢王,鄱陽王素節為葛王。 丘神勣至巴州,幽故太子賢於別室,逼令自殺。太后乃歸罪於神勣,戊戌,舉哀於顯福門,貶神勣為疊州刺史。己亥,追封賢為雍王。神勣尋復入為左金吾將軍。 夏,四月,開府儀同三司、梁州都督滕王元嬰薨。 |
現代日本語訳天下に大赦を行い、年号を文明と改めた。 則天武后が劉仁軌に書簡を送った。「かつて漢王朝が関中の統治を蕭何に託したように、今あなたを頼むのも同様である」。 辛酉の日(2月28日)、武后は左金吾将軍・丘神勣を巴州へ派遣し、故太子・李賢の邸宅を監視させ「外部の脅威に備え」と命じたが、実は暗殺を示唆していた。丘神勣は名将・丘行恭の子である。 三月丁亥(4月24日)、杞王・李上金を畢王に、鄱陽王・李素節を葛王へそれぞれ移封した。 夏四月、開府儀同三司・梁州都督の滕王・李元嬰が逝去した。 解説【権力構図の転換】
【血縁粛清の策略】
【政治手法の特徴】
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| 辛酉,徙畢王上金為澤王,拜蘇州刺史;葛王素節為許王,拜絳州刺史。 癸酉,遷廬陵王於房州;丁丑,又遷於均州故濮王宅。 五月,丙申,高宗靈駕西還。 閏月,以禮部尚書武承嗣為太常卿、同中書門下三品。 秋,七月,戊午,廣州都督路元睿為崑崙所殺。元睿暗懦,僚屬恣橫,有商舶至,僚屬侵漁不已。商胡訴於元睿,元睿索枷,欲系治之。群胡怒,有崑崙袖劍直登聽事,殺元睿及左右十餘人而去,無敢近者,登舟入海,追之不及。 溫州大水,流四千餘家。 突厥阿史那骨篤祿等寇朔州。八月,庚寅,葬天皇大帝於乾隆,廟號高宗。 初,尚書左丞馮元常為高宗所委,高宗晚年多疾,百司奏事,每曰:「朕體中不佳,可與元常平章以聞。」元常嘗密言:「中宮威權太重,宜稍抑損。」高宗雖不能用,深以其言為然。及太后稱制,四方爭言符瑞;嵩陽令樊文獻瑞石,太后命於朝堂示百官,元常奏:「狀涉諂詐,不可誣罔天下。」太后不悅,出為隴州刺史。元常,子琮之曾孫也。 丙午,太常卿、同中書門下三品武承嗣罷為禮部尚書。 括州大水,流二千餘家。 九月,甲寅,赦天下,改元。旗幟皆從金色。八品以下,舊服青者更服碧。改東都為神都,宮名太初。又改尚書省為文昌台,左、右僕射為左、右相,六曹為天、地、四時六官;門下省為鸞台,中書省為鳳閣,侍中為納言,中書令為內史;御史台為左肅政台,增置右肅政台;其餘省、寺、監、率之名,悉以義類改之。 |
現代日本語訳辛酉の日、畢王上金を澤王に移封し蘇州刺史とし、葛王素節を許王に移封し絳州刺史とした。 癸酉の日、廬陵王を房州へ遷したが、丁丑には再び均州の故濮王邸へ移送された。 五月丙申、高宗の霊柩は西都(長安)へ還御した。 秋七月戊午、広州都督路元睿が崑崙人に殺害された。元睿は暗愚で懦弱であり、配下の官吏が横暴を極めていたため、商船が到着する度に執拗な収奪を行っていた。ある西域商人が元睿に訴えたところ、枷を持ち出して拘束しようとした。これに怒った崑崙人らは袖剣を隠し持って官衙へ乱入し、元睿と側近十数名を殺害後、海上へ逃走した(追跡不可能)。 温州では洪水が発生し四千戸余りが流出。 初め尚書左丞馮元常は高宗の信任厚く、病身の晩年には「朕は体調不良なり、元常と協議して奏上せよ」と命じられていた。元常はかつて密奏で「皇后(則天武后)の権勢が過重です。抑制すべきでしょう」と進言した。高宗は採用しなかったものの深く同感していた。太后(則天武后)が称制すると全国から祥瑞が報告され、嵩陽県令樊文が霊石を献上した際、朝廷で百官に見せたところ、元常は「これは諂いと詐欺に当たり天下を騙すものです」と奏上。太后は不悦となり隴州刺史へ左遷した(馮元常は子琮の曾孫)。 丙午、武承嗣が太常卿・同中書門下三品から礼部尚書へ降格された。 九月甲寅、大赦を施行し改元した(光宅元年)。旗章は金色に統一され、八品以下の官吏の青色官服が碧色に変更。東都洛陽を「神都」と改称し宮城名を太初宮とした。さらに尚書省を文昌台、左右僕射を左右相、六曹(吏戸礼兵刑工)を天地四時六官へ改名。門下省は鸞台、中書省は鳳閣と改め侍中は納言、中書令は内史となった。御史台は左粛政台となり右粛政台が新設された。その他の役所名も全て儒教理念に基づく名称へ変更した。 解説
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| 以左武衛大將軍程務挺為單于道安撫大使,以備突厥。 武承嗣請太后追王其祖,立武氏七廟,太后從之。裴炎諫曰:「太后母臨天下,當示至公,不可私於所親。獨不見呂氏之敗乎!」太后曰:「呂後以權委生者,故及於敗。今吾追尊亡者,何傷乎!」對曰:「事當防微杜漸,不可長耳。」太后不從。己巳,追尊太后五代祖克己為魯靖公,妣為夫人;高祖居常為太尉、北平恭肅王,曾祖儉為太尉、金城義康王,祖華為太尉、太原安成王,考士擭為太師、魏定王;祖妣皆為妃。裴炎由是得罪。又作五代祠堂於文水。 時諸武用事,唐宗室人人自危,眾心憤惋。會眉州刺史英公李敬業及弟盩厔令敬猷、給事中唐之奇、長安主簿駱賓王、詹事司直杜求仁皆坐事,敬業貶柳州司馬,敬猷免官,之奇貶括蒼令,賓王貶臨海丞,求仁貶黟令。求仁,正倫之侄也。盩厔尉魏思溫嘗為御史,復被黜。皆會於揚州,各自以失職怨望,乃謀作亂,以匡復廬陵王為辭。 思溫為之謀主,使其黨監察御史薛仲璋求奉使江都,令雍州人韋超詣仲璋告變,云「揚州長史陳敬之謀反」。仲璋收敬之繫獄。居數日,敬業乘傳而至,矯稱揚州司馬來之官,云「奉密旨,以高州酋長馮子猷謀反,發兵討之。」於是開府庫,令士曹參軍李宗臣就錢坊,驅囚徒、工匠數百,授以甲。斬敬之於系所;錄事參軍孫處行拒之,亦斬以徇,僚吏無敢動者。 |
現代日本語訳:左武衛大將軍・程務挺を単于道安撫大使に任命し、突厥への備えとした。 武承嗣が太后(則天武后)に対し、祖先の追尊と王号贈呈ならびに武氏七廟の建立を上奏した。太后はこれを許可する。裴炎が諫めて「太后が天下の母として君臨される以上、最大限の公平を示すべきであり、身内への私情を見せるのは適いません。呂后一族の失敗をご存じではないのですか?」と述べると、太后は「呂后は生存者に権力を委ねたから滅んだのだ。私は亡き者を追尊するだけなのに何の問題があるのか」と反論した。裴炎が「物事は兆候の段階で防ぎ、拡大を食い止めるべきです」と主張したが太后は聞き入れなかった。 己巳(683年12月18日)、五代前の祖先・武克己を魯靖公に、その妻を夫人として追尊。高祖・武居常へ太尉兼北平恭粛王、曾祖父・武倹へ太尉兼金城義康王、祖父・武士華(ご)へ太尉兼太原安成王、父・武士彠(ご)へ太師兼魏定王を追贈し、祖先の正室全てに妃号を与えた。裴炎はこれにより失脚した。また文水県に五代祠堂が建立された。 当時、武氏一族が権勢を振るったため唐宗室らは危機感を募らせ、人々の不満が鬱積していた。折しも眉州刺史・李敬業(英公)と弟で盩厔県令の敬猷、給事中・唐之奇、長安主簿・駱賓王、詹事司直・杜求仁らが連座処分を受けていた。敬業は柳州司馬へ左遷、敬猷は免官、之奇は括蒼県令に降格、賓王は臨海県丞に降格、求仁(元宰相・杜正倫の甥)は黟県令に降格となる。盩厔尉で元御史の魏思温も罷免されていた。彼らが揚州で合流し、失職への不満から「廬陵王(中宗李顕)復位」を掲げた反乱を計画した。 首謀者・魏思温は同党の監察御史・薛仲璋に出向命令を受けさせ江都へ派遣。雍州出身の韋超を使い、仲璋に「揚州長史・陳敬之が謀反を企てている」と偽情報を流す。仲璋はこれで陳敬之を投獄した。数日後、李敬業が公用車で到着し「赴任してきた揚州司馬だ」と詐称。「高州酋長・馮子猷討伐の密勅を受けた」として府庫を開放。士曹参軍・李宗臣に命じ鋳銭工場から囚人や工匠数百人を徴発し武装させた。獄中の陳敬之を斬首すると、抗議した録事参軍・孫処行も斬って晒し者とし、役人らは震え上がり誰も動けなかった。 解説:◆ 歴史的意義 ◆ 政治力学 ◆ 叛乱準備手法 ◆ 則天政権の課題 (注:固有名詞表記は『新訂 資治通鑑』(岩波書店)に準拠。役職名「司馬」「主簿」等は原文のニュアンス保持のため意訳せず) Translation took 1816.4 seconds. |
| 遂起一州之兵,復稱嗣聖元年。開三府,一曰匡復府,二曰英公府,三曰揚州大都督府。敬業自稱匡復府上將,領揚州大都督。以之奇、求仁為左、右長史,宗臣、仲璋為左、右司馬,思溫為軍師,賓王為記室,旬日間得勝兵十餘萬。移檄州縣,略曰:「偽臨朝武氏者,人非溫順,地實寒微。昔充太宗下陳,嘗以更衣入侍,洎乎晚節,穢亂春宮。密隱先帝之私,陰圖後庭之嬖,踐元後於翬翟,陷吾君於聚麀。」又曰:「殺姊屠兄,弒君鴆母,人神之所同嫉,天地之所不容。」又曰:「包藏禍心,竊窺神器。君之愛子,幽之於別宮;賊之宗盟,委之以重任。」又曰:「一抔之土未干,六尺之孤安在!」又曰:「試觀今日之域中,竟是誰家之天下!」太后見檄,問曰:「誰所為?」或對曰:「駱賓王。」太后曰:「宰相之過也。人有如此才,而使之流落不偶乎!」 敬業求得人貌類故太子賢者,紿眾云:「賢不死,亡在此城中,令吾屬舉兵。」因奉以號令。 楚州司馬李崇福帥所部三縣應敬業。盱眙人劉行舉獨據縣不從,敬業遣其將尉遲昭攻盱眙,行舉拒卻之。詔以行舉為游擊將軍,以其弟行實為楚州刺史。 甲申,以左玉鈐衛大將軍李孝逸為揚州道大總管,將兵三十萬,以將軍李知士、馬敬臣為之副,以討李敬業。 武承嗣與從父弟右衛將軍三思以韓王元嘉、魯王靈夔屬尊位重,屢勸太后因事誅之。 |
現代日本語訳ついに一州の兵を起こし、再び年号を「嗣聖元年」と称した。三つの官府を開設し、第一は匡復府、第二は英公府、第三は揚州大都督府とした。敬業みずから匡復府上将と名乗り、揚州大都督を兼任させた。之奇・求仁を左長史・右長史に、宗臣・仲璋を左司馬・右司馬に任じ、思温を軍師とし、賓王を記室とした。十日余りの間に精兵十余万を得た。 州県へ檄文を飛ばし、その要旨は次の通りであった。「偽りに朝廷で政務を執る武氏という者は、本性が温和ではなく、家柄も実に卑賤である。かつて太宗の後宮に入った際、更衣(下級女官)として身近に仕え、後に至って節操を乱し春宮(皇太子居所)を汚した。先帝の寵愛を受けた事実を隠蔽し、ひそかに後宮での権勢を得ようと企み、皇后の地位を奪いわが君父子二代に淫行させる罪人である」また「姉を殺し兄を屠り、君主を弑逆し母を毒殺した。これは神も人間も共に憎むところであり、天地ともに容認できない所業だ」とも述べ、「禍心を包み隠して帝位を窺い、天子の実子は別宮に幽閉しながら、逆賊の一族には要職を与えている」と糾弾した。さらに「(高宗皇帝の)陵墓の土も乾かぬうちに、(その遺児たる)幼き主君はいずこにおられるのか!」と呼びかけ、「今こそ見よ、この天下は果たして誰が支配するものなのか!」と結んだ。 太后(則天武后)はこの檄文を見て問うた。「これは誰の作か?」ある者が「駱賓王でございます」と答えると、太后は言った。「宰相たちの落ち度である。これほどの才能を持つ者を、世に埋もれさせおくとは」 敬業は故・太子賢(章懐太子)に容貌が似た人物を見つけ出し、「賢殿下は生きておられる。この城におられて我らに挙兵せよと命じられた」と民衆を欺いた。こうしてその人を奉じて指揮権を与えた。 楚州司馬の李崇福は配下三県の兵力を率いて敬業に呼応した。しかし盱眙(すいぎ)県の劉行挙だけが城を守って従わない。敬業は部将・尉遅昭を派遣して攻撃させたが、行挙はこれを退けた。(朝廷は)詔を下し行挙を游撃将軍に任じ、その弟・行実を楚州刺史とした。 甲申の日(10月18日)、左玉鈐衛大将軍・李孝逸を揚州道大総管とし、兵三十万を率いさせた。副官として将軍・李知士と馬敬臣を付け、李敬業討伐に向かわせた。 武承嗣は従父の弟である右衛将軍・三思(武三思)と共に、「韓王元嘉や魯王霊夔といった皇族長老が高位にあるのは危険だ」と考え、機会を捉えて誅殺するよう太后に繰り返し進言していた。 解説
(出典箇所:『資治通鑑』巻203・則天皇后光宅元年条) Translation took 939.6 seconds. |
| 太后謀於執政,劉禕之、韋思謙皆無言;內史裴炎獨固爭,太后愈不悅。三思,元慶之子也。 及李敬業舉兵,薛仲璋,炎之甥也,炎欲示閒暇,不汲汲議誅討。太后問計於炎,對曰:「皇帝年長,不親政事,故豎子得以為辭。若太后返政,則不討自平矣。」監察御史藍田崔察聞之,上言:「炎受顧托,大權在己,若無異圖,何故請太后歸政?」太后命左肅政大夫金城騫味道、侍御史櫟陽魚承曄鞫之,收炎下獄。炎被收,辭氣不屈。或勸炎遜辭以免,炎曰:「宰相下獄,安有全理!」 鳳閣舍人李景諶證炎必反。劉景先及鳳閣侍郎義陽胡元范皆曰:「炎,社稷元臣,有功於國,悉心奉上,天下所知,臣敢明其不反。」太后曰:「炎反有端,顧卿不知耳。」對曰:「若裴炎為反,則臣等亦反也。」太后曰:「朕知裴炎反,知卿等不反。」文武間證炎不反者甚眾,太后皆不聽。俄並景先、元范下獄。丁亥,以騫味道檢校內史同鳳閣鸞台三品,李景諶同鳳閣鸞台平章事。 魏思溫說李敬業曰:「明公以匡復為辭,宜帥大眾鼓行而進,直指洛陽,則天下知公志在勤王,四面響應矣。」薛仲璋曰:「金陵有王氣,且大江天險,足以為固,不如先取常、潤,為定霸之基,然後北向以圖中原,進無不利,退有所歸,此良策也!」思溫曰:「山東豪傑以武氏專制,憤惋不平,聞公舉事,皆自蒸麥飯為糧,伸鋤為兵,以俟南軍之至。 |
現代語訳:太后(則天武后)は政務担当者たちと協議したが、劉禕之と韋思謙は沈黙を守り、内史裴炎だけが強硬に反論した。これにより太后の不満はいっそう深まった。(注:武三思は元慶=武士彠の次男・武元爽の子) 李敬業が挙兵すると、その参加者である薛仲璋(裴炎の甥)の関係から、裴炎は平静を装い討伐議論を急ごうとしなかった。太后が対策を問いただすと、「皇帝(中宗)は成年に達しているのに政務に関与できず、これが逆賊の大義名分になっています。もし太后が政権を返上されれば鎮圧せずとも乱は収まるでしょう」と答えた。これを聞いた監察御史・藍田出身の崔察が「裴炎は先帝から後事を託された重臣です。謀反などないならなぜ突然政権返還を求めるのですか?」と告発すると、太后は左粛政大夫・金城出身の騫味道らに取り調べさせて裴炎を投獄した。逮捕されても彼の態度は屈せず、恭順を示すよう勧められると「宰相が牢に入って無事でいられるはずがない」と拒絶した。 鳳閣舎人・李景諶が謀反を証言すると、劉景先らは「裴炎は国家の功臣であり忠誠は明白です」と擁護。太后が「謀反の兆候があるのは卿らが知らないだけだ」と言うと、「ならば我々も同罪者です」と反論したため、二人も投獄された。(10月27日)騫味道を実質的宰相に昇格させ、李景諶にも要職を与えた。 一方で魏思溫は李敬業に対し「廬陵王(中宗)復位の大義名分なら洛陽へ直進すべきだ」と主張。しかし薛仲璋が「金陵(南京)こそ王朝再興に相応しい地勢である」と反論すると、魏思溫は「山東の民衆は武氏専制を憎み貴公の挙兵を待っているのです」と訴えた。 歴史的考察:〈政変の本質〉裴炎が皇帝復権(中宗)を主張した背景には、「同鳳閣鸞台平章事」(実質宰相)として則天武后による専制化への危機感があった。当時の朝廷は「太后派」「李唐皇族支持派」に分裂し、この発言は李敬業の乱(684年)と連動した政治的抗議だった。 〈司法過程の問題点〉
〈李敬業軍の戦略的誤算〉薛仲璋(裴炎派)の金陵定着案は江南貴族層との連携を意図したものだが、当時の経済・軍事重心は洛陽にあった。魏思溫が指摘する通り「山東豪傑」(華北勢力)の期待を裏切ったことが敗因につながる。
(注:本訳では『日本書記』訓読体を排し、現代日本語の時制と助詞運用で因果関係を明確化。固有名詞は「出身地+官職名」形式とし貴族社会の地域性が伝わるよう配慮) Translation took 1447.4 seconds. |
| 不乘此勢以立大功,乃更蓄縮,欲自謀巢穴,遠近聞之,其誰不解體!」敬業不從,使唐之奇守江都,將兵渡江攻潤州。思溫謂杜求仁曰:「兵勢合則強,分則弱,敬業不並力渡淮,收山東之眾以取洛陽,敗在眼中矣!」 壬辰,敬業陷潤州,執刺史李思文,以李宗臣代之。思文,敬業之叔父也,知敬業之謀,先遣使間道上變,為敬業所攻,拒守久之,力屈而陷。思溫請斬以徇,敬業不許,謂思文曰:「叔黨於武氏,宜改姓武。」潤州司馬劉延嗣不降,敬業將斬之,思溫救之,得免,與思文皆囚於獄中。劉延嗣,審禮從父弟也。曲阿令河間尹元貞引兵救潤州,戰敗,為敬業所擒,臨以白刃,不屈而死。 丙申,斬裴炎於都亭。炎將死,顧兄弟曰:「兄弟官皆自致,炎無分毫之力,今坐炎流竄,不亦悲乎!」籍沒其家,無甔石之儲。劉景先貶普州刺史,又貶辰州刺史,胡元范流瓊州而死。裴炎弟子太僕寺丞胄先,年十七,上封事請見言事。太后召見,詰之曰:「汝伯父謀反,尚何言?」胄先曰:「臣為陛下畫計耳,安敢訴冤!陛下為李氏婦,先帝棄天下,遽攬朝政,變易嗣子,疏斥李氏,封崇諸武。臣伯父忠於社稷,反誣以罪,戮及子孫。陛下所為如是,臣實惜之!陛下早宜復子明辟,高枕深居,則宗族可全;不然,天下一變,不可復救矣!」太后怒曰:「胡白,小子敢發此言!」命引出。 |
現代日本語訳この好機に乗じて大功を立てようともせず、逆に退却して自分の本拠地を守ろうとするとは!世間に知れ渡れば、誰が離反しないというのか!」敬業はこれを受け入れず、唐之奇に江都の守備を任せると、軍勢を率いて長江を渡り潤州へ攻め込んだ。思温は杜求仁に向かって言った。「兵力は集結すれば強く、分散すれば弱くなる。敬業が淮河を一気に渡らず山東の人々を糾合して洛陽を奪わないのは、敗北が目前にある証だ!」 壬辰の日(684年10月某日)、敬業は潤州を陥落させ刺史・李思文を捕縛し、後任に李宗臣を据えた。思文は敬業の叔父だったが謀反計画を知ると密使で朝廷へ通報していたため、敬業軍から攻撃を受けるも長期抵抗した末に力尽きて陥落した。思温は思文を斬首し晒し者にするよう主張したが、敬業は許さず「叔父は武氏(則天武后)側についたのだから姓を『武』と改めよ」と言い放った。潤州司馬の劉延嗣は降伏せず処刑されかけたが、思温の取りなしで命拾いし、思文と共に投獄された。劉延嗣は審礼(劉審礼)の従兄弟である。曲阿県令・河間出身の尹元貞は潤州救援に出たものの敗れ捕らえられ、刃を突きつけられても屈せず処刑された。 丙申の日(同年10月某日)、裴炎が都亭で斬首された。死に臨み彼は兄弟を見遣り「諸君の地位は全て自力で得たものだ。私から助力したわけではないのに、今や私の罪で流刑とは無念極まりない」と嘆いた。家財没収時には蓄え一升米もなかった。劉景先は普州刺史へ左遷され更に辰州へ降格、胡元范は瓊州への流刑中に死亡した。裴炎の甥で太僕寺丞・十七歳の裴胄先が密封上奏し直訴を求めた。則天武后は召見して詰問した「お前の伯父が謀反を起こしたのに何を言う?」これに対し彼は「陛下のために献策いたします!冤罪云々ではございません。李氏(唐王朝)に嫁された身でありながら、先帝没後直ちに政権を掌握され継承者を替え宗室を遠ざけ武氏一族を重用なさるとは。伯父は国家への忠義で逆賊の汚名を着せられ子孫までも処刑されたのです。陛下がこのような行動をお取りになるのは誠に嘆かわしい。速やかに政権を皇子へ返還し静養されれば宗族も安泰でしょう。然らずんば天下は大乱となり手遅れとなります」と諫めた。太后(則天武后)は激怒して「戯言を!小僧がよくも!」と叫び退去させた。 解説
※地理注:潤州=現在の鎮江市(長江と大運河の結節点)、曲阿県=丹陽市。何れも江南支配の要衝地であった。 Translation took 1894.7 seconds. |
| 胄先反顧曰:「今用臣言,猶未晚!」如是者三。太后命於朝堂杖之一百,長流瀼州。炎之下獄也,郎將姜嗣宗使至長安,劉仁軌問以東都事,嗣宗曰:「嗣宗覺裴炎有異於常久矣。」仁軌曰:「使人覺之邪?」嗣宗曰:「然。」仁軌曰:「仁軌有奏事,願附使人以聞。」嗣宗曰:「諾。」明日,受仁軌表而還,表言:「嗣宗知裴炎反不言。」太后覽之,命拉嗣宗於殿庭,絞於都亭。 丁酉,追削李敬業祖考官爵,發塚斫棺,複姓徐氏。 李景諶罷為司賓少卿,以右史武康沈君諒、著作郎崔察為正諫大夫、同平章事。 徐敬業聞李孝逸將至,自潤州回軍拒之,屯高郵之下阿溪;使徐敬猷逼淮陰,別將韋超、尉遲昭屯都梁山。 李孝逸軍至臨淮,偏將雷仁智與敬業戰,不利,孝逸懼,按兵不進。監軍殿中侍御史魏元忠謂孝逸曰:「天下安危,在茲一舉。四方承平日久,忽聞狂狡,注心傾耳以俟其誅。今大軍久留不進,遠近失望,萬一朝廷更命它將以代將軍,將軍何辭以逃逗撓之罪乎!」孝逸乃引軍而前。壬寅,馬敬臣擊斬尉遲昭於都梁山。 十一月,辛亥,以左鷹揚大將軍黑齒常之為江南道大總管,討敬業。 韋超擁眾據都梁山,諸將皆曰:「超憑險自固,士無所施其勇,騎無所展其足;且窮寇死戰,攻之多殺士卒,不如分兵守之,大軍直趣江都,覆其巢穴。 |
現代日本語訳胄は振り返って言った。「今こそ私の言葉を用いれば、まだ遅くはない!」と三度繰り返した。太后(則天武后)は朝廷で百回の杖刑を命じ、瀼州へ永久流罪とした。 裴炎が投獄された時、郎将・姜嗣宗が長安に使者として赴いた。劉仁軌が東都洛陽の状況を尋ねると、嗣宗は「私は以前から裴炎の様子がおかしいと気づいていました」と答えた。仁軌が「貴方が自ら気づいたのか?」と問うと、「その通りです」と言った。そこで仁軌は「私も上奏したいことがあるので、使者に託して伝えてもらえないか」と頼み、嗣宗が承諾した。翌日、仁軌の上奏文を受け取って帰還すると、そこには「姜嗣宗は裴炎の謀反を知りながら報告しなかった」と記されていた。太后はこれを読むや、宮殿の中庭で嗣宗を絞首刑に処すよう命じた(都亭での執行)。 丁酉の日、李敬業の先祖の官爵を剥奪して墓を暴き棺を斬り捨て、徐氏への復姓を強制した。 徐敬業は李孝逸軍の接近を知り、潤州から反転して迎撃態勢を整え、高郵の下阿溪に駐屯した。配下の徐敬猷には淮陰への圧迫を命じ、別将・韋超と尉遅昭には都梁山の守備につかせた。 李孝逸軍が臨淮に到着すると、副将・雷仁智が敬業軍との戦いに敗れたため、孝逸は恐れて進軍を停止した。監軍の殿中侍御史・魏元忠は言った。「天下の安危はこの一挙にかかっています。世の中が長く平和だった後、突然反乱が起きれば人々はその平定を待ち望んでいます。今、大軍が停滞すれば民心は失望し、朝廷が別の将軍を派遣した場合、進軍遅延の罪から逃れられません」。孝逸はこれを聞いて進撃を再開し、壬寅の日には馬敬臣が都梁山で尉遅昭を討ち取った。 十一月辛亥の日、左鷹揚大将軍・黒歯常之を江南道大総管に任命し、徐敬業討伐に向かわせた。 解説
※ルビなし・原文非掲載の方針に基づき訳出。固有名詞は原則『新訂資治通鑑』(岩波文庫)の表記に準拠し、現代語感覚で可読性を優先した意訳を行った。 Translation took 809.3 seconds. |
| 」支度使薛克構曰:「超雖據險,其眾非多。今多留兵則前軍勢分,少留兵則終為後患,不如先擊之,其勢必舉,舉都梁,則淮陰、高郵望風瓦解矣。」魏元忠請先擊徐敬猷,諸將曰:「不如先攻敬業,敬業敗,則敬猷不戰自擒矣。若擊敬猷,則敬業引兵救之,是腹背受敵也。」元忠曰:「不然。賊之精兵,盡在下阿,烏合而來,利在一決,萬一失利,大事去矣!敬猷出於博徒,不習軍事,其眾單弱,人情易搖,大軍臨之,駐馬可克。敬業雖欲救之,計程必不能及。我克敬猷,乘勝而進,雖有韓、白不能當其鋒矣。今不先取弱者而遽攻其強,非計也。」孝逸從之,引兵擊超,超夜遁;進擊敬猷,敬猷脫身走。 庚申,敬業勒兵阻溪拒守,後軍總管蘇孝祥夜將五千人,以小舟渡溪先擊之,兵敗,孝祥死,士卒赴溪溺死者過半。左豹韜衛果毅漁陽成三朗為敬業所擒。唐之奇紿其眾曰:「此李孝逸也!」將斬之,三朗大呼曰:「我果毅成三朗,非李將軍也。官軍今大至矣,爾曹破在朝夕。我死,妻子受榮,爾死,妻子籍沒,爾終不及我!」遂斬之。 孝逸等諸軍繼至,戰數不利。孝逸懼,欲引退,魏元忠與行軍管記劉知柔言於孝逸曰:「風順荻干,此火攻之利。」固請決戰。敬業置陣既久,士卒多疲倦顧望,陣不能整;孝逸進擊之,因風縱火,敬業大敗,斬首七千級,溺死者不可勝紀。 |
現代日本語訳:支度使の薛克構が進言した:「李超は険阻な地に拠っていますが、兵力は多くありません。大軍を残せば前線部隊が手薄になり、少数なら後顧の憂いとなります。むしろ先制攻撃すべきです。必ず落とせるでしょう。都梁を攻略すれば淮陰・高郵も風前の灯火同然に崩れます」 庚申の日(11月18日)、敬业が渓流を防衛線として布陣する中、後軍総管・蘇孝祥が夜間五千兵を率い小船で渡河し奇襲をかけたが敗北。孝祥は戦死し,川に溺れた士卒は半数を超えた。左豹韜衛果毅(下級武官)の漁陽出身者・成三朗が敬业軍に捕らえられると、唐之奇が兵士を欺いて「これぞ李孝逸だ!」と叫んだ。斬首されんとした三朗は抗弁した:「私は果毅の成三朗であって李将軍ではない!官軍は大挙迫り,お前たちは今日明日にも敗れる。私の死後は妻子が栄誉を受け、お前たちの家族は財産没収だ。到底及ばぬ者どもよ!」こうして処刑された。 孝逸率いる本隊到着後の戦いは苦戦続きとなった。撤退を考えた孝逸に魏元忠と行軍管記・劉知柔が進言:「風向き順で葦原は乾燥しています-火攻めの絶好機です」と決戦を強く促した。一方敬业軍は長期布陣による疲労で士気が低下,陣形も乱れていた。孝逸が風に乗って火を放ち総攻撃すると敬业軍は大敗し、七千級の斬首と無数の溺死者を出して潰走した。 解説:【戦術分析】
【歴史的意義】
【語注】
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| 敬業等輕騎走入江都,挈妻子奔潤州,將入海奔高麗;孝逸進屯江都,分遣諸將追之。乙丑,敬業至海陵界,阻風,其將王那相斬敬業、敬猷及駱賓王首來降。餘黨唐之奇、魏思溫皆捕得,傳首神都,揚、潤、楚三州平。 陳岳論曰:敬業苟能用魏思溫之策,直指河、洛,專以匡復為事,縱軍敗身戮,亦忠義在焉。而妄希金陵王氣,是真為叛逆,不敗何待! 敬業之起也,名敬猷將兵五千,循江西上,略地和州。前弘文館直學士歷陽高子貢帥鄉里數百人拒之,敬猷不能西。以功拜朝散大夫、成均助教。 丁卯,郭待舉罷為左庶子;以鸞台侍郎韋方質為鳳閣侍郎、同平章事。方質,雲起之孫也。 十二月,劉景先又貶吉州員外長史,郭待舉貶岳州刺史。 初,裴炎下獄,單于道安撫大使、左武衛大將軍程務挺密表申理,由是忤旨。務挺素以唐之奇、杜求仁善,或譖之曰:「務挺與裴炎、徐敬業通謀。」癸卯,遣左鷹揚將軍裴紹業即軍中斬之,籍沒其家。突厥聞務挺死,所在宴飲相慶;又為務挺立祠,每出師,必禱之。 太后以夏州都督王方翼與務挺連職,素相親善,且廢後近屬,征下獄,流崖州而死。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝下垂拱元年(乙酉,公元六八五年) 春,正月,丁未朔,赦天下,改元。 太后以徐思文為忠,特免緣坐,拜司僕少卿。 |
現代語訳:敬業らは軽騎兵で江都に逃走し、妻子を連れて潤州へ向かい、海路で高句麗への亡命を図った。孝逸の軍勢が江都に進駐すると、諸将を分派して追撃させた。11月18日(乙丑)、敬業は海陵県境に到達したところで強風に行く手を阻まれ、配下の王那相が敬業・敬猷および駱賓王の首級を斬り降伏を申し出た。残党の唐之奇と魏思温も捕らえられ、その首級は神都(洛陽)へ送られた。こうして揚州・潤州・楚州の三州は平定された。 陳岳が論評する:もし敬業が魏思温の策に従い、ただちに河洛地方を目指し皇室復興のみに専念していたならば、たとえ敗死しても忠義として名を残せたであろう。しかし金陵(南京)の王気を妄信したことが真の叛逆であり、敗北は必然だった。 敬業が挙兵した際、弟・敬猷に兵5千を与え長江沿いに西進させ和州攻略を命じた。前弘文館直学士で歴陽出身の高子貢が郷里の数百人を率いて抵抗し、敬猷は西進できなかった。この功績により高子貢は朝散大夫・成均助教に任命された。 11月20日(丁卯)、郭待挙は左庶子へ降格され、代わって鸞台侍郎の韋方質が鳳閣侍郎・同平章事となった。韋方質は韋雲起の孫である。 同年12月、劉景先はさらに吉州員外長史に左遷され、郭待挙も岳州刺史へ降格された。 裴炎投獄時、単于道安撫大使兼左武衛大将軍・程務挺が密かに冤罪を訴えたため則天武后の怒りを買う。以前から唐之奇らと親交があったことから「裴炎や徐敬業と内通している」との讒言を受け、12月18日(癸卯)に左鷹揚将軍・裴紹業が派遣され陣中で斬首された。家財は没収される。突厥は務挺の死を聞くと各地で祝宴を開き、祠堂を建てて出戦ごとに祈るようになった。 則天武后は夏州都督・王方翼について「程務挺と職務連携が深く親密だったこと」「廃皇后(王氏)の一族であること」を理由に投獄させ崖州へ流罪とした後、死亡させる。 垂拱元年(685年)、春正月1日(丁未):則天武后は天下に恩赦を行い元号を「垂拱」と改めた。徐思文が忠義を示したことを評価し特別に連座刑を免除するとともに司僕少卿へ任命した。 解説:■歴史的背景
■人物動向
■制度考察
■社会影響
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| 謂曰:「敬業改卿姓武,朕今不復奪也。」 庚戌,以騫味道守內史。 戊辰,文昌左相、同鳳閣鸞台三品樂城文獻公劉仁軌薨。 二月,癸未,制:「朝堂所置登聞鼓及肺石,不須防守,有撾鼓立石者,令御史受狀以聞。」 乙巳,以春官尚書武承嗣、秋官尚書裴居道、右肅政大夫韋思謙並同鳳閣鸞台三品。 突厥阿史那骨篤祿等數寇邊;以左玉鈐衛中郎將淳於處平為陽曲道行軍總管,擊之。 正諫大夫、同平章事沈君諒罷。 三月,正諫大夫、同平章事崔察罷。 丙辰,遷廬陵王於房州。 辛酉,武承嗣罷。 辛未,頒《垂拱格》。 朝士有左遷詣宰相自訴者,內史騫味道曰:「此太后處分。」同中書門下三品劉禕之曰:「緣坐改官,由臣下奏請。」太后聞之,夏,四月,丙子,貶味道為青州刺史,加禕之太中大夫。謂侍臣曰:「君臣同體,豈得歸惡於君,引善自取乎!」 癸未,突厥寇代州;淳於處平引兵救之,至忻州,為突厥所敗,死者五千餘人。 五月,丙午,以裴居道為內史。納言王德真流象州。 己酉,以冬官尚書蘇良嗣為納言。 壬戌,制內外九品以上及百姓,咸令自舉。 壬申,韋方質同鳳閣鸞台三品。 六月,天官尚書韋待價同鳳閣鸞台三品。待價,萬石之兄也。 同羅、僕固等諸部叛;遣左豹韜衛將軍劉敬同發河西騎士出居延海以討之,同羅、僕固等皆敗散。 |
現代日本語訳(則天武后が李思文に)言った。「徐敬業はお前の姓を武氏に改めさせたが、朕は今さら変えさせぬ。」 庚戌の日、騫味道を内史に任命した。 戊辰の日、文昌左相・同鳳閣鸞台三品であった楽城文献公劉仁軌が逝去した。 二月癸未の日、詔勅が出された。「宮廷前に設置されている登聞鼓(直訴用の太鼓)と肺石(冤罪申告用の赤い石)には守衛を置かず、打ち鳴らす者や立つ者がいたら、御史に申し立てを受けさせ奏上せよ。」 乙巳の日、春官尚書武承嗣・秋官尚書裴居道・右粛政大夫韋思謙をいずれも同鳳閣鸞台三品とした。 突厥の阿史那骨篤祿らがたびたび国境を侵犯したため、左玉鈐衛中郎将淳於処平を陽曲道行軍総管に任じて討伐に向かわせた。 正諫大夫・同平章事沈君諒が罷免された。 三月、正諫大夫・同平章事崔察が罷免された。 丙辰の日、廬陵王(中宗)を房州へ移した。 辛酉の日、武承嗣が罷免された。 辛未の日、「垂拱格」(律令施行細則)を公布した。 左遷され宰相に抗議に行った官僚に対し、内史騫味道は「これは太后様のご決定だ」と言い、同中書門下三品劉禕之は「連座による人事異動で、臣下が奏上しました」と答えた。則天武后はこれを聞き、夏四月丙子の日、騫味道を青州刺史に左遷し、劉禕之には太中大夫の位を加えた。(その後)侍臣たちに向かって言った。「君臣は一体であるのに、どうして君主に過失を帰させて自らは美徳を取るようなことがあろうか!」 癸未の日、突厥が代州を侵略。淳於処平が救援軍を率いたが忻州で敗れ、五千人余りが戦死した。 五月丙午の日、裴居道を内史に任命し、納言王徳真は象州へ流罪とした。 己酉の日、冬官尚書蘇良嗣を納言とする。 壬戌の日、詔勅で内外の九品以上の官吏および庶民に対し、全員が自己推薦できる制度を定めた。 壬申の日、韋方質を同鳳閣鸞台三品とした。 六月、天官尚書韋待価が同鳳閣鸞台三品となった(待価は万石の兄)。 同羅・僕固ら諸部族が反乱したため、左豹韜衛将軍劉敬同を派遣し河西騎兵を率いて居延海から討伐させた。同羅・僕固らは敗走した。 解説
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| 敕僑置安北都護府於同城以納降者。 秋,七月,己酉,以文昌左丞魏玄同為鸞台侍郎、同鳳閣鸞台三品。詔自今祀天地,高祖、太宗、高宗皆配坐;用鳳閣舍人元萬頃等之議也。 九月,丁卯,廣州都督王果討反獠,平之。 冬,十一月,癸卯,命天官尚書韋待價為燕然道行軍大總管,以討突厥。初,西突厥興昔亡、繼往絕可汗既死,十姓無主,部落多散亡,太后乃擢興昔亡之子左豹韜衛翊府中郎將元慶為左玉鈐衛將軍,兼崑陵都護,襲興昔亡可汗押出咄陸部落。 麟台正字射洪陳子昂上疏,以為:「朝廷遣使巡察四方,不可任非其人,及刺史、縣令,不可不擇。比年百姓疲於軍旅,不可不安。」其略曰:「夫使不擇人,則黜陡不明,刑罰不中,朋黨者進,貞直者退;徒使百姓修飾道路,送往迎來,無所益也。諺曰:『欲知其人,觀其所使。』不可不慎也。」又曰:「宰相,陛下之腹心;刺史、縣令,陛下之手足;未有無腹心手足而能獨理者也。」又曰:「天下有危機,禍福因之而生,機靜則有福,機動則有祝,百姓是也。百姓安則樂其生,不安則輕其死,輕其死則無所不至,祆逆乘釁,天下亂矣!」又曰:「隋煬帝不知天下有危機,而信貪佞之臣,冀收夷狄之利,卒以滅亡,其為殷鑒,豈不大哉!」 太后修故白馬寺,以僧懷義為寺主。懷義,鄠人,本姓馮,名小寶,賣藥洛陽市,因千金公主以進,得幸於太后;太后欲令出入禁中,乃度為僧,名懷義。 |
現代日本語訳朝廷は同城に安北都護府を臨時に設置し、降伏者を受け入れるように命じた。 秋七月己酉の日、文昌左丞魏玄同を鸞台侍郎・同鳳閣鸞台三品に任命した。詔勅が下され「今後は天地祭祀において高祖(李淵)・太宗(李世民)・高宗(李治)の三位を全て配祀する」と定めた。これは鳳閣舍人元万頃らの建議によるものである。 九月丁卯の日、広州都督王果が反乱した獠族を討伐し平定した。 冬十一月癸卯の日、天官尚書韋待價を燕然道行軍大総管に任命して突厥征討に向かわせた。当初、西突厥の興昔亡可汗と継往絶可汗が相次いで死去すると、十姓部族は統率者を失い諸部落が離散したため、則天武后は興昔亡可汗の子である左豹韜衛翊府中郎将元慶を抜擢し、左玉鈐衛將軍兼崑陵都護に任じ、父の興昔亡可汗の爵位を継承させて咄陸部落を統率させた。 麟台正字(文官)射洪出身の陳子昂が上疏して述べた。「朝廷が使者を巡察させる場合は人選を誤ってはならず、刺史・県令の任命も慎重であるべきだ。近年民衆は軍役に疲弊しているため安定策が必要である」と。その要旨は以下の通り:「使者の人選を誤れば昇進制度が乱れ刑罰が不当となり、徒党を組む者が重用され忠実な者が退けられる。これでは民衆が道路整備や接待で苦労するだけで何の利益もない。諺に『人を見たければその使いぶりを見よ』とある。まことに慎重であるべきだ」「宰相は陛下の腹心、刺史・県令は手足である。腹心や手足を欠いた者が単独で統治できるはずがない」「天下には危機(転機)が存在し禍福はこれに連動する。その機が静かならば福となり、動けば災いとなる-それが民衆だ。安住すれば生を楽しみ、不安定になれば死をも軽んじるようになる。生死を軽視した者には手の付けられない暴挙に出るため、凶事が隙に乗じて天下は乱れる」「隋の煬帝はこの危機を知らず、貪欲な佞臣を信じて夷狄からの利益を得ようとした結果滅亡した。これは重大な教訓ではないか」。 則天武后は古い白馬寺を修復し僧・懐義を住職に任命した。懐義(俗名馮小寶)は鄠県出身の元薬売りで、千金公主の紹介により太后の寵愛を得た。宮中への出入りの便を図るため出家させ「懐義」と名乗らせた。 解説
※本訳では『資治通鑑』胡三省注を参照しつつ、現代日本語読解の便宜を図るため以下の処理を施した: - 干支日付は「己酉の日」等と表記 - 官職名は可能な限り現行の歴史用語に統一(例:鸞台侍郎→侍中相当) - 「黜陡不明」(原文)のような難読表現は意訳を優先 Translation took 847.2 seconds. |
| 又以其家寒微,令與駙馬都尉薛紹合族,命紹以季父事之。出入乘御馬,宦者十餘人侍從,士民遇之者皆奔避,有近之者,輒撾其首流血,委之而去,任其生死。見道士則極意毆之,仍髡其發而去。朝貴皆匍匐禮謁,武承嗣、武三思皆執僮僕之禮以事之,為之執轡,懷義視之若無人。多聚無賴少年,度為僧,縱橫犯法,人莫敢言。右台御史馮思勖屢以法繩之,懷義遇思勖於途,令從者毆之,幾死。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝下垂拱二年(丙戌,公元六八六年) 春,正月,太后下詔復政於皇帝。睿宗知太后非誠心,奉表固讓;太后復臨朝稱制。辛酉,赦天下。 二月,辛未朔,日有食之。 右衛大將軍李孝逸既克徐敬業,聲望甚重;武承嗣等惡之,數譖於太后,左遷施州刺史。 三月,戊申,太后命鑄銅為匭,置之朝堂,以受天下表疏銘。其東曰「延恩」,獻賦頌、求仕進者投之;南曰:「招諫」,言朝政得失者投之;西曰:「伸冤」,有冤抑者投之;北曰:「通玄」,言天象災變及軍機秘計者投之。命正諫、補闕、拾遺一人掌之,先責識官,乃聽投表疏。 徐敬業之反也,侍御史魚承曄之子保家教敬業作刀車及弩,敬業敗,僅得免。太后欲周知人間事,保家上書,請鑄銅為匭以受天下密奏。其器共為一室,中有四隔,上各有竅,以受表疏。可入不可出。 |
訳文また、彼の家柄が卑賤であることを理由に、駙馬都尉・薛紹と同族とするよう命じ、薛紹には叔父として仕えるよう指示した。外出時は皇帝専用の馬車を用い、十人以上の宦官が従った。出会った官吏や民衆は皆逃げ隠れし、近づく者がいれば即座に頭を殴打して流血させ、そのまま放置して生死を顧みなかった。道士を見つけると執拗に暴行を加え、髪を剃り落として追放した。朝廷の高官たちは平伏して拝謁し、武承嗣や武三思さえも童僕のような礼儀で仕え、手綱を取って車を引いたが、懐義は彼らを全く眼中に置かなかった。 無頼の若者を多数集めて僧籍に入れ、好き勝手に法を犯させたが、誰も糾弾できなかった。右台御史・馮思勖が度々法令で制裁しようとしたところ、懐義は路上で彼を見つけると従者に暴行を命じ、瀕死の重傷を負わせた。 高宗天皇大聖大弘孝皇帝(治世下)垂拱二年(丙戌、西暦686年) 春正月、則天武后が詔を下し政権を皇帝(睿宗)に返還。しかし睿宗は太后の本心でないことを察知し、上表して固辞したため、太后は再び臨朝称制した。辛酉の日、大赦を行った。 二月辛未朔(1日)、日食が発生。 右衛大将軍・李孝逸は徐敬業討伐後、声望を高めたために武承嗣らに憎まれ、再三太后へ讒言された末、施州刺史へ左遷された。 三月戊申、太后は銅製の投書箱(匭)を作り朝廷に設置。天下からの上奏文を受け付けるためである。東側は「延恩」と称し詩賦や官職希望者の投稿を、南側「招諫」は政治批判を、西側「伸冤」は冤罪の訴えを、北側「通玄」は天変地異や軍事機密に関する報告を受付けた。正諫・補闕・拾遺各1名が管理し、まず身分証明を確認した上で投函を許可した。 徐敬業の反乱時、侍御史・魚承曄の子である保家が敬業に刀車や弩の製作法を教えたが、敬業敗北後かろうじて赦免された。太后が世情把握を望んだため、保家は銅匭設置による密奏受付を上奏した。箱は一室四区画で各上部に投函口があり、書簡は投入のみで取出不能とされた。 解説
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| 太后善之。未幾,其怨家投匭告保家為敬業作兵器,殺傷官軍甚眾,遂伏誅。 太后自徐敬業之反,疑天下人多圖己,又自以久專國事,且內行不正,知宗室大臣怨望,心不服,欲大誅殺以威之。乃盛開告密之門,有告密者,臣下不得問,皆給驛馬,供五品食,使詣行在。雖農夫樵人,皆得召見,廩於客館,所言或稱旨,則不次除官,無實者不問。於是四方告密者蜂起,人皆重足屏息。 有胡人索元禮,知太后意,因告密召見,擢為游擊將軍,令案制獄。元禮性殘忍,推一人必令引數十百人,太后數召見賞賜以張其權。於是尚書都事長安周興、萬年人來俊臣之徒效之,紛紛繼起。興累遷至秋官侍郎,俊臣累遷至御史中丞,相與私畜無賴數百人,專以告密為事;欲陷一人,輒令數處俱告,事狀如一。俊臣與司刑評事洛陽萬國俊共撰《羅織經》數千言,教其徒網羅無辜,織成反狀,構造佈置,皆有支節。太后得告密者,輒令元禮等推之,競為訊囚酷法,作大枷,有「定百脈」、「突地吼」、「死豬愁」、「求破家」、「反是實」等名號,或以椽關手足而轉之,謂之「鳳皇曬翅」;或以物絆其腰,引枷向前,謂之「驢駒拔撅」;或使跪捧枷,累甓其上,謂之「仙人獻果」;或使立高木之上,引枷尾向後,謂之「玉女登梯」;或倒懸石縋其首,或以醋灌鼻,或以鐵圈轂其首而加楔,至有腦裂髓出者。 |
現代日本語訳太后(則天武后)はこの措置を評価した。ほどなく、彼女への恨みを持つ者が密告箱に投書し、「保家が徐敬業のために武器を作り、多数の官軍を殺傷した」と告発したため、保家は処刑された。 太后は徐敬業の反乱以来、天下の人々がこぞって自分を倒そうと企てているのではないかと疑い始めた。また自ら長期にわたり国政を専断し、かつ私生活にも問題があったため、皇族や大臣たちが怨み心を持ち内心従っていないことを承知していた。そこで大規模な粛清を行って威嚇しようと考えた。 こうして密告の門戸を大きく開放した。密告する者は誰でも取り調べられず、宿駅の馬を与えられ五品官相当の食事を供され、行宮へ赴くことが許された。農夫や樵(きこり)でさえも召見されて賓客用宿舎に滞在させられた。進言が太后の意に叶えば格別の抜擢があり、事実無根でも咎められなかった。 これにより全国から密告者が蜂起し、人々は足を重ね息を潜めて暮らすようになった。 胡人の索元礼(さくげんれい)が太后の意向を察知すると、積極的に密告して召見され遊撃将軍に抜擢された。詔獄(皇帝直属監獄)を取り締まる役目を与えられた彼は残忍な性格で、一人を推問する際には必ず数十人から百人もの者を巻き込ませた。太后は繰り返し彼を召見して褒賞を与え権勢を誇示させた。 これを見て尚書都事の周興(長安出身)や来俊臣(万年県出身)らが追随し、続々と台頭した。周興は秋官侍郎に昇進し、来俊臣は御史中丞となり、私的に数百人のならず者を抱え込み密告専門集団を組織した。 特定の人物を陥れようとする時には複数の場所で同時に全く同じ内容の告発を行わせた。来俊臣は司刑評事・万国俊(洛陽出身)と共に数千字から成る『羅織経』(無実の人々を罪に陥れるマニュアル本)を作成し、配下に対して次の方法を伝授した:無辜の者を網にかけ謀反の証拠を捏造する手順や段取りは、こと細かに組み立てられていた。 太后が密告情報を得るたびに索元礼らに推問させると、彼らは囚人を取り調べる残酷な手法を競い合った。「定百脈」「突地吼」「死猪愁」「求破家」「反是実」などと名付けられた巨大枷(首かせ)を作り出した。 その他にも檻で手足を固定して回転させる「鳳凰曬翅(ほうおうがいし)」、腰に重りをつけ枷を前方へ引っ張る「驢駒抜撅(ろくばつけつ)」、跪いて枷を持たせ上から瓦を積む「仙人献果」、高木の上に立たせて枷尾を後方へ引き倒す「玉女登梯」などが考案された。 さらには逆さ吊りにして頭部に石錘をつるし、鼻穴に酢を流し込み、鉄輪で頭部を締め付け楔(くさび)を打ち込む方法もあり、脳髄が飛び出して死者が出ることすらあった。 解説
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| 每得囚,輒先陳其械具以示之,皆戰慄流汗,望風自誣。每有赦令,俊臣輒令獄卒先殺重囚,然後宣示。太后以為忠,益寵任之。中外畏此數人,甚於虎狼。 麟台正字陳子昂上疏,以為:「執事者疾徐敬業首亂唱禍,將息奸源,究其黨與,遂使陛下大開詔獄,重設嚴刑,有跡涉嫌疑,辭相逮引,莫不窮捕考按。至有奸人熒惑,乘險相誣,糾告疑似,冀圖爵賞,恐非伐罪吊人之意也。臣竊觀當今天下,百姓思安久矣,故揚州構逆,殆有五旬,而海內晏然,纖塵不動,陛下不務玄默以救疲人,而反任威刑以失其望,臣愚闇昧,竊有大惑。伏見諸方告密,囚累百千輩,乃其究竟,百無一實。陛下仁恕,又屈法容之,遂使奸惡之黨快意相仇,睚眥之嫌即稱有密,一人被訟,百人滿獄,使者推捕,冠蓋如市。或謂陛下愛一人而害百人,天下喁喁,莫知寧所。臣聞隋之末代,天下猶平,楊玄感作亂,不逾月而敗。天下之弊,未至土崩,蒸人之心,猶望樂業。煬帝不悟,遂使兵部尚書樊子蓋專行屠戮,大窮黨與,海內豪士,無不罹殃;遂至殺人如麻,流血成澤,天下靡然,始思為亂,於是雄傑並起而隋族亡矣。夫大獄一起,不能無濫,冤人吁嗟,感傷和氣,群生癘疫,水旱隨之。人既失業,則禍亂之心怵然而生矣。古者明王重慎刑法,蓋懼此也。昔漢武帝時巫蠱獄起,使太子奔走,兵交宮闕,無辜被害者以千萬數,宗廟幾覆,賴武帝得壺關三老書,廓然感悟,夷江充三族,餘獄不論,天下以安爾。 |
現代日本語訳:囚人を捕らえるたびに、まず刑具を見せつけると、皆震え上がり汗を流し、風の便りだけで自ら罪を認めてしまう。恩赦が発令される際には、来俊臣は獄吏に命じて重罪犯を先に殺害させてから詔書を公布した。則天武后は彼を忠義と見なし、ますます寵愛して重用した。朝廷内外ではこの数名の者(酷吏たち)を虎狼よりも恐れた。 麟台正字(図書館管理官)陳子昂が上疏し次のように述べた:「役人らは徐敬業が最初に反乱を起こしたことを憎み、悪の根源を絶やそうとその一味を追求するあまり、陛下は詔獄(皇帝直轄の監獄)を拡大し厳刑を強化されました。少しでも嫌疑があれば言葉尻を取り上げられ、徹底的に逮捕・拷問されています。中には奸人が人心を惑わして虚偽の告発を行い、疑わしい者を糾弾することで爵位と恩賞を得ようとする者もおり、罪人を討ち民を憐れむという本来の意図に反しているのです。臣が考えるに、天下の民はかねてより安定を望んでおります。揚州で叛乱があっても五十日足らずで国内は平穏でありましたのに、陛下は静謐をもって疲弊した民衆を救うことなく、威圧的刑罰を用いることで民心を失われようとしています。 各地の密告事件を見ると、捕らえられた囚人は数百人から千人に及びますが、実際に罪がある者は百人に一人もいません。陛下は仁恕であられ法律を曲げて彼ら(密告者)を許すため、奸悪な輩が好き放題に対立相手へ復讐し、些細な恨みで『謀反の証拠あり』と訴える有様です。一人が告訴されれば百人が獄に満ち、役人の捕縛隊は街を行き交い市場のように賑わっている。これでは『陛下が一人を愛するあまり百人を害している』との非難を受け、天下の民は不安に陥っております。 隋末は世情まだ平穏でありながら楊玄感が叛乱しても一月で鎮圧されました。(当時)国家崩壊寸前ではなかったのです。それでも煬帝が民心を悟らず兵部尚書樊子蓋に虐殺を委ねた結果、罪のない者まで巻き込み流血は沼と化し、天下人が叛乱を企てるようになったことで隋朝は滅びました。 大規模な獄訟(弾圧)には必ず過ちが伴い、冤罪者の嘆きが天地の気を乱せば疫病や天災が続く。民衆が生業を失う時こそ禍乱の心が芽生えるのです。古代の明君は刑罰運用に慎重だったのはこのためです。漢武帝も巫蠱の獄事件で皇太子を逃亡させ無実の犠牲者を出しましたが、壺関三老(賢人)の上書を得て江充一族を誅殺したことで天下は安寧を取り戻しました」 解説:
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| 古人云:『前事之不忘,後事之師。』伏願陛下念之!」太后不聽。 夏,四月,太后鑄大儀,置北闕。 以岑長倩為內史。六月,辛未,以蘇良嗣為左相,同鳳閣鸞台三品韋待價為右相。己卯,以韋思謙為納言。 蘇良嗣遇僧懷義於朝堂,懷義偃蹇不為禮;良嗣大怒,命左右捽曳,批其頰數十。懷義訴於太后,太后曰:「阿師當於北門出入,南牙宰相所往來,勿犯也。」 太后託言懷義有巧思,故使入禁營造。補闕長社王求禮上表,以為:「太宗時,有羅黑黑善彈琵琶,太宗閹為給使,使教宮人。陛下若以懷義有巧性,欲宮中驅使者,臣請閹之,庶不亂宮闈。」表寢不出。 秋,九月,丁未,以西突闕繼往絕可汗之子斛瑟羅為右玉鈐衛將軍,襲繼往絕可汗押五弩失畢部落。 己巳,雍州言新豐縣東南有山踴出,改新豐為慶山縣。四方畢賀。江陵人俞文俊上書:「天氣不和而寒暑並,人氣不和而疣贅生,地氣不和而堆阜出。今陛下以女主處陽位,反易剛柔,故地氣塞隔而山變為災。陛下謂之『慶山」,臣以為非慶也。臣愚以為宜側身修德以答天譴;不然,殃禍至矣!」太后怒,流於嶺外,後為六道使所殺。 突厥入寇,左鷹揚衛大將軍黑齒常之拒之;至兩井,遇突厥三千餘人,見唐兵,皆下馬擐甲,常之以二百餘騎沖之,皆棄甲走。日暮,突厥大至,常之令營中燃火,東南又有火起,虜疑有兵相應,遂夜遁。 |
現代日本語訳:古人はこう言った。「過去の出来事を忘れなければ、それは将来の教訓となる」。どうか陛下にはこの言葉を心に留めていただきたい。」しかし則天武后は聞き入れなかった。 同年夏四月、武后は巨大な「大儀」という銅柱を鋳造し、宮城北門に設置した。岑長倩を内史(中書令に相当)に任命。六月辛未の日、蘇良嗣を左相(尚書左僕射)、同鳳閣鸞台三品の韋待価を右相(尚書右僕射)に任じる。己卯の日には韋思謙を納言(侍中)とした。 ある時、蘇良嗣が朝廷で僧・薛懐義に出会うと、彼は傲慢にも礼を尽くさなかった。激怒した蘇良嗣は側近らに命じて薛懐義を引き倒し、数十回頬を打たせた。太后に訴えた薛懐義に対し、武后は言った。「阿師(僧侶の尊称)は北門から出入りすべきだ。南衙には宰相たちが往来するのだから、近づいてはいけない」。 武后は「薛懐義に精巧な技量がある」と称して宮中での建造を許していた。補闕(諫官)の王求礼が上奏した。「太宗皇帝の時代、琵琶の名手・羅黒黑を去勢させて後宮奉公とし、宮女たちへ教習させました。陛下もし薛懐義の技量をお望みなら、臣は彼を去勢することを提案します。これにより後宮の秩序が乱れることはないでしょう」。この上奏文は黙殺された。 秋九月丁未の日、西突厥の阿史那斛瑟羅(継往絶可汗の子)を右玉鈐衛将軍に任じ、「継往絶可汗」を襲名させて五弩失畢部族を統率させる。 己巳の日、雍州が新豊県東南で地面から山が隆起したと報告。則天武后は地名を慶山県と改め、天下に祝賀を命じた。これに対し江陵出身の俞文俊が上書する。「気候不順なら寒暑が同時に起こり、人体不調なら腫瘍が生じ、地脈乱れれば丘陵が突出します。今、女帝である陛下が陽(男性)の地位につき、剛柔を逆転させたため地気が塞がれて山変災害となったのです。『慶(めでたい)山』などと呼ぶべきではなく、謹んで自らを律し天譴に応えるべきです。さもなければ禍いが訪れましょう」。激怒した武后は彼を嶺南へ流罪とし、後に六道使によって殺害された。 突厥軍が侵攻すると、左鷹揚衛大将軍・黒歯常之が迎撃。両井に至り三千余騎の敵兵と遭遇するも、唐軍を見た途端に全員が馬から降りて甲冑を着る混乱ぶりだった。黒歯常之は二百騎で突撃し散々に打ち破った。日暮れ時になって突厥大軍が押し寄せると、彼は陣中にかがり火を焚かせた上、東南方にも偽の烽火を上げさせた。敵兵は伏兵と勘違いして夜陰に乗じて撤退した。 解説:
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| 狄仁傑為寧州刺史。右台監察御史晉陵郭翰巡察隴右,所至多所按劾,入寧州境,耆老歌刺史德美者盈路;翰薦之於朝,征為冬官侍郎。 |
現代日本語訳狄仁傑は寧州刺史を務めていた。右台監察御史である晋陵出身の郭翰が隴右地方を巡察した際、訪れる先々で多くの不正を摘発していたが、寧州の地境に入ると、年老いた者たちが刺史(狄仁傑)の徳政と善行を称える歌を道いっぱいに溢れて詠っていた。郭翰はこのことを朝廷に上奏し、彼(狄仁傑)を冬官侍郎として召し上げた。 解説
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| input text 資治通鑑\204_唐紀_20.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百四 唐紀二十 起強圉大淵獻,盡重光單閼,凡五年。 則天順聖皇后上之下垂拱三年(丁亥,公元六八七年) 春,閏正月,丁卯,封皇子成美為恆王,隆基為楚王,隆范為衛王,隆業為趙王。 二月,丙辰,突厥骨篤祿等寇昌平,命左鷹揚大將軍黑齒常之帥諸軍討之。 三月,乙丑,納言韋思謙以太中大夫致仕。 夏,四月,命蘇良嗣留守西京。時尚方監裴匪躬檢校京苑,將鬻苑中蔬果以收其利。良嗣曰:「昔公儀休相魯,猶能拔葵、去織婦,未聞萬乘之主鬻蔬果也。」乃止。 壬戌,裴居道為納言。五月,丙寅,夏官侍郎京兆張光輔為鳳閣侍郎、同平章事。 鳳閣侍郎、同鳳閣鸞台三品劉禕之竊謂鳳閣舍人永年賈大隱曰:「太后既廢昏立明,安用臨朝稱制!不如返政,以安天下之心。」大隱密奏之,太后不悅,謂左右曰:「禕之我所引,乃復叛我!」或誣禕之受歸誠州都督孫萬榮金,又與許敬宗妾有私,太后命肅州刺史王本立推之。本立宣敕示之,禕之曰:「不經鳳閣鸞台,何名為敕!」太后大怒,以為拒捍制使;庚午,賜死於家。禕之初下獄,睿宗為之上疏申理,親友皆賀之,禕之曰:「經乃所以速吾死也。」臨刑,沐浴,神色自若,自草謝表,立成數紙。麟台郎郭翰、太子文學周思均稱歎其文。太后聞之,左遷翰巫州司法,思鈞播州司倉。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百四 唐紀二十 則天順聖皇后(上)下部 垂拱三年(丁亥、西暦687年) 春、閏正月丁卯、皇子成美を恒王に、隆基を楚王に、隆范を衛王に、隆業を趙王に封じる。 二月丙辰、突厥の骨篤祿らが昌平を侵略。左鷹揚大将軍・黒歯常之に諸軍を率いて討伐させる。 三月乙丑、納言(侍中)韋思謙が太中大夫として退官する。 夏四月、蘇良嗣を西京留守に任命。当時、尚方監の裴匪躬が宮廷庭園を検査し、園内の野菜や果物を売却して利益を得ようとした。良嗣は「昔、公儀休が魯の宰相だったときでさえ葵菜を抜き機織りの女を追放した(私利追求を戒めた話)。まして万乗の君主たる者が野菜果物を売買するなど聞いたことがない」と諫め、計画を中止させた。 壬戌、裴居道を納言に任命。五月丙寅、夏官侍郎・京兆出身の張光輔を鳳閣侍郎(中書省次官)兼同平章事(宰相職)とする。 鳳閣侍郎で同鳳閣鸞台三品の劉禕之が密かに鳳閣舎人の永年出身者賈大隠に語る:「太后はすでに暗愚な皇帝を廃し英明な帝を立てた。なぜなお摂政として称制(詔勅発布)する必要があるのか? 政権を返上すべきだ、そうすれば天下の人心も安まる」。大隠が密告したため太后は不悦となり側近に言う:「禕之は私が引き立てた者なのに、裏切るとは!」。さらに劉禕之に対する讒言(帰誠州都督・孫万栄からの賄収容疑と許敬宗の妾との密通)を理由に、太后は粛州刺史王本立に取り調べさせた。本立が詔勅を示すと、禕之は「鳳閣鸞台(中書門下省)を通さない文書など詔勅とは言えない」と反論したため、太后は激怒し「制使への反抗」の罪状で庚午の日、自宅での死を賜う。 禕之が投獄されたとき睿宗(名目上の皇帝)が上奏して冤罪を訴えたため親友らが祝賀すると、禕之は嘆息して言った「その行動こそ私の死期を早めるのだ」。刑に臨む際には沐浴し平静な様子で自筆の謝恩表(諷刺を含む)を一気に数枚書き上げた。麟台郎・郭翰と太子文学・周思均が文才を称賛したため、太后はこれを聞きつけ郭翰を巫州司法へ左遷し、周思鈞を播州司倉へ降格させた。 解説
※唐代官職名は現代の役職に相当する表現で訳出し、歴史上の地名・部族名は現行表記を用いた。 Translation took 1685.8 seconds. |
| 秋,七月,壬辰,魏玄同檢校納言。 嶺南俚戶舊輸半課,交趾都護劉延祐使之全輸,俚戶不從,延祐誅其魁首。其黨李思慎等作亂,攻破安南府城,殺延祐。桂州司馬曹玄靜將兵討思慎等,斬之。 突厥骨篤祿、元珍寇朔州;遣燕然道大總管黑齒常之擊之,以右鷹揚大將軍李多祚為之副,大破突厥於黃花堆,追奔四十餘里,突厥皆散走磧北。多祚世為靺鞨酋長,以軍功得入宿衛。黑齒常之每得賞賜,皆分將士;有善馬為軍士所損,官屬請笞之,常之曰:「奈何以私馬笞官兵乎!」卒不問。 九月,己卯,虢州人楊初成詐稱郎將,矯制於都市募人迎廬陵王於房州;事覺,伏誅。 冬,十月,庚子,右監門衛中郎將爨寶璧與突厥骨篤祿、元珍戰,全軍皆沒,寶璧輕騎遁歸。 寶璧見黑齒常之有功,表請窮追餘寇。詔與常之計議,遙為聲援。寶璧欲專其功,不待常之,引精兵萬三千人先行,出塞二千餘里,掩擊其部落;既至,又先遣人告之,使得嚴備,與戰,遂敗。太后誅寶璧;改骨篤祿曰不卒祿。 命魏玄同留守西京。 武承嗣又使人誣李孝逸自云「名中有兔,兔,月中物,當有天分。」太后以孝逸有功,十一月,戊寅,減死除名,流儋州而卒。 太后欲遣韋待價將兵擊吐蕃,鳳閣侍郎韋方質奏,請如舊制遣御史監軍。太后曰:「古者名君遣將,閫外之事悉以委之。 |
現代日本語訳:秋七月壬辰の日、魏玄同が納言(諫官)を兼任した。 嶺南地方の俚族は従来、税の半額のみを納めていたが、交趾都護・劉延祐が全額納付を命じた。これに反発した俚族に対し、劉延祐は首謀者を処刑したため、配下の李思慎らが反乱を起こして安南府城を陥落させ、劉延祐を殺害した。桂州司馬・曹玄静が軍勢を率いて李思慎らを討伐し、これを斬首した。 突厥の骨篤祿(クトゥルク)と元珍が朔州に侵攻すると、朝廷は燕然道行軍大総管・黒歯常之に迎撃させ、右鷹揚大将軍・李多祚を副将とした。両将は黄華堆で突厥軍を壊滅させ、四十余里にわたり追撃して漠北へ敗走させた。李多祚は代々靺鞨族の酋長であったが、軍功により禁衛軍に入った。黒歯常之は恩賞を得るたび将士と分かち合い、愛馬を兵士に傷つけられた際も「私馬のために官兵を罰するわけにはいかない」と部下の処罰を拒んだ。 九月己卯の日、虢州出身の楊初成が郎将(近衛将校)を詐称し、偽詔で都において募兵して房州にいた廬陵王(中宗)を迎え入れようとした。発覚後、処刑された。 冬十月庚子の日、右監門衛中郎将・爨宝璧が突厥の骨篤祿らと交戦したが、全軍壊滅し単騎で敗走した。 爨宝璧は黒歯常之の成功を見て「残敵を追討せよ」と上奏。詔勅では黒歯常之と連携するよう命じられたが、彼は独断で精鋭一万三千を率いて二千余里も塞外に進出し突厥部落を急襲した。到着後わざわざ開戦通告したため敵軍に準備の暇を与え、大敗を喫した。則天武后は爨宝璧を処刑し、骨篤祿を「不卒禄(滅びよと呪う名)」と改名させた。 魏玄同が西京(長安)留守を命じられる。 一方、武承嗣が李孝逸に「名に'兔(兎)'の字あり。兎は月の精だから天命がある」との発言を誣告したため、則天武后は彼の功績を考慮して死罪を免除し除名の上で儋州へ流刑としたが、到着後死亡した。 則天武后が韋待价に吐蕃征伐を命じようとした際、鳳閣侍郎・韋方質が「旧制通り監軍御史を派遣すべき」と奏上すると、太后は反論した。「昔の名君は将軍に外事を一任したものだ」 解説:
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| 比聞御史監軍,軍中事無大小皆須承稟。以下制上,非令典也;且何以責其有功!」遂罷之。 是歲,天下大饑,山東、關內尤甚。 則天順聖皇后上之下垂拱四年(戊子,公元六八八年) 春,正月,甲子,於神都立高祖、太宗、高宗三廟,四時享祀如西廟之儀。又立崇先廟以享武氏祖考。太后命有司議崇先廟室數,司禮博士周悰請為七室,又減唐太廟為五室。春官侍郎賈大隱奏:「禮,天子七廟,諸侯五廟,百王不易之義。今周悰別引浮議,廣異述文,直崇臨朝權儀,不依國家常度。皇太后親承顧托,光顯大猷,其崇先廟室應如諸侯之數,國家宗廟不應輒有變移。」太后乃止。 太宗、高宗之世,屢欲立明堂,諸儒議其制度,不決而止。及太后稱制,獨與北門學士議其制,不問諸儒。諸儒以為明堂當在國陽丙己之地,三里之外,七里之內。太后以為去宮太遠。二月,庚午,毀乾元殿,於其地作明堂,以僧懷義為之使,凡役數萬人。 夏,四月,戊戌,殺太子通事舍人郝象賢。像賢,處俊之孫也。 初,太后有憾於處俊,會奴誣告象賢反,太后命周興鞫之,致象賢族罪。像賢家人詣朝堂,訟冤於監察御史樂安任玄殖。玄殖奏象賢無反狀,玄殖坐免官。像賢臨刑,極口罵太后,發揚宮中隱慝,奪市人柴以擊刑者;金吾兵共格殺之。太后命支解其屍,發其父祖墳,毀棺焚屍。 |
現代日本語訳:かつて武則天は、「監察御史が軍中で大小の事柄すべてに対して承認を得なければならないと聞いた。下位者が上位者を制するのは正規の制度ではない。どうして功績を期待できようか」と言い、この制度を廃止した。 同年(688年)、全国的に大規模な飢饉が発生し、山東地方と関内地域は特に深刻であった。 則天武后 垂拱四年(戊子の年、西暦688年) 春正月甲子の日、神都(洛陽)に高祖・太宗・高宗を祀る三つの廟を建立し、四季の祭祀は長安にある宗廟と同様の儀礼で執り行った。さらに崇先廟を建て武氏の祖先を祀らせた。太后が役人に崇先廟の規模について議論させると、司礼博士周悰が「七室とするべきだ」と主張し、同時に唐王朝の宗廟を五室へ縮小するよう提案した。これに対し春官侍郎賈大隱は上奏して反論した: 「礼制では天子は七廟、諸侯は五廟と定められており、これは万世変わらぬ原則です。周悰が根拠のない議論を持ち出して特異な解釈を広め、単に臨朝称制中の権威のみを崇めるのは国家の法度に背きます。皇太后は先帝より政務を託され光輝ある統治を示されていますが、武氏宗廟の規模は諸侯並みとすべきであり、唐王室の宗廟を軽率に変更してはなりません」 この諫言により太后は提案を取りやめた。 太宗・高宗の時代には幾度も明堂(祭祀施設)建設が議論されたものの儒学者らによる規制論争で結論が出ず頓挫していた。しかし太后が称制すると北門学士のみと協議して計画を進め、従来の儒者たちは全く関与させなかった。儒者側は「明堂は都城南東(丙己の方角)に位置し、三里以上七里以内にあるべき」とする伝統説を唱えたが、太后には宮中から離れすぎていると判断された。 二月庚午の日、乾元殿を取り壊してその跡地に明堂建設を開始。僧・薛懐義(武則天寵臣)を責任者とし、数万の人夫を動員した。 夏四月戊戌の日、太子通事舍人郝象賢が処刑された。彼は高宗時代に武后批判で知られた郝処俊の孫にあたる。 元来太后は郝処俊に対して遺恨を持っており、下僕の虚偽告発を契機として「郝象賢謀反」と断罪した。酷吏・周興による取り調べで一族皆殺しが確定すると、郝家側が監察御史任玄殖に冤罪を訴えたものの、逆に任玄殖は免職処分となった。 刑場において郝象賢は「宮中秘事」を暴露しながら太后への罵詈雑言を浴びせ続け、さらに市中の人々から薪を奪って行刑者へ投げつけたため、警護の兵士が即座に殺害した。その後太后は遺体を切断させるとともに父祖の墓を暴かせ棺桶を焼き払うよう命じた。 解説:
※本訳では『資治通鑑』原文に基づきつつ、現代日本語としての可読性確保のため以下の処理を実施: - 「丙己之地」→「都城南東」(干支方位の実質的説明) - 「金吾兵」→「警護の兵士」(唐代官制を平易化) - 年号表記は西暦併記で時代背景明確化 武則天政権における儒教的正当性と専制支配の相克が、宗廟論争・明堂建設・弾圧事件という三点で鮮明に浮かび上がる貴重な史料。 Translation took 1914.6 seconds. |
| 自是終太后之世,法官每刑人,先以木丸塞其口。 武承嗣使鑿白石為文曰:「聖母臨人,永昌帝業。」末紫石雜藥物填之。庚午,使雍州人唐同泰奉表獻之,稱獲之於洛水。太后喜,命其石曰「寶圖」,擢同泰為游擊將軍。五月,戊辰,詔當親拜洛,受「寶圖」;有事南郊,先謝昊天;禮畢,御明堂,朝群臣。命諸州都督、刺史及宗室、外戚以拜洛前十日集神都。乙亥,太后加尊號為聖母神皇。 六月,丁亥朔,日有食之。 壬寅,作神皇三璽。 東陽大長公主削封邑,並二子徙巫州。公主適度履行,太后以高氏長孫無忌之舅族,故惡之。 河南道巡撫大使、冬官侍郎狄仁傑以吳、楚多淫祠,奏焚其一千七百餘所,獨留夏禹、吳太伯、季札、伍員四祠。 秋,七月,丁巳,赦天下。更命「寶圖」為「天授聖圖」;洛水為永昌洛水,封其神為顯聖侯,加特進,禁漁釣,祭祀比四瀆。名圖所出曰「聖圖泉」,泉側置永昌縣。又改嵩山為神岳,封其神為天中王,拜太師、使持節、神岳大都督,禁芻牧。又以先於汜水得瑞石,改汜水為廣武。 太后潛謀革命,稍除宗室。絳州刺史韓王元嘉、青州刺史霍王元軌、刑州刺史魯王靈夔、豫州刺史越王貞及元嘉子通州刺史黃公譔、元軌子金州刺史江都王緒、虢王鳳子申州刺史東莞公融、靈夔子范陽王藹、貞子博州刺史琅邪王沖,在宗室中皆以才行有美名,太后尤忌之。 |
現代日本語訳:この後も則天武后が治める間、裁判官は罪人を処刑する際には必ず木製の球で口を塞ぐようになった。 武承嗣(則天武后の甥)は白い石に「聖母天下を治め、帝業永遠に栄える」と彫らせた。最後の部分は紫の宝石を薬剤と混ぜて埋めた。庚午の日(687年4月21日)、雍州出身の唐同泰を使者として上表文を持参させ献上し、「洛水で発見した」と報告させた。太后は喜び、その石に「宝図」と命名して唐同泰を遊撃将軍に昇進させた。 5月戊辰(同年6月2日)、自ら洛水に出向き「宝図」を受け取ると詔勅した。まず南郊で昊天上帝への感謝の儀式を行い、明堂へ移って群臣と会見するよう命じた。諸州の都督・刺史および皇族外戚には、洛拝礼(祭祀)10日前に神都(洛陽)集合を指示。乙亥(6月9日)、太后は「聖母神皇」の尊号を得た。 6月丁亥朔(7月1日)、日食発生。 壬寅(同16日)、神皇専用の三つの璽(印章)を作成。 東陽大長公主(高祖李淵の娘)は封地を没収され、二人の息子と共に巫州へ流罪。品行方正ながらも、夫家・高氏が則天武后の政敵である長孫無忌の姻族だったため迫害を受けた。 河南道巡撫大使で冬官侍郎(工部次官)の狄仁傑は江南地方の淫祠1700余ヶ所を焼却するよう上奏し、夏禹・呉太伯・季札・伍子胥の四祠堂のみ残した。 秋7月丁巳(8月10日)、大赦令発布。「宝図」を「天授聖図」(天が授けた神聖な図)と改称。洛水は永昌洛水と呼び、守護神に顕聖侯の爵位を与え特進官職を付与し漁労禁止とした祭祀規格も四瀆(四大河川)並みとする。「宝図」発見地を「聖図泉」と命名しそばに永昌県設置。嵩山は神岳と改め守護神には天中王・太師など称号を与えて放牧禁止とした。また汜水で吉兆の石が出土した縁から地名を広武へ変更。 則天武后は革命(王朝交代)を企図し皇族粛清を進めた。絳州刺史韓王元嘉ら諸侯とその息子たち(通州刺史黄公譔、金州刺史江都王緒など)はいずれも有能で名声高かったため特に警戒された。 解説:
※本訳では唐代特有の制度(特進・使持節等)は現代日本語で機能説明を付加。紀年は西暦併記により時間軸を明確化した。『資治通鑑』が伝える則天武后期の特徴である「天人相関思想の政治利用」と「系統的粛清プロセス」に焦点を当てた意訳を行っている。 Translation took 1751.5 seconds. |
| 元嘉等內不自安,密有匡復之志。 譔謬為書與貞云:「內人病浸重,當速療之,若至今冬,恐成痼疾。」及太后召宗室朝明堂,諸王因遞相驚曰:「神皇欲於大饗之際,使人告密,盡收宗室,誅之無遺類。」譔詐為皇帝璽書與沖云:「朕遭幽縶,諸王宜各發兵救我。」沖又詐為皇帝璽書云:「神皇欲移李氏社稷,以授武氏。」八月,壬寅,沖召長史蕭德琮等令募兵,分告韓、霍、魯、越及貝州刺史紀王慎,各令起兵共趣神都。太后聞之,以左金吾將軍丘神勣為清平道行軍大總管以討之。 沖募兵得五千餘人,欲渡河取濟州;先擊武水,武水令郭務悌詣魏州求救。莘令馬玄素將兵千七百人中道邀沖,恐力不敵,入武水,閉門拒守。沖推草車塞其南門,因風縱火焚之,欲乘火突入;火作而風回,沖軍不得進,由是氣沮。堂邑董玄寂為衝將兵擊武水,謂人曰:「琅邪王與國家交戰,此乃反也。」沖聞之,斬玄寂以徇,眾懼而散入草澤,不可禁止,惟家僮左右數十人在。沖還走博州,戊申,至城門,為守門者所殺,凡起兵七日而敗。丘神勣至博州,官吏素服出迎,神勣揮刃盡殺之,凡破千餘家。 越王貞聞衝起,亦舉兵於豫州,遣兵陷上蔡。九月,丙辰,命左豹韜大將軍麴崇裕為中軍大總管,岑長倩為後軍大總管,將兵十萬以討之,又命張光輔為諸軍節度。 |
訳文元嘉らは内心安からず、ひそかに朝廷を正す意志を持っていた。 譔が偽って貞に書簡を送り「内の者は病が日に日に重くなっている。急いで治療すべきだ。もし今年の冬まで延びれば、不治の病となる恐れがある」と記した。その後、太后が宗室を召集して明堂で朝礼を行うと、諸王は互いに警告し合った「則天武后は大饗宴の機会に密告させて宗室全員を捕らえ、一人残らず誅殺しようとしている」と。譔は偽造した皇帝の詔書を沖に送り「朕は幽閉されている。諸王は兵を起こして朕を救出せよ」と伝えた。沖もまた偽の詔書を作成し「則天武后は李唐王朝を廃し、武氏に譲ろうとしている」とした。 八月壬寅(17日)、沖は長史蕭徳琮らに命じて兵士を募集させると同時に韓王・霍王・魯王・越王および貝州刺史の紀王慎に個別に連絡して挙兵し、神都洛陽へ共に向かうよう指示した。太后はこの情報を得て左金吾将軍丘神勣を清平道行軍大総管に任命し討伐に向かわせた。 沖は五千人余りの兵士を集め黄河渡河による済州占拠を計画。まず武水県を攻撃したところ、県令郭務悌が魏州へ救援要請に出向いた。莘県令馬玄素は千七百人の兵を率いて中途で沖軍を迎え撃ったが兵力差に不安を覚え、武水城に退却して門を閉ざし防戦した。沖は草車を南門前に押し寄せて通行を遮断し、風向きを利用して火攻めを行い混乱に乗じて突入しようとした。しかし火が燃え上がると風向きが逆転し、軍勢は前進できず士気は低下した。 堂邑出身の董玄寂は沖の指揮下で武水城攻略にあたっていたが「琅邪王(李沖)が朝廷と交戦するとは謀反である」と発言した。これを聞いた冲は玄寂を処刑して晒し者にしたため、兵士たちは恐怖のあまり草むらへ散り散りとなり制止も不可能となった。側近の家僕数十名だけが残された。沖は博州へ敗走する途中の戊申(23日)、城門前にて守衛に殺害され、挙兵からわずか七日で壊滅した。 丘神勣が博州到着時、役人たちは喪服を着て出迎えたが、神勣は刀を振るって皆殺しとし千軒余りの家を破壊した。 越王貞は李沖の挙兵を知ると豫州で呼応して蜂起し軍勢を派遣して上蔡を陥落させた。九月丙辰(1日)、朝廷は左豹韜大将軍麴崇裕を中軍大総管、岑長倩を後軍大総管に任命し十万の兵を率いて討伐に向かわせると共に張光輔に諸軍節度使の職務を与えた。 解説■ 歴史的意義 ■ 語法特徴 ■ 政治力学 ■ 現代語訳の方針 Translation took 842.2 seconds. |
| 削貞、沖屬籍,更姓虺氏。貞聞沖敗,欲自鎖詣闕謝罪,會所署新蔡令傅延慶募得勇士二千餘人,貞乃宣言於眾曰:「琅邪已破魏、相數州,有兵二十萬,朝夕至矣。」發屬縣兵共得五千,分為五營,使汝陽縣丞裴守德等將之,署九品以上官五百餘人。所署官皆受迫脅,莫有鬥志,惟安德與之同謀,貞以其女妻之,署大將軍,委以腹心。貞使道士及僧誦經以求事成,左右及戰士皆帶辟兵符。麴崇裕等軍至豫州城東四十里,貞遣少子規及裴守德拒戰,兵潰而歸。貞大懼,閉閣自守。崇裕等至城下,左右謂貞曰:「王豈可坐待戮辱!」貞、規、守德及其妻皆自殺。與沖皆梟首東都闕下。 初,范陽王藹遣使語貞及沖曰:「若四方諸王一時並起,事無不濟。」諸王往來相約結,未定而沖先發,惟貞狼狽應之,諸王皆不敢發,故敗。 貞之將起兵也,遣使告壽州刺史越環,環妻常樂公主謂使者曰:「為我語越王:昔隋文帝將篡周室,尉遲迥,周之甥也,猶能舉兵匡救社稷。功雖不成,威震海內,足為忠烈。況汝諸王,先帝之子,豈得不以社稷為心!今李氏危若朝露,汝諸王不捨生取義,尚猶豫不發,欲何須邪!禍且至矣,大丈夫當為忠義鬼,無為徒死也。」 及貞敗,太后欲悉誅韓、魯等諸王,命監察御史藍田蘇□按其密狀。□訊問,皆無明驗,或告□與韓、魯通謀,太后召□詰之,□抗論不回。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)虺貞とその子の虺沖は皇族籍を削除され、「虺」姓への改姓を命じられた。貞は沖が敗れたとの報を受け、自ら縛られて宮廷に出頭し謝罪しようとしたが、配下の新蔡県令・傅延慶が二千余名の勇士を募ったため、兵士たちに宣言した。「琅邪王(李冲)は既に魏州や相州など数州を陥落させ、二十万の大軍で間もなく到着する」と。管轄県から兵五千人を召集し五部隊に分け、汝陽県丞・裴守徳らに指揮させた。任命した九品以上の官人は五百余名に上ったが、彼らの大半は脅迫されて従っており戦意は低く、ただ守徳だけが貞と共謀していたため、貞は娘を娶わせ「大将軍」の職を与えて腹心とした。 貞は道士や僧侶に経文を唱えさせ成功を祈願し、側近や兵士全員に護符(辟兵符)を持たせた。麴崇裕らの官軍が豫州城から四十里の地点に迫ると、貞は末子・規と守徳を迎撃に向かわせたが敗退した。貞は大いに恐れ閣内に閉じこもった。崇裕らが城下へ到達すると側近が「王よ、どうして座して辱められるままでいられようか」と進言。貞・規・守徳及びその妻は全員自決した。彼らの首級は沖のものと共に東都洛陽の宮門前に晒された。 当初、范陽王・藹が貞と冲のもとに使者を送り伝えた。「もし各地の諸侯王が一斉に挙兵すれば大事は必ず成る」と。諸王は連絡を取り合って決起を約束したものの、準備が整わぬうちに冲が単独で蜂起し、貞のみが慌てて呼応する形となったため他の諸王は動かず、結果的に敗北に至った。 貞が挙兵しようとした際、寿州刺史・越環へ密使を送ると、環の妻である常楽公主(高宗の妹)は使者に向かい言下に告げた。「越王に伝えよ。昔、隋の文帝が周王朝簒奪を企てた時、尉遅迥(周の皇帝の甥)はいち早く兵を挙げ社稷を守ろうとした。功績こそ成らなかったがその義挙は天下を震わせ、忠烈として足る。ましてや汝ら諸王は先帝(太宗)の実子である。どうして国を思う心を持たぬのか!今や李氏王朝は朝露のように危ういというのに、命を賭けて大義を行うこともせず、なお躊躇しているとは何事か!災いは目前だ。立派な男なら忠義の鬼となれ。無為に死んでなるものか」と。 貞が敗れると則天武后は韓王・魯王ら李氏諸侯王を皆殺しにする意向を示した。監察御史(藍田県出身)の蘇□に彼らの謀反計画の調査を命じるも、尋問では明確な証拠を得られなかった。ある者が「蘇□が韓王・魯王と内通している」と告発すると武后は召喚して詰問したが、□は自説を曲げず抗弁し続けた。 解説【歴史的背景】
【人物分析】
【戦術的失敗点】
【史料価値】
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| 太后曰:「卿大雅之士,朕當別有任使,此獄不必卿也。」乃命□於河西監軍,更使周興等按之。於是收韓王元喜、魯王靈夔、黃公譔、常樂公主於東都,迫脅皆自殺,更其姓曰「虺」,親黨皆誅。 以文昌左丞狄仁傑為豫州刺史。時治越王貞黨與,當坐者六七百家,籍沒者五千口,司刑趣使行刑。仁傑密奏:「彼皆詿誤,臣欲顯奏,似為逆人申理;知而不言,恐乖陛下仁恤之旨。」太后特原之,皆流豐州。道過寧州,寧州父老迎勞之曰:「我狄使君活汝邪?」相攜哭於德政碑下,設齋三日而後行。 時張光輔尚在豫州,將士恃功,多所求取,仁傑不之應。光輔怒曰:「州將輕元帥邪?」仁傑曰:「亂河南者,一越王貞耳,今一貞死,萬貞生!」光輔詰其語,仁傑曰:「明公總兵三十萬,所誅者止於越王貞。城中聞官軍至,逾城出降者四面成蹊,明公縱將士暴掠,殺已降以為功,流血丹野,非萬貞而何!恨不得尚方斬馬劍,加於明公之頸,雖死如歸耳!」光輔不能詰,歸,奏仁傑不遜,左遷復州刺史。 丁卯,左肅政大夫騫味道、夏官侍郎王本立並同平章事。 太后之召宗室朝明堂也,東莞公融密遣使問成均助教高子貢,子貢曰:「來必死。」融乃稱疾不赴。越王貞起兵,遣使約融,融倉猝不能應,為官屬所逼,執使者以聞,擢拜右贊善大夫。 |
現代日本語訳:太后は言った。「卿は教養ある人物だから、朕は別の任務を与えよう。この事件には関わらせない」。そこで□(人名欠落)を河西監軍に任命し、代わりに周興らに取り調べさせた。こうして韓王元喜・魯王霊夔・黄公譕・常楽公主が東都で捕縛され、脅迫されて全員自害したうえ、姓は「虺(まむし)」と改められ、関係者も皆処刑された。 文昌左丞の狄仁傑を豫州刺史に任命した。当時越王貞の一味を取り調べ中で、連座すべき者が六七百世帯、財産没収対象が五千人に上り、司法当局は死刑執行を急いだ。しかし仁傑は密奏した:「彼らは皆騙された被害者です。公に弁護すれば逆賊の肩持ちと疑われ、知って黙れば陛下のお慈悲に背くと思いました」。太后は特別に許し全員豊州へ流刑とした。寧州を通りかかった時、地元の長老が出迎え「我ら狄使君(刺史)がお前たちを救ったのか」と言い、人々は徳政碑の下で抱き合って泣いた後、三日間斎食を捧げて旅立った。 当時張光輔将軍が豫州に駐留し、将兵が戦功を笠に無心を繰り返したが仁傑は応じなかった。激怒した光輔が「州の長官が元帥を侮るのか」と詰めると、仁傑は答えた:「河南を乱したのは越王貞ただ一人でしたのに、今や一つの貞が死んで万の貞が生まれたのです」。意味を問われて説明した:「閣下は三十万軍勢で討ったのは越王だけ。城では官軍到着と聞き投降者が溢れていたのに、略奪を放任し降伏者を殺して戦功とした。野原が血に染まる様こそ『万の貞』です!尚方の斬馬剣(天子代理の刑罰)で閣下の首を刎ねられぬのが無念だ」。光輔は言い返せず、帰還後「仁傑不遜なり」と奏上して復州刺史に左遷させた。 丁卯の日、左粛政大夫騫味道と夏官侍郎王本立がともに同平章事(宰相)となった。 太后が宗室を明堂へ召集した際、東莞公融は密使で成均助教高子貢に相談した。「行けば必ず死ぬ」との返答を得て病と偽り不参加。越王貞の挙兵時には誘いを受けたが対応できず、役人に脅されて使者を捕縛し報告したため、右賛善大夫に昇進した。 解説:
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| 未幾,為支黨所引,冬,十月,己亥,戮於市,籍沒其家。高子貢亦坐誅。 濟州刺史薛顗、顗弟緒、緒弟駙馬都尉紹,皆與琅邪王沖通謀。顗聞衝起兵,作兵器,募人;沖敗,殺錄事參軍高纂以滅口。 十一月,辛酉,顗、緒伏誅,紹以太平公主故,杖一百,餓死於獄。 十二月,乙酉,司徒、青州刺史霍王元軌坐與越王連謀,廢徙黔州,載以檻車,行至陳倉而死。江都王緒、殿中監成公裴承先皆戮於市。承先,寂之孫也。 命裴居道留守西京。 左肅政大夫、同平章事騫味道素不禮於殿中侍御史周矩,屢言其不能了事。會有羅告味道者,敕矩按之。矩謂味道曰:「公常責矩不了事,今日為公了之。」乙亥,味道及其子辭玉皆伏誅。 己酉,太后拜洛受圖,皇帝、皇太子皆從,內外文武百官、蠻夷酋長各依方敘立,珍禽、奇獸、雜寶列於壇前,文物鹵簿之盛,唐興以來未之有也。 辛亥,明堂成,高二百九十四尺,方三百尺。凡三層:下層法四時,各隨方色。中層法十二辰;上為圓蓋,九龍捧之。上層法二十四氣;亦為圓蓋,上施鐵鳳,高一丈,飾以黃金。中有巨木十圍,上下通貫,栭櫨棤藉以為本。下施鐵渠,為辟雍之象。號曰萬象神宮。宴賜君臣,赦天下,縱民入觀。改河南為合宮縣。又於明堂北起天堂五級以貯大像;至三級,則俯視明堂矣。 |
現代日本語訳間もなく、支党への連座により捕らえられた。冬十月己亥(きがい)の日、市中で処刑され家財は没収された。高子貢もまた罪を得て誅殺される。 済州刺史・薛顗(せつぎ)、その弟・緒(しょ)、さらに緒の弟で駙馬都尉の紹(しょう)は皆、琅邪王李沖との謀議に関わっていた。薛顗は李沖が兵を挙げたと聞くと武器を製造し人員を募集したが、李沖が敗れるや口封じに録事参軍・高纂(こうさん)を殺害した。 十一月辛酉(しんゆう)の日、薛顗と緒は処刑される。紹は太平公主の夫であったため死罪を免れ杖刑百回を受け獄中で餓死した。 十二月乙酉(いつゆう)の日、司徒兼青州刺史・霍王元軌が越王李貞との共謀に連座し、地位を剥奪されて黔州(けんしゅう)へ流罪となる。檻車護送中の陳倉で死去。江都王緒と殿中監成公・裴承先は市中処刑され、承先は裴寂の孫である。 西京留守として裴居道を任命した。 左粛政大夫・同平章事の騫味道(けんみどう)は常々殿中侍御史・周矩(しゅうく)を軽視し「仕事ができない」と非難していた。ちょうど味道を告発する者が出たため、則天武后は周矩に取り調べを命じる。矩は味道に対し「貴方は私の未熟さを責めましたが、今日こそあなたの問題を解決しましょう」と言い放った。乙亥(いつがい)の日、味道とその子・辞玉は処刑された。 己酉(きゆう)の日、則天武后は洛水で図籙(瑞兆を示す文書)を受ける儀式を行い、皇帝(廃帝中宗)や皇太子が供奉した。内外文武百官と異民族首長たちが方角ごとに整列し、珍しい鳥獣や宝物を壇前に並べた。文物・儀仗の豪華さは唐建国以来空前であった。 辛亥(しんがい)の日、「明堂」完成。高さ294尺(約88m)、幅300尺(約90m)。三層構造:下層は四季に応じ各方角で色分け、中層は十二支を象徴し龍九匹が円蓋を捧持、上層は二十四節気を示す鉄製鳳凰像(高さ丈=約3m)が黄金装飾されていた。中央には十抱えの巨柱が貫通して構造を支え、基壇に設けた鉄渠で「辟雍」(天子立大学)を模した。「万象神宮」と命名し臣下へ宴賜を行い大赦発令、民衆にも開放された。河南県は合宮県と改称される。さらに明堂北側に五層の天堂(仏塔)が建立され巨大仏像を安置、第三層まで登れば既に明堂を見下ろせた。 解説
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| 僧懷義以功拜左威衛大將軍、梁國公。 侍御史王求禮上書曰:「古之明堂,茅茨不剪,采椽不斫。今者飾以珠玉,圖以丹青,鐵鷟入雲,金龍隱霧,昔殷辛瓊台,夏癸瑤室,無以加也。」太后不報。太后欲發梁、鳳、巴蜑,自雅州開山能道,出擊生羌,因襲吐蕃。正字陳子昂上書,以為:「雅州邊羌,自國初以來未嘗為盜。今一旦無罪戮之,其怨必甚;且懼誅滅,必蜂起為盜。西山盜起,則蜀之邊邑不得不連兵備守,兵久不解,臣愚以為西蜀之禍,自此結矣。臣聞吐蕃愛蜀富饒,欲盜之久矣,徒以山川阻絕,障隘不通,勢不能動。今國家乃亂邊羌,開隘道,使其收奔亡之種,為鄉導以攻邊,是借寇兵而為賊除道,舉全蜀以遺之也。蜀者國家之寶庫,可以兼濟中國。今執事者乃圖僥倖之利以事西羌,得其地不足以稼穡,財不足以富國,徒為糜費,無益聖德,況其成敗未可知哉!夫蜀之所恃者險也,人之所以安者無役也;今國家乃開其險,役其人,險開則便寇,人役則傷財,臣恐未見羌戎,已有奸盜在其中矣。且蜀人尪劣,不習兵戰,山川阻曠,去中夏遠,今無故生西羌、吐蕃之患,臣見其不及百年,蜀為戎矣。國家近廢安北,拔單于,棄龜茲,放疏勒,天下翕然謂之盛德者,蓋以陛下務在養人,不在廣地也。今山東饑,關、隴弊,而徇貪夫之議,謀動甲兵,興大役,自古國亡家敗,未嘗不由黷兵,願陛下熟計之。 |
現代日本語訳:僧侶の懐義は功績により左威衛大将軍・梁国公に任命された。 侍御史である王求礼が上書した:「古代の明堂(天子の政庁)は茅葺き屋根を切り揃えず、木材も削らずに用いた。ところが現在は珠玉で飾り立て、丹青(絵具)を用いて彩色し、鉄製の鳳凰は雲をつき、金龍は霧にかくれている。かつて殷の紂王の瓊台や夏の桀王の瑶室もこれを超えられないであろう」。則天武后は返答しなかった。 太后(則天武后)が梁州・鳳州・巴蜑(現四川省一帯)の兵を徴発し、雅州から山道を開いて進軍し、生羌(チベット系未開部族)を討ち、ついで吐蕃を襲撃しようとした。正字(図書管理官)陳子昂が上書して反論した:「雅州の辺境に住む羌族は建国以来一度も賊行為をしていない。無実の罪で彼らを殺せば怨恨必至であり、誅滅を恐れて蜂起するだろう。西山で叛乱が起これば蜀の国境地帯では防衛のために継続的に兵力が必要となり、兵士が長期拘束される。愚考では西蜀の災禍はここから始まると断言できる。」 「吐蕃はずっと蜀の富を狙っているが、山川の険阻に阻まれ動けずにいたところへ、我々が自ら辺境民族をかき乱し隘路(交通路)を開拓すれば、彼ら逃亡部族を受け入れ先導役として攻め込むだろう。これは賊に兵器を与え道案内する行為であり、蜀全体を敵に差し出すに等しい。」 「蜀は国家の宝庫であり中原をも支えうる地であるのに、今や担当官が西羌攻略という安易な利益を追い求めている。得た土地では耕作もままならず、財源増加にもつながらない。ただ経費を浪費し聖徳に貢献しない上、成否さえ不確実だ。」 「蜀の強みは険阻な地形であり、民が安泰なのは労役免除のおかげである。この地勢を開けば賊侵入を容易にし、人民を使役すれば財政を損ねる。羌族と遭遇する前に内部から叛乱が起こると危惧する。」 「蜀人は虚弱で戦闘慣れしておらず、中原から遠く隔絶している。今なおさら西羌・吐蕃の禍根を作れば百年も経たぬうちに異民族支配下に堕すであろう。」 「朝廷は近ごろ安北都護府を廃し単于都護府を撤収、亀茲と疏勒(西域拠点)をも放棄した。天下がこれを聖徳と称賛するのは陛下が領土拡張より民養生を重視されたからだ。」 「ところが今は山東で飢饉が発生し関隴地域も疲弊している中、貪欲な者たちの意見に従い軍備増強や大規模工事を企てている。古来国家滅亡は必ず濫用武力に起因する。陛下には熟慮を切望する。」 解説:
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| 」既而役不果興。 則天順聖皇后上之下永昌元年(己丑,公元六八九年) 春,正月,乙卯朔,大饗萬象神宮,太后服袞冕,搢大圭,執鎮圭為初獻,皇帝為亞獻,太子為終獻。先詣昊天上帝座,次高祖、太宗、高宗,次魏國先王,次五方帝座。太后御則天門,赦天下,改元。丁巳,太后御明堂,受朝賀。戊午,布政於明堂,頒九條以訓百官。己未,御明堂,饗群臣。 二月,丁酉,尊魏忠孝王曰周忠孝太皇,妣曰忠孝太后,文水陵曰章德陵,咸陽陵曰明義陵。置崇先府官。戊戌,尊魯公曰太原靖王,北平王曰趙肅恭王,金城王曰魏義康王,太原王曰周安成王。 三月,甲子,張光輔守納言。 壬申,太后問正字陳子昂當今為政之要。子昂退,上疏,以為:「宜緩刑崇德,息兵革,省賦役,撫慰宗室,各使自安。」辭婉意切,其論甚美,幾三千言。 癸酉,以天官尚書武承嗣為納言,張光輔守內史。 夏,四月,甲辰,殺辰州別駕汝南王煒、連州別駕鄱陽公諲等宗室十二人,徙其家於巂州。煒,惲之子;諲,元慶之子也。 己酉,殺天官侍郎藍田鄧玄挺。玄挺女為諲妻,又與煒善。諲謀迎中宗於廬陵,以問玄挺,煒又嘗謂玄挺曰:「欲為急計,何如?」玄挺皆不應。故坐知反不告,同誅。 五月,丙辰,命文昌右相韋待價為安息道行軍大總管,擊吐蕃。 |
現代日本語訳:その後、工事は結局行われなかった。 則天順聖皇后(武則天)の治世・上巻下 永昌元年(己丑の年、西暦689年) 春正月乙卯朔(1日)、万象神宮で大規模な祭祀を執行。太后(武則天)は皇帝の礼服と冠を着け、大きな玉圭(ぎょくけい)を帯に挿し、鎮圭を手にして初献(最初の捧げ物役)を務めた。皇帝が亜献(次席)、皇太子が終献(最終奉献者)となった。順序はまず昊天上帝(天帝)の神座へ拝礼、続いて高祖・太宗・高宗の歴代先帝、魏国初代王(武則天の父武士彠)、五方の天帝を祀る。その後、太后が則天門に臨み大赦令を発布し年号を改元した。 丁巳(3日)、明堂で朝賀を受ける。 戊午(4日)、明堂において政務を執り行い「九カ条」の訓戒を百官に公布。 己未(5日)、再び明堂に出御して群臣と宴を催す。 二月丁酉(14日): - 魏忠孝王(武則天父・武士彠追贈号)を周忠孝太皇、母を忠孝太后と追尊 - 文水陵を章徳陵、咸陽陵を明義陵と改称 - 崇先府(祭祀機関)の官職を設置 戊戌(15日): - 魯公(武則天五世祖)を太原靖王 - 北平王(四世祖)を趙粛恭王 - 金城王(三世祖)を魏義康王 - 太原王(祖父)を周安成王と追尊 三月甲子(11日)、張光輔が納言(門下省長官)代理に就任。 壬申(19日)、太后が正字(図書校訂官)陳子昂に現政権の要諦を問う。退廷後、子昂は上疏し「刑罰緩和・徳治重視・軍事停止・租税軽減・宗室慰撫による安寧確保」と提言。表現は婉曲ながら切実で約三千字の卓論であった。 癸酉(20日)、天官尚書武承嗣を納言に、張光輔を内史(中書省長官)代理に任命。 夏四月甲辰(22日): - 汝南王李煒・鄱陽公李諲ら宗室12人を誅殺 - 家族は巂州へ流刑。李煒は恵帝の子、李諲は元慶の子である。 己酉(27日)、天官侍郎鄧玄挺を処刑。娘が李諲の妻で李煒とも親交があった縁から謀反共謀罪に連座。実際には「廬陵王(中宗)奪還計画」への関与を問われた際も沈黙を通したため、「反乱知情不報」とされ同罰となった。 五月丙辰(5日)、文昌右相韋待価を安息道行軍大総管に任命し吐蕃征伐を命令。 注釈解説:
※本訳では『資治通鑑』原文の編年体形式を保持しつつ、固有名詞には必ず肩書・続柄を付記して読解補助とした。特に複雑な親族関係(例:李煒は高宗の孫)については系図参照が必要となる場合あり。 Translation took 1665.3 seconds. |
| 浪穹州蠻酋傍時昔等二十五部,先附吐蕃,至是來降;以傍時昔為浪穹州刺史,令統其眾。 己巳,以僧懷義為新平軍大總管,北討突厥。行至紫河,不見虜,於單于台刻石紀功而還。 諸王之起兵也,貝州刺史紀王慎獨不預謀,亦坐繫獄;秋,七月,丁巳,檻車徙巴州,更姓虺氏,行及蒲州而卒。八男徐州刺史東平王續等,相繼被誅,家徙嶺南。 女東光縣主楚媛,幼以孝謹稱,適司議郎裴仲將,相敬如賓;姑有疾,親嘗藥膳;接遇娣姒,皆得歡心。時宗室諸女皆以驕奢相尚,誚楚媛獨儉素,曰:「所貴於富貴者,得適志也;今獨守勤苦,將以何求?」楚媛曰:「幼而好禮,今而行之,非適志歟!觀自古女子,皆以恭儉為美,縱侈為惡。辱親是懼,何所求乎;富貴倘來之物,何足驕人!」眾皆慚服。及慎凶問至,楚媛號慟,嘔血數升;免喪,不御膏沐者垂二十年。 韋待價軍至寅識迦河,與吐蕃戰,大敗。會大雪,糧運不繼。待價既無將領之才,狼狽失據,士卒凍餒,死亡甚眾,乃引軍還。太后大怒,丙子,待價除名,流繡州,斬副大總管安西大都護閻溫古。安西副都護唐休璟收其餘眾,撫安西土,太后以休璟為西州都督。 戊寅,以王本立同鳳閣鸞台三品。 徐敬業之敗也,弟敬真流繡州,逃歸,將奔突厥,過洛陽,洛州司馬弓嗣業、洛陽令張嗣明資遣之;至定州,為吏所獲,嗣業縊死。 |
現代日本語訳浪穹州の蛮族首長である傍時昔ら二十五部族は、以前吐蕃に帰属していたがこのたび投降した。これを受け傍時昔を浪穹州刺史とし、配下の統率を命じた。 己巳(きし)の日、僧・懐義を新平軍大総管に任命して突厥討伐に向かわせた。紫河まで進軍したが敵軍を見ず、単于台で石碑に功績を刻んで帰還した。 諸王が反乱を起こした際、貝州刺史の紀王・李慎だけは計画に関わらず連座により投獄された。秋七月丁巳(ていし)の日、檻車で巴州へ護送中に虺(き)姓への改姓を命じられ、蒲州到着時に死去した。八人の息子である徐州刺史・東平王李続らは相次いで処刑され、家族は嶺南へ流罪となった。 娘の東光県主・楚媛(そえん)は幼少時から孝行と慎み深さで知られ、司議郎・裴仲将に嫁いでも夫婦互いに敬愛した。姑が病気の際には自ら薬膳を調製し、姻族との交流も円滑であった。当時の皇族女性たちは奢侈を競ったため楚媛の質素さを嘲笑し「富貴で大切なのは自由に生きることだ」と批判したが、彼女は「礼節を重んじることが本望です。女子は慎ましさこそ美徳であり、親の名を汚すことを恐れています」と返答すると一同は恥じて感服した。父・李慎の死を知ると慟哭して数升もの血を吐き、喪が明けても二十年近く化粧をしなかった。 韋待價(い たいか)軍が寅識迦河(いんしきかがわ)で吐蕃と交戦し大敗した。折からの大雪で兵糧も途絶え、指揮能力のない韋待価は統制を失った。凍死や餓死者が続出したため撤退するしかなかった。則天武后は激怒し丙子(へいし)の日に韋待價を除名・繡州流罪とし、副大総管・安西大都護の閻温古(えん おんこ)を斬首処刑とした。残兵を収容した安西副都護・唐休璟(とう きゅうけい)が西域統治にあたり、則天武后は彼を西州都督に任命した。 戊寅(ぼいん)の日、王本立を同鳳閣鸞台三品に任じた。 徐敬業敗北後、弟・敬真は繡州へ流罪となったが脱走し突厥へ亡命しようとした。洛陽で洛州司馬・弓嗣業(きゅう しぎょう)と洛陽令・張嗣明から資金提供を受けたが定州で捕縛され、弓嗣業は自決した。 解説
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| 嗣明、敬真多引海內知識,雲有異圖,冀以免死;於是朝野之士為所連引坐死者甚眾。嗣明誣內史張光輔,云「征豫州日,私論圖讖、天文,陰懷兩端。」八月,甲申,光輔與敬真、嗣明等同誅,籍沒其家。 乙未,秋官尚書太原張楚金、陝州刺史郭正一、鳳閣侍郎元萬頃、洛陽令魏元忠,並免死流嶺南。楚金等皆為敬直所引,雲與敬業通謀。臨刑,太后使鳳閣舍人王隱客馳騎傳聲赦之。聲達於市,當刑者皆喜躍歡呼,宛轉不已;元忠獨安坐自如,或使之起,元忠曰:「虛實未知。」隱客至,又使起,元忠曰:「俟宣敕已。」既宣敕,乃徐起,舞蹈再拜,竟無憂喜之色。是日,陰雲四塞,既釋楚金等,天氣晴霽。 九月,壬子,以僧懷義為新平道行軍大總管,將兵二十萬以討突厥骨篤祿。 初,高宗之世,周興以河陽令召見,上欲加擢用,或奏以非清流,罷之。興不知,數於明堂俟命。諸相皆無言,地官尚書、檢校納言魏玄同,時同平章事,謂之曰:「周明府可去矣。」興以為玄同沮己,銜之。玄同素與裴炎善,時人以其終始不渝,謂之耐久朋。周興奏誣玄同言:「太后老矣,不若奉嗣君為耐久。」太后怒,閏月,甲午,賜死於家。監刑御史房濟謂玄同曰:「丈人何不告密,冀得召見,可以自直!」玄同歎曰:「人殺鬼殺,亦復何殊,豈能作告密人邪!」乃就死。 |
現代日本語訳嗣明と敬真は、多くの国内の知識人を巻き添えにし、「異心を持っている」と主張して死罪回避を図った。これにより朝廷内外で連座させられて死刑となる者が非常に多かった。嗣明は内史張光輔を誣告し「豫州征討時に、密かに予言書や天文について議論し、裏切りを企んでいた」と主張した。八月甲申の日、光輔は敬真・嗣明らと共に処刑され、財産没収となった。 乙未の日、秋官尚書太原張楚金・陝州刺史郭正一・鳳閣侍郎元萬頃・洛陽令魏元忠が死刑を免れ嶺南へ流罪となった。彼らは敬直によって「敬業と内通した」との嫌疑で告発されていた。処刑直前、則天武后は鳳閣舍人王隠客に赦命を伝えるよう急使させた。市中に赦令が届いた時、刑を受ける者たちは歓喜して跳び回ったが、魏元忠だけは泰然自若として座したままであった。促されても「虚実まだ不明だ」と言い、隠客到着後も「勅命宣布を待つ」と答えた。勅令発表後に徐々に起き上がり礼儀正しく拝礼したが、喜びや憂いの表情は全く見せなかった。この日は暗雲立ち込めていたが楚金ら解放後には晴天となった。 九月壬子の日、僧・懐義を新平道行軍大総管に任命し兵二十万を率いて突厥骨篤祿討伐に向かわせた。 昔、高宗時代。周興は河陽令として召されたが「清流ではない」と奏上され登用中止となった。本人は知らず明堂で何度も待機した時、宰相の一人・魏玄同(当時地官尚書)に「お帰りなさい」と言われたため恨みを抱いた。玄同は裴炎と親交があり、世間から「耐久朋(変わらぬ友情)」と呼ばれていたが、周興は「太后は老いたので嗣君を支えた方が長久だ」との発言を偽って告発した。則天武后は激怒し閏月甲午の日、自宅での死罪を命じた。監刑御史房濟が「密告すれば召見され冤罪晴らせるのでは?」と勧めたが玄同は嘆息して言った。「人に殺されるも鬼に殺されるも同じこと。どうして密告者になれようか」そう語って従容として死を受け入れた。 解説
▶ 特筆すべきは当時の司法制度:赦令伝達システム(鳳閣舍人の緊急派遣)や刑執行プロセス(監刑御史の立会い)など、唐代官僚機構の実態が垣間見える貴重な史料。 Translation took 735.4 seconds. |
| 又殺夏官侍郎崔察於隱處。自餘內外大臣坐死及流貶甚眾。 彭州長史劉易從亦為徐敬真所引;戊申,就州誅之。易從為人,仁孝忠謹,將刑於市,吏民憐其無辜,遠近奔赴,競解衣投地曰:「為長史求冥福。」有司平准,直十餘萬。 周興等誣右武衛大將軍燕公黑齒常之謀反,征下獄。冬,十月,戊午,常之縊死。 己未,殺宗室鄂州剌史嗣鄭王璥等六人。庚申,嗣滕王修琦等六人免死,流嶺南。 丁卯,春官尚書范履冰、鳳閣侍郎邢文偉並同平章事。 己卯,詔太穆神皇后、文德聖皇后宜配皇地示氏,忠孝太后從配。 右衛冑曹參軍陳子昂上疏,以為:「周頌成、康,漢稱文、景,皆以能措刑故也。今陛下之政,雖盡善矣,然太平之朝,上下樂化,不宜有亂臣賊子,日犯天誅。比者大獄增多,逆徒滋廣,愚臣頑昧,初謂皆實,乃去月十五日,陛下特察系囚李珍等無罪,百僚慶悅,皆賀聖明,臣乃知亦有無罪之人掛於疏網者。陛下務在寬典,獄官務在急刑,以傷陛下之仁,以誣太平之政,臣竊恨之。又,九月二十一日敕免楚金等死,初有風雨,變為景雲。臣聞陰慘者刑也,陽舒者德也;聖人法天,天亦助聖。天意如此,陛下豈可不承順之哉!今又陰雨,臣恐過在獄官。凡繫獄之囚,多在極法,道路之議,或是或非,陛下何不悉召見之,自詰其罪。 |
現代日本語訳:さらに夏官侍郎の崔察は隠れた場所で殺害された。その他の朝廷内外の大臣も死罪や流刑・左遷に処される者が非常に多かった。 彭州長史であった劉易從も徐敬真によって罪を着せられた結果、戊申(9月21日)に現地で処刑された。易従は人柄が仁慈で孝行心厚く忠実慎重だったため、市場での公開処刑となった際には役人や民衆こぞって彼の無実を哀れみ、遠方からも駆けつけて我先にと衣服を脱ぎ地面に投げ「長史様の冥福を祈る」と叫んだ。後日官庁がこれら衣類を査定したところ十数万銭の価値があった。 周興らは右武衛大将軍・燕国公黒歯常之(こくし じょうし)に謀反の冤罪をかけ都へ召還して投獄させた。冬十月戊午(10月1日)、彼は獄中で縊死した。 己未(2日)には皇族である鄂州刺史・嗣鄭王李璥ら六名が処刑され、翌庚申(3日)に嗣滕王李脩琦ら六人は死刑を免れ嶺南へ流罪となった。 丁卯(11日)、春官尚書范履冰と鳳閣侍郎邢文偉の両者が宰相(同平章事)に任じられた。 己卯(23日)、詔勅により太穆神皇后(高祖夫人)と文徳聖皇后(太宗夫人)を皇地祇祭祀に配祀し、忠孝太后(則天武后生母)も従祀させると定められた。 右衛冑曹参軍陳子昂が上疏して直言した: 「周の成王・康王や漢の文帝・景帝が称賛されるのは刑罰を用いなかったからです。陛下の政治は完璧ではあるものの、太平の世で上下ともに教化に親しむ時には謀反者など日々処刑されるべき者が存在するはずもありません。近頃冤罪事件が増え逆賊と称される者があふれております。愚かな私も当初これらは事実かと思いましたが、先月十五日に陛下自ら李珍らの無罪を認められた時には百官こぞって聖明さを賛美し、私は冤罪で裁かれる者がいることを知りました。陛下は寛大な法執行を望まれるのに司法官僚は厳刑に走るため仁徳が損なわれております。また九月二十一日に楚金らの死刑免除を命じられた時には風雨から瑞雲へと変わりました。陰惨こそ刑罰の象徴、陽気広がりは仁政の証であり――聖人が天にならえば天も応えるのです! 今再び長雨続くのは司法官僚に過ちある故でしょう。囚人の多くが極刑待ちで巷には真偽入り乱れた噂があります。陛下ご自身で全員を召し出され直接罪状をお尋ねになるべきでは」 解説:
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| 罪有實者顯示明刑,濫者嚴懲獄吏,使天下鹹服,人知政刑,豈非至德克明哉!」 則天順聖皇后上之下天授元年(庚寅,公元六九零年) 十一月,庚辰朔,日南至。太后享萬象神宮,赦天下。始用周正,改永昌元年十一月為載初元年正月,以十二月為臘月,夏正月為一月。以周、漢之後為二王后,舜、禹、成湯之後為三恪,周、隋之嗣同列國。 鳳閣侍郎河東宗秦客,改造「天」「地」等十二字以獻,丁亥,行之。太后自名「曌」,改詔曰制。秦客,太后從父姊之子也。 乙未,司刑少卿周興奏除唐親屬籍。 臘月,辛未,以僧懷義為右衛大將軍,賜爵鄂國公。 春,一月,戊子,武承嗣遷文昌左相,岑長倩遷文昌右相、同鳳閣鸞台三品,鳳閣侍郎武攸寧為納言,邢文偉守內史,左肅政大夫、同鳳閣鸞台三品王本立罷為地官尚書。攸寧,士擭之兄孫也。 時武承嗣、三思用事,宰相皆下之。地官尚書、同鳳閣鸞台三品韋方質有疾,承嗣、三思往問之,方質據床不為禮。或諫之,方質曰:「死生有命,大丈夫安能曲事近戚以求苟免乎!」尋為周興等所構,甲午,流儋州,籍沒其家。 二月,辛酉,太后策貢士於洛城殿。貢士殿試自此始。 丁卯,地官尚書王本立薨。 三月,丁亥,特進、同鳳閣鸞台三品蘇良嗣薨。 夏,四月,丁巳,春官尚書、同平章事范履冰坐嘗舉犯逆者,下獄死。 |
現代日本語訳「罪状が明白な者は刑罰を明示し、冤罪事件については厳しく獄吏を処罰せよ。そうすれば天下は心服し、人々は政令と刑罰の道理を知るであろう。これこそ至高の徳が輝く様ではあるまいか!」 則天順聖皇后 上巻・下 天授元年(庚寅年、西暦690年) 十一月一日(庚辰)、冬至を迎えた。太后は万象神宮にて祭祀を行い、大赦令を発布した。この時より周王朝の暦法を用い始め、「永昌元年11月」を「載初元年正月」と改称し、12月を臘月(祭礼の月)、従来の正月(夏正)を1月とした。周王室・漢皇室の子孫を二王后として遇し、舜・禹・成湯の末裔を三格(賓客待遇)、周王朝と隋王朝の継承者らは諸侯国と同等の地位に置かれた。 鳳閣侍郎で河東出身の宗秦客が「天」「地」など12文字の新字体を創作して献上。十一月八日(丁亥)より正式採用された。太后みずから名を「曌」(照)と定め、詔書は「制」と呼称変更した。秦客は太后の従姉妹の子にあたる。 十一月十六日(乙未)、司刑少卿周興が唐皇室一族の宗籍削除を上奏し許可された。 臘月二十三日(辛未)、僧・懐義を右衛大將軍に任じ鄂国公の爵位を与えた。 春一月十日(戊子)、武承嗣は文昌左相へ、岑長倩は文昌右相・同鳳閣鸞台三品へ昇進。鳳閣侍郎武攸寧が納言となり、邢文偉は内史を代行。左粛政大夫で同鳳閣鸞台三品の王本立は地官尚書に降格となった。攸寧は武士擭(則天武后の父)の兄の孫である。 当時、武承嗣と武三思が権勢を振るい、宰相たちも彼らにへつらっていた。地官尚書で同鳳閣鸞台三品の韋方質が病床につくと、二人が見舞いに訪れたが、方質は寝たまま礼を返さなかった。「死生は天命である。大丈夫たるもの、どうして近親権力者に媚びて生き延びようか」と諫める者にもこう言い放つ。まもなく周興らの讒言にあい、一月十五日(甲午)に儋州へ流罪となり家財没収となった。 二月十二日(辛酉)、太后は洛陽城殿で貢士(科挙合格者)を試験した。これが殿試(皇帝臨席の最終試験)の起源である。 二月十八日(丁卯)、地官尚書王本立が死去。 三月九日(丁亥)、特進・同鳳閣鸞台三品蘇良嗣が逝去。 夏四月十日(丁巳)、春官尚書で同平章事范履冰が反逆者を推薦した罪に問われ、投獄中に死亡した。 解説■時代背景と政治意図
■人事異動に見る支配構造
■制度史的重要事項
■人物相関図
■現代視点からの考察
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| 醴泉人侯思止,始以賣餅為業,後事游擊將軍高元禮為僕,素詭譎無賴。恆州刺史裴貞杖一判司,判司使思止告貞與舒王元名謀反,秋,七月,辛巳,元名坐廢,徙和州,壬午,殺其子豫章王但;貞亦族滅。擢思止為游擊將軍。時告密者往往得五品,思止求為御史,太后曰:「卿不識字,豈堪御史!」對曰:「獬豸何嘗識字?但能觸邪耳。」太后悅,即以為朝散大夫、侍御史。他日,太后以先所籍沒宅賜之,思止不受,曰:「臣惡反逆之人,不願居其宅。」太后益賞之。 衡水人王弘義,素無行,嘗從鄰舍乞瓜,不與,乃告縣官瓜田中有白兔。縣官使人搜捕,蹂踐瓜田立盡。又游趙、貝,見閭裡耆老作邑齋,遂告以謀反,殺二百餘人,擢授游擊將軍,俄遷殿中侍御史。或告勝州都督王安仁謀反,敕弘義按之。安仁不服,弘義即於枷上刎其首;又捕其子,適至,亦刎其首,函之以歸。道過汾州,司馬毛公與之對食,須臾,叱毛公下階,斬之,槍揭其首入洛,見者無不震慄。時置制獄於麗景門內,入是獄者,非死不出,弘義戲呼為「例竟門」。朝士人人自危,相見莫敢交言,道路以目。或因入朝密遭掩捕,每朝,輒與家人訣曰:「未知復相見否?」 時法官競為深酷,唯司刑丞徐有功、杜景儉獨存平恕,被告者皆曰:「遇來、侯必死,遇徐、杜必生。 |
醴泉出身の侯思止は、もともと焼き餅売りを生業としていたが、後に遊撃将軍・高元礼に従者として仕えていた。普段から狡猾でならず者であった。恒州刺史・裴貞がある判司(下級官吏)を杖罰したところ、その判司が侯思止を使って「裴貞が舒王・李元名と共謀して反乱を企てた」と告発させた。秋七月辛巳の日、李元名は連座で地位を剥奪され和州へ左遷。翌壬午に彼の子である豫章王・李但が処刑された。裴貞もまた一族皆殺しとなった。侯思止は遊撃将軍に抜擢される。 当時、密告者は五品官を得ることが多かったため、侯思止は御史への任命を求めた。則天武后が「卿は文字も読めぬのに、どうして御史が務まろうか」と問うと、「神獣・獬豸(かいち)だって文字など読みませんが、邪悪な者だけは突き刺すことができましたぞ」と答えた。武后は喜び、直ちに朝散大夫・侍御史に任じた。後日、武后が以前没収した邸宅を与えようとしたところ、侯思止は「臣は謀反人を嫌っておりますので、その住まいには入りたくありません」と拒否。これを聞いた武后はさらに彼を高く評価した。 衡水出身の王弘義は元来品行が悪く、隣家から瓜をもらえなかった時は「畑に白兎が出た」と偽って役人に通報し、捜索で瓜畑を踏み荒れさせて全滅させた。また趙州・貝州では里の老人たちが村祭りをしているのを見つけ、「謀反だ」と告発して二百余人を殺害させ、遊撃将軍に抜擢された後、まもなく殿中侍御史へ昇進した。ある時「勝州都督・王安仁が謀反を企てている」との密告があり、武后の命で王弘義が取り調べると、安仁は不服を唱えたため、彼は枷につながれたまま首を刎ねた。たまたま到着した息子も斬殺し、二人の首を箱詰めにして持ち帰った。汾州通過中には司馬・毛公と食事していたが、突然「下りろ」と怒鳴って階段で斬殺。槍に刺した首を持ち歩き洛陽入城すると、見た者皆が震え上がった。 当時、麗景門内に設置された特別監獄は「この獄に入れば死ぬまで出られぬ」と恐れられたため、王弘義は嘲笑って「例竟門(死刑確定門)」と呼んだ。朝廷官僚たちは互いに言葉も交わせず、目配せで意思を通じる有様だった。参朝途中に突然捕らえられることも多く、役人たちは毎朝家族と別れる際「再会できるか」と覚悟を決めたという。 裁判官の大半が苛烈な判決を競う中、ただ一人司刑丞・徐有功と杜景儉だけが公平かつ寛大であった。逮捕された者たちは皆こう噂した──「来俊臣や侯思止に当たれば必ず死ぬが、徐有功や杜景儉なら生きられる」と。 【解説】 1. 時代背景:則天武后の治世(690-705年)で告発政治が横行し、「麗景門の獄」は恐怖政治を象徴する施設 2. 人物造形: - 侯思止:狡猾な成り上がり者。文字も読めぬのに御史となり、武后への巧みな媚びで信任を得る - 王弘義:残虐性が突出した人物。日常的な裏切りから公権力による大量殺戮まで悪行のスケール拡大を示す 3. 表現技法: - 「道路以目」は『国語』周語上「道路で目だけで挨拶する」故事を踏まえ、恐怖支配下の社会状況を凝縮 - 対比構造:侯/王の残忍さと徐有功/杜景儉の仁恕を並置し、暗黒時代にあっても良心が存在したことを暗示 4. 史的意義: - 『資治通鑑』編者・司馬光は「酷吏伝」を通じて、権力監視システムが暴走する危険性に警鐘 - 「獬豸」の比喩は司法制度の形骸化を逆説的に暴露。神話的象徴と現実の腐敗との落差が諷刺効果を生む (注:現代日本語訳にあたり、固有名詞は歴史学の定訳に従い、「杖刑」「連座制」など当時の法制用語を平易な表現で再構成。原文の簡潔な叙事文体を保持しつつ、心理描写は「震え上がった」「覚悟を決めた」等の現代語で補完) Translation took 830.2 seconds. |
| 」 有功,文遠之孫也,名弘敏,以字行。初為蒲州司法,以寬為治,不施敲樸,吏相約有犯徐司法杖者,眾共斥之。迨官滿,不杖一人,職事亦修。累遷司刑丞,酷吏所誣構者,有功皆為直之,前後所活數十百家。嘗廷爭獄事,太后厲色詰之,左右為戰慄,有功神色不撓,爭之彌切。太后雖好殺,知有功正直,甚敬憚之。景儉,武邑人也。 司刑丞滎陽李日知亦尚平恕。少卿胡元禮欲殺一囚,日知以為不可,往複數日,元禮怒曰:「元禮不離刑曹,此囚終無生理!」日知曰:「日知不離刑曹,此囚終無死法!」竟以兩狀列上,日知果直。東魏國寺僧法明等撰《大雲經》四卷,表上之,言太后乃彌勒佛下生,當代唐為閻浮提主;制頒於天下。 武承嗣使周興羅告隋州刺史澤王上金、舒州刺史許王素節謀反,征詣行在。素節發舒州,聞遭喪哭者,歎曰:「病死何可得,乃更哭邪!」丁亥,至龍門,縊殺之。上金自殺。悉誅其諸子及支黨。 太后欲以太平公主妻其伯父士讓之孫攸暨,攸暨時為右衛中郎將,太后潛使人殺其妻而妻之。公主方額廣頤,多權略,太后以為類己,寵愛特厚,常與密議天下事。舊制,食邑,諸王不過千戶,公主不過三百五十戶;太平食邑獨累加至三千戶。 八月,甲寅,殺太子少保、納言裴居道;癸亥,殺尚書左丞張行廉。 |
現代日本語訳:徐有功(じょゆうこう)は徐文遠(じょぶんえん)の孫であり、本名を弘敏(こうびん)といったが字を通称とした。初め蒲州司法参軍として赴任した際には寛容な統治を行い、刑罰を用いることなく、配下の役人たちも「もし徐司法に杖で打たれるような過ちがあれば皆で排斥しよう」と誓い合った。任期満了まで一人たりとも杖で打つことはなく、職務は粛々と遂行された。その後累進して司刑丞となり、酷吏による誣告(ぶこく)の被害者をことごとく救済し、前後数十家から数百人もの命を救った。朝廷で裁判問題について激論した際には、則天武后が厳しい表情で詰問しても左右の者が震え上がる中、有功は微だに動ずることなく一層力強く主張した。殺戮を好んだ太后も彼の正直さを知り深く敬意と畏怖を抱いた。 朱景儉(しゅけいけん)は武邑県の出身である。 同じ司刑丞・李日知(りじっち)(滎陽出身)も公平な寛容主義を重んじた。少卿・胡元礼がある囚人を処刑しようとした時、日知が反対し数日にわたり議論した末、元礼は「私が司法にいる限りこの囚人は生きられぬ!」と怒鳴ると、日知は「私が居る限りこの囚人を死なせはしない」と応じた。最終的に双方の意見書が上奏され、結局日知の判断が正しかったことが証明された。 東魏国寺の僧・法明らが『大雲経』四巻を作成し献上した。「太后(則天武后)は弥勒仏の生まれ変わりであり唐に代わって閻浮提(人間界)を統べるべき」との内容で、詔勅により全国に公布された。 武承嗣が周興らを使嗾し隋州刺史・沢王李上金と舒州刺史・許王李素節の謀反を誣告させた。両者は洛陽へ召還され、素節は舒州を出発する際、葬式の哭声を聞き「病死こそ望むべきなのに(処刑される身が)なぜ泣くのか」と嘆いた。丁亥(二十日)、龍門に到着すると絞殺された。上金も自害し、彼らの息子たちや関係者全員が誅殺された。 太后は太平公主を伯父・武士譲の孫である武攸暨に嫁がせようとした。当時右衛中郎将だった攸暨には妻があったため、太后は密かにその妻を暗殺させて強制的に結婚させた。太平公主は広い額とふっくらした頬を持ち機略に富み、太后は「自分に似ている」として特に溺愛し、常に天下の政事について密議を交わした。旧制では封戸(所領)は王でも千戸未満、公主なら三百五十戸が上限だったが、太平公主には累積で三千戸という破格の待遇を与えられた。 八月甲寅(三日)、太子少保・納言裴居道を処刑。癸亥(十二日)に尚書左丞張行廉を殺害した。 解説:
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| 辛未,殺南安王穎等宗室十二人,又鞭殺故太子賢二子,唐之宗室於是殆盡矣,其幼弱存者亦流嶺南,又誅其親黨數百家。惟千金長公主以巧媚得全,自請為太后女,仍改姓武氏;太后愛之,更號延安大長公主。 九月,丙子,侍御史汲人傅遊藝帥關中百姓九百餘人詣闕上表,請改國號曰周,賜皇帝姓武氏,太后不許;擢遊藝為給事中。於是百官及帝室宗戚、遠近百姓、四夷酋長、沙門、道士合六萬餘人,俱上表如遊藝所請,皇帝亦上表自請賜姓武氏。戊寅,群臣上言:「有鳳皇自明堂飛入上陽宮,還集左台梧桐之上,久之,飛東南去;及赤雀數萬集朝堂。 庚辰,太后可皇帝及群臣之請。壬午,御則天數,赦天下,以唐為周,改元。乙酉,上尊號曰聖神皇帝,以皇帝為皇嗣,賜姓武氏;以皇太子為皇孫。 丙戌,立武氏七廟於神都,追尊周文王曰始祖文皇帝,妣姒氏曰文定皇后,平王少子武曰睿祖康皇帝,妣姜氏曰康惠皇后;太原靖王曰嚴祖成皇帝,妣曰成莊皇后;趙肅恭王曰肅祖章敬皇帝,魏義康王曰烈祖昭安皇帝,周安成王曰顯祖文穆皇帝,忠孝太皇曰太祖孝明高皇帝,妣皆如考謚,稱皇后。立武承嗣為魏王,三思為梁王,攸寧為建昌王,士擭兄孫攸歸、重規、載德、攸暨、懿宗、嗣宗、攸宜、攸望、攸緒、攸止皆為郡王,諸姑姊皆為長公主。 |
現代日本語訳辛未(かのとひつじ)の日、則天武后は南安王・李穎ら唐皇室一族十二名を処刑し、さらに亡き廃太子・李賢の二人の子孫を鞭打ちで殺害した。これにより唐王朝の宗室はほぼ壊滅状態となり、辛うじて生き残った幼い者たちも嶺南(現在の広東省周辺)へ流罪となった。また関係する親族や与党数百家が誅殺された。ただ千金長公主だけは巧みに媚びを売ることで命拾いし、自ら進んで武后の養女となることを願い出て姓を「武」と改めたため、武后は彼女を寵愛して称号を「延安大長公主」へ変更した。 九月丙子(ひのえね)の日、侍御史・汲県出身の傅遊藝が関中地方の民衆九百人余りを率いて宮門に赴き、「国号を周と改め皇帝(睿宗)に武姓を与えるよう」求める上奏文を提出した。しかし武后はこれを許可せず、かえって傅遊藝を給事中の官位へ昇進させた。すると今度は百官や皇室の親族、遠近の民衆、周辺民族の首長、僧侶・道士ら合わせて六万人以上がこぞって同様の請願を行い、皇帝自らも「武氏を賜姓してほしい」との上表文を奉呈した。戊寅(つちのえとら)の日には群臣が祥瑞(吉兆)として報告した:「鳳凰が明堂から飛び立ち上陽宮に入り、その後左台にある梧桐に舞い戻って長くとどまり東南へ去った。さらに赤雀数万羽が朝堂に集まった」と。 庚辰(かのえたつ)の日、武后は皇帝及び群臣の請願を遂に許可した。壬午(みずのえうま)の日、「則天楼」において詔勅を発し天下に大赦令を布告するとともに唐王朝を周へ改め元号も変更された。乙酉(きのととり)の日には武后は「聖神皇帝」との尊称を得て正式に即位、従前の皇帝・李旦(睿宗)は皇太子相当の地位である「皇嗣」となり強制的に姓を武氏へ改められた。先代の皇太子は「皇孫」と格下げとなった。 丙戌(ひのえいぬ)の日、神都(洛陽)において武氏七廟が建立された。周王朝の文王を始祖「文皇帝」と追尊し、その妃・姒氏には「文定皇后」の称号を与えた。平王の末子である武公は睿祖「康皇帝」に、母の姜氏は「康惠皇后」にそれぞれなった。太原靖王は厳祖「成皇帝」、趙粛恭王は肅祖「章敬皇帝」、魏義康王は烈祖「昭安皇帝」、周安成王は顕祖「文穆皇帝」と追号され、武則天の父・武士彠(ぶしえき)には太祖「孝明高皇帝」を奉った。各人の妃も同様に皇后号が贈られた。さらに武承嗣を魏王に、三思を梁王に、攸寧を建昌王に封じたほか、士彠の兄孫にあたる攸帰・重規・載徳・攸暨(ゆうき)・懿宗・嗣宗・攸宜・攸望・攸緒・攸止ら全員が郡王となり、武氏一族の女性は皆「長公主」となった。 解説
※特筆すべき点:『資治通鑑』原文では「鳳凰」「赤雀」等の祥瑞が詳細に記される一方で、「六万人請願」という人為的操作には批判的距離を置く。史家・司馬光は武則天による権力掌握過程が「自然的天命」ではなく「作為的な演出」であったことを暗に示唆していると言える。 Translation took 1952.7 seconds. |
| 又以司賓卿溧陽史務滋為納言,鳳閣侍郎宗秦客檢校內史,給事中傅遊藝為鸞台侍郎、平章事。遊藝與岑長倩、右玉鈐衛大將軍張虔勖、左金吾大將軍丘神勣、侍御史來子珣等並賜姓武。秦客潛勸太后革命,故首為內史。遊藝期年之中歷衣青、綠、朱、紫,時人謂之四時仕宦。 敕改州為郡;或謂太后曰:「陛下始革命而廢州,不祥。」太后遽追止之。命史務滋等十人存撫諸道。癸卯,太后立兄孫延基等六人為郡王。 冬,十月,甲子,檢校內史宗秦客坐贓貶遵化尉,弟楚客、晉卿亦以奸贓流嶺外。 丁卯,殺流人韋方質。 辛未,內史邢文偉坐附會宗秦客貶珍州刺史。頃之,有制使至州,文偉以為誅己,遽自縊死。 壬申,敕兩京諸州各置大雲寺一區,藏《大雲經》,使僧升高座講解,其撰疏僧雲宣等九人皆賜爵縣公,仍賜紫袈裟、銀龜袋。 制天下武氏鹹蠲課役。 西突厥十姓,自垂拱以來,為東突厥所侵掠,散亡略盡。濛池都護繼往絕可汗斛瑟羅收其餘眾六七萬人入居內地,拜左衛大將軍,改號竭忠事主可汗。 道州刺史李行褒兄弟為酷吏所陷,當族,秋官郎中徐有功固爭不能得。秋官侍郎周興奏有功故出反囚,當斬,太后雖不許,亦免有功官;然太后雅重有功,久之,復起為侍御史。有功伏地流涕固辭曰:「臣聞鹿走山林而命懸包廚,勢使之然也。 |
現代日本語訳:また司賓卿・溧陽出身の史務滋を納言に任命し、鳳閣侍郎の宗秦客には検校内史の役職を与え、給事中の傅遊藝は鸞台侍郎兼平章事とした。傅遊藝と岑長倩、右玉鈐衛大將軍張虔勖、左金吾大將軍丘神勣、侍御史来子珣らはいずれも武姓を賜った。宗秦客が密かに則天武后に革命(易姓革命)を促したため、最初の内史となったのである。傅遊藝は一年のうちに青→緑→朱→紫と官服色が変わるほど昇進し、「四季仕宦」と呼ばれた。 詔勅で州を郡へ改称しようとした際、武后に「陛下が革命を始められたばかりなのに周王朝由來の『州』を廃止されるのは不吉です」と諫める者が現れ、急遽撤回された。史務滋ら十人を諸道巡察使として派遣し民心安定を図る一方で、武后は兄孫・延基ら六人を郡王に封じた。 十月になると検校内史宗秦客が汚職の罪で遵化尉へ左遷され、弟の楚客と晋卿も不正蓄財により嶺南へ流刑となった。さらに丁卯(21日)には流刑中の韋方質を処刑し、辛未(25日)には内史邢文偉が宗秦客への与同罪で珍州刺史に左遷される事態に。ほどなく勅使が到着すると彼は自殺命令と誤解して縊死した。 壬申(26日)、両京と各州に大雲寺建立を命じ『大雲経』収蔵・講義を実施。注釈書執筆僧の雲宣ら九人には県公の爵位を与え紫袈裟・銀亀袋を授けた。また全武氏宗族への租税免除特権も発布された。 西突厥十姓部族は則天武后の治世(垂拱年間)以降、東突厥侵攻でほぼ壊滅状態に。濛池都護・継往絶可汗斛瑟羅が残党六~七万を率いて唐領内へ移住し、「竭忠事主可汗」として左衛大将軍に任じられた。 道州刺史李行褒兄弟は酷吏の罠で族誅判決を受けた際、秋官郎中徐有功が強硬に反論した結果、逆に周興から「謀反人を故意に見逃した罪」と弾劾される。武后は斬刑こそ見送ったものの彼を免職とした(後に復帰させるも辞退された)。徐有功は地面に伏して涙ながらに「鹿が山林へ逃れても結局厨房で死ぬのは運命です」と訴えたという。 解説:
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| 陛下以臣為法官,臣不敢枉陛下法,必死是官矣。」太后固授之,遠近聞者相賀。 是歲,以右衛大將軍泉獻誠為左衛大將軍。太后出金寶,命選南北牙善射者五人賭之,獻誠第一,以讓右玉鈐衛大將軍薛咄摩,咄摩復讓獻誠。獻誠乃奏言:「陛下令選善射者,今多非漢官,竊恐四夷輕漢,請停此射。」太后善而從之。 則天順聖皇后上之下天授二年(辛卯,公元六九一年) 正月,癸酉朔,太后始受尊號於萬象神宮,旗幟尚赤。甲戌,改置社稷於神都。辛巳,納武氏神主於太廟;唐太廟之在長安者,更命曰享德廟。四時唯享高祖已下三廟,餘四室皆閉不享。又改長安崇先廟為崇尊廟。乙酉,日南至,大享明堂,祀昊天上帝,百神從祀,武氏祖宗配享,唐三帝亦同配。 御史中丞知大夫事李嗣真以酷吏縱橫,上疏,以為:「今告事紛紜,虛多實少,恐有凶慝陰謀離間陛下君臣。古者獄成,公卿參聽,王必三宥,然後行刑。比日獄官單車奉使,推鞫既定,法家依斷,不令重推;或臨時專決,不復聞奏。如此,則權由臣下,非審慎之法,倘有冤濫,何由可知!況以九品之官專命推覆,操殺生之柄,竊人主之威,按覆既不在秋官,省審復不由門下,國之利器,輕以假人,恐為社稷之禍。」太后不聽。 饒阻尉姚貞亮等數百人表請上尊號曰上聖大神皇帝,不許。 |
現代日本語訳陛下は私を法官に任命されました。私は陛下の法を曲げるわけにはいきません。この職務のために死ぬ覚悟です。」と述べたが、太后(則天武后)は固執して彼に官職を与えた。これを聞いた遠近の人々は互いに祝賀した。 同年、右衛大將軍の泉献誠を左衛大將軍とした。太后は金銀財宝を取り出し、南北両衙門から優れた弓射の技を持つ者五人を選んで競わせたところ、献誠が一位となった。彼は右玉鈐衛大將軍の薛咄摩に順位を譲ろうとし、咄摩もまた献誠へ譲ろうとした。これに対し献誠は上奏して言うには、「陛下は弓射の名人を選ばせましたが、今や多くは漢人(唐王朝の中核)の役人ではありません。ひそかに恐れるのは、四夷(周辺民族)に漢人が軽んじられることであります。どうかこの競技をお止めください。」と述べた。太后はこれを良しとして従った。 則天順聖皇后・上之下 天授二年(辛卯、西暦691年) 正月癸酉の朔日(1月1日)、太后が万象神宮において初めて尊号を受けた。旗幟は赤を尊んだ。翌甲戌日(2日)、社稷壇を神都(洛陽)に移設した。辛巳日(9日)、武氏の祖霊を太廟に合祀し、長安にある唐の太廟は「享徳廟」と改称された。四季の祭祀では高祖以下の三廟のみを祭り、残る四室は閉じて祭らなかった。また長安の崇先廟を崇尊廟へ改名した。乙酉日(13日)、冬至にあたり盛大に明堂で昊天上帝を祀り、百神が従って祀られ、武氏の祖先も配祀された。唐の三帝(高祖・太宗・高宗)も同様に配祀された。 御史中丞であり大夫職を代行する李嗣真は、酷吏たちが横行している状況を見て上疏した。「現在、告発事件が乱立し虚偽が多いのは実態とかけ離れています。凶悪な陰謀により陛下と臣下との関係が引き裂かれることを危惧します。古代では裁判が終結する際には公卿が陪聴し、王は三度赦免を検討した後に刑罰を執行しました。ところが最近の獄吏は単独で出向き審理を終えると、法家(司法官)はその判決に従い再審を許さず、あるいは臨機応変に専断して上奏もしません。これでは権力は臣下に移り慎重な裁判とは言えず、冤罪が出ても気付きようがありません!ましてや九品の下級官吏が独断で再審査し生死を掌握するのは君主の威光を簒奪する行為です。調査も刑部(秋官)が行わず門下省による確認もないまま、国家権力という利器を軽々しく他人に委ねることは社稷(国家)の災いとなる恐れがあります。」しかし太后は聞き入れなかった。 饒阻尉・姚貞亮ら数百人が上表し「至高神聖皇帝」との尊号奉呈を請願したが、則天武后は許さなかった。 解説
(本訳注:固有名詞は原則として歴史学界の定訳を用い、「衙門」「社稷」等の制度語は現代日本語で理解可能な表現を採用。原文の紀年方式については西暦併記により可読性を確保) Translation took 959.3 seconds. |
| 侍御史來子珣誣尚衣奉御劉行感兄弟謀反,皆坐誅。春,一月,地官尚書武思文及朝集使二千八百人表請封中岳。 己亥,廢唐興寧、永康、隱陵署官,唯量置守戶。 左金吾大將軍丘神勣以罪誅。 納言史務滋與來俊臣同鞫劉行感獄,俊臣奏務滋與行感親密,意欲寢其反狀。太后命俊臣並推之,庚子,務滋恐懼自殺。 或告文昌右丞周興與丘神勣通謀,太后命來俊臣鞫之,俊臣與興方推事對食,謂興曰:「囚多不承,當為何法?」興曰:「此甚易取。取大甕,以炭四周炙之,令囚入中,何事不承!」俊臣乃索大甕,火圍如興法,因起謂興曰:「有內狀推史,請兄入此甕。」興惶恐,叩頭服罪。法當死,太后原之。二月,流行嶺南,在道,為仇家所殺。 興與索元禮、來俊臣競為暴刻,興、元禮所殺各數千人,俊臣所破千餘家。元禮殘酷尤甚,太后亦殺之以慰人望。 徙左衛大將軍千乘王武攸暨為定王。 立故太子賢之子光順為義豐王。 甲子,太后命始祖墓曰德陵,睿祖墓曰喬陵,嚴祖墓曰節陵,肅祖墓曰簡陵,烈祖墓曰靖陵,顯祖墓曰永陵,改章德陵為昊陵,顯義陵為順陵。 追復李君羨官爵。 夏,四月,壬寅朔,日有食之。 癸卯,制以釋教開革命之階,升於道教之上。 命建安王攸宜留守長安。 丙辰,鑄大鐘,置北闕。 五月,以岑長倩為武威道行軍大總管,擊吐蕃,中道召還,軍竟不出。 |
現代日本語訳:侍御史の来子珣が尚衣奉御・劉行感とその兄弟に謀反の冤罪を着せ、彼らは処刑された。春一月、地官尚書の武思文および朝集使二千八百人が中岳(嵩山)封禅の実施を上奏した。 己亥の日、唐の興寧陵・永康陵・隠陵の管理官吏を廃止し、必要最小限の守戸のみを配置した。 左金吾大将軍・丘神勣は罪により誅殺された。 ある者が文昌右丞・周興が丘神勣との共謀を告発すると、太后は来俊臣に取り調べさせた。俊臣が周興と食事中に「被疑者が自白しない時はどうするか」と尋ねると、周興は「大甕を炭火で焼き、囚人を中に入れれば何でも自白する」と答えた。そこで俊臣は大甕を用意して火にかけ、「告発文書が届いたので貴殿をこの甕へどうぞ」と言うと、周興は叩頭して罪を認めた。死刑相当だったが太后は減刑し、二月に嶺南へ流刑とした。しかし道中で仇家に殺害された。 周興・索元礼・来俊臣は苛烈な尋問競争を行い、周興と元礼は各々数千人を処刑し、俊臣は千余家を破滅させた。特に残虐だった索元礼は、太后が世論鎮静のため誅殺した。 左衛大将軍・千乗王武攸暨を定王に転封。 甲子の日、則天武后は先祖の陵名を制定: 始祖墓→徳陵、睿祖墓→喬陵、 厳祖墓→節陵、粛祖墓→簡陵、 烈祖墓→靖陵、顕祖墓→永陵。 併せて章徳陵を昊陵に、顕義陵を順陵に改称。 李君羨の官爵を追復。 癸卯(2日)、詔勅で「仏教は易姓革命(武周革命)の理論的根拠となった」とし、道教より上位に位置付けた。 建安王・武攸宜を長安留守に任命。 五月、岑長倩を武威道行軍大総管として吐蕃討伐に向かわせたが、途中で召還され出兵は中止となった。 解説:
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| 六月,以左肅政大夫格輔元為地官尚書,與鸞台侍郎樂思晦、鳳閣侍郎任知古並同平章事。思晦,彥□之子也。 秋,七月,徙關內戶數十萬以實洛陽。 八月,戊申,納言武攸寧罷為左羽林大將軍;夏官尚書歐陽通為司禮卿兼判納言事。 庚申,殺玉鈐衛大將軍張虔勖。來俊臣鞫虔勖獄,虔勖自訟於徐有功;俊臣怒,命衛士以刀亂斫殺之,梟首於市。 義豐王光順、嗣雍王守禮、永安王守義、長信縣主等皆賜姓武氏,與睿宗諸子皆幽閉宮中,不出門庭者十餘年。守禮、守義,光順之弟也。或告地官尚書武思文初與徐敬業通謀;甲子,流思文於嶺南,複姓徐氏。 九月,乙亥,殺岐州刺史雲弘嗣。來俊臣鞫之,不問一款,先斷其首,乃偽立案奏之。其殺張虔勖亦然。敕旨皆依,海內鉗口。 鸞台侍郎、同平章事傅遊藝夢登湛露殿,以語所親,所親告之;壬辰,下獄,自殺。 癸巳,以左羽林衛大將軍建昌王武攸寧為納言,洛州司馬狄仁傑為地官侍郎,與冬官侍郎裴行本並同平章事。太后謂仁傑曰:「卿在汝南,甚有善政,卿欲知譖卿者名乎!」仁傑謝曰:「陛下以臣為過,臣請改之;知臣無過,臣之幸也,不願知譖者名。」太后深歎美之。 先是,鳳閣舍人修武張嘉福使洛陽人王慶之等數百人上表,請立武承嗣為皇太子。文昌右相、同鳳閣鸞台三品岑長倩以皇嗣在東宮,不宜有此議,奏請切責上書者,告示令散。 |
現代日本語訳六月、左粛政大夫格輔元を地官尚書(戸部長官)に任じ、鸞台侍郎(門下次官)楽思晦・鳳閣侍郎(中書次官)任知古とともに同平章事(宰相待遇)とした。思晦は彦□(えん)の子である。 秋七月、関内から数十万戸を移住させて洛陽の人口充実を図った。 八月戊申(3日)、納言(門下長官)武攸寧を左羽林大将軍に降格し、夏官尚書(兵部長官)欧陽通を司礼卿兼判納言事とした。庚申(15日)、玉鈐衛大将軍張虔勖を処刑した。来俊臣が取り調べ中、虔勖が裁判官の徐有功に無罪を訴えたため、俊臣は激怒して衛兵に刀で斬りつけさせ殺害し、さらし首とした。 義豊王光順・嗣雍王守礼・永安王守義・長信県主らは全員武姓を与えられ、睿宗の皇子たちとともに宮中に監禁され、十余年も外出を許されなかった。守礼と守義は光順の弟である。地官尚書武思文が徐敬業の反乱に加担したとの密告があり、甲子(19日)、思文を嶺南へ流罪とし徐姓に戻させた。 九月乙亥(5日)、岐州刺史雲弘嗣を殺害。来俊臣は供述を得ぬまま斬首し、偽の判決書を作成して奏上した。張虔勖処刑も同様であった。則天武后が全て許可したため、天下は口をつぐんだ。 鸞台侍郎・同平章事傅遊藝が湛露殿に登る夢を親友に話したところ密告され、壬辰(22日)投獄後に自殺。癸巳(23日)、左羽林衛大将軍建昌王武攸寧を納言とし、洛州司馬狄仁傑を地官侍郎に抜擢して冬官侍郎裴行本とともに同平章事とした。太后が「汝南での善政の後、讒言した者を知りたいか」と問うと、仁傑は「過ちがあれば改めますが、告発者の名など知る必要はありません」と返答し、武后を感嘆させた。 先立って鳳閣舎人張嘉福が洛陽の王慶之ら数百人に上表させ、武承嗣の皇太子擁立を請願させた。文昌右相岑長倩は「現皇嗣(中宗)が東宮におられるのに不適切」と奏上し、上書者への叱責と解散命令を求めた。 解説【歴史的背景】
【人物分析】
【制度変遷】
【政治力学】
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| 太后又問地官尚書、同平章事格輔元,輔元固稱不可。由是大忤諸武意,故斥長倩令西征吐蕃,未至,征還,下制獄。承嗣又譖輔元。來俊臣又脅長倩子靈原,令引司禮卿兼判納言事歐陽通等數十人,皆雲同反。通為俊臣所訊,五毒備至,終無異詞,俊臣乃詐為通款。冬,十月,己酉,長倩、輔元、通等皆坐誅。 王慶之見太后,太后曰:「皇嗣我子,奈何廢之?」對曰:「『神不歆非類,民不祀非族。』今誰有天下,而以李氏為嗣乎!」太后諭遣之。慶之伏地,以死泣請,不去。太后乃以印紙遺之曰:「欲見我,以此示門者。」自是慶之屢求見,太后頗怒之,命鳳閣侍郎李昭德賜慶之杖。昭德引出光政門外,以示朝士曰:「此賊欲廢我皇嗣,立武承嗣!」命撲之,耳目皆血出,然後杖殺之,其黨乃散。 昭德因言於太后曰:「天皇,陛下之夫;皇嗣,陛下之子。陛下身有天下,當傳之子孫為萬代業,豈得以侄為嗣乎!自古未聞侄為天子而為姑立廟者也!且陛下受天皇顧托,若以天下與承嗣,則天皇不血食矣。」太后亦以為然。昭德,乾祐之子也。 壬辰,殺鸞台侍郎、同平章事樂思晦、右衛將軍李安靜。安靜,綱之孫也。太后將革命,王公百官皆上表勸進,安靜獨正色拒之。及下制獄,來俊臣詰其反狀,安靜曰:「以我唐家老臣,須殺即殺!若問謀反,實無可對!」俊臣竟殺之。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より抜粋)則天武后が地官尚書で同平章事の格輔元に再び尋ねたところ、輔元は「不可」と強く主張した。これによって諸武(武氏一族)の意を大きく損ない、長倩(岑長倩)は吐蕃征討のために西方へ派遣されたが、到着前に召還され、詔獄に下された。武承嗣もまた輔元を讒言した。来俊臣は長倩の子・霊原を脅迫し、司礼卿兼判納言事の欧陽通ら数十人を巻き添えにするよう強要した。皆が「共謀して反乱を企てた」とされたのである。 欧陽通は来俊臣に尋問され、五毒(全ての拷問)を受けたが最後まで供述を変えず、俊臣は偽りの自供書を作成した。冬十月己酉の日、長倩・輔元・通らは皆誅殺された。 王慶之が太后に拝謁すると、太后は言った。「皇嗣(中宗李顕)は我が子である。どうして廃せようか?」 これに対し慶之は答えた。「『神霊は異族の捧げ物を受けず、民は他姓を祀らぬ』と申します。今や天下をお持ちなのは(武氏の)陛下ですのに、なぜ李氏を後継者に?」 太后は退出を命じたが、慶之は地面に伏し死を賭けて泣きながら請願し、去ろうとしない。太后は印紙を与えて言った。「我に会いたければ、これを見せよ」。以来、慶之は度々拝謁を求めたため、太后はついに怒り、鳳閣侍郎の李昭徳に命じて杖刑を与えさせた。 昭徳は彼を光政門外へ引き出し、朝廷の役人たちに見せて言った。「この賊めが皇嗣廃立と武承嗣擁立を企てている!」 そして撲打(殴打)で目や耳から出血させた後に杖殺した。慶之の一派はこれで離散した。 昭徳は太后に進言した。「天皇(高宗)は陛下の夫、皇嗣は陛下の子です。天下を持つ身として子孫へ伝えるべきであり、甥を後継者にするのは道理に反します。古より甥が天子となり姑のために廟を建てた例などありません! また陛下は天皇から託された天下を承嗣に与えれば、天皇の祭祀が絶えます」。これを聞いた太后も「その通りだ」と認めた。昭徳は李乾祐(唐の大臣)の子である。 壬辰の日、鸞台侍郎・同平章事の楽思晦と右衛将軍の李安静を殺害した。安静は李綱(隋唐の名臣)の孫であった。則天武后が革命(易姓革命)を行おうとした時、王公百官こぞって推戴上表した中で、ただ一人安静は厳しく拒絶した。詔獄に下され来俊臣に謀反の証拠を問われた彼は言い放った。「私は唐の老臣だ! 殺すなら殺せ! 謀反などと問うのは全く見当違い!」 結局、俊臣によって殺害された。 解説■歴史的背景
■人物関係の焦点
■政治力学
■『資治通鑑』の史的意義この記述は単なる事件録ではなく、「権力継承における血縁原理の限界」を照射。
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| 太學生王循之上表,乞假還鄉,太后許之。狄仁傑曰:「臣聞君人者唯殺生之柄不假人,自餘皆歸之有司。故左、右丞,徒以下不句;左、右相,流以上乃判,為其漸貴故也。彼學生求假,丞、簿事耳,若天子為之發敕,則天下之事幾敕可盡乎!必欲不違其願,請普為立制而已。」太后善之。 |
訳文:大学生王循之上表し、休暇を乞いて郷里に帰らんことを請うた。皇太后これを許した。狄仁傑が言った。「臣は聞く、人君たる者は生殺の権だけは他人に委ねず、それ以外のことについては全て役所へ任せるものだと。だから左丞・右丞(尚書省次官)は徒刑以下の案件を裁かず、左相・右相(宰相)は流刑以上の案件で初めて判決を行うのは、職位が高くなるにつれて慎重になるためである。あの学生の休暇願いなどは、丞や主簿クラスの役人が扱う問題だ。もし天子自らが詔書を発するようなことがあれば、天下の事柄はいったいいくつの勅令で処理しきれようか?必ずや彼らの希望に沿いたければ、普遍的な制度として定めるべきです」。皇太后はこれを良しとした。 解説:
※特筆すべきは狄仁傑が「休暇願い自体」を否定していない点で、科挙官僚として学生層への配慮も持ち合わせた現実主義的な姿勢が窺える。則天武后が即座に採用したのは、彼女の合理主義的統治理念との親和性を示している。 Translation took 823.6 seconds. |
| input text 資治通鑑\205_唐紀_21.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百五 唐紀二十一 起玄黓執徐,盡柔兆涒灘,凡五年。 則天順聖皇后中之上長壽元年(壬辰,公元六九二年) 正月,戊辰朔,太后享萬象神宮。 臘月,立故于闐王尉遲伏闍雄之子瑕為于闐王。 春,一月,丁卯,太后引見存撫使所舉人,無問賢愚,悉加擢用,高者試鳳閣舍人、給事中,次試員外郎、侍御史、補闕、拾遺、校書郎。試官自此始。時人為之語曰:「補闕連車載,拾遺平斗量;欋推侍御史,碗脫校書郎。」有舉人沈全交續之曰:「心存撫使,瞇目聖神皇。」為御史紀先知所擒,劾其誹謗朝政,請杖之朝堂,然後付法,太后笑曰:「但使卿輩不濫,何恤人言!宜釋其罪。」先知大慚。太后雖濫以祿位收天下人心,然不稱職者,尋亦黜之,或加刑誅。挾刑賞之柄以駕御天下,政由己出,明察善斷,故當時英賢亦競為之用。 寧陵丞廬江郭霸以謅諛干太后,拜監察御史。中丞魏元忠病,霸往問之,因嘗其糞,喜曰:「大夫糞甘則可憂;今苦,無傷也。」元忠大惡之,遇人輒告之。戊辰,以夏官尚書楊執柔同平章事。執柔,恭仁弟之孫也,太后以外族用之。 初,隋煬帝作東都,無外城,僅有短垣而已,至是,鳳閣侍郎李昭德始築之。 左台中丞來俊臣羅告同平章事任知古、狄仁傑、裴行本、司農卿裴宣禮、前文昌左丞盧獻、御史中丞魏元忠、潞州刺史李嗣真謀反。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻二百五「唐紀二十一」より 玄黓執徐の年から柔兆涒灘まで、総て五年間。 則天順聖皇后・中之上 長寿元年(壬辰、692年) 正月戊辰朔日(1月1日)、武則天が万象神宮で祭祀を行う。 春一月丁卯日、武則天は存撫使(官吏推薦官)が推挙した人物を引見し、能力に関わらず全員登用。高位者は鳳閣舎人や給事中を試験的に任じ、次位には員外郎・侍御史・補闕・拾遺・校書郎の職を与えた。「試官(仮任命制度)」が始まったのはこの時である。当時の風刺歌に「補闕は車ごと溢れ、拾遺は升で量るほど。侍御史を櫂で掻き集め、校書郎は碗から零れる」とあり、挙人・沈全交が「存撫使こそ目潰しの聖神皇(武則天)」と続けた。これを聞いた御史・紀先知が彼を捕らえ「朝廷誹謗罪」として奏上。「廷で杖刑後に処罰すべき」と主張したが、武則天は笑って言った。「卿らが不正しなければ世間の批評など恐れぬ。赦免せよ」。紀先知は大いに恥じた。 ※ 武則天は官位を濫発して人心掌握を図る一方、不適格者は速やかに罷免・処刑した。恩賞と刑罰で天下を統御し、政務を全て独断。その明察果断さゆえ有能者も競って仕えた。 寧陵丞(県副官)・郭覇は媚びへつらいで武則天の歓心を得て監察御史となる。中丞・魏元忠が病臥すると見舞いに行き、その糞を嘗めて言った。「甘ければ危険だが苦いから無事です」。魏元忠は強く嫌悪し、人ごとにこの話をした。 戊辰日(1月2日)、夏官尚書・楊執柔を同平章事に任命。彼は恭仁の弟の孫で、武則天が外戚として登用したもの。 ※ 隋の煬帝が造営した洛陽東都には外城壁がなく短い垣根のみだったが、鳳閣侍郎・李昭徳がこの時初めて本格的な築城に着手する。 左台中丞・来俊臣が同平章事の任知古や狄仁傑らを謀反容疑で虚偽告発。対象は司農卿・裴宣礼、前文昌左丞・盧献、御史中丞・魏元忠、潞州刺史・李嗣真に及んだ。 解説【武則天の統治術】
【当時の社会風刺】
【政治腐敗構造】
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| 先是,來俊臣奏請降敕,一問即承反者得減死。及知古等下獄,俊臣以此誘之,仁傑對曰:「大周革命,萬物惟新,唐室舊臣,甘從誅戮。反是實!」俊臣乃少寬之。判官王德壽謂仁傑曰:「尚書定減死矣。德壽業受驅策,欲求少階級,煩尚書引楊執柔,可乎?」仁傑曰:「皇天后土遣狄仁傑為如此事!」以頭觸柱,血流被面;德壽懼而謝之。 侯思止鞫魏元忠,元忠辭氣不屈;思止怒,命倒曳之。元忠曰:「我薄命,譬如墜驢,足絓於鐙,為所曳耳。思止愈怒,更曳之,元忠曰:「侯思止,汝若須魏元忠頭則截取,何必使承反也!」 狄仁傑既承反,有司待報行刑,不復嚴備。仁傑裂衾帛書冤狀,置綿衣中,謂王德壽曰:「天時方熱,請授家人去其綿。」德壽許之。仁傑子光遠得書,持之稱變,得召見。則天覽之,以問俊臣,對曰:「仁傑等下獄,臣未嘗褫其巾帶,寢處甚安,苟無事實,安肯承反!」太后使通事舍人周絲林往視之,俊臣暫假仁傑等巾帶,羅立於西,使絲林視之;絲林不敢視,唯東顧唯諾而已。俊臣又詐為仁傑等謝死表,使絲林奏之。 樂思晦男未十歲,沒入司農,上變,得召見。太后問狀,對曰:「臣父已死,臣家已破,但惜陛下法為俊臣等所弄。陛下不信臣言,乞擇朝臣之忠清、陛下素所信任者,為反狀以付俊臣,無不承反矣。 |
現代日本語訳以前、来俊臣は詔勅の降下を上奏し、「一度尋問されただけで謀反を自白した者は死刑を減刑する」とした。狄仁傑らが投獄されると、俊臣はこの規定を用いて彼らを誘導しようとしたところ、仁傑は「大周による革命後、万物は一新されました。私は唐の旧臣として、誅殺されることに甘んじます。謀反は事実です!」と答えたため、俊臣は少し警戒を緩めた。判官・王徳寿が仁傑に言うには、「尚書(狄仁傑)は死刑を免れることになりました。私は上司の命令で動いており、わずかながら昇進したいのです。ついては楊執柔も共犯として引き入れて頂けませんか?」と頼むと、仁傑は「天地神明よ! どうして私がそんなことを!」と叫び柱に頭を打ち付け、血が顔中に流れたので、徳寿は恐れ謝罪した。 侯思止が魏元忠を取り調べた際、元忠の口調は屈服せず、思止は怒って逆さに引き摺るよう命じた。元忠は「私は運が悪く、まるで驢馬から落ちて鐙に足を引っかけたように引き摺られているだけだ」と言うと、思止はさらに激怒して引き摺り続けさせた。元忠は叫んだ。「侯思止よ! お前が私の首を欲しければ斬れ! なぜ謀反の自白を強要するのか!」 狄仁傑が謀反を認めたため、役人は刑執行の指示待ちとなり警戒も緩んでいた。仁傑は布団から裂いた絹に冤罪の訴状を書き、綿入れ衣の中に入れると王徳寿へ「暑くなってきたので家族に綿を取り除かせてほしい」と申し出た。許可を得て息子・光遠がその文書を受け取り変事を通報したため、則天武后は召見した。俊臣は問い詰められると、「仁傑らには囚人服も脱がせず寢具も整えております。自白がないならなぜ謀反を認めるでしょう?」と弁解し、通事舍人の周絲林に検分させた。俊臣は急いで仁傑らに官服を着け西側へ並ばせるが、絲林はまともに見ず東を向いて適当に応答しただけだった。さらに俊臣は偽りの「謝死表」を作成し絲林に奏上させた。 楽思晦の十歳未満の息子は司農寺に没収されていたが、異変を通報して召見される。武后が事情を尋ねると、「父は既に亡く家も滅びましたが、陛下の法が俊臣らに弄ばれるのが惜しいのです。私の言葉をお疑いなら、忠清で信頼できる朝臣を選んで偽りの謀反状を作り俊臣へ渡せば皆自白するでしょう」と答えた。 解説
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| 」太后意稍寤,召見仁傑等,問曰:「卿承反何也?對曰:「不承,則已死於拷掠矣。」太后曰:「何為作謝死表?」對曰:「無之。」出表示之,乃知其詐,於是出此七族。庚午,貶知古江夏令,仁傑彭澤令,宣禮夷陵令,元忠涪陵令,獻西鄉令;流行本、嗣真於嶺南。 俊臣與武承嗣等固請誅之,太后不許。俊臣乃獨稱行本罪尤重,請誅之;秋官郎中徐有功駁之,以為:「明主有更生之恩,俊臣不能將順,虧損恩信。」殿中侍御史貴鄉霍獻可,宣禮之甥也,言於太后曰:「陛下不殺裴宣禮,臣請隕命於前。」以頭觸殿階,血流沾地,以示為人臣不私其親。太后皆不聽。獻可常以綠帛裹其傷,微露之於帕頭下,冀太后見之以為忠。 甲戌,補闕薛謙光上疏,以為:「選舉之法,宜得實才,取捨之間,風化所繫。今之選人,咸稱覓舉,奔競相尚,喧訴無慚。至於才應經邦,惟令試策;武能制敵,止驗彎弧。昔漢武帝見司馬相如賦,恨不同時,及置之朝廷,終文園令,知其不堪公卿之任故也。吳起將戰,左右進劍,起曰:『將者提鼓揮桴,臨敵決疑,一劍之任,非將事也。』然則虛文豈足以佐時,善射豈足以克敵!要在文吏察其行能,武吏觀其勇略,考居官之臧否,行舉者賞罰而已。」 來俊臣求金於左衛大將軍泉獻誠,不得,誣以謀反,下獄。 |
現代日本語訳太后(則天武后)の疑念は次第に解け、狄仁傑らを召し出して問いただした。「卿らがなぜ謀反を認めたのか?」これに対し狄仁傑は答えた。「認めなければ、拷問でとっくに死んでいました」太后が「では謝死表(処刑を願い出る文書)はなぜ作ったのか?」と尋ねると、「そんなものは作成していません」と言う。太后が文書を取り出すと偽造だと判明し、七人の一族を釈放した。庚午の日、知古を江夏県令へ左遷させ、仁傑は彭沢県令に、宣礼は夷陵県令に、元忠は涪陵県令に、献は西郷県令にそれぞれ降格処分とした。行本と嗣真は嶺南への流刑となった。 しかし来俊臣らは武承嗣と共に強硬に彼らの死刑を主張したが、太后は許可しなかった。そこで来俊臣は単独で「行本の罪状が特に重い」として処刑を要求。これに対し秋官郎中・徐有功は反論した。「聖明なる君主には人を生かす恩情があるのに、俊臣はそれに従わず陛下の威信を損なっている」と。一方で殿中侍御史・霍献可(裴宣礼の甥)が太后へ進言する場面があった。「もし裴宣礼をお殺しにならなければ、この場で自決いたします」。そう宣言して階段に頭を打ちつけ、地面に血痕を残すことで「臣下として私情を持たぬ」とアピールした。しかし太后は聞き入れない。献可はその後も傷口を緑の布で包みながらわざと幞頭(帽子)から少し見えるようにし、「忠誠の証」を太后に印象付けようとした。 甲戌の日、補闕・薛謙光が上疏した。「官吏登用制度では真の人材を得るべきです。採用基準は社会風俗にも影響します。今の受験者たちは推薦求め奔走し、露骨な自己宣伝も恥じない状況です。(問題なのは)国政を担える文官には筆記試験だけ、軍事能力ある武官には弓術のみで判断していること。かつて漢武帝は司馬相如の賦(詩文)に感嘆したが朝廷登用後は文園令(文化職)にとどめました――公卿の任に耐えぬと悟ったからです。また呉起が戦闘中、側近が剣を差し出すと『将帥の役目は陣太鼓で指揮することだ』と言いました。美文が時務を助けられるか?弓術だけで敵軍に勝てるか?(真の評価法とは)文官には実績・能力、武官には勇略を査察し、在任中の善悪を審査した上で推挙者への賞罰を行うべきです」。 その後来俊臣が左衛大將軍・泉献誠へ賄賂を要求して断られると、「謀反の疑いあり」と誣告し投獄させた。 解説
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| 乙亥,縊殺之。 庚辰,司刑卿、檢校陝州刺史李游道為冬官尚書、同平章事。 二月,己亥,吐蕃党項部落萬餘人內附,分置十州。 戊午,以秋官尚書袁智弘同平章事。 夏,四月,丙申,赦天下,改元如意。 五月,丙寅,禁天下屠殺及捕魚蝦。江淮旱,饑,民不得采魚蝦,餓死者甚眾。右拾遺張德,生男三日,私殺羊會同僚,補闕杜肅懷一餤,上表告之。明日,太后對仗,謂德曰:「聞卿生男,甚喜。」德拜謝。太后曰:「何從得肉?」德叩頭服罪。太后曰:「朕禁屠宰,吉凶不預。然卿自今召客,亦須擇人。」出肅表示之。肅大慚,舉朝欲唾其面。 吐蕃酋長曷蘇帥部落請內附,以右玉鈐衛將軍張玄遇為安撫使,將精卒二萬迎之。六月,軍至大渡水西,曷蘇事洩,為國人所擒。別部酋長昝捶帥羌蠻八千餘人內附,玄遇以其部落置萊川州而還。 辛亥,萬年主簿徐堅上疏,以為:「書有五聽之道,令著三覆之奏。竊見比有敕推按反者,令使者得實,即行斬決。人命至重,死不再生,萬一懷枉,吞聲赤族,豈不痛哉!此不足肅奸逆而明典刑,適所以長威福而生疑懼。臣望絕此處分,依法覆奏。又,法官之任,宜加簡擇,有用法寬平,為百姓所稱者,願親而任之;有處事深酷,不允人望者,願疏而退之。」堅,齊聃之子也。 夏官侍郎李昭德密言於太后曰:「魏王承嗣權太重。 |
現代日本語訳乙亥の日、彼を絞殺した。 二月己亥、吐蕃党項部族一万余人が帰順し、十州に分置された。 夏四月丙申、大赦令を発して元号を如意と改めた。 吐蕃首長の曷蘇(カス)が部族を率いて帰順を請うたため、右玉鈐衛将軍張玄遇を安撫使とし精兵二万で迎えさせた。六月、大渡水西岸に到着した時、曷蘇の計画が露見して吐蕃側に捕らわれた。別部族首長の昝捶(ザンツイ)が羌蛮八千余人を率いて帰順し、玄遇は彼らの部族を萊川州に置いて引き揚げた。 辛亥の日、万年県主簿徐堅が上疏した。「書経には五聴(証拠検討法)、律令には三覆奏(死刑再審制度)があるのに、最近は謀反人の即時処刑を許す勅命が出ている。人命は最も重く死んで再生せず、万一冤罪があれば無念のうちに一族皆殺しとなるのは痛ましい。これは逆賊抑止や法典明示にならず、かえって権力濫用と民衆の恐怖を助長する。この勅命の中止と法定再審手続きの実施をお願いしたい。また裁判官人事についても、法運用が公正で民心を得ている者を登用し、苛酷で人望ない者は排除すべきである」と。徐堅は斉聃(セイテン)の子であった。 夏官侍郎李昭德が太后に密奏した。「魏王承嗣の権力が強すぎます。」 解説
※注:原文の干支日付(乙亥・庚辰等)は当時の暦法表記を保持し、現代語訳では固有名詞以外にルビを一切付加していません。 Translation took 1624.4 seconds. |
| 」太后曰:「吾侄也,故委以腹心。」昭德曰:「侄之於姑,其親何如子之於父?子猶有篡弒其父者,況侄乎!今承嗣既陛下之侄,為親王,又為宰相,權侔人主,臣恐陛下不得久安天位也!」太后矍然曰:「朕未之思。」秋,七月,戊寅,以文昌左相、同鳳閣鸞台三品武承嗣為特進,納言武攸寧為冬官尚書,夏官尚書、同平章事楊執柔為地官尚書,並罷政事;以秋官侍郎新鄭崔元綜為鸞台侍郎,夏官侍郎李昭德為鳳閣侍郎,檢校天官侍郎姚璹為文昌左丞,檢校地官侍郎李元素為文昌右丞,與司賓卿崔神基並同平章事。□,思廉之孫;元素,敬玄之弟也。辛巳,以營繕大匠王璿為夏官尚書、同平章事。承嗣亦毀昭德於太后,太后曰:「吾任昭德,始得安眠,此代吾勞,汝勿言也。」是時,酷吏恣橫,百官畏之側足,昭德獨廷奏其奸。太后好祥瑞,有獻白石赤文者,執政詰其異,對曰:「以其赤心。」昭德怒曰:「此石赤心,他石盡反邪?」左右皆笑。襄州人胡慶以丹漆書龜腹曰:「天子萬萬年。」諧闕獻之。昭德以刀刮盡,奏請付法。太后曰:「此心亦無惡。」命釋之。 太后習貓,使與鸚鵡共處,出示百官。傳觀未遍,貓饑,搏鸚鵡食之,太后甚慚。 太后自垂拱以來,任用酷吏,先誅唐宗室貴戚數百人,次及大臣數百家,其刺史、郎將以下,不可勝數。 |
現代日本語訳:則天武后が言われた。「彼は私の甥であるから、腹心として重用しているのだ。」李昭徳が進言した。「甥と姑の関係がどれほど親しいといっても、子と父には及ばないでしょう。それでも子の中には父親を殺害してその地位を奪う者がいるのです。ましてや甥となればなおさらです!今、武承嗣は陛下の甥として親王となり、宰相にも就いています。その権力は君主に匹敵するほどで、臣は陛下が天位(帝位)に安泰であり続けられるか危惧しております。」太后は驚いて言われた。「私はそのことを考えていなかった。」 秋七月戊寅の日、文昌左相・同鳳閣鸞台三品であった武承嗣を特進とし、納言の武攸寧を冬官尚書に転任させ、夏官尚書で同平章事だった楊執柔を地官尚書とした。いずれも政務からは退かせた。代わって秋官侍郎・新鄭出身の崔元綜を鸞台侍郎とし、夏官侍郎の李昭徳を鳳閣侍郎に任命した。また検校天官侍郎の姚璹(ようしゅく)を文昌左丞とし、検校地官侍郎の李元素を文昌右丞として、司賓卿・崔神基ら全員を同平章事とした。(□は思廉の孫であり、元素は敬玄の弟である。)辛巳の日には営繕大匠であった王璿(おうせん)が夏官尚書兼同平章事となった。 武承嗣も太后に対して李昭徳を誹謗したが、則天武后は言われた。「私は昭徳を用いて初めて安眠できるようになった。彼が私の労苦を分担してくれているのだから、これ以上何も言うな。」 当時、酷吏たちが横行し百官は恐れおののいていた中で、李昭徳だけが朝廷において公然と彼らの悪行を奏上した。則天武后は吉祥の兆し(瑞祥)を好まれたため、ある者が赤い文様のある白い石を献上すると、執政官たちは「どこに珍しい点があるのか」と問いただした。その者は答えた。「この石には忠誠心が宿っています。」昭徳は怒って言った。「この石だけが真心を持ち、他の石は全て謀反するというのか?」左右の者たちは皆笑い出した。 襄州出身の胡慶(こけい)という者が亀の腹に朱漆で「天子万万年」と書き記し、宮廷へ献上した。昭徳が刀で文字を削り落として処罰を奏請すると、太后は言われた。「これも悪意があるわけではない。」釈放するよう命じられた。 則天武后は飼っていた猫に鸚鵡と同居させて百官に見せていた。見て回っている途中で猫が空腹になり、鸚鵡を捕えて食べてしまったため、太后は大変恥ずかしがられた。 垂拱年間(685-688年)以来、則天武后は酷吏を用いて唐の宗室や貴戚数百人を最初に誅殺し、次いで大臣数百家を処刑した。刺史・郎将以下の者は数えきれないほどであった。 解説:
※原文『資治通鑑』の記述意図:皇族・外戚による権力独占の危険性を歴史的事例で警告すると同時に、李昭徳のような諫臣の重要性を示唆したものと解釈されます。 Translation took 808.3 seconds. |
| 每除一官,戶婢竊相謂曰:「鬼樸又來矣。」不旬月,輒遭掩捕、族誅。監察御史朝邑嚴善思,公直敢言。時告密者不可勝數,太后亦厭其煩,命善思按問,引虛伏罪者八百五十餘人。羅織之黨為之不振,乃相與共構陷善思,坐流歡州。太后知其枉,尋復召為渾儀監丞。善思名譔,以字行。 右補闕新鄭朱敬則以太后本任威刑以禁異議,今既革命,眾心已定,宜省刑尚寬,乃上疏,以為:「李斯相秦,用刻薄變詐以屠諸侯,不知易之以寬和,卒至土崩,此不知變之禍也。漢高祖定天下,陸賈、叔孫通說之以禮義,傳世十二,此知變之善也。自文明草昧,天地屯蒙,三叔流言,四凶構難,不設鉤距,無以應天順人,不切刑名,不可摧奸息暴。故置神器,開告端,曲直之影必呈,包藏之心盡露,神道助直,無罪不除,蒼生晏然,紫宸易主。然而急趨無善跡,促柱少和聲,向時之妙策,乃當今之芻狗也。伏願覽秦、漢之得失,考時事之合宜,審糟粕之可遺,覺蘧廬之須毀,去萋菲之牙角,頓奸險之鋒芒,窒羅織之源,掃朋黨之跡,使天下蒼生坦然大悅,豈不樂哉!」太后善之,賜帛三百段。 侍御史周矩上疏曰:「推劾之吏皆相矜以虐,泥耳籠頭,枷研楔A191,摺膺籤爪,懸發薰耳,號曰『獄持』。或累日節食,連宵緩問,晝夜搖撼,使不得眠,號曰『宿囚』。 |
現代日本語訳:役職に任命される者が現れるたび、宮女たちはひそかにささやきあった。「また生贄が来たぞ」と。十日も経たぬうちにその者は捕らえられ、一族皆殺しとなった。 監察御史・朝邑出身の厳善思(げんぜんし)は公正かつ率直で直言を厭わなかった。当時密告者が溢れる中、則天武后すら煩わしさを感じて彼に調査を命じたところ、虚偽の罪状が露見しただけで850人以上が自白した。これにより誣告集団は弱体化し、逆に共謀して善思を陥れたため、彼は流刑となった。しかし武后は冤罪と悟りすぐに天文官(渾儀監丞)として召還している。(※本名「譔」だが字で通した) 右補闕・新鄭出身の朱敬則(しゅけいそく)が上疏: 「陛下が当初、刑罰で反対派を抑えたのは時勢ゆえでした。しかし革命も成り民衆は安定した今こそ、刑法を緩和すべきです」 →秦の李斯は苛烈な統治で諸侯を滅ぼし転換できず王朝崩壊(変革失敗例)。漢の高祖は陸賈らに礼儀による統治を学び12代続いた(成功例)。 「陛下即位時、反乱鎮圧には厳罰も必要でした。しかし急ぎ過ぎれば善政残せぬ。過去の妙策も今や『用済みの人形』です」 →誣告構造を断ち党派争いを排し民衆が安心こそ喜びでは? 武后はこれを称賛、絹三百反(たん)を与えた。 侍御史・周矩(しゅうく)の上疏: 「取り調べ官たちは虐待を競う:耳に泥詰め/頭かご嵌め/枷で首締め/胸骨折り/爪串刺し/髪吊るし/煙で耳炙り...これ『獄持』と称す。また断食強要・昼夜連続尋問(緩問)・睡眠妨害による衰弱拷問を『宿囚』と呼ぶ」 解説:【歴史的背景】
【人物分析】
【現代的示唆】
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| 此等既非木石,且救目前,苟求賒死。臣竊聽輿議,皆稱天下太平,何苦須反!豈被告者儘是英雄,欲求帝王邪?但不勝楚毒自誣耳。願陛下察之。今滿朝側息不安,皆以為陛下朝與之密,夕與之仇,不可保也。周用仁而昌,秦用刑而亡。願陛下緩刑用仁,天下幸甚!」太后頗采其言,制獄稍衰。 太后春秋雖高,善自塗澤,雖左右不覺其衰。丙戌,敕以齒落更生,九月,庚子,御則天門,赦天下,改元。更以九月為社。制於并州置北都。 癸丑,同平章事李游道、王璿、袁智弘、崔神基、李元素、春官侍郎孔思元、益州長史任令輝,皆為王弘義所陷,流嶺南。 左羽林中郎將來子珣坐事流愛州,尋卒。初,新豐王孝傑從劉審禮擊吐蕃,為副總管,與審禮皆沒於吐蕃。贊普見孝傑泣曰:「貌類吾父。」厚禮之,後竟得歸,累遷右鷹揚衛將軍。孝傑久在吐蕃,知其虛實。會西州都督唐休璟請復取龜茲、于闐、疏勒、碎葉四鎮,敕以孝傑為武威軍總管,與左武衛大將軍阿史那忠節將兵擊吐蕃。冬,十月,丙戌,大破吐蕃,復取四鎮,置安西都護府於龜茲,發兵戍之。 則天順聖皇后中之上長壽二年(癸巳,公元六九三年) 正月,壬辰朔,太后享萬象神宮,以魏王承嗣為亞獻,梁王三思為終獻。太后自製神宮樂,用舞者九百人。 戶婢團兒為太后所寵信,有憾於皇嗣,乃譖皇嗣妃劉氏、德妃竇氏為厭咒。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)これらの者は木石ではなく、ただ目先の苦痛を逃れようとしているに過ぎません。私は人々の声を聞く限り、「天下は太平であるのに、どうして反乱など起こす必要があるのか」と言っています。告発された者たちがすべて英雄で帝王になろうとするほどの人物でしょうか? ただ耐え難い拷問に苦しんで自ら罪を認めただけではないかと存じます。陛下にはこのことをお察しいただければ幸甚です。朝廷内は皆、息を潜めて不安におののき、「陛下が朝には密かに親しくしておられながら、夕方には仇敵のように扱われる」と言い、身の安全を保てないと恐れております。周王朝は仁政で栄え、秦帝国は刑罰主義で滅びました。どうか陛下には刑法を緩め仁徳をお用いになりたければ、天下これ以上なく幸いに存じます。」太后(則天武后)はこの言葉をいくらか受け入れ、弾圧政策の手綱を少し緩めた。 太后は高齢ながらも自ら丹念に化粧をするため、側近すら彼女の老いを感じさせなかった。丙戌の日には「歯が再生した」として祝賀し、9月庚子の日に則天門に出御して大赦令を発布、元号を改めるとともに9月に社祭を行うよう定めた。さらに并州(太原)を北都と制定。 癸丑の日、同平章事李游道・王璿ら六名が王弘義に陥れられて嶺南へ流罪となった。左羽林中郎将の来子珣も事件に連座して愛州へ配流され、まもなく死亡した。 元々新豊出身の王孝傑は劉審礼とともに吐蕃を攻撃し副総管として従軍するが、劉審礼共々捕虜となった。吐蕃国王(ツェンポ)が彼を見て涙しながら「父君に似ている」と言い厚遇したため、後に帰国でき右鷹揚衛将軍まで昇進した。王孝傑は長期滞在で吐蕃の内情を熟知しており、西州都督唐休璟が亀茲・于闐など西域四鎮奪還を上奏すると、武威軍総管に任じられ阿史那忠節と共に出撃。冬10月丙戌に大勝し四鎮を回復、亀茲に安西都護府を設置して守備兵を置いた。 則天順聖皇后 長寿2年(癸巳・693年) 正月壬辰朔、太后は万象神宮で祭祀を行い魏王武承嗣が亞献、梁王武三思が終献を務めた。太后自ら制作した祭礼楽曲を用い舞人は900名を動員。 戸籍係女官の団児(トアル)は皇嗣(中宗李顕)に恨みを持ち「皇嗣妃劉氏と徳妃竇氏が妖術で呪詛している」と太后へ讒言した。 解説
※原文では干支・日付が頻出しますが、現代語訳では「丙戌の日」等と簡略化しつつ歴史的事件との整合性は保持しています(例:王孝傑の吐蕃征伐=692年冬)。皇族名(武承嗣ら)や官職名(同平章事・鷹揚衛将軍等)は必要最小限に留め、文脈理解を優先しました。 Translation took 777.2 seconds. |
| 癸巳,妃與德妃朝太后於嘉豫殿,既退,同時殺之,瘞於宮中,莫知所在。德妃,抗之曾孫也。皇嗣畏忤旨,不敢言,居太后前,容止自如。團兒復欲害皇嗣,有言其情於太后者,太后乃殺團兒。 是時,告密者皆誘人奴婢告其主,以求功賞。德妃父孝諶為潤州刺史,有奴妄為妖異以恐德妃母龐氏,龐氏懼,奴請夜祠禱解,因發其事。下監察御史龍門薛季昶按之,季昶誣奏,以為與德妃同祝詛,先涕泣不自勝,乃言曰:「龐氏所為,臣子所不忍道。」太后擢季昶為給事中。龐氏當斬,其子希瑊詣侍御史徐有功訟冤,有功牒所司停刑,上奏論之,以為無罪;季昶奏有功阿黨惡逆,請付法,法司處有功罪當絞。令史以白有功,有功歎曰:「豈我獨死,諸人永不死邪!」既食,掩扇而寢。人以為有功苟自強,必內憂懼,密伺之,方熟寢。太后召有功,迎謂曰:「卿比按獄,失出何多?」對曰:「失出,人臣之小過;好生,聖人之大德。」太后默然。由是龐氏得減死,與其三子皆流嶺南,孝諶貶羅州司馬,有功亦除名。 戊申,姚璹奏請令宰相撰《時政記》,月送史館;從之。《時政記》自此始。 臘月,丁卯,降皇孫成器為壽春王,恆王成義為衡陽王,楚王隆基為臨淄王,衛王隆范為巴陵王,趙王隆業為彭城王,皆睿宗之子也。 春,一月,庚子,以夏官侍郎婁師德同平章事。 |
現代日本語訳癸巳の日、皇妃(劉氏)と徳妃(竇氏)が嘉豫殿で太后(則天武后)に挨拶した。退出後、二人は同時に殺害され、宮中に埋葬されたため所在不明となった。徳妃は竇抗の曾孫である。皇嗣(後の睿宗)は太後の意に逆らうことを恐れ、発言できずにいたが、太后の前では平静を装っていた。侍女の団児が再び皇嗣を害そうとしたが、その企てを太后に密告する者がおり、太后は団児を処刑した。 当時、密告者は他人の奴婢を唆して主人を告発させ、論功行賞を得ようとしていた。徳妃の父・竇孝諶は潤州刺史であったが、家奴が怪異を装って徳妃の母・龐氏を脅迫し、龐氏が恐れたところ「夜に祈祷すれば災いを除ける」と言い寄り、その隙に事件を告発した。監察御史・薛季昶(龍門出身)が取り調べたが、彼は虛偽の報告を行い、「徳妃と共に太后への呪詛を企てた」と主張し、先ず涙ながらに「龐氏の所業は臣下として口にするのも忍びない」と述べた。これにより薛季昶は給事中に昇進した。 龐氏は斬刑判決を受けたが、息子・竇希瑊が侍御史・徐有功に冤罪を訴えた。徐有功は関係部署へ刑の執行停止を通達し「無罪」と上奏したが、薛季昶は「徐有功が逆賊を庇護している」と反論して法廷送致を要求した。司法当局は徐有功を絞首刑に処すべきとした。令史(下級官吏)がこれを伝えると、徐有功は嘆息して言った。「私だけが死ぬというのか? 彼らは永遠に死なないとでも?」食事後には扇子で顔を覆い熟睡したため、密かに様子を見ていた者も「内心の憂いは全く見せず平然としている」と驚いた。太后が徐有功を召し出して問うと、「卿はこれまで裁判で過失による釈放が多いな」と言った。徐有功は答えた。「過失による釈放は臣下の小さな過ちですが、生命を慈しむのは聖人の大いなる徳です」。太后は沈黙したため龐氏は死刑を免れ、三子と共に嶺南へ流罪となった。竇孝諶は羅州司馬に左遷され、徐有功も官職を剥奪された。 戊申の日、姚璹が「宰相による『時政記』編纂を毎月史館へ提出させる」よう上奏し、これが認められた(『時政記』制度の始まり)。 臘月丁卯、皇孫・李成器は寿春王に降格され、恆王・李成義は衡陽王、楚王・李隆基(後の玄宗)は臨淄王、衛王・李隆範は巴陵王、趙王・李隆業は彭城王となった。いずれも睿宗の子である。 春正月庚子、夏官侍郎・婁師徳が同平章事に任命された。 解説
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| 師德寬厚清慎,犯而不校。與李昭德俱入朝,師德體肥行緩,昭德屢待之不至,怒罵曰:「田舍夫!」師德徐笑曰:「師德不為田舍夫,誰當為之!」其弟除代州刺史,將行,師德謂曰:「吾備位宰相,汝復為州牧,榮寵過盛,人所疾也,將何以自免?」弟長跪曰:「自今雖有人唾某面,某拭之而已,庶不為兄憂。」師德愀然曰:「此所以為吾憂也!人唾汝面,怒汝也;汝拭之,乃逆其意,所以重其怒。夫唾,不拭自干,當笑而受之。」甲寅,前尚方監裴匪躬、內常侍范雲仙坐私謁皇嗣,腰斬於市。自是公卿以下皆不得見。又有告皇嗣潛有異謀者,太后命來俊臣鞫其左右,左右不勝楚毒,皆欲自誣。太常工人京兆安金藏大呼謂俊臣曰:「公既不信金藏之言,請剖心以明皇嗣不反。」即引佩刀自剖其胸,五藏皆出,流血被地。太后聞之,令轝入宮中,使醫內五藏,以桑皮線縫之,傅以藥,經宿始蘇。太后親臨視之,歎曰:「吾有子不能自明,使汝至此。」既命俊臣停推。睿宗由是得免。 罷舉人習《老子》,更習太后所造《臣軌》。 二月,丙子,新羅王政明卒,遣使立其子理洪為王。 乙亥,禁人間錦。侍御史侯思止私畜錦,李照德按之,杖殺於朝堂。 或告嶺南流人謀反,太后遣司刑評事萬國俊攝監察御史就按之。國俊至廣州,悉召流入,矯制賜自盡。 |
現代日本語訳師徳は寛大で誠実、清廉かつ慎重であり、他人から害を受けても決して仕返しをしなかった。李昭徳と共に参内した際、体躯肥大の師徳が歩み遅かったため、何度も待たされた昭徳は怒って「田舎者め!」と罵った。すると師徳は悠然と笑いながら言った。「この私でなくて誰が田舎者の役を務めるというのか」。 甲寅(日)、前尚方監・裴匪躬と内常侍・范雲仙が皇嗣への私的謁見を咎められ市場で腰斬刑に処された。これ以降公卿以下の面会は全面禁止となる。さらに皇嗣の謀反疑惑が浮上すると、則天武后は酷吏・来俊臣に調査を命じた。拷問に耐えかね自白しようとした側近たちの中で、楽工・安金蔵が突然「それではこの心臓で証拠を見せよう!」と叫びながら短刀で自らの胸を切り裂いた。内臓が露出し地面は血の海となった。 科挙受験生向け必修科目から『老子』を廃止し、武后著の『臣軌』へ変更。 解説(1) 娄師徳の処世哲学「唾面自乾(唾が顔にかかっても拭わず自然に乾くまで待つ)」の故事として著名なエピソード。則天武后治下の苛烈な政界で宰相職を全うした背景には、徹底した自己抑制と他者への寛容があったことが窺える。弟へ授けた教えは老子「和光同塵」思想とも通じる処世術であり、「怒りに逆らわず受け流す」姿勢が武周朝の権力闘争を生き抜く知恵であった。 (2) 安金蔵の決死行動皇嗣(後の睿宗)への忠誠を示した劇的な事件。当時は告発=即死刑という恐怖政治下で、自らの内臓さえ抉る物理的証明が不可欠だった。武后が人心掌握術として「臣下の忠節を感動的に評価する」場面演出を用いた可能性も指摘されるが、結果として俊臣ら酷吏の暴走に歯止めをかけた歴史的転機となった。 (3) 政策変更の背景『老子』から『臣軌(君臣の心得)』への教科書切替えは道教勢力弱体化と儒教的道徳観強化を意図した施策。民間錦禁止令は過剰な奢侈防止より「皇帝専用素材」として権威象徴化を推進する目的が強く、違反者への公開処刑(侯思止例)で規律徹底を示す恐怖政治の典型と言える。 (4) 万国俊事件の本質流民粛清は「謀反予防」名目での組織的虐殺。監察御史が詔勅を偽造できる体制的矛盾、更に武后自身が過剰な暴力装置(酷吏システム)を作り出した結果として発生した悲劇である。後の『資治通鑑』編纂時に司馬光が特に批判的に記述した部分であり、則天政治の暗部を象徴する事件となっている。
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| 流人號呼不服,國俊驅就水曲,盡斬之,一朝殺三百餘人。然後詐為反狀,還奏,因言諸道流人,亦必有怨望謀反者,不可不早誅。太后喜,擢國俊為朝散大夫、行侍御史。更遣右翊衛兵曹參軍劉光業、司刑評事王德壽、苑南面監丞鮑思恭、尚輦直長王大貞、右武威衛兵曹參軍屈貞筠皆攝監察御史,詣諸道按流人。光業等以國俊多殺蒙賞,爭效之,光業殺七百人,德壽殺五百人,自餘少者不減百人,其遠年雜犯流人亦與之俱斃。太后頗知其濫,制:「六道流人未死者並家屬皆聽還鄉里。」國俊等亦相繼死,或得罪流竄。 來俊臣誣冬官尚書蘇干,雲在魏州與琅邪王沖通謀,夏,四月,乙未,殺之。 五月,癸丑,棣州河溢,流二千餘家。 秋,九月,丁亥朔,日有食之。 魏王承嗣等五千人表請加尊號曰金輪聖神皇帝。 乙未,太后御衛象神宮,受尊號,赦天下。作金輪等七寶,每朝會,陳之殿庭。 庚子,追尊昭安皇帝曰渾元昭安皇帝,文穆皇帝曰立極文穆皇帝,孝明高皇帝曰無上孝明高皇帝,皇后從帝號。 辛丑,以文昌左丞、同平章事姚璹為司賓卿,罷政事;以司賓卿萬年豆盧欽望為內史,文昌左丞韋巨源同平章事,秋官侍郎吳人陸元方為鸞台侍郎、同平章事。巨源,孝寬之玄孫也。 則天順聖皇后中之上延載元年(甲午,公元六九四年) 正月,丙戌,太后享萬象神宮。 |
現代日本語訳:流刑人らが無実を叫んで従わなかったため、万国俊は彼らを水辺に追い立てて皆殺しにした。一日で三百余人を斬り捨てた。その後、偽りの謀反の証拠を作成して報告し、「各地方の流刑人も必ずや朝廷への恨みから謀反を企てているはずです。早期誅伐が必要不可欠」と上奏した。則天武后は喜び、万国俊を朝散大夫・行侍御史に昇進させた。 さらに右翊衛兵曹参軍の劉光業、司刑評事の王徳寿、苑南面監丞の鮑思恭、尚輦直長の王大貞、右武威衛兵曹参軍の屈貞筠らを臨時の監察御史に任命し、各地へ派遣して流刑人を取り調べさせた。劉光業らは万国俊が多数殺害したことで恩賞を得た例を見て競い合って倣ったため、劉光業は七百人、王徳寿は五百人を処刑し、その他の者も少なくとも百人は斬り捨てた。過去の軽微な罪で流刑となっていた者までも巻き添えにした。 武后はこの濫殺が過ぎると気づいたため、「六道(全国)の流刑人で生存している者は家族と共に郷里へ帰還を許可する」との詔勅を下した。万国俊らもその後相次いで死亡、あるいは罪を得て流刑となった。 来俊臣が冬官尚書・蘇干を誣告し、「魏州において琅邪王李沖と謀反を共に企んだ」と報告したため、夏四月乙未の日(4月28日)、処刑された。五月癸丑(5月16日)には棣州で黄河が氾濫し二千戸余りが流出被害を受けた。 秋九月丁亥朔(9月27日)に日食があった。魏王武承嗣ら五千人が上表して則天武后への尊号「金輪聖神皇帝」の追加を請願した。乙未(10月5日)、武后は万象神宮に出御し尊号を受け、大赦を行った。「七宝」と呼ばれる金輪などの儀礼用具を作らせ、毎朝これらを殿庭に陳列させた。 庚子(10月10日)には昭安皇帝(武士彠)の諡号を「渾元昭安皇帝」と追尊し、文穆皇帝は「立極文穆皇帝」、孝明高皇帝は「無上孝明高皇帝」とした。皇后らも同様に帝号化した。 辛丑(10月11日)、文昌左丞・同平章事の姚璹を司賓卿に転任させ実権から外し、代わって司賓卿・万年出身の豆盧欽望を内史に任命。文昌左丞の韋巨源を同平章事とし、秋官侍郎・呉郡出身の陸元方を鸞台侍郎・同平章事とした。韋巨源は北周名将・韋孝寬の玄孫である。 則天順聖皇后中之上 延載元年(甲午年/694年) 正月丙戌(1月14日)、武后が万象神宮で祭祀を執り行った。 解説:■ 歴史的背景 ■ 特筆すべき事象 ■ 人物関係の焦点 ■ 天災と統治 ■ 現代語訳の方針 Translation took 921.8 seconds. |
| 突厥可汗骨篤祿卒,其子幼,弟默啜自立為可汗。臘月,甲戌,默啜寇靈州。室韋反,遣右鷹揚衛大將軍李多祚擊破之。 春,一月,以婁師德為河源等軍檢校營田大使。 二月,武威道總管王孝傑破吐蕃孛文論贊刃、突厥可汗俀子等於泠泉及大嶺,各三萬餘人,碎葉鎮守使韓思忠破泥熟俟斤等萬餘人。 庚午,以僧懷義為代北道行軍大總管,以討默啜。 三月,甲申,以鳳閣舍人蘇味道為鳳閣侍郎、同平章事,李昭德檢校內史,更以僧懷義為朔方道行軍大總管,以李昭德為長史,蘇味道為司馬,帥契苾明、曹仁師、沙吒忠義等十八將軍以討默啜,未行,虜退而止。昭德嘗與懷義議事,失其旨,懷義撻之,昭德惶懼請罪。 夏,四月,壬戌,以夏官尚書、武威道大總管王孝傑同鳳閣鸞台三品。 五月,魏王承嗣等二萬六千餘人上尊號曰越古金輪聖神皇帝。甲午,御則天門樓受尊號,赦天下,改元。 天授中,遣監察御史壽春裴懷古安集西南蠻。六月,癸丑,永昌蠻酋薰期帥部落二十餘萬戶內附。 河內有老尼居神都麟趾寺,與嵩山人韋什方等以妖妄惑眾。尼自號淨光如來,雲能知未然;什方自雲吳赤烏元年生。又有老胡亦自言五百歲,雲見薛師已二百年矣,容貌愈少。太后甚信重之,賜什方姓武氏。秋,七月,癸未,以什方為正諫大夫、同平章事,制云:「邁軒代之廣成,逾漢朝之河上。 |
翻訳本文:突厥(とっけつ)の可汗である骨篤祿が死去し、後継者の息子は幼少であったため、弟の默啜(ぼくてつ)が自ら可汗に即位した。12月甲戌の日、默啜が霊州へ侵攻する。これと同時期に室韋(シベ)族が反乱を起こすも、右鷹揚衛大將軍・李多祚が鎮圧軍として派遣され平定した。 春に入り1月、婁師徳を河源等軍検校営田大使に任命する。続く2月には武威道総管の王孝傑が吐蕃(とばん)の将軍・孛文論贊刃および突厥可汗俀子ら率いる軍勢各3万余人を泠泉及び大嶺で撃破した。さらに碎葉鎮守使・韓思忠も泥熟俟斤らの1万余りの兵を打ち破る。 庚午の日、則天武后は僧侶である薛懐義(せつえぎ)を代北道行軍大総管に任命し默啜討伐に向かわせた。 3月甲申には鳳閣舎人・蘇味道が鳳閣侍郎兼同平章事へ昇進。一方、李昭徳は内史代理となり薛懐義の役職を朔方道行軍大総管に変更した。ここで李昭徳を長史(副司令官)、蘇味道を司馬(参謀)として契苾明ら18将軍を率い默啜討伐に向かわせようとしたが、出陣前に突厥軍が撤退したため中止となる。なお薛懐義は過去に作戦会議で李昭徳の意見が自らの意向と食違い激怒し殴打する事件があり、李昭徳は恐怖から謝罪していた。 夏4月壬戌には武威道大総管・王孝傑を宰相格(同鳳閣鸞台三品)に抜擢。 5月に入ると魏王武承嗣ら2万6千余人が則天武后へ「越古金輪聖神皇帝」の尊号を奉呈。甲午には則天門楼で正式に称号を受諾し、恩赦発令と改元(年号変更)を行った。 一方で地方統治では──天授年間に派遣された監察御史・裴懐古が西南蛮族を帰順させた功績により、6月癸丑には永昌蛮首長の薰期が20万戸超える部族を率いて服属する事態となった。 他方で宗教面では河内出身の老尼僧が洛陽・麟趾寺にて嵩山人韋什方らと妖術を用い民衆を扇動。老尼は「浄光如来」を自称し未来予知能力があると詐称、韋什方は三国時代(呉)の赤烏元年生まれだと偽る。さらに西域出身の老人も500歳と名乗り「薛懐義師匠を200年前から見ているが若返っている」と述べた。則天武后は彼らを深く信頼し韋什方に「武」姓を与える。 秋7月癸未には韋什方を正諫大夫兼宰相代理(同平章事)へ任命する詔勅が出され、そこでは「軒轅帝時代の仙人・広成子をも超え、漢王朝の河上公より優れている」との賛辞が記された。 翻訳解説:
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| 」八月,什方乞還山,制罷遣之。 戊辰,以王孝傑為瀚海道行軍總管,仍受朔方道行軍大總管薛懷義節度。 己巳,以司賓少卿姚璹為納言;左肅政中丞原武楊再思為鸞台侍郎,洛州司馬杜景儉為鳳閣侍郎,並同平章事。 豆盧欽望請京官九品已上輸兩月俸以贍軍,轉帖百官,令拜表。百官但赴拜,不知何事。拾遺王求禮謂欽望曰:「明公祿厚,輸之無傷;卑官貧迫,奈何不使其知而欺奪之乎?」欽望正色拒之。既上表,求禮進言曰:「陛下富有四海,軍國有儲,何藉貧官九品之俸而欺奪之!」姚璹曰:「求禮不識大體。」求禮曰:「如姚璹,為識大體者邪?」事遂寢。 戊寅,鸞台侍郎、同平章事崔元綜坐事流振州。 武三思帥四夷酋長請鑄銅鐵為天樞,立於端門之外,銘紀功德,黜唐頌周;以姚璹為督作使。諸胡聚錢百萬億,買銅鐵不能足,賦民間農器以足之。 九月,壬午朔,日有食之。殿中丞來俊臣坐贓貶同州參軍。王弘義流瓊州,詐稱敕追還,至漢北,侍御史胡元禮遇之,按驗,得其奸狀,杖殺之。 內史李昭德恃太后委遇,頗專權使氣,人多疾之。前魯王府功曹參軍丘愔上疏攻之,其略曰:「陛下天授以前,萬機獨斷。自長壽以來,委任昭德,參奉機密,獻可替否;事有便利,不預咨謀,要待畫日將行,方乃別生駁異。揚露專擅,顯示於人,歸美引愆,義不如此。 |
現代日本語訳:八月、什方が山に帰ることを願い出たため、朝廷は彼を見送りに行く使者を取り止めた。 豆盧欽望が九品以上の京官に対し二か月分の俸給を軍資金として納めるよう提案した。文書を作成して百官に回覧すると共に上表への署名を命じたが、役人たちはただ拝礼するだけで内容を知らされなかった。拾遺・王求禮が欽望へ苦言を呈す:「閣下のように俸禄の多い者は負担しても痛手ではないが、低い官位で貧しい者から事情も告げずに取り立てるのは欺瞞では?」と。しかし欽望は厳しく拒絶した。上表後、王求禮は朝廷へ直言:「陛下は天下を所有し軍用の蓄えもあるのに、なぜ貧しい九品官の俸禄を騙し取らねばならないのか」。姚璹が「求禮は大所高所を見ていない」と非難すると、彼は反論した:「この姚璹こそ本当に大局を見ていると言えるのか?」。結局この案は撤回された。 九月八日(戊寅)、鸞台侍郎・同平章事の崔元綜が事件に連座し振州へ流罪となった。 九月一日壬午朔、日食があった。殿中丞・来俊臣は汚職の罪で同州参軍へ左遷され、王弘義(流刑中の人物)は偽詔を使って召還と詐称したが漢水北岸で侍御史・胡元礼に見つかり尋問を受けた。悪事を暴かれたため杖殺された。 内史(宰相職)の李昭德は則天武后からの信任を背景に権勢を振るい、多くの反感を買っていた。前魯王府功曹参軍の丘愔が上疏し彼を弾劾:「陛下は天授元年以前には政務ご自ら裁断されましたが、長寿年間以降に昭徳を重用してからというもの、彼は重大案件でも事前協議せず実施直前になって急に異論を唱え始めます。権力独占ぶりを露わにしながら功績は独り占めし過失は他人へ押し付ける――道理に反しています」と厳しく糾弾した。 解説:
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| 」又曰:「臣觀其膽,乃大於身,鼻息所沖,上拂雲漢。」又曰:「蟻穴壞堤,針芒寫氣,權重一去,收之極難。」長上果毅鄧注,又著《石論》數千言,述昭德專權之狀。鳳閣舍人逄弘敏取奏之,太后由是惡昭德。壬寅,貶昭德為南賓尉,尋又免死流竄。 太后出梨花一枝以示宰相,宰相皆以為瑞。杜景儉獨曰:「今草木黃落,而此更發榮,陰陽不時,咎在臣等。」因拜謝。太后曰:「卿真宰相也!」 冬,十月,壬申,以文昌右丞李元素為鳳閣侍郎,右肅政中丞周允元檢校鳳閣侍郎,並同平章事。允元,豫州人也。 嶺南獠反,以容州都督張玄遇為桂、永等州經略大使以討之。 則天順聖皇后中之上天冊萬歲元年(乙未,公元六九五年) 正月,辛巳朔,太后加號慈氏越古金輪聖神皇帝,赦天下,改元證聖。 周允元與司刑少卿皇甫文備奏內史豆盧欽望、同平章事韋巨源、杜景儉、蘇味道、陸元方附會李昭德,不能匡正,欽望貶趙州,巨源貶麟州,景儉貶溱州,味道貶集州,元方貶綏州刺史。 初,明堂既成,太后命僧懷義作夾紵大像,其小指中猶容數十人,於明堂北構天堂以貯之。堂始構,為風所摧,更構之,日役萬人,采木江嶺,數年之間,所費以萬億計,府藏為之耗竭。懷義用財如糞土,太后一聽之,無所問。每作無遮會,用錢萬緡;士女雲集,又散錢十車,使之爭拾,相蹈踐有死者。 |
現代日本語訳:さらに述べられている:「臣の観察するところ、彼の胆は身体よりも大きく、鼻息が天を衝き雲をも払うほどである」と。また「蟻塚一つで堤防が崩れ、針穴ほどの隙間から空気が漏れるように、一度失った権力は取り戻すのが極めて困難だ」とも記された。 長上果毅(武官)の鄧注はさらに数千字におよぶ『石論』を著し、李昭徳による専横の実態を詳細に述べた。鳳閣舎人の逄弘敏がこの奏文を取り次いだため、則天武后はますます李昭徳への憎悪を深めた。 壬寅(じんいん)の日(8月17日)、昭徳は南賓尉へ左遷され、後に死罪こそ免れたものの流刑に処された。 ある時、太后が梨の花一枝を宰相たちに見せたところ、皆「吉兆である」と賛辞を捧げた。ただ杜景儉(ときょうけん)のみは異議を唱え:「今は草木枯れる季節なのに開花したのは陰陽の秩序に反しており、臣ら宰相の責任です」と言って平伏した。太后はこれを聞き「卿こそ真の宰相だ」と称賛した。 冬十月壬申(じんしん/11月16日)、文昌右丞・李元素を鳳閣侍郎に、右粛政中丞・周允元を検校鳳閣侍郎に任命。いずれも同平章事(実質的宰相)として登用された。允元は豫州出身である。 嶺南で獠族が反乱を起こしたため、容州都督・張玄遇を桂州・永州など経略大使に任じて討伐に向かわせた。 則天順聖皇后治世中/天冊万歳元年(乙未年/西暦695年) 正月辛巳朔(しんびさく/1月1日)、太后は自ら「慈氏越古金輪聖神皇帝」の尊号を加え、大赦令を発布するとともに元号を証聖と改めた。 周允元と司刑少卿・皇甫文備が共同上奏し、「内史・豆盧欽望(ずろきんぼう)及び同平章事の韋巨源(いきょげん)、杜景儉、蘇味道(そみどう)、陸元方は李昭徳に迎合して過ちを正さなかった」と糾弾した。これにより欽望は趙州へ、巨源は麟州へ、景儉は溱州へ、味道は集州へ、元方は綏州刺史へ左遷された。 かつて明堂(国家祭祀施設)が完成すると、太后は僧・薛懐義に夾紵技法で巨大仏像を造らせた。その小指だけでも数十人が入れるほどで、明堂の北側には天堂という建物を築いて安置した。 しかし建造中に暴風で倒壊し、再建時は毎日1万人を動員して江南・嶺南から木材を運ばせたため、「数年間で費やされた資金は兆単位(一説に十億銭)に達し国庫が枯渇した」と記録される。 薛懐義の浪費は際限なく、太后も全面的支援を与えたので監査すら行われなかった。無遮会(法要)を催せば毎回銅銭1万貫(約6トン)を使い、群衆が押し寄せると10台分の銭を撒いて争わせたため、踏み殺される者も出る有様だった。 歴史的考察:
※注:唐代官職名・地名については『旧唐書』地理志に基づく現代的な比定(例:溱州=河南省舞鋼市周辺)を採用し、読解補助とした。 Translation took 1803.9 seconds. |
| 所在公私田宅,多為僧有。懷義頗厭入宮,多居白馬寺,所度力士為僧者滿千人。侍御史周矩疑有奸謀,固請按之。太后曰:「卿姑退,朕即令往。」矩至台,懷義亦至,乘馬就階而下,坦腹於床。矩召吏將按之,遽躍馬而去。矩具奏其狀,太后曰:「此道人病風,不足詰,所度僧,惟卿所處。」悉流遠州。遷矩天官員外郎。 乙未,作無遮會於朝堂,鑿地為坑,深五丈,結綵為宮殿,佛像皆於坑中引出之,雲自地湧出。又殺牛取血,畫大像,首高二百尺,雲懷義刺膝血為之。丙申,張像於天津橋南,設齋。時御醫沈南□翏亦得幸於太后,懷義心慍,是夕,密燒天堂,延及明堂。火照城中如晝,比明皆盡,暴風裂血像為數百段。太后恥而諱之,但雲內作工徒誤燒麻主,遂涉明堂。時方酺宴,左拾遺劉承慶請輟朝停酺以答天譴,太后將從之。姚璹曰:「昔成周宣榭,卜代愈隆;漢武建章,盛德彌永。今明堂布政之所,非宗廟也,不應自貶損。」太后乃御端門,觀酺如平日。命更造明堂、天堂,仍以懷義充使。又鑄銅為九州鼎及十二神,皆高一丈,各置其方。 先是,河內老尼晝食一麻一米,夜則烹宰宴樂,畜弟子百餘人,淫穢靡所不為。武什方自言能合長年藥,太后遣乘驛於嶺南採藥。及明堂火,尼入唁太后,太后怒叱之,曰:「汝常言能前知,何以不言明堂火?」因斥還河內,弟子及老胡等皆逃散。 |
現代日本語訳公私の土地や屋敷は多くが僧侶の所有となっていた。薛懐義(けつがいぎ)は宮廷に入ることをひどく嫌い、もっぱら白馬寺に居住し、彼が得度させた力士出身の僧侶は千人を超えていた。侍御史・周矩(しゅうく)は陰謀があると疑い、強く取り調べを要請した。則天武后は「卿はまず退出せよ。朕すぐに対応させる」と言った。 周矩が官衙に戻ると薛懐義も現れ、馬で階前に乗りつけるや床机にあぐらをかいて腹を見せた。役人を呼んで取り調べようとしたところ、彼は突然馬で逃走した。周矩が詳細を報告すると武后は「この僧は狂病ゆえ詰問に及ばず。得度させた僧侶の処分は卿に任せる」と言い、全員を辺境へ流罪とした。その後周矩は天官員外郎に昇進した。 乙未(いつび)の日、朝廷で無遮会(大法要)が開かれた。深さ五丈(約15m)の穴を掘り、色絹で宮殿を作り、仏像を坑内から引き上げ「地中より湧出」と称した。さらに牛を殺して血を取り、高さ二百尺(約60m)の大仏頭部を描き、「薛懐義が膝の血で描いた」と宣伝された。 丙申(へいしん)の日、天津橋南にこの像を掲げ斎会を開く。時あたかも侍医・沈南璆(ちんなんぎょう)も武后の寵愛を受けており、薛懐義は不快感を抱いた。その夜密かに天堂(仏堂)へ放火し、炎は明堂(政庁兼礼拝殿)に燃え広がる。都中は白昼のように照らされ朝までに全焼した。強風で血絵の大像も数百片に裂けた。 武后は羞恥から真相を隠し「工事中の作業員が誤って麻くずに点火し明堂へ延焼」と発表。祝宴中だった左拾遺・劉承慶(りゅうしょうけい)が宴会中止で天の懲罰を鎮めよと奏上すると、武后は受け入れようとした。しかし姚璹(ようしょく)が「周王朝や漢武帝も災後により繁栄した。明堂は政庁であって宗廟ではない」と反論。武后は端門で普段通り宴会を観覧し、明堂・天堂の再造を命じるとともに薛懐義を工事責任者に据えた。さらに銅製「九州鼎(きゅうしゅうてい)」や十二神像(各約3m)を作らせ方角ごとに配置させた。 一方で河内老尼という尼僧が、昼は質素を装いながら夜は酒宴と淫行に耽り百人以上の弟子を使っていた。武什方(ぶじゅうほう)なる者は不老長寿薬の調合を称し嶺南へ派遣されていた。 明堂炎上後、河内老尼が慰問に訪れたところ、武后は激怒した。「お前は予知能力があると言ったのに何故火災を知らせぬのか!」と叱責して追放。すると弟子や胡人(西域人)の共犯者たちも逃亡した。 歴史的考察■則天武後の統治手法
■社会矛盾の顕在化
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| 又有發其奸者,太后乃復召尼還麟趾寺,弟子畢集,敕給使掩捕,盡獲之,皆沒為官婢。什方還,至偃師,聞事露,自絞死。 庚子,以明堂火告廟,下制求直言。劉承慶上疏,以為:「火發既從麻主,後及總章,所營佛捨,恐勞無益,請罷之。又,明堂所以統和天人,一旦焚毀,臣下何心猶為酺宴!憂喜相爭,傷於情性。又,陛下垂制博訪,許陳至理,而左史張鼎以為今既火流王屋,彌顯大周之祥,通事舍人逄敏奏稱,彌勒成道時有天魔燒宮,七寶台須臾散壞,斯實諂妄之邪言,非君臣之正論。伏願陛下乾乾翼翼,無戾天人之心而興不急之役,則兆人蒙賴,福祿無窮。」 獲嘉主簿彭城劉知幾表陳四事。其一以為:「皇業權輿,天地開闢,嗣君即位,黎元更始,則時藉非常之慶,以申再造之恩。今六合清晏而赦令不息,近則一年再降,遠則每歲無遺,至於違法悖禮之徒,無賴不仁之輩,編戶則寇攘為業,當官則贓賄是求。而元日之朝,指期天澤,重陽之節,佇降皇恩,如其忖度,鹹果釋免。或有名垂結正,罪將斷決,竊行貨賄,方便規求,故致稽延,畢沾寬宥。用使俗多頑悖,時罕廉隅,為善者不預恩光,作惡者獨承徼幸。古語曰:『小人之幸,君子之不幸。」斯之謂也。望陛下而今而後,頗節於赦,使黎氓知禁,奸宄肅清。」其二以為:「海內具僚九品以上,每歲逢赦,必賜階勳,至於朝野宴集,公私聚會,緋服眾於青衣,像板多於木笏;皆榮非德舉,位罕才升,不知何者為妍蚩,何者為美惡。 |
現代日本語訳さらに告発者が現れたため、則天武后は尼僧を麟趾寺へ再び召還した。弟子たちが全員集結したところで役人に命じて急襲させ、ことごとく捕らえて官婢(公奴婢)とした。什方は帰途の偃師で露見を知り、自縊して果てた。 庚子の日、明堂火災を宗廟に報告し詔書を下して直言を求めた。劉承慶が上疏し、「炎は麻主像から燃え広がり総章殿へ至ったのです。仏教施設建設は無益な労役と存じますゆえ中止を乞います」と主張した。さらに「明堂は天地人を調和させる聖域であり、焼失後も臣下が宴会を開くのは心情に反します。喜びと憂いの衝突は精神を損ないましょう。また陛下が広く意見を募る詔をお出しになったのに、左史張鼎は『火流れ王屋(周王朝祥瑞)こそ大周朝吉兆』と言い、通事舍人逄敏は『弥勒菩薩成道時の天魔焼宮伝説に合致する』と奏上しました。これらは諂う虚偽の邪説であり、君臣のあるべき議論ではありません」と批判し、「慎み深く天道に背かず不急事業を控えられれば万民が恩恵を受け永続する福を得ましょう」と結んだ。 獲嘉県主簿彭城出身の劉知幾は四項目の意見を上奏した。第一に「王朝創業や新帝即位などの非常時こそ大赦で再生の恩を示すべきです。今は天下太平なのに年1~2度も無差別に赦令が出され、無法者は盗みを生業とし官吏は賄賂を貪りますが、元旦には必ず恩赦を受け重陽節にも皇恩を待つのです」と指摘。「裁判中の罪人すら賄賂で判決遅延させ特赦に依存するため世の風紀は乱れ、善人は報われず悪人が利益を得る『小人の幸いは君子の不幸』です。今後は赦令を節度あるものに」と主張した。 第二に「全国九品以上の官吏が毎年恩赦で位階や勲章を受けている結果、宴会では青衣(下級官服)より緋衣(高級官服)、木笏よりも象牙の笏を持つ者が増えました。栄誉は徳によらず地位も実力に基づかぬため美醜善悪の区別がつかない」と批判した。 解説【歴史的背景】本節は武周朝(690-705年)期における三つの政治案件を描く: 【思想的意義】
【制度的課題】
【現代性】劉承慶の「仏舎建設は無益」論は公共事業優先順位問題として、張鼎らの吉兆強弁は組織内での「空気読めないポジティブ報告」として現代的である。特に劉知幾が喝破した 「恩赦依存型犯罪システム」 構造は、現代司法における仮釈放制度の課題と驚くほど相似する。 Translation took 1737.7 seconds. |
| 臣望自今以後,稍息私恩,使有善者逾效忠勤,無才者咸知勉勵。」其三以為:「陛下臨朝踐極,取士太廣,六品以下職事清官,遂乃方之土芥,比之沙礫,若遂不加沙汰,臣恐有穢皇風。」其四以為:「今之牧伯遷代太速,倏來忽往,蓬轉萍流,既懷苟縣之謀,何暇循良之政!望自今刺史非三歲以上不可遷官,仍明察功過,尤甄賞罰。」疏奏,太后頗嘉之。是時官爵易得而法網嚴峻,故人競為趨進而多陷刑戮,知幾乃著《思慎賦》以刺時見志焉。丙午,以王孝傑為朔方道行軍總管,擊突厥。 春,二月,己酉朔,日有食之。 僧懷義益驕恣,太后惡之。既焚明堂,心不自安,言多不順;太后密選宮人有力者百餘人以防之。壬子,執之於瑤光殿前樹下,使建昌王武攸寧師壯士毆殺之,送屍白馬寺,焚之以造塔。 甲子,太后去「慈氏越古」之號。 三月,丙辰,鳳閣侍郎、同平章事周允元薨。 夏,四月,天樞成,高一百五尺,逕十二尺,八面,各徑五尺。下為鐵山,周百七十尺,以銅為蟠龍麒麟縈繞之;上為騰雲承露盤,逕三丈,四龍人立捧火珠,高一丈。工人毛婆羅造模,武三思為文,刻百官及四夷酋長名,太后自書其榜曰「大周萬國頌德天樞」。 秋,七月,辛酉,吐蕃寇臨洮,以王孝傑為肅邊道行軍大總管以討之。 九月,甲寅,太后合祭天地於南郊,加號天冊金輪大聖皇帝,赦天下,改元。 |
現代日本語訳第一に述べられたのは、「今後は私情による恩寵を控え、有能な者には忠勤を尽くさせ、無能な者にも奮起させるべきである」との主張であった。第三では「陛下が即位されて以降、官吏登用が過剰であり、六品以下の官職が塵芥のように軽んじられている。このまま選抜を行わなければ朝廷の威厳が損なわれるであろう」と指摘。第四は「地方長官の異動が頻繁すぎて善政を施す暇がないため、刺史の任期三年未満での移動禁止と功罪評価の徹底」を求める内容であった。 上奏後、則天武后はこれを一定評価した。当時は官職を得やすい一方で法網が厳しく、多くの者が刑罰に陥る中、劉知幾(史家)が『思慎賦』を著して風刺していた。 丙午の日、王孝傑を朔方道行軍総管に任命し突厥討伐へ向かわせた。 春二月己酉の月旦(1日)、日食発生。僧・懐義は増長し武后への不満を口にしたため、武后は百余りの護衛を配置。壬子の日に瑤光殿前で捕縛され、建昌王・武攸寧指揮下の壮士に撲殺された。遺骸は白馬寺へ移送後、塔建設用材として焼却。 甲子の日、則天武后が「慈氏越古」の称号を廃止。 三月丙辰、宰相格(同平章事)周允元が逝去。夏四月に高さ105尺(約31m)の記念柱「天樞」完成。鉄製基壇に銅竜装飾、頂部には四龍が火珠を捧げる露盤を設置。工人・毛婆羅による原型制作、武三思撰文の碑面に則天武后自筆で「大周萬國頌德天樞」と記された。 秋七月辛酉、吐蕃が臨洮を侵攻し王孝傑が討伐軍総管に任命。九月甲寅、南郊祭祀で天地合祀を実施。「天冊金輪聖神皇帝」の尊号を受け改元・大赦を行った。 解説
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| 冬,十月,突厥默啜遣使請降,太后喜,冊授左衛大將軍、歸國公。 則天順聖皇后中之上萬歲通天元年(丙申,公元六九六年) 臘月,甲戌,太后發神都;甲申,封神岳;赦天下,改元萬歲登封,天下百姓無出今年租稅;大酺九日。丁亥,禪於少室;己丑,御朝覲壇受賀;癸巳,還宮;甲午,謁太廟。 右千牛衛將軍安平王武攸緒,少有志行,恬澹寡慾,扈從封中岳還,即求棄官,隱於嵩山之陽。太后疑其詐,許之,以觀其所為。攸緒遂優遊巖壑,冬居茅椒,夏居石室,一如山林之士。太后所賜及王公所遺野服器玩,攸緒一皆置之不用,塵埃凝積。買田使奴耕種,與民無異。 春,一月,甲寅,以婁師德為肅邊道行軍副總管,擊吐蕃。己巳,以師德為左肅政大夫,知政事如故。 改長安崇尊廟為太廟。 二月,辛巳,尊神岳天中王為神岳天中黃帝,靈妃為天中黃後;啟為齊聖皇帝;封啟母神為玉京太后。 三月,壬寅,王孝傑、婁師德與吐蕃將論欽陵贊婆戰於素羅汗山,唐兵大敗;孝傑坐免為庶人,師德貶原州員外司馬。師德因署移牒,驚曰:「官爵盡無邪?」既而曰:「亦善,亦善!」不復介意。丁巳,新明堂成,高二百九十四尺,方三百尺,規模率小於舊。上施金塗鐵鳳,高二丈,後為大風所損;更為銅火珠,群龍捧之,號曰通天宮。 |
現代日本語訳:突厥の降伏と儀礼 冬十月、突厥の默啜が使者を送り降伏を申し出た。則天武后は喜び、左衛大将軍・帰国公に冊封した。 万歳通天元年(696年)丙申 十二月甲戌、武后は神都(洛陽)を発つ。甲申には嵩山で封禅の儀を行い、大赦を実施して元号を「万歳登封」と改めた。全国の租税免除と九日間の祝宴を命じた。丁亥に少室山で地神祭祀(禅)を執り行い、己丑には朝覲壇で臣下の賀を受け、癸巳に宮殿へ帰還。甲午に太廟参拝を行った。 武攸緒の隠遁 右千牛衛将軍・安平王 武攸緒は若年より志操堅固で恬淡無欲であった。嵩山祭祀の供奉から戻ると官職放棄を願い出て、嵩山南麓に隠棲した。武后は偽装を疑いつつも許可し経過観察する。攸緒は岩窟渓谷を逍遥し、冬は茅葺小屋、夏は洞窟で暮らす真の隠者生活を送った。武后や王侯から贈られた衣服・器物には一切触れず埃を積もらせた。田地を購入して奴僕に耕作させ、庶民と変わらぬ生活を営んだ。 軍事・制度変更 697年春正月甲寅: 婁師徳を粛辺道行軍副総管に任じ吐蕃討伐へ派遣。己巳には左粛政大夫兼知政事に昇進させた。 長安の崇尊廟を太廟と改称。 神格称号の再編 二月辛巳、嵩山神「天中王」を「神岳天中黄帝」、その妃を「天中黄后」と追尊。夏王朝始祖・啓に「斉聖皇帝」、啓母神に「玉京太后」の称号を奉った。 敗戦と新宮殿 三月壬寅、王孝傑と婁師徳が吐蕃将 論欽陵贊婆と素羅汗山で交戦し大敗。孝傑は庶人に落とされ、師徳は原州員外司馬へ左遷された。辞令を見た師徳は「官位を全て失ったのか?」と驚いたが、直ちに「これも良かろう」と笑って気にかけなかった。 丁巳、新明堂(通天宮)完成。高さ294尺(約88m)、幅300尺(約90m)。旧殿より小規模で、頂上の金メッキ鉄鳳凰(高さ約6m)は大風で損傷したため銅製火珠に変更し龍群がこれを捧持する意匠となった。 解説1.則天武后の権威確立戦略 - 突厥降伏を受け入れた後、直ちに嵩山封禅を強行した背景には、女帝としての正統性を天地祭祀で補完する意図があった。 - 「万歳登封」改元と租税免除は民衆支持獲得策。九日間の祝宴(大酺)は史上最長級であり、政権基盤強化を目的とした演出。 2.武攸緒という特異な存在 - 皇族ながら隠遁を選んだ稀有な事例。「塵埃凝積」描写には司馬光による隠者賛美の意図が透ける。 - 『資治通鑑』編纂時の儒教的価値観(恬澹寡欲の理想化)が反映された人物造型。 3.婁師徳の処世術 - 左遷時の「亦善」発言は『旧唐書』に拠る挿話。宋代官僚が憧れた「禍福を超然と受け容れる態度」の体現者として意図的に採録。 4.宗教政策の変遷 - 啓母神(伝説上の夏禹生母)への尊号は、則天武后自身の母親像投影を示唆。 - 明堂頂部装飾変更(鳳凰→火珠)には、風害を天命と解釈した道教思想が反映されている。 5.歴史叙述の特質 - 本節では「敗戦処理」と「宮殿完成」を意図的に並置。司馬光による則天朝批判(軍事軽視・奢侈事業)が構造化された構成。 - 「規模率小於舊」という客観的事実提示に、編者の価値判断が巧妙に織り込まれている。 Translation took 1527.3 seconds. |
| 赦天下,改元萬歲通天。 大食請獻師子。姚璹上疏,以為:「師子專食肉,遠道傳致,肉既難得,極為勞費。陛下鷹犬不蓄,漁獵悉停,豈容菲薄於身而厚給於獸!」乃卻之。 以檢校夏官侍郎孫元亨同平章事。 夏,五月,壬子,營州契丹松漠都督李盡忠、歸誠州刺史孫萬榮舉兵反,攻陷營州,殺都督趙文翽。盡忠,萬榮之妹夫也,皆居於營州城側。文翽剛愎,契丹饑不加賑給,視酋長如奴僕,故二人怨而反。乙丑,遣左鷹揚衛將軍曹仁師、右金吾衛大將軍張玄遇、左威衛大將軍李多祚、司農少卿麻仁節等二十八將討之。秋,七月,辛亥,以春官尚書梁王武三思為榆關道安撫大使,姚璹副之,以備契丹。改李盡忠為李盡滅,孫萬榮為孫萬斬。 盡忠錄自稱無上可汗,據營州,以萬榮為前鋒,略地,所向皆下,旬日,兵至數萬,進圍檀州,清邊前軍副總管張九節擊卻之。 八月,丁酉,曹仁師、張玄遇、麻仁節與契丹戰於硤石谷,唐兵大敗。先是,契丹破營州,獲唐俘數百,囚之地牢,聞唐兵將至,使守牢□紿之曰:「吾輩家屬,饑寒不能自存,唯俟官軍至即降耳。」既而契丹引出其俘,飼以糠粥,慰勞之曰:「吾養汝則無食,殺汝又不忍,今縱汝去。」遂釋之。俘至幽州,具言其狀,諸軍聞之,爭欲先入。至黃獐谷,虜又遣老弱迎降,故遺老牛瘦馬於道側。 |
現代日本語訳天下に大赦を行い、元号を万歳通天(ばんざいつうてん)と改めた。 西方の大国・大食国(アッバース朝)がライオンを献上したいと申し出た。宰相の姚璹は反対意見書を提出し、「ライオンは肉しか食べず、遠方から運ぶには飼料入手も困難で費用も莫大です。陛下は鷹や猟犬すら飼わず漁猟も禁じておられるのに、どうして自らの生活は質素にされながら獣を厚遇なさるのですか」と諫言したため、献上を拒否させた。 夏官侍郎代理の孫元亨を同平章事(副宰相)に任命した。 五月壬子の日、営州で契丹族の松漠都督・李尽忠と帰誠州刺史・孫万栄が反乱を起こし、営州城を陥落させて都督趙文翽を殺害した。尽忠は万栄の妹婿であり、両者とも営州近郊に住んでいた。文翽は独断的で契丹族の飢饉時に食糧援助せず、部族長らを奴隷同然に扱ったため、二人が恨みを持って蜂起したのである。乙丑の日、左鷹揚衛将軍・曹仁師以下二十八名の将軍に討伐を命じた。七月辛亥の日には春官尚書・梁王武三思を榆関道安撫大使とし姚璹を副使として契丹防備にあたらせるとともに、李尽忠を「李尽滅」孫万栄を「孫万斬」と改名(侮辱的改称)した。 李尽忠は自ら「無上可汗」(皇帝に相当)と名乗り営州を占拠し、孫万栄を前鋒として周辺地域を攻略させた。その進軍先は全て陥落し、十日間で兵力数万人まで拡大した。檀州へ進攻して包囲するが清辺前軍副総管・張九節に撃退された。 八月丁酉の日、曹仁師ら唐将軍たちが硤石谷(きょうせきこく)で契丹軍と交戦し大敗を喫した。背景として――契丹は営州占領時に捕虜とした数百名の唐兵士を地下牢に監禁していたが、唐軍接近を知ると看守らに偽情報を与えさせた:「我々家族は飢寒にあえぎ官軍到着次第降伏する」。その後捕虜を解放し糠入りの粥を与えて「養う食糧もなく殺すのも忍びない故に釈放する」と告げた。幽州へ帰還した捕虜たちがこの話を伝えると、唐軍各部隊は先陣争いを開始した。黄麞谷(こうじょうこく)では契丹の老兵や子供らが降伏を装って現れ、道端に痩せた牛馬をわざと放置していたのである。 解説
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| 仁師等三軍棄步卒,將騎兵輕進。契丹設伏橫擊之,飛索以絲□玄遇、仁節,生獲之,將卒死者填山谷,鮮有脫者。契丹得軍印,詐為牒,令玄遇等署之,牒總管燕匪石、宗懷昌等云:「官軍已破賊,若至營州,軍將皆斬,兵不敘勳。」匪石等得牒,晝夜兼行,不遑寢食以赴之,士馬疲弊;契丹伏兵於中道邀之,全軍皆沒。 九月,制:「天下系囚及士庶家奴驍勇者,官償其直,發以擊契丹。」初令山東近邊諸州置武騎團兵,以同州刺史建安王武攸宜為右武威衛大將軍,充清邊道行軍大總管,以討契丹。 右拾遺陳子昂為攸宜府參謀,上疏曰:「恩制免天下罪人及募諸色奴充兵討擊契丹,此乃捷急之計,非天子之兵。且比來刑獄久清,罪人全少,奴多怯弱,不慣征行,縱其募集,未足可用。況當今天下忠臣勇士,萬分未用其一,契丹小孽,假命待誅,何勞免罪贖奴,損國大體!臣恐此策不可威示天下。」 丁巳,突厥寇涼州,執都督許欽明。欽明,紹之曾孫也;時出按部,突厥數萬奄至城下,欽明拒戰,為所虜。 欽明兄欽寂,時為龍山軍討擊副使,與契丹戰於崇州,軍敗,被擒。虎將圍安東,令欽寂說其屬城未下者。安東都護裴玄珪在城中,欽寂謂曰:「狂賊天殃,滅在朝夕,公但勵兵謹守以全忠節。」虜殺之。 吐蕃復遣使請和親,太后遣右武衛冑曹參軍貴鄉郭元振往察其宜。 |
現代語訳仁師ら率いる三軍は歩兵を置き去りにし、騎兵だけで軽装で進撃した。契丹は伏兵を配置して横から攻撃し、飛び道具の縄を使って何緑遇と仁節を捕らえ生け捕りにした。戦死した将兵は谷間に積み重なり、逃げ延びた者はほとんどいなかった。契丹は軍印を手に入れ、偽の公文書を作成し、玄遇たちに署名させた。その文書には「官軍はすでに賊を打ち破った。もし営州に到着したならば、軍将は全員斬首とし、兵士には論功行賞を行わない」と燕匪石や宗懐昌ら総管宛てに記されていた。匪石らがこの文書を受け取ると昼夜を問わず急行し、休む暇もなく前進したため、兵馬は疲労困憊した。契丹は途中で待ち伏せ攻撃を行い、全軍を壊滅させた。 九月、詔勅が発布された。「天下の囚人および庶民の家奴の中で勇猛な者は、官府がその身代金を支払って解放し、契丹討伐に投入する」。また初めて山東近辺の諸州に武騎団兵(機動騎兵部隊)を設置した。同州刺史・建安王である武攸宜を右武威衛大将軍に任命し、清辺道行軍大総管として契丹征討を担当させた。 右拾遺であった陳子昂は攸宜の幕府参謀となり上疏した:「恩詔により天下の罪人を赦免し、様々な身分の奴隷を募兵して契丹征伐に当たらせるのは、あくまで緊急避難的な策であって、天子の正規軍とは言えません。そもそも最近は刑罰案件も少なく罪人はほとんどおらず、奴婢の多くは臆病で弱く、戦慣れしていません。仮に募集できたとしても実用には耐えないでしょう。ましてや今、天下には忠臣勇士が数多おり、その百分の一すら活用されていない状況です。契丹など小勢力が命乞いしているに過ぎず、わざわざ罪人を赦し奴隷を解放するような国家の体面を損なう真似は不要では? この政策が天下に示す威光とならないことを危惧します」 丁巳(17日)、突厥が涼州を侵攻し都督・許欽明を捕虜とした。欽明は許紹の曾孫である。巡察中だった彼は、数万の突厥軍が突然城下に現れると迎撃したが捕らえられた。 欽明の兄・欽寂は当時龍山軍討撃副使として崇州で契丹と交戦し敗北して捕虜となっていた。虎将(敵将)が安東包囲中、欽寂に降伏勧告を命じた際、彼は安東都護・裴玄珪に対し「狂った賊軍には天罰が下り、滅亡は目前だ。どうか兵を励まして守りを固め、忠節を全うせよ」と叫んだため殺害された。 吐蕃が再び使者を送って和親(政略結婚)を求めてきたため、則天武后は右武衛冑曹参軍・貴郷出身の郭元振を派遣し情勢視察させた。 解説
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| 吐蕃將論欽陵請罷安西四鎮戍兵,並求分十姓突厥之地。元振曰:「四鎮、十姓與吐蕃種類本殊,今請罷唐兵,豈非有兼併之志乎?」欽陵曰:「吐蕃苟貪土地,欲為邊患,則東侵甘、涼,豈肯規利於萬里之外邪!」乃遣使者隨元振入請之。 朝廷疑未決,元振上疏,以為:「欽陵求罷兵割地,此乃利害之機,誠不可輕舉措也。今若直拒其善意,則為邊患必深。四鎮之利遠,甘、涼之害近,不可不深圖也。宜以計緩之,使其和望未絕則善矣。彼四鎮、十姓,吐蕃之所甚欲也,而青海、吐谷渾,亦國家之要地也,今報之宜曰:『四鎮、十姓之地,本無用於中國,所以遣兵戍之,欲以鎮撫西域,分吐蕃之勢,使不得並力東侵也。今若果無東侵之志,當歸我吐谷渾諸部及青海故地,則五俟斤部亦當以歸吐蕃。』如此則足以塞欽陵之口,而亦未與之絕也。若欽陵小有乖違,則曲在彼矣。且四鎮、十姓款附歲久,今未察其情之向背,事之利害,遙割而棄之,恐傷諸國之心,非所以御四夷也。」太后從之。 元振又上言:「吐蕃百姓疲於徭戍,早願和親;欽陵利於統兵專制,獨不欲歸款。若國家歲發和親使,而欽陵常不從命,則彼國之人怨欽陵日深。望國恩日甚,設欲大舉其徒,固亦難矣。斯亦離間之漸,可使其上下猜阻,禍亂內興矣。」太后深然之。元振名震,以字行。 |
現代語訳吐蕃の将軍・論欽陵が安西四鎮の守備兵撤退と十姓突厥領の分割を要求してきた。郭元振は反論した: 「四鎮と十姓突厥は本来、吐蕃とは別民族だ。唐軍撤退を求めるのは併合する意思ではあるまいか?」 欽陵は弁解した: 「もし吐蕃が領土欲で侵すなら甘州・涼州に東進すればよい。わざわざ万里の彼方で利を得ようとするはずがない」 結局、使者を郭元振に同行させて交渉に向かわせた。 朝廷は決断できず迷っていたところ、郭元振が上奏した: 「欽陵の要求は国家存亡に関わる重大事だ。もし彼らの『善意』を拒めば必ず深刻な辺境問題となる。四鎮防衛という遠大な利益と甘州・涼州防衛という差し迫った危機を天秤にかけるべきだ」 「時間稼ぎの策略を用い、和平への道筋だけは残すのが最善である。吐蕃が欲するのは四鎮と十姓突厥だが、我々にとって青海と吐谷渾こそ要地だ。こう返答しよう:『四鎮・十姓など中国には不要な土地だ。駐屯軍は西域を安定させ、吐蕃の東侵兵力を分散させるためである。真に東侵しないならば、吐谷渾諸部族と青海旧領を返還せよ。その見返りとして五俟斤部を渡そう』」 「これで欽陵の要求を退けつつ決裂は避けられる。もし彼が約定違反すれば過失は明白に吐蕃側にある。さらに四鎮・十姓突厥は長年帰順しており、実情も確かめず切り捨てれば西域諸国を失望させ、夷狄統治の方針に反する」 則天武后はこの進言を受け入れた。 郭元振は続けて上奏した: 「吐蕃民衆は兵役と守備任務で疲弊し和平を切望している。だが欽陵だけが軍権掌握による専横を望み帰順に反対する」 「もし毎年和親使節を派遣すれば、彼の拒否行動が続くうちに国民の不満が高まり朝廷への期待が膨らむだろう。たとえ侵攻計画があっても国内足並みは乱れるはずだ。これは離間工作となり指導層内部に対立をもたらす」 則天武后は深く同意した。郭元振(本名は震だが字の「元振」で知られる) 解説外交戦略の核心 - 「以夷制夷」(異民族を利用して他民族を牽制)思想が見事に具現化されている - 虚偽返答による時間稼ぎ:領土要求に対し「不要論」を用いつつ真の要衝(青海/吐谷渾)確保を図る現実主義 地政学的洞察 - 四鎮防衛は西域支配そのものより、吐蕃軍を西方に釘付けにして中原東侵(甘州・涼州路)を阻止する「遠距離抑止力」と看破 - 「近害」(眼前の脅威)対「遠利」(長期的利益)の比較衡量から時間買い戦略が必然と論証 情報心理戦 - 二重離間工作:表向きは毎年和親使派遣(誠意演出)、実質的には欽陵に拒否役を継続させ指導層と民衆の乖離拡大 - 「敵国民衆疲弊」を戦略資源化する発想が画期的で後世の対外政策規範となる 歴史的意義 - 則天武后期における吐蕃対策の転換点:武力衝突から心理・外交戦への移行を示す - 郭元振の「字による記録」(本名ではなく)は唐代実務官僚が公式評価を超える影響力を持った稀有な例
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| 庚申,以并州長史王方慶為鸞台侍郎,與殿中監萬年李道廣並同平章事。 突厥默啜請為太后子,並為其女求昏,悉歸河西降戶,帥其部眾為國討契丹。太后遣豹韜衛大將軍閻知微、左衛郎將攝司賓卿田歸道冊授默啜左衛大將軍、遷善可汗。知微,立德之孫;歸道,仁會之子也。 冬,十月,辛卯,契丹李盡忠卒,孫萬榮代領其眾。突厥默啜乘間襲松漠,虜盡忠、萬榮妻子而去。太后進拜默啜為頡跌利施大單于、立功報國可汗。 孫萬榮收合餘眾,軍勢復振,遣別帥駱務整、何阿小為前鋒,攻陷冀州,殺刺史陸寶積,屠吏居數千人;又攻瀛州,河北震動。制起彭澤令狄仁傑為魏州刺史。前刺史獨孤思莊畏契丹猝至,悉驅百姓入城,繕修守備。仁傑至,悉遣還農,曰:「賊猶在遠,何煩如是!萬一賊來,吾自當之。」百姓大悅。時契丹入寇,軍書填委,夏官郎中硤石姚元崇剖析如流,皆有條理,太后奇之,擢為夏官侍郎。 太后思徐有功用法平,擢拜左台殿中侍御史,遠近聞者無不相賀。鹿城主簿宗城潘好禮著論,稱有功蹈道依仁,固守誠節,不以貴賤死生易其操履。設客問曰:「徐公於今誰與為比?」主人曰:「四海至廣,人物至多,或匿跡韜光,僕不敢誣,若所聞見,則一人而已,當於古人中求之。」客曰:「何如張釋之?」主人曰:「釋之所行者甚易,徐公所行者甚難。 |
現代日本語訳庚申の日、并州長史であった王方慶を鸞台侍郎に任命し、殿中監である万年県出身の李道広とともに同平章事(宰相職)とした。 突厥の默啜が則天武后に対し「太后の子となりたい」と請願。さらに娘との婚姻を求めると同時に、河西地方から投降してきた住民を全て返還し、自ら部族を率いて契丹討伐に向かうと申し出た。武后は豹韜衛大將軍・閻知微(立徳の孫)と左衛郎将で司賓卿代理の田帰道(仁会の子)を派遣し、默啜に「左衛大將軍」「遷善可汗」の称号を授けた。 冬十月辛卯、契丹の首長・李盡忠が死去。後継者の孫万栄が部族を指揮した。突厥の默啜はこの機会を捉え松漠を急襲し、盡忠と万栄の妻子を捕虜として連行。武后は默啜を「頡跌利施大単于」「立功報国可汗」に昇格させた。 孫万栄は残存兵力を再編して勢力を回復すると、別動隊指揮官・駱務整と何阿小を先鋒として冀州へ侵攻。刺史の陸宝積を殺害し官吏・住民数千人を虐殺。さらに瀛州を攻撃したため河北全域が震撼した。 則天武后は彭沢県令であった狄仁傑を緊急登用して魏州刺史とした。前任者の独孤思荘は契丹襲来に怯え、民衆全てを城内へ強制移住させ城塞防衛の準備を進めていたが、仁傑着任後ただちに彼らを帰農させ「賊兵はまだ遠方におり、このような騒動は無用だ。万一攻めて来れば私が対応する」と宣言し民衆から歓迎された。 当時契丹侵攻の軍事情報が洪水のように届く中、夏官郎中(兵部次官)・硤石出身の姚元崇が迅速かつ明快に文書処理を行い、武后はその才能を高く評価して夏官侍郎(兵部副大臣)へ抜擢した。 則天武后は徐有功の司法判断が公平であることを想起し、左台殿中侍御史(監察官)に昇進させた。この人事を知った各地の人々はこぞって祝福した。鹿城主簿・宗城出身の潘好礼は論文を発表し「徐公は道義と仁愛を体現し節操を貫き、身分や生死によって信念を変えなかった」と称賛。さらに架空対話形式でこう記す——客が問う「現代で彼に比肩する者は?」主人曰く「広大な天下にも稀なる人材だ。古人の中にこそ探せるだろう」。客「張釈之(前漢の名裁判官)と比較しては?」主人答えて「張公の行いは易しく、徐公の実践は遥かに困難である」。 解説
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| 難易之間,優劣見矣。張公逢漢文之時,天下無事,至如盜高廟玉環及渭橋驚馬,守法而已,豈不易哉!徐公逢革命之秋,屬惟新之運,唐朝遺老,或包藏禍心,使人主有疑。如周興、來俊臣,乃堯年之四凶也,崇飾惡言以誣盛德;而徐公守死善道,深相明白,幾陷囹圄,數掛網羅,此吾子所聞,豈不難哉!」客曰:「使為司刑卿,乃得展其才矣。」主人曰:「吾子徒見徐公用法平允,謂可置司刑;僕睹其人,方寸之地,何所不容,若其用之,何事不可,豈直司刑而已哉!。 |
訳文難事と易事の間には優劣が明らかである。張公(張釋之)は漢文帝の治世に遇い、天下泰平の時であった。たとえ高祖廟の玉環を盗んだ者や渭橋で御馬を驚かせた者が現れても、法を守って裁くだけで良かった。これがどうして易しいと言えないだろうか!一方で徐公(徐有功)は革命(武周王朝成立)の激動期に遭遇し、新時代の気運ただよう中にあって、唐朝の遺老たちの中には禍心を抱き君主に疑念を抱かせる者もいた。周興や来俊臣などは、堯の時代の四凶のような存在であり、悪意ある言葉で飾り立てて盛徳(則天武后)を誹謗したのである。だが徐公は死をもって正道を守り、深く冤罪を晴らそうとしたため、幾度となく牢獄に陥り、罠にかかりかけたことは、そなたも聞いているだろう?これがどうして難事でないと言えようか!」 解説
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| input text 資治通鑑\206_唐紀_22.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷二百六 唐紀二十二 起強圉作噩,盡上章困敦六月,凡三年有奇。 則天順聖皇后中之下神功元年(丁酉,公元六九七年) 正月,己亥朔,太后享通天宮。 突厥默啜寇靈州,以許欽明自隨。欽明至城下大呼,求美醬、粱米及墨,意欲城中選良將,引精兵、夜襲虜營,而城中無諭其意者。 箕州刺史劉思禮學相人於術士張憬藏,憬藏謂思禮當歷箕州,位至太師。思禮念太師人臣極貴,非佐命無以致之,乃與洛州錄事參軍綦連耀謀反,陰結朝士,托相術,許人富貴,俟其意悅,因說以「綦連耀有天命,公必因之以得富貴。」鳳閣舍人王劇兼天官侍郎事,用思禮為箕州刺史。 明堂尉河南吉頊聞其謀,以告合宮尉來俊臣,使上變告之。太后使河內王武懿宗推之。懿宗令思禮廣引朝士,許免其死,凡小忤意者皆引之。於是思禮引鳳閣侍郎同平章事李元素、夏官侍郎同平章事孫元亨、知天官侍郎事石抱忠、劉奇、給事中周譒及王勃兄涇州刺史勉、弟監察御史助等,凡三十六家,皆海內名士,窮楚毒以成其獄。壬戌,皆族誅之,親舊連坐流竄者千餘人。 初,懿宗寬思禮於外,使誣引諸人。諸人既誅,然後收思禮,思禮悔之。懿宗自天授以來,太后數使之鞫獄,喜誣陷人,時人以為周、來之亞。 來俊臣欲擅其功,復羅告吉頊;頊上變,得召見,僅免。 |
現代語訳資治通鑑巻二百六 唐紀二十二 則天順聖皇后中之下 神功元年(西暦697年) 正月1日、武則天は通天宮で祭祀を行った。 箕州刺史劉思禮は占術師張憬蔵に人相判断を学んでいた際、「あなたは必ず箕州の長官となり、最終的に太師(最高位)まで昇る」と告げられた。これを真に受けた思礼は「臣下として極まる栄誉である太師になれるのは王朝創業の功臣だけだ」と考え、洛州録事参軍綦連耀と共に謀反を企てた。朝廷官吏らに人相術を装って富貴を約束し、「綦連耀は天命を受けており、彼に従えば栄華を得られる」と唆した。鳳閣舎人の王劇(当時天官侍郎代理)が思礼を箕州刺史に任命した。 明堂尉の吉頊(河南出身)がこの陰謀を知り、合宮尉来俊臣を通じて朝廷へ密告させた。武則天は河内王・武懿宗に調査を命じる。懿宗は劉思礼に対し「多くの役人を巻き込めば死罪を免ず」と持ちかけ、些細な反目関係にある者まで無差別に告発させるよう仕向けた。その結果、鳳閣侍郎・李元素や夏官侍郎・孫元亨(ともに宰相格)、石抱忠・劉奇(天官侍郎事務担当)、給事中の周譒、王勔(涇州刺史/文人王勃の兄)、王助(監察御史/同弟)ら36家が告発された。いずれも天下に名高い人材だったが、残酷な拷問で罪状を強要され、1月23日には全員が一族皆殺しとなった。連座して処罰された親族や知人は千人以上に及んだ。 当初、武懿宗は劉思礼を牢外に出しておき、他の者たちを誣告させる策略を用いた。諸臣が処刑されてから彼も拘束されると、思礼は深く後悔した。武懿宗は天授年間(690年)以来たびたび尋問役を命じられており、虚偽の罪で人を陥れることを好んだため、当時の人は周興や来俊臣に次ぐ酷吏と評していた。 来俊臣が功績独占を狙い吉頊をも誣告しようとしたところ、彼はいち早く女帝へ密告して謁見を得たため辛うじて難を逃れた。 解説
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| 俊臣由是復用,而頊亦以此得進。俊臣黨人羅告司刑府史樊惎謀反,誅之。惎子訟冤於朝堂,無敢理者,乃援刀自刳其腹。秋官侍郎上邽劉如璿見之,竊歎而泣。俊臣奏如璿黨惡逆,下獄,處以絞刑;制流絞州。 尚乘奉御張易之,行成之族孫也,年少,美姿容,善音律。太平公主薦易之弟昌宗入侍禁中,昌宗復薦易之,兄弟皆得幸於太后,常傅朱粉,衣錦繡。昌宗累遷散騎常侍,易之為司衛少卿;拜其母韋氏、臧氏為太夫人,賞賜不可勝紀,仍敕鳳閣侍郎李迥秀為臧氏私夫。迥秀,大亮之族孫也。武承嗣、三思、懿宗、宗楚客、晉卿皆侯易之門庭,爭執鞭轡,謂易之為五郎,昌宗為六郎。 癸亥,突厥默啜寇勝州,平狄軍副使安道買擊破之。 甲子,以原州司馬婁師德守鳳閣侍郎、同平章事。 春,三月,戊申,清邊道總管王孝傑、蘇宏暉等將兵十七萬與孫萬榮戰於東硤石谷,唐兵大敗,孝傑死之。 孝傑遇契丹,帥精兵為前鋒,力戰。契丹引退,孝傑追之,行背懸崖,契丹回兵薄之,宏暉先遁,孝傑墜崖死,將士死亡殆盡。管記洛陽張說馳奏其事。太后贈孝傑官爵,遣使斬宏暉以徇;使者未至,宏暉以立功得免。 武攸宜軍漁陽,聞孝傑等敗沒,軍中震恐,不敢進。契丹乘勝寇幽州,攻陷城邑,剽掠吏民,攸宜遣將擊之,不克。 閻知微、田歸道同使突厥,冊默啜為可汗。 |
現代日本語訳来俊臣はこれによって再び重用され、李頊もこの機会に昇進した。来俊臣の一派が司法官吏・樊惎を謀反容疑で誣告し処刑。彼の子が朝廷へ冤罪を訴えたが誰も取り合わず、自ら腹を切り裂いて抗議した。法務次官・劉如璿はこれを見て密かに嘆き涙したところ「逆賊に加担」と弾劾され投獄。絞刑判決後、流罪へ減刑された。 宮中車馬管理官の張易之(元宰相・張行成の縁者)は若く美形で音楽を嗜んだ。太平公主が彼の弟・昌宗を女帝に推挙し、さらに兄弟そろって寵愛を受けることに。常に化粡を施し豪華な衣装をまとった結果、昌宗は皇帝側近顧問、易之は宮中警備長官に出世。母らへ恩賞が殺到する中、女帝は宰相代理・李迥秀(名臣李大亮の縁者)を張家の情夫に任命した。武承嗣ら高位貴族たちも彼らの屋敷へ伺候し「五郎」「六郎」と媚び諂った。 突厥が勝州を侵攻するも副将軍・安道買により撃退。 翌日、地方官・婁師徳が宰相職に抜擢される。 春三月:清辺道総管・王孝傑ら17万兵が契丹族と交戦し大敗。詳細は以下の通り──
① 精鋭を率いた王孝傑は一旦敵軍を押し返すも、追撃中に断崖地形で反転攻撃を受ける 漁陽駐屯の武攸宜軍はこの敗報に恐慌状態となり進撃不能。契丹は幽州へ侵攻して城邑を蹂躙し、派遣部隊も返り討ちに。 閻知微と田帰道が突厥に赴き默啜への可汗冊封を執行。 歴史的考察
※本訳出典:『資治通鑑』巻206(則天武后・神功元年~万歳通天2年) Translation took 1616.4 seconds. | ||||||||||||
| 知微中道遇默啜使者,輒與之緋袍、銀帶,且上言:「虜使至都,宜大為供張。」歸道上言:「突厥背誕積年,方今悔過,宜待聖恩寬宥。今知微擅與之袍帶,使朝廷無以復加;宜令反初服以俟朝恩。又,小虜使臣,不足大為供張。」太后然之。知微見默啜,舞蹈,吮其靴鼻;歸道長揖不拜。默啜囚歸道,將殺之,歸道辭色不撓,責其無厭,為陳禍福。阿波達干元珍曰:「大國使者,不可殺也。」默啜怒稍解,但拘留不遣。 初,鹹亨中,突厥有降者,皆處之豐、勝、靈、夏、朔、代六州,至是,默啜求六州降戶及單于都護府之地,並谷種、繒帛、農器、鐵,太后不許。默啜怒,言辭悖慢。姚□、楊再思以契丹未平,請依默啜所求給之。麟台少監、知鳳閣侍郎贊皇李嶠曰:「戎狄貪而無信,此所謂『借寇兵資盜糧』也,不如治兵以備之。」□、再思固請與之,乃悉驅六州降戶數千帳以與默啜,並給谷種四萬斛,雜彩五萬段,農器三千事,鐵數萬斤,並許其昏。默啜由是益強。 田歸道始得還,與閻知微爭論於太后前。歸道以為默啜必負約,不可恃和親,宜為之備。知微以為和親必可保。 夏,四月,鑄九鼎成,徙置通天宮。豫州鼎高丈八尺,受千八百石;餘州高丈四尺,受千二百石;各圖山川物產於其上,共用銅五十六萬七百餘斤。太后欲以黃金千兩塗之,姚□曰:「九鼎神器,貴於天質自然。 |
現代日本語訳知微が途中で默啜の使者と出会うや、すぐに緋色の官服と銀帯を与え、「蛮族の使節を都では盛大にもてなすべきだ」と上奏した。これに対し帰道は「突厥は長年背信を重ねてきたが、今ようやく過ちを悔いている。寛大なお情けをもって接するのが妥当です。知微が独断で官服を与えたため朝廷の対応余地を奪った。元の服装に戻させて恩恵を待たせるべきだ」と主張し、「小国の使節に過剰な供応は不要だ」と補足した。太后はこの意見を受け入れた。 知微が默啜に対面すると舞踊礼を行い靴先を舐めた一方、帰道は深々と揖するのみで跪こうとしなかった。怒った默啜は彼を拘束して処刑しようとしたが、帰道は毅然として態度を崩さず貪欲さを非難し利害関係を説いた。側近の元珍が「大国の使者は殺すべきではない」と言上したため默啜はようやく怒りを収めたものの解放せず監禁した。 咸亨年間(670-674年)、突厥から投降してきた者たちは豊州・勝州・霊州・夏州・朔州・代州の六州に居住していた。默啜がこれら降伏民と領地を要求し、加えて穀種・絹織物・農具・鉄器まで強要すると太后は拒否したため、彼は逆上して暴言を吐いた。姚□(よう しゅく)と楊再思は契丹討伐中であることを理由に全要求の受諾を進言する一方、李嶠は「夷狄は貪欲で信用できない」として『盗賊へ武器と食糧を与える愚』だと諫め軍備強化を主張した。結局姚□らが強硬に推進し数千帳幕分の降伏民と膨大な物資(穀種四万斛・絹織物五万段・農具三千点・鉄数万斤)を与え、さらに婚姻関係も許諾したため默啜は勢力を飛躍的に拡大させた。 田帰道が解放されると知微と太后の前で激論となった。帰道が「默啜は必ず約束を破る」として和親依存に警鐘を鳴らし軍備整備を訴える一方、知微は「婚姻関係こそ安全保障だ」と主張した。 夏四月(695年)、九鼎の鋳造が完成し通天宮へ移された。豫州鼎は高さ一丈八尺(約5.4m)で千八百石を収容。他州の鼎も高一丈四尺・容量千二百石であった。全てに山川物産図を彫刻した総銅材量は五十六万七百余斤(約336トン)。太后が黄金千両での鍍金を望むと姚□は「神器である九鼎は天然の質朴さこそ尊い」と反論した。 解説
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| 且臣觀其五采煥炳相雜,不待金色以為炫耀。」太后從之。自玄武門曳入,令宰相、諸王帥南北牙宿衛兵十餘萬人並仗內大牛、白象共曳之。 前益州長史王及善已致仕,會契丹作亂,山東不安,起為滑州刺史。太后召見,問以朝廷得失,及善陳治亂之要十餘條。太后曰:「外州末事,此為根本,卿不可出。」癸酉,留為內史。 癸未,以右金吾衛大將軍武懿宗為神兵道行軍大總管,與右豹韜衛將軍何迦密將兵擊契丹。五月,癸卯,又以婁師德為清邊道副大總管,右武威衛將軍沙吒忠義為前軍總管,將兵二十萬擊契丹。 先是,有朱前疑者,上書云:「臣夢陛下壽滿八百。」即拜拾遺。又自言「夢陛下發白再玄,齒落更生。」遷駕部郎中。出使還,上書云:「聞嵩山呼萬歲。」賜以緋算袋,時未五品,於綠衫上佩之。會發兵討契丹,敕京官出馬一匹供軍,酬以五品。前疑買馬輸之,屢抗表求進階;太后惡其貪鄙,六月,乙丑,敕還其馬,斥歸田裡。 右司郎中馮翊喬知之有美妾曰碧玉,知之為之不昏。武承嗣藉以教諸姬,遂留不還。知之作《綠珠怨》詩以寄之,碧玉赴井死。承嗣得詩於裙帶,大怒,諷酷吏羅告,族之。 司僕少卿來俊臣倚勢貪淫,士民妻妾有美者,百方取之;或使人羅告其罪,矯稱敕以取其妻,前後羅織誅人,不可勝計。自宰相以下,籍其姓名而取之。 |
現代日本語訳また私が観察しましたところ、仏像の五色の光彩は互いに輝き混ざり合い、金色でなくとも十分まばゆく輝いております。」太后(則天武后)はこの意見に従った。玄武門から仏像を引き入れる際には、宰相や諸王が指揮する南北衙門の宿衛兵10万余りとともに、宮中飼育の大牛・白象も動員して共同で牽引させた。 以前益州長史だった王及善は退官していたが、契丹が反乱を起こし山東地方が不安定になったため滑州刺史として復帰した。太后は謁見し朝廷の問題点を問うと、及善は治世の要点について10余項目を述べた。太后は「地方の些事など末節だ。ここ(中央)こそ根本である」と言い、癸酉(二十四日)、内史として留任させた。 癸未(四月五日)、右金吾衛大将軍・武懿宗を神兵道行軍大総管に任命し、右豹韜衛将軍・何迦密と共に契丹討伐へ派遣。五月癸卯(二十五日)には婁師徳を清辺道副大総管に、沙吒忠義を前軍総管として20万の兵で契丹征伐に向かわせた。 これより先、朱前疑という者が「陛下が八百歳まで生きられる夢を見ました」と上奏し拾遺に任じられた。さらに「陛下の白髪が黒くなり歯が生え変わる夢を見た」と報告して駕部郎中へ昇進した。出張から戻ると「嵩山で万歳と叫ぶ声を聞いた」と上書し、緋色の算袋(官吏用鞄)を賜った。当時五品官ではなかったため、緑袍の上にこれを佩用した。契丹征伐で軍馬供出命令が出ると「馬を献納すれば五品待遇を与える」との勅が下り、前疑は馬を購入して提出し度々昇進を要求した。太后はその貪欲さを嫌い六月乙丑(十七日)、馬を返却させて故郷へ追放した。 右司郎中・喬知之には碧玉という美しい愛妾がおり、彼女のために正妻を娶らなかった。武承嗣が「教えさせる」と碧玉を召し上げるとそのまま戻さない。知之は『緑珠怨』の詩を作って送ったところ、碧玉は井戸に身投げした。承嗣は帯から回収したこの詩を見て激怒し、酷吏に命じて罪を捏造させ喬一族を皆殺しにした。 司僕少卿・来俊臣は権勢を笠に貪欲で好色であり、美人の妻妾がいる者を見つけると千方百計で奪い取った。手下に罪を捏造させ「勅命である」と偽って人妻を強奪し、これにより誣告された死者は数えきれない。宰相から下級官吏まで名簿を作成して(美人の家族がいる者を)選んで略奪した。 解説
※本訳では唐代官制(例:緋算袋佩於綠衫)について『資治通鑑』胡三省注を参照。固有名詞は歴史的仮名遣いで統一し、現代日本語としての自然な表現を優先した。 Translation took 1794.5 seconds. | ||||||||||||
| 自言才比石勒。監察御史李昭德素惡俊臣,又嘗庭辱秋官侍郎皇甫文備,二人共誣昭德謀反,下獄。 俊臣欲羅告武氏諸王及太平公主,又欲誣皇嗣及廬陵王與南北牙同反,冀因此盜國權,河東人衛遂忠告之。諸武及太平公主恐懼,共發其罪,繫獄,有司處以極刑。太后欲赦之,奏上三日,不出。王及善曰:「俊臣凶狡貪暴,國之元惡,不去之,必動搖朝廷。」太后游苑中,吉頊執轡,太后問以外事,對曰:「外人唯怪來俊臣奏不下。」太后曰:「俊臣有功於國,朕方思之。」頊曰:「於安遠告虺貞反,既而果反,今止為成州司馬。俊臣聚結不逞,誣構良善,贓賄如山,冤魂塞路,國之賊也,何足惜哉!」太后乃下其奏。 丁卯,昭德、俊臣同棄市,時人無不痛昭德而快俊臣。仇家爭啖俊臣之肉,斯須而盡,抉眼剝面,披腹出心,騰蹋成泥。太后知天下惡之,乃下制數其罪惡,且曰:「宜加赤族之誅,以雪蒼生之憤,可准法籍沒其家。」士民皆相賀於路曰:「自今眠者背始帖席矣!」 俊臣以告綦連耀功,賞奴婢十人。俊臣閱司農婢,無可者,以西突厥可汗斛瑟羅家有細婢,善歌舞,欲得以為賞口,乃使人誣告斛瑟羅反。諸酋長詣闕割耳剺面訟冤者數十人。會俊臣誅,乃得免。 俊臣方用事,選司受其屬請不次除官者,每銓數百人。俊臣敗,侍郎皆自首。 |
現代日本語訳彼はみずから石勒(五胡十六国時代の後趙創始者)に比肩する才能があると豪語した。監察御史であった李昭徳はかねてより来俊臣を憎んでおり、またかつて秋官侍郎・皇甫文備に対して朝廷で侮辱を加えたことがあった。この二人が共謀して昭徳の謀反を誣告し、彼を獄に下した。 俊臣はさらに武氏一族の諸王や太平公主(則天武后の娘)に対しても罪状を捏造しようと目論み、皇嗣(中宗のこと)や廬陵王(睿宗)、さらには南北衙門が共謀して反乱を企てているとも誣告し、この混乱に乗じて国家権力を簒奪する野望を持っていた。河東出身の衛遂忠がこれを密告したため、武氏一族と太平公主は恐怖に駆られ、共同で俊臣の罪状を暴いて彼を投獄させた。司法当局は極刑を求刑したが、太后(則天武后)は赦免しようと考え、上奏文を三日間も手元に留め置いた。 王及善が諫めて言うには、「俊臣は凶暴狡猾で貪欲な国家の大罪人です。これを除かねば朝廷が揺らぎましょう」。太后が苑林で遊んでいる時、吉頊(きつ・きく)が手綱を取っていたところ、太后から政情について問われ、「外部では来俊臣への判決が出されないことを不審がっております」と答えた。すると太后は「俊臣には国家に対する功績があるゆえに猶予しているのだ」と言うので、吉頊は反論した。「于安遠(字文貞)が虺貞の謀反を告発し事実となった時でさえ、彼は成州司馬という低い地位にとどまりました。一方俊臣はならず者を集め善人を誣告し、収賄した財物は山積みとなり冤罪死者たちの魂が道にあふれています。これこそ国賊であり惜しむべき人物ではありません」。太后はようやく判決書に裁可を与えた。 丁卯(ていぼう)の日、昭徳と俊臣は同日に刑場で処刑された。当時の人々は皆、昭徳を悼みつつも俊臣の死を快哉とした。仇敵たちが争って俊臣の肉を食らい瞬く間に骨だけとなり、眼球を抉り出し顔面を剥ぎ取り、腹を裂いて心臓を取り出す暴行を受けた末に踏み潰されて泥と化した。太后は民衆の憎悪を知ると詔勅で彼の罪状を列挙して公表し、「全族処刑をもって天下の憤りを晴らすべし」との声明と共に家財没収を命じた。道ゆく官民は互いに祝い合い「これでようやく安心して眠れる!」と叫んだ。 俊臣が綦連耀(せきれんよう)謀反事件の告発功績により賜った奴婢十人のうち、司農寺配下の婢女に気に入る者がおらず、西突厥可汗・斛瑟羅(こくしつら)家にいた歌舞の得意な若い侍女を強奪しようと企んだ。俊臣は偽証させて斛瑟羅が謀反したと告発させるが、数十人の部族長たちが宮門まで赴き耳を切り顔面を傷つける自傷行為で冤罪を訴え続けたため断念せざるを得なかった。 また吏部(選任機関)では俊臣の権勢におびえて彼から推薦された者を無条件に登用し、時に数百人単位での超法規任用を行っていた。俊臣が失脚すると侍郎たちはこぞって自ら進んで罪を認めた。 解説
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| 太后責之,對曰:「臣負陛下,死罪!臣亂國家法,罪止一身;違俊臣語,立見滅族。」太后乃赦之。 上林令侯敏素諂事俊臣,其妻董氏諫之曰:「俊臣國賊,指日將敗,君宜遠之。」敏從之。俊臣怒,出為武龍令。敏欲不住,妻曰:「速去勿留!」俊臣敗,其黨皆流嶺南,敏獨得免。 太后征於安遠為尚食奉御,擢吉頊為右肅政中丞。 以檢校夏官侍郎宗楚客同平章事。 武懿宗軍至趙州,聞契丹將駱務整數千騎將至冀州,懿宗懼,欲南遁。或曰:「虜無輜重,以抄掠為資,若按兵拒守,勢必離散,從而擊之,可有大功。」懿宗不從,退據相州,委棄軍資器仗甚眾。契丹遂屠趙州。 甲午,孫萬榮為奴所殺。 萬榮之破王孝傑也,於柳城西北四百里依險築城,留其老弱婦女、所獲器仗資財,使妹夫乙冤羽守之,引精兵寇幽州。恐突厥默啜襲其後,遣五人至黑沙,語默啜曰:「我已破王孝傑百萬之人,唐人破膽,請與可汗乘勝共取幽州。」三人先至,默啜喜,賜以緋袍。二人後至,默啜怒其稽緩,將殺之,二人曰:「請一言而死。」默啜問其故,二人以契丹之情告。默啜乃殺前三人而賜二人緋,使為鄉導,發兵取契丹新城,殺所獲涼州都督許欽明以祭天;圍新城三日,克之,盡俘以歸。使乙冤羽馳報萬榮。 時萬榮方與唐兵相持,軍中聞之,恟懼。 |
現代日本語訳:太后が彼を責めると、こう答えた。「臣は陛下に背き死罪です!しかし国法を乱した罰は臣一人で受けるべきであり、来俊臣の命令に逆らえば一族皆殺しになるのは明らかです」。すると太后は彼を赦免した。 上林令(宮廷園林長官)侯敏は常日頃から来俊臣におもねっていたが、妻・董氏が諫めた。「あれは国賊だ。近く滅びるだろうから関わるな」と。侯敏が従うと、激怒した来俊臣は彼を武龍令(辺境の県令)に左遷した。赴任を渋る夫に対し妻は「急いで行け!留まるな!」と命じた。後日、来俊臣が失脚すると側近たち全員が嶺南流罪となったが、侯敏だけは難を逃れた。 太后は安遠を尚食奉御(宮廷料理長)に抜擢し、吉頊を右粛政中丞(監察次官)へ昇進させた。また宗楚客を検校夏官侍郎同平章事(兵部次官兼宰相代理)に任命した。 武懿宗の軍が趙州に着いた時、契丹将・駱務整率いる数千騎が冀州に迫ると知り恐怖で撤退しようとした。ある者が進言した。「敵は補給物資を持たず略奪頼みだ。守備を固めれば自壊するはず」。だが武懿宗は聞かず相州へ後退し、大量の兵器食糧を放棄したため契丹軍に趙州住民が虐殺された。 甲午(日付)、孫万栄が部下に暗殺される。 彼は王孝傑軍撃破後、柳城西北400里の要害に新城を築き、非戦闘員と物資を妹婿・乙冤羽に守らせて精鋭で幽州へ侵攻した。背後を突厥の默啜可汗に襲われるのを恐れ、使者5人を送って「唐軍百万を破った今こそ同盟すべきだ」と提案した。 先着3人は厚遇されたが、遅れた2人が斬られそうになると「一言だけ!」と懇願し契丹本拠地の手薄さを暴露。默啜は方針転換して先発隊を処刑し、この2人に朱衣を与え案内役とした。 突厥軍が新城を急襲すると守将乙冤羽は全滅し、捕虜の唐将・許欽明を生贄に天を祀った。わずか三日で陥落させ生存者を拉致した後、默啜は乙冤羽を万栄のもとへ走らせて報告させた。 その時ちょうど幽州前線で唐軍と対峙していた孫万栄軍はこの知らせに動揺し恐慌状態となった。 解説:
※現代語訳にあたり、固有名詞は歴史学界通用表記を採用。「虜」「奴」等差別的表現は中立的表現に変換。時間軸整理のため原文順序を一部調整 Translation took 1761.1 seconds. | ||||||||||||
| 奚人叛萬榮,神兵道總管楊玄基擊其前,奚兵擊其後,獲其將何阿小。萬榮軍大潰,帥輕騎數千東走。前軍總管張九節遣兵邀之於道,萬榮窮蹙,與其奴逃至潞水東,息於林下,歎曰:「今欲歸唐,罪已大。歸突厥亦死,歸新羅亦死。將安之乎!」奴斬其首以降,梟之四方館門。其餘眾及奚、□皆降於突厥。 戊子,特進武承嗣、春官尚書武三思並同鳳閣鸞台三品。 辛卯,制以契丹初平,命河內王武懿宗、婁師德及魏州刺史狄仁傑分道安撫河北。懿宗所至殘酷,民有為契丹所脅從復來歸者,懿宗皆以為反,生刳取其膽。先是,何阿小嗜殺人,河北人為之語曰:「唯此兩何,殺人最多。」 秋,七月,丁酉,昆明內附,置竇州。 武承嗣、武三思並罷政事。 庚午,武攸宜自幽州凱旋。武懿宗奏河北百姓從賊者請盡族之,左拾遺王求禮庭折之曰:「此屬素無武備,力不勝賊,苟從之以求生,豈有叛國之心!懿宗擁強兵數十萬,望風退走,賊徒滋蔓,又欲移罪於草野詿誤之人,為臣不忠,請先斬懿宗以謝河北!」懿宗不能對。司刑卿杜景儉亦奏:「此皆脅從之人,請悉原之。」太后從之。 八月,丙戌,納言姚□坐事左遷益州長史,以太子宮尹豆盧欽望為文昌右相、鳳閣鸞台三品。 九月,壬辰,大享通天宮,赦天下,改元。 庚戌,婁師德守納言。 |
現代日本語訳:奚族が万栄に背くと、神兵道総管の楊玄基が正面から攻撃し、奚軍が背後を突いたため、敵将・何阿小が捕らえられた。万栄の軍勢は大敗し、数千騎で東方へ逃走した。前軍総管・張九節が途中に伏兵を配置すると、万栄は退路を絶たれ、側近一人と潞水東岸まで逃れた。林の中で休む際「今さら唐に帰れば罪は重すぎる。突厥へ行っても死ぬ。新羅も同様だ。いったいどこへ行けばよいのか!」と嘆いたところ、従者がその首を斬って降伏し、四方館門で晒し首となった。残存勢力と奚族・□族は突厥に投降した。 戊子の日(6日)、特進・武承嗣と春官尚書・武三思がともに鳳閣鸞台三品となる。 辛卯の日(9日)、契丹平定を受け河内王・武懿宗、婁師徳、魏州刺史・狄仁傑に河北地域の慰撫を命じる詔が出された。武懿宗は赴任先で残虐行為を繰り返し、契丹に脅されて協力した後に帰順した民衆を「反逆者」と決めつけ、生きながら胆嚢を取り出した。以前より何阿小も殺戮を好んだため、河北の人々は「二つの"カ(武懿宗の字'懷'と何阿小)こそ人を最も殺す」と言い習わしていた。 秋7月丁酉(16日)、昆明国が帰順し竇州が設置された。 武承嗣と武三思は政務から外れた。 庚午(20日※暦に矛盾あり)、武攸宜が幽州から凱旋。武懿宗が「賊に加担した河北民衆を皆族誅すべきだ」と奏上すると、左拾遺・王求礼が朝廷で激しく反論した:「彼らは武器も持たず賊の力に抗えず、生き延びるためやむを得ず従っただけで謀叛などない。貴公こそ数十万の大軍を持ちながら風聞ですぐ退却し、かえって賊を蔓延させた!今さら罪を無辜の民に転嫁しようとは不忠極まりぬ。まず貴公を斬り河北の人々へ詫びるべきだ!」武懿宗は返答できなかった。司刑卿・杜景儉も「皆脅迫された者です」と赦免を上奏し、則天武后はこれを受け入れた。 8月丙戌(3日)、納言・姚□が事件に連座して益州長史へ左遷され、代わりに太子宮尹・豆盧欽望が文昌右相・鳳閣鸞台三品となった。 9月壬辰(9日)、通天宮で盛大な祭祀を行い大赦を実施、元号を改めた。 庚戌(27日)、婁師徳が納言代理となる。 解説:
※注記: - □は原典欠字を反映(姚□=姚璹説あり) - 「生刳取其胆」:当時の戦時残虐行為を伝える貴重な記載 - 突厥への投降:唐の北方防衛体制弱化を示唆する事象 Translation took 1879.7 seconds. | ||||||||||||
| 甲寅,太后謂侍臣曰:「頃者周興、來俊臣按獄,多連引朝臣,雲其謀反;國有常法,朕安敢違!中間疑其不實,使近臣就獄引問,得其手狀,皆自承服,朕不以為疑。自興、俊臣死,不復聞有反者,然則前死者不有冤邪?」夏官侍郎姚元崇對曰:「自垂拱以來坐謀反死者,率皆興等羅織,自以為功。陛下使近臣問之,近臣亦不自保,何敢動搖!所問者若有翻覆,懼遭慘毒,不若速死。賴天啟聖心,興等伏誅,臣以百口為陛下保,自今內外之臣無復反者;若微有實狀,臣請受知而不告之罪。」太后悅曰:「向時宰相皆順成其事,陷朕為淫刑之主;聞卿所言,深合朕心。」賜元崇錢千緡。 時人多為魏元忠訟冤者,太后復召為肅政中丞。元忠前後坐棄市流竄者四。嘗侍宴,太后問曰:「卿往者數負謗,何也?」對曰:「臣猶鹿耳,羅織之徒欲得臣肉為羹,臣安所避之!」 冬,閏十月,甲寅,以幽州都督狄仁傑為鸞台侍郎,司刑卿杜景儉為鳳閣侍郎,並同平章事。 仁傑上疏,以為:「天生四夷,皆在先王封略之外,故東拒滄海,西阻流沙,北橫大漠,南阻五嶺,此天所以限夷狄而隔中外也。自典籍所紀,聲教所及,三代不能至者,國家盡兼之矣。詩人矜薄伐於太原,美化行於江、漢,則三代之遠裔,皆國家之域中也。若乃用武荒外,邀功絕域,竭府庫之實以爭不毛之地,得其人不足增賦,獲其土不可耕織,苟求冠帶遠夷之稱,不務固本安人之術,此秦皇、漢武之所行,非五帝、三王之事業也。 |
現代日本語訳甲寅の日、則天武后は侍臣に言った。「近ごろ周興や来俊臣が事件を調べるとき、多くの朝臣を謀反のかどで連座させた。国には法律があるので朕といえどもどうして違えることができようか? しかし疑わしく思うこともあり、側近を獄に派遣して自白状を取ったところ、みな自分から罪を認めたため、朕はそれ以上疑わなかった。彼らが死んで以来、謀反者は聞かれなくなったが、ならば以前処刑された者たちには冤罪があったのではないか?」夏官侍郎の姚元崇が答えて言うには「則天武后陛下の治世(垂拱年間以降)、謀反のかどで死刑にされた者のほとんどは周興らのでっち上げによるものでした。彼ら自身が手柄としたのです。陛下が側近を尋問させても、その者たちも身の安全が保証されず、どうして真実を告げられましょうか? もし自白を翻そうものなら酷刑に遭うことを恐れ、いっそ早く死んだほうがましだったのです。幸いに天が陛下のお心を開かれ、周興らは処刑されました。臣は一族の命にかけて保証します。今後内外の臣下で謀反する者はもうおりません。もしわずかでも疑わしい事実があれば、知りながら報告しなかった罪をお受けいたします」。武后は喜んで言った「以前の宰相たちはただ事件を追認して、朕を酷刑を行う主君にしてしまっていた。卿の言葉こそが朕の心に深く叶うものだ」と。元崇には千緡の銭を与えた。 当時多くの人々が魏元忠のために冤罪を訴えていたため、武后は彼を再び召し出して肅政中丞(御史台次官)に任命した。元忠はこれまで四度も死刑や流刑にあっていた。ある宴会で武后が尋ねた「卿はいったいなぜ何度も讒言されたのか?」 それに対し元忠は答えた「臣は鹿のようなものです。罪を捏造する者たち(羅織之徒)がこの肉を羹にしようと狙っているのですから、逃げようがございません」。 同年冬閏十月甲寅の日、幽州都督・狄仁傑を鸞台侍郎(門下省次官)、司刑卿・杜景儉を鳳閣侍郎(中書省次官)に任命し、ともに同平章事(宰相職)とした。 仁傑は上疏して述べた。「天が四方の異民族をお生みになったのは、すべて先代の王者たちの統治領域外です。東には滄海(渤海)、西には流砂地帯、北には広大な沙漠、南には五嶺山脈があり、これこそ天が夷狄を限界づけ中華と隔てるためのものです。文献に記録され教えが及んだ範囲は、夏・殷・周の三代でも到達できなかった土地までも、我が国(唐)はすべて併合しました。詩経では太原での征伐や江漢流域への教化を誇っていますが、それら古代王朝の辺境だった地も今では国家の版図内です。もしさらに未開の外地で武力を用い、絶域に功績を求めれば、国庫を使い果たして不毛の土地を取り合うことになりましょう。住民を得ても税収は増えず、領土を得ても耕作や機織りには適しません。ただ『遠方の蛮族が臣従した』という虚名を追い求めて根本(国内)を固め民を安んじる方法をおろそかにするのは、秦の始皇帝や漢の武帝のような行為であり、五帝・三王(伝説上の聖王)の事業では決してありません」。 解説
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| 始皇窮兵極武,務求廣地,死者如麻,至天下潰叛。漢武征伐四夷,百姓困窮,盜賊蜂起;末年悔悟,息兵罷役,故能為天所祐。近者國家頻歲出師,所費滋廣,西戍西鎮,東戍安東,調發日加,百姓虛弊。今關東饑饉,蜀、漢逃亡,江、淮已南,徵求不息,人不復業,相率為盜,本根一搖,憂患不淺。其所以然者,皆以爭蠻貊不毛之地,乖子養蒼生之道也。昔漢元納賈捐之之謀而罷朱崖郡,宣帝用魏相之策而棄車師之田,豈不欲慕尚虛名,蓋憚勞人力也。近貞觀年中克平九姓,立李思摩為可汗,使統諸部者,蓋以夷狄叛則伐之,降則撫之,得推亡固存之義,無遠戍勞人之役,此近日之令典,經邊之故事也。竊謂宜立阿史那斛瑟羅為可汗,委之四鎮,繼高氏絕國,使守安東。省軍費於遠方,並甲兵於塞上,使夷狄無侵侮之患則可矣,何必窮其窟穴,與螻蟻校長短哉!但當敕邊兵,謹守備,遠斥侯,聚資糧,待其自致,然後擊之。以逸待勞則戰士力倍,以主御客則我得其便,堅壁清野則寇無所得;自然賊深入則有顛躓之慮,淺入必無虜獲之益。如此數年,可使二虜不擊而服矣。」事雖不行,識者是之。 鳳閣舍人李嶠知天官選事,始置員外官數千人。 先是歷官以是月為正月,以臘月為閏。太后欲正月甲子朔冬至,乃下制以為:「去晦仍見月,有爽天經。 |
現代日本語訳秦の始皇帝は武力を極限まで用い、領土拡大のみを追求した結果、死者が無数に生じ天下は離反へと至った。漢の武帝も異民族征伐で民衆を困窮させ賊徒を蜂起させたが、晩年に過ちを悟って軍事行動を停止し労役を免除したため、天の加護を得られた。 近年わが国では毎年のように出兵を続け、費用は増大する一方である。西方では西鎮・四鎮(トルファン方面)に駐屯させ、東方では安東都護府を守備させるなど徴発が強化され民衆の疲弊は極みにある。今や関東地方には飢饉が広がり蜀・漢中から逃亡者が続出し、江淮以南でも税の取り立てが止まず人々は生業に戻れず集団で盗賊化している。国家基盤を揺るがす深刻な憂患だ。 この原因は全て「蛮族の不毛の地」争奪にある――民衆養育という統治原則からの逸脱である。かつて漢元帝は賈捐之の進言を受け朱崖郡(海南島)放棄を決断し、宣帝も魏相の献策で車師国農地撤退を行った。虚名に囚われず民力消耗を避けた賢明な判断だった。 近年では貞観年間(太宗治世)、九姓鉄勒を平定した際に李思摩を可汗として各部族統率させた例がある。「夷狄が反乱すれば討伐し、降伏すれば懐柔する」原則のもと遠方駐屯で民衆を疲弊させることなく「滅びる者を見捨てず存続者を支援(推亡固存)」の道理を示した。これこそ現代に通用すべき辺境統治規範である。 私案として阿史那斛瑟羅を可汗に擁立し四鎮を委ね、高氏が断絶した国(高句麗)継承者とすることで安東守備を担わせることを提案する。遠方での軍事費削減・兵力の国境集中により夷狄侵攻懸念は解消される。「蟻塚の中まで踏み込み虫けら相手に優劣競う(螻蟻校長短)」必要性などない。 必要なのは辺境防衛軍へ「警戒強化・斥候範囲拡大・物資備蓄」を厳命し、敵が自発的に出撃して来るのを待ってから迎撃することだ。労せず相手疲弊を待てば(以逸待勞)戦力は倍増し、防御側優位で攻め込む敵に対処すれば(以主御客)地理的利点を得られる。「城壁強化と食糧隠匿(堅壁清野)」により略奪も不可能となる。この策を数年間続ければ二つの異民族勢力(突厥・吐蕃)は戦わずして服従するだろう。 ※提案は採用されなかったが、識者から評価された 解説
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| 可以今月為閏月,來月為正月。」 則天順聖皇后中之下聖歷元年(戊戌,公元六九八年) 正月,甲子朔,冬至,太后享通天宮;赦天下,改元。 夏官侍郎宗楚客罷政事。 春,二月,乙未,文昌右相、同鳳閣鸞台三品豆盧欽望罷為太子賓客。 武承嗣、三思營求為太子,數使人說太后曰:「自古天子未有以異姓為嗣者。」太后意未決。狄仁傑每從容言於太后曰:「文皇帝櫛風沐雨,親冒鋒鏑,以定天下,傳之子孫。太帝以二子托陛下。陛下今乃欲移之他族,無乃非天意乎!且姑侄之與母子孰親?陛下立子,則千秋萬歲後,配食太廟,承繼無窮;立侄,則未聞侄為天子而祔姑於廟者也。」太后曰:「此朕家事,卿勿預知。」仁傑曰:「王者為四海為家,四海之內,孰非臣妾,何者不為陛下家事!君為元首,臣為股肱,義同一體,況臣備位宰相,豈得不預知乎!」又勸太后召還廬陵王。王方慶、王及善亦勸之。太后意稍寤。他日,又謂仁傑曰:「朕夢大鸚鵡兩翅皆折,何也?」對曰:「武者,陛下之姓,兩翼,二子也。陛下起二子,則兩翼振矣。」太后由是無立承嗣、三思之意。 孫萬榮之圍幽州也,移檄朝廷曰:「何不歸我廬陵王?」吉頊與張易之、昌宗皆為控鶴監供奉,易之兄弟親狎之。頊從容說二人曰:「公兄弟貴寵如此,非以德業取之也,天下側目切齒多矣。 |
現代日本語訳:「今月を閏月と定め、来月をもって正月とすることを認める」 則天順聖皇后の治世中巻・下 聖暦元年(戊戌年、西暦698年) 正月甲子朔(1日)、冬至。太后は通天宮にて祭祀を行い、天下に大赦令を発布し元号を改めた。 夏官侍郎宗楚客が政事から退く。 春二月乙未(3日)、文昌右相・同鳳閣鸞台三品の豆盧欽望が太子賓客へ転出。 武承嗣と武三思は皇太子の地位を得ようと画策し、たびたび太后に進言した。「古来より天子が異姓を後継者とする例はありません」。太后は決断しかねていた。狄仁傑は折を見てこう諫めた:「太宗文皇帝(李世民)が風雨を冒し自ら矢弾の飛び交う戦場で天下を統一され、子孫へ伝えられました。先帝(高宗)が二人の皇子(中宗・睿宗)を陛下に託されたのに、今まさに他族(武氏)へ継承させようとは、天意にも背くのではないでしょうか? さらに姑と甥の関係よりも母と子の絆のほうが深いのは明白です。皇子を立てれば、陛下崩御後も太廟で祭祀を受けられ永代継承されますが、甥を立てた場合、天子となった甥が姑を宗廟に合祀した例は聞いたことがありません」。太后は「これは朕の家事だ」と退けたが、狄仁傑は重ねて主張する:「王者は天下四海をもって家とします。臣妾でない者などおらず、全てが陛下の家事です! 君主を頭とすれば臣下は手足であり、一体となるのが道理。ましてや宰相たる私が関与しないわけには参りません」。さらに廬陵王(中宗)の復帰を進言し、王方慶・王及善も同調したため太后の考えは次第に変化する。 ある日、太后は狄仁傑に夢について語った:「両翼が折れた鸚鵡を見たのだ」。すると彼は即座に解釈を示す:「武(=鸚)こそ陛下の姓。二羽の翼は二人の皇子です。皇子を再起用されれば翼も蘇るでしょう」。これにより太后は承嗣・三思擁立の意思を放棄した。 孫万栄が幽州を包囲した際、朝廷に檄文を送りつけた:「なぜ廬陵王を返還しないのか?」。吉頊と張易之・昌宗兄弟はいずれも控鶴監供奉(側近官)であったが、易之らは吉頰を親密に遇した。ある時吉頊は二人に語りかける:「貴公たちの権勢は徳によるものではなく、天下人の怨嗟の的となっています」 解説:
※ルビ厳禁・原典非表示という要件に対応し、固有名詞(狄仁傑=てきじんけつ等)も全て漢字表記のみで統一。 Translation took 1595.0 seconds. | ||||||||||||
| 不有大功於天下,何以自全?竊為公憂之!」二人懼,涕泣問計。頊曰:「天下士庶未忘唐德,鹹復思廬陵王。主上春秋高,大業須有所付;武氏諸王非所屬意。公何不從容勸主上立廬陵王以系蒼生之望!如此,豈徒免禍,亦可以長保富貴矣。」二人以為然,承間屢為太后言之。太后知謀出於頊,乃召問之,頊復為太后具陳利害,太后意乃定。 三月,己巳,託言廬陵王有疾,遣職方員外郎瑕丘徐彥伯召廬陵王及其妃、諸子詣行在療疾。戊子,廬陵王至神都。 夏,四月,庚寅朔,太后祀太廟。 辛丑,以婁師德充隴右諸軍大使,仍檢校營田事。 六月,甲午,命淮陽王武延秀下突厥,納默啜女為妃;豹韜衛大將軍閻知微攝春官尚書,右武衛郎將楊齊莊攝司賓卿,繼金帛巨億以送之。延秀,承嗣之子也。 鳳閣舍人襄陽張柬之諫曰:「自古未有中國親王娶夷狄女者。」由是忤旨,出為合州刺史。 秋,七月,鳳閣侍郎、同平章事杜景儉罷為秋官尚書。 八月,戊子,武延秀至黑沙南庭。突厥默啜謂閻知微等曰:「我欲以女嫁李氏,安用武氏兒邪!此豈天子之子乎!我突厥世受李氏恩,聞李氏盡滅,唯兩兒在,我今將兵輔立之。」乃拘延秀於別所,以知微為南面可汗,言欲使之主唐民也。遂發兵襲靜難、平狄、清夷等軍,靜難軍使慕容玄崱以兵五千降之。 |
現代日本語訳天下に大いなる功績を残さなければ、どうして身の安全を保てようか?私はあなたがたのために憂慮している」と述べた。二人は恐れおののき、涙ながらに対策を尋ねた。頊(ぎょく)は言った。「天下の人々はまだ唐への恩義を忘れておらず、こぞって廬陵王(ろりょうおう)の復帰を望んでいます。主上(則天武后)もご高齢で、大業を受け継ぐ者が必要です。武氏一族から後継者を立てるのは適切ではありません。どうして穏やかに主上にお勧めになり、廬陵王を立てて民衆の期待に応えられないのですか?そうすれば災いを免れるだけでなく、富貴も永く保てましょう」。二人はその言葉に納得し、機会を見つけてたびたび太后(則天武后)に進言した。太后はこの策が頊の考えと知ると召し出して問いただしたが、頊は改めて利害を詳細に説明すると、太后も決心を固めた。 三月己巳の日、「廬陵王が病を得た」として職方員外郎(しょくほういんがいろう)・瑕丘出身の徐彦伯を使者とし、廬陵王夫妻や子らを行在所に召して療養させると発表した。戊子の日、廬陵王は神都(洛陽)に到着。 夏四月庚寅朔の日、太后が太廟を祭祀。 辛丑の日、婁師徳を隴右諸軍大使に任命し引き続き営田事務を監察させる。 六月甲午の日、淮陽王・武延秀(ぶえんしゅう)を使者として突厥へ派遣。默啜(ぼくてつ)可汗の娘と婚姻させようと計画した。豹韜衛大将軍・閻知微を春官尚書代理に、右武衛郎将・楊斉荘を司賓卿代理に任じ、金帛数億を携え随行させた。延秀は承嗣(ぶしょうせい)の息子である。 鳳閣舎人・襄陽出身の張柬之が諫言した。「古来より中国の親王が夷狄(いてき)の娘と婚姻した例などありません」。これにより則天武后の意に背いたとして、合州刺史へ左遷された。 秋七月、鳳閣侍郎同平章事・杜景儉を更迭し秋官尚書とする。 八月戊子の日、武延秀が黒沙南庭(こくさなんてい)に到着。突厥の默啜可汗は閻知微らに向かい言下に告げた。「我が娘は李氏と婚姻させるつもりだ。どうして武氏など必要があろうか?これ天子の子と言えるのか!我々突厥は代々李氏より恩恵を受けてきた。聞けば李氏一族ことごとく滅ぼされ、二人だけ残存しているという。今こそ兵を率いて彼らを輔佐し帝位に就けるのだ」。延秀を別室へ監禁すると閻知微を南面可汗(みなみおうかがん)に任命。「唐の民衆を統治させよう」として静難・平狄・清夷など軍事拠点を急襲。静難軍使・慕容玄崱は兵五千を率いて降伏した。 解説
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| 虜勢大振,進寇媯、檀等州。前從閻知微入突厥者,默啜皆賜之五品、三品之服,太后悉奪之。 默啜移書數朝廷曰:「與我蒸谷種,種之不生,一也。金銀器皆行濫,非真物,二也。我與使者緋紫皆奪之,三也。繒帛皆疏惡,四也。我可汗女當嫁天子兒,武氏小姓,門戶不敵,罔冒為昏,五也。我為此起兵,欲取河北耳。」 監察御史裴懷古從閻知微入突厥,默啜欲官之,不受。囚,將殺之,逃歸;抵晉陽,形容羸瘁。突騎噪聚,以為間諜,欲取其首以求功。有果毅嘗為人所枉,懷古按直之,大呼曰:「裴御史也!」救之,得全。至都,引見,遷祠部員外郎。 時諸州聞突厥入寇,方秋,爭發民修城。衛州刺史太平敬暉謂僚屬曰:「吾聞金湯非粟不守,奈何捨收穫而事城郭乎?悉罷之,使歸田,百姓大悅。 甲午,鸞台侍郎、同平章事王方慶罷為麟台監。 太子太保魏宣王武承嗣,恨不得為太子,意怏怏,戊戌,病薨。 庚子,以春官尚書武三思檢校內史,狄仁傑兼納言。 太后命宰相各舉尚書郎一人,仁傑舉其子司府丞光嗣,拜地官員外郎,已而稱職。太后喜曰:「卿足繼祁奚矣!」 通事舍人河南元行沖,博學多通,仁傑重之。行沖數規諫仁傑,且曰:「凡為家者必有儲蓄脯醢以適口,參術以攻疾。僕竊計明公之門,珍味多矣,行沖請備藥物之末。 |
現代日本語訳:突厥の勢力が大いに盛り返し、媯州・檀州などに侵入した。以前に閻知微について突厥に入った者たちは皆、默啜から五品や三品の官服を与えられていたが、則天武后はそれらを全て没収した。 默啜は朝廷へ書簡を送り、次のように非難した:「(一)蒸して発芽力を失った種子を与え、植えても生えないこと。(二)金銀器は粗悪品で本物ではないこと。(三)我が使者への緋色・紫色の官服を奪ったこと。(四)絹織物が薄くて粗末なこと。(五)我可汗の娘は天子の息子に嫁ぐべきところ、武氏は小姓(低い家柄)で門閥が釣り合わず、婚儀を偽っていること。これらが我々が兵を起こし河北を奪おうとする理由だ。」 監察御史・裴懐古は閻知微に従って突厥に入ったが、默啜が官位を与えようとしたのを受け入れなかったため捕らわれ、殺されそうになったが脱出。晋陽に着いた時には衰弱しきっていた。現地の騎兵隊が騒ぎ「間諜だ」と首を取ろうとした際、かつて裴懐古に冤罪を救われた軍吏が「裴御史だ!」と叫んで助け、一命を取り留めた。都で引見され祠部員外郎に昇進した。 突厥侵入の報を受けた諸州では秋の収穫期にも関わらず農民を徴発して城壁修築を急いだが、衛州刺史・太平敬暉は「堅固な城も食糧なしでは守れぬ。収穫を捨てて土木作業とは何事か」と中止させ農民を帰したため人々は歓喜した。 甲午の日(9月27日)、鸞台侍郎・同平章事の王方慶が罷免され麟台監に左遷。 太子太保・魏宣王武承嗣は皇太子になれぬ不満から鬱屈し、戊戌の日(10月1日)に病死。 庚子の日(10月3日)、春官尚書の武三思が検校内史に、狄仁傑が納言を兼任。 則天武后が宰相に尚書郎の推挙を命じた際、狄仁傑は実子の司府丞・光嗣を推薦。地官員外郎に任命され有能さを示したため、太后は「祁奚(公私混同を批判されない人物)の再来だ」と賞賛。 通事舍人の元行沖(河南出身)は学識豊かで狄仁傑から重用されたが、「家庭には美味が必要なように良薬も必要。私は貴方にとって薬石となる存在です」と進言した。 解説:【歴史的背景】本節は『資治通鑑』則天武后朝(697-698年)における突厥・周王朝対立の局面を描く。默啜可汗が「五ヶ条の非難」で大義名分を掲げた背景には、突厥側の勢力拡張意図と、武周政権の正統性攻撃(例:武氏を「小姓」と蔑む)が複合している。 【人物動向】
【政治手法】
【テキスト特性】司馬光が特に強調すべき点として: - 異民族対応では「信義」の重要性(粗悪品提供による信用失墜) - 危機管理時こそ民生安定が最優先(衛州の事例) - 権力者も諫言を受け入れる必要性(元行沖の発言) →これらは北宋・司馬光が当時の遼・西夏対策を念頭に置いた「資治」的記述と言える。 Translation took 1703.6 seconds. | ||||||||||||
| 」仁傑笑曰:「吾藥籠中物,何可一日無也!」行沖名澹,以字行。 以司屬卿武重規為天兵中道大總管,右武衛將軍沙吒忠義為天兵西道總管,幽州都督下邽張仁願為天兵東道總管,將兵三十萬以討突厥默啜;又以左羽林衛大將軍閻敬容為天兵西道後軍總管,將兵十五萬為後援。 癸丑,默啜寇飛狐,乙卯,陷定州,殺刺史孫彥高及吏民數千人。 九月,甲子,以夏官尚書武攸寧同鳳閣鸞台三品。 改突厥默啜為斬啜。 默啜使閻知微招諭趙州,知微與虜連手蹋《萬歲樂》於城下。將軍陳令英在城上謂曰:「尚書位任非輕,乃為虜蹋歌,獨無慚乎!知微微吟曰:「不得已,《萬歲樂》。」 戊辰,默啜圍趙州,長史唐般若翻城應之。刺史高睿與妻秦氏仰藥詐死,虜輿之詣默啜,默啜以金師子帶、紫袍示之曰:「降則拜官,不降則死!」睿顧其妻,妻曰:「酬報國恩,正在今日!」遂俱閉目不言。經再宿,虜知不可屈,乃殺之。虜退,唐般若族誅;贈睿冬官尚書,謚曰節。睿,熲之孫也。 皇嗣固請遜位於廬陵王,太后許之。壬申,立廬陵王哲為皇太子,復名顯。赦天下。 甲戌,命太子為河北道元帥以討突厥。先是,募人月餘不滿千人,及聞太子為帥,應募者雲集,未幾,數盈五萬。 戊寅,以狄仁傑為河北道行軍副元帥,右丞宋玄爽為長史,右台中丞崔獻為司馬,左台中丞吉頊為監軍使。 |
現代日本語訳狄仁傑は笑って言った。「わが薬籠中の物、どうして一日でも欠かせようか!」(行沖の本名は澹だが、字で知られる) 司属卿・武重規を天兵中道大総管に、右武衛将軍・沙吒忠義を天兵西道総管に、幽州都督・下邽出身の張仁願を天兵東道総管に任命し、三十万の兵を率いて突厥の默啜(ぼくてい)討伐に向かわせた。さらに左羽林衛大将軍・閻敬容を天兵西道後軍総管とし、十五万の兵で後援とした。 癸丑の日、默啜が飛狐を侵略。乙卯の日には定州を陥落させ、刺史の孫彦高および官吏・民衆数千人を殺害した。 默啜が閻知微を使者として趙州へ降伏勧告に出向かせると、知微は敵兵と手をつなぎ城壁前で『万歳楽』を踊った。城上の陳令英将軍が「尚書(閻知微)の地位は軽くないのに、なぜ賊と踊るのか?恥ずかしくないのか!」と言うと、知微は小声で「やむを得ぬのです…『万歳楽』です」と答えた。 戊辰の日、默啜が趙州を包囲すると、長史・唐般若が城を裏切って内応した。刺史の高睿(こうえい)と妻の秦氏は毒薬を仰いで偽装自殺したが、敵兵に担ぎ出され默啜のもとに連行される。默啜は金獅子帯と紫袍を示して「降れば官位を与える。拒めば死だ」と言った。高睿が妻を見ると、彼女は「国恩に報いるのは今日こそ!」と言い、二人とも目を閉じて沈黙した。二晩経っても屈しないため敵は夫妻を殺害。後に唐般若は一族皆殺しとなり、高睿には死後・冬官尚書の位と「節」という諡号が贈られた(高睿は高熲〈こうけい〉の孫)。 皇嗣(李旦)が固辞して廬陵王への譲位を請うたため、太后(則天武后)は許可した。壬申の日、廬陵王・哲を皇太子に立てて名を顕と改めさせ、大赦を行った。 甲戌の日、皇太子を河北道元帥として突厥討伐軍を指揮させる。これ以前は一ヶ月募兵しても千人も集まらなかったが、太子の就任を知ると志願者が殺到し、ほどなく五万人に達した。 解説
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| 時太子不行,命仁傑知元帥事,太后親送之。 藍田令薛訥,仁貴之子也,太后擢為左威衛將軍、安東道經略。將行,言於太后曰:「太子雖立,外議猶疑未定;苟此命不易,丑虜不足平也。」太后深然之。王及善請太子赴外朝以慰人心,從之。以天官侍郎蘇味道為鳳閣侍郎、同平章事。味道前後在相位數歲,依阿取容,嘗謂人曰:「處事不宜明白,但摸稜持兩端可矣。」時人謂之「蘇摸稜」。 癸未,突厥默啜盡殺所掠趙、定等州男女萬餘人,自五回道去,所過,殺掠不可勝紀。沙吒忠義等但引兵躡之,不敢逼。狄仁傑將兵十萬追之,無所及。默啜還漠北,擁兵四十萬,據地萬里,西北諸夷皆附之,甚有輕中國之心。 冬,十月,制:都下屯兵,命河內王武懿宗、九江王武攸歸領之。 癸卯,以狄仁傑為河北道安撫大使。時河北人為突厥所驅逼者,虜退,懼誅,往往亡匿。仁傑上疏,以為:「朝廷議者皆罪契丹、突厥所脅從之人,言其跡雖不同,心則無別。誠以山東近緣軍機調發傷重,家道悉破,或至逃亡。重以官典侵漁,因事而起,枷杖之下,痛切肌膚,事迫情危,不循禮義。愁苦之地,不樂其生,有利則歸,且圖賒死,此乃君子之愧辱,小人之常行也。又,諸城入偽,或待天兵,將士求功,皆雲攻得,臣憂濫賞,亦恐非辜。以經與賊同,是為惡地,至有污辱妻子,劫掠貨財,兵士信知不仁,簪笏未能以免,乃是賊平之後,為惡更深。 |
現代日本語訳この時、皇太子(李顕)が出陣しなかったため、狄仁傑に元帥の職務を代行させた。則天武后自ら見送りに出向いた。 藍田県令・薛訥(名将・薛仁貴の子)は、武后によって左威衛将軍兼安東道経略使に抜擢された。出発にあたり進言した:「皇太子が立ったとはいえ世論にはなお疑念があります。この人事を堅持されれば賊徒など容易く平定できます」と。武后は深く同意した。 王及善が「皇太子の外朝出席で人心収拾を」と奏上すると、これを受け入れた。天官侍郎・蘇味道を鳳閣侍郎・同平章事(宰相職)に任命。彼は数年間も相位にあって日和見的態度を取り続け、「物事は明確にせず曖昧に両端を持すべきだ」と公言したため、当時「八方美人の蘇」(蘇摸稜)と呼ばれた。 癸未(日付)、突厥の默啜が趙州・定州から略奪した男女1万余人を虐殺し五回道より撤退。通過地で無数の殺戮と掠奪を行った。沙吒忠義ら唐軍は追跡しながらも攻撃できず、狄仁傑率いる10万兵の追撃も及ばなかった。默啜は漠北に帰還して40万兵力を擁し西北諸民族を従え、中国を見下すようになった。 冬十月(勅令):都城内駐屯軍を河内王・武懿宗と九江王・武攸帰が指揮することを命ずる。 癸卯(日付)、狄仁傑を河北道安撫大使に任命。当時、突厥から解放された住民は協力罪を恐れ逃亡していた。仁傑は上疏で訴えた: 「朝廷では強制協力者まで同罪とする議論が支配的です。しかし彼らは戦時の重税と官吏の横暴(収奪・拷問)に苦しみ、生存本能から渋々従ったのです」 「また将兵の虚偽報告問題があります―城を自力で奪還したと誇張するため協力者への報復が横行しています。敵より酷い略奪や婦女暴行すら発生しており、官吏も抑止できない有様です」 解説
※歴史用語注:五回道(北京方面への要衝)、枷杖(刑具による拷問)などの具体的描写は、唐代辺境支配の苛烈さを物語る。 Translation took 1337.3 seconds. | ||||||||||||
| 且賊務招攜,秋毫不犯,今之歸正,即是平人,翻被破傷,豈不悲痛!夫人猶水也,壅之則為泉,疏之則為川,通塞隨流,豈有常性!今負罪之伍,必不在家,露宿草行,潛竄山澤,赦之則出,不赦則狂,山東群盜,緣茲聚結。臣以邊塵暫起,不足為憂,中土不安,此為大事。罪之則眾情恐懼,恕之則反側自安。伏願曲赦河北諸州,一無所問。」制從之。仁傑於是撫慰百姓,得突厥所驅掠者,悉遞還本貫。散糧運以賑貧乏,修郵驛以濟旋師。恐諸將及使者妄求供頓,乃自食蔬糲,禁其下無得侵擾百姓,犯者必斬。河北遂安。 以夏官侍郎姚元崇、秘書少監李嶠並同平章事。 突厥默啜離趙州,乃縱閻知微使還。太后命磔於天津橋南,使百官共射之,既乃C061其肉,剉其骨,夷其三族,疏親有先未相識而同死者。 褒公段瓚,志玄之子也,先沒於突厥。突厥在趙州,瓚邀楊齊莊與之俱逃,齊莊畏怯,不敢發。瓚先歸,太后賞之。齊莊尋至,敕河內王武懿宗鞫之;懿宗以為齊莊意懷猶豫,遂與閻知微同誅。既射之如□胃,氣□□未死,乃決其腹,割心,投於地,猶趌□然躍不止。 擢田歸道為夏官侍郎,甚見親委。 蜀州每歲遣兵五百人戍姚州,路險遠,死亡者多。蜀州刺史張柬之上言,以為:「姚州本哀牢之國,荒外絕域,山高水深。國家開以為州,未嘗得其鹽布之稅,甲兵之用,而空竭府庫,驅率平人,受役蠻夷,肝腦塗地,臣竊為國家惜之。 |
現代日本語訳:なお、賊軍は帰順者を招くことに努め、民衆には毫も害を与えなかった。今、官軍に投降した者は既に平民であるのに、逆に傷つけられるとは、なんと悲痛なことか!人は水のようなものであり、堰き止めれば泉となり、疏通させれば川となる。流れに従って通じたり塞がれたりするもので、どうして一定の性質があるだろうか?今や罪を負った者たちは必ず家におらず、野宿しながら草むらを行き、ひそかに山沢へ逃げ込んでいる。赦せば出てくるが、赦さねば狂乱する。山東(太行山以東)の群盗はこれにより集結しているのだ。臣(狄仁傑)は考えますに、辺境の戦火が一時的に起こるのは憂うるに足らず、中原が安定しないことこそ重大事であると。彼らを罰せば民衆は恐れおののき、寛恕すれば不安分子も自然に落ち着くでしょう。伏して願わくは河北諸州に対し特別赦免を行い、一切追及なきことを」。則天武后はこの意見を受け入れた。 狄仁傑はこれにより民衆を慰撫し、突厥によって拉致された者たちを全て故郷へ送還した。食糧を放出して貧困者を救済し、駅伝制度を整備して撤退する軍隊の便を図った。諸将や使者が勝手に供応を要求することを恐れ、自ら粗末な食事を取り、配下には百姓への侵害・騒擾を厳禁した。違反者は必ず斬ると宣言し、河北はついに安定した。 夏官侍郎(兵部次官)の姚元崇と秘書少監(図書庁副長官)の李嶠がともに同平章事(宰相職)に任ぜられた。 突厥の默啜可汗が趙州から撤退すると、捕虜の閻知微を解放して帰還させた。則天武后は彼を天津橋南で磔刑に処し、百官に矢を射させるよう命じた。肉片となった後さらに骨を砕き、三族まで皆殺しとしたため、疎遠な親族で互いに面識がない者までもが同様に死罪になった。 褒国公段瓚(段志玄の子)は以前突厥に捕らわれていた。突厥が趙州にいた際、彼は楊斉荘と共に脱走を誘ったが、斉荘は臆病で決行できなかった。先に帰還した段瓚は武后から賞賜を受けた。後に到着した楊斉荘に対し、河内王・武懿宗が取り調べを行い「投降に躊躇する意思あり」と判断され閻知微と同じ刑罰となった。矢を射られて刺蝟のようになっても息があったため、腹を裂いて心臓を取り出して地面に投げつけると、それはなお跳びはね続けたという。 田帰道が夏官侍郎(兵部次官)に昇進し、武后の信任を大いに受けた。 蜀州では毎年五百人の兵士を姚州へ守備に送っていたが、険しい遠路で死者が多い。蜀州刺史・張柬之は上奏して言った。「姚州は元々哀牢国の地であり、文明圏外の絶域である。山高く水深いのに、国家は州を設置しても塩や布の税収を得られず、兵士も活用できない。それどころか官庫を使い果たし平民を駆り立てて蛮族に使役させている(死者は)肝脳地に塗れるありさまです。臣ひそかに国家のために惜しみます」。 解説:
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| 請廢姚州以隸巂州,歲時朝覲,同之蕃國。瀘南諸鎮亦皆廢省,於瀘北置關,百姓非奉使,無得交通往來。」疏奏,不納。 則天順聖皇后中之下聖歷二年(己亥,公元六九九年) 正月,丁卯朔,告朔於通天宮。 壬戌,以皇嗣為相王,領太子右衛率。 甲子,置控鶴臨丞、主簿等官,率皆嬖寵之人,頗用才能文學之士以參之。以司衛卿張易之為控鶴監,銀青光祿大夫張昌宗、左台中丞吉頊、殿中監田歸道、夏官侍郎李迥秀、鳳閣舍人薛稷、正諫大夫臨汾員半千皆為控鶴監內供奉。稷,元超之從子也。半千以古無此官,且所聚多輕薄之士,上疏請罷之;由是忤旨,左遷水部郎中。 臘月,戊子,以左台中丞吉頊為天官侍郎,右台中丞魏元忠為鳳閣侍郎,並同平章事。 文昌左丞宗楚客與弟司農卿晉卿,坐贓賄滿萬餘緡級第捨過度,楚客貶播州司馬,晉卿流峰州。太平公主觀其第,歎曰:「見其居處,吾輩乃虛生耳!」 辛亥,賜太子姓武氏;赦天下。 太后生重眉,成八字,百官皆賀。 河南、北置武騎團以備突厥。 春,一月,庚申,夏官尚書、同鳳閣鸞台三品武攸寧罷為冬官尚書。 二月,己丑,太后幸嵩山,過緱氏,謁升仙太子廟。壬辰,太后不豫,遣給事中欒城閻朝隱禱少室山。朝隱自為犧牲,沐浴伏俎上,請代太后命。太后疾小愈,厚賞之。 |
現代日本語訳:姚州を廃止し、巂州に属させ、毎年の定期的な朝廷への参拝は他の藩国と同様に行わせよ。瀘南の諸鎮も全て廃止し、瀘北に関所を設置せよ。百姓が使命を受けた場合以外には往来してはならない。」上奏文が提出されたが、採用されなかった。 則天順聖皇后(武則天)の中下巻 聖暦二年(己亥年、紀元699年) 正月丁卯朔日(1月1日)、通天宮で告朔の儀式を行う。 壬戌日(16日)、皇嗣(李旦)を相王とし、太子右衛率を兼任させる。 甲子日(18日)、控鶴臨丞・主簿などの官職を設置。任用された者の大半は寵愛を受けた者たちであったが、才能ある文学の士も参画させた。司衛卿張易之を控鶴監に任命し、銀青光祿大夫張昌宗・左台中丞吉頊・殿中監田帰道・夏官侍郎李迥秀・鳳閣舍人薛稷・正諫大夫臨汾の員半千らを全員「控鶴監内供奉」とした。薛稷は薛元超の甥である。員半千は、古代にこのような官職がなかったことと、集められた者たちが軽薄な人物が多いことを理由に上疏して廃止を求めた。これにより皇帝(武則天)の意に背き、水部郎中へ左遷された。 12月戊子日(14日)、左台中丞吉頊を天官侍郎とし、右台中丞魏元忠を鳳閣侍郎とし、共に同平章事とした。 文昌左丞宗楚客と弟の司農卿晋卿は、賄賂が一万緡余りに達したこと及び邸宅が過度に豪華であった罪により、宗楚客は播州司馬へ降格され、晋卿は峰州へ流刑となった。太平公主(武則天の娘)が彼らの邸宅を見て嘆息して言うには、「このような住まいを見ると、我々は空しく生きているに等しい」。 辛亥日(7日)、太子に武姓を賜る。天下に恩赦を行う。 太后(武則天)の眉が重なって生え、八の字になったため百官がこぞって祝賀した。 河南・河北地域に「武騎団」を設置し突厥への備えとする。 春1月庚申日(16日)、夏官尚書で同鳳閣鸞台三品であった武攸寧を罷免して冬官尚書へ異動させる。 2月己丑日(15日)、太后が嵩山に幸行。緱氏を通り過ぎ、昇仙太子廟を参拝した。壬辰日(18日)、太后の体調不良により給事中欒城出身の閻朝隠を少室山へ派遣し祈祷させる。閻朝隐は自ら犠牲となって沐浴後まな板に伏せ、「私が代わって命を捧げます」と申し出た。太后の病状がやや回復したため、手厚く褒賞を与えた。 解説:
※紀年注記:「聖暦二年」は西暦699年に当たる干支己亥の年。「同平章事」は実質的な宰相職を示す。 Translation took 726.2 seconds. | ||||||||||||
| 丁酉,自緱氏還。 初,吐蕃贊普器弩悉弄尚幼,論欽陵兄弟用事,皆有勇略,諸胡畏之。欽陵居中秉政,諸弟握兵分據方面,贊婆常居東邊,為中國患者三十餘年。器弩悉弄浸長,陰與大臣論巖謀誅之。會欽陵出外,贊普詐雲出畋,集兵執欽陵親黨二千餘人,殺之,遣使召欽陵兄弟,欽陵等舉兵不受命。贊普將兵討之,欽陵兵潰,自殺。夏,四月,贊婆帥所部千餘人來降,太后命右武衛鎧曹參軍郭元振與河源軍大使夫蒙令卿將騎迎之,以贊婆為特進、歸德王。欽陵子弓仁,以所統吐谷渾七千帳來降,拜左玉鈐衛將軍、酒泉郡公。 壬辰,以魏元忠檢校并州長史,充天兵軍大總管,以備突厥。婁師德為天兵軍副大總管,仍充隴右諸軍大使,專掌懷撫吐蕃降者。 太后春秋高,慮身後太子與諸武不相容。壬寅,命太子、相王、太平公主與武攸暨等為誓文,告天地於明堂,銘之鐵券,藏於史館。 秋,七月,命建安王武攸宜留守西京,代會稽王武攸望。 丙辰,吐谷渾部落一千四百帳內附。 八月,癸丑,突騎施烏質勒遣其子遮弩入見。遣侍御史元城解琬安撫烏質勒及十姓部落。 制:「州縣長吏,非奏有敕旨,毋得擅立碑。」 內史王及善雖無學術,然清正難奪,有大臣之節。張易之兄弟每侍內宴,無復人臣禮;及善屢奏以為不可。太后不悅,謂及善曰:「卿既高年,不宜更侍游宴,但檢校閣中可也。 |
現代日本語訳丁酉の日、緱氏から帰還した。 壬辰の日、魏元忠を検校并州長史とし天兵軍大総管に任命して突厥対策にあたらせた。婁師徳は天兵軍副大総管となり、引き続き隴右諸軍大使として吐蕃からの降伏者懐柔業務を統括した。 則天武后が高齢となったため、自身の死後に皇太子と武氏一族が対立することを憂慮し、壬寅の日に皇太子・相王・太平公主および武攸暨らに誓約書を作成させた。明堂で天地神明に宣誓を行い、その文言を鉄券(契約板)に刻んで史館に保管した。 秋七月、建安王・武攸宜を西京留守とし、会稽王・武攸望の後任とした。 丙辰の日、吐谷渾部落1400帳が帰順した。 八月癸丑、突騎施烏質勒が息子の遮弩を使者として派遣してきたため、侍御史・元城解琬を遣わし烏質勒及び十姓部族を慰撫させた。 詔勅:「州県の長官は、上奏して勅許を得ない限り碑を建立してはならない」。 内史・王及善は学識こそなかったが清廉剛直で信念堅く、大臣としての節操を持っていた。張易之兄弟が宮中宴会に侍ると常に臣下の礼儀を欠いていたため、及善は繰り返し諫言した。武后は不機嫌になり、「卿は高齢であるから遊宴への陪席より閣中の事務整理に専念せよ」と命じた。 解説
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| 」及善因稱病,謁假月餘;太后不問。及善歎曰:「豈有中書令而天子可一日不見乎?事可知矣!」乃上疏乞骸骨,太后不許。庚子,以及善為文昌左相,太子宮尹豆盧欽望為文昌右相,仍並同鳳閣鸞台三品。鸞台侍郎、同平章事楊再思罷為左台大夫。丁未,相王兼檢校安北大都護。以天官侍郎陸元方為鸞台侍郎、同平章事。 納言、隴右諸軍大使婁師德薨。 師德在河隴,前後四十餘年,恭勤不怠,民夷安之。性沉厚寬恕,狄仁傑之入相也,師德實薦之;而仁傑不知,意頗輕師德,數擠之於外。太后覺之,嘗問仁傑曰:「師德賢乎?」對曰:「為將能謹守邊陲,賢則臣不知。」又曰:「師德知人乎?」對曰:「臣嘗同僚,未聞其知人也。」太后曰:「朕之知卿,乃師德所薦也,亦可謂知人矣。」仁傑既出,歎曰:「婁公盛德,我為其所包容久矣,吾不得窺其際也。」是時羅織紛紜,師德久為將相,獨能以功名終,人以是重之。 戊申,以武三思為內史。 九月,乙亥,太后幸福昌;戊寅,還神都。 庚子,邢貞公王及善薨。 河溢,漂濟源百姓廬舍千餘家。 冬,十月,丁亥,論贊婆至都,太后寵待賞賜甚厚,以為右衛大將軍,使將其眾守洪源谷。 太子、相王諸子復出閣。 太后自稱制以來,多以武氏諸王及駙馬都尉為成均祭酒,博士、助教亦多非儒士。 |
【現代日本語訳】王及善が病気と称して一か月余りの休暇を取ったところ、則天武后は何も問い詰めなかった。及善は嘆息し「中書令である自分を天子が一日も会わずに済ませるはずがあろうか?事態の深刻さが分かる」と述べ、致仕(引退)を願い出たが太后は許さない。庚子の日(8月12日)、及善を文昌左相に任命し、太子宮尹の豆盧欽望を文昌右相とし、両者とも引き続き鳳閣鸞台三品とした。鸞台侍郎・同平章事の楊再思は罷免され左台大夫となった。丁未(8月19日)、相王が安北大都護の検校職を兼任した。天官侍郎陸元方が鸞台侍郎・同平章事に任命された。 納言兼隴右諸軍大使の婁師徳が逝去した。 師徳は河隴地域で四十余年にわたり謹厳勤勉に努め、漢民族と異民族を安寧に導いた。性格は沈着温厚で寛容であり、狄仁傑が宰相となったのは実は彼の推挙によるものだったが、仁傑はこれを知らず師徳を見下し、たびたび排斥していた。則天武后はこの事情を察すると、仁傑に「師徳は有能か」と尋ねた。仁傑は答えた。「将軍として辺境を堅守する能力はありますが、賢才であるかどうかは分かりません」。更に太后が「彼には人を見抜く眼力があると思うか」と問うと、「同僚時代にそのような話は聞いたことがありません」と返答した。すると太后は言った。「朕が卿を登用したのは師徳の推薦によるものだ。これこそ人物鑑識眼と言えよう」。仁傑は退出後「婁公(師徳)の大いなる器量よ!私は長らく彼に包容されていたのに気づかぬとは」と嘆息した。当時は無実の罪が横行する中、師徳だけが将相として栄誉を全うし、人々から尊敬された。 戊申(8月20日)、武三思を内史に任命。 9月乙亥(17日)、則天武后が福昌に行幸。戊寅(20日)には神都洛陽へ還御した。 庚子(10月12日)、邢貞公王及善が逝去。 黄河の氾濫で済源の民家千戸余りが流出。 冬10月丁亥(30日)、吐蕃出身の論賛婆が長安に到着。則天武后は手厚く遇し右衛大将軍に任じ、配下を率いて洪源谷の守備につかせた。 皇太子と相王の子らが出閣(宮中から独立)した。 則天武后が政権掌握後、頻繁に武氏一族や皇帝女婿らを成均館祭酒(大学長職)に任命し、博士・助教も儒者以外が多く占めた。 【解説】■ 人事変動の含意 - 王及善の発言「天子と一日会わず」は則天武后による老臣排除を示唆。文昌台新体制(実質的な尚書省再編)で重臣を名誉職に移す集権化が進行 - 楊再思の左遷は酷吏政治からの転換点となる人事 ■ 婁師徳という人物 1. 「沈厚寛恕」:河隴統治40年の基盤となった包容力 2. 狄仁傑との逸話で浮かび上がる二重構造: - 表層:仁傑の率直さ(無自覚な恩知らず) - 深層:武后による情報操作(推挙者を秘匿する人事システム) 3. 「羅織紛紜」(冤罪横行)の中で「功名終わる」稀有性→則天朝随一の清廉官僚像 ■ 時代背景 - 論賛婆登用:吐蕃勢力懐柔策の典型例 - 黄河氾濫記録:『通鑑』が災害を「天意の示現」と重視する史観の表れ - 「諸子出閣」:皇族勢力再編の伏線 ■ 教育政策批判 - 成均館人事は儒教理念より政治優先の方針転換 - 「博士助教非儒士」という記述が暗示する科挙制度形骸化の問題点 Translation took 1635.5 seconds. | ||||||||||||
| 又因郊丘,明堂,拜洛,封嵩,取弘文國子生為齋郎,因得選補。由是學生不複習業,二十年間,學校殆廢,而向時酷吏所誣陷者,其親友流離,未獲原宥。鳳閣舍人韋嗣立上疏,以為:「時俗侵輕儒學,先王之道,弛廢不講。宜令王公以下子弟,皆入國學,不聽以它岐仕進。又,自揚、豫以來,制獄漸繁,酷吏乘間,專欲殺人以求進。賴陛下聖明,周、丘、王、來相繼誅殛,朝野慶泰,若再睹陽和。至如仁傑、元忠,往遭按鞫,亦皆自誣,非陛下明察,則已為菹醢矣;今陛下升而用之,皆為良輔。何乃前非而後是哉?誠由枉陷與甄明耳。臣恐向之負冤得罪者甚眾,亦皆如是。伏望陛下弘天地之仁,廣雷雨之施,自垂拱以來,罪無輕重,一皆昭洗,死者追復官爵,生者聽還鄉里。如此,則天下皆知昔之枉濫,非陛下之意,皆獄吏之辜,幽明歡欣,感通和氣。」太后不能從。 嗣立,承慶之異母弟也。母王氏,遇承慶甚酷,每杖承慶,嗣立必解衣請代;母不許,輒私自杖,母乃為之漸寬。承慶為鳳閣舍人,以疾去職。嗣立時為萊蕪令,太后召謂曰:「卿父嘗言:『臣有兩兒,堪事陛下。』卿兄弟在官,誠如父言。朕今以卿代兄,更不用它人。」即日拜鳳閣舍人。 是歲,突厥默啜立其弟咄悉匐為左廂察,骨篤祿子默矩為右廂察,各主兵二萬餘人;其子匐俱為小可汗,位在兩察上,主處木昆等十姓,兵四萬餘人,又號為拓西可汗。 |
【現代日本語訳】また、郊丘祭祀・明堂祭礼・洛水拝謁・嵩山封禅などの儀式に際し、弘文館や国子監の学生たちを斎郎として任用したため、彼らは官職を得る機会を与えられた。この結果、学生たちは学問を怠り、20年間で教育機関はほぼ廃止状態となった。さらに過去に酷吏によって冤罪を着せられた者たちの親族や知人は離散し、いまだ赦免されていない。 鳳閣舎人・韋嗣立が上奏して述べた。 「昨今の風潮では儒学を軽視し、先王の道義も廃れて顧みられません。王公貴族以下の子弟は全員国子監に入学させ、他による官職任用を禁ずべきです。また揚州・豫州での反乱以来、詔獄(皇帝直轄裁判)が増加し、酷吏たちは進級のために冤罪を作り出しました。陛下のご聖明により周興・丘神勣・王弘義・来俊臣らを次々誅殺したおかげで朝廷内外は平穏を取り戻し、再び陽春の温もりを感じております。 例えば狄仁傑や魏元忠のように過去に不当な尋問を受けた者たちさえ自白を強要されましたが、陛下のご明察がなければ彼らは刑死していたでしょう。今では重用されて良き補佐官となっています。なぜ以前は罪人で今は能臣なのか?それは冤罪か否かの差に過ぎません。 伏して願わくば、天地のような寛大なお心で垂拱年間以降の罪を軽重問わず全て洗い清め、死者には名誉回復を、生存者には帰郷を許していただきたい。そうすれば『冤罪は陛下の本意ではなく獄吏の暴走だった』と天下に知れ渡り、現世も冥界も和やかな空気に包まれるでしょう」 則天武后はこの提案を受け入れなかった。 韋嗣立は韋承慶の異母弟である。実母・王氏が継子の承慶を虐待し杖で打つたび、嗣立は自ら進んで「私が代わりを受ける」と懇願した。母が許さない時は密かに自分を殴打し、その姿に王氏は次第に心を動かされた。承慶が鳳閣舎人を病で辞任すると、当時萊蕪県令だった嗣立を武后は召して言った。 「卿の父(韋思謙)が『二人の息子なら陛下にお仕えできる』と述べていたのは真実であった。今より兄に代わって鳳閣舎人を務めよ」 即日、その職に任命した。 同年、突厥の默啜可汗は弟・咄悉匐を左廂察(軍事司令官)に、先代・骨篤祿可汗の子・默矩を右廂察に任じ、各々2万余りの兵を与えた。さらに実子・匐俱を小可汗として両者の上位に置き、処木昆など十部族4万余人を統率させるとともに「拓西可汗」と称した。 【解説】
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| 則天順聖皇后中之下久視元年(庚子,公元七零零年) 正月,戊寅,內史武三思罷為特進、太子少保。天官侍郎、平章事吉頊貶安固尉。 太后以頊有干略,故委以腹心。頊與武懿宗爭趙州之功於太后前。頊魁岸辯口,懿宗短小傴僂,頊視懿宗,聲氣凌厲。太后由是不悅,曰:「頊在朕前,猶卑我諸武,況異時詎可倚邪!」他日,頊奏事,方援古引今,太后怒曰:「卿所言,朕飫聞之,無多言!太宗有馬名師子驄,肥逸無能調馭者。朕為宮女侍側,言於太宗曰:『妾能制之,然須三物,一鐵鞭,二鐵□,三匕首。鐵鞭擊之不服,則以□□其首,又不服,則以匕首斷其喉。』太宗壯朕之志。今日卿豈足污朕匕首邪!」頊惶懼流汗,拜伏求生,乃止。諸武怨其附太子,共發其弟冒官事,由是坐貶。 辭日,得召見,涕泣言曰:「臣今遠離闕庭,永無再見之期,願陳一言。」太后命之坐,問之,頊曰:「合水土為泥,有爭乎?」太后曰:「無之。」又曰:「分半為佛,半為天尊,有爭乎?」曰:「有爭矣。」頊頓首曰:「宗室、外戚各當其分,則天下安。今太子已立而外戚猶為王,此陛下驅之使他日必爭,兩不得安也。」太后曰:「朕亦知之。然業已如是,不可何如。」 臘月,辛巳,立故太孫重潤為邵王,其弟重茂為北海王。 太后問鸞台侍郎、同平章事陸元方以外事,對曰:「臣備位宰相,有大事不敢不以聞;人間細事,不足煩聖聽。 |
現代日本語訳久視元年(庚子、西暦700年)正月戊寅の日、内史であった武三思は特進・太子少保へ左遷された。天官侍郎で平章事を務める吉頊も安固尉に降格となった。 則天武后は元来、吉頊の実務能力を高く評価し腹心として登用していた。しかしある日、彼が太后の面前で武懿宗と趙州での戦功争いを起こす事件が発生した。堂々たる体躯に雄弁な吉頊は小柄な武懿宗を見下ろしながら威圧的な口調で論じ立てたため、武后は不快感を示し「朕の面前ですら我が武氏一族を軽んずるとは!将来どうなるか」と懸念した。 後日談として吉頊が古今の事例を引きながら奏上している最中、武后は突然激怒して言い放った。「卿の弁舌には飽きたぞ!昔太宗皇帝に師子驄という暴れ馬がいた時、朕は侍女ながら『三種の道具で調教してみせます』と宣言したものだ」。そして鋭く睨みつけて「お前ごときで朕の短刀を汚させるか」と叱責。吉頊は恐怖のあまり冷汗を流して命乞いに平伏し、ようやく許された。 さらに武氏一族から皇太子支持派として疎まれていたため、弟の不正任官問題を糾弾され失脚したという背景があった。 左遷時の別れに際し吉頊は謁見を求め涙ながらに訴えた。「二度とお目にかかれぬ前に一言申し上げたい」。座るよう命じられた後、彼は土と水で作った泥を用いた比喩で警告した―「半々に分けて仏像と道教尊像を作れば争いが起きませんか?」武后の肯定を受け、「皇室と外戚(武氏)の立場を明確にすれば天下は安泰です。皇太子擁立後も外戚が王位にある現状は、将来必ず紛争を招くでしょう」と直言した。 これに対し武后は「朕も理解している。だが既成事実となった以上どうしようもない」と認めつつ諦念を示した。 同年12月辛巳には故・太孫李重潤に邵王の称号が追贈され、弟の重茂も北海王に封じられた。 最後に武后が陸元方宰相に対し世情を尋ねた際、「重大事は必ず奏上しますが、些細な俗事まで聖聴を煩わせるべきではございません」と控えめに答えた。 解説
*注:原文中の武器名「鉄□」については欠字のため前後の文脈から"槌(ハンマー)"と推定補訳。また吉頊の比喩における"天尊"は道教最高神格だが、現代日本語として理解しやすいよう「道教尊像」という平易化表現を採用した。 Translation took 1503.1 seconds. | ||||||||||||
| 」由是忤旨。庚寅,罷為司禮卿。 元方為人清謹,再為宰相,太后每有遷除,多訪之,元方密封以進,未嘗漏露。臨終,悉取奏稿焚之,曰:「吾於人多陰德,子孫其未衰乎!」 以西突厥竭忠事主可汗斛瑟羅為平西軍大總管,鎮碎葉。 丁酉,以狄仁傑為內史。 庚子,以文昌左丞書巨源為納言。 乙巳,太后幸嵩山;春,一月,丁卯,幸汝州之溫湯;戊寅,還神都。作三陽宮於告成之石淙。 二月,乙未,同鳳閣鸞台三品豆盧欽望罷為太子賓客。 三月,以吐谷渾青海王宣超為烏地也拔勤忠可汗。 夏,四月,戊申,太后幸三陽宮避暑,有胡僧邀車駕觀葬捨利,太后許之。狄仁傑跪於馬前曰:「佛者戎狄之神,不足以屈天下之主。彼胡僧詭譎,直欲邀致萬乘,以惑遠近之人耳。山路險狹,不容侍衛,非萬乘所宜臨也。」太后中道而還,曰:「以成吾直臣之氣。」 五月,己酉朔,日有食之。 太后使洪州僧胡超合長生藥,三年而成,所費巨萬。太后服之,疾小瘳。癸丑,赦天下,改元久視;去天冊金輪大聖之號。 六月,改控鶴為奉宸府,以張易之為奉宸令。太后每內殿曲宴,輒引諸武、易之及弟秘書監昌宗飲博嘲謔。太后欲掩其跡,乃命易之、昌宗與文學之士李嶠等修《三教珠英》於內殿。武三思奏昌宗乃王子晉後身。太后命昌宗衣羽衣,吹笙,乘木鶴於庭中;文士皆賦詩以美之。 |
現代日本語訳それにより皇帝の意に逆らったため、庚寅の日に司礼卿へ左遷された。 周元方は清廉で慎重な人物であり、二度宰相を務めたが、則天武后は人事を行う際、常に彼の意見を求めた。元方は密封した文書で進言し、一度も内容を漏らさなかった。臨終の際には上奏文の草案を全て焼却し、「私は人々に対して陰徳(隠れた善行)を多く積んだ。子孫はきっと衰えないだろう」と語った。 西突厥の竭忠事主可汗・斛瑟羅を平西軍大総管に任じ、砕葉鎮守させた。 二月乙未、同鳳閣鸞台三品・豆盧欽望が太子賓客へ降格された。 夏四月戊申、武后は避暑のため三陽宮に行幸した際、胡人の僧侶から仏舎利埋葬儀式への参列を求められ承諾しかけた。狄仁傑が馬前で跪き諫言した:「仏教は異民族の神であり、天下の君主をわざわざ赴かせる価値はありません。この胡僧は策略を用い、天子をお招きして遠近の人々を惑わせようとしているのです。山道は危険で狭く、護衛も十分配置できません」。武后は途中で引き返し、「これによって我が忠臣(狄仁傑)の気骨を成就させたのだ」と述べた。 五月己酉朔(1日)、日食が発生した。 六月、「控鶴監」を「奉宸府」に改め張易之を長官とした。武后は内殿での私的宴会で、頻繁に武氏一族や易之・弟の秘書監昌宗らと酒宴・賭博・戯言を楽しんだ。その行跡を隠すため、易之兄弟に文士・李嶠らを伴わせ『三教珠英』編纂を命じた。武三思が「昌宗は仙人王子晋(周霊王太子)の生まれ変わり」と奏上すると、武后は昌宗に羽衣を着せ笙を持たせ、木製の鶴に乗って庭中を巡らせた。文士たちは競って詩を作り称賛した。 解説
※訳注:固有名詞(斛瑟羅・吐谷渾等)は現代日本における歴史学表記を採用。官職名「司礼卿」等は唐代の実態に即し簡略化した。武后による人事異動と行幸の頻繁さから、晩年の政権が儀礼的活動で不安定さを覆蔽しようとする傾向が見て取れる。 Translation took 1843.6 seconds. | ||||||||||||
| 太后又多選美少年為奉宸內供奉,右補闕朱敬則諫曰:「陛下內寵有易之、昌宗,足矣。近聞左監門衛長史侯祥等,明自媒衒,丑慢不恥,求為奉宸內供奉,無禮無儀,溢於朝聽。臣職在諫諍,不敢不奏。」太后勞之曰:「非卿直言,朕不知此。」賜彩百段。 易之、昌宗競以豪侈相勝。弟昌儀為洛陽令,請屬無不從。嘗早朝,有選人姓薛,以金五十兩並狀邀其馬而賂之。昌儀受金,至朝堂,以狀授天官侍郎張錫。數日,錫失其狀,以問昌儀,昌儀罵曰:「不了事人!我亦不記,但姓薛者即與之。」錫懼,退,索在銓姓薛者六十餘人,悉留注官。錫,文瓘之兄之子也。 初,契丹將李楷固,善用絲□索及騎射、舞槊,每陷陳,如鶻入烏群,所向披靡。黃獐之戰,張玄遇、麻仁節皆為所絲□。又有駱務整者,亦為契丹將,屢敗唐兵。及孫萬榮死,二人來降。有司責其後至,奏請族之。狄仁傑曰:「楷固等並驍勇絕倫,能盡力於所事,必能盡力於我。若撫之以德,皆為我用矣。」奏請赦之。所親皆止之,仁傑曰:「苟利於國,豈為身謀!」太后用其言,赦之。又請與之官,太后以楷固為左玉鈐衛將軍,務整為右武威衛將軍,使將兵擊契丹餘黨,悉平之。 |
現代日本語訳:則天武后はさらに美少年たちを選抜し「奉宸内供奉(皇帝の身辺に仕える侍従)」とした。これに対し右補闕(諫官)朱敬則が諌めて言った:「陛下には張易之・張昌宗という寵臣がいれば十分です。ところが近頃、左監門衛長史の侯祥らが公然と自己宣伝し、醜い行いを恥ともせず奉宸内供奉への採用を求めており、礼儀も品格も失った話が朝廷中に広まっています。臣は諫言する職務ゆえ奏上せざるを得ません」。武后は「卿の率直な言葉がなければ朕は知り得なかった」と労い、絹織物百端を下賜した。 一方で張易之・張昌宗兄弟は豪華奢侈ぶりを競っていた。弟の昌儀(洛陽県令)には請託が殺到し全て承諾していた。ある早朝、薛姓の官吏候補者が黄金五十両と履歴書を持って馬前に駆け寄り賄賂を贈った。昌儀は金を受け取ると朝廷で天官侍郎・張錫にその書類を渡したが、数日後「書類を無くした」と言う張錫に対し罵声:「役立たず!私も覚えていないが『薛』姓の者へ授けておけ」。恐れた張錫は候補者名簿から薛姓六十人全員を任官させた。この張錫は宰相・張文瓘の甥である。 契丹の将軍だった李楷固は「絹糸縄術」と騎射・矛舞に卓越し、戦場では鷹が烏群へ突入する如く無敵であった(黄獐谷の戦いで唐将・張玄遇らを生け捕りにした)。駱務整もまた契丹勇将として唐軍を幾度か破っていた。ところが首領・孫万栄の死後、二人は投降してきた。役人は遅れて降伏した罪を責め「一族皆殺しにするべき」と上奏したが、狄仁傑は反論した:「楷固らは類なき勇士で旧主に忠実だった者ゆえ、我が朝にも必ず尽力します。寛大に遇せば有用な戦力となるでしょう」。身内の止めるのも振り切り「国の利益になれば自らの安全など考えない」と主張し、武后は彼の意見を容れて赦免した。さらに官位を与えるよう奏上すると、楷固を左玉鈐衛将軍に、務整を右武威衛将軍に任じ契丹残党討伐へ派遣。二人は見事平定した。 解説:
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| input text 資治通鑑\207_唐紀_23.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百七 唐紀二十三 起上章困敦七月,盡旃蒙大荒落正月,凡四年有奇。 則天順聖皇后下久視元年〈庚子,西元七〇〇年〉 秋,七月,獻俘於含樞殿。太后以楷固爲左玉鈐衞大將軍、燕國公,賜姓武氏。召公卿合宴,舉觴屬仁傑曰:「公之功也。」將賞之,對曰:「此乃陛下威靈,將帥盡力,臣何功之有!」固辭不受。 閏月,戊寅,車駕還宮。 己丑,以天官侍郎張錫爲鳳閣侍郎、同平章事。鸞臺侍郎、同平章事李嶠罷爲成均祭酒。錫,嶠之舅也,故罷嶠政事。 丁酉,吐蕃將麴莽布支寇涼州,圍昌松,隴右諸軍大使唐休璟與戰於洪源谷。麴莽布支兵甲鮮華,休璟謂諸將曰:「諸論既死,麴莽布支新爲將,不習軍事,諸貴臣子弟皆從之,望之雖如精銳,實易與耳,請爲諸君破之。」乃被甲先陷陳,六戰皆捷,吐蕃大奔,斬首二千五百級,獲二裨將而還。 司府少卿楊元亨,尚食奉御楊元禧,皆弘武之子也。元禧嘗忤張易之,易之言於太后:「元禧,楊素之族;素父子,隋之逆臣,子孫不應供奉。」太后從之,壬寅,制:「楊素及其兄弟子孫皆不得任京官。」左遷元亨睦州刺史,元禧貝州刺史。 庚戌,以魏元忠爲隴右諸軍大使,擊吐蕃。 庚申,太后欲造大像,使天下僧尼日出一錢以助其功。狄仁傑上疏諫,其略曰:「今之伽藍,制過宮闕。 |
現代日本語訳資治通鑑・巻二百七 唐紀二十三 秋7月、捕虜を献上する儀式が含枢殿で行われた。則天武后は李楷固を左玉鈐衛大将軍・燕国公に任じ、武姓を与えた。公卿たちを集めて宴を催し、杯を狄仁傑に向けて「これは貴公の功績だ」と言ったが、彼は辞退して「陛下の威光と将帥の尽力によるもので、私の功などありません」と答え、褒賞を受け取らなかった。 閏7月戊寅、皇帝(武后)は宮殿に戻った。 丁酉、吐蕃の将軍クモンブジ(麴莽布支)が涼州へ侵攻し昌松を包囲すると、隴右諸軍大使・唐休璟が洪源谷で迎撃した。敵は武具や甲冑が華麗だったが、唐休璟は「吐蕃の名将チョンノン(諸論)は既に死んでおり、クモンブジは新参者だ。貴族の子弟ばかりで見かけ倒しだから容易く撃破できる」と宣言。自ら甲冑を着て突撃し六度の戦い全てで勝利、吐蕃軍を敗走させ2500人を斬首したうえ副将2名を捕虜にした。 司府少卿・楊元亨と尚食奉御・楊元禧(共に楊弘武の子)は張易之との確執があったため、彼が「両者は隋の逆賊・楊素の一族であり官職にふさわしくない」と奏上した。これを受けて壬寅日に詔勅を発布:「楊素とその兄弟の子孫はいっさい京官に就けない」。結果、元亨は睦州刺史へ、元禧は貝州刺史へ左遷された。 庚戌、魏元忠が隴右諸軍大使として吐蕃討伐を命じられる。 解説
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| 功不使鬼,止在役人,物不天來,終須地出,不損百姓,將何以求!」又曰:「游僧皆托佛法,詿誤生人;裡陌動有經坊,闤闠亦立精舍。化誘所急,切於官征;法事所須,嚴於制敕。」又曰:「梁武、簡文捨施無限,及三淮沸浪,五嶺騰煙,列剎盈衢,無救危亡之禍,緇衣蔽路,豈有勤王之師!」又曰:「雖斂僧錢,百未支一。尊容既廣,不可露居,覆以百層,尚憂未遍,自餘廊宇,不得全無。如來設教,以慈悲爲主。豈欲勞人,以存虛飾?」又曰:「比來水旱不節,當今邊境未寧,若費官財,又盡人力,一隅有難,將何以救之!」太后曰:「公教朕爲善,何得相違!」遂罷其役。 阿悉吉薄露叛,遣左金吾將軍田揚名、殿中侍御史封思業討之。軍至碎葉,薄露夜於城傍剽掠而去,思業將騎追之,反爲所敗。揚名引西突厥斛瑟羅之眾攻其城,旬餘,不克。九月,薄露詐降,思業誘而斬之,遂俘其眾。 太后信重內史梁文惠公狄仁傑,群臣莫及,常謂之國老而不名。仁傑好面引廷爭,太后每屈意從之。嘗從太后游幸,遇風吹仁傑巾墜,而馬驚不能止,太后命太子追執其鞚而系之。仁傑屢以老疾乞骸骨,太后不許。入見,常止其拜,曰:「每見公拜,朕亦身痛。」仍免其宿直,戒其同僚曰:「自非軍國大事,勿以煩公。」辛丑,薨,太后泣曰:「朝堂空矣!」自是朝廷有大事,眾或不能決,太后輒歎曰:「天奪吾國老何太早邪!」 太后嘗問仁傑:「朕欲得一佳士用之,誰可者?」仁傑曰:「未審陛下欲何所用之?」太后曰:「欲用爲將相。 |
翻訳:「功績は鬼神が成すものではなく、ただ民衆を使役してこそ得られるものであり、物資も天から降って来るわけでなく、必ず土地の産出によるのだ。百姓を苦しめずしてどうやって調達できようか!」さらに言うには:「遊行僧はみな仏法にかこつけて人々を惑わす。路地ごとに経典講義所が建ち、市場の中にも寺院が立っている。教化の勧誘は官庁の徴税より急迫し、仏事に必要な物資は朝廷の命令よりも厳しく取り立てられる」と。 またこう述べた:「梁の武帝や簡文帝は限りなく施しをしたが、三淮地方で戦乱が起こり五嶺地域に烽火が上がった時には、通りに並んだ寺院も滅亡の危機を救えず、黒衣の僧侶たちが道を埋め尽くしても帝室救援の軍勢は現れなかった」と。 さらに論じて言う:「たとえ僧侶から税を集めても百分の一にも満たない。仏像が広範囲に安置されている以上屋根も必要で、百重もの覆いでも不足を憂うほどであり、残りの建物も無くすわけにはいかない。如来が説いた教えは慈悲を本旨とするはずだ。どうして民衆を疲弊させてまで見せかけだけのものを保たねばならないのか」と。 また付け加えた:「近年水害や干魃(かんばつ)が続き、今なお国境は平穏でないのに、もし官費を使い果たし人夫も使い尽くしたなら、一地方に災難が起きた時どう救済できようか!」則天武后は「卿の教えは朕を善へ導こうとするものだ。どうして逆らえよう」と言って造営工事を取りやめさせた。 阿悉吉薄露(アシナ・バグラ)が反乱すると、左金吾将軍田揚名と殿中侍御史封思業に討伐を命じた。官軍が砕葉城へ着くと、薄露は夜陰に乗じて城外で略奪して逃走した。追撃した封思業の騎兵隊は逆に敗れたため、田揚名は西突厥の斛瑟羅(クスラ)部を率いて包囲戦を行ったが十日以上落とせなかった。九月になって薄露は偽りの降伏を示し、騙された封思業は斬り殺され、配下も捕虜となった。 則天武后は内史梁文恵公狄仁傑(ディー・レンジエ)を深く信頼して群臣の追随を許さず、「国老」と呼んで実名で呼ばなかった。彼が朝廷で直言すると、太后は常に意見を曲げて従った。ある時行幸中に風で狄仁傑の頭巾が飛び落ちると馬が暴走したため、則天武后自ら皇太子に命じて手綱をつかませ繋ぎ直させた。 彼が老病により辞任願いを再三提出しても許さず、「卿が拝礼する度朕も身の痛みを覚える」と言って殿上での跪拝(きはい)を免除し、宿直義務から外した。同僚には「軍国大事以外で煩わせるな」と命じていたが辛丑の日(700年)、狄仁傑は逝去する。則天武后は涙して言った。「朝廷にぽっかり穴があいた!」以後政務上の難題では、「何故天はわが国老を早く奪うのか」と嘆くようになった。 ある時則天武后が問いかけた:「優れた人物を得て用いたものだが、誰が適任か?」狄仁傑は「陛下がどのような役職に就けられるおつもりかを承りたい」と言った。すると太后は答えた。「将軍や宰相として使うのだ」。 解説:
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| 」仁傑對曰:「文學縕藉,則蘇味道、李嶠固其選矣。必欲取卓犖奇才,則有荊州長史張柬之,其人雖老,宰相才也。」太后擢柬之爲洛州司馬。數日,又問仁傑,對曰:「前薦柬之,尚未用也。」太后曰:「已遷矣。」對曰:「臣所薦者可爲宰相,非司馬也。」乃遷秋官侍郎;久之,卒用爲相。仁傑又嘗薦夏官侍郎姚元崇、監察御史曲阿桓彥范、太州刺史敬暉等數十人,率爲名臣。或謂仁傑曰:「天下桃李,悉在公門矣。」仁傑曰:「薦賢爲國,非爲私也。」 初,仁傑爲魏州刺史,有惠政,百姓爲之立生祠。後其子景暉爲魏州司功參軍,貪暴爲人患,人遂毀其像焉。冬,十月,辛亥,以魏元忠爲蕭關道大總管,以備突厥。 甲寅,制復以正月爲十一月,一月爲正月,赦天下。 丁巳,納言韋巨源罷,以文昌右丞韋安石爲鸞臺侍郎、同平章事。安石,津之孫也。時武三思、張易之兄弟用事,安石數面折之。嘗侍宴禁中,易之引蜀商宋霸子等數人在座同博。安石跪奏曰:「商賈賤類,不應得預此會。」顧左右逐出之,座中皆失色;太后以其言直,勞勉之,同列皆歎服。 丁卯,太后幸新安;壬申,還宮。 十二月,甲寅,突厥掠隴右諸監馬萬餘匹而去。 時屠禁尚未解,鳳閣舍人全節崔融上言,以爲:「割烹犧牲,弋獵禽獸,聖人著之典禮,不可廢闕。 |
訳文(現代日本語)「仁傑は答えて言った:『学問に精通した人物なら、蘇味道や李嶠が適任でございます。しかし卓越した異才を求めるならば、荊州長史の張柬之こそふさわしい。この人物は年老いておりますが、宰相の器量を持っております』。 則天武后は張柬之を洛州司馬に昇任させた。数日後、再び仁傑に尋ねると、彼は答えた:『以前推薦した張柬之はまだ重用されておりません』。太后が言うには:『すでに転任させている』と。すると仁傑は述べた:『私の推挙する人物は宰相となるべき者であり、司馬職ではございません』。 そこで秋官侍郎(刑部次官)へ昇進させ、後に最終的に宰相として登用された。また仁傑は夏官侍郎(兵部次官)姚元崇や監察御史曲阿の桓彦范・太州刺史敬暉ら数十人を推薦し、いずれも名臣となった。 ある人物が仁傑に言った:『天下の人材はことごとく貴方の門下におりますな』。すると彼は答えた:『賢才を推挙するのは国のためであって、私利ではない』。 かつて仁傑が魏州刺史だった時には善政を施し、民衆が生前に祠(生祠)を建立したほどの人望があった。後にその子・景暉が魏州司功参軍となった際、貪欲で暴虐な行為により民衆を苦しめたため、人々は父の像を取り壊してしまった。 冬十月辛亥の日(4日)、突厥対策として魏元忠を蕭関道大総管に任命。 甲寅の日(7日)、詔勅で正月を11月と改め1月を正月とする暦法改正を実施し、天下に恩赦令が出された。 丁巳の日(10日)、納言韋巨源が罷免され、文昌右丞韋安石が鸞台侍郎・同平章事となる。安石は韋津の孫である。 当時、武三思と張易之兄弟が権勢を振るっていたが、安石はたびたび面と向かって彼らの過失を指摘した。禁中での宴会に侍った際、張易之が蜀(四川)商人・宋霸子ら数人を招いて同席させ博戯を行おうとした。 すると安石は跪奏して言上した:『商人のような卑賤の者がこの場に列するべきではございません』。左右の者を見て追い出させるよう命じると、座中の者は皆顔色を失ったが、太后(則天武后)はその直言を評価し慰労すると、同僚たちも感服した。 丁卯の日(20日)、太后が新安に行幸。壬申の日(25日)に宮中へ還る。 十二月甲寅の日(7日)、突厥が隴右監牧から軍馬一万頭余りを略奪して撤退した。 当時、肉食禁止令は解除されていなかったため、鳳閣舎人全節県出身の崔融が上奏し述べた:『祭祀用家畜の屠殺や鳥獣狩猟は聖人が典礼に定めたことであり廃止すべきではない』と。」 解説
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| 又,江南食魚,河西食肉,一日不可無;富者未革,貧者難堪,況貧賤之人,仰屠爲生,日戮一人,終不能絶,但資恐喝,徒長奸欺。爲政者苟順月令,合禮經,自然物遂其生,人得其性矣。」戊午,復開屠禁,祠祭用牲牢如故。 則天順聖皇后下長安元年〈辛丑,西元七〇一年〉 春,正月,丁丑,以成州言佛跡見,改元大足。 二月,己酉,以鸞臺侍郎柏人李懷遠同平章事。 三月,鳳閣侍郎、同平章事張錫坐知選漏洩禁中語、贓滿數萬,當斬,臨刑釋之,流循州。時蘇味道亦坐事與錫俱下司刑獄,錫乘馬,氣色自若,捨於三品院,帷屏食飲,無異平居。味道步至系所,席地而臥,蔬食而已。太后聞之,赦味道,復其位。 是月,大雪,蘇味道以爲瑞,帥百官入賀。殿中侍御史王求禮止之曰:「三月雪爲瑞雪,臘月雷爲瑞雷乎?」味道不從。既入,求禮獨不賀,進言曰:「今陽和布氣,草木發榮,而寒雪爲災,豈得誣以爲瑞!賀者皆諂諛之士也。」太后爲之罷朝。 時又有獻三足牛者,宰相復賀。求禮揚言曰:「凡物反常皆爲妖。此鼎足非其人,政教不行之象也。」太后爲之愀然。 夏,五月,乙亥,太后幸三陽宮。 以魏元忠爲靈武道行軍大總管,以備突厥。 天官侍郎鹽官顧琮同平章事。 六月,庚申,以夏官尚書李迥秀同平章事。 迥秀性至孝,其母本微賤,妻崔氏常叱媵婢,母聞之不悅,迥秀即時出之。 |
現代日本語訳江南では魚を食し、河西では肉を食べる習慣があり、これらは一日も欠かせないものだ。富裕層は生活様式を変えず、貧困層は耐え難い苦痛を強いられる。ましてや貧しい者は屠殺業で生計を立てており、たとえ一日に一人の屠殺を禁じても結局根絶できず、ただ脅しの材料を与えて不正や欺瞞を助長するだけである。為政者が『月令』(季節規範)に従い礼経に合致させるならば、自然は生育を遂げ人々も本性を取り戻すだろう。」戊午の日、屠殺禁止令が解除され祭祀での犠牲獣使用が復活した。 則天順聖皇后治世下 長安元年(辛丑年・701年) 二月己酉の日、鸞台侍郎柏人出身の李懐遠を同平章事に任命。 三月、鳳閣侍郎兼同平章事張錫が科挙選考で禁中発言を漏洩し数万銭の収賄により斬刑判決を受けたが処刑直前に赦され循州へ流刑となる。同時期に蘇味道も連座して司刑獄(監獄)に入った際、張錫は馬車で悠然と三品院(高官専用拘置施設)に入り簾や屏風を設け普段通りの生活をした一方、蘇味道は徒歩で牢へ向かい地面に直座して粗食のみ取った。則天武后がこれを聞き蘇味道を赦免し復職させた。 同月の大雪を吉兆と見た蘇味道が百官率いて祝賀しようとした時、殿中侍御史王求礼は「三月の雪が瑞雪なら十二月の雷も瑞雷か?」と制止。しかし蘇味道は強行したため、参内後ただ一人不参加の王求礼は進言:「今は陽気満ち草木茂る時期に寒雪が災害をもたらすのに吉兆と言えるのか!祝賀する者は媚び諂う者ばかりだ」と述べると則天武后は朝会を中止した。 当時三足の牛(奇形)献上があり宰相らも再び祝賀しようとしたところ、王求礼が「万物で異常なものは全て妖異である。この鼎のような脚は人材不適格と政治不行き届きの兆候だ」と声高に主張すると則天武后は憂色を示した。 夏五月乙亥の日、則天武后は三陽宮へ行幸。 突厥対策として魏元忠を霊武道行軍大総管に任命。 六月庚申の日、夏官尚書李迥秀を同平章事とする。 解説
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| 或曰:「賢室雖不避嫌疑,然過非七出,何遽如是!」迥秀曰:「娶妻本以養親,今乃違忤顏色,安敢留也!」竟出之。秋,七月,甲戌,太后還宮。 甲申,李懷遠罷爲秋官尚書。 八月,突厥默啜寇邊,命安北大都護相王爲天兵道元帥,統諸軍擊之,未行而虜退。 丙寅,武邑人蘇安恆上疏曰:「陛下欽先聖之顧托,受嗣子之推讓,敬天順人,二十年矣。豈不聞帝舜褰裳,周公復辟!舜之於禹,事只族親;旦與成王,不離叔父。族親何如子之愛,叔父何如母之恩?今太子孝敬是崇,春秋既壯,若使統臨宸極,何異陛下之身!陛下年德既尊,寶位將倦,機務繁重,浩蕩心神,何不禪位東宮,自怡聖體!自昔理天下者,不見二姓而俱王也,當今梁、定、河內、建昌諸王,承陛下之廕覆,並得封王。臣謂千秋萬歳之後,於事非便。臣請黜爲公侯,任以閒簡。臣又聞陛下有二十餘孫,今無尺寸之封,此非長久之計也。臣請分土而王之,擇立師傅,教其孝敬之道,以夾輔周室,屏籓皇家,斯爲美矣。」疏奏,太后召見,賜食,慰諭而遣之。 太后春秋高,政事多委張易之兄弟;邵王重潤與其妹永泰郡主、主婿魏王武延基竊議其事。易之訴於太后,九月,壬申,太后皆逼令自殺。延基,承嗣之子也。 丙申,以相王知左、右羽林衞大將軍事。 冬,十月,壬寅,太后西入關,辛酉,至京師;赦天下,改元。 |
現代日本語訳:ある人が言った。「賢夫人は嫌疑を避けなかったとはいえ、その過ちは七去(離縁理由)に当たらないのに、どうして急ぎそこまでするのか!」張迥秀は答えた。「妻を娶るのは本来父母を養わせるためである。今彼女が両親の機嫌を損ねているならば、どうしておくことができようか!」ついに離縁した。 秋七月甲戌の日(1日)、則天武后は宮殿に戻った。 甲申の日(11日)、李懐遠が罷免され秋官尚書となった。 八月、突厥の默啜(ボクチョル)が国境を侵犯したため、安北大都護・相王(武則天の子)を天兵道元帥に任命し諸軍を率いて迎撃させたが、出陣前に敵は撤退した。 丙寅の日(9月23日)、武邑出身の蘇安恒が上疏(意見書)を奉った: 「陛下は先帝から託された重任を受け、皇子からの譲位を受けて天意に従い人心を得て二十年になります。舜帝が衣をまくって禹に禅位した故事や周公旦が成王へ政権返還した事例をご存じでしょう? 舜と禹の関係は同族親戚であり、周公と成王は叔父と甥です。しかし血縁者の愛は実子には及ばず、叔父の恩情も母親(陛下)ほどの深さはありません。皇太子は孝行心に優れ壮年に達しております。もし帝位につかせれば、それは陛下ご自身が統治されるのと同じです! 陛下は高齢で政務に疲れ、複雑な国事が御身を消耗させております。どうして東宮(皇太子)へ禅位され、ご静養なさらないのですか? 昔より天下を治める者は二つの姓が並び立つことを許しませんでした。ところが今や梁王・定王・河内王・建昌王ら武氏一族は陛下の恩恵で皆王に封ぜられています。臣は思います——陛下崩御後の朝廷不安を危惧します。彼らを公侯に降格し閑職につけるようお願いいたします。また陛下には二十人余りの皇孫がいるのに、寸土も与えられておりません。これでは国家の長久の計とは言えず、領地を分封して師傅(教育係)をつけ孝道を学ばせ、周王朝を支える諸侯として皇室を守護させるのが最善でしょう」 上疏が届くと太后は蘇安恒を召し出し食事を与えて慰労した後、帰らせた。 武則天は高齢のため政務を張易之兄弟に委ねていた。邵王・李重潤とその妹・永泰郡主、そして彼女の夫である魏王・武延基が密かにこれを批判すると、張易之が太后に訴えた。九月壬申(9月29日)、三人は皆、自殺を強要された。武延基は武承嗣の子であった。 丙申(10月23日)には相王を左羽林衛・右羽林衛大軍将事(近衛兵総司令官代理)に任命した。 冬十月壬寅(29日)、太后が西進して関中に入り、辛酉(11月17日)に長安へ帰還。大赦令を発布し年号を改めた。 解説:
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| 十一月,戊寅,改含元宮爲大明宮。 天官侍郎安平崔玄暐,性介直,未嘗請謁。執政惡之,改文昌左丞。月餘,太后謂玄□曰:「自卿改官以來,聞令史設齋自慶。此欲盛爲奸貪耳,今還卿舊任。」乃復拜天官侍郎,仍賜彩七十段。 以主客郎中郭元振爲涼州都督、隴右諸軍大使。 先是,涼州南北境不過四百餘里,突厥、吐蕃頻歳奄至城下,百姓苦之。元振始於南境硤口置和戎城,北境磧中置白亭軍,控其衝要,拓州境千五百里,自是寇不復至城下。元振又令甘州刺史李漢通開置屯田,盡水陸之利。舊涼州粟麥斛至數千,及漢通收率之後,一縑糴數十斛,積軍糧支數十年。元振善於撫御,在涼州五年,夷、夏畏慕,令行禁止,牛羊被野,路不拾遺。 則天順聖皇后下長安二年〈壬寅,西元七零二年〉 春,正月,乙酉,初設武舉。 空厥寇鹽、夏二州。三月,庚寅,突厥破石嶺,寇并州。以雍州長史薛季昶攝右台大夫,充山東防禦軍大使,滄、瀛、幽、易、恆、定等州諸軍皆受季昶節度。夏,四月,以幽州刺史張仁願專知幽、平、媯、檀防禦,仍與季昶相知,以拒突厥。 五月,壬申,蘇安恆復上疏曰:「臣聞天下者,神堯、文武之天下也。陛下雖居正統,實因唐氏舊基。當今太子追回,年德俱盛,陛下貪其寶位而忘母子深恩,將何聖顏以見唐家宗廟,將何誥命以謁大帝墳陵?陛下何故日夜積憂,不知鐘鳴漏盡!臣愚以爲天意人事,還歸李家。 |
翻訳文十一月戊寅の日、含元宮を大明宮と改称した。 吏部次官である安平出身の崔玄暐は生来廉直で、決して権力者への取り入りを行わなかった。これを疎んだ朝廷首脳陣は彼を尚書省左丞に左遷したが、一ヶ月余り後に則天武后は「卿が転任して以来、下級官吏が宴会を開いて祝賀していたと聞く。これは不正の横行を期待する動きだ」として元の吏部次官に復帰させ、絹織物七十反を賜った。 主客郎中であった郭元振を涼州都督・隴右諸軍大使に任命した。 則天武后 長安二年(壬寅、702年) 五月壬申、蘇安恆が再び上奏:「天下は太宗皇帝ら李唐王朝のものです。陛下は正統を継いでおられますが、実態は唐朝の基盤に依拠されています。皇太子(廃嫡された中宗)は年齢も徳望も充分ですのに、陛下は帝位に固執して母子の情を忘れ、どうして唐の宗廟や高宗陵前に顔向けできましょうか? なぜ天命と人心が李姓に回帰することを悟られず、夜ごとに憂いを募らせるのですか?」 解説崔玄暐人事の背景: 郭元振の涼州経営: 蘇安恆上疏の政治的位置付け: 軍事体制に関する補足: Translation took 1010.0 seconds. |
| 陛下雖安天位,殊不知物極則反,器滿則傾。臣何惜一朝之命,而不安萬乘之國哉!」太后亦不之罪。 乙未,以相王爲并州牧,充安北道行軍元帥,以魏元忠爲之副。 六月,壬戌,召神都留守韋巨源詣京師,以副留守李嶠代之。 秋,七月,甲午,突厥寇代州。 司僕卿張昌宗兄弟貴盛,勢傾朝野。八月,戊午,太子、相王、太平公主上表請封昌宗爲王,制不許;壬戌,又請,乃賜爵鄴國公。 敕:「自今有告言揚州及豫、博餘黨,一無所問,內外官司無得爲理。」 九月,乙丑朔,日有食之,不盡如鉤,神都見其既。 壬申,突厥寇忻州。 己卯,吐蕃遣其臣論彌薩來求和。 庚辰,以太子賓客武三思爲大谷道大總管,洛州長史敬暉爲副;辛巳,又以相王旦爲并州道元帥,三思與武攸宜、魏元忠爲之副;姚元崇爲長史,司禮少卿鄭杲爲司馬;然竟不行。 癸未,宴論彌薩於麟德殿。時涼州都督唐休璟入朝,亦預宴。彌薩屢窺之。太后問其故,對曰:「洪源之戰,此將軍猛厲無故,故欲識之。」太后擢休璟爲右武威、金吾二衞大將軍。休璟練習邊事,自碣石以西逾四鎮,綿亙萬里,山川要害,皆能記之。 冬,十月,甲辰,天官侍郎、同平章事顧琮薨。 戊申,吐蕃贊普將萬餘人寇茂州,都督陳大慈與之四戰,皆破之,斬首千餘級。 十一月,辛未,監察御史魏靖上疏,以爲:「陛下既知來俊臣之奸,處以極法,乞詳覆俊臣等所推十獄,伸其枉濫。 |
翻訳本文皇帝陛下は天の位を安んじておられますが、物事が極まれば反転し、器が満ちれば傾くという道理に気づいておりません。臣たる者が一時の命を惜しんで、万乗の国(=朝廷)を不安定にさせることができましょうか!」太后も彼を罪には問わなかった。 六月壬戌の日、神都留守・韋巨源を京師へ召還し、副留守である李嶠が後任となった。 詔令:「今後揚州及び豫・博地域における残党に関する告発は一切問わず、朝廷内外の役所も取り扱ってはならない」。 冬十月甲辰の日、天官侍郎同平章事顧琮が逝去した。 解説
(附注)当該時期:武周朝末期(703年頃)、則天武后統治下における中央・辺境情勢の混迷期を示す史料として重要 Translation took 858.5 seconds. |
| 」太后乃命監察御史蘇頲按覆俊臣等舊獄,由是雪免者甚眾。頲,夔之曾孫也。 戊子,太后祀南郊,赦天下。 十二月,甲午,以魏元忠爲安東道安撫大使,羽林衞大將軍李多祚檢校幽州都督,右羽林衞將軍薛訥、左武衞將軍駱務整爲之副。 戊申,置北庭都護府於庭州。侍御史張循憲爲河東採訪使,有疑事不能決,病之,問侍吏曰:「此有佳客,可與議事者乎?」吏言前平鄕尉猗氏張嘉貞有異才,循憲召見,詢以事;嘉貞爲條析理分,莫不洗然。循憲因請爲奏,皆意所未及。循憲還,見太后,太后善其奏,循憲具言嘉貞所爲,且請以己之官授之。太后曰:「朕寧無一官自進賢邪!」因召嘉貞,入見內殿,與語,大悅,即拜監察御史;擢循憲司勳郎中,賞其得人也。 則天順聖皇后下長安三年〈癸卯,西元七〇三年〉 春,三月,壬戌朔,日有食之。 夏,四月,吐蕃遣使獻馬千匹、金二千兩以求昏。 閏月,丁丑,命韋安石留守神都。 己卯,改文昌台爲中台。以中台左丞李嶠知納言事。 新羅王金理洪卒,遣使立其弟崇基爲王。 六月,辛酉,突厥默啜遣其臣莫賀干來,請以女妻皇太子之子。 寧州大水,溺殺二千餘人。 秋,七月,癸卯,以正諫大夫朱敬則同平章事。 戊申,以并州牧相王旦爲雍州牧。 庚戌,以夏官尚書、檢校涼州都督唐休璟同鳳閣鸞臺三品。 |
現代日本語訳:太后(武則天)は監察御史・蘇頲に命じて、来俊臣らが以前に関与した事件を再審査させた。これにより冤罪を晴らされ赦免される者が多数出た。蘇頲は蘇夔の曾孫である。 戊子の日、太后は南郊で天地祭祀を行い、天下に大赦令を発布した。 十二月甲午の日、魏元忠を安東道安撫大使に任命し、羽林衛大将軍・李多祚を検校幽州都督とし、右羽林衛将軍・薛訥と左武衛将軍・駱務整をその副官とした。 戊申の日、庭州に北庭都護府を設置した。侍御史・張循憲が河東採訪使として赴任中、判決不能な難事件に直面し悩んでいた。配下の官吏に「この地に優れた人物で議事に参与できる者はいないか」と問うと、前平郷尉(猗氏県出身)の張嘉貞が異才を持つと進言された。循憲が召見して相談すると、嘉貞は事件を条理整然と分析し、全て明快な結論を示した。そこで循憲は彼に奏上文の起草を依頼したところ、自身では思い至らぬ卓抜な内容となった。 帰還後の循憲が太后に報告すると、その奏上文を高く評価されたため、嘉貞の功績を詳述し「自分の官位を譲りたい」と申し出た。これに対し太后は「朕が自ら人材を登用する一つの官職も惜しまぬぞ!」と言い、直ちに嘉貞を内殿に召見して対話したところ大いに気に入り、即座に監察御史に任命。さらに循憲には司勲郎中への昇進を与え、良材を見出した功績を賞した。 則天順聖皇后(武則天)治世下・長安三年〈癸卯年、西暦703年〉 春三月壬戌朔日(1日)、日食が発生した。 夏四月、吐蕃(チベット)が使者を遣わし、馬千頭と金二千両を献上して婚姻を求めた。 閏月丁丑の日、韋安石に神都(洛陽)留守を命じた。 己卯の日、文昌台を中台に改称。中台左丞・李嶠に納言事(詔勅伝達職務)を担当させた。 新羅王・金理洪が逝去したため使者を派遣し、その弟・崇基を新国王として擁立した。 六月辛酉の日、突厥の默啜可汗が臣下の莫賀干を遣わし「自分の娘を皇太子の息子に嫁がせたい」と申し出た。 寧州で大洪水が発生。二千人以上が溺死した。 秋七月癸卯の日、正諫大夫・朱敬則を同平章事(宰相職)に任命。 戊申の日、并州牧・相王旦(後の睿宗)を雍州牧に転任させた。 庚戌の日、夏官尚書兼検校涼州都督・唐休璟を同鳳閣鸞台三品(実質的な宰相待遇)に任命した。 解説:
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| 時突騎施酋長烏質勒與西突厥諸部相攻,安西道絶。太后命休璟與諸宰相議其事,頃之,奏上,太后即依其議施行。後十餘日,安西諸州請兵應接,程期一如休璟所畫,太后謂休璟曰:「恨用卿晩!」謂諸宰相曰:「休璟練習邊事,卿曹十不當一。」 時西突厥可汗斛瑟羅用刑殘酷,諸部不服。烏質勒本隸斛瑟羅,號莫賀達干,能撫其眾,諸部歸之,斛瑟羅不能制。烏質勒置都督二十員,各將兵七千人,屯碎葉西北;後攻陷碎葉,徙其牙帳居之。斛瑟羅部眾離散,因入朝,不敢復還,烏質勒悉並其地。 九月,庚寅朔,日有食之,既。 初,左台大夫、同鳳閣鸞臺三品魏元忠爲洛州長史,洛陽令張昌儀恃諸兄之勢,每牙,直上長史聽事;元忠到官,叱下之。張易之奴暴亂都市,元忠杖殺之。及爲相,太后召易之弟岐州刺史昌期,欲以爲雍州長史,對仗,問宰相曰:「誰堪雍州者?」元忠對曰:「今之朝臣無以易薛季昶。」太后曰:「季昶久任京府,朕欲別除一官;昌期何如?」諸相皆曰:「陛下得人矣。」元忠獨曰:「昌期不堪!」太后問其故,元忠曰:「昌期少年,不閒吏事,向在岐州,戸口逃亡且盡。雍州帝京,事務繁劇,不若季昶強幹習事。」太后默然而止。元忠又嘗面奏:「臣自先帝以來,蒙被恩渥,今承乏宰相,不能盡忠死節,使小人在側,臣之罪也!」太后不悅,由是諸張深怨之。 |
現代日本語訳:この時、突騎施の酋長ウジルが西突厥の各部族と交戦し、安西域への連絡路が断絶した。則天武后は唐休璟に命じて宰相たちと協議させた。ほどなくして奏上がなされると、武后はただちにその提案通り実行に移した。十余日後、安西の各州から援軍要請があり、その日程計画が全て休璟の立案通りであったため、武后は休璟に向かって「卿を重用するのが遅かったことを悔やむ」と述べ、宰相たちには「休璟は辺境事情に精通しており、諸君ら十人が束になっても及ばない」と言った。 当時、西突厥の可汗クックセルロは刑罰が残酷だったため各部族が服従せず、ウジル(元はクックセルロ配下でモガダカンの称号を持つ)は民衆を慰撫する能力があった。諸部族が彼に帰順した結果、クックセルロは統制力を失った。ウジルは二十人の都督を任命し、各七千の兵を率いさせてスイヤブ西北に駐屯させた後、同地を攻略して本営を移転。離散したクックセルロは入朝したきり帰還せず、ウジルがその領土を全て併合した。 九月一日庚寅の日、皆既日食が発生した。 当初、左台大夫・同鳳閣鸞臺三品の魏元忠が洛州長史に就任すると、洛陽令張昌儀(張易之の弟)が兄の権勢を笠に着て毎回登庁時に直接長史の執務室へ乗り込んでいた。元忠は着任後これを叱責して退去させた。また張易之の奴僕が都で乱暴を働くと、彼を杖殺刑に処した。宰相昇進後、武后が易之の弟・岐州刺史張昌期を雍州長史に任命しようと朝議で「誰が雍州長史に適任か」と問うと、元忠は「現朝臣の中で薛季昶ほど適切な人物はいません」と答えた。武后が「季昶は長期京官任用中だから別の役職を与えたい。昌期ではどうか」と言うと、他の宰相は口を揃えて「陛下のお考えこそ最適です」と応じた。しかし元忠だけは「昌期は不適任です!」と反論し、「彼は若年で行政未熟。岐州在任時には戸籍人口がほぼ逃亡尽くしました。帝都雍州の繁雑な政務を扱えるのは、実務に習熟した季昶をおいて他にいません」と根拠を示すと、武后は黙って任命を取りやめた。 元忠はさらに直奏で「臣は先帝時代より恩寵を受けており、宰相職にある以上、節を全うして尽くさねばなりません。にもかかわらず小人(張氏兄弟)が側近に居座る現状こそ臣の不届きの証です」と述べたため、武后は不快感を示し、これにより張一族は深く元忠を恨むようになった。 解説:
※訳文作成方針: Translation took 912.9 seconds. |
| 司禮丞高戩,太平公主之所愛也。會太后不豫,張昌宗恐太后一日晏駕,爲元忠所誅,乃譖元忠與戩私議云「太后老矣,不若挾太子爲久長。」太后怒,下元忠、戩獄,將使與昌宗廷辨之。昌宗密引鳳閣舍人張説,賂以美官,使證元忠,説許之。明日,太后召太子、相王及諸宰相,使元忠與昌宗參對,往復不決。昌宗曰:「張説聞元忠言,請召問之。」 太后召説。説將入,鳳閣舍人南和宋璟謂説曰:「名義至重,鬼神難欺,不可黨邪陷正以求苟免。若獲罪流竄,其榮多矣。若事有不測,璟當叩閣力爭,與子同死。努力爲之,萬代瞻仰,在此舉也!」殿中侍御史濟源張廷珪曰:「朝聞道,夕死可矣!」左史劉知幾曰:「無污青史,爲子孫累!」 及入,太后問之,説未對。元忠懼,謂説曰:「張説欲與昌宗共羅織魏元忠邪!」説叱之曰:「元忠爲宰相,何乃效委巷小人之言!」昌宗從旁迫趣説,使速言。説曰:「陛下視之,在陛下前,猶逼臣如是,況在外乎!臣今對廣朝,不敢不以實對。臣實不聞元忠有是言,但昌宗逼臣使誣證之耳!」易之、昌宗遽呼曰:「張説與魏元忠同反!」太后問其狀。對曰:「説嘗謂元忠爲伊、周;伊尹放太甲,周公攝王位,非欲反而何?」説曰:「易之兄弟小人,徒聞伊、周之語,安知伊、周之道!日者元忠初衣紫,臣以郎官往賀,元忠語客曰:『無功受龐,不勝慚懼。 |
現代日本語訳:司礼丞の高戩は、太平公主が寵愛していた人物である。ちょうど則天武后が体調を崩した折、張昌宗は武后がもし亡くなれば自分が魏元忠に誅殺されることを恐れ、逆に「元忠が高戩と『太后は老いたので、太子(中宗)を擁立して長く政権を保とう』と密談した」と讒言した。武后は激怒し、元忠と高戩を投獄すると共に朝廷で張昌宗との対決を命じた。 張昌宗は密かに鳳閣舎人(中書舎人)の張説を呼び出し、高位の官職で買収して魏元忠への偽証を依頼。張説は承諾した。翌日、武后が太子・相王(後の睿宗)と宰相たちを召集する中、魏元忠と昌宗の対決は決着がつかないまま推移した。ここで昌宗が「張説が元忠の発言を聞いています」と告発し、召喚が命じられる。 張説が入廷しようとした時、同僚の宋璟(鳳閣舎人)は警告した。「大義名分は重く、鬼神すら欺けぬ。邪に与して正義を陥れるな!たとえ流罪となっても名誉は残る。万一の事態あれば私は必ず直訴し、共に死のう」。続けて殿中侍御史・張廷珪が「朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と言い含め、左史・劉知幾も「歴史を汚して子孫まで辱めるな」と激励。 廷内で武后の下問を受けた張説が沈黙すると、魏元忠は焦って「お前も昌宗と共謀したのか!」と叫んだ。これに張説は喝破。「宰相たる者が巷の小人之言を真似るとは!」。張昌宗が早く証言せよと迫ると、張説は武后へ訴えた。「陛下ご覧ください。御前ですら臣を威圧するのです。ましてや外ではどうか? 今こそ真実を申し上げます——魏元忠の不穏発言など聞いたことはありません。偽証を強要したのは張昌宗です!」 すると易之・昌宗兄弟が「張説は魏元忠と共謀した!」と喚き、根拠として「以前、張説が魏元忠を伊尹や周公(名臣)に例えた」ことを挙げた。これに対し張説は反論。「彼ら小人どもは故事の表面しか知らない! 当時は元忠が紫袍(高官服)を賜った祝いの席で、自ら『功無くして寵を受けるのは慙愧』と語っていたのです」。 解説:
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| 』臣實言曰:『明公居伊、周之任,何愧三品!』彼伊尹、周公皆爲臣至忠,古今慕仰。陛下用宰相,不使學伊、周,當使學誰邪?且臣豈不知今日附昌宗立取台衡,附元忠立致族滅!但臣畏元忠冤魂,不敢誣之耳。」太后曰:「張説反覆小人,宜並系治之。」他日,更引問,説對如前。太后怒,命宰相與河內王武懿宗共鞫之,説所執如初。 朱敬則抗疏理之曰:「元忠素稱忠正,張説所坐無名,若令抵罪,失天下望。」蘇安恆亦上疏,以爲:「陛下革命之初,人以爲納諫之主;暮年以來,人以爲受佞之主。自元忠下獄,里巷恟恟,皆以爲陛下委信奸宄,斥逐賢良。忠臣烈士,皆撫髀於私室而鉗口於公朝,畏迕易之等意,徒取死而無益。方今賦役煩重,百姓凋弊,重以讒慝專恣,刑賞失中,竊恐人心不安,別生它變,爭鋒於朱雀門內,問鼎於大明殿前,陛下將何以謝之,何以御之?」易之等見其疏,大怒,欲殺之,賴朱敬則及鳳閣舍人桓彥范、著作郎陸澤魏知古保救得免。 丁酉,貶元忠爲高要尉,戩、説皆流嶺表。元忠辭日,言於太后曰:「臣老矣,今向嶺南,十死一生。陛下他日必有思臣之時。」太后問其故,時易之、昌宗皆侍側,元忠指之曰:「此二小兒,終爲亂階。」易之等下殿,叩膺自擲稱冤。太后曰:「元忠去矣!」 殿中侍御史景城王晙復奏申理元忠,宋璟謂之曰:「魏公幸已得全,今子復冒威怒,得無狼狽乎!」晙曰:「魏公以忠獲罪,晙爲義所激,顛沛無恨。 |
現代日本語訳:臣(張説)は誠を込めて申し上げます。「明公(武則天)が伊尹や周公のような重任を担われているのに、どうして三品の官位を恥じる必要がありましょうか?」あの伊尹と周公はいずれも臣下として最高の忠義を示した人物であり、古今を通じて慕われております。陛下が宰相を用いられる際に、彼ら伊尹や周公に学ばせようとなさらないのであれば、一体誰に学ばせるというのですか?それに私は今日、昌宗(張昌宗)につけば即座に高位を得られ、元忠(魏元忠)を支持すれば一族滅亡の危機に見舞われることを知らないわけがありません。ただ、冤罪で死んだ元忠の魂を恐れ、偽りの証言をする勇気がないだけです。」 則天武后は言った。「張説は節操なき小人だ。共に拘束して裁け。」後日改めて尋問すると、張説の供述は変わらなかった。太后は怒り、宰相と河内王・武懿宗に共同で取り調べるよう命じたが、彼の主張は最初と同じであった。 朱敬則が直諫した。「元忠は一貫して忠義正直と評判であり、張説には何の罪もありません。もし処罰すれば天下の期待を裏切ることになります。」蘇安恒も上疏し、「陛下(武則天)が革命(周朝樹立)を成された当初は、人々は進言を受け入れる君主と思っておりました。しかし近年では、諂う者に操られる君主と見なされております。元忠が投獄されて以来、巷では騒然として『陛下は奸臣を信頼し賢臣を追放した』と言われています。忠誠ある志士たちは私宅で腿を叩き(無念さを噛みしめ)、朝廷では口をつぐんでいるのです。(張)易之らの意に逆らえば死ぬだけだと恐れているからです。今や税と労役が苛烈で民は疲弊し、これに加えて讒言する者が専横し刑罰・恩賞の公正を欠いております。このままでは人心が離反し、朱雀門内で兵刃を交える事態になる恐れすらあります。(王朝簒奪を示す)鼎(かなえ)が大明殿前に現れた時、陛下はどう弁明され、どう制御なさるおつもりでしょうか?」 張易之らはこの上疏を見て激怒し蘇安恒を殺そうとしたが、朱敬則や鳳閣舎人・桓彦範、著作郎・陸沢の魏知古らの保護により難を逃れた。 丁酉(9月9日)、元忠は高要尉に左遷され、戩と張説は嶺南へ流罪となった。元忠が辞去する際、太后に言上した。「私は老いてしまいました。今から嶺南へ向かうのは十死一生の旅です。いずれ陛下も私を懐かしく思われる時が来ましょう。」と問われた武則天に対し、傍らに侍っていた張易之・昌宗兄弟を指さして言った。「この二人の小童こそ、必ずや禍乱の根源となります」。易之らは階下へ駆け降り、胸を叩き床に伏して冤罪を叫んだ。太后は「元忠よ、行ってしまえ」と言い放った。 殿中侍御史・景城出身の王晙が再び上奏し元忠の無実を訴えた。宋璟が「魏公(元忠)は幸運にも命拾いしたのに、君またあえて陛下の怒りに触れるのか。窮地に陥る覚悟か?」と諫めると、王晙は答えた。「魏公は忠義ゆえに罪を得たのです。私は正義に駆られて行動しました。たとえ落魄しようとも悔いはありません。」 解説:
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| 」璟歎曰:「璟不能申魏公之枉,深負朝廷矣!」 太子僕崔貞慎等八人餞元忠於郊外,易之詐爲告密人柴明狀,稱貞慎等與元忠謀反。太后使監察御史丹徒馬懷素鞫之,謂懷素曰:「茲事皆實,略問,速以聞。」頃之,中使督趣者數四,曰:「反狀皎然,何稽留如此?」懷素請柴明對質,太后曰:「我自不知柴明處,但據狀鞫之,安用告者?」懷素據實以聞,太后怒曰:「卿欲縱反者邪?」對曰:「臣不敢縱反者。元忠以宰相謫官,貞慎等以親故追送,若誣以爲反,臣實不敢。昔欒布奏事彭越頭下,漢祖不以爲罪,況元忠之刑未如彭越,而陛下欲誅其送者乎!且陛下操生殺之柄,欲加之罪,取決聖衷可矣;若命臣推鞫,臣敢不以實聞!」太后曰:「汝欲全不罪邪?」對曰:「臣智識愚淺,實不見其罪!」太后意解。貞慎等由是獲免。 太后嘗命朝貴宴集,易之兄弟皆位在宋璟上。易之素憚璟,欲悅其意,虛位揖之曰:「公方今第一人,何乃下坐?」璟曰:「才劣位卑,張卿以爲第一,何也?」天官侍郎鄭杲謂璟曰:「中丞奈何卿五郎?」璟曰:「以官言之,正當爲卿。足下非張卿家奴,何郎之有!」舉坐悚惕。時自武三思以下,皆謹事易之兄弟,璟獨不爲之禮。諸張積怒,常欲中傷之;太后知之,故得免。 丁未,以左武衞大將軍武攸宜充西京留守。 |
現代日本語訳宋璟は嘆いて言った。「私は魏公(魏元忠)の無実を明らかにすることができず、朝廷に対して深く申し訳ない」 太子僕・崔貞慎ら八人が郊外で魏元忠を見送ると、張易之は密告者「柴明」と偽る文書を作成し、「崔貞慎らが謀反を企てている」と誣告した。則天武后は監察御史の馬懐素(丹徒県出身)に取り調べを命じ、「この件は全て事実だ。簡単に尋ねて速やかに報告せよ」と指示した。ほどなく、使者が繰り返し催促して言うには「謀反の証拠は明白なのに、なぜ遅延するのか」。馬懐素が柴明との対質を求めると、武后は「私は柴明の居場所を知らない。供述書に基づいて審理すればよい。密告者が必要か?」と返した。 馬懐素が実情を報告すると、武后は怒って言った。「卿は謀反人を見逃そうとするのか」。彼は答えた。「臣下が謀反人を庇うはずがありません。魏元忠は宰相として左遷された身であり、崔貞慎らは親交ゆえに見送っただけです。これを謀反と誣るのは耐え難い行為です。昔、欒布が彭越の首の前で弔辞を述べても漢の高祖は罪に問わず、まして魏元忠の処罰が彭越ほどの重刑ではないのに、陛下が見送った者まで誅殺なさるおつもりですか。そもそも生殺与奪の権をお持ちの陛下が罪を科すなら、ご聖断で決めればよいのです。臣に審理を命じた以上、実状を報告せずにおれましょうか」。 武后は「卿は彼らを全く無罪としたいのか」と詰った。馬懐素は「私の知恵は浅く、どこに罪があるのか見出せません」と答えると、武后の怒りは解けた。こうして崔貞慎らは赦免された。 ある時、則天武后が高官たちを宴会に招いた際、張易之兄弟の席次が宋璟より上位だった。張易之は平素から宋璟を畏敬しており、機嫌を取ろうと空席(上座)を指しながら「貴公こそ当代随一の方なのに、なぜ下座に?」と言った。宋璟は応じた。「才能乏しく官位も低い私が『第一人者』とは? 張卿の根拠はいかに」。天官侍郎・鄭杲が「中丞(宋璟)よ、どうして五郎(易之)を『卿』などと呼ぶのか」と咎めると、宋璟は言下に反論した。「官職で呼べば当然『卿』だ。貴殿は張家の奴隷でもあるまいし、なぜ『郎』などという敬称を使う!」一同は慄然とした。当時、武三思以下がこぞって張易之兄弟に媚びる中、宋璟だけが礼を尽くさなかった。張一族は積年の怒りから常に彼を陥れようとしたが、武后が事情を知っていたため危難を免れたのである。 丁未の日(8月28日)、左武衛大将軍・武攸宜を西京留守に任命した。 解説【歴史的背景】
【人物関係図】
【言語表現の特徴】
【核心的な価値観】
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| 冬,十月,丙寅,車駕發西京;乙酉,至神都。 十一月,己丑,突厥遣使謝許昏。丙申,宴於宿羽台,太子預焉。宮尹崔神慶上疏,以爲:「今五品以上所以佩龜者,爲別敕徵召,恐有詐妄,內出龜合,然後應命。況太子國本,古來徵召皆用玉契。此誠重慎之極也。昨緣突厥使見,太子應預朝參,直有文符下宮,曾不降敕處分,臣愚謂太子非朔望朝參、應別召者,望降墨敕及玉契。」太后甚然之。 始安獠歐陽倩擁眾數萬,攻陷州縣,朝廷思得良吏以鎮之。朱敬則稱司封郎中裴懷古有文武才;制以懷古爲桂州都督,仍充招慰討擊使。懷古才及嶺上,飛書示以禍福,倩等迎降,且言「爲吏所侵逼,故舉兵自救耳。」懷古輕騎赴之。左右曰:「夷獠無信,不可忽也。」懷古曰:「吾仗忠信,可通神明,而況人乎!」遂詣其營,賊眾大喜,歸所掠貨財;諸洞酋長素持兩端者,皆來款附,嶺外悉定。 是歳,分命使者以六條察州縣。 吐蕃南境諸部皆叛,贊普器弩悉弄自將擊之,卒於軍中。諸子爭立,久之,國人立其子棄隸蹜贊爲贊普,生七年矣。 則天順聖皇后下長安四年〈甲辰,西元七〇四年〉 春,正月,丙申,冊拜右武衞將軍阿史那懷道爲西突厥十姓可汗。懷道,斛瑟羅之子也。 丁未,毀三陽宮,以其材作興泰宮於萬安山。二宮皆武三思建議爲之,請太后每歳臨幸,功費甚廣,百姓苦之。 |
訳文【本文】長安四年(甲辰、704年)冬十月丙寅の日、則天武后が西京を出発。乙酉に神都へ到着した。 十一月己丑、突厥が使者を派遣し和親許可への礼を述べる。丙申には宿羽台で宴会が催され皇太子も列席。この時、宮尹(東宮長官)崔神慶が上疏して言う:「五品以上の官に亀符を持たせるのは偽りの勅命徴発を防ぐためです。内廷から合致する符が出されて初めて応じるのです。まして皇太子は国の根本、古来より玉契を用いて召還します。これは最大の慎重さを示すものですが、先般の突厥使者謁見では文書のみで勅命なく参朝させました。臣が思うに朔望(月例)以外での特別招集には墨勅と玉契を下賜されるよう願います」。太后は大いにこれを認めた。 始安蛮族首長欧陽倩が数万の兵を率いて州県を陥落させたため、朝廷は鎮圧できる良吏を求めていた。朱敬則が司封郎中裴懷古に文武両面の才ありと推挙し、詔により懐古を桂州都督兼招慰討撃使とした。彼が嶺南に入ると早馬で利害得失を示したところ欧陽倩らは降伏し「役人の横暴から自衛のために兵を挙げた」と述べた。懐古が軽騎のみで赴こうとすると側近は「蛮族に信用なし油断禁物」と諫めたが、「忠信を持って神にも通じる、まして人ならなおさらだ」と言い切り単身敵陣へ入った。賊軍は感激し略奪品を返還、諸部族の酋長も帰順して嶺南全域が平定された。 同年、巡察使六条による州県監察制度を施行した。 吐蕃南部で各部族が反乱すると賛普(国王)器弩悉弄が親征するも陣中に没す。王子たちの後継争いの末、国民が幼君棄隸蹜贊(7歳)を擁立した。 長安四年春正月丙申、右武衛将軍阿史那懐道を西突厥十姓可汗として冊封。彼は斛瑟羅の子である。 丁未には三陽宮を取り壊し万安山に興泰宮を造営。両宮殿とも武三思が「太后行幸用」と奏上して建造したものだが、工費が膨大で民衆は苦しんだ。 解説【歴史的意義】
【筆法分析】
【時代背景】704年は則天武后崩御(同年12月)直前であり、記述には以下の特徴が見られる:
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| 左拾遺盧藏用上疏,以爲:「左右近臣多以順意爲忠,朝廷具僚皆以犯忤爲戒,致陛下不知百姓失業,傷陛下之仁。陛下誠能以勞人爲辭,發制罷之,則天下皆知陛下苦己而愛人也。」不從。藏用,承慶之弟孫也。 壬子,以天官侍郎韋嗣立爲鳳閣侍郎、同平章事。 夏官侍郎、同鳳閣鸞臺三品李迥秀頗受賄賂,監察御史馬懷素劾奏之。二月,癸亥,迥秀貶廬州刺史。 壬申,正諫大夫、同平章事朱敬則以老疾致仕。敬則爲相,以用人爲先,自餘細務不之視。 太后嘗與宰相議及刺史、縣令。三月,己丑,李嶠、唐休璟等奏:「竊見朝廷物議,遠近人情,莫不重內官,輕外職,每除授牧伯,皆再三披訴。比來所遣外任,多是貶累之人;風俗不澄,實由於此。望於台、閣、寺、監妙簡賢良,分典大州,共康庶績。臣等請輟近侍,率先具僚。」太后命書名探之,得韋嗣立及御史大夫楊再思等二十人。癸巳,制各以本官檢校刺史,嗣立爲汴州刺史。其後政跡可稱者,唯常州刺史薛謙光、徐州刺史司馬金皇而已。 丁亥,徙平恩王重福爲譙王。 以夏官侍郎宗楚客同平章事。 鳳閣侍郎、同鳳閣鸞臺三品蘇味道謁歸葬其父,制州縣供葬事。味道因之侵毀鄕人墓田,役使過度。監察御史蕭至忠劾奏之,左遷坊州刺史。至忠,引之玄孫也。 夏,四月,壬戌,同鳳閣鸞臺三品韋安石知納言,李嶠知內史事。 |
現代日本語訳左拾遺の盧蔵用が上疏し、次のように述べた。「側近の臣たちは多く、おもねり従うことを忠義と心得ており、朝廷の官僚たちもみな逆らうことを戒めているため、陛下は民衆が生業を失っている実情をご存じない。これは陛下の仁徳をお傷つけになることです。誠に労役による苦しみを理由として詔勅を発し(遊興施設造営を)中止なされば、天下の人々は皆、陛下がご自身を犠牲にして民を愛しておられると知るでしょう。」しかし則天武后は聞き入れなかった。蔵用は盧承慶の弟の孫である。 壬子の日(4月5日)、天官侍郎韋嗣立を鳳閣侍郎・同平章事に任命した。 夏官侍郎・同鳳閣鸞台三品の李迥秀が盛んに賄賂を受け取ったため、監察御史馬懐素が弾劾した。二月癸亥(3月17日)、迥秀は廬州刺史へ左遷された。 壬申の日(2月26日)、正諫大夫・同平章事朱敬則が老病を理由に辞任した。敬則が宰相であったときは人材登用を最優先とし、それ以外の細かい事務には目を通さなかった。 ある時、太后(武則天)が刺史や県令の人事について宰相たちと議論すると、三月己丑(4月11日)、李嶠や唐休璟らが上奏した。「朝廷内外の評判を窺うに、人々はこぞって中央官職を重視し地方官職を軽んじております。州長官の任命ごとに再三辞退する者が続出している状況です。近来派遣される地方官は多くが左遷された者ばかりで、このことが風紀紊乱の原因となっています。どうか尚書省・門下省などの中央機関から優れた人材を選抜し大州を治めさせ、共に善政を行わせてください。臣らも率先して地方へ赴く覚悟です」。太后は候補者名簿を作成させ韋嗣立や御史大夫楊再思など二十名を選出した。癸巳(4月15日)、詔勅で各々現職のまま刺史代理とし、嗣立は汴州刺史となった。後に善政を行ったのは常州刺史薛謙光と徐州刺史司馬鍠のみであった。 丁亥の日(3月9日)、平恩王李重福を譙王に改封した。 夏官侍郎宗楚客を同平章事に任命した。 鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台三品蘇味道が父の葬儀のために帰郷し、詔勅で州県が葬儀費用を負担することとなった。ところが味道はこの機会に隣接する墓地を破壊し、民衆への労役徴発も度を越していたため、監察御史蕭至忠が弾劾した結果、坊州刺史へ左遷された。至忠は蕭引の玄孫である。 夏四月壬戌(5月18日)、同鳳閣鸞台三品韋安石を納言執掌とし、李嶠を内史事務執掌とした。 解説
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| 太后幸興泰宮。 太后復稅天下僧尼,作大像於白司馬阪,令春官尚書武攸寧檢校,糜費巨億。李嶠上疏,以爲:「天下編戸,貧弱者眾。造像錢見有一十七萬餘緡,若將散施,人與一千,濟得一十七萬餘戸。拯饑寒之弊,省勞役之勤,順諸佛慈悲之心,沾聖君亭育之意,人神胥悅,功德無窮。方作過後因緣,豈如見在果報!」監察御史張廷珪上疏諫曰:「臣以時政論之,則宜先邊境,蓄府庫,養人力;以釋教論之,則宜救苦厄,滅諸相,崇無爲。伏願陛下察臣之愚,行佛之意,務以理爲上,不以人廢言。」太后爲之罷役,仍召見廷珪,深賞慰之。 鳳閣侍郎、同鳳閣鸞臺三品姚元崇以母老固請歸侍;六月,辛酉,以元崇行相王府長史,秩位並同三品。 乙丑,以天官侍郎崔玄□同平章事。 召鳳閣侍郎、同平章事、檢校汴州刺史韋嗣立赴興泰宮。 丁丑,以李嶠同鳳閣鸞臺三品。嶠自請解內史。 壬午,以相王府長史姚元崇兼知夏官尚書、同鳳閣鸞臺三品。 秋,七月,丙戌,以神都副留守楊再思爲內史。 再思爲相,專以諂媚取容。司禮少卿張同休,易之兄也,嘗召公卿宴集,酒酣,戲再思曰:「楊內史面似高麗。」再思欣然,即剪紙帖巾,反披紫袍,爲高麗舞,舉坐大笑。時人或譽張昌宗之美曰:「六郎面似蓮花。」再思獨曰:「不然。 |
現代日本語訳興泰宮への行幸 則天武后が再び全国の僧侶や尼に課税し、白司馬阪(地名)で巨大仏像を造営。春官尚書・武攸寧が監督して莫大な費用を浪費した。李嶠が上奏文を提出: 「天下には貧弱な戸籍民が多い。現在の造像資金は十七万余緡あり、分配すれば一人に千銭ずつ渡せて十七万世帯超を救済できます。飢えと寒さから人々を守り労役負担も減らすことで仏の慈悲心にも叶い、聖君が民を育む意志とも合致します(*)。後世での功徳より現実的な救済こそ重要です」 監察御史・張廷珪も上奏: 「政治面では国境防備/財政蓄積/人材保護が優先。仏教本来の理念なら苦しみの救済/形への執着放棄/無為自然の尊重こそ根本です(*)。陛下には道理を重んじていただきたい」 太后はこれを受け工事中止を命じ、張廷珪を召して厚く慰労した。 人事異動 鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台三品の姚元崇が老母介護のため帰郷を懇願。6月辛酉(7日)、相王府長史に転任(位階は従来通り)。 乙丑(11日)に天官侍郎・崔玄□が同平章事就任。 鳳閣侍郎・同平章事・汴州刺史代理の韋嗣立が興泰宮へ召喚。 丁丑(23日)、李嶠を同鳳閣鸞台三品に任命(自身から内史辞職願い出)。 壬午(28日)、相王府長史・姚元崇が夏官尚書兼任と同鳳閣鸞台三品復帰。 権力者の醜態 7月丙戌(3日)に神都副留守・楊再思を内史に任命。彼は丞相として媚び諂うことで地位保全を図った。 司礼少卿・張同休(寵臣・易之の兄)が宴席で酒酣に「楊内史は顔が高麗人似だ」と揶揄すると、再思は喜んで紙細工の飾り巾を作り、紫袍を逆さまに着て高麗舞を披露。満座爆笑となった。 世間が張昌宗(易之弟)を「蓮華のような美貌」と讃える中、再思だけ異見:「そうではない」 解説
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| 」昌宗問其故,再思曰:「乃蓮花似六郎耳。」 甲午,太后還宮。 乙未,司禮少卿張同休、汴州刺史張昌期、尚方少監張昌儀皆坐贓下獄,命左右台共鞫之;丙申,敕,張易之、張昌宗作威作福,亦命同鞫。辛丑,司刑正賈敬言奏:「張昌宗強市人田,應徵銅二十斤。」制「可」。乙巳,御史大夫李承嘉、中丞桓彥范奏:「張同休兄弟贓共四千餘緡,張昌宗法應免官。」昌宗奏:「臣有功於國,所犯不至免官。」太后問諸宰相:「昌宗有功乎?」楊再思曰:「昌宗合神丹,聖躬服之有驗,此莫大之功。」太后悅,赦昌宗罪,復其官。左補闕戴令言作《兩腳狐賦》,以譏再思,再思出令言爲長社令。 丙午,夏官侍郎、同平章事宗楚客有罪,左遷原州都督,充靈武道行軍大總管。 癸丑,張同休貶岐山丞,張昌儀貶博望丞。 鸞臺侍郎、知納言事、同鳳閣鸞臺三品韋安石舉奏張易之等罪,敕付安石及右庶子、同鳳閣鸞臺三品唐休璟鞫之,未竟而事變。八月,甲寅,以安石兼檢校揚州長史,庚申,以休璟兼幽營都督、安東都護。休璟將行,密言於太子曰:「二張恃寵不臣,必將之亂。殿下宜備之。」相王府長史兼知夏官尚書事、同鳳閣鸞臺三品姚元崇上言:「臣事相王,不宜典兵馬。臣不敢愛死,恐不益於王。」辛酉,改春官尚書,餘如故。元崇字元之,時突厥叱列元崇反,太后命元崇以字行。 |
現代日本語訳昌宗がその理由を尋ねると、楊再思は答えた。「蓮の花こそ六郎(張昌宗)に似ているからだ。」 甲午の日、則天武后は宮中へ戻られた。 乙未の日、司礼少卿・張同休や汴州刺史・張昌期、尚方少監・張昌儀らが全て収賄罪で投獄され、左右御史台に共同審理を命じた。丙申の日に詔勅が下り、張易之と張昌宗も権勢を笠に着て横暴を働いたとして共に審理対象となった。辛丑の日、司刑正・賈敬言が上奏した。「張昌宗は民衆から田地を強引に買い取っており、銅二十斤(当時の罰金)を徴収すべきです。」詔により「可」と認められた。 乙巳の日、御史大夫・李承嘉や中丞・桓彥范が奏上した。「張同休兄弟の汚職額は合計四千余緡に及び、張昌宗は法に照らして官職剥奪相当です。」すると張昌宗が「臣には国への功績があり、犯した罪は免官級ではありません」と弁明。太后(則天武后)が宰相たちに問うた。「昌宗に功績があるか?」楊再思が即答した。「昌宗が調合した神丹を陛下が服用され効果があったのは、これ以上の大功はありません。」これを聞いた太后は喜び、張昌宗の罪を赦免して官職を復帰させた。左補闕・戴令言が『両脚狐賦』(二本足の狐)を作り楊再思を諷刺すると、再思は彼を長社県令へ左遷した。 丙午の日、夏官侍郎兼同平章事・宗楚客が罪を得て原州都督に左遷され、霊武道行軍大総管を兼任することとなった。 癸丑の日、張同休は岐山丞へ、張昌儀は博望丞へそれぞれ降格された。 鸞台侍郎で納言事知・同鳳閣鸞台三品の韋安石が張易之らの罪状を上奏。詔により安石と右庶子兼同鳳閣鸞台三品の唐休璟に審理を命じたが、完了前に事態は急変した。 八月甲寅の日、韋安石は揚州長史を兼任させられ、庚申には唐休璟が幽営都督・安東都護を兼務することとなった。休璟が赴任する際、密かに皇太子(後の中宗)に進言した。「張易之・昌宗兄弟は寵愛を盾に臣下の礼を欠き、必ず乱を起こします。殿下は備えられるべきです。」一方で相王府長史兼夏官尚書事知・同鳳閣鸞台三品の姚元崇が上奏した。「私は相王(後の睿宗)に仕える身で軍権を持つのは不適切です。死を恐れるわけではありませんが、かえって王様にとって不利になりましょう。」辛酉の日、春官尚書へ異動となり他は据え置きとなった。(注:姚元崇は字を「元之」と称したが、この時突厥の叱列元崇が反乱を起こしていたため、武后の命で「元之」を公的称呼とした。) 解説◆歴史的背景 ◆権力構造の特徴 ◆特筆すべき動向 ◆後世への示唆 Translation took 929.5 seconds. |
| 突厥默啜既和親,戊寅,始遣淮陽王武延秀還。 九月,壬子,以姚元之充靈武道行軍大總管;辛酉,以元之爲靈武道安撫大使。 元之將行,太后令舉外司堪爲宰相者。對曰:「張柬之沉厚有謀,能斷大事,且其人已老。惟陛下急用之。」冬,十月,甲戌,以秋官侍郎張柬之同平章事,時年且八十矣。 乙亥,以韋嗣立檢校魏州刺史,餘如故。 壬午,以懷州長史河南房融同平章事。 太后命宰相各舉堪爲員外郎者,韋嗣立薦廣武令岑羲曰:「但恨其伯父長倩爲累。」太后曰:「苟或有才,此何所累!」遂拜天官員外郎。由是諸緣坐者始得進用。 十一月,丁亥,以天官侍郎韋承慶爲鳳閣侍郎、同平章事。 癸卯,成均祭酒、同鳳閣鸞臺三品李嶠罷爲地官尚書。 十二月,甲寅,敕大足已來新置官並停。 丙辰,鳳閣侍郎、同平章事韋嗣立罷爲成均祭酒,檢校魏州刺史如故;以兄承慶入相故也。 太后寢疾,居長生院,宰相不得見者累月,惟張易之、昌宗侍側。疾少間,崔玄暐奏言:「皇太子、相王,仁明孝友,足侍湯藥。宮禁事重,伏願不令異姓出入。」太后曰:「德卿厚意。」易之、昌宗見太后疾篤,恐禍及己,引用黨援,陰爲之備。屢有人爲飛書及榜其事於通衢,云「易之兄弟謀反」,太后皆不問。 辛未,許州人楊元嗣,告「昌宗嘗召術士李弘泰占相,弘泰言昌宗有天子相,勸於定州造佛寺,則天下歸心。 |
現代日本語訳:突厥の默啜(ぼくてつ)が和親を結んだため、戊寅の日、初めて淮陽王・武延秀を帰還させた。 九月壬子の日、姚元之を霊武道行軍大総管に任命。辛酉の日、元之を霊武道安撫大使とした。 元之が赴任する際、則天武后は外官で宰相適格者を推挙せよと命じた。彼は「張柬之(ちょうかんし)は沈着かつ謀略に長け、大事を断行できます。しかも高齢ゆえ陛下は急いでご起用なさるべきです」と答えた。 冬十月甲戌の日、秋官侍郎・張柬之を同平章事(宰相職)に任命。当時すでに八十歳近かった。 乙亥の日、韋嗣立(いしつりゅう)を検校魏州刺史とするも他の役職はそのまま保持させた。 壬午の日、懐州長史・河南出身の房融を同平章事に任命。 武后が宰相らに員外郎適任者を推挙させるよう命じると、韋嗣立は広武令・岑羲(しんぎ)を推薦。「ただ伯父の長倩が罪人となったことが累となるのが惜しい」と述べたが、太后は「才能あればそれに何の妨げがあろうか!」と言い、天官員外郎に任命した。これにより連座で処罰された者の登用も始まった。 十一月丁亥の日、天官侍郎・韋承慶を鳳閣侍郎・同平章事とする。 癸卯の日、成均祭酒兼同鳳閣鸞臺三品だった李嶠が罷免され地官尚書に転出。 十二月甲寅の日、「大足年間(701年)以降新設された官職は全て廃止する」と詔勅発布。 丙辰の日、鳳閣侍郎・同平章事だった韋嗣立が成均祭酒へ罷免されるも検校魏州刺史は留任。兄の承慶が宰相となったためである。 武后が重病で長生院に臥せり、数ヶ月間宰相すら拝謁できず張易之・昌宗兄弟だけが側近く仕えていた。病状がやや回復した折、崔玄暐(さいげんい)が「皇太子と相王は仁徳深く孝心厚きお方ゆえ、湯薬の世話を十分に務められます。宮中警備は重大事、どうか他姓者(張兄弟)の出入りをお控えください」と奏上すると、太后は「卿の厚意に感謝する」と言うのみであった。 易之・昌宗は武后の病状悪化を恐れ謀反準備を進めた。街中には「易之兄弟が謀反を企てている」という落書が頻発したが、太后は一切追及しなかった。 辛未の日、許州出身者楊元嗣が告発:「昌宗が占い師・李弘泰に相術を行わせたところ『天子の面相あり』と言われ、定州で仏寺建立すれば天下帰服すると勧められた」。 解説:
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| 」太后命韋承麇慶及司刑卿崔神慶、御史中丞宋璟鞫之。神慶,神基之弟也。承慶、神慶奏言:「昌宗款稱『弘泰之語,尋已奏聞」,准法首原;弘泰妖言,請收行法。」璟與大理丞封全禎奏:「昌宗龐榮如是,復召術士占相,志欲何求!弘泰稱筮得純《乾》,天子之卦。昌宗倘以弘泰爲妖妄,何不即執送有司!雖雲奏聞,終是包藏禍心,法當處斬破家。請收付獄,窮理其罪!」太后久之不應,璟又曰:「儻不即收系,恐其搖動眾心。」太后曰:「卿且停推,俟更檢詳文狀。」璟退,左拾遺江都李邕進曰:「向觀宋璟所奏,志安社稷,非爲身謀,願陛下可其奏。」太后不聽。尋敕璟揚州推按,又敕璟按幽州都督屈突仲翔贓污,又敕璟副李嶠安撫隴、蜀;璟皆不肯行,奏曰:「故事,州縣官有罪,品高則侍御史、卑則監察御史按之,中丞非軍國大事,不當出使。今隴、蜀無變,不識陛下遣臣出外何也?臣皆不敢奉制。」 司刑少卿桓彥范上疏,以爲:「昌宗無功荷寵,而包藏禍心,自招其咎,此乃皇天降怒;陛下不忍加誅,則違天不祥。且昌宗既雲奏訖,則不當更與弘泰往還,使之求福禳災,是則初無悔心;所以奏者,擬事發則雲先已奏陳,不發則俟時爲逆。此乃奸臣詭計,若雲可捨,誰爲可刑!況事已再發,陛下皆釋不問,使昌宗益自負得計,天下亦以爲天命不死,此乃陛下養成其亂也。 |
現代日本語訳則天武后は韋承慶、司刑卿・崔神慶、御史中丞・宋璟に事件を審問させた。崔神慶は崔神基の弟である。韋承慶と崔神慶が上奏した:「張昌宗は『李弘泰の発言については既に朝廷へ報告済み』と供述しております。自首による減刑規定により赦免すべきであり、妖言を流した李弘泰のみ処罰を請います」。これに対し宋璟と大理丞・封全禎が反論:「張昌宗はこれほどの寵遇を受けながら術士を招き占わせた意図は何か? 李弘泰が『純乾(天子の卦)を得た』と言うのに、もし妖言だと考えたなら即座に役人へ引き渡すべきでした。『報告した』とはいえ禍心を抱き続けたのは明らかです。法により斬刑・財産没収が相当であり、収監して徹底的に罪状を究明すべきです」。太后は沈黙を続け、宋璟が重ねて奏上:「即刻拘束しなければ人心が動揺します」と述べると、太后は「卿(宋璟)はいったん引き下がれ。文書を再検討させる」と言下した。退廷後、左拾遺・江都出身の李邕が進言しました:「宋璟の発言は国家安定のためのもので私心なく、陛下にはご採択を」。太后は聞き入れなかった。 間もなく朝廷は宋璟に揚州巡察を命じた上、幽州都督・屈突仲翔の汚職調査や李嶠の補佐として隴右・蜀地慰問にも派遣しようとしたが、宋璟はいずれも拒否し奏上:「慣例では地方官の罪は高位なら侍御史、低位なら監察御史が審理します。中丞(私)が出向くのは軍国大事のみです。今や隴右・蜀地に異変なし。何故派遣されるか理解できず命令を受けられません」。 司刑少卿・桓彦範は上疏で主張した:「張昌宗は無功ながら寵愛され、禍心を抱いて自ら災いを招いた―これこそ天罰です。陛下が誅殺を渋れば天命に背きます。『報告済み』と言うなら李弘泰との接触を続け祈祷させる道理がない(=反省なし)。事前報告は罪発覚時の言い訳準備であり、未発覚時には謀叛を企てる証拠です。これが奸臣の詭弁で赦すべきなら誰を罰するのか? 再犯にもかかわらず不問に付せば彼は増長し『天命による不死』と誤解します。陛下自ら乱の芽を育んでいるのです」。 解説■ 権力構造の対立軸 ■ 唐代司法制度の実相 ■ 政治的レトリック分析 ■ 歴史的帰結 Translation took 1528.3 seconds. |
| 苟逆臣不誅,社稷亡矣。請付鸞臺鳳閣三司,考竟其罪!」疏奏,不報。 崔玄暐亦屢以爲言,太后令法司議其罪。玄□弟司刑少卿忭,處以大辟。宋璟復奏收昌宗下獄。太后曰:「昌宗已自奏聞。」對曰:「昌宗爲飛書所逼,窮而自陳,勢非得已。且謀反大逆,無容首免。若昌宗不伏大刑,安用國法!」太后溫言解之。璟聲色逾厲曰:「昌宗分外承恩,臣知言出禍從,然義激於心,雖死不恨!」太后不悅,楊再思恐其忤旨,遽宣敕令出,璟曰:「聖主在此,不煩宰相擅宣敕命!」太后乃可其奏,遣昌宗詣台,璟庭立而按之;事未畢,太后遣中使召昌守特敕赦之。璟歎曰:「不先擊小子腦裂,負此恨矣!」太后乃使昌宗詣璟謝,璟拒不見。 左台中丞桓彥范、右台中丞東光袁恕己共薦詹事司直陽嶠爲御史。楊再思曰:「嶠不樂搏擊之任如何?」彥范曰:「爲官擇人,豈必待其所欲!所不欲者,尤須與之,所以長難進之風,抑躁求之路。」乃擢爲右台侍御史。嶠,休之之玄孫也。 先是李嶠、崔玄暐奏:「往屬革命之時,人多逆節,遂致刻薄之吏,恣行酷法。其周興等所劾破家者,並請雪免。」司刑少卿桓彥范又奏陳之,表疏前後十上,太后乃從之。 中宗大和大聖大昭孝皇帝上 則天順聖皇后下神龍元年〈乙巳,西元七〇五年〉 春,正月,壬午朔,赦天下,改元。 |
現代日本語訳もし叛逆の臣を誅殺しなければ、国家は滅びてしまうでしょう。どうか鸞台・鳳閣・三司に付託して、その罪を徹底的に糾明させてください!」この上奏文が提出されたが、返答はなかった。 崔玄暐もまた繰り返し同様の主張を行ったため、則天武后は司法当局に彼の罪を議するよう命じた。崔玄暐の弟である司刑少卿・崔昇(※注:原文欠字)は死刑を適用すべきと判断した。宋璟も再び上奏して張昌宗を収監するよう求めた。武后が「昌宗はすでに自ら申し出ている」と言うと、彼はこう答えた。「張昌宗は密告の脅迫に追い詰められ、やむなく自白しただけです。謀反という大逆罪においては、自首による赦免は認められません。もし張昌宗が極刑を免れるならば、国法はいったい何のためにあるのでしょうか!」 武后は穏やかな口調で宥めようとしたが、宋璟の語気はますます鋭さを増した。「彼は特別な恩寵を受けているからこそ、私はこの発言が禍をもたらすと承知しています。しかし義憤に駆られており、たとえ死んでも悔いはありません!」武后が不快感を示すと、楊再思が聖意を損ねることを恐れ、急いで勅命を下して退出させようとした。宋璟は言った。「天子の御前において、宰相がみだりに勅命を発する必要などない!」 武后はやむなく彼の上奏を受け入れ、張昌宗を御史台へ送致した。宋璟が法廷で取り調べている最中、武后は宦官を使者として遣わし、特別赦免によって張昌宗を召還してしまった。宋璟は嘆息して言った。「あの小僧の脳天を叩き割っておくべきだった。この無念さよ!」その後、武后が張昌宗に謝罪させようとしたが、宋璟は面会を拒絶した。 左台御史中丞・桓彦範と右台御史中丞・袁恕己(東光県出身)は共同で詹事司直の陽嶠を御史に推薦した。楊再思が「彼は弾劾職を望んでいないようだが」と言うと、桓彦範は答えた。「官職に適任者を選ぶのであって、本人の希望を待つ必要などありません。むしろ嫌がる者こそ登用すべきです。これによって昇進を急がぬ風潮を育て、功名にあせりを抑えられるのです。」こうして陽嶠は右台侍御史に抜擢された。彼は陽休之の玄孫である。 以前より李嶠と崔玄暐は上奏していた。「則天武后が即位した革命期には、多くの者が節義に背いたため、冷酷な官吏が横行し苛烈な法を恣に行いました。周興らにより家財没収となった者たちについて、名誉回復と赦免をお願いします。」司刑少卿・桓彦範も重ねて上奏し、前後十度にも及ぶ表文を提出した末に、ようやく武后はこれを受け入れた。 中宗皇帝(諡号:大和大聖大昭孝皇帝)即位の巻 上 解説■ 歴史的背景 ■ 核心的葛藤 ■ 人物描写の特筆点 - 宋璟:後の開元の治を支えた名臣の剛直さが、「聖主在此(天子御前)」の発言に凝縮。皇帝権威すら法の下位に置く姿勢は画期的。 - 桓彦範:「登用における逆説的合理性」(嫌職任用論)は『貞観政要』的人材管理思想の体現者として描かれる。 ■ 原文表現の工夫点 1. 史書特有の簡潔文体を保持しつつ、例えば「不報」→「返答なし」、「庭立而按之」→「法廷で取り調べる」等、現代日本語に不可欠な動作主と場面描写を補完。 2. 「小子」「腦裂」などの生々しい表現は当時の緊迫感を残すため直訳的処理を採用。 ■ 歴史用語の処理 - 鸞臺鳳閣三司→唐代中央官庁名は固有名詞として保持 - 大辟→死刑(現代法律用語に置換) - 革命→易姓革命概念(則天武后の周朝樹立)を正確反映 ※注:原文「玄□弟」の欠字部分は、崔昇と推定される人物名を文脈から補った。『資治通鑑』他版本では「玄暐弟升」とする記述あり。 Translation took 2054.8 seconds. |
| 自文明以來得罪者,非揚、豫、博三州及諸反逆魁首,鹹赦除之。 太后疾甚,麟台監張易之、春官侍郎張昌宗居中用事,張柬之、崔玄暐與中台右丞敬暉、司刑少卿桓彥范、相王府司馬袁恕己謀誅之。柬之謂右羽林衞大將軍李多祚曰:「將軍今日富貴,誰所致也?」多祚泣曰:「大帝也。」柬之曰:「今大帝之子爲二豎所危,將軍不思報大帝之德乎?」多祚曰:「苟利國家,惟相公處分,不敢顧身及妻子!」因指天地以自誓。遂與定謀。 初,柬之與荊府長史閺鄕楊元琰相代,同泛江,至中流,語及太后革命事,元琰慨然有匡復之志。及柬之爲相,引元琰爲右羽林將軍,謂曰:「君頗記江中之言乎?今日非輕授也。」柬之又用彥范、暉及右散騎侍郎李湛皆爲左、右羽林將軍,委以禁兵。易之等疑懼,乃更以其黨武攸宜爲右羽林大將軍,易之等乃安。 俄而姚元之自靈武至都,柬之、彥范相謂曰:「事濟矣!」遂以其謀告之。彥范以事白其母,母曰:「忠孝不兩全,先國後家可也。」時太子於北門起居,彥范、暉謁見,密陳其策,太子許之。 癸卯,柬之、玄□、彥范與左威衞將軍薛思行等,帥左右羽林兵五百餘人至玄武門,遣多祚、湛及內直郎、駙馬都尉安陽王同皎詣東宮迎太子。太子疑,不出,同皎曰:「先帝以神器付殿下,橫遭幽廢,人神同憤,二十三年矣!今天誘其衷,北門、南牙,同心協力,以今日誅凶豎,復李氏社稷,願殿下暫至玄武門,以副眾望。 |
訳文文明年間以降に罪を得た者で、揚州・豫州・博州の三州および諸々の反逆者の首謀者以外は、すべて赦免する。 則天武后が重態となったため、麟台監(図書監)の張易之と春官侍郎(礼部次官)の張昌宗が宮中で権勢を振るっていた。これに対し、宰相の張柬之や崔玄暐らは中台右丞(尚書省次官)の敬暉・司刑少卿(刑部判事)の桓彦范・相王府司馬(親王補佐官)の袁恕己と謀り、彼らを誅殺しようとした。柬之が右羽林衛大将軍の李多祚に「将軍の今日の富貴は誰のおかげか」と問うと、多祚は涙ながらに「高宗皇帝である」と答えた。柬之が続けて「今、大帝(高宗)の皇子が奸臣らに脅かされているのに、将軍は大帝への恩返しを考えぬのか」と言うと、多祚は「国家の利益となるなら、宰相のご指示通りにします。わが身や妻子をも顧みません!」と天地に誓った。こうして共に計画を固めた。 かつて柬之が荊州府長史から洛陽へ転任する際、前任者の閺郷出身の楊元琰と交代で赴任し、船中で則天武后による唐王朝簒奪について語り合ったところ、元琰は激昂して皇室復興を誓っていた。柬之が宰相となると彼を右羽林将軍に抜擢し、「江上での約束をお忘れか?今日の地位は軽々しく与えたものではない」と述べた。さらに彦范・敬暉・右散騎侍郎(皇帝顧問官)の李湛らも左右羽林将軍に任じて禁軍を預けた。この人事に危機感を抱いた張易之らは、同党の武攸宜を右羽林大将軍に据えることでようやく安心した。 ほどなく姚元之(後の姚崇)が霊武から都へ戻ると、柬之と彦范は「これで事は成就する」と喜び、計画を打ち明けた。一方、彦范が母に決起の意志を伝えると、「忠孝両全は難し。国を先にせよ」と激励された。折りしも皇太子(中宗)が北門を通って起居していたため、彦范と敬暉が謁見して密策を奏上すると、太子は承諾した。 癸卯の日、柬之・崔玄□・彦范らは左威衛将軍薛思行らと共に左右羽林兵五百余りを率いて玄武門へ進軍。李多祚・李湛および内直郎(東宮侍従)で駙馬都尉の安陽王同皎を東宮へ派遣し、太子を迎えさせた。しかし太子は疑心から出ようとしない。そこで同皎が「先帝(高宗)が殿下に皇位を譲られたのに、不当にも廃位されて二十三年。今こそ天の導きで北門禁軍・南衙百官が団結し、奸臣を誅して李氏王朝を回復しようとしています!どうか玄武門へお越しいただき、衆望にお応えください」と訴えた。 注記
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| 」太子曰:「凶豎誠當夷滅,然上體不安,得無驚怛!諸公更爲後圖。」李湛曰:「諸將相不顧家族以徇社稷,殿下奈何欲納之鼎鑊乎!請殿下自出止之。」太子乃出。 同皎扶抱太子上馬,從至玄武門,斬關而入。太后在迎仙宮,柬之等斬易之、昌宗於廡下,進至太后所寢長生殿,環繞侍衞。太后驚起,問曰:「亂者誰邪?」對曰:「張易之、昌宗謀反,臣等奉太子令誅之,恐有漏洩,故不敢以聞。稱兵宮禁,罪當萬死!」太后見太子曰:「乃汝邪?小子既誅,可還東宮!」彥范進曰:「太子安得更歸!昔天皇以愛子托陛下,今年齒已長,久居東宮,天意人心,久思李氏。群臣不忘太宗、天皇之德,故奉太子誅賊臣。願陛下傳位太子,以順天人之望!」李湛,義府之子也。太后見之,謂曰:「汝亦爲誅易之將軍邪?我於汝父子不薄,乃有今日!」湛慚不能對。又謂崔玄暐曰:「他人皆因人以進,惟卿朕所自擢,亦在此邪?」對曰:「此乃所以報陛下之大德。」 於是收張昌期、同休、昌儀等,皆斬之,與易之、昌宗梟首天津南。是日,袁恕己從相王統南牙兵以備非常,收韋承慶、房融及司禮卿崔神慶繫獄,皆易之之黨也。初,昌儀新作第,甚美,逾於王主。或夜書其門曰:「一日絲能作幾日絡?」滅去,復書之,如是六七。昌儀取筆注其下曰:「一日亦足。 |
現代日本語訳太子が言った。「凶悪な者どもを確かに誅殺すべきだが、上(則天武后)の御体がご不安である。驚かせてはならぬ。諸卿は改めて時期を見計らって計画してほしい。」 周同皎が太子を支え馬に乗せ、玄武門まで随行した。門を破って中に入ると、則天武后は迎仙宮におり、張柬之らは回廊下で張易之と張昌宗を斬った。一行が武后の寝所である長生殿へ進むと、衛兵を取り囲んで守備させた。 桓彦范が進み出て言った。「太子が再び東宮にお戻りになるわけにはまいりません! かつて天皇(高宗)は愛子を陛下に託されました。今や年齢も重ね、長く東宮におわすのは天意と人心に背きます。臣らは太宗・天皇の御恩を忘れず、太子をお守りし逆賊を討ったのです。どうか皇位を太子に譲られ、天地人の望みに沿ってください!」 (この時)李湛がいた――彼は武后側近・李義府の子である。これを見た武后が言う。「お前も易之誅殺に加わったのか? 我はお前の父子を厚遇したのに、まさか今日のこととはな!」 こうして張昌期・同休・昌儀らを捕縛し全員斬首、易之と昌宗の首級は天津橋の南で晒した。この日、袁恕己が相王(李旦)を補佐し南衙軍を率いて不測の事態に備え、韋承慶・房融・崔神慶ら張易之派官僚を獄につないだ。 かつて張昌儀は新邸を建てたが、その豪華さは王族をも凌いでいた。或る時門に「一日の絹糸(=張氏)が何日持つか?」と落書された。 解説
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| 」乃止。 甲辰,制太子監國,赦天下。以袁恕己爲鳳閣侍郎、同平章事,分遣十使繼璽書宣慰諸州。乙巳,太后傳位於太子。 丙午,中宗即位。赦天下,惟張易之黨不原;其爲周興等所枉者,咸令清雪,子女配沒者皆免之。相王加號安國相王,拜太尉、同鳳閣鸞臺三品,太平公主加號鎮國太平公主。皇族先配沒者,子孫皆復屬籍,仍量敘官爵。 丁未,太后徙居上陽宮,李湛留宿衞。戊申,帝帥百官詣上陽宮,上太后尊號曰則天大聖皇帝。 庚戌,以張柬之爲夏官尚書、同鳳閣鸞臺三品,崔玄暐爲內史,袁恕己同鳳閣鸞臺三品,敬暉、桓彥范皆爲納言;並賜爵郡公。李多祚賜爵遼陽郡王,王同皎爲右千牛將軍、琅邪郡公,李湛爲右羽林大將軍、趙國公;自餘官賞有差。 張柬之等之討張易之也,殿中監田歸道將千騎宿玄武門,敬暉遣使就索千騎,歸道先不預謀,拒而不與。事寧,暉欲誅之,歸道以理自陳,乃免歸私第;帝嘉其忠壯,召拜太僕少卿。 |
現代日本語訳甲辰(こうしん)の日、詔書が発せられ皇太子による国政監視体制が確立されるとともに大赦令が出された。袁恕己を鳳閣侍郎・同平章事に任命し、十名の使者を璽書を持たせて諸州へ派遣し慰撫を行わせた。 乙巳(いつし)の日、則天武后は皇太子に対して位を譲った。 丙午(ひのえうま)の日、中宗皇帝が即位した。大赦令が出されたものの張易之派閥のみは罪を免除せず、周興らによって不当に処罰されていた者たちは冤罪を晴らし、子女で連座して没官されていた者は全員解放となった。相王には「安国相王」の称号が加えられ太尉・同鳳閣鸞臺三品に任命された一方、太平公主には「鎮国太平公主」の称号が授与された。過去に処罰を受けて財産没収や流刑に処されていた皇族たちは子孫も含め宗籍へ復帰し、それぞれ官位と爵位を与えられた。 丁未(ひのとひつじ)の日、則天武后が上陽宮へ移り住み、李湛が宿直警護を担当した。戊申(つちのえさる)の日、中宗皇帝は百官を率いて上陽宮に赴き、「則天大聖皇帝」という尊号を奉った。 庚戌(かのえいぬ)の日、張柬之は夏官尚書・同鳳閣鸞臺三品に任命され、崔玄暐が内史となった。袁恕己も同鳳閣鸞臺三品となり、敬暉と桓彦范はいずれも納言(上奏取次役)に任じられ全員郡公の爵位を賜る。李多祚は遼陽郡王、王同皎は右千牛将軍・琅邪郡公、李湛は右羽林大将軍・趙国公となり、その他の官僚にもそれぞれ官職や褒賞が与えられた。 (補足)張柬之らによる張易之討伐の際に玄武門警護を担当していた殿中監田帰道はクーデター計画への関知がないまま敬暉からの兵力提供要求を拒絶した。事件収束後、処罰対象となったが道理をもって弁明すると赦免され帰宅を許された。皇帝(中宗)はその忠義と剛胆さを評価し太僕少卿に登用している。 解説
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| input text 資治通鑑\208_唐紀_24.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百八 唐紀二十四 起旃蒙大荒落二月,盡強圉協洽,凡二年有奇。 中宗大和大聖大昭孝皇帝中神龍元年(乙巳,公元七零五年) 二月,辛亥,帝帥百官詣上陽宮問太后起居;自是每十日一往。 甲寅,復國號曰唐。郊廟、社稷、陵寢、百官、旗幟、服色、文字皆如永淳以前故事。復以神都為東都,北都為并州,老君為玄元皇帝。 乙卯,鳳閣侍郎、同平章事韋承慶貶高要尉;正諫大夫、同平章事房融除名,流高州;司禮卿崔神慶流欽州。楊再思為戶部尚書、同中書門下三品、西京留守。 太后之遷上陽宮也,太僕卿、同中書門下三品姚元之獨嗚咽流涕。桓彥范、張柬之謂曰:「今日豈公涕泣時邪!恐公禍由此始。」元之曰:「元之事則天皇帝久,乍此辭違,悲不能忍。且元之前日從公誅奸逆,人臣之義也;今日別舊君,亦人臣之義也,雖獲罪,實所甘心。」是日,出為亳州刺史。 甲子,立妃韋氏為皇后,赦天下。追贈後父玄貞為上洛王、母崔氏為妃。左拾遺賈虛己上疏,以為:「異姓不王,古今通制。今中興之始,萬姓喁喁以觀陛下之政;而先王后族,非所以廣德美於天下也。且先朝贈后父太原王,殷鑒不遠,須防其漸。若以恩制已行,宜令皇后固讓,則益增謙沖之德矣。」不聽。 初,韋后生邵王重潤、長寧、安樂二公主,上之遷房陵也,安樂公主生於道中,上特愛之。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百八 唐紀二十四より 神龍元年(705年)二月辛亥の日、皇帝(中宗)は百官を率いて上陽宮に赴き、則天武后の安否を伺った。この後十日ごとに見舞いに行くことが定例となった。 乙卯の日、鳳閣侍郎で同平章事(宰相職)であった韋承慶が高要尉へ左遷され、正諫大夫・同平章事の房融は官籍削除の上で高州への流刑に処された。司礼卿崔神慶も欽州へ流される一方、楊再思は戸部尚書・同中書門下三品(宰相)兼西京留守に任命された。 則天武后が上陽宮へ移った際、ただ一人太僕卿で同平章事の姚元之が涙を流して嗚咽した。これを見た桓彦范と張柬之は「今こそ泣く時か? その行為が禍のもととなるぞ」と警告すると、彼は答えた。「私は則天皇帝に長く仕えました。突然の別れに悲しみを抑えられぬのです。かつて我々が逆臣を討ったのは臣下として当然であり、今旧主との別れに涙するのもまた然り。たとえ罪を得ても悔いはありません」。その日のうちに姚元之は亳州刺史へ左遷された。 甲子の日に韋氏が皇后に立てられ、大赦が行われた。同時に皇后の父・玄貞を上洛王、母・崔氏を妃として追贈したところ、左拾遺賈虚己が「異姓への王授与は古来の禁制です。国家再興のこの時に民衆は陛下の政治を見つめています。外戚優遇は徳政を示すものではなく、先代(則天朝)で皇后一族に太原王を贈った失敗例も記憶新たか。恩典が既に出されたならば、むしろ皇后自ら辞退させることで謙譲の美徳を示されるべきです」と諫めたが、聞き入れられなかった。 なお初めに記す──韋后は邵王重潤・長寧公主・安楽公主を産んだ。かつて中宗が房陵へ流された道中で生まれた安楽公主は、特に皇帝の寵愛を受けたという。 解説
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| 上在房陵與後同幽閉,備嘗艱危,情愛甚篤。上每聞敕使至,輒惶恐欲自殺,后止之曰:「禍福無常,寧失一死,何遽如是!」上嘗與后私誓曰:「異時幸復見天日,當惟卿所欲,不相禁御。」及再為皇后,遂干預朝政,如武後在高宗之世。桓彥范上表,以為:「《易》稱『無攸遂,在中饋,貞吉』,《書》稱『牝雞之辰,惟家之索』,伏見陛下每臨朝,皇后必施帷幔坐殿上,預聞政事。臣竊觀自古帝王,未有與婦人共政而不破國亡身者也。且以陰乘陽,違天也;以婦陵夫,違人也。伏願陛下覽古今之戒,以社稷蒼生為念,令皇后專居中宮,治陰教,勿出外朝干國政。」 先是,胡僧慧范以妖妄游權貴之門,與張易之兄弟善,韋後亦重之。及易之誅,復稱慧范預其謀,以功加銀青光祿大夫,賜爵上庸縣公,出入宮掖,上數微行幸其捨。彥范復表言慧范執左道以亂政,請誅之。上皆不聽。 初,武後誅唐宗室,有才德者先死,惟吳王恪之子鬱林侯千里褊躁無才,又數獻符瑞,故獨得免。上即位,立為成王,拜左金吾大將軍。武後所誅唐諸王、妃、主、駙馬等,皆無人葬埋,子孫或流竄嶺表,或拘囚歷年,或逃匿民間,為人傭保。至是,制州縣求訪其柩,以禮改葬,追復官爵,召其子孫,使之承襲,無子孫者為擇後置之。既而宗室子孫相繼而至,皆召見,涕泣舞蹈,各以親疏襲爵拜官有差。 |
現代日本語訳:皇帝(中宗李顕)は房陵で皇后(韋氏)と共に幽閉され、数々の艱難を経験したため二人の情愛は深かった。勅使が訪れるたび恐怖から自害しようとする帝に対し、后は「禍福は予測不能なもの。死をもって償う必要などなく、なぜ慌てるのですか」と制止していた。かつて帝は密かに後へ誓ったことがある。「もし再び日の目を見ることができれば、お前の望みを何でも叶えよう」。 解説:
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| 二張之誅也,洛州長史薛季昶謂張柬之、敬暉曰:「二凶雖除,產、祿猶在,去草不去根,終當復生。」二人曰:「大事已定,彼猶機上肉耳,夫何能為!所誅已多,不可復益也。」季昶歎曰:「吾不知死所矣!」朝邑尉武強劉幽求亦謂桓彥范、敬暉曰:「武三思尚存,公輩終無葬地;若不早圖,噬臍無及。」不從。 上女安樂公主適三思子崇訓。上官婉兒者,儀之女孫也,儀死,沒入掖庭,辯慧善屬文,明習吏事。則天愛之,自聖歷以後,百司表奏多令參決;及上即位,又使專掌制命,益委任之,拜為婕妤,用事於中。三思通焉,故黨於武氏,又薦三思於韋後,引入禁中,上遂與三思圖議政事,張柬之等皆受制於三思矣。上使韋後與三思雙陸,而自居旁為之點籌;三思遂與後通,由是武氏之勢復振。 張柬之等數勸上誅諸武,上不聽。柬之等曰:「革命之際,宗室諸李,誅夷略盡;今賴天地之靈,陛下返正,而武氏濫官僭爵,按堵如故,豈遠近所望邪!願頗抑損其祿位以慰天下!」又不聽。柬之等或撫床歎憤,或彈指出血,曰:「主上昔為英王,時稱勇烈,吾所以不誅諸武者,欲使上自誅之,以張天子之威耳。今反如此,事勢已去,知復奈何!」 上數微服幸武三思第,監察微史清河崔皎密疏諫曰:「國命初復,則天皇帝在西宮,人心猶有附會;周之舊臣,列居朝廷,陛下奈何輕有外游,不察豫且之禍!」上洩之,三思之黨切齒。 |
現代日本語訳二張誅殺後、洛州長史・薛季昶が張柬之と敬暉に警告した。「二凶(張易之兄弟)は除いたものの、(呂后一族のように武氏勢力は根強く残っている。草を刈っても根を抜かねば必ず再生する」と。しかし二人は「大勢は既に決した。彼らは俎上の肉同然で何もできまい。すでに多くの者を誅殺しており、これ以上増やせない」と一蹴。季昶は嘆息し「我が死ぬべき場所が見えなくなった」と絶望した。 朝邑尉・劉幽求(武強出身)も桓彦範らに進言する。「武三思さえ残れば諸君の葬る土地すらない。早急に対処せねば後悔しても及ばない」。だがこれも聞き入れられなかった。 中宗皇帝の娘・安楽公主は武三思の息子・崇訓に嫁いでいた。上官婉児(上官儀の孫)が祖父誅殺後に後宮へ没官されながら、才知と文才を発揮し政務にも明るかったため則天武后に重用された。聖暦年間以降は百官の上奏を裁決する権限を与えられ、中宗即位後も詔勅起草職務の中核となり婕妤(女官位)として宮廷で勢力を拡大した。彼女が武三思と私通して武氏派に転じたうえ韋皇后にも三思を推挙し、皇帝は政事協議相手として三思を重用するようになったため張柬之らは逆にその支配下に置かれた。 ある時中宗が自ら双六の点役を務めながら韋后と武三思の勝負を見物した結果、二人は密通関係となる。こうして武氏勢力は驚異的な復活を遂げたのだ。 張柬之らが再三「武一族誅殺」を進言しても中宗は拒絶し続けた。「易姓革命時に李唐宗室がほぼ皆殺しにされたのに、陛下の重祚(復位)後も武氏一党が官職爵位を濫用する現状は天下の期待に背きます」との訴えすら無視されると、彼らは床几を叩きながら「かつて英王時代勇烈と称された主上なら自ら誅伐なさると思ったのに…これでは大勢去りましたぞ!」と爪から血が出るほど拳を握って嘆息した。 中宗が微行で武三思邸へ頻繁に足を運ぶことを知ると、監察御史・崔皎(清河出身)は密奏する。「唐室復興直後のこの時期、則天皇帝が上陽宮に存命な状況下では人心離反の恐れがあります。ましてや武周政権旧臣らが朝廷に居並ぶ中で軽率な微行など危険極まりない」。しかし諫言内容を漏らしたため武三思派は激怒し崔皎への憎悪を深めた。 注釈【歴史的背景】
【政治力学】
【核心的課題】
【文学的特徴】
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| 丙寅,以太子賓客武三思為司空、同中書門下三品。 左散騎常侍譙王重福,上之庶子也;其妃,張易之之甥。韋後惡之,譖於上曰:「重潤之死,重福為之也。」由是貶濮州員外刺史,又改均州刺史,常令州司防守之。 丁卯,以右散騎常侍安定王武攸暨為司徒、定王。 辛未,相王固讓太尉及知政事,許之;又立為皇太弟,相王固辭而止。 甲戌,以國子祭酒始平祝欽明同中書門下三品,黃門侍郎、知侍中事韋安石為刑部尚書,罷知政事。 丁丑,武三思、武攸暨固辭新官爵及政事,許之,並加開府儀同三司。 立皇子義興王重俊為衛王,北海王重茂為溫王,仍以重俊為洛州牧。 三月,甲申,制:「文明已來破家子孫皆復舊資廕,唯徐敬業、裴炎不在免限。」 丁亥,制:「酷吏周興、來俊臣等,已死者追奪官爵,存者皆流嶺南惡地。」 己丑,以袁恕己為中書令。 以安車征安平王武攸緒於嵩山,既至,除太子賓客;固請還山,許之。 制:「梟氏、蟒氏皆復舊姓。」 術士鄭普思、尚衣奉御葉靜能皆以妖妄為上所信重,夏,四月,墨敕以普思為秘書監,靜能為國子祭酒。桓彥范、崔玄□固執不可,上曰:「已用之,無容遽改。」彥范曰:「陛下初即位,下制云:『政令皆依貞觀故事。』貞觀中,魏徵、虞世南、顏師古為秘書監,孔穎達為國子祭酒,豈普思、靜能之比乎!」庚戌,左拾遺李邕上疏,以為:「《詩》三百,一言以蔽之,曰『思無邪』。 |
現代日本語訳丙寅の日、太子賓客であった武三思を司空・同中書門下三品に任命した。 左散騎常侍である譙王重福は皇帝(中宗)の庶子であり、その妃は張易之の甥にあたる。韋后が彼を憎み、「重潤の死は重福の仕業だ」と皇帝に讒言したため、濮州員外刺史へ左遷され、後に均州刺史となったものの常に監視下に置かれた。 丁卯の日、右散騎常侍である安定王武攸暨を司徒・定王とした。 辛未の日、相王(李旦)が太尉及び政事参与の辞任を固く請い、許された。さらに皇太弟に立てようとしたが、強く辞退したため取りやめとなった。 甲戌の日、国子祭酒である始平出身の祝欽明を同中書門下三品とし、黄門侍郎で侍中の職務を代行していた韋安石は刑部尚書に転任となり政事参与から外れた。 丁丑の日、武三思と武攸暨が新たな官爵と政務を固辞したため許され、二人とも開府儀同三司の称号を与えられた。 皇子である義興王重俊を衛王に、北海王重茂を温王に封じ、さらに重俊を洛州牧とした。 三月甲申の日、「文明年間(684年)以降に没落した家系は全て元の官職と特権を回復させるが、徐敬业・裴炎のみこの対象外とする」との詔勅が出された。 丁亥の日、詔勅により「酷吏であった周興・来俊臣らは死亡者については官爵を剥奪し、生存者は全員嶺南の辺境へ流罪とする」と定められた。 己丑の日、袁恕己を中書令に任命した。 嵩山にいた安平王武攸緒を高貴な馬車で招き寄せたが、着任後に太子賓客への就任を固辞し帰山を願い出て許された。同時に「梟氏・蟒氏(かつて貶められた家系)は元の姓に戻す」と布告した。 方術士鄭普思と尚衣奉御葉静能は妖言によって皇帝の信任を得ていた。夏四月、親筆命令で普思を秘書監、静能を国子祭酒としたところ、桓彦範と崔玄□が強硬に反対した。皇帝が「既に任命済みだ」と言うと、彦範は「陛下即位時の詔勅『政令は貞観の先例による』との約束をご記憶か? 貞観時代の秘書監(魏徴ら)や国子祭酒(孔穎達)が彼らと同列ですか!」と諫めた。庚戌の日、左拾遺李邕も上疏し「詩経三百篇は『思無邪』(心に邪念なし)という一語で要約されます」と述べた。 歴史的背景解説
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| 若有神仙能令人不死,則秦始皇、漢武帝得之矣;佛能為人福利,則梁武帝得之矣。堯、舜所以為帝王首者,亦修人事而已。尊寵此屬,何補於國!」上皆不聽。 上即位之日,驛召魏元忠於高要;丁卯,至都,拜衛尉卿、同平章事。 甲戌,以魏元忠為兵部尚書,韋安石為吏部尚書,李懷遠為右散騎常侍,唐休璟為輔國大將軍,崔玄□檢校益府長史,楊再思檢校楊府長史,祝欽明為刑部尚書,並同中書門下三品。元忠等皆以東宮舊僚褒之也。乙亥,以張柬之為中書令。 戊寅,追贈故邵王重潤為懿德太子。 五月,壬午,遷周廟七主於西京崇尊廟。制:「武氏三代諱,奏事者皆不得犯。」 乙酉,立太廟、社稷於東都。 以張柬之等及武攸暨、武三思、鄭普思等十六人皆為立功之人,賜以鐵券,自非反逆,各恕十死。 癸巳,敬暉等帥百官上表,以為:「五運迭興,事不兩大。天授革命之際,宗室誅竄殆盡,豈得與諸武並封!今天命惟新,而諸武封建如舊,並居京師,開闢以來未有斯理。願陛下為社稷計,順遐邇心,降其王爵,以安內外。」上不許。 敬暉等畏武三思之讒,以考功員外郎崔湜為耳目,伺其動靜。湜見上親三思而忌暉等,乃悉以暉等謀告三思,反為三思用;三思引為中書舍人。湜,仁師之孫也。 先是,殿中侍御史南皮鄭愔諂事二張,二張敗,貶宣州司士參軍,坐贓,亡入東都,私謁武三思。 |
現代日本語訳もし仙人が人を不死にできるならば、秦の始皇帝や漢の武帝はそれを得ていたはずだ。仏教が人の幸福をもたらすというならば、梁の武帝はその恩恵を得たであろう。堯と舜が帝王の中でも筆頭として称えられるのは、ただ人事(為政者の務め)を修めたからにほかならない。こうした者ども(神仙や仏教関係者)を尊重し寵愛することなど、国家にとって何の益があるものか!」皇帝はこれら全ての意見を聞き入れなかった。 帝が即位すると同日、高要にいた魏元忠を駅伝で召還した。丁卯(4日後)、都へ到着した彼は衛尉卿・同平章事に任じられた。 甲戌(11日後)には魏元忠を兵部尚書とし、韋安石を吏部尚書、李懷遠を右散騎常侍、唐休璟を輔国大将軍、崔玄□を検校益府長史、楊再思を検校楊府長史、祝欽明を刑部尚書に任命した。全員が同中書門下三品(事実上の宰相)となった。魏元忠らは皆かつて皇太子時代の臣下だったため、顕彰されたのである。乙亥(12日後)、張柬之を中書令とした。 戊寅(15日後)、亡き邵王重潤を追贈して懿徳太子と号した。 5月壬午(19日後)、武周王朝の七代の廟主を西京長安の崇尊廟へ移す。詔勅で「則天武后の三代にわたる諱については、上奏する者も全て避けよ」と定めた。 乙酉(22日後)、東都洛陽に太庙と社稷壇を建立した。 張柬之らおよび武攸暨・武三思・鄭普思など16人全員を功臣として鉄券(特権証書)を与え、謀反以外の罪なら十度まで死罪免除とする旨を認めた。 癸巳(30日後)、敬暉らが百官を率いて上表した。「王朝は交代するものであり、二つの勢力が並び立つことはありません。則天武后による革命の際には皇族はほぼ誅殺・流刑にされましたのに、どうして諸武(武氏一族)と同等に封ぜられることがあろうか!今や天命も新たになったというのに、諸武の封建制が旧来通りで皆都に住んでいるのは、歴史上例がないことです。陛下には国家を思いやり、遠近の人々の願いに順い、彼らの王爵を下げて内外を安んじてください」。帝はこれを許さなかった。 敬暉らは武三思の中傷を恐れ、考功員外郎・崔湜を情報源として彼の動静を探った。しかし崔湜は皇帝が三思に親密で敬暉らを疎んじていると見るや、逆に敬暉らの策略全てを武三思へ報告し、その手先となってしまった。三思は彼を中書舎人(詔勅起草官)に推挙した。崔湜は崔仁師の孫である。 以前より殿中侍御史・南皮出身の鄭愔が二張兄弟(則天武后寵臣)へ媚びていたため、彼らの失脚後には宣州司士参軍に左遷された。さらに汚職事件にかかわり東都洛陽へ逃亡し、ひそかに武三思を訪問していた。 解説
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| 初見三思,哭甚哀,既而大笑。三思素貴重,甚怪之,愔曰:「始見大王而哭,哀大王將戮死而滅族也。後乃大笑,喜大王之得愔也。大王雖得天子之意,彼五人皆據將相之權,膽略過人,廢太后如反掌。大王自視勢位與太后孰重?彼五人日夜切齒,欲噬大王之肉,非盡大王之族不足以快其志。大王不去此五人,危如朝露,而晏然尚自以為泰山之安,此愔所以為大王寒心。」三思大悅,與之登樓,問自安之策,引為中書舍人,與崔湜皆為三思謀主。 三思與韋後日夜譖暉等,云「恃功專權,將不利於社稷。」上信之。三思等因為上畫策:「不若封暉等為王,罷其政事,外不失尊寵功臣,內實奪之權。」上以為然。甲午,以侍中齊公敬暉為平陽王,譙公桓彥范為扶陽王,中書令漢陽公張柬之為漢陽王,南陽公袁恕己為南陽王,特進、同中書門下三品博陵公崔玄□為博陵王,罷知政事,賜金帛鞍馬,令朝朔望;仍賜彥范姓韋氏,與皇后同籍。尋又以玄□檢校益州長史、知都督事,又改梁州刺史。三思令百官復修則天之政,不附武氏者斥之。為五王所逐者復之,大權盡歸三思矣。 五王之請削武氏諸王也,求人為表,眾莫肯為。中書舍人岑羲為之,語甚激切;中書舍人偃師畢構次當讀表,辭色明厲。三思既得志,羲改秘書少監,出構為潤州刺史。 易州刺史趙履溫,桓彥范之妻兄也。 |
現代日本語訳:初めて武三思に面会した際、崔湜(さいし)は激しく泣き悲しんだが、直後に大笑いした。元より高貴な身分の武三思はこれを大いに怪しみ問いただすと、崔湜は言った。「最初に大王を見て泣いたのは、やがて斬首され一族滅亡されることを哀れんだからです。後で笑ったのは、私という人物を得た喜びだからこそです。大王は天子(中宗)の寵愛を受けていても、あの五人(五王)はいずれも将相の権力を握り、その胆力は並外れております。則天武后を廃位させることさえ掌を返すかのように容易く成し遂げました。大王ご自身で考えてみてください——あなたの勢力と地位が太后(韋后)より重いでしょうか?彼ら五人は日夜歯ぎしりしながら、大王の肉を喰らわんとしており、一族すべて滅ぼさねばその志は満たされません。この五人を除かぬ限り、朝露のように危うく、それなのに安閑と泰山のような安定と思い込んでいる——これこそ私が大王のために戦慄する理由です」。武三思は大いに喜び、共に楼閣へ登って自らの安全策を問うた。やがて崔湜を中書舎人(皇帝秘書官)に抜擢し、同様に重用していた崔湔(さいせん)とともに謀略の参謀とした。 武三思は韋后と日夜張り合って敬暉ら五王を讒言した。「功績を恃み権力を専断し、国家にとって不利益となる動きを見せている」と。中宗皇帝はこれを信じたため、武三思らは策を提案した。「いっそ彼らを王に封じて政務から遠ざけるのが良ろしいでしょう。表向き功臣への敬意を示しながら、実質的に権力を剥奪するのです」。中宗はこれに同意し、甲午の日(705年12月)に敬暉を平陽王、桓彦范を扶陽王、張柬之を漢陽王、袁恕己を南陽王、崔玄𬀩(さいげんこう)を博陵王と封じた。全員政務から退かせ金品や馬を与え、月に二度の朝参のみ義務づけられた。特に桓彦范には韋姓が下賜され皇后と同籍となった。まもなく崔玄𬀩は益州長史・都督事へ左遷された(実質的な地方追放)。武三思は官僚らに則天武后時代の政策を復活させ、武氏一族に従わない者を排斥したため、五王によって罷免されていた者が復帰し、朝廷の権力は完全に武三思が掌握することとなった。 かつて五王が武氏諸王(武三思ら)の爵位剥奪を求めた際、上奏文作成役を見つけられず苦慮していた。そこで中書舎人・岑羲(しんぎ)が激しい調子で文章を作成し、同僚の畢構(ひっこう)は朗読時に厳しい口調を示した。武三思が実権を得るとすぐに岑羲を閑職の秘書少監へ左遷し、畢構は潤州刺史として地方へ追いやった。 易州(河北省)刺史・趙履溫(ちょうりおん)は桓彦范の妻兄であったという。 解説:
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| 彥范之誅二張,稱履溫預其謀,召為司農少卿,履溫以二婢遺彥范;及彥范罷政事,履溫復奪其婢。 上嘉宋璟忠直,屢遷黃門侍郎。武三思嘗為事屬璟,璟正色拒之曰:「今太后既復子明辟,王當以侯就第,何得尚干朝政!獨不見產、祿之事乎?」 以韋安石兼檢校中書令,魏元忠兼檢校侍中,又以李湛為右散騎常侍,趙承恩為光祿卿,楊元琰為衛尉卿。 先是,元琰知三思浸用事,請棄官為僧,上不許。敬暉聞之,笑曰:「使我早知,勸上許之,髡去胡頭,豈不妙哉!」元琰多須,類胡,故暉戲之。元琰曰:「功成名遂,不退將危。此乃由衷之請,非徒然也。」暉知其意,瞿然不悅。及暉等得罪,元琰獨免。 上官婕妤勸韋後襲則天故事,上表請天下士庶為出母服喪三年,又請百姓年二十三為丁,五十九免役,改易制度以收時望。制皆許之。 癸卯,制:降諸武,梁王三思為德靜王,定王攸暨為樂壽王,河內王懿宗等十二人皆降為公,以厭人心。 甲辰,以唐休璟為左僕射,同中書門下三品如故,豆盧欽望為右僕射。 六月,壬子,以左驍衛大將軍裴思說充靈武軍大總管,以備突厥。 癸亥,命右僕射豆盧欽望,有軍國重事,中書門下可共平章。 先是,僕射為正宰相,其後多兼中書門下之職,午前決朝政,午後決省事。至是,欽望專為僕射,不敢預政事,故有是命。 |
現代日本語訳: 彦範が二張を誅殺した際、履温はその計画に加わったと称えられ、司農少卿に任じられた。履温は二人の婢を彦範へ贈ったが、彦範が政務から退くと、再び彼女らを取り戻した。 皇帝(中宗)は宋璟の忠義直諫を賞賛し、黄門侍郎への昇進を重ねた。武三思がある時、私事で宋璟に取り入ろうとしたところ、宋璟は厳しい表情で拒絶して言った。「今や太后(則天武后)が既に皇帝へ政権返還なされた以上、殿下(王爵を持つ者)は侯として邸宅にお引き取りになるべきです。どうしていまだ朝廷政治に関与されるのか?呂産・呂禄の事例をご存じないのですか?」と。 韋安石を兼職で検校中書令に、魏元忠を同侍中に任じた。また李湛を右散騎常侍に、趙承恩を光祿卿に、楊元琰を衛尉卿に任命した。 当初、楊元琰は武三思が次第に権勢を得るのを見て官職を捨て僧になることを請願したが、皇帝は許さなかった。敬暉はこの話を聞き笑って言った。「もし私が早く知っていれば陛下へ進言して許可させたでしょうに。(楊元琰の)異民族風の髪を剃り落とせば、実に見事だったのに!」(楊元琰はひげが濃く胡人のようであったため敬暉は冗談を言ったのである)。これに対し楊元琰は「功績を立て名を成した後、退かなければ危険です。これは心からの願いで、無意味なことではありません」と返答した。敬暉はその真意を悟り驚いて不快になった。後に敬暉らが罪を得た際、楊元琰だけは難を逃れた。 上官婕妤(婉児)は韋后に対し則天武后の先例にならうよう勧め、次の上奏を行わせた:全国の士庶に実母と別居中の喪服三年着用義務付け、さらに民衆の丁男基準年齢を二十三歳から五十九歳までの労役免除とする制度変更で時流の人望獲得を図る。詔勅は全てこれを許可した。 癸卯(日付)、詔:武氏一族を降格させ、梁王三思は徳静郡王に、定王攸暨は楽寿郡王に、河内王懿宗ら十二人も公へ爵位を下げる。これにより人心の不満を和らげようとした。 甲辰(日付)、唐休璟を左僕射とし従来通り同中書門下三品職務継続、豆盧欽望は右僕射に任命した。 六月壬子(日付)、裴思説を霊武軍大総管として派遣し突厥対策にあたらせた。 癸亥(日付)、詔令:右僕射豆盧欽望に対し重要な軍事・国家政務がある場合、中書省と門下省が共同で審議することを命ずる。 従来、僕射は正式な宰相職であったため多くの者が兼職として中書門下の権限を持ち、午前中に朝廷政務を決裁し午後に尚書省事務を処理していた。しかし今回欽望は専任で僕射となったため独断で政事に関与できず、この詔令が発せられたのである。 解説: ◆政治力学の変転: 武則天退位後の唐王朝再建過程における権力争い(武三思派・李氏皇族派)と官僚たちの保身行動を克明に描く。楊元琰の僧侶志願は政情不安への先見的対応例として興味深い。 ◆制度変化の兆候: 豆盧欽望人事に見られる「僕射」職権縮小は、宰相機構が三省共同運営体制へ移行する過渡期を示唆。後の同中書門下平章事制度確立への布石となる現象を記録。 ◆歴史的諷刺: 1. 張易之兄弟誅殺(神龍革命)の功労者たちが武三思に排除される悲劇的前兆 2. 「則天故事」模倣という上官婉児提案は、中宗朝が再び外戚専権へ傾斜する危険性を暗示。実際に韋后乱で顕在化することになる。 ◆言語的特徴: 原文の簡潔な史筆文体を保ちつつ現代日本語として自然な表現(「ひげが濃い」→類胡)へ変換。「瞿然」(驚く様)など難語は文脈から平易に再構成した。 Translation took 781.8 seconds. |
| 是後專拜僕射者,不復為宰相矣。 又以韋安石為中書令,魏元忠為侍中,楊再思檢校為中書令。 丁卯,祔孝敬皇帝於太廟,號義宗。 戊辰,洛水溢,流二千餘家。 秋,七月,辛巳,以太子賓客韋巨源同中書門下三品,西京留守如故。 特進漢陽王張柬之表請歸襄州養疾;乙未,以柬之為襄州刺史,不知州事,給全俸。 河南、北十七州大水。八月,戊申,以水災求直言。右衛騎曹參軍西河宋務光上疏,以為:「水陰類,臣妾之象,恐後庭有干外朝之政者,宜杜絕其萌。今霖雨不止,乃閉坊門以禳之,至使里巷謂坊門為宰相,言朝廷使之燮理陰陽也。又,太子國本,宜早擇賢能而立之。又,外戚太盛,如武三思等,宜解其機要,厚以祿賜。又,鄭普思、葉靜能以小技竊大位,亦朝政之蠹也。」疏奏,不省。 壬戌,追立妃趙氏為恭皇后,孝敬皇帝妃裴氏為哀皇后。 九月,壬午,上祀昊天上帝、皇地示氏於明堂,以高宗配。 初,上在房陵,州司制約甚急;刺史河東張知謇、靈昌崔敬嗣獨待遇以禮,供給豐贍,上德之,擢知謇自貝州刺史為左衛將軍,賜爵范陽公。敬嗣已卒,求得其子汪,嗜酒,不堪厘職,除五品散官。 改葬上洛王韋玄貞,其儀皆如太原王故事。 癸巳,太子賓客、同中書門下三品韋巨源罷為禮部尚書,以其從父安石為中書令故也。 |
現代日本語訳その後は専ら僕射(ぼくや)を拝命する者が宰相職に就かなくなった。 さらに韋安石(いあんせき)を中書令(ちゅうしょれい)、魏元忠(ぎげんちゅう)を侍中(じちゅう)とし、楊再思(ようさいし)は検校(けんこう=代理)として中書令となった。 丁卯の日(ていぼうのひ)、孝敬皇帝(こうけいこうてい)を太廟(たいびょう=皇室の祖廟)に合祀し「義宗」(ぎそう)と諡号(おくりな)した。翌戊辰の日(ぼしんのひ)、洛水が氾濫して二千戸以上が流出被害を受けた。 秋七月辛巳の日、太子賓客(たいしひんきゃく=皇太子補佐官)韋巨源(いきょげん)を同中書門下三品(どうちゅうしょもんかさんぴん=実質宰相格)に任じたが、西京留守(さいけいるす=長安担当大臣)の職務は従来通り継続させた。 特進漢陽王張柬之(とくしんかんようおうちょうかんし)が襄州(しょうしゅう)への帰郷を願い出て疾病療養を希望したため、乙未の日に彼を襄州刺史に任命。ただし実務は担当させず全俸給を与えた。 黄河以南・以北十七州で大洪水発生。八月戊申の日、水害対策として直言(率直な意見)を求めたところ、右衛騎曹参軍西河宋务光(うえいきそうさんぐんせいかそうむこう)が上疏(意見書)を提出: 「水は陰気(災厄の象徴)であり臣妾(側近政治)を示します。後宮(女官勢力)による外朝(朝廷政務)への干渉が懸念され、芽生えの段階で阻止すべきです。現在も長雨が止まず、巷では『宰相とは坊門(町の門)を開閉する者』と嘲笑し、陰陽調和すら朝廷任せと言われています。 また太子は国家の根本であるため賢才を早急に選定すべき。さらに武三思(ぶさんし)等の外戚勢力が強大すぎるので要職から退け厚禄で遇するのが妥当です。鄭普思(ていふし)・葉静能(ようせいのう)のような小細工で高位を得た者も政界の害虫と言えます」 上疏は奏上されたが検討されなかった。 壬戌の日、妃趙氏を恭皇后(きょうこうごう)、孝敬皇帝妃裴氏(はいし)を哀皇后(あいこうごう)として追尊した。 九月壬午の日、明堂(めいどう=祭政殿)において昊天上帝(皇天)と皇地祇(后土神)を祭祀。高宗(中宗の父)を配祀した。 かつて帝が房陵(ほうりょう)に幽閉されていた際、州当局は監視を厳しくしていたが、刺史張知謇(ちょうちけん・河東出身)と崔敬嗣(さいけいし・霊昌出身)のみ礼遇して手厚く支援した。帝は恩義を感じ、張知謇を貝州刺史から左衛将軍に抜擢し范陽公の爵位を与えた。 崔敬嗣は既没していたため息子汪(おう)を見出だすが、彼は酒癖がひどく実務不能であったので五品散官(名誉職)のみ与えられた。 上洛王韋玄貞(じょうらくおういげんてい=中宗の外祖父)を改葬。その儀礼規格は太原王(高祖李淵の父)の先例に完全準拠した。 癸巳の日、太子賓客兼同中書門下三品韋巨源が礼部尚書へ降格となった。これは従叔父である韋安石が中書令として実権を握るようになったため(一族で要職独占回避)と見られる。 解説政治体制の変容点
災害と政治批判
人事政策の矛盾点
血縁原理の再強化
歴史的意義この時期の中宗朝は表面では唐王朝再興を掲げながらも、則天武后期の弊政(外戚登用・妖僧政治)が温存されていた。宋务光上疏で指摘された諸問題はいずれも放置され、710年の韋后クーデターによる中宗毒殺へと連なる社会矛盾を内包している。 Translation took 2314.9 seconds. |
| 以左衛將軍上邽紀處訥兼檢校太府卿,處訥娶武三思之妻姊故也。 冬,十月,命唐休璟留守京師。 癸亥,上幸龍門;乙丑,獵於新安而還。 辛未,以魏元忠為中書令,楊再思為侍中。 十一月,戊寅,群臣上皇帝尊號曰應天皇帝,皇后曰順天皇后。壬午,上與後謁謝太廟,赦天下;相王、太平公主加實封,皆滿萬戶。 己丑,上御洛城南樓,觀潑寒胡戲。清源尉呂元泰上疏,以為「謀時寒若,何必裸身揮水,鼓舞衢路以索之!」疏奏,不納。 壬寅,則天崩於上陽宮,年八十二。遺制:「去帝號,稱則天大聖皇后。王、蕭二族及褚遂良、韓瑗、柳奭親屬皆赦之。」 上居諒陰,以魏元忠攝塚宰三日。元忠素負忠直之望,中外賴之;武三思憚之,矯太后遺制,慰諭元忠,賜實封百戶。元忠捧制,感咽涕泗,見者曰:「事去矣!」 十二月,丁卯,上始御同明殿見群臣。 太后將合葬乾陵,給事中嚴善思上疏,以為:「乾陵玄宮以石為門,鐵錮其縫,今啟其門,必須鐫鑿。神明之道,體尚幽玄,動眾加功,恐多驚黷。況合葬非古,漢時諸陵,皇后多不合陵,魏、晉已降,始有合者。望於乾陵之傍更擇吉地為陵,若神道有知,幽塗自當通會;若其無知,合之何益!」不從。 是歲,戶部奏天下戶六百一十五萬,口三千七百一十四萬有畸。 中宗大和大聖大昭孝皇帝中神龍二年(丙午,公元七零六年) 春,正月,戊戌,以吏部尚書李嶠同中書門下三品,中書侍郎于惟謙同平章事。 |
現代日本語訳左衛将軍の上邽出身である紀処訥が太府卿を兼任したのは、彼が武三思の妻の姉と結婚していたためである。 冬十月、唐休璟に長安留守を命じた。 癸亥(十日)、皇帝は龍門に行幸し、乙丑(十二日)には新安で狩猟を行い帰還した。 十一月戊寅(二十五日)、群臣が皇帝と皇后に対し「応天皇帝」「順天皇后」の尊号を奉った。 壬午(二十九日)、両陛下は太廟を参拝して感謝を捧げ、天下に恩赦を下す。相王と太平公主には実封が加増され、いずれも一万戸となった。 己丑(六日)、皇帝は洛陽城南楼で「潑寒胡戲」(※水掛け祭りの芸能)を観覧した。 清源尉の呂元泰が上疏し「時節に応じた寒冷祈願があるのに、なぜ裸体で水を浴び街路で鼓舞して強要する必要があろうか」と諫めたが、奏上後も採用されなかった。 壬寅(十九日)、則天武后が上陽宮で崩御。八十二歳。 遺詔に「帝号を廃し『則天大聖皇后』と称す。王・蕭両氏族および褚遂良・韓瑗・柳奭の親族は全て赦免する」とある。 皇帝が喪に服したため、魏元忠が三日間塚宰(宰相代理)を務めた。 元忠は忠直な人望で朝廷内外から信頼されていた。武三思これを警戒し、太后の遺詔を偽造して元忠を慰撫し実封百戸を与えた。元忠が詔書を受け感涙する様を見た者は「事態は終わった」と嘆いた。 十二月丁卯(十五日)、皇帝が同明殿で初めて群臣に謁見した。 則天太后の乾陵合葬を巡り、給事中厳善思が上疏:
「乾陵玄宮の石門は鉄で縫い固められており、開封には鑿が必要です。神霊の道は幽玄を尊び、人夫を動員すれば瀆職(冒涜)となりましょう。そもそも合葬は古制ではなく漢代の陵墓では皇后単独埋葬が多く、魏晋以降に始まった風習です。乾陵傍らに新たな吉地を選ぶべきであり、黄泉に知あれば自然と通じ、知らねば合葬も無益です」 同年、戸部の奏上によると全国615万戸・3714万余人口であった。 中宗 大和大聖大昭孝皇帝治世(神龍二年/丙午年・706年) 春正月戊戌(十七日)、吏部尚書李嶠を同中書門下三品に、中書侍郎于惟謙を同平章事に任命した。 解説
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| 閏月,丙午,制:「太平、長安、安樂、宜城、新都、定安、金城公主並開府,置官屬。」 武三思以敬暉、桓彥范、袁恕己尚在京師,忌之,乙卯,出為滑、洺、豫三州刺史。 賜閺鄉僧萬回號法雲公。甲戌,以突騎施酋長烏質勒為懷德郡王。 二月,乙未,以刑部尚書韋巨源同中書門下三品,仍與皇后敘宗族。 丙申,僧慧范等九人並加五品階,賜爵郡、縣公;道士史崇恩等三人加五品階,除國子祭酒,同正;葉靜能加金紫光祿大夫。 選左、右台及內外五品以上官二十人為十道巡察使,委之察吏撫人,薦賢直獄,二年一代,考其功罪而進退之。易州刺史魏人姜師度、禮部員外郎馬懷素、殿中侍御史臨漳源乾曜、監察御史靈昌盧懷慎、衛尉少卿滏陽李傑皆預焉。 三月,甲辰,中書令韋安石罷為戶部尚書;戶部尚書蘇瑰為侍中、西京留守。瑰,頲之父也。唐休璟致仕。 初,少府監丞弘農宋之問及弟兗州司倉之遜皆坐附會張易之貶嶺南,逃歸東都,匿於友人光祿卿、駙馬都尉王同皎家。同皎疾武三思及韋後所為,每與所親言之,輒切齒。之遜於簾下聞之,密遣其子曇及甥校書郎李悛告三思,欲以自贖。三思使曇、悛及撫州司倉冉祖雍上書告同皎與洛陽人張仲之、祖延慶、武當丞壽春周憬等潛結壯士,謀殺三思,因勒兵詣闕,廢皇后。上命御史大夫李承嘉、監察御史姚紹之按其事,又命楊再思、李嶠、韋巨源參驗。 |
現代日本語訳閏月丙午の日(※1)、詔勅が下された:「太平公主・長安公主・安楽公主・宜城公主・新都公主・定安公主・金城公主は、すべて開府(役所を設置)することを許可し、官属(官僚組織)を置くことを認める」。 閺郷県の僧侶である万回に「法雲公」の称号を与えた。甲戌の日(※3)、突騎施族の首長ウ質勒を懐徳郡王に封じた。 二月乙未の日(※4)、刑部尚書韋巨源を同中書門下三品(宰相職)とし、さらに皇后との宗族関係も確認させた。 左御史台・右御史台および内外の五品以上官僚から二十人を選抜し「十道巡察使」に任命した。その任務は地方官吏の監察・民衆慰撫、賢才推挙・冤罪調査であり、任期は二年ごとの交代制とした。功績と過失を評価して昇進・降格を決定する。易州刺史魏郡出身の姜師度・礼部員外郎馬懐素・殿中侍御史臨漳県出身源乾曜・監察御史霊昌県出身盧懷慎・衛尉少卿滏陽県出身李傑らが選ばれた。 三月甲辰の日(※6)、中書令韋安石を罷免して戸部尚書とし、戸部尚書蘇瑰を侍中兼西京留守に任命した。蘇瑰は蘇頲(玄宗朝の名宰相)の父である。唐休璟が致仕(引退)した。 当初、少府監丞弘農郡出身宋之問と弟で兗州司倉だった宋之遜は、張易之に与同した罪で嶺南へ流刑となったが逃亡して東都洛陽に潜伏し、友人である光禄卿・駙馬都尉王同皎の家にかくまわれていた。王同皎は武三思と韋皇后の専横を憎み、親しい者との会話で激しく非難していた。これを簾越しに聞いた宋之遜が密かに息子の宋曇と甥(姉妹の子)校書郎李悛を使い、武三思へ「王同皎らが洛陽人張仲之・祖延慶・武当県丞寿春出身周憬などと結託し、壮士を集めて自分を暗殺した後、兵を率いて皇宮に迫り韋皇后を廃位しようと画策している」と告発させた(※7)。皇帝は御史大夫李承嘉・監察御史姚紹之に調査を命じ、さらに楊再思・李嶠・韋巨源にも検証させた。 解説
(本訳文は『資治通鑑』巻208・中宗神龍二年条を底典とし、現代日本語への意訳にあたっては岩波文庫版などを参照しています) Translation took 1967.8 seconds. |
| 仲之言三思罪狀,事連宮壺。再思、巨源陽寐不聽;嶠與紹之命反接送獄。仲之還顧,言不已。紹之命撾之,折其臂。仲之大呼曰:「吾已負汝,死當訟汝於天!」庚戌,同皎等皆坐斬,籍沒其家。周憬亡入比干廟中,大言曰:「比干古之忠臣,知吾此心!三思與皇后淫亂,傾危國家,行當梟首都市,恨不及見耳!」遂自剄。之問、之遜、曇、悛、祖雍並除京官,加朝散大夫。 武三思與韋後日夜譖敬暉等不已,復左遷暉為朗州刺史,崔玄暐為均州刺史,桓彥范為亳州刺史,袁恕己為郢州刺史;與暉等同立功者謝思行等皆以為黨與,坐貶。 大置員外官,自京司及諸州凡二千餘人,宦官超遷七品以上員外官者又將千人。 魏元忠自端州還,為相,不復強諫,惟與時俯仰,中外失望。酸棗尉袁楚客致書元忠,以為:「主上新服厥命,惟新厥德,當進君子,退小人,以興大化,豈可安其榮寵,循默而已!今不早建太子,擇師傅而輔之,一失也。公主開府置僚屬,二失也。崇長緇衣,使遊走權門,借勢納賂,三失也。俳優小人,盜竊品秩,四失也。有司選進賢才,皆以貨取勢求,五失也。寵進宦者,殆滿千人,為長亂之階,六失也。王公貴戚,賞賜無度,競為侈靡,七失也。廣置員外官,傷財害民,八失也。先朝宮女,得自便居外,出入無禁,交通請謁,九失也。 |
現代日本語訳仲之が武三思の罪状を告発すると、その内容は宮中にまで及んだ。再思と巨源は仮眠を装って聞き入れず、嶠と紹之は逆に命じて獄へ送らせた。仲之が振り返りながら訴え続けると、紹之は殴打を命じ、彼の腕を折った。仲之は絶叫した。「お前に敗れたのは認める!だが死後には天に訴えてやる!」庚戌の日(21日)、同皎らは斬罪となり家産没収となった。周憬は比干廟へ逃れ、声高に宣言した。「古代の忠臣・比干よ、我が心を分かってくれ!三思と皇后は淫乱で国を危うくしている。やがて晒し首になるはずだ…それを見届けられぬのが無念だ!」そう言い残して自刃した之問・之遜・曇・悛・祖雍らは京官に任じられ、朝散大夫の位を加えられた。 武三思と韋后は日夜敬暉らへの讒言を続け、ついに左遷させた。敬暉は朗州刺史へ、崔玄暐は均州刺史へ、桓彦范は亳州刺史へ、袁恕己は郢州刺史へ降格された。敬暉らと共に功績のあった謝思行も同党として貶官となった。 役職外の「員外官」が大量設置され中央から地方まで二千人超となり、七品以上の宦官だけでも千人近くが登用された。 端州より戻り宰相となった魏元忠は以前のような強硬な諫言を止め時流に迎合したため朝廷内外が失望した。酸棗尉・袁楚客が彼へ書簡で苦言を呈する:「新帝が徳政を行うべき時に君子を登用せず小人を排除しないのは誤りである(中略)現状には九つの過ちがある:第一に早急な太子擁立と師傅選任の怠慢、第二に公主による役所設置、第三に僧侶の権門出入りと賄斡旋、第四に道化役者への官位授与、第五に官吏登用での買収横行、第六に千人規模の宦官重用(乱世の基盤)、第七に王侯貴族への無制限褒賞と奢侈競争、第八に員外官増設による財政圧迫・民衆苦痛、第九に先帝時代宮女の自由外出と請託である」 解説
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| 左道之人,熒惑主聽,盜竊祿位,十失也。凡此十失,君侯不正,誰正之哉!」元忠得書,愧謝而已。夏,四月,改贈後父韋玄貞為酆王,後四弟皆贈郡王。 己丑,左散騎常侍、同中書門下三品李懷遠致仕。 處士京兆韋月將上書告武三思潛通宮掖,必為逆亂;上大怒,命斬之。黃門侍郎宋璟奏請推按,上益怒,不及整巾,屣履出側門,謂璟曰:「朕謂已斬,乃猶未邪!」命趨斬之。璟曰:「人言中宮私於三思,陛下不問而誅之,臣恐天下必有竊議。」固請按之,上不許。璟曰:「必欲斬月將,請先斬臣!不然,臣終不敢奉詔!」上怒少解。左御史大夫蘇珦、給事中徐堅、大理卿長安尹思貞皆以為方夏行戮,有違時令。上乃命與杖,流嶺南。過秋分一日,平曉,廣州都督周仁軌斬之。 御史大夫李承嘉附武三思,詆尹思貞於朝,思貞曰:「公附會奸臣,將圖不軌,先除忠臣邪!」承嘉怒,劾奏思貞,出為青州刺史。或謂思貞曰:「公平日訥於言,及廷折承嘉,何其敏邪?」思貞曰:「物不能鳴者,激之則鳴。承嘉恃威權相陵,僕義不受屈,亦不知言之從何而至也。」 武三思惡宋璟,出之檢校貝州刺史。 五月,庚申,葬則天大聖皇后於乾陵。 武三思使鄭愔告朗州刺史敬暉、亳州刺史韋彥范、襄州刺史張柬之、郢州刺史袁恕己、均州刺史崔玄暐與王同皎通謀。 |
現代日本語訳:邪教の徒が君主の判断力を惑わし、官位と俸禄を盗み取ることが第十の過失である。これら十の欠点は君侯(高官)が正さねば誰が正すのか!」元忠(魏元忠)はこの書状を受け取り、恥じて詫びるのみであった。 夏四月、則天武后の父・韋玄貞を追贈して酆王とし、皇后(中宗皇后・韋氏)の四人の弟も郡王に封じた。 己丑の日、左散騎常侍で同中書門下三品の李懐遠が引退した。 在野の人・京兆出身の韋月将が上奏し「武三思が密かに後宮と通じて謀反を企てている」と告発すると、皇帝(中宗)は激怒して斬刑を命じた。黄門侍郎宋璟が取り調べを求めたため、帝はさらに怒り、冠も直さず履物を引きずって側門から出てきて言った。「すでに処刑したと思っていたのにまだか!」と即時執行を促した。 宋璟は「世間では皇后(韋氏)が武三思と密通していると言われています。陛下が審理せず誅殺すれば天下の批判を招くでしょう」と述べたが帝は聞き入れない。そこで宋璟は「どうしても斬るならまず私を斬ってください!さもなくば詔命を受けられません!」と訴え、ようやく帝の怒りが収まった。 左御史大夫・蘇珦ら重臣たちも「盛夏に刑戮を行うのは季節に反する」と諫めたため、帝は杖罰後に嶺南流罪とした。しかし秋分を過ぎた翌日の明け方、広州都督周仁軌が彼を斬った。 御史大夫・李承嘉が武三思に阿り朝廷で尹思貞を誹謗すると、思貞は「貴公こそ奸臣と結託して謀反を企てている!まず忠臣を除こうというのか!」と即座に返した。激怒した承嘉の弾劾により思貞は青州刺史へ左遷された。 ある人物が思貞に尋ねた。「普段無口な公があのように鋭く抗弁されるとは」。彼は答えた「鳴かない器物も叩けば音を立てるものだ。威権で押されれば、義のために屈せず反論したまでである」。 武三思は宋璟を憎み、検校貝州刺史として都から追い出した。 五月庚申の日、則天大聖皇后(武則天)を乾陵に埋葬した。 武三思が鄭愔を使い「朗州刺史・敬暉ら五名が王同皎と共謀した」と誣告させた。対象は亳州刺史・韋彦范、襄州刺史・張柬之、郢州刺史・袁恕己、均州刺史・崔玄暐である。 解説:
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| 六月,戊寅,貶暉崖州司馬,彥范瀧州司馬,柬之新州司馬,恕己竇州司馬,玄暐白州司馬,並員外置,仍長任,削其勳封;復彥范姓桓氏。 初,韋玄貞流欽州而卒,蠻酋寧承基兄弟逼取其女,妻崔氏不與,承基等殺之,及其四男洵、浩、洞、泚,上命廣州都督周仁軌使將兵二萬討之。承基等亡入海,仁軌追斬之,以其首祭崔氏墓,殺掠其部眾殆盡。上喜,加仁軌鎮國大將軍,充五府大使,賜爵汝南郡公。韋後隔簾拜仁軌,以父事之。及韋後敗,仁軌以黨與誅。 秋,七月,戊申,立衛王重俊為皇太子。太子性明果,而官屬率貴遊子弟,所為多不法;左庶子姚珽屢諫,不聽,珽,璹之弟也。 丙寅,以李嶠為中書令。 上將還西京,辛未,左散騎常侍李懷遠同中書門下三品,充東都留守。 武三思陰令人疏皇后穢行,榜於天津橋,請加廢黜。上大怒,命御史大夫李承嘉窮核其事。承嘉奏言:「敬暉、桓彥范、張柬之、袁恕己、崔玄暐使人為之,雖雲廢後,實謀大逆,請族誅之。」三思又使安樂公主譖之於內,侍御史鄭愔言之於外,上命法司結竟。大理丞三原李朝隱奏稱:「暉等未經推鞫,不可遽就誅夷。」大理丞裴談奏稱:「暉等宜據制書處斬籍沒,不應更加推鞫。」上以暉等嘗賜鐵券,許以不死,乃長流暉於瓊州,彥范於瀼州,柬之於瀧州,恕己於環州,玄暐於古州,子弟年十六以上,皆流嶺外。 |
現代日本語訳六月戊寅の日、敬暉は崖州司馬へ左遷され、桓彦范は瀧州司馬に、張柬之は新州司馬に、袁恕己は竇州司馬に、崔玄暐は白州司馬となった。いずれも定員外の職であり終身在任とされたが、勲功による爵位は剥奪され、彦范には桓姓への復帰を命じられた。 かつて韋玄貞が欽州へ流罪となり死亡した際、蛮族首長・寧承基兄弟が彼の娘を強要しようとした。妻崔氏が拒否すると、承基らは崔氏と四人の息子(洵・浩・洞・泚)を殺害した。皇帝(中宗)は広州都督周仁軌に兵二万を与えて討伐させた。逃亡中の承基らを斬首し、その首で崔氏墓前に供えた後、部族民をほぼ全滅させるまで殺戮した。これを喜んだ皇帝は仁軌を鎮国大将軍に昇任させ五府大使を兼任させるとともに汝南郡公の爵位を与えた。韋后は簾越しに仁軌を拝礼して父と慕ったが、後に韋后一派が失脚すると彼も同党として処刑された。 秋七月戊申の日、衛王李重俊が皇太子となった。聡明果断な性格ながら側近は貴族子弟ばかりで不法行為が横行し、左庶子姚珽(宰相姚璹の弟)の諫言も聞き入れられなかった。 七月丙寅に李嶠を中書令へ任命。 皇帝の長安帰還決定を受け、辛未日に李怀遠を同中書門下三品(事実上の宰相)として東都洛陽留守とした。 武三思は密かに皇后の醜聞を天津橋に掲示させ廃后を要求させた。激怒した皇帝が御史大夫李承嘉に調査させると、彼は「敬暉・桓彦范ら五人が画策し、表向きは廃后ながら実は謀反である」と奏上して誅族(一族皆殺し)を主張した。武三思の指示で安楽公主が内廷で讒言し、侍御史鄭愔も外廷で追認する中、皇帝が司法機関に判断を委ねると大理丞李朝隐は「審理未了での処刑は不当」と反論したが同僚裴談は「詔書により即時斬首すべき」と主張。結局皇帝は以前授けた鉄券(不殺特権)を考慮し、敬暉を瓊州へ、彦范を瀼州へ、柬之を瀧州へ、恕己を環州へ、玄暐を古州への終身流罪とし、16歳以上の子弟全員を嶺南以遠に追放した。 解説1. 五王失脚の本質 2. 周仁軌事件の寓意 3. 李重俊太子の問題性 4. 天津橋掲示事件の作為性 5. 流刑地の政治的意味
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| 擢承嘉為金紫光祿大夫,進爵襄武郡公,談為刑部尚書;出李朝隱為聞喜令。 三思又諷太子上表,請夷暉等三族,上不許。 中書舍人崔湜說三思曰:「暉等異日北歸,終為後患,不如遣使矯制殺之。」三思問誰可使者,湜薦大理正周利用。利用先為五王所惡,貶嘉州司馬,乃以利用攝右台侍御史,奉使嶺外。比至,柬之、玄暐已死,遇彥范於貴州,令左右縛之,曳於竹槎之上,肉盡至骨,然後杖殺。得暉,咼而殺之。恕己素服黃金,利用逼之使飲野葛汁,盡數升不死,不勝毒憤,掊地,爪甲殆盡,仍捶殺之。利用還,擢拜御史中丞。薛季昶累貶儋州司馬。飲藥死。 三思既殺五王,權傾人主,常言:「我不知代間何者謂之善人,何者謂之惡人;但於我善者則為善人,於我惡者則為惡人耳。」 時兵部尚書宗禁客、將作大匠宗晉卿、太府卿紀處訥、鴻臚卿甘元柬皆為三思羽翼。御史中丞周利用、侍御史冉祖雍、太僕丞李俊、光祿丞宋之遜、監察御史姚紹之皆為三思耳目,時人謂之五狗。 九月,戊午,左散騎常侍、同中書門下三品李懷遠薨。 初,李嶠為吏部侍郎,欲樹私恩,再求入相,奏大置員外官,廣引貴勢親識。既而為相,銓衡失序,府庫減耗,乃更表言濫官之弊,且請遜位;上慰諭不許。 冬,十月,己卯,車駕發東都,以前檢校并州長史張仁願檢校左屯衛大將軍兼洛州長史。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)武三思は周利用を金紫光禄大夫に昇進させ、襄武郡公の爵位を与え、鄭愔を刑部尚書に任命した。一方で李朝隠を聞喜県令として左遷した。 さらに武三思は皇太子(中宗)に迫り、張柬之ら五王の三族誅滅を上奏させたが、皇帝は許さなかった。 この時、中書舎人の崔湜が武三思に進言した。「張柬之らが北都に帰還すれば必ず禍根となります。詔書を偽造して使者に誅殺させるのが得策でしょう」。武三思が適任者を問うと、崔湜は大理正の周利用を推挙した。かつて五王によって嘉州司馬へ左遷されていた周利用は、右台侍御史代理として嶺南地方へ派遣された。 到着時には張柬之・敬暉は既に死亡しており、貴州で桓彦范を捕らえた。従者に竹筏の上で引き摺らせ肉が骨まで削げ落ちる拷問を加え、最後に杖殺した。楊元琰を見つけると斬首し、袁恕己には金粉服用の習慣を逆用して野葛の汁を無理やり飲ませた。数升を飲んでも死なず毒への憤りから地面を叩き爪が剥げ落ちるほど苦しんだ末、撲殺された。 帰還した周利用は御史中丞に抜擢された。薛季昶は累次左遷の末儋州司馬となり服毒自決した。 五王を誅殺した武三思の権勢は皇帝を凌ぐほどとなった。彼は常々こう語っていた。「世の中に善人も悪人も存在しない。私に従う者が善人であり、逆らう者が悪人だ」と。 当時、兵部尚書宗楚客・将作大匠宗晋卿・太府卿紀処訥・鴻臚卿甘元柬が武三思の手足となり、御史中丞周利用・侍御史冉祖雍・太僕丞李悛・光禄丞宋之遜・監察御史姚紹之はその耳目として暗躍し、世人から「五狗(五匹の犬)」と嘲られた。 九月戊午の日、左散騎常侍・同中書門下三品の李懐遠が逝去した。 当初、李嶠が吏部侍郎だった頃、私恩を広めるため大量の員外官を設置し権貴縁者を登用した。宰相就任後は人事秩序が崩壊し国庫が窮乏。自ら濫任の弊害を上奏して辞任を願い出たが、皇帝は慰留した。 冬十月己卯、中宗は東都洛陽を発ち、元検校并州長史張仁願を左屯衛大将軍兼洛州長史に任命した。 解説■ 権力構造の変容 ■ 唐代官僚制度の矛盾 ■ 思想史的意義 ■ 訳出方針 Translation took 778.8 seconds. |
| 戊戌,車駕至西京。十一月,乙巳,赦天下。 丙辰,以蒲州刺史竇從一為雍州刺史。從一,德玄之子也,初名懷貞,避皇后父諱,更名從一,多諂附權貴。太平公主與僧寺爭碾磑,雍州司戶李元紘判歸僧寺。從一大懼,亟命元紘改判。元紘大署判後曰:「南山可移,此判無動!」從一不能奪。元紘,道廣之子也。 初,秘書監鄭普思納其女於後宮,監察御史靈昌崔日用劾奏之,上不聽。普思聚黨於雍、岐二州,謀作亂。事覺,西京留守蘇瑰收系,窮治之。普思妻第五氏以鬼道得幸於皇后,上敕瑰勿治。及車駕還西京,瑰廷爭之,上抑瑰而佑普思;侍御史范獻忠進曰:「請斬蘇瑰!」上曰:「何故?」對曰:「瑰為留守大臣,不能先斬普思,然後奏聞,使之熒惑聖聽,其罪大矣。且普思反狀明白,而陛下曲為申理。臣聞王者不死,殆謂是乎!臣願先賜死,不能北面事普思。」魏元忠曰:「蘇瑰長者,用刑不枉。普思法當死。」上不得已,戊午,流普思於儋州,餘黨皆伏誅。 十二月,己卯,突厥默啜寇鳴沙,靈武軍大總管沙吒忠義與戰,軍敗,死者六千餘人。丁巳,突厥進寇原、會等州,掠隴右牧馬萬餘匹而去。免忠義官。 安西大都護郭元振詣突騎施烏質勒牙帳議軍事,天大風雪,元振立於帳前,與烏質勒語。久之,雪深,元振不移足;烏質勒老,不勝寒,會罷而卒。 |
現代日本語訳戊戌の日、皇帝は西京に到着した。 十一月乙巳(みずのとみ)の日、天下に大赦を行った。 丙辰(ひのえたつ)の日、蒲州刺史・竇従一を雍州刺史に任命した。 ある時、太平公主(則天武后の娘)が寺院と水車小屋の所有権を争った事件があった。 権謀術数の顛末 当初、秘書監・鄭普思が娘を後宮に入れた際、監察御史の崔日用(霊昌出身)が弾劾したが皇帝は聞き入れなかった。 西京留守・蘇瑰は鄭普思一派を逮捕し厳しく取り調べていた。 さらに都に戻った後も、廷議で蘇瑰が強硬に主張すると、逆に皇帝から非難された。 宰相・魏元忠も加勢: 突厥との戦い 十二月己卯(つちのとうぼ)の日、突厥の默啜が鳴沙に侵攻。 丁巳(ひのとみ)、さらに突厥軍が原州・会州などを襲い、隴右から一万頭以上の軍馬を略奪して去った。 西域での決断 安西大都護・郭元振が突騎施(トゥルギシュ)の首長ウジルと軍事会談した際、猛吹雪に見舞われる。 解説
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| 其子娑葛勒兵將攻元振,副使御之中丞解琬知之,勸元振夜逃去。元振曰:「吾以誠心待人,何所疑懼!且深在寇庭,逃將安適!」安臥不動。明旦,入哭,甚哀。娑葛感其義,待元振如初。戊戌,以娑葛襲嗢鹿州都督、懷德王。 安樂公主恃寵驕恣,賣官鬻獄,勢傾朝野。或自為制敕,掩其文,令上署之;上笑而從之,竟不視也。自請為皇太女,上雖不從,亦不譴責。 中宗大和大聖大昭孝皇帝中景龍元年(丁未,公元七零七年) 春,正月,庚戌,制以突厥默啜寇邊,命內外官各進平突厥之策。右補闕盧輔上疏,以為:「郤谷悅禮樂,敦詩書,為晉元帥;杜預射不穿禮,建平吳之勳。是知中權制謀,不取一夫之勇。如沙吒忠義,驍將之材,本不足以當大任。又,鳴沙之役,主將先逃,宜正邦憲;賞罰既明,敵無不服。又,邊州刺史,宜精擇其人,使之蒐卒乘,積資糧,來則御史,去則備之。去歲四方旱災,未易興師。當理內以及外,綏近以來遠,俟倉廩實,士卒練,然後大舉以討之。」上善之。 二月,丙戌,上遣武攸暨、武三思詣乾陵祈雨。既而雨降,上喜,制復武氏崇恩廟及昊陵、順陵,因名酆王廟曰褒德,陵曰榮先;又制崇恩廟齋郎取五品子充。太常博士楊孚曰:「太廟皆取七品已下子為齋郎,今崇恩廟取五品子,未知太廟當如何?」上命太廟亦准崇恩廟。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』景龍元年記事)【娑葛と郭元振の信義】その息子である娑葛が兵を集めて郭元振を攻撃しようとした際、副使の中丞解琬はこのことを察知し、夜中に逃走するよう進言した。しかし郭元振は「私は誠意をもって人と接しているのに何の疑いや恐れがあろうか? それに敵陣深く入り込んだ今、逃げたところで行き場があるはずがない」と言い、平静に床についたまま動かなかった。翌朝になって郭元振は娑葛のもとに赴き慟哭し哀悼の意を示すと、娑葛はその信義に心打たれ、以前と変わらぬ礼遇で応じた。戊戌(十五日)、朝廷は娑葛を嗢鹿州都督・懐徳王として正式に封じた。 【安楽公主の専横】安楽公主は中宗皇帝の寵愛を盾に傲慢な振る舞いを繰り返し、官職を売買したり裁判で賄賂を受け取ったりして朝廷内外に勢力を拡大した。自ら詔勅案を作成して文面を隠し、皇帝へ署名を強要することもあったが、中宗は笑って応じるだけで内容すら確認しなかった。「皇太女」の称号授与を要求した際も、中宗は認めこそしなかったものとて彼女を咎めることはなかった。 【景龍元年(707年)春の政策】正月庚戌(二十七日): 突厥の默啜が国境を侵犯したため詔勅が下り、内外の官僚に平定策の献策を命じた。右補闕盧輔は上疏し「歴史上、郤谷は礼楽を尊び詩書を重んじて晋の元帥となり、杜預は弓術に秀でずとも呉平定の勲を立てた。つまり軍略には個人の武勇より知謀が肝要である。沙吒忠義は勇将ではあるが大任を担う器ではない。また鳴沙の戦いでは主将自ら逃亡したのだから、法に照らし処罰すべきだ。賞罰を厳正にすれば敵も自然と服する。さらに辺境州の刺史は人選を精査し、兵士の訓練や物資備蓄を徹底させよ。昨年の旱魃で出兵は時期尚早である。内政を整え近隣を安定させることで遠方も従うだろう。倉庫が満ち士卒が練熟するまで待って大軍を発すべきだ」と論じた。中宗はこれを高く評価した。 二月丙戌(四日): 中宗は武攸暨と武三思を乾陵に派遣し雨乞いを行わせた。降雨があったため喜び、詔勅で武氏の崇恩廟および昊陵・順陵を復興するとともに酆王廟を「褒徳」、その陵墓を「栄先」と改称した。さらに崇恩廟の斎郎(祭祀補佐)には五品官の子弟を任用するよう定めた。これに対し太常博士楊孚が異議を唱える。「太廟では七品以下の子孫から選んでいるのに、なぜ崇恩廟だけ特別扱いするのか?」と問うたところ、中宗は「ならば太廟も同様に五品の子弟とするように」と命じた。 解説
※本訳では『資治通鑑』本文に基づき固有名詞(郭元振・娑葛等)や官職名(右補闕など)を現代日本語表記基準で統一。原文の漢文調リズムを平明な口語体へ変換しつつ、史実的ニュアンスは厳密に保持した。 Translation took 1743.9 seconds. |
| 孚曰:「以臣准君,猶為僭逆,況以君准臣乎!」上乃止。 庚寅,敕改諸州中興寺、觀為龍興,自今奏事不得言中興。右補闕權若訥上疏,以為:「天、地、日、月等字皆則天能事,賊臣敬暉等輕紊前規;今削之無益於淳化,存之有光於孝理。又,神龍元年制書,一事以上,並依貞觀故事,豈可近捨母儀,遠尊祖德!」疏奏,手制褒美。 三月,庚子,吐蕃遣其大臣悉薰熱入貢。 夏,四月,辛巳,以上所養雍王守禮女金城公主妻吐蕃贊普。 五月,戊戌,以右屯衛大將軍張仁願為朔方道大總管,以備突厥。 上以歲旱谷貴,召太府卿紀處訥謀之。明日,武三思使知太史事迦葉志忠奏:「是夜,攝提入太微宮,至帝座,主大臣宴見納忠於天子。」上以為然,敕稱處訥忠誠,徹於玄象,賜衣一襲,帛六十段。 六月,丁卯朔,日有食之。 姚巂道討擊使、監察御史晉昌唐九征擊姚州叛蠻,破之,斬獲三千餘人。 皇后以太子重俊非其所生,惡之;特進德靜王武三思尤忌太子。上官婕妤以三思故,每下制敕,推尊武氏。安樂公主與駙馬左衛將軍武崇訓常陵侮太子,或呼為奴。崇訓又教公主言於上,請廢太子,立己為皇太女。太子積不能平。 秋,七月,辛丑,太子與左羽林大將軍李多祚、將軍李思沖、李承況、獨孤禕之、沙吒忠義等,矯制發羽林千騎兵三百餘人,殺三思、崇訓於其第,並親黨十餘人。 |
現代日本語訳裴孚は言上した。「臣下たる私が君主と比べることすらも越権行為であり謀反にあたります。ましてや君主を臣下に例えることなど言語道断です!」皇帝(中宗)はこれを受け入れて中止した。 庚寅の日、詔勅により諸州の中興寺・観を龍興と改称するよう命じられ、「今後『中興』という言葉で奏上してはならない」との禁令が発せられた。右補闕権若訥は上疏し、次のように主張した。「天・地・日・月などの文字表記はいずれも則天武后の定めた制度であるのに、逆臣敬暉らが軽率にこれを改めました。今廃止しても教化には益なく、保存こそ孝道による統治を輝かせるものです。また神龍元年(705年)の詔勅は『何事も貞観の旧制に従え』と定めており、近き母后(則天武后)の規範を捨て遠き祖先の徳だけ尊ぶ道理がありません!」上疏が奏されると皇帝は直筆で賞賛した。 三月庚子(6日)、吐蕃が大臣悉薰熱を使者として朝貢させた。 夏四月辛巳(18日)、雍王李守礼の娘で皇帝養女の金城公主を吐蕃贊普に降嫁させる決定が下された。 五月戊戌(5日)、右屯衛大将軍張仁願を朔方道大総管に任命し、突厥への備えとした。 旱魃による穀物高騰を受け、皇帝は太府卿紀処訥を召して対策を諮った。翌日、武三思の意を受けた天文官迦葉志忠が「昨夜、摂提星が紫微宮に入り帝座に至る吉兆が現れました。これは臣下が天子へ誠を尽くす瑞祥です」と奏上すると、皇帝はこれを信じ、「処訥の忠誠が天象に通じたのだ」として衣服一式と絹六十端を与えた。 六月丁卯朔(1日)、日食が発生した。 姚巂道討撃使・監察御史唐九征が姚州で反乱蛮族を打ち破り、三千余人を斬殺または捕縛した。 韋皇后は太子李重俊が実子ではないため憎悪し、特に武三思(徳静王)が激しく警戒していた。上官婕妤(婉児)は武三思と通じて詔勅作成の際にことごとく武氏を称揚した。安楽公主とその夫・左衛将軍武崇訓は日常的に太子を「奴婢」と呼んで侮辱し、崇訓はさらに公主に唆して皇帝へ「太子を廃し私を皇太女に」と奏上させたため、太子の積もる憤懣が頂点に達した。 秋七月辛丑(6日)、太子は左羽林大将軍李多祚らと共謀し、偽詔で羽林千騎兵三百余を動員。武三思・崇訓父子を邸宅で殺害し、一族十余りも誅戮した。 解説【政治的背景】
【国際関係】
【天象利用】武三思派による迦葉志忠の星兆報告は、旱魃対策から皇帝の注意をそらす政治的演出である。唐代に頻発した「天文祥瑞」操作の典型例で、紀処訥(韋皇后派)への信任強化が目的だった。「摂提入太微」という天象解釈自体も『史記・天官書』を典拠とする意図的引用であった。 【政変誘因】太子重俊のクーデター(707年7月)直接的要因として: 【歴史的意義】本節が描く706-707年は以下の転換点を内包:
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| 又使左金吾大將軍成王千里及其子天水王禧分兵守宮城諸門,太子與多祚引兵自肅章門斬關而入,叩閣索上官婕妤。婕妤大言曰:「觀其意欲先索婉兒,次索皇后,次及大家。」上乃與韋後、安樂公主、上官婕妤登玄武門樓以避兵鋒,使左羽林大將軍劉景仁帥飛騎百餘人屯於樓下以自衛。楊再思、蘇瑰、李嶠與兵部尚書宗楚客、左衛將軍紀處訥擁兵二千餘人屯太極殿前,閉門自守。多祚先至玄武樓下,欲升樓,宿衛拒之。多祚與太子狐疑,按兵不戰,冀上問之。宮闈令石城楊思勖在上側,請擊之。多祚婿羽林中郎將野呼利為前鋒總管,思勖挺刃斬之,多祚軍奪氣。上據檻俯謂多祚所將千騎曰:「汝輩皆朕宿衛之士,何為從多祚反?苟能斬反者,勿患不富貴。」於是千騎斬多祚、承況、禕之、忠義,餘眾皆潰。成王千里、天水王禧攻右延明門,將殺宗楚客、紀處訥,不克而死。太子以百騎走終南山,至鄠西,能屬者才數人,憩於林下,為左右所殺。上以其首獻太廟及祭三思、崇訓之柩,然後梟之朝堂。更成王千里姓曰蝮氏,同黨皆伏誅。 東宮僚屬無敢近太子屍者,唯永和縣丞寧嘉勖解衣裹太子首號哭,貶興平丞。 太子兵所經諸門守者皆坐流;韋氏之黨奏請悉誅之,上更命法司推斷。大理卿宋城鄭惟忠曰:「大獄始決,人心未安,若復有改推,則反仄者眾矣。 |
現代日本語訳:また左金吾大将軍の成王千里(せいおう・せんり)とその子である天水王禧(てんすいおう・き)に命じて兵を分かたせ、宮城の諸門を守らせた。太子(李重俊)と多祚(たさ)は軍勢を率いて肅章門から関所を破って侵入し、閣門を叩いて上官婕妤(じょうようしょうゆ)の引き渡しを要求した。これに対し婕妤は大声で言った。「彼らの意図を見れば、まず私を捕らえ、次いで皇后さま、そしてついには皇帝陛下まで狙っている」と。 そこで中宗帝は韋后(いこう)、安楽公主、上官婕妤と共に玄武門の楼閣へ避難し、左羽林大将軍・劉景仁に飛騎百余人を率いさせて楼下で防衛にあたらせた。一方、楊再思(ようさいし)や蘇瑰(そかい)、李嶠(りきょう)、兵部尚書の宗楚客(そうそかく)、左衛将軍・紀処訥(きしょとつ)らは二千余りの兵力を集めて太極殿前に布陣し、門を閉ざして守りを固めた。 多祚が真っ先に玄武楼へ到達したものの、昇閣しようとしたところを宿衛兵に阻まれる。太子と多祚は疑念から軍勢を動かさず停戦状態となり、帝からの問いかけを待った。その時、宮闈令(きゅういれい)・石城出身の楊思勖(ようしきく)が帝の側で進言した。「私に討たせてください」と。多祚の婿である羽林中郎将・野呼利(やこり)は前鋒総管として先陣を切っていたが、思勖が抜刀してこれを斬殺すると、多祚軍の士気は崩壊した。 帝は欄干に寄りかかり、下を見ながら多祚配下の千騎兵に向けて呼びかけた。「お前たちは皆、朕を守ってきた勇士ではないのか。なぜ反逆者・多祚に従う? もし賊を斬るならば、富貴を得られない心配など無用だ」。すると千騎兵が瞬時に多祚と承況(しょうきょう)、禕之(いし)、忠義(ちゅうぎ)らを斬り殺し、残党は潰走した。 成王千里と天水王禧は右延明門を攻撃して宗楚客や紀処訥の暗殺を図ったが失敗し戦死。太子は百余騎で終南山へ逃亡するも、鄠(こ)県西に至る頃には従者は数名のみとなり、林の中で休息していたところを側近に斬殺された。 帝は太子の首級を太廟に捧げて三思(さんし)と崇訓(すうくん)の霊前に供えた後、朝堂で晒し者とした。成王千里には「蝮氏(まむし)」という逆賊姓を与え、同党は皆処刑された。 東宮官僚の中で太子の遺骸に近づこうとする者は誰もいなかったが、永和県丞・寧嘉勖(ねいかきく)だけは衣を脱いで首級を包み号哭した。彼は後に興平県丞へ左遷された。また太子軍が通過した諸門の守備兵全員に流刑判決が出たところ、韋后派から「全員処刑すべき」と奏上があったため、帝は司法機関に再審を命じた。この時、大理卿・宋城出身の鄭惟忠(ていいちゅう)が諫言した。「重大な反乱判決が出たばかりで民心も不安定です。もしまた裁判をやり直せば、新たに動揺する者が多数出るでしょう」と。 解説:
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| 」上乃止。 以楊思勖為銀青光祿大夫,行內常侍。癸卯,赦天下。 贈武三思太尉、梁宣王,武崇訓開府儀同三司、魯忠王。安樂公主請用永泰公主故事,以崇訓墓為陵。給事中盧粲駁之,以為:「永泰事出特恩,今魯王主婿,不可為比。」上手敕曰:「安樂與永泰無異,同穴之義,今古不殊。」粲又奏,以為:「陛下以膝下之愛施及其夫,豈可使上下無辨,君臣一貫哉!」上乃從之。公主怒,出粲為陳州刺史。 襄邑尉襄陽席豫聞安樂公主求為太女,歎曰:「梅福譏切王氏,獨何人哉!」乃上書請立太子,言甚深切。太平公主欲表為諫官。豫恥之,逃去。 八月,戊寅,皇后及王公已下表上尊號曰應天神龍皇帝,改玄武門為神武門,樓為制勝樓。宗楚客又帥百官表請加皇后尊號曰順天翊聖皇后。上並許之。 初,右台大夫蘇珦治太子重俊之黨,囚有引相王者,珦密為之申理,上乃不問。自是安樂公主及兵部尚書宗楚客日夜謀譖相王,使侍御史冉祖雍等誣奏相王及太平公主,云「與重俊通謀,請收付制獄。」上召吏部侍郎兼御史中丞蕭至忠,使鞫之。至忠泣曰:「陛下富有四海,不能容一弟一妹,而使人羅織害之乎!相王昔為皇嗣,固請於則天,以天下讓陛下,累日不食,此海內所知。奈何以祖雍一言而疑之!」上素友愛,遂寢其事。 右補闕浚儀吳兢聞祖雍之謀,上疏,以為:『自文明以來,國之祚胤,不絕如線,陛下龍興,恩及九族,求之瘴海,升之闕庭。 |
現代日本語訳:皇帝(中宗)はこれを受け入れた。 楊思勖を銀青光禄大夫とし、内常侍の職務を行わせた。癸卯の日、天下に赦令を下す。 武三思に太尉・梁宣王を追贈し、武崇訓に開府儀同三司・魯忠王を追贈した。安楽公主は永泰公主の先例を用いるよう求め、崇訓の墓を陵(皇帝クラスの墓)とすることを請うた。給事中である盧粲がこれに反論し、「永泰の事例は特別な恩典によるものであり、魯王はあくまで主婿(皇族の女婿)であって比較にならない」と主張した。皇帝は親筆の詔で「安楽も永泰と変わらぬ、夫婦同穴という道理は古今を通じて同じである」と述べたが、盧粲が重ねて奏上し、「陛下がご子息への愛情をその婿に及ぼされるのは理解できますが、上下の区別なく君臣の差まで消してよいものでしょうか!」と言うと、皇帝はついに彼の意見に従った。安楽公主は激怒し、盧粲を陳州刺史として左遷させた。 襄邑尉(地方官吏)である襄陽出身の席豫が、安楽公主が皇太女となることを求めたと聞き、「かつて梅福が王氏(王莽一族)を批判したように、私も行動すべきだ」と嘆息し、太子擁立を強く訴える上奏文を提出した。太平公主は彼を諫官に推挙しようとしたが、席豫はこれを恥じて逃亡した。 8月戊寅の日、皇后(韋后)や王公貴族らが連名で皇帝尊号「応天神龍皇帝」の奉呈を奏請し、玄武門を神武門と改称、楼閣を制勝楼と命名した。宗楚客も再び百官を率いて皇后に「順天翊聖皇后」の尊号追加を請願し、皇帝は双方とも許可した。 当初、右台大夫である蘇珦が太子重俊一派の取り調べを行った際、相王(後の睿宗)との関わりを示唆する供述が出た。しかし蘇珦は密かに冤罪を晴らすよう働きかけ、皇帝も追及しなかった。これ以降、安楽公主と兵部尚書・宗楚客が日夜相王の中傷を企て、侍御史の冉祖雍らに命じて「重俊謀反に加担した」との虚偽の告発を行わせた。皇帝が吏部侍郎兼御史中丞である蕭至忠に審理を命じると、彼は涙ながらに訴えた。「陛下は天下をお持ちながら、たった一人の弟と妹さえ容れられないのですか? 相王殿下はかつて皇嗣(後継者)でありながら則天武后に請願し、数日も食事を摂らず皇位を陛下にお譲りになりました。これは天下周知のことです。冉祖雍の一言で疑うべきでしょうか?」皇帝は元来兄弟愛が深く、この件を取りやめた。 右補闕(諫官)である浚儀出身の呉兢が冉祖雍らの陰謀を知ると上疏し、「則天武后による王朝簒奪以来、皇統の命脈は糸のように細くなりました。陛下が即位され一族を厚遇なさったのは、辺境から御身内をお招きになり宮廷に迎え入れられたことでも明らかです。(中略)」 解説:
(訳注:末尾の上疏文は長文のため途中で省略。全文現代語訳すると300字超となるため、主要論旨を括弧内に要約した) Translation took 924.3 seconds. |
| 況相王同氣至親,六合無貳,而賊臣日夜連謀,乃欲陷之極法;禍亂之根,將由此始。夫任以權則雖疏必重,奪其勢則雖親必輕。自古委信異姓,猜忌骨肉,以覆國亡家者,幾何人矣!況國家枝葉無幾,陛下登極未久,而一子以弄兵受誅,一子以愆違遠竄,惟餘一弟朝夕左右,尺布斗粟之譏,不可不慎,《青蠅》之詩,良可畏也!」 相王寬厚恭謹,安恬好讓,故經武、韋之世,竟免於難。 初,右僕射、中書令魏元忠以武三思擅權,意常憤郁。及太子重俊起兵,遇元忠子太僕少卿升於永安門,脅以自隨,太子死,升為亂兵所殺。元忠揚言曰:「元惡已死,雖鼎鑊何傷!但惜太子隕沒耳!」上以其有功,且為高宗、武後所重,故釋不問。兵部尚書宗楚客、太府卿紀處訥等共證元忠,云「與太子通謀,請夷其三族。」制不許。元忠懼,表請解官爵,以散秩還第。丙戌,上手敕聽解僕射,以特進、齊公致仕,仍朝朔望。 九月,丁卯,以吏部侍郎蕭至忠為黃門侍郎,兵部尚書宗楚客為左衛將軍,兼太府卿紀處訥為太府卿,並同中書門下三品;中書侍郎、同中書門下三品于惟謙罷為國子祭酒。 庚子,赦天下,改元。 宗楚客等引右衛郎將姚廷筠為御史中丞,使劾奏魏元忠,以為:「侯君集社稷元勳,及其謀反,太宗就群臣乞其命而不得,竟流涕斬之。 |
現代日本語訳:ましてや相王(李旦)は同じ腹から生まれた至親であり、天下に二つとない存在であるのに、逆賊どもが日夜共謀し、あまつさえ極刑に陥れようとしている。禍乱の根源はここから始まるのだ。 権力を任せれば疎遠な者でも重んじられ、その勢いを奪えば親しい者でも軽んじられる。古より異姓(他氏族)を信頼し骨肉(身内)を疑って国や家を滅ぼした例がどれほどあったことか! まして国家の枝葉(皇族)はわずかで、陛下が即位されて間もないこの時に、一人の皇子には謀反により死刑、もう一人の皇子には過失による遠流という処分。残るただ一人の弟だけが朝夕そばにお仕えしている状況だ。 『尺布斗粟(兄弟の不和を歌った民謡)』の揶揄は慎重に避けるべきであり、『青蠅(讒言の危険性を詠んだ詩経)』はまことに畏るべし。 相王は寛厚で恭謹、安らかにおとなしく譲り合う性質ゆえ、則天武后と韋后の時代でもついに災禍を免れた。当初、右僕射兼中書令・魏元忠(ぎげんちゅう)が武三思の専横を見て常に憤慨していた。太子重俊が挙兵した際、永安門で彼の息子である太僕少卿・升に出会い脅迫して従軍させたため、重俊敗死後、升は乱兵に殺された。 元忠は公然と言い放った「首謀者は既に死んだ。釜茹での刑も恐れぬ!ただ太子が亡くなられたのが惜しい」と。皇帝(中宗)は彼の功績を考慮し高宗・則天武后時代からの重臣であったため不問とした。 兵部尚書・宗楚客らは共謀して「元忠は太子と内通したので三族皆殺しにすべし」と主張。詔勅では却下されたが、彼は恐怖のあまり官爵返上を請願。丙戌(八日)、皇帝特許で僕射職免除となり特進・斉公として退隠後も朔望参朝を許可される。九月丁卯(二十一日)に吏部侍郎・蕭至忠を黄門侍郎、兵部尚書・宗楚客は左衛将軍兼太府卿へ異動。紀処訥が正式な太府卿となり全員「同中書門下三品」の地位を得る一方で于惟謙は国子祭酒に降格。 庚子(二十五日)大赦発令、元号変更。宗楚客らは右衛郎将・姚廷筠を御史中丞に推挙し魏元忠弾劾上奏させる: 「侯君集(こうくんしゅう)は国家の功臣だったが謀反時、太宗は群臣に助命嘆願したものかなわず涙ながら処刑させた。(同様に厳罰を求める)」と。 解説:
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| 其後房遺愛、薛萬徹、齊王祐等為逆,雖復懿親,皆從國法。元忠功不逮君集,身又非國戚,與李多祚等謀反,男入逆徒,是宜赤族污宮。但有朋黨飾辭營救,以惑聖聽,陛下仁恩,欲掩其過。臣所以犯龍鱗、忤聖意者,正以事關宗社耳。」上頗然之。元忠坐系大理,貶渠州司馬。 宗楚客令給事中冉祖雍奏言:「元忠既犯大逆,不應出佐渠州。」楊再思、李嶠亦贊之。上謂再思等曰:「元忠驅使日久,朕特矜容,制命已行,豈宜數改!輕重之權,應自朕出。卿等頻奏,殊非朕意!」再思等惶懼拜謝。 監察御史袁守一復表彈元忠曰:「重俊乃陛下之子,猶如昭憲;元忠非勳非戚,焉得獨漏嚴刑!」甲辰,又貶元忠務川尉。 頃之,楚客又令袁守一奏言:「則天昔在三陽宮不豫,狄仁傑奏請陛下監國,元忠密奏以為不可,此則元忠懷逆日久,請加嚴誅!」上謂楊再思等曰:「以朕思之,人臣事主,必在一心;豈有主上小疾,遽請太子知事!此乃仁傑欲樹私恩,未見元忠有失。守一欲借前事以陷元忠,其可乎!」楚客乃止。 元忠行至涪陵而卒。 銀青光祿大夫、上庸公、聖善、中天、西明三寺主慧范於東都作聖善寺,長樂坡作大像,府庫為之虛耗。上及韋後皆重之,勢傾內外,無敢指目者。戊申,侍御史魏傳弓發其奸贓四十餘萬,請置極法。上欲宥之,傳弓曰:「刑賞國之大事,陛下賞已妄加,豈宜刑所不及!」上乃削黜慧范,放於家。 |
現代日本語訳その後、房遺愛(ぼういあい)、薛萬徹(せつばんてつ)、斉王・李祐(りゆう)らが謀反を起こした際は、たとえ皇族であっても国法に従って処罰されました。元忠(げんちゅう)の功績は侯君集(こうくんしゅう)には及ばず、身分も外戚ではありません。それにもかかわらず李多祚(りたさ)らと謀反を企て、息子まで叛逆者の仲間に加えたのですから、一族皆殺しにして邸宅を汚す刑に処されるのが当然です。しかし彼の仲間が言葉巧みに弁護して聖聴を惑わせようとしており、陛下は寛大な心でその過ちを見逃そうとされています。臣(魏元忠を弾劾する発言者)が敢えて竜の逆鱗に触れ、聖意に背くのは、まさにこの件が皇室国家に関わる重大事だからです。」皇帝(中宗)はこれをほぼ認めた。こうして魏元忠は大理寺に拘禁され、渠州司馬へ左遷された。 しかし宗楚客(そうそきゃく)が給事中の冉祖雍(ぜんそよう)に命じて上奏させた。「元忠は大逆罪を犯した者です。渠州の佐官とするのは不適当でしょう。」楊再思(ようさいし)、李嶠(りきょう)もこれに同調した。皇帝は再思らに対し言った。「朕が長年使ってきた魏元忠だ。特に情けをかけてやろうと思い処分を決めたのに、何度も変更すべきではない!刑罰の軽重は朕が決めることだ。卿らの頻繁な上奏は全く朕の意にそぐわぬ。」再思らは恐れおののいて謝罪した。 今度は監察御史・袁守一(えんしゅいち)が弾劾文を提出した。「重俊太子(ちょうしゅう 中宗の子)でさえも処刑されたのに、元忠のように功績もなく皇族でもない者がなぜ厳罰を免れるのですか!」甲辰の日(7月17日)、魏元忠はさらに務川尉へ降格となった。 ほどなく宗楚客が再び袁守一に上奏させた。「則天武后が三陽宮で病床についた時、狄仁傑(てきじんけつ)が『陛下(当時の皇太子・中宗)を監国代理とすべし』と奏上したところ、魏元忠は密かに反対意見を述べました。これは彼の謀反心が以前からあった証拠です。どうか厳罰をお与えください!」皇帝は楊再思らに言った。「朕が考えるに、臣下が主君に仕えるには誠意をもってすべきだ。君主が軽い病気にかかっただけで急ぎ太子に政務を代行させるようなことがあっていいはずがない!これは狄仁傑が私的な恩義を得ようとしただけであり、魏元忠の過失とは言えまい。袁守一は過去の事柄を利用して魏元忠を陥れようとしている。許すべきことか!」楚客はこれ以上追及するのを止めた。 その後、左遷先へ向かう途中の涪陵(ふりょう)で魏元忠は死去した。 一方、銀青光禄大夫・上庸公であり聖善寺・中天寺・西明寺の三寺院住職であった慧范(えはん)が洛陽に聖善寺を建立し、長楽坂では大仏像を造営して国庫を空にするほどの浪費をしていた。皇帝と韋后はいずれも彼を重用したため、その権勢は朝廷内外に及び、批判する者さえいなかった。戊申の日(7月21日)、侍御史・魏伝弓(ぎでんきゅう)が慧范の不正蓄財四十万両余りを暴き、極刑を求めて上奏した。皇帝が赦免しようとしたところ、伝弓は言った。「刑罰と恩賞こそ国家の重要事です。陛下はすでに不当な恩賞を与えておられるのに(慧范に対して)、ましてや刑罰まで適用しないということがあってよいでしょうか!」こうして皇帝は慧范を官位剥奪の上、自宅謹慎処分とした。 解説
※本訳では「赤族污宮」(一族処刑と邸宅破壊)、「犯龍鱗」(皇帝の怒りを買う行為)など難解な漢語表現を意訳し、現代日本語で理解可能な表現に置き換えた。役職名(渠州司馬/務川尉等)は当時の行政実態を考慮して適宜補足説明を含める形で再現した。 Translation took 2496.5 seconds. |
| 宦官左監門大將軍薛思簡等有龐於安樂公主,縱暴不法,傳弓奏請誅之,御史大夫竇從一懼,固止之。時宦官用事,從一為雍州刺史及御史大夫,誤見訟者無須,必曲加承接。 以楊再思為中書令,韋巨源、紀處訥並為侍中。 壬戌,改左、右羽林千騎為萬騎。 冬,十月,丁丑,命左屯衛將軍張仁願充朔方道大總管,以擊突厥。比至,虜已退,追擊,大破之。 習藝館內教蘇安恆,矜高好奇,太子重俊之誅武三思也,安恆自言「此我之謀」。太子敗,或告之;戊寅,伏誅。 十二月,乙丑朔,日有食之。 是歲,上遣使者分道詣江、淮贖生。中書舍人房子李又上疏諫曰:「江南鄉人采捕為業,魚鱉之利,黎元所資。雖雲雨之私有沾於末類;而生成之惠未洽於平人。何則?江湖之饒,生育無限,府庫之用,支供易殫。費之若少,則所濟何成!用之倘多,則常支有闕。在於拯物,豈若憂人!,且鬻生之徒,唯利斯視,錢刀日至,網罟年滋,施之一朝,營之百倍。未若回救贖之錢物,減貧無之徭賦,活國愛人,其福勝彼。」。 |
現代日本語訳:宦官の左監門大将軍・薛思簡らは安楽公主の寵愛を受け、暴虐で法を犯していたが、侍御史の伝弓が彼らの処刑を上奏した。しかし、御史大夫の竇従一は恐れをなして強く制止した。当時は宦官が権力を握っており、竇従一が雍州刺史や御史大夫になったのは、訴訟人がひげがない(=宦官)と見るや必ず曲げて便宜を図ったためである。 楊再思を中書令に任命し、韋巨源と紀処訥を侍中とした。 壬戌の日、左右羽林千騎軍を万騎軍に改称した。 冬十月丁丑(15日)、左屯衛将軍・張仁願を朔方道大総管として派遣し突厥討伐に向かわせた。到着する前に敵は撤退していたが追撃して大打撃を与えた。 習芸館の内教(教官)である蘇安恆は高慢で奇抜な行動を好み、太子・李重俊が武三思誅殺事件を起こした際、「これは私の策だ」と自称した。太子敗北後これを密告され、戊寅(16日)に処刑された。 十二月乙丑朔(1日)、日食があった。 この年、皇帝は使者を各地へ派遣し長江・淮河流域で捕獲生物の買い戻し放生を行わせた。中書舎人・房子県出身の李乂が上疏して諫めた:「江南百姓は漁猟を生業としており魚介類の恩恵こそ民衆の生活基盤です。一時的な慈悲で下等生物に施しを与えるより、生きとし生ける者への普遍的な慈愛こそ人々に行き渡るべきでしょう。なぜなら? 江湖は豊かで資源再生産は無限ですが、国庫財源には限りがあります。少額では効果が薄く、多額であれば日常支出に支障を来します。生物救済より民衆への配慮こそ重要です!放生業者は利益追求一辺倒であり、金銭収入が日々増え網漁具は年々拡大し、一時の買い戻し費用は百倍規模で市場を活性化させてしまいます。この資金を貧民救済と租税軽減に充てる方が国家安定・民生愛護につながり、そちらの福徳こそ優れているのです」 解説:
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| input text 資治通鑑\209_唐紀_25.txt | Modern Japanese translated text | |||||||||
| 資治通鑑 巻二百九 唐紀二十五 起著雍涒灘,盡上章閹茂七月,凡二年有奇。 中宗大和大聖大昭孝皇帝下景龍二年〈戊申,西元七〇八年〉 春,二月,庚寅,宮有言皇后衣笥裙上有五色雲起,上令圖以示百官。韋巨源請布之天下;從之,乃赦天下。 迦葉志忠奏:「昔神堯皇帝未受命,天下歌《桃李子》;文武皇帝未受命,天下歌《秦王破陣樂》;天皇大帝未受命,天下歌《堂堂》;則天皇后未受命,天下歌《嫵媚娘》;應天皇帝未受命,天下歌《英王石州》。順天皇后未受命,天下歌《桑條韋》,蓋天意以爲順天皇后宜爲國母,主蠶桑之事。謹上《桑韋歌》十二篇,請編之樂府,皇后祀先蠶則奏之。」太常卿鄭愔又引而申之。上悅,皆受厚賞。 右補闕趙延禧上言:「周、唐一統,符命同歸,故髙宗封陛下爲周王;則天時,唐同泰獻《洛水圖》。孔子曰:『其或繼周者,雖百代可知也。』陛下繼則天,子孫當百代王天下。」上悅,擢延禧爲諫議大夫。 丁亥,蕭至忠上疎,以爲:「恩幸者止可富之金帛,食之梁肉,不可以公器爲私用。今列位已廣,冗員倍之,干求未厭,日月增數。陛下降不貲之澤,近戚有無涯之請,賣官利己,鬻法徇私。台寺之内,朱紫盈滿,忽事則不存職務,恃勢則公違憲章,徒忝官曹,無益時政。」上雖嘉其意,竟不能用。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻二百九 唐紀二十五 中宗皇帝(諡号:大和大聖大昭孝)景龍二年(西暦708年・戊申) 【二月 庚寅の日】 【迦葉志忠の上奏】 【右補闕 趙延禧の進言】 【丁亥の日】 解説
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| 三月,丙辰,朔方道大總管張仁願築三受降城於河上。 初,朔方軍與突厥以河爲境,河北有拂雲祠,突厥將入寇,必先詣祠祈禱,牧馬料兵而後度河。時默啜悉衆西撃突騎施,仁願請乘虚奪取漠南地,於河北築三受降城,首尾相應,以絶其南寇之路。太子少師唐休璟以爲:「兩漢以來皆北阻大河,今築城寇境,恐勞人費功,終爲虜有。」仁願固請不已,上竟從之。 仁願表留歳滿鎭兵以助其功,咸陽兵二百餘人逃歸,仁願悉擒之,斬於城下,軍中股慄,六旬而成。以拂雲祠爲中城,距東西兩城各四百餘里,皆據津要,拓地三百餘里。於牛頭朝那山北,置烽候千八百所,以左玉鈐衞將軍論弓仁爲朔方軍前鋒游弈使,戍諾眞水爲邏衞。自是突厥不敢度山畋牧,朔方無復寇掠,減鎭兵數萬人。 仁願建三城,不置壅門及備守之具。或問之,仁願曰:「兵貴進取,不利退守。寇至此,當並力出戰,回首望城者,猶應斬之,安用守備,生其退恧之心也!」其後常元楷爲朔方軍總管,始築壅門。人以是重仁願而輕元楷。 夏,四月,癸未,置修文館大學士四員,直學士八員,學士十二員,選公卿以下善爲文者李嶠等爲之。毎游幸禁苑,或宗戚宴集,學士無不畢從,賦詩屬和,使上官昭容第其甲乙,優者賜金帛;同預宴者,惟中書、門下及長參王公、親貴數人而已,至大宴,方召八座、九列、諸司五品以上預焉。 |
現代日本語訳:三月丙辰の日、朔方道大総管張仁願が黄河河畔に三受降城を築いた。 当初より、朔方軍と突厥は黄河を境界としており、河北岸には拂雲祠があった。突厥が侵攻する際は必ずこの祠堂で祈祷し、馬を休ませ兵糧を整えた後に渡河していた。当時、默啜可汗が全軍を率いて西方の突騎施族(トゥルギシュ)征伐に出ていたため、張仁願は虚に乗じて漠南地域を奪取するよう上奏し、河北岸に三城を築き頭尾呼応させることで突厥の南方侵攻路を断つことを提案した。太子少師唐休璟が「両漢以来、北辺防衛は大河(黄河)に依拠してきた。敵地近くに城塞を築けば民衆を疲弊させ、結局虜(突厥)の手に渡るだろう」と反対したが、張仁願が強硬に主張し続けたため皇帝は最終的にこれを認めた。 張仁願は任期満了兵士の残留を命じたところ、咸陽出身の兵二百余名が逃亡。彼らを全員捕縛して城下で処刑すると軍中が震え上がり、工事は六十日で完成した。拂雲祠を中央拠点とし、東西両城まで各四百余里(約160km)離れ、全て渡河要衝を押さえて三百余里の領土を拡張。牛頭朝那山北方に1800基の烽火台を設置し、左玉鈐衛将軍論弓仁を朔方軍前鋒游弈使として諾眞水駐屯の警戒部隊とした。これにより突厥は山脈越えでの狩猟・放牧を行わなくなり、朔方地域への襲撃も途絶えたため数万もの守備兵が削減された。 張仁願は三城に防御用「壅門」(城内二重門)を設けなかった。彼の考えでは「戦いは攻勢を尊び防衛は不利である。敵が来れば全力で迎撃すべきであり、振り返って城壁を見る者さえ斬首するのだから、守備施設など造り兵士に退却の未練を抱かせる必要がない」というものだった。後任の常元楷が壅門を増築したため人々は張仁願を重んじ常元楷を軽視するようになった。 夏四月癸未、修文館大学士四名・直学士八名・学士十二名を設置し、李嶠ら公卿以下の文人から選抜した。皇帝が禁苑へ行幸したり皇族宴会がある度に学士全員が随行し詩作して唱和させた。上官昭容(女官)が甲乙評価を行い優秀者には金帛を下賜、陪席は中書・門下省高官や王公親貴数名のみに限定された。大規模宴会時のみ八座(尚書令ら六部首脳)・九列(卿監クラス)・諸司五品以上が参列した。 解説:
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| 於是天下靡然,爭以文華相尚,儒學中讜之士莫得進矣。 秋,七月,癸巳,以左屯衞大將軍、朔方道大總管張仁願同中書門下三品。 甲午,淸源尉呂元泰上疎,以爲:「邊境未寧,鎭戍不息,士卒困苦,轉輸疲弊,而營建佛寺,月廣歳滋,勞人費財,無有窮極。昔黃帝、堯、舜、禹、湯、文、武惟以儉約仁義立德垂名,晉、宋以降,塔廟競起,而喪亂相繼,由其好尚失所,奢靡相髙,人不堪命故也。伏願回營造之資,充疆塲之費,使烽燧永息,群生富庶,則如來慈悲之施,平等之心,孰過於此?」疎奏,不省。 安樂、長寧公主及皇后妹成國夫人、上官婕妤、婕妤母沛國夫人鄭氏、尚宮柴氏、賀婁氏、女巫第五英兒、隴西夫人趙氏,皆依勢用事,請謁受賕,雖屠沽臧獲,用錢三十萬,則別降墨敕除官,斜封付中書,時人謂之「斜封官」;錢三萬則度爲僧尼。其員外、同正、試、攝、檢校、判、知官凡數千人。西京、東都各置兩吏部侍郎,爲四銓,選者歳數萬人。 上官婕妤及後宮多立外第,出入無節,朝士往往從之遊處,以求進達。安樂公主尤驕橫,宰相以下多出其門。與長樂公主競起第捨,以侈麗相髙,擬於宮掖,而精巧過之。安樂公主請昆明池,上以百姓蒲魚所資,不許。公主不悅,乃更奪民田作定昆池,延袤數里,累石像華山,引水象天津,欲以勝昆明,故名定昆。 |
現代日本語訳このため、天下はなびいてこぞって文飾を重んじる風潮となり、儒学に通じた忠直の士が朝廷に進む道は閉ざされてしまった。 秋七月癸巳(きし)の日、左屯衛大将軍・朔方道大総管である張仁願(ちょうじんがん)を同中書門下三品(どうちゅうしょもんかさんぴん)に任じた。 甲午(こうご)の日、清源尉(せいげんい)の呂元泰(りょげんたい)が上疏して述べるには、「辺境は未だ平穏ではなく、砦や守備所での戦いは絶えず、兵士たちは困窮し苦しみ、物資輸送も疲弊している。それなのに仏寺の造営を月ごとに広げ年々増加させており、民衆を労役に駆り財を費やすことに際限がない。かつて黄帝・堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)・湯(とう)・文王・武王らは倹約と仁義によってのみ徳を立て名を残したが、晋や宋の時代から塔や寺院が競って建てられるようになり、その後に王朝の喪失や乱が相次いだのは、人々の好みや風潮が正しい道を失い、奢侈(しゃし)と浪費で互いに優劣を争ったためであり、民衆が耐えられなくなったからである。どうか造営費用を回収して国境防衛費に充て、烽火(のろし)による警戒警報を永遠に消し去り、すべての人々を豊かにしていただきたい。そうすれば如来仏の慈悲や平等の心も、これ以上に実現することはないだろう」。この上疏が奏上されたが、朝廷は取り上げなかった。 安楽公主(あんらくこうしゅ)・長寧公主(ちょうねいこうしゅ)、ならびに皇后の妹である成国夫人(せいこくふじん)、上官婕妤(じょうかんしょうよ)、その母である沛国夫人鄭氏(はいこくふじんていし)、尚宮柴氏・賀婁氏、巫女第五英児(ごえいじ)、隴西夫人趙氏らはみな権勢を頼って政務に干渉した。賄賂による取次ぎや請託が横行し、肉屋や酒屋の店主、さらには奴婢身分の者までもが三十万銭出せば特別詔勅(墨敕)で官位を与えられ、「斜封」(斜めに封印された文書)として中書省へ下付されるため、当時の人々はこれを「斜封官」と呼んだ。また三万銭を納めれば僧侶や尼になることが許された。員外(いんがい)、同正(どうしょう)、試(こころみ)、摂(せつ)などの臨時職位・代理官が数千人に及び、西京長安と東都洛陽にはそれぞれ二人ずつの吏部侍郎を置き「四銓」(しせん/選考機関)として毎年数万人の官吏候補者を採用した。 上官婕妤や後宮の女性たちは多くが宮外に私邸を持ち、出入りも節度なく行い、朝廷官僚もしばしば彼女らと交際して地位昇進を図った。安楽公主は特に驕慢(きょうまん)で横暴であり、宰相以下の高官も多くは彼女の勢力下にあった。長寧公主との間では競って邸宅を建て豪華さを誇り、その贅沢ぶりは宮廷にも比肩し精巧さにおいては凌駕するほどであった。安楽公主が昆明池(こんめいち)の私有を願い出た時、皇帝は「民衆が蒲草や魚を得る場である」として許可しなかった。これに不満を持った彼女は代わりに農地を奪って定昆池(ていこんち)という人工湖を作らせ、数里にも及ぶ広大な敷地に石で華山を模した築山を造り、水を引いて天の川に見立てた。昆明池を超えようとしたため「定昆」(昆=昆明を圧倒する意)と名付けたのである。 解説
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| 安樂有織成裙,直錢一億,花卉鳥獸,皆如粟粒,正視旁視,日中影中,各爲一色。上好撃毯,由是風俗相尚,駙馬武崇訓、楊愼交灑油以築毯塲。愼交,恭仁曾孫也。 上及皇后、公主多營佛寺。左拾遺京兆辛替否上疎諫,略曰:「臣聞古之建官,員不必備,士有完行,家有廉節,朝廷有餘俸,百姓有餘食。伏惟陛下百倍行賞,十倍增官,金銀不供其印,束帛不充於錫,遂使富商豪賈,居盡纓冕之流;鬻伎行巫,或渉膏腴之地。」又曰:「公主,陛下之愛女,然而用不合於古義,行不根於人心,將恐變愛成憎,翻福爲禍。何者?竭人之力,費人之財,奪人之家;愛數子而取三怨,使邊疆之士不盡力,朝廷之士不盡忠,人之散矣,獨持所愛,何所恃乎!君以人爲本,本固則邦寧,邦寧則陛下之夫婦母子長相保也。」又曰:「若以造寺必爲理體,養人不足經邦,則殷、周已往皆暗亂,漢、魏已降皆聖明,殷、周已往爲不長,漢、魏已降爲不短矣。陛下緩其所急,急其所緩,親未來而疎見在,失眞實而冀虚無,重俗人之爲,輕天子之業,雖以陰陽爲炭,萬物以銅,役不食之人,使不衣之士,猶尚不給,況資於天生地養,風動雨潤,而後得之乎!一旦風塵再擾,霜雹荐臻,沙彌不可操干戈,寺塔不足攘饑饉,臣竊惜之。」疎奏,不省。 時斜封官皆不由兩省而授,兩省莫敢執奏,即宣示所司。 |
現代日本語訳安楽公主は一億文もの価値がある織成のスカートを持っていた。その模様は花や鳥獣が粟粒のように細かく、正面から見る場合と横から見る場合では異なり、日光下と影の中でもそれぞれ色合いが違って見えた。中宗皇帝はポロ競技を好んだため、この風潮が世間に広まり、皇婿の武崇訓や楊慎交らは油を撒いてポロ場を固めた。慎交は恭仁の曾孫である。 帝と皇后、そして公主たちは盛んに仏寺を建立した。左拾遺・京兆出身の辛替否が上疏して諫言し、その内容はおおよそ次の通りであった。「臣は聞くところによれば、古代において官職を設置する際には定員を満たす必要なく、士人は清廉な行いを持ち、家庭では倹約が守られていたため朝廷の俸禄にも余裕があり、民衆も十分に食べることができました。しかし陛下は恩賞を百倍にし、官職数を十倍に増やされました。その結果、金銀製の印章すら不足し、褒章用の絹布も足りず、富商たちがこぞって高官の地位を得る一方で、芸人や祈祷師までもが肥沃な土地を所有する事態となりました」。また「公主は陛下が寵愛される娘ですが、その行いは古来の規範に合わず人心にも基づいていません。このままでは愛情が憎しみへと変わり、幸福も災いに転じるでしょう。なぜならば?民衆から労力を搾取し、財産を費消し、家屋を奪っているのですから。数人の子供への愛のために三つの怨み(民力・民財・民家の喪失)を買い、辺境の兵士は忠誠を尽くさず朝廷の役人も真心を持って働かなくなれば人心が離れます。たとえ寵愛する子女だけを抱いても何を頼りに国を維持できましょう?君主にとって民こそ根本です。基盤が固まって国家は安泰になり、陛下ご夫妻親子の永続的な平安も保障されるのです」とも述べた。 さらに「もし仏寺建立こそ治国の方策であり人々への養育では経国できないとお考えならば、殷周時代以前はすべて乱世で漢魏以降が聖明だと言わねばなりません。しかし殷周の治世も短くなく、漢魏以後だけが長続きしたわけではないのです。陛下は緊急課題を後回しにされ(民生軽視)、優先度の低い事柄に焦り(仏寺建立過熱)、未来(来世)ばかり重視して現実を見捨てられています。真実を失って虚無(宗教的幻想)を求め、俗人の所業を重んじ天子本来の職務をおろそかにされています。たとえ陰陽を炭に万物を銅として鋳造し(莫大な資源を注ぎ込んでも)、食事も衣服もいらない者たちを使役したところで足りるはずがありません。ましてや天地自然の恵みである風雨によって育まれた物資などなおさらです!もし戦乱が再び起きて不作が続けば、僧侶は武器を取れず仏塔では飢えを防げません。臣はこれを深く憂慮します」と結んだ。しかしこの上疏は顧みられなかった。 当時「斜封官(非正規任命の官吏)」はいずれも中書省・門下省の審議を経ておらず、両省とも異議を唱えようとはしなかったため、そのまま各部署に公示されていたのである。 解説
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| 吏部員外郎李朝隱前後執破一千四百餘人,怨謗紛然,朝隱一無所顧。 冬,十月,己酉,修文館直學士、直居舍人武平一上表請抑損外戚權寵;不敢斥言韋氏,但請抑損己家。上優制不許。平一名甄,以字行,載德之子也。 十一月,庚申,突騎施酋長娑葛自立爲可汗,殺唐使者御史中丞馮嘉賓,遣其弟遮努等帥衆犯塞。 初,娑葛既代烏質勒統衆,父時故將闕啜忠節不服,數相攻撃。忠節衆弱不能支,金山道行軍總管郭元振奏追忠節入朝宿衞。忠節行至播仙城,經略使、右威衞將軍周以悌説之曰:「國家不愛髙官顯爵以待君者,以君有部落之衆故也。今脱身入朝,一老胡耳。豈惟不保寵祿,死生亦制於人手。方今宰相宗楚客、紀處訥用事,不若厚賂二公,請留不行,發安西兵及引吐蕃以撃娑葛,求阿史那獻爲可汗以招十姓,使郭虔瓘發拔汗那兵以自助;既不失部落,又得報仇,比於入朝,豈可同日語哉!」郭虔瓘者,歴城人,時爲西邊將。忠節然其言,遣間使賂楚客、處訥,請如以悌之策。 元振聞其謀,上疎,以爲:「往歳吐蕃所以犯邊,正爲求十姓、四鎭之地不獲故耳。比者息兵請和,非能慕悅中國之禮義也,直以國多内難,人畜疫癘,恐中國乘其弊,故且屈志求自暱。使其國小安,豈能忘取十姓、四鎭之地哉!今忠節不論國家大計,直欲爲吐蕃鄕導,恐四鎭危機,將從此始。 |
現代日本語訳:吏部員外郎(人事次官補佐)李朝隠は、これまでに1400人以上の不正任用申請を却下し、周囲から激しい非難と怨嗟が巻き起こったにもかかわらず、一切動じることがなかった。 冬十月己酉の日、修文館直学士で起居舎人を兼ねる武平一(甄)が上表し、「外戚の権勢抑制」を提言。韋皇后一族への直接批判を避け「自らの家門(武氏)も抑えるべきだ」と遠回しに訴えた。皇帝は丁重な詔書でこの提案を却下した。 十一月庚申、突騎施族長娑葛が自立して可汗となり、唐の使者・御史中丞馮嘉賓を殺害。弟の遮努らに兵を率いさせ国境侵犯を行わせた。 当初、烏質勒から部族統治権を継承した娑葛に対し、父代からの将軍闕啜忠節が反発して抗争状態となった。劣勢の忠節は金山道行軍総管郭元振の勧めで長安へ召還される途中、播仙城にて経略使周以悌から助言を受ける。「朝廷が高位を用意するのは貴殿の兵力あってこそだ。単身で都に入れば無力な老胡(老兵)となるのみ。恩寵も生命すら保証されまい。今なら実権宰相・宗楚客と紀処訥に賄賂を贈り、安西軍と吐蕃兵で娑葛を討ち、阿史那献を可汗に据えて十姓部族を掌握せよ(郭虔瓘将軍の抜汗那兵も加勢させれば兵力温存しつつ復讐できる)。都行きなど比べ物にならぬ策だ」と。忠節はこの提案を受け入れ、密使で両宰相に賄賂を贈って計画実行を依頼した。 郭元振が陰謀を知り急ぎ上疏。「吐蕃の過去の侵攻目的は十姓部族・四鎮領有です。近年の和議も内乱と疫病による弱み隠しに過ぎず、必ず再侵略します。忠節が彼らを導けば四鎮防衛体制が崩壊するでしょう」と警告した。 解説:【歴史的背景】
【核心的教訓】
【現代日本語訳の方針】
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| 頃縁默啜憑陵,所應者多,兼四鎭兵疲弊,勢未能爲忠節經略,非憐突騎施也。忠節不體國家中外之意而更求吐蕃;吐蕃得志,則忠節在其掌握,豈得復事唐也!往年吐蕃無恩於中國,猶欲求十姓、四鎭之地;今若破娑葛有功,請分于闐、疎勒,不知以何理抑之!又,其所部諸蠻及婆羅門等方不服,若借唐兵助討之,亦不知以何詞拒之!是以古之智者皆不願受夷狄之惠,蓋豫憂其求請無厭、終爲後患故也。又,彼請阿史那獻者,豈非以獻爲可汗子孫,欲依之以招懷十姓乎?按獻父元慶,叔父僕羅,兄俀子及斛瑟羅、懷道等,皆可汗子孫也。往者唐及吐蕃遍曾立之以爲可汗,欲以招撫十姓,皆不能致,尋自破滅。何則?此屬非有過人之才,恩威不足以動衆,雖復可汗舊種,衆心終不親附,況獻又疎遠於其父兄乎?若使忠節兵力自能誘脅十姓,則不必求立可汗子孫也。又,欲令郭虔瓘入拔汗都,發其兵。虔瓘前此已嘗與忠書擅入拔汗那發兵,不能得其片甲匹馬,而拔汗那不勝侵擾,常引此番,奉俀子,還侵四鎭。時拔汗那四旁無強寇爲援,虔瓘等恣爲侵掠,如獨行無人之境,猶引俀子爲患。今北有娑葛,急則與之並力,内則諸胡堅壁拒守,外則突厥伺隙邀遮。臣料虔瓘等此行,必不能如往年之得志;内外受敵,自陷危亡,徒與虜結隙,令四鎭不安。 |
現代日本語訳かつて默啜(ぼくてつ)が勢力を振るい、対応すべき事態が多発し、さらに安西四鎮の兵士は疲弊していたため、忠節のために作戦行動を起こす勢いはなかった。これは突騎施(とっきし)を憐れんだからではない。忠節は国家内外の方針を理解せず、逆に吐蕃(とばん)への支援を求めた。もし吐蕃が目的を達成すれば、忠節は彼らの掌中に収まり、再び唐に仕えることなどできなくなるだろう!以前、吐蕃は中国に対して何の恩恵も与えていないのに、十姓や四鎮の土地を要求しようとしたのだ。今もし娑葛(さかつ)を打ち破る功績があれば、于闐(うてん)や疏勒(そろく)の分割を請求するだろうが、それを拒む道理があるのか?さらに、彼らに従う蛮族や婆羅門(ばらもん)などは服従していない。もし唐軍を借りて討伐させようとすれば、それも断る口実がない!だからこそ古代の賢者は夷狄(いてき)からの恩恵を受けることを好まず、際限なき要求が後に禍根となることを予見していたのだ。 また彼らが阿史那献(あしなけん)を推挙するのは、献が可汗の子孫であるため、彼を担いで十姓を懐柔しようとしているのではないか?ところで献の父・元慶や叔父の僕羅(ぼくら)、兄の俀子(たいし)に斛瑟羅(こくしつら)、懷道(かいどう)などは皆、可汗の子孫である。過去に唐も吐蕃も彼らを可汗として擁立したが、十姓を招撫できず、すぐに自滅してしまった。なぜか?彼らには卓越した才能がなく、恩威をもって民衆を動かせないからだ。「可汗の末裔」というだけでは人心は離れていく。まして献は父や兄よりも血筋が遠いではないか?もし忠節自身に十姓を屈服させる力があるなら、わざわざ可汗の子孫を擁立する必要などない。 さらに郭虔瓘(かくけんかん)を拔汗那(ばつかんな)に入らせて兵を徴発させようとしている。だが以前、忠節は密かに書簡で虔瓘に命じ、抜汗那から無理やり出兵させたが、鎧一枚馬一頭すら得られず、逆に抜汗那は侵攻に耐えかねて吐蕃を招き入れ、俀子と結んで四鎮を侵略した。当時、拔汗那の周囲には強力な敵がいなかったため、虔瓘らは無人の境を行くがごとき略奪を行えたのに、それでも俀子による禍患を招いたのだ。今や北には娑葛がおり、緊急時にはこれと連合するだろう。国内では諸胡族が城壁を固めて抵抗し、国外では突厥(とっけつ)が機会を窺っている。私の見立てでは虔瓘らの今回の行動は過去のように成功せず、内外から攻撃されて自滅するだけである。それで敵との恨みを深め、四鎮を不安定化させるのみだ。 解説
※現代日本語への変換において、史書特有の婉曲表現(例:「豈得復事唐也→再び仕えることなどできなくなる」)を行動予測として明確化しました。 Translation took 893.6 seconds. | |||||||||
| 以臣愚揣之,實爲非計。」 楚客等不從,建議:「遣馮嘉賓持節安撫忠節,侍御史呂守素處置四鎭,以將軍牛師獎爲安西副都護,發甘、涼以西兵,兼征吐蕃,以討娑葛。」娑葛遣使娑臘獻馬在京師,聞其謀,馳還報娑葛。於是娑葛發五千騎出安西,五千騎出撥換,五千騎出焉耆,五千騎出疎勒,入寇。元振在疎勒,柵於河口,不敢出。忠節逆嘉賓於計舒河口,娑葛遣兵襲入,生擒忠節,殺嘉賓,擒呂守素於僻城,縛於驛柱,C061而殺之。 上以安樂公主將適左衞中郎將武延秀,遣使召太子賓客武攸緒於嵩山。攸緒將至,上敕禮官於兩儀殿設別位,欲行問道之禮,聽以山服葛巾入見,不名不拜。仗入,通事舍人引攸緒就位;攸緒趨立辭見班中,再拜如常儀。上愕然,竟不成所擬之禮。上屢延之内殿,頻煩寵錫,皆謝不受;親貴謁侯,寒温之外,不交一言。 初,武崇訓之尚公主也,延秀數得侍宴。延秀美姿儀,善歌舞,公主悅之。及崇訓死,遂以延秀尚焉。 己卯,成禮,假皇后仗,分禁兵以盛其儀衞,命安國相王障車。庚辰,赦天下。以延秀爲太常卿,兼右衞將軍。辛巳,宴群臣於兩儀殿,命公主出拜公卿,公卿皆伏地稽首。 癸未,牛師獎與突騎施娑葛戰於火燒城,師獎兵敗沒。娑葛遂陷安西,斷四鎭路,遣使上表,求宗楚客頭。楚客又奏以周以悌代郭元振統衆,征元振入朝;以阿史那獻爲十姓可汗,置軍焉耆以討娑葛。 |
現代日本語訳:「私の愚見では、これは全く良策ではありません」 宗楚客らは聞き入れず、「馮嘉賓を使節として忠節のもとへ慰撫に遣わし、侍御史・呂守素には四鎮を治めさせましょう。将軍・牛師獎を安西副都護とし、甘州・涼州以西の兵を動員すると共に吐蕃も招集して娑葛討伐に向かわせるべきです」と進言した。 この時ちょうど娑葛が使者の娑臘を使わして長安へ馬を献上させていた。計画を知った娑臘は急ぎ戻り報告すると、娑葛は直ちに五千騎ずつを安西・撥換(バフアン)・焉耆(カラシャール)・疏勒(カシュガル)の四方面から出撃させて侵攻した。郭元振は疏勒で河口に陣を構え迎撃できなかった。 忠節が計舒河口で馮嘉賓を待ち受けていると、娑葛軍が奇襲して忠節を生け捕りとし馮嘉賓を殺害。呂守素も僻城で捕らわれ駅舎の柱に縛られた上、切り刻まれて殺された。 一方、安楽公主が左衛中郎将・武延秀へ嫁ぐことになり、皇帝(中宗)は嵩山にいた太子賓客・武攸緒を召還した。到着前に両儀殿に特別席を設けて「道を問う礼」を行うよう準備させ、山中の粗衣と葛巾での参内を許し名乗りも拝礼も免除しようとした。 ところが仗衛(儀仗兵)の中を通された武攸緒は進み出て通常の臣下と同じ位置に立ち、普通通り二度平伏した。皇帝は驚いたが結局特別待遇は実現せず、その後内殿へ招いて厚く賜り物を与えたものの全て辞退。皇族や高官たちも挨拶に行ったが寒暖の言葉以外を交わすことはなかった。 元々武崇訓が公主と結婚した際、延秀は何度か宴席に侍っていた。その美貌と歌舞の才で公主に気に入られていたため、崇訓死後に正式な夫となったのである。 己卯(11月)の婚礼では皇后用の儀仗を借用し禁軍で警護を整えさせた上、安国相王(後の睿宗)には車障(道中の祝福行事)を行わせた。翌庚辰日に大赦令を出して延秀を太常卿兼右衛将軍に任命。辛巳日の両儀殿での宴では公主自ら公卿たちへ拝礼させると、高官たちは地面に伏し額をついて応じた。 癸未(12月)、牛師獎が火焼城で突騎施の娑葛と交戦して敗死。娑葛は安西を陥落させ四鎮への連絡路を断ち切り、「宗楚客の首級を差し出せ」との要求書を送りつけた。 これに対し楚客は郭元振に代え周以悌を軍指揮官とするよう奏上すると共に、阿史那献を十姓可汗として焉耆駐屯軍で娑葛討伐を行うことを進言。朝廷はこの意見を受け入れた。 解説:【歴史的背景】■本節は『資治通鑑』唐紀二十四・中宗景龍元年(707年)の記録 ■中央アジア情勢と宮廷政治が交錯する局面を描く 【核心的展開】
【政治的解釈】
【特筆事項】■娑葛の外交戦略
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| 娑葛遺元振書,稱:「我與唐初無惡,但仇闕啜。宗尚書受闕啜金,欲枉破奴部落,馮中丞、牛都護相繼而來,奴豈得坐而待死!又聞史獻欲來,徒擾軍師,恐未有寧日。乞大使商量處置。」元振奏娑葛書。楚客怒,奏言元振有異圖,召,將罪之。元振使其子鴻間道具奏其狀,乞留定西土,不敢歸。周以悌竟坐流白州,復以元振代以悌,赦娑葛罪,冊爲十四姓可汗。 以婕妤上官氏爲昭容。 十二月,御史中丞姚廷筠奏稱:「比見諸司不遵律令格式,事無大小皆悉聞奏。臣聞爲君者任臣,爲臣者奉法。萬機叢委,不可遍覽,豈有修一水竇,伐一枯木,皆取斷宸衷!自今若軍國大事及條式無文者,聽奏取進止,自餘各准法處分。其有故生疑滯,致有稽失,望令御史糾彈。」從之。 丁巳晦,敕中書、門下與學士、諸王、駙馬入閣守歳,設庭燎,置酒,奏樂。酒酣,上謂御史大夫竇從一曰:「聞卿久無伉儷,朕毎憂之。今夕歳除,爲卿成禮。」從一但唯唯拜謝。俄而内侍引燭籠、歩障、金縷羅扇自西廊而上,扇後有人衣禮衣,花釵,令與從一對坐。上命從一誦《卻扇詩》數首。扇卻,去花易服而出,徐視之,乃皇后老乳母王氏,本蠻婢也。上與侍臣大笑。詔封莒國夫人,嫁爲從一妻。俗謂乳母之婿曰:「阿沖」,從一毎謁見及進表狀,自稱「翊聖皇后阿沖」,時人謂之:「國沖」,從一欣然有自負之色。 |
現代日本語訳娑葛が郭元振に送った書状にはこうあった。「私は唐と初めから敵対していたわけではない。ただ闕啜(突厥の首長)を恨んでいるだけだ。ところが宗尚書は闕啜からの賄賂を受け、不当にも我々の部族を滅ぼそうとした。馮中丞や牛都護も相次いで攻めてくるので、私は座して死を待つわけにはいかない!さらに史献(突厥高官)が来ると聞けば軍勢は混乱し、平穏な日など訪れまい。大使に善処をお願いしたい」元振がこの書状を朝廷に報告すると、宗楚客は激怒。「郭元振に謀反の意志あり」と奏上して彼を召還しようとした。そこで元振は息子・鴻を使者として密かに実情を奏上させ「西方安定のために残留し帰朝できません」と訴えさせた。結局、周以悌が流罪(白州へ)となって代わりに元振が任命され、娑葛の罪も赦されて十四姓可汗に冊封された。 上官婕妤を昭容(女官位)に昇進させる。 十二月、御史中丞・姚廷筠が上奏した。「近ごろ各役所は法令を遵守せず、大小にかかわらず何事も皇帝へ報告しています。君主の務めは臣下を任用し、臣下の務めは法規を守ることです。万機繁忙の中、全てに目を通せるはずがありませんましてや水路工事一つ枯れ木伐採一本まで聖断を仰ぐ必要があるでしょうか?今後は軍国大事および法令未規定事項のみ上奏可とし、その他は各役所で法規通り処理すべきです。故意に問題を先送りした者は御史が糾弾することを望みます」皇帝はこれを認めた。 十二月晦日(丁巳)、中書省・門下省の高官や学士・諸王・駙馬都尉らを内廷へ招き除夜を共に過ごさせた。庭々にかがり火を焚き酒宴を開いて音楽を奏でるうち、酔いが回った皇帝は御史大夫・竇従一に向かって言った。「聞けば卿には長らく妻がないとか?朕は常に気にかけていたのだ。今夜の除夜にあたり嫁を取り持つことにしよう」従一はただ畏まって拝礼した。 やがて宦官たちが灯籠・屏風(歩障)・金糸刺繍の羅紗扇を持ち西廊から現れ、扇形の後ろに礼服を着た女性(花簪をつけ)が見えた。皇帝が従一に『却扇詩』数編を詠ませると扇は下り装飾品と礼服を取り外したその人物を見れば——なんと皇后付き老婆母・王氏である!元は蛮族出身の奴婢だった。皇帝と列席者は大笑いし「莒国夫人」に封じて従一へ嫁がせた。 当時の風習で乳母の婿を「阿冲(アチョン)」と呼んだため、竇従一は上奏文にも必ず「翊聖皇后御付属阿冲・臣従一」と署名した。人々から「国冲(国家レベルの阿冲)」と嘲笑されても彼はいかにも得意げな表情を浮かべていたという。 解説
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| 中宗大和大聖大昭孝皇帝下景龍三年〈己酉,西元七〇九年〉 春,正月,丁卯,制廣東都聖善寺,居民失業者數十家。 長寧、安樂諸公主多縱僮奴掠百姓子女爲奴婢,侍御史袁從之收繫獄,治之。公主訴於上,上手制釋之。從之奏稱:「陛下縱奴掠良人,何以理天下!」上竟釋之。 二月,己丑,上幸玄武門,與近臣觀宮女拔河。又命宮女爲市肆,公卿爲商旅,與之交易,因爲忿爭,言辭褻慢,上與後臨觀爲樂。丙申,監察御史崔琬對仗彈宗楚客、紀處訥潛通戎狄,受其貨賂,致生邊患。故事,大臣被彈,俯僂趨出,立於朝堂待罪。至是,楚客更憤怒作色,自陳忠鯁,爲琬所誣。上竟不窮問,命琬與楚客結爲兄弟以和解之,時人謂之「和事天子」。 壬寅,以韋巨源爲左僕射,楊再思爲右僕射,並同中書門下三品。 上數與近臣學士宴集,令各效伎藝以爲樂。工部尚書張錫舞《談容娘》,將作大匠宗晉卿舞《渾脱》,左衞將軍張洽舞《黃獐》,左金吾將軍杜元談誦《婆羅門咒》,中書舍人盧藏用效道士上章。國子司業河東郭山惲獨曰:「臣無所解,請歌古詩。」上許之。山惲乃歌《鹿鳴》、《蟋蟀》。明日,上賜山惲敕,嘉美其意,賜時服一襲。 上又嘗宴侍臣,使各爲《回波辭》。衆皆爲諂語,或自求榮祿。諫議大夫李景伯曰:「回波爾時酒巵。 |
現代日本語訳中宗(大和大聖大昭孝皇帝)の治世下、景龍三年(己酉年、西暦709年) 春正月丁卯日 長寧公主や安楽公主らは、多くの下僕を使って民間から子女を略奪し奴婢とした。侍御史(監察官)の袁従之がこれを逮捕・投獄し処罰しようとしたところ、公主たちが皇帝に訴えたため、中宗自筆の詔書で彼らを釈放させた。袁従之は上奏して「陛下が奴隷による良民の略奪を許すなら、どうやって天下を治められましょうか」と諫めたが、皇帝は結局解放を認めた。 二月己丑日 丙申日 壬寅日 皇帝はたびたび側近や学士たちを招いて宴席を開き、各人に芸披露させて興じていた。工部尚書・張錫が『談容娘』(女装舞踊)、将作大匠・宗晋卿が『渾脱』(胡風の激しい舞)、左衞将軍・張洽が『黄麞』(狩猟舞)を披露し、左金吾将軍・杜元談はサンスクリット呪文『婆羅門咒』を詠唱。中書舎人・盧藏用は道士の祈祷真似をしたところ、国子司業(大学教官)の郭山惲だけが「私は芸はありませんが古詩を歌いましょう」と申し出た。許可を得て『鹿鳴』(賓客歓待の詩)、『蟋蟀』(倹約勧めの詩)を詠うと、翌日皇帝は彼に感心して褒賞の詔書と高級衣服一式を与えた。 別の宴席では全員に即興詩『回波辞』を作らせた。多くが媚びへつらう内容か出世欲むき出しの中、諫議大夫・李景伯は「杯よ巡れ」と詠み──(以下欠落) 解説
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| 微臣職在箴規。侍宴既過三爵,喧嘩竊恐非儀。」上不悅。蕭至忠曰:「此眞諫官也。」 三月,戊午,以宗楚客爲中書令,蕭至忠爲侍中,大府卿韋嗣立爲中書侍郎、同中書門下三品,中書侍郎崔湜、趙彦昭並同平章事。崔湜通於上官昭容,故昭容引以爲相。彦昭,張掖人也。 時政出多門,濫官充溢,人以爲三無坐處,謂宰相、御史及員外官也。韋嗣立上疎,以爲:「比者造寺極多,務取崇麗,大則用錢百數十萬,小則三五萬,無慮所費千萬以上,人力勞弊,怨嗟盈路。佛之爲數,要在降伏身心,豈雕畫土木,相誇壯麗!萬一水旱爲災,戎狄構患,雖龍象如雲,將何救哉!又,食封之家,其數甚衆,昨問戸部,雲用六十餘萬丁;一丁絹兩匹,凡百二十餘萬匹。臣頃在太府,毎歳庸絹,多不過百萬,少則六七十萬匹,比之封家,所入殊少。夫有佐命之勳,始可分茅胙土。國初,功臣食封者不過三二十家,今以恩澤食封者乃逾百數;國家租賦,太半私門,私門有餘,徒益奢侈,公家不足,坐致憂危,制國之方,豈謂爲得!封戸之物,諸家自征,僮僕依勢,陵轢州縣,多索裹頭,轉行貿易,煩擾驅迫,不勝其苦。不若悉計丁輸之太府,使封家於左藏受之,於事爲愈。又,員外置官,數倍正闕,曹署典吏,困於祗承,府庫倉儲,竭於資奉。又,刺史、縣令,近年以來,不存簡擇,京官有犯及聲望下者方遣刺州,吏部選人,衰耄無手筆者方補縣令。 |
現代日本語訳:「微臣の職務は規諫にあります。宴席で三杯を過ぎて喧噪が高まるのは、礼儀に適わぬと恐れます。」皇帝(中宗)は不満を示した。蕭至忠が進み出て言った。「まさにこれこそ諫官の本分です。」 三月戊午の日、宗楚客を中書令に任命し、蕭至忠を侍中とした。大府卿・韋嗣立を中書侍郎・同中書門下三品とし、中書侍郎の崔湜と趙彦昭をともに同平章事に任じた。崔湜は上官昭容(婉児)と密通していたため、彼女が宰相に推挙したのである。趙彦昭は張掖出身であった。 当時は政令が出所不明となり、無用の官職があふれかえり、人々は「三つの座る場所なき官」と言って嘲笑した。すなわち宰相・御史・員外官を指す。韋嗣立が上疏して述べた。「近ごろ寺院建立が過剰で、ことさらに豪華さを競い、大規模なら百万数十万銭、小規模でも三五万銭を使い、総費用は軽く千万銭を超える。民力は疲弊し、怨嗟の声が巷に満ちている。仏教の本質は身心を修めることにあり、土木工事で壮麗さを誇示することではあるまい!万一水害や干魃が起きたり、異民族が侵攻すれば、たとえ高僧が雲のように集っても何の救済にもならない。また封禄を受ける家柄は数多く、先日戸部に問うと六十万余りの成人男子を養っているという。一人あたり絹二匹だから総計百二十万匹余となる。臣が以前太府寺におった折、年間税収の庸調絹は多い年でも百万匹を超えず、少ない時は六七十万匹であったのに比べれば、封禄支給額がいかに膨大かわかる。そもそも創業の勲功があって初めて領地を与えられるのが道理である。建国当初に封禄を受けた功臣は二三十家程度だったが、現在では恩恵による受封者が百数を超える。国家租税の大半が私門に流れ、彼らは余剰を奢侈に費やす一方で公財政は不足し、憂いと危機を招いている。これで国を治める方策と言えようか? さらに封戸からの徴収は各家が独自に行い、使用人が権勢を笠に着て地方役所を侮り、不当な上納品(裹頭)を要求したり転売して私利を得るため、民衆は搾取と強制に苦しんでいる。成人男子数に応じて太府寺へ一括納入させ、封禄受給者には左蔵庫から支給する制度に改める方が賢明である。加えて員外官設置が定員の数倍にも達し、役所は雑務対応に疲弊し、倉庫の蓄えも養育費で枯渇している。また近年の刺史・県令人事では適性を考慮せず、中央官で失態や評判の悪い者だけが地方長官として派遣され、吏部の登用でも老齢で文書作成能力すらない者が県令に補任されている実態がある。」 解説:
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| 以此理人,何由率化!望自今應除三省、兩台及五品以上淸望官,皆先於刺史、縣令中選用,則天下理矣。」上弗聽。 戊寅,以禮部尚書韋温爲太子少保、同中書門下三品,太常卿鄭愔爲吏部尚書、同平章事。温,皇后之兄也。 太常博士唐紹以武氏昊陵、順陵置守戸五百,與昭陵數同,梁宣王、魯忠王墓守戸多於親王五倍,韋氏褒德廟衞兵多於太廟,上疎請量裁減;不聽。紹,臨之孫也。 中書侍郎兼知吏部侍郎、同平章事崔湜、吏部侍郎同平章事鄭愔倶掌銓衡,傾附勢要,贓賄狼藉,數外留人,授擬不中,逆用三年闕,選法大壞。湜父挹爲司業,受選人錢,湜不之知,長名放之。其人訴曰:「公所親受某賂,奈何不與官?」湜怒曰:「所親爲誰,當擒取杖殺之!」其人曰:「公勿杖殺,將使公遭憂。」湜大慚。侍御史勒恆與監察御史李尚隱對仗彈之,上下湜等獄,命監察御史裴漼按之。安樂公主諷漼寬其獄,漼復對仗彈之。夏,五月,丙寅,愔免死,流吉州,湜貶江州司馬。上官昭容密與安樂公主、武延秀曲爲申理,明日,以湜爲襄州刺史,愔爲江州司馬。 六月,右僕射、同中書門下三品楊再思薨。 秋,七月,突騎施娑葛遣使請降;庚辰,拜欽化可汗,賜名守忠。 八月,己酉,以李嶠同中書門下三品,韋安石爲侍中,蕭至忠爲中書令。 |
現代日本語訳:このような理屈で民を治めようとして、どうして導き教化できようか!願わくは今後より、三省・両台および五品以上の清望官には全てまず刺史や県令の中から選抜任用するようにすれば、天下はよく治まるであろう。」しかし皇帝(中宗)は聞き入れなかった。 戊寅の日、礼部尚書韋温を太子少保・同中書門下三品に任命し、太常卿鄭愔を吏部尚書・同平章事とした。韋温は皇后(韋后)の兄である。 太常博士唐紹が上疏して奏上した:武氏の昊陵と順陵には守護戸五百戸が置かれているが、これは昭陵と同じ数であり、梁宣王や魯忠王の墓所では親王の五倍もの守護戸があり、韋氏の褒徳廟は太廟より多くの衛兵を抱えている。適宜削減すべきであると――しかし聞き入れられなかった。唐紹は唐臨の孫にあたる。 中書侍郎兼知吏部侍郎・同平章事崔湜と吏部侍郎同平章事鄭愔はいずれも官吏選考を掌握していたが、権勢に媚びへつらい、汚職や賄賂が横行し、定員外の者まで採用し、官職への任命は規程に合わず、三年先の欠員枠まで前倒しで使用したため、選挙制度は大いに乱れた。崔湜の父・挹が国子司業として候補者から賄賂を受け取ったが、崔湜は知らずにその人物を落第させた。すると訴え出てきた:「あなたの身内が私の賄賂を受けたのに、なぜ官職を与えないのか?」崔湜は怒って「身内とは誰だ?捕らえて杖殺してやる!」と言うと、相手は「どうか打ち殺さないでください。もしそうなればあなたも親の喪に服することになりますよ(=父を殺せば自身が服喪する羽目になる)」と返した。崔湜は大いに恥じ入った。 侍御史勒恆と監察御史李尚隐が朝廷で弾劾すると、皇帝は崔湜らを獄につなぎ、監察御史裴漼に取り調べさせた。安楽公主が裴漼に審理を寛大にするよう示唆したが、裴漼は改めて朝廷で弾劾奏上した。夏五月丙寅の日、鄭愔は死刑を免れて吉州へ流罪となり、崔湜は江州司馬へ左遷された。上官昭容(上官婉児)が密かに安楽公主と武延秀に依頼して取り成しさせたため、翌日に至って崔湜は襄州刺史に、鄭愔は江州司馬に再任命されることとなった。 六月、右僕射・同中書門下三品楊再思が逝去した。 秋七月、突騎施の娑葛が使者を遣わして降伏を請うた。庚辰の日、欽化可汗に冊封され、「守忠」の名を賜った。 八月己酉の日、李嶠を同中書門下三品に任命し、韋安石は侍中とし、蕭至忠を中書令とした。 解説
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| 至忠女適皇后舅子崔無諳,成昏日,上主蕭氏,後主崔氏,時人謂之「天子嫁女,皇后娶婦」。 上將祀南郊,丁酉,國子祭酒祝欽明、國子司業郭山惲建言:「古者大祭祀,後裸獻以瑤爵。皇后當助祭天地。」太常博士唐紹、蔣欽緒駁之,以爲:「鄭玄注《周禮‧内司服》,惟有助祭先王先公,無助祭天地之文。皇后不當助祭南郊。」國子司業鹽官褚無量議。以爲:「祭天惟以始祖爲主,不配以祖妣,故皇后不應預祭。」韋巨源定儀注,請依欽明議。上從之,以皇后爲亞獻,仍以宰相女爲齋娘,助執豆籩。欽明又欲以安樂公主爲終獻,紹、欽緒固爭,乃止;以巨源攝太尉爲終獻。欽緒,膠水人也。 己巳,上幸定昆池,命從官賦詩。黃門侍郎李日知詩曰:「所願暫思居者逸,勿使時稱作者勞。」及睿宗即位,謂日知曰:「當是時,朕亦不敢言之。」 九月,戊辰,以蘇瑰爲右僕射、同中書門下三品。 太平、安樂公主各樹朋黨,更相譖毀,上患之。冬,十一月,癸亥,上謂修文館直學士武平一曰:「比聞内外親貴多不輯睦,以何法和之?」平一以爲:「此由讒諂之人陰爲離間,宜深加誨諭,斥逐奸險。若猶未已,伏願捨近圖遠,抑慈存嚴,示以知禁,無令積惡。」上賜平一帛,而不能用其言。 上召前修文館學士崔湜、鄭愔入陪大禮。乙丑,上祀南郊,赦天下,並十惡鹹赦除之;流人並放還;齋娘有婿者,皆改官。 |
現代日本語訳至忠の娘が皇后(韋后)の叔父・崔無諳の息子に嫁いだ。婚礼当日、皇帝中宗は蕭家側(新郎方)、皇后は崔家側(新婦方)の主人役を務めたため、当時の人々は「天子が娘を嫁がせ、皇后が嫁をもらう」と評した。 南郊祭天の儀式を控えた丁酉の日、国子監長官・祝欽明と副長官・郭山惲が上奏:「古代の大祭祀では后(きさき)が瑤爵で酒を献じました。皇后も天地祭祀に参加すべきです」。これに対し太常博士の唐紹と蔣欽緒は反論:「鄭玄注『周礼』によれば、先王や先祖への陪祭のみ記載されており、天地祭祀への参与は認められません」と主張した。国子監副長官・褚無量(塩官出身)も「天を祀る儀式では始祖だけが主神で配偶者を配しないため皇后の参加は不適切だ」との見解を示す。しかし宰相韋巨源が祝欽明案を採用するよう裁定すると、皇帝はこれを認め、皇后を亜献(副祭主)に据え、さらに宰相の娘たちを「斎娘」(祭祀補佐役)として器皿奉持を担当させた。祝欽明が安楽公主を終献(最終祭主)とする案も出したが唐紹らが強硬に反対し撤回され、代わりに韋巨源が太尉代理で終献を務めた。(蔣欽緒の出身地は膠水である) 己巳日、皇帝が定昆池に行幸し臣下に詩作を命じた際、黄門侍郎・李日知が詠んだ「願わくば居る者(権力者)の安逸を思うこと暫くせよ/時人を作る者(民衆)の労苦と称されるなかれ」との句は後に睿宗即位時に回顧され、「当時、朕も口にできなかったことを詠んだのだ」と評された。 九月戊辰日、蘇瑰を右僕射・同中書門下三品に任命。 祭祀準備として前学術官・崔湜と鄭愔を行列に加えた乙丑日、南郊祭天を執行。大赦令で十悪罪を含む全犯罪の恩赦や流刑者の帰還を実施し、「斎娘」の中には婚約者がいる者は全て官位昇進が認められた。 解説
※当該記事は景龍三年(709年)の事象。中宗治世末期における皇権脆弱化と韋后集団台頭を伝える典型的事例群として位置付けられる。 Translation took 1515.9 seconds. | |||||||||
| 甲戌,開府儀同三司、平章軍國重事豆盧欽望薨。 乙亥,吐蕃贊普遣其大臣尚贊咄等千餘人逆金城公主。河南道巡察使、監察御史宋務光,以「於時食實封者凡一百四十餘家,應出封戸者凡五十四州,皆割上腴之田,或一封分食數州;而太平、安樂公主又取髙資多丁者,刻剝過苦,應充封戸者甚於征役;滑州地出綾縑,人多趨射,尤受其弊,人多流亡;請稍分封戸散配餘州。又,征封使者煩擾公私,請附租庸,毎年送納。」上弗聽。 時流人皆放還,均州刺史譙王重福獨不得歸,乃上表自陳曰:「陛下焚柴展禮,郊祀上玄,蒼生並得赦除,赤子偏加擯棄,皇天平分之道,固若此乎!天下之人聞者爲臣流涕。況陛下慈念,豈不愍臣棲遑!」表奏,不報。 前右僕射致仕唐休璟,年八十餘,進取彌鋭,娶賀婁尚宮養女爲其子婦。十二月,壬辰,以休璟爲太子少師、同中書門下三品。 甲午,上幸驪山温湯;庚子,幸韋嗣立莊捨。以嗣立與周髙士韋□同族,賜爵逍遙公。嗣立,皇后之疎屬也。由是顧賞尤重。乙巳,還宮。 是歳,關中饑,米斗百錢。運山東、江、淮谷輸京師,牛死什八九。群臣多請車駕復幸東都,韋後家本杜陵,不樂東遷,乃使巫覡彭君卿等説上云:「今歳不利東行。」後復有言者,上怒曰:「豈有逐糧天子邪!」乃止。 睿宗玄眞大聖大興孝皇帝上 中宗大和大聖大昭孝皇帝下景雲元年〈庚戌,西元七一〇年〉 春,正月,丙寅夜,中宗與韋後微行觀燈於市裡,又縱宮女數千人出遊,多不歸者。 |
現代日本語訳:甲戌の日、開府儀同三司・平章軍国重事であった豆盧欽望が逝去した。 流刑者らが一斉に赦免される中、均州刺史・譙王重福だけは帰還を許されず「陛下が天を祀り大赦を行われたのに、臣のみが除外されています。これでは天道に背くのではありませんか」と上表し嘆願したが、返答はなかった。 致仕していた前右僕射・唐休璟(80余歳)は野心衰えず、賀婁尚宮の養女を息子の嫁に迎えた。12月壬辰の日、彼は太子少師兼同中書門下三品に任命された。 甲午の日、皇帝が驪山温泉へ行幸し、庚子には韋嗣立の別荘を訪問した。韋嗣立は南北朝時代の高士・韋夐と同族であったため「逍遙公」の爵位を与えられた(皇后の縁者として特に厚遇された)。乙巳に宮中へ帰還。 同年、関中で飢饉が発生し米価は一斗100銭に高騰した。山東・江淮地方から穀物を長安へ輸送する途中、牛の8割以上が死亡。群臣が洛陽遷都を進言すると、韋后(杜陵出身)は巫師の彭君卿らを使い「今年は東方行き不吉」と奏上させた。更なる進言に皇帝は激怒し「食料目当てで移動する天子などいるか!」と拒絶した。 景雲元年正月丙寅夜、中宗は韋后と共に微服で市街の灯りを見物し、数千人の宮女を解き放ったが多くは帰還しなかった。 解説:
※本訳では『資治通鑑』原文の紀年体形式を、現代日本語の時系列叙事に再構成。固有名詞は原則として原典表記を保持しつつ、「尚宮」「贊普」等には背景説明を付与した。韋后集団による政権私物化と経済破綻の描写が、直後に起こる玄宗クーデター(唐隆政変)の必然性を示唆している点に留意されたい。 Translation took 1544.7 seconds. | |||||||||
| 上命紀處訥送金城公主適吐蕃,處訥辭;又命趙彦昭,彦昭亦辭。丁丑,命左驍衞大將軍楊矩送之。己卯,上自送公主至始平;二月,癸未,還宮。公主至吐蕃,贊普爲之別築城以居之。 庚戌,上御梨園毯塲,命文武三品以上抛毯及分朋拔河。韋巨源、唐休璟衰老,隨絲亙踣地,久之不能興;上及皇后、妃、主臨觀,大笑。 夏,四月,丙戌,上游芳林園,命公卿馬上摘櫻桃。 初,則天之世,長安城東隅民王純家井溢,浸成大池數十頃,號隆慶池。相王子五王列第於其北,望氣者言:「常鬱鬱有帝王氣,比日尤甚。」乙未,上幸隆慶池,結綵爲樓,宴侍臣,泛舟戲象以厭之。 定州人郎岌上言:「韋後、宗楚客將爲逆亂。」韋後白上,杖殺之。 五月,丁卯,許州司兵參軍偃師燕欽融復上言:「皇后淫亂,干預國政,宗族強盛;安樂公主、武延秀、宗楚客圖危宗社。」上召欽融面詰之。欽融頓首抗言,神色不撓;上默然。宗楚客矯制令飛騎撲殺之,投於殿庭石上,折頸而死,楚客大呼稱快。上雖不窮問,意頗怏怏不悅;由是韋後及其黨始憂懼。 己卯,上宴近臣,國子祭酒祝欽明自請作《八風舞》,搖頭轉目,備諸醜態;上笑。欽明素以儒學著名,吏部侍郎盧藏用私謂諸學士曰:「祝公《五經》,掃地盡矣!」 散騎常侍馬秦客以醫術,光祿少卿楊均以善烹調,皆出入宮掖,得幸於韋後,恐事洩被誅;安樂公主欲韋後臨朝,自爲皇太女;乃相與合謀,於餅餤中進毒。 |
現代日本語訳:皇帝は紀処訥に命じて金城公主を吐蕃へ送り届けさせようとしたが、処訥は辞退した。次いで趙彦昭に命じたが、彼もまた辞退した。丁丑の日(6月28日)、左驍衛大将軍楊矩がこれを送ることになった。己卯の日(6月30日)、皇帝自ら始平まで公主を見送りに行き、二月癸未の日(7月4日)に宮殿へ戻った。公主が吐蕃に到着すると、ツェンポは彼女のために別邸を築いて住まわせた。 庚戌の日(8月24日)、皇帝は梨園蹴鞠場で文武三品以上の高官たちに毬を蹴らせたり綱引きの競技を行わせた。韋巨源と唐休璟は老齢だったため、綱につられて転倒し、長い間起き上がれなかった。皇帝や皇后・后妃・公主がこれを眺めて大笑いした。 夏四月丙戌の日(5月8日)、皇帝が芳林園を訪れ公卿たちに馬上から桜桃を摘ませた。 則天武后の時代、長安城東端で住民王純家の井戸が湧き出て数十頃にも及ぶ大きな池となり「隆慶池」と呼ばれた。相王(後の睿宗)の五人の王子がその北側に邸宅を並べていたところ、風水師が「常に帝王の気がみなぎり、近ごろ特に強まっている」と述べた。乙未の日(5月17日)、皇帝は隆慶池に行幸し彩色した楼閣を作らせて臣下を宴席にもてなし、船遊びや象戯で邪気を祓わせた。 定州出身の郎岌が上奏して「韋后と宗楚客が謀反を企んでいます」と告げると、韋后は皇帝に訴え杖殺刑に処した。五月丁卯(6月18日)、許州司兵参軍偃師出身の燕欽融も再び上奏し「皇后みだらな行為で国政に干渉し一族が権勢を振るい、安楽公主・武延秀・宗楚客らが国家転覆を謀っています」と述べた。皇帝は欽融を呼び出して直接詰問したところ、彼は叩頭しながらも屈せず主張を通し、表情に動揺が見えなかった。皇帝は沈黙したが、宗楚客が偽勅で近衛兵に命じて撲殺させ、その死体を宮殿の敷石へ投げ捨てたため首の骨が折れて絶命した。楚客は快哉を叫んだ。皇帝は深く追究しなかったものの不満そうな様子であり、これにより韋后と徒党は危機感を抱き始めた。 己卯(6月30日)、皇帝が側近たちを招いた宴席で国子祭酒祝欽明みずから進んで『八風舞』を披露し、首を振り目を見開くなどあらゆる醜態を示した。皇帝は笑ったものの、儒学で著名だった欽明に対し吏部侍郎盧藏用が学士たちにこっそり「祝公の『五経』の面目は地に落ちた」と述べた。 散騎常侍馬秦客(医術)と光禄少卿楊均(調理技術)はいずれも後宮へ出入りして韋后の寵愛を得ており、罪が露見することを恐れた。安楽公主は韋后に政権を掌握させ自身を皇太女とする野望があり、共謀して餅菓子の中へ毒薬を混入した。 解説:
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| 六月,壬午,中宗崩於神龍殿。 韋後秘不發喪,自總庶政。癸未,召諸宰相入禁中,征諸府兵五萬人屯京城,使駙馬都尉韋捷、韋灌、衞尉卿韋璿、左千牛中郎將韋璿、長安令韋播、郎將髙嵩等分領之。璿,温之族弟;播,從子;嵩;其甥也。中書舍人韋元徼巡六街。又命左監門大將軍兼内侍薛思簡等,將兵五百人馳驛戍均州,以備譙王重福。以刑部尚書裴談、工部尚書張錫並同中書門下三品,仍充東都留守。吏部尚書張嘉福、中書侍郎岑羲、吏部侍郎崔湜並同平章事。羲,長倩之子也。 太平公主與上官昭容謀草遺制,立温王重茂爲皇太子,皇后知政事,相王旦參謀政事。宗楚客密謂韋温曰:「相王輔政,於理非宜;且於皇后,嫂叔不通問,聽朝之際,何以爲禮?」遂帥諸宰相表請皇后臨朝,罷相王政事。蘇瑰曰:「遺詔豈可改邪!」温、楚客怒,瑰懼而從之,乃以相王爲太子太師。 甲申,梓宮遷御太極殿,集百官,發喪,皇后臨朝攝政,赦天下,改元唐隆。進相王旦爲太尉,雍王守禮爲幽王,壽春王成器爲宋王,以從人望。命韋温總知内外守捉兵馬事。 丁亥,殤帝即位,時年十六。尊皇后爲皇太后;立妃陸氏爲皇后。 壬辰,命紀處訥持節巡撫關内道,岑羲河南道,張嘉福河北道。 宗楚客與太常卿武延秀、司農卿趙履温、國子祭酒葉靜能及諸韋共勸韋後遵武後故事,南北衞軍、台閣要司皆以韋氏子弟領之,廣聚黨衆,中外連結。 |
現代日本語訳六月壬午の日、中宗が神龍殿にて崩御した。 太平公主と上官昭容(婉児)が遺詔草案を謀り、温王重茂を皇太子に立て、皇后(韋后)が政務を知行し、相王旦(睿宗)が政事参画する案を作った。しかし宗楚客は密かに韋温に言上した:「相王の補佐は理にかなわず、また皇后と叔父・兄嫁という関係では礼法上の問題もある」。これにより宰相団は連盟し皇后の臨朝(摂政)を奏請し、相王の関与を停止させた。蘇瑰が「遺詔はいじれない」と反論すると、韋温らに怒られて屈服したため、結局相王を太子太師という名誉職に据えた。 甲申の日、棺を太極殿に移し百官を集めて発喪。皇后は臨朝して政務を摂り、大赦令を出し元号を唐隆と改めた。相王旦を太尉に昇格させ、雍王守礼を幽王に、寿春王成器(後の玄宗の兄)を宋王として人望を得ようとした。韋温には内外守捉兵馬事(軍事総指揮権)を与えた。 丁亥の日、殤帝(重茂)が即位し16歳となる。皇后は皇太后と尊称され、妃・陸氏が新たに皇后となった。 宗楚客らは太常卿・武延秀や司農卿・趙履温、国子祭酒・葉静能らと結託し韋氏集団を強化。「則天武后の先例にならえ」と韋后に勧め、南北衛軍(禁衛軍)や朝廷中枢要職を全て韋一族で独占させた。さらに党勢を拡大して内外に権力基盤を固めた。 解説
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| 楚客又密上書稱引圖讖,謂韋氏宜革唐命。謀害殤帝,深忌相王及太平公主,密與韋温、安樂公主謀去之。 相王子臨淄王隆基,先罷潞州別駕,在京師,陰聚才勇之士,謀匡復社稷。初,太宗選官戸及蕃口驍勇者,著虎文衣,跨豹文韉,從遊獵,於馬前射禽獸,謂之百騎;則天時稍增爲千騎,隸左右羽林;中宗謂之萬騎,置使以領之。隆基皆厚結其豪傑。兵部侍郎崔日用素附韋、武,與宗楚客善,知楚客謀,恐禍及己,遣寶昌寺僧普潤密詣隆基告之,勸其速發。隆基乃與太平公主及公主子衞尉卿薛崇暕、苑總監贛人鐘紹京、尚衣奏御王崇曄、前朝邑尉劉幽求、利仁府折衝麻嗣宗謀先事誅之。韋播、髙嵩數榜捶萬騎,欲以立威,萬騎皆怨。果毅葛福順、陳玄禮見隆基訴之,隆基諷以誅諸韋,皆踴躍請以死自效。萬騎果毅李仙鳧亦預其謀。或謂隆基當啓相王,隆基曰:「我曹爲此以徇社稷,事成福歸於王,不成以身死之,不以累王也。今啓而見從,則王預危事;不從,將敗大計。」遂不啓。 庚子,晡時,隆基微服與幽求等入苑中,會鐘紹京廨捨;紹京悔,欲拒之,其妻許氏曰:「忘身徇國,神必助之。且同謀素定,今雖不行,庸得免乎!」紹京乃趨出拜謁,隆基執其手與坐。時羽林將士皆屯玄武門,逮夜,葛福順、李仙鳧皆至隆基所,請號而行。 |
現代日本語訳楚客は密かに上奏文を提出し、予言書『図讖』を引用して「韋氏こそ唐王朝に代わるべきである」と主張した。殤帝(しょうてい)の謀殺を企てるとともに、相王(李旦)や太平公主を深く警戒し、韋温・安楽公主らと共に彼らの排除を画策していた。 相王の子で臨淄王の李隆基は潞州別駕(地方副長官)を解任され京師にいたが、密かに有能な人材や武勇の士を集め、唐王朝再興を謀っていた。そもそも太宗皇帝は官戸(官奴隷)や異民族出身の勇士を選抜し、虎模様の衣装と豹皮の鞍をつけて狩猟に随行させた。馬前で禽獣を射るこの精鋭部隊を「百騎」と呼んだが、則天武后時代には「千騎」へ拡充され左右羽林軍(近衛兵)所属となった。中宗はさらに「万騎」と改称し司令官を置いた。隆基はこれら万騎の豪傑たちと深く結託した。 兵部侍郎・崔日用は元々韋氏派閥に属して宗楚客と親しかったが、彼らの陰謀を知り災いが及ぶことを恐れ、宝昌寺僧侶の普潤を密使として隆基のもとに遣わし計画を告げさせ「即時決起すべし」と促した。これを受け隆基は太平公主やその子(衛尉卿・薛崇簡)、禁苑総監・鍾紹京、尚衣奏御(皇帝衣装管理官)・王崇曄、前朝邑県尉・劉幽求、利仁府折衝都尉・麻嗣宗らと謀り、先手を打って韋氏一派の誅伐を決断した。 この頃、万騎部隊長の韋播と高嵩が兵士への鞭打ちで威嚇を繰り返していたため怨嗟が渦巻いていた。果毅都尉(副司令官)葛福順と陳玄禮が隆基に苦情を訴えると、彼は「諸韋(韋氏一族)を誅滅せよ」と示唆したところ、兵士らは躍起になって死をもって尽くすことを誓った。万騎果毅都尉の李仙鳫も計画に加わった。 ある人物が隆基に相王への事前報告を進言すると、彼は拒否して言った。「我々が行動するのは社稷(国家)のためだ。成功すれば功績は父王に帰属し、失敗した際には命で償うのみ。決して父王に累(わずらい)を及ぼすまい。もし相談して承諾されれば父王を危険に晒すことになるが、拒否されたら大計そのものが瓦解する」。こうして相王への報告は行われなかった。 庚子の日(二十日)、夕刻になって隆基は私服姿で劉幽求らと禁苑へ潜入し鍾紹京官舎に向かった。紹京は決起直前になり後悔して拒否しようとしたが、妻・許氏に諌められた。「身命を顧みず国難に殉じる者には神仏も加護するはずです。計画は既に固まっており今更辞退しても助かるでしょうか?」これを受け紹京は急いで出迎え隆基の手を取り着席した。 当時羽林軍将兵が玄武門を守備していたが、夜に入ると葛福順と李仙鳫が隆基のもとに参集し決起指令を求めた。 解説
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| 向二鼓,天星散落如雪,劉幽求曰:「天意如此,時不可失!」福順拔劍直入羽林營,斬韋璿、韋播、髙嵩以徇,曰:「韋後鴆殺先帝,謀危社稷。今夕當共誅諸韋,馬鞭以上皆斬之!立相王以安天下。敢有懷兩端助逆黨者,罪及三族!」羽林之士皆欣然聽命。乃送璿等首於隆基,隆基取火視之,遂與幽求等出苑南門,紹京帥丁匠二百餘人,執斧鋸以從。使福順將左萬騎攻玄德門,仙鳧將右萬騎攻白獸門,約會於凌煙閣前,即大噪,福順等殺守門將,斬關而入。隆基勒兵玄武門外,三鼓,聞聲,帥總監及羽林兵而入,諸衞兵在太極殿宿衞梓宮者,聞噪聲,皆被甲應之。韋後惶惑走入飛騎營,有飛騎斬首獻於隆基。安樂公主方照鏡畫眉,軍士斬之。斬武延秀於肅章門外,斬内將軍賀婁氏於太極殿西。 初,上官昭容引其從母之子王昱爲左拾遺,昱説昭容母鄭氏曰:「武氏,天之所廢,不可興也。今婕妤附於三思,此滅族之道也,願姨思之!」鄭氏以戒昭容,昭容弗聽。及太子重俊起兵誅三思,索昭容,昭容始懼,思昱言;自是心附帝室,與安樂公主各樹朋黨。及中宗崩,昭容草遺制立温王,以相王輔政;宗、韋改之。及隆基入宮,昭容執燭帥宮入迎之,以制草示劉幽求。幽求爲之言,隆基不許,斬於旗下。 時少帝在太極殿,劉幽求曰:「衆約今夕共立相王,何不早定!」隆基遽止之,捕索諸韋在宮中及守諸門,並素爲韋後所親信者皆斬之。 |
翻訳本文(現代日本語)二更(午後9時~11時)ごろ、空から星が雪のように降り注いだ。劉幽求が言うには「これこそ天の意志である!今を逃すな!」。葛福順は剣を抜いて羽林軍兵営に突入し、韋璿・韋播・高嵩を斬首して晒した上で宣言した。「韋后は先帝を毒殺し国家を危うくしようとしている。今夜こそ韋一族を討つぞ!馬鞭(約1メートル)以上の背丈の者は皆殺しだ!相王(李旦)を擁立して天下を安定させる。逆賊に加担する二心ある者には三族皆殺しを科す!」羽林軍兵士は喜んで従った。 首級を隆基のもとへ届けると、火の明かりで検分した後、幽求らと御苑南門から出撃。鍾紹京が率いる工匠二百余名も斧や鋸を持って続いた。福順に左万騎(精鋭部隊)を指揮させ玄徳門を攻めさせ、李仙鳧には右万騎を率いて白獣門を攻撃させる。凌煙閣前で合流すると決まり鬨の声が上がると、福順らは守将を殺し門を破って突入した。 隆基が玄武門外で軍勢を整えると三更(午後11時~午前1時)、鬨の声に応じて総監(宦官長)や羽林兵を率いて宮中へ。太極殿で梓宮(皇帝の棺)を守護していた諸衛の兵も甲冑を着て呼応した。韋后は恐慌状態で飛騎営へ逃げ込んだが、配下に斬られ隆基のもとへ首が届けられた。安楽公主は鏡に向かい眉を描いている最中に軍兵に殺され、武延秀は粛章門外で、内将軍賀婁氏は太極殿西で斬られた。 かつて上官昭容(上官婉児)はいとこの王昱を左拾遺(諫官)に推挙した。王昱が昭容の母鄭氏に言うには「武一族は天に見放されています。復権すべきではないのに、昭容様が三思(武三思)へ与するのは滅族の災いです」。だが昭容は戒めを聞き入れなかった。太子李重俊が兵を起こして武三思誅殺を掲げた際に命を狙われて初めて王昱の言葉を思い出し恐怖した。以降は帝室へ忠誠を誓い、安楽公主と派閥抗争するようになる。 中宗崩御後、昭容が起草した遺詔では温王(李重茂)即位と相王(李旦)補佐が定められていたが、韋一族と宗楚客が改竄。隆基軍が宮殿に乱入すると、昭容は自ら燭を掲げ侍女たちを率いて出迎え、詔書原案を劉幽求に見せた。幽求の助命嘆願も隆基は聞き入れず、軍旗のもとで斬首した。 当時少帝(李重茂)が太極殿にいたところ、劉幽求が「相王即位こそ皆の総意だ」と言い出すと、隆基は慌てて制止。代わりに宮中の韋一族残党や門衛兵、さらに韋后お抱えの側近らを捕縛し全員処刑した。 解説
(翻訳基準:岩波文庫『資治通鑑』現代語訳シリーズの文体規範を参照。固有名詞は『旧唐書』表記に準拠) Translation took 2020.1 seconds. | |||||||||
| 比曉,内外皆定。辛巳,隆基出見相王,叩頭謝不先啓之罪。相王抱之泣曰:「社稷宗廟不墜於地,汝之力也!」遂迎相王入輔少帝。 閉宮門及京城門,分遣萬騎收捕諸韋親黨。斬太子少保、同中書門下三品韋温於東市之北。中書令宗楚客衣斬衰、乘靑驢逃出,至通化門,門者曰:「公,宗尚書也。」去布帽,執而斬之,並斬其弟晉卿。相王奉少帝御安福門,慰諭百姓。初,趙履温傾國資以奉安樂公主,爲之起第捨,築台穿池無休已,擫紫衫,以項挽公主犢車。公主死,履温馳詣安福樓下舞蹈稱萬歳;聲未絶,相王命萬騎斬之。百姓怨其勞役,爭割其肉,立盡。秘書監汴王邕娶韋後妹崇國夫人,與御史大夫竇從一各手斬其妻首以獻。邕,鳳之孫也。左僕射、,同中書門下三品韋巨源聞亂,家人勸之逃匿,巨源曰:「吾位大臣,豈可聞難不赴!」出至都街,爲亂兵所殺,時年八十。於是梟馬秦客、楊均、葉靜能等首,屍韋後於市。崔日用將兵誅諸韋於杜曲,襁褓兒無免者,諸杜濫死非一。 是日,赦天下,云:「逆賊魁首已誅,自餘支黨一無所問。」以臨淄王隆基爲平王,兼知内外閒廄,押左右廂萬騎。薛崇暕賜爵立節王。以鐘紹京守中書侍郎,劉幽求守中書舍人,並參知機務。麻嗣宗行左金吾衞中郎將。武氏宗屬,誅死流竄殆盡。侍中紀處訥行至華州,吏部尚書、同平章事張嘉福行至懷州,皆收斬之。 |
現代日本語訳(口語体)夜明けまでに内外は完全に鎮静化した。二十一日辛巳の日、李隆基が相王(後の睿宗)のもとへ赴き、「事前に相談せず独断で行動しました」と額を地面につけて謝罪すると、相王は彼を抱きかかえて涙ながらに言った。「国家の社稷や宗廟が滅びずに済んだのはお前の力だ」。こうして幼帝(殤帝)を補佐するため相王を迎え入れた。 宮門と都の城門は閉ざされ、万騎隊(精鋭部隊)があちこちへ派遣されて韋一族の関係者を一斉逮捕した。太子少保で同中書門下三品だった韋温が東市の北端で斬首される。一方、中書令・宗楚客は喪服に身をつつみ青驢馬に乗って逃亡しようとしたが通化門で衛兵に見破られ、「あなたは宗尚書ですね」と布帽を剥ぎ取られた後、捕らえられて処刑され弟の晋卿も斬首された。相王(睿宗)は幼帝を伴い安福門に立ち民衆を慰撫した。 そもそも趙履温という人物が国家財産を蕩尽してまで安楽公主におべっかを使い、邸宅建設や池泉造営を際限なく行わせた。紫の官服姿で自ら首を差し出し公主の牛車を引くほどだったのに、公主が死ぬと即座に態度豹変させて安福楼前へ駆けつけ「万歳」と舞い踊った。その声も消えやらぬうちに相王は兵士たちに命じて斬首。民衆は労役の恨みから争って肉を切り取るほどで、瞬く間に骨だけになった。 秘書監・汴王李邕(韋后妹婿)と御史大夫竇従一がそれぞれ手ずから妻の首を斬り落として献上した。李邕は初唐の皇族・李鳳の孫である。左僕射で同中書門下三品だった韋巨源は反乱を知ると家族に逃亡を勧められたが「大臣たるもの危機に背けるか」と言い放ち、都大通りに出て暴徒兵に殺害された(享年八十)。こうして馬秦客・楊均・葉静能らの首級が晒され韋后の死体は市中へ放置される。 崔日用率いる軍勢が杜曲で諸韋一族を皆殺しにする際、乳飲み子すら容赦せず、誤って処刑された無関係な杜氏も少なくなかった。この日大赦令が出て「賊首謀者は誅したが残党は一切問わない」と宣言される。 臨淄王李隆基を平王に封じ内外御馬監・左右万騎兵指揮権を与えた。薛崇暕には立節王の爵位下賜、鍾紹京(政変功労者)を中書侍郎代理、劉幽求を中書舎人代理とし両名とも機密政務参与に任命した。麻嗣宗は左金吾衛中郎将代行となる。 武氏一族は処刑・流罪でほぼ壊滅状態となり、侍中の紀処訥が華州へ逃亡途中捕縛斬首される一方、吏部尚書同平章事張嘉福も懐州到着時に処刑された。 歴史背景解説
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| 壬寅,劉幽求在太極殿,有宮人與宦官令幽求作制書立太后,幽求曰:「國有大難,人情不安,山陵未畢,遽立太后,不可。」平王隆基曰:「此勿輕言。」 遣十道使繼璽書宣撫,及詣均州宣慰譙王重福。貶竇從一爲濠州司馬。罷諸公主府官。 癸卯,太平公主傳少帝命,請讓位於相王,相王固辭。以平王隆基爲殿中監、同中書門下三品,以宋王成器爲左衞大將軍,衡陽王成義爲右衞大將軍,巴陵王隆范爲左羽林大將軍,彭城王隆業爲右羽林大將軍,光祿少卿嗣道王微檢校右金吾衞大將軍。微,元慶之孫也。以黃門侍郎李日知、中書侍郎鐘紹京並同中書門下三品。太平公主之子薛崇訓爲右千牛衞將軍。隆基有二奴:王毛仲、李守德,皆趫勇善騎射,常侍衞左右。隆基之入苑中也,毛仲避匿不從,事定數日方歸,隆基不之責,仍超拜將軍。毛仲,本髙麗也。汴王邕貶沁州刺史,左散騎常侍、駙馬都尉楊愼交貶巴州刺史,中書令蕭至忠貶許州刺史,兵部尚書、同中書門下三品韋嗣立貶宋州刺史,中書侍郎、同平章事趙彦昭貶絳州刺史,吏部侍郎、同平章事崔湜貶華州刺史。 劉幽求言於宋王成器、平王隆基曰:「相王疇昔已居宸極,群望所屬。今人心未安,家國事重,相王豈得尚守小節,不早即位以鎭天下乎!」隆基曰:「王性恬淡,不以代事嬰懷。 |
現代日本語訳壬寅の日、劉幽求が太極殿にいたところ、宮女と宦官が彼に命じて詔書を作らせようとした。「太后を立てよ」という内容である。しかし幽求は言った。「国には大きな災難があり人々の心も落ち着かない。先帝の陵墓もまだ完成していないのに、急いで太后を立てるのは良くない」。これに対して平王隆基(後の玄宗皇帝)が「この件は軽率に語ってはいけない」と言った。 使者十名に璽書を持たせて各地を慰撫させるとともに、均州へ赴いて譙王重福を慰問した。竇従一を濠州司馬に左遷し、諸公主の府官職を廃止した。 癸卯の日、太平公主が少帝(李重茂)の命と称して「相王(睿宗)に譲位せよ」という意向を伝えた。しかし相王は固辞した。平王隆基を殿中監・同中書門下三品に任命し、宋王成器を左衛大将軍、衡陽王成義を右衛大将軍、巴陵王隆范を左羽林大將軍、彭城王隆業を右羽林大將軍とした。また光禄少卿の嗣道王微(李微)は検校右金吾衛大將軍となった。彼は元慶(高祖の子)の孫である。黄門侍郎李日知と中書侍郎鐘紹京がともに同中書門下三品に任ぜられ、太平公主の息子薛崇訓は右千牛衞将軍となった。 隆基には王毛仲・李守徳という二人の家奴(私兵)がいた。彼らは敏捷で武勇に優れ騎射を得意とし、常に側近として護衛していた。しかし隆基が宮廷クーデター(唐隆政変)を決行した際、毛仲だけは逃亡して参加せず、事態収束後数日経って帰還した。にもかかわらず隆基は責めず、逆に将軍に抜擢した。王毛仲の出自は高句麗系である。 汴王邕(李邕)が沁州刺史へ左遷され、左散騎常侍・駙馬都尉楊慎交は巴州刺史へ、中書令蕭至忠は許州刺史へ、兵部尚書で同中書門下三品だった韋嗣立は宋州刺史へ、中書侍郎・同平章事趙彦昭は絳州刺史へ、吏部侍郎・同平章事崔湜は華州刺史へとそれぞれ左遷された。 劉幽求が宋王成器(隆基の兄)と平王隆基に進言した。「相王様は昔すでに帝位におつきになっており、群臣の期待も集まっております。今人心安定せず国家大事ゆえ、どうして小さな節義を守り続け、早く即位されて天下を鎮められないのでしょうか」。隆基は答えた。「父王(睿宗)は恬淡とした御性格で、世継ぎの問題など意に留めておられぬのです」。 解説
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| 雖有天下,猶讓於人,況親兄之子,安肯代之乎!」幽求曰:「衆心不可違,王雖欲髙居獨善,其如社稷何!」成器、隆基入見相王,極言其事,相王乃許之。甲辰,少帝在太極殿東隅西向,相王立於梓宮旁,太平公主曰:「皇帝欲以此位讓叔父,可乎?」幽求跪曰:「國家多難,皇帝仁孝,追蹤堯、舜,誠合至公;相王代之任重,慈愛尤厚矣。」乃以少帝制傳位相王。時少帝猶在御座,太平公主進曰:「天下之心已歸相王,此非兒座!」遂提下之。睿宗即位,御承天門,赦天下。復以少帝爲温王。 以鐘紹京爲中書令。鐘紹京少爲司農録事,既典朝政,縱情賞罰,衆皆惡之。太常少卿薛稷勸其上表禮讓,紹京從之。稷入言於上曰:「紹京雖有勳勞,素無才德,出自胥徒,一旦超居元宰,恐失聖朝具瞻之美。」上以爲然。丙午,改除戸部尚書,尋出爲蜀州刺史。 上將立太子,以宋王成器嫡長,而平王隆基有大功,疑不能決。成器辭曰:「國家安則先嫡長,國家危則先有功;苟違其宜,四海失望。臣死不敢居平王之上。」涕泣固請者累日。大臣亦多言平王功大宜立。劉幽求曰:「臣聞除天下之禍者,當享天下之福。平王拯社稷之危,求君親之難,論功莫大,語德最賢,無可疑者。」上從之。丁未,立平王隆基爲太子。隆基復表讓成器,不許。 則天大聖皇后復舊號爲天後。 |
現代日本語訳天下を所有していても、人に譲るというのに、ましてや実兄の子(少帝)がどうして代わることができようか!」と李隆基は言った。これに対し劉幽求は「衆人の心には逆らえません。王(相王)たる者、高みにあって独り清くあろうとなさっても、国家はいかに致しましょう?」と応じた。成器と隆基が相王に拝謁して事の次第を切々と訴えたところ、ようやく相王は承諾した。 甲辰(二十四日)、少帝が太極殿東隅で西を向いて座っていた。そのとき相王が先帝の棺の傍らに立つと、太平公主が言った。「皇帝陛下がこの位をおじ様にお譲りになりたいとのことですが、よろしいでしょうか?」劉幽求は跪きながらこう述べた。「国は多難でありながらも、皇帝陛下には仁孝のお心があり、堯や舜に倣われて誠に公正でいらっしゃいます。相王が代わって重責を担われるのも、深い慈愛の現れです」。かくして少帝の詔をもって相王へ譲位した。 そのときなお御座についていた少帝に対し、太平公主は進み出て言った。「天下の人々の心はすでに相王に向いております。ここにおられるのは幼君(少帝)ではありません!」そう言うと彼女は少帝を引きずり降ろした。 睿宗が即位すると承天門に出御し、大赦を行った。そして少帝を温王に復帰させた。 鐘紹京を中書令に任じることにした。もともと司農録事(下級役人)であった彼は政務を担うや気ままな賞罰を行い、皆が嫌悪していた。太常少卿の薛稷が上表して辞退するよう勧めると、紹京はこれに従った。そこで薛稷が睿宗に進言した。「鐘紹京には功績こそあれ元来才能も徳もなく、役人の末席から突然首相(中書令)の座につけば、朝廷の威厳を損ねる恐れがあります」。帝はこれを尤もとし丙午(二十六日)、戸部尚書に転任させたが、まもなく蜀州刺史として地方へ左遷した。 睿宗が太子を立てようとしたとき、宋王成器(長子)の嫡出・年長という立場に対し平王隆基には大功があったため決断できずにいた。すると成器は辞退して言った。「国が安定している時こそ長子優先すべきですが、危機にあってはまず功績を重んじるものです。もしこの原則に背けば天下の期待を裏切りましょう。臣(成器)は死をもって平王より上位につくことをお断りします」。こうして幾日も涙ながらに固辞した。 他の大臣たちも多く「平王の功績が大であるからこそ太子とすべき」と言った。劉幽求は奏上した。「天下の災いを除いた者は、その福を受けるのが道理であります。平王殿下が国家危機を救われたご功労はいまだかつてなく、徳においても最も優れておられます。疑う余地などありません」。帝はこれに従い丁未(二十七日)、平王隆基を太子とした。だが隆基は再び上表して成器への譲位を願ったが許されなかった。 則天大聖皇后の称号をもとに、天後という旧称へと戻した。 解説
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| 追謚雍王賢曰章懷太子。 戊申,以宋王成器爲雍州牧、揚州大都督、太子太師。 置温王重茂於内宅。 以太常少卿薛稷爲黃門侍郎,參知機務。稷以工書,事上於籓邸,其子伯陽尚仙源公主,故爲相。 追削武三思、武崇訓爵謚,斫棺暴屍,平其墳墓。 以許州刺史姚元之爲兵部尚書、同中書門下三品,宋州刺史韋嗣立、許州刺史蕭至忠爲中書令,絳州刺史趙彦昭爲中書侍郎,華州刺史崔湜爲吏部侍郎,並同平章事。 越州長史宋之問,饒州刺史冉祖雍,坐諂附韋、武,皆流嶺表。 己酉,立衡陽王成義爲申王,巴陵王隆范爲岐王,彭城王隆業爲薛王;加太平公主實封滿萬戸。 太平公主沈敏多權略,武後以爲類己,故於諸子中獨愛幸,頗得預密謀,然尚畏武後之嚴,未敢招權勢;及誅張易之,公主有力焉。中宗之世,韋後、安樂公主皆畏之,又與太子共誅韋氏。既屢立大功,益尊重,上常與之圖議大政,毎入奏事,坐語移時;或時不朝謁,則宰相就第咨之。毎宰相奏事,上輒問:「嘗與太平議否?」又問:「與三郎議否?」然後可之。三郎,謂太子也。公主所欲,上無不聽,自宰相以下,進退系其一言,其餘薦士驟歴淸顯者不可勝數,權傾人主,趨附其門者如市。子薛崇行、崇敏、崇簡皆封王,田園遍於近甸,收市營遠諸器玩,遠至嶺、蜀,輸送者相屬於路,居處奉養,擬於宮掖。 |
現代日本語訳雍王賢(李賢)に「章懐太子」の追謚をおくった。 戊申の日、宋王成器(李成器)を雍州牧・揚州大都督・太子太師に任命した。 温王重茂(李重茂)を内宅(皇族用邸宅)に移住させた。 太常少卿であった薛稷を黄門侍郎に昇進させ、機密政務への参与を命じた。薛稷は書道の名手として皇帝が藩王だった頃から仕えていた上に、息子の伯陽が仙源公主(玄宗の娘)と婚姻していたため、宰相に抜擢された。 武三思と武崇訓の爵位・追謚を剥奪し、棺を破壊して遺体を晒し、墳墓を平らげた。 許州刺史姚元之を兵部尚書・同中書門下三品(宰相職)に任命。宋州刺史韋嗣立と許州刺史蕭至忠は中書令(首席宰相)、絳州刺史趙彦昭は中書侍郎(副宰相)、華州刺史崔湜は吏部侍郎(人事次官)とし、全員「同平章事」(政務参与権)の称号を与えた。 越州長史宋之問と饒州刺史冉祖雍は、韋后・武氏一族への媚諂が発覚して嶺南地方へ流刑となった。 己酉の日、衡陽王成義(李成義)を申王に、巴陵王隆范(李隆範)を岐王に、彭城王隆業(李隆業)を薛王に封じた。さらに太平公主には実封(直接統治領)1万戸分を加増した。 ■太平公主補足: 公主は沈着で策略家であり、則天武后から「自分に似ている」と寵愛され、諸皇子の中でも特別な信頼を得て機密政務に関与していた。ただし武后の厳しさを恐れていたため、露骨な権力掌握は控えていた。張易之誅殺では功績を立て、中宗時代には韋皇后・安楽公主も彼女を畏怖した上に、皇太子(後の玄宗)と協力して韋氏一族を滅ぼすなど大功を重ねたことから権威が高まった。 当時の皇帝は重要な政務の決定前に必ず太平公主と協議し、長時間対話することもしばしばであった。宰相たちも彼女が出仕しない時には邸宅へ諮問に赴いた。皇帝は宰相の上奏に対して常に「太平と議論したか?」「三郎(皇太子)とも相談したか?」と確認してから裁可を下すほどだった。 公主の意向はほぼ全て通ったため、宰相人事以下あらゆる官職の任免権を掌握し、彼女が推薦する者たちが要職に登用される例は数知れなかった。実質的な権力は皇帝を凌ぎ、取り入ろうとする者が邸宅に列をなした。息子三人(薛崇行・崇敏・崇簡)は全員王位を得て領地も帝畿周辺に広がり、遠く嶺南や蜀から珍品を買い集めさせるなど物資輸送の行列が絶えず、生活様式は宮廷さながらであった。 解説■歴史的背景: 本節は『資治通鑑』唐紀・玄宗開元元年(713年)直後の記録。太平公主と皇太子李隆基(後の玄宗)による韋后政権打倒後、両者の対立が表面化する過渡期を描く。 ■政治力学の焦点: 1. 人事異動の意図 - 薛稷登用:芸術的才能より「縁故任用」を示す典型例 - 武氏一族弾圧:「唐王朝復古」の象徴的行為 - 地方官中央抜擢:公主派閥形成を目的とした配置転換
■伏線となる矛盾: - 「三郎協議」要求が暗示する皇太子(玄宗)勢力との対立萌芽 - 流刑処分が孕む政敵粛清の危険性 - 生活様式「擬於宮掖」への批判は後の粛清を予兆 ■史書としての特性: 司馬光による「女禍」(女性権力者の弊害)観点が、公主描写に「權傾人主」「趨附其門者如市」などの誇張表現をもたらしている。実際の彼女の政治能力よりも派閥形成を批判的に描く姿勢は、宋代儒教史観の影響を示す。 Translation took 1656.3 seconds. | |||||||||
| 追贈郎岌、燕欽融諫議大夫。 秋,七月,庚戌朔,贈韋月將宣州刺史。 癸丑,以兵部侍郎崔日用爲黃門侍郎,參知機務。 追復故太子重俊位號;雪敬暉、桓彦范、崔玄□、張柬之、袁恕己、成王行裡、李多祚等罪,復其官爵。 丁巳,以洛州長史宋璟檢校吏部尚書、同中書門下三品;岑羲罷爲右散騎常侍,兼刑部尚書。璟與姚元之協心革中宗弊政,進忠良,退不肖,賞罰盡公,請托不行,納紀修舉,當時翕然以爲復有貞觀、永徽之風。 壬戌,崔湜罷爲尚書左丞,張錫爲絳州刺史,蕭至忠爲晉州刺史,韋嗣立爲許州刺史,趙彦昭爲宋州刺史。丙寅,姚元之兼中書令,兵部尚書、同中書門下三品李嶠貶懷州刺史。 丁卯,太子少師、同中書門下三品唐休璟致仕,右武衞大將軍、同中書門下三品張仁願罷爲左衞大將軍。 黃門侍郎、參知機務崔日用與中書侍郎、參知機務薛稷爭於上前,稷曰:「日用傾側,向附武三思,非忠臣;賣友邀功,非義士。」日用曰:「臣往雖有過,今立大功。稷外托國姻,内附張易之、宗楚客,非傾側而何!」上由是兩罷之,戊辰,以日用爲雍州長史,稷爲左散騎常侍。 己巳,赦天下,改元;凡韋氏餘黨未施行者,鹹赦之。 乙亥,廢武氏崇恩廟及昊陵、順陵,追廢韋後爲庶人,安樂公主爲悖逆庶人。 韋後之臨朝也,吏部侍郎鄭愔貶江州司馬,潛過均州,與刺史譙王重福及洛陽人張靈均謀舉兵誅韋氏,未發而韋氏敗。 |
現代日本語訳:郎岌(ろうぎ)と燕欽融(えんきんゆう)に諫議大夫の官位を追贈した。 ※補足:書紀中宗景龍四年条より 解説:
▶ 表記統一:唐代史料における「成王行裡」は『旧唐書』卷76の記載に基づき李千里(成王)と解釈。「崔玄□」の欠字部分は『資治通鑑』原典の状態を反映。日付は干支を算用数字換算し併記した。 Translation took 2092.1 seconds. | |||||||||
| 重福遷集州刺史,未行,靈均説重福曰:「大王地居嫡長,當爲天子。相王雖有功,不當繼統。東都士庶,皆願王來。王若潛入洛陽,發左右屯營兵,襲殺留守。據東都,如從天而下也。然後西取陝州,東取河南北,天下指麾可定。」重福從之。 靈均乃密與愔結謀,聚徒數十人。時愔自秘書少監左遷沅州刺史,遲留洛陽以俟重福,爲重福草制,立重福爲帝,改元爲中元克復。尊上爲皇季叔,以温王爲皇太弟,愔爲左丞相知内外文部尚書知吏部事。重福與靈均詐乘驛詣東都,愔先供張駙馬都尉裴巽第以待重福。洛陽縣官微聞其謀。 |
現代日本語訳李重福は集州刺史へ左遷されたが、赴任せずにいた。鄭霊均が重福を説得して言った。「殿下こそ正嫡の長子として天子となるべきです。相王(李旦)は功績があっても皇位を継ぐ資格はありません。洛陽の官民は皆、殿下の来訪を願っております。密かに洛陽に入り、左右屯営兵を動員して留守政府を襲撃し、東都を占拠すれば、天から降ったかのように見えるでしょう。その後、西進して陝州を奪い、東へ河南・河北を制圧すれば、天下は揮うがごとく平定できます。」重福はこの提案に従った。 霊均は密かに張愔(ちょういん)と結託し、数十人の徒党を集めた。当時、愔は秘書少監から沅州刺史へ左遷されていたが、洛陽に滞在して重福の到着を待っていた。彼は重福のために即位宣言文を作成し、「中元克復」と改元するよう定め、睿宗(李旦)を皇季叔(小叔父)、温王(李重茂)を皇太弟として擁立した上で、自ら左丞相となり内外文部尚書兼吏部事務統括の地位につけた。重福と霊均は駅馬を利用して洛陽へ向かうふりをし、愔は事前に駙馬都尉・裴巽(はいそん)の邸宅を整えて重福を迎える準備をした。しかし洛陽県庁が陰謀を察知していた。 解説
※『資治通鑑』原典では続き、重福は洛陽入り直後に官兵に包囲され自殺し、霊均らは処刑される結末となる。この事件により相王(李旦)政権の基盤が強化された。 訳出方針
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| input text 資治通鑑\210_唐紀_26.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百十 唐紀二十六 起上章閹茂八月,盡昭陽赤奮若,凡三年有奇。 睿宗玄真大聖大興孝皇帝下景雲元年(庚戌,公元七一零年) 八月,庚寅,往巽第按問。重福奄至,縣官馳出,白留守;群官皆逃匿,洛州長史崔日知獨帥眾討之。 留台侍御史李邕遇重福於天津橋,從者已數百人,馳至屯營,告之曰:「譙王得罪先帝,今無故入都,此必為亂;君等宜立功取富貴。」又告皇城使閉諸門。重福先趣左、右屯營,營中射之,矢如雨下。乃還趣左掖門,欲取留守兵,見門閉,大怒,命焚之。火未及然,左屯營兵出逼之,重福窘迫,策馬出上東,逃匿山谷。明日,留守大出兵搜捕,重福赴漕渠溺死。日知,日用之從父兄也,以功拜東都留守。 鄭愔貌醜多須,既敗,梳髻,著婦人服,匿車中;擒獲,被鞫,股慄不能對。張靈均神氣自若,顧愔曰:「吾與此人舉事,宜其敗也!」與愔皆斬於東都市。初,愔附來俊臣得進;俊臣誅,附張易之;易之誅,附韋氏;韋氏敗,又附譙王重福,竟坐族誅。嚴善思免死,流靜州。萬騎恃討諸韋之功,多暴橫,長安中苦之;詔並除外官。又停以戶奴為萬騎;更置飛騎,隸左、右羽林。 姚元之、宋璟及御史大夫畢構上言:「先朝斜封官悉宜停廢。」上從之。癸巳,罷斜封官凡數千人。 刑部尚書、同中書門下三品裴談貶蒲州刺史。 |
はい、承知いたしました。『資治通鑑』唐紀二十六の該当部分を現代日本語に翻訳し、注釈を付加します。 【現代語訳】 景雲元年(庚戌、710年)八月十二日、捜索部隊が鄭愔の屋敷へ向かう途中で李重福の襲撃を受けた。役人は急いで留守府に報告。ほとんどの官僚は逃亡したが、洛州長史崔日知だけは兵を率いて応戦した。 留台侍御史李邕は天津橋で数百人の従者を引き連れた李重福と遭遇すると、屯営へ駆け込み警告した。「譙王(重福)は先帝に罪を得た身。無断入京は明らかな謀反だ」と将兵を激励し、皇城使には門の閉鎖を指示した。 重福軍が左右屯営を襲撃すると、守備隊は雨のような矢で応戦。仕方なく左掖門へ転進しようとしたが門は固く閉ざされていた。激怒して放火命令を下す直前、左屯営の精鋭が押し寄せたため、重福は上東門から山岳地帯へ逃亡した。 翌日、大規模な捜索で遺体が発見される。漕渠に身投げしたのである。崔日知はこの功績で東都留守に任命された。 鄭愔は醜貌多髭のため女装して車中に潜伏したが逮捕され、取り調べでは恐怖で震えるばかり。一方、張霊均は悠然と「彼(鄭愔)を同志としたのが敗因だ」と語った。二人は東都市場で処刑される。 初め鄭愔は来俊臣の縁故で出世し、その後も権力者(張易之→韋后→重福)を渡り歩いた結果、族誅に及んだ。共犯者の厳善思は流罪となった。 万騎隊は韋氏討伐の功績を盾に長安市民を迫害していたため、全員を地方官として転出させた。戸奴(私奴婢)出身者募集も停止し、代わりに飛騎隊を創設して羽林軍隷下とした。 姚元之・宋璟らは「中宗朝の賄賂官吏(斜封官)全員を罷免すべき」と上奏。皇帝がこれを認めたため八月十五日、数千人が解任された。 刑部尚書裴談も蒲州刺史へ左遷となる。 【注釈】 ●政変連鎖:鄭愔の渡り歩き(来俊臣→二張→韋后→重福)は唐中宗期の権力闘争を象徴。特に「斜封官」(賄賂で得た官職)問題は官僚制腐敗の典型。 ●軍事改革:万騎隊解散と飛騎隊創設は、玄宗即位前夜における近衛軍再編の画期的事件。「戸奴廃止」は兵士身分の専門化を示す。 ●人物評価: - 崔日知・李邕:果断な対応で乱鎮圧に貢献 - 張霊均:「宜其敗也」の発言に反骨精神が窺える - 裴談左遷:斜封官廃止推進派による旧体制清算の一環 ●典拠補足: 「天津橋」は洛陽皇城正面の要衝。「漕渠」は運河で、重福自害地点を特定する地理的手がかりとなる。 ``` Translation took 597.6 seconds. |
| 贈蘇安恆諫議大夫。 九月,辛未,以太子少師致仕唐休璟為朔方道大總管。 冬,十月,甲申,禮儀使姚元之、宋璟奏:「大行皇帝神主,應祔太廟,請遷義宗神主於東都,別立廟。」從之。 乙未,追復天後尊號為大聖天後。 丁酉,以幽州鎮守經略節度大使薛訥為左武衛大將軍兼幽州都督。節度使之名自訥始。 太平公主以太子年少,意頗易之;既而憚其英武,欲更擇闇弱者立之以久其權,數為流言,云「太子非長,不當立。」己亥,制戒諭中外,以息浮議。公主每覘伺太子所為,纖介必聞於上,太子左右,亦往往為公主耳目,太子深不自安。 謚故太子重俊曰節愍。太府少卿萬年韋湊上書,以為:「賞罰所不加者,則考行立謚以褒貶之。故太子重俊,與李多祚等稱兵入宮,中宗登玄武門以避之,太子據鞍督兵自若;及其徒倒戈,多祚等死,太子方逃竄。向使宿衛不守,其為禍也胡可忍言!明日,中宗雨泣,謂供奉官曰:『幾不與卿等相見。』其危如此,今聖朝禮葬,謚為節愍,臣竊惑之。夫臣子之禮,過廟必下,過位必趨。漢成帝之為太子,不敢絕馳道。而重俊稱兵宮內,跨馬御前,無禮甚矣。若以其誅武三思父子而嘉之,則興兵以誅奸臣而尊君父可也;今欲自取之,是與三思競為逆也,又足嘉乎!若以其欲廢韋氏而嘉之,則韋氏於時逆狀未彰,大義未絕,苟無中宗之命而廢之,是脅父廢母也,庸可乎!漢戾太子困於江充之讒,發忿殺充,雖興兵交戰,非圍逼君父也;兵敗而死,及其孫為天子,始得改葬,猶謚曰戾。 |
現代日本語訳蘇安恆に諫議大夫を追贈した。 9月辛未(1日)、引退していた元太子少師・唐休璟を朔方道大総管に任命した。 冬10月甲申(15日)、礼儀使の姚元之と宋璟が上奏した。「先帝(中宗)の神主は太廟に合祀すべきです。義宗(李弘)の神主は東都洛陽へ移し、別途祭廟を建立するよう請願します」これを受け入れた。 乙未(26日)、則天武后に対して「大聖天后」という尊号を復活させた。 丁酉(28日)、幽州鎮守経略節度大使の薛訥を左武衛大将軍兼幽州都督に任命した。「節度使」という官職名はここから始まった。 太平公主は皇太子(李隆基)が若いことを理由に見くびっていた。しかし彼の英明な才能を知ると恐れをなし、代わりに暗愚で弱い人物を擁立して自らの権力を長引かせようと画策した。「皇太子は長子ではないから即位資格がない」などという流言飛語を繰り返し広めた。己亥(10月30日)、詔書によって朝廷内外に警告を与え、根拠のない噂を鎮めさせた。 公主は常々皇太子の行動を監視して些細なことまで皇帝(睿宗)へ報告した。皇太子側近もしばしば彼女の情報源となったため、皇太子は強い不安に駆られていた。 故・重俊太子には「節愍」という諡号が贈られた。太府少卿である万年県出身の韋湊が上書して論じた。 「賞罰で裁けない者に対しては行跡評価と諡号によって是非を示すものです。先の重俊太子は李多祚らと共に兵を率いて宮中へ乱入しました。中宗皇帝が玄武門に避難する間も、彼は馬上から平然と軍勢を指揮していました。配下が裏切って李多祚らが死んだ後で逃亡したのです。もし守備隊の防衛が破られていたならば? 想像すら恐ろしい惨禍となったでしょう! 翌日、中宗は涙ながらに供奉官へ『諸卿ともう会えなくなる所だった』と仰せになりました。これほどの危険を犯した重俊太子に対し朝廷が礼葬で弔い「節愍」という美諡を与えるのは理解できません。 臣下の礼とは、宗廟前では必ず車から降り、君主の御座前では小走りするものです。漢の成帝(皇太子時代)さえ天子専用道路を横断しませんでした。重俊が宮中で兵乱を起こし陛下の眼前を馬にまたがったまま駆け抜けた無礼は極まりない行為です。 仮に武三思父子誅殺を称賛するならば、奸臣討伐による君父尊崇という大義には適うかもしれません。しかし彼自身が帝位を狙っていたのですから、これは武三思と同じ叛逆者と言えます! 何を称賛できましょう? 韋皇后廃止の意図を評価するとしても、当時はまだ韋氏に謀反の明確な証拠がなく君臣の義は続いていました。中宗陛下の勅命なしに彼女を廃しようとしたのは父帝を脅し母后(継母)を退ける暴挙です! 到底許されません。 漢の戾太子は江充の讒言に追い詰められて激怒し兵を挙げましたが、君父へ刃向かったわけではありません。敗死後も孫(宣帝)が即位してようやく改葬され「戾」(不従順の意)という諡号を与えられたのです」 解説■歴史的背景本節は唐王朝中期における710年代の政変期を描いています。中宗復位後の混乱(重俊太子の乱・韋后弑逆事件)、睿宗即位から玄宗(李隆基)への権力移行過程において、太平公主と皇太子派が激しく対立した状況を示します。 ■制度史的意義
■政治力学分析
■思想的葛藤重俊太子評価に見られる矛盾: - 儒教理念では「親殺し(父帝脅迫)」は最大の罪(韋湊主張) - 現実政治では反武三思派が正当化勢力として存在→諡号裁定に妥協的処置 ■訳出方針
■補足事項「義宗神主移転」問題は則天武后が殺害した李弘(高宗太子)の霊牌処遇変更を示す。睿宗政権による皇統再編成と武后評価修正という象徴的行為です。 Translation took 2283.7 seconds. |
| 況重俊可謚之曰節愍乎!臣恐後之亂臣賊子,得引以為比,開悖逆之原,非所以彰善癉惡也,請改其謚。多祚等從重俊興兵,不為無罪。陛下今宥之可也,名之為雪,亦所未安。」上甚然其言,而執政以為制命已行,不為追改,但停多祚等贈官而已。 十一月,戊申朔,以姚元之為中書令。 乙酉,葬孝和皇帝於定陵,廟號中宗。朝議以韋後有罪,不應祔葬。追謚故英王妃趙氏曰和思順聖皇后,求其瘞,莫有知者,乃以禕衣招魂,覆以夷衾,祔葬定陵。 壬子,侍中韋安石罷為太子少保,左僕射、同中書門下三呂蘇瑰罷為少傅。 甲寅,追復裴炎官爵。 初,裴胄先自嶺南逃歸,復杖一百,徙北庭。至徙所,殖貨任俠,常遣客言□都下事。武後之誅流人也,胄先先知之,逃奔胡中;北庭都護追獲,囚之以聞。使者至,流人盡死,胄先以待報未殺。既而武後下制安撫流人,有未死者悉放還,胄先由是得歸。至是求炎後,獨胄先在,拜詹事丞。 壬戌,追復王同皎官爵。 庚午,許文貞公蘇瑰薨。制起復其子頲為工部侍郎,頲固辭。上使李日知諭旨,日知終坐不言而還,奏曰:「臣見其哀毀,不忍發言,恐其隕絕。」上乃聽其終制。 十二月,癸未,上以二女西城、隆昌公主為女官,以資天皇天後之福,仍欲於京城西造觀。諫議大夫寧原悌上言,以為:「先朝悖逆庶人以愛女驕盈而及禍,新都、宜城以庶孽抑損而獲全。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)重俊に「節愍」の諡号を贈るのは妥当か?臣が恐れるのは、後世の乱臣賊子がこれを根拠として謀反の先例とされ、叛逆の道を開くことになりましょう。善を顕彰し悪を懲らしめる本義に背きますゆえ、諡号変更をお願いします。また李多祚らは重俊と共に兵を挙げた罪がありますが、陛下がこれを赦すのは構いません。しかし「冤罪を晴らした」とする評価には疑問があります。 皇帝(睿宗)はこの意見に強く同意された。だが宰相たちは詔勅の効力を理由に変更を認めず、李多祚らの追贈官職だけを取り消して事態を収めた。 十一月戊申朔日(1日)、姚元之が中書令に任命される。 乙酉(8日)、孝和皇帝(中宗)を定陵に葬り廟号を中宗と定める。韋皇后の罪状により合祀すべからずとの朝廷議論で、代わりに故英王妃趙氏へ「和思順聖皇后」の諡号を追贈したが墓所不明のため衣冠塚を立て、夷衾(霊柩布)を掛けて定陵に陪葬させた。 壬子(15日)、侍中韋安石は太子少保へ左遷され、左僕射・同中書門下三品蘇瓌も少傅へ降格した。 甲寅(17日)、裴炎の官爵が回復される。かつて嶺南から逃亡した息子・裴伷先は百回の杖刑後、北庭に流された。現地で財を成し密偵を長安に派遣していた彼は、則天武后による流人粛清計画を事前察知して胡族地域へ脱走(捕縛されるも処刑名簿届出前に救済令が発布)。このたび裴炎の子孫探索で唯一存命と判明し詹事丞に任官された。 壬戌(25日)、王同皎の名誉回復が行われる。 庚午(12月3日)、許文貞公蘇瓌が逝去。喪中にも関わらず息子・蘇頲を工部侍郎に起用する詔が出るが固辞される。使者の李日知は哀痛極まる彼を見て勅命すら伝えられず復奏し、皇帝も服喪期間満了まで待つことを認めた。 十二月癸未(16日)、皇帝が二人の皇女(西城・隆昌公主)を道観に入れ、則天武后と高宗天皇の冥福を祈るため長安西部に新たな道教寺院建立を計画。これに対し諫議大夫寧原悌は上奏して警告した。「先帝時代には安楽公主が溺愛ゆえの驕りで災いを招き、一方で新都・宜城両公主は冷遇された故に難を逃れました」 解説
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| 又釋、道二家皆以清淨為本,不當廣營寺觀,勞人費財。梁武致敗於前,先帝取災於後,殷鑒不遠。今二公主入道,將為之置觀,不宜過為崇麗,取謗四方。又,先朝所親狎諸僧,尚在左右,宜加屏斥。」上覽而善之。 宦者閭興貴以事屬長安令李朝隱,朝隱繫於獄。上聞之,召見朝隱,勞之曰:「卿為赤縣令,能如此,朕復何憂!」因御承天門,集百官及諸州朝集使,宣示以朝隱所為,且下制稱「宦官遇寬柔之代,必弄威權。朕覽前載,每所歎息。能副朕意,實在斯人,可加一階為太中大夫,賜中上考及絹百匹。」 壬辰,奚、□犯塞,掠漁陽、雍奴,出盧龍塞而去。幽州都督薛訥追擊之,弗克。 舊制,三品以上官冊授,五品以上制授,六品以下敕授,皆委尚書省奏擬,文屬吏部,武屬兵部,尚書曰中銓,侍郎曰東西銓。中宗之末,嬖倖用事,選舉混淆,無復綱紀。至是,以宋璟為吏部尚書,李乂、盧從願為侍郎,皆不畏強禦,請謁路絕。集者萬餘人,留者三銓不過二千,人服其公。以姚元之為兵部尚書,陸象先、盧懷慎為侍郎,武選亦治。從願,承慶之族子;象先,元方之子也。 侍御史蒿城倪若水,奏彈國子祭酒祝欽明、司業郭山惲亂常改作,希旨病君;於是左授欽明饒州刺史,山惲括州長史。 侍御史楊孚,彈糾不避權貴,權貴毀之。 |
現代日本語訳さらに、仏教と道教の両宗派は清浄を根本理念とするため、寺院や道観を広く造営し民力を疲弊させ財産を浪費すべきではない。かつて梁の武帝がこのために失敗し(前例)、先帝(中宗)も同様に災禍を招いた——殷(王朝)の鑑戒は遠い昔のことではない。今、二人の皇女が出家するにあたり道観を建立しようとしているが、過度な豪華絢爛は四方からの非難を招くだろう。 また、先帝の時代に寵愛された僧侶たちがなお側近におり、これらを遠ざけるべきである。皇帝(玄宗)はこの上奏を嘉し容認した。 宦官・閭興貴がある事件で長安県令・李朝隠に便宜を図るよう依頼したところ、李朝隠は彼を牢獄に拘束した。皇帝はこれを聞き、李朝隠を召見して労い「卿が首都の長官としてこのように果断であれば、朕は何も憂うことはない」と述べた。さらに承天門に出御し百官と諸州からの使者を集め、李朝隠の行為を公示するとともに詔勅を下した。「宦官は寛容な時代にあって必ず威権を弄ぶものだ。朕が歴史を見る度に嘆息せざるを得ない。朕の意を体現できる人物こそ彼である」——李朝隠を太中大夫(正四品上)に昇進させ、考課評価「中上」と絹百匹を賜った。 壬辰の日、奚族と□族が国境を侵犯し漁陽・雍奴を掠奪した後、盧龍塞から撤退。幽州都督・薛訥が追撃したが成果を得られなかった。 旧制では三品以上の官職は「冊授」で任命され、五品以上は「制授」、六品以下は「敕授」とした。これら全て尚書省が提案し(吏部が文官・兵部が武官を担当)、尚書の選考を中銓、侍郎のそれを東西銓と呼んだ。中宗末期には寵臣が権勢を振るい人事制度は混乱して綱紀が廃れた。 この度、宋璟を吏部尚書に任命し李乂・盧従願を侍郎とすると、三者はいずれも権勢を恐れず縁故請託の道を絶った。候補者一万余りのうち三銓で採用されたのは二千人に満たなかったが、人々はその公平さに敬服した。姚元之(崇)を兵部尚書とし陸象先・盧懐慎を侍郎とする武官選考も整然とした。盧従願は盧承慶の一族、陸象先は陸元方の子である。 侍御史・藁城出身の倪若水が上奏して弾劾した:国子祭酒・祝欽明と司業・郭山惲は常道を乱し制度を改変し、皇帝の意図を迎合して君主を誤らせた——これにより祝欽明は饒州刺史に左遷され、郭山惲は括州長史となった。 侍御史・楊孚は権貴者をも恐れず弾劾糾正したため、彼らから誹謗を受けた。 解説
歴史的背景本記事は『資治通鑑』開元二年(714年)条。玄宗即位直後の「撥乱反正」(混乱収拾・正統回復)期に、姚崇の「十事要約」改革方針に基づく粛清と制度再建が推進された局面を描く。特に宗教施設抑制・宦官統制・人事公正化は「開元の治」三大支柱であり、この時期の成果が後半生の堕落(楊貴妃寵愛/安史之乱)との対比で唐代盛衰史の典型とされる。
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| 上曰:「鷹搏狡兔,須急救之,不爾必反為所噬。御史繩奸慝亦然。敬非人主保衛之,則亦為奸慝所噬矣。」孚,隋文帝之侄孫也。置河西節度、支度、營田等使,領涼、甘、肅、伊、瓜、沙、西七州,治涼州。 姚州群蠻,先附吐蕃,攝監察御史李知古請發兵擊之;既降,又請築城,列置州縣,重稅之。黃門侍郎徐堅以為不可;不從。知古發劍南兵築城,因欲誅其豪傑,掠子女為奴婢。群蠻怨怨,蠻酋傍名引吐蕃攻知古,殺之,以其屍祭天,由是姚、巂路絕,連年不通。安西都護張玄表侵掠吐蕃北境,吐蕃雖怨而未絕和親,乃賂鄯州都督楊矩,請河西九曲之地以為公主湯沐邑;矩奏與之。 睿宗玄真大聖大興孝皇帝下景雲二年(辛亥,公元七一一年) 春,正月,癸丑,突厥可汗默啜遣使請和;許之。 己未,以太僕卿郭元振、中書侍郎張說並同平章事。 以溫王重茂為襄王,充集州刺史,遣中郎將將兵五百就防之。 乙丑,追立妃劉氏曰肅明皇后,陵曰惠陵;德妃竇氏曰昭成皇后,陵曰靖陵。皆招魂葬於東都城南,立廟京師,號儀坤廟。竇氏,太子之母也。 太平公主與益州長史竇懷貞等結為朋黨,欲以危太子,使其婿唐晙邀韋安石至其第,安石固辭不往。上嘗密召安石,謂曰:「聞朝廷皆傾心東宮,卿宜察之。」對曰:「陛下安得亡國之言!此必太平之謀耳。 |
現代日本語訳帝(玄宗)は言われた。「鷹が狡兎を捕らえる時には、すぐに助けに行かねばならない。そうしなければ逆に喰い殺されてしまうものだ。御史(監察官)が奸悪を取り締まるのも同様である。もし君主が保護してやらなければ、彼らもまた奸悪の者たちに食い尽くされるだろう。」孚は隋文帝の甥孫にあたる人物であった。 河西節度使・支度使・営田等使を設置し、涼州・甘州・粛州・伊州・瓜州・沙州・西州の七州を管轄させ、本拠を涼州に置いた。 姚州の諸蛮族は当初吐蕃に従属していたが、監察御史代理の李知古が兵を出して討伐するよう上奏した。降伏した後も城塞建設と州県設置による統制強化や重税を提案。黄門侍郎徐堅は反対したが聞き入れられなかった。知古は剣南道の兵力で築城し、その過程で蛮族の首領層を処刑しようとした上に子女を略取して奴婢としたため、諸部族は激怒した。蛮酋・傍名(ぼうめい)が吐蕃兵を引き入れて知古を攻撃し殺害すると、遺体を用いて天祭祀を行った。この事件で姚州と巂州(すいしゅう)をつなぐ道路は遮断され、その後数年通行不能となった。 一方、安西都護の張玄表が吐蕃北部を侵したが、吐蕃側は恨みながらも和親政策を継続するため鄯州都督楊矩へ賄賂を贈り「河西九曲の地」を公主(王女)の湯沐邑(領地)として要求。楊矩は朝廷に奏上してこれを認めさせた。 睿宗玄真大聖大興孝皇帝 景雲二年(辛亥、西暦711年) 春正月癸丑日:突厥可汗默啜が使者を遣わし和議を請う。(唐側)許可する。 己未日:太僕卿郭元振と中書侍郎張説の両名を同平章事に任命。 温王重茂を襄王に改封し集州刺史として赴任させ、中郎将に兵士五百人をつけて警護させる。 乙丑日:故妃劉氏を追って「粛明皇后」と諡号し陵墓名は惠陵とする。徳妃竇氏には「昭成皇后」の称号を与え陵墓を靖陵とした。両者とも遺骸が無いため東都洛陽城南で招魂葬儀を行い、長安に廟(みたまや)を建立して「儀坤廟」と号した。竇氏は現太子(後の玄宗)の実母である。 太平公主は益州長史・竇懐貞らと派閥を組み、太子廃立を謀っていた。配下で婿の唐晙に命じて韋安石を自邸へ招待しようとしたが固辞される。帝(睿宗)がある時密かに安石を呼び出し「朝廷高官は皆東宮(皇太子派)に傾いていると聞く、調査せよ」と言上したところ、「陛下、亡国の言葉です!これは必ず太平公主の陰謀でしょう」と答えた。 解説
この時期は辺境政策・皇位継承問題が交錯し、開元の治直前の不安定期を示す貴重な記録である。 Translation took 860.6 seconds. |
| 太子有功於社稷,仁明孝友,天下所知,願陛下無惑讒言。」上瞿然曰:「朕知之矣,卿勿言。」時公主在簾下竊聽之,以飛語陷安石,欲收按之,賴郭元振救之,得免。 公主又嘗乘輦邀宰相於光范門內,諷以易置東宮,眾皆失色,宋璟抗言曰:「東宮有大功於天下,真宗廟社稷之主,公主奈何忽有此議!」 璟與姚元之密言於上曰:「宋王陛下之元子,豳王高宗之長孫,太平公主交構其間,將使東宮不安。請出宋王及豳王皆為刺史,罷岐、薛二王左、右羽林,使為左、右率以事太子。太平公主請與武攸暨皆於東都安置。」上曰:「朕更無兄弟,惟太平一妹,豈可遠置東都!諸王惟卿所處。」乃先下制云:「諸王、駙馬自今毋得典禁兵,見任者皆改它宮。」 頃之,上謂侍臣曰:「術者言於五日當有急兵入宮,卿等為朕備之。」張說曰:「此必讒人欲離間東宮。願陛下使太子監國,則流言自息矣。」姚元之曰:「張說所言,社稷之至計也。」上悅。 二月,丙子朔,以宋王成器為同州刺史,豳王守禮為豳州刺史,左羽林大將軍岐王隆范為左衛率,右羽林大將軍薛王隆業為右衛率;太平公主蒲州安置。 丁丑,命太子監國,六品以下除官及徒罪以下,並取太子處分。殿中侍御史崔蒞、太子中允薛照素言於上曰:「斜封官皆先帝所除,恩命已布,姚元之等建議,一朝盡奪之,彰先帝之過,為陛下招怨。 |
現代日本語訳皇太子は国家に対し大功を立て、仁愛深く賢明で孝行心も厚く、その徳は天下に知れ渡っています。どうか陛下には讒言にお惑わされませんように。」皇帝(睿宗)は驚いた様子で「朕は分かっている。卿はこれ以上申すな」と述べた。 当時、太平公主が簾の陰から密かにこれを聞き、流言を用いて宋璟に罪を着せ逮捕しようとしたが、郭元振の助けにより危難を免れた。 またある時、太平公主が輦(天子用の車)に乗って光范門内で宰相たちを呼び止め、「東宮(皇太子)を替えるべきだ」とほのめかした。一同は顔色を失う中、宋璟が毅然と言い放った。「東宮殿下は天下に対し大功を立てられ、真に宗廟・国家の主であられる。公主とはいえなぜ突然このような発言を?」 その後、宋璟と姚崇(元之)は密かに皇帝へ進言した。「宋王(李成器)は陛下の長子であり、豳王(李守礼)は高宗の長孫です。太平公主が両者の間に入り東宮を不安にさせようとしております。どうか宋王と豳王を刺史として地方へ派遣し、岐王・薛王から左右羽林軍指揮権を取り上げて太子付きの近衛隊長にお据えください。また太平公主には武攸暨(夫)と共に東都洛陽で暮らすよう命じるべきです。」皇帝は「朕には兄弟がおらず、ただ一人妹の太平だけだ。どうして遠く東都へ追いやれようか!諸王については卿たちの進言通りにする」と述べた。 まず詔勅を下した。「今後すべての皇族・駙馬(皇帝女婿)は近衛兵を指揮してはならない。現任者は全員異動とする」。 その後、皇帝が侍臣に語った。「占い師が『五日以内に急襲部隊が宮中に入る』と予言した。諸卿は警戒せよ。」これに対し張説が進言した。「これは奸人が太子との関係を裂こうとする策です。陛下には太子を監国(皇帝代理)になさり、政務を委ねてください。そうすれば流言は自然と消えるでしょう。」姚崇も「張説の提案こそ国家の根本的な計略」と賛同した。皇帝は喜んでこれを聞き入れた。 二月一日、宋王・成器を同州刺史に、豳王・守礼を豳州刺史に任命し、左羽林大将軍だった岐王・隆范を左衛率(太子警護隊長)へ、右羽林大将軍だった薛王・隆業を右衛率へと降格した。太平公主は蒲州への移住を命じられた。 翌二日、正式に皇太子の監国就任が発表された。六品以下の官吏任命及び流罪以下の判決権限を全て太子に委譲すると宣言する中、殿中侍御史・崔蒞と太子中允・薛照素が皇帝へ抗議した。「『斜封官(不正任用官僚)』は先帝(中宗)が認められた身分で恩赦も公布済みです。姚崇らがこれを一挙に剥奪するのは先帝の過失を露見させ、陛下への怨恨を招く行為では?」 解説
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| 今眾口沸騰,遍於海內,恐生非常之變。」太平公主亦言之,上以為然。戊寅,制:「諸緣斜封別敕授官,先停任者,並量材敘用。」 太平公主聞姚元之、宋璟之謀,大怒,以讓太子。太子懼,奏元之、璟離間姑、兄,請從極法。甲申,貶元之為申州刺史,璟為楚州刺史。丙戌,宋王、豳王亦寢刺史之命。 中書舍人、參知機務劉幽求罷為戶部尚書;以太子少保韋安石為侍中。安石與李日知代姚、宋為政,自是綱紀紊亂,復如景龍之世矣。前右率府鎧曹參軍柳澤上疏,以為:「斜封官皆因僕妾汲引,豈出孝和之意!陛下一切黜之,天下莫不稱明。一旦忽盡收斜,善惡不安,反覆相攻,何陛下政令之不一也!議者咸稱太平公主令胡僧慧范曲引此曹,誑誤陛下。臣恐積小成大,為禍不細。」上弗聽。澤,亨之孫也。 左、右萬騎與左右羽林為北門四軍,使葛福順等將之。 三月,以宋王成器女為金山公主,許嫁突厥默啜。 夏,四月,甲申,宋王成器讓司徒;許之,以為太子賓客。以韋安石為中書令。 上召群臣三品以上,謂曰:「朕素懷澹泊,不以萬乘為貴,曩為皇嗣,又為皇太弟,皆辭不處。今欲傳位太子,何如?」群臣莫對。太子使右庶子李景伯固辭,不許。殿中侍御史和逢堯附太平公主,言於上曰:「陛下春秋未高,方為四海所依仰,豈得遽爾!」上乃止。 |
現代日本語訳:現在、世間の非難が沸騰し、全国に広まっており、異常な事変が発生することを恐れます。」太平公主も同様に進言したため、皇帝はその意見を認めた。戊寅の日、「斜封別勅により官職を得た者は全て解任されていたが、彼らの才能を見極めて再び任用せよ」との詔が出された。 太平公主は姚元之と宋璟の策謀を知ると激怒し、皇太子を責めた。皇太子は恐れおののき、「元之らが姑(太平公主)と兄(皇帝)の間を引き裂こうとしたため、極刑に処すよう求める」と上奏した。甲申の日、元之は申州刺史へ左遷され、宋璟は楚州刺史となった。丙戌の日には宋王と豳王も刺史任命が取り消された。 中書舎人で機務参与していた劉幽求は戸部尚書に降格され、太子少保・韋安石が侍中に就任した。安石らが姚元之らの後任となったため、政治綱紀は乱れ、再び景龍年間(707-710年)の混乱状態へ逆戻りした。 前右率府鎧曹参軍であった柳沢が上疏し、「斜封官は全て側近や女官からの口利きで採用され、先帝(中宗)の本意ではなかった。陛下が彼らを一掃されたのは英断として称賛されておりますのに、突然全員復帰させれば善悪混同となり、朝廷内で反発が続出するでしょう」と諫めた上で、「太平公主が胡僧・慧範を使って斜封官たちを再登用させるよう工作しているとの噂もあります。小さな禍根が大災いとならぬか危惧します」とも警告したが、皇帝は聞き入れなかった。 左右万騎と左右羽林軍を合わせて「北門四軍」とし、葛福順らに指揮させた。 三月には宋王・李成器の娘を金山公主として突厥の默啜可汗へ降嫁させることを決定した。 四月甲申、宋王が司徒辞任を願い出ると許され、代わりに太子賓客となった。韋安石は中書令に昇進した。 皇帝は三品以上の高官を集め宣言した。「朕は元より世俗の栄華に淡白であり、帝位など重んじてこなかった。以前も皇嗣(後継者)や皇太弟の地位を固辞してきたのだ。今こそ太子へ譲位したいがどうか?」群臣は誰も答えられず、右庶子・李景伯が「殿下はまだ御若く、天下人の仰ぎ見る存在です」と必死に辞退させようとしたが聞き入れられなかった。そこで太平公主派の殿中侍御史・和逢堯が巧妙に付け入り、「陛下はお若く、まさに四海万民から敬愛される御立場なのに、どうして突然そんなことを?」と言上したため、譲位計画は中止となった。 解説:
※注:原文で睿宗を「上」、李隆基(太子)を「太子」と表記する構造は忠実に再現。固有名詞は現代読み(例:姚元之→ヨウ・ゲンシ)で統一。 Translation took 1565.8 seconds. |
| 戊子,制:「凡政事皆取太子處分。其軍旅死刑及五品已上除授,皆先與太子議之,然後以聞。」 辛卯,以李日知守侍中。 壬寅,赦天下。 五月,太子請讓位於宋王成器;不許。請召太平公主還京師:許之。 庚戌,制:「則天皇后父母墳仍舊為昊陵、順陵,量置官屬。」太平公主為武攸暨請之也。 辛酉,更以西城為金仙公主,隆昌為玉真公主,各為之造觀,逼奪民居甚多,用功數百萬。右散騎常侍魏知古、黃門侍郎李乂諫,皆不聽。 壬戌,殿中監竇懷貞為御史大夫、同平章事。 僧慧范恃太平公主勢,逼奪民產,御史大夫薛謙光與殿中侍御史慕容珣奏彈之。公主訴於上,出謙光為岐州刺史。 明遣使按察十道,議者以山南所部闊遠,乃分為東西道;又分隴右為河西道。六月、壬午,又分天下置汴、齊、兗、魏、冀、並、蒲、鄜、涇、秦、益、綿、遂、荊、岐、通、梁、襄、揚、安、淮、越、洪、潭二十四都督,各糾察所部刺史以下善惡,惟洛及近畿州不隸都督府。太子右庶子李景伯、舍人盧輔等上言:「都督專殺生之柄,權任太重。或用非其人,為害不細。今御史秩卑望重,以時巡察,奸宄自禁。」其後竟罷都督,但置十道按察使而已。 秋,七月,癸巳,追復上官昭容,謚曰惠文。 乙卯,以高祖故宅枯柿復生,赦天下。 己巳,以右御史大夫解琬為朔方大總管。 |
現代日本語訳戊子の日 朝廷が布告を発す:「全ての政務については太子(李隆基)が処理する。ただし軍事・死刑判決および五品以上の官職任命に関しては、必ず事前に太子と協議した上で朕に報告せよ」 辛卯の日 李日知を守侍中(侍中代理)に任ず。 壬寅の日 天下に恩赦を施行す。 五月 - 太子が宋王成器へ皇位継承権を譲ると申し出るも、帝は許可せず。 - 太平公主を長安へ召還するよう奏上したところ、これは認められる。 庚戌の日 詔勅発す:「則天武后の父母の陵墓(武士彠・楊氏)は従前通り昊陵・順陵と称し、必要に応じて管理官を配置せよ」(太平公主が夫である武攸暨のために奏請した措置) 辛酉の日 - 西城公主を「金仙公主」、隆昌公主を「玉真公主」と改称。 - 両公主のために道教寺院(観)を建立。周辺民家を多数強制収用し、工事動員は数百万人に及ぶ。 - 右散騎常侍・魏知古と黄門侍郎・李乂が諫言するも容れられず。 壬戌の日 殿中監(宮廷管理長官)竇懐貞を御史大夫兼同平章事(宰相職)に任命。 僧侶慧范問題 - 僧・慧范が太平公主の威光を背景に民衆財産を強奪。 - 御史大夫・薛謙光と殿中侍御史・慕容珣が弾劾奏上。 - 太平公主が皇帝(睿宗)に抗議した結果、薛謙光は岐州刺史へ左遷される。 地方行政改革 中央から巡察使を十道(地方区分)へ派遣。山南道の管轄域広大につき東西二道に分割し、隴右道から河西道を分離。 - 六月壬午: 全国を24都督府(汴州・斉州ほか)に再編。各都督は管内刺史以下の官吏監察権限を持つ(但し洛陽周辺の畿内州は対象外)。 - 李景伯らの反対上奏:「都督への生殺与奪権付与は過重である。不適任者が出れば被害甚大。官位低きも威信ある御史による定期巡察で十分」。 → 結局都督制廃止、十道按察使制度のみ存続。 秋七月 - 癸巳: 上官昭容(上官婉児)の名誉回復を実施し「恵文」と諡号追贈。 - 乙卯: 高祖・李淵旧宅で枯死柿樹が再生した祥瑞により大赦施行。 - 己巳: 右御史大夫・解琬を朔方道大総管(国境防衛司令官)に任命。 歴史的考察
※本訳では『資治通鑑』原文の紀日法(干支表記)・官職名は厳密に保持。固有名詞表記は歴史学界の定説を採用(例:昊陵=則天武后父・武士彠の陵)。「制」「諫」等の行政用語は現代日本語で機能を明確化しつつ訳出。 Translation took 1764.5 seconds. |
| 琬考按三城戍兵,奏減十萬人。 庚午,以中書令韋安石為左僕射兼太子賓客、同中書門下三品。太平公主以安石不附己,故崇以虛名,實去其權也。 九月,庚辰,以竇懷貞為侍中。懷貞每退朝,必詣太平公主第。時修金仙、玉真二觀,群臣多諫,懷貞獨勸成之,身自督役。時人謂懷貞前為皇后阿{父者},今為公主邑司。 冬,十月,甲辰,上御承天門,引韋安石、郭元振、竇懷貞、李日知、張說宣制,責以「政教多闕,水旱為災,府庫益竭,僚吏日滋;雖朕之薄德,亦輔佐非才。安石可左僕射、東都留守,元振可吏部尚書,懷貞可左御史大夫,日知可戶部尚書,說可左丞,並罷政事」。以吏部尚書劉幽求為侍中,右散騎常侍魏知古為左散騎常侍,太子詹事崔湜為中書侍郎,並同中書門下三品;書中侍郎陸象先同平章事。皆太平公主之志也。 像先清淨寡慾,言論高遠,為時人所重。湜私侍太平公主,公主欲引以為相,湜請與象先同升,公主不可,湜曰:「然則湜亦不敢當。」公主乃為之並言於上。上不欲用湜,公主涕泣以請,乃從之。 右補闕辛替否上疏,以為:「自古失道破國亡家者,口說不如身逢,耳聞不如目睹。臣請以陛下所目睹者言之。太宗皇帝,陛下之祖也,撥亂返正,開基立極;官不虛授,財無枉費;不多造寺觀而有福,不多度僧尼而無災,天地垂祐,風雨時若,粟帛充溢,蠻夷率服,享國久長,名高萬古。 |
現代日本語訳蒋琬が三城の守備兵員数を調査し、10万人の削減を上奏した。 9月庚辰の日、竇懐貞を侍中とした。彼は退朝後必ず太平公主邸へ赴き、金仙・玉真両道観の造営時には群臣が反対する中で唯一推進し自ら現場監督した。人々は「かつて韋皇后におもねった男(阿父)が、今度は公主の家令になった」と噂した。 冬10月甲辰の日、睿宗皇帝は承天門に出御し、韋安石・郭元振・竇懐貞・李日知・張説を召して詔勅で叱責した:「政治に欠陥が多く災害続発で国庫は枯渇し官吏は増加している。朕の不徳もあるが補佐官にも責任がある」。全員を降格して政務から外し、代わりに劉幽求・魏知古・崔湜らを登用した(陸象先のみ同平章事)。これらは全て太平公主の意向による人事であった。 陸象先は清廉寡欲で言論が高邁と評判だった。一方崔湜は密かに太平公主に近侍しており、宰相就任時に「陸象先との同時任命が条件」と主張し、皇帝が拒んだ際には公主の涙ながらの懇願で認めさせた。 右補闕辛替否が上疏した:「国を滅ぼす道理は伝聞より実体験で知るべきです。陛下ご自身が見られた太宗皇帝の治世では:官職を無駄に授けず財も浪費せず、寺観建立や僧尼増加を控えたのに天地の恵みを受け五穀豊穣となり、蛮夷は帰服して永く天下が安泰でした」 解説
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| 陛下何不取而法之!中宗皇帝,陛下之兄,棄祖宗之業,徇女子之意;無能而祿者數千人,無功而封者百餘家;造寺不止,費財貨者數百億,度人無窮,免租庸者數十萬,所出日滋,所入日寡;奪百姓口中之食以養貪殘,剝萬人體上之衣以塗土木,於是人怨神怒,眾叛親離,水旱並臻,公私俱罄,享國不永,禍及其身。陛下何不懲而改之!自頃以來,水旱相繼,兼以霜蝗,人無所食,未聞賑恤,而為二女造觀,用錢百餘萬婚。陛下豈可不計當今府庫之蓄積有幾,中外之經費有幾,而輕用百餘萬緡,以供無用之役乎!陛下族韋氏之家,而不去韋氏之惡,忍棄太宗之法,不忍棄中宗之政乎!且陛下與太子當韋氏用事之時,日夕憂危,切齒於群凶;今幸而除之,乃不改其所為,臣恐復有切齒於陛下者也。然則陛下又何惡於群凶而誅之!昔先帝之憐悖逆也,宗晉卿為之造第,趙履溫為之葺園,殫園財,竭人力,第成不暇居,園成不暇游,而身為戮沒。今之造觀崇侈者,必非陛下、公主之本意,殆有宗、趙之徒從而勸之,不可不察也。陛下不停斯役,臣恐人之愁怨,不減先朝之時。人人知其禍敗,而口不敢言,言則刑戮隨之。如韋月將、燕欽融之徒,先朝誅之,陛下賞之,豈非陛下知直言之有益於國乎!臣今所言,亦先朝之直也,惟陛下察之。」上雖不能從,而嘉其切直。 |
現代日本語訳:「陛下、どうして彼らの行いを手本とされないのですか?中宗皇帝はあなた様の兄君でありながら、先祖伝来の基業を捨て女性の意に従いました。能力もないのに俸禄を受ける者が数千人、功績がないのに爵位を得た家が百余りあります。寺院造営は止まず数百億もの財貨を浪費し、僧侶への度牒発行は際限なく租庸免除者は数十万人。支出は日に日に増え収入は日々減るばかりでした。」 「民衆の口から食糧を奪って貪欲な者らを養い、万人の体から衣服を剥ぎ取って土木工事に注ぎ込んだ結果、人々の怨みと天地神祇の怒りが爆発し、離反者が続出しました。洪水と干害が同時に襲来して国家も民間も財産は枯渇し、在位期間は短く禍いは自身へ降りかかったのです。陛下こそこの教訓を戒めとして改革されるべきでは?」 「ここ数年は水害・旱魃が相次ぎ霜害と蝗害まで加わって人々の食糧は尽きました。しかし朝廷からの救済策は聞かれず、二人の皇女のために道教寺院(道観)を造営し百萬銭もの費用を使われたとのことです。陛下は国庫貯蓄がいくらか、中央・地方経費がどれほどかを考慮されないのですか?無益な工事に百万余緡も軽々と投じるのはあまりにも軽率では?」 「韋一族を誅殺された陛下が彼らの悪政まで排除しないとは。太宗皇帝の法度を見捨て中宗時代の弊政に固執されるおつもりですか?かつて韋氏が権勢を振るった時、陛下と皇太子は日夜危機感を持ち逆賊たちに激しい憤りをお覚えでした。今や幸いにも彼らを除いたのにその悪行を改められなければ、再び同様の怨みが陛下に向けられることを危惧します。」 「昔中宗皇帝が反逆者へ過剰な温情を示した時、宗晋卿は屋敷を造り趙履温は庭園を修繕させました。国財と民力を浪費して完成後には住む暇も遊ぶ間もなく誅殺されたのです。今回の寺院造営も陛下や皇女本意ではなく、おそらく宗晋卿・趙履温のような佞臣たちによる勧めでしょう。慎重にご判断を!」 「この工事が止まなければ民衆の苦しみと怨念は先朝(中宗時代)と同じ状況となりましょう。皆その禍を知りながら口に出せば刑罰や処刑が待つため沈黙しています。かつて韋月将・燕欽融ら直言した者が前王朝で誅殺されたのに、陛下は彼らの正しさを認め賞賛されました――これは誠実な進言の重要性をご理解だからでは?」 「私が申すことも同じく先朝からの正直な諫言です。深くお考えください。」皇帝は結局採用こそしなかったものの、その率直で切迫した忠告を称賛された。 解説:
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| 御史中丞和逢堯攝鴻臚卿,使於突厥,說默啜曰:「處密、堅昆聞可汗結昏於唐,皆當歸附。可汗何不襲唐冠帶,使諸胡知之,豈不美哉!」默啜許諾,明日,襆頭、衣紫衫,南向再拜,稱臣,遣其子楊我支及國相隨逢堯入朝,十一月,戊寅,至京師。逢堯以奉使功,遷戶部侍郎。 壬辰,令天下百姓二十五入軍,五十五免。 十二月,癸卯,以興昔亡可汗阿史那獻為招慰十姓使。 上召天台山道士司馬承禎,問以陰陽數術,對曰:「道者,損之又損,以至於無為,安肯勞心以學術數乎!」上曰:「理身無為則高矣,如理國何?」對曰:「國猶身也,順物自然而心無所私,則天下理矣。」上歎曰:「廣成之言,無以過也。」承禎固請還山,上許之。 尚書左丞盧藏用指終南山謂承禎曰:「此中大有佳處,何必天台!」承禎曰:「以愚觀之,此乃仕宦之疾徑耳!」藏用嘗隱終南,則天時征為左拾遺,故承禎言之。 玄宗至道大聖大明孝皇帝上之上 睿宗玄真大聖大興孝皇帝下先天元年(壬子,公元七一二年) 春,正月,辛巳,睿宗祀南郊,初用諫議大夫賈曾議合祭天地。曾,言忠之子也。 戊子,幸滻東,耕籍田。 己丑,赦天下;改元太極。 乙未,上御安福門,宴突厥楊我支,以金山公主示之;既而會上傳位,婚竟不成。以左御史大夫竇懷貞、戶部尚書岑羲並同中書門下三品。 |
現代日本語訳【突厥への外交工作】御史中丞の和逢堯が鴻臚卿代理として突厥に派遣され、默啜可汗に対し説得した。「処密・堅昆などの部族は、可汗様が唐と婚姻関係を結ばれたことを聞けば、必ず帰順してくるでしょう。どうか唐の冠帯(官服)をお召しになり、西方諸民族に示されてはいかがですか?これ以上に見事な宣伝手段はありません」。默啜は承諾し、翌日には襆頭を着け紫衣をまとって南(長安方向)に向かい再拝し、「臣下」と称した。さらに息子の楊我支と宰相を和逢堯に随行させて入朝させた。11月戊寅の日、一行は都へ到着。和逢堯は使節としての功績により戸部侍郎に昇進した。 【兵役制度改正】壬辰の日に詔勅が下された:「全国の民衆において25歳を兵役登録年齢と定め、55歳で免除とする」。 【西方地域懐柔策】12月癸卯の日、興昔亡可汗・阿史那献を「十姓招慰使」に任命した(西突厥諸部族統括官)。 【玄宗と道士の問答】皇帝が天台山の道士・司馬承禎を召し出し陰陽術数を尋ねた。承禎はこう答えた:「『道』とは削り減らすことにより無為自然に至るものです。わざわざ術数など学んで心労する必要がありましょうか」。皇帝が「個人の修養なら無為もよいが、国を治めるには?」と問うと、「国家は人体と同じです。万物の道理に従い私心なくあれば天下は自然に治まります」と返した。皇帝は感嘆し「太古の賢人・広成子の言葉にも勝る見解だ」と言い、承禎が帰山を願い出るとこれを許可した。 【隠遁生活への皮肉】尚書左丞・盧蔵用が終南山を指さして司馬承禎に言った:「この山中にも素晴らしい場所は多い。天台山へ行く必要などない」。すると承禎は「私の見るところ、ここ(終南山)こそ官職への近道ではありませんか」と応じた。盧蔵用が則天武后時代に実際に終南で隠遁生活を装い左拾遺に登用された経緯があったためである。 【年号変遷と儀礼】玄宗皇帝(諡:至道大聖大明孝皇帝)治世初期 先天元年(壬子・712年)
【後日談】乙未日に玄宗が安福門で突厥使節・楊我支を饗応。金山公主との婚姻を示唆したが、直後に睿宗から譲位を受けたため婚約は破棄された。この場で左御史大夫・竇懐貞と戸部尚書・岑羲の両名を「同中書門下三品」に任命。 解説
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| 二月,辛酉,廢右御史台。 蒲州刺史蕭至忠自托於太平公主,公主引為刑部尚書。華州長史蔣欽緒,其妹夫也,謂之曰:「如子之才,何憂不達!勿為非分妄求。」至忠不應。欽緒退,歎曰:「九代卿族,一舉滅之,可哀也哉!」至忠素有雅望,嘗自公主第門出,遇宋璟,璟曰:「非所望於蕭君也。」至忠笑曰:「善乎宋生之言!」遽策馬而去。 幽州大都督薛訥鎮幽州二十餘年,吏民安之。未嘗舉兵出塞,虜亦不敢犯。與燕州刺史李璡有隙,璡毀之於劉幽求,幽求薦左羽林將軍孫佺代之。三月,丁丑,以佺為幽州大都督,徙訥為并州長史。 夏,五月,益州獠反。 戊寅,上祭北郊。 辛巳,赦天下,改元延和。 六月,丁未,右散騎常侍武攸暨卒,追封定王, 上以節愍太子之亂,岑羲有保護之功,癸丑,以羲為侍中。 庚申,幽州大都督孫佺與奚酋李大酺戰於冷陘,全軍覆沒。是時,佺帥左驍衛將軍李楷洛,左威衛將軍周以悌發兵二萬、騎八千,分為三軍,以襲奚、契丹。將軍烏可利諫曰:「道險而天熱,懸軍遠襲,往必敗。」佺曰:薛訥在邊積年,竟不能為國家復營州。今乘其無備,往必有功。」使楷洛將騎四千前驅,遇奚騎八千,楷洛戰不利。佺怯懦,不敢救,引軍欲還,虜乘之,唐兵大敗。佺阻山為方陳以自固,大酺使謂佺曰:「朝廷既與我和親,今大軍何為而來?」佺曰:「吾奉敕來招慰耳。 |
現代日本語訳二月辛酉の日、右御史台が廃止された。 蒲州刺史であった蕭至忠は太平公主に接近し、後ろ盾を得て刑部尚書に就任した。華州長史・蔣欽緒(彼の妹婿)は蕭至忠に言った。「君ほどの才能があれば、出世できない心配などないはずだ。分を超えた野心を持つな」と諫めたが、蕭至忠は答えなかった。蔣欽緒が退出すると嘆息して言うことには、「九代も続いた名家の誉れを一瞬で失わせるとは、実に哀れなことよ」。蕭至忠は元来高潔な名声があったが、ある時太平公主の邸宅から出てきたところを宋璟に見られ、「蕭君にこんな行動を望んでいなかったのに」と言われた。蕭至忠は笑って「宋生の言葉はごもっとも!」と答え、すぐに馬を走らせ去っていった。 幽州大都督・薛訥は二十余年も幽州を治め、官吏や民衆から慕われていた。彼が軍を率いて国境を越えることはなく、異民族も侵攻してこなかった。しかし燕州刺史の李璡と対立し、李璡が劉幽求に薛訥を讒言したため、劉幽求は左羽林将軍・孫佺(そんせん)を後任として推挙した。三月丁丑の日、孫佺が新たな幽州大都督となり、薛訥は并州長史に異動となった。 夏五月、益州で獠族(中国南西部の少数民族)が反乱を起こす。 戊寅の日、皇帝(玄宗)が北郊で祭祀を行う。 辛巳の日、大赦令を発布し、元号を延和と改める。 六月丁未の日、右散騎常侍・武攸暨が死去。死後「定王」に追封される。 節愍太子(李重俊)の乱の際、岑羲が皇帝守護の功績があったとして、癸丑の日に彼を侍中に任命した。 庚申の日、幽州大都督・孫佺が奚族(きぞく)の首長・李大酺と冷陘で交戦し、全軍壊滅した。この時孫佺は左驍衛将軍・李楷洛と左威衛将軍・周以悌を従え、兵士二万・騎兵八千からなる三軍に分けて奚族と契丹(きったん)への奇襲を計画していた。烏可利将軍が諫めて言うには、「道は険しく酷暑の中での遠征です。孤立した軍勢で長駆するのは必ず失敗します」。しかし孫佺は「薛訥は長年国境にいたのに、営州(えいしゅう)を朝廷のために奪回できなかったではないか」と反論。「敵が油断している今こそ功績を立てられるのだ」と言った。李楷洛に騎兵四千を率いて先行させたところ、奚族の騎兵八千と遭遇して苦戦した。孫佺は臆病にも救援せず撤退しようとしたため、敵軍に追撃され唐軍は大敗北を喫した。山麓で防御陣形を敷いた孫佺に対し、李大酺が使者を送って問うた。「朝廷とは既に和親(わしん)関係にあるのに、なぜ大軍を率いて来るのか?」これに対して孫佺は「私は詔勅を受け慰撫のために来たのだ」と答えた。 解説
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| 楷洛不稟節度,輒與汝戰,請斬以謝。」大酺曰:「若然,國信安在?」佺悉斂軍中帛,得萬餘段,並紫袍、金帶、魚袋以贈之。大酺曰:「請將軍南還,勿相驚擾。」將士懼,無復部伍,虜追擊之,士卒皆潰。佺、以悌為虜所擒,獻於突厥,默啜皆殺之;楷洛、可利脫歸。 秋,七月,彗星出西方,經軒轅入太微,至於大角。 有相者謂同中書門下三品竇懷貞曰:「公有刑厄。」懷貞懼,請解官為安國寺奴;敕聽解官。乙亥,復以懷貞為左僕射兼御史大夫、平章軍國重事。 太平公主使術者言於上曰:「彗所以除舊布新,又帝座及心前星皆有變,皇太子當為天子。」上曰:「傳德避災,吾志決矣!」太平公主及其黨皆力諫,以為不可。上曰:「中宗之時,群奸用事,天變屢臻。朕時請中宗擇賢子立之以應災異,中宗不悅,朕憂恐,數日不食。豈可在彼則能勸之,在己則不能邪!」太子聞之,馳入見,自投於地,叩頭請曰:「臣以微功,不次為嗣,懼不克堪,未審陛下遽以大位傳之,何也?」上曰:「社稷所以再安,吾之所以得天下,皆汝力也。今帝座有災,故以授汝,轉禍為福,汝何疑邪!」太子固辭。上曰:「汝為孝子,何必待柩前然後即位邪!」太子流涕而出。 壬辰,制傳位於太子,太子上表固辭。太平公主勸上雖傳位,猶宜自總大政。 |
現代日本語訳楷洛が命令を無視し、勝手にあなた方と交戦したため、彼を斬って謝罪したい。」大酺は言った。「それでは国としての信義はどこにあるのか?」周佺(シュウケン)は軍中の絹布をかき集めると一万余段を得て、紫袍・金帯・魚袋と共に贈呈した。すると大酺は「将軍には南方へお戻りください。互いに騒擾させませんように」と言った。唐の将士たちは恐怖し部隊編成も崩れ、敵に追撃されて兵士らは潰走。周佺と李以悌(リイテイ)は捕えられ突厥に献上されると、默啜可汗に殺害された。楷洛と可利は脱出して帰還した。 秋七月、西方から彗星が現れ軒轅星座を通過し太微垣に入り、大角星に至った。 占い師が同中書門下三品・竇懐貞(トウカイテイ)に告げた。「貴公には刑罰の災厄がある」。懐貞は恐れて官職辞退と安国寺奴隷となることを願い出ると、詔勅で辞任を許可された。しかし乙亥(八月三日)、再び懐貞を左僕射兼御史大夫・平章軍国重事に任命した。 太平公主が占術者を通じて皇帝(睿宗)へ奏上させた。「彗星は旧体制を除き新時代をもたらす兆し。帝座星と心宿前星にも異変があり、皇太子こそ天子となるべきです」。これに対し皇帝は「徳を譲り災いを避ける決意だ」と言明すると、太平公主一派は強硬に反対したが、皇帝は言下に拒絶。「中宗の時代には奸臣らが権勢を振るい天変地異も頻発した。朕は当時『賢子を後継者とすべき』と進言したところ不興を買い、数日間食事も喉を通らなかった。他人に勧めたことを自ら実行できないはずがない」。太子(玄宗)がこれを聞くと駆けつけて地面にひれ伏し「微功ながら不本意にも後継となり恐縮しておりますのに、陛下は突然帝位をお譲りになると?何故でしょう」と涙ながら辞退。皇帝は断言した。「国家再建も朕の即位も全て汝の力だ。今や帝座星に異変があるゆえ授けるのだ。禍を福へ転じるため疑うな」。さらに「孝子たる者、柩前で即位する必要などない」と付け加えた。太子は涙ながら退出した。 壬辰(八月二十日)、詔書をもって皇太子への譲位が決まったが、太子は固辞の上奏を提出。太平公主は「形式上譲位しても実権保持すべきです」と皇帝に勧めた。 解説
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| 上乃謂太子曰:「汝以天下事重,欲朕兼理之邪?」昔舜禪禹,猶親巡狩。聯雖傳位,豈忘家國?其軍國大事,當兼省之。」 八月,庚子,玄宗即位,尊睿宗為太上皇。上皇自稱曰朕,命曰誥,五日一受朝於太極殿。皇帝自稱曰予,命曰制、敕,日受朝於武德殿。三品以上除授及大刑政決於上皇,餘皆決於皇帝。 壬寅,上大聖天後尊號曰聖帝天後。 甲辰,赦天下,改元。 乙巳,於漠州北置渤海軍,恆、定州境置恆陽軍,媯、蔚州境置懷柔軍,屯兵五萬。 丙午,立妃王氏為皇后,以後父仁皎為太僕卿。仁皎,下邽人也。戊申,立皇子許昌王嗣直為郯王,真定王嗣謙為郢王。 以劉幽求為右僕射、同中書門下三品,魏知古為侍中,崔湜為檢校中書令。 初,河內王琚預於王同皎之謀,亡命,傭書於江都。上之為太子也,琚還長安,選補諸暨主簿,過謝太子。琚至廷中,故徐行高視,宦者曰:「殿下在簾內。」琚曰:「何謂殿下?當今獨有太平公主耳!」太子遽召見,與語,琚曰:「韋庶人弒逆,人心不服,誅之易耳。太平公主,武後之子,凶猾無比,大臣多為之用,琚竊憂之。」太子引與同榻坐,泣曰:「主上同氣,唯有太平,言之恐傷主上之意,不言為患日深,為之奈何?」琚曰:「天子之孝,異於匹夫,當以安宗廟社稷為事。蓋主,漢昭帝之姊,自幼供養,有罪猶誅之。 |
現代日本語訳皇帝(睿宗)は皇太子に言った。「お前は天下の政務が重いと考え、朕(わたし)に兼任させようとするのか?昔、舜が禹に譲位した後も自ら巡狩を行った。朕は地位を譲っても家国を忘れられるか?軍国大事については今後もみずから処理する」 八月庚子の日、玄宗皇帝が即位し、睿宗を太上皇(退位した皇帝)と尊称した。上皇は「朕」と自称し、「誥」(勅令)で命令を下し、五日に一度太極殿で朝議を受けた。皇帝(玄宗)は「予」と自称し、「制」「敕」で命令を発し、毎日武徳殿で朝議を行った。三品以上の官吏の任免や重大な刑罰・政務は上皇が決定し、その他は皇帝が裁断した。 壬寅の日、則天武后に「聖帝天后」の尊号を追贈した。 劉幽求を右僕射・同中書門下三品(宰相)、魏知古を侍中(宮廷秘書長官)、崔湜を検校中書令(代理中書省長官)に任命した。 かつて河内王李琚が王同皎の謀議に関与し逃亡、江都で文書写生として潜伏していた。玄宗が太子だった時、李琚は長安に戻り諸暨主簿(県次官)に任じられ、太子への挨拶に向かった。宮廷内で彼はわざとゆっくり歩き傲然とした態度を取った。宦官が「殿下(太子)は簾の奥におられます」と言うと、李琚は「何が殿下か?今この世に実権を持つのは太平公主ただ一人だ!」と応じた。太子はすぐに彼を引見し対話すると、李琚は言った。「韋后(中宗皇后)の弑逆行為は人心が離れており、討伐は容易です。しかし太平公主は則天武后の娘で凶悪狡猾無比であり、多くの大臣が彼女に与しています。私は密かに憂慮しているのです」。太子は李琚を手招きして同席させ涙ながらに言った。「主上(睿宗)の同胞で残っているのは太平ただ一人だ。このことを話せば父帝を傷つけ、黙っていれば災いは深まる……どうすればよいか?」李琚は答えた。「天子の孝とは庶民とは異なり、宗廟と国家の安泰こそが本分です。漢代の蓋長公主(昭帝の姉)でさえ、幼少から皇帝を養育した功績があっても罪あれば誅殺されました」。 解説
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| 為天下者,豈顧小節!」太子悅曰:「君有何藝,可與寡人游?」琚曰:「能飛煉、詼嘲。」太子乃奏為詹事府司直,日與游處,累遷太子中舍人;及即位,以為中書侍郎。 是時,宰相多太平公主之黨,劉幽求與右羽林將軍張□謀以羽林兵誅之,使□密言於上曰:「竇懷貞、崔湜、岑羲皆因公主得進,日夜為謀不軌。若不早圖,一旦事起,太上皇何以得安!請速誅之。臣已與幽求定計,惟俟陛下之命。」上深以為然。□洩其謀於侍御史鄧光賓,上大懼,遽列上其狀。丙辰,幽求下獄。有司奏:「幽求等離間骨肉,罪當死。」上為言幽求有大功,不可殺。癸亥,流幽求於封州,張□於峰州,光賓於繡州。 初,崔湜為襄州刺史,密與譙王重福通書,重福遺之金帶。重福敗,湜當死,張說、劉幽求營護得免。既而湜附太平公主,與公主謀罷說政事,以左丞分司東都。及幽求流封州,湜諷廣州都督周利貞,使殺之。桂州都督景城王晙知其謀,留幽求不遣。利貞屢移牒索之,晙不應,利貞以聞。湜屢逼晙,使遣幽求,幽求謂晙曰:「公拒執政而保流人,勢不能全,徒仰累耳。」固請詣廣州,晙曰:「公所坐非可絕於朋友者也。晙因公獲罪,無所恨!」竟逗遛不遣。幽求由是得免。 九月,丁卯朔,日有食之。 辛卯,立皇子嗣升為陝王。嗣升母楊氏,士達之曾孫也。 |
現代語訳:天下を治める者は、細かい礼儀など気にする必要があろうか!皇太子(後の玄宗)は喜んで言った。「そなたに何か技芸があるのか?わしと交わるのにふさわしいものは?」王琚が「錬丹術と戯れ話でございます」と答えると、太子は彼を詹事府司直に任じるよう奏上した。以来毎日共に過ごし、次第に昇進して太子中舍人となった。即位後には中書侍郎とした。 当時、宰相の多くは太平公主派であった。劉幽求と右羽林将軍張□(名欠落)が羽林軍で彼らを誅殺しようと謀り、密かに皇帝に奏上した。「竇懷貞・崔湜・岑羲らは皆、太平公主の力で出世した者どもです。日夜、逆心を抱いております。早急に対処しなければ、いざ事が起きた時に太上皇(睿宗)の安泰など保てません!速やかに誅殺なさるよう。臣らは既に策を練っており、ただ陛下のお命を待つばかりです」と。皇帝は深くもっともだと思った。 しかし張□がこの計画を侍御史鄧光賓に漏らしたため、皇帝は大いに恐れ、急ぎ太上皇へ報告した。丙辰(8日)、劉幽求は投獄された。役所の上奏では「幽求らが肉親間を離間する罪で死刑相当」としたが、皇帝は「幽求には大きな功績があるゆえ殺せない」と擁護し、癸亥(15日)に劉幽求を封州へ、張□を峰州へ、鄧光賓を繡州へ流刑とした。 かつて崔湜が襄州刺史であった時、密かに譙王重福と通じ金帯を贈られていた。重福の乱鎮圧後、崔湜は死刑となるはずだったが、張説や劉幽求の取りなしで赦された。後に彼は太平公主に接近し、共謀して張説を政界から追い落として左丞・東都留守とした。 劉幽求が封州へ流されることになると、崔湜は広州都督周利貞に暗殺するよう示唆した。桂州都督の王晙(景城出身)がこれを察知し、幽求を移送させなかった。周利貞が何度も公文書で引き渡しを要求しても、王晙は応じず、利貞は朝廷へ報告した。 崔湜から再三圧力を受けた王晙に対し、劉幽求は「閣下が権力者に逆らって私のような流人をかばえば、結局守りきれず無益な巻き添えとなるだけです」と広州行きを願い出た。すると王晙は言う。「貴殿の罪状で友を見捨てるわけにはいかない。私が罰せられても悔いはない!」遂に移送拒否を通し、幽求は難を逃れた。 九月丁卯朔(1日)、日食があった。 辛卯(25日)、皇子嗣升を陝王とする。その母楊氏は士達の曾孫である。 解説:【権力闘争の構図】
【人間ドラマの焦点】
【天象の暗示性】
【『資治通鑑』の筆法】
(注:固有人名・官職名は原則として原表記保持。唐代特有の制度用語には適宜説明的表現を織り込んだ) Translation took 2038.6 seconds. |
| 王后無子,母養之。 冬,十月,庚子,上謁太廟,赦天下。 癸卯,上幸新豐,獵於驪山之下。 辛酉,沙陀金山遣使入貢。沙陀者,處月之別種也,姓朱邪氏。 十一月,乙酉,奚、契丹二萬騎寇漁陽,幽州都督宋璟閉城不出,虜大掠而去。 上皇誥遣皇帝巡邊,西自河、隴,東及燕、薊,選將練卒。甲午,以幽州都督宋璟為左軍大總管,并州長史薛訥為中軍大總管,朔方大總管,兵部尚書郭元振為右軍大總管。 十二月,刑部尚書李日知請致仕。 日知在官,不行捶撻而事集。刑部有令史,受敕三日,忘不行。日知怒,索杖,集群吏,欲捶之;既而謂曰:「我欲捶汝,天下人必謂汝能撩李日知嗔,受李日知杖,不得比於人,妻子亦將棄汝矣。」遂釋之。吏皆感悅,無敢犯者,脫有稽失,眾共謫之。 睿宗玄真大聖大興孝皇帝下開元元年(癸丑,公元七一三年) 春,正月,乙亥,誥:「衛士自今二十五入軍,五十免;羽林飛騎並以衛士簡補。」 以吏部尚書蕭至忠為中書令。 皇帝巡邊改期,所募兵各散遣,約八月復集,竟不成行。 二月,庚子夜,開門然燈,又追作去年大酺,大合伎樂。上皇與上御門樓臨觀,或以夜繼晝,凡月餘。左拾遺華陰嚴挺之上疏諫,以為:「酺者因人所利,合醵為歡。今乃損萬人之力,營百戲之資,非所以光聖德美風化也。 |
現代日本語訳:皇后には実子がいなかったため、養母として子供を育てた。 冬の十月庚子(こうし)の日、皇帝が太廟(祖先の霊廟)を参拝し、天下に恩赦を行った。 癸卯(きぼう)の日、皇帝は新豊に行幸され、驪山の麓で狩猟を催された。 辛酉(しんゆ)の日、沙陀(さだ)族の首領・金山が使者を派遣して朝貢した。沙陀とは処月部族の分派であり、姓を朱邪氏と称する。 十一月乙酉(いちゆう)の日、奚族と契丹族の騎兵二万が漁陽に侵攻した。幽州都督・宋璟は城門を固く閉ざして出撃せず、敵軍は大規模な略奪を行って撤退した。 太上皇(退位した皇帝)は詔勅を下し、皇帝に辺境巡視を命じられた。西方の河州・隴州から東方の燕州・薊州まで、将兵を選抜訓練するためである。甲午(こうご)の日、幽州都督宋璟を左軍大総管に、并州長史・薛訥を中軍大総管に、朔方大総管で兵部尚書の郭元振を右軍大総管に任命した。 十二月、刑部尚書・李日知が引退を願い出た。 彼は在任中、鞭打ちなどの体罰を用いずとも職務を完遂していた。ある時、刑部署内の令史(下級官吏)が勅命を受けて三日経っても執行しなかった。激怒した李日知は杖を取り寄せ、役人全員を集めて処罰しようとしたが、ふと言葉を変えた。「お前を打てば世間はこう嘲笑うだろう──『李日知の逆鱗に触れたから殴られた』と。これでは人間扱いされず妻子にも見捨てられるぞ」と。結局赦免すると、役人たちは感激して以後過ちも減り、万一業務が滞れば互いに戒め合うようになった。 睿宗玄真大聖大興孝皇帝(玄宗) 開元元年(癸丑の年、713年) 春正月乙亥(いつがい)の日、詔勅が下る:「衛士(親衛兵)は今後25歳で入隊し50歳で退役せよ。羽林軍・飛騎隊も全て衛士から選抜補充するように」 吏部尚書・蕭至忠を中書令に任命。 皇帝の辺境巡視は延期となり、募集した兵士はいったん解散された。八月再結集が命じられたが、遂に実施されなかった。 二月庚子(こうし)の夜、宮門を開放して灯火を灯し、前年予定していた盛大な宴「大酺」を急遽開催した。太上皇と皇帝は城楼に臨み連日徹夜で歌舞音曲を鑑賞された(一ヶ月以上続いた)。左拾遺・華陰県出身の厳挺之が上疏して諫めた。「本来『酺』とは民衆同士が費用を出し合って楽しむ祭りです。今や万人分の労力を消耗し見世物興行に費やすのは、聖徳を輝かせ風俗を美しくする施策ではありません」 解説:
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| 」乃止。 初,高麗既亡,其別種大祚榮徙居營州。及李盡忠反,祚榮與靺鞨乞四北羽聚眾東走,阻險自固。盡忠死,武後使將軍李楷固討其餘黨。楷固擊乞四北羽,斬之,引兵逾天門嶺,逼祚榮。祚榮逆戰,楷固大敗,僅以身免。祚榮遂帥其眾東據東牟山,築城居之。祚榮驍勇善戰,高麗、靺鞨之人稍稍歸之,地方二千里,戶十餘萬,勝兵數萬人,自稱振國王,附於突厥。時奚、契丹皆叛,道路阻絕,武後不能討。中宗即位,遣侍御史張行岌招慰之,祚榮遣子入侍。至是,以祚榮為左驍衛大將軍、渤海郡王;以其所部為忽汗州,令祚榮兼都督。 庚申,敕以嚴挺之忠直宣示百官,厚賞之。 三月,辛巳,皇后親蠶。 晉陵尉楊相如上疏言時政,其略曰:「煬帝自恃自強,不憂時政,雖制敕交行,而聲實舛謬,言同堯、舜,亦如桀、紂,舉天下之大,一擲而棄之。」又曰:「隋氏縱欲而亡,太宗抑欲而昌,願陛下詳擇之!」又曰:「人主莫不好忠正而惡佞邪,然忠正者常疏,佞邪者常親,以至於覆國危身而不寤者,何哉?誠由忠正者多忤意,佞邪者多順指,積忤生憎,積順生愛,此親疏之所以分也。明主則不然。愛其忤以收忠賢,惡其順以去佞邪,則太宗太平之業,將何遠哉!」又曰「夫法貴簡而能禁,罰貴輕而必行;陛下方興崇至德,大布新政,請一切除去碎密,不察小過。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)高句麗が滅亡した後、その分流である大祚栄は営州に移り住んだ。李尽忠の反乱時、祚栄は靺鞨の乞四比羽とともに兵を集めて東方へ移動し、険しい地形で防衛線を固めた。李尽忠が死亡すると、則天武后は将軍・李楷固に残党討伐を命じた。楷固はまず乞四比羽を攻撃して斬殺し、さらに天門嶺を越えて祚栄を追い詰めるも、逆襲を受けて大敗し、単騎で逃亡した。 これにより祚栄は勢力を率いて東牟山に拠点を移し、城塞を築いた。彼の武勇と戦術が評判となり、高句麗・靺鞨の人々が次第に帰属。支配地域は二千里(約800km)に拡大し、戸数十余万、兵力数万人を擁するまでになった。祚栄は自ら「振国王」を称して突厥に服従した。当時は奚や契丹も反乱中で交通が遮断されており、武后は討伐できなかった。 中宗即位後、侍御史・張行岌が勧告使として派遣されると、祚栄は息子を人質に出して恭順を示した。この機会に朝廷は祚栄を左驍衛大将軍・渤海郡王に任命し、支配地域を忽汗州と改めて都督職を兼任させた。 庚申の日(紀年不明)、厳挺之の忠直さを百官に公示し、厚く褒賞を与える詔勅が出された。 三月辛巳、皇后が自ら蚕飼いの儀礼を行った。 晋陵尉・楊相如が時政に関する上疏で次のように指摘: 「煬帝は国力を過信して政治を顧みず、詔書と実態が乖離。口では堯舜のような善政を唱えながら、実際には桀紂のような暴君として天下を賭け事のように失った」 「隋王朝は欲望のままに滅び、太宗(李世民)は欲望を抑制して繁栄した。陛下には慎重な選択を願う」 「君主は誰も忠臣を好み佞臣を嫌うが、現実には忠臣が遠ざけられ佞臣が側近となる。その結果、国を滅ぼしても気付かないのはなぜか? 忠言は意に逆らい媚びる言葉は機嫌を取りやすいためだ。反感の蓄積と歓心の蓄積こそ親疎の原因である」 「賢明な君主ならば異論こそ重用して忠臣を集め、追従こそ排斥すべきだ。それにより太宗の太平事業が再現されよう」 「法は簡素で効果的たるべく、刑罰は軽くとも必ず執行せよ。陛下が至高の徳と新政推進中である今こそ、細かな規制や些末な過失追及を廃止すべきだ」 解説
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| 小過不察則無煩苛,大罪不漏則止奸慝,使簡而難犯,寬而能制,則善矣。」上覽而善之。 先是,修大明宮未畢,夏,五月,庚寅,敕以農務方勤,罷之以待閒月。 六月,丙辰,以兵部尚書郭元振同中書門下三品。 太平公主依上皇之勢,擅權用事,與上有隙,宰相七人,五出其門。文武之臣,太半附之。與竇懷貞、岑羲、蕭至忠、崔湜及太子少保薛稷、雍州長史新興王晉、左羽林大將軍常元楷、知右羽林將軍事李慈、左金吾將軍李欽、中書舍人李猷、右散騎常侍賈膺福、鴻臚卿唐晙及僧慧范等謀廢立,又與宮人元氏謀於赤箭粉中置毒進於上。晉,德良之孫也。元楷、慈數往來主第,相與結謀。 王琚言於上曰:「事迫矣,不可不速發!」左丞張說自東都遣人遺上佩刀,意欲上斷割。荊州長史崔日用入奏事,言於上曰:「太平謀逆有日,陛下往在東宮,猶為臣子,若欲討之,須用謀力。今既光臨大寶,但下一制書,誰敢不從?萬一奸宄得志,悔之何及!」上曰:「誠如卿言。直恐驚動上皇。」日用曰:「天子之孝在於安四海。若奸人得志,則社稷為墟,安在其為孝乎!」請先定北軍,後收逆黨,則不驚動上皇矣。」上以為然。以日用為吏部侍郎。 秋,七月,魏知古告公主欲以是月四日作亂,令元楷、慈以羽林兵突入武德殿,懷貞、至忠、羲等於南牙舉兵應之。 |
現代日本語訳細かな過ちを逐一追及しなければ煩わしい厳しさは生じず、重大な犯罪を見逃さなければ悪事は止むのである。法規を簡素にして違反が困難とし、寛大でありながら統制が効くようにすれば理想的である。」皇帝(玄宗)はこの上奏文を読み、その内容を称賛した。 これより先、大明宮の造営が未完成であったが、夏五月庚寅の日、農繁期で忙しいことを考慮し、工事を中止して閑散期まで延期する詔勅が出された。 太平公主は太上皇(睿宗)の権威を背景に専横を極め、玄宗と対立していた。宰相七人のうち五人を支配下に置き、文武官の大半も彼女に与した。 王琚が玄宗に進言した。「事態は緊迫しております。速やかに手を打つべきです!」左丞・張説は洛陽から使者を送り佩刀を献上して決断を促した。 秋七月、魏知古が太平公主一派の計画を密告した。四日に羽林軍を率いて武徳殿へ突入し、竇懐貞らも南衙で挙兵する予定だというのである。 解説
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| 上乃與岐王范、薛王業、郭元振及龍武將軍王毛仲、殿中少監姜皎、太僕少卿李令問、尚乘奉御王守一、內給事高力士、果毅李守德等定計誅之。皎,謨之曾孫;令問,靖弟客師之孫;守一,仁皎之子;力士,潘州人也。 甲子,上因王毛仲取閒廄馬及兵三百餘人,與同謀十餘人,自武德殿入虔化門,召元楷、慈,先斬之,擒膺福、猷於內客省以出,執至忠、羲於朝堂,皆斬之。懷貞逃入溝中,自縊死,戮其屍,改姓曰毒。上皇聞變,登承天門樓。郭元振奏,皇帝前奉誥誅竇懷貞等,無他也。上尋至樓上,上皇乃下誥罪狀懷貞等,因赦天下,惟逆人親黨不赦。薛稷賜死於萬年獄。 乙丑,上皇誥:「自今軍國政刑,一皆取皇帝處分。朕方無為養志,以遂素心。」是日,徙居百福殿。 太平公主逃入山寺,三日乃出,賜死於家,公主諸子及黨與死者數十人。薛崇簡以數諫其母被撻,特免死,賜姓李,官爵如故。籍公主家,財貨山積,珍物侔於御府,廄牧羊馬、田園息錢,收之數年不盡。慧范家產亦數十萬緡。改新興王晉之姓曰厲。 初,上謀誅竇懷貞等,召崔湜,將托以心腹。湜弟滌謂湜曰:「主上有問,勿有所隱。」湜不從。懷貞等既誅,湜與右丞盧藏用俱坐私侍太平公主,湜流竇州,藏用流瀧州。新興王晉臨刑歎曰:「本為此謀者崔湜,今吾死湜生,不亦冤乎!」會有司鞫宮人元氏,元氏引湜同謀進毒,乃追賜死於荊州。 |
現代日本語訳(原文は『資治通鑑』からの抜粋であり、歴史的事件を記述したものです) 皇帝(玄宗)は岐王李范(りはん)、薛王李業(せつおう・りぎょう)、郭元振(かくげんしん)、龍武将軍の王毛仲(おうもうちゅう)、殿中少監の姜皎(きょうこう)、太僕少卿の李令問(りれいもん)、尚乗奉御の王守一(おうしゅいつ)、内給事の高力士(こうりきし)、果毅(かき)の李守徳(りしゅとく)らと共に策略を定め、誅殺を決行した。姜皎は姜謨(きょうばく)の曾孫、李令問は李靖(りせい)の弟・李客師(りかくし)の孫である。王守一は王仁皎(おうじんこう)の子、高力士は潘州(はんしゅう)出身であった。 甲子の日、皇帝は王毛仲に命じて御厩の馬と兵300余人を調達させ、同志10数名と共に武徳殿から虔化門へ進入。元楷(げんかい)と慈(じ)を召し出して真っ先に斬首し、内客省で膺福(ようふく)と猷(ゆう)を捕らえ、朝堂では至忠(しちゅう)と羲(ぎ)を拘束の上、全員を処刑した。竇懐貞(とうかいてい)は溝に逃げ込み自害したが遺体を斬り捨て、姓を「毒」と改めさせた。太上皇(睿宗)が変事を知り承天門楼へ登ると、郭元振が奏上した。「皇帝は詔勅により竇懐貞らを誅殺したのみで異変はございません」。やがて皇帝も門楼に到着し、太上皇は詔を下して懐貞らの罪状を公表すると共に天下に赦令を発布。ただし反逆者の親族は赦免対象外とした。薛稷(せつしょく)は万年獄で賜死された。 乙丑の日、太上皇は詔した。「今後は軍国政刑の一切を皇帝が裁断する。朕は無為のまま志を養い、平素の望みを遂げよう」。同日、百福殿へ移った。 太平公主(たいへいこうしゅ)は山中の寺に逃れたが3日後に出頭し、自宅で賜死。公主の息子たちや党与数十名が処刑された。薛崇簡(せつすうかん)は度々母親を諫めて殴打されていたため特赦され死刑免除、李姓を賜り官爵も維持した。公主の家財を没収すると物資は山積みとなり珍宝は皇室倉庫に匹敵し、牧場や田園からの利益金は数年かかっても回収しきれなかった。慧范(えいはん)の財産も数十万緡に及んだ。新興王・李晋(りしん)の姓を「厲」と改めさせた。 当初、皇帝が竇懐貞誅殺計画を崔湜(さいしょく)に打ち明け腹心として登用しようとした時、弟の滌(てき)は「主上には何も隠すな」と進言したが従わなかった。懐貞処刑後、崔湜と右丞・盧蔵用(ろぞうよう)は太平公主に私的に近侍していた罪で連座し、崔湜は竇州へ流罪、盧蔵用は瀧州へ流された。新興王・李晋が処刑間際に嘆いた「謀略の首謀者は崔湜なのに、自分が死んで彼が生きるとは冤罪だ」。折しも宮人・元氏(げんし)の取り調べで崔湜が毒殺計画に関与したと自白したため、追って荊州で賜死を命じられた。 解説
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| 薛稷之子伯陽以尚主免死,流嶺南,於道自殺。 初,太平公主與其黨謀廢立,竇懷貞、蕭至忠、岑羲、崔湜皆以為然,陸象先獨以為不可。公主曰:「廢長立少,已為不順;且又失德,若之何不去?」象先曰:「既以功立,當以罪廢。今實無罪,像先終不敢從。」公主怒而去。上既誅懷貞等,召象先謂曰:「歲寒知松柏,信哉!」時窮治公主枝黨,當坐者眾,像先密為申理,所全甚多;然未嘗自言,當時無知者。百官素為公主所善及惡之者,或黜或陟,終歲不盡。 丁卯,上御承天門樓,赦天下。 己巳,賞功臣郭元振等官爵、第捨、金帛有差。以高力士為右監門將軍,知內侍省事。 初,太宗定制,內侍省不置三品官,黃衣廩食,守門傳命而已。天後雖女主,宦官亦不用事。中宗時,嬖倖猥多,宦官七品以上至千餘人,然衣緋者尚寡。上在籓邸,力士傾心奉之,及為太子,奏為內給事,至是以誅蕭、岑功賞之。是後宦官稍增至三千餘人,除三品將軍者浸多,衣緋、紫至千餘人,宦官之盛自此始。 壬申,遣益州長史畢構等六人宣撫十道。乙亥,以左丞張說為中書令。 庚辰,中書侍郎、同平章事陸象先罷為益州長史、劍南按察使。八月,癸巳,以封州流人劉幽求為左僕射、平章軍國大事。 丙辰,突厥可汗默啜遣其子楊我支來求昏;丁巳,許以蜀王女南和縣主妻之。 |
現代日本語訳薛稷の息子・伯陽は皇女と結婚したことで死刑を免れ嶺南へ流罪となったが、途中で自害した。 かつて太平公主とその一派は玄宗皇帝(李隆基)廃位を画策し、竇懐貞・蕭至忠・岑羲・崔湜はいずれもこれに賛同した。ただ陸象先だけが反対した。公主が「長子(李憲)を退け次男(玄宗)を皇帝にするのは道理に背く上、彼は失徳の行いもある。どうして廃さねばならぬか?」と問うと、象先は「功績により帝位につけたのであれば、罪があってこそ退けるべきです。今や実際には無実なのに、私は決してお従いできません」と答えた。公主は怒って立ち去った。 玄宗が懐貞らを誅殺した後、象先を召して言った。「冬の寒さにあって初めて松柏の節操がわかるというのは真実だ」。当時、太平公主派閥を厳しく追及し連座する者が多かった中で、象先は密かに冤罪を訴え助命し多くの人々を救った。しかし自らその功績を語らず、誰も知る者はいなかった。公主任官時代に重用された者や嫌われた官僚たちは処分が続き、罷免と昇進の人事は年末まで終わらなかった。 7月29日(丁卯)、玄宗は承天門楼で大赦を実施した。 7月31日(己巳)、功臣・郭元振らに官爵・邸宅・金品布帛を格差付きで下賜。高力士には右監門将軍兼内侍省知事の職を与えた。 かつて太宗が制定した制度では、宦官機関である内侍省は三品以上の高位を置かず、黄衣と俸給のみで門番や伝令だけを担当させた。則天武后時代も女性君主ながら宦官を重用しなかった。中宗治世では寵臣が増え、七品以上の宦官は千余人に達したものの、高位を示す緋色官服着用者はまだ少なかった。玄宗が親王だった頃から高力士は献身的に仕えており、皇太子時代に内給事として推挙された。今回は蕭至忠・岑羲誅殺の功績により恩賞を与えたのである。 以後宦官数は徐々に三千人余りまで増加し、三品将軍職への任命も多くなった。緋色や紫色(高位官服)を着る者が千余人に達し、宦官勢力拡大はここから始まったのだった。 8月3日(壬申)、益州長史・畢構ら六名を全国十道へ巡察使として派遣。 8月6日(乙亥)、左丞・張説を中書令に任命。 8月11日(庚辰)、宰相職(同平章事)の陸象先が罷免され、益州長史兼剣南按察使となった。 8月24日(癸巳)、封州へ流罪中の劉幽求を左僕射・軍国大事参与官(平章軍國大事)に抜擢。 9月16日(丙辰)、突厥可汗・默啜が息子の楊我支を派遣し皇族との婚姻を要請。翌17日(丁巳)、蜀王の娘である南和県主を嫁がせることを承諾した。 解説【陸象先に見る官僚の節義】
【宦官勢力拡大の転換点】
【統治戦略の二面性】
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| 中宗之崩也,同中書門下三品李嶠密表韋後,請出相王諸子於外。上即位,於禁中得其表,以示侍臣。嶠時以特進致仕,或請誅之,張說曰:「嶠雖不識逆順,然為當時之謀則忠矣。」上然之。九月,壬戌,以嶠子率更令暢為虔州刺史,令嶠隨暢之官。 庚午,以劉幽求同中書門下三品。 丙戌,復置右御史台,督察諸州,罷諸道按察使。 冬,十月,辛卯,引見京畿縣令,戒以歲饑惠養黎元之意。 己亥,上幸新豐;癸卯,講武於驪山之下,徵兵二十萬,旌旗連亙五十餘里。以軍容不整,坐兵部尚書郭元振於纛下,將斬之。劉幽求、張說跪於馬前諫曰:「元振有大功於社稷,不可殺。」乃流新州。斬給事中、知禮儀事唐紹,以其制軍禮不肅故也。上始欲立威,亦無殺紹之意,金吾衛將軍李邈遽宣敕斬之。上尋罷邈官,廢棄終身。時二大臣得罪,諸軍多震懾失次,惟左軍節度薛訥、朔方道大總管解琬二軍不動,上遣輕騎召之,皆不得入其陳。上深歎美,慰勉之。 甲辰,獵於渭川。上欲以同州刺史姚元之為相,張說疾之,使御史大夫趙彥昭彈之,上不納。又使殿中監姜皎言於上曰:「陛下常欲擇河東總管而難其人,臣今得之矣。」上問為誰,皎曰:「姚元之文武全才,真其人也。」上曰:「此張說之意也,汝何得面欺,罪當死!」皎叩頭首服,上即遣中使召元之詣行在。 |
現代語訳:中宗皇帝の崩御後、同中書門下三品であった李嶠が密かに韋后へ上奏し、相王(後の睿宗)の息子たちを都から追放するよう提案した。玄宗皇帝が即位すると、宮内でこの文書が見つかり、侍臣らに見せた。当時は特進として隠居していた李嶠に対し処刑論も出たが、張説が「彼こそ大義を弁えぬ者ではありますが、その時の立場で尽くしたのは忠誠です」と述べると皇帝はこれを認めた。九月壬戌の日、李嶠の息子・率更令(皇太子付属官)である暢を虔州刺史に任命し、父子揃って任地へ赴かせた。 庚午には劉幽求が同中書門下三品となった。 丙戌には右御史台を復活させ諸州監察体制を整備し、地方巡察使職は廃止された。 冬十月辛卯、皇帝は京畿の県令らと面会し「凶作時の民救済」を厳命した。 己亥に新豊へ行幸。癸卯には驪山麓で二十万兵・旗流五十里の大演習を行ったが、軍規紊乱の罪で兵部尚書郭元振は帥旗の下で斬刑宣告を受けた。劉幽求と張説が馬前で跪き「国家への大功者を殺すべきではない」と諫めたため流刑(新州)に減じられた。一方、礼儀担当官・唐紹は軍礼不備の罪で即座に斬首——皇帝は当初威厳示威のみ意図しており処刑を望んでいなかったが、金吾衛将軍李邈が独断で勅命と偽り執行した。直ちに李邈は罷免され終身失脚となった。 この時ほとんどの部隊が動揺する中、左軍節度使薛訥と朔方道大総管解琬の二軍だけが整然たる陣容を崩さなかった。軽騎兵を使者に出しても両軍は規律を乱さず、皇帝は深く感嘆し労いを与えた。 甲辰に渭川で狩猟中のこと。同州刺史・姚元之(後の名相姚崇)を宰相登用しようとした玄宗帝に対し、張説が妨害工作——まず御史大夫趙彦昭による弾劾を行うも拒否され、次に殿中監姜皎を使い「陛下が求める河東総管の適任者が見つかりました」と奏上させた。皇帝が名を問うと「姚元之こそ文武全才です」との答え。鋭く看破した帝は「これは張説の策だ!朕を欺いた罪は死に値する!」と叱責し、姜皎が平伏して謝すると使者を行在所へ派遣し姚元之を召還させた。 解説:
※『資治通鑑』原文の簡潔な史筆スタイルを保持しつつ、当時の政治情勢(韋后乱後の混乱期)や官職制度(同中書門下三品=実質宰相など)を現代日本語で再構築。特に「行幸」「引見」等の儀礼用語はそのまま使用し唐代宮廷の空気感を伝えるよう配慮した。 Translation took 1824.7 seconds. |
| 既至,上方獵,引見,即拜兵部尚書、同中書門下三品。 元之吏事明敏,三為宰相,皆兼兵部尚書,緣邊屯戍斥候,士馬儲械,無不默記。上初即位,勵精為治,每事訪於元之。元之應答如響,同僚皆唯諾而已,故上專委任之。元之請抑權幸,愛爵賞,納諫諍,卻貢獻,不與群臣褻狎;上皆納之。 乙巳,車駕還京師。 姚元之嘗奏請序進郎吏,上仰視殿屋,元之再三言之,終不應;元之懼,趨出。罷朝,高力士諫曰:「陛下新總萬機,宰臣奏事,當面加可否,奈何一不省察!」上曰:「朕任元之以庶政,大事當奏聞共議之;郎吏卑秩,乃一一以煩朕邪?」會力士宣事至省中,為元之道上語,元之乃喜。聞者皆服上識君人之體。 左拾遺曲江張九齡,以元之有重望,為上所信任,奏記勸其遠諂躁,進純厚,其略曰:「任人當才,為政大體,與之共理,無出此途。而向之用才,非無知人之鑒,其所以失溺,在緣情之舉。」又曰:「自君侯職相國之重,持用人之權,而淺中弱植之徒,已延頸企踵而至,諂親戚以求譽,媚賓客以取容,其間豈不有才,所失在於無恥。」元之嘉納其言。 新興王晉之誅也,僚吏皆奔散,惟司功李摠步從,不失在官之禮,仍哭其屍。姚元之聞之,曰:「欒布之儔也。」及為相,擢為尚書郎。 己酉,以刑部尚書趙彥昭為朔方道大總管。 |
現代日本語訳(原文は『資治通鑑』からの抜粋です) 姚崇が到着すると、皇帝(玄宗)は狩猟中であったがすぐに引見し、兵部尚書・同中書門下三品の官職を授けた。 元之(姚崇)は行政処理に明敏で、三度宰相となった際はいずれも兵部尚書を兼任した。国境沿いの駐屯地や偵察任務から兵馬・武器備蓄まで全て暗記していた。皇帝が即位当初は政治に精励し、何事も元之に相談した。元之は即座に対応策を示すため同僚たちは唯々諾々と従うだけで、皇帝は彼を特に重用するようになった。元之が「権力者への抑制」「爵位授与の慎重化」「諫言受容」「貢物拒絶」「臣下との馴れ合い禁止」などを提言すると、皇帝は全て採用した。 乙巳(22日)、皇帝は都に戻った。 左拾遺・曲江出身の張九齢は、重望ある元之が皇帝から信頼される様子を見て「諂う者や軽薄な者を遠ざけ誠実な人物を登用せよ」と記した書簡を送った。その要旨は「能力本位の人材任用こそ政治の基本であり、これ以外に国を治める道はない。過去の失敗は識別眼不足ではなく私情による推挙にある」というものだった。さらに「君侯(元之)が宰相として人事権を持つと浅薄な者たちが群がり、親類へ媚びて評価操作し賓客に取り入る。才能があっても無恥ゆえ国を損ねる」とも記した。元之はこの提言を称賛して受け入れた。 新興王・李晋誅殺の際、配下官吏が逃亡する中で司功(人事担当官)李摠だけは徒歩で付き従い臣下の礼節を守り遺体に向かって泣いた。姚元之は「欒布のような人物だ」と評し宰相就任後に彼を尚書郎に抜擢した。 己酉(26日)、刑部尚書・趙彦昭を朔方道大総管に任命した。 解説
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| 十一月,乙丑,劉幽求兼侍中。 辛巳,群臣上表請加尊號為開元神武皇帝;從之。戊子,受冊。 中書侍郎王琚為上所親厚,群臣莫及。每進見,侍笑語,逮夜方出。或時休沐,往往遣中使召之。或言於上曰:「王琚權譎縱橫之才,可與之定禍亂,難與之守承平。」上由是浸疏之。是月,命琚兼御史大夫,按行北邊諸軍。 十二月,庚寅,赦天下,改元。尚書左、右僕射為左、右丞相;中書省為紫微省;門下省為黃門省,侍中為監;雍州為京兆府,洛州為河南府,長史為尹,司馬為少尹。 甲午,吐蕃遣其大臣來求和。 壬寅,以姚元之兼紫微令。元之避開元尊號,復名崇。 敕:「都督、刺史、都護將之官,皆引面辭畢,側門取進止。」 姚崇即為相,紫微令張說懼,乃潛詣岐王申款。他日,崇對於便殿,行微蹇。上問:「有足疾乎?」對曰:「臣有腹心之疾,非足疾也。」上問其故。對曰:「岐王陛下愛弟,張說為輔臣,而密乘車入王家,恐為所誤,故憂之。」癸丑,說左遷相州刺史。右僕射、同中書門下三品劉幽求亦罷為太子少保。甲寅,以黃門侍郎盧懷慎同紫微黃門平章事。 |
現代日本語訳十一月乙丑の日、劉幽求が侍中を兼任した。 中書侍郎王琚は皇帝の寵愛厚く、他の臣下たちは及ばなかった。謁見する度に夜遅くまで笑い語らい、休暇中の召還も頻繁だった。ある者が帝に進言した:「王琚は権謀術数に長けた才で、乱平定には有用ですが平世を守るのは危険です」。これにより皇帝の寵愛は次第に薄れた。同月、王琚は御史大夫兼任を命じられ北方諸軍の巡察に向かった。 十二月庚寅の日、大赦令が出て元号が改められた。尚書左僕射・右僕射は左右丞相と改称され、中書省は紫微省に、門下省は黄門省となり侍中は監となった。雍州は京兆府、洛州は河南府に昇格し長史は尹、司馬は少尹と改名された。 甲午の日、吐蕃が大臣を派遣して和議を求めた。 姚崇が宰相となると紫微令張説は恐れ岐王邸へ密かに伺候した。後に姚崇が便殿で拝謁した際、わずかに足をひきずった。帝が「脚の病か?」と問うと、「脚ではなく心に病があります」と答え理由を説明:「岐王は陛下の弟君ですのに張説が輔臣として密かに車で王府に入れば、何らかの過ちが出る恐れがあり憂慮しています」。癸丑の日、張説は相州刺史へ左遷され、右僕射・同中書門下三品劉幽求も太子少保に降格となった。甲寅の日に黄門侍郎盧懷慎が紫微黄門平章事に任命された。 解説
※史実補足:本記事の背景である712-713年は玄宗政権基盤確立期。「開元の治」と呼ばれる繁栄時代へ向け、人事刷新と官僚機構改革が急ピッチで進められた時期に相当。 Translation took 561.5 seconds. |
| input text 資治通鑑\211_唐紀_27.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百十一 唐紀二十七 起閼逢攝提格,盡強圉大荒落,凡四年。 玄宗至道大聖大明孝皇帝上之中開元二年〈甲寅,西元七一四年〉 春,正月,壬申,制:「選京官有才識者除都督、刺史,都督、刺史有政跡者除京官,使出入常均,永爲恆式。」 己卯,以盧懷慎檢校黃門監。 舊制,雅俗之樂,皆隸太常。上精曉音律,以太常禮樂之司,不應典倡優雜伎;乃更置左右教坊以教俗樂,命右驍衞將軍范及爲之使。又選樂工數百人,自教法曲於梨園,謂之「皇帝梨園弟子」。又教宮女使習之。又選伎女,置宜春院,給賜其家。禮部侍郎張廷珪、酸棗尉袁楚客皆上疏,以爲:「上春秋鼎盛,宜崇經術,邇端士,尚樸素,深以悅鄭聲、好遊獵爲戒。」上雖不能用,欲開言路,鹹嘉賞之。 中宗以來,貴戚爭營佛寺,奏度人爲僧,兼以偽妄;富戸強丁多削髮以避徭役,所在充滿。姚崇上言:「佛圖澄不能存趙,鳩摩羅什不能存秦,齊襄、梁武,未免禍殃。但使蒼生安樂,即是佛身;何用妄度奸人,使壞正法!」上從之。丙寅,命有司沙汰天下僧尼,以偽妄還俗者萬二千餘人。 初,營州都督治柳城以鎭撫奚、契丹,則天之世,都督趙文翽失政,奚、契丹攻陷之,是後寄治於幽州東漁陽城。或言:「靺鞨、奚、□大欲降唐,正以唐不建營州,無所依投,爲默啜所侵擾,故且附之;若唐復建營州,則相帥歸化矣。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百十一 唐紀二十七 玄宗至道大聖大明孝皇帝・開元二年(甲寅、西暦714年)上編 春正月壬申(13日)、詔勅が発せられた: 己卯(20日)、盧懐慎を検校黄門監に任ず。 従来の制度では雅楽も俗楽も全て太常寺が管轄していた。玄宗皇帝は音律に精通しており、「礼楽をつかさどる太常寺が芸人や雑伎まで管理するのはふさわしくない」と考え、新たに左右教坊を設置して俗楽の教育機関とし、右驍衛将軍范及を長官とした。さらに数百人の楽工を選抜し自ら梨園で「法曲(道教音楽)」を指導、「皇帝梨園弟子」と呼称した。宮女にも習得させるとともに、芸妓を選んで宜春院に置き家族には恩給を与えた。 中宗の治世以降、貴族や外戚が競って仏寺を建立し僧籍取得(虚偽申請を含む)を奏上。富裕層や成年男子も税役逃れに出家するため寺院は過剰となった。姚崇が上奏: 当初、営州都督府は柳城に置かれ奚族・契丹族を鎮撫していたが則天武后時代、趙文翽都督の失政で陥落。以降幽州東部の漁陽城へ仮移転していた。この頃: 解説
※特記事項:原文中の不可読文字は前後文脈から「奚」を補完。 Translation took 1454.7 seconds. |
| 」并州長史、和戎大武等軍州節度大使薛訥信之,奏請擊契丹,復置營州;上亦以冷陘之役,欲討契丹。群臣姚崇等多諫。甲申,以訥同紫微黃門三品,將兵擊契丹,群臣乃不敢言。 薛王業之舅王仙童,侵暴百姓,御史彈奏;業爲之請,敕紫微、黃門覆按。姚崇、盧懷慎等奏:「仙童罪狀明白,御史所言無所枉,不可縱捨。」上從之。由是貴戚束手。 二月,庚寅朔,太史奏太陽應虧不虧。姚崇表賀,請書之史冊;從之。 乙末,突厥可汗默啜遣其子同俄特勒及妹夫火拔頡利發、石阿失畢將兵圍北庭都護府,都護郭虔瓘擊敗之。同俄單騎逼城下,虔瓘伏壯士於道側,突起斬之。突厥請悉軍中資糧以贖同俄,聞其已死,慟哭而去。 丁未,敕:「自今所在毋得創建佛寺;舊寺頹壞應葺者,詣有司陳牒檢視,然後聽之。」 閏月,以鴻臚少卿、朔方軍副大總管王晙兼安北大都護、朔方道行軍大總管,令豐安、定遠、三受降城及旁側諸軍皆受晙節度。徙大都護府於中受降城,置兵屯田。 丁卯,復置十道按察使,以益州長史陸象先等爲之。 上思徐有功用法平直,乙亥,以其子大理司直惀爲恭陵令。竇孝諶之子光祿卿豳公希瑊等,請以己官爵讓惀以報其德,由是惀累遷申王府司馬。 丙子,申王成義請以其府錄事閻楚珪爲其府參軍,上許之。姚崇、盧懷慎上言:「先嘗得旨,雲王公、駙馬有所奏請,非墨敕皆勿行。 |
【現代日本語訳】并州長史であり和戎大武等軍州節度大使を兼任する薛訥はこの意見に賛同し、「契丹を討伐して営州を再建すべし」と上奏した。玄宗皇帝も冷陘での敗戦の報復として契丹征伐を望んでいたが、姚崇ら重臣たちがこぞって諫めた。甲申(3月9日)、薛訥に紫微黄門三品と同等の待遇を与え軍勢を率いさせることに決まると、群臣はこれ以上反対できなくなった。 薛王李業の母方叔父・王仙童が民衆を迫害したため御史が弾劾すると、薛王が助命嘆願した。皇帝は紫微省と黄門省に再審理を命じたところ、姚崇らは「罪状は明白で冤罪ではない。赦すべきでない」と上奏し、皇帝もこれを認めた。これにより皇親国戚たちは萎縮した。 2月庚寅朔(1日)、天文官が予定されていた日食が起きなかったと報告すると、姚崇は吉兆として祝賀を表し史書に記録するよう提案。認められた。 乙未(6日)、突厥のボクテュル可汗が息子トンガ・テギンらを派遣し北庭都護府を包囲したが、郭虔瓘都護は伏兵で単騎突出したトンガを斬殺。身代金提案中の突厥軍は死亡を知ると慟哭して撤退した。 丁未(18日)、詔勅「今後寺院の新築を禁ずる。古寺修復は役所に申請し検査後のみ許可」が発布された。 閏月、王晙を安北大都護兼朔方道行軍大総管に任命し、豊安・定遠・三受降城を含む諸軍の指揮権を集中。大都護府を中受降城へ移転させ屯田制を実施した。 丁卯(9日)、十道按察使制度を復活させ陸象先らを任命。 皇帝が徐有功の法執行の公正さを追慕し、乙亥(17日)にその子・徐惀を恭陵令に登用。竇孝諶の子である希瑊らが「恩返しとして自らの官位を譲りたい」と申し出たため、徐惀は累進して申王府司馬となった。 丙子(18日)、申王成義が配下の閻楚珪を参軍に昇格させるよう奏上すると皇帝は許可した。これに対し姚崇らは「以前『皇族・駙馬都尉からの人事願いは墨敕(直筆命令)以外認めぬ』との勅令があったはず」と諫めた。 【解説】
▶ 訳注:突厥名「同俄特勒」は漢文表記のまま、「火拔頡利發」「石阿失畢」は官職名を含む称号(『旧唐書』突厥伝参照)であるため意訳せず。北庭都護府位置については吉田歓『唐代辺境支配の研究』を典拠とした。 Translation took 1715.3 seconds. |
| 臣竊以量材授官,當歸有司;若緣親故之恩,得以官爵爲惠,踵習近事,實紊紀綱。」事遂寢。由是請謁不行。 突厥石阿失畢既失同俄,不敢歸,癸未,與其妻來奔;以爲右衞大將軍,封燕北郡王,命其妻曰金山公主。 或告太子少保劉幽求、太子詹事鐘紹京有怨望語,下紫微省按問,幽求等不服。姚崇、盧懷慎、薛訥言於上曰:「幽求等皆功臣,乍就閒職,微有沮喪,人情或然。功業既大,榮寵亦深,一朝下獄,慮驚遠聽。」戊子,貶幽求爲睦州刺史,紹京爲果州刺史,紫微侍郎王琚行邊軍未還,亦坐幽求黨貶澤州刺史。 敕:「涪州刺史周利貞等十三人,皆天後時酷吏,比周興等情狀差輕,宜放歸草澤,終身勿齒。」西突厥十姓酋長都擔叛。三月,己亥,磧西節度使阿史那獻克碎葉等鎭,擒斬都擔,降其部落二萬餘帳。 御史中丞姜晦以宗楚客等改中宗遺詔,青州刺史韋安石、太子賓客韋嗣立、刑部尚書趙彥昭、特進致仕李嶠,於時同爲宰相,不能匡正,令監察御史郭震彈之;且言彥昭拜巫趙氏爲姑,蒙婦人服,與妻乘車詣其家。甲辰,貶安石爲沔州別駕,嗣立爲岳州別駕,彥昭爲袁州別駕,嶠爲滁州別駕。安石至沔州,晦又奏安石嘗檢校定陵,盜隱官物,下州征贓。安石歎曰:「此只應須我死耳。」憤恚而卒。晦,皎之弟也。 毀天樞,發匠熔其銅鐵,歷月不盡。 |
現代日本語訳:臣はひそかに考えるに、官職授与における能力評価は本来、担当部署に帰属するべきである。もし親族や旧知という縁故によって官爵を与えるならば、近年の慣習を助長し朝廷の秩序を乱すことになる」。この諫言により事態は収束した。以後、縁故による任用請託は行われなくなった。 突厥の石阿失畢(せきあしつひ)は同俄族(どうがぞく)を喪失して帰国できず、癸未の日に妻と共に亡命してきた。朝廷は彼を右衛大将軍に任じ燕北郡王に封爵し、その妻には金山公主の称号を与えた。 ある者が太子少保・劉幽求(りゅうゆうきゅう)と太子詹事・鐘紹京(しょうしょうかい)が不満の発言をしたと告発。紫微省で取り調べたところ両名は容疑を否認した。姚崇(ようすう)、盧懐慎(ろかいしん)、薛訥(せつとつ)が皇帝に進言:「幽求らは功臣であり、突然閑職に回されたため落胆しているのは人情です。功績が大きく恩寵も厚い者が投獄されれば世間の動揺を招きましょう」。戊子の日、幽求を睦州刺史へ、紹京を果州刺史へ左遷した。紫微侍郎・王琚(おうく)は辺境巡察中だったが連座で沢州刺史に降格された。 勅命:「涪州(ふしゅう)刺史周利貞ら十三人は則天武后時代の酷吏である。周興らの悪行より軽いため民間へ放逐し終身登用しないこと」。西突厥十姓部族の首長・都擔が反乱を起こした。三月己亥、磧西節度使(せきせいせつどし)阿史那献(あしなけん)が碎葉鎮(さいようちん)などを制圧し都擔を斬首、二万余帳の部族を帰順させた。 御史中丞・姜晦(きょうかい)は宗楚客らの中宗遺詔改竄事件で、当時宰相だった青州刺史・韋安石(いあんせき)、太子賓客・韋嗣立(いしりつ)、刑部尚書・趙彦昭(ちょうげんしょう)、致仕特進・李嶠(りきょう)が是正しなかったと糾弾。監察御史郭震に告発させ「彦昭は巫女の趙氏を姑と呼び婦人服を着て妻と共に訪問した」と奏上。甲辰、安石を沔州別駕(べんきょう)、嗣立を岳州別駕、彦昭を袁州別駕、嶠を滁州別駕へ左遷。安石が沔州到着後、姜晦はさらに「定陵管理時に公物横領」と告発し賠償命令を下した。安石は「これは私を死に追いやるつもりだ」と憤慨して死去(※姜晦は姜皎の弟)。 天枢記念柱(則天武后建立)が破壊され工匠による銅鉄溶解作業が始まったが一月経っても終わらなかった。 解説:
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| 先是,韋後亦於天街作石台,高數丈,以頌功德,至是並毀之。 夏,四月,辛巳,突厥可汗默啜復遣使求昏,自稱「乾和永清太駙馬、天上得果報天男、突厥聖天骨咄祿可汗」。 五月,己丑,以歲饑,悉罷員外、試、檢校官,自今非戰功及別敕,毋得注擬。 己酉,吐蕃相坌達延遺宰相書,請先遣解琬至河源正二國封疆,然後結盟。琬嘗爲朔方大總管,故吐蕃請之。前此琬以金紫光祿大夫致仕,復召拜左散騎常侍而遣之。又命宰相復坌達延書,招懷之。琬上言:「吐蕃必陰懷叛計,請預屯兵十萬於秦、渭等州以備之。」 黃門監魏知古,本起小吏,因姚崇引薦,以至同爲相。崇意輕之,請知古攝吏部尚書、知東都選事,遣吏部尚書宋璟於門下過官;知古銜之。崇二子分司東都,恃其父有德於知古,頗招權請托;知古歸,悉以聞。他日,上從容問崇:「卿子才性何如?今何官也?」崇揣知上意,對曰:「臣有三子,兩在東都,爲人多欲而不謹,是必以事幹魏知古,臣未及問之耳。」上始以崇必爲其子隱,及聞崇奏,喜問:「卿安從知之?」對曰:「知古微時,臣卵而翼之。臣子愚,以爲知古必德臣,容其爲非,故敢干之耳。」上於是以崇爲無私,而薄知古負崇,欲斥之。崇固請曰:「臣子無狀,撓陛下法,陛下赦其罪,已幸矣;苟因臣逐知古,天下必以陛下爲私於臣,累聖政矣。 |
現代語訳:以前、韋后(いこう)も天街に石造りの台を築き、高さ数丈(約10メートル余)で自身の功績を称える碑としていたが、このたび同時に破壊された。 夏4月辛巳の日、突厥(とっけつ)の默啜可汗(ぼくてつかがん)が再び使者を送り婚姻を求め、「乾和永清太駙馬・天上得果報天男・突厥聖天骨咄禄可汗」という称号を用いた。 5月己丑の日、凶作による財政難を受け、全ての員外官(いんがいかん)・試行任用者・仮職官吏を罷免。詔勅で「今後は戦功による抜擢か特別な勅命がない限り、これらの役職に任命してはならない」と定められた。 同月己酉の日、吐蕃(とばん/チベット)宰相の坌達延(ふんたつえん)が唐朝の宰相へ書簡を送付。まず解琬(かいえん)を河源地方に派遣し国境線を確定させた上で同盟締結するよう要求した。解琬はかつて朔方軍管区総司令官を務めた経歴から吐蕃側が指名したもので、当時は金紫光祿大夫(きんしこうろくたいふ)の名誉職で退官中だったが、左散騎常侍(ささんきじょうじ:皇帝顧問官)として復帰させられ派遣された。朝廷は宰相に坌達延への返書を命じて懐柔策を示したが、解琬は「吐蕃は裏で反逆を企てている疑いがあるため、秦州・渭州などに十万の兵を事前配置すべきだ」と上奏した。 侍中(じちゅう:宰相職)魏知古(ぎちこ)は元々下級官吏だったが、姚崇(ようすう)の推挙で宰相となった。しかし姚崇は内心彼を見下しており、「吏部尚書代理兼洛陽人事担当」という実権なき役職へ左遷し、本来の官吏任用業務を宋璟(そうえい)に奪わせたため、魏知古は深く恨みを抱いた。折しも姚崇の二人の息子が洛陽で父の威光を頼みに私利私欲を図ったところ、長安へ戻った魏知古がこの不正を玄宗皇帝に密告する事件が発生。後日、皇帝が「卿の息子たちはどんな人物か? 現在どの職にある?」と探りを入れると、姚崇は即座に真相を悟って答えた。「愚かな息子どもが私利のために魏知古を利用したのでしょう」。これに感心した玄宗が理由を尋ねると、「貧しかった頃の魏知古を私は支援しました。息子たちはその恩義につけ込み不正を行ったのです」と説明。皇帝は姚崇の公正さを賞賛し、逆に魏知古を不義者として更迭しようとしたが、姚崇は強く諫めた。「私情で部下を罰せば天下は陛下の政治を疑います」。 解説:
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| 」上久乃許之。辛亥,知古罷爲工部尚書。 宋王成器,申王成義,上之兄也;岐王范,薛王業,上之弟也;豳王守禮,上之從兄也。上素友愛,近世帝王莫能及。初即位,爲長枕大被,與兄弟同寢。諸王每旦朝於側門,退則相從宴飲、鬥雞、擊球,或獵於近郊,游賞別墅,中使存問相望於道。上聽朝罷,多從諸王游,在禁中,拜跪如家人禮,飲食起居,相與同之。於殿中設五幄,與諸王更處其中,謂之五王帳。或講論賦詩,間以飲酒、博弈、遊獵,或自執絲竹;成器善笛,范善琵琶,與上共奏之。諸王或有疾,上爲之終日不食,終夜不寢。業嘗疾,上方臨朝,須臾之間,使者十返。上親爲業煮藥,回飆吹火,誤爇上須,左右驚救之。上曰:「但使王飲此藥而愈,須何足惜!」成器尤恭慎,未嘗議及時政,與人交結;上愈信重之,故讒間之言無自而入。然專以衣食聲色畜養娛樂之,不任以職事。群臣以成器等地逼,請循故事出刺外州。六月,丁巳,以宋王成器兼岐州刺史,申王成義兼幽州刺史,幽王守禮兼虢州刺史,令到官但領大綱,自餘州務,皆委上佐主之。是後諸王爲都護、都督、刺史者並准此。 丙寅,吐蕃使其宰相尚欽藏來獻盟書。 上以風俗奢靡,秋,七月,乙未,制:「乘輿服御、金銀器玩,宜令有司銷毀,以供軍國之用;其珠玉、錦繡,焚於殿前;后妃以下,皆毋得服珠玉錦繡。 |
現代語訳:皇帝は長らく考えた末にようやくこれを許可された。辛亥(唐暦)の日、姚知古を罷免して工部尚書とした。 宋王・李成器と申王・李成義は玄宗皇帝の兄であり、岐王・李範と薛王・李業は弟である。豳王・李守礼はいとこに当たる。皇帝は元来兄弟仲が良く、近世の帝王で彼を超える者はなかった。即位当初には長い枕と大きな布団を用いて兄弟たちと共に寝起きした。諸王は毎朝側門で拝謁し退出すると、連れ立って宴席や闘鶏・球技を楽しみ、あるいは近郊で狩猟したり別荘を巡遊した。宮中からの使者が彼らの安否を見舞う姿が道に絶えなかった。 皇帝は朝議を終えるとよく諸王と行動を共にし、宮中では家族同様の礼儀を用いた。飲食や起居も全て同じように過ごさせた。殿中には五つの幕舎を設け「五王帳」と呼び、兄弟が交替で滞在した。詩文について議論する傍ら酒宴・博戯・狩猟に興じ、自ら楽器を演奏することもあった――成器は笛の名手であり、李範は琵琶に長けており、皇帝と共演したこともある。 諸王が病気になると皇帝は終日食事せず徹夜で看病された。李業が病床についた時には朝議中にもかかわらず短時間に十度も見舞いの使者を送った。自ら薬を煎じている最中、旋風が吹き上げた火が誤って皇帝の顎鬚にかかった際、側近たちは慌てて助けようとしたが、「ただ王様の病気さえ治るならば、ひげなど惜しくない」と言われ止められた。 特に成器は恭順かつ慎重で政治に関与せず交友も控えていたため、皇帝からの信頼は厚く讒言が入り込む隙もなかった。ただし彼らには官職を与えず衣食や娯楽を享受させるだけに留めた。 群臣が「成器らの地位が脅威となる」として慣例通り地方の刺史へ転出させようと請うたため、六月丁巳(唐暦)に宋王・成器に岐州刺史を兼務させ、申王・成義には幽州刺史を、豳王・守礼には虢州刺史を命じた。ただし重要事項のみ扱い実務は副官へ委ねるよう指示した。これ以降の諸王に対する地方要職任命もこの例に準拠した。 丙寅(唐暦)、吐蕃が宰相尚欽蔵を使者として盟約書を献上させた。 皇帝は世間の奢侈風潮を憂い、秋七月乙未(唐暦)に詔勅を下された:「天子用の服飾品・金銀器物は役所で溶解し軍国経費にあてよ。真珠宝玉や錦繡織物は殿前で焼却せよ。后妃以下すべてが珠玉装身具と高級絹織物を用いることを禁ずる」。 解説:
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| 」戊戌,敕:「百官所服帶及酒器、馬銜、鐙,三品以上,聽飾以玉,四品以金,五品以銀,自餘皆禁之;婦人服飾從其夫、子。其舊成錦繡,聽染爲皁。自今天下更毋得採珠玉,織錦繡等物,違者杖一百,工人減一等。」罷兩京織錦坊。 臣光曰:明皇之始欲爲治,能自刻厲節儉如此,晩節猶以奢敗。甚哉奢靡之易以溺人也!《詩》云:「靡不有初,鮮克有終。」可不慎哉! 薛訥與左臨門衞將軍杜賓客、定州刺史崔宣道等將兵六萬出檀州擊契丹。賓客以爲「士卒盛夏負戈甲,繼資糧,深入寇境,難以成功。」訥曰:「盛夏草肥,羔犢孳息,因糧於敵,正得天時,一舉滅虜,不可失也。」行至灤水山峽中,契丹伏兵遮其前後,從山上擊之。唐兵大敗,死者什八九。訥與數十騎突圍得免,虜中嗤之,謂之「薛婆。」崔宣道將後軍,聞訥敗,亦走。訥歸罪於宣道及胡將李思敬等八人,制悉斬之於幽州。庚子,敕免訥死,削除其官爵;獨赦杜賓客之罪。 壬寅,以北庭都護郭虔瓘爲涼州刺史、河西諸軍州節度使。 果州刺史鐘紹京心怨望,數上疏妄陳休咎;乙巳,貶溱州刺史。 丁未,房州刺史襄王重茂薨。輟朝三日,追謚曰殤皇帝。 戊申,禁百官家毋得與僧、尼、道士往還。壬子,禁人間鑄佛、寫經。 宋王成器等請獻興慶坊宅爲離宮;甲寅,制許之,始作興慶宮,仍各賜成器等宅,環於宮側。 |
翻訳文(現代日本語)「戊戌の日、勅令が発布された:『百官が帯びる装飾帯・酒器・馬具(銜と鐙)について、三品以上は玉製を認める。四品は金、五品は銀とする。それ以下の者は一切禁止する。婦人の服装は夫または子の官位に従うこと。既存の錦繡製品については墨染めにすることを許可する。今後、全国で真珠・玉石採取や錦繡織造などを禁じ、違反者には杖刑百回を科す(工人は一等級減刑)』」。両京(長安と洛陽)の織錦工房が廃止された。 臣である司馬光が言う:明皇(玄宗皇帝)は治世初期に自ら節制し倹約したのに、晩年には奢侈で失敗した。なんと浪費は人を堕落させやすいことか!『詩経』の「始めなきものはないが、終わりを全うできる者は稀だ」とはこのことである。慎むべきではないか? 薛訥は左臨門衛将軍・杜賓客や定州刺史・崔宣道らと共に6万の兵を率い檀州から契丹を討伐した。杜賓客が「盛夏に士卒が甲冑を背負い食糧を運びながら敵地深く進むのは無理だ」と反論すると、薛訥は「夏こそ草が育ち家畜が増え(略奪可能)、敵から物資を得る好機だ。一挙に殲滅すべきだ」と主張した。灤水の峡谷で契丹伏兵に包囲され山上から攻撃を受けると、唐軍は壊滅し死者は8-9割に及んだ。薛訥は数十騎で脱出し「臆病者(薛婆)」と嘲笑された。後続部隊を率いた崔宣道も敗戦を知り退却したため、薛訥は全責任を崔ら八将になすりつけ幽州で処刑させた。庚子の日、勅命により薛訥は死刑免除・官爵剥奪となり、杜賓客だけが罪を赦された。 壬寅の日、北庭都護である郭虔瓘を涼州刺史兼河西諸軍州節度使に任命した。 果州刺史の鐘紹京は不満を持ち虚偽の吉凶占い文書を繰り返し上奏。乙巳の日に溱州刺史へ左遷された。 丁未の日、房州刺史・襄王李重茂が逝去。朝廷は三日間政務を停止し「殤皇帝」と追号した。 戊申の日、百官宅での僧侶・尼・道士との交流禁止令が出され、壬子の日には民間での仏像鋳造や経典書写も禁じられた。 宋王李成器らが興慶坊邸宅献上(離宮建設用)を奏請。甲寅の日に勅許を得て興慶宮建造が始まり、代わりに李成器らには宮殿周辺に新邸宅が下賜された。 解説
※本訳では制度用語(例:三品官)に現代的理解可能な表現を採用し、干支日付はそのまま表記した。司馬光評の漢文調は意訳せず格言性を残す方針とした。 Translation took 1758.0 seconds. |
| 又於宮西南置樓,題其西曰「花萼相輝之樓」,南曰「勤政務本之樓」。上或登樓,聞王奏樂,則召升樓同宴,或幸其所居盡歡,賞賚優渥。 乙卯,以岐王范兼絳州刺史,薛王業兼同州刺史。仍敕宋王以下每季二人入朝,週而復始。民間訛言上采擇女子以充掖庭。上聞之,八月,乙丑,令有司具車牛於崇明門,自選後宮無用者載還其家;敕曰:「燕寢之內,尚令罷遣;閭閻之間,足可知悉。」 乙亥,吐蕃將坌達延、乞力徐帥眾十萬寇臨洮,軍蘭州,至於渭源,掠取牧馬。命薛訥白衣攝左羽林將軍,爲隴右防禦使。以右驍衞將軍常樂郭知運爲副使,與太僕少卿王晙帥兵擊之。辛巳,大募勇士,詣河、隴就訥教習。 初,鄯州都督楊矩以九曲之地與吐蕃,其地肥饒。吐蕃就之畜牧,因以入寇,矩悔懼自殺。 乙酉,太子賓客薛謙光獻武後所制《豫州鼎銘》,其末云:「上玄降鑒,方建隆基。」以爲上受命之符。姚崇表賀,且請宣示史官,頒告中外。 臣光曰:日食不驗,太史之過也;而君臣相賀,是誣天也。采偶然之文以爲符命,小臣之諂也;而宰相因而實之,是侮其君也。上誣於天,下侮其君,以明皇之明,姚崇之賢,猶不免於是,豈不惜哉! 九月,戊申,上幸驪山溫湯。 敕以歲稔傷農,令諸州修常平倉法;江、嶺、淮、浙、劍南地下濕,不堪貯積,不在此例。 |
現代日本語訳さらに宮殿の西南に楼閣を建て、「花萼相輝之楼」と西側に命名し、南側には「勤政務本之楼」と記した。皇帝(玄宗)が時折登楼すると、諸王の奏でる音楽が聞こえ、彼らを招いて共に宴を催したり、あるいは自ら王府へ赴き尽く歓を極めた。褒賞は常に厚かった。 解説■ 歴史的意義 ■ 文化政策の革新性 ■ 経済政策の先見性 ■ 司馬光批判の核心 ■ 吐蕃戦略の背景 Translation took 939.5 seconds. |
| 突厥可汗默啜衰老,昏虐愈甚;壬子,葛邏祿等部落詣涼州降。 冬,十月,吐蕃復寇渭源。丙辰,上下詔欲親征,發兵十餘萬人,馬四萬匹。 戊午,上還宮。 甲子,薛訥與吐蕃戰於武街,大破之。時太僕少卿隴右群牧使王晙帥所部二千人與訥會擊吐蕃。坌達延將吐蕃十萬屯大來谷,選勇士七百,衣胡服,夜襲之,多置鼓角於其後五里,前軍遇敵大呼,後人鳴鼓角以應之。虜以爲大軍至,驚懼,自相殺傷,死者萬計。訥時在武街,去大來谷二十里,虜軍塞其中間;晙復夜出兵襲之,虜大潰,始得與訥軍合。同追奔至洮水,復戰於長城堡,又敗之,前後殺獲數萬人。豐安軍使王海賓戰死。乙丑,敕罷親征。 戊辰,姚崇、盧懷慎等奏:「頃者吐蕃以河爲境,神龍中尚公主,遂逾河築城,置獨山、九曲兩軍,去積石三百里,又於河上造橋。今吐蕃既叛,宜毀橋拔城。」從之。 以王海賓之子忠嗣爲朝散大夫、尚輦奉御,養之宮中。 己巳,突厥可汗默啜又遣使求昏,上許以來歲迎公主。 突厥十姓胡祿屋等諸部詣北庭請降,命都護郭虔瓘撫存之。 乙酉,命左驍衞郎將尉遲瑰使於吐蕃,宣慰金城公主。吐蕃遣其大臣宗俄因矛至洮水請和,用敵國禮;上不許。自是連歲犯邊。 十一月,辛卯,葬殤皇帝。 丙申,遣左散騎常侍解琬詣北庭宣慰突厥降者,隨便宜區處。 |
現代日本語訳突厥の可汗・默啜は老いて衰え、ますます昏虐となった。壬子(9日)、葛邏禄などの部族が涼州に至り投降した。 戊辰(25日)、姚崇ら上奏:「かつて吐蕃は黄河を国境としたが、神龍年間(705-707)に公主を娶ってから河を越え城塞を築いた。独山・九曲両軍を置き積石より三百里も前進し、橋まで架けた。今や反逆した以上、城は破壊すべきである」。勅許される。 己巳(26日)、突厥默啜可汗が再び使者を遣わし和親を求めたため、皇帝は翌年の公主降嫁を承諾した。 乙酉(11月12日)、左驍衛郎将・尉遅瑰を使者として吐蕃へ派遣し金城公主を慰問させる。しかし吐蕃は大臣の宗俄因矛を洮水に遣わして和議を求めたが「敵国同格」と主張したため、皇帝は拒絶した(以後、連年で辺境侵犯)。 丙申(23日)、左散騎常侍・解琬を北庭へ派遣し投降突厥人を慰撫させ、現地情勢に応じて処置させる。 解説
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| 十二月,壬戌,沙陀金山入朝。 甲子,置隴右節度大使,領鄯、奉、河、渭、蘭、臨、武、洮、岷、郭、疊、宕十二州,以隴右防禦副使郭知運爲之。 乙丑,立皇子嗣真爲鄫王,嗣初爲鄂王,嗣玄爲鄄王。辛巳,立郢王嗣謙爲皇太子。嗣真,上之長子,母曰劉華妃。嗣謙,次子也,母曰趙麗妃;麗妃以倡進,有寵於上,故立之。 是歲,置幽州節度、經略、鎭守大使,領幽、易、平、檀、媯、燕六州。 突騎施可汗守忠之弟遮弩恨所分部落少於其兄,遂叛入突厥,請爲鄕導,以伐守忠。默啜遣兵二萬擊守忠,虜之而還。謂遮弩曰:「汝叛其兄,何有於我!」遂並殺之。 玄宗至道大聖大明孝皇帝上之中開元三年〈乙卯,西元七一五年〉 春,正月,癸卯,以盧懷慎檢校吏部尚書兼黃門監。懷慎清謹儉素,不營資產,雖貴爲卿相,所得俸賜,隨散親舊。妻子不免饑寒,所居不蔽風雨。 姚崇嘗有子喪,謁告十餘日,政事委積。懷慎不能決,惶恐入謝於上。上曰:「朕以天下事委姚崇,以卿坐鎭雅俗耳。」崇既出,須臾,裁決俱盡,頗有得色,顧謂紫微舍人齊澣曰:「余爲相,可比何人?」澣未對,崇曰:「何如管、晏?」澣曰:「管、晏之法雖不能施於後,猶能沒身。公所爲法,隨復更之,似不及也。」崇曰:「然則竟如何?」澣曰:「公可謂救時之相耳。 |
現代日本語訳(口語体)十二月の出来事壬戌の日、沙陀族の首長・金山が朝廷に参内した。 同年の重要事項この年、幽州節度・経略・鎮守大使を設置し、幽州・易州・平州・檀州・媯州・燕州の六州を管轄させた。 突騎施(トルギシュ)部族の可汗・守忠の弟である遮弩は、自分が兄より少ない領地しか与えられなかったことに恨みを持ち、突厥に寝返って先導役を買って出て、守忠討伐を要請した。 開元三年(715年)の記録春・正月の出来事癸卯の日、盧懷慎が検校吏部尚書兼黄門監に任命された。彼は清廉で質素な人物であり、財産を蓄えようとせず、高官となっても俸給や恩賞は全て親族や旧知に分け与えたため、妻子ですら飢え寒さに苦しみ、住居も雨風を防げないほどだった。 ある時、姚崇が子の葬儀で十数日休暇を取り、政務が滞積した。盧懷慎は判断できず恐縮して皇帝に謝罪すると、玄宗は言った。「天下のことは姚崇に任せてある。卿(盧懐慎)には風紀を整える役目だ」。 解説■歴史的背景
■人物評
■原文の特徴『資治通鑑』らしく「甲子」「乙丑」等の干支表記で日付を厳密に記載。現代語訳では月+十二支(例:十二月壬戌)を「○月△日」と平易化しつつ、当時の時間感覚は保持した。 ■翻訳方針
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| 」崇喜,投筆曰:「救時之相,豈易得乎!」 懷慎與崇同爲相,自以才不及崇,每事推之,時人謂之「伴食宰相。」 臣光曰:昔鮑叔之於管仲,子皮之於子產,皆位居其上,能知其賢而下之,授以國政;孔子美之。曹參自謂不及蕭何,一遵其法,無所變更;漢業以成。夫不肖用事,爲其僚者,愛身保祿而從之,不顧國家之安危,是誠罪人也。賢智用事,爲其僚者,愚惑以亂其治,專固以分其權,媢嫉以毀其功,愎戾以竊其名,是亦罪人也。崇,唐之賢相,懷慎與之同心戮力,以濟明皇太平之政,夫何罪哉!《秦誓》曰:「如有一介臣,斷斷猗,無它技;其心休休焉,其如有容;人之有技,若己有之,人之彥聖,其心好之,不啻如自其口出,是能容之,以保我子孫黎民,亦職有利哉。」懷慎之謂矣。御史大夫宋璟坐監朝堂杖人杖輕,貶睦州刺史。 突厥十勝降者前後萬餘帳。高麗莫離支文簡,十姓之婿也,二月,與□夾跌都督思泰等亦自突厥帥眾來降;制皆以河南地處之。 三月,胡祿屋酋長支匐忌等入朝。上以十姓降者浸多,夏,四月,庚申,以右羽林大將軍薛訥爲涼州鎭大總管,赤水等軍並受節度,居涼州;左衞大將軍郭虔瓘爲朔州鎭大總管,和戎等軍並受節度,居并州,勒兵以備默啜。 默啜發兵擊葛邏祿、胡祿屋、鼠尼施等,屢破之;敕北庭都護湯嘉惠、左散騎常侍解琬等發兵救之。 |
現代日本語訳姚崇は大いに喜び、筆を置いて言った。「時勢を救う宰相など、容易に見つかるものか!」 盧懐慎は姚崇と共に宰相となったが、自らの才能が及ばぬことを悟り、何事も彼に委ねた。当時の人々は彼を「陪食の宰相(ただ食事に同席するだけの宰相)」と嘲った。 臣・司馬光が言う: 付記される事象: 解説1.「陪食宰相」の真価盧懐慎が「才能不足」と蔑まれた背景には、彼の 「控えめな補佐役」としての美学 がある。司馬光は『書経』を引用し「他人の成功を心から喜べる器量(其心休休焉)」こそ国家の礎だと強調する。「姚崇という天才を支えた謙虚な協力者」という構図は、現代組織論で言う 「補完型リーダーシップ」 の先駆的事例と言える。 2.司馬光が描く「二重の罪人論」
3.国際情勢の伏線突厥投降者の急増(1万帳)と唐王朝の対応(涼州・朔州への大軍配置)は、後に勃発する 「突厥の乱」(721年) の前兆である。玄宗時代の外交が「懐柔政策」と「軍事抑止」を併用した緊張感が伝わる描写となっている。
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| 五月,壬辰,敕嘉惠等與葛邏祿、胡祿屋、鼠尼施及定邊道十總管阿史那獻互相應援。 山東大蝗,民或於田旁焚香膜拜設祭而不敢殺,姚崇奏遣御史督州縣捕而瘞之。議者以爲蝗眾多,除不可盡;上亦疑之。崇曰:「今蝗滿山東,河南、北之人,流亡殆盡,豈可坐視食苗,曾不救乎!借使除之不盡,猶勝養以成災。」以乃從之。盧懷慎以爲殺蝗太多,恐傷和氣。崇曰:「昔楚莊吞蛭而愈疾,孫叔殺蛇而致福,奈何不忍於蝗,而忍人之饑死乎?若使殺蝗有禍,崇請當之!」 秋,七月,庚辰朔,日有食之。 上謂宰相曰:「朕每讀書有所疑滯,無從質問;可選儒學之士,日使入內侍讀。」盧懷慎薦太常卿馬懷素。九月,戊寅,以懷素爲左散騎常侍,使與右散騎常侍褚無量更日侍讀。每至閣門,令乘肩輿以進;或在別館道遠,聽於宮中乘馬。親送迎之,待以師傅之禮。以無量羸老,特爲之造腰輿,在內殿令內侍舁之。 九姓思結都督磨散等來降;己未,悉除官遣還。 西南蠻寇邊,遣右驍衞將軍李玄道發戎、瀘、夔、巴、梁、鳳等州兵三萬人並舊屯兵討之。 壬戌,以涼州大總管薛訥爲朔方道行軍大總管,太僕卿呂延祚、靈州刺史杜賓客副之,以討突厥。 甲子,上幸鳳泉湯;十一月,己卯,還京師。 劉幽求自杭州剌史徙郴州剌史,憤恚,甲申,卒於道。 |
現代日本語訳五月壬辰の日、詔を下して嘉惠らに命じ、葛邏祿(カラルク)、胡禄屋(ウグルグ)、鼠尼施(シュニシ)および定辺道十総管アシナ献と相互に援護せしむ。 山東地方で大規模な蝗害が発生した。農民の中には田んぼの脇で香を焚き拝礼して祭りを行い、殺すことをためらう者もいた。姚崇は御史を派遣し、州県に督促させて蝗を捕獲・埋葬させるよう上奏した。これに対して「蝗が多すぎて駆除しきれない」と反論する者がおり、皇帝(玄宗)も疑念を示した。姚崇は言った。「今や山東一帯は蝗で埋まり、河南から河北にかけての住民はほとんど逃亡してしまっている。どうして黙って苗が食い荒らされるのを見て、救おうとしないのか!たとえ駆除しきれなくとも、災害を育てるよりましだ」。これにより実施された。盧懐慎は「蝗を殺しすぎれば天地の調和を損なう恐れがある」と反対したが、姚崇は言い返した。「昔、楚荘王はヒルを飲み込んで病気を治し、孫叔敖は蛇を殺して福を得たという。なぜ蝗には慈悲を示しながら、人々の餓死を見過ごすのか?もし蝗殺しに罰があるなら、私が引き受けよう」。 秋七月庚辰朔(1日)、日食があった。 九姓思結部族の都督磨散らが投降してきたので、己未の日に全員官位を与えて帰還させた。 壬戌の日、涼州大総管薛訥を朔方道行軍大総管に任命し、太僕卿呂延祚と霊州刺史杜賓客を副官として突厥征伐にあたらせた。 劉幽求は杭州刺史から郴州刺史に左遷されたことに憤慨し、甲申の日に赴任途中で没した。 解説
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| 丁酉,以左羽林大將軍郭虔瓘兼安西大都護、四鎭經略大使。虔瓘請募關中兵萬人詣安西討擊,皆給遞馱及熟食;敕許之。將作大匠韋湊上疏,以爲:「今西域服從,雖或時有小盜竊,舊鎭兵足以制之。關中常宜充實,以強幹弱枝。自頃西北二虜寇邊,凡在丁壯,征行略盡,豈宜更募驍勇,遠資荒服!又,一萬徵人行六千餘里,鹹給遞馱熟食,道次州縣,將何以供!秦、隴之西,戸口漸少,涼州已往,沙磧悠然,遣彼居人,如何取濟?縱令必克,其獲幾何?儻稽天誅,無乃甚損!請計所用、所得,校其多少,則知利害。昔唐堯之代,兼愛夷、夏,中外乂安;漢武窮兵遠征,雖多克獲,而中國疲耗。今論帝王之盛德者,皆歸唐堯,不歸漢武;況邀功不成者,復何足比議乎!」時姚崇亦以虔瓘之策爲不然。既而虔瓘卒無功。 初,監察御史張孝嵩奉使廓州還,陳磧西利害,請往察其形勢;上許之,聽以便宜從事。 枝汗那者,古烏孫也,內附歲久。吐蕃與大食共立阿了達爲王,發兵攻之,枝汗那王兵敗,奔安西求救。孝嵩謂都護呂休璟曰:「不救則無以號令西域。」遂帥旁側戎落兵萬餘人,出龜茲西數千里,下數百城,長驅而進。是月,攻阿了達於連城。孝嵩自擐甲督士卒急攻,自巳至酉,屠其三城,俘斬千餘級,阿了達與數騎逃入山谷。孝嵩傳檄諸國,威振西域,大食、康居、大宛、罽賓等八國皆遣使請降。 |
現代日本語訳丁酉の日、左羽林大将軍であった郭虔瓘を安西大都護・四鎮経略大使に兼任させた。虔瓘が関中から兵士1万人を募り、食料と輸送用の駄獣を与えたうえで安西へ派遣し討伐させるよう上奏すると、皇帝はこれを許可した。将作大匠の韋湊は反対意見を奉り、「今や西域は従順であり、たとえ小規模な賊行為があっても既存の守備兵で十分対応できる」と指摘。「関中の兵力充実こそ国家の中核強化につながる方策です。近年、西北方面では異民族が国境を侵す中、壮丁は出兵に駆り出され尽くしています。さらに精鋭部隊を辺境地帯へ送るべきではありません」と主張した。加えて「1万の兵士が6000里以上を行軍し、全員に食料や輸送支援を与えるとなれば、沿道の州県は負担に耐えられないでしょう。秦・隴以西では戸籍人口も減少しており、涼州を過ぎれば砂漠地帯が広がっています」と現実的な問題点を列挙し、「たとえ勝利しても得られる利益は少なく、逆に遠征が長引けば損失は甚大です。費用と効果の比較考量をおこなえば、利害は明白になります」との見解を示した。さらに歴史的教訓として「古代の聖王・堯は異民族も中華国民も平等に慈しみ天下を安定させましたが、武帝は無理な遠征で国力を疲弊させたのです」と強調。「今日、帝王の徳として称賛されるのは堯であって武帝ではありません。ましてや功績を得られない計画など論ずる価値もありません」と結んだ。当時、宰相の姚崇も虔瓘の策に反対していたが、結局この遠征は成果なく終わった。 一方で以前、監察御史・張孝嵩が廓州からの任務を終えて帰還した際、西域情勢について分析し現地視察と臨機応変な対応許可を願い出ていた。皇帝はこれを認めた。(中略)この時、枝汗那国(古代ウスンの後継国家で長年唐に服属していた地域)では、吐蕃と大食(アラブ帝国)が共同擁立した阿了達の侵攻により国王が敗走し、安西都護府へ救援を求めてきた。孝嵩は都護・呂休璟に対し「救援しなければ西域での威信を保てない」と主張し、周辺部族から集めた兵1万余りを率いて亀茲(クチャ)の西側へ数千里進軍した。数百もの城を攻略する快進撃の末、同月中に連城で阿了達軍との決戦となった。孝嵩自ら甲冑を着て士卒を指揮し、巳刻(午前10時頃)から酉刻(午後6時頃)まで猛攻を続けて三都市を陥落させた。捕虜および斬首した敵兵は千余に上り、阿了達は数騎で山岳地帯へ逃亡した。この戦勝を受け孝嵩が西域諸国に威令を発布すると、大食・康居(ソグディアナ)・大宛(フェルガナ)・罽賓(カシミール地方)など8か国が相次いで使者を派遣し降伏を申し出た。 解説
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| 勒石紀功而還。會有言其贓污者,坐系涼州獄,貶靈州兵曹參軍。 京兆尹崔日知貪暴不法,御史大夫李傑將糾之,日知反構傑罪。十二月,侍御史楊瑒廷奏曰:「若糾彈之司,使奸人得而恐愒,則御史台可廢矣。」上遽命傑視事如故,貶日知爲歙縣丞。 或上言:「按察使徒煩擾公私,請精簡刺史、縣令,停按察使。」上命召尚書省官議之。姚崇以爲:「今止擇十使,猶患未盡得人,況天下三百餘州,縣多數倍,安得刺史、縣令皆稱其職乎!」乃止。 尚書左丞韋玢奏:「郎官多不舉職,請沙汰,改授他官。」玢尋出爲刺史,宰相奏擬冀州,敕改小州。姚崇奏言:「台郎寬怠及不稱職,玢請沙汰,乃是奉公。台郎甫爾改官,玢即貶黜於外,議者皆謂郎官謗傷。臣恐後來左右丞指以爲戒,則省事何從而舉矣!伏望聖慈祥察,使當官者無所疑懼。」乃除冀州刺史。 突騎施守忠既死,默啜兵還,守忠部將蘇祿鳩集餘眾,爲之酋長。蘇祿頗善綏撫,十姓部落稍稍歸之,有眾二十萬,遂據有西方,尋遣使入見。是歲,以蘇祿爲左羽林大將軍、金方道經略大使。 皇后妹夫尚衣奉御長孫昕以細故與御史大夫李傑不協。 玄宗至道大聖大明孝皇帝上之中開元四年〈丙辰,西元七一六年〉 春,正月,昕與其妹夫楊仙玉於里巷伺傑而毆之。傑上表自訴曰:「髮膚見毀,雖則育心,冠冕被陵,誠爲辱國。 |
現代日本語訳:功績を石に刻んで記念し、凱旋した。ちょうど彼の収賄や汚職を告発する者が現れ、涼州の獄に拘束され、霊州兵曹参軍に左遷された。 京兆尹・崔日知が貪欲で暴虐、法を犯していたため、御史大夫・李傑が糾弾しようとしたところ、逆に崔日知が李傑の罪を捏造した。十二月、侍御史・楊瑒が朝廷で上奏した。「もし糾弾する役所である我々が、悪人に脅かされるようなことがあれば、御史台は廃止すべきです」と。玄宗皇帝はすぐに李傑を元通り職務に復帰させ、崔日知を歙県丞に左遷した。 ある上奏で「巡察使(按察使)が公私にわたり煩雑な干渉をするだけなので、刺史・県令の選抜を厳格化し、巡察使は廃止すべきだ」と述べた。皇帝は尚書省の役人を召集して議論させた。姚崇は「今たった十人の使者(按察使)を選ぶだけでも適材を得られずに苦労しているのに、まして天下三百余州、県はその数倍もある状況で、どうして刺史や県令が全員職務に見合う人材ばかりと言えましょうか」と反論し、廃止案は撤回された。 尚書左丞・韋玢が「郎官の多くが職責を果たしていない。選別し他職へ転任させるべきだ」と上奏したところ、まもなく韋玢自身が出向で刺史となった。宰相が冀州刺史に推薦したのに、勅命で小さな州へ変更された。姚崇が「郎官の怠慢や不適格を韋玢が指摘したのは奉公行為です。(左丞発言後に)直ちに郎官たちが異動となり、韋玢自身も左遷されれば『郎官達の中傷だ』と噂されます。今後もし左右丞(監察責任者)がこれを戒めとしたら、朝廷の事務は誰が正すのでしょうか」と上奏し、「役人が疑念や恐れを抱かないよう配慮願います」と訴えたため、韋玢は冀州刺史に任命された。 突騎施の守忠(蘇禄?)が死ぬと、默啜(突厥可汗)の軍は撤退した。守忠の部将・蘇祿が残兵を集めて首長となり、巧みな統治で十姓部落を次第に帰属させた。二十万の兵力を得て西方を支配すると、すぐに使者を派遣して朝貢した。この年(716年)、蘇祿は左羽林大将軍・金方道経略大使に任じられた。 皇后の妹婿である尚衣奉御・長孫昕が些細なことで御史大夫・李傑と対立していた。 玄宗皇帝(諡:至道大聖大明孝皇帝)治世中盤 開元四年〈丙辰、西暦716年〉 春正月、長孫昕は義兄の楊仙玉と共に路地で待ち伏せし李傑を殴打した。李傑が上表して訴えた。「身体を傷つけられたのは私個人の痛みですが、官職(冠冕)への侮辱こそ国家に対する恥辱です」 解説:
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| 」上大怒,命於朝堂杖殺,以謝百僚,仍以敕書慰傑曰:「昕等朕之密戚,不能訓導,使陵犯衣冠,雖置以極刑,未足謝罪。卿宜以剛腸疾惡,勿以凶人介意。」 丁亥,宋王成器更名憲,申王成義更爲名摠。 乙酉,隴右節度使郭虔瓘奏,奴石良才等八人皆有戰功,請除游擊將軍。敕下,盧懷慎等奏曰:「郭虔瓘恃其微效,輒侮彝章,爲奴請五品,實亂綱紀,不可許。」上從之。 丙午,以鄫王嗣真爲安北大都護、安撫河東、關內、隴右諸蕃大使,以安北大都護張知運爲之副。陝王嗣升爲安西大都護、安撫河西四鎭諸蕃大使,以安西都護郭虔瓘爲之副。二王皆不出閣。諸王遙領節度自此始。 二月,丙辰,上幸驪山溫湯。 吐蕃圍松州。 丁卯,上還宮。 辛未,以尚書右丞倪若水爲汴州刺史兼河南採訪使。 上雖欲重都督、刺史,選京官才望者爲之,然當時士大夫猶輕外任。揚州採訪使班景倩入爲大理少卿,過大梁,若水餞之行,立望其行塵,久之乃返,謂官屬曰:「班生此行,何異登仙!」 癸酉,松州都督孫仁獻襲擊吐蕃於城下,大破之。 上嘗遣宦官詣江南取□鶄、鸂鶒等,欲置苑中,使者所至煩擾。道過汴州,倪若水上言:「今農桑方急,而羅捕禽鳥以供園池之玩,遠自江、嶺,水陸傳送,食爲粱肉。道路觀者,豈不以陛下爲賤人而貴鳥乎?陛下方當以鳳凰爲凡鳥,麒麟爲凡獸,況□鶄、鸂鶒,曷足貴也!」上手敕謝若水,賜帛四十段,縱散其鳥。 |
現代日本語訳玄宗皇帝は激怒し、朝廷内で杖殺刑を執行するよう命じ、官僚たちへの謝罪とした。同時に蒋欽緒へ慰労の勅書を下した:「王昕らは朕の近親であるが、彼らを教え導けず高官に対する侮辱行為を許してしまった。極刑をもってしても謝罪不十分だ。卿は剛直な心で悪を憎み、凶暴な者どもを気にかけるな」 丁亥(713年旧暦12月17日)、宋王李成器が名を憲と改め、申王李成義は摠に改名した。 二月丙辰(715年旧暦2月8日)、皇帝は驪山温泉に行幸した。 皇帝は都督・刺史の地位向上を図り有能な中央官を登用したが、当時の士大夫たちは依然として地方官職を軽んじていた。揚州採訪使班景倩が大理少卿として中央召還される際、大梁(汴州)を通った時、倪若水が送別の宴を設け、その車馬の砂煙が見えなくなるまで立ち尽くし、「彼こそ仙人に昇るような栄転だ」と官属に感慨した。 皇帝が江南へ使者を派遣し□鶄・鸂鶒などの珍鳥を献上させた際、汴州を通った倪若水は直言:「農繁期に鳥獣捕獲や輸送(食糧には米と肉を供給)で民衆を苦しめるのは『陛下が人間より鳥を貴ぶ』との批判を招きます。鳳凰すら平凡な鳥、麒麟も普通の獣と見做される御世に、まして□鶄・鸂鶒など珍重に値するか」。皇帝は謝意を示し絹四十端を賜い、捕獲した鳥を全て解放させた。 解説
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| 山東蝗復大起,姚崇又命捕之。倪若水謂:「蝗乃天災,非人力所及,宜修德以禳之。劉聰時,常捕埋之,爲害益甚。」拒御史,不從其命。崇牒若水曰:「劉聰偽主,德不勝妖;今日聖朝,妖不勝德。古之良守,蝗不入境。若其修德可免,彼豈無德致然?」若水乃不敢違。夏,五月,甲辰,敕委使者詳察州縣捕蝗勤惰者,各以名聞。由是連歲蝗災,不至大饑。 或言於上曰:「今歲選敘大濫,縣令非才。」及入謝,上悉召縣令於宣政殿庭,試以理人策。惟鄄城令韋濟詞理第一,擢爲醴泉令。餘二百餘人不入第,且令之官;四十五人放歸學問。吏部侍郎盧從願左遷豫州剌史,李朝隱左遷滑州刺史。從願典選六年,與朝隱皆名稱職。初,高宗之世,馬載、裴行檢在吏部,最有名,時人稱吏部前有馬、裴,後有盧、李。濟,嗣立之子也。 有胡人上言海南多珠翠奇寶,可往營致,因言市舶之利;又欲往師子國求靈藥及善醫之嫗,置之宮掖。上命監察御史楊范臣與胡人偕往求之,范臣從容奏曰:「陛下前年焚珠玉、錦繡,示不復用。今所求者何以異於所焚者乎!彼市舶與商賈爭利,殆非王者之體。胡藥之性,中國多不能知;況於胡嫗,豈宜置之宮掖!夫御史,天子耳目之官,必有軍國大事,臣雖觸冒炎瘴,死不敢辭。此特胡人眩惑求媚,無益聖德,竊恐非陛下之意,願熟思之。 |
現代日本語訳:山東地域で再び大規模な蝗害が発生したため、姚崇は改めて駆除命令を下した。倪若水は「蝗害は天災であり人力では防げない。徳行を修めることで災いを取り除くべきだ」と反論し、「劉聰の時代に捕獲・埋却を試みたが被害は拡大しただけだった」として御史の命令を受け入れなかった。姚崇は文書で倪若水を諭して言った。「劉聰は偽りの君主であり、徳では災いに対抗できぬが、今や聖天子の世において災いが徳に勝るはずがない。古の良き地方官のもとには蝗さえ侵入しなかったというのに、もし徳行で防げるとすれば(被害を受けた地域は)無徳故のことか?」 若水はこれに屈して従った。 同年夏五月甲辰の日、朝廷は使者に対し各州県の駆除対応を監査させ、怠慢な官吏を報告するよう命じた。このため連年の蝗害にも関わらず大飢饉には至らなかった。 ある人物が皇帝(玄宗)に進言した。「今年の人事登用は乱脈で、県令たちは無能揃いです」。その後、新任県令たちが宮中で謝恩する際、皇帝は全員を宣政殿庭に召集し民政策論を試験させた。鄄城県令・韋済だけが文理ともに優れ醴泉県令へ昇進したが、二百名以上は不合格のまま現職続行、四十五名は官位剥奪で学問修行へ戻された。吏部侍郎の盧従願と李朝隠もそれぞれ豫州刺史・滑州刺史に左遷された。両者は六年間にわたり人事を担当し有能と評されていたが、高宗時代の馬載・裴行検(かつて「吏部は前に馬・裴、後に盧・李あり」と称賛された名官)と同じ過ちを犯したのである。韋済は宰相・韋嗣立の子であった。 胡人の商人が進言した。「南海には真珠や宝玉が豊富で交易利益も大きい」。また「師子国(スリランカ)から霊薬や優れた医術の老婆を求め後宮に置くべきだ」とも述べた。これを受け皇帝は監察御史・楊范臣に同行調査を命じたが、范臣は静かに奏上した。「陛下はかつて珠玉錦繡を焼却し奢侈禁止を示されました。今のご命令はそれと矛盾しませんか? 外国商人との利権争いは王者の道に反します。胡人の薬効など中国人には判別不能、ましてや老婆を後宮に入れるとは言語道断です。御史たる臣が炎熱病地へ赴くのは軍国大事あってこそ。これは単なる胡人の媚びであり陛下の本意ではあるまいと愚考します」。 解説:
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| 」上遽自引咎,慰諭而罷之。 六月,癸亥,上皇崩於百福殿。己巳,以上女萬安公主爲女官,欲以追福。 癸酉,拔曳固斬突厥可汗默啜首來獻。時默啜北擊拔曳固,大破之於獨樂水,恃勝輕歸,不復設備,遇拔曳固迸卒頡質略,自柳林突出,斬之。時大武軍子將郝靈荃奉使在突厥,頡質略以其首歸之,與偕詣闕,懸其首於廣街。拔曳固、回紇、同羅、□、僕固五部皆來降,置於大武軍北。 默啜之子小可汗立,骨咄祿之子闕特勒擊殺之,及默啜諸子、親信略盡;立其兄左賢王默棘連,是爲毘伽可汗,國人謂之「小殺」。毘伽以國固讓闕特勒,闕特勒不受;乃以爲左賢王,專典兵馬。 秋,七月,壬辰,太常博士陳貞節、蘇獻以太廟七室已滿,請遷中宗神主於別廟,奉睿宗神主祔太廟;從之。又奏遷昭成皇后祔睿宗室,肅明皇后留祀於儀坤廟。八月,乙巳,立中宗廟於太廟之西。 辛未,契丹李失活、奚李大酺帥所部來降。制以失活爲松漠郡王、行左金吾大將軍兼松漠都督,因其八部落酋長,拜爲刺史;又以將軍薛泰督軍鎭撫之。大酺爲饒樂郡王、行右金吾大將軍兼饒樂都督。失活,盡忠之從父弟也。 吐蕃復請和,上許之。 突厥默啜既死,奚、契丹、拔曳固等諸部皆內附,突騎施蘇祿復自立爲可汗。突厥部落多離散,毘伽可汗患之,乃召默啜時牙官暾欲谷,以爲謀主。 |
現代日本語訳皇帝はすぐに自らの過ちを認め、慰めて諭した後に事態を収めた。 六月癸亥の日、上皇が百福殿で崩御された。己巳の日、皇帝は娘の万安公主を女官とし、追善供養を行おうとした。 癸酉の日、拔曳固(ばつえいこ)が突厥の可汗・默啜(もくてつ)の首級を斬り、献上してきた。當時、默啜は北方で拔曳固を攻撃し、獨樂水において大勝した。その勝利に驕って軽率に帰還し、防備を怠ったため、拔曳固の敗走兵・頡質略(きつしりゃく)が柳林から突出して默啜を斬殺したのである。この時、大武軍の子将・郝霊荃(かくれいせん)が突厥への使者として滯在しており、頡質略は默啜の首級を彼に渡し、共に宮廷へ赴いた。首級は広街に晒された。拔曳固・回紇(かいきつ)・同羅(どうら)・□[※部族名欠落]・僕固(ぼくこ)の五部族が降伏し、大武軍の北側に安置された。 默啜の子である小可汗が即位したが、骨咄祿(こつとつろく)の子・闕特勒(けってきりく)がこれを討ち殺し、默啜の息子たちや親信らをほぼ殲滅させた。その後、默啜の兄である左賢王・默棘連(もくきょくれん)を立てて毘伽可汗(びかかがん)とし、國人からは「小殺」と呼ばれた。毘伽は固辭して國を闕特勒に譲ろうとしたが、闕特勒は受けず、代わりに左賢王として兵馬の統率を専任させることになった。 秋七月壬辰の日、太常博士・陳貞節と蘇獻が「太廟七室が満杯となったため、中宗の神主を別廟へ移し、睿宗(えいそう)の神主を太廟に合祀すべき」と上奏。皇帝はこれを認めた。さらに昭成皇后を睿宗廟に合祀し、肅明皇后は儀坤廟で祭祀を継続させることも決まった。八月乙巳、中宗廟が太廟の西側に建立された。 辛未の日、契丹(きったん)の李失活(りしつかつ)と奚(けい)の李大酺(りたいほ)が配下を率いて降伏した。詔により失活は松漠郡王・行左金吾大將軍兼松漠都督に任じられ、八部落の酋長には刺史の位を与え、将軍・薛泰(せつたい)を鎮撫使として派遣した。李大酺は饒樂郡王・行右金吾大將軍兼饒樂都督となった。失活は盡忠(じんちゅう)の従弟にあたる。 吐蕃が再び和平を請い、皇帝はこれを許した。 突厥の默啜が死ぬと、奚・契丹・拔曳固など諸部族が相次いで帰順し、突騎施(とっきし)の蘇祿(そろく)も自立して可汗となった。これにより突厥部落は離散状態となり、毘伽可汗は憂慮した。そこで默啜時代の牙官・暾欲谷(とんよくこく)を呼び戻し、参謀長として重用することにした。 解説
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| 暾欲谷年七十餘,多智略,國人信服之,突厥降戸處河曲者,聞毘伽立,多復叛歸之。 并州長史王晙上言:「此屬徒以其國喪亂,故相帥來降;若彼安寧,必復叛去。今置之河曲,此屬桀黠,實難制御,往往不受軍州約束,興兵剽掠;聞其逃者已多與虜聲問往來,通傳委曲。乃是畜養此屬使爲間諜,日月滋久,奸詐愈深,窺伺邊隙,將成大患。虜騎南牧,必爲內應,來逼軍州,表裡受敵,雖有韓、彭,不能取勝矣。願以秋、冬之交,大集兵眾,諭以利害,給其資糧,徙之內地。二十年外,漸變舊俗,皆成勁兵;雖一時暫勞,然永久安靖。比者守邊將吏及出境使人,多爲諛辭,皆非事實,或雲北虜破滅,或雲降戸妥貼,皆欲自衒其功,非能盡忠徇國。願察斯利口,忽忘遠慮。議者必曰:『國家向時已嘗置降戸於河曲,皆獲安寧,今何所疑!』此則事同時異,不可不察。向者頡利既亡,降者無復異心,故得久安無變。今北虜尚存,此屬或畏其威,或懷其惠,或其親屬,豈樂南來!較之彼時,固不侔矣。以臣愚慮,徙之內地,上也;多屯士馬,大爲之備,華、夷相參,人勞費廣,次也;正如今日,下也。願審茲三策,擇利而行,縱使因徙逃亡,得者皆爲唐有;若留至河冰,恐必有變。」 疏奏,未報;降戸□夾跌思泰、阿悉爛等果叛。冬,十月,甲辰,命朔方大總管薛訥發兵追討之。 |
現代日本語訳:トゥンユク(暾欲谷)は七十歳余りの高齢ながら智謀に優れ、民衆からの信望が厚かった。黄河屈曲部(河曲)に居住していた突厥系帰順部族らはビルゲ可汗の即位を知ると、続々と離反して彼のもとに戻った。 并州長史・王晙は上奏文で次のように進言した: 「これらの人々は祖国が混乱しているからこそ集団で降伏してきたのであり、情勢が安定すれば必ず再び離脱します。現在も河曲に居住させていますが、彼らは獰猛かつ狡猾なため統制が極めて難しく、しばしば軍や州の命令を無視して略奪行為を行っています」 「逃亡者が敵国と連絡を取り合い内部情報を流しているとの報告もあります。これはまさに諜報員を養成しているようなものです。時が経つにつれ悪巧みは深まり、辺境の隙を狙って深刻な脅威となるでしょう。北方騎馬民族が南下すれば必ず内応し、我々は内外から挟撃されます。韓信や彭越のような名将でも勝利は不可能です」 「願わくば秋冬の時期に大軍を集結させ、利害関係を説明した上で物資を与え内地へ移住させるべきです。二十年もすれば旧来の習俗が改まり精強な兵士となるでしょう。一時的な手間こそかかるものの永続的な安定を得られます」 「近年は辺境将校や外交使節が虚偽報告を繰り返しています。“北方勢力は滅亡した”“帰順部族は従順だ”などと功績を誇張するばかりで、国家への忠誠心に欠けています。反対者は『以前も河曲に配置して問題なかったではないか』と言うでしょうが、当時(頡利可汗滅亡後)とは状況が全く異なります。現在は北方勢力が健在であり、彼らはその武力を恐れ恩恵を慕い親族を懐かしんでいます」 「私の見解では最善策は内地移住、次善策は大軍駐屯による厳重警戒(ただし費用と労力が膨大)、下策は現状維持です。仮に移住時に逃亡者が出ても唐領内で捕捉できます。しかし河川凍結まで放置すれば必ず変事が起きるでしょう」 上奏後も朝廷の返答がないうちに、帰順部族の夾跌思泰(キエティエスータイ)や阿悉爛(アーシーラン)らが反乱を起こした。冬十月甲辰の日、朔方道大総管・薛訥は追討軍派遣を命じられた。 解説:
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| 王晙引并州兵西濟河,晝夜兼行,追擊叛者,破之,斬獲三千級。 先是,單于副都護張知運悉收降戸兵仗,令渡河而南,降戸怨怒。御史中丞姜晦爲巡邊使,降戸訴無弓矢,不得射獵,晦悉還之;降戸得之,遂叛。張知運不設備,與之戰於青剛嶺,爲虜所擒,欲送突厥;至綏州境,將軍郭知運以朔方兵邀擊之,大破其眾於黑山呼延谷,虜釋張知運而去。上以張知運喪師,斬之以徇。毘伽可汗既得思泰等,欲南入爲寇。暾欲谷曰:「唐主英武,民和年豐,未有間隙,不可動也。我眾新集,力尚疲羸,且當息養數年,始可觀變而舉。」毘伽又欲築城,並立寺觀,暾欲谷曰:「不可。突厥人徒稀少,不及唐家百分之一,所以能與爲敵者,正以逐水草,居處無常,射獵爲業,人皆習武,強則進兵抄掠,弱則竄伏山林。唐兵雖多,無所施用。若築城而居,變更舊俗,一朝失利,必爲所滅。釋、老之法,教人仁弱,非用武爭勝之術,不可崇也。」毘伽乃止。 庚午,葬大聖皇帝於橋陵,廟號睿宗。御史大夫李傑護橋陵作,判官王旭犯贓,傑按之,反爲所構,左遷衢州刺史。 十一月,己卯,黃門監盧懷慎疾亟,上表薦宋璟、李傑、李朝隱、盧從願並明時重器,所坐者小,所棄者大,望垂矜錄;上深納之。乙未,薨。家無餘蓄,惟一老蒼頭,請自鬻以辦喪事。 |
現代日本語訳王晙は并州の兵を率いて西進し黄河を渡り、昼夜兼行で反乱軍を追撃して打ち破り、三千の首級を斬った。 当初、単于副都護・張知運が投降部族の武器を全て没収し、彼らに黄河を渡って南へ移るよう命じたため、降伏部族は怨みを抱いた。御史中丞・姜晦が辺境巡察使として赴任すると、投降部族から「弓矢がないために狩猟できない」と訴えがあり、姜晦は彼らに武器を返還した。これにより投降部族は反乱を起こし、張知運は防備を怠ったため青剛嶺で交戦となり捕虜となった。突厥へ送られようとしたが綏州境まで来た時、将軍・郭知運が朔方の兵で迎撃。黒山呼延谷で反乱軍主力を壊滅させたため、敵は張知運を解放して退却した。玄宗皇帝は張知運が軍勢を失った罪により彼を斬首し晒し者にした。 毘伽可汗は思泰らを得ると南下侵攻を企図したが、重臣の暾欲谷が諫めて言うには「唐皇帝は英明で民心和み豊作続き。隙なし。我々は兵力疲弊しているから数年養生し機会を窺え」と。また毘伽可汗が城郭建設や寺院建立を提案すると、暾欲谷は反対した。「突厥の人口は唐の百分の一だが、遊牧生活こそ強み。移動式戦術で唐軍を翻弄しているのに定住すれば弱点を曝す。仏教・道教は尚武精神を損ない侵略国家には不向きだ」と。この意見を受け毘伽可汗は計画を取りやめた。 庚午の日、睿宗皇帝(廟号)を橋陵に葬る。御史大夫・李傑が造営責任者となったが、判官・王旭の汚職事件を追及したところ逆に誣告され、左遷されて衢州刺史となる。 十一月己卯、黄門監・盧懷慎が危篤となり上奏。「宋璟・李傑・李朝隠・盧従願らは国家の柱石。軽微な過失で葬るのは損失」と訴え玄宗帝はこれを容れた。同月乙未、盧懐慎逝去。蓄財なく老僕が「自らを売って葬儀費用に充てたい」と申し出た。 解説
※本訳では『資治通鑑』原文の史書文体を現代日本語の報道調へ変換し: - 固有名詞は「王晙」「毘伽可汗」等現行表記で統一 - 「斬之以徇」→「晒し者にした」など直訳回避 - 干支(庚午)・月日(己卯)は原文保持の上、理解補助として西暦換算を割愛 Translation took 744.0 seconds. |
| 丙申,以尚書左丞源乾曜爲黃門侍郎、同平章事。 姚崇無居第,寓居罔極寺,以病痁謁告。上遣使問飲食起居狀,日數十輩。源乾曜奏事或稱旨,上輒曰:「此必姚宗之謀也。」或不稱旨,輒曰:「何不與姚崇議之!」乾曜常謝實然。每有大事,上常令乾曜就寺問崇。癸卯,乾曜請遷崇於四方館,仍聽家人入侍疾;上許之。崇以四方館有簿書,非病者所宜外,固辭。上曰:「設四方館,爲官吏也;使卿居之,爲社稷也。恨不可使卿居禁中耳,此何足辭!」崇子光祿少卿彝、宗正少卿異,廣通賓客,頗受饋遺,爲時所譏。主書趙誨爲崇所親信,受胡人賂,事覺,上親鞫問,下獄當死。崇復營救,上由是不悅。會曲赦京城,敕特標誨名,杖之一百,流嶺南。崇由是憂懼,數請避相位,薦廣州都督宋璟自代。 十二月,上將幸東都,以璟爲刑部尚書、西京留守,令馳驛詣闕,遣內侍、將軍楊思勖迎之。璟風度凝遠,人莫測其際,在塗竟不與思勖交言。思勖素貴幸,歸,訴於上,上嗟歎良久,益重璟。 丙辰,上幸驪山溫湯;乙丑,還宮。 閏月,己亥,姚崇罷爲開府儀同三司,源乾曜罷爲京兆尹、西京留守,以刑部尚書宋璟守吏部尚書兼黃門監,紫微侍郎蘇頲同平章事。 璟爲相,務在擇人,隨材授任,使百官各稱其積;刑賞無私,敢犯顏正諫。 |
現代日本語訳丙申の日、尚書左丞であった源乾曜を黄門侍郎・同平章事に任命した。 姚崇は自邸を持たず、罔極寺に寄宿していたが、瘧病にかかり休養を願い出ていた。玄宗皇帝は使者を遣わして彼の健康状態や食事内容を問わせるようになり、その回数は日に数十度にも及んだ。源乾曜が政務報告で皇帝の意にかなう発言をすると、皇帝は「これは必ず姚崇の助言だろう」と述べ、もし不満足な場合は「なぜ姚崇と相談しなかったのか」と詰問した。乾曜は常にその事実を認めて謝罪した。重大案件がある度に、皇帝は乾曜を寺へ派遣して姚崇の意見を求めた。 癸卯の日、源乾曜が四方館への移住と家族による看病を提案すると、皇帝はこれを許可した。しかし姚崇は「四方館には公文書があり病人にふさわしくない」と固辞したため、皇帝は次のように諭した:「四方館は官吏のために設置されたものだ。卿(あなた)を住まわせるのは国家のためである。禁中に入れられぬのが残念なのに、どうして辞退などできるか」 姚崇の息子たち(光禄少卿・彝と宗正少卿・異)は頻繁に賓客をもてなし贈収賄を行い、世間の非難を浴びた。また姚崇が信任する主書・趙誨が胡人から賄賂を受け取った事件が発覚し、皇帝自ら審問して死刑判決を下した。姚崇が助命嘆願すると皇帝は不興を示し、長安で恩赦が出された際にも詔勅に特記して趙誨の名を挙げ、杖刑百回・嶺南流罪と定めた。これにより姚崇は不安を抱き、辞職を繰り返し願い出て広州都督・宋璟を後任に推挙した。 十二月、皇帝が洛陽に行幸するにあたり、宋璟を刑部尚書兼西京留守として長安駐在と定めた。駅馬で朝廷へ直行させるよう命じ、宦官将軍の楊思勖を使者として派遣した。宋璟は重々しい風格で内心が測り難く、移動中ついに一言も楊思勖と話さなかった。権勢を誇る楊思勖が帰還後このことを皇帝に報告すると、皇帝は深く感嘆し一層宋璟を重用するようになった。 丙辰の日、皇帝は驪山温泉へ行幸し乙丑日に宮殿に戻った。 閏月己亥には姚崇を開府儀同三司(名誉職)として退かせ、源乾曜も京兆尹兼西京留守へ降格した。代わって刑部尚書・宋璟が吏部尚書兼黄門監に就任し、紫微侍郎の蘇頲が同平章事となった。 宋璟は宰相として人材登用を最重視し、各人の能力に見合う官職を与えて職務遂行を徹底させた。刑罰と恩賞には私心なく対応し、臆せず皇帝に直言諫言することを信条とした。 解説
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| 上甚敬憚之,雖不合意,亦曲從之。 突厥默啜自則天世爲中國患,朝廷旰食,傾天下之力不能克;郝靈荃得其首,自謂不世之功。璟以天子好武功,恐好事者競生心徼倖,痛抑其賞,逾年始授郎將;靈荃慟哭而死。 璟與蘇頲相得甚厚,頲遇事多讓於璟,頲每論事則頲爲之助。璟嘗謂人曰:「吾與蘇氏父子皆同居相府,僕射寬厚,誠爲國器,然獻可替否,吏事精敏,則黃門過其父矣。」 姚、宋相繼爲相,崇善應變成務,璟善守法持正;二人志操不同,然協心輔佐,使賦役寬平,刑罰清省,百姓富遮。唐世賢相,前稱房、杜,後稱姚、宋,他人莫得比焉。二人每進見,上輒爲之起,去則臨軒送之。及李林甫爲相,雖寵任過於姚、宋,然禮遇殊卑薄矣。紫微舍人高仲舒博通典籍,齊澣練習時務,姚、宋每坐二人以質所疑,既而歎曰:「欲知古,問高群,欲知今,問齊君,可以無缺政矣。」 辛丑,罷十道按察使。 舊制,六品以下官皆委尚書省奏擬。是歲,始制員外郎、御史、起居、遺、補不擬。 玄宗至道大聖大明孝皇帝上之中開元五年〈丁巳,西元七一七年〉 春,正月,癸卯,太廟四室壞,上素服避正殿。時上將幸東都,以問宋璟、蘇頲,對曰:「陛下三年之制未終,遽爾行幸,恐未契天心,災異爲戒;願且停車駕。」又問姚崇,對曰:「太廟屋材,皆苻堅時物,歲久朽腐而壞,適與行期相會,何足異也!且王者以四海爲家,陛下以關中不稔幸東都,百司供擬已備,不可失信;但應遷神主於太極殿,更修太廟,如期自行耳。 |
現代語訳(玄宗)皇帝は彼を非常に畏敬し、たとえ意見が合わなくても、無理に従うこともあった。 突厥の默啜(ぼくてつ)は則天武后の時代から中国にとって脅威であり、朝廷は遅くまで政務に追われ、天下の力を傾けても討伐できなかった。郝霊荃がその首級を得たとき、彼はこれぞ空前の大功だと自負した。しかし宋璟(そうえい)は天子が武勇を好むことを懸念し、野心家たちが手柄を狙って軽率な行動に出るのを防ぐため、厳しく恩賞を抑えた。一年以上経ってようやく郎将に任じたところ、郝霊荃は悲嘆のあまり死んでしまった。 宋璟と蘇頲(そてい)は非常に親密で、蘇頲は何事も進んで宋譲歩したが、議論になると必ず彼を支持した。宋璟は人々にこう語っていた:「私は蘇家父子二代と共に宰相府で働いた。父の僕射(蘇瓌)は寛大で誠に国家の宝だったが、政策の是非を論じ吏務を精緻に行う点では、息子である黄門侍郎(蘇頲)の方が父を超えている」。 姚崇と宋璟が相次いで宰相となった。姚崇は機転による問題解決に優れ、宋璟は法を守り公正さを保つことに長けていた。二人の志向は異なっていたが、心を合わせて補佐した結果、租税や労役は公平になり、刑罰も簡素化され、民衆は豊かになった。唐代の名宰相として、前期には房玄齢・杜如晦(ぼうげんれい・とじょかい)が称えられ、後期には姚崇・宋璟が謳われるほどで、他の者は比較にならなかった。二人が参内すると皇帝は必ず立ち上がり退出時には階まで見送った。後に李林甫が宰相となっても寵愛こそ勝っていたが礼遇ははるかに劣った。 紫微舎人高仲舒は典籍に精通し、齊澣(せいかん)は実務に通暁していたため、姚崇と宋璟は座席を並べて彼らに疑問点を質した。後に感嘆して言うには「古代を知りたければ高君に尋ねよ、現代を知りたければ斉君に問え。これで政務の欠落はなくなる」。 辛丑(しんちゅう)の日、十道按察使を廃止した。 旧制では六品以下の官職は全て尚書省が候補者を選定していたが、この年より員外郎・御史・起居郎・拾遺・補闕については奏上対象から除外することとなった。 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元五年(丁巳、西暦717年) 春正月癸卯(きぼう)の日、太廟四室が崩壊した。皇帝は喪服を着て正殿使用を取りやめた。当時帝は洛陽行幸を計画しており宋璟と蘇頲に意見を求めたところ「陛下は先帝への三年喪が終わらないうちに行幸すれば天意に背き災いを招く恐れがあります」との返答があった。次いで姚崇に問うと彼は言った。「太廟の建材は苻堅(ふけん)時代の古材であり老朽化による崩壊が偶然行幸時期と重なっただけです。そもそも王者は天下を家とするもの、陛下が関中飢饉を避けて洛陽へ向かう計画は既に整備済みです。神主を太極殿に移し太廟を修復しながら予定通り進発すべきでしょう」。 解説
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| 」上大喜,從之,賜崇絹二百匹。己酉,上行享禮於太極殿,命姚崇五日一朝,仍入閣供奉,恩禮更厚,有大政輒訪焉。右散騎常侍褚無量上言:「隋文帝富有天下,遷都之日,豈取苻氏舊材以立太廟乎?此特諛臣之言耳。願陛下克謹天戒,訥忠諫,遠諂諛。」上弗聽。 辛亥,行幸東都。達崤谷,道隘不治;上欲免河南尹及知頓使官,宋璟諫曰:「陛下方事巡幸,今以此罪二臣,臣恐將來民受其弊。」上遽命釋之。璟曰:「陛下罪之,以臣言而免之,是臣代陛下受德也;請令待罪朝堂而後赦之。」上從之。 二月,甲戌,至東都,赦天下。 奚、契丹既內附,貝州刺史宋慶禮建議,請復營州。三月,庚戌,制復置營州都督於柳城,兼平盧軍使,管內州縣鎭戍皆如其舊;以太子詹事姜師度爲營田、支度使,與慶禮等築之,三旬而畢。慶禮清勤嚴肅,開屯田八十餘所,招安流散,數年之間,倉廩充實,市邑浸繁。 夏,四月,甲戌,賜奚王李大酺妃辛氏號固安公主。 己丑,皇子嗣一卒,追立爲夏王,謚曰悼。嗣一母武惠妃,攸止之女也。 突騎施酋長左羽林大將軍蘇祿部眾浸強,雖職貢不乏,陰有窺邊之志。五月,十姓可汗阿史那獻欲發葛邏祿兵擊之,上不許。 初,上微時,與太常卿姜皎親善。及誅竇懷貞等,皎預有功。由是寵遇群臣莫及,常出入臥內,與后妃連榻宴飲,賞賜不可勝紀。 |
現代日本語訳:玄宗皇帝は大いに喜び、姚崇の進言に従い、彼に絹二百匹を下賜した。己酉(きゆう)の日、皇帝は太極殿で祭祀を行い、姚崇に対して五日に一度の参内を命じるとともに引き続き宮中での供奉を許し、その寵遇と礼遇を一層厚くされた。重要な政務があるたびに必ず彼の意見を求めた。 右散騎常侍(うさんきじょうじ)の褚無量(ちょむりょう)が上奏して言った。「隋の文帝は天下を富ませましたが、遷都の際、果たして前秦・苻氏の古材を用いて太廟を建立したでしょうか?これは単なる媚びる臣下の言葉に過ぎません。願わくば陛下には天譴(てんけん)を慎み、忠言を受け入れ、諂(へつら)いを遠ざけられますように」。しかし皇帝は聞き入れなかった。 辛亥(しんがい)の日、皇帝が東都洛陽に行幸した際、崤谷(こうこく)で道幅が狭く整備されていない箇所があった。これを見た皇帝は河南尹(かなんいん)と知頓使(ちとんし)を解任しようとしたが、宋璟(そうけい)が諫めて言った。「陛下が巡幸される折に二人の臣下を罰せば、今後同様の事態で民衆が不利益を受ける恐れがあります」。皇帝は直ちに赦免を命じた。しかし宋璟は続けて奏上した。「陛下が処罰しようとした彼らを、私の言葉によってお赦しになるのは、臣下である私が陛下の恩徳を横取りすることになります。どうか一旦は朝廷で待罪(たいざい)させた後、改めて赦免なさってください」。皇帝はこの進言に従った。 二月甲戌(こうじゅつ)の日、東都洛陽に到着し、大赦を行った。 奚族(けいぞく)と契丹族(きったんぞく)が唐に帰順した後、貝州刺史(はいしゅうしし)の宋慶礼(そうけいれい)は営州再建を提案した。三月庚戌(こうじゅつ)、詔勅により柳城(りゅうじょう)に営州都督府と平盧軍使を復活させ、管轄区域は従前のままとした。太子詹事(たいしぜんじ)の姜師度(きょうしど)を営田支度使(えいでんしどくし)に任命し宋慶礼らと共に築城にあたらせたところ、三十日で完成した。宋慶礼は清廉・勤勉かつ厳格であり、八十箇所以上の屯田を開拓して流浪の民を集め、数年で倉庫は物資が満ちあふれ、市街も次第に繁栄していった。 夏四月甲戌(こうじゅつ)、奚王李大酺(けいおうりだいほ)の妃・辛氏に固安公主(こあんこうしゅ)の称号を授けた。 己丑(きちゅう)、皇子李嗣一(りしいち)が逝去したため、夏王を追贈して悼(とう)と諡(おくりな)した。彼の母・武恵妃(ぶけいひ)は武攸止(ぶゆうし)の娘である。 突騎施族(とつきせぞく)の首長で左羽林大将軍を務める蘇祿(そろく)が勢力を拡大していた。表向きは朝貢を欠かさなかったものの、密かに国境侵犯を企てていた。五月、十姓可汗(じっせいかがん)アシナ献(あしなけん)が葛邏禄族(かつらろくぞく)の兵で討伐しようと提案したが、皇帝は許さなかった。 かつて皇帝が即位前の低い身分であった頃、太常卿(たいじょうきょう)姜皎(きょうこう)と親交があった。竇懐貞(とうかいてい)ら誅殺の際も彼は功績を立てたため、群臣中で最も厚く寵遇されていた。いつでも皇帝の寝所に出入りし后妃とも同席して宴を開き、受けた恩賞は数え切れなかった。 解説:
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| 弟晦,亦以皎故累遷吏部侍郎。宋璟言皎兄弟權寵太盛,非所以安之,上亦以爲然。秋,七月,庚子,以晦爲宗正卿,因下制曰:「西漢諸將,以權貴不全;南陽故人,以優閒自保。皎宜放歸田園,散官、勳、封皆如故。」 壬寅,隴右節度使郭知運大破吐蕃於九曲。 安西副大都護湯嘉惠奏突騎施引大食、吐蕃,謀取四鎭,圍缽換及大石城,已發三姓葛邏祿兵與阿史那獻擊之。 并州長史張嘉貞上言:「突厥九姓新降者,散居太原以北,請宿重兵以鎭之。」辛酉,置天兵軍於并州,集兵八萬,以嘉貞爲天兵軍大使。 太常少卿王仁惠等奏則天立明堂不合古制;又,明堂尚質,而窮極奢侈,密邇宮掖,人神雜擾。甲子,制復以明堂爲乾元殿,冬至、元日受朝賀,季秋大享,復就圜丘。 九月,中書、門下省及侍中皆復舊名。貞觀之制,中書、門下及三品官入奏事,必使諫官、史官隨之,有失則匡正,美惡必記之;諸司皆於正牙奏事,御史彈百官,服豸冠,對仗讀彈文;故大臣不得專君而小臣不得爲讒慝。及許敬宗、李義府用事,政多私僻,奏事官多俟仗下,於御坐前屏左右密奏,監奏御史及待制官遠立以俟其退;諫官、史官皆隨仗出,仗下後事,不復預聞。武後以法制群下,諫官、御史得以風聞言事,自御史大夫至監察得互相彈奏,率以險詖相傾覆。 |
現代日本語訳:弟の王晦(おうかい)も兄の王皎(おうこう)の縁故で吏部侍郎にまで昇進していた。宋璟(そうえい)が「王皎兄弟は権勢と寵愛が過度であり、これでは彼らの身の安全を保てない」と進言すると、玄宗皇帝もこれを認めた。秋7月庚子の日、王晦を宗正卿に転任させるとともに詔書で宣言した。「前漢の将軍たちは権勢ゆえに無事に終われず、光武帝(こうぶてい)の南陽時代からの友人・陰興(いんこう)は閑職を得て身を保った。王皎も田園へ帰すが、名誉官位・勲等・爵位は従来通り保持させる」 壬寅の日、隴右節度使(ろうゆうせつどし)郭知運(かくちうん)が九曲で吐蕃軍を大破した。 安西副大都護(あんさいだいとご)湯嘉惠(とうかけい)が上奏:「突騎施(とっきし)がアラブ勢力(大食)や吐蕃を引き入れ、西域四鎮の奪取を謀り、缽換城(はちかんじょう)と大石城を包囲中」。これに対応して三姓葛邏禄(さんせいかつらろく)の兵士と阿史那献(あしなけん)を派遣し迎撃させた。 并州長史(へいしゅうちょうし)張嘉貞(ちょうかてい)が進言:「新たに降伏した突厥九姓部族(きゅくけつきゅうせいぶぞく)が太原以北に散在している。重兵を駐屯させ統制すべきだ」。辛酉の日、并州に天兵軍を設置し8万兵力を集結、張嘉貞を天兵軍大使に任命した。 太常少卿(たいじょうしょうけい)王仁惠らが上奏:「則天武后建立の明堂は古代制度に合わず、質素であるべき建物が極端な奢侈。さらに宮廷近接で人間と神霊が混在し秩序紊乱」。甲子の日、詔勅により明堂を乾元殿(けんげんでん)と改称。冬至・元旦の朝賀儀礼はここで行い、季秋大饗(きしゅうたいきょう)祭祀は圜丘(えんきゅう)に戻す。 9月、中書省・門下省および侍中の官名を貞観時代の旧称に復帰。太宗治世では三品以上官僚が奏上する際には必ず諫官と史官が同席し過失は正され善悪を記録。各機関は正衙(政庁)で公務報告し、御史は獬豸冠(かいちかん)を戴き儀仗前で弾劾文朗読。これにより「大臣の君主操縦と下級官人の讒言」が防止されていた。 しかし許敬宗・李義府政権時から私的な奏上が横行し、官僚は退朝後に皇帝へ個別密奏するようになり監察御史らは遠方で待機。諫官や史官も儀仗退出後には立ち会えなくなった。則天武后時代に「風聞(噂)弾劾」が常態化し、御史台内部でも足の引っ張り合いが蔓延した。 歴史的解説:【政治構造の変遷】
【軍事防衛戦略】
【儀礼制度復古改革】
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| 及宋璟爲相,欲復貞觀之政,戊申,制:「自今事非的須秘密者,皆令對仗奏聞,史官自依故事。」 冬,十月,癸酉,伊闕人孫平子上言:「《春秋》譏魯躋僖公;今遷中宗於別廟而祀睿宗,正與魯同。兄臣於弟,猶不可躋,況弟臣于兄,可躋之于兄上乎!若以兄弟同昭,則不應出兄置於別廟。願下群臣博議,遷中宗入廟。」事下禮官,太常博士陳貞節、馮宗、蘇獻議,以爲:「七代之廟,不數兄弟。殷代或兄弟四人相繼爲君,若數以爲代,則無祖檷之祭矣。今睿宗之室當亞高宗,故爲中宗特立別廟。中宗既升新廟,睿宗乃祔高宗,何嘗躋居中宗之上?而平子引躋僖公爲證,誣罔聖朝,漸不可長。」時論多是平子,上亦以爲然,故議久不決。蘇獻,頲之從祖兄也,故頲右之。卒從禮官議。平子論之不巳,謫爲康州都城尉。 新廟成。戊寅,神主祔廟。 上命宋璟、蘇頲爲諸皇子制名及國邑之號,又令別制一佳名及佳號進之。璟等上言:「七子均養,著於《國風》。今臣等所制名號各三十餘,輒混同以進,以彰陛下覆燾無偏之德。」上甚善之。 十一月,丙申,契丹王李失活入朝。十二月,壬午,以東平王外孫楊氏爲永樂公主,妻之。 秘書監馬懷素奏:「省中書散亂訛缺,請選學術之士二十人整經校補。」從之。於是搜訪逸書,選吏繕寫,命國子博士尹知章、桑泉尉韋述等二十人同刊正,以左散騎常侍褚無量爲之使,於乾元殿前編校群書。 |
現代日本語訳宋璟が宰相となった時、太宗皇帝時代の貞観の治を再現しようと志し、戊申(648年)に詔書を発した:「今後は特に機密扱いが必要な事案以外は、全て朝廷で公開の上奏を行わせよ。史官は従前の慣例通り記録せよ」 冬十月癸酉(653年)、伊闕出身の孫平子が上奏した: この問題は礼官へ下され、太常博士・陳貞節/馮宗/蘇献が次のように議した: 当時の世論は概ね孫平子を支持し、玄宗皇帝も同様に感じていたため結論が出ずにいた。蘇献は宰相・蘇頲の従兄であったことから、蘇頲が彼を擁護した結果、最終的に礼官案が採用された。なおも抗議を続けた孫平子は康州都城尉へ左遷された。 新廟完成後の戊寅(653年)、中宗神主は正式に別廟で祭祀された。 玄宗皇帝から皇子たちの命名と封国称号制定を命じられた宋璟・蘇頲に対し、更によい名称案も提出するよう指示があった。二人は上奏した: 十一月丙申(653年)、契丹王・李失活が長安に入朝。十二月壬午(654年)、東平王の外孫である楊氏を永楽公主として彼に降嫁させた。 秘書監・馬懐素が上奏: 歴史背景解説
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| input text 資治通鑑\212_唐紀_28.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百十二 唐紀二十八 起著雍敦牂,盡旃蒙赤奮若,凡八年。 玄宗至道大聖大明孝皇帝上之下開元六年(戊午,公元七一八年) 春,正月,辛丑,突厥毘伽可汗來請和;許之。 廣州吏民為宋璟立遺愛碑。璟上言:「臣在州無它異跡,今以臣光寵,成彼謅諛;欲革此風,望自臣始,請敕下禁止。」上從之。於是它州皆不敢立。 辛酉,敕禁惡錢,重二銖四分以上乃得行。斂人間惡錢熔之,更鑄如式錢。於是京城紛然,賣買殆絕。宋璟、蘇頲請出太府錢二萬緡置南北方,以平價買百姓不售之物可充官用者,及聽兩京百官豫假俸錢,庶使良錢流布人間;從之。 二月,戊子,移蔚州橫野軍於山北,屯兵三萬,為九姓之援;以拔曳固都督頡質略、同羅都督毘伽末啜、□都督比言、回紇都督夷健頡利發、僕固都督曳勒歌等各出騎兵為前、後、左、右軍討擊大使,皆受天兵軍節度。有所討捕,量宜追集;無事各歸部落營生,仍常加存撫。 三月,乙巳,征嵩山處士盧鴻入見,拜諫議大夫;鴻固辭。天兵軍使張嘉貞入朝,有告其在軍奢僭及贓賄者,按驗無狀;上欲反坐告者,嘉貞奏曰:「今若罪之,恐塞言路,使天下之事無由上達,願特赦之。」其人遂得減死。上由是以嘉貞為忠,有大用之意。 有薦山人范知璿文學者,並獻其所為文,宋璟判之曰:「觀其《良宰論》,頗涉佞諛。 |
現代日本語訳資治通鑑・巻二百十二 唐紀二十八 著雍敦牂(戊午)の年から旃蒙赤奮若(乙丑)の年に至るまで、都合八年間。 玄宗皇帝(開元六年/西暦718年) 春正月辛丑(6日)、突厥の毘伽可汗が和を請う。朝廷はこれを許す。 広州の役人と民衆が宋璟の遺愛碑を建立しようとした。宋璟は上奏して言った。「私が任地で特別な功績もないのに、陛下からの寵愛にあやかり、彼らに諂いへつらいの機会を与えています。この風潮を改めるには、まず私から始めてください。禁令の発布をお願いします。」皇帝はこれに従った。以後、他の州でも同様の建立を行わなくなった。 辛酉(26日)、悪銭(粗悪貨幣)の流通が禁止され、「二銖四分」以上の重量のあるもののみ通用可能となった。民間から悪銭を回収して鋳直し、規格通りの通貨を再鋳造したため、長安では混乱が生じ商業活動はほぼ停止した。宋璟と蘇頲は対策として「太府寺(財政機関)の資金二万緡を用い、南北市場で官用に適う滞留品を公定価格で買い上げること」と「東西両京の官吏への俸給前払い許可」を提案し、良質通貨を民間へ流通させるよう奏上。皇帝はこれを認めた。 二月戊子(23日)、蔚州の横野軍を山北に移駐させ三万人を屯田兵として配置し、九姓突厥に対する支援体制を整える。抜曳固部族の都督・頡質略や同羅部族の毘伽末啜ら各部族長が指揮する騎兵隊を前後左右軍「討撃大使」に任命し、全て天兵軍(辺境部隊)の統制下に置いた。有事には状況に応じて招集し、平時は各々帰営して生業につかせるとともに、常に慰撫を行う方針とした。 三月乙巳(11日)、嵩山の隠士・盧鴻を朝廷に召す。諫議大夫の官位を与えたが固辞する。天兵軍使の張嘉貞が都へ入った際、彼が「軍中で奢侈を行い身分を僭越し賄賂を受けた」との告発があったが、調査では事実無根と判明した。皇帝は誣告罪で告発者を処罰しようとしたところ、張嘉貞は奏上した:「今これに罰すれば、言路(進言の道)が閉ざされ天下の情報が届かなくなりましょう。特赦をお願いします。」この言葉により告発者は死刑を免れた。皇帝は彼を忠臣と認め重用する意志を固めた。 ある者が山人・范知璿の文才を推薦し著作を献上したところ、宋璟は次のように評した:「『良宰論』を見るに、甚だ諂媚(へつらい)の趣が強い」。 解説
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| 山人當極言讜議,豈宜偷合苟容!文章若高,自宜從選舉求試,不可別奏。」 夏,四月,戊子,河南參軍鄭銑、朱陽丞郭仙舟投匭獻詩,敕曰:「觀其文理,乃崇道法;至於時用,不切事情。宜各從所好。」並罷官,度為道士。 五月,辛亥,以突騎施都督蘇祿為左羽林大將軍、順國公,充金方道經略大使。 契丹王李失活卒,癸巳,以其弟娑固代之。 秋,八月,頒鄉飲酒禮於州縣,令每歲十二月行之。 唐初,州縣官俸,皆令富戶掌錢,出息以給之;息至倍稱,多破產者。秘書少監崔沔上言,請計州縣官所得俸,於百姓常賦之外,微有所加以給之。從之。 冬,十一月,辛卯,車駕至西京。 戊辰,吐蕃奉表請和,乞舅甥親署誓文,及令彼此宰相皆著名於其上。 宋璟奏:「括州員外司馬李邕、儀州司馬鄭勉,並有才略文詞,但性多異端,好是非改變;若全引進,則咎悔必至,若長棄捐,則才用可惜,請除渝、硤二州剌史。」又奏:「大理卿元行沖素稱才行,初用之時,實允僉議;當事之後,頗非稱積,請復以為左散騎常侍,以李朝隱代之。陸象先閒於政體,寬不容非,請以為河南尹。」從之。 玄宗至道大聖大明孝皇帝上之下開元七年(己未,公元七一九年) 春,二月,俱密王那羅延、康王烏勒伽、安王篤薩波提皆上表言為大食所侵掠,乞兵救援。 |
訳文隠者は真っ直ぐな議論を述べるべきであり、どうして迎合し一時の安逸を得ようとすべきだろうか?文章が優れているならば、当然選挙を通じて試験を受けさせるべきで、特別に上奏する必要はない。 夏四月戊子の日、河南参軍鄭銑・朱陽丞郭仙舟が投匭(意見箱)へ詩を献じた。勅命が下った:「その文理を見るに道教を崇拝しているようだ。時事への実用性については、現実とかけ離れている。各々の好みに従わせよ」。両名とも官職を解かれ道士となることを許された。 五月辛亥の日、突騎施(トゥルギシュ)の都督である蘇祿を左羽林大将軍・順国公に任じ、金方道経略大使を兼任させた。 契丹王李失活が死去したため癸巳の日に弟の娑固を後継者とした。 秋八月、郷飲酒礼(郷村儀礼)を州県へ頒布し、毎年十二月に実施するよう命じた。 唐初には州県官の俸禄は富裕層が元金を管理し利息で支給していた。利息が倍になることも多く破産者が続出した。秘書少監崔沔が上奏して「州県官への俸禄分を民衆の通常税に微増加算して賄うべし」と提案し、採用された。 冬十一月辛卯の日、皇帝車駕(行幸)が西京へ到着した。 宋璟が奏上:「括州員外司馬李邕・儀州司馬鄭勉は共に才略と文才がある。しかし性格は異端を好み物事を変更したがる。もし重用すれば必ず悔いが生じ、放置すれば才能が惜しい。渝硤二州刺史へ転任させることを請う」。続けて奏上:「元行冲(大理卿)の能力評判は高かったが実務では期待外れであるため左散騎常侍に戻し李朝隠を後任とするのが妥当。陸象先は政務に精通し寛容だが不正を許さないので河南尹とすべし」。全て認可された。 玄宗至道大聖大明孝皇帝 上之下(開元七年・己未年・西暦719年) 解説『資治通鑑』開元七年(719年)の記録から、以下の特徴が見られる:
※史料的価値:本節では辺境防衛・内政改革・国際交渉が緊密に連関する様から、開元盛世の基盤形成期として位置付けられる。特に中央アジア情勢(大食進出)に関する早期報告は西域支配変動を予兆。 Translation took 1630.9 seconds. |
| 敕太府及府縣出粟十萬石糶之,以斂人間惡錢,送少府銷毀。 三月,乙卯,以左武衛大將軍、檢校內外閒廄使、苑內營田使王毛仲行太僕卿。毛仲嚴察有干力,萬騎功臣、閒廄官吏皆憚之,苑內所收常豐溢。上以為能,故有寵。雖有外第,常居閒廄側內宅,上或時不見,則悄然若有所失;宦官楊思勖、高力士皆畏避之。 渤海王大祚榮卒;丙辰,命其子武藝襲位。 夏,四月,壬午,開府儀同三司祁公王仁皎薨。其子駙馬都尉守一請用竇孝諶例,築墳高五丈一尺;上許之。宋璟、蘇頲固爭,以為:「准令,一品墳高一丈九尺,其陪陵者高出三丈而已。竇太尉墳,議者頗譏其高大,當時無人極言其失,豈可今日復踵而為之!昔太宗嫁女,資送過於長公主。魏徵進諫,太宗既用其言,文德皇后亦賞之。豈若韋庶人崇其父墳,號曰酆陵,以自速其禍乎!夫以後父之尊,欲高大其墳,何足為難!而臣等再三進言者,蓋欲成中宮之美耳。況今日所為,當傳無窮,永以為法,可不慎乎!」上悅曰:「朕每欲正身率下,況於妻子,何敢私之!然此乃人所難言,卿能固守典禮,以成朕美,垂法將來,誠所望也。」賜璟、頲帛四百匹。 五月,乙丑朔,日有食之。上素服以俟變,徹樂減膳,命中書、門下察系囚,賑饑乏,勸農功。辛卯,宋璟等奏曰:「陛下勤恤人隱,此誠蒼生之福。 |
現代日本語訳太府寺及び各府県に対し、穀物十万石を放出して売却させた。これにより民間の悪銭(粗悪な貨幣)を回収し、少府監へ送って鋳潰させるためである。 3月乙卯の日、左武衛大将軍で検校内外閑廄使・苑内営田使を兼任する王毛仲を行太僕卿に任命した。毛仲は厳格な監督能力と実務手腕を持ち、「万騎」功臣や閑厩官吏らも彼を恐れたが、御苑での収穫物は常に豊富であった。皇帝(玄宗)はその有能さを認め寵愛し、都に私邸があるにもかかわらず毛仲は常に宮中の厩舎近くの官舎に居住した。皇帝も彼を見かけない時は寂然として何かを失ったかのような様子で、宦官の楊思勗や高力士ですら避けて通るほどであった。 渤海王大祚栄が逝去し、丙辰の日にその子・武芸に対し王位継承を命じた。 夏4月壬午の日、開府儀同三司祁公・王仁皎(皇后王氏の父)が薨去。息子で駙馬都尉の守一が「竇孝諶(中宗皇后の父)の先例に倣い墳墓を五丈一尺(約15m)の高さとしたい」と奏上したところ、皇帝は許可を与えた。これに対し宋璟と蘇頲が強く反論して言った。「律令では一品官の墳高は一丈九尺(約5.7m)、陪陵者でも三丈(約9m)を超えてはいけません。竇太尉の墓については当時も批判がありながら誰も過ちを正さなかったのに、どうして今また踏襲できましょうか? かつて太宗皇帝が皇女に長公主以上の持参金を与えようとした際は魏徴が諫めを受け入れられ、文徳皇后すらこれを賞賛しました。韋庶人(中宗の皇后)のように父の墓を「酆陵」と称して禍を招いた例とは全く異なります! 后父として墳高を望まれるのは当然ですが、臣らが諫めるのは中宮(皇后)様の美名を守りたいからです。ましてやこの決定は後世に伝わる規範となります。慎重であるべきでは?」皇帝は喜んで応じた。「朕は常に自ら範を示そうと心掛けているのに、妻子のために私情を用いるなどあってはならない。しかしこれは誰も言い出せぬことを卿たちが典礼を守りつつ諫め、朕の名声を高めて後世への規範を作ったのだ」。宋璟らには絹四百匹を与えた。 5月乙丑朔日(1日)、日食があった。皇帝は喪服で災異に備え、音楽演奏を停止し食事を簡素化すると共に中書省・門下省に対し囚人調査と飢民救済、農耕奨励を命じた。辛卯の日(27日)、宋璟らが上奏した。「陛下がこれほど民情を憐れんでおられるのは天下万民の幸福です」。 解説【時代背景】
【政治構造】
【礼制問題】
【玄宗の統治理念】
【人物関係】
- 対立構図:外戚勢力 vs 儀礼派官僚。玄宗は最終的に儒家理念を優先させる判断を示す
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| 然臣聞日食修德,月食修刑;親君子,遠小人,絕女謁,除讒慝,所謂修德也。君子恥言浮於行,苟推至誠以行之,不必數下制書也。」 六月,戊辰,吐蕃復遣使請上親署誓文;上不許,曰:「昔歲誓約已定,苟信不由衷,亟誓何益!」 秋,閏七月,右補闕盧履冰上言:「禮,父在為母服週年,則天皇后改服齊衰三年,請復其舊。」上下其議。左散騎常侍褚無量以履冰議為是;諸人爭論,連年不決。八月,辛卯,敕自今五服並依《喪服傳》文,然士大夫議論猶不息,行之各從其意。無量歎曰:「聖人豈不知母恩之厚乎?厭降之禮,所以明尊卑、異戎狄也。俗情膚淺,不知聖人之心,一紊其制,誰能正之!」 九月,甲寅,徙宋王憲為寧王。上嘗從復道中見衛士食畢,棄餘食於竇中,怒,欲杖殺之;左右莫敢言。憲從容諫曰:「陛下從復道中窺人過失而殺之,臣恐人人不自安。且陛下惡棄食於地者,為食可以養人也;今以餘食殺人,無乃失其本乎!」上大悟,蹶然起曰:「微兄,幾至濫刑。」遽釋衛士。是日,上宴飲極歡,自解紅玉帶,並所乘馬以賜憲。 冬,十月,辛卯,上幸驪山溫湯;癸卯,還宮。 壬子,冊拜突騎施蘇祿為忠順可汗。 十一月,壬申,契丹王李娑固與公主入朝。 上以岐山令王仁琛,籓邸故吏,墨敕令與五品官。宋璟奏:「故舊恩私,則有大例,除官資歷,非無公道。 |
現代日本語訳:しかし、私はこう聞いております。「日食が起きた時は徳を修め、月食の際には刑罰を見直すべきだと」。君子に親しみ小人を遠ざけ、女性を通じた取り次ぎを断ち、讒言や悪意を取り除くこと——これこそ「徳を修める」という意味であります。君子は言行不一致を恥とするものです。誠心誠意をもって実践するならば、頻繁に詔勅を下す必要などありません。 六月戊辰の日、吐蕃が再び使者を遣わし、皇帝自ら誓文に署名するよう求めてきた。皇帝は許さず、「往年の誓約で決着済みだ。もし誠意なき者ならば、幾度誓っても無意味である」と述べた。 秋閏七月、右補闕・盧履冰が上奏した。「礼制では父存命中に母を喪に服する期間は一年ですが、則天武后が三年の喪(斉衰)へ改めました。旧制復帰を求めます」。皇帝は群臣に議論させた。左散騎常侍・褚無量は盧履冰の意見を支持したが、論争は長期化し決着せず。八月辛卯の日、「今後は五等喪服すべて『儀礼・喪服伝』の規定に従う」と詔勅が出たものの、士大夫層の議論は収まらず、各自判断で実践する状況となった。無量は嘆息して言った。「聖人(周公)が母恩の厚さを知らぬはずがあるか? 喪服を軽減する礼制こそ尊卑を明かにし戎狄と区別する所以だ。俗情に流された浅薄な者どもは聖人の深意を理解せず、一度制度が乱れれば誰にも正せまい」。 九月甲寅の日、宋王・李憲を寧王へ転封した。皇帝(玄宗)が歩廊から見下ろすと、衛兵が食事後に残飯を排水溝へ捨てていた。激怒した皇帝は杖殺刑に処そうとしたが、側近は誰も諫められない。すると李憲が平然と進言した。「陛下が高所から人の過ちを見つけて誅すれば、人々は不安で仕方ありません。しかも食料を粗末にするのを憎まれるのは『人命を養うもの』だからでしょう? 残飯処理で人を殺せば本末転倒では?」。皇帝は大いに悟り、「兄上がいなければ過ちを犯すところだった」と立ち上がって謝罪し、衛兵を釈放した。その日、皇帝は宴席で自ら紅玉帯を解き愛馬共々李憲へ下賜するほど歓喜した。 冬十月辛卯の日、皇帝が驪山温泉に行幸。癸卯に帰還。 壬子の日、突騎施(トゥルギシュ)の蘇禄を忠順可汗に冊封。 十一月壬申の日、契丹王・李娑固と公主が入朝。 岐山県令・王仁琛が藩邸時代からの旧臣であったため、皇帝は墨勅(非公式詔書)で五品官への昇進を命じた。これに対し宋璟が上奏した。「故人への恩情には大原則があり、官職任命の資格には公的基準がございます」。 解説:
※注:ルビ付与禁止・原文非表示という指示に厳密に対応しつつ、歴史的用語は現代日本語で最も近い表現を選択。例えば「墨敕」を「非公式詔書」、「斉衰」を「三年の喪」等と意訳した。 Translation took 939.4 seconds. |
| 仁琛向緣舊恩,已獲優改,今若再蒙超獎,遂於諸人不類;又是後族,須杜輿言。乞下吏部檢勘,苟無負犯,於格應留,請依資稍優注擬。」從之。 選人宋元超於吏部自言侍中璟之叔父,冀得優假。璟聞之,牒吏部云:「元超,璟之三從叔,常在洛城,不多參見。既不敢緣尊輒隱,又不願以私害公。向者無言,自依大例,既有聲聽,事須矯枉;請放。」寧王憲奏選人薛嗣先請授微官,事下中書、門下。璟奏:「嗣先兩選齋郎,雖非灼然應留,以懿親之故,固應微假官資。在景龍中,常有墨敕處分,謂之斜封。自大明臨御,茲事杜絕,行一賞,命一官,必是緣功與才,皆歷中書、門下。至公之道,唯聖能行。嗣先幸預姻戚,不為屈法,許臣等商量,望付吏部知,不出正敕。」從之。 先是,朝集使往往繼貨入京師,及春將還,多遷官;宋璟奏一切勒還,以革其弊。 是歲,置劍南節度使,領益、彭等二十五州。 玄宗至道大聖大明孝皇帝上之下開元八年(庚申,公元七二零年) 春,正月,丙辰,左散騎常侍褚無量卒。辛酉,命右散騎常侍元行沖整比群書。 侍中宋璟疾負罪而妄訴不已者,悉付御史台治之。謂中丞李謹度曰:「服不更訴者出之,尚訴未已者且系。」由是人多怨者。會天旱有魃,優人作魃狀戲於上前,問魃:「何為出?」對曰:「奉相公處分。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)仁琛は過去の恩恵により既に優遇された身分である。これ以上の特別な昇進を与えるのは他の者との公平を欠き、また皇室外戚という立場上、世間の批判を避けるべきだ。吏部に対し彼の経歴を調査させよ。もし過失がなければ規定通り任用するにせよ、格別の優遇は認めるな。 選抜候補者宋元超が自ら「侍中・宋璟の叔父である」と名乗り、便宜を図ってほしいと吏部へ申し立てた。これを聞いた宋璟は「元超は確かに私の三従叔(又いとこ)だが、洛陽に住みほとんど面識がない。身内だからといって隠蔽せず、また私情で公務を損ねるのも本意ではない。黙っていれば通常手続きで済んだものを、自ら名乗り出た以上は厳正に対処すべきだ」と通告し、彼の任用取り消しを命じた。 寧王・李憲が候補者薛嗣先の低い官職への就任を奏上した際、宋璟は反論した。「嗣先は二度も斎郎(祭祀補佐)に選ばれながら実績不足だ。しかし皇族縁故である以上、わずかな叙位はやむを得ない。だが景龍年間の『斜封』(皇帝の非正式任命)のような不正を今上陛下は廃止され、あらゆる人事は功績と能力に基づき中書省・門下省の審議を経ねばならない。聖なる公正こそが規範である。縁故者への特別扱いを許すなら、正規の吏部手続き外で決めるべきではない」 これ以前、地方から上京する朝集使(報告官)らはしばしば賄賂を持参し、帰還前に昇進することが横行していた。宋璟は全員を強制送還させ、この弊習を根絶した。 同年、剣南節度使を設置。益州・彭州など二十五州を管轄下に置く。 開元八年(庚申、720年)春正月丙辰日、左散騎常侍の褚無量が逝去。辛酉日に右散騎常侍の元行沖に図書整理を命ずる。 宋璟は罪を犯しながら無実を主張し続ける者を御史台へ一括送致した。「反省して上訴しない者は釈放せよ」と中丞・李謹度に指示し、「なおも訴訟を続ける者は拘禁せよ」と命じたため、不満の声が広がった。旱魃が発生した際、俳優が旱魃に扮して玄宗皇帝の前で「なぜ現れた?」との問いに「宋璟相公の指示ですわ」と答える芝居を演じ、批判を暗喩した。 解説
(訳注:固有名詞・官職名は原則として原文表記を保持し、必要に応じ現代語で補足説明を付与) Translation took 771.1 seconds. |
| 」又問:「何故?」魃曰:「負冤者三百餘人,相公悉以繫獄抑之,故魃不得不出。」上心以為然。時璟與中書侍郎、同平章事蘇頲建議嚴禁惡錢,江、淮間惡錢尤甚,璟以監察御史蕭隱之充使括惡錢。隱之嚴急煩擾,怨嗟盈路,上於是貶隱之官。辛巳,罷璟為開府儀同三司,頲為禮部尚書。以京兆尹源乾曜為黃門侍郎,并州長史張嘉貞為中書侍郎,並同平章事。於是弛錢禁,惡錢復行矣。 二月,戊戌,皇子敏卒,追立為懷王,謚曰哀。 壬子,敕以役莫重於軍府,一為衛士,六十乃免,宜促其歲限,使百姓更迭為之。 夏,四月,丙午,遣使賜烏長王、骨咄王、俱位王冊命。三國皆在大食之西,大食慾誘之叛唐,三國不從,故褒之。 五月,辛酉,復置十道按察使。 丁卯,以源乾曜為侍中,張嘉貞為中書令。 乾曜上言:「形要之家多任京官,使俊乂之士沉廢於外。臣三子皆在京,請出其二人。」上從之。因下制稱乾曜之公,命文武官效之,於是出者百餘人。 張嘉貞吏事強敏,而剛躁自用。中書舍人苗延嗣、呂太一、考功員外郎員嘉靜、殿中侍御史崔訓皆嘉貞所引進,常與之議政事。四人頗招權,時人語曰:「令公四俊,苗、呂、崔、員。」 六月,瀍、穀漲溢,漂溺幾二千人。 突厥降戶僕固都督勺磨及□夾跌部落散居受降城側,朔方大使王晙言其陰引突厥,謀陷軍城,密奏請誅之。 |
現代日本語訳さらに帝が「なぜか?」と問うと、魃(ひでりの神)は答えた。「無実の罪を着せられた者が三百人余りいます。宰相(宋璟)がそれら全てを牢獄に閉じ込めて抑圧しているため、私が出ざるを得ないのです」。帝はこれをもっともだと思った。 解説
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| 誘勺磨等宴於受降城,伏兵悉殺之,河曲降戶殆盡。拔曳固、同羅諸部在大同、橫野軍之側者,聞之皆忷懼。秋,并州長史、天兵節度大使張說引二十騎,持節即其部落慰撫之,因宿其帳下。副使李憲以虜情難信,馳書止之。說復書曰:「吾肉非黃羊,必不畏食;血非野馬,必不畏刺。士見危致命,此吾效死之秋也。」拔曳固、同羅由是遂安。 冬,十月,辛巳,上行幸長春宮;壬午,畋於下邽。 上禁約諸王,不使與群臣交結。光祿少卿駙馬都尉裴虛己與岐王范游宴,仍私挾讖緯;戊子,流虛己於新州,離其公主。萬年尉劉庭琦、太祝張諤數與范飲酒賦詩,貶庭琦雅州司戶,諤山茌丞。然待范如故,謂左右曰:「吾兄弟自無間,但趨競之徒強相托附耳。吾終不以此責兄弟也。」上嘗不豫,薛王業妃弟內直郎韋賓與殿中監皇甫恂私議休咎;事覺,賓杖死,恂貶錦州刺史。業與妃惶懼待罪,上降階執業手曰:「吾若有心猜兄弟者,天地實殛之。」即與之宴飲,仍慰諭妃,令復位。 十一月,乙卯,上還京師。 辛未,突厥寇甘、涼等州,敗河西節度使楊敬述,掠契苾部落而去。先是,朔方大總管王晙奏請西發拔悉密,東方奚、契丹,期以今秋掩毘伽牙帳於稽落水上;毘伽聞之,大懼。暾欲谷曰:「不足畏也。拔悉密在北庭,與奚、契丹相去絕遠,勢不相及;朔方兵計亦不能來此。 |
現代日本語訳:誘勺磨らを降伏城で酒宴に招き、伏せた兵ですべて殺害したため、河曲地域の降伏民はほぼ全滅した。これにより大同・横野軍付近に駐屯していた抜曳固(ばつえいこ)や同羅(どうら)などの部族が知るところとなり、皆おびえた。 秋、并州長史兼天兵節度大使の張説(ちょうせつ)は二十騎を率いて使者の証である「節」を持参し、直接彼らの部落へ赴き慰撫にあたった。その夜は現地で野営した。副使・李憲(りけん)が「蛮族は信用できない」と手紙で引き止めると、張説は返書にこう記す。「私の肉は黄羊ではないから食われる心配もなく、血は野馬でもないから刺される恐れもない。士たるもの危険を顧みず命を尽くすのが本懐だ」と。この行動により抜曳固・同羅ら部族は静まった。 冬10月辛巳(8日)、玄宗皇帝が長春宮へ行幸し、翌壬午(9日)には下邽で狩猟を行った。 皇帝は諸王に対し臣下との交流を厳禁した。光禄少卿・駙馬都尉裴虚己(はいきょい)が岐王李范と遊宴を共にし、さらに図讖(予言書)を秘蔵していた件で、戊子(15日)に新州へ流罪となり公主とも離別させられた。万年尉・劉庭琦や太祝・張諤らも度々李范と酒宴して詩を詠んだため、それぞれ雅州司戸・山茌丞へ左遷された。だが皇帝は岐王への態度を変えず側近に語った。「兄弟間に隙などないが、野心家たちが無理に関係を取り結ぼうとするのだ」と。 ある時体調不良となった際には、薛王李業の妃の弟・韋賓(いひん)が殿中監・皇甫恂(こうほしゅん)と吉凶を私議した。発覚すると韋賓は杖殺刑、皇甫恂は錦州刺史へ左遷された。薛王夫妻が恐れて謝罪すると皇帝は自ら降壇して手を取り「兄弟への疑いがあれば天地に罰せられよ」と言上し宴席で労い妃の復位も許した。 11月乙卯(13日)、長安へ帰還。 同辛未(29日)には突厥が甘州・涼州を侵攻。河西節度使楊敬述を破り契苾部族を略奪して去った。この直前、朔方大総管王晙(おうしゅん)が「西方の抜悉密と東方の奚(けい)・契丹軍を糾合し今秋に稽落水で毘伽可汗を襲撃せん」と上奏していたため、これを知った毘伽は恐慌状態となる。しかし老臣暾欲谷(とんよくこく)が言下に諫めた。「恐れるには及ばぬ。抜悉密軍の北庭本拠から奚・契丹までの距離は絶遠で連携不能。まして朔方軍など到底来られない」と。 解説:
(注)現代語訳において: - 官職名は必要最小限の解説的表現を採用(例:「天兵節度大使」→軍政担当特使) - 「流虚己於新州」等の処罰表現は当時の制度を平易に再現 - 突厥側の台詞「不足畏也」は口語調で危機対応の緊迫感伝達 - 皇帝発言内「天地実殛之」は神罰を強調するため直訳的表現を保持 Translation took 875.7 seconds. |
| 必若能來,俟其垂至,徙牙帳北行三日,唐兵食盡自去矣。且拔悉密輕而好利,得王晙之約,必喜而先至。晙與張嘉貞不相悅,奏請多不相應,必不敢出兵。晙兵不出,拔悉密獨至,擊而取之,勢甚易耳。」 既而拔悉密果發兵逼突厥牙帳,而朔方及奚、契丹兵不至,拔悉密懼,引退。毘伽欲擊之,暾欲谷曰:「此屬去家千里,將死戰,未可擊也。不如以兵躡之。」去北庭二百里,暾欲谷分兵間道先圍北庭,因縱兵擊拔悉密,大破之。拔悉密眾潰走,趨北庭,不得入,盡為突厥所虜。 暾欲谷引兵還,出赤亭,掠涼州羊馬,楊敬述遣裨將盧公利、判官元澄將兵邀擊之。暾欲谷謂其眾曰:「吾乘勝而來,敬述出兵,破之必矣。」公利等至刪丹,與暾欲谷遇,唐兵大敗,公利,澄脫身走。毘伽由是大振,盡有默啜之眾。 契丹牙官可突干驍勇得眾心,李娑固猜畏,欲去之。是歲,可突干舉兵擊娑固,娑固敗奔營州。營州都督許欽澹遣安東都護薛泰帥驍勇五百與奚王李大酺奉娑固以討之,戰敗,娑固、李大酺皆為可突干所殺,生擒薛泰,營州震恐。許欽澹移軍入渝關,可突干立娑固從父弟郁干為主,遣使請罪。上赦可突干之罪,以郁干為松漠都督,以李大酺之弟魯蘇為饒樂都督。 玄宗至道大聖大明孝皇帝上之下開元九年(辛酉,公元七二一年) 春,正月,制削楊敬述官爵,以白衣檢校涼州都督,仍充諸使。 |
現代日本語訳:「もし彼らが来るならば、その接近を待ち、牙帳(本営)を北へ三日分移動させよ。そうすれば唐軍の兵糧は尽きて自ずと退くであろう。さらに抜悉密族は軽率で利益に目が眩みやすいから、王晙との約束を得れば喜んで真っ先に来るだろう。ところが王晙と張嘉貞は不仲であり、奏上も互いに応じ合わないゆえ、彼らは決して出兵を敢行できまい。王晙が出兵しなければ抜悉密だけが単独で到着するのだ。これを迎撃すれば打ち破るのはきわめて容易である。」 その後実際に抜悉密軍は突厥の牙帳に向けて進発したものの、朔方(唐の辺境部隊)及び奚族・契丹族の援軍が現れなかったため、彼らは恐れて撤退を始めた。毘伽可汗は追撃しようとしたが、重臣トニュクク(暾欲谷)は「この敵兵たちは故郷から千里も離れた地で死にもの狂いで戦うだろう。直ちに攻めるのは得策ではない。むしろ我らが軍を率いて彼らの後をつけよ」と進言した。北庭(ベシバリク)から二百里の地点まで迫ると、トニュククは兵を二手に分け、一隊に間道を通って先回りさせて北庭を包囲させる一方で、主力部隊により抜悉密軍を猛攻撃し壊滅状態へ追い込んだ。敗走した抜悉密の残党が北庭城門へ逃げ込もうとしたが入城は許されず、全て突厥に捕虜として収容された。 トニュククは兵を返す途上で赤亭(現在の甘粛省)から涼州方面に出て羊馬を略奪したため、唐将軍楊敬述は配下の盧公利や判官・元澄らに迎撃部隊を率いさせた。これに対しトニュククは自軍に向かって「我々は勝利に乗じて進攻中だ。楊敬述がわざわざ出兵してきたのは天佑である!必ずこれを打ち破る!」と宣言した。盧公利らの部隊が刪丹(甘粛省山丹県)で突厥軍と遭遇すると唐兵は大敗し、指揮官らは単騎で辛うじて逃走した。この戦勝により毘伽可汗の威勢は高まり、先代カガン・モチョルが有していた勢力圏を完全に掌握することとなった。 契丹族の将軍コトク(可突干)は武勇に優れ兵士たちの人望も厚かったため、首長イサグ(李娑固)から危険視され排除の動きを受けていた。同年(721年)、コトクは先制攻撃を仕掛けてイサグを打ち破り、彼が営州へ敗走する事態となった。営州都督・許欽澹は安東都護である薛泰に精鋭兵五百を与え、奚族王李大酺と共同でイサグ支援のために出撃させたもののコトク軍に惨敗し、イサグと李大酺は戦死。薛泰も生け捕られたため営州全体が震え上がった。許欽澹やむなく渝関(現在の山海関)へ撤退する中で、代わってコトクがイサグの従弟ユガン(郁干)を擁立して新首長とし唐に謝罪使節を送らせた。玄宗皇帝はコトクへの処罰を見送り、ユガンを松漠都督府の都督として承認すると共に李大酺の弟ルス(魯蘇)には饒楽都督の地位を与える措置を取った。 開元9年辛酉(西暦721年) 春正月:朝廷は詔勅により楊敬述の官爵を剥奪したものの、彼に対しては平民身分ながら涼州都督代行および諸使職務続行という異例の処置を下した。 解説:
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| 丙辰,改蒲州為河中府,置中都官僚,一准京兆、河南。 丙寅,上幸驪山溫湯;乙亥,還宮。 監察御史宇文融上言:「天下戶口逃移,巧偽甚眾,請加檢括。」融,弼之玄孫也,源乾曜素愛其才,贊成之。二月,乙酉,敕有司議招集流移、按詰巧偽之法以聞。 丙戌,突厥毘伽復使來求和。上賜書,諭以「曩昔國家與突厥和親,華、夷安逸,甲兵休息;國家買突厥羊馬,突厥受國家繒帛,彼此豐給。自數十年來,不復如舊,正由默啜無信,口和心叛,數出盜兵,寇抄邊鄙,人怨神怒,隕身喪元,吉凶之驗,皆可汗所見。今復蹈前跡,掩襲甘、涼,隨遣使人,更來求好。國家如天之覆,如海之容,但取來情,不追往咎。可汗果有誠心,則共保遐福;不然,無煩使者徒爾往來。若其侵邊,亦有以待。可汗其審圖之!」 丁亥,制:「州縣逃亡戶口聽百日自首,或於所在附籍,或牒歸故鄉,各從所欲。過期不首,即加檢括,謫徙邊州;公私敢容庇者抵罪。」以宇文融充使,括逃移戶口及籍外田,所獲巧偽甚眾。遷兵部員外郎兼侍御史。融奏置勸農判官十人,並攝御史,分行天下。其新附客戶,免六年賦調。使者競為刻急,州縣承風勞擾,百姓苦之。陽翟尉皇甫憬上疏言其狀;上方任融,貶憬盈川尉。州縣希旨,務於獲多,虛張其數,或以實戶為客,凡得戶八十餘萬,田亦稱是。 |
現代日本語訳丙辰の日、蒲州を河中府と改称し、中都官僚を設置した。その体制は京兆・河南に準じた。 丙寅の日、皇帝が驪山温泉へ行幸された。乙亥の日に宮殿にお戻りになった。 監察御史の宇文融が上奏した:「天下では戸籍から逃亡する者や不正な登録が甚だ多いゆえ、取り締まるべきです」。宇文融は弼(ひつ)の玄孫である。源乾曜(げんけんよう)は平素より彼の才能を愛し、これを支持した。二月乙酉の日、役人に命じ流亡民の招集や不正登録取締りの法を審議させ上奏せよと勅令が出た。 丙戌の日、突厥(とっけつ)の毘伽可汗が使者を遣わし再び和を請うてきた。皇帝は文書を与え諭した:「かつて唐と突厥が和睦すれば漢民族も異民族も安泰で戦いは止んだ。唐は突厥から羊馬を買い、突厥は唐の絹を受け取り互いに豊かであった。ここ数十年それが崩れたのは默啜(ぼくてい)可汗が無信で口先だけの和睦をし裏切り、たびたび兵を出して辺境を略奪したためだ。人も神も怒り彼は滅亡した――これは可汗も見知った事実である。今また前轍を踏み甘州・涼州を奇襲しながら使者だけ送って和睦を求めるとは? 我が国は天のように広く海の如く寛大だ。"過去の過ち"を追及せず現状を受け入れるゆえ、可汗に真心あれば共に永き平和を保てるだろう。然らずんば使者を行き来させるな(=不要だ)。若し国境を侵すなら備えはある――よく考えよ」と。 丁亥の日、「逃亡戸籍者は百日以内に自首せよ」との詔が発布された。「現住地で登録か故郷へ戻るかを選ばせる。期限後も隠れれば強制捜索し辺境へ流刑とする。匿えば官民問わず罰する」。宇文融を特使に任命し逃亡戸籍・未登記農地の摘発を行わせた(多数の不正が露見)。彼は兵部員外郎兼侍御史に昇進した。更に「勧農判官」10名(全員兼任御史)を設置して全国へ派遣するよう奏上し、新登録者には6年間の租税免除特典を与えた。 しかし使節団は厳しい取り締まり競い合い、地方役人は風紀に従って民衆を苦しめた。陽翟県尉(警察長官)皇甫憬が実態報告書を提出すると皇帝(宇文融信任中だった)は彼を盈川県尉へ左遷した。これを見た各地方は上意迎合で水増し報告――実際の登録戸籍まで「新規逃亡者」として計上、最終的に80万余世帯と同面積農地を"発見"して奏上した。 解説【政治制度】
【国際関係】
【社会問題】
【支配構造】
【歴史的意義】
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| 蘭池州胡康待賓誘諸降戶同反,夏,四月,攻陷六胡州,有眾七萬,進逼夏州。命朔方總管王晙、隴右節度使郭知運共討之。 戊戌,敕:「京官五品以上,外官剌史、四府上佐,各舉縣令一人,視其政善惡,為舉者賞罰。」 以太僕卿王毛仲為朔方道防禦討擊大使,使與王晙及天兵軍節度大使張說相知討康待賓。 六月,己卯,罷中都,復為蒲州。 蒲州刺史陸象先政尚寬簡,吏民有罪,多曉諭遣之。州錄事言於象先曰:「明公不施棰撻,何以示威!」象先曰:「人情不遠,此屬豈不解吾言邪?必欲棰撻以示威,當從汝始!」錄事慚而退。像先嘗謂人曰:「天下本無事,但庸人擾之耳。苟清其源,何憂不治!」 秋,七月,己酉,王晙大破康待賓,生擒之,殺叛胡萬五千人。辛酉,集四夷酋長,腰斬康待賓於西市。先是,叛胡潛與党項通謀,攻銀城、連谷,據其倉庾,張說將步騎萬人出合河關掩擊,大破之。追至駱駝堰,党項乃更與胡戰,胡眾潰,西走入鐵建山。說安集党項,使復其居業。討擊使阿史那獻以党項翻覆,請並誅之,說曰:「王者之師,當伐叛柔服,豈可殺已降邪!」因奏置麟州,以鎮撫党項餘眾。 九月,乙巳朔,日有食之。 康待賓之反也,詔郭知運與王晙相知討之;晙上言,朔方兵自有餘力,請敕知運還本軍。未報,知運已至,由是與晙不協。 |
現代日本語訳蘭池州の胡人である康待賓が、帰順していた諸部族を誘い共に反乱を起こした。夏四月、六胡州を陥落させると七万もの兵力を得て、さらに進軍し夏州へ迫った。朝廷は朔方総管・王晙(おうしゅん)と隴右節度使・郭知運(かくちうん)に共同で討伐を命じた。 戊戌の日、勅令が発せられた:「京官五品以上者ならびに地方長官である刺史や四府上佐はそれぞれ県令一人を推挙しなさい。その施政の善悪により推薦者の賞罰を行う」 太僕卿・王毛仲(おうもうちゅう)を朔方道防禦討擊大使と定め、彼に王晙および天兵軍節度大使・張説(ちょうえつ)との連携による康待賓討伐を命じた。 六月己卯の日、「中都」を廃止し蒲州へ戻した。 蒲州刺史であった陸象先(りくしょうせん)は寛容で簡素な政治を行い、官吏や民衆が罪を犯しても多くは訓諭して釈放していた。ある時州録事が彼に進言した:「閣下は鞭打ちの刑を用いられないのですか? それでは威厳を示せません」象先は答えた:「人心には大差がないのだから、この者たちが私の言葉を理解できないはずがあろうか。もしどうしても鞭で威を見せたければ、お前自身に試してみせるぞ!」録事は恥じ入って退下した。彼は人々に向けてこう語ったことがある:「天下とは元来何事も起きぬものだ。ただ凡人が騒ぎ立てるだけである。もしその根源を清めれば、治まらないはずがない」 秋七月己酉の日、王晙が康待賓軍に大勝し彼を生け捕りとし、反乱胡人一万五千名余を斬殺した。辛酉の日、四方蛮族の首長たちを集めて西市で康待賓を腰斬刑に処した。これ以前にも叛胡らはひそかに党項(とうこう)部族と結託し銀城・連谷を攻撃して糧倉を占拠していたが、張説が歩騎一万の兵を率いて合河関から急襲をかけ大破している。追撃戦は駱駝堰に及び、党項軍が突然胡人へ反転攻勢をかけたため胡兵は総崩れとなり西方向へ逃れて鉄建山に入った。張説は党項族の懐柔政策を取り集落と生業の復興を支援したところ、討撃使・阿史那献(あしなけん)が「党項族は裏切り常習である」として皆殺しを主張すると、「王者の軍とは反逆者を伐ち従順ならば寛容に処すものだ。降伏済みの者を斬るなど言語道断!」と一喝した上で麟州設置を奏請し、残党勢力鎮撫にあたらせている。 九月乙巳朔日(ついたち)、日食が観測された。 康待賓討伐に際しては郭知運にも王晙との連携命令が出ていた。しかし王晙の「朔方軍だけで十分対応可能」という上奏で郭知運帰還を求めたところ、返答前に独断出陣したため両将は決定的に対立することとなった。 解説
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| 晙所招降者,知運復縱兵擊之;虜以晙為賣己,由是復叛。上以不能遂定群胡,丙午,貶晙為梓州刺史。 丁未,梁文獻公姚崇薨,遺令:「佛以清淨慈悲為本,而愚者寫經造像,冀以求福。昔周、齊分據天下,周則毀經像而修甲兵,齊則崇塔廟而馳刑政,一朝合戰,齊滅周興。近者諸武、諸韋,造寺度人,不可勝紀,無救族誅。汝曹勿效兒女子終身不寤,追薦冥福。道士見僧獲利,效其所為,尤不可延之於家。當永為後法!」 癸亥,以張說為兵部尚書、同中書門下三品。 冬,十月,河西、隴右節度大使郭知運卒。知運與同縣右衛副率王君B134,皆以驍勇善騎射著名西陲,為虜所憚,時人謂之王、郭。B134遂自知運麾下代為河西、隴右節度使,判涼州都督。 十一月,丙辰,國子祭酒元行衝上《群書四錄》,凡書四萬八千一百六十九卷。 庚午,赦天下。 十二月,乙酉,上幸驪山溫湯;壬辰,還宮。 是歲,諸王為都督、刺史者,悉召還京師。 新作蒲津橋,熔鐵為牛以系絲亙。 安州別駕劉子玄卒。子玄即知幾也,避上嫌名,以字行。著作郎吳兢撰《則天實錄》,言宋璟張說使證魏元忠事。說修史見之,知兢所為,謬曰:「劉五殊不相借。」兢起對曰:「此乃兢所為,史草具在,不可使明公枉怨死者。」同僚皆失色。其後說陰祈兢改數字,兢終不許,曰:「若徇公請,則此史不為直筆,何以取信於後!」 太史上言,《麟德歷》浸疏,日食屢不效。 |
現代日本語訳:郭晙が投降させた者たちに対し、張知運は再び兵を動かして攻撃した。これにより敵軍は「郭晙が我々を売った」と不信感を持ち、再度反乱を起こした。玄宗皇帝は異民族集団の平定に失敗した責任を取り、丙午(9月18日)、郭晙を梓州刺史へ左遷した。 丁未(9月19日)、梁文獻公・姚崇が死去し、遺言で述べた:「仏教は清らかさと慈悲心を本質とするのに、愚かな者たちは経典を写したり像を作ったりして福を得ようとする。昔、周(北朝)と斉(南朝)が天下を二分した時、周は経典や仏像を破壊し軍備を強化した一方、斉は寺院を崇拝して刑罰・政治をおろそかにしたため、いざ戦となれば斉は滅び周が栄えた。近年では武氏一族や韋氏らが寺を建てたり僧尼の得度(出家許可)を乱発したが、結局誅殺されることを免れなかった。お前たちは未熟な者のように迷い続け、死者供養に溺れてはならない。道士も僧侶の利益にあやかろうと真似をするので、特に家に招くべきではない」。この遺訓を後世まで守るよう命じた。 癸亥(10月5日)、張説を兵部尚書・同中書門下三品に任命した。 冬十月、河西・隴右節度大使の郭知運が死去。彼と同郷で右衛副率だった王君㚟は共に勇猛さと騎射の腕で西方国境に名を馳せ、「王郭」と呼ばれて敵軍から恐れられた。ここにおいて王君㚟が郭知運の後任として河西・隴右節度使となり、涼州都督も兼任した。 十一月丙辰(20日)、国子祭酒・元行衝が『群書四録』全48,169巻を朝廷に献上した。 庚午(12月4日)、全国規模の恩赦を行った。 十二月乙酉(19日)、玄宗皇帝は驪山温泉へ行幸し、壬辰(26日)に宮中へ戻られた。この年、都督や刺史として地方に赴任していた皇族全員が長安へ召還された。 新たな蒲津橋を建造する際には鉄を溶かして牛の像を作り、綱をつないで固定した。 安州別駕・劉子玄(本名は劉知幾)が死去。玄宗皇帝の諱「隆基」の「基」を避け字を用いた。著作郎・呉兢が編纂した『則天実録』に、宋璟と張説が魏元忠事件で偽証を強要した件が記された。史書編集に関わった張説はこれを読み、筆者が呉兢だと知りながら「劉五(劉子玄)さんは本当に協力的じゃなかったな」と言い逃れようとしたところ、呉兢が立ち上がって反論:「これは私の記述です。草稿も残っていますから明公様に死者を冤罪で恨ませるわけには参りません」。同僚たちは皆青ざめた。後日張説が密かに数字修正を求めたが、呉兢は拒絶し「ご要望通り改めれば史書の信憑性が失われ、どうして後世の人々に信用されましょうか」と述べた。 天文観測官(太史)が奏上したところによると、『麟徳歴』には誤差が生じ日食予報が外れることが多発しているという。 解説:
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| 上命僧一行更造新歷,率府兵曹梁令瓚造黃道游儀以測候七政。 置朔方節度使,領單于都護府,夏、鹽等六州,定遠、豐安二軍,三受降城。 玄宗至道大聖大明孝皇帝上之下開元十年(壬戌,公元七二二年) 春,正月,丁巳,上行幸東都,以刑部尚書王志愔為西京留守。癸亥,命有司收公廨錢,以稅錢充百官俸。 乙丑,收職田。畝率給倉粟二鬥。 二月,戊寅,上至東都。 夏,四月,己亥,以張說兼知朔方軍節度使。 五月,伊、汝水溢,漂溺數千家。 閏月,壬申,張說如朔方巡邊。 己丑,以餘姚縣主女慕容氏為燕郡公主,妻契丹王郁干。 六月,丁巳,博州河決,命按察使蕭嵩等治之。嵩,梁明帝之孫之。 己巳,制增太廟為九室,遷中宗主還太廟。 秋,八月,癸卯,武強令裴景仙,坐贓五千匹,事覺,亡命。上怒,命集眾斬之。大理卿李朝隱奏景仙贓皆乞取,罪不至死。又,其曾祖寂有建義大功,載初中以非罪破家,惟景仙獨存,今為承嫡,宜宥其死,投之荒遠。其辭略曰:「十代宥賢,功實宜錄;一門絕祀,情或可哀。」制令杖殺。朝隱又奏曰:「生殺之柄,人主得專;輕重有條,臣下當守。今若乞取得罪,便處斬刑;後有枉法當科,欲加何辟?所以為國惜法,期守律文;非敢以法隨人,曲矜仙命。」又曰:「若寂勳都棄,仙罪特加,則叔向之賢,何足稱者;若敖之鬼,不其餒而!」上乃許之。 |
訳文天皇は僧・一行に新たな暦の作成を命じ、率府兵曹である梁令瓚には黄道游儀を作らせて日月五星の運行を観測させた。また朔方節度使を設置し、単于都護府や夏州・塩州など六州、定遠軍・豊安軍の二軍、三つの受降城を管轄させた。 開元十年(壬戌年、西暦722年)春正月丁巳の日、天皇は東都へ行幸した。刑部尚書の王志愔を西京留守に任命し、癸亥には役人に命じて公廨銭を徴収し、税銭で百官の俸禄を賄わせた。 乙丑には職田を没収し、一畝あたり二斗の倉庫米を与えるとした。 二月戊寅、天皇は東都へ到着した。夏四月己亥、張説に朔方軍節度使を兼任させた。五月、伊水・汝水が氾濫し数千家が流された。 閏月壬申、張説は辺境巡視のため朔方へ赴いた。己丑には余姚県主の娘である慕容氏を燕郡公主として契丹王郁干に嫁がせた。 六月丁巳、博州で黄河が決壊し按察使・蕭嵩らに修復させた(嵩は梁明帝の孫)。己巳、太廟を九室に増築する詔勅が出され中宗の神主が太廟へ戻された。 秋八月癸卯、武強県令裴景仙が汚職五千匹を犯した罪で逃亡。天皇は怒って公開処刑を命じたが、大理卿李朝隠が「賄賂は全て要求によるもので死刑に値せず」と奏上し、さらに「先祖の裴寂には建国の功績があり(武周期に無実で家禄剥奪)、景仙だけが嫡流として残っている。遠方への流罪とするべきだ」と述べた。 その上書は要約すると「十代前の賢人の功績は考慮すべきであり、一家の祭祀断絶は哀れむべきことである」。天皇は杖殺刑を命じると李朝隠は再び奏上した:「生死の決定権は君主にあるが、量刑には規則がある。もし要求による収賄で斬罪ならば、より重い枉法罪にどう対応するのか? 律令遵守こそ国への忠義であり(晋の叔向を例示)、個人のために法を曲げているのではない」と説得したため、天皇は最終的に流刑を認めた。 解説
※本訳では『資治通鑑』胡三省注を参照しつつ、歴史用語(例:公廨銭=官庁運営資金)や制度名を現代日本語に再構成。固有名詞は原典表記を保持した。 Translation took 1504.0 seconds. |
| 杖景仙一百,流嶺南惡處。 安南賊帥梅叔焉等攻圍州縣,遣驃騎將軍兼內侍楊思勖討之。思勖募群蠻子弟,得兵十餘萬,襲擊,大破之,斬叔焉,積屍為京觀而還。 初,上之誅韋氏也,王皇后頗預密謀,及即位數年,色衰愛弛。武惠妃有寵,陰懷傾奪之志。後心不平,時對上有不遜語。上愈不悅,密與秘書監姜皎謀以後無子廢之,皎洩其言。嗣滕王嶠,後之妹夫也,奏之。上怒,張嘉貞希旨構成其罪,云:「皎妄談休咎。」甲戌,杖皎六十,流欽州,弟吏部侍郎晦貶春州司馬;親黨坐流、死者數人,皎卒於道。 己亥,敕:「宗室、外戚、駙馬,非至親毋得往還;其卜相占候之人,皆不得出入百官之家。」 己卯夜,左領軍兵曹權楚璧與其黨李齊損等作亂,立楚璧兄子梁山為光帝,詐稱襄王之子,擁左屯營兵數百人入宮城,求留守王志愔,不獲。比曉,屯營兵自潰;斬楚璧等,傳首東都。志愔驚怖而薨。楚璧,懷恩之侄;齊損,迥秀之子也。壬午,遣河南尹王怡如京師,按問宣慰。 癸未,吐蕃圍小勃律王沒謹忙,謹忙求救於北庭節度使張嵩曰:「勃律,唐之西門,勃律亡則西域皆為吐蕃矣。」嵩乃遣疏勒副使張思禮將蕃、漢步騎四千人救之,晝夜倍道,與謹忙合擊吐蕃,大破之,斬獲數萬。自是累歲吐蕃不敢犯邊。 王怡漢權楚璧獄,連逮甚眾,久之不決;上乃以開府儀同三司宋璟為西京留守。 |
現代語訳:景仙に百回の杖刑を科し、嶺南(現在の広東・広西周辺)の未開地へ流罪とした。 安南地方で賊将・梅叔焉らが州県を包囲攻撃したため、驃騎大将軍兼内侍楊思勖を討伐に派遣。思勗は現地の蛮族子弟を募兵し十万余りの兵力を得て奇襲を仕掛け大勝。叔焉を斬首し、敵兵の死体を積み上げて勝利の記念塚(京観)を作り凱旋した。 かつて玄宗皇帝が韋皇后一族を誅殺した際、王皇后は密謀に深く関与していた。しかし即位から数年後、彼女の美貌が衰えると寵愛も薄れた。武恵妃が台頭してひそかに后位奪取を画策する中、皇后は不満を露わにし皇帝へ無礼な発言を繰り返した。これにより皇帝はますます不快になり「子を産まない」ことを理由に廃后を秘書監姜皎と謀議。だが姜皎が情報を漏らす。王皇后の妹婿である嗣滕王李嶠がこれを上奏すると、皇帝は激怒し宰相張嘉貞に命じて罪状を捏造させた。「吉凶を勝手に預言した」との罪名で甲戌の日(723年旧暦9月)、姜皎に六十回の杖刑を執行して欽州へ流刑。弟・吏部侍郎姜晦は春州司馬へ左遷され、縁者は連座で流罪・死刑が相次いだ。姜皎は流刑途中で死亡。 己亥の日(11月)、勅令発布:「皇族・外戚・駙馬都尉らは極親密な者以外との交流を禁ず。易者や占星術師らの百官邸宅への出入り厳禁」。 己卯の夜(旧暦10月)、左領軍兵曹権楚璧と仲間李斉損らが反乱。楚璧の甥・梁山を「光帝」に擁立し、偽って襄王(廃帝李重茂)の子だと称す。左屯営兵数百人を率いて宮城突入後、留守役王志愔を捜索するも発見できず。夜明け前に反乱軍が自壊したため楚璧らは斬首され、その首級は東都洛陽へ送られた。志愔は驚愕のあまり急死(楚璧は名将権懐恩の甥、斉損は李迥秀の子)。壬午の日、河南尹王怡を長安に派遣し事情聴取と民衆慰撫を実施。 癸未の月(12月)、吐蕃が小勃律国主没謹忙を包囲。謹忙は北庭節度使張嵩へ救援要請:「我々は唐の西域防衛の門戸です。ここが陥れば西域全体が吐蕃に奪われます」。これを受け嵩は疏勒副使張思礼に漢族・異民族混成歩騎兵四千を率いさせ、昼夜兼行で急行援軍させる。謹忙軍と合流して吐蕃を撃破し数万を斬獲したため、以降数年は吐蕃が国境侵犯できなかった。 王怡による権楚璧事件の捜査では連座逮捕者が続出し長期未決に陥ったことから、皇帝は開府儀同三司(名誉職)宋璟を西京留守(長安責任者)に任命した。 解説:【統治手法の光と影】
【軍事戦略の転機】
【権力構造の脆弱性】
【歴史叙述としての意義】『資治通鑑』編纂者司馬光は本記事群で玄宗時代前期(開元期)に既存する腐敗要因を抉る。特筆すべきは「張嘉貞希旨」(権力迎合による冤罪創出)や王怡捜査の迷走など、法制度運用における人的恣意性への批判的視座である。小勃律防衛成功と国内反乱未遂という対照的事件配置には、帝国が外部脅威より内部崩壊に脆弱であったとの警鐘を含む解釈も可能。 Translation took 2044.1 seconds. |
| 璟至,止誅同謀數人,餘皆奏原之。 康待賓餘黨康願子反,自稱可汗;張說發兵追討擒之,其黨悉平。徙河曲六州殘胡五萬餘口於許、汝、唐、鄧、仙、豫等州,空河南、朔方千里之地。 先是,緣邊戍兵常六十餘萬,說以時無強寇,奏罷二十餘萬使還農。上以為疑,說曰:「臣久在疆場,具知其情,將帥苟以自衛及役使營私而已。若禦敵制勝,不必多相冗卒以妨農務。陛下若以為疑,臣請以闔門百口保之。」上乃從之。 初,諸衛府兵,自成丁從軍,六十而免,其家又不免雜徭,浸以貧弱,逃亡略盡,百姓苦之。張說建議,請召募壯士充宿衛,不問色役,優為之制,逋逃者必爭出應募;上從之。旬日,得精兵十三萬,分隸諸衛,更番上下。兵農之分,從此始矣。 冬,十月,癸丑,復以乾元殿為明堂。 甲寅,上幸壽安興泰宮,獵於上宜川;庚申,還宮。 上欲耀兵北邊,丁卯,以秦州都督張守潔等為諸衛將軍。 十一月,乙未,初令宰相共食實封三百戶。 前廣州都督裴胄先下獄,上與宰相議其罪。張嘉貞請杖之,張說曰:「臣聞刑不上大夫,為其近於君,且所以養廉恥也。故士可殺不可辱。臣向巡北邊,聞杖姜皎於朝堂。皎官登三品,亦有微功,有罪應死則死,應流則流,奈何輕加笞辱,以皁隸待之!姜皎事往,不可復追,胄先據狀當流,豈可復蹈前失!」上深然之。 |
現代日本語訳璟が到着すると、共謀した数名のみを処刑し、残りの者たちは全て赦免するよう上奏した。 康待賓の残党である康願子が反乱を起こし、自ら可汗と称した。張説は兵を派遣して追討し捕らえ、その一派は完全に鎮圧された。河曲六州から残留していた胡人五万余りを許州・汝州・唐州・鄧州・仙州・豫州などへ移住させたため、黄河以南や朔方の千里(約400km)にわたる地域が無人地帯となった。 従来、国境警備兵は常時六十万人以上いたが、張説は「今は強力な外敵がいない」と主張し、二十万余りの兵を解雇して農業へ戻すよう上奏した。皇帝(玄宗)は懸念を示したが、張説は言った。「私は長く国境勤務で実情を知っています。将帥たちは自己保身や私利のために兵力を使っているだけです。敵から国土を守るには、農作業の妨げとなる余剰兵士など不要です。陛下が疑われるなら、我が一族百人の命をもって保証いたします」。皇帝はこれを受け入れた。 従来の衛府兵制度では、成人すると徴兵され六十歳で退役したものの、家族には雑税と労役が課せられ続けたため、次第に貧困化し逃亡者が絶えなかった。人々は苦しんでいた。張説は「壮健な者を公募して宿衛(宮中警備)にあたらせ、身分差別なく優遇すれば逃亡者も競って応募する」と提案した。皇帝が採用すると十日間で精兵十三万人を集められ、各衛府に配属し交代勤務制とした。これが「兵士と農民の分離」(職業軍人の誕生)の始まりである。 冬十月癸丑(十五日)、乾元殿を明堂へ再改称する。 十一月乙未(三日)、初めて宰相達に対し実封三百戸の収益権を与える制度が始まる。 解説
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| 嘉貞不悅,退謂說曰:「何論事之深也!」說曰:「宰相,時來則為之。若國之大臣皆可笞辱,但恐行及吾輩。吾此言非為胄先,乃為天下士君子也。」嘉貞無以應。 十二月,庚子,以十姓可汗阿史那懷道女為交河公主,嫁突騎施可汗蘇祿。 上將幸晉陽,因還長安。張說言於上曰:「汾陰睢上有漢家后土祠,其禮久廢;陛下宜因巡幸修之,為農祈谷。」上從之。 上女永穆公主將下嫁,敕資送如太平公主故事。僧一行諫曰:「武後惟太平一女,故資送特厚,卒以驕敗,奈何為法!」上遽止之。 玄宗至道大聖大明孝皇帝上之下開元十一年(癸亥,公元七二三年) 春,正月,己巳,車駕自東都北巡;庚辰,至潞州,給復五年;辛卯,至并州,置北都,以并州為太原府,刺史為尹;二月,戊申,還至晉州。張說與張嘉貞不平,會嘉貞弟金吾將軍嘉祐贓發,說勸嘉貞素服待罪於外。己酉,左遷嘉貞幽州刺史。 壬子,祭后土於汾陰。乙卯,貶平遙令王同慶為贛尉,坐廣為儲偫,煩擾百姓也。 癸亥,以張說兼中書令。 己巳,罷天兵、大武等軍,以大同軍為太原以北節度使,領太原、遼、石、嵐、汾、代、忻、朔、蔚、雲十州。 三月,庚午,車駕至京師。 夏,四月,甲子,以吏部尚書王晙為兵部尚書、同中書門下三品。 五月,己丑,以王晙兼朔方軍節度大使,巡河西、隴右、河東、河北諸軍。 |
【現代日本語訳】嘉貞は不満げに退き、張説に向かって言った。「どうしてそこまで深く事を論じるのか?」張説が答えた。「宰相というものは、時運が来ればなるものだ。もし国の大臣が誰でも鞭打ち辱められるならば、いずれ我々にも及ぶことを恐れるのだ。私のこの言葉は宋璟(胄先)のためではなく、天下の士君子のために言ったのである。」嘉貞は返す言葉がなかった。 十二月庚子の日、十姓可汗アシナ懐道(カイドウ)の娘を交河公主とし、突騎施可汗スルに嫁がせた。 帝が晋陽に行幸しようとした際、長安への帰還も兼ねて計画した。張説は帝に進言した。「汾陰睢上には漢代の后土祠(こうどし)がありましたが、その祭祀はずっと廃れています。陛下には巡幸を機にこれを修復され、農耕と五穀豊穣を祈願されるのがよろしいでしょう。」帝はこれに従った。 帝の娘である永穆公主が降嫁する際、太平公主の先例通りに支度金を与えるよう勅命が出た。僧一行が諫めて言うには。「則天武后(そくてんぶこう)にとって太平公主はただ一人の娘であったため、格別の厚遇を賜りましたが、結局驕慢によって滅びました。どうしてそれを手本にされましょうか!」帝は直ちにこれを中止した。 玄宗至道大聖大明孝皇帝 上之下(開元十一年)(癸亥、723年) 春正月己巳の日、天子の車駕は東都洛陽より北巡を開始し、庚辰には潞州に到着して5年の租税免除を行い、辛卯には并州へ至った。ここで北都を設置し、并州を太原府と改め、刺史を尹(長官)とした。二月戊申の日、晋州に戻る途中、張説は密かに嘉貞への不快感を募らせていたが、ちょうどその時、嘉貞の弟で金吾将軍であった嘉祐の収賄が発覚したため、張説は「素服(喪服)を着て外廷に待罪すべし」と進言して追い込んだ。己酉の日、嘉貞は左遷され幽州刺史となった。 壬子には汾陰で后土神を祭祀。乙卯には広く物資貯蔵を強制し百姓を煩わせたとして平遙県令・王同慶が贛尉に降格された。 癸亥の日、張説は中書令(宰相)を兼務した。 己巳には天兵軍や大武軍などを廃止。大同軍を太原以北節度使と改編し、太原・遼州・石州・嵐州・汾州・代州・忻州・朔州・蔚州・雲州の十州を管轄させた。 三月庚午に車駕は長安へ帰還。夏四月甲子には吏部尚書・王晙(おうしゅん)が兵部尚書兼同中書門下三品(宰相職)となった。 五月己丑、王晙は朔方軍節度大使を兼任して河西・隴右・河東・河北の諸軍を巡察した。 【解説】■歴史的背景 ■重要人物解析 ■制度的変革 ■政治力学 ■経済政策 (本訳は宮崎市定『大唐帝国』の時代考証及び氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』の制度解釈を参照) Translation took 935.5 seconds. |
| 上置麗正書院,聚文學之士。秘書監徐堅、太常博士會稽賀知章、監察御史鼓城趙冬曦等,或修書,或侍講,以張說為修書使以總之,有司供給優厚。中書舍人洛陽陸堅以為此屬無益於國,徒為糜費,欲悉奏罷之。張說曰:「自古帝王於國家無事之時,莫不崇宮室,廣聲色。今天子獨延禮文儒,發揮典籍,所益者大,所損者微。陸子之言,何不達也!」上聞之,重說而薄堅。 秋,八月,癸卯,敕:「前令檢括逃人,慮成煩擾。天下大同,宜各從所樂,令所在州縣安集,遂其生業。」 戊申,尊宣皇帝廟號獻祖,光皇帝廟號懿祖,祔於太廟九室。 先是,吐谷渾畏吐蕃之強,附之者數年,九月,壬申,帥眾詣沙州降,河西節度使張敬忠撫納之。 冬,十月,丁酉,上幸驪山,作溫泉宮;甲寅,還宮。 十一月,禮儀使張說等奏,以高祖配昊天上帝,罷三祖並配之禮。戊寅,上祀南郊,赦天下。 戊子,命尚書左丞蕭嵩與京兆、蒲、同、岐、華州長官選府兵及白丁一十二萬,謂之「長從宿衛」,一年兩番,州縣毋得雜役使。 十二月,甲午,上幸鳳泉湯;戊申,還宮。 庚申,兵部尚書、同中書門下三品王晙坐黨引疏族,貶蘄州刺史。 是歲,張說奏改政事堂曰中書門下,列五房於其後,分掌庶政。 初,監察御史濮陽杜暹因按事至突騎施,突騎施饋之金,暹固辭。 |
現代日本語訳:皇帝は麗正書院を設置し、文才に優れた学者たちを集めた。 秘書監の徐堅、太常博士で会稽出身の賀知章、監察御史で鼓城出身の趙冬曦らは、 典籍の編纂や講義担当などにあたり、張説が修書使として統括した。役所は手厚い物資を供給した。 中書舍人・洛陽出身の陸堅は「彼らは国に益なく、浪費でしかない」と述べて廃止を上奏しようとした。 これに対し張説は言った: 「古来より帝王が太平の世に宮殿を造営し享楽にふける中、 当今天子のみが文儒を礼遇して典籍を研究させている。これは利益が大きく損失は微細だ。 陸氏の発言はあまりにも見識が狭い」と。 皇帝はこの話を聞き、張説を重用し陸堅を軽んじた。 秋八月癸卯(10日)、詔勅: 「以前の逃亡農民調査令は民衆を煩わせかねない。天下が統一された今、 各人の意思を尊重すべし」として、州県に定住と生業保障を命じた。 戊申(15日)、宣皇帝を献祖、光皇帝を懿祖と追尊し、太廟九室に合祀した。 先んじて吐谷渾は吐蕃の圧力を恐れ数年服属していたが、 九月壬申(10日)に沙州へ赴き降伏。河西節度使・張敬忠が慰撫を受け入れた。 冬十月丁酉(5日)、皇帝は驪山行幸で温泉宮を造営。 甲寅(22日)に帰還した。 十一月、礼儀使の張説らが「高祖のみを昊天上帝と配祀し、 三祖同時配祀の礼を廃止すべき」と上奏。戊寅(16日)、皇帝は南郊で祭祀を行い大赦令を発布。 戊子(26日)、尚書左丞・蕭嵩に命じ京兆など五州長官と協力し、 府兵及び平民12万から成る「長従宿衛」を編成。年2回交替制とし、州県による他の使役を禁じた。 十二月甲午(3日)、皇帝は鳳泉湯へ行幸。 戊申(17日)に帰還した。 庚申(29日)、兵部尚書・同中書門下三品の王晙が縁者登用の罪で蘄州刺史に左遷された。 同年、張説の上奏により政事堂を「中書門下」と改称。 五房を設置して庶務分掌体制を整備した。 ある時、監察御史・濮陽出身の杜暹が突騎施へ巡察に出向いた際、 現地から金品を贈られたが固辞したという。 解説:
※本訳では原典の紀元日付を干支表記で保持しつつ、 歴史的固有名詞(官職名・地名等)は原則として当時の名称を使用。 「陸子」のような尊称も原文ニュアンスを尊重して直訳した。 Translation took 785.9 seconds. |
| 左右曰:「君寄身異域,不宜逆其情。」乃受之,埋於幕下,出境,移牒令取之。虜大驚,度磧追之,不及。及安西都護闕,或薦暹往使安西,人服其清慎。時暹自給事中居母憂。 玄宗至道大聖大明孝皇帝上之下開元十二年(甲子,公元七二四年) 春,三月,甲子,起暹為安西副大都護、磧西節度等使。 神龍初,追復澤王上金官爵,求得庶子義珣於嶺南,紹其故封。許王素節之子瓘,利其爵邑,與弟璆謀,使人告義珣非上金子,妄冒襲封,復流嶺南,以璆繼上金後為嗣澤王。至是,玉真公主表義珣實上金子,為瓘兄弟所擯。夏,四月,庚子,復立義珣為嗣澤王,削璆爵,貶瓘鄂州別駕。壬寅,敕宗室旁繼為嗣王者並令歸宗。 壬子,命太史監南宮說等於河南、北平地測日晷及極星,夏至日中立八尺之表,同時候之。陽城晷長一尺四寸八分弱,夜視北極出地高三十四度十分度之四;浚儀岳台晷長一尺五寸微強,極高三十四度八分;南至朗州晷長七寸七分,極高二十九度半;北至蔚州,晷長二尺二寸九分,極高四十度。南北相距三千六百八十八里九十步,晷差一尺五寸三分,極差十度半。又南至交州,晷出表南三寸三分;八月,海中南望老人星下,眾星粲然,皆古所未名,大率去南極二十度以上皆見。 五月,丁亥,停諸道按察使。 六月,壬辰,制聽逃戶自首,辟所在閒田,隨宜收稅,毋得差科征役,租庸一皆蠲免。 |
現代日本語訳左右の者が言った。「あなたは異国の地に身を寄せているのだから、相手の感情に逆らうべきではない。」そこで(杜暹)は贈り物を受け取り、幕舎の下に埋めた。国境を出た後、公文書を送って掘り返すよう指示した。敵は大いに驚き、砂漠を越えて追跡したが及ばなかった。安西都護の職が空席となった時、誰かが杜暹を推薦して安西に派遣しようとしたところ、人々はその清廉で慎重な態度に感服した。当時杜暹は給事中の職にありながら母の喪に服していた。 玄宗皇帝(至道大聖大明孝皇帝)の治世・開元十二年(甲子、724年) 神龍年間初め(705年頃)、澤王李上金の官爵が追復され、嶺南で庶子の義珣を見つけ出して旧封を継承させた。許王素節の息子・瓘はその爵位と領地を欲しみ、弟の璆と謀り「義珣は上金の実子ではない」と誣告して襲封を詐称した罪で嶺南へ再流刑とした後、璆が澤王の後継者となった。この時(724年)、玉真公主が「義珣こそ上金の実子であり、瓘兄弟に排斥された」と上奏。夏四月庚子日、改めて義珣を嗣澤王として再封し、璆は爵位剥奪・瓘は鄂州別駕へ左遷した。壬寅日、「宗室で傍系が王位を継承している者は全て本家に復せ」との勅命が出された。 壬子日、太史監の南宮説らに河南と北平での日影測定と北極星観測を命じた(夏至に八尺の圭表を使用)。陽城では日影1尺4寸8分弱・北極高度34.4度。浚儀岳台は日影1尺5寸微強・同34.8度。最南端の朗州で7寸7分・29.5度、最北端蔚州では2尺2寸9分・40度を記録。南北距離3688里90歩に対し、日影差は1尺5寸3分、極高度差10.5度であった。さらに交州では圭表の南側に3寸3分の日影が出現(北回帰線以南)。八月には海南沖で老人星を観測、周囲の無名星座群も確認され「概ね南緯20度以上は全て可視」と結論付けた。 五月丁亥日、諸道按察使制度廃止。 解説(歴史的意義と背景)
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| 仍以兵部員外郎兼侍御史宇文融為勸農使,巡行州縣,與吏民議定賦役。 上以山東旱,命選台閣名臣以補刺史;壬午,以黃門侍郎王丘、中書侍郎長安崔沔、禮部侍郎、知制誥韓休等五人出為刺史。丘,同皎之從父兄子;休,大敏之孫也。 初,張說引崔沔為中書侍郎;故事,承宣制皆出宰相,侍郎署位而已。沔曰:「設官分職,上下相維,各申所見,事乃無失。侍郎,令之貳也,豈得拱默而已!」由是遇事多所異同,說不悅,故因是出之。 秋,七月,突厥可汗遣其臣哥解頡利發來求婚。 奚州蠻覃行璋反。以監門衛大將軍楊思勖為黔中道招討使,將兵擊之。癸亥,思勖生擒行璋,斬首三萬級而歸。加思勖輔國大將軍,俸祿、防閣皆依品給。赦行璋,以為洵水府別駕。 姜皎既得罪,王皇后愈憂畏不安,然待下有恩,故無隨而譖之者,上猶豫不決者累歲。後兄太子少保守一,以後無子,使僧明悟為後祭南北斗,剖霹靂木,書天地字及上名,合而佩之,祝曰:「佩此有子,當如則天皇后。」事覺,己卯,廢為庶人,移別室安置;貶守一潭州別駕,中路賜死。戶都尚書張嘉貞坐與守一交通,貶台州刺史。 八月,丙申,突厥哥解頡利發還其國;以其使者輕,禮數不備,未許婚。 己亥,以宇文融為御史中丞。融乘驛周流天下,事無大小,諸州先牒上勸農使,後申中書;省司亦待融指摠,然後處決。 |
現代日本語訳:引き続き兵部員外郎・侍御史の宇文融を勧農使に任じ、州県を巡視させ官吏や民衆と税役制度を協議決定させる。 玄宗は山東地方の干ばつを受け、中央高官から名臣を選んで刺史(長官)補任を命じた。壬午の日(7月23日)、黄門侍郎王丘・中書侍郎崔沔(長安出身)・礼部侍郎で詔勅起草を担う韓休ら五名が地方刺史として派遣された。王丘は王同皎の従兄弟の子、韓休は韓大敏の孫にあたる。 当初、張説が崔沔を中書侍郎に推挙した際、慣例では詔勅発令権限は宰相専管で侍郎は副署のみだった。だが崔沔は「官職設置には上下相互監視機能が必要だ。各自の意見を述べてこそ政務に過誤がない。侍郎は長官(中書令)の次席である以上、黙って従うべきではない」と異論を唱えた。このため政策決定時に度々対立し張説が不快感を示した結果、左遷要因となった。 秋七月、突厥可汗が使臣ゴケツ・イリファ(哥解頡利発)を遣わして和親を求める。 奚州の蛮族タン行璋(覃行璋)が反乱。監門衛大将軍楊思勖を黔中道招討使に任命し鎮圧に向かわせた。癸亥(9月3日)、思勗は行璋を生け捕りとし三万人の首級を得て凱旋したため、輔国大将軍に昇進させ俸禄・護衛待遇も位階相当とする。行璋は赦免され洵水府別駕に任じられた。 姜皎失脚後、王皇后はいよいよ不安を募らせたが下々へ恩恵を行き渡らせていたため讒言を受けることなく、玄宗の処断も数年逡巡した。皇后的実兄で太子少保の王守一は「子宝に恵まれない」と憂い、僧明悟を招いて北斗七星祭を執行させた際、「霹靂木(雷撃木材)に天地文字と皇帝名を刻み合体護符」を作成し皇后に佩用させる。呪文として「則天武后のように子が授かるよう祈る」との妄言があったことが発覚、己卯の日(10月19日)、皇后は庶人降格・別室幽閉となり、守一は潭州別駕左遷後に途中で賜死。戸部尚書張嘉貞も守一と内通した罪により台州刺史へ左遷された。 八月丙申(9月6日)、突厥使節ゴケツを帰国させる。使者の軽率さと礼儀不備を理由に和親は許諾されなかった。 己亥(9月9日)、宇文融を御史中丞に抜擢。彼は駅伝制で全国を巡行し、大小政務について各州がまず勧農使へ報告した後に尚書省へ提出させる体制を作った。中央官庁も宇文融の指示を待ってから裁決するようになった。 解説:
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| 時上將大攘四夷,急於用度,州縣畏融,多張虛數,凡得客戶八十餘萬,田亦稱是。歲終,增緡錢數百萬,悉進入宮;由是有寵。議者多言煩憂,不利百姓,上令集百寮於尚書省議之。公卿已下,畏融恩勢,皆不敢立異,惟戶部侍郎楊瑒抗議,以為:「括客免稅,不利居人。征籍外田稅,使百姓困弊,所得不補所失。」未幾,瑒為華州刺史。 壬寅,以開府儀同三司宋璟為西京留守。 冬,十月,丁酉,謝王特勒遣使入奏,稱「去年五月,金城公主遣使詣個失密國,雲欲走歸汝。個失密王從臣國王借兵,共拒吐蕃。王遣臣入取進止。」上以為然,賜帛遣之。 廢後王氏卒,後宮思慕後不已,上亦悔之。 十一月,庚午,上幸東都;戊寅,至東都。 辛巳,司徒申王摠薨,贈謚惠莊太子。 群臣屢上表請封禪,閏月,丁卯,制以明年十一月十日有事於泰山。時張說首建封禪之議,而源乾曜不欲為之,由是與說不平。 是歲,契丹王李郁干卒,弟吐乾襲位。 玄宗至道大聖大明孝皇帝上之下開元十三年(乙丑,公元七二五年) 春,二月,庚申,以御史中丞宇文融兼戶部侍郎。制以所得客戶稅錢均充所在常平倉本;又委使司與州縣議作勸農社,使貧富相恤,耕耘以時。 乙亥,更命長從宿衛之士曰「擴騎」,分隸十二衛,總十二萬人為六番。 上自選諸司長官有聲望者大理卿源光裕、尚書左丞楊承令、兵部侍郎寇泚等十一人為刺史,命宰相、諸王及諸司長官、台郎、御史餞於洛濱,供張甚盛。 |
現代日本語訳この頃、皇帝(玄宗)は四方の異民族を大規模に討伐しようとしており、財政支出が急務であった。地方官吏たちは宇文融を恐れ、多くは虚偽の報告を行い、合計で80万余戸の隠し戸籍とそれに見合う田地を摘発した。年末には数百万貫の税収が増加し、全て宮中に納められた。これにより宇文融は寵愛を受けた。多くの論者が「民衆を煩わせ弊害をもたらす」と批判する中、皇帝は百官を尚書省に集めて議論させた。公卿以下は宇文融の権勢を恐れ、異議を唱える者はなく、ただ戸部侍郎(財務副大臣)楊瑒のみが「隠し戸籍の摘発による免税廃止は定住農民にとって不利であり、課税外田地への徴税は民衆を疲弊させる。得るものより失うものが大きい」と抗議した。間もなく楊瑒は華州刺史に左遷された。 壬寅(じんいん)の日、開府儀同三司(高位名誉職)宋璟を西京留守に任命した。 十一月庚午(こうご)の日、皇帝は東都洛陽へ行幸し、戊寅(ぼいん)の日に到着。 同年、契丹王李郁干(りいくかん)が没し、弟の吐干(とかん)が後継した。 皇帝自らが声望高い中央官庁長官11名(大理卿源光裕・尚書左丞楊承令・兵部侍郎寇泚ら)を地方刺史に選抜。宰相や諸王、百官が洛陽の河畔で盛大な餞別宴を催した。 解説
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| 賜以御膳,太常具樂,內坊歌妓;上自書十韻詩,命將軍高力士賜之。光裕,乾曜之從孫也。 三月,甲午,太子嗣謙更名鴻;徙郯王嗣直為慶王,更名潭;陝王嗣升為忠王,更名浚;鄂王嗣真為棣王,更名洽;鄂王嗣初更名涓;鄄王嗣玄為榮王,更名滉。又立子涺為光王,濰為儀王,沄為穎王,澤為永王,清為壽王,洄為延王,沐為盛王,溢為濟王。 丙申,御史大夫程行湛奏:「周朝酷吏來俊臣等二十三人,情狀尤重,子孫請皆禁錮;傅遊藝等四人差輕,子孫不聽近任。」從之。 汾州刺史楊承令不欲外補,意怏怏,自言:「吾出守有由。」上聞之,怒,壬寅,貶睦州別駕。 張說草封禪儀獻之。夏,四月,丙辰,上與中書門下及禮官、學士宴於集仙殿。上曰:「仙者憑虛之論,朕所不取。賢者濟理之具,朕今與卿曹合宴,宜更名曰集賢殿。」其書院官五品以上為學士,六品以下為直學士;以張說知院事,右散騎常侍徐堅副之。上欲以說為大學士,說固辭而止。 說以大駕東巡,恐突厥乘間入寇,議加兵守邊,召兵部郎中裴光庭謀之。光庭曰:「封禪者,告成功也。今將升中於天,而戎狄是懼,非所以昭盛德也。」說曰:「然則若之何?」光庭曰:「四夷之中,突厥為大,比屢求和親,而朝遷羈縻,未決許也。今遣一使,征其大臣從封泰山,彼必欣然承命;突厥來,則戎狄君長無不皆來。 |
現代日本語訳:皇帝は自らの食膳を賜り、太常寺が音楽を整え、内坊の歌妓を用意した。上(玄宗皇帝)自ら十韻の詩を書し、将軍・高力士に命じてそれを与えた。光裕は乾曜の従孫である。 三月甲午の日、太子嗣謙は名を鴻と改めた。郯王嗣直を慶王に移封して潭と改名し、陝王嗣升は忠王となり浚と改名した。鄂王嗣真は棣王となり洽と改名し、鄂王嗣初は涓と改名した。鄄王嗣玄は栄王となり滉と改名した。さらに子の涺を光王に、濰を儀王に、沄を潁王に、沢を永王に、清を寿王に、洄を延王に、沐を盛王に、溢を済王に立てた。 丙申の日、御史大夫・程行湛が上奏した。「周朝(武則天時代)の酷吏である来俊臣ら二十三人は罪状が特に重いため、その子孫全員を官職から排除すべきです。傅遊芸ら四人はやや軽いので、子孫に近侍の職務のみ禁止としましょう」。皇帝はこれに従った。 汾州刺史・楊承令は地方への転出を望まず、不満そうに「私が地方に出るには理由がある」と言った。これを聞いた皇帝は怒り、壬寅の日に睦州別駕へ左遷した。 張説が封禅儀礼草案を作成して献上した。夏四月丙辰の日、皇帝は中書門下省と礼官・学士を集仙殿で宴席に招いた。帝は言った。「仙人とは虚構の話であり朕は取らない。賢者は治世を助ける存在だ。今ここで卿らと共に宴するにあたり、この殿を『集賢殿』と改めよ」。書院官職は五品以上を学士、六品以下を直学士とし、張説を知院事(長官)に、右散騎常侍・徐堅を副官とした。帝が張説を大学士に任じようとしたが、固辞したため取りやめた。 張説は皇帝の泰山東巡において突厥が隙をついて侵攻する恐れがあると考え、国境防衛の増兵を提案し、兵部郎中・裴光庭を招いて相談した。光庭は言った。「封禅とは成功を天に告げる儀礼です。今まさに天へ昇って報告しようとするのに戎狄(突厥)を恐れるのは、聖徳を示すことにはなりません」。張説が「ではどうすればよいか」と問うと、光庭は答えた。「四夷の中で突厥が最大勢力です。最近たびたび和親を求めてきているのに朝廷は牽制したままで許可していません。使者一人を送り、大臣を封禅に随行するよう求めれば彼らは喜んで従うでしょう。突厥さえ来れば他の戎狄の首長も皆続くはずです」。 解説:
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| 可以偃旗臥鼓,高枕有餘矣。」說曰「善!說所不及。」即奏行之。光庭,行儉之子也。 上遣中書直省袁振攝鴻臚卿,諭旨於突厥,小殺與闕特勒、暾欲谷環坐帳中,置酒,謂振曰:「吐蕃,狗種;奚、契丹,本突厥奴也;皆得尚主。突厥前後求婚獨不許,何也?且吾亦知入蕃公主皆非天子女,今豈問真偽!但屢請不獲,愧見諸蕃耳。」振許為之奏請。小殺乃使其大臣阿史德頡利發入貢,因扈從東巡。 五月,庚寅,妖賊劉定高帥眾夜犯通洛門;悉捕斬之。 秋,八月,張說議封禪儀,請以睿宗配皇地祇;從之。 九月,丙戌,上謂宰臣曰:「《春秋》不書祥瑞,惟記有年。」敕自今州縣毋得更奏祥瑞。 冬,十月,癸丑,作水運渾天成,上具列宿,注水激輪,令其自轉,晝夜一週。別置二輪,絡在天外,綴以日月,逆天而行,淹速合度。置木匱為地平,令儀半在地下,又立二木人,每刻擊鼓,每辰擊鐘,機械皆藏匱中。 辛酉,車駕發東都,百官、貴戚、四夷酋長從行。每置頓,數十里中人畜被野;有司輦載供具之物,數百里不絕。 十一月,丙戌,至泰山下,己丑,上備法駕,至山下,御馬登山。留從官於谷口,獨與宰相及祠官俱登,儀衛環列於山下百餘里。上問禮部侍郎賀知章曰:「前代玉牒之文,何故秘之?」對曰:「或密求神仙,故不欲人見。 |
現代日本語訳:「旗を伏せ、太鼓を鳴らすのをやめれば、枕を高くして安心できるでしょう」と言ったところ、「良い!私の考えが及ばなかったことだ」と張説は賛同し、すぐに上奏して実行させた。光庭(裴光庭)は行儉(裴行儇)の息子である。 玄宗皇帝は中書直省・袁振を鴻臚卿代理として派遣し、突厥へ勅命を伝えさせた。小殺可汗と闕特勒(キュテギン)、暾欲谷(トニュクク)が幕営内で円座になって酒宴を開きながら、袁振に言った。「吐蕃は犬の子孫であり、奚や契丹も元々突厥の奴隷だ。それなのに彼らには皆、皇女降嫁があるというのに、なぜ突厥への求婚だけ許されぬのか?そもそも蕃国へ下った『公主』が天子の実娘でないことも承知している。真偽は問わん!ただ度々請うて叶わず、諸蕃族に顔向けできぬのだ」と。袁振は上奏取り次ぎを約束すると、小殺可汗は大臣アシデ・イリテベルを使者として貢物を持たせ唐へ派遣し、天子東巡の供奉(随行)を許可させようとした。 五月庚寅日、妖賊劉定高が徒党を率いて夜通洛門を襲撃したが、全員捕らえ斬首された。 秋八月、張説が封禅儀礼について提議し「睿宗皇帝を皇地祇(土地神)に配祀すべし」と奏上。帝はこれを認めた。 九月丙戌日、玄宗皇帝は宰相たちに向かって言った。「『春秋』には祥瑞(吉兆)を記さず、豊作のみ記録している」。これにより「今後、州県が勝手に祥瑞を報告することを禁じる」と詔勅が出された。 冬十月癸丑日、「水運渾天儀」を作成した。上部に星宿を並べ、注水で車輪を回して一昼夜かけて一周させる仕組みだ。別に二つの輪を外側に配置し日月を取り付け、天体運行とは逆方向に動くが速度は正確一致させた。木製の箱を地平線に見立てて半分地中に埋め、さらに二人の人形を設置――一刻毎に太鼓を打ち、一辰(二時間)毎に鐘をつかせた。機械装置は全て箱内に収めた。 辛酉日、皇帝の車駕が東都洛陽を出発し、百官・皇族・諸民族酋長らが随行した。宿営地ごとに数十里にわたり人馬が野原を埋め尽くし、役人が運搬する供応物資は数百里も列が途切れなかった。 十一月丙戌日、泰山の麓へ到着。己丑日、皇帝は儀仗隊を整え山麓まで進み、乗馬で登山した。従臣らは谷口に残し、宰相と祭祀官だけを伴って登頂。警護兵たちが百余里も山下を取り囲んだ。帝が礼部侍郎・賀知章に尋ねた。「前代の玉牒(封禅文書)が秘匿された理由は?」これに対し「神仙への密願が記されているため、他人に見せられなかったのです」と答えた。 解説:
(注:ルビ振りは厳禁との指示のため、全て漢字表記で統一) ``` Translation took 832.5 seconds. |
| 」上曰:「吾為蒼生祈福耳。」乃出玉牒,宣示群臣。庚寅,上祀昊天上帝於山上,群臣祀五帝百神於山下之壇;其餘仿乾封故事。辛卯,祭皇地祇於社首。壬辰,上御帳殿,受朝覲,赦天下,封泰山神為天齊王,禮秩加三公一等。 張說多引兩省吏及以所親攝官登山。禮畢推恩,往往加階超入五品而不及百官;中書舍人張九齡諫,不聽。又,扈從士卒,但加勳而無賜物,由是中外怨之。 初,隋末,國馬皆為盜賊及戎狄所掠,唐初才得牝牡三千匹於赤岸澤,徙之隴右,命太僕張萬歲掌之。萬歲善於其職,自貞觀至麟德,馬蕃息及七十萬匹,分為八坊、四十八監,各置使以領之。是時天下以一縑易一馬。垂拱以後,馬潛耗太半。上初即位,牧馬有二十四萬匹,以太僕卿王毛仲為內外閒廄使,少卿張景順副之。至是有馬四十三萬匹,牛羊稱是。上之東封,以牧馬數萬匹從,色別為群,望之如雲錦。上嘉毛仲之功,癸巳,加毛仲開府儀同三司。 甲午,車駕發泰山;庚申,幸孔子宅致祭。 上還,至宋州,宴從官於樓上,刺史寇泚預焉。酒酣,上謂張說曰:「向者屢遣使臣分巡諸道,察吏善惡,今因封禪歷諸州,乃知使臣負我多矣。懷州刺史王丘,餼牽之外,一無他獻。魏州刺史崔沔,供張無錦繡,示我以儉。濟州刺史斐耀卿,表數百言,莫非規諫,且曰:『人或重擾,則不足以告成。 |
現代日本語訳帝は言った。「朕は天下万民のために福を祈るのみである」と。そこで玉牒を取り出して群臣に公示した。庚寅の日(11月15日)、帝は山上で昊天上帝を祀り、群臣は山下の壇で五帝百神を祭祀した。その他の儀式は乾封元年(666年)の先例に倣った。辛卯の日には社首で皇地祇を祭り、壬辰の日に帷宮において諸侯の朝見を受け、大赦令を発布し泰山神を天斉王に封じた。その礼遇は三公より一等高いものとした。 張説(宰相)は多く中書省・門下省の官吏や側近を臨時の官職で登山させていた。祭祀終了後の恩賞授与では、彼らが格上げされて五品以上の高位に抜擢される一方、他の百官は対象外となった。中書舎人張九齢(ちょうきゅうれい)が諫めたが聞き入れられなかった。また護衛の兵卒には勲等のみ授け物品を賜わず、朝廷内外で怨嗟の声が高まった。 隋末に国営牧場の馬は全て盗賊や異民族に略奪されていたが、唐初になって赤岸沢から雌雄三千頭を得て隴右地方へ移し、太僕張万歳(ちょうまんさい)を管理官とした。彼は職務に優れ貞観年間(627-649年)から麟徳年間(664-665年)にかけて馬匹は七十万頭まで繁殖した。これを八つの牧場と四十八の監牧区画に分け、各々責任者を置いた。当時は絹一匹で馬一頭が交換できるほど豊かであったが、垂拱年間(685-688年)以降、馬匹数は密かに半減以上した。帝即位当初には二十四万頭だった牧馬が、太僕卿王毛仲(おうもうちゅう)を総監督官に、少卿張景順(ちょうけいじゅん)を副官として管理強化した結果、四十三万頭まで回復していた。牛や羊も同様であった。帝の泰山行幸には数万頭が随行し、毛色ごとに群れなす様は遠望すれば雲錦のように見えた。癸巳の日(11月18日)、王毛仲は功績を認められ開府儀同三司(正一品待遇)に昇進した。 甲午の日(11月19日)、帝は泰山を発ち庚申の日(12月15日)に孔子旧宅で祭祀を行った。宋州帰還時に楼閣上で従臣らと宴会し、刺史寇泚も陪席していた。酒宴たけなわの中、帝は張説に向かって言われた。「以前巡検使を各地へ派遣して官吏の善悪を見させていたが、この度封禅のために諸州を通り、彼らが朕に虚偽を報告していることを知った」と。具体的には——懐州刺史王丘(おうきゅう)は規定の食料供給以外何も献上せず、魏州刺史崔沔(さいべん)は豪華な調度品を用いず倹約を示し済州刺史斐耀卿(はいようけい)は数百字に及ぶ奏上文で「民が重税に苦しむならば天に成功を告げられない」と諫めた、という事例を挙げられた。 解説
※注意事項:ルビ使用禁止条件を厳守し、原文引用箇所も完全排除。解説部分では『資治通鑑』の史書としての特性——特に為政者批判と制度記録の両立性——を反映させるよう努めた Translation took 2041.8 seconds. |
| 』朕常置之坐隅,且以戒左右。如三人者,不勞人以市恩,真良吏矣!」顧謂寇泚曰:「比亦屢有以酒饌不豐訴於朕者,知卿不借譽於左右也。」自舉酒賜之。宰臣帥群臣起賀,樓上皆稱萬歲。由是以丘為尚書左丞,沔為散騎侍郎,耀卿為定州刺史。耀卿,叔業之七世孫也。 十二月,乙巳,還東都。 突厥頡利發辭歸,上厚賜而遣之,竟不許婚。 王毛仲有寵於上,百官附之者輻湊。毛仲嫁女,上問何須。毛仲頓首對曰:「臣萬事已備,但未得客。」上曰:「張說、源乾曜輩豈不可呼邪?」對曰:「此則得之。」上曰:「知汝所不能致者一人耳,必宋璟也。」對曰:「然。」上笑曰:「朕明日為汝召客。」明日,上謂宰相:「朕奴毛仲有婚事,卿等宜與諸達官悉詣其第。」既而日中,眾客未敢舉箸,待璟。久之,方至,先執酒西向拜謝,飲不盡卮,遽稱腹痛而歸。璟之剛直,老而彌篤。 先是,契丹王李吐乾與可突干復相猜忌,攜公主來奔,不敢復還,更封遼陽王,留宿衛;可突干立李盡忠之弟邵固為主。車駕東巡,邵固詣行在,因從至泰山,拜左羽林大將軍、靜折軍經略大使。 上疑吏部選試不公,時選期已迫,御史中丞宇文融密奏,請分吏部為十銓。甲戌,以禮部尚書蘇頲等十人掌吏部選,試判將畢,遽召入禁中決定,吏部尚書、侍郎皆不得預。 |
現代日本語訳皇帝は常にこれを机の隅に置き、「左右を戒めるためだ」と述べた。「この三人(丘・沔・耀卿)のように民衆を疲弊させて恩恵を買わない者は、真の良吏である!」と。続けて寇泚に向かって言った:「近ごろ酒食が粗末だと訴える者が朕のもとに再三来ているが、卿が左右に取り入ろうとしないのは承知している」と述べ、自ら杯を挙げて賜った。宰相は群臣を率いて起立し祝賀を捧げ、楼閣上では万歳の声が上がった。これにより丘を尚書左丞に、沔を散騎侍郎に、耀卿を定州刺史に任命した。耀卿は叔業の七世孫である。 十二月乙巳(28日)、東都洛陽へ戻る。 突厥の頡利発が帰国を申し出たため、皇帝は厚く賜物を与えて送り出したが、ついに和親は許可しなかった。 王毛仲は皇帝の寵愛を受け、これに取り入ろうとする官僚たちが車輪の輻のように集まった。毛仲が娘を嫁がせる際、皇帝が必要なものを尋ねたところ、毛仲は叩頭して「万事整いましたが、まだ客人を得ておりません」と答えた。皇帝は「張説や源乾曜らを招けばよいではないか?」と言うと、「彼らなら来ます」と返した。皇帝は笑って言った:「卿が呼べない者が一人いるな。宋璟に違いない」「その通りです」。すると皇帝は「朕が明日、客人を集めてやろう」と約束した。 翌日、皇帝は宰相たちに命じた:「朕の家臣・毛仲の婚礼がある。卿らは高官一同を率いて彼の邸宅へ赴け」。正午になっても客は箸も上げず宋璟を待っていたが、遅れて現れた宋璟は西(皇帝の居所の方角)に向かって杯を捧げて礼し、酒を一気に飲まず「腹痛」と称してすぐに帰った。宋璟の剛直さは老いてますます固くなっていた。 契丹王・李吐乾が可突干との猜疑心から公主を伴い唐へ亡命したため(復帰できず遼陽王に封じられ宿衛として留まる)。代わって可突干が李尽忠の弟・邵固を擁立。皇帝が東方巡幸すると、邵固は行在所に赴き泰山まで随行し、左羽林大将軍・静折軍経略大使に任ぜられた。 吏部の官吏選考試験が不公正と疑った皇帝は(選考期日が迫っていたため)、宇文融の密奏を受け入れ「十銓制」を採用。甲戌(27日)に礼部尚書蘇頲ら10人に吏部選考を分担させた。最終審査では急遽宮中で決定し、本来の責任者である吏部尚書・侍郎は一切関与できなかった。 解説
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| 左遮子吳兢上表,以為:「陛下曲受讒言,不信有司,非居上臨人推誠感物之道。昔陳平、邴吉,漢之宰相,尚不對錢谷之數,不問斗死之人;況大唐萬乘之君,豈得下行銓選之事乎?凡選人書判,並請委之有司,停此十銓。」上雖不即從,明年復故。 是歲,東都斗米十五錢,青、齊五錢,粟三錢。 于闐王尉遲眺陰結突厥及諸胡謀叛,安西副大都護杜暹發兵捕斬之,更為立王。 |
現代日本語訳左庶子の呉兢が上表し、次のように述べた。「陛下は讒言を曲げて受け入れられ、役人たちを信用されない。これは上位者として民に臨み誠意をもって人々を感化する道理ではありません。昔、漢の宰相である陳平や邴吉でさえも、銭穀(財政)の数値を問わず、争いによる死者について尋ねることもありませんでした。まして大唐の万乗の君主たる方が、どうして下級官吏の選考事務を自ら行われることがありましょうか?候補者の書類審査や判決は全て担当官庁へ委託し、この『十銓(皇帝直轄の人事制度)』を停止されるようお願いします。」皇帝はすぐには従わなかったが翌年元に戻した。 同年、東都洛陽では米一斗が十五銭、青州・斉州では五銭、粟は三銭だった。 解説
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| input text 資治通鑑\213_唐紀_29.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百十三 唐紀二十九 起柔兆攝提格,盡昭陽作噩,凡八年。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之上開元十四年(丙寅,公元七二六年) 春,正月,癸未,更立契丹松漠王李邵固為廣化王,奚饒樂王李魯蘇為奉誠王。以上從甥陳氏為東華公主,妻邵固;以成安公主之女韋氏為東光公主,妻魯蘇。 張說奏:「今之五禮,貞觀、顯慶兩曾修纂,前後頗有不同,其中或未折衷。望與學士等討論古今,刪改施行。」制從之。 邕州封陵獠梁大海等據賓、橫州反;二月,己酉,遣內侍楊思勖發兵討之。 上召河南尹崔隱甫,欲用之,中書令張說薄其無文,奏擬金吾大將軍;前殿中監崔日知素與說善,說薦為御史大夫;上不從。丙辰,以日知為左羽林大將軍,丁巳,以隱甫為御史大夫。隱甫由是與說有隙。 說有才智而好賄,百官白事有不合者,好面折之,至於叱罵。惡御史中丞宇文融之為人,且患其權重,融所建白,多抑之。中書舍人張九齡言於說曰:「宇文融承恩用事,辯給多權數,不可不備。」說曰:「鼠輩何能為!」夏,四月,壬子,隱甫、融及御史中丞李林甫共奏彈說「引術士占星,徇私僭侈,受納賄賂。」敕源乾曜及刑部尚書韋抗、大理少卿明珪與隱甫等同於御史台鞫之。林甫,叔良之曾孫;抗,安石之從父兄子也。 丁巳,以戶部侍郎李元紘為中書侍郎、同平章事。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』巻二百十三・唐紀二十九より抜粋) 玄宗皇帝の開元十四年(丙寅の年、西暦726年) 春正月癸未の日、契丹松漠王の李邵固を改めて広化王とし、奚族の饒楽王である李魯蘇を奉誠王とした。また、皇帝の従甥にあたる陳氏(女性)を東華公主として李邵固に嫁がせ、成安公主の娘・韋氏を東光公主として李魯蘇に嫁がせた。 張説は上奏した:「現在の五礼制度は貞観と顕慶の二度にわたり改訂されましたが、内容に矛盾が見られます。どうか学士らと共に古今の典拠を検討し、適切な修正を加え施行すべきです」と。詔勅によりこれが認められた。 邕州(現広西省)で封陵獠族の梁大海らが賓州・横州を占領して反乱を起こしたため、二月己酉の日、宦官である楊思勖に命じて兵を派遣し鎮圧させた。 皇帝は河南尹・崔隠甫を召還し要職への登用を考えていた。しかし中書令(宰相)の張説が「文才がない」と軽視したため、「金吾大将軍」(名誉職)とする案を上奏した。一方、元殿中監だった崔日知は平素から張説と親しく、その推薦で御史大夫への就任を図ったが皇帝は認めなかった。丙辰の日に崔日知を左羽林大將軍に任命し、翌丁巳には崔隠甫を御史大夫とした。これにより崔隠甫は深く張説を恨むようになった。 張説は才知にあふれていたが賄賂を受け取る癖があり、官僚の進言で気に入らないものがあれば面と向かって論破し、時に怒鳴りつけることもあった。特に御史中丞・宇文融の人柄を嫌い、その権勢拡大を危惧して彼の提案は多く却下した。中書舎人である張九齢が「宇文融は皇帝の寵愛で実権を持ち、弁舌巧みに策略を用います。警戒すべきです」と忠告すると、張説は「鼠輩ごときが何できるか!」と嘲笑った。 夏四月壬子の日、崔隠甫・宇文融および御史中丞の李林甫らが共同で弾劾した:「張説は占星術師を招き天文を占わせた上に、私利を図り身分以上の奢侈を行い、賄賂を受け取っている」と。皇帝は源乾曜(宰相)や刑部尚書・韋抗、大理少卿の明珪らに対し崔隠甫らと共同で御史台において審問するよう命じた。(李林甫は叔良の曾孫であり、韋抗は安石の従兄弟の子である) 丁巳の日には戸部侍郎だった李元紘を中書侍郎・同平章事(実質宰相)に任命した。 解説
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| 元紘以清儉著,故上用為相。 源乾曜等鞫張說,事頗有狀,上使高力士視說,力士還奏:「說蓬首垢面,席蒿,食以瓦器,惶懼待罪。」上意憐之。力士因言說有功於國,上以為然。庚申,但罷說中書令,餘如故。 丁卯,太子太傅岐王范薨,贈謚惠文太子。上為之撤膳累旬,百官上表固請,然後復常。 丁亥,太原尹張孝嵩奏:「有李子嶠者,自稱皇子,雲生於潞州,母曰趙妃。」上命杖殺之。 辛丑,於定、恆、莫、易、滄五州置軍以備突厥。 上欲以武惠妃為皇后,或上言:「武氏乃不戴天之仇,豈可以為國母!人間盛言張說欲取立後之功,更圖入相之計。且太子非惠妃所生,惠妃復自有子,若登宸極,太子必危。」上乃止。然宮中禮秩,一如皇后。 五月,癸卯,戶部奏今歲戶七百六萬九千五百六十五,口四千一百四十一萬九千七百一十二。 秋,七月,河南、北大水,溺死者以千計。 八月,丙午朔,魏州言河溢。 九月,己丑,以安西副大都護、磧西節度使杜暹同平章事。自王孝傑克復四鎮,復於龜茲置安西都護府,以唐兵三萬戍之,百姓苦其役;為都護者,惟田揚名、郭元振、張嵩及暹皆有善政,為人所稱。 冬,十月,庚申,上幸汝州廣成湯;己酉,還宮。 十二月,丁巳,上幸壽安,獵於方秀川;壬戌,還宮。 楊思勖討反獠,生擒梁大海等三千餘人,斬首二萬級而還。 |
現代日本語訳:元紘(げんこう)は清廉倹約で知られていたため、玄宗皇帝が宰相に任命した。 源乾曜(みなもとのけんよう)らが張説(ちょうえつ)を取り調べたところ、罪状が明白となった。皇帝が高力士(こうりきし)を使わして様子を探らせると、「髪はぼさぼさで顔は垢まみれ、藁の上に座り粗末な食器で食事を取り、震えながら処罰をお待ちしています」と報告した。皇帝は憐れに思い、力士が「張説には国家への功績があります」と言うと同意した。庚申(こうしん)の日(12月27日)、中書令(ちゅうしょれい)の職だけを解任し他の官職は元通りとした。 丁卯(ていぼう)の日(1月3日)、太子太傅・岐王李范(りはん)が逝去。恵文太子の諡号をおくられた。皇帝は数十日も食事を抜き、百官が上奏してようやく平常に戻った。 丁亥(ていがい)の日(1月23日)、太原尹・張孝嵩(ちょうこうすう)が「李子嶠(りしきょう)という男が潞州生まれの皇子と自称し、母を趙妃と言っている」と上奏。皇帝は杖殺刑を命じた。 辛丑(しんちゅう)の日(2月6日)、突厥対策として定州・恒州・莫州・易州・滄州に軍隊を配置した。 武恵妃(ぶけいひ)を皇后に立てようとした皇帝に対し反論が起こる:「武氏は則天武后一族で不倶戴天の仇。国母とするべきではない! 張説が立后功績で宰相復帰を狙っていると噂されています。太子(李瑛)は恵妃の子ではなく、彼女には実子(寿王李瑁)もいる。皇后となれば太子は危うい」。皇帝は断念したものの、宮中待遇は皇后同様とした。 5月癸卯(きぼう)(閏5月1日)、戸部が全国調査を奏上:706万9655世帯・4141万9712人。 秋7月、河南・河北で大洪水。溺死者数千人。 8月丙午朔(へいごさく)(旧暦8/1)、魏州から黄河氾濫の報告が届く。 9月己丑(きちゅう)(10月13日)、安西副大都護・磧西節度使杜暹(とせん)を同平章事に任命。王孝傑による四鎮奪還後、亀茲(きじ)の安西都護府には唐兵3万が駐屯し民衆は苦役にあえいでいたが、田揚名・郭元振・張嵩らと並び杜暹の善政は称賛された。 冬10月庚申(こうしん)(11/13)、汝州広成湯へ行幸。己酉?日に帰還。(※干支矛盾) 12月丁巳(ていし)(1/9)、寿安で方秀川狩猟。壬戌(じんじゅつ)(14日)に帰還。 楊思勖(ようしきょく)が反乱僚族を討伐、梁大海ら3千余人を生け捕りとし2万の首級を得て凱旋した。 解説:
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| 是歲,黑水靺鞨遣使入見,上以其國內黑水州,仍為置長史以鎮之。 勃海靺鞨王武藝曰:「黑水入唐,道由我境。往者請吐屯於突厥,先告我與我偕行;今不告我而請吏於唐,是必與唐合謀,欲腹背攻我也。」遣其母弟門藝與其舅任雅將兵擊黑水。門藝嘗為質子於唐,諫曰:「黑水請吏於唐,而我以其故擊之,是叛唐也。唐,大國也。昔高麗全盛之時,強兵三十餘萬,不遵唐命,掃地無遺。況我兵不及高麗什之一二,一旦與唐為怨,此亡國之勢也。」武藝不從,強遣之。門藝至境上,復以書力諫。武藝怒,遣其從兄大壹夏代之將兵,召,欲殺之。門藝棄眾,間道來奔,制以為左驍衛將軍。武藝遣使上表罪狀門藝,請殺之。上密遣門藝詣安西;留其使者,別遣報雲已流門藝於嶺南。武藝知之,上表稱:「大國當示人以信,豈得為此欺誑?」固請殺門藝。上以鴻臚少卿李道邃、源復不能督察官屬,致有漏洩,皆坐左遷。暫遣門藝詣嶺南以報之。 臣光曰:王者所以服四夷,威信而已。門藝以忠獲罪,自歸天子。天子當察其枉直,賞門藝而罰武藝,為政之體也。縱不能討,猶當正以門藝之無罪告之。今明皇威不能服武藝,恩不能庇門藝,顧效小人為欺誑之語,以取困於小國,乃罪鴻臚之漏洩,不亦可羞哉! 杜暹為安西都護,突騎施金河公主遣牙官以馬千匹詣安西互市。 |
現代日本語訳この年、黒水靺鞨(こくすいまつかつ)が使者を派遣して唐王朝に謁見した。皇帝(玄宗)はその地に「黒水州」を設置し、引き続き長史(行政官)を置いて統治させた。 渤海の王・大武芸(だいぶげい)はこれに対し、「黒水が唐へ通じる道は我が領内にある。以前、突厥に吐屯(監察官)派遣を要請した際には事前に報告して共に行った。ところが今回は通告もなく唐から官吏を受け入れれば、彼らは唐と結託して挟撃しようとするに違いない」と言い、実弟の大門芸(だいもんげい)と母方の叔父・任雅(じんが)を将軍として黒水討伐に向かわせた。 かつて人質として唐で暮らした経験のある大門芸は諫めた:「黒水が官吏派遣を受けるのに、我々が攻撃すればそれは唐への反逆です。唐は大国であり、全盛期の高句麗(三十万以上の兵力)も唐に背いたため壊滅しました。ましてや渤海軍はその十分の一にも満たないのに、唐と敵対するのは亡国の道です」。しかし武芸は聞き入れず強行出兵を命じた。 国境まで来た大門芸が再度書簡で諫めたため、激怒した武芸はいとこの大一夏(だいいちか)に指揮権を奪わせ、彼を呼び戻して処刑しようとした。これにより大門芸は配下を見捨て密かに唐へ亡命し、皇帝から左驍衛将軍の地位を与えられた。 武芸は使者を遣わし「大門芸の罪状」を列挙した上奏文を提出して処刑を要求したため、皇帝はひそかに彼を安西都護府へ移送。使者には「嶺南に流罪とした」と偽って報告させた。だが武芸が真相を知り「大国こそ信義を示すべきなのに欺瞞を行うとは?」と抗議して処刑を迫ったため、皇帝は外交担当官(鴻臚少卿)の李道邃・源復らを情報漏洩の罪で左遷し、やむなく大門芸を一時的に嶺南へ移送することで対応した。 解説
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| 使者宣公主教,暹怒曰:「阿史那女何得宣教於我?」杖其使者,留不遣;馬經雪死盡。突騎施可汗蘇祿大怒,發兵寇四鎮。會暹入朝,趙頤貞代為安西都護,嬰城自守;四鎮人畜儲積,皆為蘇祿所掠,安西僅存。既而蘇祿聞暹入相,稍引退,尋遣使入貢。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之上開元十五年(丁卯,公元七二七年) 春,正月,辛丑,涼州都督王君𡙟破吐蕃於青海之西。 初,吐蕃自恃其強,致書用敵國禮,辭指悖慢,上意常怒之。返自東封,張說言於上曰:「吐蕃無禮,誠宜誅夷,但連兵十餘年,甘、涼、河、鄯、不勝其弊,雖師屢捷,所得不償所亡。聞其悔過求和,願聽其款服,以紓邊人。」上曰:「俟吾與王君𡙟議之。」說退,謂源乾曜曰:「君𡙟勇而無謀,常思僥倖,若二國和親,何以為功!吾言必不用矣。」及君𡙟入朝,果請深入討之。 去冬,吐蕃大將悉諾邏寇大斗谷,進攻甘州,焚掠而去。君𡙟度其兵疲,勒兵躡其後。會大雪,虜凍死者甚眾,自積石軍西歸。君𡙟先遣人間道入虜境,燒道旁草。悉諾邏至大非川,欲休士馬,而野草皆盡,馬死過半。君𡙟與秦州都督張景順追之,及於青海之西,乘冰而度。悉諾邏已去,破其後軍,獲其輜重羊馬萬計而還。君𡙟以功遷左羽林大將軍,拜其父壽為少府監致仕。上由是益事邊功。 |
訳文使者が公主の命を伝えると、杜暹は怒って言った。「阿史那(突厥)の娘がどうして俺に命令できようか」と。彼は使者を杖で打ち、帰さずに留め置いたため、馬は雪の中で全て死んでしまった。突騎施の可汗・蘇祿は大いに怒り、兵を発して四鎮を侵攻した。折しも杜暹が朝廷に出向いていたため、趙頤貞が安西都護代理となり、城に籠って守備についた。四鎮の人々や家畜、貯蔵物資は全て蘇祿に略奪され、安西府だけが辛うじて残った。その後、蘇禄は杜暹が宰相になったと聞き、少しずつ兵を引き上げ、まもなく使者を送って貢ぎ物を献上した。 玄宗皇帝(至道大聖大明孝皇帝)の中の巻 開元十五年(丁卯年・727年) 当初より吐蕃は自らの強さを恃み、対等国の礼を用いて書簡を送り、その文面は傲慢無礼であったため、皇帝は常に怒っていた。泰山封禅からの帰途、張説は皇帝に進言した。「吐蕃が無礼であるのは確かに討伐すべきですが、戦争は十年以上続き、甘州・涼州・河州・鄯州の民衆はその弊害に耐えかねています。我が軍も勝利を重ねましたが、得るものより失うものが多いのです。彼らが過ちを悔いて和を求めてきたと聞きます。どうか降伏を受け入れ、辺境の民を苦しみから解放してください」と。皇帝は答えた。「王君𡙟と相談して決めよう」。張説が退出すると、源乾曜に語った。「君𡙟は勇猛だが謀略がなく、常に幸運を狙っている。もし両国が和睦すれば手柄が立てられないのだから、私の意見は必ず採用されまい」。果たして王君𡙟が朝廷に入ると、敵地深く攻め込むよう請願した。 去る冬、吐蕃大将・悉諾邏(シノロ)が大斗谷を侵し甘州を攻撃、放火略奪の後に撤退した。王君𡙟は敵兵が疲弊していると判断し、軍勢を率いて追跡した。大雪に見舞われたため、凍死者が続出した吐蕃軍は積石軍から西へ帰還しようとした。君𡙟は事前に斥候を間道から送り込み、街道沿いの草を焼き払わせていた。悉諾邏が大非川(青海湖南岸)に着いた時、兵馬を休めようとしたが野草は全て灰燼と化し、軍馬の半数以上が斃死した。君𡙟は秦州都督・張景順と共に追撃し、青海湖西岸で氷結期を利用して渡河すると、悉諾邏本隊は撤退後だったため後衛部隊を撃破。輜重車や羊馬数万頭分を鹵獲して帰還した。この功績により君𡙟は左羽林大将軍に昇進し、父の王寿には少府監名誉職を与えられた。皇帝はこれ以降ますます辺境での戦功を重視するようになった。 注記
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| 初,洛陽人劉宗器上言,請塞汜水舊汴口,更於熒澤引河入汴;擢宗器為左衛率府冑曹。至是,新渠填塞不通,貶宗器為循州安懷戍主。命將作大匠范安及發河南、懷、鄭、汴、滑、衛三萬人疏舊渠,旬日而畢。 御史大夫崔隱甫、中丞宇文融,恐右丞相張說復用,數奏毀之,各為朋黨。上惡之,二月,乙巳,制說致仕,隱甫免官侍母,融出為魏州刺史。 乙卯,制:「諸州逃戶,先經勸農使括定按比後復有逃來者,隨到准白丁例輸當年租庸,有征役得先差。」 夏,五月,癸酉,上悉以諸子慶王潭等領州牧、刺史、都督、節度大使、大都護、經略使,實不出外。 初,太宗愛晉王,不使出閣;豫王亦以武後少子不出閣,及自皇嗣為相王,始出閣。中宗之世,譙王以失愛,謫居外州;溫王年十七,猶居禁中。上即位,附苑城為十王宅,以居皇子,宦官押之,就夾城參起居,自是不復出閣;雖開府置官屬及領籓鎮,惟侍讀時入授書,自餘王府官屬,但歲時通名起居;其籓鎮官屬,亦不通名。及諸孫浸多,不置百孫院。太子亦不居東宮,常在乘輿所幸之別院。 上命妃嬪以下宮中育蠶,欲使之知女功。丁酉,夏至,賜貴近絲,人一綟。 秋,七月,戊寅,冀州河溢。 己卯,禮部尚書許文憲公蘇頲薨。 九月,丙子,吐蕃大將悉諾邏恭祿及燭龍莽布支攻陷瓜州,執刺史田元獻及河西節度使王君𡙟之父,進攻玉門軍;縱所虜僧伽歸涼州,謂君𡙟曰:「將軍常以忠通許國,何不一戰!」君𡙟登城西望而泣,竟不敢不兵。 |
現代日本語訳:当初、洛陽出身の劉宗器が上疏し、「汜水(ひすい)にある旧汴口(べんこう)を塞ぎ、新たに熒沢(けいたく)から黄河の流れを汴河へ引き込むべきだ」と提案した。これにより宗器は左衛率府冑曹(さえいつそつふちゅうそう)に昇進したが、その後、新水路が土砂で埋まって通航不能となったため、彼は循州安懷戍主(じゅんしゅうあんかいじゅしゅ)へ左遷された。将作大匠の范安及(はんあんきゅう)に命じて河南・懐州・鄭州・汴州・滑州・衛州から三万人を徴発して旧水路を浚渫させたところ、十日で完了した。 御史大夫の崔隠甫(さいいんぽ)と中丞の宇文融(うぶんゆう)は右丞相張説(ちょうせつ)が復権することを恐れ、度々上奏して彼を誹謗し、それぞれ党派を作った。玄宗皇帝はこれを憎み、二月乙巳の日、「張説に致仕(引退)を許す」との詔勅を下した。崔隠甫は官職を解かれて母に仕えるよう命じられ、宇文融は魏州刺史として地方へ出された。 同月乙卯の日、「各州から逃亡した戸籍者について、先に勸農使(農業監察官)が調査・登録済みでありながら再び逃亡してきた者は、到着次第に白丁(無爵位の平民)と同等として当年分の租庸(祖税と労役)を納めさせよ。徴兵や賦役が必要な際は優先的に採用せよ」との詔が発布された。 夏五月癸酉の日、皇帝は慶王李潭ら全ての皇子に州牧・刺史・都督・節度大使・大都護・経略使などの官職を帯びさせたが、実際には任地へ赴かせることはなかった。 そもそも太宗(李世民)は晉王(後の高宗)を寵愛し屋敷から出さず、豫王も則天武后の末子として外出を禁じられた。皇嗣から相王に降格されて初めて外に出ることを許された。中宗治世では譙王が失脚して辺境へ左遷され、溫王は十七歳になっても宮中居住だった。今上皇帝(玄宗)即位後は苑城の隣接地に「十王宅」を建て皇子たちを住まわせ、宦官が監督しつつ夾道を通って起居を見参させたため、以降は屋敷から出ることはなくなった。開府や属官設置・藩鎮長官兼任も認められたが、侍読(教育係)だけが定期的に書物を講じ、他の王府役人は年始の挨拶のみで面会しなかった。管轄地の官僚とも接触させず、孫世代が増えると「百孫院」を設けた。皇太子さえ東宮ではなく皇帝行幸先の別殿で起居した。 皇帝は妃嬪以下の后宮女性に養蚕を命じ、女子の労働を知らしめようとした。丁酉(夏至)には高位高官や側近へ生糸を下賜し、一人当たり一綟ずつ与えた。 秋七月戊寅、冀州で黄河が氾濫した。 同月己卯、礼部尚書許文憲公蘇頲(そてい)が逝去した。 九月丙子、吐蕃の大将悉諾邏恭祿(しつならこうろく)と燭龍莽布支(しょくりゅうもうぶき)が瓜州を陥落させ刺史田元献及び河西節度使王君㚄(おうくんちょう)の父を捕虜とした。さらに玉門軍へ進攻し、捕らえた僧侶を涼州に解放して「将軍は常に忠義で国恩に報いるというのに、なぜ一戦も交えないのか」と挑発したが、王君㚄(ちょう)は城壁に登り西を見つめて泣くだけで兵を出そうとはしなかった。 注釈:
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| 莽布支別攻常樂縣,縣令賈師順帥眾拒守。及瓜州陷,悉諾邏悉兵會攻之。旬餘日,吐蕃力盡,不能克,使人說降之;不從。吐蕃曰:「明府既不降,宜斂城中財相贈,吾當退。」師順請脫士卒衣;悉諾邏知無財,乃引去,毀瓜州城。師順遽開門,收器械,修守備;虜果復遣精騎還,視城中,知有備,乃去。師順,岐州人也。 初,突厥默啜之強也,迫奪鐵勒之地,故回紇、契苾、思結、渾四部度磧徙居甘、涼之間以避之。王君𡙟微時,往來四部,為其所輕;及為河西節度使,以法繩之。四部恥怨,密遣使詣東都自訴。君𡙟遽發驛奏「四部難制,潛有叛計。」上遣中使往察之,諸部竟不得直。於是瀚海大都督回紇承宗流瀼州,渾大德流吉州,賀蘭都督契苾承明流籐州,盧山都督思結歸國流瓊州;以回紇伏帝難為瀚海大都督。己卯,貶右散騎常侍李令問為撫州別駕,坐其子與承宗交遊故也。 丙戌,突厥毘伽可汗遣其大臣梅祿啜入貢。吐蕃之寇瓜州也,遺毘伽書,欲與之俱入寇,毘伽並獻其書。上嘉之,聽於西受降城為互市,每歲繼縑帛數十萬匹就市戎馬,以助軍旅,且為監牧之種,由是國馬益壯焉。 閏月,庚子,吐蕃贊普與突騎施蘇祿圍安西城,安西副大都護趙頤貞擊破之。回紇承宗族子瀚海司馬護輸,糾合黨眾為承宗報仇。會吐蕃遣使間道詣突厥,王君𡙟帥精騎邀之於肅州。 |
現代日本語訳莽布支は別働隊を率いて常楽県を攻撃したが、県令の賈師順は兵民を指揮して防戦した。瓜州陥落後、悉諾邏(しじゃくら)が全軍を集めて包囲を強化する。十余日で吐蕃軍は疲弊しながらも攻略できず、降伏勧告を行うも拒否される。吐蕃側は「貴官が降らないなら、城内の財物を差し出せば撤退しよう」と提案。賈師順は兵士の衣服まで提出すると、悉諾邏は財宝がないことを悟り退去した(その際瓜州城壁を破壊)。賈師順は直ちに城門を開け兵器を回収し守備を強化。吐蕃騎兵が偵察に戻ったが防備を見て撤退した。賈師順は岐州出身である。 突厥の默啜(ぼくせつ)が強大化すると鉄勒の土地を奪い、これにより回紇(ウイグル)・契苾(きびつ)・思結(しけつ)・渾(こん)の四部族は砂漠を越え甘州・涼州へ避難した。王君𡙟(おうくんちょく)が河西節度使に就任すると、貧乏時代に見下していた四部族を弾圧。部族側は洛陽へ密使を送り抗議するも、王君𡙟が「四部族が反乱計画中」と偽報告したため、朝廷の調査でも訴えは認められず:回紇首長・承宗は瀼州(じょうしゅう)へ流罪、渾大徳は吉州へ、契苾承明は籐州(とうしゅう)へ、思結帰国は瓊州(けいしゅう)へ配流。代わりに伏帝難が回紇都督となった。己卯の日には李令問が息子の承宗との交友を咎められ撫州別駕に左遷された。 丙戌、突厥の毘伽可汗は大臣・梅祿啜(ばいろくせつ)を使者として朝貢させた。以前吐蕃が瓜州侵攻時に送った「共に唐を襲おう」という密書を毘伽可汗は献上したため、玄宗皇帝はこれを賞賛し西受降城での交易を許可。毎年数十万匹の絹と引き換えに軍馬を購入し国力を強化した。 閏月庚子、吐蕃王と突騎施(とくきし)の蘇禄が安西域を包囲するも副大都護・趙頤貞に撃退される。流罪となった回紇首長・承宗の族子で瀚海司馬の護輸は復讐を企て、吐蕃から突厥への密使が肅州(しゅくしゅう)を通るとの情報を得た王君𡙟が精鋭騎兵で迎撃に向かった。 解説
(訳注:固有名詞には原音を優先し適宜カナ表記を付与。唐代官職名は「節度使」「都督」等そのまま使用) Translation took 756.6 seconds. |
| 還,至甘州南鞏筆驛,護輸伏兵突起,奪君𡙟旌節,先殺其判官宋貞,剖其心曰:「始謀者汝也。」君𡙟帥左右數十人力戰,自朝至晡,左右盡死。護輸殺君𡙟,載其屍奔吐蕃;涼州兵追及之,護輸棄屍而走。 庚申,車駕發東都,冬,己卯,至西京。 辛巳,以左金吾衛大將軍信安王禕為朔方節度等副大使。禕,恪之孫也。以朔方節度使蕭嵩為河西節度等副大使。時王君𡙟新敗,河、隴震駭。嵩引刑部員外郎裴寬為判官,與君𡙟判官牛仙客俱掌軍政,人心浸安。寬,漼之從弟也。仙客本鶉觚小吏,以才幹軍功累遷至河西節度判官,為君𡙟腹心。 嵩又奏以建康軍使河北張守珪為瓜州刺史,帥餘眾築故城。板干裁立,吐蕃猝至,城中相顧失色,莫有鬥志。守珪曰:「彼眾我寡,人瘡痍之餘,不可以矢刃相持,當以奇計取勝。」乃於城上置酒作樂。虜疑其有備,不敢攻而退。守珪縱兵擊之,虜敗走。守珪乃修復城市,收合流散,皆復舊業。朝廷嘉其功,以瓜州為都督府,以守珪為都督。悉諾邏威名甚盛,蕭嵩縱反間於吐蕃,雲與中國通謀,贊普召而誅之;吐蕃由是少衰。 十二月,戊寅,制以吐蕃為邊患,令隴右道及諸軍團兵五萬六千人,河西道及諸軍團兵四萬人,又征關中兵萬人集臨洮,朔方兵二萬人集會州防秋,至冬初,無寇而罷;伺虜入寇,互出兵腹背擊之。 |
現代日本語訳:戻る途中、甘州の南にある鞏筆驛に着いたとき、護輸が伏兵を潜ませて突然現れ、王君𡙟(おうくんしゅ)の旌節(軍権の証)を奪った。まず判官の宋貞を殺害し、その心臓を抉り出して言った。「最初に策を練ったのはお前だ」。君𡙟は数十人の側近を率いて奮戦したが、朝から夕方まで続く激闘の末、側近は全員討ち死にした。護輸は君𡙟を殺害し、その遺体を車に載せて吐蕃へ向かう途中、涼州の兵に追いつかれ、遺体を捨てて逃走した。 庚申(かのえさる)の日、皇帝の車駕が東都を出発。冬に入り己卯(つちのとう)の日に西京に到着。 辛巳(かのとみ)の日、左金吾衛大將軍・信安王李禕(しんあんおう りい)を朔方節度副大使に任命。禕は恪(かく:呉王李恪)の孫である。また朔方節度使の蕭嵩(しょうすう)を河西節度副大使とした。当時、王君𡙟が敗れたばかりで河州・隴西地方は震撼していたが、蕭嵩が刑部員外郎の裴寛(はいかん)を判官に抜擢し、先任の牛仙客(ぎゅうせんきゃく)と共に軍政を掌握。人心は次第に落ち着いた。寛は漼(さい:裴漼)の従弟、仙客はもともと鶉觚(じゅんこ)の下級役人だったが、才能と軍功で累進し河西節度判官となり君𡙟の腹心となっていた。 蕭嵩はさらに建康軍使・河北出身の張守珪(ちょうしゅけい)を瓜州刺史に推挙。彼は残存兵を率いて旧城の再築にあたったが、木材枠組みを立て始めた矢先、吐蕃軍が急襲。城中の人々は顔を見合わせて青ざめ戦意を喪失した。守珪は言う「敵多し我寡(すくな)く、皆傷ついたばかりで刃と弓では対抗できぬ。奇策で勝たねば」と城上で酒宴を開き音楽を奏させると、敵は伏兵を疑い攻撃せず撤退した。守珪は即座に追撃して敗走させ、町の復興と離散民の収容に尽力し産業も回復させた。朝廷はその功績を称え瓜州を都督府に昇格、守珪を都督とした。 一方で吐蕃の名将・悉諾邏(しつらくら)が脅威であったため蕭嵩は偽情報を流布。「彼は唐と内通している」と蕃王(賛普:ツェンポ)に信じ込ませ召還誅殺させた。これにより吐蕃の勢いは衰えた。 十二月戊寅(つちのえとら)の日、詔勅で「吐蕃を辺境の大患とするも」隴右道や諸軍から兵56,000人、河西道などから40,000人、関中兵10,000人を臨洮に集結。朔方兵20,000人は会州で防秋(秋の防衛体制)にあたるが冬まで敵襲なければ解散し、侵攻があれば前後から挟撃すると定めた。 解説:
※現代語訳にあたり固有名詞(官職名・地名)は原典表記を基本とし、読み仮名は最小限に抑えた。歴史的術語(旌節・防秋等)は文脈で理解可能な範囲で保持。 Translation took 1864.1 seconds. |
| 乙亥,上幸驪山溫泉;丙戌,還宮。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之上開元十六年(戊辰,公元七二八年) 春,正月,壬寅,安西副大都護趙頤貞敗吐蕃於曲子城。 甲寅,以魏州刺史宇文融為戶部侍郎兼魏州刺史,充河北道宣撫使。 乙卯,春、瀧等州獠陳行范、廣州獠馮璘、何游魯反,陷四十餘城。行范稱帝,游魯稱定國大將軍,璘稱南越王,欲據嶺表;命內侍楊思勖發桂州及嶺北近道兵討之。 丙寅,以魏州刺史宇文融檢校汴州刺史,充河南北溝渠堤堰決九河使。融請用《禹貢》九河故道開稻田,並回易陸運錢,官收其利;興役不息,事多不就。 二月,壬申,以尚書右丞相致仕張說兼集賢院學士。說雖罷政事,專文史之任,朝廷每有大事,上常遣中使訪之。 壬辰,改擴騎為左右羽林軍飛騎。 秋,七月,吐蕃大將悉末郎寇瓜州,都督張守珪擊走之。乙巳,河西節度使蕭嵩、隴右節度使張忠亮大破吐蕃於渴波谷;忠亮追之,拔其大莫門城,擒獲甚眾,焚其駱駝橋而還。 八月,乙巳,特進張說上《開元大衍歷》,行之。 辛卯,右金吾將軍杜賓客破吐蕃於祁連城下。時吐蕃復入寇,蕭嵩遣賓客將強弩四千擊之。戰自辰至暮,吐蕃大潰,獲其大將一人;虜散走投山,哭聲四合。 冬,十月,己卯,上幸驪山溫泉;己丑,還宮。 十一月,癸巳,以河西節度副大使蕭嵩為兵部尚書、同平章事。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)乙亥の日 玄宗・至道大聖大明孝皇帝治世中期/開元16年(戊辰、西暦728年)春正月
二月
秋七月
秋八月(続)
冬十月
解説■歴史的背景
■注目すべき事象
■人物動向
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| 十二月,丙寅,敕:「長徵兵無有還期,人情難堪;宜分五番,歲遣一番還家洗沐,五年酬勳五轉。」 是歲,制戶籍三歲一定,分為九等。 楊思勖討陳行范,至瀧州,破之,擒何游魯、馮璘。行范逃於雲際、盤遼二洞,思勖追捕,竟生擒,斬之,凡斬首六萬。思勖為人嚴,偏裨白事者不敢仰視,故用兵所向有功。然性忍酷,所得俘虜,或生剝面皮,或以刀剺髮際,掣去頭皮;蠻夷憚之。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之上開元十七年(己巳,公元七二九年) 春,二月,丁卯,巂州都督張守素破西南蠻,拔昆明及鹽城,殺獲萬人。 三月,瓜州都督張守珪、沙州刺史賈師順擊吐蕃大同軍,大破之。 甲寅,朔方節度使信安王禕攻吐蕃石堡城,拔之。初,吐蕃陷石堡城,留兵據之,侵擾河右。上命禕與河西、隴右同議攻取。諸將鹹以為石堡據險而道遠,攻之不克,將無以自還,且宜按兵觀釁。禕不聽,引兵深入,急攻拔之,仍分兵據守要害,令虜不得前。自是河隴諸軍游弈,拓境千餘里。上聞,大悅,更命石堡城曰振武軍。 丙辰,國子祭酒楊瑒言,以為:「省司奏限天下明經、進士及第,每年不過百人。竊見流外出身,每歲二千餘人,而明經、進士不能居其什一,則是服勤道業之士不如胥史之得仕也。臣恐儒風浸墜,廉恥日衰。若以出身人太多,則應諸色裁損,不應獨抑明經、進士也。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)十二月丙寅日(ひのえとらのひ)、詔勅が下された: 同年、戸籍を三年ごとに再編成し九等級に区分する制度が定められた。 玄宗皇帝 開元十七年(己巳・729年) 甲寅日(きのえとらのひ)、朔方節度使・信安王李禕(りい)が吐蕃支配下の石堡城を陥落させた。 丙辰日(ひのえたつのひ)、国子祭酒楊瑒が上奏した: 解説1. 兵役改革の意義 2. 楊思勖の二面性 3. 石堡城攻略の戦略的価値 4. 官吏登用問題の本質
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| 」又奏「主司貼試明經,不務求述作本指,專取難知,問以孤經絕句或年月日;請自今並貼平文。」上甚然之。 夏,四月,庚午,禘於太廟。唐初,祫則序昭穆,禘則各祀於其室。至是,太常少卿韋縚等奏:「如此,禘與常饗不異;請禘祫皆序昭穆。」從之。綏,安石之兄子也。 五月,壬辰,復置十道及京、都兩畿按察使。 初,張說、張嘉貞、李元紘、杜暹相繼為相用事,源乾曜以清謹自守,常讓事於說等,唯諾署名而已。元紘、暹議事多異同,遂有隙,更相奏列。上不悅,六月,甲戌,貶黃門侍郎、同平章事杜暹荊州長史,中書侍郎、同平章事李元紘曹州刺史,罷乾曜兼侍中,止為左丞相;以戶部侍郎宇文融為黃門侍郎,兵部侍部裴光庭為中書侍郎,並同平章事;蕭嵩兼中書令,遙領河西。 開府王毛仲與龍武將軍葛福順為婚。毛仲為上所信任,言無不從,故北門諸將多附之,進退唯其指使。吏部侍郎齊澣乘間言於上曰:「福順典禁兵,不宜與毛仲為婚。毛仲小人,寵過則生奸;不早為之,恐成後患。」上悅曰:「知卿忠誠,朕徐思其宜。」澣曰:「君不密則失臣,願陛下密之。」會大理丞麻察坐事左遷興州別駕,澣素與察善,出城餞之,因道禁中諫語;察性輕險,遽奏之。上怒,召澣責之曰:「卿疑朕不密,而以語麻察,詎為密邪?且察素無行,卿豈不知邪?」澣頓首謝。 |
訳文さらに上奏して言うには、「試験官が明経科で帖試(穴埋め問題)を出す際、文章全体の主旨を理解させることなく、ひたすら難解な箇所を選び、孤立した経典や断片的な句、あるいは年月日などを問うのは不適切です。今後は平易な本文から出題するようお願いします」。皇帝(玄宗)はこれを大いに認めた。 夏四月庚午の日、太廟で禘祭が行われた。唐初には祫祭では歴代天子を昭穆順に並べて祀ったが、禘祭では各室ごとに別々に祀っていた。この時、太常少卿韋縚らが上奏した。「現状では禘祭と通常の祭祀との区別がありません。どうか禘祭も祫祭同様に昭穆順で行うようお願いします」。皇帝はこれを受け入れた。韋綏(原文「綏」は誤記)は韋安石の甥である。 五月壬辰の日、十道及び両都(長安と洛陽)周辺の畿内を管轄する按察使が再設置された。 当初、張説・張嘉貞・李元紘・杜暹らが相次いで宰相として実権を握る中、源乾曜は清廉謹直な態度を保ち、常に政務を張説らに譲って自らは唯々諾々と署名するのみであった。李元紘と杜暹は議論でしばしば対立し、やがて不和となり互いに弾劾上奏した。皇帝(玄宗)は不快感を持ち、六月甲戌の日、黄門侍郎・同平章事だった杜暹を荊州長史に左遷させ、中書侍郎・同平章事李元紘も曹州刺史へ降格とした。源乾曜から侍中の兼務を取り上げて左丞相のみとし、代わって戸部侍郎宇文融を黄門侍郎に、兵部侍郎(原文「侍部」は誤記)裴光庭を中書侍郎にそれぞれ任命し、両名とも同平章事とした。また蕭嵩には中書令を兼任させて遠く河西地方の統轄も命じた。 開府王毛仲が龍武将軍葛福順と姻戚関係を結んだ。王毛仲は皇帝から深い信頼を得ており、その進言は全て通ったため北門禁軍(宮廷警備部隊)の諸将も多く彼に従い、行動は常に王毛仲の指示で決まっていた。吏部侍郎斉澣が機を見て皇帝へ進言した。「葛福順は禁軍を掌握しております。このような者が王毛仲と姻戚関係を持つのは適切ではありません。そもそも王毛仲は小人物であり、寵愛過ぎれば必ず悪事を働きます。早急に処置されなければ後々の禍根となるでしょう」。皇帝は「卿の忠誠心は理解した。朕も慎重に対応しよう」と好意的に答えたが、斉澣が重ねて言上した。「君主が秘密を守らぬと臣下への信頼を失います(『易経』故事)。どうか陛下にはこの件をお秘めくださるよう」。折しも大理丞麻察が過失により興州別駕に左遷される事件があり、斉澣は平素から親交があったため城外まで見送りに出て、つい宮中での進言内容を漏らした。軽率で狡猾な性格の麻察は即座にこれを上奏した。皇帝は激怒し、斉澣を召して叱責した。「卿が朕には秘密を守れぬと疑うならば、なぜ自ら麻察に語ったのか?それが機密保持と言えるか?そもそも麻察の素行不良を知りながら何故そうした?」。斉澣は平伏して謝罪した。 注釈
(注)原文中の表記揺れ「韋綏/韋縚」「侍部/侍郎」は唐代史料伝写過程での誤記と判断し文脈に基づき補正。 Translation took 1993.0 seconds. |
| 秋,七月,丁巳,下制:「澣、察交構將相,離間君臣,澣可高州良德丞,察可潯州皇化尉。」 八月,癸亥,上以生日宴百官於花萼樓下。左丞相乾曜、右丞相說帥百官上表,請以每歲八月五日為千秋節,佈於天下,咸令宴樂。尋又移社就千秋節。 庚辰,工部尚書張嘉貞薨。嘉貞不營家產,有勸其市田宅者,嘉貞曰:「吾貴為將相,何憂寒餒!若其獲罪,雖有田宅,亦無所用。比見朝士廣占良田,身沒之日,適足為無賴子弟酒色之資,吾不取之。」聞者是之。 辛巳,敕以人間多盜鑄錢,始禁私賣銅鉛錫及以銅為器皿;其採銅鉛錫者,官為市取。 宇文融性精敏,應對辯給,以治財賦得幸於上,始文置諸使,競為聚斂,由是百官浸失其職而上心益侈,百姓皆怨苦之。為人疏躁多言,好自矜伐,在相位,謂人曰:「使吾居此數月,則海內無事矣。」 信安王禕,以軍功有寵於上,融疾之。禕入朝,融使御史李寅彈之,洩於所親。禕聞之,先以白上。明日,寅奏果入,上怒,九月,壬子,融坐貶汝州刺史,凡為相百日而罷。是後言財利以取貴仕者,皆祖於融。 冬,十月,戊午朔,日有食之,不盡如鉤。 宇文融既得罪,國用不足,上復思之,謂裴光庭等曰:「卿等皆言融之惡,朕既黜之矣,今國用不足,將若之何!卿等何在佐朕?」光庭等懼不能對。 |
現代日本語訳:秋七月丁巳(4日)、詔勅が下る:「宋澣と張説は将相間の不和を煽り、君臣の絆を断った。よって宋澣を高州良徳県丞に左遷し、張察(注:原文疑義)を潯州皇化尉へ配流せよ」。 八月癸亥(11日)、玄宗皇帝は誕辰を祝い花萼楼で百官の宴を賜う。左丞相・源乾曜と右丞相・張説が群臣を率いて上奏:「毎年8月5日を千秋節と定め、天下に公布し宴会を許可されたし」。まもなく秋社(収穫祭)をこの日に移す。 庚辰(28日)、工部尚書・張嘉貞が逝去。家産を蓄えぬ人物で「将相の身で飢寒を憂う必要はない。罪を得れば田宅など無用だ。朝臣らが良田を占める例を見よ——没後それらは放蕩息子の遊興費となるのみ」と語り、聞く者皆感服した。 辛巳(29日)、私鋳銭横行により禁令発布:「銅・鉛・錫の民間取引及び銅器製造を禁ず。鉱物は全て官が買い上げる」。 宇文融は才敏で弁舌巧み、財政手腕で皇帝の寵を得た。諸使(特派財務官)制度を創設し重税競争を誘発したため、官僚機構は形骸化し帝の奢侈は増大。民衆は怨嗟した。軽率で自慢話多く「私が数カ月宰相なら天下太平だ」と公言。 信安王・李禕(りい)は軍功で寵遇されていたため、宇文融は妬み彼の入朝に際し御史・李寅に弾劾を画策。だが事前に情報漏洩し李禕が帝へ急報。翌日予定通り弾劾文が提出されると皇帝激怒。九月壬子(25日)、宇文融は汝州刺史へ左遷され、宰相在任わずか百日で失脚。後世の財利官僚は皆彼を始祖とした。 冬十月戊午朔(1日)、金環食(部分日蝕)が発生。 宇文融失脚後国庫が窮乏すると帝は後悔し裴光庭らに詰問:「卿らが讒言したため罷免したのに今や財政逼迫だ。どう責任を取るのか?」重臣たちは俯くのみであった。 解説:
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| 會有飛狀告融贓賄事,又貶平樂尉。至嶺外歲餘,司農少卿蔣岑奏融在汴州隱沒官錢巨萬計,制窮治其事,融坐流巖州,道卒。 十一月,辛卯,上行謁橋、定、獻、昭、乾五陵;戊申,還宮;赦天下,百姓今年地稅悉蠲其半。十二月,辛酉,上幸新豐溫泉;壬申,還宮。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之上開元十八年(庚午,公元七三零年) 春,正月,辛卯,以裴光庭為侍中。 二月,癸酉,初令百官於春月旬休,選勝行樂,自宰相至員外郎,凡十二筵,各賜錢五千緡,上或御花萼樓邀其歸騎留飲,迭使起舞,盡歡而去。 三月,丁酉,復給京官職田。 夏,四月,丁卯,築西京外郭,九旬而畢。 乙丑,以裴光庭兼吏部尚書。先是,選司注官,惟視其人之能否,或不次超遷,或老於下位,有出身二十餘年不得祿者;又,州縣亦無等級,或自大入小,或初近後遠,皆無定制。光庭始奏用循資格,各以罷官若干選而集,官高者選少,卑者選多,無問能否,選滿即注,限年躡級,毋得逾越,非負譴者,皆有升無降;其庸愚沉滯者皆喜,謂之「聖書」,而才俊之士無不怨歎。宋璟爭之不能得。光庭又令流外行署亦過門下省審。 五月,吐蕃遣使致書於境上求和。 初,契丹王李邵固遣可突干入貢,同平章事李元紘不禮焉。左丞相張說謂人曰:「奚、契丹必叛。 |
現代日本語訳会昌県で飛駅の報告により許融が賄賂を受け取った事件が発覚し、更に平楽尉へ左遷された。嶺南地方に赴任して一年余り後、司農少卿・蒋岑が「許融が汴州在職中に巨万の官銭を横領した」と上奏したため、詔により徹底捜査が行われ、許融は巌州流刑となり護送途中で死亡した。 十一月辛卯(7日)、玄宗皇帝は橋陵・定陵・献陵・昭陵・乾陵の五陵を参拝し、戊申(24日)に宮中へ帰還。天下に大赦令を発布し、百姓の今年分地租税の半額を免除した。十二月辛酉(7日)、皇帝は新豊温泉に行幸し、壬申(18日)に帰還。 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元十八年(庚午・730年)中巻上 夏四月丁卯(14日)、西京外郭の城壁を築造し九十日で完工。 五月、吐蕃が国境で使者を遣わし和睦を求める書簡を提出。 解説
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| 可突干狡而很,專其國政久矣,人心附之。今失其心,必不來矣。」己酉,可突干弒邵固,帥其國人並脅奚眾叛降突厥,奚王李魯蘇及其妻韋氏、邵固妻陳氏皆來奔。制幽州長史趙含章討之,又命中書舍人裴寬、給事中薛侃等於關內、河東、河南、北分道募勇士。六月,丙子,以單于大都護忠王浚領河北道行軍元帥,以御史大夫李朝隱、京兆尹裴胄先副之,帥十八總管以討奚、契丹。命浚與百官相見於光順門。張說退,謂學士孫逖、韋述曰:「吾嘗觀太宗畫像,雅類忠王,此社稷之福也。」可突干寇平盧,先鋒使張掖烏承玼破之於捺祿山。 壬午,洛水溢,溺東都千餘家。 秋,九月,丁巳,以忠王浚兼河東道元帥,然竟不行。 吐蕃兵數敗而懼,乃求和親。忠王友皇甫惟明因奏事從容言和親之利。上曰:「贊普嘗遺吾書悖慢,此何可捨!」對曰:「贊普當開元之初,年尚幼稚,安能為此書!殆邊將詐為之,欲以激怒陛下耳。夫邊境有事,則將吏得以因緣盜匿官物,妄述功狀以取勳爵。此皆奸臣之利,非國家之福也。兵連不解,日費千金,河西、隴右由茲困敝。陛下誠命一使往視公主,因與贊普面相約結。使之稽顙稱臣,永息邊患,豈非御夷狄之長策乎!」上悅,命惟明與內侍張元方使於吐蕃。贊普大喜,悉出貞觀以來所得敕書以示惟明。冬,十月,遣其大臣論名悉獵隨惟明入貢,表稱:「甥世尚公主,義同一家。 |
訳文可突干は狡猾で強情であり、長く国政を独占していたため人心が帰附していた。今その心を失えば必ず来ないだろう。」己酉(きゆう)の日、可突干は邵固を弑逆し、配下の人々を率い奚族をも脅して共に突厥への反乱と降伏を行った。奚王李魯蘇と妻韋氏、邵固の妻陳氏は皆逃げて来た。詔(みことのり)により幽州長史趙含章に討伐させるとともに、中書舎人裴寛・給事中薛侃らに関内・河東・河南・河北で分かれて勇士を募集するよう命じた。六月丙子(へいし)の日、単于大都護忠王浚(ちゅうおうしゅん)に河北道行軍元帥を兼任させ、御史大夫李朝隱と京兆尹裴胄先を副将として、十八総管を率いて奚・契丹討伐に向かわせた。忠王浚が百官と光順門で会見するよう命じる。張説(ちょうえつ)は退出後、学士孫逖(そんてい)・韋述(いじゅつ)に言った。「私はかつて太宗の画像を観たことがあるが、忠王は非常に似ている。これは国家の福である」と。 可突干が平盧を侵すと、先鋒使張掖烏承玼(ちょうえきうしょうし)が捺祿山でこれを撃破した。 壬午(じんご)の日、洛水が氾濫し東都千余家が水没。 秋九月丁巳(ていし)の日、忠王浚に河東道元帥を兼任させるも結局出発せず。 吐蕃軍は敗戦続きで恐れをなし和親を求めてきた。忠王友皇甫惟明(こうほいめい)が政務報告の際に和親の利益について述べた。帝が「吐蕃賛普(ざんぷ)がかつて送ってきた書状は背理傲慢だ、どうして許せようか」と言うと、「賚普は開元初年にはまだ幼く、そんな文書を作れません。おそらく辺境の将軍が偽造し陛下を怒らせようとしたのでしょう。辺境に事変があれば官吏が官物を横領し功績を詐称して爵位を得ます。これは奸臣のみ得するもので国家の利益ではありません」と答えた。「戦いが長期化すれば日々巨費を使い河西・隴右は疲弊します。陛下が使者を派遣され公主(こうしゅ)を見舞わせ、賛普と直接盟約なさるのが最善策です」。帝は喜び皇甫惟明と内侍張元方を吐蕃へ派遣した。賚普は大いに喜び貞観以来の勅書を示した。冬十月、大臣論名悉獵(ろんみょうしつりょう)を貢使として随行させた。上表には「甥は代々公主と婚姻関係にあり義理上一家同然」と記されていた。 解説歴史的背景
人物分析
政治力学
自然災害記載洛水氾濫(732年旧暦6月)を反乱と並記する構成は『通鑑』特有の「天人相関」思想。天変が人事に連動するとの史観によるもの。
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| 中間張玄表等先興兵寇鈔,遂使二境交惡。甥深識尊卑,安敢失禮!正為邊將交構,致獲罪於舅;屢遣使者入朝,皆為邊將所遏。今蒙遠降使臣,來視公主,甥不勝喜荷。倘使復修舊好,死無所恨!」自是吐蕃復款附。 庚寅,上幸鳳泉湯;癸卯,還京師。 甲寅,護密王羅真檀入朝,留宿衛。 十一月,丁卯,上幸驪山溫泉;丁丑,還宮。 是歲,天下奏死罪止二十四人。 突騎施遣使入貢,上宴之於丹鳳樓,突厥使者預焉。二使爭長,突厥曰:「突騎施小國,本突厥之臣,不可居我上。」突騎施曰:「今日之宴,為我設也,我不可以居其下。」上乃命設東、西幕,突厥在東,突騎施在西。 開府儀同三司、內外閒廄監牧都使霍國公王毛仲恃寵,驕恣日甚,上每優容之。毛仲與左領軍大將軍葛福順、左監門將軍唐地文、左武衛將軍李守德、右威衛將軍王景耀、高廣濟親善,福順等倚其勢,多為不法。毛仲求兵部尚書不得,怏怏形於辭色,上由是不悅。 是時,上頗寵任宦官,往往為三品將軍,門施棨戟;奉使過諸州,官吏奉之惟恐不及,所得賂遺,少者不減千緡;由是京城第捨、郊畿田園,參半皆宦官矣。楊思勖、高力士尤貴幸,思勖屢將兵征討,力士常居中侍衛。而毛仲視宦官貴近者若無人;甚卑品者,小忤意,輒詈辱如僮僕。力士等皆害其寵而未敢言。 |
現代日本語訳吐蕃の指導者は述べた。「以前、張玄表らが先に兵を起こして侵攻したため、両国は敵対関係となりました。私は身分の上下を深く理解しておりますので、礼儀を欠くことなど決してありません!これは全て辺境将軍たちによる策略であり、それによって叔父(大唐皇帝)に対して罪を得てしまったのです。幾度も使者を朝廷に派遣しましたが、いつも辺境将官に妨害されました。今このように遠方より使節をお遣わしいただき、公主(王女)をご覧になられたことを大変喜んでおります。もしかつてのような友好関係を取り戻せるならば、死んでも悔いはありません」 これ以降、吐蕃は再び大唐に従属した。 庚寅の日、皇帝が鳳泉湯に行幸された。癸卯の日に長安へ帰還。 甲寅の日、護密国王・羅真檀が参朝し、宿衛(宮中警備)として留め置かれた。 11月丁卯の日、皇帝は驪山温泉へ行幸され、丁丑の日に宮殿に戻られた。 この年、全国で死刑判決を受けた者は僅かに24人であった。 突騎施が使節を派遣して朝貢すると、皇帝は丹鳳楼で宴席を設け、突厥の使者も同席させた。両国の使者が序列争いを起こし、突厥側が「突騎施は小国であり元々我ら突厥の臣下だ。上位に座るべきではない」と主張すると、突騎施側は「今日の宴は我らのために設けられたものだ。下位には着席できない」と反論した。皇帝は東西に幕舎を別々に設置し、東を突厥、西を突騎施とした。 開府儀同三司兼内外閑廄監牧都使・霍国公の王毛仲は寵愛を盾に日増しに傲慢になり、皇帝も常に寛容であった。彼は左領軍大将軍葛福順ら五将軍と親密で、その勢力を背景に不法行為を重ねていた。兵部尚書への就任要請が拒否されると不満を露わにし、次第に皇帝の不興を買うようになった。 当時、玄宗帝は宦官を重用しており、多くの者が三品将軍となり邸宅には棨戟(儀仗用の矛)を立てる特権を得ていた。地方へ派遣されると官吏が競って賄賂を贈り、最低でも千緡(銅銭1000貫文)に及んだため、長安城内の邸宅や郊外の田地の半数近くが宦官所有となった。特に楊思勗と高力士が高位を得ており、楊は遠征軍司令官を、高は常侍従を務めた。 しかし王毛仲は高位宦官すら眼中になく、下級宦官に対しては些細な失態でも奴隷のように罵倒した。高力士らは彼への憎悪を募らせながらも表立って抗議できずにいた。 解説【国際関係の機微】
【権力構造の変容】
【玄宗治世の光陰】
※歴史的注記:本記事は734-735年の事象(吐蕃和平は金城公主降嫁関連)。王毛仲失脚時期には731年説も存在するが、『資治通鑑』では玄宗の宦官寵愛深化との対比で配置されている。 Translation took 1697.4 seconds. |
| 會毛仲妻產子,三日,上命力士賜之酒饌、金帛甚厚,且授其兒五品官。力士還,上問:「毛仲喜乎?」對曰:「毛仲抱其襁中兒示臣曰:『此兒豈不堪作三品邪!』」上大怒曰:「昔誅韋氏,此賊心持兩端,朕不欲言之;今日乃敢以赤子怨我!」力士因言:「北門奴,官太盛,相與一心,不早除之,必生大患!」上恐其黨驚懼為變。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之上開元十九年(辛末,公元七三一年) 春,正月,壬戌,下制,但述毛仲不忠怨望,貶瀼州別駕,福順、地文、守德、景耀、廣濟皆貶遠州別駕,毛仲四子皆貶遠州參軍,連坐者數十人。毛仲行至永州,追賜死。 自是宦官勢益盛。高力士尤為上所寵信,嘗曰:「力士上直,吾寢則安。」故力士多留禁中,稀至外第。四方表奏,皆先呈力士,然後奏御;事小者力士即決之,勢傾內外。金吾大將軍程伯獻、少府監馮紹正與力士約為兄弟;力士母麥氏卒,伯獻等被發受吊,擗踴哭泣,過於己親。力士娶瀛州呂玄晤女為妻,擢玄晤為少卿,子弟皆王傅。呂氏卒,朝野爭致祭,自第至墓,車馬不絕。然力士小心恭恪,故上終親任之。 辛未,遣鴻臚卿崔琳使於吐蕃。琳,神慶之子也。吐蕃使者稱公主求《毛詩》、《春秋》、《禮記》。正字於休烈上疏,以為:「東平王漢之懿親,求《史記》、《諸子》,漢猶不與。 |
訳文玄宗が寵愛していた武将・葛福順らと結託して権勢を振るっていた左武衛大将軍の毛仲に、妻が出産したことがあった。三日目の祝いとして皇帝(玄宗)は高力士を使者にして盛大な酒食や金品を与え、さらに生まれた子に五品官の位まで授けた。力士が戻ると帝が「毛仲は喜んだか?」と尋ねたところ、「毛仲は襁褓の中の子を抱いて『この子でも三品にはなれないものか』と言いました」と答えた。皇帝は激怒しこう言った。「かつて韋氏一族(中宗皇后一族)を誅殺した時、彼こそ両端を持つ不忠者であった!今までは敢えて口にせずおいたが、赤子の官位で我への恨みを見せるとは!」力士は機会と捉え進言した。「北門(宮廷警備部隊)の奴らは勢力過大です。結束して一つになっており、早急に除かなければ必ず禍根となります」。帝も彼らの一派が警戒して反乱を起こすことを恐れた。 開元十九年(辛未・731年)、正月壬戌の日、詔勅で毛仲は不忠かつ皇帝への怨みを持ったとして瀼州別駕に左遷され、葛福順ら五人の武将も遠州の別駕へ降格された。さらに毛仲の四人の息子は辺境の参軍職に落とされ、連座した者数十人に及んだ。毛仲が永州まで赴任途中で追命を受け自害を賜った。 この事件以降、宦官勢力はいよいよ盛んとなった。特に高力士の寵愛ぶりは甚だしく、玄宗は「力士が当直すると朕は安眠できる」と公言したため彼は常に宮中に滞在し私邸へ帰ることは稀だった。全国からの上奏文も全てまず高力士を経由してから皇帝の手元に届けられ、些細な案件なら彼自ら裁決するほどの権勢で朝廷内外を覆った。金吾大将軍・程伯献や少府監・馮紹正などはこぞって力士と兄弟分となろうとした。ある時高力士の母麦氏が死去した際、伯献らは喪服で弔問し涙ながらに慟哭する様子は実親以上であったという。また力士が瀛州出身の呂玄晤(りょげんご)の娘を妻としたときには玄宗自ら玄晤を少卿へ昇進させ、その子弟全員も王傅職を与えたほどだ。後年この呂氏が亡くなった際は朝廷から民間までこぞって弔問に訪れ、邸宅から墓所までの道中で車馬の列が絶えなかったという。 しかし高力士自身は常に慎重かつ恭順な態度を崩さず、玄宗も終生彼への信頼を持ち続けたのである。同年辛未(1月13日)、鴻臚卿・崔琳(さいりん)を使者として吐蕃へ派遣した。この人物は名臣・崔神慶の子であった。吐蕃側から文成公主が『毛詩』『春秋』『礼記』を求めたいとの申し入れがあった際、正字(図書校訂官)・于休烈(うきゅうれつ)が反対上疏した。「漢代に東平王(皇族)が歴史書や諸子百家の書籍を求めた時でさえ朝廷は与えなかった。吐蕃こそもっと警戒すべき相手です」と。 解説■ 史料的背景 ■ 政治構造変化
特に注目すべきは「四方表奏,皆先呈力士」体制の成立で、これは:
- 実質的な宰相権限掌握(詔勅審査権) ■ 高力士評価 ■ 吐蕃書籍要求事件
当時吐蕃は金城公主降嫁後も青海・河西回廊を脅かしており、軍事機密保護と文化優越性保持が背景にある。結局玄宗は書籍提供を許可したことが『旧唐書』に記録されている。 (注)現代日本語訳にあたり:
- 官職名「別駕」「参軍」等は当時の地方副長官・幕僚職として表記統一 Translation took 960.8 seconds. |
| 況吐蕃,國之寇仇,今資之以書,使知用兵權略,愈生變詐,非中國之利也。」事下中書門下議之。裴光庭等奏:「吐蕃聾昧頑嚚,久叛新服,因其有請,賜以《詩》、《書》,庶使之漸陶聲教,化流無外。休烈徒知書有權略變詐之語,不知忠、信、禮、義,皆從書出也。」上曰:「善!」遂與之。休烈,志寧之玄孫也。 丙子,上躬耕於興慶宮側,盡三百步。 三月,突厥左賢王闕特勒卒,賜書吊之。 丙申,初令兩京諸州各置太公廟,以張良配饗,選古名將,以備十哲;以二、八月上戊致祭,如孔子禮。 臣光曰:經緯天地之謂文,戡定禍亂之謂武。自古不兼斯二者而稱聖人,未之有也。故黃帝、堯、舜、禹、湯、文、武、伊尹、周公莫不有征伐之功,孔子雖不試,猶能兵萊夷,卻費人,曰:「吾戰則克」,豈孔子專文而太公專武乎?孔子所以祀於學者,禮有先聖先師故也。自生民以來,未有如孔子者,豈太公得與之抗衡哉!古者有發,則命大司徒教士以車甲,臝股肱,決射御,受成獻馘,莫不在學。所以然者,欲其先禮義而後勇力也。君子有勇而無義為亂,小人有勇而無義為盜;若專訓之以勇力而不使之知禮義,奚所不為矣!自孫、吳以降,皆為勇力相勝,狙詐相高,豈足以數於聖賢之門而謂之武哉!乃復誣引以偶十哲之目,為後世學者之師;使太公有神,必羞與之同食矣! 五月,壬戌,初立五嶽真君祠。 |
現代日本語訳吐蕃は国家の仇敵であるのに、今や彼らに書物を与えれば、兵術と謀略を学ばせて変詐の策を増長させることになり、中国の利益にはならない。」この件が中書門下に諮られると、裴光庭らは上奏した。「吐蕃は愚昧で頑なであり、長く反逆していたのが最近服属したばかりです。彼らの要請に応じて『詩経』や『書経』を与えれば、漢の文化と教化に徐々に染まり、遠方まで徳化が及ぶでしょう。休烈は書物に権謀術数の言葉があることだけを知って、忠・信・礼・義もすべて書物から生まれることを理解していません。」皇帝(玄宗)は「良し」と言い、遂に吐蕃に書物を与えた。休烈とは于志寧の玄孫である。 丙子の日、皇帝は興慶宮の側で自ら耕作を行い、三百歩を全て耕した。 三月、突厥の左賢王・闕特勒(キュテギン)が死去したため、弔問の書簡を送った。 丙申の日、初めて両京と諸州に太公廟(呂尚を祀る廟)を設置し、張良を陪祀させた。古代の名将を選んで「十哲」とし、二月と八月の最初の戊の日に孔子祭祀と同様の礼で祭った。 臣・司馬光が言う。天地を秩序立てることを文といい、禍乱を平定することを武という。古よりこの文武両道を兼ね備えずして聖人と呼ばれた者は存在しない。ゆえに黄帝・堯・舜・禹・湯王・武王・伊尹・周公は全て征伐の功績を持ち、孔子ですら直接指揮はしなかったが萊夷を討ち費人を退け「我戦えば必ず克つ」と言った。ましてや孔子が文専属で太公望が武専属だなどということがあろうか? 孔子が学問所で祀られるのは、礼制に先聖・先師の規定があるからである。人類誕生以来、孔子ほどの人物はおらず、太公望が対等たり得ようか! 古代では戦争があれば大司徒が学校で兵士に甲冑を教え、肢体を鍛えさせ、弓馬の技を競わせた。敵の耳(馘)を献上する儀式も全て学問所で行われた。これにより礼義を先にして勇力を後にすることを求めたのだ。君子が勇のみあって義なき場合は乱を起こし、小人が勇のみあって義なき者は盗賊となる。もし専ら勇力だけを教えて礼義を知らせなければ、何でもやりかねない! 孫子や呉子以降の兵法は全て勇力を競い詐術を尊ぶもので、聖賢の門に数えられて「武」と呼べるものだろうか? さらに無理やり十哲に組み込んで後世の学問の師とすること——太公望に神霊があれば、彼らと同じ祭壇で祀られることを恥じるであろう! 五月壬戌の日、初めて五嶽真君祠を建立した。 解説
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| 秋,九月,辛未,吐蕃遣其相論尚它硉入見,請於赤嶺為互市;許之。 冬,十月,丙申,上幸東都。 或告巂州都督解人張審素贓污,制遣監察御史楊汪按之。總管董元禮將兵七百圍汪,殺告者,謂汪曰:「善奏審素則生,不然則死。」會救兵至,擊斬之。汪奏審素謀反,十二月,癸未,審素坐斬,籍沒其家。 浚苑中洛水,六旬而罷。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之上開元二十年(壬申,公元七三二年) 春,正月,乙卯,以朔方節度副大使信安王禕為河東、河北行軍副大總管,將兵擊奚、契丹;壬申,以戶部侍郎裴耀卿為副總管。二月,癸酉朔,日有食之。 上思右驍衛將軍安金藏忠烈,三月,賜爵代國公,仍於東、西嶽立碑,以銘其功。金藏竟以壽終。 信安王禕帥裴耀卿及幽州節度使趙含章分道擊奚、契丹,含章與虜遇,虜望風遁去。平盧先鋒將烏承禕言於含章曰:「二虜,劇賊也。前日遁去,非畏我,乃誘我也,宜按兵以觀其變。」含章不從,與虜戰於白山,果大敗。承玼引兵出其右,擊虜,破之。己巳,禕等大破奚、契丹,俘斬甚眾,可突干帥麾下遠遁,餘黨潛竄山谷。奚酉李詩瑣高帥五千餘帳來降。禕引兵還。賜李詩爵歸義王,充歸義州都督,徒其部落置幽州境內。 夏,四月,乙亥,宴百官於上陽東洲,醉者賜以衾褥,肩輿以歸,相屬於路。 |
現代日本語訳:秋、9月辛未の日、吐蕃が宰相の論尚它硉(ロンシャンタル)を遣わして参内させ、赤嶺での互市を請うた。(朝廷は)これを許可した。 冬、10月丙申の日、皇帝(玄宗)が東都洛陽に行幸された。 ある者が巂州都督の解県人である張審素が汚職を行ったと告発し、詔勅により監察御史の楊汪が調査に向かった。総管の董元礼が兵700を率いて楊汪を包囲し、告発者を殺害すると楊汪に言った。「うまく張審素のために上奏すれば生かしてやる。さもなければ死ぬぞ」。救護部隊が到着したため、(朝廷軍は)董元礼を討ち斬った。楊汪は「張審素が謀反を企てた」と上奏し、12月癸未の日、張審素は死刑に処され、財産没収となった。 洛陽宮苑内で洛水の疏浚工事を行い、60日で完了した。 玄宗皇帝(至道大聖大明孝皇帝)治世中巻・開元20年(壬申、732年) 春、正月乙卯の日、朔方節度副大使である信安王李禕を河東・河北行軍副大総管に任命し、奚族と契丹族討伐に向かわせた。壬申の日には戸部侍郎裴耀卿を副総管に任じた。2月癸酉(1日)、日食が起こった。 皇帝は右驍衛将軍安金蔵の忠烈を偲び、3月に代国公の爵位を賜り、さらに東嶽・西嶽に碑を建立してその功績を刻ませた。金蔵は天寿を全うした。 信安王李禕が裴耀卿及び幽州節度使趙含章と分かれて奚族・契丹族を攻撃した。含章が敵軍に出会うと、敵は風の便りに逃げ去った。平盧先鋒将烏承玼(ウ・ショウシ)が含章に進言した。「両敵は手強い賊です。逃走は我らへの畏怖ではなく誘引策であり、兵を留めて動向を見るべきです」。だが含章は従わず白山で交戦し大敗した。承玼が右翼から攻撃して形勢を逆転させた。己巳の日、李禕らは奚族・契丹軍を壊滅させ、多数を捕斬した。敵将可突干(カトゥカン)は麾下を率いて遠方へ逃走し、残党も山岳地帯に潜伏した。奚族首長の李詩瑣高が五千余帳を率いて降伏してきたため、禕は撤兵した。(朝廷は)李詩に帰義王の爵位を与え、帰義州都督とし部族全体を幽州管轄地へ移住させた。 夏、4月乙亥の日、上陽宮東洲で百官を饗宴。泥酔者には寝具が支給され、駕籠(かご)で宿所まで送られ、帰路は列をなした。 解説:【歴史的背景】 1. 吐蕃外交:赤嶺互市の許可は唐と吐蕃間の経済協力体制を示し、両国の緊張緩和が背景にある。 2. 汚職事件顛末:張審素冤罪事件は監察制度の脆弱性を露呈。軍人の越権行為(董元礼)から司法手続き歪曲まで、盛唐期の統治機構内部の問題を象徴する。 3. 北境戦役: - 信安王李禕率いる奚・契丹討伐は、玄宗朝における東北アジア支配強化策の一環 - 烏承玼の戦術的洞察が唐軍敗北を救済した点に注目。『資治通鑑』では中堅将校の活躍も克明に記述 【政治動向】 - 安金顕彰:則天武后時代の忠臣・安金蔵への顕彰は、玄宗による李氏正統性再確認の政治的メッセージ - 宴席演出:大規模な宮中宴会(泥酔者救護まで準備)は開元の治「盛世」を演出する装置として機能 【記録特徴】 - 干支暦日と西暦併記により時間軸が明確化 - 「帳」(テント数)で遊牧民集団規模を示すなど、北方民族記述に特異性あり - 敗戦→逆転の過程を「承玼の諫言無視」から描くことで指揮官の判断ミスを批判的に叙述 【現代語訳方針】 1. 固有名詞:『論尚它硉』等の外来名称は原音推測形で表記(ルビ不使用要請対応) 2. 軍事用語:「行軍副大総管」等の役職名は唐代官制研究に基づく現行訳を使用 3. 動的描写: - 「肩輿以帰」→「駕籠で送還」(当時の高級官吏移送手段を具体化) - 「相屬於路」→「列をなす」で宴会後の群衆状態を再現 Translation took 886.5 seconds. |
| 六月,丁丑,加信安王禕開府儀同三司。上命裴耀卿繼絹二十萬匹分賜立功奚官,耀卿謂其徒曰:「戎狄貪婪,今繼重貨深入其境,不可不備。」乃命先期而往,分道並進,一日,給之俱畢。突厥、室韋果發兵邀隘道,欲掠之,比至,耀卿已還。 趙含章坐贓巨萬,杖於朝堂,流瀼州,道死。 秋,七月,蕭嵩奏:「自祠后土以來,屢獲豐年,宜因還京賽祠。」上從之。 敕裴光庭、蕭嵩分押左、右廂兵。 八月,辛未朔,日有食之。 初,上命張說與諸學士刊定五禮。說薨,蕭嵩繼之。起居舍人王仲丘請依《明慶禮》,祈谷、大雩、明堂,皆祀昊天上帝;嵩又請依上元敕,父在為母齊衰三年。皆從之。以高祖配圜丘、方丘,太宗配雩祀及神州地祇,睿宗配明堂。九月,乙巳,新禮成,上之,號曰《開元禮》。 勃海靺鞨王武藝遣其將張文休帥海賊寇登州,殺刺史韋俊,上命右領軍將軍葛福順發兵討之。 壬子,河西節度使牛仙客加六階。初,蕭嵩在河西,委軍政於仙客;仙客廉勤,善於其職。嵩屢薦之,竟代嵩為節度使。 冬,十月,壬午,上發東都;辛卯,幸潞州;辛丑,至北都;十一月,庚申,祀后土於汾陰,赦天下;十二月,辛未,還西京。 是歲,以幽州節度使兼河北採訪處置使增領衛、相、洛、貝、冀、魏、深、趙、恆、定、邢、德、博、棣、營、鄚十六州及安東都護府。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)六月丁丑の日、信安王・李禕に開府儀同三司を加授した。玄宗皇帝は裴耀卿に絹二十万匹を持たせて功績のある奚族役人に分け与えるよう命じたが、耀卿は配下に向かって言った。「戎狄(北方民族)は貪欲である。今、重い財貨を携えて彼らの領域深く入る以上、備えが必要だ」。そこで期限より早く出発し、複数の道から同時に進軍させた結果、一日で全員への支給を完了した。案の定、突厥と室韋が兵を起こして要害の地で待ち伏せ、略奪しようとしたが、到着した時には既に耀卿は帰還していた。 趙含章は巨万の贓物罪により朝廷で杖罰を受け、瀼州へ流刑となったが、途中で死亡した。 秋七月、蕭嵩が上奏した。「后土祠を祭祀して以来、豊作が続いています。長安に戻る際に賽祭(神恩感謝の祭祀)を行うべきです」。皇帝はこれを受け入れた。 裴光庭と蕭嵩に命じて左右両軍を分轄させた。 八月辛未朔の日、日食があった。 当初、玄宗帝は張説ら学士に五礼制定を命じていたが、張説の没後は蕭嵩が引き継いだ。起居舍人・王仲丘が『明慶礼』に基づき祈穀祭(豊作祈願)・大雩祭(雨乞い)・明堂祭祀において昊天上帝を祀るよう提案し、また蕭嵩は上元年間の詔勅に従い「父存命中の母喪では斉衰三年」とするよう奏請した。これらはいずれも認められた。具体的には高祖(李淵)を圜丘・方丘祭祀、太宗(李世民)を雩祀と神州地祇祭、睿宗(李旦)を明堂祭祀に配祀することとした。九月乙巳の日、新たな礼制『開元礼』が完成し皇帝へ献上された。 渤海靺鞨王・大武芸が将軍張文休に海賊を率いさせて登州を襲撃し、刺史韋俊を殺害したため、玄宗帝は右領軍将軍葛福順に兵を発して討伐させた。 壬子の日、河西節度使牛仙客の位階が六段昇進した。もともと蕭嵩が河西在任時から軍事・行政を仙客に委ねており、彼は清廉かつ勤勉で職務に優れていた。蕭嵩が度々推薦した結果、ついに自身の後任として節度使となった。 冬十月壬午の日、皇帝は東都(洛陽)を出発し、辛卯には潞州へ行幸、辛丑に北都(太原)到着。十一月庚申に汾陰で后土祭祀を行い天下に恩赦を施行した後、十二月辛未に西京(長安)へ帰還した。 同年、幽州節度使兼河北採訪処置使の管轄区域が拡大され、衛・相・洛・貝・冀・魏・深・趙・恆・定・邢・徳・博・棣・営・鄚の十六州と安東都護府を加えて統括することとなった。 注釈解説
※特記事項:訳文では「戎狄」「海賊」等の原文表現を史料的価値保持のため直訳したが、当該語彙には唐代中華思想に基づく他者認識が反映されている点に留意。 Translation took 839.7 seconds. |
| 天下戶七百八十六萬一千二百三十六,口四千五百四十三萬一千二百六十五。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之上開元二十一年(癸酉,公元七三三年) 春,正月,乙巳,祔肅明皇后於太廟,毀儀坤廟。 丁巳,上幸驪山溫泉。 上遣大門藝詣幽州發兵,以討勃海王武藝;庚申,命太僕員外卿金思蘭使於新羅,發兵擊其南鄙。會大雪丈餘,山路阻隘,士卒死者過半,無功而還。武藝怨門藝不已,密遣客刺門藝於天津橋南,不死;上命河南搜捕賊黨,盡殺之。 二月,丁酉,金城公主請立碑於赤嶺以分唐與吐蕃之境;許之。 三月,乙巳,侍中裴光庭薨。太常博士孫琬議:「光庭用循資格,失勸獎之道,請謚曰克。」其子稹訟之,上賜謚忠獻。 上問蕭嵩可以代光庭者。嵩與右散騎常侍王丘善,將薦之;丘聞之,固讓於右丞韓休。嵩言休於上。甲寅,以休為黃門侍郎、同平章事。 休為人峭直,不干榮利;及為相,甚允時望。始,嵩以休恬和,謂其易制,故引之。及與共事,休守正不阿,嵩漸惡之。宋璟歎曰:「不意韓休乃能如是!」上或宮中宴樂及後苑遊獵,小有過差,輒謂左右曰:「韓休知否?」言終,諫疏已至。上嘗臨鏡默然不樂,左右曰:「韓休為相,陛下殊瘦於舊,何不逐之!」上歎曰:「吾貌雖瘦,天下必肥。蕭嵩奏事常順指,既退,吾寢不安。 |
現代日本語訳:世の中には786万1,236戸の家があり、4,543万1,265人が暮らしていた。
玄宗皇帝(至道大聖大明孝皇帝)の治世中期・開元21年(癸酉の年、西暦733年)
春正月乙巳の日、粛明皇后を太廟に合祀し、儀坤廟は取り壊した。 皇帝は大門芸を使者として幽州へ派遣し、兵を集めて渤海王・武義(ぶぎ)討伐に向かわせた。庚申の日に太僕員外卿の金思蘭(きんしらん)を新羅に使者とし、南側国境から攻撃させるよう命じるも、深さ1丈(約3m)以上の大雪に見舞われ、山道が塞がれて兵士の半数以上が死亡。戦果を得られず撤退した。武義は門芸への恨みを募らせ、密かに刺客を天津橋南に送り込むが暗殺失敗。皇帝は河南で犯人一味を捜索・処刑させた。 2月丁酉の日、金城公主(きんじょうこうしゅ)が赤嶺に境界碑を建立して唐と吐蕃(とばん)の国境を定めるよう要請。これを許可する。 3月乙巳の日に侍中・裴光庭(はいこうてい)が死去。太常博士の孫琬(そんえん)は「彼の年功序列式人事は人材登用の道に反す」と批判し、「克」(欠点ありの評価)という諡号を提案したが、息子の裴稹(はいちん)が抗議。皇帝は最終的に「忠献」と追贈。 玄宗帝が蕭嵩(しょうすう)に後任人事を相談すると、彼は親友の右散騎常侍・王丘(おうきゅう)を推挙しようとした。だが王丘は固辞し代わりに右丞・韓休(かんきゅう)を推薦。蕭嵩がこれを伝えたため甲寅の日、韓休を黄門侍郎・同平章事(宰相職)に任命した。 韓休は厳格で正直な性格ゆえ権力や利益に執着せず、宰相就任後も世間の期待に応えた。当初蕭嵩は彼が温和で操りやすいと誤解し登用するが、実際には清廉潔白で妥協を知らぬため次第に対立。宋璟(そうえい)は「韓休がここまで剛直とは!」と驚嘆した。 皇帝が宮中での宴会や狩猟を少しでも度を越すと、すぐ左右に「韓休は知っているか?」と尋ねた。その言葉が終わらないうちに既に諫言の上奏文が届いているほどだった。ある時鏡を見て沈んでいた皇帝に側近が「宰相の韓休のために陛下は痩せられました。罷免なさっては」と言うと、玄宗帝は嘆息しながら答えた。「朕の顔は瘦せても、天下の民は豊かになるのだ。蕭嵩はいつも朕の機嫌を取るから、彼が退出した後は却って不安で眠れぬ。」 解説:
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| 韓休常力爭,既退,吾寢乃安。吾用韓休,為社稷耳,非為身也。」 有供奉侏儒名黃,性警黠。上常憑之以行,謂之「肉幾」,寵賜甚厚。一日晚入,上怪之。對曰:「臣向入宮,道逢捕盜官與臣爭道,臣掀之墜馬,故晚。」因下階叩頭。上曰:「但使外無章奏,汝亦無憂。」有頃,京兆奏其狀。上即叱出,付有司杖殺之。 閏月,癸酉,幽州道副總管郭英傑與契丹戰於都山,敗死。時節度使薛楚玉遣英傑將精騎一萬及降奚擊契丹,屯於榆關之外。可突干引突厥之眾來合戰,奚持兩端,散走保險;唐兵不利,英傑戰死。餘眾六千餘人猶力戰不已,虜以英傑首示之,竟不降,盡為虜所殺。楚玉,訥之弟也。 夏,六月,癸亥,制:「自今選人有才業操行,委吏部臨時擢用;流外奏用不復引過門下。」雖有此制,而有司以循資格便於己,猶踵行之。是時,官自三師以下一萬七千六百八十六員,吏自佐史以上五萬七千四百一十六員,而入仕之塗甚多,不可勝紀。 秋,七月,乙丑朔,日有食之。 九月,壬午,立皇子沔為信王,泚為義王,漼為陳王,澄為豐王,潓為恆王,漎為梁王,滔為汴王。關中久雨谷貴,上將幸東都,召京兆尹裴耀卿謀之,對曰:「關中帝業所興,當百代不易;但以地狹谷少,故乘輿時幸東都以寬之。臣聞貞觀、永徽之際,祿廩不多,歲漕關東一二十萬石,足以周贍,乘輿得以安居。 |
現代日本語訳韓休は常に強く諫言し、彼が退出した後で初めて私は安眠できるのだ。私が韓休を用いるのは国家のためであって、身分保全のためではない。」 ある時、黄という名の小人(侏儒)を寵愛していた供奉がいた。機敏で狡猾な性格であり、皇帝はいつも彼に寄りかかり移動したので「肉机」と呼び、厚く恩寵を与えていた。ある晩この者が遅れて入って来たため、皇帝が怪しむと、「宮中に入ろうとした途端、捕盗官が道を譲らず争いになりました。その者を馬から引きずり落としたので遅れたのです」と答え、階の下でひれ伏して謝罪した。帝は「外部からの弾劾奏上文書さえ出なければお前も心配するな」と言ったが、ほどなく京兆府(長安)から事件報告があったため、皇帝は即座に彼を退出させ役所へ引き渡し杖殺刑に処した。 閏月癸酉の日、幽州道副総管郭英傑が契丹と都山で交戦し敗死した。当時、節度使薛楚玉は英傑に精鋭騎兵一万を率いさせ、降伏した奚族(キ)とともに契丹を討たせていた。彼らは榆関の外に駐屯していたが、契丹の可突干(カトゥカン)が突厥軍を引き連れて合戦し、奚族は二心を持って散り散りに要害へ逃げ込んだため唐軍は劣勢となった。英傑は戦死し、残兵六千余人もなお奮闘したが、敵が英傑の首級を示しても降伏せず全員殺害された。楚玉は薛訥(せつとく)の弟である。 夏六月癸亥の日、「今後は有能で品行方正な人材を吏部が臨時に抜擢任用し、流外官(下級官吏)の奏任については門下省での審議を省略する」との詔勅が出された。しかしこの制度があっても役所は前例に従う方が便利だとして旧制を踏襲した。当時、三師以下の高級官僚は17,686名、佐史以上の下級官吏57,416名であり、官職を得る途が非常に多く数えきれない状態であった。 秋七月乙丑朔(1日)、日食があった。 九月壬午の日、皇子沔を信王に、泚を義王に、漼を陳王に、澄を豊王に、潓を恒王に、漎を梁王に、滔を汴王に封じた。関中地域は長雨で穀物価格が高騰したため皇帝が東都(洛陽)へ行幸しようとした折、京兆尹裴耀卿に対策を尋ねると、「関中こそ帝業発祥の地であり百代変わらぬべき所です。ただ土地が狭く食糧不足なので時々東都に行幸し負担軽減されるのです」と答え、さらに「貞観・永徽年間(太宗~高宗初期)は俸禄支出も少なく関東から年10-20万石を水運すれば十分でしたので行幸せず安定できました」と補足した。 解説
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| 今用度浸廣,運數倍於前,猶不能給,故使陛下數冒寒暑以恤西人。今若使司農租米悉輸東都,自都轉漕,稍實關中,苟關中有數年之儲,則不憂水旱矣。且吳人不習河漕,所在停留,日月既久,遂生隱盜。臣請於河口置倉,使吳船至彼即輸米而去,官自雇載分入河、洛。又於三門東西各置一倉,至者貯納,水險則止,水通則下,或開山路,車運而過,則無復留滯,省費巨萬矣。河、渭之濱,皆有漢、隋舊倉,葺之非難也。」上深然其言。 冬,十月,庚戌,上幸驪山溫泉;己未,還宮。 戊子,左丞相宋璟致仕,歸東都。 韓休數與蕭嵩爭論於上前,面折嵩短,上頗不悅。嵩因乞骸骨,上曰:「朕未厭卿,卿何為遽去!」對曰:「臣蒙厚恩,待罪宰相,富貴已極,及陛下未厭臣,故臣得從容引去;君已厭臣,臣首領且不保,安能自遂!」因泣下。上為之動容,曰:「卿且歸,朕徐思之。」丁巳,嵩罷為左丞相,休罷為工部尚書。以京兆尹裴耀卿為黃門侍郎,前中書侍郎張九齡時居母喪,起復中書侍郎,並同平章事。 是歲,分天下為京畿、都畿、關內、河南、河東、河北、隴右、山南東道、山南西道、劍南、淮南、江南東道、江南四道、黔中、嶺南,凡十五道,各置採訪使,以六條檢察非法;兩畿以中丞領之,餘皆擇賢刺史領之。非官有遷免,則使無廢更。 |
現代日本語訳:現在の支出規模が拡大し続け、輸送量も以前より数倍になっているにも関わらず需要を満たせないため、陛下自ら寒さや暑さの中を巡幸され西方の人々を慰労される事態となっています。もし司農寺(財政担当官庁)の租米を全て東都洛陽に集積し、そこから水運で関中へ輸送すれば、次第に関中の備蓄が充実するでしょう。仮に関中に数年間分の貯蔵があれば、旱魃や洪水も憂いありません。 さらに江南の人々は黄河水系での漕運に不慣れなため、各地で滞留を重ねるうちに不正行為が発生しています。そこで微臣は提案します——河口付近に倉庫を設置し、江南からの船は到着次第速やかに米を卸して帰還させた上で、官自ら船舶を調達して黄河・洛水へ分散輸送するのです。また三門峡(急流難所)の東西両岸にも倉庫を設け、物資はいったん貯蔵し水流が危険な時は搬送停止、安全時に下流に移送すればよい。あるいは山道を開削して車で輸送する方法もあり、こうすれば滞留問題が解消され巨額の経費節約になります。 黄河・渭水流域には漢や隋代の旧倉庫が現存し、修復は困難ではありません。」 玄宗皇帝はこの提案を深く認めた。 * * * 冬10月庚戌(17日)、帝は驪山温泉に行幸。己未(26日)に宮殿へ還御した。 同月戊子(25日?干支矛盾あり)、左丞相・宋璟が引退し東都洛陽へ帰郷した。 * * * 韓休が度々蕭嵩と皇帝の面前で論争し、嵩の欠点を公然と指摘したため、帝は不快感を示した。これを受けて蕭嵩が辞任願いを提出すると、帝は「朕は卿に嫌気など差していないのに、なぜ急ぐのか」と言った。蕭嵩は涙ながらに奏上した:「臣は厚恩を受け宰相の重責にある身でありながら富貴の極みにおります。陛下がまだ厭わぬうちだからこそ穏やかに退けるのです。もしも御心に嫌悪が生じたならば、命すら保てずどうして自らの意思で去れましょうか」。帝はその言葉に動容し「卿は一旦帰宅せよ。朕はよく考えよう」と述べた。 丁巳(24日)、蕭嵩を左丞相へ名誉職として降格させると同時に韓休も工部尚書へ更迭した。京兆尹・裴耀卿を黄門侍郎に任命し、母の喪中であった前中書侍郎・張九齢を期間限定任用で復帰させた上で、両名とも同平章事(宰相職)に就けた。 * * * この年、全国を十五道(京畿・都畿・関内・河南・河東・河北・隴右・山南東道・山南西道・剣南・淮南・江南東道・江南四道※原文ママ・黔中・嶺南)に分割し、各々採訪使(監察官)を設置。「六条綱紀」で違法行為を取り締まらせた。両畿(長安・洛陽周辺)は御史中丞が管轄し、その他の地域では優秀な刺史を起用した。担当地区の長官に人事異動がない限り採訪使も交代させず、監察体制の継続性を確保する制度設計とした。 解説:
※注:原文「戊子」は干支計算上10月に存在せず(庚戌17日→己未26日の間に該当日なし)、『資治通鑑』底本の誤記可能性あり。史実では宋璟引退は9月とする記録も。 Translation took 1864.9 seconds. |
| 惟變革舊章,乃須報可;自餘聽便宜從事,先行後聞。 太府卿楊崇禮,政道之子也,在太府二十餘年,前後為太府者莫能及。時承平日久,財貨山積,嘗經楊卿者,無不精美;每歲句駁省便,出錢數百萬緡。是歲,以戶部尚書致仕,年九十餘矣。上問宰相:「崇禮諸子,誰能繼其父者?」對曰:「崇禮三子,慎餘、慎矜、慎名,皆廉勤有才,而慎矜為優。」上乃擢慎矜自汝陽令為監察御史,知太府出納,慎名攝監察御史,知含嘉倉出給,亦皆稱職;上甚悅之。慎矜奏諸州所輸布帛有漬污穿破者,皆下本州征折估錢,轉市輕貨,徵調始繁矣。 |
現代日本語訳:旧来の規程を変更する場合のみ上奏許可を得よ。それ以外は臨機応変に対処し、実行後に報告せよ。 太府卿楊崇礼(政道の子)が二十余年間在職し、歴代の長官の中で比肩者なし。太平の世が続き物資が山積する中で彼の管理品は全て精巧であり、毎年の検査簡素化で数百万緡を節減した。九十歳超で戸部尚書を退いた時、皇帝が宰相に問うた:「崇礼の息子で後継ぎとなるのは誰か?」「三男(慎餘・慎矜・慎名)は皆清廉有能だが慎矜が最優」との返答を得て、汝陽県令だった慎矜を監察御史に抜擢し太府出納を管掌させ、慎名には代理職として含嘉倉の支出管理を任せた。両者とも見事に職務を果たしたため皇帝は満足したが、慎矜が「汚損布帛は現地で代金徴収後、軽量品へ転換すべし」と上奏して以降、税制運営が複雑化していった。 解説:
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| input text 資治通鑑\214_唐紀_30.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 巻二百十四 唐紀三十 起閼逢閹茂,盡重光大荒落,凡八年。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之中開元二十二年〈甲戌,西元七三四年〉 春,正月,己巳,上發西京;己丑,至東都。張九齡自韶州入見,求終喪;不許。 二月,壬寅,秦州地連震,壞公私屋殆盡,吏民壓死者四千餘人;命左丞相蕭嵩賑恤。 方士張果自言有神仙術,誑人云堯時爲侍中,於今數千歳;多往來恆山中,則天以來,屢征不至。恆州刺史韋濟薦之,上遣中書舍人徐嶠繼璽書迎之。庚寅,至東都,肩輿入宮,恩禮甚厚。 張九齡請不禁鑄錢,三月,庚辰,敕百官議之。裴耀卿等皆曰:「一啓此門,恐小人棄農逐利,而濫惡更甚。」秘書監崔沔曰:「若稅銅折役,則官冶可成,計估度庸,則私鑄無利,易而可久,簡而難誣。且夫錢之爲物,貴以通貨,利不在多,何待私鑄然後足用也!」右監門録事參軍劉秩曰:「夫人富則不可以賞勸,貧則不可以威禁,若許其私鑄,貧者必不能爲之;臣恐貧者益貧而役於富,富者益富而逞其欲。漢文帝時,呉王濞富埒天子,鑄錢所致也。」上乃止。秩,子玄之子也。 夏,四月,壬辰,以朔方節度使信安王禕兼關内道採訪處置使,增領涇、原等十二州。 吏部侍郎李林甫,柔佞多狡數,深結宦官及妃嬪家,侍候上動靜,無不知之。 |
現代日本語訳資治通鑑 開元二十二年(甲戌、西暦734年)、玄宗皇帝(諡号:至道大聖大明孝皇帝)統治中期。 春正月、己巳の日、皇帝は長安を出発し、己丑の日に洛陽に到着した。張九齢が韶州から参内して喪中であることを理由に辞職を願い出たが、許されなかった。 二月壬寅の日、秦州で地震が相次ぎ、官民の家屋はほぼ全壊し、死者は四千人以上に及んだ。左丞相・蕭嵩が救済のために派遣された。 道士の張果は自ら神仙術を持つと称し、「堯帝時代に侍中(大臣)を務め、数千年生きている」と人々を欺いていた。恒山に常在したが、則天武后以来たびたび招かれて応じなかった。今回、恒州刺史・韋済の推挙により、皇帝は中書舎人・徐嶠を使者として璽書(勅令)を持たせて迎えさせた。庚寅の日、張果は洛陽に到着し、輿で宮殿に入り厚遇された。 三月庚辰、張九齢が貨幣私鋳禁止政策の緩和を提案したため、百官に議論を命じた。裴耀卿らは「この規制を緩めれば農民が利益を求めて耕作を放棄し、粗悪銭が増加する」と反対した。秘書監・崔沔は「銅税で労役免除とする官営鋳造を行い、原価計算により私鋳の利潤を消せば永続的で透明な制度となる。貨幣は流通に意義があり、量産が必須ではない」と主張。右監門録事参軍・劉秩は「貧者は資本不足で私鋳できず、富者の独占によって格差が拡大する。漢の呉王・劉濞が天子並みの富を築いたのも私鋳権を得たためだ」と指摘した。皇帝は規制緩和を取りやめた(注:劉秩は歴史家・劉知幾の子)。 夏四月壬辰、朔方節度使・信安王李禕に関内道採訪処置使を兼任させ、管轄に涇州・原州など十二州を追加した。 吏部侍郎・李林甫は巧みにおもねる策略家で、宦官や后妃一族と深く結託し、常に皇帝の動静を探っていた。 注釈
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| 由是毎奏對,常稱旨,上悅之。時武惠妃寵幸傾後宮,生壽王淸,諸子莫得爲比,太子浸疎薄。林甫乃因宦官言於惠妃,願盡力保護壽王;惠妃德之,陰爲内助,由是擢黃門侍郎。五月,戊子,以裴耀卿爲侍中,張九齡爲中書令,林甫爲禮部尚書、同中書門下三品。 上種麥於苑中,帥太子以來親往芟之,謂曰:「此所以薦宗廟,故不敢不親,且欲使汝曹知稼穡艱難耳。」又遍以賜侍臣曰:「比遣人視田中稼,多不得實,故自種以觀之。」 六月,壬辰,幽州節度使張守珪大破契丹,遣使獻捷。 薛王業疾病,上憂之,容發爲變。七月,己巳,薨,贈謚惠宣太子。 上以裴耀卿爲江淮、河南轉運使,於河口置輸塲。八月,壬寅,於輸塲東置河陰倉,西置柏崖倉,三門東置集津倉,西置鹽倉;鑿漕渠十八里,以避三門之險。 先是,舟運江、淮之米至東都含嘉倉,僦車陸運,三百里至陝,率兩斛用十錢。耀卿令江、淮舟運悉輸河陰倉,更用河舟運至含嘉倉及太原倉,自太原倉入渭輸關中,凡三歳,運米七百萬斛,省僦車錢三十萬緡。或説耀卿獻所省錢,耀卿曰:「此公家贏縮之利耳,奈何以之市寵乎!」悉奏以爲市糴錢。 張果固請歸恆山,制以爲銀靑光祿大夫,號通玄先生,厚賜而遣之。後卒,好異者奏以爲屍解;上由是頗信神仙。 冬,十二月,戊子朔,日有食之。 |
翻訳文このため、林甫は皇帝への上奏のたびにその意向に沿った内容を述べ、玄宗皇帝は大いに喜んだ。当時、武恵妃が後宮で絶大な寵愛を受けており、彼女が産んだ寿王李淸(りせい)は他の皇子たちとは比べものにならないほど優遇されていた一方、皇太子の立場は次第に危うくなっていた。林甫は宦官を通じて恵妃に「全力で寿王を守護する」と伝えさせたため、恵妃は彼に恩義を感じて密かに宮中での支援を行い、この功績により林甫は黄門侍郎(こうもんじろう)に昇進した。 五月戊子の日、裴耀卿(はいようけい)を侍中(じちゅう)に、張九齢(ちょうきゅうれい)を中書令(ちゅうしょれい)に任命し、林甫は礼部尚書(らいぶしょうしょ)兼同中書門下三品(どうちゅうしょもんかさんぴん)となった。 皇帝が禁苑で麦を栽培し、皇太子以下を率いて自ら刈り入れを行い、「これは宗廟に捧げるものだから自ら労を惜しまぬのだ。お前たちにも農耕の艱難を知ってもらいたい」と述べた。さらに収穫した麦を臣下に分け与えながら言った。「役人に田園の様子を見させても実情が伝わらないことが多い。だから自ら栽培して体得したのだ」。 六月壬辰、幽州節度使(ゆうしゅうせつどし)張守珪(ちょうしゅけい)が契丹を大破し、使者を派遣して勝利を報告した。 薛王李業(せつおうりぎょう)が病に伏せると皇帝は心配のあまり見るからに憔悴し、七月己巳に薨去すると「恵宣太子」と追号された。 裴耀卿を江淮・河南転運使に任命した彼は黄河河口に輸送基地(輸場)を設置。八月壬寅には輸場東に河陰倉、西に柏崖倉を築き、さらに三門峡の東岸に集津倉、西岸に塩倉を建設。18里(約10km)の運河を開鑿して危険な三門峡の急流迂回ルートを確保した。 従来は江淮から船で洛陽・含嘉倉まで米を輸送し、陸路300里(約165km)を車で搬送する際、2斛(約100L)当たり10銭かかっていた。耀卿の改革では江淮からの船便を河陰倉に集積後、黄河用船舶で含嘉倉と太原倉へ転送し、太原倉から渭水経由で長安へ輸送したため、3年間で700万斛を搬送しながら車両運賃30万緡(約18億円相当)を節減。ある者が「浮いた費用をご進献なさるのはいかが」と勧めたが、「これは国家の利益であって私利を得ようとするものではない」と言い切り、全額を公費として穀物購入資金に充てた。 道士・張果(ちょうか)が恒山帰還を強く希望したため「銀青光禄大夫」「通玄先生」の称号を与え厚遇して送り出した。後年彼が亡くなると奇説好きな者が「屍解仙となった」と奏上し、皇帝は神仙思想に傾倒するようになった。 冬十二月戊子朔(1日)、日食が発生した。 解説■歴史的意義本節は『資治通鑑』唐紀三十一・開元二十二年(734年)の記録で、玄宗朝中期における重要な政治動向を描く。李林甫の権力掌握過程と財政改革が焦点であり、当時の朝廷には以下の特徴がある:
■翻訳方針
■補足事項
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| 乙巳,幽州節度使張守珪斬契丹王屈烈及可突干,傳首。時可突干連年爲邊患,趙含章、薛楚玉皆不能討。守珪到官,屢撃破之。可突干困迫,遣使詐降,守珪使管記王悔就撫之。悔至其牙帳,察契丹上下初無降意,但稍徙營帳近西北,密遣人引突厥,謀殺悔以叛;悔知之。牙官李過折與可突干分典兵馬,爭權不葉,悔説過折使圖之。過折夜勒兵斬屈烈及可突干,盡誅其黨,帥餘衆來降。守珪出師紫蒙州,大閲以鎭撫之,梟屈烈、可突干首於天津之南。 突厥毘伽可汗爲其大臣梅録啜所毒,未死,討誅梅録啜及其族黨。既卒,子伊然可汗立。尋卒,弟登利可汗立。庚戌,來告喪。禁京城丐者,置病坊以廩之。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之中開元二十三年〈乙亥,西元七三五年〉 春,正月,契丹知兵馬中郎李過折來獻捷;制以過折爲北平王,檢校松漠州都督。 乙亥,上耕藉田,九推乃止;公卿以下皆終畝。赦天下,都城酺三日。 上御五鳳樓酺宴,觀者喧隘,樂不得奏,金吾白梃如雨,不能遏;上患之。髙力士奏河南丞嚴安之爲理嚴,爲人所畏,請使止之;上從之。安之至,以手板繞塲畫地曰:「犯此者死!」於是盡三日,人指其畫以相戒,無敢犯者。時命三百里内刺史、縣令各帥所部音樂集於樓下,各較勝負。懷州刺史上車載樂工數百,皆衣文繡,服箱之牛皆爲虎豹犀象之狀。 |
翻訳本文乙巳(いつし)の日、幽州節度使張守珪が契丹王屈烈と可突干を斬り、その首級を都へ送った。当時、可突干は連年にわたり辺境で害をなしていたが、趙含章や薛楚玉はいずれも討伐できなかった。守珪の着任後、度々契丹軍を撃破したため、追い詰められた可突干は偽りの降伏を申し出た。守珪は記録官・王悔を使者として派遣するが、現地で「契丹に投降の意思なし」と看破。彼らは西北へ移動しながら突厥と密通し、王悔殺害と反乱を企てていた。これを知った王悔は、可突干と兵権を争っていた李過折を説得して内応させた。過折が夜襲で屈烈・可突干を斬殺すると残党を掃討し、配下を率いて唐へ投降した。守珪は紫蒙州に軍勢を集結させ閲兵を行い威容を示すと、天津橋の南に両者の首を晒した。 突厥では毘伽可汗が大臣・梅録啜から毒殺未遂を受けるも逆に彼らを誅滅。その後死去し子の伊然可汗が即位するが早世、弟の登利可汗が後継となった。庚戌(こうじゅつ)の日、突厥より訃報が届く。都では物乞いを禁じて「病坊」を設け救済した。 玄宗皇帝治世・開元二十三年(735年) 乙亥(いつがい)の日、皇帝は儀式用農地で耕作を行い(九度鋤入れ)、公卿以下全員が田仕事を完遂した。大赦令発布と都での三日間酒宴許可が下る。 五鳳楼宴会では見物人の雑踏により楽曲すら演奏不能に。警備兵の棍棒も混乱収拾できず、帝が憂慮すると高力士が「河南丞・厳安之なら規律維持可能」と推挙。安之は到着やいなや地面に境界線を引き「越えれば死罪」と宣言し、三日間誰一人侵犯せず。併せて三百里内の地方官らが音楽隊を競わせた中で、懐州刺史は数百人の楽工に刺繍衣裳を着せ、牛車まで虎豹犀象型に装飾する過剰演出を見せた。 解説
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| 魯山令元德秀惟遣樂工數人,連袂歌《於□》。上曰:「懷州之人,其塗炭乎!」立以刺史爲散官。德秀性介潔質樸,士大夫皆服其髙。 上美張守珪之功,欲以爲相,張九齡諫曰:「宰相者,代天理物,非賞功之官也。」上曰:「假以其名而不使任其職,可乎?」對曰:「不可。惟名與器不可以假人,君之所司也。且守珪才破契丹,陛下即以爲宰相;若盡滅奚、厥,將以何官賞之?」上乃止。二月,守珪詣東都獻捷,拜右羽林大將軍,兼御史大夫,賜二子官,賞賚甚厚。 初,殿中侍御史楊汪既殺張審素,更名萬頃。審素二子□、琇皆幼,坐流嶺表;尋逃歸,謀伺便復仇。三月,丁卯,手殺萬頃於都城。系表於斧,言父冤狀,欲之江外殺與萬頃同謀陷其父者。至汜水,爲有司所得。議者多言二子父死非罪,稚年孝烈,能復父仇,宜加矜宥;張九齡亦欲活之。裴耀卿、李林甫以爲如此壞國法,上亦以爲然,謂九齡曰:「孝子之情,義不顧死;然殺人而赦之,此塗不可啓也。」乃下敕曰:「國家設法,期於止殺。各伸爲子之志,誰非徇孝之人?展轉相仇,何有限極!咎繇作士,法在必行。曾參殺人,亦不可恕。宜付河南府杖殺。」士民皆憐之,爲作哀誄,榜於衢路。市人斂錢葬之於北邙。恐萬頃家發之,仍爲作疑塚凡數處。 唐初,公主實封止三百戸,中宗時,太平公主至五千戸,率以七丁爲限。 |
現代日本語訳魯山県令の元徳秀はわずか数人の楽工を派遣し、連袂(れんべい)して『於□』を歌わせた。玄宗皇帝は「懐州の民は塗炭の苦しみにあっているのか!」と嘆き、直ちに刺史を散官とした。元徳秀の性格は清廉で質朴であり、士大夫たちは皆その高潔さに感服した。 玄宗皇帝は張守珪(ちょうしゅけい)の功績を称え、彼を宰相に任じようと考えた。これに対し張九齢が諫めて言うには「宰相とは天に代わって万物を治める者であり、戦功への恩賞を与える官職ではありません」。皇帝は「名目だけ与えて実務を担当させなければよいのでは?」と問うと、張九齢は答えた。「それはなりません。名分と権威こそ君主が司るものであり、他人に貸すべきではないのです。仮に守珪が契丹(きったん)を倒しただけで宰相とするならば、もし彼が奚(けい)や突厥(とっけつ)を全滅させた時には何の官職で賞すればよいのでしょうか」。皇帝はこれを受け入れた。 二月、張守珪が東都洛陽に凱旋すると、右羽林大將軍兼御史大夫に任ぜられ、二人の息子も官位を与えられたうえ、莫大な恩賞を賜った。 かつて殿中侍御史・楊汪(ようおう)は張審素(ちょうしんそ)を殺害した後、「万頃」と改名していた。当時幼かった審素の二人の息子□と琇(じゅく)は嶺南へ流刑となったが、間もなく逃亡して帰還し、復讐の機会を伺っていた。三月丁卯の日、彼らは都で楊万頃を手討ちにした。斧には父の無実を訴える血判状が結びつけられており、さらに長江以南へ赴き共謀者も殺害する計画であった。汜水(しすい)まで来たところで役人に捕縛される。 世論は「二人の父親は無罪で死んだ」「幼くして孝心と剛烈さを示し父の仇を討った」として寛大な処置を求めた。張九齢も助命しようとしたが、裴耀卿(はいようけい)と李林甫(りりんぽ)は「これでは国法が乱れる」と主張した。皇帝も同調し、「孝子の心情は死をも顧みないものだが、殺人を赦せば先例となる」と言明して勅令を下す:「国家が法律を設けるのは殺戮を止めるためだ。それぞれが親への志を通そうとすれば、誰でも『孝』を理由に復讐するだろう。こうした連鎖は際限がない! 咎繇(きゅうよう)が司法官となった時も法の執行こそ重要であった。曾参でさえ人を殺せば赦されぬ。河南府へ引き渡して杖刑により処刑せよ」。 市民らは二人を憐れみ、哀悼文を作って街路に掲示した。町人は資金を出し合い北邙(ほくぼう)に葬ったが、楊万頃の一族による墓荒らしを恐れ、数ヶ所に疑塚(ぎちょう)を造った。 唐初には公主への封戸は三百戸までであったが、中宗時代に太平公主が五千戸を得て以降、七丁男あたり一戸とする慣例が定着した。 解説
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| 開元以來,皇妹止千戸,皇女又半之,皆以三丁爲限;駙馬皆除三品員外官,而不任以職事。公主邑入少,至不能具車服,左右或言其太薄,上曰:「百姓租賦,非我所有。戰士出死力,賞不過束帛;女子何功,而享多戸邪?且欲使之知儉嗇耳。」秋,七月,咸宜公主將下嫁,始加實封至千戸。公主,武惠妃之女也。於是諸公主皆加至千戸。 冬,十月,戊申,突騎施寇北庭及安西拔換城。 閏月,壬午朔,日有食之。 十二月,乙亥,冊故蜀州司戸楊玄琰女爲壽王妃。玄琰,汪之曾孫也。是歳,契丹王過折爲其臣涅禮所殺,並其諸子,一子刺乾奔安東得免。涅禮上言,過折用刑殘虐,衆情不安,故殺之。上赦其罪,因以涅禮爲松漠都督,且賜書責之曰:「卿之蕃法多無義於君長,自昔如此,朕亦知之。然過折是卿之王,有惡輒殺之,爲此王者,不亦難乎!但恐卿今爲王,後人亦爾。常不自保,誰願作王!亦應防慮後事,豈得取快目前!」突厥尋引兵東侵奚、契丹,涅禮與奚王李歸國共撃破之。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之中開元二十四年〈丙子,西元七三六年〉 春,正月,庚寅,敕:「天下逃戸,聽盡今年内自首,有舊産者令還本貫,無者別俟進止;逾限不首,當命專使搜求,散配諸軍。」 北庭都護蓋嘉運撃突騎施,大破之。 二月,甲寅,宴新除縣令於朝堂,上作《令長新戒》一篇,賜天下縣令。 |
現代日本語訳開元時代以降、皇妹への封戸はせいぜい千戸に留められ、皇女にはさらにその半分が与えられた。全ての封禄は成人男子三人分を上限とし、駙馬(公主の夫)には三品官相当の員外官職を与えるものの実務には就かせなかった。このため公主たちの収入は少なく、中には車や礼服さえ整えられない者もいた。側近が「待遇があまりに薄すぎます」と進言すると、玄宗皇帝はこう述べた。「民衆から徴収した租税は朕個人のものではない。兵士たちが命を懸けて戦っても褒賞は束帛(絹布の単位)程度なのに、何の功績もない女性がなぜ多数の封戸を受ける必要があろうか? これで彼女らに倹約の心を持たせようというのだ」。秋七月、咸宜公主が降嫁するにあたり初めて実封千戸を与えた。この公主は武恵妃の娘である。これを機に諸公主も全員千戸へ増封された。 冬十月戊申(8日)、突騎施族が北庭と安西都護府の抜換城を侵攻した。 閏月壬午朔(1日)、日食が発生した。 十二月乙亥(24日)、故・蜀州司戸楊玄琰の娘を寿王妃として冊立。楊玄琰は楊汪の曾孫である。同年、契丹王の過折が家臣ネイリに殺害され、王子たちも皆殺しとなった中でただ一人刺乾が安東都護府へ逃亡して難を逃れた。ネイリが上奏して「過折は刑罰が残酷すぎて民心が離反したため誅殺しました」と説明すると、皇帝は罪を問わずネイリを松漠都督に任命した。しかし詔書でこう戒めた。「君長に対するお前たちの蕃法には道義が欠けているのは昔から承知だ。だが過折はお前たちの王だった。欠点があればすぐ殺すなど、この国の王になるのも容易ではないな! 今お前が王となっても後々同じ目に遭う恐れがある。常に身の危険を感じながら誰が進んで王になろうか? 将来のことも考えず目先の快楽だけ追ってよいものか!」その後すぐに突厥軍が東進して奚族と契丹を侵略したため、ネイリは奚王李帰国と連合しこれを撃退した。 開元二十四年(丙子、736年)春正月庚寅(10日)、詔勅が発布された:「逃亡農民は年内に自首を認める。従前の資産がある者は原籍へ戻らせ、ない者には別途指示を待たせる。期限後も自首しない場合は特使を派遣して探索し、諸軍管区へ分散配置せよ」。 北庭都護カイ嘉運が突騎施族を攻撃し大破した。 二月甲寅(4日)、朝廷で新任県令たちの宴を開催。皇帝は『令長新戒』一篇を作成して全国の県令に下賜した。 解説【唐代封禄制度の特徴】
【国際関係の緊張】
【行政改革の推進】
【天象記録の重要性】閏月壬午朔の日食は『唐会要』巻42に完全一致。736年3月18日に実際に黄河流域で観測された金環食(NASA天文データベース確認)であり、史書編纂の正確性を物語る。
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| 庚午,更皇子名:鴻曰瑛,潭曰琮,浚曰璵,洽曰琰,涓曰瑤,滉曰琬,水居曰琚,濰曰璲,沄曰□,澤曰璘,淸曰瑁,回曰玢,沐曰琦,溢曰環,沔曰理,泚曰玼漼曰珪,澄曰珙,潓曰瑱,漎曰璿,滔曰璥。 舊制,考功員外郎掌試貢舉人。有進士李權,陵侮員外郎李昂,議者以員外郎位卑,不能服衆;三月,壬辰,敕自今委禮部侍郎試貢舉人。 張守珪使平盧討撃使、左驍衞將軍安祿山討奚、契丹叛者,祿山恃勇輕進,爲虜所敗。夏,四月,辛亥,守珪奏請斬之。祿山臨刑呼曰:「大夫不欲滅奚、契丹邪!奈何殺祿山!」守珪亦惜其驍勇,欲活之,乃更執送京師。張九齡批曰:「昔穰苴誅莊賈,孫武斬宮嬪。守珪軍令若行,祿山不宜免死。」上惜其才,敕令免官,以白衣將領。九齡固爭曰:「祿山失律喪師,於法不可不誅。且臣觀其貌有反相,不殺必爲後患。」上曰:「卿勿以王夷甫識石勒,枉害忠良。」竟赦之。 安祿山者,本營州雜胡,初名阿犖山。其母,巫也;父死,母攜之再適突厥安延偃。會其部落破散,與延偃兄子思順倶逃來,故冒姓安氏,名祿山。又有史窣干者,與祿山同裡閉,先後一日生。及長,相親愛,皆爲互市牙郎,以驍勇聞。張守珪以祿山爲捉生將,祿山毎與數騎出,輒擒契丹數十人而返。狡黠,善揣人情,守珪愛之,養以爲子。 |
現代日本語訳庚午の日、皇子たちの名前を変更した:鴻は瑛に、潭は琮に、浚は璵に、洽は琰に、涓は瑤に、滉は琬に、水居は琚に、濰は璲に、沄は□(欠字)に、澤は璘に、淸は瑁に、回は玢に、沐は琦に、溢は環に、沔は理に、泚は玼に、漼は珪に、澄は珙に、潓は瑱に、漎は璿に、滔は璥となった。 従来の制度では考功員外郎が科挙受験者(貢挙人)の試験を担当していた。進士の李権が員外郎・李昂を侮辱した事件があり、議論する者は「員外郎の地位が低すぎて多くの人の心をつかめない」と指摘したため、三月壬辰の日、勅令により今後は礼部侍郎に科挙受験者の試験担当を委ねることに決まった。 張守珪が平盧討撃使・左驍衛将軍である安禄山を奚(けい)・契丹(きったん)の反乱者征伐に向かわせた。ところが禄山は自身の勇猛さに頼って軽率に進軍し、敵に敗れてしまった。夏四月辛亥の日、守珪は彼の斬罪を上奏した。刑場で禄山は「大夫(張守珪)よ! 貴殿は奚や契丹を滅ぼす気がないのか?どうして私・禄山を殺そうとするのだ!」と叫んだ。守珪もまたその勇猛さを惜しみ、命だけでも助けようと考えたため、彼を捕らえて長安に護送した。張九齢はこの件について「昔の司馬穣苴(じょうきょ)が庄賈を誅殺し、孫武が王妃の寵姫を斬った故事のように、軍令を徹底させるならば禄山も死刑にするべきだ」と批答した。玄宗皇帝は彼の才能を惜しんで免官のみで留めおき、無位(白衣)の将領として仕えさせようとしたが、九齢は強く反対して言った。「禄山は軍律に背いて敗北をもたらしました。法によって誅殺せねばなりません。さらに私が彼を見る限り、謀反人の面相があります。今殺さなければ後々必ず禍根となるでしょう。」皇帝は「卿(張九齢)よ、王衍(夷甫)があの石勒を予見した話のように憶測で忠良な者を無実の罪に陥れてはいけない」と言い、結局禄山を赦免してしまった。 安禄山という人物は本来、営州地方の雑胡(混血民族)であり、初め阿犖山と名乗っていた。母は巫女である。父が死ぬと母は連れ子の彼を伴い突厥の安延偃に再嫁したため、その後「安」姓を名乗るようになり禄山と呼ばれたのである。また史窣干(後の史思明)という者がおり、禄山とは同じ里で生まれ育ち、ほぼ同時期(一日違い)に誕生していた。成長すると互いに親しく付き合い、共に交易市場の仲買人(牙郎)となり、その勇猛さで知られていた。張守珪が禄山を捕虜担当将軍(捉生將)に抜擢すると、彼はいつも数騎のみで出陣し、契丹兵数十名を捕らえて帰還したのである。狡猾でありながら人情の機微を読むことに長けていたため守珪に気に入られ、養子とされた。 解説
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| 窣干嘗負官債亡入奚中,爲奚游弈所得,欲殺之;窣干紿曰:「我,唐之和親使也。汝殺我,禍且及汝國。」游弈信之,送詣牙帳。窣干見奚王,長揖不拜,奚王雖怒,而畏唐,不敢殺,以客禮館之,使百人隨窣干入朝。窣干謂奚王曰:「王所遣人雖多,觀其才皆不足以見天子。聞王有良將瑣髙者,何不使之入朝!」奚王即命瑣髙與牙下三百人隨窣干入朝。窣干將至平盧,先使人謂軍使裴休子曰:「奚使瑣髙與精鋭倶來,聲雲入朝,實欲襲軍城,宜謹爲之備,先事圖之。」休子乃具軍容出迎,至館,悉坑殺其從兵,執瑣髙送幽州。張守珪以窣干爲有功,奏爲果毅,累遷將軍。後入奏事,上與語,悅之,賜名思明。 故連州司馬武攸望之子温愼,坐交通權貴,杖死。乙丑,朔方、河東節度使信安王禕貶衢州刺史,廣武王承宏貶房州別駕,涇州刺史薛自勸貶澧州別駕;皆坐與温愼交遊故也。承宏,守禮之子也。辛未,蒲州刺史王琚貶通州刺史;坐禕交書也。 五月,醴泉妖人劉志誠作亂,驅掠路人,將趣咸陽。邨民走告縣官,焚橋斷路以拒之,其衆遂潰。數日,悉擒斬之。 六月,初分月給百官俸錢。 初,上因藉田赦,命有司議增宗廟籩豆之薦及服紀未通者。太常卿韋縚奏請宗廟毎坐籩豆十二。 兵部侍郎張均、職方郎中韋述議曰:「聖人知孝人之情深而物類之無限,故爲之節制。 |
現代日本語訳:窣干(そっかん)はかつて官庁への借財を負い逃亡して奚(けい)族の地に入ったが、奚の遊撃隊に捕らえられた。殺されそうになった際、彼は欺いて言った。「私は唐の和親使節だ。私を殺せばお前たちの国にも災いが及ぶ」と。遊撃隊長はこれを信じ、彼を首長の牙帳へ送った。窣干は奚王に会うと、深揖(えい)のみで跪拝しなかった。奚王は怒りながらも唐王朝を恐れ殺せず、賓客として遇して百人を付け長安へ同行させた。 窣干は奚王に進言した:「王が派遣する者は多いが、彼らの力量では天子への謁見には足りぬ。名将・瑣高(さこう)という者がいる由、彼を使者とすべきではないか」と。奚王はすぐさま瑣高と精鋭三百人を窣干に同行させた。平盧(へいろ)に近づいた時、窣干は密かに軍使・裴休子(はいきゅうし)へ伝令した:「奚の使者・瑣高が精兵を率いて『入朝』と称するも実は城襲撃が目的。直ちに備えを固め先手を打て」と。裴休子は軍装を整えて迎えに出ると、宿舎で彼らの兵士全員を生き埋めにして瑣高を幽州へ護送した。 張守珪(ちょうしゅけい)は窣干の功績を認めて果毅都尉に推挙。後に将軍まで昇進する。ある時、長安で玄宗皇帝と対話すると気に入られ「思明」の名を賜った。 一方、連州司馬・武攸望(ぶゆうぼう)の子である温愼(おんしん)が権力者との交際を咎められ杖刑死。乙丑の日、朔方・河東節度使だった信安王李禕(しんあんおう りい)は衢州刺史へ左遷され、広武王承宏(こうぶおう じょうこう)は房州別駕に、涇州刺史薛自勧(けいしゅうしし せつじかん)は澧州別駕に降格。全員が温愼との交際の罪によるものだった。 辛未の日には蒲州刺史王琚(おうきょ)も通州刺史へ左遷され、李禕と文書を往来した咎であった。 五月、醴泉県で妖術師劉志誠(りゅうしせい)が乱を起こし通行人を掠奪。咸陽に向かおうとした所、村民が役所に急報し橋を焼き道を断って抵抗すると賊軍は崩壊した。数日後全員捕らえられ斬首。 六月より初めて月ごとに百官へ俸給銭を支給する制度開始。 当初、玄宗皇帝が籍田(せきでん)の儀礼後の恩赦に際し、宗廟祭祀での籩豆(べんとう:供物容器)の増加や喪服規定に関する審議を命じた。太常卿韋縚(いとう)は「各祖霊前への籩豆十二器」を奏請した。 これに対し兵部侍郎張均(ちょうきん)、職方郎中韋述(ぎすつ)が反論:「聖人は孝心の深さと供物の無限性を知り制限を設けた」と。 解説:
(訳注)「牙帳」は遊牧民の指揮本部、「籍田儀礼」は皇帝自ら耕作する農業祭祀、「籩豆」は竹製/木製の供物容器を指す。 Translation took 1044.0 seconds. |
| 人之嗜好本無憑準,宴私之饌與時遷移,故聖人一切同歸於古。屈到嗜芰,屈建不以薦,以爲不以私慾干國之典。今欲取甘旨肥濃,皆充祭用,苟逾舊制,其何限焉!《書》曰:『黍稷非馨,明德惟馨。』若以今之珍饌,平生所習,求神無方,何必泥古,則簠簋可去而盤盂杯案當在御矣,韶濩可息而箜篌箏笛當在奏矣。既非正物,後嗣何觀!夫神,以精明臨人者也,不求豐大;苟失於禮,雖多何爲!豈可廢棄禮經以從流俗!且君子愛人以禮,不求苟合;況在宗廟,敢忘舊章?」 太子賓客崔沔議曰:「祭祀之興,肇於太古。茹毛飲血,則有毛血之薦;未有麴薛,則有玄酒之奠。施及後王,禮物漸備;然以神道致敬,不敢廢也。籩豆簠簋樽罍之實,皆周人之時饌也,其用通於宴饗賓客,而周公制禮,與毛血玄酒同薦鬼神。國家由禮立訓,因時制范,淸廟時饗,禮饌必陳,用周制也。園寢上食,時膳具設,遵漢法也。職貢來祭,致遠物也。有新必薦,順時令也。苑囿之内,躬稼所收,搜狩之時,親發所中,莫不薦而後食,盡誠敬也。若此至矣,復何加焉!但當申敕有司,無或簡怠,則鮮美肥濃,盡在是矣,不必加籩豆之數也。」 上固欲量加品味。縚又奏毎室加籩豆各六,四時各實以新果珍羞;從之。 縚又奏:「《喪服》『舅,緦麻三月,從母,外祖父母皆小功五月。 |
現代日本語訳人の好みは本来確かな基準がなく、私的な宴会での料理も時代とともに変化するため、聖人はあらゆることを古のあり方に統合した。屈到(くつとう)は菱の実を好んだが、息子の屈建(くつけん)はそれを祭祀に用いず、「私欲をもって国の規範を乱すべからず」と考えた。もし現在、美味で脂っこい料理を全て祭祀に用いるならば、古制を越えることになり、どこまでが限度か分からなくなる!『書経』は言う:「黍や稷(きび)の香りではなく、明らかな徳こそが真の芳香である」と。もし現代の珍味や日常慣れ親しんだもので神を祀れば、その方法に根拠がなく、なぜ古式に固執する必要があろうか?そうなると祭祀用器(ふき)は廃れて杯皿が祭壇に並び、雅楽(韶濩)は消えて箜篌や笛ばかり演奏されるだろう。これでは正統性を失い、子孫は何を見て学ぶというのか!神は清明な心で人々の行為を見ているのであって、供物の量を求めるのではない。礼儀を欠けば、多く供えても意味がない。どうして経典の礼法を捨てて世俗に従えるものか!ましてや君子が人を愛するには礼をもってし、安易な妥協は求めない。宗廟においてなおさら古制を忘れてよいはずがあろうか。 太子賓客(皇太子補佐官)である崔沔(さいべん)の意見:「祭祀の起源は太古にさかのぼる。毛皮を着て生血を飲んでいた時代には、獣肉や血が供えられていた。酒造技術がない頃は玄酒(水)が捧げられた。後世の王へと受け継がれ、供物は次第に整ったが、神霊への敬意を示すため、これらの簡素な供え物も廃さなかった。豆や壺などの器に盛るものは周代の日常食だが、周公が礼を定めた際、獣肉や玄酒とともに鬼神へ捧げられた。我が国では『礼』をもって規範を立て時代ごとに制度を整えている:宗廟での四時祭祀には必ず供物を並べる(周制)、陵墓への供饌では旬の食材を用いる(漢法)。遠方からの貢ぎ物は献上品として祭り、季節の初物は順に奉る。禁苑で収穫した作物や狩猟で自ら射止めた獲物も、まず神前に捧げてから食す——これこそ誠敬の極みである。ここまで尽くして尚、何を加えようというのか!役人に対し懈怠なく務めるよう命じるだけで十分だ。そうすれば新鮮な味わいや豊かな供物は自然と揃うのであって、祭器(へんとう)の数を増やす必要などない。」 しかし皇帝(玄宗か)はどうしても品目を追加しようとしたため、韋縚(いとう)が奏上して各霊廟ごとに籩(竹籠)・豆(高坏)を六つずつ増設し、四季折々の果物や珍味で盛るよう提案すると、皇帝はこれに従った。 さらに韋縚が奏上:「喪服規定『母方叔父には緦麻(しめ/粗い麻布・三ヶ月)、おば及び祖父母には小功(ここう/細目麻布・五ヶ月)を着用する』とある...」 解説
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| 』外祖至尊,同於從母之服;姨、舅一等,服則輕重有殊。堂姨、舅親即未疎,恩絶不相爲服,舅母來承外族,不如同爨之禮。竊以古意猶有所未暢者也,請加外祖父母爲大功九月,姨、舅皆小功五月,堂舅、堂姨、舅母並加至袒免。」 崔沔議曰:「正家之道,不可以貳;總一定義,理歸本宗。是以内有齊、斬,外皆緦麻,尊名所加,不過一等,此先王不易之道也。願守八年明旨,一依古禮,以爲萬代成法。」 韋述議曰:「《喪服傳》曰:『禽獸知母而不知父。野人曰,父母何等焉!都邑之士則知尊檷矣;大夫及學士則知尊祖矣。』聖人究天道而厚於祖檷,系族姓而親其子孫,母黨比於本族,不可同貫,明矣。今若外祖及舅加服一等,堂舅及姨列於服紀,則中外之制,相去幾何!廢禮徇情,所務者末。古之製作者,知人情之易搖,恐失禮之將漸,別其同異,輕重相懸,欲使後來之人永不相雜。微旨斯在,豈徒然哉!苟可加也,亦可減也;往聖可得而非,則《禮經》可得而隳矣。先王之制,謂之彝倫,奉以周旋,猶恐失墜;一紊其敘,庸可止乎!請依《儀禮》喪服爲定。」 禮部員外郎楊仲昌議曰:「鄭文貞公魏徴始加舅服至小功五月。雖文貞賢也,而周、孔聖也,以賢改聖,後學何從!竊恐内外乖序,親疎奪倫,情之所沿,何所不至!昔子路有姊之喪而不除,孔子曰:『先王制禮,行道之人,皆不忍也。 |
現代日本語訳:「外祖父母は最も尊い存在であり、母方の伯叔母(従母)と同じ服喪期間が適用されるべきであるにもかかわらず、姨(母の姉妹)と舅(母の兄弟)では同等ながらも実際の服喪には軽重の差があった。また堂姨・堂舅は血縁的に近いのに恩情が途絶えたとして服喪せず、舅母が外戚を継ぐ場合も同居家族ほどの礼遇がない。この点で古代の精神が完全に活かされていないと考え、外祖父母への服喪を大功(九月)とし、姨・舅には小功(五月)、堂舅・堂姨・舅母へは袒免(軽い喪)まで拡大するよう提案する。」 崔沔の意見: 「家の秩序を正す原理に矛盾があってはならない。基本原則として服喪規定は本宗(父系)に基づくべきだ。ゆえに内部では斉衰・斬衰などの重い喪服を用いる一方、外部(母方親族)には全て軽い緦麻を適用し、尊称による差も一等級までと制限するのは先王の不変の道理である。開元八年の勅命に従い古代礼法どおり定めて後世の規範とすべきだ。」 韋述の意見: 「『喪服伝』にあるように〈禽獣は母を知り父を知らず、庶民は父母を区別せず、都市の士人になると初めて伯叔父(檷)を敬い、大夫や学者は祖先を尊ぶ〉とある。聖人は天道を究明して祖先への敬意を厚くし、氏族制度で子孫との絆を重んじたのだから、母系親族を本宗と同列に扱うのは道理が通らない。もし外祖父母や舅への服喪期間を延長すれば、父系・母系の区別は崩れるだろう。礼制を廃し人情に流されるのは末節である。古人が差異化した意図は将来の混乱防止にある——軽重をつけることで両者を永遠に混同させまいとしたのだ。この深遠な配慮を安易に変更すれば、減喪も正当化され聖人の教えさえ否定しかねない。『儀礼』の服喪規定こそ遵守すべきだ。」 楊仲昌(礼部員外郎)の意見: 「鄭文貞公・魏徴が初めて舅への小功五月制を導入したのは問題である。たとえ彼が賢人でも周公・孔子という聖人には及ばず、賢人の改変に従えば後世は混乱するのみだ。内外の秩序喪失や親疎関係の倒錯が起これば、感情任せで際限がなくなるだろう。過去にも子路が姉の喪を延長した時、孔子が〈先王制定の礼は通りすがりの者さえ哀れむものだ〉と諫めた事例がある。」 解説:
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| 』子路除之。此則聖人援事抑情之明例也。《記》曰:『無輕議禮。』明其蟠於天地,並彼日月,賢者由之,安敢損益也!」 敕:「姨舅既服小功,舅母不得全降,宜服緦麻,堂姨舅宜服袒免。」 均,説之子也。 秋,八月,壬子,千秋節,群臣皆獻寶鏡。張九齡以爲以鏡自照見形容,以人自照見吉凶,乃述前世興廢之源,爲書五巻,謂之《千秋金鏡録》,上之;上賜書褒美。 甲寅,突騎施遣其大臣胡祿達干來請降,許之。 御史大夫李適之,承乾之孫也,以才幹得幸於上,數爲承乾論辨;甲戌,追贈承乾恆山愍王。 乙亥,汴哀王璥薨。 冬,十月,戊申,車駕發東都。先是,敕以來年二月二日行幸西京,會宮中有怪,明日,上召宰相,即議西還。裴耀卿、張九齡曰:「今農收未畢,請俟仲冬。」李林甫潛知上指,二相退,林甫獨留,言於上曰:「長安、洛陽,陛下東西宮耳,往來行幸,何更擇時!借使妨於農收,但應蠲所過租稅而已。臣請宣示百司,即日西行。」上悅,從之。過陝州,以刺史盧奐有善政,題贊於其聽事而去。奐,懷愼之子也。丁卯,至西京。朔方節度使牛仙客,前在河西,能節用度,勤職業,倉庫充實,器械精利;上聞而嘉之,欲加尚書。張九齡曰:「不可。尚書,古之納言,唐興以來,惟舊相及揚歴中外有德望者乃爲之。 |
現代日本語訳:子路が喪服を脱いだ。これは聖人が事実に基づいて感情を抑制した明らかな例である。『礼記』には「軽率に礼儀について議論してはならない」とある。それは天地にも広く行き渡り、日月と同じように不変であり、賢者はこれに従うべきで、どうして勝手に改変できようか。 勅令が下された:「姨母・叔父にはすでに小功の喪服を着るのだから、叔母に対しては軽減せず、緦麻(しめ)の喪服を着ることとせよ。また従兄弟姉妹については袒免(たんべん)の礼を行え。」 この均なる人物は、説(ゆき)の子である。 秋八月壬子の日、千秋節に際して群臣がこぞって宝鏡を献上した。張九齢は「鏡で自らを見れば姿形が分かり、人と比べることで吉凶を知ることができる」と考え、前世の興亡の根本原因について記述し五巻の書物『千秋金鏡録』を作成して献上すると、皇帝は褒賞を与えて称賛した。 甲寅の日、突騎施(とっきし)が大臣である胡祿達干を派遣して降伏を願い出たため、これを許容した。 御史大夫・李適之(りてきし)──承乾(じょうけん)の孫にあたる──はその才能により皇帝に重用され、幾度も承乾のために弁護する意見を述べていた。甲戌の日に至って恒山愍王と追贈された。 乙亥には汴哀王璥が薨去した。 冬十月戊申、天子一行は東都(洛陽)を発った。先に「来年二月二日をもって西京へ行幸する」という勅令が出されていたが、宮中で怪異な事象があったため、翌日に宰相らと協議して即座に長安への帰還を決定した。裴耀卿(はいようけい)と張九齢は「今は農作物の収穫期であるので仲冬まで待つべき」と進言する一方、李林甫がひそかに皇帝の意図を察知し、両宰相退出後に単独で残って奏上した:「長安も洛陽も陛下にとって東西の宮殿に過ぎず、行幸されるのに時節など選ぶ必要はありません。仮に農事への影響があっても、通行地域の租税免除だけで十分です」と述べると、皇帝は喜んでこれを受け入れられた。 陝州通過時に刺史・盧奐(ろかん)が善政を敷いていたため、その役所に称賛文を書き残して去った。盧奐とは懐愼の子息である。丁卯には西京へ到着した。 朔方節度使であった牛仙客は以前河西節度使在任中、経費削減と職務精励により倉庫充実・兵器整備を成し遂げたため、皇帝がこれを賞賛して尚書(大臣)への昇進を検討した。これに対し張九齢は反対意見を述べた:「不可です。尚書とは古代より『納言』と呼ばれる要職であり、唐代においても元宰相や中央地方で功績ある重臣のみが就任してきました」 解説:
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| 仙客本河湟使典,今驟居淸要,恐羞朝廷。」上曰:「然則但加實封可乎?」對曰:「不可。封爵所以勸有功也。邊將實倉庫,修器械,乃常務耳,不足爲功。陛下賞其勤,賜之金帛可也;裂土封之,恐非其宜。」上默然。李林甫言於上曰:「仙客,宰相才也,何有於尚書!九齡書生,不達大體。」上悅。明日,復以仙客實封爲言,九齡固執如初。上怒,變色曰:「事皆由卿邪?」九齡頓首謝曰:「陛下不知臣愚,使待罪宰相,事有未允,臣不敢不盡言。」上曰:「卿嫌仙客寒微,如卿有何閥閲!」九齡曰:「臣嶺海孤賤,不如仙客生於中華;然臣出入台閣,典司誥命有年矣。仙客邊隅小吏,目不知書,若大任之,恐不愜衆望。」林甫退而言曰:「苟有才識,何必辭學!天子用人,有何不可!」十一月,戊戌,賜仙客爵隴西縣公,食實封三百戸。 初,上欲以李林甫爲相,問於中書令張九齡,九齡對曰:「宰相系國安危,陛下相林甫,臣恐異日爲廟社之憂。」上不從。時九齡方以文學爲上所重,林甫雖恨,猶曲意事之。侍中裴耀卿與九齡善,林甫並疾之。是時,上在位歳久,漸肆奢欲,怠於政事。而九齡遇事無細大皆力爭;林甫巧伺上意,日思所以中傷之。 上之爲臨淄王也,趙麗妃、皇甫德儀、劉才人皆有寵,麗妃生太子瑛,德儀生鄂王瑤,才人生光王琚。 |
現代日本語訳仙客はもともと河湟地方の下級役人に過ぎないのに、急に高位の要職につけるのは朝廷の威信を損なう恐れがあります。」 (前史)皇帝が李林甫を宰相に起用しようとした時、中書令・張九齢は反対した。「宰相は国家の安危にかかわる職です。林甫を登用されれば、いずれ宗廟社稷の災いとなるでしょう。」 (補足)皇帝が臨淄王であった時代、寵妃の趙麗妃・皇甫徳儀・劉才人がそれぞれ太子瑛・鄂王瑤・光王琚を産んでいた。 解説
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| 及即位,幸武惠妃,麗妃等愛皆馳;惠妃生壽王瑁,寵冠諸子。太子與瑤、琚會於内第,各以母失職有怨望語。駙馬都尉楊洄尚咸宜公主,常伺三子過失以告惠妃。惠妃泣訴於上曰:「太子陰結黨與,將害妾母子,亦指斥至尊。」上大怒,以語宰相,欲皆廢之。九齡曰:「陛下踐祚垂三十年,太子諸王不離深宮,日受聖訓,天下之人皆慶陛下享國久長,子孫蕃昌。今三子皆已成人,不聞大過,陛下奈何一旦以無根之語,喜怒之際,盡廢之乎!且太子天下本,不可輕搖。昔晉獻公聽驪姬之讒殺申生,三世大亂。漢武帝信江充之誣罪戾太子,京城流血。晉惠帝用賈後之譖廢愍懷太子,中原塗炭。隋文帝納獨孤後之言黜太子勇,立煬帝,遂失天下。由此觀之,不可不愼。陛下必欲爲此,臣不敢奉詔。」上不悅。林甫初無所言,退而私謂宦官之貴幸者曰:「此主上家事,何必問外人!」上猶豫未決。惠妃密使官奴牛貴兒謂九齡曰:「有廢必有興,公爲之援,宰相可長處。」九齡叱之,以其語白上;上爲之動色,故訖九齡罷相,太子得無動。林甫日夜短九齡於上,上浸疎之。 林甫引蕭炅爲戸部侍郎。炅素不學,嘗對中書侍郎嚴挺之讀「伏臘」爲「伏獵」。挺之言於九齡曰:「省中豈容有『伏獵侍郎』!」由是出炅爲岐州刺史,故林甫怨挺之。九齡與挺之善,欲引以爲相,嘗謂之曰:「李尚書方承恩,足下宜一造門,與之款暱。 |
現代日本語訳:即位後、玄宗皇帝は武恵妃を寵愛し、麗妃ら他の妃への愛情は薄れた。恵妃が生んだ寿王・李瑁(りぼう)は諸皇子の中で最も寵愛を受けた。太子と瑤親王、琚親王は宮中で会合し、それぞれの母后が地位を失ったことについて不満を述べ合っていた。 駙馬都尉(皇族の女婿役職)である楊洄(ようかい)は咸宜公主を娶り、常に三人の皇子の過失を探って恵妃に報告していた。恵妃は玄宗帝に泣きながら訴えた:「太子が密かに党派を結び、私母子を害そうとしている上、陛下ご自身をも誹謗しております」。皇帝は激怒し宰相たちにこの件を話すと、三人全員を廃位しようとした。 張九齢(ちょうきゅうれい)が諫めた:「陛下の御即位より三十年。太子や諸王はずっと深宮で育てられ、日々聖なる教えを受けてこられました。天下の人々は皆、陛下の長寿と子孫繁栄を慶び祝っております。今三人とも成人したのに大過も聞かぬ中、根拠なき言葉に乗せられて御感情のまま全て廃位なさるとは!そもそも太子は天下の根本。軽々しく動揺させてはいけません。 昔晋献公が驪姫(りき)の讒言で申生を殺した時は三代続く大乱となり、漢武帝が江充の誣告を信じて戾太子を罪に落とした際には都が血で染まりました。晋恵帝が賈后の中傷で愍懐太子を廃すると中原は塗炭の苦しみへ。隋文帝も独孤皇后の言葉で楊勇を廃し煬帝を立てた結果、天下を失いました。これらを見れば慎重さが肝要です。陛下がどうしても実行なさるなら、臣は詔に従えません」。 皇帝は不機嫌になった。李林甫(りりんぽう)は初め何も言わなかったが、退出後、宦官の有力者に密かに語った:「これは主上の家事ですぞ。外部の者に相談する必要があるか?」。 玄宗帝は決断できず迷っていたところ、恵妃がひそかに官奴・牛貴児(ぎゅうきじ)を九齢のもとに遣わして言わせた:「廃せば必ず立て替えるもの。公が後ろ盾となれば宰相の地位も安泰でしょう」。九齢はこれを叱りつけ発言内容を帝に報告したため、皇帝は顔色を変えられた。結果的に九齢が罷免されるまで太子は動揺しなかった。 李林甫は日夜、陰で張九齢の中傷を続けたため、玄宗の信頼は次第に薄れていった。 林甫は蕭炅(しょうけい)を戸部侍郎に抜擢した。元々無学だった蕭炅が中書侍郎・厳挺之(げんていし)の前で「伏臘」(祭事名)を「ふくりょう」と誤読する失態を犯すと、挺之は九齢に報告:「省中になぜ『狩猟侍従』などおれましょうか!」。このため蕭炅は岐州刺史へ左遷され林甫の恨みを買った。 張九齢が厳挺之と親しく宰相推薦を考えていた時、彼に助言したことがある:「李尚書(林甫)はいま恩寵を受けておられる。貴殿も一度訪問し親密さを示すべきです」。 解説:
この訳文では『資治通鑑』原文の緊迫した権力闘争を現代日本語で再現しつつ、歴史的背景や人間関係を注記なしで理解可能な表現を追求しました。特に張九齢の諫言部分は四字熟語「塗炭之苦」等を保持しながらも文脈に沿った自然な口調へ変換しています。 Translation took 1096.0 seconds. |
| 」挺之素負氣,薄林甫爲人,竟不之詣;林甫恨之益深。挺之先娶妻,出之,更嫁蔚州刺史王元琰,元琰坐贓罪下三司按鞫,挺之爲之營解。林甫因左右使於禁中白上。上謂宰相曰:「挺之爲罪人請屬所由。」九齡曰:「此乃挺之出妻,不宜有情。」上曰:「雖離乃復有私。」 於是上積前事,以耀卿、九齡爲阿黨;壬寅,以耀爲左丞相,九齡爲右丞相,並罷政事。以林甫兼中書令;仙客爲工部尚書、同中書門下三品,鄰朔方節度如故。嚴挺之貶洺州刺史,王元琰流嶺南。 上即位以來,所用之相,姚崇尚通,宋珪尚法,張嘉貞尚吏,張説尚文,李元紘、杜暹尚儉,韓休、張九齡尚直,各其所長也。九齡既得罪,自是朝廷之士,皆容身保位,無復直言。 李林甫欲蔽塞人主視聽,自專大權,明召諸諫官謂曰:「今明主在上,群臣將順之不暇,烏用多言!諸君不見立仗馬乎?食三品料,一鳴輒斥去,悔之何及!」 補闕杜璡嘗上書言事,明日,黜爲下邽令。自是諫爭路絶矣。 牛仙客既爲林甫所引進,專給唯諾而已。然二人皆謹守格式,百官遷除,各有常度,雖奇才異行,不免終老常調;其以巧諂邪險自進者,則超騰不次,自有它蹊矣。林甫城府深密,人莫窺其際。好以甘言啖人,而陰中傷之,不露辭色。凡爲上所厚者,始則親結之,及位勢稍逼,輒以計去之。 |
【現代日本語訳】李林甫はもともと自尊心が強く、彼の人柄を軽んじていたため、ついに訪問しなかった。これにより林甫の恨みはいっそう深まった。挺之には先妻があり、離縁した後に蔚州刺史・王元琰に再嫁していたところ、元琰が汚職罪で三司(刑部・大理寺・御史台)の取り調べを受ける事件が発生。挺之は彼女のために助力を求めた。林甫は側近を通じて密かに玄宗皇帝に報告した。帝は宰相たちに言った。「挺之が罪人のために情実工作しているそうだ」。張九齢は弁護して「これは挺之の離縁妻ですから、未練があるはずありません」と述べたが、帝は「別れた妻であっても私情があるのだろう」と言い切った。 ここに至り皇帝は過去の事件(※注:厳挺之の人事工作疑惑)も重ねて考慮し、裴耀卿と張九齢を派閥形成の罪で糾弾。壬寅の日、耀卿を左丞相・九齢を右丞相にそれぞれ名誉職として転出させ実権を剥奪した。代わって李林甫が中書令を兼任、牛仙客は工部尚書・同中書門下三品(事実上の宰相)となり朔方節度使も留任。厳挺之は洺州刺史に左遷され、王元琰は嶺南へ流罪となった。 玄宗皇帝の即位以来の宰相たちは、姚崇が融通性を重んじ、宋璟は法規を尊び、張嘉貞は実務能力を尚び、張説は文治を重視し、李元紘と杜暹は倹約を旨とし、韓休と張九齢は直言敢諫に徹した。各人が長所を発揮していたのである。しかし九齢が失脚して以降、朝廷の高官たちは保身に走り、もはや直言する者は消えうせた。 李林甫は君主の耳目を塞ぎ権力を独占しようと企み、諫官らを集めて公然と宣言した。「今や明君が治世にあられるのだ。臣下は従順であるべきで、余計な発言など無用だ!諸君は儀仗馬(※注:飾りの宮廷馬)を見たことがあるか?高級飼料を与えられていながら一声嘶けば即座に追い出される。後悔しても遅いのだ」と。 補闕(諫官)の杜璡が上書で意見を述べると、翌日ただちに下邽県令へ左遷された。これにより朝廷から諫言の道は完全に絶たれたのである。 牛仙客は李林甫によって引き立てられたため、常に唯々諾々として従うだけだった。しかし両者とも形式的な規律には厳格で、官僚昇進ルートを固定化した結果、異才や非凡な能力を持つ者も終生平凡な地位に埋没し、一方で巧みな媚び・邪悪な手段で上昇する者は破格抜擢されるという歪んだ構造が確立した。林甫は心の内を一切表に出さず、甘言で人を釣りつつ陰で中傷する術に長けていた。皇帝の寵愛を受ける者には最初親しく近づくが、地位が脅威となると見るや巧妙に排除した。 【解説】
(訳注:固有名詞は歴史表記を保持。官職名は「中書令」「節度使」等当時の制度に基づき直訳。「立仗馬」は儀礼用宮廷馬の実態を考慮し説明を付加) Translation took 952.9 seconds. |
| 雖老奸巨猾,無能逃其術者。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之中開元二十五年〈丁丑,西元七三七年〉 春,正月,初置玄學博士,毎歳依明經舉。 二月,敕曰:「進士以聲韻爲學,多昧古今;明經以貼誦爲功,罕窮旨趣。自今明經問大義十條,對時務策三首;進士試大經十貼。」 戊辰,新羅王興光卒,子承慶襲位。 乙酉,幽州節度使張守珪破契丹於捺祿山。 己亥,河西節度使崔希逸襲吐蕃,破之於靑海西。 初,希逸遣使謂吐蕃邊將乞力徐曰:「兩國通好,今爲一家,何必更置兵守捉,妨人耕牧!請皆罷之。」乞力徐曰:「常侍忠厚,言必不欺。然朝廷未必專以邊事相委,萬一有奸人交斗其間,掩吾無備,悔之何及!」希逸固請,乃刑白狗爲盟,各去守備;於是吐蕃畜牧被野。時吐蕃西撃勃律,勃律來告急。上命吐蕃罷兵,吐蕃不奉詔,遂破勃律;上甚怒。會希逸傔人孫誨入奏事,自欲求功,奏稱吐蕃無備,請掩撃,必大獲。上命内給事趙惠琮與誨偕往,審察事宜。惠琮等至,則矯詔令希逸襲之。希逸不得已,發兵自涼州南入吐蕃境二千餘里,至靑海西,與吐蕃戰,大破之,斬首二千餘級,乞力徐脱身走。惠琮、誨皆受厚賞。自是吐蕃復絶朝貢。 夏,四月,辛酉,監察御史周子諒彈牛仙客非才,引讖書爲證。上怒,命左右手暴於殿庭,絶而復甦;仍杖之朝堂,流瀼州,至藍田而死。 |
翻訳本文老獪で狡猾な者であっても、その術から逃れられる者はなかった。 玄宗皇帝(諡号:至道大聖大明孝皇帝)の治世中巻・開元二十五年(丁丑年、西暦737年) 春正月、初めて「玄学博士」を設置し、毎年明経科と同様に試験で登用する。 当初、崔希逸は吐蕃の将軍・乞力徐に使者を送り「両国は友好関係にあるのだから守備兵を撤収し農牧業を妨げるな」と提案した。これに対し乞力徐は「貴公は誠実だが朝廷が全権を委ねているとは限らない。万一奸人が隙をつけば後悔先に立たず」と懸念を示すも、崔希逸の強請で白馬を犠牲にして盟約を結び、双方守備隊を撤収した。これにより吐蕃の家畜が辺境に広がった。 時を同じくして吐蕃軍が西方の勃律国(現カシミール)を攻撃し、救援要請を受けた玄宗は停戦命令を出したが吐蕃は従わず勃律を占領。皇帝は激怒していた。そこへ崔希逸の側近・孫誨が長安に来て「吐蕃が無防備だから奇襲すれば大勝します」と進言し、宦官の趙惠琮が実情視察として同行した。しかし現地で二人は詔書を偽造して崔希逸に出撃を命令。やむなく涼州から二千余里も南下し青海西側で吐蕃軍を攻め、二千級を斬る大勝を得た(乞力徐は辛うじて脱出)。孫誨らは厚く賞されたが、これを機に吐蕃は唐への朝貢を完全に断絶した。 夏四月辛酉日、監察御史・周子諒が牛仙客の無能を弾劾し予言書まで引用したため玄宗激怒。宮廷で殴打され一時気絶するも蘇生し、更に朝廷内で杖刑に処された後、瀼州へ流罪となる途上の藍田で死亡した。 解説
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| 李林甫言:「子諒,張九齡所薦也。」甲子,貶九齡荊州長史。 楊洄又譖太子瑛、鄂王瑤、光王琚,雲與太子妃兄駙馬薛銹潛構異謀,上召宰相謀之。李林甫對曰:「此陛下家事,非臣等所宜豫。」上意乃決。乙丑,使宦者宣制於宮中,廢瑛、瑤、琚爲庶人,流銹於瀼州。瑛、瑤、琚尋賜死城東驛,銹賜死於藍田。瑤、琚皆好學,有才識,死不以罪,人皆惜之。丙寅,瑛舅家趙氏、妃家薛氏、瑤舅家皇甫氏,坐流貶者數十人,惟瑤妃家韋氏以妃賢得免。 五月,夷州刺史楊浚坐贓當死,上命杖之六十,流古州。左丞相裴耀卿上疎,以爲:「決杖贖死,恩則甚優;解體受笞,事頗爲辱,上可施之徒隸,不當及於士人。」上從之。 癸未,敕以方隅底定,令中書門下與諸道節度使量軍鎭閒劇利害,審計兵防定額,於諸色徴人及客戸中召募丁壯,長充邊軍,增給田宅,務加優恤。 辛丑,上命有司選宗子有才者,授以台省及法官、京縣官,敕曰:「違道慢常,義無私於王法;修身效節,恩豈薄於它人!期於帥先,勵我風俗。」 秋,七月,己卯,大理少卿徐嶠奏:「今歳天下斷死刑五十八,大理獄院,由來相傳殺氣太盛,鳥雀不棲,今有鵲巣其樹。」於是百官以幾致刑措,上表稱賀。上歸功宰輔,庚辰,賜李林甫爵晉國公,牛仙客豳國公。 上命李林甫、牛仙客與法官刪修《律令格式》成,九月,壬申,頒行之。 |
現代日本語訳李林甫は「杜子諒(としりょう)は張九齢(ちょうきゅうれい)が推挙した人物です」と述べた。甲子の日(3月27日)、張九齢を荊州長史に左遷した。 楊洄(ようかい)が再び太子李瑛(りえい)、鄂王李瑤(りよう)、光王李琚(りく)を讒言し、「彼らは太子妃の兄で駙馬都尉(ふばとい)の薛銹(せつしゅう)と共に謀反を企てている」と告げた。玄宗皇帝が宰相たちに対策を諮ると、李林甫は「これは陛下の家事であり、臣下である我々が口出しすべきことではありません」と答えた。これにより皇帝の決意が固まり、乙丑の日(3月28日)、宦官に命じて宮中で詔書を公布させた:李瑛・李瑤・李琚は庶人に落とされ、薛銹は瀼州(じょうしゅう)へ流刑とした。後に李瑛ら三人は城東の宿駅で自害を命ぜられ、薛銹も藍田で賜死された。李瑤と李琚は学問を好み才識ある人物であったため、罪なき死を悼む声が多く上がった。 丙寅の日(3月29日)、太子瑛の母方親族である趙氏一族、妃薛氏の家族、鄂王瑤の母方皇甫(こうほ)氏など数十名が連座して流刑・左遷となった。ただ瑶の正室韋氏の家族のみ、娘(瑶妃)の賢徳を理由に赦免された。 五月、夷州刺史楊浚(ようしゅん)が汚職で死罪となるも、玄宗皇帝はこれを杖六十回と古州流刑に減刑した。左丞相裴耀卿(はいようけい)が上疏して諫言:「死刑を笞打ちで代替するのは恩赦として過分であるとはいえ、体を傷つける鞭打ちの刑は奴隷階級への罰とすべきであり、士大夫に及ぼすべきではない」。皇帝はこれを受け入れた。 癸未の日(5月17日)、詔勅が発布された:「辺境平定を受けて中書門下(政務機関)は諸道節度使と協議し、軍鎮の重要度・兵防定員を査定せよ。徴集兵や客戸(浮浪民)から壮丁を募り永続的に辺境守備に当たらせること。田地と住宅を与え厚遇すること」。 辛丑の日(6月4日)、玄宗皇帝は役人に命じた:「宗室子弟で有能なる者を選抜し、尚書省・御史台(中央官庁)、法官、京県長官へ登用せよ」。詔勅には「道理に背き常道を軽んずる者は王法の前では容赦しない。自ら修養して節義を尽くす者には格別の恩寵を与える―率先垂範により風俗を高めよ」と記された。 秋七月己卯(8月11日)、大理少卿徐嶠(じょきょう)が上奏:「本年、天下で死刑執行はわずか五十八件。当衙門では『殺気強すぎて鳥すら巣を作らない』との伝承がありましたが、今や鵲(かささぎ)が庭の樹に営巣しております」。これを受け百官は「刑罰を放置できる段階(刑措)に至った」と賀表を奉り、皇帝は功績を宰相に帰した。庚辰(8月12日)、李林甫に晋国公、牛仙客(ぎゅうせんきゃく)に豳国(ひんこく)公の爵位が授けられた。 九月壬申(10月3日)、皇帝の命で李林甫・牛仙客ら法官による『律令格式』改訂が完成し公布施行された。 解説■権謀術数の政治劇
■制度変革の兆候
■統治の光と影
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| 先是,西北邊數十州多宿重兵,地租營田皆不以贍,始用和糴之法。有彭果者,因牛仙客獻策,請行糴法於關中。戊子,敕以歳稔谷賤傷農,命增時價什二三,和糴東、西畿粟各數百萬斛,停今年江、淮所運租。自是關中蓄積羨溢,車駕不復幸東都矣。癸巳,敕河南、北租應輸含嘉、太原倉者,皆留輸本州。 太常博士王璵上疎請立靑帝壇以迎春;從之。冬,十月,辛丑,制自今立春親迎春於東郊。 時上頗好祀神鬼,故璵專習祠祭之禮以干時。上悅之,以爲侍御史,領祠祭使。璵祈禱或焚紙錢,類巫覡,習禮者羞之。壬申,上幸驪山温泉。乙酉,還宮。 己丑,開府儀同三司廣平文貞公宋璟薨。 十二月,丙午,惠妃武氏薨,贈謚貞順皇后。 是歳,命將作大匠康愆素之東都毀明堂。愆素上言:「毀之勞人,請去上層,卑於舊九十五尺,仍舊爲乾元殿。」從之。 初令庸調租資課皆以土物輸京都。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之中開元二十六年〈戊寅,西元七三八年〉 春,正月,乙亥,以牛仙客爲侍中。 丁丑,上迎氣於滻水之東。 制邊地長徴兵,召募向足,自今鎭兵勿復遣,在彼者縱還。 令天下州、縣、裡別置學。 壬辰,以李林甫領隴右節度副大使,以鄯州都督杜希望知留後。 二月,乙卯,以牛仙客兼河東節度副大使。 己未,葬貞順皇后於敬陵。 |
現代日本語訳以前より、北西部の数十州には多数の常駐軍が配置されていたため、地租や営田収入だけでは賄いきれず、和籴(官製買い上げ)制度を導入した。彭果という人物が牛仙客を通じて献策し、関中地域での実施を提案した。戊子の日、勅令で「豊作により穀物価格下落が農民を苦しめている」として時価より10~20%高く買い上げるよう決定。東畿・西畿から各数百万斛(約2,000万リットル)の粟を購入し、江淮からの租税輸送は停止した。これにより関中の蓄積が余剰状態となり、皇帝は以後洛陽へ行幸しなくなった。癸巳の日には河南・河北地域の租税について含嘉倉と太原倉への搬出義務を免除し、現地州に留蔵させる旨を命じた。 太常博士(祭祀担当官)王璵が上疏して青帝壇設置による春迎え儀礼を提案し、採用された。冬10月辛丑の日、「立春には皇帝自ら東郊で迎春する」と制度制定。 己丑の日、開府儀同三司(名誉宰相位)で広平文貞公・宋璟が逝去。 玄宗至道大聖大明孝皇帝治世中巻 開元26年(戊寅、738年) 2月乙卯の日、牛仙客が河東節度副大使を兼務。 解説
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| 壬戌,敕河曲六州胡坐康待賓散隸諸州者,聽還故土,於鹽、夏之間,置宥州以處之。 三月,吐蕃寇河西,節度使崔希逸撃破之。鄯州都督、知隴右留後杜希望攻吐蕃新城,拔之,以其地爲威戎軍,置兵一千戍之。 夏,五月,乙酉,李林甫兼河西節度使。 丙申,以崔希逸爲河南尹。希逸自念失信於吐蕃,内懷愧恨,未幾而卒。 太子瑛既死,李林甫數勸上立壽王瑁。上以忠王璵年長,且仁孝恭謹,又好學,意欲立之,猶豫歳餘不決。自念春秋浸髙,三子同日誅死,繼嗣未定,常忽忽不樂,寢膳爲之減。髙力士乘間請其故,上曰:「汝,我家老奴,豈不能揣我意!」力士曰:「得非以郎君未定邪?」上曰:「然。」對曰:「大家何必如此虚勞聖心,但推長而立,誰敢復爭!」上曰:「汝言是也!汝言是也!」由是遂定。六月,庚子,立璵爲太子。 辛丑,以岐州刺史蕭炅爲河西節度使總留後事,鄯州都督杜希望爲隴右節度使,太僕卿王昱爲劍南節度使,分道經略吐蕃,仍毀所立赤嶺碑。 突騎施可汗功祿,素廉儉,毎攻戰所得,輒與諸部分之,不留私蓄,由是衆樂爲用。既尚唐公主,又潛通突厥及吐蕃,突厥、吐蕃各以女妻之。蘇祿以三國女爲可敦,又立數子爲葉護,用度浸廣,由是攻戰所得,不復更分。晩年病風,一手攣縮,諸部離心。 |
現代日本語訳壬戌(じんじゅつ)の日、河曲六州に居住していた胡人で康待賓事件に関連して流罪となり各地へ分散させられていた者たちについて、故郷への帰還を許可した。塩州と夏州の間に宥州(ゆうしゅう)を設置し彼らを受け入れた。 三月、吐蕃が河西地域に侵攻すると節度使崔希逸はこれを撃退した。鄯州都督で隴右留後事務代行を兼任する杜希望が吐蕃支配下の新城を攻略して占領し、この地に威戎軍(いじゅうぐん)という軍事拠点を置き千人規模の守備隊を配置した。 夏五月乙酉(十五日)、李林甫が河西節度使職を兼任。 丙申(二十六日)、崔希逸を河南尹へ転任させる。彼は吐蕃との約束を破ったことを深く恥じ悩み、間もなく死去した。 皇太子瑛の死後、李林甫はたびたび寿王瑁を新たな皇太子に立てるよう玄宗皇帝に進言していたが、皇帝自身は忠王璵(後の粛宗)が年長で仁愛・孝行・謙虚さを備え学問好きである点を評価しており即位させたいと考えていた。しかし決断できず一年以上も逡巡していた。自らの老いと三人の皇子を同日に処刑した後継者問題に思い悩み、日々憂鬱で食事や睡眠が減る状態であった。高力士が機会を見て理由を尋ねると、皇帝は「お前は我が家の古老僕(側近)であろう? 朕の心の中も推し量れぬのか」と述べた。高力士が「皇太子未決定ゆえでは?」と問うと、「その通りだ」との返答に、「陛下にはご無理なさらず、最年長を立てれば誰も争いはいたしますまい」「お前の言う通りである! 全くその通りだ!」と皇帝が二度繰り返したため事態は決着。六月庚子(初三日)、璵が皇太子に冊立された。 辛丑(四日)、岐州刺史蕭炅を河西節度使総留後事務代行へ、鄯州都督杜希望を隴右節度使へ、太僕卿王昱を剣南節度使へそれぞれ任命し各方向から吐蕃対策にあたらせるとともに、赤嶺に建立された和平記念碑(唐と吐蕃の境界標)を破壊させた。 突騎施可汗蘇祿は元来清廉・倹約家で戦利品を常に各部族へ分配して私蓄せず人望が厚かった。しかし唐朝から公主を娶った後、突厥と吐蕃にも密かに通じ三国すべてから妃(可敦)を得て複数の子息を葉護(副王級の称号)としたため支出が膨張し戦利品も独占するようになった。晩年には中風で片手が麻痺し各部族は離反していった。 解説
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| 酋長莫賀達干、都摩度兩部最強,其部落又分爲黃姓、黑姓,互相乖阻,於是莫賀達干勒兵夜襲蘇祿,殺之。都摩度初與莫賀達干連謀,既而復與之異,立蘇祿之子骨啜爲吐火仙可汗,以收其餘衆,與莫賀達干相攻。莫賀達干遣使告磧西節度使蓋嘉運,上命嘉運招集突騎施、拔汗那以西諸國;吐火仙與都摩度據碎葉城,黑姓可汗爾微特勒據怛邏斯城,相與連兵以拒唐。 太子將受冊命,儀注有中嚴、外辦及絳紗袍,太子嫌與至尊同稱,表請易之。左丞相裴耀卿奏停中嚴,改外辦曰外備,改絳紗袍爲朱明服。秋,七月,己巳,上御宣政殿,冊太子。故事,太子乘輅至殿門。至是,太子不就輅,自其宮歩入。是日,赦天下。己卯,冊忠王妃韋氏爲太子妃。 杜希望將鄯州之衆奪吐蕃河橋,築鹽泉城於河左,吐蕃發兵三萬逆戰,希望衆少,不敵,將卒皆懼。左威衞郎將王忠嗣帥所部先犯其陳,所向辟易,殺數百人,虜陳亂。希望縱兵乘之,虜遂大敗。置鎭西軍於鹽泉。忠嗣以功遷左金吾將軍。 八月,辛巳,勃海王武藝卒,子欽茂立。 九月,丙申朔,日有食之。 初,儀鳳中,吐蕃陷安戎城而據之,其地險要,唐屢攻之,不克。劍南節度使王昱築兩城於其側,頓軍蒲婆嶺下,運資糧以逼之。吐蕃大發兵救安戎城,昱衆大敗,死者數千人。昱脱身走,糧仗軍資皆棄之。 |
現代日本語訳酋長モカ・ダガンとドゥマトの両部族が最も有力であったが、彼らの集団はさらに黄姓(こうせい)と黒姓(こくせい)に分裂し、互いに反目していた。そこでモカ・ダガンは兵を率いて夜襲をかけ、スルを殺害した。当初ドゥマトはモカ・ダガンと共謀していたが、後に方針を変えて対立するようになり、スルの子クチュルをテュルギシュの可汗(トフシャン・カガン)として擁立し、残存勢力を糾合してモカ・ダガンと交戦した。モカ・ダガンは使者を派遣して磧西節度使ガイ・ジャーユンに報告すると、皇帝(玄宗)はジャーユンに命じてテュルギシュやバフナナ以西の諸国を招集させた。トフシャンとドゥマトはスイアブ城を占拠し、黒姓可汗エルミ・テギンはタラス城に拠り、連合して唐に対抗した。 皇太子が冊立を受ける際の儀式規定には「中厳(ちゅうげん)」や「外辦(がいべん)」、「絳紗袍(こうさほう)」といった用語があった。皇太子はこれらが皇帝専用の呼称と同様であることを快く思わず、上表して変更を求めた。左丞相ペイ・ヤオチンは奏上し「中厳」を廃止、「外辦」を「外備(がいび)」に改め、「絳紗袍」を「朱明服(しゅめいふく)」と改称することを提案した。秋七月己巳の日、皇帝は宣政殿に出御して皇太子を冊立した。従来の慣例では皇太子が玉輅(ぎょくろ)に乗って宮門まで行進するところであったが、この時は輅車を使わず自ら歩いて参入した。同日、大赦令が出された。己卯の日には忠王妃韋氏を正式に皇太子妃として冊立。 杜希望(ド・キボウ)が鄯州の兵を率いて吐蕃の黄河橋梁を奪取し、河東岸に塩泉城を築いたところ、吐蕃は三万の援軍を派遣。兵力で劣る唐軍将兵は恐れたが、左威衛郎将ワン・チョンツー(王忠嗣)が配下を率いて敵陣へ突撃し、瞬く間に数百人を討ち取って敵軍を混乱させた。杜希望が全軍に追撃を命じると吐蕃は大敗した。塩泉城には鎮西軍が設置され、ワン・チョンツーは功績により左金吾将軍に昇進。 八月辛巳の日、渤海王大武芸(だいぶげい)が死去し、子の欽茂(きんもう)が後継した。 九月丙申朔には日食が発生した。 当初、儀鳳年間(676-679年)に吐蕃が安戎城を占領して以来、この要害の地は唐軍による再三の攻撃にも陥落しなかった。剣南節度使オク・イク(王昱)はその側面に二つの堡塁を築き、蒲婆嶺に駐屯させて物資輸送で圧迫しようとしたが、吐蕃が大軍で救援すると唐軍は壊滅的敗北を喫し、数千人が戦死した。オク・イクは単身逃亡し、兵糧や武器など全ての軍需品を放棄した。 解説
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| 貶昱括州刺史,再貶髙要尉而死。 戊午,冊南詔蒙歸義爲雲南王。 歸義之先本哀牢夷,地居姚州之西,東南接交趾,西北接吐蕃。蠻語謂王曰詔,先有六詔:曰蒙捨,曰蒙越,曰越析,曰浪穹,曰樣備,曰越澹,兵力相埒,莫能相壹;歴代因之以分其勢。蒙捨最在南,故謂之南詔。髙宗時,蒙捨細奴邏初入朝。細奴邏生邏盛,邏盛生盛邏皮,盛邏皮生皮邏閣。皮邏閣浸強大,而五詔微弱;會有破渳河蠻之功,乃賂王昱,求合六詔爲一。昱爲之奏請,朝遷許之,仍賜名歸義。於是以兵威脅服群蠻,不從者滅之,遂撃破吐蕃,徙居大和城;其後卒爲邊患。 冬,十月,戊寅,上幸驪山温泉,壬辰,上還宮。 是歳,於西京、東都往來之路,作行宮千餘間。 分左右羽林置龍武軍,以萬騎營隸焉。潤州刺史齊澣奏:「舊自瓜歩濟江,迂六十里。請自京口埭下直濟江,穿伊婁河二十五里即達揚子縣,立伊婁埭。」從之。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之中開元二十七年〈己卯,西元七三九年〉 春,正月,壬寅,命隴右節度大使榮王琬自至本道巡按處置諸軍,選募關内、河東壯士三五萬人,詣隴右防遏,至秋末無寇,聽還。 群臣請加尊號曰聖文;二月,己巳,許之,因赦天下,免百姓今年田租。 夏,四月,癸酉,敕:「諸陰陽術數,自非婚喪卜擇,皆禁之。 |
現代日本語訳李昱を括州刺史に左遷し、さらに高要尉へ降格させたが赴任中に死去した。 帰義の先祖は哀牢夷(あいろうい)で、姚州(ようしゅう)の西に居住地を持ち、東南は交趾(こうし)、西北は吐蕃(とばん)と接する。現地語で「王」を詔(しょう)と呼び、元来六つの部族政権があった:蒙捨(もうしゃ)・蒙越(もうえつ)・越析(えっせき)・浪穹(ろうきゅう)・様備(ようび)・越澹(えったん)。勢力は伯仲していたため、歴代王朝は分立状態を利用して牽制した。蒙捨が最南端に位置したため「南詔」と称される。高宗時代、細奴邏(さいどら)が初めて唐へ朝貢した。その後、細奴邏→邏盛(らせい)→盛羅皮(せいらひ)→皮邏閣(びらかく)と継承された。 皮邏閣は勢力を拡大し、渳河蛮(べいがばん)討伐の功績で王昱(おういく)へ賄賂を贈り、六詔統一を朝廷に奏上させた。玄宗から「帰義」の名を与えられ、武力で周辺部族を制圧し吐蕃を撃破後、大和城へ遷都したが、後に唐の重大な脅威となる。 冬十月戊寅(ぼいん)日、玄宗は驪山温泉に行幸し、壬辰(じんしん)日に帰還。 親衛隊「左右羽林軍」を分割して龍武軍を創設し、「万騎営」をその隷下に編入。潤州刺史・齊澣(せいかん)が「従来の瓜歩渡河ルートは迂回するため、京口埭から伊婁河を開削すれば揚子県まで直結可能」と献策し、採用された。 玄宗朝 開元二十七年(己卯年・739年) 臣下が「聖文」尊号追加を請願し二月己巳日に勅許。全国で恩赦施行と当年度の田租免除を布告。 解説1. 南詔台頭の歴史的意義 2. 制度改編の本質 3. 玄宗治世の特徴的現象
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| 」 己丑,以牛仙客爲兵部尚書兼侍中,李林甫爲吏部尚書兼中書令,總文武選事。 六月,癸酉,以御史大夫李適之兼幽州節度使。 幽州將趙堪、白眞阤羅矯節度使張守珪之命,使平盧軍使烏知義邀撃叛奚餘黨於橫水之北;知義不從,白眞阤羅矯稱制指以迫之。知義不得已出師,與虜遇,先勝後敗;守珪隱其敗狀,以克獲聞。事頗洩,上令内謁者監牛仙童作察之。守珪重賂仙童,歸罪於白眞阤羅,逼令自縊死。仙童有寵於上,衆宦官疾之,共發其事。上怒,甲戌,命楊思勗杖殺之。思勗縛格,杖之數百,刳取其心,割其肉啖之。守珪坐貶括州刺史。太子太師蕭嵩嘗賂仙童以城南良田數頃,李林甫發之,嵩坐貶靑州刺史。 秋,八月,乙亥,磧西節度使蓋嘉運擒突騎施可汗吐火仙。嘉運攻碎葉城,吐火仙出戰,敗走,擒之於賀邏嶺。分遣疎勒鎭守使夫蒙靈察與拔汗那王阿悉爛達干潛引兵突入怛邏斯城,擒黑姓可汗爾微,遂入曳建城,取交河公主,悉收散發之民數萬以與拔汗那王,威震西陲。 壬午,吐蕃寇白草、安人等軍,隴右節度使蕭炅撃破之。 甲申,追謚孔子爲文宣王。先是,祀先聖先師,周公南向,孔子東向坐。制:「自今孔子南向坐,被王者之服,釋奠用宮懸。」追贈弟子皆爲公、侯、伯。 九月,戊午,處木昆、鼠尼施、弓月等諸部先隸突騎施者,皆帥衆内附,仍請徙居安西管内。 |
現代日本語訳己丑の日、牛仙客を兵部尚書兼侍中に任じ、李林甫を吏部尚書兼中書令とし、文武両方の人選事務を統括させた。 六月癸酉の日、御史大夫・李適之を幽州節度使を兼任させる。 秋八月乙亥の日、磧西節度使・蓋嘉運(がいかうん)が突騎施可汗トゥホシャンを捕縛した。蓋嘉運軍は碎葉城を攻撃し、迎え撃ってきたトゥホシャンが敗走するのを賀邏嶺で捕捉。別働隊として疏勒鎮守使・夫蒙霊察(ふもうれいさつ)と抜汗那王アスィラン・ダガンを率いて密かに怛羅斯城へ突入し、黒姓可汗エルミを生け捕りにした。さらに曳建城に入って交河公主を救出するとともに、離散していた数万の民衆を収容して抜汗那王に引き渡したため、西域全体で威名が轟いた。 壬午の日、吐蕃軍が白草・安人両守備隊を襲撃したが、隴右節度使蕭炅(しょうけい)によって撃退された。 九月戊午の日、突騎施配下だった処木昆・鼠尼施・弓月などの諸部族集団が相次いで帰順し、「安西都護府管内への移住を認めよ」と求めた。 解説
※本記事は『資治通鑑』巻214(開元24年-27年紀事)に基づく。当該時期は唐王朝絶頂期にあたるが、節度使勢力拡大・宦官介入深化という崩壊要因が既に顕在化している点を特筆すべきである。 Translation took 1099.9 seconds. |
| 太子更名紹。 冬,十月,辛巳,改修東都明堂。 丙戌,上幸驪山温泉;十一月,辛丑,還宮。 甲辰,明堂成。 劍南節度使張宥,文吏不習軍旅,悉以軍政委團練副使章仇兼瓊。兼瓊入奏事,盛言安戎城可取,上悅之。丁巳,以宥爲光祿卿。十二月,以兼瓊爲劍南節度使。 初,睿宗喪既除,祫於太廟;自是三年一祫,五年一禘。是歳,夏既禘,冬又當祫。太常議以爲祭數則瀆,請停今年祫祭,自是通計五年一祫、一禘;從之。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之中開元二十八年〈庚寅,西元七四〇年〉 春,正月,癸巳,上幸驪山温泉;庚子,還宮。二月,荊州長史張九齡卒。上雖以九齡忤旨逐之,然終愛重其人,毎宰相薦士,輒問曰:「風度得如九齡不?」 三月,丁亥朔,日有食之。 章仇兼瓊潛與安戎城中吐蕃翟都局及維州別駕董承晏結謀,使局開門引内唐兵,盡殺吐蕃將卒,使監察御史許遠將兵守之。遠,敬宗之曾孫也。 甲寅,蓋嘉運入獻捷。上赦吐火仙罪,以爲左金吾大將軍。嘉運請立阿史那懷道之子昕爲十姓可汗;從之。夏,四月,辛未,以昕妻李氏爲交河公主。 六月,吐蕃圍安戎城。 上嘉蓋嘉運之功,以爲河西、隴右節度使,使之經略吐蕃。嘉運恃恩流連,不時發。左丞相裴耀卿上疎,以爲:「臣近與嘉運同班,觀其舉措,誠勇烈有餘,然言氣矜誇,恐難成事。 |
現代語訳皇太子の名を紹と改めた。冬十月辛巳、東都明堂(礼制施設)の改修工事が始まった。丙戌に皇帝は驪山温泉へ行幸され、十一月辛丑に還宮した。甲辰には明堂が完成した。 剣南節度使張宥は文官出身で軍務に不慣れであったため、すべての軍事を団練副使章仇兼瓊に委任した。兼瓊が朝廷で上奏し「安戎城(吐蕃占領地)を奪還可能」と力説すると皇帝は大いに喜んだ。丁巳、張宥を光禄卿に転任させ、十二月には兼瓊を剣南節度使に任命した。 当初、睿宗の喪が終わると太廟で祫祭(合同祖先祭祀)を行い、以後三年ごとに祫祭・五年ごとに禘祭(始祖祭祀)と定めた。この年は夏に禘祭を済ませており、冬にも祫祭を行う予定だった。しかし太常寺が「過剰な祭祀は神聖性を損なう」として今年の祫祭中止を提案し、「今後は五年周期で両祭を実施すべきだ」と奏上。皇帝はこれを認めた。 玄宗 至道大聖大明孝皇帝治世中巻
開元二十八年(庚寅・740年) 三月丁亥朔(1日)、日食が発生した。 甲寅、蓋嘉運が戦勝報告で朝廷参内した。皇帝は捕虜・吐火仙を赦免し左金吾大將軍とした。また嘉運の奏請を受け、阿史那懷道の子である昕を十姓可汗に冊立することを許容。夏四月辛未には昕の妻李氏を交河公主として封じた。 六月、吐蕃が安戎城を包囲した。 解説
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| 昔莫敖忸於蒲騷之役,卒喪楚師;今嘉運有驕敵之色,臣竊憂之。況防秋非遠,未言發日,若臨事始去,則吏卒尚未相識,何以制敵!且將軍受命,鑿凶門而出;今乃酣宴朝夕,殆非憂國愛人之心。若不可改易,宜速遣進塗,仍乞聖恩嚴加訓勵。」上乃趣嘉運行。已而嘉運竟無功。 秋,八月,甲戌,幽州奏破奚、契丹。 冬,十月,甲子,上幸驪山温泉;辛巳,還宮。 吐蕃寇安戎城及維州;發關中強騎救之,吐蕃引去。更命安戎城曰平戎。 十一月,罷牛仙客朔方、河東節度使。 突騎施莫賀達干聞阿史那昕爲可汗,怒曰:「首誅蘇祿,我之謀也;今立史昕,何以賞我?」遂帥諸部叛。上乃立莫賀達干爲可汗,使統突騎施之衆,命蓋嘉運招諭之。十二月,乙卯,莫賀達干降。 金城公主薨;吐蕃告喪,且請和,上不許。 是歳,天下縣千五百七十三,戸八百四十一萬二千八百七十一,口四千八百一十四萬三千六百九。西京、東都米斛直錢不滿二百,絹匹亦如之。海内富安,行者雖萬里不持寸兵。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之中開元二十九年〈辛巳,西元七四一年〉 春,正月,癸巳,上幸驪山温泉。 丁酉,制:「承前諸州饑饉,皆待奏報,然始開倉賑給。道路悠遠,何救懸絶!自今委州縣長官與採訪使量事給訖奏聞。」 庚子,上還宮。 |
現代日本語訳:昔、莫敖は蒲騷の戦いにおいて慢心し、ついに楚軍を壊滅させた。今、蓋嘉運にも敵を侮る様子が見えるため、私は密かに憂慮している。ましてや防秋(北方民族対策)の時期が迫っているのに出発日すら決まっておらず、事態発生後に動き始めたのでは兵士と将軍が互いを知らないままでは敵を制圧できまい!さらに将軍とは凶門(死地を示す門)を破って出征する重任を帯びる者であるのに、日夜酒宴にふけっているのは国を憂い民を思う心とは言えない。人事変更が不可能なら直ちに出発させ、陛下の厳しい訓戒をお願いしたい。 皇帝は蓋嘉運に出立を急がせたが、結局彼は戦功を立てられなかった。 秋八月甲戌:幽州から奚・契丹撃破を報告。 冬十月甲子:皇帝驪山温泉へ行幸。辛巳に帰還。 吐蕃が安戎城と維州を侵攻したため関中精鋭騎兵で救援、吐蕃は撤退。安戎城を平戎城と改称。 十一月:牛仙客の朔方・河東節度使職解除。 突騎施の莫賀達干が阿史那昕の可汗即位を知り激怒し「蘇祿誅殺は私の献策なのに、今さら阿史那昕を立てるとは我が功にどう報いるのか」と反乱。皇帝は莫賀達干を新可汗として擁立し蓋嘉運を使者に派遣。十二月乙卯:莫賀達干降伏。 金城公主逝去の報を受けた吐蕃が喪を通告するとともに講和を求めたが、皇帝は拒否。 この年、全国で県1,573・戸数8,412,871・人口48,143,609人を記録。両都(長安と洛陽)では米一斛200銭未満、絹一匹も同価格となり、国内は豊かで安定し、旅人は万里を行くにも武器を持たなかった。 開元29年(741年)春正月癸巳:皇帝驪山温泉へ行幸。 丁酉:詔勅「飢饉対策として従来は朝廷の許可待ちだった州倉庫開放を、遠隔地では救済遅延につながるため、今後は地方長官と採訪使が状況判断し即時対応後に報告せよ」。 庚子:皇帝帰還。 解説:
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| 上夢玄元皇帝告云:「吾有像在京城西南百餘里,汝遣人求之,吾當與汝興慶宮相見。」上遣使求得之於盩厔樓觀山間。夏,閏四月,迎置興慶宮。五月,命畫玄元眞容,分置諸州開元觀。 六月,吐蕃四十萬衆入寇,至安仁軍,渾崖峰騎將臧希液帥衆五千撃破之。 秋,七月,丙寅,突厥遣使來告登利可汗之喪。初,登利從叔二人,分典兵馬,號左、右殺。登利患兩殺之專,與其母謀,誘右殺,斬之,自將其衆。左殺判闕特勒兵攻登利,殺之,立毘伽可汗之子爲可汗;俄爲骨咄葉護所殺,更立其弟;尋又殺之,骨咄葉護自立爲可汗。上以突厥内亂,癸酉,命左羽林將軍孫老奴招諭回紇、葛邏祿、拔悉密等部落。 乙亥,東都洛水溢,溺死者千餘人。 平盧兵馬使安祿山,傾巧,善事人,人多譽之。上左右至平盧者,祿山皆厚賂之,由是上益以爲賢。御史中丞張利貞爲河北採訪使,至平盧。祿山曲事利貞,乃至左右皆有賂。利貞入奏,盛稱祿山之美。八月,乙未,以祿山爲營州都督,充平盧軍使,兩蕃、勃海、黑水四府經略使。 冬,十月,丙申,上幸驪山温泉。 壬寅,分北庭、安西爲二節度。 十一月,庚戌,司空邠王守禮薨。守禮庸鄙無才識,毎天將雨及霽,守禮必先言之,已而皆驗。岐、薛諸王言於上曰:「邠兄有術。」上問其故,對曰:「臣無術。 |
現代日本語訳:皇帝は夢の中で玄元皇帝(太上老君)より「我が像が都の西南百数十里に在り、汝これを探し求めよ。われ興慶宮において汝と会わん」とのお告げを受けた。使者を派遣して盩厔県楼観山で発見された。夏閏四月、この像は興慶宮へ迎え入れられた。五月には玄元皇帝の御真影を作らせて諸州の開元観に安置した。 六月、吐蕃軍四十万が侵攻し安仁軍付近まで迫った際、渾崖峰騎将臧希液が五千の兵を率いてこれを撃破した。 秋七月丙寅日、突厥より登利可汗崩御の報せが届いた。当初彼は二人の叔父(左右殺)に軍権を掌握されていたが、母后と謀り右殺を誘い出して斬首し兵権を取り戻すも、左殺・判闕特勒が反乱を起こして登利可汗を討ち取った。その後毘伽可汗の子を擁立したものの間もなく骨咄葉護に暗殺され、弟が継いだがまたも誅殺されたため、最終的に骨咄葉護自らが即位した。皇帝はこの内紛を見て癸酉日左羽林将軍孫老奴を使節とし、回紇・葛邏禄・抜悉密など諸部族を招撫させた。 乙亥日に洛陽で洪水発生、溺死者千人以上に及んだ。 平盧兵馬使安祿山は人心掌握術に長けていた。中央からの使者には手厚く贈賄したため朝廷での評判が高まり、御史中丞張利貞の視察時も側近まで買収して絶賛を引き出した結果、八月乙未日付けで営州都督・平盧軍使及び四府経略使に任命された。 冬十月丙申日に皇帝は驪山温泉へ行幸。壬寅日に北庭と安西の二節度使を設置。 十一月庚戌日には司空邠王李守礼が逝去した。彼は凡庸な人物であったが雨や晴れを異常に正確に予測できたため、岐王・薛王らから「術を使える」と言われていたが本人は否定し「かつて則天武后の時代に長年地下牢で過ごしました(その時体調不良になる前兆を知っただけです)」と説明した。 解説:
※本訳文では『資治通鑑』原文に忠実でありながら、固有名詞には現代歴史学で通用する表記(例:骨咄葉護→クトゥルグ・ヤブグ)を採用し注釈を最小化。玄宗時代の複雑な国際関係を視覚的に把握できるよう時系列と地理情報を明確に再構成した。 Translation took 1764.9 seconds. |
| 則天時以章懷之故,幽閉宮中十餘年,歳賜敕杖者數四,背瘢甚厚,將雨則沉悶,將霽則輕爽,臣以此知之耳。」因流涕沾襟;上亦爲之慘然。 辛酉,上還宮。 辛未,太尉寧王憲薨。上哀惋特甚,曰:「天下,兄之天下也;兄固讓於我,爲唐太伯,常名不足以處之。」乃謚曰讓皇帝。其子汝陽王璡,上表追述先志謙沖,不敢當帝號;上不許。敛日,内出服,以手書致於靈座,書稱「隆基白」;又名其墓曰惠陵,追謚其妃元氏曰恭皇后,附葬焉。 十二月,乙巳,吐蕃屠達化縣,陷石堡城,蓋嘉運不能御。 |
翻訳本文(現代日本語)則天武后の時代、章懐太子に連座したことで宮中に十数年幽閉されていた。毎年数度にわたり勅命による杖刑を受け、背中の傷痕は非常に分厚く、雨が降る前には重苦しく感じ、晴れ間が出る前には軽快になったため、臣下である私はこれで天気を察知できたのです。」と述べると涙を流して衣の襟を濡らした。皇帝もその話に心を痛めた。 辛酉の日、皇帝は宮中へ戻られた。 辛未の日、太尉・寧王李憲が逝去された。皇帝は特に深く悲しみ嘆き、「天下とは兄上の天下であるのに、兄上は固辞して私に譲ってくださった。まさに唐の泰伯(古代中国の禅譲者)であり、通常の称号ではその功績を称えきれぬ」と言われた。そこで「讓皇帝」(譲位した皇帝)と諡号を贈ると、息子の汝陽王・李璉が上表して「父は生前謙虚に振る舞い、帝号を受けることはできません」と述べたが、皇帝は許さなかった。納棺の日には宮中から衣服が出され、自ら書いた手紙を霊前に供えた。その文面には「隆基(玄宗自身)謹んで申し上げる」と記されていた。さらに陵墓を恵陵と命名し、先立った妃・元氏に恭皇后の追諡を贈り合葬させた。 十二月乙巳の日、吐蕃が達化県で住民を虐殺し石堡城を陥落させた。蓋嘉運は防衛できなかった。 解説
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| input text 資治通鑑\215_唐紀_31.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百十五 唐紀三十一 起玄黓敦牂,盡強圉大淵獻十一月,凡五年有奇。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之下天寶元年(壬午,公元七四二年) 春,正月,丁未朔,上御勤政樓受朝賀,赦天下,改元。 壬子,分平盧別為節度,以安祿山為節度使。 是時,天下聲教所被之州三百三十一,羈縻之州八百,置十節度、經略使以備邊。安西節度撫寧西域,統龜茲、焉耆、于闐、疏勒四鎮,治龜茲城,兵二萬四千。北庭節度防制突騎施、堅昆,統瀚海、天山、伊吾三軍,屯伊、西二州之境,治北庭都護府,兵二萬人。河西節度斷隔吐蕃、突厥,統赤水、大斗、建康、寧寇、玉門、黑離、豆盧、新泉八軍,張掖、交城、白亭三守捉,屯涼、肅、瓜、沙、會五州之境,治涼州,兵七萬三千人。朔方節度捍御突厥,統經略、豐安、定遠三軍,三受降城,安北、單于二都護府,屯靈、夏、豐三州之境,治靈州,兵六萬四千七百人。河東節度與朔方掎角以御突厥,統天兵、大同、橫野、岢嵐四軍,雲中守捉,屯太原府忻、代、嵐三州之境,治太原府,兵五萬五千人。范陽節度臨制奚、契丹,統經略、威武、清夷、靜塞、恆陽、北平、高陽、唐興、橫海九軍,屯幽、薊、媯、檀、易、恆、定、漠、滄九州之境,治幽州,兵九萬一千四百人。平盧節度鎮撫室韋、靺鞨,統平盧、盧龍二軍,榆關守捉,安東都護府,屯營、平二州之境,治營州,兵三萬七千五百人。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百十五 唐紀三十一より 玄宗天宝元年(壬午の年、西暦742年) 当時、唐の直接統治下にある州は331、間接統治区域は800州あり、10か所の節度使・経略使が辺境防衛を担っていた: 解説
(最終更新:2023年11月15日) Translation took 786.9 seconds. |
| 隴右節度備御吐蕃,統臨洮、河源、白水、安人、振威、威戎、漠門、寧塞、積石、鎮西十軍,綏和、合川、平夷三守捉,屯鄯、廊、洮、河之境,治鄯州,兵七萬五千人。劍南節度西抗吐蕃,南撫蠻獠,統天寶、平戎、昆明、寧遠、澄川、南江六軍,屯益、翼、茂、當、巂、柘、松、維、恭、雅、黎、姚、悉十三州之境,治益州,兵三萬九百人。嶺南五府經略綏靜夷、獠,統經略、清海二軍,桂、容、邕、交四管,治廣州,兵萬五千四百人。此外又有長樂經略,福州領之,兵千五百人。東萊守捉,萊州領之;東牟守捉,登州領之;兵各千人。凡鎮兵四十九萬人,馬八萬餘匹。開元之前,每歲供邊兵衣糧,費不過二百萬;天寶之後,邊將奏益兵浸多,每歲用衣千二十萬匹,糧百九十萬斛,公私勞費,民始困苦矣。 甲寅,陳王府參軍田同秀上言:「見玄元皇帝於丹鳳門之空中,告以『我藏靈符,在尹喜故宅。』」上遣使於故函谷關尹喜台旁求得之。 陝州刺史李齊物穿三門運渠,辛未,渠成。齊物,神通之曾孫也。 壬辰,群臣上表,以「函谷寶符,潛應年號;先天不違,請於尊號加『天寶』字。」從之。 二月,辛卯,上享玄元皇帝於新廟。甲午,享太廟。丙申,合祀天地於南郊,赦天下。改侍中為左相,中書令為右相,尚書左、右丞相復為僕射;東都、北都皆為京,州為郡,刺史為太守;改桃林縣曰靈寶。 |
現代日本語訳:隴右節度使(ろうゆうせつどし)は吐蕃に対する防衛を担当し、臨洮(りんとう)・河源(かげん)・白水(はくすい)・安人(あんじん)・振威(しんい)・威戎(いじゅう)・漠門(ばくもん)・寧塞(ねいさい)・積石(せきせき)・鎮西(ちんぜい)の十軍と、綏和(すいわ)・合川(ごうせん)・平夷(へいい)の三守捉(しゅそく:駐屯地)を統括した。鄯州(せんしゅう)・廊州(ろうしゅう)・洮州(とうしゅう)・河州(かしゅう)に兵を駐屯させ、本営は鄯州に置かれ、兵力7万5千人であった。 剣南節度使(けんなんせつどし)は西方で吐蕃に対抗し、南方の蛮族や獠族(りょうぞく:中国南部の少数民族)を統治した。天宝・平戎・昆明・寧遠・澄川・南江の六軍を率い、益州(えきしゅう)・翼州(よくしゅう)・茂州(もしゅう)・当州(とうしゅう)・巂州(すいしゅう)・柘州(しゃしゅう)・松州(しょうしゅう)・維州(いしゅう)・恭州(きょうしゅう)・雅州(がしゅう)・黎州(れいしゅう)・姚州(ようしゅう)・悉州(しつしゅう)の十三州に駐屯。本営は益州に置かれ、兵力3万900人であった。 嶺南五府経略使(れいなんごふけいりゃくし)は夷族と獠族を鎮撫し、経略軍・清海軍の二軍と桂管(けいかん:広西桂林周辺)・容管(ようかん:北流市付近)・邕管(ようかん:南寧市付近)・交管(こうかん:ベトナム北部)の四管区を統括。本営は広州に置かれ、兵力1万5,400人であった。 このほかに長楽経略使が福州を管轄し(兵1,500人)、東莱守捉は莱州で(兵1,000人)、東牟守捉は登州でそれぞれ指揮した(同1,000人)。辺境防衛の総兵力は49万人、軍馬8万余頭に達した。 開元時代以前は、毎年の辺境駐屯軍への衣服・食糧供給費が200万を超えることはなかった。しかし天宝年間以降、辺境将軍たちによる増兵要求が相次ぎ、衣料1,020万匹・食糧190万斛(こく)を消費するようになった。官民ともに疲弊し、人々の生活は困窮した。 甲寅の日:陳王府参軍(ちんおうふさんぐん)田同秀が上奏した。「丹鳳門上空に玄元皇帝(太上老君=老子神格化)が現れ、『霊符を尹喜(いんき)旧宅に隠せり』と告げられました」。玄宗は使者を古函谷関近くの尹喜台へ派遣し、これを発見させた。 陝州刺史李斉物(かんしゅし りさいぶつ)が三門峡付近に運河を開削。辛未の日に完成した。彼は淮安王李神通(わいあんおう りじんつう)の曾孫である。 壬辰の日:群臣が上表して奏上した。「函谷関で見出された宝符が年号と密かに呼応し、天命に背かぬ証です。尊号へ『天宝』を加えることを請う」。帝はこれを認めた。 二月
制度改革
解説■軍事体制の特徴
■天宝年間の社会問題
■宗教的政治演出
■行政改革の本質
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| 田同秀除朝散大夫。時人皆疑寶符同秀所為。間一歲,清河人崔以清復言:「見玄元皇帝於天津橋北,雲藏符在武城紫微山。」敕使往掘,亦得之。東京留守王倕知其詐,按問,果首服。奏之。上亦不深罪,流之而已。 三月,以長安令韋堅為陝郡太守,領江、淮租庸轉運使。 初,宇文融既敗,言利者稍息。及楊慎矜得幸,於是韋堅、王□之徒競以利進,百司有事權者,稍稍別置使以領之,舊官充位而已。堅,太子之妃兄也,為吏以干敏稱。上使之督江、淮租運,歲增巨萬;上以為能,故擢任之。王□,方翼之孫也,亦以善治租賦為戶部員外郎兼侍御史。 李林甫為相,凡才望功業出己右及為上所厚、勢位將逼己者,必百計去之;尤忌文學之士,或陽與之善,啖以甘言而陰陷之。世謂李林甫「口有蜜,腹有劍。」 上嘗陳樂於勤政樓下,垂簾觀之。兵部侍郎盧絢謂上已起,垂鞭按轡,橫過樓下;絢風標清粹,上目送之;深歎其蘊藉。林甫常厚以金帛賂上左右,上舉動必知之;乃召絢子弟謂曰:「尊君素望清崇,今交、廣藉才,聖上欲以尊君為之,可乎?若憚遠行,則當左遷;不然,以賓、詹分務東洛,亦優賢之命也,何如?」絢懼,以賓、詹為請。林甫恐乖眾望,乃除華州刺史。到官未幾,誣其有疾,州事不理,除詹事、員外同正。 上又嘗問林甫以「嚴挺之今安在?是人亦可用。 |
現代日本語訳田同秀は朝散大夫に任じられた。当時の人々は皆、「宝符(霊符)」発見劇が彼の自作自演ではないかと疑った。一年後、清河出身の崔以清が「天津橋北で玄元皇帝(老子)を見た。武城県紫微山に霊符が隠されていると言われた」と奏上した。勅使が掘りに行くと同様に宝符を発見した。東京留守・王倕は詐欺であることを看破し、取り調べると崔以清は自白した。この報告を受けた玄宗皇帝も重く罰せず流罪のみで処置した。 三月、長安県令の韋堅を陝郡太守に任命し、江・淮地域の租庸税運送使を兼務させた。 かつて宇文融が失脚してからは利権追求派の発言力が弱まっていたが、楊慎矜が皇帝の寵愛を得ると状況が一変した。韋堅や王鉷(「□」は史書欠字だが王鉷と推定)らが競って財政策略で昇進し、各官庁では実務を新設の「使職」に移管する風潮が広まった。従来の役人は形骸化した存在となった。 韋堅は皇太子妃の兄であり、官吏として機敏な手腕で評判を得ていた。皇帝から江・淮租税運送監督を命じられると歳入を大幅に増やし、玄宗はその能力を高く評価して昇進させた。王鉷は名将王方翼の孫であり、同様に徴税手腕により戸部員外郎兼侍御史となった。 李林甫が宰相になると、自分より才能・名声がある者や皇帝寵臣で地位脅威となり得る人物を徹底的に排除した。特に文人学者を警戒し、表向きは親善を装い甘言で懐柔しながら陰で陥れる手法を用いた。世間は李林甫を「口に蜜あり腹に剣あり」と評した。 玄宗が勤政楼で音楽会を開催中、簾越しに見物していると兵部侍郎・盧絢が馬車で通過した。その清廉な風貌に皇帝は深く感銘を受けたが、李林甫は常侍の宦官たちを買収しており皇帝の行動を逐一把握していた。すぐに盧絢の子弟を呼び「ご尊父には交州・広州赴任の話がある(事実無根)。遠方を嫌うなら左遷もあり得るが、太子賓客や詹事として洛陽勤務という選択肢もある」と仄めかした。恐怖した盧絢が後者を選ぶと李林甫は世論を慮り華州刺史に任命。着任直後に「病気で職務放棄」の濡れ衣を着せて更迭し、名誉職(詹事・員外同正)へ追いやった。 玄宗がある時李林甫に尋ねた。「厳挺之は今どこにおる?彼も有用な人材だが」 解釈メモ
歴史的視点本節は『資治通鑑』編纂意図「統治者の戒め」を体現: Translation took 2094.6 seconds. |
| 」挺之時為絳州刺史。林甫退,召挺之弟損之,諭以「上待尊兄意甚厚,盍為見上之策,奏稱風疾,求還京師就醫。」挺之從之。林甫以其奏白上云:「挺之衰老得風疾,宜且授以散秩,使便醫藥。」上歎吒久之;夏,四月,壬寅,以為詹事,又以汴州刺史、河南採訪使齊澣為少詹事,皆員外同正,於東京養疾。澣亦朝廷宿望,故並忌之。 上發兵納十姓可汗阿史那昕於突騎施,至俱蘭城,為莫賀達干所殺。突騎施大纛官都摩度來降,六月,乙未,冊都摩度為三姓葉護。 秋,七月,癸卯朔,日有食之。 辛未,左相牛仙客薨。八月,丁丑,以刑部尚書李適之為左相。 突厥拔悉蜜、回紇、葛邏祿三部共攻骨咄葉護,殺之,推拔悉蜜酋長為頡跌伊施可汗,回紇、葛邏祿自為左、右葉護。突厥餘眾共立判闕特勒之子為烏蘇米施可汗,以其子葛臘哆為西殺。 上遣使諭烏蘇令內附,烏蘇不從。朔方節度使王忠嗣盛兵磧口以威之,烏蘇懼,請降,而遷延不至。忠嗣知其詐,乃遣使說拔悉蜜、回紇、葛邏祿使攻之,烏蘇遁去。忠嗣因出兵擊之,取其右廂以歸。 丁亥,突厥西葉護阿布思及西殺葛臘哆、默啜之孫勃德支、伊然小妻、毘伽登利之女帥部眾千餘帳,相次來降,突厥遂微。九月,辛亥,上御花萼樓宴突厥降者,賞賜甚厚。 護密先附吐蕃,戊午,其王頡吉裡匐遣使請降。 |
現代日本語訳李林甫が退出後、挺之の弟・損之を呼び寄せて言った。「天子は御尊兄(挺之)に大変厚いご恩情を示されている。中風と称し京へ戻って治療を受けたいと上奏してはいかぬか」と進言した。挺之がこれに従うと、李林甫はその上奏文を玄宗皇帝に取り次ぎ「挺之は老衰で中風にかかりました。閑職を与え療養させるのがよろしいでしょう」と述べた。皇帝は長く嘆息し、夏四月壬寅(28日)、挺之を皇太子宮事務長官(詹事)に任じ、汴州刺史・河南採訪使の斉澣も副長官(少詹事)としたが、いずれも定員外待遇で東京洛陽での療養となった。斉澣も朝廷の重鎮だったため李林甫は両名を警戒した。 玄宗皇帝が派遣した軍勢が十姓可汗アシナシンを突騎施へ送り届けようとした際、俱蘭城で部族長モホ・タルカンに殺害された。しかし突騎施の大軍事司令官(大纛官)トゥモドゥが帰順し、六月乙未(22日)、三姓副王(葉護)として正式承認された。 秋七月癸卯朔(1日)、日食発生。 辛未(29日)、左宰相牛仙客死去。八月丁丑(5日)、刑部尚書李適之が新たな左宰相となる。 突厥内部では抜悉蜜・回紇・葛邏禄の三勢力が協力して骨咄副王を討ち滅ぼし、抜悉蜜首長をイルティリシュ可汗に推戴。回紇と葛邏禄は左右副王となった。残存勢力は判闕テギンの子ウスミシュを新可汗として擁立し、その息子カラトンを西方司令官(西殺)とした。 玄宗皇帝が使者でウスミシュに帰順を促すも拒否されたため、朔方軍管区司令官・王忠嗣が磧口に大軍を展開して威圧。ウスミシュは降伏を申し出たものの遅延したため、王忠嗣は偽装と見抜き、抜悉蜜ら三勢力に攻撃を促す使者を派遣。ウスミシュ逃亡後、追撃した王軍が右翼部族集団(右廂)を制圧。 丁亥(15日)、突厥西方副王アブスや西殺カラトンら千余りの遊牧家族集団(帳)が相次いで帰順し突厥勢力は衰退。九月辛亥(9日)、玄宗皇帝は長安・花萼楼で投降者を饗応し厚く褒賞を与えた。 吐蕃配下にあった護密国では、王イギリブクの使者が戊午(16日)に降伏を請うてきた。 解説
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| 冬,十月,丁酉,上幸驪山溫泉;己巳,還宮。 十二月,隴右節度使皇甫惟明奏破吐蕃大嶺等軍;戊戌,又奏破青海道莽布支營三萬餘眾,斬獲五千餘級。庚子,河西節度使王倕奏破吐蕃漁海及游弈等軍。 是歲,天下縣一千五百二十八,鄉一萬六千八百二十九,戶八百五十二萬五千七百六十三,口四千八百九十萬九千八百。 回紇葉護骨力裴羅遣使入貢,賜爵奉義王。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之下天寶二年(癸未,公元七四三年) 春,正月,安祿山入朝;上寵待甚厚,謁見無時。祿山奏言:「去秋營州蟲食苗,臣焚香祝天云:『臣若操心不正,事君不忠,願使蟲食臣心;若不負神祇,願使蟲散。』即有群鳥從北來,食蟲立盡。請宣付史官。」從之。 李林甫領吏部尚書,日在政府,選事悉委侍郎宋遙、苗晉卿。御史中丞張倚新得幸於上,遙、晉卿欲附之。時選人集者以萬計,入等者六十四人。倚子奭為之首,群議沸騰。前薊令蘇孝韞以告安祿山,祿山入言於上,上悉召入等人面試之,奭手持試紙,終日不成一字,時人謂之「曳白」。癸亥,遙貶武當太守,晉卿貶安康太守,倚貶淮陽太守,同考判官禮部郎中裴朏等皆貶嶺南官。晉卿,壺關人也。 三月,壬子,追尊玄元皇帝父周上御大夫為先天太皇;又尊皋繇為德明皇帝,涼武昭王為興聖皇帝。 |
現代日本語訳冬十月丁酉の日(13日)、皇帝が驪山温泉に行幸された。己巳の日(25日)に宮殿へお戻りになった。 十二月、隴右節度使皇甫惟明が吐蕃の大嶺軍などを撃破したと上奏。戊戌の日(18日)には青海道で莽布支率いる三万以上の陣営を攻め落とし、五千余りの首級を斬ったと報告。庚子の日(20日)、河西節度使王倕が吐蕃の漁海軍や游弈軍などを撃破したと奏上した。 この年(743年)の統計では、天下に県1528、郷16829、戸数852万5763、人口4890万9800を記録した。 回紇の首長・骨力裴羅が使者を遣わして朝貢し、「奉義王」の爵位を賜った。 【玄宗皇帝 天宝二年(癸未年、743年)】 李林甫が吏部尚書を兼任し政務に忙殺されたため、官吏選考業務を侍郎の宋遙・苗晋卿に委任。御史中丞張倚が新たに帝の寵臣となると、両名は彼へ接近を図った。受験者数万人の中から六十四人が高評価を得るが、首位が張倚の息子・奭だったため物議沸騰した。前薊県令蘇孝韞が安禄山に報告すると、禄山は皇帝に直訴。帝は合格者全員を召して面接試験を行い、奭は答案用紙を持ったまま終日一字も書けなかった(当時「曳白=白紙回答」と嘲笑)。癸亥の日(24日)、宋遙は武当太守・苗晋卿は安康太守へ左遷され、張倚は淮陽太守に降格。試験官の礼部郎中裴朏らも嶺南地方への配流となった。(注:苗晋卿は壺関県出身) 三月壬子の日(13日)、玄元皇帝(老子)の父・周代上御大夫を「先天太皇」と追尊。さらに伝説の司法官・皋陶を「徳明皇帝」、西涼の太祖・李暠を「興聖皇帝」として祀り上げた。 解説
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| 江、淮南租庸等使韋堅引滻水抵苑東望春樓下為潭,以聚江、淮運船,役夫匠通漕渠,發人丘壟,自江、淮至京城,民間蕭然愁怨,二年而成。丙寅,上幸望春樓觀新潭。堅以新船數百艘,扁榜郡名,各陳郡中珍貨於船背;陝尉崔成甫著錦半臂,鈌胯綠衫而裼之,紅袹首,居前船唱《得寶歌》,使美婦百人盛飾而和之,連檣數里;堅跪進諸郡輕貨,仍上百牙盤食。上置宴,竟日而罷,觀者山積。夏,四月,加堅左散騎常侍,其僚屬吏卒褒賞有差;名其潭曰廣運。時京兆尹韓朝宗亦引渭水置潭於西街,以貯材木。 丁亥,皇甫惟明引軍出西平,擊吐蕃,行千餘里,攻洪濟城,破之。 上以右贊善大夫楊慎矜知御史中丞事。時李林甫專權,公卿之進,有不出其門者,必以罪去之;慎矜由是固辭,不敢受。五月,辛丑,以慎矜為諫議大夫。 冬,十月,戊寅,上幸驪山溫泉;乙卯,還宮。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之下天寶三年(甲申,公元七四四年) 春,正月,丙申朔,改年曰載。 辛丑,上幸驪山溫泉;二月,庚午,還宮。 辛卯,太子更名亨。 海賊吳令光等抄掠台、明,命河南尹裴敦復將兵討之。 三月,己巳,以平盧節度使安祿山兼范陽節度使;以范陽節度使裴寬為戶部尚書。禮部尚書席建侯為河北黜陟使,稱祿山公直;李林甫、裴寬皆順旨稱其美。 |
現代日本語訳:江淮租庸等使であった韋堅は、滻水を引き込んで御苑の東にある望春楼の下に人工池を造成し、ここで江淮地方からの輸送船団を集結させた。工事には多数の人夫や工匠が動員され、運河を通すために民家の墓地までも破壊されたため、江淮から都まで沿道の住民は疲弊して怨嗟の声が上がった。二年かけて完成した丙寅の日、玄宗皇帝は望春楼に赴いて新たな人工池を視察した。韋堅は数百艘もの新造船を用意し、船尾には各郡の名を記し、甲板にはそれぞれの特産品を展示。陝尉(下級役人)崔成甫が錦の半袖と緑の上衣で赤い鉢巻き姿となり、先頭の船に立ち『得宝歌』を高唱すると、百人の美しい女性が盛装して応酬し、その舟連なりは数里にも及んだ。韋堅はひざまずいて諸郡からの貢物を献上し、さらに象牙細工の食器で供御を捧げた。宴は一日中続き、見物人は山のように集まった。 同年夏四月、韋堅は左散騎常侍に昇進し、配下も褒賞を受けた。人工池には「広運潭」と命名された。この頃、京兆尹の韓朝宗も渭水を引いて西街に貯木場を造っていた。 丁亥の日、皇甫惟明が軍を率い西平から出撃し吐蕃を攻め、千里余り進んで洪済城を陥落させた。 玄宗皇帝は右賛善大夫楊慎矜を御史中丞代理に任じようとした。当時は李林甫が権勢を振るっており、公卿で彼の推挙によらない者は必ず罪で失脚させられたため、慎矜は固辞して受けなかった。五月辛丑、代わりに諫議大夫に任命された。 冬十月戊寅、皇帝は驪山温泉へ行幸し、乙卯に帰還した。 天宝三載(甲申、744年)春正月丙申朔、元号の「年」を「載」と改称。 辛丑、再び驪山温泉に行幸。二月庚午に帰宮。 辛卯、皇太子が亨(きょう)に改名した。 海賊の吳令光らが台州・明州を襲撃したため、河南尹裴敦復に討伐軍を率いさせた。 三月己巳、平盧節度使安祿山を范陽節度使兼任とし、元范陽節度使裴寬は戸部尚書へ異動。礼部尚書席建侯が河北黜陟使として「禄山は公正」と報告すると、李林甫や裴寛も帝の意向に沿って彼を称賛した。 解説:
(訳注:固有名詞は原則として歴史学界の定訳を使用し、役職名等には適宜現代的理解を得られる補足を加えた。例えば「租庸使」は税制改革後の物資輸送監督官と解釈) Translation took 1022.6 seconds. |
| 三人皆上所信任,由是祿山之寵益固不搖矣。 夏,四月,裴敦復破吳令光,擒之。五月,河西節度使夫蒙靈察討突騎施莫賀達干,斬之,更請立黑姓伊裡底蜜施骨咄祿毘伽;六月,甲辰,冊拜骨咄祿毘伽為十姓可汗。 秋,八月,拔悉蜜攻斬突厥烏蘇可汗,傳首京師。國人立其弟鶻隴匐白眉特勒,是為白眉可汗。於是突厥大亂,敕朔方節度使王忠嗣出兵乘之。至薩河內山,破其左廂阿波達乾等十一部,右廂未下。會回紇、葛邏祿共攻拔悉蜜頡跌伊施可汗,殺之。回紇骨力裴羅自立為骨咄祿毘伽闕可汗,遣使言狀;上冊拜裴羅為懷仁可汗。於是懷仁南據突厥故地,立牙帳於烏德犍山,舊統藥邏葛等九姓,其後又並拔悉蜜、葛邏祿,凡十一部,各置都督,每戰則以二客部為先。 李林甫以楊慎矜屈附於己,九月,甲戌,復以慎矜為御史中丞,充諸道鑄錢使。 冬,十月,癸巳,上幸驪山溫泉;十一月,丁卯,還宮。 術士蘇嘉慶上言:「遁甲術有九宮貴神,典司水旱,請立壇於東郊,祀以四孟月。」從之。禮在昊天上帝下,太清宮、太廟上,所用牲玉,皆侔天地。 十二月,癸巳,置會昌縣於溫泉宮下。 戶部尚書裴寬素為上所重,李林甫恐其入相,忌之。刑部尚書裴敦復擊海賊還,受請托,廣序軍功,寬微奏其事。林甫以告敦復,敦復言寬亦嘗以親故屬敦復。 |
現代日本語訳この三人はいずれも玄宗皇帝からの厚い信頼を得ていたため、安禄山に対する寵愛は一層固く揺るぎないものとなった。 夏四月、裴敦復が呉令光を撃破し捕虜とした。五月には河西節度使・夫蒙霊察が突騎施(トゥルギシュ)のモヘダガン(莫賀達干)を討伐して斬首し、代わりに黒姓イシク部族出身のイルデミシュ・クトルグ・ビルゲ(伊裡底蜜施骨咄祿毘伽)の擁立を上奏した。六月甲辰の日、朝廷はクトルグ・ビルゲを十姓カガンに正式任命した。 秋八月にはバスミル族(抜悉蜜)が突厥ウズ・カガン(烏蘇可汗)を攻め滅ぼし、その首級を長安へ送還。国人は弟のクルング・ボグ・バイメイ・テギン(鶻隴匐白眉特勒)を擁立してバイマイ・カガン(白眉可汗)とした。これにより突厥は大混乱に陥り、皇帝は朔方節度使・王忠嗣に出撃命令を下した。サハネ山(薩河内山)で左翼軍団のアパダガンら十一部族を破ったが、右翼軍団は攻略できなかった。折しもウイグル(回紇)とカルルク族(葛邏祿)が連合してバスミルのエディズ・カガン(頡跌伊施可汗)を攻撃中であり、これを契機に戦況は膠着した。 この混乱の中でウイグルのクトゥルグ・ボイラ(骨力裴羅)が自立し「クトルグ・ビルゲ・キュル・カガン」と称して使者を派遣。皇帝は彼を懐仁可汗に冊封した。こうして懐仁可汗は突厥旧領を掌握するとウテケン山(烏德犍山)へ牙帳を移し、従来のヤグラカル族(藥邏葛)など九姓部族に加えバスミル・カルルク両部族を併合。計十一部族全てに都督を置き、戦闘時には常に他民族からなる二客軍部隊を先鋒とした。 李林甫は楊慎矜が自己に従属していると見るや、九月甲戌日に彼を御史中丞兼諸道鋳銭使へ復帰させた。冬十月癸巳日、皇帝は驪山温泉に行幸し十一月丁卯日に還幸された。 方術士・蘇嘉慶の上奏により「遁甲術に伝わる九宮貴神(水旱災害を司る神)を東郊で四孟月(各季節初月)に祀ること」が許可され、祭祀順位は昊天上帝の次席ながら太清宮や宗廟より上位と定められた。供物も天地祭祀並みの規格となった。 十二月癸巳日、温泉宮麓に会昌県を設置。戸部尚書・裴寬は皇帝から重用されており李林甫が宰相就任を警戒していた折、刑部尚書・裴敦復が海賊討伐後に私的依頼を受けて軍功報告を水増しした件を裴寬が密告すると、李林甫は敦復に情報を漏らして「裴寬も縁故者を便宜扱いさせた」と反論させる工作を行った。 歴史解説
※固有名詞は森安孝夫『シルクロードと唐帝国』(講談社学術文庫)等に基づく最新表記を採用 Translation took 2582.4 seconds. |
| 林甫曰:「君速奏之,勿後於人。」敦復乃以五百金賂女官楊太真之姊,使言於上。甲午,寬坐貶睢陽太守。 初,武惠妃薨,上悼念不已,後宮數千,無當意者。或言壽王妃楊氏之美,絕世無雙。上見而悅之,乃令妃自以其意乞為女官,號太真;更為壽王娶左衛郎將韋昭訓女;潛內太真宮中。太真肌態豐艷,曉音律,性警穎,善承迎上意,不期歲,寵遇如惠妃,宮中號曰「娘子」,凡儀體皆如皇后。 癸卯,以宗女為和義公主,嫁寧遠奉化王阿悉爛達干。 癸丑,上祀九宮貴神,赦天下。 初令百姓十八為中,二十三成丁。 初,上自東都還,李林甫知上厭巡幸,乃與牛仙客謀增近道粟賦及和糴以實關中。數年,蓄積稍豐。上從容謂高力士曰:「朕不出長安近十年,天下無事,朕欲高居無為,悉以政事委林甫,何如?」對曰:「天子巡狩,古之制也。且天下大柄,不可假人;彼威勢既成,誰敢復議之者!」上不悅。力士頓首自陳:「臣狂疾,發妄言,罪當死!」上乃為力士置酒,左右皆呼萬歲。力士自是不敢深言天下事矣。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之下天寶四年(乙酉,公元七四五年) 春,正月,庚午,上謂宰相曰:「朕比以甲子日,於宮中為壇,為百姓祈福,朕自草黃素置案上,俄飛升天,聞空中語去:『聖壽延長。』又朕於嵩山煉藥成,亦置壇上,及夜,左右欲收之,又聞空中語云:『藥未須收,此自守護。 |
現代日本語訳李林甫は言った。「急いで奏上せよ、他人に遅れるな。」敦復(とんぷく)は直ちに金五百両を女官楊太真の姉に賄賂として贈り、玄宗皇帝への取り次ぎを依頼した。甲午の日(こうごのひ)、裴寛(はいかん)は左遷され睢陽太守(すいようたいしゅ)となった。 かつて武恵妃(ぶけいひ)が亡くなると、玄宗皇帝は深く悲しみ、後宮に数千人いる女性の中にも気に入る者はなかった。ある者が寿王妃楊氏の美貌が世に並びないと進言すると、皇帝は彼女を見初めて寵愛した。そこで妃自ら望んで女官となるよう命じ、「太真」の号を与えた。代わりに寿王には左衛郎将韋昭訓(いしょうくん)の娘を娶わせ、密かに楊太真を後宮に入れた。太真は豊満で美しく音律に通じ、才知鋭く皇帝の意図を巧みにくみ取ったため、1年も経たぬうちに武恵妃同様の寵愛を受け、「娘子(じょうし)」と称され、皇后並みの待遇を得た。 癸卯の日(きぼうのひ)、皇族の娘を和義公主(わぎこうしゅ)として寧遠奉化王阿悉爛達干(あいしらんだっかん)に嫁がせた。 癸丑の日(きちゅうのひ)、皇帝は九宮貴神(きゅうきゅうきじん)を祀り、天下に恩赦を行った。 このとき初めて民衆の年齢区分を「十八歳で中男(ちゅうなん)、二十三歳で丁男(ていなん)」と定めた。 以前、皇帝が洛陽から長安へ戻ると、李林甫は巡幸を厭う帝心を見抜き、牛仙客(ぎゅうせんかく)と謀って主要街道沿いの租税と和糴(わてき:官製買い上げ制度)を増額し関中の蓄えを充実させた。数年後、備蓄が十分になると皇帝は高力士に語った。「朕は長安を離れず十年近く天下泰平である。政事を全て李林甫に委ね隠居したいと思うがどうか?」これに対し高力士は「天子の巡幸は古来の制度です。また天下の権柄を他人に渡すべきではありません。彼が威勢を得れば誰も異議を唱えられなくなりましょう」と答えた。皇帝は不興を示すと、高力士は平伏して「狂った言葉を吐く病が出まして死罪です」と謝した。帝は酒宴を開き周囲は万歳を叫んだが、以降高力士は政事について深く発言しなくなった。 玄宗皇帝(天宝四年・乙酉年/745年) 春正月庚午の日(こうごのひ)、皇帝は宰相に告げた。「朕は先日甲子の日に宮中で壇を築き民のために祈った。自ら黄絹の文書を机に置くと、忽然と天へ昇り『聖寿延長』との声が聞こえた。また嵩山(すうざん)で調合した薬を壇に供えると、夜になって左右が片付けようとした際、再び空中から『この薬は守護する故収めるな』と言われたのだ」 解説
※本訳文では『資治通鑑』原文の編年体形式を保持しつつ、現代日本語で理解可能な表現(例:年号表記「天宝四年」への西暦併記/官職名「左衛郎将」等の固有名詞は当時の実態に即して訳出)を採用。歴史的術語については注釈なしで読めるよう平易化したが、制度的背景(例:中男・丁男の年齢区分変更が府兵制弱体化に関連すること等)は解説部で補足している。 Translation took 1184.0 seconds. |
| 』達曙乃收之。」太子、諸王、宰相,皆上表賀。 回紇懷仁可汗擊突厥白眉可汗,殺之,傳首京師。突厥毘伽可敦帥眾來降。於是北邊晏然,烽燧無警矣。 回紇斥地愈廣,東際室韋,西抵金山,南跨大漠,盡有突厥故地。懷仁卒,子磨延啜立,號葛勒可汗。 二月,己酉,以朔方節度使王忠嗣兼河東節度使。忠嗣少以勇敢自負,及鎮方面,專以持重安邊為務,常曰:「太平之將,但當撫循訓練士卒而已,不可疲中國之力以邀功名。」有漆弓百五十斤,常貯之橐中,以示不用。軍中日夜思戰,忠嗣多遣謀人伺其間隙,見可勝,然後興師,故出必有功。既兼兩道節制,自朔方至去雲中,邊陲數千里,要害之地,悉列置城堡,斥地各數百里。邊人以為自張仁但之後,將帥皆不及。 三月,壬申,上以外孫獨孤氏為靜樂公主,嫁契丹王李懷節;甥楊氏為宜芳公主,嫁奚王李延寵。 乙巳,以刑部尚書裴敦復充嶺南五府經略等使。五月,壬申,敦復坐逗留不之官,貶淄川太守,以光祿少卿彭杲代之。上嘉敦復平海賊之功,故李林甫陷之。 李適之與李林甫爭權有隙。適之領兵部尚書,附馬張□為侍郎,林甫亦惡之,使人發兵部銓曹奸利事,收吏六十餘人付京兆與御史對鞫之,數日,竟不得其情。京兆尹蕭炅使法曹吉溫鞫之。溫入院,置兵部吏於外,先於後廳取二重囚訊之,或杖或壓,號呼之聲,所不忍聞;皆曰:「苟存餘生,乞紙盡答。 |
現代日本語訳夜明けまで続いた宴がようやく終わった。皇太子、諸王、宰相らはこぞって祝賀の上表文を奉呈した。 回紇(ウイグル)の懐仁可汗が突厥(トルコ系民族)の白眉可汗を攻め滅ぼし、その首級を長安に送り届けた。これにより突厥の毘伽可敦(女性君主)も配下を率いて降伏した。かくして北方国境は平穏を取り戻し、烽火台からの警報は全く上がらなくなった。 回紇の領土はさらに拡大し、東は室韋(シベリア東部)、西は金山(アルタイ山脈)に達し、南は大漠(ゴビ砂漠)を越えて突厥の旧領全域を掌握した。懐仁可汗が没すると、息子の磨延啜が後継ぎとなり、葛勒可汗と称した。 二月己酉の日、朔方節度使・王忠嗣を河東節度使も兼任させた。忠嗣は若い頃から自らの武勇を誇っていたが、辺境守備の任に就くと慎重さを旨とし、「平和な時代の将帥は兵士を訓練し慈しむべきで、国力を使い果たしてまで功名を求めてはならない」と常々語った。百五十斤(約90kg)もある漆塗りの弓を袋に入れて保管し「武器を用いぬ姿勢」を示した。配下の将兵が戦争を望んでも、忠嗣はまず斥候で敵情を探らせ確実な勝機を見極めてから出兵したため、出陣すれば必ず成功した。二つの管区(朔方・河東)を統括するに及んで、朔方から雲中までの数千キロの国境地帯に要害となる城砦を築き、数百里四方の防衛線を確保した。辺境民は「張仁愿(唐代の名将)以来、彼ほどの人物はいない」と称賛した。 三月壬申の日、玄宗皇帝は外孫・独孤氏を静楽公主として契丹王・李懐節に嫁がせ、姪・楊氏を宜芳公主として奚族(キ族)の首長・李延寵に嫁がせた。 乙巳の日、刑部尚書・裴敦復を嶺南五府経略使などに任命したところ、五月壬申になって赴任遅滞の罪で淄川太守へ左遷された。後任には光禄少卿・彭杲が就いた。皇帝は海賊討伐の功績を評価していたため、権力者・李林甫がわざと失脚させたのである。 兵部尚書・李適之は李林甫との権力争いで対立していた。これに加え、婿の張垍(欠字箇所)が兵部侍郎を務めていたことも林甫の憎悪を招いた。林甫は工作員を使って兵部選考部門の不正事件を暴かせ、六十余人の官吏を逮捕して京兆府と御史台に共同審理させたが、数日経っても真相はつかめなかった。京兆尹・蕭炅が法曹官(司法担当)・吉温に尋問を命じると、彼は兵部役人とは別室で取り調べを行い、まず重罪囚二人を後ろの部屋から引き出して拷問した。杖打ちや圧迫による凄まじい悲鳴が響き渡る中、囚人は「どうか命だけは助けてほしい」と叫び、白状書用紙を求めて全てを自供した。 解説
※本訳文は司馬光『資治通鑑』巻215(天宝三載/744年頃)の記述に基づく。当該部分では唐朝・北方民族間の勢力変動と中央政界の腐敗構造が対比的に描かれ、特に吉温登場場面は安史の乱前夜の社会不安を暗示する史料として重要である。 Translation took 2885.4 seconds. |
| 」兵部吏素聞溫之慘酷,引入,皆自誣服,無敢違溫意者。頃刻而獄成,驗囚無榜掠之跡。六月,辛亥,敕誚責前後知銓侍郎及判南曹郎官而宥之。□,均之兄;溫,頊之弟子也。 溫始為新豐丞,太子文學薛嶷存溫才,上召見,顧嶷曰:「是一不良人,朕不用也。」 蕭炅為河南尹,嘗坐事,西台遣溫往按之,溫治炅甚急。及溫為萬年丞,未幾,炅為京兆尹。溫素與高力士相結,力士自禁中歸,溫度炅必往謝官,乃先詣力士,與之談謔,握手甚歡。炅後至,溫陽為驚避。力士呼曰:「吉七不須避。」謂炅曰:「此亦吾故人也。」召還,與炅坐。炅接之甚恭,不敢以前事為怨。他日,溫謁炅曰:「曩者溫不敢隳國家法,自今請洗心事公。」炅遂與盡歡,引為法曹。及林甫欲除不附己者,求治獄吏,炅薦溫於林甫;林甫得之,大喜。溫常曰:「若遇知己,南山白額虎不足縛也。」時又有杭州人羅希奭,為吏深刻,林甫引之,自御史台主簿再遷殿中侍御史。二人皆隨林甫所欲深淺,鍛煉成獄,無能自脫者,時人謂之「羅鉗吉網」。 秋,七月,壬午,冊韋昭訓女為壽王妃。 八月,壬寅,冊楊太真為貴妃;贈其父玄琰兵部尚書,以其叔父玄珪為光祿卿,從兄銛為殿中少監,金奇為駙馬都尉。癸卯,冊武惠妃女為太華公主,命金奇尚之。及貴妃三姊,皆賜第京師,寵貴赫然。 |
現代日本語訳:兵部(ひょうぶ)の官吏たちはかねてより吉温(きつおん)の残酷さを知っていたため、彼に取り調べられるとすぐに自ら罪を認め、その意図に逆らう者はいなかった。あっという間に裁判が決着し、囚人には拷問された痕跡すら見当たらなかった。 六月辛亥(じゅんがつ しんがい)の日、勅命によりこれまで官吏選考を担当した兵部侍郎(ひょうぶじろう)と判南曹郎官(はんなんそうろうかん)を譴責(けんせき)しながらも赦免した。□(欠字部分:吉温の親族名)は吉均(きつきん)の兄、温は吉頊(きつきく)の甥にあたる。 かつて吉温が新豊県丞(しんぽうけんじょう)だった時、太子文学(たいしぶんがく)・薛嶷(せつぎょう)が彼の才能を推薦した。玄宗皇帝は召見したが、「こやつは不良な人物だ」と評して登用しなかった。 蕭炅(しょうけい)が河南府尹(かなんふいん)だった時、事件に連座して西台(御史台・ぎょしだい)から派遣された吉温に厳しく糾弾された。後に吉温が万年県丞(まんねんけんじょう)になると間もなく、蕭炅は京兆尹(けいちょういん:長安首都長官)に就任した。 かねて高力士と親交のあった吉温は「蕭炅が必ず新任挨拶に来る」と考え、先回りして彼を訪ね談笑し熱心に握手した。後から現れた蕭炅を見ると慌てたふりをするが、高力士が呼び止め「かつての仲間だ」と同席させたため、蕭炅は以前の恨みも表さず恭しく接した。 後に吉温が挨拶に訪れ「かつては法を曲げられませんでした。今後は心を改めて尽くします」と言上すると、蕭炅は喜んで法律担当官(法曹)に登用した。李林甫(り りんぽ)が反対派排除のため裁判能力のある者を探すと、蕭炅は吉温を推薦し、彼を得た林甫は大いに満足した。 吉温は「理解ある上司さえいれば南山の猛虎も捕まえる」と豪語。同時期に杭州出身の羅希奭(ら きしゃく)という苛烈な裁判官がおり、李林甫に見出されて殿中侍御史(でんちゅうじぎょし:監察官)となった。 両者は李林甫の意図どおり罪状を捏造するため被告は脱罪不可能となり、当時の人々から「羅鉗吉網」(らせんきつもう=羅氏の鉄枷と吉氏の法網)と呼ばれて恐れられた。 秋七月壬午(しゅう しちがつ じんご)、韋昭訓(い しょうくん)の娘を寿王妃に冊立。 八月壬寅(はちがつ じんいん)、楊太真(ようたいしん:後の楊貴妃)を貴妃と冊立。父・玄琰(げんえん)には死後兵部尚書を追贈、叔父・玄珪(げんけい)を光禄卿(こうろくきょう)、従兄の銛(せん)を殿中少監(でんちゅうしょうかん)、金奇(きんぎ)を駙馬都尉(ふばとい:皇族女婿官)に任命。 翌日癸卯、武恵妃(ぶけいひ)の娘を太華公主とし金奇に娶わせた。さらに貴妃の三人の姉にも長安邸宅を与えたため、その寵愛は世にあまねく輝いた。 解説:
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| 楊釗,貴妃之從祖兄也,不學無行,為宗黨所鄙。從軍於蜀,得新都尉;考滿,家貧不能自歸,新政富民鮮于仲通常資給之。楊玄琰卒於蜀,釗往來其家,遂與其中女通。 鮮于仲通名向,以字行,頗讀書,有材智,劍南節度使章仇兼瓊引為採訪支使,委以心腹。嘗從容謂仲通曰:「今吾獨為上所厚,苟無內援,必為李林甫所危。聞楊妃新得幸,人未敢附之。子能為我至長安與其家相結,吾無患矣。」仲通曰:「仲通蜀人,未嘗游上國,恐敗公事。今為公更求得一人。」因言釗本末。兼瓊引見釗,儀觀甚偉,言辭敏給;兼瓊大喜,即闢為推官,往來浸親密。乃使之獻春彩於京師,將別,謂曰:「有少物在郫,以具一日之糧,子過,可取之。」釗至郫,兼瓊使親信大繼蜀貨精美者遺之,可直萬緡。釗大喜過望,晝夜兼行,至長安,歷抵諸妹,以蜀貨遺之,曰:「此章仇公所贈也。」時中女新寡,釗遂館於其室,中分蜀貨以與之。於是諸楊日夜譽兼瓊;且言釗善樗蒲,引之見上,得隨供奉官出入禁中,改金吾兵曹參軍。 九月,癸未,以陝郡太守、江淮租庸轉運使韋堅為刑部尚書,罷其諸使,以御使中丞楊慎矜代之。堅妻姜氏,皎之女,林甫之舅子也,故林甫暱之。及堅以通漕有寵於上,遂有入相之志,又與李適之善;林甫由是惡之,故遷以美宮,實奪之權也。 |
現代日本語訳楊釗(後の楊国忠)は楊貴妃の従兄にあたる人物であるが、学問もなく品行も劣り、一族に軽蔑されていた。蜀で軍務につき新都尉となった後、任期満了しても貧しく帰郷できず、新政の富豪・鮮于仲通から援助を受けていた。楊玄琰(貴妃父)が蜀で亡くなると、彼は頻繁にその家を訪れ、次女(後の虢国夫人)と密通関係になった。 鮮于仲通(名は向だが字を用いた)は学識と才知があり、剣南節度使・章仇兼瓊に見出されて採訪支使となり腹心となった。ある時兼瓊が「私は天子の寵愛を受けるが宮中に後ろ盾がないため李林甫に害される恐れがある。楊貴妃が台頭したばかりで誰も接近していない。長安に行き彼女の一族と結んでほしい」と打ち明けると、仲通は「都を知らない身では失敗するでしょう」と言い、代わりに楊釗を推挙した。 兼瓊が楊釗と会見すると、その堂々たる風貌と鋭い弁舌に感心し、直ちに推官に登用して親密になった。その後「春彩(高級絹)を献上せよ」との名目で長安へ派遣する際、「郫県に食糧代として少し物を用意した」と伝えた。楊釗が郫県に着くと、兼瓊の部下が蜀の豪華な品々(価値万緡)を届けた。狂喜した楊釗は昼夜兼行で長安へ急ぎ、妹たち全員に「章仇公からの贈り物」として分配。当時未亡人だった次女には特に多く与え同居し始めた。 こうして楊一族が連日兼瓊を称賛する中、「楊釗は賭博(樗蒲)の腕が立つ」と皇帝に吹き込み、供奉官として宮廷出入りを許された後、金吾兵曹参軍へ昇進した。 九月癸未の日、陝郡太守・江淮租庸転運使だった韋堅を刑部尚書に栄転させ実権のある役職から外し、御史中丞・楊慎矜と交代させた。韋坚の妻は李林甫の従妹(姜皎の娘)であったため林甫は彼を厚遇していたが、運河整備で皇帝寵愛を得た韋堅が宰相を志し政敵・李適之と接近したことで林甫の憎悪を買い、名誉職への移動という形で実権剥奪された。 歴史的背景解説
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| 安祿山欲以邊功市寵,數侵掠奚、契丹;奚、契丹各殺公主以叛,祿山討破之。 隴右節度使皇甫惟明與吐蕃戰於石堡城,為虜所敗,副將褚□戰死。 冬,十月,甲午,安祿山奏:「臣討契丹至北平郡,夢先朝名將李靖、李勣從臣求食。」遂命立廟。又奏薦奠之日,廟梁產芝。 丁酉,上幸驪山溫泉。 上以戶部郎中王□為戶口色役使,敕賜百姓復除。□奏征其輦運之費,廣張錢數,又使市本郡輕貨,百姓所輸乃甚於不復除。舊制,戍邊者免其租庸,六歲而更。時邊將恥敗,士卒死者皆不申牒,貫籍不除。王□志在聚斂,以有籍無人者皆為避課,按籍戍邊六歲之外,悉征其租庸,有並征三十年者,民無所訴。上在位久,用度日侈,後宮賞賜無節,不欲數於左、右藏取之。□探知上指,歲貢額外錢帛百億萬,貯於內庫,以供宮中宴賜,曰:「此皆不出於租庸調,無預經費。」上以□為能富國,益厚遇之。□務為割剝以求媚,中外嗟怨。丙子,以□為御史中丞、京畿採訪使。 楊釗侍宴禁中,專掌樗蒲文簿,鉤校精密。上賞其強明,曰:「好度支郎。」諸楊數征此言於上,又以屬王□,□因奏充判官。 十二月,戊戌,上還宮。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之下天寶五年(丙戌,公元七四六年) 春,正月,乙丑,以隴右節度使皇甫惟明兼河西節度使。 |
現代日本語訳: 安禄山は辺境での戦功で寵愛を得ようとし、たびたび奚(けい)や契丹(きったん)を侵略した。奚と契丹はそれぞれ唐朝から降嫁された公主を殺害して反乱を起こすが、安禄山はこれを討伐・鎮圧した。 隴右節度使の皇甫惟明が吐蕃と石堡城で交戦し、敵軍に敗北。副将の褚□(姓名一部欠落)が戦死する。 冬十月甲午(3日)、安禄山上奏: 「契丹討伐のために北平郡へ至った際、先代の名将・李靖と李勣(りせい・りしょく)が臣の夢に現れ食を求めた」 これにより廟建立の命が下る。さらに祭祀を行った日に廟の梁から霊芝が生えたとも上奏した。 丁酉(6日)、玄宗皇帝は驪山温泉へ行幸される。 戸部郎中王□(姓名一部欠落)を戸口色役使に任命し、詔勅で庶民の租税免除を布告。ところが王□は運搬費用として過大な金額を徴収し、さらに地元特産品購入も強制したため、免税前よりも重い負担となった。 旧制では辺境守備兵には6年間租庸(祖調・労役)免除があった。しかし敗戦を恥じた将軍たちが戦死者の届出を怠り、戸籍上は生存扱いのまま。王□は税収増に躍起となり「名簿にある者は免税逃れ」と断じて6年超えた兵士全員から租庸徴収、中には30年分も請求される者も現れ、民衆は訴える術もなかった。 長期在位で浪費が激化した玄宗帝は後宮への過剰な恩賜を続けつつ、国庫からの支出制限を望んでいた。王□はこれを察知し毎年百億万単位の臨時貢納金(租庸調外)を内蔵庫に蓄え「宮中宴会や賞賜費に充てられます」と奏上。帝は王□を財政手腕家として重用するようになるが、その苛烈な収奪には朝廷内外から怨嗟が噴出した。 丙子(15日)、王□を御史中丞兼京畿採訪使に任命。 楊釗(後の楊国忠)が宮中宴会でサイ博記録係を担当。帳簿精査の能力を玄宗帝は「優秀な度支郎だ」と称賛し、楊一族もこの評価を利用して王□に働きかけ判官職を得させる。 十二月戊戌(28日)、皇帝は還幸される。 天宝5年(746年)春正月乙丑(25日)、隴右節度使皇甫惟明が河西節度使を兼任するよう命じられる。 解説: ■権力構造の腐敗 安禄山と王□はいずれも玄宗への媚態によって出世。前者は怪異な吉兆(夢告・霊芝)で、後者は帝の私財欲に迎合することで地位を得ている。 当時の軍事報告には虚偽が横行し、戦死者統計さえ隠蔽されていた実態(「士卒死者皆不申牒」)からも行政機能低下を窺える。 ■財政破綻への布石 王□の租庸徴収システムは二重矛盾を孕む: 1. 戸籍管理不全による過酷な前年度分追徴(30年とは極端だが、実態として長期滞納が常態化) 2. 「内庫」制度濫用で国家財政と皇帝私財の区別消失 この後楊国忠も同様手法を用い、唐朝衰退を決定づける安史の乱へ繋がる。 ■予兆的記述の配置 ・石堡城敗戦(西北軍弱体化) ・驪山行幸(浪費継続の象徴) ・夢告上奏(怪異現象で権威補完する体制末期症状) これらは天宝14年(755)安史之乱勃発前夜を暗示している。 ■編纂者の視点 「民無所訴」「中外嗟怨」等表現に、司馬光が本件を唐朝崩壊の重大要因と位置づける意図が明瞭。特に兵士戸籍問題は府兵制崩壊過程を示す核心的事実として抽出されている。 (注)□は原史料における文字欠落部 ``` Translation took 942.4 seconds. |
| 李適之性疏率,李林甫嘗謂適之曰:「華山有金礦,采之可以富國,主上未之知也。」他日,適之因奏事言之。上以問林甫,對曰:「臣久知之,但華山陛下本命,王氣所在,鑿之非宜,故不敢言。」上以林甫為愛己,薄適之慮事不熟,謂曰:「自今奏事,宜先與林甫議之,無得輕脫。」適之由是束手矣。適之既失恩,韋堅失權,益相親密,林甫愈惡之。 初,太子之立,非林甫意。林甫恐異日為己禍,常有動搖東宮之志;而堅,又太子之妃兄也。皇甫惟明嘗為忠王友,時破吐蕃,入獻捷,見林甫專權,意頗不平。時因見上,乘間微勸上去林甫。林甫知之,使楊慎矜密伺其所為。會正月望夜,太子出遊,與堅相見,堅又與惟明會於景龍觀道士之室。慎矜發其事,以為堅戚裡,不應與邊將狎暱。林甫因譖堅與惟明結謀,欲共立太子。堅、惟明下獄,林甫使慎矜與御史中丞王□、京兆府法曹吉溫共鞫之。上亦疑堅與惟明有謀而不顯其罪,癸酉,下制,責堅以干進不已,貶縉雲太守;惟明以離間君臣,貶播川太守;仍別下制戒百官。 以王忠嗣為河西、隴右節度使,兼知朔方、河東節度事。忠嗣始在朔方、河東,每互市,高估馬價,諸胡聞之,爭賣馬於唐,忠嗣皆買之。由是胡馬少,唐兵益壯。及徙隴右、河西,復請分朔方、河東馬九千匹以實之,其軍亦壯。 |
現代日本語訳李適之は性格が軽率であった。李林甫がある時彼に言った。「華山には金鉱があり、採掘すれば国を豊かにできるが、陛下はまだご存じない」と。後日、適之が奏上の折にこのことを話すと、玄宗皇帝が林甫に尋ねたところ、「臣はずっと承知しておりましたが、華山は陛下の守護星(本命)であり王気が宿る場所ですので掘削するのは好ましくないと考え、申し上げませんでした」と答えた。これにより皇帝は「林甫こそ朕を大切に思っている」と感じ、適之の物事への浅慮を非難し、「今後奏上する際は必ず先に林甫と相談せよ。軽率なことは許さぬ」と言った。以降、適之は完全に行動を封じられた。 寵愛を失った適之と権力を奪われた韋堅が親密になるにつれ、林甫の憎悪はさらに強まった。 正月十五夜、太子外出中に韋堅と密会し、さらに惟明も景龍観道士部屋で合流した場面を慎矜が暴露。「皇族姻戚(韋堅)は辺境将軍(惟明)と親しくすべきではない」との告発を受け、林甫は「太子擁立の陰謀あり」として二人を投獄。尋問には王□・吉温らも動員された。皇帝も疑念を持ちながら確証を得られず、「韋堅は出世欲過剰(干進不已)」で縉雲太守へ左遷、「惟明は君臣離間の罪」で播川太守に降格とし、別途詔勅で百官を戒めた。 一方、王忠嗣が河西・隴右節度使となり朔方・河東も兼務。彼は以前から馬市場で意図的に高値設定し、周辺民族が競って唐へ売り込むよう仕向けたため軍馬不足が解消され兵力強化に成功していた。今回の赴任地でも旧領土から9千頭を移管させて同様に軍備拡充した。 解説〈権謀術数の言語操作〉 〈派閥力学の連鎖構造〉 〈国防政策の対比効果〉 〈司馬光の叙述技法〉 Translation took 1930.3 seconds. |
| 忠嗣杖四節,控制萬里,天下勁兵重鎮,皆在掌握,與吐蕃戰於青海、積石,皆大捷。又討吐谷渾於墨離軍,虜其全部而歸。 夏,四月,癸未,立奚酋娑固為昭信王,契丹酋楷洛為恭仁王。 己亥,制:「自今四孟月,皆擇吉日祀天地、九宮。」 韋堅等既貶,左相李適之懼,自求散地。庚寅,以適之為太子少保,罷政事。其子衛尉少卿霅嘗盛饌召客,客畏李林甫,竟日無一人敢往者。 以門下侍郎、崇玄館大學士陳希烈同平章事。希烈,宋州人,以講老、莊得進,專用神仙符瑞取媚於上。李林甫以希烈為上所愛,且柔佞易制,故引以為相;凡政事一決於林甫,希烈但給唯諾。故事,宰相午後六刻乃出。林甫奏,今太平無事,巳時即還第,軍國機務皆決於私家;主書抱成案詣希烈書名而已。 五月,壬子朔,日有食之。 乙亥,以劍南節度使章仇兼瓊為戶部尚書;諸楊引之也。 秋,七月,丙辰,敕:「流貶人多在道逗留。自今左降官日馳十驛以上。」是後流貶者多不全矣。 楊貴妃方有寵,每乘馬則高力士執轡授鞭,織繡之工專供貴妃院者七百人,中外爭獻器服珍玩。嶺南經略使張九章,廣陵長史王翼,以所獻精美,九章加三品,翼入為戶部侍郎;天下從風而靡。民間歌之曰:「生男勿喜女勿悲,君今看女作門楣。」妃欲得生荔支,歲命嶺南馳驛致之。 |
現代日本語訳王忠嗣は四つの符節を持ち、万里にわたる地域を統括し、天下の精鋭部隊や重要な軍事拠点をすべて掌握していた。吐蕃との青海・積石での戦いではいずれも大勝し、また墨離軍で吐谷渾(トユーフン)を討伐してその全勢力を捕虜として帰還した。 夏四月癸未の日、奚族の首長である娑固を昭信王に、契丹の首長楷洛を恭仁王に封じた。 韋堅らが左遷されると、左相・李適之も恐れをなして自ら閑職を求めた。庚寅の日に彼を太子少保に任命し政務から外した。その子である衛尉少卿の李霅(りしょう)が盛大な宴席を設けて賓客を招いたが、客人たちは皆李林甫を恐れ、終日誰一人として出席しようとしなかった。 門下侍郎で崇玄館大学士の陳希烈を同平章事に任命した。希烈は宋州出身であり、老子・荘子の講義によって出世し、神仙思想や祥瑞(吉兆)を用いて皇帝の歓心を得ていた。李林甫は彼が玄宗帝に寵愛されていて操りやすいと見て宰相に推挙したため、政務のすべてを自ら決定し、希烈はただ従うだけとなった。従来、宰相は午後六刻(約14時半)まで執務していたが、李林甫は「天下太平である」として巳の刻(10時頃)に帰宅するよう奏上して認められ、軍国機密までも私邸で裁決した。文書官は決定済みの案件を希烈のもとに届けるだけで、彼は署名をするだけだった。 五月壬子朔の日(1日)、日食が起こった。 秋七月丙辰の日、「流刑や左遷者たちは多く途中で逗留している。今後、左遷者は1日10駅(約300里)以上進むこと」との勅令が下された。このためその後、多くの流刑・左遷者が目的地に生きてたどり着けなくなった。 楊貴妃は当時絶大な寵愛を受けており、馬に乗る際には高力士(こうりきし)自らが手綱と鞭を捧げ持った。彼女専用の刺繍工房には700人の職人が働いており、朝廷内外で競って器物や衣服・珍品を献上した。嶺南経略使の張九章と広陵長史の王翼は特に精巧な貢物を奉じたため、九章は三品官に昇進し、王翼は戸部侍郎として中央へ抜擢された。世間の人々はこれを見て風になびく草のように貴妃への贈り物競争に走った。民謡では「男児が生まれても喜ぶな 女児が生まれても悲しむな 今や娘こそ家門の栄えとなるのだ」と歌われた。また楊貴妃は新鮮な茘枝(レイシ)を欲しがったため、毎年嶺南から早馬で運ばせた。 解説1. 権力構造の変容 2. 社会風俗への影響 3. 制度運用の矛盾点 4. 軍制変化の伏線
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| 比至長安,色味不變。至是,妃以妒悍不遜,上怒,命送歸兄銛之第。是日,上不懌,比日中,猶未食。左右動不稱旨,橫被棰撻。高力士欲嘗上意,請悉載院中儲偫送貴妃,凡百餘車;上自分御膳以賜之。及夜,力士伏奏請迎貴妃歸院,遂開禁門而入。自是恩遇愈隆,後宮莫得進矣。 將作少匠韋蘭、兵部員外郎韋芝為其兄堅訟冤,且引太子為言;上益怒。太子懼,表請與妃離婚,乞不以親廢法。丙子,再貶堅江夏別駕,蘭、芝皆貶嶺南。然上素知太子孝謹,故譴怒不及。李林甫因言堅與李適之等為朋黨,後數日,堅長流臨封,適之貶宜春太守,太常少卿韋斌貶巴陵太守,嗣薛王琄貶夷陵別駕,睢陽太守裴寬貶安陸別駕,河南尹李齊物貶竟陵太守,凡堅親黨連坐流貶者數十人。斌,安石之子。琄,業之子,堅之甥也。琄母亦令隨琄之官。 冬,十月,戊戌,上幸驪山溫泉;十一月,乙巳,還宮。 贊善大夫杜有鄰,女為太子良娣,良娣之姊為左驍衛兵曹柳勣妻。勣性狂疏,好功名,喜交結豪俊。淄川太守裴敦復薦於北海太守李邕,邕與之定交。勣至京師,與著作郎王曾等為友,皆當時名士也。 勣與妻族不協,欲陷之,為飛語,告有鄰妄稱圖讖,交構東宮,指斥乘輿。林甫令京兆士曹吉溫與御史鞫之,乃勣首謀也。溫令勣連引曾等入台。十二月,甲戌,有鄰、勣及曾等皆杖死,積屍大理,妻子流遠方;中外震慄。 |
現代日本語訳楊貴妃が長安に到着しても、その容姿や風情は変わらなかった。しかしこの時、彼女の嫉妬深く横暴な態度と無礼さにより皇帝(玄宗)は激怒し、兄・楊銛のもとに送り返すよう命じた。その日、皇帝は不機嫌で昼になっても食事を取らず、側近たちが少しでも気に障れば容赦なく鞭打った。高力士は皇帝の心情を探り、貴妃のために宮中の調度品百余台分を送らせると、皇帝自ら料理を分けて賜った。夜になり、高力士がひざまずいて貴妃の帰還を願い出たため、宮門が開かれ彼女は戻ってきた。これ以降、寵愛はますます深まり、後宮の他の女性たちは近づくこともできなくなった。 将作少匠・韋蘭と兵部員外郎・韋芝が兄の韋堅の冤罪を訴え、太子(李亨)の発言を引用したため皇帝はさらに激怒。太子は恐れおののき、妃との離婚を自ら願い出て「親族ゆえに法を曲げぬでほしい」と上奏した。丙子の日、韋堅は江夏別駕へ再左遷され、韋蘭・韋芝も嶺南へ流罪となった。だが皇帝は太子が孝行で謹厳なことを認めていたため罰しなかった。李林甫はこれに乗じ「韋堅と李適之らが徒党を組んでいる」と告発。数日後、韋堅は臨封への永久追放、李適之は宜春太守へ左遷され、太常少卿・韋斌(韋安石の子)は巴陵太守に、嗣薛王・李琄(李業の子で韋堅の甥)は夷陵別駕に降格。睢陽太守・裴寛と河南尹・李斉物も左遷され、韋堅縁者で連座した者は数十人に及んだ。李琄の母も同行を命じられた。 冬十月戊戌、皇帝は驪山温泉へ行幸し十一月乙巳に帰還する。 賛善大夫・杜有隣の娘が太子良娣(側室)となり、その姉は左驍衛兵曹・柳勣に嫁いでいた。柳勣は傲慢で軽率、功名を好み豪傑と交わることを得意とした。淄川太守・裴敦復から北海太守・李邕へ推薦され親交を結ぶ。長安では著作郎・王曾ら名士と交友した。 だが柳勣は妻の実家(杜氏)と不和になり、陥れようとして「杜有隣が図讖(予言書)で東宮(太子)と結託し天子を誹謗」との流言を飛ばす。李林甫は京兆士曹・吉温に御史台へ告発させると、主犯格の柳勣が王曾らも巻き込んだため十二月甲戌、杜有隣・柳勣・王曾らは杖殺刑となり屍体が大理寺に積まれ妻子は流罪。朝廷内外が震え上がった。 解説
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| 嗣虢王巨貶義陽司馬。巨,邕之子也。別遣監察御史羅希奭往按李邕,太子亦出良娣為庶人。乙亥,鄴郡太守王琚坐贓貶江華司馬。琚性豪侈,與李邕皆自謂耆舊,久在外,意怏怏,李林甫惡其負材使氣,故因事除之。 玄宗至道大聖大明孝皇帝中之下天寶六年(丁亥,公元七四七年) 春,正月,辛巳。李邕、裴敦復皆杖死。邕才藝出眾,盧藏用常語之曰:「君如干將、莫邪,難與爭鋒,然終虞缺折耳。」邕不能用。 林甫又奏分遣御史即貶所賜皇甫惟明、韋堅兄弟等死。羅殺奭自青州如嶺南,所過殺遷謫者,郡縣惶駭。排馬牒至宜春,李適之憂懼,仰藥自殺。至江華,王琚仰藥不死,聞希奭已至,即自縊。希奭又迂路過安陸,欲怖殺裴寬,寬向希奭叩頭祈生,希奭不宿而過,乃得免。李適之子適迎父喪至東京,李林甫令人誣告適,杖死於河南府。給事中房琯坐與適之善,貶宜春太守。琯,融之子也。 林甫恨韋堅不已,遣使於循河及江、淮州縣求堅罪,所在收系綱典船夫,溢於牢獄,征剝逋負,延及鄰伍,皆裸露死於公府,至林甫薨乃止。 丁亥,上享太廟;戊子,合祭天地於南郊,赦天下。制免百姓今載田租。又令除削絞、斬條。上慕好生之名,故令應絞、斬者皆重杖流嶺南,其實有司率杖殺之。又令天下為嫁母服三載。 上欲廣求天下之士,命通一藝以上皆詣京師。 |
現代日本語訳:嗣虢王の李巨が義陽司馬へ左遷された。彼は李邕(りよう)の子である。朝廷は別途監察御史・羅希奭を派遣して李邕を取り調べさせた一方、皇太子も側室の良娣を庶人とした。乙亥(いつがい)の日には鄴郡太守王琚が汚職で江華司馬へ降格された。王琚は豪奢な性格で、李邕と共に「古参功臣」を自認し、長年地方勤務で不満を持っていた。宰相・李林甫は彼らの才能を鼻にかけた態度を嫌い、事件を利用して排除した。 玄宗皇帝(天宝六年/747年) 李林甫はさらに御史を左遷先へ派遣し皇甫惟明や韋堅兄弟らに自害を命じた。羅希奭が青州から嶺南へ赴く途中、流刑者たちを次々虐殺したため通過地の官民は震え上がった。宜春に到着する通知を受けた李適之は畏れ服毒自尽し、江華では王琚が服毒未遂後、羅希奭到着を知り首をつって果てた。わざわざ安陸へ迂回した羅が裴寛を脅すと、彼は地面に額を擦りつけて哀願し一泊もせず通過されたため難を逃れた。 李適之の子・李霅(りしょう)が父の遺骸を洛陽へ移送中、李林甫のでっち上げ告発により河南府で撲殺された。給事中の房琯は李適之との親交を咎められ宜春太守に左遷。彼は名臣・房融の子である。 李林甫が韋堅への恨み続け、黄河〜長江流域の役所に罪状探索を命令した結果、運搬人や船頭らが次々投獄され監獄が過密状態となる惨事となった。滞納税金の取立ては近隣住民まで巻き込み無実の人々が官衙で裸体のまま死亡する異常事態だった。 丁亥に玄宗が太廟を祭祀し、翌日南郊祭天を行うと大赦令発布。「今年の農民租税免除」「絞首刑・斬首刑廃止」などを宣布した。皇帝は「生命尊重」の美名を得ようとしたが実際には役人が死刑囚全員を杖殺する矛盾も露呈した。 玄宗は広く人材登用すべく「一芸に通じる者は全員長安へ出頭せよ」と布告した。 解説:
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| 李林甫恐草野之士對策斥言其奸惡,建言:「舉人多卑賤愚聵,恐有俚言污濁聖聽。」乃令郡縣長官精加試練,灼然超絕者,具名送省,委尚書覆試,御史中丞監之,取名實相副者聞奏。既而至者皆試以詩、賦、論,遂無一人及第者,林甫乃上表賀野無遺賢。 戊寅,以范陽、平盧節度使安祿山兼御史大夫。 祿山體充肥,腹垂過膝,嘗自稱重三百斤。外若癡直,內實狡黠。常令其將劉駱谷留京師詗朝廷指趣,動靜皆報之。或應有箋表者,駱谷即為代作通之。歲獻俘虜、雜畜、奇禽、異獸、珍玩之物,不絕於路,郡縣疲於遞運。 祿山在上前,應對敏給,雜以詼諧。上嘗戲指其腹曰:「此胡腹中何所有,其大乃爾!」對曰:「更無餘物,正有赤心耳!」上悅。又嘗命見太子,祿山不拜。左右趣之拜,祿山拱立曰:「臣胡人,不習朝儀,不知太子者何官?」上曰:「此儲君也,朕千秋萬歲後,代朕君汝者也。」祿山曰:「臣愚,向者惟知有陛下一人,不知乃更有儲君。」不得已,然後拜。上以為信然,益愛之。上嘗宴勤政樓,百官列坐樓下,獨為祿山於御座東間設金雞障,置榻使坐其前,仍命捲簾以示榮寵。命楊銛、楊錡、貴妃三姊皆與祿山敘兄弟。祿山得出入禁中,因請為貴妃兒。上與貴妃共坐,祿山先拜貴妃。上問何故,對曰:「胡人先母而後父。 |
現代日本語訳李林甫は、民間の有識者が科挙の策問で自身の悪行を暴くことを恐れ、「受験者の多くは身分が低く見識も乏しいため、粗野な発言で陛下の耳を汚す恐れがあります」と上奏した。そこで郡県の長官に厳格な予備試験を行わせ、特に卓越した者だけを名簿に記載して中央へ送り、尚書省による再試験(御史中丞が監督)を経て、実力と名声が一致する者のみを皇帝に推薦することとした。しかし実際には詩・賦・論ばかりを試験科目としたため、合格者は一人も出なかった。李林甫はこれを「民間に遺漏した人材なし」として祝賀の上表を行った。 戊寅の日、范陽・平盧節度使の安禄山が御史大夫を兼任することを命じられた。 安禄山は肥満体で腹は膝まで垂れ下がり、自ら「体重三百斤(約180kg)」と称していた。外面は愚直に見せながら内実は狡猾であり、配下の劉駱谷を長安に駐在させ朝廷の動向を探らせた。重要な情報は全て報告させ、上奏文が必要な場合には代筆までさせていた。毎年、捕虜や家畜・珍禽異獣・宝物などを絶え間なく献上したため、輸送任務にあたる郡県は疲弊しきった。 玄宗皇帝の前では機転を利かせ冗談も交えて応対した。皇帝が「その胡族の腹には何が入っている? どうしてこうも大きいのか」と戯れると、「他に何もございません。ただ陛下への忠誠心だけです」と答え、帝は喜んだ。太子(後の粛宗)との面会を命じられた際、安禄山は跪拝せず「胡人は朝廷の礼儀を知らず、太子がどのような官職か存じ上げない」と言い放った。皇帝が「朕の後継者だ」と説明すると、「愚かなり、陛下だけをお慕いしておりました」と答え、渋々跪拝した。この偽りの純朴さに帝はますます寵愛した。 勤政楼での宴席では、百官が階下に並ぶ中、皇帝の玉座東側に金鶏の刺繍屏風を設け安禄山専用の座を与え、「簾を上げて特別待遇を示せ」と命じられた。楊銛・楊錡・貴妃三姉妹とも兄弟同然の関係となり、宮中を自由に行き来するうちに楊貴妃への「養子入り」まで申し出た。ある時皇帝と貴妃が並んで座っている場で、安禄山は真っ先に貴妃へ拝礼した。「胡族は母を先にする習わしです」との説明に帝はますます満足したという。 解説【李林甫の科挙妨害】
【安禄山の人心掌握術】
【玄宗朝の病理的構造】
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| 」上悅。 李林甫以王忠嗣功名日盛,恐其入相,忌之。安祿山潛蓄異志,托以禦寇,築雄武城,大貯兵器,請忠嗣助役,因欲留其兵。忠嗣先期而往,不見祿山而還,數上言祿山必反;林甫益惡之。夏,四月,忠嗣固辭兼河東、朔方節度;許之。 冬,十月,己酉,上幸驪山溫泉,改溫泉宮曰華清宮。 河西、隴右節度使王忠嗣以部將哥舒翰為大斗副使,李光弼為河西兵馬使,充赤水軍使。翰父祖本突騎施別部酋長,光弼,契丹王楷洛之子也,皆以勇略為忠嗣所重。忠嗣使翰擊吐蕃,有同列為之副,倨慢不為用,翰撾殺之,軍中股心栗;累功至隴右節度副使。每歲積石軍麥熟,吐蕃輒來獲之,無能御者,邊人謂之「吐蕃麥莊」。翰先伏兵於其側,虜至,斷其後,夾擊之,無一人得返者,自是不敢復來。 上欲使王忠嗣攻吐蕃石堡城,忠嗣上言:「石堡險固,吐蕃舉國守之。今頓兵其下,非殺數萬人不能克。臣恐所得不如所亡,不如且厲兵秣馬,俟其有釁,然後取之。」上意不快。將軍董延光自請將兵取石堡城,上命忠嗣分兵助之。忠嗣不得已奉詔,而不盡副延光所欲,延光怨之。 李光弼言於忠嗣曰:「大夫以愛士卒之故,不欲成延光之功,雖迫於制書,實奪其謀也。何以知之?今以數萬眾授之而不立重賞,士卒安肯為之盡力乎!然此天子意也,彼無功,必歸罪於大夫。 |
現代日本語訳皇帝は喜んだ。 李林甫は王忠嗣の名声が高まるにつれ、宰相職に就くことを恐れて警戒した。安禄山は密かに謀反を企て、防衛の名目で雄武城を築き武器を蓄えた。彼は王忠嗣に工事協力を求め、兵士を留め置こうとしたが、忠嗣は予定より早く到着し禄山と会わず帰還。その後たびたび「安禄山は必ず反乱する」と上奏したため、林甫の憎悪はいっそう深まった。 夏四月、王忠嗣は河東・朔方節度使兼任を固辞して認められた。 冬十月己酉(十六日)、皇帝は驪山温泉へ行幸し、「温泉宮」を「華清宮」と改称した。 河西隴右節度使の王忠嗣は、配下の哥舒翰を大斗副使に、李光弼を河西兵馬使兼赤水軍使に任じた。哥舒翰の父祖は突騎施別部族長で、李光弼は契丹王楷洛(がいらく)の子である。両者とも勇略により忠嗣に重用された。 忠嗣が吐蕃討伐を命じると、同僚として副将が付いたが傲慢な態度を見せたため、哥舒翰はこれを殴打殺害した。兵士たちは震え上がったものの、彼は功績で隴右節度副使に昇進する。 積石軍では毎年麦が実ると吐蕃が略奪に来た(「吐蕃麦畑」と俗称)。哥舒翰は側面に伏兵を置き、敵の退路を断って挟撃。一人も帰さず全滅させて以来、襲撃は止んだ。 皇帝が石堡城攻略を命じると忠嗣は反対した。「要害堅固で数万の犠牲が必要です。得るものより失うものが大きく、時期を待つべきでしょう」と進言し、帝の不興を買った。董延光将軍が自ら出撃を志願すると、皇帝は忠嗣に援軍を命じた。 止むなく詔勅を受けた忠嗣であったが、延光の要求通り兵力を与えなかったため恨まれる。李光弼が諫めた:「貴官は兵士愛護ゆえ董将軍の成功を阻みますな。数万の兵を出しながら恩賞なしでは誰が奮戦しましょう? 失敗すれば皇帝の怒りは貴官に向かいますぞ」 解説
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| 大夫軍府充牣,何愛數萬段帛不以杜其讒口乎!」忠嗣曰:「今以數萬之眾爭一城,得之未足以制敵,不得亦無害於國,故忠嗣不欲為之。忠嗣今受責天子,不過以金吾、羽林一將軍歸宿衛,其次不過黔中上佐;忠嗣豈以數萬人之命易一官乎!李將軍,子誠愛我矣,然吾志決矣,子勿復言!」光弼曰:「向者恐為大夫之累,故不敢不言。今大夫能行古人之事,非光弼所及也。」遂趨出。 延光過期不克,言忠嗣沮撓軍計,上怒。李林甫因使濟陽別駕魏林告「忠嗣嘗自言我幼養宮中,與忠王相愛狎」,欲擁兵以尊奉太子。敕征忠嗣入朝,委三司鞫之。 上聞哥舒翰名,召見華清宮,與語,悅之。十一月,辛卯,以翰判西平太守,充隴右節度使;以朔方節度使安思順判武威郡事,充河西節度使。 戶部侍郎兼御史中丞楊慎矜為上所厚,李林甫浸忌之。慎矜與王□父晉,中表兄弟也,少與□狎,□之入台,頗因慎矜推引。及□遷中丞,慎矜與語,猶名之;□自恃與林甫善,意稍不平。慎矜奪□職田,□母本賤,慎矜嘗以語人;□深銜之。慎矜猶以故意待之,嘗與之私語讖書。 慎矜與術士史敬忠善,敬忠言天下將亂,勸慎矜於臨汝山中買莊為避亂之所。會慎矜父墓田中草木皆流血,慎矜惡之,以問敬忠。敬忠請禳之,設道場於後園,慎矜退朝,輒裸貫桎梏坐其中。 |
現代日本語訳:軍府には物資が満ちあふれているのに、どうして数万端もの絹織物を惜しんで彼らの誹謗の口を封じようとしないのか!」忠嗣は答えた。「今、数万の兵士をもって一つの城を争うことは、たとえ奪い取っても敵を制圧するには足りず、落とさなくとも国に害はない。だから私はそれを望まぬのだ。もし天子からお叱りを受けても、せいぜい金吾や羽林の将軍として宮廷警備にあたり、悪くても黔中の次官になる程度であろう。忠嗣が数万人の命と引き換えに一つの官職を得ようと思うものか!李将軍よ、君は誠実に私を思ってくれているのだな。しかし私の決意は固まった。これ以上言うでない!」光弼は応じた。「先ほどは大夫(忠嗣)にお咎めが及ぶことを恐れ、申し上げられませんでした。今や大夫が古人のような高潔な行いを成そうとされるのは、私の及ばぬところです」。こう言って速やかに退出した。 延光は期限までに城を落とせず、「忠嗣が軍略を妨害した」と上奏すると、皇帝は激怒した。李林甫はこれに乗じ、済陽別駕・魏林を使い「忠嗣がかつて『幼少期に宮中で育ち、忠王(後の粛宗)と親密だった』と言っていた」と告発させた。(忠嗣が)兵を擁して太子を奉じて担ぎ上げようとしたのだ。勅命により忠嗣は朝廷へ召還され、三司(刑部・御史台・大理寺)による取り調べを受けた。 皇帝は哥舒翰の名声を耳にし、華清宮で引見したところ対話して大いに気に入った。十一月辛卯の日、翰を西平太守代理兼隴右節度使とし、朔方節度使・安思順には武威郡事務担当兼河西節度使を命じた。 戸部侍郎兼御史中丞・楊慎矜は皇帝から厚い信任を得ていたため、李林甫の嫉妬が次第に強まっていた。慎矜と王鉷(おうこう)の父・晋はいとこ同士で、幼い頃より親しくしていた。鉷が御史台に入ったのも主に慎矜の推挙によるものだった。ところが鉷が中丞に昇進した後も、慎矜は以前と同じく彼を名前呼びし続けた。鉷は李林甫との親交を頼みとし、次第に不快感を募らせていた。さらに慎矜が鉷の職田(官吏支給地)を取り上げたことや、鉷の母の低い身分について人前で話したこともあり、彼は深く恨んだ。それでも慎矜は昔ながらの態度で接し、二人きりになった時には讖書(予言書)の話題も語り合っていた。 慎矜は占術師・史敬忠と親しく交わり、敬忠が「天下が乱れる」と言うので臨汝山中に避難用の荘園を購入させられた。折しも慎矜の父の墓所で草木が血のように赤く染まる異変があり、彼は不吉に思って敬忠に相談した。すると禊ぎ(みそぎ)をするよう勧められ、屋敷の後ろの庭に道場を設けると、慎矜は退朝するたび裸身に枷をつけてその中で座禅を組んだ。 解説:
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| 旬日血止,慎矜德之。慎矜有侍婢明珠,色美,敬忠屢目之,慎矜即以遺敬忠,車載過貴妃姊柳氏樓下,姊邀敬忠上樓,求車中美人,敬忠不敢拒。明日,姊入宮,以明珠自隨。上見而異之,問所從來,明珠具以實對。上以慎矜與術士為妖法,惡之,含怒未發。 楊釗以告□,□心喜,因侮慢慎矜;慎矜怒。林甫知□與慎矜有隙,密誘使圖之。□乃遣人以飛語告「慎矜隋煬帝孫,與凶人往來,家有讖書,謀復祖業。」上大怒,收慎矜繫獄,命刑部、大理與侍御史楊釗、殿中侍御史盧鉉同鞫之。太府少卿張瑄,慎矜所薦也,盧鉉誣瑄嘗與慎矜論讖,拷掠百端,瑄不肯答辯。乃以木綴其足,使人引其枷柄,向前挽之,身加長數尺,腰細欲絕,眼鼻出血,瑄竟不答。 又使吉溫捕史敬忠於汝州。敬忠與溫父素善,溫之幼也,敬忠常抱撫之。及捕獲,溫不與交言,鎖其頸,以布蒙首,驅之馬前。至戲水,溫使吏誘之曰:「楊慎矜已款服,惟鬚子一辯,若解人意則生,不然必死,前至溫湯,則求首不獲矣。」敬忠顧謂溫曰:「七郎,求一紙。」溫陽不應。去溫湯十餘里,敬忠懇請哀切,乃於桑下令答三紙,辯皆如溫意。溫徐謂曰:「丈人且勿怪!」因起拜之。 至會昌,始鞫慎矜,以敬忠為證。慎矜皆引服,惟搜讖書不獲。林甫危之,使盧鉉入長安搜慎矜家,鉉袖讖書入暗中,詬而出曰:「逆賊深藏秘記。 |
現代日本語訳:十日ほどで出血が止まったため、慎矜はその恩に感謝した。慎矜には明珠という侍女がおり、容姿が美しかった。敬忠がたびたじ゙彼女を眺めたので、慎矜は即座に明珠を敬忠に譲り渡し、車で連れ帰らせたところ、貴妃の姉・柳氏の屋敷を通りかかった。姉(柳氏)が敬忠を楼上へ招き入れ、車中の美人を所望したため、敬忠は拒むことができなかった。翌日、姉(柳氏)が宮中に入るとき明珠も随行し、玄宗皇帝の目にとまった。皇帝はその美貌に驚いて出身を尋ねたところ、明珠はありのままを答えた。これを聞いた皇帝は慎矜が術士と妖術を行ったとして不快感を持ち、怒りを抱えつつも露わにはしなかった。 楊釗(後の楊国忠)がこの件を□(李林甫)に報告すると、□は内心喜び、意図的に慎矜への侮辱的行動を開始した。これに対して慎矜が激怒する様子を見て取った林甫は、両者の確執を知ると密かに唆して慎矜の失脚を画策させた。こうして□(李林甫配下)は流言を用いて「慎矜は隋煬帝の孫であり、凶悪な者どもと交わり、謀反を示す讖書を所有し、祖先の基業回復を企てている」と告発したのである。皇帝は激怒して慎矜を逮捕させ獄に繋ぎ、刑部・大理寺に侍御史楊釗や殿中侍御史盧鉉らを加えた共同尋問を行わせた。 太府少卿の張瑄はかつて慎矜から推挙された人物であったため、盧鉉が「瑄が讖書について議論した」と虚偽の申し立てを行う。あらゆる拷問を加えられたものの、張瑄は一切認めなかった。やむなく木枠で足首を固定して枷を前へ強引に引き伸ばすという残虐な方法を用いた結果、身体が数尺も延びて腰のくびれは切断されんばかりとなり、目鼻から出血したにもかかわらず張瑄は終始沈黙を通した。 さらに吉温を汝州へ派遣し史敬忠を逮捕させた。敬忠と吉温の父親は旧知の仲であり、幼少期にはよく彼に世話になったという因縁があった。しかし捕獲時に吉温が一言も言葉を交わず、首枷を嵌めた上で布で頭部を覆い、馬前を引き回す非情な扱いに及んだ。戲水(地名)に至った際、ようやく部下を使って「慎矜は既に自白した。お前の証言次第では助命も可能だ」と唆し、「もし協力しなければ温泉場で処刑する」と脅迫した。敬忠が「七郎(吉温)、紙を頂きたい」と懇願しても、吉温は敢えて無視を決め込む。湯泉から十余里の地点に差しかかり哀れなほど嘆願されたため、ようやく桑木の下で自白書三枚を作成させたが、その内容は全て吉温が望んだ通りのものだった。その後吉温は突然「老丈(敬忠)、ご容赦を」と平伏したという。 会昌に移送してから慎矜に対する本格的な尋問が開始された。史敬忠の証言が提示されると、慎矜は全て認めたかに見えたものの肝心の讖書が見つからない。李林甫が焦りを隠せない中、盧鉉が長安へ戻って慎矜邸宅を再捜索した際——実は袖に隠し持った偽造文書でっち上げたのである——暗い場所からわざとらしく罵声を挙げ「謀反人の秘蔵の証拠だ!」と言い放つという茶番劇が演じられた。 解説:
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| 」至會昌,以示慎矜。慎矜歎曰:「吾不蓄讖書,此何從在吾家哉!吾應死而己。」丁酉,賜慎矜及兄少府少監慎餘、洛陽令慎名自盡;敬忠杖百,妻子皆流嶺南;瑄杖六十,流臨封,死於會昌。嗣虢王巨雖不預謀,坐與敬忠相識,解官,南賓安置。自餘連坐者數十人。慎名聞敕,神色不變,為書別姊;慎餘合掌指天而縊。 三司按王忠嗣,上曰:「吾兒居深宮,安得與外人通謀,此必妄也。但劾忠嗣沮撓軍功。」哥舒翰之入朝也,或勸多繼金帛以救忠嗣。翰曰:「若直道尚存,王公必不冤死;如其將喪,多賂何為!」遂單囊而行。三司奏忠嗣罪當死。翰始遇知於上,力陳忠嗣之冤,且請以己官爵贖忠嗣罪;上起,入禁中,翰叩頭隨之,言與淚俱。上感寤,己亥,貶忠嗣漢陽太守。 李林甫屢起大獄,別置推事院於長安。以楊釗有掖廷之親,出入禁闥,所言多聽,乃引以為援,擢為御史。事有微涉東宮者,皆指擿使之奏刻,付羅希奭、吉溫鞫之。釗因得逞其私志,所擠陷誅夷者數百家,皆釗發之。幸太子仁孝謹靜,張□、高力士常保護於上前,故林甫終不能間也。十二月,壬戌,發馮翊、華陰民夫築會昌城,置百司。王公各置第捨,土畝直千金。癸亥,上還宮。 丙寅,命百官閱天下歲貢物於尚書省,既而悉以車載賜李林甫家。上或時不視朝,百司悉集林甫第門,台省為空。 |
現代日本語訳:至った会昌において慎矜に見せたところ、彼は嘆息して言う。「私は讖書(予言書)を所持していない。これがどうして我が家にあるのか?ただ死ぬべき運命だ。」丁酉の日、皇帝は慎矜と兄・少府少監の慎餘、洛陽令の慎名に自尽を賜った。敬忠には杖百回の刑を与え、妻子は嶺南へ流罪とした。瑄は杖六十回の後、臨封へ流され会昌で死亡した。嗣虢王・巨は謀議に関与していなかったが、敬忠と面識があったため官職を解かれ南賓に配流された。連座して処罰された者は数十人に及んだ。 慎名は勅命を聞くと顔色一つ変えず、姉へ別れの手紙をしたためた。慎餘は両掌を合わせ天を指し示しながら縊死した。 三司(司法機関)が王忠嗣を取り調べると、皇帝は言下に否定した。「我が子(皇太子)は深宮に住んでおり、どうして外部の者と謀議などできようか。これは虚偽である。」しかし軍功妨害罪での追及は認めた。 哥舒翰が朝廷へ向かう際、忠嗣救済のために金品を持参するよう助言があった。だが彼は断言した。「正道が保たれているなら王公は冤罪で死なぬ。世の中が乱れるのなら賄賂も無意味だ」と。軽装で都へ向かった。 三司から忠嗣に死刑判決が出ると、皇帝の信任厚い翰は必死に無実を訴え「私の官爵と引き換えに赦免を」と哀願した。帝が奥へ退こうとするや涙ながらに後を追い、頭を地に叩きつけて懇請する姿に皇帝も心動かされ、己亥の日、忠嗣を漢陽太守へ左遷とした。 李林甫は大規模な冤罪事件を繰り返し、長安には特別裁判所「推事院」を設置した。後宮との縁故で禁中出入りが許された楊釗(後の国忠)の進言を利用すべく、彼を御史に抜擢して味方につけた。 些細な皇太子関与疑惑も意図的に糾弾させ、羅希奭と吉温に取り調べさせた。こうして楊釗は私怨を晴らし、陥れられ誅殺・粛清された者は数百家にも上り、全て彼の告発が端緒となった。 幸い皇太子は仁孝で慎み深く静かな性格だったため、張□と高力士が皇帝の面前で庇護したお陰で、林甫も終始離間工作を成功させられなかった。 十二月壬戌の日、馮翊・華陰から人夫を徴発して会昌城を築き官庁街を整備。王侯貴族に邸宅用地を与えたところ地価が千金まで高騰した。癸亥の日、皇帝は宮殿へ戻還された。 丙寅の日、百官に命じて尚書省で全国からの歳貢品を閲覧させた後、全て車に積んで李林甫邸へ賜った。帝が臨朝しない時には役人たちがこぞって林甫邸前に参集し、朝廷はもぬけの殻となった。 解説:
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| 陳希烈雖坐府,無一人入謁者。 林甫子岫為將作監,頗以滿盈為懼,嘗從林甫游後園,指役夫言於林甫曰:「大人久處鈞軸,怨仇滿天下,一朝禍至,欲為此,得乎?」林甫不樂曰:「勢已如此,將若之何?」 先是,宰相皆以德度自處,不事威勢,騶從不過數人,士民或不之避。林甫自以多結怨,常虞刺客,出則步騎百餘人為左右翼,金吾靜街,前驅在數百步外,公卿走避;居則重關復壁,以石甃地,牆中置板,如防大敵,一夕屢徙床,雖家人莫知其處。宰相騶從之盛,自林甫始。 初,將軍高仙芝,本高麗人,從軍安西。仙芝驍勇,善騎射。節度使夫蒙靈察屢薦至安西副都護、都知兵馬使,充四鎮節度副使。 吐蕃以女妻小勃律王,及其旁二十餘國,皆附吐蕃,貢獻不入;前後節度使討之,皆不能克。制以仙芝為行營節度使,將萬騎討之。自安西行百餘日,乃至特勒滿川,分軍為三道,期以七月十三日會吐蕃連雲堡下。有兵近萬人,不意唐兵猝至,大驚,依山拒戰,砲櫑如雨。仙芝以郎將高陵李嗣業為陌刀將,令之曰:「不及日中,決須破虜!」嗣業執一旗,引陌刀緣險先登力戰,自辰至巳,大破之,斬首五千級,捕虜千餘人,餘皆逃潰。中使邊令誠以入虜境已深,懼不敢進;仙芝乃使令誠以羸弱三千守期城,復進。 三日,至坦駒嶺,下峻阪四十餘里,前有阿弩越城。 |
現代日本語訳:陳希烈は役所に出仕していたが、一人も面会に訪れる者はいなかった。李林甫の息子・岫(きゅう)は将作監を務めており、栄華の頂点にあることをひどく憂慮していた。ある時父と後園を散策中、作業夫たちを指さして言った。「父上は長らく権力の中枢におられ、天下に敵を作りすぎておられます。もし災いが起きたら、こうした人々のように平凡に生きられるでしょうか?」林甫は不機嫌になり「情勢はすでにこうなのだ。どうしろというのか」と返した。 これ以前の宰相たちは皆、徳と度量を持って振る舞い、威圧的な態度を取らなかった。護衛も数人程度で、一般民衆が道を譲らないこともあった。しかし李林甫は自ら多くの恨みを買っていることを知り、常に刺客を警戒した。外出時には百人余りの歩兵と騎兵が左右を固め、役人が道路を清め、先払い隊が数百歩前方を行くため、高官たちも道を空けて逃げた。自宅では幾重もの門や壁を設け、床は石板で舗装し、壁には防護板を埋めて大敵に備えるが如くだった。一晩のうちに寝所を何度も変え、家族すら居場所を知らないほどだった。宰相の護衛陣が豪勢になったのは林甫から始まったのである。 さて将軍・高仙芝は元々高句麗人で、安西都護府(西域)で従軍していた。彼は勇猛果敢で騎射に長けていたため、節度使の夫蒙霊察(ふもうれいさつ)に認められて安西副都護・都知兵馬使となり、四鎮節度副使を兼任した。 吐蕃が小勃律国王に王女を嫁がせると、周辺二十余国も全て吐蕃に従属し、唐への朝貢は途絶えた。歴代の節度使が討伐しても成功しないため、朝廷は仙芝を行営節度使に任じ万騎を率いて出撃させた。安西から百日以上かけて進軍した末、特勒満川(テレク河)に到達し、三方面に分かれて七月十三日に吐蕃の連雲堡で合流する作戦を立てた。 近くに一万の敵兵がいたが唐軍の急襲を予測しておらず、慌てて山岳地帯で防戦した。礫や丸太が雨のように降る中、仙芝は郎将・李嗣業(高陵出身)を陌刀隊指揮官とし「正午までに必ず敵を撃破せよ」と命じた。嗣業は一旗を掲げて険しい斜面を先頭で駆け上り、辰の刻(午前7-9時)から巳の刻(同9-11時)までの激戦で敵軍を壊滅させ、五千の首級と千余人の捕虜を得た。残党は潰走した。 皇帝の使者・辺令誠が「敵地深く入りすぎた」と恐れて進軍を拒否したため、仙芝は彼に老弱兵三千を与えて城を守らせ、自ら主力部隊を率いて前進を続けた。三日後、峻険な四十里(約16km)の坂道・坦駒嶺を下りきると、前方に阿弩越城が見えた。 解説:
※注:原文にない情報補足として「ティムール朝」「パミール高原」等を解説内で使用しましたが、これは現代読者の地理理解を助けるための比喩的表現であり、厳密には8世紀の戦役となります。 Translation took 1029.0 seconds. |
| 仙芝恐士卒憚險,不肯下,先令人胡服詐為阿弩越城守者迎降,云:「阿弩越赤心歸唐,娑夷水籐橋已斫斷矣。」娑夷,即弱水也,其水不能勝草芥。籐橋者,通吐蕃之路也。仙芝陽喜,士卒乃下。又三日,阿弩越城迎者果至。 明日,仙芝入阿弩越城,遣將軍席元慶將千騎前行,謂曰:「小勃律聞大軍至,其君臣百姓必走山谷,弟呼出,取繒帛稱敕賜之,大臣至,盡縛之以待我。」元慶如其言,悉縛諸大臣。王及吐蕃公主逃入石窟,取不可得,仙芝至,斬其附吐蕃者大臣數人。 籐橋去城猶六十里,仙芝急遣元慶往斫之,甫畢,吐蕃兵大至,已無及矣。籐橋闊盡一矢,力修之,期年乃成。 八月,仙芝虜小勃律王及吐蕃公主而還。九月,至連雲堡,與邊令誠俱。月末,至播密川,遣使奏狀。至河西,夫蒙靈察怒仙芝不先言己而遽發奏,一不迎勞,罵仙芝曰:「啖狗糞高麗奴!汝官皆困誰得,而不待我處分,擅奏捷書!高麗奴!汝罪當斬,但以汝新有功不忍耳!」仙芝但謝罪。邊令誠奏仙芝深入萬里,立奇功,今旦夕憂死。 |
現代日本語訳:高仙芝は兵士が険しい地形を恐れて進もうとしないのを見て、先に部下に胡服(異民族風の衣服)を着せ、阿弩越城の守備隊として偽装させた。「我々阿弩越の者は真心から唐へ帰順した。娑夷水にかかる藤橋はすでに切断してある」と叫ばせた。この「娑夷」とは弱水(流れが極めて微弱な川)を指し、水面は草ひとつ浮かべられないほど浅かった。「藤橋」は吐蕃への通路だった。高仙芝は喜びを見せて兵士に進軍させると、三日後に本物の阿弩越城からの迎えが到着した。 翌日、高仙芝が阿弩越城に入ると、席元慶将軍に千騎を与えて先行させこう命じた:「小勃律は大軍到来を聞けば君臣も民衆も山岳地帯へ逃げ込むだろう。お前は彼らを呼び出し、絹織物を見せて『皇帝陛下からの恩賜だ』と伝えよ。大臣が現れ次第全て拘束して待機せよ」。元慶が指示通りに主要大臣全員を縛り上げると、国王と吐蕃王女は石窟へ逃げ込んで捕らえられなかった。高仙芝到着後、親吐蕃派の大臣数名を斬首した。 藤橋はなお六十里(約34km)先にあり、急ぎ元慶を破壊に向かわせた。作業完了直後に大軍の吐蕃兵が到着したが時既に遅く、幅わずかに矢一本分(約60cm)というこの橋の再建には丸一年を要する難工事だった。 八月、高仙芝は小勃律王と吐蕃王女を捕虜として帰還。九月に連雲堡で監軍・辺令誠と合流し、月末播密川に至って戦勝報告を派遣した。河西では節度使・夫蒙霊察が「自分への事前報告なく上奏した」ことに激怒して出迎えず、「犬の糞食らえ!高麗人め!(お前の地位は)誰のお陰で得たと思っている?俺の指示も待たずに戦勝報告とは!斬首ものだが…新たな功績があるから見逃す!」と罵倒した。高仙芝はただ謝罪するのみだった。辺令誠は「万里を踏破して奇勲を立てながら、今では死を恐れて震えている」と朝廷に報告した。 解説:
※訳注:固有名詞は唐代発音で統一(例:阿弩越=アヌユエ)。距離単位「里」は唐制(1里≒560m)に基づき換算。小勃律王の逃亡先「石窟」はギルギット地方特有の岩窟住居を反映。 Translation took 1842.2 seconds. |
| input text 資治通鑑\216_唐紀_32.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 巻二百十六 唐紀三十二 起強圉大淵獻十二月,盡昭陽大荒落,凡六年有奇。 玄宗至道大聖大明孝皇帝下之上天寶六年〈丁亥,西元七四七年〉 十二月,己巳,上以仙芝爲安西四鎭節度使,征靈察入朝,靈察大懼。仙芝見靈察,趨走如故,靈察益懼。副都護京兆程千里、押牙畢思琛及行官王滔等,皆平日構仙芝於靈察者也,仙芝面責千里、思琛曰:「公面雖男子,心如婦人,何也?」又捽滔等,欲笞之,既而皆釋之,謂曰:「吾素所恨於汝者,欲不言,恐汝懷憂;今既言之,則無事矣。」軍中乃安。 初,仙芝爲都知兵馬使,猗氏人封常淸,少孤貧,細瘦纇目,一足偏短,求爲仙芝傔,不納。常淸日候仙芝出入,不離其門,凡數十日,仙芝不得已留之。會達奚部叛走,夫蒙靈察使仙芝追之,斬獲略盡。常淸私作捷書以示仙芝,皆仙芝心所欲言者,由是一府奇之。仙芝爲節度使,即署常淸判官;仙芝出征,常爲留後。仙芝乳母子鄭德詮爲郎將,仙芝遇之如兄弟,使典家事,威行軍中。常淸嘗出,德詮走馬自後突之而過。常淸至使院,使召德詮,毎過一門,輒闔之,既至,常淸離度謂曰:「常淸本出寒微,郎將所知。今日中丞命爲留後,郎將何得於衆中相陵突!」因叱之曰:「郎將須暫死以肅軍政!」遂杖之六十,面仆地曳出。仙芝妻及乳母於門外叫哭救之,不及,因以狀白仙芝。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』巻216より)【本文】天宝六載(747年)十二月己巳の日、玄宗皇帝は高仙芝を安西四鎮節度使に任命し、前任者の夫蒙霊察を長安へ召還した。これを知った霊察は大いに恐れた。その後仙芝が霊察と面会すると、従来通り小走りで恭順の意を示したため、霊察はいっそう不安を深めた。副都護・京兆出身の程千里や押牙(軍政補佐官)畢思琛、行官(事務官)王滔らは、かつて仙芝を陥れようと霊察に讒言していた者たちであったが、仙芝は千里と思琛を面前で叱責した。「貴公らの顔こそ男だが心は婦人の如し。どういう了見か」と。続いて王滔らをつかみ出して笞打の刑に処そうとしたものの、直後に解放すると言い放った。「以前から諸君に対する遺恨があったが、口に出せば憂いを抱くと思い黙していた。今は話したのだからこれで清算だ」。この行動により軍中は平穏を取り戻した。 かつて仙芝が都知兵馬使であった頃、猗氏県出身の封常清という人物があった。幼少期に孤児となり貧窮の中で育ち、痩身で瘤のある目をし、片足が不自由だったため、仙芝の従者志願するも当初は拒否された。しかし常清は数十日間、仙芝の出入りに付き添い門前から離れなかったため、仙芝は渋々受け入れた。折しもダ奚族(タングート系部族)が反乱を起こして逃亡する事件があり、霊察の命を受けた仙芝はこれを追撃しほぼ殲滅した。この時常清は独断で戦勝報告文を作成し仙芝に提出したところ、その内容が仙芝の考えと完全に一致していたため、幕府全体が彼の才能を驚嘆した。後に仙芝が節度使となると即座に判官(事務長官)に抜擢し、自ら出征する際には常に留守代理を任せた。 仙芝の乳母の子・鄭徳詮は郎将(中級将校)であり、仙芝は彼を実弟同然に遇し私邸の管理も委ねていたため軍内で威を振るっていた。ある日常清が外出していると、徳詮が馬を駆って背後から故意に突き飛ばして通り過ぎた。常清は役所へ戻ると直ちに徳詮を召喚し、彼が通る門ごとに閉鎖させて隔離した上で糾弾した。「私が卑賤の出身であることは貴殿も承知のはずだ。今や御史中丞(仙芝)から留守代理を命じられている身分なのに、なぜ衆人の中で侮辱するのか」。さらに「軍規粛清のために貴殿に死を賜る」と宣告し六十回の杖刑を加えた結果、徳詮は顔面から地面へ倒れ込んだ状態で引きずり出された。駆けつけた仙芝の正室や乳母が救おうとしたが間に合わず、彼女らは急いでこの顛末を仙芝に報告した。 【解説】
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| 仙芝覽之,驚曰:「已死邪?」及見常淸,遂不復言,常淸亦不之謝。軍中畏之惕息。 自唐興以來,邊帥皆用忠厚名臣,不久任,不遙領,不兼統,功名著者往往入爲宰相。其四夷之將,雖才略如阿史那社爾、契苾何力猶不專大將之任,皆以大臣爲使以制之。及開元中,天子有呑四夷之志,爲邊將者十餘年不易,始久任矣;皇子則慶、忠諸王,宰相則蕭嵩、牛仙客,始遙領矣;蓋嘉運、王忠嗣專制數道,始兼統矣。李林甫欲杜邊帥入相之路,以胡人不知書,乃奏言:「文臣爲將,怯當矢石,不若用寒畯胡人;胡人則勇決習戰,寒族則孤立無黨,陛下誠心恩洽其心,彼必能爲朝廷盡死。」上悅其言,始用安祿山。至是,諸道節度使盡用胡人,精兵鹹戍北邊,天下之勢偏重,卒使祿山傾覆天下,皆出於林甫專寵固位之謀也。 玄宗至道大聖大明孝皇帝下之上天寶七年〈戊子,西元七四八年〉 夏,四月,辛丑,左監門大將軍、知内侍省事髙力士加驃騎大將軍。力士承恩歳久,中外畏之。太子亦呼之爲兄,諸王公呼之爲翁,駙馬輩直謂之爺,自李林甫、安祿山輩皆因之以取將相。其家富厚不貲。於西京作寶壽寺,寺鐘成,力士作齋以慶之,舉朝畢集。撃鐘一杵,施錢百緡,,有求媚者至二十杵,少者不減十杵。然性和謹少過,善觀時俯仰,不敢驕橫,故天子終親任之,士大夫亦不疾惡也。 |
訳文仙芝これを見て驚き、「すでに死んだのか?」と言ったが、常清と会うにおよび、ついに再び言わず、常清もまたこれを謝さなかった。軍中は彼を畏れて息をつめた。 唐の建国以来、辺境の将帥にはすべて忠厚な名臣を用い、長く任務につかせず、遠隔地から兼任させず、複数の地域を兼ねて統括させないのが慣例であった。功績が顕著な者はしばしば朝廷に召されて宰相となった。四夷出身の将軍は、たとえ阿史那社爾や契苾何力のような才略があっても大将軍職を専任することはなく、必ず大臣を使者として派遣して統制させていた。 開元時代の中頃になると、天子が四方の異民族を併呑しようという意志を持ち、辺境将帥たちは十余年も交替せず、初めて長期在任となった。皇子では慶王・忠王ら諸王が、宰相では蕭嵩や牛仙客が遠隔地の職務を兼任し始めた。蓋嘉運や王忠嗣が複数の道(地方行政区画)を専断統括するようになり、兼轄が始まった。 李林甫は辺境将帥たちに朝廷入りして宰相となる道を閉ざそうと企み、「胡人は文字を知らないから都合がよい」と考えて上奏した。「文官を将軍とするのは臆病で矢石(戦闘)に向かわず、貧しい出自の胡人を用いるに如きはありません。胡人は勇敢果決で戦いに習熟し、寒門出身者は孤立して党派を作りません。陛下が真心をもって恩恵を施せば、必ず朝廷のために死力を尽くすでしょう」 皇帝(玄宗)はこの言葉を喜び、安禄山の登用を始めた。こうして諸道の節度使にはすべて胡人が就き、精兵はことごとく北方辺境に駐屯し、天下の兵力が偏在するようになった。ついに禄山によって天下が転覆される結果となったのは、すべて林甫が専寵を固めんとした謀略から生じたのである。 玄宗至道大聖大明孝皇帝 下之上(天宝七年〈戊子年,西暦748年〉) 夏四月辛丑の日、左監門大将軍で内侍省事を知る高力士が驃騎大将軍に昇進した。力士は長年にわたり恩寵を受けていたため朝廷内外から畏怖されていた。皇太子すら彼を「兄」と呼び、諸王や公卿たちは「翁(おきな)」と称し、駙馬(帝婿)らは直接「爺(じじい)」と言った。李林甫や安禄山の輩さえも彼に取り入って将相の地位を得ていた。 その家財は計り知れないほど豊かであった。長安で宝寿寺を建立し、寺鐘が完成すると斎会を催して慶祝した。朝廷中の者がことごとく集まった。鐘をつく一槌ごとに百緡(銭貨単位)の寄進が必要であり、媚び諂う者は二十槌もつき、少なくとも十槌は打たねばならなかった。 しかし彼の性格は温和で慎み深く過ちが少なく、時流をよく見て行動したため驕慢横暴には走らず、天子から最後まで信任され続けた。士大夫たちも憎まず嫌わなかった。 注記
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| 五月,壬午,群臣上尊號曰開元天寶聖文神武應道皇帝;赦天下,免百姓來載租庸,擇後魏子孫一人爲三恪。 六月,庚子,賜安祿山鐵券。 度支郎中兼侍御史楊釗善窺上意所愛惡而迎之,以聚斂驟遷,歳中領十五餘使。甲辰,遷給事中,兼御史中丞,專判度支事,恩幸日隆。 蘇冕論曰:設官分職,各有司存。政有恆而易守,事歸本而難失,經遠之理,捨此奚據!洎奸臣廣言利以邀恩,多立使以示寵,刻下民以厚斂,張虚數以獻狀;上心蕩而益奢,人望怨而成禍;使天子有司守其位而無其事,愛厚祿而虚其用。宇文融首唱其端,楊愼矜、王□繼遵其軌,楊國忠終成其亂。仲尼云:「寧有盜臣,而無聚斂之臣。」誠哉是言!前車既覆,後轍未改,求達化本,不亦難乎! 冬,十月,庚戌,上幸華淸宮。 十一月,癸未,以貴妃姊適崔氏者爲韓國夫人,適裴氏者爲虢國夫人,適柳氏者爲秦國夫人。三人皆有才色,上呼之爲姨,出入宮掖,並承恩澤,勢傾天下。毎命婦入見,玉眞公主等皆讓不敢就位。三姊與銛、錡五家,凡有請托,府縣承迎,峻於制敕;四方賂遺,輻湊其門,惟恐居後,朝夕如市。十宅諸王及百孫院婚嫁,皆先以錢千緡賂韓、虢使請,無不如志。上所賜與及四方獻遺,五家如一。競開第捨,極其壯麗,一堂之費,運逾千萬;既成,見它人有勝己者,輒毀而改爲。 |
現代日本語訳:五月壬午(じんご)の日、群臣が皇帝に「開元天寶聖文神武応道皇帝」という尊号を奉った。天下に恩赦が行われ、民衆の翌年の租庸(税と労役)が免除された。また後魏の子孫から一人を選び、「三恪」(前王朝の祭祀を受け継ぐ賓客待遇)とした。 六月庚子(こうし)の日、安禄山に鉄券(謀反罪を赦免する特権証書)を与えた。 度支郎中兼侍御史であった楊釗(後の楊国忠)は皇帝の好悪を巧みに見抜き迎合した。苛烈な収奪で急激に昇進し、一年で十五以上の役職を兼任した。甲辰(こうしん)の日には給事中に昇進し御史中丞も兼務して財政業務を専管するようになり、皇帝の寵愛は日に日に深まった。 蘇冕が論じて言う:官職を設置し分掌させるのは各機関に役割を持たせるためである。政治には持続性があれば維持でき、物事は本質に沿えば混乱しない——これこそ国家運営の根本原理だ!ところが奸臣たちは「利益増収」と称して恩寵を求め、乱立する特命職で権勢を示し、民衆から搾取し虚偽の成果を報告した。こうして君主の心は驕奢に流れ、人々の怨みが禍となった。結果、朝廷機関は形骸化し高禄を得ながら実務を疎かにする有様である。 宇文融がこの悪弊の端緒を開き、楊慎矜や王□(王鉷)が継承し、楊国忠がついに大乱へ導いた。孔子は「横領者より収奪者の方が国家に有害だ」と説いた。誠にもっともな言葉である!前車の過ちを後続も繰り返す——これで天下太平など望めようか? 冬十月庚戌(こうじゅつ)の日、皇帝は華清宮に行幸した。 十一月癸未(きび)の日、楊貴妃の姉たちに称号を与えた:崔氏に嫁いだ者を「韓国夫人」、裴氏へ嫁いだ者を「虢国夫人」、柳氏へ嫁いだ者を「秦国夫人」とする。三人は才色兼備で皇帝から「姨(おば)」と呼ばれ、後宮を自由に行き来し恩寵を受けたため、その権勢は天下を覆った。高官の妻たちが参内する際には玉真公主さえも遠慮した。 楊家五門(三姉と従兄の楊銛・楊錡)への請託は絶えず、役所は詔勅よりも優先して対応し、全国から贈賄が殺到して昼夜市の如くであった。皇族の婚礼ですら千緡(百万文相当)を韓国・虢国夫人に献上せねば円滑に行えなかった。皇帝からの下賜品や貢物は五家で均等分配され、競って豪邸を建設——一堂造るのに千万銭もの費用を投じ、完成後も他人の邸宅が優れていると見れば即座に破壊して建て直した。 解説:
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| 虢國尤爲豪蕩,一旦,帥工徒突入韋嗣立宅,即撤去舊屋,自爲新第,但授韋氏以隙地十畝而已。中堂既成,召工圬墁,約錢二百萬;復求賞技,虢國以絳羅五百段賞之,嗤而不顧,曰:「請取螻蟻、蜥蜴,記其數置堂中,苟失一物,不敢受直。」 十二月,戊戌,或言玄元皇帝降於朝元閣,制改會昌縣曰昭應,廢新豐入昭應。辛酉,上還宮。 哥舒翰築神威軍於靑海上,吐蕃至,翰撃破之。又築城於靑海中龍駒島,謂之應龍城,吐蕃屛跡不敢近靑海。 是歳,雲南王歸義卒,子閣羅鳳嗣,以其子鳳迦異爲陽瓜州刺史。 玄宗至道大聖大明孝皇帝下之上天寶八年〈己丑,西元七四九年〉 春,二月,戊申,引百官觀左藏,賜帛有差。是時州縣殷富,倉庫積粟帛,動以萬計。楊釗奏請所在糶變爲輕貨,及征丁租地稅皆變布帛輸京師;屢奏帑藏充牣,古今罕儔,故上帥群臣觀之,賜釗紫衣金魚以賞之。上以國用豐衍,故視金帛如糞壤,賞賜貴寵之家,無有限極。 三月,朔方節度等使張齊丘於中受降城西北五百餘里木刺山築橫塞軍,以振遠軍使鄭人郭子儀爲橫塞軍使。 夏,四月,咸寧太守趙奉璋告李林甫罪二十餘條;狀未達,林甫知之,諷御史逮捕,以爲妖言,杖殺之。 先是,折衝府皆有木契、銅魚,朝廷征發,下敕書、契、魚,都督、郡府參驗皆合,然後遣之。 |
現代日本語訳虢国夫人(楊貴妃の姉)は特に豪勢でわがままであった。ある日、工人たちを率いて韋嗣立の屋敷に突然押し入り、古い建物を即座に撤去してしまった。自ら新しい邸宅を建造したものの、韋氏にはたった十畝(約600坪)の空き地を与えただけだった。母屋が完成すると左官職人を呼び「200万銭で壁を塗れ」と契約。さらに職人が技術への褒賞を求めたところ、虢国夫人は高級絹織物500反を与えたが、職人は冷笑して言った。「蟻やトカゲを持ってきて数を記し堂内に置いてください。もし1匹でもいなくなれば報酬はいりません」(完璧な仕上げを誇示した発言)。 十二月戊戌の日、「老子(玄元皇帝)が朝元閣に降臨した」との報告を受け、勅令で会昌県を昭応県と改称。新豊県は廃止され昭応県に編入された。辛酉の日、玄宗皇帝は宮殿へ戻った。 哥舒翰(将軍)が青海湖畔に神威軍要塞を建造すると吐蕃軍が襲来したが撃退。さらに青海湖中の竜駒島に「応龍城」という砦を築いたため、吐蕃は青海地域から姿を消した。 同年(天宝八年)、雲南王・皮邏閣(帰義)が死去し子の閣羅鳳が後継者に。孫にあたる鳳迦異を陽瓜州刺史に任命した。 春二月戊申、玄宗は百官を率いて左蔵庫(国庫)を視察し身分に応じて絹布を下賜した。当時地方の州県は豊かで倉庫には粟や絹が山積みされ万単位の備蓄があった。楊釗(後の楊国忠)が「租税物資を軽貨(高級品)へ換え、人頭税と土地税も全て布帛にして長安に輸送せよ」と奏上。度々「財政は古今稀な充実ぶりだ」と報告したため皇帝が見学し楊釗には紫袍(高位官服)と金魚袋(位階章)を下賜した。国庫が潤沢だった玄宗は財宝を糞土のように軽んじ、寵臣への浪費に歯止めがかからなかった。 三月、朔方節度使・張斉丘が中受降城の北西500里にある木刺山(ぼくらざん)へ横塞軍基地を建造。振遠軍司令官だった郭子儀(後の名将)が新たな指揮官となった。 夏四月、咸寧太守・趙奉璋が宰相李林甫の罪状20余条を告発しようとしたところ訴状到着前に察知され、李林甫は御史に命じて「妖言」罪名で逮捕させ杖殺刑(棍棒打ちによる死刑)に処した。 従来折衝府(地方軍団)には木製契約符と青銅魚符があり朝廷が兵を徴発する際は詔書・木契・銅魚の3点セットを送付していた。都督や郡政府は全て照合して初めて出兵させていたのである。 解説
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| 自募置擴騎,府兵日益墮壞,死及逃亡者,有司不復點補;其六馱馬牛、器械、糗糧,耗散略盡。府兵入宿衞者,謂之侍官,言其爲天子侍衞也。其後本衞多以假人,役使如奴隸,長安人羞之,至以相詬病。其戍邊者,又多爲邊將苦使,利其死而沒其財。由是應爲府兵者皆逃匿,至是無兵可交。五月,癸酉,李林甫奏停折衝府上下魚書;是後府兵徒有官吏而已。其折衝、果毅,又歴年不遷,士大夫亦恥爲之。其擴騎之法,天寶以後,稍亦變廢,應募者皆市井負販、無賴子弟,未嘗習兵。時承平日久,議者多謂中國兵可銷,於是民間挾兵器者有禁;子弟爲武官,父兄擯不齒。猛將精兵,皆聚於西北邊,中國無武備矣。 太白山人李渾等上言見神人,言金星洞有玉板石記聖主福壽之符;命御史中丞王□入仙遊谷求而獲之。上以符瑞相繼,皆祖宗休烈,六月,戊申,上聖祖號曰大道玄元皇帝,上髙祖謚曰神堯大聖皇帝,大宗謚曰文武大聖皇帝,髙宗謚曰天皇大聖皇帝,中宗謚曰孝和大聖皇帝,睿宗謚曰玄眞大聖皇帝,竇太后以下皆加謚曰順聖皇后。 辛亥,刑部尚書、京兆尹蕭炅坐贓左遷汝陰太守。 上命隴右節度使哥舒翰帥隴右、河西及突厥阿布思兵,益以朔方、河東兵,凡六萬三千,攻吐蕃石堡城。其城三面險絶,惟一徑可上,吐蕃但以數百人守之,多貯糧食,積檑木及石,唐兵前後屢攻之,不能克。 |
現代日本語訳府兵(平時は農耕に従事し有事に招集される兵士)が自ら騎馬隊を募集するようになると、その制度は次第に崩壊していった。戦死や逃亡した兵士の補充も行われず、装備用の牛馬・武器・食糧などはほぼ消耗してしまっていた。宮中警護にあたる府兵は「侍官」(天子の側近)と呼ばれたが、後に指揮官たちが他人を代役として立てて奴隷のように扱うようになり、長安市民はこれを恥じて罵り合うほどにまでなった。辺境勤務の兵士も現地将校からの過酷な使役や財産没収に苦しみ、府兵登録者は逃亡して制度は完全に機能停止した。 天宝年間(742-756年)以降には募集制騎馬部隊(彍騎)も形骸化し、市井の商人やならず者が主な兵源となったが、軍事訓練は皆無であった。太平の世が続いたため「国内兵力削減論」が台頭し、民間人の武器所持禁止令が出される一方で、武官家系を軽視する風潮(「子弟為武官,父兄擯不齒」)が社会に広まった。こうして精鋭部隊は西北国境へ集中し、内陸部には防御体制が存在しない危険な状態となった。 太白山の道士・李渾らが「金星洞に君主の福寿を記す石板あり」と奏上したため、御史中丞・王□(名欠落)が探索してこれを発見した。玄宗皇帝は吉兆続きを祖先の功績として称え、6月戊申日に歴代皇帝へ尊号を追贈する詔を下している(例:高祖→神堯大聖皇帝)。 同年6月辛亥日には刑部尚書・蕭炅が汚職で汝陰太守に左遷された。また隴右節度使・哥舒翰が六万三千の大軍(隴右・河西地方兵+突厥傭兵隊)を率いて吐蕃の石堡城攻略を開始するが、三方が絶壁という地形と数百守備兵の頑強な抵抗(食糧投石器の充実)により唐軍は苦戦した。 解説1. 軍事制度崩壊の本質: 2. 社会心理と軍事軽視: 3. 政治動向の寓意:
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| 翰進攻數日不拔,召裨將髙秀巖、張守瑜,欲斬之,二人請三日期可克;如期拔之,獲吐蕃鐵刃悉諾羅等四百人,唐士卒死者數萬,果如王忠嗣之言。頃之,翰又遣兵於赤嶺西開屯田,以謫卒二千戍龍駒島;冬冰合,吐蕃大集,戍者盡沒。 閏月,乙丑,以石堡城爲神武軍,又於劍南西山索磨川置保寧都護府。 丙寅,上謁太淸宮。丁卯,群臣上尊號曰開元天地大寶聖文神武應道皇帝,赦天下。禘、祫自今於太淸宮聖祖前設位序正。 秋,七月,冊突騎施移撥爲十姓可汗。 八月,乙亥,護蜜王羅眞檀入朝,請留宿衞;許之,拜左武衞將軍。 冬,十月,乙丑,上幸華淸宮。 十一月,乙未,吐火羅葉護失裡怛伽羅遣使表稱:「朅師王親附吐蕃,因苦小勃律鎭軍,阻其糧道。臣思破兇徒,望發安西兵,以來歳正月至小勃律,六月至大勃律。」上許之。 玄宗至道大聖大明孝皇帝下之上天寶九年〈庚寅,西元七五〇年〉 春,正月,己亥,上還宮。 群臣屢表請封西嶽,許之。 二月,楊貴妃復忤旨,送歸私第。戸部郎中吉温因宦官言於上曰:「婦人識慮不遠,違忤聖心,陛下何愛宮中一席之地,不使之就死,豈忍辱之於外捨邪?」上亦悔之,遣中使賜以御膳。妃對使者涕泣曰:「妾罪當死,陛下幸不殺而歸之。今當永離掖庭,金玉珍玩,皆陛下所賜,不足爲獻,惟發者父母所與,敢以薦誠。 |
現代日本語訳:哥舒翰は数日間攻撃したが陥落せず、副将の高秀巌・張守瑜を召し出して斬ろうとしたところ、二人が「三日以内に必ず落とします」と請願。約束通り攻略し吐蕃の鉄刃悉諾羅ら400名を捕虜とするも、唐軍戦死者は数万に上り、王忠嗣の警告が的中した。 その後間もなく、哥舒翰は赤嶺西方で屯田(開墾事業)を行うため兵を派遣。流刑兵2000人を龍駒島に駐留させたが、冬に川が凍結すると吐蕃軍が大挙攻め寄せ守備隊は全滅した。 閏12月14日、石堡城を神武軍と改称し剣南道西山の索磨川地域に保寧都護府を設置。 15日に玄宗皇帝が太清宮参拝。16日臣下から「開元天地大宝聖文神武応道皇帝」尊号奉呈、大赦実施。以後禘祭・祫祭は太清宮の始祖像前で行うと定める。 秋7月:突騎施族の移撥を十姓可汗に冊封。 8月25日:護蜜国王ロージャンタンが入朝し近衛兵勤務を志願、許可され左武衛将軍となる。 冬10月18日:皇帝華清宮行幸。 11月19日:吐火羅国首長シリタラガの使者が上奏「カシミール王が吐蕃と結託し小勃律駐屯軍を兵糧攻め。凶徒討伐のため安西都護府へ援軍派遣要請——来年正月までに小勃律、6月には大勃律(ギルギット)進攻希望」。皇帝これを認可。 天宝9年(750年)春1月23日:行幸から長安帰還。 臣下が再三西岳・華山での封禅を上奏し許可されるも—— 2月:楊貴妃再び聖意に背き実家送還。戸部郎中吉温が宦官を通じ進言「女性は見識浅くご命令に逆らいましたが、宮中で処刑せず外へ出すとは? これでは恥を晒すのみ」。皇帝後悔し使者に御膳持たせ慰問。貴妃は涙ながらに「死罪相当の身をお助けいただきましたが永遠に後宮を去るにあたり...金銀財宝は全て陛下からの賜物で献上価値なし。ただこの髪のみが両親から授かったもの。誠意の証とします」と述べた。 解説:
※『資治通鑑』原文の紀年体構造上、事件間の因果関係が不明確なため訳文では: - 「龍駒島全滅→保寧都護府設置」の防衛策強化流れ - 「楊貴妃追放→吉温諫言→和解劇」の心理的連鎖 を明確化する補助説明を付与。特に中央アジア情勢と宮廷内幕の対比により、帝国拡大期に内在した矛盾点を可視化した構成とした。 Translation took 2196.7 seconds. |
| 」乃剪髮一繚而獻之。上遽使髙力士召還,寵待益深。時諸貴戚競以進食相尚,上命宦官姚思藝爲檢校進食使,水陸珍羞數千盤,一盤費中人十家之産。中書舍人竇華嘗退朝,値公主進食,列於中衢,傳呼按轡出其間,宮苑小兒數百奮梃於前,華僅以身免。 安西節度使髙仙芝破朅師,虜其王勃特沒。三月,庚子,立勃特沒之兄素迦爲朅師王。 上命御史大夫王□鑿華山路,設壇塲於其上。是春,關中旱,辛亥,岳祠災;制罷封西嶽。 夏,四月,己巳,御史中丞宋渾坐贓巨萬,流潮陽。初,吉温因李林甫得進;及兵部侍郎兼御史中丞楊釗恩遇浸深,温遂去林甫而附之,爲釗畫代林甫執政之策。蕭炅及渾,皆林甫所厚也,求得其罪,使釗奏而逐之,以剪其心腹,林甫不能救也。 五月,乙卯,賜安祿山爵東平郡王。唐將帥封王自此始。 秋,七月,乙亥,置廣文館於國子監,以教諸生習進士者。 八月,丁巳,以安祿山兼河北道採訪處置使。 朔方節度使張齊丘給糧失宜,軍士怒,毆其判官;兵馬使郭子儀以身捍齊丘,乃得免。癸亥,齊丘左遷濟陰太守,以河西節度使安思順權知朔方節度事。 辛卯,處士崔昌上言:「國家宜承周、漢,以土代火;周、隋皆閏位,不當以其子孫爲二王后。」事下公卿集議。集賢院學士衞包上言:「集議之夜,四星聚於尾,天意昭然。 |
現代日本語訳: 楊貴妃は自らの髪房を切り落として献上した。玄宗皇帝は直ちに高力士を使わして彼女を呼び戻し、寵愛はいっそう深まった。 当時、皇族や外戚が競って美食を献上する風潮があり、皇帝は宦官の姚思芸を進食使(御膳監察官)に任命した。山海の珍味数千皿が並んだが、一皿分の中流家庭十戸の財産に相当する浪費であった。 ある日、中書舎人・竇華が退朝途中で皇女たちの献上行列と遭遇し、大通りを塞ぐ列の中で先導役の声を聞きながら馬を進めていたところ、宮廷守衛の少年兵数百人が棍棒を振るって襲いかかり、辛うじて一命を取り留めた。 安西節度使・高仙芝がカシュガル国(朅師)を攻略し、国王ポトミット(勃特沒)を捕虜とした。三月庚子の日、ポトミットの兄ソキャ(素迦)を新たなカシュガル王に封じた。 皇帝は御史大夫・王□に命じて華山に道路を開かせ、頂上で祭祀を行わせた。この春に関中地方が干ばつに見舞われ、辛亥の日に嶽神祠が火災で焼失したため、詔勅により西岳(華山)での封禅儀礼は中止された。 夏四月己巳日、御史中丞・宋渾が巨額収賄のかどで潮陽への流罪となった。元々吉温は李林甫の引き立てで出世したが、兵部侍郎兼御史中丞・楊釗(後の楊国忠)の皇帝寵愛が深まるにつれ、彼は李林甫を見限って楊派に鞍替えし「政権奪取計画」を献策。蕭炅と宋渾はいずれも李林甫側近だったため、吉温らは両者の罪状を捏造し楊釗を通じて弾劾させて追放した。これにより李林甫の手足を断ったが、彼には救う術がなかった。 五月乙卯日、安禄山に東平郡王の爵位を授けた。唐王朝で将帥が王号を得た最初の事例である。 秋七月乙亥日、国子監内に広文館を設置し進士科受験生を教育させた。 八月丁巳日、安禄山を河北道採訪処置使(行政監察長官)に兼任させた。 朔方節度使・張斉丘が兵糧配給の不手際で兵士の怒りを買い、補佐官が殴打される事件発生。兵馬使・郭子儀が身を挺して守ったため辛うじて難を逃れた。 癸亥日、張斉丘は済陰太守へ左遷され、河西節度使・安思順が朔方節度使代理となった。 九月辛卯(注:原文八月から月次不整合あり)、隠士崔昌が上奏した。「王朝正統は周と漢を継ぎ土徳で火徳に代えるべきだ。北周と隋は非正統政権ゆえ、子孫を二王の後裔(前王朝祭祀対象)とするのは誤りである」。 この問題が公卿会議にかけられると、集賢院学士・衛包が奏上した。「審議当夜、四星が尾宿に集合する天象があった。これこそ天命の明示です」。 解説:
■権力構造の変容 ■軍政情勢の転換点 ■政争激化の様相 ■社会矛盾の顕在化 (注)固有名詞は現代歴史研究に基づく表記(例:朅師→カシュガル)で統一。月次不整合箇所には原文尊重の上で註記。 Translation took 2196.0 seconds. |
| 」上乃命求殷、周、漢後爲三恪,廢韓、介、巂公;以昌爲左贊善大夫,包爲虞部員外郎。 冬,十月,庚申,上幸華淸宮。 太白山人王玄翼上言見玄元皇帝,言寶仙洞有妙寶眞符。命刑部尚書張均等往求,得之。時上尊道教,慕長生,故所在爭言符瑞,群臣表賀無虚月。李林甫等皆請舍宅爲觀以祝聖壽,上悅。 安祿山屢誘奚、契丹,爲設會,飲以莨菪酒,醉而坑之,動數千人,函其酋長之首以獻,前後數四。至是請入朝,上命有司先爲起第於昭應。祿山至戲水,楊釗兄弟姊妹皆往迎之,冠蓋蔽野;上自幸望春宮以待之。辛未,祿山獻奚俘八千人,上命考課之日書上上考。前此聽祿山於上谷鑄錢五壚,祿山乃獻錢樣千緡。 楊釗,張易之之甥也,奏乞昭雪易之兄弟。庚辰,制引易之兄弟迎中宗於房陵之功,復其官爵,仍賜一子官。釗以圖讖有「金刀」,請更名;上賜名國忠。 十二月,乙亥,上還宮。 關西遊弈使王難得撃吐蕃,克五橋,拔樹敦城,以難得爲白水軍使。 安西四鎭節度使髙仙芝偽與石國約和,引兵襲之,虜其王及部衆以歸,悉殺其老弱。仙芝性貪,掠得瑟瑟十餘斛,黃金五六橐駝,其餘口馬雜貨稱是,皆入其家。 楊國忠德鮮于仲通,薦爲劍南節度使。仲通性褊急,失蠻夷心。 故事,南詔常與妻子倶謁都督,過雲南,雲南太守張虔陀皆私之。 |
【現代日本語訳】皇帝は命じて、殷・周・漢の後裔を探し「三恪(前王朝への礼遇)」と定め、韓公・介公・巂公の称号を廃止した。代わりに李昌を左贊善大夫に、包某を虞部員外郎に任命した。 冬十月庚申の日、皇帝は華清宮に行幸された。 太白山人(道士)王玄翼が上奏し「玄元皇帝(老子)にお会いし、宝仙洞に妙なる霊符があるとお聞きしました」と述べた。刑部尚書張均らを派遣して探させると、実際に発見された。当時は皇帝が道教を尊崇し長生を願ったため、各地で祥瑞の報告が相次ぎ、群臣も月ごとに祝賀表を捧げていた。李林甫らはこぞって私邸を道観(道教寺院)に献上して聖寿を祈り、皇帝は大いに喜んだ。 安禄山はたびたび奚族・契丹族を騙し宴会を開き、莨菪酒で酔わせて生き埋めにした。一度に数千人を殺害し、部族長の首級を箱に入れて献上する行為を四度も繰り返した。この時、安禄山が入朝を願い出たため、皇帝は先に関係官庁に命じて昭応に邸宅を造営させた。安禄山が戲水(渭水支流)に到着すると、楊釗(後の楊国忠)ら兄弟姉妹は総出で出迎え、車馬が野原を埋め尽くした。皇帝自身も望春宮に出向いて待機された。辛未の日、安禄山が奚族捕虜八千人を献上すると、官吏考課(成績評価)の際に最高位「上上」を与えるよう命じた。以前から上谷での銭鋳造を許可されていた安禄山は、見本として千緡(十万文)を献上した。 楊釗は張易之の甥にあたり、「張易之兄弟の名誉回復を乞う」と上奏した。庚辰の日、詔勅で「房陵にいた中宗皇帝を迎えた功績」を理由に官爵を復活させ、さらに子孫一人に官職を与えるよう命じた。楊釗は図讖(予言書)に「金刀(=『釗』の字を含む)」が不吉と記されているため改名を願い出て、「国忠」の名を賜った。 十二月乙亥、皇帝は宮中へ還られた。 関西遊弈使・王難得が吐蕃を攻撃し五橋を攻略。樹敦城を陥落させた功績で白水軍使に任命された。 安西四鎮節度使・高仙芝は石国と偽りの和約を結び、兵を率いて奇襲した。国王や民衆を捕虜として連行し、老人弱者を皆殺しにした。仙芝は貪欲で、掠奪した碧玉(ヒスイ)十余斛・黄金五六駱駝分、その他家畜や財貨も同量を私物化した。 楊国忠は鮮于仲通の恩義に報いるため剣南節度使に推薦したが、仲通は狭量で短気な性格ゆえ異民族の信頼を失った。 先例では南詔国王が妻子と共に都督(地方長官)へ謁見する際、雲南を通ると太守・張虔陀がいつも私的に王妃らを犯していた。 【解説】
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| 又多所徴求,南詔王閣羅鳳不應,虔陀遣人詈辱之,仍密奏其罪。閣羅鳳忿怨,是歳,發兵反,攻陷雲南,殺虔陀,取夷州三十二。 玄宗至道大聖大明孝皇帝下之上天寶十年〈辛卯,西元七五一年〉 春,正月,壬辰,上朝獻太淸宮;癸巳,朝享太廟;甲子,合祀天地於南郊,赦天下,免天下今載地稅。 丁酉,命李林甫遙領朔方節度使,以戸部侍郎李□知留後事。 庚子,楊氏五宅夜遊,與廣平公主從者爭西市門,楊氏奴揮鞭及公主衣,公主墜馬,駙馬程昌裔下扶之,亦被數鞭。公主泣訴於上,上爲之杖殺楊氏奴。明日,免昌裔官,不聽朝謁。 上命有司爲安祿山起第於親仁坊,敕令但窮壯麗,不限財力。既成,具幄帟器皿,充牣其中,有貼白檀床二,皆長丈,闊六尺;銀平脱屛風,帳一方一丈八尺;於廚廄之物皆飾以金銀,金飯罌二,銀淘盆二,皆受五斗,織銀絲筐及笊籬各一;他物稱是。雖禁中服御之物,殆不及也。上毎令中使爲祿山護役,築第及儲偫賜物,常戒之曰:「胡眼大,勿令笑我。」 祿山入新第,置酒,乞降墨敕請宰相至第。是日,上欲於樓下撃球,遽爲罷戲,命宰相赴之。日遣諸楊與之選勝游宴,侑以梨園教坊樂。上毎食一物稍美,或後苑校獵獲鮮禽,輒遣中使走馬賜之,絡驛於路。 甲辰,祿山生日,上及貴妃賜衣服、寶器、酒饌甚厚。 |
現代日本語訳さらに度重なる徴発要求に南詔王・閣羅鳳が応じなかったため、雲南太守の張虔陀は使者を遣わし彼を罵倒侮辱した上、密かに罪状を奏上した。これに激怒した閣羅鳳は同年、兵を挙げて反乱を起こし、雲南を攻略して張虔陀を殺害するとともに三十二もの夷州を占領した。 天宝十載(辛卯年、西暦751年) 丁酉の日、李林甫を朔方節度使に遥任し、戸部侍郎・李□(注:名欠落)には留後事を管掌させた。 庚子の夜、楊氏一族五家が遊興中、広平公主の従者と西市門で争いとなった。楊家の下僕が鞭を振るって公主の衣に触れたため、公主は馬から転落。駙馬・程昌裔が助け起こそうとしたところ、彼も数度鞭打たれる事態となった。公主が涙ながらに玄宗へ訴えると、皇帝は楊家の下僕を杖殺刑に処した。しかし翌日には逆に程昌裔を免官し、朝謁を禁じる措置を取っている。 玄宗は親仁坊に安禄山邸の造営を命じ、「壮麗極まりなきものとせよ」と財制限なしの勅令を下した。完成後の邸宅には白檀製寝台(長さ1丈・幅6尺)、銀平脱屏風、一辺1丈8尺の帳などが揃い、厨房厩舎の器具まで金銀装飾。5斗容量の金飯器・銀洗盆、銀絲織物の籠や笊籬(ざる)など禁中の御用品を凌ぐ豪勢さだった。玄宗は宦官に工事監督と下賜品管理を命じつつ「胡族(安禄山)の目は肥えている。笑われぬよう細心配慮せよ」と戒めた。 新邸入りした安禄山が酒宴を開き、勅許を得て宰相らを招請すると、玄宗は蹴鞠を中止させて出席を命じた。以後も楊一族や梨園・教坊の楽団をつけて終日歓待。皇帝自ら食卓の佳肴や狩猟で得た新鮮な獲物があれば、すぐさま騎馬の使者を走らせて届けさせるほど厚遇した。 甲辰(安禄山誕生日)には玄宗と楊貴妃から衣服・宝器・酒宴用品が過分に下賜された。 解説
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| 後三日,召祿山入禁中,貴妃以錦繡爲大襁褓,裹祿山,使宮人以彩輿舁之。上聞後宮喧笑,問其故,左右以貴妃三日洗祿兒對。上自往觀之,喜,賜貴妃洗兒金銀錢,復厚賜祿山,盡歡而罷。自是祿山出入宮掖不禁,或與貴妃對食,或通宵不出,頗有丑聲聞於外,上亦不疑也。 安西節度使髙仙芝入朝,獻所擒突騎施可汗、吐蕃酋長、石國王、朅師王。加仙芝開府儀同三司。尋以仙芝爲河西節度使,代安思順;思順諷群胡割耳剺面請留己,制復留思順於河西。 安祿山求兼河東節度。二月,丙辰,以河東節度使韓休鈱爲左羽林將軍,以祿山代之。 戸部郎中吉温見祿山有寵,又附之,約爲兄弟,説祿山曰:「李右丞相雖以時事親三兄,必不肯以兄爲相;温雖蒙驅使,終不得超擢。兄若薦温於上,温即奏兄堪大任,共排林甫出之,爲相必矣。」祿山悅其言,數稱温才於上,上亦忘曩日之言。會祿山領河東,因奏温爲節度副使、知留後,以大理司直張通儒爲留後判官,河東事悉以委之。 是時,楊國忠爲御史中丞,方承恩用事。祿山登降殿階,國忠常扶掖之。祿山與王□倶爲大夫,□權任亞於李林甫。祿山見林甫,禮貌頗倨。林甫陽以他事召王大夫,□至,趨拜甚謹,祿山不覺自失,容貌益恭。林甫與祿山語,毎揣知其情,先言之,祿山驚服。祿山於公卿皆慢侮之,獨憚林甫,毎見,雖盛冬,常汗沾衣。 |
現代日本語訳:三日後、玄宗皇帝は安禄山を宮中に召した。楊貴妃は錦の織物で大きなおむつを作り、安禄山を包み込み、侍女たちに彩色の輿で担がせた。後宮から笑い声が聞こえたので皇帝が理由を尋ねると、側近が「貴妃様が三日目に禄児(安禄山)の産浴(誕生儀礼)を行っております」と答えた。自ら見に行った皇帝は喜び、貴妃に産浴祝いとして金銀銭を与え、さらに厚く禄山を褒美し、尽きるまで楽しんで終わった。以降、安禄山の後宮出入りは自由となり、貴妃と共に食事したり夜通し留まったりしたため、醜聞が外にもれたが、皇帝は疑わなかった。 一方、安西節度使・高仙芝が朝廷に入り、捕らえた突騎施可汗や吐蕃酋長、石国王、朅師王を献上した。これにより開府儀同三司の位を与えられる。まもなく河西節度使に任命され安思順と交代するが、思順は胡人たちに命じて耳を切り顔を傷つけて自らの留任を嘆願させたため、詔勅で再び河西にとどめ置かれた。 安禄山は河東節度使の兼任を希望。二月丙辰の日(旧暦)、元河東節度使・韓休珉を左羽林将軍に転任させ、後任に禄山が就いた。 戸部郎中・吉温は禄山の寵遇を見て接近し、「李右丞相(李林甫)は表向き兄貴(禄山)を厚遇しても宰相には推さない。私も重用されながら昇進できぬ」と述べ、禄山が皇帝に自分を推薦すれば「宰相適任者として李林甫を排斥できる」と提案した。禄山はこれを喜び頻繁に吉温の才能を称賛。皇帝も過去(吉温への不満)を忘れ、河東着任に伴い吉温を節度副使・留後代理に任命し、実務を委ねた。 当時、楊国忠は御史中丞として権勢を振るっていたが、禄山の宮殿昇降には常に手を貸した。大夫職にある王鉷(□)は李林甫に次ぐ地位だったが、禄山が林甫に対して傲慢な態度を示すと、林甫はわざと王鉷を呼びつけて丁寧な礼節を見せさせた。これにより禄山は畏敬の念を持ち、以後どんな寒い日でも林甫との対面で汗をかくほど恐れるようになった。 解説:
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| 林甫乃引與坐於中書廳,撫以温言,自解披袍以覆之。祿山忻荷,言無不盡,謂林甫爲十郎。既歸范陽,劉駱谷毎自長安來,必問:「十郎何言?」得美言則喜;或但云「語安大夫,須好檢校!」輒反手據床曰:「噫嘻,我死矣!」 祿山既兼領三鎭,賞刑己出,日益驕恣。自以曩時不拜太子,見上春秋髙,頗内懼;又見武備墮馳,有輕中國之心。孔目官嚴莊、掌書記髙尚因爲之解圖讖,勸之作亂。 祿山養同羅、奚、契丹降者八千餘人,謂之「曳落河」。曳落河者,胡言壯士也。及家僮百餘人,皆驍勇善戰,一可當百。又畜戰馬數萬匹,多聚兵仗,分遣商胡詣諸道販鬻,歳輸珍貨數百萬。私作緋紫袍、魚袋、以百萬計。以髙尚、嚴莊、張通儒及將軍孫孝哲爲腹心,史思明、安守忠、李歸仁、蔡希德、牛廷玠、向潤容、李庭望、崔乾祐、尹子奇、何千年、武令珣、能元皓、田承嗣、田乾眞、阿史那承慶爲爪牙。尚,雍權人,本名不危,頗有辭學,薄游河朔,貧困不得志,常歎曰:「髙不危當舉大事而死,豈能嚙草根求活邪!」祿山引置幕府,出入臥内。尚典牋奏,莊治簿書。通儒,萬歳之子;孝哲,契丹出。承嗣世爲盧龍小校,祿山以爲前鋒兵馬使,治軍嚴整。嘗大雪,祿山按行諸營,至承嗣營,寂若無人,入閲士卒,無一人不在者,祿山以是重之。 |
現代日本語訳李林甫は安禄山を中書省の庁舎に招き入れ、共に席につかせた。温かい言葉で労いながら自らの袍(上着)を脱ぎ彼にかけた。禄山は深く感激し、心の中を隠さず打ち明け、林甫を「十郎」と呼ぶようになった。范陽へ帰った後も、使者の劉駱谷が長安から来るたびに必ず「十郎(李林甫)は何と言っていたか?」と尋ね、褒め言葉があれば喜んだ。もし単に「安大夫によろしく伝えてくれ。しっかり身を慎むように!」と言われただけなら、手を反らせて床を押さえながら「あぁ、これで俺は終わりだ!」と叫ぶのだった。 禄山が三つの藩鎮(范陽・平盧・河東)を兼ね領すると、賞罰権を掌握し日増しに傲慢になった。かつて皇太子へ礼を欠いた過去から玄宗皇帝の高齢化を危惧する一方で、唐朝軍備の弛緩を見て朝廷を侮る心を抱いた。側近の孔目官・厳荘と掌書記・高尚は図讖(予言書)を解釈して謀反を勧めた。 禄山は同羅族や奚族、契丹人などの降伏者八千余人を養い「曳落河」(イロホ:胡語で勇士の意)と呼んだ。これらと家僕百人は皆勇猛で戦闘に長け、一騎当千の働きを示した。さらに数万頭の軍馬を飼育し、兵器を大量に集めさせた。西域商人たちを諸地域へ派遣して交易を行わせ、年間数百万もの財宝を得ていた。密かに緋色や紫色の官服・魚袋(官吏の身分証)を百万単位で偽造した。 腹心として高尚・厳荘・張通儒・将軍孫孝哲を配し、史思明以下十五名を手足とした。高尚は雍権出身で本名不危といい文才に優れていたが河北地方を放浪中に貧困に陥り、「高不危は大事を成して死ぬべきだ! 草の根を噛んで生き延びるなどありえぬ」と嘆いた。禄山は彼を幕府登用し寝所にも出入りさせた。高尚は文書起草、厳荘は記録管理を担った。 田承嗣は代々盧龍軍下級士官だったが、前鋒兵馬使に抜擢され軍隊統率に厳格さを示した。ある大雪の日、禄山が陣営巡視すると承嗣の部隊だけが水を打ったように静粛で、兵舎に入ると全員配置についていたため重用されるようになった。 注釈
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| 夏,四月,壬午,劍南節度使鮮于仲通討南詔蠻,大敗於瀘南。時仲通將兵八萬,分二道出戎、巂州,至曲州、靖州。南詔王閣羅鳳遣使謝罪,請還所俘掠,城雲南而去,且曰:「今吐蕃大兵壓境,若不許我,我將歸命吐蕃,雲南非唐有也。」仲通不許,囚其使。進軍至西洱河,與閣羅鳳戰,軍大敗,士卒死者六萬人,仲通僅以身免。楊國忠掩其敗狀,仍敘其戰功。 閣羅鳳斂戰屍,築爲京觀,遂北臣於吐蕃。蠻語謂弟爲「鐘」,吐蕃命閣羅鳳爲「贊普鐘」,號曰東帝,給以金印。閣羅鳳刻碑於國門,言於不得已而叛唐,且曰:「我世世事唐,受其封賞,後世容復歸唐,當指碑以示唐使者,知吾之叛非本心也。」制大募兩京及河南、北兵以撃南詔;人聞雲南多瘴癘,未戰士卒死者什八九,莫肯應募。楊國忠遣御史分道捕人,連枷送詣軍所。舊制,百姓有勳者免征役,時調兵既多,國忠奏先取髙勳。於是行者愁怨,父母妻子送之,所在哭聲振野。 髙仙芝之虜石國王也,石國王子逃詣諸胡,具告仙芝欺誘貪暴之狀。諸胡皆怒,潛引大食慾共攻四鎭。仙芝聞之,將蕃、漢三萬衆撃大食,深入七百餘里,至恆羅斯城,與大食遇。相持五日,葛羅祿部衆叛,與大食夾攻唐軍,仙芝大敗,士卒死亡略盡,所餘才數千人。右威衞將軍李嗣業勸仙芝宵遁,道路阻隘,拔汗那部衆在前,人畜塞路;嗣業前驅,奮大梃撃之,人馬倶斃,仙芝乃得過。 |
現代日本語訳夏の四月壬午の日、剣南節度使鮮于仲通が南詔蛮を討伐しようとしたが、瀘水の南で大敗した。当時、仲通は八万の兵を率い、二方向から戎州・巂州に出撃し、曲州と靖州に進軍していた。南詔王閣羅鳳は使者を送って謝罪し、「捕虜として連れ去った者たちを返還し、雲南城を修復した上で撤退する」と申し出た。さらにこう述べている:「今や吐蕃の大軍が国境に迫っている。もし唐が私の願いを受け入れなければ、私は吐蕃に帰順せざるを得ず、その時には雲南はもはや唐のものではないだろう」。しかし仲通はこの要求を拒否し、使者を拘束した。さらに西洱河まで進軍して閣羅鳳と交戦したが、軍隊は大敗し、兵士六万人が戦死、仲通はかろうじて一人で逃げ延びた。楊国忠はこの敗北の実態を隠蔽し、むしろ彼に戦功があるかのように上奏した。 閣羅鳳は戦死者の遺体を集めて「京観」(屍骸の山)を築き、その後北方の吐蕃へ臣従した。蛮族の言葉で弟を意味する「鐘」という称号を用い、吐蕃は閣羅鳳を「賛普鐘(ツェンポ・チョン)」と称し、「東帝」の称号と金印を与えた。そこで閣羅鳳は城門に碑文を刻み、「唐への反逆はやむを得ない選択であった」との理由を示すとともに、こう宣言した:「我が一族は代々唐に仕え、その恩恵を受けてきた。後世の者が再び唐へ帰順する時には、この碑を指し示して使者に伝えるがよい——わが反乱は本心からではなかったのだと」。朝廷は詔を下し、両京(長安・洛陽)および河南・河北地方での大規模な兵士募集を命じて南詔征伐にあたらせようとした。しかし人々は「雲南には瘴気や疫病が多い」と聞き知っており、戦わずして兵士の十人中八~九人が死ぬと恐れたため、誰も志願しようとしなかった。楊国忠は御史を各地に派遣し、民衆を鎖で縛り連行させて軍営へ送らせた。従来の制度では勲功ある百姓は兵役免除となっていたが、当時は徴兵数が膨大であったため、楊国忠は「まず高位の勲功保有者から優先的に徴発すべし」と上奏した。これにより出征する者は怨嗟に満ち、父母や妻子が見送る場では至るところで号泣の声が野原に響いた。 高仙芝が石国王を捕虜とした事件では、その王子が諸胡族のもとに逃亡し、「高仙芝がいかに欺瞞と貪欲・残虐をもって我らを陥れたか」という詳細な実情を訴えた。これにより諸部族は激怒し、ひそかに大食(アッバース朝)を誘い込んで共同で安西四鎮を攻撃しようとした。仙芝はこの情報を得ると、蕃漢混成の兵三万を率いて大食軍に先制攻撃を仕掛け、七百余里も深入りして恒羅斯城へ到達したところで敵と遭遇する。両軍が五日間対峙している中、葛羅禄(カルルク)部族が突然反旗を翻し、大食軍と呼応して挟み撃ちにしたため唐軍は壊滅的大敗を喫し、兵士のほとんど全員が戦死して残存兵力は数千人となった。右威衛将軍李嗣業は仙芝に「夜陰に乗じて撤退せよ」と進言し、退路を確保するため先陣を切って奮戦した。しかし道路が狭くふさがれていた上、前方では抜汗那(フェルガナ)部族の兵士や家畜が道を塞いでいた。李嗣業は巨大な棍棒を振るって人馬もろとも打ち倒し、ようやく仙芝に退却経路を確保したのである。 解説
(訳注:現代語訳にあたり固有名詞は原則として現行の歴史表記を用い、「京観」「賛普」など特殊用語には適宜解説を付与。原文の漢文調リズムを損なわぬよう、戦闘描写では動的表現を優先した) Translation took 1331.2 seconds. |
| 將士相失,別將汧陽段秀實聞嗣業之聲,詬曰:「避敵先奔,無勇也;全己棄衆,不仁也。幸而得達,獨無愧乎!」嗣業執其手謝之,留拒追兵,收散卒,得倶免。還至安西,言於仙芝,以秀實兼都知兵馬使,爲己判官。 八月,丙辰,武庫火,燒兵器三十七萬。 安祿山將三道兵六萬以討契丹,以奚騎二千爲鄕導,過平盧千餘里,至土護眞水,遇雨。祿山引兵晝夜兼行三百餘里,至契丹牙帳,契丹大駭。時久雨,弓駑筋膠皆弛,大將何思德言於祿山曰:「吾兵雖多,遠來疲弊,實不可用,不如按甲息兵以臨之,不過三日,虜必降。」祿山怒、欲斬之,思德請前驅效死。思德貌類祿山,虜爭撃,殺之,以爲已得祿山,勇氣增倍。奚復叛,與契丹合,夾撃唐兵,殺傷殆盡。射祿山,中鞍,折冠簪,失履,獨與麾下二十騎走;會夜,追騎解,得入師州,歸罪於左賢王哥解、河東兵馬使魚承仙而斬之。 平盧兵馬使史思明懼,逃入山谷近二旬,收散卒,得七百人。平盧守將史定方將精兵二千救祿山,契丹引去,祿山乃得免。至平盧,麾下皆亡,不知所出。史思明出見祿山,祿山喜,起,執其手曰:「吾得汝,復何憂!」思明退,謂人曰:「向使早出,已與哥解並斬矣。」契丹圍師州,祿山使思明撃卻之。 冬,十月,壬子,上幸華淸宮。 楊國忠使鮮于仲通表請己遙領劍南;十一月,丙午,以國忠領劍南節度使。 |
現代日本語訳: 将士は互いに行方不明となり、別将の汧陽出身である段秀実が李嗣業の声を聞きつけて罵った。「敵を避けて真っ先に逃げるとは卑怯だ!己だけ助かって兵を見捨てるとは不仁だ!仮に無事帰還できても、恥ずかしくないのか?」。嗣業は彼の手を握り謝罪し、追撃する敵軍への防御態勢を整え散兵を収容したため、全員が難を逃れた。安西都護府へ戻ると高仙芝に報告し、秀実を都知兵馬使兼判官に任命させた。 八月丙辰の日(23日)、武器庫で火災発生。37万点の兵器が焼失した。 安禄山は三道から6万の軍勢を率いて契丹討伐に向かい、奚族の騎兵2千を先導役とした。平盧を越えて千里余り進み土護真水に到達した際、豪雨に見舞われた。禄山は昼夜兼行で三百里以上強行軍し契丹の本営へ迫ると、契丹側は大いに驚愕した。当時長期降雨が続いていたため弓や弩の膠付け部分が緩み、大将何思徳が進言した。「我が軍は数こそ多いものの遠征で疲弊しており実戦不向きです。武装解除し態勢を立て直せば三日と経たず敵は降伏するでしょう」。禄山は激怒して斬ろうとしたため、思徳は先鋒として死をもって尽くすことを願い出る。彼の容貌が禄山に似ていたことから、契丹兵が集中攻撃し「禄山を討ち取った」と錯覚した敵軍は士気倍増。さらに奚族も離反して契丹と連合し挟撃にかかったため唐軍はほぼ全滅状態となった。流れ矢が禄山の鞍を貫き冠飾りを折り、履物すら失う中、わずか20騎と共に夜陰に乗じて脱出。師州城へ逃げ込むと責任を左賢王哥解・河東兵馬使魚承仙に転嫁し処刑した。 平盧兵馬使の史思明は恐怖のあまり山中へ逃亡。二十日近く潜伏して散兵七百人を収容していたところ、平盧守将史定方が精鋭二千で救援に駆けつけたため契丹軍が撤退し、禄山は辛うじて助かる。平盧到着時には配下の殆どがおらず途方に暮れていた所へ思明が姿を現すと、禄山は躍り上がって手を握り「貴様さえいれば心配ない!」と狂喜した。後に思明は人々に漏らした。「もし救援が遅れてたら俺も哥解と同じく斬首されていた」。契丹による師州包囲の際には、禄山は思明に出撃させこれを撃退した。 冬十月壬子(18日)、玄宗皇帝は華清宮に行幸された。 楊国忠が鮮于仲通を使嗾し「剣南節度使を遙任せよ」と上奏させた結果、十一月丙午(13日)に正式任命となった。 注釈: ■ 軍事指揮官の処世術:段秀実の直言は李嗣業を改心させ部隊救出成功となる一方、安禄山は何思徳の諫言を聞かず大敗。史思明の「救援遅延戦略」も自己保身として機能するなど、命令系統における進退判断の重要性が浮き彫りに ■ 自然環境の影響:長期降雨による弓弩機能不全と契丹軍の挟撃で唐軍壊滅。当時の兵器管理や気象条件が戦況を左右した実例 ■ 責任転嫁の構図:敗北後に哥解らを処刑する安禄山、史思明の発言に見える「自己保身と忠誠心の境界線」の問題点 ■ 中央政界動向:楊国忠が仲通を使い節度使職を得る過程に、玄宗朝末期の人事介入実態を示唆 Translation took 829.4 seconds. |
| 玄宗至道大聖大明孝皇帝下之上天寶十一年〈壬辰,西元七五二年〉 春,正月,丁亥,上還宮。 二月,庚午,命有司出粟帛及庫錢數十萬緡於兩市易惡錢。先是,江、淮多惡錢,貴戚大商往往以良錢一易惡錢五,載入長安,市井不勝其弊,故李林甫奏請禁之,官爲易取,期一月,不輸官者罪之。於是商賈囂然,不以爲便。衆共遮楊國忠馬自言,國忠爲之言於上,乃更命非鉛錫所鑄及穿穴者,皆聽用之如故。 三月,安祿山發蕃、漢歩騎二十萬撃契丹,欲以雪去秋之恥。初,突厥阿布思來降,上厚禮之,賜姓名李獻忠,累遷朔方節度副使,賜爵奉信王。獻忠有才略,不爲安祿山下,祿山恨之;至是,奏請獻忠帥同羅數萬騎,與倶撃契丹。獻忠恐爲祿山所害,白留後張□,請奏留不行,□不許。獻忠乃帥所部大掠倉庫,叛歸漠北,祿山遂頓兵不進。 乙巳,改吏部爲文部,兵部爲武部,刑部爲憲部。 戸部侍郎兼御史大夫、京光尹王□,權寵日盛,領二十餘使。宅旁爲使院,文案盈積,吏求署一字,累日不得前;中使賜繼不絶於門,雖李林甫亦畏避之。林甫子岫爲將作監,□子淮爲衞尉少卿,倶供奉禁中。淮陵侮岫,岫常下之。然□事林甫謹,林甫雖忌其寵,不忍害也。 准嘗帥其徒過駙馬都尉王繇,繇望塵拜伏;准挾彈命於繇冠,折其玉簪,以爲戲笑。 |
翻訳文天宝十一載(壬辰年/西暦752年)春の記録 正月丁亥、皇帝(玄宗)が宮中に還幸された。 二月庚午、朝廷は役人に対し長安東西両市で穀物・絹帛および国庫銭数十万緡を用い粗悪な私鋳銭を公的に交換させる詔勅を下した。当時江淮地方では悪銭が横行しており皇族や大商人らは良質の官銭1枚で悪銭5枚を得る相場を利用し、これらを長安に流入させていたため市場経済は深刻な混乱に見舞われていた。前年李林甫が朝廷への交換義務化(違反者処罰)を上奏したものの商人たちは「不便である」と抗議して集団で楊国忠を包囲し訴えたため、最終的には鉛・錫混入や穴開け銭以外は従来通り流通させるよう修正された。 三月、安禄山が蕃漢混合歩騎兵20万を率いて契丹征伐に向かい前秋の敗戦(※天宝十載)への雪辱を期した。突厥出身で唐に帰順し李献忠と改名していた朔方節度副使は才覚があったため安禄山へ臣従せず敵視されていたが、この遠征で同羅族数万騎の指揮権を与えられることを恐れ留後張□に助命を嘆願したものの拒絶された。これを受け配下を率いて倉庫群を強奪し漠北へ亡命したため安禄山軍は進撃不能となった。 乙巳、官制改革により吏部→文部/兵部→武部/刑部→憲部と改称される。 戸部侍郎兼京兆尹・王□(※名欠落)の権勢は頂点に達し20余りの使職を兼任した結果、私邸隣接の役所には公文書が山積みとなり下級官吏の判願いが数日滞留するほどであった。皇帝からの使者も絶えず訪れ李林甫すら遠慮するほどの振る舞いを見せたが(※双方の息子:李岫と王淮は共に宮中出仕)、その息子・王淮は常々李岫を侮り彼も耐えるしかなかった。しかし父・王□は表向き李林甫へ恭順したため、妬まれつつも危険は免れ続けたのである(※後日王淮が駙馬都尉・王繇の冠飾りの玉簪を破壊し侮辱する事件発生)。 解説
※□部分は原典欠字。当該人物の名は『新唐書』等に基づけば王鉷と推測されるが、本訳では厳密な資料提示を避けた(司馬光執筆時点で既に不詳)。 Translation took 1925.6 seconds. |
| 既而繇延准置酒,繇所尚永穆公主,上之愛女也,爲準親執刀匕。准去,或謂繇曰:「鼠雖挾其父勢,君乃使公主爲之具食,有如上聞,無乃非宜?」繇曰:「上雖怒無害,至於七郎,死生所繫,不敢不爾。」 □弟戸部郎中銲,凶險不法,召術士任海川,問:「我有王者之相否?」海川懼,亡匿。□恐事洩,捕得,托以他事杖殺之。王府司馬韋會,安定公主之子,王繇之同産也,話之私庭。□又使長安尉賈季鄰收會繫獄,縊殺之,繇不敢言。 銲所善刑縡,與龍武萬騎謀殺龍武將軍,以其兵作亂,殺李林甫、陳希烈、楊國忠;前期二日,有告之者。夏,四月,乙酉,上臨朝,以告狀面授□,使捕之。□意銲在縡所,先遣人召之。日晏,乃命賈季鄰等捕縡。縡居金城坊,季鄰等至門,縡帥其黨數十人持弓刀格鬥突出。□與楊國忠引兵繼至,縡黨曰:「勿傷大夫人。」國忠之傔密謂國忠曰:「賊有號,不可戰也。」縡斗且走,至皇城西南隅。會髙力士引飛龍禁軍四百至,撃縡,捕其黨,皆擒之。 國忠以狀白上,曰:「□必預謀。」上以□任遇深,不應同逆;李林甫亦爲之辨解。上乃命特原銲不問,然意欲□表請罪之;使國忠諷之,□不忍,上怒。會陳希烈極言□大逆當誅,戊子,敕希烈與國忠鞫之,仍以國忠兼京兆尹。於是任海川、韋會等事皆發,獄具,□賜自盡,銲杖死於朝堂。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)その後、王繇が邢縡を招いて宴席を設けると、王繇の正妻である永穆公主(玄宗皇帝の愛娘)自らが料理を給仕した。邢縡が帰った後、ある人物が王繇に警告した。「鼠小僧めが父の権勢を笠に着ているとはいえ、あなたは皇女に食事の世話をさせるとは? 陛下がこのことを知れば不都合では?」これに対し王繇は言下に答えた。「たとえ帝が怒ろうとも問題ない。しかし七郎(邢縡)に関しては我が生死にかかわる。こうするしかなかったのだ」 ■注:ここでいう「鼠」とは、当時権勢を振るっていた宦官・邢縡の蔑称。 王鉷の弟である戸部郎中・王銲は凶暴かつ無法者であった。ある日、占術師の任海川に密かに問う。「我に帝王の相はあるか?」と。恐れた任海川が逃亡すると、王銲は秘密漏洩を警戒し彼を捕らえ、別件を口実として杖殺した。また安定公主(唐中宗の娘)の子息で王繇の異父兄弟にあたる王府司馬・韋会がこの事件について私邸内で話題にすると、今度は長安尉の賈季鄰を使い韋会を投獄させ絞殺した。王繇すらも沈黙を余儀なくされた。 王銲と親交のある刑縡(邢縡とは別人)が龍武万騎(近衛軍団)と共謀し、龍武将軍暗殺後に兵を挙げて李林甫・陳希烈・楊国忠ら重臣の誅殺を計画。決行二日前に密告者が現れた。夏四月乙酉の日、朝廷に出御した玄宗皇帝は自らの手で王鉷(当時御史大夫)に逮捕令を下す。王鉷が弟の王銲が刑縡のもとに潜伏していると察し、まず召喚しようとしたため時間が浪費された。遅れて賈季鄰らが金城坊へ急行すると、刑縡は数十名の配下で武装応戦し突破を図る。王鉷と楊国忠の援軍到着後も「大夫人(王鉷)に手を出すな」との叫び声があがり、楊国忠側近が「賊には合言葉がある」と警告するほどの混乱となった。刑縡一派は皇城西南隅まで撤退したところで高力士率いる飛龍禁軍400騎に包囲され全員捕縛された。 事後処理において楊国忠は皇帝へ奏上。「王鉷も計画に関与しているはず」と主張するが、玄宗は「長年重用してきた臣下が謀反などありえぬ」と一蹴。李林甫も弁護に回ったため、まず王銲を不問とする赦免が出されたものの、密かに王鉷自身からの謝罪上奏を期待した。楊国忠を通じて促すも王鉷が拒否すると皇帝は激怒する。そこへ宰相陳希烈が「大逆者は誅殺せよ」と強硬論を展開し、戊子の日には陳希烈・楊国忠合同審理開始勅命が下る(楊国忠は京兆尹兼任)。これにより任海川虐殺事件や韋会暗殺事件も露見。裁判決着後、王鉷に自尽が賜られ、弟の王銲は朝廷内で杖死刑となった。 ■注:原文中「□」表記箇所はいずれも「王鉷(おうこう)」を指す。 訳註解説
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| □子准、偁流嶺南,尋殺之。有司籍其第捨,數日不能遍。□賓佐莫敢窺其門,獨採訪判官裴冕收其屍葬之。 初,李林甫以陳希烈易制,引爲相,政事常隨林甫左右,晩節遂與林甫爲敵,林甫懼。會李獻忠叛,林甫乃請解朔方節制,且薦河西節度使安思順自代;庚子,以思順爲朔方節度使。 五月,戊申,慶王琮薨,贈靖德太子。 丙辰,京兆尹楊國忠加御史大夫、京畿、關内採訪等使,凡王□所綰使務,悉歸國忠。 初,李林甫以國忠微才,且貴妃之族,故善遇之。國忠與王□爲中丞,□用林甫薦爲大夫,故國忠不悅,遂深探刑縡獄,令引林甫交私□兄弟及阿布思事狀,陳希烈、哥舒翰從而證之;上由是疎林甫。國忠貴震天下,始與林甫爲仇敵矣。 六月,甲子,楊國忠奏吐蕃兵六十萬救南詔,劍南兵撃破之於雲南,克敵隰州等三城,捕虜六千三百,以道遠,簡壯者千餘人及酋長降者獻之。 秋,八月,乙丑,上復幸左藏,賜群臣帛。癸巳,楊國忠奏有鳳皇見左藏庫屋,出納判官魏仲犀言鳳集庫西通訓門。 九月,阿布思入寇,圍永淸柵,柵使張元軌拒卻之。 冬,十月,戊寅,上幸華淸宮。 己亥,改通訓門曰鳳集門;魏仲犀遷殿中侍御史,楊國忠屬吏率以鳳皇優得調。 南詔數寇邊,蜀人請楊國忠赴鎭;左僕射兼右相李林甫奏遣之。國忠將行,泣辭上,言必爲林甫所害,貴妃亦爲之請。 |
現代日本語訳:□子准と偁は嶺南に流罪となり、まもなく殺された。役人が彼らの邸宅を調査したところ、数日かけてようやく終えたという。□配下の官僚たちは誰一人としてその門を覗こうとはしなかったが、ただ採訪判官・裴冕だけが遺体を回収して葬った。 かつて李林甫は陳希烈が扱いやすい人物だと考え、宰相に推挙した。政務では常に李林甫の意図に従っていたが、晩年になって突然敵対するようになり、李林甫は恐れをなした。ちょうどこの時、李献忠が反乱を起こしたため、李林甫は朔方節度使の職権返上を願い出て、代わりに河西節度使・安思順を推挙した。庚子の日(唐暦)、朝廷は安思順を朔方節度使に任命した。 5月戊申の日(8日)、慶王李琮が薨去し、靖德太子の称号を追贈された。 丙辰の日(16日)、京兆尹・楊国忠は御史大夫と京畿・関内採訪等使の職を兼任することになり、元々□が掌握していた全ての権限は楊国忠に移行した。 当初李林甫は、才能不足ながら貴妃の一族である楊国忠を見込み、手厚く遇していた。しかし御史中丞であった楊国忠と□が同格だったところ、□だけが李林甫の推挙で大夫(高位官職)に昇進すると、楊国忠は不満を抱いた。そこで彼は刑事事件調査を徹底的に行い、李林甫が□兄弟やアブス(阿布思)と私通した事実を自白させようとした。陳希烈と哥舒翰がこの告発に加担し、玄宗皇帝も次第に李林甫を疎んじ始めた。こうして権勢を極めた楊国忠は初めて李林甫との対立関係を明確化した。 6月甲子の日(24日)、楊国忠が「吐蕃60万軍が南詔救援に向かったが、剣南軍が雲南で撃破し隰州など三城を陥落させた」と上奏。捕虜6300人のうち遠方輸送困難なため精鋭千余人と降伏酋長らを朝廷に献じた。 秋8月乙丑の日(27日)、玄宗皇帝が再び左蔵庫を視察し臣下たちに絹帛を下賜。癸巳の日(25日)には楊国忠が「鳳凰が左蔵庫屋上に現れた」と奏上し、出納判官・魏仲犀も「通訓門付近で鳳凰が群れなした」と報告。 9月、アブス(阿布思)が侵攻し永清柵を包囲するも守将張元軌に撃退された。 冬10月戊寅の日(11日)、皇帝は華清宮に行幸。己亥の日(2日)には通訓門を鳳集門と改称、魏仲犀は殿中侍御史に昇進し楊国忠配下の官僚も「鳳凰瑞祥」を理由に一斉栄転した。 南詔が繰り返し国境侵犯すると蜀地住民が楊国忠の現地赴任を要請。左僕射兼右相・李林甫は彼の派遣を奏上した。出発前に楊国忠は涙ながらに「李林甫に命を狙われる」と玄宗に訴え、楊貴妃も同様に懇願したという。 解説:
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| 上謂國忠曰:「卿暫到蜀區處軍事,朕屈指待卿,還當入相。」林甫時已有疾,憂懣不知所爲,巫言一見上可小愈。上欲就視之,左右固諫。上乃命林甫出庭中,上登降聖閣遙望,以紅巾招之。林甫不能拜,使人代拜。國忠比至蜀,上遣中使召還,至昭應,謁林甫,拜於床下。林甫流涕謂曰:「林甫死矣,公必爲相,以後事累公!」國忠謝不敢當,汗流覆面。十一月,丁卯,林甫薨。 上晩年自恃承平,以爲天下無復可憂,遂深居禁中,專以聲色自娯,悉委政事於林甫。林甫媚事左右,迎合上意,以固其寵;杜絶言路,掩蔽聰明,以成其奸;妬賢疾能,排抑勝己,以保其位;屢起大獄,誅逐貴臣,以張其勢。自皇太子以下,畏之側足。凡在相位十九年,養成天下之亂,而上不之寤也。 庚申,以楊國忠爲右相,兼文部尚書,其判使並如故。 國忠爲人強辯而輕躁,無威儀。既爲相,以天下爲己任,裁決機務,果敢不疑;居朝廷,攘裾扼腕,公卿以下,頤指氣使,莫不震懾。自侍御史至爲相,凡領四十餘使。台省官有才行時名,不爲己用者,皆出之。 或勸陝郡進士張彖謁國忠,曰:「見之,富貴立可圖。」彖曰:「吾輩依楊右相如泰山,吾以爲冰山耳!若皎日既出,吾輩得無失所恃乎!」遂隱居嵩山。 國忠以司勳員外郎崔圓爲劍南留後,征魏郡太守吉温爲御史中丞,充京畿、關内採訪等使。 |
翻訳本文皇帝は楊国忠に言った。「卿が一時的に蜀へ赴き軍務を処理している間に、朕は指折り数をえて卿の帰還を待つ。戻ったら宰相に任じよう。」当時すでに病を得ていた李林甫は、憂い憤って為すべきことを知らず、巫女が「天子にお目にかかれば少し回復する」と告げた。皇帝が見舞おうとしたが、側近たちが強く諫めたため、代わりに李林甫を庭に出させ、自らは降聖閣の上から遠望し、赤い布巾で合図した。李林甫は礼拝できず、代理に挨拶させた。楊国忠が蜀に到着するとすぐ、皇帝は宦官を使者として呼び戻しを命じた。昭応まで来た時、彼は病床の李林甫を訪れ、床下で平伏した。李林甫は涙を流して言った。「私はもう死ぬ。貴公が必ず宰相となるだろう。後事を託す。」楊国忠は恐縮して辞退し、汗が顔全体に流れた。十一月丁卯の日、李林甫は逝去した。 皇帝(玄宗)は晩年、太平の世を持ち続けられると思い込み、天下にはもはや憂うべきことがないと確信していたため、深く宮中にとどまり、ひたすら音楽と女色で楽しみを求め、政務の全てを李林甫に委ねていた。李林甫は側近たちにおもねり、皇帝の意向へ迎合して寵愛を固め、言論の道を閉ざし耳目を遮って奸計を遂げ、賢者や有能者を妬み排除して自らの地位を守り、幾度も大獄を起こして貴臣たちを誅殺・追放することで権勢を示した。皇太子以下は皆、彼を畏れて身の置き所もないほどだった。宰相の座に19年間ありながら天下の乱の原因を作ったのに、皇帝はそれに気づかなかった。 庚申の日、楊国忠を右丞相(尚書右僕射)とし文部尚書を兼任させたが、他の使職判官などの兼務も従来通りとした。 ある人物が陝郡(陝州)出身の進士張彖に対し「楊国忠にお目通りすれば富貴はすぐ手に入る」と勧めたところ、張彖は言った。「我々が頼りにする楊右相は泰山に見えるかもしれぬが、私は氷山だと思う。もし明るい太陽(真の権威)が現れたら、我々は拠って立つ所を失わぬか?」こうして嵩山に隠棲した。 楊国忠は司勳員外郎・崔円を剣南留後とし、魏郡太守・吉温を御史中丞として京畿関内採訪使などに任命した。 解説
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| 温詣范陽辭安祿山,祿山令其子慶緒送至境,爲温控馬出驛數十歩。温至長安,凡朝廷動靜,輒報祿山,信宿而達。 十二月,楊國忠欲收人望,建議:「文部選人,無問賢不肖,選深者留之,依資據闕注官。」滯淹者翕然稱之。國忠凡所施置,皆曲徇時人所欲,故頗得衆譽。 甲申,以平盧兵馬使史思明兼北平太守,充盧龍軍使。 丁亥,上還宮。 丁酉,以安西行軍司馬封常淸爲安西四鎭節度使。 哥舒翰素與安祿山、安思順不協,上常和解之,使爲兄弟。是冬,三人倶入朝,上使髙力士宴之於城東。祿山謂翰曰:「我父胡,母突厥,公父突厥,母胡,族類頗同,何得不相親?」翰曰:『古人云:狐向窟嗥不祥,爲其忘本故也。兄苟見親,翰敢不盡心!」祿山以爲譏其胡也,大怒,罵翰曰:「突厥敢爾!」翰欲應之,力士目翰,翰乃止,陽醉而散,自是爲怨愈深。 棣王琰有二孺人,爭寵,其一使巫書符置琰履中以求媚。琰與監院宦者有隙,宦者知之,密奏琰祝詛上;上使人掩其履而獲之,大怒。琰頓首謝:「臣實不知有符。」上使鞫之,果孺人所爲。上猶疑琰知之,囚於鷹狗坊,絶朝請,憂憤而薨。 故事,兵、吏部尚書知政事者,選事悉委侍郎以下,三注三唱,仍過門下省審,自春及夏,其事乃畢。及楊國忠以宰相領文部尚書,欲自示精敏,乃遣令史先於私第密定名闕。 |
現代日本語訳温(おん)が范陽(はんよう)を訪れ安禄山(あんろくざん)に別れを告げたところ、禄山は息子の慶緒(けいしょ)に命じて国境まで見送らせた。途中、温のために馬の手綱を取り駅舎から数十歩も付き添った。温が長安に着くと朝廷の動静を逐一報告し、二日と経たずして禄山のもとに情報は届いた。 十二月(じゅうにがつ)、楊国忠(ようこくちゅう)は人望を得ようと献策した:「文部(人事機関)で官吏を選抜する際、能力の有無にかかわらず、経験年数の長い者から優先的に留任させ、空席ポストへ資格に基づいて任命すべきである」と。これにより昇進が滞っていた官僚たちは一斉に称賛した。国忠の施策はいずれも当時の役人たちの望みを巧みにくみ取ったため、広く賞賛された。 甲申(こうしん)の日:平盧兵馬使(へいろへいばし)史思明(ししめい)が北平太守(ほくへいたいしゅ)を兼任し盧竜軍使(ろりゅうぐんし)に任命される。 丁亥(ていがい)の日:玄宗皇帝は宮殿に戻られた。 丁酉(ていゆう)の日:安西行軍司馬(あんさいこうぐんしば)封常清(ふうじょうせい)が安西四鎮節度使(あんさいしちんせつどし)となる。 哥舒翰(かじょかん)は以前から安禄山・安思順(あんしじゅん)と不仲であった。皇帝はたびたび仲裁して「兄弟の契りを結べ」と命じた。この冬、三人がそろって参内すると、皇帝は高力士(こうりきし)に命じて城東で宴席を設けさせた。禄山が翰に言った:「私は父が胡(こ)、母が突厥(とっけつ)。貴公は父が突厥、母が胡。出自が似ているのに仲良くできぬのか?」これに対し翰は答えた:『古人の言葉にある——狐が自分の穴に向かって吠えるのは不吉だ。故郷を忘れたからである』と。兄上が親しくしてくださるなら、私も誠意を尽くしましょう」。禄山は胡人(こじん)への侮蔑を含む発言と思い激怒。「突厥め!よくもそんな!」と翰を罵った。翰が言い返そうとした時、高力士が翰を制する眼色を送り、翰は応酬せず酒に酔ったふりをして席を立った。これ以降両者の憎しみは深まる一方であった。 棣王琰(ていおうえん)の二人の側室が寵愛を争っていた。片方が巫女(みこ)に頼み、琰の靴の中に呪符(じゅふ)を仕込ませた。以前から監院宦官(かんえんかんがん)と不仲だった琰はそのことを密告され「皇帝を呪詛(じゅそ)している」と告発された。皇帝が使者に靴を押収させると確かに符が見つかり激怒した。琰は平伏して謝罪:「符の存在は全く知りませんでした」。調査で側室の仕業と判明したにもかかわらず、皇帝はなお琰の関与を疑い鷹狗坊(ようくぼう)に幽閉。参内禁止処分としたため、琰は憂憤の末に死去した。 従来の慣例では:兵部・吏部尚書が政務を行う場合、官吏選考業務はすべて侍郎(じろう)以下に委ねていた。「三注三唱」(候補者名簿を三度作成し三度読み上げる手続き)を行い門下省(もんかしょう)の審査を得てから決定するため、春から夏にかかる重厚な作業であった。しかし楊国忠が宰相兼文部尚書となると「自ら精敏さを示そう」と令史(りょうし・書記官)を私邸に呼び密かに人事リストと空席ポストを内定させた。 解説■政治的背景本節は天宝年間末期の朝廷が抱える深刻な問題群を描く:
- 楊国忠の人気取り人事:官僚支持獲得のために年功序列制導入。結果として有能な人材登用システム崩壊
- 安禄山と哥舒翰の対立:民族差別発言が契機で武将間亀裂深化→後の「安史之乱」伏線 ■制度変容ポイント楊国忠の人事改革は重大な弊害を生んだ:
※この人事掌握が後の安禄山反乱で朝廷が有能武将を動員できなかった遠因に
■人間関係力学
■表現技法原文の史書特有の簡潔文体を維持しつつ: 1. 「信宿而達」→「二日と経たずして」(情報伝達速度を強調) 2. 安禄山の発言「父胡母突厥」→血統論理が差別意識へ転化する心理過程を再現 3. 「陽醉而散」→「酒に酔ったふりをして席を立つ」と行為の作為性明示 ■現代への示唆組織崩壊の共通兆候として読む
→これら複合的要因が唐朝衰退を加速した構造は現代組織論でも重要案例となる
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| 玄宗至道大聖大明孝皇帝下之上天寶十二年〈癸巳,公元七五三年〉 春,正月,壬戌,國忠召左相陳希烈及給事中、諸司長官皆集尚書都堂,唱注選人,一日而畢,曰:「今左相、給事中倶在座,已過門下矣。」其間資格差繆甚衆,無敢言者。於是門下不復過官,侍郎但掌試判而已。侍郎韋見素、張倚趨走門庭,與主事無異。見素,湊之子也。 京兆尹鮮于仲通諷選人請爲國忠刻頌,立於省門,制仲通撰其辭;上爲改定數字,仲通以金塡之。 楊國忠使人説安祿山誣李林甫與阿布思謀反,祿山使阿布思部落降者詣闕,誣告林甫與阿布思約爲父子。上信之,下吏按問;林甫婿諫議大夫楊齊宣懼爲所累,附國忠意證成之。時林甫尚未葬,二月,癸未,制削林甫官爵;子孫有官者除名,流嶺南及黔中,給隨身衣及糧食,自餘資産並沒官;近親及黨與坐貶者五十餘人。剖林甫棺,抉取含珠,褫金紫,更以小棺如庶人禮葬之。己亥,賜陳希烈爵許國公,楊國忠爵魏國公,賞其成林甫之獄也。 夏,五月,己酉,復以魏、周、隋後爲三恪,楊國忠欲攻李林甫之短也。衞包以助邪貶夜郎尉,崔昌貶烏雷尉。 阿布思爲回紇所破,安祿山誘其部落而降之,由是祿山精兵,天下莫及。 壬辰,以左武衞大將軍何復光將嶺南五府兵撃南詔。 安祿山以李林甫狡猾逾己,故畏服之。 |
翻訳(現代日本語)玄宗皇帝 天宝十二載(癸巳、753年) 春正月壬戌の日、楊国忠は左相・陳希烈や給事中ら諸官庁の長官を尚書都堂に集め、官吏任用候補者の審査を一斉に行わせた。わずか一日で終了すると「左相と給事中が同席しているのだから門下省での確認は済んでいる」と宣言した。この人事には資格不適合者が多数いたが、誰も指摘できなかった。以後、門下省の審査手続きは廃止され、侍郎(次官)は判決文作成のみ担当するようになった。韋見素や張倚ら侍郎たちは走り回って雑務をこなし、主事級官吏と変わらぬ状態となった。(注:韋見素は韋湊の子) 京兆尹・鮮于仲通が候補者に命じて楊国忠への称賛碑建立を持ちかけさせた。省庁正門前に立てる計画で、玄宗自ら文章を修正し、鮮于仲通が黄金文字で仕上げた。 楊国忠は安禄山を使嗾し李林甫と阿布思(突厥族長)の謀反偽証を画策。安禄山は投降した阿布思配下に「李林甫と阿布思が父子の契りを交わしていた」と虚偽申告させた。玄宗はこれを信じ調査を開始すると、李林甫の女婿・楊斉宣(諫議大夫)が連座を恐れ楊国忠に迎合して証言した。当時李林甫は未埋葬だったため二月癸未の日、詔勅で官爵剥奪。子孫の官吏も全員解任し嶺南・黔中へ流刑とした。(注:携行衣糧支給以外の財産没収)近親や党与50人余が連座処分。李林甫の棺は切り開かれ口中含玉を奪われ礼服を剥ぎ取られた後、庶民用小棺で改葬された。己亥の日には陳希烈に許国公、楊国忠に魏国公の爵位を与え弾劾功績を賞した。 夏五月己酉の日、隋・北周・北魏(三恪)への祭祀が復活。(注:楊国忠が李林甫政策否定を意図)衛包は不正加担で夜郎県尉へ左遷され崔昌も烏雷県尉に降格。 阿布思軍団を破った回鶻に対抗すべく安禄山は旧部族を吸収。これにより精鋭部隊が完成し当時天下最強と称された。 壬辰の日、左武衛大将軍・何復光に嶺南五府兵を率いさせて南詔(雲南)征伐へ向かわせた。(補足:安禄山は李林甫の狡猾さが己を上回ると認め生前は畏敬していた) 解説
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| 及楊國忠爲相,祿山視之蔑如也,由是有隙。國忠屢言祿山有反狀,上不聽。 隴右節度使哥舒翰撃吐蕃,拔洪濟、大漠門等城,悉收九曲部落。 初,髙麗人王思禮與翰倶爲押牙,事王忠嗣。翰爲節度使,思禮爲兵馬使兼河源軍使。翰撃九曲,思禮後期;翰將斬之,既而復召釋之。思禮徐曰:「斬則遂斬,復召何爲!」 楊國忠欲厚結翰與共排安祿山,奏以翰兼河西節度使。秋,八月,戊戌,賜翰爵西平郡王。翰表侍御史裴冕爲河西行軍司馬。 是時中國盛強,自安遠門西盡唐境凡萬二千里,閭閻相望,桑麻翳野,天下稱富庶者無如隴右。翰毎遣使入奏,常乘白橐駝,日馳五百里。 九月,甲辰,以突騎施黑姓可汗登裡伊羅蜜施爲突騎施可汗。 北庭都護程千里追阿布思至磧西,以書諭葛邏祿,使相應。阿布思窮迫,歸葛邏祿,葛邏祿葉護執之,並其妻子、麾下數千人送之。甲寅,加葛邏祿葉護頓毘伽開府儀同三司,賜爵金山王。 冬,十月,戊寅,上幸華淸宮。 楊國忠與虢國夫人居第相鄰,晝夜往來,無復期度,或並轡走馬入朝,不施障幕,道路爲之掩目。三夫人將從車駕幸華淸宮,會於國忠第;車馬僕從,充溢數坊,錦繡珠玉,鮮華奪目。國忠謂客曰:「吾本寒家,一旦縁椒房至此,未知稅駕之所,然念終不能致令名,不若且極樂耳。 |
現代日本語訳楊国忠が宰相となると、安禄山は彼を軽蔑するようになり、両者の間に確執が生まれた。楊国忠は繰り返し「安禄山には謀反の兆候がある」と訴えたが、玄宗皇帝は聞き入れなかった。 隴右節度使・哥舒翰(かじょかん)が吐蕃を攻撃し、洪済城や大漠門城などを陥落させると、九曲地域の部族をことごとく平定した。 楊国忠は哥舒翰と結託して安禄山を排斥しようと考え、彼が河西節度使も兼任するよう奏上した。秋8月戊戌の日(745年旧暦8月1日)、皇帝は哥舒翰に西平郡王の爵位を与えた。これに対し哥舒翰は侍御史・裴冕(はいべん)を河西行軍司馬として推挙した。 当時の唐王朝は絶頂期にあり、長安の安遠門から西方国境まで1万2千里もの広がりを見せていた。人家は連なり続け、桑畑や麻畑が野原を覆い尽くす景観から「天下で最も豊かな地は隴右をおいてない」と称された。哥舒翰の使者は朝廷へ報告する際、常に白いラクダに乗って1日500里(約275km)を疾走した。 9月甲辰の日(同19日)、皇帝は突騎施族(トゥルギシュ)黒姓カガンである登里伊羅蜜施(テングリ・イラミシュ)を正式に突騎施可汗として承認した。 冬10月戊寅の日(11月22日)、玄宗皇帝は華清宮に行幸した。 解説
※原文『資治通鑑』巻216・天宝十二載条に基づく。 Translation took 2510.7 seconds. |
| 」楊氏五家,隊各爲一色衣以相別,五家合隊,粲若雲錦;國忠仍以劍南旌節引於其前。 國忠子暄舉明經,學業荒陋,不及格。禮部侍郎達奚珣畏國忠權勢,遣其子昭應尉撫先白之。撫伺國忠入朝上馬,趨至馬下;國忠意其子必中選,有喜色。撫曰:「大人白相公,郎君所試,不中程式,然亦未敢落也。」國忠怒曰:「我子何患不富貴,乃令鼠輩相賣!」策馬不顧而去。撫惶遽,書白其父曰:「彼恃挾貴勢,令人慘嗟,安可復與論曲直!」遂置暄上第。及暄爲戸部侍郎,珣始自禮部遷吏部,暄與所親言,猶歎己之淹回,珣之迅疾。 國忠既居要地,中外餉遺輻湊,積縑至三千萬匹。 上在華淸宮,欲夜出遊,龍武大將軍陳玄禮諫曰:「宮外即曠野,安可不備不虞!陛下必欲夜遊,請歸城闕。」上爲之引還。 是歳,安西節度使封常淸撃大勃律,至菩薩勞城,前鋒屢捷,常淸乘勝逐之。斥候府果毅段秀實諫曰:「虜兵羸而屢北,誘我也;請搜左右山林。」常淸從之,果獲伏兵,遂大破之,受降而還。 中書舍人宋昱知選事,前進士廣平劉乃以選法未善,上書於昱,以爲:「禹、稷、皋陶同居舜朝,猶曰載采有九德,考績以九載。近代主司,察言於一幅之判,觀行於一揖之間,何古今遲速不侔之甚哉!借使周公、孔子今處銓廷,考其辭華,則不及徐、庾,觀其利口,則不若嗇夫,何暇論聖賢之事業乎!」。 |
現代日本語訳:楊氏一族(五家)はそれぞれ隊列を作り、各隊が色分けされた服で区別した。五つの隊が合流すると、その様子は雲錦のように鮮やかだった。国忠(楊国忠)はさらに剣南節度使の旗印を先頭に立てて行進させた。 国忠の息子・楊暄が明経科を受験したが学力不足で落第寸前となった。礼部侍郎(人事次官)の達奚珣は国忠の権勢を恐れ、自らの息子である昭応尉・達奚撫を使者として事前に通告させた。撫は国忠が朝廷へ向かう際を見計らい馬前に駆け寄った。国忠は「息子が合格したのだろう」と喜んだところ、撫は「父(珣)からの伝言です。令息様の答案は規程に合いませんでしたが…落第とは致しません」と言上した。すると国忠は激怒して「我が子が富貴を得られぬわけがない!小僧が売名行為をするな!」と叫び、馬を走らせて振り返りもせず去った。 撫は恐慌状態で父に報告書を送った。「彼(楊氏)は権勢を笠に着て人を侮辱します。最早まともな議論など不可能です」。こうして珣は楊暄を上位合格者とした。後に楊暄が戸部侍郎となった時、達奚珣は漸く礼部から吏部へ昇進した。楊暄は親しい者に対し「自分はずっと低い地位にいたのに、珣の出世だけが早すぎる」と愚痴をこぼしている。 国忠が権力を握ると朝廷内外からの賄賂が車輪の輻(や)のように集まり、絹織物だけで三千万匹も蓄積した。 玄宗皇帝が華清宮に滞在中、夜遊びに出かけようとした。龍武大将軍・陳玄礼は諫めて言った。「宮殿外は荒野です。不測の事態への備えを怠るべきではありません。陛下が夜遊びをお望みなら長安へお戻りください」。皇帝はこの意見を受け入れ帰還した。 同年、安西節度使・封常清が大勃律国(現在のパキスタン北部)を攻撃し菩薩労城に迫った。先鋒部隊が連勝すると彼は追撃しようとしたが、斥候隊指揮官・段秀実が進言した。「敵軍は弱体化して敗走を繰り返しています―これは囮です!側面の山林を捜索すべきです」。常清が従って調べさせると伏兵を発見し、大勝して帰還することができた。 中書舎人・宋昱が官吏選考を担当した際、元進士(科挙受験者)で広平出身の劉乃は試験制度の問題点を上書した。「古代では禹や稷・皋陶ら聖人が舜帝のもとで働いた時も『九徳を持つ人物を見極めよ』と言い、九年かけて実績評価を行った。ところが現代の試験官は一通の答案用紙(判文)であなたの発言を査定し、一揖(軽い会釈)であなたの人柄を見抜くという―何と古今の差があまりにも大きいことか!仮に周公や孔子が今の選考場に出たとしても、文章美では徐陵・庾信ら六朝詩人に及ばず、弁舌なら小役人(嗇夫)にすら劣ると見なされるだろう。聖賢の業績など評価される余地がないではないか!」 解説:
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| input text 資治通鑑\217_唐紀_33.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷二百十七 唐紀三十三 起閼逢敦牂,盡柔兆涒灘四月,凡二年有奇。 玄宗至道大聖大明孝皇帝下之下天寶十三年(甲午,公元七五四年) 春,正月,己亥,安祿山入朝。是時楊國忠言祿山必反,且曰:「陛下試召之,必不來。」上使召之,祿山聞命即至。庚子,見上於華清宮,泣曰:「臣本胡人,陛下寵擢至此,為國忠所疾,臣死無日矣!」上憐之,賞賜巨萬,由是益親信祿山,國忠之言不能入矣。太子亦知祿山必反,言於上,上不聽。 甲辰,太清宮奏:「學士李琪見玄元皇帝乘紫雲,告以國祚延昌。」 唐初,詔敕皆書、門下官有文者為之。乾封以後,始召文士元萬頃、范履冰等草諸文辭,常於北門候進止,時人謂之「北門學士」。中宗之世,上官昭容專其事。上即位,始置翰林院,密邇禁廷,延文章之士,下至僧、道、書、畫、琴、棋、數術之工皆處之,謂之「待詔」。刑部尚書張均及弟太常卿□皆翰林院供奉。上欲加安祿山同平章事,已令張□草制。楊國忠諫曰:「祿山雖有軍功,目不知書,豈可為宰相!制書若下,恐四夷輕唐。」上乃止。乙巳,加祿山左僕射,賜一子三品、一子四品官。丙午,上還宮。 安祿山求兼領閒廄、群牧;庚申,以祿山為閒廄、隴右群牧等使。祿山又求兼總監;壬戌,兼知總監事。祿山奏以御史中丞吉溫為武部侍郎,充閒廄逼使,楊國忠由是惡溫。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻二百十七 唐紀三十三 閼逢敦牂(甲午)の年から始まり、柔兆涒灘(丙申)年の四月まで、合わせて二年余り。 玄宗至道大聖大明孝皇帝下之下 天宝十三年(甲午、西暦754年) 春正月己亥、安禄山が朝廷に入る。この時楊国忠は「安禄山は必ず謀反を起こす」と主張し、「陛下が試しに召してみれば、彼は決して来ないでしょう」と言上した。玄宗が使者を送って呼び寄せると、禄山は命令を受けるや直ちに参内した。庚子の日、華清宮で皇帝に謁見した禄山は涙ながらに訴えた:「臣は元より蛮族の出ですのに、陛下はここまで寵愛してくださった。それにもかかわらず楊国忠から憎まれ、この命いつ尽きるやもしれません」。玄宗はこれを哀れみ、莫大な財宝を賜い、以後ますます禄山を信任するようになったため、楊国忠の諫言は全く聞き入れられなくなった。皇太子もまた安禄山が必ず反逆すると確信していたが、皇帝に進言しても容れられなかった。 甲辰の日、太清宮から上奏があった:「学士李琪が玄元皇帝(老子)が紫雲に乗って現れ『国の寿命は延びて栄える』と告げられたとのこと」。 唐王朝初期には詔勅はいずれも中書省・門下省の文才ある官吏によって起草されていた。乾封年間以降になって初めて、元万頃や范履冰ら文人を召して各種公文を作成させたが、彼らは常に北門で待機し指示を受けていたため、当時の人々から「北門学士」と呼ばれた。中宗の時代には上官昭容(上官婉児)がこの職務を独占した。玄宗皇帝即位後、「翰林院」が設けられ宮廷近くに置かれ、文筆家や技芸者――僧侶・道士・書道家・画家・琴棋の達人から占術師までを全て招致し「待詔(じしょう)」と称した。刑部尚書張均及びその弟で太常卿の□(名欠落)も翰林院供奉となった。 玄宗が安禄山に同平章事(宰相職)を与えようとした際、既に張□に任命文書の起草を命じていたところ、楊国忠は諫めて言った:「安禄山には軍功こそありますが文字を知らず、どうして宰相になれましょう。もしこの辞令が出れば、周辺諸民族が唐王朝を軽んずるでしょう」。皇帝はこれを取りやめた。乙巳の日、代わりに安禄山を左僕射(尚書省次官)とし、息子一人には三品官位、もう一人には四品官位を与えた。丙午の日に玄宗は宮殿へ戻った。 その後安禄山が閑廄使・群牧使両職務への兼任を求めると、庚申の日付けで隴右地方の軍馬管理なども管轄させた。更に監牧総監(全国放牧地監督)兼掌をも求めたため壬戌にはその地位にも就いた。安禄山は御史中丞吉温を武部侍郎として閑廄副使へ推挙したが、この一件で楊国忠は吉温を憎悪するようになった。 解説
※本訳では原文中の欠字(□)はそのまま再現し、固有名詞(張垍か?)推定は避けた。また「同平章事」のような複雑な官職名には適宜注釈的表現を付加している。 Translation took 2330.2 seconds. | ||||||||||||
| 祿山密遣親信選健馬堪戰者數千匹,別飼之。 二月,壬申,上朝獻太清宮,上聖祖尊號曰大聖祖高上大道金闕玄元大皇太帝。癸酉,享太廟,上高祖謚曰神堯大聖光孝皇帝,太宗謚曰文武大聖大廣孝皇帝,高宗謚曰天皇大聖大弘孝皇帝,中宗謚曰孝和大聖大昭孝皇帝,睿宗謚曰玄真大聖大興孝皇帝,以漢家諸帝皆謚孝故也。甲戌,群臣上尊號曰開元天地大寶聖文神武證道孝德皇帝。赦天下。 丁丑,楊國忠進位司空;甲申,臨軒冊命。 己丑,安祿山奏:「臣所部將士討奚、契丹、九姓、同羅等,勳效甚多,乞不拘常格,超資加賞,仍好寫告身付臣軍授之。」於是除將軍者五百餘人,中郎將者二千餘人。祿山欲反,故先以此收眾心也。 三月,丁酉朔,祿山辭歸范陽。上解御衣以賜之,祿山受之驚喜。恐楊國忠奏留之,疾驅出關。乘船沿河而下,令船夫執繩板立於岸側,十五里一更,晝夜兼行,日數百里,過郡縣不下船。自是有言祿山反者,上皆縛送之。由是人皆知其將反,無敢言者。 祿山之發長安也,上令高力士餞之長樂坡,及還,上問:「祿山慰意乎?」對曰:「觀其意怏怏,必知欲命為相而中止故也。」上以告國忠,曰:「此議他人不知,必張□兄弟告之也。」上怒,貶張均為建安太守,□為盧溪司馬,□弟給事中埱為宜春司馬。 哥舒翰亦為其部將論功,敕以隴右十將、特進、火拔州都督、燕山郡王火拔歸仁為驃騎大將軍,河源軍使王思禮加特進,臨洮太守成如璆、討擊副使范陽魯炅、皋蘭府都督渾惟明並加雲麾將軍,隴右討擊副使郭英乂為左羽林將軍。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)安禄山は密かに配下の者を遣わし、戦闘に耐える健壮な馬数千頭を選別させ、特別に飼育させた。 二月壬申の日、玄宗皇帝は太清宮で祭祀を行い、聖祖(老子)に「大聖祖高上大道金闕玄元大皇太帝」の尊号を奉った。翌癸酉には太廟で祖先を祀り、高祖に「神堯大聖光孝皇帝」、太宗に「文武大聖大広孝皇帝」、高宗に「天皇大聖大弘孝皇帝」、中宗に「孝和大聖大昭孝皇帝」、睿宗に「玄真大聖大興孝皇帝」の諡号を追贈した。これは漢王朝の歴代皇帝が皆「孝」の字を用いた故事に倣ったものである。甲戌には群臣が皇帝に対し「開元天地大宝聖文神武証道孝徳皇帝」という尊号を奉呈した。この日、天下に恩赦が行われた。 丁丑に楊国忠は司空(三公の一)に昇進し、甲申には宮殿で正式な任命式が執り行われた。 己丑、安禄山が上奏した:「配下の将兵が奚・契丹・九姓・同羅などを討伐した功績は甚だ多い。通常の規定を超えて特別に恩賞を与え、委任状(告身)を作成し軍中で授与させて頂きたい」。これにより五百人余りが将軍に、二千人以上が中郎将に任命された。安禄山は反乱を企てていたため、事前に兵士の心を得るためにこの措置を取ったのである。 三月丁酉(朔日)、安禄山は范陽へ帰還するため長安を辞去した。玄宗は自らの衣袍を賜ったが、彼は驚き喜ってこれを受け取った。楊国忠に留められることを恐れ、関所から疾駆して脱出し、船で黄河を下りながら「漕夫らに綱と艪板を持たせ岸辺を行かせ、十五里ごとに交替させ昼夜兼行」するよう命じ、一日に数百里も進み郡県を通っても停泊しなかった。この後は安禄山謀反の噂を奏上する者がいても、玄宗は皆縛り上げて送還したため、人々は彼が必ず反乱を起こすと知りながら口に出せなくなった。 安禄山が出発すると、玄宗は高力士を使わして長楽坡で見送らせた。帰参後「安禄山の様子は如何だったか」との問いに、高力士は「不満げな表情から察するに、丞相任命が中止された件を知っているのでしょう」と答えた。玄宗が楊国忠にこの話をすると、「これは張垍兄弟以外には知り得ぬ内密です」と言上したため、怒った皇帝は張均を建安太守に左遷し、弟の給事中・張埱も宜春司馬へ降格させた。 一方で哥舒翰も配下将兵への論功行賞を行い、隴右十将・特進・火抜州都督・燕山郡王である火拔帰仁を驃騎大将軍に、河源軍使の王思礼には特進位を加え、臨洮太守の成如璆・討撃副使范陽出身の魯炅・皋蘭府都督渾惟明らは雲麾将軍へ昇格させた。また隴右討撃副使郭英乂は左羽林将軍に任じられた。 解説
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| 英乂,知運之子也。翰又奏嚴挺之之子武為節度判官,河東呂諲為度支判官,前封丘尉高適為掌書記,安邑曲環為別將。 程千里執阿布思,獻於闕下,斬之。甲子,以千里為金吾大將軍,以封常清權北庭都護、伊西節度使。 夏,四月,癸巳,安祿山奏擊奚破之,虜其王李日越。 六月,乙丑朔,日有食之,不盡如鉤。 侍御史、俞南留後李宓將兵七萬擊南詔。閣羅鳳誘之深入,至太和城,閉壁不戰。宓糧盡,士卒罹瘴疫及饑死什七八,乃引還;蠻追擊之,宓被擒,全軍皆沒。楊國忠隱其敗,更以捷聞,益發中國兵討之,前後死者幾二十萬人,無敢言者。上嘗謂高力士曰:「朕今老矣,朝事付之宰相,邊事付之諸將,夫復何憂!」力士對曰:「臣聞雲南數喪師,又邊將擁兵太盛,陛下將何以制之!臣恐一旦禍發,不可復救,何謂無憂也!」上曰:「卿勿言,朕徐思之。」 秋,七月,癸丑,哥舒翰奏,於所開九曲之地置洮陽、澆河二郡及神策軍,以臨洮太守成如璆兼洮陽太守,充神策軍使。 楊國忠忌陳希烈,希烈累表辭位;上欲以武部侍郎吉溫代之,國忠以溫附安祿山,奏言不可;以文部侍郎韋見素和雅易制,薦之。八月,丙戌,以希烈為太子太師,罷政事;以見素為武部尚書、同平章事。 自去歲水旱相繼,關中大饑。楊國忠惡京兆尹李峴不附己,以災沴歸咎於峴,九月,貶長沙太守。 |
現代日本語訳英乂(えいがい)は知運(ちうん)の子である。哥舒翰(かじょかん)はさらに厳挺之(げんていし)の息子・武(ぶ)を節度判官に、河東出身の呂諲(りょいん)を度支判官に、元封丘尉の高適(こうせき)を掌書記に、安邑出身の曲環(きょくかん)を別将に推挙した。 程千里(ていせんり)が突厥族の首長アブシを捕らえ朝廷へ献上すると、皇帝はこれを処刑した。甲子の日、千里を金吾大將軍とし、封常清(ふうじょうせい)に北庭都護・伊西節度使代理を兼任させた。 夏四月癸巳の日、安禄山が奚族を撃破したと上奏し、その王李日越(りじつえつ)を捕虜とした。 六月乙丑朔(1日)、部分日食が発生し、欠けた太陽は鉤状に残った。 侍御史で俞南留後をつとめる李宓(りぼく)が7万の兵を率いて南詔国へ侵攻した。国王閣羅鳳(かくらほう)はわざと深入りさせ、太和城まで誘い込むと守備を固めて決戦を避けた。食糧不足に加え疫病で将兵の7-8割が死亡し撤退する途中、南詔軍の追撃を受けて李宓は捕らわれ全軍壊滅した。楊国忠(ようこくちゅう)は敗北を隠して勝利と偽り報告、さらに大規模な援軍を投入したため死者数は累計20万人に達するも、誰も真相を告発できなかった。玄宗皇帝が高力士(こうりきし)に「朕は老いたから政務は宰相に軍事は将軍たちに任せている」と語ると、力士は「雲南での大敗や辺境将軍の権限過大こそ禍根です」と諫めたが、皇帝は「詳しくは後で考えよう」と取り合わなかった。 秋七月癸丑の日、哥舒翰が開拓した九曲地域に洮陽・澆河二郡と神策軍を設置し、臨洮太守成如璆(せいじょきゅう)が兼任で指揮官となった。 楊国忠は陳希烈(ちんきれつ)を疎み辞任に追い込んだ後、後継として武部侍郎吉温(きつおん)(安禄山派閥)の起用を皇帝が提案すると「彼は危険人物だ」と反対して阻止。代わりに文部侍郎韋見素(いけいそ)という温和な人物を推挙し、八月丙戌には希烈を名誉職の太子太師へ退け、見素を武部尚書・同平章事(宰相格)に任命させた。 前年から続く水害と干魃で関中は大飢饉となったが、楊国忠は政敵である京兆尹李峴(りけん)を災厄の責任者に仕立て上げ、九月に長沙太守へ左遷した。 解説
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| 峴,禕之子也。上憂雨傷稼,國忠取禾之善者獻之,曰:「雨雖多,不害稼也。」上以為然。扶風太守房琯言所部水災,國忠使御史推之。是歲,天下無敢言災者。高力士侍側,上曰:「淫雨不已,卿可盡言。」對曰:「自陛下以權假宰相,賞罰無章,陰陽失度,臣何敢言!」上默然。 冬,十月,乙酉,上幸華清宮。 十一月,己未,置內侍監二員,正三品。 河東太守兼本道採訪使韋陟,斌之兄也,文雅有盛名,楊國忠恐其入相,使人告陟贓污事,下御史按問。陟賂中丞吉溫,使求救於安祿山,復為國忠所發。閏月,壬寅,貶陟桂嶺尉,溫澧陽長史。安祿山為溫訟冤,且言國忠讒疾。上兩無所問。 戊午,上還宮。 是歲,戶部奏天下郡三百二十一,縣千五百三十八,鄉萬六千八百二十九,戶九百六萬九千一百五十四,口五千二百八十八萬四百八十八。 玄宗至道大聖大明孝皇帝下之下天寶十四年(乙未,公元七五五年) 春,正月,蘇毘王子悉諾邏去吐蕃來降。 二月,辛亥,安祿山使副將何千年入奏,請以蕃將三十二人代漢將,上命立進畫,給告身。韋見素謂楊國忠曰:「祿山久有異志,今又有此請,其反明矣。明日見素當極言;上未允,公其繼之。」國忠許諾。壬子,國忠、見素入見,上迎謂曰:「卿等有疑祿山之意邪?」見素因極言祿山反已有跡,所請不可許,上不悅,國忠逡巡不敢言,上竟從祿山之請。 |
現代日本語訳峴は禕の子である。皇帝(玄宗)が降雨による農作物への被害を憂慮すると、楊国忠は生育状態の良い稲穂を持ち寄って献上し、「雨量が多いとはいえ、農作物には影響ありません」と述べた。これを真実と思った帝に対し、扶風太守・房琯が管轄地域の水害を報告すると、国忠は監察御史に彼を糾弾させた。この年、天下で災害を口にする者は誰もいなくなった。側侍していた高力士に向かい、帝が「長雨が止まぬのはなぜか? 遠慮なく意見を述べよ」と言うと、「陛下が宰相に権限を委ねて以来、賞罰は乱れ陰陽の調和さえ失われました。臣ごときが何を申せましょうや!」と応じた。帝は黙り込んだ。 冬十月乙酉、皇帝は華清宮に行幸した。 河東太守兼本道採訪使・韋陟(斌の兄で文雅の誉れ高く名声があった人物)がいた。楊国忠は彼が宰相となることを恐れ、部下に命じて「汚職事件」を捏造させ弾劾した。御史による審問を受け、韋陟は中丞・吉温へ賄賂を贈り安禄山への救済依頼を取り付けたが、国忠に露見する。閏月壬寅、韋陟は桂嶺尉(辺境の下級役人)へ左遷され、吉温も澧陽長史へ降格された。安禄山は吉温の冤罪を訴え「国忠こそ讒言で人を陥れる者」と主張したが、帝は双方とも不問に付した。 戊午、皇帝は還幸した。 玄宗至道大聖大明孝皇帝 天宝十四年(乙未、755年) 解説
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| 他日,國忠、見素言於上曰:「臣有策可坐消祿山之謀。今若除祿山平章事,召詣闕,以賈循為范陽節度使,呂知誨為平盧節度使,楊光翽為河東節度使,則勢自分矣。」上從之。已草制,上留不發,更遣中使輔璆琳以珍果賜祿山,潛察其變。璆琳受祿山厚賂,還,盛言祿山竭忠奉國,無有二心。上謂國忠等曰:「祿山,朕推心待之,必無異志。東北二虜,藉其鎮遏。朕自保之,卿等勿憂也!」事遂寢。循,華原人也,時為節度副使。 隴右、河西節度使哥舒翰入朝,道得風疾,遂留京師,家居不出。 三月,辛巳,命給事中裴士淹宣慰河北。 夏,四月,安祿山奏破奚、契丹。 癸巳,以蘇毘王子悉諾邏為懷義王,賜姓名李忠信。 安祿山歸至范陽,朝廷每遣使者至,皆稱疾不出迎,盛陳武備,然後見之。裴士淹至范陽,二十餘日乃得見,無復人臣禮。楊國忠日夜求祿山反狀,使京兆尹圍其第,捕祿山客李超等,送御史台獄,潛殺之。祿山子慶宗尚宗女榮義郡主,供奉在京師,密報祿山,祿山愈懼。六月,上以其子成婚,於詔召祿山觀禮,祿山辭疾不至。秋,七月,祿山表獻馬三千匹,每匹執控夫二人,遣蕃將二十二人部送。河南尹達奚珣疑有變,奏請「諭祿山以進車馬宜俟至冬,官自給夫,無煩本軍。」於是上稍寤,始有疑祿山之意。會輔璆琳受賂事亦洩,上托以他事撲殺之。 |
現代日本語訳ある日、楊国忠と韋見素が玄宗皇帝に進言した。「臣らには安禄山の謀略を座して消し去る策があります。今こそ安禄山を平章事(宰相職)に任命し朝廷へ召還すべきです。その際、賈循を范陽節度使に、呂知誨を平盧節度使に、楊光翽を河東節度使に任じれば、彼の勢力は分散されるでしょう」。皇帝はこの提案を受け入れた。 詔書の草案が完成したものの、玄宗は発布を見合わせた。代わりに宦官の輔璆琳を珍果を持たせて安禄山のもとに遣わし、内情を探らせた。しかし輔璆琳は安禄山から多額の賄賂を受け取り、「安禄山は忠義を尽くして国に奉じており、二心などありません」と盛んに報告した。 皇帝は楊国忠らに言った。「朕が真心をもって遇している安禄山に謀反の道理がない。東北の異民族(奚や契丹)は彼の威圧で鎮めているのだ。朕自身が保証するから卿らは心配無用だ」。こうして人事案は沙汰止みとなった。賈循は華原出身で当時節度副使を務めていた。 隴右・河西節度使の哥舒翰が入朝途中で中風となり、長安に留まって邸から出なくなった。 三月辛巳(22日)、給事中の裴士淹が河北地方へ慰問使として派遣された。 夏四月、安禄山は奚と契丹を撃破したと上奏してきた。 癸巳の日(5月4日)、蘇毘国王子・悉諾邏に懐義王の爵位を与え、李忠信という姓名を下賜した。 范陽へ戻った安禄山は朝廷からの使者が訪れるたび、「病中」と称して出迎えず、武装兵を厳重に配置させてからようやく面会する有様だった。裴士淹が范陽に到着すると二十日以上も待たされ、しかも臣下の礼すら取らずに対応した。 楊国忠は日夜安禄山謀反の証拠を探し、京兆尹(長安府知事)に命じて彼の邸宅を取り囲ませると、配下の李超らを捕縛して御史台の牢獄へ送った。その後こっそり処刑したのだ。実は安禄山の息子・慶宗が玄宗皇帝の孫娘である栄義郡主と婚約し長安に滞在していたため、この情報を密かに父へ伝えた。これにより安禄山の警戒心はいよいよ高まった。 六月、皇帝が正式な婚礼開催のために詔書で安禄山を招いたが、「病気」を理由に出席しなかった。秋七月になると安禄山は「軍馬三千頭を献上する」と上表したが、付き添いの管理役として兵士二人ずつ(計六千人)をつけ、さらに二十二騎の異民族将校も護衛につけた。 河南尹・達奚珣は変事発生を疑って奏上した。「陛下には安禄山に『馬匹献納は冬まで待て』と伝えるべきです。付き添い役は朝廷が手配しますので、わざわざ私兵を使わせる必要はありません」。この進言で玄宗もようやく怪しみ始めた。 ちょうど輔璆琳の収賄事件も露見したため、皇帝は別件を口実に彼を撲殺させた。 解説
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| 上遣中使馮神威繼手詔諭祿山,如珣策;且曰:朕新為卿作一湯,十月於華清宮待卿。」神威至范陽宣旨,祿山踞床微起,亦不拜,曰:「聖人安隱。」又曰:「馬不獻亦可,十月灼然詣京師。」即令左右引神威置館舍,不復見;數日,遣還,亦無表。神威還,見上,泣曰:「臣幾不得見大家!」 八月,辛卯,免今載百姓租庸。 冬,十月,庚寅,上幸華清宮。 安祿山專制三道,陰蓄異志,殆將十年,以上待之厚,欲俟上晏駕然後作亂。會楊國忠與祿山不相悅,屢言祿山且反,上不聽;國忠數以事激之,欲其速反以取信於上。祿山由是決意遽反,獨與孔目官、太僕丞嚴莊、掌書記、屯田員外郎高尚、將軍阿史那承慶密謀,自餘將佐皆莫之知,但怪其自八月以來,屢饗士卒,秣馬厲兵而已。會有奏事官自京師還,祿山詐為敕書,悉召諸將示之曰:「有密旨,令祿山將兵入朝討楊國忠,諸君宜即從軍。」眾愕然相顧,莫敢異言。十一月,甲子,祿山發所部兵及同羅、奚、契丹、室韋凡十五萬眾,號二十萬,反於范陽。命范陽節度副使賈循守范陽,平盧節度副使呂知誨守平盧,別將高秀巖守大同;諸將皆引兵夜發。 詰朝,祿山出薊城南,大閱誓眾,以討楊國忠為名,榜軍中曰:「有異議扇動軍人者,斬及三族!」於是引兵而南。祿山乘鐵輿,步騎精銳,煙塵千里,鼓噪震地。 |
現代日本語訳玄宗皇帝は宦官・馮神威を遣わし、親筆の詔書を持たせて安禄山に伝達させた(内容は顔真卿が提案した方策と同様)。さらに「朕は新たにお前のために湯殿を造った。十月には華清宮で待っている」と付け加えた。 馮神威が范陽で詔を宣すると、安禄山は寝台にもたれたまま微かに身を起こすだけで跪拝せず、「聖人(皇帝)はご無事か」と言い、さらに「馬を献上しなくてもよい。十月には必ず長安へ参る」と述べた。すぐに側近に命じて馮神威を宿舎に案内させ、二度と面会せず。数日後、帰還させる際も上奏文は提出しなかった。 馮神威が帰還して玄宗に拝謁すると、涙ながらに訴えた。「臣はもう陛下にお目にかかれないかと思いました」 八月辛卯の日(4日)、本年分の民衆の租税と労役を免除する。 冬十月庚寅の日(3日)、皇帝は華清宮に行幸した。安禄山は三つの藩鎮を専断し、密かに謀反の意志を抱いてほぼ十年に及んだ。玄宗からの厚遇ゆえに、その崩御を待って乱を起こすつもりであった。しかし楊国忠が安禄山と対立し「彼は必ず反逆する」と繰り返し奏上(皇帝は聞き入れず)。楊国忠は度々事件をでっち上げて挑発し、早期の謀反を促して自らの主張を証明しようとした。 これにより安禄山は即時決起を決断。孔目官・太僕丞の厳荘、掌書記・屯田員外郎の高尚、将軍阿史那承慶のみと密議し(他の部将は全く知らされず)、ただ八月以降に兵士への度重なる饗宴や馬糧の蓄積を怪訝に思う程度だった。 折しも長安からの使者が戻ると、安禄山は偽の詔勅を作成。諸将を集めて示しながら「密旨があった。楊国忠討伐のため軍兵を率いて上京せよとの命だ。諸君は直ちに従軍せよ」と宣告した。一同は呆然と顔を見合わせたが、異論を唱える者はいなかった。 十一月甲子(9日)、安禄山は配下の兵力及び同羅・奚・契丹・室韋など計十五万(号二十万)を率いて范陽で反旗を翻す。范陽節度副使賈循に留守を命じ、平盧節度副使呂知誨らに要衝を守備させた後、諸将は夜陰に乗じて進軍を開始した。翌暁、安禄山は薊城南門で大閲兵を行い「楊国忠征伐」の名目で誓師。軍中に布告して「異論を唱え軍心を乱す者は三族まで誅滅する」と宣言し、南下を開始した。 鉄製の輿に乗った安禄山の精鋭部隊は、蹄音と喊声が天地を震わせながら千里の煙塵を巻き起こして進撃した。 解説
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| 時海內久承平,百姓累世不識兵革,猝聞范陽兵起,遠近震駭。河北皆祿山統內,所過州縣,望風瓦解。守令或開門出迎,或棄城竄匿,或為所擒戮,無敢拒之者。祿山先遣將軍何千年、高邈將奚騎二十,聲言獻射生手,乘驛詣太原。乙丑,北京副留守楊光翽出迎,因劫之以去。太原具言其狀。東受降城亦奏祿山反。上猶以為惡祿山者詐為之,未之信也。 庚午,上聞祿山定反,乃召宰相謀之。楊國忠揚揚有得色,曰:「今反者獨祿山耳,將士皆不欲也。不過旬日,必傳首詣行在。」上以為然,大臣相顧失色。上遣特進畢思琛詣東京,金吾將軍程千里詣河東,各簡募數萬人,隨便團結以拒之。辛未,安西節度使封常清入朝,上問以討賊方略,常清大言曰:「今太平積久,故人望風憚賊。然事有逆順,勢有奇變,臣請走馬詣東京,開府庫,募驍勇,挑馬棰渡河,計日取逆胡之首獻闕下!」上悅。壬申,以常清為范陽、平盧節度使。常清即日乘驛詣東京募兵,旬日,得六萬人;乃斷河陽橋,為守禦之備。 甲戌,祿山至博陵南,何千年等執楊光翽見祿山,責光翽以附楊國忠,斬之以徇。祿山使其將安忠志將精兵軍土門,忠志,奚人,祿山養為假子;又以張獻誠攝博陵太守,獻誠,守珪之子也。 祿山至蒿城,常山太守顏杲卿力不能拒,與長史袁履謙往迎之。 |
現代日本語訳:当時の天下は長らく平和が続き、民衆は何世代も戦争を知らずに暮らしていたため、突如「范陽で兵乱が起きた」との報に接すると、遠近を問わず人々は震撼した。河北地方全域は安禄山の支配下にあり、彼の軍が通過する州県では噂を聞いただけで統治機構が瓦解。役人の多くは城門を開いて恭順を示したり、逃亡して潜伏したり、捕縛・処刑されたりし、抵抗する者は皆無であった。 安禄山は先鋒として何千年と高邈の両将軍に奚族(キタイ)騎兵二十名を率いさせ、「弓術の達人を献上する」と偽装して駅伝馬で太原へ急行させた。乙丑の日(15日)、北京副留守・楊光翽が彼らを出迎えたところを拉致され連れ去られた。太原はこの顛末を詳細に報告し、東受降城も安禄山謀反を通報したが、玄宗皇帝は「安禄山を憎む者の偽情報だ」と疑い、信じようとしなかった。 庚午の日(20日)、ついに謀反が確実となったため皇帝は宰相を召集して協議。楊国忠は得意満面で断言した。「逆心を持つのは安禄山ただ一人。配下将兵は皆従っていません。十日も経たぬうちに必ず賊の首が行在(天子の仮宮殿)に届くでしょう」。皇帝がこれを認めると、他の大臣たちは顔を見合わせて蒼ざめた。朝廷は特進・畢思琛を東京(洛陽)、金吾将軍・程千里を河東へ派遣し、各々数万の兵士を臨時徴募して防衛線構築を命じた。 辛未の日(21日)、安西節度使・封常清が参内すると皇帝は討伐策を諮問。彼は豪語した。「長期の太平に慣れた人々が賊軍の勢いに怯えるのも当然です。しかし事態には順逆があり、形勢も一変します。臣が即刻東京へ急行し倉庫を開いて勇士を募り、鞭鳴らして黄河を渡れば、日数を数えるうちに逆賊安禄山の首を朝廷に献上いたしましょう!」皇帝は喜び壬申(22日)に封常清を范陽・平盧節度使に任命。彼は即座に駅伝馬で東京へ赴き兵士募集を開始、十日間で六万を得ると河陽橋を破壊して防衛準備を整えた。 甲戌の日(24日)、安禄山が博陵南部へ到着すると、何千年らは拉致した楊光翽を引き出し「なぜ楊国忠派に加担したのか」と詰問後、斬首して晒し者とした。さらに配下の安忠志(奚族出身で禄山の養子)には精鋭部隊を率いて土門駐屯を命じ、張献誠(名将・張守珪の息子)には博陵太守代理を務めさせた。 安禄山軍が蒿城に迫ると常山太守・顔杲卿は抗戦不能と判断し、長史・袁履謙と共に出迎えざるを得なかった。 解説:
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| 祿山輒賜杲卿金紫,質其子弟,使仍守常山;又使其將李欽湊將兵數千人守井陘口,以備西來諸軍。杲卿歸,途中指其衣謂履謙曰:「何為著此?」履謙悟其意,乃陰與杲卿謀起兵討祿山。杲卿,思魯之玄孫也。 丙子,上還宮。斬太僕卿安慶宗,賜榮義郡主自盡。以朔方節度使安思順為戶部尚書,思順弟元貞為太僕卿。以朔方右廂兵馬使、九原太守郭子儀為朔方節度使,右羽林大將軍王承業為太原尹。置河南節度使,領陳留等十三郡,以衛尉卿猗氏張介然為之。以程千里為潞州長史。諸郡當賊沖者,始置防禦使。丁丑,以榮王琬為元帥,右金吾大將軍高仙芝副之,統諸軍東征。出內府錢帛,於京師募兵十一萬,號曰天武軍,旬日而集,皆市井子弟也。 十二月,丙戌,高仙芝將飛騎、擴騎及新募兵、邊兵在京師者合五萬人,發長安。上遣宦者監門將軍邊令誠監其軍,屯於陝。 丁亥,安祿山自靈昌渡河,以絲亙約敗船及草木橫絕河流,一夕,冰合如浮梁,遂陷炅昌郡。祿山步騎散漫,人莫知其數,所過殘滅。張介然至陳留才數日,祿山至,授兵乘城。眾忷懼,不能守。庚寅,太守郭納以城降。祿山入北郭,聞安慶宗死,慟哭曰:「我何罪,而殺我子!」時陳留將士降者夾道近萬人,祿山皆殺之以快其忿;斬張介然於軍門。以其將李庭望為節度使,守陳留。 |
現代日本語訳:安禄山は常々、顔杲卿(がんこうけい)に金印紫綬を下賜するとともに、彼の子弟を人質として確保しつつも引き続き常山の守備にあたらせた。さらに配下の将軍・李欽湊(りきんそう)に兵数千を与え井陘口(せいけいこう)を防がせ、西方からの官軍侵攻に備えた。杲卿は帰路で自らの官服を指さし袁履謙(えんりけん)に向かって「何故こんなものを着ているのか?」と問うた。履謙はその真意を悟り、密かに杲卿と共に挙兵して禄山討伐の計画を練った。なお杲卿は顔思魯(がんしろ)の玄孫である。 丙子の日、玄宗皇帝は宮中に戻られた。太僕卿・安慶宗(あんけいそう)を斬首し、栄義郡主には自尽を命じた。朔方節度使だった安思順(あんしじゅん)を戸部尚書とし、その弟の元貞(げんてい)を太僕卿に任命した。また朔方右廂兵馬使兼九原太守・郭子儀(かくしぎ)を新たな朔方節度使として登用し、右羽林大將軍・王承業(おうしょうぎょう)は太原尹となった。河南道には新設の節度使職を置き陳留など十三郡を管轄させ、衛尉卿出身で猗氏県人の張介然(ちょうかいぜん)がその任についた。程千里(ていせんり)は潞州長史に起用され、賊軍の侵攻路となる各郡には初めて防御使を配置した。 丁丑の日、栄王李琬(えいおう りがん)を征討元帥とし、右金吾大將軍・高仙芝(こうせんし)を副将として諸軍を統率させ東方へ出征させた。皇室財庫から資金を引き出して長安で兵士11万を募った「天武軍」はわずか十日間で結成されたが、その実態は市井のならず者集団であった。 十二月丙戌(つちのえいぬ)、高仙芝は飛騎・拡騎に加えて新規募集兵および在京中の辺境守備兵を合わせ五万とし長安を発った。皇帝は宦官で監門将軍の辺令誠(へんれいせい)を派遣して全軍を監督させ、陝州駐屯を命じた。 丁亥(ひのとい)、安禄山が霊昌から黄河渡河作戦を決行した。絹綱で破船や草木を繋ぎ川流れを遮断すると一夜にして氷結し浮橋状となり、瞬く間に霊昌郡は陥落した。禄山軍の歩騎兵は無秩序に広がりその数も把握不能なほど膨張、通過地では略奪と破壊を繰り返した。張介然が陳留へ着任してわずか数日後、禄山が押し寄せると防衛態勢で城壁に兵士を配備したものの将兵は恐怖で戦意喪失していた。 庚寅(かのえとら)、太守・郭納(かくのう)は降伏開城した。禄山が北外城に入ったところ安慶宗の死を知り「我に何の罪があって息子を殺すのか!」と慟哭するや、陳留で投降していた約一万名もの将兵らを道端にならべて虐殺し怒りを鎮めた。さらに張介然は軍門前で斬首され、代わって配下の李庭望(りていぼう)が節度使として陳留守備についた。 解説:
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| 壬辰,上下制欲親征,其朔方、河西、隴右兵留守城堡之外,皆赴行營,令節度使自將之,期二十日畢集。 初,平原太守顏真卿知祿山且反,因霖雨,完城浚壕,料丁壯,實倉廩。祿山以其書生,易之。及祿山反,牒真卿以平原、博平兵七千人防河津,真卿遣平原司兵李平間道奏之。上始聞祿山反,河北郡縣皆風靡,歎曰:「二十四郡,曾無一人義士邪!」及平至,大喜,曰:「朕不識顏真卿作何狀,乃能如是!」真卿使親客密懷購賊牒詣諸郡,由是諸郡多應者。真卿,杲卿之從弟也。 安祿山引兵向滎陽,太守崔無詖拒之;士卒乘城者,聞鼓角聲,自墜如雨。癸巳,祿山陷滎陽,殺無詖,以其將武令珣守之。祿山聲勢益張,以其將田承嗣、安忠志、張孝忠為前鋒。封常清所募兵皆白徒,未更訓練,屯武牢以拒賊;賊以鐵騎蹂之,官軍大敗。常清收餘眾,戰於葵園,又敗;戰上東門內,又敗。丁酉,祿山陷東京,賊鼓噪自四門入,縱兵殺掠。常清戰於都亭驛,又敗;退守宣仁門,又敗;乃自苑西壞牆西走。 河南尹達奚珣降於祿山。留守李□謂御史中丞盧奕曰:「吾曹荷國重任,雖知力不敵,必死之!」奕許諾。□收殘兵數百,欲戰,皆棄□潰去;□獨坐府中。弈先遣妻子懷印間道走長安,朝服坐台中,左右皆散。祿山屯於閒廄,使人執□、奕及採訪判官蔣清,皆殺之。 |
現代日本語訳壬辰の日、皇帝は親征を行う意向を詔で示した。朔方・河西・隴右の兵士については城砦守備に必要な者以外を全員行営(前線基地)へ集結させ、節度使自らが指揮して20日以内に招集を完了せよと命じた。 当初、平原太守顔真卿は安禄山が謀反を起こすと予見し、長雨の機会を利用して城壁補修・堀浚渫を行い、壮丁数を調査し倉庫を充実させていた。禄山は彼を単なる書生と侮っていた。しかし叛乱発生後、真卿が平原・博平兵七千で黄河渡河点防衛の命を受けると、密使李平を使者として近道を通り皇帝に報告した。初めて河北全域が安禄山に降ったとの報を得た玄宗は「二十四郡の中に一人の義士もいないのか」と嘆いたが、李平到着後大いに喜び「顔真卿の人物を知らなかったが、よくぞこのように!」と称賛した。真卿は配下を諸郡へ密かに派遣し賊討伐の檄文を届けさせたため、多くの郡が呼応した。真卿は杲卿の従弟である。 安禄山軍が滎陽に迫ると太守崔無詖が抵抗したが、城壁守備兵らは敵陣太鼓や角笛を聞くや雨のように墜落(逃走)した。癸巳(壬辰の翌日)、禄山は滎陽を陥落させ崔無詖を殺害し配下武令珣を守将とした。さらに勢いを増した叛軍は田承嗣・安忠志・張孝忠を先鋒に任命。一方、封常清が新募した未訓練兵は武牢で防衛線を敷いたが鉄騎隊に蹂躙され大敗。葵園での再戦も上東門内の交戦でも敗北を重ねた。丁酉(癸巳から4日後)、禄山は東京(洛陽)へ突入し四門から喊声と共に侵攻・略奪を開始した。常清が都亭駅で防戦するも敗退、宣仁門まで撤退して再び破れ、ついに御苑西の城壁を破り西方へ逃走した。 河南尹達奚珣は安禄山に降伏。留守官李□(名欠落)は御史中丞盧奕に対し「我らは国恩を受けた身だ。力及ばぬと知りながらも死をもって尽くすべき」と述べ、盧奕が承諾した。しかし李□が数百の残兵で戦おうとしたところ兵士全員が逃亡。一人官衙に座していたところを捕らえられた。盧奕は事前に妻子へ官印を持たせ長安へ逃走させており、自らは朝服を着けて台院(役所)に端坐し配下の散り去る様を見届けた後に捕縛された。禄山が閑廐で野営する中、李□・盧奕・採訪判官蔣清三人とも処刑された。 注釈
(訳注:原文『資治通鑑』巻二百十七・唐紀三十三の天宝十四載条より。安禄山叛乱初期段階における朝廷側防衛体制崩壊と忠臣の奮戦を描く典型場面) Translation took 986.3 seconds. | ||||||||||||
| 奕罵祿山,數其罪,顧賊黨曰:「凡為人當知逆順。我死不失節,夫復何恨!」□,文水人;奕,懷慎之子;清,欽緒之子也。祿山以其黨張萬頃為河南尹。 封常清帥餘眾至峽,陝郡太守竇廷芝已奔河東,吏民皆散。常清謂高仙芝曰:「常清連日血戰,賊鋒不可當。且潼關無兵,若賊豕突入關,則長安危矣。陝不可守,不如引兵先據潼關以拒之。」仙芝乃帥見兵西趣潼關。賊尋至,官軍狼狽走,無復部伍,士馬相騰踐,死者甚眾。至潼關,修完守備,賊至,不得入而去。祿山使其將崔乾祐屯陝,臨汝、弘農、濟陰、濮陽、雲中郡皆降於祿山。是時,朝廷徵兵諸道,皆未至,關中忷懼。會祿山方謀稱帝,留東京不進,故朝廷得為之備,兵亦稍集。 祿山以張通儒之弟通晤為睢陽太守,與陳留長史楊朝宗將胡騎千餘東略地,郡縣官多望風降走,惟東平太守嗣吳王祗、濟南太守李隨起兵拒之。祗,禕之弟也。郡縣之不從賊者,皆倚吳王為名。單父尉賈賁帥吏民南擊睢陽,斬張通晤。李庭望引兵欲東徇地,聞之,不敢進而還。庚子,以永王璘為山南節度使,江陵長史源洧為之副;穎王□為劍南節度使,蜀郡長史崔圓為之副。二王皆不出閣。洧,光裕之子也。 上議親征,辛丑,制太子臨國,謂宰相曰:「朕在位垂五十載,倦於憂勤,去秋已欲傳位太子;值水旱相仍,不欲以餘災遺子孫,淹留俟稍豐。 |
現代日本語訳安禄山を罵った奕は、その罪状を数え上げながら賊軍の一派を見据えて言った。「人たる者は順逆を知らねばならぬ。私は死んでも節義を失わない。これ以上の恨みなどない!」(□は文水県の人であり、奕は盧懐慎の子である。清は王欽緒の子にあたる。)安禄山は配下の張万頃を河南尹に任命した。 封常清は残兵を率いて峡州へ向かったが、陝郡太守の竇廷芝はすでに河東へ逃亡し、役人も民衆も散りじりになっていた。常清は高仙芝に進言した。「私は連日血戦してきたが、賊軍の攻勢は防ぎきれない。さらに潼関には守備兵がいない。もし賊が猪突猛進で関内へ乱入すれば、長安は危うい。陝郡は守れぬゆえ、兵力を率いて先んじて潼関を占拠し、抵抗すべきだ。」仙芝はこれを受け、手元の兵を率いて西へ急ぎ潼関に向かった。間もなく賊軍が到着すると、官軍は慌てふためいて敗走し、部隊の統制は完全に崩壊。人馬が入り乱れて踏み合い、死者は数知れなかった。ようやく潼関へ辿り着き防備を整えると、賊軍は攻め込めず撤退した。安禄山は配下の崔乾祐を陝郡に駐屯させると、臨汝・弘農・済陰・濮陽・雲中の諸郡はいずれも降伏した。 この時、朝廷が各地から徴発した援軍はまだ到着せず、関中一帯は恐慌状態に陥った。しかし安禄山が帝位僭称の準備で東京(洛陽)に留まっていたため、朝廷には防衛体制を整える時間的余裕が生まれ、兵力も徐々に集結し始めた。 安禄山は張通儒の弟・通晤を睢陽太守とし、陳留長史の楊朝宗と共に千騎以上の異民族騎兵を率いて東方へ侵攻させた。郡県の役人の多くは風聞だけで降伏または逃亡したが、東平太守で嗣呉王(李祗)や済南太守・李隨だけは挙兵して抵抗。李祗は李禕の弟である。賊に従わない郡県はいずれも「呉王」を旗印とした。単父尉の賈賁が役人と民衆を率いて南下し睢陽を攻撃、張通晤を斬殺したため、賊将・李庭望は東進計画を中止して撤退した。 庚子(日付)、永王璘を山南節度使に任命。江陵長史の源洧が副官となる。穎王□については剣南節度使とし、蜀郡長史の崔円が補佐についた。両王とも実際には任地へ赴かなかった(出閣せず)。源洧は源光裕の子である。 玄宗皇帝は親征を議論した。辛丑(翌日)、詔勅で太子に国政監視を命じると、宰相団に宣言した。「朕が即位して五十年近くになる。憂慮と勤労に疲れ果て、昨秋には既に皇位を太子へ譲るつもりであった。だが水害と旱魃が相次いだため、災厄の後始末を子孫へ残すのは忍びず、豊作を待って延期してきたのだ。」 解説
(出典箇所:『資治通鑑』巻二百十七 唐紀三十三・至徳元載) Translation took 999.7 seconds. | ||||||||||||
| 不意逆胡橫發,朕當親征,且使之監國。事平之日,朕將高枕無為矣。」楊國忠大懼,退謂韓、虢、秦三夫人曰:「太子素惡吾家專橫久矣,若一旦得天下,吾與姊妹並命在旦暮矣!」相與聚哭,使三夫人說貴妃,銜土請命於上;事遂寢。 顏真卿召募勇士,旬日至萬餘人,諭以舉兵討安祿山,繼以涕泣,士皆感憤。祿山使其黨段子光繼李□、盧奕、蔣清首徇河北諸郡,至平原,壬寅,真卿執子光,腰斬以徇;取三人首,續以蒲身,棺斂葬之,祭哭受吊。祿山以海運使劉道玄攝景城太守,清池尉賈載、鹽山尉河內穆寧共斬道玄,得其甲仗五十餘船;攜道玄首謁長史李□,□收嚴莊宗族,悉誅之。是日,送道玄首至平原,真卿召載、寧及清河尉張澹詣平原計事。饒陽太守盧全誠據城不受代;河間司法李奐殺祿山所署長史王懷忠;李隨遣游弈將訾嗣賢濟河,殺祿山所署博平太守馬冀;各有眾數千或萬人,共推真卿為盟主,軍事皆稟焉。祿山使張獻誠將上谷、博陵、常山、趙郡、文安五郡團結兵萬人圍饒陽。 高仙芝之東征也,監軍邊令誠數以事幹之,仙芝多不從。令誠入奏事,具言仙芝、常清橈敗之狀,且云:「常清以賊搖眾,而仙芝棄陝地數百里,又盜減軍士糧賜。」上大怒,癸卯,遣令誠繼敕即軍中斬仙芝及常清。初,常清既敗,三遣使奉表陳賊形勢,上皆不之見。 |
現代日本語訳思いがけず逆賊の安禄山が乱を起こしたため、朕自ら親征し、皇太子に監国させるつもりである。事態が収束すれば、朕は高枕で無為の日々を送ることができよう。」楊貴妃の一族・楊国忠はこれを聞いて大いに恐れ、退出すると韓国夫人・虢国夫人・秦国夫人(いずれも楊貴妃の姉妹)に言った。「皇太子はずっと我が家の専横を憎んでいる。もし天下を得ることがあれば、私と姉妹たちは命を失うのは朝夕の問題だ!」彼らは共に集まって泣き、三夫人を通じて楊貴妃に懇願させた。楊貴妃は土を口にくわえて(死をも覚悟の)直訴を行い、皇帝もこれを聞き入れたため、皇太子監国の話は立ち消えとなった。 顔真卿が兵士を募集すると、十日間で一万人以上が集まった。挙兵して安禄山討伐に向かうことを告げると涙ながらに説いたため、兵士たちは皆感動し奮起した。安禄山は配下の段子光を使者として李憕・盧奕・蒋清の三人の首級を持たせ河北諸郡を巡回させたが、平原県に至った壬寅の日(西暦755年12月18日)、顔真卿は子光を捕らえて腰斬刑とし晒し者とした。さらに三将軍の首級を取り戻して蒲草で胴体を作り棺に収め葬儀を行い、弔問を受けた。 安禄山が海運使・劉道玄を景城太守代理に任命すると、清池県尉の賈載と塩山県尉(河内出身)の穆寧は協力して道玄を斬殺し、武器鎧甲五十船分を奪取。道玄の首級を持って長史・李暐のもとに赴くと、李暐は安禄山側近・厳庄の一族を捕縛し皆殺しにした。この日、道玄の首が平原県へ送られると、顔真卿は賈載・穆寧及び清河県尉張澹を呼んで軍事会議を行った。 饒陽太守盧全誠は城を守って安禄山派の交代要員を受け入れず、河間司法(裁判官)李奐は安禄山任命長史王懐忠を殺害。河南節度使李随が遊撃将軍・訾嗣賢に黄河渡河を命じて博平太守馬冀(禄山派)を討たせると、各地で数千から一万の兵が集結し顔真卿を盟主と推戴したため軍事指揮は全て彼に一元化された。安禄山は張献誠に上谷・博陵・常山・趙郡・文安五郡の民兵一万人を与え饒陽包囲を命じた。 一方、高仙芝が東征する際、監軍(皇帝代理人)辺令誠が度々作戦干渉したが、仙芝はほとんど聞き入れなかった。令誠が長安へ戻り上奏:「封常清は賊軍の勢いを過小報告し、高仙芝は陝地数百里を放棄したうえ兵士への給与食料を横領しております」と虚偽の報告を行う。玄宗皇帝は激怒し癸卯の日(12月19日)、令誠に詔書を持たせ軍中で二人を斬首させた。 実は封常清が敗北後、三度上表文を送り賊情を説明したが、皇帝は全て無視していた。 解説
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| 常清乃自馳詣闕,至渭南,敕削其官爵,令還仙芝軍,白衣自效。常清草遺表曰:「臣死之後,望陛下不輕此賊,無忘臣言!」時朝議皆以為祿山狂悖,不日授首,故常清云然。令誠至潼關,先引常清,宣敕示之;常清以表附令誠上之。常清既死,陳屍蘧蒢。仙芝還,至聽事,令誠索陌刀手百餘人自隨,乃謂仙芝曰:「大夫亦有恩命。」仙芝遽下,令誠宣敕。仙芝曰:「我遇敵而退,死則宜矣。今上戴天,下履地,謂我盜減糧賜則誣也。」時士卒在前,皆大呼稱枉,其聲振地;遂斬之,以將軍李承光攝領其眾。 河西、隴右節度使哥舒翰病廢在家,上藉其威名,且素與祿山不協,召見,拜兵馬副元帥,將兵八萬以討祿山;仍敕天下四面進兵,會攻洛陽。翰以病固辭,上不許,以田良丘為御史中丞,充行軍司馬,起居郎蕭昕為判官,蕃將火拔歸仁等各將部落以從,並仙芝舊卒,號二十萬,軍於潼關。翰病,不能治事,悉以軍政委田良丘;良丘復不敢專決,使王思禮主騎,李承光主步,二人爭長,無所統一。翰用法嚴而不恤,士卒皆懈弛,無鬥志。 安祿山大同軍使高秀巖寇振武軍,朔方節度使郭子儀擊敗之,子儀乘勝拔靜邊軍。大同兵馬使薛忠義寇靜邊軍,子儀使左兵馬使李光弼、右兵馬使高浚、左武鋒使僕固懷恩、右武鋒使渾釋之等逆擊,大破之,坑其騎七千。 |
訳文常清は自ら馳せて宮廷へ赴いたが、渭南に至ったところで勅命により官爵を剥奪され、仙芝の軍営へ戻り一兵卒として戦功を立てるよう命じられた。常清は遺表したためて言う「臣が死んだ後も、陛下にはこの賊(安禄山)を軽視せず、臣の言葉を忘れないでほしい」と。当時の朝廷では皆、禄山が狂ったように道理に背いているので間もなく討ち取られると論じており、それゆえ常清はこう述べたのだ。 令誠が潼関に到着すると、まず常清を招き勅命を示した。常清は遺表を令誠に託して上奏させた。常清の死後、その屍はむしろで覆われ放置された。仙芝が戻って官庁に入ると、令誠は百人余りの大刀兵を引き連れ、「大夫(高仙芝)にも恩命があります」と言った。仙芝が急いで降りてくると勅命が宣告され、仙芝は言う「私は敵に遭遇して退却したのだから死ぬのは当然だ。しかし天を頂き地を踏むこの身として、兵糧や褒賞を横領したというのは濡れ衣である」と。前線の士卒らは皆「無実だ!」と地面が震えるほど叫んだが、結局斬られ、将軍李承光が部隊を預かることとなった。 河西・隴右節度使の哥舒翰は病で引退していたが、皇帝(玄宗)はその威名を頼りに、かつ元々禄山と不仲だったこともあって召し出した。兵馬副元帥に任じ八万の兵を与えて禄山討伐に向かわせ、さらに四方から洛陽へ総攻撃するよう全国に命じた。翰は病を理由に固辞したが許されず、田良丘を御史中丞・行軍司馬に、起居郎蕭昕を判官に任命し、蕃将の火拔帰仁ら各部族兵を率いさせ、さらに仙芝旧部と合わせ二十万と号する大軍で潼関に駐屯した。 翰は病床にあって軍務が執れず、全て田良丘に委ねた。だが田良丘も独断できず、騎兵を王思礼に、歩兵を李承光に分担させると二人は主導権争いし指揮系統は混乱。さらに翰の厳格な軍法は士卒への思いやりがなく、士気は低下して戦意喪失状態となった。 安禄山配下の大同軍使高秀巖が振武軍を攻撃すると、朔方節度使郭子儀がこれを撃破。さらに乗じて静辺軍を攻略した。大同兵馬使薛忠義が静辺軍へ反撃してくると、子儀は左兵馬使李光弼・右兵馬使高浚・左武鋒使僕固懐恩・右武鋒使渾釈之らに迎撃させ七千騎を坑殺する大勝を得た。 解説■ 史書の特性と翻訳方針 ■ 人物関係の焦点
■ 現代語訳の選択理由 Translation took 918.5 seconds. | ||||||||||||
| 進圍雲中,使別將公孫瓊巖將二千騎擊馬邑,拔之,開東陘關。甲辰,加子儀御史大夫。懷恩,哥濫拔延之曾孫也,世為金微都督。釋之,渾部酋長,世為皋蘭都督。 顏杲卿將起兵,參軍馮虔、前真定令賈深、蒿城尉崔安石、郡人翟萬德、內丘丞張通幽等皆預其謀;又遣人語太原尹王承業,密與相應。會顏真卿自平原遣杲卿甥盧逖潛告杲卿,欲連兵斷祿山歸路,以緩其西入之謀。時祿山遣其金吾將軍高邈詣幽州徵兵,未還,杲卿以祿山命召李欽湊,使帥眾詣群受犒賚;丙午,薄暮,欽湊至,杲卿使袁履謙、馮虔等攜酒食妓樂往勞之,並其黨皆大醉,乃斷欽湊首,收其甲兵,盡縛其黨,明日,斬之,悉散井陘之眾。有頃,高邈自幽州還,且至蒿城,杲卿使馮虔往擒之。南境又白何千年自東京來,崔安石與崔萬德馳詣醴泉驛迎千年,又擒之,同日致於郡下。千年謂杲卿曰:「今太守欲輸力王室,既善其始,當慎其終。此郡應募烏合,難以臨敵,宜深溝高壘,勿與爭鋒。俟朔方軍至,並力齊進,傳檄趙、魏、斷燕、薊要膂,彼則成擒矣。今且宜聲云『李光弼引步騎一萬出井陘』,因使人說張獻誠云:『足下所將多團練之人,無堅甲利兵,難以當山西勁兵』,獻誠必解圍遁去。此亦一奇也。」杲卿悅,用其策,獻誠果遁去,其團練兵皆潰。杲卿乃使人入饒陽城,慰勞將士。 |
現代日本語訳:進軍して雲中を包囲し、別将の公孫瓊巖に二千騎を率いさせ馬邑を攻撃させると、これを陥落させて東陘関を開いた。甲辰(きのえたつ)の日、子儀に御史大夫の官職を加増した。懐恩は哥濫抜延の曾孫であり、代々金微都督を務めていた。釈之(しゃくし)は渾部(こんぶ)の酋長で、世襲で皋蘭都督となっていた。 顔杲卿(がんこうけい)が挙兵しようとしたとき、参軍の馮虔(ふうけん)、前真定令の賈深(かしん)、蒿城尉の崔安石(さいあんせき)、郡人・翟万徳(たくまんとく)、内丘丞の張通幽(ちょうつうゆう)らが皆計画に参与した。また太原尹の王承業にも使者を送り、密かに連携するよう伝えた。折しも顔真卿が平原から杲卿の甥・盧逖(ろてき)を遣わして密かに「兵を連合させ安禄山の帰路を断ち、西方進出計画を遅らせたい」と告げた。 その時、安禄山は金吾将軍・高邈(こうばく)を使者として幽州に派兵要請に向かわせていたが未だ戻らず、杲卿は偽って禄山の命令で李欽湊(りきんそう)を召集し「群衆を率いて慰労品を受け取れ」と命じた。丙午(ひのえうま)の日の夕暮れに欽湊が到着すると、杲卿は袁履謙(えんりけん)や馮虔らに酒食や芸妓を持たせて慰問させ、相手側を酔いつぶした上で李欽湊の首を斬り、武装を没収し配下を全員縛り上げた。翌日には彼らを処刑し井陘(せいけい)の兵士たちを解散させた。 間もなく高邈が幽州から戻って蒿城に差しかかると、杲卿は馮虔を派遣して捕らえさせた。さらに南方から「何千年(かせんねん)が洛陽から来る」との報告があり、崔安石と翟万徳が醴泉駅へ急行して迎え撃ち、同日内に郡庁へ護送した。千年は杲卿に言った。「貴公が朝廷のために尽くそうとするなら、始めを良くなし終わりも慎重にせよ。この地域の兵士は寄せ集めで実戦には耐えないから、深い壕と高い塁を築き決戦は避けろ。朔方軍(郭子儀)が到着するまで待ち、連携して進撃しつつ趙・魏に檄文を飛ばし燕薊の要衝を断てば賊は自滅する。まず『李光弼が精鋭一万で井陘から出陣した』と流布し、張献誠には『貴公の兵は訓練不足で装備も貧弱、山西の強兵に敵わぬ』と言わせれば彼は撤退するだろう」杲卿は喜びこの策を用いると、献誠は予想通り逃走し配下も潰走した。そこで饒陽城に入り将兵を慰労した。 注釈:
(『資治通鑑』巻二百十七・唐紀三十三 至徳元載条より) Translation took 953.0 seconds. | ||||||||||||
| 命崔安石等徇諸郡云:「大軍已下井陘,朝夕當至,先平河北諸郡。先下者賞,後至者誅!」於是河北諸郡響應,凡十七郡皆歸朝廷,兵合二十餘萬;其附祿山者,惟范陽、盧龍、密雲、漁陽、汲、鄴六郡而已。 杲卿又密使人入漁陽招賈循,郟城人馬燧說循曰:「祿山負恩悖逆,雖得洛陽,終歸夷滅。公若誅諸將之不從命者,以范陽歸國,傾其根柢,此不世之功也。」循然之,猶豫不時發。別將牛潤容知之,以告祿山,祿山使其黨韓朝陽召循。朝陽至漁陽,引循屏語,使壯士縊殺之,滅其族;以別將牛廷玠知范陽軍事。史思明、李立節將蕃、漢步騎萬人擊博陵、常山。馬燧亡入西山;隱者徐遇匿之,得免。 初,祿山自將欲攻潼關,至新安,聞河北有變而還。蔡希德將兵萬人自河內北擊常山。 戊申,榮王琬薨,贈謚靖恭太子。 是歲,吐蕃贊普乞梨蘇籠獵贊卒,子娑悉籠獵贊立。 肅宗文明武德大聖大宣孝皇帝上之上 玄宗至道大聖大明孝皇帝下之下至德元年(丙申,公元七五六年) 春,正月,乙卯朔,祿山自稱大燕皇帝,改元聖武,以達奚珣為侍中,張通儒為中書令,高尚、嚴莊為中書侍郎。 李隨至睢陽,有眾數萬。丙辰,以隨為河南節度使,以前高要尉許遠為睢陽太守兼防禦使。濮陽客尚衡起兵討祿山,以郡人王棲曜為衙前總管,攻拔濟陰,殺祿山將邢超然。 |
現代日本語訳崔安石らに命じて諸郡を巡回させ、次のように布告した。「大軍は既に井陘を制圧し、近く到着する。まず河北の諸郡を平定する。先に降伏すれば褒賞を与え、遅れた者は処刑する!」これにより河北諸郡は呼応し、十七郡全てが朝廷へ帰順した。兵力は合計二十万以上となった。安禄山側についたのは范陽・盧龍・密雲・漁陽・汲・鄴の六郡のみである。 顔杲卿はさらに密かに使者を漁陽に送り、賈循を勧誘した。郟城出身の馬燧が賈循へ進言した。「安禄山は恩義に背く逆賊だ。洛陽を得ても必ず滅びる。もし従わない将軍らを誅殺し范陽ごと朝廷に帰順すれば、敵の本拠を崩す不世出の功績となる」。賈循は同意したが実行を躊躇していた。別将の牛潤容がこれを察知し安禄山へ報告すると、安禄山は配下の韓朝陽を使いに出した。韓朝陽は漁陽で賈循を人払いして密談と偽り、護衛兵に絞殺させて一族も皆殺しにした。別将の牛廷玠が范陽軍を掌握した後、史思明と李立節が異民族・漢族混合の歩騎兵一万で博陵・常山へ進攻。馬燧は西山へ逃亡し、隠遁者の徐遇に匿われて難を逃れた。 当初安禄山自ら潼関攻略に向かっていたが、新安まで来た時点で河北の異変を知り撤退した。蔡希徳が兵一万を率い河内から北進し常山を攻撃した。 戊申(二十七日)、栄王李琬が薨去。靖恭太子の諡号を追贈された。 同年、吐蕃の贊普・乞梨蘇籠獵賛が逝去し、子の娑悉籠獵賛が即位した。 粛宗文明武徳大聖大宣孝皇帝 上之上 春正月乙卯朔(一日)、安禄山は「大燕皇帝」を自称し元号を聖武と改めた。達奚珣を侍中に任命し、張通儒を中書令とした。高尚・厳莊には中書侍郎の地位を与えた。 李随が睢陽へ到着すると数万の兵を得た。丙辰(二日)、彼は河南節度使に任じられ、元高要尉の許遠が睢陽太守兼防御使となった。濮陽出身の尚衡が挙兵して安禄山討伐を開始し、同郡の王棲曜を衙前総管として済陰を攻略させた際、安禄山配下の邢超然は殺害された。 解説
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| 顏杲卿使其子泉明、賈深、翟萬德獻李欽湊首及何千年、高邈於京師。張通幽泣請曰:「通幽兄陷賊,乞與泉明偕行,以救宗族。」杲卿哀而許之。至太原,通幽欲自托於王承業,乃教之留泉明等,更其表,多自為功,毀短杲卿,別遣使獻之。杲卿起兵才八日,守備未完,史思明、蔡希德引兵皆至城下。杲卿告急於承業。承業既竊其功,利於城陷,遂擁兵不救。杲卿晝夜拒戰,糧盡矢竭;壬戌,城陷。賊縱兵殺萬餘人,執杲卿及袁履謙等送洛陽。王承業使者至京師,玄宗大喜,拜承業羽林大將軍,麾下受官爵者以百數。征顏杲卿為衛尉卿,朝命未至,常山已陷。 杲卿至洛陽,祿山數之曰:「汝自范陽戶曹,我奏汝為判官,不數年超至太守,何負於汝而反邪?」杲卿瞋目罵曰:「汝本營州牧羊羯奴,天子擢汝為三道節度使,恩幸無比,何負於汝而反?我世為唐臣,祿位皆唐有,雖為汝所奏,豈從汝反邪!我為國討賊,恨不斬汝,何謂反也!臊羯狗,何不速殺我!」祿山大怒,並袁履謙等縛於中橋之柱而C061之。杲卿、履謙比死,罵不虛口。顏氏一門死於刀鋸者三十餘人。 史思明、李立節、蔡希德既克常山,引兵擊諸郡之不從者,所過殘滅,於是鄴、廣平、巨鹿、趙、上谷、博陵、文安、魏、信都等郡復為賊守。饒陽太守盧全誠獨不從,思明等圍之。 |
現代日本語訳顔杲卿は息子の泉明と賈深・翟万徳を派遣し、李欽湊の首級および捕らえた何千年・高邈を長安へ献上させた。張通幽が涙ながらに懇願した:「兄が賊軍に囚われております。どうか泉明様と同行させてください。一族を救いたいのです」杲卿は哀れに思い許可した。太原に到着すると、通幽は王承業への取り入りを図り、泉明らを留め置くよう助言し、上奏文を書き換えて功績を独占しつつ杲卿を貶める内容とし、別の使者で長安へ送った。 杲卿が挙兵してわずか八日目。防備は未完成だったところに史思明と蔡希徳が大軍を率いて城下に迫った。杲卿が承業に救援を求めたが、彼は既に功績を横取りしておきながら、常山陥落で利益を得ようと考え、兵を動かして助けなかった。昼夜の防戦で食糧も矢も尽きた末、壬戌の日(756年1月)に城は陥落した。賊軍が住民万人余りを虐殺し、杲卿と袁履謙らを捕えて洛陽へ送った。 一方、王承業の使者が長安に到着すると玄宗皇帝は大いに喜び、彼を羽林大将軍に任命し、配下にも多数の官位を与えた。顔杲卿への衛尉卿昇進命令が届く前に常山は陥落していた。 洛陽へ連行された杲卿を安禄山が詰問した:「范陽で戸曹だったお前を判官に取り立て、数年で太守まで出世させたのに、なぜ裏切った?」杲卿は睨みつけて罵倒した:「元は営州の羊飼いの賤奴め!天子が三鎮節度使という破格の恩寵を与えたにもかかわらず謀反とは。我々代々の唐臣たる者は禄も位も朝廷より賜ったものだ。お前の推挙などあっても叛逆に加担する謂れがない!逆賊を討つのは忠節なり、斬り損ねたのが無念だ!」激怒した安禄山は彼と袁履謙らを中橋の柱に縛り付け、肉片を切り落として殺害させた。二人が絶命するまで罵声は止まなかった。顔一族で惨殺された者は三十人余に及んだ。 史思明・李立節・蔡希徳は常山制圧後、反抗する諸郡を次々と攻撃し、通過地すべてで破壊と虐殺を行った。こうして鄴・広平・巨鹿・趙・上谷・博陵・文安・魏・信都などが再び賊軍支配下に陥ちた。ただ饒陽太守の盧全誠だけは抵抗を続けたため、思明らは包囲攻撃を開始した。 解説
(注:「安禄山」表記について:原文の祿山は当時「禄山」と通称されましたが、固有名詞としての定着度を考慮し現行表記を用いました) Translation took 920.8 seconds. | ||||||||||||
| 河間司法李奐將七千人、景城長史李□遣其子祀將八千人救之,皆為思明所敗。 上命郭子儀罷圍雲中,還朔方,益發兵進取東京;選良將一人分兵先出井陘,定河北。子儀薦李光弼,癸亥,以光弼為河東節度使,分朔方兵萬人與之。 甲子,加哥舒翰左僕射、同平章事,餘如故。 置南陽節度使,以南陽太守魯炅為之,將嶺南、黔中、襄陽子弟五萬人屯葉北,以備安祿山。炅表薛願為穎川太守兼防禦使,龐堅為副使。願,故太子瑛之妃兄;堅,玉之玄孫也。乙丑,安祿山遣其子慶緒寇潼關,哥舒翰擊卻之。 己巳,加顏真卿戶部侍郎兼本郡防禦使;真卿以李□為副。 二月,丙戌,加李光弼魏郡太守、河北道採訪史。 史思明等圍饒陽二十九日,不下,李光弼將蕃、漢步騎萬餘人、太原弩手三千人出井陘。己亥,至常山,常山團練兵三千人殺胡兵,執安思義出降。光弼謂思義曰:「汝自知當死否?」思義不應。光弼曰:「汝久更陳行,視吾此眾,可敵思明否?今為我計當如何?汝策可取,當不殺汝。」思義曰:「大夫士馬遠來疲弊,猝遇大敵,恐未易當;不如移軍入城,早為備御,先料勝負,然後出兵。胡騎雖銳,不能持重,苟不獲利,氣沮心離,於時乃可圖矣。思明今在饒陽,去此不二百里。昨暮羽書已去,計其先鋒來晨必至,而大軍繼之,不可不留意也。 |
現代日本語訳: 河間司法の李奐が七千の兵を率い、景城長史の李□は息子の祀に八千の兵を与えて救援に向かわせたが、両者とも史思明に敗れた。 粛宗皇帝(唐)は郭子儀に対し、雲中包囲戦を中止して朔方へ戻り、さらに兵力を増強して東京洛陽奪還を目指すよう命じた。同時に優秀な将軍一人を選んで部隊を分け井陘から先に出撃させ、河北地方を平定させることにした。郭子儀は李光弼を推薦し、癸亥の日に河東節度使に任命されるとともに、朔方軍一万が彼の指揮下に入った。 甲子の日には哥舒翰に対し左僕射・同平章事の官職を加授(元の地位はそのまま保持)。 南陽節度使を設置し、現地太守の魯炅を任命。嶺南・黔中・襄陽から集めた五万の兵士を葉県以北に駐屯させて安禄山への防備とした。魯炅は薛願を潁川太守兼防御使に、龐堅を副使に推挙した(薛願は故太子李瑛の妃の兄、龐堅は初唐功臣龐玉の玄孫)。乙丑の日、安禄山が息子・慶緒に潼関攻撃を命じるも哥舒翰に撃退される。 己巳には顔真卿に戸部侍郎と本郡防御使を兼任させた。顔真卿は李□を副使に任命した。 二月丙戌、李光弼に魏郡太守・河北道採訪使の官職が加授された。 史思明らによる饒陽包囲戦は二十九日続くも陥落せず、この機会に李光弼が異民族と漢族からなる歩騎兵一万余り、太原弩手三千を率いて井陘を出撃。己亥の日に常山へ到着すると、現地の義勇兵三千人が胡人(安禄山軍)守備隊を殺害し、捕らえていた安思義を連れて降伏した。 李光弼は安思義に「お前は死罪だと自覚しているか?」と問うたが返答なし。さらに言下に迫った:「長年戦場で過ごしてきたお前の目から見て、わしの軍勢は史思明に対抗できると思うか?今この状況を打開する策があるなら述べてみよ。採用できれば命は助ける」と。 安思義が進言した:「遠征で疲弊された貴軍が精鋭部隊に遭遇すれば危険です。いったん城へ退いて防備を固め、形勢を見極めた上で出撃すべきでしょう。胡騎の強みは機動力ですが持久戦には不向き。思明本隊は饒陽から二百里も離れておらず、昨夜に送られた緊急指令を受けて明日早朝にも先鋒が到着し、続いて主力軍が迫るはずです」 注釈: 1. 人物呼称: 「上」を「粛宗皇帝(唐)」と明確化。李□の欠字はそのまま表記 2. 軍事用語:「團練兵」→「義勇兵」、「弩手」→弓術専門部隊として意訳、「羽書」→緊急指令 3. 官職名: 「節度使」「僕射」など当時の役職を維持しつつ、現代読者に分かりやすい説明(例:「採訪史」は監察官)を暗黙裡に反映 4. 戦術描写: 「不能持重」(持久戦不向き)、「氣沮心離」(士気低下と結束緩み)などを状況に即して平易化 5. 時間表現: 干支(癸亥/甲子等)を「の日」で統一し、陰暦二月であることを明示 6. 歴史的背景: 安史の乱における重要局面として、潼関防衛・常山奪還作戦の前哨戦となる場面と位置付け Translation took 712.6 seconds. | ||||||||||||
| 」光弼悅,釋其縛,即移軍入城。史思明聞常山不守,立解饒陽之圍;明日未旦,先鋒已至,思明等繼之,合二萬餘騎,直抵城下。光弼遣步卒五千自東門出戰,賊守門不退。光弼命五百弩於城上齊發射之,賊稍卻;乃出弩手千人分為四隊,使其矢發發相繼,賊不能當,斂軍道北。光弼出兵五千為槍城於道南,夾呼沱水而陳;賊數以騎兵搏戰,光弼之兵射之,人馬中矢者太半,乃退,小憩以俟步兵。有村民告賊步兵五千自饒陽來,晝夜行百七十里,至九門南逢壁,度憩息。光弼遣步騎各二千,匿旗鼓,並水潛行,至逢壁,賊方飯,縱兵掩擊,殺之無遺。思明聞之,失勢,退入九門。時常山九縣,七附官軍,惟九門、蒿城為賊所據。光弼遣裨將張奉璋以兵五百戍石邑,餘皆三百人戍之。 上以吳王祗為靈昌太守、河南都知兵馬使。賈賁前至雍丘,有眾二千。先是譙郡太守楊萬石以郡降安祿山,逼真源令河東張巡使為長史,西迎賊。巡至真源,帥吏民哭於玄元皇帝廟,起兵討賊,吏民樂從者數千人;巡選精兵千人西至雍丘,與賈賁合。 初,雍丘令令狐潮以縣降賊,賊以為將,使東擊淮陽救兵於襄邑,破之,俘百餘人,拘於雍丘,將殺之,往見李庭望;淮陽兵遂殺守者,潮棄妻子走,故賈賁得以其間入雍丘。庚子,潮引賊精兵攻雍丘;賁出戰,敗死。 |
現代語訳:李光弼は喜んで彼らの縄を解き、直ちに軍勢を常山城に入れた。史思明が常山の失陥を知ると、ただちに饒陽包囲網を解体し、翌日未明には先鋒隊が到着した。続いて思明率いる本隊も合流し、総勢二万余騎で一気に城下へ迫った。 光弼は歩兵五千を東門から出撃させたが、賊軍は城門付近で頑強に抵抗して退かなかった。そこで五百挺の弩弓手を城壁上一斉射撃させると、敵はいったん後退した。さらに千人規模の弩弓隊を四組に分け矢継ぎ早に発射させる戦法を用いると、賊は支えきれず北側街道へ撤退した。 光弼は続いて槍兵五千で防壁陣形(槍城)を南岸に構築させ沱水河畔に対峙。敵騎兵が繰り返し突撃してきたが、官軍の弓矢射撃により人馬半数以上が損害を受け退却した。賊は歩兵部隊到着までの間態勢を立て直そうとしていた。 そこへ村民から「饒陽発五千の賊歩兵団が昼夜兼行で百七十里進み九門南方・逢壁付近で休息中」との情報を得た光弼は、騎馬歩兵各二千名に旗指物や太鼓を隠して河沿いに潜行させ奇襲攻撃を敢行。食事中の敵部隊は壊滅した。 思明はこの敗報により戦略的優位を失い九門へ後退。当時常山郡の九県中七つが官軍掌握下となり、残る九門・藁城のみ賊占拠状態であったため光弼は副将張奉璋率いる五百兵で石邑守備を固めさせた。一方粛宗皇帝は呉王李祗を霊昌太守兼河南都知兵馬使に任命。先に雍丘へ入城した賈賁は二千の兵力を得ていたが、状況は複雑であった。譙郡太守楊万石が安禄山に降伏し真源県令・張巡に対し偽りの長史職を授けて賊軍出迎えを強要すると、張巡は玄元皇帝廟で官吏民衆と慟哭した後決起。数千の義兵から精鋭千名を選び雍丘へ進軍し賈賁と合流。 そもそも雍丘県令・令狐潮が賊に降った際、襄邑において淮陽救援部隊撃破で捕らえた百余名の官軍捕虜を監禁中だった。ところが出征中の隙をつかれ囚人たちが守備兵殺害したため賈賁は城占拠に成功していた。 同年庚子日(三月)、令狐潮率いる賊精鋭部隊が雍丘奪還へ来襲し、迎撃に出た賈賁は戦死。張巡の運命はいかに―― 解説:1. 李光弼の革新的戦術 - 弩弓分隊運用: 「四組に分割した連続射撃」は当時の最新技術で(現代機関銃弾幕の前身)、集中火力による心理的威圧効果を初めて体系化 - 情報戦重視: 村民からの諜報入手→迅速な奇襲部隊展開というプロセスから、唐代正規軍が遊撃戦術を取り込んだ実態が窺える 2. 張巡決起の歴史的意義 - 「玄元皇帝廟での慟哭」は道教聖地を反乱拠点化した象徴的事件。後に続く顔真卿らの義勇兵蜂起モデルとなり、安史之乱における民間主導抵抗運動の端緒 - 元県令(張巡)vs現県令(令狐潮)という地方支配層分裂図式は唐代官僚制度の矛盾を露呈 3. 軍事地理的要衝
4. 『資治通鑑』叙述特性 - 司馬光は「賈賁敗死→張巡登場」の劇的転換を意図的に構成し、読者の情緒的関与を喚起 - 「小憩以俟歩兵」「賊方飯」等の細部描写から、当時の戦場リアリズムが克明に再現
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| 張巡力戰卻賊,因兼領賁眾,自稱吳王先鋒使。 三月,乙卯,潮復與賊將李懷仙、楊朝宗、謝元同等四萬餘眾奄至城下;眾懼,莫有固志。巡曰:「賊兵精銳,有輕我心。今出其不意擊之,彼必驚潰。賊勢小折,然後城可守也。」乃使千人乘城;自帥千人,分數隊,開門突出。巡身先士卒,直衝賊陳,人馬辟易,賊遂退。明日,復進攻城,設百砲環城,樓堞皆盡;巡於城上立木柵以拒之。賊蟻附而登,巡束蒿灌脂,焚而投之,賊不得上。時同賊隙,出兵擊之,或夜縋斫營。積六十餘日,大小三百餘戰,帶甲而食,裹瘡復戰,賊遂敗走。巡乘勝追之,獲胡兵二千人而還,軍聲大振。 初,戶部尚書安思順知祿山反謀,因入朝奏之。及祿山反,上以思順先奏,不之罪也。哥舒翰素與之有隙,使人詐為祿山遺思順書,於關門擒之以獻,且數思順七罪,請誅之。丙辰,思順及弟太僕卿元貞皆坐死,家屬徙嶺外。楊國忠不能救,由是始畏翰。 郭子儀至朔方,益選精兵,戊午,進軍於代。 戊辰,吳王祗擊謝元同,走之,拜陳留太守、河南節度使。 壬午,以河東節度使李光弼為范陽長史、河北節度使,加顏真卿河北採訪使。真卿以張澹為支使。 先是清河客李萼,年二十餘,為郡人乞師於真卿曰:「公首唱大義,河北諸郡恃公以為長城。今清河,公之西鄰,國家平日聚江、淮、河南錢帛於彼以贍北軍,謂之『天下北庫』;今有布三百餘萬匹,帛八十餘萬匹,錢三十餘萬緡,糧三十餘萬斛。 |
現代日本語訳:張巡は力を尽くして賊を撃退し、これにより賁衆の指揮権も掌握した後、「呉王先鋒使」と自称した。 三月乙卯(8日)、令狐潮が再び賊将・李懐仙、楊朝宗、謝元同ら四万余りの兵を率いて城下に急襲すると、守備兵は恐怖で士気が低下した。張巡は言った。「賊軍の精鋭部隊は我々を見くびっている。今こそ不意打ちをかければ必ず敗走する。敵の勢力が弱まった後に防衛体制を整えよ」と。城壁に千人を配置し、自ら千人の兵士を率いて数隊に分かれ門から突撃した。張巡は先頭に立って賊軍へ突入すると、敵の人馬は退散し撤退させた。 翌日、賊が再び攻城を開始し百台の投石機で城壁全域を攻撃すると楼閣や胸壁は破壊された。張巡は城上に木柵を急造して防衛線とし、蟻のように登る敵兵には蓬(よもぎ)に油を染み込ませて燃やしながら投下したため、賊軍の侵入を阻んだ。隙を見て反撃に出たり夜間に縄で降りて敵陣を襲うなど六十日余りの間、大小三百回以上の戦闘を継続。甲冑をつけたまま食事し傷を包帯して再び戦場に立つ中、賊軍は敗走した。張巡は追撃して二千人の胡人兵士を捕虜とし帰還すると、その軍威は大いに高まった。 当初、戸部尚書・安思順が安禄山の謀反計画を察知し朝廷へ報告していたため、玄宗皇帝は彼を罪に問わなかった。しかし哥舒翰(かじょかん)は以前から安思順と不和であり、偽造した安禄山からの手紙で関門で捕らえ「七つの罪状」を作り上げて処刑を要求した。丙辰(9日)、安思順と弟の太僕卿・元貞は死刑となり家族も嶺南へ流罪となった。楊国忠は助命できず、これにより哥舒翰への畏怖が始まる。 郭子儀は朔方に到着すると精兵を増強し戊午(11日)代州へ進軍した。 戊辰(21日)、呉王李祗が謝元同を撃破して敗走させると、陳留太守兼河南節度使に任命された。 壬午(6月5日*)、河東節度使・李光弼は范陽長史兼河北節度使へ昇進し、顔真卿には河北採訪使の官職が加えられた。顔真卿は張澹を支使(書記官)に登用する。 以前より清河郡の客人・李萼(り がく)という二十歳余りの若者が顔真卿に援軍要請した。「貴公こそ大義を掲げる指導者であり河北諸都市は長城のように頼っております。当郡は貴公の西隣で、国家が江淮・河南の財貨を集積する『天下北庫』と呼ばれ布300万匹以上、絹帛80万余匹、銭30万余緡(みん)、食糧30万余斛(こく)を備蓄しております」と。 注記:*壬午について:原文の月日表記は「三月戊辰→壬午」ですが唐代暦では三月に壬午が存在せず、実際には四月以降の続編部分である可能性があります。『資治通鑑』巻二百十七・粛宗紀の前後関係から判断し六月五日と推定しました(開元28年/至徳元年=756年の干支歴による)。なお史実では李萼は顔真卿に清河郡防衛戦略を献策した人物として有名です。 解説:
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| 昔討默啜,甲兵皆貯清河庫,今有五十餘萬事;戶七萬,口十餘萬。竊計財足以三平原之富,兵足以倍平原之強。公誠資以士卒,撫而有之,以二郡為腹心,則餘郡如四支,無不隨所使矣。」真卿曰:「平原兵新集,尚未訓練,自保恐不足,何暇及鄰!雖然,借若諾子之請,則將何為乎?」萼曰:「清河遣僕銜命於公者,非力不足而借公之師以嘗寇也,亦欲觀大賢之明義耳。今仰瞻高意,未有決辭定色,僕何敢遽言所為哉!」真卿奇之,欲與之兵。眾以為萼年少輕虜,徒分兵力,必無所成,真卿不得已辭之。萼就館,復為書說真卿,以為:「清河去逆效順,奉粟帛器械以資軍,公乃不納而疑之。僕回轅之後,清河不能孤立,必有所繫托,將為公西面之強敵,公能無悔乎?」真卿大驚,遽詣其館,以兵六千借之;送至境,執手別。真卿問曰:「兵已行矣,可以言子之所為乎?」萼曰:「聞朝廷遣程千里將精兵十萬出崞口討賊,賊據險拒之,不得前。今當引兵先擊魏郡,執祿山所署太守袁之泰,納舊太守司馬垂,使為西南主人;分兵開崞口,出千里之師,因討汲、鄴以北至於幽陵郡縣之未下者;平原、清河帥諸同盟,合兵十萬,南臨孟津,分兵循河,據守要害,制其北走之路。計官軍東討者不下二十萬,河南義兵西向者亦不減十萬。公但當表朝廷堅壁勿戰,不過月餘,賊必有內潰相圖之變矣。 |
現代日本語訳:かつて突厥の默啜を討伐した際の武器・鎧類はすべて清河郡の倉庫に保管されており、現在では五十万余りの装備がある。戸数七万、人口十万余りである。私見では財力において平原郡三つ分に匹敵し、兵力も平原郡の倍以上となるでしょう。殿がもし兵士をご提供くださればこれを慰撫して掌握でき、二郡(平原と清河)を本拠として他郡を手足のように自在に動かせます。」真卿は答えた:「平原の兵は新たに集めたばかりで訓練も行き届いておらず、自領すら守り切れないかもしれぬ。隣郡のことなど構っている余裕があろうか? ただし仮にお前の願いを聞き入れたとして、その後どうするつもりだ?」萼は述べた:「清河が私を使者としたのは兵力不足ゆえ貴公から軍勢を借りて賊と戦おうというわけではなく、大賢人(真卿)の高潔なお心根を見極めたかったのです。今この場で殿のお考えを拝見するに決然たる態度は示されておらず、私が軽々しく計画など申し上げられましょうか!」真卿は彼を非凡と感じ兵を与えようとしたが、配下たちが「萼は若輩ゆえ敵を見くびっており兵力分散させるだけ」と反対したため断念せざるを得なかった。萼は宿舎に戻ると再び書簡で説得:「清河が叛逆者から離れ朝廷側につこうと食糧・絹布・武器を提供しようというのに、貴公はこれを受け入れず疑うとは。私が帰った後も清河が孤立無援なら必ず他勢力に頼らざるを得なくなり西方の脅威となるでしょう。その時悔やまれませんか?」真卿は大いに驚き急いで宿舎を訪れ兵六千を与えた。国境まで見送り別れる際、真卿が問う:「兵士たちが出発した今こそ計画を聞かせてほしい」萼は答えた:「朝廷より程千里将軍が精鋭十万を率いて崞口から賊討伐に向かったと伝わります。しかし賊は要害に拠って抵抗し前進を阻まれている。まず魏郡を急襲して安禄山配下の太守・袁知泰を捕らえ、旧太守・司馬垂(うれ)を復職させ西南方面の足場とするのです。続いて崞口方面へ別働隊を派遣し程千里軍と合流した後、汲郡・鄴都以北から幽陵までの未制圧地域を平定します。平原・清河両郡が同盟諸勢力十万を統率して孟津(もうしん)に南下すれば黄河沿いの要所を押さえ賊の北方退路を断てます。東方からの官軍は二十万以上、河南義勇兵も西方へ向かう者十万以上と見込まれます。殿には朝廷に対し『守りを固めて決戦しないよう』上奏願いたい。一ヶ月余りの内に賊内部で離反が起こるでしょう」 解説:
(注)ルビ表記は指示通り省略しました。 Translation took 1875.1 seconds. | ||||||||||||
| 」真卿曰「善!」命錄事參軍李擇交及平原令范冬馥將其兵,會清河兵四千及博平兵千人軍於堂邑西南。袁知泰遣其將白嗣恭等將二萬餘人來逆戰,三郡兵力戰盡日,魏兵大敗,斬首萬餘級,捕虜千餘人,得馬千匹,軍資甚眾,知泰奔汲郡。遂克魏郡,軍聲大振。時北海太守賀蘭進明亦起兵,真卿以書召之並力,進明將步騎五千渡河,真卿陳兵逆之,相揖,哭於馬上,哀動行伍。進明屯平原城南,休養士馬,真卿每事咨之,由是軍權稍移於進明矣,真卿不以為嫌。真卿以堂邑之功讓進明,進明奏其狀,取捨任意。敕加進明河北招討使,擇交、冬馥微進資級,清河、博平有功者皆不錄。進明攻信都郡,久之,不克;錄事參軍長安第五琦勸進明厚以金帛募勇士,遂克之。 李光弼與史思明相守四十餘日,思明絕常山糧道。城中乏草,馬食薦籍。光弼以車五百乘之石邑取草,將車者皆衣甲,弩手千人衛之,為方陳而行,賊不能奪。蔡希德引兵攻石邑,張奉璋拒卻之。光弼遣使告急於郭子儀,子儀引兵自井陘出,夏,四月,壬辰,至常山,與光弼合,蕃、漢步騎共十餘萬。甲午,子儀、光弼與史思明等戰於九門城南,思明大敗。中郎將渾瑊射李立節,殺之。瑊,釋之之子也。思明收餘眾奔趙郡,蔡希德奔鉅鹿。思明自趙郡如博陵,時博陵已降官軍,思明盡殺郡官。 |
現代日本語訳顔真卿は「良し!」と承諾し、録事参軍・李択交(り たくこう)と平原県令・范冬馥(はん とうふく)に兵を指揮させた。清河郡の兵四千人および博平郡の兵千人と合流して堂邑西南に布陣すると、袁知泰が配下の白嗣恭らを率いて二万超の軍勢で迎撃した。三郡連合軍は終日激戦し、魏州軍を大敗させた(斬首一万余・捕虜千余人)。馬千匹と大量の物資を鹵獲したため袁知泰は汲郡へ逃亡。これにより魏郡が陥落し、官軍の威勢は大いに高まった。 この時、北海太守・賀蘭進明も挙兵していた。顔真卿が協力を求める書簡を送ると、進明は歩騎五千を率いて黄河を渡河した。顔真卿は整列した兵で出迎え、馬上で互いに挨拶すると涙を流して慟哭。その哀切な様に軍中も感動した。賀蘭進明が平原城南へ駐屯後、顔真卿は諸事を彼に諮るようになり、次第に指揮権が移行していったが、顔真卿は全く疑わなかった。 堂邑での戦功を進明に譲ると、進明は自らの裁量で奏上内容を作成(実際の功労者である李択交らを軽視)。朝廷は賀蘭進明を河北招討使に任命し、李択交と范冬馥には微々たる昇給のみ。清河・博平郡の功臣は全く評価されなかった。 後に進明が信都郡攻撃で苦戦すると、録事参軍・第五琦(だいご き)が「金帛で勇士を厚賞募集すべし」と献策。これによりようやく陥落させた。 一方、李光弼は史思明との対峙が四十日余に及び常山の兵糧線を断たれた。城内では飼料が尽き軍馬が藁を食べる状況だった。李光弼は石邑へ草秣調達隊五百両を派遣(輸送兵には甲冑着用、弩兵千人の護衛をつけ方形陣で行進)。賊軍の襲撃を阻んだため蔡希徳の攻撃も張奉璋に撃退された。 光弼が郭子儀へ救援要請すると、子儀は井陘から進軍し四月初九日(壬辰)常山到着。両軍合流で歩騎兵十万超となる。十一日(甲午)、九門城南で史思明と決戦して大勝した(中郎将・渾瑊が敵将李立節を射殺)。敗れた史思明は趙郡へ、蔡希徳は鉅鹿へ逃亡するも、史思明は官軍に降伏していた博陵郡の役人全員を虐殺した。 歴史的考察
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| 河朔之民苦賊殘暴,所在屯結,多至二萬人,少者萬人,各為營以拒賊;及郭、李軍至,爭出自效。庚子,攻趙郡;一日,城降。士卒多虜掠,光弼坐城門,收所獲,悉歸之,民大悅。子儀生擒四千人,皆捨之,斬祿山太守郭獻璆。光弼進圍博陵,十日,不拔,引兵還恆陽就食。 楊國忠問士之可為將者於左拾遺博平張鎬及蕭昕,鎬、昕薦左贊善大夫永壽來瑱。丙午,以瑱為穎川太守。賊屢攻之,瑱前後破賊甚眾,加本郡防禦使,人謂之「來嚼鐵」。 安祿山使平盧節度使呂知誨誘安東副大都護馬靈察,殺之。平盧游弈使武陟劉客奴、先鋒使董秦及安東將王玄志同謀討誅知誨,遣使逾海與顏真卿相聞,請取范陽以自效。真卿遣判官賈載繼糧及戰士衣助之。真卿時惟一子頗,才十餘歲,使詣客奴為質。朝廷聞之,以客奴為平盧節度使,賜名正臣;玄志為安東副大都護,董秦為平盧兵馬使。 南陽節度使魯炅立柵於滍水之南,安祿山將武令珣、畢思琛攻之。 |
現代日本語訳河朔(かさく)の民は賊軍の残虐な暴政に苦しみ、各所で屯営を結成した。多いところでは二万人、少なくとも一万人が集まり、それぞれ陣営を築いて賊軍に対抗していた。郭子儀(かくしぎ)と李光弼(りこうひつ)の軍が到着すると、民衆は競って助力を申し出た。庚子の日、趙郡(ちょうぐん)を攻撃し、一日で城は降伏した。兵士たちが略奪を行ったため、李光弼は城門に座り、没収品を全て住民へ返還すると、民衆は大いに喜んだ。郭子儀は四千人を生け捕りにしたが全員を解放し、安禄山(あんろくざん)配下の太守・郭献璆(かくけんきゅう)を斬った。李光弼は博陵(はくりょう)へ進軍して包囲したが、十日間で落とせず、兵を率いて恒陽(こうよう)に戻り食糧補給を行った。 楊国忠(ようこくちゅう)は左拾遺(さしゅうい)の博平張鎬(はくへいちょうこう)と蕭昕(しょうきん)に対し、将帥の適任者を尋ねた。両者は左賛善大夫(ささんぜんだいふ)・永寿来瑱(えいじゅらいてん)を推挙した。丙午の日、来瑱は潁川太守(えいせんたいしゅ)に任命された。賊軍が繰り返し攻撃する中で彼は多数の敵兵を破り、「鉄を噛む男」(鋼鉄をも砕く強将)と称されるようになった。 安禄山は平盧節度使(へいろせつどし)・呂知誨(ろちかい)に命じ、安東副大都護(あんとうふだいたいご)の馬霊察(ばれいさつ)を誘殺させた。これに対し、平盧游弈使(へいろゆうえきし)・武陟劉客奴(ぶせきりゅうかくど)、先鋒使(せんぽうし)の董秦(とうしん)、安東将軍(あんとうしょうぐん)の王玄志(おうげんし)は共謀して呂知誨を討ち、使者を海路で顔真卿(がんしんけい)のもとへ送り「范陽(はんよう)を奪還して忠誠を示す」と伝えた。顔真卿は判官(はんかん)の賈載(かさい)を派遣し兵糧や軍衣を支援したが、当時たった一人の息子・顔頗(がんは)(十余歳)を劉客奴のもとに人質として送ることで誠意を示した。朝廷はこの報告を受けて劉客奴を平盧節度使に任命し「正臣」の名を与え、王玄志を安東副大都護、董秦を平盧兵馬使(へいろへいばし)とした。 南陽節度使(なんようせつどし)・魯炅(ろけい)は滍水(ていすい)の南岸に柵を築いたが、安禄山配下の武令珣(ぶれいじゅん)と畢思琛(ひっしちん)が攻撃を仕掛けた。 解説
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| input text 資治通鑑\218_唐紀_34.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百十八 唐紀三十四 起柔兆涒灘五月,至九月,不滿一年。 肅宗文明武德大聖大宣孝皇帝上之下至德元年(丙申,公元七五六年) 五月,丁巳,炅眾潰,走保南陽,賊就圍之。太常卿張垍薦夷陵太守虢王巨有勇略,上征吳王祗為太僕卿,以巨為陳留、譙郡太守、河南節度使,兼統嶺南節度使何履光、黔中節度使趙國珍、南陽節度使魯炅。國珍,本牂柯夷也。戊辰,巨引兵自藍田出,趣南陽。賊聞之,解圍走。 令狐潮復引兵攻雍丘。潮與張巡有舊,於城下相勞苦如平生,潮因說巡曰:「天下事去矣,足下堅守危城,欲誰為乎?」巡曰:「足下平生以忠義自許,今日之舉,忠義何在!」潮慚而退。 郭子儀、李光弼還常山,史思明收散卒數萬踵其後。子儀選驍騎更挑戰,三日,至行唐,賊疲,乃退。子儀乘之,又敗之於沙河。蔡希德至洛陽,安祿山復使將步騎二萬人北就思明,又使牛廷玠發范陽等郡兵萬餘人助思明,合五萬餘人,而同羅、曳落河居五分之一。子儀至恆陽,思明隨至,子儀深溝高壘以待之;賊來則守,去則追之,晝則耀兵,夜斫其營,賊不得休息。數日,子儀、光弼議曰。「賊倦矣,可以出戰。」壬午,戰於嘉山,大破之,斬首四萬級,捕虜千餘人。思明墜馬,露髻跣足步走,至暮,杖折槍歸營,奔於博陵;光弼就圍之,軍聲大振。 |
現代日本語訳資治通鑑・巻二百十八 唐紀三十四 柔兆涒灘(じゅうちょうとんだん)の年(丙申、756年)5月から9月まで、満1年に満たない期間を記す。 粛宗文明武徳大聖大宣孝皇帝(しゅくそうぶんめいぶとくだいせいたいせんこうこうてい)、至徳元年(丙申、西暦756年) 一方、令狐潮(れいこちょう)が再び兵を率いて雍丘(ようきゅう)を攻撃した。令狐潮は張巡(ちょうじゅん)と旧知の間柄であり、城壁の下で平素のように労をねぎらった後、「天下の大勢は既に決した。足下が危険な城塞に籠もって、いったい誰のために戦うのか」と説得した。張巡は「足下は平生、忠義を自任されていたのに、今この行動(反乱)こそ忠義とは何か?」と応じると、令狐潮は恥じて退却した。 別の方面では郭子儀(かくしぎ)・李光弼(りこうひつ)が常山に帰還すると、史思明(ししめい)は散兵数万を集めて追撃してきた。郭子儀は精鋭騎兵を選んで繰り返し挑発戦を行い、3日後に行唐まで進んだところで賊軍が疲弊したため撤退させた。郭子儀はこれを好機と見て沙河でも破った。一方、蔡希徳(さいきとく)が洛陽に到着すると、安禄山はさらに歩兵・騎兵2万を史思明のもとに派遣し、牛廷玠(ぎゅうていかい)にも范陽などからの兵1万余りを援軍として送らせた。総勢5万余りのうち、同羅族と曳落河(えつらくが=精鋭部隊)はその2割を占めた。 郭子儀が恆陽に着陣すると史思明も追撃してきたため、深い堀と高い塁で防備を固め「賊が来れば守り、退けば追撃し、昼は軍威を示し、夜は敵陣を奇襲する」戦術で休養を許さなかった。数日後、「賊は疲弊した。決戦の時だ」と郭李両将が協議し、壬午の日に嘉山(かざん)で交戦。大勝して4万級を斬首、千余人を捕虜とした。史思明は落馬して髻を露わに裸足で敗走し、夕刻には杖代わりの折れた槍をついて博陵の陣営へ逃げ帰った。李光弼が直ちに包囲すると、唐軍の威勢は大いに上がった。 注釈
(訳注:固有名詞は原則として原音尊重だが、「牂柯夷」を「ぞうかい」「曳落河」を漢文訓読の慣例に従い「えつらくが」とした。官職名については唐代の実態を考慮し、節度使など軍制関連用語以外は現代日本語で平易に表現) Translation took 1163.5 seconds. |
| 於是河北十餘郡皆殺賊守將而降。漁陽路再絕,賊往來者皆輕騎竊過,多為官軍所獲,將士家在漁陽者無不搖心。 祿山大懼,召高尚、嚴莊詬之曰:「汝數年教我反,以為萬全。今守潼關,數月不能進,北路已絕,諸軍四合,吾所有者止汴、鄭數州而已,萬全何在?汝自今勿來見我!」尚、莊懼,數日不敢見。田乾真自關下來,為尚、莊說祿山曰:「自古帝王經營大業,皆有勝敗,豈能一舉而成!今四方軍壘雖多,皆新募烏合之眾,未更行陳,豈能敵我薊北勁銳之兵,何足深憂!尚、莊皆佐命元勳,陛下一旦絕之,使諸將聞之,誰不內懼!若上下離心,臣竊為陛下危之!」祿山喜曰:「阿浩,汝能豁我心事。」即召尚、莊,置酒酣宴,自為之歌以侑酒,待之如初。阿浩,乾真小字也。祿山議棄洛陽,走歸范陽,計未決。 是時,天下以楊國忠驕縱召亂,莫不切齒。又,祿山起兵以誅國忠為名,王思禮密說哥舒翰,使抗表請誅國忠,翰不應。思禮又請以三十騎劫取以來,至潼關殺之。翰曰:「如此,乃翰反,非祿山也。」或說國忠:「今朝廷重兵盡在翰手,翰若援旗西指,於公豈不危哉!」國忠大懼,乃奏:「潼關大軍雖盛,而後無繼,萬一失利,京師可憂。請選監牧小兒三千於苑中訓練。」上許之,使劍南軍將李福德等領之。又募萬人屯灞上,令所親杜乾運將之,名為御賊,實備翰也。 |
翻訳文この時、河北の十数郡はいずれも反乱軍の守備将を殺害し降伏した。漁陽への連絡路は再び遮断され、賊(安禄山軍)が往来する際は軽騎で密かに通過しようとする者が多かったが、多くが官軍に捕らえられたため、将士の中で家族を漁陽に持つ者は動揺しない者はいなかった。 安祿山は大いに恐れ、高尚と厳莊を呼び出して叱責した。「お前たちは数年も謀反を勧め『万全だ』と言ってきたのに、今や潼関で数カ月も進軍できず北の道は絶たれた。諸軍が四方から迫る中、我々が保持するのは汴州・鄭州などわずか数州に過ぎぬ! 万全とはどこにある?今後二度と面会するな!」高尚らは恐れて数日間姿を現さなかった。田乾真が前線から戻ると二人のために禄山へ進言した。「古来、帝王が大業を成すには勝敗つきものです。一挙に成功することなどありえましょうか?四方の官軍は多く見えますが全て新兵の寄せ集めで戦陣経験もなく、我ら薊北の精鋭には敵いません。何も憂えることはない!高尚らは陛下創業の功臣ですから、これを突き放せば諸将も疑心暗鬼となりましょう。もし上下が離反すれば国家に危機が訪れます」禄山は喜んで言った。「阿浩よ、よくわかってくれたな」。すぐに高尚らを呼び出し酒宴を開くと自ら歌いながら杯を勧め、以前と同様遇した。阿浩とは田乾真の幼名である。祿山は洛陽放棄して范陽への撤退を検討したが決断できずにいた。 この頃世間では楊国忠の傲慢さが乱を招いたとして激しく非難されていた。一方、禄山挙兵の大義名分も「国忠誅伐」であったため王思礼は密かに哥舒翰へ進言した。「抗議文を奉じて国忠誅殺を奏上すべきです」。だが翰は応じなかった。さらに三十騎で国忠を拉致し潼関まで連行して斬るよう提案すると、翰は「それは我々の謀反となり禄山とは変わらぬ」と拒んだ。他方では楊国忠へ警告する者もいた。「朝廷精鋭部隊が哥舒翰に掌握されています。もし彼が軍旗を西(長安)に向けたら貴殿は危うい」。国忠は震え上がり、玄宗皇帝に奏上した。「潼関の大軍は強勢ですが後続兵力が不足しています。万一敗れれば京師は危機に陥るでしょう。御苑で監牧小児(飼育係子弟)三千を訓練すべきです」。帝はこれを認め剣南軍将・李福徳らに指揮させた。さらに灞上に兵一万を駐屯させ、腹心の杜乾運に統率させた。表向き賊への防備と称しながら実質は哥舒翰に対する牽制であった。 解説1.軍事情勢の緊迫性 2.権力構造の脆弱性 3.歴史的意義
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| 翰聞之,亦恐為國忠所圖,乃表請灞上軍隸潼關。六月,癸未,召杜乾運詣關,因事斬之;國忠益懼。 會有告崔乾祐在陝,兵不滿四千,皆羸弱無備,上遣使趣哥舒翰進兵復陝、洛。翰奏曰:「祿山久習用兵,今始為逆,豈肯無備!是必羸師以誘我。若往,正墮其計中。且賊遠來,利在速戰;官軍據險以扼之,利在堅守。況賊殘虐失眾,兵勢日蹙,將有內變;因而乘之,可不戰擒也。要在成功,何必務速!今諸道徵兵尚多未集,請且待之。」郭子儀、李光弼亦上言:「請引兵北取范阻,覆其巢穴,質賊黨妻子以招之,賊必內潰。潼關大軍,帷應固守以弊之,不可輕出。」國忠疑翰謀己,言於上,以賊方無備,而翰逗留,將失機會。上以為然,續遣中使趣之,項背相望。翰不得已,撫膺慟哭;丙戌,引兵出關。 己丑,遇崔乾祐之軍於靈寶西原。乾祐據險以待之,南薄山,北阻河,隘道七十里。庚寅。官軍與乾祐會戰。乾祐伏兵於險,翰與田良丘浮舟中流以觀軍勢,見乾祐兵少,趣諸軍使進。王思禮等將精兵五萬居前,龐忠等將餘兵十萬繼之,翰以兵三萬登河北阜望之,鳴鼓以助其勢。乾祐所出兵不過萬人,什什伍伍,散如列星,或疏或密,或前或卻,官軍望而笑之。乾祐嚴精兵,陳於其後。兵既交,賊偃旗如欲遁者,官軍懈,不為備。須臾,伏兵發,賊乘高下木石,擊殺士卒甚眾。 |
現代日本語訳翰はこの情報を得ると、自身も国忠に謀られることを恐れ、上表して灞上の軍を潼関の指揮下に入れるよう要請した。六月癸未(みずのとひつじ)の日、杜乾運を関所へ召喚し、事案を口実に斬殺。国忠はますます恐怖を深めた。 その頃、崔乾祐が陝州におり兵士は四千にも満たず、全て疲弊して防備も手薄だという情報が入る。玄宗皇帝は使者を遣わし、哥舒翰に進軍して陝州・洛陽を奪還するよう迫った。これに対し翰は上奏した: 「安禄山は長年兵術を修めており、今になって反逆を起こす以上、無防備なはずがありません。これはわざと弱体に見せかけて我々をおびき寄せる策です。もし攻め込めば、まさに罠にかかるでしょう。さらに賊軍は遠征の身ゆえ速戦を望み、官軍は険阻な地形で防衛し持久戦が有利。加えて賊は残虐行為で民心を失い、劣勢が日に々深刻化しております。内部崩壊は必至であり、その隙をつけば戦わずして捕縛できるでしょう。肝要なのは勝利であって、速攻である必要はありません。今なお諸道からの援軍も未到着ですので、時期を待つことを懇請します」 郭子儀と李光弼も同調し上言: 「我らが北進して范陽(安禄山の本拠)を攻略すべきです。賊の根城を潰せば、捕えた兵士の家族を人質に投降を促せば内部崩壊は必定。潼関の主力軍には防衛線を死守させて敵を疲弊させるのが上策で、軽率な出撃は禁物です」 しかし国忠は翰が自己を陥れようとしていると猜疑し皇帝に進言: 「賊が今まさに無防備であるのに、翰が軍を動かさず好機を逃そうとしております」。玄宗はこれを真実と思い込み、続けざまに宦官を使者として派遣し出撃を強要。その数は後を絶たなかった。 やむなく翰は胸を叩き慟哭しながら兵を率いて関門を出た(丙戌〈ひのえいぬ〉の日)。 己丑(つちのとうし)の日、霊宝西原で崔乾祐軍と遭遇。乾祐は険しい地形に布陣――南は山岳に接し北は黄河に阻まれ、70里にも及ぶ隘路を押さえていた。 庚寅(かのえとら)の日、両軍は決戦に及んだ。乾祐は伏兵を危険な場所に潜ませる中、翰と田良丘は船で川の中流から陣形を見渡すと「敵兵が少ない」として全軍に出撃命令。王思礼率いる精鋭5万が先鋒となり、龐忠ら残り10万が続いた。翰自ら3万の兵を河北の高地に配置し太鼓で士気を鼓舞した。 乾祐の前面兵力は僅か1万。分散配置された兵士は星座のように点在し密度も前後も不揃いだったため、官軍は嘲笑しながら進撃した。だが背後には精鋭部隊が厳然と控えている。戦端が開くと賊軍は旗を倒して敗走のふりを見せた。油断した官軍が追撃態勢に入った瞬間、伏兵が一斉に襲いかかり、高地から木材や岩石を転落させて多数の官兵を殺傷した。 解説
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| 道隘,士卒如束,槍槊不得用。翰以氈車駕馬為前驅,欲以沖賊。日過中,東風暴急,乾祐以草車數十乘塞氈車之前,縱火焚之,煙焰所被,官軍不能開目,妄自相殺,謂賊在煙中,聚弓弩而射之。日幕,矢盡,乃知無賊。乾祐遣同羅精騎自南山過,出官軍之後擊之,官軍首尾駭亂,不知所備,於是大敗;或棄甲竄匿山谷,或相擠排入河溺死,囂聲振天地,賊乘勝蹙之。後軍見前軍敗,皆自潰,河北軍望之亦潰,瞬息間,兩岸皆空。翰獨與麾下百餘騎走,自首陽山西渡河入關。關外先為三塹,皆廣二丈,深丈,人馬墜其中,須臾而滿;餘眾踐之以度,士卒得入關者才八千餘人。辛卯,乾祐進攻潼關,克之。 翰至關西驛,揭榜收散卒,欲復守潼關。蕃將火拔歸仁等以百餘騎圍驛,入謂翰曰:「賊至矣,請公上馬。」翰上馬出驛,歸仁帥眾叩頭曰:「公以二十萬眾一戰棄之,何面目復見天子!且公不見高仙芝,封常清乎?請公東行。」翰不可,欲下馬。歸仁以毛縻其足於馬腹,及諸將不從者,皆執之以東。會賊將田乾真已至,遂降之,俱送洛陽。安祿山問翰曰:「汝常輕我,今定何如?」翰伏地對曰:「臣肉眼不識聖人。今天下未平,李光弼在常山,李祗在東平,魯炅在南陽,陛下留臣,使以尺書招之,不日皆下矣。」祿山大喜,以翰為司空、同平章事。 |
現代日本語訳道幅が狭く、兵士たちが押し合いへし合いとなったため、槍や長矛を使うことができなかった。哥舒翰(かじょかん)はフェルトで覆った車に馬をつなぎ、これを先陣として敵陣突破を図った。正午過ぎに激しい東風が吹き荒れると、崔乾祐(さいけんゆう)は数十台の草むしろ車をフェルト車の前に配置して進路を塞ぎ、火をつけて燃やした。煙と炎で官軍は目も開けられず、混乱の中で味方同士で斬り合い、「敵が煙の中にいる」と思い込んで弓矢を集中射撃した。日暮れ時になって矢が尽き、ようやく敵がいないことに気づいた。 解説1. 戦術的敗因の核心点: 2. 哥舒翰の悲劇性: 3. 歴史的事件の意義:
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| 謂火拔歸仁曰:「汝叛主,不忠不義。」執而斬之。翰以書招諸將,皆復書責之。祿山知無效,乃囚諸苑中。潼關既敗,於是河東、華陰、馮翊、上洛防禦使皆棄郡走,所在守兵皆散。 是日,翰麾下來告急,上不時召見,但遣李福德等將監牧兵赴潼關。及暮,平安火不至,上始懼。壬辰,召宰相謀之。楊國忠自以身領劍南,聞安祿山反,即令副使崔圓陰具儲偫,以備有急投之,至是首唱幸蜀之策。上然之。癸巳,國忠集百官於朝堂,惶懅流涕;問以策略,皆唯唯不對。國忠曰:「人告祿山反狀已十年,上下之信。今日之事,非宰相之過。」仗下,士民掠擾奔走,不知所之,市裡蕭條。國忠使韓、虢入宮,勸上入蜀。 甲午,百官朝者什無一二。上御勤政樓,下制,雲欲親征,聞者皆莫之信。以京兆尹魏方進為御史大夫兼置頓使;京兆少尹靈昌崔光遠為京兆尹,充西京留守;將軍邊令誠掌宮闈管鑰。托以劍南節度大使穎王□將赴鎮,令本道設儲偫。是日,上移仗北內。既夕,命龍武大將軍陳玄禮整比六軍,厚賜錢帛,選閒廄馬九百餘匹,外人皆莫之知。乙未,黎明,上獨與貴妃姊妹、皇子、妃、主、皇孫、楊國忠、韋見素、魏方進、陳玄禮及親近宦官、宮人出延秋門,妃、主、皇孫之在外者,皆委之而去。上過左藏,楊國忠請焚之,曰:「無為賊守。 |
現代日本語訳火抜帰仁に対してこう言った。「お前は主君に背くとは、不忠にして不義なり」と。彼を捕らえて斬首した。哥舒翰が諸将に降伏勧告状を送ると、返書はいずれも非難の言葉で埋め尽くされていた。安禄山はこれでは効果がないと悟り、彼らを御苑内に監禁した。 潼関陥落により、河東・華陰・馮翊・上洛の各防御使は任地から逃亡し、各地の守備兵も散り散りとなった。 同日(壬辰=十二日)、哥舒翰麾下からの急報が届いたが玄宗皇帝はすぐに拝謁させず、李福德らに監牧兵を率いて潼関へ向かわせただけだった。夕暮れになっても「平安火」(無事の合図)が上がらず、ようやく帝は危惧を抱き始めた。宰相たちを召して対策を協議したところ、楊国忠(当時の権力者)は自ら剣南節度使を兼任していたためか、事前に副使・崔円に物資調達を命じていた経緯もあり、蜀への避難を強く提案。帝はこれを容れた。 癸巳(十三日)、楊国忠が百官を朝廷に召集すると、役人たちは恐慌状態で涙を流すばかり。対策を問われても誰一人明確な返答もしない。楊国忠は開き直って言い放つ。「安禄山の謀反の兆候は十年前から報告されていたが、誰も信じなかった。今日の事態は宰相の過失ではない」と。 退廷後、長安では官民が混乱して逃げ惑い、街は荒廃した。楊国忠は妹の韓国夫人・虢国夫人を宮中に入れ、帝に蜀行きを促させた。 甲午(十四日)、参朝する官僚は十人に一二もおらず、帝が勤政楼に出御して「親征する」と宣言しても誰一人信じない。魏方進京兆尹を御史大夫兼置頓使(避難準備官)に任命し、後任の崔光遠には西京留守を命じた。辺令誠将軍に宮城の鍵管理を託す一方で、「剣南節度大使・穎王が赴任する」との名目で現地に物資調達を指示した。 その夜、帝は密かに北内(大明宮)へ移り、龍武大将軍陳玄礼に近衛六軍の再編と資金支給を指令。御厩から九百頭余りの良馬を選抜するが、外部には完全秘匿された。 乙未(十五日)、夜明け前に帝は楊貴妃ら后族・皇子皇孫・側近官僚(楊国忠・韋見素ら)と宦官宮女のみを連れ延秋門から脱出。宮外にいた妃嬪や皇孫たちは全て置き去りにした。左蔵庫(朝廷の財宝倉)を通った時、楊国忠が「賊に渡すな」と言って焼却を進言する場面でこの記述は終わる。 解説歴史的背景:安史の乱(755年勃発)における長安陥落直前の緊迫した局面。潼関失陥により帝都が無防備となり、玄宗皇帝一行が蜀へ密かに逃亡する経緯を描く。 人物関係の要点: - 楊国忠:事前に避難計画(「陰具儲偫」)を準備していた現実主義者だが、「非宰相之過」発言で責任転嫁 - 玄宗皇帝:「平安火不至→親征宣言→密かな逃亡」という判断迷走が統治機能喪失を象徴 - 安禄山軍:直接描写はないが「賊」呼称に正統王朝側の史観が反映 訳出の方針: 1. 固有名詞処理:「火拔歸仁→火抜帰仁」「崔圓→崔円」など現代日本の歴史表記に準拠 2. 官職名の具体化:例「京兆尹=長安首都長」「置頓使=避難準備担当官」 3. 行動経過の明確化:「壬辰→癸巳→甲午→乙未」という干支を日付に変換し時系列整理 4. 心理描写の強調:楊国忠「惶懅流涕(恐慌で涙)」や市民「掠擾奔走(略奪しながら逃走)」など乱世の情景を再現 文章表現の特徴: - 「平安火」「監牧兵」等の当時用語は注釈なしでも理解できるよう文脈で補完 - 楊国忠の台詞「無為賊守(賊に渡すな)」など簡潔な文言が緊迫感増幅 - 皇帝一行の脱出描写では、置き去り皇族と厳選された馬匹・物資との対比が諷刺的
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| 」上愀然曰:「賊來不得,必更斂於百姓;不如與之,無重困吾赤子。」是日,百官猶有入朝者,至宮門,猶聞漏聲,三衛立仗儼然。門既啟,則宮人亂出,中外擾攘,不知上所之。於是王公、士民四出逃竄,山谷細民爭入宮禁及王公第捨,盜取金寶,或乘驢上殿。又焚左藏大盈庫。崔光遠、邊令誠帥人救火,又募人攝府、縣官分守之,殺十餘人,乃稍定。光遠遣其子東見祿山,令誠亦以管鑰獻之。 上過便橋,楊國忠使人焚橋。上曰:「士庶各避賊求生,奈何絕其路!」留內侍監高力士,使撲滅乃來。上遣宦者王洛卿前行,告諭郡縣置頓。食時,至咸陽望賢宮,洛卿與縣令俱逃,中使徵召,吏民莫有應者。日向中,上猶未食,楊國忠自市胡餅以獻。於是民爭獻糲飯,雜以麥豆;皇孫輩爭以手掬食之,須臾而盡,猶未能飽。上皆酬其直,慰勞之。眾皆哭,上亦掩泣。有老父郭從謹進言曰:「祿山包藏禍心,固非一日;亦有詣闕告其謀者,陛下往往誅之,使得逞其奸逆,致陛下播越。是以先王務延訪忠良以廣聰明,蓋為此也。臣猶記宋璟為相,數進直言,天下賴以安平。自頃以來,在廷之臣以言為諱,惟阿諛取容,是以闕門之外,陛下皆不得而知。草野之臣,必知有今日久矣,但九重嚴邃,區區之心,無路上達。事不至此,臣何由得睹陛下之面而訴之乎!」上曰:「此朕之不明,悔無所及!」慰諭而遣之。 |
現代日本語訳皇帝は憂いを含んだ表情で言った。「賊軍が手に入れられなければ、必ずまた民衆から搾取するだろう。むしろ与えてしまえ。わが子らを重ねて苦しめてはならない。」その日、役人たちの中にはまだ朝廷に出仕した者もいた。宮門に至ると、時を知らせる刻漏の音さえ聞こえ、衛兵たちは整然と儀仗を持って立っていた。しかし門が開かれると、宮女たちが混乱して飛び出し、内外は騒然となり皇帝の行方がわからなくなった。こうして王侯貴族や役人・民衆は四方へ逃げ惑い、山野の庶民は競って宮中や貴族の屋敷に押し入り金銀財宝を盗んだ。中には驢馬に乗って宮殿に上がる者もいた。左蔵大盈庫が焼かれると、崔光遠と辺令誠は人を率いて消火にあたり、臨時の役人を募って府県の業務を代行させ守備につかせた。十数人を斬った後にようやく落ち着いた。 皇帝が便橋を通り過ぎると、楊国忠が橋に火をつけさせた。これに対し皇帝は「民衆が賊から逃れんとするのに、どうして退路を断つのか」と述べ、宦官の高力士に消火を命じて後を追わせた。先行した宦官の王洛卿が郡県に出向き食糧調達を指示したが、咸陽望賢宮で彼は県令ともに逃亡し役人も民衆も応じなかった。昼過ぎになっても皇帝は食事にありつけず、楊国忠が市井から胡餅(パン)を買って献上すると、庶民が粗末な麦飯や豆混ぜご飯を持ち寄った。皇孫たちが手掴みでむさぼり食いあっという間に平らげたが満腹には至らず。皇帝は全員に代金を支払い労うと、皆泣き崩れ皇帝も涙をぬぐった。 老臣の郭従謹が進言した。「安禄山の野心はかねてより明らかでしたのに、陛下は告発者を処刑し彼の奸計を許してしまわれた。だから先代の帝王は忠臣の意見に耳を傾けられたのです。宋璟(名宰相)が直言を容れた時代こそ天下泰平でありましたが、近年では廷臣たちが真実を語らず媚びへつらうばかりです。草莽の臣たる私どもには陛下とお会いする術もなく、こうなることは分かっていました」皇帝は「朕の不明である!後悔しても及ばぬ!」と深く嘆息し、彼を労って帰した。 解説
(注)現代語訳にあたり以下の処理を実施: Translation took 796.4 seconds. |
| 俄而尚食舉御膳以至,上命先賜從官,然後食之。命軍士散詣村落求食,期未時皆集而行。夜將半,乃至金城。縣令亦逃,縣民皆脫身走,飲食器皿具在,士卒得以自給。時從者多逃,內侍監袁思藝亦亡去,驛中無燈,人相枕藉而寢,貴賤無以復分辨。王思禮自潼關至,始知哥舒翰被擒;以思禮為河西、隴右節度使,即令赴鎮,收合散卒,以俟東討。 丙申,至馬嵬驛,將士饑疲,皆憤怒。陳玄禮以禍由楊國忠,欲誅之,因東宮宦者李輔國以告太子,太子未決。會吐蕃使者二十餘人遮國忠馬,訴以無食,國忠未及對,軍士呼曰:「國忠與胡虜謀反!」或射之,中鞍。國忠走至西門內,軍士追殺之,屠割支體,以槍揭其首於驛門外,並殺其子戶部侍郎暄及韓國、秦國夫人。御史大夫魏方進曰:「汝曹何敢害宰相!」眾又殺之。韋見素聞亂而出,為亂兵所撾,腦血流地。眾曰:「勿傷韋相公。」救之,得免。軍士圍驛,上聞喧嘩,問外何事,左右以國忠反對。上杖屨出驛門,慰勞軍士,令收隊,軍士不應。上使高力士問之,玄禮對曰:「國忠謀反,貴妃不宜供奉,願陛下割恩正法。」上曰:「朕當自處之。」入門,倚杖傾首而立。久之,京兆司錄韋諤前言曰:「今眾怒難犯,安危在晷刻,願陛下速決!」因叩頭流血。上曰:「貴妃常居深宮,安知國忠反謀!」高力士曰:「貴妃誠無罪,然將士已殺國忠,而貴妃在陛下左右,豈敢自安!願陛下審思之,將士安,則陛下安矣。 |
現代日本語訳しばらくすると、尚食が御膳を運んできたので、皇帝はまず従臣たちに与えるよう命じ、その後で自ら食事した。兵士たちには村々へ散って食糧を求めるよう指示し、未の刻(午後2時)までに全員集まって出発するよう命じた。夜がほぼ明けかけた頃、ようやく金城に到着した。県令も逃亡しており、住民は皆身を隠していたが、食器類が残っていたため、兵士たちは自ら調達できた。 この時、随行者たちの多くが逃げ出し、内侍監の袁思芸も去ってしまった。宿駅には灯りもなく、人々は互いに寄り添って寝るしかなかったので、身分の上下すら識別できない状態だった。王思礼が潼関から到着したことで、ようやく哥舒翰(かじょかん)が捕らえられたと知った。皇帝は彼を河西・隴右節度使に任命し、直ちに任地へ赴き、散りぢりの兵士を集めて東方討伐の準備をするよう命じた。 丙申(ひのえさる)の日、馬嵬駅(ばがいえき)に着くと、将兵は飢えと疲労で憤慨していた。陳玄礼が禍の原因は楊国忠にあるとして誅殺を企て、東宮の宦官・李輔国を通じて太子に伝えたが、太子は決断できなかった。そこへ吐蕃の使者二十余人が楊国忠の馬前に押し寄せ食糧不足を訴え、彼が返答する間もなく兵士たちが「楊国忠が蛮族と謀反した!」と叫び、誰かが矢を放って鞍に命中させた。楊国忠は西門内へ逃げ込んだが、兵士に追い詰められ殺害され、遺体は切り刻まれ、槍で首を掲げられた。息子の戸部侍郎・暄(けん)や韓国夫人・秦国夫人も殺された。 御史大夫の魏方進が「お前たちが宰相を害するとは!」と叫ぶと、兵士らは彼も殺した。韋見素(いけんそ)が騒ぎを聞いて駆けつけたところ乱兵に殴打され頭から流血したが、「韋相公を傷つけるな」との声で救われた。 兵士たちは宿駅を取り囲み、皇帝が喧噪を聞き「何事か?」と問うと、側近が楊国忠の謀反と答えた。皇帝は杖をついて門に出て兵士を慰労し解散を命じたが、応じる者はなかった。高力士を使者に立てると、陳玄礼はこう述べた。「楊国忠は謀反しました。貴妃(楊贵妃)も側に置くべきではありません。陛下には恩情を断ち正法をお願いします」。皇帝は「朕自ら処分する」と答えたが、門内で杖によりかかり俯いたまま動かなかった。 しばらくして京兆司録・韋諤(いがく)が進み出て言った。「今や衆怒に逆らえません。危機は刻一刻と迫っています」。血が出るほど叩頭しながら決断を促した。皇帝が「貴妃は深宮にいたのだ。謀反を知るはずがない」と言うと、高力士が諫めた。「確かに罪はありませんが、将兵は楊国忠を殺しました。貴妃が陛下の側におれば彼らも安心できません。どうかお考えください――将士が安らげば、陛下も安泰なのです」。 解説
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| 」上乃命力士引貴妃於佛堂,縊殺之。輿屍置驛庭,召玄禮等入視之。玄禮等乃免冑釋甲,頓首請罪,上慰勞之,令曉諭軍士。玄禮等呼萬歲,再拜而出,於是始整部伍為行計。諤,見素之子也。國忠妻裴柔與其幼子晞及虢國夫人、夫人子裴徽皆走,至陳倉,縣令薛景仙帥吏士追捕,誅之。 丁酉,上將發馬嵬,朝臣惟韋見素一人,乃以韋諤為御史中丞,充置頓使。將士皆曰:「國忠謀反,其將吏皆在蜀,不可往。」或請之河、隴,或請之靈武,或請之太原,或言還京師。上意在入蜀,慮違眾心,竟不言所向。韋諤曰:「還京,當有御賊之備。今兵少,未易東向,不如且至扶風,徐圖去就。」上詢於眾,眾以為然,乃從之。及行,父老皆遮道請留,曰:「宮闕,陛下家居,陵寢,陛下墳墓,今捨此,欲何之?」上為之按轡久之,乃命太子於後宣慰父老。父老因曰:「至尊既不肯留,某等願帥子弟從殿下東破賊,取長安。若殿下與至尊皆入蜀,使中原百姓誰為之主?」須臾,眾至數千人。太子不可,曰:「至尊遠冒險阻,吾豈忍朝夕離左右。且吾尚未面辭,當還白至尊,更稟進止。」涕泣,跋馬欲西。建寧王倓與李輔國執鞚諫曰:「逆胡犯闕,四海分崩,不因人情,何以興復!今殿下從至尊入蜀,若賊兵燒絕棧道,則中原之地拱手授賊矣。人情既離,不可復合,雖欲復至此,其可得乎!不如收西北守邊之兵,召郭、李於河北,與之並力東討逆賊,克復二京,削平四海,使社稷危而復安,宗廟毀而更存,掃除宮禁以迎至尊,豈非孝之大者乎!何必區區溫情,為兒女之戀乎!」廣平王俶亦勸太子留。 |
現代日本語訳(口語体)皇帝は力士に命じて貴妃を仏堂へ連行させ、絞殺した。遺体を駅舎の庭に安置し、陳玄礼らに見せた。彼らが兜と鎧を脱ぎ捨て頭を地面につけて謝罪すると、皇帝は慰労の言葉を与え、兵士たちへの説明を命じた。玄礼らは万歳を唱えて退出し、ようやく軍紀を整えた。 韋諤(これ)は韋見素の子である。楊国忠の妻・裴柔と幼い息子の晞、虢国夫人および彼女の子・裴徽も逃亡したが、陳倉で県令・薛景仙に捕らえられ処刑された。 丁酉(6月15日)、皇帝が馬嵬を出発しようとした時、同行する朝臣は韋見素ただ一人だった。そこで韋諤を御史中丞兼置頓使に任命した。将兵たちは「楊国忠の配下は蜀で待機している」として四川行きに反対し、河隴・霊武・太原への移動や長安帰還を主張したが、皇帝は内心では蜀入りを望みつつも民衆の意見を気にして決断を示さなかった。韋諤が「扶風へ移動して方針を練るのが妥当」と進言すると、一同はこれに同意し出発した。 沿道の住民たちが駕籠を止めて訴えた。「宮殿は陛下の家、陵墓は祖先の眠り処です。どうして捨て去ろうとなさるのか?」皇帝は手綱を握ったまま黙考し、太子(李亨)に後続部隊で対応させた。住民たちは「陛下が行かれるなら、せめて殿下には賊軍討伐のために長安へ戻ってほしい」と懇願した。 集まった数千人の民衆に対し、太子は涙ながらに拒絶した。「私は父帝の側を離れられない」。すると建寧王・李倓(たん)と宦官・李輔国が手綱をつかんで諫めた。「今こそ西北兵を結集し郭子儀らと呼応して長安奪還を図るべきです。孝行とは形ではなく国家再建に尽くすことでは?」広平王・李俶(しゅく)も同調したため、太子は残留を決意する。 解説■ 歴史的意義 ■ 政治力学の分析 ■ 韋諤の役割 ■ 文学的表現技法 ■ 現代性 Translation took 745.6 seconds. |
| 父老共擁太子馬,不得行。太子乃使俶馳白上。上總轡待太子,久不至,使人偵之,還白狀,上曰:「天也!」乃命分後軍二千人及飛龍廄馬從太子,且諭將士曰:「太子仁孝,可奉宗廟,汝曹善輔佐之。」又諭太子曰:「汝勉之,勿以吾為念。西北諸胡,吾撫之素厚,汝必得其用。」太子南向號泣而已。又使送東宮內人於太子,且宣旨欲傳位,太子不受。俶、倓,皆太子之子也。 己亥,上至岐山。或言賊前鋒且至,上遽過,宿扶風郡。士卒潛懷去就,往往流言不遜,陳玄禮不能制,上患之。會成都貢春彩十餘萬匹,至扶風,上命悉陳之於庭,召將士入,臨軒諭之曰:「朕比來衰耄,托任失人,致逆胡亂常,須遠避其鋒。知卿等皆蒼猝從朕,不得別父母妻子,茇涉至此,勞苦至矣,朕甚愧之。蜀路阻長,郡縣褊小,人馬眾多,或不能供,今聽卿等各還家,朕獨與子、孫、中官前行入蜀,亦足自達。今日與卿等訣別,可共分此彩,以備資糧。若歸,見父母及長安父老,為朕致意,各好自愛也!」因泣下沾襟。眾皆哭,曰:「臣等死生從陛下,不敢有貳。」上良久曰:「去留聽卿。」自是流言始息。 太子既留,未知所適。廣平王俶曰:「日漸晏,此不可駐,眾欲何之?」皆莫對。建寧王倓曰:「殿下昔嘗為朔方節度大使,將吏歲時致啟,倓略識其姓名。 |
現代日本語訳民衆は共に太子の馬を取り囲み、先へ進めなかった。そこで太子は李俶(りしゅく)を使者として玄宗皇帝のもとへ急行させた。皇帝は手綱を握って待ったが、いつまで経っても来ないので様子を見に行かせると「民衆に阻まれています」と報告した。皇帝は「これは天の意思だ!」と言い、後軍二千人と飛龍廄(御用馬厩)の馬を与えて太子に従わせた。さらに将士へ告げて言った。「太子は仁孝の人だから宗廟を守れる。お前たちはよく補佐せよ」。続けて太子には「しっかり励め、私のことは気にするな。西北の異民族には普段から厚遇してきたので必ず役立つだろう」と伝えた。太子は南に向かって声をあげて泣くばかりであった。さらに東宮(皇太子居所)の侍女たちも送り届け、「位を譲る意志がある」との意向を示したが、太子は受けなかった。(注:李俶・李倓はいずれも太子の息子である) 己亥の日、皇帝は岐山に到着すると「賊軍先鋒が迫っている」と聞き、急ぎ扶風郡へ移動して宿泊した。兵士たちには逃亡を企てる者が現れ、不満の発言をする者も相次いだ。陳玄礼(禁衛隊長)では統制できず、皇帝は憂慮していた。そこへ成都から春彩(高級絹織物)十数万匹が貢納され扶風に届いたため、皇帝は庭にすべて並べさせ将士を集めて告げた。「朕は老いて人選を誤り、逆賊の反乱を招きその勢いを避けねばならぬ。お前たちは急な出立で妻子とも別れ、苦労してここまで来ただろう。深く申し訳なく思う。蜀への道は険しく郡県も狭小ゆえ大軍の供給困難だ。今から帰郷する者は勝手にせよ。朕は子孫と宦官だけで蜀に入る。この絹を分け旅費として持て。故郷では父母や長安の者へ『朕も元気でいる』と伝え、互いに身を大切にせよ」と言って涙が衣襟を濡らした。全員が泣き「生死を共にします!二心はありません」と叫ぶと、皇帝はしばらく沈黙してから「去就はお前たち次第だ」と言った。これにより不満の声は収まった。 太子は残留後、進路を決めかねていた。広平王・李俶が言う。「日が暮れるのでここに留まれない。どちらへ向かおうか?」皆黙したままだと建寧王・李倓(りたん)が進み出た。「殿下はかつて朔方節度大使を務められました。現地の役人たちから年賀状を受け取っており、私はその名簿を見覚えがあります」 解説
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| 今河西、隴右之眾皆敗降賊,父兄子弟多在賊中,或生異圖。朔方道近,士馬全盛,裴冕衣冠名族,必無貳心。賊入長安方虜掠,未暇徇地,乘此速往就之,徐圖大舉,此上策也。眾皆曰:「善!」至渭濱,遇潼關敗卒,誤與之戰,死傷甚衆。已,乃收餘卒,擇渭水淺處,乘馬涉渡;無馬者涕泣而返。太子自奉天北上,比至新平,通夜馳三百餘里,士卒、器械失亡過半,所存之眾不過數百。新平太守薛羽棄郡走,太子斬之,是日,至安定,太守徐瑴亦走,又斬之。 庚子,以劍南節度留後崔圓為劍南節度等副大使。辛丑,上發扶風,宿陳倉。 太子至烏氏,彭原太守李遵出迎,獻衣及糗糧。至彭原,募士,得數百人。是日,至平涼,閱監牧馬,得數萬匹,又募士,得五百餘人,軍勢稍振。 壬寅,上至散關,分扈從將士為六軍,使穎王□先行詣劍南。壽王瑁等分將六軍以次之。丙午,上至河池郡。崔圓奉表迎車駕,具陳蜀土豐稔,甲兵全盛。上大悅,即日,以圓為中書侍郎、同平章事,蜀郡長史如故。以隴西公瑀為漢中王、梁州都督、山南西道採訪防禦使。瑀,璡之弟也。 王思禮至平涼,聞河西諸胡亂,還,詣行在。初,河西諸胡部落聞其都護皆從哥舒翰沒於潼關,故爭自立,相攻擊;而都護實從翰在北岸,不死,又不與火拔歸仁俱降賊。上乃以河西兵馬使周泌為河西節度使,隴右兵馬使彭元耀為隴右節度使,與都護思結進明等俱之鎮,招其部落。 |
現代日本語訳:現在、河西・隴右の兵たちは全て敗れて賊軍に降伏しており、彼らの父兄子弟も多く敵側におります。このため一部では離反を企てる者が出ています。一方で朔方道(節度使)は地理的に近く、兵馬が充実し、長官の裴冕は名門出身ですから忠誠に疑いはありません。賊軍は長安入城後も略奪に忙しく領土拡大の余裕がない今こそ、速やかに朔方へ向かい、時期を見て反攻を図るのが最善策でしょう。」一同が「賛成」と応じた。 渭水河岸で潼関からの敗残兵と遭遇し誤って交戦。多数の死傷者が出た後、ようやく残兵をまとめ浅瀬から騎馬で渡河しました。馬を持たない者は泣きながら帰還したのです。太子(後の粛宗)は奉天から北上し、新平までの三百里余りを一夜で疾走する間に兵士・装備の半分以上が脱落し、残存兵力は数百に激減。逃亡した新平太守薛羽を斬首後、同日中に安定へ到着すると同様に逃げた徐瑴も処刑しました。 庚子日(7月21日)、剣南節度留後・崔円が副大使に昇格。辛丑日(22日)には粛宗が扶風を発ち陳倉で宿泊します。 太子は烏氏到着時に彭原太守李遵の出迎えを受け衣糧を供給され、さらに同地で数百名を徴募しました。同日平涼に進むと監牧場から数万頭の軍馬を得て五百余名を追加募集し、ようやく戦力を回復します。 壬寅日(23日)、粛宗は散関で供奉将士を六軍に再編成し穎王□を先発隊として剣南へ派遣。寿王瑁らが各軍を率いて続行しました。丙午日(27日)河池郡到着時、崔円の「蜀地は豊作・兵力充実」との報告を受けた粛宗は喜び彼を宰相職に抜擢しつつ地方官も兼任させます。また隴西公李瑀を漢中王兼山南道長官とした(注:李瑀は皇族李璡の弟)。 一方で平涼へ向かった王思礼が河西諸部族の反乱を知り朝廷に引き返す事態発生。実は遊牧部族たちは、自分たちを統括する都護全員が潼関戦で死亡したと誤解し主導権争いを始めていたのです(注:実際には都護らは生存)。粛宗は河西兵馬使周泌・隴右兵馬使彭元耀に各節度使職を与え、現地の思結進明ら都護と共に帰順工作へ派遣しました。 解説:【歴史的背景】この記述は755年「安史之乱」で唐王朝が崩壊寸前となった緊迫期を描きます。玄宗皇帝が蜀へ逃避する最中、太子(粛宗)が霊武で即位し反攻体制を整えた時期にあたります。 【核心的戦略の分析】朔方道進出決断の合理性: - 河西・隴右軍壊滅による人的資源喪失と投降兵家族の人質化という脆弱性 - 「賊軍が長安で掠奪中」とのタイムリーな情勢判断 → 反攻準備期間確保を狙いとした機動的決断 【太子(粛宗)の苦難行軍】
【権力構造再編成】
【河西情勢の複雑性】遊牧部族反乱は情報断絶が主因: 1. 都護官全員戦死との誤報 → 権力空白で内紛発生 2. 粛宗の対応: 現地勢力(周泌・彭元耀)と残留官僚(思結進明ら都護)を組み合わせた実効支配体制構築 【『資治通鑑』記述技法】
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| 以思禮為行在都知兵馬使。 戊申,扶風民康景龍等自相帥擊賊所署宣慰使薛總,斬首二百餘級。庚戌,陳倉令薛景仙殺賊守將,克扶風而守之。 安祿山不意上遽西幸,遣使止崔乾祐兵留潼關,凡十日,乃遣孫孝哲將兵入長安,以張通儒為西京留守,崔光遠為京兆尹;使安忠順將兵屯苑中,以鎮關中。孝哲為祿山所寵任,尤用事,常與嚴莊爭權;祿山使監關中諸將,通儒等皆受制於孝哲。教哲豪侈,果於殺戮,賊黨畏之。祿山命搜捕百官、宦者、宮女等,每獲數百人,輒以兵衛送洛陽。王、侯、將、相扈從車駕、家留長安者,誅及嬰孩。陳希烈以晚節失恩,怨上,與張均、張垍等皆降於賊。祿山以希烈、垍為相,自餘朝士皆授以官。於是賊勢大熾,西脅汧、隴,南侵江、漢,北割河東之半。然賊將皆粗猛無遠略,既克長安,自以為得志,日夜縱酒,專以聲色寶賄為事,無復西出之意,故上得安行入蜀,太子北行亦無追迫之患。 李光弼圍博陵未下,聞潼關不守,解圍而南。史思明踵其後,光弼擊卻之,與郭子儀皆引兵入井陘,留常山太守王輔將景城、河間團練兵守常山。平盧節度使劉正臣將襲范陽,未至,史思明引兵逆擊之,正臣大敗,棄妻子走,士卒死者七千餘人。初,顏真卿聞河北節度使李光弼出井陘,即斂軍還平原,以待光弼之命。聞郭、李西入井陘,真卿始復區處河北軍事。 |
現代日本語訳玄宗皇帝は崔思礼を行在所の都知兵馬使に任命した。 戊申の日、扶風県の住民康景龍らが自発的に結束し、反乱軍が任命した宣慰使・薛総を攻撃し、二百余りの首級を斬った。庚戌の日には陳倉県令の薛景仙が賊軍の守備将を殺害し、扶風を奪還して防衛を固めた。 安禄山は玄宗皇帝が急遽西方へ逃れたことを予測しておらず、使者を派遣して崔乾祐に潼関での進軍停止を命じた。十日ほど経ってから孫孝哲に兵を率いさせて長安に入城させ、張通儒を西京留守に、崔光遠を京兆尹に任命した。さらに安忠順に兵を率いさせて禁苑に駐屯させ、関中地方を鎮守させた。孫孝哲は安禄山の寵愛を受けて権勢を振るい、特に専横で、常に厳荘と権力争いを繰り広げていた。安禄山は彼に関中の諸将を監視させる役目を与え、張通儒らは皆その支配下に置かれた。孫孝哲は奢侈に溺れ、殺戮をためらわず、賊軍内部ですら恐れられた。 安禄山は百官・宦官・宮女らの捜索と捕縛を命じ、数百人単位で武装兵の護送付きで洛陽へ移送した。王侯や将相の中で玄宗に従行せず家族を長安に残していた者は、幼い子供までも皆殺しにされた。陳希烈は晩年に皇帝の信任を失って怨みを持ち、張均・張垍らと共に賊軍へ降伏した。禄山は彼らを宰相に任命し、その他の朝廷官僚にも官職を与えた。こうして反乱軍の勢力は急速に拡大し、西は汧陽・隴州を脅かし、南は江漢地方へ侵攻し、北では河東地方の半分を制圧した。 しかし賊将たちは粗暴で遠謀がなく、長安占領後は慢心して日夜酒宴に耽り、もっぱら享楽と財宝収奪に明け暮れ、西方への進出意欲を完全に喪失していた。このため玄宗は無事に蜀へ逃れることができ、太子(粛宗)が北方へ向かう際にも追撃の危険はなかった。 李光弼は博陵包囲中だったが潼関陥落の報を受け包囲を解いて南下した。史思明が背後から迫ると、光弼はこれを撃退し、郭子儀と共に兵を率いて井陘へ入った。常山太守・王輔には景城・河間の団練兵(義勇兵)を預け常山防衛を命じた。一方、平盧節度使・劉正臣が范陽襲撃に向かったが到着前に史思明に迎撃され大敗した。妻子を捨てて逃走し、将兵七千余人が戦死した。 当初、顔真卿は河北節度使の李光弼が井陘から出陣すると聞き軍勢を一旦平原へ引き返して待機していたが、郭子儀と李光弼が西方の井陘に入ったとの報を得て、改めて河北地域の軍事指揮を掌握した。 解説
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| 太子至平涼數日,朔方留後杜鴻漸、六城水陸運使魏少游、節度判官崔漪、支度判官盧簡金、鹽池判官李涵相與謀曰:「平涼散地,非屯兵之所,靈武兵食完富,若迎太子至此,北收諸城兵,西發河、隴勁騎,南向以定中原,此萬世一時也。」乃使涵奉箋於太子,且籍朔方士馬、甲兵、谷帛、軍須之數以獻之。涵至平涼,太子大悅。會河西司馬裴冕入為御史中丞,至平涼見太子,亦勸太子之朔方,太子從之。鴻漸,暹之族子;涵,道之曾孫也。鴻漸、漪使少游居後,葺次捨,庀資儲,自迎太子於平涼北境,說太子曰:「朔方,天下勁兵處也。今吐蕃請和,回紇內附,四方郡縣大抵堅守拒賊以俟興復。殿下今理兵靈武,按轡長驅,移檄四方,收攬忠義,則逆賊不足屠也。」少游盛治宮室,帷帳皆仿禁中,飲膳備水陸。秋,七月,辛酉,太子至靈武,悉命撤之。 甲子,上至普安,憲部侍郎房琯來謁見。上之發長安也,群臣多不知,至咸陽,謂高力士曰:「朝臣誰當來,誰不來?」對曰:「張均、張垍父子受陛下恩最深,且連戚裡,是必先來。時論皆謂房琯宜為相,而陛下不用,又祿山嘗薦之,恐或不來。」上曰:「事未可知。」及琯至,上問均兄弟,對曰:「臣帥與偕來,逗留不進:觀其意,似有所蓄而不能言也。」上顧力士曰:「朕固知之矣。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)皇太子が平涼に到着して数日後、朔方留後の杜鴻漸・六城水陸運使の魏少游・節度判官の崔漪・支度判官の盧簡金・塩池判官の李涵らは協議した。「平涼は要衝ではない。霊武なら兵糧が充実しており、皇太子をお迎えすれば北で諸城の兵力を集め、西から河隴の精鋭騎馬軍を得て南下し中原を平定できる。これは千秋の好機だ」。そこで李涵を使者として皇太子に書簡と共に朔方の兵馬・武器・穀物・布帛・軍需品の詳細な目録を献上させた。平涼でこれを受け取った皇太子は大いに喜んだ。 折しも河西司馬の裴冕が御史中丞として都へ向かう途中、平涼で皇太子に謁見し朔方行きを勧めたため、皇太子は従った。杜鴻漸と崔漪は魏少游を残留させ宿舎や物資の準備を命じ、自らは平涼北方で皇太子を出迎え進言した。「朔方は天下最強の軍団が駐屯する地です。今や吐蕃は和を求め、回紇も帰順し、諸郡県はほぼ賊軍に抵抗して復興を待っています。殿下が霊武で兵権を掌握し、四方に檄を飛ばせば忠義の士が集まり、逆賊など容易く討てましょう」。 魏少游は宮殿を豪華に造営し、幕や調度品は朝廷並みに整え、山海の珍味まで用意した。秋七月辛酉の日(初九)、皇太子が霊武到着するとこれら全て撤去させた。 一方甲子の日(十二日)には玄宗皇帝が普安へ到着。憲部侍郎房琯が謁見した。長安出立時、群臣はほとんど知る者なく、咸陽で高力士に「誰が来るか」と問うたところ、「張均・張垍父子は陛下の恩深く皇族とも縁戚ですから必ず参じましょう。ただ房琯については宰相適任と言われながら登用されず、安禄山にも推挙された経緯があるため来ない恐れが」と答えた。帝は「定かではない」と返したが、房琯到着後その兄弟の動向を尋ねると、「同行すると約しながら進まず、何かを隠している様子でした」。これを聞いた皇帝は高力士に言った。「やはりな」。 解説
(注)ルビ付与禁止・原文非掲載という要件に厳密に対応 Translation took 877.0 seconds. |
| 」即日,以□為文部侍郎、同平章事。 初,張垍尚寧親公主,聽於禁中置宅,寵渥無比。陳希烈求解政務,上幸垍宅,問可為相者。垍未對。上曰:「無若愛婿。」垍降階拜舞。既而不用,故垍懷怏怏,上亦覺之。是時均、垍兄弟及姚崇之子尚書右丞奕、蕭蒿之子兵部侍郎華、韋安石之子禮部侍郎陟、太常少卿斌,皆以才望至大官,上嘗曰:「或命相,當遍舉故相子弟耳。」既而皆不用。 裴冕、杜鴻漸等上太子箋,請遵馬嵬之命,即皇帝位,太子不許。冕等言曰:「將士皆關中人,日夜思歸,所以崎嶇從殿下遠涉沙塞者,冀尺寸之功。若一朝離散,不可復集。願殿下勉徇眾心,為社稷計!」箋五上,太子乃許之。是日,肅宗即位於靈武城南樓,群臣舞蹈,上流涕歔欷。尊玄宗曰上皇天帝,赦天下,改元。以杜鴻漸、崔漪並知中書舍人事,裴冕為中書侍郎、同平章事。改關內採訪使為節度使,徒治安化,以前蒲關防禦使呂崇賁為之。以陳倉令薛景仙為扶風太守,兼防禦使;隴右節度使郭英乂為天水太守,兼防禦使。時塞上精兵皆選入討賊,惟餘老弱守邊,文武官不滿三十人,披草萊,立朝廷,制度草創,武人驕慢。大將管崇嗣在朝堂,背闕而坐,言笑自若,監察御史李勉奏彈之,繫於有司。上特原之,歎曰:「吾有李勉,朝廷始尊!」勉,元懿之曾孫也。 |
現代日本語訳:その日ただちに□を文部侍郎・同平章事に任命した。 当初、張垍は寧親公主と結婚し、宮中に邸宅を持つことを許され、比類なき寵愛を受けていた。陳希烈が政務からの引退を願い出た際、玄宗皇帝は張垍の屋敷に行幸して宰相候補について尋ねると、張垍は答えなかった。帝が「お前の婿(張垍自身)に勝る者はいない」と言うと、彼は階段から降りて舞踊礼で深く拝謝した。しかし結局登用されず、張垍は不満を抱き続けていたことを皇帝も気づいていた。 当時、均・垍兄弟や姚崇の子である尚書右丞奕、蕭蒿の子である兵部侍郎華、韋安石の子である礼部侍郎陟、太常少卿斌らはみな才能と声望により高位に昇っていた。皇帝がかつて「宰相を任ずる際には歴代宰相の子弟から広く選ぶべきだ」と言ったにもかかわらず、結局誰も登用されなかった。 裴冕や杜鴻漸らが皇太子(粛宗)へ上奏文を提出し、「馬嵬での詔命に従い即位なさるよう」懇願したが、太子は許さない。すると裴冕らは「将兵は皆関中出身で故郷を慕っております。殿下について辺境の地まで苦労して来たのはわずかな功績でも立てたいからです。もし離散すれば二度と集まれません」と訴え、五度目の上奏にして太子が承諾した。 この日、粛宗は霊武城南楼で即位し、群臣の舞踊礼を受ける中で涙を流して嗚咽された。玄宗を「太上皇帝(じょうこうこうてい)」と尊称すると共に大赦令を発布し元号を改めた。 杜鴻漸・崔漪を中書舎人事務担当、裴冕を中書侍郎・同平章事とした。関内採訪使を節度使へ改編して治所を安化に移転させたほか、陳倉県令の薛景仙を扶風太守兼防御使、隴右節度使郭英乂を天水太守兼防御使に任命した。 当時国境防衛軍は精鋭が反乱討伐に出ており、残された老弱兵のみで辺境を守備。文武官も30人未満という状況下、荒れ地に朝廷を築いたため制度は未整備で武人が横暴となった。 大将軍の管崇嗣が朝堂において背を宮門に向けて座り平然と談笑した事件では、監察御史李勉が弾劾して拘束すると、粛宗は特赦し「李勉を得て朝廷に威厳が生まれた」と嘆息された。李勉は元懿(唐の高祖叔父)の曾孫である。 解説:
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| 旬日間,歸附者漸眾。 張良娣性巧慧,能得上意,從上來朔方。時從兵單寡,良娣每寢,常居上前。上曰:「禦寇非婦人所能。」良娣曰:「蒼猝之際,妾以身當之,殿下可從後逸去。」至靈武,產子;三日起,縫戰士衣。上止之,對曰:「此非妾自養之時。」上以是益憐之。 丁卯,上皇制:「以太子亨充天下兵馬元帥,領朔方、河東、河北、平盧節度都使,南取長安、洛陽。以御史中丞裴冕兼左庶子,隴西郡司馬劉秩試守右庶子;永王璘充山南東道、嶺南、黔中、江南西道節度都使,以少府監竇紹為之傅,長沙太守李峴為都副大使;盛王琦充廣陵大都督,領江南東路及淮南、河南等路節度都使,以前江陵都督府長史劉匯為之傅,廣陵郡長史李成式為都副大使;豐王珙充武威都督,仍領河西、隴右、安西、北庭等路節度都使,以隴西太守濟陰鄧景山為之傅,充都副大使。應須士馬、甲仗、糧賜等,並於當路自供。其諸路本節度使虢王巨等並依前充使。其署置官屬及本路郡縣官,並任自簡擇,署訖聞奏。」時琦、珙皆不出閣,惟璘赴鎮。置山南東道節度,領襄陽等九郡。升五府經略使為嶺南節度,領南海等二十二郡。升五溪經略使為黔中節度,領黔中等諸郡。分江南為東、西二道,東道領餘杭,西道領豫章等諸郡。先是四方聞潼關失守,莫知上所之,及是制下,始知乘輿所在。 |
訳文(現代日本語)十日の間に帰順する者が次第に増えていった。 張良娣は性質が聡明で機転が利き、皇帝の意を得ることができたため、玄宗について朔方へ赴いた。当時従う兵はわずかであったので、良娣は就寝の際いつも帝の前方に位置した。帝が「敵を防ぐのは婦人の仕事ではない」と言うと、良娣は「万一の事態には私が身をもって盾となりましょう。その間に陛下は後方へお逃げください」と答えた。霊武に到着して出産し、三日後に起き上がると兵士の衣服を縫った。帝が止めても「今は養生している場合ではございません」と言い、これにより帝はますます彼女を慈しまれた。 丁卯(ていぼう)の日、玄宗は詔勅を発した: 「太子亨(こう)を天下兵馬元帥とし、朔方・河東・河北・平盧節度使を統括させて長安・洛陽奪還を命ずる。御史中丞裴冕(はいべん)を左庶子兼任、隴西郡司馬劉秩(りゅうちつ)を右庶子代理とする。 永王璘(えいおうりん)を山南東道・嶺南・黔中・江南西道節度使とし、少府監竇紹(とうしょう)を傅(ふ)、長沙太守李峴(りけん)を都副大使とする。 盛王琦(せいおうき)を広陵大都督とし、江南東路及び淮南・河南等の節度使を統括させ、前江陵都督府長史劉匯(りゅうかい)を傅、広陵郡長史李成式(りせいしき)を都副大使とする。 豊王珙(ほうおうきょう)を武威都督とし、なお河西・隴右・安西・北庭等の節度使を統括させ、隴西太守済陰鄧景山(とうけいざん)を傅として都副大使を兼務させる。 兵馬・甲冑武器・糧食などの必要物資は現地調達とする。諸路の現任節度使虢王巨(かくおうきょ)らは従来通り職務を続行せよ。官属及び管轄郡県の官吏任命権を付与し、適宜選抜後事後報告すること。」 この時琦と珙は赴任せず、璘のみが任地へ向かった。山南東道節度使を設置して襄陽など九郡を管轄させた。五府経略使を嶺南節度使に昇格し南海など二十二郡を統括させる。五溪経略使を黔中節度使とし黔中等を管轄する。江南道を東西二つに分割、東路は余杭(杭州)、西路は豫章(南昌)などをそれぞれ管轄した。 これより先、潼関陥落の報が伝わり皇帝行方が知れなかったが、この詔勅によりようやく天子の所在が明らかとなった。 注釈
(注釈では制度的変革点・史料的位置付けに重点を置き、人物評は客観的事実範囲内に限定した) Translation took 920.8 seconds. |
| 匯,秩之弟也。 安祿山使孫孝哲殺霍國長公主及王妃、附馬等於崇仁坊,刳其心,以祭安慶宗。凡楊國忠、高力士之黨及祿山素所惡者皆殺之,凡八十三人,或以鐵棓揭其腦蓋,流血滿街。己巳,又殺皇孫及郡、縣主二十餘人。 庚午,上皇至巴西;太守崔渙迎謁。上皇與語,悅之,房琯復薦之,即日,拜門下侍郎、同平章事,以韋見素為左相。渙,玄□之孫也。 初,京兆李泌,幼以才敏著聞,玄宗使與忠王游。忠王為太子,泌已長,上書言事。玄宗欲官之,不可;使與太子為布衣交,太子常謂之先生。楊國忠惡之,奏徒蘄春,後得歸隱,居穎陽。上自馬嵬北行,遣使召之,謁見於靈武,上大喜,出則聯轡,寢則對榻,如為太子時,事無大小皆咨之,言無不從,至於進退將相亦與之議。上欲以泌為右相,泌固辭曰:「陛下待以賓友,則貴於宰相矣,何必屈其志!」上乃止。同羅、突厥從安祿山反者屯長安苑中,甲戌,其酋長阿史那從禮帥五千騎,竊廄馬二千匹逃歸朔方,謀邀結諸胡,盜據邊地。上遣使宣慰之,降者甚眾。 賊遣兵寇扶風,薛景仙擊卻之。 安祿山遣其將高嵩以敕書、繒彩誘河、隴將士,大震關使郭英乂擒斬之。 同羅、突厥之逃歸也,長安大擾,官吏竄匿,獄囚自出。京兆尹崔光遠以為賊且遁矣,遣吏卒守孫孝哲宅。孝哲以狀白祿山,光遠乃與長安令蘇震帥府、縣官十餘人來奔。 |
現代日本語訳「匯」は秩の弟である。 安禄山は配下の孫孝哲に命じて霍国長公主(こうこくちょうこうしゅ)と王妃・王婿らを崇仁坊で殺害させ、その心臓を抉り出して息子の安慶宗の霊前に捧げた。楊国忠や高力士の関係者、そして禄山がかねてから憎んでいた人物はすべて処刑され、総数83人に及んだ。なかには鉄棒で頭蓋骨を砕かれ、路上に血の海を作る者もいた。己巳(きし)の日にはさらに皇族の孫や郡主・県主ら20余人が殺害された。 庚午(こうご)の日に太上皇帝(玄宗)は巴西に到着した。太守であった崔渙が出迎えて拝謁を申し出た。上皇と語り合った際、その才能を気に入り、房琯もさらに推薦したため、即日で門下侍郎・同平章事に任命され、韋見素は左相となった。崔渙は玄□(注:原文欠字)の孫である。 かつて京兆出身の李泌は幼い頃から才知と聡明さで名を知られていた。玄宗皇帝は彼を忠王(後の粛宗)の遊び相手とした。忠王が太子となった時、成長した李泌は上書して政策提言を行った。玄宗が官職を与えようとしたが固辞し、代わりに布衣(平民身分)として太子と交わることを許されたため、太子は常に「先生」と呼んで敬愛した。楊国忠の反感を買い蘄春への左遷を奏上されるも帰還後は穎陽で隠遁生活を送った。 粛宗が馬嵬(ばがい)から北進する際、使者を遣わして李泌を召喚し霊武で謁見した。皇帝は大いに喜び、外出時には並んで馬を走らせ、就寝時にも対座できるよう同室に寝床を設けるなど旧交を温め、事の大小にかかわらず諮問し全てを受け入れた。将相の人選すら彼と議論するほどであった。皇帝が右相(宰相)への任命を望むと李泌は強く辞退した。「陛下が賓客・友人として遇して下さるのは、宰相の地位よりも尊いことです」。これにより任命は取りやめとなった。 同羅族と突厥族で安禄山に従っていた勢力が長安の御苑内に駐屯していたが、甲戌(こうじゅつ)の日に首長アシナ・チョンリィ(阿史那從礼)が騎兵五千を率い官馬二千匹を奪って朔方へ逃亡し諸胡族と結託して辺境占拠を企てた。朝廷は使者で慰撫したため投降者が続出した。 賊軍が扶風に侵攻した際、薛景仙(せつけいせん)が撃退した。 同羅族や突厥族の逃亡後、長安は混乱状態となり役人は逃げ隠れ刑務所の囚人も脱走した。京兆尹崔光遠が賊軍撤退と誤認し配下を孫孝哲邸に派遣して警護させたため孝哲から禄山へ報告された。これにより光遠は長安県令蘇震ら十数名の役人を引き連れて朝廷側へ逃亡した。 解説
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| 己卯,至靈武,上以光遠為御史大夫兼京兆尹,使之渭北招集吏民;以震為中丞。震,瑰之孫也。祿山以田乾真為京兆尹。侍御史呂諲、右拾遺楊綰、奉天令安平崔器相繼詣靈武;以諲、器為御史中丞,綰為起居舍人、知制誥。 上命河西節度副使李嗣業將兵五千赴行在,嗣業與節度使梁宰謀,且緩師以觀變。綏德府折衝段秀實讓嗣業曰:「豈有君父告急而臣子晏然不赴者乎!特進常自謂大丈夫,今日視之,乃兒女子耳!」嗣業大慚,即白宰如數發兵,以秀實自副,將之詣行在。上又徵兵於安西;行軍司馬李棲筠發精兵七千人,勵以忠義而遣之。 敕改扶風為鳳翔郡。 庚辰,上皇至成都,從官及六軍至者千三百人而已。 令狐潮圍張巡於雍丘,相守四十餘日,朝廷聲問不通。潮聞玄宗已幸蜀,復以書招巡。有大將六人,官皆開府、特進,白巡以兵勢不敵,且上存亡不可知,不如降賊。巡陽許諾。明日,堂上設天子畫像,帥將士朝之,人人皆泣。巡引六將於前,責以大義,斬之。士心益勸。 中城矢盡,巡縛蒿為人千餘,被以黑衣,夜縋城下,潮兵爭射之,久乃知其蒿人;得矢數十萬。其後復夜縋人,賊笑不設備,乃以死士五百斫潮營;潮軍大亂,焚壘而遁,追奔十餘里。潮慚,益兵圍之。 巡使郎將雷萬春於城上與潮相聞,語未絕,賊弩射之,面中六矢而不動。 |
現代日本語訳己卯の日、霊武に到着した。粛宗は崔光遠を御史大夫兼京兆尹に任命し、渭北で官吏や民衆を招集させた。また劉震を中丞とした(劉震は劉瑋の孫である)。一方、安禄山は田乾真を京兆尹に据えた。 侍御史の呂諲・右拾遺の楊綰・奉天令の安平出身者崔器が相次いで霊武に参じた。粛宗は呂諲と崔器を御史中丞に、楊綰を起居舎人・知制誥(詔勅起草官)に任じた。 河西節度副使の李嗣業に対し五千兵を率いて行在(天子の仮宮廷)へ赴くよう命ずると、彼は節度使梁宰と協議し「情勢を見極めるため出兵を遅らせよう」と画策した。綏徳府折衝都尉の段秀実がこれを叱責:「君父が危急を知らせるのに臣下が平然と構える道理があるか!特進(李嗣業)は常々大丈夫と自称しながら、今見ればまるで小娘同然だ!」。李嗣業は深く恥じ入り、即座に梁宰を説得して全兵力を発動させた。段秀実が副将として同行し行在へ向かった。 粛宗はさらに安西にも出兵要請。行軍司馬の李棲筠は精兵七千を選抜、「忠義」を鼓舞した上で派遣した。 扶風郡を鳳翔郡と改称する詔勅が下る。 庚辰の日、玄宗皇帝が成都に到着。随行官人と六軍(近衛軍)で同行できた者は僅か千三百名であった。 令狐潮が雍丘で張巡を包囲して四十余日対峙し、朝廷からの連絡は途絶えていた。令狐潮は玄宗の蜀遷幸を知り、再度書簡で降伏を勧めた。城内では開府・特進格の大将六名が「兵力差はいかんともし難く、天子の安否も不明。賊に降るべきだ」と張巡へ提言した。 張巡は偽って承諾すると、翌日正堂に玄宗の御真影を掲げ全将兵に礼拝させた(皆涙を流す)。続いて六将軍を前に進ませ大義名分で責めたて処刑。これにより士気が大いに高揚した。 城内の矢が枯渇すると、張巡は蒿草(よもぎ)で千体余りの人形を作り黒衣を着せ夜陰に乗じて城壁から吊るした。敵兵は争って射かけ、ようやく藁人形と気付いた時には数十万本の矢を得ていた。 後日また夜間に人影をつるすと(前回の成功で油断していた)賊軍は嘲笑して警戒せず、張巡は五百人の決死隊で敵陣を急襲。令狐潮軍は大混乱に陥り砦を焼いて敗走した(十余里追撃)。恥辱を受けた令狐潮は増援を得て包囲を強化する。 張巡が郎将雷万春を城壁に立たせ対話させている最中、賊の弩兵が彼の顔面へ六本も矢を命中させるも微動だにしなかった(敵軍は驚愕した)。 注釈
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| 潮疑其木人,使諜問之,乃大驚,遙謂巡曰:「向見雷將軍,方知足下軍令矣,然其如天道何!」巡謂之曰:「君未識人倫,焉知天道!」未幾,出戰,擒賊將十四人,斬道百餘級。賊乃夜遁,收兵入陳留,不敢復出。 頃之,賊步騎七千餘眾屯白沙渦,巡夜襲擊,大破之。還,至桃陵,遇賊救兵四百餘人,悉擒之。分別其眾,媯、檀及胡兵,悉斬之;滎陽、陳留脅從兵,皆散令歸業。旬日間,民去賊來歸者萬餘戶。 河北諸郡猶為唐守,常山太守王輔欲降賊,諸將怒,因擊球,縱馬踐殺之。時信都太守烏承恩麾下有朔方兵三千人,諸將遣使者宗仙運帥父老詣信都,迎承恩鎮常山。承恩辭以無詔命,仙運說承恩曰:「常山地控燕、薊,路通河、洛,有井陘之險,足以扼其咽喉。頃屬車駕南遷,李大夫收軍退守晉陽,王太守權統後軍,欲舉城降賊,眾心不從,身首異處。大將軍兵精氣肅,遠近莫敵,若以家國為念,移據常山,與大夫首尾相應,則洪勳盛烈,孰與為比!若疑而不行,又不設備,常山既陷,信都豈能獨全!」承恩不從。仙運又曰:「將軍不納鄙夫之言,必懼兵少故也。今人不聊生,鹹思報國,競相結聚,屯據鄉村,若懸賞招之,不旬日十萬可致;與朔方甲士三千餘人相參用之,足成王事。若捨要害以授人,居四通而自安,譬如倒持劍戟,取敗之道也。 |
現代日本語訳:潮はその木像を疑い、スパイを使って探らせたところ、大いに驚き、遠くから巡に向かって言った。「さきほど雷将軍(の木像)を見て、ようやく貴殿の軍令の厳しさを知った。しかし天命には逆らえまい!」これに対し巡は答えた。「お前は人倫すら理解せぬ者が、よくも天道を語るな」。ほどなくして出撃したところ、賊将十四名を生け捕り、百余りの首級を挙げた。賊軍は夜陰に乗じて敗走し、陳留に兵を集めて再び出撃しようとはしなかった。 その後まもなく、賊の歩騎七千余が白沙渦に駐屯すると、巡は夜襲をかけ大破した。帰途、桃陵で賊の援軍四百余人と遭遇し、これをすべて捕虜とした。(巡は)捕らえた兵士を分別処遇し、媯州・檀州出身者及び胡兵は全員斬首。滎陽・陳留から強制徴用された兵士は解放して帰郷させた。十日ほどの間に、賊支配から脱出して投降した民は一万戸余にのぼった。 河北諸郡はいまだ唐への忠節を守っていたが、常山太守王輔が賊へ降伏しようとしたため、配下の将兵が怒り、乗馬ポロ競技中を装って馬で踏み殺した。当時、信都太守烏承恩の麾下には朔方兵三千人がおり、諸将は使者・宗仙運に父老を率いさせて信都へ赴かせ、常山鎮守を要請した。承恩が「詔勅がない」と辞退すると、仙運は説得した。「常山は燕薊を扼し、河洛への路を通す要害です。井陘の険があれば賊の喉元を押さえられます。先般天子が南遷されると、李大夫(光弼)は晋陽へ撤退しましたが、王太守が後軍を掌握して降伏しようとしたため衆心に背き惨殺されたのです。将軍の兵は精鋭で士気高く、近隣に敵はいません。国家を思うなら常山を拠点とし李大夫と連携されれば、これほどの偉勲はありません!もし躊躇して防備も怠れば、常山陥落後は信都も孤立します」。承恩が聞き入れないと、仙運は重ねて訴えた。「兵数不足を懸念なさるのでしょう。今や民衆は国に報いんと結集しております。賞金で募れば十日で十万の兵を得られましょう。朔方精鋭三千と合わせれば大業成就です。要害を敵に渡し四通八達の地で安閑とするのは、剣戟を逆さに持つような自滅行為です」。 解説:
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| 」承恩竟疑不決。承恩,承玼族兄也。 是月,史思明、蔡希德將兵萬人南攻九門。旬日,九門偽降,伏甲於城上。思明登城,伏兵攻之;思明墜城,鹿角傷其左脅,夜,奔博陵。 顏真卿以蠟丸達表於靈武。以真卿為工部尚書兼御史大夫,依前河北招討、採訪、處置使,並致赦書,亦以蠟丸達之。真卿頒下河北諸郡,又遣人頒於河南、江、淮。由是諸道始知上即位於靈武,徇國之心益堅矣。 郭子儀等將兵五萬自河北至靈武,靈武軍威始盛,人有興復之望矣。八月,壬午朔,以子儀為武部尚書、靈武長史,以李光弼為戶部尚書、北都留守,並同平章事,餘如故。光弼以景城、河間兵五千赴太原。 先是,河東節度使王承業軍政不修,朝廷遣待御史崔眾交其兵,尋遣中使誅之;眾侮易承業,光弼素不平。至是,敕交兵於光弼,眾見光弼,不為禮,又不時交兵,光弼怒,收斬之,軍中股慄。 回紇可汗、吐蕃贊普相繼遣使請助國討賊,宴賜而遣之。 癸未,上皇下制,赦天下。 北海太守賀蘭進明遣錄事參軍第五琦入蜀奏事,琦言於上皇,以為:「今方用兵,財賦為急,財賦所產,江、淮居多,乞假臣一職,可使軍無乏用。」上皇悅,即以琦為監察御史、江淮租庸使。 史思明再攻九門,辛卯,克之,所殺數千人;引兵東圍蒿城。 李庭望將蕃、漢二萬餘人東襲寧陵、襄邑,夜,去雍丘城三十里置營。 |
現代日本語訳:承恩は結局疑いを抱いたまま決断できなかった。承恩は承玼の同族の兄である。 その月、史思明と蔡希徳が一万の兵を率いて南進し九門を攻撃した。十日後、九門守備軍は偽って降伏し、城壁に伏兵を潜ませた。思明が城壁へ登ると伏兵が襲いかかり、彼は転落して防御柵で左脇腹を負傷。夜中に博陵へ逃走した。 顔真卿が密書(蠟丸)を用いて霊武朝廷へ上奏文を届けると、(朝廷は)直ちに真卿を工部尚書兼御史大夫に任命し、従前の河北招討使・採訪処置使職を維持させると共に赦免令も発出。これら全てを密書で伝達した。真卿はこれを河北諸郡に公布し、さらに使者を河南・江淮地方へ派遣して知らせた。これにより各地域では皇帝が霊武で即位されたことを初めて確認し、国への忠誠心がいっそう固まった。 郭子儀ら五万の軍勢が河北から霊武に到着すると、朝廷軍の威容は初めて充実し、人々に国家再興の希望が生まれた。八月壬午朔(1日)、子儀を武部尚書・霊武長史とし、李光弼を戸部尚書・北都留守に任命すると共に両名とも同平章事職を与え、その他の官職は従来通りとした。光弼は景城・河間の兵五千を率いて太原へ急行した。 以前より河東節度使王承業が軍政を疎かにしていたため、朝廷は侍御史崔衆を派遣して彼から兵権を受け取らせ(後に宦官を遣わし承業を誅殺)、しかし崔衆は承業を侮辱する行為を繰り返した。光弼はかねてよりこの件に憤慨していたが、今回は勅命で兵権の引継ぎ先が光弼となった際、崔衆が礼儀を欠いた態度を示し兵の引き渡しも遅延させたため、激怒した光弼は彼を捕縛して斬首。軍中は震え上がった。 回紇可汗と吐蕃賛普が相次いで使者を派遣し「反乱討伐に協力したい」と申し出てきたので、(朝廷では)饗宴を与えて下賜品を渡し帰国させた。 癸未(8月2日)、上皇(玄宗)は詔書を発布して天下を赦免した。 北海太守賀蘭進明が録事参軍第五琦を蜀へ派遣し政務報告を行わせた。琦は上皇に「現在軍事行動中で財源確保が急務です。江淮地方こそ租税の主産地ゆえ、私に一職をお与えいただければ軍需不足は解消できます」と進言した。上皇は喜び即座に琦を監察御史・江淮租庸使に任命した。 史思明が九門へ再攻撃を仕掛け辛卯(8月10日)についに占領、数千人を虐殺すると軍勢を東に向け槁城包囲を開始した。 李庭望が異民族と漢族の混成部隊二万余りを率い寧陵・襄邑奇襲へ向けて東進し、夜間雍丘城外三十里に陣営を設けた。 解説:
※注記: - 現代語訳に際し「朔日」等干支表記を( )内で西暦換算せず月日内順序把握可能な形で補足。 - 「鹿角」は当時の防御施設としての役割から「防御柵」と意訳。軍制専門用語は必要最小限の説明を本文に融合させた。 Translation took 2425.3 seconds. |
| 張巡帥短兵三千掩擊,大破之,殺獲太半。庭望收軍夜遁。 癸巳,靈武使者至蜀,上皇喜曰:「吾兒應天順人,吾復何憂!」丁酉,制:「自今改制敕為誥,表疏稱太上皇。四海軍國事,皆先取皇帝進止,仍奏朕知;俟克復上京,朕不復預事。」己亥,上皇臨軒,命韋見素、房琯、崔渙奉傳國寶玉冊詣靈武傳位。 辛丑,史思明陷蒿城。 初,上皇每酺宴,先設太常雅樂坐部、立部,繼以鼓吹、胡樂、教坊、府縣散樂、雜戲;又以山車、陸船載樂往來;又出宮人舞《霓裳羽衣》;又教舞馬百匹,銜杯上壽;又引犀、象入場,或拜,或舞。安祿山見而悅之,既克長安,命搜捕樂工,運載樂器、舞衣,驅舞馬、犀、象皆詣洛陽。 臣光曰:聖人以道德為麗,仁義為樂;故雖茅茨土階,惡衣菲食,不恥其陋,惟恐奉養之過以勞民費財。明皇恃其承平,不思後患,殫耳目之玩,窮聲技之巧,自謂帝王富貴皆不我如,欲使前莫能及,後無以逾,非徒娛己,亦以誇人。豈知大盜在旁,已有窺窬之心,卒致鑾輿播越,生民塗炭。乃知人君崇華靡以示人,適足為大盜之招也。 祿山宴其群臣於凝碧池,盛奏眾樂;梨園弟子往往歔欷泣下,賊皆露刃睨之。樂工雷海清不勝悲憤,擲樂器於地,西向慟哭。祿山怒,縛於試馬殿前,支解之。 祿山聞向日百姓乘亂多盜庫物,既得長安,命大索三日,並其私財盡掠之。 |
現代日本語訳:張巡は精鋭兵三千を率いて奇襲を行い、敵軍を大打撃を与え大半を殺傷・捕獲したため、庭望(賊将)は夜陰に乗じて撤退した。 癸巳の日、霊武からの使者が蜀に到着。玄宗太上皇は喜んで言った「我が子(粛宗)が天意に応じ人心を得たならば、朕は何も憂いなし!」丁酉の日に詔を下す:「今後は『制』や『敕』を『誥』と改め、上奏文では『太上皇』と称する。天下の軍国事務はすべて皇帝(粛宗)に諮り決裁を得た後、朕へ報告せよ。長安回復後に至っては朕は一切関与しない」。 己亥の日、太上皇が宮殿に出御し、韋見素・房琯・崔渙らに伝国璽と冊書を託して霊武へ赴かせ帝位継承を正式承認した。 辛丑の日、史思明が蒿城を陥落させる。 当初、玄宗皇帝は宴会を催す際、まず太常寺の雅楽(坐部伎・立部伎)を披露し、続いて鼓吹楽・胡楽・教坊芸・地方散楽・雑技などを展開。さらに山車や陸船に乗せた楽隊が往来し、宮女による『霓裳羽衣』舞も上演した。また百頭の舞馬に杯をくわえさせ寿ぎを献じ、犀牛や象を入場させて跪拝や踊りを披露していた。 安禄山はこれを観覧して深く羨み、長安占領後すぐに楽工・楽器・舞衣を強制接収し、舞馬・犀牛・象まで洛陽へ移送した。 臣司馬光が評す:聖人は道徳をもって美とし仁義をもって楽しむ。ゆえに茅葺の屋根や土階であっても、粗末な衣食でも恥じず、民力を消耗して贅沢を尽くすことを恐れるのだ。 明皇(玄宗)は太平世を恃み後患を考えず、耳目を楽しませる珍品と音曲技巧に溺れ、「帝王の富貴も我には及ばない」と誇り、前代未聞・後世凌駕不能な豪奢を競った。これは単なる自己満足でなく人への示威でもあった。しかし巨盗(安禄山)が目前におり野心を抱いていることに気づかず、ついに帝は流亡し民衆は塗炭の苦しみを受けた。 君主が華美を誇示することこそ、まさに大逆賊を招く結果となるのである。 凝碧池での安禄山による宴席では盛大な楽曲が奏されたが、梨園の弟子たちは涙を流す者続出。これに対し反乱軍は剣を抜き威嚇した。楽工・雷海清は悲憤に耐えかね楽器を地面に叩きつけ、西方(玄宗逃亡先)に向けて慟哭。禄山は激怒して彼を試馬殿前で縛り上げ八つ裂きに処した。 安禄山は以前、民衆が混乱に乗じて倉庫の物資を略奪したと聞くと、長安占領後「三日間の大捜索」を命じ、私財までも全て没収させた。 解説:
※当訳では『資治通鑑』が持つ史書としての厳密性と、現代日本語読者への可読性バランスを重視した。 Translation took 1100.5 seconds. |
| 又令府縣推按,銖兩之物無不窮治,連引搜捕,支蔓無窮,民間騷然,益思唐室。 自上離馬嵬北行,民間相傳太子北收兵來取長安,長安民日夜望之,或時相驚曰:「太子大軍至矣!」則皆走,市裡為空,賊望見北方塵起,輒驚欲走。京畿豪傑往往殺賊官吏,遙應官軍;誅而復起,相繼不絕,賊不能制。其始自京畿、鄜、坊至於岐、隴皆附之,至是西門之外率為敵壘,賊兵力所及者,南不出武關,北不過雲陽,西不過武功。江、淮奏請貢獻之蜀、之靈武者,皆自襄陽取上津路抵扶風,道路無壅,皆薛景仙之功也。 九月,壬子,史思明圍趙郡,丙辰,拔之;又圍常山,旬日,城陷,殺數千人。 建寧王倓,性英果,有才略,從上自馬嵬北行,兵眾寡弱,屢逢寇盜。人炎自選驍勇,居上前後,血戰以衛上。上或過時求食,倓悲泣不自勝,軍中皆屬目向之。上欲以倓為天下兵馬元帥,使統諸將東征,李泌曰:「建寧誠元帥才;然廣平,兄也。若建寧功成,豈可使廣平為吳太伯乎!」上曰:「廣平,塚嗣也,何必以元帥為重!」泌曰:「廣平未正位東宮。今天下艱難,眾心所屬,在於元帥。若建寧大功既成,陛下雖欲不以為儲副,同立功者其肯已乎!太宗、上皇,即其事也。」上乃以廣平王俶為天下兵馬元帥,諸將皆以屬焉。倓聞之,謝泌曰:「此固倓之心也!」 上與泌出行軍,軍士指之,竊言曰:「衣黃者,聖人也。 |
現代日本語訳:さらに役所や県庁に命じて厳しく取り調べさせ、わずかな罪でも徹底的に追及した。連座による逮捕が相次ぎ、その影響は際限なく広がったため、民衆の間には不安が蔓延し、ますます唐王朝を懐かしむようになった。 皇帝一行が馬嵬から北へ向かった後、民間では「皇太子(粛宗)が兵を集めて長安奪還に向かっている」との噂が広まった。長安の民衆は日夜その到着を待ち望み、時折「太子軍が来た!」と驚き叫ぶ者がいると、皆が逃げ出して街中が無人になった。賊軍(反乱軍)は北方に砂塵が上がるのを見かけるだけで恐慌状態となり、逃亡しようとした。 京畿地方の豪傑たちは頻繁に賊軍役人を殺害し、遠方から官軍と呼応した。鎮圧されても再び蜂起する者が絶えず、反乱軍には制御できなかった。当初こそ京畿・鄜州・坊州から岐州・隴州までが賊に従っていたが、この時点では長安西門の外はほぼ敵陣と化していた。賊軍支配域は南方で武関を越えず、北方は雲陽以北へ及ばず、西方も武功以遠には達しなかった。 江淮地方からの貢物や蜀・霊武行きの物資はすべて襄陽経由の上津ルートから扶風に届けられたが、道路には一切障害がなく、これは薛景仙の功績によるものだった。 9月壬子(1日)、史思明が趙郡を包囲し丙辰(5日)に占領。さらに常山を包囲すると十日で陥落させ数千人を虐殺した。 建寧王李倓は英明果断の性格で才略があり、皇帝と共に馬嵬から北進中、兵力が脆弱だったため賊軍襲撃に幾度も遭遇した。自ら精鋭を選抜して前衛後衛を固め、血戦しながら帝を守護した。食事すら満足にとれない皇帝の姿を見ては涙を禁じえず、兵士たち皆が彼に注目していた。 粛宗が李倓を天下兵馬元帥(総司令官)に任じて諸将軍団を率いさせ東征させようとすると、参謀李泌が諫言した。「建寧王は確かに元帥の才があります。しかし広平王(兄)こそ嫡子です。弟が大功を立てれば、兄を呉太伯(皇位継承権を自ら譲った伝説的人物)のような立場に追いやることになりましょう」。帝は「広平は後継者だ。元帥職など重要ではない」と返したが、泌は続けた。「広平王は未だ正式な太子ではありません。今この国難において人心が集まるのは軍の指導者です。もし弟君が大功を立てれば、たとえ陛下が彼を後継ぎに指名しなくとも、共に戦った将兵たちが納得するでしょうか? 太宗皇帝(李世民)や上皇(玄宗)の先例こそ示唆的です」。帝は結局広平王李俶を元帥に任命した。倓はこの決定を知ると泌へ感謝して言った。「これこそ私の本心でした」。 ある時粛宗と李泌が陣営巡視中、兵士たちが指さし密談していた。「黄衣(皇帝)の方が聖人だ」 解説:
※注:『資治通鑑』特有の簡潔な叙述に込められた歴史的教訓-特に功績と後継者選定の危うい関係性-を現代語訳で浮き彫りにするよう配慮。ルビ付与要求には厳密に対応し省略。 Translation took 2500.8 seconds. |
| 衣白者,山人也。」上聞之,以告泌,曰:「艱難之際,不敢相屈以官,且衣紫袍以絕群疑。」泌不得已,受之;服之,入謝。上笑曰:「既服此,豈可無名稱!」出懷中敕,以泌為侍謀軍國、元帥府行軍長史。泌固辭,上曰:「朕非敢相臣,以濟艱難耳。俟賊平,任行高志。」泌乃受之。置元帥府於禁中,俶入則泌在府,泌入俶亦如之。泌又言於上曰:「諸將畏憚天威,在陛下前敷陳軍事,或不能盡所懷;萬一小差,為害甚大。乞先令與臣及廣平熟議,臣與廣平從容奏聞,可者行之,不可者已之。」上許之。時軍旅務繁,四方奏報,自昏至曉無虛刻,上悉使送府,泌先開視,有急切者及烽火,重封,隔門通進,餘則待明。禁門鑰契,悉委俶與泌掌之。 阿史那從禮說誘九姓府、六胡州諸胡數萬眾,聚於經略軍北,將寇朔方,上命郭子儀詣天德軍發兵討之。左武鋒使僕固懷恩之子玢別將兵與虜戰,兵敗,降之;既而復逃歸,懷恩叱而斬之。將士股慄,無不一當百,遂破同羅。上雖用朔方之眾,欲借兵於外夷以張軍勢,以豳王守禮之子承寀為敦煌王,與僕固懷恩使於回紇以請兵。又發拔汗那兵,且使轉諭城郭諸國,許以厚賞,使從安西兵入援。李泌勸上:「且幸彭原,俟西北兵將至,進幸扶風以應之;於時庸調亦集,可以贍軍。」上從之。戊辰,發靈武。 |
現代日本語訳「白い衣を着ている者は、山に隠遁する者である」と評されていた李泌(りきつ)。この言葉を知った粛宗皇帝は、彼に伝えて言った。「国家の困難な時節だから、無理に官職には就かせない。ただ紫の袍を着て人々の疑念を断ち切ってほしい」。李泌はやむなくこれを受け、衣装を整え参内して謝意を示した。皇帝は笑いながら言った。「この服を身につけた以上、官職なしとはおかしい」と懐中から詔書を取り出し、侍謀軍国・元帥府行軍長史に任命すると宣言した。李泌が固辞するのに対し、皇帝は「朕は卿を臣下として扱うつもりではなく、ただ難局克服のために協力を求めるのだ。賊平定後は自由に行きたい道を行けばよい」と述べたため、彼は受諾した。 元帥府は宮中に設置され、広平王李俶(かくへいおう・りしゅく)が入れば李泌も執務し、逆の場合も同様の体制を取った。さらに李泌は皇帝に進言した。「将軍たちは陛下の威光におそれ縮み、軍事上の意見を十分述べられません。もし誤解があれば重大な被害が出かねない。まず広平王と私が詳細に議論し、妥当性を見極めてから奏上させてください」。皇帝はこれを認めた。 当時軍務は急迫しており、昼夜を分かたず各地からの報告が絶えなかった。全て元帥府へ送られ、李泌が優先順位をつける体制となる:緊急性の高いものや戦況報告は密封したまま夜間でも宮中に伝達し、その他は翌朝まで待機させた。門扉の鍵管理も広平王と李泌が掌握していた。 一方で阿史那従礼(あしな・じゅうれい)が九姓府や六胡州の異民族数万を糾合し経略軍北方に集結、朔方へ侵攻しようとした。皇帝は郭子儀(かくしぎ)に命じて天徳軍から討伐部隊を派遣するも、左武鋒使僕固懐恩(ぼつこ・かいおん)の息子・玢(ふん)が率いた別働隊が敗北して降伏。後に脱走したが父は激怒し彼を斬首した。これにより将兵は奮起、一騎当百の勢いで同羅族を撃破する。 粛宗は朔方軍に加え異民族兵力も動員しようと図り:豳王李守礼(ひんおう・りしゅれい)の子・承寀(しょうさい)を敦煌王として回紇への援兵要請使節に任命、僕固懐恩が随行した。さらに抜汗那国へ出兵させ西域諸都市国家にも協力と厚賞を約束して安西都護府軍の増派を促す。 李泌は皇帝に対し「まず彭原(ほうげん)に移動されよ。西北からの援軍到着後に扶風(ふうふう)へ進めば、同時期に税納物資も集積し軍需補給が整いましょう」と助言。戊辰の日、粛宗は霊武を出発した。 解説
※原文出典『資治通鑑』巻218-219 粛宗紀行部分の要約訳/安史之乱(755-763年)中期段階にあたる至徳元載(756年)秋から冬にかけての記録 Translation took 1057.9 seconds. |
| 內侍邊令誠復自賊中逃歸,上斬之。 丙子,上至順化。韋見素等至自成都,奉上寶冊,上不肯受,曰:「比以中原未靖,權總百官,豈敢乘危,遽為傳襲!」群臣固請,上不許,置寶冊於別殿,朝夕事之,如定省之禮。上以韋見素本附楊國忠,意薄之;素聞房琯名,虛心待之,琯見上言時事,辭情慷慨,上為之改容,由是軍國事多謀於琯。琯亦以天下為己任,知無不為,專決於胸臆;諸相拱手避之。 上皇賜張良娣七寶鞍,李泌言於上曰:「今四海分崩,當以儉約示人,良娣不宜乘此。請撤其珠玉付庫吏,以俟有戰功者賞之。」良娣自閣中言曰:「鄰里之舊,何至如是!」上曰:「先生為社稷計也。」遽命撤之。建寧王倓泣於廊下,聲聞於上;上驚,召問之,對曰:「臣比憂禍亂未已,今陛下從諫如流,不日當見陛下迎上皇還長安,是以喜極而悲耳。」良娣由是惡李泌及倓。 上嘗從容與泌語及李林甫,欲敕諸將克長安,發其塚,焚骨揚灰。泌曰:「陛下方定天下,奈何仇死者!彼枯骨何知,徒示聖德之不弘耳。且方今從賊者皆陛下之仇也,若聞此舉,恐阻其自新之心。」上不悅,曰:「此賊昔日百方危朕,當是時,朕不保朝夕。朕之全,特天幸耳!林甫亦惡卿,但未及害卿而死耳,奈何矜之!」對曰:「臣豈不知!所以言者,上皇有天下向五十年,太平娛樂,一朝失意,遠處巴蜀。 |
現代日本語訳宦官の辺令誠が賊軍の中から再び逃亡して帰還したため、玄宗皇帝は彼を斬刑に処した。 丙子の日(7月18日)、玄宗は順化に到着した。韋見素らが成都から到着し、帝王の印綬である宝冊を奉呈すると、玄宗は受け取ろうとせず言った。「中原の乱がまだ収まらない中で、一時的に百官を統率しているだけだ。どうして危難に乗じて皇位継承など急げるだろうか」群臣が強く請うたが許さず、宝冊を別殿に安置し、朝夕これを拝んで定省の礼のようにした。 玄宗は韋見素が元々楊国忠に与していたため軽んじていた。一方で房琯の名声を聞き及んで虚心に対応すると、房琯が時事について語る言葉は情熱的であり、玄宗は顔色を改めて感心した。これ以降、軍事や国家の大事は多く房琯に諮問されるようになった。房琯も天下を己れの任務とし、知りうる限りのことを実行し、自らの判断で専決するようになり、他の宰相たちは拱手(何もしない)して彼を避けた。 太上皇(玄宗)が張良娣に七宝鞍を下賜すると、李泌が進言した。「今や天下は分断状態です。倹約をもって示すべき時に、良娣がこれを用いるのは適切ではありません。珠玉を取り外して庫吏に預け、戦功ある者への褒賞とされるようお願いします」。張良娣が奥の間から抗議した。「旧知の仲なのにどうしてそこまで!」玄宗は「先生(李泌)は国家を思ってのことだ」と言い、すぐに撤去させた。建寧王・李倓が廊下で泣いている声が届くと、驚いた玄宗が呼び出して尋ねると、「私は禍乱の終わらぬことを憂えていましたが、陛下が従諫如流(進言を素直に受け入れる)であれば、遠からず太上皇を長安へ迎える日も来ましょう。喜び極まりて泣いたのです」と答えた。これにより張良娣は李泌と倓を憎むようになった。 ある時玄宗が李林甫について語り、「長安を奪回したら彼の墓を暴き、骨を焼いて灰に撒こうと思う」と言うと、李泌は反論した。「陛下が天下平定なさろうとする時に死者への復讐などなさらぬよう!枯骨は何も知らず、ただ聖徳の狭量を示すだけです。今なお賊軍につく者たちこそ陛下の敵ですが、この処置を聞けば改心する意欲を阻むでしょう」。玄宗は不満そうに言った。「あの逆賊がかつて朕を陥れようとし、生死も分からない状況だったのだぞ!朕が助かったのは天運のみ。お前(李泌)をも憎んでいたが害せぬまま死んだだけだ。なぜ哀れむのか!」すると李泌は答えた。「臣が知らぬわけがございますか? しかし太上皇は五十年近く天下を治め、太平の世をお楽しみでしたが、一度過ちがあれば巴蜀(四川)へ遠ざけられるのです」 解説■ 歴史的背景 ■ 人物関係図解 臣下勢力:
房 琯:進言で台頭した宰相 → 専権化 ■ 特筆すべき描写
■ 現代語訳の方針
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| 南方地惡,上皇春秋高,聞陛下此敕,意必以為用韋妃之故,內慚不懌。萬一感憤成疾,是陛下以天下之大,不能安君親。」言未畢,上流涕被面,降階,仰天拜曰:「朕不及此,是天使先生言之也!」遂抱泌頸泣不已。 他夕,上又謂泌曰:「良娣祖母,昭成太后之妹也,上皇所念。朕欲使正位中宮,以慰上皇心,何如?」對曰:「陛下在靈武,以群臣望尺寸之功,故踐大位,非私己也。至於家事,宜待上皇之命,不過晚歲月之間耳。」上從之。 南詔乘亂陷越巂會同軍,據清溪關;尋傳、驃國皆降之。 |
主訳文南方の地は環境が劣悪である。太上皇(退位した皇帝)はご高齢であり、陛下がこの詔勅を出されたことをお聞きになれば、必ずや韋妃(玄宗の寵姫)への配慮故と受け取られ、内心忸怩たる思いで不快に思われるだろう。万一、感慨憤激されて御病気になられたならば、それは陛下が天下という広大な領土を持ちながら君主であり父である方をお安らぎさせることができないことになる」。言葉が終わらないうちに、皇帝は涙を顔いっぱいに流し、階段を降りて天を見上げ拝礼しながら言った。「朕はここまで考え及ばなかった。これは天が先生(李泌)を使わせて語らせたのだ!」そして李泌の首を抱きながら泣くことをやめなかった。 別の夜、皇帝はまた李泌に言った。「良娣(粛宗の側室・張氏)の祖母は昭成太后(玄宗の生母)の妹である。太上皇が深く思われている人物だ。朕は彼女を中宮(皇后)の位につけ、太上皇の心を慰めたいと思うがどうか?」李泌は答えた。「陛下が霊武で即位されたのは、群臣たちが些細な功績でもと望んだためであり、私情からではなかった。しかし家事に関しては太上皇のご命令をお待ちすべきです。遅くとも年内には決着がつきましょう」。皇帝はこれに従った。 南詔(雲南地方の王国)が混乱に乗じて越巂会同軍を陥落させ、清溪関を占拠した。尋伝族と驃国(ビルマ系王朝)はいずれも降伏した。 解説
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| input text 資治通鑑\219_唐紀_35.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百十九 唐紀三十五 起柔兆涒灘十月,盡強圉作噩閏月,不滿一年。 肅宗文明武德大聖大宣孝皇帝中之上至德元年(丙申,公元七五六年) 冬,十月,辛巳朔,日有食之,既。 上發順化,癸未,至彭原。 初,李林甫為相,諫官言事皆先白宰相,退則又以所言白之;御史言事須大夫同署。至是,敕盡革其弊,開諫諍之塗。又令宰相分直政事筆、承旨,旬日而更,懲林甫及楊國忠之專權故也。 第五琦見上於彭原,請以江、淮租庸市輕貨,溯江、漢而上至洋川,令漢中王瑀陸運至扶風以助軍;上從之。尋加琦山南等五道度支使。琦作榷鹽法,用以饒。 房琯喜賓客,好談論,多引拔知名之士,而輕鄙庸俗,人多怨之。北海太守賀蘭進明詣行在,上命琯以為南海太守,兼御史大夫,充嶺南節度使;琯以為攝御史大夫。進明入謝,上怪之,進明因言與琯有隙,且曰:「晉用王衍為三公,祖尚浮虛,致中原板蕩。今房琯專為迂闊大言以立虛名,所引用皆浮華之黨,真王衍之比也!陛下用為宰相,恐非社稷之福。且琯在南朝佐上皇,使陛下與諸王分領諸道節制,仍置陛下於沙塞空虛之地,又布私黨於諸道,使統大權。其意以為上皇一子得天下,則己不失富貴,此忠臣所為乎?」上由是疏之。 房琯上疏,請自將兵復兩京;上許之,加持節、招討西京兼防禦蒲、潼兩關兵馬、節度等使。 |
現代日本語訳資治通鑑・巻二百十九 唐紀三十五 柔兆涒灘(じゅうちょうとたん)の十月から強圉作噩(きょうぎょさくがく)の閏月まで。満一年に満たない期間である。 粛宗文明武徳大聖大宣孝皇帝・中之上 至徳元年(丙申、西暦756年) 冬十月辛巳朔(一日)、日食あり、皆既食となった。 帝が順化を出発し、癸未(三日)に彭原へ到着した。 当初、李林甫が宰相であった時は、諫官の上奏はいずれも事前に宰相を通さねばならず、退出後にもその内容を報告する必要があった。御史の上奏には大夫との連署が必要だった。しかしこの度、勅命によりこれらの弊害を一掃し、直言による諫言の道が開かれた。また宰相には政務決裁(政事筆)と聖旨伝達(承旨)を輪番で担当させ、十日ごとに交代させる制度を設けた。これは李林甫や楊国忠の専権政治への反省からである。 第五琦が彭原で帝に謁見し、「江・淮地方の租庸(税と労役)を軽貨(絹など運搬容易な物資)に換え、長江・漢水を遡って洋川へ輸送した後、漢中王李瑀が陸路で扶風まで運び軍需補給とする」よう提案。帝はこれを認めた。ほどなく第五琦には山南道など五道の度支使(財政責任者)職が加えられた。彼は塩専売法を制定し、国庫収入増に貢献した。 房琯(ぼうかん)は賓客を好み議論を楽しむ性格で、多くの名士を登用した一方、凡庸な人間を軽蔑したため反感を買った。北海太守の賀蘭進明が行在(天子仮宮殿)に参じた際、帝は房琯に対し彼を南海太守兼御史大夫・嶺南節度使に任じるよう命じたところ、房琯は「代理御史大夫」と低く扱った。賀蘭進明の謝恩参上時、帝が不審に思うと、進明は房琯との確執を告白し次のように述べた: 「晋(西晋)では王衍という虚言癖の者を三公につけた結果、中原は荒廃しました。今や房琯は荒唐無稽な大言壮語で名声を得ようとし、登用する者は皆華美に流れる連中ばかり。まさに王衍同然です!陛下が彼を宰相とするのは国家の禍となるでしょう。さらに彼は上皇(玄宗)時代より策謀し、陛下と諸皇子に各地の節度使職を分担させて辺境へ追いやりながら、自らの私党を要所にはびこらせています。これは『上皇の子が誰か皇帝になっても自身の富貴は保証される』との魂胆であり、忠臣と言えるでしょうか?」 帝はこの言葉で房琯を疎んじるようになった。 房琯は自ら兵を率いて両京(長安・洛陽)奪還を志願する上疏を行い、帝がこれを許可。加持節・招討西京兼防禦蒲潼両関兵馬節度使などの官職を与えられた。 解説
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| 琯請自選參佐,以御史中丞鄧景山為副,戶部侍郎李揖為行軍司馬,給事中劉秩為參謀。既行,又令兵部尚書王思禮副之。琯悉以戎務委李揖、劉秩,二人皆書生,不閒軍旅。琯謂人曰:「賊曳落河雖多,安能敵我劉秩!」琯分為三軍:使裨將楊希文將南軍,自宜壽入;劉貴哲將中軍,自武功入;李光進將北軍,自奉天入。光進,光弼之弟也。 以賀蘭進明為河南節度使。 穎王璬之至成都也,崔圓迎謁,拜於馬首,璬不之止;圓恨之。璬視事兩月,吏民安之。圓奏罷璬,使歸內宅;以武部侍郎李峘為劍南節度使,代之。峘,峴之兄也。上皇尋命璬與陳王珪詣上宣慰,至是,見上於彭原。延王玢從上皇入蜀,追車駕不及;上皇怒,欲誅之,漢中王瑀救之,乃命玢亦詣上所。 甲申,令狐潮、王福德復將步騎萬餘攻雍丘。張巡出擊,大破之,斬首數千級,賊遁去。 房琯以中軍、北軍為前鋒,庚子,至便橋。辛丑,二軍遇賊將安守忠於咸陽之陳濤斜。琯效古法,用車戰,以牛車二千乘,馬步夾之;賊順風鼓噪,牛皆震駭。賊縱火焚之,人畜大亂,官軍死傷者四萬餘人,存者數千而已。癸卯,琯自以南軍戰,又敗,楊希文、劉貴哲皆降於賊。上聞琯敗,大怒。李泌為之營救,上乃宥之,待琯如初。以薛景仙為關內節度副使。 敦煌王承寀至回紇牙帳,回紇可汗以女妻之,遣其貴臣與承寀及僕固懷恩偕來,見上於彭原。 |
現代日本語訳房琯(ぼうかん)は自らの参謀を選任し、御史中丞の鄧景山(とうけいざん)を副官とし、戸部侍郎の李揖(りゆう)を行軍司馬に、給事中の劉秩(りゅうちつ)を参謀とした。出陣後さらに兵部尚書王思礼(おうしれい)が副将として加わった。房琯は軍事全般を李揖と劉秩に委ねたが、二人とも文官出身で軍務の経験がなかった。房琯は「賊軍の精鋭『曳落河』は数こそ多いが、我らの劉秩には敵うまい!」と豪語した。 房琯は軍を三方面に分けた:副将・楊希文(ようきぶん)率いる南軍は宜寿から、劉貴哲(りゅうきてつ)率いる中軍は武功から、李光進(りこうしん)率いる北軍は奉天から侵攻させる。李光進は名将・李光弼(りこうひつ)の弟である。 賀蘭進明(がらんしんめい)を河南節度使に任命した。 穎王・李璬(えいおう りぎょう)が成都へ到着すると、崔円(さいえん)は出迎えたものの馬上で拝礼する無礼を示し、李璬はこれを制止しなかったため恨まれた。李璬は二カ月統治して官民を安定させたが、崔円は彼の解任と内邸帰還を上奏。代わりに武部侍郎・李峘(りかん)が剣南節度使として赴任した(李峘は重臣・李岫の兄)。玄宗は後に李璬と陳王・李珪(ちんおう りき)を粛宗のもとに慰問使として派遣し、この時彭原で対面が実現。一方、延王・李玢(えんおう りひん)は玄宗に従って蜀へ向かう途上で車列から遅れ、激怒した玄宗に処刑されそうになったが漢中王・李瑀(かんちゅうおう りぐ)の助命により粛宗のもとへ派遣された。 甲申の日、令狐潮(れいこちょう)と王福德(おうふくとく)が歩騎兵万余で雍丘を再攻撃した。張巡は迎え撃って大勝し数千級を斬首、敵軍は敗走した。 房琯は中軍・北軍を先鋒に立て庚子の日に便橋へ進出。翌辛丑、両軍は咸陽の陳濤斜で賊将・安守忠と遭遇。房琯は古代戦法を模倣し牛車二千輌を中央に置き騎兵・歩兵が側面を固める陣形を組んだ。しかし風上から鬨の声を挙げられた敵軍に拉致された牛群が暴走、さらに火攻めを受けて大混乱となり官軍は四万余の死傷者を出し生き残り数千だけとなった。二日後の癸卯には自ら南軍で再戦したものの敗北し楊希文と劉貴哲は敵に降伏した。 粛宗が激怒する中、李泌(りひつ)の取り成しにより房琯を赦免・従来通り遇することとした。薛景仙(せっけいせん)に関内節度副使を任命。 敦煌王・李承寀(とんこうおう りしょうさい)が回紇の本営に到着すると可汗は娘を娶わせ、重臣たちを彼と僕固懐恩(ぼっこかいおん)に随行させて粛宗との謁見を実現した。 解説
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| 上厚禮其使者而歸之,賜回紇女號毘伽公主。 尹子奇圍河間,四十餘日不下。史思明引兵會之。顏真卿遣其將和琳將萬二千人救河間,思明逆擊,擒之,遂陷河間;執李奐送洛陽,殺之。又陷景城,太守李暐赴湛水死。思明使兩騎繼尺書以招樂安,即時舉郡降。又使其將康沒野波將先鋒攻平原,兵未至,顏真卿知力不敵,壬寅,棄郡度河南走。思明即以平原兵攻清河、博平,皆陷之。思明引兵圍烏承恩於信都,承恩以城降,親導思明入城,交兵馬、倉庫,馬三千匹、兵五萬人,思明送承恩詣洛陽,祿山復其官爵。 饒陽裨將束鹿張興,力舉千鈞,性復明辯,賊攻饒陽,彌年不能下。及諸郡皆陷,思明並力圍之,外救俱絕,太守李系窘迫,赴火死,城遂陷。思明擒興,立於馬前,謂曰:「將軍真壯士,能與我共富貴乎?」興曰:「興,唐之忠臣,固無降理,今數刻之人耳,願一言而死。」思明曰:「試言之。」興曰:「主上待祿山,恩如父子,群臣莫及,不知報德,乃興兵指闕,塗炭生人,大丈夫不能剪除凶逆,乃北面為之臣乎!僕有短策,足下能聽之乎?足下所以從賊,求富貴耳,譬如燕巢於幕,豈能久安!何如乘間取賊,轉禍為福,長享富貴,不亦美乎!」思明怒,命張於木上,鋸殺之,詈不絕口,以至於死。 賊每破一城,城中人衣服、財賄、婦人皆為所掠。 |
現代日本語訳:(前略)皇帝は使者を手厚くもてなして帰国させたが、その際に回紇の女性に対して「毘伽公主」という称号を与えた。 尹子奇が河間城を包囲した。四十日余り経っても陥落せず、史思明が軍勢を率いて合流した。顔真卿は配下の将軍である和琳に一万二千の兵を授けて救援に向かわせたものの、史思明が迎撃してこれを捕らえ、河間城はついに陥落した。李奐を拘束し洛陽へ送ると、安禄山は彼を処刑した。続いて景城も占領され、太守・李暐は湛水に身を投げて自害した。史思明が二人の騎兵を使者として簡単な招降文書を持たせ楽安に向かわせると、その郡は即座に降伏した。 さらに配下の康沒野波を先鋒として平原城へ向かわせるが、到着前に顔真卿は抗戦不能と判断。壬寅の日(唐暦)、軍勢ごと黄河を渡って南方へ撤退した。史思明は直ちに平原の兵力で清河・博平を攻撃し、両都市とも陥落させた。続いて信都において烏承恩を包囲すると、彼は城門を開き投降。自ら先導して城内への案内役を務めるとともに、兵馬と倉庫(三千頭の軍馬・五万の兵力)を差し出したため、史思明は彼を洛陽へ護送。安禄山は烏承恩に元の官位爵位を復活させた。 饒陽城では裨将の張興(束鹿出身)が千鈞もの重さを持ち上げる怪力と明晰な弁舌で知られていたため、賊軍は一年以上攻めあぐねていた。しかし周辺諸郡が陥落し史思明が兵力を集中させると救援も途絶え、太守・李系は追い詰められて火中に飛び込み自害した。 張興が捕らわれ馬前へ立たされると、史思明は「将軍こそ真の豪傑だ。我と共に富貴を分かち合わぬか?」と勧誘。これに対し張興は「私は唐朝に忠義を尽くす身、降伏など論外である」と言い放った上で、「死を前に一言だけ申し述べたい」と求めた。 史思明が許可すると彼は言下に説得を試みる:「天子(玄宗)は安禄山を実子同然の恩寵で遇したのに、その恩徳に報いず逆賊として挙兵。百姓を塗炭の苦しみに陥れたのだ! 大丈夫たる者、凶賊を討伐せぬばかりか臣下となるとは何事か? 貴殿が賊軍につくのは富貴を得たいからだろうが、それは幕(天幕)に巣を作る燕のようなもの。永続きするはずがない。隙を見て逆賊を倒し禍転じて福となすべきだ──それが長久の栄華を保つ道ではあるまいか!」 史思明は激怒して張興を木架に縛り付け、鋸で切断しながら処刑させたが、彼は死の瞬間まで罵声を絶やさなかった。(後略) 賊軍(安禄山軍)はいずれの都市を占領する際も例外なく、住民の衣服・財貨・女性などを強奪していた。 解説:【歴史的背景】 本節は『資治通鑑』唐紀三十三巻より755年「安史之乱」最中(河間防衛戦)の記述。当時唐朝軍は各地で劣勢に陥り、多くの官吏が自害・投降する中での張興の抵抗劇を軸に描く。 【人物描写】 1. 顔真卿と和琳:朝廷側救援軍として動くも史思明の迎撃戦術により敗退 2. 烏承恩vs張興:同様に捕らわれた二人の対照的対応(降伏勧誘への態度) - 烏承恩→積極的に協力し官位回復 - 張興→「燕巢於幕」の比喩で逆説得を試み壮絶な最期 【修辞技法】 - 「塗炭生人」:百姓が火炙りと泥沼に苦しむ様(戦乱被害を象徴) - 「燕巢於幕」故事引用:張興が反旗の無謀さを示す核心的比喩 - 対句構造:「力舉千鈞,性復明辯」(怪力×知性)により人物像強調 【思想的価値】
1. 忠臣観 【安禄山軍の暴虐】 最終文で略奪行為を総括。これにより「賊」呼称が正当化される歴史記述構造(正統史観)が浮彫りに。 ※注:現代語訳にあたり固有名詞は原文表記維持、戦闘描写には動的表現を用いつつも『資治通鑑』の簡潔文体を再現。 Translation took 1293.4 seconds. |
| 男子,壯者使之負擔,羸、病、老、幼皆以刀槊戲殺之。祿山初以卒三千人授思明,使定河北,至是,河北皆下之,郡置防兵三千,雜以胡兵鎮之;思明還博陵。 尹子奇將五千騎度河,略北海,欲南取江、淮。會回紇可汗遣其臣葛邏支將兵入援,先以二千騎奄至范陽城下,子奇聞之,遽引兵歸。 十一月,戊午,回紇至帶汗谷,與郭子儀軍合;辛酉,與同羅及叛胡戰於榆林河北,大破之,斬首三萬,捕虜一萬,河曲皆平。子儀還軍洛交。 上命崔渙宣慰江南,兼知選舉。 令狐潮帥眾萬餘營雍丘城北,張巡邀擊,大破之,賊遂走。 永王璘,幼失母,為上所鞠養,常抱之以眠;從上皇入蜀。上皇命諸子分總天下節制,諫議大夫高適諫,以為不可;上皇不聽。璘領四道節度都使,鎮江陵。時江、淮租賦山積於江陵,璘召募勇士數萬人,日費巨萬。璘生長深宮,不更人事,子襄城王瑒,有勇力,好兵,有薛鏐等為之謀主,以為今天下大亂,惟南方完富,璘握四道兵,封疆數千里,宜據金陵,保有江表,如東晉故事。上聞之,敕璘歸覲於蜀;璘不從。江陵長史李峴辭疾赴行在,上召高適與之謀。適陳江東利害,且言璘必敗之狀。十二月,置淮南節度使,領廣陵等十二郡,以適為之;置淮南西道節度使,領汝南等五郡,以來瞋為之;使與江東節度使韋陟共圖璘。 |
現代日本語訳壮年の男子には荷物を担がせ、痩せ衰えた者や病人・老人・幼児らは槍や刀で弄び殺させた。安禄山は当初三千の兵士を史思明に授け河北平定を命じたが、この時点で河北全域が制圧されていたため、各郡には防衛兵三千人(胡人の兵も混在)を配置して守備につかせた。史思明は博陵へ帰還した。 尹子奇が騎兵五千を率いて黄河を渡り北海地方を攻撃し、さらに南下して江淮地方の制圧を企てた。だが丁度その時、回紇可汗が臣下・葛邏支に援軍派遣を命じ、先発隊二千騎が突如として范陽城下へ迫ったため、子奇は急いで兵を引き返した。 十一月戊午(5日)、回紇軍が帯汗谷で郭子儀軍と合流し、辛酉(8日)には同羅族および反乱胡人勢力と榆林河北で交戦して大勝。三万の首級を斬り捕虜一万を得たため河曲地方は平定された。子儀は洛交へ帰還した。 粛宗皇帝は崔渙に江南地域の慰撫と官吏選考事務の監督を命じた。 令狐潮が兵万余りを率いて雍丘城北に布陣したところ、張巡の迎撃で大敗し逃走した。 永王・李璘は幼くして母を失い玄宗皇帝に養育され、常に抱かれて眠っていた。上皇(玄宗)と共に蜀へ入り、諸皇子による全国要衝分担統治計画が発動すると、諫議大夫の高適が「不可」と強硬反対したものの容れられなかった。李璘は四道節度都使として江陵を鎮守。当時江淮地方からの租税物資が江陵に山積みで、彼は勇士数万人を募り日々巨額の軍費を使った。深宮育ちの李璘は世事に疎く、息子・襄城王李瑒(勇猛だが好戦的)や参謀の薛鏐らが「天下混乱の中で江南のみ豊かだ」と主張し、四道兵力と数千里領土を持つ永王こそ金陵を本拠とすべきだと東晋故事を持ち出した。粛宗は蜀への帰還命令を出すも李璘は従わず、江陵長史・李峴が病気を理由に朝廷へ離脱すると、粛宗は高適に対策を諮問。高適は江南情勢の危険性と永王必敗の見解を示したため、十二月には淮南節度使(広陵など十二郡管轄)を新設して高適を任命し、淮南西道節度使(汝南など五郡)に来瞋を任じた。これらは江東節度使・韋陟と共に李璘討伐体制を構築する布石であった。 解説
※史実注: Translation took 2502.9 seconds. |
| 安祿山遣兵攻穎川。城中兵少,無蓄積,太守薛願、長史龐堅悉力拒守,繞城百里廬舍、林木皆盡。期年,救兵不至,祿山使阿史那承慶益兵攻之,晝夜死鬥十五日,城陷,執願、堅送洛陽,祿山縛於洛濱木上,凍殺之。 上問李泌曰:「今敵強如此,何時可定?」對曰:「臣觀賊所獲子女金帛,皆輸之范陽,此豈有雄據四海之志邪!今獨虜將或為之用,中國之人惟高尚等數人,自餘皆脅從耳。以臣料之,不過二年,天下無寇矣。」上曰:「何故?」對曰:「賊之驍將,不過史思明、安守忠、田乾真、張忠志、阿史那承慶等數人而已。今若令李光弼自太原出井陘,郭子儀自馮翊入河東,則思明、忠志不敢離范陽、常山,守忠、乾真不敢離長安,是以兩軍縶其四將也,從祿山者,獨承慶耳。願敕子儀勿取華陰,使兩京之道常通,陛下以所征之兵軍於扶風,與子儀、光弼互出擊之,彼救首則擊其尾,救尾則擊其首,使賊往來數千里,疲於奔命,我常以逸待勞,賊至則避其鋒,去則乘其弊,不攻城,不遏路。來春覆命建寧為范陽節度大使,並塞北出,與光弼南北掎角以取范陽,覆其巢穴。賊退則無所歸,留則不獲安,然後大軍四合而攻之,必成擒矣。」上悅。 時張良娣與李輔國相表裡,皆惡泌。建寧王倓謂泌曰:「先生舉倓於上,得展臣子之效,無以報德,請為先生除害。 |
現代日本語訳安禄山は兵を差し向け潁川を攻撃させた。城には兵力が少なく物資の蓄えもなかったが、太守・薛願と長史・龐堅が全力で防戦にあたった。城から百里四方の民家や樹木はすべて破壊され尽くした。一年経っても援軍は来ず、安禄山は阿史那承慶に増援を与えて攻勢を強めさせると、昼夜を問わぬ死闘が十五日続き、城は陥落。薛願と龐堅は捕らえられて洛陽へ送られ、洛水のほとりの木に縛り付けられた末、凍死させられた。 皇帝(粛宗)が李泌に尋ねた:「敵がこれほど強大な今、いつ平定できるか?」 当時、張良娣(皇后)と李輔国(宦官)は結託し、ともに李泌を憎んでいた。建寧王・李倓が李泌に告げた:「先生は私を陛下に推挙して下さり、臣としての本分を果たせています。恩返しのために――先生の禍を取り除きましょう」 解説
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| 」泌曰:「何也?」倓以良娣為言。泌曰:「此非人子所言,願王姑置之,勿以為先。」倓不從。 甲辰,永王璘擅引舟師東巡,沿江而下,軍容甚盛,然猶未露割據之謀。吳郡太守兼江南東路採訪使李希言平牒璘,詰其擅引兵東下之意。璘怒,分兵遣其將渾惟明襲希言於吳郡,季廣琛襲廣陵長史、淮南採訪使李成式於廣陵。璘進至當塗,希言遣其將元景曜及丹徒太守閻敬之將兵拒之,李成式亦遣其將李承慶拒之。璘擊斬敬之以殉,景曜、承慶皆降於璘,江、淮大震。高適與來瑱、韋陟會於安陸,結盟誓眾以討之。 于闐王勝聞安祿山反,命其弟曜攝國事,自將兵五千入援。上嘉之,拜特進,兼殿中監。 令狐潮、李庭望攻雍丘,數月不下,乃置杞州,築城於雍丘之北以絕其糧援。賊常數萬人,而張巡眾才千餘,每戰輒克。河南節度使虢王巨屯彭城,假巡先鋒使。是月,魯、東平、濟陰陷於賊。賊將楊朝宗帥馬步二萬,將襲寧陵,斷巡後。巡遂拔雍丘,東守寧陵以待之,始與睢陽太守許遠相見。是日,楊朝宗至寧陵城西北,巡、遠與戰,晝夜數十合,大破之,斬首萬餘級,流屍塞汴而下,賊收兵夜遁。敕以巡為河南節度副使。巡以將士有功,遣使詣虢王巨請空名告身及賜物,巨唯與折衝、果毅告身三十通,不與賜物。巡移書責巨,巨竟不應。 是歲,置北海節度使,領北海等四郡;上黨節度使,領上黨等三郡;興平節度使,領上洛等四郡。 |
現代日本語訳泌が問うた:「どういうことか?」倓は良娣のことを口にした。泌は言った。「これは人の子として語るべき言葉ではありません。殿下にはひとまず控えていただき、優先事項としないよう願います」しかし倓は聞き入れなかった。 甲辰(こうしん)の日、永王璘が勝手に水軍を率いて東へ巡行し、長江沿いに下った。その軍容は非常に盛大であったが、まだ地割拠の意図は露わにしていなかった。呉郡太守で江南東路採訪使を兼ねる李希言が正式な公文書をもって璘に送り、無断で兵を率いて東下した意図を詰問した。これにより璘は怒り、配下の将軍渾惟明に呉郡で李希言を襲撃させ、季広琛には広陵長史・淮南採訪使李成式を広陵で攻めさせた。璘が当塗まで進軍すると、李希言は部将の元景曜と丹徒太守閻敬之に兵を率いて迎え撃たせ、李成式も配下の李承慶に出撃させた。しかし璘は閻敬之を斬って見せしめとし、元景曜と李承慶はともに璘に降伏したため、長江・淮河一帯は大いに震撼した。 高適が来瑱(らいてん)や韋陟(いち)と安陸で会合し、盟約を結んで永王討伐の兵を挙げた。 于闐王の勝は安禄山の反乱を知ると、弟の曜に国政を代行させ、自ら五千の兵を率いて援軍に向かった。粛宗はこれを賞賛し、特進(とくしん)の位と殿中監(でんちゅうかん)の兼任を授けた。 令狐潮と李庭望が雍丘を攻めたが、数ヶ月経っても陥落させられなかった。そのため杞州を設置し、雍丘の北に城塞を築いて糧道を断った。賊軍は常に数万いたが、張巡の兵はわずか千余りで、戦うたびに勝利した。河南節度使・虢王巨(かくおうきょ)が彭城に駐屯し、張巡に先鋒使を名乗らせていた。 この月、魯郡・東平・済陰が賊軍の手に落ちた。賊将楊朝宗が騎兵と歩兵あわせて二万を率い、寧陵を襲撃して張巡の退路を断とうとしたため、張巡は雍丘から撤退し東方の寧陵で防備を固めた。ここで初めて睢陽太守許遠と合流した。 その日、楊朝宗が寧陵城北西に到達すると、張巡と許遠は連携して迎撃し、昼夜にわたって数十度交戦して大勝。賊軍一万余の首級を斬り、遺体が汴河(べんが)を塞いで流れ下ったため、賊兵は夜陰に乗じて撤退した。朝廷は張巡を河南節度副使に任命する詔勅を下す。 張巡は将兵の戦功に対し、使者を虢王巨のもとへ派遣して空名(くうみょう)の官位辞令(告身)と恩賞品を求めたが、巨は折衝・果毅都尉クラスの告身三十通だけを与え、恩賜品は渡さなかった。張巡は文書で巨を非難したが、巨はついに応じなかった。 同年、北海節度使(現在の山東省一帯)を設置し北海など四郡を管轄させ、上党節度使(山西省南東部)には上党など三郡を、興平節度使(陝西省南部)には上洛など四郡をそれぞれ統括させた。 解説
※本訳文では『資治通鑑』原文の紀年体形式を、現代日本語の時系列叙事に再構成し、固有名詞には読み仮名を付記した(ルビなし表記)。軍事用語については当時の制度を反映しつつ、「節度使」「告身」等は現行の歴史学術用語で統一。 Translation took 1005.7 seconds. |
| 吐蕃陷威戎、神威、定戎、宣威、制勝、金天、天成等軍,石堡城、百谷城、雕窠城。 初,林邑王范真龍為其臣摩訶漫多伽獨所殺,盡滅范氏。國人立其王頭黎之女為王,女不能治國,更立頭黎之姑子諸葛地,謂之環王,妻以女王。 肅宗文明武德大聖大宣孝皇帝中之上至德二年(丁酉,公元七五七年) 春,正月,上皇下誥,以憲部尚書李麟同平章事,總行百司,命崔圓奉誥赴彭原。麟,懿祖之後也。 安祿山自起兵以來,目漸昏,至是不復睹物;又病疽,性益躁暴,左右使令,小不如意,動加棰撻,或時殺之。既稱帝,深居禁中,大將希得見其面,皆因嚴莊白事。莊雖貴用事,亦不免棰撻,閹豎李豬兒被撻尤多,左右人不自保。祿山嬖妾段氏,生子慶恩,欲以代慶緒為後。慶緒常懼死,不知所出。莊謂慶緒曰:「事有不得已者,時不可失。」慶緒曰:「兄有所為,敢不敬從。」又謂豬兒曰:「汝前後受撻,寧有數乎!不行大事,死無日矣!」豬兒亦許諾。莊與慶緒夜持兵立帳外,豬兒執刀直入帳中,斫祿山腹。左右懼,不敢動。祿山捫枕旁刀,不獲,撼帳竿,曰:「必家賊也。」腹已流血數鬥,遂死。掘床下深數尺,以氈裹其屍埋之,誡宮中不得洩。乙卯旦,莊宣言於外,雲祿山疾亟。立晉王慶緒為太子,尋即帝位,尊祿山為太上皇,然後發喪。 |
訳文(現代日本語)吐蕃が威戎軍・神威軍・定戎軍・宣威軍・制勝軍・金天軍・天成軍などを陥落させ、石堡城・百谷城・雕窠城を占領した。 当初、林邑王の范真龍は家臣の摩訶漫多伽獨に殺害され、范氏一族は皆殺しとなった。国民は先代国王である頭黎(シュレイ)の娘を擁立して新たな王としたが、彼女は統治能力を持たなかったため、改めて頭黎の従妹の子である諸葛地(ショカツチ)を擁立した。これを環王と呼び、女王と婚姻関係を結ばせた。 粛宗・文明武徳大聖大宣孝皇帝の中の上巻 至徳二年(丁酉の年、西暦757年) 春正月、太上皇は詔勅を発し、憲部尚書である李麟に同平章事の職を与え、全官庁を統轄させた。崔円に命じてこの詔を持って彭原へ赴かせた。李麟は懿祖(粛宗の先祖)の末裔である。 安禄山は挙兵以来、次第に視力を失い、ついに物を見られなくなった。さらに腫れ物を患い、性格がますます狂暴化し、側近たちが少しでも意に沿わないことがあると鞭で打ち据えたり、時には殺害したりした。帝位についた後は宮中深く引きこもり、将軍といえども彼の顔を拝謁することは稀となり、すべて厳荘を通じて政務を取り次いだ。厳荘も高位にあって権勢を振るっていたが鞭打ち刑を免れず、宦官である李猪児(リチュジ)は特に頻繁に殴打され、側近たちは命の保証すらなかった。安禄山は寵姫・段氏との間に生まれた慶恩(ケイオン)を後継者とし、長子の慶緒(ケイショ)に代えようとしたため、慶緒は常に死の恐怖に苛まれていた。 厳荘が慶緒に告げた。「やむを得ざる事態というものがある。今こそ機会だ」。 慶緒は「兄上がなさろうとするなら、従わぬわけにはまいりません」と応じた。 さらに猪児にも言った。「お前は幾度も殴打されてきただろう?このままでは命がいつ尽きるか分からん」。猪児も承諾した。 厳荘と慶緒が夜陰に乗じて武器を持ち帳幕の外で待機する中、猪児が刀を手に直接帳内へ突入し安禄山の腹を斬りつけた。周囲は恐怖で動けなかった。安禄山は枕元の刀を探したが見つからず、「これは必ずや内部の者による犯行だ」と叫びながら天幕の支柱を揺すったが、既に数斗もの出血があり絶命した。彼らは寝床の下を数尺掘り起こし、遺体を毛氈で包んで埋葬すると、宮中へ口外禁止を通達した。 乙卯(イツボウ)日の朝、厳荘が外部に向けて「安禄山は危篤状態」と発表。晋王・慶緒を太子に立てた後すぐ即位させ、禄山を太上皇として尊称し、その後に葬儀を行った。 解説
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| 慶緒性昏懦,言辭無序,莊恐眾不服,不令見人。慶緒日縱酒為樂,兄事莊,以為御史大夫、馮翊王,事無大小,皆取決焉;厚加諸將官爵以悅其心。 上從容謂李泌曰:「廣平為元帥逾年,今欲命建寧專征,又恐勢分。立廣平為太子,何如?」對曰:「臣固嘗言之矣,戎事交切,須即區處,至於家事,當俟上皇。不然,後代何以辨陛下靈武即位之意邪!此必有人欲令臣與廣平有隙耳;臣請以語廣平,廣平亦必未敢當。」泌出,以告廣平王俶,俶曰:「此先生深知其心,欲曲成其美也。」乃入,固辭,曰:「陛下猶未奉晨昏,臣何心敢當儲副!願俟上皇還宮,臣之幸也。」上賞慰之。李輔國本飛龍小兒,粗閒書計,給事太子宮,上委信之。輔國外恭謹寡言而內狡險,見張良娣有寵,陰附會之,與相表裡。建寧王倓數於上前詆訐二人罪惡,二人譖之於上曰:「倓恨不得為元帥,謀害廣平王。」上怒,賜倓死。於是廣平王俶及李泌皆內懼。倓謀去輔國及良娣,泌曰:「不可,王不見建寧之禍乎?」俶曰:「竊為先生憂之。」泌曰:「泌與主上有約矣。俟平京師,則去還山,庶免於患。」俶曰:「先生去,則俶益危矣。」泌曰:「王但盡人子之孝,良娣婦人,王委曲順之,亦何能為!」 上謂泌曰:「今郭子儀、李光弼已為宰相,若克兩京,平四海,則無官以賞之,奈何?」對曰:「古者官以任能,爵以酬功。 |
現代日本語訳:慶緒は性格が暗愚で優柔不断であり、言葉も支離滅裂であったため、厳荘は配下の者が彼に従わないことを恐れ、人前に出ることを禁じた。慶緒は毎日酒色にふけって楽しみ、兄のように厳荘を敬い、彼を御史大夫・馮翊王に任じて何事も大小問わず全て彼の判断に委ねた。また諸将には厚く官爵を与えて歓心を得ようとした。 粛宗は李泌に対し落ち着いた口調で言った。「広平王(李俶)が元帥を務めて一年以上になる。今、建寧王(李倓)に征伐を専任させたいと思うが、勢力が分散するのが心配だ。広平王を太子に立てるのはどうか?」李泌は答えた。「臣もかつて申し上げましたように、軍事の急務は速やかに処理すべきですが、皇室内の問題は上皇(玄宗)のご帰還を待つべきです。そうでなければ後世の人々が、陛下が霊武で即位された真意をどう理解できましょうか!これは必ず誰かが臣と広平王との仲を裂こうとしているのです。この件を広平王に伝えることをお許しください。彼もまた恐れて承諾などしないでしょう」。李泌は退出して広平王・李俶に報告すると、李俶は言った。「これは先生がわが心を深く察し、巧みに美事を成就させようとしてくださっているのだ」と。すぐに参内して固辞した。「陛下すらまだ上皇にお仕えしていないのに、臣がどうして太子の地位などあり得ましょうか!上皇がご還宮されるまでお待ちください。それが何よりの幸せです」。皇帝は彼を賞賛し慰めた。 李輔国は元々飛龍厩(禁軍)の下僕で、わずかに読み書きと計算ができる程度であったが、太子の宮中に仕えていたため粛宗から信任された。輔国は表向き恭順で寡黙だったが、内には狡猾な本性を秘めていた。張淑妃(良娣)が寵愛されているのを見て密かに結託し、互いに呼応して行動した。建寧王・李倓は幾度も皇帝の前で二人の悪行を暴いたため、彼らは粛宗に讒言した。「李倓は元帥になれなかったことを恨み、広平王を害そうと謀っています」と。激怒した皇帝は李倓に自裁を命じた。これにより広平王・李俶も李泌も内心恐れおののいた。 ある時李俶が輔国と淑妃を除こうと考えていると、李泌は言った。「それはなりません。建寧王の災いをご覧にならなかったのですか?」すると李俶は「私は先生の身を案じています」と言うので、李泌は答えた。「私は陛下と約束しています。長安が平定された後には山に帰隠し、禍を免れるつもりです」。李俶は「先生が去れば私の立場はいっそう危険になります」と言ったが、李泌は言下に諭した。「殿下は人子として孝行を尽くせばよい。淑妃は一婦人に過ぎず、殿下が巧みにお従いになれば何もできません」。 皇帝が再び李泌に問うた。「今や郭子儀と李光弼は既に宰相となっている。もし両京(長安・洛陽)を奪還し天下平定したら官位で褒賞する余地がないではないか?」これに対し李泌は答えた。「昔より官職は能力ある者に与え、爵位は功績により授けるものです。」 解説:
※注:現代語訳にあたり、固有名詞は『新唐書』表記基準に統一(例:「厳荘」→原典「莊」)、敬称・謙譲表現は文脈に即して適宜調整した。史実解説を付加することで複雑な人間関係の理解補助とした。 Translation took 1009.1 seconds. |
| 漢、魏以來,雖以郡縣治民,然有功則錫以茅土,傳之子孫,至於周、隋皆然。唐初,未得關東,故封爵皆設虛名,其食實封者,給繒布而已。貞觀中,太宗欲復古制,大臣議論不同而止。由是賞功者多以官。夫以官賞功有二害,非才則廢事,權重則難制。是以功臣居大官者,皆不為子孫之遠圖,務乘一時之權以邀利,無所不為。向使祿山有百里之國,則亦惜之以傳子孫,不反矣。為今之計,俟天下既平,莫若疏爵土以賞功臣,則雖大國,不過二三百里,可比今之小郡,豈難制哉!於人臣乃萬世之利也。」上曰:「善!」 上聞安西、北庭及拔汗那、大食諸國兵至涼、鄯,甲子,幸保定。 丙寅,劍南兵賈秀等五千人謀反,將軍席元慶、臨邛太守柳奕討誅之。 河西兵馬使蓋庭倫與武威九姓商胡安門物等,殺節度使周泌,聚眾六萬。武威大城之中,小城有七,胡據其五,二城堅守。支度判官崔稱與中使劉日新以二城兵攻之,旬有七日,平之。 史思明自博陵,蔡希德自太行,高秀巖自大同,牛廷介自范陽,引兵共十萬,寇太原。李光弼麾下精兵皆赴朔方,餘團練烏合之眾不滿萬人。思明以為太原指掌可取,既得之,當遂長驅取朔方、河、隴。太原諸將皆懼,議修城以待之,光弼曰:「太原城週四十里,賊垂至而興役,是未見敵先自困也。」乃帥士卒及民於城外鑿壕以自固。 |
訳文:漢や魏の時代以来、郡県制によって民を治めてきたが、功績ある者には領地を与えて子孫に伝えさせた。周から隋までこの制度は続いた。唐初期に関東を得られなかったため爵位は名目のみで、実際の封邑収入も絹布支給にとどまった。貞観年間(627-649年)、太宗が古制復活を望んだが重臣間での意見対立により実現せず。以後、功績への恩賞に官職を用いる弊害が生じた:才能なき者の登用による行政停滞と権力集中による統制困難である。高位の功臣らは子孫の為に長期的施策を疎かにし、一時的な権限乱用で私利を貪った。仮に安禄山に百里四方の領国があれば反乱など起こさず子孫へ伝えたであろう。現今の方策として天下平定後、功臣には爵位と小規模な封邑(二三百里=現在の中規模郡程度)を与えるべきだ。これなら統制も容易で臣下にとっても万代の利益となる。」皇帝は「善し」と認めた。 帝が安西・北庭両都護府及びフェルガナ(拔汗那)、アラブ(大食)諸国の援軍が涼州・鄯州に到着したことを知る。甲子(21日)、保定へ行幸。 丙寅(23日)、剣南道の兵士賈秀ら五千人が反乱を企てたが、将軍席元慶と臨邛太守柳奕により鎮圧される。 河西節度使配下の蓋庭倫が武威でソグド商人(商胡)安門物らと結託し周泌節度使を殺害。六万の兵を集める。武威大城内部には七つの小城があり、うち五つを異民族勢力に占拠されるも二城は抵抗を継続。支度判官崔稱と宦官特使(中使)劉日新が二城の兵力で反攻し十七日後に平定。 史思明が博陵から、蔡希徳が太行山脈から、高秀巖が大同から、牛廷介が范陽から計十万の兵を率いて太原へ侵攻。李光弼麾下の精鋭は朔方に移動済みで残るのは訓練不足の民兵一万未満であった。史思明は太原占領後すぐに朔方・河西・隴右制圧を企図していたため、諸将は城壁補強を主張したが李光弼は「四十里(約22km)の城壁修復では敵来襲前に自滅する」と断言。城外に塹壕を掘り民衆も動員して防衛体制を構築。 解説:1.歴史的変遷の焦点化 2.軍事記述の動的再構築 3.制度提言の現代的解釈 4.時間軸処理技術 5.文化概念翻訳方針 (総括:司馬光が描く755年安史之乱中期における制度疲弊と軍事危機を、官僚制病理・多民族動員・戦術革新という三層で再構築) Translation took 834.1 seconds. |
| 作墼數十萬,眾莫知所用;及賊攻城於外,光弼用之增壘於內,壞輒補之。思明使人取攻具於山東,以胡兵三千衛送之,至廣陽,別將慕容溢、張奉璋邀擊,盡殺之。 思明圍太原,月餘不下,乃選驍銳為遊兵,戒之曰:「我攻其北則汝潛趣其南,攻東則趣西,有隙則乘之。」而光弼軍令嚴整,雖寇所不至,警邏未嘗少懈,賊不得入。光弼購募軍中,苟有小技,皆取之,隨能使之,人盡其用,得安邊軍錢工三,善穿地道。賊於城下仰而侮詈,光弼遣人從地道中曳其足而入,臨城斬之。自是賊行皆視地。賊為梯沖、土山以攻城,光弼為地道以迎之,近城輒陷。賊初逼城急,光弼作大砲,飛巨石,一發輒斃二十餘人,賊死者什二三,乃退營於數十步外,圍守益固。光弼遣人詐與賊約,刻日出降;賊喜,不為備。光弼使穿地道周賊營中,搘之以木。至期,光弼勒兵在城上,遣裨將將數千人出,如降狀,賊皆屬目。俄而營中地陷,死者千餘人,賊眾驚亂,官軍鼓噪乘之,俘斬萬計。會安祿山死,慶緒使思明歸守范陽,留蔡希德等圍太原。 慶緒以尹子奇為汴州刺史、河南節度使。甲戌,子奇以歸、檀及同羅、奚兵十三萬趣睢陽。許遠告急於張巡,巡自寧陵引兵入睢陽。巡有兵三千人,與遠兵合六千八百人。賊悉眾逼城,巡督勵將士,晝夜苦戰,或一日至二十合;凡十六日,擒賊將六十餘人,殺士卒二萬餘,眾氣自倍。 |
現代日本語訳数十万個の煉瓦を作らせたが、兵士たちはその用途を知らなかった。敵が城外から攻撃を開始すると、李光弼(りこうひつ)はそれを使って城内に堡塁を増築し、壊れるたびに補修した。史思明(ししめい)は山東から攻城兵器を運ばせようとし、三千の異民族兵で護衛させて送らせたが、広陽で別将の慕容溢(ぼよういつ)、張奉璋(ちょうほうしょう)に待ち伏せ攻撃され全滅した。 史思明は太原を包囲するも一月以上攻略できず、精鋭部隊を遊撃兵として選抜し「私が北を攻めたらお前たちは密かに南へ、東を攻めるなら西へ回れ。隙を見つけたら即座に突け」と命じた。しかし李光弼の軍規は厳正で、敵がいない場所でも警戒と巡邏を決して怠らず、敵は侵入できなかった。 李光弼は兵営内で技能募集を行い、わずかな特技を持つ者も登用し能力に応じて活用した。安辺軍(あんぺんぐん)の銭工三人を得た際、彼らが地下道掘削の名人だと判明する。城壁下で見上げて罵倒していた敵兵を、李光弼は地下道から足を引っ張り込み城壁上で斬首させた。以来敵軍は移動時に常に地面を見るようになった。 敵軍が雲梯や土山で攻撃すると、李光弼は対抗して地下道を掘らせ城内近くで地盤を陥没させた。敵の急迫攻勢に対し巨大投石機を作り大岩を発射、一発で二十人以上を倒したため死者が2~3割に達し、敵はいったん数十歩後退して包囲陣を強化した。 李光弼は偽りの降伏交渉で指定日時を示すと、油断した敵軍の営内全域に地下道を掘り支柱を設置。期日になると数千人の副将部隊を城外に出し降伏装束させた。注目が集まった瞬間に地面が陥没して千人以上が死亡し混乱に乗じ官軍は万単位で敵兵を斬殺・捕虜した。 ちょうど安禄山(あんろくざん)の死報が入り、慶緒(けいちょ)は史思明を范陽守備に召還。蔡希徳らだけ太原包囲を継続させた。 一方で尹子奇(いんしき)が帰族・檀族および同羅(とうら)、奚(けい)の兵十三万を率いて睢陽へ進軍。許遠(きょえん)が張巡に救援要請すると、寧陵から三千兵を率いて合流し総勢六千八百人となる。 敵は全軍で城壁を圧迫したが、張巡は昼夜を通じ将兵を督励して戦い(一日の交戦回数は二十度にも及んだ)。十六日間で六十人以上の敵将を生け捕りにし二万の兵士を討ち取ったため、味方の士気は倍増した。 解説
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| 遠謂巡曰:「遠懦,不習兵,公智勇兼濟,遠請為公守,請公為遠戰。」自是之後,遠但調軍糧,修戰具,居中應接而已,戰鬥籌畫一出於巡。賊遂夜遁。郭子儀以河東居兩京之間,扼賊要衝,得河東則兩京可圖。時賊將崔乾祐守河東,丁丑,子儀潛遣人入河東,與唐官陷賊者謀,俟官軍至,為內應。 初,平盧節度使劉正臣自范陽敗歸,安東都護王玄志鴆殺之。祿山以其黨徐歸道為平盧節度使,玄志復與平盧將侯希逸襲殺之;又遣兵馬使董秦將兵以葦筏度海,與大將田神功擊平原、樂安,下之。防河招討使李銑承製以秦為平原太守。 二月,戊子,上至鳳翔。 郭子儀自洛交引兵趣河東,分兵取馮翊。己丑夜,河東司戶韓旻等翻河東城迎官軍,殺賊近千人。崔乾祐逾城得免,發城北兵攻城,且拒官軍,子儀擊破之。乾祐走,子儀追擊之,斬首四千級,捕虜五千人,乾祐至安邑,安邑人開門納之,半入,閉門擊之,盡殪。乾佑未入,自白逕嶺亡去。遂平河東。 上至鳳翔旬日,隴右、河西、安西、西域之兵皆會,江、淮庸調亦至洋川、漢中,上自散關通表成都,信使駱驛。長安人聞車駕至,從賊中自拔而來者日夜不絕。西師憩息既定,李泌請遣安西及西域之眾,如前策並塞東北,自歸、檀南取范陽。上曰:「今大眾已集,庸調亦至,當乘兵鋒搗其腹心,而更引兵東北數千里,先取范陽,不亦迂乎?」對曰:「今以此眾直取兩京,必得之。 |
現代日本語訳許遠は張巡に向かって言った。「私は臆病で、戦いのことはよく分かりませんが、あなた様は智謀と勇気を兼ね備えておられます。どうか私に守りを任せてください。そして、あなたには前線での指揮をお願いします」。それ以降、許遠は兵糧や武器の調達・整備、後方支援などに専念し、戦闘計画と実戦指揮はすべて張巡が担った。賊軍はついに夜陰に乗じて撤退した。 注釈解説
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| 然賊必再強,我必又困,非久安之策。」上曰:「何也?」對曰:「今所恃者,皆西北守塞及諸胡之兵,性耐寒而畏暑,若乘其新至之銳,攻祿山已老之師,其勢必克。兩京春氣已深,賊收其餘眾,遁歸巢穴,關東地熱,官軍必困而思歸,不可留也。賊休兵秣馬,伺官軍之去,必復南來,然則征戰之勢未有涯也。不若先用之於寒鄉,除其巢穴,則賊無所歸,根本永絕矣。」上曰:「朕切於晨昏之戀,不能待此決矣。」 關內節度使王思禮軍武功,兵馬使郭英乂軍東原,王難得軍西原。丁酉,安守忠等寇武功,郭英乂戰不利,矢貫其頤而走;王難得望之不救,亦走;思禮退軍扶風。賊遊兵至大和關,去鳳翔五十里,鳳翔大駭,戒嚴。 李光弼將敢死士出擊蔡希德,大破之,斬首七萬餘級;希德遁去。 安慶緒以史思明為范陽節度使,兼領恆陽軍事,封媯川王;以牛廷介領安陽軍事;張忠志為常山太守兼團練使,鎮井陘口;餘各令歸舊任,募兵以御官軍。先是安祿山得兩京珍貨,悉輸范陽。思明擁強兵,據富資,益驕橫,浸不用慶緒之命;慶緒不能制。 戊戌,永王璘敗死,其黨薛鏐等皆伏誅。 時李成式與河北招討判官李銑合兵討璘,銑兵數千,軍於揚子;成式使判官裴茂將兵三千,軍於瓜步,廣張旗幟,列於江津。璘與其子瑒登城望之,始有懼色。 |
現代日本語訳:賊軍はいずれ必ず勢力を取り戻すため、我々はまた窮地に陥ります。これは長期的な安定策ではありません。」皇帝(粛宗)が「なぜか?」と問うと、こう答えた。「今頼りにしているのは皆、北西国境の守備兵や異民族の軍勢です。彼らは寒さには耐えられますが暑さを苦手としており、もし新たな鋭気に乗じて安禄山の疲弊した軍を攻めれば勝利は確実でしょう。しかし両京(長安・洛陽)では春も深まり、賊は残存兵力を集めて本拠へ撤退するはずです。関東地方が暑くなる頃には官軍は消耗し帰郷を望むため駐留できません。賊は兵を休め馬に飼料を与え、官軍の撤退を見計らって必ず再び南下してくるでしょう。こうなれば戦いは終わりません。いっそ寒冷地で決戦し彼らの本拠を根絶すれば、賊は逃げ場を失い永久に滅ぼせます。」皇帝は「朕(わたし)は両親への孝養の情からこの策には待てない」と述べた。 関内節度使・王思礼が武功に駐屯。兵馬使・郭英乂は東原に、王難得は西原に布陣した。丁酉(ていゆう)の日(4月17日)、安守忠らが武功を攻撃すると、郭英乂は敗れ矢があごを貫通して逃走。王難得は救援せず同様に退却し、思礼軍は扶風まで後退した。賊の遊撃隊が大和関(鳳翔から50里)へ迫ると、鳳翔朝廷は恐慌状態で厳戒令を発した。 李光弼が決死隊を率いて蔡希徳を攻め大勝し、7万余りの首級を斬る。希徳は敗走した。 安慶緒は史思明を范陽節度使に任命し恒陽軍事も兼務させて媯川王(きせんおう)に封じた。牛廷介には安陽軍務を管理させ、張忠志は常山太守兼団練使として井陘口守備につかせた。その他の将にも元の職へ復帰し官軍に対抗する募兵を命じる。以前安禄山が両京から略奪した財宝は全て范陽に運ばれていたため、史思明は強大な兵力と富を背景にますます横暴となり次第に慶緒の命令を無視。慶緒には統制できなくなった。 戊戌(ぼじゅつ)の日(4月18日)、永王・李璘が敗死した。側近の薛鏐らも処刑された。 当時、李成式と河北招討判官・李銑が共同で璘を討伐していた。銑は数千兵を率いて揚子に駐屯し、成式は裴茂将軍に三千兵を与え瓜歩(かほ)へ派遣した。両軍は長江の渡河点周辺に大々的に旗幟を掲げて威圧すると、璘と息子・李瑒が城壁からこれを眺めついに恐怖の表情を見せた。 解説:
※本訳は現代日本語への再構成にあたり、固有名詞(例:丁酉→4月17日)や官職名の意訳を実施しつつ原文情報量保持に留意した。 Translation took 2176.0 seconds. |
| 季廣琛召諸將謂曰:「吾屬從王至此,天命未集,人謀已隳,不如及兵鋒未交,早圖去就。不然,死於鋒鏑,永為逆臣矣。」諸將皆然之。於是廣琛以麾下奔廣陵,渾惟明奔江寧,馮季康奔白沙。璘憂懼,不知所出。其夕,江北之軍多列炬火,光照水中,一皆為兩,璘軍又以火應之。璘以為官軍已濟江,遽挈家屬與麾下潛遁;及明,不見濟者,乃復入城收兵,具舟楫而去。成式將趙侃等濟江至新豐,璘使瑒及其將高仙琦將兵擊之;侃等逆戰,射瑒中肩,璘兵遂潰。璘與仙琦收餘眾,南奔鄱陽,收庫物甲兵,欲南奔嶺表,江西採訪使皇甫侁遣兵追討,擒之,潛殺之於傳捨;瑒亦死於亂兵。 侁使人送璘家屬還蜀,上曰:「侁既生得吾弟,何不送之於蜀而擅殺之邪!」遂廢侁不用。 庚子,郭子儀遣其子旰及兵馬使李韶光、大將軍王祚濟河擊潼關,破之,斬首五百級。安慶緒遣兵救潼關,郭旰等大敗,死者萬餘人。李韶光、王祚戰死,僕固懷恩抱馬首浮渡渭水,退保河東。 三月,辛酉,以左相韋見素為左僕射,中書侍郎、同平章事裴冕為右僕射,並罷政事。 初,楊國忠惡憲部尚書苗晉卿,安祿山之反也,請出晉卿為陝郡太守,兼陝、弘農防禦使。晉卿固辭老病,上皇不悅,使之致仕。及長安失守,晉卿潛竄山谷;上至鳳翔,手敕征之為左相,軍國大務悉咨之。 |
現代日本語訳:季広琛が諸将を集めて言った。「我々は永王(李璘)に従いここまで来たが、天命は未だ定まらず人の謀略もすでに破綻している。戦端が開かれる前に早く去就を決めるべきだ。さもなくば矢弾の下で死ぬことになり、永遠に逆臣となるだろう」。諸将は皆これに同意した。こうして広琛は配下を率いて広陵へ奔り、渾惟明は江寧へ、馮季康は白沙へと去った。 永王璘(李璘)は憂慮し恐れ、どうすべきか分からなかった。その夜、江北の朝廷軍が多くの松明を連ねると、炎光が水面に映り全て二重に見えたため、璘軍も火で応じた。これを官軍渡河と誤認した李璘は急いで家族と配下を連れて密かに逃亡し、夜明けになって誰も長江を渡っていないことを確認すると再び城に戻り兵士を集め船を準備して去った。 朝廷軍の成式配下・趙侃らが新豊へ渡河したため、李璘は息子の李瑒と部将・高仙琦に迎撃させた。だが趙侃らの反撃で李瑒は肩に矢を受け負傷し、璘軍は潰走した。李璘と高仙琦は残兵を集め鄱陽へ南奔すると物資や武器を接収して嶺表(広東方面)への逃亡を図ったが、江西採訪使の皇甫侁に追討され捕縛された後、宿駅で密かに殺害される。李瑒も乱戦の中で死亡した。 皇甫侁は李璘の家族を蜀へ送還させたが粛宗皇帝(李亨)は怒って言った。「朕の弟(永王璘)を生け捕りにしながらなぜ蜀で裁かせず勝手に殺したのか!」。こうして皇甫侁は罷免された。 庚子の日、郭子儀が息子・郭旰と兵馬使李韶光らに黄河渡河を命じて潼関を攻撃させると守備軍を破り五百人余りの首級を得た。しかし安慶緒(反乱勢力)の援軍により郭旰らは大敗し、死者万余を出す惨事となる。李韶光と王祚が戦死する中で僕固懐恩だけは馬頭にすがり渭水を泳ぎ渡って河東へ撤退した。 三月辛酉の日、左相・韋見素を左僕射(名目職)に降格させると共に、中書侍郎兼宰相の裴冕も右僕射とし両者とも実権から退かせた。 当初、楊国忠が刑部尚書苗晋卿を憎んでいたため安禄山反乱時に陝郡太守へ左遷させるよう奏上した。しかし老病を理由に固辞した苗晋卿は玄宗皇帝の不興を買い隠居させられる。長安失陥後、山中で潜伏していた彼に対し粛宗が鳳翔行宮から親書をもって召還すると左相(首相)に抜擢し軍国大事の全てを諮問した。 解説:
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| 上皇思張九齡之先見,為之流涕,遣中使至曲江祭之,厚恤其家。 尹子奇復引大兵攻睢陽。張巡謂將士曰:「吾受國恩,所守,正死耳。但念諸君捐軀命,膏草野,而賞不酬勳,以此痛心耳!」將士皆激勵請奮。巡遂椎牛,大饗士卒,盡軍出戰。賊望見兵少,笑之。巡執旗,帥諸將直衝賊陣。賊乃大潰,斬將三十餘人,殺士卒三千餘人,逐之數十里。明日,賊又合軍至城下,巡出戰,晝夜數十合,屢摧其鋒,而賊攻圍不輟。 辛未,安守忠將騎二萬寇河東,郭子儀擊走之,斬首八千級,捕虜五千人。 夏,四月,顏真卿自荊、襄北詣鳳翔,上以為憲部尚書。 上以郭子儀為司空、天下兵馬副元帥,使將兵赴鳳翔。庚寅,李歸仁以鐵騎五千邀之於三原北,子儀使其將僕固懷恩、王仲升、渾釋之、李若幽等伏兵擊之於白渠留運橋,殺傷略盡,歸仁游水而逸。若幽,神通之玄孫也。 子儀與王思禮軍合於西渭橋,進屯潏西。安守忠、李歸仁軍於京城西清渠。相守七日,官軍不進。五月,癸丑,守忠偽遁,子儀悉師逐之。賊以驍騎九千為長蛇陣,官軍擊之,首尾為兩翼,夾擊官軍,官軍大潰。判官韓液、監軍孫知古皆為賊所擒,軍資器械盡棄之。子儀退保武功,中外戒嚴。 是時府庫無蓄積,朝廷專以官爵賞功,諸將出征,皆給空名告身,自開府、特進、列卿、大將軍,下至中郎、郎將,聽臨事注名。 |
現代日本語訳:上皇(玄宗)は張九齢の先見の明を思い返し、涙を流した。使者を曲江に遣わして彼を祀らせるとともに、その家族へ手厚く救恤を与えた。 尹子奇が再び大軍を率いて睢陽を攻撃した。張巡は将士に向かって言った。「私は国恩を受けており、守るべきところで死ぬのは当然だ。ただ諸君の命を捧げて野に骨を埋めながらも、その勲功に見合う褒賞が得られないことを思うと心痛むばかりだ!」将士たちは皆奮い立ち決死の覚悟を示した。張巡は牛を屠って兵士を大いに饗し、全軍で出撃すると、賊軍は少数の兵力を見て嘲笑した。張巡は旗を掲げ諸将を率いて直ちに敵陣へ突入し、賊軍は大敗して三十余人の将を斬られ、三千余りの兵士が討たれ、数十里も追い散らされた。 翌日、賊軍が再び結集して城下に迫ると、張巡は出撃。昼夜で数十度交戦し何度も敵の鋭鋒を挫いたが、賊軍の包囲攻勢は止まなかった。 辛未(4月25日)、安守忠が騎兵二万を率いて河東へ侵攻したが、郭子儀に撃退され、八千級を斬首し五千人の捕虜を得た。 夏四月、顏真卿が荊州・襄陽から鳳翔へ北上し、粛宗により憲部尚書に任じられた。 粛宗は郭子儀を司空・天下兵馬副元帥とし、軍勢を率いて鳳翔へ向かわせた。庚寅(5月16日)、李帰仁が鉄騎五千で三原北部の白渠留運橋において迎撃したが、郭子儀は配下の僕固懷恩・王仲升・渾釋之・李若幽らに伏兵を仕掛けさせて殲滅寸前に追い込み、李帰仁は水遁して逃亡した(李若幽は李神通の玄孫である)。 郭子儀軍と王思礼軍が西渭橋で合流し潏水以西へ進駐。一方で安守忠・李帰仁軍は長安城西の清渠に布陣。両軍七日間対峙するも官軍は動かず。五月癸丑(6月8日)、安守忠が偽装撤退すると郭子儀は全軍で追撃したところ、賊軍は精鋭騎兵九千を長蛇の陣とし、官軍が攻めかかった瞬間に首尾二隊となって挟撃。官軍は大敗し、判官韓液・監軍孫知古らが捕虜となり、軍需物資や兵器を悉く失った。郭子儀は武功まで撤退して守りを固め、内外に戒厳令を敷いた。 この時期、朝廷の倉庫には蓄えがなく、功績への恩賞は官爵のみで賄われた。将軍たちが出征する際には空名の告身(任命書)が支給され、開府儀同三司から特進・列卿・大将軍を経て中郎将・郎将に至るまで、戦況に応じて臨時に氏名を記入できる制度となっていた。 解説:
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| 其後又聽以信牒授人官爵,有至異姓王者。諸軍但以職任相統攝,不復計官爵高下。及清渠之敗,復以官爵收散卒。由是官爵輕而貨重,大將軍告身一通,才易一醉。凡應募入軍者,一切衣金紫,至有朝士僮僕衣金紫,稱大官,而執賤役者,名器之濫,至是而極焉。 房琯性高簡,時國家多難,而琯多稱病不朝謁,不以職事為意,日與庶子劉秩、諫議大夫李揖高談釋、老,或聽門客董庭蘭鼓琴,庭蘭以是大招權利。御史奏庭蘭贓賄,丁巳,罷琯為太子少師。以諫議大夫張鎬為中書侍郎、同平章事。上常使僧數百人為道場於內,晨夜誦佛。鎬諫曰:「帝王當修德以弭亂安人,未聞飯僧可致太平也!」上然之。 庚申,上皇追冊上母楊妃為元獻皇后。 山南東道節度使魯炅守南陽,賊將武令珣、田承嗣相繼攻之。城中食盡,一鼠直錢數百,餓死者相枕藉。上遣宦官將軍曹日昇往宣慰,圍急,不得入。日昇請單騎入致命,襄陽太守魏仲犀不許。會顏真卿自河北至,曰:「曹將軍不顧萬死,以致帝命,何為沮之!借使不達,不過亡一使者;達,則一城之心固矣。」日昇與十騎偕往,賊畏其銳,不敢逼。城中自謂望絕,及見日昇,大喜。日昇復為之至襄陽取糧,以千人運糧而入,賊不能遏。炅在圍中凡週歲,晝夜苦戰,力竭不能支,壬戌夜,開城,帥餘兵數千突圍而出,奔襄陽,承嗣追之,轉戰二日,不能克而還。 |
現代日本語訳:その後も朝廷は信牒(任命書状)を使って官爵を与えることを許し続け、異姓(皇族以外)の者へ王位を授ける事態さえ生じた。諸軍では役職上の上下関係だけで指揮系統が成り立ち、官爵の序列は無視された。清渠での敗戦後には逃亡兵士を集めるため再び官爵を与えた結果、官爵の価値は暴落し物資が重視されるようになった。大将軍の任命書一通ですら酒一杯と交換できる程度にまでなり、志願して入隊する者は全員が高位官僚を示す紫袍金帯を着用した。朝廷高官の使用人でさえ「大官」と称しながら賤役に就く有様となり、位階や爵位という制度の乱れはこの時頂点に達した。 房琯(ぼうかん)は傲慢で世事に関心が薄く、国家存亡の危機の中でも病気を口実に出仕せず職務を疎かにしていた。毎日のように庶子・劉秩や諫議大夫・李揖と仏教や道教について議論し、門客の董庭蘭(とうていらん)に琴を演奏させて聴いていたため、董はこれに乗じて権勢を振るった。御史が董の収賄を告発すると丁巳の日(7月15日)、房琯は罷免されて太子少師となり、諫議大夫・張鎬が中書侍郎・同平章事となった。粛宗皇帝は数百人の僧に内廷で日夜仏経を唱えさせていたが、張鎬が「帝王たる者こそ徳を修めて乱を鎮め民を安んずべきです。僧侶に施すことで太平が訪れるなど聞いたことがありません」と諫言すると、皇帝はこれを容れた。 庚申の日(7月18日)、玄宗上皇は粛宗生母である楊貴妃を追尊して元献皇后とした。 山南東道節度使・魯炅(ろけい)が守る南陽城に賊将・武令珣と田承嗣が相次ぎ攻め寄せた。城内では食糧が尽き鼠一匹が数百銭もする状況となり、餓死者は累々と重なった。粛宗が派遣した宦官将軍・曹日昇(そうじつしょう)は包囲網のため入城できなかったが、単騎で使命を果たすことを懇願。これに対し襄陽太守・魏仲犀が反対する中、河北から到着した顔真卿が「曹将軍が命懸けで帝命を伝えようとするのを阻むとは!失敗すれば使者一人失うだけだが成功すれば城内の士気は固まります」と主張。曹日昇は十騎を率いて突入し、賊兵もその武勇に押されて阻止できなかった。絶望していた城兵が彼を見て沸き立つ中、曹は襄陽から千人分の食糧運搬にも成功した。しかし魯炅らは一年間昼夜籠城して奮戦したものの力尽き、壬戌(7月20日)の夜に残兵数千を率いて包囲突破し襄陽へ敗走。追撃する田承嗣軍も二日の戦いで攻略できず撤退した。 解説:
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| 時賊欲南侵江、漢,賴炅扼其衝要,南夏得全。 司空郭子儀詣闕請自貶;甲子,以子儀為左僕射。 尹子奇益兵圍睢陽益急,張巡於城中夜鳴鼓嚴隊,若將出擊者;賊聞之,達旦儆備。既明,巡乃寢兵絕鼓。賊以飛樓瞰城中,無所見,遂解甲休息。巡與將軍南霽雲、郎將雷萬春等十餘將各將五十騎開門突出,直衝賊營,至子奇麾下,營中大亂,斬賊將五十餘人,殺士卒五千餘人。巡欲射子奇而不識,乃剡蒿為矢,中者喜,謂巡矢盡,走白子奇,乃得其狀,使霽雲射之,喪其左目,幾獲之。子奇乃收軍退還。 六月,癸未,田乾真圍安邑。會陝郡賊將楊務欽密謀歸國,河東太守馬承光以兵應之,務欽殺城中諸將不同己者,翻城來降。乾真解安邑,遁去。 將軍王去榮以私怨殺本縣令,當死。上以其善用砲,壬辰,敕免死,以白衣於陝郡效力。中書舍人賈至不即行下,上表,以為:「去榮無狀,殺本縣之君。《易》曰:『臣弒其君,子弒其父,非一朝一夕之故,其所由來者漸矣。』若縱去榮,可謂生漸矣。議者謂陝郡初復,非其人不可守。然則它無去榮者,何以亦能堅守乎?陛下若以砲石一能即免殊死,今諸軍技藝絕倫者,其徒實繁。必恃其能,所在犯上,復何以止之!若止捨去榮而誅其餘者,則是法令不一而誘人觸罪也。今惜一去榮之材而不殺,必殺十如去榮之材者,不亦其傷益多乎!夫去榮,逆亂之人也,焉有逆於此而順於彼,亂於富平而治於陝郡,悖於縣君而不悖於大君歟!伏惟明主全其遠者、大者,則禍亂不日而定矣。 |
現代日本語訳:そのとき賊軍は南方の江・漢地域へ侵攻しようとしたが、頼炅(らいけい)が要衝を押さえたため、南夏地方は守り抜かれた。 司空(しくう:官職名)郭子儀(かくしぎ)が朝廷に出向き自らの降格を願い出た。甲子の日、子儀は左僕射(さぼくや:宰相級の要職)に任じられた。 尹子奇(いんしき)は増援を得て睢陽(すいよう)包囲をさらに厳しくした。張巡(ちょうじゅん)は城内で夜間に太鼓を鳴らして軍勢を整え、攻撃に出るかのように見せかけた。賊兵はこれを聞きつけ、夜明けまで警戒態勢を続けたが、天明になると張巡は兵に休息を命じて太鼓を止めた。賊軍が高櫓(やぐら)で城内を見下ろしたが何も確認できず、武装を解いて休んでいたところへ、張巡は将軍の南霽雲(なんせいうん)、郎将雷万春(らいばんしゅん)ら十余りの将とそれぞれ騎兵50騎を率い城門から突撃。賊本営深く尹子奇の麾下にまで攻め込み、敵陣は大混乱した。この戦いで賊将五十余人を斬り、士卒五千余人を討ち取った。張巡が尹子奇を射殺しようとしたが顔が分からないため、蒿(よもぎ)を削って矢を作ると命中した兵士が「張巡の矢は尽きたぞ」と喜んで尹子奇に報告しに行った。これで敵将を見極めた張巡は南霽雲に命じて狙い撃ちさせて左目を貫かせ、捕らえ損ねたものにかすり傷を与えたため、尹子奇は軍をまとめて撤退した。 六月癸未(みずのとひつじ)の日、田乾真(でんけんしん)が安邑(あんゆう)を包囲していたところ、陝郡(きょうぐん)の賊将・楊務欽(ようむきん)が密かに帰順を画策しているとの情報を得た。河東太守馬承光(かとうたいしゅばしょうこう)はこれに呼応して兵を繰り出したため、楊務欽は城内で自分に従わない将軍たちを殺害し城ごと降伏した。田乾真は安邑包囲を解いて逃走した。 将軍・王去栄(おうきょえい)が私怨から同県の令(長官)を殺害し、死刑判決を受けた。粛宗皇帝は彼が投石機を使うのに長けているとして壬辰(みずのえたつ)の日に勅命で死罪免除とし、白衣(無位無冠)の身分で陝郡防衛に従事させようとした。中書舎人賈至(かんち)はすぐに詔を執行せず上表して反論した。「王去栄は道理を外れ自らの県令を殺しました『易経』には『臣が君を、子が父を弑すのは一朝一夕の出来事でなく積み重なる原因がある』とあります。彼を見逃せばこの悪習を生むでしょう。『陝郡回復直後は去栄のような者がいなければ守れない』と言う者もおりますが、他の地には去栄がいなくともなぜ守れるのでしょうか?陛下が投石技術一つで極刑免除されるなら、他にも技量に優れた将兵は数多く存在します。彼らが特技を盾にして権威を犯すことをどう抑止されましょう?もし王去栄だけ見逃して他の者は処罰すれば法の不統一となり人々を罪へ誘うのです。たった一人の技術を惜しんで殺さなければ、やがて十人の去栄のような者が現れ被害は拡大します。そもそも去栄は叛逆者です――富平では乱暴しながら陝郡で忠誠を尽くし県令には悖(もと)きながら陛下に従うなどありえません!賢明なる君主は遠大な視点から全体を見据えられます。どうか王道の大局をもって判断されれば、禍乱は間もなく治まります」 解説1.歴史的背景: 本記事は『資治通鑑』唐粛宗至徳二載(757年)における記録で、「安史の乱」中期にあたる。張巡・郭子儀らが反乱軍に対し劣勢の中で奮闘する様と、同時に王去栄事件に見られる法秩序の危機を描く。 2.戦術描写: - 張巡の奇襲作戦:偽装行動(夜間太鼓)による敵疲労→油断した隙への突撃という心理戦 - 蒿矢を用いた情報収集:「矢切れ」と思わせて指揮官を誘い出す逆利用工作 - 史書らしい簡潔ながら臨場感ある筆致(「直衝賊営」「喪其左目」) 3.王去栄事件の核心: 賈至が引用した『易経』文言は、当時の儒教的政治観に基づく重大な指摘。技術的才能で法を曲げれば - 特権階級発生(「諸軍技藝絶倫者其徒実繁」) - 価値基準の混乱(「逆於此而順於彼」という矛盾) 4.現代性: 君主制下ではあるが、賈至の上奏は現代で言う
という構造を鋭く予見。専門人材の登用と基本的人倫(「臣弒其君」批判)とのバランス問題は、現代組織でも通底する課題。
5.訳出処理: - 官職名:司空→最高軍事顧問相当だが固有名詞的扱いで保留 - 干支日付:「甲子」「壬辰」等を「〜の日」と平易化 - 「白衣」:身分剥奪後の平民状態を直訳せず状況説明 - 『易経』引用は意訳より原文忠実再現優先(荻生徂徠訓読体を意識) Translation took 1281.6 seconds. |
| 」上下其事,令百官議之。太子太師韋見素等議,以為:「法者天地大典,帝王猶不敢擅殺,而小人得擅殺,是臣下之權過於人主也。去榮既殺人不死,則軍中凡有技能者,亦自謂無憂,所在暴橫。為郡縣者,不亦難乎!陛下為天下主,愛無親疏,得一去榮而失萬姓,何利之有!於律,殺本縣令,列於十惡。而陛下寬之,王法不行,人倫道屈,臣等奉詔,不知所從。夫國以法理,軍以法勝;有恩無威,慈母不能使其子,陛下厚養戰士而每戰少利,豈非無法邪!今陝郡雖要,不急於法也。有法則海內無憂不克,況陝郡乎!無法則陝郡亦不可守,得之何益!而去榮末技,陝郡不以之存亡;王法有無,國家乃為之輕重。此臣等所以區區願陛下守貞觀之法。」上竟捨之。至,曾之子也。 南充土豪何滔作亂,執本郡防禦使楊齊魯;劍南節度使盧元裕發兵討平之。 秋,七月,河南節度使駕蘭進明克高密、琅邪、殺賊二萬餘人。 戊申夜,蜀郡兵郭千仞等反,六軍兵馬使陳玄禮、劍南節度使李峘討誅之。 壬子,尹子奇復徵兵數萬,攻睢陽。先是,許遠於城中積糧至六萬石,虢王巨以其半給濮陽、濟陰二郡,遠固爭之,不能得;既而濟陰得糧,遂以城叛,而睢陽城至是食盡。將士人廩米日一合,雜以茶紙、樹皮為食,而賊糧運通,兵敗復征。睢陽將士死不加益,諸軍饋救不至,士卒消耗至一千六百人,皆饑病不堪鬥,遂為賊所圍,張巡乃修守具以拒之。 |
現代日本語訳朝廷はこの問題を下し、百官に議論させた。太子太師の韋見素らは次のように意見した。「法律とは天地における大典であり、帝王といえどもみだりに殺すことはできません。それなのに卑しい者が勝手に人を殺せるのは、臣下の権力が君主を超えることです。もし去栄が人を殺しても死罪とならないならば、軍中で技能を持つ者は皆『何をやっても心配ない』と考え、各地で暴虐を働くでしょう。これでは郡県を治める者にとってはたまったものではありません!陛下は天下の主として、愛に親疎なく施すべきです。一人の去栄を得て万民を失うならば、何の利益がありましょうか?律法によれば、本県令(自らの属する県の長官)を殺害することは十悪に該当します。しかし陛下がこれを寛大に見逃せば王法は行き渡らず、人倫の道も廃れるでしょう。臣らは詔を受けましたが、何をすべきか途方に暮れています。 そもそも国家は法律によって治まり、軍隊は規律によって勝ちます。恩恵だけあって威厳がなければ慈母でさえ子を使えません。陛下は戦士を厚遇しているのに戦いごとに敗れるのは、法がないためではないでしょうか?今、陝郡の地政学的重要性は確かに高いものの、法律より急ぐべきではありません。もし法があれば天下に克服できない困難などなく、ましてや陝郡など問題ないでしょう。しかし法がなければ陝郡すら守れず、奪取しても何の益もありません!去栄ごとき末技は陝郡の存亡に関わらず、王法の有無こそ国家の軽重を決めるのです。これこそ臣らがひたすら貞観(唐太宗)の時代の法律遵守を願う理由です。」 結局皇帝は去栄を見逃した。(※「至」氏について注記:曾之の子である) 一方、南充では土豪・何滔が反乱を起こし、同郡の防禦使・楊齊魯を捕らえた。剣南節度使盧元裕が兵を発して鎮圧した。 秋七月、河南節度使賀蘭進明が高密と琅邪を攻略し、賊軍二万余りを討ち果たす。 戊申の夜(※日付)、蜀郡では郭千仞らが反旗を翻したが、六軍兵馬使陳玄礼と剣南節度使李峘に鎮圧された。 壬子には尹子奇が数万の援軍を得て睢陽城を再攻撃。以前、許遠は城内に糧秣六万石を貯蔵していたが、虢王巨(李巨)がその半分を濮陽・済陰二郡へ供出させる。許遠が強く反対したものの容れられず——ところが済陰城は兵糧を得た直後に叛旗を翻し、睢陽では食料が尽き果てる結果となった。 守備兵には日々一合(約180ml)の米が支給されたが、茶葉や紙・樹皮で混ぜ合わせなければならず、一方賊軍は補給路を確保して兵力を補充する。睢陽城では死者増加に見合う援軍もなく諸軍からの救援物資も届かず、兵士数は千六百人まで激減した。皆飢えと病で戦闘不能となり包囲される中、張巡が防衛施設を整備して抵抗を続けた。 解説
※注:原文『資治通鑑』巻219・粛宗至徳二載(757年)条に基づく Translation took 1066.9 seconds. |
| 賊為雲梯,勢如半虹,置精卒二百於其上,推之臨城,欲令騰入。巡預於城潛鑿三穴,候梯將至,於一穴中出大木,末置鐵鉤,鉤之使不得退;一穴中出一木,拄之使不得進;一穴中出一木,木末置鐵籠,盛火焚之,其梯中折,梯上卒盡燒死。賊又以鉤車鉤城上棚閣,鉤之所及,莫不崩陷。巡以大木,末置連鎖,鎖末置大鐶,搨其鉤頭,以革車拔之入城,截其鉤頭而縱車令去。賊又造木驢攻城,巡熔金汁灌之,應投銷鑠。賊又於城西北隅以土囊積柴為磴道,欲登城。巡不與爭利,每夜,潛以松明、干蒿投之於中,積十餘日,賊不之覺,因出軍大戰,使人順風持火焚之,賊不能救,經二十餘日,火方滅。巡之所為,皆應機立辦,賊伏其智,不敢復攻,遂於城外穿三重壕,立木柵以守巡,巡亦於其內作壕以拒之。 丁巳,賊將安武臣攻陝郡,楊務欽戰死,賊遂屠陝。 崔渙在江南選補,冒濫者眾,八月,甲申,罷渙為餘杭太守、江東採訪、防禦使。 以張鎬兼河南節度、採訪等使,代賀蘭進明。 靈昌太守許叔冀為賊所圍,救兵不至,拔眾奔彭城。 睢陽士卒死傷之餘,才六百人,張巡、許遠分城而守之,巡守東北,遠守西南,與士卒同食茶紙,不復下城。賊士攻城者,巡以逆順說之,往往棄賊來降,為巡死戰,前後二百餘人。 是時,許步冀在譙郡,尚衡在彭城,賀蘭進明在臨淮,皆擁兵不救。 |
現代日本語訳敵軍は雲梯(うんてい)を製造し、その形状は半円状の虹のようであった。精鋭兵二百名を上部に配置して城壁近くまで押し進め、跳躍による侵入を企てた。張巡(ちょうじゅん)は事前に城内で三つの穴を密かに掘り、雲梯が接近すると、第一の穴から大木を突き出した。先端には鉄鉤を取り付け、これによって雲梯を固定し後退不能とした。第二の穴から別の木材を突出させて支え、前進を阻止した。第三の穴からはさらに一本の丸太を押し出し、その末端に火薬入りの鉄籠(かご)を設置して炎上させると、雲梯は中央で折れ、頂上の兵士は全員焼死した。 敵が今度は鉤車を用いて城壁上の物見櫓を引っ掛けると、接触箇所は全て崩落した。張巡は巨大な木材の先端に鎖をつなぎ、その末端には大環を取り付けた。これを鉤車の頭部にかけて革製の牽引車で城内へ引き込み、鉤部分を切断後に車両ごと解放して帰還させた。 敵が次に木驢(攻城用装甲車)で攻撃すると、張巡は溶解した金属を注ぎ込んで破壊。さらに城壁北西隅に土嚢や薪を積み上げて階段状の通路(磴道)を作成し、登攀を試みたが、張巡は即時対応せず、毎夜ひそかに松明や乾燥した蓬(よもぎ)を混入。十余日間蓄積させた後、敵に気付かれぬまま決戦を挑み、兵士に風上から火を放たせて焼き払わせると、鎮火まで二十余日を要し、敵は救援すらできなかった。 張巡の対応はいずれも機転が利き迅速であったため、敵側はその知略に畏怖して攻撃を断念。代わりに三重の堀を穿ち木柵で包囲したが、張巡も内側に対抗用の堀を構築した。 丁巳(ていし)の日、賊将・安武臣(あんぶしん)が陝郡(せんぐん)を攻撃。楊務欽(ようむきん)は戦死し、敵軍は同地で住民虐殺を行った。 崔渙(さいかん)が江南地域で実施した官吏補充では不正任用が多発。八月甲申(こうしん)の日、更迭されて余杭太守・江東採訪防御使に左遷された。 張鎬(ちょうこう)は河南節度使兼採訪使等を兼任し賀蘭進明(がらんしんめい)と交代。霊昌太守・許叔冀(きょしゅくけい)は賊軍に包囲されるも援軍が到着せず、兵士を率いて彭城へ敗走した。 睢陽(すいよう)では生存兵六百名余りとなり張巡と許遠(きょえん)が分守。張巡は北東区画、許遠は南西区画を担当し、兵卒と共に茶葉や紙屑を食料としながら城壁を死守した。攻城する敵兵に対し張巡は「正義か叛逆か」の道理で説得すると、投降者が相次ぎ二百名以上が帰順後、逆に命懸けで奮戦した。 当時、許叔冀(きょしゅくけい)は譙郡(しょうぐん)、尚衡(しょうこう)は彭城、賀蘭進明(がらんしんめい)は臨淮に駐屯しながら全員救援を拒絶していた。 解説
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| 城中日蹙,巡乃令南霽雲將三十騎犯圍而出,告急於臨淮。霽雲出城,賊眾數萬遮之,霽雲直衝其眾,左右馳射,賊眾披靡,止亡兩騎。既至臨淮,見進明,進明曰:「今日睢陽不知存亡,兵去何益!」霽雲曰:「睢陽若陷,霽雲請以死謝大夫。且睢陽既拔,即及臨淮,譬如皮毛相依,安得不救!」進明愛霽雲勇壯,不聽其語,強留之,具食與樂,延霽去坐。霽雲慷慨,泣且語曰:「霽雲來時,睢陽之人不食月餘矣!霽雲雖欲獨食,且不下嚥,大夫坐擁強兵,觀睢陽陷沒,曾無分災救患之意,豈忠臣義士之所為乎!」因嚙落一指以示進明,曰:「霽雲既不能達主將之意,請留一指以示信歸報。」座中往往為泣下。 霽雲察進明終無出師意,遂去。至寧陵,與城使廉坦同將步騎三千人,閏月,戊申夜,冒圍,且戰且行,至城下,大戰,壞賊營,死傷之外,僅得千人入城。城中將吏知無救,皆慟哭,賊知援絕,圍之益急。 初,房琯為相,惡賀蘭進明,以為河南節度使,以許叔冀為進明都知兵馬使,俱兼御史大夫。叔冀自恃麾下精銳,且官與進明等,不受其節制。故進明不敢分兵,非惟疾巡、遠功名,亦懼為叔冀所襲也。 戊辰,上勞饗諸將,遣攻長安,謂郭子儀曰:「事之濟否,在此行也!」對曰:「此行不捷,臣必死之!」 辛未,御史大夫崔光遠破賊於駱谷,光遠行軍司馬王伯倫、判官李椿將二千人攻中渭橋,殺賊守橋者千人,乘勝至苑門。 |
現代日本語訳城内の状況は日々逼迫し、張巡は南霽雲に三十騎を率いて包囲網を突破させ、臨淮へ緊急支援を要請した。霽雲が城を出ると、数万の賊軍が行く手を阻んだが、彼は真っ直ぐ敵陣に突入し左右から矢を射かけ、賊軍は潰走。失ったのはわずか二騎であった。臨淮に到着すると賀蘭進明と面会したが、進明は「今の睢陽の生死も分からぬのに援軍を出しても意味があるまい」と言う。霽雲は「もし睢陽が陥落すれば、私の命をもってお詫びいたします。さらに睢陽が落ちれば次は臨淮です。皮と毛のように依存し合う関係で、救わねばなりません!」と訴えた。進明は霽雲の勇猛さを気に入りながらも要請を聞き入れず、無理やり宴席に留め食事や音楽でもてなした。この時霽雲は涙ながらに激昂して言った。「私が睢陽を発つ時、城内では一ヶ月以上も食糧が尽きています! たとえ独りで食べようとも喉を通りません。貴殿は大軍を持ちながら睢陽陥落を見殺しにし、災いを分かち合う意思すらない。これが忠臣義士のなすことでしょうか!」そう言って自らの指を噛み切り進明に見せ、「主将の意を伝えられぬ以上、この指を証として残します」と告げた。列席者は皆涙を流した。 霽雲は進明に出兵の意思がないと悟り立ち去った。寧陵で城使・廉坦と合流し歩兵騎兵三千を率いて閏月戊申の夜、包囲網突破を図る。戦いながら前進し睢陽城下に到達すると大激戦が発生。賊軍陣営を破壊したものの、死傷者を除けば千人ほどしか城内に入れなかった。救援の望みがないと知った城内の将兵は慟哭し、賊軍は援軍途絶を知り包囲をさらに厳しくした。 当初、房琯が宰相であった時、賀蘭進明を嫌い河南節度使に左遷した。同時に許叔冀を進明配下の都知兵馬使(総司令官)兼御史大夫に任命するが、叔冀は自軍の精鋭を恃み、官位も進明と同等であるとして命令を服さなかった。このため進明は兵力を分割できず——張巡らの功績への嫉妬だけでなく、叔冀からの攻撃を恐れたからでもある。 戊辰の日、粛宗皇帝は諸将を慰労し長安奪還を命じた。郭子儀には「成否はこの一戦にかかっている」と述べると、彼は「成功せねば臣は必ず死ぬ覚悟です」と応えた。 辛未の日、御史大夫・崔光遠が駱谷で賊軍を撃破。配下の行軍司馬・王伯倫と判官・李椿が二千兵を率いて中渭橋を攻め落とし、千人もの守備隊を殲滅した後、その勢いで苑門(皇宮外門)へ迫った。 解説
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| 賊有先屯武功者,聞之,奔歸,遇於苑北,合戰,殺伯倫,擒椿送洛陽。然自是賊不復屯武功矣。 賊屢攻上黨,常為節度使程千里所敗。蔡希德復引兵圍上黨。 |
訳文賊軍の中で事前に武功(地名)に駐留していた部隊は、この知らせを聞くと逃走して帰還しようとしたが、苑北で味方の主力と遭遇し、合流した状態で戦闘となった。その結果、伯倫(人名)は殺害され、椿(人名)は捕縛されて洛陽へ送致された。しかしこの事件以後、賊軍は二度と武功に駐屯することはなくなった。 また賊軍は繰り返し上党(地名)を攻撃したが、常に節度使・程千里(人物名)によって敗北させられた。蔡希徳(人名)も再び兵を率いて上党包囲を行っている。 解説
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| input text 資治通鑑\220_唐紀_36.txt | Modern Japanese translated text | |||||||||||||||
| 資治通鑑 卷二百二十 唐紀三十六 起強圍作噩九月,盡著雍閹茂,凡一年有奇。 肅宗文明武德大聖大宣孝皇帝中之下至德二年(丁酉,公元七五七年) 九月,丁丑,希德以輕騎至城下挑戰。千里帥百騎開門突出,欲擒之;會救至,千里收騎退還,橋壞,墜塹中,反為希德所擒。仰謂從騎曰:「吾不幸至此,天也!歸語諸將,善為守備,寧失帥,不可失城。」希德攻城,竟不克,送千里於洛陽,安慶緒以為特進,囚之客省。 郭子儀以回紇兵精,勸上益征其兵以擊賊。懷仁可汗遣其子葉護及將軍帝德等將精兵四千餘人來至鳳翔。上引見葉護,宴勞賜賚,惟其所欲。丁亥,元帥廣平王俶將朔方等軍及回紇、西域之眾十五萬,號二十萬,發鳳翔。俶見葉護,約為兄弟,葉護大喜,謂俶為兄。回紇至扶風,郭子儀留宴三日。葉護曰:「國家有急,遠來相助,何以食為!」宴畢,即行。日給其軍羊二百口,牛二十頭,米四十斛。 庚子,諸軍俱發;壬寅,至長安城西,陳於香積寺北澧水之東。李嗣業為前軍,郭子儀為中軍,王思禮為後軍。賊眾十萬陳於其北,李歸仁出挑戰,官軍逐之,逼於其陳。賊軍齊進,官軍卻,為賊所乘,軍中驚亂,賊爭趣輜重。李嗣業曰:「今日不以身餌賊,軍無孑遺矣。」乃肉袒,執長刀,立於陣前,大呼奮擊,當其刀者,人馬俱碎,殺數十人,陣乃稍定。 |
現代日本語訳資治通鑑・巻二百二十 唐紀三十六 至徳二年(丁酉、西暦757年)九月、丁丑の日、蔡希徳が軽騎兵を率いて城下に現れ挑戦した。程千里は百騎を指揮し城門を開けて突撃し、これを生け捕りにしようとしたが、ちょうど敵の援軍が到着したため撤退を開始。その際橋が崩落し堀へ転落した結果、逆に蔡希徳に捕らえられた。千里は味方騎兵に向かって叫んだ。「我が不運もここまでとは天命だ!諸将に伝えよ――指揮官を失っても城は死守せよと」。その後希徳の攻撃は失敗し、千里は洛陽へ護送され、安慶緒から特進の位を与えられたものの客省(賓客用施設)に幽閉された。 郭子儀は回紇(ウイグル)軍の精強さを認め、粛宗により追加派兵を要請した。懐仁可汗は王子・葉護と将軍ディデクらに精鋭四千余を率いさせ鳳翔へ派遣。皇帝が葉護を引見し宴でもてなすと彼は大いに感激した。丁亥の日、元帥広平王李俶(後の代宗)が朔方軍・回紇・西域連合軍十五万(号二十万)を率い鳳翔を進発。葉護に会った俶は「兄弟」の契りを申し入れ、これを喜んだ葉護は兄と呼んで従った。扶風では郭子儀が三日間歓待したが、葉護は「国家危急のために遠征したのに宴席で時を費やすべきか!」と述べ即日出陣。行軍中は毎日羊200頭・牛20頭・米40斛(約2トン)が支給された。 庚子の日に全軍が出撃し、壬寅に長安城西郊へ到達(香積寺北・澧水東岸)。李嗣業を前軍、郭子儀を中軍、王思礼を後軍と布陣した。対する十万の賊軍は北方で態勢を整え、李帰仁が挑発攻撃を仕掛けると官軍が追跡し敵本陣に肉薄。しかし逆に賊軍が一斉反転すると官軍は総崩れとなり物資集積所へ殺到した。この危機に嗣業は叫んだ。「今我らが身を挺して防がねば全滅だ!」と。即座に鎧を脱ぎ長刀を握り陣頭に立つや獅子奮迅の突撃を敢行し、斬りかかる敵兵を人馬もろとも粉砕。数十名を瞬時に討ち取る猛攻で戦線は沈静化した。 解説
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| 於是嗣業帥前軍各執長刀,如牆而進,身先士卒,所向摧靡。都知兵馬使王難得救其裨將,賊射之中眉,皮垂鄣目。難得自拔箭,掣去其皮,血流被面,前戰不已。賊伏精騎於陣東,欲襲官軍之後,偵者知之,朔方左廂兵馬使僕固懷恩引回紇就擊之,翦滅殆盡,賊由是氣索。李嗣業又與回紇出賊陣後,與大軍交擊,自午及酉,斬首六萬級,填溝塹死者甚眾,賊遂大潰。餘眾走入城,迨夜,囂聲不止。 僕固懷恩言於廣平王俶曰:「賊棄城走矣,請以二百騎追之,縛取安守忠、李歸仁等。」俶曰:「將軍戰亦疲矣,且休息,俟明日圖之。」懷恩曰:「歸仁、守忠,賊之驍將,驟勝而敗,此天賜我也,奈何縱之!使復得眾,還為我患,悔之無及!戰尚神速,何明旦也!」俶固止之,使還營。懷恩固請,往而復反,一夕四五起。遲明,諜至,守忠、歸仁與張通儒、田乾真等皆已遁矣。癸卯,大軍入西京。 初,上欲速得京師,與回紇約曰:「克城之日,土地、士庶歸唐,金帛、子女皆歸回紇。」至是,葉護欲如約。廣平王俶拜於葉護馬前曰:「今始得西京,若遽俘掠,則東京之人皆為賊固守,不可復取矣,願至東京乃如約。」葉護驚躍下馬答拜,跪捧王足,曰:「當為殿下徑往東京。」即與僕固懷恩引回紇、西域之兵自城南過,營於滻水之東。百姓、軍士、胡虜見俶拜者,皆泣曰:「廣平王真華、夷之主!」上聞之,喜曰:「朕不及也!」俶整眾入城,百姓老幼夾道歡呼悲泣。 |
現代日本語訳:この時、李嗣業は前軍を率い、兵士たちがそれぞれ長刀を持ち、壁のように隊列を組んで進み、自ら先頭に立って敵陣へ突撃した。その攻撃の前に立ちふさがる者はなかった。都知兵馬使・王難得が副将を救おうとした際、賊軍の放った矢が眉間に当たり、皮が垂れ下がって目を覆った。王は自ら矢を抜き、邪魔な皮膚を引きちぎると、血が顔中に流れたが、なおも戦い続けた。 一方、賊軍は陣営の東側に精鋭騎兵を潜伏させ、官軍の背後を襲撃しようとしていた。しかし斥候がこれを察知し、朔方左廂兵馬使・僕固懐恩が回紇兵を率いて急襲。ほぼ全滅させることに成功したため、賊軍は士気を喪失した。李嗣業も再び回紇兵とともに賊陣の背後に回り込み、大軍と呼応して挟撃を仕掛けた。正午から夕刻まで続いた戦いで斬首6万級を数え、塹壕には遺体が埋め尽くされるほどだったため、ついに賊軍は総崩れとなった。 残兵が城内へ逃げ込むと、夜になっても叫び声は止まなかった。僕固懐恩は広平王・李俶(後の唐代宗)に進言した。「賊は城を捨てて逃走しました。200騎を与えていただければ安守忠や李帰仁らを捕縛して参りましょう」。これに対し広平王は「将軍も疲れているだろう、まず休養し明日の作戦を練ろう」と制止したが、懐恩は強く主張する。「李帰仁・安守忠は賊きっての猛将です。勝利目前で敗走した今こそ天佑! 逃せば兵力を立て直され禍根となります。迅速な追撃こそ肝要であり明日まで待つべきではありません」。しかし広平王は固く拒み軍営へ戻させた。 懐恩が度重なる嘆願(一晩で4、5回も往復)にもかかわらず受け入れられず、夜明けに斥候から「安守忠・李帰仁ら全員逃亡」と報告された。癸卯の日、唐軍は長安奪還を果たした。 戦前、粛宗皇帝は早期の長安奪回を願い回紇との間に「城攻略時には土地・民衆は唐へ、金品・子女は全て回紇に帰属する」と約束していた。このため回紇王子・葉護が協定履行を要求したところ、広平王はその馬前で跪いて訴えた。「今ここで西京(長安)を略奪すれば東京(洛陽)の民衆も賊軍に加担し再攻略は不可能になります。どうか東京到着まで延期願えないでしょうか」。葉護は驚きつつ馬から飛び降りて平伏し、広平王の足を捧げ持って「殿下のために直ちに東京へ向かいましょう」と返答した。 懐恩が回紇・西域連合軍を率いて滻水東岸へ移動すると、この光景を見た民衆や兵士たちは感涙し「広平王こそ華夷の真の主君!」と叫んだ。皇帝も報告を受けて「朕にも及ばぬ器量だ」と感激した。広平王が整然と入城する姿に、道端の老若男女は歓喜と感動の涙で迎えた。 解説:
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| 俶留長安,鎮撫三日,引大軍東出。以太子少傅虢王巨為西京留守。 甲辰,捷書至鳳翔,百寮入賀。上涕泗交頤,即日,遣中使啖庭瑤入蜀奏上皇,命左僕射裴冕入京師,告郊廟及宣慰百姓。 上以駿馬召李泌於長安。既至,上曰:「朕已表請上皇東歸,朕當還東宮復修人子之職。」泌曰:「表可追乎?」上曰:「已遠矣。」泌曰:「上皇不來矣。」上驚,問故。泌曰:「理勢自然」。上曰:「為之奈何?」泌曰:「今請更為群臣賀表,言自馬嵬請留,靈武勸進,及今成功,聖上思戀晨昏,請速還京以就孝養之意,則可矣。」上即使泌草表。上讀之,泣曰:「朕始以至誠願歸萬機。今聞先生之言,乃寤其失。」立命中使奉表入蜀,因就泌飲酒,同榻而寢。而李輔國請取契鑰付泌,泌請使輔國掌之;上許之。 泌曰:「臣今報德足矣,復為閒人,何樂如之!」上曰:「朕與先生累年同憂患,今方相同娛樂,奈何遽欲去乎!」泌曰:「臣有五不可留,願陛下聽臣去,免臣於死。」上曰:「何謂也?」對曰:「臣遇陛下太早,陛下任臣太重,寵臣太深,臣功太高,跡太奇,此其所以不可留也。」上曰:「且眠矣,異日議之。」對曰:「陛下今就臣榻臥,猶不得請,況異日香案之前乎!陛下不聽臣去,是殺臣也。」上曰:「不意卿疑朕如此,豈有如朕而辦殺卿邪!是直以朕為句踐也!」對曰:「陛下不辦殺臣,故臣求歸;若其既辦,臣安得復言!且殺臣者,非陛下也,乃『五不可』也。 |
現代日本語訳李俶(粛宗の長子)は長安に留まり、三日間にわたり治安維持を行った後、大軍を率いて東へ進撃した。太子少傅である虢王巨を西京留守として任命した。 甲辰の日、勝利の知らせが鳳翔(粛宗の行在所)に届くと、百官が祝賀に訪れた。粛宗は涙を流して感動し、その日のうちに中使・啖庭瑤を蜀へ派遣して玄宗(上皇)に奏上させた。また左僕射・裴冕を長安へ遣わし、郊廟での祭祀と民衆への慰撫を行わせる。 粛宗は駿馬を使い李泌を長安から召還した。到着すると「朕はすでに表文を奉り上皇の東帰(長安復帰)を請うた。朕自身も東宮に戻って人子としての務めを果たそう」と述べた。李泌が「その表文は追い返せますか?」と問うと、粛宗は「すでに遠くへ届いている」と答えた。すると李泌は「上皇は帰られませんでしょう」と言った。驚いた粛宗が理由を尋ねると、「道理の必然です」との答え。粛宗が対策を求めたところ、李泌はこう提案した。「今すぐ群臣連名の賀表を作り『馬嵬で陛下(粛宗)が留まり即位されたこと、霊武での擁立、そして今回の成功も全て聖上のご英断によるもの。だが聖上は親孝行を尽くしたいと朝夕お慕いになっており、速やかに都へ戻られ慈父をお世話なさりたいとの旨』を記せばよろしい」。粛宗は即座に李泌に表文起草を命じた。それを読んだ粛宗は涙ながらに言った。「朕は至誠をもって政権返上を願っていたが、先生の言葉で過ちに気づいた」と述べ、中使に蜀への奉呈を急がせた。その後李泌と酒を酌み交わし同床して寝る。 その際、宦官・李輔国が文書庫の鍵を李泌へ渡すよう進言したが、李泌は「李輔国に管理させるのが妥当」と提案し、粛宗もこれを認めた。 李泌が感慨深げに述べた。「臣の恩返しはこれで十分。再び隠遁者となる喜びに勝るものはありません」。すると粛宗は言った。「朕と先生は長年苦難を共にしてきた。ようやく楽しむ時を得たのに、なぜ急ぎ去ろうとするのか」と。李泌が「臣には『五つの留まれぬ理由』があります。どうかお許しください。さもなくば死に至ります」と言うと、粛宗はその意味を質した。それに対し李泌はこう答えた。「(1)陛下との出会いが早すぎたこと、(2)陛下から受けた信任があまりにも重いこと、(3)寵愛が深すぎること、(4)功績がありすぎること、(5)経歴が特異すぎること——これら故に留まれないのです」。粛宗は「まず休もう。改めて議論しよう」と言ったが、李泌は即座に反論した。「今こうして同床されながらも辞去を許していただけぬのに、ましていつかの朝廷で願いが通じましょうか!陛下が臣を行かせねば、それは殺すようなものです」。粛宗は激しく動揺し「卿がここまで朕を疑うとは。どうして朕が卿を殺せようか? まるで句践(恩人を誅した越王)扱いではないか!」と言った。李泌は静かに答えた。「陛下が臣を殺さぬからこそ、帰郷をお願いしているのです。もし本当に殺そうとなされば、今こうして訴えることもできません。ただし——臣の命を奪うのは他ならぬこの『五つの理由』なのです」。 解説
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| 陛下向日待臣如此,臣於事猶有不敢言者,況天下既安,臣敢言乎!」 上良久曰:「卿以朕不從卿北伐之謀乎!」對曰:「非也,所不敢言者,乃建寧耳。」上曰:「建寧,朕之愛子,性英果,艱難時有功,朕豈不知之!但因此為小人所教,欲害其兄,圖繼嗣,朕以社稷大計,不得已而除之。卿不細知其故邪?」對曰:「若有此心,廣平當怨之。廣平每與臣言其冤,輒流涕嗚咽。臣今必辭陛下去,始敢言之耳。」上曰:「渠嘗夜捫廣平,意欲加害。」對曰:「此皆出讒人之口,豈有建寧之孝友聰明,肯為此乎!且陛下昔欲用建寧為元帥,臣請用廣平。建寧若有此心,當深憾於臣;而以臣為忠,益相親善,陛下以此可察其心矣。」上乃泣下曰:「先生言是也。既往不咎,朕不欲聞之。」 泌曰:「臣所以言之者,非咎既往,乃欲陛下慎將來耳。昔天後有四子,長曰太子弘,天後方圖稱制,惡其聰明,鴆殺之,立次子雍王賢。賢內憂懼,作《黃台瓜辭》,冀以感悟天後。天後不聽,賢卒死於黔中。其辭曰:『種瓜黃台下,瓜熟子離離。一摘使瓜好,再摘使瓜稀,三摘猶為可,四摘抱蔓歸!』今陛下已一摘矣,慎無再摘!」上愕然曰:「安有是哉!」卿錄是辭,朕當書紳。」對曰:「陛下但識之於心,何必形於外也!」是時廣平王有大功,良娣忌之,潛構流言,故泌言及之。 |
現代日本語訳「かつて陛下が臣を重用なさっていた頃でさえ、申し上げられぬ事がありました。ましてや天下が安定した今、何をお話しできましょうか!」 帝は暫く沈黙の後言った。「卿は朕が北伐の策を容れなかったと怨むのか?」 帝は涙を流して言った。「卿の言う通りだ…過ぎたことは咎めまい。朕はもう聞きたくない」 「陛下はすでに一つの瓜(建寧王)を摘まれました。どうか二度目の過ちを避けてください」 ※背景:広平王(後の唐代宗)が戦功を立てた際、寵妃・良娣(張氏)が讒言したため、李泌が歴史の教訓で諫めた場面。 解説
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| 泌復固請歸山,上曰:「俟將發此議之。」 郭子儀引蕃、漢兵追賊至潼關,斬首五千級,克華陰、弘農二郡。關東獻俘百餘人,敕皆斬之;監察御史李勉言於上曰:「今元惡未除,為賊所污者半天下,聞陛下龍興,鹹思洗心以承聖化,今悉誅之,是驅之使從賊也。」上遽使赦之。 冬,十月,丁未,啖庭瑤至蜀。 壬子,興平軍奏:破賊於武關,克上洛郡。 吐蕃陷西平。 尹子奇久圍睢陽,城中食盡,議棄城東走,張巡、許遠謀,以為:「睢陽,江、淮之保障,若棄之去,賊必乘勝長驅,是無江、淮也。且我眾饑羸,走必不達。古者戰國諸侯,尚相救恤,況密邇群帥乎!不如堅守以待之。」茶紙既盡,遂食馬;馬盡,羅雀掘鼠;雀鼠又盡,巡出愛妾,殺以食士,遠亦殺其奴;然後括城中婦人食之;既盡,繼以男子老弱。人知必死,莫有叛者,所餘才四百人。 癸丑,賊登城,將士病,不能戰。巡西向再拜曰:「臣力竭矣,不能全城,生既無以報陛下,死當為厲鬼以殺賊!」城遂陷,巡、遠俱被執。尹子奇問巡曰:「聞君每戰眥裂齒碎,何也?」巡曰:「吾志吞逆賊,但力不能耳!」子奇以刀抉其口視之,所餘才三四。子奇義其所為,欲活之。其徒曰:「彼守節者也,終不為吾用。且得士心,存之,將為後患。」乃並南霽雲、雷萬春等三十六人皆斬之。 |
現代日本語訳:泌が重ねて固く山へ帰ることを請うたが、皇帝は言った。「この件について議論する時まで待ってほしい」 郭子儀は吐蕃兵と漢族の兵を率いて賊軍を潼関まで追撃し、五千の首級を斬り、華陰・弘農二郡を奪還した。関東から百人余りの捕虜が献上されたところ、皇帝は全員処刑するよう命じた。監察御史李勉が進言した。「今なお元凶(安禄山)は除かれておらず、賊に与した者は天下の半数を占めます。陛下のご即位を知り心を改めた者たちを皆殺しにするのは、彼らを逆賊側へ追いやる行為です」。皇帝は急ぎ赦免させた。 冬十月丁未(19日)、啖庭瑤が蜀に到着した。 壬子(24日)、興平軍から「武関で賊を破り上洛郡を奪還」と奏上があった。 吐蕃が西平を陥落させた。 尹子奇の長期包囲により睢陽城内では食糧が尽き、城を捨て東へ脱出する議論が起こった。張巡と許遠は協議して言う。「睢陽は江淮地方の防衛拠点だ。ここを放棄すれば賊は勝ちに乗じて侵攻し、我々は江淮を失う。さらに兵士は飢え衰弱しており、脱出も困難だ。戦国時代の諸侯でさえ互いに救援したのに、ましてや近隣に駐屯する味方将軍たちならなおさらである。堅守して援軍を待つべきだ」。茶と紙が尽きると馬を食べ始め、馬が尽きれば雀や鼠を捕らえた。雀鼠も尽きた後、張巡は愛妾を斬って兵士に与え、許遠も家僕を殺した。次いで城内の婦女子を徴発して食糧とし、それが尽きると老人や弱者へ及んだ。人々は死を覚悟し誰も裏切らず、生き残りはわずか四百となった。 癸丑(25日)、賊軍が城壁に登る中、将兵は衰弱して戦えなかった。張巡は西の方角(朝廷のある長安)へ再拝し言う。「臣の力は尽きました。城を守り切れず生きて陛下にお報いできぬなら、死して怨霊となり賊を殺します!」。こうして城は陥落し、張巡と許遠は捕らえられた。尹子奇が問いただす。「貴公は戦う度に目尻を裂き歯を噛み砕くと聞くが、なぜか?」張巡は答えた。「逆賊を喰らい尽くさんとする志ゆえだ!ただ力及ばず!」。尹子奇が刀で口を開けさせると、残った歯は三四本のみだった。その壮挙に感じ入り助命しようとしたが、配下が諫めた。「彼らは節義を守る者です。決して我々に従わぬでしょう。兵士の信望も厚く生かせば後患となります」。こうして南霽雲・雷万春ら三十六人全員が処刑された。 解説:
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| 巡且死,顏色不亂,揚揚如常。生致許遠於洛陽。 巡初守睢陽時,卒僅萬人,城中居人亦且數萬,巡一見問姓名,其後無不識者。前後大小戰凡四百餘,殺賊卒十二萬人。巡行兵不依古法教戰陳,令本將各以其意教之。人或問其故,巡曰:「今與胡虜戰,雲合鳥散,變態不恆。數步之間,勢有同異。臨機應猝,在於呼吸之間,而動詢大將,事不相及,非知兵之變者也。故吾使兵識將意,將識士情,投之而往,如手之使指。兵將相習,人自為戰,不亦可乎!」自興兵,器械、甲仗皆取之於敵,未嘗自修。每戰,將士或退散,巡立於戰所,謂將士曰:「我不離此,汝為我還決之。」將士莫敢不還死戰,卒破敵。又推誠待人,無所疑隱;臨敵應變,出奇無窮;號令明,賞罰信,與眾共甘苦寒暑,故下爭致死力。 張鎬聞睢陽圍急,倍道亟進,檄浙東、浙西、淮南、北海諸節度及譙郡太守閭丘曉,使共救之。曉素傲很,不受鎬命。比鎬至,睢陽城已陷三日。鎬召曉,杖殺之。 張通儒等收餘眾走保陝,安慶緒悉發洛陽兵,使其御史大夫嚴莊將之,就通儒以拒官軍,並舊兵步騎猶十五萬。己未,廣平王俶至曲沃。回紇葉護使其將軍鼻施吐撥裴羅等引軍旁南山搜伏,因駐軍嶺北。郭子儀等與賊遇於新店,賊依山而陳。子儀等初與之戰,不利,賊逐之下山。 |
現代日本語訳張巡(ちょうじゅん)は死の間際でも表情を崩さず、普段と変わらぬ堂々とした態度であった。許遠(きょえん)は生きたまま洛陽へ護送された。 張巡が睢陽(すいよう)守備を開始した当初、兵士はわずか一万人ほどで、城内の住民も数万に過ぎなかったが、彼は一人ひとりと会うたび姓名を尋ねて覚えたため、後には誰一人見分けられない者はいなかった。前後四百回以上もの大小の戦いを通じ、賊兵十二万人を討ち取った。張巡の用兵法は古式の陣形教練に頼らず、各将領が独自の判断で指揮させる方式だった。ある者がその理由を尋ねると、「今や異民族との戦いは雲のように集まり鳥のように散る。状況は刻々と変わり、数歩進む間にも情勢が移ろう。機に応じ即座に対処するには呼吸ほどの速さが必要だが、いちいち大将の指示を仰ぐようでは時機を逸す。これこそ戦術変化を解さぬ証だ」と説明した。「ゆえに私は兵士に将軍の意図を悟らせ、将軍は士卒の実情を知るようにする。命令一下、指が手の動きに従う如く迅速に行動できるのだ。兵と将が互いを熟知し自発的に戦えば何の問題があろうか」と述べた。 挙兵以来、武器や甲冑は全て敵から奪って用い、自ら製造したことはなかった。戦闘中に将士が退却しかける時には常に陣地に立ち、「私はここを動かない。戻って決着をつけよ」と命じたため、将兵は必ず死力を尽くして反撃し勝利を得た。また誠意をもって部下に接し疑念を持たせず、敵前では次々と奇策を繰り出した。命令は明確で賞罰は公正、兵士たちと同じ苦楽や寒暑を分かち合ったため、配下は進んで死力を尽くそうとしたのである。 張鎬(ちょうこう)が睢陽包囲の急報を受けると行程を倍にして駆けつけ、浙東・浙西・淮南・北海の各節度使や譙郡太守閭丘暁(しゅうきゅうぎょう)らに救援命令を発した。しかし元来傲慢な閻丘曉はこれを拒否。張鎬が到着した時には睢陽城は既に三日前に陥落していた。激怒した張鎬は閻丘暁を召し出して杖殺刑(むちうちによる死刑)に処した。 一方、賊将の張通儒らは残兵を率いて陝州へ退却し防衛線を固めた。安慶緒(あんけいちょ)は洛陽全軍を動員し御史大夫・厳莊(げんそう)を指揮官として派遣。旧来の歩騎兵十五万と合流させ官軍への抵抗を継続させた。己未(きび)の日、広平王李俶(こうへいおうりしゅく)が曲沃に到着したところで、ウイグル族の葉護(将軍職名)は配下の鼻施吐撥裴羅らを南山周辺に派遣して伏兵掃討させつつ自らは嶺北に駐屯。郭子儀らの官軍は新店で賊軍と遭遇し、山岳地帯に布陣した敵との初戦に敗れ、追撃を受けて山下へ押し戻される状況となった。 解説
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| 回紇自南山襲其背,於黃埃中發十餘矢。賊驚顧曰:「回紇至矣!」遂潰。官軍與回紇夾擊之,賊大敗,殭屍蔽野。嚴莊、張通儒等棄陝東走,廣平王俶、郭子儀入陝城,僕固懷恩等分道追之。 嚴莊先入洛陽告安慶緒。庚申夜,慶緒帥其黨自苑門出,走河北;殺所獲唐將哥舒翰、程千里等三十餘人而去。許遠死於偃師。 壬戌,廣平王俶入東京。回紇意猶未厭,俶患之。父老請率羅錦萬匹以賂回紇,回紇乃止。 成都使還,上皇誥曰:「當與我劍南一道自奉,不復來矣。」上憂懼,不知所為。數日後,使者至,言:「上皇初得上請歸東宮表,彷徨不能食,欲不歸;及群臣表至,乃大喜,命食作樂,下誥定行日。」上召李泌告之曰:「皆卿力也!」泌求歸山不已,上固留之,不能得,乃聽歸衡山。敕郡縣為之築室於山中,給三品料。 癸亥,上發鳳翔,遣太子太師韋見素入蜀,奉迎上皇。 乙丑,郭子儀遣左兵馬使張用濟、右武鋒使渾釋之將兵取河陽及河內;嚴莊來降。陳留人殺尹子奇,舉郡降。田承嗣圍來瑱於穎川,亦遣使來降;郭子儀應之緩,承嗣復叛,與武令珣皆走河北。制以瑱為淮南節度使。 丙寅,上至望賢宮,得東京捷奏。丁卯,上入西京。百姓出國門奉迎,二十里不絕,舞躍呼萬歲,有泣者。上入居大明宮。御史中丞崔器令百官受賊官爵者皆脫巾徒跣立於含元殿前,搏膺頓首請罪,環之以兵,使百官臨視之。 |
現代語訳:回紇軍が南山から背後を急襲し、黄色い砂塵の中で十余本の矢を放った。賊兵たちは驚いて振り返り「回紇が来た!」と叫んで総崩れとなった。官軍と回紇軍が挟み撃ちにすると、賊軍は大敗を喫し、野原には死体が累々と横たわった。厳荘や張通儒らは陝州を捨て東へ逃走し、広平王李俶(後の唐代宗)と郭子儀が陝城に入城した。僕固懐恩らは各ルートで敗走兵を追撃した。 厳荘はいち早く洛陽に駆け込み安慶緒に報告する。庚申の夜、安慶緒は配下を率いて御苑門から脱出し河北へ向かう途中、捕らえていた唐将・哥舒翰や程千里ら三十名以上を殺害した。許遠は偃師で死去した。 壬戌の日、広平王李俶が東京(洛陽)に入城すると、回紇軍は略奪欲求を露わにしたため、李俶は困惑する。町の長老らが絹織物一万匹で懐柔するよう請願し、これを受けて回紇軍は行動を収めた。 成都からの使者が戻り、玄宗(上皇)から「剣南道のみを朕の生計に充てよ。都へは戻らぬ」との詔書が届く。粛宗皇帝は深く憂慮し途方に暮れたが、数日後には別の使者が到着して報告した。「上皇様は最初、陛下からの『譲位』を願う表文を見て食事も喉を通らず悩んでおられましたが、百官一同による帰還要請の奏上文が届くと大いに喜ばれ、すぐに膳部へ命じて音楽を奏させながら行啓日取りを定める詔書をお出しになりました」。粛宗は李泌を召して「卿の尽力あってこそだ」と述べた。しかし李泌は隠遁を懇願し続け、皇帝が固く慰留したもの叶わず、衡山への帰還が認められた。詔勅により地方官が山中に住居を建設し、三品官相当の俸給が支給されることとなる。 癸亥の日、粛宗は鳳翔から出発し太子太師・韋見素を蜀へ派遣して上皇奉迎にあたらせた。 乙丑の日、郭子儀配下の張用済と渾釈之が河陽・河内を占領する中で厳荘が降伏。陳留では民衆が尹子奇を殺害し全郡が帰順した。田承嗣は来瑱を潁川に包囲していたが投降の使者を送る。しかし郭子儀の対応が遅れたため、田承嗣は再び反旗を翻し武令珣と共に河北へ逃走する。詔勅により来瑱は淮南節度使に任命された。 丙寅の日、粛宗が望賢宮に到着した際、東京奪還の捷報が届く。丁卯には西京(長安)入りを果たすと、城門から二十里にわたり途切れることなく続く民衆が出迎え、踊り跳ねて万歳を叫び涙する者もいた。大明宮に入った粛宗は御史中丞・崔器に対し「賊政権で官職を受けた者は全員、冠を脱ぎ裸足で含元殿前に立たせ、胸を叩いて平伏謝罪させよ」と命じる。兵士に包囲された彼らを見物するよう百官にも指示した。 解説:
※固有名詞(僕固懐恩・韋見素等)は原典表記を保持。官職名(御史中丞=監察副長官など)は現代日本語で理解可能な範囲で簡略化した。 Translation took 2208.1 seconds. | |||||||||||||||
| 太廟為賊所焚,上素服向廟哭三日。是日,上皇發蜀郡。 安慶緒走保鄴郡,改鄴郡為安成府,改元天成;從騎不過三百,步卒不過千人,諸將阿史那承慶等散投常山、趙郡、范陽。旬日間,蔡希德自上黨,田承嗣自穎川,武令珣自南陽,各帥所部兵歸之。又召募河北諸郡人,眾至六萬,軍聲復振。 廣平王俶之入東京也,百官受安祿山父子官者陳希烈等三百餘人,皆素服悲泣請罪。俶以上旨釋之,尋勒赴西京。己巳,崔器令詣朝堂請罪,如西京百官之儀,然後收系大理、京兆獄。其府縣所由、祗承人等受賊驅使追捕者,皆收系之。 初,汲郡甄濟,有操行,隱居青巖山,安祿山為採訪使,奏掌書記。濟察祿山有異志,詐得風疾,舁歸家。祿山反,使蔡希德引行刑者二人,封刀召之,濟引首待刀,希德以實病白祿山。後安慶緒亦使人強舁至東京,月餘,會廣平王俶平東京,濟起,詣軍門上謁,俶遣詣京師,上命館之於三司,令受賊官爵者列拜以愧其心,以濟為秘書郎。國子司業蘇源明稱病不受祿山官,上擢為考功郎中、知制誥。壬申,上御丹鳳樓,下制:「士庶受賊官祿,為賊用者,令三司條件聞奏;其因戰被虜,或所居密近,因與賊往來者,皆聽自首除罪;其子女為賊所污者,勿問。」 癸酉,回紇葉護自東京還,上命百官迎之於長樂驛,上與宴於宣政殿。 |
現代日本語訳太廟が賊軍によって焼かれたため、皇帝は喪服を着て三日間廟に向かって泣いた。その日、太上皇(玄宗)が蜀郡から出発した。 安慶緒は鄴郡に逃れて防備を固め、「鄴郡」を「安成府」と改称し、元号を天成とした。従う騎兵は三百人足らず、歩兵も千人ほどで、阿史那承慶ら諸将は常山・趙郡・范陽へ散り散りになった。十日もしないうちに、蔡希徳が上党から、田承嗣が潁川から、武令珣が南陽からそれぞれ軍勢を率いて合流し、さらに河北の各郡で兵士を募集したため兵力は六万に達し、軍威は再び高まった。 広平王李俶(後の代宗)が洛陽に入城すると、安禄山親子のもとで官職についた陳希烈ら三百人以上の官僚が喪服を着て涙ながらに罪を詫びた。李俶は皇帝の命により彼らを釈放し、すぐに西京(長安)へ向かわせた。己巳(きし)、崔器は朝廷に出頭して謝罪するよう指示したが、これは西京官僚への処置と同様で、その後全員を大理寺や京兆府の牢獄へ収監した。また下級役人ら賊軍に協力した者も拘束された。 かつて汲郡の甄済は高潔な人物として青巖山に隠棲していたが、安禄山が採訪使となった際に書記官に任命された。しかし甄済は彼の謀反を察知し、中風を装って帰郷した。安禄山が叛乱を起こすと蔡希徳を使者として刑吏二人を伴わせ召喚したが、甄済は進んで斬首を受けようとしたため、蔡希徳は「真に病身」と報告した。後に安慶緒も無理やり洛陽へ連行させたが、一か月余りで広平王の洛陽平定により解放されると、自ら軍門に出向いて拝謁した。李俶は彼を長安に送り、皇帝は三司(刑部・大理寺・御史台)の官舎に住まわせた。ここで賊政権下の官僚たちに向け「甄済を見習え」と列拜させ恥を知らしめ、秘書郎に任命した。国子監副長官の蘇源明は病気を理由に安禄山の官職を受けず、皇帝は彼を考功郎中・知制誥(人事評価と詔勅起草)に抜擢した。壬申(じんしん)、皇帝は丹鳳楼で詔を発布した。「賊政権下で官位を得た者や協力者は三司が詳細を報告せよ。戦闘中に捕らえられた者や居住地の関係上賊と接触した者は自首すれば赦免する。娘が犯された被害者は追及しない」 癸酉(きゆう)、ウイグルの葉護(将軍)が洛陽から帰還すると、皇帝は百官を長楽駅で出迎えさせ、宣政殿で宴を催した。 解説
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| 葉護奏以「軍中馬少,請留其兵於沙苑,自歸取馬,還為陛下掃除范陽餘孽。」上賜而遣之。 十一月,廣平王俶、郭子儀來自東京,上勞子儀曰:「吾之家國,由卿再造。」 張鎬帥魯炅、來瑱、吳王祗、李嗣業、李奐五節度徇河南、河東郡縣,皆下之;惟能元皓據北海,高秀巖據大同,未下。 己丑,以回紇葉護為司空、忠義王;歲遺回紇絹二萬匹,使就朔方軍受之。 以嚴莊為司農卿。上之在彭原也,更以栗為九廟主;庚寅,朝享於長樂殿。 丙申,上皇至鳳翔,從兵六百餘人,上皇命悉以甲兵輸郡庫。上發精騎三千奉迎。十二月,丙午,上皇至咸陽,上備法駕迎於望賢宮。上皇在宮南樓,上釋黃袍,著紫袍,望樓下馬,趨進,拜舞於樓下。上皇降樓,撫上而泣。上捧上皇足,嗚咽不自勝。上皇索黃袍,自為上著之,上伏地頓首固辭。上皇曰:「天數、人心皆歸於汝,使朕得保養餘齒,汝之孝也!」上不得已,受之。父老在仗外,歡呼且拜。上令開仗,縱千餘人入謁上皇,曰:「臣等今日復睹二聖相見,死無恨矣!」上皇不肯居正殿,曰:「此天子之位也。」上固請,自扶上皇登殿。尚食進食,上品嚐而薦之。丁未,將發行宮,上親為上皇習馬而進之。上皇上馬,上親執鞚。行數步,上皇止之。上乘馬前引,不敢當馳道。上皇謂左右曰:「吾為天子五十年,未為貴;今為天子父,乃貴耳!」左右皆呼萬歲。 |
訳文葉護が奏上した。「軍中の馬不足のため、兵を沙苑に留め置き、自ら帰還して馬匹を調達し、戻りまして陛下のために范陽残党を掃討いたします」。皇帝は恩賜を与えて送り出された。 十一月、広平王俶(かくへいおう・しゅく)と郭子儀が東京から到着すると、皇帝は労いの言葉を述べた。「わが皇室と国家は卿によって再建された」。 張鎬が魯炅・来瑱・呉王祗・李嗣業・李奐の五節度使を率いて河南・河東の郡県を平定すると、多くが降伏した。ただ能元皓が北海に拠り、高秀巖は大同で抵抗して陥落しなかった。 己丑(きちゅう)の日、回紇葉護を司空・忠義王に任命し、毎年絹二万匹を与えることを定め、朔方軍のもとで受け取らせた。厳荘を司農卿とした。皇帝が彭原に駐蹕した際、栗材で九廟の神主を作り替えた。庚寅(こういん)、長楽殿において朝享を行った。 丙申(へいしん)の日、上皇(玄宗)が鳳翔に到着。従兵六百余人を率いたが、武装解除して郡庫へ納めるよう命じた。皇帝は精騎三千を遣わし奉迎させた。十二月丙午(へいご)、上皇が咸陽に至ると、皇帝は法駕を整え望賢宮で出迎えた。上皇が南楼におられたため、皇帝は黄袍を脱ぎ紫袍を着て、楼下を見上げつつ下馬し、小走りして進み出て拝舞した。上皇が階を降りると帝の背を撫でて泣かれ、帝は上皇の足を抱いて嗚咽された。 上皇が黄袍を取り寄せ自ら皇帝に着せようとすると、帝は地面にひれ伏し固辞した。上皇は言われた。「天命も人心も汝にある。朕が余生を安穏に過ごせるのはこれこそ汝の孝行だ」。帝はやむなく受けられた。父老らが衛兵の外で歓呼しながら拝礼すると、皇帝は警戒線を開き千人余りに入謁を許した。彼らは叫んだ。「今日再び二聖(太上皇と皇帝)の対面を見られて死すとも恨みなし!」 上皇が正殿に座ることを拒んで「これは天子の席だ」と言われると、帝が強く請い自ら支えて登殿させた。尚食が食事を捧げると、帝は味見してから献じられた。丁未(ていび)、行宮発駕にあたり皇帝自ら馬具を整えた。上皇が乗馬されると帝みずから手綱を取り進んだが、数歩で止められた。 帝は騎乗先導したものの天子専用道路(馳道)を避けた。これを見た上皇は側近に言われた。「朕は五十年天子だったが貴さを知らなかった。今や天子の父となって初めて尊貴を悟った」。左右一同万歳を唱えた。 解説歴史的背景:本節は『資治通鑑』唐紀粛宗編より、安史之乱(755-763年)終盤期を描く。回紇軍の協力で反乱鎮圧へ向かう中、玄宗と粛宗父子による劇的な再会場面が核心である。 訳出方針: 政治的含意: 文化的考察:
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| 上皇自開遠門入大明宮,御含元殿,慰撫百官;乃詣長東殿謝九廟主,慟哭久之;即日,幸興慶宮,遂居之。上累表請避位還東宮,上皇不許。 辛亥,以禮部尚書李峴、兵部侍郎呂諲為詳理使,與御史大夫崔器共按陳希烈等獄。峴以殿中侍御史李棲筠為詳理判官,棲筠多務平恕,故人皆怨諲、器之刻深,而峴獨得美譽。 戊午,上御丹鳳樓,赦天下,惟與安祿山同反及李林甫、王鉷、楊國忠子孫不在免例。立廣平王俶為楚王,加郭子儀司徒,李光弼司空,自餘蜀郡、靈武扈從立功之臣,皆進階,賜爵,加食邑有差。李憕、盧奕、顏杲卿、袁履謙、許遠、張巡、張介然、蔣清、龐堅等皆加追贈,官其子孫。戰亡之家,給復二載。郡縣來載租、庸三分蠲一。近所改郡名、官名,一依故事。以蜀郡為南京,鳳翔為西京,西京為中京。以張良娣為淑妃,立皇子南陽王人系為趙王,新城王僅為彭王,穎川王僩為兗王,東陽王侹為涇王,璜為襄王,倕為杞王,偲為召王,昭為興王,侗為定王。 議者或罪張巡以守睢陽不去,與其食人,曷若全人。其友人李翰為之作傳,表上之,以為:「巡以寡擊眾,以弱制強,保江、淮以待陛下之師,師至而巡死,巡之功大矣。而議者或罪巡以食人,愚巡以守死,善遏惡揚,錄瑕棄用,臣竊痛之!巡所以固守者,以待諸軍之救,救不至而食盡,食既盡而及人,乖其素志。 |
上皇は開遠門より大明宮に入り、含元殿において百官を慰撫した後、長東殿に赴いて九廟の神主に謝罪し、慟哭すること久しかった。同日、興慶宮に行幸してそのまま居所とした。皇帝(粛宗)は繰り返し上表して退位し東宮に戻ることを請うたが、上皇(玄宗)は許さなかった。 辛亥の日、礼部尚書李峴と兵部侍郎呂諲を詳理使に任命し、御史大夫崔器とともに陳希烈らの獄事を取り調べさせた。李峴は殿中侍御史李棲筠を詳理判官に推薦した。李棲筠が公平で寛大な処置を心掛けたため、人々は皆呂諲や崔器の厳しすぎる取り調べを怨み、一方で李峴だけが称賛された。 戊午の日、粛宗皇帝は丹鳳楼にて詔勅を発布して天下を赦した。ただし安禄山と共謀して反乱を起こした者及び李林甫・王鉷・楊国忠の子孫は恩赦から除外した。広平王俶(後の代宗)を楚王に封じ、郭子儀には司徒、李光弼には司空を加えた。その他蜀郡や霊武より従駕し功績があった臣下たちも官位を昇進させ爵位を与え、食邑の大小差をつけて賜った。李憕・盧奕・顔杲卿・袁履謙・許遠・張巡・張介然・蒋清・龐堅らはみな死後追贈され、その子孫には官職が授けられた。戦死者の家族に対しては二年間税を免除した。各郡県の今年度租庸調については三分の一を減免する。最近変更された郡名や官名はすべて旧制に復すことを命じた。蜀都を南京、鳳翔府を西京、長安(従来の西京)を中京と改称した。張良娣を淑妃に立て、皇子南陽王李系を趙王、新城王李僅を彭王、潁川王李僩を兖王、東陽王李侹を涇王、李璜を襄王、李倕を杞王、李偲を召王、李昭を興王、李侗を定王に封じた。 論者の中には張巡が睢陽で籠城し撤退せず人肉食を行ったことを責め、「人命を全うする道があったはずだ」と非難する者がいた。友人である李翰は彼のために伝記を作り、上表して弁護した。「張巡は寡兵をもって衆軍を撃退し弱勢で強敵に対抗しました。江淮地方を守備することで陛下の大軍が到着する時間を確保し、官軍が到着した時に殉じたのですから功績は極めて大きいと言えます。彼の人肉食や無理な籠城死を責める議論は善行を隠して悪事ばかり強調しております。小さな欠点にこだわり大業を見失うのは誠に嘆かわしい!張巡が固守したのは援軍到着のためであり、糧食尽き果てた末やむを得ざる行為だったのです」。 【解説】 1. 歴史的経緯:安史之乱後の復興政策として粛宗による一連の措置(恩赦・叙勲・行政改革)が描かれ、特に張巡評価をめぐる論争は戦時倫理と忠義観念の相克を示す。 2. 称号変更:三京制再編により蜀地(南京)や鳳翔(西京)の軍事的価値上昇を反映。玄宗・粛宗二重権力構造下での正統性強調が窺える。 3. 李翰の弁明:「食人」批判に対する反論は唐代士大夫の価値観——国家保全>個人倫理——を示唆し、宋代司馬光が『資治通鑑』に採用した点で重要な史料的位置を占める。 4. 文体対応:漢文調原文を現代日本語へ転換する際、歴史的用語(「行幸」「追贈」等)は保持しつつ句読点や助詞を調整して可読性向上を図った。 Translation took 817.6 seconds. | |||||||||||||||
| 設使巡守城之初已有食人之計,損數百之眾以全天下,臣猶曰功過相掩,況非其素志乎!今巡死大難,不睹休明,唯其令名是其榮祿。若不時紀錄,恐遠而不傳,使巡生死不遇,誠可悲焉!臣敢撰傳一卷獻上,乞編列史官。」眾議由是始息。是後赦令無不及李憕等,而程千里獨以生執賊庭,不沾褒贈。甲子,上皇御宣政殿,以傳國寶授上,上始涕泣而受之。 安慶緒之北走也,其大將北平王李歸仁及精兵曳落河、同羅、六州胡數萬人皆潰歸范陽,所過俘掠,人物無遺。史思明厚為之備,且遣使逆招之范陽境,曳落河、六州胡皆降。同羅不從,思明縱兵擊之,同羅大敗,悉奪其所掠,餘眾走歸其國。 慶緒忌思明之強,遣阿史那承慶、安守忠往徵兵,因密圖之。判官耿仁智說思明曰:「大夫崇重,人莫敢言,仁智願一言而死。」思明曰:「何也?」仁智曰:「大夫所以盡力於安氏者,迫於凶威耳,今唐室中興,天子仁聖,大夫誠帥所部歸之,此轉禍為福之計也。」裨將烏承玼說思明曰:「今唐室再造,慶緒葉上露耳。大夫奈何與之俱亡!若歸款朝廷,以自湔洗,易於反掌耳。」思明以為然。 承慶、守忠以五千勁騎自隨,至范陽,思明番眾數萬迎之,相距一里所,使人謂承慶等曰:「相公及王遠至,將士不勝其喜,然邊兵怯懦,懼相公之眾,不敢進,願弛弓以安之。 |
【現代日本語訳】もし張巡が城防衛開始時から人肉食いの計画を持っていたとしても、数百人の犠牲で天下を保全したならば、臣はなお「功績と過失は相殺される」と言うでしょう。ましてやそれが彼の本意ではなかったのです!今や張巡は大難に遭って命を落とし、太平の世を見ることなく、名声だけが唯一の栄誉となっています。もし速やかに記録しなければ、後世に伝わらず、生死を通じて不遇なままとなるのは誠に悲しいことです!臣は敢えて彼の伝記一巻を作成して献上しますので、史官に加えていただきたくお願い申し上げます。」この提案により議論はようやく収まった。その後発令される恩赦には必ず李憕らが含まれたが、程千里だけは賊軍に生け捕りされたため褒賞を受けられなかった。 甲子の日、上皇(玄宗)は宣政殿に出御し、伝国の璽を皇帝(粛宗)にお授けになった。皇帝は初めて涙ながらにこれを受け取った。 安慶緒が北へ敗走した際、配下の大将軍・北平王李帰仁と精鋭部隊である曳落河・同羅・六州胡ら数万人が離散し范陽へ戻る途中、通過地で略奪を尽くして人も物も残さなかった。史思明は手厚い防備を整えつつ使者を送って国境まで迎えさせたため、曳落河と六州胡は降伏したが、同羅だけは従わず、思明が兵に攻撃を加えると大敗し、略奪品を全て没収された残党は本国へ逃亡した。 慶緒は史思明の勢力拡大を警戒し、阿史那承慶と安守忠を使者として派遣して兵力徴発にあたらせるとともに密かに彼を除こうとした。判官耿仁智が思明に進言した。「閣下ほどの高位の方には誰も諫めませんが、私は一言申し上げて死をも厭いません」。思明が「何事か?」と問うと、仁智は答えた。「閣下が安氏のために尽力されているのは恐怖に駆られてのこと。今や唐王朝が復興し天子は聖君です。真実を以って配下を率いて帰順されれば災い転じて福となります」。副将烏承玼も進言した。「再建された唐朝に対し、慶緒など朝露の如き存在に過ぎません。閣下はなぜ滅びゆく者と運命を共になさるのか!朝廷へ降って汚名をそそぐのは掌を返すほど容易です」。思明はこれを尤もだと思った。 承慶らが五千の精鋭騎兵を率いて范陽に到着すると、思明は数万の部族軍で迎え、約一里手前から使者を通じて伝えた。「相公(阿史那)と王(安)が遠路ご苦労なされました。将兵は大いに喜んでおりますが、辺境の兵士は臆病ゆえ相公文のお供の兵力を恐れて進めません。どうか弓を緩めて彼らを安心させてください」。 【解説】
※注:歴史的術語の整合性確保のため、「伝国宝→伝国の璽」「相公→唐代宰相敬称」等、典拠を重視した厳密な換訳を実施。 Translation took 2284.1 seconds. | |||||||||||||||
| 」承慶等從之。思明引承慶等入內廳樂飲,別遣人收其甲兵,諸郡兵皆給糧縱遣之,願留者厚賜,分隸諸營。明日。囚承慶等,遣其將竇子昂奉表以所部十三郡及兵八萬來降,並帥其河東節度使高秀巖亦以所部來降。乙丑,子昂至京師。上大喜,以思明為歸義王、范陽節度使,子七人皆除顯官。遣內侍李思敬與烏承恩往宣慰,使將所部兵討慶緒。 先是,慶緒以張忠志為常山太守,思明召忠志還范陽,以其將薛萼攝恆州刺史,開井陘路,招趙郡太守陸濟,降之;命其子朝義將兵五千人攝冀州刺史,以其將令狐彰為博州刺史。烏承恩所至宣佈詔旨,滄、瀛、安、深、德、棣等州皆降,雖相州未下,河北率為唐有矣。 上皇加上尊號曰光天文武大聖孝感皇帝。 郭子儀還東都,經營河北。 崔器、呂諲上言:「諸陷賊官,背國從偽,准律皆應處死。」上欲從之。李峴以為:「賊陷兩京,天子南巡,人自逃生。此屬皆陛下親戚或勳舊子孫,今一概以叛法處死,恐乖仁恕之道。且河北未平,群臣陷賊者尚多,若寬之,足開自新之路;若盡誅之,是堅其附賊之心也。《書》曰:『殲厥渠魁,脅從罔理。』諲、器守文,不達大體。惟陛上圖之。」爭之累日,上從峴議,以六等定罪,重者刑之於市,次賜自盡,次重杖一百,次三等流、貶。壬申,斬達奚珣等十八人於城西南獨柳樹下,陳希烈等七人賜自盡於大理寺;應受杖者於京兆府門。 |
承慶らはこれに従った。思明は承慶らを内室に招き酒宴を催し、別働隊に命じて彼らの武装解除を行うと、諸郡の兵士には食糧を与えて帰還させ、残留希望者には厚遇して各営に配属した。 翌日、承慶らを拘束すると、配下の竇子昂を使者として派遣し、十三郡および八万の兵力を率いて降伏する旨の上表文を奉じた。これと同時に河東節度使高秀巖も麾下部隊を率いて帰順した。 乙丑(十五日)、子昂が長安に到着すると皇帝は大いに喜び、思明を「帰義王・范陽節度使」に封じ、七人の息子全員に高位官職を与えた。内侍の李思敬と烏承恩を派遣して慰労にあたらせるとともに、慶緒討伐のために自軍を率いさせることにした。 これより先、慶緒が張忠志を常山太守に任命していたところ、思明は忠志を范陽へ召還し、配下の薛萼を恆州刺史代理として井陘道を開通させた。さらに趙郡太守陸済を招いて降伏させると、息子の朝義に兵五千を与えて冀州刺史代理とし、配下の令狐彰を博州刺史とした。 烏承恩が詔勅を伝えた地域では滄州・瀛州・安州・深州・徳州・棣州などが相次いで降伏。相州だけは未制圧だったものの河北一帯はほぼ唐軍支配下に入った。 上皇(玄宗)に「光天文武大聖孝感皇帝」という尊号が奉られた。 郭子儀は洛陽へ戻り河北地域の統治を整備した。 崔器と呂諲が進言した。「賊政権に加担した官吏らは国家への背信行為にあたり、律法では全員死刑に相当します」。皇帝がこれに同意しかけると、李岺が反論した。「両京陥落時に天子が南方へ避難される中で人々は生き延びる道を探ったまでです。彼らの中には陛下の親族や功臣子孫も含まれます。一律に謀叛罪で処刑すれば仁恕の精神にも反し、河北平定前から賊側についた臣下が多数いる現状では寛大な措置こそ更生への道となります。『書経』にいう"首魁を殲滅せよ 従者は問うな"とはこのこと。崔器らは条文に固執して大局を見失っております」。 数日間の議論を経て皇帝は李岺案を採用し、罪状を六段階に区分した——重罪は公開処刑、次は自裁命令、次の等級は杖百回、残り三等は流罪・左遷。壬申(二十二日)には達奚珣ら十八名が独柳樹の下で斬首され、陳希烈ら七名に大理寺での自尽を命じ、杖刑対象者は京兆府門前で処罰された。 【解説】 ●時代背景:安史之乱中期(757年)、史思明が唐へ偽装降伏した局面 ●政治力学: - 史思明の二面性:慶緒陣営からの離反工作と兵力温存戦略 - 粛清政策をめぐる朝廷内対立:李岺の現実主義 vs 崔器らの原理主義 ●法制史的意義: 1.「六等定罪」は唐律における量刑階梯化の先駆的事例 2.『書経』引用に儒教的司法理念(首魁と協力者の区別)が明示 ●軍事戦略: - 史思明の河北掌握:要所への一族・配下配置による地盤固め - 烏承恩使節団の心理作戦効果(諸州帰順促進) ●表記処理: 歴史用語は原則として当時の表記を維持(例:「恒州→恆州」「冀州→冀州」) 現代日本語に直す際、固有名詞以外の漢字は常用漢字化(「誅→処刑」「拠→基づき」等) Translation took 784.1 seconds. | |||||||||||||||
| 上欲免張均、張垍死,上皇曰:「均、垍事賊,皆任權要。均仍為賊毀吾家事,罪不可赦!」上叩頭再拜曰:「臣非張說父子,無有今日。臣不能活均、垍,使死者有知,何面目見說於九泉!」因俯伏流涕。上皇命左右扶上起,曰:「張垍為汝長流嶺表,張均必不可活,汝更勿救!」上泣而從命。 安祿山所署河南尹張萬頃獨以在賊中能保庇百姓,不坐。頃之,有自賊中來降者,言「唐群臣從安慶緒在鄴者,聞廣平王赦陳希烈等,皆自悼,恨失身賊庭;及聞希烈等誅,乃止。」上甚悔之。 臣光曰:為人臣者,策名委質,有死無貳。希烈等或貴為卿相,或親連肺腑,於承平之日,無一言以規人主之失,救社稷之危,迎合取容以竊富貴;及四海橫潰,乘輿播越,偷生苟免,顧戀妻子,媚賊稱臣,為之陳力,此乃屠酤之所羞,犬馬之不如。倘更全其首領,復其官爵,是謅諛之臣無往而不得計也。彼顏杲卿、張巡之徒,世治則擯斥外方,沉抑下僚;世亂則委棄孤城,齏粉寇手。何為善者之不幸而為惡者之幸,朝廷待忠義之薄而保奸邪之厚邪!至於微賤之臣,巡徼之隸,謀議不預,號令不及,朝聞親征之詔,夕失警蹕之所,乃復責其不能扈從,不亦難哉!六等議刑,斯亦可矣,又何悔焉! 故妃韋氏既廢為尼,居禁中,是歲卒。 置左、右神武軍,取元從子弟充,其制皆如四軍,總謂之北牙六軍。 |
現代語訳(『資治通鑑』より抜粋)皇帝(粛宗)は張均と張垍の死刑免除を望んだが、上皇(玄宗)は言った。「張均と張垍は逆賊に仕え、要職を占めた。張均はさらに我が家の事績を貶める行為までした。赦すわけにはいかん!」皇帝は額を地面につけて拝礼し、「臣(私)は張説父子のお陰で今があります。もし彼らを救えなければ、死者に顔向けできません」と述べ、涙ながらに平伏した。上皇は側近に皇帝を起こさせて言った。「張垍は嶺南への流罪とするが、張均の命は絶つ。これ以上取り成すな」。皇帝は泣きながら従った。 安禄山から河南尹に任命された張万頃だけは、賊軍支配下で民衆を庇護した功績により罪を問われなかった。ほどなく賊方からの投降者が伝えた。「鄴(ぎょう)の地で安慶緒に従っていた唐の臣僚たちは、広平王が陳希烈らを赦すと聞き『我々も早く帰順すればよかった』と悔やんだ。しかし彼らが処刑されたと知り、後悔は消えた」。皇帝(粛宗)はこの報告に深く後悔した。 臣・司馬光の論評: 人臣たる者は名を王朝に捧げて生死をかけるべきだ。陳希烈らは宰相や皇族縁者として、平時に君主の過ちを諫めず危機を救わぬどころか、迎合して富貴を得ていた。国難が起きれば妻子を顧みつつ賊に媚びて臣従し、力を貸した──これは屠殺人さえ恥じる行為で犬馬にも劣る。もし彼らを赦免すれば諂(へつら)いの輩が跋扈するだけだ。 一方で顔杲卿や張巡らの忠臣は、平時には辺境に追われ低官に沈み、乱世では孤城を見捨てられ賊の手にかかった。なぜ善人は不幸で悪人は栄えるのか?朝廷は何故義を軽んじ奸を重んずるのか! 末端の兵卒や下級官吏まで責めるのは酷だ──彼らは詔勅も届かぬ中、突然天子行在所が消え去ったのだ。六等級(※唐律)に基づく処罰は妥当であり、後悔すべきではない。 付随事項: ・廃妃韋氏は尼僧として宮中で没した。 ・左神武軍と右神武軍を設置し、元従功臣の子弟で編成。これにより北牙六軍体制が完成した。 解説
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| 又擇善騎射者千人為殿前射生手,分左、右廂,號曰英武軍。 升河中防禦使為節度,領蒲、絳等七州;分劍南為東、西川節度,東川領梓、遂等十二州;又置荊澧節度,領荊、澧等五州;夔峽節度,領夔、峽等五州;更安西曰鎮西。 肅宗文明武德大聖大宣孝皇帝中之下乾元元年(戊戌,公元七五八年) 春,正月,戊寅,上皇御宣政殿,授冊,加上尊號。上固辭「大聖」之號,上皇不許。上尊上皇曰太上至道聖皇天帝。 先是,官軍既克京城,宗廟之器及府庫資財多散在民間,遣使檢括,頗有煩擾;乙酉,敕盡停之,乃命京兆尹李峴安撫坊市。 二月,癸卯朔,以殿中監李輔國兼太僕卿。輔國依附張淑妃,判元帥府行軍司馬,勢傾朝野。 安慶緒所署北海節度使能元皓舉所部來降,以為鴻臚卿,充河北招討使。 丁未,上御明鳳門,赦天下,改元。盡免百姓今載租、庸。復以載為年。 庚午,以安東副大都護王玄志為營州刺史,充平盧節度使。三月,甲戌,徙楚王俶為成王。 戊寅,立張淑妃為皇后。 鎮西、北庭行營節度使李嗣業屯河內。癸巳,北庭兵馬使王惟良謀作亂,嗣業與裨將荔非元禮討誅之。 安慶緒之北走也,其平原太守王暕、清河太守宇文寬皆殺其使者來降;慶緒使其將蔡希德、安太清攻拔之,生擒以歸,咼於鄴市。凡有謀歸者,皆誅及種、族,乃至部曲、州縣、官屬,連坐死者甚眾。 |
現代日本語訳さらに騎射に優れた兵士千名を選抜し「殿前射生手」と称し、左右両軍(廂)に分けて「英武軍」の称号を与えた。 粛宗文明武徳大聖大宣孝皇帝の治世中巻下 乾元元年(戊戌、紀元758年) 二月癸卯朔日、殿中監李輔国を太僕卿兼任とした。彼は張淑妃に取り入って元帥府行軍司馬職権を得ており、朝廷内外で勢威を振るっていた。 丁未日、帝は明鳳門に出御し大赦令を発布。年号を改め「乾元」と定めた。百姓の当年租庸税全額免除を宣言すると同時に、「載」(年)の呼称復活を命じた。 戊寅日、張淑妃を皇后として冊立。同月鎮西・北庭行営節度使李嗣業が河内駐屯中、癸巳の日に配下の北庭兵馬使王惟良が反乱計画を企てたため、副将軍荔非元礼(れいひげんれい)と共に討伐し処刑した。 安慶緒が敗走する際、平原太守王暕(おうかい)や清河太守宇文寛らは使者殺害後に投降していた。しかし安慶緒配下の蔡希徳・安太清両将軍が彼らの本拠を陥落させて捕縛し、鄴都市場で虐殺した結果、帰順計画者への制裁が強化された。謀反人一族から部下や州県官吏に至るまで連座制適用範囲が拡大され、大量の死罪者が発生した。 注釈
※本訳文では『資治通鑑』原文の叙事スタイルを維持しつつ、固有名詞は現代歴史学表記(例:李俶→代宗即位前名)に統一。軍事用語は当時の実態を反映させるため専門的表現を使用。 Translation took 2209.1 seconds. | |||||||||||||||
| 又與其群臣歃血盟於鄴南,而人心益離。慶緒聞李嗣業在河內,夏,四月,與蔡希德、崔乾祐將步騎二萬,涉沁水攻之,不勝而還。 癸卯,以太子少師虢王巨為河南尹,充東京留守。 辛卯,新主入太廟。甲寅,上享太廟,遂祀昊天上帝;乙卯,御明鳳門,赦天下。 五月,壬午,制停採訪使,改黜陟使為觀察使。 張鎬性簡澹,不事中要,聞史思明請降,上言:「思明凶險,因亂竊位,力強則眾附,勢奪則人離,彼雖人面,心如野獸,難以德懷,願勿假以威權。」又言:「滑州防禦使許叔冀,狡猾多詐,臨難必變,請征入宿衛。」時上以寵納思明,會中使自范陽及白馬來,皆言思明、叔冀忠懇可信,上以鎬為不切事機,戊子,罷為荊州防禦使;以禮部尚書崔光遠為河南節度使。 張后生興王佋,才數歲,欲以為嗣。上疑未決,從容謂考功郎中、知制誥李揆曰:「成王長,且有功,朕欲立為太子,卿意何如?」揆再拜賀曰:「此社稷之福,臣不勝大慶!」上喜曰:「朕意決矣。」庚寅,立成王俶為皇太子。揆,玄道之玄孫也。 乙未,以崔圓為太子少師,李麟為少傅,皆罷政事。上頗好鬼神,太常少卿王璵專依鬼神以求媚,每議禮儀,多雜以巫祝俚俗。上悅之,以璵為中書侍郎、同平章事。 贈故常山太守顏杲卿太子太保,謚曰忠節,以其子威明為太僕丞。 |
現代日本語訳:さらに安慶緒(あんけいしょ)は配下の臣たちと鄴城(ぎょうじょう/現河北省臨漳県)の南で血をすすり盟約を結んだが、人々の心はいよいよ離れていった。夏四月、李嗣業(りしぎょう)が河内にいることを知った安慶緒は蔡希徳(さいきとく)、崔乾祐(さいけんゆう)らと歩兵・騎兵合わせて二万を率い、沁水を渡って攻撃したが勝利できず撤退した。 癸卯の日、皇太子少師であった虢王巨(かくおうこ/李巨)を河南尹に任じ東京留守とした。辛卯には粛宗皇帝が太廟に入り祭祀を行い、甲寅には自ら太廟で昊天上帝(こうてんじょうてい/天帝)を祀った。翌乙卯の日には明鳳門に臨み大赦令を発布した。 五月壬午、詔により採訪使制度は廃止され黜陟使も観察使と改称された。 張鎬(ちょうこう)は質素な性格で権力者への取り入りを行わず、史思明が降伏を願い出ている件について「思明は凶暴であり混乱に乗じて勢力を得ました。力が強い時には人々も従うでしょうが衰退すれば離反します。人間の顔を持ちながら心は野獣と変わらず徳による懐柔は困難ですから権威を与えるべきではありません」と上奏した。また「滑州防禦使許叔冀(かしゅうき)は狡猾で変節する恐れがあるので宮中警護職に転任させるべきだ」とも進言した。 しかし粛宗は史思明を厚遇しており、范陽や白馬から戻った宦官たちが皆「史思明らは誠実です」と報告したため、「張鎬の意見は状況に見合わない」として戊子の日に荊州防禦使に左遷し、礼部尚書崔光遠を河南節度使とした。 張皇后(粛宗妃)が生んだ興王佋(こうおうしょう/李佋)が数歳になったため後継者に立てようと考えた。粛宗は迷いながら考功郎中兼知制誥の李揆(りき)に「成王俶(ていおうしゅく/後の代宗皇帝)は年長で軍功もあるので皇太子としたい」と相談したところ、李揆が慶賀して賛同したため決断。庚寅の日に正式に冊立した。 乙未には崔円を太子少師、李麟を少傅(いずれも皇太子補佐官)に任命し両名から実務を離脱させた一方で、道教信仰の深かった粛宗は鬼神祭祀に関わる太常少卿王璵(おうよ)を重用した。彼は儀礼決定時に民間巫術を取り入れたため非難もあったが皇帝の信任厚く中書侍郎同平章事に抜擢された。 また安禄山軍と戦って殉職した顔杲卿(がんこうけい/常山太守)には太子太保を追贈し「忠節」という諡号を与え、その子威明は太僕丞に任じられた。 解説:【歴史的背景】この時期(758年夏)の唐王朝では安史之乱後期にあたる。粛宗朝廷が反乱軍内部分裂を利用する一方で、偽装降伏工作を見抜けず人事判断を誤ったことがわかります。特に張鎬左遷は後の「思明再叛」につながる重大な失政でした。 【制度変更点】
【人物分析】
【原文表現の特徴】
【現代語訳の方針】
【歴史的意義】この時期は唐王朝が反乱鎮圧後に中央集権再建を模索した過渡期。観察使制度導入や皇太子問題解決による体制安定化の一方、史思明への対応失敗という重大な禍根も残すことになります。顔杲卿顕彰は忠臣像創出を通じた士気高揚策として位置付けられます。 Translation took 2271.4 seconds. | |||||||||||||||
| 杲卿之死也,楊國忠用張通幽之譖,竟無褒贈。上在鳳翔,顏真卿為御史大夫,泣訴於上。上乃出通幽為普安太守,具奏其狀於上皇,上皇杖殺通幽。杲卿子泉明為王承業所留,因寓居壽陽,為史思明所虜,裹以牛革,送於范陽。會安慶緒初立,有赦,得免。思明降,乃得歸,求其父屍於東京,得之,遂並袁履謙屍棺斂以歸。杲卿姊妹女及泉明之子皆流落河北;真卿時為蒲州刺史,使泉明往求之,泉明號泣求訪,哀感路人,久乃得之。泉明詣親故乞索,隨所得多少贖之,先姑姊妹而後其子。姑女為賊所掠,泉明錢二百緡,欲贖己女,閔其姑愁悴,先贖姑女;比更得錢,求其女,已失所在。遇群從姊妹及父時將吏袁履謙等妻子流落者,皆與之歸,凡五十餘家,三百餘口,均減資糧,一如親戚。至蒲州,直卿悉加贍給,久之,隨其所適而資送之。袁履謙妻疑履謙衣衾儉薄,發棺視之,與杲卿無異,乃始慚服。 六月,己酉,立太一壇於南郊之東,從王璵之請也。上嘗不豫,卜雲山川為祟,璵請遣中使與女巫乘驛分禱天下名山大川。巫恃勢,所過煩擾州縣,干求受贓。黃州有巫,盛年美色,從無賴少年數十,為蠹尤甚,至黃州,宿於驛捨。刺史左震晨至驛,門扃鎖,不可啟,震怒,破鎖而入,曳巫於階下斬之,所從少年悉斃之,籍其贓數十萬,具以狀聞,且請以其贓代貧民租,遣中使還京師,上無以罪也。 |
現代語訳顔杲卿が処刑された後、楊国忠は張通幽の讒言を受け入れたため、朝廷から何らかの顕彰も追贈も行われなかった。粛宗皇帝が鳳翔にいた時、御史大夫となった顔真卿が涙ながらにこのことを訴えた。そこで皇帝は張通幽を普安太守として地方へ左遷し、事件の詳細を上皇(玄宗)に報告したところ、上皇は杖刑によって張通幽を処刑した。 杲卿の息子・泉明は王承業に拘束されて寿陽に滞在していたが、史思明に捕らえられ牛革で包まれて范陽へ送られた。ちょうど安慶緒が即位して恩赦が出たため解放され、その後史思明が降伏したことで帰還できた。東京(洛陽)で父の遺体を探し求め発見すると、袁履謙の遺骸も合わせて棺に収め故郷へ持ち帰った。 杲卿の姉妹や娘、泉明自身の息子は皆河北地方に離散していた。当時蒲州刺史であった顔真卿が泉明を派遣して捜索させたところ、泉明は声をあげて泣きながら探し回り、その哀れな様子は道行く人々にも深い感銘を与えた。ようやく家族を見つけた泉明は親類縁者に資金援助を求め、得られた金額に応じて身代金を払って解放したが、優先順位として「叔母の娘(従妹)→自分の息子」という異例の選択をした。 ある時、賊に捕らわれた叔母の娘のために泉明は200緡もの大金を用意していた。本来なら自分の娘を救うべきところだったが、憔悴する叔母を見かねてまず彼女の娘を解放した。改めて資金を調達し実娘を捜すと、もはや行方がわからなくなっていた。 また父(杲卿)の旧部下である袁履謙ら離散者の妻子に出会うと、全て引き取って帰還させた。総計50家余り300人以上に及ぶ者たちに対し、自らの食糧を減らして平等に分け与え、実の親族同様に遇した。 蒲州へ戻ると顔真卿が全員を養護し、時が経ってそれぞれの行き先が決まると資金を与えて送り出した。後日、袁履謙の妻が「夫の棺の副葬品が粗末すぎる」と疑い棺を開けてみたところ、杲卿と同じ規格だったため初めて恥じ入った。 六月己酉(5日)、南郊の東側に太一神を祭る壇が設けられた。これは王璵の提案によるものである。皇帝が体調を崩した際、「山川の祟り」との占い結果を受け、中使と巫女を諸国の名山大川へ祈祷させることとした。 ところが巫女たちは権勢を笠に着て横行し、通過する州県で嫌がらせや収賄を行った。黄州では若く美しい巫女が数十人のならず者を従え特に悪質で、駅舎宿泊所を占拠していた。刺史の左震が朝に駅舎へ行くと門は閉ざされており、怒り破って中に入ると、階段からその巫女を引きずり下ろして斬殺し、従者たちも皆処刑した。 押収した賄賂数十万銭で貧民の租税を肩代わりするよう上奏すると、皇帝は左震を罪に問うことができなかった。 解説
(本訳は現代日本語への意訳を基調としつつ、固有名詞・官職名等については原典の表記を保持。史実解釈には宮崎市定『大唐帝国』の説を参照) Translation took 2121.0 seconds. | |||||||||||||||
| 以開府儀同三司李嗣業為懷州刺史,充鎮西、北庭行營節度使。 山人韓穎改造新歷,丁巳,初行穎歷。 戊午,敕兩京陷賊官,三司推究未畢者皆釋之;已貶、降者續處分。 太子少師房琯既失職,頗怏怏,多稱疾不朝,而賓客朝夕盈門,其黨為之揚言於朝云:「琯有文武才,宜大用。」上聞而惡之,下制數琯罪,貶幽州刺史。前祭酒劉秩貶閬州刺史,京兆尹嚴武貶巴州刺史;皆琯黨也。 初,史思明以列將事來盧軍使烏知義,知義善待之。知義子承恩為信都太守,以郡降思明,思明思舊恩而全之。及安慶緒敗,承恩說思明降唐。李光弼以思明終當叛亂,而承恩為思明所親信,陰使圖之;又勸上以承恩為范陽節度副使,賜阿史那承慶鐵券,令共圖思明,上從之。 承恩多以私財募部曲,又數衣婦人服詣諸將營說誘之,諸將以白思明,思明疑未察。會承恩入京師,上使內侍李思敬與之俱至范陽宣慰。承恩既宣旨,思明留承恩館於府中,帷其床,伏二人於床下。承恩少子在范陽,思明使省其父。夜中,承恩密謂其子曰:「吾受命除此逆胡,當以吾為節度使。」二人於床下大呼而出。思明乃執承恩,索其裝囊,得鐵券及光弼牒,牒云:「承慶事成則付鐵券;不然,不可付也。」又得簿書數百紙,皆先從思明反者將士名。思明責之曰:「我何負於汝而為此!」承恩謝曰:「死罪,此皆李光弼之謀也。 |
現代日本語訳開府儀同三司(高位武官)李嗣業を懐州刺史に任じ、鎮西・北庭両行営の節度使を兼務させた。 民間学者である山人韓穎が改暦を行い、丁巳の日に新しく「穎歴」の使用を開始した。 戊午の日、勅令で長安と洛陽において反乱軍に降った官吏について、三司(司法機関)での審理が完了していない者は全員釈放し、既に左遷や降格処分を受けた者については追って対応すると定めた。 太子少師房琯は失職後強い不満を抱き、病と称してほとんど朝廷に出仕せず、自宅には昼夜問わず賓客が詰めかけた。彼の一派は朝廷で「房琯こそ文武両道の才を持つ者であり重用すべきだ」と宣伝したため、粛宗皇帝(上)はこれを不快に思い、詔書を下して房琯の罪状を数え上げて幽州刺史へ左遷した。前国子監祭酒劉秩が閬州刺史に、京兆尹厳武が巴州刺史へそれぞれ降格された。いずれも房琯派である。 当初、史思明は配下の将軍として平盧軍使烏知義に仕えており、彼から厚遇を受けていた。その子・承恩(うしょうおん)は信都太守となり任地ごと反乱勢力側へ降伏したが、父への旧恩を顧みた史思明は助命した。安慶緒敗北後、烏承恩は史思明に唐朝帰順を勧めた。しかし李光弼は「いずれ謀叛する」と考えており、彼の信頼厚い烏承恩を利用しようと画策。皇帝へ進言して烏承恩を范陽節度副使に任命させると同時に阿史那承慶には鉄券(不問特権証書)を与え、共同で史思明排除を命じた。 烏承恩は私財で兵士集めや女装して諸将営へ赴き勧誘する怪しい行動を取り、これを受けた報告から史思明の疑念が深まった。ちょうど彼が長安から帰還した際(内侍李思敬同行)、館に軟禁し寝室には簾を設置すると床下に二人の隠密を潜ませた。烏承恩は人質として范陽にいた息子と会う中で「逆賊誅殺命令を受けた。成功すれば節度使になれる」ともらしたため、待機していた隠密が飛び出し露見。押収された文書から鉄券や李光弼の指令(阿史那承慶への渡時期限定指示)、更に過去に反乱参加した数百名の将兵名簿も発覚した。詰問する史思明に対し、烏承恩は「死罪です…これは全て李光弼の策略でした」と弁解した。 解説■歴史的背景本節では安史之乱(755-763年)後期における唐朝内部の混乱が描かれる。粛宗朝においては反乱軍への対応だけでなく、朝廷内での派閥抗争や帰順武将との緊張関係といった複合的問題に直面していたことが分かる。 ■核心的出来事
■人物関係分析
■政治手法考察
■翻訳上の工夫点
この事件が史思明叛乱決起への直接契機となった点、更に李光弼という名将の判断ミスが唐朝再建を遅らせた歴史的教訓として注目される。 Translation took 2189.7 seconds. | |||||||||||||||
| 」思明乃集將佐吏民,西向大哭曰:「臣以十三萬眾降朝廷,何負陛下,而欲殺臣!」遂榜殺承恩父子,連坐死者二百餘人。承恩弟承玼免。思明囚思敬,表上其狀。上遣中使慰諭思明曰:「此非朝廷與光弼之意,皆承恩所為,殺之甚善。」 會三司議陷賊官罪狀至范陽,思明謂諸將曰:「陳希烈輩皆朝廷大臣,上皇自棄之幸蜀,今猶不免於死,況吾屬本從安祿山反乎!」諸將請思明表求誅光弼,思明從之,命判官耿仁智與其僚張不矜為表云:「陛下不為臣誅光弼,臣當自引兵就太原誅之。」不矜草表以示思明,及將入函,仁智悉削去之。寫表者以白思明,思明命執二人斬之。仁智事思明久,思明憐,欲活之,復召入,謂曰:「我任使汝垂三十年,今日非我負汝。」仁智大呼曰:「人生會有一死,得盡忠義,死之善者也。今從大夫反,不過延歲月,豈若速死之愈乎!」思明怒,亂捶之,腦流於地。 烏承玼太原,李光弼表為昌化郡王,充石嶺軍使。 秋,七月,丙戌,初鑄當十大錢,文曰「乾元重寶」,從御史中丞第五琦之謀也。 丁亥,冊命回紇可汗曰英武威遠毘伽闕可汗,以上幼女寧國公主妻之。以監漢中王瑀為冊禮使,右司郎中李巽副之;命左僕射裴冕送公主至境上。戊子,又以司勳員餐郎鮮於叔明為瑀副。叔明,仲通之弟也。甲子,上送寧國公主至咸陽,公主辭訣曰:「國家事重,死且無恨!」上流涕而還。 |
翻訳文(現代日本語)史思明は配下の将軍、官僚、民衆を集めると西方(天子がいる長安の方角)に向かって大声で泣き叫んだ。「臣は十三万の兵をもって朝廷に降ったのに、どうして陛下から裏切られて殺されねばならぬのか!」そして承恩親子を鞭打ち殺し、連座した二百名以上も処刑した。弟の承玼だけは赦免された。思明は使者の思敬を拘束し、事態を報告する上奏文を送った。粛宗皇帝は中使(宦官使者)を遣わして慰めた。「これは朝廷と光弼の意思ではない。全て承恩の独断だ。殺したのは当然である」。 ちょうどこの時、「反乱政権に協力した官吏の罪状審議」という三司(刑部・大理寺・御史台)の決定書が范陽に届いた。思明は諸将に向かって言った。「陳希烈らは朝廷高官だったのに、上皇(玄宗)に見捨てられ蜀へ逃げた挙句、今なお死を免れぬ。ましてや我々のように安禄山の反乱に加担した者がどうなるか!」諸将が「光弼誅殺要求」の上奏文を出すよう進言すると、思明は承諾し、判官・耿仁智と僚吏・張不矜に起草させた。「陛下が光弼を誅さねば、臣みずから太原へ攻め込んで討ち取る」。草案を見た思明は奏上直前になって仁智の削除箇所を知り激怒。二人の処刑を命じた。長年仕えた仁智に未練があり「お前を殺すのは本意ではない」と言うと、仁智は叫んだ。「忠義のために死ぬのが武士の誉れ! 貴公のような反逆者につくより潔い死を選ぶ!」思明が殴打すると脳髄が飛び散った。 一方、太原にいた烏承玼は李光弼によって昌化郡王・石嶺軍使に推挙された。 秋七月丙戌(17日)、「乾元重宝」と刻んだ当十大銭を第五琦の提案で鋳造開始。丁亥(18日)には回鶻可汗へ「英武威遠毘伽闕可汗」の冊封称号を与え、粛宗の娘・寧国公主が降嫁することを決定した。 儀礼使に漢中王李瑀を任命し、副使は右司郎中・李巽。補佐役には鮮于叔明(仲通の弟)が追加された。甲子日※、粛宗は咸陽まで見送り、公主が「国家のために死をも厭いません」と涙ながらに別れを告げると、皇帝も泣いて帰還した。
解説■政治的背景
■人物関係図
■核心的場面の分析
■干支日付の問題点原文に「戊子→甲子」への飛躍が存在(7月18日の次に60日前の甲子日へ逆戻り)。『資治通鑑』胡三省注も指摘する矛盾で、実際は以下の流れ: ■現代語訳の方針
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| 瑀等至回紇牙帳,可汗衣赭袍胡帽,坐帳中榻上,儀衛甚盛,引瑀等立於帳外,瑀不拜而立,可汗曰:「我與天可汗兩國之君,君臣有禮,何得不拜!」瑀與叔明對曰:「向者唐與諸國為婚,皆以宗室女為公主。今天子以可汗有功,自以所生女妻可汗。恩禮至重,可汗奈何以子婿傲婦翁,坐榻上受冊命邪!」可汗改容,起受冊命。明日,立公主為可敦,舉國皆喜。 乙未,郭子儀入朝。 八月,壬寅,以青、登等五州節度使許叔冀為滑、濮等六州節度使。 庚戌,李光弼入朝。丙辰,以郭子儀為中書令,光弼為侍中。丁巳,子儀詣行營。 回紇遣其臣骨啜特勒及帝德將驍騎三千助討安慶緒,上命朔方左武鋒使僕固懷恩領之。 九月,庚午朔,以右羽林大將軍趙泚為蒲、同、虢三州節度使。 丙子,招討党項使王仲升斬党項酋長拓跋戎德,傳首。 安慶緒之初至鄴也,雖枝黨離析,猶據七郡六十餘城,甲兵資糧豐備。慶緒不親政事,專以繕台沼樓船、酣飲為事。其大臣高尚、張通儒等爭權不葉,無復綱紀。蔡希德有才略,部兵精銳,而性剛,好直言,通儒譖而殺之;麾下數千人皆逃散,諸將怨怒不為用。以崔乾祐為天下兵馬使,總中外兵,乾祐愎戾好殺,士卒不附。 庚寅,命朔方郭子儀、淮西魯炅、興平李奐、滑濮許叔冀、鎮西、北庭李嗣業、鄭蔡季廣琛、河南崔光遠七節度使及平盧兵馬使董秦將步騎二十萬討慶緒;又命河東李光弼、關內、澤潞王思禮二節度使將所部兵助之。 |
現代日本語訳ユウらが回紇(ウイグル)の本営に到着すると、可汗は赤褐色の袍をまとい胡風の帽子をかぶり、天幕の中の高座に座っていた。護衛兵の儀容は非常に威厳があり、ユウらを帳外に立たせたが、ユウは拝礼せず直立していた。可汗が「私は天可汗(唐皇帝)と並ぶ二国の君主だ。君臣の礼があるのにどうして拝さぬのか」と言うと、ユウと叔明は答えた。「これまで唐が諸国と婚姻を結んだ際には、すべて皇族の娘を公主として嫁がせてきた。ところが今上陛下は可汗に功績があったため、実の娘を可汗の妻としたのだ。この恩寵と礼遇は極めて重いのに、どうして婿たる者が舅に対して傲慢になり、高座に座ったまま冊命を受けようとするのか」。これを聞いた可汗は表情を改め、立ち上がって正式に冊命を受けた。翌日、公主を可敦(皇后)として立てると、国中が喜びに沸いた。 乙未の日、郭子儀が朝廷に入参した。 八月壬寅の日、青州・登州など五州節度使であった許叔冀を滑州・濮州など六州節度使に任命した。 庚戌の日、李光弼が朝廷へ入った。丙辰の日に郭子儀を中書令とし、李光弼を侍中とした。丁巳の日、子儀は前線の軍営に向かった。 回紇は家臣の骨啜特勒(コツテキ・テギン)と帝徳(テイトク)を使者として派遣し、精鋭騎兵三千を率いさせて安慶緒討伐を援助した。粛宗皇帝は朔方左武鋒使僕固懐恩にこの部隊の指揮を命じた。 九月庚午の朔日(ついたち)、右羽林大将軍趙泚を蒲州・同州・虢州の三州節度使とした。 丙子の日、党項招討使王仲升が党項族首長拓跋戎徳を斬殺し、その首級を都に送った。 安慶緒が最初に鄴(ギョウ)へ入城した時は、配下が離散していたものの依然として七郡六十余城を支配し、兵力と物資・食糧は豊富であった。しかし慶緒は政務を顧みず、楼閣や池泉・大型船の造営に熱中し、酒宴にふける日々だった。重臣の高尚(コウショウ)と張通儒(チョウツウジュ)らが権力争いで対立し、もはや統制が効かなくなっていた。蔡希徳(サイキトク)は才略があり配下の兵も精鋭だったが性格が頑固で直言を好んだため、通儒の讒言により殺害された。これにより数千人の部下が離散し、諸将も憤慨して従わなくなった。崔乾祐(サイケンユウ)を天下兵馬使として全軍を統括させたが、彼は独断的で残忍な性格であり、兵士たちから支持されなかった。 庚寅の日、粛宗皇帝は命じた:朔方郭子儀・淮西魯炅(ロケイ)・興平李奐(リカン)・滑濮許叔冀・鎮西北庭李嗣業(リシギョウ)・鄭蔡季広琛(キコウチン)・河南崔光遠の七人の節度使と、平盧兵馬使董秦(トウシン)に歩兵騎兵あわせて二十万を率いさせ慶緒討伐に向かわせた。さらに河東李光弼・関内沢潞王思礼の両節度使にも配下の軍勢を率いて加勢させるよう命じた。 解説
※固有名詞表記は唐代史料に準拠しつつ、現代日本語として理解可能な範囲で原音(例:回紇=ウイグル)を意識。軍職名・地名等の過剰な注釈を避け、叙事の流れを重視した訳文とした。 Translation took 3356.6 seconds. | |||||||||||||||
| 上以子儀、光弼皆元勳,難相統屬,故不置元帥,但以宦官開府儀同三司魚朝恩為觀軍容宣慰處置使。觀軍容之名自此始。癸巳,廣州奏:大食、波斯圍州城,刺史韋利見逾城走,二國兵掠倉庫,焚廬舍,浮海而去。 冬,十月,甲辰,冊太子,更名曰豫。自中興以來,群下無復賜物,至是,始有新鑄大錢,百官、六軍沾賚有差。 郭子儀引兵自杏園濟河,東至獲嘉,破安太清,斬首四千級,捕虜五百人。太清走保衛州,子儀進圍之;丙午,遣使告捷。魯炅自陽武濟,季廣琛、崔光遠自酸棗濟,與李嗣業兵皆會子儀於衛州。慶緒悉舉鄴中之眾七萬救衛州,分三軍,以崔乾祐將上軍,田承嗣將下軍,慶緒自將中軍。子儀使善射者三千人伏於壘垣之內,令曰:「我退,賊必逐我,汝乃登壘,鼓噪而射之。」既而與慶緒戰,偽退,賊逐之,至壘下,伏兵起射之,矢如雨注,賊還走,子儀復引兵逐之,慶緒大敗。獲其弟慶和,殺之。遂拔衛州。慶緒走,子儀等追之至鄴,許叔冀、董秦、王思禮及河東兵馬使薛兼訓皆引兵繼至。慶緒收餘眾拒戰於愁思岡,又敗。前後斬首三萬級,捕虜千人。慶緒乃入城固守,子儀等圍之,李光弼引兵繼至。慶緒窘急,遣薛嵩求救於史思明,且請以位讓之。思明發范陽兵十三萬欲救鄴,觀望未敢進,先遣李歸仁將步騎一萬軍於滏陽,遙為慶緒聲勢。 |
現代日本語訳皇帝は郭子儀と李光弼がともに元勲であり互いに統率するのは難しいと考えたため、総司令官(元帥)を置かず、宦官である開府儀同三司・魚朝恩を「観軍容宣慰処置使」に任命した。「観軍容」という役職名はこれが最初である。 癸巳の日、広州から報告があった:大食(アラブ)と波斯(ペルシア)の連合軍が州城を包囲し、刺史・韋利見は城壁を越えて逃亡した。両国軍は倉庫を略奪し民家を焼き払い、船で海上へ撤退した。 冬十月甲辰の日、皇太子を正式に冊立して「豫」と改名した。朝廷の中興以来、臣下への褒賞が途絶えていたが、この時初めて新たに鋳造された大銭を用い、百官や六軍(近衛兵)へ功績に応じて賜与が行われた。 郭子儀は杏園から黄河を渡り東進し獲嘉で安太清を破った(斬首四千・捕虜五百)。敗走した安太清は衛州に籠城するが、郭子儀は直ちに包囲攻撃を開始。丙午の日には勝利の使者が朝廷へ派遣された。 この間、魯炅は陽武から、季広琛と崔光遠は酸棗から黄河を渡り、李嗣業軍とも合流して衛州で郭子儀に加勢した。安慶緒は鄴城の全兵力七万を率いて救援に向かい三軍を編成:崔乾祐が上軍、田承嗣が下軍を指揮し、自ら中軍を率いた。 郭子儀は弓の名手三千人に塁壁内で待機させ「我が軍が退却すれば敵は必ず追撃する。その時こそ塁壁に登り鬨の声と共に射かけよ」と指示した。安慶緒軍との戦闘開始後、郭子儀は偽装撤退を実行。賊軍が追いかけて塁壁下まで来た瞬間、伏兵が雨のような矢を浴びせたため敵陣は崩壊し、郭子儀の本隊も反転して猛攻を加え大勝した(安慶緒の弟・安慶和を捕縛後処刑)。こうして衛州を奪還する。 敗走する安慶緒軍を鄴城まで追撃中に許叔冀・董秦・王思礼、さらに河東兵馬使・薛兼訓らの援軍も到着し、愁思岡での再戦でも賊軍を殲滅した(累計斬首三万・捕虜千人)。安慶緒は鄴城へ逃げ込み籠城するが郭子儀の包囲網に加え李光弼軍も到着。窮地に陥った安慶緒は薛嵩を使者として史思明へ「帝位を譲る」と約束して救援を要請した。 これを受け史思明は范陽から十三万の大軍を動員するが、戦況を見極めるため進軍せず、まず李帰仁に歩騎一万を率いさせ滏陽に布陣させて威嚇行動のみ取らせた。 解説
※本訳では紀年方式(干支・月日表記)を原文のまま保持し、固有名詞は現代通用形で統一。戦闘描写については視覚的把握容易なよう状況説明を付加した。 Translation took 1924.0 seconds. | |||||||||||||||
| 甲寅,上皇幸化清宮;十一月,丁丑,還京師。 崔光遠拔魏州;丙戌,以前兵部侍郎蕭華為魏州防禦使。會史思明分軍為三,一出邢、洛,一出冀、貝,一自洹水趣魏州。郭子儀奏以崔光遠代華,十二月,癸卯,敕以光遠領魏州刺史。 甲辰,置浙江西道節度使,領蘇、潤等十州,以升州刺史韋黃裳為之。庚戌,置浙江東道節度使,領越、睦等八州,以戶部尚書李峘為之,兼淮南節度使。 己未,群臣請上尊號曰乾元大聖光天文武孝感皇帝;許之。 史思明乘崔光遠初至,引兵大下,光遠使將軍李處崟拒之。賊勢盛,處崟連戰不利,還趣城。賊追至城下,揚言曰:「處崟召我來,何為不出!」光遠信之,腰斬處崟。處崟,驍將,眾所恃也,既死,眾無鬥志,光遠脫身走還汴州。丁卯,思明陷魏州,所殺三萬人。 平盧節度使王玄志薨,上遣中使往撫慰將士,且就察軍中所欲立者,授以旌節。高麗人李懷玉為裨將,殺玄志之子,推侯希逸為平盧軍使。希逸之母,懷玉姑也,故懷玉立之。朝廷因以希逸為節度副使。節度使由軍士廢立自此始。 臣光曰:夫民生有欲,無主則亂。是故聖人制禮以治之。自天子、諸侯至於卿、大夫、士、庶人,尊卑有分,大小有倫,若綱條之相維,臂指之相使,是以民服事其上,而下無覬覦。其在《周易》,「上天、下澤,履。 |
訳文:甲寅の日、上皇は化清宮に行幸された。十一月丁丑の日に京師へ還御した。 崔光遠が魏州を攻略し、丙戌の日、元兵部侍郎蕭華を魏州防禦使に任命した。ちょうど史思明が軍勢を三手に分け、一隊は邢州・洛州から、一隊は冀州・貝州から、もう一隊は洹水より魏州へ進撃してきたため、郭子儀は崔光遠で蕭華を代えるよう上奏した。十二月癸卯の日、勅命により光遠が魏州刺史を兼任することとなった。 甲辰の日、浙江西道節度使を設置し蘇州・潤州など十州を管轄させた。昇州刺史韋黄裳がこれに任じられた。庚戌の日には浙江東道節度使を置き越州・睦州など八州を統括させ、戸部尚書李峘を任命して淮南節度使も兼務させた。 己未の日、群臣が尊号「乾元大聖光天文武孝感皇帝」を奉るよう請願し、帝はこれを認めた。 史思明は崔光遠の着任直後の隙を突き大軍で攻め下った。光遠は将軍李処崟に防戦させたが賊軍の勢いは盛んで連戦不利となり城へ撤退した。追撃してきた敵兵が城外で「処崟が我らを招いたのに何故出て来ぬ!」と叫んだため、光遠はこれを真に受け処崟を腰斬刑に処した。処崟は猛将であり軍の支柱だったので、彼の死後は戦意が瓦解し、光遠は単身汴州へ敗走した。丁卯の日、思明は魏州を陥落させ三万人を虐殺した。 平盧節度使王玄志が薨去すると、帝は宦官使者を派遣して将士を慰撫しつつ、軍中で推挙される後継者に旌節(任命証)を与えようとした。高麗出身の副将李懐玉が玄志の子を殺害し侯希逸を平盧軍使に擁立した。希逸の母は懐玉の叔母であったためこれを受け入れたのである。朝廷はやむなく希逸を節度副使に任命。ここに兵士による節度使の廃立が始まった。 解説:
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| 」象曰:「君子以辨上下,定民志。」此之謂也。凡人君所以能有其臣民者,以八柄存乎己也。苟或捨之,則彼此之勢均,何以使其下哉! 肅宗遭唐中衰,幸而復國,是宜正上下之禮以綱紀四方;而偷取一時之安,不思永久之患。彼命將帥,統籓維,國之大事也,乃委一介之使,徇行伍之情,無問賢不肖,惟其所欲與者則授之。自是之後,積習為常,君臣循守,以為得策,謂之姑息。乃至偏裨士卒,殺逐主帥,亦不治其罪,因以其位任授之。然則爵祿、廢置、殺生、予奪皆不出於上而出於下,亂之生也,庸有極乎! 且夫有國家者,賞善而誅惡,故為善者勸,為惡者懲。彼為人下而殺逐其上,惡孰大焉!乃使之擁旄秉鉞,師長一方,是賞之也。賞以勸惡,惡其何所不至乎!《書》云:「遠乃猷。」《詩》云:「猷之未遠,是用大諫。」孔子曰:「人無遠慮,必有近憂。」為天下之政,而專事姑息,其憂患可勝校乎!由是為下者常眄眄焉伺其上,苟得間則攻而族之;為上者常惴惴焉畏其下,苟得間則掩而屠之;爭務先發以逞其志,非有相保養為俱利久存之計也。如是而求天下之安,其可得乎!跡其厲階,肇於此矣。 蓋古者治軍必本於禮,故晉文公城濮之戰,見其師少長有禮,知其可用。今唐治軍而不顧禮,使士卒得以陵偏裨,偏裨得以陵將帥,則將帥之陵天子,自然之勢也。 |
現代日本語訳: 象伝に『君子は上下を弁え民の志を定める』とあるのはこのことを指す。君主が臣下や人民を支配できる根源は、八つの統治権(爵禄・廃置・生殺・予奪)を掌握しているからだ。もしこれを放棄すれば勢力均衡が生じ、どうして部下を統率できようか! 唐の粛宗は中興の機に遭遇しながら、一時の安定を得るために永続的な禍根を顧みなかった。将帥任命という国家の大事を一介の使者に委ね、軍営内の人気投票で賢愚も問わず希望者に与えた。これが慣例化し君臣ともこの姑息策を遵守した。ついには副官や士卒が主将を殺害追放しても罪とせず、その地位を与える始末。こうして人事権・賞罰権は朝廷から下部へ移り、混乱に歯止めが利かなくなった。 国家とは善行を奨励し悪事を懲らすものだ。下位者が上位者を殺害するほどの大罪を犯しながら節度使として任せるのは賞賛そのものである。悪行が推奨される状況では凶事の拡大は必然であろう『書経』に「深遠な計略をもて」とあり、『詩経』には「思慮浅ければ強く諫める」と言う。孔子も「遠慮なければ近憂あり」と指摘した。天下を治めながら姑息策のみ行えば災禍は測りしれない。 結果として下位者は常に隙を狙い、機あれば上官を滅ぼす。上位者は恐怖におののかず、隙を見て部下を虐殺する。互いに先手を争って私欲を満たすだけで共存策などない。これで天下泰平が得られようか?禍根はまさにここにある。 古代の軍制では礼法を基本とした(晋の文公が城濮の戦いで自軍の礼節を勝利の兆しと見た故事)。だが唐は礼法無視により士卒→副官→将帥へ下剋上を許し、ついに天子への謀反も必然となったのだ。 解説: 1. 歴史的教訓:権威放棄(八柄喪失)が組織崩壊を招く過程を実証。粛宗の姑息人事 → 下克上の常態化 → 統治機能麻痺という連鎖的反応
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| 由是禍亂繼起,兵革不息,民墜塗炭,無所控訴,凡二百餘年。然後宋受命。太祖始制軍法,使以階級相承,小有違犯,鹹伏斧質。是以上下有敘,令行禁止,四征不庭,無思不服,宇內乂安,兆民允殖,以迄於今,皆由治軍以禮故也。豈非詒謀之遠哉! 是歲,置振武節度使,領鎮北大都護府、麟、勝二州;又置陝虢華及豫許汝二節度使。安南經略使為節度使,領交、陸等十一州。 吐蕃陷河源軍。 |
現代日本語訳このため災禍と反乱が相次ぎ、戦争が絶えることなく、民衆は泥沼と火穴のような苦境に落ち入り訴え出る場所もない状態が二百年余り続いた。その後ようやく宋王朝が天命を受けて成立した。太祖(趙匡胤)は初めて軍法を制定し、階級制度による指揮系統を確立させ、些細な違反者ですら厳しく処刑する体制を作った。こうして上下の秩序が整い、命令は徹底され、四方への不服従勢力征伐では抵抗できず、天下は安定して民衆は豊かに暮らすようになり、今日に至るまで続いている。これらすべては礼儀をもって軍を統治した成果である。なんと遠大な先見の明だろうか! この年(960年)、振武節度使が設置され鎮北大都護府・麟州・勝州を管轄し、さらに陝虢華及び豫許汝の二つの節度使も置かれた。安南経略使は格上げされて節度使となり、交州・陸州など十一州を統括した。 注釈
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| input text 資治通鑑\221_唐紀_37.txt | Modern Japanese translated text | |||||||||
| 資治通鑑 卷二百二十一 唐紀三十七 起屠維大淵獻,盡上章困敦,凡二年。 肅宗文明武德大聖大宣孝皇帝下之上乾元二年(己亥,公元七五九年) 春,正月,己巳朔,史思明築壇於魏州城北,自稱大聖燕王;以周摯為行軍司馬。李光弼曰:「思明得魏州而按兵不進,此欲使我懈惰,而以精銳掩吾不備也。請與朔方軍同逼魏城,求與之戰。彼懲嘉山之敗,必不敢輕出。得曠日引久,則鄴城必拔矣。慶緒已死,彼則無辭以用其眾也。」魚朝恩以為不可,乃止。 戊寅,上祀九宮貴神,用王璵之言也。乙卯,耕藉田。 鎮西節度使李嗣業攻鄴城,為流矢所中,丙申,薨;兵馬使荔非元禮代將其眾。初,嗣業表段秀實為懷州長史,知留後事,時諸軍屯戍日久,財竭糧盡,秀實獨運芻粟,募兵市馬以奉鎮西行營,相繼於道。 二月,壬子,月食,既。先是百官請加皇后尊號曰「輔聖」,上以問中書舍人李揆,對曰:「自古皇后無尊號,惟韋後有之,豈足為法!」上驚曰「庸人幾誤我!」會月食,事遂寢。後與李輔國相表裡,橫於禁中,干豫政事,請托無窮。上頗不悅,而無如之何。 郭子儀等九節度使圍鄴城,築壘再重,穿塹三重,壅漳水灌之。城中井泉皆溢,構棧而居,自冬涉春,安慶緒堅守以待史思明,食盡,一鼠直錢四千,淘牆及馬矢以食馬。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻二百二十一 唐紀三十七 粛宗文明武徳大聖大宣孝皇帝下之上 乾元二年(己亥、西暦759年) 戊寅日(10日)、粛宗は王璵の建議により九宮貴神を祀った。乙卯日(17日)には藉田(せきでん)の儀を行った。 鎮西節度使李嗣業が鄴城攻撃中に流れ矢を受け、丙申日(28日)に死去した。兵馬使・荔非元礼が後任として軍を率いた。当初、李嗣業は段秀実を懐州長史兼留後事に推薦し、諸軍の駐屯が長期化して物資不足となる中で、彼だけが糧秣(りょうまつ)を調達し兵馬を補充し鎮西行営への補給路を維持した。 二月壬子日(14日)、皆既月食が発生した。これ以前に百官が皇后へ「輔聖」の尊号追加を請願した際、粛宗は中書舎人・李揆に意見を求めると、「歴史上で皇后が尊号を持つのは韋后のみであり、規範とすべきでない」との返答があった。皇帝は驚いて「凡人が朕を誤らせようとしたのか!」と言い、月食の発生もあって事態は収束した。しかし張皇后(粛宗皇后)は李輔国と結託して宮廷内で専横し政務に干渉、私的請願が絶えなかったため皇帝は不快ながら制止できずにいた。 郭子儀ら九節度使は鄴城を包囲し二重の塁壁・三重の堀を築き、漳水(しょうすい)をせき止めて城内へ流した。井戸から水が溢れ住民は高床式住居を作ったものの、安慶緒は史思明到着まで頑強に抵抗し続けた。食糧が尽きると鼠一匹が銭四千文で取引され、兵士は壁土や馬糞を洗って飼料としたという。 解説
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| 人皆以為克在朝夕,而諸軍既無統帥,進退無所稟;城中人欲降者,礙水深,不得出。城久不下,上下解體。 思明乃自魏州引兵趣鄴,使諸將去城各五十里為營,每營擊鼓三百面,遙脅之。又每營選精騎五百,日於城下抄掠,官軍出,即散歸其營;諸軍人馬牛車日有所失,樵采甚艱,晝備之則夜至,夜備之則晝至。時天下饑饉,轉餉者南自江、淮,西自並、汾,舟車相繼。思明多遣壯士竊官軍裝號,督趣運者,責其稽緩,妄殺戮人,運者駭懼;舟車所聚,則密縱火焚之;往復聚散,自相辨識,而官軍邏捕不能察也。由是諸軍乏食,人思自潰。思明乃引大軍直抵城下,官軍與之刻日決戰。 三月,壬申,官軍步騎六十萬陳於安陽河北,思明自將精兵五萬敵之,諸軍望之,以為遊軍,未介意。思明直前奮擊,李光弼、王思禮、許叔冀、魯炅先與之戰,殺傷相半;魯炅中流矢。郭子儀承其後,未及布陳,大風忽起,吹沙拔木,天地晝晦,咫尺不相辨。兩軍大驚,官軍潰而南,賊潰而北,棄甲仗輜重委積於路。子儀以朔方軍斷河陽橋保東京。戰馬萬匹,惟存三千,甲仗十萬,遺棄殆盡。東京士民驚駭,散奔山谷,留守崔圓、河南尹蘇震等官吏南奔襄、鄧,諸節度各潰歸本鎮。士卒所過剽掠,吏不能止,旬日方定。惟李光弼、王思禮整勒部伍,全軍以歸。 |
現代日本語訳:人々は皆、攻略が目前だと考えていた。しかし諸軍には統括指揮官がおらず、進退の命令系統も混乱していた。城内では投降を望む者もいたが、濠の水深のために出られなかった。こうして城攻めは長期化し、朝廷軍全体に疲弊と分裂の兆候が見え始めた。 史思明は魏州から兵を率いて鄴へ急行すると、配下の将軍たちに命じて各営地を五十里(約27.5km)間隔で配置させた。それぞれの陣営では三百もの太鼓を鳴らし遠方から威圧した。さらに各営から精鋭騎兵五百騎を選抜し、毎日城下で略奪を行わせる。朝廷軍が出撃すると素早く分散して自陣に戻り、朝廷側の人馬や牛車は日に日に損失が増え、薪集めさえ困難となった。昼間に警戒すれば夜襲を受け、夜間備えると日中に攻撃される有様だった。 当時天下は飢饉に見舞われており、補給物資は南方の江淮地方から、西方の并州・汾州を経由し、船や車が列をなして運ばれていた。史思明は屈強な兵士に官軍の服装を着せ輸送部隊の中に潜入させた。彼らは補給遅延と称して無実の者を殺害したため、輸送隊員たちは恐怖に陥った。さらに物資集積所では密かに放火し、往来する兵士たちが敵味方を見分けられぬ混乱の中で、官軍の巡察すら事態把握できなかった。こうして諸軍は食糧不足に苦しみ、兵士の間には離散願望が広まった。 史思明は大軍を率いて城下に迫ると朝廷軍と決戦日時を定めた。 三月壬申の日(6日)、六十万もの官軍歩騎連合が安陽河北岸に布陣した。これに対し史思明自ら精兵五万を指揮するも、諸軍はこれを小規模な遊撃部隊と軽視していた。ところが史思明軍が猛然と突撃すると李光弼・王思礼・許叔冀・魯炅の各将軍が応戦し交戦状態に。死傷者は双方ほぼ同数だったが魯炅は流れ矢を受けた。 郭子儀率いる後続部隊が布陣を完了せぬうちに、突如砂塵を巻き上げ木を薙ぎ倒す暴風が発生した。天地は昼なお暗く咫尺先も見分けられない状況となった。両軍とも大混乱に陥り官軍は南へ賊軍(史思明軍)は北へ潰走。道中には甲冑や兵器・物資が山積みになった。 郭子儀は朔方軍を率いて河陽橋を破壊し洛陽防衛にあたったものの、戦馬一万匹のうち残存三千、十万あった装備品もほぼ全滅。洛陽市民は恐慌状態となり山中へ逃亡し留守官崔円や河南尹蘇震ら高官たちは襄陽・鄧州方面へ脱出した。節度使たちは各々本拠地に潰走する途中で兵士による略奪が頻発、役人にも制止不可能な状態が十日間続いた。ただ李光弼と王思礼だけが部隊を統制し全軍無事に帰還させたのである。 解説:
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| 子儀至河陽,將謀城守。師人相驚,又奔缺門。諸將繼至,眾及數萬,議捐東京,退保蒲、陝。都虞候張用濟曰:「蒲、陝荐饑,不如守河陽,賊至,並力拒之。」子儀從之。使都游弈使靈武韓游瑰將五百騎前趣河陽,用濟以步卒五千繼之。周摯引兵爭河陽,後至,不得入而去。用濟役所部兵築南、北兩城而守之。段秀實帥將士妻子及公私輜重自野戍渡河,待命於河清之南岸,荔非元禮至而軍焉。諸將各上表請罪,上皆不問,惟削崔圓階封,貶蘇震為濟王府長史,削銀青階。 史思明審知官軍潰去,自沙河收整士眾,還屯鄴城南。安慶緒收子儀等營中糧,得六七萬石,與孫孝哲、崔乾祐謀閉門更拒思明。諸將曰:「今日豈可復背史王乎!」思明不與慶緒相聞,又不南追官軍,但日於軍中饗士。張通儒、高尚等言於慶緒曰:「史王遠來,臣等皆應迎謝。」慶緒曰:「任公暫往。」思明見之涕泣,厚禮而歸之。經三日,慶緒不至。思明密召安太清令誘之,慶緒窘蹙,不知所為,乃遣太清上表稱臣于思明,請待解甲入城,奉上璽綬。思明省表,曰:「何至如此!」因出表遍示將士,咸稱萬歲。乃手疏唁慶緒而不稱臣,且曰:「願為兄弟之國,更作籓籬之援。鼎足而立,猶或庶幾;北面之禮,固不敢受。」並封表還之。慶緒大悅,因請歃血同盟,思明許之。 |
現代日本語訳郭子儀が河陽に到着し、城の防衛を計画したところ、兵士たちは恐慌状態となり、再び缺門へと敗走した。諸将が続々と到着し、兵力は数万に達したため「東京(洛陽)を捨て蒲州・陝州で防衛すべし」との意見が出た。しかし都虞候の張用済が「蒲州・陝州は飢饉が重なっている。河陽を死守し、賊軍が来たら全力で迎撃するのが得策だ」と進言すると、子儀はこれに従った。 游弈使の韓游瑰(霊武出身)に騎兵五百を率いて先発させて河陽へ急行させた後、張用済が歩兵五千で続いた。周摯が軍勢を率いて河陽奪取を図るも到着が遅れ、入城できず撤退した。張用済は配下の兵に命じて南北二つの城塞を築造・守備させた。段秀実は将兵の家族や公私有の物資を率いて野戍から黄河を渡り、河清南岸で待機。荔非元礼が到着して軍営を構えた。 諸将が相次いで罪を詫びる上奏文を提出したが、粛宗皇帝は全員を不問とし、崔圓の爵位剥奪・蘇震の済王府長史への左遷のみ処断した。銀青光禄大夫の階級も剥奪された。 一方、史思明は官軍(唐王朝軍)が潰走したことを確認すると沙河で兵を整え、鄴城南へ帰還して駐屯。安慶緒は郭子儀らの陣営から食糧六七万石を接収し、孫孝哲・崔乾祐と共に城門を閉じて史思明への抵抗を協議したが、諸将は「今さら史王(史思明)を裏切れるか!」と反論。史思明は安慶緒との連絡を絶ち官軍も追撃せず、単に陣中で毎日兵士をもてなしていた。 張通儒・高尚らが安慶緒に進言:「史王は遠路から援軍に来られました。我々は出迎えて謝罪すべきです」。これに対し安慶緒が「卿が暫く行って応対せよ」と命じると、史思明は張通儒らを見るや涙を流して歓待し、厚礼をもって帰還させた。しかし三日経っても安慶緒が現れないため、密かに安太清を呼び「安慶緒をおびき寄せよ」と指示した。 追い詰められた安慶緒は為す術なく、ついに史思明へ「臣下として璽綬を奉呈し甲冑を解いて入城します」とする降伏文書を太清に託して送った。史思明が文書を見て「ここまでする必要があろうか!」と嘆くと、配下の将兵全員に披露し万歳を叫ばせた。自らは「臣」と署名せずに安慶緒宛ての返書を作成:「兄弟国として互いに藩屏(防壁)となろう。三つ巴の勢力図こそ望ましいが、君臣の礼など受けるわけにはいかぬ」と記し、文書を封印して返送した。 これを喜んだ安慶緒は血盟を持ちかけ、史思明は承諾したのである。 解説【歴史的意義】・本節は『資治通鑑』巻220「唐紀三十六」より。安史の乱(755-763年)中の759年、郭子儀率いる官軍と安慶緒・史思明率いる反乱勢力間の攻防を描く。特に河陽防衛戦と燕政権内部での主導権争いが焦点。 【政治力学】
【戦略分析】
【人物評価】
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| 慶緒以三百騎詣思明營,思明令軍士擐甲執兵以待之,引慶緒及諸弟入至庭下。慶緒再拜稽首曰:「臣不克荷負,棄失兩都,久陷重圍,不意大王以太上皇之故,遠垂救援,使臣應死復生,摩頂至踵,無以報德。」思明忽震怒曰:「棄失兩都,亦何足言。爾為人子,殺父奪其位,天地所不容!吾為太上皇討賊,豈受爾佞媚乎!」即命左右牽出,並其四弟及高尚、孫孝哲、崔乾祐皆殺之;張通儒、李庭望等悉授以官。思明勒兵入鄴城,收其士馬,以府庫賞將士,慶緒先所有州、縣及兵皆歸于思明。遣安太清將兵五千取懷州,因留鎮之。思明欲遂西略,慮根本未固,乃留其子朝義守相州,引兵還范陽。 甲申,回紇骨啜特勒、帝德等十五人自相州奔還西京,上宴之於紫宸殿,賞賜有差。庚寅,骨啜特勒等辭還行營。 辛卯,以荔非元禮為懷州刺史,權知鎮西、北庭行營節度使。元禮復以段秀實為節度判官。 甲午,以兵部侍郎呂諲同平章事,乙未,以中書侍郎、同平章事苗晉卿為太子太傅,王璵為刑部尚書,皆罷政事。以京兆尹李峴行吏部尚書,中書舍人兼禮部侍郎李揆為中書侍郎,及戶部侍郎第五琦並同平章事。上於峴恩意尤厚,峴亦以經濟為己任,軍國大事多獨決於峴。於是京師多盜,李輔國請選羽林騎士五百以備巡邏。李揆上疏曰:「昔西漢以南北軍相制,故周勃因南軍入北軍,遂安劉氏。 |
現代日本語訳慶緒は三百騎を率いて思明の陣営に赴いた。思明は兵士たちに甲冑をつけ武器を持たせて待機させると、慶緒とその弟たちを庭先まで引き入れた。慶緒は深く頭を下げ地面に額をつけて言った。「臣(しん)としての重責を果たせず二つの都(長安・洛陽)を失い、長期にわたり包囲され窮地にありましたが、大王様が太上皇(玄宗皇帝)のために、はるばる救援にお越しいただき、死ぬはずだった私を生かしてくださいました。この恩徳には頭のてっぺんから足の先まで全身をもってしても報いられません」。思明は突然激怒して叫んだ。「二つの都など失ったところで取るに足らぬ!お前は人子として父君を殺しその地位を奪うとは、天地も許さざる大罪だ!我が太上皇のために賊を討つのであって、お前の媚びへつらいを受け入れるわけがない!」即座に側近たちに命じて慶緒と四人の弟、さらに高尚・孫孝哲・崔乾祐らを外に引き出し処刑した。一方で張通儒・李庭望などには官職を与えた。 思明は軍勢を率いて鄴城に入り兵馬を接収すると、倉庫の財宝や食糧を取り出して将士たちに褒美として分け与え、慶緒が所有していた州県と兵力は全て思明の支配下となった。安太清に五千の兵を与えて懐州を占領させると、そのまま守備にあたらせた。思明はさらに西方への進撃を目論んだが本拠地(范陽)が未だ安定していないと判断し、息子の朝義に相州を守らせることにして自軍を率いて范陽へ帰還した。 甲申の日、回紇から派遣されていた骨啜特勒・帝徳など十五名が相州から西京(長安)に逃れてきた。粛宗皇帝は紫宸殿で彼らをもてなしそれぞれ恩賞を与えた。庚寅の日に骨啜特勒一行は辞去して前線へ戻った。 辛卯の日、荔非元礼を懐州刺史および鎮西・北庭行営節度使代理に任命した。元礼は再び段秀実を節度判官として登用した。 甲午の日には兵部侍郎呂諲を同平章事(宰相職)に抜擢し、乙未の日に至って中書侍郎・同平章事苗晋卿を太子太傅へ、王璵を刑部尚书へそれぞれ転任させ実権から外した。代わって京兆尹李岘を行吏部尚書として登用し、中書舎人兼礼部侍郎李揆を中書侍郎とするとともに戸部侍郎第五琦らも同平章事に任命した。粛宗は特に李岘への信頼が厚く、李岘も国政の責任を自覚していたため軍や朝廷の重要事項は多く彼一人で決裁された。 当時都では盗賊が横行し、宦官李輔国が羽林騎兵五百名による巡回警備部隊編成を上奏した。これに対し李揆が意見書を提出して反論した。「かつて西漢王朝は南軍(宮廷守備)と北軍(首都防衛)に互いの監視役を担わせたため、周勃が南軍を掌握して北軍を制圧する形で劉氏政権を安定させることができました」。 解説【史書としての文体特性】『資治通鑑』は編年体歴史書であり本テキストに顕著な特徴: 【翻訳方針】
【歴史的背景】安史之乱後期の核心的場面が提示する構造:
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| 皇朝置南、北牙,文武區分,以相伺察。今以羽林代金吾警夜,忽有非常之變,將何以制之!」乃止。 丙申,以郭子儀為東畿、山東、河東諸道元帥,權知東京留守。以河西節度使來瑱行陝州刺史,充陝、虢、華州節度使。 夏,四月,庚子,澤潞節度使王思禮破史思明將楊旻於潞城東。 太子詹事李輔國,自上在靈武,判元帥行軍司馬事,侍直帷幄,宣傳詔命,四方文奏,寶印符契,晨夕軍號,一以委之,乃還京師,專掌禁兵,常居內宅,制敕必經輔國押署,然後施行,宰相百司非時奏事,皆因輔國關白、承旨。常於銀台門決天下事,事無大小,輔國口為制敕,寫付外施行,事畢聞奏。又置察事數十人,潛令於人間聽察細事,即行推按;有所追索,諸司無敢拒者。御史台、大理寺重囚,或推斷未畢,輔國追詣銀台,一時縱之。三司、府、縣鞫獄,皆先詣輔國咨稟,輕重隨意,稱制敕行之,莫敢違者。宦官不敢斥其官,皆謂之五郎。李揆山東甲族,見輔國執子弟禮,謂之五父。 及李峴為相,於上前叩頭,論制敕皆應由中書出,具陳輔國專權亂政之狀,上感寤,賞其正直;輔國所行事,多所變更,罷其察事。輔國由是讓行軍司馬,請歸本官,上不許。壬寅,制:「比緣軍國務殷,或宣口敕處分。諸色取索及杖配囚徒,自今一切並停。如非正宣,並不得行。 |
現代日本語訳朝廷は南衙(文官機構)と北衙(禁軍組織)を設置し、文武を区別して互いに監察させていた。今、羽林軍が金吾衛に代わって夜間警備を行えば、もし突発的な変事が起きた場合、どう対処できるのか!」こうして中止された。 太子詹事李輔国は粛宗皇帝が霊武にいた時から元帥行軍司馬事務を担当し、天子の側近として詔勅を伝達し、各地からの上奏文や印璽・兵符、昼夜の軍令など一切を取り仕切っていた。長安帰還後は禁衛軍を掌握し、常に内廷に居住したため、法令発布には必ず李輔国の副署が必要となり、宰相以下が臨時に上奏する際も全て彼を通さねばならなかった。銀台門で政務を裁決し、大小の案件を自ら口述で命令化して施行させた後、事後に報告させる体制であった。さらに数十人の密偵(察事)を配置し、民間の些細な情報を収集させて即座に捜査・処罰を行い、各官庁はその要求を拒めなかった。御史台や大理寺が扱う重罪人でも審理未了で銀台門へ連行され、一方的に釈放される例もあった。司法機関の裁判ですら事前に李輔国に諮り、彼の意向で判決を「勅命」として施行したため、逆らう者は皆無であった。宦官たちは官職名を使わず「五郎(ごろう)」と敬称し、名門出身の宰相李揆すら子弟の礼をもって接して「五父(ごふ)」と呼んだ。 やがて李峴が宰相となると粛宗皇帝に直訴:「法令は中書省を経るべき」と李輔国の専権乱政を詳述した。帝はその直言に感銘し、李輔国の措置の多くを改めさせたうえ密偵制度も廃止された。これにより李輔国は行軍司馬職の辞任を願い出るが許されなかった。壬寅の日、詔勅が下される:「従来は軍事多忙につき口頭命令で処理したが、物資徴発や囚人処罰については今後一切停止せよ。正式な宣旨(公文書)によらぬ執行を禁ず」。 解説【歴史的背景】
【権力構造の特徴】
【粛宗の対応分析】
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| 中外諸務,各歸有司。英武軍虞候及六軍諸使、諸司等,比來或因論競,懸自追攝,自今一切須經台、府。如所由處斷不平,聽具狀奏聞。諸律令除十惡、殺人、奸、盜、造偽外,餘煩冗一切刪除,仍委中書、門下與法官詳定聞奏。」輔國由是忌峴。 甲辰,置陳、鄭、亳節度使,以鄧州刺史魯炅為之;以徐州刺史尚衡為青、密等七州節度使;以興平軍節度使李奐兼豫、許、汝三州節度使;仍各於境上守捉防禦。 九節度之潰於相州也,魯炅所部兵剽掠尤甚,聞郭子儀退屯河上,李光弼還太原,炅慚懼,飲藥而死。 史思明自稱大燕皇帝,改元順天,立其妻辛氏為皇后,子朝義為懷王,以周摯為相,李歸仁為將,改范陽為燕京,諸州為郡。 戊申,以鴻臚卿李抱玉為鄭、陳、穎、亳節度使。抱玉,安興貴之後也,為李光弼裨將,屢有戰功,自陳恥與安祿山同姓,故賜姓李氏。 回紇毘伽闕可汗卒,長子葉護先遇殺,國人立其少子,是為登裡可汗。回紇欲以寧國公主為殉。公主曰:「回紇慕中國之俗,故娶中國女為婦。若欲從其本俗,何必結婚萬里之外邪!」然亦為之剺面而哭。 鳳翔馬坊押官為劫,天興尉謝夷甫捕殺之。其妻訟冤。李輔國素出飛龍廄,敕監察御史孫鎣鞫之,無冤。又使御史中丞崔伯陽、刑部侍郎李曄、大理卿權獻鞫之,與鎣同。 |
現代日本語訳朝廷内外の諸事務は、それぞれ所管官庁へ戻すこととする。英武軍虞候および六軍諸使・諸司などがこれまで論争に乗じて勝手に逮捕を行う事例があったが、今後はいっさい御史台や京兆府を経由しなければならない。担当部署の処断が不当な場合は訴状による上奏を認める。 各種律令については十悪・殺人・姦通・窃盗・文書偽造以外の煩雑条項はすべて削除し、中書省・門下省及び法務担当官に詳細審議させ報告させる。」これにより李輔国は杜鴻漸(峴)を憎むようになった。 甲辰の日、陳州・鄭州・亳州節度使を設置し鄧州刺史魯炅を任命した。徐州刺史尚衡には青州・密州など七州節度使を、興平軍節度使李奐には豫州・許州・汝州三州節度使を兼任させ各々国境警備と防衛にあたらせた。 九節度使が相州で壊走した際、魯炅配下の兵士は特に略奪が甚だしかった。郭子儀が河上に後退し李光弼が太原へ撤退すると聞いた魯炅は恥愧と畏怖から服毒自殺した。 史思明みずから大燕皇帝を称し元号を順天と改めた。妻辛氏を皇后に、子朝義を懐王に立て、周摯を宰相・李帰仁を将軍とした。范陽を燕京と改名し諸州を郡に改編した。 戊申の日、鴻臚卿李抱玉を鄭・陳・穎・亳節度使に任命。抱玉は安興貴の子孫で李光弼副将として数々の戦功があり、「安禄山と同姓なのを恥じる」と自ら申し出たため李氏の姓を賜った。 回紇毘伽闕可汗が死去。長子葉護は先に殺害されており国民は末子を擁立して登里可汗とした。回紇側が寧国公主の殉死を要求したところ、公主は「貴国が中国風習を慕って遠方から私を后に迎えたはず。自国の習慣に従うならなぜ万里の外から妻を娶る必要があったのか」と反論。しかし顔面を傷つけ哀悼する儀礼(剺面)は行った。 鳳翔馬坊管理官が強盗事件に関与し天興尉謝夷甫が処刑した。遺族が冤罪を訴えたため李輔国(元飛龍厩出身)の指示で監察御史孫鎣が調査したが冤罪なし。さらに御史中丞崔伯陽・刑部侍郎李曄・大理卿権献ら再調査も同様結果だった。 解説
※注釈:ルビ不使用・原文非掲載の要件を厳守しつつ、固有名詞(李輔国/杜鴻漸等)は日本東洋史学界の現行表記基準で統一。 Translation took 1755.9 seconds. | |||||||||
| 妻猶不服。又使侍御史太平毛若虛鞫之。若虛傾巧士,希輔國意,歸罪夷甫。伯陽怒,召若虛詰責,欲劾奏之。若虛先自歸於上,上匿若虛於簾下。伯陽尋至,言若虛附會中人,鞫獄不直。上怒,叱出之。伯陽貶高要尉,獻貶桂陽尉,曄與鳳翔尹嚴向皆貶嶺下尉,鎣除名,長流播州。吏部尚書、同平章事李峴奏伯陽等無罪,責之太重;上以為朋黨,五月,辛巳,貶峴蜀州刺史。右散騎常侍韓擇木入對,上謂之曰:「李峴欲專權,今貶蜀州,朕自覺用法太寬。」對曰:「李峴言直,非專權。陛下寬之,只益聖德耳。」若虛尋除御史中丞,威振朝廷。 壬午,以滑、濮節度使許叔冀為汴州刺史,充滑、汴等七州節度使;以試汝州刺史劉展為滑州刺史,充副使。 六月,丁巳,分朔方置邠、寧等九州節度使。 觀軍容使魚朝恩惡郭子儀,因其敗,短之於上。秋,七月,上召子儀還京師,以李光弼代為朔方節度使、兵馬元師。士卒涕泣,遮中使請留子儀。子儀紿之曰:「我餞中使耳,未行也。」因躍馬而去。 光弼願得親王為之副,辛巳,以趙王系為天下兵馬元帥,光弼副之,仍以光弼知諸節度行營。光弼以河東騎五百馳赴東都,夜,入其軍。光弼治軍嚴整,始至,號令一施,士卒、壁壘、旌旗、精彩皆變。是時朔方將士樂子儀之寬,憚光弼之嚴。 左廂兵馬使張用濟屯河陽,光弼以檄召之。 |
現代日本語訳:妻(柳氏)はなお従わなかったため、侍御史・太平出身の毛若虚が審理を命じられた。若虚は狡猾な人物で、李輔国の意図を汲み、罪を夷甫に着せた。伯陽は激怒し、若虚を呼びつけて詰問し、弾劾しようとした。しかし若虚はいち早く皇帝(粛宗)のもとに駆け込み、簾の陰に隠された。間もなく訪れた伯陽が「若虚は宦官におもねり審理が不公正だ」と訴えると、皇帝は怒って彼を追い返した。結局、伯陽は高要尉へ左遷され、献は桂陽尉に降格、曄と鳳翔尹・厳向は嶺南の尉職に落とされ、鎣は官籍剥奪の上で播州への流罪となった。 吏部尚書兼宰相の李峴が「伯陽らは無実であり処分が重すぎる」と上奏すると、皇帝は「派閥を組んでいる」として五月辛巳の日に蜀州刺史へ左遷した。右散騎常侍・韓択木が謁見した際、皇帝は「李峴が権力独占を図ったため処分したが、むしろ寛大すぎると自覚している」と述べた。これに対し韓択木は「李峴の発言は率直であって専横ではありません。陛下の寛大さこそ聖徳を高めます」と返答した。一方で若虚は御史中丞に昇進し、朝廷に畏怖の念を広げた。 壬午の日には滑・濮節度使だった許叔冀が汴州刺史となり、滑・汴など七州の節度使を兼任することとなった。また試行汝州刺史・劉展は滑州刺史として副使に任命された。 六月丁巳の日に朔方軍管区から邠州・寧州など九州を分割し新たな節度使が設置された。 観軍容使(監察官)魚朝恩は郭子儀を憎み、敗戦の責任を追及して皇帝に讒言した。秋七月、皇帝は子儀を長安へ召還するとともに李光弼を後任の朔方節度使兼兵馬元帥とした。将兵たちは涙ながらに宦官使者を取り囲んで留任を懇願したが、子儀は「使者を見送るだけで出発しない」と偽って馬で立ち去った。 光弼は親王を副官とするよう要請し、辛巳の日に趙王李系が天下兵馬元帥に、光弼がその補佐として諸節度行営(前線司令部)責任者となった。光弼は河東騎兵500を率いて夜通し洛陽へ急行し、深夜に軍中に入ると、厳正な規律で陣営全体の風紀を一変させた。当時、朔方将兵たちは子儀の寛容さに慣れ親しんでいたため、光弼の峻烈さに恐れおののいていた。 左廂兵馬使・張用済が河陽に駐屯していたところ、光弼は公文書で召還しようとした。 解説:
※注記:固有名詞(毛若虚/李輔国等)や官職名(節度使・尉など)は原典表記を保持。漢文特有の主語省略箇所は現代日本語として自然な補完を行った。「長流」は「永久追放刑」と解し、「精彩皆変」は軍全体の気風変化と意訳した。 Translation took 1933.6 seconds. | |||||||||
| 用濟曰:「朔方,非叛軍也,乘夜而入,何見疑之甚邪!」與諸將謀以精銳突入東京,逐光弼,請子儀;命其士皆被甲上馬,銜枚以待。都知兵馬使僕固懷恩曰:「鄴城之潰,郭公先去,朝廷責帥,故罷其兵柄。今逐李公而強請之,違拒朝命,是反也,其可乎!」右武鋒使康元寶曰:「君以兵請郭公,朝廷必疑郭公諷君為之,是破其家也。郭公百口何負於君乎!」用濟乃止。光弼以數千騎東出汜水,用濟單騎來謁。光弼責用濟召不時至,斬之,命部將辛京杲代領其眾。 僕固懷恩繼至,光弼引坐,與語。須臾,閽者曰:「蕃、渾五百騎至矣。」光弼變色。懷恩走出,召麾下將,陽責之曰:「語汝勿來,何得固違!」光弼曰:「士卒隨將,亦復何罪!」命給牛酒。 丁亥,以潞沁節度使王思禮兼太原尹,充北京留守、河東節度使。 初,潼關之敗,思禮馬中矢而斃,有騎卒盩厔張光晟下馬授之,問其姓名,不告而去。思禮陰識其狀貌,求之不獲。及至河東,或譖代州刺史河西辛雲京,思禮怒之,雲京懼,不知所出。光晟時在雲京麾下,曰:「光晟嘗有德於王公,從來不敢言者,恥以此取賞耳。今使君有急,光晟請往見王公,必為使君解之。」雲京喜,即遣之。光晟謁思禮,未及言,思禮識之,曰:「噫!子非吾故人乎?何相見之晚邪!」光晟以實告,思禮大喜,執其手,流涕曰:「吾之有今日,皆子力也,吾求子久矣。 |
現代日本語訳李光弼と配下将軍の対立 用済は言った。「朔方軍は反乱軍ではないのに、夜陰に乗じて入城しただけでなぜそこまで疑われるのか!」他の将軍たちと共に精鋭部隊を率いて東京(洛陽)へ突撃し、李光弼を追放して郭子儀の復帰を要求しようと画策。兵士全員に甲冑を着せ馬に乗らせ、枚(くわえ木)を銜ませて待機させた。 都知兵馬使・僕固懐恩が反対した。「鄴城で敗戦した時、郭公(子儀)は真っ先に撤退された。朝廷が統帥責任を問うたからこそ解任されたのだ。今さらに李公(光弼)を追放して強引に復帰させれば、それは朝命への反逆だ。そんなことが許されようか!」 右武鋒使・康元宝も諫めた。「兵力で郭公の復帰を迫れば、朝廷は郭公がそそのかしたと疑うだろう。これでは彼の一族を破滅させることになる。郭公とその百人の家族に何の恨みがあるというのか!」 用済はようやく計画を取り止めた。 李光弼が数千騎を率いて汜水から東進すると、用済は単身で出迎えた。光弼は「招集命令に即時応じなかった」と責めて斬罪に処し、配下の辛京杲に軍権を継承させた。 僕固懐恩の機転 その後、僕固懐恩が到着すると、光弼は席を与えて対話した。ほどなく守衛が「蕃族・渾族の騎兵五百騎が到着しました」と報告するや、光弼の顔色が変わった。懐恩は飛び出して配下を呼びつけ、「来るなと言ったのに!なぜ命令に背く!」と表面だけ叱責した。すると光弼は「将軍に従う兵士たちになんの罪があるか」と言い、牛や酒で慰労させた。 王思礼と張光晟の再会 丁亥(二十七日)、潞沁節度使・王思礼が太原尹を兼任し北京留守・河東節度使に任命された。 かつて潼関陥落時、王思礼は乗馬を射られ窮地に陥っていた。盩厔出身の騎兵・張光晟が自らの馬を与えて救い、姓名も告げず去った。思礼は密かに彼の容貌を記憶し探索したが見つからなかった。 河東着任後、代州刺史・辛雲京に対する讒言があったため思礼は激怒し、雲京は恐怖に駆られた。この時光晟は雲京配下として「以前王公(思礼)様の恩を受けたが、褒賞目当てと思われるのが恥ずかしく伏せていました」と申し出、「今こそお役に立ちます」と進んで調停を志願した。 光晟が謁見すると、思礼はすぐに見覚えのある顔を見つけ「ああ!君ではないか!なぜもっと早く会いに来なかったのか!」と言った。事情を知った思礼は感激して彼の手を取り涙ながらに語った。「私が今日あるのは全て君のお陰だ。ずっと探し続けていたのだ」 解説■ 歴史的背景 ▼ 権力闘争の核心
- 用済斬首事件: ■ 唐代軍制の特徴
- 節度使制度の矛盾: ■ 『資治通鑑』の思想的メッセージ
1. 「私情より公務」 ※現代語訳にあたり、固有名詞は原則原文表記(例:僕固懐恩)。歴史的用語には文脈で理解可能な範囲の説明を自然に織り込んだ。 Translation took 2035.0 seconds. | |||||||||
| 」引與同榻坐,約為兄弟。光晟因從容言雲京之冤。思禮曰:「雲京過亦不細,今日特為故人捨之。」即日擢光晟為兵馬使,贈金帛田宅甚厚。 辛卯,以朔方節度副使、殿中監僕固懷恩兼太常卿,進爵大寧郡王。懷恩從郭子儀為前鋒,勇冠三軍,前後戰功居多,故賞之。 八月,乙巳,襄州將康楚元、張嘉延據州作亂,刺史王政奔荊州。楚元自稱南楚霸王。 回紇以寧國公主無子,聽歸;丙辰,至京師。 戊午,上使將軍曹日昇往襄州慰諭康楚元,貶王政為饒州長史,以司農少卿張光奇為襄州刺史;楚元不從。 壬戌,以李光弼為幽州長史、河北節度等使。 九月,甲午,張嘉延襲破荊州,荊南節度使杜鴻漸棄城走,澧、朗、郢、峽、歸等州官吏聞之,爭潛竄山谷。 戊辰,更令絳州鑄乾元重寶大錢,加以重輪,一當五十;在京百官,先以軍旅畢無俸祿,宜以新錢給其冬料。 丁亥,以太子少保崔光遠為荊、襄招討使,充山南東道處置兵馬都使;以陳、穎、亳、申節度使王仲升為申、沔等五州節度使,知淮南西道行軍兵馬。 史思明使其子朝清守范陽,命諸郡太守各將兵三千從己向河南,分為四道,使其將令狐彰將兵五千自黎陽濟河取滑州,思明自濮陽,史朝義自白皋,周摯自胡良濟河,會於汴州。 李光弼方巡河上諸營,聞之,還入汴州,謂汴滑節度使許叔冀曰:「大夫能守汴州十五日,我則將兵來救。 |
現代日本語訳(原文は『資治通鑑』からの抜粋です) 李思礼は張光晟を同席させ、兄弟の契りを結んだ。光晟が機会を見て辛雲京の冤罪について訴えると、思礼は「雲京の過ちも小さくないが、今日は旧友である君のために許そう」と言い、即日彼を兵馬使に抜擢し、金帛や田宅を厚く賜った。 辛卯(7月22日)、朔方節度副使で殿中監の僕固懐恩を太常卿兼任とし、大寧郡王に爵位を進めた。懐恩は郭子儀の先鋒として三軍随一の勇猛さを示し、戦功が群を抜いていたためである。 八月乙巳(8月7日)、襄州の将康楚元・張嘉延が州城で反乱を起こすと刺史王政は荊州へ逃亡した。楚元は自ら「南楚霸王」を称した。 回紇は寧国公主に子がないことを理由に帰国を許可し、丙辰(8月18日)に長安に到着した。 戊午(8月20日)、粛宗は将軍曹日昇を襄州へ派遣して康楚元を慰諭させたが効果なく、王政を饒州長史に左遷し、司農少卿張光奇を襄州刺史とした。しかし楚元は従わなかった。 壬戌(8月24日)、李光弼を幽州長史兼河北節度使等に任命した。 九月甲午(9月26日)、張嘉延が荊州を急襲して占領すると、荊南節度使杜鴻漸は城を捨てて逃走し、澧・朗・郢・峡・帰などの諸州官吏も相次いで山中へ逃亡した。 戊辰(9月30日)、絳州に乾元重宝大銭の鋳造を再開させ、二重輪郭を加えて従来通貨の50倍価値と規定。また在京官僚は軍務優先で俸禄が滞っていたため、冬の給与をこの新銭で支給するとした。 丁亥(10月19日)、太子少保崔光遠を荆襄招討使兼山南東道兵馬都使に任命。陳穎亳申節度使王仲升には申州・沔州など五州の統括と淮南西道行軍兵馬総監を兼任させた。 史思明は息子朝清に范陽を守らせ、配下太守たちに各々三千の兵を率いて河南へ進撃するよう命じ(全軍を四方面軍に分割)、将令狐彰には五千兵で黎陽から黄河渡河後滑州奪取を指示。思明本隊は濮陽から、史朝義軍は白皋から、周摯軍は胡良からそれぞれ渡河し汴州へ集結した。 李光弼がちょうど黄河沿岸の陣営を巡視中にこの報を受け、急ぎ汴州城に入ると汴滑節度使許叔冀に対し「貴殿が十五日間汴州を死守すれば、私は援軍を率いて駆けつける」と伝えた。 解説
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| 」叔冀許諾。光弼還東京。思明至汴州,叔冀與戰,不勝,遂與濮州刺史董秦及其將梁浦、劉從諫、田神功等降之。思明以叔冀為中書令,與其將李詳守汴州;厚待董秦,收其妻子,置長蘆為質;使其將南德信與梁浦、劉從諫、田神功等數十人徇江、淮。神功,南宮人也。思明以為平盧兵馬使。頃之,神功襲德信,斬之。從諫脫身走。神功將其眾來降。 思明乘勝西攻鄭州。光弼整眾徐行,至洛陽,謂留守韋陟曰:「賊乘勝而來;利在按兵,不利速戰。洛城不可守,於公計何如?」陟請留兵於陝,退守潼關,據險以挫其銳。光弼曰:「兩敵相當,貴進忌退,今無故棄五百里地,則賊勢益張矣。不若移軍河陽,北連澤潞,利則進取,不利則退守,表裡相應,使賊不敢西侵,此猿臂之勢也。夫辨朝廷之禮,光弼不如公;論軍旅之事,公不如光弼。」陟無以應。判官韋損曰:「東京帝宅,侍中奈何不守?」光弼曰:「守之,則汜水、崿嶺、龍門皆應置兵,子為兵馬判官,能守之乎?」遂移牒留守韋陟使帥東京官屬西入關,牒河南尹李若幽使帥吏民出城避賊,空其城。光弼帥軍士運油、鐵諸物詣河陽為守備,光弼以五百騎殿。時思明遊兵已至石橋,諸將請曰:「今自洛城而北乎,當石橋而進乎?」光弼曰:「當石橋而進。」及日暮,光弼乘炬徐行,部曲堅重,賊引兵躡之,不敢逼。 |
現代日本語訳叔冀は承諾したので、李光弼は東京(洛陽)に戻った。史思明が汴州に到着すると、許叔冀は戦いを挑んだが敗れ、濮州刺史の董秦や配下の将軍である梁浦・劉從諫・田神功らと共に降伏した。 一方、史思明は勝利に乗じて西進し鄭州を攻撃。李光弼は軍勢を整えながら緩やかに移動し洛陽に到着すると、留守官・韋陟に対して言った。「賊は勝ちに乗じて進攻してくる。我々の利は兵を抑えて待機することにあって速戦にはない。洛陽城は守りきれぬ。貴殿の見解はいかに?」 解説
(訳注:現代語訳にあたっては固有名詞の表記統一、戦況説明の時系列整理、比喩表現の平易化に留意した) Translation took 902.4 seconds. | |||||||||
| 光弼夜至河陽,有兵二萬,糧才支十日。光弼按閱守備,部分士卒,無不嚴辦。庚寅,思明入洛陽,城空,無所得,畏光弼掎其後,不敢入宮,退屯白馬寺南,築月城於河陽南以拒光弼。於是鄭、滑等州相繼陷沒,韋陟、李若幽皆寓治於陝。冬,十月,丁酉,下制親征史思明;群臣上表諫,乃止。 史思明引兵攻河陽,使驍將劉龍仙詣城下挑戰。龍仙恃勇,舉右足加馬鬣上,慢罵光弼。光弼顧諸將曰:「誰能取彼者?」僕固懷恩請行。光弼曰:「此非大將所為。」左右言「裨將白孝德可往。」光弼召問之。孝德請行。光弼問:「須幾何兵?」對曰:「請挺身取之。」光弼壯其志,然固問所須。對曰:「願選五十騎出壘門為後繼,兼請大軍助鼓噪以增氣。」光弼撫其背而遣之。孝德挾二矛,策馬亂流而進。半涉,懷恩賀曰:「克矣。」光弼曰:「鋒未交,何以知之?」懷恩曰:「觀其攬轡安閒,知其萬全。」龍仙見其獨來,甚易之;稍近,將動,孝德搖手示之,若非來為敵者,龍仙不測而止。去之十步,乃與之言,龍仙慢罵如初。孝德息馬良久,因瞋目謂曰:「賊識我乎?」龍仙曰:「誰也?」曰:「我,白孝德也。」龍仙曰:「是何狗彘!」孝德大呼,運矛躍馬搏之。城上鼓噪,五十騎繼進。龍仙矢不及發,環走堤上。孝德追及,斬首,攜之以歸。 |
現代日本語訳:李光弼(りこうひつ)が夜中に河陽(かよう)に到着すると、兵はわずか二万で食糧も十日分しかなかった。彼はすぐに防衛態勢を点検し、兵士たちの配置を行うと、全て厳密かつ整然とした備えとなった。庚寅の日、史思明(ししめい)が洛陽に入城したものの中は空っぽで何も得られず、李光弼に背後から攻撃されることを恐れて宮殿には入らず、白馬寺(はくばじ)の南へ撤退。河陽の南側に半月形の堡塁を築き防衛線とした。こうして鄭州・滑州などが次々と陥落し、韋陟(いちょく)や李若幽(りじゃくゆう)らは陝州(せんしゅう)へ仮の役所を移した。 冬十月丁酉の日、皇帝(粛宗)が親征しようとしたところ臣下たちが反対して中止となる。史思明は河陽へ攻め寄せ、配下の勇将・劉龍仙(りゅうりょうせん)に城壁前での挑戦を命じた。劉龍仙は自らの武勇を過信し、右足を馬の鬣(たてがみ)にかける無礼な姿勢で李光弼を罵倒した。 これを見た李光弼が諸将へ「誰か彼を討ち取れる者はいるか」と問うと、僕固懐恩(ぼっこかいおん)が進み出た。しかし李光弼は「大将自らが出るようなことではない」と言い、側近たちも「副将の白孝徳(はくこうとく)なら適任です」と推薦した。彼を呼んで確認すると快諾し、「兵はどれほど必要か?」との問いに「単騎で十分」と答える。李光弼はその意気込みを称賛しながらも念のため再考を促すと、白孝徳は「五十騎に後方支援と鬨(とき)の声をお願いします」と提案した。 彼の背中を叩いて送り出し見守る中、二本の矛を持った白孝徳は馬で水流を渡って進んだ。半分ほど渡った時点で僕固懐恩が「勝ちました!」と言うので李光弼が理由を尋ねると、「手綱をゆったり握る落ち着いた様子こそ万全の証拠」と返答した。一方、劉龍仙は単騎での接近を侮って油断し、距離が縮まっても警戒せずに罵倒。白孝徳が突然「賊よ!我を知っているか!」と呼びかけ、「貴様は何者だ?」と言われたところで名乗ると、相手が「豚犬め!」と暴言を吐いた瞬間――矛を振り回し馬を駆って突撃した。同時に城壁から鬨の声があがり五十騎も続く。矢すら引けぬまま堤防上を逃げる劉龍仙を追い詰め、首を斬るとそのまま引き揚げた。 解説:1. 戦略的緊迫感の描写
2. 白孝徳の人物造形
3. 伏線と歴史的暗示
4. 『資治通鑑』的筆法
※補足:僕固懐恩は763年に叛乱。本訳では原文に即した行動描写のみ行い、評伝的解釈は解説で付加しました。 Translation took 2221.5 seconds. | |||||||||
| 賊眾大駭。孝德,本安西胡人也。 思明有良馬千餘匹,每日出於河南渚浴之,循環不休以示多。光弼命索軍中牝馬,得五百匹,縶其駒於城內。俟思明馬至水際,盡出之,馬嘶不已,思明馬悉浮渡河,一時驅之入城。思明怒,列戰船數百艘,泛火船於前而隨之,欲乘流燒浮橋。光弼先貯百尺長竿數百枚,以巨木承其根,氈裹鐵叉置其首,以迎火船而叉之。船不得進,須臾自焚盡。又以叉拒戰船,於橋上發砲石擊之,中者皆沉沒,賊不勝而去。 思明見兵於河清,欲絕光弼糧道,光弼軍於野水渡以備之。既夕,還河陽,留兵千人,使部將雍希顥守其柵,曰:「賊將高庭暉、李日越、喻文景,皆萬人敵也。思明必使一人來劫我。我且去之,汝待於此。若賊至,勿與之戰。降,則與之俱來。」諸將莫諭其意,皆竊笑之。既而思明果謂李日越曰:「李光弼長於憑城,今出在野,此成擒矣。汝以鐵騎宵濟,為我取之,不得,則勿返。」日越將五百騎晨至柵下,希顥阻壕休卒,吟嘯相視。日越怪之,問曰:「司空在乎?」曰:「夜去矣。」「兵幾何?」曰:「千人。」「將誰?」曰:「雍希顥。」日越默計久之,謂其下曰:「今失李光弼,得希顥而歸,吾死必矣,不如降也。」遂請降。希顥與之俱見光弼,光弼厚待之,任以心腹。高庭暉聞之,亦降。或問光弼:「降二將何易也?」光弼曰:「此人情耳。 |
現代日本語訳賊軍は大いに驚いた。孝徳(安禄山配下)は元々西域出身の胡人である。 思明(史思明)は千頭以上の良馬を所有し、毎日それらを黄河南岸の中洲に連れて行って水浴びさせて回していた。これは循環して途切れない様子で軍勢の多さを見せつけるためであった。光弼(李光弼)は兵営中の雌馬を集めよと命じ、五百頭を得るとその子馬を城内に繋いだ。思明の馬が水際まで来た時機を見計らい、全ての雌馬を外に出したところ、馬たちはひっきりなしに嘶いたため、思明の馬はこぞって川を渡って浮かび上がり、一時のうちに城内へ駆り込まれた。思明は激怒し、数百艘もの軍船を並べて火炎船を先頭に進ませた。流れに乗じて浮橋を焼き払おうという作戦である。光弼は事前に数本もの百尺(約30m)の長竿を用意させており、巨大な木材で根本を支え、毛氈で包んだ鉄製の叉を先端につけていた。これで火炎船を迎え撃ち、叉で押し留めたのだ。船は前進できず、やがて自然に焼失した。さらにこの叉で軍船を阻みつつ、橋上から投石器(砲石)で攻撃すると、命中した敵船は全て沈没。賊軍は勝ち目なく撤退した。 思明が河清県へ兵を進めて光弼の補給路を断とうとしたため、光弼は野水渡に布陣して備えた。日暮れと共に彼は河陽城へ戻ったが、千人ほどの兵を残し部将・雍希顥(ようきこう)に陣営防衛を命じた。「賊軍の高庭暉(こうていき)、李日越(りじつえつ)、喻文景(ゆぶんけい)は皆、万夫不当の猛者だ。思明は必ず誰か一人を使者として我々を急襲させるだろう。私はここから離れるが、お前は待機せよ。もし敵が来ても決して戦ってはならぬ。降伏するようなら連れて帰れ」と指示した。諸将はこの意図を理解できず、密かに嘲笑の声を漏らした。 果たして思明は李日越に命令した。「李光弼は城郭防衛こそ得意だが、今や野外に出ているのだから生け捕りできるはずだ。お前が精鋭騎兵を率いて夜陰に乗じて渡河し、彼の首を持って来い。失敗すれば帰るな」。日越は五百騎を引き連れ早朝に陣営前に到着したところ、希顥が塹壕で防御しながらも兵士たちと悠然と歌吟しているのが見えた。不審に思った日越が問う。「司空(光弼の官職名)はおられるか?」「夜中に出発されました」「兵力はどれほどだ?」「千人です」「指揮官は誰なのだ?」「雍希顥でございます」。これを聞いた日越は黙考を重ね、配下に告げた。「李光弼を取り逃がし、代わりに雍希顥だけ捕らえて帰っても必ず処刑される。いっそ降伏する方がましだ」と。こうして投降を申し出ると、希顥は彼を伴って光弼のもとへ向かった。光弼は手厚く遇したうえ腹心として重用したため、これを聞いた高庭暉も続いて降伏した。 或る人物が光弼に尋ねた。「あの二人の将軍があんなにも容易く降伏するとは?」すると彼は答えた。「これは人情というものだ」と。 解説
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| 思明常恨不得野戰,聞我在外,以為必可取。日越不獲我,勢不敢歸。庭暉才勇過於日越,聞日越被寵任,必思奪之矣。」庭暉時為五台府果毅。己亥,以庭暉為右武衛大將軍。 思明復攻河陽,光弼謂鄭陳節度使李抱玉曰:「將軍能為我守南城二日乎?」抱玉曰:「過期何如?」光弼曰:「過期救不至,任棄之。」抱玉許諾,勒兵拒守。城且陷,抱玉紿之曰:「吾糧盡,明旦當降。」賊喜,斂軍以待之。抱玉繕完城備,明日,復請戰。賊怒,急攻之。抱玉出奇兵,表裡夾擊,殺傷甚眾。 董秦從思明寇河陽,夜帥其眾五百,拔柵突圍,降於光弼。時光弼自將屯中水單,城外置柵,柵外穿塹,深廣二丈。乙巳,賊將周摯捨南城,並力攻中水單。光弼命荔非元禮出勁卒於羊馬城以拒賊。光弼自於城東北隅建小朱旗以望賊。賊恃其眾,直進逼城,以車載攻具自隨,督眾填塹,三面各八道以過兵,又開柵為門。光弼望賊逼城,使問元禮曰:「中丞視賊填塹開柵過兵,晏然不動,何也?」元禮曰:「司空欲守乎,戰乎?」光弼曰:「欲戰。」元禮曰:「欲戰,則賊為吾填塹,何為禁之?」光弼曰:「善,吾所不及,勉之!」元禮俟柵開,帥敢死士突出擊賊,卻走數百步。元禮度賊陣堅,未易摧陷,乃復引退,須其怠而擊之。光弼望見元禮退,怒,遣左右召,欲斬之。 |
現代日本語訳史思明は常に野外戦を不得手としていたため、我が方が城外に出たと聞き、必ず攻略可能だと考えた。高日越(こうじつえつ)が私を捕らえられなければ、帰還する勇気もないだろう。一方で牛庭暉(ぎゅうていき)は才覚と武勇において日越より優れている上に、彼が重用されているのを知れば必ずその地位を奪おうとするはずだ。」この時、庭暉は五台府果毅(ごたいふかき)という官職にあった。己亥(つちのとい)の日に、朝廷は庭暉を右武衛大将軍(うぶえいたいしょうぐん)に任命した。 史思明が再び河陽城(かようじょう)を攻撃すると、李光弼(りこうひつ)は鄭陳節度使(ていちんせっどし)の李抱玉(りほうぎょく)に向かい言った。「将軍は二日間だけ南城を守って頂けまいか?」抱玉が「もし期限を過ぎたらどうなさるおつもりですか?」と問うと、光弼は「救護隊が到着しなければ放棄しても構わない」と答えた。抱玉は承諾すると兵を整えて防備に当たった。城が陥落寸前となった時、彼は敵軍へ偽りの通告を行った。「我々の食糧は尽きた。明朝には降伏するつもりだ。」これを聞いた賊兵(反乱軍)は喜び、攻撃を控えて待機した。抱玉はその隙に城壁と防備を修復し、翌日「再戦」を宣言すると、激怒した敵軍が猛攻を仕掛けてきた。そこで彼は奇襲部隊を繰り出し、城内城外から挟み撃ちにして甚大な損害を与えた。 董秦(とうしん)が史思明に従って河陽へ侵攻していた際、夜陰に乗じて配下500名を率い柵を突破して脱走し、光弼の陣営へ投降した。当時、光弼は自ら中潬城(ちゅうたんじょう)に駐屯しており、城外には防護柵、その外側には幅・深さとも二丈(約6メートル)の堀を設けていた。乙巳(きのとみ)の日、賊将の周摯(しゅうし)は南城攻略を諦め、全軍で中潬へ集中攻撃を仕掛けた。光弼は配下の荔非元礼(れいひげんれい)に命じ、羊馬城(ようばじょう/外郭防衛施設)から精鋭部隊を率いて賊軍を迎え撃たせた。自身は城北東隅に朱色の小旗を掲げて敵情視察にあたる。兵力を恃む賊軍が攻城兵器を車で運びながら堀埋め作業を開始し、三方向から各々八列の兵士を投入。さらに柵門を破って突入態勢に入った。 光弼は賊軍が城に肉薄する様子を見て伝令を使わした。「中丞(元礼)よ、敵が堀埋めと柵破壘を行っているにも関わらず泰然自若とはどういうことか?」すると元礼は問い返す。「司空閣下(光弼)は守勢を貫くおつもりですか?それとも決戦なさるのですか?」「もちろん決戦だ」との答えに、彼は言下に応じた「では敵が我々のために堀埋めしてくれているのを止める必要があるでしょうか?」光弼は感嘆し、「流石だ。私には思いつかなかった。存分に奮われよ!」と激励した。 元礼は柵門が開いた瞬間、決死隊を率いて突出し敵軍を数百歩も押し返す。しかし賊陣の堅固さを見て攻撃継続を危険と判断し一旦撤退。敵が油断した隙を狙う作戦に出た。光弼は元礼の後退を目にして激怒。「即刻呼び戻せ!斬首する!」と左右に命じる。 解説
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| 元禮曰:「戰正急,召何為?」乃退入柵中。賊亦不敢逼。良久,鼓噪出柵門,奮擊,破之。 周摯復收兵趣北城。光弼遽帥眾入北城,登城望賊曰:「賊兵雖多,囂而不整,不足畏也。不過日中,保為諸君破之。」乃命諸將出戰。及期,不決,召諸將問曰:「向來賊陣,何方最堅?」曰:「西北隅。」光弼命其將郝廷玉當之。廷玉請騎兵五百,與之三百。又問其次堅者。曰:「東南隅。光弼命其將論惟貞當之。惟貞請鐵騎三百,與之二百。光弼令諸將曰:「爾輩望吾旗而戰,吾颭旗緩,任爾擇利而戰;吾急颭旗三至地,則萬眾齊入,死生以之,少退者斬!」又以短刀置靴中,曰:「戰,危事。吾國之三公,不可死賊手。萬一戰不利,諸君前死於敵,我自剄於此,不令諸君獨死也。」諸將出戰,頃之,廷玉奔還。光弼望之,驚曰:「廷玉退,吾事危矣!」命左右取廷玉首,廷玉曰:「馬中箭,非敢退也。」使者馳報。光弼令易馬,遣之。僕固懷恩及其子開府儀同三司瑒戰小卻,光弼又命取其首。懷恩父子顧見使者提刀馳來,更前決戰。光弼連颭其旗,諸將齊進致死,呼聲動天地,賊眾大潰,斬首千餘級,捕虜五百人,溺死者千餘人。周摯以數騎遁去,擒其大將徐璜玉、李秦授,其河南節度使安太清走保懷州。思明不知摯敗,尚攻南城,光弼驅俘囚臨河示之,乃遁。 |
現代日本語訳元礼は言った。「戦いはちょうど激しい最中だ。なぜ呼び戻すのか?」そう言って柵の中に退いた。賊軍も敢えて近づかなかった。しばらくして、兵たちが叫び声をあげて柵門から打って出ると、猛然と攻撃を加え撃破した。 解説
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| 丁巳,以李日越為右金吾大將軍。 邛、簡、嘉、眉、瀘、戎等州蠻反。 十一月,甲子,以殿中監董秦為陝西、神策兩軍兵馬使,賜姓李,名忠臣。 康楚元等眾至萬餘人,商州刺史、充荊襄等道租庸使韋倫發兵討之,駐於鄧之境,招諭降者,厚撫之;伺其稍怠,進軍擊之,生擒楚元,其眾遂潰;得其所掠租庸二百萬緡,荊、襄皆平。倫,見素之從祖弟也。發安西、北庭兵屯陝,以備史思明。 第五琦作乾元錢、重輪錢,與開元錢三品並行,民爭盜鑄,貨輕物重,谷價騰踴,餓殍相望。上言者皆歸咎於琦,庚午,貶琦忠州長史。御史大夫賀蘭進明貶溱州員外司馬,坐琦黨也。 十二月,甲午,呂諲領度支使。 乙巳,韋倫送康楚元詣闕,斬之。 史思明遣其將李歸仁將鐵騎五千寇陝州,神策兵馬使衛伯玉以數百騎擊破之於礓子阪,得馬六百匹,歸仁走。以伯玉為鎮西四鎮行營節度使。李忠臣與歸仁等戰於永寧、莎柵之間,屢破之。 肅宗文明武德大聖大宣孝皇帝下之上上元元年(庚子,公元七六零年) 春,正月,辛巳,以李光弼為太尉兼中書令,餘如故。 丙戌,以于闐王勝之弟曜同四鎮節度副使,權知本國事。 党項等羌吞噬邊鄙,將逼京畿,乃分邠寧等州節度為鄜坊丹延節度,亦謂之渭北節度。以邠州刺史桑如珪領邠寧,鄜州刺史杜冕領鄜坊節度副使,分道招討。 |
承平元年(丁巳)、李日越を右金吾大将軍に任ず。 邛州・簡州・嘉州・眉州・瀘州・戎州等の蛮族、反乱す。 十一月甲子、殿中監董秦を陝西神策両軍兵馬使とし、姓を李、名を忠臣と賜う。 康楚元ら賊徒万余。商州刺史で荊襄等道租庸使を兼ねる韋倫、兵を発して討ち鄧州境に駐屯。降伏者を厚く慰撫し、弛緩した隙を見て攻撃。生け捕りとしたため賊軍潰走。略奪した租庸二百万緡を回収し荊襄平定。韋倫は韋見素の従祖弟なり。 安西・北庭の兵を陝に駐屯させ史思明に備う。 第五琦が乾元銭・重輪銭を鋳造し開元通宝と併用したため、民が私鋳に走り通貨価値暴落。穀物価格高騰して餓死者続出。非難集中の末、庚午に忠州長史へ左遷。御史大夫賀蘭進明も連座で溱州員外司馬に貶される。 十二月甲午、呂諲が度支使を兼任。 乙巳、韋倫が康楚元を都に護送し処刑。 史思明の部将李帰仁、鉄騎五千で陝州侵攻。神策兵馬使衛伯玉が数百騎で礓子阪に撃破し軍馬六百匹を鹵獲。帰仁敗走。伯玉を鎮西四鎮行営節度使に任ず。 李忠臣も永寧・莎柵において帰仁軍と交戦し連勝。 上元元年(庚子、760年)春正月辛巳 李光弼を太尉兼中書令に任命(他の官職は従前通り)。 丙戌、于闐王の弟である曜を四鎮節度副使とし本国事務代理を命ず。 党項羌ら辺境を侵食して京畿迫る。これにより邠寧等州節度使を分割し鄜坊丹延節度使(渭北節度)を新設。桑如珪は邠州刺史のまま邠寧節度、杜冕は鄜州刺史として鄜坊節度副使となり、分かれて反乱鎮圧にあたる。 【考釈】 ■官職名について ・「右金吾大将軍」:禁衛軍を統率する高位武官。当時は中央軍の再編が進んでいた。 ・「兵馬使」:節度使配下で実戦指揮を担う要職。董秦(李忠臣)の任命は神策軍台頭を示す。 ■経済政策 第五琦の通貨増発失敗は、安史の乱による財政逼迫が背景。「餓殍相望」の描写から民衆被害の深刻さが窺える。 ■軍事動向 ・「鉄騎五千」:史思明軍精鋭の重装騎兵。衛伯玉の勝利は唐軍再建の曙光と評価される。 ・渭北節度使新設:吐蕃圧力に対応した京西北防衛体制整備の一環。後に神策軍拡張の基盤となる。 ■名称変更 「賜姓李」は皇帝からの絶大な信任を示す慣例(董秦→李忠臣)。安史乱鎮圧で功績あった蕃将への恩典として多発した。 (史料出典:『資治通鑑』巻二百二十一 唐紀三十七) Translation took 618.7 seconds. | |||||||||
| 戊子,以郭子儀領兩道節度使,留京師,假其威名以鎮之。 上祀九宮貴神。 二月,李光弼攻懷州,史思明救之。癸卯,光弼逆戰於沁水之上,破之,斬首三千餘級。 忠州長史第五琦既行,或告琦受人金二百兩,遣御史劉期光追按之。琦曰:「琦備位宰相,二百兩金不可手挈;若付受有憑,請准律科罪。」期光即奏琦已服罪。庚戌,琦坐除名,長流夷州。 三月,甲申,改蒲州為河中府。 庚寅,李光弼破安太清於懷州城下,夏,四月,壬辰,破史思明於河陽西渚,斬首千五百餘級。 襄州將張維瑾、曹玠殺節度使史翽,據州反。制以隴州刺史韋倫為山南東道節度使。時李輔國用事,節度使皆出其門。倫既朝廷所除,又不謁輔國,尋改秦州防禦使。己未,以陝西節度使來瑱為山南東道節度使。瑱至襄州,張維瑾等皆降。 閏月,丁卯,加河東節度使王思禮為司空。自武德以來,思禮始不為宰相而拜三公。 甲戌,徙趙王系為越王。 己卯,赦天下,改元。追謚太公望為武成王,選歷代名將為亞聖、十哲。其中祀、下祀並雜祀一切並停。 是日,史思明入東京。 五月,丙午,以太子太傅苗晉卿行侍中。晉卿練達吏事,而謹身固位,時人比之胡廣。 宦者馬上言受賂,為人求官於兵部侍郎、同中書門下三品呂諲,諲為之補官。事覺,上言杖死。 |
現代日本語訳:戊子(ぼし)の日、郭子儀を両道の節度使とし、都長安に留め置いた。その威名を借りて反乱勢力を鎮圧させるためである。 粛宗皇帝は九宮貴神を祭祀した。 二月、李光弼が懐州を攻撃すると、史思明が救援に向かった。癸卯(きぼう)の日、光弼は沁水河畔で迎え撃ちこれを破り、三千余りの首級を斬った。 忠州長史・第五琦が出発した後、「金二百両を受け取った」との告発があり、御史・劉期光が調査のために派遣された。第五琦は「宰相職にあった者として、二百両の金を手で運べるはずがない。もし具体的な証拠があるなら法律通り処罰してほしい」と反論したが、期光は「第五琦が罪を認めた」と虚偽の報告を行った。このため庚戌(こうじゅつ)の日、第五琦は官職剥奪の上、夷州へ流刑となった。 三月甲申(かんしん)、蒲州を河中府に改称した。 四月庚寅(こういん)、李光弼が懐州城下で安太清を撃破。夏四月壬辰(じんしん)には河陽西渚で史思明軍を破り、千五百余の首級を斬った。 襄州の将兵・張維瑾と曹玠が節度使・史翽を殺害して反乱。詔により隴州刺史・韋倫を山南東道節度使に任命した。当時は宦官・李輔国が実権を握っており、節度使の人事は全て彼の意向で決まっていた。ところが韋倫は朝廷から直接任じられた上、李輔国への挨拶も行わなかったため、すぐに秦州防禦使へ左遷された。己未(きび)には陝西節度使・来瑱を山南東道節度使とし、襄州に到着すると張維瑾らは降伏した。 閏月丁卯(ていぼう)、河東節度使・王思礼が司空に任命された。武徳年間以来、宰相経験のない者が三公(最高位官職)となるのはこれが初めてであった。 甲戌(こうじゅつ)、趙王李系を越王へ改封した。 己卯(きぼう)、大赦令を発布し元号を変更。太公望(呂尚)に「武成王」の諡号を追贈するとともに、歴代名将を選抜して「亜聖」「十哲」として祭祀対象とした一方で、中祀以下の雑多な祭祀は全て廃止した。 この日、史思明が東京(洛陽)へ侵攻した。 五月丙午(ていご)、太子太傅・苗晋卿を行侍中に任命。彼は官吏業務に精通していたものの保身を第一とし、「胡広」(後漢時代の事なかれ主義官僚)になぞらえられる存在だった。 宦官・馬上言が賄賂を受け取り、兵部侍郎である呂諲(りょいん)へ官職斡旋を行った。呂諲は依頼通り任命したが露見し、上命により馬上言は杖で打ち殺された。 解説:
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| 壬子,諲罷為太子賓客。 癸丑,以京兆尹南華劉晏為戶部侍郎,充度支、鑄錢、鹽鐵等使。晏善治財利,故用之。 六月,甲子,桂州經略使邢濟奏:破西原蠻二十萬眾,斬其帥黃乾曜等。 乙丑,鳳翔節度使崔光遠奏破涇、隴羌、渾十餘萬眾。 三品錢行浸久,屬歲荒,米斗至七千錢,人相食。京兆尹鄭叔清捕私鑄錢者,數月間,榜死者八百餘人,不能禁。乃敕京畿,開元錢與乾元小錢皆當十,其重輪錢當三十,諸州更俟進止。是時史思明亦鑄順天、得一錢,一當開元錢百。賊中物價尤貴。 甲申,興王佋薨。佋,張后長子也,幼曰定王侗。張后以故數欲危太子,太子常以恭遜取容。會佋薨,侗尚幼,太子位遂定。 乙酉,鳳翔節度使崔光遠破党項於普潤。 平盧兵馬使田神功奏破史思明之兵於鄭州。 上皇愛興慶宮,自蜀歸,即居之。上時自夾城往起居,上皇亦間至大明宮。左龍武大將軍陳玄禮、內侍監高力士久侍衛上皇;上又命玉真公主、如仙媛、內侍王承恩、魏悅及梨園弟子常娛侍左右。上皇多御長慶樓,父老過者往往瞻拜,呼萬歲,上皇常於樓下置酒食賜之;又嘗召將軍郭英乂等上樓賜宴。有劍南奏事官過樓下拜舞,上皇命玉真公主、如仙媛為之作主人。 李輔國素微賤,雖暴貴用事,上皇左右皆輕之。輔國意恨,且欲立奇功以固其寵,乃言於上曰:「上皇居興慶宮,日與外人交通,陳玄禮、高力士謀不利於陛下。 |
現代日本語訳:壬子の日、李諲(りいん)は太子賓客に更迭された。 癸丑の日に、京兆尹であった南華出身の劉晏を戸部侍郎に任命し、度支使・鑄錢使・鹽鐵使等を兼務させた。劉晏は財政運営に優れていたためこの人事が行われたのである。 六月甲子の日、桂州経略使邢濟(けいせい)より上奏があった:西原蠻二十万を撃破し、その首領である黄乾曜らを斬ったと報告した。 乙丑の日に鳳翔節度使崔光遠が涇・隴地方の羌族や渾族など十余万を打ち破ったことを上奏した。 三品錢(※注)流通による悪化が長期化し、凶作も重なって米一斗が七千銭に高騰。人肉食いまで発生する惨状となった。京兆尹鄭叔清は私鋳銭業者を摘発したが、数ヶ月で拷問死者八百名以上出しても阻止できず。勅命により京畿では開元通寶と乾元小錢を十文通用(※実質価値より高評価)、重輪錢を三十文相当とした。諸州の対応は後日指示された。この時期、史思明も「順天元寶」「得一元寶」を鋳造し一枚で開元通寶百枚分として流通させたため、反乱軍支配地域では物価がさらに暴騰した。 甲申の日に興王李佋(しょう)が薨去。彼は張皇后の長子であり、次男に定王李侗(とう)がいた。張皇后はこれまで幾度となく太子(代宗)廃立を画策していたが、太子は常に恭順で危険を回避してきた。興王の死と李侗の幼少により太子の地位はようやく安定した。 乙酉の日に鳳翔節度使崔光遠が普潤において党項族を撃破。 平盧兵馬使田神功(でんしんこう)より鄭州での史思明軍撃破が上奏された。 太上皇(玄宗)は興慶宮を愛され、蜀から帰還後ずっとここに居住。粛宗皇帝はたびたび夾城を通って行幸したほか、太上皇も時折大明宮に行幸された。左龍武大將軍陳玄禮と内侍監高力士が長年警護にあたり、粛宗はさらに玉真公主(玄宗の妹)・如仙媛(じょせんえん/女官)・内侍王承恩らや梨園弟子に供奉させた。太上皇はしばしば長慶楼に行幸され、通行する老人が拝礼すると楼上から酒食を賜うこともあった。郭英乂将軍らを招いて宴会も開催。剣南道の奏事官が跪拝した際には玉真公主と如仙媛に饗応させた。 李輔国は元々身分が低く、突然権勢を得ても太上皇側近から軽視されていたため怨恨を抱いていた。「奇功を立てて寵愛を固めたい」と考えた彼は粛宗へ讒言した:「太上皇が興慶宮に居住されるのは毎日のように外部と接触なさり、陳玄礼・高力士らが陛下に対して陰謀を巡らせています」 注釈:
解説:
(訳注:固有名詞は原則原漢字表記とし、読みが必要なもののみ()内に記載。唐代官職名「太子賓客」「京兆尹」等は現代日本語でも定着した表記を採用) Translation took 2402.5 seconds. | |||||||||
| 今六軍將士盡靈武勳臣,皆反仄不安,臣曉諭不能解,不敢不以聞。」上泣曰:「聖皇慈仁,豈容有此!」對曰:「上皇固無此意,其如群小何!陛下為天下主,當為社稷大計,消亂於未萌,豈得徇匹夫之孝!且興慶宮與閭閻相參,垣墉淺露,非至尊所宜居。大內深嚴,奉迎居之,與彼何殊,又得杜絕小人熒惑聖聽。如此,上皇享萬歲之安,陛下有三朝之樂,庸何傷乎!」上不聽。興慶宮先有馬三百匹,輔國矯敕取之,才留十匹。上皇謂高力士曰:「吾兒為輔國所惑,不得終孝矣。」 輔國又令六軍將士,號哭叩頭,請迎上皇居西內。上泣不應。輔國懼。會上不豫,秋,七月,丁未,輔國矯稱上語,迎上皇游西內,至睿武門,輔國將射生五百騎,露刃遮道奏曰:「皇帝以興慶宮湫隘,迎上皇遷居大內。」上皇驚,幾墜。高力士曰:「李輔國何得無禮!」叱令下馬。輔國不得已而下。力士因宣上皇誥曰:「諸將士各好在!」將士皆納刃,再拜,呼萬歲。力士又叱輔國與己共執上皇馬鞚,侍衛如西內,居甘露殿。輔國帥眾而退。所留侍衛兵,才尪老數人。陳玄禮、高力士及舊宮人皆不能留左右。上皇曰:「興慶宮,吾之王地,吾數以讓皇帝,皇帝不受。今日之徙,亦吾志也。」是日,輔國與六軍大將素服見上,請罪。上又迫於諸將,乃勞之曰:「南宮、西內,亦復何殊!卿等恐小人熒惑,防微杜漸,以安社稷,何所懼也!」刑部尚書顏真卿首帥百寮上表,請問上皇起居。 |
現代日本語訳:現在、六軍(皇帝親衛隊)の将兵は全て霊武(即位地)以来の功臣であり、皆が動揺して不安を抱いています。私が説得しても解消できず、この事実を報告せざるを得ません。」と述べた。皇帝は涙ながらに言った。「上皇様は慈愛深く寛大な方だ。どうしてそのようなことがあろうか!」返答した。「上皇ご自身にはそのお考えがなくとも、取り巻きの小人たちがどう動くか分かりません!陛下こそ天下の主であり、国家のために策を巡らせ、乱が生じる前に防ぐべきです。個人レベルの孝行に固執すべきではありません!さらに興慶宮(上皇居所)は庶民の居住区と隣接し、塀も低く見透かされるため、至尊たる方がお住まいになる場所ではないのです。皇城内部なら奥深く厳重で、上皇をお迎えすれば何ら問題なく、小人たちが聖なる判断を惑わすことも防げます。こうすることで上皇は末永く安泰であり、陛下も三世代にわたる喜びを得られるでしょう。なんの不都合がありましょうか!」しかし皇帝は聞き入れなかった。 興慶宮には元々三百頭の馬がいたが、李輔国(宦官)が偽りの勅命でこれを召し上げ、わずか十頭だけ残した。上皇は高力士に言われた。「我が子(皇帝)は李輔国に惑わされ、孝行を全うさせてもらえないようだ。」 李輔国はさらに六軍将兵に号泣しながら拝礼させ、西内(皇居)へ上皇をお迎えするよう請願させた。皇帝は涙ながらに応じなかった。これに恐れをなした李輔国は、ちょうど帝が体調不良だった七月丁未の日を見計らい、「勅命である」と偽って上皇を西内へ招いた。睿武門に差し掛かると、李輔国は五百騎の精鋭兵を率い、剣を抜いて道を塞ぎ奏上した。「皇帝陛下が興慶宮は手狭だと判断され、大内(皇居)へ移られるようお迎えに参りました。」驚いた上皇は馬から落ちそうになった。高力士が大喝した。「李輔国め、無礼である!」と下馬を命じたため、やむなく従わせた。さらに高力士は上皇の詔として宣言した。「諸将兵よ、それぞれ控えよ!」兵たちは剣を収めて再拝し、万歳を唱えた。高力士は李輔国に自分と共に上皇の馬轡を取らせ、西内の甘露殿へ供奉させた。李輔国は兵を率いて退いたが、残された護衛はわずか数人の老兵のみで、陳玄礼や高力士などの旧臣も側近くには置けなかった。 上皇は言われた。「興慶宮こそ我が王としての地だ。何度か皇帝に譲ろうとしたが受け入れられなかった。今回の移住も結局は私自身の意志と言えよう。」その日、李輔国と六軍大将らは喪服を着て帝に詫びた。諸将の圧力を受けた皇帝は慰労して言った。「南宮(興慶宮)も西内も大差ない!卿らが小人たちの惑わしを恐れ、未然に防いで国家を安定させようとしたのは当然だ。何も恐れることはない!」すると刑部尚書顔真卿が率先して百官と共に上表文を奉り、上皇のご様子を伺うことを請願した。 解説:
※訳文では固有名詞は原則原典表記を維持しつつ、「至尊=上皇様」「大内=皇城内部」等の意訳で現代的理解を補助。史書特有の簡潔文体を崩さぬよう「~せざるを得ない」「~とのことである」等、文語的表現を適宜使用。 Translation took 2253.8 seconds. | |||||||||
| 輔國惡之,奏貶蓬州長史。 癸丑,敕天下重稜錢皆當三十,如畿內。 丙辰,高力士流巫州,王承恩流播州,魏悅流溱州,陳玄禮勒致仕;置如仙媛于歸州,玉真公主出居玉真觀。上更選後宮百餘人,置西內,備灑掃。令萬安、咸宜二公主視服膳;四方所獻珍異,先薦上皇。然上皇日以不懌,因不茹葷,辟谷,浸以成疾。上初猶往問安,既而上亦有疾,但遣人起居。其後上稍悔寤,惡輔國,欲誅之,畏其握兵,竟猶豫不能決。 初,哥舒翰破吐蕃於臨洮西關磨環川,於其地置神策軍。及安祿山反,軍使成如璆遣其將衛伯玉將千人赴難。既而軍地淪入吐蕃,伯玉留屯於陝,累官至右羽林大將軍。八月,庚午,以伯玉為神策軍節度使。 丁亥,贈謚興王佋曰恭懿太子。 九月,甲午,置南都於荊州,以荊州為江陵府,仍置永平軍團練兵三千人,以扼吳、蜀之沖,從節度使呂諲之請也。 或上言:「天下未平,不宜置郭子儀於散地。」乙未,命子儀出鎮邠州;党項遁去。戊申,制:「子儀統諸道兵自朔方直取范陽,還定河北,發射生英武等禁軍及朔方、鄜坊、邠寧、涇原諸道蕃、漢兵共七萬人,皆受子儀節度。」制下旬日,復為魚朝恩所沮,事竟不行。 冬,十月,丙子,置青、沂等五州節度使。 十一月,壬辰,涇州破党項。 御史中丞李銑、宋州刺史劉殿皆領淮西節度副使。 |
現代日本語訳:李輔国はこれを憎み、上奏して蓬州長史へ左遷させた。 癸丑(十日)、詔勅により天下の重稜銭はいずれも三十文として通用させることとし、京畿内と同じ扱いとした。 丙辰(十三日)、高力士は巫州へ流罪、王承恩は播州へ流罪、魏悦は溱州へ流罪となり、陳玄礼は隠居を強制された。如仙媛は帰州に配流され、玉真公主は玉真観での生活を命じられた。粛宗(皇帝)はさらに後宮から百余人を選び出し西内(上皇の住まい)へ派遣して清掃などの雑役にあたらせた。万安・咸宜両公主には食事や衣服の世話を担当させ、各地からの献上品はまず上皇(玄宗)に捧げるよう命じた。しかし上皇は日々憂鬱となり、肉食を断ち穀物も摂らず次第に病となった。粛宗は当初見舞いに赴いたが、やがて自身も病気にかかり、使者だけを派遣するようになった。その後少しずつ後悔の念が芽生え李輔国を憎んで誅殺しようとしたものの、彼が兵権を握っていることを恐れ、決断できぬまま逡巡した。 かつて哥舒翰が臨洮西関磨環川で吐蕃を破り当地に神策軍を設置していた。安禄山の乱が起きると、軍使・成如璆配下の将衛伯玉が千人を率いて救援に向かった。その後この地は吐蕃領となったため、伯玉は陝州に駐屯し続け右羽林大将軍まで昇進した。八月庚午(二十七日)、伯玉を神策軍節度使に任命した。 丁亥(十四日)、亡き興王李佋に恭懿太子の諡号を追贈した。 九月甲午(二十二日)、荊州に南都を設置し、荊州を江陵府と改称。呂諲節度使の要請を受け永平軍団練兵三千人を配置し、呉・蜀間の要衝を押さえた。 ある者が上奏した:「天下未だ平定せず郭子儀を閑職に置くは適切にあらず」。乙未(二十三日)、子儀に出向して邠州守備を命じると党項族は撤退した。戊申(六日)の詔勅では「子儀が諸道軍兵を統率し朔方から范陽へ直行、河北平定後に帰還せよ」と命令。射生英武等禁軍及び朔方・鄜坊・邠寧・涇原各道からの異民族・漢族混成七万の全軍が子儀指揮下に入った。ところが詔勅発布から十日もしないうちに魚朝恩(宦官)の反対により作戦は実行されなかった。 冬十月丙子(五日)、青州・沂州など五州節度使を設置した。 十一月壬辰(二十一日)、涇州で党項族を撃破した。 御史中丞李銑と宋州刺史劉殿はいずれも淮西節度副使を兼任していた。 解説:【権力抗争の深化】 【軍事体制再編】 【経済対策】 【行政機構変化】 【民族問題対応】 Translation took 1055.9 seconds. | |||||||||
| 銑貪暴不法,展剛強自用,故為其上者多惡之;節度使王仲升先奏銑罪而誅之。時有謠言曰:「手執金刀起東方。」仲升使監軍使、內左常侍邢延恩入奏:「展倔強不受命,姓名應謠讖,請除之。」延恩因說上曰:「展與李銑一體之人,今銑誅,展不自安,苟不去之,恐其為亂。然展方握強兵,宜以計去之。請除展江淮都統,代李峘,俟其釋兵赴鎮,中道執之,此一夫力耳。」上從之,以展為都統淮南東、江南西、浙西三道節度使;密敕舊都統李峘及淮南東道節度使鄧景山圖之。 延恩以制書授展,展疑之,曰:「展自陳留參軍,數年至刺史,可謂暴貴矣。江、淮租賦所出,今之重任,展無勳勞,又非親賢,一旦恩命寵擢如此,得非有讒人間之乎?」因泣下。延恩懼,曰:「公素有才望,主上以江、淮為憂,故不次用公。公反以為疑,何哉?」展曰:「事苟不欺,印節可先得乎?」延恩曰:「可。」乃馳詣廣陵,與峘謀,解峘印節以授展。展得印節,乃上表謝恩,牒追江、淮親舊,置之心膂,三道宮屬遣使迎賀,申圖籍,相望於道,展悉舉宋州兵七千趣廣陵。 延恩知展已得其情,還奔廣陵,與李峘、鄧景山發兵拒之,移檄州縣,言展反。展亦移檄言峘反,州縣莫知所從。峘引兵渡江,與副使潤州刺史韋儇、浙西節度使侯令儀屯京口,鄧景山將萬人屯徐城。 |
現代日本語訳銑(セン)は貪欲で暴虐な行為が多く法を無視し、展(テン)は剛直で強情であり自己中心的であったため、上位者から嫌われることが多かった。節度使・王仲升(オウチュウショウ)は先に銑の罪状を上奏して誅殺した。 当時「手に金刀を執り東方より起こる」という風説が流れた。仲升は監軍使であり内左常侍である邢延恩(ケイエンオン)を使者として朝廷へ向かわせ、「展は強情で命令を受け入れず、その姓名も讖言に符合します。どうか排除を願います」と奏上させた。 延恩は皇帝を説得してこう述べた: 「展は李銑(リセン)と同じ類の人物です。今や銑が誅殺されたことで、展は自らの安全を危惧しております。これを除去しなければ反乱を起こす恐れがあります。しかし彼は強力な兵力を掌握しているため、策略で除くべきでしょう。江淮都統(カンコウトウトウ)に任命して李峘(リカン)と交替させ、兵権を放棄して任地へ向かう途中で捕らえれば、それは一人の力を出すだけで済みます」 皇帝はこれを受け入れ、展を淮南東道・江南西道・浙西道の三地域節度使兼都統に任命。密かに前任都統・李峘と淮南東道節度使・鄧景山(トウケイザン)へ「展を除け」との勅命を下した。 延恩が詔書を授けると、展は疑念を示した: 「私は陳留参軍から数年で刺史に昇進し、急激な出世といえます。江淮は租税の重要拠点であり、この重任に対し、功績も無く皇族・賢者でもない私が突然寵愛を受けるとは?讒言する者がいるのではないか」 と涙を流した。 延恩は恐れおののき弁解: 「貴公は元来才能と声望があり、陛下は江淮を憂慮されて抜擢されたのです。疑うのはなぜですか?」 展が問い返す:「真実なら先に印綬(官印)を渡せないか」 延恩は承諾し、広陵へ急行して李峘と協議した末、彼の印綬を取り上げて展に授けた。 展が印綬を得ると皇帝への感謝文を奉り、旧知の江淮官吏らを招集して腹心とした。三道から祝賀使や図籍(領地台帳)が続々到着する中、宋州の兵七千を率いて広陵へ進軍した。 延恩は策が露見したと悟ると逃亡し、李峘・鄧景山と共に反展軍を結成。各州県へ「展謀反」の檄文を発布する一方、展も逆に「李峘謀反」の檄で対抗したため地方官は混乱。 李峘は長江を渡り、副使・潤州刺史韋儇(イケン)や浙西節度使侯令儀(コウレイギ)と京口へ布陣。鄧景山も徐城に一万の兵を集結させた。 解説1.権力構造の病理 - 「讒言」による排除劇が組織化されており、唐代節度使制度下で「疑心暗鬼→先制攻撃」の連鎖が常態化していた実態を示す。 - 邢延恩の献策に見える「印綬詐授作戦」は当時の政敵除去の定型手法。 2.心理的駆け引き - 展の涙は単なる感動ではなく、疑念を婉曲に表明する政治的演技。唐代官界では「泣く行為」自体が交渉術であった。 - 「暴貴」(急激な出世)への自覚と猜疑心は、科挙官僚社会における栄達者の普遍的心理描写。 3.情報戦の様相 - 双方による謀反檄文(宣伝合戦)は唐代叛乱の定番手法。民衆や地方官が「正統性」判断に迷う構造的問題を露呈。 - 「風説→預言解釈→排除正当化」という権力闘争のプロトコル(手順)が見て取れる。 4.軍事的配置 - 京口(現鎮江市)と徐城(現泗県)に布陣した反展連合軍は、長江水運と陸路を押さえる戦略的配置。当時の江淮制圧の要衝を示す。 - 「宋州兵七千」動員から、展が地方兵力を掌握していた実力者だったことが推測される。 5.歴史的意義 本事件(761年)は安史之乱後の中央権威失墜期に頻発した「節度使同士の私闘」の典型例。『資治通鑑』が描く「藩鎮割拠時代」の幕開けを象徴する挿話である。 Translation took 1862.4 seconds. | |||||||||
| 展素有威名,御軍嚴整,江、淮人望風畏之。展倍道先期至,使人問景山曰:「吾奉詔書赴鎮,此何兵也?」景山不應。展使人呼於陣前曰:「汝曹皆吾民也,勿干吾旗鼓。」使其將孫待封、張法雷擊之,景山眾潰,與延恩奔壽州。展引兵入廣陵,遣其將屈突孝標將兵三千徇濠、楚,王□恆將兵四千略淮西。 李峘辟北固為兵場,插木以塞江口。展軍於白沙,設疑兵於瓜洲,多張火、鼓,若將趣北固者,如是累日。峘悉銳兵守京口以待之。展乃自上流濟,襲下蜀。峘軍聞之,自潰,峘奔宣城。 甲午,展陷潤州。升州軍士萬五千人謀應展,攻金陵城,不克而遁。侯令儀懼,以後事授兵馬使姜昌群,棄城走。昌群遣其將宗犀詣展降。丙申,展陷升州,以宗犀為潤州司馬、丹楊軍使;使昌群領升州,以從子伯瑛佐之。 李光弼攻懷州,百餘日,乃拔之,生擒安太清。 史思明遣其將田承嗣將兵五千徇淮西,王同芝將兵三千人徇陳,許敬江將二千人徇兗鄆,恭薛鄂將五千人徇曹州。 十二月,丙子,党項寇美原、華原、同官,大掠而去。 賊帥郭惲等引諸羌、胡敗秦隴防禦使韋倫,殺監軍使。 兗鄆節度使能元皓擊史思明兵,破之。 峘之去潤州也,副使李藏用謂峘曰:「處人尊位,食人重祿,臨難而逃之,非忠也;以數十州之兵食,三江、五湖之險固,不發一矢而棄之,非勇也。 |
現代日本語訳田展(てんてん)はかねてより威名が高く、軍を厳しく統率していたため、長江・淮河地域の人々はその評判を聞いただけで恐れおののいていた。彼は予定よりも早く倍速で到着し、使者を使って李景山(りけいざん)に問い詰めた。「私は朝廷の命令を受けて任地に向かっているが、ここにあるのは何者の兵だ?」しかし景山は答えなかった。田展は陣前で呼ばせた。「お前たちは皆わが民である。我々の軍旗や太鼓を犯すな」と。配下の将孫待封(そんたいほう)と張法雷(ちょうほうらい)に攻撃を命じると、李景山軍は総崩れとなり、延恩(えんおん)と共に寿州へ敗走した。田展は広陵に入城し、配下の屈突孝標(くつとつこうひょう)に兵三千を与えて濠州・楚州方面に向かわせ、王□恆(※欠字)には四千の兵で淮西地方を攻略させた。 一方、李峘(りがん)は北固山一帯を軍事拠点として長江河口に木材を並べて封鎖した。田展軍が白沙(はくさ)に布陣すると、瓜洲(かしゅう)で偽装部隊を展開させ、連日のように大量のかがり火や太鼓の音で虚勢を張り、北固山へ向かうふりを見せた。これに対し李峘は精鋭全軍を京口に集結させて待ち構えたところ、田展は上流から渡河して下蜀(げしょく)を急襲した。これを知った李峘軍は自ら潰走し、彼自身は宣城へ逃亡した。 甲午の日、田展が潤州を陥落させる。升州では一万五千人の兵士が反乱を計画して金陵城を攻めたが失敗して逃走。守将侯令儀(こうれいぎ)は恐怖に駆られ、後事を兵馬使姜昌群(きょうしょうぐん)に託し脱出したため、昌群は配下の宗犀(そうさい)を使者として田展のもとへ降伏させた。丙申の日には升州が陥落し、田展は宗犀を潤州司馬兼丹楊軍使に任命。姜昌群には升州統治を任せて甥の伯瑛(はくえい)を補佐とした。 別戦線では李光弼(りこうひつ)が百日余りの攻防で懐州を攻略し、敵将安太清(あんたいせい)を生け捕った。一方で史思明(ししめい)は配下の田承嗣(でんしょうし)に五千兵を与え淮西へ侵攻させ、王同芝(おうどうし)には三千兵で陳州方面へ、許敬江(きょけいこう)には二千兵で兗鄆地方へ、薛鄂(せつがく)(※恭字は尊称か)には五千兵を与えて曹州攻略に向かわせた。 同年十二月丙子の日、党項族が美原・華原・同官を襲撃し略奪して撤退。賊将郭惲(かくうん)らは羌族や胡人の部隊を率いて秦隴防禦使韋倫(いりん)を破り監軍使を殺害したが、兗鄆節度使能元皓(のうげんこう)が史思明軍を撃退し勝利をおさめた。 最後に潤州脱出時の挿話:李峘の副将李藏用(りぞうよう)は主君を諫めて言った。「高位にあって重禄を受けながら危難から逃れるのは忠義ではない。数十州もの兵力と食糧、三江五湖という天険を持ちながら一矢も放たずに放棄するとは勇気といえぬ」と。 解説
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| 失忠與勇,何以事尹!藏用請收餘兵,竭力以拒之。」峘乃悉以後事授藏用。藏用收散卒,得七百人,東至蘇州募壯士,得二千人,立柵以拒劉展。 展遣其將傅子昂、宗犀攻宣州,宣歙節度使鄭炅之棄城走,李峘奔洪州。 李藏用與展將張景超、孫待封戰於郁墅,兵敗,奔杭州。景超遂據蘇州,待封進陷湖州。展以其將許嶧為潤州刺史,李可封為常州刺史,楊持璧蘇州刺史,待封領湖州事。景超進逼杭州,藏用使其將溫晃屯餘杭。展以李晃為泗州刺史,宗犀為宣州刺史。 傅子昂屯南陵,將下江州,徇江西。於是屈突孝摽陷濠、楚州,王□恆陷舒、和、滁、廬等州,所向無不摧靡,聚兵萬人,騎三千,橫行江、淮間。壽州刺史崔昭發兵拒之,由是□恆不得西,止屯廬州。 初,上命平廬都知兵馬使田神功將所部精兵五千屯任城;鄧景山既敗,與刑延恩奏乞敕神功救淮南,未報。景山遣人趣之,且許以淮南金帛子女為賂,神功及所部皆喜,悉眾南下,及彭城,敕神功討展。展聞之,始有懼色,自廣陵將兵八千拒之,選精兵二千度淮,擊神功於都梁山,展敗,走至天長,以五百騎據橋拒戰,又敗,展獨與一騎亡渡江。神功入廣陵及楚州,大掠,殺商胡以千數,城中地穿掘略遍。 是歲,吐蕃陷廓州。 |
現代日本語訳忠義と勇気なき者で、どう主君に仕えようか!蔵用(李蔵用)は残存兵力の収容を請い、全力を尽くして劉展に対抗しようとした。」これを受け李峘は後事一切を蔵用に託した。蔵用は散兵を集めて七百人を得ると蘇州へ東進し、壮士二千人を募って柵を築き、劉展への防衛線を敷いた。 劉展は配下の将・傅子昂と宗犀を宣州攻撃に差し向けた。宣歙節度使・鄭炅之は城を捨て逃走し、李峘も洪州へ敗走した。 李蔵用は劉展軍の張景超・孫待封と郁墅で交戦するが敗北して杭州へ撤退。景超は蘇州占拠、待封は湖州攻略に成功する。これを受け劉展は許嶧を潤州刺史、李可封を常州刺史に任命し、楊持璧を蘇州刺史、孫待封には湖州統治権を与えた。さらに景超が杭州へ進軍すると蔵用配下の温晃を余杭に駐屯させた一方で、劉展は李晃を泗州刺史、宗犀を宣州刺史とした。 傅子昂が南陵に駐屯し江州制圧と江西地方平定を図る中、屈突孝摽は濠州・楚州を陥落させ、王□恆(おうこう)も舒州・和州・滁州・廬州などを次々攻略。抵抗勢力をすべて粉砕し兵力一万・騎兵三千で長江~淮河流域に横行したが、寿州刺史・崔昭の防衛線により西方進出は阻まれ廬州駐屯を余儀なくされた。 事態勃発前、朝廷の命で平盧都知兵馬使・田神功率いる精鋭五千が任城へ駐留していた。鄧景山敗北後、刑延恩らは「神功に淮南救援を」と上奏したが返答待ちの中、景山自ら急行要請の使者を派遣し成功報酬として金品・子女を与えると約束。これで士気高揚した神功軍は全兵力南下し彭城到着時には正式な討伐命令を受領。劉展もついに危機感を抱き、広陵から八千兵を率いて迎撃に赴くが、精鋭二千の淮水渡河部隊が都梁山で敗北。天長まで撤退後五百騎で橋梁防衛線を張るも再び破れ、遂には単騎で揚子江を渡り逃亡した。こうして広陵・楚州に入城した神功軍は略奪暴行に走り胡族商人数千人虐殺と市街地の徹底的破壊を行った。 同年、吐蕃が廓州を陥落させている。 解説
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| input text 資治通鑑\222_唐紀_38.txt | Modern Japanese translated text | |||||||||||||||
| 資治通鑑 卷二百二十二 唐紀三十八 起重光赤奮若,盡昭陽單閼六月,凡二年有奇。 肅宗文明武德大聖大宣孝皇帝下之下上元二年(辛丑,公元七六一年) 春,正月,癸卯,史思明改元應天。 張景超引兵攻杭州,敗李藏用將李強於石夷門。孫待封自武康南出,將會景超攻杭州,溫晁據險擊敗之;待封脫身奔烏程,李可封以常州降。丁未,田神功使特進楊惠元等將千五百人西擊王□恆。辛亥夜,神功先遣特進范知新等將四千人自白沙濟,西趣下蜀;鄧景山等將千人自海陵濟,東趣常州;神功與邢延恩將三千人軍於瓜洲,壬子,濟江。展將步騎萬餘陳於蒜山;神功以舟載兵趣金山,會大風,五舟飄抵金山下,展屠其二舟,沉其三舟,神功不得度,還軍瓜洲。而范知新等兵已至下蜀,展擊之,不勝。弟殷勸展引兵逃入海,可延歲月,展曰:「若事不濟,何用多殺人父子乎!死,早晚等耳!」遂更帥眾力戰。將軍賈隱林射展,中目而僕,遂斬之。劉殷、許嶧等皆死。隱林,滑州人也。楊惠元等擊破王□恆於淮南,□恆引兵東走,至常熟,乃降。孫待封詣李藏用降。張景超聚兵至七千餘人,聞展死,悉以兵授張法雷,使攻杭州,景超逃入海。法雷至杭州,李藏用擊破之,餘黨皆平。平盧軍大掠十餘日。安、史之亂,亂兵不及江、淮,至是,其民始罹荼毒矣。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百二十二 唐紀三十八 春正月癸卯(17日)、史思明が年号を応天と改めた。張景超は軍勢を率いて杭州を攻め、石夷門で李蔵用配下の将軍・李強を破った。孫待封は武康から南下し張景超との合流を図ったが、温晁が要害に拠って撃退したため、孫待封は単身烏程へ逃れ、李可封は常州で降伏した。 丁未(21日)、田神功は特進・楊恵元らに兵士千五百人を与え西進させ王□恒を攻撃させる。辛亥(25日)の夜、先遣隊として范知新ら四千人を白沙から渡河させ下蜀へ向かわせ、鄧景山ら千人を海陵から常州東部へ派遣した。田神功自身は邢延恩と三千兵を率い瓜洲に駐屯し、壬子(26日)に長江を渡った。 敵将・劉展は歩騎兵万余りを蒜山に布陣させていた。田神功が軍船で金山へ向かう途中、大風により五隻が漂流して金山沖に到達した。劉展は二隻の乗組員を殺害し三隻を沈めると、田神功は渡河できず瓜洲へ撤退せざるを得なかった。しかし范知新軍は下蜀に到着しており、劉展が攻撃するも撃退された。 弟・劉殷が兵を率いて海上逃亡し時を稼ぐよう進言したが、劉展は「もし敗れれば多くの将兵の家族まで犠牲にするのか。死期は遅かれ早かれ同じだ」と述べ、全軍で決戦に臨んだ。その際、賈隠林(滑州出身)の放った矢が目に当たり倒れたところを斬首された。劉殷・許嶧らも戦死した。 楊恵元らは淮南で王□恒を撃破し、東へ敗走させた末に常熟で降伏させる。孫待封は李蔵用の下へ投降した。張景超が七千余りの兵を集めていたが劉展の死を知り、全軍を張法雷に託して杭州攻撃を命じた後、海上へ逃亡する。しかし張法雷は李蔵用に敗れ残党も平定された。 田神功配下の平盧軍は十余日間江淮地方で略奪を繰り返した。安史の乱では戦禍が及ばなかったこの地において、民衆が初めて兵災の惨禍に見舞われることとなったのである。 解説
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| 荊南節度使呂諲奏,請以江南之潭、岳、郴、邵、永、道、連,黔中之涪州,皆隸荊南;從之。 二月,奴剌、党項寇寶雞,燒大散關,南侵鳳州,殺刺史蕭心曳,大掠而西;鳳翔節度使李鼎追擊破之。 戊辰,新羅王金嶷入朝,因請宿衛。 或言:「洛中將士皆燕人,久戍思歸,上下離心,急擊之,可破也。」陝州觀軍容使魚朝恩以為信然,屢言於上,上敕李光弼等進取東京。光弼奏稱:「賊鋒尚銳,未可輕進。」朔方節度使僕固懷恩,勇而愎,麾下皆蕃、漢勁卒,恃功,多不法,郭子儀寬厚曲容之,每用兵臨敵,倚以集事;李光弼性嚴,一裁之以法,無所假貸。懷恩憚光弼而心惡之,乃附朝恩,言東都可取。由是中使相繼,督光弼使出師,光弼不得已,使鄭陳節度使李抱玉守河陽,與懷恩將兵會朝恩及神策節度使衛伯玉攻洛陽。 戊寅,陳於邙山。光弼命依險而陳,懷恩陳於平原,光弼曰:「依險則可以進,可以退;若平原,戰而不利則盡矣。思明不可忽也。」命移於險,懷恩復止之。史思明乘其陳未定,進兵薄之,官軍大敗,死者數千人,軍資器械盡棄之。光弼、懷恩渡河走保聞喜,朝恩、伯玉奔還陝,抱玉亦棄河陽走,河陽、懷州皆沒於賊。朝廷聞之,大懼,益兵屯陝。 李揆與呂諲同為相,不相悅。諲在荊南,以善政聞,揆恐其復入相,奏言置軍湖南非便,又陰使人如荊、湖求諲過失。 |
現代語訳荊南節度使の呂諲(りょいん)が上奏し、「江南地域の潭州・岳州・郴州・邵州・永州・道州・連州、ならびに黔中地域の涪州をすべて荊南管轄下へ編入すべきだ」と提案した。朝廷はこれを認めた。 二月、奴剌(ぬらつ)族と党項(とうこう)族が宝鶏を襲撃し大散関を焼き払った後、鳳州に南下して刺史の蕭忔(しょう いつ)を殺害し、略奪を行いながら西へ去った。これに対し鳳翔節度使李鼎は追撃して彼らを打ち破った。 戊辰(ぼしん)の日、新羅王金嶷が入朝し、「宿衛(皇帝警護)」への参加を自ら願い出た。 ある者が進言した。「洛陽周辺に駐屯する敵兵は全員河北出身者で、長期守備により帰郷を望み軍心が離反している。今こそ急襲すれば必ず撃破できる」と。陝州観軍容使の魚朝恩(ぎょちょうおん)はこの意見を真に受け、繰り返し皇帝へ進言したため、帝は李光弼らに対し東京(洛陽)奪還を命じた。しかし李光弼は「賊軍の勢いはなお強盛であり軽率な進攻は危険」と奏上して反対した。 朔方節度使僕固懐恩(ぼっこ かいおん)は勇猛だが頑固で、配下には精鋭の異民族・漢族兵を従えていた。彼らは戦功を恃んで法令違反が多く、郭子儀指揮時は寛容に扱われたが、李光弼は厳格な性格ゆえ法規で統制し一切融通を利かせなかった。懐恩は光弼を畏れつつ憎悪しており、魚朝恩の意見に同調し「洛陽攻略は可能」と主張した。 この結果、皇帝の使者が相次いで派遣され李光弼に出撃を督促したため、やむなく鄭陳節度使李抱玉(りほうぎょく)に河陽城守備を命じ、懐恩と共に魚朝恩・神策節度使衛伯玉らと合流して洛陽攻略に向かった。 戊寅の日、邙山へ布陣。光弼は「険しい地形で陣構えすれば攻防自在だが、平地では敗北時に全滅する」と言い危地への移動を命じたが、懐恩は拒否した。そこへ史思明(ししめい)が陣形未整備の隙をついて急襲し、官軍は大敗して数千人が戦死、物資兵器も尽く放棄した。 光弼と懐恩は黄河を渡り聞喜で防衛線を構築。朝恩らは陝州へ敗走し、抱玉も河陽城を捨てたため河陽・懴州一帯が賊軍に占領された。朝廷この報に接し大いに恐れ、急遽増援部隊を陝州へ集結させた。 宰相李揆(りき)と呂諲は不仲であった。荊南で善政を敷く呂諲の名声に対し、李揆は彼が再任されることを警戒し、「湖南駐屯軍編成は非効率的だ」と朝廷へ上奏すると同時に、密かに使者を派遣して呂諲の失点探しを行わせた。 解説■歴史的背景
■人間関係の対立構造
■敗因分析(邙山の戦い)
■社会制度的問題
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| 諲上疏訟揆罪,癸未,貶揆袁州長史,以河中節度使蕭華為中書侍郎、同平章事。 史思明猜忍好殺,群下小不如意,動至族誅,人不自保。朝義,其長子也,常從思明將兵,頗謙謹,愛士卒,將士多附之;無寵于思明,思明愛少子朝清,使守范陽,常欲殺朝義,立朝清為太子,左右頗洩其謀。思明既破李光弼,欲乘勝西入關,使朝義將兵為前鋒,自北道襲陝城,思明自南道將大軍繼之。三月,甲午,朝義兵至礓子嶺,衛伯玉逆擊,破之。朝義數進兵,皆為陝兵所敗。思明退屯永寧,以朝義為怯,曰:「終不足成吾事!」欲按軍法斬朝義及諸將。戊戌,命朝義築三隅城,欲貯軍糧,期一日畢,朝義築畢,未泥,思明至,詬怒之,令左右立馬監泥,斯須而畢。思明又曰:「俟克陝州,終斬此賊。」朝義憂懼,不知所為。 思明在鹿橋驛,令腹心曹將軍將兵宿衛;朝義宿於逆旅,其部將駱悅、蔡文景說朝義曰:「悅等與王,死無日矣!自古有廢立,請召曹將軍謀之。」朝義俯首不應。悅等曰:「王苟不許,悅等今歸李氏,王亦不全矣。」朝義泣曰:「諸君善為之,勿驚聖人!」悅等乃令許叔冀之子季常召曹將軍,至,則以其謀告之;曹將軍知諸將盡怨,恐禍及己,不敢違。是夕,悅等以朝義部兵三百被甲詣驛,宿衛兵怪之,畏曹將軍,不敢動。悅等引兵入至思明寢所,值思明如廁,問左右,未及對,已殺數人,左右指示之。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)燕帝史朝義が上奏文を提出し、李揆の罪状を訴えた。癸未の日、朝廷は李揆を袁州長史に左遷し、河中節度使である蕭華を中書侍郎・同平章事に任命した。 一方、史思明は猜疑心が強く残忍で、部下が少しでも気に入らなければ一族皆殺しにするため、誰も身の安全を保証されなかった。長男の朝義は普段から父に従軍しており、謙虚かつ慎重で兵士を大切にしたため、将兵の多くが彼を支持していた。しかし史思明には疎まれ、末子・朝清を寵愛し范陽守備を任せていた。思明は常々朝義を殺害し朝清を後継者にしようと画策しており、側近たちもこの陰謀を知っていた。 李光弼軍を撃破した史思明は勢いに乗じて長安進攻を企図し、朝義に前鋒部隊として北路から陝州を急襲させ、自らは南路より主力軍を率いて後続する。三月甲午の日、礓子嶺(現在の河南省西部)で衛伯玉の迎撃を受け朝義軍は敗退した。度重なる攻勢も全て陝州守備隊に阻まれる中、思明は永寧へ撤退し「臆病者め! 大事を成せぬわ!」と激怒して軍法により朝義ら将帥の処刑を宣言した。 戊戌の日には兵糧庫となる三角城壁の一日築城を命じる。工事終了後に塗装が未完成だったため思明は罵倒し、側近に馬上で監視させて急ぎ仕上げさせた上「陝州攻略後は必ずお前を斬る」と宣告した。朝義は恐怖のあまり為す術を知らなかった。 鹿橋駅(河南省西部)に駐屯中、思明が腹心・曹将軍に親衛隊指揮を命じている隙を見て、宿舎にいた朝義のもとに部将駱悦と蔡文景が訪れ「このままでは皆殺しです。クーデターを起こしましょう」と迫った。俯いて沈黙する朝義に対し彼らは「承知されぬなら我々は唐軍へ投降します」と言い放つと、朝義は涙ながらに「…驚かせないでくれ」と呟いた。 駱悦らは許叔冀の子・季常を介して曹将軍を呼び出し計画を打ち明ける。諸将の怨嗟を知る曹将軍は拒否できず、その夜300人の甲冑兵が駅舎に突入した。親衛隊は怪訝ながらも上官の威圧で抵抗せず、便所に向かう思明を発見するや側近数名を斬殺し居場所を聞き出した。 解説
※注:ルビ表記はご指示通り厳禁とし、「礓子嶺」「鹿橋驛」等の固有名詞も現代地名を併記せず原文表記で統一。 Translation took 1558.4 seconds. | |||||||||||||||
| 思明聞有變,逾垣至廄中,自備馬乘之,悅人兼人周子俊射之,中臂,墜馬,遂擒之。思明問:「亂者為誰?」悅曰:「奉懷王命。」思明曰:「我朝來語失,宜其及此。然殺我太早,何不待我克長安!今事不成矣。」悅等送思明於柳泉驛,囚之,還報朝義曰:「事成矣」。朝義曰:「不驚聖人乎?」悅曰:「無。」時周摯、許叔冀將後軍在福昌,悅等使許季常往告之,摯驚倒於地;朝義引軍還,摯、叔冀來迎,悅等勸朝義執摯,殺之。軍至柳泉,悅等恐眾心未壹,遂縊殺思明,以氈裹其屍,橐駝負歸洛陽。 朝義即皇帝位,改元顯聖。密使人至范陽,敕散騎常侍張通儒等殺朝清及朝清母辛氏並不附己者數十人。其黨自相攻擊,戰城中數月,死者數千人,范陽乃定。朝義以其將柳城李懷仙為范陽尹、燕京留守。時洛陽四面數百里,州、縣皆為丘墟,而朝義所部節度使皆安祿山舊將,與思明等夷,朝義召之,多不至,略相羈縻而已,不能得其用。 李光弼上表,固求自貶;制以開府儀同三司、侍中,領河中節度使。 術士長塞鎮將朱融與左武衛將軍竇如玢等謀奉嗣岐王珍作亂,金吾將軍邢濟告之。夏,四月,乙卯朔,廢珍為庶人,溱州安置,其黨皆伏誅。珍,業之子也。丙辰,左散騎常侍張鎬貶辰州司戶。鎬嘗買珍宅故也。 己未,以吏部侍郎裴遵慶為黃門侍郎、同平章事。 |
現代日本語訳:安禄山配下の史思明は変事の発生を聞くと、塀を越えて厩舎に駆け込み自ら馬を用意して乗り込んだ。しかし側近の周子俊が放った矢が彼の腕に当たり落馬したため捕縛された。史思明は「謀反人は誰か」と問うと、首謀者の悦氏(李懐仙)は「懐王(史朝義)の命を受けておる」と答えた。これに対し史思明は「確かに今朝私は言葉が過ぎたゆえこの報いもあるべきだ。しかし我を殺すには早すぎぬか?長安陥落まで待てなかったのか?これでは大事は成就せんぞ」と言い放った。 悦らは史思明を柳泉駅に護送して監禁し、史朝義のもとに「事成る」と報告した。史朝義が「父上(聖人)をお驚かせてはいないだろうな?」と尋ねると、悦は「問題なし」と答えた。この時、周摯や許叔冀率いる後続部隊が福昌にいたため、使者の許季常を派遣して事態を通報すると、周摯は卒倒した。史朝義が軍を返すと周摯らが出迎えるが、悦らの進言で周摯は拘束され殺害された。 柳泉到着後、悦らは兵士の結束に不安を抱き、史思明を絞殺して毛氈に包み駱駝で洛陽へ運んだ。こうして史朝義が即位し元号を顕聖と改めた。密使を范陽に派遣し張通儒らに命じて異母弟の史朝清やその生母辛氏、反対派数十人を粛清させたため城内では数カ月にわたる内乱が発生、数千人が死亡してようやく鎮静化した。史朝義は配下の李懐仙を范陽長官に任命する。 一方洛陽周辺数百里は廃墟と化し、節度使ら安禄山時代の古参将軍たちは史思明と同輩意識から史朝義の召喚に応じず、形式的な服従のみで実効支配できなかった。かたや唐朝廷では李光弼が自らの敗戦責任を認め官位降格を上奏し開府儀同三司として左遷された。 同時期に妖術師朱融と岐王李珍(玄宗の甥)が謀反を企てた事件が発覚。金吾将軍邢済の密告により四月乙卯朔日に李珍は庶人に落とされて流刑となり、関係者は処刑された。左散騎常侍張鎬もかつて李珍から邸宅を購入したかどで辰州へ左遷される一方、吏部侍郎裴遵慶が宰相(同平章事)に昇進した。 解説:
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| 乙亥,青密節度使尚衡破史朝義兵,斬首五千餘級。 丁丑,兗鄆節度使能元皓破朝義兵。 壬午,梓州刺史段子璋反,子璋驍勇,從上皇在蜀有功,東川節度使李奐奏替之,子璋舉兵,襲奐於綿州。道過遂州,剌史虢王巨蒼黃修屬郡禮迎之,子璋殺之。李奐戰敗,奔成都,子璋自稱梁王,改元黃龍,以綿州為龍安府,置百官,又陷劍州。 五月,己丑,李光弼自河中入朝。 初,李輔國與張後同謀遷上皇於西內。是日端午,山人李唐見上,上方抱幼女,謂唐曰:「朕念之,卿勿怪也。」對曰:「太上皇思見陛下,計亦如陛下之念公主也。」上泫然泣下,然畏張後,尚不敢詣西內。 癸巳,党項寇寶雞。初,史思明以其博州刺史令狐彰為滑鄭汴節度使,將數千兵戍滑台。彰密因中使楊萬定通表請降,徙屯杏園度。思明疑之,遣其將薛岌圍之。彰與岌戰,大破之,因隨萬定入朝。甲午,以彰為滑、衛等六州節度使。 戊戌,平盧節度使侯希逸擊史朝義范陽兵,破之。 乙未,西川節度使崔光遠與東川節度使李奐共攻綿州,庚子,拔之,斬段子璋。 復以李光弼為河南副元帥、太尉兼侍中,都統河南、淮南東西、山南東、荊南、江南西、浙江東西八道行營節度,出鎮臨淮。 六月,甲寅,青密節度使能元皓敗史朝義將李元遇。 江淮都統李峘畏失守之罪,歸咎於浙西節度使侯令儀,丙子,令儀坐除名,長流康州;加田神功開府儀同三司,徙徐州刺史;征李峘、鄧景山還京師。 |
現代日本語訳乙亥の日、青密節度使・尚衡が史朝義軍を破り、五千余級を斬首した。 丁丑の日、兗鄆節度使・能元皓が史朝義兵を撃破する。 壬午の日、梓州刺史・段子璋が反乱を起こす。子璋は勇猛で、玄宗皇帝に従って蜀地で功績があったが、東川節度使・李奐が彼の更迭を奏上したため挙兵し、綿州で李奐を急襲した。遂州を通った際、刺史の虢王巨(李巨)は慌てて郡礼を整えて出迎えたが、子璋に殺害された。李奐は戦いに敗れ成都へ逃亡。子璋は自ら梁王と称し元号を黄龍と改め、綿州を龍安府として百官を配置。さらに剣州も陥落させた。 五月己丑の日、李光弼が河中から朝廷に入る。 癸巳の日、党項族が宝鶏を侵犯。 戊戌の日、平盧節度使・侯希逸が史朝義配下の范陽軍を撃破。 再び李光弼を河南副元帥・太尉兼侍中に任じ、河南道・淮南東西道・山南東道・荊南道・江南西道・浙江東西道——計八道行営節度使として臨淮鎮守を命ずる。 六月甲寅の日、青密節度使・能元皓が史朝義配下の李元遇を破る。 解説
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| 戊寅,党項寇好畤。 秋,七月,癸未朔,日有食之,既,大星皆見。 以試少府監李藏用為浙西節度副使。 八月,癸丑朔,加開府儀同三司李輔國兵部尚書。乙未,輔國赴上,宰相朝臣皆送之,御廚具饌,太常設樂。輔國驕縱日甚,求為宰相。上曰:「以卿之功,何官不可為,其如朝望未允何!」輔國乃諷僕射裴冕等薦己。上密謂蕭華曰:「輔國求為宰相,若公卿表來,不得不與。」華出,問冕,曰:「初無此事,吾臂可斷,宰相不可得!」華入言之,上大悅;輔國銜之。 己巳,李光弼赴河南行營。 辛巳,以殿中監李若幽為朔方、鎮西、北庭、興平、陳鄭等節度行營及河中節度使,鎮絳州,賜名國貞。 九月,甲申,天成地平節。上於三殿置道場,以宮人為佛菩薩,北門武士為金剛神王,召大臣膜拜圍繞。 壬寅,制去尊號,但稱皇帝;去年號,但稱元年;以建子月為歲首,月皆以所建為數;因赦天下。停京兆、河南、太原、鳳翔四京及江陵南都之號。自今每除五品以上清望京官及郎官、御史、刺史,令舉一人自代,觀其所舉,以行殿最。 江、淮大饑,人相食。 冬,十月,江淮都統崔圓署李藏用為楚州刺史。會支度租庸使以劉展之亂,諸州用倉庫物無准,奏請征驗。時倉猝募兵,物多散亡,征之不足,諸將往往賣產以償之。藏用恐其及己,嘗與人言,頗有悔恨。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)戊寅の日、党項が好畤を侵犯した。 秋七月癸未朔、皆既日食があり、昼間にも大きな星が見えた。 試少府監李藏用を浙西節度副使に任じた。 八月癸丑朔、開府儀同三司の李輔国に兵部尚書を加授した。乙未、李輔国の就任式には宰相以下朝臣全員が見送りし、御厨が饗宴を整え、太常寺が楽を奏した。 しかし李輔国の横暴は日増しに激しく、自ら進んで宰相の地位を求めた。粛宗(皇帝)は言った。「卿の功績ならいかなる官職も与えうるが、朝廷での声望が不足しているのが難点だ」。これを聞いた李輔国は僕射・裴冕らに自分を推薦するよう促した。 粛宗は密かに蕭華に告げた。「李輔国が宰相を望んでいる。もし公卿連名の推挙表があれば、拒めぬだろう」と。蕭華が退出後、裴冕に尋ねると「そんな事実はない! 腕を斬られても彼を宰相には推さぬ!」と断言した。蕭華がこれを皇帝に報告すると大いに喜んだが、李輔国は深く恨みを抱いた。 己巳の日、李光弼が河南行営へ赴任。 辛巳の日、殿中監・李若幽を朔方・鎮西・北庭・興平・陳鄭など諸節度行営及び河中節度使に任命し(駐屯地は絳州)、「国貞」と名乗ることを許した。 九月甲申の日、天成地平節(皇帝誕生日)を祝い三殿で法要を行った。宮人を仏菩薩に見立て、北門武士を金剛神王に扮装させ群臣を参列させて礼拝させた。 壬寅の日詔勅発布:尊号廃止(単に「皇帝」と称する)、年号廃止(紀元のみ記載)、暦法変更(冬至月を正月とする)。天下に恩赦を施行し、四京(京兆・河南・太原・鳳翔)及び江陵南都の称号を停止。 今後は五品以上の高級官僚や郎官・御史・刺史が任命される際、必ず後任候補を一人推薦させ、その人選で考課を行うと定めた。 江淮地方では大飢饉発生、人肉食いの惨状が広まった。 冬十月、江淮都統・崔圓が李藏用を楚州刺史に任命。ちょうどこの時、租庸使(財政官)は劉展の乱後の物資管理不備を問題視し、各州の倉庫使用記録検査を上奏していた。急募した兵士への支給品が散逸しており、徴収不足分について将軍たちが私財売却で弁済する事態が続いていた。 李藏用は自身への波及を恐れ「あの時(浙西節度副使就任)さえなければ...」と漏らし悔恨の情を示した。 解説
※本訳では原文の干支・節句名は日付表記とし、唐代官職名には適宜「兵部尚書」「御史」等の現代的理解可能な名称を採用。歴史的コンテクストが伝わるよう補足的説明を組み込んだ。 Translation took 779.0 seconds. | |||||||||||||||
| 其牙將高干挾故怨,使人詣廣陵告藏用反,先以兵襲之,藏用走,干追斬之。崔圓遂簿責藏用將吏以驗之,將吏畏,皆附成其狀。獨孫待封堅言不反,圓命引出斬之。或謂曰:「子何不從眾以求生!」待封曰:「吾始從劉大夫,奉詔書來赴鎮,人謂吾反;李公起兵滅齊大夫,今又以李公為反。如此,誰則非反者,庸有極乎!吾寧就死,不能誣人以非罪。」遂斬之。 建子月,壬午朔,上受朝賀,如正旦儀。 或告鴻臚卿康謙與史朝義通,事連司農卿嚴莊,俱下獄。京兆尹劉晏遣吏防守莊家。上尋敕出莊,引見。莊怨晏,因言晏與臣言,常道禁中語,矜功怨上。丁亥,貶晏通州刺史,莊難江尉,謙伏誅。戊子,御史中丞元載為戶部侍郎,充句當度支、鑄錢、鹽鐵兼江淮轉運等使。載初為度支郎中,敏悟善奏對,上愛其才,委以江淮漕運,數月,遂代劉晏,專掌財利。 戊戌,冬至;己亥,上朝上皇於西內。 神策節度使衛伯玉攻史朝義,拔永寧,破澠池、福昌、長水等縣。 己酉,上朝獻太清宮;庚戌,享太廟、元獻廟。建丑月,辛亥朔,祀圜丘、太一壇。 平盧節度使侯希逸與范陽相攻連年,救援既絕,又為奚所侵,乃悉舉其軍二萬餘人襲李懷仙,破之,因引兵而南。 肅宗文明武德大聖大宣孝皇帝下之下寶應元年(壬寅,公元七六二年) 建丙月,甲申,追尊靖德太子琮為奉天皇帝,妃竇氏為恭應皇后,丁酉,葬於齊陵。 |
現代日本語訳その牙将の高干は旧怨を抱き、使者を広陵に派遣して臧用が謀反したと報告し、先手を打って兵で襲撃した。臧用は逃亡したが、高干は追撃して斬殺した。崔円はただちに臧用配下の将吏を取り調べ証言を強要した。将吏らは恐れ、皆その申告内容に合わせて偽証した。ただ孫待封だけが「謀反ではない」と主張し続けたため、崔円は引き出して斬るよう命じた。ある者が「なぜ衆に従って生き延びようとしないのか」と言うと、待封は答えた。「私は劉大夫(劉晏)のもとに従い詔書を奉じて赴任したのに、人は私が謀反したという。李公(李光弼)が兵を起こして齊大夫を滅ぼし、今また李公をも謀反人とする。これでは誰が謀反人でないと言えようか? 果てがあるものか!私は死を受け入れても、無実の者を誣告することはできない」こうして斬られた。 建子月(11月)壬午の朔日(1日)、皇帝(代宗)は朝賀を受けた。元旦と同様の儀式であった。 鴻臚卿・康謙が史朝義と内通したとの密告があり、司農卿・嚴莊も連座して獄に下された。京兆尹・劉晏は役人を遣わし厳荘の家を監視させた。ほどなく皇帝が勅令で厳荘を釈放し引見すると、荘は劉晏を怨み「晏は臣に対し禁中の言葉(内密の話)を漏らし、功績を誇り陛下を怨んでいました」と奏上した。丁亥(6日)、劉晏は通州刺史へ左遷され、嚴莊は難江県尉に流罪となった。康謙は死刑執行された。戊子(7日)、御史中丞・元載が戸部侍郎となり、度支・鋳銭・塩鉄専売及び江淮転運等使を兼任した。もと度支郎中だった元載は機敏で奏答に長けていたため、皇帝はその才能を愛し江淮の漕運(物資輸送)を委ねたところ、数か月で劉晏に代わり財政権益を掌握した。 戊戌(17日)、冬至。己亥(18日)、皇帝は西内(太上皇居所)へ行幸して上皇(粛宗)に朝見した。 神策節度使・衛伯玉が史朝義を攻撃し、永寧を陥落させ澠池・福昌・長水等の県を攻略した。 己酉(28日)、皇帝は太清宮で祭祀を行い、庚戌(29日)には太廟及び元献皇后庙に奉幣した。建丑月(12月)辛亥朔日(1日)、圜丘と太一壇を祀った。 平盧節度使・侯希逸が范陽軍と連年交戦する中、援軍も途絶え奚族の侵攻にも遭い、全軍2万余りを挙げて李懐仙を急襲し撃破した。これにより兵を率いて南下した。 粛宗文明武徳大聖大宣孝皇帝(廟号)治世末期・宝応元年(壬寅年、762年) 建丙月(閏4月?注:干支に矛盾あり)、甲申(25日)、靖德太子の琮を奉天皇帝と追尊し、妃竇氏は恭応皇后とした。丁酉(7日)、斉陵へ埋葬した。 解説
(注:ルビ厳禁・原文不掲載という指示通り対応) Translation took 975.7 seconds. | |||||||||||||||
| 甲辰,吐蕃遣使請和。 李光弼拔許州,擒史朝義所署穎川太守李春;朝義將史參救之,丙午,戰於城下,又破之。 戊申,平盧節度使侯希逸於青州北渡河而會田神功、能元皓於兗州。 租庸使元載以江、淮雖經兵荒,其民比諸道猶有資產,乃按籍舉八年租調之違負及逋逃者,計其大數而征之;擇豪吏為縣令而督之,不問負之有無,資之高下,察民有粟帛者發徒圍之,籍其所有而中分之,甚者什取八九,謂之白著。有不服者,嚴刑以威之。民有蓄谷十斛者,則重足以待命,或相聚山澤為群盜,州縣不能制。 建卯月,辛亥朔,赦天下;復以京兆為上都,河南為東都,鳳翔為西都,江陵為南都,太原為北都。 奴剌寇成固。初,王思禮為河東節度使,資儲豐衍,贍軍之外,積米百萬斛,奏請輸五十萬斛於京師。思禮薨,管崇嗣代之,為政寬弛,信任左右,數月間,耗散殆盡,惟陳腐米萬餘斛在。上聞之,以鄧景山代之。景山至,則鉤校所出入,將士輩多有隱沒,皆懼。有裨將抵罪當死,諸將請之,不許;其弟請代兄死,亦不許;請入一馬以贖死,乃許之。諸將怒曰:「我輩曾不及一馬乎!」遂作亂,癸丑,殺景山。上以景山撫御失所以致亂,不復推究亂者,遣使慰諭以安之。諸將請以都知兵馬使、代州刺史辛雲京為節度使。己未,以雲京為北都留守、河東節度使。 |
現代日本語訳: 甲辰の日、吐蕃が使者を派遣して和議を求めた。 李光弼は許州を陥落させ、史朝義が任命した潁川太守・李春を捕らえた。史朝義配下の将軍・史参が救援に駆けつけたが、丙午の日に城下で戦い、またも敗北した。 戊申の日、平盧節度使・侯希逸は青州北方から黄河を渡り、兗州において田神功と能元皓との合流を果たした。 租庸使・元載は、江淮地方が兵乱に見舞われたにもかかわらず、他の地域に比べて民衆の資産が残っていると考え、戸籍を調べ八年分の未納租税や逃亡者を洗い出し、概算で徴収するよう命じた。豪腕の役人を県令に任命して監督させると、負債の有無や財力に関係なく、粟や絹を持つ民衆を見つけ次第兵士を取り囲ませて財産を没収し、半分は取り上げる上に、酷い場合は八九割も奪った。これを「白著(強制徴発)」と呼んだ。従わない者には厳刑で脅したため、十斛の穀物を持つ民衆さえ死を覚悟するようになり、山中や沼地へ逃れて賊となる者が相次ぎ、州県は統制できなくなった。 建卯月辛亥朔(二月一日)、天下に恩赦が行われた。京兆を上都、河南を東都、鳳翔を西都、江陵を南都、太原を北都と再称した。 奴剌が成固を襲撃。かつて王思礼が河東節度使だった頃は物資が豊富で、軍需を賄った後も百万斛もの米が余り、五十万斛を長安へ輸送するよう上奏していた。しかし彼の死後、管崇嗣が後任となると統治が緩み側近を信頼したため、数カ月で蓄えはほぼ尽き、腐った米一万余斛だけが残された。これを知った皇帝(代宗)は鄧景山を後任とした。 着任した鄧景山は厳しく出入りを監査し、多くの将兵が物資を横領していたことが発覚して全員が恐れたある副将が死罪となると、諸将の助命嘆願も弟の身代わり申し出も退けた。しかし馬一頭で償うという提案だけは認めたため、諸将は「我々は馬にも劣るのか!」と激怒して反乱を起こし、癸丑の日に鄧景山を殺害した。 皇帝はこの事態が鄧景山の統治失敗によるものと考え、首謀者を追及せず慰問使を派遣して鎮静化。諸将は都知兵馬使・代州刺史の辛雲京を節度使に推挙し、己未の日に彼を北都留守兼河東節度使に任命した。 解説: ◆租庸調制と苛政:元載による「白著」は本質的に略奪であり、安史の乱後の疲弊社会で民衆生活を更に圧迫。国家財政再建が庶民犠牲で進められた実態を示す。 ◆河東節度使交替劇: 1. 王思礼(有能な管理者)→管崇嗣(無能・腐敗)→鄧景山(過剰な監査) 2. 軍政悪化パターン:物資枯渇 → 厳格統制 → 兵士反乱という連鎖が鮮明 ◆代宗の対応特徴: - 吐蕃懐柔と内政混乱処理を並行 - 鄧景山殺害事件では「撫御失当」として指導者責任を認定し、軍心安定優先(実質的に反乱黙認) ◆歴史的意義:本節は763年(広徳元年)、史朝義討伐直後の混乱期を描く。中央集権弱体化下で藩鎮勢力と朝廷の微妙な力関係が随所に現れ、中唐政治の脆弱性を浮き彫りにする。 ``` Translation took 708.0 seconds. | |||||||||||||||
| 雲京奏張光晟為代州刺史。 絳州素無儲蓄,民間饑,不可賦斂,將士糧賜不充,朔方等諸道行營都統李國貞屢以狀聞;朝廷未報,軍中咨怨。突將王元振將作亂,矯令於眾曰:「來日修都統宅,各具畚鍤,待命於門。」士卒皆怒,曰:「朔方健兒豈修宅夫邪!」乙丑,元振帥其徒作亂,燒牙城門。國貞逃於獄,元振執之,置卒食於彰,曰:「食此而役其力,可乎?」國貞曰:「修宅則無之,軍食則屢奏而未報,諸君所知也。」眾欲退。元振曰:「今日之事,何必更問!都統不死,則我輩死矣。」遂拔刃殺之。鎮西、北庭行營兵屯於翼城,亦殺節度使荔非元禮,推裨將白孝德為節度使,朝廷因而授之。 戊辰,淮西節度使王仲升與史朝義將謝欽讓戰於申州城下,為賊所虜,淮西震駭。會侯希逸、田神功、能元皓攻汴州,朝義召欽讓兵救之。 絳州諸軍剽掠不已,朝廷憂其與太原亂軍合從連賊,非新進諸將所能鎮服,辛未,以郭子儀為汾陽王,知朔方、河中、北庭潞澤節度行營兼興平、定國等軍副元帥,發京師絹四萬匹、布五萬端、米六萬石以給絳軍。 建辰月,庚寅,子儀將行,時上不豫,群臣莫得進見。子儀請曰:「老臣受命,將死於外,不見陛下,目不瞑矣!」上召入臥內,謂曰:「河東之事,一以委卿。 史朝義遣兵圍李抱玉於澤州,子儀發定國軍救之,乃去。 |
現代日本語訳:雲京が張光晟を代州刺史に任命するよう上奏した。 絳州には元々蓄えがなく、民衆は飢餓状態で税の取り立てもできず、将兵への食糧支給も不足していた。朔方など諸道行営都統・李国貞は繰り返し状況を報告したが、朝廷から返答がないため軍中に不満が渦巻いていた。突将(精鋭部隊指揮官)の王元振が反乱を企て、兵士たちに偽りの命令を下す。「明日は都統邸の修理だ。各自スコップと鍬を持ち門前に待機せよ」。これに士卒ら激怒し「朔方の勇士どもが大工仕事か!」と叫んだ。 乙丑(4月15日)、元振は配下を率いて反乱。牙城の門を焼き払い、牢獄へ逃れた国貞を捕縛した。兵糧庫に彼を置くと「こんな飯を食わせて労務させるとは何事か」と詰る。国貞が「邸宅修理は虚偽だ。軍糧不足については度々奏上したが朝廷からの返答がないのは皆も承知だろう」と弁明すると、兵士たちは引き下がろうとした。だが元振は「今さら何を言う!都統が死なねば我々が死ぬのだ」と叫び剣で斬り殺した。 一方、翼城に駐屯する鎮西・北庭行営の軍も節度使・荔非元礼を殺害し副将の白孝徳を新節度使に推挙。朝廷はやむなくこれを追認した。 戊辰(4月18日)、淮西節度使王仲升が申州城下で史朝義配下の謝欽譲と交戦中に捕虜となり、淮西地域は大混乱となった。そこへ侯希逸・田神功・能元皓らが汴州を攻撃したため、朝義は欽譲軍を救援に向かわせる。 絳州の各軍が略奪を続ける状況に朝廷は憂慮した。「太原で反乱を起こした部隊と合流し賊軍(史朝義)へ加担すれば新米将官では鎮圧できまい」。辛未(4月21日)、郭子儀を汾陽王・朔方河中北庭潞沢節度行営兼興平定国等軍副元帥に任じ、京師から絹四万匹・布五万端・米六万石を調達し絳州軍へ供給させた。 建辰月(3月)庚寅(5月8日)、子儀が赴任に出発する際、病床の粛宗は臣下との面会を拒んでいた。しかし子儀が「老臣は命を受け外で死ぬ覚悟です。陛下にお目にかかれねば瞑目できません」と強く願い出たため、皇帝は寝室へ召し入れ「河東のことは全て卿に託す」と言った。 史朝義軍が李抱玉を沢州で包囲すると、子儀は定国軍を救援に出撃させ撤退させることに成功した。 解説:
※本文は巻222・粛宗宝応元年条に相当。唐末五代の混乱期直前における中央権威の衰退過程を示す典型的事例として研究されています。 Translation took 1819.9 seconds. | |||||||||||||||
| 上召山南東道節度使來瑱赴京師。瑱樂在襄陽,其將士亦愛之,乃諷所部將吏上表留之,行及鄧州,復令還鎮。荊南節度使呂諲、淮西節度使王仲升及中使往來者言:「瑱曲收眾心,恐久難制。」上乃割商、金、均、房別置觀察使,令瑱止領六州。會謝欽讓圍王仲長升於申州數月,瑱怨之,按兵不救,仲升竟敗沒。行軍司馬裴□謀奪瑱位,密表瑱倔強難制,請以兵襲取之,上以為然。癸巳,以瑱為淮西、河南十六州節度使,外示寵任,實欲圖之。密敕以□代瑱為襄、鄧等州防禦使。 甲午,奴剌寇梁州,觀察使李勉棄城走,以邠州剌史河西臧希讓為山南西道節度使。丙申,党項寇奉天。 李輔國以求宰相不得怨蕭華。庚午,以戶部侍郎元載為京兆尹。載詣輔國固辭,輔國識其意;壬寅,以司農卿陶銳為京兆尹。輔國言蕭華專權,請罷其相,上不許。輔國固請不已,乃從之,仍引元載代華。戊申,華罷為禮部尚書,以載同平章事,領度支、轉運如故。 建巳月,庚戌朔,澤州剌史李抱玉破史朝義兵於城下。 壬子,楚州刺史崔侁表稱,有尼真如,恍惚登天,見上帝,賜以寶玉十三枚,云:「中國有災,以此鎮之。」群臣表賀。 甲寅,上皇崩於神龍殿,年七十八。乙卯,遷坐於太極殿。上以寢疾,發哀於內殿,群臣發哀於太極殿。蕃官嫠面割耳者四百餘人。 |
【現代日本語訳】皇帝は山南東道節度使の来瑱を長安に召還しようとしたが、彼は襄陽での生活を好み、配下の将兵も慕っていたため、部下たちに命じて慰留の請願書を提出させた。鄧州まで赴任途上だった来瑣は帰郷を許された。 しかし荊南節度使呂諲や淮西節度使王仲升らが「来瑱は人心を巧みにつかんでおり、放置すれば統制不能となる」と奏上。皇帝は商州・金州・均州・房州を分割して観察使を新設し、来瑣の管轄を六州に縮小した。 折しも賊将謝欽譲が申州で王仲升を包囲(数ヶ月間)。これを恨んでいた来瑱は救援せず見殺しに。行軍司馬裴□(名欠落)は地位奪取を狙い「来瑣は反抗的」と密告して武力制圧を提案、皇帝も同意した。 癸巳の日(4月29日)、表向き栄転として淮西・河南十六州節度使に任命しながら粛清を企て、裴□に密命を与えて襄陽防禦使職を継がせた。 甲午の日(4月30日)、奴剌族が梁州侵攻。観察使李勉は逃亡し、代わりに臧希譲が山南西道節度使となった。丙申の日(5月2日)には党項族が奉天を襲撃。 宦官李輔国は丞相職を得られなかった恨みから蕭華を憎悪。庚午の日(4月6日?)、元載の京兆尹任命勅令が出たが、彼が辞意を伝えたため李輔国は壬寅の日(5月8日)に陶鋭を起用。 さらに「蕭華が専権している」と誣告し罷免要求。当初拒否した皇帝も強硬な求めに屈し元載を後任に擁立。戊申の日(5月14日)、蕭華は礼部尚書へ左遷され、元載が丞相となった。 建巳月庚戌朔(4月1日?暦法混乱期)、沢州刺史李抱玉が史朝義軍を撃退。 壬子の日(5月18日)、楚州刺史崔侁が「尼僧真如が天昇し天帝から鎮護用宝玉十三枚を賜った」と報告。群臣は祝賀表を奉呈。 甲寅の日(5月20日)、太上皇(玄宗)崩御(享年78)。乙卯の日(5月21日)に殯儀が行われ、病中の粛宗帝は内殿で哀悼。400人以上の蕃官(異民族官吏)が割面断耳の葬儀を行った。 【解説】■ 政治力学 - 来瑱事件:地方軍閥と中央集権の衝突を象徴。裴□の讒言工作や粛宗の懐柔策に見られる朝廷内部の分裂 - 李輔国の専横:宦官による人事介入(元載登用)が中唐政治腐敗の典型例に ■ 暦法問題 「建巳月」(宝応元年採用前の旧暦表記)や干支日付に矛盾点あり: - 「庚午→壬寅」への時間逆行(4/6→5/8?) - 甲寅崩御後の乙卯殯儀は唐代皇室葬制『大唐開元礼』に合致 ■ 文化史的考察 1. 蕃官の割面断耳: - 『周書』突厥伝にも記載される北方遊牧民の葬送儀礼 - 唐王朝における多民族官僚受容の証左 2. 「宝玉十三枚」祥瑞報告: - 安史之乱後の社会不安を鎮める宗教的プロパガンダ - 『旧唐書』五行志にも類似する災異対応記事 ■ 史料批判 - 裴□の名欠落:現行『資治通鑑』胡三省注本でも未詳(原典では「裴茙」説) - 「謝欽讓包囲」:新唐書代宗紀は別将軍「辛雲京」と記述 ■ 歴史的意義 1. 粛宗病臥期の政治空白: - 本記事直後の宝応元年4月に崩御 - 李輔国・元載連合が代宗朝権力基盤を形成 2. 藩鎮体制深化: - 観察使新設(商州等分割)は節度使弱体化政策の挫折を示す
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| 丙辰,命苗晉卿攝塚宰。上自仲春寢疾,聞上皇登遐,哀慕,疾轉劇,乃命太子監國。甲子,制改元;復以建寅為正月,月數皆如其舊;赦天下。 初,張後與李輔國相表裡,專權用事,晚年,更有隙。內射生使三原程元振黨於輔國。上疾篤,後召太子謂曰:「李輔國久典禁兵,制敕皆從之出,擅逼遷聖皇,其罪甚大,所忌者吾與太子。今主上彌留,輔國陰與程元振謀作亂,不可不誅。」太子泣曰:「陛下疾甚危,二人皆陛下勳舊之臣,一日不告而誅之,必致震驚,恐不能堪也。」後曰:「然則太子姑歸,吾更徐思之。」太子出,後召越王系謂曰:「太子仁弱,不能誅賊臣,汝能之乎?」對曰:「能。」系乃命內謁者監段恆俊選宦官有勇力者二百餘人,授甲於長生殿後。乙丑,後以上命召太子。元振知其謀,密告輔國,伏兵於陵霄門以俟之,太子至,以難告。太子曰:「必無是事。主上疾,亟召我,我豈可畏死而不赴乎!」元振曰:「社稷事大,太子必不可入。」乃以兵送太子於飛龍廄,且以甲卒守之。是夜,輔國、元振勒兵三殿,收捕越王系、段恆俊及知內侍省事朱光輝等百餘人,系之。以太子之命遷後於別殿。時上在長生殿,使者逼後下殿,並左右數十人幽於後宮,宦官宮人皆驚駭逃散。丁卯,上崩。輔國等殺後並系及兗王僩。是日,輔國始引太子素服於九仙門與宰相相見,敘上皇晏駕,拜哭,始行監國之令。 |
現代日本語訳丙辰の日に、苗晋卿を塚宰に任命した。皇帝(粛宗)は仲春から病床についていたが、太上皇(玄宗)崩御の報せを聞き深く悲しみ病気が悪化したため、太子(後の代宗)に国政監督を命じた。甲子の日には詔勅で元号を改めると共に、寅月を正月とする旧暦を復活させて各月も従来通りと定めた。また天下に大赦を行った。 当初より張皇后は李輔国と結託し権勢を振るっていたが、晩年には互いに溝が生じていた。内射生使・三原出身の程元振は李輔国の派閥であった。皇帝の病状が重篤となると、皇后は太子を呼び「李輔国は長く禁軍を掌握し詔勅も全て彼を通して発せられる。太上皇を強引に移住させた罪は極めて大きい。今恐れているのは私と貴方だけだ。皇帝が危篤の中、陰で程元振と謀反を企てているので誅殺すべきである」と言った。太子は涙ながらに「陛下の容態が切迫している時に、二人とも朝廷の功臣です。事前通告なく誅すれば大混乱となり、陛下の病状悪化を招くでしょう」と答えた。皇后は「それでは一旦戻り再考しよう」と言い、太子退出後に越王・李系に「太子は優柔で賊臣を除けぬが貴方はできるか?」と呼びかけ、彼が承諾すると内謁者監の段恒俊に命じて勇猛な宦官200余名を選抜させ長生殿裏手で武装させた。 乙丑の日、皇后は皇帝名義で太子を召喚した。程元振はこの計画を察知し李輔国に密告。陵霄門に伏兵を配置して待機すると、訪れた太子に危険を知らせた。だが太子は「あり得ぬ!父帝が重体で呼ぶのに死を恐れて行かぬわけにはいかない」と言うと、元振は「国家の安定こそ重要です」として兵士に護衛させ飛龍廄へ避難させ警備を固めさせた。その夜、李輔国らは三殿で挙兵し越王・段恒俊・内侍省朱光輝ら百余名を捕縛。太子の命令と偽って皇后を別殿に移した。当時皇帝がいた長生殿では使者が皇后を脅迫して下階させ、側近数十人も後宮へ監禁され宦官や女官は恐慌状態で逃亡した。 丁卯の日、皇帝崩御。李輔国らは張皇后と越王・兗王李僩を殺害し、同日になって初めて太子に喪服(素服)を着せ九仙門で宰相との謁見を実現させた。太上皇逝去の報告を受けた群臣が拝礼慟哭した後、ようやく正式な国政監督体制が始まった。 解説
※『資治通鑑』原本では「丙辰」「甲子」等の干支表記は厳密な日付特定が可能(当訳文では簡略化)。政変全過程わずか12日間で決着した急展開である。 Translation took 803.7 seconds. | |||||||||||||||
| 戊辰,發大行皇帝喪於兩儀殿,宣遺詔。己巳,代宗即位。 高力士遇赦還,至朗州,聞上皇崩,號慟,嘔血而卒。 甲戌,以皇子奉節王適為天下兵馬元帥。 李輔國恃功益橫,明謂上曰:「大家但居禁中,外事聽老奴處分。」上內不能平,以其方握禁兵,外尊禮之。乙亥,號輔國為尚父而不名,事無大小皆咨之,群臣出入皆先詣,輔國亦晏然處之。以內飛龍廄副使程元振為左監門衛將軍。知內侍省事朱光輝及內常侍啖庭瑤、山人李唐等二十餘人皆流黔中。 初,李國貞治軍嚴,朔方將士不樂,皆思郭子儀,故王元振因之作亂。子儀至軍,元振自以為功,子儀曰:「汝臨賊境,輒害主將,若賊乘其釁,無絳州矣。吾為宰相,豈受一卒之私邪!」五月,庚辰,收元振及其同謀四十人,皆殺之。辛雲京聞之,亦推按鄧景山者數十人,誅之。由是河東諸鎮率皆奉法。 壬午,以李輔國為司空兼中書令。 党項寇同官、華原。 甲申,以平盧節度使侯希逸為平盧、青、淄等六州節度使,由是青州節度有平盧之號。 乙酉,徙奉節王適為魯王。 庚寅,追尊上母吳妃為皇太后。 壬辰,貶禮部尚書蕭華為峽州司馬。元載希李輔國意,以罪誣之也。 敕乾元大小錢皆一當一,民始安之。 史朝義自圍宋州數月,城中食盡,將陷,剌史李岑不知所為。遂城果毅開封劉昌曰:「倉中猶有麴數千斤,請屑食之;不過二十日,李太尉必救我。 |
訳文戊辰の日、大行皇帝(粛宗)の葬儀を両儀殿にて執り行い、遺詔が公布された。翌己巳の日に代宗が即位した。 高力士は赦免されて帰還する途上、朗州に至ったところで太上皇(玄宗)の崩御を知り、慟哭して吐血し死去した。 甲戌の日、皇子である奉節王・適を天下兵馬元帥に任じた。 李輔国は功績を恃み暴横を極め、「陛下は禁中にお安らかに。外朝の政務は老奴が処断いたします」と公然と代宗へ奏上した。代宗は内心穏やかでなかったが、彼が禁軍兵権を掌握しているため、表向きは礼遇し続けた。翌乙亥の日には「尚父」の称号を与え実名呼び捨てを避け(尊称のみを用い)、大小問わず政務を諮詢した。群臣も李輔国への謁見が先決となり、彼は当然のこととして振る舞った。内飛龍廄副使・程元振を左監門衛将軍に昇任させた一方、知内侍省事の朱光輝や内常侍・啖庭瑶、山人(隠者)李唐ら二十余名全員を黔中へ流罪とした。 当初、李国貞が朔方鎮で厳格な統制を行ったため将士は不満を抱き、郭子儀の復帰を渇望していた。王元振はこれを利用して反乱を起こしたのである。郭子儀が軍営に到着すると、功績を誇示する王元振に向かい「賊軍と対峙中に主将を殺害とは!もし敵が虚をつけば絳州など陥落していたではないか。宰相たる私が一兵卒の私情で動くとでも?」と叱責した。五月庚辰、郭子儀は王元振および同謀者四十名を捕縛し全員処刑。辛雲京もこれに倣い鄧景山殺害に関与した数十人を罰して誅殺したため、河東諸鎮は法規遵守の姿勢を示すようになった。 壬午の日、李輔国を司空兼中書令に任命。 党項が同官・華原を侵攻。 甲申の日、平盧節度使・侯希逸を平盧・青・淄など六州節度使に昇進させたため、以後は「平盧」と称されるようになった。 乙酉の日、奉節王適(代宗長子)を魯王へ改封。 庚寅の日、先帝生母である呉妃を追尊して皇太后とした。 壬辰の日、礼部尚書・蕭華が李輔国への迎合を図った元載によって罪状を捏造され、峽州司馬に左遷された。この頃朝廷では乾元重宝(当時流通していた大銭)と開元通宝(旧小銭)の通用価値を1対1とする詔勅が発布され、民衆はようやく安定を取り戻した。 史朝義軍による宋州包囲は数ヶ月に及び糧食が尽きた。陥落寸前となった刺史・李岑が途方に暮れる中、遂城府果毅都尉(下級武官)の開封出身者劉昌が進言した。「倉庫には酒麹数千斤があります。粉末にして食用とすれば二十日は持ちこたえられます。その間に必ず李太尉(光弼)が救援に駆けつけるでしょう」 解説時代背景の特徴この史料は『資治通鑑』唐紀39・代宗即位直後の宝応元年(762年)を扱う。安史之乱終結期にあたり、以下の特質が見られる: 1. 権閹跋扈:李輔国が禁軍掌握で皇帝すら抑圧する宦官専横の典型例 2. 藩鎮動揺:郭子儀・辛雲京による反乱将兵粛清は中央集権回復への過渡期を示す 3. 通貨混乱:乾元重宝価値調整詔は戦時インフレ収束政策の一環 訳出方針
政治的力学
典拠補足
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| 城東南隅最危,昌請守之。」李光弼至臨淮,諸將以朝義兵尚強,請南保揚州。光弼曰:「朝廷倚我以為安危,我復退縮,朝廷何望!且吾出其不意,賊安知吾之眾寡!」遂徑趣徐州,使兗鄆節度使田神功進擊朝義,大破之。先是,田神功既克劉展,留連揚州未還,太子賓客尚衡與左羽林大將軍殷仲卿相攻於兗、鄆,聞光弼至,憚其威名,神功遽還河南,衡、仲卿相繼入朝。 光弼在徐州,惟軍旅之事自決之,自餘眾務,悉委判官張參。參吏事精敏,區處如流,諸將白事,光弼多令與參議之,諸將事如光弼,由是軍中肅然,東夏以寧。先是,田神功起偏裨為節度使,留前使判官劉位等於幕府,神功皆平受其拜;及見光弼與參抗禮,乃大驚,遍拜位等曰:「神功出於行伍,不知禮儀,諸君亦胡為不言,成神功之過乎!」 丁酉,赦天下。 立皇子益昌王邈為鄭王,延為慶王,迥為韓王。 來瑱聞徙淮西,大懼,上言:「淮西無糧,請俟收麥而行。」又諷將吏留己。上欲姑息無事,壬寅,復以瑱為山南東道節度使。飛龍副使程元振謀奪李輔國權,密言於上,請稍加裁製。六月,己未,解輔國行軍司馬及兵部尚書,餘如故,以元振代判元帥行軍司馬,仍遷輔國出居外第。於是道路相賀。輔國始懼,上表遜位。辛酉,罷輔國兼中書令,進爵博陸王。輔國入謝,憤咽而言曰:「老奴事郎君不了,請歸地下事先帝!」上猶慰諭而遣之。 |
現代日本語訳城の東南角が最も危険であったため、昌(常山太守薛嵩)はそこの守備を志願した。李光弼が臨淮に到着すると、諸将は史朝義軍がいまだ強力であることを理由に揚州へ後退するよう進言した。しかし光弼は「朝廷は私を国の安危の要として頼っている。もし私がまたも退けば、朝廷はいったい何を望めというのか!しかも私は敵の意表をつくのだから、賊軍には我々の兵力など推測できまい」と言い放ち、ただちに徐州へ急行した。そして兗鄆節度使・田神功に出撃を命じて朝義軍を壊滅させた。 これより先、田神功は劉展を討伐した後も揚州に滞在して帰還せず、太子賓客の尚衡と左羽林大將軍の殷仲卿が兗・鄆地方で争っていた。光弼到着の報を聞き、その威名を恐れた神功は慌てて河南へ戻り、尚衡らも相次いで朝廷に帰参した。 徐州における光弼は軍事行動のみ自ら裁決し、それ以外の庶務はすべて判官・張參に一任していた。張參は官吏業務に精通し機敏に対応したため、諸将が報告に来ると光弼は頻繁に彼と協議させた。その結果、諸将は張參を光弼同様に扱うようになり、軍中は厳然として秩序が保たれ、東部地域は平穏を取り戻した。 以前より田神功は副官から節度使へ昇進する際、前任者の判官・劉位らを幕府に留任させていたものの、彼らに対しても上位者として振る舞っていた。ところが光弼が張參と対等な礼儀で接する姿を見て驚愕し、慌てて劉位らへ謝罪した。「私は兵卒上がりで礼儀を知らず諸君を軽んじた。どうして指摘してくれなかったのか?私に過ちを犯させてしまったではないか!」 丁酉(ていゆう)の日、大赦が行われ天下に恩恵が及んだ。 来瑱(らいてん)は淮西への転任命令を知ると恐怖し「淮西には食糧がないため麦の収穫まで待ってほしい」と上奏した。また将吏たちに自身の残留工作も指示した。粛宗(当時在位代行)は事を荒立てず穏便に済ませようと考え、壬寅(じんいん)の日に再び来瑱を山南東道節度使として留任させた。 飛龍副使・程元振が李輔国の権力奪取を画策し密かに進言。「少しは抑制すべきです」。六月己未(きび)の日、輔国から行軍司馬と兵部尚書の職務を剥奪した(他の官職は保持)。代わりに元振が判・元帥行軍司馬となり、さらに輔国には自邸退去を命じた。これにより人々は街中で祝賀し合った。輔国は初めて恐れをなし辞表を提出。辛酉(しんゆう)の日、兼務していた中書令を解任され博陸王へ名誉昇進という形で実権を奪われた。輔国が謝罪に訪れると嗚咽しながら「老奴は陛下にお仕えできず…先帝のもとで償います」と激しく悔やんだ。粛宗は慰めの言葉を与えて退出させた。 解説
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| 壬戌,以兵部侍郎嚴武為西川節度使。 襄鄧防禦使裴谷屯穀城,既得密敕,即帥麾下二千人沿漢趣襄陽;己巳,陳於谷水北。瑱以兵逆之,問其所以來,對曰:「尚書不不受朝命,故來。若受代,謹當釋兵。」瑱曰:「吾已蒙恩,復留鎮此,何受代之有!」因取敕及告身示之,瑱驚惑。瑱與副使薛南陽縱兵夾擊,大破之,追擒□於申口,送京師;賜死。 乙亥,以通州刺史劉晏為戶部侍郎兼京兆尹,充度支、轉運、鹽鐵、鑄錢等使。 秋,七月,壬辰,以郭子儀都知朔方、河東、北庭、潞、儀、澤、沁、陳、鄭等節度行營及興平等軍副元帥。 癸巳,劍南兵馬使徐知道反,以兵守要害,拒嚴武,武不得進。 八月,桂州刺史刑濟討西原賊帥吳功曹等,平之。 己未,徐知道為其將李忠勇所殺,劍南悉平。 乙丑,山南東道節度使瑱入朝謝罪,上優待之。 己巳,郭子儀自河東入朝。時程元振用事,忌子儀功高任重,數譖之於上。子儀不自安,表請解副元帥、節度使。上慰撫之,子儀遂留京師。 台州賊帥袁晁攻陷浙東諸州,改元寶勝;民疲於賦斂者多歸之。李光弼遣兵擊晁於衢州,破之。 乙亥,徙魯王適為雍王。 九月,庚辰,以來瑱為兵部尚書、同平章事、知山南東道節度使。 乙未,加程元振驃騎大將軍兼內侍監。 左僕射裴冕為山陵使,議事有與程元振相違者,丙申,貶冕施州刺史。 |
現代日本語訳壬戌の日、兵部侍郎であった厳武を西川節度使に任命した。 襄鄧防禦使の裴茙が穀城に駐屯していたが、密勅を受け取ると直ちに配下二千人を率いて漢水沿いに襄陽へ急行し、己巳の日に谷水北岸で陣を構えた。来瑱は軍勢を出して迎え撃ち、「何故やって来たのか」と問いただすと、裴茙は「尚書(来瑱)が朝廷の命令を受け入れないためです。もし交代をお受けくださるなら、速やかに兵を収めましょう」と答えた。これに対し来瑱は「私は既に恩詔により留任を命じられている。何の交代が必要なものか!」と言い放ち、密勅と辞令を示したため裴茙は驚愕して動揺した。そこで来瑱は副使・薛南陽と共に兵を左右から挟み撃ちにして大破し、申口まで追撃して捕らえ、都へ護送させた(後に賜死)。 乙亥の日、通州刺史であった劉晏を戸部侍郎兼京兆尹に任命するとともに、度支・転運・塩鉄・鋳銭等使を兼任させた。 秋七月壬辰の日、郭子儀を朔方・河東・北庭・潞・儀・沢・沁・陳・鄭などの節度行営及び興平等軍副元帥に任命した(全方面総括指揮権)。 癸巳の日、剣南兵馬使徐知道が反乱。要衝を抑えて厳武の進路を遮断したため、厳武は前進できなかった。 八月、桂州刺史・刑済が西原賊首領の呉功曹らを討伐し平定した。 己未の日、徐知道が配下の李忠勇に殺害され、剣南地方全域が鎮定された。 乙丑の日、山南東道節度使・来瑱が入朝して謝罪すると、皇帝(代宗)は手厚く遇した。 己巳の日、郭子儀が河東から帰京した。当時程元振が権勢を握り、郭子儀の功績と地位を妬んで再三讒言していたため、子儀は不安を感じ副元帥・節度使職の解任を上奏し、皇帝に慰留された末に都に滞在することになった。 台州賊首領袁晁が浙東諸州を陥落させ「宝勝」と改元した(独立政権樹立)。重税に喘ぐ民衆が続々とこれに帰順する中、李光弼は衢州で討伐軍を送りこれを撃破した。 乙亥の日、魯王・李適を雍王へ移封した。 九月庚辰の日、来瑱を兵部尚書・同平章事兼山南東道節度使に任命した(宰相格での復権)。 乙未の日、程元振に驃騎大将軍兼内侍監の官職を与えた(宦官として異例の昇進)。 左僕射・裴冕が皇帝陵造営総監督となった際、意見が程元振と対立したため丙申の日に施州刺史へ左遷された。 解説
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| 上遣中使劉清潭使於回紇,修舊好,且徵兵討史朝義。清潭至其庭,回紇登裡可汗已為朝義所誘,云「唐室繼有大喪,今中原無主,可汗宜速來共收其府庫。」可汗信之。清潭致敕書曰:「先帝雖棄天下,今上繼統,乃昔日廣平王,與葉護共收兩京者也。」回紇業已起兵至三城,見州、縣皆為丘墟,有輕唐之志,乃困辱清潭。清潭遣使言狀,且曰:「回紇舉國十萬眾至矣!」京師大駭。上遣殿中監藥子昂往勞之於忻州南。初,毘伽闕可汗為登裡求婚,肅宗以僕固懷恩女妻之,為登裡可敦,可汗請與懷恩相見,懷恩時在汾州,上令往見之,懷恩為可汗言唐家恩信不可負,可汗悅,遣使上表,請助國討朝義。可汗欲自蒲關入,由沙苑出潼關東向,藥子昂說之曰:「關中數遭兵荒,州縣蕭條,無以供擬,恐可汗失望;賊兵盡在洛陽,請自土門略邢、洺、懷、衛而南,得其資財以充軍裝。」可汗不從;又請「自太行南下據河陰,扼賊咽喉」,亦不從;又請「自陝州大陽津渡河,食太原倉粟,與諸道俱進」,乃從之。 袁晁陷信州。 冬,十月,袁晁陷溫州、明州。 以雍王適為天下兵馬元帥。辛酉,辭行,以兼御史中丞藥子昂、魏琚為左、右廂兵馬使,以中書舍人韋少華為判官,給事中李進為行軍司馬,會諸道節度使及回紇於陝州,進討史朝義。上欲以郭子儀為適副,程元振、魚朝恩等沮之而止。 |
現代日本語訳皇帝(唐代宗)は中使・劉清潭を回紇へ派遣し、旧交を修復するとともに史朝義討伐の援軍を要請した。劉清潭が現地に到着すると、登里可汗はすでに史朝義の「唐王室では大喪(粛宗崩御)が続き中原に君主不在」との虚報を信じ、「共に倉庫を接収せよ」と誘われていた。劉清潭が詔書を示し「現皇帝こそ広平王として葉護可汗と両京回復した方だ」と説明しても、回紇軍は三城まで進駐して州県の廃墟を見て唐を侮り、彼を拘束・侮辱した。 劉清潭が使者で急報し「回紇十万の大軍が迫る」と伝えたため長安は震撼。皇帝は殿中監・薬子昂を忻州南へ派遣して慰労させる。経緯として、先代可汗(毘伽闕)への婚姻政策で粛宗が僕固懐恩の娘を嫁がせており、登里可汗は懐恩との面会を要求。汾州にいた懐恩が皇帝命令で応じ「唐王朝への信義を守れ」と説得すると可汗は承諾し、使者を遣わして史朝義討伐の協力を誓った。 しかし進軍ルートで対立: ※同時期反乱勢力・袁晁が信州・温州・明州を占領。 歴史的考察■外交情勢の緊迫性
■地政学的攻防
■権力構造の問題点
■後世への影響
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| 加朔方節度使僕固懷恩同平章事兼絳州刺史,領諸軍節度行營以副適。 上在東宮,以李輔國專橫,心甚不平,及嗣位,以輔國有殺張後之功,不欲顯誅之。壬戌夜,盜入其第,竊輔國之首及一臂而去。敕有司捕盜,遣中使存問其家,為刻木首葬之,仍贈太傅。 丙寅,上命僕固懷恩與母、妻俱詣行營。 雍王適至陝州,回紇可汗屯於河北,適與僚屬從數十騎往見之。可汗責適不拜舞,藥子昂對以禮不當然。回紇將軍車鼻曰:「唐天子與可汗約為兄弟,可汗於雍王,叔父也,何得不拜舞」子昂曰:「雍王,天子長子,今為元帥。安有中國儲君向外國可汗拜舞乎!」且兩宮在殯,不應舞蹈。」力爭久之,車鼻遂引子昂、魏琚、韋少華、李進各鞭一百,以適年少未諳事,遣歸營。琚、少華一夕而死。 戊辰,諸軍發陝州,僕固懷恩與回紇左殺為前鋒,陝西節度使郭英乂、神策觀軍容使魚朝恩為殿,自澠池入;潞澤節度使李抱玉自河陽入;河南等道副元帥李光弼自陳留入;雍王留陝州。辛未,懷恩等軍於同軌。 史朝義聞官軍將至,謀於諸將。阿史那承慶曰:「唐若獨與漢兵來,宜悉眾與戰;若與回紇俱來,其鋒不可當,宜退守河陽以避之。」朝義不從。壬申,官軍至洛陽北郊,分兵取懷州;癸酉,拔之。乙亥,官軍陳於橫水。賊眾數萬,立柵自固,懷恩陳於西原以當之。 |
現代日本語訳朔方節度使僕固懐恩を同平章事兼絳州刺史に任命し、諸軍節度行営の副司令として雍王李適(りてき)を補佐させた。 皇帝(代宗)は皇太子時代、李輔国の専横を快く思わなかったが、即位後も張皇后殺害の功績があるため公然と誅殺できずにいた。壬戌の夜、盗賊が李輔国邸に侵入し首級と片腕を持ち去った。役人に捜索を命じたものの、中使を使わして遺族を見舞わせ、木製の頭部を作らせて葬儀を行い、太傅を追贈した。 丙寅日、皇帝は僕固懐恩に母と妻子を従えて前線へ赴くよう命じた。 雍王李適が陝州に到着すると、回紇可汗は黄河北岸に駐屯していた。李適は数十騎の部下を連れて面会したところ、可汗は跪拝礼を行わぬことを責めた。薬子昂が「礼制上その必要はない」と反論すると、回紇将軍車鼻が「唐天子と可汗は兄弟の盟約を結んでおり雍王にとって叔父にあたる。なぜ跪拝しないのか」と迫った。これに対し子昂は「雍王は皇太子であり元帥である。中国の後継君主が外国の可汗に跪拝する道理があろうか。さらに先帝(粛宗)と太上皇(玄宗)の喪中でも舞踏は不適だ」と応酬した。長時間の議論の末、車鼻は子昂・魏琚・韋少華・李進らを百回鞭打ちに処し、若年の李適が事情を知らないとして帰営させた。魏琚と韋少華はその夜のうちに死亡した。 戊辰日、諸軍は陝州を出発。僕固懐恩と回紇左殺(将軍名)が先鋒となり、陝西節度使郭英乂・神策観軍容使魚朝恩が後衛を務め澠池から進軍。潞沢節度使李抱玉は河陽から、河南等道副元帥李光弼は陳留からそれぞれ侵攻した。雍王は陝州に残留。辛未日、懐恩らは同軌(地名)に布陣。 史朝義は官軍の接近を聞き諸将と協議。阿史那承慶が「唐軍単独なら全軍で迎撃すべきだが、回紇兵が同行している場合は撤退して河陽で防衛せよ」と進言したものの、朝義は容れなかった。壬申日、官軍が洛陽北郊に到達し一部を懐州攻略に向かわせた。癸酉日にこれを占領。乙亥日には横水(地名)に布陣。数万の賊軍が柵で防衛線を築く中、懐恩は西原に陣取り対峙した。 解説【歴史的背景】本節は唐代宗期「安史之乱」最終段階(762-763年)を描く。回紇軍との連携強化と内部権力闘争が交錯する中、雍王李適(後の徳宗)の初陣として外交的軋轢も記録されている。 【政治力学】
【外交問題】
【軍事展開】
【史料的特徴】『資治通鑑』らしい緊密な日程記載(壬戌・丙寅等干支表記)により、政変と軍事作戦の連動性を強調。特に「鞭打ち致死」事件は司馬光が回紇への批判的視点を含めて採用した可能性を示す。
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| 遣驍騎及回紇並南山出柵東北,表裡合擊,大破之。朝義悉其精兵十萬救之,陳於昭覺寺,官軍驟擊之,殺傷甚眾,而賊陳不動;魚朝恩遣射生五百人力戰,賊雖多死者,陳亦如初。鎮西節度使馬璘曰:「事急矣!」遂單騎奮擊,奪賊兩牌,突入萬眾中。賊左右披靡,大軍乘之而入,賊眾大敗;轉戰於石榴園、老君廟,賊又敗;人馬相蹂踐,填尚書谷,斬首六萬級,捕虜二萬人,朝義將輕騎數百東走。懷恩進克東京及河陽城,獲其中書令許叔冀、王胄等,制釋之。懷恩留回紇可汗營於河陽,使其子右廂兵馬使瑒及朔方兵馬使高輔成帥步騎萬餘乘勝逐朝義,至鄭州,再戰皆捷。朝義至汴州,其陳留節度使張獻誠閉門拒之;朝義奔濮州,獻誠開門出降。 回紇入東京,肆行殺略,死者萬計,火累旬不滅。朔方、神策軍亦以東京、鄭、汴、汝州皆為賊境,所過虜掠,三月乃已,比屋蕩盡,士民皆衣紙。回紇悉置所掠寶貨於河陽,留其將安恪守之。 十一月,丁丑,露布至京師。 朝義自濮州北渡河,懷恩進攻滑州,拔之,追敗朝義於衛州。朝義睢陽節度使田承嗣等將兵四萬餘人與朝義合,復來拒戰;僕固瑒擊破之,長驅至昌樂東。朝義帥魏州兵來戰,又敗走。於是鄴郡節度使薛嵩以相、衛、洺、邢四州降於陳鄭、澤潞節度使李抱玉,恆陽節度使張忠志以恆、趙、深、定、易五州降於河東節度使辛雲京。 |
現代日本語訳驍騎(精鋭騎兵)と回紇(ウイグル)軍を南山から柵の北東へ遣わし、内外から挟み撃ちにして大いに破った。史朝義は十万の精鋭全軍で救援に向かったが、昭覚寺に布陣したところを官軍が突撃し、甚だしい死傷者が出たにもかかわらず賊軍の陣形は崩れなかった。魚朝恩(宦官将軍)が射生軍五百人を派遣して激戦させると、賊軍は多数の死者を出したが、依然として陣形を維持していた。鎮西節度使・馬璘が「事態急なり!」と叫び、単騎で奮迅し敵の二つの盾牌を奪い取って万の軍勢に突入すると、賊兵は左右へなぎ倒され、官軍がこれに乗じて突撃。賊軍は大敗した。石榴園や老君廟でも転戦して再び破り、人馬が互いに踏み合い尚書谷を埋め尽くし、六万の首級を斬り捕虜二万人を得た。史朝義は数百騎を率いて東へ逃走した。 解説
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| 嵩,楚玉之子也。抱玉等已進軍入其營,按其部伍,嵩等皆受代;居無何,僕固懷恩皆令復位。由是抱玉、雲京疑懷恩有貳心,各表言之,朝廷密為之備;懷恩亦上疏自理,上慰勉之。辛巳,制:「東京及河南、北受偽官者,一切不問。」 己丑,以戶部侍郎劉晏兼河南道水陸轉運都使。 丁酉,以張忠志為成德軍節度使,統恆、趙、深、定、易五州,賜姓李,名寶臣。初,辛雲京引兵將出井陘,常山裨將王武俊說寶臣曰:「今河東兵精銳,出境遠鬥,不可敵也。且吾以寡當眾,以曲遇直,戰則必離,守則必潰,公其圖之。」寶臣乃撤守備,舉五州來降。及復為節度使,以武俊之策為善,擢為先鋒兵馬使。武俊,本契丹也,初名沿諾干。 郭子儀以僕固懷恩有平河朔功,請以副元帥讓之。己亥,以懷恩為河北副元帥,加左僕射兼中書令、單于、鎮北大都護、朔方節度使。 史朝義走至貝州,與其大將薛忠義等兩節度合,僕固瑒追之至臨清。朝義自衡水引兵三萬還攻之,瑒設伏擊走之。回紇又至,官軍益振,遂逐之;大戰於下博東南,賊大敗,積屍擁流而下,朝義奔莫州。懷恩都知兵馬使薛兼訓、兵馬使郝庭玉與田神功、辛雲京會於下博,進圍朝義於莫州,青淄節度使侯希逸繼至。 十二月,庚申,初以太祖配天地。 代宗睿文孝武皇帝上之上 肅宗文明武德大聖大宣孝皇帝下之下廣德元年(癸卯,公元七六三年) 春,正月,己卯,追謚吳太后曰章敬皇后。 |
嵩は楚玉の子である。抱玉らが進軍して彼らの陣営に入り部隊を点検すると、嵩ら全員が交代を受け入れた。しばらく後、僕固懐恩は皆に元の地位へ戻るよう命じた。これにより抱玉と雲京は懐恩に二心があるのではないかと疑い、それぞれ上奏して報告した。朝廷では密かに備えを整えたが、懐恩も自らを弁明する上疏を行い、皇帝は慰めて励ました。辛巳の日、詔勅が出された:「東京及び河南・河北で偽官職を受けた者は一切問わない」。 己丑の日、戸部侍郎劉晏を兼任として河南道水陸転運都使に任命した。 丁酉の日、張忠志を成徳軍節度使とし、恒州・趙州・深州・定州・易州の五州を統括させた。姓を李と賜り名を宝臣とした。当初、辛雲京が兵を率いて井陘から出ようとした時、常山副将王武俊が宝臣に進言した:「今、河東軍は精鋭で国境を越えて遠征しており敵う相手ではない。また我々は少数で多数に対し非正道で正道に当たるのだから、戦えば必ず離散し守れば必ず崩壊します。どうかご考慮あれ」。宝臣は守備を取りやめ五州を挙げて降伏した。節度使に復帰すると武俊の献策が良かったとして先鋒兵馬使に抜擢した。武俊は元々契丹人で、初名は沿諾干といった。 郭子儀は僕固懐恩に河朔平定の功績があることから副元帥職を譲るよう請願した。己亥の日、懐恩を河北副元帥に任命し左僕射・中書令兼任とし単于鎮北大都護・朔方節度使を加えた。 史朝義は貝州へ逃走し大将薛忠義ら二人の節度使と合流した。僕固瑒が追撃して臨清まで迫ると、朝義は衡水から兵三万を率いて反転攻撃したが、瑒は伏兵でこれを敗走させた。回紇軍が到着すると官軍はいっそう勢いづき下博東南で大戦となり賊軍は大敗した。積み重なった死体が川を塞ぎ流れ落ちる中、朝義は莫州へ奔った。懐恩配下の都知兵馬使薛兼訓・兵馬使郝庭玉が田神功・辛雲京と下博で合流し莫州に籠もる朝義を包囲すると、青淄節度使侯希逸も続いて到着した。 十二月庚申の日、初めて太祖(唐代創始者李淵)を天地祭祀に配祀する。 代宗睿文孝武皇帝 上之上 【注釈】 1. 固有名詞処理: - 「僕固懐恩」「王武俊」等の複合姓氏は原典表記を保持しルビなし - 契丹出身者「沿諾干(えんだくかん)」は初名を漢字音写で提示
※『資治通鑑』原文の簡潔文体を損なわず、軍事・行政用語は厳密に対訳。皇帝諡号や年月日表記等は原典構造を保持しつつ現代日本語で再構成。 ``` Translation took 1757.1 seconds. | |||||||||||||||
| 癸未,以國子祭酒劉晏為吏部尚書、同平章事,度支等使如故。 初,來瑱在襄陽,程元振有所請托,不從;及為相,元振譖瑱言涉不順。王仲升在賊中,以屈服得全,賊平得歸,與元振善,奏瑱與賊合謀,致仲升陷賊。壬寅,瑱坐削官爵,流播州,賜死於路。由是籓鎮皆切齒於元振。 史朝義屢出戰,皆敗,田承嗣說朝義,令親往幽州發兵,還救莫州,承嗣自請留守莫州。朝義從之,選精騎五千自北門犯圍而出。朝義既去,承嗣即以城降,送朝義母、妻、子於官軍。於是僕固瑒、侯希逸、薛兼訓等帥眾三萬追之,及于歸義,與戰,朝義敗走。 時朝義范陽節度使李懷仙已因中使駱奉仙請降,遣兵馬使李抱忠將兵三千鎮范陽縣,朝義至范陽,不得入。官軍將至,朝義遣人諭抱忠以大軍留莫州、輕騎來發兵救援之意,因責以君臣之義,抱忠對曰:「天不祚燕,唐室復興。今既歸唐矣,豈可更為反覆,獨不愧三軍邪!大丈夫恥以詭計相圖,願早擇去就以謀自全。且田承嗣必已叛矣,不然,官軍何以得至此!」朝義大懼,曰:「吾朝來未食,獨不能以一餐相餉乎!」抱忠乃令人設食於城東。於是范陽人在朝義麾下者,並拜辭而去,朝義涕泣而已,獨與胡騎數百既食而去。東奔廣陽,廣陽不受;欲北入奚、契丹,至溫泉柵,李懷仙兵追及之;朝義窮蹙,縊於林中,懷仙取其首以獻。 |
訳文癸未の日、国子祭酒であった劉晏を吏部尚書・同平章事に任命し、度支使などの職務は従来通り続けさせた。 初め、来瑱が襄陽にいた時、程元振が私的な依頼を持ちかけたが応じなかった。その後、来瑣が宰相になると、元振は「不敬な発言をした」と誹謗した。王仲升は賊軍の中で屈服して命をつなぎ、賊平定後に帰還すると元振と親しくなり、「来瑱は賊と内通していたため自分が捕らえられた」と上奏した。壬寅の日、来瑣は官爵を剥奪され播州へ流罪となり、途中で死を賜った。これにより諸藩鎮は元振に対して強い憎しみを抱いた。 史朝義はたびたび出戦するが全て敗れ、田承嗣は「自ら幽州に赴き兵を集め莫州救援に向かうべきだ」と進言した。承嗣自身は莫州留守を志願し、朝義はこれを受け入れた。五千の精鋭騎兵を選び北門から包囲突破させたが、朝義が去るとすぐに承嗣は降伏して城を明け渡し、朝義の母・妻・子を官軍へ引き渡した。 当時すでに范陽節度使李懐仙が中使駱奉仙を通じて降伏を申し出ており、兵馬使李抱忠に三千兵を与え范陽県を守備させていた。 解説
※現代語訳にあたり固有名詞(李懐仙→李怀仙)・役職名(同平章事=宰相格)等は原典表記を基本とし、文脈理解の妨げとなる漢字には適宜ルビを付与したが、ご指定により本文では割愛している。 Translation took 2020.8 seconds. | |||||||||||||||
| 僕固懷恩與諸軍皆還。 甲辰,朝義首至京師。 閏月,己酉夜,有回紇十五人犯含光門,突入鴻臚寺,門司不敢遏。 癸亥,以史朝義降將薛嵩為相、衛、邢、洺、貝、磁六州節度使,田承嗣為魏、博、德、滄、瀛五州都防禦使,李懷仙仍故地為幽州、盧龍節度使。時河北諸州皆已降,嵩等迎僕固懷恩,拜於馬首,乞行間自效;懷恩亦恐賊平寵衰,故奏留嵩等及李寶臣分帥河北,自為黨援。朝廷亦厭苦兵革,敬冀無事,因而授之。 回紇登裡可汗歸國,其部眾所過抄掠,廩給小不如意,輒殺人,無所忌憚。陳鄭、澤潞節度使李抱玉欲遣官屬置頓,人人辭憚,趙城尉馬燧獨請行。比回紇將至,燧先遣人賂其渠帥,約毋暴掠,帥遣之旗曰:「有犯令者,君處戮之。」燧取死囚為左右,小有違令,立斬之。回紇相顧失色,涉其境者皆拱手遵約束。抱玉奇之,燧因說抱玉曰:「燧與回紇言,頗得其情。僕固懷恩恃功驕蹇,其子瑒好勇而輕,今內樹四帥,外交回紇,必有窺河東、澤潞之志,宜深備之。」抱玉然之。初,長安人梁崇義以羽林射生從來瑱鎮襄陽,累遷右兵馬使。崇義有勇力,能卷鐵舒鉤,沉毅寡言,得眾心。瑱之入朝也,命諸將分戍諸州;瑱死,戍者皆奔歸襄陽。行軍司馬龐充將兵二千赴河南,至汝州,聞瑱死,引兵還襲襄州;左兵馬使李昭拒之,充奔房州。 |
現代日本語訳:僕固懐恩と諸軍は全て帰還した。 癸亥(きがい)の日、史朝義から投降した薛嵩を相州・衛州・邢州・洺州・貝州・磁州の六州節度使に任じ、田承嗣には魏州・博州・徳州・滄州・瀛州の五州都防禦使を与え、李懐仙は従前通り幽州・盧龍節度使とした。当時河北諸州は既に降伏しており、薛嵩らは僕固懐恩を出迎えて馬前にひれ伏し「軍務に参加させてほしい」と請願した。懐恩も賊平定後に自身の権勢が衰えることを恐れ、薛嵩らと李宝臣を河北に残留させるよう奏上し(自派閥の基盤とした)。朝廷も戦争疲弊で平和を渇望していたためこれを認めた。 回紇の登里可汗が帰国する際、配下は通過地で掠奪を行い、供給物資が些かでも不足すれば即座に殺害し、全く畏怖を示さなかった。陳鄭・沢潞節度使李抱玉が役人を派遣して宿営準備させようとしたところ、誰も引き受けず、趙城尉の馬燧のみ進んで志願した。回紇軍到着前に彼は指揮官へ賄賂を贈り「暴掠禁止」を約束させると、指揮官から旗を与えられ「違反者は貴殿が処刑せよ」と命じられた。馬燧は死囚を護衛に付け、些細な違反者も即座に斬首したため、回紇兵は顔色を失い、その地域では皆恭しく規律を守った。抱玉が驚嘆すると、彼は進言した:「懐恩は功績に驕り、息子の瑒は粗暴です。今や国内に四人の将軍を配し回紇と結託しているので、河東・沢潞への野心を持つでしょう」と。抱玉はこれを認めた。 当初、長安出身の梁崇義が近衛兵として来瑱について襄陽を守備し右兵馬使に昇進していた。彼は怪力で鉄鉤を曲げ伸ばしできたが沈着寡黙で人望があった。来瑱が朝廷へ召還された際、配下の将軍たちに諸州駐屯を命じていたが(来瑱死後)、守備兵らは全員襄陽へ逃亡帰還した。行軍司馬龐充が兵二千を率い河南に向かう途中、汝州で来瑱の死を知り急遽引き返して襄州を襲おうとしたが、左兵馬使李昭に阻まれて房州へ敗走した。 解説:
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| 崇義自鄧州引戍兵歸,與昭及副使薛南陽相讓為長,久之不決,眾皆曰:「兵非梁卿主之不可。」遂推崇義為帥。崇義尋昭及南陽,以其狀聞,上不能討。三月,甲辰,以崇義為襄州刺史、山南東道節度留後。崇義奏改葬瑱,為之立祠,不居瑱聽事及正堂。 辛酉,葬至道大聖大明孝皇帝於泰陵;廟號玄宗。庚午,葬文明武德大聖大宣孝皇帝於喬陵;廟號肅宗。 夏,四月,庚辰,李光弼奏擒袁晃,浙東皆平。時晁聚眾近二十萬,轉攻州縣,光弼使部將張伯儀將兵討平之。伯儀,魏州人也。 郭子儀數上言:「吐蕃、党項不可忽,宜早為之備。」辛丑,遣兼御史大夫李之芳等使於吐蕃,為虜所留,二年乃得歸。 群臣三上表請立太子;五月,癸卯,詔許俟秋成議之。 丁卯,制分河北諸州:以幽、莫、媯、檀、平、薊為幽州管;恆、定、趙、深、易為成德軍管;相、貝、邢、洺為相州管;魏、博、德為魏州管;滄、棣、冀、瀛為青淄管;懷、衛、河陽為澤潞管。 六月,癸酉,禮部侍郎華陰楊綰上疏,以為:「古之選士必取行實,近世專尚文辭。自隋煬帝始置進士科,猶試策而已;至高宗時,考功員外郎劉思立始奏進士加雜文,明經加帖,從此積弊,轉而成俗。朝之公卿以此待士,家之長老以此訓子,其明經則誦貼括以求僥倖。又,舉人皆令投牒自應,如此,欲其返淳樸,崇廉讓,何可得也!請令縣令察孝廉,取行著鄉閭、學知經術薦之於州。 |
現代日本語訳:梁崇義は鄧州から守備兵を率いて帰還し、昭(人名)および副使の薛南陽と互いに指揮権を譲り合い、長らく決着がつかなかった。すると兵士たち全員が「軍勢は梁卿(崇義)が統率するほかない」と言い出したため、崇義を総大将として推戴した。崇義はすぐに昭と南陽の行方を探し出して事態を朝廷へ報告したが、皇帝は討伐できなかった。三月甲辰の日、崇義を襄州刺史・山南東道節度留後に任命した。崇義は上奏して来瑱(らいてん)の改葬を行い、祠堂を建立するとともに、瑱が使用していた政務室や正堂には入居しなかった。 辛酉の日、至道大聖大明孝皇帝(玄宗)を泰陵に埋葬し、廟号を玄宗とした。庚午の日、文明武德大聖大宣孝皇帝(粛宗)を喬陵に埋葬し、廟号を粛宗とした。 夏四月庚辰の日、李光弼が袁晁(原文「晃」は誤記か)を捕らえたと報告し、浙東地方全域が平定された。当時晁は二十万近い勢力を集めて州県を転戦していたが、光弼が配下の将軍張伯儀に討伐させ鎮圧した。伯儀は魏州出身である。 郭子儀は繰り返し「吐蕃と党項を軽視すべきでなく、早急に対策を講じる必要がある」と上奏した。辛丑の日、兼御史大夫・李之芳らを吐蕃へ使者として派遣したが、敵に拘束され二年後にようやく帰国できた。 群臣が三度にわたり太子擁立を求める上表を行うと、五月癸卯の日、「秋の収穫後に対応する」との詔書で許可を与えた。 丁卯の日、河北諸州分割令を発布:幽・莫・媯・檀・平・薊は幽州管轄に、恒・定・趙・深・易は成徳軍管轄に、相・貝・邢・洺は相州管轄に、魏・博・德は魏州管轄に、滄・棣・冀・瀛は青淄管轄に、懐・衛・河陽は沢潞管轄とした。 六月癸酉の日、礼部侍郎で華陰出身の楊綰が上疏し「古代の人材登用では実績を重視したのに、近世は文辞(詩や文章)のみ尊ばれる。隋の煬帝が進士科を創設した当初は策問試験だけだったのが、高宗時代に考功員外郎・劉思立が進士科へ雑文(詩賦)、明経科へ帖試(暗記試験)を追加して以来、弊害が積もり風習となった。朝廷高官はこれで人材を評価し、家族は子弟教育に励むため、明経受験者は貼括(対策本の丸暗記)で合格を狙う。さらに挙人は全て自願出願制とした結果、純朴な気風や謙譲精神の回復など到底不可能だ」と指摘。「県令に孝廉者を選抜させ、郷里での実績が顕著で経学知識を持つ者を州へ推薦させる制度復活を提案する」と結んだ。 解説:
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| 剌史考試,升之於省。任各佔一經,朝廷擇儒學之士,問經義二十條,對策三道,上第即注官,中第得出身,下第罷歸。又,道舉亦非理國所資,望與明經、進士並停。」上命諸司通議,給事中李棲筠、左丞賈至、京兆尹嚴武並與綰同。至議以為:「今試學者以帖字為精通,考文者以聲病為是非,風流頹弊,誠當厘改。然自東晉以來,人多僑寓,士居鄉土,百無一二;請兼廣學校,保桑梓者鄉里舉焉,在流寓者癢序推焉。」敕禮部具條目以聞。綰又請置五經秀才科。 庚寅,以魏博都防禦使田承嗣為節度使。承嗣舉管內戶口,壯者皆籍為兵,惟使老弱耕稼,數年間有眾十萬;又選其驍健者萬人自衛,謂之牙兵。同華節度使李懷讓為程元振所譖,恐懼,自殺。 |
現代日本語訳:刺史の試験は、省で行われるものに昇格させた。それぞれ一経を担当し、朝廷が儒学に通じる者を選び、経義について二十条を問い、対策三道を出題する。上第なら即座に官職を与え、中第なら官吏となる資格を得られ、下第は罷免されて帰郷させる。」また、「道挙も国家の治理に役立つものではなく、明経科や進士科と共に廃止すべきである」とも述べた。皇帝は各官庁に意見を求めたところ、給事中の李棲筠・左丞の賈至・京兆尹の厳武がこぞって楊綰(ようわん)と同じ意見であった。 賈至の建議では「現在、学者を試験する際には文字の暗記力を精通と見なし、文章を考査する時は声調の誤りで可否を決める。学問の風潮は衰退しており、確かに改革すべきである。しかし東晋以来、人々が他郷に移住することが多く、故郷に居住する士人は百人中一二人しかいない。学校を広く設置し、故郷(桑梓)で暮らす者は郷里で推挙させ、移住先の者には官立学校から推薦させるべきだ」と述べた。 皇帝は礼部に詳細な条項を作成して報告するよう命じた。楊綰はさらに五経秀才科を設置するよう請願した。 庚寅(こういん)の日、魏博都防禦使の田承嗣(でんしょうせい)を節度使とした。承嗣は管轄区域内の戸籍人口を調査し、壮年者は全て兵士として登録させたため、耕作に従事するのは老弱者だけとなり、数年で十万もの兵力を得た。さらにその中から精鋭一万人を選んで親衛隊とし、「牙兵(がへい)」と呼んだ。 同華節度使の李懐譲(りかいじょう)は程元振(ていげんしん)に讒言され、恐れおののいて自害した。 解説:
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| input text 資治通鑑\223_唐紀_39.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百二十三 唐紀三十九 起昭陽單瘀七月,盡旃蒙大荒落十月,凡二年有奇。 代宗睿文孝武皇帝上之下廣德元年(癸卯,公元七六三年) 秋,七月,壬寅,群臣上尊號曰寶應元聖文武孝皇帝。壬子,赦天下,改元。諸將討史朝義者進官階、加爵邑有差。冊回紇可汗為頡咄登蜜施合俱錄英義建功毘伽可汗,可敦為娑墨光親麗華毘伽可敦;左、右殺以下,皆加封賞。 戊辰,楊綰上貢舉條目:秀才問經義二十條,對策五道;國子監舉人,令博士薦於祭酒,祭酒試通者升之於省,如鄉貢法。明法,委刑部考試。或以為明經、進士,行之已久,不可遽改。事雖不行。識者是之。 以僕固瑒為朔方行營節度使。 吐蕃入大震關,陷蘭、廓、河、鄯、洮、岷、秦、成、渭等州,盡取河西、隴右之地。唐自武德以來,開拓邊境,地連西域,皆置都督、府、州、縣。開元中,置朔方、隴右、河西、安西、北庭諸節度使以統之,歲發山東丁壯為戍卒,繒帛為軍資,開屯田,供糗糧,設監牧,畜馬牛,軍城戍邏,萬里相望。及安祿山反,邊兵精銳者皆征發入援,謂之行營,所留兵單弱,胡虜稍蠶食之;數年間,西北數十州相繼淪沒,自鳳翔以西,邠州以北,皆為左衽矣。 初,僕固懷恩受詔與回紇可汗相見於太原;河東節度使辛雲京以可汗乃懷恩婿,恐其合謀襲軍府,閉城自守,亦不犒師。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百二十三 唐紀三十九 代宗睿文孝武皇帝・広徳元年(癸卯、763年) 戊辰に楊綰が科挙改革案を上奏:秀才科では経典解釈20問と政策論述5題を出題し、国子監推薦者は博士から祭酒へ推挙させた後、祭酒の試験合格者のみ尚書省で最終審査を受ける(郷貢法と同じ方式)。明法科は刑部が直接試験を実施する。しかし「従来の明経・進士科を急に変更すべきではない」との反論があり、採用されなかったものの、有識者はこの案を高く評価した。 僕固瑒を朔方行営節度使に任命。 吐蕃軍が大震関を突破し蘭州・廓州・河州・鄯州・洮州・岷州・秦州・成州・渭州など次々と陥落させ、河西回廊から隴右地方まで完全制圧した。唐は武徳年間(618年)以降、西域に至る広大な辺境地域に都督府や州県を設置し、開元期には朔方・隴右・河西・安西・北庭の各節度使が統括していた。毎年山東地方から徴兵した若者を防人とし、絹織物で軍資金を賄い、屯田による食糧生産や牧監での牛馬繁殖を行い、万里に及ぶ軍事拠点網を維持してきた。しかし安禄山の乱後、精鋭部隊は「行営」として内地へ転出され、残留兵力が手薄となった隙に異民族が蚕食。数年で西北数十州が失われ、鳳翔以西・邠州以北では全て漢族以外の風俗(左衽)が支配する事態となった。 背景補足: 解説
※訳注:固有名詞は原音尊重(例:「回紇」→ウイグル)ではなく漢字表記を維持し、ルビなしで処理。地理名称には現代の省境考慮(河西=甘粛省西部等)。 Translation took 1590.1 seconds. |
| 及史朝義既平,詔懷恩送可汗出塞,往來過太原,雲京亦閉城不與相聞。懷恩怒,具表其狀,不報。懷恩將朔方兵數萬屯汾州,使其子御史大夫瑒將萬人屯榆次,裨將李光逸等屯祈縣,李懷光等屯晉州,張維岳等屯沁州。懷光,本勃海靺鞨也,姓茹,為朔方將,以功賜姓。 中使駱奉仙至太原,雲京厚結之,為言懷恩與回紇連謀,反狀已露。奉仙還,過懷恩,懷恩與飲於母前,母數讓奉仙曰:「汝與吾兒約為兄弟,今又親雲京,何兩面也!」酒酣,懷恩起舞,奉仙贈以纏頭彩。懷恩欲酬之,曰:「來日端午,當更樂飲一日。」奉仙固請行,懷恩匿其馬,奉仙謂左右曰:「朝來責我,又匿我馬,將殺我也。」夜,逾垣而走;懷恩驚,遽以其馬追還之。八月,癸未,奉仙至長安,奏懷恩謀反;懷恩亦具奏其狀,請誅雲京、奉仙;上兩無所問,優詔和解之。 懷恩自以兵興以來,所在力戰,一門死王事者四十六人,女嫁絕域,說諭回紇,再收兩京,平定河南、北,功無與比,而為人構陷,憤怨殊深,上書自訟,以為:「臣昨奉詔送可汗歸國,傾竭家資,俾之上道。行至山北,雲京、奉仙閉城不出祗迎,仍令潛行竊盜。回紇怨怒,亟欲縱兵,臣力為彌縫,方得出塞。雲京、奉仙恐臣先有奏論,遂復妄稱設備,與李抱玉共相組織。臣靜而思之,其罪有六:昔同羅叛亂,臣為先帝掃清河曲,一也;臣男玢為同羅所虜,得間亡歸,臣斬之以令眾士,二也;臣有二女,遠嫁外夷,為國和親,蕩平寇敵,三也;臣與男瑒不顧死亡,為國效命,四也;河北新附,節度使皆握強兵,臣撫綏以安反側,五也;臣說諭回紇,使赴急難,天下既平,送之歸國,六也。 |
現代日本語訳史朝義(しちょうぎ)が平定された後、朝廷は郭子儀(かくしぎ)に命じて回紇可汗(かいきつかがん)を塞外へ送還させた。その途上で太原を通り過ぎる際、辛雲京(しんうんけい)は城門を固く閉ざして連絡さえ拒否した。激怒した郭子儀は詳細な報告書を朝廷に提出したが、何の返答もなかった。 解説歴史的意義: 人物関係の力学: 資治通鑑の叙述特徴: 伏線としての展開:
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| 臣既負六罪,誠合萬誅,惟當吞恨九泉,銜冤千古,復何訴哉!臣受恩至重,夙夜思奉天顏,但以來瑱受誅,朝廷不示其罪,諸道節度,誰不疑懼!近聞詔追數人,盡皆不至,實畏中官讒口,虛受陛下誅夷;豈惟群臣不忠,正為回邪在側。且臣前後所奏駱奉仙,詞情非不摭實,陛下竟無處置,寵任彌深;皆由同類比周,蒙蔽聖聽。竊聞四方遣人奏事,陛下皆雲與驃騎議之,曾不委宰相可否,或稽留數月不還,遠近益加疑阻。如臣朔方將士,功效最高,為先帝中興主人,乃陛下蒙塵故吏,曾不別加優獎,反信讒嫉之詞。子儀先已被猜,臣今又遭詆毀,弓藏鳥盡,信匪虛言。陛下信其矯誣,何殊指鹿為馬!倘不納愚懇,且貴因循,臣實不敢保家,陛下豈能安國!忠言利行,惟陛下圖之。臣欲公然入朝,恐將士留沮。今托巡晉、絳,於彼遷延,乞陛下特遣一介至絳州問臣,臣即與之同發。」 九月,壬戌,上遣裴遵慶詣懷恩諭旨,且察其去就。懷恩見遵慶,抱其足號泣拆冤。遵慶為言聖恩優厚,諷令入朝,懷恩許諾。副將范志誠以為不可,曰:「公信其甘言,入則為來瑱,不復還矣!」明日,懷恩見遵慶,以懼死為辭,請令一子入朝,志誠又以為不可,遵慶乃還。御史大夫王翊使回紇還,懷恩先與可汗往來,恐翊洩其事,遂留之。 吐蕃之初入寇也,邊將告急,程元振皆不以聞。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)私はすでに六つの罪を背負っており、確かに万死に値します。ただ九泉の下で悔恨を飲み込みながら千古の冤罪を抱えるほかなく、また何を訴えられましょうか! 陛下からのご恩は極めて重く、日夜お顔を拝しお仕えしたいと念願しておりますが、来瑱(らいちん)が誅殺された後、朝廷はその罪状を示さなかったため、諸道の節度使たちは誰も疑懼を抱かずにはいられません。近ごろ詔によって数名が召喚されましたが、全員が参上せず、実際に宦官らの讒言を恐れ、虚しく陛下の誅伐を受けることを懸念しているのです。これは単に臣下たちが不忠というだけでなく、奸邪な者たちが側近にいるためです。 また私が前後して奏上した駱奉仙(らくほうせん)に関する件は、訴えの内容が事実無根ではなくても、陛下はついに処分されず、かえって寵愛を深められました。これは同類どもが結託し、聖聴を蔽っているからです。密かに聞けば、四方から使者が上奏に来ても、陛下は常に「驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)と議論せよ」と言われ、宰相の可否を全く委ねず、あるいは数か月も滞留させて帰さないため、遠近の者はますます疑念を強め隔絶しています。例えば私が率いる朔方(さくほう)の将士は功績最も高く、先帝の中興を支えた主体でありながら、陛下が蒙塵(もうじん:都落ち)された際には従った旧臣であるにもかかわらず、格別な恩賞も与えられず、逆に讒言や嫉妬の言葉ばかり信じられる。子儀(郭子儀)は先に疑念をかけられておりますが、今また私が誹謗されるとは――「弓蔵れ鳥尽きる」という諺は真実でした。陛下が彼らの偽りをご信用になるのは、「鹿を指して馬と為す」故事と何ら変わりありません! もしもこの愚かな忠言を受け入れず、従来通り宦官に任せ続けるならば、私は自邸の安泰さえ保証できず、ましてや陛下はどうして国をお守りになれましょうか! 忠言こそが国家を利するもの。どうかご賢察ください。 公然と参朝しようと思いましたが、将兵に引き止められる恐れがあります。今晋州・絳州の巡察を名目として当地で待機し、陛下から一名の使者を特に絳州へ派遣して私にお問い合わせいただきたく。そうすれば直ちに同行して参上します。 【九月壬戌】皇帝は裴遵慶(はいじゅんけい)を使者として懐恩のもとへ遣わし、真意を伝えさせるとともに去就を探らせた。懐恩が遵慶を見るや、その足に抱きついて号泣しながら冤罪を訴えた。遵慶は皇帝の厚情を説き、入朝するよう促したため、懐恩は承諾した。しかし副将・范志誠(はんしせい)は反対し、「彼らの甘言を信じて参内すれば来瑱のように二度と戻れません」と言上した。 翌日、懐恩が遵慶に会うと「死を恐れて」と称して代わりに息子の一人を行かせるよう請願した。志誠はまた反対し、結局遵慶は帰還した。御史大夫・王翊(おうよく)が回紇からの帰途についた際、懐恩は以前から可汗と内通していたため情報漏洩を恐れ、彼を拘束した。 吐蕃の侵攻初期に辺境将軍が急報しても、程元振(ていげんしん)はいずれも皇帝には奏上していなかった。 解説
(訳注:原文は駢文体だが、現代日本語では論理展開を明確にしつつ情緒的表現を適宜保留。固有名詞は「郭子儀」「回紇」等ルビなし表記を厳守) Translation took 1081.1 seconds. |
| 冬,十月,吐蕃寇涇州,刺史高暉以城降之,遂為之鄉導,引吐蕃深入;過邠州,上始聞之。辛未,寇奉天、武功,京師震駭。詔以雍王適為關內元帥,郭子儀為副元帥,出鎮咸陽以御之。 子儀閒廢日久,部曲離散,至是召募,得二十騎而行,至咸陽,吐蕃帥吐谷渾、党項、氐、羌二十餘萬眾,瀰漫數十里,已自司竹園渡渭,循山而東。子儀使判官中書舍人王延昌入奏,請益兵,程元振遏之,竟不召見。癸酉,渭北行營兵馬使呂月將將精卒二千,破吐蕃於盩厔之西。乙亥,吐蕃寇盩厔,月將復與力戰,兵盡,為虜所擒。 上方治兵,而吐蕃已度便橋,倉猝不知所為。丙子,出幸陝州,官吏藏竄,六軍逃散。郭子儀聞之,遽自咸陽歸長安,比至,車駕已去。上才出苑門,渡滻水,射生將王獻忠擁四百騎叛還長安,脅豐王珙等十王西迎吐蕃。遇子儀於開遠門內,子儀叱之,獻忠下馬,謂子儀曰:「今主上東遷,社稷無主,令公身為元帥,廢立在一言耳。」子儀未應。珙越次言曰:「公何不言!」子儀責讓之,以兵援送行在。丁丑,車駕至華州,官吏奔散,無復供擬,扈從將士不免凍餒。會觀軍容使魚朝恩將神策軍自陝來迎,上乃幸朝恩營。豐王珙見上於潼關,上不之責,退至幕中,有不遜語;群臣奏請誅之,乃賜死。 戊寅,吐蕃入長安,高暉與吐蕃大將馬重英等立故邠王守禮之孫廣武王承宏為帝,改元,置百官,以前翰林學士於可封等為相。 |
現代日本語訳冬十月、吐蕃が涇州に侵攻した。刺史の高暉は城を明け渡し降伏すると、そのまま案内役となり、吐蕃軍を深く国内へ導いた。彼らが邠州を通り過ぎた時、ようやく皇帝(唐代宗)はこの報せを受けた。辛未の日、吐蕃軍は奉天・武功を攻撃し、都長安は震撼した。詔により雍王適を関内元帥に、郭子儀を副元帥と任命し、咸陽に出向させ防衛にあたらせた。 郭子儀は長期にわたり閑職にあったため、配下の兵士は離散しており、この時急ぎ募兵したが得られたのは二十騎のみであった。咸陽に到着すると、吐蕃軍の将帥である吐谷渾・党項・氐・羌らの混成部隊二十万余りが数十里にもわたって展開し、すでに司竹園から渭水を渡り、山沿いに東進していた。郭子儀は判官中書舎人王延昌を朝廷へ派遣し援軍要請の上奏を行わせたが、宦官程元振がこれを阻み、皇帝との謁見は果たせなかった。癸酉の日、渭北行営兵馬使呂月将が精鋭二千を率い盩厔の西で吐蕃軍を破った。乙亥の日、再び盩厔に侵攻した吐蕃軍と激戦し、兵力が尽きた呂月将は捕らえられた。 皇帝が軍備を整えている間に、吐蕃軍はすでに便橋を渡り、朝廷は慌てふためき対応に窮した。丙子の日、皇帝は陝州へ避難した。官吏たちは逃亡し、六軍(禁衛軍)も潰走した。郭子儀はこの報せを受けると咸陽から急ぎ長安へ戻ったが、到着時には皇帝の車駕(行列)はすでに出発後だった。皇帝が宮苑の門を出て滻水を渡ろうとした時、射生将王献忠が四百騎を率いて反乱し豊王珙ら十人の王族を脅迫し「吐蕃を西から迎え撃つ」と偽って長安へ戻った。開遠門内で郭子儀と遭遇すると、彼は献忠を叱責した。献忠は下馬して言上した。「今や皇帝は東遷され、社稷に主なし。令公(郭子儀)こそ元帥であり、廃立は一言のもとに決せられます」。郭子儀が返答しないと、豊王珙が秩序を乱し「なぜ答えぬ!」と叫んだ。郭子儀はこれを責め、兵で護送して行在所へ向かわせた。丁丑の日、皇帝の車駕が華州に到着すると官吏は逃亡し食糧供給も途絶え、供奉将士らは飢餓と寒さに苦しんだ。そこに観軍容使魚朝恩が神策軍を率いて陝州から迎えに来たため、皇帝はその陣営に入った。豊王珙が潼関で拝謁したが、皇帝は咎めず退出後、彼が幕舎内で不敬な発言をしたため群臣の奏上により賜死された。 戊寅の日、吐蕃軍が長安に侵入した。高暉と吐蕃大将馬重英らは故邠王守礼の孫・広武王承宏を皇帝として擁立し元号を改め百官を設置。前翰林学士於可封らを宰相とした。 注釈
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| 吐蕃剽掠府庫市裡,焚閭捨,長安中蕭然一空。苗晉卿病臥家,遣人輿入,迫脅之,晉卿閉口不言,虜不敢殺。於是六軍散者所在剽掠,士民避亂,皆入山谷。 辛巳,上至陝,百官稍有至者。郭子儀引三十騎自御宿川循山而東,謂王延昌曰:「六軍將士逃潰者多在商州,今速往收之,並發武關防兵,數日間,北出藍田以向長安,吐蕃必遁。」過藍田,遇元帥都虞候臧希讓、鳳翔節度使高昇,得兵近千人。子儀與延昌謀曰:「潰兵至商州,官吏必逃匿而人亂。」使延昌自直徑入商州撫諭之。諸將方縱兵暴掠,聞子儀至,皆大喜聽命。子儀恐吐蕃逼乘輿,留軍七盤,三日乃行,比至商州,行收兵,並武關防兵合四千人,軍勢稍振。子儀乃泣諭將士以共雪國恥,取長安,皆感激受約束。子儀請太子賓客第五琦為糧料使,給軍食。上賜子儀詔,恐吐蕃東出潼關,征子儀詣行在。子儀表稱:「臣不收京城無以見陛下,若出兵藍田,虜必不敢東向。」上許之。鄜坊節度判官段秀實說節度使白孝德引兵赴難,孝德即日大舉,南趣京畿,與蒲、陝、商、華合勢進擊。 吐蕃既立廣武王承宏,欲掠城中士、女、百工,整眾歸國。子儀使左羽林大將軍長孫全緒將二百騎出藍田觀虜勢,令第五琦攝京兆尹,與之偕行,又令寶應軍使張知節將兵繼之。全緒至韓公堆,晝則擊鼓張旗幟,夜則多燃火,以疑吐蕃。 |
現代日本語訳吐蕃軍が長安の官庫や市場街を略奪し、民家に放火したため、都は荒れ果てた状態となった。苗晋卿(びょう・しんけい)は病床で寝込んでいたところを担ぎ出され脅迫されたが沈黙を通し、賊も手出しできなかった。この混乱の中、唐軍の離散兵たちは各地で略奪を働き、民衆は山間部へ避難した。 辛巳(12日)、粛宗皇帝が陝州に到着すると、ようやく官僚らも集まり始めた。郭子儀(かく・しぎ)は三十騎を率いて御宿川沿いの山地を東進しながら王延昌(おう・えんしょう)に語った:「離脱した兵士たちは商州にいるはずだ。急いで収容せよ。武関守備隊と合流すれば数日で藍田から長安奪還が可能だろう」。藍田付近で元帥都虞候の臧希譲(ぞう・きじょう)や鳳翔節度使高昇(こう・しょう)と遭遇し、千人規模の兵力を得た。子儀は「商州では役人逃亡による混乱が起きている」と懸念し延昌を先行させて鎮撫に向かわせる。略奪に狂奔していた将兵らは郭子儀到着を知り喜んで指揮を受け入れた。 吐蕃軍の皇帝追撃を警戒した子儀は七盤で三日間留まり、商州到達時には武関守備隊を含め四千余りの兵力を集結させた。「国の恥を雪ごう」と涙ながらに訴える演説に将兵らも奮起。第五琦(だいご・き)が食糧調達役として登用される中、粛宗から潼関防衛命令を受けた子儀は「長安奪還こそ急務」と主張し出兵を認められた。 一方で鄜坊節度使の白孝徳(はく・こうとく)も段秀実(だん・しゅうじつ)の進言を受け大軍を率いて京畿へ南下。蒲州・陝州・商州・華州の各軍と連携態勢を整えた。 吐蕃側では擁立した傀儡皇帝李承宏(り・しょうこう)のもと、技術者や女性ら捕虜確保が進められていた。郭子儀は長孫全緒(ちょうそん・ぜんしょ)に二百騎を与え偵察を命令。第五琦を京兆尹代理として同行させた後、張知節(ちょう・ちせつ)率いる宝応軍も続かせる。韓公堆(かんこうたい)では昼夜を通じて旗幟や篝火を用い大軍偽装の心理戦を展開した。 解説
※注記: Translation took 1548.4 seconds. |
| 前光祿卿殷仲卿聚眾近千人,保藍田,與全緒相表裡,帥二百餘騎直度滻水。吐蕃懼,百姓又紿之曰:「郭令公自商州將大軍不知其數至矣!」虜以為然,稍稍引軍去。全緒又使射生將王甫入城陰結少年數百,夜擊鼓大呼於朱雀街,吐蕃惶駭,庚寅,悉眾遁去。高暉聞之,帥麾下三百餘騎東走,至潼關,守將李日越擒而殺之。 壬辰,詔以元載判元帥行軍司馬,以第五琦為京兆尹。癸巳,以郭子儀為西京留守。甲午,子儀發商州。巳亥,以魚朝恩部將皇甫溫為陝州刺史,周智光為華州刺史。 驃騎大將軍、判元帥行軍司馬程元振專權自恣,人畏之甚於李輔國。諸將有大功者,元振皆忌疾欲害之。吐蕃入寇,元振不以時奏,致上狼狽出幸。上發詔征諸道兵,李光弼等皆忌元振居中,莫有至者,中外鹹切齒而莫敢發言。太常博士柳伉上疏,以為:「犬戎犯關度隴,不血刃而入京師,劫宮闈,焚陵寢,武士無一人力戰者,此將帥叛陛下也。陛下疏元功,委近習,日引月長,以成大禍,群臣在廷,無一人犯顏回慮者,此公卿叛陛下也。陛下始出都,百姓填然,奪府庫,相殺戮,此三輔叛陛下也。自十月朔召諸道兵,盡四十日,無只輪入關,此四方叛陛下也。內外離叛,陛下以今日之勢為安邪,危邪?若以為危,豈得高枕,不為天下討罪人乎!臣聞良醫療疾,當病飲藥,藥不當病,猶無益也。 |
現代日本語訳前光禄卿の殷仲卿は千人近い兵を集め、藍田で防衛線を築き、全緒と連携して行動した。彼らは二百余騎を率いて滻水を一気に渡河すると、吐蕃軍は恐怖に駆られた。さらに民衆が「郭令公(郭子儀)が商州から大軍を率いて到着するぞ!」と囁き続けたため、敵兵もこれを真実だと信じ込み、次第に撤退を始めた。 全緒の配下である射生将・王甫は長安城内へ潜入し、数百人の若者たちと密かに連絡を取り合った。彼らが朱雀街で夜中に太鼓を叩きながら鬨の声をあげると、吐蕃軍は恐慌状態に陥り、庚寅(11月15日)には全軍が逃走した。 高暉はこの情報を得るや三百余騎を率いて東方へ逃亡したが、潼関で守将・李日越に捕らえられ処刑された。 壬辰(11月17日)、朝廷は元載を元帥行軍司馬代理に任命し、第五琦を京兆尹とした。癸巳(18日)には郭子儀を西京留守に任じた。 甲午(19日)、郭子儀が商州から進発すると、己亥(24日)になって魚朝恩の部将・皇甫温を陝州刺史に、周智光を華州刺史とした。 驃騎大將軍兼元帥行軍司馬代理の程元振は権力を独占し傍若無人な行動を取り、人々から李輔国以上に恐れられていた。功績が大きい将軍たちに対してはことごとく嫉妬心を燃やし、陥れようとした。 吐蕃侵攻時には事態をすぐに皇帝へ報告せず、代宗帝は慌てふためいて長安脱出を余儀なくされたのである。諸道の兵士召集命令が下った後も、李光弼ら実力将軍たちは中央で権勢を振るう程元振を警戒し、誰一人として救援に駆けつけなかった。 朝廷内外では彼への憎悪が渦巻いていたが、声をあげる者はいない。その中で太常博士・柳伉だけが決然と上奏した: 「吐蕃軍が隴山を越えて攻め込んだ時、剣に血塗れることもなく長安は陥落し、宮廷は略奪され皇陵は焼き払われました。しかし武士の誰一人として戦わなかった──これは将帥たちによる陛下への反逆です」 「功績ある者を遠ざけ側近ばかり重用した結果、禍根が積もって大災害となったのに、廷臣でこれを諫める者がいないのは公卿の反逆です」 「陛下が長安脱出された時、民衆は暴徒化して倉庫を奪い合い殺戮しあいました。これは三輔(京畿)地域の反逆です」 「10月1日に諸道へ援軍要請したのに40日経っても一兵も入関せず──これが四方の藩鎮による反逆です」 「内外すべてに背かれた今、陛下はこの状況を安全だとお考えでしょうか?もし危険と認めるなら高枕などできまい。天下のために罪人(程元振)を討伐すべきではないですか!」 「良医は病状に応じて薬を与えるものです。病に見合わぬ処方では何の効果もありません」 解説
(訳注:固有名詞は原則として原文表記を保持し、読解補助のために()内に説明を付加) Translation took 941.6 seconds. |
| 陛下視令日之病,何繇至此乎?必欲存宗廟社稷,獨斬元振首,馳告天下,悉出內使隸諸州,持神策兵付大臣,然後削尊號,下詔引咎,曰:『天下其許朕自新改過,宜即募士西赴朝廷;若以朕惡未悛,則帝王大器,敢妨聖賢,其聽天下所往。』如此,而兵不至,人不感,天下不服,臣請闔門寸斬以謝陛下。」上以元振嘗有保護功,十一月,辛丑,削元振官爵,放歸田裡。 王甫自稱京兆尹,聚眾二千餘人,署置官屬,暴橫長安中。壬寅,郭子儀至滻水西,甫按兵不出。或謂子儀,城不可入。子儀不聽,引三十騎徐進,使人傳呼召甫;甫失據,出迎拜伏,子儀斬之,其兵盡散。白孝德與邠寧節度使張蘊琦將兵屯畿縣,子儀召之入城,京畿遂安。 宦官廣州市舶使呂太一發兵作亂,節度使張休棄城奔端州。太一縱兵焚掠,官軍討平之。 吐蕃還至鳳翔,節度使孫志直閉城拒守,吐蕃圍之數日。鎮西節度使馬璘聞車駕幸陝,將精騎千餘自河西入赴難;轉斗至鳳翔,值吐蕃圍城,璘帥眾持滿外向,突入城中,不解甲,背城出戰,單騎先士卒奮擊,俘斬千計而歸。明日,虜復逼城請戰,璘開懸門以待之。虜引退,曰:「此將軍不惜死,宜避之。」遂去,居於原、會、成、渭之地。 十二月,丁亥,車駕發陝州。左丞顏真卿請上先謁陵廟,然後還宮,元載不從,真卿怒曰:「朝廷豈堪相公再壞邪!」載由是銜之。 |
現代日本語訳:陛下は今日の国難がなぜここまで深刻化したかお考えでしょうか?宗廟と国家を守るには、程元振の首をただちに斬りその旨を天下に知らせ、すべての宦官を諸州へ配属替えし、神策軍の指揮権を大臣たちに委ねた上で、ご自身は尊号を返上して詔書で過ちを認めるべきです。『朕が改心することを許すなら兵士を募って朝廷支援に向かわせよ。もし朕の過ちが悔い改められないというならば、帝王の地位に固執せず聖賢(有徳者)へ譲るので天下は望むところに従え』と宣言されよ。これでも兵が集まらず人々が心服しないなら、臣は一族もろとも処刑されてお詫びいたします」。皇帝(代宗)は程元振の過去の功績を考慮し、11月辛丑の日、官爵剥奪の上で郷里へ追放した。 王甫が京兆尹を自称して二千余りの兵を集め、勝手に官吏を任命し長安市内で暴虐を働いていた。壬寅の日、郭子儀が滻水西岸に到着すると、王甫は動こうとしない。配下が「都入りすべきではない」と進言したが、郭子儀は聞かず三十騎を率いてゆっくり前進し、使者で王甫を呼び出させた。王甫は対応を失い出迎えて平伏すると、郭子儀はこれを斬ったため配下の兵は全員逃亡した。白孝徳と邠寧節度使張蘊琦が畿県に駐屯していたが、郭子儀が招き入れたため都周辺は安定した。 宦官で広州市舶使だった呂太一が反乱を起こすと、節度使張休は城を捨て端州へ逃亡。呂太一は略奪放火を許したが官軍に鎮圧された。 吐蕃軍が鳳翔まで戻ると、節度使孫志直は門を閉じて防戦し数日間包囲された。鎮西節度使馬璘は皇帝の陝州行幸を知り、精鋭千騎余りを率いて河西から救援に駆けつけた。鳳翔で吐蕃軍と遭遇すると、兵士に弓を引き絞らせて突撃し城内へ突破。甲冑も脱がず背を城壁に向けて決死の出撃を行い、自ら先頭で奮戦して千人単位の敵を討ち取った。翌日、吐蕃軍が再び挑んできたため馬璘は跳ね上げ門を開けて待機すると、敵兵は「この将軍は命知らずだ、退くべきだ」と撤退し原州・会州・成州・渭州の地に駐屯した。 12月丁亥の日、皇帝が陝州から出発する際、左丞顔真卿が「まず先帝陵廟へ参拝すべきです」と進言すると、宰相元載は聞き入れなかった。顔真卿は激怒し「朝廷を再び破壊されても構わないというのか!」と言い放ち、これにより元載は深く恨みを持った。 解説:
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| 甲午,上至長安,郭子儀帥城中百官及諸軍迎於滬水東,伏地待罪。上勞之曰:「用卿不早,故及於此。」 以魚朝恩為天下觀軍容宣慰處置使,總禁兵,權寵無比,築城於鄠縣及中渭橋,屯兵以備吐蕃,以駱奉仙為鄠縣築城使,遂將其兵。 乙未,以苗晉卿為太保,裴遵慶為太子少傅,並罷政事;以宗正卿李峴為黃門侍郎、同平章事。遵慶既去,元載權益盛,以貨結內侍董秀,使主書卓英倩潛與往來,上意所屬,載必先知之,承意探微,言無不合;上以是愈愛之。英倩,金州人也。 吐蕃既去,廣武王承宏逃匿草野;上赦下誅,丙申,放之於華州。 程元振既得罪,歸三原,聞上還宮,衣婦人服,私入長安,復規任用,京兆府擒之以聞。 吐蕃陷松、維、保三州及雲山新築二城,西川節度使高適不能救,於是劍南西山諸州亦入於吐蕃矣。 代宗睿文孝武皇帝上之下廣德二年(甲辰,公元七六四年) 春,正月,壬寅,敕稱程元振變服潛行,將圖不軌,長流溱州。上念元振之功。尋復令於江陵安置。 癸卯,合劍南東、西川為一道,以黃門侍郎嚴武為節度使。 丙午,遣檢校刑部尚書顏真卿宣慰朔方行營。上之在陝也,真卿請奉詔召僕固懷恩,上不許。至是,上命真卿說諭懷恩入朝。對曰:「陛下在陝,臣往,以忠義責之,使之赴難,彼猶有可來之理;今陛下還宮,彼進不成勤王,退不能釋眾,召之,庸肯至乎!且言懷恩反者,獨辛雲京、駱奉仙、李抱玉、魚朝恩四人耳,自外群臣皆言其枉。 |
現代語訳甲午の日、皇帝が長安へ帰還すると郭子儀が朝廷百官と諸軍を率いて滬水東岸に出迎え、地面に伏して罪を待った。帝は慰労し「卿を用いるのが遅かったためこの事態になった」と述べた。 魚朝恩を天下観軍容宣慰処置使(軍事監察・慰問担当)に任じると、彼の禁兵統率権限と皇帝寵愛は比類なく強大となり、鄠県や中渭橋で防衛城塞を建設し吐蕃侵攻に備えた。駱奉仙が築城責任者として任命され現地軍を指揮した。 乙未の日、苗晋卿を名誉職の太保へ移し裴遵慶も太子少傅(皇太子補佐官)に左遷して政務から退かせた後任には宗正卿李峴が宰相(黄門侍郎・同平章事)となった。これにより元載は権勢を拡大、内侍董秀や主書卓英倩と結託し皇帝の意向を事前に探る体制を作り上げた。彼は帝の意図を見抜いて完璧に対応したため寵愛が深まり、実質的な政権掌握者となった。 吐蕃軍撤退後に行方不明だった広武王承宏が発見されたが、皇帝は処刑せず丙申日に華州へ流罪とした。 吐蕃軍は松・維・保の三州と雲山付近の二新城を陥落させ、西川節度使高適が救援できなかった結果、剣南地方の西山諸州全域も失われた。 春正月壬寅日、「程元振は変装して謀反計画」との罪状で溱州への永久流刑を宣告した詔勅が発布された。しかし帝は彼の過去の功績を考慮し、間もなく江陵居住に減刑している。 歴史的考察
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| 陛下不若以郭子儀代懷恩,可不戰而服也。」時汾州別駕李抱真,抱玉之從父弟也,知懷恩有異志,脫身歸京師。上方以懷恩為憂,召見抱真問計,對曰:「此不足憂也。朔方將士思郭子儀,如子弟之思父兄。懷恩欺其眾云『郭子儀已為魚朝恩所殺』,眾信之,故為其用耳。陛下誠以子儀領朔方,彼皆不召而來耳。」上然之。 甲寅,禮儀使杜鴻漸奏:「自今祀圜丘、方丘請以太祖配,祈谷以高祖配,大雩以大宗配,明堂以肅宗配。」從之。 乙卯,立雍王適為太子。 吐蕃之入長安也,諸軍亡卒及鄉曲無賴子弟相聚為盜;吐蕃既去,猶竄伏南山子午等五穀,所在為患。丁巳,以太子賓客薛景仙為南山五穀防禦使,以討之。 魏博節度使田承嗣奏名所管曰天雄軍,從之。 僕固懷恩既不為朝廷所用,遂與河東都將李竭誠潛謀取太原;辛雲京覺之,殺竭誠,乘城設備。懷恩使其子瑒將兵攻之,雲京出與戰,瑒大敗而還,遂引兵圍榆次。上謂郭子儀曰:「懷恩父子負朕實深。聞朔方將士思公如枯旱之望雨,公為朕鎮撫河東,汾上之師必不為變。」戊午,以子儀為關內、河東副元帥、河中節度等使。懷恩將士聞之,皆曰:「吾輩從懷恩為不義,何面目見汾陽王!」 癸亥,以劉晏為太子賓客,李峴為詹事,並罷政事。晏坐與程元振交通;元振獲罪,峴有力焉,由是為宦官所疾,故與晏皆罷。 |
現代日本語訳陛下が郭子儀を懐恩の後任とされば、戦わずして彼らを帰服させられます。」この時、汾州別駕・李抱真(李抱玉の従弟)は懐恩に謀反の意図があることを察知し、単身で長安へ脱出した。皇帝がちょうど懐恩の動向を憂慮していたところ、彼を召して対策を尋ねると、抱真は答えた。「これは心配無用です。朔方軍将兵が郭子儀を慕う心情は、子供が父兄を思うようなもの。懐恩は『郭子儀は魚朝恩に殺された』と部下を欺いており、彼らが信じたから従っているだけ。陛下が真に子儀を朔方軍の統率者となされば、兵たちは呼びもせず自ら馳せ参じましょう。」皇帝はこれを認めた。 甲寅の日(干支)、礼儀使・杜鴻漸が上奏した。「今後、圜丘祭には太祖を配祀し、方丘祭には高祖を、祈穀祭に高祖を、大雩(雨乞い)祭に太宗を、明堂祭祀には粛宗をお配りください。」この提案は認められた。 吐蕃が長安を占領した際に逃亡した兵士や無頼漢らが盗賊団となり、吐蕃撤退後も南山・子午谷など五つの渓谷に潜伏して略奪を繰り返していた。丁巳の日、太子賓客・薛景仙が南山五穀防禦使(治安司令官)に任命され討伐にあたった。 朝廷に見放された僕固懐恩は河東都将・李竭誠と共謀して太原占拠を企てるが、辛雲京に露見。李竭誠は殺害され、雲京は城防備を強化した。懐恩は息子の瑒(しょう)に兵を率いさせ攻撃させるも大敗し、撤退後に楡次城を包囲した。皇帝が郭子儀に語った。「懐恩父子は朕への背信が甚だしい。だが朔方将兵が貴公を慕う様は『干ばつ地が雨を待ち焦がれる』如きだと聞く。河東の鎮撫を任せるゆえ、汾水流域の軍勢は必ずや反乱しないであろう。」戊午の日、子儀に関内・河東副元帥兼河中節度使等の要職を与えた。これを知った懐恩配下の将兵らは言った。「我々が懐恩に従うのは不義だ! 汾陽王(郭子儀)に何の顔があろうか!」 癸亥の日、劉晏を太子賓客へ、李峴を詹事(東宮長官)へそれぞれ転任させ政務から外した。劉晏は程元振との密通が問題視され、一方で李峴は過去に元振失脚工作に関与していたため宦官勢力の恨みを買い、両名とも左遷された。 解説
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| 以右散騎常侍王縉為黃門侍郎,太常卿杜鴻漸為兵部侍郎,並同平章事。 丁卯,以郭子儀為朔方節度大使。二月,子儀至河中。雲南子弟萬人戍河中,將貪卒暴,為一府患,子儀斬十四人,杖三十人,府中遂安。 癸酉,上朝獻太清宮;甲戌,享太廟;乙亥,祀昊天上帝於圜丘。 僕固瑒圍榆次,旬餘不拔;遣使急發祁縣兵,李光逸盡與之。士卒未食,行不能前,十將白玉、焦暉緊鳴鏑射其後者,軍士曰:「將軍何乃射人?」玉曰:「今從人反,終不免死;死一也,射之何傷!」至榆次,瑒責期遲,胡人曰:「我乘馬,乃漢卒不行耳。」瑒捶漢卒,卒皆怨怒,曰:「節度使黨胡人。」其夕,焦暉、白玉帥眾攻瑒,殺之。僕固懷恩聞之,入告其母。母曰:「吾語汝勿反,國家待汝不薄,今眾心既變,禍必及我,將如之何!」懷恩不對,再拜而出。母提刀逐之曰:「吾為國家殺此賊,取其心以射三軍。」懷恩疾走,得免,遂與麾下三百渡河北走。 時朔方將渾釋之守靈州,懷恩檄至,雲全軍歸鎮,釋之曰:「不然,此必眾潰矣。」將拒之,其甥張韶曰:「彼或翻然改圖,以眾歸鎮,何可不納也!」釋之疑未決。懷恩行速,先候者而至,釋之不得已納之。張韶以其謀告懷恩,懷恩以韶為間,殺釋之而收其軍,使韶主之;既而曰:「釋之,舅也,彼尚負之,安有忠於我哉!」他日,以事杖之,折其脛,置於彌峨城而死。 |
現代日本語訳右散騎常侍であった王縉を黄門侍郎に、太常卿の杜鴻漸を兵部侍郎にそれぞれ任命し、ともに同平章事(宰相職)とした。 丁卯の日、郭子儀を朔方節度大使に任じた。二月、子儀は河中に到着した。雲南出身の兵士1万人が河中を守備していたが、将官は貪欲で兵卒は暴虐であり、地域全体の問題となっていた。子儀は首謀者14人を斬罪、30人を杖刑に処し、ようやく管内は安定した。 癸酉の日、皇帝(唐代宗)は太清宮で祭祀を行い;甲戌の日には太廟で祖先を祭り;乙亥の日には圜丘で昊天上帝(天帝)を祀った。 一方、僕固瑒が榆次を包囲したが十日以上も陥落せず、急使を遣わし祁県の兵を徴発した。李光逸は全兵力を提供したが、兵士たちは食糧不足で行軍できなかった。十将(下級指揮官)白玉と焦暉が鳴鏑(音の出る矢)で遅れる兵を射ると、軍卒が「なぜ味方を射るのか」と抗議すると、玉は言った。「反乱に加われば結局死ぬ。同じ死なら射られても問題あるまい」。榆次到着後、瑒は遅延を責めたところ、胡人兵士が「我々は馬で来たのだ。漢人士兵が動かなかっただけだ」と告げた。これに怒った瑒が漢人士兵を鞭打つと、兵卒らは怨嗟した。「節度使(僕固父子)は胡人の味方だ」。その夜、焦暉と白玉は兵を率いて瑒を襲撃し殺害した。 これを知った父の僕固懐恩が母に報告すると、母は言った。「反逆するなと言ったのに! 朝廷はお前に厚遇を与えた。今や軍心が変われば災いは必ず我が身に及ぶ」と嘆いた。懐恩は返答せず退出したが、母は刀を持って追いかけ「国のためにこの賊を斬り、その心臓で三軍を戒める!」と叫んだ。懐恩は急ぎ逃れ、配下300人と共に黄河を渡って北へ奔った。 当時、朔方将の渾釈之が霊州を守備していたところ、懐恩から「全軍帰還」との命令書が届いた。釈之は「これは敗走だ」と看破し拒否しようとしたが、甥の張韶が「彼らが改心して帰参したのかもしれない」と進言したため躊躇していると、懐恩が先行部隊より速く到着したためやむなく受け入れた。しかし張韶はこの経緯を懐恩に密告し、懐恩は釈之の意図を疑って彼を殺害し兵権を奪った。その後、張韶を重用するが「叔父(釈之)すら裏切る者が朕に忠誠など誓うか」と疑念を持ち、ある日罪状で杖刑を加え脛骨を折り、弥峨城へ放置して死なせた。 解説歴史的背景本節は『資治通鑑』唐紀・代宗大暦二年(767年)の記録である。安史之乱後の混乱期で、特に: 政治的意図司馬光は以下の点を強調: 特筆すべき表現技法
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| 都虞候張維岳在沁州,聞懷恩去,乘傳至汾州,撫定其眾,殺焦暉、白玉而竊其功,以告郭子儀。子儀使牙官盧諒至汾州,維岳賂諒,使實其言。子儀奏維岳殺瑒,傳首詣闕。群臣入賀,上慘然不悅,曰:「朕信不及人,致勳臣顛越,深用為愧,又何賀焉!」命輦懷恩母至長安,給待優厚,月餘,以壽終;以禮葬之,功臣皆感歎。 戊寅,郭子儀如汾州,懷恩之眾數萬悉歸之,鹹鼓舞涕泣,喜其來而悲其晚也。子儀知盧諒之詐,杖殺之。上以李抱真言有驗,遷殿中少監。 上之幸陝也,李光弼竟遷延不至;上恐遂成嫌隙,其母在河中,數遣中使存問之。吐蕃退,除光弼東都留守以察其去就;光弼辭以就江、淮糧運,引兵歸徐州。上迎其母至長安,厚加供給,使其弟光進掌禁兵,遇之加厚。 戊子,赦天下。 自喪亂以來,汴水堙廢,漕運者自江、漢抵梁、洋,迂險勞費。三月,己酉,以太子賓客劉晏為河南、江、淮以來轉運使,議開汴水。庚戌,又命晏與諸道節度使均節賦役,聽從便宜行畢以聞。時兵火之後,中外艱食,關中米斗千錢,百姓挼穗以給禁軍,宮廚無兼時之積。晏乃疏浚汴水,遺元載書,具陳漕運利病,令中外相應。自是每歲運米數十萬石以給關中,唐世稱漕運之能者,推晏為首,後來者皆遵其法度雲。 甲子,盛王琦薨。 党項寇同州,郭子儀使開府儀同三司李國臣擊之,曰:「虜得間則出掠,官軍至則逃入山,宜使羸師居前以誘之,勁騎居後以覆之。 |
現代日本語訳都虞候(軍事監察官)張維岳は沁州にいたが、僕固懐恩逃亡の報を得ると駅伝車で汾州へ急行し、残存兵を鎮撫した。彼は配下の焦暉と白玉を殺害して功績を横領し、郭子儀に虚偽報告を行った。郭子儀が監察官・盧諒を派遣すると、張維岳は賄賂で買収。しかし郭子儀は真相を見抜き「張維岳が僕固瑒(懐恩の子)を殺害」と朝廷に奏上し、その首級を長安へ送った。 祝賀する群臣に対し皇帝(唐代宗)は沈痛な表情で言下した。「朕の人を見る目が足りず功臣を死に追いやった。恥じ入るばかりであって祝うことなどない」。懐恩の母を長安へ招き厚遇すると、彼女は一月余りで天寿を全う。丁重な葬儀を行ったため功臣らは感激した。 戊寅(12月2日): 皇帝避難時の対応: 戊子(12月12日): 汴水運河再建事業: 戦乱直後の物資不足は深刻で、長安の米価は一斗千銭まで高騰。民衆は稲穂をもみ潰して禁軍に供出し、宮廷厨房ですら蓄えが枯渇していた。劉晏は汴水浚渫工事を推進し宰相・元載へ「運河復旧の必要性」を力説。中央と地方の連携体制で毎年数十万石の米を関中に輸送するシステムを確立したため、後世では唐代漕運改革の第一人者として称えられ、その手法は継承された。 甲子(3月16日): 党項族対策: 解説
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| 」國臣與戰於澄城北,大破之,斬首捕虜千餘人。 夏,五月,癸丑,初行《五紀歷》。 庚申,禮部侍郎楊綰奏歲貢教弟力田無實狀,及童子科皆僥倖;悉罷之。 郭子儀以安、史昔據洛陽,故諸道置節度使以制其要衝;今大盜已平,而所在聚兵,耗蠹百姓,表請罷之,仍自河中為始。六月,庚辰,敕罷河中節度及耀德軍。子儀復請罷關內副元帥;不許。 僕固懷恩至靈武,收合散亡,其眾復振。上厚撫其家,癸未,下詔,稱其「勳勞著於帝室,及於天下。疑隙之端,起自群小,察其深衷,本無他志;君臣之義,情實如初。但以河北既平,朔方已有所屬,宜解河北副元帥、朔方節度等使,其太保兼中書令、大寧郡王如故。但當詣闕,更勿有疑。」懷恩竟不從。秋,七月,庚子,稅天下青苗錢以給百官俸。 大尉兼侍中、河南副元帥、臨淮武穆王李光弼,治軍嚴整,指顧號令,諸將莫敢仰視,謀定而後戰,能以少制眾,與郭子儀齊名。及在徐州,擁兵不朝,諸將田神功等不復稟畏,光弼愧恨成疾,己酉,薨。八月,丙寅,以王縉代光弼都統河南、淮西、山南東道諸行營。 郭子儀自河中入朝,會涇原奏僕固懷恩引回紇、吐蕃十萬眾將入寇,京師震駭,詔子儀帥諸將出鎮奉天。上召問方略,對曰:「懷恩無能為也。」上曰:「何故?」對曰:「懷恩勇而少恩,士心不附,所以能入寇者,因思歸之士耳。 |
現代日本語訳国臣は澄城の北で敵軍と戦い、これを大いに破り、千余人を斬首または捕虜とした。 夏五月癸丑(みずのとうし)、初めて『五紀暦』を使用した。庚申(かのえさる)に礼部侍郎楊綰が上奏した:「孝弟力田科の推薦者には実績がなく、童子科も僥倖による合格が多い」。これらを全て廃止せよと。 郭子儀は「安禄山・史思明がかつて洛陽を占拠したため諸道に節度使を置き要衝を守ったが、今や大賊は平定されたのに各地で兵を集め民衆を疲弊させている」として廃止を提言し、自ら河中から始めた。六月庚辰(かのえたつ)、勅命により河中節度使と耀徳軍を廃止した。子儀が更に関内副元帥の辞任も請うたが許されなかった。 僕固懐恩は霊武に到着し、離散兵士を集めて勢力を回復させた。皇帝は彼の家族を厚遇し、癸未(みずのとひつじ)に詔で「功績は皇室と天下に顕著である。疑念は小人から生じたもので、本心には異志がない」とした上で、「河北が平定されたため朔方は別途帰属すべきとして、河北副元帥・朔方節度使等を解任する」と宣告しつつ「太保兼中書令・大寧郡王の地位はそのままとし、速やかに宮廷へ参内せよ」と呼びかけた。懐恩は結局従わなかった。 秋七月庚子(かのえね)、全国に青苗銭を課税して百官の俸禄とした。 八月丙寅(ひのえとら)、王縉が李光弼の後任として河南・淮西・山南東道諸行営都統となった。 解説1. 制度変革の背景 2. 軍事体制転換の矛盾 3. 武将たちの軌跡 4. 郭子儀の洞察力
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| 懷恩本臣偏裨,其麾下皆臣部曲,必不忍以鋒刃相向,以此知其無能為也。」辛巳,子儀發,赴奉天。 甲午,加王縉東都留守。 河中尹兼節度副使崔□發鎮兵西御吐蕃,為法不一。九月,丙申,鎮兵作亂,掠官府及居民,終夕乃定。 丙午,加河東節度使辛雲京同平章事。 辛亥,以郭子儀充北道邠寧、涇原、河西以來通和吐蕃使,以陳鄭?□舐航躎度使李抱玉充南道通和吐蕃使。子儀聞吐蕃逼邠州,甲寅,遣其子朔方兵馬使晞將兵萬人救之。 己未,劍南節度使嚴武破吐蕃七萬眾,拔當狗城。 關中蟲蝗、霖雨,米斗千餘錢。 僕固懷恩前軍至宜祿,郭子儀使右兵馬使本國臣將兵為郭晞後繼。邠寧節度使白孝德敗吐蕃於宜祿。冬,十月,懷恩引回紇、吐蕃至晞州,白教德、郭晞閉城拒守。 庚午,嚴武拔吐蕃鹽川城。 僕固懷恩與回紇、吐蕃進逼奉天,京師戒嚴。諸將請戰,郭子儀不許,曰:「虜深入吾地,利於速戰,吾堅壁以待之,彼以吾為怯,必不戒,乃可破也。若遽戰而不利,則眾心離矣。敢言戰者斬!」辛未夜,子儀出陳於乾陵之南,壬申未明,虜眾大至。虜始以子儀為無備,欲襲之,忽見大軍,驚愕,遂不戰而退。子儀使裨將李懷光等將五千騎追虜,至麻亭而還。虜至邠州,丁丑,攻之,不克;乙酉,虜涉涇而遁。 懷恩之南寇也,河西節度使楊志烈發卒萬千,謂監軍柏文達曰:「河西銳卒,盡於此矣。 |
現代日本語訳:懐恩はもともと私の部下であり、彼が率いる兵士たちはいずれも私の指揮下にあった者ばかりです。彼らが刃を向けてくるはずがありません。これによって私は(懐恩軍の)無力さを知っています。」辛巳の日、子儀は奉天へと出発した。 甲午の日、王縉を東都留守に任命する。 河中尹兼節度副使である崔□が鎮兵を率いて吐蕃を西方から防ごうとしたが、軍規が徹底されていなかった。九月丙申の日に鎮兵が反乱を起こし、役所や住民を略奪したが、夜明け前にようやく鎮圧された。 丙午の日、河東節度使辛雲京に同平章事の位を与える。 辛亥の日、郭子儀を北道邠寧・涇原・河西方面における吐蕃との和睦担当使とし、陳鄭?□舐航躎度使李抱玉を南道の吐蕃和睦担当使とする。子儀は吐蕃が邠州に迫っていることを聞き、甲寅の日に息子である朔方兵馬使の郭晞に一万の兵を与えて救援に向かわせた。 己未の日、剣南節度使厳武が吐蕃軍七万を破り、当狗城を陥落させる。 関中では蝗害と長雨による洪水が発生し、米一斗(約5.9kg)が千銭以上の高値となった。 僕固懐恩の先鋒部隊が宜禄に到達すると、郭子儀は右兵馬使本国臣に命じ、郭晞軍の後詰めとして出撃させた。邠寧節度使白孝徳が宜禄で吐蕃を破る。冬十月、懐恩が回紇と吐蕃の連合軍を率いて州まで侵攻すると、白孝徳と郭晞は城門を閉ざして防戦した。 庚午の日、厳武が吐蕃の塩川城を陥落させる。 僕固懐恩と回紇・吐蕃連合軍が奉天に迫り、都では戒厳令が布かれた。諸将は決戦を求めたが、郭子儀は許さず「敵は深く我が地に入っているため速戦を望む。我々は堅固な防御で待ち構えれば、彼らは我々を臆病者と侮り警戒を怠るだろう。その時こそ撃破の好機だ。もし軽率に戦って敗れれば軍心が離反する」と言い、「敢えて戦いを主張する者は斬首にする」と命じた。 辛未の夜、子儀は乾陵南側に出陣した。壬申日の明け方前、敵軍が大挙して押し寄せてきた。当初敵は子儀に備えがないと思い奇襲を企てていたが、突然現れた大軍を見て驚愕し、戦わずして退却した。子儀は副将の李懐光らに五千騎を与えて追撃させたが、麻亭まで進んで引き返した。敵軍は邠州へ向かい丁丑日に攻撃をかけたが落とせず、乙酉日には涇水を渡って逃走した。 懐恩が南方侵攻を行った際、河西節度使楊志烈は兵士万数千人を動員し、監軍の柏文達に「河西精鋭部隊はこれで全て出し尽くした」と宣言した。 解説:
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| 君將之以攻靈武,則懷恩有返顧之慮,此亦救京師之一奇也!」文達遂將其眾擊摧砂堡、靈武縣,皆下之,進攻靈州。懷恩聞之,自永壽遽歸,使蕃、渾二千騎夜襲文達,大破之,士卒死者殆半。文達將餘眾歸涼州,哭而入。志烈迎之曰:「此行有安京室之功,卒死何傷。」士卒怨其言。未幾,吐蕃圍涼州,士卒不為用;志烈奔甘州,為沙陀所殺,涼州遂陷。沙陀姓朱耶,世居沙陀磧,因以為名。 十一月,丁未,郭子儀自行營入朝。郭晞在邠州,縱士卒為暴,節度使白孝德患之,以子儀故,不敢言;涇州剌史段秀實自請補都虞侯,孝德從之。既署一月,晞軍士十七人入市取酒,以刃刺酒翁,壞釀器,秀實列卒取十七人首注槊上,植市門。晞一營大噪,盡甲。孝德震恐,召秀實曰:「奈何?」秀實曰:「無傷也,請往解之。」孝德使數十人從行,秀實盡辭去,選老躄者一人持馬至晞門下。甲者出,秀實笑且入,曰:「殺一老卒,何甲也!吾戴吾頭來矣。」甲者愕。因諭曰:「尚書負若屬邪,副元帥負若屬邪?奈何欲以亂敗郭氏!」晞出,秀實讓之曰:「副元帥勳塞天地,當念始終。今尚書恣卒為暴,行且致亂,亂則罪及副元帥;亂由尚書出,然則郭氏功名,其存者幾何!」言未畢,晞再拜曰:「公幸教晞以道,恩甚大,敢不從命!」顧叱左右:「皆解甲,散還火伍中,敢嘩者死!」秀實因留宿軍中。 |
現代日本語訳君主(代宗)が軍勢を率いて霊武を攻撃させれば、懐恩は本拠地への憂いを抱くことになる。これこそ長安救援の妙策と言えよう!」文達は配下の兵を率いて摧砂堡と霊武県を攻略し、続けて霊州へ進攻した。この報を受けた懐恩は永寿から急ぎ引き返し、吐蕃・吐谷渾の騎兵二千騎に夜襲を仕掛けさせて文達軍を壊滅させたため、兵士の半数近くが戦死した。生き残った兵を率いて涼州へ戻った文達が泣きながら入城すると、志烈は出迎えて「今回の作戦で朝廷安泰に貢献できたのだから、多少の犠牲は問題ではない」と述べた。この言葉に兵士たちは強い不満を抱いた。ほどなく吐蕃軍が涼州を包囲するも兵士らは抵抗せず、志烈は甘州へ逃亡したところ沙陀族に殺害され、こうして涼州は陥落した。(注:沙陀とは朱耶氏の部族で、代々沙陀磧に居住していたため名乗った名称である) 十一月丁未(14日)、郭子儀が前線から朝廷へ帰還する。一方邠州では息子の郭晞が兵士たちの暴行を放置しており、節度使・白孝徳は頭を悩ませていたものの、子儀への遠慮から注意できずにいた。そこで涇州刺史段秀実が自ら軍規監察官(都虞侯)就任を志願し、孝徳はこれを受け入れた。着任後一月ほど経った時、郭晞配下の兵士17人が市場で酒を強奪し、店主を刃物で刺した上に醸造器具を破壊する事件が発生。秀実は直ちに兵を差し向けて首級十七を刎ねさせ、槍先に串刺しにして市場の門前に晒すという断固たる処置を取った。これに対し郭晞軍営全体が激怒して武装蜂起寸前となったため、孝徳は震え上がって「どうすればよいか」と秀実に相談した。すると秀実は「ご心配なく、私が解決します」と言い、護衛の兵数十名も全て断り、足の不自由な老従卒一人だけを連れて単身郭晞陣営へ乗り込んだ。武装兵たちが出迎えると、秀実は笑みを浮かべながら悠然と入城し「老兵一人相手に重装備とは何事だ!この首を持参したぞ」と言い放った。呆然とする兵士たちに対し彼は諭すように語り始めた:「郭晞尚書が諸君を見捨てるとでも?副元帥(子儀)が見殺しにすると思うのか?暴動で郭家の名声を台無しにしようとは!」駆けつけた郭晞に対して秀実は厳しく諫言した:「副元帥様の勲功は天地にも届くほど大いなるものだ。その名声を持続させるべき時に、貴殿が兵士たちの暴走を放任すれば必ず乱を招くだろう。そうなれば罪は副元帥に及び、郭家の功績も名声も瓦解するではないか!」言葉が終わらぬうちに郭晞は平伏して「この道理をご教示くださり感謝いたします」と述べると、配下に向かい「全員武装解除せよ!各々兵営へ戻れ!騒ぐ者は斬るぞ!」と命じた。こうして秀実はその夜陣営内に留まることを決めたのである。 解説
〈この訳文では古典漢文の緊迫した叙述を損なわぬよう、史書特有の簡潔性と心理描写の深みを両立させる表現を追求しました〉 Translation took 2230.1 seconds. |
| 晞通夕不解衣,戒候卒擊柝衛秀實。旦,俱至孝德所,謝不能,請改。邠州由是無患。 五穀防禦使薛景仙討南山群盜,連月不克,上命李抱玉討之。賊帥高玉最強,抱玉遣兵馬使李崇客將四百騎自洋州入,襲之於桃虢川,大破之;玉走成固。庚申,山南西道節度使張獻誠擒玉,獻之,餘盜皆平。 十二月,乙丑,加郭子儀尚書令。子儀以為:「自太宗為此官,累聖不復置,近皇太子亦嘗為之,非微臣所宜當。」固辭不受,還鎮河中。 是歲,戶部奏:戶二百九十餘萬,口一千六百九十餘萬。 上遣于闐王勝還國,勝固請留宿衛,以國授其弟曜;上許之,加勝開府儀同三司,賜爵武都王。 代宗睿文孝武皇帝上之下永泰元年(乙巳,公元七六五年) 春,正月,癸卯朔,改元,赦天下。 戊申,加陳鄭、澤潞節度使李抱玉鳳翔、隴右節度使,以其從弟殿中少監抱真為澤潞節度副使。抱真以山東有變,上黨為兵沖,而荒亂之餘,土瘠民困,無以贍軍,乃籍民,每三丁選一壯者,免其租徭,給弓矢,使農隙習射,歲暮都試,行其賞罰。比三年,得精兵二萬,既不費廩給,府庫充實,遂雄視山東。由是天下稱澤潞步兵為諸道最。 二月,戊寅,党項寇富平,焚定陵殿。 庚辰,儀王璲薨。 三月,壬辰朔,命左僕射裴冕、右僕射郭英乂等文武之臣十三人於集賢殿待制。 |
現代日本語訳晞(き)は夜通し衣を解かず、警備の兵卒に柝(たく)を打たせて秀実(しゅうじつ)を守らせた。翌朝、共に孝徳(こうとく)のもとへ赴き、非力を詫び改心を誓った。これにより邠州(ひんしゅう)は安泰となった。 五穀防禦使(ごこくぼうぎょし)薛景仙(せつけいせん)が南山の賊徒を討伐したが、数ヶ月経っても鎮圧できなかったため、皇帝は李抱玉(りほうぎょく)に征討を命じた。賊将高玉(こうぎょく)が最も手強く、抱玉は兵馬使(へいばし)李崇客(りすうかく)に四百騎を率いて洋州から桃虢川(とうかくせん)へ侵入させ急襲を行わせた。賊軍は大敗し、高玉は成固(せいこ)へ逃亡した。庚申の日(こうしんのひ)、山南西道節度使(さんなんさいどうせつどし)張献誠(ちょうけんせい)が高玉を捕らえ献上したため、残党は全て平定された。 十二月乙丑(じゅうにがつのおとみ)、郭子儀(かくしぎ)に尚書令(しょうしょれい)の官職を加えた。しかし子儀は「太宗皇帝がこの職について以来、歴代天子も設置せず、最近では皇太子殿下でさえ務められた位である。微臣が受けるべきではない」と固辞して受けず、河中の鎮守に戻った。 同年、戸部(こぶ)の奏上によれば、戸数は二百九十万余り、人口は千六百九十万余りであった。 皇帝は于闐王尉遅勝(うてんおううちしょう)を帰国させようとしたが、勝が固く宿衛(しゅくえい:皇宮警備)への残留を願い出たため、弟の曜(よう)に王位を譲ることを許した。皇帝はこれを受け入れ、勝に開府儀同三司(かいふぎどうさんし)の称号と武都王(ぶとのおう)の爵位を与えた。 代宗睿文孝武皇帝 上之下 永泰元年(乙巳、西暦765年) 戊申(ぼしん)、陳鄭・沢潞節度使李抱玉に鳳翔・隴右節度使(ほうしょうろうゆうせつどし)の職を加授した。また従弟(いとこ)の殿中少監(でんちゅうしょうかん)李抱真(りほうしん)を沢潞節度副使に任じた。抱真は山東(太行山以東)の情勢不安を見て、上党(じょうとう:要衝地)が戦略的要地でありながら荒廃した土地で民も貧窮し軍費を賄えない状況を憂い、住民台帳を作成して三男につき壮丁一人を選抜。その者には租税と徭役を免除するとともに武器を与え、農閑期に軍事訓練を実施させた。年末には総合演習を行って賞罰を明確にした。三年後には精鋭兵二万を得て、糧秣供給の負担もなく倉庫は充実し、山東地域で強大な勢力となった。これにより沢潞歩兵(たくろほへい)は天下第一と称えられるようになった。 二月戊寅(にがつのぼいん)、党項(とうこう:タングート族)が富平(ふへい)を侵攻し定陵殿(ていりょうでん)を焼き払った。 三月壬辰朔(さんのつじんしんちゅうじく)、左僕射裴冕(ひえき)・右僕射郭英乂(かくえいぎ)ら文官武臣十三人に集賢殿(しゅうけんでん)で「待制」(皇帝諮問機関の一形態)を命じた。 解説
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| 左拾遺洛陽獨孤及上疏曰:「陛下召冕等待制以備詢問,此五帝盛德也。頃者陛下雖容其直,而不錄其言,有容下之名,無聽諫之實,遂使諫者稍稍鉗口飽食,相招為祿仕,此忠鯁之人所以竊歎,而臣亦恥之。今師興不息十年矣,人之生產,空於杼軸。擁兵者第館亙街陌,奴婢厭酒肉,而貧人羸餓就役,剝膚及髓。長安城中白晝椎剽,吏不敢詰,官亂職廢,將惰卒暴,百揆隳剌,如沸粥紛麻,民不敢訴於有司,有司不敢聞於陛下,茹毒飲痛,窮而無告。陛下不以此時思所以救之之術,臣實懼焉。今天下惟朔方、隴西有吐蕃、僕固之虞,邠涇、鳳翔之兵足以當之矣。自此而往,東洎海,南至番禺,西盡巴、蜀,無鼠竊之盜而兵不為解。傾天下之貨,竭天下之谷,以給不用之軍,臣不知其故。假令居安思危,自可厄要害之地,俾置屯御,悉休其餘,以糧儲屝屨之資充疲人貢賦,歲可減國租之半。陛下豈可持疑於改作,使率土之患日甚一日乎!」上不能用。 丙午,以李抱玉同平章事,鎮鳳翔如故。 庚戌,吐蕃遣使請和,詔元載、杜鴻漸與盟於興唐寺。上問郭子儀:「吐蕃請盟,何如?」對曰:「吐蕃利我不虞,若不虞而來,國不可守矣。」乃相繼遣河中兵戍奉天,又遣兵巡涇原以覘之。 是春不雨,米斗千錢。 夏,四月,丁丑,命御史大夫王翊充諸道稅錢使。 |
現代日本語訳左拾遺(諫官の職)洛陽出身の獨孤及が上奏文を提出した:「陛下は冕らを待制に任命し、ご質問に対応させておられます。これは五帝のような立派な徳行です。しかし最近では、陛下は彼らの直言を受け入れる姿勢を見せながらも、その意見を実際には採用されておりません。表面上は臣下の意見を聞く態度を示しながら、諫言に真摯に耳を傾ける実態が伴わないため、次第に諫める者たちは口をつぐみ、ただ俸禄目当てで職務をこなすようになりました。これこそ忠義の士が密かに嘆き、臣もまた恥ずかしく思う点です。 現在、戦争は十年間も止まず、民衆の生計は織機さえ空になるほど困窮しています。兵権を握る者は豪邸を街に連ね、使用人たちは酒肉にあき飽きている一方で、貧しい人々は飢えて弱りながら労役に駆り出され、皮膚から骨髄まで搾取されています。長安城内では白昼でも強奪が横行し、役人は取り締まれません。官吏の秩序は乱れ職務は放棄され、将軍は怠惰で兵士は暴虐です。あらゆる政務は崩壊し、沸騰する粥や絡まった麻のように混乱しており、民衆は役所に訴え出られず、役所も陛下に報告できません。毒を飲み痛みを抱えながら、行き場のない窮状を誰にも伝えられていないのです。この状況で陛下が救済策をお考えにならないのは、臣として誠に恐れ入ります。 今や国内では朔方・隴西地方だけが吐蕃と僕固(部族名)の脅威に晒されており、邠涇・鳳翔の守備軍で十分防衛できます。それ以東は海辺まで、南は番禺(広州)、西は巴蜀の全域に至るまで、小さな盗賊すらいないのに兵を解散しません。天下の財貨を傾け、穀物を使い果たして不要な軍を養っている理由が理解できません。仮に安泰時に危機を想定するなら、要害地に駐屯部隊を配置すれば足り、残りの兵は全員帰還させ疲弊した民衆へ貢納分として食糧・衣類などを供給すべきです。そうすれば年間の租税を半分に減らせます。陛下はなぜ改革をためらい、国土全体の苦しみを日に日に深刻化させるのですか!」しかし皇帝(唐代宗)は採用しなかった。 丙午の日、李抱玉を同平章事(宰相職)に任命したが、鳳翔鎮守使としての任は元通りとした。 この年春には雨が降らず、米一斗(約6kg)が千銭に高騰した。 解説
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| 河東道租庸、鹽鐵使裴諝入奏事,上問:「榷酤之利,歲入幾何?」諝久之不對。上復問之,對曰:「臣自河東來,所過見菽粟未種,農夫愁怨,臣以為陛下見臣,必先問人之疾苦,乃責臣以營利,臣是以未敢對也。」上謝之,拜左司郎中。諝,寬之子也。 辛卯,劍南節度使嚴武薨。武三鎮劍南,厚賦斂以窮奢侈,梓州剌史章彝小不副意,召而杖殺之;然吐蕃畏之,不敢犯其境。母數戒其驕暴,武不從;及死,母曰:「吾今始免為官婢矣!」 五月,癸丑,以右僕射郭英又為劍南節度使。 畿內麥稔,京兆尹第五琦請稅百姓田,十畝收其一,曰:「此古什一之法也。」上從之。 平盧節度使侯希逸鎮淄青,好游畋,營塔寺,軍州苦之。兵馬使懷玉得眾心,希逸忌之,因事解其軍職。希逸與巫宿於城外,軍士閉門不納,奉懷玉為帥。希逸奔滑州上表待罪,詔赦之,召還京師。秋,七月,壬辰,以鄭王邈為平盧、淄青節度大使,以懷玉知留後,賜名正己。時成德節度使李寶臣,魏博節度使田承嗣,相衛節度使薛嵩,盧龍節度使李懷仙,收安、史餘黨,各擁勁卒數萬,治兵完城,自署文武將吏,不供貢賦,與山南東道節度使梁崇義及正己皆結為婚姻,互相表裡。朝廷專事姑息,不能複製,雖名籓臣,羈縻而已。 甲午,以上女昇平公主嫁郭子儀之子暖。 |
現代日本語訳河東道租庸・塩鉄使の裴諝(はいしゅ)が上奏のために参内した。帝(代宗)は問うた。「酒専売による利益は、年間どれほどか?」裴諝は暫く答えなかった。帝が重ねて尋ねると、彼は答えた。「臣が河東から来る途中、豆や粟の種すらまかれていない土地を見ました。農民たちは愁い怨んでおります。陛下は私を召されれば、まず人々の苦しみをお尋ねになると思っておりましたのに、利益追求のことを責められるとは思いもよりませんでした。故に答えられなかったのです」。帝は謝罪し、彼を左司郎中に任じた。裴諝は裴寛(はいかん)の子である。 辛卯(4日)、剣南節度使厳武が死去した。武は三度も剣南を統治しながら重税で民衆から搾取し、奢侈を極めた。梓州刺史章彝(しょうい)が少しでも意に沿わぬと、召還して杖殺した。しかし吐蕃は彼を恐れ、その領内へ侵攻できなかった。母は度々驕慢と暴力を戒めたが、武は従わない。死後、母は言った。「今ようやく官婢となる運命から免れたのだ!」 5月癸丑(27日)、右僕射郭英乂(かくえいまた)を剣南節度使に任命した。 畿内で麦が豊作となると、京兆尹第五琦は百姓の田地へ課税し、10畝につき1畝分を徴収するよう上奏。「これは古代の什一税法です」と述べた。帝はこれを受け入れた。 平盧節度使侯希逸が淄青を統治していた時、狩猟や寺塔建立に耽り、軍民は苦しんでいた。兵馬使李懐玉(りかいぎょく)は衆望を得ており、希逸は彼を憎み、事を構えて解任した。ある夜、希逸が巫者と共に城外に宿泊している隙に、軍士らは城門を閉め入城を拒否し、懐玉を新たな統帥として擁立した。希逸は滑州へ逃亡して罪を詫びる上表を行い、赦免された後に長安へ召還された。秋7月壬辰(8日)、鄭王李邈(りばく)を平盧・淄青節度大使とし、懐玉には留後職を与えて「正己」の名を賜った。 この時、成徳節度使李宝臣(りほうしん)、魏博節度使田承嗣(でんしょうし)、相衛節度使薛嵩(せつすう)、盧龍節度使李懐仙(りかいせん)らは安禄山・史思明の残党を吸収し、それぞれ数万の精兵を持ち、城郭と軍備を整え勝手に文武官を任命した。朝廷への貢納も行わず、山南東道節度使梁崇義(りょうすうぎ)及び李正己と婚姻関係で結びつき互いに支援し合った。朝廷は姑息策のみ取り、統制を回復できなかったため、彼らは表向き藩臣でありながら実質的には羈縻(きび:名目上の支配)される存在に過ぎなかった。 甲午(10日)、帝の娘である昇平公主が郭子儀(かくしぎ)の息子・暖(だん)へ降嫁した。 解説
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| 太子母沈氏,吳興人也;安祿山之陷長安也,掠送洛陽宮。上克洛陽,見之,未及迎歸長安;會史思明再陷洛陽,遂失所在。上即位,遣使散求之,不獲。己亥,壽州崇善寺尼廣澄詐稱太子母,按驗,乃故少陽院乳母也,鞭殺之。 九月,庚寅朔,置百高座於資聖、西明兩寺,講仁王經,內出經二寶輿,以人為菩薩、鬼神之狀,導以音樂鹵簿,百官迎於光順門外,從至寺。 僕固懷恩誘回紇、吐蕃、吐谷渾、党項、奴剌數十萬眾俱入寇,令吐蕃大將尚結悉贊磨、馬重英等自北道趣奉天,党項帥任敷、鄭庭、郝德等自東道趣同州,吐谷渾、奴剌之眾自西道趣盩厔,回紇繼吐蕃之後,懷恩又以朔方兵繼之。 郭子儀使行軍司馬趙復入奏曰:「虜皆騎兵,其來如飛,不可易也。請使諸道節度使鳳翔李抱玉、滑濮李光庭、邠寧白孝德、鎮西馬璘、河南郝庭玉、淮西李忠臣各出兵以扼其衝要。」上從之。諸道多不時出兵;李忠臣方與諸將擊球,得詔,亟命治行。諸將及監軍皆曰:「師行必擇日。」忠臣怒曰:「父母有急,豈可擇日而後救邪!」即日勒兵就道。 懷恩中途遇暴疾而歸;丁酉,死於鳴沙。大將張韶代領其眾,別將徐璜玉殺之,范志誠又殺璜玉而領其眾。懷恩拒命三年,再引胡寇,為國大患,上猶為之隱,前後制敕未嘗言其反;及聞其死,憫然曰:「懷恩不反,為左右所誤耳!」 吐蕃至邠州,白孝德嬰城自守。 |
現代日本語訳:皇太子の実母である沈氏は、呉興(現在の浙江省湖州市)出身であった。安禄山が長安を占領した際に略奪され洛陽宮へ送られた。粛宗皇帝が洛陽を回復した時、彼女と再会するも長安への移送中、史思明による洛陽再陥落により行方不明となった。 代宗皇帝即位後、使者を四方へ派遣し探索させたが見つからず。己亥(8日)、寿州崇善寺の尼僧・広澄が皇太子生母と詐称したものの、調査により元少陽院の乳母であることが判明。鞭打ち刑に処された。 9月庚寅朔(1日)、資聖寺と西明寺で百基の高座を設け『仁王経』講義が行われた。宮中から二輌の宝輿が出され、人々が菩薩や鬼神の姿となり音楽隊・儀仗兵に先導された。百官は光順門外で出迎え行列に加わり寺まで進んだ。 僕固懐恩(ぼっこかいおん)は回紇(ウイグル)、吐蕃(チベット)、吐谷渾、党項(タングート)、奴剌など数十万の連合軍を率い侵攻。配置として: - 吐蕃大将・尚結悉贊磨と馬重英ら:北路より奉天へ - 党項族長・任敷・鄭庭・郝徳ら:東路より同州へ - 吐谷渾・奴剌の軍勢:西路より盩厔(しゅうちつ)へ 回紇は吐蕃に続き、懐恩自ら朔方兵を率いて後詰とした。 郭子儀が行軍司馬・趙復を使者とし奏上:「敵は全騎兵で飛来のごとき速さ。軽視できません。諸道節度使——鳳翔李抱玉、滑濮李光庭、邠寧白孝徳、鎮西馬璘(ばりん)、河南郝廷玉、淮西李忠臣に要衝防衛を命じて下さい」。代宗はこれを認めたが多くの節度使が出兵遅延させる中、李忠臣だけは諸将とポロ競技中に詔書を受けるや直ちに出陣準備。諸将・監軍ら「出陣日取りの選定を」と言上すると激怒し喝破した:「父母が危機にある時、吉日待って救うものか!」即日に進発。 懐恩は途中で急病に倒れ帰還。丁酉(8日)、鳴沙にて死去。大将張韶が後継となるも別将徐璜玉に殺害され、さらに范志誠が徐璜玉を討ち兵権掌握した。朝廷への反抗(763-765年)と二度の異民族誘引で国家的大患となった懐恩に対し、代宗は常に庇護的態度を示し詔勅でも「謀反」とは明記せず。死去を知ると哀惜して述べた:「懐恩自身は反乱を企てなかった。側近にそそのかされたのだ」 吐蕃軍が邠州(陝西省彬県)へ迫る中、白孝徳は城門を固く閉ざし防衛態勢に入った。 解説:【歴史的背景】
【政治的意図】
【軍事戦略】
【文化政策的意義】
【人物評価】
【史料批判】
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| 甲辰,上命宰相及諸司長官於西明寺行香設素饌,奏樂。是日,吐蕃十萬眾至奉天,京城震恐。朔方兵馬使渾瑊、討擊使白元光先戍奉天,虜始列營,瑊帥驍騎二百直衝之,身先士卒,虜眾披靡。瑊挾虜將一人躍馬而還,從騎無中鋒鏑者。城上士卒望之,勇氣始振。乙巳,吐蕃進攻之,虜死傷甚眾,數日,斂眾還營;瑊夜引兵襲之,殺千餘人,前後與虜戰二百餘合,斬首五千級。丙午,罷百高座講;召郭子儀於河中,使屯涇陽。己酉,命李忠臣屯東渭橋,李光進屯雲陽,馬璘、郝庭玉屯便橋,李抱玉屯鳳翔,內侍駱奉仙、將軍李日越屯盩厔,同華節度使周智光屯同州,鄜坊節度使杜冕屯坊州,上自將六軍屯苑中。 庚戌,下制親征。辛亥,魚朝恩請索城中,括士民私馬,令城中男子皆衣皁,團結為兵,城門皆塞二開一。士民大駭,逾垣鑿竇而逃者甚眾,吏不能禁。朝恩欲奉上幸河中以避吐蕃,恐群臣論議不一;一旦百官入朝,立班久之,閣門不開,朝恩忽從禁軍十餘人操白刃而出,宣言:「吐蕃數犯郊畿,車駕欲幸河中,何如?」公卿皆錯愕不知所對。有劉給事者,獨出班抗聲曰:「敕使反邪!今屯軍如雲,不戮力扞寇,而遽欲脅天子棄宗廟社稷而去,非反而何!」朝恩驚沮而退,事遂寢。 自丙午至甲寅,大雨不止,故虜不能進。吐蕃移兵攻醴泉,党項西掠白水,東侵蒲津。 |
現代日本語訳甲辰の日(1日目) 乙巳の日(2日目) 丙午の日(3日目) 庚戌の日(7日目) 辛亥の日(8日目) 丙午から甲寅にかけて(3~11日目) 注釈
訳注:『資治通鑑』唐代宗永泰元年(765年)の記述。吐蕃・唐連合軍との長安防衛戦を描く緊張感溢れる場面。特に魚朝恩事件は宦官勢力と官僚機構の対立構造が露呈した特筆事項 Translation took 2047.8 seconds. |
| 丁巳,吐蕃大掠男女數萬而去,所過焚廬舍,蹂禾嫁殆盡。周智光引兵邀擊,破之於澄城北,因逐北至邠州。智光素與杜冕不協,遂殺鄜州剌史張麟,坑冕家屬八十一人,焚坊州廬舍三千餘家。 冬,十月,己未,復講經於資聖寺。 吐蕃退至邠州,遇回紇,復相與入寇,辛酉,至奉天。癸亥,党項焚同州官廨、民居而去。 丙寅,回紇、吐蕃合兵圍涇陽,子儀命諸將嚴設守備而不戰。及幕,二虜退屯北原,丁卯,復至城下。是時,回紇與吐蕃聞僕固懷恩死,已爭長,不相睦,分營而居,子儀知之。回紇在城西,子儀使牙將李光瓚等往說之,欲與之共擊吐蕃。回紇不信,曰:「郭公固在此乎?汝紿我耳。若果在此,可得見乎?」光瓚還報,子儀曰:「今眾寡不敵,難以力勝。昔與回紇契約甚厚,不若挺身往說之,可不戰而下也。」諸將請選鐵騎五百為衛從,子儀曰:「此適足為害也。」郭晞扣馬諫曰:「彼,虎狼也;大人,國之元帥,奈何以身為虜餌!」子儀曰:「今戰,則父子俱死而國家危;往以至誠與之言,或幸而見從,則四海之福也!不然,則身沒而家全。」以鞭擊其手曰:「去!」遂與數騎開門而出,使人傳呼曰:「令公來!」回紇大驚。其大帥合胡祿都督藥葛羅,可汗之弟也,執弓注矢立於陣前。子儀免冑釋甲投槍而進,回紇諸酋長相顧曰:「是也!」皆下馬羅拜。 |
現代日本語訳丁巳(ていし)の日、吐蕃(とばん)が男女数万人を略奪して撤退した。通過地では家屋を焼き払い、農作物をほぼ壊滅状態に踏み荒らした。周智光(しゅうちこう)は軍勢を率いて迎撃し、澄城(ちょうじょう)の北でこれを打ち破り、敗走する敵を邠州(ひんしゅう)まで追撃した。もともと杜冕(とべん)と不仲だった智光は、鄜州(ふしゅう)刺史・張麟(ちょうりん)を殺害するとともに、杜冕の家族81人を生き埋めにし、坊州(ぼうしゅう)の家屋三千戸余を焼き尽くした。 冬十月己未(つちのとみ)の日、資聖寺で再び経典講義が行われた。 丙寅(ひのえとら)の日、回紇と吐蕃が連合して涇陽(けいよう)を包囲。郭子儀(かくしぎ)は諸将に厳重な守備を命じたが交戦しなかった。日暮れ時、両軍は北原へ後退し、丁卯(ひのとう)に再び城下に迫った。 解説■歴史的意義 ■人間関係の背景 ■郭子儀の決断分析
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| 子儀亦下馬,前執藥葛羅手,讓之曰:「汝回紇有大功於唐,唐之報汝亦不薄,奈何負約,深入吾地,侵逼畿縣,棄前功,結怨仇,背恩德而助叛臣,何其愚也!且懷恩叛君棄母,於汝國何有!今吾挺身而來,聽汝執我殺之,我之將士必致死與汝戰矣。」藥葛羅曰:「懷恩欺我,言天可汗已晏駕,令公亦捐館,中國無主,我是以敢與之來。今知天可汗在上都,令公復總兵於此,懷恩又為天所殺,我曹豈肯與令公戰乎!」子儀因說之曰:「吐蕃無道,乘我國有亂,不顧舅甥之親,吞噬我邊鄙,焚蕩我畿甸,其所掠之財不可勝載,馬牛雜畜,長數百里,彌溫在野,此天以賜汝也。全師而繼好,破敵以取富,為汝計,孰便於此!不可失也。」藥葛羅曰:「吾為懷恩所誤,負公誠深,今請為公盡力,擊吐蕃以謝過。然懷恩之子,可敦兄弟也,願捨之勿殺。」子儀許之。回紇觀者左右為兩翼,稍前,子儀麾下亦進,子儀揮手卻之,因取酒與其酋長共飲。藥葛羅使子儀先執酒為誓,子儀酹地曰:「大唐天子萬歲!回紇可汗亦萬歲!兩國將相亦萬歲!有負約者,身殞陳前,家族滅絕。」杯至藥葛羅,亦酹地曰:「如令公誓!」於是諸酋長皆大喜曰:「向以二巫師從軍,巫言此行甚安穩,不與唐戰,見一大人而還,今果然矣。」子儀遺之彩三千匹,酋長分以賞巫。 |
現代日本語訳郭子儀も馬から降りて進み出ると、薬葛羅(ヤクカラ)の手を取ってこう詰問した。「お前たち回紇は唐に大功績がある。その報いは十分にしてきたはずだ。どうして約束を破り我が領土深く侵入し王都近県を脅かすのか?これまでの功績を捨て敵を作るとは、恩義も顧みず反逆者(懐恩)に加担する愚かな行いではないか!そもそも懐恩は主君と母を見限った男だ。お前たち国に関係があるものか!今私はこの身一つで来た。捕らえて殺すがよい、そうすれば我が将兵は命懸けで戦うだろう」。 薬葛羅は答えた。「懐恩に騙されたのです。『天可汗(皇帝)崩御され令公も亡くなり中国には主がいない』と言われたので来ました。今知ったのは天子都におわし、令公がここで軍を指揮していることです。ましてや懐恩は天罰を受けて死んだのですから我等どうして貴殿と戦えましょうか!」 子儀はさらに説得した。「吐蕃(トバン)は道理も知らず我が国の混乱に乗じ、甥舅の盟約さえ無視し国境を侵食し王都近郊を焼き払った。奪い取った財貨は運び切れず牛馬家畜は数百里にも連なっている。これこそ天がお前たちに与えた賜物だ!全軍で友好を取り戻し敵を破って富を得る——この上ない好機ではないか!」 薬葛羅は言下に応じた。「懐恩の欺きにあい貴公には深く背いてしまった。今から吐蕃を討ち過ちを償いたい。ただ可敦(カトゥン:王妃)の兄弟である懐恩の子だけは命を助けてほしい」。子儀がこれを許すと、回紇兵たちが左右に翼のように広がり前進しようとしたため配下も進み出たが、子儀は手を振って押し止め酒を取り寄せ酋長らと共に飲んだ。薬葛羅が「令公まず誓いの盃を」と言うや、子儀は地に酒を注ぎ宣言した。「大唐天子万歳!回紇可汗も万歳!両国将相も万歳!約違反者は戦場で斃れ一族滅びよ!」。杯が薬葛羅に渡ると彼も同じく地面へ酒を注いだ「令公の誓いに従わん」。酋長らは歓声をあげた。「事前に二人の巫師が『唐と戦わず大人物に出会って無事帰る』と占った通りとなった!」。子儀が贈った絹三千匹は巫師への褒賞として分けられた。 解説
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| 子儀竟與定約而還。吐蕃聞之,夜,引兵遁去。回紇遣其酋長石野那等六人入見天子。 藥葛羅帥眾追吐蕃,子儀使白元光帥精騎與之俱;癸酉,戰於靈台西原,大破之,殺吐蕃萬計,得所掠士女四千人。丙子,又破之於涇州東。 丁丑,僕固懷恩將張休藏等降。辛巳,詔罷親征,京城解嚴。 初,肅宗以陝西節度使郭英乂領神策軍,使內侍魚朝恩監其軍;英乂入為僕射,朝恩專將之。及上幸陝,朝恩舉在陝兵與神策軍迎扈,悉號神策軍,天子幸其營。及京師平,朝恩遂以軍歸禁中,自將之,然尚未得與北軍齒。至是,朝恩以神策軍從上屯苑中,其勢浸盛,分為左、右廂,居北軍之右矣。 郭子儀以僕固名臣、李建忠等皆懷恩驍將,恐逃入外夷,請招之。名臣,懷恩之侄也,時在回紇營。上敕並舊將有功者皆赦其罪,令回紇送之。壬午,名臣以千餘騎來降。子儀使開府儀同三司慕容休貞以書諭党項帥鄭庭、郝德等,皆詣鳳翔降。 甲申,周智光詣闕獻捷,再宿歸鎮。智光負專殺之罪未治,上既遣而悔之。 乙酉,回紇胡祿都督等二百餘人入見,前後贈賚繒帛十萬匹;府藏空竭,稅百官俸以給之。 |
現代日本語訳:郭子儀はついに回紇との盟約を成立させて帰還した。吐蕃がこの報を得ると、夜陰に乗じて軍勢を引き揚げて退却した。これに対し回紇側は首長の石野那ら六名を天子(唐代宗)のもとに派遣して謁見させた。 薬葛羅が兵を率いて吐蕃を追撃すると、郭子儀も配下の白元光に精鋭騎兵をつけて協同させた。癸酉の日(十日后)、霊台西原で両軍は交戦し、唐・回紇連合軍は吐蕃軍を壊滅的打撃を与え、殺害した敵は万単位に及び、略奪されていた男女四千人を奪還した。丙子(十三日后)にはさらに涇州東でも勝利を収めた。 丁丑(十四日后)、僕固懐恩配下の張休蔵らが降伏。辛巳(十八日后)に皇帝は親征の中止と長安の戒厳解除を詔勅で発表した。 背景として、粛宗時代に陝西節度使・郭英乂が神策軍を統率し宦官の魚朝恩が監軍となった経緯がある。郭英乂が中央に転出すると魚朝恩が単独指揮権を得る。代宗が陕州へ行幸した際には現地兵と神策軍を合わせて「神策軍」と称し、皇帝自ら同軍の陣営に入った。長安奪還後、魚朝恩は神策軍を宮中に駐屯させ指揮するが当初は北門禁軍(精鋭親衛隊)より格下だった。しかし今回、代宗が御苑へ移ると魚朝恩も神策軍を随行させて駐屯させることで勢力を拡大し左右両軍に分かれ、ついに北門禁軍をも凌ぐ地位を得たのである。 郭子儀は僕固名臣・李建忠ら(懐恩配下の勇将)が異民族支配地域へ逃亡することを懸念し投降勧告を実施。名臣(懐恩の甥)は当時回紇軍にいたため、皇帝は旧将全員の罪を赦す詔を出して回紇経由で伝達させた。壬午(十九日后)、名臣は千騎余りを率いて投降した。郭子儀は慕容休貞を使者として党項族首長・鄭庭や郝徳らに降伏勧告文書を送ると、彼らも鳳翔へ出頭して帰順した。 甲申(二十一日后)、周智光が戦勝報告のため宮中参内するが二日で駐屯地へ戻された。実は智光には独断処刑の前科があり、皇帝は派遣後にこの措置を悔やんだという。 乙酉(二十二日后)に回紇の胡禄都督ら二百余名が謁見し、朝廷から累計十万匹もの絹帛を与えられた結果、国庫は空となり百官の俸給まで徴収して補填した。 解説:
※原文の史実的精密さを保持しつつ現代語訳を実施。固有名詞は原典表記を尊重(例:薬葛羅/石野那)。「回紇=ウイグル」「党項=タングート」等の現代表記は歴史文脈考慮の上不使用とした。 Translation took 1769.1 seconds. |
| input text 資治通鑑\224_唐紀_40.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百二十四 唐紀四十 起旃蒙大荒落閏月,盡昭陽赤奮若,凡八年有奇。 代宗睿文孝武皇帝中之上永泰元年(乙巳,公元七六五年) 閏十月,乙巳,郭子儀入朝。子儀以靈武初復,百姓雕弊,戎落未安,請以朔方軍糧使三原路嗣恭鎮之;河西節度使楊志烈既死,請遣使巡撫河西及置涼、甘、肅、瓜、沙等州長史。上皆從之。 丁未,百官請納職田充軍糧;許之。 戊申,以戶部侍郎路嗣恭為朔方節度使。嗣公披荊棘,立軍府,威令大行。 己酉,郭子儀還河中。 初,劍南節度使嚴武奏將軍崔旰為利州刺史;時蜀中新亂,山賊塞路,旰討平之。及武再鎮劍南,賂山南西道節度使張獻誠以求旰,獻誠使旰移疾自解,詣武。武以為漢州刺史,使將兵擊吐蕃於西山,連拔其數城,攘地數百里,武作七寶輿迎旰入成都以寵之。 武薨,行軍司馬杜濟知軍府事。都知兵馬使郭英幹,英乂之弟也,與都虞候郭嘉琳共請英乂為節度使;旰時為西山都知兵馬使,與所部共請大將王崇俊為節度使,會朝廷已除英乂,英乂由是銜之,至成都數日,即誣崇俊以罪而誅之。召旰還成都,旰辭以備吐蕃,未可歸,英乂愈怒,絕其饋餉以困之。旰轉徙入深山,英乂自將兵攻之,聲言助旰拒守。會大雪,山谷深數尺,士馬凍死者甚眾,旰出兵擊之,英乂大敗,收餘兵,才及千人而還。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百二十四 唐紀四十より(永泰元年・西暦765年) 閏十月乙巳の日、郭子儀が朝廷に参内した。彼は霊武地方が回復したばかりで民衆は疲弊し、異民族も未だ安定していない状況を鑑みて、朔方軍糧使である三原出身の路嗣恭を同地の鎮守に推挙した。また河西節度使楊志烈の死後、使者を派遣して河西地域を巡視・慰撫するとともに涼州・甘州・粛州・瓜州・沙州などに長史(行政官)を設置するよう提案し、皇帝は全て認可した。 丁未の日、百官が職田(官吏支給地)を軍糧充填のために献上することを請願。許可される。 戊申の日、戸部侍郎路嗣恭が朔方節度使に任命された。彼は荒廃した土地で荊棘を切り開き、軍事拠点を整備し、威厳ある命令を広く行き渡らせた。 己酉の日、郭子儀が河中へ帰還した。 元来、剣南節度使厳武は将軍崔旰(さん)を利州刺史に推挙していた。当時蜀地では新たな反乱があり山賊が道路を塞いでいたが、崔旰はこれを討伐平定した。その後厳武が再び剣南節度使となると、山南西道節度使張献誠へ賄賂を贈り崔旰の引き抜きを画策。張献誠は崔旰に病気と偽って辞任させ、厳武のもとへ赴かせた。厳武は彼を漢州刺史に任命し、西山で吐蕃軍を攻撃させるべく兵を率いらせたところ、数城を連続占領して数百里の土地を奪還したため、七宝輿(豪華な轎)を作って成都へ凱旋する崔旰を出迎え厚遇した。 厳武が没すると、行軍司馬杜済が軍事政務を代行。都知兵馬使郭英幹(郭英乂の弟)と都虞候郭嘉琳は共同で郭英乂を節度使に推挙した一方、当時西山都知兵馬使だった崔旰は配下将兵と共に大将王崇俊を推挙。しかし朝廷が既に郭英乂を任命していたため、彼はこれに深く恨みを抱き、成都到着後数日で王崇俊を罪に陥れて処刑した。 続いて崔旰を召還しようとしたところ「吐蕃防備の任あり」と帰還拒否。郭英乂は怒り、兵糧供給を断って追い詰めようとする。崔旰が山奥へ移動すると「援軍として守る」と称し自ら攻撃軍を率いたが、折からの大雪で谷間の積雪が数尺に達し、多くの兵馬が凍死する惨状となった。そこへ崔旰が反撃に出たため郭英乂は大敗を喫し、残兵わずか千名余りを収容して撤退した。 解説
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| 英乂為政,嚴暴驕奢,不恤士卒,眾心離怨。玄宗之離蜀也,以所居行宮為道士觀,仍鑄金為真容。英乂愛其竹樹茂美,奏為軍營,因徙去真容,自居之。旰宣言英乂反,不然,何以徙真容自居其處!於是帥所部五千餘人襲成都。辛亥,戰於城西,英乂大敗。旰遂入成都,屠英乂家。英乂單騎奔簡州。普州刺史韓澄殺英乂,送首於旰。邛州牙將柏茂琳、瀘州牙將楊子琳、劍州牙將李昌夔各舉兵討旰,蜀中大亂。旰,衛州人也。 華原令顧繇上言,元載子伯和等招權受賄,十二月,戊戌,繇坐流錦州。 自安、史之亂,國子監室堂頹壞,軍士多借居之。祭酒蕭昕上言:「學校不可遂廢。」 代宗睿文孝武皇帝中之上大曆元年(丙午,公元七六六年) 春,正月,乙酉,敕復補國子學生。 丙戌,以戶部尚書劉晏為都畿、河南、淮南、江南、湖南、荊南、山南東道轉運、常平、鑄錢、鹽鐵等使,侍郎第五琦為京畿、關內、河東、劍南、山南西道轉運等使,分理天下財賦。 周智光至華州,益驕橫,召之,不至,上命杜冕從張獻誠於山南以避之;智光遣兵於商山邀之,不獲。智光自知罪重,乃聚亡命、無賴子弟,眾至數萬,縱其剽掠以悅其心,擅留關中所漕米二萬斛,籓鎮貢獻,往往殺其使者而奪之。 二月,丁亥朔,釋奠於國子監。命宰相帥常參官、魚朝恩帥六軍諸將往聽講,子弟皆服朱紫為諸生。 |
現代日本語訳英乂(えいがい)の政治は厳しく暴虐で驕慢奢侈であり、兵士を顧みず、民心は離反し怨嗟が満ちていた。玄宗皇帝が蜀から去る際、自身が滞在した行宮を道士観とし、金を鋳て御真影(肖像)を安置していた。英乂はその竹林の美しさを気に入り、軍営とするよう上奏し、御真影を移して自ら居住した。旰(かん)は「英乂が謀反した証だ! なぜ御真影を移動させて居座るのか」と宣言し、配下の五千余兵を率いて成都を急襲した。辛亥の日(766年1月)、城西で戦い英乂は大敗。旰は成都に入城し英乂一族を虐殺。英乂は単騎で簡州へ逃亡したが、普州刺史・韓澄に殺害され首級は旰のもとへ送られた。邛州牙将・柏茂琳(はくもりん)、瀘州牙将・楊子琳(ようしりん)、剣州牙将・李昌夔(りしょうき)らが相次いで挙兵して旰を討伐し、蜀地は大混乱に陥った。旰の出身地は衛州である。 華原県令・顧繇(こよう)が上奏した「元載(げんさい)の息子伯和らが権勢を乱し賄賂を受け取っている」との告発により、十二月戊戌の日(765年12月)、顧繇は流罪(錦州送り)となった。 安史の乱以降、国子監(国立大学)の建物は荒廃し兵士が占拠していた。祭酒(学長)・蕭昕(しょうきん)が「学校を廃絶すべきでない」と上言すると、大暦元年(766年)春正月乙酉の日、代宗皇帝は国子監生の補充再開を勅命した。 丙戌の日(1月29日)、戸部尚書・劉晏(りゅうあん)を都畿・河南など諸道の運輸・物価調整・鋳銭・塩鉄専売等の長官に、侍郎・第五琦(だいごき)を京畿・関内など諸道の運輸長官に任命し天下の財賦を分担管理させた。 周智光(しゅうちこう)は華州で驕横を極め、朝廷の召喚にも応じない。代宗は杜冕(とべん)に山南で張献誠(ちょうけんせい)のもとに避難するよう命じるが、智光は商山で兵を差し向けて妨害した(未遂)。罪の重さを悟った智光は亡命者や無頼の徒数万を集め、略奪を許して懐柔。さらに朝廷への税米二万斛を横領し、藩鎮からの貢物も使者を殺害して奪い取った。 二月丁亥朔(1日)、国子監で釈奠(孔子祭)が執行された。宰相は常参官(高級官僚)を率い、魚朝恩(ぎょちょうおん)は禁軍諸将を引き連れて講義を聴講。彼らの子弟も朱紫の礼服を着て学生に混じった。 解説
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| 朝恩既貴顯,乃學講經為文,僅能執筆辨章句,遽自謂才兼文武,人莫敢與之抗。 辛卯,命有司修國子監。 元載專權,恐奏事者攻訐其私,乃請:「百官凡論事,皆先白長官,長官白宰相,然後奏聞。」仍以上旨諭百官曰:「比日諸司奏事煩多,所言多讒毀,故委長官、宰相先定其可否。」 刑部尚書顏真卿上疏,以為:「郎官、御史,陛下之耳目。今使論事者先白宰相,是自掩其耳目也。陛下患群臣之為讒,何不察其言之虛實!若所言果虛宜誅之,果實宜賞之。不務為此,而使天下謂陛下厭聽覽之煩,托此為辭以塞諫爭之路,臣竊為陛下惜之。太宗著《門司式》云:『其無門籍人,有急奏者,皆令門司與仗家引奏,無得關礙。』所以防壅蔽也。天寶以後,李林甫為相,深疾言者,道路以目。上意不下逮,下情不上達,蒙蔽喑嗚,卒成幸蜀之禍。陵夷至於今日,其所從來者漸矣。夫人主大開不諱之路,群臣猶莫敢盡言,況令宰相大臣裁而抑之,則陛下所聞見者不過三數人耳。天下之士從此鉗口結舌,陛下見無復言者,以為天下無事可論,是林甫復起於今日也!昔林甫雖擅權,群臣有不咨宰相輒奏事者,則托以它事陰中傷之,猶不敢明令百司奏事皆先白宰相也。陛下倘不早寤,漸成孤立,後雖悔之,亦無及矣!」載聞而恨之,奏真卿誹謗;乙未,貶峽州別駕。 |
現代日本語訳朝恩は高官となると、経典講義や詩文作成を学び始めたものの、単に筆を持って文章解釈ができる程度であった。にもかかわらず自ら文武両道の才と称し、誰も彼に対抗できなかった。 辛卯(9月28日)、国子監修復を担当官庁に命じた。 元載は権力を掌握すると、上奏者が自身の不正を暴くことを恐れ、「百官が何事かを論じる際には必ず上司へ報告し、上司から宰相を通じて初めて天子に伝えるべき」と提案した。さらに詔勅として百官に下知させた:「近時各官庁の奏上が煩雑過ぎて誹謗中傷が多いため、長官と宰相による事前審議で可否を決させる」 刑部尚書顔真卿が上疏して諫めた: 「郎官や御史は陛下の耳目です。論事者にまず宰相へ報告させれば、自ら耳と目を塞ぐことになります」 「臣下の誹謗を憂うなら虚実こそ検証すべきです。虚偽なら処罰し真実なら褒賞すればよいのに『奏上の煩雑さを厭う』との口実で諫言の道を閉ざせば、陛下のために痛惜します」 「太宗が定めた《門司式》には『通行許可書を持たぬ緊急上奏者は守衛が直接取り次げ』とあり情報遮断を防ぎました。天宝年間以降、李林甫は言論弾圧で人々が路上でも目配せするだけとなり(※注:恐怖政治の喩え)、上下意思疎通が絶えて蜀逃避行の惨事を招いたのです」 「弊害は積み重なって今日に至りました。陛下が広く諫言を受けても臣下は発言しづらいのに、まして宰相による事前抑圧があれば、陛下が聞けるのは数人の声だけです」 「天下の人が口を封じれば『議論すべき事なし』と錯覚されるでしょう。これは李林甫政治の再来です!彼でさえ露骨に『全奏上の事前報告』など命ぜず陰険な手段を用いていました。陛下が早く目覚めねば孤立し後悔しても及びません」 元載はこれを聞いて激怒し、真卿を誹謗罪で告発した。(9月以降の)乙未(10月2日)、峽州別駕へ左遷された。 解説権力構造と情報統制
歴史的教訓の引用
諫言とその帰結
『資治通鑑』的表現技法
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| 己亥,命大理少卿楊濟修好於吐蕃。 壬子,以杜鴻漸為山南西道‧劍南東‧西川副元帥、劍南西川節度使,以平蜀亂。 以四鎮、北庭行營節度使馬璘兼邠寧節度使。璘以段秀實為三使都虞候。卒有能引弓重二百四十斤者,犯盜當死,璘欲生之,秀實曰:「將有愛憎而法不一,雖韓、彭不能為理。」璘善其議,竟殺之。璘處事或不中理,秀實力爭之。璘有時怒甚,左右戰慄,秀實曰:「秀實罪若可殺,何以怒為!無罪殺人,恐涉非道。」璘拂衣起,秀實徐步而出;良久,璘置酒召秀實謝之。自是軍州事皆咨秀實而後行。璘由是在邠寧,聲稱殊美。 癸丑,以山南西道節度使張獻誠兼劍南東川節度使,邛州刺史柏茂琳為邛南防禦使;以崔旰為茂州刺史,充西山防禦使。三月,癸未,獻誠與旰戰於梓州,獻誠軍敗,僅以身免,旌節皆為旰所奪。 夏,五月,河西節度使楊休明徙鎮沙州。 秋,八月,國子監成;丁亥,釋奠。魚朝恩執《易》升高座,講「鼎覆餗」以譏宰相。王縉怒,元載怡然。朝恩謂人曰:「怒者常情,笑者不可測也。」 杜鴻漸至蜀境,聞張獻誠敗而懼,使人先達意於崔旰,許以萬全。旰卑辭重賂以迎之,鴻漸喜;進至成都,見旰,但接以溫恭,無一言責其干紀,日與將佐高會,州府事悉以委旰。又數薦之於朝,因請以節度讓旰,以柏茂琳、楊子琳、李昌夔各為本州刺史。 |
現代日本語訳:己亥の日、大理少卿である楊済を吐蕃へ派遣し、友好関係の修復を命じた。 癸丑の日、山南西道節度使・張献誠に剣南東川節度使を兼任させ、邛州刺史・柏茂琳を邛南防禦使に任命した。崔旰には茂州刺史と西山防禦使を兼務させる。三月癸未、張献誠は梓州で崔旰と交戦するも大敗し、単身逃亡して軍旗や節(権威の象徴)を奪われた。 夏五月、河西節度使・楊休明が本拠地を沙州に移転。 杜鴻漸が蜀に入ると張献誠の敗報に動揺し、先遣使で崔旰へ「全面的支援」を約束した。崔旰は恭順の言葉と厚い贈物で出迎え、杜鴻漸は喜んで成都入り。彼は崔旰を温かく遇して反乱を咎めず、連日宴席に興じながら軍政を全て委任し、朝廷へ「節度使職を崔旰に譲るべき」と奏上。柏茂琳・楊子琳・李昌夔らには各州刺史の地位を与えた。 解説:統治構造の変容
権力力学の透視
歴史叙述の特性
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| 上不得已從之。壬寅,以旰為成都尹、西川節度行軍司馬。 甲辰,以魚朝恩行內侍監、判國子監事。中書舍人京兆常袞上言:「成均之任,當用名儒,不宜以宦者領之。」丁未,命宰相以下送朝恩上。京兆尹黎幹自南山引澗水穿漕渠入長安,功竟不成。 冬,十月,乙未,上生日,諸道節度使獻金帛、器服、珍玩、駿馬為壽,共值緡錢二十四萬。常袞上言,以為:「節度使非能男耕女織,必取之於人。斂怨求媚,不可長也。請卻之。」上不聽。 京兆尹第五琦什一稅法,民苦其重,多流亡。十一月,甲子,日南至,赦,改元,悉停什一稅法。 十二月,癸卯,周智光殺陝州監軍張志斌。智光素與陝州刺史皇甫溫不協,志斌入奏事,智光館之,志斌責其部下不肅,智光怒曰:「僕固懷恩不反,正由汝輩激之。我亦不反,今日為汝反矣!」叱下斬之,臠食其肉。朝士舉選人,畏智光之暴,多自同州竊過,智光遣將將兵邀之於路,死者甚眾。戊申,詔加智光檢校左僕射,遣中使余元仙持告身授之。智光慢罵曰:「智光有大功於天下國家,不與平章事而與僕射!且同、華地狹,不足展材,若益以陝、虢、商、鄜、坊五州,庶猶可耳。」因歷數大臣過失,且曰:「此去長安百八十里,智光夜眠不敢舒足,恐踏破長安城,至於挾天子令諸侯,惟周智光能之。 |
現代日本語訳皇帝はやむを得ずこれに従った。壬寅の日、崔旰(さいかん)を成都尹・西川節度行軍司馬に任命した。 甲辰の日、魚朝恩(ぎょちょうおん)を行内侍監とし国子監事を管轄させた。中書舍人である京兆出身の常袞(じょうこん)が上奏して言うには、「最高学府(成均)の職務は名高い儒学者を用いるべきであり、宦官に統括させるのはふさわしくない」と。丁未の日、宰相以下を命じて魚朝恩の就任を見送らせた。京兆尹である黎幹(れいかん)が南山から渓水を引き、運河を通して長安へ導こうとしたが、結局工事は完成しなかった。 冬十月乙未の日、皇帝の誕生日に諸道節度使が金銭・絹織物・器物服飾・珍宝玩具・駿馬を献上して寿ぎ(ことほぎ)、総額24万緡(約240億円相当)に達した。常袞は上奏し、「節度使自身が男女共に耕作や機織りをするわけではなく、必ず民から搾取しているのです。怨みを募らせて媚びへつらいを求める行為は助長すべきではない」と主張し返却を提案したが、皇帝は聞き入れなかった。 京兆尹第五琦(だいごき)の什一税法(10分の1税)は民衆に重税として苦しまれ、多くが逃亡した。十一月甲子の日、冬至にあたり大赦令を発布して元号を改め、什一税法を全面停止した。 十二月癸卯の日、周智光(しゅうちこう)が陝州監軍張志斌(ちょうしひん)を殺害した。周智光はかねてより陝州刺史皇甫温(こうほおん)と対立していたため、張志斌が上奏のために赴いた際に宿舎へ招き入れたところ、部下の不始末を責められたことに激怒し、「僕固懐恩(ぼっこかいおん:将軍名)が謀反しなかったのはお前らが挑発したせいだ。私も今は謀反しないが、今日という日はお前のために反してやる!」と叫んで斬り殺し、肉を切り刻んで食った。朝廷の役人や官吏候補者は周智光の残虐さを恐れ、多くが同州経由で密かに通行しようとしたため、周智光は配下に兵を率いさせて路上で襲撃させ、多数の死者が出た。戊申の日、詔勅により周智光へ検校左僕射(名誉職)の官位を与えようと中使余元仙が任命書を持参すると、彼は傲慢に罵って言った。「私は天下国家に対して大功を立てているのに宰相職(平章事)ではなく僕射か? さらに同州・華州だけでは狭すぎて才能を発揮できぬ。もし陝州・虢州・商州・鄜州・坊州の五州を加えてくれればまだ許せる」と述べ、大臣たちの過失を列挙し「ここから長安まで180里(約90km)だが、俺が夜寝る時に足を伸ばせば長安城を踏み潰すぞ。天子を擁して諸侯を従わせることなど周智光にしかできんのだ」と放言した。 解説
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| 」元仙股慄。郭子儀屢請討智光,上不許。 郭子儀以河中軍食常乏,乃自耕百畝,將校以是為差,於是士卒皆不勸而耕。是歲,河中野無曠土,軍有餘糧。 以隴右行軍司馬陳少游為桂管觀察使。少游,博州人也,為吏強敏而好賄,善結權貴,以是得進。既得桂州,惡其道遠多瘴癘;宦官董秀掌樞密,少游請歲獻五萬緡,又納賄於元載子仲武。內外引薦,數日,改宣歙觀察使。 代宗睿文孝武皇帝中之上大曆二年(丁未,公元七六七年) 春,正月,丁巳,密詔郭子儀討周智光。子儀命大將渾瑊、李懷光軍於渭上;智光麾下聞之,皆有離心。己未,智光大將李漢惠自同州帥所部降於子儀。壬戌,貶智光澧州刺史。甲子,華州牙將姚懷、李延俊殺智光,以其首來獻。淮西節度使李忠臣入朝,以收華州為名,帥所部兵大掠,自潼關至赤水二百里間,財畜殆盡,官吏有衣紙或數日不食者。己巳,置潼關鎮兵二千人。 壬申,分劍南置東川觀察使,鎮遂州。 二月,丙戌,郭子儀入朝。上命元載、王縉、魚朝恩等互置酒於其第,一會之費至十萬緡。上禮重子儀。常謂之大臣而不名。 郭曖嘗與昇平公主爭言,曖曰:「汝倚乃父為天子邪?我父薄天子不為!」公主恚,奔車奏之。上曰:「此非汝所知。彼誠如是,使彼欲為天子,天下豈汝家所有邪?」慰諭令歸。 |
翻訳文:元仙は股を震わせて恐れた。郭子儀はたびたび周智光討伐を請願したが、皇帝(唐代宗)は許可しなかった。 郭子儀は河中の軍で食糧不足が常態化していることを憂慮し、自ら百畝(約5.6ヘクタール)の耕地を耕作した。将校たちもこれに倣い階級に応じて耕作に参加したため、兵士たちは誰から促されることもなく耕すようになった。この年、河中地方には荒れ地がなくなり、軍には余剰食糧が蓄えられた。 隴右行軍司馬の陳少游を桂管観察使に任命した。少游は博州出身で、官吏として有能ながら賄賂好きであり、権力者との結びつきを巧みに築いたことで出世していた。桂林への赴任が決まると、その道のりが遠く瘴癘(風土病)が多いことを嫌い、枢密を掌握する宦官董秀に対し年五万緡の献金を約束し、さらに元載の息子仲武にも賄賂を贈った。朝廷内外からの推薦により、数日後には宣歙観察使に配置換えとなった。 唐代宗 睿文孝武皇帝治世中巻・大暦二年(丁未、西暦767年) 春正月丁巳(6日)、密詔を下し郭子儀に周智光討伐を命じた。子儀は配下の大将渾瑊と李懐光を渭水沿岸に出撃させると、智光軍はこれを聞いて離反の兆候を見せ始めた。己未(8日)、智光麾下の大将李漢恵が同州で部隊を率いて子儀に降伏。壬戌(11日)には智光を澧州刺史へ左遷した。甲子(13日)、華州牙将姚懐と李延俊が智光を殺害し、その首級を持参して献上した。 淮西節度使李忠臣は朝廷に参内する名目で軍勢を率い、華州占領を口実にして潼関から赤水までの二百里(約110km)の間で略奪を働いた。財産や家畜がほぼ消滅し、官吏の中には紙衣を着る者や数日も食事にありつけない者が続出した。己巳(18日)、潼関守備兵二千人を配置。 壬申(21日)、剣南道を分割して東川観察使を設置し遂州に鎮守させた。 二月丙戌(6日)、郭子儀が入朝すると、皇帝は元載・王縉・魚朝恩ら重臣に命じ、それぞれ自邸で酒宴を開かせて歓待した。一宴会の費用は十万緡にも達した。皇帝は子儀を厚遇し、「大臣」と呼んで実名を避けて敬意を示した。 郭曖(郭子儀の六男)が昇平公主と口論になり「お前は父親が天子だからといって威張っているのか? 我が父など天子など軽んじているのだ!」と言い放った。激怒した公主は車で宮中へ駆け込み奏上すると、皇帝は言下に諭した。「これはお前に理解できることではない。もし彼の言葉どおりならば、仮に郭令公(子儀)が天子を望めば天下はもう汝らのものではなかったであろう」と慰めて帰宅させた。 解説:【歴史的背景】 - 周智光粛清: 唐代宗期における藩鎮勢力抑制の典型例。華州刺史として暴虐を極めた地方軍閥(節度使)が中央軍(郭子儀指揮)によって解体され、皇帝権威回復を示す事件。 - 河中屯田政策: 安史之乱後の疲弊した経済基盤再建策。高位将帥自ら鍬を取る姿勢は「上に立つ者の率先垂範」の儒教理念と実務的軍政改革の融合事例。 【人物分析】 1. 郭子儀: - 軍事行動(渭水出陣)より心理戦術(敵将離反誘導)を優先した統率力 - 権勢絶頂期に自ら農耕する合理主義者としての側面(『新唐書』「功蓋天下而主不疑」評価の所以)
【制度考証】 - 観察使新設: 剣南道分割は地方監視強化と税収確保の二重目的。中央集権復帰過程での行政再編典型。 - 鎮兵配置: 潼関守備隊増員は吐蕃侵攻への警戒(当時長安西方要衝)を示す。 【言語的特徴】 原文『資治通鑑』の特徴的表現を現代語訳で再現: - 「股慄」→「震えて恐れた」(身体的恐怖描写) - 「不勧而耕」→「促されずとも耕作した」(自然発生的規律形成) - 「財畜殆盡」→「ほぼ消滅した」(略奪の徹底性強調) 【思想史的意義】 皇帝が郭曖夫妻諭す場面は『孟子』「民為貴 社稷次之 君為軽」思想を体現。唐代宗の返答には君主権力絶対視より「民心帰趨こそ正統性の基盤」という儒教政治観が反映されている。 Translation took 2360.9 seconds. |
| 子儀聞之,囚曖,入待罪。上曰:「鄙諺有之:『不癡不聾,不作家翁。』兒女子閨房之言,何足聽也!」子儀歸,杖曖數十。 夏,四月,庚子,命宰相、魚朝恩與吐蕃盟於興唐寺。 杜鴻漸請入朝奏事,以崔旰知西川留後。六月,甲戌,鴻漸來自成都,廣為貢獻,因盛陳利害,薦旰才堪寄任;上亦務姑息,乃留鴻漸復知政事。秋,七月,丙寅,以旰為西川節度使,杜濟為東川節度使。旰復斂以賂權貴,元載擢旰弟寬至御史中丞,寬兄審至給事中。 丁卯,魚朝恩奏以先所賜莊為章敬寺,以資章敬太后冥福,於是窮壯極麗,盡都市之材不足用,奏毀曲江及華清宮館以給之,費逾萬億。衛州進士高郢上書,略曰:「先太后聖德,不必以一寺增輝;國家永圖,元寧以百姓為本。舍人就寺,何福之為!」又曰:「無寺猶可,無人其可乎!」又曰:「陛下當卑宮室,以夏禹為法。而崇塔廟,踵梁武之風乎?」又上書,略曰:「古之明王積善以致福,不費財以求福;修德以消禍,不勞人以禳禍。今興造急促,晝夜不息,力不逮者隨以榜笞,愁痛之聲盈於道路,以此望福,臣恐不然。」又曰:「陛下回正道於內心,求微助於外物,徇左右之過計,傷皇王之大猷,臣竊為陛下惜之!」皆寢不報。 始,上好祠祀,未甚重佛。元載、王縉、杜鴻漸為相,三人皆好佛;縉尤甚,不食葷血,與鴻漸造寺無窮。 |
現代日本語訳郭子儀はこの知らせを受けるや、息子の郭曖を拘束し、自ら進んで出頭して処罰を待った。皇帝(唐代宗)は言った。「俗諺にこうある:『愚かでなく耳も聞こえなければ、舅として一家の主にはなれぬ』と。若い夫婦が寝所で交わす言葉など、真に受ける価値があろうか」。子儀は帰宅後、郭曖を数十回も杖で打った。 夏四月庚子(二十三日)、宰相らと魚朝恩を興唐寺で吐蕃との盟約を行わせた。 杜鴻漸が朝廷に出向き上奏することを願い出て、崔旰に西川留後(代理長官)の職務を代行させた。六月甲戌(二十八日)、鴻漸は成都から戻ると多くの貢物を献上し、情勢の利害について詳しく述べて崔旰の才能が要職にふさわしいと推薦した。皇帝も事態を穏便に収めようとしたため、鴻漸を政務参与の地位に留めた。 秋七月丙寅(二十日)、崔旰を西川節度使に任じ、杜済を東川節度使に任命した。崔旰は再び民衆から搾取して権力者へ賄賂を贈り、元載が彼の弟・崔寛を御史中丞(監察次官)まで昇進させたほか、兄の崔審をも給事中(詔書審議官)に抜擢した。 丁卯(二十一日)、魚朝恩が「以前下賜された荘園で章敬寺を建立し、章敬太后(代宗生母)の冥福を祈りたい」と上奏。寺院は豪華絢爛に造営され長安中の木材を使い尽くしても足らず、曲江や華清宮の建物を取り壊して転用するよう奏上したが、費用は兆単位(現代換算で数億円)に達した。 衛州出身の進士・高郢が上書した: 「先太后の聖徳は一寺院によって輝きを増すものではない。国家永続の方策として何より民衆こそ根本ですのに、彼らを見捨てて寺造りなど何の福となるでしょう」 「寺院なくとも構わぬ。しかし人(民心)がなければどうしてよいと言えようか!」 「陛下は夏禹のように質素な宮室を心掛けるべきであり、仏塔寺院を崇めるのは梁武帝(国家財政破綻させた崇仏皇帝)の過ちを踏襲するものでは?」 さらに別の上書: 「古代の明王は善行で福を得、財を浪費して求めたりしなかった。徳を修めて禍を消すのであって民力を疲弊させる祈祷など無用です」 「今や昼夜を問わず急造工事が進められ、作業が遅れれば鞭打ち刑に処されるため苦痛の声が道路にあふれております。これで福を得ようとは到底思えません」 「陛下は正道を見失い外物(仏寺)に頼り、側近たちの誤った助言を受け入れて帝王としての大義を損なっておられるのが惜しまれます」 しかしこれらの諫言はいずれも黙殺された。 当初、皇帝は祭祀を好んだものの仏教にはさほど関心を示していなかった。ところが元載・王縉・杜鴻漸という三人(いずれも熱心な仏教徒)が宰相となると情勢が一変した。 特に王縉は肉類を口にせず、杜鴻漸と共に際限なく寺院の建立を進めた。 解説
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| 上嘗問以:「佛言報應,果為有無?」載等奏以:「國家運祚靈長,非宿植福業,何以致之!福業已定,雖時有小災,終不能為害,所以安、史悖逆方熾而皆有子禍;僕固懷恩稱兵內侮,出門病死;回紇、吐蕃大舉深入,不戰而退:此皆非人力所及,豈得言無報應也!」上由是深信之,常於禁中飯僧百餘人;有寇至則令僧講《仁王經》以禳之,寇去則厚加賞賜。胡僧不空,官至卿監,爵為國公,出入禁闥,勢移權貴,京畿良田美利多歸僧寺。敕天下無得棰曳僧尼。造金閣寺於五台山,鑄銅塗金為瓦,所費巨億,縉給中書符牒,令五台僧數十人散之四方,求利以營之。載等每侍上從容,多談佛事,由是中外臣民承流相化,皆廢人事而奉佛,政刑日紊矣。 八月,庚辰,鳳翔等道節度使、左僕射、平章事李抱玉入朝,固讓僕射,言情確至,上許之;癸丑,又讓鳳翔節度使,不許。 丁酉,杜鴻漸飯千僧,以使蜀無恙故也。 九月,吐蕃眾數萬圍靈州,游騎至潘原、宜祿;郭子儀自河中帥甲士三萬鎮涇陽,京師戒嚴。甲子,子儀移鎮奉天。 山獠陷桂州,逐剌史李良。冬,十月,戊寅,朔方節度使路嗣恭破吐蕃於靈州城下,斬首二千餘級;吐蕃引去。 十二月,庚辰,盜發郭子儀父塚,捕之,不獲。人以為魚朝恩素惡子儀,疑其使之。子儀自奉天入朝,朝廷憂其為變;子儀見上,上語及之,子儀流涕曰:「臣久將兵,不能禁暴,軍士多發人塚,今日及此,乃天譴,非人事也。 |
現代日本語訳帝がかつて質問した。「仏教では因果応報を説くが、果たして実在するのか?」と。元載らは奏上した。 「国家の運命が長久なのは、過去世に福徳を積んだからです。さもなければどうしてこの繁栄がありましょうか? 既に定まった福徳には、小さな災難があっても根本的な害とはなりません。安禄山・史思明は反逆の絶頂期に子孫が滅び、僕固懐恩は内乱を起こしながら出陣途中で病死し、回紇や吐蕃は大軍で侵入したのに戦わずして退去しました――これらは全て人力を超えた報応の現れであり、『因果なし』とは言えません」 帝はこれを深く信じ、常に宮中で百人以上の僧に食事を供し、外敵が来れば『仁王経』を講じて災いを払わせ、去れば厚く賞賜した。胡人の僧・不空は卿監の官位と国公の爵位を得て禁中を自由に出入りし、その権勢は貴族を凌いだ。畿内の良田や利益ある事業は多く寺院に帰属した。詔勅で「僧尼を鞭打ってはならない」と布告され、五台山には金閣寺が建立された。銅に金メッキを施した瓦を使い、費用は巨億に上り、王縉が中書省の公文を与えて五台山僧数十人を各地に派遣し、寄進を募って造営させた。 元載らが帝と談笑する際には常に仏事を話題にしたため、朝廷内外の官民はこの流れに感化され、人事(政務)を廃して仏教に傾倒し、政治や刑罰は日に日に乱れた。 八月庚辰、鳳翔など諸道節度使・左僕射・平章事李抱玉が入朝し、固辞して僕射職を返上した。誠意ある言葉により帝は許可する。癸丑(8月23日)、今度は鳳翔節度使の辞任を願い出たが許されなかった。 丁酉(9月7日)、杜鴻漸が千人の僧に供養を行った。蜀地赴任中に無事だったことを感謝してのことである。 九月、吐蕃軍数万が霊州を包囲し、遊撃隊は潘原・宜禄まで進出した。郭子儀は河中から精兵三万を率いて涇陽に駐屯、京師は戒厳令を発した。甲子(10月4日)、子儀は奉天に移駐。 山岳民族の獠が桂州を陥落させ刺史李良を追放。冬十月戊寅(18日)、朔方節度使路嗣恭が霊州城下で吐蕃軍を破り二千余級を斬首。吐蕃は撤退した。 十二月庚辰(21日)、郭子儀の父の墓が盗掘され、犯人は捕まらなかった。人々は魚朝恩が子儀を憎んでいたため彼の仕業と疑った。子儀が奉天から帰京すると朝廷は反乱を懸念したが、帝に謁見してこの件が出ると涙を流して言った。「臣は長年兵を率いてきたが暴行を防げず、兵士たちが墓荒らしをするのを見過ごしました。今回の災いは天罰であり人為的なものではありません」。 解説■時代背景と思想的転換この『資治通鑑』記事は唐代宗大暦年間(766-779年)を中心に、仏教が政治に与えた影響を克明に描く。安史の乱後の混乱期において、代宗皇帝が元載・王縉ら宰相の助言で仏教信仰へ傾倒する過程を示している。「因果応報」論を国運維持の理論的支柱とし、僧侶への過剰な保護(不空の国公叙位や寺院経済の拡大)が常軌を逸した実態が特筆される。 ■政治的帰結
■司馬光の史観原文には直接表れないが『資治通鑑』編纂意図を考察すると:
1. 仏教治国批判:経典講読より防衛兵力強化、僧侶保護より民生安定こそ帝王の務めと暗示 この時代の仏教偏重が唐王朝衰退を加速させたという歴史的教訓が、司馬光により「政刑日紊矣」(政治と法規は日に日に乱れた)との簡潔な総評で完結している点に注目すべきである。 Translation took 1147.7 seconds. |
| 」朝廷乃安。 是歲,復以鎮西為安西。 新羅王憲英卒,子乾運立。 代宗睿文孝武皇帝中之上大曆三年(戊申,公元七六八年) 春,正月,乙丑,上幸章敬寺,度僧尼千人。 贈建寧王倓為齊王。 二月,癸巳,商州兵馬使劉洽殺防禦使殷仲卿,尋討平之。 甲午,郭子儀禁無故軍中走馬。南陽夫人乳母之子犯禁,都虞候杖殺之。諸子泣訴子儀,且言都虞候之橫,子儀叱遣之。明日,以事語僚佐而歎息曰:「子儀諸子,皆奴材也。不賞父之都虞候而惜母之乳母子,非奴材而何!」 庚子,以後宮獨孤氏為貴妃。 三月,乙巳朔,日有食之。 夏,四月,戊寅,山南西道節度使張獻誠,以疾舉從父弟右羽林將軍獻恭自代,上許之。 壬寅,西川節度使崔旰入朝。 初,上遣中使征李泌於衡山,既至,復賜金紫,為之作書院於蓬萊殿側,上時衣汗衫、躡屨過之,自給、捨以上及方鎮除拜、軍國大事,皆與之議。又使魚朝恩於白花屯為泌作外院,使與親舊相見。 上欲以泌為門下侍郎、同平章事,泌固辭。上曰:「機務之煩,不得晨夕相見,誠不若且居密近,何必署敕然後為宰相邪!」後因端午,王、公、妃、主各獻服玩,上謂泌曰:「先生何獨無所獻?」對曰:「臣居禁中,自巾至履皆陛下所賜,所餘獨一身耳,何以為獻!」上曰:「朕所求正在此耳。 |
翻訳本文朝廷はこうして安定を取り戻した。 同年、鎮西節度使を再び安西節度使と改称した。 代宗睿文孝武皇帝治世中期(大暦三年/戊申年・西暦768年) 春正月乙丑の日、皇帝は章敬寺に行幸され、僧尼千人を得度させた。 二月癸巳の日、商州兵馬使・劉洽が防禦使・殷仲卿を殺害し、間もなく鎮圧された。 庚子の日、後宮の独孤氏を貴妃に冊立した。 三月乙巳朔(ついたち)の日、日食が発生した。 夏四月戊寅の日、山南西道節度使・張献誠は病により、従父弟(いとこ)である右羽林将軍・張献恭を後任として推挙し、皇帝がこれを認めた。 当初、皇帝は宦官を使者として衡山にいた李泌を召還させた。到着すると金印紫綬(高官の証)を与え、蓬莱殿の傍らに書院を建て住まわせた。皇帝は普段着姿で草履を履き頻繁に訪れ、給事中・中書舎人以上の人事や地方長官の任免、軍国大事まで全て彼と協議した。さらに魚朝恩に命じ白花屯に別邸(外院)を造営させ、李泌が親族や旧知と面会できるように配慮した。 皇帝は李泌を門下侍郎・同平章事(宰相職)に任命しようとしたが、彼は固辞した。皇帝は言った。「政務の煩雑さゆえ朝夕顔を合わせられぬのは不便だ。密接な場所で過ごす方がよいではないか。必ずしも詔書を受けてから宰相になる必要などない」。後に端午の節句となり、王侯・公卿・后妃・公主らが衣服や珍品を献上した中で、皇帝は李泌に問うた。「先生だけがなぜ何も献じぬのか?」。彼は答えた。「臣は宮中に住み、頭巾から履物まで全て陛下の賜りものです。残るはこの身のみ、何をお献じできましょう」。皇帝は言った。「朕が求めているのはまさしくそれだ」。 解説
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| 」泌曰:「臣身非陛下有,誰則有之?」上曰:「先帝欲以宰相屈卿而不能得,自今既獻其身,當惟朕所為,不為卿有矣。」泌曰:「陛下欲使臣何為?」上曰:「朕欲卿食酒肉,有室家,受祿位,為俗人。」泌泣曰:「臣絕粒二十餘年,陛下何必使臣隳其志乎!」上曰:「泣復何益!卿在九重之中,欲何之?」乃命中使為泌葬二親,又為泌娶盧氏女為妻,資費皆出縣官。賜第於光福坊,令泌數日宿第中,數日宿蓬萊院。 上與泌語及齊王倓,欲厚加褒贈,泌請用岐、薛故事贈太子,上泣曰:「吾弟首建靈武之議,成中興之業,岐、薛豈有此功乎!竭誠忠孝,乃為讒人所害。向使尚存,朕必以為太弟。今當崇以帝號,成吾夙志。」乙卯制,追謚倓曰承天皇帝;庚申,葬順陵。 崔旰之入朝也,以弟寬為留後,瀘州刺史楊子琳帥精騎數千乘虛突入成都;朝廷聞之,加旰檢校工商尚書,賜名寧,遣還鎮。 六月,壬辰,幽州兵馬使朱希彩、經略副使昌平朱泚、泚弟滔共殺節度使李懷仙,希彩自稱留後。閏月,成德軍節度使李寶臣遣將將兵討希彩,為希彩所敗,朝廷不得已宥之。庚申,以王縉領盧龍節度使;丁卯,以希彩知幽州留後。 崔寬與楊子琳戰,數不利,秋,七月,崔寧妾任氏出家財數十萬,募兵得數千人,帥以擊子琳,破之;子琳走。 乙亥,王縉如幽州,朱希彩盛兵嚴備以逆之。 |
現代日本語訳: 李泌は申し上げた。「この身、陛下のお持ち物ではございません」。帝(代宗)は言われた。「先帝(粛宗)は宰相の地位で卿を招こうとしたが果たせなかった。今や朕のもとに仕える以上、その身はもはや卿自身ではなくなったのだ」。 李泌「陛下はいかなることを望まれますか?」 帝曰く「肉を食べ酒を飲み、家庭を持ち官禄を受けよ。俗人として生きるがよい」。 李泌は涙した。「二十年以上穀物を断つ生活を続けておりますのに…」 帝言う「泣いても始まらぬ!深宮の中で逃げ場などあるものか!」宦官に命じて李泌の両親を葬らせ、盧氏の娘と婚姻させた。費用は国庫から支弁し、光福坊に邸宅を与えた。 後に帝が斉王・李倓(りたん)について語られるとき、厚く追贈しようとした。 李泌「岐王や薛王の先例で太子位を贈るのが妥当かと」 帝は涙した。「我が弟こそ霊武での即位計画を立て中興事業を成就させたのだ。あの者らに及ぶはずがあろうか!忠孝を尽くしながら讒言(ざんげん)で命を落とした…生きていれば必ず皇太弟としていた」。承天皇帝の諡号を与え順陵へ葬った。 一方、崔寧(さいねい/元名は旰)が長安に参朝中、楊子琳(ようしりん)が成都を急襲。朝廷は慌てて崔寧を留後(りゅうご)として帰還させた。 幽州では朱希彩らが李懐仙を殺害して実権掌握。討伐軍も撃退されたため、やむなく彼の地位追認となった。 成都で弟・崔寛は楊子琳に敗戦続きだったところ、崔寧の妾・任氏が私財数十万を使って兵士数千を集め敵を打ち破る。 王縉(おうしん)が幽州へ赴くと、朱希彩は大軍で威圧的な出迎えを行った。 *** 解説: ● 皇帝の専制性と李泌への介入 - 「泣いても始まらぬ」発言に支配者の傲慢さが凝縮。代宗による精神生活統制は「隠遁者を国家有用の人材へ改造する」権力論理を示す - 婚姻強要・邸宅供与は温情の衣を纏った思想弾圧とも解釈可能 ● 李倓追贈劇の政治的意図 - 「皇太弟にしたはず」との発言には、自らの帝位継承正統性強化が背景 - 霊武擁立功績を過剰賛美することで「粛宗-代宗ライン」の神聖化を企図 ● 地方情勢に見る中央権威失墜 1. 成都:崔寧不在時の急襲に対し朝廷が事後追認(名誉称号授与による懐柔) 2. 幽州:朱希彩クーデター成功→討伐軍敗北で「宥す」選択肢しか残されず 3. 任氏の私財投入 :唐王朝に代わる新たな軍事資金調達システムの出現を示唆 ● 権力構造の本質的変化 - 皇帝個人の感情(李泌・李倓)と地方軍閥論理が並立 - 「温情」を装った中央介入と「やむを得ず追認」という二重基準に代宗期の脆弱性露呈 Translation took 1319.5 seconds. |
| 縉晏然而行,希彩迎謁甚恭。縉度終不可制,勞軍,旬餘日而還。 回紇可敦卒,庚辰,以右散騎常侍蕭昕為弔祭使。回紇庭詰昕曰:「我於唐有大功,唐奈何失信,市我馬,不時歸其直?」昕曰:「回紇之功,唐已報之矣。僕固懷恩之叛,回紇助之,與吐蕃連兵入寇,逼我郊畿。及懷恩死,吐蕃走,然後回紇懼而請和,我唐不忘前功,加惠而縱之。不然,匹馬不歸矣。乃回紇負約,豈唐失信邪!」回紇慚,厚禮而歸之。 丙戌,內出盂蘭盆賜章敬寺。設七廟神座,書尊號於幡上,百官迎謁於光順門。自是歲以為常。 八月,壬戌,吐蕃十萬眾寇靈武。丁卯,吐蕃尚贊摩二萬眾寇邠州,京師戒嚴;邠寧節度使馬璘擊破之。 庚午,河東節度使、同平章事辛雲京薨,以王縉領河東節度使,餘如故。 九月,壬申,命郭子儀將兵五萬屯奉天以備吐蕃。 丁丑,濟王環薨。 壬午,朔方騎將白元光擊吐蕃,破之。壬辰,元光又破吐蕃二萬眾於靈武。鳳翔節度使李抱玉使右軍都將臨洮李晟將兵五千擊吐蕃,晟曰:「以力則五千不足用;以謀則太多。」乃將千人兼行出大震關;至臨洮,屠吐蕃定秦堡,焚其積聚,虜堡帥慕容谷種而還。吐蕃聞之,釋靈州之圍而去。戊戌,京師解嚴。 穎州刺史李岵以事忤滑亳節度使令狐彰,彰使節度判官姚奭按行穎州,因代岵領州事,且曰:「岵不受代,即殺之。 |
現代日本語訳:王縉は悠然と進み、朱希彩は極めて恭しく迎えた。しかし王縉は彼を制御できないと悟り、兵士を慰労して十日余りで帰還した。 回紇のカトゥン(可敦:皇后)が逝去したため、庚辰の日に右散騎常侍・蕭昕を使者として派遣し弔問させた。回紇朝廷は蕭昕を詰問した。「我々は唐に大功があるのに、なぜ信用せず馬を買いながら代金を期日通り支払わないのか」。蕭昕が答えた。「回紇の功績には既に報いた。僕固懐恩が反乱した時、貴方は彼を支援し吐蕃と連合して侵攻し都近郊まで迫った。懐恩が死んで吐蕃が退くと、恐れて和睦を求めたのだ。唐は前功を忘れず寛大に赦した。さもなければ一匹の馬も帰らなかっただろう。これは回紇が約束を破ったのであり、唐が信用しないわけではない」。回紇側は恥じ入り、厚礼で蕭昕を送り返した。 丙戌の日、宮中より盂蘭盆(うらぼん)を章敬寺に下賜。七廟の神座を設け尊号を幡に記し、百官が光順門で迎拝した。以降これが恒例となる。 八月壬戌、吐蕃十万軍が霊武へ侵攻。丁卯には尚贊摩率いる二万が邠州(びんしゅう)を襲い都は戒厳令発布。邠寧節度使・馬璘が撃退した。 庚午、河東節度使で同平章事の辛雲京が逝去。王縉に河東節度使職を兼任させた(他の官職は元通り)。 九月壬申、郭子儀に五万兵を率い奉天に駐屯させ吐蕃に備えさせる。 丁丑、済王・李環が薨去。 壬午、朔方騎将・白元光が吐蕃軍を撃破。壬辰には霊武で二万の敵軍を再び打ち破った。鳳翔節度使・李抱玉は右軍都將(臨洮出身)の李晟に五千兵を与え討伐を命じたが、李晟は言う。「力攻めなら不足だが謀略なら多すぎる」。千兵を選び強行軍で大震関から出撃。臨洮に至り吐蕃の定秦堡(ていしんほ)を陥落させ貯蔵物を焼き払い、守将・慕容谷種を捕虜にして帰還した。これを知った吐蕃は霊州包囲を解いて撤退。戊戌に都の戒厳令が解除された。 潁州刺史・李岵(りこ)が滑亳節度使・令狐彰への反抗行為により、令狐彰は判官・姚奭(ようせき)を派遣し「潁州巡察」名目で刺史職務の引継ぎを行わせた。「もし交代拒否すれば直ちに誅殺せよ」と命じて。 解説:
※『資治通鑑』原文は編年体だが、現代語訳では主語補完・文脈再構築を行いつつ史実の核心(外交論争/軍事展開/権力構造)を抽出。特に吐蕃戦線の複数地域にわたる攻防は地理的推移を明確化した。 Translation took 2032.7 seconds. |
| 」岵知之,因激怒將士,使殺奭,與奭同死者百餘人。岵走依河南節度使田神功於汴州。冬,十月,乙巳,彰表言其狀,岵亦上表自理。上命給事中賀若察往按之。 丁卯,郭子儀自奉天入朝。 十一月,丁亥,以幽州留後朱希彩為節度使。 郭子儀還河中。元載以吐蕃連歲入寇,馬璘以四鎮兵屯邠寧,力不能拒,而郭子儀以朔方重兵鎮河中,深居腹中無事之地,乃與子儀及諸將議,徙璘鎮涇州,而使子儀以朔方兵鎮邠州,曰:「若以邊土荒殘,軍事不給,則以內地租稅及運金帛以助之。」諸將皆以為然。十二月,己酉,徙馬璘為涇原節度使,以邠、寧、慶三州隸朔方。璘先往城涇州,以都虞候段秀實知邠州留後。 初,四鎮、北庭兵遠赴中原之難,久羈旅,數遷徙,四鎮歷汴、虢、鳳翔,北庭歷懷、絳、鄜然後至邠,頗積勞弊。及徙涇州,眾皆怨誹。刀斧兵馬使王童之謀作亂,期以辛酉旦警嚴而發。前夕,有告之者;秀實陽召掌漏者,怒之,以其失節,令每更來白,輒延之數刻,遂四更而曙,童之不果發。秀實欲討之而亂跡未露,恐軍中疑其冤。告者又雲,「今夕欲焚馬坊草,因救火謀作亂。中夕,火果發起,秀實命軍中行者皆止,坐者勿起,各整部伍,嚴守要害。童之白請救火,不許。及旦,捕童之及其黨八人,皆斬之。下令曰:「後徙者族,流言者刑!」遂徙於涇。 |
現代日本語訳:岵はこのことを知ると、兵士たちの怒りを煽って奭を殺害させた。これにより奭とともに百人以上が死亡した。岵は逃亡し汴州に駐屯する河南節度使・田神功のもとに身を寄せた。冬十月乙巳(つちのとうし)の日、朝廷は状況報告を受け事件を顕彰すると同時に、岵も自らの潔白を訴える上表文を提出した。皇帝は給事中である賀若察に現地調査を命じた。 丁卯(ひのとう)の日、郭子儀が奉天から朝廷へ参内した。 十一月丁亥(ひのとゐ)、幽州留後であった朱希彩を正式に節度使に任命した。 郭子儀は河中地方に帰還した。宰相・元載は吐蕃が連年侵攻する状況下で、馬璘率いる四鎮兵が邠寧地域を防衛しながらも兵力不足であることに対し、郭子儀の朔方精鋭部隊が内地(河中)で無事に駐留していることを問題視した。そこで諸将と協議し「辺境は荒廃して軍需物資が不足する場合は内陸部の租税や金帛を輸送して支援する」との条件を示しつつ、馬璘を涇州へ移駐させ、郭子儀に朔方兵を率いて邠州を守備させる案を提案。全将軍がこれに同意した。 十二月己酉(つちのととり)、正式に馬璘を涇原節度使として異動させると同時に、邠州・寧州・慶州の三州を朔方軍管轄下へ編入した。先発した馬璘が涇州城に入る一方、段秀実を都虞候(軍法監察官)として邠州留後事務代理とした。 経緯:四鎮及び北庭から中原救援に駆けつけた兵士たちは長期間の駐屯と度重なる移転(四鎮軍:汴→虢→鳳翔/北庭軍:懐→絳→鄜を経て邠州)で疲弊していた。今回の涇州移動命令に怨嗟が爆発し、刀斧兵馬使・王童之らは叛乱計画を企てた。決行日時を辛酉(かのととり)未明「警厳」(夜明け前の戒厳時間帯)と定めたが、前夜に密告者が現れた。 段秀実は策を用い、時刻管理者を故意に叱責し「報時規則違反」として各更(2時間単位の夜間区分)ごとに報告させるよう指示。その際わざと数刻(約30分~1時間)遅らせて報告させたため、四更(午前1-3時頃)で既に夜明けとなり童之は決行できなかった。 叛乱確証が不十分な段秀実が躊躇している中、「今夜は馬小屋の草を燃やし消火混乱に乗じて挙兵する」との情報を得る。真夜中に火災発生すると、秀実は全軍に対し「移動中の兵士は停止」「座っている者は起立禁止」「各部隊は陣形整え要所死守」と厳命した。童之の消火参加願い出も拒否。 夜明け後、王童之ら首謀者8名を捕縛し全員斬首。「今後移駐命令違反者は一族処刑、流言飛語は厳罰」との布告下で強行移駐を完了させた。 解説:
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| 癸亥,西川破吐蕃萬餘眾。 平盧行軍司馬許杲將卒三千人駐濠州不去,有窺淮南意,淮南節度使崔圓令副使元城張萬福攝濠州刺史;杲聞,即提卒去,止當塗。是歲,上召萬福,以為和州刺史、行營防禦使,討杲。萬福至州,杲懼,移軍上元,又北至楚州大掠,淮南節度使韋元甫命萬福追討之;未至淮陰,杲為其將康自勸所逐。自勸擁兵繼掠,循淮而東,萬福倍道追而殺之,免者什二三。元甫將厚賞將士,萬福曰:「官健常虛費衣糧,無所事。今方立小功,不足過賞,請用三分之一。」 代宗睿文孝武皇帝中之上大曆四年(己酉,公元七六九年) 春,正月,丙子,郭子儀入朝,魚朝恩邀之遊章敬寺。元載恐其相結,密使子儀軍吏告子儀曰:「朝恩謀不利於公。」子儀不聽。吏亦告諸將,將士請衷甲以從者三百人。子儀曰:「我,國之大臣,彼無天子之命,安敢害我!若受命而來,汝曹欲何為!」乃從家僮數人而往。朝恩迎之,驚其從者之約。子儀以所聞告,且曰:「恐煩公經營耳。」朝恩撫膺捧手流涕曰:「非公長者,能無疑乎!」壬午,流李岵於夷州。 乙酉,郭子儀還河中。 辛卯,賜李岵死。 二月,壬寅,以京兆之好畤、鳳翔之麟游、普潤隸神策軍,從魚朝恩之請也。 楊子琳既敗還瀘州,招聚亡命,得數千人,沿江東下,聲言入朝;涪州守捉使王守仙伏兵黃草峽,子琳悉擒之,擊守仙於忠州,守仙僅以身免。 |
現代日本語への翻訳: 癸亥の日、西川が吐蕃軍一万余を撃破した。 平盧行軍司馬の許杲が兵卒三千人を率いて濠州に駐屯し撤退せず、淮南を窺う意図あり。淮南節度使崔円は副使・元城出身の張万福を代理濠州刺史に任命したところ、杲はこれを聞くや直ちに軍を引き揚げ当塗で停止した。同年、皇帝(代宗)が万福を召還し和州刺史・行営防禦使に任じ、杲討伐を命ず。万福が州に到着すると、杲は恐れて上元へ移駐し、更に北上して楚州で大規模な略奪を行う。淮南節度使韋元甫は万福に追撃を下令したが淮陰に至る前に、杲は配下の康自勸によって追放される事態となる。自勸は兵を擁して引き続き掠奪し、淮水沿いに東進したため、万福は倍速で追撃してこれを斬殺し、生き残った者は十人中二・三人であった。元甫が将士へ厚く賞を与えようとしたところ、万福は「官健(正規兵)は常に衣糧を浪費しておきながら何の役にも立たない。今ささやかな功績を立てただけで過剰な恩賞は不要です。三分の一で十分でしょう」と進言した。 代宗睿文孝武皇帝の中巻上 大暦四年(己酉、西暦769年) 春正月丙子日、郭子儀が入朝すると魚朝恩が章敬寺遊覧に招待する。元載は両者の結託を恐れ、密かに子儀配下の軍吏を使い「朝恩が貴公に対し害意を抱いている」と警告させたが、子儀は聞き入れなかった。軍吏が諸将にも伝えたため、将士三百人が甲冑を服の下に着けて従軍しようとしたが、子儀は言下に拒否。「私は国家の大臣だ。彼(魚朝恩)に天子の命令がない限り危害など加えられまい。仮に勅命を受けたならば、お前たちがどうにかできるものか」と。僅かな家僕だけを連れて出向くと、朝恩はその簡素な供回りに驚いた。子儀は事前の警告について告げ「貴公の手間を省こうと思いまして」と言うと、朝恩は胸を叩き涙ながらに「貴公のような人格者でなければ疑わなかったでしょう!」と感激した。壬午日、李岵が夷州へ流罪となる。 乙酉日、郭子儀が河中へ帰還する。 辛卯日、李岵に死が賜わる。 二月壬寅日、魚朝恩の要請により京兆府好畤県・鳳翔府麟游県及び普潤県を神策軍管轄下に移す。 楊子琳は敗退後瀘州へ戻り、亡命者数千人を集めて長江沿いに東進し「入朝する」と宣言した。涪州守捉使王守仙が黄草峡に伏兵を置くも、子琳に全員捕縛され、忠州で反撃を受けた守仙は辛うじて単身逃亡した。 註釈: 1. 歴史的呼称の扱い:官職名(行軍司馬・節度使など)や軍事用語(官健)は当時の制度を反映しつつ現代日本語に直訳。固有名詞(章敬寺、黄草峡等)は現行表記で維持 2. 政治力学の背景:郭子儀と魚朝恩・元載の権力闘争において、子儀が自らの地位の安定性を逆手に取って不信感を氷解させた心理戦術が見所。唐代宦官勢力と将軍団の緊張関係を示す典型事例 3. 軍事行動描写:張万福の追撃作戦「倍道追而殺之」は強行軍による殲滅戦として再現。「什二三(十人中二~三人)」の生還率表現は原典の数的正確さを保持 4. 思想的核心:「大臣無私慮」の精神-子儀が家臣団の警護を拒否した決断には、唐代士大夫の「君命あるべし、臣節死すとも奪うべからず」(『忠経』)という倫理観が透視される 5. 社会経済的示唆:張万福の恩賞削減提案は安史の乱後の唐軍が抱えた兵站浪費問題と府兵制崩壊による傭兵化現象を暗示。当時の軍事費逼迫状況が垣間見える 6. 紀年法調整:干支(癸亥)・皇帝紀元(大暦四年)に西暦併記を付加し時間軸を明確化。「春正月」等の月次表記は現代でも理解可能なため維持 7. 地理的注釈:「沿江東下」「循淮而東」等の進軍経路は長江・淮水という大河川を軸とした当時の主要軍事ルートであることを暗示的に表現 (翻訳方針:漢文訓読調を排し現代語体で統一。史実の厳密性保持と可読性向上の両立を図る。『資治通鑑』原典が持つ簡潔峻烈な筆致は、動詞の選択「提卒去」「擁兵繼掠」等において鋭いニュアンスで再現) Translation took 1034.7 seconds. |
| 子琳遂殺夔州別駕張忠,據其城。荊南節度使衛伯玉欲結以為援,以夔州許之,為之請於朝。陽曲人劉昌裔說子琳遣使詣闕請罪,子琳從之。乙巳,以子琳為峽州團練使。 初,僕固懷恩死,上憐其有功,置其女宮中,養以為女。回紇請以為可敦,夏,五月,辛卯,冊為崇徽公主,嫁回紇可汗。壬辰,遣兵部侍郎李涵送之,涵奏祠部郎中虞鄉董晉為判官。六月,丁酉,公主辭行,至回紇牙帳。回紇來言曰:「唐約我為市,馬既入,而歸我賄不足,我於使人乎取之。」涵懼,不敢對,視晉,晉曰:「吾非無馬而與爾為市,為爾賜不既多乎!爾之馬歲至,吾數皮而歸資。邊吏請致詰也,天子念爾有勞,故下詔禁侵犯。諸戎畏我大國之爾與也,莫敢校焉。爾之父子寧而畜馬蕃者,非我誰使之!」於是其眾皆環晉拜。既又相帥南面序拜,皆舉兩手曰:「不敢有意大國。」 戊申,王縉表讓副元帥、都統、行營使,許之。 辛酉,郭子儀自河中遷於邠州,其精兵皆自隨,餘兵使裨將將之,分守河中、靈州。軍士久家河中,頗不樂徙,往往自邠逃歸;行軍司馬嚴郢領留府,悉捕得,誅其渠帥,眾心乃定。 秋,九月,吐蕃寇靈州;丁丑,朔方留後常謙光擊破之。 河東兵馬使王無縱、張奉璋等恃功驕蹇,以王縉書生,易之,多違約束。縉受詔發兵詣鹽州防秋,遣無縱、奉璋將步騎三千赴之。 |
翻訳文(現代日本語)子琳はついに夔州別駕・張忠を殺害し、同地を占拠した。荊南節度使・衛伯玉は彼と手を結んで支援を得ようと考え、朝廷に働きかけて夔州統治権を与えるよう取り計らった。陽曲出身の劉昌裔が子琳を説得し使者を派遣して罪を詫びさせると、子琳はこれを受け入れた。乙巳(きのとみ)の日、子琳は峡州団練使に任命された。 かつて僕固懐恩が没した際、皇帝はその功績を惜しみ娘を後宮に入れて養女とした。回紇がこの女性を可敦(皇后)として迎えたいと要請すると、夏五月辛卯(かのとうぼう)の日、「崇徽公主」に冊封して回紇可汗に嫁がせた。壬辰(みずのえたつ)の日には兵部侍郎・李涵を送使としたが、李涵は祠部郎中で虞郷出身の董晋を行軍判官として推挙した。六月丁酉(ひのとみ)、公主が本営に到着すると回紇側が抗議した。「唐は交易を約束しながら馬を受け取った後、十分な報酬を与えないため使者から徴収する」と。李涵は恐怖で返答できず董晋を見たところ、彼は言下に反論した。「我々に馬がないわけではないのに交易しているのは恩恵を与えるためだ。毎年届けるお前たちの馬には十分な代価を払ってきた。辺境役人が詰問しようとした時も天子が功労を考慮し侵犯禁止令を下したのだ。諸部族が唐とお前たちの結びつきを恐れて争わないのもそのためだ。お前たち親子が平和に馬を繁殖させられるのは我々のお陰ではないか!」すると回紇集団は董晋を取り囲んで礼拝し、さらに列を整えて南面(皇帝の方角)に向かい両手を挙げ「大国には背きません」と叫んだ。 戊申(つちのえさる)の日、王縉が副元帥・都統・行営使の辞任を上表し許可された。 辛酉(かのととり)、郭子儀が河中から邠州に移駐。精鋭部隊は全員随伴させたが、残留兵には副将を指揮官として河中と霊州を守備させた。長年河中に駐屯していた兵士たちは転地を嫌い、続々と邠州から逃亡したため行軍司馬・厳郢が残留府を掌握し首謀者を処刑してようやく鎮静化した。 秋九月、吐蕃が霊州に侵攻。丁丑(ひのとうし)に朔方留後・常謙光がこれを撃退。 河東兵馬使の王無縦と張奉璋らは功績を恃んで傲慢になり、文人である王縉を見下して命令違反を繰り返した。詔により塩州防衛(吐蕃対策)のために出兵することになった際、王縉は彼らに歩兵・騎兵三千を率いさせた。 解説
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| 奉璋逗留不進,無縱托他事擅入太原城;縉悉擒斬之,並其黨七人,諸將悍戾者殆盡,軍府始安。 冬,十月,常謙光奏吐蕃寇鳴沙,首尾四十里。郭子儀遣兵馬使渾瑊將銳兵五千救靈州,子儀自將進至慶州,聞吐蕃退,乃還。 黃門侍郎、同平章事杜鴻漸以疾辭位,壬申,許之;乙亥,薨。鴻漸病甚,令僧削髮,遺令為塔以葬。 丙子,以左僕射裴冕同平章事。初,元載為新平尉,冕嘗薦之,故載舉以為相,亦利其老病易制。受命之際,蹈舞仆地,載趨而扶之,代為謝詞。十二月,戊戌,冕薨。 代宗睿文孝武皇帝中之上大曆五年(庚戌,公元七七零年) 春,正月,己巳,羌奠白對蓬等各帥部落內屬。 觀軍容宣慰處置使、左監門衛大將軍兼神策軍使、內侍監魚朝恩,專典禁兵,寵任無比,上常與議軍國事,勢傾朝野。朝恩好於廣座恣談時政,陵侮宰相,元載雖強辯,亦拱默不敢應。 神策都虞候劉希暹,都知兵馬使王駕鶴,皆有寵於朝恩;希暹說朝恩於北軍置獄,使坊市惡少年羅告富室,誣以罪惡,捕系地牢,訊掠取服,籍沒其家資入軍,並分賞告捕者;地在禁密,人莫敢言。朝恩每奏事,以必允為期;朝廷政事有不豫者,輒怒曰:「天下事有不由我者邪!」上聞之,由是不懌。 朝恩養子令徽尚幼,為內給使,衣綠,與同列忿爭,歸告朝恩。 |
現代日本語訳:奉璋が進軍を怠り、無断で太原城へ侵入したため、縉は彼と配下七名を捕らえて処刑し、これにより暴虐な将兵の大半を排除して軍府に安定をもたらした。 冬十月、常謙光より吐蕃が鳴沙を襲撃(行軍隊列四十里)との報告を受けた郭子儀は、渾瑊率いる精鋭五千を霊州救援へ派遣。自ら慶州まで進んだが吐蕃撤退の報を得て帰還した。 杜鴻漸(黄門侍郎・同平章事)が病により辞任を申し出ると、壬申の日に許可され、乙亥に死去。重篤時に僧侶による剃髪を受け、遺言で仏塔埋葬を指示。 丙子には左僕射裴冕が同平章事に任命された。元載(当時新平県尉)をかつて推挙した縁から老病の裴冕を登用し易制御を見込んだ。拝命時に転倒した裴冕を元載が扶け謝辞代読する一幕も。十二月戊戌に裴冕死去。 大暦五年(庚戌、770年)春正月己巳、羌族首長の白対蓬ら諸部族が帰順。 魚朝恩(観軍容宣慰処置使・神策軍使等兼務)は禁軍を掌握し絶大な寵遇を受け国政にも介入。高座で時政を論じ宰相を侮る言動が常態化しており、元載すら沈黙せざるを得なかった。 配下の劉希暹と王駕鶴は魚朝恩の信任厚く、北軍に私設監獄を設置させ悪党を使い富裕層へ冤罪を捏造。財産没収後は密告者へ分配する不正が横行した(場所が禁中近辺のため告発不可能)。魚朝恩は奏上の不許可や政務への事前相談なしに激怒し「天下事わが意のままならざることあらんや」と叫ぶほど。皇帝もこれを不快視。 養子・令徽(内給使)は幼少で緑袍を着用していたが同僚との紛争後、魚朝恩へ告げ口した。 解説:
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| 朝恩明日見上曰:「臣子官卑,為儕輩所陵,乞賜之紫衣。」上未應,有司已執紫衣於前,令徽服之,拜謝。上強笑曰:「兒服紫,大宜稱。」心愈不平。 元載測知上指,乘間奏朝恩專恣不軌,請除之。上亦知天下共怨怒,遂令載為方略。朝恩每入殿,常使射生將周皓將百人自衛,又使其黨陝州節度使皇甫溫握兵於外以為援;載皆以重賂結之,故朝恩陰謀密語,上一一聞之,而朝恩不之覺也。 辛卯,載為上謀,徙李抱玉為山南西道節度使,以溫為鳳翔節度使,外重其權,實內溫以自助也。載又請割郿、虢、寶雞、鄠、盩厔隸抱玉,興平、武功、天興、扶風隸神策軍,朝恩喜於得地,殊不以載為虞,驕橫如故。 壬辰,加河南尹張延賞為東京留守;罷河南等道副元帥,以其兵屬留守。延賞,嘉貞之子也。 二月,戊戌,李抱玉徙鎮盩厔,軍士憤怒,大掠鳳翔坊市,數日乃定。 劉希暹頗覺上意異,以告魚朝恩,朝恩始疑懼。然上每見之,恩禮益隆,朝恩亦以此自安。皇甫溫至京師,元載留之未遣,因與溫及周皓密謀誅朝恩。既定計,載白上。上曰:「善圖之,勿反受禍!」 三月,癸酉,寒食,上置酒宴貴近於禁中,載守中書省。宴罷,朝恩將還營,上留之議事,因責其異圖。朝恩自辯,語頗悖慢,皓與左右擒而縊殺之,外無知者。上下詔,罷朝恩觀軍容等使,內侍監如故。 |
現代日本語訳翌日、魚朝恩が皇帝に謁見し述べた。「臣の子(令徽)は官位が低く、同輩から侮られております。どうか紫衣を賜りたい」。皇帝が返答しないうちに、役人が既に紫衣を取り出して差し出したため、令徽に着用させ拝礼感謝させた。皇帝は無理やり笑いながら「子供が紫衣を着るとは、実によく似合う」と言ったが、内心の不満はますます強まった。 元載は皇帝の真意を察し、隙を見て上奏した。「魚朝恩は専横で法を犯しております。どうか除くよう」。皇帝も天下の怨みが集中していることを承知していたため、元載に策を練らせた。魚朝恩は殿中に入る際、常に射生将・周皓に百人の兵士を率いさせ警護にあたらせ、さらに腹心の陝州節度使・皇甫温に外部で軍勢を掌握させ後詰めとしていた。元載はこれら両者へ多額の賄賂を贈り懐柔したため、魚朝恩の密謀や内談は皇帝に逐一伝わりながらも、本人は全く気づかなかった。 辛卯の日(3月10日)、元載は皇帝に献策した。「李抱玉を山南西道節度使に転任させ、代わって皇甫温を鳳翔節度使としましょう。表向き権限強化のように見せつつ、実は温を朝廷側へ引き入れるのです」。さらに郿・虢・宝鶏・鄠・盩厔の地を李抱玉に、興平・武功・天興・扶風を神策軍(魚朝恩配下)に割譲するよう奏上した。魚朝恩は領地拡大を喜び元載を全く警戒せず、相変わらず傲慢な振る舞いを続けた。 壬辰の日(3月11日)、河南尹・張延賞を東京留守に昇進させた。副元帥職を廃止し軍権を同留守へ統合した。延賞は名臣・張嘉貞の子である。 2月戊戌の日(17日)、李抱玉が盩厔へ移駐すると、兵士たちが激怒して鳳翔で掠奪暴動を起こし、数日後にようやく鎮圧された。 劉希暹は皇帝の態度変化に気づき魚朝恩へ報告したため、朝恩も疑念と恐れを抱き始めた。しかし皇帝は会う度に恩寵を厚くしたので安心してしまった。皇甫温が長安入りすると元載は彼を滞留させ、周皓らと共に暗殺計画を練った。策が固まると皇帝へ報告。「慎重に実行せよ。逆に災いを受けるな」との勅許を得た。 3月癸酉の日(23日)、寒食節に宮中で宴会が開かれた。宴終了後、魚朝恩を議事と称して留め置き「謀反の疑いあり」と糾弾した。彼が逆上して乱暴な言葉を返すや周皓らが絞殺し、外部に露見することはなかった。皇帝は詔を下し観軍容使等の職務のみ停止。「内侍監としての身分は従前通り」と発表した。 解説
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| 詐云「朝恩受詔乃自縊」,以屍還其家,賜錢六百萬以葬。 丁丑,加劉希暹、王駕鶴御史中丞,以慰安北軍之心。丙戌,赦京畿系囚,命盡釋朝恩黨與,且曰:「北軍將士,皆聯爪牙,並宜仍舊。朕今親御禁旅,勿有憂懼。」 己丑,罷度支使及關內等道轉運、常平、鹽鐵使,其度支事委宰相領之。敕皇甫溫還鎮於陝。 元載既誅魚朝恩,上寵任益厚,載遂志氣驕溢;每眾中大言,自謂有文武才略,古今莫及,弄權舞智,政以賄成,僭侈無度。吏部侍郎楊綰,典選平允,性介直,不附載。嶺南節度使徐浩,貪而佞,傾南方珍貨以賂載。辛卯,載以綰為國子祭酒,引浩代之。浩,越州人也。載有丈人自宣州來,從載求官,載度其人不足任事,但贈河北一書而遣之。丈人不悅,行至幽州,私發書視之,書無一言,惟署名而已。丈人大怒,不得已試謁院僚,判官聞有載書,大驚,立白節度使,遣大校以箱受書,館之上捨,留宴數日,辭去,贈絹千匹。其威權動人如此。 夏,四月,庚子,湖南兵馬使臧玠殺觀察使崔灌;澧州刺史楊子琳起兵討之,取賂而還。 涇原節度使馬璘屢訴本鎮荒殘,無以贍軍,上諷李抱玉以鄭、穎二州讓之;乙巳,以璘兼鄭穎節度使。 庚申,王縉自太原入朝。 癸未,以左羽林大將軍辛京杲為湖南觀察使。 荊南節度使衛伯玉遭母喪,六月,戊戌,以殿中監王昂代之。 |
現代日本語訳魚朝恩が詔勅を受けて自害したと偽って発表し、遺体をその家に返還するとともに葬儀費用として銭六百万文を与えた。 丁丑(ていちゅう)の日、劉希暹(りゅうきせん)と王駕鶴(おうがかく)を御史中丞に昇進させ、北軍将兵の不安を慰撫した。丙戌(へいじゅつ)の日には京畿地方の囚人を赦免し、魚朝恩派閥の者たちは全員釈放するよう命じた。さらに「北軍将士はいずれも朕が手足のような存在であり従来通り任務に当たるように。朕自ら近衛軍を指揮しているから心配無用である」と宣言した。 己丑(きちゅう)の日、度支使および関内道などの転運使・常平使・塩鉄使を廃止し、財政事務は宰相が直接管轄することとした。皇甫温に陝州へ帰還駐屯させる勅令が出された。 元載(げんさい)は魚朝恩誅殺後、皇帝の信頼をますます深め驕り高ぶるようになった。「自分には古今無双の文武の才がある」と公然と豪語し、権謀術数を弄して賄賂が政治を動かす状態を作り出した。吏部侍郎楊綰(ようわん)は公平な人事を行い清廉で元載に媚びなかったため、嶺南節度使徐浩(じょこう)―越州出身の貪欲で追従巧みな人物が南方珍宝を集めて元載へ贈賄した―と交代させられた。辛卯(しんぼう)の日、楊綰は国子祭酒に左遷され代わりに徐浩が登用された。 元載の岳父が宣州から訪れ官職を求めたところ、能力不足と見た元載は河北地方への紹介状一通を与えただけで追い返した。不満を持った岳父が幽州で密かに封筒を開くと中身は署名のみの白紙だった。怒りつつも役所を訪れると判官が元載の書簡と知って大慌てし、節度使に報告すると高級将校が箱に入れて丁重に受け取った。上等宿舎で数日間もてなされ帰路には絹千匹を餞別として贈られた。これほどまでに元載の権勢は恐れられていたのである。 夏4月庚子(こうび)の日、湖南兵馬使臧玠が観察使崔灌を殺害したため澧州刺史楊子琳が出兵討伐したが賄賂を受け取って撤兵した。 訳注時代背景唐代宗大暦年間(766-779年)、宦官魚朝恩誅殺後の政情不安定期を描く。北軍掌握と元載専権が焦点で、中央集権の脆弱性と地方軍閥の台頭を示す。 制度・用語解説
人物関係
政治的特徴
当時価値換算
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| 伯玉諷大將楊鉥等拒昂留己;甲寅,詔起復伯玉鎮荊南如故。 秋,七月,京畿饑,米斗千錢。 劉希暹內常自疑,有不遜語,王駕鶴以聞。九月,辛未,賜希暹死。 吐蕃寇永壽。 冬,十一月,郭子儀入朝。 上悉知元載所為,以其任政日久,欲全始終,因獨見,深戒之;載猶不悛,上由是稍惡之。 載以李泌有寵於上,忌之,言:「泌常與親故宴於北軍,與魚朝恩親善,宜知其謀。」上曰:「北軍,泌之故吏也,故朕使之就見親故。朝恩之誅,泌亦預謀,卿勿以為疑。」載與其黨攻之不已;會江西觀察使魏少游求參佐,上謂泌曰:「元載不容卿,朕今匿卿於魏少游所,俟朕決意除載,當有信報卿,可束裝來。」乃以泌為江西判官,且屬少游使善待之。 代宗睿文孝武皇帝中之上大曆六年(辛亥,公元七七一年) 春,二月,壬寅,河西、隴右、山南西道副元帥兼澤潞、山南西道節度使李抱玉上言:「凡所掌之兵,當自訓練。今自河、隴達於扶、文,綿亙二千餘里,撫御至難。若吐蕃兩道俱下,臣保固汧、隴則不救梁岷,進兵扶、文則寇逼關輔,首尾不贍,進退無從。願更擇能臣,委以山南,使臣得專備隴坻。」詔許之。 郭子儀還邠州。 嶺南蠻酋梁崇牽自稱平南十道大都統,據容州,與西原蠻張侯、夏永等連兵攻陷城邑,前容管經略使元結等皆寄治籐梧。 |
現代日本語訳伯玉は大将軍・楊鉥らをそそのかし、昂が自分を留めようとする動きを拒否させた。甲寅(こういん)の日、詔勅により伯玉は喪中にも関わらず復帰を命じられ、従前通り荊南鎮守使に任ぜられた。 秋七月、都周辺で飢饉が発生し、米一斗あたり千銭まで価格が高騰した。 吐蕃軍が永寿を侵犯する。 代宗帝は元載の行動をすべて把握していたが、彼が長期政権を担っていたことから情誼を示し、単独謁見で厳重に戒めた。しかし元載は改めず、皇帝は次第に嫌悪感を強めた。 代宗皇帝 治世中巻上(大暦六年・辛亥/西暦771年) 嶺南蛮族首長・梁崇牽が「平南十道大都統」と自称し容州を占拄。西原蛮の張侯・夏永らと連合して諸都市を陥落させたため、前容管経略使・元結らは藤州や梧州に仮の政庁を置いていた。 解説
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| 經略使王翃至籐州,以私財募兵,不數月,斬賊帥歐陽珪,馳詣廣州,見節度使李勉,請兵以復容州,勉以為難,翃曰:「大夫如未暇出兵,但乞移牒諸州,揚言出千兵為援,冀藉聲勢,亦可成功。」勉從之。翃乃與義州刺史陳仁璀、籐州刺史李曉庭等結盟討賊。翃募得三千餘人,破賊數萬眾;攻容州,拔之,擒梁崇牽,前後大小百餘戰,盡復容州故地。分命諸將襲西原蠻,復鬱林等諸州。 先是,番禺賊帥馮崇道,桂州叛將朱濟時,皆據險為亂,陷十餘州,官軍討之,連年不克;李勉遣其將李觀與翃並力攻討,悉斬之,三月,五嶺皆平。 河北旱,米斗千錢。 夏,四月,己未,澧州刺史楊子琳入朝,上優接之,賜名猷。 庚申,以典內董秀為內常侍。 吐蕃請和;庚辰,遣兼御史大夫吳損使於吐蕃。 成都司錄李少良上書言元載奸贓陰事,上置少良於客省。少良以上語告友人韋頌,殿中侍御史陸珽以告載,載奏之。上怒,下少良、頌、珽御史台獄。御史奏少良、頌、珽凶險比周,離間君臣,五月,戊申,赦付京兆,皆杖死。 秋,七月,丙午,元載奏,凡別敕除文、武六品以下官,乞令吏部、兵部無得檢勘,從之。時載所奏擬多不遵法度,恐為有司所駁故也。 八月,丁卯,淮西節度使李忠臣將兵二千屯奉天防秋。 上益厭元載所為,思得士大夫之不阿附者為腹心,漸收載權。 |
現代日本語訳:経略使であった王翃は藤州に着任すると、私財を投じて兵士を募集した。数か月も経たぬうちに賊の首魁・欧陽珪を討ち取り、広州へ急行して節度使・李勉と面会し、容州奪還のための援軍を要請した。李勉は困難であるとしたが、王翃は「貴殿が出兵の余裕がないのであれば、諸州に通達文書を回し『千人の兵を救援として派遣する』と宣言して頂けませんか?その威勢を借りて成功させる所存です」と進言した。李勉がこれを受け入れると、王翃は義州刺史・陳仁璀や藤州刺史・李曉庭らと同盟し賊討伐に乗り出した。三千余りの兵で数万の賊軍を破り、容州を奪還して梁崇牽を生け捕った。百回以上の戦いを経て旧来の容州領土を完全回復すると、配下の将軍たちに命じて西原蛮(西南部族)を襲撃させ、鬱林など周辺諸州も平定した。 かねてより番禺では賊首・馮崇道が、桂州では反乱武将・朱済時がそれぞれ要害の地で勢力を張り十数州を占拠していた。官軍は数年討伐しても制圧できず、李勉は配下の将・李観を王翃と共同作戦に派遣し両者を斬殺した。こうして三月には五嶺(広東~広西)全域が平定された。 河北地方で大旱魃が発生し米価は一斗あたり千銭まで暴騰した。 夏四月己未の日、澧州刺史・楊子琳が朝廷に参内すると皇帝(唐代宗)は厚遇して「猷」の名を賜った。庚申には典内であった董秀を内常侍に任命した。 吐蕃が講和を求めると、庚辰の日に御史大夫代理・呉損を使者として派遣した。 成都司録・李少良が宰相・元載の収賄と陰謀を告発する上奏を行うと、皇帝は彼を客省(賓客接待所)に留め置いた。しかし李少良が皇帝との会話内容を友人・韋頌に漏らし、殿中侍御史・陸珽がこれを元載に通報したため、元載は直ちに上奏して訴えた。激怒した皇帝は三人全員を御史台の監獄へ投じさせた。検察官(御史)による「李少良らは凶悪で結託し君臣関係を裂いた」との弾劾を受け、五月戊申日に京兆府に引き渡され杖刑により皆殺害された。 秋七月丙午、元載の上奏が認められ、「勅命によって任命される文官・武官六品以下は吏部・兵部による審査を免除する」と定められた。これは元載の人選申請が法令無視であることが多く、役所から差し戻されるのを恐れたためであった。 八月丁卯、淮西節度使・李忠臣が二千の兵を率い吐蕃防衛任務で奉天に駐屯した。 皇帝は次第に元載の専横を疎ましく思い、「へつらわない士大夫」を側近に求めるようになり、徐々に彼の権限を削減していった。 解説:
※ 原文は『資治通鑑』巻二百二十四(唐代宗大暦六年~八年/771-773年)に基づく。司馬光による統治者教訓としての編集意図が色濃く反映されています(例:王翃=有能官僚賛美/元載=権臣批判)。 Translation took 2860.7 seconds. |
| 丙子,內出制書,以沂西觀察使李棲筠為御史大夫,宰相不知,載由是稍絀。 九月,吐蕃下青石嶺,軍於那城;郭子儀使人諭之,明日,引退。 是歲,以尚書右丞韓滉為戶部侍郎、判度支。自兵興以來,所在賦斂無度,倉庫出入無法,國用虛耗。滉為人廉勤,精於簿領,作賦斂出入之法,御下嚴急,吏不敢欺;亦值連歲豐穰,邊境無寇,自是倉庫蓄積始充。滉,休之子也。 代宗睿文孝武皇帝中之上大曆七年(壬子,公元七七二年) 春,正月,甲辰,回紇使者擅出鴻臚寺,掠人子女;所司禁之,毆擊所司,以三百騎犯金光、朱雀門。是早,宮門皆閉,上遣中使劉清潭諭之,乃止。三月,郭子儀入朝;丙午,還邠州。 夏,四月,吐蕃五千騎至靈州,尋退。 五月,乙未,赦天下。 秋,七月,癸巳,回紇又擅出鴻臚寺,逐長安令邵說至含光門街,奪其馬;說乘他馬而去,弗敢爭。 盧龍節度使朱希彩既得位,悖慢朝廷,殘虐將卒;孔目官李懷瑗因眾怒,伺間殺之。眾未知所從;經略副使朱泚營於城北,其弟滔將牙內兵,潛使百餘人於眾中大言曰:「節度使非朱副使不可;」眾皆從之。泚遂權知留後,遣使言狀。冬,十月,辛未,以泚為檢校左常侍、幽州、盧龍節度使。 十二月,辛未,置永平軍於滑州。 代宗睿文孝武皇帝中之上大曆八年(癸丑,公元七七三年) 春,正月,昭義節度使、相州刺史薛嵩薨。 |
現代日本語訳:丙子(へいし)の日、宮中から詔書が出され、沂西観察使・李棲筠(りせいいん)を御史大夫に任命した。宰相はこの人事を知らず、元載(げんさい)はこれにより次第に勢力を減じた。 九月、吐蕃が青石嶺を攻略し那城で駐屯すると、郭子儀(かくしぎ)が使者を送って説得にあたり、翌日に彼らは撤退した。 同年、尚書右丞・韓滉(かんこう)を戸部侍郎兼判度支に任命。安史の乱以降、各地で税徴収が無制限となり倉庫管理も法規なく国費は浪費されていた。清廉勤勉な韓滉は帳簿処理に精通し、徴税と支出に関する法令を整備。部下統率は厳格迅速で役人の不正を許さず、加えて連年の豊作と辺境の平穏も重なり、ここに初めて倉庫貯蔵が充足した(韓滉は名臣・韓休のかんきゅう)の子である)。 代宗皇帝 大暦七年(壬子年、772年) 春正月甲辰、回紇使者が鴻臚寺を無断外出し民間人の子女を掠奪。制止する役人に暴行した上、騎兵三百で金光門・朱雀門を襲撃。早朝より宮門は閉鎖され皇帝は宦官劉清潭を使者として派遣し説得にあたらせた結果、事件は収束した。 三月、郭子儀が入朝。丙午の日に邠州(ひんしゅう)へ帰還。 夏四月、吐蕃騎兵五千が霊州に侵攻するも間もなく撤退。 五月乙未、恩赦を全国で施行。 秋七月癸巳、再び回紇使者が鴻臚寺から無断外出。長安県令・邵説(しょうえつ)を含光門街まで追いかけ馬を奪取したが、邵説は別の馬で逃走し争わなかった。 盧竜節度使・朱希彩(しゅきさい)は地位を得ると朝廷に背き将兵に暴虐を振るったため、孔目官・李懐瑗(りかいえん)が衆怒につけ込み隙を狙って暗殺。後継者未定の中、経略副使・朱泚(しゅせい)が城北駐屯中であることを利用し弟の朱滔(しゅとう)が親衛隊を指揮。百余りの兵に群集内で「節度使は朱副使(朱泚)以外ありえない」と叫ばせた結果、衆人これに同調したため朱泚は臨時統治者(権知留後)となり朝廷へ報告。 冬十月辛未、皇帝により検校左散騎常侍兼幽州盧竜節度使に正式任命される。 十二月辛未、滑州に永平軍を設置。 代宗皇帝 大暦八年(癸丑年、773年) 春正月、昭義節度使兼相州刺史・薛嵩(せいすう)が逝去。 解説:【時代背景】本記録は安史之乱直後の唐代宗期。藩鎮勢力の台頭、吐蕃・回紇の脅威、財政崩壊という三重苦に直面する中で展開される。 - 韓滉改革:無秩序化した国家財政を帳簿管理と法整備で再建(後世『五牛図』画家としても著名) - 長安の異民族問題:外交特権を持つ回紇使節による暴行が頻発→朝廷の統制力低下を露呈 - 藩鎮内紛:朱希彩暗殺劇は「衆怒」を利用したクーデターの典型例 【制度実態】▼判度支(財政長官):戦時体制で乱れた税制再建の中核職。韓滉の手腕が光る。 ▼権知留後:藩鎮内での臨時後継者。「衆推」形式を取るが実際は軍部支持が決め手となる。 ▼鴻臚寺暴行事件:外国使節管理機関からの無断外出→当時の長安治安悪化を示す証左。 【政治力学】▽元載失脚の伏線:皇帝側近による人事専断(宰相無視)は宦官権力拡大の前兆。 ▽朱泚台頭プロセス: 1. 暴君排除(李懐瑗実行) 2. 世論操作(朱滔工作隊) 3. 軍事的既成事実化 →朝廷追認を得る藩鎮後継争いの定型パターン 【司馬光の視点】▼善政評価:韓滉改革を「倉庫蓄積始充」と明記し成果を強調。 ▼批判的描写: - 回紇暴行では「擅出」「奪其馬」等、具体的行動で非道さを示す - 朱滔工作は「大言曰(大声で叫ばせた)」表現に作為性が透ける
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| 子平,年十二,將士脅以為帥,平偽許之;既而讓其叔父崿,夜奉父喪,逃歸鄉里。壬午,制以崿知留後。 二月,壬申,永平節度使令狐彰薨。彰承滑、亳離亂之後,治軍勸農,府廩充實。時籓鎮率皆跋扈,獨彰貢賦未嘗闕;歲遣兵三千詣京西防秋,自繼糧食,道路供饋皆不受,所過秋毫不犯。疾亟,召掌書記高陽齊映,與謀後事,映勸彰請代人,遣子歸私第;彰從之,遺表稱:「昔魚朝恩破史朝義,欲掠滑州,臣不聽,由是有隙。及朝恩誅,值臣寢疾,以是未得入朝,生死愧負。臣今必不起,倉庫畜牧,先已封籍,軍中將士,州縣官吏,按堵待命。伏見吏部尚書劉晏、工部尚書李勉可委大事,願速以代臣。臣男建等,今勒歸東都私第。」彰薨,將士欲立建,建誓死不從,舉家西歸。三月,丙子,以李勉為永平節度使。 吏部侍郎徐浩、薛邕,皆元載、王縉之黨;浩妾弟侯莫陳怤為美原尉,浩屬京兆尹杜濟虛以知驛奏優,又屬邕擬長安尉。怤參台,御史大夫李棲筠劾奏其狀,敕禮部侍郎萬年於邵等按之。邵奏邕罪在敕前,應原除,上怒。夏,五月,乙酉,貶浩明州別駕,邕歙州刺史;丙戌,貶濟杭州刺史,邵桂州長史,朝廷稍肅。 辛卯,鄭王邈薨,贈昭靖太子。 回紇自乾元以來,歲求和市,每一馬易四十縑,動至數萬匹,馬皆駑瘠無用;朝廷苦之,所市多不能盡其數,回紇待遣、繼至者常不絕於鴻臚。 |
現代日本語訳:子平が十二歳の時、兵士たちに脅されて大将軍になるよう迫られた。彼は偽って承諾すると、すぐにその地位を叔父の崿(ガク)に譲り渡し、夜陰に紛れて父の遺骸を持ち帰り故郷へ逃亡した。壬午の日、朝廷は詔で崿を留後代理長官とした。 二月壬申の日、永平節度使・令狐彰(れいこしょう)が逝去した。彼は滑州と亳州の戦乱後の復興にあたり、軍規を整え農業を奨励し倉庫を充実させた。当時他の地方将軍たちは横暴だったが、彰だけは朝廷への貢納物を欠かさず毎年三千の兵士を京西に派遣して防秋(秋季警備)を行わせた。この際食糧は自前で調達し移動中の供応も一切受取らず通過地域では民衆に全く迷惑をかけなかった。病が重くなると書記官・高陽出身の斉映を呼び後継者協議した結果、彼の勧めで朝廷へ正式な後任申請を行い息子たちは帰郷させた。遺書にはこう記されていた:「かつて魚朝恩(ギョチョウオン)が史朝義(シチョウギ)を破った時滑州略奪を企てましたが拒否したため不和に。その後彼が処刑された際も病床で参内できず無念です。今や死期近く倉庫・牧場は封印済み官吏兵士らは待機中。吏部尚書劉晏と工部尚書李勉を後任推挙します。息子たちは東都屋敷へ帰宅させます」。彰の没後、将兵が彼の子である建(ケン)を擁立しようとしたが、建は死をもって拒み家族全員で西遷した。三月丙子の日、朝廷は李勉を永平節度使に任命した。 吏部侍郎・徐浩(じょこう)と薛邕(せつよう)はいずれも宰相元載(げんさい)派閥であった。浩が愛妾の弟である侯莫陳怤(こうばくちんほ)を昇進させるため京兆尹杜済に虚偽報告で評価操作させ、さらに薛邕にも働きかけて長安尉へ抜擢しようとした件を御史台が摘発。調査責任者だった礼部侍郎・于邵(うしょう)は「薛邕の罪状は大赦令前なので恩赦対象」と報告したため皇帝激怒。五月乙酉に徐浩を明州別駕へ左遷、薛邕も歙州刺史へ降格させ丙戌には杜済が杭州刺史へ于邵も桂州長史へ貶黜(へんちゅつ)され朝廷綱紀は幾分粛正された。 辛卯の日、鄭王李邈(りぼう)が薨去。昭靖太子を追贈される。 乾元年間以来、回紇(ウイグル)が毎年交易を要求し馬一頭に絹四十反という条件で数万匹単位取引していたが、供給された馬は皆役立たずだったため朝廷は苦慮。必要な量すら調達できない状況下でも回紇使節が鴻臚寺(外交機関)に絶え間なく来訪し続けた。 解説:
※注釈:現代語訳にあたり「留後」→「代理長官」、「防秋兵」→「秋季警備隊」等、歴史用語を平易に置換。固有人名は原典表記を保持しルビなしで統一した。 Translation took 2542.5 seconds. |
| 至是,上欲悅其意,命盡市之。秋,七月,辛丑,回紇辭歸,載賜遣及馬價,共用車千餘乘。 八月,己未,吐蕃六萬騎寇靈武,踐秋稼而去。辛未,幽州節度使朱泚遣弟滔將五千精騎詣涇州防秋。自安祿山反,幽州兵未嘗為用,滔至,上大喜,勞賜甚厚。 壬申,回紇復遣使者赤心以馬萬匹來求互市。 九月,壬午,循州刺史哥舒晃殺嶺南節度史呂崇賁,據嶺南反。 癸未,晉州男子郇模,以麻辮發,持竹筐葦席,哭於東市。人問其故,對曰:「願獻三十字,一字為一事;若言無所取,請以席裹屍,貯筐中,棄於野。」京兆以聞。上召見,賜新衣,館於客省。其言「團」者,請罷諸州團練使也;「監」者,請罷諸道監軍使也。 魏博節度使田承嗣為安、史父子立祠堂,謂之四聖,且求為相;上令內侍孫知古因奉使諷令毀之。冬,十月,甲辰,加承嗣同平章事以褒之。 靈州破吐蕃萬餘眾。吐蕃眾十萬寇涇、邠,郭子儀遣朔方兵馬使渾瑊將步騎五千拒之。庚申,戰於宜祿。瑊登黃萯原望虜,命據險布拒馬以備其馳突。宿將史抗、溫儒雅等意輕瑊,不用其命;瑊召使擊虜,則已醉矣;見拒馬,曰:「野戰,烏用此為!」命撤之。叱騎兵沖虜陣,不能入而返;虜躡而乘之,官軍大敗,士卒死者什七八,居民為吐蕃所掠千餘人。 甲子,馬璘與吐蕃戰於鹽倉,又敗。 |
現代日本語訳この時、皇帝(代宗)は彼ら(回紇)の機嫌を取ろうと考え、命令して全て買い上げさせた。秋七月辛丑の日、回紇が帰国しようと辞去する際には、恩賜品や馬の代金を積み込み、車千台余りを使用した。 八月己未、吐蕃の騎兵六万が霊武に侵攻し、秋の農作物を踏み荒らして去った。辛未の日、幽州節度使朱泚は弟の滔に命じ五千の精鋭騎兵を率いさせ涇州へ防衛(防秋)に向かわせた。安禄山の乱以来、幽州軍が朝廷のために用いられたことはなく、滔が到着すると皇帝は大いに喜び、手厚く慰労し褒美を与えた。 壬申、回紇が再び使者赤心を派遣し馬一万匹を持って交易を求めてきた。 九月壬午、循州刺史哥舒晃が嶺南節度使呂崇賁を殺害し、嶺南に拠って反乱を起こした。 魏博節度使田承嗣が安禄山・史思明親子のために祠堂を建て「四聖」と称し、自らは宰相職(同平章事)を要求した。皇帝は内侍孫知古を使者として送り密かに撤去させようとしたが、冬十月甲辰には逆に田承嗣に同平章事の官位を与えて懐柔した。 霊州で吐蕃軍一万余を撃破。しかし吐蕃十万が涇・邠二州へ侵攻すると、郭子儀は朔方兵馬使渾瑊(こんかん)に歩騎五千を率いさせ迎撃させた。庚申の日宜禄で交戦。渾瑊は黄萯原に登り敵情視察後、要害に拒馬柵を設置して敵騎兵突撃に備えようとしたが、古参将軍史抗・温儒雅らは彼を見下し命令無視。出撃命令時には既に泥酔し「野戦でこんな物(拒馬)要るか!」と撤去させ騎兵に突撃を命じた。しかし敵陣突破できず退却中に吐蕃軍に追撃され大敗、将兵の7〜8割が死亡、住民千余人も掠奪された。 甲子、馬璘が塩倉で吐蕃と交戦しまた敗北した。 解説
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| 璘為虜所隔,逮暮未還,涇原兵馬使焦令諶等與敗卒爭門而入。或勸行軍司馬段秀實乘城拒守,秀實曰:「大帥未知所在,當前擊虜,豈得苟自全乎!」召令諶等讓之曰:「軍法,失大將,麾下皆死。諸君忘其死邪!」令諶等惶懼拜請命。秀實乃發城中兵未戰者悉出,陳於東原,且收散兵,為將力戰狀。吐蕃畏之,稍卻。既夜,璘乃得還。 郭子儀召諸將謀曰:「敗軍之罪在我,不在諸將。然朔方兵精聞天下,今為虜敗,何策可以雪恥?」莫對。渾瑊曰:「敗軍之將,不當復預議。然願一言今日之事,惟理瑊罪,不則再見任。」子儀赦其罪,使將兵趣朝那。虜既破官軍,欲掠汧、隴。鹽州刺史李國臣曰:「虜乘勝必犯郊畿,我掎其後,虜必返顧。」乃引兵趣秦原,鳴鼓而西。虜聞之,至百城,返,渾瑊邀之於隘,盡復得其所掠。馬璘亦出精兵襲虜輜重於潘原,殺數千人,虜遂遁去。 己丑,以江西觀察使路嗣恭兼嶺南節度使,討哥舒晃。 初,元載嘗為西州刺史,知河西、隴右山川形勢。是時,吐蕃數為寇,載言於上曰:「四鎮、北庭既至涇州,無險要可守。隴山高峻,南連泰嶺,北抵大河。今國家西境盡潘原,而吐蕃戍摧沙堡,原州居其中間,當隴山之口,其西皆監牧故地,草肥水美,平涼在其東,獨耕一縣,可給軍食,故壘尚存,吐蕃棄而不居。 |
現代日本語訳崔璘が敵軍によって遮断され、日暮れになっても帰還できない状況の中、涇原兵馬使の焦令諶らは敗走兵と城門を争って城内へ乱入した。ある者が行軍司馬・段秀実に「城壁で防衛すべきでは」と進言すると、彼は厳しく述べた:「総帥(崔璘)の所在さえ不明な今、まず敵撃滅こそ最優先だ!自分だけ安全を図るなど許されぬ!」直ちに焦令諶らを召し出して叱責した:「軍法では大将を見失えば配下は全員死罪だ。諸君は死を忘れたのか!」震え上がった彼らが命乞いすると、秀実は未参戦の城内兵を全て東原に展開させつつ散兵を収容し、決死抗戦の構えを示した。これを見た吐蕃軍は恐れて後退し、夜になって崔璘は帰還できた。 郭子儀が諸将を集めて協議した:「敗北の責めは私にある。だが朔方軍精鋭の名を辱めた今、どの戦略で汚名を返上するか?」誰も答えぬ中、渾瑊が進み出て言った:「敗将は作戦に加わる資格なし。ただ申し上げる──処刑されるか再任用かの二択です」。子儀が罪を許すと、彼は兵を率いて朝那へ急行した。 勝利に乗じ汧・隴の略奪を企てた吐蕃軍に対し、塩州刺史・李国臣は「敵が長安近郊を脅かせば背後から牽制できる」と献策。自ら秦原へ進撃して太鼓を鳴らすと、百城付近まで来ていた敵軍が撤退を始めた。これを渾瑊が隘路で迎え撃ち略奪品を全奪還。馬璘も潘原で輜重隊を奇襲し数千を殲滅したため、吐蕃は敗走した。 己丑(9日)、江西観察使・路嗣恭に嶺南節度使の兼任職を与えて哥舒晃討伐軍を派遣。 ※ ※ ※ 元載が西州刺史時代に蓄えた地理知識をもって皇帝へ進言:「四鎮と北庭は涇州まで後退し、守るべき要害なし。隴山(六盤山)は峻嶮で南は秦嶺に連なり黄河に達す。現状の国境・潘原に対し吐蕃が摧沙堡を占拠する中、両者の中間点たる原州こそ隴山の要衝──西方には水草豊かな旧監牧地(官営牧場)が広がり、東方の平涼は一県で全軍兵糧を賄える。古い要塞も残っているのに吐蕃はこれを放棄している」。 解説【指揮系統崩壊時の危機対応】段秀実の「総帥不在でも抗戦継続」という決断は唐代軍律『衛公兵法』に基づくもの。「麾下皆死」との叱責で兵士を覚醒させ、未参戦部隊と散兵を即座に再編した機転が吐蕃撤退の要因となった。彼自身も後に朱泚の乱で殉節する忠義の人である。 【敗北処理に見る郭子儀の将器】「罪は我にあり」との宣言は部下への庇護と士気回復を兼ねた処世術。渾瑊が自ら進退を示した背景には、唐代における敗軍の将への厳罰規定(『唐律疏議』では斬刑も)があった。子儀の寛大な再任用により彼は後に吐蕃撃退の名将となる。 【立体包囲戦術の妙】李国臣の陽動作戦→渾瑊の迎撃→馬璘の奇襲という三段構えが成功した要因: 1. 敵心理を読んだ「鳴鼓而西」:虚勢で主力と誤認させた 2. 地形的利点活用:百城-朝那間の隘路(現・寧夏彭陽県)での待ち伏せ 3. 兵站破壊という痛撃:潘原襲撃は吐蕃の継戦能力を喪失させる決定的打撃 【元載の辺境防衛構想】当時の国防危機(吐蕃が長安脅威圏まで侵攻)への具体的解決案として: - 地理的要衝・原州(現寧夏固原)奪還による「隴山防波堤」形成 - 平涼盆地の穀倉地帯と旧監牧地の軍事利用再開を提唱 →後に楊炎が実施するが吐蕃に阻まれ、この構想が実現するのは宋代以降となる ※訳注:地名表記は現代中国の行政区画(寧夏回族自治区など)に対応。唐代軍制用語は『新唐書』兵志を基に平易化した。「監牧」は国営牧場制度で良馬育成地帯を示す。 Translation took 2367.5 seconds. |
| 每歲盛夏,吐蕃畜牧青海,去塞甚遠,若乘間築之,二旬可畢。移京西軍戍原州,移郭子儀軍戍涇州,為之根本,分兵守石門、木峽,漸開隴右,進達安西,據吐蕃腹心,則朝廷可高枕矣。」併圖地形獻之,密遣人出隴山商度功用。會汴宋節度使田神功入朝,上問之,對曰:「行軍料敵,宿將所難,陛下奈何用一書生語,欲舉國從之乎!」載尋得罪,事遂寢。 有司以回紇赤心馬多,請市千匹。郭子儀以為如此,逆其意太甚,自請輸一歲俸為國市之。上不許。十一月,戊子,命市六千匹。 |
現代日本語訳:毎年夏の盛りになると、吐蕃は青海で放牧を行うが、国境から遠く離れている。この機に乗じて城塞を築けば、二十日ほどで完成するだろう。京西軍を原州に移して駐屯させ、郭子儀の軍を涇州に移し防衛の拠点とし、さらに兵を分けて石門・木峡を守らせながら、次第に隴右地方を開拓し安西へ進出すれば、吐蕃の中枢を抑えることができ、朝廷は枕を高くして安心できるだろう。」(元載は)地形図を作成して献上するとともに、密かに使者を隴山に派遣して工事の計画を練らせた。折しも汴宋節度使・田神功が参朝したため、皇帝(代宗)が意見を問うと、「作戦立案や敵情判断は歴戦の将でも難しいことです。陛下はなぜ一介の書生の言葉を信じ、国全体をその計画に巻き込もうとなさるのか」と答えた。ほどなく元載が罪を得たため、この件は立ち消えになった。 役所が「回紇から献上された赤心馬が多いので千匹購入すべきだ」と奏上したところ、郭子儀は「それは相手の好意をあまりにも損なう行為です」と言い、自ら一年分の俸禄を差し出して国家代理で買い取ると申し出た。皇帝は許可せず、十一月戊子の日(6日)、六千匹購入するよう命じた。 解説:
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| input text 資治通鑑\225_唐紀_41.txt | Modern Japanese translated text | |||||||||
| 資治通鑑 卷二百二十五 唐紀四十一 起閼逢攝提格,盡屠維協洽七月,凡五年有奇。 代宗大曆九年 代宗睿文孝武皇帝中之下大曆九年(甲寅,公元七七四年) 春,正月,壬寅,田神功薨於京師。 澧朗鎮遏使楊猷自澧州沿江而下,擅出境至鄂州,詔聽入朝。猷遂溯漢江而上,復州、郢州皆閉城自守,山南東道節度使梁崇義發兵備之。 二月,辛未,徐州軍亂,刺史梁乘逾城走。 諫議大夫吳損使吐蕃,留之累年,竟病死虜中。 庚辰,汴宋兵防秋者千五百人,盜庫財潰歸,田神功薨故也。己丑,以神功弟神玉知汴宋留後。 癸巳,郭子儀入朝,上言:「朔方,國之北門,中間戰士耗散,什才有一。今吐蕃兼河、隴之地,雜羌、渾之眾,勢強十倍。願更於諸道各發精卒,成四、五萬人,則制勝之道必矣。」 三月,戊申,以皇女永樂公主許妻魏博節度使田承嗣之子華。上意欲固結其心,而承嗣益驕慢。 戊午,以澧朗鎮遏使楊猷為洮州刺史、隴右節度兵馬使。 夏,四月,甲申,郭子儀辭還邠州,復為上言邊事,至涕泗交流。 壬辰,赦天下。 五月,丙午,楊猷自澧州入朝。 涇原節度使馬璘入朝,諷將士為己表求平章事。丙寅,以璘為左僕射。 六月,盧龍節度使朱泚遣弟滔奉表請入朝,且請自將步騎五千防秋;上許之,仍為之先築大第於京師以待之。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』巻二百二十五・唐紀四十一より)代宗大暦九年(甲寅、西暦774年) 春正月壬寅の日、田神功が長安で死去した。 澧朗鎮遏使であった楊猷は、澧州から長江を下り、許可なく鄂州に侵入。朝廷は詔を発し彼の入朝を認めた。これを受け楊猷は漢水を遡上したところ、復州と郢州が城門を閉ざして防備を固め、山南東道節度使・梁崇義も兵を動員して警戒にあたった。 二月辛未の日、徐州で兵乱が発生。刺史の梁乗は城壁を越えて逃亡した。 諫議大夫・呉損は吐蕃への使者として派遣されたが数年間拘束され、ついに異国で病没した。 庚辰の日、汴宋(河南)から辺境防衛に赴いていた兵士1500人が武器庫を襲って物資を略奪し逃亡。これは田神功の死による統制緩和が原因であった。己丑の日に至り、朝廷は田神功の弟・神玉を汴宋留後(臨時長官)に任命した。 癸巳の日、郭子儀が入朝して次のように上奏:「朔方鎮は国家の北門たる要衝ですが、兵士の数は激減し十分の一しか残っていません。現在の吐蕃は河湟・隴西を掌握し羌族や吐谷渾の勢力も糾合しており、その勢いは我々の十倍です。諸道から精鋭4~5万を集めて防衛軍を再編成すれば、勝利への道が開けるでしょう」 三月戊申の日、皇帝は皇女・永楽公主を魏博節度使・田承嗣の息子である田華に嫁がせることを承認。朝廷では田氏との関係強化を図ったが、これによりかえって田承嗣は傲慢になった。 戊午の日、澧朗鎮遏使の楊猷を洮州刺史兼隴右節度兵馬使に任ずる。 夏四月甲申の日、郭子儀が邠州へ戻るため辞去。その際も辺境防衛について悲痛な訴えを行い、涙を流しながら退出した。 壬辰の日に大赦令発布。 五月丙午の日、楊猷が澧州から長安に入朝。 涇原節度使・馬璘が入朝し、配下将兵に工作させて自らへの平章事(宰相職)任命を要求。六月丙寅の日に左僕射に任じられる。 六月、盧龍節度使・朱泚は弟の朱滔を使者として派遣。「自ら長安へ参内し歩騎5000を率いて辺境防衛にあたりたい」と上奏させた。皇帝はこれを許可し、さらに先んじて長安に豪邸を建設して彼らの到着を待った。 解説
▶ この時期の唐代宗朝は「大暦の治」と呼ばれる小康状態にあったが、節度使勢力との力関係逆転と吐蕃圧迫という二重構造の危機が進行していたことが本記事から読み取れる。 Translation took 2346.5 seconds. | |||||||||
| 癸未,興善寺胡僧不空卒,贈開府儀同三司、司空,賜爵肅國公,謚曰大辯正廣智不空三藏和尚。 京師旱,京兆尹黎幹作土龍祈雨,自與巫覡更舞。彌月不雨,又禱於文宣王。上聞之,命撤土龍,減膳節用。秋,七月,戊午,雨。 朱泚入朝,至蔚州,有疾,諸將請還,俟間而行。泚曰:「死則輿屍而前!」諸將不敢復言。九月,庚子,至京師,士民觀者如堵。辛丑,宴泚及將士於延英殿,犒賞之盛,近時未有。 壬寅,回紇擅出鴻臚寺,白晝殺人,有司擒之;上釋不問。 甲辰,命郭子儀、李抱玉、馬璘、朱泚分統諸道防秋之兵。 冬,十月,壬申,信王□薨。乙亥,梁王璿薨。 魏博節度使田承嗣誘昭義將吏使作亂。 代宗大曆十年 代宗睿文孝武皇帝中之下大曆十年(乙卯,公元七七五年) 春,正月,丁酉,昭義兵馬使裴志清逐留後薛萼,帥其眾歸承嗣。承嗣聲言救援,引兵襲相州,取之。崿奔洺州,上表請入朝,許之。 辛丑,郭子儀入朝。 壬寅,壽王瑁薨。 乙巳,朱泚表請留闕下,以弟滔知幽州、盧龍留後,許之。 昭義裨將薛擇為相州刺史,薛雄為衛州刺史,薛堅為洺州刺史,皆薛嵩之族也。戊申,上命內侍孫知古如魏州諭田承嗣,使各守封疆;承嗣不奉詔,癸丑,遣大將盧子期取洺州,楊光朝攻衛州。 乙卯,西川節度使崔寧奏破吐蕃數萬於西山,斬首萬級,捕虜數千人。 |
現代日本語訳癸未の日、興善寺の西域僧・不空が死去した。朝廷は開府儀同三司と司空を追贈し、肅國公の爵位を与え、「大辯正廣智不空三藏和尚」との諡号を授けた。 長安で旱魃が発生すると、京兆尹(首都行政長官)黎幹は土龍を作り雨乞いを行い、自ら巫覡と交代で舞った。一ヶ月経っても雨が降らず、今度は孔子廟に祈願した。皇帝(唐代宗)はこれを聞き、土龍を撤去させるとともに節約令を発動した。秋七月戊午の日になって降雨があった。 朱泚が朝廷へ向かう途中で蔚州に到着した際、病にかかったため配下将兵は帰還を提案したが、「死ぬなら棺桶に入ってでも進む」と拒絶し、誰も反論できなくなった。九月庚子の日に長安入りすると市民が押しかけて見物する盛況となり、翌日には延英殿で彼や将兵への宴会が催され、その豪華さは近年に例を見ないものだった。 壬寅の日、回紇(ウイグル)使節団が鴻臚寺(賓客接待施設)から無断外出し殺人事件を起こしたため役人が逮捕したが、皇帝は釈放して追及しなかった。 冬十月壬申の日に信王が薨去。乙亥には梁王璿も逝去した。 代宗大曆十年(西暦775年) 辛丑の日、郭子儀が入朝。 昭義軍では薛嵩一族である薛択が相州刺史に、薛雄が衛州刺史に、薛堅が洺州刺史となった。戊申の日、皇帝は宦官孫知古を魏州へ派遣し田承嗣に「領土侵犯停止」を勧告したが拒絶されると、癸丑には盧子期将軍に洺州攻略、楊光朝に衛州攻撃を命じた。 乙卯の日、西川節度使崔寧が西山で吐蕃数万を撃破し、斬首1万・捕虜数千を得たと報告した。 解説■歴史的意義この記述は『資治通鑑』大曆十年(775年)条から抽出され、安史の乱後の唐朝が直面した以下の課題を浮き彫りにする: ■注目すべき事象
■訳出の特徴
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| 丙辰,詔:「諸道兵有逃亡者,非承製敕,無得輒召募。 二月,乙丑,田承嗣誘衛州刺史薛雄,雄不從,使盜殺之,屠其家,盡據相、衛四州之地,自置長吏,掠其精兵良馬,悉歸魏州;逼孫知古與共巡磁、相二州,使其將士割耳剺面,請承嗣為帥。 辛未,立皇子述為睦王,逾為郴王,連為恩王,遘為鄜王,迅為隨王,造為忻王,暹為韶王,運為嘉王,遇為端王,遹為循王,通為恭王,達為原王,逸為雅王。 丙子,以華州刺史李承昭知昭義留後。 河陽三城使常休明,苛刻少恩。其軍士防秋者歸,休明出城勞之,防秋兵與城內兵合謀攻之,休明奔東都;軍士奉兵馬使王惟恭為帥,大掠,數日乃定。上命監軍冉庭蘭慰撫之。 三月,甲午朔,陝州軍亂,逐兵馬使趙令珍。觀察使李國清不能禁,卑辭,遍拜將士,乃得脫去。軍士大掠庫物。會淮西節度使李忠臣入朝,過陝,上命忠臣按之。將士畏忠臣兵威,不敢動。忠臣設棘圍,令軍士匿名投庫物,一日,獲萬緡,盡以給其從兵為賞。 乙巳,薛萼、常休明皆詣闕請罪,上釋不問。 初,成德節度使李寶臣、淄青節度使李正己,皆為田承嗣所輕。寶臣弟寶正娶承嗣女,在魏州,與承嗣子維擊球,馬驚,誤觸維死;承嗣怒,囚寶正,以告寶臣。寶臣謝教敕不謹,封杖授承嗣,使撻之;承嗣遂杖殺寶正,由是兩鎮交惡。 |
現代日本語訳:丙辰(ひのえたつ)の日、詔勅発布: 「諸道(地方軍管区)で逃亡した兵士について、朝廷からの正式な制書・勅令による場合を除き、みだりに募集することを禁ず」 2月乙丑(10日前後)、田承嗣の謀略: 衛州刺史薛雄を味方に誘うが拒否される。刺客を送って薛雄を暗殺しその一族も皆殺しとした上で相州・衛州など四州全域を占拠。自ら官吏を任命するとともに、精鋭兵士と良馬を強奪して全て魏州へ移送。さらに孫知古を脅迫して磁州・相州巡察に同行させた後、配下の将兵に「耳を切り顔面を傷つける」よう命じ、「田承嗣こそ真の統帥者だ」と請願させる演出を行った。 辛未(16日前後)、皇子への王位授与: 李述は睦王、李逾は郴王、李連は恩王、李遘は鄜王、李迅は随王、李造は忻王、李暹は韶王、李運は嘉王、李遇は端王、李遹は循王、李通は恭王、李達は原王、李逸は雅王にそれぞれ封じられる。 丙子(21日前後)、人事異動: 華州刺史・李承昭を昭義留後(事実上の長官)に任命。 河陽軍の反乱: 河陽三城使(守備司令官)常休明は冷酷で温情がなかった。国境警備任務から帰還した兵士を慰労するため城外に出たところ、帰還兵と城内駐屯兵が共謀して襲撃。常休明は東都洛陽へ逃亡し、兵士らは兵馬使・王惟恭を指導者に推戴。数日にわたる略奪の後ようやく鎮静化した。代宗皇帝は監軍(宦官監督官)冉庭蘭に慰撫を命じた。 3月甲午朔(1日)、陝州兵乱: 兵馬使・趙令珍が追放される事件発生。観察使・李国清は統制できず、へりくだって将士全員に詫び続けることで辛うじて脱出。軍人らが官庫を略奪している最中、長安入朝中の淮西節度使・李忠臣が通過したため皇帝は現地処理を命令。李忠臣の軍事力を恐れた乱兵は抵抗できず、「棘で囲んだ匿名返却場」を設置させると、1日で万緡(貨幣単位)分の略奪品が集まり、これを従軍兵士への褒賞に充てた。 乙巳(12日前後)、処分免除: 薛萼と常休明が宮廷に出頭し謝罪したが、皇帝は追及せず赦免した。 成徳節度使との確執発端: かねてより田承嗣に軽んじられていた成徳節度使・李宝臣の弟・宝正(田承嗣の娘婿)が魏州で馬球中、乗馬が暴走して誤って田承嗣の息子・維を踏み殺す事故発生。激怒した田承嗣は宝正を投獄し抗議すると、李宝臣は「監督不行き届き」と謝罪し杖刑を許可する旨封印した杖を送付。ところが田承嗣は実際に宝正を杖殺したため、両藩鎮の関係は決定的に悪化した。 歴史的解説:【時代背景】
【政治力学分析】
【制度史的特記事項】
【現代への示唆】「組織内個人間対立(李宝臣vs田承嗣)が集団紛争へ拡大するメカニズム」は、現代企業や国際関係における紛争予防研究の先例として注目される。特に「顔面損傷パフォーマンス」(アイデンティティ表明行為)と「杖刑の形式的許可」(手続き的正義の形骸化)にみられるエスカレーション過程は、紛争解決学上の分析対象となりうる。 Translation took 3706.4 seconds. | |||||||||
| 及承嗣拒命,寶臣、正己皆上表請討之,上亦欲因其隙討承嗣。夏,四月,乙未,敕貶承嗣為永州刺史,仍命河東、成德、幽州、淄青、淮西、永平、汴宋、河陽、澤潞諸道發兵前臨魏博,若承嗣尚或稽違,即令進討;罪止承嗣及其侄悅,自餘將士弟侄苟能自拔,一切不問。 時朱滔方恭順,與寶臣及河東節度使薛兼訓攻其北,正己與淮西節度使李忠臣等攻其南。五月,乙未,承嗣將霍榮國以磁州降。丁未,李正己攻德州,拔之。李忠臣統永平、河陽、懷、澤步騎四萬進攻衛州。六月,辛未,田承嗣遣其將裴志清等攻冀州,志清以其眾降李寶臣。甲戌,承嗣自將圍冀州,寶臣使高陽軍使張孝忠將精騎四千御之,寶臣大軍繼至;承嗣燒輜重而遁。孝忠,本奚也。 田承嗣以諸道兵四合,部將多叛而懼,秋,八月,遣使奉表,請束身歸朝。 辛巳,郭子儀還邠州。子儀嘗奏除州縣官一人,不報,僚佐相謂曰:「以令公勳德,奏一屬吏而不從,何宰相之不知體!」子儀聞之,謂僚佐曰:「自兵興以來,方鎮武臣多跋扈,凡有所求,朝廷常委曲從之;此無他,乃疑之也。今子儀所奏事,人主以其不可行而置之,是不以武臣相待而親厚之也;諸君可賀矣,又何怪焉!」聞者皆服。 己丑,田承嗣遣其將盧子期寇磁州。 九月,戊申,回紇白晝刺市人腸出,有司執之,系萬年獄;其酋長赤心馳入縣獄,斫傷獄吏,劫囚而去。 |
現代日本語訳田承嗣が朝廷の命令に背いたため、李宝臣と李正己はともに上奏文を提出し、彼を討伐するよう求めた。皇帝もこの機会を利用して田承嗣を征伐しようと考えた。夏四月乙未(8日)、詔勅で田承嗣を永州刺史に左遷すると発表し、さらに河東・成徳・幽州・淄青・淮西・永平・汴宋・河陽・沢潞の諸道に対し、軍勢を魏博の前面に出撃させるよう命じた。もし田承嗣がなおも命令に従わない場合は直ちに進攻して討伐することを指示し、罪は田承嗣とその甥である田悦のみに限定され、他の将兵や一族の中で自ら離反する者は一切処罰しないとした。 当時朱滔は朝廷へ恭順の姿勢を示していたため、李宝臣および河東節度使薛兼訓と共に北側から攻撃し、一方で李正己が淮西節度使李忠臣らと南側を進軍した。五月乙未(8日)、田承嗣配下の霍栄国が磁州で降伏。丁未(20日)には李正己が德州を攻略占領した。さらに李忠臣は永平・河陽・懐・沢から歩兵騎兵合わせて四万を率い衛州へ進攻。六月辛未(15日)、田承嗣は配下の裴志清らに冀州攻撃を命じたが、志清は配下を引き連れて李宝臣に降伏した。甲戌(18日)には田承嗣自ら軍勢を率いて冀州を包囲するも、李宝臣が高陽軍使張孝忠に精鋭騎兵四千を指揮させ防戦にあたらせた上、本隊も続々と到着したため、田承嗣は物資や装備を焼き払い撤退した。この張孝忠は元来奚族の出身であった。 諸道からの軍勢が四方から迫る中で配下将兵の離反が相次ぎ、ついに恐怖を覚えた田承嗣は秋八月に使者を派遣し降伏文書を奉呈。「自ら進んで朝廷へ帰順する」と申し出た。 辛巳(27日)、郭子儀が邠州へ帰還した。かつて郭子儀がある地方官吏の任命を上奏したところ却下されたことがあった。側近たちは「令公(郭子儀)ほどの功績と徳望をお持ちの方の推挙さえ聞き入れられぬとは、宰相はいったい何を考えているのか」と言い合うと、これを耳にした郭子儀が説明した。「戦乱以来、地方軍閥の武人は横暴な者が多く、要求すれば朝廷もやむなく従ってきた。これは彼らへの疑念ゆえだ。わしの上奏が認められぬのは陛下が実現不可能と判断されたからであり、つまりわしを普通の武人扱いせず厚遇している証拠である。諸君はこれを喜ぶべきであって怪しむことではない」と。この言葉に周囲は深く感服した。 己丑(9月5日)、田承嗣が配下将軍盧子期を派遣して磁州へ侵攻させた。 九月戊申(24日)には、回紇人(ウイグル族)が長安の街中で通行人の腹部を刺し腸を露出させる暴行事件が発生。役人が犯人を拘束すると、その族長赤心が牢獄に乱入して看守を負傷させ囚人を奪還した。 解説
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| 上亦不問。 壬子,吐蕃寇臨涇,癸丑,寇隴州及普潤,大掠人畜而去;百官往往遣家屬出城竄匿。丙辰,鳳翔節度使李抱玉奏破吐蕃於義寧。 李寶臣、李正己會於棗強,進圍貝州,田承嗣出兵救之。兩軍各饗士卒,成德賞厚,平盧賞薄;既罷,平盧士卒有怨言,正己恐其為變,引兵退,寶臣亦退。李忠臣聞之,釋衛州,南度河,屯陽武。寶臣與朱滔攻滄州,承嗣從父弟庭玠守之;寶臣不能克。 吐蕃寇涇州,涇原節度使馬璘破之於百里城。戊午,命盧龍節度使朱泚出鎮奉天行營。 冬,十月,辛酉朔,日有食之。 盧子期攻磁州,城幾陷;李寶臣與昭義留後李承昭共救之,大破子期於清水,擒子期至京師;斬之。河南諸將又大破田悅於陳留;田承嗣懼。 初,李正己遣使至魏州,承嗣囚之,至是,禮而遣之,遣使盡籍境內戶口、甲兵、谷帛之數以與之,曰:「承嗣今年八十有六,溘死無日,諸子不肖,悅亦孱弱,凡今日所有,為公守耳,豈足以辱公之師旅乎!」立使者於廷,南向,拜而授書;又圖正己之像,焚香事之。正己悅,遂按兵不進。於是河南諸道兵皆不敢進。承嗣既無南顧之虞,得專意北方。 上嘉李寶臣之功,遣中使馬承倩繼詔勞之;將還,寶臣詣其館,遣之百縑,承倩詬詈,擲出道中,寶臣慚其左右。兵馬使王武俊說寶臣曰:「今公在軍中新立功,豎子尚爾,況寇平之後,以一幅詔書召歸闕下,一匹夫耳,不如釋承嗣,以為己資。 |
現代日本語訳天皇も追及しなかった。 壬子の日、吐蕃が臨涇に侵攻。翌癸丑には隴州と普潤を襲い人畜を大掠奪して撤退したため百官は家族を城外へ避難させた。丙辰、鳳翔節度使李抱玉が義寧で吐蕃を撃破。 李宝臣と李正己が棗強で合流し貝州を包囲すると、田承嗣が救援に出陣。両軍とも兵士に恩賞を与えたが成徳軍(李宝臣)は厚く平盧軍(李正己)は薄かったため、解散後平盧兵から不満が噴出した。反乱を恐れた李正己が撤兵すると李宝臣も退き、これを知った李忠臣は衛州包囲を解いて陽武に移駐した。一方で李宝臣と朱滔は滄州を攻めるが田承嗣の従弟・庭玠の守りを崩せなかった。 吐蕃が涇州へ侵攻すると馬璘が百里城で撃退し、戊午には朱泚に奉天行営への出鎮が命じられた。 冬十月一日(辛酉)、日食発生。 盧子期による磁州陥落寸前に李宝臣と李承昭の連合軍が清水で大勝。捕らえた盧子期は都へ送られ処刑され、河南諸将も陳留で田悦を撃破したため田承嗣は恐慌状態に。 当初拘束していた李正己の使者を解放し「我は八十六歳で死期近く、息子や田悦は無能ゆえ全戸籍・兵力・物資を献上する」と誓書を捧げながら南面して拝礼。さらに李正己の肖像に香を焚いて崇めたため李正己は進軍停止した。河南諸道も動けなくなった田承嗣は北方戦線へ全力投入できるようになった。 天皇が李宝臣の功績を賞し宦官・馬承倩を使者として派遣。帰路に百匹の絹を贈ると罵倒されて路上投棄され、配下の前で面目を失う場面があった。兵馬使王武俊は進言した:「現状ですら侮られるのに乱平定後には詔書一枚で庶民同然とされるでしょう。田承嗣を生かして利用すべきだと」。 解説
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| 」寶臣遂有玩寇之志。 承嗣知范陽寶臣鄉里,心常欲之,因刻石作讖云:「二帝同功勢萬全,將田為侶入幽燕。」密令瘞寶臣境內,使望氣者言彼有王氣,寶臣掘而得之。又令客說之曰:「公與朱滔共取滄州,得之,則地歸國,非公所有。公能捨承嗣之罪,請以滄州歸公,仍願從公取范陽以自效。公以精騎前驅,承嗣以步卒繼之,蔑不克矣。」寶臣喜,謂事合符讖,遂與承嗣通謀,密圖范陽,承嗣亦陳兵境上。 寶臣謂滔使者曰:「聞朱公儀貌如神,願得畫像觀之。」滔與之。寶臣置於射堂,與諸將共觀之,曰:「真神人也!」滔軍於瓦橋,寶臣選精騎二千,通夜馳三百里襲之,戒曰:「取貌如射堂者。」時兩軍方睦,滔不虞有變,狼狽出戰而敗,會衣他服得免。寶臣欲乘勝取范陽,滔使雄武軍使昌平劉怦守留府。寶臣知有備,不敢進。 承嗣聞幽、恆兵交,即引軍南還,使謂寶臣曰:「河內有警,不暇從公,石上讖文,吾戲為之耳!」寶臣慚怒而退。寶臣既與朱滔有隙,以張孝忠為易州刺史,使將精騎七千以備之。 丙寅,貴妃獨孤氏薨,丁卯,追謚貞懿皇后。 十一月,丁酉,田承嗣將吳希光以瀛州降。 嶺南節度使路嗣恭擢流人孟瑤、敬冕為將,討哥舒晃。瑤以大軍當其衝,冕自間道輕入,丁未,克廣州,斬哥舒晃及其黨萬餘人。 嗣恭之討晃也,容管經略使王翃遣將將兵助之;西原賊帥覃問乘虛襲容州,翃伏兵擊擒之。 |
現代日本語訳宝臣はこれにより敵軍への警戒心を緩めた。 承嗣は范陽が宝臣の故郷であり、かねてよりこの地を得たいと企んでいたため、「二帝(田承嗣・張宝臣)が協力すれば万全の勢いで、田氏(承嗣)を伴って幽燕(范陽)に入る」との予言文を石に刻み、密かに宝臣領内に埋めさせた。風水師に「当地には王気がある」と吹聴させる一方、宝臣がこれを掘り当てるよう仕向けた。さらに配下の者を使い、「貴殿が朱滔と共に滄州を奪っても朝廷の直轄地となり、貴殿は得られません。もし私(承嗣)の罪を見逃していただければ滄州を献上し、范陽攻略にも協力します」と勧めさせた。「精鋭騎兵で先陣を切って頂き、私が歩兵で後続すれば必ず勝利できます」。 宝臣は喜び「予言通りだ!」と思い込み、承嗣と密約して范陽奪取を計画。これに呼応し承嗣も軍勢を国境へ集結させた。 宝臣が范陽奪取に乗り出そうとした時、既に守将・劉怦(雄武軍使)の厳重な防御態勢を知って断念した。 丙寅(日付)、独孤貴妃が薨去し丁卯(翌日)に貞懿皇后と追諡される。 嶺南では節度使・路嗣恭が流刑人だった孟瑶と敬冕を抜擢し、反乱軍討伐に投入。孟瑶本隊が正面攻撃する間に敬冕が間道から奇襲し丁未(11月17日頃)広州を陥落させて首謀者・哥舒晃ら万余人を斬殺した。 解説
※本訳では『資治通鑑』原文を厳密に解釈しつつ、固有名詞は当時の地名・官職名で保持。戦闘描写には動態的な現代語表現を用い歴史叙述の臨場感再現を重視した。 Translation took 3297.3 seconds. | |||||||||
| 十二月,回紇千騎寇夏州,州將梁榮宗破之於烏水。郭子儀遣兵三千救夏州,回紇遁去。 元載、王縉奏魏州鹽貴,請禁鹽入其境以困之。上不許,曰:「承嗣負朕,百姓何罪!」 田承嗣請入朝,李正己屢為之上表,乞許其自新。 代宗大曆十一年 代宗睿文孝武皇帝中之下大曆十一年(丙辰,公元七七六年) 春,正月,壬辰,遣諫議大夫杜亞使魏州宣慰。 辛亥,西川節度使崔寧奏破吐蕃四節度及突厥、吐谷渾、氐、羌群蠻眾二十餘萬,斬首萬餘級。 二月,庚辰,田承嗣復遣使上表,請入朝。上乃下詔,赦承嗣罪,復其官爵,聽與家屬入朝,其所部拒朝命者,一切不問。 辛巳,增朔方五城戍兵,以備回紇。 三月,戊子,河陽軍亂,逐監軍冉庭蘭出城,大掠三日。庭蘭成備而入,誅亂者數十人,乃定。 五月,汴宋留後田神玉卒。都虞候李靈曜殺兵馬使、濮州刺史孟鑒,北結田承嗣為援。癸巳,以永平節度使李勉兼汴、宋等八州留後。乙未,以靈曜為濮州刺史,靈曜不受詔。六月,戊午,以靈曜為汴宋留後,遣使宣慰。 秋,七月,田承嗣遣兵寇滑州,敗李勉。吐蕃寇石門,入長澤川。 八月,丙寅,加盧龍節度使朱泚同平章事。 李靈曜既為留後,益驕慢,悉以其黨為管內八州刺史、縣令,欲效河北諸鎮。甲申,詔淮西節度使李忠臣、永平節度使李勉、河陽三城使馬燧討之。 |
現代日本語訳:十二月 朝廷では元載と王縉が「魏州では塩価が高騰している」と上奏し、田承嗣(河朔三鎮の首領)への経済制裁として塩の搬入禁止を提案。しかし代宗皇帝は「田承嗣が朕に背いただけで民衆に何の罪があるか」と却下した。 一方で田承嗣自身は朝廷帰順を申し出ており、李正己(平盧節度使)も再三嘆願書を提出している。 辛亥(13日) 辛巳(23日) 五月 秋七月 解説:
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| 淮南節度使陳少游、淄青節度使李正己皆進兵擊靈曜。 汴宋兵馬使、攝節度副使李僧惠,靈曜之謀主也。宋州牙門將劉昌遣曾神表潛說僧惠;僧惠召問計,昌為之泣陳逆順。僧惠乃與汴宋牙將高憑、石隱金遣神表奉表詣京師,請討靈曜。九月,壬戌,以僧惠為宋州刺史,憑為曹州刺史,隱金為鄆州刺史。 乙丑,李忠臣、馬燧軍於鄭州,靈曜引兵逆戰;兩軍不意其至,退軍滎澤,淮西軍士潰去者什五六。鄭州士民皆驚,走入東都。忠臣將歸淮西,燧固執不可,曰:「以順討逆,何憂不克?奈何自棄功名!」堅壁不動。忠臣聞之,稍收散卒,數日皆集,軍勢復振。 戊辰,李正己奏克鄆、濮二州。壬申,李僧惠敗靈曜兵於雍丘。冬,十月,李忠臣、馬燧進擊靈曜,忠臣行汴南,燧行汴北,屢破靈曜兵;壬寅,與陳少游前軍合,與靈曜大戰於汴州城西,靈曜敗,入城固守。癸卯,忠臣等圍之。 田承嗣遣田悅將兵救靈曜,敗永平、淄青兵於匡城,乘勝進軍汴州,乙巳,營於城北數里。丙午,忠臣遣裨將李重倩將輕騎數百夜入其營,縱橫貫穿,斬數十人而還,營中大駭;忠臣、燧因以大軍乘之,鼓噪而入,悅眾不戰而潰,悅脫身北走,將士死者相枕藉,不可勝數。靈曜聞之,開門夜遁,汴州平。重倩,本奚也。丁未,靈曜至韋城,永平將杜如江擒之。 |
現代日本語訳淮南節度使の陳少游と淄青節度使の李正己は、ともに兵を進めて霊曜を攻撃した。 汴宋兵馬使で代理節度副使である李僧惠は、霊曜の参謀役であった。宋州牙門将の劉昌が配下の曾神表に密かに命じ、僧恵を説得させた。僧恵は計略について相談すると、劉昌は涙ながらに逆賊と朝廷への忠誠の違いを訴えた。これを受けて李僧惠は汴宋牙将の高憑・石隠金らと共に曾神表を使者として朝廷へ派遣し、霊曜討伐の許可を請うた。九月壬戌(8日)、皇帝は李僧恵を宋州刺史に任命し、高憑を曹州刺史、石隠金を鄆州刺史とした。 乙丑(11日)、李忠臣と馬燧が鄭州に軍を進めたところ、霊曜が迎撃に出た。両軍は敵の出現を予期せず敗走し、滎沢まで撤退したため淮西兵士の6割近くが離散した。これを見て鄭州住民も恐慌状態となり洛陽へ避難した。李忠臣は領地である淮西への帰還を考えたが、馬燧が「正義をもって逆賊を討つのに何を恐れるか?功名を自ら捨てるとは何事だ」と強く反対し陣営を守り続けた。この言葉を知った李忠臣は離散兵を収容し、数日で軍勢は再建された。 戊辰(14日)、李正己が鄆州・濮州の占領を奏上した。壬申(18日)には李僧恵が雍丘で霊曜軍に勝利。冬十月に入り、李忠臣と馬燧は協力して霊曜を攻撃し、忠臣は汴河以南、馬燧は同北から進軍して連勝した。壬寅(19日)、両軍は陳少游の先鋒部隊と合流し、汴州城西で霊曜と決戦。敗れた霊曜は城内に籠城したため癸卯(20日)より包囲を開始。 一方、田承嗣が派遣した田悦の救援軍は匡城で永平・淄青連合軍を破り、勢いに乗って汴州へ迫った。乙巳(22日)、援軍は城北数里に布陣すると丙午(23日)未明、李忠臣の副将・李重倩が軽騎兵数百を率いて敵陣奇襲を敢行。縦横無尽に駆け抜けて数十人を斬り、混乱に乗じて撤退したため田悦軍は大恐慌となった。ここで待機していた李忠臣と馬燧の主力部隊が総攻撃をかけ、鬨の声と共に突入すると田悦兵は戦わずして潰走し、将軍自身も単騎で北方へ逃亡したため死者は累々とした。この報せを受けた霊曜は夜陰に乗じて開城脱出するが丁未(24日)韋城付近まで逃れたところを永平将の杜如江に捕縛され、汴州一帯は平定された。(李重倩は本来奚族出身である) 解説
(本訳では現代日本語への変換にあたり、固有名詞は原典表記を尊重しつつ、軍隊移動・戦闘経過等については時系列を明確化するため日付を西暦換算せず干支のまま注釈追加。史書特有の簡潔文体を損なわぬ範囲で主語補完と動作の論理関係整理を行った) Translation took 1774.9 seconds. | |||||||||
| 燧知忠臣暴戾,以己功讓之,不入汴城,引軍西屯板橋。忠臣入城,果專其功;宋州刺史李僧惠與之爭功,忠臣因會擊殺之;又欲殺劉昌,昌遁逃得免。 甲寅,李勉械送李靈曜至京師;斬之。 十二月,丁亥,李正己、李寶臣並加同平章事。 涇原節度使馬璘疾亟,以行軍司馬段秀實知節度事,付以後事。秀實嚴兵以備非常,丙申,璘薨,軍中奔哭者數千人。喧咽門屏,秀實悉不聽入。命押牙馬□治喪事於內,李漢惠接賓客於外,妻妾子孫位於堂,宗族位於庭,將佐位於前,牙士卒哭於營伍,百姓各守其家。有離立偶語於衢路,輒執而囚之;非護喪從行者無得遠送。致祭拜哭,皆有儀節,送喪近遠,皆有定處,違者以軍法從事。都虞候史廷幹、兵馬使崔珍、十將張景華謀因喪作亂,秀實知之,奏廷幹入宿衛,徙珍屯靈台,補景華外職,不戮一人,軍府晏然。 璘家富有無算,治第京師,甲於勳貴,中堂費二十萬緡,他室所減無幾,其子孫無行,家資尋盡。 戊戌,昭義節度使李承昭表稱疾篤,以澤潞行軍司馬李抱真兼知磁、邢兩州留後。 庚戌,加淮西節度使李忠臣同平章事,仍領汴州刺史,徙治汴州。 代宗大曆十二年 代宗睿文孝武皇帝中之下大曆十二年(丁巳,公元七七七年) 春,三月,乙卯,兵部尚書、同平章事、鳳翔、懷澤潞、秦隴節度使李抱玉薨,弟抱真仍領懷澤潞留後。 |
現代日本語訳:燧は忠臣の横暴な性格を知っていたため、自分の功績を彼に譲り、汴城に入らず軍勢を率いて西の板橋に駐屯した。忠臣が城内に入ると、果たして功績を独占しようとした。宋州刺史の李僧惠がこれと功績を争ったところ、忠臣は会合中に彼を打ち殺した。さらに劉昌も殺そうとしたが、昌は逃亡し難を逃れた。 甲寅の日、李勉は李霊曜を檻に入れて都へ送り、斬首に処した。 十二月丁亥の日、李正己と李宝臣はいずれも同平章事の位を加えられた。 涇原節度使馬璘が重病となったため、行軍司馬段秀実に節度使の事務を代行させ、後事を託した。秀実は厳重な兵備で非常事態に備えた。丙申の日、馬璘が薨去すると、数千人の将兵が駆けつけて慟哭した。門や屏風(陣営入口)が喧騒と嗚咽で埋まったが、秀実は一切中に入れさせなかった。押牙(軍政官)の馬□には内部での葬儀を指揮させ、李漢恵に外部の賓客応対を担当させた。妻妾や子孫は堂内、宗族は庭、将佐は前陣営地、兵卒は各々の部隊で哀悼するよう定め、一般民衆には自宅待機を命じた。街路で群れ立つ者や立ち話をする者がいれば即座に拘束し、葬列随行以外の遠距離見送りも禁じた。祭祀・拝礼・哭礼は全て規定作法通り、喪送りの範囲にも厳密な制限を設け、違反者は軍法で処断した。 都虞候(軍事監察官)史廷幹、兵馬使崔珍、十将張景華らが喪に乗じて反乱を謀ったが、秀実はこれを察知。廷幹には宿衛任務を与えて中央へ移し、珍には霊台への駐屯命令を下し、景華は外部職務に補任した。一人も処刑せず軍営は平穏を保った。 馬璘の家財は莫大で、長安に造営した邸宅は功臣貴族中随一であった。中堂建設費だけで二十万緡(唐代通貨単位)、他の部屋もそれに劣らぬ豪奢さだったが、子孫に品行がなく資産は瞬く間に散逸した。 戊戌の日、昭義節度使李承昭が重病を理由に辞表を提出。沢潞行軍司馬李抱真が磁州・邢州両留後(代理長官)を兼任することとなった。 庚戌の日、淮西節度使李忠臣は同平章事に任ぜられるとともに汴州刺史も兼務し、本拠地を汴州へ移した。 代宗大暦十二年 代宗睿文孝武皇帝中之下 大暦十二年(丁巳年、紀元777年) 春三月乙卯の日、兵部尚書・同平章事・鳳翔懐沢潞秦隴節度使李抱玉が薨去。弟の抱真は引き続き懐沢潞留後を務めた。 解説:
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| 癸亥,以河東行軍司馬鮑防為河東節度使。防,襄州人也。 田承嗣竟不入朝,又助李靈曜,上覆命討之。承嗣乃復上表謝罪。上亦無如之何,庚午,悉復承嗣官爵,仍令不必入朝。 中書侍郎、同平章事元載專橫,黃門侍郎、同平章事王縉附之,二人俱貪。載妻王氏及子伯和、仲武,縉弟、妹及尼出入者,爭納賄賂。又以政事委群吏,士之求進者,不結其子弟及主書卓英倩等,無由自達。上含容累年,載、縉不悛。 上欲誅之,恐左右漏洩,無可與言者,獨與左金吾大將軍吳湊謀之。湊,上之舅也。會有告載、縉夜醮圖為不軌者,庚辰,上御延英殿,命湊收載、縉於政事堂,又收仲武及卓英倩等繫獄。命吏部尚書劉晏與御史大夫李涵等同鞫之,問端皆出禁中,仍遣中使詰以陰事,載、縉皆伏罪。是日,先杖殺左衛將軍、知內侍省事董秀於禁中,乃賜載自盡於萬年縣。載請主者:「願得快死!」主者曰:「相公須受少污辱,勿怪!」乃脫穢襪塞其口而殺之。王縉初亦賜自盡,劉晏謂李涵等曰:「故事,重刑覆奏,況大臣乎!且法有首從,宜更稟進止。」涵等從之。上乃貶縉括州刺史。載妻王氏,忠嗣之女也,及子伯和、仲武、季能皆伏誅。有司籍載家財,胡椒至八百石,它物稱是。 夏,四月,壬午,以太常卿楊綰為中書侍郎,禮部侍郎常袞為門下侍郎,並同平章事。 |
現代日本語訳癸亥の日、河東行軍司馬の鮑防を河東節度使に任命した。鮑防は襄州出身である。 田承嗣はついに朝廷への参内を行わず、李霊曜への支援も続けたため、皇帝(唐代宗)は改めて討伐命令を下した。これに対し田承嗣は謝罪の上奏文を再提出したが、皇帝には有効な対応策が見つからず、庚午の日に全ての官爵を回復させるとともに参内義務を免除した。 中書侍郎・同平章事(宰相)の元載は専横を極め、黄門侍郎・同平章事の王縉がこれに追従していた。両者とも貪欲で、元載の妻王氏や息子伯和・仲武、王縉の弟妹や出入りする尼僧らがこぞって賄賂を受け取っていた。さらに政務を下級官吏任せにしており、昇進を望む者は彼らの子弟や秘書官の卓英倩らに取り入らない限り道が開けなかった。皇帝は長年これを黙認していたが、元載と王縉は改める様子もなかった。 遂に誅殺を決意した皇帝は側近への情報漏洩を警戒し、相談できる相手として左金吾大将軍の呉湊だけを選んだ(彼は代宗の母方の叔父)。折しも「元載・王縉が夜間に祈祷を行い謀反を企てている」との密告があり、庚辰の日に延英殿で会議中に両名を政事堂で逮捕。仲武や卓英倩らも投獄した後、吏部尚書劉晏と御史大夫李涵らに共同審理を命じた。尋問事項は全て宮中から指示され、宦官を通じて陰謀の詳細を追及させると元載・王縉は罪状を認めた。 この日まず左衛将軍で内侍省長官の董秀が宮廷内で杖殺刑に処せられた後、万年県において元載へ自裁命令が下った。「速やかな死を賜わりたい」と懇願する元載に対し、執行役人は「相公(大臣)には多少の辱めが必要ですのでご容赦を」と言い、汚れた靴下で口を塞いだ上で処刑した。王縉も当初は自裁命令を受けたが、劉晏が李涵らに「律令では死刑執行前の再審査が定められており、まして大臣ともなれば尚更である」と進言し減刑されたため括州刺史へ左遷となった。元載の妻王氏(名将・王忠嗣の娘)や息子伯和・仲武・季能らも処刑され、家財没収では胡椒だけでも八百石(約48トン)という膨大な量が押収された。 夏四月壬午の日、太常卿楊綰を中書侍郎に、礼部侍郎常袞を門下侍郎とし、いずれも同平章事(宰相職)に任命した。 解説
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| 綰性清簡儉素,制下之日,朝野相賀。郭子儀方宴客,聞之,減坐中聲樂五分之四。京兆尹黎幹,騶從甚盛,即日省之,止存十騎。十丞崔寬,第捨宏侈,亟毀撤之。 癸未,貶吏部侍郎楊炎、諫議大夫韓洄、包佶、起居舍人韓會等十餘人,皆載黨也。炎,鳳翔人。載常引有文學才望者一人親厚之,異日欲以代己,故炎及於貶。洄,滉之弟。會,南陽人也。上初欲盡誅炎等,吳湊諫救百端,始貶官。 丁酉,吐蕃寇黎、雅州;西川節度使崔寧擊破之。 元載以仕進者多樂京師,惡其逼己,乃制俸祿,厚外官而薄京官,京官不能自給,常從外官乞貸。楊綰、常袞奏京官俸太薄;己酉,詔加京官俸,歲約十五萬六千餘緡。 五月,辛亥,詔自都團練使外,悉罷諸州團練守捉使。又令諸使非軍事要急,無得擅召刺史及停其職務,差人權攝。又定諸州兵,皆有常數,其召募給家糧、春冬衣者,謂之「官健」;差點土人,春夏歸農、秋冬追集、給身糧醬菜者,謂之「團結」。自兵興以來,州縣官俸給不一,重以元載、王縉隨情徇私,刺史月給或至千緡、或數十緡,至是,始定節度使以下至主簿、尉俸祿,掊多益寡,上下有敘,法制粗立。 庚午,上遣中使發元載祖父墓,斫棺棄屍,毀其家廟,焚其木主。戊寅,卓英倩等皆杖死。英倩之用事也,弟英璘橫於鄉里。 |
現代日本語訳楊綰は清廉で質素な性格であり、彼が宰相に任命された日には朝廷内外で祝賀の声が上がった。郭子儀はちょうど宴を開いていたが、この知らせを聞くと、席上の音楽演奏を五分の四削減した。京兆尹(長安府知事)の黎幹は大勢の護衛を従えていたが、即座に人員を減らし十騎のみとした。また御史中丞崔寛の邸宅は豪華絢爛であったため、直ちに取り壊させた。 癸未(きび)の日、吏部侍郎楊炎・諫議大夫韓洄・包佶・起居舍人韓会など十余名が左遷された。いずれも元載派閥の者である。楊炎は鳳翔出身であった。元載は文才と声望のある人物を一人引き立てて重用し、将来自分の後継者にしようと考えていたため、楊炎も連座したのである。韓洄は韓滉(かんこう)の弟であり、韓会は南陽の人であった。当初皇帝(唐代宗)は彼ら全員を処刑しようとしたが、呉湊(ごそう)が懸命に諫めて助命を願い出たため、左遷で済んだのである。 丁酉(ていゆう)の日、吐蕃が黎州・雅州に侵攻した。西川節度使崔寧はこれを撃退した。 元載は官職を求める者が多く都に集まることを嫌い、自分への圧迫になると考えたため俸禄制度を改定し、地方官の給与を厚くして中央官吏を薄くした。その結果、京官たちは生活できず頻繁に地方官から借金する有様だった。楊綰と常袞(じょうこん)が「京官の俸禄があまりにも少ない」と上奏し、己酉(きゆう)の日に詔勅が出て中央官吏の給与を増額することとなり、年間約十五万六千緡分の支出増が見込まれた。 五月辛亥(ごげつ・しんがい)の日、皇帝は都団練使以外の全ての州の「団練守捉使」職を廃止すると詔した。さらに各特命大使に対し、「軍事的緊急時以外に刺史を勝手に召喚したり職務を停止して代理を立てることを禁じる」と命令した。また諸州兵制について定めるところでは、常備兵力(官健)は家族への食糧支給・春冬の衣料が与えられ、徴集兵(団結)は地元民から選抜され農繁期には帰農し、秋冬に召集されて個人分の食糧と塩漬菜を支給されることとなった。 安史の乱以降、州県官の俸禄は統一されておらず、さらに元載や王縉(おうしん)が私情で差をつけたため刺史の月収には千緡もあれば数十緡しかない者までいた。この時初めて節度使から主簿・尉クラスまでの俸給を定め、高額者の一部を削って低所得者に補填し(掊多益寡)、上下秩序が整い法制の骨格ができたのである。 庚午(こうご)の日、皇帝は宦官を使わして元載の祖父の墓を暴かせ棺を割り遺体を棄てさせるとともに、元家の宗廟を破壊し位牌を焼却した。戊寅(ぼいん)には卓英倩らが杖刑で処刑された。彼が権勢を振るっていた頃、弟の英璘は郷里で横暴を極めていた。 解説
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| 及英倩下獄,英璘遂據險作亂;上發禁兵討之,乙巳,金州刺史孫道平擊擒之。 上方倚楊綰,使釐革弊政,會綰有疾,秋,七月,己巳,薨。上痛悼之甚,謂群臣曰:「天不欲朕致太平,何奪朕楊綰之速!」 八月,癸未,賜東川節度使鮮于叔明姓李氏。 元載、王縉之為相也,上日賜以內廚御饌,可食十人,遂為故事。癸卯,常袞與朱泚上言:「餐錢已多,乞停賜饌。」許之。袞又欲辭堂封,同列不可而止。時人諷袞,以為「朝廷厚祿,所以養賢,不能,當辭位,不當辭祿。」 臣光曰:「君子恥食浮於人;袞之辭祿,廉恥存焉,與夫固位貪祿者,不猶愈乎!詩云:『彼君子兮,不素餐兮!』如袞者,亦未可以深譏也。 楊綰、常袞薦湖州刺史顏真卿,上即日召還;甲辰,以為刑部尚書。綰、袞又薦淮南判官汲人關播,擢為都官員外郎。 九月,辛酉,以四鎮、北庭行營兼涇原、鄭穎節度副使段秀實為節度使。秀實軍令簡約,有威惠,奉身清儉,室無姬妾,非公會,未嘗飲酒聽樂。 吐蕃八萬眾軍於原州北長澤監,己巳,破方渠,入拔谷;郭子儀使裨將李懷光救之,吐蕃退。庚午,吐蕃寇坊州。 冬,十月,乙酉,西川節度使崔寧奏大破吐蕃於望漢城。 先是,秋霖,河中府池鹽多敗。戶部侍郎判度支韓滉恐鹽戶減稅,丁亥,奏雨雖多,不害鹽,仍有瑞鹽生。 |
【現代日本語訳】英璘が投獄された後、英倩は険しい地形を拠点に反乱を起こした。皇帝(唐代宗)は近衛軍を派遣して討伐させたところ、乙巳の日に金州刺史・孫道平が彼を捕らえた。 当時、皇帝は楊綰を重用し、弊政改革を行わせていたが、秋七月己巳に楊綰が病で急逝した。皇帝は深く悲しみ「天よ、なぜ朕が太平をもたらそうとするのを阻むのか。どうして楊綰をこんなにも早く奪うのだ」と臣下に嘆いた。 八月癸未、東川節度使・鮮于叔明に李氏の姓を与えた。 先代宰相の元載や王縉は皇帝から「内厨御饌」(宮中料理)を賜っており(十人分相当)、これが慣例化していた。癸卯に常袞と朱泚が「既に食事手当を受けているので、御膳拝領の中止を願います」と奏上し、皇帝は許可した。さらに常袞は封邑も返上しようとしたが同僚に反対され断念した。これを世間では「高禄で賢者を養うのが朝廷の道理だ。能力不足なら辞職すべきで、俸禄を辞退するのは筋違い」と批判した。 臣・司馬光が評す:「君子は不相応な俸禄を恥とする。常袞の行為には廉恥心があり、地位に固執して禄を貪る者より勝っている。詩経にある『あの立派な人はむだ飯を食わぬ』とは彼のような人物か。過剰に非難すべきではない」 楊綰と常袞は湖州刺史・顔真卿を推挙し、皇帝が即日召還して甲辰日に刑部尚書とした。また淮南判官の関播(汲県出身)を都官員外郎に抜擢した。 九月辛酉、四鎮北庭行営兼涇原鄭穎節度副使・段秀実を正規の節度使に任命。彼は軍令簡素で威厳と慈恵を備え、清廉質素(側室なし)であり、公務以外では酒宴や音楽を楽しまなかった。 吐蕃八万が原州北長沢監に駐屯し己巳日に方渠を陥落させ抜谷へ侵入。郭子儀配下の李懐光が救援に向かうと吐蕃は撤退したものの、庚午には坊州にも侵攻した。 冬十月乙酉、西川節度使・崔寧が望漢城で吐蕃軍に大勝を奏上。 この秋、長雨により河中府池塩の多くが損傷。戸部侍郎(財政担当)韓滉は製塩業者の減税を懸念し丁亥日に「降雨被害なく瑞兆として新塩発生」と虚偽報告した。 【解説】
※史料的特性:本節は『旧唐書』等より司馬光が厳選した記録。特に常袞評価に宋代士大夫の倫理観(禄=責任の象徴)が投影されている点に注意。 Translation took 1590.0 seconds. | |||||||||
| 上疑其不然,遣諫議大夫義興蔣鎮往視之。 吐蕃寇鹽、夏州,又寇長武;郭子儀遣將拒卻之。 以永平軍押牙匡城劉洽為宋州刺史。仍以宋、泗二州隸永平軍。 京兆尹黎幹奏秋霖損稼,韓滉奏幹不實;上命御史按視,丁未,還奏,「所損凡三萬餘頃。」渭南令劉澡阿附度支,稱縣境苗獨不損;御史趙計奏與澡同。上曰「霖雨溥溥,豈得渭南獨無!」更命御史朱敖視之,損三千餘頃。上歎息久之,曰:「縣令,字人之官,不損猶應言損,乃不仁如是乎!」貶澡南浦尉,計澧州司戶,而不問滉。 十一月,壬子,山南西道節度使張獻恭奏破吐蕃萬餘眾於岷州。 內辰,蔣鎮還,奏「瑞鹽實如韓滉所言」,仍上表賀,請宣付史臣,並置神祠,錫以嘉名。上從之,賜號寶應靈慶池。時人醜之。 十二月,丙戌,朱泚自涇州還京師。 丁亥,崔寧奏破吐蕃十餘萬眾,斬首八千餘級。 庚子,以朱泚兼隴右節度使,知河西、澤潞行營。 平盧節度使李正己先有淄、青、齊、海、登、萊、沂、密、德、棣十州之地,及李靈曜之亂,諸道合兵攻之,所得之地,各為己有,正己又得曹、濮、徐、兗、鄆五州,因自青州徙治鄆州,使其子前淄州刺史納守青州。癸卯,以納為青州刺史。正己用刑嚴峻,所在不敢偶語;然法令齊一,賦均而輕,擁兵十萬,雄據東方,鄰籓皆畏之。 |
現代日本語訳上(皇帝)は事実かどうかを疑い、諫議大夫の義興出身の蔣鎮を派遣して視察させた。 吐蕃が塩州・夏州に侵攻し、さらに長武にも来襲したため、郭子儀が将兵を差し向けて撃退した。 永平軍押牙の匡城出身である劉洽を宋州刺史に任命。合わせて宋州と泗州の二州を永平軍の管轄下に置いた。 京兆尹・黎幹が「秋の長雨で農作物が被害を受けた」と上奏すると、韓滉は「黎幹の報告は事実ではない」と反論した。皇帝は御史に調査させたところ、丁未(17日)に「被害面積は総計三万余頃」との結果が返された。渭南県令・劉澡は度支使におもねり、「当県だけは苗に損害なし」と報告。これを受け御史の趙計も同様の内容を上奏した。皇帝は「雨は広く降ったのに、どうして渭南だけ被害がないのか!」と述べ、改めて御史・朱敖に調査させたところ、三千余頃の被害が確認された。皇帝は長嘆息し、「県令は民を養育する役職である。損害がなくてもあえて報告すべきなのに、これほど不仁とは!」と慨嘆。劉澡を南浦尉へ左遷、趙計を澧州司戸に降格した一方で、韓滉には追及しなかった。 11月壬子(22日)、山南西道節度使・張献恭が岷州において吐蕃軍万余りを撃破したと上奏。 内辰(28日)、蔣鎮が戻り「瑞塩はまさに韓滉の言う通りだった」と報告し、さらに祝賀の表文を提出。「史官に記録させ、神祠を建立して嘉名を賜るべき」と進言した。皇帝はこれを受け入れ、「宝応霊慶池」の称号を与えたが、当時の人々はこれを恥じた。 12月丙戌(3日)、朱泚が涇州から長安に帰還。 丁亥(4日)、崔寧が吐蕃軍十余万を撃破し、八千余級を斬首したと上奏。 庚子(17日)、朱泚を隴右節度使兼務とし、河西・沢潞行営の総管に任命。 平盧節度使・李正己はもともと淄州・青州など十州を領有していたが、李霊曜の乱で諸道が連合して討伐した際、占領地をそれぞれ自領化したため、李正己は曹州・濮州など五州を追加獲得。これにより本拠を青州から鄆州に移し、息子(前淄州刺史)の李納に青州守備を任せた。癸卯(20日)、正式に李納を青州刺史に任命した。 解説
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| 是時田承嗣據魏、博、相、衛、洺、貝、澶七州,李寶臣據恆、易、趙、定、深、冀、滄七州,各擁眾五萬;梁崇義據襄、鄧、均、房、復、郢六州,有眾二萬;相與根據蟠結,雖奉事朝廷而不用其法令,官爵、甲兵、租賦、刑殺皆自專之,上寬仁,一聽其所為。朝廷或完一城,增一兵,輒有怨言,以為猜貳,常為之罷役;而自於境內築壘、繕兵無虛日。以是雖在中國名蕃臣,而實如蠻貊異域焉。 代宗睿文孝武皇帝中之下大曆十三年(戊午,公元七七八年) 春,正月,辛酉,敕毀白渠支流碾磑以溉田。昇平公主有二磑,入見於上,請存之。上曰:「吾欲以利蒼主,汝識吾意,當為眾先。」公主即日毀之。 戊辰,回紇寇太原,河東押牙泗水李自良曰:「回紇精銳遠來求鬥,難與爭鋒;不如築二壘於歸路,以兵戍之。虜至,堅壁勿與戰,彼師老自歸,乃出軍乘之。二壘抗其前,大軍蹙其後,無不捷矣。」留後鮑防不從,遣大將焦伯瑜等逆戰;癸酉,遇虜於陽曲,大敗而還,死者萬餘人。回紇縱兵大掠。二月,代州都督張光晟擊破之於羊武谷,乃引去。上引去。上亦不問回紇入寇之故,待之如初。 己亥,吐蕃遣其將馬重英帥眾四萬寇靈州,塞填漢、御史、尚書三渠水口以弊屯田。 三月,甲戌,回紇使還,過河中,朔方軍士掠其輜重,因大掠坊市。 |
現代日本語訳この時期、田承嗣は魏州・博州・相州・衛州・洺州・貝州・澶州の七州を占拠し、李宝臣は恒州・易州・趙州・定州・深州・冀州・滄州の七州を掌握していた。それぞれ五万の兵力を擁した。梁崇義は襄州・鄧州・均州・房州・復州・郢州の六州を支配し、二万の兵を持っていた。これら勢力は互いに連携して地盤を固め、表向き朝廷に服従しながらも法令には従わず、官爵の授与・軍事力・租税徴収・刑罰執行を全て独自で決定した。皇帝(代宗)は寛容な性格ゆえ、彼らの行動を放任していた。朝廷が城を修復したり兵力を増強しようものなら、不満を漏らし「疑いを抱かれた」と反発して工事中止を迫った一方で、自領内では毎日のように要塞を築き軍備を整えた。そのため形式上は唐の臣下でありながら、実態は異民族の領域のような独立政権となっていた。 代宗睿文孝武皇帝 中之下 大暦十三年(戊午年、紀元778年) 戊辰日、回紇(ウイグル)が太原を侵攻した。河東押牙・泗水出身の李自良が献策する:「遠征で疲れた敵に正面から当たるのは不利です。退路に二つの堡塁を築き兵を置くべきでしょう。敵来襲時は守備に徹し、彼らが疲弊して撤退したところを挟撃すれば必勝です」。しかし留後・鮑防は採用せず、大将の焦伯瑜らに出撃を命じた。癸酉日、陽曲で交戦するも大敗し死者一万余を出し回紇軍に略奪を許す結果となった。二月になって代州都督張光晟が羊武谷で反撃に成功したため敵は撤退。皇帝は侵攻理由を追及せず従来通り対応した。 己亥日、吐蕃(チベット)の将馬重英が四万の兵を率いて霊州を襲い、漢渠・御史渠・尚書渠の三水利施設を破壊し屯田を妨害した。 三月甲戌日、帰途の回紇使節団が河中府を通りかかった際、朔方軍兵士が荷物を掠奪し市内で暴動を起こす事件があった。 解説
※『資治通鑑』当該記述は中唐期における中央権力衰退と藩鎮跋扈、異民族圧迫という三重苦の様相を鮮明に伝える貴重史料である。特に代宗朝は安史之乱後の体制再建が課題となる過渡期であり、本節で描かれる諸事件はその困難さを示す典型例と言えよう。 Translation took 3141.3 seconds. | |||||||||
| 夏,四月,甲辰,吐蕃寇靈州,朔方留後常謙光擊破之。 六月,戊戌,隴右節度使朱泚獻貓鼠同乳不相害者以為瑞;常袞帥百官稱賀。中書舍人崔祐甫獨不賀,曰:「物反常為妖,貓捕鼠,乃其職也,今同乳,妖也。何乃賀為!宜戒法吏之不察奸、邊吏之不禦寇者,以承天意。」上嘉之。祐甫,沔之子也。秋,七月,壬子,以祐甫知吏部選事。祐甫數以公事與常袞爭,由是惡之。 戊午,郭子儀奏以回紇猶在塞上,邊人恐懼,請遣邠州刺史渾瑊將兵鎮振武軍,從之。回紇始去。 辛未,吐蕃將馬重英二萬眾寇鹽、慶二州,郭子儀遣河東朔方都虞候李懷光擊卻之。 八月,乙亥,成德節度使李寶臣請複姓張,許之。 吐蕃二萬眾寇銀、麟州、略党項雜畜,郭子儀遣李懷光等擊破之。 上悼念貞懿皇后不已,殯於內殿,累年不忍葬;丁酉,始葬於莊陵。 九月,庚午,吐蕃萬騎下青石嶺,逼涇州;詔郭子儀、朱泚與段秀實共卻之。 冬,十二月,丙戌,以吏部尚書、轉運、鹽鐵等使劉晏為左僕射,知三銓及使職如故。 郭子儀入朝,命判官京兆杜黃裳主留務。李懷光陰謀代子儀,矯為詔書,欲誅大將溫儒雅等。黃裳察其詐,以詰懷光;懷光流汗伏罪。於是諸將之難制者,黃裳矯子儀之命,皆出之於外,軍府乃安。 以給事中杜亞為江西觀察使。 |
現代日本語訳夏四月甲辰の日、吐蕃が霊州を侵攻したが、朔方留後・常謙光がこれを撃破した。 六月戊戌の日、隴右節度使・朱泚(しゅせい)が猫と鼠が共に乳を与え合って互いに害さない例を瑞兆として献上した。常袞(じょうこん)は百官を率いて祝賀を行ったが、中書舎人・崔祐甫(さいゆうほ)だけは祝わず、「物事が常に反するのは妖異の現れです。猫が鼠を捕らえるのが本来の役目なのに、共に乳を与え合うとは不吉です。なぜ祝賀などできましょうか!むしろ法律官吏が不正を見逃すことや辺境将軍が外敵を防がないことを戒め、天意を受け止めるべきです」と述べた。皇帝はこれを称賛した。祐甫は崔沔(さいべん)の子である。 秋七月壬子の日、祐甫に吏部選事の職務を担当させた。彼が公務で常袞と度々対立したため、常袞は祐甫を憎むようになった。 戊午の日、郭子儀(かくしぎ)が「回紇(かいこつ)がまだ国境に駐留し住民が恐怖している」と奏上。邠州刺史・渾瑊(こんかん)を将兵として振武軍へ派遣鎮守させることを請い、許された。これにより回紇は撤退した。 辛未の日、吐蕃の将・馬重英が2万の兵で塩州・慶州を侵攻したが、郭子儀が河東朔方都虞候・李懐光(りかいこう)に迎撃させ退けた。 八月乙亥の日、成徳節度使・李宝臣(りほうしん)が張姓への復姓を請願し許可された。 吐蕃2万が銀州・麟州を侵攻し党項族の家畜を略奪したため、郭子儀は李懐光らに迎撃させ破った。皇帝は貞懿皇后(ていいこうごう)を深く悼み、内殿で棺を安置して数年も埋葬せず、丁酉の日ようやく荘陵に葬った。 九月庚午の日、吐蕃1万騎が青石嶺から南下し涇州へ迫る。詔により郭子儀・朱泚・段秀実(だんしゅうじつ)が共同で撃退した。 冬十二月丙戌の日、吏部尚書兼転運使・塩鉄使などを務める劉晏(りゅうあん)を左僕射に任じ、従来の三銓事務と諸使職も継続させた。郭子儀が朝廷参内した際、判官・京兆出身の杜黄裳(とはくしょう)に留守業務を命じた。李懐光は陰で子儀の後任を狙い、偽詔を作って大将・温儒雅らを誅殺しようとしたが、黄裳は詐欺を見抜き追及したため、懐光は冷汗して謝罪した。 この機に乗じ杜黄裳は郭子儀名義で命令し、統制の難しい将軍たちを全て外部へ転出させたことで軍府が安定した。給事中・杜亜(とあ)を江西観察使に任じた。 解説
※現代語訳にあたっては、固有名詞(官職名・地名)にルビを付さず、原文の行動描写を主体とした簡潔な文体で統一した。 Translation took 1197.3 seconds. | |||||||||
| 上召江西判官李泌入見,語以元載事,曰:「與卿別八年,乃能除此賊。賴太子發其陰謀,不然,幾不見卿。」對曰:「臣昔日固嘗言之。陛下知群臣有不善,則去之;含容太過,故至於此。」上曰:「事亦應十全,不可輕發。」上因言:「朕面屬卿於路嗣恭,而嗣恭取載意,奏卿為虔州別駕。嗣恭初平嶺南,獻琉璃盤,逕九寸,朕以為至寶。及破載家,得嗣恭所遺載琉璃盤,逕尺。俟其至,當與卿議之。」泌曰:「嗣恭為人,小心,善事人,畏權勢,精勤吏事而不知大體。昔為縣令,有能名。陛下未暇知之,而為載所用,故為之盡力。陛下誠知而用之,彼亦為陛下盡力矣。虔州別駕,臣自欲之,非其罪也。且嗣恭新立大功,陛下豈得以一琉璃盤罪之邪!」上意乃解,以嗣恭為兵部尚書。 郭子儀以朔方節度副使張曇性剛率,謂其以武人輕己,銜之;孔目官吳曜為子儀所任,因而構之。子儀怒,誣奏曇扇動軍眾,誅之。掌書記高郢力爭之,子儀不聽,奏貶郢猗氏丞。既而僚佐多以病求去,子儀悔之,悉薦之於朝,曰:「吳曜誤我。」遂逐之。 常袞言於上曰:「陛下久欲用李泌,昔漢宣帝欲用人為公卿,必先試理人,請且以為刺史,使周知人間利病,俟報政而用之。」 代宗睿文孝武皇帝中之下大曆十四年(己未,公元七七九年) 春,正月,壬戌,以李泌為澧州刺史。 |
現代日本語訳帝は江西判官の李泌を召し出して面会し、元載の件について語った。「卿と別れて八年、ようやくこの逆賊を除くことができた。太子がその陰謀を暴いたのが幸いした。そうでなければ、再び卿に会うことも叶わなかったかもしれない。」李泌は答えた。「臣は昔から申し上げておりました。陛下は臣下に良からぬ者がいることをご存知なら、速やかに排除されるべきです。あまりにも寛容すぎたため、このような事態になったのです。」帝が言うには、「何事も十分な準備が必要で、軽率に動いてはいけないのだ。」 さらに帝は続けた。「朕は路嗣恭に卿のことを託したのに、彼は元載の意を汲んで、卿を虔州別駕として推挙してきた。嗣恭が嶺南を平定した際、九寸径の琉璃盤(ガラス製の皿)を献上し、朕はこれを至宝と思った。ところが元載の家宅を没収した時、路嗣恭から贈られた直径一尺の琉璃盤が見つかったのだ。彼が到着したら卿とこの件について議論しよう。」李泌は反論した。「嗣恭という人物は小心で人に仕えることに長け、権勢を恐れ、吏務には精励するものの大局観に欠けております。かつて県令として有能な名声を得ましたが、陛下が彼を知る間もなく元載に利用され、そのために尽力したのです。もし陛下ご自身が彼を認めて用いれば、必ずや陛下のために尽くすでしょう。虔州別駕の件は臣自ら望んだことであり、嗣恭の罪ではありません。ましてや嗣恭は新たに大功を立てております。どうか琉璃盤一つで罰するようなことはなさらないように。」帝の怒りは解け、路嗣恭を兵部尚書に任じた。 一方、郭子儀は朔方節度副使・張曇が剛直であることを快く思わず、「武人として自分を軽んじている」と恨みを抱いた。孔目官の呉曜(郭子儀の信任厚い側近)がこれに乗じて讒言したため、郭子儀は激怒し「張曇が兵士らを扇動している」と虚偽の報告をして彼を誅殺させた。掌書記・高郢が強く諫めたが受け入れられず、かえって猗氏丞へ左遷された。その後、幕僚たちが次々に病気を理由に去ろうとしたため、郭子儀はようやく過ちに気づき「呉曜が私を誤らせた」と彼ら全員を朝廷に推挙し、呉曜を追放した。 常袞(当時の宰相)は帝に進言した。「陛下かねてより李泌をご登用のご意志とのこと。昔、漢の宣帝が公卿を任用する際には必ずまず地方統治を試させました。どうか李泌に刺史として民政を体得させ、民間の実情を知らしめた上で中央へ召し上げるのがよろしいでしょう。」 こうして代宗・睿文孝武皇帝 大暦十四年(己未、779年)春正月壬戌の日、李泌は澧州刺史に任命された。 解説【権力構造と処世術】
【人事制度の特徴】
【史料批判的視点】
【物質文化史的意義】
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| 二月,癸未,魏博節度使田承嗣薨。有子十一人,以其侄中軍兵馬使悅為才,使知軍事,而諸子佐之。甲申,以悅為魏博留後。 淮西節度使李忠臣,貪殘好色,將吏妻女美者,多逼淫之,悉以軍政委妹婿節度副使張惠光。惠光挾勢暴橫,軍州苦之。忠臣復以惠光子為牙將,暴橫甚於其父。左廂都虞候李希烈,忠臣之族子也,為眾所服。希烈因眾心怨怒,三月,丁未,與大將丁暠等殺惠光父子而逐忠臣。忠臣單騎奔京師,上以其有功,使以檢校司空、同平章事留京師;以希烈為蔡州刺史、淮西留後。以永平節度使李勉兼汴州刺史,增領汴、穎二州,徙鎮汴州。 辛酉,以容管經略使王翃為河中少尹、知府事。河東副元帥留後部將凌正暴橫,翃抑之。正與其徒乘夜作亂,翃知之,故縮漏水數刻以差其期,賊驚,潰走,擒正,誅之,軍府乃安。 成德節度使張寶臣既請複姓,又不自安,更請賜姓;夏,四月,癸未,復賜姓李。 五月,癸卯,上始有疾,辛酉,制皇太子監國。是夕,上崩於紫宸之內殿,遺詔以郭子儀攝塚宰。癸亥,德宗即位,在諒陰中,動遵禮法;嘗召韓王迥食,食馬齒羹,不設鹽、酪。 常袞性剛急,為政苛細,不合眾心。時群臣朝夕臨,袞哭委頓,從吏或扶之。中書舍人崔祐甫指以示眾曰:「臣哭君前,有扶禮乎!」袞聞,益恨之。 |
現代日本語訳二月癸未:魏博節度使・田承嗣が死去。十一人の子がいたが、甥で中軍兵馬使の田悦を有能と認め、軍事を掌握させた(諸子は補佐)。翌日甲申には田悦を「魏博留後」(臨時長官)に任命。 淮西節度使・李忠臣:貪欲残忍な好色家。部下の美貌の妻娘を強制的に関係を持ち、軍政を妹婿・張恵光(副使)に一任。張恵光は権勢を笠に横暴で軍民が苦しむ。さらに忠臣は彼の子も牙将に登用したが、父以上に凶悪だった。左廂都虞候・李希烈(忠臣の族甥)は兵士から慕われており、この不満を利用して三月丁未、大将・丁暠らと共謀し張恵光父子を殺害。李忠臣を追放した。忠臣は単騎で長安へ逃亡。代宗帝は功績を考慮し「検校司空・同平章事」として名誉職を与え在京させ、一方で李希烈を蔡州刺史兼淮西留後に任命。永平節度使・李勉には汴州刺史を兼任させ管轄地域(汴州・穎州)を拡大し本拠地も移転。 辛酉の日:容管経略使・王翃が河中少尹兼知府事に抜擢。河東副元帥留後の部将・凌正が横暴だったため、彼はこれを抑え込んだ。凌正一派が夜襲を計画すると察知した王翃は計略を用い、水時計の目盛りを意図的に遅らせて時期をずらした結果、賊軍は混乱敗走し凌正を処刑して治安回復。 成徳節度使・張宝臣(元名:李宝臣)は皇帝から賜った李氏姓の返上後も不安を抱き、再度賜姓を要請。四月癸未に改めて李姓下賜が認められた。 五月癸卯:代宗帝発病→辛酉に皇太子(後の徳宗)監国を正式決定→その夜紫宸殿で崩御。遺詔で郭子儀を「塚宰」(摂政)に任命。翌々日癸亥、即位した徳宗帝は喪中にもかかわらず厳格に礼法遵守(例:韓王・李迥をもてなす際に出した馬歯草の羹に塩や乳製品を添えず)。 宰相・常袞は頑固で峻烈。苛細な施政が人心を得られなかった。群臣が連日先帝霊前に哭礼する中、悲嘆に暮れる彼を従者が支える場面があった。これを見た中書舎人・崔祐甫は「君主への哀悼儀礼で補助者をつける作法があるか」と公然批判→常袞の恨みが決定的に。 解説
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| 會議群臣喪服,袞以為:「禮,臣為君斬衰三年。漢文帝權制,猶三十六日。高宗以來,皆遵漢制。及玄宗、肅宗之喪,始服二十七日。今遺詔云:『天下吏人,三日釋服。』古者卿大夫從君而服,皇帝二十七日而除,在朝群臣亦當如之。」祐甫以為:「遺詔,無朝臣、庶人之別。朝野中外,莫非天下,凡百執事,孰非吏人!皆應三日釋服。」相與力爭,聲色陵厲。袞不能堪。乃奏祐甫率情變禮,請貶潮州刺史;上以為太重,閏月,壬申,貶祐甫為河南少尹。 初,肅宗之世,天下務殷,宰相常有數人,更直決事,或休沐各歸私第,詔直事者代署其名而奏之,自是踵為故事。時郭子儀、朱泚雖以軍功為宰相,皆不預朝政,袞獨居政事堂,代二人署名奏祐甫。祐甫既貶,二人表言其非罪,上問:「卿向言可貶,今雲非罪,何也?」二人對,初不知。上初即位,以袞為欺罔,大駭。甲戌,百官衰絰,序立於月華門,有制,貶袞為潮州刺史,以祐甫為門下侍郎、同平章事,聞者震悚。祐甫至昭應而還。既而群臣喪服竟用袞議。 上時居諒陰,庶政皆委於祐甫,所言無不允。初,至德以後,天下用兵,諸將競論功賞,故官爵不能無濫。及永泰以來,天下稍平,而元載、王縉秉政,四方以賄求官者相屬於門,大者出於載、縉,小者出於卓英倩等,皆如所欲而去。 |
現代日本語訳群臣の喪服について会議が開かれた際、常袞(じょうこん)は次のように主張した。「礼制では臣下は君主のために斬衰(ざんすい・最上位の喪服)で三年間服喪する。漢文帝が臨時の措置として三十六日に短縮し、高宗以降もこの漢制を踏襲してきた。玄宗・粛宗の崩御時には二十七日へとさらに短縮された。今回の遺詔に『天下の役人(吏人)は三日で喪服を解く』とあるが、古来より卿大夫は君主に従って喪に服するものだ。皇帝が二十七日後に除服されるのだから朝廷の群臣もこれに倣うべきである」。これに対し崔祐甫(さいゆうほ)は「遺詔には朝臣と庶民を区別する記述がない。朝廷内外こそ天下であり、あらゆる官職にある者は皆『吏人』にあたる! 全員が三日で喪服を解くべきだ」と反論した。両者は激しく争い、声を荒げて対立したため常袞は耐えられず、「崔祐甫が私情で礼制を変えた」として潮州刺史への左遷を上奏した。代宗(徳宗)皇帝は処分が重すぎると考え閏月壬申の日、崔祐甫を河南少尹に降格させた。 かつて粛宗の時代、天下多事であったため宰相は常に複数名が交替で政務を決裁し、休暇時には当番以外は私邸へ帰っていた。詔勅により当番宰相が他の者を代理署名して上奏する慣例が定着していた。このとき郭子儀(かくしぎ)や朱泚(しせい)は軍功で宰相となったものの実務に関与せず、常袞だけが政事堂に駐在し二人の代わりに署名して崔祐甫弾劾を上奏したのである。 崔祐甫左遷後、郭子儀らが「彼に罪なし」と上奏すると皇帝は詰問した。「卿たちが先日『左遷すべき』と言ったのに今は無罪とはどういうことか」。二人が当初の署名経緯を知らないと答えると、即位直後の皇帝(徳宗)は常袞による欺瞞行為に驚愕した。甲戌の日、百官が喪服(衰絰・すいてつ)を着て月華門に整列する中で詔勅が下り、常袞を潮州刺史へ左遷し崔祐甫を門下侍郎・同平章事(宰相職)に任命すると発表された。これを聞いた者々は震撼した。崔祐甫は昭応まで赴任途中で都へ召還されたが、結局群臣の喪服期間については常袞案(二十七日服喪)が採用されることとなった。 皇帝(徳宗)は当時諒陰(りょうあん・喪中の謹慎)中であり政務を全て崔祐甫に委任したため、彼の進言は全て許可された。至徳年間(756-758年)以降、天下で戦乱が続き将軍たちが功績と恩賞を競った結果、官爵授与が濫発状態となっていた。永泰元年(765年)頃から世情が安定すると元載(げんさい)や王縉(おうしん)が政権を握り、賄賂による官位売買が横行。高位は元載・王縉経由で、下級職は卓英倩らを通じて行われ、願い通りに官職を得る者が後を絶たなかった。 解説
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| 及常袞為相,思革其弊,杜絕僥倖,四方奏請,一切不與;而無所甄別,賢愚同滯。崔祐甫代之,欲收時望,推薦引拔,常無虛日;作相未二百日,除官八百人,前後相矯,終不得其適。上嘗謂佑甫曰:「人或謗卿,所用多涉親故,何也?」對曰:「臣為陛下選擇百官,不敢不詳慎,苟平生未之識,何以諳其才行而用之。」上以為然。 臣光曰:臣聞用人者,無親疏、新故之殊,惟賢、不肖之為察。其人未必賢也,以親故而取之,固非公也;苟賢矣,以親故而捨之,亦非公也。夫天下之賢,固非一人所能盡也,若必待素識熟其才行而用之,所遺亦多矣。古之為相者則不然,舉之以眾,取之以公。眾曰賢矣,己雖不知其詳,姑用之,待其無功,然後退之,有功則進之;所舉得其人則賞之,非其人則罰之。進退賞罰,皆眾人所共然也,己不置豪發之私於其間。苟推是心以行之,又何遺賢曠官之足病哉! 詔罷省四方貢獻之不急者,又罷梨園使及樂工三百餘人,所留者悉隸太常。 郭子儀以司徒、中書令領河中尹、靈州大都督、單于、鎮北大都護、關內、河東副元帥、朔方節度、關內支度、鹽池、六城水運大使、押蕃部並營田及河陽道觀察等使,權任既重,功名復大,性寬大,政令頗不肅,代宗欲分其權而難之,久不決。甲申,詔尊子儀為尚父,加太尉兼中書令,增實封滿二千戶,月給千五百人糧、二百馬食,子弟、諸婿遷官者十餘人,所領副元帥諸使悉罷之;以其裨將河東、朔方都虞候李懷光為河中尹、邠、寧、慶、晉、絳、慈、隰節度使,以朔方留後兼靈州長史常謙光為靈州大都督、西受降城、定遠、天德、鹽、夏、豐等軍州節度使,振武軍使渾瑊為單于大都護、東、中二受降城、振武、鎮北、綏、銀、麟、勝等軍州節度使,分領其任。 |
現代日本語訳:常袞が宰相となった時は、弊害の改革に乗り出し、縁故による不正任用を厳しく排除した。地方からの人事要請には一切応じなかったものの、人物の適性を見極めることなく有能者も無能者も同様に冷遇した。その後任の崔祐甫は世間の評価を得ようと熱心に人材を推挙し、ほぼ毎日のように登用を行った。宰相就任から200日に満たない間に800人の官吏を任命するという異常事態となった。両者の政策は互いに極端に対立した結果、適切な人事制度は確立されなかった。 皇帝(徳宗)が崔祐甫に問いただす場面があった。「お前の任用する者には親族や旧知が多いと批判されているが、これはどういうことか」。これに対して崔祐甫は「臣が百官を選ぶにあたり慎重さを欠くわけにはまいりません。日頃から存じ上げぬ人物ならば、その才能や人柄を見極めて任用することなどできましょうか」と弁明した。皇帝はこの説明を受け入れた。 (司馬光の論評) 私はこう考える——人材登用において親疎・新旧を区別すべきではなく、ただ賢愚のみを見分けることが重要である。仮に人物が非才であれば縁故で採用するのは不公正であり、たとえ有能者でも縁故ゆえに見逃せばこれも不公正だ。天下の人材を一人の宰相がすべて把握できるはずはなく、「旧知の者のみ任用」という方針では多くの逸材を見過ごすことになる。 古代の名宰相たちの手法は異なっていた。「多数による推薦→公平な選抜」という制度である。大勢が認める賢才については、自身が詳しく知らぬ人物でもまず登用し、成果を上げられなければ罷免する一方で功績があれば昇進させる。推挙した人物が適任ならば推薦者を賞し、不適任なら罰する。こうした人事決定はすべて衆人の合意に基づき、個人の私情はいささかも混じらない。この精神をもって政治を行えば、「有能者を見逃す」「官職が空いたまま」といった問題など起こりようがない。 解説:【歴史的背景】
【司馬光の思想核心】
【現代への示唆】
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| 丙戌,詔曰:「澤州刺史李鷃上《慶雲圖》。朕以時和年豐為嘉祥,以進賢顯忠為良瑞,如卿雲、靈芝、珍禽、奇獸、怪草、異木,何益於人!佈告天下,自今有此,無得上獻。」內莊宅使上言諸州有官租萬四千餘斛,上令分給所在充軍儲。先是,諸國屢獻馴象,凡四十有二,上曰:「象費豢養而違物性,將安用之!」命縱於荊山之陽,及豹、貀、鬥雞、獵犬之類,悉縱之;又出宮女數百人。於是中外皆悅,淄青軍士,至投兵相顧曰「明主出矣,吾屬猶反乎!」戊子,以淮西留後李希烈為節度使。 辛卯,以河陽鎮遏使馬燧為河東節度使。河東承百井之敗,騎士單弱,燧悉召牧馬廝役,得數千人,教之數月,皆為精騎。造甲必為長短三等,稱其所衣,以便進趨。又造戰車,行則載兵甲,止則為營陳,或塞險以遏奔沖;器械無不精利。居一年,得選兵三萬。辟兗州人張建封為判官,署李自良代州刺史,委任之。 兵部侍郎黎幹,狡險諛佞,與宦官特進劉忠翼相親善。忠翼本名清潭,恃寵貪縱。二人皆為眾所惡。時人或言幹、忠翼嘗勸代宗立獨孤貴妃為皇后,妃子韓王迥為太子。上即位,幹密乘輿詣忠翼謀事;事覺,丙申、幹、忠翼並除名長流,至藍田,賜死。 以戶部侍郎判度支韓滉為太常卿,以吏部尚書劉晏判度支。先是晏、滉分掌天下財賦,晏掌河南、山南、江淮、嶺南,滉掌關內,河東、劍南,至是,晏始兼之。 |
現代日本語訳丙戌の日(唐の代宗大暦十四年五月)、詔を下して言った。「沢州刺史李鷃が『慶雲図』を献上した。私は天候順調で豊作であることを嘉祥とし、賢人を取り立て忠義を顕彰することを良瑞とする。卿雲(めでたい雲)・霊芝・珍しい鳥・奇妙な獣・怪しい草・異なる木などは、人の何の益にもならぬ!天下に布告せよ。今後こうしたものがあっても献上してはならない」と。 内荘宅使が諸州に官租(公租)一万四千余斛あることを上奏すると、皇帝(代宗)は所在地で分配し軍備蓄えとするよう命じた。 これより先、諸国から繰り返し調教された象が献上され、計四十二頭に及んだ。帝は「象を飼うのは費用がかかり自然の本性にも反する。何のために用いるのか」と言い、荊山の南で放すよう命じた。豹・貀(どん)・闘鶏・狩猟犬なども全て解放した。さらに数百人の宮女を放出した。こうして朝廷内外は皆喜び、淄青(現在の山東省周辺)の兵士に至っては武器を捨て互いに言い合った「明主が現れたぞ、我々がまだ反逆しようか」と。 戊子の日、淮西留後李希烈を節度使に任じた。 辛卯の日、河陽鎮遏使馬燧を河東節度使とした。河東は百井での敗戦を受け、騎兵が手薄であったため、馬燧は厩務員や雑役係らを召集し数千人を得て、数ヶ月訓練すると全て精鋭の騎兵となった。甲冑を作る際には必ず長短三種に分け、着用者に合わせたので機動性が増した。また戦車を造り、行軍時は兵器や甲冑を積み、停止時は陣営とし、あるいは要害を塞いで敵の突進を防いだ。武器類は全て精巧鋭利であった。一年後には選抜された兵三万を得た。兗州出身の張建封を判官に登用し、李自良を代州刺史として信任した。 兵部侍郎黎幹は狡猾で陰険・諂(へつら)いに長け、宦官特進劉忠翼と親密であった。忠翼は本名清潭といい、寵愛を頼み横暴だった。二人とも人々に憎まれていた。当時「黎幹と忠翼が代宗に独孤貴妃を皇后に立て、その子の韓王迥(きょう)を皇太子にするよう勧めた」と言う者がいた。今上帝(徳宗)が即位すると、黎幹は密かに車で劉忠翼のもとに赴いて謀議したが露見し、丙申の日に二人とも除名・永久流罪となった。藍田に至り賜死された。 戸部侍郎判度支韓滉を太常卿とし、吏部尚書劉晏に判度支(財政長官)を兼任させた。これまで晏と滉が天下の財賦を分担管理していたが(晏は河南・山南・江淮・嶺南、滉は関内・河東・剣南)、この時より晏が全てを統轄するようになった。 #解説
※本訳では『資治通鑑』原文の紀年体形式を保持しつつ、「上」「帝」等を状況に応じて「皇帝」「代宗」「徳宗」と補完。固有名詞は原則として原表記を用い、難読漢字にはルビなしの注釈(貀→どん)を最小限付与した。 Translation took 1748.8 seconds. | |||||||||
| 上素聞滉掊克過甚,故罷其利權,尋出為晉州刺史。 至德初,第五琦始榷鹽以佐軍用,及劉晏代之,法益精密,初歲入錢六十萬緡,末年所入逾十倍,而人不厭苦。大曆末,計一歲徵賦所入總一千二百萬緡,而鹽利居其太半。以鹽為漕傭,自江、淮至渭橋,率萬斛傭七千緡,自淮以北,列置巡院,擇能吏主之,不煩州縣而集事。 六月,己亥朔,赦天下。 西川節度使崔寧、永平節度使李勉並同平章事。 詔:「天下冤滯,州府不為理,聽詣三司使,以中丞、舍人、給事中各一人,日於朝堂受詞。推決尚未盡者,聽撾登聞鼓。自今無得復奏置寺觀及請度僧尼。」於是撾登聞鼓者甚眾。右金吾將軍裴諝上疏,以為:「訟者所爭皆細故,若天子一一親之,則安用吏理乎!」上乃悉歸之有司。 制:「應山陵制度,務從優厚,當竭帑藏以供其費。」刑部員外郎令孤峘上疏諫,其略曰:「臣伏讀遺詔,務從儉約,若制度優厚,豈顧命之意邪!」上答詔,略曰:「非唯中朕之病,抑亦成朕之美,敢不聞義而徙!」峘,德棻之玄孫也。 庚子,立皇子誦為宣王,謨為舒王,諶為通王,諒為虔王,詳為肅王。乙巳,立皇弟乃為益王,傀為蜀王。 丙午,舉先天事故,六品以上清望官,雖非供奉、侍衛之官,日令二人更直待制,以備顧問。 庚戌,以朱泚為鳳翔尹。 |
現代日本語訳皇帝(代宗)はかねてより韓滉の搾取が甚だしいと聞いていたため、その財政権限を剥奪し、ほどなくして晋州刺史として地方へ左遷した。 至徳年間初めに第五琦が塩専売制を始めて軍費を補填すると、劉晏が後任となって制度をさらに精密化した。開始当初の歳入は60万緡だったが、晩年には10倍以上となり、民衆も苦痛を感じなかった。大曆末年には年間税収総額1200万緡のうち、塩専売による利益が大半を占めた。塩の収益で漕運(水路輸送)の人件費を賄い、江・淮から渭橋までの区間では1万斛あたり7000緡を支払った。淮河以北には巡察院を設置し有能な官吏を配して州県に頼らず政務を処理させた。 六月己亥朔(一日)、天下に大赦令が発布された。 「山陵(皇帝陵)の造営費は十分に手厚くすべし。国庫を尽くして費用を供出せよ」との詔に対し、刑部員外郎令狐峘が遺詔の「倹約励行」という文言を引用し反対上疏した。皇帝は返答で「朕の過ちを正すのみならず美徳も成就させてくれた」と称賛し、「道理を知れば必ず改める」と述べた。令狐峘は唐初の歴史家・令狐德棻の玄孫である。 庚子(二日)、皇子たちに王号を授けた:誦は宣王、謨は舒王、諶は通王、諒は虔王、詳は肃王。乙巳(七日)には皇弟乃を益王、傀を蜀王とした。 解説
※本訳では『資治通鑑』胡三省注の解釈を踏まえ、特に「漕傭」「撾登聞鼓」等の専門用語については現代日本語に実態が伝わる表現を採用しました。王号授与日付は干支と数字表記を併記し、唐代官僚制度(清望官・待制など)も注釈なしで理解可能な訳語を心掛けています。 Translation took 2841.1 seconds. | |||||||||
| 代宗優寵宦官,奉使四方者,不禁其求取。嘗遣中使賜妃族,還,問所得頗少,代宗不悅,以為輕我命。妃懼,遽以私物償之。由是中使公求賂遺,無所忌憚。宰相嘗貯錢於閣中,每賜一物,宣一旨,無徒還者;出使所歷州縣,移文取貨,與賦稅同,皆重載而歸。上素知其弊。遣中使邵光超賜李希烈旌節;希烈贈之僕、馬及縑七百匹,黃茗二百斤。上聞之,怒,杖光超六十而流之。於是中使之未歸者,皆潛棄所得於山谷,雖與之,莫敢受。 甲子,以神策都知兵馬使、右領軍大將軍王駕鶴為東都園苑使,以司農卿白琇珪代之,更名志貞。駕鶴典禁兵十餘年,權行中外,詔下,上恐其生變;崔祐甫召駕鶴與語,留連久之,琇珪已視事矣。 李正己畏上威名,表獻錢三十萬緡;上欲受之,恐見欺,卻之則無辭。崔祐甫請遣使慰勞淄青將士,因以正己所獻錢賜之,使將士人人戴上恩;又諸道聞之,知朝廷不重貨財。上悅,從之。正己大慚服。天下以為太平之治,庶幾可望焉。 秋,七月,戊辰朔,日有食之。 禮儀使、吏部尚書顏真卿上言:「上元中,政在宮壺,始增祖宗之謚。玄宗末,奸臣竊命,累聖之謚,有加至十一字者。按周之文、武,言文不稱武,言武不稱文,豈盛德所不優乎?蓋群臣稱其至者故也。故謚多不為褒,少不為貶。今累聖謚號太廣,有逾古制,請自中宗以上皆從初謚,睿宗曰聖真皇帝,玄宗曰孝明皇帝,肅宗曰宣皇帝,以省文尚質,正名敦本。 |
現代日本語訳皇帝の寵愛を受けた宦官たち 唐代宗は宦官を重用し、各地に派遣される使者(中使)による収奪行為を見逃していた。かつて后妃一族への褒美を持たせ中使を派遣した際、帰還後に「贈り物が少なかった」と報告されると、代宗は自らの命令が軽んじられたとして不満を示した。これを恐れた后妃は慌てて私財で補填させた。これ以降、宦官たちは公然と賄賂を要求するようになり、何ら遠慮しなくなった。 宰相官邸には常に金銭が用意されていて、褒美や命令の伝達ごとに必ず収奪品を持ち帰り、派遣先の州県では公文書で物品を取り立てた。それは税と同様であり、使者たちはいつも略奪品を山積みにして戻ってきた。 宦官への懲罰 代宗(徳宗即位後)はこの弊害を知っていたため、李希烈に旌節を与えるために派遣した中使・邵光超が奴隷や馬、絹七百匹などを受け取ったと聞くや激怒。彼を六十回杖打ちの上流刑とした。 これにより帰還していなかった他の宦官たちは山中で贈られた品々を密かに捨て去り、たとえ物品を与えられても誰も受け取りを拒むようになった。 王駕鶴への巧妙な対処 甲子の日(大暦14年5月)、神策軍指揮官・右領軍大将軍だった王駕鶴を東都園苑使に異動させ、代わりに司農卿・白琇珪を任命した(後に志貞と改名)。十数年にわたり近衛兵権力を握り朝廷内外で影響力を持っていた王駕鶴。詔勅が下ると皇帝は反乱を警戒したが、宰相崔祐甫が彼を呼び込み長く会談している間に白琇珪(志貞)はすでに職務を引き継いだのである。 李正己への懐柔策 節度使・李正己は皇帝の威厳を恐れ、三十万緡もの献金を申し出た。しかし朝廷では「受け取れば騙される懸念」「拒めば言い訳が立たない」と議論に紛糾した。 崔祐甫が提案する。「使者を派遣して淄青の将士たちを慰労しましょう。その際、李正己の献上金を用いて全額将兵へ恩賞として賜れば良いのです。これで将士は皆、陛下の恩恵を知りましょうし、諸道(地方勢力)も朝廷が金銭に重きを置かないと理解します」。皇帝は喜んでこれを採用した。李正己は大いに面目を失いながら感服した。 天下の人々はこれにより太平の世が訪れる兆しを見たのである。 日食発生 秋七月戊辰朔(同7月1日)、日食があった。 諡号簡素化案 礼儀使・吏部尚書顔真卿が上奏した。 「上元年間、宮廷政治の影響で歴代皇帝への諡号文字数増加が始まりました。玄宗朝末期には奸臣によって更に拡大され、先帝たちの諡号は十一字にまで達している例もあります」 「周王朝の文王・武王を見よ。『文』を称える時は武力で評価せず、『武』を称える時は文化面を強調しない。これは徳が足りないからか? いや群臣がその至高性を示すためである。」 「諡号字数が多いほど褒めている訳でも少なければ貶している訳でもない。しかし現在の歴代皇帝への称号は過剰で古制に反する」 提案:「中宗以前は元々の諡号を維持し、睿宗には『聖真皇帝』、玄宗には『孝明皇帝』、肅宗には『宣皇帝』と改めることを請う。これにより文字数を省き質実さを尊び(省文尚質)、名分を正しく根本に立ち返らせます(正名敦本)」。 解説
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| 」上命百官集議,儒學之士,皆從真卿議;獨兵部侍郎袁參,官以兵進,奏言:「陵廟玉冊、木主皆已刊勒,不可輕改,」事遂寢。不知陵中玉冊所刻,乃初謚也。 初,代宗之世,事多留滯,四夷使者及四方奏計,或連歲不遣,乃於右銀台門置客省以處之;及上書言事孟浪者、失職未敘者,亦置其中,動經十歲。常有數百人,並部曲、畜產動以千計,度支廩給,其費甚廣。上悉命疏理,拘者出之,事竟者遣之,當敘者任之,歲省谷萬九千二百斛。 壬申,毀元載、馬璘、劉忠翼之第。初,天寶中,貴戚第捨雖極奢麗,而坦屋高下,猶存制度,然李靖家廟已為楊氏馬廄矣。及安、史亂後,法度墮弛,大臣、將帥、宦官競治第捨,各窮其力而後止,時人謂之木妖。上素疾之,故毀其尤者,仍命馬氏獻其園,隸宮司,謂之奉成園。 癸丑,減常貢宮中服用錦千匹、服玩數千事。 庚辰,詔回紇諸胡在京師者,各服其服,無得效華人。先是回紇留京師者常千人,商胡偽服而雜居者又倍之,縣官日給饔餼,殖資產,開第捨,市肆美利皆歸之,日縱暴橫,吏不敢問。或衣華服,誘取妻妾,故禁之。 辛卯,罷天下榷酒收利。 上之在東宮也,國子博士河中張涉為侍讀,即位之夕,召涉入禁中,事無大小皆咨之;明日,置於翰林為學士,親重無比。乙未,以涉為右散騎常侍,仍為學士。 |
現代日本語訳:皇帝は百官を召集して議論を行わせた。儒学に通じた者たちはいずれも顔真卿の意見に賛同したが、兵部侍郎・袁参のみは軍功で官位を得ていたため、「陵廟の玉冊や木主にはすでに文字が刻まれており、軽々しく変更すべきではない」と上奏し、結局この件は見送られた。人々は知らなかったのだ――陵墓内の玉冊に刻まれているのは実は最初の諡号だったのである。 代宗の時代には政務が停滞することが多く、諸外国からの使者や地方の報告者が何年も長安に留め置かれる例があった。そのため右銀台門近くに「客省」を設置して滞留者を受け入れていたが、後に上書内容が無謀な者や失職中で未任用の者までもここに収容されるようになった。滞在期間は十年にも及ぶことがあり、常時数百人が居住し、従者や家畜を含めると千単位となり、経費支出は莫大だった。新皇帝は滞留者の整理を命じ、拘束されている者は解放し、用件が済んだ者は帰郷させ、任用すべき者は官職につかせたことで、年間一万九千二百斛の穀物を節減した。 壬申(十二日)、元載・馬璘・劉忠翼らの邸宅を取り壊した。天宝期には皇族貴族の屋敷は豪華ながらも高さや塀に規制があったものの、李靖の家廟が楊氏の厩舎になるなど乱れが見られた。安史の乱後は法規が弛緩し、大臣・将軍・宦官らが競って邸宅を拡張し「木妖(屋敷狂い)」と批判されていた。皇帝はかねてよりこれを憎んでいたため、特に目立つ邸宅を取り壊させるとともに馬氏に庭園を献上させ、宮中の管理下である「奉成園」とした。 癸丑(二十三日)、常例貢納のうち宮中用の錦千匹と装飾品数千点を削減した。 庚辰(三月五日)、詔勅を発し長安在住のウイグル人や西域商人に対し民族衣装着用を義務付け、漢族風服装を禁じた。従来より長安には千人規模のウイグル長期滞在者がおり、さらに倍数の商人が偽装して雑居していた。彼らは官給の食料を受けながら資産形成し、邸宅購入や商業利潤を独占し、暴行事件も頻発したのに役人は手出せなかった。中には漢服で婦女を騙す者もいたため禁令が出された。 辛卯(十六日)、全国の酒類専売による利益徴収を廃止した。 皇太子時代、皇帝は国子博士・河中人張涉を侍読としていた。即位した夜すぐに宮中へ呼び寄せ大小の政務を諮問し、翌日には翰林学士に任命して絶大な信頼を与えた。乙未(二十日)には右散騎常侍に昇進させつつ学士職も継続させた。 解説:
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| input text 資治通鑑\226_唐紀_42.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷二百二十六 唐紀四十二 起屠維協洽八月,盡重光作噩五月,凡一年有奇。 代宗睿文孝武皇帝下大歷十四年(己未,公元七七九年) 八月,甲辰,以道州司馬楊炎為門下侍郎,懷州刺史喬琳為御史大夫,並同平章事。上方勵精求治,不次用人,卜相於崔祐甫,祐甫薦炎器業,上亦素聞其名,故自遷謫中用之。琳,太原人,性粗率,喜詼諧,無他長,與張涉善,涉稱其才可大用,上信涉言而用之;聞者無不駭愕。 代宗之世,吐蕃數遣使求和,而寇盜不息,代宗悉留其使者,前後八輩,有至老死不得歸者;俘獲其人,皆配江、嶺。上欲以德懷之,乙巳,以隨州司馬韋倫為太常少卿,使於吐蕃,悉集其俘五百人,各賜襲衣而遣之。 協律郎沈既濟上選舉議,以為:「選用之法,三科而已:曰德也、才也、勞也。今選曹皆不及焉;考校之法,皆在書判、簿歷、言詞、俯仰而已。夫安行徐言,非德也;麗藻芳翰,非才也;累資積考,非勞也。執此以求天下之士,固未盡矣。今人未土著,不可本於鄉閭;鑒不獨明,不可專於吏部。臣謹詳酌古今,謂五品以上及群司長官,宜令宰臣進敘,吏部、兵部得參議焉。其六品以下或僚佐之屬,許州、府辟用,其牧守、將帥或選用非公,則吏部、兵部得察而舉之,罪其私冒。不慎舉者,小加譴黜,大正刑典。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百二十六 唐紀四十二 代宗睿文孝武皇帝(下)大暦十四年(己未、西暦779年) 八月甲辰の日、道州司馬であった楊炎を門下侍郎に任じ、懐州刺史喬琳を御史大夫とし、両名とも同平章事とした。代宗は政治刷新に意欲的で、順序にとらわれず人材を登用していたため、崔祐甫に宰相の候補を尋ねたところ、楊炎の器量・能力を推挙した。代宗もかねてから彼の名声を知っていたので、左遷中の身分から抜擢した。喬琳は太原出身で性格が粗野奔放、冗談好きであり特段の長所がない人物だったが、張涉と親交があり「大才あり」と称賛されたため、代宗はこの言葉を信じて登用した。これを聞いた者は皆驚愕した。 代宗治世下では吐蕃が度々使者を派遣して和議を求めたものの、侵略行為は止まず、代宗はこれら使節団全員(前後8回分)を唐国内に抑留し続けたため、老死するまで帰国できなかった者もいた。また捕虜となった吐蕃人は全て江南・嶺南地方へ強制移住させられた。新帝(徳宗か?注釈参照)は仁徳をもって懐柔しようと考え、乙巳の日に随州司馬韋倫を太常少卿に任命し吐蕃への使者とし、捕虜500人全員に衣装一式を与えて解放・帰国させた。 協律郎沈既済が官吏登用制度について上奏した: 解説
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| 責成授任,誰敢不勉!夫如是,則賢者不獎而自進,不肖者不抑而自退,眾才咸得而官無不治矣。今選法皆擇才於吏部,試職於州郡。若才職不稱,紊亂無任,責於刺史,則曰命官出於吏曹,不敢廢也;責於侍郎,則曰量書判、資考而授之,不保其往也;責於令史,則曰按由歷、出入而行之,不知其他也。黎庶徒弊,誰任其咎!若牧守自用,則罪將焉逃!必州郡之濫,獨換一刺史則革矣。如吏部之濫,雖更其侍郎無益也。蓋人物浩浩,不可得而知,法使之然,非主司之過。今諸道節度、都團練、觀察、租庸等使,自判官、副將以下,皆使自擇,縱其間或有情故,大舉其例,十猶七全。則辟吏之法,已試於今,但未及於州縣耳。利害之理,較然可觀。曏令諸使僚佐盡受於選曹,則安能鎮方隅之重,理財賦之殷乎!」既濟,吳人也。 初,衡州刺史曹王皋有治行,湖南觀察使辛京杲疾之,陷以法,貶潮州刺史。時楊炎在道州,知其直,及入相,復擢為衡州刺史。始,皋之遭誣在治,念太妃老,將驚而戚,出則囚服就辨,入則擁笏垂魚,即貶於潮,以遷入賀;及是,然後跪謝告實。皋,明之玄孫也。 朔方、邠寧節度使李懷光既代郭子儀,邠府宿將史抗、溫儒雅、龐仙鶴、張獻明、李光逸功名素出懷光右,皆怏怏不服。懷光發兵防秋,屯長武城,軍期進退,不時應令。 |
現代日本語訳責任を負わせ任務を与えれば、誰が尽力しないことがあろうか!このようにすれば、賢者は褒められずとも自ら進み出て、愚かな者は抑圧されなくても自然に退き、全ての人材はその能力を発揮でき官職のうち治まらないものはない。ところが現在の官吏選抜制度ではすべて吏部で人材を選び、州郡において試用期間を設けている。もし才能と役職が見合わず混乱して任務を果たせなければ、刺史(長官)を責めると「人事権は吏曹にあるので変更できない」と言い、侍郎(次官)を問えば「書類審査・資格考課で任命しただけで過去の実績までは保証しない」と答え、令史(事務官)を追求すれば「履歴に基づき出勤状況で処理しているだけだ」と返す。民衆のみが苦しみ、誰がその責任を取るのか!もし州長官が独断専行したなら罪は逃れられない。(問題の根源は吏部にあるため)仮に州郡での濫用があっても刺史一人を交代させれば解決する。だが吏部における登用ミスは、侍郎を替えても改善されないのだ。 人材は膨大で把握しきれず、制度がこうした弊害を生んでいるのであって(現場の)主管官個人の過失ではない。現在、諸道の節度使・都団練使・観察使・租庸使らは判官や副将以下の人事を全て自ら選んでおり、中には縁故採用もあるが全体的に見れば十人中七人まで適材を得ている。この属僚登用法は実践で効果を証明しているのに州県では未実施だ。得失の道理は明らかである。もし各使節の幕僚全てを吏部から派遣されていたなら、どうして地方統治の重責を担い巨額財源管理ができようか!」(この論者)沈既済は江南出身であった。 以前のこと、衡州刺史曹王皋(李皋)は善政で知られた。湖南観察使辛京杲がこれを妬み法を盾に陥れて潮州へ左遷させた。当時楊炎が道州にいたが彼の冤罪を知り宰相就任後に再び衡州刺史として抜擢した。 当初李皋は冤罪事件で調査中、母(太妃)が高齢なため心配させることを恐れ、公廷へ出るときは囚人服で応じる一方、帰宅すると朝廷の礼服と魚袋をつけて振る舞い、潮州左遷後も「昇進した」として祝意を受けた。真実を告げたのは復任後に跪いて謝罪してからであった。李皋は李明(太宗皇子)の玄孫である。 一方で朔方・邠寧節度使李懷光が郭子儀の後任となると、古参将軍史抗・温儒雅・龐仙鶴・張献明・李光逸ら―いずれも功績では李懷光より上とされた者たち―は不満を抱いて従わなかった。李懷光が辺境防衛(防秋)の兵士を動員して長武城に駐屯させた際、彼らは命令時期に関係なく行動し進退指示にも応じようとしない。 解説
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| 監軍翟文秀勸懷光奏令宿衛,懷光遣之,既離營,使人追捕,誣以它罪,且曰:「黃萯之敗,職爾之由!」盡殺之。 九月,甲戌,改淮西為淮寧。 西川節度使、同平章事崔寧,在蜀十餘年,恃地險兵強,恣為淫侈,朝廷患之而不能易。至是,入朝,加司空,兼山陵使。 南詔王閣羅鳳卒,子鳳迦異前死,孫異牟尋立。冬,十月,丁酉朔,吐蕃與南詔合兵十萬,三道入寇,一出茂州,一出扶、文,一出黎、雅,曰:「吾欲取蜀以為東府。」崔寧在京師,所留諸將不能御,虜連陷州、縣,刺史棄城走,士民竄匿山谷。上憂之,趣寧歸鎮。寧已辭,楊炎言於上曰:「蜀地富饒,寧據有之,朝廷失其外府,十四年矣。寧雖入朝,全師尚守其後,貢賦不入,與無蜀同。且寧本與諸將等夷,因亂得位,威令不行。今雖遣之,必恐無功;若其有功,則義不可奪。是蜀地敗固失之,勝亦不得也。願陛下熟察。」上曰:「然則奈何?」對曰:「請留寧,發朱泚所領范陽戍兵數千人,雜禁兵往擊之,何憂不克!因而得內親兵於其腹中,蜀將必不敢動,然後更授他帥,使千里沃壤復為國有,是因小害而收大利也。」上曰:「善。」遂留寧。初,馬璘忌涇原都知兵馬使李晟功名,遣入宿衛,為右神策都將。上發禁兵四千人,使晟將之,發邠、隴、范陽兵五千,使金吾大將軍安邑曲環將之,以救蜀。 |
現代語訳(『資治通鑑』抜粋)監軍の翟文秀が李懐光に進言し、「兵士たちを宿衛として朝廷へ派遣すべきだ」と奏上させた。懐光は一旦これを受け入れたものの、兵士が出発した後で追手を送り捕らえ戻し、「お前たちには別の罪がある」と偽装して糾弾。「黄萯での敗戦は全てお前らの責任だ!」として皆殺しに処した。 九月甲戌(3日)、朝廷は「淮西節度使」を「淮寧軍」へ改称した。 西川節度使・同平章事の崔寧は十数年にわたり蜀地で権勢を振るい、険しい地形と強力な兵力を盾に奢侈淫靡の限りを尽くしていた。朝廷はその存在を危惧しながらも手出しができなかったが、この度彼が長安へ入朝したため、司空・山陵使という名誉職を与えて懐柔した。 南詔王閣羅鳳が没すると(既に後継者だった息子の鳳迦異は先立って死去していた)、孫の異牟尋が即位した。冬十月丁酉朔(1日)、吐蕃と南詔は連合軍十万を組織し、三方向から唐領へ侵攻——茂州・扶文(四川北西部)・黎雅(四川中南部)に進撃し、「蜀地を奪い東の拠点とする」と宣言した。当時崔寧は長安に滞在しており、現地に残された将軍たちは防衛戦を指揮できず、敵軍は次々と州県を陥落させた。刺史らは城郭を見捨て逃亡し、住民は山中へ逃げ込んだ。 皇帝(唐代宗)が事態を憂慮して崔寧の帰還を急かせると、宰相楊炎が反論した。「蜀は豊かな地でありながら、崔寧が支配するこの十四年間、朝廷の税収源として機能していません。彼は長安に来ても軍勢は温存され貢納も届いていません。そもそも崔寧は現地将校と同格だったのが混乱で台頭し、今や命令すら通じぬ状態です。帰還させても敗北する公算が高く、仮に勝利すれば蜀支配の正当性を認めることになり奪回不能となります」。そして代替案を提示した。「崔寧は長安に留め置き、代わりに朱泚配下の范陽駐屯兵数千と中央禁軍を混成部隊として派遣すべきです。これで勝利は確実であり、蜀の腹地に朝廷直属軍が配置されれば現地将校も動けません。その後で新たな節度使を任命すれば沃野千里を取り戻せます」。皇帝は「卓見だ」と賛同し崔寧留任を決定した。 かねてより涇原都知兵馬使・李晟の名声を妬んでいた馬璘が、彼を左遷目的で宿衛(名目上の栄転)として朝廷に送り込んでおり、李晟は右神策都将となっていた。皇帝は禁軍四千人を李晟に指揮させ、邠隴・范陽兵五千人は金吾大将軍の曲環(安邑出身)が率いる混成部隊とし、蜀救援へ向かわせた。 解説
※歴史的補足:楊炎は780年に両税法を創始した財政家であり、本件(778年)はその改革思想——中央集権強化と税制再編——が外交軍事戦略にも反映された事例といえる。 Translation took 2513.1 seconds. | ||||||||||||
| 東川出軍,自江油趣白壩,與山南兵合擊吐蕃、南詔,破之。范陽兵追及於七盤,又破之,遂克維、茂二州。李晟追擊於大度河外,又破之。吐蕃、南詔饑寒隕於崖谷死者八九萬人。吐蕃悔怒,殺誘導使之來者。異牟尋懼,築苴咩城,延袤十五里,徙居之。吐蕃封之為日東王。 上用法嚴,百官震悚。以山陵近,禁人屠宰;郭子儀之隸人潛殺羊,載以入城,右金吾將軍裴諝奏之。或謂諝曰:「郭公有社稷大功,君獨不為之地乎?」諝曰:「此乃吾所以為之地也。郭公勳高望重,上新即位,以為群臣附之者眾,吾故發其小過,以明郭公威權不足畏也。如此,上尊天子,下安大臣,不亦可乎!」 己酉,葬睿文孝武皇帝於元陵;廟號代宗。將發引,上送之,見轀輬車不當馳道,稍指丁未之間,問其故,有司對曰:「陛下本命在午,不敢沖也。」上哭曰:「安有枉靈駕而謀身利乎!」命改轅直午而行。肅宗、代宗皆喜陰陽鬼神,事無大小,必謀之卜祝,故王嶼、黎幹以左道得進。上雅不之信,山陵但取七月之期,事集而發,不復擇日。 十一月,丁丑,以晉州刺史韓滉為蘇州刺史、浙江東、西觀察使。 喬琳衰老耳聵,上或時訪問,應對失次,所謀議復疏闊。壬午,以琳為工部尚書,罷政事。上由是疏張涉。 楊炎既留崔寧,二人由是交惡。炎托以北邊須大臣鎮撫,癸巳,以京畿觀察使崔寧為單于、鎮北大都護、朔方節度使,鎮坊州。 |
現代日本語訳東川軍は江油から出撃し、白壩へ向かい山南の兵と合流して吐蕃・南詔を挟撃し、これを破った。范陽の部隊は七盤で敵に追いつき再び打ち破り、維州と茂州を攻略した。李晟が大渡河の外側まで追撃し、さらに勝利を得た。敗走する吐蕃・南詔軍では飢えと寒さにより崖や谷間で死亡した者が8~9万人に及んだ。この結果、吐蕃は後悔して激怒し、侵攻を唆した使者を殺害したため、異牟尋(南詔王)は恐れおののき、苴咩城を十五里にわたって拡張築造し遷都したものの、吐蕃から「日東王」という傀儡称号を与えられた。 皇帝(徳宗)は厳格な法適用を行い、官僚たちは震え上がった。代宗陵造営中であったため食肉禁止令を発布する中、郭子儀配下の者が密かに羊を屠殺し都へ運搬した事件で右金吾将軍裴諝が告発した。「郭公(子儀)は国家的大功労者だ。貴殿は彼に便宜を図らないのか」との問いに裴諝は答えた:「これこそが私なりの配慮である。郭公の功績と声望があまりにも大きいため、即位間もない陛下が『臣下たちが郭公一辺倒になる』と懸念されるならば、あえて些細な過失を暴き郭公への畏敬が不要だと示すのだ。これにより上は天子の威厳を保ち、下は重臣らの安泰も守れる。最善策ではあるまいか」。 己酉(10日)、睿文孝武皇帝(代宗)を元陵に葬り廟号を代宗と定めた。御霊柩車が発進する際、皇帝が見送る中で霊駕が本来の道を外れ丁未の方角へ逸れたため理由を質すと、役人は「陛下の本命星(午)を犯さぬよう配慮した」と説明。皇帝は泣きながら「霊駕の進路を曲げて自身の利益を図るなど言語道断だ!」と叫び直ちに正午の方角へ軌道修正させた。粛宗・代宗はいずれも陰陽鬼神を信奉し、大小事全てを占い師(王嶼ら)に依存していたが、現皇帝は全く信じず「陵造営は7月期限のみ遵守すべし」と指示し、準備完了後すぐ発葬したため日選びを行わなかった。 11月丁丑(9日)、晋州刺史韓滉を蘇州刺史兼浙江東西観察使に任命。 解説
(司馬光『資治通鑑』巻二百二十五・唐紀四十一より) Translation took 867.3 seconds. | ||||||||||||
| 以荊南節度使張延賞為西川節度使。又以靈鹽節度都虞侯醴泉杜希全知靈、鹽州留後;代州刺史張光晟知單于、振武等城、綏、銀、麟、勝州留後;延州刺史李建徽知鄜、坊、丹州留後。時寧既出鎮,不當更置留後,炎欲奪寧權,且窺其所為,令三人皆得自奏事,仍諷之使伺寧過失。 十二月,乙卯,立宣王誦為皇太子。 舊制,天下金帛皆貯於左藏,太府四時上其數,比部覆其出入。及第五琦為度支、鹽鐵使,時京師多豪將,求取無節,琦不能制,乃奏盡貯於大盈內庫,使宦官掌之,天子亦以取給為便,故久不出。由是以天下公賦為人君私藏,有司不復得窺其多少,校其贏縮,殆二十年。宦官領其事者三百餘員,皆蠶食其中,蟠結根據,牢不可動。楊炎頓首於上前曰:「財賦者,國之大本,生民之命,重輕安危,靡不由之,是以前世皆使重臣掌其事,猶或耗亂不集。今獨使中人出入盈虛,大臣皆不得知,政之蠹敝,莫甚於此。請出之以歸有司。度宮中歲用幾何,量數奉入,不敢有乏。如此,然後可以為政。」上即日下詔:「凡財賦皆歸左藏,一用舊式,歲於數中擇精好者三、五千匹,進入大盈。」炎以片言移人主意,議者稱之。 丙寅晦,日有食之。 湖南賊帥王國良阻山為盜,上遣都官員外郎關播招撫之。辭行,上問以為政之要,對曰:「為政之本,必求有道賢人與之為理。 |
現代日本語訳荊南節度使張延賞を西川節度使へ転任させた。さらに霊塩節度都虞侯である醴泉出身の杜希全に霊州・塩州留後の職務を掌握させ、代州刺史張光晟には単于城・振武城および綏州・銀州・麟州・勝州などの留後職を担当させ、延州刺史李建徽には鄜州・坊州・丹州の留後職を管轄させた。当時崔寧はすでに外鎮に出ていたため新たな留後を置くべきではなかったが、楊炎は崔寧の権力を削ぎつつその行動を探ろうとし、三人に直接上奏する権限を与え、密かに崔寧の過失を監視させた。 十二月乙卯(29日)、宣王李誦を皇太子に立てる。 旧制では天下の金銭・絹帛はすべて左蔵庫に保管され、太府寺が四季ごとに数量を報告し、比部が支出と収入を監査していた。第五琦が度支使・塩鉄使となった時、京師には横暴な将軍が多く無制限に要求したため統制できず、「全財貨を大盈内庫へ移して宦官に管理させる」と上奏し、皇帝も便宜的にこれを受諾した。以降20年近く天下の公的税収は君主の私蔵となり、官府はその多少や増減を把握できなくなった。担当宦官300名余りが内部で利益を貪り、盤踞して根深い勢力となっていた。楊炎は帝の前で叩頭し言上した:「財賦は国家の基幹であり民衆の生命です。軽重・安危はいずれもこれに由来します。先代では重臣が管理してもなお浪費や混乱がありました。まして宦官だけが収支を掌握し大臣さえ知らされぬ現状は、政治腐敗の極みです。左蔵庫へ返還し、宮中の歳費のみ定量を納入すれば不足は生じません」。皇帝は即日詔勅を下す:「財賦は全て左蔵庫に帰属させ旧制通りとせよ。ただし年々優良品三五千匹を大盈庫へ進上することを許す」。楊炎の一言で帝意が改まったことに人々は称賛した。 十二月丙寅晦(30日)、日食があった。 解説
※注:杜希全・張光晟らは後に実権派軍閥となる人物で、楊炎が彼らを登用しながらも崔寧牽制に利用した構図には皮肉な展開(後年楊炎失脚に関与)があるが、本訳出範囲では割愛。 Translation took 1714.2 seconds. | ||||||||||||
| 」上曰:「朕比以下詔求賢,又遣使臣廣加搜訪,庶幾可以為理乎!」對曰:「下詔所求及使者所薦,惟得文詞干進之士耳,安有有道賢人肯隨牒舉選乎!」上悅。 崔祐甫有疾,上令肩輿入中書,或休假在第,大事令中使咨決。 德宗神武孝文皇帝一(庚申,公元七八零年) 春,正月,丁卯朔,改元。群臣上尊號曰聖神文武皇帝;赦天下。始用楊炎議,命黜陟使與觀察使、刺史「約百姓丁產,定等級,作兩稅法。比來新舊征科色目,一切罷之;二稅外輒率一錢者,以枉法論。」唐初,賦斂之法曰租、庸、調,有田則有租,有身則有庸,有戶則有調。玄宗之末,版籍浸壞,多非其實。及至德兵起,所在賦斂,迫趣取辦,無復常准。賦斂之司增數而莫相統攝,各隨意增科,自立色目,新故相仍,不知紀極。民富者丁多,率為官、為僧以免課役,而貧者丁多,無所伏匿,故上戶優而下戶勞。吏因緣蠶食,民旬輸月送,不勝困弊,率皆逃徙為浮戶,其土著百無四五。至是,炎建議作兩稅法,先計州縣每歲所應費用及上供之數而賦於人,量出以制入。戶無主、客,以見居為簿;人無丁、中,以貧富為差;為行商者,在所州縣稅三十之一,使與居者均,無僥利。居人之稅,秋、夏兩征之。其租、庸、調雜徭悉省,皆總統於度支。上用其言,因赦令行之。 |
現代日本語訳帝が言われた:「朕は近ごろ詔を下して賢者を求め、さらに使者を派遣して広く探し求めたところである。これで天下の治められるであろうか!」(臣下が)答えて曰く:「詔により求めるものや使者の推挙する者は、ただ文章に巧みな出世志向の士ばかりです。どうして道徳を備えた賢人が文書による選考などにお応じましょうか!」帝は喜んだ。 崔祐甫(さいゆうほ)が病にかかったため、皇帝は輿(こし)を用いて中書省に入ることを許した。あるいは休暇で自宅にいる時でも、重大な事案については宮中の使者を遣わして助言を求め決裁させた。 徳宗神武孝文皇帝 元年(庚申、西暦780年) 春正月丁卯の朔日(ついたち)、元号を建中と改めた。群臣が帝に「聖神文武皇帝」の尊号を奉った。天下に大赦を行った。 楊炎(ようえん)の献策により初めて、黜陟使(ちゅっちょくし)・観察使・刺史らに対し、「百姓の人丁と資産を調査して等級を定め、両税法を作成せよ」との命令が下された。「従来より行われてきた新旧の徴税項目は全て廃止する。二税以外に一銭でも賦課した者は枉法(法律違反)として処断すべし」。 唐初の租税制度は「租・庸・調」と呼ばれた:田畑を持つ者は租を、成人男子は庸を、戸籍がある者は調を納めた。玄宗皇帝末期には戸籍台帳が乱れ、実態とかけ離れるようになった。至徳年間(756-758年)の戦乱勃発後は各地で徴税が行われ、即時の対応を迫られて一定基準もなくなった。徴税機関は増加する一方で統制されず、各々随意に課税項目を作り新旧混在し際限がなかった。 富裕層は成人男子が多いにもかかわらず、官職や僧籍を得て免税特権を得たのに対し、貧困層では成年男子を隠せず重い負担を強いられた。その結果上流戸(富裕層)は優遇され下等戸(貧困層)が苦役に服した。官吏はこれを機に民衆を蚕食するように搾取し、十日ごと・月ごとの納税で人々は耐え難い疲弊状態となり、逃亡して流動住民となる者が続出し、定住者は5%にも満たなかった。 この状況を受け楊炎が両税法制定を提案:まず各州県の年間必要経費と朝廷への上納額を見積り、それに基づき税収計画を作成(量出制入)。戸籍上の本貫・客居にかかわらず現居住地で登録し、丁男・中男などの年齢区分によらず貧富差で税率を決定。行商人には所在地で三十分の一課税して定住者と負担均等化(不当利益防止)。住民税は秋夏2回徴収。従来の租庸調及び雑徭は全て廃止し度支省が一元管理する。 皇帝はこの建言を採用し、大赦令に伴い施行した。 解説
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| 初,左僕射劉晏為吏部尚書,楊炎為侍郎,不相悅。元載之死,晏有力焉。及上即位,晏久典利權,眾頗疾之,多上言轉運使可罷;又有風言晏嘗密表勸代宗立獨孤妃為皇后者。楊炎為宰相,欲為元載報仇,因為上流涕言:「晏與黎幹、劉忠翼同謀,臣為宰相不能討,罪當萬死!」崔祐甫言:「茲事暖昧,陛下已曠然大赦,不當復究尋虛語。」炎乃建言:「尚書省,國政之本,比置諸使,分奪其權,今宜復舊。」上從之。甲子,詔天下錢穀皆歸金部、倉部,罷晏轉運、租庸、青苗、鹽鐵等使。 二月,丙申朔,命黜陟使十一人分巡天下。先是,魏博節度使田悅事朝廷猶恭順,河北黜陟使洪經綸,不曉時務,聞悅軍七萬人,符下,罷其四萬,令還農。悅陽順命,如符罷之。既而集應罷者,激怒之曰:「汝曹久在軍中,有父母妻子,今一旦為黜陟使所罷,將何資以自衣食乎!」眾大哭。悅乃出家財以賜之,使各還部伍。於是軍士皆德悅而怨朝廷。 崔祐甫以疾,多不視事。楊炎獨任大政,專以復恩仇為事,奏用元載遺策城原州,又欲發兩京、關內丁夫浚豐州陵陽渠,以興屯田。上遣中使詣涇原節度使段秀實,訪以利害,秀實以為:「今邊備尚虛,未宜興事以召寇。」炎怒,以為沮已,征秀實為司農卿。丁未,邠寧節度使李懷光兼四鎮、北庭行營、涇原節度使,使移軍原州,以四鎮、北庭留後劉文喜為別駕。 |
【現代日本語訳】当初、左僕射であった劉晏が吏部尚書を務めていた際、侍郎の楊炎と不仲になった。元載が処刑された時、劉晏はその死に深く関与していた。徳宗皇帝が即位すると、劉晏は長年財政権限を掌握し続けたため、多くの官僚から嫉まれ、「転運使制度は廃止すべきだ」との意見が相次いでいた。さらに「劉晏が密かに独孤妃を皇后に立てるよう代宗帝に進言した」という風説も流れていた。 楊炎が宰相となると、元載への復讐を果たそうと画策し、皇帝に向かって涙ながらに訴えた:「劉晏は黎幹や劉忠翼と共謀していました。臣が宰相でありながらこれを討てなかった罪は万死に値します!」これに対し崔祐甫は「この件は証拠が曖昧です。陛下は既に大赦を発布されているのですから、根拠のない噂を追及すべきではありません」と反論した。楊炎はさらに提言:「尚書省こそ国政の中枢であるのに、近年設置された諸使職(臨時官庁)がその権限を分散させています。旧来の体制に戻すべきです」。皇帝はこれを受け入れ、甲子の日、「全国の財政管理を金部・倉部に一元化し、劉晏の転運使・租庸使・青苗使・塩鉄使等の職務を廃止する」との詔勅を発した。 二月丙申朔(1日)、11人の黜陟使が全国巡察に出発した。これ以前より魏博節度使田悦は朝廷に恭順を示していたが、河北担当の洪経綸は情勢を見誤り、「7万いる軍兵のうち4万を解雇し帰農させよ」と命令。田悦は表向き従いながらも、解雇対象となった兵士たちを集めて煽動した:「お前たちは長年軍隊で家族を養ってきたのに、黜陟使の一存で職を奪われるとは!今後どうやって生計を立てるというのか!」兵士らは激しく嘆いた。田悦は私財を与えて部隊復帰させたため、将兵は朝廷への恨みを募らせて田悦に感謝した。 崔祐甫が病により政務から離れると、楊炎が単独で国政を掌握し、もっぱら恩讐の報復に奔走した。元載の遺策であった原州城築城計画を採用し、さらに長安・洛陽や関内地方から人夫を徴発して豊州陵陽渠の浚渫と屯田事業を行おうとした。皇帝が中使(宦官使者)を涇原節度使段秀実のもとに遣わし意見を求めたところ、「現在は国境防備が手薄であり、外敵を招きかねない事業実施は不適切」との返答を得た。楊炎はこれに激怒して妨害と断じ、段秀実を司農卿へ左遷した。丁未(12日)、邠寧節度使李懷光が四鎮・北庭行営および涇原節度使を兼任し原州への移駐を命ぜられ、劉文喜は別駕として残留することになった。 【解説】
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| 京兆尹嚴郢奏:「案朔方五城,舊屯沃饒之地,自喪亂以來,人功不及,因致荒廢,十不耕一。若力可墾辟,不俟浚渠。今發兩京、關輔人於豐州浚渠營田,計所得不補所費,而關輔之人不免流散,是虛畿甸而無益軍儲也。」疏奏,不報。既而陵陽渠竟不成,棄之。 上用楊炎之言,托以奏事不實,己酉,貶劉晏為忠州刺史。 癸丑,以澤潞留後李抱真為節度使。 楊炎欲城原州以復秦、原,命李懷光居前督作,朱泚、崔寧各將萬人翼其後。詔下涇州為城具,涇之將士怒曰:「吾屬為國家西門之屏,十餘年矣。始居邠州,甫營耕桑,有地著之安。徙屯涇州,披荊榛,立軍府;坐席未暖,又投之塞外。吾屬何罪而至此乎!」李懷光始為邠寧帥,即誅溫儒雅等,軍令嚴峻。及兼涇原,諸將皆懼,曰:「彼五將何罪而為戮?今又來此,吾屬能無憂乎!」劉文喜因眾心不安,據涇州,不受詔,上疏復求段秀實為帥,不則朱泚。癸亥,以朱泚兼四鎮、北庭行軍、涇原節度使,代懷光。 三月,翰林學士、左散騎常侍張涉受前湖南觀察使辛京杲金,事覺;上怒,欲置於法。時李忠臣以檢校司空、同平章事、奉朝請,言於上曰:「陛下貴為天子,而先生以乏財犯法,以臣愚觀之,非先生之過也。」上意解,辛未,放涉歸田裡。辛京杲以私忿杖殺部曲,有司奏京杲罪當死,上將從之。 |
現代日本語訳京兆尹(長安の首都長官)厳郢が上奏した:「調査によれば朔方五城はかつて肥沃な屯田地帯であったが、戦乱以来人手不足で荒廃し耕作率は一割未満である。開墾可能なら水路修復を待つ必要はない。今両京(長安・洛陽)と関中住民を豊州に動員して灌漑工事を行わせても収益が費用を補えず、かえって畿内の人口流出を招き軍需増強にならない」。奏上したが回答はなく、後日陵陽渠建設は中止された。 徳宗皇帝(唐)は楊炎の進言で「事実誤認」と偽り己酉の日に劉晏を忠州刺史へ左遷した。癸丑の日には沢潞留後(代理司令官)李抱真が正式な節度使に任命された。 楊炎は原州城修復による秦・原地域回復を計画し、李懐光を総指揮とし朱泚らに援護を命じた。詔勅で涇州へ資材調達の指示が下ると将兵が激怒:「我々は十余年も西方防衛を担ってきた!邠州では定住生活を得て、次いで未開の涇州に軍営建設したばかりなのにまた塞外送りとは。何の罪か!」李懐光は以前邠寧節度使時代に温儒雅ら五将を処刑しており「我々も殺されるのか」と不安が拡大。劉文喜はこの動揺に乗じ涇州で反乱を起こし詔勅拒絶、段秀実か朱泚の節度使就任を要求した。癸亥の日、朝廷は妥協案として朱泚を四鎮・北庭行軍兼涇原節度使に任命し李懐光と交代させた。 三月、翰林学士(皇帝側近顧問)張渉が元湖南観察使辛京杲からの賄賂発覚で処刑寸前となる中、名誉職の李忠臣が進言:「陛下は天子でありながら師匠を貧困故の罪で罰そうとされる。これは先生(張渉)の過ちではない」。皇帝は赦免し辛未の日に張渉を帰郷させた。一方で私怨から従者を殺害した辛京杲に対し司法当局が死刑判決を上奏すると、皇帝も同意しようとした。 解説
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| 李忠臣曰:「京杲當死久矣!」上問其故。忠臣曰:「京杲諸父兄弟皆戰死,獨京杲至今尚存,臣故以為當死久矣。」上憫然,左遷京杲諸王傅。忠臣乘機救人,多此類。 楊炎罷度支、轉運使,命金部、倉部代之。既而省職久廢,耳目不相接,莫能振舉,天下錢穀無所總領。癸巳,復以諫議大夫韓洄為戶部侍郎、判度支,以金部郎中萬年杜佑權江、淮水陸轉運使,皆如舊制。劉文喜又不受詔,欲自邀旌節;夏,四月,乙未朔,據涇州叛,遣其子質於吐蕃以求援。上命朱泚、李懷光討之,又命神策軍使張巨濟將禁兵二千助之。 吐蕃始聞韋倫歸其俘,不之信,及俘入境,各還部落,稱:「新天子出宮人,放禽獸,英威聖德,洽於中國。」吐蕃大悅,除道迎倫。贊普即發使隨倫入貢,且致賻贈。癸卯,至京師,上禮接之。既而蜀將上言:「吐蕃豺狼,所獲俘不可歸。」上曰:「戎狄犯塞則擊之,服則歸之。擊以示威,歸以示信。威信不立,何以懷遠!」悉命歸之。 代宗之世,每元日、冬至、端午、生日,州府於常賦之外競為貢獻,貢獻多者則悅之。武將、奸吏,緣此侵漁下民。癸丑,上生日,四方貢獻皆不受。李正己、田悅各獻縑三萬匹,上悉歸之度支以代租賦。 五月,戊辰,以韋倫為太常卿。乙酉,復遣倫使吐蕃。倫請上自為載書,與吐蕃盟。 |
現代日本語訳:李忠臣が言った。「京杲はとっくに死ぬべき者でした!」皇帝(徳宗)が理由を尋ねると、「京杲の一族は皆戦死しているのに、彼だけが生き残っている。だからこそ長らく死期が来ていると思っていたのです」と答えた。皇帝は憐れみを感じて京杲を諸王傅に左遷した。忠臣は機会を見つけて人々を救うことを常としており、このような事例が多い。 楊炎が度支使・転運使の職務を廃止し、金部と倉部に代行させたところ、役所の機能は長らく停滞して情報伝達も不十分となり、財政や物資管理が混乱した。癸巳(二十八日)、諫議大夫韓洄を戸部侍郎・判度支に任命し、万年県出身の金部郎中杜佑を江淮南西道水陸転運使として旧制を復活させた。 劉文喜は再び詔命を受け入れず自ら節度使となろうと画策。四月乙未朔(一日)、涇州で反乱を起こし、息子を吐蕃へ人質に送って援軍を要請した。皇帝は朱泚・李懐光に討伐を命じ、神策軍使張巨済に禁衛兵二千を率いさせて加勢した。 吐蕃が初め韋倫の捕虜返還を知った時は疑っていたが、実際に帰国した捕虜たちから「新帝(徳宗)は宮女解放や動物保護など仁政を行っている」と聞き歓喜。道路を整備して使者を出迎えさせた。賛普(吐蕃王)は直ちに使節を長安へ派遣すると共に、先代皇帝への弔意品も届けた。癸卯(九日)、都に到着した使節を皇帝は丁重にもてなした。 蜀の将軍が「吐蕃は狼のような国だ」と捕虜返還反対を進言する中、皇帝は「夷狄が侵入すれば討ち、服従すれば寛大にする。これこそ威信であり遠方懐柔の道だ」と言い切り全員帰還させた。 代宗時代には元日や誕生日に地方官が税外献上品を競い、武将や悪吏はこれを口実に民衆から搾取していた。癸丑(十九日)の皇帝誕生日には一切の貢物を受け取らず、李正己・田悦らが贈った薄絹六万匹も租税充当分として度支省へ回した。 五月戊辰(五日)、韋倫を太常卿に任命。乙酉(二十二日)に再び吐蕃派遣使となった際、「陛下自ら盟約書を作成すべきです」と進言すると皇帝はこれを受け入れた。 解説:
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| 楊炎以為非敵,請與郭子儀輩為載書以聞,令上畫可而已,從之。 朱泚等圍劉文喜於涇州,杜其出入,而閉壁不與戰,久之不拔。天方旱,征發饋運,內外騷然,朝臣上書請赦文喜以蘇疲人者,不可勝紀。上皆不聽,曰:「微孽不除,何以令天下!」文喜使其將劉海賓入奏,海賓言於上曰:「臣乃陛下籓邸部曲,豈肯附叛人,必為陛下梟其首以獻。但文喜今所求者節而已,願陛下姑與之,文喜必怠,則臣計得施矣。上曰:「名器不可假人,爾能立效固善,我節不可得也。」使海賓歸以告文喜,而攻之如初。減御膳以給軍士,城中將士當受春服者,賜予如故。於是眾知上意不可移。時吐蕃方睦於唐,不為發兵,城中勢窮。庚寅,海賓與諸將共殺文喜,傳首,而原州竟不果城。自上即位,李正己內不自安,遣參佐入奏事;會涇州捷奏至,上使觀文喜之首而歸。正己益懼。 六月,甲午朔,門下侍郎、同平章事崔祐甫薨。 術士桑道茂上言:「陛下不出數年,暫有離宮之厄。臣望奉天有天子氣,宜高大其城以備非常。」辛丑,命京兆發丁夫數千,雜六軍之士,築奉天城。 初,回紇風俗樸厚,君臣之等不甚異,故眾志專一,勁健無敵。及有功於唐,唐賜遺甚厚,登裡可汗始自尊大,築宮殿以居,婦人有粉黛文繡之飾。中國為之虛耗,而虜俗亦壞。及代宗崩,上遣中使梁文秀往告哀,登裡驕不為禮。 |
以下に現代日本語訳を提供します。 本文訳: 楊炎は相手が敵ではないと考え、郭子儀らと盟約書を作成して天子へ報告し、裁可を得ればよいと提案した。これが受け入れられた。 朱泚らは劉文喜を涇州に包囲し補給路を断ったが、戦闘せず長期戦となって陥落しない。旱魃の中で物資徴発や輸送が続き国中が疲弊し、「民の困窮を救うため劉文喜を赦免すべきだ」と上奏する朝臣が後を絶たなかった。だが天子(徳宗)は「小さな反逆も除かねば天下に示しが立たぬ」と退けた。 劉文喜配下の劉海賓が朝廷へ派遣され、「私は陛下直属の旧臣であり、決して叛逆者には加担しません。必ず劉文喜の首を捧げましょう。ただし彼は今や官職(旌節)だけを求めており、それを与えれば油断します」と奏上した。 これに対し天子は「地位や権威は安易に授けるものではない。功績があれば評価するが、旌節を与えるわけにはいかぬ」と拒絶。劉海賓を帰還させた後も攻撃を続け、自らの食事を減らして兵士へ分け与え、春服の支給は例年通り実施したため将兵たちは天子の決意が固いことを悟った。 当時吐蕃は唐と友好関係にあり援軍を派遣せず、城内で窮乏が深刻化。庚寅日(5月21日)、劉海賓らが共謀して劉文喜を殺害し首級を届けたため原州築城計画は中止となった。 徳宗即位後、李正己は内心不安を抱き部下を派遣して情勢探りをさせた。ちょうど涇州の戦勝報告が届いたため、天子は劉文喜の首を見せて帰した。これにより李正己は恐怖を深めた。 6月甲午朔(1日)、門下侍郎・同平章事崔祐甫が死去。 占術師桑道茂が上奏:「数年後、陛下が離宮で災難に見舞われるでしょう。奉天に天子の気があるため城壁を高くすべきです」。辛丑(8日)に京兆尹が数千人の労役者と軍兵を動員し奉天城改修に着手。 回紇は当初、質朴で君臣の差も小さかったため団結して無敵であった。しかし唐から功績に対する厚遇を受けるうち登里可汗が尊大になり宮殿を建造、女性も華美な服飾を用いるようになった。これにより唐朝財政は逼迫し回紇の風俗も堕落した。 代宗崩御の報せを伝えた宦官梁文秀に対し、登里可汗は傲慢にも礼儀を示さなかった。 解説:
1. 権威と妥協の力学:
この箇所から浮かび上がるのは、徳宗朝初期における「中央権威再建」というテーマです。特に旌節授与問題は、形式的な官職任命が持つ政治的象徴性と実効支配の狭間で揺れる唐王朝の脆弱性を露呈しています。同時に吐蕃・回紇との関係変化も絡み、国内統治と国際情勢が複雑に連動する中世東アジア政治構造の一端を示す貴重な記録と言えるでしょう。 Translation took 3501.0 seconds. | ||||||||||||
| 九姓胡附回紇者,說登裡以中國富饒,今乘喪伐之,可有大利。登裡從之,欲舉國入寇。其相頓莫賀達干,登裡之從父兄也,諫曰:「唐,大國也,無負於我,吾前年侵太原,獲羊馬數萬,可謂大捷,而道遠糧乏,比歸,士卒多徒行者。今舉國深入,萬一不捷,將安歸乎!」登裡不聽。頓莫賀乘人心之不欲南寇也,舉兵擊殺之,並九姓胡二千人,自立為合骨咄祿毘伽可汗,遣其臣聿達干與梁文秀俱入見,願為籓臣,垂發不翦,以待冊命。乙卯,命京兆少尹臨漳源休冊頓莫賀為武義成功可汗。 秋,七月,丙寅,邵州賊帥王國良降。國良本湖南牙將,觀察使辛京杲使戍武岡,以扞西原蠻。京杲貪暴,國良家富,京杲以死罪加之。國良懼,據縣叛,與西原蠻合,聚眾千人,侵掠州縣,瀕湖千里,咸被其害。詔荊、黔、洪、桂諸道合兵討之,連年不能克。及曹王皋為湖南觀察使,曰:「驅疲□,誅反仄,非策之得者也。」乃遺國良書,言:「將軍非敢為逆,欲救死耳。我與將軍俱為辛京杲所構,我已蒙聖朝湔洗,何心復加兵刃於將軍乎!將軍遇我,不速降,後悔無及!」國良且喜且懼,遣使乞降,猶疑未決。皋乃假為使者,從一騎,越五百里,抵國良壁,鞭其門,大呼曰:「我曹王也,來受降!」舉軍大驚。國良趨出,迎拜請罪。皋執其手,約為兄弟,盡焚攻守之具,散其眾,使還農。 |
現代日本語訳:九姓の胡族が回紇に従属していた者たちが登里可汗に対し、「中国(唐王朝)は富んでいるので、今こそ喪中(※皇帝代宗崩御直後)を狙って攻め込むべきだ」と進言した。登里はこれを受け入れ、全軍を挙げて侵攻しようとした。 すると宰相の頓莫賀達干(登里の従兄にあたる人物)が諫めてこう述べた: 「唐は大国であり、我々に何も非礼なことはしていない。以前わが軍が太原を襲撃した時には数万頭もの羊や馬を得て大勝利だったと言えるが、帰路では食糧不足となり兵士の大半が徒歩で撤退する有様であった。まして今回全軍で深く侵入すれば、万一失敗した場合に退却できる道はあるのか?」 しかし登里は聞き入れなかった。 頓莫賀は民衆が南方侵攻を望んでいない民心を見て取り、挙兵して登里と九姓胡族二千人を殺害。自ら合骨咄禄毘伽可汗(カトゥクル・ビルゲ・カガン)となると、配下の聿達干を使者として梁文秀と共に唐へ派遣し、「藩臣となる」旨を伝えた。髪は切り落とさず冊封を待っている状態であることを示した。 乙卯(旧暦日付)、朝廷は京兆少尹・源休(臨漳出身)を派遣して頓莫賀に「武義成功可汗」の称号を与えた。 秋七月丙寅(旧暦日付)、邵州で反乱軍を率いていた王國良が降伏した。王國良は元々湖南牙将であったが、観察使・辛京杲から西原蛮対策として武岡守備隊長に任命されたところ、貪欲な辛京杲が王家の富裕ぶりを狙って死罪を捏造しようとしたため恐れをなし反乱。千人規模で州県を荒らし、湖岸一帯はその被害を受けた。 詔により荊・黔・洪・桂各道から討伐軍が派遣されたものの数年経っても鎮圧できなかった。 そこで曹王李皋(りこう)が湖南観察使に着任すると、「疲弊した兵を駆って無理やり征討するのは得策ではない」と判断し、王国良へ書簡を送った: 「将軍は謀反人ではなく生存権の防衛者である。私も辛京杲に陥れられた身だが朝廷で名誉回復できたのに、どうして貴官に刃を向けられようか?もし信頼するなら早急に降伏されるがよい」 王国良は喜びと不安が入り混じって使者を派遣したものの決断できない。 そこで李皋は自ら使節を装い従者一人だけ連れて五百里を駆け抜けて反乱軍陣営へ突撃。門前で鞭打ちながら「我こそ曹王!投降を受けに来た!」と叫んだため全軍が騒然。 慌てて出迎えた王国良に対し李皋は彼の手を取り「兄弟の契り」を結び、武器や防具をすべて焼却させると農民として帰還させる措置を取った。 解説:
※本訳では固有名詞を史書表記基準で統一し、故事成語(例:徒行者=撤退時の疲弊兵)は現代語意訳。冊封儀礼や官職名(京兆少尹等)については機能説明を優先した。 Translation took 1593.1 seconds. | ||||||||||||
| 詔赦國良罪,賜名惟新。 辛巳,遙尊上母沈氏為皇太后。 荊南節度使庾准希楊炎指,奏忠州刺史劉晏與朱泚書求營救,辭多怨望,又奏召補州兵,欲拒朝命,炎證成之。上密遣中使就忠州縊殺之,己丑,乃下詔賜死。天下冤之。 初,安、史之亂,數年間,天下戶口什亡八九,州縣多為籓鎮所據,貢賦不入,朝廷府庫耗竭,中國多故,戎狄每歲犯邊,所在宿重兵,仰給縣官,所費不貲,皆倚辦於晏。晏初為轉運使,獨領陝東諸道,陝西皆度支領之,末年兼領,未幾而罷。晏有精力,多機智,變通有無,曲盡其妙。常以厚直募善走者,置遞相望,覘報四方物價,雖遠方,不數日皆達使司,食貨輕重之權,悉制在掌握,國家獲利,而天下無甚貴甚賤之憂。常以為:「辦集眾務,在於得人,故必擇通敏、精悍、廉勤之士而用之;至於句檢簿書、出納錢穀,事雖至細,必委之士類;吏惟書符牒,不得輕出一言。」常言:「士陷贓賄,則淪棄於時,名重於利,故士多清修;吏雖潔廉,終無顯榮,利重於名,故吏多貪污。」然惟晏能行之,它人效者終莫能逮。其屬官雖居數千里外,奉教令如在目前,起居語言,無敢欺紿。當時權貴,或以親故屬之者,晏亦應之,使俸給多少,遷次緩速,皆如其志,然無得親職事。其場院要劇之官,必盡一時之選。故晏沒之後,掌財賦有聲者,多晏之故吏也。 |
現代日本語訳詔により国良の罪を赦免し、新たに惟新という名を与えた。 荊南節度使・庾准は楊炎の意図に迎合し、「忠州刺史・劉晏が朱泚へ救援要請の書簡を送り、その内容に怨念が込められている」と上奏。さらに「州兵を補充して朝廷の命令に抵抗しようとした」とも告発したため、楊炎はこれを証拠立てた。皇帝は密かに宦官を使者として忠州へ派遣し劉晏を絞殺させ、己丑の日にようやく正式に「死を賜う」との詔書を下した。天下の人々はこの処置を冤罪と感じた。 かつて安史の乱後、数年間で全国の戸籍人口は十中八九が失われ、州県の多くは藩鎮(地方軍閥)に占拠されたため税収は朝廷に入らず、国庫は枯渇していた。中原では変事が相次ぎ、異民族が毎年国境を侵犯したため要地には大軍を駐屯させ、その費用は全て国家財政に依存し莫大な支出となっていた。こうした財政危機を一手に支えたのが劉晏である。 当初、転運使として陝東諸道のみを管轄していた彼(陝西地域は度支が担当)は、後に両方を統括するも間もなく罷免された。劉晏は驚異的な行動力と機知に富み、物資の需給調整において絶妙な手腕を発揮した。高報酬で足の速い者を採用し駅伝制を整備すると、四方の物価情報は遠方でも数日で運搬司へ届くようになった。食糧・商品の流通管理権を掌握した結果、国家が利益を得ると同時に市場では極端な物価変動が起きなくなった。 彼は常々「重要事業の成功は人材登用にかかっている」と強調し、「聡明で有能かつ清廉勤勉な知識人を選抜すべきだ」とした。「帳簿検査や金穀出納のような細事も必ず教養ある階級に委ね、下級官吏には書類作成のみ許して発言権を与えない」と定めた。またこう指摘している:「知識人は汚職すれば社会的生命を失う(名>利)ゆえ清廉を保つが、小役人は清潔でも出世できず(利>名)、故に貪欲になりやすい」。 しかしこの方針は劉晏だけが貫徹可能であり、他の模倣者は誰も及ばなかった。配下の官吏は数千里離れていても命令を眼前で受けるかのように遵守し、報告には一切の虚偽がなかった。権力者が縁故者を推挙しても待遇や昇進速度は希望通りにしたものの、実務からは遠ざけた。重要ポストには必ず当代随一の人材を起用したため、劉晏没後も財政で名を知られる者の多くは彼が登用した旧吏だった。 解説
※原文の歴史用語(例:「度支=財務官」「轉運使=物資調達官」)を現代概念に置換し、干支表記(辛巳/己丑)は日付表示とした。「上母沈氏」のように略された表現は文脈から「皇帝の母・沈氏」と具体化。 Translation took 1700.0 seconds. | ||||||||||||
| 晏又以為戶口滋多,則賦稅自廣,故其理財常以養民為先。諸道各置知院官,每旬月,具州縣雨雪豐歉之狀白使司,豐則貴糴,歉則賤糶,或以谷易雜貨供官用,及於豐處賣之。知院官始見不稔之端,先申,至某月須如干蠲免,某月須如干救助,及期,晏不俟州縣申請,即奏行之,應民之急,未嘗失時,不待其困弊、流亡、餓殍,然後賑之也。由是民得安其居業,戶口蕃息。晏始為轉運使,時天下見戶不過二百萬,其季年乃三百餘萬;在晏所統則增,非晏所統則不增也。其初財賦歲入不過四百萬緡,季年乃千餘萬緡。晏專用榷鹽法充軍國之用。時自許、汝、鄭、鄧之西,皆食河東池鹽,度支主之;汴、滑、唐、蔡之東,皆食海鹽,晏主之。晏以為官多則民擾,故但於出鹽之鄉置鹽官,收鹽戶所煮之鹽轉鬻於商人,任其所之,自餘州縣不復置官。其江嶺間去鹽鄉遠者,轉官鹽於彼貯之。或商絕鹽貴,則減價鬻之,謂之常平鹽,官獲其利而民不乏鹽。其始江、淮鹽利不過四十萬緡,季年乃六百餘萬緡,由是國用充足而民不困弊。其河東鹽利,不過八十萬緡,而價復貴於海鹽。先是,運關東谷入長安者,以河流湍悍,率一斛得八斗至者,則為成勞,受優賞。晏以為江、汴、河、渭,水力不同,各隨便宜,造運船,教漕卒,江船達揚州,汴船達河陰,河船達渭口,渭船達太倉,其間緣水置倉,轉相受給。 |
訳文晏はまた、戸口(登録人口)が増えれば租税も自然に増えると考えたため、財政運営では常に民衆の生活安定を優先した。各地方には知院官を配置し、毎旬ごとに州県単位で雨量・降雪状況や収穫高などを報告させ、豊作時は穀物を高値で買い入れ、凶作時は安値で売り出した。あるいは穀物と雑貨を交換して官用に充て、豊作地域で販売することもあった。知院官が不作の兆候を察知すると事前に報告し、特定月にはこれだけの租税免除が必要、別の月にはこれだけの救済措置が必要と予測した。時期が来れば晏は州県からの申請待たず直ちに朝廷へ上奏し実行したため、民衆の緊急事態に対処するのに時機を逃さず、困窮・流亡・餓死者が出る前に手当てできた。これにより民衆は生業を守り戸口も増加した。 晏が転運使に就任した当初、全国の登録戸数は200万未満だったが任期末期には300万余となり、彼の管轄地域のみが増加し他地域では停滞した。租税収入も当初400万緡(銅貨単位)だったのが末期には1000万余緡に達した。 晏は専売塩法による収益で軍事費と国家経費を賄った。当時、許州・汝州・鄭州・鄧州以西では河東産池塩が消費され度支(財務部門)が管理し、汴州・滑州・唐州・蔡州以東は海塩が主流で晏が管轄した。彼は役人が多ければ民衆の負担になると考え、製塩地にのみ官吏を置き生産者の塩を買い上げ商人へ販売。行商先を自由とし他地域には官衙を設けなかった。江嶺(長江南部山地)など産地から遠隔の地域には官塩を輸送備蓄させ、流通途絶で価格高騰時は減価販売する「常平塩」制度を実施。これにより政府収益を確保しつつ民衆も塩不足に陥らなかった。 江淮(長江下流域)の塩専売利益は当初40万緡だったが末期には600万余緡となり国庫充足と民生安定を実現。一方で河東塩の利潤は80万緡止まりで価格は海塩より高かった。 従来、関東から長安へ穀物輸送する際、黄河急流による難所突破率が1石(約60kg)中8斗到着なら優遇された。晏は江・汴・河・渭の各水系特性に応じ運搬船を設計し漕卒(水運兵)を訓練した。長江河口から揚州、汴水経由で河陰へ、黄河河口から渭水入り口へ、渭水から太倉(官倉)へと中継倉庫を連結させ積替輸送体系を確立した。 解説【政策思想の革新性】
【制度設計の合理性】
【実績分析】
【歴史的意義】安史の乱後の荒廃した唐王朝経済を、市場メカニズム活用で再建。特に中継倉庫方式は後世の大運河物流システムの原型となり、宋代以降の「常平倉」制度にも影響を与えた点が重要である。 (注)現代日本語訳に際し: - 度量衡:1斛=約60kgを「石」と表記 - 貨幣単位:「緡」は1000文銅貨を基本とする通算単位として明示 - 地名:唐代州名に現代都市名を併記せず原文の漢字表記を保持 Translation took 1420.2 seconds. | ||||||||||||
| 自是每歲運谷或至百餘萬斛,無斗升沉覆者。船十艘為一綱,使軍將領之,十運無失,授優勞,官其人。數運之後,無不斑白者。晏於揚子置十場造船,每艘給錢千緡。或言「所用實不及半,虛費太多。」晏曰:「不然,論大計者固不可惜小費,凡事必為永久之慮。今始置船場,執事者至多,當先使之私用無窘,則官物堅牢矣。若遽與之屑屑校計錙銖,安能久行乎!異日必有患吾所給多而減之者;減半以下猶可也,過此則不能運矣。」其後五十年,有司果減其半。及咸通中,有司計費而給之,無復羨餘,船益脆薄易壞,漕運遂廢矣。晏為人勤力,事無閒劇,必於一日中決之,不使留宿,後來言財利者皆莫能及之。 八月,甲午,振武留後張光晟殺回紇使者突董等九百餘人。突董者,武義可汗之叔父也。代宗之世,九姓胡常冒回紇之名,雜居京師,殖貨縱暴,與回紇共為公私之患。上即位,命突董盡帥其徒歸國,輜重甚盛。至振武,留數月,厚求資給,日食肉千斤,他物稱是,縱樵牧者暴踐果稼,振武人苦之。光晟欲殺回紇,取其輜重,而畏其眾強,未敢發。九姓胡聞其種族為新可汗所誅,多道亡,突董防之甚急。九姓胡不得亡,又不敢歸,乃密獻策於光晟,請殺回紇。光晟喜其黨類自離,許之。上以陝州之辱,心恨回紇。光晟知上旨,乃奏稱:「回紇本種非多,所輔以強者,群胡耳。 |
現代日本語訳それ以降、毎年百万斛を超える穀物が運ばれても、一滴の損失も出さなかった。船は十隻で一組とし、軍将に指揮させた。十回連続で無事輸送できれば特別な功労として認め、役人に登用した。数度の任務を経るうちに、白髪混じりにならぬ者はいなかった。 劉晏は揚子江岸に十か所の造船所を設置し、一隻ごとに千緡(百万文)の建造費を支給した。「実際の費用は半分以下なのに無駄が多すぎる」との批判に対して彼は反論する:「大局を見据える者は小銭にこだわるべきではない。何事も永続的な視点で考える必要がある。造船事業は始まったばかりで、従事者が多いのだから、まず私生活の安定を図らねば官用物資も堅牢にならない。細かい金銭計算を急ぐようでは長続きしないだろう。将来必ず予算削減を主張する者が出るが、半減までなら耐えられる。それ以上削れば運航機能は失われる」 その五十年後、役人は確かに予算を半分に削減した。咸通年間(860-874年)には経費計算だけで余剰金を認めず、船体は脆弱化して容易に破損するようになり、遂に水運事業は廃止された。 劉晏の人物像として記録されるのは「勤勉で激務にも一日中滞りなく処理し、翌日に持ち越さない。後に現れた財政担当者で彼の業績を超える者は皆無だった」という点である。 八月甲午の日(具体年月未詳)、振武軍留後・張光晟が回紇使節団の突董ら九百余人を殺害した。突董は当時の武義可汗の叔父にあたる。代宗皇帝時代から、九姓胡(ソグド系商人)がしばしば回紇名義で長安に雑居し、財貨を蓄え暴行を働いて官民ともに悩ませていた。 現皇帝(徳宗)の即位後、突董は配下全員を引き連れて帰国するよう命じられ、大量の物資を携えて移動中だった。振武軍に数か月滞在し続け、多量の生活支援を要求――日々千斤もの肉消費を含む膨大な物資を使い切り、伐採や放牧で農作物を荒らしたため現地民は困窮していた。 張光晟は回紇団を殺害して物資を奪おうと画策するが、相手の兵力を恐れて実行できなかった。そこへ九姓胡から「我々の同族が新可汗に虐殺された」との情報が入り、逃亡者が続出したため突董は監視を強化していた。 行き場を失った九姓胡人らは張光晟に密かに献策する:「回紇団を抹殺しましょう」。彼らの内部分裂を知った張光晟は作戦承諾。ちょうど徳宗帝も陝州での屈辱(過去の外交事件)から回紇への恨みを持っており、皇帝意向を見抜いた張光晟が上奏した:「回紇本体は少数で、強勢を支えているのは実は胡人集団にすぎません」 注釈
(注:原文『資治通鑑』巻二百二十六・唐紀四十二より。徳宗期の財政改革と民族問題に関する記録) Translation took 1564.4 seconds. | ||||||||||||
| 今聞其自相魚肉,頓莫賀新立,移地健有孽子,及國相、梅金錄各擁兵數千人相攻,國未定。彼無財則不能使其眾,陛下不乘此際除之,乃歸其人,與之財,正所謂借寇兵繼盜糧者也。請殺之。」三奏,上不許。光晟乃使副將過其館門,故不為禮;突董怒,執而鞭之數十。光晟勒兵掩擊,並群胡盡殺之,聚為京觀。獨留二胡,使歸國為證,曰:「回紇鞭辱大將,且謀襲據振武,故先事誅之。」上征光晟為右金吾將軍,遣中使王嘉祥征致信幣。回紇請得專殺者以復仇,上為之貶光晟為睦王傅以慰其意。 丁未,加盧龍、隴右、涇原節度使朱泚兼中書令,盧龍、隴右節度如故。以舒王謨為四鎮、北庭行軍、涇原節度大使,以涇州牙前兵馬使河中姚令言為留後。謨,邈之子也,早孤,上子之。 癸丑,詔贈太后父、祖、兄、弟官,及自餘宗族男女拜官封邑者告第告身,凡百二十有七通;中使以馬負而賜之。 九月,壬午,將作奏宣政殿廊壞,十月魁岡,未可修。上曰:「但不妨公害人,則吉矣。安問時日!」即命修之。 大歷以前,賦斂出納俸給皆無法,長吏得專之;重以元、王秉政,貨賂公行,天下不按贓吏者殆二十年。惟江西觀察使路嗣恭案虔州刺史源敷翰,流之。上以宣歙觀察使薛邕,文雅舊臣,徵為左丞。邕去宣州,盜隱官物以巨萬計,殿中侍御史員□發之。 |
現代日本語訳:突董らを処刑するよう再三上奏したが、皇帝は許さなかった。光晟は副将に命じて使者の宿舎の前を通りわざと礼を尽くさずに行かせたところ、突董は激怒しその副将を捕えて数十回も鞭打った。これを受けて光晟は兵を率いて不意打ちをかけ、彼らを含む胡人全員を殺害して屍を積み上げて見せしめとした。ただ二人の胡人だけ生かしておき帰国させ証言させるようにした。「回紇が大将軍を鞭打って辱めた上に振武を襲撃占拠する計画があったため、先手を打って誅殺したのだ」と。 皇帝は光晟を右金吾将軍に任命し、中使・王嘉祥を使者として信書と財貨を持たせて派遣した。回紇側は加害者の引き渡しを要求して復讐しようとしたため、皇帝は睦王傅へ左遷することで彼らの感情をなだめた。 丁未の日(8月22日)、盧龍・隴右・涇原節度使である朱泚に中書令を加えて兼任させた。舒王謨を四鎮北庭行軍・涇原節度大使とし、姚令言を留後とした。謨は邈の子で幼くして孤児となり皇帝が養子にしていた。 癸丑の日(8月28日)、詔勅により太后の父・祖父・兄弟らに官位を追贈したほか、宗族男女127人に官職や封邑を与えた。中使が馬で背負ってこれらの辞令を届けさせた。 9月壬午(10月20日)、将作監から宣政殿回廊の損傷報告があり「十月は魁岡(凶方位)なので修理不可」と奏上したが、皇帝は「公務や庶民に支障がなければ吉である。時日など問題ではない」と言い即時修復を命じた。 大歴年間以前は税収・俸給の出納に法規がなく長官が専断しており、元載と王縉が政権を握ってからは公然と賄賂が横行し、約20年にわたり汚職官吏を取り締まる者はいなかった。ただ江西観察使・路嗣恭だけが虔州刺史の源敷翰を告発し流罪にした例がある。 皇帝は宣歙観察使だった薛邕を文雅の老臣として左丞に抜擢したが、彼が任地を離れる際に官物を横領していた巨額の不正が殿中侍御史・員□(名欠落)によって暴かれた。 解説:
(注)原文中の欠字「□」及び一部固有名詞表記は史料制約に従った Translation took 1924.0 seconds. | ||||||||||||
| 冬,十月,己亥,貶連山尉。於是州縣始畏朝典,不敢放縱。 上初即位,疏斥宦官,親任朝士,而張涉以儒學入侍,薛邕以文雅登朝,繼以贓敗。宦官武將得以借口,曰:「南牙文臣贓動至巨萬,而謂我曹濁亂天下,豈非期罔邪!」於是上心始疑,不知所倚杖矣。 中書舍人高參請分遣諸沈訪求太后,庚寅,以睦王述為奉迎使,工部尚書喬琳副之,又命諸沈四人為判官,與中使分行諸道求之。 十一月,初令待制官外,更引朝集使二人,訪以時政得失,遠人疾苦。 先是,公主下嫁者,舅姑拜之,婦不答。上命禮官定公主拜見舅、姑及婿之諸父、兄、姊之儀,舅、姑坐受於中堂,諸父、兄、姊立受於東序,如家人禮。有縣主將嫁,擇用丁丑。是日,上之從父妹卒,命罷之。有司奏:「供張已備,且殤服不足廢事。」上曰:「爾愛其費,我愛其禮。」卒罷之。至德以來,國家多事,公主、郡、縣主多不以時嫁。有華發者,雖居禁中,或十年不見天子。上始引見諸宗女,尊者致敬,卑者存慰,悉命嫁之。所繼小大之物,必經心目。己卯、庚辰二日,嫁岳陽等凡十一縣主。 吐蕃見韋倫再至,益喜。十二月,辛卯朔,倫還,吐蕃遣其相論飲明思等入貢。 是歲,冊太子母王氏為淑妃。 天下稅戶三百八萬五千七十六,籍後七十六萬八千餘人,稅錢一千八十九萬八千餘緡,谷二百一十五萬七千餘斛。 |
現代日本語訳冬十月己亥の日、連山尉を貶官した。これにより州県の役人は朝廷の法規を畏れ始め、勝手気ままな振る舞いを控えるようになった。 皇帝が即位した当初は宦官を遠ざけ、代わりに文官たちを重用していた。張遖(ちょうしょう)は儒学をもって仕え、薛邕(せつよう)は教養の深さで朝廷に入ったものの、相次いで汚職により失脚した。これを見た宦官や武官が口実を得て「文臣たちこそ巨万の賄賂を貪っているのに、我々だけが天下を乱していると言うのは欺瞞ではないか」と批判し始めたため、皇帝は次第に疑心を抱き、誰を頼りにすればよいのか分からなくなった。 中書舎人・高参(こうさん)の提案で沈氏一族を各地へ派遣して皇太后を捜索することとなり、庚寅の日に睦王李述(ぼくおう りじゅつ)を使節奉迎使に、工部尚書・喬琳(きょうりん)を副使とし、さらに沈家四人を判官として宦官使者と共に各地へ向かわせた。 十一月になって初めて「待制官」以外に朝集使二人を選抜して時政の得失や遠方の人々の苦情について報告させる制度が設けられた。 従来、公主(皇女)が下嫁する際には舅姑(しゅうと・しゅうとめ)が拝礼しても新婦は応答しない慣例があったが、皇帝は礼官に命じて舅姑や夫の親族に対する公主人妻の礼儀を定めさせた。舅姑は中堂で座って拝礼を受け、その他の親族は東序(ひがしのついで)に立ったままで受けるなど、一般家庭と同様の作法とした。ある県主(皇孫女子)が出嫁する際には丁丑の日を選んだが、ちょうど皇帝の従妹が亡くなったため儀式の中止を命じた。役人の「準備は整っており幼い身内の喪では行事を取りやめる必要もありません」という奏上に対し、「卿らは費用を惜しむが朕は礼節を重んずる」と述べ、結局取りやめとなった。 至徳年間(756-758年)以降、国家多難により公主・郡主・県主の多くが適齢期に嫁げずなかには白髪になる者もいた。禁中に住んでいながら十年も皇帝と会えない皇族女性すら存在したため、皇帝はまず宗女(皇族女子)を引見し、身分の高い者は敬意を示し低い者は労わりつつ全員に結婚させるよう命じた。婚礼調度品の大小に関わらず全て自ら確認し、己卯と庚辰の二日間で岳陽県主など十一人の県主が嫁いだ。 吐蕃(チベット)は唐使・韋倫(いりん)が再訪したことを大変喜んだ。十二月辛卯朔(ついたち)、帰国の際に宰相・論飲明思らを遣唐使として派遣している。 同年、皇太子の母である王氏を淑妃(しゅくひ)に冊立した。 全国の納税戸数は三百八万五千七十六戸で登録漏れ分が七十六万八千余人、現金税収千八十九万八千余緡(びん)、穀物二百十五万七千余斛(こく)であった。 解説
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| 代宗睿文孝武皇帝下建中二年(辛酉,公元七八一年) 春,正月,戊辰,成德節度使李寶臣薨。寶臣欲以軍府傳其子行軍司馬惟岳,以其年少闇弱,豫誅諸將之難制者深州刺史張獻誠等,至有十餘人同日死者。寶臣召易州刺史張孝忠,孝忠不往,使其弟孝節召之。孝忠使孝節謂寶臣曰:「諸將何罪,連頸受戮!孝忠懼死,不敢往,亦不敢叛,正如公不入朝之意耳。」孝節泣曰:「如此,孝節必死。」孝忠曰:「往則並命,我在此,必不敢殺汝。」遂歸,寶臣亦不之罪也。兵馬使王武俊,位卑而有勇,故寶臣特親愛之,以女妻其子士真,士真復厚結其左右。故孝忠、武俊獨得全。及薨,孔目官胡震,家僮王它奴勸惟岳匿喪二十餘日,詐為寶臣表,求令惟岳繼襲,上不許。遣給事中汲人班宏往問寶臣疾,且諭之。惟岳厚賂宏,宏不受,還報。惟岳乃發喪,自為留後,使將佐共奏求旌節,上又不許。初,寶臣與李正己、田承嗣、梁崇義相結,期以土地傳之子孫。故承嗣之死,寶臣力為之請於朝,使以節授田悅;代宗從之。悅初襲位,事朝廷禮甚恭,河東節度使馬燧表其必反,請先為備。至是悅屢為惟岳請繼襲,上欲革前弊,不許。或諫曰:「惟岳己據父業,不因而命之,必為亂。」上曰:「賊本無資以為亂,皆藉我土地,假我位號,以聚其眾耳。 |
現代日本語訳代宗睿文孝武皇帝の治世下、建中二年(辛酉年、西暦781年)春正月戊辰の日、成徳節度使李宝臣が死去した。宝臣は軍府を息子で行軍司馬の惟岳に継承させようとしたが、彼が若年で未熟なため、あらかじめ統制困難な諸将を誅殺しようと画策し、深州刺史張献誠など十余名を同日に処刑した。宝臣は易州刺史張孝忠を召還したが応じず、代わりに弟の孝節を使者として派遣すると、孝忠は弟を通じて「諸将に何の罪があって斬首されるのか?私は死を恐れて行けぬだけで反意はない。それは貴公が朝廷に出向かぬ理由と同じだ」と伝えた。孝節が泣いて「これでは私も殺されます」と言うと、孝忠は「行けば共に命を落とすだろうが、私がここで見張ればお前を殺させまい」と断言し、帰還した孝節に対し宝臣も咎めなかった。兵馬使の王武俊は位階こそ低かったが勇猛であり、宝臣は特に寵愛して娘をその子・士真に嫁がせた。士真はさらに側近らと親密な関係を築いたため、孝忠や武俊だけは難を逃れたのである。 宝臣の死後、孔目官胡震と家僕王它奴が惟岳に二十日余り喪を隠すよう勧め、偽って宝臣名義の上奏文を作成し継承許可を申請した。皇帝(徳宗)はこれを認めず、給事中・班宏を派遣して病状確認と説諭を行わせた。惟岳が多額の賄賂を贈ったが班宏は拒絶し帰還報告すると、ようやく喪を公表した惟岳は自ら留後(代理統治者)となり配下に連名上奏させて正式任命を求めたが、これも却下された。 かつて宝臣は李正己・田承嗣・梁崇義と同盟し「領地を子孫代々継承させる」と誓約していたため、先の田承嗣死去時には朝廷に強く働きかけ息子・田悦への節度使継承を認めさせていた(代宗がこれを許可)。当初は恭順姿勢を示した田悦であったが、河東節度使馬燧が「必ず反逆する」と上奏し先手の備えを進言していた。今回は田悦自身が惟岳継承を再三嘆願したため、徳宗は前代の弊害を改めんとして拒否した。「既に父業を受け継いだ惟岳を任命せねば反乱必至」との諫言に対し皇帝は「賊徒には元々叛乱能力がない。我が土地と官職を与えたから勢力拡大できただけだ」と断言したのである。 解説
※注:『資治通鑑』原文で多用される敬称や婉曲表現が、当時の権力構造を示唆していますが、日本語訳では文脈から判断し適宜平明化しました(例:「不之罪」→咎めなかった)。 Translation took 1970.8 seconds. | ||||||||||||
| 曏日因其所欲而命之多矣,而亂益滋。是爵命不足以已亂而適足以長亂也。然則惟岳必為亂,命與不命等耳。」竟不許。悅乃與李正己各遣使詣惟岳,潛謀勒兵拒命。 魏博節度副使田庭玠謂悅曰:「爾藉伯父遺業,但謹事朝廷,坐享富貴,不亦善乎!奈何無故與恆、鄆共為叛臣!爾觀兵興以來,逆亂者誰能保其家乎?必欲行爾之志,可先殺我,無使我見田氏之族滅也。」因稱病臥家。悅自往謝之,庭玠閉門不內,竟以憂卒。 成德判官邵真聞李惟岳之謀,泣諫曰:「先相公受國厚恩,大夫衰絰之中,遽欲負國,此甚不可。」勸惟岳執李正己使者送京師,且請討之,曰:「如此,朝廷嘉大夫之忠,則旄節庶幾可得。」惟岳然之,使真草奏。長史畢華曰:「先公與二道結好二十餘年,奈何一旦棄之!且雖執其使,朝廷未必見信。正己忽來襲我,孤軍無援,何以待之!」惟岳又從之。 前定州刺史谷從政,惟岳之舅也,有膽略,頗讀書,王武俊等皆敬憚之,為寶臣所忌,從政乃稱病杜門。憔岳亦忌之,不與圖事,日夜獨與胡震、王他奴等計議,多散金帛以悅將士。從政往見憔岳曰:「今海內無事,自上國來者,皆言天子聰明英武,志欲致太平,深不欲諸侯子孫專地。爾今首違詔命,天子必遣諸道致討。將士受賞之際,皆言為大夫盡死。苟一戰不勝,各惜其生,誰不離心!大將有權者,乘危伺便,咸思取爾以自為功矣。 |
現代日本語訳かつて朝廷は彼らの要求通りに爵位を与えたが、乱れはかえって増した。これは恩賞による統制では混乱を止められず、むしろ助長する証だ。ならば李惟岳(り・いがく)の反乱は必至であり、官職を与えるも与えざるも結果は同じである。」朝廷は遂に任命を認めなかった。これを受け田悦(でん・えつ)と李正己(り・せいい)は密かに使者を派遣し連携して兵を集結させ、朝命への抵抗の準備を進めた。 魏博節度副使の田庭玠(でん・ていかい)が田悦に諫言した。「あなたは叔父から受け継いだ基盤がある。朝廷へ恭順するだけで富貴を保てるのに、なぜ恒州や鄆州と共に反逆者となるのか? これまでの謀叛者のうち一族の安泰を得た者がいるか? どうしても決行するなら先ず私を殺せ。田氏滅亡を見届けるのは耐えられぬ。」彼は病と称して家に籠もり、やがて憂い死んだ。 成徳判官・邵真(しょう・しん)は李惟岳の謀反計画を知ると涙ながらに諫めた。「先代藩主は朝廷から厚恩を受けた。喪中にあるあなたが突然背くなど許されぬ。」彼は李正己からの使者を捕らえて長安へ送り、自ら討伐するよう進言した。「これで朝廷も忠義と認めれば節度使の地位を得られるでしょう」。惟岳は承諾し邵真に上奏文を作成させたが、長史・畢華(ひつ・か)が反論した。「先公が二十年以上築いた両藩との絆を棄てるのか? 使者を捕えても朝廷の信頼を得られぬ。李正己に攻められたら孤立無援では防げまい」。惟岳はまた翻意した。 元・定州刺史で惟岳の叔父にあたる谷従政(こく・じゅうせい)は胆識と教養を備え、王武俊(おう・ぶしゅん)らも畏敬していたが、かつて李宝臣に疎まれ隠遁生活を送っていた。惟岳も彼を遠ざけ軍事参謀には加えず、ひたすら胡震や王他奴(おう・たど)などと金品で兵士の懐柔策ばかり練った。谷従政は面会して直言した。「天下泰平な今、長安からの使者たちは皆『天子が英明であって藩鎮世襲を厭っている』と言う。詔命に逆らえば諸道から討伐を受けるだろう。兵士たちは恩賞を受け取る時こそ忠誠を誓うが、一戦でも敗れれば保身優先で離反する。その際実権ある将軍たちは危機を見て立ち上がり、あなたの首を持って功績を得ようとするに決まっている。」 解説■歴史的背景この場面は唐王朝中期(780年ごろ)を舞台とし、藩鎮勢力が世襲化する中で起きた「四鎮の乱」前夜である。李惟岳ら地方軍閥首領は父祖から継承した権力を朝廷に公認させるべく圧力行動に出るが、徳宗皇帝はこれを拒絶。中央集権強化を目指す新政策と既得権益勢力との衝突構造を描いている。 ■人物の心理分析
■思想史的意義
■現代性権限委譲と統制のジレンマ(朝廷vs藩鎮)は組織管理論へ応用可能。李惟岳に見られる「金銭による懐柔」や谷従政が看破した「保身行動」も、現代企業における人事管理問題に通底する普遍性を持つ。
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| 且先相公所殺高班大將,殆以百數,撓敗之際,其子弟欲復仇者,庸可數乎!又,相公與幽州有隙,朱滔兄弟常切齒於我,今天子必以為將。滔與吾擊析相聞,計其聞命疾驅,若虎狼之得獸也,何以當之!昔田承嗣從安、史父子同反,身經百戰,凶悍聞於天下,違詔舉兵,自謂無敵。及盧子期就擒,吳希光歸國,承嗣指天垂泣,身無所措。賴先相公按兵不進,且為之祈請,先帝寬仁,赦而不誅,不然,田氏豈有種乎!況爾生長富貴,齒發尚少,不更艱危,乃信左右之言,欲效承嗣所為乎!為爾之計,不若辭謝將佐,使惟誠攝領軍府,身自入朝,乞留宿衛,因言惟誠且令攝事。恩命決於聖志,上必悅爾忠義,縱無大位,不失榮祿,永無憂矣。不然,大禍將至,悔之何及。吾亦知爾素疏忌我,顧以舅甥之情,事急,不得不言耳!」惟岳及左右見其言切,益惡之。從政乃復歸,杜門稱病。惟誠者,惟岳之庶兄也,謙厚好書,得眾心,其母妹為李正己子婦。是日,惟岳送惟誠於正己,正己使復姓張,遂仕淄青。惟岳遣王它奴詣從政家,察其起居,從政飲藥而卒;且死,曰:「吾不憚死,哀張氏今族滅矣!」 劉文喜之死也,李正己、田悅等皆不自安;劉晏死,正己等益懼,相謂曰:「我輩罪惡,豈得與劉晏比乎!」會汴州城隘,廣之,東方人訛言:「上欲東封,故城汴州。 |
現代日本語訳かつて先代の宰相(李宝臣)が殺害した高位の将軍たちは、おそらく百人を数えるほどであった。彼らの子弟で復讐を望む者は数えきれぬほど存在するに違いない!さらに、相公(田承嗣)と幽州との間には確執があり、朱滔兄弟は常々我々に対して激しい恨みを持っているのだから、天子(皇帝)が必ず彼らを将軍として任命することになるだろう。朱滔の軍勢が進撃する太鼓や拍子木の音すら聞こえるほど近くに迫り、命令を受けて疾駆してくる様は虎狼が獲物を得るかのようであり、どうしてこれに対抗できようか! かつて田承嗣は安禄山・史思明親子とともに反乱を起こし、百戦錬磨で凶暴さをもって天下に知られていた。詔勅に背いて挙兵した時は無敵だと自負していたが、盧子期が捕らえられ、呉希光が帰順すると、天を仰いで涙を流し進退窮まったのだ。先代の宰相(李宝臣)が軍勢を抑えて進攻せず、赦免を嘆願したおかげで、先帝は寛大な心から誅殺を赦されたのである。そうではなかったら田氏一族など生き残れたであろうか? ましてや貴殿(張惟岳)は富貴の中に育ち年も若く、艱難辛苦を知らず、側近の言葉を信じて承嗣のような真似をしようとするのか!私が考える策としては、将佐たちへの辞任表明し、惟誠(庶兄)に軍府の代理統率を託した上で自ら入朝して宿衛(宮中警護)として留まることを請願し、「惟誠に暫く職務代行させている」と説明すべきだ。恩命は聖意によって決せられるが、主上は必ず貴殿の忠義を喜ばれ、高位にはつけなくとも栄禄を得られよう。これこそ永遠の安泰策である。 もしもそうしなければ大禍が降りかかり、後悔しても及ばないだろう。私は平時から貴殿に疎まれていると自覚しているものの、舅甥(叔父・甥)の情として事態切迫により言わざるを得なかったのだ!」 惟岳及び側近たちはこの言葉があまりにも率直なためかえって憎悪を強めた。従政(発言者)は屋敷に戻ると門を閉じ「病である」と称した。 解説【背景分析】
【諫言の戦略的特徴】
【政治力学の本質】
【言語表現の特徴】
【悲劇性の構造】諫言者・李従政は最後に「張氏今族滅矣」(張家が滅びることを嘆く)と絶叫し毒を仰いで死す。この結末が示すのは:
(史料出典:『資治通鑑』巻二百二十六・唐紀四十二) Translation took 941.0 seconds. | ||||||||||||
| 」正己懼,發兵萬人屯曹州。田悅亦完聚為備,與梁崇義、李惟岳遙相應助,河南士民騷然驚駭。 永平軍舊領汴、宋、滑、亳、陳、穎、泗七州,丙子,分宋、亳、穎別為節度使,以宋州刺史劉洽為之;以泗州隸淮南;又以東都留守路嗣恭為懷、鄭、汝、陝四州、河陽三城節度使。旬日,又以永平節度使李勉都統洽、嗣恭二道,仍割鄭州隸之,選嘗為將者為諸州刺史,以備正己等。 初,高力士有養女嫠居東京,頗能言宮中事,女官李真一意其為沈太后,詣使者具言其狀。上聞之,驚喜。時沈氏故老已盡,無識太后者,上遣宦官、宮人征驗視之,年狀頗同,宦官、宮人不審識太后,皆言是。高氏辭稱實非太后,驗視者益疑之,強迎入居上陽宮。上發宮女百餘人,繼乘輿御物就上陽宮供奉。左右誘諭百方,高氏心動,乃自言是。驗視者走馬入奏,上大喜。二月,辛卯,上以偶日御殿,群臣皆入賀。詔有司草儀奉迎。高氏弟承悅在長安,恐不言,久獲罪,遽自言本末。上命力士養孫樊景超往覆視,景超見高氏居內殿,以太后自處,左右侍衛甚嚴。景超謂高氏曰:「姑何自置身於俎上!」左右叱景超使下,景超抗聲曰:「有詔,太后詐偽,左右可下。」左右皆下殿。高氏乃曰:「吾為人所強,非己出也。」以牛車載還其家。上恐後人不復敢言太后,皆不之罪,曰:「吾寧受百欺,庶幾得之。 |
現代日本語訳:田正己は恐れをなして、一万の兵を発し曹州に駐屯させた。田悦もまた軍備を整え集結し、梁崇義や李惟岳と連携して互いに呼応したため、河南地方の住民らは動揺し驚愕した。 永平軍が従来管轄していた汴・宋・滑・亳・陳・穎・泗の七州について、丙子(ある日)に宋・亳・穎を分割して新たな節度使を設置し、宋州刺史であった劉洽をこれに任命した。泗州は淮南に属させ、さらに東都留守路嗣恭を懐・鄭・汝・陝の四州および河陽三城の節度使とした。十日後には永平節度使李勉を総司令官として劉洽と路嗣恭の両軍団を統括させ、加えて鄭州もその管轄下に置き、かつて将軍職にあった者らを諸州刺史に選任し、田正己らに対する防備体制を整えた。 当初、高力士の養女が東京で寡婦として暮らしており、宮中の事情についてよく語っていたため、女官李真一は彼女こそ行方不明の沈太后だと確信した。使者に詳細を報告すると、皇帝(唐代宗)はこれを聞いて驚き喜んだ。当時、沈氏に関わった古老はすでに皆亡く、太后を知る者はいなかったが、皇帝は宦官や宮女らを派遣して検証させたところ、年齢や風貌が非常に似ていたため「間違いない」と主張した。高氏自身は「私は本当の太后ではない」と言い張ったが、かえって調査官らの疑念を強められ、無理やり上陽宮に住まわせられた。 皇帝は百人余りの宮女や御料車馬・調度品を次々と送り込み厚遇した。周囲の者が様々な方法で説得するうちに高氏も心が動き、「私は太后である」と言い出したため、調査官らは急ぎこの旨を奏上した。皇帝は大いに喜び、二月辛卯(ある日)には儀式用の吉日に朝廷に出御し群臣から祝賀を受けた。 しかし高氏の弟・承悦が長安におり、偽装を見抜きながら黙っていたら後に罪に問われると恐れ、急いで真相を告白した。皇帝は高力士の養孫である樊景超に再調査させたところ、彼女は内殿に住み太后として振る舞い厳重な護衛に囲まれていた。景超が「叔母上(皇族身分)自らなぜ危ない真似を?」と問うと左右の者が制止したため、「詔勅がある! これは偽装だ、全員退下せよ!」と喝破し事実を明かさせた。 高氏は車で帰宅を許されたが、皇帝は「百回騙されても太后発見の機会を逃すな」と言い関係者を罰さなかった。 解説:
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| 」自是四方稱得太后者數四,皆非是,而真太后竟不知所之。 御史中丞盧杞,弈之子也,貌醜,色如藍,有口辯。上悅之,丁未,擢為大夫,領京畿觀察使。郭子儀每見賓客,姬妾不離側。杞嘗往問疾,子儀悉屏侍妾,獨隱几待之。或問其故,子儀曰:「杞貌陋而心險,婦人輩見之必笑,他日杞得志,吾族無類矣!」 楊炎既殺劉晏,朝野側目,李正己累表請晏罪,譏斥朝廷。炎懼,遣腹心分詣諸道,以宣慰為名,實使之密諭節度使云:「晏昔附奸邪,請立獨孤后,上自惡而殺之。」上聞而惡之,由是有誅炎之志,隱而未發。乙巳,遷炎中書侍郎,擢盧杞為門下侍郎,並同平章事,不專任炎矣。杞蕞陋,無文學,炎輕之,多托疾不與會食;杞亦恨之。杞陰狡,欲起勢立威,小不附者必欲置之死地,引太常博士裴延齡為集賢殿直學士,親任之。 丙午,更汴宋軍名曰宣武。 振武節度使彭令芳苛虐,監軍劉惠光貪婪。乙卯,軍士共殺之。 發京西防秋兵萬二千人戍關東。上御望春樓宴勞將士,神策將士獨不飲,上使詰之,其將楊惠元對曰:「臣等發奉天,軍帥張巨濟戒之曰:『此行大建功名,凱旋之日,相與為歡。苟未捷,勿飲酒。』故不敢奉詔。」及行,有司緣道設酒食,獨惠元所部瓶罌不發。上深歎美,賜書勞之。惠元,平州人也。 三月,置殷州於郾城。 |
現代日本語訳それ以来、四方で太后を発見したと称する事例が相次いだが、いずれも本物ではなく、真の太后は結局行方知れずとなった。 御史中丞であった盧杞(ろき)は、名臣・廬弈(ろえい)の子である。容姿は醜く顔色は藍色を帯びていたが、弁舌に優れていた。皇帝(徳宗)は彼を気に入り、丁未の日に大夫に昇進させ京畿観察使を兼任させた。郭子儀(かくしぎ)は賓客と会う際には常に側妾を傍らに置いていたが、盧杞が見舞いに訪れた時だけは全て退け、一人で机にもたれて待った。理由を問われて子儀は言った。「盧杞は容貌が醜いが心は険悪だ。婦人どもが彼を見れば必ず笑うだろう。いずれ彼が権力を握れば、我が一族は滅ぼされてしまう」。 楊炎(ようえん)が劉晏(りゅうあん)を殺害して以来、朝廷内外は反感を抱いた。李正己(りせいい)が繰り返し上奏して劉晏の罪状を追及し、朝廷を非難したため、楊炎は恐れをなした。腹心を諸道に派遣し「慰問」と称しながら実は密かに節度使へ伝令させた。「劉晏は以前から奸臣に与し、独孤皇后の擁立を画策したので皇帝自らが誅殺を命じられた」。この情報を知った皇帝は楊炎を憎悪し、粛清の意志を秘めつつも表には出さなかった。乙巳の日、楊炎を中書侍郎に異動させると同時に盧杞を門下侍郎とし、両者を同平章事(宰相)に任命して楊炎の専権を抑えた。盧杞は背が低く醜貌で教養もなかったため、楊炎は彼を見下し「病気」を口実に会食を拒否したので、盧杞も恨みを持った。陰険狡知な盧杞は勢力拡大のため威嚇を重ね、少しでも従わない者には死罪を求めた。太常博士・裴延齢(はいえんれい)を集賢殿直学士に抜擢し側近とした。 丙午の日、汴宋軍の名称を宣武軍と改めた。 振武節度使・彭令芳(ほうれいほう)は残忍で、監軍・劉惠光(りゅうけいこう)は貪欲であったため、乙卯の日に兵士たちが合同で両者を殺害した。 京西から防秋兵12,000人を関東に駐屯させた。皇帝は望春楼で将兵を慰労する宴を催したが、神策軍(禁衛軍)だけは酒を飲まなかった。理由を問うと、将軍・楊惠元(ようけいげん)が答えた。「奉天を出発する際、軍帥の張巨済(ちょうきょせい)より『この遠征で功績を立てよ。凱旋後に共に祝おう。勝利なきうちは酒を飲むな』と命じられました」。行軍中も供給所で飲食が提供されたが、楊惠元の部隊だけは一切手をつけなかった。皇帝は深く感嘆して賞賛し、詔書で労いを与えた。楊恵元は平州(河北省)の出身である。 三月,殷州を郾城に設置した。 解説
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| 辛巳,以汾州刺史王翃為振武軍使、鎮北、綏、銀等州留後。 遣殿中少監崔漢衡使於吐蕃。 梁崇義雖與李正己等連結,兵勢寡弱,禮數最恭。或勸其入朝,崇義曰:「來公有大功於國,上元中為閹宦所讒,遷延稽命,及代宗嗣位,不俟駕入朝,猶不免族誅。吾歲久釁積,何可往也!」淮寧節度使李希烈屢請討之,崇義懼,益修武備。流人郭昔告崇義為變,崇義聞之,請罪,上為之杖昔,遠流之;使金部員外郎李舟詣襄州諭旨以安之。舟嘗奉使詣劉文喜,為陳禍福,文喜囚之,會帳下殺文喜以降,諸道跋扈者聞之,謂舟能覆城殺將。至襄州,崇義惡之。舟又勸崇義入朝,言頗切直,崇義益不悅。及遣使宣慰諸道,舟復指襄州,崇義拒境不內,上言「軍中疑懼,請易以它使。」時兩河諸鎮方猜阻,上欲示恩信以安之,夏,四月,庚寅,加崇義同平章事,妻子悉加封賞,賜以鐵券;遣御史張著繼手詔征之,仍以其裨將藺杲為鄧州刺史。 五月,丙寅,以軍興,增商稅為什一。 田悅卒與李正己、李惟岳定計,連兵拒命,遣兵馬使孟祐將步騎五千北助惟岳。薛嵩之死也,田承嗣盜據洺、相二州,朝廷獨得邢、磁二州及臨洺縣。悅欲阻山為境,曰:「邢、磁如兩眼,在吾腹中,不可不取。」乃遣兵馬使康愔將八千人圍邢州,別將楊朝光將五千人柵於邯鄲西北,以斷昭義救兵,悅自將兵數萬圍臨洺。 |
訳文辛巳(かのとみ)の日、汾州刺史であった王翃を振武軍使ならびに鎮北・綏・銀など諸州留後に任命した。 殿中少監の崔漢衡を使者として吐蕃へ派遣した。 梁崇義は李正己らと連合していたものの兵力が脆弱であり、礼節には最も忠実であった。入朝を勧める者もいたが、崇義は言った。「来瑱公(らいてん)は国家に大功があったのに、上元年中(760年頃)に宦官の中傷にあい詔命への対応を怠り、代宗の即位後すぐに入朝したにもかかわらず一族皆殺しを免れなかった。私は長年の過失が積もっているのだから行けるはずがない」。淮寧節度使李希烈は繰り返し崇義討伐を上奏し、崇義は恐れて軍備を強化した。 流刑人郭昔(かくせき)が崇義の謀反を告発すると、彼は罪に服そうとした。皇帝は郭昔を杖罰して辺境へ流すと、金部員外郎李舟を襄州へ派遣し詔諭で安堵させた。かつて李舟が劉文喜のもとへ使者として赴いた際、利害を説いて投獄されたものの、配下が文喜を殺して投降したため、各地の強藩は「李舟は城を落とし将軍を死に至らせる」と恐れた。襄州では崇義もこれを嫌悪した。さらに李舟が入朝を勧める言葉が率直すぎたため、ますます不満を募らせた。 使者による諸道慰問の際、再び襄州へ向かった李舟に対し、崇義は領内への立ち入りを拒否。「軍中に疑念があるので他の使者と交代を」と上奏した。当時河北諸鎮が離反を警戒していたため、皇帝は恩賞で懐柔しようとした。 夏四月庚寅(こういん)の日、崇義へ同平章事(宰相格)を与え妻子も封禄を加増し鉄券(特権証書)を下賜。御史張著に親筆詔書を持たせて招還するとともに、配下の藺杲(りんこう)を鄧州刺史とした。 五月丙寅(へいいん)の日、軍費調達のため商税を十分の一税率に増徴した。 田悦は李正己・李惟岳と結託して連合軍で朝廷への抵抗を決定。兵馬使孟祐(もうゆう)率いる歩騎五千を北へ派遣し惟岳を支援させた。薛嵩(せつすう)の死後、田承嗣が洺州・相州を不法占拠したため朝廷は邢州と磁州および臨洺県のみを保持していた。悦は「邢・磁二州は腹中に刺さった目のごとき存在」として山岳地形での防衛線構築を企図。兵馬使康愔(こういん)率いる八千で邢州を包囲し、別将楊朝光の五千が邯鄲北西に堡塁を築いて昭義軍の援軍遮断にあたらせた上で、自ら数万の兵をもって臨洺県を包囲した。 #解説【歴史的意義】
【政治手法分析】
【軍事戦略考察】田悦による「邢磁二州攻略」作戦: 1. 地理的優位性: 太行山脈東麓における要衝・臨洺県を包囲し、山西(朝廷勢力圏)と河北(藩鎮地域)の連絡路遮断。 2. 堡塁線構築: 邯鄲西北に砦を設置して昭義軍(潞州方面)からの援軍阻止。孤立化した邢・磁二州は後に田悦により占拠される。 【税制変更の影響】「商税什一」(10%税率)増徴は安史之乱後初の大幅課税強化であり、これが後の建中税制改革(両税法導入)へ繋がる。背景には膨大な藩鎮討伐軍費が必要であったことが窺える。 【引用史料補足】
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| 邢州刺史李共、臨洺將張伾堅壁拒守。貝州刺史邢曹俊,田承嗣舊將也,老而有謀,悅寵信牙官扈崿而疏之。及攻臨洺,召曹俊問計。曹俊曰:「兵法十圍五攻;尚書以逆犯順,勢更不侔。今頓兵堅城之下,糧竭卒盡,自亡之道也。不若置萬兵於崞口以遏西師,則河北二十四州皆為尚書有矣。」諸將惡其異己,共毀之,悅不用其策。 |
現代日本語訳:邢州刺史の李共と臨洺守将の張伾は堅固な陣地を構築して抵抗し続けた。貝州刺史の邢曹俊は、田承嗣のもとに仕えた古参の将軍であり、老練で知略に富んでいたが、悦(注: 李宝臣か田悦の誤記か)は側近の扈崿を寵愛して彼を遠ざけていた。臨洺攻撃の際、邢曹俊に対策を問うと、彼は言った。「兵法では十倍の兵力なら包囲し、五倍なら攻めよと言う。尚書(注: 主君への敬称)が叛逆をもって朝廷に逆らえば形勢は不利だ。今ここで堅固な城壁に兵を疲弊させ、食糧も尽きれば自滅の道である。崞口に一万の兵を置いて西方からの援軍を阻み、河北二十四州を掌握するのが上策でしょう」。諸将はこの異論を嫌い一斉に非難したため、悦(主君)は彼の献策を用いなかった。 解説:
補足:本節は『資治通鑑』巻二百二十七・唐紀四十三の一説。当時、河朔藩鎮が如何にして内部矛盾から衰退していったかを示すエピソードとして編纂されている。特に邢曹俊のような有識者の意見軽視が組織崩壊を招くという司馬光の史観が反映された記述である。 (訳注: 原文中の「悦」は田承嗣の甥・田悦と推定されるが、前後文脈がないため敬称として「尚書」「主君」で処理した) Translation took 451.7 seconds. |
| input text 資治通鑑\227_唐紀_43.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百二十七 唐紀四十三 起重光作噩六月,盡玄黓閹茂,凡一年有奇。 德宗神武聖文皇帝二建中二年(辛酉,公元七八一年) 六月,庚寅,以浙江東、西觀察使、蘇州刺史韓滉為潤州刺史、浙江東、西節度使,名其軍曰鎮海。 張著至襄陽,梁崇義益懼,陳兵而見之。藺杲得詔不敢發,馳見崇義,請命。崇義對著號泣,竟不受詔。著覆命。癸巳,進李希烈爵南平郡王,加漢南、漢北兵馬招討使,督諸道兵討之。楊炎諫曰:「希烈為董秦養子,親任無比,卒逐秦而奪其位。為人狼戾無親,無功猶屈強不法,使平崇義,何以制之!」上不聽。炎固爭之,上益不平。荊南牙門將吳少誠以取梁崇義之策干李希烈,希烈以少誠為前鋒。少誠,幽州潞人也。 時內自關中,西暨蜀、漢,南盡江、淮、閩、越,北至太原,所在出兵,而李正己遣兵扼徐州甬橋、渦口,梁崇義阻兵襄陽,運路皆絕,人心震恐。江、淮進奉船千餘艘,泊渦口不敢進。上以和州刺史張萬福為濠州刺史。萬福馳至渦口,立馬岸上,發進奉船,淄青將士停岸睥睨不敢動。辛丑,汾陽忠武王郭子儀薨。子儀為上將,擁強兵,程元振、魚朝恩讒謗百端;詔書一紙徵之,無不即日就道,由是讒謗不行。嘗遣使至田承嗣所,承嗣西望拜之曰:「此膝不屈於人若干年矣!」李靈曜據汴州作亂,公私物過汴者皆留之,惟子儀物不敢近,遣兵衛送出境。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百二十七・唐紀四十三より 徳宗神武聖文皇帝二 建中二年(辛酉、781年) 六月庚寅(3日)、浙江東・西道観察使兼蘇州刺史であった韓滉を潤州刺史・浙江東西節度使に任じ、その軍を「鎮海」と命名した。 使者の張著が襄陽に到着すると、梁崇義は一層恐れを示し、兵を整えてこれと面会した。藺杲(りんこう)は詔勅を受け取ったものの発布できず、急ぎ崇義のもとに赴いて指示を仰いだ。崇義は張著の前で声をあげて泣き、結局詔勅を受け入れなかった。張著は復命した。 癸巳(6日)、李希烈を南平郡王に昇爵し、漢南・漢北兵馬招討使を兼任させ、諸道の軍勢を統率して梁崇義を討伐させることとした。楊炎が諫めて言うには「希烈は董秦(李忠臣)の養子でありながら寵愛に驕り、ついには董秦を追放してその地位を奪いました。本性は狼のように残忍で情がなく、功績がないにもかかわらず強硬に法を無視しております。仮に梁崇義を平定させた場合、その後どう統制されましょうか」。皇帝(徳宗)は聞き入れなかった。楊炎が固執して諫めるため、皇帝の不満はさらに高まった。 荊南牙門将・呉少誠が李希烈に対して梁崇義攻略策を献策すると、希烈は彼を前鋒に任命した。少誠は幽州潞県(現在の北京市通州区)出身である。 この時期、関中から西は蜀漢、南は江淮・閩越、北は太原まで各地で兵が動員されていたが、李正己が徐州甬橋と渦口を抑え、梁崇義が襄陽で抵抗したため、物資輸送路は全て遮断され人心は震撼した。江淮からの貢納船千余隻も渦口に停泊し前進できなかった。 そこで皇帝は和州刺史・張万福を濠州刺史に任命した。万福が急遽渦口へ駆けつけて岸辺に馬を立て、威圧的に貢納船の出航を指示すると、淄青軍(李正己配下)の将兵らも岸で睨み見るだけで手出しできなかった。 辛丑(14日)、汾陽忠武王・郭子儀が逝去した。子儀は上将として精鋭部隊を擁していたにもかかわらず、程元振や魚朝恩から繰り返し讒言を受けた時も、詔書一通で召還されれば即日出発したため、中傷の効果が現れなかった。かつて使者を田承嗣のもとに派遣した際には、承嗣は西の方角(長安)に向かって跪いて「この膝は何年も人に屈したことがない」と叫んだという。 李霊曜が汴州で反乱を起こし、公私の物資が開封を通る際は全て差し押さえたが、郭子儀関連の物資だけには近づかず、兵士を付けて護送して通過させたほどであった。 注釈
この状況が二年後の建中四年(783年)、帝都長安陥落へ繋がる歴史的転回点となる。 Translation took 833.4 seconds. |
| 校中書令考凡二十四,月入俸錢二萬緡,私產不在焉;府庫珍貨山積。家人三千人,八子、七婿皆為朝廷顯官;諸孫數十人,每問安,不能盡辯,頷之而已。僕固懷恩、李懷光、渾瑊輩皆出麾下,雖貴為王公,常頤指役使,趨走於前,家人亦以僕隸視之。天下以其身為安危者殆三十年,功蓋天下而主不疑,位極人臣而眾不疾,窮奢極欲而人不非之,年八十五而終。其將佐至大官、為名臣者甚眾。 壬子,以懷、鄭、河陽節度副使李艽為河陽、懷州節度使,割東畿五縣隸焉。 北庭、安西自吐蕃陷河、隴,隔絕不通,伊西、北庭節度使李元忠、四鎮留後郭昕帥將士閉境拒守,數遣使奉表,皆不達,聲問絕者十餘年。至是,遣使間道歷諸胡自回紇中來,上嘉之。秋,七月,戊午朔,加元忠北庭大都護,賜爵寧塞郡王;以昕為安西大都護、四鎮節度使,賜爵武威郡王;將士皆遷七資。元忠姓名,朝廷所賜也,本姓曹,名令忠;昕,子儀弟之子也。 李希烈以久雨未進軍,上怪之,盧杞密言於上曰:「希烈遷延,以楊炎故也。陛下何愛炎一日之名而墮大功?不若暫免炎相以悅之。事平復用,無傷也。」上以為然。庚申,以炎為左僕射,罷政事。以前永平節度使張鎰為中書侍郎、同平章事。鎰,齊丘之子也。以朔方節度使崔寧為右僕射。 丙子,贈故伊州刺史袁光庭工部尚書。 |
現代日本語訳校中書令考(郭子儀)は二十四の官職を歴任し、月俸として二万緡を得ており、私有財産を含まない。倉庫には珍宝が山積みされていた。家族や使用人は三千人に上り、八人の息子と七人の娘婿はいずれも朝廷で高位の官職につき、数十名いた孫たちが挨拶に来ると顔を覚えられず首を下げて応えるだけであった。僕固懐恩・李懐光・渾瑊らは皆その配下から出た者だが、王公貴族となっても常に指図で使役され、前で走り回っていたため、郭家の使用人たちも彼らを奴隷同然に見ていた。天下がその生死によって安危が決まる状態がほぼ三十年続き、功績は天下を覆うほどでありながら君主から疑われず、人臣として最高位にありながら大衆から憎まれず、豪奢の限りをつくしても非難されず、八十五歳で没した。配下の将校たちも高官や名臣となった者が非常に多かった。 壬子(じんし)の日、懐州・鄭州・河陽節度副使であった李艽を河陽及び懐州節度使に任命し、東畿五県を割譲して管轄下とした。 北庭と安西は吐蕃が河西・隴右を占領したため隔絶され往来が途絶えていた。伊西北庭節度使李元忠(本名曹令忠)と四鎮留後郭昕(郭子儀の甥)は将兵を率いて境界を固守し、幾度も使者を派遣して上奏文を奉ったが全て届かず、音信不通状態が十余年続いた。このたび使者が間道を通り諸胡族の地を経由し回紇の中から到着したため、皇帝(唐代宗)はこれを賞賛した。秋七月戊午朔(ぼごさく)の日、元忠に北庭大都護を加授し寧塞郡王の爵位を与え、郭昕には安西大都護兼四鎮節度使として武威郡王の爵位を賜り、将兵全員は七階級特進させた。李元忠の名は朝廷から下賜されたものであり、本来の姓名は曹令忠である。郭昕は子儀(郭子儀)の弟の息子にあたる。 李希烈が長雨を理由に進軍しないため皇帝(唐徳宗)は不審を抱いた。盧杞が密奏した:「希烈が遅延するのは楊炎が宰相だからです。陛下はなぜ一日だけの面目のために大功を損なわれるのか? 一時的に楊炎を罷免して機嫌を取るべきでしょう。乱平定後に復職させれば問題ありません」。皇帝はもっともだと考えた。庚申(こうしん)の日、楊炎を左僕射に転任させ政務から外した。前永平節度使張鎰(張斉丘の子)を中書侍郎・同平章事に任命。朔方節度使崔寧を右僕射とした。 丙子(へいし)の日、故伊州刺史袁光庭に工部尚書を追贈した。 #注釈
訳出方針
(注釈では歴史的意義と現代研究動向に焦点。『資治通鑑』が編纂時点で把握していた情報範囲を尊重しつつ、現在判明している史実の継続性について補足) Translation took 1010.7 seconds. |
| 光庭天寶末為伊州刺史,吐蕃陷河、隴,光庭堅守累年,吐蕃百方誘之,不下。糧竭兵盡,城且陷,光庭先殺妻子,然後自焚。郭昕使至,朝廷始知之,故贈官。 辛巳,以邠寧節度使李懷光兼朔方節度使。 癸未,河東節度使馬燧,昭義節度使李抱真,神策先鋒都知兵馬使李晟,大破田悅於臨洺。時悅攻臨洺,累月不拔,城中食且盡,府庫竭,士卒多死傷。張伾飾其愛女,使出拜將士曰:「諸群守戰甚苦,伾家無它物,請鬻此女為將士一日之費。」眾皆哭,曰:「願盡死力,不敢言賞!」李抱真告急於朝,詔馬燧將步騎二萬與抱真討悅,又遣李晟將神策兵與之俱;又詔幽州留後朱滔討惟岳。燧等軍未出險,先遣使持書諭悅,為好語。悅謂燧畏之,不設備,又與抱真合兵八萬,東下壺關,軍於邯鄲,擊悅支軍,破之。悅方急攻臨洺,分李惟岳兵五千助楊朝光。明日,燧等進攻朝光柵,悅將萬餘人救之,燧命大將李自良等御之於雙岡,令之曰:「悅得過,必斬爾!」自良等力戰,悅軍卻。燧推火車焚朝光柵,斬朝光,獲首虜五千餘級。居五日,燧等進軍至臨洺,悅悉眾力戰,凡百餘合,悅兵大敗,斬首萬餘級。悅引兵夜遁,邢州圍亦解。 時平盧節度使李正己已薨,子納秘之,擅領軍務。悅求救於納及李惟岳,納遣大將衛俊將兵萬人,惟岳遣兵三千人救之。 |
現代日本語訳:光庭は天宝の末年(755-757年)に伊州刺史を務めていたが、吐蕃が河西・隴右地方を陥落させた際、数年にわたり城を堅守した。吐蕃はあらゆる手を使って誘降しようとしたが、彼は屈しなかった。兵糧が尽き、兵力も枯渇し、まさに城が陥落しようとする時、光庭はまず妻子を殺害した後、自ら火の中に飛び込んで果てた。後に郭昕の使者が朝廷に到着して初めてこの事実を知り、死後官位を追贈された。 辛巳(しんし)の日、邠寧節度使・李懐光を朔方節度使も兼任させた。 癸未(きび)の日、河東節度使・馬燧(ばすい)、昭義節度使・李抱真(りほうしん)、神策先鋒都知兵馬使・李晟(りせい)が臨洺で田悦を大破した。当時、田悦は臨洺城を数か月攻撃していたが陥落できず、城内では食糧が尽き、倉庫も空になり、多くの将兵が死傷していた。守将・張伾(ちょうひ)は最愛の娘を美しく着飾らせて将士たちに拝謁させ、「諸君が苦しい戦いを続けているのに、私の家には他に財産がない。この娘を売って一日分の軍資金としたい」と言った。将兵たちは皆泣きながら「賞与など求めず、死力を尽くして戦う」と誓った。 李抱真が朝廷に緊急事態を報告すると、詔勅で馬燧に歩騎二万を率いさせて李抱真と共に田悦討伐に向かわせた。さらに李晟に神策軍を率いて合流するよう命じ、幽州留後・朱滔(しゅとう)にも李惟岳討伐を指示した。 馬燧らは軍勢が険しい地形から出る前に使者を送り、偽りの和平文書で田悦を欺いた。田悦は馬燧が恐れているのだと思い警戒せず、逆に李抱真と合流して八万の兵を率いて東進し、壺関を抜けて邯鄲に駐屯した。そこで唐軍は田悦の別働隊を撃破した。 その頃、田悦が臨洺城への総攻撃中だったため、李惟岳から借りた五千の兵を楊朝光(ようちょうこう)支援に割いた。翌日、馬燧らが楊朝光陣営へ進攻すると、田悦は万余りの軍で救援に向かった。馬燧は大将・李自良らを双岡に配置し、「もし田悦を通したならお前たちの首を斬る」と厳命した。激戦の末、田悦軍は退却させられた。馬燧は火炎車を使って楊朝光陣営を焼き払い、彼を討ち取ると五千余級の首を挙げた。 五日後、唐軍が臨洺に到着すると、全力で応戦した田悦だったが百余度の交戦後に大敗し、一万余級の損害を受けた。夜陰に乗じて逃走したため、邢州包囲も解除された。 この時点で平盧節度使・李正己(りせいい)は既に死亡していたが、息子の李納(りのう)はこれを隠して軍務を独断で指揮していた。田悦が救援要請すると、李納は大将・衛俊(えいしゅん)率いる一万の兵を派遣し、李惟岳も三千の援軍を送った。 解説:
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| 悅收合散卒,得二萬餘人,軍於洹水;淄青軍其東,成德軍其西,首尾相應。馬燧帥諸軍進屯鄴,奏求河陽兵自助;詔河陽節度使李艽將兵會之。 八月,李納始發喪,奏請襲父位,上不許。 梁崇義發兵至江陵,至四望,大敗而歸,乃收兵襄、鄧。李希烈引軍循漢而上,與諸道兵會;崇義遣其將翟暉、杜少誠逆戰於蠻水,希烈大破之;追至疏口,又破之。二將請降,希烈使將其眾先入襄陽慰諭軍民。崇義閉城拒守,守者開門爭出,不可禁。崇義與妻赴井死,傳首京師。 范陽節度使朱滔將討李惟岳,軍於莫州。張孝忠將精兵八千守易州,滔遣判官蔡雄說孝忠曰:「惟岳乳臭兒,敢拒朝命;今昭義、河東軍已破田悅,淮寧李僕射克襄陽,計河南諸軍,朝夕北向,恆、魏之亡,可佇立而須也。使君誠能首舉易州以歸朝廷,則破惟岳之功自使君始,此轉禍為福之策也。」孝忠然之,遣牙官程華詣滔,遣錄事參軍董稹奉表詣闕,滔又上表薦之。上悅。九月,辛酉,以孝忠為成德節度使。命惟岳護喪歸朝,惟岳不從。孝忠德滔,為子茂和娶滔女,深相結。 壬戌,加李希烈同平章事。 初,李希烈請討梁崇義,上對朝士亟稱其忠。黜陟使李承自淮西還,言於上曰:「希烈必立微功;但恐有功之後,偃蹇不臣,更煩朝廷用兵耳。」上不以為然。希烈既得襄陽,遂據之為己有,上乃思承言。 |
現代日本語訳:悦(えつ)は散り散りの兵士たちを集め、二万人余りの兵力を得て洹水(かんすい)に布陣した。淄青軍が東側に、成徳軍が西側に位置し、両者は前後で連携していた。馬燧(ばすい)は諸軍を率いて鄴(ぎょう)へ進駐すると、河陽の援軍派遣を上奏。皇帝は詔勅により河陽節度使李艽(りきゅう)に出兵させた。 八月、李納(りのう)が初めて父の喪を公表し後継承認を求めたが、皇帝は許さなかった。 梁崇義(りょうすうぎ)が江陵へ進軍するも四望で大敗し襄州・鄧州に撤退。これに対し李希烈(りきれつ)は漢水沿いに北上して諸道の軍と合流した。迎撃に出た梁崇義配下の翟暉(てきき)・杜少誠(としょうせい)が蛮水で大敗すると、追撃を受けて疏口でも壊滅。二人の降将を先導役として襄陽へ派遣し軍民を慰撫させたため、籠城しようとした梁崇義に対し守備兵らが争って逃亡した。止むなく夫妻は井戸に入水自害し、首級は長安に送られた。 范陽節度使朱滔(しゅとう)が李惟岳(りいがく)討伐のため莫州駐屯中、張孝忠(ちょうこうちゅう)が精鋭八千で易州を守備していた。朱滔は使者・蔡雄(さいゆう)を通じ「青二才の李惟岳が朝廷に逆らっている」と指摘。「昭義軍や河東軍が田悦を破り、淮寧の李僕射も襄陽を制圧した今では河南諸軍が北上すれば恒州・魏州は瞬時に陥落する。貴殿が率先して易州を朝廷に返還すれば功績第一となる」と説得すると張孝忠は承諾し、牙官程華(ていか)を使者として派遣。さらに録事参軍董稹(とうちん)に上表文を持たせ長安へ送った。朱滔も推薦の奏上をしたため皇帝は喜び、九月辛酉の日に張孝忠を成徳節度使に任命。李惟岳には父の葬儀後に帰順するよう命じたが拒否された。恩義を感じた張孝忠は息子・茂和(もか)に朱滔の娘を娶わせて絆を深めた。 壬戌(みずのえいぬ)の日、李希烈に対し同平章事(副宰相格)の官職が授けられた。 当初皇帝は梁崇義討伐を自薦した李希烈を朝廷で激賞していた。監察使・李承(りしょう)が「小功績を得た後に驕って反乱するでしょう」と淮西から帰還後警告したにも関わらず、皇帝は聞き入れなかった。しかし襄陽占拠後の私物化を知ると初めて李承の言葉を思い出した。 解説:
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| 時承為河中尹,甲子,以承為山南東道節度使。上欲以禁兵送上,承請單騎赴鎮。至襄陽,希烈置之外館,迫脅萬方,承誓死不屈,希烈乃大掠闔境所有而去。承治之期年,軍府稍完。希烈留牙將於襄州,守其所掠財,由是數有使者往來。承亦遣其腹心臧叔雅往來許、蔡,厚結希烈腹心周曾等,與之陰圖希烈。 初,蕭嵩家廟臨曲江,玄宗以娛游之地,非神靈所宅,命徙之。楊炎為相,惡京兆尹嚴郢,左遷大理卿。盧杞欲陷炎,引郢為御史大夫。先是,炎將營家廟,有宅在東都,憑河南尹趙惠伯賣之,惠伯買以為官廨,郢按之,以為有羨利。杞召大理正田晉議法,晉以為:「律,監臨官市買有羨利,以乞取論,當奪官。」杞怒,貶晉衡州司馬。更召它吏議法,以為:「監主自盜,罪當絞。」炎廟正直蕭嵩廟地,杞因譖炎,云「茲地有王氣,故玄宗令嵩徙之。炎有異志,故於其地建廟。」冬,十月,乙未,炎自左僕射貶崖州司馬。遣中使護送,未至崖州百里,縊殺之。惠伯自河中尹貶費州多田尉。尋亦殺之。 辛丑,冊太子妃蕭氏。 癸卯,祫太廟。先是,太祖既正東向之位,獻、懿二祖皆藏西夾室,不饗。至是,復奉獻祖東向而饗之。 徐州刺史李洧,正己之從父兄也。李納寇宋州,彭城令太原白季庚說洧舉州歸國。洧從之,遣攝巡官崔程奉表詣闕,且使口奏,並白宰相,以「徐州不能獨抗納,乞領徐、海、沂三州觀察使,況海、沂二州,今皆為納有。 |
現代日本語訳:この時、李承は河中尹であったが、甲子の日に山南東道節度使に任命された。皇帝(徳宗)は禁軍を護衛として付けようとしたが、承は単騎で赴任することを願い出た。襄陽に到着すると、李希烈は彼を外部の宿舎に隔離し、あらゆる手段で脅迫したが、承は死んでも屈しないと誓ったため、希烈は領内全体を略奪して去った。承が統治すること一年ほどで軍府は徐々に回復した。しかし希烈は牙将(側近の将校)を襄州に残し、掠奪品を監視させたため、使者が頻繁に行き来するようになった。これに対応して李承も腹心の臧叔雅を使いとして許州・蔡州へ派遣し、希烈配下の周曾らと厚く結託し、密かに希烈打倒の計画を進めた。 かつて蕭嵩の家廟が曲江に面していた時、玄宗皇帝は「娯楽施設のある土地は神霊の住まいにはふさわしくない」として移転させた。楊炎が宰相となった際、京兆尹・厳郢を憎んで彼を大理卿(司法長官)へ左遷した。その後盧杞が楊炎を陥れようと企て、郢を御史大夫に抜擢する。以前から楊炎は東都洛陽にある私邸の地で家廟建立を計画しており、河南尹・趙惠伯を通じて売却させていたところ、惠伯がこれを官舎として購入した事件があった。厳郢は調査し「不正利益あり」と断罪するよう主張した。 盧杞は大理正(裁判長)田晋に法律解釈を求めたところ、「監臨官(監督職)の取引で不当利得があれば『収賄』に該当し罷免すべきだ」との意見を得て激怒、田晋を衡州司馬へ左遷した。代わりの官吏は「管理者自ら窃盗すれば絞刑が相当」と解釈した。 さらに楊炎の家廟予定地が蕭嵩旧宅跡だったことに着目し、「この土地には王気(帝王の気)があるため玄宗帝も移転させた。楊炎に謀反の意志あり」と誣告した。冬十月乙未、楊炎は左僕射から崖州司馬へ左遷され、赴任途上で護送の中使により絞殺された。趙惠伯も費州多田尉へ左遷後、まもなく処刑されている。 辛丑の日には太子妃蕭氏が冊立された。 癸卯に太廟(皇室祖廟)での合祭が行われた。これまで太祖(唐初の李虎)を正位(東向き主座)とし、献祖・懿祖は西側室へ移され祭祀対象外となっていたが、この時より再び献祖を東向きで祀ることに復帰した。 徐州刺史の李洧は李正己の従兄にあたる。李納が宋州を侵略すると彭城県令・白季庚(白居易の父)が「全州挙げて朝廷に帰順すべきだ」と進言し、李洧はこれを受け入れた。代理巡官の崔程を使者として上表文を届けさせ、「徐州単独では李納に対抗できず徐・海・沂三州観察使職が必要である(うち海・沂二州は現在李納が占領中)」と宰相に口頭で奏上させるよう命じた。 解説:
(注)原文の紀年方式(甲子・乙未等干支表記/十月癸卯)は全て暦日変換せず、歴史資料としての特性を保持した形で訳出。人名・官職名については唐代史料に基づく正確な表記を採用。 Translation took 1876.9 seconds. |
| 洧與刺史王涉、馬萬通素有約,苟得朝廷詔書,必能成功。」程自外來,以為宰相一也,先白張鎰,鎰以告盧杞。杞怒其不先白己,不從其請。戊申,加洧御史大夫,充招諭使。 十一月,戊午,以永樂公主適檢校比部郎中田華,上不欲違先志故也。 蜀王傀,更名遂。 辛酉,宣武節度使劉洽,神策都知兵馬使曲環,滑州刺史襄平李澄,朔方大將唐朝臣,大破淄青、魏博之兵於徐州。 先是,李納遣其將王溫會魏博將信都崇慶共攻徐州,李洧遣牙官溫人王智興詣闕告急。智興善走,不五日而至。上為之發朔方兵五千人,以朝臣將之,與洽、環、澄共救之。時朔方軍資裝不至,旗服弊惡。宣武人嗤之曰:「乞子能破賊乎!」朝臣以其言激怒士卒,且曰:「都統有令,先破賊營者,營中物悉與之。」士皆憤怒爭奮。 崇慶、溫攻彭城,二旬不能下,請益兵於納。納遣其將石隱金將萬人助之,與劉洽等相拒於七里溝。日向暮,洽引軍稍卻。朔方馬軍使楊朝晟言於唐朝臣曰:「公以步兵負山而陳,以待兩軍。我以騎兵伏於山曲,賊見懸軍勢孤,必搏之。我以伏兵絕其腰,必敗之。」朝臣從之。崇慶等果將騎二千逾橋而西,追擊官軍,伏兵發,橫擊之。崇慶等兵中斷,狼狽而返,阻橋以拒官軍。其兵有爭橋不得,涉水而度者。朝晟指之曰:「彼可涉,吾何為不涉!」遂涉水擊,據橋者皆走,崇慶等兵大潰。 |
現代日本語訳李洧(りい)は刺史の王涉(おうしょう)と馬万通(ばまんつう)らと以前から密約しており、「朝廷からの詔書さえ得られれば必ず成功する」と語っていた。程元振(ていげんしん)が外部から戻り、宰相たちも同じ考えだろうと思い、まず張鎰(ちょうい)に報告した。張鎰はこれを盧杞(ろき)に伝えたところ、盧杞は自分を差し置いて報告したことに激怒し、李洧の要請を拒否した。戊申の日、李洧に御史大夫の位を与え招諭使(賊軍説得役)に任命した。 十一月戊午の日、永楽公主を検校比部郎中・田華(でんか)に降嫁させた。これは皇帝(徳宗)が先帝の遺志に背きたくなかったためである。 蜀王李傀(しょくおうりかい)は名を遂(すい)と改めた。 辛酉の日、宣武節度使・劉洽(りゅうこう)、神策都知兵馬使・曲環(きょくかん)、滑州刺史で襄平出身の李澄(りちょう)、朔方軍大将・唐朝臣(とうちょうしん)らが徐州において淄青(しせい)・魏博(ぎはく)連合軍を大破した。 この戦い以前、李納(りのう)は配下の将軍・王温(おうおん)に命じ魏博軍の信都崇慶(しんどすうけい)と共同で徐州を攻撃させた。これに対し刺史の李洧は幕僚である温県出身の王智興(おうちこう)を使者として朝廷へ急報に向かわせた。智興は足が速く5日もせずに到着したため、皇帝は朔方軍五千を派遣し唐朝臣に指揮させ劉洽・曲環・李澄らと共同で救援にあたらせた。 当時、朔方軍の物資は届いておらず旗や装備が粗末だった。宣武軍兵士から「乞食どもが賊を破れるのか?」と嘲笑された唐朝臣はこの言葉を逆用し、「総司令官より命令がある。敵陣を最初に突破した部隊には、そこの物資全てを与える」と宣言すると兵士たちは怒りに燃え奮起した。 信都崇慶・王温らが彭城(徐州)を20日間攻撃しても落とせず、李納に増援を要請。李納は配下の石隠金(せきいんきん)に一万の兵を与えて七里溝で劉洽軍に対峙させた。 夕暮れ時、劉洽が軍をやや後退させる動きを見せると、朔方軍騎兵指揮官・楊朝晟(ようちょうせい)が唐朝臣へ進言した:「貴公は歩兵に山の斜面を守らせて両軍到着まで持ちこたえよ。私は騎兵を山陰に伏せる。賊が我々が孤立していると思えば必ず攻めてくるだろう。その時、伏兵で敵部隊の中間を断ち切れば勝利は確実だ」。唐朝臣はこれを受け入れた。 案の定、崇慶ら二千騎は橋を渡って西進し官軍を追撃したところ、待機していた伏兵が横から猛攻。崇慶軍は真っ二つに分断され狼狽して撤退しようとしたが退路の橋で官軍に阻まれた。兵士たちの中には橋争奪戦に敗れ川渡りを余儀なくされる者も現れた。 この状況を見た楊朝晟は「奴らが渡れるなら我々にも渡れる!」と叫び自ら水中へ突入。守備部隊は総崩れとなり崇慶軍は完全に壊滅した。 解説
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| 洽等乘之,斬首八千級,溺死過半。朔方軍士盡得其輜重,旗服鮮華,乃謂宣武人曰:「乞子之功,孰與宋多?」宣武人皆慚。官軍乘勝逐北,至徐州城下,魏博、淄青軍解圍走,江、淮漕運始通。 己巳,詔削李惟岳官爵;募所部降者,赦而賞之。 甲申,淮南節度使陳少游遣兵擊海州,其刺史王涉以州降。十二月,李納密州刺史馬萬通乞降;丁酉,以為密州刺史。 崔漢衡至吐蕃,贊普以敕書稱貢獻及賜,全以臣禮見處。又,雲州之西,當以賀蘭山為境,邀漢衡更請之。丁未,漢衡遣判官與吐蕃使者入奏。上為之改敕書、境土,皆如其請。 加馬燧魏博招討使。 德宗神武聖文皇帝二建中三年(壬戌,公元七八二年) 春,正月,河陽節度使李艽引兵逼衛州,田悅守將任履虛詐降,既而復叛。 馬燧等諸軍屯於漳濱。田悅遣其將王光進築月城以守長橋,諸軍不得渡。燧以鐵鎖連車數百乘,實以土囊,塞其下流,水淺,諸軍涉渡。時軍中乏糧,悅等深壁不戰。燧命諸軍持十日糧,進屯倉口,與悅夾洹水而軍。李抱真、李艽問曰:「糧少而深入,何也?」燧曰:「糧少則利速戰,今三鎮連兵不戰,欲以老我師。我若分軍擊其左右,悅必救之,則我腹背受敵,戰必不利。故進軍逼悅,所謂攻其所必救也。彼苟出戰,必為諸君破之。」乃為三橋逾洹水,日往挑戰,悅不出。 |
現代日本語訳洽らはこの機に乗じて攻め立て、八千もの首級を斬り落とし、溺死した者は半数を超えた。朔方軍の兵士たちが敵の輜重車すべてを奪い取ると、旗や衣服は鮮やかで華麗であったため、宣武軍の兵に向かい「物乞いどもの手柄など、宋(将軍)の戦果に比べてどうだ?」と嘲った。宣武将兵は皆、恥じ入ってうつむいた。官軍は勝ちに乗じて敗走する敵を追撃し、徐州城下まで迫ると、魏博・淄青両軍は包囲を解いて逃走したため、江淮の漕運(水路による物資輸送)がようやく再開された。 己巳の日、詔勅が発せられ李惟岳の官位と爵位を剥奪。配下で降伏する者を募り、罪を赦して褒賞を与える旨が命じられた。 甲申の日、淮南節度使陳少遊は兵を遣わし海州を攻撃させたところ、刺史王涉が城ごと降伏した。十二月、李納配下の密州刺史馬萬通が降服を請うたため、丁酉の日に彼を正式に密州刺史に任命した。 崔漢衡が吐蕃に到着すると、贊普(国王)は朝廷からの勅書で「貢献」や「賜与」という表現を用いられており、完全な臣下として扱われていると抗議。さらに雲州以西の国境を賀蘭山とするよう要求し、漢衡に再交渉を迫った。丁未の日、漢衡は判官を同行させ吐蕃使者と共に入京して奏上したため、皇帝は勅書の文言と国境線について彼らの要望通り修正した。 馬燧に対し魏博招討使の職位が加えられた。 徳宗神武聖文皇帝 巻二(建中三年・壬戌年、西暦782年) 馬燧ら諸軍は漳水の岸辺に布陣。田悦は部将王光進を使い月城(半月形堡塁)を築かせ長橋を守備させたため、官軍は渡河できなかった。ここで馬燧は数百輛の車両を鉄鎖で連結し土嚢を詰めて川下に沈めると水深が浅くなり、諸軍は徒歩で渡渉した。当時兵糧が不足していたため田悦らは陣営を固く守って決戦を避けた。馬燧は全軍に対し十日分の食糧を持たせ倉口へ進出させると、洹水を挟んで田悦軍と対峙した。李抱真と李艽が「兵糧が乏しいのに深く敵地に入るのはなぜか」と問うと、馬燧は答えた。「食糧不足なら速戦こそ有利だ。今三藩鎮(魏博・淄青・成徳)が連合して決戦を避け、わが軍の疲弊を待っている。もし左右に分けて攻めれば田悦は必ず援軍を出し、我々は前後から敵を受けることになるゆえ不利だ。だからこそ進軍して直接田悦を威圧する――これぞ『守らねばならぬ要所を突く』兵法である。彼が出撃すれば諸君のために必ず打ち破ってみせる」。かくて三本の橋を洹水に架け、連日にわたり挑発したが田悦は決して出戦しなかった。 解説
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| 燧令諸軍夜半起食,潛師循洹水直趨魏州,令曰:「賊至,則止為陳。」留百騎擊鼓鳴角於營中,仍抱薪持火,俟諸軍畢,則止鼓角匿其旁。伺悅軍畢渡,焚其橋。軍行十里所,悅聞之,帥淄青、成德步騎四萬逾橋掩其後,乘風縱火,鼓噪而進。燧按兵不動,先除其前草莽百步為戰場,結陳以待之,募勇士五千餘人為前列。悅軍至,火止,氣衰,燧縱岳擊之,悅軍大敗。神策、昭義、河陽軍小卻,見河東軍捷,還鬥,又破之。追奔至,三橋已焚,悅軍亂,赴水溺死不可勝紀,斬首二萬餘級,捕虜三千餘人,屍相枕藉三十餘里。 悅收餘兵千餘人走魏州。馬燧與李抱真不協,頓兵平邑浮圖,遷延不進。悅夜至南郭,大將李長春閉關不內,以俟官軍,久之,天且明,長春乃開門納之。悅殺長春,嬰城拒守。城中士卒不滿數千,死者親戚,號哭滿街。悅憂懼,乃持佩刀,乘馬立府門外,悉集軍民,流涕言曰:「悅不肖,蒙淄青、成德二丈人大恩,不量其力,輒拒朝命,喪敗至此,使士大夫肝腦塗地,皆悅之罪也。悅有老母,不能自殺,願諸公以此刀斷悅首,提出城降馬僕射,自取富貴,無為與悅俱死也!」因從馬上自投地。將士爭前抱持悅曰:「尚書舉兵徇義,非私己也。一勝一負,兵家之常。某輩累世受恩,何忍聞此!願奉尚書一戰,不勝則以死繼之。 |
現代日本語訳:燧は諸軍に命じて夜半に食事を取らせ、密かに部隊を率いて洹水(かんすい)沿いに魏州へ向かった。「賊が来たら直ちに停止し陣形を整えよ」と命令した。百騎の兵を残して陣営で太鼓や角笛を鳴らさせ、柴を持たせて火種も準備させる一方、主力部隊が出発後は楽器を止めて近くに潜伏するよう指示した。田悦軍が渡河し終えると橋を焼き落とした。 燧の軍が十里ほど進んだところで、敵将・田悦がそれを察知すると、淄青(しせい)・成徳(せいとく)両軍から歩騎四万を率いて橋を越え背後を襲撃。風に乗って火を放ち鬨の声をあげて進んだ。燧は兵を動かさず、先に百歩前方の草木を刈り払って戦場とし、陣形を整えて待機。さらに勇士五千余を選抜して最前列に配置した。 田悦軍が到着すると風が止み勢いが衰えたため、燧は李岳(りがく)に突撃を命じた。敵軍は大敗し、神策・昭義・河陽の官軍はいったん後退したものの、河東軍の勝利を見て反転攻勢に出てさらに撃破した。追撃するうち三つの橋梁は既に焼け落ちており、田悦軍は混乱して河中へ飛び込み溺死者が数えきれず、斬首二万余・捕虜三千余を出し、遺体は三十里にもわたって累々と横たわった。 敗残兵千余をまとめた田悦は魏州に逃走。馬燧(ばすい)と李抱真(りほうしん)が不仲のため平邑の仏塔付近で進軍停止している隙に、夜陰に乗じて南外郭へ到達した。守将・李長春(りちょうしゅん)は城門を閉ざして入れず官軍到着待機していたが、明け方になってようやく開門したため入城できた。田悦は直ちに長春を処刑し籠城戦の構えを見せる。 城内には兵士数千もおらず、死者の親族たちが街中で号泣する惨状だった。恐怖に駆られた田悦は佩刀を持って府門外に乗馬姿で現れ、軍民全員を集めて涙ながらに訴えた。「不肖の悦(えつ)は淄青・成徳両家より大恩を受けたが、力量も顧みず朝廷に逆らい惨敗した。諸君が命を落としたのは全て私の罪だ。老母ある身ゆえ自刃できぬ。この刀で我が首を斬り馬燧将軍に差し出して富貴を得よ!共に死ぬ必要はない!」そう叫ぶと馬上から地面へ飛び降りた。 これを聞いた将士たちは我先にと駆け寄って支え「尚書(田悦の官職)が挙兵したのは大義のためで私欲ではない。勝敗は兵家の常!我々は代々恩を受けてきた身、どうしてそんな言葉に従えようか!最後まで共に戦いましょう!」と誓ったという。 解説:
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| 」悅曰:「諸公不以悅喪敗而棄之,悅雖死,敢忘厚意於地下!」乃與諸將各斷髮,約為兄弟,誓同生死。悉出府庫所有及斂富民之財,得百餘萬,以賞士卒,眾心始定。復召貝州刺史刑曹俊,使之整部伍,繕守備,軍勢復振。李納軍於濮陽,為河南軍所逼,奔還濮州,征援兵於魏州。田悅遣軍使符璘將三百騎送之,璘父令奇謂璘曰:「吾老矣,歷觀安、史輩叛亂者,今皆安在!田氏能久乎!汝因此棄逆從順,是汝揚父名於後世也。」嚙臂而別。璘遂與其副李瑤帥眾降於馬燧。悅收族其家,令奇慢罵而死。瑤父再春以博州降,悅從兄昂以洺州降,王光進以長橋降。悅入城旬餘日,馬燧等諸軍始至城下,攻之,不克。 丙寅,李惟岳遣兵與孟祐守束鹿,朱滔、張孝忠攻拔之,進圍深州。惟岳憂懼,掌書記邵真復說惟岳,密為表,先遣弟惟簡入朝;然後誅諸將之不從命者,身自入朝,使妻父冀州刺史鄭詵權知節度事,以待朝命。惟簡既行,孟祐知其謀,密遣告田悅。悅大怒,使衙官扈岌往見惟岳,讓之曰:「尚書舉兵,正為大夫求旌節耳,非為己也。今大夫乃信邵真之言,遣弟奉表,悉以反逆之罪歸尚書,自求雪身,尚書何負於大夫而至此邪!若相為斬邵真,則相待如初;不然,當與大夫絕矣。」判官畢華言於惟岳曰:「田尚書以大夫之故陷身重圍,大夫一旦負之,不義甚矣。 |
現代日本語訳: 悦は言った。「諸公が私の敗戦にもかかわらず見捨てず、このような厚意を示してくださるなら、たとえ死んでも地下でその恩を忘れません!」そして将軍たちとともに自ら髪を切り落として兄弟の契りを結び、生死を共にすることを誓った。倉庫の物資すべてと富裕層から徴収した財産百余万を兵士に褒美として与えたため、兵士の心はようやく落ち着いた。さらに貝州刺史・刑曹俊を呼び戻し、軍備を整え守りを固めさせたことで、軍勢は再び盛り返した。 李納が濮陽に駐屯していたが河南軍に追われて濮州へ敗走し、魏州に援軍を要請。田悦は軍使・符璘に三百騎を与えて護送させようとしたが、璘の父である令奇は言った。「私は年老いた。安禄山や史思明らの反乱者たちが今どうなっているかを見てきた。田氏が長続きすると思うのか? お前がこの機会に逆賊から離れて朝廷につくなら、それは後世に父の名を揚げることにほかならない」と腕にかみついて別れを告げた。璘は副将・李瑶とともに兵を率いて馬燧に降伏したため、悦は符一族を皆殺しにしたが、令奇は罵りながら死んでいった。 その後、瑶の父である再春は博州で投降し、悦の従兄弟である昂は洺州で投降。王光進も長橋で降伏した。田悦が城に入って十余日後、馬燧らの軍勢がようやく城下に到着して攻撃を開始するも陥落させられなかった。 丙寅(十二日)、李惟岳は孟祐に兵を与えて束鹿を守らせたが、朱滔と張孝忠がこれを攻略し深州へ進撃。惟岳は憂慮し恐れおののいたため、書記官・邵真が再び進言した。「密かに上奏文を作り弟の惟簡を朝廷に派遣なさった後、反抗する将軍らを誅殺しご自身で入朝されるべきです。その間は岳父である冀州刺史・鄭詵に節度使事務を代行させましょう」と。しかし孟祐がこの計画を知り田悦に密告したため、怒った悦は使者の扈岌を使わして惟岳を非難した。「貴殿のために兵を挙げたのに今では反逆罪を私に押し付け自分だけ潔白を装うとは何事か。直ちに邵真を斬れば従来通り接するが、さもなくば絶縁する」と。解説: [歴史的経緯] ・本節は『資治通鑑』唐紀四十四より(781-782年)、河北三鎮の乱における田悦・李惟岳らの動向を描く。藩鎮勢力が朝廷への反抗と内部崩壊の中で苦悩する様相を示す。 [人物関係] 1. 符令奇の諫言:安史の乱(755-763年)から20年後も続く反乱者の末路を見た老将の現実的な判断 2. 田悦と李惟岳の対立:当初は同盟関係にあった両者が邵真の進言をきっかけに相互不信が顕在化 [戦略的展開] ・「髪切り盟約」:唐代における生死の誓いの儀式。兵士への褒賞分配と相まって、敗戦直後の軍心掌握術として機能。 ・降伏連鎖:符璘父子→李瑶父子→田昂らと投降が拡大する描写は、反乱勢力の瓦解過程を象徴的に示す。 [言語表現] ・「嚙臂而別」:腕にかみつく行為には深い決意表明の意味。親子の訣別劇で感情的高まりを演出。 ・扈岌の激しい非難(「何負於大夫而至此邪!」)に藩鎮同盟の脆弱性が凝縮されている。 [史料価値] ・司馬光が描く「忠義観」:符令奇親子と邵真はそれぞれ異なる形で大義への帰順を体現し、乱世における倫理選択の多様性を示す。 Translation took 737.3 seconds. |
| 且魏博、淄青兵強食富,足抗天下,事未可知,奈何遽為二三之計乎!」惟岳素怯,不能守前計,乃引邵真,對扈岌斬之。發成德兵萬人,與孟祐俱圍束鹿。丙寅,朱滔、張孝忠與戰於束鹿城下,惟岳大敗,燒營而遁。兵馬使王武俊為左右所構,惟岳疑之,惜其才,未忍除也。束鹿之戰,使武俊為前鋒,私自謀曰:「我破朱滔,則惟岳軍勢大振,歸,殺我必矣。」故戰不甚力而敗。 朱滔欲乘勝攻恆州,張孝忠引兵西北,軍於義豐。滔大驚,孝忠將佐皆怪之,孝忠曰:「恆州宿將尚多,未易可輕。迫之則並力死鬥,緩之則自相圖。諸君第觀之,吾軍義豐,坐待惟岳之殄滅耳。且朱司徒言大而識淺,可與共始,難與共終也!」於是滔亦屯束鹿,不敢進。 惟岳將康日知以趙州歸國,惟岳益疑王武俊,武俊甚懼。或謂惟岳曰:「先相公委腹心於武俊,使之輔佐大夫,又有骨肉之親。武俊勇冠三軍,今危難之際,復加猜阻。若無武俊,欲使誰為大夫卻敵乎!」惟岳以為然,乃使步軍使衛常寧與武俊共擊趙州,又使王士真將兵宿府中以自衛。 癸未,蜀王遂更名溯。 淮南節度使陳少游拔海、密二州,李納復攻陷之。 王武俊既出恆州,謂衛常寧曰:「武俊今幸出虎口,不復歸矣!當北歸張尚書。」常寧曰:「大夫闇弱,信任左右,觀其勢終為朱滔所滅。 |
現代語訳かつて魏博・淄青の兵は精強で物資も豊かであり、天下に抗する力を持っていた。事態がどう転ぶか予測できぬ中で、なぜ軽率に離反など考えるのか!」李惟岳(りいがく)は元来小心な性格であったため当初の方針を堅持できず、邵真(しょうしん)を呼び出し扈岌(こきゅう)の面前で斬首した。成徳軍より一万の兵を発して孟祐(もうゆう)とともに束鹿(そくろく)を包囲させたが、丙寅(へいいん)の日、朱滔(しゅとう)・張孝忠(ちょうこうちゅう)連合軍との戦いで大敗。陣営に火を放って逃走した。 兵馬使王武俊(おうぶしゅん)は側近らから讒言を受けており、惟岳も疑心を抱いたが才能を惜しみ処分を見合わせた。束鹿の戦いでは彼を先鋒としたところ、武俊は密かに考えた。「もし朱滔を破れば惟岳軍の威勢は増すだろうから、帰還後に必ず殺される」と。そのため力を尽くさずに敗北した。 勝利に乗じて恒州(こうしゅう)攻略を目論む朱滔に対し、張孝忠は西北へ移動して義豊(ぎほう)に駐屯した。驚いた滔に対して孝忠の将佐たちが不審を示すと、「恒州には歴戦の将兵が多いため軽視できない。急攻めすれば結束して死闘するが、ゆるめれば内部分裂を起こすだろう。諸君はここ義豊で待機し、惟岳自滅を見届けるのだ。それに朱司徒(滔)は大言壮語するが見識不足であり、事の始めには協力できても最後まで共闘できる相手ではない」と説明したため、滔も束鹿から進軍せず膠着状態となった。 惟岳配下の康日知(こうじっち)が趙州を朝廷に帰順すると、惟岳は王武俊への疑念を深め彼も危惧を募らせる。ある人物が「先代の相公(李宝臣)は武俊を腹心として大夫(惟岳)補佐と親族待遇で遇しました。三軍随一の勇将である彼を、この危機に猜疑するとは? 仮に除けば誰が敵兵を退けるというのですか」と進言したため、惟岳は歩軍使衛常寧(えいじょうねい)を武俊と共に趙州攻撃へ派遣。同時に王士真(おうししん)に府中守備の親衛隊を指揮させた。 癸未(きび)の日、蜀王遂(しょくおうすい)は名を溯(そ)と改めた。 淮南節度使陳少游(ちんしょうゆう)が海州・密州を占領したが、李納(りとう)に再奪取される。 恒州から出陣した王武俊は衛常寧に向かって語った。「私は虎口を脱し戻るつもりはない。張尚書(孝忠)のもとへ北帰する」すると常寧は応じた。「大夫(惟岳)は暗愚で側近に操られており、いずれ朱滔に滅ぼされるでしょう」 解説
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| 今天子有詔,得大夫首者,以其官爵與之。中丞素為眾所服,與其出亡,曷若倒戈以取大夫,轉禍為福,特反掌耳。事苟不捷,歸張尚書,未晚也。」武俊深以為然。會惟岳使要藉謝遵至趙州城下,武俊引遵同謀取惟岳。遵還,密告王士真。閏月,甲辰,武俊、常寧自趙州引兵還襲惟岳。遵與士真矯惟岳命,啟城門納之。黎明,武俊帥數百騎突入府門。士真應之於內,殺十餘人。武俊令曰:「大夫叛逆,將士歸順,敢違拒者族!」眾莫敢動。遂執惟岳,收鄭詵、畢華、王它奴等,皆殺之。武俊以惟岳舊使之子,欲生送之長安。常寧曰:「彼見天子,將復以叛逆之罪歸咎於中丞。」乃縊殺之,傳首京師。深州刺史楊榮國,惟岳姊夫也,降於朱滔,滔使復其位。 復榷天下酒,惟西京不榷。 二月,戊午,李惟岳所署定州刺史楊政義降。時河北略定,惟魏州未下。河南諸軍攻李納於濮州,納勢日蹙。朝廷謂天下不日可平。甲子,以張孝忠為易、定、滄三州節度使,王武俊為恆冀都團練觀察使,康日知為深趙都團練觀察使,以德、林二州隸朱滔,令還鎮。滔固請深州,不許,由是怨望,留屯深州。王武俊素輕張孝忠,自以手誅李惟岳,功在康日知上,而孝忠為節度使,己與康日知俱為都團練使,又失趙、定二州,亦不悅。又詔以糧三千石給朱滔,馬五百匹給馬燧。 |
現代日本語訳「今や天子は詔勅を下し、大夫(李惟岳)の首級を得た者にはその官爵を与えると宣言された。中丞様(王武俊)は元来より衆人の信望厚く、逃亡するよりもむしろ矛先を転じて大夫を討ち取れば、禍を福に変えることは掌を返すように容易いことです。もし事が成らなければ張尚書(張孝忠)のもとに帰参しても遅くはありません。」武俊はこの言葉をもっともだと考えた。折しも惟岳の使者・要藉謝遵が趙州城下に到着したため、武俊は彼を招き入れ共に惟岳討伐を謀った。謝遵が帰還すると密かに王士真(惟岳配下)に計画を通報。閏月甲辰の日、武俊と常寧は趙州から軍勢を返し惟岳を急襲した。謝遵と士真は偽って惟岳の命令を作り城門を開き彼らを受け入れた。夜明け前、武俊は数百騎を率いて府門に突入。士真が内部で呼応して十数人を斬殺すると、武俊は「大夫(李惟岳)は叛逆者だ!将士たちは帰順せよ!抵抗する者は一族皆殺し!」と命じたため兵卒らは動けなかった。こうして惟岳を捕縛し鄭詵・畢華・王它奴らを拘束、全員処刑した。 武俊は惟岳が旧主(李宝臣)の子であることを慮り長安へ生きたまま送ろうとしたが、常寧が「彼が天子に拝謁すれば逆罪を中丞様になすりつけるでしょう」と反対し、結局絞殺して首級を都へ送った。深州刺史楊栄国(惟岳の義兄)は朱滔に降伏し元の地位を保った。 天下の酒類専売制が復活したが西京のみ免除された。 二月戊午、李惟岳配下の定州刺史楊政義が投降。この時点で河北地域はほぼ平定され魏州だけが残る。河南諸軍は濮州で李納を攻め彼は劣勢に陥ったため朝廷は天下間もなく平定できると楽観した。 甲子の日、張孝忠を易定滄三州節度使(軍政長官)に任命。王武俊には恒冀都団練観察使(兵権なき行政職)、康日知には深趙都団練観察使を与え徳林二州を朱滔管轄とし帰鎮を命じたが、滔は深州割譲を強硬に要求して拒否され恨みを持ち同地に駐屯。武俊は元来張孝忠を見下しており、自ら李惟岳誅殺の功績が康日知より大きいにもかかわらず節度使職を得られず(兵権なき)都団練使に留められた上、趙州・定州も失ったため不満を募らせた。さらに詔勅で朱滔へ穀物三千石、馬燧へ軍馬五百匹が支給されることが決まった。 解説
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| 武俊以為朝廷不欲使故人為節度使,魏博既下,必取恆冀,故先分其糧馬以弱之,疑,未肯奉詔。 田悅聞之,遣判官王侑、許士則間道至深州,說朱滔曰:「司徒奉詔討李惟岳,旬朔之間,拔束鹿,下深州,惟岳勢蹙,故王大夫因司徒勝勢,得以梟惟岳之首,此皆司徒之功也。又天子明下詔書,令司徒得惟岳城邑,皆隸本鎮。今乃割深州以與日知,是自棄其信也。且今上志欲掃清河朔,不使蕃鎮承襲,將悉以文臣代武臣。魏亡,則燕、趙為之次矣;若魏存,則燕、趙無患。然則司徒果有意矜魏博之危而救之,非徒得存亡繼絕之義,亦子孫萬世之利也。」又許以貝州賂滔。滔素有異志,聞之,大喜,即遣王侑歸報魏州,使將士知有外援,各自堅。又遣判官王郅與許士則俱詣恆州,說王武俊曰:「大夫出萬死之計,誅逆首,拔亂根,康日知不出趙州,豈得與大夫同日論功!而朝廷褒賞略同,誰不為大夫憤邑者!今又聞有詔支糧馬與鄰道,朝廷之意,蓋以大夫善戰無敵,恐為後患,先欲貧弱軍府,俟平魏之日,使馬僕射北首,朱司徒南向,共相滅耳。朱司徒亦不敢自保,使郅等效愚計,欲與大夫共救田尚書而存之。大夫自留糧馬以供軍;朱司徒不欲以深州與康日知,願以與大夫,請早定刺史以守之。三鎮連後,若耳目手足之相救,則它日永無患矣!」武俊亦喜,許諾,即遣判官王巨源使於滔,且令知深州事,相與刻日舉兵南向。 |
現代日本語訳武俊は、朝廷が旧臣を節度使として用いたくないと考えていた。魏博が陥落した後には必ず恒冀も攻略されるため、先に糧食と馬匹を分け与えて弱体化させようとしたのだろうと疑い、詔勅を受け入れようとはしなかった。 田悦はこの情報を得ると、判官である王侑と許士則を密かに深州へ派遣した。彼らは朱滔に対してこう説いた。「司徒(朱滔)様が李惟岳討伐の命を受けて以来、短期間で束鹿を陥落させ深州を掌握されました。これにより李惟岳は追い詰められ、王大夫(武俊)も司徒様の勢いに乗じて李惟岳の首級を得ることができたのです。これはすべて司徒様の功績です。さらに天子が明確な詔書で『李惟岳支配下の城邑を朱滔に与える』と宣言されたにもかかわらず、今になって深州を康日知に割譲するとは自らの信義を放棄する行為ではありませんか。しかも当今天子は河朔一帯の勢力を全て掃討し、藩鎮世襲を廃止して文官で武官を代替しようとしています。魏博が滅べば燕・趙(朱滔と王武俊)が次に狙われるでしょう。しかし魏博が存続すれば御両家も安泰です。司徒様がもし魏博の危機を救おうとなさるなら、亡国再興という大義を果たすだけでなく、子孫代々まで安定させる利益となるのです」。さらに貝州を与えると約束した。 朱滔はかねてより野心を持っていたためこれを聞いて大いに喜び、直ちに王侑を魏州へ帰還させ「援軍あり」との情報を将兵に知らせて士気を高めさせた。同時に判官の王郅と許士則を恒州へ派遣し、王武俊に対して次のように説得させた。「大夫(王武俊)様は万死の危険を冒して逆賊を誅殺されましたが、康日知は趙州から一歩も出ていないのに朝廷からの恩賞は同等です。誰がこれを憤慨しないでしょうか? さらに隣藩へ糧馬を与える詔勧が出たと聞きます。これは『武俊公の戦術は無敵ゆえ後患となる』と考え、軍団を貧弱化させておいて魏博平定後に馬燧(朝廷側)が北から、朱滔公が南から挟撃させるつもりでしょう。実は朱司徒様ご自身も危惧されており、私どもに『王大夫と共に田悦尚書を救援すべし』との命を与えられました。糧馬は自軍のために保留なさるのが得策です。また深州についても康日知ではなく貴殿へ割譲される意向で、早急に刺史を任命するよう提案されています。三鎮(魏博・盧龍・成徳)が連合し手足のように互いを守り立てれば、将来の憂いは永久になくなるでしょう」。 王武俊もこれを喜んで承諾した。直ちに判官である王巨源を使者として朱滔のもとへ派遣すると共に深州知事を任命させ、期日を決めて共同で軍勢を南下させる手配を整えた。 解説
(出典:『資治通鑑』巻二百二十七・唐紀四十三) Translation took 954.6 seconds. |
| 滔又遣人說張孝忠,孝忠不從。 宣武節度使劉洽攻李納於濮州,克其外城。納於城上涕泣求自新,李勉又遣人說之。癸卯,納遣其判官房說以其母弟經及子成務入見。會中使宋鳳朝稱納勢窮蹙,不可捨,上乃因說等於禁中,納遂歸鄆州,復與田悅等合。朝廷以納勢未衰,三月,乙未,始以徐州刺史李洧兼徐、海、沂都團練觀察使,海、沂已為納所據,洧競無所得。 李納之初反也,其所署德州刺史李西華備守甚嚴,都虞候李士真密毀西華於納,納召西華還府,以士真代之。士真又以詐召棣州刺史李長卿,長卿過德州,士真劫之,與同歸國。夏,四月,戊午,以士真、長卿為二州刺史。士真求援於朱滔,滔已有異志,遣大將李濟時將三千人聲言助士真守德州,且召士真詣深州議軍事,至則留之,使濟時領州事。 庚申,吐蕃歸曏日所俘掠兵民八百人。 上遣中使發盧龍、恆冀、易定兵萬人詣魏州討田悅。王武俊不受詔,執使者送朱滔。滔言於眾曰:「將士有功者,吾奏求官勳,皆不遂。今欲與諸君敕裝共趨魏州,擊破馬燧以取溫飽,何如?」皆不應。三問,乃曰:「幽州之人,自安、史之反,從而南者無一人得還,今其遺人痛入骨髓。況太尉、司徒皆受國寵榮,將士亦各蒙官勳,誠且願保目前,不敢復有僥冀。」滔默然而罷。乃誅大將數十人,厚撫循其士卒。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)朱滔はさらに使者を派遣して張孝忠を説得したが、孝忠は従わなかった。 宣武節度使の劉洽が濮州で李納を攻撃し、外城を陥落させた。李納は城壁の上で涙ながらに改心を懇願し、李勉もまた使者を遣って説得した。癸卯(日付)、李納は配下の判官・房説を使者とし、実弟の李経と子息の成務を伴わせて朝廷に出頭させた。ところが宦官の宋鳳朝が「李納は窮地にあり見逃すべきではない」と主張したため、皇帝は房説らを宮中に拘束。これにより李納は鄆州へ戻り、再び田悦らと結託した。朝廷では李納の勢力衰えずと判断し、三月乙未(日付)、徐州刺史・李洧を徐・海・沂の三州都団練観察使に任命したが、海州・沂州は既に李納が占拠しており、李洧は何も得られなかった。 当初、李納が反乱した際、配下の徳州刺史・李西華は厳重な防備を敷いていた。しかし都虞候(軍監察官)の李士真が密かに李納へ誹謗し、西華は本拠へ召還された後任として士真が刺史となった。さらに士真は策略を用いて棣州刺史・李長卿をおびき寄せ、徳州通過中に拉致して共に朝廷帰順を果たした。夏四月戊午(日付)、両名は正式に刺史に任命される。その後、士真が朱滔へ援軍要請すると、すでに野心を抱いていた朱滔は李済時に兵三千を率いさせ「徳州防衛支援」と偽りつつ深州への来訪を要求。士真が到着するや拘束し、済時を刺史代行とした。 庚申(日付)、吐蕃が過去に捕虜とした軍民八百人を返還した。 皇帝は宦官を使者として盧龍・恒冀・易定の三鎮に兵一万を動員し魏州の田悦討伐を命じた。しかし王武俊は詔勅を拒否し、使者を捕えて朱滔へ送付。朱滔は軍勢に向かって宣言した:「諸将の戦功による官位叙任願いは全て却下された。今こそ共に魏州へ進撃し馬燧を破り、豊かな生活を得ようではないか」と。兵士らは沈黙。三度問うてようやく「幽州兵士は安史の乱以降、南方出征者の誰一人として故郷へ帰還できなかった。遺族の悲しみは骨髄に徹している。さらに太尉(朱泚)と司徒(滔自身)は朝廷から厚遇され、将士も官位を授かっている。現状維持こそ願いであり、これ以上の野心は抱けぬ」と応じた。滔は黙り込み計画を中止し、代わりに大将数十名を処刑した上で兵士へ手厚く慰撫を行った。 解説
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| 康日知聞其謀,以告馬燧,燧以聞。上以魏州未下,王武俊復叛,力未能制滔。壬戌,賜滔爵通義郡王,冀以安之。滔反謀益甚,分兵營於趙州以逼康日知,以深州授王巨源。武俊以其子士真為恆、冀、深三州留後,將兵圍趙州。 涿州刺史劉怦與滔同縣人,其母,滔之姑也,滔使知幽州留後,聞滔欲救田悅,以書諫之曰:「今昌平故里,朝廷改為太尉鄉、司徒裡,此亦大夫不朽之名也。但以忠順自持,則事無不濟。竊思近日務大樂戰,不顧成敗而家滅身屠者,安、史是也。怦忝密親,默而無告,是負重知。惟司徒圖之,無貽後悔。」滔雖不用其言,亦嘉其盡忠,卒無疑貳。 滔將起兵,恐張孝忠為後患,復遣牙官蔡雄往說之。孝忠曰:「昔者司徒發幽州,遣人語孝忠曰:『李惟岳負恩為逆』,謂孝忠歸國即為忠臣。孝忠性直,用司徒之教。今既為忠臣矣,不復助逆也。且孝忠與武俊皆出夷落,深知其心最喜翻覆。司徒勿忘鄙言,它日必相念矣!」雄復欲以巧辭說之,孝忠怒,欲執送京師。雄懼,逃歸。滔乃使劉怦將兵屯要害以備之。孝忠完城礪兵,獨居強寇之間,莫之能屈。滔將步騎二萬五千發深州,至束鹿。詰旦將行,吹角未畢,士卒忽大亂,喧噪曰:「天子令司徒歸幽州,奈何違敕南救田悅!」滔大懼,走入驛後堂避匿。蔡雄與兵馬使宗頊等矯謂士卒曰:「汝輩勿喧,聽司徒傳令。 |
現代語訳康日知は朱滔の陰謀を知ると、馬燧に報告した。馬燧がこれを朝廷へ伝えると、皇帝(徳宗)は魏州攻略中の状況と王武俊の離反により朱滔を抑えられないと判断し、壬戌の日に「通義郡王」の爵位を与えて懐柔しようとした。しかし朱滔の謀反の意志はかえって強まり、趙州に軍勢を派遣して康日知を威圧するとともに深州を王巨源に与えた。一方で王武俊は息子・士真を恒・冀・深三州の留守代理とし、兵を率いて趙州を包囲した。 涿州刺史の劉怦は朱滔と同じ郷里出身(母が朱滔の叔母)であったため、幽州留守代行に任じられていた。彼は朱滔が田悦救援に向かおうとする動きを知り、諫言の書簡を送った。「朝廷が貴方の故郷・昌平を『太尉郷』『司徒里』と改称したのは不滅の名誉です。忠義をもって行動すれば何事も成就します。近ごろは野望に駆られ戦争を好み、破滅した安禄山・史思明こそ前車の鑑」。朱滔はこの意見を受け入れなかったものの、彼の誠実さを評価して疑わずにおいた。 挙兵準備中の朱滔は張孝忠が背後を脅かすことを警戒し、副官の蔡雄を派遣して説得させた。これに対し張孝忠は「かつて貴方は『李惟岳は恩に背く逆賊だ』と私を朝廷帰順へ導きました。私はその教え通り忠臣となった以上、今さら反乱には加われません」と拒絶した上で、「王武俊とは共に異民族出身として彼の変わりやすい本性を知っています。この言葉を覚えておいて下さい」。蔡雄がさらに弁舌を用いようとしたため張孝忠は激怒し捕縛しようとしたところ、逃げ帰った。朱滔は劉怦に要害地帯へ駐屯させて備えさせる一方、孤立した張孝忠は城塞を強化して屈せず抵抗の構えを示した。 深州から束鹿まで進軍した朱滔が翌朝出発しようと陣太鼓を鳴らすと、兵士たちが突然騒動を起こし「皇帝は貴殿に幽州帰還を命じているのに、なぜ詔勅に逆らい田悦救援へ向かうのか!」と叫んだ。朱滔が駅舎裏へ逃げ隠れるほどの混乱の中、蔡雄らは偽って兵士たちに「静まれ!司徒からの命令がある」と呼びかけた。 解説■権力構造の力学
■人間模様の深層
■歴史的意義
※本訳では原文の叙事詩的リズムを現代語で再現しつつ、以下の工夫を施しています: 1. 官職名(留後・牙官)は機能説明を含めて自然に表現 2. 「吹角未畢」など軍事的描写を動態的に可視化 3. 書簡体の文語調は格言的口調で現代化 Translation took 1825.1 seconds. |
| 」眾稍止。雄又曰:「司徒將發范陽,恩旨令得李惟岳州縣即有之,司徒以幽州少絲纊,故與汝曹竭力血戰以取深州,冀得其絲纊以寬汝曹賦率,不意國家無信,復以深州與康日知。又,朝廷以汝曹有功,賜絹人十匹,至魏州西境,盡為馬僕射所奪。司徒但處范陽,富貴足矣,今茲南行,乃為汝曹,非自為也。汝曹不欲南行,任自歸北,何用喧悖,乖失軍禮!」眾聞言,不知所為,乃曰:「敕使何得不為軍士守護賞物!」遂入敕使院,擘裂殺之。又呼曰:「雖知司徒此行為士卒,終不如且奉詔歸鎮。」雄曰:「然則汝曹各還部伍,詰朝復往深州,休息數日,相與歸鎮耳。」眾然後定。滔即引軍還深州,密令諸將訪察唱率為亂者,得二百餘人,悉斬之,餘眾股慄。乃復舉兵而南,眾莫敢前卻。進,取寧晉,留屯以待王武俊。武俊將步騎萬五千取元氏,東趣寧晉。 武俊之始誅李惟岳也,遣判官孟華入見。上問以河朔利害,華性忠直,有才略,應對慷慨。上悅,以為恆冀團練副使。會武俊與朱滔有異謀,上遽遣華歸諭旨。華至,武俊已出師,華諫曰:「聖意於大夫甚厚,苟盡忠義,何患官爵之不崇,土地之不廣,不日天子必移康中丞於它鎮,深、趙終為大夫之有,何苦遽自同於逆亂乎!異日無成,悔之何及!」華曏在李寶臣幕府,以直道已為同列所忌,至是為副使,同列尤疾之,言於武俊曰:「華以軍中陰事奏天子,請為內應,故得超遷。 |
現代日本語訳兵士たちの騒動は次第に収まった。張雄がさらに語った。「司徒(朱滔)は范陽を出発するにあたり、朝廷からの恩詔で李惟岳配下の州県を得ればそれを我々に与えると告げていた。しかし司徒は幽州には絹織物が不足しているため、諸君とともに血戦して深州を奪取し、その地の絹生産により租税負担を軽減しようとしたのだ。ところが朝廷は信義なく、再び深州を康日知に与えてしまった。さらに朝廷は諸君の功績に対し一人当たり十匹の絹を与えると言いながら、魏州西境で馬燧(馬僕射)にすべて奪われた。司徒が范陽にとどまっていれば富貴は十分だったのに、今回南下するのは全て諸君のためであって私利ではない」。兵士たちはこの言葉を聞いて進退に窮し、「勅使はなぜ我々への褒賞品を守らなかったのか!」と叫んで勅使院に乱入し使者を惨殺した。さらに「司徒が我々のために南下すると知りつつも、いっそ詔勅に従って帰鎮すべきでは」と言う者が出ると、張雄は承諾して「ならば各部隊へ戻れ。明朝再び深州に向かい数日休養した後、一緒に本拠地へ帰還しよう」と述べた。兵士たちはようやく落ち着き、朱滔は軍を率いて深州に戻った。 密かに諸将に命じて暴動の首謀者を探させると二百余名が露見し全員斬刑に処したため、残りの兵卒は震え上がった。朱滔は再び南下進軍を命じたが、今や誰も抗う者はなかった。寧晋を占領すると駐屯して王武俊の到着を待った。 一方、王武俊が李惟岳誅殺後、判官孟華を使者として朝廷に送ると徳宗は河朔情勢について下問した。孟華は忠義心厚く才略ある人物で力強く応答したため皇帝は喜び、恒冀団練副使に任じた。ちょうど武俊が朱滔と反乱計画を進めているとの情報を得ると、急ぎ孟華を帰還させて警告させることにした。しかし到着時には既に武俊は挙兵しており、孟華は諫言した「陛下は大夫(王武俊)に対して格別の恩寵を示しておられる。忠義を尽くせば官爵や領地拡大は必ず実現するでしょう。近日中に康日知(深州守備)を他へ転任させ、深州・趙州を貴殿領とすると詔勅が下るはずです。どうして急いで逆賊の仲間入りなさるのか?失敗した後の後悔は取り返しがつきません」。孟華は以前から李宝臣幕府で直言のために同僚の恨みを買っており、今回副使に抜擢されたことで更なる嫉妬を受けた。ある者が武俊に讒言した「孟華は軍中機密を天子へ報告し内通者となったので超格昇進できたのです」と。 解説1.兵士心理の巧みな操縦 朱滔配下の張雄が実施した説得工作には二段階の心理操作が見られる。まず「南下は全員の利益のため」という大義名分を示し(絹不足解消・褒賞確保)、次に反対派を容赦なく粛清する恐怖政治で従属を強制している。この恩威併用策により叛軍は再結集した。 2.唐朝統治の矛盾点 朝廷側の失政が叛乱拡大の要因となった事例として、深州支配権の二重付与問題(朱滔部隊への約束と康日知への正式任命)や褒賞品の横領事件(馬燧による絹匹押収)は、中央政権の統制力衰退を象徴している。 3.孟華という悲劇的参謀 河朔三鎮の中で稀有な忠義派であった孟華の運命に注目。彼の直言癖は李宝臣時代から禍根となっており(『直道已為同列所忌』)、王武俊への諫言も前歴による猜疑心で逆効果となり、後に処刑される伏線となる。 4.軍事行動の地理的展開 深州→寧晋→元氏と進軍するルートは当時の河北道における要衝移動を示す。特に寧晋(現在の河北省邢台市)占領が王武俊軍との合流点として戦略的に重要であり、後の「四鎮之乱」連携体制確立への布石となった。 5.資治通鑑の筆法特徴 この記事では叛乱勢力側の論理(朱滔・張雄の発言)を詳細に記載しつつも、「眾莫敢前卻」(兵卒が進退できず)「餘眾股慄」(残党は震え上がった)等の表現で暴力的統制の実態を暗示。司馬光の客観叙述の中に道義的批判を含む手法が見て取れる。 ※原文中のルビ表記(例:司徒=朱滔、大夫=王武俊など)は現代語訳において全て本文内に自然に組み込み、注釈分離を避けた。 Translation took 924.7 seconds. |
| 是將覆大夫之軍,大夫宜備之。」武俊以其舊人,不忍殺,奪職,使歸私第。 田悅恃援兵將至,遣其將康愔萬餘人出城西,與馬燧等戰於御河上,大敗而還。 時兩河用兵,月費百餘萬緡,府庫不支數月。太常博士韋都賓、陳京建議,以為:「貨利所聚,皆在富商,請括富商錢,出萬緡者,借其餘以供軍。計天下不過借一二千商,則數年之用足矣。」上從之。甲子,詔借商人錢,令度支條上。判度支杜佑大索長安中商賈所有貨,意其不實,輒加搒捶。帛粟麥者,皆借四分之一,封其櫃窖。百姓為之罷市,相帥遮宰相馬自訴,以千萬數。盧杞始慰諭之,勢不可遏,乃疾驅自他道歸。計並借商所得,才二百萬緡,人已竭矣。京,叔明之五世孫也。 甲戌,以昭義節度副使、磁州刺史盧玄卿為洺州刺史兼魏博招討副使。 初,李抱真為澤潞節度使,馬燧領河陽三城。抱真欲殺懷州刺史楊鉥,鉥奔燧。燧納之,且奏其無罪,抱真怒。及同討田悅,數以事相恨望,二人怨隙遂深,不復相見。由是諸軍逗橈,久無成功,上數遣中使和解之。及王武俊逼趙州,抱真分麾下二千人戍邢州,燧大怒曰:「餘賊未除,宜相與戮力,乃分兵自守其地,我寧得獨戰邪!」欲引兵歸。李晟說燧曰:「李尚書以邢、趙連壤,分兵守之,誠未有害。今公遽自引去,眾謂公何!」燧悅,乃單騎造抱真壘,相與釋憾結歡。 |
現代日本語訳:その武将は軍を滅ぼそうとしている、貴殿は備えるべきである。」武俊は彼が旧臣であったため殺すに忍びず、官職を取り上げて私邸へ帰らせた。 田悦(でんえつ)は援軍の到着を恃みにし、配下の康愔(こういん)を万余り率いて城西から出撃させ、御河上で馬燧(ばすい)らと交戦したが大敗して撤退した。 当時、両河地方では軍事行動が続き、毎月百万緡以上の経費が必要で、国庫は数ヶ月分も持たなかった。太常博士の韋都賓(いとひん)・陳京(ちんけい)が建議し、「財貨が集積しているのは全て富裕な商人である。彼らの資産を調査し、一万緡以上を持つ者から余剰金を借り上げて軍費に充てよ。天下の商人で対象となる者は一二千人程度だから数年分の経費は充足する」と論じた。皇帝はこれを容れ、甲子(きのえね)の日に詔勅を下して商人からの借金を命じ、度支(財務担当官庁)に詳細を上奏させた。判度支の杜佑(とゆう)が長安中の商人の資産を大規模に捜索すると、「申告不実」として鞭打ち刑を加え、布帛・穀物は四分の一を強制的に借り上げて倉庫や貯蔵穴を封鎖した。これにより市民は商いを止め、宰相の馬車を集団で遮って直訴する者が数千万人規模となった。盧杞(ろき)が慰めて説得しようとしたが勢いは収まらず、別路から疾走して逃げ帰った。商人からの借り上げ総額はわずか二百万緡に留まり、民力は尽きたのである。陳京は叔明の五世孫にあたる。 甲戌(きのえいぬ)の日、昭義節度副使・磁州刺史の盧玄卿(ろげんけい)を洺州刺史兼魏博招討副使に任じた。 当初、李抱真(りほうしん)が沢潞節度使となり、馬燧は河陽三城を統括していた。抱真が懐州刺史の楊鉥(ようきょく)を殺そうとしたため、楊鉥は馬燧のもとに逃亡した。馬燧は彼を受け入れ無罪を上奏したので、抱真は激怒した。その後、共に田悦討伐にあたった際にも度々確執が生じ、両者の不和は深まり二度と面会しなくなった。このため諸軍の士気は阻喪し、長期に渡って戦果が上がらず、皇帝は幾度も宦官を派遣して和解させようとした。 王武俊(おうぶしゅん)が趙州へ迫ると、抱真は配下二千人を分けて邢州を守備させた。これを知った馬燧は激怒し「残賊未だ除かれぬ中で協力すべき時に、自領防衛のために兵を割くとは! 我一人で戦えというのか!」と叫び撤兵しようとしたが、李晟(りせい)が諫めて言った。「李尚書は邢州・趙州の地理的連関から分屯したまで。公が今突然撤退すれば世人にどう映るか」。馬燧はこの意見を容れ、単騎で抱真の陣営へ赴き遺恨を解いて友好を結んだ。 解説:
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| 會洺州刺史田昂請入朝,燧奏以洺州隸抱真,請玄卿為刺史,兼充招討之副。李晟軍先隸抱真,又請兼隸燧,以示協和。上皆從之。 盧龍節度行軍司馬蔡廷玉惡判官鄭雲逵,言於朱泚,奏貶莫州參軍。雲逵妻,朱滔之女也,滔復奏為掌書記。雲逵深構廷玉於滔,廷玉又與檢校大理少卿朱體微言於泚曰:「滔在幽鎮,事多專擅,其性非長者,不可以兵權付之。」滔知之,大怒,數與泚書,請殺二人者,泚不從。由是兄弟頗有隙。及滔拒命,上欲歸罪於廷玉等以悅滔,甲子,貶廷玉柳州司戶,體微萬州南浦尉。 宣武節度使劉洽攻李納之濮陽,降其守將高彥昭。 朱滔遣人以蠟書置髻中遺朱泚,欲與同反。馬燧獲之,並使者送長安,泚不之知。上驛召泚於鳳翔,至,以蠟書並使者示之,泚惶恐頓首請罪。上曰:「相去千里,初不同謀,非卿之罪也。」因留之長安私第,賜名園、腴田、錦彩、金銀甚厚,以安其意;其幽州、盧龍節度、太尉、中書令並如故。 上以幽州兵在鳳翔,思得重臣代之。盧杞忌張鎰忠直,為上所重,欲出之於外,己得專總朝政,乃對曰:「朱泚名位素崇,鳳翔將校班秩已高,非宰相信臣,無以鎮撫,臣請自行。」上俯首未言,□巳又曰:「陛下必以臣貌寢,不為三軍所伏,固惟陛下神算。」上乃顧鎰曰:「才兼文武,望重內外,無以易卿。 |
現代日本語訳洛州刺史であった田昂が朝廷への参内を願い出たため、馬燧は上奏し、「洺州を李抱真の管轄とし、高玄卿を刺史に任命するとともに招討副使を兼務させるのが適当である」と提案した。さらに従来より李抱真麾下であった李晟軍についても「両将の協調を示すため馬燧指揮下にも加えるべきだ」と奏上した。皇帝(徳宗)はこれら全てを認めた。 一方、盧竜節度行軍司馬・蔡廷玉が判官の鄭雲逵を憎み、朱泚に讒言して彼を莫州参軍へ左遷させた。ところが鄭雲逵の妻は朱滔(朱泚の弟)の娘であったため、朱滔が朝廷に働きかけ掌書記として復帰させることに成功した。これにより鄭雲逵は逆恨みし蔡廷玉を激しく讒訴するとともに、検校大理少卿・朱体微もまた「朱滔は幽州で専横を極め性格粗暴なため兵権を持つべきではない」と朱泚に進言した。事を知った朱滔は激怒して度々書簡を送り二人の処刑を求めたが、朱泚は応じなかった。これ以降兄弟の仲は深刻に悪化する。 その後、朱滔が朝廷への反逆を表明すると、皇帝(徳宗)は蔡廷玉らを罰することで朱滔の機嫌を取ろうとした。甲子の日、蔡廷玉を柳州司戸へ、朱体微を万州南浦尉へ左遷した。 この頃、宣武節度使・劉洽が李納支配下の濮陽城を攻撃し守将・高彦昭は降伏した。さらに朱滔が使者に蝋で封じた密書(頭髪の中に隠して運搬)を送り共謀を持ちかけたところ、馬燧によって発見され長安へ護送された。皇帝は鳳翔から朱泚を召還し証拠を示すと、彼は恐れ慄いて謝罪したが「君の居所とは千里も離れており事前に計画に関わった形跡がない」として処罰せず、代わりに邸宅・良田・金銀財宝を与えて慰撫。幽州盧龍節度使や太尉などの官職は保持させた。 さらに皇帝が鳳翔の幽州兵を統率する後任人事について重臣と協議すると、盧杞(当時の宰相)は政敵である張鎰(忠直かつ帝の信任厚い人物)を朝廷から追放しようと画策。「朱泚ほどの高官でなければ軍を鎮撫できません。私が自ら赴きましょう」と奏上した。皇帝が沈黙すると「もし私の醜貌ゆえ兵士に軽んじられると思われるなら、陛下ご自身でお決めください」と迫り、最終的に張鎰へ任務を押し付けることに成功する。 注釈
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| 」鎰知為杞所排而無辭以免,因再拜受命。戊寅,以鎰兼鳳翔尹、隴右節度等使。 初,盧杞與御史大夫嚴郢共構楊炎、趙惠伯之獄,炎死,杞復忌郢。會蔡廷玉等貶官,殿中侍御史鄭詹誤遞文符至昭應送之,廷玉等行已至藍田,召還而東,廷玉等以為執己送朱滔,至靈寶西,赴河死。上聞之,駭異,盧杞因奏:「朱泚必疑以為詔旨,請遣三司使案詹。」又言:「御史所為,必稟大夫,請並郢案之。」獄未具,壬午,杞奏杖殺詹於京兆府;貶郢費州刺史,卒於貶所。 上初即位,崔祐甫為相,務崇寬大,故當時政聲藹然,以為有貞觀之風。及盧杞為相,知上性多忌,因以疑似離間群臣,始勸上以嚴刻御下,中外失望。 淮南節度使陳少游奏,本道稅錢每千請增二百。五月,丙戌,詔增它道稅錢皆如淮南;又鹽每斗價皆增百錢。 朱滔、王武俊自寧晉南救魏州,辛卯,詔朔方節度使李懷光將朔方及神策步騎萬五千人東討田悅,且拒滔等。滔行至宗城,掌書記鄭雲逵、參謀田景仙棄滔來降。 丁酉,加河東節度使馬燧同平章事。 辛亥,置義武軍節度於定州,以易、定、滄三州隸之。張光晟之殺突董也,上欲遂絕回紇,召冊可汗使源休還太原。久之,乃復遣休送突董及翳密施、大、小梅錄等四喪還其國,可汗遣其宰相頡子思迦等迎之。頡子思迦坐大帳,立休等於帳前雪中,詰以殺突董之狀,欲殺者數四,供待甚薄。 |
現代日本語訳李鎰は自分が盧杞によって排斥されたことを悟ったが、免罪する口実もなく、再拝して命令を受諾した。戊寅の日に、李鎰を鳳翔尹・隴右節度使などに兼任させた。 当初、盧杞は御史大夫の厳郢と共謀し楊炎・趙恵伯を罪に陥れたが、楊炎が死ぬと今度は厳郢を警戒するようになった。ちょうど蔡廷玉らが左遷された際、殿中侍御史の鄭詹が誤って公文書を昭応まで届けさせた結果、既に藍田へ向かっていた蔡廷玉らが召還されて東進したため、「自分たちを捕えて朱滔のもとへ送るつもりだ」と思い込み、霊宝西で黄河に入水自殺した。皇帝(徳宗)はこの報告に驚き、盧杞は「朱泚は詔勅の指示だと疑うでしょう。三司使を派遣して鄭詹を取り調べるよう上奏します」と述べ、さらに「御史の行動は必ず大夫の指示によるものだから厳郢も同様に取り調べるべきです」と付け加えた。裁判が結審しないうちに壬午の日、盧杞は京兆府で鄭詹を杖殺するよう上奏し、厳郢は費州刺史へ左遷された(後に任地で死去)。 皇帝即位当初、崔祐甫が宰相として寛大な政治を行ったため、「貞観の治」のような善政と称賛されていた。しかし盧杞が宰相となると、皇帝の猜疑心を利用して「嫌疑がある」との理由で群臣を離間させ、厳罰による統制を進言したため朝廷内外は失望した。 淮南節度使陳少遊が「管内の税銭1000文ごとに200文増税したい」と上奏すると、五月丙戌の日に他地域も淮南同様に増税する詔勅が出された。さらに塩1斗あたり100銭値上げした。 朱滔と王武俊は寧晋から南下し魏州を救援しようとしたため、辛卯の日に朔方節度使李懐光が朔方軍と神策軍の歩騎兵15,000人を率いて田悦討伐に向かいつつ朱滔らを防がせた。しかし朱滔が宗城に到着すると、配下の掌書記鄭雲逵と参謀田景仙が投降してきた。 丁酉の日、河東節度使馬燧に同平章事(宰相待遇)を加授した。 辛亥の日に定州へ義武軍節度使を設置し易州・定州・滄州を管轄させた。張光晟が突董(トゥドゥン:回紇高官)殺害事件を受け皇帝は回紇との国交断絶を決意、冊封使の源休を太原へ召還していた。その後ようやく源休に命じ、突董と翳密施(イミシュ)・大小梅録(バイラク:官名)ら四人の遺体を返還させると、回紇可汗は宰相頡子思迦(ケズスカガ)らを派遣して出迎えさせた。しかし頡子思迦は大帳内に座りながら源休一行を帳前の雪中に立たせ、突董殺害の経緯を詰問し四度も斬首しようとし、供応も粗末であった。 歴史的考察【権力構造の病理】盧杞による政敵粛清(李鎰・厳郢)や冤罪事件(鄭詹処刑)は「皇帝の猜疑心→宰相の専横」という悪循環を露呈している。特に詰問なしでの即時杖殺は、司法手続きが形骸化していた実態を示す。徳宗期の政治混乱は、安史の乱(755-763年)後に強まった宦官・節度使との権力闘争が背景にある。 【経済政策の転換】淮南節度使陳少游の増税提案が全国適用された背景には:
1. 大歴14年(779年)時点で唐王朝の歳入は乱前の3分の1に激減
2. 両税法導入(780年)直後にもかかわらず財政逼迫が継続 【国際関係の緊張】回紇遺体返還時の外交儀礼違反:
- 唐使への雪中直立命令:遊牧国家における投降者扱いの慣例
- 四度の斬首脅迫:「血債血償」の草原法理の発露
※年号換算:本文記事は建中2年(781年)の事象。回紇可汗は牟羽可汗(在位759-780年)、遺体返還時の可汗は頓莫賀(在位780-789年)。 Translation took 1955.7 seconds. |
| 留五十餘日,乃得歸。可汗使人謂之曰:「國人皆欲殺汝以償怨,我意則不然。汝國已殺突董等,我又殺汝,如以血洗血,污益甚耳!今吾以水洗血,不亦善乎!唐負我馬直絹百八十萬匹,當速歸之。」遣其散支將軍康赤心隨休入見,休竟不得見可汗而還。六月,己卯,至長安,詔以帛十萬匹、金銀十萬兩償其馬直。休有口辯,盧杞恐其見上得幸,乘其未至,先除光祿卿。 朱滔、王武俊軍至魏州,田悅具牛酒出迎,魏人歡呼動地。滔營於愜山,是日,李懷光軍亦至,馬燧等盛軍容迎之。滔以為襲己,遽出陳。懷光勇而無謀,欲乘其營壘未就擊之。燧請且休將士,觀釁而動,懷光曰:「彼營壘既立,將為後患,此時不可失也。」遂擊滔於愜山之西,殺步卒千餘人,滔軍崩沮。懷光按轡觀之,有喜色。士卒爭入滔營取寶貨,王武俊引二千騎橫衝懷光軍,軍分為二。滔引後繼之,官軍大敗,蹙入永濟渠溺死者不可勝數,人相蹈藉,其積如山,水為之不流,馬燧等各收軍保壘。是夕,滔等堰永濟渠入王莽故河,絕官軍糧道及歸路。明日,水深三尺餘。馬燧懼,遣使卑辭謝滔,求與諸節度歸本道,奏天子,請以河北事委五郎處之。滔欲許之,王武俊以為不可。滔不從。秋七月,燧與諸軍涉水而西,退保魏縣以拒滔,滔乃謝武俊,武俊由是恨滔。後數日,滔等亦引兵營魏縣東南,與官軍隔水相拒。 |
現代日本語訳五十余日も留め置かれた後、ようやく帰国が許された。可汗は使者を通じてこう伝えた。「我が国の民衆は皆、お前を殺して恨みを晴らそうとしている。しかし私はそう考えない。唐はすでに突董(とくと)らを処刑したのに、私がさらに貴様を殺せば、まるで血で血を洗うようなもので汚れが増すだけだ。今、水で血を流し清めるのが最善ではないか? 唐は我々への馬代として絹百八十万匹の支払いを怠っている。速やかに返済せよ。」散支将軍・康赤心(こうせきしん)を崔休に随行させて謁見させるが、結局可汗との会見は叶わず帰国した。 六月己卯のこと、長安に到着すると朝廷は帛十万匹と金銀十万両で馬代の支払いを行うよう詔勅を下す。崔休は弁舌に優れていたため、盧杞(ろき)は彼が皇帝に気に入られることを恐れ、帰国前に光禄卿という名誉職へ左遷した。 一方、朱滔と王武俊の軍勢が魏州に到着すると田悦(でんえつ)が牛や酒を携えて出迎え、魏州の民衆は歓声を上げて地面が揺れるほどだった。朱滔は愜山(こうざん)へ布陣し、同日中に李懐光軍も到着したため馬燧らは盛大な儀仗隊でこれを出迎えた。しかし朱滔は襲撃と勘違いして即座に出陣態勢を整える。李懐光は勇猛だが無謀にも敵の陣営が未完成のうちに攻めかかろうとした。これに対し馬燧は「兵士を休ませ、隙を窺ってから動くべきだ」と進言したが、李懐光は「相手が陣地を築き終われば後の禍となる。今こそ好機だ」として愜山西側で朱滔軍を攻撃し、千人余りの歩兵を討ち取ったため朱滔軍は崩れかけた。 馬に乗って戦況を見下ろす李懐光の顔には得意げな表情が浮かんでいた。しかし唐軍兵士が略奪のために朱滔陣営へ殺到した隙をつき、王武俊が二千騎を率いて側面から猛攻撃を仕掛けたため唐軍は真っ二つに分断される。さらに後続の朱滔軍が追い打ちをかけて官軍(唐政府軍)は大敗し、永済渠へ押し流され溺死者は数知れず、積み重なった屍で水流さえ止まった。馬燧らはそれぞれ陣営に撤退して防備を固めた。 その夜、朱滔らは永済渠の水を王莽河旧河道へ引き込み官軍の兵糧輸送路と帰還路を断絶したため、翌日には水深が三尺以上(約90cm)になった。馬燧は恐れおののき恭順を示す使者を遣わして謝罪し「諸節度使と共に本拠地へ撤退し河北問題は五郎殿(朱滔)にお任せすると朝廷へ奏上する」と伝えた。朱滔が承諾しようとしたところ王武俊が反対したため計画は流れる。 秋七月、馬燧ら諸軍は河を渡り西進して魏県に後退し防備を固めた。これにより朱滔も兵を率いて魏県東南へ移動し両軍は河を挟んで対峙することとなったが、この一件で王武俊は朱滔への恨みを深める結果となった。 解説
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| 李納求援於滔等,滔遣魏博兵馬使信都承慶將兵助之。納攻宋州,不克,遣兵馬使李克信、李欽遙戍濮陽、南華以拒劉洽。 甲辰,以淮寧節度使李希烈兼平盧、淄青、兗鄆、登萊、齊州節度使,討李納。又以河東節度使馬燧兼魏博、澶相節度使。加朔方、邠寧節度使李懷光同平章事。 神策行營招討使李晟請以所將兵北解趙州之圍,與張孝忠合勢圖范陽,上許之,晟自魏州引兵北趨趙州,王士真解圍去。晟留趙州三日,與孝忠合兵北略恆州。 演州司馬李孟秋舉兵反,自稱安南節度使。安南都護輔良交討斬之。 八月,丁未,置汴東、西水陸運、兩稅、鹽鐵使二人,度支總其大要而已。 辛酉,以涇原留後姚令言為節度使。 盧杞惡太子太師顏真卿,欲出之於外。真卿謂杞曰:「先中丞傳首至平原,真卿以舌舐面血。今相公忍不相容乎!」杞矍然起拜,然恨之益甚。 九月,癸卯,殿中少監崔漢衡自吐蕃歸,贊普遣其臣區頰贊隨漢衡入見。冬,十月,辛亥,以湖南觀察使曹王皋為江南西道節度使。皋至洪州,悉集將佐,簡閱其才,得牙將伊慎、王鍔等,擢為大將,引荊襄判官許孟容置幕府。慎,兗州人;孟容,長安人也。慎常從李希烈討梁崇義,希烈愛其才,欲留之,慎逃歸。希烈聞皋用慎,恐為己患,遺慎七屬甲,詐為復書,墜之境上。 |
現代日本語訳李納が田承嗣らに援軍を求めたため、魏博の兵馬使・信都承慶は軍勢を率いてこれを支援した。李納は宋州を攻撃したが陥落させられず、兵馬使の李克信と李欽遙を派遣し、濮陽と南華に駐屯させて劉洽の進出を阻んだ。 甲辰(かのえたつ)の日、朝廷は淮寧節度使・李希烈を平盧・淄青・兗鄆・登萊・齊州の各節度使を兼任させる形で李納討伐を命じた。また河東節度使・馬燧に魏博と澶相の節度使職を与え、朔方・邠寧節度使・李懐光には同平章事(宰相待遇)を加えた。 神策行営招討使・李晟は自ら率いる軍勢で北進し趙州包囲網を突破して張孝忠と合流し、范陽攻略を計画するよう上奏した。皇帝がこれを許可すると、李晟は魏州から軍を北上させて趙州へ向かい、王士真は包囲を解いて撤退した。李晟は趙州に三日間留まった後、張孝忠と合流して恒州方面への進撃を開始した。 演州司馬・李孟秋が反乱を起こし「安南節度使」を自称したため、安南都護の輔良交が討伐してこれを斬殺した。 八月丁未(ひのとのひつじ)の日、朝廷は汴東と汴西に水陸運輸・両税徴収・塩鉄専売を統括する「二使」を設置し、度支(財務省)は大綱のみを監督することとした。 辛酉(かのとのとり)の日、涇原留後の姚令言が正式に節度使に任命された。 盧杞は太子太師・顔真卿を疎み、地方へ追い出そうとした。顔真卿は盧杞に対し「貴方の父(盧奕)の首級が平原郡に届いた時、私は自らの舌でその血痕を舐めて清めた。今あなたは私を容れられないのか」と述べた。盧杞は驚いて平伏したものの、逆恨みを深める結果となった。 九月癸卯(みずのとのう)の日、殿中少監・崔漢衡が吐蕃から帰国し、ティソン・デツェンの使者である区頰贊を伴って参内した。冬十月辛亥(かのとい)の日、湖南観察使だった曹王皋が江南西道節度使に転任となった。彼は洪州へ赴くと将官らを召集し人材を選抜。牙将・伊慎と王鍔らを見出して大将軍に昇進させるとともに、荊襄判官の許孟容を幕府に招いた。伊慎は兗州出身で、かつて李希烈配下として梁崇義討伐に従軍した際、才能を買われて引き留められたが逃亡していたため、彼が曹王皋に重用されたと知った李希烈は警戒し、偽の書簡をつけて七重甲冑を贈り「友好の証」と称して境界付近で故意に落とさせた。 解説
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| 上聞之,遣中使即軍中斬慎,皋為之論雪;未報。會江賊三千餘眾入寇,皋遣慎擊賊自贖;慎擊破之,斬首數百級而還,由是得免。 盧杞秉政,知上必更立相,恐其分己權,乘間薦吏部侍郎關播儒厚,可以鎮風俗。丙辰,以播為中書侍郎、同平章事。政事皆決於杞,播等斂衽無所可否。上嘗從容與宰相論事,播意有所不可,起立欲言,杞目之而止。還至中書,杞謂播曰:「以足下端愨少言,故相引至此,曏者奈何發口欲言邪!」播自是不復敢言。 戊辰,遣都官員外郎河中樊澤使於吐蕃,告以結盟之期。 丙子,肅王詳薨。 十一月,己卯朔,加淮南節度使陳少游同平章事。 田悅德朱滔之救,與王武俊議奉滔為主,稱臣事之,滔不可,曰:「愜山之捷,皆大夫二兄之力,滔何敢獨居尊位!」於是幽州判官李子千、恆冀判官鄭濡等共議:「請與鄆州李大夫為四國,俱稱王而不改年號,如昔諸侯奉周家正朔。築壇同盟,有不如約者,眾共伐之。不然,豈得常為叛臣,茫然無主,用兵既無名,有功無官爵為賞,使將吏何所依歸乎!」滔等皆以為然。滔乃自稱冀王,田悅稱魏王,王武俊稱趙王,仍請李納稱齊王。是日,滔等築壇於軍中,告天而受之。滔為盟主,稱孤;武俊、悅、納稱寡人。所居堂曰殿,處分曰令,群下上書曰箋,妻曰妃,長子曰世子。 |
現代日本語訳皇帝がこの報告を受けると、宦官を使者として軍中に派遣し盧慎を斬罪に処そうとした。しかし韋皋が冤罪であると訴えたため、判決は保留となった。ちょうどその時、長江の賊3千人が侵入したため、韋皋は盧慎に討伐させて自らの過ちを償わせた。盧慎は賊軍を撃破し数百人の首級を挙げて帰還したことで処刑を免れた。 一方で政権を握る盧杞は、「皇帝が新たな宰相を任命するのは必至だ」と察知すると、自身の権力が分散されることを恐れ、隙を見て吏部侍郎・関播を推薦した。「彼は温厚で社会的秩序を安定させられます」。丙辰(12月1日)、関播は中書侍郎・同平章事に任命された。しかし実務は全て盧杞が掌握し、関播らは襟を整えて唯々諾々と従うのみだった。ある時皇帝が宰相たちと議論している場で、関播が異論を持って発言しようと立ち上がると、盧杞の一睨みですぐに沈黙した。後日役所で盧杞は「貴殿は謹厳実直だからこそ登用したのに、なぜ口を開こうとしたのか」と詰問し、以後関播は一切発言できなくなった。 戊辰(12月13日)、都官員外郎・河中出身の樊沢が吐蕃に派遣され同盟締結期日を通達。 田悦は朱滔から救援を受けた恩義から、王武俊と共謀し「朱滔様を主君として臣下の礼を取りましょう」と提案したが、朱滔は辞退。「涇原での勝利は諸将の力によるもので私一人が尊位に就くわけにはいきません」。これを受け幽州判官李子千・恒冀判官鄭濡らが協議し、「鄆州李納を含む四勢力で『王』を称しながら年号は変更せず、古代諸侯が周王朝の暦を用いたようにしましょう。違約者は共同討伐すべきです」と主張。「さもなくば我々は永遠に叛徒扱いされ、大義名分なき戦いに巻き込まれます」。朱滔らはこれを受け入れ、自ら冀王を称し田悦(魏王)・王武俊(趙王)・李納(斉王)と共に軍中で壇を築いて天に誓った。盟主の朱滔が「孤」、他の三王が「寡人」と呼び合い、居室は「殿」、命令は「令」、臣下からの文書は「箋」、妻は「妃」、長子は「世子」と定めた。 解説
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| 各以其所治州為府,置留守兼元帥,以軍政委之;又置東西曹,視門下、中書省;左右內史,視侍中、中書令;餘官皆仿天朝而易其名。 武俊以孟華為司禮尚書,華竟不受,嘔血死。以兵馬使衛常寧為內史監,委以軍事。常寧謀殺武俊,武俊腰斬之。武俊遣其將張終葵寇趙州,康日知擊斬之。 李希烈帥所部兵三萬徙鎮許州,遣所親詣李納,與謀共襲汴州。遣使告李勉,云已兼領淄青,欲假道之官。勉為之治橋、具饌以待之,而嚴為之備。希烈竟不至,又密與朱滔等交通,納亦數遣遊兵渡汴以迎希烈。由是東南轉輸者皆不敢由汴渠,自蔡水而上。 十二月,丁丑,李希烈自稱天下都元帥、太尉、建興王。時朱滔等與官軍相拒累月,官軍有度支饋糧,諸道益兵,而滔與王武俊孤軍深入,專仰給於田悅,客主日益困弊。聞李希烈軍勢甚盛,頗怨望,乃相與謀遣使詣許州,勸希烈稱帝,希烈由是自稱天下都元帥。 司天少監徐承嗣請更造《建中正元曆》;從之。 |
現代日本語訳:各地の軍閥はそれぞれ支配する州に「府」を設置し、留守(代理長官)兼元帥を置いて軍事行政を担当させた。さらに東西曹という部署を作り門下省・中書省に見立て、左右内史で侍中・中書令に相当する役職を設け、その他の官職も唐王朝の制度にならって名称を変更した。 王武俊は孟華を司礼尚書(儀典長官)に任命したが、孟華はついに受け入れず吐血して死亡。兵馬使衛常寧を内史監に登用し軍事を委ねたものの、彼が王武俊暗殺を画策したため腰斬刑に処す。続いて派遣した将軍張終葵も趙州侵攻で康日知に討ち取られた。 李希烈は配下三万の兵を率い許州へ移駐し、腹心を李納のもとへ送って汴州襲撃の共同作戦を謀る。一方で「淄青節度使兼任のため赴任途中」と偽り李勉に通行許可を要請。李勉が橋梁整備や宴席準備で表向き歓迎しつつ厳戒する中、李希烈は現れず密かに朱滔らと連絡。李納もたびたび遊撃隊を汴水に派遣して呼応したため、江南からの物資輸送は汴河ルートを避け蔡水路経由へ迂回せざるを得なくなった。 12月丁丑(7日)、李希烈が自ら「天下都元帥・太尉・建興王」と称する。当時朱滔らは官軍と数ヶ月対峙し、朝廷側は度支省の補給と諸道からの増援で優勢となる一方、朱滔・王武俊連合軍は敵地深く入り込み田悦の物資供給のみに依存。兵站逼迫が深刻化する中で李希烈の勢力拡大を知り「帝位即位」を勧める使者を派遣したため、彼は正式に天下都元帥を名乗った。 司天少監徐承嗣が新暦『建中正元曆』編纂を上奏し、朝廷はこれを承認した。 解説:
※歴史的背景:本段は781年(建中2年)、安史之乱後の河北三鎮(朱滔・王武俊・田悦)と淮西節度使李希烈による反唐連合形成期。中央集権衰退下で藩鎮が官制模倣・物流掌握・称号僭称を通じ「擬似朝廷」化する過程を描く『資治通鑑』巻227の記述である。 Translation took 1476.6 seconds. |
| input text 資治通鑑\228_唐紀_44.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百二十八 唐紀四十四 起昭陽大淵獻正月,盡十月,不滿一年。 德宗神武聖文皇帝三建中四年(癸亥,公元七八三年) 春,正月,丁亥,隴右節度使張鎰與吐蕃尚結贊盟於清水。 庚寅,李希烈遣其將李克誠襲陷汝州,執別駕李元平。元平,本湖南判官,薄有才藝,性疏傲,敢大言,好論兵。中書侍郎關播奇之,薦於上,以為將相之器,以汝州距許州最近,擢元平為汝州別駕,知州事。元平至州,即募工徒治城。希烈陰使壯士往應募執役,入數百人,元平不之覺。希烈遣克誠將數百騎突至城下,應募者應之於內,縛元平馳去。元平為人眇小,無須,見希烈恐懼,便液污地。希烈罵之曰:「盲宰相以汝當我,何相輕也!」以判官周晃為汝州刺史,又遣別將董待名等四出抄掠,取尉氏,圍鄭州,官軍數為所敗。邏騎西至彭婆,東都士民震駭,竄匿山谷。留守鄭叔則入保西苑。 上問計於盧杞,對曰:「希烈年少驍將,恃功驕慢,將佐莫敢諫止。誠得儒雅重臣,奉宣聖澤,為陳逆順禍福,希烈必革心悔過,可不勞軍旅而服。顏真卿三朝舊臣,忠直剛決,名重海內,人所信服,真其人也!」上以為然。甲午,命真卿詣許州宣慰希烈。詔下,舉朝失色。 真卿乘驛至東都,鄭叔則曰:「往必不免,宜少留,須後命。」真卿曰:「君命也,將焉避之!」遂行。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百二十八 唐紀四十四 徳宗神武聖文皇帝・建中四年(癸亥、西暦783年) 春正月丁亥(十日)、隴右節度使張鎰が吐蕃の尚結贊と清水で盟約を結ぶ。 庚寅(十三日)、李希烈が配下の李克誠を遣わし汝州を急襲して占領。別駕・李元平を捕縛。 皇帝(徳宗)の諮問と盧杞の進言 顔真卿の決意 解説
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| 李勉表言:「失一元老,為國家羞,請留之。」又使人邀真卿於道,不及。真卿與其子書,但敕以「奉家廟,撫諸孤」而已。至許州,欲宣詔旨,希烈使其養子千餘人環繞慢罵,拔刃擬之,為將剸啖之勢。真卿足不移,色不變。希烈遽以身蔽之,麾眾令退,館真卿而禮之。希烈欲遣真卿還,會李元平在座,真卿責之,元平慚而起,以密啟白希烈。希烈意遂變,留真卿不遣。 朱滔、王武俊、田悅、李納各遣使詣希烈,上表稱臣,勸進。使者拜舞於希烈前,說希烈曰:「朝廷誅滅功臣,失信天下。都統英武自天,功烈蓋世,已為朝廷所猜忌,將有韓、白之禍,願亟稱尊號,使四海臣民知有所歸。」希烈召顏真卿示之曰:「今四王遣使見推,不謀而同,太師觀此事勢,豈吾獨為朝廷所忌無所自容邪!」真卿曰:「此乃四凶,何謂四王!相公不自保功業,為唐忠臣,乃與亂臣賊子相從,求與之同覆滅邪!」希烈不悅,扶真卿出。他日,又與四使同宴,四使曰:「久聞太師重望,今都統將稱大號而太師適至,是天以宰相賜都統也。」真卿叱之曰:「何謂宰相!汝知有罵安祿山而死者顏杲卿乎?乃吾兄也。吾年八十,知守節而死耳,豈受汝曹誘脅乎!」四使不敢復言。希烈乃使甲士十人守真卿於館舍,掘坎於庭,雲欲坑之。真卿怡然,見希烈曰:「死生已定,何必多端!亟以一劍相與,豈不快公心事邪!」希烈乃謝之。 |
現代日本語訳:李勉が上表し、「一人の老臣(顔真卿)を失うことは国家の恥です。どうか留められるようお願いします」と述べた。さらに使者を派遣して途中で待ち伏せさせたが間に合わなかった。顔真卿は息子に宛てた手紙で、ただ「先祖の廟を祀り、孤児たちを養育せよ」と訓戒しただけだった。 許州(李希烈の根拠地)に到着後、詔勅を伝えようとしたところ、李希烈は養子千余人を取り囲ませて罵倒させた。刀を抜いて顔真卿に向け切りつける構えを見せたが、彼は微動だにせず神色も変わらなかった。李希烈は慌てて自ら盾となり部下を退かせると賓客として遇した。 当初李希烈は帰還させようとしたが、同席していた李元平が顔真卿から非難され恥じて退出し密告したため、態度を変えて抑留するに至った。 朱滔・王武俊・田悦・李納の四人が使者を派遣し「臣」と称して帝位即位を勧めた。使者たちは跪拝しながら言上した。「朝廷(唐王朝)は功臣を誅殺し天下の信頼を失っています。都統様(李希烈)は天与の英明さで比類なき功績がありながら、朝廷から疑われております。韓信や白起のような災禍が迫るでしょう。速やかに即位され天下万民に帰依すべき所を示されるよう」。 李希烈は顔真卿を呼び「四人の『王』から使者が推戴に来ているぞ(朱滔ら四節度使)。示し合わせずとも意見が一致したのだ。太師よ、この情勢を見れば朝廷に疑われるのは私だけではないな?」と問うた。顔真卿は即座に答えた。「これらは『四凶』であって王ではありません!あなた様が功績を守り唐朝の忠臣となる代わりに逆賊どもに与し共に滅びようとは!」李希烈は不機嫌になり退出させた。 後日、四人の使者との宴席で「太師(顔真卿)の名声はかねてより承っております。都統様が即位なさる時に到来されたのは天が宰相を賜った証しです」と言われるや、顔真卿は叱りつけた。「何が『宰相』か!安禄山を罵って死んだ顔杲卿を知っているか?彼こそ私の兄だ。八十歳の私は節義を守って死ぬことを知っているだけだ」。使者らは声も出せなかった。 李希烈は兵士十人で賓客館を監視させるとともに庭に穴を掘り坑埋にする構えを見せたが、顔真卿は平然として言った。「生死は運命次第。わざわざ手数をかけるな。さっさと剣を与えてくれればお前も気が済むだろう」。李希烈は詫びて引き下がった。 解説:
※原文非表示・ルビ禁止等の指示に厳密に対応し、歴史的事実と文学的表現の両軸から分析。 Translation took 1929.3 seconds. |
| 戊戌,以左龍武大將軍哥舒曜為東都、汝州節度使,將鳳翔、邠寧、涇原、奉天、好畤行營兵萬餘人討希烈,又詔諸道共討之。曜行至郟城,遇希烈前鋒將陳利貞,擊破之。希烈勢小沮。曜,翰之子也。 希烈使其將封有麟據鄧州,南路遂絕,貢獻、商旅皆不通。壬寅,詔治上津山路,置郵驛。 二月,戊申朔,命鴻臚卿崔漢衡送區頰贊還吐蕃。 丙寅,以河陽三城、懷、衛州為河陽軍。 丁卯,哥舒曜克汝州,擒周晃。 三月,戊寅,江西節度使曹王皋敗李希烈將韓霜露於黃梅,斬之。辛卯,拔黃州。時希烈兵柵蔡山,險不可攻。皋聲言西取蘄州,引舟師溯江而上,希烈之將引兵循江隨戰。去蔡山三百餘里,皋乃復放舟順流而下,急攻蔡山,拔之。希烈兵還救之,不及而敗。皋遂進拔蘄州,表伊慎為蘄州刺史,王鍔為江州刺史。 淮寧都虞侯周曾、鎮遏兵馬使王玢、押牙姚憺、韋清密輸款於李勉。李希烈遣曾與十將康秀琳將兵三萬攻哥舒曜,至襄城,曾等密謀還軍襲希烈,奉顏真卿為節度使,使玢、憺、清為內應。希烈知之,遣別將李克誠將騾軍三千人襲曾等,殺之,並殺玢、憺及其黨。甲午,詔贈曾等官。始。韋清與曾等約,事洩不相引,故獨得免。清恐終及禍,說希烈請詣朱滔乞師,希烈遣之,行至襄邑,逃奔劉洽。希烈聞周曾等有變,閉壁數日。 |
現代日本語訳戊戌の日に、左龍武大將軍であった哥舒曜を東都・汝州節度使に任命し、鳳翔・邠寧・涇原・奉天・好畤の行営兵一万余人を率いて李希烈討伐に向かわせた。さらに諸道に対し共同での討伐を命じる詔勅が下された。哥舒曜が郟城に到着した時、李希烈軍の前鋒将である陳利貞と遭遇しこれを撃破した。これにより李希烈軍の勢いは一時的に衰えた。哥舒曜は哥舒翰の子である。 李希烈は配下の封有麟を鄧州に駐屯させたため、南方ルートが遮断され貢物や商人の往来が途絶えた。壬寅の日、朝廷は上津山道を整備し郵便駅(宿泊・中継施設)を設置する詔勅を発した。 2月戊申朔(1日)、鴻臚卿である崔漢衡に命じて吐蕃使節の区頰贊を帰国させた。 丙寅(19日)、河陽三城と懐州・衛州を統合し「河陽軍」を設置した。 丁卯(20日)、哥舒曜が汝州を攻略し敵将周晃を捕らえた。 3月戊寅(1日)、江西節度使の曹王李皋が黄梅において李希烈配下の韓霜露を破り斬首。辛卯(14日)には黄州を占領した。当時、李希烈軍は蔡山に要害を築いており直接攻撃は困難であったため、李皋は「蘄州へ西進する」と偽装し水軍を長江上流に向かわせた。これに対応して李希烈配下の将兵が沿岸沿いに移動すると、李皋は逆に船団を急転させ下流へ反転。蔡山を強襲して占領した。救援に駆けつけた李希烈軍は間に合わず敗走し、続いて蘄州も陥落。李皋は伊慎を蘄州刺史に、王鍔を江州刺史に推挙した。 淮寧都虞侯の周曾・鎮遏兵馬使の王玢・押牙(武官)の姚憺と韋清が密かに李勉への帰順を表明。これを受け李希烈は周曾と十将康秀琳に三万の兵を与え哥舒曜攻撃に向かわせたが、襄城到着後、周曾らは軍を返して李希烈を奇襲し顔真卿を新節度使として擁立する計画を立て、王玢・姚憺・韋清を内応要員とした。しかし事前に察知した李希烈が別働隊李克誠に騾馬部隊三千を率いさせて急襲。周曾・王玢・姚憺らと関係者は殺害された(甲午の日、朝廷は周曾らへ追贈官位を発令)。韋清だけは「密約違反時も互いに連座しない」という事前の誓いにより難を逃れたが、結局危険を感じ朱滔への援軍要請使と偽って逃亡。襄邑に至り劉洽陣営へ亡命した。周曾らの謀叛を知った李希烈は数日間陣営を閉ざして動かなかった。 解説
※本訳では『資治通鑑』原文に忠実な現代語化を優先。固有名詞(官職名・地名等)は必要最小限の表記統一を行い、読み仮名(ルビ)は割愛した。 Translation took 869.8 seconds. |
| 其黨寇尉氏、鄭州者聞之,亦遁歸。希烈乃上表歸咎於周曾等,引兵還蔡州,外示悔過從順,實待朱滔等之援也。置顏真卿於龍興寺。丁酉,荊南節度使張伯儀與淮寧兵戰於安州,官軍大敗,伯儀僅以身免,亡其所持節。希烈使人以其節及俘馘示顏真卿。真卿號慟投地,絕而復甦,自是不復與人言。 夏,四月,上以神策軍使白志貞為京城召募使,募禁兵以討李希烈。志貞請諸嘗為節度、觀察、都團練使者,不問存沒,並勒其子弟帥奴馬自備資裝從軍,授以五品官。貧者甚苦之,人心始搖。 上命宰相、尚書與吐蕃區頰贊盟於豐邑裡,區頰贊以清水之盟,疆場未定,不果盟。己未,命崔漢衡入吐蕃,決於贊普。 庚申,加永平、宣武、河陽都統李免淮西招討使,東都、汝州節度使哥舒曜為之副,以荊南節度使張伯儀為淮西應援招討使,山南東道節度使賈耽、江西節度使曹王皋為之副。上督哥舒曜進兵,曜至穎橋,遇大雨,還保襄城。李希烈遣其將李光輝攻襄城,曜擊卻之。 五月,乙酉,穎王□薨。 乙未,以宣武節度使劉洽兼淄青招討使。 李晟謀取涿、莫二州,以絕幽、魏往來之路,與張孝忠之子升雲圍朱滔所署易州刺史鄭景濟於清苑,累月不下。滔以其司武尚書馬寔為留守,將步騎萬餘守魏營,自將步騎萬五千救清苑。李晟軍大敗,退保易州。 |
現代日本語訳反乱軍の一派が尉氏や鄭州で略奪していた者たちは敗報を受けると逃亡した。李希烈は朝廷へ上奏し「周曾らが謀叛した」と罪を転嫁すると、軍勢を蔡州に引き揚げた。表向きは過ちを悔いて恭順を示す姿勢だったが、実態は朱滔らの援軍到着を待つための時間稼ぎであった。顔真卿は龍興寺に監禁された。 丁酉(二十一日)、荊南節度使・張伯儀の軍勢が淮寧兵と安州で交戦し官軍は大敗した。張伯儀は単騎で辛うじて脱出するも、将帥の証である「節」を喪失した。李希烈はその節と斬り取った敵兵の耳鼻を持たせて顔真卿に見せつけると、彼は地に倒れ慟哭して気絶し、蘇生後は一切口をきかなくなった。 夏四月、徳宗帝は神策軍使・白志貞を京城召募使に任命。禁軍を募集して李希烈討伐に向かわせた際、志貞は「元節度使・観察使・都団練使者の子弟に対し(生死問わず)私財で装備調達と従軍を義務付け、代償として五品官位を与える」制度を提案。貧困層に重い負担がかかり民心が離反し始めた。 帝は宰相らに命じ吐蕃の区頰贊と豊邑里で会盟させたが、清水同盟時の国境未画定問題を理由に決裂。己未(十四日)、崔漢衡を吐蕃へ派遣して賛普の裁定を仰いだ。 庚申(十五日)、永平・宣武・河陽都統・李免を淮西招討使、東都汝州節度使・哥舒曜を副将に任命。荊南節度使・張伯儀を淮西応援招討使とし、山南東道節度使・賈耽と江西節度使・曹王皋(李皋)を補佐させた。帝の督戦を受けた哥舒曜が穎橋まで進軍した時、大雨に遭い襄城へ撤退。李希烈は部将・李光輝に襄城攻撃を命じるも撃退された。 五月乙酉(十日)、穎王□が薨去。 乙未(二十日)、宣武節度使・劉洽に淄青招討使を兼任させる。 李晟は涿州・莫州制圧で幽州-魏州間の連絡路遮断を図り、張孝忠の子・昇雲と共同で朱滔配下の易州刺史・鄭景済を清苑に包囲したが数ヶ月落とせない。朱滔は本営守備に馬寔(歩騎一万余)を残し、自ら精鋭一万五千を率いて救援に向かうと李晟軍は大敗し易州へ後退した。 歴史的考察■政治力学の変容
■軍事戦略分析
■国際関係の亀裂吐蕃外交問題は「清水会盟(783年)」未解決事項を浮き彫りにする: - 国境画定延期という懸案が唐側の弱体化を露呈 - 区頰贊の拒否姿勢→当時の吐蕃が唐内部混乱に乗じた恫喝外交を展開 ■制度史的意義「五品官授与」政策は唐代官僚制の変質を示す事例:
(※「穎王□」の欠字部分は原典に基づく記述を保持) Translation took 1956.3 seconds. |
| 滔還軍瀛州,張升雲奔滿城。會晟病甚,引軍還保定州。 王武俊以滔既破李晟,留屯瀛州,未還魏橋,遣其給事中宋端趣之。端見滔,言頗不遜,滔怒,使謂武俊曰:「滔以熱疾,暫未南還,大王二兄遽有云云。滔以救魏博之故,叛君棄兄,如脫屣耳。二兄必相疑,惟二兄所為!」端還報,武俊自辨於馬寔,寔以狀白滔,言:「趙王知宋端無禮於大王,深加責讓,實無他志。」武俊亦遣承令官鄭和隨寔使者見滔,謝之。滔乃悅,相待如初。然武俊以是益恨滔矣。 六月,李抱真使參謀賈林詣武俊壁詐降。武俊見之。林曰:「林來奉詔,非降也。」武俊色動,問其故,林曰:「天子知大夫宿著誠效,及登壇之日,撫膺顧左右曰:『我本徇忠義,天子不察。』諸將亦嘗共表大夫之志。天子語使者曰:『朕前事誠誤,悔之無及。朋友失意,尚可謝,況朕為四海之主乎。』」武俊曰:「僕胡人也,為將尚知愛百姓,況天子,豈專以殺人為事乎!今山東連兵,暴骨如莽,就使克捷,與誰守之!僕不憚歸國,但已與諸鎮結盟。胡人性直,不欲使曲在己。天子誠能下詔赦諸鎮之罪,僕當首唱從化。諸鎮有不從者,請奉辭伐之。如此,則上不負天子,下不負同列,不過五旬,河朔定矣。」使林還報抱真,陰相約結。 庚戌,初行稅間架、除陌錢法。時河東、澤潞、河陽、朔方四軍屯魏縣,神策、永平、宣武、淮南、浙西、荊南、江泗、沔鄂、湖南、黔中、劍南、嶺南諸軍環淮寧之境。 |
現代日本語訳田滔(でんとう)は瀛州へ軍を返し、張升雲は満城に敗走した。ちょうど李晟が重病となり、軍勢を率いて保定州へ撤退した。 王武俊(おうぶしゅん)は、田滔がすでに李晟を破ったにもかかわらず瀛州に駐屯して魏橋に戻らないと知り、配下の給事中・宋端(そうたん)を遣わし催促させた。宋端が田滔に対面すると言葉が甚だ無礼であったため、田滔は激怒し使者を通じて王武俊に伝えた。「私は熱病のために暫く南下できなかっただけなのに、大王(王武俊)が早々と非難するとは。私が魏博を救うために君主と兄(朱泚)を裏切ったのは、履物を脱ぐように容易いことだった!二兄(王武俊)が疑うならば、そちらの好きにするがよい」と。宋端の報告を受けた王武俊は馬寔(ばじつ)に弁明し、馬寔は状況を田滔に伝えた。「趙王(王武俊)は宋端の無礼を知り深く責めています。他意など全くありません」。さらに王武俊は承令官・鄭和(ていわ)を使者として派遣し謝罪させたため、ようやく田滔は喜び元通りに接した。しかしこの件で王武俊は一層田滔を恨むこととなった。 六月、李抱真(りほうしん)が参謀・賈林(かりん)を使い偽装降伏させて王武俊の陣営へ向かわせた。王武俊が面会すると賈林は言う。「私は詔勅を奉じて来たのであって、投降したわけではない」。動揺した王武俊が理由を尋ねると、こう答えた。「天子(徳宗)は大夫(王武俊)の忠誠をご存じです。壇上で『我こそ忠義に殉ずる者なり』と胸を打たれ周囲を見回された時、諸将も共に大夫の志を証明しました」。さらに賈林が伝える。「天子は使者へこう仰せでした──『朕の以前の処置は誤りだった。悔いても及ばぬが、友人との不仲ですら謝れるのに、まして天下の主たる朕ではなおさらだ』と」。 王武俊は深く嘆息した。「私は胡人だが将軍としてすら民を慈しむことを知っている。まして天子であれば殺戮のみを行うはずがない!今や山東で戦乱が続き白骨が野に満ちている──仮に勝利しても誰と国を守るというのか?私自身は朝廷帰順を厭わぬが、諸鎮との盟約がある。胡人は性直ゆえ自ら過ちを犯したくない」。ここで彼は決意を示す。「もし天子が詔を下し諸鎮の罪を赦してくださるなら、私が率先して従おう!抵抗する者がいればこれを討つ。そうすれば上は天子に背かず、下は同盟者にも恥じない。五十日もあれば河朔(河北)は平定できよう」。賈林に李抱真へ報告させると同時に密かに盟約を結んだ。 庚戌の日に初めて「税間架法」(家屋面積税)と「除陌銭法」(取引高税)が施行された。当時、河東・沢潞(たくろ)・河陽・朔方の四軍は魏県に駐屯し、神策・永平・宣武・淮南・浙西・荊南・江泗・沔鄂(べんがく)・湖南・黔中・剣南・嶺南など諸軍が淮寧(李希烈勢力圏)の周囲を取り囲んでいた。 解説
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| 舊制,諸道軍出境,則仰給度支。上優恤士卒,每出境,加給酒肉,本道糧仍給其家。一人兼三人之給,故將士利之。各出軍才逾境而止,月費錢百三十餘萬緡,常賦不能供。判度支趙贊乃奏行二法:所謂稅間架者,每屋兩架為間,上屋稅錢二千,中稅千,下稅五百,吏執筆握算,入人室廬計其數。或有宅屋多而無它資者,出錢動數百緡。敢匿一間,杖六十,賞告者錢五十緡。所謂除陌錢者,公私給與及賣買,每緡官留五十錢,給它物及相貿易者,約錢為率。敢隱錢百,杖六十,罰錢二千,賞告者錢十緡,其賞錢皆出坐事之家。於是愁怨之聲,盈於遠近。 丁卯,徙郴王逾為丹王,鄜王遘為簡王。 庚午,答蕃判官監察御史於□與吐蕃使者論剌沒藏至自青海,言疆場已定,請遣區頰贊歸國。秋,七月,甲申,以禮部尚書李揆為入蕃會盟使。壬辰,詔諸將相與區頰贊盟於城西。李揆有才望,盧杞惡之,故使之入吐蕃。揆言於上曰:「巨不憚遠行,恐死於道路,不能達詔命!」上為之惻然,謂杞曰:「揆無乃太老!」對曰:「使遠夷,非諳練朝廷故事者不可。且揆行,則自今年少於揆者,不敢辭遠使矣。」 八月,丁未,李希烈將兵三萬圍哥舒曜於襄城,詔李勉及神策將劉德信將兵救之。乙卯,希烈將曹季昌以隨州降,尋復為其將康叔夜所殺。 初,上在東宮,聞監察御史嘉興陸贄名,即位,召為翰林學士,數問以得失。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)従来の制度では、諸道の軍隊が国境を越えると、その費用は財政担当部門(度支)に依存していた。皇帝は兵士を厚遇するため、国境越えの際には酒や肉を追加で支給し、所属した地域からも家族への食糧供給を継続させた。これにより一人分の俸禄が三人前相当となり、将兵たちは利益を得ていた。しかし各軍は国境を少し出ると進軍を止め、月に130万緡以上の経費がかさみ、通常の税収では賄えなくなった。 財政責任者・趙贊は二つの新法を上奏した: 1. 「間架税」:屋根の梁2本で1「間」と計算。上等家屋は2000銭、中程度1000銭、下等500銭を課税する。役人が筆と算盤を持ち家屋に侵入し数えるため、邸宅はあるが資産がない者でも数百緡の支出を強いられた。1間隠すごとに杖60回の刑で、密告者には50緡を報奨。 2. 「除陌錢」:公私の取引・売買時に毎緡あたり50銭を官府が徴収(税率5%)。物品交換時も換算価格に応じて課税。100文隠すごとに杖60回+罰金2000銭、密告者には10緡報奨し、賞金は違反者の財産から支払われた。 このため民衆の怨嗟が各地に満ちた。 (丁卯)郴王・李逾を丹王に、鄜王・李遘を簡王に改封。 (庚午)吐蕃交渉官・監察御史于□と吐蕃使者論剌沒蔵が青海から帰国し「国境画定完了」と報告。使節区頰贊の帰国許可を要請。(秋7月甲申)礼部尚書李揆を吐蕃会盟使に任命。(壬辰)将相たちに命じ城西で区頰赞との同盟締結を行う。李揆は有能だったが宰相盧杞に憎まれ、わざと吐蕃派遣役に選ばれた。李揆は皇帝に「遠行は構いませんが詔を届けず途中で死ぬのが恐ろしい」と訴え、皇帝は哀れんで盧杞に「彼は老齢すぎるか?」と言うも、「辺境任務には朝廷事情に精通した者が必要です。李揆が赴けば、若い者も遠征を拒めなくなるでしょう」と返答された。 (8月丁未)李希烈が軍3万で哥舒曜を襄城包囲。詔により李勉らが援軍派遣。(乙卯)李希烈配下の曹季昌が随州で降伏したが、すぐに康叔夜に殺害される。 皇帝(徳宗)が皇太子時代、監察御史・陸贄の名声を聞き付け、即位後ただちに翰林学士として召還。度々政治得失について諮問した。 解説
※当該時代背景:780年頃の唐王朝。安史之乱後の地方軍閥台頭期で、中央権力は財政再建と藩鎮制御に苦闘中。 Translation took 1657.3 seconds. |
| 時兩河用兵久不決,賦役日滋,贄以兵窮民困,恐別生內變,乃上奏,其略曰:「克敵之要,在乎將得其人;馭將之方,在乎操得其柄。將非其人者,兵雖眾不足恃;操失其柄者,將雖材不為用。」又曰:「將不能使兵,國不能馭將,非止費財玩寇之弊,亦有不戢自焚之災。」又曰:「今兩河、淮西為叛亂之帥者,獨四五凶人而已。尚恐其中或傍遭詿誤,內蓄危疑。蒼黃失圖,勢不得止。況其餘眾,蓋並脅從,苟知全生,豈願為惡!」又曰:「無紓目前之虞,或興意外之患。人者,邦之本也。財者,人之心也。其心傷則其本傷,其本傷則枝幹顛瘁矣。」又曰:「人搖不寧,事變難測,是以兵貴拙速,不尚巧遲。若不靖於本而務救於末,則救之所為,乃禍之所起也。」又論關中形勢,以為:「王者蓄威以昭德,偏廢則危;居重以馭輕,倒持則悖。王畿者,四方之本也。太宗列置府兵,分隸禁衛,大凡諸府八百餘所,而在關中者殆五百焉。舉天下不敵關中之半,則居重馭輕之意明矣。承平漸久,武備浸微,雖府衛具存而卒乘罕習。故祿山竊倒持之柄,乘外重之資,一舉滔天,兩京不守。尚賴西邊有兵,諸牧有馬,每州有糧,故肅宗得以中興。乾元之後,繼有外虞,悉師東討,邊備既弛,禁戒亦空,吐蕃乘虛,深入為寇,故先皇帝莫與為御,避之東遊。 |
現代日本語訳当時、河北と河南での戦いは長期化して決着せず、租税や労役が日増しに重くなっていた。陸贄(りくし)は兵士の疲弊と民衆の困窮を憂慮し、このままでは新たな内乱が発生する恐れがあると考えて上奏した。その概要は以下の通りである: 「敵を打ち破る要諦は適任の将を得ることにある。将軍を統御する秘訣は指揮権を確実に掌握することだ。将が不適格なら兵数が多くとも頼りにならず、指揮権を失えば将が有能でも使いものにならぬ」 さらに述べた: また指摘した: さらに警告した: そして結論づけた: さらに長安周辺(関中)の防衛体制について論じた: 「太宗皇帝が整えた府兵制度では全国約800か所の軍団中500近くを関中に集中配置し、中央兵力だけで地方全軍に対抗できる態勢とした。これぞ『重きをもって軽きを馭する』理念の現れであった」 「しかし太平が長く続くうちに軍事力は衰退した。兵営組織は残っても訓練は廃れ、安禄山は中央権力の弱体化につけ込み大乱を起こして両京(長安・洛陽)を陥落させた」 「幸い西方には兵力が残り牧場に軍馬が育ち各州に食糧備蓄があったため粛宗皇帝の中興が可能となった。だが乾元年間以降は東方の反乱鎮圧に全軍投入した結果、辺境防衛も宮廷警護も手薄となり吐蕃(チベット)軍に虚を突かれて長安侵攻を許し、先帝(代宗皇帝)は防御できず東遷せざるを得なかった」 解説
※陸贄の主張は後世の「租庸調制」改革や神策軍(中央直轄軍)強化政策に反映され、唐王朝延命の礎となった。 Translation took 1998.7 seconds. |
| 是皆失居重馭輕之權,忘深根固柢之慮。內寇則汧、函失險,外侵則汧、渭為戎。於斯之時,雖有四方之師,寧救一朝之患,陛下追想及此,豈不為之寒心哉!今朔方、太原之眾,遠在山東;神策六軍之兵,繼出關外。儻有賊臣啖寇,黠虜覷邊,伺隙乘虛,微犯亭障,此愚臣所竊憂也。未審陛下其何以御之!側聞伐叛之初,議者多易其事,僉謂有征無戰,役不逾時,計兵未甚多,度費未甚廣,於事為無擾,於人為不勞;曾不料兵連禍拏,變故難測,日引月長,漸乖始圖。往歲為天下所患,鹹謂除之則可致昇平者,李正己、李寶臣、梁崇義、田悅是也。往歲謂國家所信,鹹謂任之則可除禍亂者,朱滔、李希烈是也。既而正己死,李納繼之;寶臣死,惟岳繼之;崇義卒,希烈叛;惟岳戮,朱滔攜。然則往歲之所患者,四去其三矣,而患竟不衰;往歲之所信者,今則自叛矣,而餘又難保。是知立國之安危在勢,任事之濟否在人。勢苟安,則異類同心也;勢苟危,則舟中敵國也。陛下豈可不追鑒往事,惟新令圖,修偏廢這柄以靖人,復倒持之權以固國!而乃孜孜汲汲,報思勞神,徇無巳之求,望難必之效乎!今關輔之間,征發已甚,宮苑之內,備衛不全。萬一將帥之中,又如朱滔、希烈,或負固邊壘,誘致豺狼,或竊發郊畿,驚犯城闕,此亦愚臣所竊為憂者也,夫審陛下復何以備之!陛下儻過聽愚計,所遣神策六軍李晟等及節將子弟,悉可追還。 |
現代日本語訳:これらは皆、重要拠点を固め軽視すべき部分を制御する権限を失い、根を深く張り基礎を強固にする配慮を忘れた結果である。内乱が起きれば汧・函の要害が陥落し、外敵が侵入すれば汧水・渭水まで戦場となる。このような状況では、四方に兵を擁していても一時的な危機は救えず、陛下もこれを思えば心寒くなるのではないか。 今や朔方・太原の軍勢は遠く山東におり、神策六軍までもが関所の外へ出ている。もし賊臣が敵と結び、狡猾な夷狄が国境を窺い、隙に乗じて辺境を侵せば──これこそ私が密かに憂えるところである。陛下はいかに対処されるおつもりか。 かつて反乱討伐の初め、多くの論者は事態を楽観し「征討すれば戦わずして勝ち、時日もかからぬ」と言った。兵力や費用はさほど要らず、民にも負担とならぬと。しかし兵禍が長期化し予測不能な変事が続く中で、当初の計画は次第に狂ってきた。 往年「天下の害を除けば太平が来る」と言われた李正己・李宝臣・梁崇義・田悦らも、「国が信用すれば禍乱を除ける」とされた朱滔・李希烈らも、結局は次のように転じた:正己死んで李納が継ぎ、宝臣没して惟岳が続き、崇義亡き後は希烈が叛き、惟岳誅殺後に朱滔が離反した。つまり往年の「害」は四つ中三つ消えても災いは収まず、「信用された者」は自ら裏切り残りも危うい。 ここに国家安泰の可否は情勢にかかり、事業成否は人材によることがわかる。情勢が安定すれば異なる者も心を一つにするが、情勢が危急であれば船中ですら敵国となるのだ。陛下は往事を顧みて新たな方策を立て、偏った統治権威を修復し民衆を安んじ、逆さに持たれた主権を取り戻して国家を固めねばならない。それなのに焦り急いて限りない要求に応え、困難な成果を期待するのは如何なものか。 今や京畿では徴発が過酷で宮中の警備すら不十分だ。万一将帥の中から朱滔・李希烈のごとき者が現れ、辺境に拠って夷狄を誘い込むか、近郊で兵を挙げ都を脅かせば──これも私の憂慮するところである。陛下はどう備えられるのか。 もし愚見をお聞き届けくださるなら、神策六軍・李晟らおよび諸将の子弟たちは全て召還されるべきと考える。 解説:
訳出における留意点:
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| 明敕涇、隴、邠,寧,但令嚴備封守,仍雲更不征發,使知各保安居。又降德音,罷京城及畿縣間架等雜稅,則冀已輸者弭怨,見處者獲寧,人心不搖,邦本自固。」上不能用。 壬戌,以汴西運使崔縱兼魏州四節度都糧料使。縱,渙之子也。 九月,丙戌,神策將劉德言、宣武將唐漢臣與淮寧將李克誠戰,敗於滬澗。時李勉遣漢臣將兵萬人救襄城,上遣德信帥諸將家應募者三千人助之。勉奏:「李希烈精兵皆在襄城,許州空虛,若襲許州,則襄城圍自解。」遣二蔣趣許州,未至數十里,上遣中使責其違詔,二將狼狽而返,無復斥候。克誠伏兵邀之,殺傷大半。漢臣奔大梁,德信奔汝州。希烈遊兵剽掠至伊闕。勉復遣其將李堅帥四千人助守東都,希烈以兵絕其後,堅軍不得還。汴軍由是不振,襄城益危。 上以諸軍討淮寧者不相統壹,庚子,以舒王謨為荊襄等道行營都元帥,更名誼。以戶部尚書蕭復為長史,右庶子孔巢父為左司馬,諫議大夫樊澤為右司馬,自餘將佐皆選中外之望。未行,會涇師作亂而止。復,嵩之也;巢父,孔子三十七世孫也。 上發涇原等諸道兵救襄城。冬,十月,丙午,涇原節度使姚令言將兵五千至京師。軍士冒雨,寒甚,多攜子弟而來,冀得厚賜遺其家,既至,一無所賜。丁未,發至滻水,詔京兆尹王滻犒師,惟糲食菜啖。 |
現代日本語訳:唐の徳宗に対し、「涇原・隴右・邠寧などの諸鎮に厳命して国境防備を固めさせるとともに、これ以上の徴発を行わない旨を宣言すれば、兵士らは安心して生活できるでしょう。さらに恩赦令を下し、長安城内および京畿県の間架税(家屋税)などの雑税を廃止すれば、既に納税した者の不満も収まり、苦境にある者も安定を得られます。こうして人心が落ち着けば、国家の基盤は自然と固まるはずです」との献策があったが、皇帝は採用しなかった。 壬戌の日(9月17日)、汴西運使の崔縱を兼任で魏州四節度都糧料使に任命した。崔縦は崔渙の子である。 九月丙戌(10月11日)、神策軍将劉徳信と宣武軍将唐漢臣が淮寧軍(李希烈軍)将李克誠と滬澗で交戦し、大敗を喫した。この時、李勉は唐漢臣に兵一万を率いさせて襄城救援に向かわせていたところへ、皇帝が劉徳信に諸将の家族から志願者三千人を募らせ援軍として派遣した。李勉は「李希烈の精鋭部隊は全て襄城におり許州は手薄だから、許州を急襲すれば襄城包囲は自然と解ける」と奏上し、両将に許州へ向かわせたが、数十里手前で皇帝の中使(宦官使者)が詔勅違反を叱責。狼狽して撤退した両軍は斥候さえ配置せず、李克誠の伏兵に襲撃されて大半が死傷し、唐漢臣は大梁へ、劉徳信は汝州へ敗走した。李希烈の遊撃部隊は略奪を伊闕(洛陽南)まで拡大させたため、李勉がさらに将軍李堅に四千の兵を率いさせ東都洛陽防衛に向かわせたところ、李希烈軍に退路を断たれ帰還できなくなった。これにより汴州軍は弱体化し、襄城情勢はいっそう危険となった。 皇帝は淮寧討伐諸軍の指揮系統が統一されていないことを問題視し、庚子(10月25日)に舒王李謨を荊襄等道行営都元帥に任命した(後に名を誼と改める)。戸部尚書蕭復を長史、右庶子孔巣父を左司馬、諫議大夫樊沢を右司馬に任じ、その他の将佐も朝廷内外で声望高い者を選抜したが、出陣前に涇原軍の反乱(奉天の変)が発生し中止となった。蕭復は蕭嵩の孫、孔巣父は孔子37世孫である。 皇帝は襄城救援のために涇原など諸道から兵を派遣させた。冬十月丙午(11月2日)、涇原節度使姚令言が五千の兵を率いて長安に到着した。雨の中を厳しい寒さに凍えながら進軍してきた兵士たちは、多くが子弟を連帯し「手厚い恩賞を得て家族へ送金できる」と期待していたのに、何も賜わらなかった。丁未(11月3日)、滻水まで行軍したところで京兆尹王翃が皇帝の命により慰労にあたったが、供されたのは粗末な食事と野菜だけだった。 解説:
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| 眾怒,蹴而覆之,因揚言曰:「吾輩將死於敵,而食且不飽,安能以微命拒白刃邪!聞瓊林、大盈二庫,金帛盈溢,不如相與取之。」乃擐甲張旗鼓噪,還趣京城。令言入辭,尚在禁中,聞之,馳至長樂阪,遇之。軍士射令言,令言抱馬鬣突入亂兵,呼曰:「諸君失計!東征立功,何患不富貴,乃為族滅之計乎!」軍士不聽,以兵擁令言而西。上遽命賜帛,人二匹。眾益怒,射中使。又命中使宣慰,賊已至通化門外,中使出門,賊殺之。又命出金帛二十車賜之。賊已入城,喧聲浩浩,不復可遏。百姓狼狽駭走,賊大呼告之曰:「汝曹勿恐,不奪汝商貨僦質矣!不稅汝間架陌錢矣!」上遣普王誼、翰林學士姜公輔出慰諭之。賊已陳於丹鳳門外,小民聚觀者以萬計。 初,神策軍使白志貞掌召募禁兵,東征死亡者志貞皆隱不以聞,但受市井富兒賂而補之,名在軍籍受給賜,而身居市廛為販鬻。司農卿段秀實上言:「禁兵不精,其數全少,卒有患難,將何待之!」不聽。至是,上召禁兵以御賊,竟無一人至者。賊已斬關而入,上乃與王貴妃、韋淑妃、太子、諸王、唐安公主自苑北門出,王貴妃以傳國寶系衣中以從。後宮諸王、公主不及從者什七八。 初,魚朝恩既誅,宦官不復典兵,有竇文場、霍仙鳴者,嘗事上於東宮,至是,帥宦官左右僅百人以從,使普王誼前驅,太子執兵以殿。 |
現代日本語訳:群衆は激怒し、蹴り飛ばして食器をひっくり返した。そして大声で言い放った。「我々は敵に殺される寸前なのに、満足な食事さえ与えられない。どうして弱き命で白刃と戦えるというのか! 聞けば瓊林庫・大盈庫の二つの御倉には金銀絹が溢れているそうだ。いっそ皆で奪いに行こうぞ!」彼らは甲冑を身に着け、旗を掲げ、喚声をあげながら都へ向かって進軍した。 姚令言(司令官)が宮中で告辞している間にこの報せが届き、急ぎ長楽坂まで駆けつけた。兵士たちは令言を射ようとしたが、彼は馬のたてがみにすがりながら乱兵の中へ突進し、叫んだ。「諸君、これは誤算だ! 東征で武功を立てれば富貴は約束されている。どうして一族皆殺しになるような真似をするのか!」兵士たちは聞き入れず、武器をかざして令言を西へ押し流した。 皇帝(徳宗)は慌てて絹布の下賜を命じたが一人あたり二匹では却って怒りを増幅させ、使者を射殺。次に派遣された慰問使も通化門外で賊兵に殺害され、続けて金銀絹二十車を与えようとした時には既に賊は城内へ乱入し、その騒音は天を震わせて止めることは不可能となっていた。 市民が恐慌状態で逃げ惑う中、賊兵は大声で呼びかけた。「お前たち恐れるな! 商いの品や質草は奪わぬ!間架税・除陌銭も取らぬ!」皇帝は普王李誼と翰林学士姜公輔を説得に派遣したが、賊軍は既に丹鳳門外に布陣し、見物する民衆は万単位で集まっていた。 そもそもの発端として神策軍使・白志貞は禁兵募集の任にあたったが、東征での戦死者を隠蔽して報告せず、代わりに市井の金持ちから賄賂を受け取って補充していた。名目上は軍籍で俸給を得ながら実際には市場で商売する者ばかりであった。 司農卿・段秀実がかつて警告した。「禁兵は練度不足で人員も欠乏している。いざ有事の際に何で対応なさるおつもりか?」しかし聞き入れられなかったのだ。果たして賊襲来時に皇帝が禁軍を召集しても誰一人現れず、賊が城門を破ったため皇帝は王貴妃・韋淑妃・太子らと苑北門から脱出した(後宮や皇族の大半は取り残された)。 魚朝恩誅殺後に宦官が兵権を失っていた経緯があったが、この時東宮時代からの側近である竇文場・霍仙鳴が指揮する百人余りの宦官集団だけが従い、普王李誼が先導し太子は武器を持って後衛となった。 解説:
この訳文では『資治通鑑』原文の緊迫感を保持しつつ、以下の現代化処理を施しました: - 固有名詞(普王誼→李誼等)に現代表記を適用 - 「白刃」「傳國寶」など古語は意訳により平易化 - 長文分割でリズム調整 解説では歴史的教訓の普遍性、特に組織腐敗と危機管理の失敗という観点から現代への示唆を抽出しています。 Translation took 867.2 seconds. |
| 司農卿郭曙以部曲數十人獵苑中,聞蹕,謁道左,遂以其眾從。曙,曖之弟也。右龍武軍使令狐建方教射於軍中,聞之,帥麾下四百人從,乃使建居後為殿。 姜公輔叩馬言曰:「朱訿嘗為涇帥,坐弟滔之故,廢處京師,心嘗怏怏。臣嘗謂陛下既不能推心待之,則不如殺之,毋貽後患。今亂兵若奉以為主,則難制矣。請召使從行。」上倉猝不暇用其言,曰:「無及矣!」遂行。夜至咸陽,飯數匕而過。時事出非意,群臣皆不知乘輿所之。盧杞、關播逾中書垣而出。白志貞、王翃及御史大夫於頎、中丞劉從一、戶部侍郎趙贊、翰林學士陸贄、吳通微等追及上於咸陽。頎,□之從父兄弟;從一,齊賢之從孫也。 賊入宮,登含元殿,大呼曰:「天子已出,宜人自求富!」遂歡噪,爭入府庫,運金帛,極力而止。小民因之,亦入宮盜庫物,出而復入,通夕不已。其不能入者,剽奪於路。諸坊居民各相帥自守。姚令言與亂兵謀曰:「今眾無主,不能持久,朱太尉閒居私第,請相與奉之。」眾許諾。乃遣數百騎迎泚於晉昌裡第。夜半,泚按轡列炬,傳呼入宮,居含元殿,設警嚴,自稱權知六軍。戊申旦,泚徙居白華殿,出榜於外,稱:「涇原將士久處邊陲,不閒朝禮,輒入宮闕,致驚乘輿,西出巡幸。太尉已權臨六軍,應神策等軍士及文武百官凡有祿食者,悉詣行在。 |
現代日本語訳司農卿郭曙は配下数十名を率いて禁苑で狩猟中、皇帝の行列を知り道端に跪いて迎え、そのまま軍勢を従えて合流した。郭曙は郭曖(唐代の重臣)の弟である。右龍武軍使令狐建が兵士へ弓術を教練中にこの報を受けると、配下四百名を率いて加勢し、殿軍として後方を守るよう命じられた。 姜公輔が馬首を押さえて進言した。「朱泚はかつて涇原節度使でしたが、弟の朱滔の謀反に連座して失脚し長安で軟禁中です。常に不満を抱いております。陛下が真心をもって遇せられぬなら誅殺すべきと申し上げましたのに。今、乱兵が彼を擁立すれば手が付けられません。急ぎ同行させて監視下に置くことを懇請します」。皇帝は慌ただしく「もはや遅い」と言うのみで採用せず、咸陽へ向かった。夜になって到着し数口の粥を啜るだけで再出発した。 事態が突然だったため群臣は天子の行方すら知らず、盧杞と関播は中書省の塀を越えて脱出。白志貞・王翃・御史大夫于頎・中丞劉従一・戸部侍郎趙賛・翰林学士陸贄・吴通微らが咸陽でようやく追いついた。于頎は□(原文欠字)の又従兄弟、劉従一は劉斉賢の従孫である。 賊軍は宮中に乱入し含元殿に登って叫んだ。「天子逃亡! 各自好きにせよ!」と。兵士たちは府庫へ殺到して金銀を奪いあい、力尽きるまで略奪した。庶民も便乗して盗みに入り、夜通し繰り返す者、路上で強奪する者が続出した。住民は自警団を組織して防衛にあたった。 姚令言が乱兵と謀議した。「このままでは統制が効かぬ。隠居中の朱太尉(朱泚)を担ごう」。数百騎を晋昌里の邸へ派遣し朱泚を迎えさせた。夜半、松明を掲げて入城した朱泚は含元殿で警備を厳とし「六軍総帥代理」を自称。翌戊申日未明には白華殿に移り布告を発した。「涇原将士は辺境勤務が長く朝廷の礼儀を知らぬため、誤って宮中乱入・天子逃避という事態を招いた。本官(朱泚)が六軍臨時総帥として諸軍と百官に命ずる―俸禄を受ける者は全員行在所へ参じよ」と。 解説
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| 不能往者,即詣本司。若出三日,檢勘彼此無名者,皆斬!」於是百官出見泚。或勸迎乘輿,泚不悅,百官稍稍遁去。 源休以使回紇還,賞薄,怨朝廷,入見泚,屏人密語移時,為泚陳成敗,引符命,勸之僭逆。泚喜,然猶未決。宿衛諸軍舉白幡降者,列於闕前甚眾。泚夜於苑門出兵,旦自通化門入,駱驛不絕,張弓露刃,欲以威眾。 上思桑道茂之言,自咸陽幸奉天。縣僚聞車駕猝至,欲逃匿山谷,主簿蘇弁止之。弁,良嗣之兄孫也。文武之臣稍稍繼至。己酉,左金吾大將軍渾瑊至奉天。瑊素有威望,眾心恃之稍安。 庚戌,源休勸朱泚禁十城門,毋得出朝士,朝士往往易服為傭僕潛出。休又為泚說誘文武之士,使之附泚。檢校司空、同平章事李忠臣久失兵柄,太僕卿張光晟自負其才,皆鬱鬱不得志,泚悉起而用之。工部侍郎蔣鎮出亡,墜馬傷足,為泚所得。先是,休以才能,光晟以節義,鎮以清素,都官員外郎彭偃以文學,太常卿敬釭以勇略,皆為時人所重,至是皆為泚用。 鳳翔、涇原將張廷芝、段誠諫將數千人救襄城,未出潼關,聞朱泚據長安,殺其大將隴右兵馬使戴蘭,潰歸於泚。泚於是自謂眾心所歸,反謀遂定,以源休為京兆尹、判度支,李忠臣為皇城使。百司供億,六軍宿門,鹹擬乘輿。 辛亥,以渾瑊為京畿、渭北節度使,行在都虞候白志貞為都知兵馬使,令狐建為中軍鼓角使,以神策都虞候侯仲莊為左衛將軍兼奉天防城使。 |
現代日本語訳:「来られない者は直ちに本庁へ出頭せよ。3日経過後も双方の名簿に記載がない者は全員斬首とする!」この命令により官僚たちは朱泚のもとに赴いた。ある者が皇帝(乗輿)を迎えるよう勧めたが、朱泚は不機嫌になり、役人たちは次々と逃亡した。 源休は回紇への使者任務から戻った後、恩賞が少なかったため朝廷に怨恨を持ち、朱泚に面会して周囲を退け長時間密談した。彼は成敗の道理を述べ天命を示す符瑞(ふずい)を引用し、僭越な謀反を勧めた。朱泚は喜んだが決断できなかった。宿衛軍で白旗を掲げ投降する兵士たちが宮門前に多数列を作った。朱泚は夜間に御苑の門から兵を出し、明け方に通化門から入城させた。行列は絶え間なく続き、弓を構え刃を露わにして民衆を威嚇した。 皇帝(徳宗)は桑道茂の予言を思い出し、咸陽から奉天へ避難した。県役人は天子の突然の到着に山中逃亡を図ったが、主簿・蘇弁が制止した。彼は唐初の宰相・蘇良嗣の兄孫である。文武官も次々と奉天に集まった。己酉(6日)、左金吾大将軍渾瑊(こんかん)到着。元来の威望で人心はやや落ち着いた。 庚戌(7日)、源休が「長安十門を封鎖し官僚外出禁止」と献策すると、役人たちは使用人に変装して密かに脱出した。源休はさらに文武官を誘い朱泚帰順を勧めた。検校司空・同平章事李忠臣(りちゅうしん)は兵権喪失後不遇で、太僕卿張光晟(ちょうこうせい)も才能自負の鬱憤を抱えており、朱泚に登用された。工部侍郎蔣鎮(しょうちん)逃亡中落馬して足負傷,捕らえられた。以前より源休の才幹・張光晟の節義・蔣鎮の清廉・都官員外郎彭偃(ほうえん)の文才・太常卿敬釭(けいこう)の武略は世人に重んじられていたが、この時全て朱泚勢力下に入った。 鳳翔・涇原の将軍張廷芝と段誠諫が数千兵を率いて襄城救援へ向かう途中、潼関手前で「朱泚長安占拠」を知り配下の隴右兵馬使戴蘭(たいらん)を殺害して敗走,朱泚に降伏した。これにより朱泚は民心が己に向いたと確信し謀反決断。源休を京兆尹・財務長官(判度支)、李忠臣を皇城警備総監(皇城使)に任命。朝廷の供応体制や六軍配置も皇帝同様に整えた。 辛亥(8日)、渾瑊が京畿・渭北節度使、行在都虞候白志貞は兵馬指揮官(都知兵馬使)、令狐建(れいこけん)は中軍信号司令(鼓角使)、神策都虞候侯仲莊(こうちゅうそう)は左衛将軍兼奉天城防司令に就任した。 解説:
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| 朱泚以司農卿段秀實久失兵柄,意其必怏怏,遣數十騎召之。秀實閉門拒之,騎士逾垣入,劫之以兵。秀實自度不免,乃謂子弟曰:「國家有患,吾於何避之,當以死徇社稷;汝曹宜人自求生。」乃往見泚。泚喜曰:「段公來,吾事濟矣。」延坐問計。秀實說之曰:「公本以忠義著聞天下,今涇軍以犒賜不豐,遽有披猩,使乘輿播越。夫犒賜不豐,有司之過也,天子安得知之!公宜以此開諭將士,示以禍福,奉迎乘輿,復歸宮闕,此莫大之功也!」泚默然不悅,然以秀實與己皆為朝廷所廢,遂推心委之。左驍衛將軍劉海濱、涇原都虞候何明禮、孔目官岐靈岳,皆秀實素所厚也,秀實密與之謀誅泚,迎乘輿。 上初至奉天,詔征近道兵入援。有上言:「朱泚為亂兵所立,且來攻城,宜早修守備。」盧杞切齒言曰:「朱泚忠貞,群臣莫及,奈何言其從亂,傷大臣心!臣請以百口保其不反。」上亦以為然。又聞群臣勸泚奉迎,乃詔諸道援兵至者皆營於三十里外。姜公輔諫曰:「今宿衛單寡,防慮不可不深,若泚竭忠奉迎,何憚於兵多;如其不然,有備無患。」上乃悉召援兵入城。盧杞及白志貞言於上曰:「臣觀朱泚心跡,必不至為逆,願擇大臣入京城宣慰以察之。」上以問從臣皆畏憚,莫敢行。金吾將軍吳漵獨請行,上悅。漵退而告人曰:「食其祿而違其難,何以為臣!吾幸托肺附,非不知往必死,但舉朝無蹈難之臣,使聖情慊慊耳!」遂奉詔詣泚。 |
現代日本語訳朱泚は司農卿・段秀実が長く兵権を失っているのを知り、彼がきっと不満に思っているだろうと考えたため、数十騎の兵士を使わして召し出そうとした。しかし秀実は門を閉ざして拒絶したため、兵士たちは塀を越えて侵入し、武器で脅迫して連行しようとした。段秀実はこれが避けられないと悟ると、子弟に向かって言った。「国家に災いがあるとき、私がどうして逃れることができようか。命を捨てて国に殉じるべきだ。お前たちはそれぞれ自分の生きる道を見つけるがよい。」こうして朱泚のもとに赴いた。 朱泚は喜んで言った。「段公がいらっしゃれば、私の計画は成就するでしょう。」席につかせて策略を尋ねたところ、秀実は次のように説得した。「貴方はもともと忠義をもって天下に知られていました。今、涇原軍が恩賞不足を理由に突然反乱し、天子(皇帝)の行幸をおそれさせました。しかし恩賜不十分とは役所の過失であり、天子にはどうしてその事情がわかるでしょうか!貴方はこの道理をもって将士たちを教え導き、禍福を示したうえで天子を奉迎し宮殿に帰還させるべきです。これこそ最大の功績となります。」 朱泚は黙り込み不満そうだったが、秀実と自分が共に朝廷から冷遇された身だと考えるうちに次第に心を開いて彼を信頼した。左驍衛将軍・劉海賓や涇原都虞候(軍事監察官)の何明礼、孔目官(書記官)の岐霊岳らは皆、秀実が以前から厚遇していた人物であったため、秀実は彼らと密かに朱泚誅殺計画を進めながら天子を迎え入れようとした。 皇帝(徳宗)が奉天に到着した当初、詔勅で近隣の軍勢に救援兵派遣を求めた。その際「朱泚が反乱兵によって擁立され、まもなく攻めてくる可能性があるので早急な守備強化が必要です」との進言があった。しかし盧杞は激怒してこう述べた。「朱泚ほどの忠誠心を持つ者は他にいません!なぜ謀叛人扱いするのか?これでは大臣の心情を傷つけます!私は一族百人の命をもって彼が反逆しないことを保証します。」皇帝もその意見に同調した。 さらに「群臣が朱泚に天子奉迎を勧めている」との報告を受けると、救援軍に対して到着後は三十里(約15km)外で待機せよと詔令を下した。これに対し姜公輔が諫言した。「現在の護衛兵力ではあまりにも手薄です。万一に備えた警戒が必要不可欠でしょう。朱泚が真心を持って天子奉迎するなら兵数が多いことを恐れる必要はありませんし、もしそうでない場合でも『備えあれば憂いなし』というものです。」皇帝はこの意見を容れて救援軍全員の入城を許可した。 盧杞と白志貞(実権を持つ宦官)が「朱泚の心中を見極めるため大臣を選んで長安へ派遣し慰問させてはいかがでしょうか」と進言すると、随行していた臣下たちは皆恐れおののき誰も名乗り出なかった。ただ金吾将軍・呉漵だけが志願したので皇帝は喜んだ。退廷後、彼は人に語った。「禄を食みながら困難から逃れるとは何事か?これでは臣下の務めを果たせない!私は天子と深い縁がある身であることを自覚している。行けば必ず死ぬこともわかるが──朝廷全体に危難に向かう者が誰もおらず、聖上(皇帝)をお嘆かせするのが耐えられなかったのだ。」こうして詔命を奉じて朱泚のもとへ向かった。 解説
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| 泚反謀已決,雖陽為受命,館漵於客省,尋殺之。漵,湊之兄也。 泚遣涇原兵馬使韓旻將銳兵三千,聲言迎大駕,實襲奉天。時奉天守備單弱,段秀實謂岐靈岳曰:「事急矣!」使靈岳詐為姚令言符,令旻且還,當與大軍俱發。竊令言印未至,秀實倒用司農印印符,募善走者追之。旻至駱驛,得符而還。秀實謂同謀曰:「旻來,吾屬無類矣!我當直搏泚殺之,不克則死,終不能為之臣也!」乃令劉海賓、何明禮陰結軍中之士,欲使應之於外。旻兵至,泚、令言大驚。岐靈岳獨承其罪而死,不以及秀實等。 是日,泚召李忠臣、源休、姚令言及秀實等議稱帝事。秀實勃然起,奪休象笏,前唾泚面,大罵曰:「狂賊!吾恨不斬汝萬段,豈從汝反邪!」因以笏擊泚,泚舉手扞之,才中其額,濺血灑地。泚與秀實相搏忷忷,左右猝愕,不知所為。海賓不敢進,乘亂而逸。忠臣前助泚,泚得匍匐脫走。秀實知事不成,謂泚黨曰:「我不同汝反,何不殺我!」眾爭前殺之。泚一手承血,一手止其眾曰:「義士也,勿殺。」秀實已死,泚哭之甚哀,以三品禮葬之,海賓縗服而逃,後二日,捕得,殺之。亦不引何明禮。明禮從泚攻奉天,復謀殺泚,亦死。上聞秀實死,恨委用不至,涕泗久之。 壬子,以少府監李昌雛為京畿、渭南節度使。 鳳翔節度使、同平章事張鎰,性儒緩,好修飾邊幅,不習軍事,聞上在奉天,欲迎大駕,具服用貨財,獻於行在。 |
現代日本語訳朱泚(すいし)は反乱計画を既に決断していたが、表面上は朝廷からの命令を受け入れるふりをして姜漵(きょうちょ)を賓客用施設に滞在させた後、すぐに殺害した。姜漵は名臣・姜湊の兄であった。 朱泚は涇原兵馬使・韓旻(かんびん)に精鋭三千を率いさせ、「皇帝を奉迎する」と偽装して奉天城を急襲させる手はずだった。当時、奉天守備軍は脆弱であり、段秀実(だんしゅうじつ)が岐霊岳(きれいがく)に「事態は極めて緊迫している!」と警告した上で対策を協議。霊岳に偽造命令書を持たせて韓旻軍に撤退を命じる工作を行わせた。姚令言(ようれいげん)の印章入手に失敗すると、段秀実はやむなく司農卿として所有する印判を逆さに押して偽文書を作成し、足の速い使者で追跡させたため韓旻軍は駱駅付近で命令を受け撤退した。 この後、段秀実は同志へ「韓旻が戻れば我々皆殺しだ。私が直接朱泚を刺す。失敗すれば死ぬだけであり、逆賊の臣下となるのは断じて拒む」と宣言し劉海賓(りゅうかいひん)・何明礼(かめいれい)に軍内での決起準備を指示した。 韓旻軍帰還に朱泚らが驚愕する中、岐霊岳は単独で偽造命令書の罪を被って処刑され、段秀実らの関与は露見しなかった。 同日開かれた皇帝僭称会議において、段秀実は源休(げんきゅう)から奪った象牙の笏を握り朱泚に猛然と詰め寄る。「逆賊め!お前を斬り刻みたいのは山々だ!」と叫び顔面へ唾吐きかけた後、笏で殴打。額を割られた朱泚が流血しながら抵抗する混乱の中で劉海賓は逃亡し李忠臣(りちゅうしん)のみが加勢した。 事態失敗を悟った段秀実が「謀反に協力しない私を殺せ!」と叫ぶと、周囲の者たちが斬りかかり絶命。血まみれの朱泚は「義士である」と制止したが時既に遅く、涙ながらに三品官礼で厚葬した。逃亡した劉海賓も捕縛処刑(何明礼への追求はなし)。後に奉天攻防戦中に再び朱泚暗殺を企てた何明礼も死亡した。 皇帝(徳宗)は段秀実の死を知り「彼をもっと重用すべきだった」と深く悔恨し、長く涙を流したという。 ※壬子日:少府監・李昌雛が京畿・渭南節度使に任命される。 ※鳳翔節度使・張鎰(ちょういつ)は温厚で身なりに凝る文官型の人物であり軍事知識がない。皇帝奉天行幸を知ると豪華な貢物を準備して出迎えを計画した。 解説
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| 後營將李楚琳,為人剽悍,軍中畏之,嘗事朱泚,為泚所厚。行軍司馬齊映與同幕齊抗言於鎰曰:「不去楚琳,必為亂首。」鎰命楚琳出屯隴州。楚琳托事不時發。鎰方以迎駕為憂,謂楚琳已去矣。楚琳夜與其黨作亂,鎰縋城而走,賊追及,殺之,判官王沼等皆死。映自水竇出,抗為傭保負荷而逃,皆免。 始,上以奉天迫隘,欲幸鳳翔。戶部尚書蕭復聞之,遽請見曰:「陛下大誤,鳳翔將卒皆朱泚故部曲,其中必有與之同惡者。臣尚憂張鎰不能久,豈得以鑾輿蹈不測之淵乎!」上曰:「吾行計已決,試為卿留一日。」明日,聞鳳翔亂,乃止。 齊映、齊抗皆詣奉天,以映為御史中丞,抗為侍御史。楚琳自為節度使,降於朱泚。隴州刺史郝通奔於楚琳。 商州團練兵殺其刺史謝良輔。 朱泚自白華殿入宣政殿,自稱大秦皇帝,改元應天。癸丑,泚以姚令言為侍中、關內元帥,李忠臣為司空兼侍中,源休為中書侍郎、同平章事、判度支,蔣鎮為吏部侍郎,樊系為禮部侍郎,彭偃為中書舍人,自餘張光晟等各拜官有差。立弟滔為皇大弟。姚令言與源休共掌朝政,凡泚之謀畫、遷除、軍旅、資糧,皆稟示休。休勸泚誅翦宗室在京城者以絕人望,殺郡王、王子、王孫凡七十七人。尋又以蔣鎮為門下侍郎,李子平為諫議大夫,並同平章事。鎮憂懼,每懷刀欲自殺,又欲亡竄,然性怯,竟不果。 |
現代日本語訳後営将軍の李楚琳は凶暴な性格で兵士たちに恐れられており、以前朱泚に仕えて重用されていた。行軍司馬の斉映と同僚の斉抗が張鎰に「楚琳を排除しなければ必ず反乱の首謀者となる」と進言したため、張鎰は楚琳を隴州駐屯へ命じた。しかし楚琳は口実を作り出発せず、天子(徳宗)奉迎準備で忙しい張鎰が「すでに出立した」と思い込んだ隙に夜襲を決行。城壁から縄で脱出中の張鎰は賊兵に捕らえられ殺害され、判官王沼らも死亡した。斉映は水路から、斉抗は人夫に変装して逃亡し難を逃れた。 一方、奉天城の狭さを理由に鳳翔行幸を計画していた皇帝(徳宗)に対し、戸部尚書蕭復が急ぎ謁見:「陛下の判断は誤りです。鳳翔将兵は朱泚旧部下ばかりで、同調者もいるはず。張鎰すら危うい状況なのに御輿を危険に晒せますか」と直諫した。「計画変更しよう」と言った翌日、鳳翔叛乱の報が入り行幸は中止となった。 奉天城へ逃れた斉映・斉抗は御史中丞・侍御史に任命される。一方、李楚琳は自ら節度使を名乗り朱泚に降伏し、隴州刺史郝通も彼の下へ逃亡した。商州では団練兵が刺史謝良輔を殺害。 この頃長安で朱泚は白華殿から宣政殿に入り「大秦皇帝」と称して元号を応天に改めた。癸丑(じゅつちゅう)の日には姚令言を侍中・関内元帥、李忠臣を司空兼侍中に任命し、源休を実権ある中書侍郎・同平章事・判度支に登用。蔣鎮らにも官職を与え、弟朱滔を皇太弟とした。朝廷運営は姚令言と源休が掌握し、源休の助言で長安在住の皇族77人を虐殺して唐王朝への期待を断ち切った。その後蒋鎮も同平章事に加わったものの恐怖の余り常に短刀を持って自害しようとしたが、結局決断できず逃亡もしなかった。 歴史的考察
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| 源休勸泚誅朝士之竄匿者以脅其餘,鎮力救之,賴以全者甚眾。樊系為泚撰冊文,既成,仰藥而死。大理卿膠水蔣沇詣行在,為賊所得,逼以官,沇絕食稱病,潛竄得免。 哥舒曜食盡,棄襄城奔洛陽。李希烈陷襄城。 右龍武將軍李觀將衛兵千餘人從上於奉天,上委之召募,數日,得五千餘人,列之通衢,旗鼓嚴整,城人為之增氣。 姚令言之東出也,以兵馬使京兆馮河清為涇原留後,判官河中姚況知涇州事。河清、況聞上幸奉天,集將士大哭,激以忠義,發甲兵、器械百餘車,通夕輸行在。城中方苦無甲兵,得之,士氣大振。詔以河清為四鎮、北庭行營、涇原節度使,況為行軍司馬。 上至奉天數日,右僕射、同平章事崔寧始至,上喜甚,撫勞有加。寧退,謂所親曰:「主上聰明英武,從善如流,但為盧杞所惑,以至於此!」因潸然出涕。杞聞之,與王翃謀陷之。翃言於上曰:「臣與寧俱出京城,寧數下馬便液,久之不至,有顧望意。」會朱泚下詔,以左丞柳渾同平章事,寧為中書令。渾,襄陽人也,時亡在山谷。翃使盩厔尉康湛詐為寧遺朱泚書,獻之。杞因譖寧與朱泚結盟,約為內應,故獨後至。乙卯,上遣中使引寧就幕下,雲宣密旨,二力士自後縊殺之,中外皆稱其冤。上聞之,乃赦其家。 朱泚遣使遺朱滔書,稱:「三秦之地,指日克平;大河之北,委卿除殄,當與卿會於洛陽。 |
現代日本語訳源休が逃亡した朝廷官僚の処刑を進言して他の者を脅そうとしたが、李勉(鎮)は必死に庇い、多くの者が命を救われた。樊系は朱泚のために即位宣言書を作成すると服毒自殺し、大理卿・膠水出身の蔣沇は皇帝のもとへ向かう途中で反乱軍に捕らえられるが、断食して病を装い逃亡した。 哥舒曜は兵糧尽きて襄城から洛陽へ敗走し、李希烈が同地を占拠する。右龍武将軍・李觀は千余りの衛兵を率いて奉天で皇帝に合流すると、新兵募集の任を受け数日で五千余人を集め、大通りに威容整然と布陣させたため城内の士気が高まった。 姚令言の東進後、馮河清(京兆出身)が涇原留後に任命されると、判官・姚況(河中出身)らは皇帝が奉天へ逃れたことを知り将兵を集めて号泣しながら忠義心で鼓舞し、武具百台分を徹夜で輸送。武器不足に悩む奉天軍の士気は大いに回復したため、詔勅により馮河清は四鎮・北庭行営兼涇原節度使、姚況は行軍司馬となった。 皇帝到着数日後、宰相崔寧が遅れて合流すると厚遇されたが、彼は側近に「陛下は聡明なのに盧杞に惑わされてこうなった」と泣きながら語る。この発言を知った盧杞は王翃共謀し、「崔寧は途中で何度も用足すふりをして遅れ、二心あり」と讒言した際、たまたま朱泚から「左丞・柳渾(襄陽出身)を宰相に、崔寧を中書令に任命する」との偽詔が届く。王翃は役人に命じ「崔寧から朱泚への内通文書」を捏造させて献上し、盧杞は「彼は遅れて来た陰謀者だ」と告発したため皇帝の勅命で宦官が幕舎へ誘い出し、背後から力士に縊殺させる。朝廷内外では冤罪との声が高まり後日家族は赦免された。 朱泚は兄・朱滔へ書簡を送り「長安周辺は平定目前だから黄河以北の掃討を任せる。洛陽で合流しよう」と記した。 解説背景: 「奉天の難」(783年)における唐王朝の危機描写。徳宗皇帝が反乱軍から逃れ地方官軍に支えられる中、人間模様と権謀術数を活写する『資治通鑑』特有の筆致を反映。 注目点
訳出方針
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| 」滔得書,西向舞蹈宣示軍府,移牒諸道,以自誇大。 上遣中使告難於魏縣行營,諸將相與慟哭。李懷光帥眾赴長安,馬燧、李艽各引兵歸鎮,李抱真退屯臨洺。 丁巳,以戶部尚書蕭復為吏部尚書,吏部郎中劉從一為刑部侍郎,翰林學士姜公輔為諫議大夫,並同平章事。 朱泚自將逼奉天,軍勢甚盛。以姚令言為元帥,張光晟副之,以李忠臣為京兆尹、皇城留守,仇敬忠為同、華等州節度使、拓東王,以扞關東之師,李日月為西道先鋒經略使。 邠寧留後韓游瑰,慶州刺史論惟明,監軍翟文秀,受詔將兵三千拒泚於便橋,與泚遇於醴泉。游瑰欲還趣奉天,文秀曰:「我向奉天,賊亦隨至,是引賊以迫天子也。不若留壁於此,賊必不敢越我向奉天。若不顧而過,則與奉天夾攻之。」游瑰曰:「賊強我弱,若賊分軍以綴我,直趣奉天,奉天兵亦弱,何夾攻之有!我今急趣奉天,所以衛天子也。且吾士卒饑寒而賊多財,彼以利誘吾卒,吾不能禁也。」遂引兵入奉天,泚亦隨至。官軍出戰,不利,泚兵爭門,欲入。渾瑊與游瑰血戰竟日。門內有草車數乘,瑊使虞候高固帥甲士以長刀斫賊,皆一當百,曳車塞門,縱火焚之。眾軍乘火擊賊,賊乃退。會夜,泚營於城東三里,擊柝張火,佈滿原野,使西明寺僧法堅造攻具,毀佛寺以為梯沖。韓游瑰曰:「寺材皆乾薪,但具火以待之。 |
現代日本語訳:滔(田悦配下)は書状を受け取ると、西の方角に向かって舞踊して礼を尽くし軍府に公示した。さらに諸道へ移牒文を送り自らの功績を誇示した。 皇帝(徳宗)は中使を使者として魏県の行営に危急を通達すると、将帥たちは声を揃えて慟哭した。李懐光は軍勢を率いて長安へ救援に向かい、馬燧と李艽は各々兵を引いて本鎮に帰還し、李抱真は後退して臨洺に駐屯した。 丁巳(二十日)、戸部尚書の蕭復を吏部尚書に任命。吏部郎中・劉従一を刑部侍郎へ、翰林学士・姜公輔を諫議大夫に抜擢し、いずれも同平章事(宰相職)とした。 朱泚みずから軍を率いて奉天城に迫り、その兵勢は極めて盛大であった。姚令言を元帥、張光晟を副将とし、李忠臣を京兆尹兼皇城留守に任じた。仇敬忠には同州・華州など諸州の節度使兼拓東王として関東軍に対する防衛を担当させ、李日月は西道先鋒経略使とした。 邠寧留後(代理長官)韓游瓌と慶州刺史論惟明、監軍翟文秀は詔勅を受け三千兵を率い便橋で朱泚軍の迎撃に向かったが、醴泉で敵軍と遭遇した。遊瓌が奉天城への撤退を提案すると、文秀は反対し「我々が奉天へ向かえば賊も追って来る。これでは天子に災いをもたらすだけだ。ここに駐屯すれば賊は迂回せざるを得ず、もし無視して通過すれば挟撃できる」と主張した。しかし遊瓌は「敵強く我弱し。仮に賊が別動隊で足止めしながら主力を奉天へ向かわせたらどうする?奉天の守備も脆弱だ。今急ぐのは天子護衛のためである。加えて我が兵士は飢え寒さに苦しみ、賊軍には財貨が豊富にある。彼らに利で誘われれば統制が効かなくなる」と反論した。 結局遊瓌は奉天城へ入り、朱泚も追撃してきた。官軍の迎撃は失敗し、敵兵は城門争奪戦を展開した。渾瑊と遊瓌は終日血戦を続け、城内に放置された数台の藁車を防壁として活用。虞候(近衛隊長)高固に甲冑兵を率いさせ長刀で斬り込ませると一騎当千の奮闘を見せ、藁車を引きずって城門を塞ぎ火を放った。官軍は炎を盾に逆襲し敵軍を撃退した。 日没後、朱泚は奉天城東三里に陣営を敷き、警戒の拍子木と篝火で野原を埋め尽くした。西明寺僧・法堅に攻城兵器製造を命じると、仏像を破壊して雲梯や衝車を作らせた。これを見た韓游瓌は言った。「寺院材木は完全に乾燥している。火攻めの準備さえ整えればよい」と。 注釈解説:
※原文掲載・ルビ付記は厳に控えました。 Translation took 2035.5 seconds. |
| 」固,侃之玄孫也。泚自是日來攻城,瑊、游瑰等晝夜力戰。幽州兵救襄城者聞泚反,突入潼關,歸泚於奉天,普潤戍卒亦歸之,有眾數萬。 上與陸贄語及亂故,深自克責。贄曰:「致今日之患,皆群臣之罪也。」上曰:「此亦天命,非由人事。」贄退,上疏,以為:「陛下志壹區宇,四征不庭,凶渠稽誅,逆將繼亂,兵連禍結,行及三年,征師日滋,賦斂日重,內自京邑,外洎邊陲,行者有鋒刃之憂,居者有誅求之困。是以叛亂繼起,怨讟並興,非常之虞,億兆同慮,唯陛下穆然凝邃,獨不得聞,至使凶卒鼓行,白晝犯闕,豈不以乘我間隙,因人攜離哉!陛下有股肱之臣,有耳目之任,有諫諍之列,有備衛之司,見危不能竭其誠,臨難不能效其死。臣所謂致今日之患,群臣之罪者,豈徒言歟!聖旨又以國家興衰,皆有天命。臣聞天所視聽,皆因於人。故祖伊責紂之辭曰:『我生不有命在天!』武王數紂之罪曰:『乃曰吾有命,罔懲其侮。』此又舍人事而推天命必不可之理也!《易》曰:『視履考祥。』又曰:『吉凶者,失得之象。』此乃天命由人,其義明矣。然則聖哲之意,《六經》會通,皆謂禍福由人,不言盛衰有命。蓋人事理而天命降亂者,未之有也;人事亂而天命降康者,亦未之有也。自頃征討頗頻,刑網稍密,物力耗竭,人心驚疑,如居風濤,洶洶靡定。 |
訳文(現代日本語)固は、侃の玄孫である。朱泚はこれより後、毎日のように城を攻撃し、渾瑊や游瑰らは昼夜を問わず奮戦した。襄城救援のために派遣されていた幽州兵が朱泚の反乱を知ると、潼関に突入して奉天で朱泚軍に合流し、普潤の守備兵もこれに従ったため、その兵力は数万に膨れ上がった。 皇帝(徳宗)が陸贄と戦乱の原因について語り合う中で深く自責の念を示すと、陸贄は言った。「今日の禍を招いたのは、全て臣下たちの罪です」。これに対し皇帝は「これは天命によるものであり、人の力ではどうにもならなかった」と言い放った。陸贄が退出後、上疏して論じた。 「陛下は天下統一を志し、反逆者を四方に征伐されました。しかし賊の首領は誅殺されず、逆将たちは続々と乱を起こしました。戦争は長期化し災いは連鎖し、既に三年が経過しています。兵士の徴発は日増しに激しく、税や賦役は重くなる一方です。都城内から辺境まで、出征する者は死の危険に晒され、残留する者も搾取と困窮にあえいでいます。このため反乱が相次ぎ怨嗟の声が湧き起こり、未曾有の危機を億兆の民が共に憂慮しているのに、ただ陛下のみが深く静謐な内省の中でこれをお聞きにならない。結果、凶暴な兵卒たちが公然と皇居へ乱入する事態を招いたのです――まさしく我々の隙をつかれ民心の離反を利用されたからこそでしょう!」 「陛下には股肱の臣もおられれば諫言をする立場の者もおり、防衛を担う部署もあります。しかし彼らは危機に際して誠意を尽くさず、有事にも命を捧げようとしなかったのです。私が『今日の禍は群臣の罪』と申したのは決して空虚な言葉ではございません!」 「陛下はさらに国家の盛衰を天命によるとおっしゃいました。私はこう聞いております:天が見聞きするものは全て人間を通じてである、と。殷の祖伊が紂王を責めた『我生くるや命あらずんば天に在りや』という言葉も、周の武王が数えた紂王の罪状『吾れ命あるありと言いて侮りを悔い改めず』も――これらはまさしく人事を捨て天命のみを頼る不合理を示しております」 「易経には『行いを観て吉兆を察すべし』とも、『吉凶とは得失の現れである』とも記されています。つまり天命が人の行為に基づくことは明瞭です。聖賢たちが六経を通じて説いたのは全て『禍福は人為による』であって、盛衰が天命とされた例などないのです」 「人事を正しく行っているのに天が乱れを与えることなどありえず、人事が混乱しているのに天が平穏をもたらすことも同様にありえない。近年の頻繁な征伐や刑罰網の強化により物資は枯渇し人心は疑懼に満ちており、まるで風浪の中にある小船のように激しく揺れ動き安定しないのです」 解説
(訳注:固=周固、侃=陶侃。原文は司馬光による朱泚叛乱評議部分) Translation took 860.1 seconds. |
| 上自朝列,下達蒸黎,日夕族黨聚謀,鹹憂必有變故,旋屬涇原叛卒,果如眾庶所虞。京師之人,動逾億計,固非悉知算術,皆曉占書,則明致寇之由,未必盡關天命。臣聞理或生亂,亂或資理,有以無難而失守,有因多難而興邦。今生亂失守之事,則既往不可復追矣;其資理興邦之業,在陛下克勵而謹修之。何憂乎亂人,何畏乎厄運!勤勵不息,足致昇平,豈止蕩滌祆氛,旋復宮闕而已!」 田悅說王武俊,使與馬寔共擊李抱真於臨洺,抱真復遣賈林說武俊曰:「臨洺兵精而有備,未易輕也。今戰勝得地,則利歸魏博;不勝,則恆冀大傷。易、定、滄、趙,皆大夫之故地也,不如先取之。」武俊乃辭悅,與馬寔北歸,壬戌,悅送武俊於館陶,執手泣別,下至將士,贈遺甚厚。 先是,武俊召回紇兵,使絕李懷光等糧道,懷光等已西去,而回紇達干將回紇千人、雜虜二千人適至幽州北境。朱滔因說之,欲與俱詣河南取東都,應接朱泚,許以河南子女、金帛賂之。滔娶回紇女為側室,回紇謂之朱郎,且利其俘掠,許之。 賈林復說武俊曰:「自古國家有患,未必不因之更興。況主上九葉天子,聰明英武,天下誰肯捨之共事朱泚乎!滔自為盟主以來,輕蔑同列,河朔古無冀國,冀乃大夫之封域也。今滔稱冀王,又西倚其兄,北引回紇,其志欲盡吞河朔而王之,大夫雖欲為之臣,不可得矣。 |
現代日本語訳:朝廷上層から市井の庶民に至るまで、昼夜問わず人々が集い協議し、「近く必ず変事が起きる」と憂慮していたところ、間もなく涇原の兵卒が反乱を起こし、まさしく懸念通りとなった。都の人口は億単位に達する中で、全ての人々が算術や占書に通じているわけではない。ゆえに敵襲の原因は必ずしも天命によるものではなく、むしろ人為的な過失にあると明らかだ。 臣(進言者)が考えるに、「秩序ある治世」から乱が生じることもあれば、「混乱状態」が新たな秩序構築の契機となる場合もある。困難がないのに支配権を喪失する例も、多難だからこそ国力を高める例も存在する。今回発生した「混乱と喪失」は既に過去となり挽回できない。しかしながら「乱世を通じた国家再建」という事業は陛下が自ら奮起し慎重に推進されれば成就できる。何ぞ叛乱者を憂い、不運を恐れる必要があろうか!絶え間ない努力さえあれば必ず太平の世をもたらせるのであり、これは単なる反乱鎮圧や宮殿奪還以上の成果となるであろう。 (中略) 田悦が王武俊に働きかけ、馬寔と共同で臨洺の李抱真を攻撃させようとした際、李抱真は再び賈林を使者として派遣。賈林は王武俊に対し「臨洺軍は精鋭かつ防備堅固で容易には落ちません」と説得。「仮に勝利しても利益は魏博(田悦)が独占し、敗北すれば恒冀(王氏の領土)が大損害を受けます。易州・定州・滄州・趙州はいずれも貴方の旧領ですから、まずそれらを奪還されるのが得策」と進言した。王武俊は田悦からの要請を辞退し馬寔と共に北帰。壬戌の日(10月17日)、田悦は館陶まで見送り涙ながらに別れを惜しみ、将兵への贈り物も厚く行った。 以前より王武俊が回紇軍を招集して李懐光らの補給路を断たせていたところ、李懐光ら西去した後で回紇の達干(将官)率いる千人と他民族二千人が幽州北境に到着。朱滔はこれを利用し「共に河南へ赴き東都(洛陽)占拠を目指そう」と誘い、報酬として河南地域の子女・金品を与えると約束した。朱滔が回紇女性を側室とした縁で彼らから「朱郎」と呼ばれていたため、さらに略奪利益も期待して承諾。 賈林は再び王武俊へ進言:「歴史的に国家危機こそ復興の契機となる例が多い。ましてや皇帝陛下(徳宗)は九代続く正統天子で聡明英武なのです。天下の誰が朱泚に味方しましょうか?朱滔は盟主就任後、同輩を軽視し『冀王』と自称しましたが──河朔地方には本来『冀国』など存在せず、この称号こそ貴方(王武俊)の封地です。今や彼は西では兄(朱泚)に頼り北で回紇軍を引き入れ、河朔全域併呑を企てています。万が一実現すれば貴方は臣下となることすら叶わないでしょう」 解説:
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| 且大夫雄勇善戰,非滔之比。又本以忠義手誅叛臣,當時宰相處置失宜,為滔所誑誘,故蹉跌至此,不若與昭義並力取滔,其勢必獲。滔既亡,則泚自破矣。此不世之功,轉禍為福之道也。今諸道輻湊攻泚,不日當平。天下已定,大夫乃悔而歸國,則已晚矣!」時武俊已與滔有隙,因攘袂作色曰:「二百年天子吾不能臣,豈能臣此田舍兒乎!」遂密與抱真及馬燧相結,約為兄弟。然猶外事滔,禮甚謹,與田悅各遣使見滔於河間,賀朱泚稱尊號,且請馬寔之兵共攻康日知於趙州。 汝、鄭應援使劉德信將子弟軍在汝州,聞難,引兵入援,與泚眾戰於見子陵,破之。以東渭橋有轉輸積粟,癸亥,進屯東渭橋。 朱泚夜攻奉天東、西、南三面。甲子,渾瑊力戰卻之。左龍武大將軍呂希倩戰死。乙丑,泚復攻城,將軍高重捷與泚將李日月戰於梁山之隅,破之。乘勝逐北,身先士卒,賊伏兵擒之。其麾下十餘人奮不顧死,追奪之。賊不能拒,乃斬其首,棄其身而去。麾下收之入城,上親撫而哭之盡哀,結莆為首而葬之,贈司空。朱泚見其首,亦哭之曰:「忠臣也!」束蒲為身而葬之。李日月,泚之驍將也,戰死於奉天城下。泚歸其屍於長安,厚葬之。其母竟不哭,罵曰:「奚奴!國家何負於汝而反?死已晚矣!」及泚敗,賊黨皆族誅,獨日月之母不坐。 己巳,加渾瑊京畿、渭南、北、金商節度使。 |
現代日本語訳:なお大夫(王武俊)殿は勇猛果敢で戦術にも長け、朱滔ごときとは比べものにならぬ。そもそも忠義心から自ら反逆者を討ったのに、当時の宰相の処置が誤りであり、朱滔に欺かれたため失脚したのだ。いま昭義軍(李抱真)と協力して朱滔を討てば、必ず勝利を得られるだろう。朱滔さえ滅びれば、自然に朱泚も敗れる。これは千載一遇の功業であり、禍を転じて福となす道である。諸道の軍勢が集結し朱泚を攻めている今や、間もなく平定されようとしている。天下が定まった後に後悔しても遅すぎる!」 当時王武俊は既に朱滔との間にわだかまりがあり、この言葉で袖をまくって激昂した。「二百年続いた唐王朝にも臣下として仕えなかった私が、田舎者(朱滔)の家来になるものか!」こうして密かに李抱真と馬燧と同盟し兄弟の契りを結んだ。しかし表向きは依然として朱滔に従い、恭順の礼を示した。(田悦も同様で)両者は河間に使者を送り、朱泚が帝位についたことを祝賀するとともに、配下の馬寔の軍勢を借りて趙州の康日知を攻めるよう要請した。 汝鄭応援使・劉徳信は子弟兵を率いて汝州に駐屯していたが、(長安での叛乱という)危機を知ると軍を進めて救援に向かい、見子陵で朱泚軍と交戦して勝利した。東渭橋には物資や食糧が蓄積されていたため、癸亥の日(12月15日)、そこに駐屯地を移した。 朱泚は夜間に奉天城の東西南三面から攻撃を仕掛けた。甲子の日(16日)、渾瑊の奮戦によりこれを退けるも左龍武大将軍・呂希倩が戦死した。乙丑の日(17日)、再び攻城が始まると、将軍・高重捷が梁山の麓で朱泚配下の李日月と交戦し勝利した。(勢いに乗って敗走する敵を)自ら先頭に立って追撃中、賊兵の伏兵に捕えられた。部下十余名は生死も顧みず突進して奪還しようとしたため、賊軍は防ぎきれず(やむなく高重捷の)首を斬り捨て去った。遺骸を城内へ運び込むと皇帝(徳宗)自ら撫でながら慟哭し、蒲草で仮の首級を作って丁寧に葬るとともに「司空」の称号を追贈した。 一方朱泚もその首を見て泣き言った。「忠臣であったのに!」そして蒲草で胴体を補い埋葬した。李日月は朱泚軍屈指の勇将だったが奉天城下で戦死し、遺骸は長安に送られ厚葬された。しかし彼の母親は一滴も涙を見せず罵った。「小僧め!国から何の恩恵を受けなかったというのか?反逆して今さら死んでも遅いわ!」後に朱泚が敗れると賊軍幹部の家族は皆殺しとなったが、彼女だけは連座を免れた。 己巳の日(21日)、渾瑊に京畿・渭南北・金商節度使の官職が加えられた。 解説:
※現代語訳に際し固有名詞(王武俊/朱泚等)は原文通り表記、官職名・地名には適宜説明を付加。「北に逐う」(敗走兵追撃)など漢文特有表現は口語的に再構成した。 Translation took 2028.1 seconds. |
| 壬申,王武俊與馬寔至趙州城下。 初,朱泚鎮鳳翔,遣其將牛雲光將幽州兵五百人戍隴州,以隴右營田判官韋皋領隴右留後。及郝通奔鳳翔,牛雲光詐疾,欲俟皋至,伏兵執之以應泚,事洩,帥其眾奔泚。至汧陽,遇泚遣中使蘇玉繼詔書加皋中丞,玉說雲光曰:「韋皋,書生也。君不如與我俱之隴州,皋幸而受命,乃吾人也。不受命,君以兵誅之,如取孤犬屯耳!」雲光從之。皋從城上問雲光曰:「曏者不告而行,今而復來,何也?」雲光曰:「曏者未知公心,今公有新命,故復來,願托腹心。」皋乃先納蘇玉,受其詔書,謂雲光曰:「大使苟無異心,請悉納甲兵,使城中無疑,眾乃可入。」雲光以皋書生,易之,乃悉以甲兵輸之而入。明日,皋宴玉、雲光及其卒於郡捨,伏甲誅之。築壇,盟將士曰:「李楚琳賊虐本使,既不事上,安能恤下,宜相與討與!」遣兄平、弇詣奉天,復遣使求援於吐蕃。 |
現代日本語訳壬申の日、王武俊と馬寔が趙州城下に到着した。 解説
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| input text 資治通鑑\229_唐紀_45.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷二百二十九 唐紀四十五 起昭陽大淵獻十一月,盡閼逢困敦正月,不滿一年。 德宗神武聖文皇帝四建中四年(癸亥,公元七八三年) 十一月,丁亥,以隴州為奉義軍,擢皋為節度使。泚又使中使劉海廣許皋鳳翔節度使。皋斬之。 靈武留後杜希全、鹽州刺史戴休顏、夏州刺史時常春會渭北節度使李建徽,合兵萬人入援,將至奉天,上召將相議道所從出。關播、渾瑊曰:「漠谷道險狹,恐為賊所邀。不若自乾陵北過,附柏城而行,營於城東北雞子堆,與城中掎角相應,且分賊勢。」盧杞曰:「漠谷路近,若為賊所邀,則城中出兵應接可也。倘出乾陵,恐驚陵寢。」瑊曰:「自泚圍城,斬乾陵松柏,以夜繼晝,其驚多矣。今城中危急,諸道救兵未至,惟希全等來,所繫非輕,若得營據要地,則泚可破也。」杞曰:「陛下行師,豈比逆賊!若令希全等過之,是自驚陵寢。」上乃命希全等自漠谷進。丙子,希全等軍至漠谷,果為賊所邀,乘高以大弩、巨石擊之,死傷甚眾。城中出兵應接,為賊所敗。是夕,四軍潰,退保邠州。泚閱其輜重於城下,從官相視失色。休顏,夏州人也。泚攻城益急,穿塹環之。泚移帳於乾陵,下視城中,動靜皆見之。時遣使環城招誘士民,笑其不識天命。 神策河北行營節度使李晟疾愈,聞上幸奉天,帥眾將奔命。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』巻二百二十九 唐紀四十五より抜粋) 建中四年(西暦783年)十一月の条: 霊武留後(代理長官)杜希全・塩州刺史戴休顔・夏州刺史時常春らは渭北節度使李建徽と合流し、総勢一万の兵を率いて奉天救援へ向かった。軍が奉天に迫った際、徳宗皇帝は将相を召して進軍ルートを協議させた。関播と渾瑊は「漠谷道は険しく狭いため賊軍に待ち伏せされる恐れがある。乾陵の北側を通り柏城沿いに進み、城東北の鶏子堆で陣営を構えるのが良いでしょう。これにより城内と挟撃態勢を築き、敵軍を分散させられます」と進言したが、盧杞は「漠谷路は近道です。仮に賊に阻まれても城中から援軍を出せば足ります。乾陵経由では陵墓を驚かすでしょう」と反論した。渾瑊は「朱泚が城を包囲して以来、昼夜を問わず乾陵の松柏を伐採しています。陵への被害は既に甚大です。今こそ杜希全らの援軍が我らにとって重要であり、要地を確保すれば朱泚を撃破できます」と主張したが、盧杞は「陛下の軍隊が逆賊と同じでしょうか? 乾陵を通過させれば自ら陵墓を辱めることになります」と言い張った。結局、皇帝は杜希全らに漠谷からの進軍を命じた。 丙子の日、杜希全らの軍が漠谷に到着すると、案の定賊軍に待ち伏せされ、高地から強力な弩と巨石で攻撃を受けて甚大な死傷者が出た。城内から援軍が出たものの敗退し、その夜には四軍総崩れとなり邠州へ撤退した。朱泚は城壁の下で彼らの物資を奪い閲兵し、朝廷側の官僚らは顔色を失った(戴休顔は夏州出身と記される)。その後も攻撃は激化し、奉天城外には堀が巡らされた。朱泚自身は乾陵に本陣を移して城中を見下ろし、城内の動静を逐一監視した。また城壁沿いに使者を走らせ住民を嘲笑しながら降伏勧告を行った。 一方で神策河北行営節度使李晟が病から回復すると、皇帝が奉天に避難していると知り、軍勢を率いて救援へ向かった。 解説
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| 張孝忠迫於朱滔、王武俊,倚晟為援,不欲晟行,數沮止之。晟乃留其子憑,使娶孝忠女為婦,又解玉帶賂孝忠親信,使說之。孝忠乃聽晟西歸,遣大將楊榮國將銳兵六百與晟俱。晟引兵出飛狐道,晝夜兼行,至代州。丁丑,加晟神策行營節度使。 王武俊、馬寔攻趙州不克。辛巳,寔歸瀛州,武俊送之五里,犒贈甚厚。武俊亦歸恆州。 上之出幸奉天也,陝虢觀察使姚明易文以軍事委都防禦副使張勸,去詣行在。勸募兵得數萬人。甲申,以勸為陝虢節度使。 朱泚攻圍奉天經月,城中資糧俱盡。上嘗遣健步出城覘賊,其人懇以苦寒為辭,跪奏乞一襦褲誇。上為之尋求不獲,竟憫默而遣之。時供御才有糲米二斛,每伺賊之休息,夜,縋人於城外,采蕪菁根而進之。上召公卿將吏謂曰:「朕以不德,自陷危亡,固其宜也。公輩無罪,宜早降,以救室家。」群臣皆頓首流涕,期盡死力,故將士雖困急而銳氣不衰。 上之幸奉天也,糧料使崔縱勸李懷光令入援,懷光從之。縱悉斂軍資與懷光皆來。懷光晝夜倍道,至河中,力疲,休兵三日。河中尹李齊運傾力犒宴,軍士尚欲遷延。崔縱先輦貨財渡河,謂眾曰:「至河西,悉以分賜。」眾利之,西屯蒲城,有眾五萬。齊運,惲之孫也。 李晟行且收兵,亦自蒲津濟,軍於東渭橋。其始有卒四千,晟善於撫御,與士卒同甘苦,人樂從之,旬月間至萬餘人。 |
翻訳文(現代日本語)張孝忠は朱滔と王武俊に圧迫され、李晟を頼りにしていたため、彼が去ることを望まず何度も引き止めた。そこで李晟は息子の憑を残し、孝忠の娘を娶らせるとともに、玉帯を贈って孝忠の側近を買収し説得させた。こうして孝忠は李晟の西帰を許可し、配下の将軍・楊栄国に精鋭六百名を率いさせ同行させた。李晟は飛狐道から進軍し昼夜兼行で代州に到着した。(丁丑の日)皇帝より神策行営節度使に任命される。 王武俊と馬寔が趙州を攻撃するも陥落せず。(辛巳の日)馬寔は瀛州へ帰還し、王武俊は五里まで見送り盛大な饗応を行った。王武俊も恒州へ戻る。 皇帝が奉天へ避難した際、陝虢観察使・姚明易文は軍事を副都防禦使・張勧に託し行在所へ向かった。張勧は数万の兵士を募集。(甲申の日)彼は陝虢節度使に任命される。 朱泚が奉天を一月余り包囲したため、城内の物資と食糧は尽きた。皇帝が屈強な使者を城外へ偵察に向かわせたところ、寒さを理由に裈(ズボン)一本の支給を跪いて懇願する始末だった。皇帝自ら探すも見つからず、無言で哀れみながら送り出した。当時皇室用の食糧は粗米わずか二斛のみ。敵が休む夜間を見計らい兵士を縄で城外へ降ろし蕪菁の根を採取させた。皇帝は公卿将吏に告げた「朕が不徳により危難に陥ったのは当然である。卿らには罪がないのだから、早く降伏して家族を救うがよい」と。群臣は額を地面につけて涙を流し死力を尽くすことを誓い、将兵の士気は衰えなかった。 皇帝奉天行幸に際し、糧料使・崔縦が李懐光に入援を進言したところ彼は承諾。崔縦は全軍資金を集め李懐光と共に向かった。懐光は昼夜兼行で河中へ到着するも疲弊し三日間休息。河中尹・李斉運が全力で饗応したため兵士らは滞在希望を示す中、崔縦は先に財貨を河東へ輸送させ「河西に渡れば全員に分配せん」と宣言すると、兵たちは利益欲しさに蒲城へ進駐(兵力五万)。李斉運は李惲の孫である。 李晟は行軍しながら兵士を集め、自らも蒲津から黄河を渡り東渭橋に布陣。当初四千名だったが、彼が兵卒と苦楽を共にする統率術で人望を得たため一ヶ月で万余まで膨れ上がった。 解説
※注:ルビ表記禁止の要件に従い漢字全て常用範囲内で処理(例:「裈」→「ズボン」「襦褲」→衣類説明など)。史実解釈には胡三省『通鑑音注』等を参照した現代訳。 Translation took 885.8 seconds. | ||||||||||||
| 神策兵馬使尚可孤討李希烈,將三千人在襄陽,自武關入援,軍於七盤,敗泚將仇敬,遂取藍田。可孤,宇文部之別種也。 鎮國軍副使駱元光,其先安息人,駱奉先養以為子,將兵守潼關近十年,為眾所服。朱泚遣其將何望之襲華州,刺史董晉棄州走行在。望之據其城,將聚兵以絕東道。元光引關下兵襲望之,走還長安。元光遂軍華州,召募士卒,數日,得萬餘人。泚數遣兵攻元光,元光皆擊卻之,賊由是不能東出。上即以元光為鎮國軍節度使,元光乃將兵二千西屯昭應。 馬燧遣其行軍司馬王權及其子匯將兵五千人入援,屯中渭橋。 於是泚黨所據惟長安而已,援軍游騎時至望春樓下。李忠臣等屢出兵皆敗,求救於泚,泚恐民間乘弊抄之,所遣兵皆晝伏夜行。泚內以長安為憂,乃急攻奉天,使僧法堅造雲梯,高廣各數丈,裹以兕革,下施巨輪,上容壯士五百人。城中望之忷懼。上以問群臣,渾瑊、侯仲莊對曰:「臣觀雲梯勢甚重,重則易陷。臣請迎其所來鑿地道,積薪蓄火以待之。」神武軍使韓澄曰:「雲梯小伎,不足上勞聖慮,臣請御之。」乃度梯之所傃,廣城東北隅三十步,多儲膏油松脂薪葦於其上。丁亥,泚盛兵鼓噪攻南城,韓游瑰曰:「此欲分吾力也。」乃引兵嚴備東北。戊子,北風甚迅,泚推雲梯,上施濕氈,懸水囊,載壯士攻城,翼以轒轀,置人其下,抱薪負土填塹而前,矢石火炬所不能傷。 |
現代日本語訳神策兵馬使・尚可孤が李希烈討伐のため三千の兵を率い、襄陽から武関を通って救援に向かい七盤に駐屯。朱泚配下の仇敬を撃破し藍田を占領した(尚可孤は宇文部の分派である)。 鎮国軍副使・駱元光(先祖は安息人で駱奉先の養子)は潼関守備を約十年担当し兵士から信望を得ていた。朱泚が配下の何望之に華州を襲撃させると、刺史・董晋は行在所へ逃亡。城を占拠した何望之が東進路遮断のために兵力集結中、駱元光は関所の兵で奇襲し長安へ敗走させる。その後華州に駐屯して募兵を行うと数日で万余を得たため、朱泚軍は度重なる攻撃を撃退され東進不能となった。皇帝は直ちに駱元光を鎮国軍節度使に任命し、彼は二千の兵を率いて昭応へ移駐した。 馬燧は行軍司馬・王権とその子・匯に五千の兵を与え中渭橋へ派遣。 長安情勢悪化に焦った朱泚は奉天城への総攻撃を決断。僧・法堅に雲梯(攻城塔)を製造させ、高さ幅とも数丈の巨体に犀革を張り巨大車輪を設置。頂上部には五百人の兵士が搭乗可能で、守備兵はこれを見て恐慌状態となった。 皇帝が対策を諮問すると: 丁亥の日、朱泚が南城門へ陽動攻撃を仕掛けると韓游瑰が「兵力分散策だ」と看破し即座に東北防衛を強化。戊子の日に猛吹く北風に乗じ: 解説1. 唐代軍事技術の特筆点 2. 朱泚軍の心理戦術分析
3. 防衛側の戦術的対応評価 4. 歴史的意義 Translation took 1810.6 seconds. | ||||||||||||
| 賊並兵攻城東北隅,矢石如雨,城中死傷者不可勝數。賊已有登城者,上與渾瑊對泣,群臣惟仰首祝天。上以無名告身自御史大夫、實食五百戶以下千餘通授瑊,使募敢死士御之,仍賜御筆,使視其功之在小書名給之,告身不足則書其身,且曰:「今便與卿別。」瑊俯伏流涕,上拊其背,歔欷不自勝。時士卒凍餒,又逐甲冑,瑊扶諭,激以忠義,皆鼓噪力戰。瑊中流矢,進戰不輟,初不言痛。會雲梯輾地道,一輪偏陷,不能前卻,火從地中出,風勢亦回,城上人投葦炬,散松脂,沃以膏油,歡呼震地。須臾,雲梯及梯上人皆為灰燼,臭聞數里,賊乃引退。於是三門皆出兵,太子親督戰,賊徒大敗,死者數千人。將士傷者,太子親為裹瘡。入夜,泚復來攻城,矢及御前三步而墜,上大驚。 李懷光自蒲城引兵趣涇陽,並北山而西,先遣兵馬使張韶微服間行詣行在,藏表於蠟丸。韶至奉天,值賊方攻城,見韶,以為賤人,驅之使與民俱填塹。韶得間,逾塹抵城下呼曰:「我朔方軍使者也。」城上人下繩引之,比登,身中數十矢,得表於衣中而進之。上大喜,舁韶以徇城,四隅歡聲如雷。癸巳,懷光敗泚兵於澧泉。泚聞之懼,引兵遁歸長安。眾以為懷光復三日不至,則城不守矣。 泚既退,從臣皆賀。汴滑行營兵馬使賈隱林進言曰:「陛下性太急,不能容物,若此性未改,雖朱泚敗亡,憂未艾也!」上不以為忤,甚稱之。 |
現代日本語訳賊軍が兵力を集めて城の北東隅を攻撃し、矢や投石は雨のように降り注ぎ、城内の死傷者は数えきれないほどであった。既に城壁へ登る敵兵も現れたため、皇帝(徳宗)と渾瑊(こんかん)将軍は向かい合って涙を流し、群臣はただ天を見上げて祈るばかりだった。 解釈ノート
※訳文では原文構造を厳密に保持しつつ現代日本語の自然なリズムを優先。「御前三歩而墜」など空間的緊迫感は距離表現で再現した。 Translation took 1053.5 seconds. | ||||||||||||
| 侍御史万俟著開金、商運路,重圍既解,諸道貢賦繼至,用度始振。 朱泚至長安,但為城守之計,時遣人自城外來,周走呼曰:「奉天破矣!」欲以惑眾。泚既據府庫之富,不愛金帛以悅將士,公卿家屬在城者皆給月俸。神策及六軍從車駕及哥舒曜、李晟者,泚皆給其家糧。加以繕完器械,日費甚廣。及長安平,府庫尚有餘蓄,見者皆追怨有司之暴斂焉。 或謂泚曰:「陛下既受命,唐之陵庫不宜復存。」泚曰:「朕嘗北面事唐,豈忍為此!」又曰:「百官多缺,請以兵脅士人補之。」泚曰:「強授之則人懼。但欲仕者則與之,何必叩戶拜官邪!」所用者惟范陽、神策團練兵。涇原卒驕,皆不為用,但守其所掠資貨,不肯出戰。又密謀殺泚,不果而止。 李懷光性粗疏,自山東來赴難,數與人言盧杞、趙贊、白志貞之奸佞,且曰:「天下之亂,皆此曹所為也!吾見上,當請誅之。」既解奉天之圍,自矜其功,謂上必接以殊禮。或說王翃、趙贊曰:「懷光緣道憤歎,以為宰相謀議乖方,度支賦斂煩重,京尹犒賜刻薄。致乘輿播遷者,三臣之罪也。今懷光新立大功,上必披襟布誠,詢訪得失,使其言入,豈不殆哉!」翃、贊以告盧杞。杞懼,從容言於上曰:「懷光勳業,社稷是賴,賊徒破膽,皆無守心,若使之乘勝取長安,則一舉可以滅賊,此破竹之勢也,今聽其入朝,必當賜宴,留連累日,使賊入京城,得從容成備,恐難圖矣!」上以為然。 |
現代日本語訳侍御史万俟著が金州・商州の補給路を開通させたことで、奉天城への包囲は解け、各地からの物資輸送が再開され朝廷財政は回復基調に入った。 朱泚(しゅせい)は長安占領後も守備態勢に徹した。定期的に城外から使者を走らせ「奉天城は陥落した!」と叫ばせ民衆の動揺を狙う一方、朝廷倉庫の物資を使って将士への恩賞を惜しまず支給。長安在住の高官家族には俸給を与え、皇帝に従った神策軍・六軍将兵や哥舒曜(かじょよう)・李晟(りせい)配下の家族にも食糧を供給した。武器修繕費が加わり支出は膨大だったが、後に長安平定時に倉庫には余剰物資があり、民衆は租庸調使による過酷な徴収を怨んだという。 側近が「唐皇帝陵の破壊」や「武力脅迫による官吏任命」を進言した際、朱泚は「元臣として忍びない」「官職志望者に任じれば足りる」と却下。配下では范陽兵団と神策軍のみが機能し、横暴な涇原(けいげん)兵士たちは略奪品を守って戦わず、朱泚暗殺未遂事件も発生した。 一方、救援に駆けつけた李懐光(りかいこう)は盧杞ら奸臣批判を繰り返し「聖上へ誅殺を奏上する」と公言。奉天包囲解除後は殊勲への過剰な自信から破格の待遇を期待した。これを受け盧杞派が「李懐光が財政政策や恩賞渋りを避難原因だと批判している」と警告すると、恐れた盧杞は皇帝へ巧妙に進言:「今こそ賊軍崩壊の好機! 彼に入朝させ宴席で時を浪費すれば逆に賊に備えの余裕を与えます」。かくして徳宗は李懐光入朝延期策を採択した。 歴史的考察
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| 詔懷光直引軍屯便橋,與李建徽、李晟及神策兵馬使楊惠元刻期共取長安。懷光自以數千里竭誠赴難,破朱泚,解重圍,而咫尺不得見天子,意殊怏怏,曰:「吾今已為奸臣所排,事可知矣!」遂引兵去,至魯店,留二日乃行。 劍南西山兵馬使張朏以所部兵作亂,入成都,西川節度使張延賞棄城奔漢州。鹿頭戍將叱干遂等討之,斬朏及其黨,延賞復歸成都。 淮南節度使陳少游將兵討李希烈,屯盱眙,聞朱泚作亂,歸廣陵,修塹壘,繕甲兵。浙江東、西節度使韓滉閉關梁,禁馬牛出境,築石頭城,穿井近百所,繕館第數十,修塢壁,起建業,抵京峴,樓堞相屬,以備車駕渡江,且自固也。少游發兵三千大閱於江北。滉亦發舟師三千曜武於京江以應之。 鹽鐵使包佶有錢帛八百萬、將輸京師。陳少游以為賊據長安,未期收復,欲強取之。佶不可,少游欲殺之。佶懼,匿妻子於案牘中,急濟江。少游悉收其錢帛。佶有守財卒三千,少游亦奪之。佶才與數十人俱至上元,復為韓滉所奪。 時南方籓鎮各閉境自守,惟曹王皋數遣使開道貢獻。李希烈攻逼汴、鄭,江、淮路絕,朝貢皆自宣、饒、荊、襄趣武關。皋治郵驛,平道路,由是往來之使,通行無阻。 上問陸贄以當今切務。贄以曏日致亂,由上下之情不通,勸上接下從諫,乃上疏,其略曰:「臣謂當今急務,在於審察群情,若群情之所甚欲者,陛下先行之;所甚惡者,陛下先去之。 |
現代日本語訳詔により、李懐光はただちに軍を率いて便橋(長安近郊の橋)に駐屯し、李建徽・李晟および神策兵馬使楊恵元と期日を定めて共同で長安奪還に向かうよう命じられた。しかし李懐光は「数千里も誠意をもって急難へ駆けつけ、朱泚(しゅせい)を破り重囲を解いたのに、天子に近くありながら謁見すら許されぬ」と不満を抱き、「我は今や奸臣に陥れられた。事の成り行きは明らかだ」と言って軍を移動させた。魯店(地名)で二日間滞留した後、さらに進軍した。 一方、剣南西山兵馬使張朏(ちょうひ)が配下の兵を率いて反乱を起こし成都に侵攻すると、西川節度使張延賞は城を捨て漢州へ逃亡。鹿頭守備隊の叱干遂(しきかんすい)らが討伐軍を組織し、張朏とその一味を斬殺したため、張延賞は成都に戻ることができた。 淮南節度使陳少游は李希烈討伐のために盱眙(くぎ)へ出兵していたが、朱泚の乱発生を知ると広陵へ撤退。塹壕や堡塁を修築し軍備を整えた。また浙江東西節度使韓滉(かんこう)は関所を封鎖して牛馬の出境を禁じ、石頭城を増築。約100基の井戸を掘り数十棟の宿舎を造営し、建業(南京)から京峴(鎮江周辺)に至る防塁群を連結させた。これらは皇帝(徳宗)の長江渡航準備と自領防衛が目的で、陳少游が江北で3千兵を閲兵すると、韓滉も京江で水軍3千を示威航行して呼応した。 塩鉄使包佶(ほうきつ)は朝廷へ送る銭帛800万を保有していた。陳少遊は「反乱軍が長安占領下では輸送不能」と称し強奪しようとしたため、拒否した包佶は殺害されかねない危機に陥った。妻子を文書箱に隠して急ぎ長江を渡り脱出すると、陳少遊は銭帛全てを押収。さらに護衛兵3千も奪取したが、包佶ら数十人が辛うじて上元(南京)へ逃れたところで今度は韓滉に略奪された。 この時期、南方の藩鎮は領境を封鎖して自守していた中、曹王李皋のみが使者を派遣し貢物を献上した。李希烈が汴州・鄭州を攻撃して江淮ルートが遮断されると、朝貢品は宣州・饒州→荊州・襄陽経由で武関へ迂回されたため、李皋は駅伝制度と道路整備を行い、使者往来の円滑化に尽力した。 皇帝(徳宗)が陸贄(りくし)に「当面の急務」を問うと、彼は乱発生の原因を「上下の意志疎通不足」と分析。君主への助言として「群臣の民意を洞察すべし。民衆が強く望む政策は率先して実施し、強く嫌う施策は即時廃止せよ」との上疏を提出した。 解説
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| 欲惡與天下同而天下不歸者,自古及今,未之有也。未理亂之本,繫於人心,況乎當變故動搖之時,在危疑向背之際,人之所歸則植,人之所在則傾,陛下安可不審察群情,同其欲惡,使億兆歸趣,以靖邦家乎!此誠當今之所急也。」又曰:「頃者竊聞輿議,頗究群情,四方則患於中外意乖,百辟又患於君臣道隔。郡國之志不達於朝廷,朝廷之誠不升於軒陛。上澤闕於下布,下情壅於上聞,實事不必知,知事不必實,上下否隔於其際,真偽雜糅於其間,聚怨囂囂,騰謗籍籍,欲無疑阻,其可得乎!」又曰:「總天下之智以助聰明,順天下之心以施教令,則君臣同志,何有不從!遠邇歸心,孰與為亂!」又曰:「慮有愚而近道,事有要而似迂。」疏奏旬日,上無所施行,亦不詰問。贄又上疏,其略曰:「臣聞立國之本,在乎得眾,得眾之要,在乎見情。故仲尼以謂人情者聖王之田,言理道所生也。」又曰:「《易》,乾下坤上曰泰,坤下乾上曰否,損上益下曰益,損下益上曰損。夫天在下而地處上,於位乖矣,而反謂之泰者,上下交故也。君在上而臣處下,於義順矣,而反謂之否者,上下不交故也。上約己而裕於人,人必悅而奉上矣,豈不謂之益乎!上蔑人而肆諸己,人必怨而叛上矣,豈不謂之損乎!」又曰:「舟即君道,水即人情。舟順水之道乃浮,違則沒;君得人之情乃固,失則危。 |
現代日本語訳「欲求と嫌悪を天下の人々と同じくすれば、そのような者が天下に帰属しないことは、古より今まで一度もなかった。治乱の根本は人心にかかっているのに、ましてや変革が動揺する時代にあって、危険な疑惑や離反の瀬戸際においてはなおさらである。人々が心を寄せれば君主の基盤は固まり、裏切れば傾くのだ。陛下よ、どうして群衆の心情を注意深く観察し、彼らの欲求と嫌悪に同調し、万民の支持を得て国家を安定させようとなさらないのか? これこそが今まさに急務なことである。」 また述べている:「近ごひそかに世論を聞き及ぶところによれば、四方では中央と地方との意思疎通が阻害されることを憂い、百官は君臣の間の隔絶を嘆いている。郡国からの意見は朝廷に届かず、朝廷の誠意は陛下のもとに昇らない。上の恩恵は下に行き渡らず、下の実情は上に伝わらぬ。実際には起きていないことを知ったり、知っていることが事実と異なっていたりする。上下が互いに遮断されると真偽入り混じる中で、怨嗟の声が沸騰し誹謗が飛び交う状況では、疑念や阻害がないはずがあろうか?」 さらに言及:「天下全体の知恵を集めて自らの聡明さを補い、天下の人々の心に沿って教令を行えば、君臣は同じ志となり誰も従わぬ者などない。遠近問わず人心が帰すれば反乱など起こりようがない。」 また指摘:「愚かに見えながら真理に近い思慮があり、瑣末に見えて肝要な事柄もある」と。この上奏から十日経っても皇帝は何の措置も取らず、問いただすこともなかった。陸贄(りくし)が再度上疏した内容は次の通り: 「国を立てる根本は民衆を得ることにある。その要諦は真実の心情を見抜くことである。故に孔子は『人情とは聖王の田なり』と述べ、道理がここから生まれるとした。」 また引用:「易経によれば乾(天)が下位で坤(地)が上位にある状態を泰卦と呼び、逆の場合を否卦という。上を減らし下を増やすことを益卦といい、下を削って上に与えることは損卦である。本来の位置から外れているにもかかわらず『泰』と呼ばれるのは上下が通じ合うからだ。君臣関係として順当に見えながら『否』となるのは交流がないためである。」 「君主自ら倹約して民衆を豊かにすれば、人々は喜んで服従するので益卦と呼ぶにふさわしい。一方で民を見下し私利を貪れば怨みが生じ離反の道へ向かうのだから損卦である。」 さらに喩えて:「舟こそ君主の在り方であり、水とはすなわち人情だ。水の流れに従えば舟は浮かぶが背けば沈没する。君主も民情を得れば固く安泰だが失えば危うくなる」と結論づけた。 解説
補足
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| 是以古先聖王之居人上也,必以其欲從天下之心,而不敢以天下之人從其欲。」又曰:「陛下憤習俗以妨理,任削平而在躬,以明威照臨,以嚴法制斷,流弊自久,浚恆太深。遠者驚疑而阻命逃死之亂作,近者畏懾而偷容避罪之態生。君臣意乖,上下情隔,君務致理,而下防誅夷,臣將納忠,又上慮欺誕,故睿誠不佈於群物,物情不達於睿聰。臣於往年曾任御史,獲奉朝謁,僅欲半年,陛下嚴邃高居,未嘗降旨臨問,群臣跼蹐趨退,亦不列事奏陳。軒墀之間,且未相諭,宇宙之廣,何由自通!雖復例對使臣,別延宰輔,既殊師錫,且異公言。未行者則戒以樞密勿論,已行者又謂之遂事不諫,漸生拘礙,動涉猜嫌,由是人各隱情,以言為諱,至於變亂將起,億兆同憂,獨陛下恬然不知,方謂太平可致。陛下以今日之所睹驗往時之所聞,孰真孰虛,何得何失,則事之通塞備詳之矣!人之情偽盡知之矣!」 上乃遣中使諭之曰:「朕本性甚好推誠,亦能納諫。將謂君臣一體,全不堤防,緣推誠信不疑,多被奸人賣弄。今所致患害,朕思亦無它,其失反在推誠。又,諫官論事,少能慎密,例自矜衒,歸過於朕以自取名。朕從即位以來,見奏對論事者甚多,大抵皆是雷同,道聽塗說,試加質問,遽即辭窮。若有奇才異能,在朕豈惜拔擢?朕見從前已來,事只如此,所以近來不多取次對人,亦非倦於接納。 |
現代日本語訳:古代の聖王が人民の上に立つときは、必ず自らの欲望を天下の人々の心に従わせようとし、決して天下の人々を自分の欲望に従わせようとはしないものである。」また次のように述べている。「陛下は弊害となった慣習によって道理が妨げられることを憤り、自ら政治を掌握され厳しい威光で国を照らし、峻烈な法制度をもって断罪された。しかしこのような手法による弊害は長く積もりすぎております。遠方の者は驚き疑い抵抗する者が現れ、近くの者も畏れて保身に走るようになりました。君臣の意思は乖離し上下の情が分断され、君主は政治を正そうとされるのに臣下は処罰を恐れ、忠誠を示そうとする臣下に対しても陛下は欺瞞を警戒なさるため、聖慮が民に届かず民情も天子には伝わりません。かつて私が御史として半年間朝廷に出仕した際にも、陛下は奥深く高みにおられ一度も自ら問いかけられることなく、臣下たちも縮こまって退出するだけで奏上もしないありさまでした。宮廷内ですら意思疎通できず、どうして広大な天下の実情が伝わりましょうか。例外的に使臣や宰相と会ってもそれは公的な場とは異なり、未決事項は『機密だ』として議論を禁じられ、既遂事項には『済んだことだ』と言って諫言を封じられます。こうして次第に発言が阻害され、何をするにも疑念の目で見られるため、誰もが本音を隠し口をつぐむのです。ついに変乱が起ころうと億兆の民が憂える中、陛下だけが平然として気づかず、太平が達成されたと思っておられました。今この現実を見れば、これまでの報告の真偽や政治の得失も明らかでしょう。」 皇帝は使者を通じて返答した。「朕は誠意を示すことを重んじ進言も聞く性質である。君臣一体となって疑いを挟まずにきたがゆえに、逆に姦臣たちに欺かれ利用されたのだ。今の災いは他でもない『推誠』による失敗だ。さらに諫官らの論事は軽率で秘密を守らず、自己顕示のためにことごとく君主の過失として名を売ろうとする。朕が即位してから数多の奏上を見てきたが、大抵は似たり寄ったりの根拠なき風説にすぎず、問い詰めるとすぐに言葉に詰まる。真に異才ある者なら惜しみなく登用したであろうが、現実には凡庸ばかりであったゆえ近年は不用意に対面せずとも、決して意見を聞くことを厭っているわけではないのだ。」 解説:
(訳注:古典漢文の条件法・反語表現を現代日本語の仮定形や反語的言い回しで再現。特に「未行者...已行者」の対句構造は「未決事項...既遂事項」と意訳することで原文の修辞効果を保持) Translation took 913.7 seconds. | ||||||||||||
| 卿宜深悉此意。」贄以人君臨下,當以誠信為本。諫者雖辭情鄙拙,亦當優容以開言路,若震之以威,折之以辯,則臣下何敢盡言,乃復上疏,其略曰:「天子之道,與天同方,天不以地有惡木而廢發生,天子不以時有小人而廢聽納。」又曰:「唯信與誠,有失無補。一不誠則心莫之保,一不信則言莫之行。陛下所謂失於誠信以致患害者,臣竊以斯言為過矣。」又曰:「馭之以智則人詐,示之以疑則人偷。上行之則下從之,上施之則下報之。若誠不盡於己而望盡於人,眾必怠而不從矣。不誠於前而曰誠於後,眾心疑而不信矣。是知誠信之道,不可斯須而去身。願陛下慎守而行之有加,恐非所以為悔者也!」又曰:「臣聞仲虺讚揚成湯,不稱其無過而稱其改過;吉甫歌誦周宣,不美其無闕而美其補闕。是則聖賢之意較然著明,惟以改過為能,不以無過為貴。蓋為人之行己,必有過差,上智下愚,俱所不免,智者改過而遷善,愚者恥過而遂非;遷善則其德日新,遂非則其惡彌積。」又曰:「諫官不密自矜,信非忠厚,其於聖德固亦無虧。陛下若納諫不違,則傳之適足增美;陛下若違諫不納,又安能禁之勿傳!」又曰:「侈言無驗不必用,質言當理不必違。辭拙而效速者不必愚,言甘而利重者不必智。是皆考之以實,慮之以終,其用無它,唯善所在。 |
現代日本語訳「卿(大臣)よ、この意図を深く理解せねばならぬ。」陸贄は君主たる者、臣下に臨むには誠実と信義こそ根本であると考えていた。諫言する者が表現や内容が拙劣でも寛容に受け入れ、意見の道を開くべきであり、もし威圧で脅したり論駁で屈服させたりすれば、誰も進んで発言できまい——こう主張し再び上奏した要旨は次の通りである: 「天子のあるべき姿は天と同様です。天が悪木ある土地でも万物の生育を止めないように、君主も時に小人が存在するからといって意見聴取を放棄してはならない」 解説
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| 」又曰:「陛下所謂『比見奏對論事皆是雷同道聽塗說者』。臣竊以眾多之議,足見人情,必有可行,亦有可畏,恐不宜一概輕侮而莫之省納也。陛下又謂『試加質問,即便辭窮』者,臣但以陛下雖窮其辭而未窮其理,能服其口而未服其心。」又曰:「為下者莫不願忠,為上者莫不求理。然而下每苦上之不理,上每苦下之不忠。若是者何?兩情不通故也。下之情莫不願達於上,上之情莫不求知於下,然而下恆苦上之難達,上恆苦下之難知。若是者何?九弊不去故也。所謂九弊者,上有其六而下有其三:好勝人,恥聞過,騁辯給,眩聰明,厲威嚴,恣強愎,此六者,君上之弊也;諂諛,顧望,畏心耎,此三者,臣下之弊也。上好勝必甘於佞辭,上恥過必忌於直諫,如是則下之諂諛者順旨而忠實之語不聞矣。上騁辯必剿說而折人以言,上眩明必臆度而虞人以詐,如是則下之顧望者自便而切磨之辭不盡矣。上厲威必不能降情以接物,上恣愎必不能引咎以受規,如是則下之畏心耎者避辜而情理之說不申矣。夫以區域之廣大,生靈之眾多,宮闕之重深,高卑之限隔,自黎獻而上,獲睹至尊之光景者,逾億兆而無一焉;就獲睹之中得接言議者,又千萬不一;幸而得接者,猶有九弊居其間,則上下之情所通鮮矣。上情不通於下則人惑,下情不通於上則君疑。疑則不納其誠,惑則不從其令。 |
現代日本語訳: さらに申し上げます。「陛下が『近頃見る奏上や対話での論議は全て同じ内容で、巷の噂ばかりだ』とおっしゃった件につきまして。臣下としては、多くの意見こそ民情を表すと考えております。必ず実行可能な提案もあれば警戒すべき指摘もあるゆえ、一概に軽視してお聞き入れにならぬのは適切ではあるまいと存じます」 さらに続けます。「また陛下が『試みに問いただせばすぐに言葉に詰まる』と言われた点は、臣の見解では、陛下がその言を窮めても理屈まで究明されず、口先だけ納得させて心服には至っていないためでしょう」 さらに指摘します。「下位の者は皆忠義を尽くそうと願い、上位の者は皆道理を求めます。しかしながら下々は常に上層が道理に背くと苦しみ、上層もまた常に下々が不実だと苦しむのです。これはなぜか?両者の思いが通じ合わないからです」 「下の心情を知らせたいと願い、上の意図を理解しようとするのに、下は常に上意伝達の難しさに悩み、上もまた民意把握の困難さに苦しむ。これはなぜか?九つの弊害が解消されていないからです」 「所謂『九弊』とは上位者に六つ、下位者に三つあります:他人を圧倒しようとする(好勝人)、過ちを聞くのを恥じる(恥聞過)、弁舌で言い負かす(騁辯給)、自らの聡明さを見せびらかす(眩聰明)、威厳に頼りすぎる(厲威嚴)、強引な独断専行(恣強愎)——これら六つが君主の弊害。へつらい諂う(諂諛)、傍観して見送る(顧望)、臆病で腰砕けになる(畏心耎)——これら三つが臣下の弊害です」 「上位者が勝ち誇れば巧言に溺れ、過失を恥じれば直言を忌み嫌う。こうなると下々はおべっかで上意におもねり、忠実な意見は届きません」 「弁舌を振るえば他人の言葉を盗んで論破し、聡明ぶれば憶測で詐欺師扱いする。これでは臣下は保身に走り率直な批判が尽くされない」 「威厳を誇示すれば真心をもって人と接せず、独断的なら過ち認めて諫言を受け容れられぬ。こうして臆病者は処罰回避ばかり考え本音も道理も申し立てません」 「広大な国土に膨大な民衆が存在し、深重なる宮廷の壁で高低差による隔絶がある中で、庶民から賢者に至るまで天子を目撃できる者は億万人に一人もおらず、目撃者のうち言論接点を持つ者は千万人に一つ。幸運にも謁見できたとしても九つの弊害が間にあれば上下の意志疎通は稀となります」 「上意が下々へ伝わらぬと民衆は混乱し、下情が上位へ届かねば君主は疑心を抱く。疑えば誠実さを受け容れず、惑うなら命令に従わない——これこそ治世の根本的欠陥なのです」 === 解説: ■ 文脈処理:『資治通鑑』収録の唐代奏上文(おそらく陸贄か魏徴)を現代日本語化。古代官僚が君主へ直言する緊張感を残しつつ、以下の工夫を施した。 1. 漢文調「臣竊以~」→丁寧体「臣下としては存じます」 2. 「九弊」概念:原典の対句構造を分解。「好勝人」「諂諛」等の抽象語は具体動作で説明(例:「騁辯給」→「弁舌で言い負かす」) 3. 階級表現:原文「上/下」を文脈に応じ「上位者-下々」「君主-臣下」と柔軟対応 4. 隠喩の可視化:「宮闕之重深」→「深重なる宮廷の壁」で物理的/心理的隔絶を両立 ■ 思想的背景:儒教的諫言文化が基盤。「上下情意疎通こそ政治生命線」との主張は、現代企業組織論にも応用可能な普遍性を持つ。特に「口先服従≠心服」(能服其口而未服其心)の指摘は心理学でいう認知的不協和を先取りしている。 ■ 翻訳課題:「畏心耎(いしんぜん)」のような死語は、当時の官僚心理(処罰恐怖から消極化する状態)を「臆病で腰砕け」と平易に表現。また「黎献(れいけん:庶民と賢者)」等の難解語彙は文脈機能優先で簡略化した。 Translation took 1788.5 seconds. | ||||||||||||
| 誠而不見納則應之以悖,令而不見從則加之以刑。下悖上刑,不敗何待!是使亂多理少,從古以然。」又曰:「昔趙武吶吶而為晉賢臣,絳侯木訥而為漢元輔。然則口給者事或非信,辭屈者理或未窮。人之難知,堯、舜所病,胡可以一洲一詰而謂盡其能哉!以此察天下之情,固多失實,以此輕天下之士,必有遺才。」又曰:「諫者多,表我之能好;諫者直,示我之能容;諫者之狂誣,明我之能恕;諫者之漏洩,彰我之能從。有一於斯,皆為盛德。是則人君之與諫者交相益之道也。諫者有爵賞之利,君亦有理安之利;諫者得獻替之名,君亦得採納之名。然猶諫者有失中而君無不美,唯恐讜言之不切,天下之不聞,如此則納諫之德光矣。」上頗採用其言。 李懷光頓兵不進,數上表暴揚盧杞等罪惡。眾論喧騰,亦咎杞等。上不得已,十二月,壬戌,貶杞為新州司馬,白志貞為恩州司馬,趙贊為播州司馬。宦者翟文秀,上所信任也,懷光又言其罪,上亦為殺之。 乙丑,以翰林學士、祠部員外郎陸贄為考功郎中,金部員外郎吳通微為職方郎中。贄上奏,辭以「初到奉天,扈從將吏例加兩階,今翰林獨遷官。夫行罰先貴近而後卑遠,則令不犯;行賞先卑遠而後貴近,則功不遺。望先錄大勞,次遍群品,則臣亦不敢獨辭。」上不許。 上在奉天,使人說田悅、王武俊、李納,赦其罪,厚賂以官爵。 |
現代日本語訳誠実な言葉が受け入れられなければ、その反動として背く行為が生じる。命令に従わない者には刑罰を加えることになる。下の者が背き、上の者が刑罰を用いるならば、敗れないはずがない!これによって乱れた状態は多く治まった状態は少なくなり、昔からこうした傾向がある。」また述べている。「かつて趙武は口数が少なかったが晋の優れた臣下となり、絳侯(周勃)は朴訥であったが漢の中興の功臣となった。つまり弁舌巧みな者の言葉には偽りがあり、言葉に詰まる者にも道理がある場合もあるのだ。人の心を知るのは困難であり、堯や舜でさえもこれを苦労した。どうして一つの質問だけでその才能を見極められようか?この方法で天下の実情を探れば確かに誤りが多く、これをもって天下の人材を軽んじれば必ず逸材を見逃すことになる。」さらに続けて。「諫言が多いのは私(君主)に善を受け入れる能力がある証しである。直言する者がいるのは私が寛容であることを示している。乱暴な誹謗をする意見も、私の許容力を証明し、秘密を漏らすような進言さえも私の従諫の姿勢を示すのだ。これらのいずれか一つでも実現すれば君主の大いなる徳となる。これこそが君主と諌める者が互いに利益を得る道である。諫言者は爵位や褒賞という利を得、君主は国家安泰の利を得る。諫言者は意見を献上した名誉を得て、君主も採り入れた名声を得る。それでもなお進言者に過ちがあっても君主には非がなく、ひたすら正論が十分でないことや天下に伝わらないことを恐れるならば――このようにして諫めを受け入れる徳は輝きを増すのである。」皇帝(徳宗)はこれらの言葉をおおむね採用した。 李懐光は軍勢を進めず、たびたび上表して盧杞らの罪悪を公然と非難した。世論も沸騰し、同様に盧杞らを責めたため、皇帝はやむを得ず12月壬戌の日、盧杞を新州司馬に左遷し、白志貞を恩州司馬、趙贊を播州司馬とした。宦官の翟文秀は皇帝が信任していた者だが、李懐光がその罪を指摘したため、皇帝は彼も処刑せざるを得なかった。 乙丑の日、翰林学士・祠部員外郎の陸贄を考功郎中に、金部員外郎の呉通微を職方郎中に任じた。陸贄が上奏して辞退した。「奉天到着直後は従駕した将吏たち全員が二階級特進しましたが、今度は翰林学士だけが昇進しています。罰を行うには高位・近臣から先に執行し遠方の卑官を後にすれば命令は守られ、賞を与えるには低い者・辺境から優先して高位・側近を後回しにするなら功績を見逃すことがありません。まず大功労者を記録し次にあまねく群臣を行き渡らせてください。そうしていただければ私も独り辞退するつもりはございません。」皇帝は許さなかった。 奉天に滞在した皇帝は使者を派遣して田悦・王武俊・李納を説得し、罪を赦免し官爵を与えることで厚く慰撫しようとした。 解説
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| 悅等皆密歸款,而猶未敢絕朱滔,各稱王如故。滔使其虎牙將軍王郅說悅曰:「日者八郎有急,滔與趙王不敢愛其死,竭力赴救,幸而解圍。今太尉三兄受命關中,滔欲與回紇共往助之,願八郎治兵,與滔渡河共取大梁。」悅心不欲行而未忍絕滔,乃許之。滔復遣其內史舍人李琯見悅,審其可否,悅猶豫不決,密召扈崿等議之。司武侍郎許士則曰:「朱滔昔事李懷仙為牙將,與兄泚及朱希彩共殺懷仙而立希彩。希彩所以寵信其兄弟至矣,滔又與判官李子瑗謀殺希彩而立泚。泚既為帥,滔乃勸泚入朝而自為留後,雖勸以忠義,實奪之權也。平生與之同謀共功如李子瑗之徒,負而殺之者二十餘人。今又與泚東西相應,使滔得志,泚亦不為所容,況同盟乎!滔為人如此。大王何從得其肺腑而信之邪!彼引幽陵回紇十萬之兵屯於郊坰,大王出迎,則成擒矣。彼囚大王,兼魏國之兵,南向渡河,與關中相應,天下其孰能當之!大王於時悔之無及。為大王計,不若陽許偕行而陰為之備,厚加迎勞,至則托以它故,遣將分兵而隨之,如此,大王外不失報德之名而內無倉猝之憂矣。」扈崿等皆以為然。王武俊聞李琯適魏,遣其司刑員外郎田秀馳見悅曰:「武俊曏以宰相處事失宜,恐禍及身,又八郎困於重圍,故與滔合兵救之。今天子方在隱憂,以德綏我,我曹何得不悔過而歸之邪!捨九葉天子不事而事泚及滔乎!且泚未稱帝之時,滔與我曹比肩為王,固已輕我曹矣。 |
現代日本語訳悦らは皆ひそかに帰順の意を示していたが、なお朱滔との決別をためらい、それぞれ従来通り王号を用いていた。そこで朱滔は配下の虎牙将軍・王郅を使者として派遣し、悦に次のように説かせた。「かつて貴殿が窮地に陥った時、私は趙王と共に死をも惜しまず全力で救援に向かい、幸いにも包囲を解くことができました。今や朝廷から太尉(朱泚)様が関中での重任を拝命されたため、私は回紇兵と共に加勢しようと考えております。どうか貴殿も軍勢を整え、私と共に黄河を渡って大梁を攻略しましょう」。悦は同行したくない本心を持ちながらも朱滔との関係を断ち切れず、やむなく承諾した。 これを受けて朱滔はさらに内史舎人・李琯を派遣し、悦の真意を探らせた。悦は決断しかねて密かに扈崿らを招き協議すると、司武侍郎・許士則が進言した。「朱滔はかつて李懐仙に仕えていた牙将で、兄の朱泚や朱希彩と共謀して主君を殺害し朱希彩を擁立しました。その後も朱希彩から厚い信頼を得ながら判官・李子瑗らと再び謀り、今度は朱希彩を殺害して朱泚を立てたのです。そして朱泚が節度使となると『朝廷に参上すべき』と勧めて自ら留後(代理)となり、表向きは忠義を示しながら実権を奪取。李子瑗らかつての共謀者二十名余りも次々に殺害しております。今また朱泚と呼応して勢力を拡大中ですが、もし朱滔が野望を遂げれば、兄である朱泚さえ容赦しないでしょう。まして同盟関係などなおさらです! 彼の本性はかくの如しでございますのに、大王(悦)様はどうしてその心底を信じられるのですか? もし彼が十万もの幽州・回紇連合軍を率いて近郊に駐屯した際に出迎えれば、たちまち捕縛されるでしょう。そして貴方を囚人とし魏博の兵力を吸収、黄河を渡って南下して朱泚と呼応すれば、天下に抗える者などおりません! その時になって後悔しても遅いのです。ここは策をお勧めします──表向きは同行を承諾して内実では警戒態勢を整え、盛大な歓迎で油断させておいて、実際の出陣には何か口実を作り部将に兵を分けさせて随行させる。これにより表面上は恩義に報いる大義名分を保ちつつ、急襲される危険も避けられるでしょう」。扈崿ら一同もこの意見に賛同した。 一方で王武俊は李琯が魏博へ赴いたと聞き、配下の司刑員外郎・田秀を急派して悦に伝えさせた。「私は以前、宰相(朱滔)の処置が不適切だったため禍が及ぶことを恐れ、加えて貴殿が重囲に苦しんでおられたので、やむなく朱滔と連合して救援したのです。しかし今は天子(徳宗)様がわざわざご厚恩で我らを懐柔しておられるではありませんか! どうして過ちを悔い改めて帰順しないことがありましょう? 九代続く正統な天子を捨て、逆臣の朱泚や朱滔に仕えるなど言語道断です。そもそも朱泚が帝位を僭称する前から、朱滔は我々と同格であるにも関わらず常に見下していました──」 解説
(※注:ルビ付与禁止・原文非表示という指示のため、固有名詞等は原則として常用漢字表記とし、読み困難な場合は「悦(えつ)」のように初出時のみ()内に仮名を添えた) Translation took 1079.9 seconds. | ||||||||||||
| 況使之南平汴、洛,與泚連衡,吾屬皆為虜矣!八郎慎勿與之俱南,但閉城拒守。武俊請伺其隙,連昭義之兵,擊而滅之,與八郎再清河朔,復為節度使,共事天子,不亦善乎!」悅意遂決,紿滔云:「從行,必如前約。」丁卯,滔將范陽步騎五萬人,私從者復萬餘人,回紇三千人,發河間而南,輜重首尾四十里。 李希烈攻李勉於汴州,驅民運土木,築壘道,以攻城。忿其未就,並人填之,謂之濕薪。勉城守累月,外救不至,將其眾萬餘人奔宋州。庚午,希烈陷大梁。滑州刺史李澄以城降希烈,希烈以澄為尚書令兼永平節度使。勉上表請罪,上謂其使者曰:「朕猶失守宗廟,勉宜自安。」待之如初。 劉洽遣其將高翼將精兵五千保襄邑,希烈攻拔之,翼赴水死。希烈乘勝攻寧陵,江、淮大震。陳少游遣參謀溫述送款於希烈曰:「濠、壽、舒、廬,已令馳備,韜戈卷甲,伏俟指麾。」又遣巡官趙詵結李納於鄆州。 中書侍郎、同平章事關播罷為刑部尚書。 以給事中孔巢父為淄青宣慰使,國子祭酒董晉為河北宣慰使。 陸贄言於上曰:「今盜遍天下,輿駕播遷,陛下宜痛自引過以感人心。昔成湯以罪己勃興,楚昭以善言復國。陛下誠能不吝改過,以言射天下,使書詔開所避忌,臣雖愚陋,可以仰副聖情,庶令反側之徒革心向化。」上然之,故奉天所下書詔,雖驕將悍卒聞之,無不感激揮涕。 |
【現代日本語訳】何よりも危惧すべきは、彼ら(朱滔軍)が南進して汴州・洛陽を平定し、朱泚と連合する事態だ。そうなれば我々は皆、捕虜となるのが必定である!八郎(李納か)、決して共に南下してはならぬ。ただ城門を閉ざし防衛せよ。武俊(王武俊)が彼らの隙を見て昭義軍と連合し、朱滔らを撃滅することを請う。その後で我々は河朔地方を再び平定し、節度使として天子に仕えるのだ——これこそ最善の策ではあるまいか!」李悦は決断を固め、朱滔を欺いて言った。「同行いたしますが、必ず以前の約束通りと致しましょう」と。丁卯(ていぼう)の日、朱滔は范陽歩騎兵五万に加え私兵万余り、回紇兵三千人を率い河間から南下した。輜重隊の列は前後四十里にも及んだ。 李希烈が汴州で李勉を攻撃し、民衆を強制労働させて土木運搬・塁道構築を行わせた。工事遅延に激怒した彼は人夫ごと埋め立て「湿薪(濡れ柴)」と呼んで冷笑した。李勉は数カ月籠城するも援軍来らず、麾下万余を率いて宋州へ敗走した。庚午の日、李希烈は大梁を陥落させた。滑州刺史李澄が降伏すると、彼は尚書令兼永平節度使に任じられた。罪を詫びる李勉の上表に対し皇帝(徳宗)は「朕すら宗廟を守れなかったのだから、卿も気に病むな」と慰め、従前通り遇した。 劉洽が部将・高翼率いる精鋭五千で襄邑を防衛させるも陥落。高翼は入水自決した。勢いに乗る李希烈の寧陵攻撃に江淮地方は震撼。陳少游は参謀・温述を使者とし「濠州・寿州・舒州・廬州では既に防備を解き、武器を収めてご指示を待つ」と恭順を示す一方、巡官趙詵を鄆州へ派遣して李納との同盟工作を行わせた。 中書侍郎で宰相職の関播が罷免され刑部尚書に左遷された。 給事中の孔巢父を淄青宣慰使に、国子祭酒(大学長)董晋を河北宣慰使に任命した。 陸贄は皇帝へ進言した。「今や賊軍天下に満ち、陛下も避難の身です。深く御躬(みいつ)の過失を認め人心掌握すべきです。成湯王が罪己詔で国興し、楚昭王が善言により復国しました。陛下が改過の誠意を示せば——臣たる者も聖意を受け謀反人らの心変わりを導けましょう」。皇帝はこれに従い奉天行宮発布の詔勅には驕将・悍卒さえ涙した。 【解説】
※本訳出における方針: - 官職名「同平章事」→「宰相職」、「節度使」→現行表記維持 - 「回紇」「輜重」等は当時の実態を反映し原語保持 - 「不亦善乎」など反語表現は文脈に即した意訳(「最善の策ではあるまいか」) - 干支紀日(丁卯・庚午)は歴史資料として残す必要性からそのまま表記 Translation took 2066.6 seconds. | ||||||||||||
| 術者上言:「國家厄運,宜有變更以應時數。」群臣請更加尊號一二字。上以問陸贄,贄上奏,以為不可,其略曰:「尊號之興,本非古制。行於安泰之日,已累謙沖,襲乎喪亂之時,尤傷事體。」又曰:「贏秦德衰,兼皇與帝,始總稱之。流及後代,昏僻之君,乃有聖劉、天元之號。是知人主輕重,不在名稱。損之有謙光稽古之善,崇之獲矜能納諂之譏。」又曰:「必也俯稽術數,須有變更,與其增美稱而失人心,不若黜舊號以祗天戒。」上納其言,但改年號而已。上又以中書所撰赦文示贄,贄上言,以為:「動人以言,所感已淺,言又不切,人誰肯懷!今茲德音,悔過之意不得不深,引咎之辭不得不盡,洗刷疵垢,宣暢鬱堙,使人人各得所欲,則何有不從者乎!應須改革事條,謹具別狀同進。捨此之外,尚有所虞。竊以知過非難,改過為難;言善非難,行善為難。假使赦文至精,止於知過言善,猶願聖慮更思所難。」上然之。 德宗神武聖文皇帝四興元元年(甲子,公元七八四年) 春,正月,癸酉朔,赦天下,改元。制曰:「致理興化,必在推誠;忘己濟人,不吝改過。朕嗣服丕構,君臨萬邦,失守宗祧,越在草莽。不念率德,誠莫追於既往;永言思咎,期有復於將來。明征其義,以示天下。 「小子懼德不嗣,罔敢怠荒,然以長於深宮之中,暗於經國之務,積習易溺,居安忘危,不知稼穡之艱難,不恤征戍之勞苦,澤靡下究,情未上通,事既擁隔,人懷疑阻。 |
翻訳本文占い師が進言した。「国家の運勢が衰えています。時流に応じて変革を行うべきです」と。群臣は皇帝の尊号を追加するよう請願した。徳宗(唐)は陸贄に意見を求めたところ、彼は「不可」とする上奏文を提出し、その要旨は次の通りであった: 「尊号という制度は本来、古代の礼制には存在しないものです。太平の世で用いれば既に謙虚さを損ない、ましてや喪乱(安史の乱後の混乱)の時期に踏襲することは特に国家体面を傷つけます」 徳宗はこの意見を容れ、年号のみ変更した。次いで中書省作成の赦文(恩赦詔書)を見せた際、陸贄は批判的上奏を行った: 「言葉だけで人心を動かそうとしても効果は薄く、さらに表現が不十分なら誰が心に留めましょう?今回の徳音(皇帝の発言)では、過ちへの悔恨を深く表明し、責任を全面的に認める必要があります。汚点を洗い流し鬱積した感情を解放させ、万民の願いを叶える姿勢を示せば、従わない者などいるでしょうか?改革事項は別紙で詳細を進言しますが、それ以上に憂慮すべきは——過ちを知ることは易く、改めることが難しく、善を語ることは易く、実行することが難しい点です。赦文が完璧でも『知過言善(過ちを知り善を述べる)』段階で止まるならば、陛下には更に困難な『改過行善(過ちを改め善を行う)』へ進む御決意を望みます」 徳宗はこれを認めた。 貞元元年(甲子、784年)正月朔日 天下に大赦令が発布され、年号が「興元」から「貞元」に改められた。詔書にはこう記された: 「真理実現と教化推進の要諦は誠意を示すことにあり、自己を忘れて民を救い、過ちを惜しみなく改めることにある。朕は皇統を受け継ぎ万邦を治めたが、宗廟(祖先祭祀)を守れず草莽(民間逃亡)に身を置いた。徳をもって導くことを怠り、過去の過ちを取り戻せぬのが実情だ。永劫悔い続けつつ将来に向けて再起する決意である旨を明白に天下へ示す。 朕は不肖を恐れ懈怠したことはないが、深宮で育ったため国政経験が浅く、安逸の悪習に染まり危険への警戒心を失っていた。農耕の苦労も兵士の労苦も理解せず、恩恵は民へ届かず真実も上聞されぬ状態だった。この閉塞状況こそ人々の疑念と分断の根源である」 解説
(注)原文『資治通鑑』巻229-230より出典。現代語訳にあたり、固有名詞は原表記維持し、漢文調表現を平易な現代日本語へ変換。史実解釈には胡三省注・司馬光評を参照した。 Translation took 1977.2 seconds. | ||||||||||||
| 猶昧省己,遂用興戎,征師四方,轉餉千里,賦車籍馬,遠近騷然,行繼居送,眾庶勞止,或一日屢交鋒刃,或連年不解甲冑。祀奠乏主,室家靡依,死生流離,怨氣凝結,力役不息,田萊多荒。暴令峻於誅求,疲□空於杼軸,轉死溝壑,離去鄉閭,邑裡丘墟,人煙斷絕。天譴於上而朕不寤,人怨於下而朕不知,馴致亂階,變興都邑,萬品失序,九廟震驚,上累於祖宗,下負於蒸庶,痛心靦貌,罪實在予,永言愧悼,若墜泉谷。自今中外所上書奏,不得更言『聖神文武』之號。「李希烈、田悅、王武俊、李納等,鹹以勳舊,各守籓維,聯撫馭乖方,致其疑懼;皆由上失其道而下罹其災,朕實不君,人則何罪!宜並所管將吏等一切待之如初。 「朱滔雖緣朱泚連坐,路遠必不同謀,念其舊勳,務在弘貸,如能效順,亦與惟新。 「朱泚反易天常,盜竊名器,暴犯陵寢,所不忍言,獲罪祖宗,朕不敢赦。其脅從將吏百姓等,但官軍未到京城以前,去逆效順並散歸本道、本軍者,並從赦例。 「諸軍、諸道應赴奉天及進收京城將士,並賜名奉天定難功臣。其所加墊陌錢、稅間架、竹、木、茶、漆、榷鐵之類,悉宜停罷。」 赦下,四方人心大悅。及上還長安明年,李抱真入朝為上言:「山東宣佈赦書,士卒皆感泣,臣見人情如此,知賊不足平也!」 命兵部員外郎李充為恆冀宣慰使。 |
現代日本語訳:私は自身の誤りを深く省みることなく、ついに戦争を起こす結果となった。各地から兵士を徴発し千里も離れた場所への食糧輸送を行い、車や馬まで徴収したため国中が混乱に陥った。移動のたびに見送る民衆は疲労困憊し、兵卒たちの中には一日で何度も戦闘する者もいれば、数年もの間甲冑を脱げない者もいた。祖先祭祀を行う者がおらず家族は頼りを失い、生死に関わる流離の中で怨念が積もっていった。労役は絶えず田畑の多くが荒廃し、過酷な法令と厳しい取り立てで民衆の機織さえ途絶えた結果、人々は溝に倒れ故郷を捨てたため村々は廃虚となり人の気配も消えてしまった。 天が警告しているのに私は悟らず、下では怨みが渦巻いているにも関わらず知ろうとしなかった。ついに混乱の段階へ至り都で変事が発生したことで世の中は秩序を失い皇室祖廟さえ震撼させてしまう結果となった。この身は祖先に対しても民衆に対しても申し訳なく、ただ胸を痛めて顔を赤らめるのみだ——全ての罪責は私にあるのだ!深く恥じ悲しみながらも語れば、まるで谷底へ落ちるかの思いである。今後は朝廷内外からの上奏文において「聖神文武」という称号を用いることを厳禁する。 李希烈・田悦・王武俊・李納らはいずれも功績ある家臣であり各地を守っていたのに、私が統治の方法を誤ったため彼らの疑念と恐れを招いてしまった。すべては上位者の過失により下位者が災難を受けた結果であって、「私は君主として未熟だが民衆に何の罪があろうか!」管轄する将兵らは従来通り待遇せよ。 朱滔については兄・朱泚への連座ではあるが遠方ゆえ共謀とは考えにくく、過去の功績を考慮し寛大な処置を与える。恭順を示すならば改心の機会も与えるべきだ。 しかし朱泚は天理に背き帝位を僭称するとともに陵墓まで侵害する言語道断の所業であり、祖先に対する罪過ゆえ私として赦すことはできない。ただし彼に従った将兵・民衆で官軍が長安到着前に離反して帰順した者、あるいは故郷へ戻る者は全て赦免対象とする。 奉天(皇帝避難地)への援軍や長安奪還作戦に参加する全将士には「奉天定難功臣」の称号を与える。また臨時税として課された墊陌銭・稅間架、さらに竹木茶漆専売などの弊政は即時に廃止せよ。 解説:歴史的背景この文章は唐王朝・徳宗皇帝が784年に発布した「奉天改元大赦制」の一部である。当時、節度使朱泚による反乱(涇原兵変)で首都長安を追われた皇帝が避難先の奉天城から下詔し、自らの政治責任を認めつつ諸勢力へ宥和政策を示した重要文書である。 核心的解釈ポイント
政治的成果と歴史的意義李抱真報告(「山東宣佈赦書,士卒皆感泣」)に見られるように、この詔勅は反乱軍兵卒の動揺誘発に劇的な効果をもたらした。特に君主自らの過失認めが民衆心理に訴求し、「賊不足平也」と評された戦略的成功として中国政治思想史において罪己詔(帝王自己批判令)の典型例となっている。 Translation took 1811.6 seconds. | ||||||||||||
| 朱泚更國號曰漢,自稱漢元天皇,改元天皇。 王武俊、田悅、李納見赦令,皆去王號,上表謝罪。惟李希烈自恃兵強財富,遂謀稱帝,遣人問儀於顏真卿,真卿曰:「老夫嘗為禮官,所記惟諸侯朝天子禮耳!」希烈遂即皇帝位,國號大楚,改元武成。置百官,以其黨鄭賁為侍中,孫廣為中書令,李緩、李元平同平章事。以汴州為在梁府,分其境內為四節度。希烈遣其將辛景臻謂顏真卿曰:「不能屈節,當自焚!」積薪灌油於其庭。真卿趨赴火,景臻遽止之。 希烈又遣其將楊峰繼赦賜陳少游及壽州刺史張建封。建封執峰徇於軍,腰斬於市,少游聞之駭懼。建封具以少游與希烈交通之狀聞,上悅,以建封為濠、壽、廬三州都團練使。希烈乃以其將杜少誠為淮南節度使,使將步騎萬餘人先取壽州,後之江都,建封遣其將賀蘭元均、邵怡守霍丘秋柵。少誠竟不能過,遂南寇蘄、黃,欲斷江路,時上命包佶自督江、淮財賦,溯江詣行在。至蘄口,遇少誠入寇。曹王皋遣蘄州刺史伊慎將兵七千拒之,戰於永安戍,大破之,少誠脫身走,斬首萬級,包佶乃得前。後佶入朝,具奏陳少游奪財賦事。少游懼,厚斂所部以償之。李希烈以夏口上流要地,使其驍將董侍募死士七千人襲鄂州,刺史李兼偃旗臥鼓閉門以待之。侍撤屋材以焚門,兼帥士卒出戰,大破之。 |
現代語訳朱泚は国号を「漢」と改め、自らを「漢元天皇」と称して元号を「天皇」とした。 王武俊・田悦・李納の三人は朝廷からの赦免令を見て、全員が王の称号を取り下げ、上表文で罪を詫びた。しかし李希烈だけは自軍の強さと財力豊富なことを頼みに皇帝即位を企て、使者を顔真卿のもとに遣わし儀式手順を問わせた。すると顔真卿は「私はかつて礼官を務めたが記憶しているのは諸侯が天子に謁見する作法だけだ」と答えた。李希烈はそのまま皇帝の位につき、国号を大楚として元号を武成とした。百官を設置し配下の鄭賁を侍中に、孫広を中書令に、李緩・李元平を同平章事(宰相職)に任命した。汴州を「在梁府」と改称し領内を四つの節度使管区に分割した。 李希烈は配下の将軍辛景臻を使わして顔真卿に言わせた。「忠節を曲げられないなら自ら火の中に入れ!」庭には薪が積まれ油が注がれた。顔真卿が炎に向かって走ると、辛景臻は慌てて制止した。 李希烈はさらに将軍楊峰を派遣し赦免勅書を持たせて陳少游と寿州刺史張建封のもとに送った。張建封は楊峰を捕らえ陣営で引き回した後市場で腰斬に処した。これを聞いた陳少游は震え上がった。張建封が陳少遊の李希烈内通状況を詳細報告すると皇帝(徳宗)は喜び、濠州・寿州・廬州三州都団練使の職を与えた。 これに対し李希烈は配下の杜少誠を淮南節度使とし歩兵騎兵一万余りを与えてまず寿州攻略に向かわせた。張建封が部将賀蘭元均と邵怡に霍丘秋柵(防衛拠点)を守らせたため突破できず、南方の蘄州・黄州へ侵攻して長江水路遮断を図った。 当時皇帝は包佶に命じて江淮地域からの税収物資を監督させ行在所(臨時の朝廷)へ輸送中だった。蘄口で杜少誠軍と遭遇したが曹王李皋の派遣した蘄州刺史伊慎率いる七千兵が永安戍で迎撃し大勝(斬首一万級)。包佶は無事進むことができた。 後に包佶が朝廷に入り陳少遊の税収横領を詳細奏上すると、陳少游は恐れて管内から重税を取り立て弁償した。一方李希烈は長江要衝・夏口(漢口)攻略のため配下董侍に死兵七千を募らせ鄂州急襲させたが、刺史李兼が城門閉じて待ち伏せ攻撃で大勝を得た。 解説
(出典注:『資治通鑑』巻二百二十九より。訳文は現代日本語の可読性を優先し固有名詞表記は原書準拠) Translation took 1779.6 seconds. | ||||||||||||
| 上以兼為鄂、岳、沔都團練使。於是希烈東畏曹王皋,西畏李兼,不敢復有窺江、淮之志矣。 朱滔引兵入趙境,王武俊大具犒享。入魏境,田悅供承倍豐,使者迎候,相望於道。丁丑,滔至永濟,遣王郅見悅,約會館陶,偕行渡河。悅見郅曰:「悅固願從五兄南行,昨日將出軍,將士勒兵不聽悅出,曰:國兵新破,戰守逾年,資儲竭矣。今將士不免凍餒,何以全軍遠征!大王日自撫循,猶不能安,若捨城邑而去,朝出,暮必有變!』悅之志非敢有貳也,如將士何!已令孟祐備步騎五千,從五兄供芻牧之役。」因遣其司禮侍郎裴抗等往謝滔。滔聞之,大怒曰:「田悅逆賊,曏在重圍,命如絲發,使我叛君棄兄,發兵晝夜赴之,幸而得存。許我貝州,我辭不取;尊我為天子,我辭不受,今乃負恩,誤我遠來,飾辭不出!」即日,遣馬寔攻宗城、經城,楊榮國攻冠氏,皆拔之。又縱回紇掠館陶頓幄帟、器皿、車、牛以去。悅閉城自守。壬午,滔遣裴抗等還,分兵置吏守平恩、永濟。 丙戌,以吏部侍郎盧翰為兵部侍郎、同平章事。翰,義僖之七世孫也。 朱滔引兵北圍貝州,引水環之,刺史刑曹俊嬰城拒守。縱范陽及回紇兵大掠諸縣,又拔武城,通德、棣二州,使給軍食。遣馬寔將步騎五千屯冠氏以逼魏州。 以給事中杜黃裳為江淮宣慰副使。 上於行宮廡下貯諸道貢獻之物,榜曰瓊林大盈庫。 |
現代日本語訳:皇帝は李兼を鄂・岳・沔三州の都団練使に任命した。これにより李希烈は東側で曹王皋を恐れ、西側では李兼を警戒し、もはや江・淮地域へ侵攻する野心を持てなくなった。 朱滔が軍勢を率いて趙の領内に入ると、王武俊は盛大な慰労宴を催した。魏の領域に進入すると、田悦は前回以上の手厚い供応を行い、使者たちが出迎えのために道沿いに立ち並んだ。丁丑の日(21日)、朱滔が永済に到着し、王郅を使者として田悦のもとへ送り館陶で合流して共に黄河を渡るよう提案した。田悦は王郅に対し「私は心から五兄(朱滔)について南行したいと思っていたが、昨日軍を出そうとしたところ将兵が武器を持って反対し『国軍は敗れたばかりで一年以上も防戦し物資は尽きた。今や将士たちは飢え凍えるのに、どうして全軍で遠征できようか? 大王が毎日慰めても収まらない状況だ。もし城を捨てて出発すれば朝に出たなら夕方には叛乱が起きるだろう』と言うのだ。私に背く意志などないが将士たちを抑えられぬ。すでに孟祐に歩兵騎兵五千を整備させ、五兄のもとで飼料調達や雑役につかせることにした」と説明し、司礼侍郎裴抗らを使者として朱滔へ謝罪に向かわせた。 この報告を受けた朱滔は激怒して言った。「田悦め、逆賊よ! かつて重囲に陥り命が危うかった時、私が君主を裏切り兄(朱泚)をも捨て昼夜兼行で援軍を送ったからこそ生き延びたのだ。貝州を与えると言えば辞退し、天子にと推戴されれば拒んだくせに、今になって恩を裏切り『遠路はるばる来させながら口実を作って出兵しない』とは!」 即日、馬寔に宗城・経城を攻撃させ、楊栄国には冠氏を陥落させた。さらに回紇兵に館陶の陣幕・器物・車両・牛馬を掠奪させるなどしたため、田悦は城門を閉じて籠城した。壬午(26日)、朱滔は裴抗らを送り返すと同時に軍勢を分けて平恩・永済を占領し守備隊を置いた。 丙戌(30日)、吏部侍郎盧翰が兵部侍郎・同平章事に任命された。盧翰は盧義僖の七世孫である。 朱滔は軍勢を北上させ貝州を包囲すると水路を引き込み城を水浸しにした。刺史邢曹俊は城に拠って抵抗したが、朱滔は范陽兵と回紇兵に周辺諸県での掠奪を許可し、さらに武城を陥落させて徳州・棣州への補給路を確保した。馬寔には歩騎五千を率いさせ冠氏に駐屯させ、魏州へ圧力をかけ続けさせた。 皇帝は行宮の脇殿に諸道からの献上品を集積し、「瓊林大盈庫」と名付けた倉庫を設けた。 解説:
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| 陸贄以為戰守之功,賞賚未行而遽私別庫,則士卒怨望,無復鬥志,上疏諫,其略曰:「天子與天同德,以四海為家,何必橈廢公方,崇聚私貨!降至尊而代有司之守,辱萬乘以效匹夫之藏,虧法失人,誘姦聚怨,以斯制事,豈不過哉!」又曰:「頃者六師初降,百物無儲,外扞兇徒,內防危堞,晝夜不息,迨將五旬,凍餒交侵,死傷相枕,畢命同力,竟夷大艱。良以陛下不厚其身,不私其欲,絕甘以同卒伍,輟食以啖功勞。無猛制而人不攜,懷所感也;無厚賞而人不怨,悉所無也。今者攻圍已解,衣食已豐,而謠讟方興,軍情稍阻,豈不以勇夫恆性,嗜利矜功,其患難既與之同憂,而好樂不與之同利,苟異恬默,能無怨咨!」又曰:「陛下誠能近想重圍之殷憂,追戒平居之專欲,凡在二庫貨賄,盡令出賜有功,每獲珍華,先給軍賞,如此,則亂必靖,賊必平,徐駕六龍,旋復都邑,天子之貴,豈當憂貧!是乃散其小儲而成其大儲,損其小寶而固其大寶也。」上即命去其榜。 蕭復嘗言於上曰:「宦官自艱難以來,多為監軍,恃恩縱橫。此屬但應掌宮掖之事,不宜委以兵權國政。」上不悅。又嘗言:「陛下踐祚之初,聖德光被,自用楊炎、盧杞黷亂朝政,以致今日。陛下誠能變更睿志,臣敢不竭力?倘使臣依阿苟免,臣實不能。」又嘗與盧杞同奏事,杞順上旨,復正色曰:「盧杞言不正!」上愕然,退,謂左右曰:「蕭復輕朕!」戊子,命復棄山南東、西、荊湖、淮南、江西、鄂岳、浙江東、西、福建、嶺南等道宣慰、安撫使,實疏之也。 |
現代日本語訳陸贄は、戦いと守備の功績に対する褒賞がまだ行われていないのに皇帝が私的な倉庫(瓊林・大盈二庫)に固執している状況を危惧した。兵士たちの不満が高まり戦意喪失を招くと判断し、次の要旨で上疏して諫言した。 「天子は天と徳を同じくし、天下全体をわが家とするべきです。公的な制度を損なって私財を蓄積する必要などありません! 陛下自ら役人の職務に介入し、帝王の尊厳を傷つけて庶民のように貯蔵することは法秩序を崩壊させ人心を離反させる行為です。不正を誘発し怨みを招くこの方法で政治を行うのは過ちではありませんか」 さらに指摘した。 「先ごろ敵軍に包囲された際、物資が尽きる中で兵士たちは昼夜問わず五十日近く防戦を続けました。飢えと寒さの中多くの死傷者が出たにも関わらず皆が団結して危機を乗り越えたのは、陛下自ら享楽を控えて士卒と同じ生活を送り、食事を分かち合って功労者をねぎらったからです(『絶甘以同卒伍』)。厳しい規律もないのに兵士たちが離反しなかったのは感動したためであり(『懐所感也』)、十分な褒賞がないにも関わらず不平をもたなかったのは皆が困窮を理解していたからでした。ところがいま包囲が解け衣食が豊かになったのに不満の声が広まり軍心が乱れているのは、武人が本来利を貪り功績を誇る性質を持つためでしょう。苦難は共にしたのに利益だけ独占するなら怨みが生じるのも当然です」 そして提言した。 「陛下が包囲下での憂いを思い起こし、平時の私欲を抑えられるならば、二庫にある財貨すべてを功績ある者たちに賜うべきです。貴重品を得るたびまず軍への褒賞とすれば、必ず反乱は鎮まり賊も平定されるでしょう(『則亂必靖,賊必平』)。そうして天子の車駕で都へ帰還する時、貧しさなど問題になるでしょうか? これは小さな蓄えを散らすことで大きな貯蔵(国家安泰)を得る行為であり、些細な宝を棄てることで真なる大宝(皇位)を固めることに他なりません」 皇帝はこれを受け私庫の看板を取り外させた。 一方で蕭復も進言した。 「宦官たちはこの困難な時期以来監軍として権力を振るい、恩寵を笠に着て横暴です。彼らには宮中の仕事だけ担当させるべきであり兵権や国政に関わらせるのは誤りです」 皇帝は不快感を示した。 蕭復はさらに直言する。 「陛下が即位された当初は聖徳が輝いていました。しかし楊炎・盧杞を重用して朝政を乱されたため今日の事態を招いたのです(『自用楊炎、盧杞黷亂朝政』)。もしもお考えを改められるなら臣は全力を尽くしますが、媚びへつらって責任を逃れるよう求められれば従えません」 ある時には盧杞と共に上奏し、彼が皇帝の意向に迎合すると蕭復は厳しく「盧杞の発言は正しくない!」と指弾した。 驚いた皇帝は退出後側近に漏らした。 「蕭復は朕を軽んじている!」 戊子(貞元4年正月26日)、彼を山南東道から嶺南まで十数か所の宣慰安撫使として遠ざけた。これは事実上の左遷であった。 解説■歴史的意義と思想的核背景: - 二庫問題: 皇帝が私財蓄積のために設置した瓊林・大盈両倉庫は国家財政を歪めていた(安史の乱後の財政難期) - 宦官監軍制: 軍事指揮官への監督役として派遣された宦官たちによる越権行為が横行 陸贄諫言の核心:
ここに現れる帝王学の本質: 1. 共苦原理: 危機時は率先して士卒と苦楽を共有すべし(『絶甘以同卒伍』) 2. 無形統治術: 「懐所感也」―感動による自発的服従が理想 3. 公私峻別論: 『天子与天同徳』の理念から導かれる国家財政の透明性 ■政治的教訓と現代投影諫言成否の分析図:
※徳宗は二庫の看板撤去のみで本質的な改革を拒否(『資治通鑑』後段) 現代組織への示唆: ■『資治通鑑』編者の視点司馬光(北宋)がこの記述に込めた暗喩的意図:
この陸贄の痛切な指摘には、士大夫階級が君主へ期待した「契約的忠誠観」が結晶している。当時の君臣関係が絶対服従ではなく相互義務性を持っていたことを示す貴重な証言と言えるだろう。 Translation took 2576.9 seconds. | ||||||||||||
| 既而劉從一及朝士往往奏留復,上謂陸贄曰:「朕思遷幸以來,江、淮遠方,或傳聞過實,欲遣重臣宣慰,謀於宰相及朝士,僉謂宜然。今乃反覆如是,朕為之悵恨累日。意復悔行,使之論奏邪?卿知蕭復如何人?其不欲行,意趣安在?」贄上奏,以為:「復痛自修勵,慕為清貞,用雖不周,行則可保。至於輕詐如此,復必不為。借使復欲逗留,從一安肯附會!今所言矛楯,願陛下明加辯詰。若蕭復有所請求,則從一何容為隱!若從一自有回互,則蕭復不當受疑。陛下何憚而不辯明,乃直為此悵恨也!夫明則罔惑,辨則罔冤。惑莫甚於逆詐而不與明,冤莫痛於見疑而不與辯。是使情偽相糅,忠邪靡分。茲實居上御下之要樞,惟陛下留意。」上亦竟不復辯也。 辛卯,以王武俊為恆、冀、深、趙節度使,壬辰,加李抱真、張孝忠並同平章事。丙申,加田悅檢校右僕射。以山南東道行軍司馬樊澤為本道節度使,前深、趙觀察使康日知為同州刺史、奉誠軍節度使,曹州刺史李納為鄆州刺史、平盧節度使。 戊戌,加劉洽汴、滑、宋、亳都統副使,知都統事,李勉悉以其眾授之。 辛丑,六軍各置統軍,秩從三品,以寵勳臣。 吐蕃尚結贊請出兵助唐收京城。庚子,遣秘書監崔漢衡使吐蕃,發其兵。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)その後、劉従一や朝廷の役人たちが相次いで蕭復の留任を上奏したため、皇帝(徳宗)は陸贄に言った。「朕は都を遷して以来、江淮の遠方では事実以上の噂が流れていると思い、重臣を派遣して慰撫させようと宰相や廷臣と協議したところ、全員が賛成した。しかし今になって翻意するとは、連日悔しく思っている。蕭復自身が行くのを後悔し、彼らに上奏させたのか? 卿は蕭復の人となりを知っているはずだ。行きたくないというその真意は何か?」 陸贄は上奏して答えた。「蕭復は自らを厳しく律し清廉な人格者として知られております。政治手腕は完璧ではないものの、人柄は信頼できます。このような軽率で偽りの行動を取る人物では決してありません。仮に彼が残留を望んだとしても、劉従一が同調するはずがないのです。今の矛盾した主張について、陛下には是非とも直接お尋ねください。もし蕭復に何か要請があれば、劉従一がどうして隠蔽できましょう? もし劉従一に二心があるなら、蕭復を疑うべきではありません。なぜはっきりと確かめず、ただ悔しがっておられるのですか! 明らかにすれば惑わされず、弁明させれば冤罪は生じません。最大の過ちは先入観で裁いて真相を究明せぬこと、最も痛ましい冤罪は疑いながら弁明の機会を与えぬことです。これでは真実と虚偽が混ざり、忠臣と奸臣の区別がつかなくなります。これは統治者の根本的な要諦であり、陛下には深くご留意いただきたい」 しかし皇帝は結局真相を確かめなかった。 辛卯(12日)、王武俊を恒・冀・深・趙節度使に任命。 壬辰(13日)、李抱真と張孝忠に同平章事の位を加授。 丙申(17日)、田悦に検校右僕射を与える。山南東道行軍司馬だった樊沢を本道節度使に、元深・趙観察使の康日知を同州刺史兼奉誠軍節度使に、曹州刺史の李納を鄆州刺史兼平盧節度使にそれぞれ昇進させる。 戊戌(19日)、劉洽を汴滑宋亳都統副使とし事実上の総司令官(知都統事)とする。李勉は全軍権を彼に移譲した。 辛丑(22日)、六軍それぞれに統軍職を設置(従三品相当)。功臣への栄誉として。 吐蕃の尚結贊が唐支援のため出兵を申し出たため、庚子(21日)には秘書監・崔漢衡を使節として派遣し援軍要請を行った。 解説
※ルビ表記は厳禁のため漢字のみで記載。原文再掲載せず。 Translation took 1692.0 seconds. |
| input text 資治通鑑\230_唐紀_46.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百三十 唐紀四十六 起閼逢困敦二月,盡四月,不滿一年。 德宗神武聖文皇帝五興元元年(甲子,公元七八四年) 二月,戊申,詔贈段秀實太尉,謚曰忠烈,厚恤其家。時賈隱林已卒,贈左僕射,賞其能直言也。 李希烈將兵五萬圍寧陵,引水灌之。濮州刺史劉昌以三千人守之。滑州刺史李澄密遣使請降,上許以澄為汴滑節度使。澄猶外事希烈。希烈疑之,遣養子六百人戍白馬,召澄共攻寧陵。澄至石柱,使其眾陽驚,燒營而遁。又諷養子令剽掠,澄悉收斬之,以白希烈,希烈無以罪也。劉昌守寧陵,凡四十五日不釋甲。韓滉遣其將王棲曜將兵助劉洽拒希烈,棲曜以強弩數千游汴水,夜,入寧陵城。明日,從城上射希烈,及其坐幄。希烈驚曰:「宣、潤弩手至矣!」遂解圍去。 朱泚既自奉天敗歸,李晟謀取長安。劉德信與晟俱屯東渭橋,不受晟節制。晟因德信至營中,數以滬澗之敗及所過剽掠之罪,斬之。因以數騎馳入德信軍,勞其眾,無敢動者,遂並將之,軍勢益振。李懷光既脅朝廷逐盧杞等,內不自安,遂有異志。又惡李晟獨當一面,恐其成功,奏請與晟合軍。詔許之。晟與懷光會於咸陽西陳濤斜,築壘未畢,泚眾大至,晟謂懷光曰:「賊若固守宮苑,或曠日持久,未易攻取。今去其巢穴,敢出求戰,此天以賊賜明公,不可失也!」懷光曰:「軍適至,馬未秣,士未飯,豈可遽戰邪!」晟不得已乃就壁。 |
現代日本語訳資治通鑑巻二百三十・唐紀四十六(抄) 徳宗神武聖文皇帝の時代、興元元年(784年): 李希烈は兵5万で寧陵を包囲し、水を引き入れて城を水攻めとした。濮州刺史・劉昌は3千の兵で防衛した。一方、滑州刺史・李澄は密かに朝廷に降伏を願い出たため、皇帝から汴滑節度使への任命を受諾されるが、表向きは依然として李希烈に従った。これを疑った李希烈は養子600人を白馬に駐屯させると共に寧陵攻撃への協力を要請。しかし李澄は石柱に到達すると兵士に偽装の動揺を起こさせ陣営を焼いて撤退し、さらに養子部隊を唆して略奪を行わせた後、彼ら全員を捕縛・処刑して李希烈に報告したため、咎める口実を与えなかった。劉昌は45日間甲冑も脱がず寧陵を死守。ここで韓滉配下の王棲曜が援軍として派遣され、強弩数千丁を持ち汴水から夜陰に乗じて城へ潜入。翌日、城壁から李希烈とその本陣幕舎に向かって矢を放つと、李希烈は「宣州・潤州の弩兵が来た!」と驚いて包囲を解いた。 一方、朱泚軍が奉天での敗北後長安へ戻ると、李晟は長安奪還を計画した。同地に駐屯していた劉徳信は命令を無視し続けたため、李晟は彼を陣営へ呼び出して滬澗の敗戦と略奪罪を糾弾し処刑。直後に少数騎兵で劉軍本拠へ乗り込み「諸君の労苦を知る」と慰撫したため兵士は動揺せず、これを併合して軍勢を強化した。他方、朝廷に盧杞ら排除を強要した李懐光は内心不安を抱き謀反を企て始めていた。さらに単独で戦功を挙げる李晟を憎み「合同作戦」を上奏し許可を得た。両軍が咸陽西の陳濤斜で合流すると、陣地構築中に朱泚軍が襲来。李晟は「賊が宮城に籠れば攻略困難だが、わざわざ出撃してきたのは天が明公(李懐光)へ勝利を与えんとしている」と進言したが、李懐光は「兵馬の疲労甚だしい」と拒否。やむなく防壁内に退いた。 解説
※本訳では司馬光が込めた教訓性─「忠義の顕彰」「謀略の危険性」「指導者の決断力」─を行動描写を通じて間接的に表現。特に李晟と李懐光の対照的な人物像に乱世のリーダーシップ論を見出せる構成となっている。 Translation took 1956.8 seconds. |
| 晟每與懷光同出軍,懷光軍士多掠人牛馬,晟軍秋毫不犯。懷光軍士惡其異己,分所獲與之,晟軍終不敢受。懷光屯咸陽累月,逗留不進。上屢遣中使趣之,辭以士卒疲弊,且當休息觀釁。諸將數勸之攻長安,懷光不從,密與朱泚通謀,事跡頗露。李晟屢奏,恐其有變,為所並,請移軍東渭橋。上猶冀懷光革心,收其力用,寢晟奏不下。懷光欲緩戰期,且激怒諸軍,奏言:「諸軍糧賜薄,神策獨厚,厚薄不均,難以進戰。」上以財用方窘,若糧賜皆比神策,則無以給之,不然,又逆懷光意,恐諸軍觖望。乃遣陸贄詣懷光營宣慰,因召李晟參議其事。懷光意欲晟自乞減損,使失士心,沮敗其功,乃曰:「將士戰鬥同而糧賜異,何以使之協力!」贄未有言,數顧晟。晟曰:「公為元帥,得專號令;晟將一軍,受指蹤而已。至於增減衣食,公當裁之。」懷光默然,又不欲自減之,遂止。 時上遣崔漢衡詣吐蕃發兵,吐蕃相尚結贊言:「蕃法發兵,以主兵大臣為信。今制書無懷光署名,故不敢進。」上命陸贄諭懷光,懷光固執以為不可,曰:「若克京城,吐蕃必縱兵焚掠,誰能遏之!此一害也。前有敕旨,募士卒克城者人賞百緡,彼發兵五萬,若援敕求賞,五百萬緡何從可得!此二害也。虜騎雖來,必不先進,勒兵自固,觀我兵勢,勝則從而分功,敗則從而圖變,譎詐多端,不可親信,此三害也。 |
現代日本語訳李晟は常に懐光と共に出陣していたが、懐光軍の兵士たちは民衆の牛馬を略奪する一方、李晟軍は秋毫(わずかなもの)すら侵害しなかった。この違いを憎んだ懐光軍兵士が分捕り品を与えようとしても、李晟軍は決して受け取ろうとしなかった。 懐光が咸陽に数ヶ月駐屯しても進軍せず、皇帝(徳宗)はたびたび宦官を使者として派遣し督促した。しかし彼は「兵士が疲弊しているので休息させ、敵の隙を伺うべきだ」と言い訳した。諸将が再三長安攻撃を勧めたが懐光は従わず、密かに朱泚と内通していたため動向が露見し始める。 李晟は度々上奏して「懐光に異変があれば自軍も併呑される恐れあり」として東渭橋への移動を要請した。しかし皇帝はなお懐光の改心を期待し彼の兵力活用を図り、李晟の上奏を握り潰す。 戦端を遅らせ諸軍を怒らせようとした懐光は「他軍の兵糧支給は薄いのに神策軍(李晟軍)だけ厚遇されている」と不公平を訴えた。財政逼迫中の皇帝が全軍に同等の待遇を与えれば財源不足となるため陸贄を使者として派遣し慰撫させ、同時に李晟も協議に参加させる。 懐光は密かに李晟に自ら減俸を申し出させ兵士の人心離反を狙い「将兵が同じく戦うのに待遇差があっては協力できぬ」と主張した。陸贄が沈黙して李晟を見つめる中、彼は「貴公が元帥として指揮権を持つ者であり私は命令を受ける立場に過ぎない。衣食の増減は貴公が裁断すべきだ」と返答し、懐光は自ら減俸案を提示できず計画を撤回した。 この頃皇帝が吐蕃へ援軍要請のため崔漢衡を派遣すると、吐蕃宰相尚結贊は「我が国の出兵規定では軍事総責任者の署名が必要である」として拒否。陸贄が説得にあたるも懐光は頑なに反対し三つの害を指摘した:「①長安占領後必ず略奪を働く」「②5万兵への恩賞500万緡の財源不足」「③戦況不利時に離反する危険性」。 歴史的解説
※訳文では原典の編年体特性を保持するため主語省略箇所に適宜補填。軍事用語は『続日本紀』類例を参照し「号令」「指蹤(指揮)」等で統一。 Translation took 1430.1 seconds. |
| 」竟不肯署敕。尚結贊亦不進兵。 陸贄自咸陽還,上言:「賊泚稽誅,保聚宮苑,勢窮援絕,引日偷生。懷光總仗順之師,乘制勝之氣,鼓行芟翦,易若摧枯,而乃寇奔不追,師老不用,諸帥每欲進取,懷光輒沮其謀,據茲事情,殊不可解,陛下意在全護,委曲聽從,觀其所為,亦未知感。若不別務規略,漸思制持,惟以姑息求安,終恐變故難測。此誠事機危迫之秋也,固不可以尋常容易處之。今李晟奏請移軍,適遇臣銜命宣慰,懷光偶論此事,臣遂泛問所宜。懷光乃云:『李晟既欲別行,某亦都不要藉。』臣猶慮有翻覆,因美其軍盛強。懷光大自矜誇,轉有輕晟之意。臣又從容問云:『回日,或聖旨顧問事之可否,決定何如?』懷光已肆輕言,不可中變,遂云:『恩命許去,事亦無妨。』要約再三,非不詳審,雖欲追悔,固難為辭。伏望即以李晟表出付中書,敕下依奏,別賜懷光手詔,示以移軍事由。其手詔大意云:『昨得李晟奏,請移軍城東以分賊勢。朕本欲委卿商量,適會陸贄回奏雲,見卿語及於此,仍言許去事亦無妨,遂敕本軍允其所請。』如此,則詞婉而直,理順而明,雖蓄異端,何由起怨!」上從之。晟自咸陽結陳而行,歸東渭橋。時鄜坊節度使李建徽、神策行營節度使楊惠元猶與懷光聯營,陸贄復上奏曰:「懷光當管師徒,足以獨制凶寇,逗留未進,抑有它由。 |
現代日本語訳李懐光は最終的に詔書への署名を拒否した。尚結贊もまた軍勢を前進させなかった。 陸贄が咸陽から帰還し、上奏して言うには、「賊朱泚の誅伐が遅滞し、宮苑に籠城しているのは勢力衰微で孤立無援ながら、かろうじて命をつないでいる状態です。李懐光は正義の軍を掌握し勝利の勢いに乗じているのですから、進撃して賊を一掃するのは枯れ木を折るよりも容易なはずですが、敵が敗走しても追撃せず、兵士は疲弊しているのに行動させようとしない。諸将が攻勢に出ようとするたびに李懐光はその策を阻みます。この状況は誠に不可解であり、陛下が全面的庇護の御意向で彼の言い分を聞き入れているにもかかわらず、彼の行動には感謝の色も見られません。もし別途の方策を講じず姑息な手段で安泰を求め続ければ、やがて予測不能の変事が生じましょう。まさに重大な危機が迫る瀬戸際であり、通常通りに対処すべき時ではありません」 「今、李晟が軍勢移動を上奏した折、ちょうど臣が慰問の命を受けておりましたので、李懐光とこの件について議論しました。彼は『李晟が別行動したいなら、私も敢えて止めぬ』と述べたのです。臣は翻意するか懸念しつつも軍勢を称賛したところ、彼は得意になって李晟への軽視を露わにしました。さらに臣が慎重に尋ねると『帰還後、陛下がこの件の可否をお問いになるかもしれません』と。すでに軽率な発言をしていた李懐光は前言撤回できず『特別に許可すれば差し支えあるまい』と確約したのです」 「再三確認しており不備なく、たとえ後悔しても覆しようがありません。速やかに李晟の上奏文を中書省へ下付し、詔勅で移軍を認めると共に、李懐光には親筆詔書をもって理由を示すべきです。その主旨は『先般李晟より賊勢力分散のための城東移動を請願されたが、本来自分であなたと協議する予定であったところ、陸贄が帰還しあなたから「差し支えなし」との確約を得たと奏上したため、軍に移駐許可を与えた』というもの。これなら言葉は穏やかで率直、道理も明快であり、彼が異心を抱いていても怨みを起こしようがないでしょう」 皇帝はこの進言を受け入れた。李晟は咸陽から陣列を整えて東渭橋へ帰還した。しかし鄜坊節度使・李建徽と神策行営節度使・楊恵元が依然として李懐光軍と連営していたため、陸贄は再び上奏した:「本来なら李懐光の兵力で賊を単独制圧可能なはず。進撃しないのは別の思惑がある証左です」 解説
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| 所患太強,不資傍助。比者又遣李晟、李建徽、楊惠元三節度之眾附麗其營,無益成功,只足生事。何則?四軍接壘,群帥異心,論勢力則懸絕高卑,據職名則不相統屬。懷光輕晟等兵微位下而忿其制不從心,晟等疑懷光養寇蓄奸而怨其事多陵己。端居則互防飛謗,欲戰則遞恐分功,齟齬不和,嫌釁遂構,俾之同處,必不兩全。強者惡積而後亡,弱者勢危而先覆,覆亡之禍,翹足可期!舊寇未平,新患方起,憂歎所切,實堪疚心。太上消慝於未萌,其次救失於始兆。況乎事情已露,禍難垂成,委而不謀,何以寧亂!李晟見機慮變,先請移軍就東,建徽、惠元勢轉孤弱,為其吞噬,理在必然,它日雖有良圖,亦恐不能自拔。拯其危急,唯在此時。今因李晟願行,便遣合軍同往,託言晟兵素少,慮為賊泚所邀,借此兩軍迭為掎角,仍先諭旨,密使促裝,詔書至營,即日進路,懷光意雖不欲,然亦計無所施。是謂稱人有奪人之心,疾雷不及掩耳者也。」解斗不可以不離,救焚不可以不疾,理盡於此,惟陛下圖之。」上曰:「卿所料極善。然李晟移軍,懷光不免悵望,若更遣建徽、惠元就東,恐因此生辭,轉難調息,且更俟旬時。」 辛酉,加王武俊同平章事兼幽州、盧龍節度使。 李晟以為:「懷光反狀已明,緩急宜有備,蜀、漢之路不可壅,請以裨將趙光銑等為洋、利、劍三州刺史,各將兵五百以防未然。 |
現代日本語訳懸念されるのは(李懐光の)勢力が強大すぎることであり、他者の助力を必要としない点である。最近ではさらに李晟・李建徽・楊恵元という三人の節度使の軍勢をその陣営に付属させたが、これらは成功に寄与せず、ただ問題を生むだけだ。なぜか?四つの軍が駐屯地で相対し、将帥たちの考えは異なる。勢力においては極端な差があり、官職名目上も互いに統属関係を持たない。李懐光は李晟ら兵力が弱く地位も低いことを軽んじ、彼らの指揮に従わぬことに憤る一方で、李晟らは李懐光が敵を温存し奸計を企てていると疑い、その高圧的態度を怨んでいる。平時には互いに誹謗を警戒し、戦おうとすれば功績の横取りを恐れる。齟齬によって不和となり、猜忌が深まる中で同地に駐屯させるのは両立不可能である。強者は悪行が積もって滅び、弱者は危険な情勢の中で先に潰える。このような壊滅の禍いは目前だ!旧敵(朱泚)未平定のまま新たな災いが発生する憂慮には心痛むものがある。最善策は禍根を芽吹く前に除き、次善策でも兆候初動で失態を救うべきである。ましてや事態は既に露見し、危機が目前にあるのに放置すればどうして混乱を鎮められようか?李晟は機先を制すべく軍の東方移動を要請した(正しい)。これにより李建徽と楊恵元は孤立弱体化し、(懐光に)併呑されるのは必然である。後日良策あっても自抜不能となるだろう。彼ら救済の機は今のみだ。ここで李晟の要請を認め、両軍合同での移動を命じるべきである。(表向けには)「李晟軍が手薄なため賊朱泚に狙われる恐れあり」と称し、二軍による相互支援を理由とする。密かに準備整頓を急がせ詔書到着即日出発させるのだ。李懐光は不満でも阻止手段を持たない。「人の意図を奪う計略こそ雷鳴より迅やかだ」と謂われる所以である。争いの仲裁には引き離しが必要であり、火災救助に迅速さが求められるのは理の当然―陛下にはこの道理をお汲み取り願いたい。」 皇帝(徳宗)は言った。「卿の見立ては極めて妥当だが、李晟の移動で懐光の不満を招くだろう。さらに建徽らも東方へ移せば口実を与え調整困難となる。しばらく待つこととする」 辛酉(二十八日)、王武俊を同平章事兼幽州・盧龍節度使に任じた。 解説
*注:原文『資治通鑑』巻二百二十九(唐紀四十五)より。現代語訳にあたり主語補完・句読点整備等を実施した。 Translation took 865.1 seconds. |
| 」上疑未決,欲親總禁兵幸咸陽,以慰撫為名,趣諸將進討。或謂懷光曰:「此漢祖游雲夢之策也!」懷光大懼,反謀益甚。 上垂欲行,懷光辭益不遜,上猶疑讒人間之,甲子,加懷光太尉,增實食,賜鐵券,遣神策右兵馬使李卞等往諭旨。懷光對使者投鐵券於地曰:「聖人疑懷光邪?人臣反,賜鐵券;懷光不反,今賜鐵券,是使之反也!」辭氣甚悖。朔方左兵馬使張名振當軍門大呼曰:「太尉視賊不許擊,待天使不敬,果欲反邪!功高太山,一旦棄之,自取族滅,富貴他人,何益哉!我今日必以死爭之!」懷光聞之,謂曰:「我不反,以賊方強,故須蓄銳俟時耳。」懷光又言:「天子所居必有城隍。」乃發卒城咸陽,未幾,移軍據之。張名振曰:「乃者言不反,今日拔軍此來,何也?何不攻長安,殺朱泚,取富貴,引軍還邠邪?」懷光曰:「名振病心矣!」命左右引去,拉殺之。右武鋒兵馬使石演芬,本西域胡人,懷光養以為子。懷光潛與朱泚通謀,演芬遣其客郜成義詣行在告之,請罷其都統之權。成義至奉天,告懷光子璀。璀密白其父。懷光召演芬責之曰:「我以爾為子,奈何欲破我家!今日負我,死甘心乎?」演芬曰:「天子以太尉為股肱,太尉以演芬為心腹;太尉既負天子,演芬安得不負太尉乎!演芬胡人,不能異心,惟知事一人。 |
現代日本語訳皇帝は決断できず迷っていたが、自ら近衛兵を率いて咸陽へ赴き、「慰撫」と称して諸将に進軍・討伐を促そうとした。ある者が李懐光に「これは漢の高祖が雲夢沢で用いた策と同じだ!」と言上すると、懐光は大いに恐れ謀反の意志を強めた。 皇帝が出発しようとする直前、懐光の発言がますます不遜になったにもかかわらず、皇帝は讒言による離間を疑い、甲子(日付)に懐光へ太尉位授与・封邑拡大・鉄券(謀反罪免除特権証書)下賜を決定。神策右兵馬使の李卞らを使者として派遣したが、懐光は使者に対し地面に鉄券を叩きつけて言った。「聖上は私を疑っているのか? 臣下が謀反する時にこそ鉄券を与えるものだ!私は逆心などないのにこれを賜るとは、かえって謀反せよと唆しているようなものだ!」その口調は極めて横柄であった。 朔方左兵馬使の張名振が軍門前で叫んだ。「太尉閣下は賊を放置し攻撃させず、天子の使者にも敬意を示さぬ。果たして謀反か!泰山よりも高い功績を自ら捨て一族滅亡をも招き、富貴を他人に奪われて何の益があろう?今日こそ死を賭けて諫める!」これを聞いた懐光は「謀反などしない。賊軍が強いので時機を待っているだけだ」と弁明し、「天子駐留地には城壁が必要だ」として咸陽に城塞を築かせ、まもなく自ら占拠した。名振が再び詰め寄ると「ではなぜここへ来られた?長安を攻めて朱泚を討ち富貴を得ればよいではないか!」と問うたところ、懐光は「お前は狂ったな」と言い部下に撲殺させた。 右武鋒兵馬使の石演芬(西域出身で懐光の養子)は、懐光が朱泚と内通していることを察し配下を行在所へ派遣して報告。ところが使者が奉天で懐光の実子・李璀に密告したため事態が露見する。演芬を詰問された際「天子が閣下を手足として信頼されるように、閣下も私を腹心とされました。それならば閣下が天子を裏切られる以上、なぜ私だけが忠誠でいられましょうか!私は一筋に主君のみに仕える胡人です」と言い放った。 解説
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| 苟免賊名而死,死甘心矣!」懷光使左右臠食之,皆曰:「義士也,可令快死!」以刀斷其喉而去。 李卞等還,言懷光驕慢之狀,於是行在始嚴門禁,從臣皆密裝以待。乙丑,加李晟河中、同絳節度使。上猶以為薄,丙寅,又加同平章事。上將幸梁州,山南節度使鹽亭嚴震聞之,遣使詣奉天奉迎,又遣大將張用誠將兵五千至盩厔以來迎衛。用誠為懷光所誘,陰與之通謀,上聞而患之。會震繼遣牙將馬勳奉表,上語之故。勳請:「亟詣梁州取嚴震符召用誠還府,若不受召,臣請殺之。」上喜曰:「卿何時復至此?」勳刻日時而去。既得震符,請壯士五人與之俱出駱谷。用誠不知事洩,以數百騎迎之,勳與之俱入驛。時天寒,勳多然蒿火於驛外,軍士皆往附火。勳乃從容出懷中符,以示用誠曰:「大夫召君。」用誠錯愕起走,壯士自後執其手擒之。用誠子在勳後,斫傷勳首。壯士格殺其子,僕用誠於地,跨其腹,以刀擬其喉曰:「出聲則死!」勳入其營,士卒已擐甲執兵矣。勳大言曰:「汝曹父母妻子皆在漢中,一朝棄之,與張用誠同反,於汝曹何利乎!大夫令我取用誠,不問汝曹,無自取族滅!」眾皆讋服。勳送用誠詣梁州,震杖殺之,命副將領其眾。勳裹其首,覆命於行在,愆期半日。 李懷光夜遣人襲奪李建徽、楊惠元軍,建徽走免,惠元將奔奉天,懷光遣兵追殺之。 |
現代日本語訳「賊の汚名を免れて死ぬなら本望だ!」と言い放つと、李懐光は配下に命じてその肉を切り刻んで食わせた。しかし周囲が「義士である。速やかに死なせよ」と進言したため、刀で喉を断ち切って絶命させた。 李卞らが帰還し李懐光の傲慢無礼な様子を報告すると、皇帝行宮は門の警戒を厳重化した。従臣たちは密かに身支度を整え非常事態に備えた。乙丑(2月12日)、李晟は河中・同絳節度使に任命されるが、帝はまだ不十分と見て丙寅(13日)には同平章事の官職も加授した。 帝が梁州へ行幸しようとした時、山南節度使厳震は使者を奉天に遣わし出迎えを申し出た。さらに大將張用誠に兵五千を率いさせて盩厔まで護衛に向かわせる。しかし用誠は李懐光の誘いに乗り内通していたため、帝はこれを憂慮した。ちょうど嚴震が牙将馬勳を使者として派遣してきたので、帝は事情を説明すると、勳は「急ぎ梁州で厳震の符節を得て用誠を召還しましょう。もし応じなければ斬ります」と進言した。帝が喜んで「いつ戻れるか?」と問うと、勳は期日を定めて発った。 嚴震の符節を得ると、勳は壮士五人を連れ駱谷から出た。陰謀が露見していることを知らない用誠は数百騎で迎えに出て共に宿駅に入る。寒さ厳しい中、勳が駅外で大量の蓬草を燃やしたため兵士たちは暖を取りに集まった。この隙に勳は懐から符節を取り出し「大夫(嚴震)が貴殿を召している」と示すと、用誠は驚いて逃げようとしたが壮士に背後から両手を押さえられ捕縛された。用誠の息子が後ろで勳の頭部を斬りつけたため、壮士は即座にその子を殺害し、用誠を地面に倒した上で腹に跨り刀を喉元にあて「声を出せば死ぬ」と威嚇した。 勳が兵営に入ると士卒らは武装していた。「お前たちの父母妻子は皆漢中におる!張用誠と共に反逆して一族滅亡するのが得策か?大夫は只、用誠捕縛を命じただけだ」と呼びかけると、兵士たちは畏れて服従した。勳は用誠を梁州へ護送し、嚴震が杖殺刑に処すと副将に部隊指揮を継承させた。首級を包んだ勳が行宮に復命すると期日より半日遅れていた。 李懐光は夜襲で李建徽・楊恵元の軍勢を奪い、建輝は辛くも脱出したが、奉天へ逃亡しようとした恵元は追撃兵に殺害された。 解説■歴史的背景この場面は『資治通鑑』唐紀四十五(784年)、「涇原の乱」後の混乱期を描いています。徳宗皇帝が反乱軍から逃れる中、節度使・李懐光が朝廷を見限って離反し始めた重大な局面です。「賊名を免れて死ぬ」と叫ぶ人物は唐王朝への忠誠を示す義士で、こうした犠牲的精神が当時の価値観において高く評価されたことがわかります。 ■権力構造の変化
■行動分析
■制度考証
■語訳の方針
■後世への影響この事件直後に李懐光は完全離反するが、逆に朝廷支持勢力の結集を促す転機となった。馬勳の活躍は「忠誠と知略で大軍制圧」の模範例として宋代まで語り継がれています。 Translation took 2241.8 seconds. |
| 懷光又宣言曰:「吾今與朱泚連和,車駕且光遠避!」懷光以韓游瑰朔方將也,掌兵在奉天,與游瑰書,約使為變,游瑰密奏之。明日,又以書趣之,游瑰又奏之。上稱其忠義,因問:「策安出?」對曰:「懷光總諸道兵,故敢恃眾為亂。今邠寧有張昕,靈武有寧景璿,河中有呂鳴岳,振武有杜從政,潼關有唐朝臣,渭北有竇覦,皆守將也。陛下各以其眾及地授之,尊懷光之官,罷其權,則行營諸將各受本府指麾矣。懷光獨立,安能為亂!」上曰:「罷懷光兵權,若朱泚何?」對曰:「陛下既許將士以克城殊賞,將士奉天子之命以討賊取富貴,誰不願之!邠府兵以萬數,借使臣得而將之,足以誅泚。況諸道必有杖義之臣,泚不足憂也!」上然之。丁卯,懷光遣其將趙升鸞入奉天,約其夕使別將達奚小俊燒乾陵,令升鸞為內應以驚脅乘輿。升鸞詣渾瑊自言,瑊遽以聞,且請決幸梁州。上命瑊戒嚴,瑊出,部勒未畢,上已出城西,命戴休顏守奉天,朝臣將士狼狽扈從。戴休顏徇於軍中曰:「懷光已反!」遂乘城拒守。 朱泚之稱帝也,兵部侍郎劉乃臥病在家,泚召之,不起。使蔣鎮自往說之,凡再往,知不可誘脅,乃歎曰:「鎮亦忝列曹,不能捨生,以至於此,豈可復以己之腥臊污漫賢者乎!」歔郗而返。乃聞帝幸山南,搏膺大呼,自投於床,不食,數日而卒。 |
現代日本語訳李懐光はさらに宣言した。「私は今や朱泚と連合した。皇帝の車駕(一行)は速やかに遠くへ退避せよ!」と。彼は韓游瓌が朔方軍の将であり奉天で兵を指揮していることに目をつけ、反乱への加担を誘う書簡を送った。しかし游瓌は密かにこれを皇帝に報告した。翌日も懐光が催促状を送ると、彼は再び奏上した。 皇帝(徳宗)はその忠義を称え、「ではどう対処すべきか?」と問うた。游瓌は答えた。「李懐光は諸道の兵権を掌握しているため大軍を頼みに反乱を起こせるのです。しかし今、邠寧には張昕が、霊武には寧景璿が、河中有呂鳴岳が、振武には杜従政が、潼関には唐朝臣が、渭北には竇覦ら守将が控えています。陛下が各将に配下の兵と土地を委ねて李懐光は官位だけ留め権限を取り上げれば、諸軍は本来の指揮系統に戻ります。孤立した彼一人では反乱など起こせません」。 皇帝が「もし懐光から兵権を奪った場合、朱泚をどう討つのか?」と問うと、游瓌は言下に答えた。「陛下が長安奪還の恩賞をお約束になった以上、将兵は天子の命により賊を討って富貴を得ようとするでしょう。誰が従わないことがありましょうか! 邠府だけで一万の兵力があります。私が指揮すれば朱泚を討つに十分です。ましてや諸道には必ず義を重んじる将軍も現れます」。皇帝はこの献策を受け入れた。 丁卯(二十七日)、李懐光は配下の趙昇鸞を奉天へ潜入させ、夜間に達奚小俊らに乾陵への放火を行わせると同時に、昇鸞が内部から呼応して皇帝一行を威嚇する計画を立てた。しかし昇鸞が渾瑊のもとで自首したため、瑊は急ぎ事態を奏上し梁州(漢中)への避難を進言した。 皇帝の命を受け渾瑊が戒厳準備にかかったものの、配置が整わぬうちに既に皇帝一行は城西から脱出していた。戴休顔に奉天守備を任せる詔が下り、朝廷臣下や将兵たちは慌てながら供奉(随行)した。戴休顔は軍中で「李懐光は反逆した!」と宣言し、徹底抗戦の構えを見せた。 一方、朱泚が帝位を称すると病床にあった兵部侍郎・劉乃のもとに招聘があったが彼は応じなかった。使者として訪れた蒋鎮も二度説得するも屈しない様子を見て嘆息した。「私も高官でありながら死をもって節を全うできずここまで生き延びた……どうしてさらにこの汚れた身で賢者(劉乃)を穢すことができようか」と涙しながら帰った。後に劉乃は皇帝が山南へ逃れたことを知ると胸を叩いて慟哭し、床に倒れて絶食数日後に没した。 解説
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| 太子少師喬琳從上至盩厔,稱老疾不堪山險,削髮為僧,匿於仙遊寺。泚聞之,召至長安,以為吏部尚書。於是朝士之竄匿者多出仕泚矣。 懷光遣其將孟保、惠靜壽、孫福達將精騎趣南山邀車駕,遇諸軍糧料使張增於盩厔。三將曰:「彼使我為不臣,我以追不及報之,不過不使我將耳。」因目增曰:「軍士未朝食,如何?」增紿其眾曰:「此東數里有佛祠,吾貯糧焉。」三將帥眾而東,縱之剽掠,由是百官從行者皆得入駱谷,以追不及還報,懷光皆黜之。 河東將王權、馬匯引兵歸太原。 李晟得除官制,拜哭受命,謂將佐曰:「長安,宗廟所在,天下根本,若諸將皆從行,誰當滅賊者!」乃治城隍,繕甲兵,為復京城之計。先是東渭橋有積粟十餘萬斛,度支給李懷光軍,凡盡。是時懷光、朱泚連兵,聲勢甚盛,車駕南幸,人情擾擾。晟以孤軍處二強寇之間,內無資糧,外無救援,徒以忠義感激將士,故其眾雖單弱而銳氣不衰。又以書遣懷光,辭禮卑遜,雖示尊崇而諭以禍福,勸之立功補過。故懷光慚恧,未忍擊之。晟曰:「畿內雖兵荒之餘,猶可賦斂。宿兵養寇,患莫大焉!」乃以判官張彧假京兆尹,擇四十餘人,假官以督渭北諸縣芻粟,不旬日,皆充羨。乃流涕誓眾,決志平賊。 田悅用兵數敗,士卒死者什六七,其下皆厭苦之。上以給事中孔巢父為魏博宣慰使。 |
現代日本語訳太子少師であった喬琳は皇帝に従い盩厔(しゅうきつ)まで同行したが、「老病で険しい山道には耐えられない」と称して髪を剃り僧となり、仙遊寺へ隠れた。朱泚(しせい)はこの話を聞くと彼を長安に召喚し、吏部尚書に任命した。これにより朝廷から逃亡・潜伏していた官僚の多くが朱泚のもとで官職につくようになった。 李懐光(りかいこう)は配下の将軍孟保(もうほ)、恵静寿(けいせいじゅ)、孫福達(そんふくたつ)に精鋭騎兵を率いて南山へ急行させ、皇帝一行を迎え撃とうとした。盩厔で諸軍糧料使の張増(ちょうぞう)に出会った時、三人の将は互いに言い合った。「我々に謀反人扱いさせるつもりか?『追いつけなかった』と報告すればせいぜい大将職を解任されるだけだ」。そして張増を見て「兵士たちが朝食を取っていない。どうする?」と言うと、張増は彼らの兵士に偽って告げた。「この東数里の所にある仏寺に糧秣を貯蔵してある」。三人の将は軍勢を率いて東へ進み、略奪を許したため、これにより百官や従行者らは駱谷(らくこく)へ逃れ入ることができた。最終的に「追いつけなかった」と報告すると李懐光に罷免された。 河東の将軍王権(おうけん)と馬匯(ばかい)は兵を率いて太原へ帰還した。 李晟(りせい)が新たな官職任命書を受け取ると、涙ながらに拝礼して受諾し配下の将佐たちに言った。「長安には皇室宗廟があり天下の根幹だ。もし諸将全員が皇帝に従って南下すれば、誰が賊を討つというのか!」城壁や堀を修復し甲冑兵器を整備して、都奪還計画を開始した。以前から東渭橋(とういきょう)付近には十数万斛の穀物が蓄積されていたが、度支使(財務官)が李懐光軍へ供給していたためほとんど底をついた状態だった。この時期に李懐光と朱泚は連合して勢力を増し、皇帝の南遷で人心も動揺していた。李晟率いる孤軍は二大強敵に挟まれ、内部には物資・食糧が乏しく外からの援軍もなく、「忠義」をもって兵士たちを奮起させていたため兵力こそ少ないものとはいえ戦意は衰えなかった。さらに書簡で李懐光に対し恭順な文体を用いつつ禍福を説き「功績を立てて過ちを償うよう」勧めた結果、李懐光も恥じて攻撃できずにいた。しかし李晟は言った。「京畿が戦乱で荒廃しているとはいえ徴税や物資調達は可能だ。軍勢を温存して敵を放置すればこれほどの禍いはない!」判官の張彧(ちょういく)を仮の京兆尹に任命し、四十余人に臨時官職を与えて渭水以北諸県からの糧秣徴発にあたらせたところ、十日も満たずに倉庫が充足した。こうして兵士たちに向けて涙ながらに賊討伐の決意を誓った。 田悦(でんえつ)は戦いに連敗し、兵卒の死者が6~7割にも達していたため配下から厭戦機運が高まっていた。皇帝は給事中の孔巣父(こうそうほ)を魏博宣慰使に任命した。 解説
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| 巢父性辯博,至魏州,對其眾為陳逆順禍福,悅及將士皆喜。兵馬使田緒,承嗣之子也,凶險,多過失,悅不忍殺,杖而拘之。悅既歸國,內外撤警備。三月,壬申朔,悅與孔巢父宴飲,緒對弟侄有怨言,其侄止之,緒怒,殺侄,既而悔之,曰:「僕射必殺我!」既夕,悅醉,歸寢,緒與左右密穿後坦入,殺悅及其母、妻等十餘人,即帥左右執刀立於中門之內夾道。將旦,以悅命召行軍司馬扈崿、判官許士則、都虞候蔣濟議事。府署深邃,外不知有變,士則、濟先至,召入,亂斫殺之。緒恐既明事洩,乃出門,遇悅親將劉忠信方排牙,緒疾呼謂眾曰:「劉忠信與扈崿謀反,昨夜刺殺僕射。」眾大驚,喧嘩。忠信未及自辨,眾分裂殺之。扈崿來,及戟門遇亂,招諭將士,將士從之者三分之一。緒懼,登城而立,大呼謂眾曰:「緒,先相公之子,諸君受先相公恩,若能立緒,兵馬使賞緡錢二千,大將半之,下至士卒,人賞百緡,竭公私之貨,五日取辦。」於是將士回首殺扈崿,皆歸緒,軍府乃定。因請命於孔巢父,巢父命緒權知軍府。後數日,眾乃知緒殺其兄,雖悔怒,而緒已立,無如之何。緒又殺悅親將薛有倫等二十餘人。李抱真、王武俊引兵將救貝州,聞亂,不敢進。朱滔聞悅死,喜曰:「悅負恩,天假手於緒也!」即遣其執憲大夫鄭景濟等將步騎五千助馬寔,合兵萬二千攻魏州。 |
現代日本語訳巣父は弁舌に優れ、博識であった。魏州に到着すると、軍勢を前にして反逆と恭順の利害禍福を説いたため、田悦と将士たちは皆喜んだ。兵馬使の田緒(承嗣の子)は凶暴で危険な人物であり、数々の過失を犯していたが、悦は彼を殺すに忍びず、杖刑を加えた上で拘束したのみであった。 やがて悦が朝廷への帰順を果たすと、内外の警備を撤収させた。三月壬申朔(一日)、悦は孔巣父との宴席で酒宴を行った。この時、田緒が弟や甥に向かって恨み言を口にしたところ、甥がこれを制止したため、怒り狂った緒は甥を殺害してしまう。直後に後悔し「僕射(悦)が必ず私を殺すだろう」と呟いた。 その夜、酔い潰れた悦が寝所へ戻ると、田緒は側近らと共に密かに裏壁を穿って侵入。悦とその母・妻など十余人を惨殺し、直ちに配下の者たちに刀を持たせて中門内の両通路に配置した。 夜明け前、田緒は「悦の命令」と偽り行軍司馬扈崿(こがく)・判官許士則・都虞候蔣濟を会議召集。役所内部は深奥していたため外部には異変が知られず、先着した士則と蔣济が呼び込まれ乱斬された。 事態の露見を恐れた緒は門外へ出ると、たまたま悦側近の将軍劉忠信が儀仗を整えている場に遭遇。即座に「劉忠信こそ扈崿と共謀し昨夜僕射を暗殺した!」と叫び煽動。兵士たちが騒然となる中、弁明も許さず忠信は八つ裂きにされた。 遅れて到着した扈崿が戟門(正門)で混乱に遭遇すると、将士へ呼びかけて鎮静化を図ったため、三分の一の兵士が彼に従おうとした。これを見た緒は城壁に駆け登り「我こそ先君・承嗣公の実子なり!諸君も同様に恩顧を受けた者たちだ。もし私を立てば兵馬使には二千緡、大将には半額、士卒に至るまで百緡ずつ賞金を与える。公私の財貨を尽くして五日以内に支払う!」と宣言。 この言葉で将士は矛先を扈崿へ向け惨殺。全軍が田緒に帰順し軍府は安定した。その後孔巣父の承認を得て緒は臨時統治権を与えられるも、数日後に兄(悦)殺害の真相を知った兵士らは激怒したものの、既に体制が固まっており為す術がなかった。 田緒はさらに悦派の薛有倫ら二十余人を粛清。李抱真と王武俊が貝州救援に向かっていたがこの報を受けて進軍停止。一方で朱滔は「恩知らずな悦に天罰が下った」と喜び、直ちに鄭景済率いる五千の歩騎兵を派遣し馬寔(ばじつ)軍と合流させて総勢一万二千で魏州攻撃へ向かわせた。 解説
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| 寔軍王莽河,縱騎兵及回紇四出剽掠。滔別遣人入城說緒,許以本道節度使。緒方危迫,遣隨軍侯臧詣貝州送款於滔,滔喜,遣臧還報,使亟定盟約。明緒部署城內已定,李抱真、王武俊又遣使詣緒,許以赴援,如悅存日之約。緒召將佐議之,幕僚曾穆、盧南史曰:「用兵雖尚威武,亦本仁義,然後有功。今幽陵之兵恣行殺掠,白骨蔽野,雖先僕射背德,其民何罪!今雖盛強,其亡可跂立而待也。況昭義、恆冀方相與攻之,奈何以目前之急欲從人為返逆乎!不若歸命朝廷,天子方蒙塵於外,聞魏博使至必喜,官爵旋踵而至矣。」緒從之,遣使奉表詣行在,城守以俟命。 上之發奉天也,韓游瑰帥其麾下八百餘人還邠州。李懷光以李晟軍浸盛,惡之,欲引軍自咸陽襲東渭橋。三令其眾,眾不應,竊相謂曰:「若與我曹擊朱泚,惟力是視;若欲反,我曹有死,不能從也!」懷光知眾不可強,問計於賓佐,節度巡官良鄉李景略曰:「取長安,殺朱泚,散軍還諸道,單騎詣行在,如此,臣節亦未虧,功名猶可保也。」頓道懇請,至於流涕,懷光許之。都虞候閻晏等勸懷光東保河中,徐圖去就,懷光乃說其眾曰:「今且屯涇陽,召妻孥於邠,俟至,與之俱往河中。春裝既辦,還攻長安,未晚也。東方諸縣皆富實,軍發之日,聽爾曹俘掠。」眾許之。懷光乃謂景略曰:「曏者之議,軍眾不從,子宜速去,不且見害!」遣數騎送之。 |
現代日本語訳李寔は王莽河に駐屯し、騎兵と回紇(ウイグル)兵を四方に出して略奪を働かせた。朱滔は別の使者を派遣して城に入り、田緒を説得し、本来の道の節度使の地位を与えることを約束した。窮地に追い込まれていた田緒は配下の侯臧を貝州へ派遣し、朱滔への帰順を示す書簡を届けさせた。朱滔は喜び、侯臧を使者として返還するとともに、速やかに盟約を結ぶよう求めた。翌日、城内の配置が整うと、李抱真と王武俊も使者を田緒のもとに派遣し、「張悦生存時の約束通り援軍を送る」と伝えた。 一方、徳宗帝が奉天から出発した際、韓游瑰は配下800人余りを率いて邠州に帰還していた。李懐光は李晟の軍勢が次第に強くなることに不快感を持ち、自ら咸陽から東渭橋を襲撃しようとした。しかし三度命令しても兵士たちが応じず、「もし朱泚討伐なら力を尽くすが、謀反なら死んでも従わない」と密かに語り合った。 解説
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| 景略出軍門,慟哭曰:「不意此軍一旦陷於不義!」懷光遣使詣邠州,令留後張昕悉發所留兵萬餘人及行營將士家屬會涇陽,仍遣其將劉禮等將三千餘騎脅遷之。韓游瑰說昕曰:「李太尉功高自棄,已蹈禍機。中丞今日可以自求富貴,游瑰請帥麾下以從。」昕曰:「昕微賤,賴李太尉得至此,不忍負也!」游瑰乃謝病不出,陰與諸將高固、楊懷賓等相結。時崔漢衡以吐蕃兵營於邠南,高固曰:「昕以眾去,則邠城空矣。」乃詐為渾瑊書,召吐蕃使稍逼邠城。昕等懼,竟不敢出。昕等謀殺諸將之不從者,游瑰知之,先與高固等舉兵殺昕,遣楊懷賓奉表以聞,且遣人告崔漢衡。漢衡矯詔以游瑰知軍府事,軍中大喜。懷光子旻在邠,游瑰遣之,或曰:「不殺旻,何以自明?」游瑰曰:「殺旻,則懷光怒,其眾必至,不如釋旻以走之。」時楊懷賓子朝晟在懷光軍中為右廂兵馬使,聞之,泣白懷光曰:「父立功於國,子當誅夷,不可典兵。」懷光囚之。於是游瑰屯邠寧,戴休顏屯奉天,駱元光屯昭應,尚可孤屯藍田,皆受李晟節度,晟軍聲大振。 始,懷光方強,朱泚畏之,與懷光書,以兄事之,約分帝關中,永為鄰國。及懷光決反,逼乘輿南幸,其下多叛之,勢益弱。泚乃賜懷光詔書,以臣禮待之,且征其兵。懷光慚怒,內憂麾下為變,外恐李晟襲之,遂燒營東走,掠涇陽等十二縣,雞犬無遺。 |
現代日本語訳景略が陣門から出ると、声をあげて泣き叫んだ。「まさかこの軍が一日で不義に堕ちるとは!」 当時、崔漢衡が吐蕃軍を率いて邠州の南に駐屯していた。高固は「張昕が兵士たちを連れ去れば邠城は空になる」と言い、渾瑊の書簡を偽造して吐蕃軍に邠城へ接近するよう要請した。これにより張昕らは動けなくなった。やがて張昕一派が従わない将軍たちを暗殺しようと計画していることを察知した韓游瑰は、高固らと先手を打って兵を挙げ張昕を誅殺し、楊懐賓を使者として皇帝に報告文書を届けさせた。さらに崔漢衡にも連絡すると、彼は詔勅を偽造して韓游瑰に軍府の統率権を与えたため、全軍が大いに喜んだ。 一方、邠州にいた懐光の息子・李旻について、韓游瑰は解放した。「彼を殺せば懐光は激怒し大軍で攻めてくるだろう。逃がす方が得策だ」と判断したためである。この時、楊懐賓の息子・朝晟は懐光軍内で右廂兵馬使(高級将校)を務めていたが、父の行動を知ると涙ながらに懐光へ申し出た。「父が国に背いた以上、私も処刑されるべきです。兵権を持つ資格はありません」。これを受け懐光は彼を拘束した。 こうして韓游瑰は邠寧に、戴休顔は奉天に、駱元光は昭応に、尚可孤は藍田に駐屯し、全員が李晟の指揮下に入ったため、李晟軍の威勢は大いに高まった。 当初、懐光が強大だった時期には朱泚も彼を恐れ「兄」として敬い、「関中(長安周辺)を分割支配して永続的な同盟国となる」と約束していた。しかし懐光が皇帝への反逆を決行し行宮を襲撃すると、配下の離反が相次ぎ勢力は衰えた。朱泚は態度を一変させ詔書で「臣下」として扱いながら兵力供出まで要求したため、懐光は恥辱と怒りに駆られた。内部での叛乱を警戒しつつ李晟軍の攻撃も恐れた彼は陣営を焼き払って東方へ逃走。涇陽など12県を略奪し、鶏や犬すら残さぬ徹底ぶりだった。 解説【権謀術数の連鎖】
【血縁論理の悲劇性】
【権力構造の転換点】
【歴史的教訓として】
※本記事は『資治通鑑』巻231-232(唐紀47-48)、785年(貞元元年)の記述に基づく。徳宗皇帝の奉天行宮脱出直後の混乱期にあたり、この後李晟軍による長安奪還が成就することで「中興の祖」と呼ばれる礎となる。 Translation took 2218.0 seconds. |
| 及富平,大將孟涉、段威勇將數千人奔於李晟,將士在道散亡相繼。至河中,或勸河中守將呂鳴岳焚橋拒之,鳴岳以兵少恐不能支,遂納之,河中尹李齊運棄城走。懷光遣其將趙貴先築壘於同州,刺史李紓懼,奔行在。幕僚裴向攝州事,詣貴先,責以逆順之理,貴先感寤,遂請降,同州由是獲全。向,遵慶之子也。懷光使其將符嶠襲坊州,據之,渭北守將竇覦帥獵團七百圍之。嶠請降。詔以覦為渭北行軍司馬。 丁亥,以李晟兼京畿、渭北、鄜、坊、丹、延節度使。 庚寅,車駕至城固。唐安公主薨,上長女也。 上在道,民有獻瓜果者,上欲以散試官授之,訪於陸贄,贄上奏,以為:「爵位恆宜慎惜,不可輕用。起端雖微,流弊必大。獻瓜果者,止可賜之錢帛,不當酬以官。」上曰:「試官虛名,無損於事。」贄又上奏,其略曰:「自兵興以來,財賦不足以供賜,而職官之賞興焉。青朱雜沓於胥徒,金紫普施於輿皁。當今所病,方在爵輕,設法貴之,猶恐不重,若又自棄,將何勸人!夫誘人之方,惟名與利,名近虛而於教為重,利近實而於德為輕。專實利而不濟之以虛,則耗匱而物力不給。專虛名而不副之以實,則誕謾而人情不趨。故國家命秩之制,有職事官,有散官,有勳官,有爵號,然掌務而授俸者,唯系職事之一官也,此所謂旋實利而寓虛名者也。 |
現代日本語訳(口語体)富平まで来た時、大将軍の孟涉と段威勇が数千人の兵を率いて李晟のもとに逃亡しました。その途上で将兵たちが次々に離散していきました。 河中に到着すると、ある者が河中の守備隊長・呂鳴岳に対して橋を焼き払って抵抗するよう進言しました。しかし呂鳴岳は兵力不足で持ちこたえられないと判断し、逆に彼らを受け入れました。一方、河中の長官である李齊運は城を捨てて逃走しました。 懐光(朱泚)が配下の将軍・趙貴先に同州で堡塁を築かせると、刺史の李紓は恐れをなして皇帝臨時の行宮へ逃亡。幕僚の裴向が代行として州政務を取り仕切りました。彼は自ら趙貴先のもとに出向き、「君臣の道理」について説得すると、感動した趙貴先は降伏を申し出たため、同州は戦禍から免れました(裴向は前宰相・裴遵慶の子です)。 さらに懐光が配下の符嶠に坊州を急襲占領させると、渭北守備隊指揮官・竇覦が狩猟団700名を率いて包囲。符嶠は降伏しました。朝廷は詔勅で竇覦を渭北行軍司馬に任命しました。 丁亥の日(4月17日)、李晟が京畿・渭北・鄜州・坊州・丹州・延州の節度使を兼任することになりました。 庚寅の日(4月20日)、皇帝一行は城固に到着。ここで唐安公主(徳宗最年長の皇女)が逝去しました。 逃避行中、果物を献上した民衆に対して皇帝(徳宗)が名誉官職を与えようとした際、側近の陸贄に相談がありました。陸贄は「爵位は常に慎重に扱うべきです。些細なきっかけでも弊害は必ず大きくなります。献上者には金品で報いるのが妥当であり、官職を与えるべきではありません」と進言しました。 皇帝が「名誉官なら実害はないだろう」と返すと、陸贄はさらに詳述しました: 〈兵乱以来、恩賞用財源不足を官職授与で補う弊害が蔓延しています。下級役人に高位の服色(青・朱)が氾濫し、卑しい者まで金印紫綬を受ける異常事態です。現在の問題は爵位価値の低下そのものにあり、法改正で重んじようとしても回復困難な状況です〉 〈人心掌握には「名誉」と「実利」が有効ですが、名誉(虚)は教化面で重要であり、実利(実)は道徳的意義において軽いものです。両者を適切に組み合わせない場合:実利偏重では物資不足を招き、虚名のみでは人心を得られません〉 〈我が国の位階制度には職事官(実務)、散官(名誉称号)、勲官(功績)、爵号(貴族)があります。しかし実際に政務と俸給を得るのは「職事官」ただ一つであり、これこそ虚名の中に実利を包む優れた仕組みなのです〉 解説歴史的背景この場面は783年、唐王朝・徳宗皇帝が朱泚の反乱から逃避する「奉天行幸」中の出来事です。軍閥勢力(懐光)と朝廷軍(李晟ら)の攻防に加え、非常時における官位濫授問題という二重の危機を描いています。 人物関係図``` 皇帝(徳宗) ├─唐安公主(長女・逃避行中に死去) └─側近:陸贄(実務官僚) [反乱勢力] 朱泚/李懐光? ├─配下武将:趙貴先 →裴向の説得で帰順 └─符嶠→竇覦に降伏 [朝廷忠臣] ・呂鳴岳(やむなく敵を受け入れる) ・李晟(節度使として勢力拡大中) ・裴向(名門出身の知恵者) ``` 陸贄諫言の核心
特筆すべき表現技法
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| 其勳、散、爵號三者所繫,大抵止於服色、資廕而已,此所謂假虛名以佐實利者也。今之員外、試官,頗同勳、散、爵號,雖則授無費祿,受不佔員,然而突銛鋒、排患難者則以是賞之,竭筋力、展勞效者又以是酬之。若獻瓜果者亦授試官,則彼必相謂曰『吾以忘軀命而獲官,此以進瓜果而獲官,是乃國家以吾之軀命同於瓜果矣』。視人如草木,誰復為用哉!今陛下既未有實利以敦勸,又不重虛名而濫施,人無藉焉。則後之立功者,將曷用為賞哉!」贄在翰林,為上所親信,居艱難中,雖有宰相,大小之事,上必與贄謀之,故當時謂之內相,上行止必與之俱。梁、洋道險,嘗與贄相失,經夕不至,上驚憂涕泣,募得贄者賞千金。久之,乃至,上喜甚,太子以下皆賀。然贄數直諫,迕上意,盧杞雖貶官,上心庇之。贄極言杞奸邪致亂,上雖貌從,心頗不悅,故劉從一、姜公輔皆自下陳登用,贄恩遇雖隆,未得為相。壬辰,車駕至梁州。山南地薄民貧,自安、史以來,盜賊攻剽,戶口減耗太半,雖節制十五州,租賦不及中原數縣。及大駕駐蹕,糧用頗窘。上欲西幸成都,嚴震言於上曰:「山南地接京畿,李晟方圖收復,借六軍以為聲援。若幸西川,則晟未有收復之期也。」眾議未決,會李晟表至,言:「陛下駐蹕漢中,所以系億兆之心,成滅賊之勢。 |
現代日本語訳:勲位・散官・爵号の三つが関わる事柄は、おおよそ衣服の色や子孫への恩恵に留まっており、これはいわゆる虚名を用いて実利を補うものです。現在の員外官や試官もまた、勲位・散官・爵号とよく似ています。たとえ俸禄がかからず定員にも影響しなくとも、鋭鋒に突進して患難を排除する者にはこれで賞を与え、筋力を尽くして功績を示す者にも同じように報いるのです。もし瓜や果物を献上した者まで試官に任命すれば、彼らは必ずこう言うでしょう『我々は命を賭けて官位を得たのに、こいつらは瓜果を差し出しただけで官を得るとは、国家が我らの命を瓜果と同列に見做しているのだ』と。人を草木のように扱えば、誰が再び朝廷に尽くすでしょうか!今や陛下は実利をもって人々を奨励せず、虚名も軽んじて濫発するため、人は頼るべきものを失っています。このままでは将来功績を立てた者に対して、いったい何で賞を与えればよいのでしょう!」 陸贄は翰林院に在り、皇帝の信任厚く、艱難の中にあって宰相がいるにも関わらず、大小様々な政務について皇帝は必ず彼と相談したため、当時の人々は「内相」と呼んだ。皇帝の行幸には常に同行し、梁州・洋州への険しい道中で一時陸贄とはぐれ、一晩経っても戻らなかった時には、皇帝は驚き悲しんで涙を流し、「千金を与えてでも探せ」と命じた。ようやく帰還した際には大いに喜び、皇太子以下一同が祝賀した。 しかし陸贄は度々直言諫め、皇帝の意に逆らった。盧杞こそ左遷されたものの、皇帝は内心庇護しており、陸贄が「盧杞の姦邪こそ乱世を招いた」と強く主張すると、皇帝は表向き従うふりをしながらも心では甚だ不満を持った。そのため劉従一や姜公輔ら下級官僚から登用される者があっても、陸贄への寵遇が厚いにも関わらず宰相にはなれなかった。 壬辰の日(二十三日)、皇帝一行は梁州に到着した。山南道は土地痩せ民貧しく、安史の乱以来、賊徒による略奪で戸数人口は半減し、十五州を管轄するも租税収入は中原の数県にも及ばない。天子が駐蹕すると物資が逼迫したため、皇帝が成都遷幸を望んだところ、厳震が進言した:「山南は京畿に接し、李晟が長安回復を図っております。六軍を留め援軍の体勢を示すべきです。西川へ移れば李晟の回復計画は頓挫しましょう」。議論紛糾の中、ちょうど李晟からの上表が届き「陛下が漢中に駐蹕されることで億兆の民心をつなぎ賊殲滅の態勢を整えられます」と記されていた。 解説:
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| 若規小舍大,遷都岷、峨,則士庶失望,雖有猛將謀臣,無所施矣!」上乃止。嚴震百方以聚財賦,民不至困窮而供億無乏。牙將嚴礪,震之從祖弟也,震使掌轉餉,事甚修辦。 初,奉天圍既解,李楚琳遣使入貢,上不得已除鳳翔節度使,而心惡之。議者言楚琳凶逆反覆,若不堤防,恐生窺伺。由是楚琳使者數輩至,上皆不引見,留之不遣。甫至漢中,欲以渾瑊代楚琳鎮鳳翔,陸贄上奏,以為:「楚琳殺帥助賊,其罪固大,但以乘輿未復,大憝猶存,勤王之師悉在畿內,急宣速告,晷刻是爭。商嶺則道迂且遙,駱谷復為盜所扼,僅通王命,唯在褒斜,此路若又阻艱,南北遂將□絕。以諸鎮危疑之勢,居二逆誘脅之中,洶洶群情,各懷向背。倘或楚琳發憾,公肆猖狂,南塞要衝,東延巨猾,則我咽喉梗而心膂分矣。今楚琳能兩端顧望,乃是天誘其衷,故通歸塗,將濟大業。陛下誠宜深以為念,厚加撫循,得其持疑,便足集事。必欲精求素行,追抉宿疵,則是改過不足以補愆,自新不足以贖罪。凡今將吏,豈得盡無疵瑕,人皆省思,孰免疑畏!又況阻命之輩,脅從之流,自知負恩,安敢歸化!斯釁非小,所宜速圖。伏願陛下思英主大略,勿以小不忍虧撓興復之業也。」上釋然開悟,善待楚琳使者,優詔存慰之。 丁酉,加宣武節度使劉洽同平章事。 |
現代日本語訳もし小事にこだわって大事を捨て、都を岷山や峨眉山へ移すならば、士民は失望し、たとえ勇将や知謀の臣がいても活躍の場がなくなる!」この言葉で皇帝(徳宗)は遷都計画を取り止めた。厳震はあらゆる手段を尽くして財貨を集めながらも、民衆に過度な困窮をもたらさず、物資供給は不足しなかった。牙将の厳礪は厳震の従祖弟(いとこ)で、糧秣輸送を担当させたところ、事務は完璧に遂行された。 奉天包囲が解けた当初、李楚琳が使者を派遣して貢物を献上したため、皇帝は渋々彼を鳳翔節度使に任命したものの、内心では嫌悪していた。論者たちは「李楚琳は凶逆で裏切りを繰り返す危険人物だ」と警告し、警戒しないと隙を突かれる恐れがあると主張した。そのため皇帝は後続の使者数名に面会せず、長安に抑留した。漢中へ移動した際、渾瑊を派遣して李楚琳から鳳翔鎮守を奪おうとしたが、陸贄が上奏し諫めた。 「李楚琳が主君を殺害し賊軍(朱泚)を助けた罪は確かに重大です。しかし現在、陛下のご帰還も果たせず大逆徒(朱泚)は健在で、王師はすべて京畿周辺に集中しています。緊急命令伝達には一刻の猶予も許されません。商嶺ルートは迂遠であり、駱谷ルートは賊軍に封鎖されています。朝廷と連絡可能なのは褒斜道のみです。ここが寸断されれば南北分断は必至でしょう。諸藩鎮は動揺し、二逆(朱泚・李懷光)の誘いに脅かされる中で人心は離合集散を繰り返しています。もし李楚琳に恨みを抱かれ公然と反乱を起こされたら──南方要衝が封鎖され東方の巨悪勢力と呼応すれば、我々は咽喉(のど)を扼(やく)され手足も分断されます。現状で彼が傍観姿勢を示すのは天意であり、帰順への道筋こそ大業達成に必要な条件です」 「陛下には深慮いただき厚遇をもって懐柔されるようお願いします。動揺している今を抑えれば事態収拾は可能です。もし過去の行跡を執拗(しつよう)に追求すれば、改過自新する機会さえ奪われます。現役将吏で瑕疵なき者など存在せず、誰もが疑惧していますましてや背信者の側近たちは恩義への負い目から帰順できません。この問題は軽視すべきではなく速やかな解決を要します。英主たる陛下には復興という大業のため、小さな感情にこだわることなく大局を見据えていただきたく伏してお願い申し上げます」皇帝は諫言で悟り開け、李楚琳の使者を丁重にもてなし温詔(おんしょう)で慰撫した。 丁酉の日(9月27日)、宣武節度使・劉洽に同平章事(宰相待遇)が加授された。 解説
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| 己亥,以行在都知兵馬使渾瑊同平章事亦朔方節度使,朔方、邠寧、振武、永平、奉天行營兵馬副元帥。 庚子,詔數李懷光罪惡,敘朔方將士忠順功名,猶以懷光舊勳,曲加容貸,其副元帥、太尉、中書令、河中尹並朔方等諸道節度、觀察等使,宜並罷免,授太子太保。其所管兵馬,委本軍自舉一人功高望重者便宜統領,速具奏聞,當授旌旄,以從人欲。 夏,四月,壬寅,以邠寧兵馬使韓游瑰為邠寧節度使。癸卯,以奉天行營兵馬使戴休顏為奉天行營節度使。 靈武守將寧景璿為李懷光治第,另將李如暹曰:「李太尉逐天子,而景璿為之治第,是亦反也!」攻而殺之。 甲辰,加李晟鄜坊、京畿、渭北、商華副元帥。晟家百口及神策軍士家屬皆在長安,朱泚善遇之。軍中有言及家者,晟泣曰:「天子何在,敢言家乎!」泚使晟親近以家書遺晟曰:「公家無恙。」晟怒曰:「爾敢為賊為間!」立斬之。軍士未授春衣,盛夏猶衣裘褐,終無叛志。 乙巳,以陝虢防遏使唐朝臣為河中、同終節度使。前河中尹李齊運為京兆尹,供晟軍糧役。 庚戌,以魏博兵馬使田緒為魏博節度使。渾瑊帥諸軍出斜谷,崔漢衡勸吐蕃出兵助之,尚結贊曰:「邠軍不出,將襲我後。」韓游瑰聞之,遣其將曹子達將兵三千往會瑊軍,吐蕃遣其將論莽羅依將兵二萬從之。 |
現代日本語訳己亥(きがい)の日、行在都知兵馬使(あんざいとちへいばし)渾瑊(こんかん)を同平章事(どうへいしょうじ)兼朔方節度使(さくほうせつどし)に任命するとともに、朔方・邠寧(ひんねい)・振武・永平・奉天行営兵馬副元帥とした。 夏四月壬寅(かのえとら)の日、邠寧兵馬使韓游瑰(かんゆうかい)を邠寧節度使とした。癸卯(みずのとう)には奉天行営兵馬使戴休顔(たいきゅうがん)を奉天行営節度使に任命した。 甲辰(きのえたつ)には李晟(りせい)に鄜坊・京畿(けいき)・渭北(いほく)・商華副元帥の地位を加増した。長安在住だった李晟一族百人と神策軍兵士家族は朱泚(しゅし)から厚遇されていたが、兵卒が家族に言及すると「天子はいずこにおられるというのに、よくも家族などと言えるか!」と涙ながら叱責。朱泚の使者が李晟親族からの偽装書簡を届け「ご家族は無事です」と伝えたところ、「逆賊の間者め!」と即座に斬首した。兵士たちには春服も支給されず盛夏でも粗末な衣類を着ていたが、誰一人離反しなかった。 乙巳(きのとみ)日、陝虢防遏使唐朝臣(とうちょうしん)を河中・同終節度使に任命。前河中尹李斉運(りせいうん)は京兆尹として李晟軍への兵糧供給責任者となった。 解説
※本訳では「旌旄」「行営」などの軍事用語は現代日本語に置換しつつ、官職名と固有名詞の正確性保持に留意。歴史的経緯が理解可能となるよう背景説明を含意した表現を採用している。 Translation took 1918.5 seconds. |
| 李楚琳遣其將石鍠將卒七百從瑊拔武功。庚戌,朱泚遣其將韓旻等攻武功,鍠以其眾迎降。瑊戰不利,收兵登西原。會曹子達以吐蕃至,擊旻,大破之於武亭川,斬首萬餘級,旻僅以身免。瑊遂引兵屯奉天,與李晟東西相應,以逼長安。 上欲為唐安公主造塔,厚葬之,諫議大夫、同平章事姜公輔表諫,以為「山南非久安之地,公主之葬,會歸上都,此宜儉薄,以副軍須之急。」上使謂陸贄曰:「唐安造塔,其費甚微,非宰相所宜論。公輔正欲指朕過失,自求名耳。相負如此,當如何處之?」贄上奏,以為公輔任居宰相,遇事論諫,不當罪之,其略曰:「公輔頃與臣同在翰林,臣今據理辨直則涉於私黨之嫌,希旨順成則違於匡輔之義。涉嫌止貽於身患,違義實玷於群恩。徇身忘君,臣之恥也!」又曰:「唯暗惑之主,則怨讟溢於下國而耳不欲聞,腥德達於上天而心不求寤,迨乎顛覆,猶未知非。」又曰:「當問理之是非,豈論事之大小!《虞書》曰:『兢兢業業,一日二日萬機。』唐、虞之際,主聖臣賢,慮事之微,日至萬數。然則微之不可不重也,如此,陛下又安可忽而念乎!」又曰:「若以諫爭為指過,則剖心之主不宜見罪於哲王;以諫爭為取名,則匪躬之臣不應垂訓於聖典。」又曰:「假有意將指過,諫以取名,但能聞善而遷,見諫不逆,則所指者適足以彰陛下莫大之善,所取者適足以資陛下無疆之休。 |
現代日本語訳:李楚琳は配下の将軍である石鍠に兵士七百を率いさせて渾瑊(こんかん)に従わせ、武功を攻略した。庚戌(かのえいぬ)の日、朱泚が配下の韓旻らに命じて武功を攻撃させると、石鍠は部下を率いて投降した。渾瑊は戦いに敗れ、兵をまとめて西原へ撤退した。ちょうど曹子達が吐蕃軍を引き連れて到着し、韓旻を急襲して武亭川で大破、一万余りの首級を挙げたため、韓旻は単騎でかろうじて逃走した。渾瑊は直ちに奉天へ進軍し駐屯すると、李晟と東西から呼応して長安を威圧した。 皇帝(徳宗)が唐安公主のために仏塔の建立と厚葬を行おうとしたところ、諫議大夫・同平章事の姜公輔が上表して諌めた。「山南は永住に適さぬ地ゆえ、いずれ長安へ戻る際には改葬が必要です。今こそ倹約すべきであり、軍需物資確保の急務に応える必要があります」。皇帝は陸贄に対し「塔建立の費用は微々たるものだ。宰相が論じることではない。公輔は朕の過失を指摘して名声を得ようとしている。この背信行為にはどう対処すべきか」と問うた。 これに対し陸贄は上奏し、「公輔は宰相として事あるごとに諫言するのが職責であり、罰せられる理由はありません」と主張するとともに次のように論じた。 「かつて臣が翰林院で公輔と同僚だったことを思えば、道理に基づき彼を弁護すれば私的結託の嫌疑を受け、陛下のお心に沿って賛成すれば補佐責任に背きます。嫌疑は身の災いですが、大義への背反こそ君臣の恩誼を汚すものです」 「暗愚な君主のみが、民衆から怨嗟(えんさ)の声があがっても聞かず、悪政で天に穢れが達しても自覚せず、ついに王朝が倒れるまで過ちを悟りません」 「重視すべきは道理の是非であって事柄の大小ではない!『虞書』には『慎み勤めて日々万般の政務に対処せよ』とあります。聖帝賢臣揃った唐堯・虞舜時代でさえ、細微なことまで考慮していたのです」 「仮に諫言が過失指摘だとしても、比干(殷の忠臣)のように心臓を抉られても君主へ尽くした人物は聖王から罰せられるべきではありませんでした。もし名声目的ならば『私利なく国に尽くす』臣下が経典で称賛されることもなかったでしょう」 「たとえ過失指摘や名誉欲だとしても、陛下が進言を聞き入れ拒まなければ、その行為はかえって陛下の大いなる善政を示し、得た名声もまた陛下に無限の福徳をもたらすのです」 解説:
(注:固有名詞は原則原音表記、官職名「同平章事=宰相相当」「諫議大夫=皇帝顧問官」。ルビ厳禁要請に従い全漢字無振り) Translation took 2144.5 seconds. |
| 因而利焉,所獲多矣。儻或怒其指過而不改,則陛下招惡直之譏;黜其取名而不容,則陛下被違諫之謗。是乃掩己過而過彌著,損彼名而名益彰。果而行之,所失大矣。」上意猶怒,甲寅,罷公輔為左庶子。 加西川節度使張延賞同平章事,賞其供億無乏故也。 朱泚、姚令言數遣人誘涇原節度使馮河清,河清皆斬其使者。大將田希鑒密與泚通,殺河清,以軍府附於泚。泚以希鑒為涇原節度使。 上問陸贄:「近有卑官自山北來者,率非良士。有刑建者,論說賊勢,語最張皇,察其事情,頗似窺覘,今已於一所安置。如此之類,更有數人,若不追尋,恐成奸計。卿試思之,如何為更?」贄上奏,以為今盜據宮闕,有冒涉險遠來赴行在者,當量加恩賞,豈得復猜慮拘囚!其略曰:「以一人之聽覽而欲窮宇宙之變態,以一人之防慮而欲勝億兆之奸欺,役智彌精,失道彌遠。項籍納秦降卒二十萬,慮其懷詐復叛,一舉而盡坑之,其於防虞,亦已甚矣。漢高豁達大度,天下之士至者,納用不疑,其於備慮,可謂疏矣。然而項氏以滅,劉氏以昌,蓄疑之與推誠,其效固不同也。秦皇嚴肅雄猜,而荊軻奮其陰計;光武寬容博厚,而馬援輸其款誠。豈不以虛懷待人,人亦思附;任數御物,物終不親!情思附則感而悅之,雖寇億化為心膂矣;意不親則懼而阻之,雖骨肉結為億慝矣。 |
現代日本語訳:これに乗じて利を得ようとするならば、得るものは非常に大きいのです。もしも彼らの過失指摘に対して怒り改めなければ、陛下には正直な者を憎むとの非難が生じます。名声を得ようとする者たちを排斥して受け入れないならば、陛下は諫言に背くというそしりを受けましょう。これは自らの過ちを覆い隠そうとしてかえって目立たせ、相手の名を傷つけようとすれば却ってその名が高まる結果となります。もしもこのまま行動するならば、失うものは甚大です。」しかし皇帝(徳宗)の怒りはなお収まらず、甲寅の日(10月28日)、公輔(趙憬か)を左庶子に降格させた。 西川節度使・張延賞には同平章事(宰相職)が加えられた。軍需物資の供給で不足を出さなかった功績に対する恩賞である。 朱泚と姚令言は使者を繰り返し送り涇原節度使・馮河清を誘ったが、河清はその使者をことごとく斬首した。しかし大将軍・田希鑒が密かに朱泚に通じ、河清を殺害して軍府全体で朱泚側についたため、朱泚は希鑒を涇原節度使に任命した。 皇帝が陸贄に問うた:「近頃山北から来る下級官吏の多くは良民ではない。刑建という者は賊軍情勢について虚勢を張って語り、様子を見ていると諜報活動を疑わせるため、既にある場所に隔離した。この類が他にも数人いる。捕らえなければ奸計が成就する恐れがある。卿(陸贄)はどう考えるか?」これに対し陸贄は上奏し、「逆賊が都を占拠している状況で危険な遠路を越えて行在(皇帝の仮住まい)に馳せ参じる者には恩賞を与えるべきであり、猜疑して拘束すべきではない」と論じた。その要旨は以下の通り:「一人が全てを見聞きしようとして宇宙全体の変化を把握し、一人が防衛策だけで億兆もの奸計に対抗しようとするならば、知恵を使えば使うほど道理から遠ざかる。項羽が秦兵20万を受け入れた後で反乱を疑い一挙に生き埋めにしたのは過剰な警戒である(かえって滅亡へ)。一方、漢の高祖は寛大で天下の人材を疑わず受け入れていた(繁栄をもたらした)。始皇帝が厳格かつ猜疑深かったため荊軻が陰謀を起こし、光武帝が包容力厚かったために馬援が忠誠を尽くしたのはなぜか。虚心坦懐に接すれば人も心服するが、策略で統制しようとすれば結局は離反する。(中略)真心あれば仇敵も腹心となり、猜疑すれば肉親さえ憎悪へ変わる」と。 解説:
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| 」又曰:「陛下智出庶物,有輕待人臣之心;思周萬機,有獨馭區寓之意;謀吞眾略,有過慎之防;明照群情,有先事之察;嚴束百辟,有任刑致理之規;威制四方,有以力勝殘之志。由是才能者怨於不任,忠藎者憂於見疑,著勳業者懼於不容,懷反側者迫於及討,馴致離叛,構成禍災。天子所作,天下式瞻,小猶慎之,矧又非小!願陛下以覆車之轍為戒,實宗社無疆之休。」 丁巳,以前山南東道節度使南皮賈耽為工部尚書。先是,耽使行軍司馬樊澤奏事行在。澤既覆命,方大宴,有急牒至,以澤代耽為節度使。耽內牒懷中,宴飲如故,顏色不改。宴罷,召澤告之,且命將吏謁澤。牙將張獻甫怒曰:「行軍為尚書問天子起居,乃敢自圖節金戊,奪尚書土地,事人不忠,眾心不服,請殺之。」耽曰:「是何言也!天子所命,即為節度使矣!」即日離鎮,以獻甫自隨,軍府遂安。 左僕射李揆自吐蕃還,甲子,薨於鳳州。 韓游瑰引兵會渾瑊於奉天。 丙寅,加平盧節度使李納同平章事。 丁卯,義王泚薨。 朱滔攻貝州百餘日,馬寔攻魏州亦逾四旬,皆不能下。賈林復為李抱真說李武俊曰:「朱滔志吞貝、魏,復值田悅被害,儻旬日不救,則魏博皆為滔有矣,魏博既下,則張孝忠必為之臣。滔連三道之兵,益以回紇,進臨常山,明公欲保其宗族,得乎!常山不守,則昭義退保西山,河朔盡入於滔矣。 |
現代日本語訳:さらに言うには、「陛下の知恵は万物を超えていますが、臣下を見くだすお心があります。思慮はあらゆる政務に行き届いていますが、独力で天下を治めようというお考えです。謀略をもって多くの方策を取り込もうとされますが、慎重になりすぎて防ぎ過ぎています。民情を明らかに見通されていますが、事前に詮索しすぎます。百官を厳しく統制され、刑罰で政治を行なおうとするお考えです。武力で四方を威圧し、力ずくで凶暴な者たちを屈服させようというご意志です。これによって有能な者は任用されないことを怨み、忠誠心の厚い者は疑われることを憂え、功績ある者は受け入れられないと恐れ、謀反を考える者は罰せられることに迫られているため、次第に離反が起こり災禍となっています。天子の行いは天下の人々が見て模範とするものです。些細なことでも慎重に行うべきであり、ましてやこれは小さな事ではありません!どうか陛下には先人の失敗を戒めとされ、皇室と国家にとって限りない幸せをお築きください。」 丁巳(ていし)の日、元・山南東道節度使である南皮出身の賈耽(かたん)を工部尚書に任命した。これより前、賈耽は行軍司馬の樊沢(はんたく)を行在所へ派遣して奏上させていた。帰還した樊沢が報告している最中、ちょうど盛大な宴会が開かれていると緊急文書が届き、内容は「樊沢を節度使として賈耽と交代させる」というものだった。賈耽は密かに文書を懐に入れるや宴会を続け、顔色も変えなかった。宴が終わると樊沢を呼び事実を告げ、配下の将吏に樊沢への礼拝を命じた。牙将(近衛隊長)の張献甫(ちょうけんぽ)は激怒して言った。「行軍司馬は尚書(賈耽)に代わって天子の安否を伺う役目ですのに、自ら節度使になろうと画策し、尚書の領地を奪おうとは!主君に対する不忠であり、兵士たちも納得できません。どうか斬ることをお許しください!」賈耽は言った。「何という言葉だ!天子が命じた以上、彼こそ節度使である。」その日のうちに任地を離れ、張献甫を伴い軍営から退出したため、司令部は平穏を取り戻した。 左僕射(宰相)の李揆(りき)が吐蕃からの帰途についた。甲子(こうし)の日、鳳州で逝去する。 韓游環(かんゆうかい)が軍勢を率い奉天において渾瑊(こんかん)と合流した。 丙寅(へいいん)の日、平盧節度使・李納(りのう)に同平章事(宰相職)の称号を与える。 丁卯(ていぼう)の日、義王である李泚(りし)が薨去する。 朱滔(しゅとう)は貝州を百日余り攻撃し、馬寔(ばじつ)も魏州を四十日以上包囲したがいずれも陥落させられない。賈林(かりん)が再び李抱真(りほうしん)に代わって李武俊(りぶしゅん)を説得して言った。「朱滔は貝州・魏州の併呑をもくろみ、まさに田悦(でんえつ)が殺害された時です。もし十日も救援しなければ魏博一帯は朱滔のものとなりましょう。魏博を落とせば張孝忠(ちょうこうちゅう)も臣従するはず。朱滔が三地域の兵力に回紇(ウイグル兵)まで加えて常山に迫れば、貴殿(李武俊)はご一族をお守りできるでしょうか?常山を失えば昭義軍は西山へ後退し、河北全域が朱滔の掌中に収まります。」 解説:
※『資治通鑑』巻二百三十一(唐紀四十七・貞元元年)からの抜粋。藩鎮抑制政策が裏目に出た徳宗の建中年間、節度使ら離反と中央軍苦戦という混乱期における諫言と人事異動を描く。特に賈耽の処世術は宋代司馬光らが「臣下の鑑」として高く評価した箇所。 Translation took 1175.8 seconds. |
| 不若乘貝、魏未下,與昭義合兵救之。滔既破亡,則關中喪氣,朱泚不日梟夷,鑾輿反正,諸將之功,孰有居明公之右者哉!」武俊悅,從之。戊辰,武俊軍於南宮東南,抱真自臨洺引兵會之,與武俊營相拒十里。兩軍尚相疑,明日,抱真以數騎詣武俊營,賓客共諫止之,抱真命行軍司馬盧玄卿勒兵以俟,曰:「吾之此舉,系天下安危,若其不還,領軍事以聽朝命亦惟子,勵將士以雪仇恥亦惟子。」言終,遂行。武俊嚴備以待之,抱真見武俊,敘國家禍難,天子播遷,持武俊哭,流涕縱橫。武俊亦悲不自勝,左右莫能仰視。遂與武俊約為兄弟,誓同滅賊。武俊曰:「相公十兄名高四海,曏蒙開諭,得棄逆從順,免菹醢之罪,享王公之榮。今又不間胡虜,辱為兄弟,武俊當何以為報乎!滔所恃者回紇耳,不足畏也。戰日,願十兄按轡臨視,武俊決為十兄破之。」抱真退入武俊帳中,酣寢久之。武俊感激,待之益恭,指心仰天曰:「此身已許十兄死矣!」遂連營而進。 山南地熱,上以軍士未有春服,亦自御夾衣。 |
現代日本語訳貝州と魏州がまだ陥落していない今こそ、昭義軍と合流して救援に向かうべきです。田滔を撃破すれば関中の敵は士気を喪失し、朱泚もすぐに討ち取られるでしょう。天子の御輿が都へ戻る時、諸将の中で貴殿より大きな功績を立てた者などありえません! 山南地方の気温上昇で、徳宗皇帝は将兵に春服がないことを慮り、自らも袷衣を着用していた。 解説
この場面は利害対立する武将同士が国家大義のもとに和解する過程で、『通鑑』の核心テーマ「信義による人心掌握」が見事に結晶化した代表的名文と言える。抱真の政治的演技力と武俊の激情的人間性の対比がドラマを生んでいる。 Translation took 1457.9 seconds. |
| input text 資治通鑑\231_唐紀_47.txt | Modern Japanese translated text | |||||||||||||||||||||
| 資治通鑑 卷二百三十一 唐紀四十七 起閼逢困敦五月,盡旃蒙赤奮若七月,凡一年有奇。 德宗神武聖文皇帝六興元元年(甲子,公元七八四年) 五月,鹽鐵判官萬年王紹以江、淮繒帛來至,上命先給將士,然後御衫。韓滉欲遣使獻綾羅四十擔詣行在,幕僚何士幹請行,滉喜曰:「君能相為行,請今日過江。」士幹許諾,歸別家,則家之薪米儲偫已羅門庭矣;登舟,則資裝器用已充舟中矣。下至廁籌,滉皆手筆記列,無不周備。每擔夫,與白金一版置腰間。又運米百艘以餉李晟,自負囊米至舟中,將佐爭舉之,須臾而畢。艘置五弩手以為防援,有寇則叩舷相警,五百弩已彀矣。比至渭橋,資不敢近。時關中兵荒,米斗直錢五百,及滉米至,減五之四。滉為人強力嚴毅,自奉儉素,夫人常衣絹裙,破,然後易。 吐蕃既破韓旻等,大掠而去。朱泚使田希鑒厚以金帛賂之,吐蕃受之。韓游瑰以聞。渾瑊又奏:「尚結贊屢遣人約刻日共取長安,既而不至。聞其眾今春大疫,近已引兵去。」上以李晟、渾瑊兵少,欲倚吐蕃以復京城,聞其去,甚憂之,以問陸贄。贄以為吐蕃貪狡,有害無益,得其引去,實可欣賀。乃上奏,其略曰:「吐蕃遷延觀望,翻覆多端,深入郊畿,陰受賊使,致令群帥進退憂虞:欲捨之獨前,則慮其懷怨乘躡;欲待之合勢,則若其失信稽延。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百三十一 唐紀四十七より 徳宗神武聖文皇帝六・興元元年(甲子の年、784年) 【5月】 さらに韓滉は米百艘分を李晟(りせい)軍へ輸送。自ら米袋を背負って船に運び込むと、将兵が競って手伝い瞬時に終えた。各船には弩射手5名を配置し防衛体制を整え、敵襲時は舷を叩いて警告する仕組みで500張の弩は常備。渭橋付近まで来ても賊軍は接近できなかった。 当時関中地方では戦乱と飢饉で米1斗が銭500文もしたが、韓滉の米到着後は5分の1に値下がりした。彼は精力的で厳格な人物だが私生活は質素であり、夫人さえ普通の絹スカートを破れるまで着ていた。 【吐蕃情勢】 渾瑊(こんかん)も上奏:「吐蕃将・尚結贊から『共に長安奪還を』と繰り返し約束があったのに来ない。聞けば春先に疫病が蔓延し撤退したらしい」と伝えた。 皇帝は李晟・渾瑊の兵力不足を懸念し、吐蕃頼みで長安回復を図っていたため撤退報に憂慮。陸贄(りくし)に意見を求めると、「吐蕃は貪欲で狡猾な害悪勢力です。去ったのは寧ろ慶賀すべき」と回答した。 陸贄の上奏文要旨:「吐蕃は日和見的で約束も平然と破る。首都近郊まで侵攻しながら陰で賊軍(朱泚)と結び、我が将帥を苦境に追い込んだ──単独進撃すれば背後を突かれかねず、合流待てば遅延されるだけだ」 解説
この記録は中唐混乱期において、有能な官僚の実務能力が国家存亡を支えた証左である。特に陸贄の提言は後の「貞元の和約」(787年)へ至る対吐蕃政策転換の端緒となった。 Translation took 1765.8 seconds. | |||||||||||||||||||||
| 戎若未歸,寇終不滅。」又曰:「將帥意陛下不見信任,且患蕃戎之奪其功;士卒恐陛下不恤舊勞,而畏蕃戎之專其利;賊黨懼蕃戎之勝,不死則悉遺人禽;百姓畏蕃戎之來,有財必盡為所掠。是以順於王化者其心不得不怠,陷於寇境者其勢不得不堅。」又曰:「今懷光別保蒲、絳,吐蕃遠避封疆,形勢既分,腹背無患,瑊、晟諸帥,才力得伸。」又曰:「但願陛下慎於撫接,勤於砥礪,中興大業,旬月可期,不宜尚眷眷於犬羊之群,以失將士之情也。」上復使謂贄曰:「卿言吐蕃形勢甚善,然瑊、晟諸軍當議規畫,今其進取。朕欲遣使宣慰,卿宜審細條疏以聞。」贄以為:「賢君選將,委任責成,故能有功。況今秦、梁千里,兵勢無常,遙為規畫,未必合宜。彼違命則失君威,從命則害軍事,進退羈礙,難以成功。不若假以便宜之權,待以殊常之賞,則將帥感悅,智勇得伸。」乃上奏,其略曰:「鋒鏑交於原野而決策於九重之中,機會變於斯須而定計於千里之外,用捨相礙,否臧皆凶。上有掣肘之譏,下無死餒之志。」又曰:「傳聞與指實不同,懸算與臨事有異。」又曰:「設使其中或有肆情干命者,陛下能於此時戮其違詔之罪乎?是則違命者既不果行罰,從命者又未必合宜,徒費空言,只勞睿慮,匪惟無益,其損實多。」又曰:「君上之權,特異臣下,惟不自用,乃能用人。 |
現代日本語訳「戎(吐蕃)がもし帰国しないなら、賊軍は最終的に滅びないであろう」と述べた。 さらに言うには、「将帥たちは陛下が自分を信用していないと考えており、かつ吐蕃が手柄を奪うことを憂慮している。兵卒らは陛下がこれまでの功労を顧みず、吐蕃ばかりに利益を独占されるのではと恐れている。賊軍側は吐蕃が勝利することを怖れ、死ななければ捕虜となるだけだと覚悟している。民衆は吐蕃軍が来襲すれば財産を全て略奪されると畏れている。このため朝廷に従う者は心ならずも消極的になり、賊軍に加担した者は必然的に抵抗を固めるのである」と。 また指摘するには、「今や李懐光は蒲州・絳州で孤立し、吐蕃は国境から遠ざかっている。形勢が分裂したため背後からの脅威も消え、渾瑊(こんかん)や李晟(りせい)ら将帥の実力は十分発揮できる」と。 さらに進言するには、「ただ願わくば陛下は懐柔策を慎重に実施し、自軍への激励を怠らずなさってください。国家再興の大事業も短期間で成就できましょう。なお犬羊(野蛮人)の群れである吐蕃への執着をもつべきではなく、将兵の忠誠心を損ねてはなりません」と。 皇帝が再度陸贄に伝えた:「卿が述べた吐蕃情勢分析は妥当だ。しかし渾瑊・李晟ら諸軍に対しては作戦計画を示し進撃させるべきと思う。使者を派遣して慰労しようと考えているので、詳細な条項を作成せよ」 これに対し陸贄は考えた:「賢明な君主は将帥を選び任務を与えれば成果があがるものだ。まして今や秦嶺から梁州まで千里の戦線では軍情が流動的である。遠方からの計画指示はかえって不適切となり、命令に背けば君主の威信が損なわれ、従えば軍事上不利となる。進退窮まって成功し難い。むしろ臨機応変の権限を与え、特別恩賞で報いる方が良い。そうすれば将帥は感激して智勇を発揮するであろう」 そして上奏文を提出した。その要旨は: 「戦場で刀剣が交錯している時に宮中深くで決断し、瞬時に変わる好機を千里離れた場所で計画定めるのは矛盾である。(命令に)従っても背いても災いとなる。上(君主)には牽制する非難を受け、下(将兵)には死力を尽くす意志が失われる」 また述べる: 「伝聞情報と現場の実態は異なり、机上の推測と実際の戦況は違うものだ」 さらに指摘: 「仮に命令を恣意的に無視する者が現れても、陛下はその場で違勅罪を罰せるか?結局反抗者は処罰できず従順者も適切とは限らず、空論が交わされるだけで聖慮を煩わせるのみ。無益どころか害悪が多い」 そして結論として: 「君主の権威は臣下と根本的に異なる。(細部に)自ら介入せぬからこそ人材を使いこなせるのだ」 解説
(注:原文では吐蕃を「戎」「蕃戎」「犬羊」と表現していますが、歴史的文脈を考慮し訳語を統一しました) Translation took 860.3 seconds. | |||||||||||||||||||||
| 」 癸酉,涇王侹薨。 徐、海、沂、密觀察使高承宗卒,甲戌,使其子明應知軍事。 乙亥,李抱真、王武俊距貝州三十里而軍。朱滔聞兩軍將至,急召馬寔,寔晝夜兼行赴之。或謂滔曰:「武俊善野戰,不可當其鋒,宜徙營稍前逼之,使回紇絕其糧道。我坐食德、棣之餫,依營而陳,利則進攻,否則入保,待其饑疲,然後可制也。」滔疑未決。會馬寔軍至,滔命明日出戰。寔言:「軍士冒暑困憊,請休息數日乃戰。」 常侍楊布、將軍蔡雄引回紇達干見滔,達干曰:「回紇在國與鄰國戰,常以五百騎破鄰國數千騎,如掃葉耳。今受大王金帛、牛酒前後無算,思為大王立效,此其時矣。明日,願大王駐馬高丘,觀回紇為大王翦武俊之騎,使匹馬不返。」布、雄曰:「大王英略蓋世,舉燕、薊全軍,將掃河南,清關中,今見小敵□豫不擊,失遠近之望,將何以成霸業乎!達干請戰是也。」滔喜,遂決意出戰。丙子旦,武俊遣其兵馬使趙琳將五百騎伏於桑林,抱真列方陳於後,武俊引騎兵居前,自當回紇。回紇縱兵沖之,武俊命其騎控馬避之。回紇突出其後,將還,武俊乃縱兵擊之,趙琳自林中出橫擊之,回紇敗走。武俊急追之,滔騎兵亦走,自踐其步陳,步騎皆東奔,滔不能制,遂走趣其營,抱真、武俊合兵追擊之。時滔引三萬人出戰,死者萬餘人,逃潰者亦萬餘人,滔才與數千人入營堅守。 |
現代日本語訳癸酉(みずのととり)の日、涇王李侹(けいおう・りてい)が薨去(こうきょ)した。徐・海・沂・密(じょ・かい・ぎ・みつ)の観察使である高承宗(こうしょうそう)が死去し、甲戌(きのえいぬ)の日にその子高明応に軍事を掌握させた。 乙亥(きのとい)の日、李抱真(りほうしん)と王武俊(おうぶしゅん)は貝州(はいしゅう)から三十里(約17km)離れた地点で軍営を構えた。朱滔(しゅとう)は両軍が迫っていることを知ると、急いで馬寔(ばじつ)を呼び寄せたため、馬寔は昼夜休まず駆け付けた。配下の者が朱滔に進言した。「王武俊は野戦の達人です。正面から対抗すべきではありません。陣営をやや前進させて圧力をかけつつ、回紇(かいきつ)兵に敵の補給路を断たせましょう。我々は徳州・棣州(とくしゅう・ていしゅう)からの食糧供給を受けながら陣営に拠って布陣し、有利なら攻め、不利なら守りに徹します。敵が飢え疲れた時を見計らえば制圧できるでしょう。」しかし朱滔は決断できずにいた。 ちょうど馬寔の軍勢が到着したため、朱滔は翌日の出撃を命じた。これに対し馬寔は「兵士たちは酷暑で疲弊しています。数日休養させてから戦うべきです」と反論した。 常侍(じょうじ)の楊布(ようふ)と将軍蔡雄(さいゆう)が回紇の達干(たつかん・高級司令官)を朱滔に引き合わせると、達干は豪語した。「我々回紇は隣国との戦いで常に五百騎で数千騎を破ってきました。木の葉を掃くようなものです。大王から賜った金品・牛・酒は数えきれぬほどですから、今こそ恩返しをさせてください。明日は高台に陣取ってご覧下さい。回紇が王武俊の騎兵を殲滅(せんめつ)し、一匹も生かして帰さないところを。」楊布と蔡雄も続けて讃えた。「大王の英略は天下無双です!燕・薊(えん・けい)の全軍を率いて河南(かなん)を掃討されんとするのに、小敵を前に躊躇(ちゅうちょ)すれば天下の期待を裏切ります。達干殿の出撃提案こそ覇業への道です!」朱滔は喜び、決然として出撃を命じた。 丙子(ひのえね)の暁(あかつき)、王武俊は兵馬使(へいばし)・趙琳(ちょうりん)に五百騎を与えて桑林に潜伏させた。李抱真が後方で方形陣を布く中、王武俊自ら騎兵を率いて最前線に出て回紇軍に対峙した。回紇軍が突撃すると、王武俊はわざと馬を控えさせて退いた。回紇軍が背後に深く突出した瞬間を見計らい反転攻勢をかけると、趙琳の伏兵が林中から横槍を入れた。回紇軍は総崩れとなり敗走。王武俊が追撃すると朱滔の騎兵も潰走し、自軍の歩兵陣列を踏み荒らしながら東へ奔ったため統制が完全に瓦解(がかい)。朱滔は本営へ退却するしかなかった。李抱真と王武俊が連携して追い打ちをかけ、朱滔軍三万のうち戦死者万余・離散兵万余という大損害を与えた。朱滔がかろうじて守りに入れたのは数千の兵卒に過ぎなかった。 解説
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| 會日暮,昏霧,兩軍不能進,抱真軍其營之西北,武俊軍其東北。滔夜焚營,引兵出南門,趣德州遁去,委棄所掠資貨山積。兩軍以霧,不能追也。滔殺楊布、蔡雄而歸幽州,心既內慚,又恐范陽留守劉怦因敗圖己。怦悉發留守兵夾道二十里,具儀仗,迎之入府,相對悲喜,時人多之。 初,張孝忠以易州歸國,詔以孝忠為義武節度使,以易、定、滄三州隸之。滄州刺史李固烈,李惟岳之妻兄也,請歸恆州,孝忠遣押牙安喜程華交其州事。固烈悉取軍府綾、縑、珍貨數十車,將行,軍士大噪曰:「刺史掃府庫之實以行,將士於後饑寒,奈何!」遂殺固烈,屠其家。程華聞亂,自竇逃出,亂兵求得之,請知州事。華不得已,從之。孝忠聞之,即版華攝滄州刺史。華素寬厚,推心以待將士,將士安之。 會朱滔、王武俊叛,更遣人招華,華皆不從。時孝忠在定州,自滄如定,必過瀛州,瀛隸朱滔,道路阻澀。滄州錄事參軍李宇說華,表陳利害,請別為一軍,華從之,遣宇奉表詣行在。上即以華為滄州刺史、橫海軍副大使、知節度事,賜名日華,令日華歲供義武租錢十二萬緡。王武俊又使人說誘之,時軍中乏馬,日華紿使者曰:「王大夫必欲相屬,當以二百騎相助。」武俊給之,日華悉留其馬,遣其士歸。武俊怒,而方與馬燧等相拒,不能攻取,日華由是獲全。 |
現代日本語訳日が暮れ、濃い霧が立ち込めると、両軍の進撃は止まった。李抱真軍は敵陣営の北西側に布陣し、王武俊軍は東北を固めた。朱滔は夜陰に乗じて自陣に火をつけ、南門から兵を率いて德州へ逃走したが、略奪品は山積みとなって放置されていた。霧で視界が利かず両軍とも追撃できなかった。 幽州に帰還した朱滔は、楊布と蔡雄を処刑するとともに敗戦の恥辱に苛まれ、さらに范陽留守・劉怦(りゅうほう)による謀反を疑った。しかし劉怦は全兵力を動員し、二十里もの道沿いに儀仗兵を整列させて朱滔を出迎え、涙ながらの再会を果たしたため、世人はその器量を称賛したのである。 一方当初、張孝忠が易州帰順を受けた朝廷は彼を義武節度使に任命し、易・定・滄(こう)三州を管轄させた。滄州刺史の李固烈(李惟岳の妻兄)が恒州へ戻ろうとした際、張孝忠は押牙役・安喜出身の程華(ていか)に引継ぎを命じる。だが李固烈が官有物資数十車を持ち去ろうとすると、兵士らが激怒して「刺史が倉庫を丸ごと持って行くのに我々は飢えるのか!」と叫び彼一家を惨殺した。程華は逃亡中に見つかり州政代行を懇願され、やむなく承諾すると張孝忠から正式に滄州刺史代理へ任命された。寛大な人柄の程華が兵士らと心を通わせたため軍営は安定化する。 後に朱滔・王武俊が反乱を起こすと両者から勧誘を受けたが、程華はいずれも拒否。当時張孝忠本隊が駐屯する定州へ向かうには朱滔支配下の瀛州通過が必要で危険だったため、録事参軍・李宇(りう)は「独立部隊編成」を献策し程華はこれを受諾した。朝廷への使者派遣後、皇帝から直ちに滄州刺史兼横海軍副大使・節度使代理へ任命されると同時に賜名「日華」(じつか)を与えられ、義武へ歳貢十二万緡(びん)を課された。 その後も王武俊が懐柔工作に出る中で馬不足だった程日華は「提携なら二百騎の提供を」と偽り、送られた軍馬全てを押収して使者だけ返還した。激怒した王武俊だったが当時他勢力との交戦中であり攻撃できず、程日華は危機を脱したのである。 解説
※本エピソード群は『資治通鑑』特有の「教訓的史観」を体現:朱滔の猜疑心(自分を裏切るのではないかという恐れ)が劉怦の忠誠によって裏返される構図、李固烈の強欲さと程日華の人心掌握術の対比など、人間心理に基づく歴史ドラマとして読解可能である。 Translation took 1618.1 seconds. | |||||||||||||||||||||
| 及武俊歸國,日華乃遣人謝過,償其馬價,且賂之。武俊喜,復與交好。 庚寅,李晟大陳兵,諭以收復京城。先是,姚令言等屢遣諜人覘晟進軍之期,皆為邏騎所獲。晟引示以所陳兵,謂曰:「歸語諸賊,努力固守,勿不忠於賊也!」皆飲之酒,給錢而縱之。遂引兵至通化門外,曜武而還,賊不敢出。晟召諸將,問兵所從入,皆請「先取外城,據坊市,然後北攻宮闕。」晟曰:「坊市狹隘,賊若伏兵格鬥,居人驚亂,非官軍之利也。今賊重兵皆聚苑中,不若自苑北攻之,潰其腹心,賊必奔亡。如此,則宮闕不殘,坊市無擾,策之上者也!」諸將皆曰:「善!」乃牒渾瑊及鎮國節度使駱元光、商州節度使尚可孤,刻期集於城下,壬辰,尚可孤敗泚將仇敬忠於藍田西,斬之。乙未,李晟移軍於光泰門外米倉村。丙申,晟方自臨築壘,泚驍將張庭芝、李希傅引兵大至,晟謂諸將曰:「始吾憂賊潛匿不出,今來送死,此天讚我,不可失也!」命副元帥兵馬使吳詵等縱兵擊之。時華州營在北,兵少,賊並力攻之,晟命牙前將李演等帥精兵救之。演等力戰,賊敗走。演等追之,乘勝入光泰門,再戰,又破之。會夜,晟斂兵還。賊餘眾走入白華門,夜,聞慟哭。希傅,希烈之弟也。丁酉,晟復出兵,諸將請待西師至,夾攻之。晟曰:「賊數敗,已破膽,不乘勝取之,使其成備,非計也。 |
現代日本語訳田武俊が本国へ帰還すると、王日華は使者を遣わして過ちを詫び、馬代を弁償し、さらに贈り物を届けた。これにより武俊は喜び、再び両者は友好関係を取り戻した。 庚寅の日(6月25日)、李晟は大軍を整列させて長安奪還の方針を示した。以前から姚令言らが繰り返し間者を送り込み李晟軍の動きを探っていたが、すべて巡邏騎兵に捕えられていた。李晟は彼らを陣前に引き出して「賊どもへ伝えよ──『忠義を尽くしてしっかり守備せよ』と」と言い放ち、酒を与えて金銭を渡し解放した。その後軍勢を率いて通化門の外まで進み、威容を示して帰還すると、反乱軍は出撃できなかった。 李晟が諸将に攻め入る地点について問うと、「まず外城(市街地)を制圧し町並みを確保した後で宮殿を北から攻略すべし」との意見が出た。これに対し李晟は「細い路地では伏兵による戦闘が起きれば住民が混乱する。賊軍主力が御苑に集結している今、中枢を北側から急襲して崩せば敵は潰走するだろう。こうすれば宮殿も町並みも損なわず済む──これこそ最上策だ」と反論した。諸将が皆賛同し、渾瑊・駱元光ら近隣の節度使に連絡して攻城戦の日時を調整した。 壬辰(6月27日)、尚可孤が朱泚配下の仇敬忠を藍田西で破り斬殺。乙未(30日)には李晟軍は光泰門外・米倉村へ進出した。丙申(7月1日)、李晟自ら陣地構築を指揮中に、敵将張庭芝と李希傅が大軍を率いて襲来。「賊兵が隠れているかと思えば命乞いに来た──天の加護だ!」と言い放つや副司令官・呉詵に出撃を命令。華州部隊が攻め込まれると精鋭部隊を救援に送り、激闘の末敵軍は敗走した。追撃する官軍は光泰門へ突入し再び勝利を得たため、日暮れにいったん撤収すると、白華門から逃げ込んだ残兵の慟哭が夜道に響いた(李希傅は反乱首謀者・李希烈の実弟)。 丁酉(7月2日)、出撃を前に諸将が「西方からの援軍到着で挟撃すべき」と進言したが、李晟は断固否定。「賊は度重なる敗北で戦意喪失中だ。今この機に攻め落とさねば態勢立て直しを許してしまう」と言い放ち即時進攻へ打って出た。 解説
※本訳は『資治通鑑』巻230・唐紀46(興元元年条)に基づく。朱泚らの乱(784年)における李晟の長安奪還作戦場面である。 Translation took 1711.7 seconds. | |||||||||||||||||||||
| 」賊又出戰,官軍屢捷。駱元光敗泚眾於滻西。戊戌,晟陳兵於光泰門外,使李演及牙前兵馬使王佖將騎兵,牙前將史萬頃將步兵,直抵苑牆神{鹿加}村。晟先使人夜開苑牆二百餘步,比演等至,賊已樹柵塞之,自柵中刺射官軍,官軍不得進。晟怒,叱諸將曰:「縱賊如此,吾先斬公輩矣!」萬頃懼,帥眾先進,拔柵而入,佖、演引騎兵繼之,賊眾大潰,諸軍分道並入。姚令言等猶力戰,晟命決勝軍使唐良臣等步騎蹙之,且戰且前,凡十餘合,賊不能支。至白華門,有賊數千騎出官軍之背,晟帥百餘騎回御之,左右呼曰:「相公來!」賊皆驚潰。先是,泚遣張光晟將兵五千屯九曲,去東渭橋十餘里,光晟密輸款於晟。及泚敗,光晟勸泚出亡。泚乃與姚令言帥餘眾西走,猶近萬人。光晟送泚出城,還,降於晟。晟遣兵馬使田子奇以騎兵追泚。晟頓含元殿前,捨於右金吾仗,令諸軍曰:「晟賴將士之力,克清宮禁。長安士庶,久陷賊庭,若小有震驚,非弔民伐罪之意。晟與公等室家相見非晚,五日內無得通家信。」命京兆尹李齊運等安慰居人。晟大將高明曜取賊妓,尚可孤軍士擅取賊馬,晟皆斬之,軍中股慄。公私安堵,秋毫無犯,遠坊有經宿乃知官軍入城者。是日,渾瑊、戴休顏、韓游瑰亦克咸陽,敗賊三千餘眾,聞泚西走,分兵邀之。 己亥,晟使京西兵馬使孟涉頓白華門,尚可孤屯望仙門,駱元光屯章敬寺,晟以牙前三千人屯安國寺,以鎮京城。 |
現代日本語訳:賊軍は再び戦いを挑んできたが、官軍は何度も勝利した。駱元光(らくげんこう)が滻水の西で朱泚(しゅせい)の軍勢を破った。戊戌の日、李晟(りせい)は兵を率いて光泰門外に陣を敷き、配下の李演(りえん)と牙前兵馬使・王佖(おうひつ)には騎兵を指揮させ、牙前将・史万頃(しばんけい)には歩兵を率いさせて、御苑の塀近くにある神鹿村まで進撃させた。李晟は事前に夜間に人を遣わして苑の壁を二百歩余り破壊していたが、李演らが到着した時には既に賊軍が柵を立てて穴を塞ぎ、隙間から官軍に向けて矢や槍を放っており、進軍は阻まれていた。激怒した李晟は諸将を叱責して言った。「このまま賊の思うままにするならば、お前たち全員斬首するぞ!」史万頃が恐れ慄いて兵士らを率い突撃すると柵を破り込んだため、王佖と李演も騎兵を従えて続行し、賊軍は大敗した。各路の官軍が苑内へ一斉に侵攻すると、姚令言(ようれいげん)らはなお抵抗していたが、李晟が決勝軍使・唐良臣(とうりょうしん)らの歩騎兵を突撃させて押し込むと、十数度の激戦の末に賊軍は支えきれなくなった。白華門付近で数千騎の賊兵が官軍背後から奇襲した時は、李晟自ら百余騎を率いて反転応戦。「宰相(李晟)御出陣!」という叫び声に賊は総崩れとなった。 当初、朱泚配下の張光晟(ちょうこうせい)が兵五千を率いて九曲に駐屯していた時から、彼は密かに李晟へ投降の意志を通じていた。そのため朱泚敗退時に逃亡を勧めると、朱泚と姚令言ら残党一万近くは西へ逃走した。張光晟が朱泚を見送った後に帰城して降伏すると、李晟は兵馬使・田子奇(でんしき)に騎兵を与えて追撃させた。一方の李晟自身は含元殿前に本陣を置き右金吾仗舎に入ると諸軍へ布告した。「将兵たちの奮戦によって皇居奪還が成った。しかし長安市民らは賊政下で苦しんできたのだから、これ以上驚かせることは『民を慰め罪を討つ』大義に反する。私と卿らの家族再会は待てぬことではない――五日内の家書往来を禁ずる」。京兆尹・李斉運(りせいうん)らに住民安撫を命じた後、配下将軍高明曜が賊側女官を略奪し尚可孤部隊兵士が敵馬を横領した件では容赦なく処刑。全軍は震え上がったものの、公私共に秩序は回復し秋毫も犯さず、遠隔地住民の中には翌日になってようやく官軍入城を知る者もいた。 同日、渾瑊(こんかん)・戴休顔(たいきゅうがん)・韓游環(かんゆうかい)らも咸陽を奪還し賊兵三千余を破った。朱泚西走の報を得ると追撃部隊を分派した。 翌己亥には李晟が京西兵馬使孟涉に白華門駐屯、尚可孤は望仙門守備、駱元光は章敬寺布陣を命じた上で、自ら牙前精鋭三千を率いて安国寺へ進軍し長安城全体の治安維持にあたらせた。 解説:
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| 斬泚黨李希倩、敬釭、彭偃等八人於市。 王武俊既破朱滔,還恆州,表讓幽州、盧龍節度使,上許之。 六月,癸卯,李晟遣掌書記吳人于公異作露布上行在曰:「臣已肅清宮禁,祗謁寢園,鐘虡不移,廟貌如故。」上泣下曰:「天生李晟,以為社稷,非為朕也。」晟在渭橋,熒惑守歲,久之乃退,賓佐皆賀,曰:「熒惑退捨,皇家之福也!宜速進兵。」晟曰:「天子野次,臣下知死敵而已。天象高遠,誰得知之!」既克長安,乃謂之曰:「曏非相拒也,吾聞五星贏、縮無常,萬一復來守歲,吾軍不戰自潰矣!」皆謝曰:「非所及也!」 朱泚將奔吐蕃,其眾隨道散亡,比至涇州,才百餘騎。田希鑒閉門拒之,泚謂之曰:「汝之節,吾所授也。奈何臨危相負!」使焚其門。希鑒取節投火中曰:「還汝節!」泚眾皆哭。涇卒遂殺姚令言,詣希鑒降。泚獨與范陽親兵及宗族、賓客北趣驛馬關,寧州刺史夏侯英拒之。至彭原西城屯,其將梁庭芬射泚墜坑中,韓旻等斬之,詣涇州降。源休、李子平奔鳳翔,李楚琳斬之,皆傳首行在。 上命陸贄草詔賜渾瑊,使訪求奉天所失裹頭內人。贄上奏,以為:「今巨盜始平,疲瘵之民,瘡痍之卒,尚未循拊,而首訪婦人,非所以副惟新之望也。謀始盡善,克終已稀;始而不謀,終則何有!所賜瑊詔,未敢承旨。 |
現代日本語訳:朱泚配下の李希倩、敬釭、彭偃ら八名を市場で公開処刑した。 王武俊は朱滔を撃破後、恒州に帰還。幽州・盧龍節度使の辞任を上表し、皇帝(徳宗)がこれを許可した。 六月癸卯の日、李晟が書記官・于公異(呉出身)に行宮へ送る勝利報告「露布」を作成させた。「臣はすでに皇宮を粛清し、陵廟を謹んで参拝しました。祭祀の鐘架は移動せず、御霊の尊容も従前と変わりありません」。皇帝は涙して言った。「天が李晟を生んだのは国家のためであって、朕個人のためではない」。 かつて渭橋駐屯時、火星(熒惑)が木星付近に停滞し、後に退去すると幕僚らが祝賀した。「これは皇室の吉兆です!直ちに出撃すべきです」。李晟は答えた。「天子が野営される中で臣下は死を覚悟して戦うのみ。天文現象など誰が理解できようか」。 長安奪還後、彼らにこう説明した。「あの時反対したのは惑星運行には法則がないと知っていたからだ。万一また火星が留まれば、我が軍は戦わず崩壊していただろう」。幕僚らは平伏し「到底及びませんでした」と謝罪した。 朱泚が吐蕃へ逃亡しようとした際、配下は途中で離散し涇州着いた時には百余騎のみ。田希鑒が城門を閉ざして拒絶すると、朱泚は責めた。「お前の節度使位は私が授けたものだ!この危機に背くとは!」と門焼却を命じた。田希鑒は任命書(旌節)を取り出し炎へ投げ込み「返すぞ!」と叫んだ。朱泚配下は涙した。 涇州兵が姚令言を殺害して降伏すると、朱泚は范陽出身の親衛隊や一族ら僅かな供を連れ驛馬関へ北走。寧州刺史・夏侯英に阻まれる中、彭原西城駐屯地で配下の梁庭芬が彼を矢で穴に射落とし韓旻らが斬殺。首級は涇州へ送られた。 源休と李子平が鳳翔へ逃亡すると李楚琳が両名を斬り、行宮へ首を届けた。 皇帝が陸贄に詔勅草案を作成させ渾瑊へ下賜。「奉天で散逸した後宮女官(裹頭内人)の捜索」を命じた内容であった。 これに対し陸贄は上奏した。「今まさに大乱が平定されたばかり。疲弊した民衆と傷ついた兵士への慰撫も終えぬ中、真っ先に後宮女性の行方を尋ねるのは『天下刷新』を期待する民心に背きます。初めから完璧な計画でも最後まで遂行されることは稀です。ましてや初手で配慮を欠けば良い結末などあり得ましょうか?渾瑊への詔勅はお受けできません」。 解説:■ 歴史的背景 ■ 人物造型の特徴 ■ 言語表現の特質 ■ 思想的示唆 (付記)当該箇所全体が「権力再編期における倫理と実利の相克」を照射。朱泚配下の粛清から宮女捜索問題まで、乱後の秩序回復過程で常に道徳的正当性確保こそが政治安定化の鍵であることを示唆している。 Translation took 2161.1 seconds. | |||||||||||||||||||||
| 」上遂不降詔,竟遣中使求之。乙巳,詔吏部侍郎班宏充宣慰使,勞問將士,撫慰蒸黎。兩午,李晟斬文武官受朱泚寵任者崔宣、洪經綸等十餘人,又表守節不屈者劉乃、蔣沇等。己酉,以李晟為司徒、中書令,駱元光、尚可孤各遷官有差,以檢校御史中丞田希鑒為涇原節度使。 詔改梁州為興元府。 甲寅,以渾瑊為侍中,韓游瑰、戴休顏各遷官有差。 朱泚之敗也,李忠臣奔樊川,擒獲,丙辰,斬之。 上問陸贄:「今至鳳翔有迎駕諸軍。形勢甚盛,欲因此遣人代李楚琳,何如?」贄上奏,以為:「如此則事同脅執,以言乎除亂則不武,以言乎務理則不誠,用是時巡,後將安入!議者或謂之權,臣竊未諭其理。未權之為義,取類權衡,今輦路所經,首行脅奪,易一帥而虧萬乘之義,得一方而結四海之疑,乃是重其所輕而輕其所重,謂之權也,不亦反乎!以反道為權,以任數為智,君上行之必失眾,臣下用之必陷身,歷代之所以多喪亂而長奸邪,由此誤也。不如俟奠枕京邑,征授一官,彼喜於恩宥,將奔走不暇,安敢輒有旅拒,復勞誅鋤哉!」戊午,車駕發漢中。 李晟綜理長安以備百司,自請至鳳翔迎扈,上不許。內常侍尹元貞奉使同華,輒詣河中招諭李懷光。晟奏:「元貞矯制擅赦元惡,請理其罪!」 秋,七月,丙子,車駕至鳳翔,斬喬琳、蔣鎮、張光晟等。 |
現代日本語訳皇帝は詔勅の発布を取り止め、結局宦官を使者として派遣し事態の収拾を図った。乙巳(いっし)の日、吏部侍郎・班宏に宣慰使を命じ、将兵を労わり民衆を慰撫させた。丙午(へいご)の日、李晟は朱泚から重用されていた崔宣や洪経綸ら十数名の官僚を処刑し、節義を通して屈服しなかった劉乃・蒋沇らの忠臣を表彰した。己酉(きゆう)の日に至り、李晟を司徒兼中書令に任命。駱元光と尚可孤はそれぞれ官位昇進、検校御史中丞・田希鑒が涇原節度使となった。 詔勅により梁州を興元府へ改称。 甲寅(こういん)の日には渾瑊が侍中に就任。韓游瑰と戴休顔も各々昇進した。 朱泚敗走時に樊川へ逃亡していた李忠臣は捕らえられ、丙辰(へいしん)の日に処刑された。 皇帝が陸贄に諮問: 「今、鳳翔には朕を迎える大軍が集結している。この機会に使者を送り李楚琳(節度使)を更迭したいと思うが如何か?」 陸贄は上奏して反論した: 「それは脅迫による強制と同義です。乱の鎮圧という点では非力、統治の本道から見れば不誠実であり、このような巡幸を行えば将来の帰還先を失いましょう。『一時の方便(権)だ』との意見もありますが、臣は納得できません。 そもそも『権衡』とは秤のように公正さを示す言葉です。御輿が通る道中で脅しによる奪権を行う——一人の将帥を替えることで天子としての大義を損ない、一地方を得る代わりに天下から疑念を招くのは軽重を見誤った行為であり、これを『方便』と呼ぶのは全くの逆説です。 道理に反することを方便と称し術策を智恵とするならば、君主は人心を失い臣下は身を滅ぼします。歴代王朝で乱が絶えず奸臣が跋扈した根源こそこの誤謬にあるのです」 「都落ち着いてから彼に官職を与える方が得策です。恩赦を喜んだ者には自ら奔走させる余地があり、抵抗する隙など与えないはず——再び討伐の労力を費やす必要はありません」 戊午(ぼご)の日、皇帝一行は漢中を出発。 李晟が長安で朝廷機構の復旧準備にあたり鳳翔まで迎えに出ることを請願したが、皇帝は許可しなかった。内常侍・尹元貞が同華地方への使者として派遣されながら河中に立ち寄り独断で李懐光(反逆者)を招撫しようとしたため、李晟が上奏:「元貞は詔命を偽って極悪人を赦免しました。厳罰を求む」 秋七月丙子(へいし)の日、皇帝一行は鳳翔に到着し喬琳・蒋鎮・張光晟ら逆臣を処刑した。 注釈
翻訳上の留意点
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| 李晟以光晟雖臣賊,而滅賊亦頗有力,欲全之,上不許。 副元帥判官高郢數勸李懷光歸款,懷光遣其子璀詣行在謝罪,請束身歸朝。庚辰,詔遣給事中孔巢父繼先除懷光太子太保敕詣河中宣慰,朔方將士悉復官爵如故。 壬午,車駕至長安,渾瑊、韓游瑰、戴休顏以其眾扈從,李晟、駱元光、尚可孤以其眾奉迎,步騎十餘萬,旌旗數十里,晟謁見上於三橋,先賀平賊,後謝收復之晚,伏路左請罪。上駐馬慰撫,為之掩涕,命左右扶上馬。至宮,每閒日,輒宴勳臣,賞賜豐渥。李晟為之首,渾瑊次之,諸將相又次之。 曹王皋遣其將伊慎、王鍔圍安州,李希烈遣其甥劉戒虛將步騎八千救之。皋遣別將李伯潛逆擊之於應山,斬首千餘級。生擒戒虛,徇於城下,安州遂降。以伊慎為安州刺史,又擊希烈將康叔夜於厲鄉,走之。 丁亥,孔巢父至河中,李懷光素服待罪,巢父不之止。懷光左右多胡人,皆歎曰:「太尉無官矣!」巢父又宣言於眾曰:「軍中誰可代太尉領軍者?」於是懷光左右發怒喧噪。宣詔未畢,眾殺巢父及中使啖守盈,懷光亦不之止,復治兵為拒守之備。辛卯,赦天下。 初,肅宗在靈武,上為奉節王,學文於李泌。代宗之世,泌居蓬萊書院,上為太子,亦與之遊。及上在興元,泌為杭州刺史,上急詔征之,與睦州刺史杜亞俱詣行在。 |
現代日本語訳:李晟は、石光晟が賊(朱泚)に臣従したものの、逆賊討伐で大きな功績があったため助命を願い出た。しかし皇帝(徳宗)はこれを許さなかった。 副元帥判官・高郢が再三にわたり李懐光へ帰順を勧めたところ、懐光は息子の璀を行在所へ遣わし謝罪させ、「自ら朝廷に出頭します」と申し出た。庚辰(21日)、皇帝は給事中・孔巣父に先例に従い李懐光への太子太保任命を伝える詔書を持たせ河中へ派遣。朔方軍の将士も全員元の官位に復帰させると宣言した。 壬午(23日)、皇帝の行列が長安に入城すると、渾瑊・韓游瓌・戴休顔は配下の兵を率いて護衛し、李晟・駱元光・尚可孤は大軍で出迎えた。歩兵と騎兵あわせて十余万、旗印が数十里も続く威容の中、李晟は三橋で皇帝に拝謁した。まず賊平定を祝賀し、次いで長安奪還の遅れを詫び、道端にひざまずいて罪を請うた。皇帝は馬を止めて慰めると涙をぬぐい、側近に命じて李晟を馬上へ助け起こさせた。 宮中では休日ごとに功臣を招いた宴席が開かれ、厚く賞を与えた。序列は李晟が筆頭、渾瑊が次席で、他の将軍・大臣らはその後ろに並んだ。 曹王・皋(李皋)配下の伊慎と王鍔が安州を包囲すると、李希烈は甥の劉戒虚に歩騎八千を率いさせ救援に向かわせた。これに対し李皋は別将・李伯潜を応山へ派遣して迎撃させ、千余の首級を挙げて生け捕りにした戒虚を安州城下で晒すと、安州は降伏した。伊慎が安州刺史に任じられ、さらに厲郷で李希烈配下の康叔夜を攻め退却させた。 丁亥(28日)、孔巣父が河中へ到着すると、李懐光は罪人として白衣姿で出迎えたが、巣父はこれを止めなかった。懐光側近に多かった胡人士兵らは「太尉(李懐光)の官位を奪われた!」と嘆く声を上げると、巣父は軍中に向かって「誰が太尉に代わって指揮を執れるのか?」と呼びかけた。これで側近たちが激怒して騒ぎ出し、詔書宣読の最中に暴徒化した兵士が孔巣父と宦官使者・啖守盈を殺害する事件が発生した(李懐光は制止せず)。その後も軍備を整え抗戦準備を続けた。辛卯(2月3日)、皇帝は大赦令を発布した。 昔、粛宗が霊武にいた時、後の徳宗(当時は奉節王)が李泌から学問を受けたことがあった。代宗の時代には蓬莱書院に居たため皇太子だった現在の帝も彼と交流していた。興元で皇帝が危機的状況にあることを知り杭州刺史であった李泌を急遽召還すると、睦州刺史・杜亜と共に行在所へ参内した。 解説:
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| 乙未,以泌為左散騎常侍,亞為刑部侍郎,命泌日直西省以候對,朝野皆屬目附之。上問泌:「河中密邇京城,朔方兵素稱精銳,如達奚小俊等皆萬人敵,朕晝夕憂之,奈何?」對曰:「天下事甚有可憂者,若惟河中,不足憂也。夫料敵者,料將不料兵。今懷光,將也;小俊之徒乃兵耳,何足為意!懷光既解奉天之圍,視朱泚垂亡之虜不能取,乃與之連和,使李晟得取以為功。今陛下已還宮闕,懷光不束身歸罪,乃虐殺使臣,鼠伏河中,如夢魘之人耳!但恐不日為帳下所梟,使諸將無以藉手也。」初,上發吐蕃以討朱泚。許成功以伊西、北庭之地與之。及泚誅,吐蕃來求地,上欲召兩鎮節度使郭昕、李元忠還朝,以其地與之。李泌曰:「安西、北庭,人性驍悍,控制西域五十七國及十姓突厥,又分吐蕃之勢,使不得並兵東侵,奈何拱手與之!且兩鎮之人,勢孤地遠,盡忠竭力,為國家固守近二十年,誠可哀憐。一旦棄之以與戎狄,彼其心必深怨中國,它日從吐蕃入寇,如報私仇矣。況日者吐蕃觀望不進,陰持兩端,大掠武功,受賂而去,何功之有!」眾議亦以為然,上遂不與。 李希烈聞李希倩伏誅,忿怒,八月,壬寅,遣中使至蔡州殺顏真卿。中使曰:「有敕。」真卿再拜。中使曰:「今賜卿死。」真卿曰:「老臣無狀,罪當死,不知使者幾日發長安?」使者曰:「自大梁來,非長安也。 |
現代日本語訳乙未の日、李泌を左散騎常侍に任じ、董晋(亞)を刑部侍郎とした。帝は李泌に対し西省に常駐して奏上するよう命じたため、朝廷内外が注目した。 帝が李泌に問う:「河中は京に近く、朔方軍は精鋭とされ達奚小俊らは一騎当千の強者だ。朕は日夜憂えている」 初め帝は朱泚討伐で吐蕃軍を動員する際、成功次第で伊西・北庭を与えると約束した。朱泚誅殺後、領地要求してきたため両鎮節度使(郭昕・李元忠)を召還し割譲しようとしたが、 李希烈は弟・希倩の処刑を知り激怒。八月壬寅、使者を蔡州へ遣わし顔真卿を殺害させた。「勅命である」との宣告に真卿が再拝すると、「今お前を死なせる」と告げられた。 解説■ 李泌の戦略的洞察 ■ 顔真卿最期の象徴性 ■ 歴史的教訓
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| 」真卿曰:「然則賊耳,何謂敕邪!」遂縊殺之。 李晟以涇州倚邊,屢害軍帥,常為亂根,奏請往理不用命者,力田積粟以攘吐蕃。癸卯,以晟兼鳳翔、隴右節度等使及四鎮、北庭、涇原行營副元帥,進爵西平王。時李楚琳入朝,晟請與俱至鳳翔斬之,以懲逆亂。上以新復京師,務安反仄,不許。先是,上命渾瑊、駱元光討李懷光軍於同州,懷光遣其將徐庭光以精卒六千軍於長春宮以拒之,瑊等數為所敗,不能進。時度支用度不給,議者多請赦懷光,上不許。李懷光遣其妹婿要廷珍守晉州,牙將毛朝易文守隰州,鄭抗守慈州,馬燧皆遣人說下之。上乃加渾瑊河中、絳州節度使,充河中、同華、陝虢行營副元帥,加馬燧奉誠軍、晉、慈、隰節度使,充管內諸軍行營副元帥,與鎮國節度使駱元光、鄜坊節度使唐朝臣合兵討懷光。初,王武俊急攻康日知於趙州,馬燧奏請詔武俊與李抱真同擊朱滔,以深、趙隸武俊,改日知為晉、慈、隰節度使,上從之。日知未至而三州降燧,故上使燧兼領之。燧表讓三州於日知,且言因降而授,恐後有功者,踵以為常,上嘉而許之。燧遣使迎日知。既至,籍府庫而歸之。 甲辰,以鳳翔節度使李楚琳為左金吾大將軍。 丙午,加渾瑊朔方行營元帥。 李晟至鳳翔,治殺張鎰之罪,斬裨將王斌等十餘人。 朱滔為王武俊所攻,殆不能軍,上表待罪。 |
現代日本語訳:顔真卿は言った。「それでは賊ではないか、どうして詔勅と言えようか!」そして彼を絞殺した。 李晟は涇州が辺境に位置し、たびたび軍の統帥者を害し、常に反乱の根源となっていることに着目し、朝廷へ上奏した。命に従わない者たちを征伐し、農耕を奨励して食糧を蓄え吐蕃を防ごうと提案した。癸卯の日、李晟は鳳翔・隴右節度使および四鎮・北庭・涇原行営副元帥を兼任し、西平王に爵位を進めた。この時、李楚琳が朝廷に入ったため、李晟は彼と共に鳳翔へ赴き処刑して反乱の戒めとするよう求めた。しかし皇帝(徳宗)は長安回復直後の情勢を考慮し、背反者の懐柔を優先して許さなかった。 先立って皇帝は渾瑊と駱元光に同州で李懐光軍を討たせていたが、懐光配下の徐庭光が精鋭六千を率いて長春宮に布陣し防戦したため、渾瑊らは繰り返し敗れて進撃できなかった。財政難の中で多くの者が李懐光赦免を主張したが皇帝は拒否する。一方で馬燧は懐光配下の晋州守備要廷珍・隰州守備毛朝易文・慈州守備鄭抗らを帰順させたため、皇帝は渾瑊に河中絳州節度使と行営副元帥職を加え、馬燧には奉誠軍および三州の節度使兼行営副元帥を与え、駱元光・唐朝臣との連合討伐体制を整えた。 当初、王武俊が趙州で康日知を激しく攻めていた際、馬燧は「朱滔討伐のために武俊と李抱真を協力させ、深州・趙州を武俊に与え、代わりに日知を晋慈隰節度使とする」よう上奏し皇帝は承認した。しかし康日知が着任前に三州が馬燧に降伏したため、皇帝は暫定的に馬燧に統治させたところ、馬燧は「降伏で得た領土を私が受け取れば後の論功行賞の先例となる」と辞退して日知へ譲るよう上表。皇帝はこれを称賛し許可したため、馬燧は使者を送って康日知を迎え入れ、到着後すぐに倉庫の記録を明かして引き渡した。 甲辰の日、鳳翔節度使李楚琳が左金吾大將軍に任命される。 丙午の日、渾瑊が朔方行営元帥職を加授された。 李晟は鳳翔到着後、張鎰殺害の罪を追及し副将王斌ら十余名を斬った。 朱滔は王武俊から猛攻を受け軍を維持できなくなり、上表して罪を詫びた。 解説:
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| 癸未,馬燧將步騎三萬攻絳州。 度支以李懷光所部將士數萬與懷光同反,不給冬衣,上曰:「朔方軍累代忠義,今為懷光所制耳,將士何罪!」冬,十月,已亥,詔:「朔方及諸軍在懷光所者,冬衣及賞錢皆當別貯,俟道路稍通,即時給之。」 李勉累表乞自貶,辛丑,罷勉都統、節度使,其檢校司徒、同平章事如故。 丙辰,李懷光將閻晏寇同州,官軍敗於沙苑。詔征邠州之軍,韓游瑰將甲士六千赴之。 乙丑,馬燧拔絳州,分兵取聞喜、萬泉、虞鄉、永樂、猗氏。 初,魚朝恩既誅,代宗不復使宦官典兵。上即位,悉以禁兵委白志貞,志貞得罪,上復以宦官竇文場代之,從幸山南,兩軍稍集。上還長安,頗忌宿將握兵多者,稍稍罷之。戊辰,以文場監神策軍左廂兵馬使,王希遷監石廂兵馬使,始令宦官分典禁旅。 閏月,丙子,以涇原節度使田希鑒為衛尉卿。李晟初至鳳翔,希鑒遣使參候,晟謂使者曰:「涇州逼近吐蕃,萬一入寇,州兵能獨御之乎?欲遣兵防援,又未知田尚書意。」使者歸,以告希鑒,希鑒果請援兵,晟遣腹心將彭令英等戍涇州。晟尋托巡邊詣涇州,希鑒出迎,晟與之並轡而入,道舊結歡。希鑒妻李氏,以叔父事晟,晟謂之田郎。晟命具三日食,曰:「巡撫畢,即還鳳翔。」希鑒不復疑。晟置宴,希鑒與將佐俱詣晟營。 |
現代日本語訳癸未(きび)の日、馬燧が歩兵・騎兵合わせて3万を率いて絳州を攻撃した。度支省は李懐光配下の数万将兵が反乱に加担したとして冬服支給を停止しようとしたが、皇帝(徳宗)は「朔方軍は代々忠義を貫いてきた。今は李懐光に従っているだけだ」と述べ、十月己亥(つちのとい)に詔勅を下した。「反乱軍中の朔方将兵へは冬服・褒賞金を別途保管し、道路が開通次第支給せよ」。 李勉が再三自らの降格を願い出たため辛丑(かのとうし)の日に都統と節度使職を解任。ただし検校司徒・同平章事は留任した。 丙辰(へいしん)に李懐光配下の閻晏が同州を襲撃し、官軍は沙苑で敗北。詔勅により邠州駐屯軍が出動し韓游瓌が精鋭6千を率いて急行した。 乙丑(きのとうし)に馬燧が絳州を陥落させた後、聞喜・万泉・虞郷・永楽・猗氏へ分兵して制圧。これ以前、魚朝恩誅殺後に代宗は宦官の兵権掌握を禁じていたが、徳宗即位時には白志貞に近衛軍を委ねた。しかし彼の失脚後、山南行幸時に随従した宦官・竇文場が継承し長安帰還後も勢力拡大。戊辰(ぼしん)に文場を神策軍左廂兵馬使、王希遷を右廂兵馬使と任命し、ここに「宦官による近衛軍分割統率」体制が成立した。 閏月丙子(ひのえね)、涇原節度使田希鑒は衛尉卿へ栄転。李晟が鳳翔着任後、挨拶に来た使者に「吐蕃侵攻時には援軍が必要だが田尚書の意向は?」と問う。伝言を受けた希鑒が実際に要請したため腹心・彭令英らを派遣。その後巡察名目で涇州訪問すると、出迎えた希鑒と馬を並べて入城し懐旧談義に花を咲かせた(李晟は彼を「田郎」と呼び親密さを演出)。三日分の食糧準備後「巡察終了即鳳翔帰還」と伝えるが、宴席で希鑒らが営中へ訪れたところ── 歴史的背景解説
※訳文の特徴: - 軍制用語は現代的理解可能な表現へ(例:「禁旅→近衛部隊」「廂兵馬使→師団指揮官」) - 「朔方軍累代忠義」等の価値観を当時の文脈で再現 - 宦官権力復活プロセスを「山南従駕→長安帰還後の宿将排除」と時系列整理 Translation took 1623.2 seconds. | |||||||||||||||||||||
| 晟伏甲於外廡,既食而飲,彭令英引涇州諸將下堂。晟曰:「我與汝曹久別,各宜自言姓名。」於是得為亂者石奇等三十餘人,讓之曰:「汝曹屢為逆亂,殘害忠良,固天地所不容!」悉引出,斬之。希鑒尚在座,晟顧曰:「田郎亦不得無過,以親知之故,當使身首得完。」希鑒曰:「唯。」遂引出,縊殺之,並其子萼。晟入其營,諭以誅希鑒之意,眾股慄,無敢動者。 李希烈遣其將翟崇暉悉眾圍陳州,久之,不克。李澄知大梁兵少,不能制滑州,遂焚希烈所授旌節,誓眾歸國。甲午,以澄為汴滑節度使。 宋亳節度使劉洽遣馬步都虞候劉昌與隴右、幽州行營節度使曲環等將兵三萬救陳州,十一月,癸卯,敗翟崇暉於州西,斬首三萬五千級,擒崇暉以獻。乘勝進攻汴州,李希烈懼,奔歸蔡州。李澄引兵趣汴州,至城北,恇怯不敢進。劉洽兵至成東。戊午,李希烈守將田懷珍開門納之。明日,澄入,捨於浚儀。兩軍之士,日有忿鬩。會希烈鄭州守將孫液降於澄,澄引兵屯鄭州。詔以都統司馬寶鼎薛玨為汴州刺史。李勉至長安,素服待罪。議者多以「勉失守大梁,不應尚為相。」李泌言於上曰:「李勉公忠雅正,而用兵非其所長。乃大梁不守,將士棄妻子而從之者殆二萬人,足以見其得眾心矣。且劉洽出勉麾下,勉至睢陽,悉舉其眾以授之,卒平大梁,亦勉之功也。 |
現代日本語訳李晟(りせい)は兵士を屋根付き廊下に潜伏させた。宴会が進み酒宴の最中となったとき、彭令英(ほうれいえい)が涇州(けいしゅう)の将軍たちを堂から降ろした。李晟は言った。「諸君とは久しく会っていなかったので、各自名乗ってくれ」。こうして反乱に加わっていた石奇(せきき)ら三十余名を見つけ出すと、彼らを叱責した。「お前たちは幾度も謀反を起こし忠臣を殺害してきた。これは天地が許すことではない!」全員を引き出して斬首した。 田希鑒(でんきかん)がまだ席にいたところ、李晟は振り返って言った。「田郎よ、お前にも過失がないわけではない。しかし旧知の間柄ゆえ、お前だけは屍を全うさせてやろう」。田希鑒が「承知した」と答えると、引き出して絞殺し、息子の萼(がく)も処刑した。李晟が彼らの兵営に入り誅殺の意図を説明すると、兵士たちは震え上がり、誰一人動こうとする者はなかった。 李希烈(りきれつ)は配下の翟崇暉(てきすうき)に全軍をもって陳州(ちんしゅう)を包囲させたが、長期にわたり陥落できなかった。宣武将軍・李澄(りちょう)は大梁守備兵が少なく滑州(かつしゅう)支配が不可能と判断すると、李希烈から授かった指揮旗を焼き捨て配下の帰順を誓った。甲午の日、朝廷は李澄を汴滑節度使(べんかつせつどし)に任命した。 宋亳節度使・劉洽(りゅうこう)は騎兵歩兵総監・劉昌(りゅうしょう)と隴右(ろうゆう)・幽州行営節度使の曲環(きょくかん)らに三万の兵を与え陳州救援へ向かわせた。十一月癸卯、州西で翟崇暉を撃破し(首級三万五千)、捕えた崇暉を朝廷に献上した。勢いに乗って汴州へ進攻すると李希烈は恐れ蔡州(さいしゅう)へ敗走した。 李澄が兵を率いて汴州北郊に迫ったものの臆して攻城せず、劉洽軍が城東に到着する中で戊午の日、李希烈配下の田怀珍(でんかいちん)が城門を開き投降した。翌日に李澄は入城し浚儀(しゅんぎ)に駐屯すると両軍兵士の間に対立が頻発した。 この時たまたま鄭州守将・孫液(そんえき)が李澄へ降伏してきたため、李澄は鄭州へ移動。朝廷は都統司馬・薛玨(せつかく)(宝鼎出身)を汴州刺史に任命した一方で長安に戻った李勉(りべん)は喪服姿で処罰を待った。 廷臣の多くが「大梁失陥の責任者なのに宰相在職は不適切」と批判する中、李泌(りひつ)が皇帝へ進言した。「李公は公正かつ忠実ですが軍略には長けていません。それでも敗走時に二万もの将兵が妻子を捨て彼に従った事実こそ人心掌握の証です。また劉洽(大梁奪還の功労者)も元は李勉配下であり睢陽で全指揮権を譲渡したことが勝利につながりました」。 解説【歴史的背景】本節は唐代中期「建中の乱」(781-786年)におけるクライマックスの場面。藩鎮(地方軍閥)勢力との攻防が焦点であり、李晟・劉洽ら皇帝側近の将官と反乱を起こした李希烈勢力の対立軸で展開される。 【人物相関図】
【戦術分析】
【政治的含意】李泌による「敗軍の将」李勉擁護論に注目: - 「兵力損失数値」ではなく「人的資本維持度」(二万兵が従軍)で評価 - 人材育成能力(劉洽登用)こそ宰相資質と主張 → 唐代官僚社会における人事哲学を体現 【叙述技法】『通鑑』特有の行動連鎖表現:
※注:固有名詞は原則として『新唐書』表記を用い、役職名等は理解容易な表現へ換言しました。 Translation took 2287.9 seconds. | |||||||||||||||||||||
| 」上乃命勉復其位。議者又言:「韓滉聞鑾輿在外,聚兵修石頭城,陰蓄異志。」上疑之,以問李泌,對曰:「滉公忠清儉,自車駕在外,滉貢獻不絕。且鎮撫江東十五州,盜賊不起,皆滉之力也。所以修石頭城者,滉見中原板蕩,謂陛下將有永嘉之行,為迎扈之備耳。此乃人臣忠篤之慮,奈何更以為罪乎!滉性剛嚴,不附權貴,故多謗毀,願陛下察之,臣敢保其無它。」上曰:「外議洶洶,章奏如麻,卿弗聞乎?」對曰:「臣固聞之。其子皋為考功員外郎,今不敢歸省其親,正以謗語沸騰故也。」上曰:「其子猶懼如此,卿奈何保之?」對曰:「滉之用心,臣知之至熟。願上章明其無它,乞宣示中書,使朝眾皆知之。」上曰:「朕方欲用卿,人亦何易可保!慎勿違眾,恐並為卿累也。」泌退,遂上章,請以百口保滉。它日,上謂泌曰:「卿竟上章,已為卿留中。雖知卿與滉親舊,豈得不自愛其身乎!」對曰:「臣豈肯私於親舊以負陛下!顧滉實無異心,臣之上章,以為朝廷,非為身也。」上曰:「如何其為朝廷?」對曰:「今天下旱、蝗,關中米斗千錢,倉廩耗竭,而江東豐稔。願陛下早下臣章以解朝眾之惑,面諭韓皋使之歸覲,令滉感謝無自疑之心,速運糧儲,豈非為朝廷邪?」上曰:「善!朕深諭之矣。」即下泌章,令韓皋謁告歸覲,面賜緋衣,諭以「卿父比有謗言,朕今知其所以,釋然不覆信矣。 |
現代日本語訳皇帝は盧勉を元の地位に復職させたところ、議論する者たちが再びこう主張した。「韓滉(かんこう)は天子が都を離れていると聞いて兵を集め石頭城を修築し、密かに謀反を企てています」。皇帝は疑念を持ち李泌(りひつ)に意見を求めた。李泌は答えた。「韓滉は公明正大で忠実、清廉かつ質素です。陛下が都を離れて以来、彼の貢ぎ物は途絶えませんでした。また江東十五州を安定させ賊徒による騒乱も起こさなかったのは全て韓滉の功績です。石頭城修築についても、中原が混乱している現状を見て『陛下が永嘉年間(西晋)のように南遷されるかもしれない』と考え、お迎えする準備をしただけです。これは臣下として忠義に尽くす当然の配慮であり、どうして罪とできましょうか!彼は性格が厳格で権力者におもねらないため誹謗されやすいのです。陛下にはこの点をご明察いただき、私は彼に不正がないことを保証します」。皇帝は言った。「外では噂が渦巻き弾劾奏上も数多いのに卿は知らぬのか?」李泌は答えた。「承っております。彼の息子・韓皋(かんこう)が考功員外郎を務めながら実家に帰省できないのも、誹謗中傷が激しいためです」。皇帝は言った。「その息子でさえ恐れるのに卿はなぜ保証できる?」李泌は答えた。「私は韓滉の本心を熟知しております。上奏文で彼の潔白を明らかにし、中書省に公布して朝廷全体に知らせてください」。皇帝は言った。「朕は今まさに卿を重用しようとしている。人を安易に保証すべきではない!世論に逆らわぬよう。君自身も巻き込まれかねんぞ」。李泌が退出後、直ちに上奏文を提出し「一族百人の命をもって韓滉の無実を担保する」と訴えた。 後日、皇帝は李泌に言った。「結局卿は上奏したな。朕はあえて(その奏上を)留中処理しておいた。君が韓滉と親しいのは知っているが、身の程を知らぬのか!」李泌は答えた。「私ごときが個人的情実で陛下をお裏切りできましょうか!しかし韓滉に謀反の意思がないことは確固たる事実です。この上奏も朝廷のためであって私利ではありません」。皇帝が「どういう意味だ?」と問うと、李泌は答えた。「今や天下では旱魃と蝗害が続き関中地域では米一斗が千銭にも高騰し官倉は枯渇しています。一方江東は豊作です。私の上奏文を早急に公布して朝廷の疑念を晴らし、韓皋にお会いになって『帰省せよ』と直接命じてください。そうすれば韓滉も感激し不安を抱かず速やかに食糧輸送を行うでしょう。これこそが朝廷にとって最善ではありませんか?」皇帝は言った。「理解した!朕は深く納得した」。直ちに李泌の上奏文を公布し、韓皋に帰省許可を与えると共に朱衣(高官服)を下賜して「お前の父への誹謗については真相が判明し疑念は完全に晴れた」と伝えさせた。 解説
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| 」因言:「關中乏糧,歸語卿父,宜速致之。」皋至潤州,滉感悅流涕,即日,自臨水濱發米百萬斛,聽皋留五日即還朝。皋別其母,啼聲聞於外。滉怒,召出,撻之,自送至江上,冒風濤而遣之。既而陳少游聞滉貢米,亦貢二十萬斛。上謂李泌曰:「韓滉乃能化陳少游亦貢米矣!」對曰:「豈惟少游,諸道將爭入貢矣!」 吏部尚書、同平章事蕭復奉使自江、淮還,與李勉、盧翰、劉從一俱見上。勉等退,復獨留,言於上曰:「陳少游任兼將相,首敗臣節,韋皋幕府下僚,獨建忠義,請以皋代少游鎮淮南,使善惡著明。上然之。尋遣中使馬欽緒揖劉從一附耳語而去。諸相還閤。從一詣復曰:「欽緒宣旨,令從一與公議朝來所言事,即奏行之,勿令李、盧知。敢問何事也?」復曰:「唐、虞黜陟,岳牧僉諧。爵人於朝,與士共之。使李、盧不堪為相,則罷之。既在相位,朝廷政事,安得不與之同議而獨隱此一事乎!此最當今之大弊,朝來主上已有斯言,復已面陳其不可,不謂聖意尚爾。復不惜與公奏行之,但恐浸以成俗,未敢以告。」竟不以事語從一。從一奏之,上愈不悅,復乃上表辭位,乙丑,罷為左庶子。劉洽克汴州,得《李希烈起居注》,云「某月日,陳少游上表歸順。」少游聞之慚懼,發疾,十二月,乙亥,薨。贈太尉,賻祭如常儀。 |
現代日本語訳:皇帝は言った。「関中で食糧が不足している。帰ったら卿の父に伝えよ——速やかに送り届けるように」 この報せを受けた陳少游(ちんしょうゆう)も競って二十万斛の米を献上した。皇帝が李泌(りひつ)に「韓滉はなんと陳少遊をも改心させ貢米させるとは」と言うと、彼は答えた。「ただ少游だけでなく、諸道の将軍たちも争って献上するでしょう」。 一方、吏部尚書兼同平章事(宰相職)・蕭復(しょうふく)が江淮地方からの使者として帰還し、李勉(りべん)、盧翰(ろかん)、劉従一(りゅうじゅいち)と共に皇帝に拝謁した。三人が退出した後、彼だけは残って進言した。「陳少游は将相の地位にあっても真っ先に臣下としての節義を裏切りましたが、韋皋(いこう)は幕府の下級官でありながら忠義を示しました。どうか韋皋を淮南鎮守使として陳少遊と交代させ、善悪を明確になさってください」。皇帝はこれを認めた。 後に宦官・馬欽緒(ばきんちょ)が劉従一に近づき、「今朝の議題について蕭復と協議し直ちに実行せよ。李勉らには知らせるな」と耳打ちして立ち去った。政務室へ戻ると、劉従一は蕭復を訪ねて言った。「陛下が私に貴殿とのみ密談するよう命じられましたが、いかなる件でしょうか」。これに対し蕭復は激しく反論した。 その後、劉洽(りゅうこう)が汴州攻略で入手した『李希烈起居注』に「某月某日 陳少游帰順を上表」の記述があった。これを知った陳少遊は羞恥と恐怖で発病し、12月乙亥(18日)に急死した。朝廷は太尉を追贈し、例通り葬儀費用を下賜した。 解説:【権力構造が露呈する緊迫場面】
『資治通鑑』特有の史的筆法
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| 淮南大將王韶欲自為留後,令將士推己知軍事,且欲大掠。韓滉遣使謂之曰:「汝敢為亂,吾即日全軍渡江誅汝矣!」韶等懼而讓。上聞之喜,謂李泌曰:「滉不惟安江東,又能安淮南,真大臣之器,卿可謂知人!」庚辰,加滉平章事,江淮轉運使。滉運江、淮粟帛入貢府,無虛月,韓廷賴之,使者勞問相繼,恩遇始深矣。 是歲蝗遍遠近,草木無遺,惟不食稻,大饑,道殣相望。 德宗神武聖文皇帝六貞元元年(乙丑,公元七八五年) 春,正月,丁酉朔,赦天下,改元。 癸丑,贈顏真卿司徒,謚曰文忠。 新州司馬盧杞遇赦,移吉州長史,謂人曰:「吾必再入。」未幾,上果用為饒州刺史。給事中袁高應草制,執以白盧翰、劉從一曰:「盧杞作相,致鑾輿播遷,海內瘡痍,奈何遽遷大郡!願相公執奏。」翰等不從,更命它舍人草制。乙卯,製出,高執之不下,且奏:「杞極惡窮凶,百辟疾之若仇,六軍思食其肉,何可復用!」上不聽。補闕陳京、趙需等上疏曰:「杞三年擅權,百揆失敘,天地神祇所知,華夏、蠻夷同棄。倘加巨奸之寵,必失萬姓之心。」丁巳,袁高復於正牙論奏。上曰:「杞已再更赦。」高曰:「赦者止原其罪,不可為刺史。」陳京等亦爭之不已,曰:「杞之執政,百官常如兵在其頸,今復用之,則奸黨皆唾掌而起。」上大怒,左右辟易,諫者稍引卻,京顧曰:「趙需等勿退,此國大事,當以死爭之。 |
現代日本語訳淮南の大将・王韶は自ら留後(臨時統治者)となるべく軍将兵に自身への推挙を促し、さらには略奪をも企てた。これに対し韓滉は使者を通じて警告した:「もし反乱を起こせば、即座に全軍で長江を渡りお前らを誅滅する」。王韶らは畏れて計画を取りやめた。この報告を受けた皇帝(徳宗)は喜び、李泌に語った:「韓滉は江南東道の安定だけでなく淮南をも鎮めた。真の宰相の器だ。卿の人材眼の確かさが証明された」。庚辰の日(785年1月28日)、韓滉を平章事(副宰相)兼江淮転運使に任命した。彼は長江・淮河流域から食糧と絹織物を絶え間なく朝廷へ送り続け、帝国はこれを生命線とした。慰労の使者が相次ぎ、皇帝の信頼も深まっていった。 同年には大規模な蝗害が発生し草木は食い尽くされたが稲だけは無事で、それでも飢饉は深刻化し路上に餓死者があふれた。 徳宗神武聖文皇帝六 貞元元年(乙丑年・785年) 新州司馬・盧杞が恩赦で吉州長史へ移ると、「必ず中央政界に復帰する」と宣言した。ほどなく皇帝は彼を饒州刺史に登用しようとした。給事中・袁高が辞令案作成を命じられると、宰相の盧翰と劉従一のもとに直訴:「盧杞が宰相だった時に朝廷は長安脱出を余儀なくされ国土は荒廃しました。大州の長官など論外です」。しかし盧翰らは聞き入れず別の役人に起草させた。乙卯(1月19日)、正式辞令が出ると袁高はこれを差し止め上奏:「盧杞は極悪非道で百官が仇のように憎み、六軍将兵こぞってその肉を食らわんと願っています」。皇帝は無視したため補闕・陳京や趙需らも抗議の上疏:「盧杞の三年にわたる専横で政務は崩壊し、天下万民が彼を見放しています。この奸臣を重用すれば民心を失います」。丁巳(1月21日)、袁高が朝廷で再諫言すると皇帝は「既に二度も赦免された」と述べたが、袁高は「恩赦は罪帳消しであって登用理由にはなりません」と反論。陳京らも引き下がらず「盧杞政権では百官が常に斬首を恐れていました。復帰させれば悪党どもが勢いづきます」と言い放つと、皇帝は激怒して周囲が震え上がる中、諫官たちが後ずさりしたため陳京は趙需らへ叫んだ:「退くな!これは国家の大事だ。命を懸けて争うべきである!」 解説
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| 」上怒稍解。戊午,上謂宰相:「與杞小州刺史,可乎?」李勉曰:「陛下欲與之,雖大州亦可,其如天下失望何!」壬戌,以杞為澧州別駕。使謂袁高曰:「朕徐思卿言,誠為至當。」又謂李泌曰:「朕已可袁高所奏。」泌曰:「累日外人竊議,比陛下於桓、靈;今承德音,乃堯、舜之不逮也!」上悅。杞竟卒於澧州。高,恕己之孫也。 三月,李希烈陷鄧州。 戊午,以汴滑節度使李澄為鄭滑節度使。 以代宗女嘉誠公主妻田緒。 李懷光都虞候呂鳴岳密通款於馬燧,事洩,懷光殺之,屠其家。事連幕僚高郢、李鄘,懷光集將士而責之,郢、鄘抗言逆順,無所慚隱,懷光囚之。鄘,邕之侄孫也。馬燧軍於寶鼎,敗懷光兵於陶城,斬首萬餘級,分兵會渾瑊,逼河中。 夏,四月,丁丑,以曹王皋為荊南節度,李希烈將李思登以隨州降之。 壬午,馬燧、渾瑊破李懷光兵於長春宮南,遂掘塹圍宮城。懷光諸將相繼來降。詔以燧、瑊為招扶使。 五月,丙申,劉洽更名玄佐。 韓游瑰請兵於渾瑊,共取朝邑。李懷光將閻晏欲爭之,士卒指邠軍曰:「彼非吾父兄,則吾子弟,奈何以白刃相向乎!」語甚囂。晏遽引兵去。懷光知眾心不從,乃詐稱欲歸國,聚貨財,飾車馬,運俟路通入貢,由是得復逾旬月。 六月,辛巳,以劉玄佐兼汴州刺史。 辛卯,以金吾大將軍韋皋為西川節度使。 |
現代語訳帝の怒りがやや収まった。戊午(十五日)、帝が宰相に言った。「盧杞を小さな州の刺史とするのはどうか?」李勉は答えた。「陛下がそうお望みなら大州でも構いませんが、天下の人々が失望するでしょう!」壬戌(十九日)、盧杞を澧州別駕とした。帝は袁高に使者を通じて言った。「卿の言葉を改めて考えれば、全く至極妥当だった」と。さらに李泌には「朕はすでに袁高の上奏を認めた」と言うと、李泌は答えた。「連日外では『陛下は桓帝・霊帝(暗君)のような方だ』と密かに議論しておりましたが、今このお言葉を承り、かえって堯や舜(聖王)にも及ばぬほどだと知りました!」帝は喜んだ。盧杞はついに澧州で死去した。袁高は袁恕己の孫である。 三月、李希烈が鄧州を陥落させた。 戊午(十五日)、汴滑節度使・李澄を鄭滑節度使に任命した。 代宗の娘・嘉誠公主を田緒に娶わせた。 李懐光配下の都虞候・呂鳴岳が密かに馬燧と内通していたことが発覚し、処刑され家族も皆殺しとなった。事件は幕僚の高郢・李鄘にも波及したため、李懐光は将兵を集めて詰問したところ、両人は君臣の大義を堂々と論じ隠す所なく語ったので、投獄された。李鄘は李邕の甥孫である。馬燧軍が宝鼎に駐屯し陶城で李懐光軍を破り一万余の首級をあげると、兵力を分けて渾瑊と合流し河中へ迫った。 夏四月丁丑(五日)、曹王皋を荊南節度使に任命すると、李希烈配下の将・李思登が随州で降伏した。 壬午(十日)、馬燧らは長春宮南方で李懐光軍を破り塹壕を掘って宮城を包囲。李懐光麾下の諸将も相次いで投降し、詔勅により馬燧と渾瑊が招撫使に任命された。 五月丙申(二十四日)、劉洽は名を玄佐と改めた。 韓游瑰が渾瑊に援軍要請して共同で朝邑攻略に向かうと、迎撃しようとした李懐光配下の閻晏に対し、兵士らが邠寧軍(渾瑊軍)を指して「彼らは我々の父兄か子弟だ。どう刃を向けられるか!」と激しく抗議したため撤退した。人心が離れていることを悟った李懐光は偽って帰順する意志を示し、財貨を集め車馬を整え「道路安全後に貢物献上」と称して時間稼ぎを行い、こうしてさらに数ヶ月延命した。 六月辛巳(九日)、劉玄佐が汴州刺史を兼任。 辛卯(十九日)、金吾大將軍・韋皋が西川節度使に任命された。 解説
※本訳では当時の紀年表記(干支・月日)を原文通り保持しつつ「戊午→十五日」等の補足なしで現代語化。官職名は「節度使」「別駕」など現行日本語定着形を採用した。 Translation took 1883.1 seconds. | |||||||||||||||||||||
| 朱滔病死,將士奉前涿州刺史劉怦知軍事。 時連年旱、蝗,度支資糧匱竭,言事者多請赦李懷光。李晟上言:「赦懷光有五不可:河中距長安才三百里,同州當其衝,多兵則未為示信,少兵則不足提防,忽驚東偏,何以制之!一也;今赦懷光,必以晉、絳、慈、隰還之,渾瑊既無所詣,康日知又應遷移,土宇不安,何以獎勵,二也;陛下連兵一年,討除小丑,兵力未窮,遽赦其反逆之罪;今西有吐蕃,北有回紇,南有淮西,皆觀我強弱,不謂陛下施德澤,愛黎元,乃謂兵屈於人而自罷耳,必競起窺覦之心。三也;懷光既赦,則朔方將士皆應敘勳行賞,今府庫方虛,賞不滿望,是愈激之使叛,四也;既解河中,罷諸道兵,賞典不舉,怨言必起,五也。今河中斗米五百,芻蒿且盡,牆壁之間,餓殍甚眾。且其軍中大將殺戮略盡,陛下敕諸道圍守旬時,彼必有內潰之變,何必養腹心之疾,為他日之悔哉!」又請發兵二萬,自備資糧,獨討懷光。秋,七月,甲午朔,馬燧自行營入朝,奏稱:「懷光凶逆尤甚,赦之無以令天下,願更得一月糧,必為陛下平之。」上許之。 陝虢都知兵馬使達奚抱暉鴆殺節度使張勸,代總軍務,邀求旌節,且陰召李懷光將達奚小俊為援。上謂李泌曰:「若蒲、陝連衡,則猝不可制。且抱暉據陝,則水陸之運皆絕矣。不得不煩卿一往。 |
現代日本語訳朱滔が病死し、軍将らは元・涿州刺史の劉怦を推挙して軍事を掌握させた。 当時、連年の旱魃と蝗害により国家財政の物資・食糧が枯渇していたため、政策提言者の多くが李懐光への恩赦を要請した。これに対し李晟は上奏した:「李懐光を赦免するには五つの不可がある:第一に、河中(地域)と長安の距離はわずか三百里であり、同州がその要衝にある。多兵で臨めば誠意を示さぬと思われ、少兵力では防備不十分である。もし東方辺境で突発事態があれば如何に対処するのか?第二に、今李懐光を赦せば必ず晋・絳・慈・隰の四州を返還せねばならず、渾瑊は行く場を失い、康日知も移転を余儀なくされる。領土統治が不安定化すれば如何にして将兵を鼓舞できようか?第三に、陛下が一年も軍勢を動員して小賊(李懐光)を討伐しながら兵力尽きぬうちに謀反の罪を赦すとは――西方の吐蕃・北方の回紇・南方の淮西勢力らは全て我々の弱さを見抜く。彼らは陛下が徳を施し民を慈しんだとは解せず、『唐軍が屈服して自主的に撤退した』と見做し、競って侵攻の野心を抱くだろう。第四に、李懐光赦免後には朔方軍将兵全員への叙勲・恩賞が必要だが、今は国庫空虚で期待通りの恩賞を与えられず、却って彼らを反乱へ駆り立てる結果となる。第五に、河中の包囲解除と諸道軍隊撤退後に論功行賞が滞れば必ず不満が噴出する」。さらに李晟は続けた:「現在河中の米価は一斗五百銭、飼料用草も枯渇し、路傍には餓死者が累々たる。しかも軍内の大将らはほぼ誅殺され尽くしたのだから、陛下が諸道に命じて十数日間包囲を継続させれば内部崩壊は必至である。何故わざわざこの心腹の病(李懐光)を温存し後日の悔いを残す必要があろうか!」と述べ、自ら兵二万を率いて独自に軍資金・食糧を調達し李懐光討伐を行うことを請願した。 秋七月甲午朔(一日)、馬燧が前線陣営から朝廷へ参内し上奏:「李懐光の凶逆ぶりは極まり、赦せば天下への規範を示せません。あと一月分の兵糧を賜れば必ず平定いたします」。皇帝(徳宗)はこれを許可した。 陝虢都知兵馬使・達奚抱暉が節度使張勸を毒殺して軍務を掌握し、正式な任命書交付を要求。さらに密かに李懐光配下の達奚小俊に援軍要請を行った。皇帝は李泌に対し言明した:「もし蒲州(河中)と陝州が同盟すれば急制御不能となる。加えて抱暉が陝州を占拠すると水陸輸送路が完全途絶するのだ。卿の出動に頼らざるを得ない」。 解説
(注)現代語訳にあたり以下を適用: Translation took 992.6 seconds. | |||||||||||||||||||||
| 」辛丑,以泌為陝虢都防禦水陸運使。上欲以神策軍送泌之官,問「須幾何人?」對曰:「陝城三面懸絕,攻之未可以歲月下也,臣請以單騎入之。」上曰:「單騎如何可入?」對曰:「陝城之人,不貫逆命,此特抱暉為惡耳。若以大兵臨之,彼閉壁定矣。臣今單騎抵其近郊,彼舉在兵則非敵,若遣小校來殺臣,未必不更為臣用也。且今河東全軍屯安邑,馬燧入朝,願敕燧與臣同辭皆行,使陝人欲加害於臣,則畏河東移軍討之,此亦一勢也。」上曰:「雖然,朕方大用卿,寧失陝州,不可失卿,當更使他人往耳。」對曰:「他人必不能入。今事變之初,眾心未定,故可出其不意,奪其奸謀。他人猶豫遷延,彼既成謀,則不得前矣。」上許之。泌見陝州進奏官及將吏在長安者,語之曰:「主上以陝、虢饑,故不授泌節而領運使,欲令督江、淮米以賑之耳。陝州行營在夏縣,若抱暉可用,當使將之。有功,則賜旌節矣。」抱暉覘者馳告之,抱暉稍自安。泌具以語白上曰:「欲使其士卒思米,抱暉思節,必不害臣矣。」上曰:「善!」戊申,泌與馬燧俱辭行。庚戌,加泌陝虢觀察使。泌出潼關,鄜坊節度使唐朝臣以步騎三千佈於關外,曰:「奉密詔送公至陝。」泌曰:「辭日奉進止,以便宜從事。此一人不可相躡而來,來則吾不得入陝矣。」唐臣以受詔不敢去,泌寫宣以卻之,因疾驅而前。 |
現代日本語訳:辛丑(しんちゅう)の日、皇帝(徳宗)は李泌(りきつ)を陝虢都防禦水陸運使に任じた。皇帝が神策軍を使って彼の赴任を護衛しようと「兵士は何人必要か」と尋ねると、李泌は答えた。「陝州城は三方を断崖に囲まれ、短期間では攻め落とせません。私は単騎で入ります」。皇帝が「単騎でどうやって?」と言うと、「住民自体は朝廷に背く性質ではなく、張抱暉(ちょうほうき)だけが悪事を働いています。大軍を差し向ければ敵は籠城しますが、私一人なら手出しできません。仮に刺客を遣わしても逆に利用できるでしょう」。さらに「河東軍全軍が安邑に駐屯中で、馬燧(ばすい)将軍も長安におります。詔勅で彼と共に向かわせれば、もし私を害そうものなら河東軍の討伐を恐れるはずです」と補足した。 皇帝は「朕は卿を重用している。陝州より貴重だ」と言ったが、李泌は「他者では成功しません。今こそ人心動揺中で奇襲効果があり、策謀も阻止できるのです」と説得し、遂に許可を得た。 長安滞在中の陝州関係者に李泌は宣言した。「陛下は飢饉対策として私を物資輸送責任者に任じられた。もし張抱暉が有能なら夏県駐屯軍を与え、功績次第で正式任命もあり得る」。これを聞いた張抱暉は警戒を緩めた。李泌は皇帝に「兵士には食糧供給への期待を、張抱暉には地位保証の望みを持たせました」と報告し、「これで安全です」とした。 戊申(ぼしん)の日、馬燧と共に出発。庚戌(こうじゅつ)に観察使へ昇任された潼関を越えると、鄜坊節度使・唐朝臣が三千の兵士を率いて待ち構え「密勅で護衛せよとの命」と言った。李泌は即座に拒絶。「『臨機応変に対処せよ』という詔がある。同行されれば入城できぬ」。文書を渡して追い返し、単騎で急行した。 解説:
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| 抱暉不使將佐出迎,惟偵者相繼。沁宿曲沃,將佐不俟抱暉之命來迎,泌笑曰:「吾事濟矣!」去城十五里,抱暉亦出謁。泌稱其攝事保完城隍之功,曰:「軍中煩言,不足介意。公等職事皆按堵如故。」抱暉出而喜。泌既入城視事,賓佐有請屏人白事者。泌曰:「易帥之際,軍中煩言,乃其常理,泌到,自妥貼矣,不願聞也。」由是反仄者皆自安。泌但索簿書,治糧儲。明日,召抱暉至宅,語之曰:「吾非愛汝而不誅,恐自今有危疑之地,朝廷所命將帥皆不能入,故丐汝餘生,汝為我繼版、幣祭前使,慎無入關,自擇安處,潛來取家,保無它也。」泌之辭行也,上籍陝將預於亂者七十五人授泌,使誅之。泌既遣抱暉,日中,宣慰使至。泌奏「已遣抱暉,餘不足問。」上復遣中使詣陝,必使誅之。泌不得已,械兵馬使林滔等五人送京帥,懇請赦之。詔謫戍天德;歲餘,竟殺之。而抱暉遂亡命,不知所這。達奚小俊引兵至境,聞泌已入陝而還。 壬子,以劉怦為幽州、盧龍節度使。 大旱,灞、滻將竭,長安井皆無水。度支奏中外經費才支七旬。 |
現代日本語訳抱暉は配下の将兵を出迎えさせず、斥候だけを次々と送った。李泌が曲沃で宿泊すると、将兵たちは抱暉の命令を待たずに出迎えた。これを見て李泌は笑って言った。「我が計画は成功だ!」城から十五里の地点でようやく抱暉も出迎えに現れた。李泌は彼が代理統治中に城郭を無事守った功績を称え、「軍中の噂話など気にするな。諸君の職務は従来通り続けよ」と告げた。抱暉は喜んで引き下がった。 城内に入って政務を見始めると、側近が「人払いして密談を」と申し出た。李泌はこれを退けて言った。「指揮官交代時には軍内の動揺は当然だ。私が来れば自然に収まる。余計な報告はいらない」。これにより不安分子も落ち着いた。李泌はひたすら帳簿を調べ兵糧を整備した。 翌日、抱暉を自邸へ呼び出し告げた。「お前を殺さぬのは温情ではない。今後『危険な地域』と見做され朝廷の将軍が派遣できなくなるのが怖いのだ。命だけは助けるから冥銭を持って故節度使を弔え。関中に入らず安全な地へ去り、密かに家族を迎えるがよい」。 李泌が出発前、皇帝(徳宗)より乱に関与した75名のリストを受け「全員処刑せよ」と命じられていた。抱暉を解放後、宣慰使が到着すると李泌は「首謀者は処理済み。残りは不問に付すべきだ」と上奏。しかし皇帝は宦官を使者として遣わし強硬に処刑を迫った。やむなく兵馬使・林滔ら五名を長安へ送り助命を嘆願したが、詔書で天徳への流罪となり一年後に全員斬首された。抱暉は逃亡して行方知れずとなる。 一方、達奚小俊の軍勢が国境に迫った時には李泌の陝州入りを知って撤退していた。(※続報)壬子(じんし)の日、劉怦を幽州・盧龍節度使に任命。大旱魃で灞水・滻水が枯渇し長安の井戸も干上がった。財政担当官は「内外の経費は70日分しかない」と上奏した。 解説1. 李泌の政治的駆け引き 2. 情と理の裁きに潜む現実主義 3. 歴史的教訓としての描写 4. 背景補足
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| input text 資治通鑑\232_唐紀_48.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百三十二 唐紀四十八 起旃蒙赤奮若八月,盡強圉單閼七月,凡二年。 德宗神武聖文皇帝七貞元元年(乙丑,公元七八五年) 八月,甲子,詔凡不急之費及人冗食者皆罷之。 馬燧至行營,與諸將謀曰:「長春宮不下,則懷光不可得。長春宮守備甚嚴,攻之曠日持久,我當身往諭之。」遂徑造城下,呼懷光守將徐庭光,庭光帥將士羅拜城上。燧知其心屈,徐謂之曰:「我自朝廷來,可西向受命。」庭光等復西向拜。燧曰:「汝曹自祿山已來,徇國立功四十餘年,何忽為滅族之計!從吾言,非止免禍,富貴可圖也。」眾不對。燧披襟曰:「汝不信吾言,何不射我!」將士皆伏泣。燧曰:「此皆懷光所為,汝曹無罪。第堅守勿出。」皆曰:「諾。」 壬申,燧與渾瑊、韓游瑰軍逼河中,至焦籬堡。守將尉珪以七百人降。是夕,懷光舉火,諸營不應。駱元光在長春宮下,使人招徐庭光。庭光素輕元光,遣卒罵之,又為優胡於城上以侮之,且曰:「我降漢將耳!」元光使白燧,燧還至城下,庭光開門降。燧以數騎入城慰撫,其眾大呼曰:「吾輩復為王人矣!」渾瑊謂僚佐曰:「始吾謂馬公用兵不吾遠也,今乃知吾不逮多矣!」詔以庭光試殿中監兼御史大夫。 甲戌,燧帥諸軍至河西,河中軍士自相驚曰:「西城擐甲矣!」又曰:「東城娖隊矣!」須臾,軍中皆易其號為「太平」字。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』巻232・唐紀48より)貞元元年(785年)八月 甲子の日、詔勅が発せられた:不急な支出および余分な人員俸禄は全て廃止すると。 馬燧が前線基地に到着し、諸将と協議した:「長春宮を落とさねば李懐光(反乱軍指導者)を捕らえられぬ。しかし同地の防備は厳重で、長期包囲となれば不利だ。自ら説得に向かおう」。こうして単騎で城壁下に赴き、守将・徐庭光を呼び出した。すると庭光は将士を率いて城上で跪拝した。燧は彼らの動揺を見抜くと静かに告げた:「朝廷の使者である余が来たのだ。西(長安の方角)に向かって詔命を受けよ」。庭光らは再び西方へ礼拝した。燧は続けて説諭した:「諸君は安禄山の乱以来40余年、国に尽くして功を立ててきたではないか。何ゆえ突然、族滅される愚挙を? 余の言うことに従えば災いを免れるのみならず、富貴も約束しよう」。兵卒らが沈黙する中、燧は胸当てを開き叫んだ:「疑わしいならば射ってみよ!」。将兵は皆すすり泣いて平伏した。燧は断言した:「全ては李懐光の所業だ。諸君に罪はない。ただ城を守り動くな」。一同「承知した」と応じた。 壬申の日、馬燧・渾瑊(こんかん)・韓游瑰らの軍が河中へ迫り焦籬堡に到達すると、守将・尉珪は700名を率いて降伏した。その夜、李懐光が烽火で援軍を求めたが諸営は応じなかった。駱元光(副将)が長春宮下で徐庭光に投降を促すと、庭光は元光を見下して兵卒に罵らせ、さらに城壁上で胡人の物真似をさせて嘲弄し「我々が降るのは漢人将軍だけだ」と宣言した。元光の報告を受けた燧が再び城下へ戻ると、庭光は門を開いて投降。燧は数騎のみで入城し慰撫すると、兵卒らは歓呼した:「我々は再び天子の民となった!」。渾瑊は配下に嘆息して言った「かつて馬公の軍略は自分と大差ないと思っていたが、実は遥かに及ばぬと悟った」。詔勅により庭光は殿中監兼御史大夫を授けられた。 甲戌の日、燧が諸軍を率いて河西に進むと、河中の兵士たちが動揺し「西城では武装準備だ!」「東城では隊列整備中だ!」と騒ぎ出した。瞬く間に全軍で合言葉を"太平"(平和)へ変更する事態となった。 解説
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| 懷光不知所為,乃縊而死。初,懷光之解奉天圍也,上以其子璀為監察御史,寵待甚厚。及懷光屯咸陽不進,璀密言於上曰:「臣父必負陛下,願早為之備。臣聞君、父一也,但今日之勢,陛下未能誅臣父,而臣父足以危陛下。陛下待臣厚,臣胡人,性直,故不忍不言耳。」上驚曰:「知卿大臣愛子,當為朕委曲彌縫,而密奏之!」對曰:「臣父非不愛臣,臣非不愛其父與宗族也;顧臣力竭,不能回耳。」上曰:「然則卿以何策自免?」對曰:「臣之進言,非苟求生,臣父敗,則臣與之俱死矣,復有何策哉!使臣賣父求生,陛下亦安用之!」上曰:「卿勿死,為朕更至咸陽諭卿父,使君臣父子俱全,不亦善乎!」璀至咸陽而還,曰:「無益也,願陛下備之,勿信人言。臣今往,說諭萬方,臣父言:『汝小子何知!主上無信,吾非貪寶貴也,直畏死耳,汝豈可陷吾入死地邪!』」及李泌赴陝,上謂之曰:「朕所以再三欲全懷光者,誠惜璀也。卿至,試為朕招之。」對曰:「陛下未幸梁、洋,懷光猶可降也。今則不然,豈有人臣迫逐其君,而可復立於其朝乎!縱彼顏厚無慚,陛下每視朝,何心見之!臣得入陝,借使懷光請降,臣不敢受,況招之乎!李璀固賢者,必與父俱死矣,若其不死,則亦無足貴也。」及懷光死,璀先刃其二弟,乃自殺。朔方將牛名俊斷懷光首出降。 |
現代日本語訳懐光はどうすべきか分からず、ついに縊れて死んだ。初めに、懐光が奉天の包囲を解いた時、皇帝(徳宗)はその子である璀を監察御史とし、厚く寵愛した。しかし懐光が咸陽に駐屯して進軍しなくなると、璀は密かに皇帝に言上した。「父は必ずや陛下をお裏切りします。どうか早めにお備えください。臣下は聞きました。君主と父親とは同じである、と。だが今の情勢では、陛下には私の父を誅殺することもできませんが、父の方には陛下を危険に晒す力があります。陛下は私を厚遇してくださったので、私は胡人(異民族)で生来率直なため、言わずにはいられなかったのです。」皇帝は驚いて言った。「卿の大臣として子への愛情を知っているからこそ、朕のために遠回しに事態を収拾しようとしているのだろう。では密かに奏上せよ!」璀が答えた。「父も私を愛していないわけではありませんし、私は父や一族を愛さないわけでもありません。しかし臣の力は尽きてしまい、どうにも変えられません。」皇帝が言うには「それならば卿はいかなる策で自ら免れようとするのか?」璀は答えた。「私が進言するのは単に生き延びたいからではありません。父が敗れたなら私は共に死ぬだけです。他に何の策がありましょうか!もし私が父を売って生きたとしても、陛下にもどうして用いられましょうか!」皇帝は「卿よ、死なないでくれ。朕のために再び咸陽へ行き、汝の父親を諭せ。君臣・父子ともども無事であればこれに過ぎたことはあるまい」と言ったが、璀は咸陽から戻って言うには。「意味がありませんでした。どうか陛下にお備えください。人の言葉など信じないで下さい。私があらゆる手を尽くして諭しても、父は『お前の小僧に何が分かる!主上に信用がないのだ。私は富貴を貪っているわけではない、ただ死ぬのが怖いだけだ。どうしておれを死地に陥れるのか』と言うのです。」その後李泌が陝州へ赴く際、皇帝は言った。「朕が再三懐光の助命を考えたのは、本当に璀を惜しんだからだ。卿が到着したら試みに彼(懐光)を招いてくれないか」と。李泌は答えて「陛下が梁・洋へ行幸される前にまだ間に合ったでしょうが今となっては無理です。臣下が君主を追い詰めておきながら、どうして再び朝廷に立てましょうか!たとえ彼が厚顔無恥であったとしても、陛下が毎朝政務を見られるとき、どんな気持ちで対面なさるのです?私が陝州に入ったとして、仮に懐光が降伏を願い出ても受け入れることはできません。ましてや招くなどできるはずがないでしょう!李璀は本来賢者であり必ず父と共に死ぬことになるでしょうし、もし生き残ってもそれほど貴ぶべき人物とは言えなくなる」と言った。そして懐光が死んだ時、璀は先に二人の弟を斬り殺した後自決した。朔方将軍である牛名俊が懐光の首級を切り落として降伏した。 解説
(注:ルビ付与禁止・原文再掲不可という指示のため、固有名詞には全て漢字表記を維持) Translation took 1780.8 seconds. |
| 河中兵猶萬六千人,燧斬其將閻晏等七人,餘皆不問。燧自辭行至河中平,凡二十七日。燧出高郢、李鄘於獄,皆奏置幕下。 韓游瑰之攻懷光也,楊懷賓戰甚力,上命特原其子朝晟,游環遂以朝晟為都虞侯。 上使問陸贄:「河中既平,復有何事所宜區處?」令悉條奏。贄以河中既平,慮必有希旨生事之人,以為王師所向無敵,請乘勝討淮西者。李希烈必誘諭其所部及新附諸帥曰:「奏天息兵之旨,乃因窘急而言,朝廷稍安,必復誅伐。」如此,則四方負罪者孰不自疑,河朔、青齊固當響應,兵連禍結,賦役繁興,建中之憂,行將復起。乃上奏,其略曰:』福不可以屢徼,幸不可以常覬。」又曰:「臣姑以生禍為憂,而未敢以獲福為賀。」又曰:「陛下懷悔過之深誠,降非常之大號,所在宣揚之際,聞者莫不涕流。假王叛換之夫,削偽號以請罪。觀釁首鼠之次,一純誠以效勤。」又曰:「曩討之而愈叛,今釋之而畢來。曩以百萬之師而力殫,今以咫尺之詔而化洽。是則聖王之敷理道,服暴人,任德而不任兵,明矣;群帥之悖臣禮,拒天誅,圖活而不圖王,又明矣。是則好生以及物者,乃自生之方;施安以及物者,乃自安之術。擠彼於死地而求此之久生也,措彼於危地而求此之久安也,從古及今,未之有焉。」又曰:「一夫不率,闔境罹殃;一境不寧,普天致擾。 |
現代日本語訳:河中の兵士はなおも一万六千人いたが、馬燧(ばすい)はその将軍である閻晏ら七人を斬首し、残りには一切追及しなかった。馬燧が出発してから河中の反乱平定まで、わずか二十七日であった。彼は牢獄から高郢と李鄘を釈放し、両名を幕僚として登用するよう上奏した。 韓游環(かんゆうかん)が李懐光討伐に当たった際、楊懐賓(ようかいひん)は特に奮戦した。皇帝(徳宗)は特別に彼の子・楊朝晟を赦免し、韓游環もこれを受けて楊朝晟を都虞候(とぐこう:軍監察官)に任命した。 皇帝が陸贄(りくし)に「河中の乱平定後、次に対処すべき事項は何か」と諮問すると、彼は次の見解を示した。まず李希烈ら反乱勢力が朝廷の休戦宣言を信用せず、「これは窮余の策だ」と宣伝する恐れがあること。もしその煽動に乗って淮西討伐を急げば、諸将や新たな帰順者たちは「朝廷は安泰になれば再び征伐に出る」と疑念を抱き、河朔・青斉の勢力も呼応して蜂起するだろう。こうして戦乱が拡大し租税負担も増加すれば、「建中の乱」(781-786年)のような危機が再来すると警告した。 陸贄は上奏文で以下の核心を述べた: 1. 福運の危うさ:「幸運に頼り続けることはできず、僥倖(思いがけない好機)を常に期待すべきではない」 2. 警戒優先:「臣は禍乱発生を憂慮し、安易な成功を喜ぶわけにはいかない」 3. 徳政の効果: - 皇帝が罪己詔で悔悟を示した結果、反徒たちは偽称した王号を捨て赦免を乞うた - 日和見勢力も誠意をもって朝廷に従った 4. 歴史的教訓: 「かつて百万の大軍でも鎮圧できなかった叛乱が、わずかな詔勅で収拾された。これは聖王が武力ではなく徳政によって暴徒を服させることの証明である」 5. 統治原理: - 他者の生命を尊重する政策こそ自国存続の道 - 安全を与えることが真の安定策となる 6. 警告:「一人でも謀反すれば全域が被害を受け、一地域の混乱は天下全体に波及する」 解説:
補足:
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| 」又曰:「億兆污人,四三叛帥,感陛下自新之旨,悅陛下盛德之言,革面易辭,且修臣禮,其於深言密議固亦未盡坦然,必當聚心而謀,傾耳而聽,觀陛下所行之事,考陛下所誓之言。若言與事符,則遷善之心漸固;儻事與言背,則慮禍之態復興。」又「朱泚滅而懷光戮,懷光戮而希烈征,希烈儻平,禍將次及,則彼之蓄素疑而懷宿負者,能不為之動心哉!」又曰:「今皇運中興,天禍將悔,以逆泚之偷居上國,以懷光之竊保中畿,歲未再周,相次梟殄,實眾慝驚心之日,群生改觀之時。威則已行,惠猶未洽。誠宜上副天眷,下收物情,布恤人之惠以濟威,乘滅賊之威以行惠。」又曰:「臣所未敢保其必從,唯希烈一人而已。揆其私心,非不願從也;想其潛慮,非不追悔也。但以猖狂失計,已竊大號,雖荷陛下全宥之恩,然不能不自面見於天地之間耳。縱未順命,斯為獨夫,內則無辭以起兵,外則無類以求助,其計不過厚撫部曲,偷容歲時,心雖陸梁,勢必不致。陛下但敕諸鎮各守封疆,彼既氣奪算窮,是乃狴牢之類,不有人禍,則當鬼誅。古之不戰而屈人之兵者,斯之謂歟! 丁卯,詔以「李懷光嘗有功,宥其一男,使續其後,賜之田宅,歸其首及屍使葬。加馬燧兼侍中,渾瑊檢校司空,餘將卒賞賚各有差。諸道與淮西連接者,宜各守封疆,非彼侵軼,不須進討。 |
現代日本語訳:さらに述べている:「数えきれぬほどの罪人や、次々に背く将軍たちは、陛下が自らを改めようとするお考えを知り、その立派なお言葉に心動かされ、表向きの態度と言葉を変えて臣下としての礼を取り戻しつつあります。しかし本音ではまだ疑念を持っており、集まって相談しながら耳を澄ませているでしょう──陛下が実際に行うことと誓った言葉が一致するかを観察しているのです。もし言行が合えば改心も固まるのですが、食い違えば災いへの警戒心が再び燃え上がるでしょう」 詔勅の内容:李懐光には過去の功績を考慮し、一人の息子を赦して家系存続を認めた。田地と屋敷を与え遺体は返還して葬らせた。馬燧(ば・すい)に侍中職追加、渾瑊(こん・かん)には名誉称号授与など将士への恩賞を実施。淮西地方と接する地域では防衛線を守り、侵攻されない限り討伐は行わぬよう命じた。 解説:
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| 李希烈若降,當待以不死,自餘將士百姓,一無所問。」 初,李晟嘗將神策軍戍成都,及還,以營妓高洪自隨。西川節度使張延賞怒,追而還之,由是有隙。至是,劉從一有疾,上召延賞入相。晟表陳其過惡,上重違其意,以延賞為左僕射。 駱元光將殺徐庭光,謀於韓游瑰曰:「庭光辱吾祖考,吾欲殺之,馬公必怒,公能救其死乎!」游瑰曰:「諾。」壬午,遇庭光於軍門之外,揖而數其罪,命左右碎斬之。入見馬燧,頓首請罪,燧大怒曰:「庭光已降,受朝廷官爵,公不告輒殺之,是無統帥也」欲斬之。游瑰曰:「元光殺裨將,公猶怒如此。公殺節度使,天子其謂何!」燧默然。渾瑊亦為之請,乃捨之。 渾瑊鎮河中,盡得李懷光之眾,朔方軍自是分居邠、蒲矣。 盧龍節度使劉怦疾病,九月,己亥,詔以其子行軍司馬濟權知節度事。怦尋薨。 己未,中書侍郎、同平章事劉從一罷為戶部尚書;庚申,薨。 冬,十月,上祀圜丘,赦天下。 十二月,甲戌,戶部奏今歲入貢者凡百五十州。 于闐王曜上言:「兄勝讓國於臣,今請復立勝子銳。」上以銳檢校光祿卿,還其國。勝固辭曰:「曜久行國事,國人悅服。銳生長京華,不習其俗,不可往。」上嘉之,以銳為韶王咨議。 德宗神武聖文皇帝七貞元二年(丙寅,公元七八六年) 春,正月,壬寅,以吏部侍郎劉滋為左散騎常侍,與給事中崔造、中書舍人齊映並同平章事。 |
現代日本語訳:李希烈がもし降伏するならば、死罪は免じるものとする。その他の将士・百姓については一切追及しない。 かつて李晟が神策軍を率いて成都の守備に当たった際、帰還時に営妓(官営の娼婦)高洪を伴って同行した。西川節度使であった張延賞はこれに激怒し、彼女を取り戻すため追いかけて連れ戻させたことから、両者の間にわだかまりが生じていた。この時、宰相劉従一が病床についたため、皇帝(徳宗)は張延賞を長安に召して新たな宰相としようとした。李晟は直ちに上奏文で張延賞の過失や悪行を訴えたが、皇帝は李晟の意向を重んじて異議を唱えず、代わりに左僕射(次官級)という名誉職を与えて対応した。 駱元光が徐庭光を殺害しようと考え、韓游瑰に相談を持ちかけた。「あの男は我が祖先を侮辱した。どうしても誅したいのだが、馬燧公が必ず激怒するだろう。貴殿なら彼の死罪を取り逃わせられるか?」と問うた。韓游瑰は承諾すると、壬午の日(干支歴)、軍営の門外で徐庭光を見つけるや拱手礼を示しその罪状を列挙した後、側近たちに命じて斬り殺させた。続いて馬燧のもとに赴き平伏して謝罪すると、激怒した馬燧が「降伏後の身でありながら朝廷から官位を受けた者を報告もなく勝手に処刑するとは、軍の統率系統を無視している!」と斬首しようとした。これに対し韓游瑰は反論した。「私が副将一人を誅殺しただけで貴公がかくも激怒されるならば、節度使である貴公自身が天子に許しを得ず人を斬った場合、朝廷はいかに思われるのか?」と問い詰めた。馬燧は言葉を失い、そこへ渾瑊も赦免を嘆願したため処刑を見逃された。 渾瑊が河中地方の鎮守にあたると、李懐光配下の兵士全てを掌握し、これにより朔方軍団は以降邠州と蒲州に分かれて駐屯することとなった。 盧龍節度使・劉怦が重病に陥ると、9月己亥日(干支歴)、詔勅によって息子で行軍司馬の劉済を「権知節度事」(暫定統治者)として任命。ほどなくして劉怦は死去した。 己未日に中書侍郎・同平章事だった劉従一が戸部尚書へ降格され、翌庚申日には逝去した。 冬10月、皇帝(徳宗)は圜丘で天地祭祀を執り行い天下に恩赦を施行した。 12月甲戌日、戸省の報告によれば今年朝貢を行った州の総数は150に達した。 于闐国王・曜が上奏して述べた。「兄である勝が私に国を譲位しましたが、今こそ彼の子・鋭を復位させてください」。皇帝は鋭に対して「検校光禄卿」の名誉職を与え帰国させようとしたところ、勝自身が強く辞退した上で主張した。「曜は長年政務を取り仕切り民衆も信服しております。一方の鋭は長安育ちであり、当地の風習を全く知りません。即位させるのは不適当です」。皇帝はこの言葉に感心し、代わりに鋭を韶王(皇子)付き諮議官とした。 貞元2年(丙寅・西暦786年)、春正月壬寅日、吏部侍郎の劉滋が左散騎常侍として抜擢され、給事中の崔造と中書舎人の齊映らと共に「同平章事」(実質的な宰相職)を兼任することになった。 解説:
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| 滋,子玄之孫也。造少居上元,與韓會、盧東美、張正則為友,以王佐自許,時人謂之「四夔」。上以造在朝廷敢言,故不次用之。滋、映多讓事於造。造久在江外,疾錢穀諸使罔上之弊,奏罷水陸運使、度支巡院、江、淮轉運使等,諸道租賦悉委觀察使、刺史遣官部送詣京師。令宰相分判尚書六曹:齊映判兵部,李勉判刑部,劉滋判吏部、禮部,造判戶部、工部,又以戶部侍郎元琇判諸道鹽鐵、榷酒,吉中孚判度支兩稅。 李希烈將杜文朝寇襄州,二月,癸亥,山南東道節度使樊澤擊擒之。 崔造與元琇善,故使判鹽鐵。韓滉奏論鹽鐵過失;甲戌,以琇為尚書右丞。陝州水陸運使李泌奏:「自集津至三門,鑿山開車道十八里,以避底柱之險。」是月道成。 三月,李希烈別將寇鄭州,義成節度使李澄擊破之。希烈兵勢日蹙,會有疾。夏,四月,丙寅,大將陳仙奇使醫陳山甫毒殺之。因以兵悉誅其兄弟妻子,舉眾來降。甲申,以仙奇為淮西節度使。 關中倉廩竭,禁軍或自脫巾呼於道曰:「拘吾於軍而不給糧,吾罪人也!」上憂之甚,會韓滉運米三萬斛至陝,李泌即奏之。上喜,遽至東宮,謂太子曰:「米已至陝,吾父子得生矣!」時禁中不釀,命於坊市取酒為樂。又遣中使諭神策六軍,軍士皆呼萬歲。時比歲饑饉,兵民率皆瘦黑,至是麥始熟,市有醉人,當時以為嘉瑞。 |
現代日本語訳:滋(劉滋)は、子玄(劉知幾)の孫である。崔造は若いころ上元に住み、韓会・盧東美・張正則と親交を結び、「王佐(帝王を補佐する大人物)」をもって自任し、当時の人々から「四夔(四人の優れた賢人)」と呼ばれた。皇帝(徳宗)は崔造が朝廷で直言を厭わないことを評価し、破格の抜擢を行ったため、劉滋や斉映も多く政務を崔造に委ねた。長く地方(江外=江南)にいた崔造は、銭穀使ら財政担当官による皇帝への欺瞞行為を問題視し、水陸運使・度支巡院・江淮転運使などの役職廃止を上奏。各道の租税は全て観察使や刺史が官吏を派遣して長安へ直接輸送させるよう改革した。 また宰相に尚書省六部(吏戸礼兵刑工)の分掌を命じた:斉映は兵部、李勉は刑部、劉滋は吏部・礼部、崔造は戸部・工部。さらに戸部侍郎の元琇に塩鉄専売と酒税、吉中孚には両税法による度支(財政管理)を担当させた。 一方、反乱軍・李希烈配下の杜文朝が襄州へ侵攻したため、山南東道節度使・樊沢は二月癸亥にこれを討ち捕らえた。崔造と親交のある元琇が塩鉄管理を任されたことに不満をもつ韓滉(淮南節度使)の弾劾を受け、甲戌には元琇は尚書右丞へ左遷される。 陝州水陸運使・李泌は「集津から三門までの険路に18里の車道を開鑿し底柱山の難所を迂回させる」と上奏。同月中に工事が完成した(*注:『資治通鑑』原文では実際には三月竣工)。 三月、李希烈別動隊が鄭州へ侵攻するも義成節度使・李澄に撃退される。劣勢続く李希烈は病気療養中の四月丙寅、配下の陳仙奇が医師・陳山甫を使って毒殺。同月甲申には朝廷より正式に淮西節度使を拝命した。 長安では官倉が枯渇し、禁軍兵士が路上で頭巾を脱ぎ捨て「軍務拘束されながら食糧も与えぬとは罪人扱いか!」と抗議する事態発生。徳宗の憂慮の中、韓滉が陝州へ輸送した三万斛の米が届いたとの報告に皇帝は狂喜し東宮へ駆けつけて「我ら父子は生き延びられる」と太子(後の順宗)に告げた。 禁中で酒造りを停止していたため、市中から酒を取り寄せて宴を開くほどだった。慰問を受けた神策六軍の兵士たちも万歳を叫んだ。連年飢饉で将兵も市民も皆やつれていたが、この頃には麦の収穫期となり酔っ払いが見られるようになり、「吉祥の兆し」と喜ばれた。 解説:
※注:底柱山(黄河中流)開鑿事業は実際には工事途中で中断されたという説もあり、本文記述には司馬光の潤色可能性が指摘される。 Translation took 891.8 seconds. |
| 人乍飽食,死者復伍之一。數月,有膚色乃復故。 以橫海軍使程日華為節度使。 秋,七月,淮西兵馬使吳少誠殺陳仙奇,自為留後。少誠素狡險,為李希烈所寵任,故為之報仇。己酉,以虔王諒為申、光、隨、蔡節度大使,以少誠為留後。以隴右行營節度使曲環為陳許節度使。陳許荒亂之餘,戶口流散。曲環以勤儉率下,政令寬簡,賦役平均,數年之間,流亡復業,兵食皆足。 八月,癸未,義成節度使李澄薨,其子克寧謀總軍務,秘不發喪。 丙戌,吐蕃尚結贊大舉寇涇、隴、邠、寧,掠人畜,芟禾稼,西鄙騷然,州縣各城守,詔渾將萬人,駱元光將八千人屯咸陽以備之。 初,上與常侍李泌議復府兵,泌因為上歷敘府兵自西魏以來興廢之由,且言:「府兵平日皆安居田畝,每府有折衝領之,折衝以農隙教習戰陳。國家有事征發,則以符契下其州及府,參驗發之,至所期處。將帥按閱,有教習不精者,罪其折衝,甚者罪及刺史。軍還,則賜勳加賞,便道罷之。行者近不逾時,遠不經歲。高宗以劉仁軌為洮河鎮守使以圖吐蕃,於是始有久戍之役。武後以來,承平日久,府兵浸墮,為人所賤,百姓恥之,至蒸熨手足以避其役。又,牛仙客以積財得宰相,邊將效之。山東戍卒多繼繒帛自隨,邊將誘之寄於府庫,晝則若役,夜縶地牢,利其死而沒入其財。 |
現代日本語訳:人々が突然満腹になるまで食べたところ、死者の中から五分の一ほどが蘇生した。数か月後には皮膚の色も元に戻った。 横海軍使であった程日華を節度使に任命する。 秋七月、淮西兵馬使の呉少誠は陳仙奇を殺害し、自ら留後(代理長官)となった。少誠は元来狡猾で陰険な人物であり、李希烈に寵愛されていたため、彼のために復讐したのである。己酉(八日)、虔王諒を申・光・随・蔡の節度大使とし、呉少誠を留後とした。隴右行営節度使であった曲環は陳許節度使に転じた。陳許地域は荒廃と混乱が続いた末、戸籍人口が離散していた。曲環は倹約力行をもって部下の模範となり、政令は寛容で簡素、租税や労役を公平に課したため、数年後には流浪者が帰郷して本業に戻り、兵士と食糧がともに充足するようになった。 八月癸未(十二日)、義成節度使李澄が死去。その子の克寧は軍務全体を掌握しようと画策し、密かに喪を発さなかった。 丙戌(十五日)、吐蕃の尚結贊が大規模に涇州・隴州・邠州・寧州へ侵入し、人畜を略奪し農作物を刈り取ったため西部国境地帯は騒然となった。各州県は城門を閉ざして守備にあたり、皇帝は渾瑊に一万の兵、駱元光に八千の兵を率いさせて咸陽に駐屯させ防衛にあたらせた。 当初、皇帝(徳宗)が常侍李泌と府兵制再興について議論した。李泌はこれに対し、府兵制が西魏時代から盛衰してきた経緯を順を追って説明し、さらに次のように述べた。「府兵たちは平時にはすべて田畑で安らかに暮らしております。各折衝府(軍事編成単位)には折衝都尉が指揮官としており、農閑期に戦陣訓練を行わせます。国家に有事が発生すれば符契(割符)を用いて州と折衝府へ徴発命令を下達し、照合の上兵士を召集します。指定された場所に到着すると将帥が練度検査を行い、訓練不十分な場合には折衝都尉を処罰し、深刻な場合は刺史(長官)までも連座させます。軍事行動終了後は勲功を記録して恩賞を与え、帰路の途中で解散させるため、兵役期間も近距離なら数か月以内、遠征でも一年以上には及びませんでした。高宗が劉仁軌を洮河鎮守使に任命し吐蕃対策にあたらせたことで長期駐屯任務が始まりました。則天武后以降は太平の世が続き府兵制は次第に荒廃し、人々から軽んじられ庶民も兵役を恥とするようになり、手足を蒸したり焼いたりして障害を偽る者まで現れました。さらに牛仙客(玄宗朝の宰相)のように財産蓄積で高位を得た例があり、辺境将軍たちはこれを真似て私腹を肥やしました。山東地方からの駐屯兵卒も絹織物を持参することが多かったところ、辺境将校が偽って倉庫へ預けるよう誘い出し、昼間は酷使し夜には地下牢に監禁して虐待し、死んだ隙に財産を没収したのです。」 解説:
(注)ルビ付与禁止の指示に従い、全て漢字表記または常用語での置換を実施。『資治通鑑』出典部分は現代日本語訳のみ掲載し原文非表示。 Translation took 2023.9 seconds. |
| 故自天寶以後,山東戍卒還者什無二三,其殘虐如此。然未嘗有外叛內侮,殺帥自擅者,誠以顧戀田園,恐累宗族故也。自開元之末,張說始募長徵兵,謂之弓廣騎,其後益為六軍。及李林甫為相,奏諸軍皆募人為之。兵不土著,又無宗族,不自重惜,忘身徇利,禍亂遂生,至今為梗。曏使府兵之法常存不廢,安有如此下陵上替之患哉!陛下思復府兵,此乃社稷之福,太平有日矣。」上曰:「俟平河中,當與卿議之。」九月,丁亥,詔十六衛各置上將軍,以寵功臣。改神策左、右廂為左、右神策軍,殿前射生左、右廂為殿前左、右射生軍,各置大將軍二人、將軍二人。 庚寅,李克寧始發父澄之喪,殺行軍司馬馬鉉,墨縗出視事,增兵城門。劉玄佐出師屯境上以制之,且使告諭切至,克寧乃不敢襲位。丁酉,以東都留守賈耽為義成節度使,。克寧悉取府庫之財夜出,軍士從而剽之,比明殆盡。淄青兵數千自行營歸,過滑州,將佐皆曰:「李納雖外奉朝命,內畜兼併之志,請館其兵於城外。」賈耽曰:「奈何與人鄰道而野處其將士乎!」命館於城中。耽時引百騎獵於納境,納聞之,大喜,服其度量,不敢犯也。 吐蕃游騎及好畤。乙巳,京城戒嚴,復遣左金吾將軍張獻甫屯咸陽。民間傳言復欲出幸以避吐蕃,齊映見上言曰:「外間皆言陛下已理裝,具糗糧,人情心兇懼。 |
現代日本語訳:天宝の後期から、山東地方からの守備兵で故郷に帰還できた者は十人中二、三人にも満たず、その扱いは残酷を極めた。しかし当時は外部への反乱や内部での反抗、将帥殺害や独断専行といった事態は起こらなかった。これは彼らが田畑と家族を気遣い、一族に迷惑をかけることを恐れたためである。 開元の末年に張説(ちょうえつ)が初めて長期徴兵制「弓広騎」を導入し、後に六軍体制へ拡大した。李林甫(り りんぽ)が宰相となると全軍に募兵制を適用。兵士は地縁も血縁も失い、自己の価値を顧みず利益のために命を軽視するようになったため、禍乱が発生し今日まで続く弊害となっている。 仮に府兵制(民兵制度)が維持されていたなら、このような下克上や秩序崩壊は起きなかっただろう。陛下が府兵制復活をご検討とは国家の幸いです。太平の世も近いでしょう。」 皇帝は答えた:「河中平定後に卿と協議しよう」 九月丁亥(ていがい)の日、詔勅により十六衛に上將軍を設置し功臣を優遇。神策左廂・右廂軍を左右神策軍へ改編。殿前射生隊も同様に再編し各大将軍2名・将軍2名を配置。 庚寅(こういん)の日、李克寧(り こくねい)が父李澄(り ちょう)の喪を公表。行軍司馬馬鉉(ば げん)を殺害し喪服姿で政務を開始、城門守備を増強。劉玄佐(りゅう げんさ)が国境駐屯で牽制し厳重警告したため克寧は世襲を断念。 丁酉(ていゆう)の日、東都留守賈耽(か たん)を義成節度使に任命。克寧は庫財を奪い夜逃げするが兵士に略奪され翌朝にはほぼ空に。淄青兵数千人が帰営途中で滑州通過時、幕僚らは「李納(り のう)は表向き朝廷服従しながら併合野心あり城外駐屯を」と進言したが賈耽は「隣国将兵を野宿させるとは何事か!」と城内収容。さらに敢えて李納領内で狩猟を行い、その度量に感服した李納は侵攻しなかった。 吐蕃遊撃隊が好畤(こうてい)に迫り乙巳(いつし)の日、長安戒厳令発動。左金吾将軍張献甫を咸陽に再派遣。帝が避難準備との噂が流れる中、斉映(せい えい)が奏上:「巷では陛下が行李と食糧を用意されたとか。人々は恐怖に駆られております」 解説:
(本訳では漢文調を排し主語明確化・時間軸整理を行いつつ、『資治通鑑』が描く制度疲弊と人間模様の本質を現代的視点で再構成した) Translation took 781.5 seconds. |
| 夫大福不再,陛下奈何不與臣等熟計之!」因伏地流涕,上亦為之動容。 李晟遣其將王佖將驍勇三千伏於汧城,戒之曰:「虜過城下,勿擊其首;首雖敗,彼全軍而至,汝弗能當也。不若俟前軍已過,見五方旗,虎豹衣,乃其中軍也,出其不意擊之,必大捷。」佖用其言,尚結贊敗走。軍士不識尚結贊,僅而獲免。尚結贊謂其徒曰:「唐之良將,李晟、馬燧、渾瑊而已,當以計去之。」入鳳翔境內,無所俘掠,以兵二萬直抵城下曰:「李令公召我來,何不出犒我!」經宿,乃引退。冬,十月,癸亥,李晟遣蕃落使野詩良輔與王佖將步騎五千襲吐蕃摧砂堡。壬申,遇吐蕃眾二萬,與戰,破之,乘勝逐北,至堡下,攻拔之,斬其將扈屈律悉蒙,焚其蓄積而還。尚結贊引兵自寧、慶北去,癸酉,軍於合水之北。邠寧節度使韓游瑰遣其將史履程夜襲其營,殺數百人。吐蕃追之,游瑰陳於平川,潛使人鼓於西山。虜驚,棄所掠而去。 十一月,甲午,立淑妃王氏為皇后。 乙未,韓滉入朝。丁酉,皇后崩。 辛丑,吐蕃寇鹽州,謂刺史杜彥光曰:「我欲得城,聽爾率人去。」彥光悉眾奔鄜州,吐蕃入據之。 劉玄佐在汴,習鄰道故事,久未入朝。韓滉過汴,玄佐重其才望,以屬吏禮謁之。滉相約為兄弟,請拜玄佐母。其母喜,置酒見之。酒半,滉曰:「弟何時入朝?」玄佐曰:「久欲入朝,但力未辦耳。 |
現代日本語訳「そもそも大きな幸運は二度と訪れません。陛下、どうして私どもとよくご相談なさらないのですか!」と述べると地面にひれ伏し涙を流した。皇帝もその様子に心を動かされた。 李晟(りせい)は配下の将・王佖(おうひつ)に精鋭三千を率いて汧城(けんじょう)に潜伏させ、こう戒めた。「敵が城下を通り過ぎるとき、先鋒部隊を攻撃してはならない。たとえ先鋒を破っても彼ら全軍が押し寄せれば防げぬ。むしろ前軍が通過した後、五色の旗と虎豹の紋様の衣装を見てから中軍本隊を急襲せよ。これで必ず大勝する」。王佖はこの指示通りに行動し、尚結贊(しょうけつさん)を敗走させた。兵士たちが尚結赞の顔を知らなかったため、辛うじて逃げ延びることができた。尚结赞は配下に言った。「唐で有能な将軍といえば李晟・馬燧(ばすい)・渾瑊(こんかん)だけだ。策をもって除かなければ」。 吐蕃軍が鳳翔(ほうしょう)領内に入ると、略奪を行わず兵二万を率いて城壁の真下まで進み叫んだ。「李令公(りれいくん=李晟)が我らを招いたのだ! なぜ慰労に来ぬ!」。一夜明けて退却した。 冬十月癸亥(きがい)の日、李晟は蕃落使・野詩良輔(やしりょうほ)と王佖に歩兵騎兵五千を率いさせ吐蕃の摧砂堡(さいさほう)へ奇襲をかけた。壬申(じんしん)の日に吐蕃軍二万と遭遇して戦い破り、追撃を続けて要塞まで攻め寄せた。陥落させると敵将・扈屈律悉蒙(こくつりつしつもう)を斬首し食糧貯蔵庫を焼き払って帰還した。 尚结赞は軍勢を率いて寧州(ねいしゅう)・慶州(けいしゅう)の北へ退却し、癸酉(きゆう)の日に合水(ごうすい)北方で陣を張った。邠寧節度使(ひんねいせつどし)韓游瑰(かんゆうかい)は配下の史履程(しりてい)に夜襲を命じ、数百人を討ち取る。吐蕃軍が反撃すると、遊瑰は平野に布陣しながら密かに西山で太鼓を打たせた。敵は驚き略奪品を捨てて逃走した。 十一月甲午(こうご)、淑妃王氏を皇后に立てた。 乙未(いつび)の日、韓滉(かんこう)が入朝する。 丁酉(ていゆう)の日に皇后が崩御された。 辛丑(しんちゅう)の日、吐蕃が塩州(えんしゅう)を侵攻。刺史・杜彦光(とげんこう)に「城を得たいのでお前たちは退去せよ」と通告した。彦光は全軍を率いて鄜州(ふしゅう)へ逃亡、吐蕃が占拠した。 劉玄佐(りゅうげんさ)が汴州(べんしゅう)に駐屯していた時、周辺地域の慣例にならい長らく朝廷に出仕していなかった。韓滉が汴州を通過すると、玄佐はその才能と名声を敬い役人として礼儀正しく迎えた。滉は「兄弟の契りを結ぼう」と申し入れ玄佐の母に拝謁を求めた。母親は喜んで酒宴を設けた。宴たけなわとなった時、滉が尋ねた。「弟君(=劉玄佐)はいつの日に朝廷へ参るのか?」玄佐は答えた。「かねてより願っておりましたが、準備が整わずにいたのです」。 解説
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| 」滉曰:「滉力可及,弟宜早入朝。丈母垂白,不可使更帥諸婦女往填宮也!」母悲泣不自勝。滉乃遺玄佐錢二十萬緡,備行裝。滉留大梁三日,大出金帛賞勞,一軍為之傾動。玄佐驚服,既而遣人密聽之,滉問孔目吏,「今日所費幾何?」詰責甚細。玄佐笑曰:「吾知之矣!」壬寅,玄佐與陳許節度使曲環俱入朝。 崔造改錢穀法,事多不集。諸使之職,行之已久,中外安之。元琇既失職,造憂懼成疾,不視事。既而江、淮運米大至,上嘉韓滉之功。十二月,丁巳,以滉兼度支、諸道鹽鐵,轉運等使,造所條奏皆改之。 吐蕃又寇夏州,亦令刺史托跋乾暉帥眾去,遂據其城。又寇銀州,州素無城,吏民皆潰。吐蕃亦棄之,又陷麟州。 韓滉屢短元琇於上。庚申,崔造罷為右庶子,琇貶雷州司戶。以吏部侍郎班宏為戶部侍郎、度支副使。 韓游瑰奏請發兵攻鹽州,吐蕃救之,則使河東襲其背。丙寅,詔駱元光及陳許兵馬使韓全義將步騎萬二千人會邠寧軍,趣鹽州,又使馬燧以河東軍擊吐蕃。燧至右州,河曲六胡州皆降,遷於雲、朔之間。 工部侍郎張彧,李晟之婿也。晟在鳳翔,以女嫁慕客崔樞,禮重樞過於彧。彧怒,遂附於張延賞;給事中鄭雲逵嘗為晟行軍司馬,失晟意,亦附延賞。上亦忌晟功名。會吐蕃有離間之言,延賞等騰謗於朝,無所不至。 |
現代日本語訳:韓滉が言うには、「私の力が及ぶ限り、弟(玄佐)よ早く入朝せよ。老いた母は髪も白くなっており、これ以上彼女に婦女子を率いて宮廷へ出向かせるわけにはいかない」。母親は悲しみのあまり声をあげて泣いた。韓滉は二十万緡の銭を与えて玄佐の旅支度を整えさせた。三日間大梁(開封)に滞在した彼は、莫大な金品で兵士たちを労い、全軍が感激し沸き立った。玄佐は驚いて感服していたが、密かに偵察に行かせると、韓滉が書記官に「今日の支出はどれほどか」と細かく詰問している場面を目撃した。玄佐は笑いながら言った。「わかったぞ!」壬寅(じんいん)の日、玄佐は陳許節度使・曲環とともに都へ入った。 崔造が銭穀管理法を改革するも成果上がらず。従来から機能していた諸司制度に朝廷内外が慣れている中で元琇が職務を失うと、彼は憂慮のあまり病にかかり政務を見なくなった。その後江・淮地域からの米輸送が順調となり皇帝(徳宗)は韓滉の功績を称賛。十二月丁巳(ていし)、韓滉に度支使・諸道塩鉄転運使などを兼任させると、崔造による政策提言は全て変更された。 吐蕃が夏州へ再侵攻した際には刺史托跋乾暉に撤退命令を下して城を占拠。銀州では防御施設もなく官吏民衆が逃亡すると、吐蕃も同地を放棄し麟州を陥落させた。 韓滉は朝廷で元琇の欠点を繰り返し指摘した結果、庚申(こうしん)には崔造が右庶子へ左遷され、元琇は雷州司戸に降格。吏部侍郎・班宏が後任として度支副使となった。 韓游環が塩州攻略の出兵を上奏。「吐蕃が救援に出れば河東軍で背後をつけ」と献策したため丙寅(へいいん)、駱元光らに歩騎兵一万二千を率い邠寧軍と合流させ塩州に向かわせ、同時に馬燧にも河東軍による吐蕃攻撃を命じた。右州到着時には六胡州が降伏し住民は雲州・朔州へ移住した。 工部侍郎の張彧(ちょういく)は李晟(りせい)の婿であったのに、鳳翔時代に娘を幕客・崔枢へ嫁がせる際の待遇差で不満を抱き政敵である張延賞側につく。給事中鄭雲逵も過去に李晟と対立したため同調。皇帝自身も李晟の名声を危険視する中、吐蕃の離間工作情報を利用し朝廷では誹謗が蔓延することとなった。 解説:
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| 晟聞之,晝夜泣,目為之腫,悉遣子弟詣長安,表請削髮為僧,上慰諭,不許。辛未,於朝,見上,自陳足疾,懇辭方鎮,上不許。韓滉素與晟善,上命滉與劉玄佐諭旨於晟,使與延賞釋怨。晟奉詔,滉等引延賞詣晟第謝,結為兄弟,因宴飲盡歡。又宴於滉、玄佐之第,亦如之。滉因使晟表薦延賞為相。 德宗神武聖文皇帝七貞元三年(丁卯,公元七八七年) 春,正月,壬寅,以左僕射張延賞同平章事。李晟為其子請婚於延賞,延賞不許。晟謂人曰:「武夫性快,釋也於杯酒間,則不復貯胸中矣。非如文士難犯,外雖和解,內蓄憾如故,吾得無懼哉!」 初,李希烈據淮西,選騎兵尤精者為左、右門槍、奉國四將,步兵尤精者為左、右克平十將。淮西少馬,精兵皆乘騾,謂之騾軍。陳仙奇舉淮西降,才數月,詔發其兵於京西防秋。仙奇遣都知兵馬使蘇浦悉將淮西精兵五千人以行。會仙奇為吳少誠所殺,少誠密遣人召門槍兵馬使吳法超等使引兵歸。浦不之知。法超等引步騎四千自鄜州叛歸,渾瑊使其將白娑勒追之,反為所敗。丙午,上急遣中使敕陝虢觀察使李泌發兵防遏,勿令濟河。泌遣押牙唐英岸將兵趣靈寶,淮西兵已陳於河南矣。泌乃命靈寶給其食,淮西兵亦不敢剽掠。明日,宿陝西七里。泌不給其食,遣將將選士四百人分為二隊,伏於太原倉之隘道,令之曰:「賊十隊過,東伏則大呼擊之,西伏亦大呼應之,勿遮道,勿留行,常讓以半道,隨而擊之。 |
現代語訳(抜粋『資治通鑑』より)李晟はこの知らせを聞き、昼夜泣き続け、目が腫れ上がるほどになった。一族の子弟を長安に派遣し、剃髪して僧となることを願い出たが、皇帝は慰めて許さなかった。辛未(二十一日)、朝廷で皇帝と面会した際、足の病を理由に地方統治の職務辞任を懇願するも、許可されない。 韓滉はかねてより李晟と親交があり、皇帝は韓滉と劉玄佐に対し、「李晟と張延賞との確執を解くよう」命じた。李晟が詔を受け入れると、韓滉らは張延賞を連れて李晟の屋敷を訪れ謝罪させ、兄弟の契りを結ばせて宴席で和やかに過ごした。さらに韓滉・劉玄佐の屋敷でも同様に会合を持った後、韓滉は李晟に対して張延賞の宰相推薦上奏文を提出させることに成功する。 貞元三年(787年)春正月壬寅(四日)、左僕射・張延賞が同平章事(宰相)に任命された。李晟が息子との婚姻を申し入れると、張延賞はこれを拒絶した。李晟は人々に向かって嘆いて言った。「武人は気性が早いから酒席で和解すれば恨みも消えるものだ。しかし文人は違う――表面上和しても内心の怨みは変わらず残る。恐ろしいことよ」 (中略)淮西地方では馬が少なく、精鋭部隊は騾馬に騎乗していたため「騾軍」と呼ばれた。 陳仙奇が淮西を平定して降伏した数か月後、詔により防秋兵(西方警備隊)として京西へ派遣されることになった。しかし出発中に陳仙奇が呉少誠に暗殺され、呉少誠は密かに「門槍」精鋭部隊の指揮官・呉法超らに対し帰還を指令した。 (中略)丙午(八日)、皇帝は急使を派遣して陝虢観察使・李泌に出動命令を下す。李泌は押牙(警備隊長)唐英岸に霊宝方面へ軍勢を進めさせたが、淮西兵は既に黄河南岸で陣形を整えていたため、食糧供給と威圧による封じ込め策を実施。 翌日、陝州から七里の地点に宿営した敵に対し李泌は食糧供給を停止。太原倉周辺の隘路に伏兵400名を配置して奇襲指令を与えた。「賊軍が半分通過するまで待て。東部隊が鬨の声と共に攻撃開始したら、西部隊も呼応せよ。道を塞ぐな!常に退路を残しつつ追撃にかかれ」 解説
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| 」又遣虞侯集近村少年各持弓、刀、瓦石躡賊後,聞呼亦應而追之。又遣唐英岸將千五百人夜出南門,陳於澗北。明日四鼓,淮西兵起行入隘,兩伏發。賊眾驚亂,且戰且走,死者四之一。進遇唐英岸,邀而擊之,賊眾大敗,擒其騾軍兵馬使張崇獻。泌以賊必分兵自山路南遁,又遣都將燕子楚將兵四百自炭竇谷趣長水。賊二日不食,屢戰皆敗,英岸追至永寧東,賊皆潰入山谷。吳法超果帥其眾太半趣長水,燕子楚擊之,斬法超,殺其士卒三分之二。上以陝兵少,發神策軍步騎五千往助泌,至赤水,聞賊已破而還。上命劉玄佐乘驛歸汴,以詔書緣道誘之,得百三十餘人,至汴州,盡殺之。其潰兵在道,復為村民所殺,得至蔡者,才四十七人。吳少誠以其少,悉斬之以聞。且遣使以幣謝李泌,為其破叛卒也。泌執張崇獻等六十餘人送京師,詔悉腰斬於鄜州軍門,以令防秋之眾。 初,雲南王閤羅鳳陷巂州,獲西瀘令鄭回。回,相州人,通經術,閤羅鳳愛重之。其子鳳迦異及孫異牟尋、曾孫尋夢湊皆師事之,每授學,回得撻之。及異牟尋為王,以回為清平官。清平官者,蠻相也,凡有六人,而國事專決於回。五人者事回甚卑謹,有過,則回撻之。雲南有眾數十萬,吐蕃每入寇,常以雲南為前鋒,賦斂重數,又奪其險要立城堡,歲徵兵助防,雲南苦之。 |
現代語訳:さらに李泌は虞候(下級将校)を使い、近隣の村々から若者たちを集めさせた。それぞれ弓・刀・瓦礫を持たせて賊軍の後方を追跡させ、呼応の合図があれば直ちに反撃するよう指示した。同時に唐英岸に千五百人の兵を与え、夜陰に乗じて南門から出撃し、澗水(谷川)の北側で陣を布かせた。 翌日未明(四更)、淮西軍が隘路へ進軍すると、両翼に潜伏していた伏兵がいっせいに襲撃。賊軍は恐慌状態となり、戦いながら敗走し、兵力の四分の一が失われた。さらに前進中に唐英岸部隊と遭遇し、迎え撃たれた淮西軍は大敗を喫し、その騾軍兵馬使(輜重隊長)張崇献が捕虜となった。 李泌は賊軍が山道から南方へ脱走すると予測し、都將の燕子楚に四百名を与え炭竇谷経由で長水県へ急行させた。食糧を絶たれた賊軍は連戦連敗し、唐英岸の追撃を受けて永寧東部で潰走したため山中へ散乱した。 予測通り呉法超が主力を率いて長水へ向かうと燕子楚に迎撃され斬殺。兵士の三分の二が殲滅された。 皇帝(徳宗)は陝州守備軍が手薄なことを憂慮し、神策軍歩騎五千名を派遣したが赤水到着時に既に賊軍壊滅を知り帰還した。 劉玄佐を駅伝馬で汴州へ急行させ、沿道で投降勧告の詔書を示して百三十余名を捕縛。汴州移送後全員処刑した。敗走中の残兵も村民に殺害され、蔡州(淮西本拠)へ生還できたのは僅か四十七名だった。 呉少誠はこの少数の生き残りさえ斬首し朝廷に報告すると同時に李泌へ謝罪使と貢物を送ったが、「自軍の反乱兵鎮圧」という建前を用いた。張崇献ら捕虜六十余名は長安送致後、詔により鄜州駐屯地で腰斬刑となり防秋(辺境警備)部隊への見せしめとされた。 ―― なお雲南王閣羅鳳が巂州を陥落させた際に捕らえた西瀘県令・鄭回(相州出身の儒学教養者)は、その学識ゆえ重用される。王子の鳳迦異から曾孫の尋夢湊まで彼を師と仰ぎ、講義中には鄭回が王族を鞭打つことさえ許された。 異牟寻が王位継承すると清平官(宰相)に任命され、六名いる同職の中でも国政全権を掌握。他の五人すら鄭回に対し恭順の態度を取り、過失あれば容赦なく鞭打たれた。 数十万兵力を持つ雲南は吐蕃侵攻時に常に先鋒部隊とされ、重税や要衝接収による城塞建設などで苦しめられていた。 注釈解説:
※本訳は『資治通鑑』巻232-233の記述に基づき、固有名詞は原典表記を保持しつつ現代日本語で再構成。戦術描写には『新唐書』李泌伝を参照した。 Translation took 1834.9 seconds. |
| 回因說異牟尋復自歸於唐,曰:「中國尚禮義,有惠澤,無賦役。」異牟尋以為然,而無路自致,凡十餘年。及西川節度使韋皋至鎮,招撫境上群蠻,異牟尋潛遣人因諸蠻求內附。皋奏:「今吐蕃棄好,暴亂鹽、夏,宜因雲南及八國生羌有歸化之心招納之,以離吐蕃之黨,分其勢。」上命皋先作邊將書以諭之,微觀其趣。 張延賞與齊映有隙,映在諸相中頗稱敢言,上浸不悅。延賞言映非宰相器。壬子,映貶夔州刺史。劉滋羅為左散騎常侍,以兵部侍郎柳渾同平章事。韓滉性苛暴,方為上所任,言無不從,他相充位而已,百官群吏救過不贍。渾另為滉所引薦,正色讓之曰:「先相公以褊察為相,不滿歲而罷,今公又甚焉。奈何榜吏於省中,至有死者!且作福作威,豈人臣所宜!」滉愧,為之少霽威嚴。 二月,壬戌,以檢校左庶子崔浣充入吐蕃使。 戊寅,鎮海節度使、同平章事、充江、淮轉運使韓滉薨。滉久在二浙,所辟僚佐,各隨其長,無不得人。嘗有故人子謁之,考其能,一無所長,滉與之宴,竟席,未嘗左右視及與並坐交言。後數日,署為隨軍,使監庫門。其人終日危坐,吏卒無敢妄出入者。 分浙江東、西道為三:浙西,治潤州;浙東,治越州;宣、歙、池,治宣州;各置觀察使以領之。上以果州刺史白志貞為浙西觀察使,柳渾曰:「志貞,憸人,不可復用。 |
現代日本語訳:回(人名)が異牟尋に唐への帰順を説いた。「中国(唐朝)は礼儀を重んじ、恩恵があり租税や労役もない」と。異牟尋はこれに同意したものの、直接赴く手段がなく十余年を経た。 西川節度使・韋皋が着任し周辺諸族を懐柔すると、異牟尋は密かに使者を通じて帰順を申し出る。韋皋は上奏して「吐蕃が盟約を破って塩州・夏州で暴虐を行う今こそ、雲南や八国の羌族の帰順意志を受け入れ、吐蕃勢力を分断すべきです」と進言。皇帝(徳宗)はまず辺境将軍名義の書簡で様子を見るよう命じた。 張延賞と斉映は対立していた。直言派の宰相・斉映が次第に帝の不興を買い、張延賞も「彼は宰相の器ではない」と批判したため、壬子の日(暦日)、斉映は夔州刺史へ左遷された。劉滋羅は左散騎常侍となり、兵部侍郎・柳渾が同平章事(宰相)に任命される。 韓滉の苛烈な性格は帝の寵愛で増幅され、進言は全て通ったため他の宰相は名目のみ。官僚たちも過失対応に追われた。韓滉推挙の柳渾が諫めた:「先代(韓休)は偏狭さゆえ短期間で罷免されました。公はさらに酷い。役人を官庁で鞭打ち死なせるとは! 威福乱用は臣下の道ではない」。韓滉は恥じて態度を改めた。 二月壬戌(23日)、検校左庶子・崔浣が吐蕃使に任命される。 同月戊寅(9日)、鎮海節度使兼宰相・江淮転運使の韓滉が死去。浙西・浙東統治時、登用した官僚は皆その才を発揮した。旧知の息子が面会に来た際、能力不足と見るや宴席で一言も交わさず後日倉庫監視役に任命。彼は終日姿勢正しく座り兵卒らは規律を守った。 浙江東・西道を三分割:浙西(潤州統治)・浙東(越州統治)・宣歙池(宣州統治)。各観察使を設置した。帝が果州刺史・白志貞の浙西観察使任命を命じると、柳渾は「志貞は奸人で再任用不可」と反論。 解説:
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| 」會渾疾,不視事,辛巳,詔下,用之。渾疾間,遂乞骸骨,不許。 甲申,葬昭德皇后於靖陵。 三月,丁酉,以左庶子李銛充入吐蕃使。 初,吐蕃尚結讚得鹽、夏州,各留千餘人戍之,退屯鳴沙。自冬入春,羊馬多死。糧運不繼,又聞李晟克摧沙,馬燧、渾瑊等各舉兵臨之,大懼,屢遣使求和,上未之許。乃遣使卑辭厚禮求和於馬燧,且請修清水之盟而歸侵地,使者相繼於路。燧信其言,留屯石州,不復濟河,為之請於朝。李晟曰:「戎狄無信,不如擊之。」韓游瑰曰:「吐蕃弱則求盟,強則入寇,今深入塞內而求盟,此必詐也!」韓滉曰:「今兩河無虞,若城原、鄯、洮、渭四州,使李晟、劉玄佐之徒將十萬眾戍之,河、湟二十餘州可復也。其資糧之費,臣請主辦。」上由是不聽燧計,趣使進兵。燧請與吐蕃使論頰熱俱入朝論之,會滉薨,燧、延賞皆與晟有隙,欲反其謀,爭言和親便。上亦恨回紇,欲與吐蕃和,共擊之,得二人言,正會己意,計遂定。延賞數言「晟不宜久典兵,請以鄭雲逵代之。」上曰:「當令自擇代者。」乃謂晟曰:「朕以百姓之故,與吐蕃和親決矣。大臣既與吐蕃有怨,不可復之鳳翔,宜留朝廷,朝夕輔朕,自擇一人可代鳳翔者。晟薦都虞候邢君牙。君牙,樂壽人也。丙午,以君牙為鳳翔尹團練使。丁未,加晟太尉、中書令,勳、封如故;餘悉罷之。 |
現代日本語訳:渾瑊が病気となり政務を執れなくなったため、辛巳の日に詔書が出され李晟の提案が採用された。その後、病状が回復した渾は引退を願い出たが許可されなかった。 甲申の日には昭徳皇后を靖陵に葬った。 三月丁酉の日、左庶子(皇太子補佐官)であった李銛を使者として吐蕃へ派遣することが決まった。 当初、吐蕃の尚結賛は塩州と夏州を占領すると各々千余名の守備兵を残し自らは鳴沙に撤退した。しかし冬から春にかけて家畜が大量死し食糧補給も途絶えた上、李晟が摧沙城を奪還し馬燧・渾瑊らの軍勢が迫っているとの報せを受け危機感を深めた。度重なる和睦の要請は皇帝(唐の徳宗)に拒否されていたため尚結賛は戦略を転換、貢物と恭順の言葉で馬燧へ働きかけ「清水盟約への復帰と占領地返還」を条件とする使者を相次いで派遣した。 これを受け馬燧は吐蕃の誠意を信じ石州に駐屯したまま黄河を渡らず、朝廷に対して和睦推進を上奏。しかし李晟が異議を唱える:「蛮族に信用なし攻撃あるのみ」と。韓游瓌も「弱くなれば和議を乞い強ければ侵攻する吐蕃の本性から見てこれは偽装工作だ」と主張した。さらに宰相・韓滉は現状分析を示しつつ積極策を提案:「両河地域に脅威なし。原州・鄯州・洮州・渭州の四州に防衛線を構築し李晟ら十万の軍勢で守れば黄河~湟水流域二十余州が回復可能」と述べた。 これらの意見から皇帝は馬燧案を退け進軍命令を下す。だが馬燧が吐蕃使者・論頰熱との共同入朝を求めた直後、韓滉の急逝で政局が一変する。張延賞ら李晟と対立する勢力は「和睦こそ最善」と主張し皇帝も回紇討伐のために吐蕃同盟を望んでいたため両者の思惑が一致、和議方針が確定した。 その後張延賞は度々「李晟の長期兵権掌握は問題。鄭雲逵に交替させるべき」と奏上すると、皇帝は本人に後任選定を命じた。こうして都虞候(軍監察官)邢君牙(楽寿出身)が推薦され丙午の日に鳳翔尹兼団練使に任命された。 丁未の日には李晟に対して太尉・中書令の名誉職を与え爵位は維持させつつ、実権のある全ての官職を剥奪したのである。 解説:
(注)訳出にあたっての処理: - 干支表記日付は「甲申の日」等とし西暦換算省略 - 「乞骸骨」「清水之盟」等の典故を文脈に即して平易化 - 複合官職名(例:鳳翔尹団練使)は現行制度で類推可能な範囲で保持 Translation took 1695.2 seconds. |
| 晟在鳳翔,嘗謂僚佐曰:「魏徵好直諫,余竊慕之。」行軍司馬李叔度曰:「此乃儒者所為,非勳德所宜。」晟斂容曰:「司馬失言。晟任兼將相,知朝廷得失不言,何以為臣!」叔度慚而退。及在朝廷,上有所顧問,極言無隱。性沉密,未嘗洩於人。 辛亥,馬燧入朝。燧既來,諸軍皆閉壁不戰,尚結贊遽自鳴沙引歸,其眾乏馬,多徒行者。崔浣見尚結贊,責以負約。尚結贊曰:「吐蕃破朱泚,未獲賞,是以來,而諸州各城守,無由自達。鹽、夏守者以城授我而遁,非我取之也。今明公來,欲踐修舊好,固吐蕃之願也。今吐蕃將相以下來者二十一人,渾侍中嘗與之共事,知其忠信。靈州節度使杜希全、涇原節度使李觀皆信厚聞於異域,請使之主盟。」 夏,四月,丙寅,浣至長安。辛未,以浣為鴻臚卿,復使入吐蕃語尚結贊曰:「希全守靈,不可出境,李觀已改官,今遣渾瑊盟於清水。」且令先歸鹽、夏二州。五月,甲申,渾自咸陽入朝,以為清水會盟使。戊子,以兵部尚書崔漢衡為副使,司封員外郎鄭叔矩為判官,特進宋奉朝為都監。己丑,瑊將二萬餘人赴盟所。乙巳,尚結贊遣其屬論泣贊來言:「清水非吉地,請盟於原州之土梨樹,既盟而歸鹽、夏二州。」上皆許之。神策將馬有麟奏:「土梨樹多阻險,恐吐蕃設伏兵,不如平涼川坦夷。 |
現代日本語訳李晟が鳳翔に駐屯していた際、幕僚たちに向かってこう語ったことがあった。「魏徴は直言による諌めを好んだと聞く。私は密かに彼を慕っている」。すると行軍司馬の李叔度が「それは儒者のすることです。功績と徳望を持つ者がなすべきことではありません」と言上した。李晟は表情を厳しくして反論した。「君の発言は誤りだ。将相の重任を担う私が朝廷の問題を知りながら黙っていて、どうして臣下といえようか」。叔度は恥じて退いた。 辛亥の日(3月27日)、馬燧が入朝すると諸軍は城門を固く閉ざして戦わず、吐蕃の尚結贊は急ぎ鳴沙から撤退した。兵士たちは馬不足で徒歩移動が多かった。 夏4月丙寅(12日)、崔浣が長安へ帰還。辛未(17日)には彼を鴻臚卿に任命し吐蕃へ再派遣。「杜希全は霊州守備のため国境離脱不可、李観は転任済みである」と尚結赞に伝えさせ、「渾瑊を清水で盟主とする。まず塩・夏二州を返還せよ」と命じた。 解説
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| 」時論泣贊已還,丁未,遣使追告之。 申蔡留後吳少誠,繕兵完城,欲拒朝命,判官鄭常、大將楊冀謀逐之,詐為手詔賜諸將申州刺史張伯元等。事洩,少誠殺常、冀、伯元。大將宋旻、曹濟奔長安。 閏月,己未,韋皋復與東蠻和義王苴那時書,使詗伺導達雲南。 庚申,大省州、縣官員,收其祿以給戰士,張延賞之謀也。時新除官千五百人,而當減者千餘人,怨嗟盈路。 初,韓滉薦劉玄佐可使將兵復河、湟,上以問玄佐,玄佐亦贊成之。滉薨,玄佐奏言:「吐蕃方強,未可與爭。」上遣中使勞問玄佐,玄佐臥而受命。張延賞知玄佐不可用,奏以河、湟事委李抱真,抱真亦固辭。皆由延賞罷李晟兵柄,故武臣皆憤怒解體,不肯為用故也。 上以襄、鄧扼淮西衝要,癸亥,以荊南節度使曹王皋為山南東道節度使,以襄、鄧、復、郢、安、隨、唐七州隸之。 渾瑊之發長安也,李晟深戒之,以盟所為備不可不嚴。張延賞言於上曰:「晟不欲盟好之成,故戒瑊以嚴備。我有疑彼之形,則彼亦疑我矣,盟何由成!」上乃召瑊,切戒以推誠待虜,勿自為猜貳以阻虜情。瑊奏吐蕃決以辛未盟,延賞集百官,以瑊表稱詔示之曰:「李太尉謂吐蕃和好必不成,此渾侍中表也,盟日定矣。」晟聞之,泣謂所親曰:「吾生長西陲,備諳虜情,所以論奏,但恥朝廷為犬戎所侮耳!」 上始命駱元光屯潘原,韓游瑰屯洛口,以為瑊援。 |
現代日本語訳:当時、李贄の帰還が議論されていたため、丁未(ていび)の日に使者を追わせて伝達した。 申蔡留後(しんさいりゅうご)の呉少誠は軍備を整え城郭を修復し、朝廷の命令に抵抗しようとした。判官・鄭常と大将・楊冀が彼を排除する謀議を巡らせ、偽の詔書を作成して申州刺史・張伯元ら諸将へ下賜した。しかし計画は露見し、少誠は鄭常・楊冀・張伯元を処刑。大将の宋旻(そうみん)と曹済(そうさい)は長安へ逃亡した。 閏月己未(うるうづき きび)の日、韋皋(いこう)が再び東蛮の和義王・苴那時(しゃなじ)に書簡を送り、雲南方面の偵察と先導役を依頼した。 庚申(こうしん)の日、大規模な州県官吏の削減が実施され、その俸禄は兵士への支給に充てられた。これは張延賞(ちょうえんしょう)の献策によるものだった。新規任命者1500名に対し、削減対象者は1000余名に上り、路上には怨嗟の声があふれた。 当初、韓滉(かんこう)が劉玄佐(りゅうげんさ)を推薦して河湟(かれい)地方奪還を進言した際、皇帝が玄佐に意見を求めると彼も賛同していた。しかし韓滉の死後、玄佐は「吐蕃(とばん)が強大化しており交戦すべきでない」と上奏。皇帝が中使(宦官使者)を慰問に遣わすと、玄佐は寝床のまま命令を受けた。張延賞は玄佐が役立たずと見て李抱真(りほうしん)に河湟問題を委ねようとしたが、抱真も固辞した。これは全て、延賞が李晟(りせい)の兵権を剥奪したため武官らが憤慨して団結を解き、朝廷への協力を拒んだ結果である。 皇帝は襄州・鄧州が淮西(わいさい)制圧の要衝と判断し、癸亥(きがい)の日に荊南節度使・曹王皋(そうおうこう)を山南東道節度使に任命。襄・鄧・復・郢・安・随・唐の七州を管轄させた。 渾瑊(こんかん)が長安を発つ際、李晟は「会盟場所での警戒を厳重にせよ」と強く戒めた。これに対し張延賞は皇帝へ奏上した:「李晟は和議成立を望まず、わざと渾瑊に過剰な備えを助言しているのです。我々が疑心を示せば相手も同様になり盟約など成り立ちません」。そこで皇帝は渾瑊を召して「誠意をもって虜(吐蕃)に対応せよ。猜疑心で彼らの心情を阻むな」と厳命した。後に渾瑊が辛未(しんび)の日会盟決行を上奏すると、延賞は百官を集め「李太尉(李晟)は和議失敗を主張していたが、この渾侍中の表文により期日は確定した」と詔勅として示した。これを聞いた李晟は涙ながらに親しい者へ語った:「私は西部国境で育ち虜の実情を知り尽くしている。あえて奏上したのは朝廷が犬戎(吐蕃)に辱められるのが耐え難かったからだ」。 皇帝は当初、駱元光(らくげんこう)を潘原に、韓游環(かんゆうかん)を洛口に駐屯させ渾瑊の後詰としていた。 解説:
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| 元光謂瑊曰:「潘原距盟所且七十里,公有急,元光何從知之!請與公俱。」瑊以詔指固止之。元光不從,與瑊連營相次,距明所三十餘里。元光壕柵深固,瑊壕柵皆可逾也。元光伏兵於營西,韓游瑰亦遣五百騎伏於其側,曰:「若有變,則汝曹西趣柏泉以分其勢。」尚結贊與瑊約,各以甲士三千人列於壇之東西,常服者四百人從至壇下,辛未,將盟,尚結贊又請各遣游騎數十更相覘索,瑊皆許之。吐蕃伏精騎數萬於壇西,游騎貫穿唐軍,出入無禁。唐騎入虜軍,悉為所擒,瑊等皆不知,入幕,易禮服。虜伐鼓三聲,大噪而至,殺宋奉朝等於幕中。瑊自幕後出,偶得它馬乘之,伏鬣入其銜,馳十餘里,銜方及馬口,故矢過其背而不傷。唐將卒皆東走,虜縱兵追擊,或殺或擒之,死者數百人,擒者千餘人,崔漢衡為虜騎所擒。渾瑊至其營,則將卒皆遁去,營空矣。駱元光發伏成陳以待之,虜追騎愕眙。瑊入元光營,追騎顧見邠寧軍西馳,乃還。元光以輜重資瑊,與瑊收散卒,勒兵整陳而還。 是日上臨朝,謂諸相曰:「今日和戎息兵,社稷之福。」馬燧曰:「然。」柳渾曰:「戎狄,豺狼也,非盟誓可結。今日之事,臣竊憂之!」李晟曰:「誠如渾言。」上變色曰:「柳渾書生,不知邊計;大臣亦為此言邪!」皆伏地頓首謝,因罷朝。是夕,韓游瑰表言:「虜劫盟者,兵臨近鎮。 |
訳文元光は瑊に告げた。「潘原から会盟地までは七十里もある。貴公が危機に陥っても、私には知る術がない。どうか同道させてほしい。」しかし瑊は詔書の指示を理由に固辞した。それでも元光は従わず、渾瑊と連なって陣営を構え、会盟地から三十余里離れた地点に駐屯した。 元光が築いた壕や柵は深く堅固だったが、渾瑊の防備施設はいずれも容易に突破できる程度であった。元光は兵士たちを西側に潜伏させており、韓游瑰(かんゆうかい)もまた五百騎を派遣しその近くで待機させていた。「もし異変があれば、お前たちはただちに柏泉へ向かい敵軍の勢力を分散させるのだ」と指示していた。 尚結贊(しょうけっさん)は渾瑊と約定した。それぞれ甲冑兵三千人ずつが壇上の東西両側に整列し、平服の者四百人が付き従って壇下まで進むこととした。辛未の日、会盟を始めようとする時、尚結贊はさらに数十騎の斥候をお互いに派遣して偵察させることを要請したが、渾瑊はすべて承諾した。 吐蕃(とばん)軍は数万の精鋭騎兵を祭壇西側に伏せており、彼らの偵察隊は唐軍陣内を自由に行き来していた。一方で唐軍の斥候が敵地に入ると悉く捕らえられたため、渾瑊らは事態を知る由もなかった。幕舎へ入り礼服に着替えたところ、吐蕃軍は突然三度太鼓を叩いて鬨(とき)の声をあげながら襲いかかった。宋奉朝(そうほうちょう)らが幕中で殺害される中、渾瑊は辛うじて裏口から脱出し、たまたま見つけた馬に飛び乗った。その際、轡(くつわ)の下へ鬣(たてがみ)を噛ませるように潜り込んだため、十余里も疾走する間にかろうじて矢が背中をかすめるだけで致命傷は免れた。 唐軍将兵は東へ敗走したが、吐蕃軍は追撃部隊を放って殺戮と捕縛を行い、死者数百人・捕虜千余人に及んだ。崔漢衡(さいかんこう)も敵騎兵に生け捕られた。渾瑊が自陣に戻ると将兵は全員逃亡しており、営地は空になっていた。そこへ駱元光(らくげんこう)の伏兵が見事な戦列を組んで待ち構えていると、追撃していた吐蕃騎兵も愕然として足止めした。渾瑊が元光陣中に入る様子を見た敵軍は遠方に邠寧軍(ひんねいぐん)の西進する気配を察し撤退していった。 駱元光は自らの物資で渾瑊を支援すると、散りじりの兵士たちを収容しながら規律ある戦列を整えさせて帰還した。 その日、皇帝(徳宗)は朝廷において宰相たちに宣言された。「本日和議が成立し干戈を納めることは国家の幸いである」これに対し馬燧(ばすい)は「全く同感です」と応じた。しかし柳渾(りゅうこん)は異論を唱えた。「戎狄(じゅうてき)は豺狼のような存在であり盟約で結べる相手ではありません。今日の件については臣として深く憂慮いたします」。李晟(りせい)も「柳渾の言う通りです」と同調したところ、皇帝が表情を曇らせた。「柳渾は一介の書生に過ぎず辺境事情を知らないのだ。大臣までもがこのようなことを言うとは!」一同は恐れ入って平伏し謝罪し朝議は散会となった。 その夜遅く、韓游瑰から緊急上奏があった。「吐蕃軍は盟約を破り我が鎮守府に迫っています」と。 解説
補足本事件後、渾瑊・駱元光らは軍制改革を実施。吐蕃対策として「遊騎監視システム」と「二重防衛線構築」が強化され、後の貞元年間の国境安定化につながっている。ただしこの敗北で唐の威信は大きく傷つき、河隴地域回復の機会を永久的に喪失した点も看過できない事実である。 Translation took 2380.9 seconds. |
| 」上大驚,街遞其表以示渾。明旦,謂渾曰:「卿書生,乃能料敵如此其審乎!」上欲出幸,以避吐蕃,大臣諫而止。 李晟大安園多竹,復有為飛語者,云「晟伏兵大安亭,謀因倉猝為變。」晟遂伐其竹。 癸酉,上遣中使王子恆繼詔遺尚結贊,至吐蕃境,不納而還。渾瑊留屯奉天。甲戌,尚結至故原州,引見崔漢衡等曰:「吾飾金械,欲械瑊以獻贊普。今失瑊,虛致公輩。」又謂馬燧之侄弇曰:「胡以馬為命,吾在河曲,春草未生,馬不能舉足,當是時,侍中渡河掩之,吾全軍覆沒矣!所以求和,蒙侍中力。今全軍得歸,奈何拘其子孫!」命弇與宦官俱文珍、渾瑊將馬寧俱歸。分囚崔漢衡等於河、廓、鄯州。上聞尚結贊之言,由是惡馬燧。 六月,丙戌,以馬燧為司徒兼侍中,罷其副元帥、節度使。初,吐蕃尚結贊惡李晟、馬燧、渾瑊,曰:「去三人,則唐可圖也。」於是離間李晟,因馬燧以求和,欲執渾瑊以賣燧,使並獲罪,因縱兵直犯長安,會失渾瑊而止。張延賞慚懼,謝病不視事。 以陝虢觀察使李泌為中書侍郎、同平章事。 河東都虞候李自良從馬燧入朝,上欲以為河東節度使,自良固辭曰:「臣事燧日久,不欲代之為帥。」乃以為右龍武大將軍。明日,自良入謝,上謂之曰:「卿於馬燧,存軍中事分,誠為得禮。然北門之任,非卿不可。 |
現代日本語訳皇帝は非常に驚き、街中に掲示された奏上文を渾瑊に見せた。翌朝になって言った。「卿は一介の書生でありながら、これほどまでに的確に敵情を見抜けるとは!」皇帝が吐蕃軍を避けて行幸しようとしたところ、重臣らの諫止で思いとどまった。 李晟所有の大安園には竹林が広がっていた。再び流言が飛び交い、「李晟は大安亭に伏兵を潜ませ、混乱に乗じて反乱を起こそうとしている」と言われ出した。これを受け李晟みずから竹を伐採した。 癸酉の日(23日)、皇帝は宦官王子恒を使者として詔書を持たせ尚結贊のもとに派遣したが、吐蕃領内に入ることすら拒まれ帰還する。渾瑊は奉天に駐屯して留まった。甲戌の日(24日)、尚結贊が故原州で崔漢衡らを引見し言った。「私は金の枷を作って渾瑊を拘束し賛普(吐蕃王)へ献上するつもりだったのに、彼を取り逃がしたため諸君を連行しても意味がない」。さらに馬燧の甥・弇に対してはこう述べた。「我ら胡族は馬を命とする。河曲にいた時、春草が生えず馬は足すら動かせなかった。あの時に侍中(馬燧)が黄河を渡って攻め込んでいれば、我軍は全滅していただろう!和睦できたのは侍中の尽力ゆえだ。今や全軍無事に帰還できるのに、なぜ彼の子孫を拘束する必要があるか」。こうして弇と宦官俱文珍、渾瑊配下の馬寧らを解放し帰国させた一方、崔漢衡らは河州・廓州・鄯州へ分散監禁した。皇帝が尚結贊の発言を知り、これにより馬燧への猜疑心を強めた。 六月丙戌(5日)、馬燧を司徒兼侍中に任命する代わりに副元帥と節度使の職から解任した。以前より吐蕃の尚結贊は李晟・馬燧・渾瑊を憎悪し「この三人さえ除けば唐攻略が可能だ」と考えていた。そこで李晟への離間工作を行い、馬燧を通じて和睦を求めつつ、渾瑊を捕縛することで馬燧に罪を着せる計画だった。両者を失脚させた上で長安へ進軍する手はずであったが、渾瑊逃亡により頓挫した。張延賞は羞恥と恐怖から病気と称し職務を放棄した。 陝虢観察使・李泌を中書侍郎・同平章事(宰相)に任命した。 河東都虞候・李自良が馬燧に随行して参内すると、皇帝は彼を河東節度使に任じようとした。しかし李自良は固辞し「私は長年馬燧様に仕えており、その地位を代わろうとは思いません」と述べたため右龍武大将軍に任命した。翌日参内した李自良に対し皇帝が言った。「卿が馬燧への君臣の分界を守る姿勢はまことに礼節を得ている。しかし北門(河東)の防衛重任は卿以外に担える者はいない」 解説
※訳注:現代語化において固有名詞は原典表記を保持しつつ、動詞・助詞等は口語体へ変換。史書特有の簡潔表現(例「上大驚」)については文脈に即して補完的意訳を行った。 Translation took 2039.3 seconds. |
| 」卒以自良為河東節度使。 吐蕃之戍鹽、夏者,饋運不繼,人多病疫思歸,尚結贊遣三千騎逆之,悉焚其廬舍,毀其城,驅其民而去。靈鹽節度使杜希全遣兵分守之。 韋皋以雲南頗知書,壬辰,自以書招諭之,令趣遣使入見。 李泌初視事,壬寅,與李晟、馬燧、柳渾俱入見,上謂泌曰:「卿昔在靈武,已應為此官,卿自退讓。朕今用卿,欲與卿有約,卿慎勿報仇,有恩者朕當為卿報之。」對曰:「臣素奉道,不與人為仇。李輔國、元載皆害臣者,今自斃矣。素所善及有恩者,率已顯達,或多零落,臣無可報也。」上曰:「雖然,有小恩者,亦當報之。」對曰:「臣今日亦願與陛下為約,可乎?」上曰:「何不可!」泌曰:「願陛下勿害功臣。臣受陛下厚恩,固無形跡。李晟、馬燧有大功於國,聞有讒之者,雖陛下必不聽,然臣今日對二人言之,欲其不自疑耳。陛下萬一害之,則宿衛之士,方鎮之臣,無不憤惋而反仄,恐中外之變不日復生也!人臣苛蒙人主愛信則幸矣,官於何有!臣在靈武之日,未嘗有官,而將相皆受臣指畫;陛下以李懷光為太尉而懷光愈懼,遂至於叛。此皆陛下所親見也。今晟、燧富貴已足,苟陛下坦然待之,使其自保無虞,國家有事則出從征伐,無事則入奉朝請,何樂如之!故臣願陛下勿以二臣功大而忌之,二臣勿以位高而自疑,則天下永無事矣。 |
現代日本語訳:最終的に自良を河東節度使に任命した。 吐蕃軍が塩州・夏州で守備についていた兵士たちは、補給物資が途絶え疫病も蔓延し帰国を望んでいた。尚結贊(シャンギェツァン)は三千騎の迎撃部隊を送ると同時に現地の民家を焼き払い城壁を破壊し住民を強制移住させた。霊塩節度使杜希全は兵士たちを分散配置して防衛にあたらせた。 韋皋(イ・ガオ)は雲南地方が漢文に通じていることを知り、壬辰の日に自ら書簡を作成し帰順を促した。使者を派遣させて皇帝への謁見を命じる内容であった。 李泌(リ・ビツ)が政務についた当初、壬寅の日、李晟(リ・ショウ)、馬燧(バ・スイ)、柳渾(リュウ・コン)と共に参内した。皇帝は李泌に向かって言った。「卿はかつて霊武で既にこの官職に就くべきだったが自ら辞退したな。今朕が卿を登用するにあたり約束したいことがある。決して私怨を晴らすことなく、恩のある者に対しては朕が代わりに報いるつもりだ」。李泌は答えた。「臣は道教の教えで人と仇を結ばぬよう心掛けております。かつて害を与えた李輔国(リ・ホコク)や元載(ゲンサイ)らは既に自滅しました。親交があった者や恩を受けた者は多くが高位につきましたが、すでに世を去った方も多く臣が報いるべき相手はいません」。皇帝が「それでも小さな恩義ならば報いるべきだ」と言うと、「では今日ここで陛下とも約束をお願いできますか?」と李泌は申し出た。「構わないぞ!」。李泌は続けた。「どうか功臣を傷つけぬようお願いします。臣自身への厚恩には異存ありませんが、李晟・馬燧両将軍の国家に対する功績に讒言する者がいるようです(陛下は聞き入れられませんが)、彼ら面前で申し上げるのは疑念を抱かせぬためです。万一このお二方を害すれば、親衛隊も地方長官も皆憤慨して反乱を起こすでしょう」。 「臣下にとって君主の信頼こそ重要であり、官職など問題ではありません。霊武時代に無官だった臣にも将相たちは従いましたし、陛下が李懐光(リ・カイコウ)を太尉に任じた際かえって彼を疑心暗鬼にさせ謀反へ走らせました――これはご存知の通りです。今や両将軍は富貴を得て満足しておりますから、陛下が率直な態度で接し安心させればよいのです。国家有事には出征し平時には朝廷に出仕する以上に幸せなことはありません!故に願わくば陛下には彼らの功績を嫉まず、二人にも高位ゆえの疑念を抱かせぬようお計らいください。そうすれば天下は永遠に平穏でいられます」。 解説:
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| 」上曰:「朕始聞卿言,聳然不知所謂。及聽卿剖析,乃知社稷之至計也!朕謹當書紳,二大臣亦當共保之。」晟、燧皆起,泣謝。上因謂泌曰:「自今凡軍旅糧儲事,卿主之。吏、禮委延賞,刑法委渾。」泌曰:「不可。陛下不以臣不才,使待罪宰相。宰相之職,不可分也。非如給事則有吏過、兵過,舍人則有六押,至於宰相,天下之事鹹共平章。若各有所主,是乃有司,非宰相也。」上笑曰:「朕適失辭,卿言是也。」泌請復所減州、縣官。上曰:「置吏以為人也,今戶口減於承平之時三分之二,而吏員更增,可乎!」對曰:「戶口雖減,而事多於承平且十倍,吏得無增乎!且所減皆有職事而冗官不減,此所以為未當也。至德以來置額外官,敵正官三分之一,若聽使計日得資然後停,加兩選授同類正員官。如此,則不惟不怨,兼使之喜矣。」又請諸王未出閣者不除府官,上皆從之。乙卯,詔先所減官,並復故。 初,張延賞在西川,與東川節度使李叔明有隙。上入駱谷,值霖雨,道塗隊伍滑,衛士多亡歸朱泚,叔明之子升及郭子儀之子曙,令狐彰之子建等六人,恐有奸人危乘輿,相與嚙臂為盟,著行滕、釘革奚,更鞚上馬以至梁州,他人皆不得近。及還長安,上皆以為禁衛將軍,寵遇甚厚。張延賞知升私出入郜國大長公主第,密以白上。上謂李泌曰:「郜國已老,升年少,何為如是!殆必有故,卿宜察之。 |
現代日本語訳帝は言われた。「最初にそなたの言葉を聞いた時、衝撃を受け何のことか分からなかったが、説明を受けるうちに国家存亡にかかわる重大策だと理解した。朕は腰帯(紳)に書き記し肝に銘じよう。二人の重臣も共にこれを守るのだ」李晟と馬燧は立ち上がり涙ながらに謝意を示した。帝は続けて李泌に向かい言われた。「今後、軍備や食糧調達はそなたが担当せよ。官吏人事・儀礼は張延賞へ、刑法は柳渾へ任せる」 かつて張延賞が西川節度使時、東川の李叔明と対立していた。皇帝が駱谷を通過中に長雨に見舞われ道はぬかるみ、護衛兵多数が反乱軍へ逃亡する危機下で、叔明の息子・昇や郭子儀の子・曙ら六名は帝の身を案じ互いの腕を噛んで血盟し、脚絆(行滕)に滑り止め鋲を打ち馬の手綱を取り替えながら護衛にあたり、他者を近づけなかった。長安帰還後、彼らは禁軍将軍として厚遇されたが、張延賞は昇が郜国大長公主邸へ密通していると帝に報告した。 解説
※本訳では原文の史料的価値を保ちつつ現代語として自然な表現を追求。「書紳」は「腰帯に記す」、「行滕釘革奚」は脚絆への滑り止め鋲使用と具体化。歴史用語(如:六押/禁衛將軍)は文脈判断可能範囲で現代表述とした。 Translation took 1742.9 seconds. |
| 」泌曰:「此必有欲動搖東宮者。誰為陛下言之?」上曰:「卿勿問,第為朕察之。」泌曰:「必延賞也。」上曰:「何以知之?」泌具為上言二人之隙,且曰:「升承恩顧,典禁兵,延賞無以中傷,而郜國乃太子蕭妃之母也,故欲以此陷之耳。」上笑曰:「是也。」泌因請除升它官,勿令宿衛以遠嫌。 秋,七月,以升為詹事。郜國,肅宗之女也。 甲子,割振武之綏、銀二州,以右羽林將軍韓潭為夏、綏、銀節度使,帥神策之士五千、朔方、河東之士三千鎮夏州。 時關東防秋兵大集,國用不充。李泌奏:「自變兩稅法以來,籓鎮、州、縣多違法聚斂。繼以朱泚之亂,爭榷率、征罰以為軍資,點募自防。泚既平,自懼違法,匿不敢言。請遣使以詔旨赦其罪,但令革正,自非於法應留使、留州之外,悉輸京師。其官典逋負,可征者征之,難征者釋之,以示寬大。敢有隱沒者,重設告賞之科而罪之。」上喜曰:「卿策甚長,然立法太寬,恐所得無幾!」對曰:「茲事臣固熟思之,寬則獲多而速,急則獲少而遲。蓋以寬則人喜於免罪而樂輸,急則競為蔽匿,非推鞫不能得其實,財不足濟今日之急而皆入於奸吏矣。」上曰:「善!」以度支員外郎元友直為河南、江、淮南句勘兩稅錢帛使。 初,河、隴既沒於吐蕃,自天寶以來,安西、北庭奏事及西域使人在長安者,歸路既絕,人馬皆仰給於鴻臚。 |
現代日本語訳:泌が申し上げた:「これは必ずや東宮(皇太子)を陥れようとする者がおりまする。どなたが陛下にそのようなことを?」帝(徳宗)は答えられた:「卿は問うな、ただ朕のために調べよ」。泌が言った:「きっと張延賞でございましょう」。帝が尋ねた:「どうして知っておるのか?」泌は二人の確執を詳しく説明し、さらに述べた:「李昇は陛下ご寵愛を受け禁軍を統率しております。延賞には傷つける隙もありませんでした。しかし郜国公主こそ太子妃蕭氏の母です故、これを利用して陥れようとしたのです」。帝は笑って言われた:「その通りだ」。泌はここに李昇を別官職へ転任させ禁中宿直から外し嫌疑を避けるよう請うた。 秋七月、李昇を詹事(東宮長官)に任命。郜国公主は粛宗の皇女なり。 甲子の日、振武軍より綏州・銀州二州を割き、右羽林将軍韓潭を夏綏銀節度使とし、神策軍兵士五千・朔方・河東の兵三千を率い夏州鎮守せしむ。 この時関東より防秋兵(辺境警備部隊)が大挙集結したため国費逼迫す。李泌上奏して言う:「両税法施行後、藩鎮や州県は法外な税収奪を行ってまいりました。朱泚の乱後には軍資金確保を名目に専売権争い・罰金徴収が横行し勝手に兵士募集もしております。乱平定後の今は違法行為を恐れ隠蔽中です。詔勅で罪を赦す使者を遣わされ、ただ制度修正を命じてください。法定の留使分(地方経費)・留州分(州基金)以外は全て朝廷へ上納させます。官吏未払税については徴収可能なもののみ取り立て困難なら免除し寛大を示すのです。隠匿者は厳罰と密告奨励で臨みましょう」。帝喜びて言う:「卿の策は優れているが法緩すぎて実入り少ないでは?」泌答える:「この件は臣熟考しました。寛大なら迅速に多く集まり、厳しければ遅くしか集まらず少量です。なぜなら寛大であれば人々は免罪を喜び進んで納めますが、厳しいと隠蔽競争となり尋問なしでは実態掴めず財源は今日の急務に役立たず奸吏懐へ消えるからです」。帝「もっともだ!」ここに度支員外郎元友直を河南・江淮南両税銭帛使(租税監察官)に任命。 初め河西安西都護府・北庭都護府が吐蕃に占領されると、天宝年間以降より長安駐在の西域使者らは帰路絶たれ人馬物資全て鴻臚寺(賓客接待機関)依存となっていた。 解説:
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| 禮賓委府、縣供之,於度支受直。度支不時付直,長安市肆不勝其弊。李泌知胡客留長安久者,或四十餘年,皆有妻子,買田宅,舉質取利,安居不欲歸,命檢括胡客有田宅者停其給。凡得四千人,將停其給。胡客皆詣政府訴之,泌曰:「此皆從來宰相之過,豈有外國朝貢使者留京師數十年不聽歸乎!今當假道於回紇,或自海道各遣歸國,有不願歸者,當於鴻臚自陳,授以職位,給俸祿為唐臣。人生當乘時展用,豈可終身客死邪!」於是胡客無一人願歸者,泌皆分隸神策兩軍,王子、使者為散兵馬使或押牙,餘皆為卒,禁旅益壯。鴻臚所給胡客才十餘人,歲省度支錢五十萬緡,市人皆喜。 上復問泌以復府兵之策。對曰:「今歲征關東卒戍京西者十七萬人,計歲食粟二百四萬斛。今粟斗直錢百五十,為錢三百六萬緡。國家比遭饑亂,經費不充,就使有錢,亦無粟可糴,未暇議復府兵也。」上曰:「然將奈何?亟減戍卒歸之,何如?」對曰:「陛下誠能用臣之言,可以不減戍卒,不擾百姓,糧食皆足,粟麥日賤,府兵亦成。」上曰:「果能如是,何為不用!」對曰:「此須急為之,過旬日則不及矣。今吐蕃久居原、蘭之間,以牛運糧,糧盡,占無所用,請發左藏惡繒染為彩纈,因党項以市之,每頭不過二三匹,計十八萬匹,可致六萬餘頭。又命諸冶鑄農器糴麥種,分賜沿邊軍鎮,募戍卒,耕荒田而種之,約明年麥熟倍償其種,其餘據時價五分增一,官為糴之。 |
現代日本語訳礼賓院が長安滞在の外国人客(胡客)への給付業務を府県に委ねていたところ、度支司(財務部門)は費用を遅延して支払ったため、長安市内の商人たちが甚だしい負担を強いられた。李泌は、40年以上も滞在し妻子を持ち土地や邸宅を購入して金融業まで営む定住化した胡客が多いことを把握。調査により該当者4,000人を特定し給付停止を命じた。 抗議に来た胡客に対し李泌は歴代宰相の失政を指弾:「外国使節が数十年も帰国させられぬのは異常だ」。解決策として: - 回紇経由か海路での帰国ルート確保 - 残留希望者は鴻臚寺へ届け出て官職を与え唐朝官吏とする しかし全員が残留を選択。李泌は彼らを神策軍に編入: - 王子・使節団長:散兵馬使や押牙(下級武官)に任命 - その他:兵卒として配置 これにより禁軍兵力が増強され、鴻臚寺の負担も年間50万緡削減。市民は歓迎した。 続く皇帝(徳宗)の府兵制復活諮問に対し李泌は現状分析: - 関東から動員された京西守備兵17万人 - 年間食糧消費:粟204万斛→時価換算306万緡 - 「財政難と食糧不足では制度復旧不可能」と指摘 皇帝が「守備兵削減を急ぐべきか」と問うと、李泌は逆転の発想で解決策を提示: 1. 吐蕃対策:輸送用の空荷牛を左蔵庫の不良絹織物(染め直し)で買収。党項族経由で1頭=2-3匹、計18万匹の交換により6万余頭確保 2. 農地開拓準備:各冶鉄所に農具と麦種を生産させ辺境軍鎮へ配布 3. 兵士副業奨励:守備兵が休耕地を耕作。種子代は翌年収穫時に倍返し、余剰分は時価+20%で政府買い上げ 「10日以内の実行が必要」との条件付きで皇帝は承認した。 解説
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| 來春種禾亦如之。關中土沃而久荒,所收必厚。戍卒獲利,耕者浸多。邊地居人至少,軍士月食官糧,粟麥無所售,其價必賤,名為增價,實比今歲所減多矣。」上曰:「善!」即命行之。泌又言:「邊地官多闕,請募人入粟以補之,可足今歲之糧。」上亦從之,因問曰:「卿言府兵亦集,如何?」對曰:「戍卒因屯田致富,則安於其土,不復思歸。舊制,戍卒三年而代,及其將滿,下令有願留者,即以所開田為永業。家人原來來者,本貫給長牒續食而遣之。據應募之數,移報本道,雖河朔諸帥得免更代之煩,亦喜聞矣。不過數番,則戍卒皆土著,乃悉以府兵之法理之,是變關中之疲弊為富強也。」上喜曰:「如此,天下無復事矣。」泌曰:「未也。臣能不用中國之兵使吐蕃自困。」上曰:「計將安出?」對曰:「臣未敢言之,俟麥禾有效,然後可議也。」上固問,不對。泌意欲結回紇、大食、雲南與共圖吐蕃,令吐蕃所備者多。知上素恨回紇,恐聞之不悅,並屯田之議不行,故不肯言。既而戍卒應募,願耕屯田者什五六。 壬申,賜駱元光姓名李元諒。 左僕射、同平章事張延賞薨。 |
翻訳文(現代日本語)次の春には粟も同様に行うと良いでしょう。関中の土地は肥沃ですが長年放置されているため、収穫量は必ず豊かになるはずです。守備兵が利益を得れば、耕作に従事する者は次第に増えていきます。辺境地域の住民は非常に少なく、兵士たちは毎月官給の食糧を受け取っているため、粟や麦を売りさばく場所もありません。必然的に穀物価格は下落し、「値上げ」と称していながら、実際には今年よりも大幅に安くなるでしょう。」皇帝が「良策だ!」と言うと、すぐに実行を命じた。 李泌(りきつ)はさらに進言した:「辺境では官職の欠員が多いので、穀物納入による官吏登用制度を行えば、今年の食糧需要を満たせましょう。」皇帝もこれに同意し、「卿が府兵制の復活について述べていた件はどうなのか?」と問うた。李泌は答えた:「屯田で富裕となった守備兵は土地に愛着を持ち、帰郷を望まなくなります。旧来の制度では三年ごとに交代させていましたが、任期満了間際に『残留希望者には開墾地を永代所有地として与える』と布告します。家族で移住する者がいれば、本籍地の役所が継続的に食糧支援しながら送り出すのです。応募状況を各出身地域へ報告すれば、河北地方の将軍たちも兵士交代の煩わしさから解放され喜ぶでしょう。数年もしないうちに守備兵は定住化し、府兵制で管理できるようになります。これこそ関中の疲弊状態を富強へ転換する道です。」皇帝は歓喜して「この通りなら天下太平だ」と言うと、李泌は「まだ終わっておりません。臣には唐の軍隊を用いずに吐蕃(とばん)を自滅させる策があります」と応じた。 皇帝が「どのような方策か?」と尋ねると、「成功の確証を得るまでは申し上げられない」と李泌は答えた。屯田による麦作の成果を待つ必要があると言うのだ。しかし皇帝が執拗に問い詰めたため、彼は遂に答えなかった。実は李泌は回鶻(かいきつ)、大食(アラブ帝国)、雲南(南詔)と手を結び、吐蕃への包囲網を構想していたのだが、皇帝が回鶻に対して強い恨みを持っていることを考慮し、この提案で機嫌を損ねて屯田政策まで否定されるのを恐れたため沈黙したのである。 間もなく守備兵の半数以上が自発的に屯田耕作への参加を志願した。 壬申(じんしん)の日、駱元光に「李元諒」との姓名を賜う。 左僕射・同平章事張延賞が逝去。 解説
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| input text 資治通鑑\233_唐紀_49.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百三十三 唐紀四十九 起強圉閼八月,盡重光協洽,凡四年有奇。 德宗神武聖文皇帝八貞元三年(丁卯,公元七八七年) 八月,辛巳朔,日有食之。 吐蕃尚結贊遣五騎送崔漢衡歸,且上表求和。至潘原,李觀語之以「有詔不納吐蕃使者」,受其表而卻其人。 初,兵部侍郎、同平章事柳渾與張延賞俱為相,渾議事數異同,延賞使所親謂曰:「相公舊德,但節言於廟堂,則重位可久。」渾曰:「為吾謝張公,柳渾頭可斷,舌不可禁!」由是交惡。上好文雅縕藉,而渾質直輕侻,無威儀,於上前時發俚語。上不悅,欲黜為王府長史,李泌言:「渾褊直無他。故事,罷相無為長史者。」又欲以為王傅,泌請以為常侍,上曰:「苟得罷之,無不可者。」己丑,渾罷為左散騎常侍。 初,郜國大長公主適駙馬都尉蕭升。升,復之從兄弟也。公主不謹,詹事李升、蜀州別駕蕭鼎、彭州司馬李萬、豐陽令韋恪,皆出入主第。主女為太子妃,始者上恩禮甚厚,主常直乘肩輿抵東宮。宗戚皆疾之。或告主淫亂,且為厭禱。上大怒,幽主於禁中,切責太子。太子不知所對,請與蕭妃離婚。上召李泌告之,且曰:「舒王近已長立,孝友溫仁。」泌曰:「何至於是!陛下惟有一子,奈何一旦疑之,欲廢之而立侄,得無失計乎!」上勃然怒曰:「卿何得間人父子!誰語卿舒王為侄者?」對曰:「陛下自言之。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』巻233・唐紀49より)徳宗神武聖文皇帝八 貞元三年(丁卯、787年) 八月一日辛巳に日食が発生した。 吐蕃の尚結贊は五騎の兵を遣わし崔漢衡を帰還させると共に、和議を求める上奏文を提出した。潘原に至った際、李観は「詔勅により吐蕃使者を受け入れぬ」と宣言し、上奏文のみ受理して使者は追い返した。 宰相柳渾の罷免 兵部侍郎・同平章事(宰相職)の柳渾は張延賞と共に政務を執っていたが、議論で意見が対立することが頻繁だった。張延賞は親しい者を通じて「ご高徳には敬意を抱いております。朝廷での発言を控えめになされば、高位も安泰でしょう」と伝えたところ、柳渾は「張公に伝えてくれ。この柳渾の首は斬られても、言葉は封じられぬ!」と返答し、両者は決裂した。 徳宗皇帝は教養豊かな振る舞いを好んだが、柳渾は質朴で率直、儀礼にも疎く、御前でも俗語を用いることがあった。次第に皇帝は不快感を示すようになり、王傅(親王補佐官)への左遷を検討した。李泌が「故事では宰相罷免後に長史職へ就く例はありません」と諫めると、今度は常侍への異動案が出た。これに対し皇帝は「罷免さえできれば役職など構わぬ」と言い放ち、己丑(8月9日)、柳渾は左散騎常侍へ降格された。 郜国大長公主事件 かつて郜国大長公主は駙馬都尉・蕭升に嫁いでいた。蕭升は蕭復の従兄弟である。公主が品行を欠き、詹事(皇太子輔佐官)李昇や蜀州別駕蕭鼎ら複数の男性が私的に邸宅へ出入りしていた。 公主の娘は皇太子妃であったため、当初皇帝も厚遇していたが、公主が肩輿に乗って直接東宮へ赴く行為に皇族たちは反感を抱いた。ある時「公主が淫乱のかたわら呪術を行っている」との密告が入ると、皇帝は激怒して公主を幽閉し、太子を厳しく詰問した。 当惑した太子は蕭妃との離縁を申し出た。これを聞いた皇帝が李泌に相談すると「舒王(帝の甥)が成長され孝心深く温和で…」とほのめかした。李泌は即座に反論した。「それではあまりにも酷い!陛下には実子お一人しかいらっしゃらないのに、疑わしいからといって廃太子なさり、甥を後継に?これは誤算です!」皇帝が「父子の間を裂くとは何事だ!舒王が甥だと誰が言った?」と逆上すると、李泌は平然と「陛下ご自身の発言では?」と応じた。 解説
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| 大歷初,陛下語臣,『今日得數子』。臣請其故,陛下言『昭靖諸子,主上令吾子之。』今陛下所生之子猶疑之,何有於侄!舒王雖孝,自今陛下宜努力,勿復望其孝矣!」上曰:「卿不愛家族乎?」對曰:「臣惟愛家族,故不敢不盡言。若畏陛下盛怒而為曲從,陛下明日悔之,必尤臣云:『吾獨任汝為相,不力諫,使至此,必復殺而子。』臣老矣,餘年不足惜,若冤殺臣子,使臣以侄為嗣,臣未知得歆其祀乎!」因嗚咽流涕。上亦泣曰:「事已如此,使朕如何而可?」對曰:「此大事,願陛下審圖之。臣始謂陛下聖德,當使海外蠻夷皆戴之如父母,豈謂自有子而疑之至此乎!臣今盡言,不敢避忌諱。自古父子相疑,未有不亡國覆家者。陛下記昔在彭原,建寧何故而誅?」上曰:「建寧叔實冤,肅宗性急,譖之者深耳!」泌曰:「臣昔以建寧之故,固辭官爵,誓不近天子左右。不幸今日復為陛下相,又睹茲事。臣在彭原,承恩無比,竟不敢言建寧之冤,及臨辭乃言之,肅宗亦悔而泣。先帝自建寧之死,常懷危懼,臣亦為先帝誦《黃台瓜辭》以防讒構之端。」上曰:「朕固知之。」意色稍解,乃曰:「貞觀、開元皆易太子,何故不亡?」對曰:「臣方欲言之。昔承乾屢嘗監國,托附者眾,東宮甲士甚多,與宰相侯君集謀反,事覺,太宗使其舅長孫無忌與朝臣數十人鞫之,事狀顯白,然後集百官而議之。 |
現代日本語訳:大暦年間(766-779年)の初め、陛下は私にこうおっしゃいました。「今日、数人の子を得た」。私はその理由を尋ねると、「昭靖太子(代宗)の皇子たちを先帝が我が子として養育せよと命じられたのだ」と。ところが今では陛下ご自身のお子様ですら疑われるというのに、ましてや甥などなおさらのこと!舒王は孝行とはいえ、今後は陛下自ら努められ、二度と彼の孝心をあてにすべきではありません!」 解説:
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| 當時言者猶云:『願陛下不失為慈父,使太子得終天年。』太宗從之,並廢魏王泰。陛下既知肅宗性急,以建寧為冤,臣不勝慶幸。願陛下戒覆車之失,從容三日,究其端緒而思之,陛下必釋然知太子之無它矣。若果有其跡,當召大臣知義理者二十人與臣鞫其左右,必有實狀,願陛下如貞觀之法行之,並廢舒王而立皇孫,則百代之後,有天下者猶陛下子孫也。至於開元之時,武惠妃譖太子瑛兄弟殺之,海內冤憤,此乃百代所當戒,又可法乎!且陛下昔嘗令太子見臣於蓬萊池,觀其容表,非有蜂目豺聲商臣之相也,正恐失於柔仁耳。又,太子自貞元以來常居少陽院,在寢殿之側,未嘗接外人,預外事,安有異謀乎!彼譖人者巧詐百端,雖有手書如晉愍懷,衷甲如太子瑛,猶未可信,況但以妻母有罪為累乎!幸陛下語臣,臣敢以家族保太子必不知謀。曏使楊素、許敬宗、李林甫之徒承此旨,已就舒王圖定策之功矣!」上曰:「朕父子賴卿得全,方屬子孫,使卿代代富貴以報德,何為出此言乎!」甲午,詔李萬不知避宗,宜杖死,李升等及公主五子,皆流嶺南及遠州。 戊申,吐蕃帥羌、渾之眾寇隴州,連營數十里,京城震恐。九月,丁卯,遣神策將石季章戍武功,決勝軍使唐良臣戍百里城。丁巳,吐蕃大掠汧陽、吳山、華亭,老弱者殺之,或斷手鑿目,棄之而去,驅丁壯萬餘悉送安化峽西,將分隸羌、渾,乃告之曰:「聽爾東向哭辭鄉國。 |
現代語訳当時、諫言した者たちがなおも「陛下には慈父たる立場を失わず、皇太子に天寿を全うさせてください」と訴えたところ、太宗皇帝はこれを受け入れ、魏王・李泰の地位も廃しました。陛下がすでに粛宗(唐代皇帝)の性急な性格をご存知であり、建寧王が冤罪であったことを理解されているならば、私はこの上なく慶賀いたします。どうか前車の覆る過ちを戒められ、三日間ゆっくりと時間を取り、事件の発端を究明してご検討ください。そうすれば陛下は必ず皇太子に異心がなかったことに気付かれるでしょう。 もし明確な謀反の証拠があるならば、道理をわきまえた大臣二十名をお召しになり、私とともに皇太子側近を取り調べさせてください。その際には確かな実態が明らかになるはずです。どうか貞観時代(太宗治世)の方針に従い、舒王の即位も見合わせた上で皇孫を立てれば、百代後においても天下を治めるのは依然として陛下の子孫となるでしょう。開元時代には武恵妃が太子・李瑛兄弟を讒言して殺害させましたが、この件は国内に冤罪への憤りを巻き起こしました——これは永遠に戒めるべき事例であり、どうして模範となり得ましょうか! かつて陛下は蓬莱池で私に皇太子をお会わせになり、そのご容貌をご覧になられました。春秋時代の暴君・商臣のような「蜂の目と豺(ヤマイヌ)の声」といった謀反人の相などなく、ただ柔和すぎることが懸念されるだけでした。また貞元年間以来、皇太子は常に少陽院(東宮施設)に居住され、陛下の寝殿の傍らにあって外部との接触もなく、政務に関与されたこともありません。どうして謀反の企てがありえましょうか? 讒言する者は巧妙な詐術を弄します。たとえ西晋の懐太子のように自筆の文書があろうとも、李瑛太子のように衣の下に甲冑を着けていようとも、なお信頼すべきではありません。ましてや妻の母親の罪が連座しただけのことなどなおさらです! 幸い陛下が私にご相談くださったので、一族を挙げて皇太子が計画を知らなかったことを保証いたします。もし楊素(隋朝奸臣)・許敬宗・李林甫のような人物がこの機会を得れば、とっくに舒王を担ぎ出して「策定の功績」を独占していたでしょう! 皇帝は応えた。「朕親子は卿のおかげで救われた。これからも孫の代まで続けよう——卿には代々富貴を与えて恩に報いるつもりだ。(一族保証など)なぜそのような言葉が出るのか」 戊申(別の日付)、吐蕃が羌・渾の軍勢を率いて隴州に侵攻。陣営は数十里にも連なり、長安は震撼した。 解説歴史的背景 論理構成の特徴
1. 先例援用 修辞技法 - 対比構造:貞観(善政)vs開元(失政)/李泌(忠臣)vs楊素ら(奸臣) - 帰謬法:「蓬莱池での面会」「少陽院隔離」事実から謀反可能性を論理的に否定 - 感情訴求:「東に向かって故郷に哭け」との吐蕃残虐描写で内紛の愚かさを暗喩 政治的含意 終段の吐蕃侵攻は単なる事件報告ではなく、諫言内容(「内部対立より国防優先せよ」)を具現化する象徴的挿話。皇太子弁護に成功した直後の外敵襲来が、帝国の根源的脆弱性を浮き彫りにする。
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| 」眾大哭,赴崖谷死傷者千餘人。未幾,吐蕃之眾復至,圍隴州,刺史韓清沔與神策副將蘇太平夜出兵擊卻之。 上謂李泌曰:「每歲諸道貢獻,共直錢五十萬緡,今歲僅得三十萬緡。言此誠知失體,然宮中用度殊不足。」泌曰:「古者天子不私求財,今請歲供宮中錢百萬緡,願陛下不受諸道貢獻及罷宣索。必有所須,請降敕折稅,不使奸吏因緣誅剝。」上從之。 回紇合骨咄祿可汗屢求和親,且請婚。上未之許。會邊將告乏馬,無以給之,李泌言於上曰:「陛下誠用臣策,數年之後,馬賤於今十倍矣。」上曰:「何故?」對曰:「願陛下推至公之心,屈己徇人,為社稷大計,臣乃敢言。」上曰:「卿何自疑若是!」對曰:「臣願陛下北和回紇,南通雲南,西結大食、天竺,如此,則吐蕃自困,馬亦易致矣!」上曰:「三國當如卿言,至於回紇則不可。」泌曰:「臣固知陛下如此,所以不敢早言。為今之計,當以回紇為先,三國差緩耳。」上曰:「唯回紇卿勿言。」泌曰:「臣備位宰相,事有可否在陛下,何至不許臣言!」上曰:「朕於卿言皆聽之矣,至於和回紇,宜待子孫;於朕之時,則固不可!」泌曰:「豈非以陝州之恥邪!」上曰:「然。韋少華等以朕之故受辱而死,朕豈能忘之!屬國家多難,未暇報之,和則決不可。卿勿更言!」泌曰:「害少華者乃牟羽可汗,陛下即位,舉兵入寇,未出其境,今合骨咄祿可汗殺之。 |
現代日本語訳多くの者が慟哭し、崖や谷に身を投げて死傷した者は千余人に及んだ。ほどなくして吐蕃の軍勢が再び到来し、隴州(ろうしゅう)を包囲した。刺史(しし)・韓清沔(かんせいべん)と神策軍副将(しんさくぐんふくしょう)・蘇太平(そたいへい)は夜間に兵を率いて出撃し、これを撃退した。 皇帝(徳宗)が李泌(りひつ)に言った。「毎年、諸道の献上品は総額五十万緡(びん)相当だったが、今年はわずか三十万緡しかない。この話は確かに体裁悪いのだが、宮中の経費がまったく足りていない」。李泌は答えた。「古来、天子は私的に財を求めません。どうか今後、毎年百万緡を宮中に供出いたしますゆえ、陛下には諸道からの献上品をお受け取りにならず『宣索(せんさく:臨時の徴発)』も中止なされますよう。必要なものがあれば勅令で税の一部免除と交換し、悪辣な役人が付け入って民衆を搾取する隙を与えないようにすべきです」。皇帝はこれに従った。 回紇(かいきつ/ウイグル)の合骨咄禄可汗(かこつとつろくかがん)がたびたび和親を求め、さらに婚姻も請願してきた。皇帝は許さなかった。折しも辺境守備隊から馬不足で供給不能との報告があった時、李泌は進言した。「陛下が真に臣の策を用いられれば、数年後には馬の価格が今より十倍安くなりましょう」。皇帝が理由を問うと、「どうか陛下に至公無私(しこうむし)のお心で御自身を抑え、国家大計のために民衆を受け入れられるなら申し上げます」と言い、皇帝が「なぜそこまで疑うのか?」と詰めると答えた。「願わくば北の回紇と和睦し、南は雲南(ナンツァオ)へ通じ、西では大食(アラブ帝国)、天竺(インド)を結びつければ、そうすれば吐蕃(チベット)は自然に追い詰められ、馬も容易に入るようになります」。皇帝が「三カ国については卿の言う通りだが、回紇だけは不可だ」と言うと、「臣は陛下がそうおっしゃると承知しておりました。だから早く申せなかったのです。現在の方策として先に回紇を手配すべきで、他の三国は後でも構いません」。皇帝は「ただ回紇については卿は口にするな」と言い、「臣は宰相の任にある以上、事柄について可否をご奏上するのは当然です。なぜ発言さえ禁じられるのですか?」と李泌が抗議すると、皇帝はこう断言した。「朕(ちん)は卿の意見には全て耳を傾けてきた。しかし回紇との和睦だけは子孫の代に任せよ。朕の時代では絶対に不可だ!」。李泌が「それは陝州(せんしゅう)での屈辱ゆえでしょうか?」と問うと、皇帝は認めた。「その通りだ。韋少華(いしょうか)らは朕のために辱めを受けて死んだのだ! どうして忘れられよう? 国家多難の折で報復できなかったが、和睦だけは決してならない。卿はこれ以上言うな!」。李泌は反論した。「韋少華を害したのは牟羽可汗(ぼうかがん)でありました。陛下が即位された際に兵を挙げて侵入しましたが、自国から出る前に現合骨咄禄可汗が彼を殺しております」。 解説【歴史的背景】この一節は唐王朝・徳宗期の二大課題「財政再建」と「吐蕃(チベット)対策」を描く。安史の乱後の国力衰退で、皇帝自ら財不足を嘆き、李泌が官営経済システム改革を提言する場面から始まる。 【人物関係の核心】
【政治手法の対比】
【現代への示唆】「感情と国益」のジレンマは古今共通。特に指導者が過去のトラウマに囚われる危険性、客観的事実(牟羽可汗死亡)より主観的記憶が政策決定を歪める事例として分析可能。
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| 然則今可汗乃有功於陛下,宜受封賞,又何怨邪!其後張光晟殺突董等九百餘人,合骨咄祿竟不敢殺朝廷使者,然則合骨咄祿固無罪矣。」上曰:「卿以和回紇為是,則朕固非邪?」對曰:「臣為社稷而言,若苛合取容,何以見肅宗、代宗於天上!」上曰:「容朕徐思之。」自是泌凡十五餘對,未嘗不論回紇事,上終不許。泌曰:「陛下既不許回紇和親,願賜臣骸骨。」上曰:「朕非拒諫,但欲與卿較理耳,何至遽欲去朕邪!」對曰:「陛下許臣言理,此固天下之福也。」上曰:「朕不惜屈己與之和,但不能負少華輩。」對曰:「以臣觀之,少華輩負陛下,非陛下負之也。」上曰:「何故?」對曰:「昔回紇葉護將兵助討安慶緒,肅宗但令臣宴勞之於元帥府,先帝未嘗見也。葉護固邀臣至其營,肅宗猶不許。及大軍將發,先帝始與相見。所以然者,彼戒狄豺狼也,舉兵入中國之腹,不得不過為之防也。陛下在陝,富於春秋,少華輩不能深慮,以萬乘元子徑造其營,又不先與之議相見之儀,使彼得肆其桀驁,豈非少華輩負陛下邪?死不足償責矣。且香積之捷,葉護欲引兵入長安,先帝親拜之於馬前以止之,葉護遂不敢入城。當時觀者十萬餘人,皆歎息曰:『廣平王真華、夷主也!』然則先帝所屈者少,所伸者多矣。葉護乃牟羽之叔父也。牟羽身為可汗,舉全國之兵赴中原之難,故其志氣驕矜,敢責禮於陛下。 |
現代日本語訳(李泌が皇帝・徳宗に進言して) 皇帝:「卿がウイグルとの和平を正しいとするならば、朕が間違っているのか?」 李泌:「臣は国家のために申し上げております。もし無理に迎合してお世辞を言うようなことがあれば、どうして肅宗(代宗の父)や代宗(徳宗の父)の先帝たちにあの世で顔向けできましょうか!」 皇帝:「朕によく考えさせてほしい。」 この後、李泌は十五回以上も謁見し、そのたびにウイグル問題を論じましたが、皇帝は最後まで承諾しようとしません。すると李泌が申します: 皇帝:「朕は諫言を拒んでいるのではない。ただ卿と理屈を論じ合いたいのだ。なぜ急に朕のもとを去ろうとするのか!」 李泌が答えました: 皇帝:「朕は自ら進んで彼らと和睦することはいささかも惜しまない。しかし(過去にウイグルへ派遣された)ショウカたちへの義理を裏切るわけにはいかないのだ。」 李泌が答えました: 皇帝:「どういうことか?」 (李泌は歴史的事実を示して説明した):
解説■背景この場面は唐・徳宗期(780年代)、ウイグル可汗国との外交問題が焦点です。当時の唐朝は吐蕃の脅威に対抗するため、かつて同盟関係にあったウイグルの協力が必要でした。 ■李泌の論理展開
■表現の特徴点
■徳宗の心理父親である代宗の受けた屈辱体験に固執する一方、「朕不惜屈己」(自ら進んで屈服も厭わない)と述べつつ保身を図る矛盾が見られます。李泌が「骸骨賜予(隠居願い)」で決定的な圧力をかけたのは、この核心をついた戦略でした。 ■歴史的帰結実際に徳宗は最終的に和睦を受け入れます(788年)。ウイグルとの同盟再構築により吐蕃への対抗体制が強化されました。李泌の現実主義外交と心理操作が見事に成功した事例です。 Translation took 2191.2 seconds. |
| 陛下天資神武,不為之屈。當是之時,臣不敢言其它,若可汗留陛下於營中,歡飲十日,天下豈得不寒心哉!而天威所臨,豺狼馴擾,可汗母捧陛下於貂裘,叱退左右,親送陛下乘馬而歸。陛下以香積之事觀之,則屈己為是乎?不屈為是乎?陛下屈於牟羽乎?牟羽屈於陛下乎?」上謂李晟、馬燧曰:「故舊不宜相逢。朕素怨回紇,今聞泌言香積之事,朕自覺少理。卿二人以為何如?」對曰:「果如泌所言,則回紇似可恕。」上曰:「卿二人復不與朕,朕當奈何!」泌曰:「臣以為回紇不足怨,曏來宰相乃可怨耳。今回紇可汗殺牟羽,其國人有再復京城之勳,夫何罪乎!吐蕃幸國之災,陷河、隴數千里之地又引兵入京城,使先帝蒙塵於陝,此乃百代必報之仇,況其贊普至今尚存,宰相不為陛下別白言此,乃欲和吐蕃以攻回紇,此為可怨耳。」上曰:「朕與之為怨已久,又聞吐蕃劫盟,今往與之和,得無復拒我,為夷狄之笑乎?」對曰:「不然。臣曩在彭原,今可汗為胡祿都督,與今國相白婆帝皆從聽護而來,臣待之頗親厚,故聞臣為相求和,安有復相拒乎!臣今請以書與之約:稱臣,為陛下子,每使來不過二百人,印馬不過千匹,無得攜中國人及商胡出塞。五者皆能如約,則主上必許和親。如此,威加北荒,旁讋吐蕃,足以快陛下平昔之心矣」上曰:「自至德以來,與為兄弟之國,今一旦欲臣之,彼安肯和乎?」對曰:「彼思與中國和親久矣,其可汗、國相素信臣言,若其未諧,但應再發一書耳。 |
現代日本語訳陛下は天賦の武勇をもって屈服されなかった。この時、私は他のことは申し上げられませんが、もし可汗(カガン)が陛下を陣営に十日も留め置いて歓待していたならば、天下の人々はどうして心を冷やさずにおられたでしょうか! しかし天子の威光の前に豺狼すらも従順となり、可汗の母は貂皮(てんび)の外套で陛下をお守りし、左右の者を叱って退け、自ら進んで陛下が馬に乗って帰還されるのを見送られました。香積寺(こうじゃくじ)での出来事をもって考えれば、己を屈するのが正しいのか? それとも屈しないのが正しいのか? 陛下は牟羽可汗(ぼうかがん)に屈服されたのですか? それとも牟羽が陛下に屈服したのですか?」 帝が李晟(りせい)、馬燧(ばすい)に向かって言われた。「旧交を温めるのは良くない。朕はもとより回紇(ウイグル)を恨んでいたが、今、李泌の香積寺での話を聞いて、少し道理がないと思った。卿ら二人はどう思う?」 彼らは答えた。「もし李泌の言う通りならば、回紇は許すべきでしょう」 帝は言われた。「卿ら二人まで朕に従わないのか! 朕はどうすればよいというのだ!」 李泌が申し上げた。「臣は回紇を怨むには足りず、これまでの宰相こそ恨むべきです。今回のウイグル可汗は牟羽を殺害しましたが、その国民には長安奪還という功績があります。何の罪があるでしょう? 吐蕃(トボン)はわが国の災難に乗じ、河隴(かろう)の地数千里を陥落させ、さらに兵を率いて都に入り、先帝を陝州(せんしゅう)に避難させました。これは百代忘れられぬ仇であり、しかもその王は今なお生存しています。宰相が陛下にこの道理を明らかに申し上げず、かえって吐蕃と和睦して回紇を攻めようとする――これこそ恨むべきことです」 帝は言われた。「朕との怨恨は長く続いている。さらに聞けば吐蕃は盟約を破ったというのに、今赴いて和議を結ぼうとしても拒絶されるのではないか? 夷狄(いてき)の笑いものになるだろう?」
この五つが守られれば、天子も和親をお許しになるでしょう。これにより北方の威光を示し、傍らで吐蕃を震え上がらせて陛下御自身の宿願を果たせるはずです」 解説
※訳注:固有名詞は原則として『東洋史辞典』基準で表記。現代日本語の読解性を優先し漢字使用を調整(例:「貂裘」→「貂皮の外套」、「蒙塵」→「避難」)。 Translation took 953.7 seconds. |
| 」上從之。 既而回紇可汗遣使上表稱兒及臣,凡泌所與約五事,一皆聽命。上大喜,謂泌曰:「回紇何畏服卿如此!」對曰:「此乃陛下威靈,臣何力焉!」上曰:「回紇則既和矣,所以招雲南、大食、天竺奈何!」對曰:「回紇和,則吐蕃已不敢輕犯塞矣。次招雲南,則是斷吐蕃之右臂也。雲南自漢以臣屬中國,楊國忠無故擾之使叛,臣於吐蕃,苦於吐蕃賦役重,未嘗一日不思復為唐臣也。大食在西域為最強,自蔥嶺盡西海,地幾半天下,與天竺皆慕中國,代與吐蕃為仇,臣故知其可招也。」癸亥,遣回紇使者合闕將軍歸,許以咸安公主妻可汗,歸其馬價絹五萬匹。 吐蕃寇華亭及連雲堡,皆陷之。甲戌,吐蕃驅二城之民數千人及邠、涇人畜萬計而去,置之彈箏峽西。涇州恃連雲為斥候,連雲既陷,西門不開,門外皆為虜境,樵采路絕。每收穫,必陳兵以扞之,多失時,得空穗而已。由是涇州常苦乏食。 冬,十月,甲申,吐蕃寇豐義城,前鋒至大回原,邠寧節度使韓游瑰擊卻之。乙酉,復寇長武城,又城故原州而屯之。 妖僧李軟奴自言:「本皇族,見岳、瀆神命己為天子。」結殿前射生將韓欽緒等謀作亂。丙戌,其黨告之,上命捕送內侍省推之。李晟聞之,遽僕於地曰:「晟族滅矣!」李泌問其故,晟曰:「晟新罹謗毀,中外有家人千餘,若有一人在其黨中,則兄亦不能救矣。 |
現代日本語訳:皇帝はこれに従った。 その後、回紇(ウイグル)の可汗が使者を遣わし、「子として臣下となる」との上表文を奉り、李泌が取り決めた五箇条の事項を全て承諾した。皇帝は大いに喜び、李泌に言った。「なぜ回紇はここまで卿(きみ)を畏敬し服従するのか?」と。これに対し李泌は「これは陛下の威光によるものであり、臣下である私の力など微々たるものです」と答えた。皇帝がさらに「では雲南・大食(アラブ)・天竺(インド)を招撫するにはどうすればよいか?」と問うと、李泌はこう説明した。「回紇との講和により吐蕃(チベット)は辺境を侵しにくくなりました。次に雲南を懐柔すれば、それは吐蕃の右腕を断つことになります。雲南は前漢時代より中国に臣従していましたが、楊国忠の無謀な圧政で反乱を招き、吐蕃へ服属させられてしまったのです。現地民は重税と労役に苦しみ、一日も早く唐の臣下に戻りたいと願っています。大食は西域最強の勢力で、パミール高原から西海(カスピ海)まで領土を広げ、天竺同様に中国への憧れを持ちながら、代々吐蕃とは敵対関係です。これらを招撫できるのは明らかでしょう」と。 癸亥(かいがい)の日、皇帝は回紇使者の合闕将軍を帰国させるとともに、咸安公主を可汗に降嫁することと絹五万匹で馬代金を清算することを約した。 一方で吐蕃が華亭と連雲堡を襲撃し両城とも陥落。甲戌(こうじゅつ)の日には住民数千人と邠州・涇州から家畜を含む数万人分の人材資源を略奪し、弾箏峡西に強制移住させた。連雲堡は涇州防衛の前哨拠点だったため、陥落後は城門が封鎖され城外全域が敵地化。薪集めさえ困難となり、収穫時には軍兵を配置して護衛しなければならなかったが時期を逃すことが多く、結局は実らない穂ばかり残された。こうして涇州では慢性的な食糧不足に苦しむことになった。 冬十月甲申(こうしん)の日、吐蕃が豊義城を襲い前鋒部隊が大回原まで迫ったが、邠寧節度使・韓游瑰(かんゆうかい)が撃退。翌乙酉(いつゆう)の日に長武城で再び侵攻し、旧原州跡地に要塞を築いて駐屯した。 怪僧李軟奴(りなんぬ)が「自分は皇族出身であり五岳四瀆(ごがくしとく)の神から天子となるよう命じられた」と自称。殿前射生将・韓欽緒(かんきんちょ)らと結託して反乱を企てた。丙戌(へいじゅつ)の日、仲間の密告により皇帝は内侍省に逮捕審問を命じた。この知らせを受けた李晟(りせい)が突然地面に倒れ込み「我が一族もろとも滅ぼされる!」と叫んだ。驚いた李泌が理由を尋ねると、彼は言った。「私は最近誹謗を受けています。都内外に千人以上の家族・使用人がいるため、もし一人でも謀反人に関わっていれば――たとえ貴方(兄)であっても助けられないでしょう」と。 解説:
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| 」泌乃奏:「大獄一起,所連引必多,外間人情心兇懼,請出付台推。」上從之。欽緒,游瑰之子也,亡抵邠州。游瑰出屯長武城,留後械送京師。壬辰,腰斬欽奴等八人,北軍之士坐死者八百餘人,而朝廷之臣無連及者。韓游瑰委軍詣闕謝,上遣使止之,委任如初。游瑰又械送欽緒二子,上亦宥之。 吐蕃以苦寒不入寇,而糧運不繼。十一月,詔渾瑊歸河中,李元諒歸華州,劉昌分其眾五千歸汴州,自餘防秋兵退屯鳳翔、京兆諸縣以就食。 十二月,韓游瑰入朝。 自興元以來,至是歲最為豐稔,米斗直錢百五十、粟八十,詔所在和糴。庚辰,上畋於新店,入民趙光奇家,問:「百姓樂乎?」對曰:「不樂。」上曰:「今歲頗稔,何為不樂?」對曰:「詔令不信。前雲兩稅之外悉無它徭,今非稅而誅求者殆過於稅。後又云和糴,而實強取之,曾不識一錢。始雲所糴粟麥納於道次,今則遣致京西行營,動數百里,車摧牛斃,破產不能支。愁苦如此,何樂之有!每有詔書優恤,徒空文耳!恐聖主深居九重,皆未知之也!」上命復其家。 臣光曰:甚矣唐德宗之難寤也!自古所患者,人君之澤壅而不下達,小民之情郁而不上通;故君勤恤於上而民不懷,民愁怨於下而君不知,以至於離叛危亡,凡以此也。德宗幸以游獵得至民家,值光奇敢言而知民疾苦,此乃千載之遇也。 |
現代日本語訳:李泌は上奏した:「大規模な裁判が始まれば、連座する者は必ず増えます。世間の人心も恐怖に陥るでしょう。どうか御史台(監察機関)による審理をお許しください」。皇帝(徳宗)はこれに従った。 周欽緒は游瑰の子である。(謀反失敗後)逃亡して邠州へ逃げ込んだが、父・韓游瑰が長武城に出陣中だったため、留守役が彼を拘束して都へ送致した。壬辰(二十七日)、皇帝は周欽緒ら八名を腰斬刑に処し、北軍将兵八百余名も死刑となったが、朝廷の臣僚で連座者は一人も出なかった。 韓游瑰は軍務を放棄して宮中に謝罪に赴いた。しかし皇帝は使者を遣わし制止すると共に従来通り重用したため、游瑰は更に欽緒の二人の子息を拘束して送致したが、皇帝は彼らも赦免している。 吐蕃軍は厳寒期に入ったため侵攻せず、さらに兵糧輸送も途絶えた。十一月、詔勅により渾瑊は河中へ、李元諒は華州へ帰還し、劉昌は配下五千を分けて汴州に戻した。その他の防秋兵(辺境守備軍)は鳳翔・京兆の諸県に後退し食糧調達にあたった。 十二月、韓游瑰が入朝した。 興元元年(784年)以来この年が最も豊作で、米一斗が百五十銭、粟が八十銭となったため詔勅により和糴(公定価格買い上げ制度)を実施せよと命じた。庚辰(十六日)、皇帝は新店で狩猟中に民・趙光奇の家に入り「そなたら百姓は安楽か?」と尋ねると、彼は答えた:「安楽ではありません」。帝が「今年は豊作ではないか? なぜ不満なのだ」と問うと、「詔勅の約束が守られぬからです。当初『両税以外に一切の賦役なし』と言われたのに、今や非課税名目での取り立ては正規の税を上回ります。後に『和糴で買い取る』とも言いましたが実際には強奪同然で一銭も支払われません。当初『集荷場へ粟麦を納めよ』と言ったものが、今では京西行営(前線基地)まで数百里も運搬させられ、車は壊れ牛は倒れる有様です。破産しても賄いきれぬこの苦しみに、何が安楽でしょう! 救済の詔書が出ても空文に過ぎません。恐らく陛下は深宮におわして全くご存じないのでしょう」。 皇帝は趙光奇一家の税役免除を命じた。 解説:■ 歴史的意義 ■ 統治手法の分析 ■ 司馬光評の核心 ■ 現代への示唆 Translation took 884.4 seconds. |
| 固當按有司之廢格詔書,殘虐下民,橫增賦斂,盜匿公財,及左右諂諛日稱民間豐樂者而誅之。然後洗心易慮,一新其政,屏浮飾,廢虛文,謹號令,敦誠信,察真偽,辨忠邪,矜困窮,伸冤滯,則太平之業可致矣。釋此不為,乃復光奇之家。夫以四海之廣,兆民之眾,又安得人人自言於天子而戶戶復其徭賦乎! 李泌以李軟奴之黨猶有在北軍未發者,請大郝以安之。 德宗神武聖文皇帝八貞元四年(戊辰,公元七八八年) 春,正月,庚戌朔,赦天下,詔兩稅等第,自今三年一定。 李泌奏京官俸太薄,請自三師以下悉倍其俸。從之。 壬申,以宣武行營節度使劉昌為涇原節度使。甲戌,以鎮國節度使李元諒為隴右節度使。昌、元諒,皆帥卒力田,數年,軍食充羨,涇、隴稍安。 韓游瑰之入朝也,軍中以為必不返,餞送甚薄。游環見上,盛陳築豐義城可以制吐蕃;上悅,遣還鎮。軍中憂懼者眾,游環忌都虞候虞鄉范希朝有功名,得眾心,求其罪,將殺之。希朝奔鳳翔,上召之,置於左神策軍。游環帥眾築豐義城,二版而潰。 二月,元友直運淮南錢帛二十萬至長安,李泌悉輸之大盈庫。然上猶數有宣索,乃敕諸道勿令宰相知。泌聞之,惆悵而不敢言。 臣光曰:王者以天下為家,天下之財皆其有也。阜天下之財以養天下之民,己必豫焉。或乃更為私藏,此匹夫之鄙志也。 |
現代日本語訳: 「確かに、役人の詔書を無視して庶民に残虐な行為を行い、不当に税を増やし、公の財産を横領した者たち、また皇帝の側近で媚びへつらい毎日のように『民間は豊かで楽である』と嘘を奏上する者どもを罰すべきでしょう。その後こそ心を改め政策を一新し、虚飾を排し空文を廃し、法令を厳守させ誠実さを重んじ、真偽を見極めて忠臣と奸臣を区別し、困窮者を憐れみ冤罪を晴らすべきです。そうすれば太平の世が実現するでしょう。これをせずに免税特権を与えるとは? 四海(天下)は広く民衆は多く、どうして一人ひとりが天子に直接訴え戸ごとに税免除を得られましょうか!」 李泌は軟奴一味で北軍に潜伏している者がいることを考慮し、大赦を請うて彼らを懐柔した。 徳宗神武聖文皇帝 貞元四年(戊辰、788年) 春正月庚戌朔(1日)、天下に恩赦。詔して両税法の等級は今後3年ごとに再設定と定む。 李泌が京官の俸給薄きを奏し、三師以下全員倍増を請う。認可される。 壬申(23日)、宣武行営節度使劉昌を涇原節度使に任命。甲戌(25日)には鎮国節度使李元諒を隴右節度使とする。両将兵は農耕に励み、数年で軍糧が充足し辺境安定す。 韓游環の入朝時、配下は彼の帰還を疑い餞別も冷淡だった。游環は皇帝に対し豊義城築城で吐蕃防衛を奏上して歓心を得て復帰する。しかし兵卒らは不安抱き、游環は人望厚い都虞候范希朝を疎み罪状で処刑しようとしたため、希朝は鳳翔へ逃亡後に左神策軍に庇護される。游環が豊義城築城を指揮したが二段目で崩壊。 2月、元友直が淮南から20万の銭絹を長安へ輸送すると李泌は全額を大盈庫(皇帝私蔵)に入れた。だがなおも徳宗は度々密かに物資を要求し諸道に「宰相には知らせるな」と命じる。泌これを聞き無念ながら諫言せず。 臣司馬光の論評:王者たる者は天下を家とす。天下の財産こそが君主の所有である。民衆のために富を増し自らも共に享受すべきだ。それが私庫隠匿とは、卑しい庶民の発想であろうか。 解説: 1. 政策批判部分は現代口語体で「~すべき」「どうして~できよう」等の表現を用い儒教的な諫言調を再現 2. 年号・官職名は適宜説明を付加(例:三師=太師/太傅/太保) 3. 「大盈庫」に「皇帝私蔵」と注記し現代読者への配慮 4. 韓游環の築城失敗描写では工程用語「二版而潰」(型枠2段目で崩壊)を具体的に訳出 5. 司馬光評釈部分は原文の対比構造(王者vs匹夫)を明確化しつつ格言調を保持 注意点: * ルビや返り点排除、漢文訓読体不使用という指示厳守 * 「臣光曰」は当時の史書文体を考慮して「司馬光の論評」と表現 * 固有名詞(李泌・徳宗等)は歴史教科書表記に準拠 Translation took 658.7 seconds. |
| 古人有言曰:貧不學儉。夫多財者,奢欲之所自來也。李泌欲弭德宗之欲而豐其私財,財豐則欲滋矣。財不稱欲,能無求乎!是猶啟其門而禁其出也!雖德宗之多僻,亦泌所以相之者非其道故也。 咸陽人或上言:「臣見白起,令臣奏云:『請為國家幹御西陲。正月,吐蕃必大下,當為朝廷破之以取信。』」既而吐蕃入寇,邊將敗之,不能深入。上以為信然,欲於京城立廟,贈司徒,李泌曰:「臣聞『國將興,聽於人。』今將帥立功而陛下褒賞白起,臣恐邊臣解體矣!若立廟京城,盛為祈禱,流聞四方,將長巫風。今杜郵有舊祠,請敕府縣葺之,則不至驚人耳目矣。且白起列國之將,贈三公太重,請贈兵部尚書可矣。」上笑曰:「卿於白起亦惜官乎!」對曰:「人神一也。陛下倘不之惜,則神亦不以為榮矣。」上從之。泌自陳衰老,獨任宰相,精力耗竭,既未聽其去,乞更除一相。上曰:「朕深知卿勞苦,但未得其人耳。」上從容與泌論即位以來宰相,曰:「盧杞忠清強介,人言杞奸邪,朕殊不覺其然。」泌曰:「人言杞奸邪而陛下獨不覺其奸邪,此乃杞之所以為奸邪也。倘陛下覺之,豈有建中之亂乎!杞以私隙殺楊炎,擠顏真卿於死地,激李懷光使叛,賴陛下聖明竄逐之,人心頓喜,天亦悔禍。不然,亂何由弭!」上曰:「楊炎以童子視朕,每論事,朕可其奏則悅,與之往復問難,即怒而辭位,觀其意以朕為不足與言故也。 |
翻訳文(現代日本語)昔の人はこう言った。「貧しければ倹約を学ぶ必要はない」。財産が多い者こそ、奢侈や欲望が生じる源である。李泌は徳宗皇帝の欲望を抑えようとしながらも私的な財産を増やそうとしたが、財産が豊かになれば欲望はさらに大きくなる。蓄えた財産が欲望に追いつかなければ、求めずにはいられないだろう!これはまるで門を開けながら外に出ることを禁じるようなものだ。徳宗の行いに偏りが多いのも、李泌が補佐する方法を誤ったからである。 咸陽のある者が上奏した。「私は白起(古代の名将)を見ました。彼は『国家のために西方の国境を守らせてほしい』と申しております。正月に吐蕃が大挙侵攻してくるので、朝廷のために撃退し信用を得ようとしています」。ほどなく吐蕃が侵入したが、辺境の将軍がこれを撃退し、深く侵入させなかった。皇帝はこの話を真実だと思い、都に白起の廟を建立して司徒(高官)の称号を贈ろうとした。李泌は言った。「『国が興隆しようとする時は人の意見に耳を傾ける』と聞いております。今、将帥が戦功を立てているのに陛下が白起を称賛なされれば、辺境の臣下たちが失望するでしょう。もし都で廟を建て盛大に祭祀すれば、噂が広まって巫術信仰が蔓延します。杜郵には古い祠があるので、役所に修復させれば人々の耳目を驚かせません。また白起は戦国時代の将軍に過ぎず、三公(最高位)の称号は重すぎます。兵部尚書(国防長官相当)とするのが妥当です」。皇帝は笑って言った。「卿は白起に対しても官位を惜しむのか?」李泌は答えた。「人間も神霊も同じです。陛下が惜しまれなければ、神霊も栄誉とは思わないでしょう」。皇帝はこれに従った。 李泌は自らの老衰を訴え「宰相の重責を一人で担い精力が尽きた」と述べ、辞任が許されないなら副宰相を任命するよう求めた。皇帝は言った。「卿の苦労は深く承知しているが、適任者が見当たらないのだ」。皇帝は気楽な雰囲気で李泌と歴代宰相について語り「盧杞は忠義清廉で意志が強かった。彼を奸臣だと噂する者もいるが、朕には全くそう思えなかった」と言うと、李泌は応じた。「人々が奸臣だと言うのに陛下だけが気づかれない——それがまさに盧杞の奸悪な所以です。もし陛下が認識されていれば、建中の乱(反乱事件)など起きなかったでしょう。彼は私怨で楊炎を殺害し、顔真卿を死地に追い込み、李懐光を挑発して謀反させたのです。陛下の聖明により盧杞が追放された時、人々は喜び天も災禍を悔いました。そうでなければ乱はいかに収まったでしょうか」。皇帝は言った。「楊炎は朕を子供扱いした。議論する際、朕が賛成すれば喜んだが、反論すると怒って辞職しようとした——まるで朕と話す価値がないと言わんばかりだった」。 解説
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| 以是交不可忍,非由杞也。建中之亂,術士豫請城奉天,此蓋天命,非杞所能致也!」泌曰:「天命,他人皆可以言之,惟君相不可言。蓋君相所以造命也。若言命,則禮樂刑政皆無所用矣。紂曰:『我生不有命在天!』此商之所以亡也!」上曰:「朕好與人較量理體:崔祐甫性褊躁,朕難之,則應對失次,朕常知其短而護之。楊炎論事亦有可采,而氣色粗傲,難之輒勃然怒,無復君臣之禮,所以每見令人忿發。餘人則不敢復言。盧杞小心,朕所言無不從。又無學,不能與朕往復,故朕所懷常不盡也。」對曰:「杞言無不從,豈忠臣乎!夫『言而莫予違』,此孔子所謂『一言喪邦』者也!」上曰:「惟卿則異彼三人者。朕言當,卿有喜色;不當,常有憂色。雖時有逆耳之言,如曏來紂及喪邦之類。朕細思之,皆卿先事而言,如此則理安,如彼則危亂,言雖深切而氣色和順,無楊炎之陵傲。朕問難往復,卿辭理不屈,又無好勝之志,直使朕中懷已盡屈服而不能不從,此朕新以私喜於得卿也。」泌曰:「陛下能用相尚多,今皆不論,何也?」上曰:「彼皆非所謂相也。凡相者,必委以政事,如玄宗時牛仙客、陳希烈,可以謂之相乎!如肅宗、代宗之任卿,雖不受其名,乃真相耳。必以官至平章事為相,則王武俊之徒皆相也。」 劉昌復築連雲堡。 夏,四月,乙未,更命殿前左、右射生曰神威軍,與左、右羽林、龍武、神武、神策號曰十軍。 |
現代日本語訳このため彼との関係は耐え難いものとなったが、(李)杞のせいではない。(建中の乱で)占術師があらかじめ奉天城を築くよう進言したのは天命によるものであり、盧杞一人では引き起こせることではない!」と皇帝(徳宗)は反論した。 泌は答えた。「『天命』という言葉は他人が使う分には構いません。しかし君主や宰相だけは口にしてはいけません。なぜなら君相こそ運命を創り出す存在だからです。もしも天命だと言えば、礼楽刑政(統治制度)の全てが無意味になってしまいます。(殷の)紂王が『我が生まれながらの命運は天にある!』と豪語したことが商王朝滅亡の原因なのです。」 皇帝:「朕は人々と政治理論を論じ合うのが好きだ。崔祐甫は気性が激しく短慮だから、詰問すると言葉に詰まってしまう。朕は彼の欠点を知りつつ庇ってきた。楊炎の意見には採用できるものもあるが態度が尊大で、反論すれば激昂して君臣の礼を忘れるため会うたび腹立たしくなる。他の者たちはなおさら発言できない。(盧)杞は慎重に朕の言葉に従い学識もないから議論にならず、そのため朕の考えが常に十分伝えられなかったのだ。」 泌が応じる:「盧杞が陛下の発言を無条件で全て受け入れるなら忠臣とは言えないでしょう。『誰にも逆らわれない』状態こそ孔子が指弾した『一言にして国を滅ぼす』事例です!」 皇帝:「卿だけがあの三人と違うのだ。朕の言葉が正しければ喜びを示し、誤っていれば憂いの表情を見せる。時に耳障りな発言(先ほどの紂王や亡国論など)もあるだろう?しかし熟考すると全て事象に先行して警告していた——こうすれば天下は治まりあのようにすれば乱れると。主張は厳しくとも穏やかな態度で楊炎の横柄さがない。(反対意見にも屈せず朕を心から納得させるその姿勢こそ)朕が密かに卿を得たことを喜ぶ理由だ。」 泌:「陛下には他に多くの宰相候補がいらっしゃるのに、なぜ触れられないのですか?」 皇帝:「彼らは真の宰相とは言えない。本来『相』と称される者は政務を委ねられた者である。(玄宗時代の)牛仙客や陳希烈など果たして宰相と呼べようか?(代々朕のように君主が実質的に政治を任せてこそ本物であり、単に「平章事」という官位を持つ者(王武俊ら軍閥指導者)全てを宰相とするなら話は別だが。」 劉昌ふたたび連雲堡の修築を行う。 夏季四月乙未日、(禁衛兵団改編令により)殿前左・右射生隊を「神威軍」と改名し、左右羽林・龍武・神武・神策軍と合わせて十軍体制とする。 解説
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| 神策尤盛,多戍京西,散屯畿甸。 福建觀察使吳詵,輕其軍士脆弱,苦役之。軍士作亂,殺詵腹心十餘人,逼詵牒大將郝誡溢掌留務。誡溢上表請罪,上遣中使就赦以安之。 乙未,隴右節度使李元諒築良原故城而鎮之。 雲南王異牟尋欲內附,未敢自遣使,先遣其東蠻鬼主驃旁、苴夢沖、苴烏星入見。五月,乙卯,宴之於麟德殿,賜賚甚厚,封王給印而遣之。 辛未,以太子賓客吳湊為福建觀察使,貶吳詵為涪州刺史。 吐蕃三萬餘騎寇涇、邠、寧、慶、鄜等州。先是,吐蕃常以秋冬入寇,及春多病疫退。至是,得唐人,質其妻子,遣其將將之,盛夏入寇。諸州皆城守,無敢與戰者,吐蕃俘掠人畜萬計而去。 夏縣人陽城以學行著聞,隱居柳谷之北,李泌薦之。六月徵拜諫議大夫。 韓游瑰以吐蕃犯塞,自戍寧州。病,求代歸。秋,七月,庚戌,加渾瑊邠寧副元帥,以左金吾將軍張獻甫為邠寧節度使,陳許兵馬使韓全義為長武城行營節度使。獻甫未至,壬子夜,游瑰不告於眾,輕騎歸朝。戍卒裴滿等憚獻甫之嚴,乘無帥之際,癸丑,帥其徒作亂,曰:「張公不出本軍,我必拒之。」因剽掠城市,圍監軍楊明義所居,使奏請范希朝為節度使。都虞侯楊朝晟避亂出城,聞之,復入,曰:「所請甚契我心,我來賀也!」亂卒稍安。朝晟潛與諸將謀,晨勒兵,如亂卒謂曰:「所請不行,張公已至邠州,汝曹作亂當死,不可盡殺,宜自推列唱帥者。 |
現代日本語訳:神策軍は特に勢力が盛んで、多くが京西地方に駐屯し、畿内地域にも分散して配置されていた。 福建観察使・呉詵(ごせん)は配下の兵士たちを見くびって脆弱だと考え、過酷な労役を課した。これにより兵士らが反乱を起こし、呉詵の腹心十余人を殺害するとともに、大将軍である郝誡溢(かくかいいつ)に後任職務を掌握するよう強要した。郝誡溢は朝廷へ罪状を奏上したため、皇帝は宦官を使者として派遣し赦免を与えて事態の鎮静化を図った。 乙未の日、隴右節度使・李元諒(りげんりょう)が良原故城を修築して駐屯地とした。 雲南王・異牟尋(いぼうじゅん)は唐朝への帰順を望んだものの、自ら使者を派遣する決断がつかず、まず配下の東蛮族首長である驃旁(ひょうほう)、苴夢沖(しゃむちゅう)、苴烏星(しゃうせい)を使者として入朝させた。五月乙卯の日には麟徳殿で彼らを饗応し、多額の下賜品を与えるとともに王号を授け印章を与えて帰国させた。 辛未の日、太子賓客であった呉湊(ごそう)を福建観察使に任命すると同時に、前職の呉詵を涪州(ふしゅう)刺史へ左遷した。 吐蕃軍三万騎余が涇・邠・寧・慶・鄜などの諸州に侵攻。従来、吐蕃は秋から冬にかけて侵入する習性があり、春になると疫病で撤退していた。しかし今回は唐の民衆を捕らえその妻子を人質とした上で、自軍将兵と共に盛夏期に進攻してきたため、各州とも城門を閉ざし守りを固め、敢えて迎撃する者はなかった。吐蕃側は数万人規模の住民や家畜を略奪して撤退した。 夏県出身の陽城(ようじょう)は学識と品行で広く知られており、柳谷の北に隠棲していたところを李泌(りひつ)に推挙される。六月になって諫議大夫として招聘された。 韓游瑰(かんゆうかい)は吐蕃が国境を侵犯したため寧州防衛に出向いたが病にかかり、代替要員の派遣を求めて帰還。秋七月庚戌の日、渾瑊(こんかん)に邠寧副元帥職を加増するとともに、左金吾将軍・張献甫(ちょうけんぽ)を邠寧節度使に任命した。さらに陳許兵馬使であった韓全義(かんぜんぎ)を長武城行営節度使とした。 ところが張献甫の到着前である壬子の夜、韓游瑰は軍へ通告せぬまま単騎で帰京した。これにより兵士ら(特に裴満〈はいまん〉ら守備隊)は新司令官・張献甫の厳格さを恐れ、指揮官不在の隙に乗じて癸丑の日に反乱決行。「張公が本軍から出向してくるなら拒絶する」と宣言した上で市内を略奪。監軍・楊明義(ようめいぎ)宅を包囲し、范希朝(はんきちょう)を新節度使とする奏請を強要した。 都虞侯の楊朝晟(ようちょうせい)はいったん避難していたがこの報を知り城内へ戻ると「諸君の要求こそ我が願いだ」と祝意を示して反乱兵らを落ち着かせた。その後ひそかに将校たちと謀議し、翌未明に軍勢を整列させて反乱部隊に向かい、「要望は却下され張公は既に邠州到着した。お前らの叛乱は死罪だが全員処刑はできぬ。主導者だけ名乗り出よ」と通告した。 解説:
※本訳は『資治通鑑』巻第二百三十三・唐紀四十九の記述(主に貞元四年=788年事件)を基に、固有名詞表記等を現代日本語基準で統一。歴史用語については必要最小限の注釈的補足を施した。 Translation took 2288.7 seconds. |
| 」遂斬二百餘人,帥眾迎獻甫。上聞軍眾欲得范希朝,將授之。希朝辭曰:「臣畏游瑰之禍而來,今往代之,非所以防窺覦,安反仄也。」上嘉之,擢為寧州刺史,以副獻甫。游瑰至京師,除右龍武統軍。 振武節度使唐朝臣不嚴斥候,己未,奚、室韋寇振武,執宣慰中使二人,大掠人畜而去。時回紇之眾逆公主者在振武,朝臣遣七百騎與回紇數百騎追之,回紇使者為奚、室韋所殺。 九月,庚申,吐蕃尚志董星寇寧州,張獻甫擊卻之。吐蕃轉掠鄜、坊而去。 元友直句檢諸道稅外物,悉輸戶部,遂為定制,歲於稅外輸百餘萬緡、斛,民不堪命。諸道多自訴於上,上意寤,詔:「今年已入在官者輸京師,未入者悉以與民;明年以後,悉免之。」於是東南之民復安其業。 回紇合骨咄祿可汗得唐許婚,甚喜,遣其妹骨咄祿毘伽公主及大臣妻並國相、趺跌都督以下千餘人來迎可敦,辭禮甚恭,曰:「昔為兄弟,今為子婿,半子也。若吐蕃為患,子當為父除之!」因詈辱吐蕃使者以絕之。冬,十月,戊子,回紇至長安,可汗仍表請改回紇為回鶻,許之。 吐蕃發兵十萬將寇西川,亦發雲南兵。雲南內雖附唐,外未敢叛吐蕃,亦發兵數萬屯於瀘北。韋皋知雲南計方猶豫,乃為書遺雲南王,敘其叛吐蕃歸化之誠,貯以銀函,使東蠻轉致吐蕃。吐蕃始疑雲南,遣兵二萬屯會川,以塞雲南趣蜀之路。 |
現代日本語訳:(前略)結局二百人余りを斬首し、配下を率いて献甫を迎え入れた。皇帝は兵士たちが范希朝の就任を望んでいることを知ると職務を与えようとしたが、希朝は辞退して述べた。「私は游瑰による災いを恐れてここへ参りました。今その代わりに赴くのは、野心家の狙いを防ぎ反乱分子を鎮める方策とはなりません」。皇帝はこれを称賛し、彼を寧州刺史に昇進させて献甫の副官とした。游瑰が都に到着すると右龍武統軍に任命された。 振武節度使・唐朝臣(とうちょうしん)が警戒体制を怠ったため、己未の日(18日)、奚族と室韋が振武を襲撃した。皇帝派遣の中使二人を捕らえ、大量の人畜を略奪して撤退した。この時、皇女を出迎える回紇(ウイグル)集団が振武に滞在しており、朝臣は七百騎の唐兵と数百騎の回紇兵を追撃させたところ、回紇使者が奚・室韋によって殺害された。 九月庚申(19日)、吐蕃(チベット)軍の尚志董星が寧州に侵攻したが張献甫はこれを撃退。吐蕃軍は転じて鄜州と坊州を略奪し撤退した。 元友直が諸地方で法定外税物を取り調べて全て戸部へ納入させたため、これが恒例化した。年間百万緡(銭)・斛(穀物)以上の追加負担となり民衆は耐えられなかった。各地方から皇帝に訴える者が相次いだ結果、皇帝は事態を悟り詔勅を下した。「今年分で既に官庁にあるものは長安へ送れ。未納分は全て民に返還せよ。来年以降は全廃する」。これにより江南地方の民衆は再び生業に就くことができた。 回紇合骨咄禄可汗が唐朝から許婚を得て大いに喜び、妹の骨咄禄毘伽公主や大臣の妻らを含む国相・趺跌都督以下千余人を派遣して皇女を出迎えた。使節は恭順した礼儀で述べた。「かつて兄弟であったものが今では婿となりました。(皇帝にとって)半子です。もし吐蕃が害をなせば、子である私が父のために排除しましょう」。そう言って吐蕃使者を罵倒し関係断絶を示した。冬十月戊子(18日)、回紇使節は長安に到着。可汗は「回鶻」への改名を上奏して許可を得た。 吐蕃は十万の兵を動員して西川侵攻を企てると同時に雲南にも出兵要請した。雲南は内心では唐朝へ従属していたが、表向きは吐蕃への反逆を恐れ数万の兵を瀘水北岸に駐屯させた。韋皋(いこう)は雲南が動揺していると見抜くと、「吐蕃から離れて唐朝帰順する誠意」を示す書状を作成し銀函に入れて東蛮経由で吐蕃へ送らせた。これにより吐蕃側は雲南を疑いはじめ、二万の兵を会川に駐屯させて蜀(西川)方面への通路を封鎖した。 解説:【歴史的背景】本節が描く780年代後半の唐朝は、辺境防衛体制の脆弱性・財政逼迫による民衆負担増加という二重課題に直面していました。特筆すべきは吐蕃と回紇(後の回鶻)を軸とする国際関係で、婚姻同盟や離間工作が複雑に展開されています。 【政治力学】
【国際関係】
【軍事動向】
【社会経済】詔勅による税制修正(未納分返還)は徳政として機能したが、根本的な財政改革には至らず。この後も両税法をめぐる問題が継続することとなる。
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| 雲南怒,引兵歸國。由是雲南與吐蕃相猜阻,歸唐之志益堅。吐蕃失雲南之助,兵勢始弱矣。然吐蕃業已入寇,遂分兵四萬攻兩林驃旁,三萬攻東蠻,七千寇清溪關,五千寇銅山。皋遣黎州刺史韋晉等與東蠻連兵御之,破吐蕃於清溪關外。 庚子,冊命咸安公主,加回鶻可汗號長壽天親可汗。十一月,以刑部尚書關播為送咸安公主兼冊回鶻可汗使。 吐蕃恥前日之敗,復以眾二萬寇清溪關,一萬攻東蠻。韋皋命韋晉鎮要沖城,督諸軍以御之。巂州經略使劉朝彩等出關連戰,自乙卯至癸亥,大破之。 李泌言於上曰:「江、淮漕運,自淮入汴,以甬橋為咽喉,地屬徐州,鄰於李納,刺史高明應年少不習事,若李納一旦復有異圖,竊據徐州,是失江、淮也,國用何從而致!請徙壽、廬、濠都團練使張建封鎮徐州,割濠、泗以隸之。復以廬、壽歸淮南,則淄青惕息而運路常通,江、淮安矣。及今明應幼騃可代,宜徵為金吾將軍。萬一使它人得之,則不可復製矣。」上從之。以建封為徐、泗、濠節度使。建封為政寬厚而有綱紀,不貸人以法,故其下無不畏而悅之。 橫海節度使程日華薨,子懷直自知留後。 吐蕃屢遣人誘脅雲南。 德宗神武聖文皇帝八貞元五年(己巳,公元七八九年) 春,二月,丁亥,韋皋遺異牟尋書,稱:「回鶻屢請佐天子共滅吐蕃,王不早定計,一旦為回鶻所先,則王累代功名虛棄矣。 |
【翻訳文】雲南は怒り、兵を率いて帰国した。これにより雲南と吐蕃は互いに疑い隔たりが生じ、唐に帰順する意志はいっそう固まった。吐蕃は雲南の支援を失い、兵力が初めて弱体化し始めた。しかし吐蕃はすでに侵攻しており、四万の兵を分けて両林驃旁(りょうりんひょうぼう)を攻撃させ、三万で東蛮を攻め、七千を清溪関(せいけいかん)へ、五千を銅山に向かわせた。韋皋(いこう)は黎州刺史・韋晋らに命じ東蛮と連合して防戦にあたらせ、清溪関の外で吐蕃軍を撃破した。 庚子(かのえね)、咸安公主(かんあんこうしゅ)を冊封すると同時に回鶻可汗(かいこつかがん)に長寿天親可汗という称号を加えた。十一月、刑部尚書・関播(かんぱ)を送咸安公主兼冊回鶻可汗使とした。 吐蕃は前日の敗戦を恥じ、再び二万の兵で清溪関を侵攻し、一万で東蛮を攻撃した。韋皋は韋晋に要衝城(ようしょうじょう)を守備させ、諸軍を指揮して防戦にあたらせた。巂州経略使・劉朝彩らが関門から出て連日交戦し、乙卯(きのとう)から癸亥(みずのとい)にかけて大破した。 李泌(りひつ)は帝に進言した。「江・淮からの水運物資は、淮河を経て汴水に入るが、甬橋(ようきょう)がその要衝です。この地は徐州に属し、李納(りのう)と隣接しています。刺史の高明応(こうめいおう)は若年で経験不足であり、もし李納が再び反意を抱いて徐州を占拠すれば、江・淮地域を失い国家財源が枯渇します。寿州・廬州・濠州都団練使の張建封(ちょうけんぽう)を徐州に移鎮させ、濠州・泗州を割いて管轄下に入れることを請います。さらに廬州・寿州は淮南道へ返還すれば、淄青節度使も畏れて水路が確保され江・淮地域は安泰でしょう。今こそ高明応の未熟さを見越して交替させる好機であり、金吾将軍として召し上げるべきです」。帝はこれに従い、張建封を徐・泗・濠節度使とした。彼は施政において寛容ながら綱紀を重んじ、法をもって人を貸さなかったため、配下は皆畏敬して心服した。 横海節度使・程日華(ていじつか)が薨去し、子の懐直(かいちょく)が自ら留後となった。 吐蕃はたびたび使者を送り雲南を誘導脅迫した。 徳宗神武聖文皇帝八 貞元五年(己巳、789年) 春二月丁亥(ひのとみ)、韋皋が異牟尋(いむじん)に書簡を送った。「回鶻が再三、天子補佐と吐蕃討伐への協力を要請している。王が早急に決断しなければ、先手を取られた際には累代の功名も消え失せよう」 【解説】
※ルビ厳禁・原文非掲載の条件に準拠し、固有名詞は原則として当時の漢字表記を保持した。 Translation took 926.3 seconds. |
| 且雲南久為吐蕃屈辱,今不乘此時依大國之勢以復怨雪恥,後悔無及矣。」 戊戌,以橫海留後程懷直為滄州觀察使。懷直請分景城、弓高為景州,仍請朝廷除刺史。上喜曰:「三十年無此事矣!」乃以員外郎徐伸為景州刺史。 中書侍郎、同平章事李泌屢乞更命相。上欲用戶部侍郎班宏,泌言宏雖清強而性多凝滯,乃薦竇參通敏,可兼度支鹽鐵;董晉方正,可處門下。上皆以為不可。參,誕之玄孫也,時為御史中丞兼戶部侍郎;晉為太常卿。至是泌疾甚,復薦二人。庚子,以董晉為門下侍郎,竇參為中書侍郎兼度支轉運使,並同平章事。以班宏為尚書,依前度支轉運副使。參為人剛果峭刻,無學術,多權數,每奏事,諸相出,參獨居後,以奏度支事為辭,實專大政,多引親黨置要地,使為耳目。董晉充位而已。然晉為人重慎,所言於上前者未嘗洩於人,子弟或問之,晉曰:「欲知宰相能否,視天下安危。所謀議於上前者,不足道也。」 三月,甲辰,李泌薨。泌有謀略而好談神仙詭誕,故為世所輕。 初,上思李懷光之功,欲宥其一子,而子孫皆已伏誅。戊辰,詔以懷光外孫燕八八為懷光後,賜姓名李承緒,除左衛率冑曹參軍,賜錢千緡,使養懷光妻王氏及守其基祀。 冬,十月,韋皋遣其將王有道將兵與東蠻、兩林蠻及吐蕃青海、臘城二節度戰於巂州台登谷,大破之,斬首二千級,投崖及溺死者不可勝數,殺其大兵馬使乞藏遮遮。 |
現代日本語訳なお、雲南は長く吐蕃に屈辱を受けてきた。今こそ大国(唐)の威勢を借りて恨みを晴らし恥を雪がねば、後悔しても及ばないであろう。」 戊戌の日、横海留後の程懐直を滄州観察使に任命した。程懐直は景城と弓高を分割して景州を設置するよう請願し、朝廷による刺史の任命も求めた。皇帝(徳宗)は喜んで言った。「三十年間このようなことはなかった!」そこで員外郎・徐伸を景州刺史とした。 中書侍郎で同平章事である李泌が再三にわたり宰相人事の変更を上奏した。帝は戸部侍郎の班宏を登用しようとしたが、李泌は「班宏は清廉で有能だが性格に融通性がない」と述べ、代わりに竇参を推挙し「聡明で度支塩鉄を兼務可能」とし、董晋については「方正な人物だから門下省の要職に適する」とした。帝はいずれも認めなかった。竇参は竇誕の玄孫であり、当時御史中丞兼戸部侍郎、董晋は太常卿であった。この頃李泌が病状悪化したため、再び二人を推挙した。庚子の日、董晋を門下侍郎に、竇参を中書侍郎兼度支転運使とし、ともに同平章事(宰相)とした。班宏は尚書として従来通り度支転運副使を務めることになった。 竇参は剛胆で冷酷、学識もなく権謀術数に長けていた。奏上の際には他の宰相が退出した後、一人残って「度支の報告」と称し、実質的に政権を独占した。多くの身内や党与を要職につけて情報網としたため、董晋は名ばかりの存在となった。しかし董晋は慎重な人物であり、皇帝への進言内容を決して他者に漏らさなかった。子弟が尋ねると「宰相の力量を知りたければ天下の安危を見よ。陛下との謀議など語る価値はない」と答えたという。 三月甲辰、李泌が逝去した。彼は策略家であったが神仙や怪異を好んで説いたため、当時の人々から軽んじられていた。 当初、帝は李懐光の功績に思いを致し、一人の子孫を赦そうとしたが、子孫は全て処刑されていた。戊辰、詔勅により李懐光の外孫・燕八八(えんぱっぱ)を後継ぎとし、「李承緒」の姓名を与えた。左衛率冑曹参軍に任じ銭千緡を賜い、李懐光の妻王氏の扶養と墓祀を命じた。 冬十月、韋皐が配下の将軍・王有道に兵を率いさせ、東蛮・両林蛮および吐蕃の青海・臘城(ろうじょう)両節度使と巂州台登谷で交戦し大勝した。二千の首級を斬り、崖から落ち溺死者は数えきれず、吐蕃の大兵馬使である乞蔵遮遮(きぞうじゃじゃ)も討たれた。 解説
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| 乞藏遮遮,虜之驍將也,既死,皋所攻城柵無不下。數年,盡復巂州之境。 易定節度使張孝忠興兵襲蔚州,驅掠人畜。詔書責之,逾旬還鎮。 瓊州自乾封中為山賊所陷,至是,嶺南節度使李復遣判官姜孟京與崖州刺史張少遷攻拔之。 十二月,庚午,聞回鶻天親可汗薨,戊寅,遣鴻臚卿郭鋒冊命其子為登裡羅沒密施俱祿忠貞毘伽可汗。先是,安西、北庭皆假道於回鶻以奏事,故與之連和。北庭去回鶻猶近,回鶻誅求無厭,又有沙陀六千餘帳與北庭相依。及三葛祿、白服突厥皆附於回鶻,回鶻數侵掠之。吐蕃因葛祿、白服之眾以攻北庭,回鶻大相頡干迦斯將兵救之。 雲南雖貳於吐蕃,亦未敢顯與之絕。壬辰,韋皋復以書招諭之。 德宗神武聖文皇帝八貞元六年(庚午,公元七九零年) 春,詔出岐山無憂王寺佛指骨迎置禁中,又送諸寺以示眾,傾都瞻禮,施財巨萬;二月,乙亥,遣中使復葬故處。 初,朱滔敗於貝州,其棣州刺史趙鎬以州降於王武俊,既而得罪於武俊,召之不至。田緒殘忍,其兄朝,仕李納為齊州刺史。或言納欲納朝於魏,緒懼;判官孫光佐等為緒謀,厚賂納,且說納招趙鎬取棣州以悅之,因請送朝於京師。納從之。丁酉,鎬以棣州降於納。三月,武俊使其子士真擊之,不克。 回鶻忠貞可汗之弟弒忠貞而自立,其大相頡干迦斯西擊吐蕃未還,夏,四月,次相帥國人殺篡者而立忠貞之子阿啜為可汗,年十五。 |
現代語訳乞蔵遮遮(きっぞうしゃしゃ)は吐蕃の勇将であったが戦死して以降、韋皋(いこう)が攻める城柵は次々に陥落した。数年で巂州(すいしゅう)一帯を完全に奪還した。 易定節度使・張孝忠(ちょうこうちゅう)が軍勢を起こして蔚州(うずしゅう)を急襲し、住民や家畜を略奪。朝廷から詔書で譴責を受けると、十日程で本拠地に戻った。 瓊州(けいしゅう)は乾封年間(666-668年)より山賊の占領下にあったが、この時嶺南節度使・李復(りふく)が判官・姜孟京(きょうもうけい)と崖州刺史・張少遷(ちょうしょうせん)を派遣し奪還した。 12月庚午日、回鶻の天親可汗(てんしんかがん)死去の報を受ける。戊寅日、鴻臚卿・郭鋒(こうりょけい・かくほう)を使節として派遣し、その子を「登里羅没密施俱禄忠貞毘伽可汗」(とうりらもつみしくろくちゅうていひがかがん)に冊封した。従来より安西都護府と北庭都護府は回鶻領通過で朝廷へ連絡しており、同盟関係が必要であった。特に回鶻に近い北庭は絶えざる物資要求に苦しみ、さらに沙陀族(さだぞく)6千帳が駐屯していた。三葛禄部(さんかつろくぶ)や白服突厥(はくふくとっけつ)も帰属したため侵攻が激化し、吐蕃は彼らの兵力で北庭を攻撃。これに対し回鶻大相・頡干迦斯(きつかんかす)が救援軍を率いた。 雲南(南詔)は吐蕃に従属姿勢を見せながらも公然とは断交せず、壬辰日には韋皋が書簡による帰順勧告を再発した。 徳宗神武聖文皇帝紀 八/貞元六年(790年) 春の詔により岐山無憂王寺(きざんむゆうおうじ)の仏舎利を宮中に迎え奉り、後に諸寺院で公開。都中の参拝者が巨万の財物を捧げる盛況となる。2月乙亥日、宦官を使者として元の安置場所へ返還した。 初め朱滔(しゅとう)が貝州で敗北した際、配下の棣州刺史・趙鎬(ちょうこう)は王武俊(おうぶしゅん)に降ったが後に不和となり召喚を拒否。一方、残忍な田緒(でんちょ/魏博節度使)は兄・田朝(でんちょう)が李納(りのう)配下の斉州刺史であることに危惧を抱く。判官・孫光佐(そんこうさ)ら献策「李納へ厚い賄賂を贈り『趙鎬を使嗾して棣州を奪わせれば利益となる』と提案し、加えて田朝を長安送致するよう依頼すべし」を実行。これを受諾した李納は丁酉日、趙鎬に棣州明け渡しを命じた。3月、王武俊が子・士真(しん)に攻撃させるも奪還ならず。 回鶻では忠貞可汗の弟が簒弑して自立するが、大相・頡干迦スは吐蕃征伐で不在。夏4月、次相が国人を率いて簒位者を殺害し、15歳の阿啜(あせつ/忠貞可汗の子)を新可汗に擁立した。 解説
※表記原則:固有名詞は原典漢字表記を保持し、現代日本語で理解可能な範囲での読み(例:頡干迦ス)を付した。ルビ記載は厳禁という指示に従い排除。 Translation took 1986.1 seconds. |
| 五月,王武俊屯冀州,將擊趙鎬,鎬帥其屬奔鄆州。李納分兵據之。田緒使孫光佐如鄆州,矯詔以棣州隸納。武俊怒,遣其子士清伐貝州,取經城等四縣。 回鶻頡干迦斯與吐蕃戰不利,吐蕃急攻北庭。北庭人苦於回鶻誅求,與沙陀酋長朱邪盡忠皆降於吐蕃。節度使楊襲古帥麾下二千人奔西州。六月,頡干迦斯引兵還國,次相恐其有廢立,與可汗皆出郊迎,俯伏自陳擅立之狀,曰:「今日惟大相死生之。」盛陳郭鋒所□國信,悉以遺之。可汗拜且泣曰:「兒愚幼,若幸而得立,惟仰食於阿多,國政不敢豫也。」虜謂父為阿多,頡干迦斯感其卑屈,持之而哭,遂執臣禮,悉以所遺頒從行者,己無所受。國中由是稍安。秋,頡干迦斯悉舉國兵數萬,召楊襲古,將復北庭,又為吐蕃所敗,死者大半。襲古收餘眾數百,將還西州,頡干迦斯紿之曰:「且與我同至牙帳,當送君還朝。」既而留不遣,竟殺之。安西由是遂絕,莫知存亡,而西州猶為唐固守。葛祿乘勝取回鶻之浮圖川,回鶻震恐,悉遷西北部落於牙帳之南以避之。遣達北特勒梅錄隨郭鋒偕來,告忠貞可汗之喪,且求冊命。先是,回鶻使者入中國,禮容驕慢,刺史皆與之鈞禮。梅錄至豐州,刺史李景略欲以氣加之,謂梅錄曰:「聞可汗新沒,欲申吊禮。」景略先據高壟而坐,梅錄俯僂前哭。景略撫之曰:「可汗棄代,助爾哀慕。 |
現代日本語訳:五月、王武俊が冀州に駐屯して趙鎬を討伐しようとしたところ、鎬は配下を率いて鄆州へ逃亡した。李納は軍勢を分派しこの地を占拠する。田緒は孫光佐を使者として鄆州に派遣し、詔勅(皇帝の命令)を偽って棣州を李ナルの管轄下とした。これに激怒した武俊は息子・士清に貝州攻撃を命じ、経城など四県を占領する。 ウイグルの頡干迦スが吐蕃との戦いに敗れたため、吐蕃軍は北庭への猛攻を強めた。北庭の住民はウイグルからの過酷な税徴収に苦しみ、沙陀族首長・朱邪盡忠と共に吐蕃へ降伏した。節度使・楊襲古は配下二千人を率いて西州へ逃亡する。六月、頡干迦スが軍を本国へ撤退させると、次相(宰相代理)は自身の廃位を恐れ、可汗(君主)と共に都郊外に出迎え、地面に伏して正式な手続きなしに可汗を擁立した経緯を陳謝し「今日の我々の命運は大相(頡干迦ス)次第です」と訴えた。唐使・郭鋒が携えた国書や贈答品を全て進呈すると、可汗は拝礼しながら泣いて述べた。「私は愚かで未熟です。もし即位をお許しいただけるなら、アダ(父上)のご指導に従い政治には干渉しません」。ウイグル語で「父親」を意味する「アダ」という呼称を用いた可汗の謙虚な態度に頡干迦スは感動して抱き泣き、臣下として礼節を守った。贈られた品々は全員に分配され自身は一切受け取らず、国内情勢は次第に安定した。 秋、頡干迦スが全国から数万の兵力を結集し楊襲古を招いて北庭奪還を図るも、再び吐蕃に大敗して大半が戦死。襲古は残兵数百人をまとめて西州へ帰還しようとしたが、頡干迦スは「まず私と共に司令部(牙帳)に行こう。朝廷への送還を取り計らう」と偽り留め置き、結局殺害した。これにより安西域との連絡は完全途絶し消息不明となる中、西州だけが唐のために守られ続けた。 葛祿族が勝利に乗じてウイグルの浮図川を占領すると、ウイグル朝廷は恐慌状態となり西北部の遊牧集団全てを司令部南方へ避難させた。使者・達北特勒梅錄(テベトリン・メイル)を郭鋒と共に唐へ派遣し「忠貞可汗逝去」を通報すると同時に、新可汗への正式承認(冊命)を要請した。 従来ウイグル使節は中国内で傲慢な態度を示し、刺史(地方長官)らも対等の礼遇を与えていた。しかし梅錄が豊州へ到着すると、刺史・李景略は威圧しようと企て「可汗崩御を聞き弔問したい」と言いながら高座に堂々と腰掛けたところ、梅錄はうつむいて進み出ると大声で泣き始めた。景略が彼の背中を撫でながら「可汗逝去の悲しみを共にする」となだめる一幕があった。 解説:歴史的背景 - ウイグル帝国の衰退期: 吐蕃(チベット系王朝)との戦闘に連敗、内部では頡干迦スが実権掌握。可汗擁立場面に見られる「擬制的父子関係」は遊牧国家特有の権力調整手段。 - 唐王朝の辺境統制崩壊: 北庭・安西両都護府(西域支配拠点)喪失を示す楊襲古殺害事件。西州のみが唐領として残存した現実に、当時の国境線後退を象徴。 人間描写の深層 1. 頡干迦スの二面性: 可汗への情誼(抱擁と臣下の礼)vs楊襲古に対する冷酷さ(騙し討ち)。遊牧指導者としての保身戦略が透ける。 2. 梅録の演技的服従: 「使者の号泣」は弱体化したウイグル外交団が唐官憲前で強いられた儀礼的行動。かつての「驕慢な態度」との対比に時代変化を表現。 政治力学 - 冊命要請の本質: 忠貞可汗逝去報告と新可汗承認要求は、遊牧国家が中原王朝の権威(唐皇帝)を利用して内政安定化を図る常套手段。 - 李景略の行動意図: 「高座での待機」演出は軍事力衰退したウイグルへの優位性誇示。刺史レベルの官人すら以前とは異なる対応を示せるほど、両勢力関係が逆転していた証左。 戦史的特徴 - 葛祿族の浮図川占領→ウイグルの牙帳南遷は連鎖的弱体化現象を表す。吐蕃に敗れ内部崩壊する中、新たな部族勢力(葛祿)が台頭する中央アジア情勢を凝縮。 ※本訳では『資治通鑑』原文の紀年体形式を改め、現代日本語としての流麗さを優先。固有名詞は現行表記(ウイグル/吐蕃等)で統一し、歴史用語には必要に応じ注釈的補足を行った。「アダ」「牙帳」など遊牧民族特有の語彙は意訳せず文化背景を保持。 Translation took 2034.9 seconds. |
| 」梅錄驕容猛氣索然俱盡。自是回鶻使至,皆拜景略於庭,威名聞塞外。冬,十月,辛亥,郭鋒始自回鶻還。 十一月,庚午,上祀圓丘。 上屢詔李納以棣州歸王武俊,納百方遷延,請以海州易之於朝廷。上不許。乃請詔武俊先歸田緒四縣,上從之。十二月,納始以棣州歸武俊。 德宗神武聖文皇帝八貞元七年(辛未,公元七九一年) 春,正月,己巳,襄王黃薨。 二月,癸卯,遣鴻臚少卿庾鋌冊回鶻奉誠可汗。 戊戌,詔涇原節度使劉昌築平涼故城,以扼彈箏峽口。浹辰而畢,分兵戍之。昌又築朝谷堡。甲子,詔名其堡曰彰信,涇原稍安。 初,上還長安,以神策等軍有衛從之勞,皆賜名興元元從奉天定難功臣,以官領之,撫恤優厚。禁軍恃恩驕橫,侵暴百姓,陵忽府縣,至詬辱官吏,毀裂案牘。府縣官有不勝忿而刑之者,朝笞一人,夕貶萬里,由是府縣雖有公嚴之官,莫得舉其職。市井富民,往往行賂寄名軍籍,則府縣不能制。辛巳,詔:神威、六軍吏士與百姓訟者,委之府縣,小事牒本軍,大事奏聞。若軍士陵忽府縣,禁身以聞,委御史臺推覆。縣吏輒敢笞辱,必從貶謫。 癸未,易定節度使張孝忠薨。 安南都護高正平重賦斂,夏,四月,群蠻酋長杜英翰等起兵圍都護府,正平以憂死。群蠻聞之皆降。五月,辛巳,置柔遠軍於安南。 |
現代日本語訳:梅録の傲慢な態度と荒々しい気性はたちまち消え失せた。その後ウイグルからの使者が訪れる度に、朝廷で景略に対して礼を尽くすようになり、その威名は国境を越えて知れ渡った。冬十月辛亥(24日)、郭鋒が初めてウイグルから帰還した。 十一月庚午(14日)、皇帝は円丘で天を祀る儀式を行った。 皇帝は再三にわたり李納に対し、棣州を王武俊へ返還するよう命じた。しかし李納はあらゆる手段を用いて引き延ばし、朝廷に対して海州との交換を持ちかけた。皇帝がこれを認めなかったため、「まず詔勅で王武俊に田緒の四県を返還させること」と提案すると、皇帝はこれを受け入れた。十二月になって李納はようやく棣州を王武俊へ引き渡した。 徳宗神武聖文皇帝 貞元七年(辛未年・791年) 春正月己巳(14日)、襄王黄が逝去。 二月癸卯(19日)、鴻臚少卿の庾鋌を使者として派遣し、ウイグルの奉誠可汗を冊封した。戊戌(14日)には詔勅で涇原節度使劉昌に平涼故城の修築を命じ、弾箏峡口の要衝を押さえさせた。工事は十二日間で完了し、兵士を分けて守備につかせた。さらに劉昌が朝谷堡を増築すると、甲子(10日)に詔勅により「彰信」と命名され、涇原地域は次第に安定に向かった。 かつて皇帝が長安へ帰還した際、神策軍ら禁軍の護衛功績に対し「興元元従奉天定難功臣」の称号を授け官職を与えるなど厚遇していた。しかし彼らは恩寵を盾に横暴となり、民衆を侵害し地方官府を見下して侮り、役人への罵倒や公文書破棄も頻発した。府県官吏が憤慨して兵士を処罰すると「朝に一人鞭打てば夕には万里離れた地へ左遷」されるため、公正な官僚も職務遂行できなかった。町の富裕層は賄賂で軍籍登録し、これにより府県の統制が不能となっていた。 辛巳(27日)に詔勅発令:「神威・六軍と民間人の訴訟は全て府県へ委ねる。小事なら該当部隊へ通達し大事は上奏せよ。兵士が府県を侮辱した場合は拘束して報告させ御史台で審理する。官吏の私的制裁は厳罰に処す」 癸未(29日)、易定節度使張孝忠逝去。 安南都護高正平が重税を課したため、夏四月に蛮族首長杜英翰らが蜂起し都護府を包囲。彼は憂慮のうちに死去すると諸部族は降伏した。五月辛巳(18日)、安南に柔遠軍を設置。 解説:
※歴史的意義:本節には「徳宗中興」と呼ばれる貞元改革期の特徴——藩鎮妥協・禁軍統制・辺境安定化の三要素が凝縮。ただし後世に続く宦官掌握下の神策軍問題は未解決のまま残された。 Translation took 1770.5 seconds. |
| 端王遇薨。 韋皋比年致書招雲南王異牟尋,終未獲報。然吐蕃每發雲南兵,雲南與之益少。皋知異牟尋心附於唐,討擊副使段忠義,本閣羅鳳使者也。六月,丙申,皋遣忠義還雲南,並致書敦諭之。 秋,七月,戊寅,以定州刺史張升雲為義武留後。 庚辰,以虔州刺史趙昌為安南都護,群蠻遂安。 八月,丙午,以翰林學士陸贄為兵部侍郎,餘職皆解。竇參惡之也。 吐蕃攻靈州,為回鶻所敗,夜遁。九月,回鶻遣使來獻俘。冬,十二月,甲午,又遣使獻所獲吐蕃酋長尚結心。 福建觀察使吳湊,為治有聲,竇參以私憾毀之,且言其病風。上召至京師,使之步以察之,知參之誣,由是始惡參。丁酉,以湊為陝虢觀察使以代參黨李翼。 睦王述薨。 吐蕃知韋皋使者在雲南,遣使讓之。雲南王異牟尋紿之曰:「唐使,本蠻也,皋聽其歸耳,無它謀也。」因執以送吐蕃。吐蕃多取其大臣之子為質,雲南愈怨。勿鄧酋長苴夢沖,潛通吐蕃,扇誘群蠻,隔絕雲南使者。韋皋遣三部落總管蘇峞將兵至琵琶川。 |
現代日本語訳端王李遇が逝去した。 韋皋(いこう)は毎年書簡を送って雲南王・異牟尋(いぼくじん)を招いたが、ついに返答を得られなかった。しかし吐蕃(とばん)が雲南兵を動員する際に、雲南側の協力は次第に減っていった。韋皋は異牟尋が心の中で唐への帰順を望んでいることを察知した。討撃副使・段忠義(だんちゅうぎ)は元々閣羅鳳(かくらほう)の使者だった人物である。六月丙申の日、韋皋は忠義を雲南に派遣し、同時に親書を送って帰順を強く勧告した。 秋七月戊寅の日、定州刺史・張升雲(ちょうしょううん)を義武軍留後(ぎぶぐんりゅうご)に任命した。庚辰の日には虔州刺史・趙昌(ちょうしょう)を安南都護(あんなんどこ)とし、これにより南方諸民族は平穏になった。 八月丙午の日、翰林学士・陸贄(りくし)を兵部侍郎に任命したが、他の役職は全て解かれた。これは宰相・竇参(とうさん)による嫌がらせであった。吐蕃が霊州を攻撃したが回鶻(ウイグル)に敗れ、夜陰に乗じて撤退した。九月、回鶻が使者を派遣して捕虜を献上した。冬十二月甲午の日には再び使者を送り、捕えた吐蕃の首長・尚結心(しょうけっしん)を献じた。 福建観察使・呉湊(ごそう)は善政で評判だったが、竇参が私怨から彼を誹謗し「中風である」と讒言した。皇帝は都に召還して歩行検査を行わせた結果、誣告だと判明し、ここに至って竇参への不信感を持ち始めた。丁酉の日、呉湊を陝虢観察使(かんかくかんさつし)とし、竇参派の李翼(りよく)と交代させた。 睦王・李述が逝去した。 吐蕃は韋皋の使者が雲南にいることを知ると、抗議のために自らも使者を派遣した。雲南王・異牟尋は「唐使などただの蛮族だ。帰国を許可されただけである」と偽って説明し、段忠義を捕えて吐蕃側へ引き渡した。吐蕃が多くの重臣の息子を人質に取ったことで、雲南の不満はさらに高まった。勿鄧(ぼっとう)部族長・苴夢沖(そむちょう)が密かに吐蕃と通じ、諸民族を扇動して唐から派遣された使者を妨害したため、韋皋は三部落総管・蘇峞(そかい)に琵琶川への出兵を命じた。 解説
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| input text 資治通鑑\234_唐紀_50.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百三十四 唐紀五十 起玄黓涒灘,盡閼逢閹茂五月,凡二年有奇。 德宗神武聖文皇帝九貞元八年(壬申,公元七九二年) 春,二月,壬寅,執夢沖,數其罪而斬之。雲南之路始通。 三月,丁丑,山南東道節度使曹成王皋薨。 宣武節度使劉玄佐有威略,每李納使至,玄佐厚結之,故常得其陰事,先為之備。納憚之。其母雖貴,日織絹一匹,謂玄佐曰:「汝本寒微,天子富貴汝至此,必以死報之!」故玄佐始終不失臣節。庚午,玄佐薨。 山南東道節度判官李實知留後事,性刻薄,裁損軍士衣食。鼓角將楊清潭帥眾作亂。夜焚掠城中,獨不犯曹王皋家。實逾城走免。明旦,都將徐誠縋城而入,號令禁遏,然後止。收清潭等六人斬之。實歸京師,以為司農少卿。實,元慶之玄孫也。丙子,以荊南節度使樊澤為山南東道節度使。 初,竇參為度支轉運使,班宏副之。參許宏,俟一歲以使職歸之。歲餘,參無歸意,宏怒。司農少卿張滂,宏所薦也,參欲使滂分主江、淮鹽鐵,宏不可。滂知之,亦怨宏。及參為上所疏,乃讓度支使於宏,又不欲利權專歸於宏,乃薦滂於上。以宏判度支,以滂為戶部侍郎、鹽鐵轉運使,仍隸於宏以悅之。 竇參陰狡而愎,恃權而貪,每遷除,多與族子給事中申議之。申招權受賂,時人謂之「喜鵲」。 |
訳文資治通鑑 巻二百三十四 唐紀五十 玄黓涒灘(壬申)の年より閼逢閹茂五月まで、凡そ二年余り。 徳宗神武聖文皇帝九 貞元八年(壬申、西暦792年) 春二月壬寅、夢沖を捕らえ、その罪状を数えて斬刑に処した。これにより雲南への道が初めて開通する。 三月丁丑、山南東道節度使・曹成王李皋が薨去した。 宣武節度使の劉玄佐は威厳と謀略を持ち、李納の使者が訪れるたびに手厚くもてなし、常に内情を入手して事前に対策を講じていたため、李納は彼を恐れた。母(趙氏)は身分が高くなっても毎日絹一匹を織り続け、「お前は元々貧しい身分だったが天子の恩でこの地位を得たのだから、必ず命を捧げて報いよ」と諭したため、玄佐は終始臣下としての節義を守った。庚午(三月)、玄佐は薨去する。 山南東道節度判官・李実が留後事務を代行していたが性質が冷酷で、兵士たちの衣食を削減した。鼓角将の楊清潭が配下を率いて反乱を起こし、夜間に街中で放火略奪を行ったが、曹王皋(李皋)の家だけは侵さなかった。李実は城壁を越えて逃亡し難を逃れた。翌朝、都將・徐誠が縄梯子で城内に入り厳命を下して鎮圧した後、ようやく収束する。楊清潭ら六名を捕らえ斬首した。李実は長安に戻ると司農少卿に任命された(彼は李元慶の玄孫である)。丙子(三月)、荊南節度使・樊沢が山南東道節度使となる。 当初、竇参が度支転運使を務めていた時、班宏が副官として補佐していた。竇参は「一年後に職位を譲る」と班宏に約束したが期限後も譲らず、怒りを買う。司農少卿・張滂(班宏の推挙で登用された者)について、竇参が江・淮地方の塩鉄専売管理を分担させようとした際、班宏は反対し、これに不快感を持った張滂もまた班宏を恨んだ。その後、竇参が皇帝(徳宗)から疎まれると、度支使職を班宏に譲るふりをしながら実権独占を阻むため、わざわざ張滂を推薦した。結局、班宏は判度支(財政長官代理)、張滂が戸部侍郎兼塩鉄転運使となり、形式上は班宏の管轄下に置かれて体裁を取り繕った。 竇参は陰険で頑固な性格であり、権勢を笠に着て私利を貪っていた。人事異動がある度に族子(同族)の給事中・竇申と相談したため、賄賂介入が横行し、当時の人々から「カササギ」(利益誘導で騒ぐ鳥)と嘲笑されていた。 解説
(本訳文では『資治通鑑』胡三省注や唐代職官制度研究の成果を参照しつつ、歴史叙述のリズム維持に留意した) Translation took 922.5 seconds. |
| 上頗聞之,謂參曰:「申必為卿累,宜出之以息物議。」參再三保其無他,申亦不悛。左金吾大將軍虢王則之,巨之子也,與申善,左諫議大夫、知制誥吳通玄與陸贄不葉,竇申恐贄進用,陰與通玄、則之作謗書以傾贄。上皆察知其狀。夏,四月,丁亥,貶則之昭州司馬,通玄泉州司馬,申道州司馬。尋賜通玄死。 劉玄佐之喪,將佐匿之,稱疾請代,上亦為之隱,遣使即軍中問:「以陝虢觀察使吳湊為代可乎?」監軍孟介、行軍司馬盧瑗皆以為便,然後除之。水奏行至汜水,玄佐之柩將發,軍中請備儀仗,瑗不許,又令留器用以俟新使。將士怒。玄佐之婿及親兵皆被甲,擁玄佐之子士寧釋縗絰,登重榻,自為留後。執城將曹金岸、浚儀令李邁,曰:「爾皆請吳湊者!」遂咼之。盧瑗逃免。士寧以財賞將士,劫孟介以請於朝。上以問宰相,竇參曰:「今汴人指李納以邀制命,不許,將合於納。」庚寅,以士寧為宣武節度使。士寧疑宋州刺史崔良佐不附己,託言巡撫,至宋州,以都知兵馬使劉逸准代之。逸准,正臣之子也。 乙未,貶中書侍郎、同平章事竇參為郴州別駕,貶竇申錦州司戶。以尚書左丞趙憬、兵部侍郎陸贄並為中書侍郎、同平章事。憬,仁本之曾孫也。 張滂請鹽鐵舊簿於班宏,宏不與。滂與宏共擇巡院官,莫有合者,闕官甚多。 |
現代日本語訳皇帝はこの件をかなり聞き及んでいて、竇参に言った。「申(竇申)は必ずやお前に災いをもたらすだろう。世間の非難を鎮めるためにも彼を左遷すべきだ。」竇参は再三「何の問題もありません」と保証したが、竇申は改めようとしなかった。 左金吾大将軍・虢王李則之(李巨の子)は竇申と親しく、左諫議大夫で詔勅起草を担当する呉通玄は陸贄と不仲だった。竇申は陸贄が重用されることを恐れ、密かに呉通玄・李則之と結託して中傷文書を作り、陸贄を失脚させようとした。 皇帝はこの計画の全容を見抜いていた。夏四月丁亥(三日)、李則之を昭州司馬に、呉通玄を泉州司馬に、竇申を道州司馬にそれぞれ左遷した。まもなく呉通玄には死が賜られた。 劉玄佐の死後、配下の将軍たちはこれを隠し「病気なので後任を」と奏上した。皇帝も事実を伏せて使者を派遣し軍中で問うた。「陝虢観察使・呉湊を後任とするのはどうか?」監軍の孟介、行軍司馬の盧瑗はともに適任だと返答したため、正式に任命した。 任命書が汜水に届いた時、劉玄佐の棺が出発しようとしていた。軍中で儀仗兵を整えようとしたが盧瑗が許さず、「新しい長官のために器物を残せ」と命じた。将兵は激怒し、劉玄佐の女婿と親衛隊が甲冑をつけ、喪服姿の劉玄佐の子・劉士寧を擁立して高座に据え「留後(代理長官)とした」。彼らは城将・曹金岸と浚儀県令・李邁を捕らえて「お前たちが呉湊推挙の張本人だ!」と言い、その耳鼻を削ぎ落とした。盧瑗は逃亡して難を逃れた。 劉士寧は財貨で将士を買収し、孟介を脅迫して朝廷に圧力をかけた。皇帝が宰相に諮ると、竇参は言った。「今、汴州の者どもが李納(反乱軍首領)と結ぶと仄めかして任命を強要している。承諾しなければ本当に手を組むでしょう」。 庚寅(六日)、劉士寧を宣武節度使に任じた。劉士寧は宋州刺史・崔良佐が自分に従わないのではと疑い、巡察を口実に宋州へ赴くと、都知兵馬使・劉逸準(劉正臣の子)で代替させた。 乙未(十一日)、中書侍郎・同平章事の竇参は郴州別駕に左遷され、竇申は錦州司戸に降格された。代わりに尚書左丞・趙憬と兵部侍郎・陸贄がともに中書侍郎・同平章事となった(宰相登用)。趙憬は趙仁本の曾孫である。 張滂が塩鉄事業の旧記録を班宏に請求したが、班宏は応じなかった。二人で巡察官を選考すると意見が全く合わず、欠員が続出する事態となった。 解説
※全体を通じ『資治通鑑』特有の「教訓的筆法」が顕著。特に支配層への警句として: - 「私怨で他者を陥れようとすれば自滅する」(竇申らの末路) - 「武力・金力に頼る権力は長続きしない」(劉士寧の強行手段) を読者へ暗示している。 Translation took 991.4 seconds. |
| 滂言於上曰:「如此,職事必廢,臣罪無所逃。」丙午,上命宏、滂分掌天下財賦,如大歷故事。 壬子,吐蕃寇靈州,陷水口支渠,敗營田。詔河東、振武救之,遣神策六軍二千戍定遠、懷遠城。吐蕃乃退。 陸贄請令台省長官各舉其屬,著其名於詔書,異日考其殿最,並以升黜舉者。五月,戊辰,詔行贄議。未幾,或言於上曰:「諸司所舉皆有情故,或受貨賂,不得實才。」上密諭贄:「自今除改,卿宜自擇,勿任諸司。」贄上奏,其略曰:「國朝五品以上,制敕命之,蓋宰相商議奏可者也。六品以下則旨授,蓋吏部銓材署職,詔旨畫聞而不可否者也。開元中,起居、遺、補、御史等官,猶並列於選曹。其後幸臣專朝,捨僉議而重己權,廢公舉而行私惠,是使周行庶品,苛不出時宰之意,則莫致也。」又曰:「宣行以來,才舉十數,議其資望,既不愧於班行,考其行能,又未聞於闕敗。而議者遽以騰口,上煩聖聰。道之難行,亦可知矣!請使所言之人指陳其狀,某人受賄,某舉有情,付之有司,核其虛實。謬舉者必行其罰,誣善者亦反其辜。何必貸其奸贓,不加辯詰,私其公議,不出主名,使無辜見疑,有罪獲縱,枉直同貫,人何賴焉!又,宰相不過數人,豈能遍諳多士!若令悉命群官,理須展轉詢訪,是則變公舉為私薦,易明揚以暗投,情故必多,為弊益甚。 |
現代日本語訳滂(ほう)が皇帝に上奏した:「このままでは職務は必ず停滞し、臣の罪は逃れる余地もありません」。丙午(へいご)の日、皇帝は宏(こう)と滂に命じて天下の財賦を分担管理させ、大暦年間(だいりゃくねんかん)の先例通りとした。 壬子(じんし)の日に吐蕃(とばん)が霊州(れいしゅう)へ侵攻。水路支流を占拠し、営田制度を破壊したため、詔勅で河東(かとう)、振武(しんぶ)両軍に救援を命じると共に、神策六軍から二千兵を定遠城・懐遠城へ派遣して防衛させた。これにより吐蕃は撤退した。 陸贄(りくし)が建議:「各省の長官それぞれが配下を推挙させるよう詔書で明記し、後日その成績優劣によって推薦者本人も昇進・降格の対象とするべきです」。五月戊辰(ぼしん)の日に皇帝は陸贄案を採用。しかし間もなくある者が皇帝に注進:「各官庁の推挙は全て私情や賄賂によるもので、真の人材を得られていません」。皇帝は密かに陸贄へ下命:「今後は人事異動を卿自ら選定せよ。諸官庁任せにするな」。 これに対し陸贄が上奏した要旨: 「本朝では五品以上は制勅(皇帝裁可)任命で、宰相の協議が必要です。六品以下は『旨授』と称し、吏部が適性評価後に職位を決定します(詔書形式のみ)。開元時代には起居郎・拾遺・補闕・御史なども選考対象でしたが、後世に権臣が専横すると集議を廃し私権を強化。公的推挙を止めて私的利益供与を行い、要職は全て宰相の意向次第となりました」 さらに述べた: 「新制度実施後の十数名を見れば、経歴・声望も官界水準に達し、能力不足や失敗例も聞かれません。にもかかわらず批判が噴出して聖聴を煩わせるとは、正道の困難さを示しています!告発者には具体的な証拠(誰が賄賂を受け、どの推挙に私情があるか)を提出させ司法機関で真偽を究明すべきです。誤った推薦は罰し、誣告した者は反坐刑とすればよい。なぜ証拠も取調べず、匿名のまま公議を歪めるのか?これでは無実者が疑われ有罪者を見逃す矛盾が生じます」 最後に指摘: 「宰相は数人で全ての人材を知り得ません。もし全官僚に推挙させれば迂回調査となり『私的推薦』へ変質します。匿名方式は更なる不正を招くでしょう」 解説歴史的背景
制度的焦点
陸贄の主張核心
当時の政治的リアリティ皇帝が陸贄に「君が直接選べ」と命じた背景には:
1. 官僚機構への不信(賄賂蔓延の実態)
2. 効率性追求(迅速な人事決定要請)
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| 所以承前命官,罕不涉謗。雖則秉鈞不一,或自行情,亦由私訪所親,轉為所賣。其弊非遠,聖鑒明知。」又曰:「今之宰相則往日台省長官,今之台省長官乃將來之宰相,但是職名暫異,固非行舉頓殊。豈有為長官之時則不能舉一二屬吏,居宰相之位則可擇千百具僚。物議悠悠,其惑斯甚。蓋尊者領其要,卑者任其詳,是以人主擇輔臣,輔臣擇庶長,庶長擇佐僚,將務得人,無易於此。夫求才貴廣,考課貴精。往者則天欲收人心,進用不次,非但人得薦士,亦得自舉其才。然而課責既嚴,進退皆速,是以當代謂知人之明,累朝賴多士之用。」又曰:「則天舉用之法傷易而得人,陛下慎簡之規太精而失士。」上竟追前詔不行。 癸酉,平盧節度使李納薨。軍中推其子師古知留後。 六月,吐蕃千餘騎寇涇州,掠田軍千餘人而去。 嶺南節度使奏:「近日海舶珍異,多就安南市易,欲遣判官就安南收市,乞命中使一人與俱。」上欲從之,陸贄上言,以為:「遠國商販,惟利是求,緩之斯來,擾之則去。廣州素為眾舶所湊,今忽改就安南,若非侵刻過深,則必招攜失所,曾不內訟,更蕩上心。況嶺南、安南,莫非王土,中使、外使,悉是王臣,豈必信嶺南而絕安南,重中使以輕外使。所奏望寢不行。」 秋,七月,甲寅朔,戶部尚書判度支班宏薨。 |
現代日本語訳:「これまでの人事任命は、ほとんど誹謗に巻き込まれないことはなかった。権力を握る者が複数いるため自らの感情で動く場合もあるが、親しい者を私的に訪問した結果、かえって彼らに裏切られることもある。この弊害の原因は遠くなく、陛下の明察もご存知のはずだ」また述べた。「現在の宰相はかつての省庁長官であり、今の省庁長官はいずれ将来の宰相となる。職名が一時的に異なるだけで、その行動や推挙が突然変わるわけではない。どうして長官時代に一二人の部下を推薦できなかった者が、宰相となった途端に千百もの官僚を選抜できるだろうか?世間の疑念は深く、この矛盾には甚だしい混乱がある。高位者は要領を掌握し、低位者は細部を担うため、君主が補佐大臣を選び、補佐大臣が各部門長官を選び、各部門長官が下僚を選ぶのが道理である。人材を得る方法でこれ以上確かなものはない。才能を求めるには範囲を広くし、考査は厳密さを貴ぶべきだ。かつて則天武后は人心掌握のため、順序を問わず登用した。他人が推挙するだけでなく自ら才を挙げることも許された。しかし考課が極めて厳しく、昇進も罷免も迅速だったため、当世では彼女に人を見抜く明があると称えられ、後代まで多くの有能な官吏の恩恵を受けた」さらに続けて言う。「則天武后の登用法は軽率ながら人材を得たが、陛下の慎重過ぎる選考方針は厳密さゆえに人材を失っている」。結局皇帝は前詔を取り消した。 癸酉(二十一日)、平盧節度使李納が薨去。軍中ではその子・師古が留後職を代行することを推戴した。 六月、吐蕃の千余騎が涇州に侵攻し、田畑で耕作中の兵士千人余りを掠奪して撤退した。 嶺南節度使が上奏:「近時、外国船の珍品は安南(ベトナム北部)での取引が主流となっております。判官を遣わし中使(宦官使者)一名と共に安南で買い付けさせたく、ご許可願います」。皇帝が同意しようとしたところ、陸贄が進言:「遠国商人は利益のみ求めるため、手綱を緩めれば来航し、干渉すれば去ります。広州は従来船舶の集積地でしたが、突然安南に移ったのは、我々の収奪が過剰か待遇に問題があった証左です。自省せず却って陛下の心を乱すとは。況して嶺南も安南も同じ王土、中使も地方官も全て王臣です。何故わざわざ広州を信頼し安南を排除しようとされ、宦官使者を重視して地方官を軽んじるのか?この上奏は取り下げられるべきです」。 秋七月甲寅朔(一日)、戸部尚書で度支(財政)を統括していた班宏が薨去した。 解説:
(訳注:本翻訳ではルビ振りを厳禁とする依頼条件のため、全ての固有名詞・難読語は本文中で平易な日本語表記に統一) Translation took 1005.7 seconds. |
| 陸贄請以前湖南觀察使李巽權判度支,上許之。既而復欲用司農少卿裴延齡,贄上言,以為:「今之度支,准平萬貨,刻吝則生患,寬假則容奸。延齡誕妄小人,用之交駭物聽。尸祿之責,固宜及於微臣。知人之明,亦恐傷於聖鑒。」上不從。己未,以延齡判度支事。 河南、北、江、淮、荊、襄、陳、許等四十餘州大水,溺死者二萬餘人,陸贄請遣使賑撫。上曰:「聞所損殊少,即議優恤,恐生奸欺。」贄上奏,其略曰:「流俗之弊,多徇諂諛,揣所悅意則侈其言,度所惡聞則小其事,制備失所,恆病於斯。」又曰:「所費者財用,所收者人心,苛不失人,何憂乏用!」上許為遣使,而曰:「淮西貢賦既闕,不必遣使。」贄復上奏,以為:「陛下息師含垢,宥彼渠魁,惟茲下人,所宜矜恤。昔秦、晉仇敵,穆公猶救其饑,況帝王懷柔萬邦,唯德與義,寧人負我,我無負人。」八月,遣中書舍人京兆奚陟等宣撫諸道水災。 以前青州刺史李師古為平盧節度使。韋皋攻吐蕃維州,獲其大將論贊熱。 陸贄上言,以邊儲不贍,由措置失當,蓄斂乖宜,其略曰:「所謂措置失當者,戍卒不隸於守臣,守臣不總於元帥。至有一城之將,一旅之兵,各降中使監臨,皆承別詔委任。分鎮亙千里之地,莫相率從。緣邊列十萬之師,不設謀主。每有寇至,方從中覆,比蒙征發救援,寇已獲勝罷歸。 |
現代日本語訳陸贄は前湖南観察使・李巽を臨時の財政長官(権判度支)に起用するよう奏上し、皇帝がこれを認めた。しかし後になって皇帝が司農少卿の裴延齢を登用しようとしたため、陸贄は反論した:「現在の財務省は物資価格の安定を担う機関です。ケチれば弊害が生じ、寛容すぎれば不正を許します。延齢は虚偽に満ちた小人物であり、彼を用いれば世間は驚くでしょう。人選ミスの責任は私にありますが、陛下の見識も傷つけられる恐れがあります」。皇帝は聞き入れず己未の日(唐暦)、裴延齢を財政長官に任命した。 河南・河北・江淮・荊襄・陳許など四十余州で大洪水が発生し、二万人以上が溺死した。陸贄が使者派遣による救済を要請すると、皇帝は「被害は小さいと聞いている。すぐに支援すれば不正が起きるだろう」と言った。これに対し陸贄は上奏:「世間の悪習として、権力者へ媚びる者は『喜ばれそうな情報』を誇張し、『嫌われそうな事実』を縮小します。防災体制が整わないのはこのためです」と指摘。さらに「費やすのは財貨ですが、得られるのは民心です。民衆の信頼さえ保てれば、物資不足など問題になりません」と主張した結果、皇帝は使者派遣を許可するも「淮西地域は税未納だから除外せよ」との条件をつけた。 陸贄は再び上奏:「陛下が敵将まで赦される寛大なお心で、まして民衆は憐れむべきです。昔、秦と晋が敵国関係にあっても穆公は晋の飢饉を救いました。天下を治める帝王たる者、徳義をもって臨み『人に背かれても自らは誠実であれ』との精神こそ重要では?」。八月になり皇帝は中書舎人の奚陟らを各地へ派遣し水害対策を行わせた。 前青州刺史の李師古が平盧節度使に任命された。韋皋が吐蕃の維州を攻撃し、その大将・論賛熱を捕虜とした。 陸贄は辺境食糧不足について上奏:「原因は政策不備です。守備兵が現地指揮官(守臣)に隷属せず、指揮官が元帥の統制を受けない体制問題があります」。具体的には「一城の将軍や小部隊でさえ宦官(中使)監視下におかれ、別々に詔勅を受ける有様。千里に分散した駐屯軍は統一されず、十万の国境守備隊には総指揮官が存在しません」と批判。「敵襲があってから中央へ報告→救援要請を待つ間に敵は既に撤退している」と指摘し、軍事体制改革の必要性を訴えた。 解説政治思想的背景陸贄(754-805)は中唐を代表する儒家政治家。本史料に見られる思想的核心: 1. 財政倫理観:裴延齢批判で示される「財務官僚の資質=国家安定の基盤」との考え 2. 民本主義:「支出は物財だが収穫は民心」(所費者財用,所收者人心)の主張に『孟子』(得乎丘民而為天子)の影響が濃厚 3. 徳治思想:秦穆公故事を引用した「寧人負我」論は、敵対勢力にも仁義を示すべきとする儒家王道政治の体現 当時の社会情勢との関連
歴史的意義『資治通鑑』編者・司馬光が本記事を通じて照射するテーマ: 1. 情報操作の危険性:皇帝「被害軽微説」vs陸贄「報告歪曲指摘」の対比構成 2. 帝王学の本質:「寧人負我」(むしろ他人に背かれよ)との箴言引用による君主徳行の強調 3. 北宋への教訓:新法派(王安石)の地方監視システム批判へ繋がる「中使監臨」問題提起 言語的特徴注記原文における修辞技法: - 対句構造強化:「刻吝則生患,寬假則容奸」(ケチれば弊害、寛容なら不正)など政策効果の両極提示 - 典故駆使:秦穆公故事(『左伝』僖公13年)や諺的表現「尸祿之責」(禄盗人の責任) - 四字句連鎖:「分鎮亙千里之地,莫相率從」による軍事分散状況の視覚的描写 ※現代語訳では官僚文書特有の硬質表現を緩和し、論理展開の明快さを優先した。特に「渠魁」(賊将)や「聖鑒」(皇帝眼識)など儒家用語は文脈に即して平易化。 Translation took 2174.9 seconds. |
| 吐蕃之比中國,眾寡不敵,工拙不侔,然而彼攻有餘,我守不足。蓋彼之號令由將,而我之節制在朝,彼之兵眾合併,而我之部分離析故也。所謂蓄斂乖宜者,陛下頃設就軍、和糴之法以省運,制與人加倍之價以勸農,此令初行,人皆悅慕。而有司競為苟且,專事纖嗇,歲稔則不時斂藏,艱食則抑使收糴。遂使豪家、貪吏,反操利權,賤取於人以俟公私之乏。又有勢要、近親、羈游之士,委賤糴於軍城,取高價於京邑,又多支絲希絲寧充直。窮邊寒不可衣,鬻無所售。上既無信於下,下亦以偽應之,度支物估轉高,軍城谷價轉貴。度支以苟售滯貨為功利,軍司以所得加價為羨餘。雖高巡院,轉成囊橐。至有空申簿帳,偽指囷倉,計其數則億萬有餘,考其實則百十不足。」又曰:「舊制以關中用度之多,歲運東方租米,至有斗錢運斗米之言。習聞見而不達時宜者,則曰:『國之大事,不計費損,雖知勞煩,不可廢也。』習近利而不防遠患者,則曰:『每至秋成之時,但令畿內和糴,既易集事,又足勸農。』臣以兩家之論,互有長短,將制國用,須權重輕。食不足而財有餘,則弛於積財而務實倉廩;食有餘而財不足,則緩於積食而嗇用貨泉。近歲關輔屢豐,公儲委積,足給數年;今夏江、淮水潦,米貴加倍,人多流庸。關輔以谷賤傷農,宜加價以糴而無錢;江、淮以谷貴人困,宜減價以糶而無米。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)吐蕃と中国を比べれば、兵力の多寡では勝てず、技術力も及ばない。しかし彼らは攻撃に余裕があり、こちらは守備すら不足している。これは彼らの命令系統が将軍にある一方で、我々の統制は朝廷にあることによる。また彼らは兵を集結させるのに比べ、我々は兵力が分散されているからだ。 いわゆる「蓄えと徴収の不適切」とは──陛下かねてより軍隊駐屯地での買い入れ(就軍)や公定価格購入(和糴)の制度を設け輸送費を節減し、通常倍額の支払いで農民を奨励された。この政策開始時は誰もが喜んだ。しかし役人たちは手抜かりを競い、細かい倹約に専念したため、豊作時には適時に買い上げず、食糧不足時には強制的に安値で購入した。これにより豪族や貪欲な官吏が利益の主導権を握り、民から安く買い占めて公的・民間の不足を待ち受けることになった。 さらに権力者や近親者、流浪者が軍駐屯地で安価に穀物を購入し都では高値で売却。また支給される絹織物(糸帛)は品質が悪く、辺境の寒さを防げず売ることもできない。朝廷が民への信義を失えば、民も偽りで応じる。中央財政部門(度支)の物品評価額は上昇し続け、軍駐屯地の穀物価格は高騰する。財務当局は滞貨販売をごまかして実績とし、軍司令部は加算利益を剰余金として報告。監査機関さえも私腹を肥やす手段となり、架空帳簿や偽りの倉庫報告が横行──数値上は億単位の備蓄があるが実態は百分の一にも満たない。 また旧制では関中の需要増加に対応するため東方から租税米を輸送し「銭一斗で米一斗運ぶ」と言われた。現状認識不足の者は「国家大事に費用計算はいらない。煩雑でも廃止すべきでない」と主張し、目先の利益派は「秋収穫時に畿内で公定購入すれば手間が省け農民も喜ぶ」と言う。 臣が思うに両論には長短あり国費運営では軽重を計る必要がある。食糧不足で資金余剰なら貯金を緩和し倉庫充実を図れ。反対に食糧余剰で資金不足なら備蓄ペースを落とし通貨支出を抑制せよ。 近年関中地域は連続豊作で公的備蓄が数年分ある一方、今年の夏には江淮地方で洪水発生し米価倍騰、多くの離散者が出た。関中では安値で農民が困窮するため加価格買い上げが必要だが資金不足。江淮では高値苦境だから減価売却すべきだが備蓄米がない。 解説
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| 而又運彼所乏,益此所餘,斯所謂習見聞而不達時宜者也。今江、淮斗米直百五十錢,運至東渭橋,僦直又約二百,米糙且陳,尤為京邑所賤。據市司月估,斗糶三十七錢。耗其九而存其一,餒彼人而傷此農,制事若斯,可謂深失矣!頃者每年自江、湖、淮、浙運米百一十萬斛,至河陰留四十萬斛,貯河陰倉,至陝州又留三十萬斛,貯太原倉,餘四十萬斛輸東渭橋。今河陰、太原倉見米猶有三百二十餘萬斛,京兆諸縣斗米不過直錢七十,請令來年江、淮止運三十萬斛至河陰,河陰、陝州以次運至東渭橋,其江、淮所停運米八十萬斛,委轉運使每斗取八十錢於水災州縣糶之,以救貧乏,計得錢六十四萬緡,減僦直六十九萬緡。請令戶部先以二十萬緡付京兆,令糴入以補渭橋倉之缺數,斗用百錢以利農人。以一百二萬六千緡付邊鎮,使糴十萬人一年之糧,餘十萬四千緡以充來年和糴之價。其江、淮米錢、僦直並委轉運使折市綾、絹、絁、綿,以輸上都,償先貸戶部錢。」 九月,詔西北邊貴糴以實倉儲,邊備浸充。冬,十一月,壬子朔,日有食之。 吐蕃、雲南日益相猜,每雲南兵至境上,吐蕃輒亦發兵,聲言相應,實為之備。辛酉,韋皋復遺雲南王書,欲與共襲吐蕃,驅之雲嶺之外,悉平吐蕃城堡,獨與雲南築大城於境上,置戍相保,永同一家。 |
現代日本語訳:さらに、不足地域へ物資を輸送して過剰在庫を増やす行為は、「見聞には慣れているが時勢に対応できない者」の典型である。現在江淮地方では米一斗(約6kg)が150銭だが、東渭橋まで運べば輸送費だけで200銭かかる上に、品質も粗悪で古く、都では特に評価されない。市場管理当局の価格調査によると販売価格はわずか37銭である。9割を損耗させて1割だけ残し、一方の人々を飢えさせつつ他方の農民を苦しめる——このような政策は重大な過失と言える。 従来、毎年長江・洞庭湖・淮河・浙江地域から110万斛(約6600トン)の米が輸送されていた。河陰で40万斛を保留して河陰倉に貯蔵し、陝州でも30万斛を太原倉へ保管後、残り40万斛だけ東渭橋へ運ばれている。ところが現時点で河陰・太原両倉にはなお320万余斛の米が余剰状態であり、京兆周辺では一斗70銭以下で流通している。 よって提案する:来年は江淮地方からの輸送を30万斛に減らし(全量を河陰へ)、河陰と陝州から順次東渭橋へ運ぶ。停止した80万斛分については、転運使が水害被災地で一斗80銭で売却して貧困者救済に充てよ(総額64万緡)。これにより輸送費69万緡も節約できる。 戸部から20万緡を京兆府へ前払いし、渭橋倉の不足分補填用として一斗100銭で米を買い上げ農民支援とせよ。102万6千緡は辺境守備軍に交付して(兵士10万人分の年間食糧調達費)、残金10万4千緡は次年度政府買上資金とする。 江淮地域での売却益と節約輸送費は、転運使が絹織物や生糸を購入し首都へ納入させ(戸部への前借返済充当)、財政調整を図るべきである。 ※「上都」=唐王朝の首都長安 九月 詔により西北国境地帯で高値買入れによる倉庫備蓄が実施され、辺境防衛力は次第に充実。冬十一月壬子朔(1日)には日食発生。 吐蕃と雲南間の相互不信は深まり、雲南軍が国境に出動すると吐蕃も即座に兵力を展開し、「支援」と称しながら実際は警戒態勢を敷いた。辛酉(10日)、韋皋将軍は再び雲南王へ書簡を送付:共同で吐蕃を攻撃して雲嶺山脈の外側まで駆逐した後、全城塞を制圧し国境に大規模要塞を唐・雲南合同建設して相互防衛体制と「永遠の一家」関係構築を提案。 解説:【経済政策批判と改革案】
【国際情勢分析】
【歴史的意義】
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| 右庶子姜公輔久不遷官,詣陸贄求遷,贄密語之曰:「聞竇相屢奏擬,上不允,有怒公之言。」公輔懼,請為道士。上問其故,公輔不敢洩贄語,以聞參言為對。上怒參歸怨於君。己巳,貶公輔為吉州別駕,又遣中使責參。 庚午,山南西道節度使嚴震奏敗吐蕃於芳州及黑水堡。 初,李納以棣州蛤蟲朵有鹽利,城而據之。又戍德州之南三汊城,以通田緒之路。及李師古襲位,王武俊以其年少,輕之,是月,引兵屯德、棣,將取蛤蟲朵及三汊城。師古遣趙鎬將兵拒之。上遣中使諭止之,武俊乃還。 初,劉怦薨,劉濟在莫州,其母弟澭在父側,以父命召濟而以軍府授之。濟以澭為瀛州刺史,許它日代己。既而濟用其子為副大使,澭怨之,擅通表朝廷,遣兵千人防秋。濟怒,發兵擊澭,破之。 左神策大將軍柏良器,募才勇之士以易販鬻者,監軍竇文場惡之。會良器妻族飲醉,寓宿宮捨。十二月,丙戌,良器坐左遷右領軍。自是宦官始專軍政。 德宗神武聖文皇帝九貞元九年(癸酉,公元七九三年) 春,正月,癸卯,初稅茶。凡州、縣產茶及茶山外要路,皆估其直,什稅一,從鹽鐵使張滂之請也。滂奏:「去歲水災減稅,用度不足,請稅茶以足之。自明年以往,稅茶之錢,令所在別貯,俟有水旱,以代民田稅。」自是歲收茶稅錢四十萬緡,未嘗以救水旱也。 |
訳文右庶子の姜公輔は長らく昇進がなく、陸贄のもとを訪れて昇任を求めた。陸贄は密かに語った:「竇相(宰相)がしばしば上奏しているが、陛下が許可せず、君に対する怒りの言葉があったそうだ」と。公輔は恐れ、道士になることを請願した。帝がその理由を尋ねると、公輔は陸贄の話を洩らさず、「聞參(宰相)の発言によるものです」と答えた。帝は参が君主への怨みを帰そうとしたとして怒り、己巳の日に公輔を吉州別駕に左遷し、さらに中使(宦官使者)を遣わして参を責めさせた。 庚午の日、山南西道節度使・厳震が芳州と黒水堡で吐蕃軍を撃破したことを上奏した。 当初より李納は棣州蛤蜊島に塩利があるため城塞化し占拠していた。さらに德州南方の三叉城にも守備兵を置き、田緒との連絡路とした。李師古が後継すると、王武俊は彼が若年であることを軽んじ、今月に軍勢を率いて徳州・棣州に駐屯し、蛤蜊島と三叉城の占領を図った。師古は趙鎬に兵を率いさせて防戦にあたらせた。帝は中使を派遣して停止するよう命じ、武俊は撤退した。 劉怦が没すると、息子の劉済は莫州におり、同母弟の劉澭が父のもとにいた。父の遺言で済を呼び戻し軍府(節度使職)を継承させた。済は澭に瀛州刺史を授け「いずれ自分の後継とする」と約束した。後に済が実子を副大使としたため、澭は恨みを持ち朝廷へ独自上奏して千人規模の防秋兵(辺境警備軍)派遣を申請した。これに怒った済は軍勢を発し澭を攻撃・制圧した。 左神策大将軍・柏良器が有能な者を募り売官行為者と交代させたところ、監軍宦官の竇文場から憎まれた。折しも良器の妻族(姻戚)が酔って宮廷宿舎に泊まる事件が発生。十二月丙戌日、良器は連座で右領軍へ左遷された。ここより宦官による軍政掌握が始まった。 徳宗神武聖文皇帝九 貞元九年(癸酉年、793年) 春正月癸卯日、初めて茶に課税した。各州県の産地および主要流通路において価値評価し10%を徴収する塩鉄使・張滂の提案によるものだ。滂は上奏で「昨年の水害減税により国費不足が生じましたので、茶税で補填をお願いします」と述べ、「今後は別途貯蔵し凶年時に農地租税代替財源とするべきです」と付言した。しかし年間40万緡の歳入は天災救済に用いられることはなかった。 解説【歴史的背景】本節は唐王朝中期(8世紀末)貞元時代を描く。藩鎮勢力割拠・宦官専横・財政改革が同時進行する混乱期である。 - 中央政情: 徳宗治世下で宰相陸贄の進言拒否や姜公輔左遷事件は皇帝と官僚機構の亀裂を示す - 地方動向: - 李師古 vs 王武俊:若年後継者への挑戦的侵攻(河朔三鎮勢力圏) - 劉済・劉澭兄弟争い:節度使職を巡る親族内紛の典型例 - 軍制変化: 柏良器左遷事件は神策軍掌握を狙う宦官台頭の画期 【制度史的特徴】
【人物関係図】``` 徳宗皇帝 ├─宰相派閥: 竇参(失脚)⇔陸贄(密告系) └─宦官勢力: 中使集団+監軍竇文場(神策軍掌握開始) 藩鎮群雄: - 淄青節度使家:李納→李師古 ├─対抗者:王武俊(成徳節度使) └─部将:趙鎬 - 幽州盧龍系:劉怦→長子劉済 vs 次子劉澭(瀛州反乱) ``` 【訳出方針】
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| 滂又奏:「奸人銷錢為銅器以求贏,請悉禁銅器。銅山聽人開採,無得私賣。 二月,甲寅,以義武留後張升雲為節度使。 初,鹽州既陷,塞外無復保障。吐蕃常阻絕靈武,侵擾鄜坊。辛酉,詔發兵三萬五千人城鹽州,又詔涇原、山南、劍南各發兵深入吐蕃以分其勢,城之二旬而畢。命鹽州節度使杜彥光戍之,朔方都虞候楊朝晟戍木波堡,由是靈、武銀、夏、河西獲安。 上使人諭陸贄,以「要重之事,勿對趙憬陳論,當密封手疏以聞。」又「苗粲以父晉卿往年攝政,嘗有不臣之言,諸子皆與古帝王同名,今不欲明行斥逐,兄弟亦各除外官,勿使近屯兵之地。」又「卿清慎太過,諸道饋遺,一皆拒絕,恐事情不通,如鞭靴之類,受亦無傷。」贄上奏,其略曰:「昨臣所奏,惟趙憬得聞,陛下已至勞神,委曲防護。是於心膂之內,尚有形跡之拘,跡同事殊,鮮克以濟。恐爽無私之德,且傷不吝之明。」又曰:「爵人必於朝,刑人必於市,惟恐眾之不睹,事之不彰。君上行之無愧心,兆庶聽之無疑議,受賞安之無怍色,當刑居之無怨言,此聖王所以宣明典章,與天下公共者也。凡是譖訴之事,多非信實之言,利於中傷,懼於公辯。或雲歲月已久,不可究尋;或雲事體有妨,須為隱忍;或雲惡跡未露,宜假它事為名;或雲但棄其人,何必明言責辱。 |
翻訳文(現代日本語)范滂はまた上奏した。「悪徳商人が銭を溶かして銅器を作り、利益を得ています。すべての銅器製造を禁止すべきです。銅山については民間人の採掘を許可しますが、私的な売買は認めるべきではありません。」 二月甲寅(十日)、義武軍留後であった張升雲を節度使に任命した。 かつて塩州が陥落して以来、国境の外には防衛拠点がなくなっていた。吐蕃はたびたび霊武を遮断し、鄜坊地方にも侵入・略奪を行った。辛酉(十七日)、詔勅により兵士三万五千人を動員して塩州城を修築させるとともに、涇原・山南・剣南の各軍に命じて吐蕃領深く進撃し敵勢力を分散させることを指示した。城壁は二十日で完成し、塩州節度使杜彦光に守備を任せたほか、朔方都虞候楊朝晟には木波堡の守備につかせた。これにより霊武・銀州・夏州・河西地域は安寧を取り戻した。 皇帝が陸贄に対し密命を与えた。「重要事項については趙憬(宰相)に報告してはならない。密封した直筆文書で直接奏上せよ」と。また「苗粲の父・苗晋卿は以前政務を代行した際、不忠の発言があったうえ、その子供たちの名は古代帝王と同じであるため、表立って追放するのは避けたいが、兄弟全員を地方官として転出させ、軍備地域に近づけないようにせよ」と。さらに「卿は清廉・慎みすぎる。諸道からの贈答品も一切拒絶しているようだが、これでは政情把握に支障が出かねない。鞭や靴程度のものなら受け取っても問題あるまい」 陸贄が上奏して反論した(要約):「先日の臣下の進言は趙憬のみが聞いておりますのに、陛下自ら神経を使い細かく防衛策を講じられました。これは腹心の間柄でありながら形式的な隔てを作る行為で、形だけ整えても本質的な解決には至りません。公平無私という徳義を損ない、寛容さを示す賢明さをも傷つける恐れがあります」と。 さらに続けて:「爵位授与は朝廷で行い、刑罰執行は市場で実施するのは、人々に広く知らしめ事実を明確にするためです。君主が恥じることなく実行し、民衆も疑念を持たず聞き入れれば――褒賞を受ける者は当然の顔色を示し、処罰される者も不満なく受け入れるものです。これこそ聖王が法令を明示し天下と共に守る道理です。讒言や密告は大抵虚偽であり、中傷目的で公然の議論を恐れています。(彼らは)『時間経過で真相不明』と言い『体裁上隠すべき』と言い『証拠不十分だから別件扱いにせよ』と言い『追放だけで理由明かさず辱めるな』などと主張します」 注釈
※出典『資治通鑑』唐紀四十五(貞元九年・793年)より。徳宗朝における中央集権強化と藩鎮対策の一局面。 Translation took 1836.8 seconds. |
| 詞皆近於情理,意實苑於矯誣,傷善售奸,莫斯為甚!若晉卿父子實有大罪,則當公議典憲;若被誣枉,豈令陰受播遷。夫聽訟辨讒,必求情辨跡,情見跡著,辭服理窮,然後加刑罰焉,是以下無冤人,上無謬聽。」又曰:「監臨受賄,盈尺有刑,至於士吏之微,尚當嚴禁,矧居風化之首,反可通行!賄道一開,展轉滋甚,鞭靴不已,必及金玉。目見可欲,何能自窒於心!已與交私,何能中絕其意!是以涓流不絕,溪壑成災矣。」又曰:「若有所受,有所卻,則遇卻者疑乎見拒而不通矣;若俱辭不受,則咸知不受者乃其常理,復何嫌阻之有乎!」 初,竇參惡左司郎中李巽,出為常州刺史。及參貶郴州,巽為湖南觀察使。汴州節度使劉士寧遺參絹五十匹,巽奏參交結籓鎮。上大怒,欲殺參,陸贄以為參罪不至死,上乃止,既而復遣中使謂贄曰:「參交結中外,其意難測,社稷事重,卿速進文書處分。」贄上言:「參朝廷大臣,誅之不可無名。昔劉晏之死,罪不明白,至今眾議為之憤邑,叛臣得以為辭。參貪縱之罪,天下共知;至於潛懷異圖,事跡曖昧。若不推鞫,遽加重辟,駭動不細。竇參於臣無分,陛下所知,豈欲營救其人,蓋惜典刑不濫。」三月,更貶參驩州司馬,男女皆配流。上又命理其親黨,贄奏:「罪有首從,法有重輕,參既蒙宥,親黨亦應末減。 |
現代日本語訳:言葉はどれも道理に近いようで、実際の意図は偽りを装っている。善良な者を傷つけ悪賢さを売る行為ほど甚だしいものはない!もし晋卿父子に本当に重大な罪があるならば、公の議論によって法規を適用すべきである。もし誣告されているのであれば、陰で密かに流刑に処せられてよいはずがない。訴訟を聴き讒言を見分けるには必ず実情を求め証拠を明らかにし、真実が現れ事跡が明白となり、自供して理屈が尽きた後に初めて刑罰を加えるべきだ。これによって下々に冤罪の者なく、上に誤った判断がないのである。 また言う:監督者が賄賂を受け取れば一尺(少量)でも処罰される。役人や小吏のような微末な地位ですら厳禁されているのに、まして風教を導く高位にある者が反ってこれを許されようか!賄賂の道が一度開かれれば次第に蔓延し、鞭や靴(ささやかな贈り物)で止まることなく必ず金玉(貴重品)に及ぶ。目に見える欲望対象を前にしてどうして自ら心を抑制できようか!一旦私的に交わればどうしてその意図を断ち切れようか!このため細い流れが絶えなければ渓谷さえも災害となるのだ。 また言う:もし受け取るものと拒むものがあれば、拒まれた者は故意に阻まれていると疑うだろう。もし全て辞退すれば誰もが不受領こそ常識だと知り、何の嫌疑や障害があるというのか! (背景説明)当初、竇参は左司郎中李巽を憎み常州刺史として地方へ追い出した。後に竇参が郴州に貶謫されると、李巽は湖南観察使となった。汴州節度使劉士寧が竇参に絹五十匹を贈った件で、李巽は「藩鎮と結託している」と上奏した。皇帝は激怒し竇参の処刑を望んだが、陸贄は「死罪相当ではない」と諫めたため一旦取りやめとなった。 後に再び宦官を通じて陸贄に詔勅が下る:「内外勢力と結託するその意図は測り難く国家にとって重大事だ。速やかに処刑文書を進上せよ」。これに対し陸贄は上奏した: 「大臣の誅殺には正当な理由が必要です。かつて劉晏が死んだ時も罪状不明確で、今なお人々の憤慨と反逆者の弁解材料となっています。竇参の貪欲・放縦は周知ですが謀叛疑いについては証拠不鮮明。審理なしに極刑を下せば人心動揺は計り知れません」 (結末)三月、改めて驩州司馬への左遷と家族全員流刑が決定した。皇帝が更に関係者処罰を命じると陸贄は奏上:「主犯が減刑された以上共犯も軽減すべきです」と。 解説:
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| 況參得罪之初,私黨並已連坐,人心久定,請更不問。」從之。上又欲籍其家貲,贄曰:「在法,反逆者盡沒其財,贓污者止征所犯。皆須結正施刑,然後收籍。今罪法未詳,陛下已存惠貸,若簿錄其家,恐以財傷義。」時宦官左右恨參尤深,謗毀不已。參未至驩州,竟賜死於路。竇申杖殺,貨財、奴婢悉傳送京師。 海州團練使張升璘,升雲之弟,李納之婿也。以父大祥歸於定州,嘗於公座罵王武俊,武俊奏之。夏,四月,丁丑,詔削其官,遣中使杖而囚之。定州富庶,武俊常欲之,因是遣兵襲取義豐,掠安喜、無極萬餘口,徙之德、棣。升雲閉城自守,屢遣使謝之,乃止。 上命李師古毀三汊城,師古奉詔。然常招聚亡命,有得罪於朝廷者,皆撫而用之。 五月,甲辰,以中書侍郎趙憬為門下侍郎、同平章事,義成節度使賈耽為在右僕射,右丞盧邁守本官,並同平章事。邁,翰之族子也。憬疑陸贄恃恩,欲專大政,排己置之門下,多稱疾不豫事,由是與贄有隙。陸贄上奏論備邊六失,以為「措置乖方,課責虧度,財匱於兵眾,力分於將多,怨生於不均,機失於遙制。 「關東戍卒,不習土風,身苦邊荒,心畏戎虜。國家資奉若驕子,姑息如倩人。屈指計歸,張頤待哺;或利王師之敗,乘擾攘而東潰;或拔棄城鎮,搖遠近之心。豈惟無益,實亦有損。 |
現代日本語訳参が罪を得た当初、私的な党派はすでに連座して処罰され、人心も長く安定している。これ以上追及しないよう願う。」帝はこれに従った。さらに皇帝は彼の家財を没収しようとしたが、陸贄が言上した。「法律では、謀反人は全財産を没収するが、汚職犯は犯行に関わる分のみ徴収する。いずれも判決確定・刑執行後に没収すべきです。今は罪状が未審議で、陛下は既に寛大な処置を示されました。もし家財を調査すれば『財産のために信義を損ねる』と懸念されます」。当時宦官らは参への恨みが深く、誹謗を続けていた。参は驩州に到着せず、途中で死を賜った。竇申は杖殺刑となり、財貨と奴婢は全て長安へ送られた。 海州団練使の張升璘(張升雲の弟で李納の女婿)が父の大祥法要のため定州に帰郷した際、公席で王武俊を罵倒し、武俊がこれを上奏。4月丁丑日、詔により官位剥奪のうえ宦官監視下で杖刑・投獄となった。豊かな定州を狙っていた武俊はこれに乗じ義豊を急襲し、安喜・無極から万余りを拉致して徳州・棣州へ移住させた。升雲は城門を閉じて自衛し、繰り返し謝罪したため攻撃は停止された。 皇帝が李師古に三汊城破却を命じると、彼は詔勅に従った。しかし常に亡命者を集め、朝廷から咎められた者も庇護して重用していた。 5月甲辰日、中書侍郎の趙憬を門下侍郎・同平章事とし、義成節度使賈耽を右僕射とし、右丞盧邁は現職のまま同平章事に任命。盧邁は翰の一族である。趙憬は陸贄が恩寵を頼んで政権独占を図り、自分を門下省へ左遷したと疑い、頻繁に病と称して政務を避けたため両者に対立が生じた。 陸贄が上奏し「辺境防衛の六つの過失」を論じて言う。「配置は誤り、責任追及は杜撰。財力は兵士数に枯渇し、戦力は将軍多さで分散する。不公正から怨恨が生じ、遠隔統制により好機を逃す。 関東の守備兵は風土慣れず辺境の苦労と異民族への恐怖に苛まれる。国家は彼らを驕子のように厚遇し、他人任せで甘やかす。指折り帰還日を数え口を開けて給養待つ状態だ。味方敗北を願い混乱に乗じて東方へ脱走したり、城鎮を見捨て遠近の人心を動揺させる。利益どころか実害である」 解説
※訳文では『資治通鑑』原文の簡潔な文体を保ちつつ、現代日本語に可読化。歴史用語(同平章事・団練使等)は原則保持し注釈的説明は本文内で自然処理。 Translation took 1866.8 seconds. |
| 復有犯刑謫徙者,既是無良之類,且加懷土之情,思亂幸災,又甚戍卒。可謂措置乖方矣。自頃權移於下,柄失於朝,將之號令既鮮克行之於軍,國之典常又不能施之於將,務相遵養,苟度歲時。欲賞一有功,翻慮無功者反仄;欲罰一有罪,復慮同惡者憂虞。罪以隱忍而不彰,功以嫌疑而不賞,姑息之道,乃至於斯。故使忘身效節者獲誚於等夷,率眾先登者取怨於士卒,僨軍蹙國者不懷於愧畏,緩救失期者自以為智能。此義士所以痛心,勇夫所體。可謂課責虧度矣。虜每入寇,將帥遞相推倚,無敢誰何。虛張賊勢上聞,則曰兵少不敵。朝廷莫之省察,唯務征發益師,無裨備御之功,重增供億之弊。閭井日耗,徵求日繁,以編戶傾家、破產之資,兼有司榷鹽、稅酒之利,總其所入,歲以事邊。可謂財匱於兵眾矣。 「吐蕃舉國勝兵之徒,才當中國十數大郡而已,動則中國懼其眾而不敢抗,靜則中國憚其強而不敢侵,厥理何哉?良以中國之節制多門,蕃丑之統帥專一故也。夫統帥專一,則人心不分,號令不貳,進退可齊,疾徐中意,機會靡愆,氣勢自壯。斯乃以少為眾,以弱為強者也。開元、天寶之間,控御西北兩蕃,唯朔方、河西、隴右三節度。中興以來,未遑外討,抗兩蕃者亦朔方、涇原、隴右、河東四節度而已。自頃分朔方之地,建牙擁節者凡三使焉,其餘鎮軍,數且四十,皆承特詔委寄,各降中貴監臨,人得抗衡,莫相稟屬。 |
現代日本語訳さらに刑罰を犯して流罪となる者がいるが、これらはもともと善良でない者たちであり、加えて故郷への未練があるため、混乱を望み災いを喜び、守備兵以上に危険だ。これは施策の誤りと言える。 近年では権力が下部へ移行し、朝廷は統制力を失った。将軍の命令はもはや軍隊で十分に行われず、国家の法規もまた将軍たちに対して適用できなくなっている。互いに気遣い合って見逃しあい、ただ年月をやり過ごしているだけだ。一人でも功績者を賞そうとすれば無功者の反発を懸念し、一人でも罪人を罰そうとすれば仲間の憂慮を案じる。罪は隠れて明らかにならず、功績は疑わしいとして褒賞されない。安易な妥協がここまで蔓延しているのだ。 そのため身命を賭して忠節を尽くす者は同輩から嘲笑され、先頭に立って兵士を率いる者は部下の怨恨を買う。軍隊を壊滅させ国土を危うくした者も反省せず、救援を遅らせ期限を過ぎた者がかえって賢明だと思い込む。これこそ義を持つ者が痛憤し、勇士が心に刻まねばならぬ事態である。責任追及の基準が欠如していると言える。 敵(吐蕃)が侵入するたび将帥たちは互いに押し付け合い、誰一人対応しない。賊軍の勢力を誇大に報告すれば「兵力不足で対抗できない」と主張し、朝廷も検証せずひたすら増兵する。防衛効果は上がらず物資供給の負担だけが重くなる。 民間は日々疲弊し徴収は苛烈になる。庶民が家財を売り払い破産して捻出した資金と、役所による塩専売や酒税からの利益を合わせた歳入全体が、毎年国境防衛に費消されるのだ。兵力過剰による財政枯渇と言える。 「吐蕃の全戦闘員は中国(唐)の十数大郡程度なのに、動けば我々はその多勢を恐れ抗わず、静まれば強さを畏れて侵攻しない。理由は明白だ—中国側では指揮系統が乱立しているのに対し、蛮族には統一された司令官が存在するからである。 統帥権が一元化されていれば人心も分散せず命令に矛盾がない。進退一致し緩急自在で機会を逃さず、自然と士気は高まる。これこそ『少数でも多数』『弱者でも強者』となる原理だ。 開元・天宝期(玄宗時代)、西北の二蛮族に対処したのは朔方・河西・隴右の三節度使だけだった。安史乱後の再興期も対抗兵力は朔方・涇原・陇右・河東の四節度使に過ぎない。 ところが近年では朔方を分割し三名の将軍を任命した結果、駐屯軍まで含め約四十部隊にも膨れ上がった。いずれも皇帝直々の詔勅で設置され宦官が監視するため互いに牽制し合い、指揮系統は完全に分断されているのだ」 解説
特に兵士数と防衛効果の逆説的関係(財匱於兵衆)や、組織肥大化による指揮機能低下の指摘は、現代の経営・行政にも直結する洞察と言える。 Translation took 2241.7 seconds. |
| 每俟邊書告急,方令計會用兵,既無軍法下臨,惟以客禮相待。夫兵,以氣勢為用者也,氣聚則盛,散則消;勢合則威,析則弱。今之邊備,勢弱氣消,可謂力分於將多矣。 「理戎之要,在於練核優劣之科以為衣食等級之制,使能者企及,否者息心,雖有薄厚之殊而無觖望之釁。今窮邊之地,長鎮之兵,皆百戰傷夷之餘,終年勤苦之劇,然衣糧所給,唯止當身,例為妻子所分,常有凍餒之色。而關東戍卒,怯於應敵,懈於服勞,衣糧所頒,厚逾數等。又有素非禁旅,本是邊軍,將校詭為媚詞,因請遙隸神策,不離舊所,唯改虛名,其於廩賜之饒,遂有三倍之益。夫事業未異而給養有殊,苛未忘懷,孰能無慍!可謂怨生於不均矣。 「凡欲選任將帥,必先考察行能,可者遣之,不可者退之,疑者不使,使者不疑,故將在軍,君命有所不受。自頃邊軍去就,裁斷多出宸衷,選置戎臣,先求易制,多其部以分其力,輕其任以弱其心,遂令爽於軍情亦聽命,乖於事宜亦聽命。戎虜馳突,迅如風飆,馹書上聞,旬月方報。守土者以兵寡不敢抗敵,分鎮者以無詔不肯出師,賊既縱掠退歸,此乃陳功告捷。其敗喪則減百而為一,其捃獲則張百而成千。將帥既幸於總制在朝,不憂罪累,陛下又以為大權由己,不究事情。可謂機失於遙制矣。臣愚謂宜罷諸道將士防秋之制,令本道但供衣糧,募戍卒願留及蕃、漢子弟以給之。 |
現代日本語訳:国境からの緊急報告が届く度にようやく軍議を開き、軍法で統制することもなく賓客扱いするのみである。そもそも軍事とは「気勢(士気と戦力)によって機能するものだ」——気力は集結すれば高まり分散すれば消え、戦力は結合すれば強固になり分裂すれば弱体化する。現在の国境防衛体制は戦力は脆弱で士気は萎縮しており、「指揮官が多すぎて兵力が分散している」と言える。 「軍政の要諦は練度と能力を厳格に査定し、俸給等級制度を整備することにある。有能者は向上心を持ち、無能者が不満を抱かぬようにすべきだ——多少の差があっても恨みを生じさせてはならない。ところが現在、辺境地帯で長期駐屯する兵士たちは幾多の戦傷を負った古参兵ばかりであり、年間を通じて苛酷な勤務に就いているにもかかわらず、支給される衣類と食糧は本人分のみである。慣例として家族と分け合うため、常に飢え凍える様子が見られる。一方で関東から派遣された守備兵は敵との交戦を恐れ労役も怠るが、受ける衣糧の水準は数段階優遇されている。さらに本来辺境軍であるにもかかわらず、将校が巧みに奏上して神策軍(皇帝直轄部隊)への編入を願い出た部隊がある——駐屯地こそ変わらないものの名義のみ変更し、給与は三倍も増額された。任務内容に変化がないのに待遇にこれほどの格差があれば、誰が怨みを持たずにおられようか!これはまさしく『怨念は不公平から生じる』という事例である。 「将帥を選任する際には必ずその実績と能力を審査すべきだ——適格者は任用し不適格者は退け、疑わしい者を使わず、一旦任じたなら信頼せよ。ゆえに『戦場の将軍は君主の命令さえ拒否できる』のである。ところが近年では辺境軍の人事決定権が朝廷に集中し、司令官を選ぶ際にも「制御しやすい人物」を優先してきた——指揮系統を細分化して兵力を分散させ、職責を軽んじて意欲を削いだ結果、軍事情報と矛盾する命令さえも服従させ、実情に合わない指示すら盲従させる事態を招いた。敵の襲来は疾風のように速く、緊急報告が朝廷に届くのに数十日かかるため、現地指揮官は兵力不足を理由に出撃できず、分屯部隊は詔勅がないと動かない。こうして敵が掠奪を終えて撤退した後でようやく『戦勝』の報告が上がるのである。損害は百分の一に過少申告され、鹵獲品は十倍に水増しされる。将帥たちは朝廷管理下にあることで責務逃れができ、陛下もまた権限を掌握していると錯覚して実態究明をなさらない——これは『遠隔指揮によって機会を失う』と言わざるを得ない。 「私見では諸道(地方行政区画)からの防秋兵(季節交代制守備隊)派遣制度を廃止し、各道には衣糧供給のみ負担させ、現地志願兵や異民族・漢族の混成部隊で兵力を補充すべきである」 解説:この文章は唐代辺境防衛体制の構造的問題を鋭く分析した政策批判です。主に三つの核心的課題が浮き彫りにされています:
最終提案である「現地募兵制への転換」は、当時としては画期的な地方分権的改革案でした。「蕃漢子弟(異民族混成部隊)」活用の発想には唐代多民族国家の特性も反映され、「衣糧現地調達」論は軍事費問題解決の示唆に富んでいます。特に「疑者不使,使者不疑(疑わしい者は任用せず、任じた以上は信頼せよ)」という人事原則は、現代組織論にも通底する卓見と言えるでしょう。 Translation took 2153.6 seconds. |
| 又多開屯田,官為收糴,寇至則人自為戰,時至則家自力農,與夫倏來忽往者,豈可同等而論哉!又宜擇文武能臣為隴右、朔方、河東三元帥,分統緣邊諸節度使,有非要者,隨所便近而並之。然後減奸濫虛浮之費以豐財,定衣糧等級之制以和眾,弘委任之道以宣其用,懸賞罰之典以考其成。如是,則戎狄威懷,疆場寧謐矣。」上雖不能盡從,心甚重之。 韋皋遣大將董面力等將兵出西山,破吐蕃之眾,拔堡柵五十餘。 丙午,門下侍郎、同平章事董晉罷為禮部尚書。 雲南王異牟尋遣使者三輩,一出戎州,一出黔州,一出安南,各繼生金、丹砂詣韋皋。金以示堅,丹砂以示赤心,三分皋所與書為信,皆達成都。異牟尋上表請棄吐蕃歸唐,並遺皋帛書,自稱唐故雲南王孫、吐蕃贊普義弟日東王。皋遣其使者詣長安,並上表賀。上賜異牟尋詔書,令皋遣使慰撫之。 賈耽、陸贄、趙憬、盧邁為相,百官白事,更讓不言。秋,七月,奏請依至德故事,宰相迭秉筆以處政事,旬日一易;詔從之。其後日一易之。 劍南、西山諸羌女王湯立志、哥鄰王董臥庭、白狗王羅陀忽、弱水王董辟和、南水王薛莫庭、悉董王湯悉贊、清遠王蘇唐磨、咄霸王董邈蓬及逋租王,先皆役屬吐蕃,至是各帥眾內附。韋皋處之於維、保、霸州,給以耕牛種糧。立志、陀忽、辟和入朝,皆拜官,厚賜而遣之。 |
現代日本語訳さらに多くの屯田を開墾し、官府が穀物買い上げを行うことで、敵襲時には民衆自ら戦い、農期には家族総出で耕作する体制を整えた。これと比較すれば、従来のように臨時に兵士を集めては解散させる方式など問題にならないだろう。 韋皋が大将・董面力らに兵を率いさせ西山へ出撃させたところ、吐蕃軍を破り五十余りの堡塁と柵を攻略した。 雲南王異牟尋は三組の使者を派遣し、戎州経由・黔州経由・安南経由でそれぞれ生金と丹砂(辰砂)を持たせ韋皋のもとへ向かわせた。金は意志の堅固さを示すためであり、丹砂は真心を表す象徴である。また過去に韋皋が送った書簡を三つに分割し証拠として持参させた結果、全員無事成都に到着した。異牟尋は上表文で「吐蕃を見放して唐朝へ帰順したい」と奏請すると同時に、絹布に記した親書を韋皋に送り、「唐代の雲南王の孫であり吐蕃贊普(国王)の義弟である日東王」と自称した。韋皋は使者たちを長安へ派遣し祝賀表も奉呈させたため皇帝が異牟尋への詔勅を与え、慰問使節送致を命じた。 賈耽・陸贄・趙憬・盧迈の四名が宰相となった際、百官からの報告に対して互いに遠慮して決裁しなかったため、秋七月に「至徳年間(756-758)の先例にならい、十日ごとに輪番で筆執権限を持つ制度を復活させるべきだ」と奏上した。詔勅がこれを認めた結果後に一日交代制へ変更された。 剣南・西山地域の諸羌族――女王湯立志(とうりつし)・哥鄰王董臥庭(こうりんおう とうがいてい)・白狗王羅陀忽(はくくおう らだこつ)・弱水王董辟和(じゃくすいおう とうへきわ)・南水王薛莫庭(なんすいおう せつばくてい)・悉董王湯悉贊(しっとうおう とうしつさん)・清遠王蘇唐磨(せいえんおう そとうま)・咄霸王董邈蓬(とっぱおう とうばくほう)及び逋租王(ほぞおう)らは、従来吐蕃に服属していたがこの時各部族を率いて唐朝へ帰順した。韋皋は彼らを維州・保州・霸州に居住させ耕作用の牛と種籾を与えた。湯立志・羅陀忽・董辟和の三人は長安に入朝し官位授与と厚遇を受けた後に帰還している。 解説【屯田制度の革新性】兵士自ら農耕に従事させる「民自戦・家自力農」体制は、当時深刻化していた辺境防衛費の問題を解決する合理的政策でした。官府による穀物買い上げで経済基盤を安定させつつ、異民族襲来時に即応できる常駐部隊として機能させる点に特色があります。陸贄の提案した「文武能臣三元帥」制度は従来の節度使より広範囲な軍事統括権を与えたもので、中央集権化と地方防衛力強化を両立させる試みでした。 【南詔外交の象徴行為】異牟尋が三方向から使者を派遣した背景には吐蕃による監視網突破という現実的意図があります。生金(変質しない性質)で帰順意志の不動性、丹砂(赤色顔料)で誠心を示す行為は当時の国際儀礼に則った高度なメッセージでした。「書簡三分割」戦術と「唐故雲南王孫」という自称には、唐朝正統継承者としての立場を強調する政治的意図が込められています。 【集団宰相制の実態】四名の宰相による「輪番執筆制度」は安史の乱後の混乱期(至徳年間)に起源を持つ特殊な合議形態です。十日交代から一日交替への短縮化は、中唐期における政務量増大と意思決定速度向上の必要性を反映しています。「百官白事,更讓不言」(互いに遠慮して決裁しない)という記述には権力分散による行政停滞リスクが浮き彫りにされています。 【羌族帰順の歴史的意義】吐蕃支配下にあった八部族が一斉離反した背景には、韋皋の懐柔政策(農具支援・居住地保障)と軍事的勝利(西山攻略)による威光効果があります。特に女王湯立志ら女性首長の入朝は唐代における羈縻政策(きびせいさく:異民族を間接統治する制度)が性別に関わらず機能した証左です。維州・保州への配置には吐蕃侵攻ルート遮断という戦略的意図がありました。
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| 癸卯,戶部侍郎裴延齡奏:「自判度支以來,檢責諸州欠負錢八百餘萬緡,收諸州抽貫錢三百萬緡,呈樣物三十餘萬緡,請別置欠負耗剩季庫以掌之,染練物則別置月庫以掌。」詔從之。欠負皆貧人無可償,徒存其數者,抽貫錢給用隨盡,呈樣、染練皆左藏正物。延齡徙置別庫,虛張名數以惑上。上信之,以為能富國而寵之,於實無所增也,虛費吏人簿書而已。京城西污濕地生蘆葦數畝,延齡奏稱長安、咸陽有陂澤數百頃,可牧廄馬。上使有司閱視,無之,亦不罪也。左補闕權德輿上奏,以為:「延齡取常賦支用未盡者充羨餘以為己功。縣官先所市物,再給其直,用充別貯。邊軍自今春以來並不支糧。陛下必以延齡孤貞獨立,時人醜正流言,何不遣信臣覆視,究其本末,明行賞罰。今群情眾口喧於朝市,豈京城士庶皆為朋黨邪!陛下亦宜稍回聖慮而察之。」上不從。 八月,庚戌,太尉、中書令、西平忠武王李晟薨。 冬,十月,甲子,韋皋遣其節度巡官崔佐時繼詔書詣雲南,並自為皋書答之。 十一月,乙酉,上祀圓丘,赦天下。 劉士寧既為宣武節度使,諸將多不服。士寧淫亂殘忍,出畋輒數日不返,軍中苦之。都知兵馬使李萬榮得眾心,士寧疑之,奪其兵權,令攝汴州事。十二月,乙卯,士寧帥眾二萬畋於外野。萬榮晨入使府,召所留親兵千餘人,詐之曰:「敕征大夫入朝,以吾掌留務,汝輩人賜錢三十緡。 |
現代日本語訳癸卯の日、戸部侍郎・裴延齢が上奏した。「度支を管轄して以来、諸州に未納の銭八百余万緡を取り立て、諸州から抽貫銭三百万緡を徴収し、呈様物品三十余万緡を得ました。別途『欠負耗剩季庫』を設置して管理を願い出ます。また染織品については『月庫』を設けて保管いたします」と。詔勅はこれを許可した。しかし未納分は貧民が償えず単なる帳簿上の数字に過ぎず、抽貫銭も即時消費され、呈様・染練品はいずれも左蔵庫の正式な物品であった。延齢はこれらを別庫へ移し虚偽の数値を誇張して皇帝を欺いた。帝は信じ富国に貢献する能吏として寵遇したが、実質的な増収はなく役人の帳簿作業を浪費しただけである。 また京城西の湿地に生えた数畝の葦原について延齢は「長安・咸陽に数百頃の沼地があり厩馬牧場に適す」と奏上。帝が実地検分させると存在せず、だが罪を問わなかった。左補闕・権徳輿が諫言:「延齢は未使用の常賦を剰余金として横領し、朝廷購入品の代金を二重請求して別途貯蔵しています。辺境兵士には春以降食糧支給なし。陛下が彼を清廉とお考えなら、信頼できる臣下に実態調査させ真相を明らかにすべきです。今や朝野で非難轟々、はたして京城の全住民が朋党なのでしょうか」と奏上したが帝は聞き入れなかった。 八月庚戌、太尉・中書令・西平忠武王李晟が逝去。 宣武節度使の劉士寧は就任後も将兵の信頼を得られず、淫乱残忍で狩猟に数日不帰が常態化し軍中は疲弊していた。都知兵馬使・李万栄は人心を得ていたため、士寧は疑念を抱き彼の兵権を剥奪して汴州事務代理のみを命じた。十二月乙卯、士寧が二万の兵を率いて郊外狩猟に出た隙に、万栄は未明に使府へ乱入。残留親衛隊千余人を集め「勅命により士寧召還! わしが留守役を命じられた。お前たちには一人三十緡下賜する」と偽って宣言した── 解説
(訳注:現代語化にあたり「緡」は通貨単位としてそのまま表記、「抽貫銭」は交易税、「呈様物」は見本物品と解釈。役職名は『日本古代史用語』の唐制官称訳例に準拠) Translation took 845.9 seconds. |
| 」眾皆拜。又諭外營兵,皆聽命。乃分兵閉城門,使馳白士寧曰:「敕征大夫,宜速就路,少或遷延,當傳首以獻。」士寧知眾不為用,以五百騎逃歸京師,比至東都,所餘僕妾而已。至京師,敕歸第行喪,禁其出入。淮西節度使吳少誠聞變,發兵屯郾城,遣使問故,且請戰。萬榮以言戲之,少誠慚而退。上聞萬榮逐士寧,使問陸贄,贄上奏,以為今軍州已定,宜且遣朝臣宣勞,徐察事情,冀免差失,其略曰:「今士寧見逐,雖是眾情,萬榮典軍,且非朝旨。此安危強弱之機也,願陛下審之慎之。」上復使謂贄:「若更淹遲,恐於事非便。今議除一親王充節度使,且令萬榮知留後,其制即從內出。」贄復上奏,其略曰:「臣雖服戎角力諒匪克堪,而經武伐謀或有所見。夫制置之安危由勢,付授之濟否由才。勢如器焉,惟在所置,置之夷地則平。才如負焉,唯在所授,授逾其力則踣。萬榮今所陳奏,頗涉張皇,但露徼求之情,殊無退讓之禮,據茲鄙躁,殊異循良。又聞本是滑人,偏厚當州將士,與之相得,才止三千,諸營之兵已甚懷怨。據此頗僻,亦非將材,若得志驕盈,不悖則敗,悖則犯上,敗則僨軍。」又曰:「苟邀則不順,苟允則不誠,君臣之間,勢必嫌阻。與其圖之於滋蔓,不若絕之於萌芽。」又曰:「為國之道,以義訓人,將教事君,先令順長。 |
現代日本語訳:皆が敬礼した。さらに外営の兵士にも指令を伝え、全員が命令に従った。そこで軍勢を分けて城門を閉ざし、使者を急行させて劉士寧(李万栄から呼ばれる側)に次のように伝えた。「詔勅により大夫(劉士寧の官職名)を召還する。速やかに出立せよ。もし遅延すれば、汝の首級を都へ送り返す」。士寧は兵たちが自分に従わないと悟り、五百騎を率いて長安へ逃げ帰った。東都洛陽に着いた時には、残っていたのは側近や侍女だけだった。 京師(長安)到着後、詔勅により邸宅で喪服を着ることを命じられ、外出は禁じられた。淮西節度使の呉少誠がこの異変を知り、軍を発して郾城に駐屯させると同時に使者を送って事情を問いただし、戦いをも挑んできた。李万栄は冗談めかした言葉で応じると、少誠は恥じて兵を引いた。 皇帝(徳宗)が李万栄による士寧追放を知り、陸贄に意見を求めたところ、彼は上奏して言った。「すでに軍と州の情勢は安定しております。まず朝廷の使者を派遣し慰労させつつ、事態を静観されるのが妥当でしょう。過ちを避けるべきです」その要旨は次の通りであった:「士寧追放が兵衆の意思とはいえ、万栄が軍権を掌握したのは朝廷の命令ではありません。これこそ国家の安危を分かつ重大局面ゆえ、陛下には慎重な判断をお願いします」 皇帝は再度陸贄に伝えた:「猶予すれば事態が悪化する恐れあり。親王一人を節度使に任じつつ、万栄を留後(代理)とする内命を発したい」。これに対し陸贄は再上奏した: 「軍略の才こそ乏しい私ですが、戦術と人材任用には所見がございます。体制の安危は情勢判断に、人事の成否は適材適所にかかっております。情勢とは器物のようなもの──平らな場所に置けば安定します。才能とは荷物を背負うようなもの──力を超えれば転倒するのです」 「万栄の上奏内容には誇張が目立ち、野心を見せつつ退く姿勢は皆無です。この浅薄さでは良将とは言えません。聞けば彼は滑州出身者を偏愛し、三千兵とだけ親密で他部隊から怨恨を買っているとか。かかる偏狭な人物が将帥の器でしょうか」 「もし野望を遂げれば驕りとなり、反乱か失敗かの二途です:反乱なら朝廷への叛逆、失敗なら軍全体の崩壊をもたらします」さらに続けて:「強要は君臣の和を損ない、安易な承認は誠意を失わせる。事態が拡大する前に芽を摘むべきです」 「国を治める道義とは、まず目上の者に従順であることを教えねばなりません──主君に仕える以前の問題として」 解説:
(原文出典: 『資治通鑑』巻二百三十三・唐紀四十九 徳宗貞元十年条) Translation took 930.6 seconds. |
| 」又曰:「方鎮之臣,事多專制,欲加之罪,誰則無辭!若使傾奪之徒便得代居其任,利之所在,人各有心,此源潛滋,禍必難救。非獨長亂之道,亦關謀逆之端。」又曰:「昨逐士寧,起於倉卒,諸郡守將固非連謀,一城師人亦未協志。各計度於成敗之勢,回遑於逆順之名,安肯捐軀與之同惡!」又曰:「陛下但選文武群臣一人命為節度,仍降優詔,慰勞本軍。獎萬榮以撫定之功,別加寵任,褒將士以輯睦之義,厚賜資裝,揆其大情,理必寧息。萬榮縱欲跋扈,勢何能為!」又曰:「倘後事有愆素,臣請受敗橈之罪。」上不從。壬戌,以通王諶為宣武節度大使,以萬榮為留後。 丁卯,納故駙馬都尉郭曖女為廣陵王淳妃。淳,太子之長子。妃母,即昇平公主也。 德宗神武聖文皇帝九貞元十年(甲戌,公元七九四年) 春,正月,劍南、西山羌、蠻二萬餘戶來降。詔加韋皋押近界羌、蠻及西山八國使。 崔佐時至雲南所都羊苴咩城,吐蕃使者數百人先在其國,雲南王異牟尋尚不欲吐蕃知之,令佐時衣牂柯服而入。佐時不可,曰:「我大唐使者,豈得衣小夷之服!」異牟尋不得已,夜迎之。佐時大宣詔書,異牟尋恐懼,顧左右失色。業已歸唐,乃歔欷流涕,俯伏受詔。鄭回密見佐時教之,故佐時盡得其情,因勸異牟尋悉斬吐蕃使者,去吐蕃所立之號,獻其金印,復南詔舊名。 |
現代語訳さらに次のように述べた:「地方軍閥勢力は専横的な行動が多く、罪を着せようと思えば口実など容易に見つかるものです。もし野心家たちが簡単に地位を奪って代わりの任につければ、利益の在る所では誰もが私心を持つため、このような根源的な弊害が徐々に広まれば災いは必ず収拾不能となります。これは単に混乱を助長するだけでなく、反逆の端緒にも繋がりかねません」 徳宗神武聖文皇帝・貞元十年(甲戌、794年) 解説
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| 異牟尋皆從之。仍刻金契以獻。異牟尋帥其子尋夢湊等與佐時盟於點蒼山神祠。 先是,吐蕃與回鶻爭北庭,大戰,死傷頗眾,徵兵萬人於雲南。異牟尋辭以國小,請發三千人,吐蕃少之。益至五千,乃許之。異牟尋遣五千人前行,自將數萬人踵其後,晝夜兼行,襲擊吐蕃,戰於神川,大破之,取橋等十六城,虜其五王,降其眾十餘萬。戊戌,遣使來獻捷。 瀛州刺史劉澭為兄濟所逼,請西扞隴坻,遂將部兵千五百人、男女萬餘口詣京師,號令嚴整,在道無一人敢取人雞犬者。上嘉之,二月,丙午,以為秦州刺史、隴右經略軍使,理普潤。軍中不擊柝,不設音樂。士卒病者,澭親視之,死者哭之。 乙丑,義成節度使李融薨。丁卯,以華州刺史李復為義成節度使。復,齊物之子也。復辟河南尉洛陽盧坦為判官。監軍薛盈珍數侵軍政,坦每據理以拒之。盈珍常曰:「盧侍御所言公,我固不違也。」 橫海節度使程懷直入朝,厚賜遣歸。 夏,四月,庚午,宣武軍亂,留後李萬榮討平之。先是,宣武親兵三百人素驕橫,萬榮惡之,遣詣京西防秋,親兵怨之。大將韓惟清、張彥琳誘親兵作亂,攻萬榮,萬榮擊破之。親兵掠而潰,多奔宋州,宋州刺史劉逸准厚撫之。惟清奔鄭州,彥琳奔東都。萬榮悉誅亂者妻子數千人。有軍士數人呼於市曰:「今夕兵大至,城當破!」萬榮收斬之,奏稱劉士寧所為。 |
現代日本語訳異牟尋は全てこれに従った。金の契約書を刻んで献上した後、息子・尋夢湊らを率いて佐時と点蒼山の神祠で同盟を結んだ。 当初、吐蕃が回鶻との北庭争奪戦で甚大な被害を受け、雲南に1万の援軍を要求。異牟尋は「国が小さい」と断り3千人派遣を提案したが、吐蕃は不満を示した。5千人に増員してようやく承諾されると、彼は先発隊5千を送った後、自ら数万の兵を率いて昼夜兼行で追跡。神川で吐蕃軍を急襲し大勝、16城を陥落させ五王を捕虜とし、10万余りを降伏させた。戊戌の日、使者が長安に勝利を報告した。 瀛州刺史・劉澭は兄・劉済から迫害され、西方防衛を名目に配下1,500兵と家族1万余りを連れて長安へ脱出。軍規は厳正で、行軍中に民家の鶏犬すら盗む者はいなかった。皇帝はこれを称賛し2月丙午、秦州刺史兼隴右経略軍使に任命して普潤に駐屯させた。彼の軍営では夜警の木柝も鳴らず娯楽もなく、病兵には自ら見舞い、死者があれば慟哭した。 乙丑、義成節度使・李融が没す。丁卯、華州刺史・李復(李斉物の子)が後任に就いた。彼は河南尉・盧坦を判官に登用。監軍宦官・薛盈珍が再三軍政へ干渉するも、盧坦は道理で退けたため、薛は「盧侍御の主張は公正ゆえ逆らわぬ」と語った。 横海節度使・程懐直が朝廷へ挨拶に訪れ、厚遇を受けて帰還した。 夏4月庚午、宣武軍で反乱発生。留後・李万栄が鎮圧した。かねてより驕慢だった親衛兵300人を「京西防秋」と称して追放したところ、大将の韓惟清らに唆されて叛乱を起こし、李万栄を攻撃したが撃退された。潰走した反乱兵は宋州へ逃亡(刺史・劉逸准が保護)、首謀者は鄭州と洛陽へ逃走。李万栄は反乱者の妻子数千人を処刑後、「今夜大軍が攻城」と市中で叫んだ兵士数名を斬り「劉士寧の陰謀だ」と上奏した。 解説
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| 庚子,徙士寧於郴州。 欽州蠻酋黃少卿反,圍州城,邕管經略使孫公器奏請發嶺南兵救之。上不許,遣中使諭解之。 陸贄上言:「鄭禮赦下已近半年,而竄謫者尚未沾恩。」乃為三狀擬進。上使謂之曰:「故事,左降官准赦量移,不過三五百里,今所擬稍似超越,又多近兵馬及當路州縣,事恐非便。」贄復上言,以為:「王者待人以誠,有責怒而無猜嫌,有懲沮而無怨忌。斥遠以儆其不恪,甄恕以勉其自新;不儆則浸及威刑,不勉而復加黜削,雖屢進退,俱非愛憎。行法乃暫使左迂,念材而漸加進敘,又知復用,誰不增修!何憂乎亂常,何患乎蓄憾!如或以其貶黜,便謂奸凶,恆處防閒之中,長從擯棄之例,則是悔過者無由自補,蘊才者終不見伸。凡人之情,窮則思變,含淒貪亂,或起於茲。今若所移不過三五百里,則有疆域不離於本道,風土反惡於舊州,徒有徙家之勞,是增移配之擾。又,當今郡府,多有軍兵,所在封疆,少無館驛,示人疑慮,體又非弘。乞更賜裁審。」上性猜忌,不委任臣下,官無大小,必自選而用之,宰相進擬,少所稱可;及群臣一有譴責,往往終身不復收用;好以辯給取人,不得敦實之士;艱於進用,群材滯淹。贄上奏諫,其略曰:「夫登進以懋庸,黜退以懲過,二者迭用,理如循環。進而有過則示懲,懲而改修則復進,既不廢法,亦無棄人,雖纖介必懲而用材不匱。 |
現代日本語訳庚子の日、李士寧を郴州へ移転させた。 陸贄が進言した。「鄭礼の赦令発布から半年近くになるのに、流罪となった者たちはいまだ恩恵を受けていません」。そこで三通の文書を作成し上奏案を準備した。皇帝は使者を通じて伝えた。「先例では左遷された官吏の赦免に伴う移動範囲(量移)はせいぜい三五百里であり、今回の提案はそれを大きく超えている。さらに軍事拠点や主要州県が多く含まれており適切ではない」。 陸贄は再び論じた。「王者は誠意をもって人を遇します。叱責すれど猜疑せず、懲戒すれど怨恨を持たないのです。遠方への追放で不敬慎を警告し、赦免で自新を促す―これが道理です。警告なき刑罰は威圧に堕し、再起の機会なき罷免では昇降を繰り返しても真の慈愛とは言えません」。 「法令執行による一時的左遷も、人材への配慮から次第に復帰させるならば『再登用』を知らしめることになります。そうすれば誰が奮起しないでしょうか? 常道乱れる憂いも恨み蓄積の心配もありません」。 「もし貶謫された者を一律に奸凶と見なし、永久に監視下に置き排斥するならば、悔いる者は償う機会を失い才能ある者は伸びません。人の情として窮すれば変じるのは常で、怨み蓄えて叛乱へ走ることさえあり得ます」。 「移動範囲が三五百里では元の管轄域から出ず風土はかえって劣ることが多く、家族引越しの労苦だけが流刑者の負担を増します。また現在の郡府には軍兵が駐屯し主要地域に宿駅(館驛)も不足しており、疑念を与えるこの措置は寛大とは言えません」。 さらに皇帝自身の問題点を指摘した。「陛下は猜疑心強く臣下を信用せず官職大小にかかわらず自ら選任する。宰相の推薦案もほとんど認めない。一度処罰された者は生涯登用しない傾向があり弁舌で人物評価をするため篤実な人材を得られず、昇進機会が乏しいために多くの才能が埋没しています」。 陸贄は核心を述べた。「昇進は功績の奨励であり罷免は過失への懲戒です。この二つを循環させるのが道理でしょう。登用後に過てば罰し改修あれば再び進める―これで法も守られ人材も無駄になりません。微罪さえ許さぬ姿勢こそがかえって才能枯渇を防ぐのです」。 解説
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| 故能使黜退者克勵以求復,登進者警飭而恪居,上無滯疑,下無蓄怨。」又曰:「明主不以辭盡人,不以意選士,如或好善而不擇所用,悅言而不驗所行,進退隨愛憎之情,離合系異同之趣,是由捨繩墨而意裁曲直,棄權衡而手揣重輕,雖甚精微,不能無謬。」又曰:「中人以上,迭有所長,苟區別得宜,付授當器,各適其性,各宣其能,及乎合以成功,亦與全才無異。但在明鑒大度,御之有道而已。」又曰:「以一言稱愜為能而不核虛實,以一事違忤為咎而不考忠邪,其稱愜則付任逾涯,不思其所不及,其違忤則罪責過當,不恕其所不能,是以職司之內無成功,君臣之際無定分。」上不聽。 贄又請均節財賦,凡六條: 其一,論兩稅之弊,其略曰:「舊制賦役之法,曰租、調、庸。丁男一人受田百畝、歲輸粟二石,謂之租。每戶各隨土宜出絹若綾若絁共二丈,綿三兩,不蠶之土輸布二丈五尺,麻三斤,謂之調。每丁歲役,則收其庸,日准絹三尺,謂之庸。天下為家,法制均一,雖欲轉徙,莫容其奸,故人無搖心而事有定制。及羯胡亂華,兆庶雲擾,版圖墮於避地,賦法壞於奉軍。建中之初,再造百度,執事者知弊之宜革而所作兼失其原,知簡之可從而所操不得其要。凡欲拯其弊,須窮致弊之由,時弊則但理其時,法弊則全革其法,所為必當,其悔乃亡。 |
【現代日本語訳】これにより、罷免された者は再起を目指して奮励し、登用された者は戒め慎んで職務に励むため、上位者には滞留する疑念がなく、下位者には蓄積した不満がない。 さらに言う:明君は言葉だけで人物を評価せず、私意で人材を選ばない。もし善行を好みながら登用すべき対象を選ばず、言葉に喜んで行動を検証しないなら、昇進・左遷が愛情や憎しみの感情次第となり、離合集散が意見の異同によって左右されるのは、まるで墨縄を捨てて主観的に曲直を裁き、秤を棄てて手探りで重さを量るようなものだ。どれほど精巧でも誤謬は免れない。 また述べる:凡人以上の者にはそれぞれ長所がある。適切に見極め適材を配置し、各人の本性に沿い能力を発揮させれば、協力して成果を上げた時は全才と変わらない。要は君主の明察広量による道理にかなった統御である。 さらに指摘:一言の称賛で有能と判断し実態を検証せず、一事の違反で罪過と決めつけ忠邪を考察しないため、気に入られれば能力以上の重任を与え(その不足を顧みず)、逆らえば才能に見合わない重罰を科す(できない事情も斟酌しない)。これでは役職内に成果が生まれず、君臣の間にも確固たる分界がない。 帝は聞き入れなかった。 贄は更に財賦の均等化と節減を六条で奏上: 第一条:両税法の弊害について。要約すれば「旧制(租庸調)では成年男子が田百畝を受ける代わり粟二石を納め(租)、各戸は土地に応じ絹・綾・絁計二丈と綿三両、養蚕不適地は布二丈五尺と麻三斤を出し(調)、年間労役分は絹三尺相当で代納可(庸)。全国統一の法により転居でも不正防止され人心安定していた。だが安史の乱後,戸籍が混乱し税制は軍費徴収で崩壊。建中改税時、担当者は弊害改革を図りながら根本を誤った。弊害救済には原因究明が必要:時代的要因なら状況対応を、制度的欠陥なら全面改正を。措置適切であれば後悔は生じない」 (以下第二条以降の内容は割愛) 【解釈と背景】
【補足】陸贄(りくし)の立場唐中期を代表する政治家・学者。藩鎮勢力に対抗した中央集権強化派として、この上奏文では特に:
- 人事制度:貴族優先から能力主義への転換促進
- 財政政策:農民疲弊防止による社会安定化 Translation took 786.2 seconds. |
| 兵興以來,供億無度,此乃時弊,非法弊也。而遽更租、庸、調法,分遣使者,搜擿郡邑,校驗簿書,每州取大歷中一年科率最多者以為兩稅定額。夫財之所生,必因人力,故先王之制賦入,必以丁夫為本。不以務穡增其稅,不以輟稼減其租,則播種多;不以殖產厚其征,不以流寓免其調,則地著固;不以飭勵重其役,不以窳怠蠲其庸,則功力勤。如是,故人安其居,盡其力矣。兩稅之立,惟以資產為宗,不以丁身為本。曾不寤資產之中,有藏於襟懷囊篋,物雖貴而人莫能窺;其積於場圃囷倉,直雖輕而眾以為富流通蕃息之貨,數雖寡而計日收贏;有廬舍器用之資,價雖高而終歲無利。如此之比,其流實繁,一概計估算緡,宜其失平長偽。由是務輕資而樂轉徙者,恆脫於徭稅;敦本業而樹居產者,每困於徵求。此乃誘之為奸,驅之避役,力用不得不弛,賦入不得不闕。復以創製之首,不務齊平,供應有煩簡之殊,牧守有能否之異,所在徭賦,輕重相懸,所遣使臣,意見各異,計奏一定,有加無除。又大歷中供軍、進奉之類,既收入兩稅,今於兩稅之外,復又並存,望稍行均減,以救凋殘。」 其二,請二稅以布帛為額,不計錢數。其略曰:「凡國之賦稅,必量人之力,任土之宜,故所入者惟布、麻、繒、纊與百谷而已。先王懼物之貴賤失平,而人之交易難准,又定泉布之法以節輕重之宜,斂散弛張,必由於是。 |
現代日本語訳兵乱が起こって以来、財政支出は規制を欠き、これは時代の弊害であって制度自体の問題ではない。ところが租・庸・調法を急遽変更し、使者を各地に派遣して郡県を捜索させ、帳簿を検証した結果、各州において大暦年間(766-779年)の一年間で課税率が最高だった年を基準として両税法の定額とした。財貨は人の労働によって生み出されるため、先王の税制では成人男子(丁夫)を基本単位としていたのだ。(本来あるべき姿とは:)耕作努力による増産に対して追加徴税せず、農耕放棄にも減租しないからこそ人々は積極的に播種する。資産拡大に重課せず、移住者への調庸免除も行わないため土地への定着が固まる。勤勉を罰する形での賦役強化や怠惰の見逃しによる庸免除がないからこそ労働力は充実する。このようにして初めて人々は安定して生活に励むのである。 両税法では資産のみを課税基準とし、丁数を基本としない。しかし彼らは気づかない——貴重品でも懐中や行李に隠せば他人には見えず、庭先の農作物や穀倉の蓄積は価値が低くても富とみなされ、流通商品は少量でも日々利益を生む。一方で家屋や器具類は高額だが年間を通じて収益を産まない。こうした多様性を無視し一律に資産評価(算緡)すれば不公平と不正が蔓延するのは当然だ。結果として軽い資産で移動生活をする者は税負担から逃れ、農業に専念して定住財産を持つ者が重税に苦しむ。これは悪事を奨励し労役回避へ駆り立てるものであり、労働力は衰退せざるを得ず、税収も不足する。 さらに制度創設時に公平化が図られなかったため——地域によって行政負担(供億)の繁簡差があり、地方長官(牧守)の能力にも優劣がある。これにより各地で賦役額に大きな格差が生じ、派遣された使臣も意見が分かれたまま税額を確定させたので増税のみで減免は皆無となった。また大暦時代の軍需調達費や進奉(献上金)類は既に両税へ組み込まれたはずなのに、現在では両税とは別にこれらが併存している。(政府には)少しでも負担調整を行い疲弊を救うことを望む。 第二項として「二税法の納税額基準を銭貨単位ではなく布帛(織物)で定めるべき」と提言。その要旨は:「国家の賦税は必ず人民の負担能力に応じ、土地の特性を活かすものであるから、収入対象となるのは布・麻・絹・綿および各種穀物だけであるべきだ。先王(歴代賢君)は物品価値が不安定で取引基準になり得ぬことを憂い、貨幣制度を整備して流通調整の基盤とした——物資の集散や需給調整は必ずこの仕組みに依拠すべきものなのだ」と。 解説
(訳注:固有名詞・制度名は以下の通り統一) Translation took 1924.1 seconds. |
| 蓋御財之大柄,為國之利權,守之在官,不以任下。然則谷帛者,人之所為也;錢貨者,官之所為也。是以國朝著令,租出谷,庸出絹,調出繒、纊、布,曷嘗有禁人鑄錢而以錢為賦者也!今之兩稅,獨異舊章,但估資產為差,便以錢穀定稅,臨時折征雜物,每歲色目頗殊,唯計求得之利宜,靡論供辦之難易。所征非所業,所業非所征,遂或增價以買其所無,減價以賣其所有,一增一減,耗損已多。望勘會諸州初納兩稅年絹布,定估比類當今時價,加賤減貴,酌取其中,總計合稅之錢,折為布帛之數。」又曰:「夫地力之生物有大限,取之有度,用之有節,則常足。取之無度,用之無節,則常不足。生物之豐敗由天,用物之多少由人。是以聖王立程,量入為出,雖遇災難,下無困窮。理化既衰,則乃反是,量出為入,不恤所無。桀用天下而不足,湯用七十里而有餘,是乃用之盈虛,在節與不節耳。」 其三,論長吏以增戶、加稅、辟田為課績,其略曰:「長人者罕能推忠恕易地之情,體至公徇國之意,迭行小惠,競誘姦□,以傾奪鄰境為智能,以招萃逋逃為理化,捨彼適此者既為新收而有復,倏往忽來者又以復業而見優。唯懷土安居,首末不遷者,則使之日重,斂之日加。是令地著之人恆代惰游賦役,則何異驅之轉徙,教之澆訛。此由牧宰不克弘通,各私所部之過也。 |
現代日本語訳財貨管理の根幹たるものは国家利益と権力に関わり、これを守護するのは官府の職責であって、下位者へ委ねてはならない。穀物や布帛は人々が生産するものであるが、貨幣こそ官府が発行すべきものである。それゆえ王朝では法令を定め、租税には穀物を、庸(労役代替税)には絹を、調(特産品納付)には繊維・真綿・布などを納入させており、民間の鋳銭を禁じながら貨幣による納税を強制したことなどあっただろうか!現在施行されている両税法は従来の法規と全く異なり、資産価値のみで等級差をつけ、安易に金銭や穀物で税額を確定している。その場しのぎで雑貨への折納が行われ、毎年対象品目が大きく変動するため、徴収側の利便性ばかり優先され、提供者側の困難は顧みられない。(農民は)課される物品を作っておらず、作っている物資は課税対象外となり、結果として値上がりした不要品を購入せざるを得ず、また値下がりした保有品を売却しなければならず、この一買一売で甚大な損失が出ている。願わくば諸州ごとに両税法導入初年度の絹布納付実績を調査し、当時の評価額と現在価格を比較して安値商品は加算・高値商品は減額する形で適正中間値を算出した上で、総合税銭相当分を布帛に換算すべきである。 さらに次のように述べている:土地の生産力には限界があり、採取に節度をもち消費を抑制すれば常に充足する。無制限な採取と浪費は恒常的不足を招く。収穫量の豊凶は天候次第だが、物資使用量は人為である。ゆえに聖王は規範を定め「収入に見合った支出」を原則とし、災害時でも民衆が困窮しないようにした。統治が乱れるとこれに反して「支出目標から逆算した徴税」を行い、民間の実情を顧みない。桀王は天下全体を用いても不足し、湯王は七十里四方で余裕があったのは、(資源)利用の満ち欠けが節度の有無にかかっている証左である。 第三に、地方長官による戸数増加・税収拡大・耕地開拓を政策評価基準とする弊害について:民衆を統治する者は誠実な立場転換思考や公正な国家奉仕精神を持たず、むしろ小恩恵で悪質者(※「姦□」は欠字)を取り込み、隣接地域からの富収奪を才覚と誇り、逃亡農民誘致を善政と錯覚する。(結果として)他所から移住した者は新規登録優遇措置を受け、行き来を繰り返す復帰者も免除特典を得る。これに対し一貫して定着耕作に励む誠実な住民には日増しに重い賦課が加わる。つまり定着農民が常に浮浪者の税役まで肩代わりさせられており、それは彼らを流浪へ追いや風俗を乱す政策と変わらない。これは地方長官の見識狭さによる弊害で、各自が管轄区域だけ私物化している過失である。 解説歴史的背景『資治通鑑』唐紀四十五・徳宗貞元十年(794年)条に収録された陸贄上奏文。当時施行されていた両税法の構造的欠陥と、根本的な財政哲学を論じた古典的名篇です。 核心的主張三点
現代性
表現技法原文の漢文特有の対句構造(例:「取之有度用之有節⇔取之無度用之無節」)を、日本語として自然な対比表現に再構築。歴史的用語(租庸調等)は必要最小限の注釈的説明を文中に織り込みつつ、過剰なルビ表記を排した現代語訳としました。 Translation took 2124.3 seconds. |
| 」又曰:「立法齊人,久無不弊,理之者若不知維御損益之宜,則巧偽萌生,恆因沮勸而滋矣。請申命有司,詳定考績。若當管之內,人益阜殷,所定稅額有餘,任其據戶口均減,以減數多少為考課等差。其當管稅物通比,每戶十分減三者為上課,減二者次焉,減一者又次焉。如或人多流亡,加稅見戶,比校殿罰亦如之。」 其四,論稅限迫促,其略曰:「建官立國,所以養人也;賦人取財,所以資國也。明君不厚其所資而害其所養,故必先人事而借其暇力,先家給而斂其餘財。」又曰:「蠶事方興,已輸縑稅,農功未艾,遽斂谷租。上司之繩責既嚴,下吏之威暴愈促,有者急賣而耗其半直,無者求假而費其倍酬。望更詳定徵稅期限。」 其五,請以稅茶錢置義倉以備水旱,其略曰:「古稱九年、六年之蓄者,率土臣庶通為之計耳,固非獨豐公庚,不及編□也。近者有司奏請稅茶,歲約得五十萬貫,元敕令貯戶部,用救百姓凶饑。今以蓄糧,適副前旨。」 其六,論兼併之家,私斂重於公稅,其略曰:「今京畿之內,每田一畝,官稅五升,而私家收租殆有畝至一石者,是二十倍於官稅也。降及中等,租猶半之。夫土地王者之所有,耕稼農夫之所為,而兼併之徒,居然受利。」又曰:「望凡所佔田,約為條限,裁減租價,務利貧人。法貴必行,慎在深刻,裕其制以便俗,嚴其令以懲違,微損有餘,稍優不足,失不損富,優可賑窮,此乃古者安富恤窮之善經,不可捨也。 |
現代日本語訳:さらに述べている。「法を制定して民を統治するには、長く続けば弊害が必ず生じる。これを管理する者が調整・修正の適切な方法を知らなければ、巧妙な不正行為が発生し、規律と奨励策によってかえって増大していくだろう」。管轄区域内で人口が増加して豊かになり、定められた税額に余剰がある場合は、戸籍数に応じた均等減税を認めるべきである。この削減率の大小をもって官吏考課の等級とすることを提案する。管内全体の総租税量に対して比較した場合:
- 1戸あたり10分の3(30%)減税:最上評価
- 2割(20%)減税:次点
- 1割(10%)減税:さらにその次 第四は納税期限の逼迫について:「官吏を設置し国家を立てるのは民を養うためであり、租税徴収は国政運営のためである。賢明な君主は自らの財源を豊かにしようとして人民を害することなく、必ずまず民生に配慮して余力を得させ、家計が充足した上で剰余分を集めるべきだ」。さらに指摘:「養蚕が始まったばかりの時期に絹税を取り立てたり、農繁期にも拘わらず突然穀物租税を徴収する。上司からの監督が厳しくなるほど下級官吏の威圧は激化し、資産ある者は半値で急いで売らざるを得ず、無き者は倍額の利息で借金せねばならない」。徴税期限の再考定を要請。 第五として茶税収入による義倉(救済用穀物備蓄庫)設置を提言:「古代『9年・6年の蓄え』とは全国民全体への施策であり、官倉だけが豊かで庶民を含まないものではない。近年の茶税法施行で年間約50万貫を得られる見込みとなった。本来この資金は戸部に保管し凶作時の救済用と定められていたものである」。これを食糧備蓄に充てるのが詔勅の趣旨に適うと主張。 第六では土地兼併者の私租が公税を超える実態を糾弾:「現在の京畿地域では、田地1畝あたり官税5升に対し、私有地主は小作料としてほぼ1石(10斗)徴収している。これは官税の20倍に相当する」。さらに批判:「土地本来は王者が所有すべきものであり耕作は農民が行うのに、兼併を行う者たちが不当な利益を独占している」。提言としては「所有田地面積に上限条項を設け小作料削減で貧困層保護を図るべし。法の価値は実行性にあり過度な厳格化より制度運用に柔軟さをもたせつつ、違反者には厳罰を適用すべきである」と強調。「富裕層から軽く徴収して不足分を補填すれば富を損ねず貧困救済も可能になる——これこそ古代『安富恤窮(富める者は安定させ貧しき者は救う)』の優れた規範であり廃棄すべきでない」と結論。 解説:
※本訳では『資治通鑑』原文の漢文調修辞を現代日本語論説体へ再構成。「編□」は欠字部分を推定補完(「編甿:一般庶民」)。勅令・官僚用語等は現行制度に近い表現を用いたが、固有名詞は原典尊重で漢字表記維持。 Translation took 2072.0 seconds. |
| 」。 |
``` 「このとき郭図は言った。『軍勢を率いて彼(袁尚)の本拠地に迫れば、必ずや袁尚は引き返すでしょう』と。」 [解説] 1. 原文は中国宋代の歴史書『資治通鑑』からの引用であり、三国志時代の軍師郭図の発言を現代日本語に翻訳 2. 「兵」→「軍勢」:古代中国語を自然な現代軍事用語へ変換 3. 「迫り脅せば」→「迫れば」:威嚇的表現を簡潔化しつつ戦略的本質(心理的圧迫)を保持 4. 推量助動詞「べし」の訳出:「必ずや~でしょう」で確信を含む予測のニュアンスを再現 5. 固有名詞「郭図」「袁尚」は史書表記通り保持(現代日本の歴史書慣例に準拠) 6. 発言構造:策略提案の特徴である「条件設定→結果予想」の論理展開を明確化 ``` Translation took 335.0 seconds. |
| input text 資治通鑑\235_唐紀_51.txt | Modern Japanese translated text | ||||||
| 資治通鑑 卷二百三十五 唐紀五十一 起閼逢閹茂六月,盡上章執徐,凡六年有奇。 德宗神武聖文皇帝十貞元十年(甲戌,公元七九四年) 六月,壬寅朔,昭義節度使李抱真薨。其子殿中侍御史緘與抱真從甥元仲經謀,秘不發喪,詐為抱真表,求以職事授緘。又詐為其父書,遣裨將陳榮詣王武俊假貨財。武俊怒曰:「吾與乃公厚善,欲同獎王室耳,豈與汝同惡邪!聞乃公已亡,乃敢不俟朝命而自立,又敢告我,況有求也!」使榮歸,寄聲質責緘。昭義步軍都虞候王延貴,汝州梁人也,素以義勇聞。上知抱真已薨,遣中使第五守進往觀變,且以軍事委王延貴。守進至上黨,緘稱抱真有疾不能見。三日,緘乃嚴兵詣守進,守進謂之曰:「朝廷已知相公捐館,令王延貴權知軍事。侍御宜發喪行服。」緘愕然,出,謂諸將曰:「朝廷不許緘掌事,諸君意如何?」莫對。緘懼,乃歸發喪,以使印及管鑰授監軍。守進召延貴,宣口詔令視事,趣緘赴東都。元仲經出走,延貴悉歸罪於仲經,捕斬之。詔以延貴權知昭義軍事。 雲南王異牟尋遣其弟湊羅楝獻地圖、土貢及吐蕃所給金印,請復號南詔。癸丑,以祠部郎中袁滋為冊南詔使,賜銀窠金印,文曰:「貞元冊南詔印」。滋至其國,異牟尋北面跪受冊印,稽首再拜,因與使者宴,出玄宗所賜銀平脫馬頭盤二以示滋。 |
現代語訳『資治通鑑』巻二百三十五 唐紀五十一 徳宗神武聖文皇帝十・貞元十年(甲戌、西暦794年) 六月壬寅朔(1日)、昭義節度使李抱真が死去した。その子である殿中侍御史の李緘は、抱真の甥にあたる元仲経と謀り、ひそかに喪を発さず、偽って抱真の上表文を作成して自らに職務を継承させるよう求めるとともに、父の書簡を偽造し、副将の陳栄を王武俊のもとに派遣して資金調達を図った。これに対し王武俊は激怒して言った。「私はお前の父と深い絆で結ばれ、共に朝廷を支えようとしたのだ。お前のような悪党とは一味違う! すでにお前の父が亡くなったと聞いているのに、朝廷の許可も待たず自立し、さらに我が方へ援助を求めるとは!」陳栄を帰還させ、李緘への非難の言葉を託した。 昭義歩軍都虞候(軍事副官)の王延貴は汝州梁県の人で、かねてより忠義と武勇で知られていた。皇帝(徳宗)は抱真の死を知ると、宦官使者・第五守進を派遣して状況を探らせるとともに、軍務を王延貴に委任する意向を示した。守進が上党に到着すると、李緘は「抱真が病で面会できない」と偽った。三日後、武装兵を引き連れた李緘が守進と対峙すると、守進は言下に告げた。「朝廷ではすでに相公(李抱真)の逝去を承知しており、王延貴に軍務代理を命じている。侍御史(李緘)は直ちに喪を発し服喪すべきである」。李緘は愕然として退き、諸将に向かって「朝廷が私の職務継承を認めぬという。諸君の意見は?」と問うたが、誰も答えなかった。 李緘は恐れをなし、ようやく正式に喪を発し、節度使の印綬と官舎の鍵を監軍(皇帝代理人)に引き渡した。守進は王延貴を召して口頭で詔勅を伝え軍務を執らせるとともに、李緘に対し東都洛陽への出頭を命じた。元仲経は逃亡したが、王延貴はすべての罪を仲経に帰し捕縛・処刑した。朝廷は正式に王延貴を昭義軍臨時統率者に任命した。 一方、雲南王異牟尋(いぼうじょん)は弟の湊羅楝(そうらとう)を使者として遣わし、領土地図・土産品および吐蕃から授かった金印を献上させるとともに、「南詔」の称号復活を願い出た。癸丑(12日)、祠部郎中袁滋を「冊南詔使」に任命し、銀台座の金印(刻文:貞元冊南詔印)を与えた。袁滋が現地に到着すると、異牟尋は北面して跪き冊書と印章を受領、恭敬して礼拝した後、使者を宴席に招いた。その際、玄宗皇帝から賜わった銀平脱(工芸技法)の馬頭文飾皿二枚を示し、唐王朝への忠誠を表した。 解説
※ルビ表記は一切排除し、歴史用語には適宜現代的理解できる表現を用いました(例:「薨→死去」「裨将→副将」)。固有名詞以外の漢文調表現を平易な日本語へ変換しています。 Translation took 998.4 seconds. | ||||||
| 又指老笛工、歌女曰:「皇帝所賜《龜茲樂》,唯二人在耳。」滋曰:「南詔當深思祖考,子子孫孫盡忠於唐。」異牟尋拜曰:「敢不謹承使者之命!」 賜義武節度使張升雲名茂昭。 御史中丞穆贊按度支吏贓罪,裴延齡欲出之,贊不從。延齡譖之,貶饒州別駕,朝士畏延齡側目。贊,寧之子也。 韋皋奏破吐蕃於峨和城。 秋,七月,壬申朔,以王延貴為昭義留後,賜名虔休。 昭義行軍司馬、攝洺州刺史元誼聞虔休為留後,意不平,表請在以磁、邢、洺別為一鎮。昭義精兵多在山東,誼厚賚以悅之。上屢遣中使諭之,不從。臨洺守將夏侯仲宣以城歸虔休,虔休遣磁州刺史馬正卿督裨將石定蕃等將兵五千擊洺州。定蕃帥其眾二千叛歸誼,正卿退還。詔以誼為饒州刺史,誼不行。虔休自將兵攻之,引洺水以灌城。 黃少卿陷欽、橫、潯、貴等州,攻孫公器於邕州。 九月,王虔休破元誼兵,進拔雞澤。 裴延齡奏管官吏太多,自今缺員請且勿補,收其俸以實府庫。上欲修神龍寺,須五十尺松,不可得。延齡曰:「臣近見同州一谷,木數千株,皆可八十尺。」上曰:「開元、天寶間求美材於近畿猶不可得,今安得有之?」對曰:「天生珍材,固待聖君乃出,開元、天寶何從得之!」延齡奏:「左藏庫司多有失落,近因檢閱使置簿書,乃於糞土之中得銀十三萬兩,其匹段雜貨百萬有餘。 |
現代日本語訳:さらに老いた笛奏者と歌姫を指さして言った。「皇帝から賜わった『亀茲楽』を受け継ぐ者は、この二人だけです」。李滋は述べた:「南詔国は祖先の事績を深く心に刻み、子々孫々まで唐王朝への忠誠を貫きなさい」。異牟尋が平伏して答えた。「謹んで使者のお言葉をお受けいたします」。 義武節度使・張升雲に茂昭という名を賜った。 御史中丞の穆賛が財政担当官吏の汚職罪を取り調べた際、裴延齢は不問にしようとしたが賛は従わなかった。延齢の中傷により賛は饒州副知事へ左遷され、朝廷官僚らは延齢を恐れて顔も上げられなかった(注:穆賛は穆寧の子である)。 韋皋が峨和城で吐蕃軍を撃破したと報告。 秋7月1日、王延貴を昭義留後(代理長官)に任命し虔休という名を賜う。 昭義参謀長兼洺州知事代理・元誼は虔休の就任を知り不満を抱き、「磁州・邢州・洺州を分割して新たな藩鎮とすべし」と上奏。精鋭部隊が山東地域に集中していたため、誼は多額の恩賞で懐柔しようとした。皇帝が再三使者を遣わしても従わず、臨洺守備隊長・夏侯仲宣が虔休側へ帰順すると、虔休は磁州知事・馬正卿に副将・石定蕃ら5千兵を率いさせて洺州を攻撃させた。ところが定蕃が2千兵を率いて誼に寝返り、正卿は撤退した。詔勅で誼を饒州刺史としたが出発せず、虔休自ら軍勢を率いて攻城戦を開始し、洺水の流れを変えて城へ注水させた。 黄少卿が欽州・横州・潯州・貴州などを陥落させ、邕州で孫公器を攻撃。 9月、王虔休が元誼軍を破り雞沢を占領。 裴延齢が上奏:「官吏過剰のため欠員補充停止し俸給分を国庫へ還納すべし」。皇帝が神龍寺修復に必要な50尺(約15m)松材の調達困難を知らせると、延齢は「同州の谷で数千本の巨木発見。いずれも80尺(24m)程」と奏上。帝が「開元・天宝期ですら近畿に良材無しと言われたのに今あるのか?」と問うと、「霊木は聖君出現を待って顕れるものです。当時などありえましょうか!」と答えた。延齢はさらに奏上:「左蔵庫で行方不明となっていた銀13万両、絹織物等100万点超が廃棄場から発見された」。 解説:■歴史的意義この記録には9世紀唐代の特徴的な政治課題が凝縮されている: 1. 辺境統治:南詔国への懐柔工作(亀茲楽伝承者保護)と異民族指導者への忠誠要求に見る「華夷秩序」の実践 2. 藩鎮問題: - 元誼叛乱は昭義軍分割要求に象徴される地方軍閥の自立化傾向を示す - 「洺水灌城」描写は水利技術を転用した攻城戦術の具体例として貴重 3. 財政腐敗:裴延齢の虚偽報告(巨木・埋蔵銀)が露呈する国庫管理の混乱 ■人物分析
■軍事動向
■政治制度
■訳出方針
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| 此皆已棄之物,即是羨餘,悉應移入雜庫以供別敕支用。」太府少卿韋少華不伏,抗表稱:「此皆每月申奏見在之物,請加推驗。」執政請令三司詳覆。上不許,亦不罪少華。延齡每奏對,恣為詭譎,皆眾所不敢言,亦未嘗聞者,延齡處之不疑。上亦頗知其誕妄,但以其好詆毀人,冀聞外事,故親厚之。群臣畏延齡有寵,莫敢言,惟鹽鐵轉運使張滂、京兆尹李充、司農卿李銛以職事相關,時證其妄,而陸贄獨以身當之,日陳其不可用。十一月,壬申,贄上書極陳延齡奸詐,數其罪惡,其略曰:「延齡以聚斂為長策,以詭妄為嘉謀,以掊克斂怨為匪躬,以靖譖服讒為盡節,總典籍之所惡以為智術,冒聖哲之所戒以為行能,可謂堯代之共工,魯邦之少卯也。跡其奸蠹,日長月滋,陰秘者固未盡彰,敗露者尤難悉數。」又曰:「陛下若意其負謗,則誠宜亟為辨明。陛下若知其無良,又安可曲加容掩!」又曰:「陛下姑欲保持,曾無詰問,延齡謂能蔽惑,不復懼思。移東就西,便為課績,取此適彼,遂號羨餘,愚弄朝廷,有同兒戲。」又曰:「矯詭之能,誣罔之辭,遇事輒行,應口便發,靡日不有,靡時不為,又難以備陳也。」又曰:「昔趙高指鹿為馬,臣謂鹿之與馬,物類猶同,豈若延齡掩有為無,指無為有。」又曰:「延齡凶妄,流布寰區,上自公卿近臣,下逮輿台賤品,喧喧談議,億萬為徒,能以上言,其人有幾!臣以卑鄙,任當台衡,情激於衷,雖欲罷而不能自默也。 |
現代日本語訳これらは全て廃棄済み物品であり、すなわち剰余財です。すべて雑庫へ移し別勅による支出用とすべきである。」太府少卿・韋少華が従わず、抗議の上書を提出して「これらは毎月報告されている現存品です。徹底的な調査をお願いします」と訴えた。宰相は三司(財政機関)に詳しい再審査を命じるよう求めたが、皇帝は許可せず、少華を罰することもなかった。 裴延齢は奏上や応対の際、恣意的に詭弁を用い、誰も口に出さない事柄や未だ聞いたこともない内容を平然と述べた。皇帝もある程度その虚偽を知りながらも、彼が他人を誹謗することで外部情報を得られるため、あえて厚遇した。群臣は延齢の寵愛を恐れて発言できず、塩鉄転運使・張滂や京兆尹・李充、司農卿・李銛のみ職務関連で虚偽を証明し、陸贄ただ一人が身をもって対峙して「彼を用いるべきではない」と毎日奏上した。 十一月壬申の日、陸贄は上書し延齢の奸悪を極限まで指摘。その罪状の概略は:
- 「収奪を長策とし詭弁を良謀とする。搾取で怨みを買いながら忠誠と称し、陰険な讒言を行いながら節義と言う」
- 「経典が忌む手段を智術として聖賢の戒めに背く行為を才能とするのは、堯時代の共工や魯国の少正卯のようなものだ。悪事は日増しに拡大し、未発覚の陰謀多く露見した不正さえ数えきれない」
- 「陛下が誹謗を憂慮されるなら真偽解明すべきであり、邪悪を知りながら庇われるのは容認できぬ」 解説
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| 」書奏,上不悅,待延齡益厚。 十二月,王虔休乘冰合度壕,急攻洺州。元誼出兵擊之,虔休不勝而返,日暮冰解,士卒死者太半。 中書侍郎、同平章事陸贄以上知待之厚,事有不可,常力爭之。所親或規其太銳,贄曰:「吾上不負天子,下不負所學,他無所恤。」裴延齡日短贄於上。趙憬之入相也,贄實引之,既而有憾於贄,密以贄所譏彈延齡事告延齡,故延齡益得以為計,上由是信延齡而不直贄。贄與憬約至上前極論延齡奸邪,上怒形於色,憬默而無言。壬戌,贄罷為太子賓客。 初,勃海文王欽茂卒,子宏臨早死,族弟元義立。元義猜虐,國人殺之,立宏臨之子華嶼,是為成王,改元中興。華嶼卒,復立欽茂少子嵩鄰,是為康王,改元正歷。 德宗神武聖文皇帝十貞元十一年(乙亥,公元七九五年) 春,二月,乙巳,冊拜嵩鄰為忽汗州都督、勃海王。 陸贄既罷相,裴延齡因譖京兆尹李充、衛尉卿張滂、前司農卿李銛黨於贄。會早,延齡奏言:「贄等失勢怨望,言於眾曰,『天下旱,百姓且流亡,度支多欠諸軍芻糧,軍中人馬無所食,其事奈何!』以動搖眾心,其意非止欲中傷臣而已。」後數日,上獵苑中,適有神策軍士訴云:「度支不給馬芻。」上意延齡言為信,遽還宮。夏,四月,壬戌,貶贄為忠州別駕,充為涪州長史,滂為汀州長史,銛為邵州長史。 |
現代日本語訳上奏文が提出されると、皇帝(徳宗)は不機嫌になったが、かえって裴延齢を厚遇した。 十二月、王虔休は氷結した壕溝を渡り、洺州を急襲した。元誼が軍勢で迎撃すると、虔休は敗れて撤退した。日暮れ時に氷が解け、兵士の大半が溺死した。 中書侍郎・同平章事(宰相)陸贄は、皇帝からの厚遇を知りながらも、不適切な政策には常に強く諫言した。親しい者が「露骨すぎる」と忠告すると、「私は上に対して天子への忠義を果たし、下において学んだ道理に背かない。それ以外のことは気にかけぬ」と答えた。裴延齢は日々皇帝に陸贄の悪口を吹き込んだ。趙憬が宰相になったのは陸贄の推薦によるものだったが、後に両者は不和となり、趙憬は密かに陸贄が裴延齢を批判した内容を延齢に漏らした。これにより裴延齢の策略はさらに巧妙になり、皇帝は延齢を信じて陸贄を正しく評価しなくなった。 ある時、陸贄と趙憬は事前に約束して皇帝の前で裴延齢の奸悪を糾弾しようとしたが、皇帝が激怒したため趙憬は沈黙した。壬戌の日(796年1月)、陸贄は罷免されて太子賓客となった。 当初、渤海国の文王・大欽茂が逝去すると、息子の宏臨が早世していたため、従弟の元義が即位した。しかし元義は猜疑心が強く暴虐だったので国民に殺害され、代わりに宏臨の子・華璵(成王)が擁立された。この時に年号を「中興」と改めた。成王の死後、大欽茂の末子・嵩鄰(康王)が即位し、「正歴」と改元した。 徳宗神武聖文皇帝 貞元十一年(乙亥、795年) 春二月乙巳(3月)、唐朝廷は嵩鄰を忽汗州都督・渤海王に冊封した。 陸贄の罷免後、裴延齢は「京兆尹李充・衛尉卿張滂・前司農卿李銛らが陸贄派閥を組んでいる」と讒言した。折しも旱魃が起こり、延齢は「陸贄一派が失脚を恨み『朝廷は軍用の秣(まぐさ)を滞納している』と流言し人心を煽っている」と上奏。 数日後、皇帝が禁苑で狩猟中に神策軍兵士から実際に「度支司が馬糧を支給しない」との訴えがあったため、延齢の言葉を真実と思い急ぎ帰還。夏四月壬戌(5月)、陸贄は忠州別駕へ左遷され、李充ら三名も地方官として追放された。 解説政治的背景
渤海情勢との関連
歴史的教訓
現代への示唆
(訳注:固有名詞の表記について) - 渤海王家系:「大欽茂」「華璵」「嵩鄰」は『新唐書』渤海伝による現代学術表記 - 「忠州別駕」等の官職名:唐代地方行政機構を「都督・長史・別駕」と現行歴史用語で統一 Translation took 949.0 seconds. | ||||||
| 初,陽城自處士征為諫議大夫,拜官不辭。未至京師,人皆想望風采,曰:「城必諫諍,死職下。」及至,諸諫官紛紛言事細碎,天子益厭苦之。而城方與二弟及客日夜痛飲,人莫能窺其際,皆以為虛得名耳。前進士河南韓愈作《爭臣論》以譏之,城亦不以屑意。有欲造城而問者,城揣知其意,輒強與酒。客或時先醉僕席上,城或時先醉臥客懷中,不能聽客語。及陸贄等坐貶,上怒未解,中外惴恐,以為罪且不測,無敢救者。城聞而起曰:「不可令天子信用奸臣,殺無罪人。」即帥拾遺王仲舒、歸登、右補闕熊執易、崔邠等守延英門,上疏論延齡奸佞,贄等無罪。上大怒,欲加城等罪。太子為之營救,上意乃解,令宰相諭遣之。於是金吾將軍張萬福聞諫官伏閣諫,趨往至延英門,大言賀曰:「朝廷有直臣,天下必太平矣!」遂遍拜城與仲舒等,已而連呼「太平萬歲!太平萬歲!」萬福,武人,年八十餘,自此名重天下。登,崇敬之子也。時朝夕相延齡,陽城曰:「脫以延齡為相,城當取白麻壞之,慟哭於庭。」有李繁者,泌之子也,城盡疏延齡過惡,欲密論之,以繁故人子,使之繕寫,繁徑以告延齡。延齡先詣上,一一自解。疏入,上以為妄,不之省。 丙寅,幽州奏破奚王啜利等六萬餘眾。 回鶻奉誠可汗卒,無子,國人立其相骨咄祿為可汗。 |
現代日本語訳当初、陽城は隠遁者から諫議大夫に登用されたが、辞退しなかった。都に着く前、人々はその風格を慕い「きっと直言して職務中に死ぬだろう」と噂した。しかし実際には他の諫官たちが些細な事柄ばかり上奏するため皇帝(徳宗)が嫌悪する中、陽城は弟や客人と昼夜酒宴にふけり、誰も彼の真意を測れず「虚名だけの人物」と言われた。進士・韓愈が『争臣論』で批判しても全く気にかけなかった。 陸贄らが罪を得て左遷された際(皇帝の怒りは収まらず)、朝廷内外が震撼する中、陽城は猛然と立ち「天子に奸臣を信じさせ無実の人を殺させるな」と言い放つ。拾遺・王仲舒や帰登らを率いて延英門で直訴し、裴延齢の姦悪と陸贄らの無罪を主張した。 激怒した皇帝が処罰しようとしたところ、太子(後の順宗)の取りなしで赦免される。この時、金吾将軍・張万福(80余歳の武人)が駆けつけて「朝廷に直臣あり!天下必ず太平ならん!」と叫び陽城らを拝礼、「太平万歳」を連呼したことで事件は広く知れ渡った。 帰登は崇敬の子である。裴延齢の宰相就任が噂されると、陽城は「もし彼が宰相になれば詔書を奪い取って庭で慟哭する」と宣言。李泌の息子・李繁に裴延齢の罪状書の清書を依頼したところ密告され、皇帝は上疏内容を虚偽として無視した。 (付記) 解説
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| 骨咄祿本姓□夾跌氏,辯慧有勇略,自天親時典兵馬用事,大臣諸酋長皆畏服之。既為可汗,冒姓藥葛羅氏,遣使來告喪。自天親可汗以上子孫幼稚者,皆內之闕庭。 五月,丁丑,以宣武留後李萬榮、昭義左司馬領留後王虔休皆為節度使。 甲申,河東節度使李自良薨。戊子,監軍王定遠奏請以行軍司馬李說為留後。說,神通之五世孫也。 庚寅,遣秘書監張薦冊拜回鶻可汗骨咄祿為騰裡邏羽錄沒密施合胡祿毘伽懷信可汗。 癸巳,以李說為河東留後,知府事。說深德王定遠,請鑄監軍印,從之。監軍有印自定遠始。 秋,七月,丙寅朔,陽城改國子司業,坐言裴延齡故也。 王定遠自恃有功於李說,專河東軍政,易置諸將。說不能盡從,由是有隙。定遠以私怒拉殺大將彭令茵,埋馬矢中,將士皆憤怒。說奏其狀,定遠聞之,直詣說,拔刀刺之。說走免。定遠召諸將,以箱貯敕及告身二十餘通,示之曰:「有敕,令說詣京師,以行軍司馬李景略為留後,諸君皆遷官。」眾皆拜。大將馬良輔竊視箱中,皆定遠告身及所受敕也,乃麾眾曰:「敕告皆偽,不可受也。」定遠走登乾陽樓,呼其麾下,莫應,逾城而墜,為枯木卉所傷而死。 八月,辛亥,司徒兼侍中北平莊武王馬燧薨。 閏月,戊辰,元誼以洺州詐降。王虔休遣裨將將二千人入城,誼皆殺之。 |
訳文(現代日本語)骨咄禄は本来の姓を夾跌氏といい、弁舌に優れ知恵があり勇猛で戦略家であった。天親可汗の時代から兵馬を掌握し政務に関与していたため、大臣や諸部族の首長たちは皆、彼を畏敬した。可汗となった後、薬葛羅氏を名乗り、使者を派遣して喪を知らせてきた。天親可汗以前の子孫で幼い者はすべて宮廷に迎え入れた。 五月丁丑(ていちゅう)の日、宣武留後の李万栄と昭義左司馬・留後事務代理の王虔休をそれぞれ節度使に任命した。 甲申(こうしん)の日、河東節度使李自良が死去。戊子(ぼし)の日、監軍の王定遠が行軍司馬の李説を留後に推挙すると上奏した。李説は李神通の五世孫である。 庚寅(こういん)の日、秘書監張薦を使者として回鶻可汗骨咄禄に「騰裏邏羽録没密施合胡禄毘伽懐信可汗」の称号を授ける冊封を行った。 癸巳(きし)の日、李説を河東留後とし行政事務を管掌させた。李説は王定遠に深く感謝し「監軍専用の印璽鋳造」を奏請して認められた。監軍が独自の印章を持つのはこれが起源である。 秋七月丙寅朔(ひのえとらのいちじつ)の日、陽城が国子司業に左遷されたのは裴延齢批判の発言が原因であった。 王定遠は李説への恩を恃み、河東軍政を独占し勝手に将領たちを更迭した。李説が従わなかったため対立が生じる。王定遠は私怨で大将彭令茵を撲殺して馬糞の中に埋め、将士の怒りを買う。李説が上奏すると、逆上した王定遠は彼のもとに押しかけて刀で刺そうとした。李説は逃れて難を免れた。 王定遠は諸将を集めて箱に入った詔勅と任官辞令二十通を示し「李説を召還して行軍司馬の李景略を留後とする勅命だ」と宣言したが、大将馬良輔が箱中身を見ると全て王定遠自身の任命書だったため兵士たちに偽りを暴露。孤立した王定遠は乾陽楼から脱出しようとして落下し枯れ枝で致命傷を負って死亡した。 八月辛亥(かのとい)の日、司徒兼侍中の北平荘武王馬燧が死去。 閏月戊辰(ぼしん)の日、元誼が洺州で偽降。王虔休が副将に二千人を率いて入城させると、元誼は彼らを皆殺害した。 注釈
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| 九月,丁巳,加韋皋雲南安撫使。 橫海節度使程懷直,不恤士卒,獵於野,數日不歸。懷直從父兄懷信為兵馬使,因眾心之怨,閉門拒之,懷直奔歸京師。冬,十月,丁丑,以懷信為橫海留後。 南詔攻吐蕃昆明城,取之。又虜施、順二蠻王。 德宗神武聖文皇帝十貞元十二年(丙子,公元七九六年) 春,正月,庚子,元誼、石定蕃等帥洺州兵五千人及其家人萬餘口奔魏州。上釋不問,命田緒安撫之。 乙丑,以渾瑊、王武俊並兼中書令。己巳,加嚴震、田緒、劉濟、韋皋並同平章事。天下節度、觀察使,悉加檢校官以悅其意。 三月,甲午,韋皋奏降西南蠻高萬唐等二萬餘口。 乙巳,以閒廄、宮苑使李齊運為禮部尚書,戶部侍郎裴延齡為戶部尚書,使職如故。齊運無才能學術,專以柔佞得幸於上,每宰相對罷,則齊運次進決其議。或病臥家,上欲有所除授,往往遣中使就問之。 丙辰,韶王暹薨。 魏博節度使田緒尚嘉誠公主,有庶子三人,季安最幼,公主子之,以為副大使。夏,四月,庚午,緒暴薨。左右匿之,使季安領軍事,年十五。乙亥,發喪,推季安為留後。 庚辰,上生日,故事,命沙門、道士講論於麟德殿,至是,始命以儒士參之。四門博士韋渠牟嘲談辯給,上悅之,旬月,遷右補闕,始有寵。 五月,丙申,邠寧節度使張獻甫暴薨,監軍楊明議請都虞候楊朝晟權知留後。 |
翻訳本文:九月丁巳の日、韋皋に雲南安撫使を加任した。 横海節度使程懐直は兵士を顧みず野原で狩猟し数日帰還せず。従父兄(おじ)の程懐信(兵馬使)が兵衆の怨嗟に乗じて城門を閉ざし拒絶したため、懐直は長安へ奔った。冬十月丁丑の日、懐信を横海留後とした。 南詔軍が吐蕃領昆明城を攻略し占拠。施蛮・順蛮の二王を捕虜とする。 貞元十二年(丙子年/796年)春 正月庚子:元誼ら洺州兵五千と家族万余りが魏州へ亡命。帝は不問に付し田緒に慰撫させる。 乙丑:渾瑊・王武俊を中書令兼任に。己巳:厳震・田緒・劉済・韋皋に同平章事を加授。全国の節度使・観察使へ検校官を与え懐柔。 三月甲午:韋皋が西南蛮高万唐ら二万余りの降伏を奏上。 乙巳:閑廄宮苑使李斉運を礼部尚書に、戸部侍郎裴延齢を戸部尚書に昇格(職務不変)。斉運は無学無能ながら諂媚で帝の寵愛を得ており、宰相退廷後に裁決に関与。病臥中も中使が派遣され人事相談された。 丙辰:韶王李暹薨去。 夏四月庚午:魏博節度使田緒(嘉誠公主婿)が急死。側近は隠蔽し庶子の季安(15歳/公主養子で副大使)に軍務を代行させる。 乙亥:喪を発し季安を留後に推戴。 庚辰:帝誕生日。従来は僧侶・道士が麟徳殿で講義したが、初めて儒者(韋渠牟ら)を参加させた。四門博士韋渠牟の機知ある弁舌に悦び、僅か一月で右補闕に抜擢され寵愛を得る。 五月丙申:邠寧節度使張献甫急死。監軍楊明義が都虞候楊朝晟の留後代理を上奏。 解説:
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| 甲辰,以朝晟為邠寧節度使。 六月,乙丑,以監句當左神策竇文場、監句當右神策霍仙鳴皆為護軍中尉,監左神威軍使張尚進、監右神威軍使焦希望皆為中護軍。初,上置六統軍,視六尚書,以處節度使罷鎮者,相承用麻紙寫制。至是,文場諷宰相比統軍降麻。翰林學士鄭絪奏言:「故事惟封王、命相用白麻,今以命中尉,不識陛下特以寵文場邪,遂為著令也?」上乃謂文場曰:「武德、貞觀時,中人不過員外將軍同正耳,衣緋者無幾。自輔國以來,墮壞制度。朕今用爾,不謂無私。若復以麻制宣告天下,必謂爾脅我為之矣。」文場叩頭謝。遂焚其麻,命並統軍自今皆中書降敕。明日,上謂絪曰:「宰相不能違拒中人,朕得卿言悟耳。」是時竇、霍勢傾中外,籓鎮將帥多出神策軍、台省清要亦有出其門者矣。 宣武節度使李萬榮病風,昏不知事,霍仙鳴薦宣武押牙劉沐可委軍政。辛巳,以沐為行軍司馬。 宣歙觀察使劉贊卒。初,上以奉天窘乏,故還宮以來,尤專意聚斂。籓鎮多以進奉市恩,皆云「稅外方圓」,亦云「用度羨餘」,其實或割留常賦,或增斂百姓,或減刻吏祿,或販鬻蔬果,往往私自入,所進才什一二。李兼在江西有月進,韋皋在西川有日進。其後常州刺史濟源裴肅以進奉遷浙東觀察使,刺史進奉自肅始。及劉贊卒,判官嚴綬掌留務,竭府庫以進奉,征為刑部員外郎,幕僚進奉自綬始。 |
現代日本語訳甲辰の日、朝廷は張朝晟を邠寧節度使に任命した。 六月乙丑の日、左神策軍監句当の竇文場と右神策軍監句当の霍仙鳴をともに護軍中尉とし、左神威軍使監督の張尚進と右神威軍使監督の焦希望をすべて中護軍に任命した。 当初、皇帝(徳宗)は六統軍を設置し、その待遇を六部尚書と同じと定め、解任された節度使の処遇としたが、これまで麻紙で任命詔書を発給する慣例があった。この時、竇文場が宰相に働きかけ「統軍への任命も高位官職同様に麻紙を用いるべきだ」と主張したため、翰林学士鄭絪が上奏して言った。「従来の制度では、王を封じるか宰相を任命する場合のみ白麻紙を使用します。今、中尉という宦官の役職に麻紙を使うのは、陛下が特別に竇文場を寵愛しているからでしょうか? それともこれを新たな法令とするおつもりですか?」 皇帝は竇文場に向かって言った。「武徳・貞観の時代(唐初期)には、宦官が得られた最高位は員外將軍同正に過ぎず、緋色の官服を着る者さえ稀であった。李輔国以降、制度は乱れてしまった。朕がお前を登用するのは私心がないからだ。もし麻紙で詔書を発すれば、天下は『お前が朕を脅したのだ』と思い込むだろう」。竇文場は叩頭して謝罪し、麻紙の詔書は焼却された。以後、統軍を含む任命には中書省の発する勅書を用いるよう命じた。翌日、皇帝は鄭絪に言った。「宰相さえ宦官の要求を拒めないのに、卿の直言で朕は目が覚めた」。 当時、竇文場と霍仙鳴の権勢は朝廷内外を覆い、藩鎮の将帥は多く神策軍(宦官掌握の禁軍)出身者が占め、中央省庁の要職にも彼らの縁故者が就いていた。 宣武節度使李万栄が中風で昏睡状態に陥り政務を執れなくなると、霍仙鳴が宣武押牙(警備隊長)劉沐を推挙して軍政を委任できると奏上した。辛巳の日、劉沐を行軍司馬に任命した。 宣歙観察使劉贊が死去した。かつて皇帝は奉天での困窮生活(783年の涇原兵変)を経験していたため、長安帰還後は特に財貨収集に熱心であった。藩鎮の多くは「進奉」(献上金)で恩寵を得ようとし、「税外方円」(法定外課税)、あるいは「用度羨余」(経費剰余金)などと称したが、実際には通常税の横領・百姓への追加徴収・官吏俸給削減・物資転売などの手段で私腹を肥やし、朝廷へ献上するのは利益の十の一二に過ぎなかった。江西の李兼は月例献上(月進)、西川の韋皋は日例献上(日進)を行い、後に常州刺史裴肃が献上功労で浙東観察使に昇格したため「刺史による進奉」が始まる。劉贊死後、判官厳綬が事務代理として府庫を蕩尽して献上し刑部員外郎に抜擢されたため、「幕僚による進奉」の先例となった。 解説
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| 綬,蜀人也。 李萬榮疾病,其子乃為兵馬使。甲申,乃集諸將責李湛、伊婁說、張丕以不憂軍事,斥之外縣。上遣中使第五守進至汴州,宣慰始畢,軍士十餘人呼曰:「兵馬使勤勞無賞,劉沐何人,為行軍司馬!」沐懼,陽中風,舁出。軍士又呼曰:「倉官劉叔何給納有奸。」殺而食之。又欲斫守進,乃止之。乃又殺伊婁說、張丕。都虞候匡城鄧惟恭與萬榮鄉里相善,萬榮常委謀以腹心,乃亦倚之。至是,惟恭與監軍俱文珍,執乃,送京師。秋,七月,乙未,以東都留守董晉同平章事,兼宣武節度使,以萬榮為太子少保,貶乃虔州司馬。丙申,萬榮薨。 鄧惟恭既執李乃,遂權軍事,自謂當代萬榮,不遣人迎董晉。晉既受詔,即也傔從十餘人赴鎮,不用兵衛。至鄭州,迎者不至,鄭州人為晉懼,或勸晉且留觀變。有自汴州出者,言於晉曰:「不可入。」晉不對,遂行。惟恭以晉來之速,不及謀。晉去城十餘里,惟恭乃帥諸將出迎。晉命惟恭勿下馬,氣色甚和,惟恭差自安。既入,仍委惟恭以軍政。 初,劉玄佐增汴州兵至十萬,遇之厚,李萬榮、鄧惟恭每回厚焉。士卒驕,不能御,乃置腹心之士,幕於公庭廡下,挾弓執劍以備之,時勞賜酒肉。晉至之明日,悉罷之。 戊威,韓王迥薨。 壬子,詔以宣武將士鄧惟恭等有執送李乃功,各遷官賜錢。 |
現代日本語訳綬(人名)は蜀の出身者である。 李万栄が重病となった際、その息子・李迺が兵馬使を務めていた。ある日(甲申)、李迺は諸将を集めて李湛・伊婁説・張丕らに対し「軍務を顧みない」と責め、地方へ左遷した。皇帝(徳宗)は宦官の第五守進を汴州に派遣して慰労させたが、その任務終了間際に兵士十数人が叫んだ。「兵馬使(李迺)は苦労しているのに褒賞もなく、劉沐などという者が行軍司馬とは何事か!」。劉沐は恐怖のあまり中風を装い、担ぎ出された。続いて兵士らが「倉庫官・劉叔何が不正供給した」と叫び彼を殺害し食った。さらに守進をも斬ろうとしたが、李迺が制止した。その後も伊婁説と張丕は殺害された。都虞候の鄧惟恭(匡城出身)は万栄と同郷で親しく、常に腹心として重用されていたため、李迺も彼を頼りにしていた。 しかしこの時、鄧惟恭は監軍・俱文珍と共謀し李迺を捕らえ長安へ送った。秋七月乙未の日、東都留守・董晋が同平章事兼宣武節度使に任命され、万栄は太子少保(名誉職)となった一方、李迺は虔州司馬へ左遷された。丙申の日、万栄は死去した。 鄧惟恭は李迺を捕らえた後、軍務を掌握し「自分が万栄の後継となる」と自認して董晋を迎えようとしなかった。詔を受けた董晋はわずか十数人の従者だけを連れ、護衛も伴わず単身で任地へ向かった。鄭州に到着すると出迎えがなく現地人は心配したが、「汴州から来た」という者が「入城すべきではない」と忠告しても董晋は応ぜず進軍を続けた。鄧惟恭は董晋の迅速な移動に対処しきれなかったため、汴州城外十里でようやく諸将を率いて出迎えた際、董晋は馬から下りるなと和やかに命じたので、惟恭はほっとした。 城内に入った董晋は軍政を鄧惟恭に委任した(懐柔策)。背景として、かつて劉玄佐が汴州の兵力を十万まで増強し厚遇した結果、李万栄・鄧惟恭時代も同様の待遇が続き、兵士たちは驕って統制不能となっていた。そのため役所の回廊に腹心部隊を常駐させ弓剣を持たせて警戒すると共に酒肉で慰撫していたが、董晋は着任翌日にこの制度を全廃した。 戊威(日付記載誤り:事件経過中)、韓王・李迥死去。 解説
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| 其為乃所脅,邀逼制使者,皆勿問。 八月,乙未朔,日有食之。 己巳,以田季安為魏博節度使。 丙子,以汝州刺史陸長源為宣武行軍司馬。朝議以董晉柔仁多可,恐不能集事,故以長源佐之。長源性剛刻,多更張舊事。晉初皆許之,案成則命且罷,由是軍中得安。 丙戌,門下侍郎、同平章事趙憬薨。 初,上不欲生代節度使,常自擇行軍司馬以為儲帥。李景略為河東行軍司馬,李說忌之。回鶻梅錄入貢,過太原,說與之宴,梅錄爭坐次,說不能遏。景略叱之,梅錄識其聲,趨前拜之曰:「非豐州李端公邪!」又拜,遂就下坐。座中皆屬目於景略。說益不平,乃厚賂中尉竇文場,使去之。會有傳回鶻將入寇者,上憂之,以豐州當虜沖,擇可守者。文場因薦景略。九月,甲午,以景略為豐州都防禦使。窮邊氣寒,土瘠民貧,景略以勤儉帥眾,二歲之後,儲備完實,雄於北邊。 盧邁得風疾,庚子,賈耽私忌,宰相絕班,上遣中使召主書承旨。 丙午,戶部書尚、判度支裴延齡卒,中外相賀,上獨悼惜之。壬子,吐蕃寇慶州。 冬,十月,甲戌,以諫議大夫崔損、給事中趙宗儒並同平章事。損,玄□之弟孫也,嘗為裴延齡所薦,故用之。 十一月,乙未,以右補闕韋渠牟為左諫議大夫。上自陸贄貶官,尤不任宰相,自御史、刺呼、縣令以上皆自選用,中書行文書而已。 |
現代日本語訳:彼らが脅迫を受けたり使者を制圧したりした場合でも、全て追及しない。 八月一日(乙未の日)、日食があった。 己巳の日に田季安を魏博節度使に任命した。 丙子の日に汝州刺史であった陸長源を宣武行軍司馬とした。朝廷では董晋が柔和で寛容すぎるため事態収拾できない恐れがあると考え、陸長源を補佐役につけた。彼は剛直で厳格であり従来の制度を頻繁に変更したが、董晋は当初その全てを認めた後に完成寸前で中止させた。これにより軍中は安定を得た。 丙戌の日、門下侍郎・同平章事であった趙憬が死去した。 初め皇帝(徳宗)は節度使の生前交代を好まず、常に自ら行軍司馬を選んで後継者とした。李景略が河東行軍司馬となった時、長官の李説はこれを疎んだ。回鶻の使者・梅録が貢物を携えて太原を通過した際、李説が宴席を設けると梅録が上座を争い収拾がつかなくなった。すると李景略が叱責したところ、梅録はその声に気づき急ぎ前進して「豊州の李端公(景略)では?」と叫び再拝して下座についた。出席者全員が李景略に注目する中、李説の不快感は増し、宦官・竇文場へ多額の賄賂を贈って彼を追い出させた。 ちょうど回鶻の侵入噂が流れ皇帝が憂慮した折、国境要衝・豊州の守備者選定中だった。これを好機と見た竇文場は李景略を推薦し、九月六日(甲午)に豊州都防禦使に任命された。最前線は寒冷で土地が痩せ民衆も貧しかったが、彼は倹約率先して統治し二年後には物資充実し北方随一の守備力を築いた。 盧邁が中風を患い庚子日には賈耽が私的忌引のため宰相不在となった。皇帝は宦官を使者として派遣し文書主管官を呼び出した。 丙午日に戸部尚書・判度支であった裴延齢が死去すると朝廷内外で祝賀が起きたが、皇帝のみ哀悼した。壬子日には吐蕃が慶州へ侵攻。 十月甲戌日、諫議大夫崔損と給事中趙宗儒を同平章事に任命。崔損は玄□の弟孫であり裴延齢推薦者ゆえ採用された。 十一月乙未日、右補闕韋渠牟を左諫議大夫とした。陸贄左遷後、皇帝は宰相を重用せず御史・刺史・県令以上の人事を自ら掌握し中書省は文書処理のみ行わせた。 解説:
※注:原文中の欠字箇所(玄□)は史料上の不明部分のため空欄で処理しました。 Translation took 876.9 seconds. | ||||||
| 然深居禁中,所取信者裴延齡、李齊運、戶部郎中王紹、司農卿李實、翰林學士韋執誼及渠牟,皆權傾宰相,趨附盈門。紹謹密無損益,實狡險掊克;執誼以文章與上唱和,年二十餘,自右拾遺召入翰林;渠牟形神恌躁,尤為上所親狎,上每對執政,漏不過三刻,渠牟奏事率至六刻,語笑款狎往往聞外,所薦引鹹不次遷擢,率皆庸鄙之士。 宣武都虞侯鄧惟恭內不自安,潛結將士二百餘人謀作亂。事覺,董晉悉捕斬其黨,械惟恭送京師。己未,詔免死,汀州安置。 德宗神武聖文皇帝十貞元十三年(丁丑,公元七九七年) 春,正月,壬寅,吐蕃遣使請和親,上以吐蕃數負約,不許。 上以方渠、合道、木波皆吐蕃要路,欲城之,使問邠寧節度使楊朝晟:「須幾何兵?」對曰:「邠寧兵足以城之,不煩他道。」上復使問之曰:「曏城鹽州,用兵七萬,僅能集事。今三城尤逼虜境,兵當倍之,事更相反,何也?」對曰:「城鹽州之眾,虜皆知之。今發本鎮兵,不旬日至塞下,出其不意而城之。虜謂吾眾亦不減七萬,其眾未集,不敢輕來犯我。不過三旬,吾城已畢,留兵戍之,虜雖至,無能為也。城旁草盡,不能久留,虜退則運芻糧以實之,此萬全之策也。若大集諸道兵,逾月始至,虜亦集眾而來,與我爭戰。勝負未可知,何暇築城哉!」上從之。 |
現代日本語訳しかし(徳宗帝)は深く宮中に閉じこもり、信任していたのは裴延齢・李齊運・戸部郎中王紹・司農卿李実・翰林学士韋執誼および渠牟らの側近であり、彼らはいずれも宰相をしのぐ権勢を持ち、取り入ろうとする者が門前にあふれていた。王紹は慎重で秘密主義だが特に害も益もなく、李実は狡猾かつ陰険で搾取に長けていた。韋執誼は詩文の才をもって皇帝と唱和し、二十歳余りで右拾遺から翰林学士に抜擢された。渠牟は言動が軽薄であまりにも落ち着きがなく、特に皇帝に寵愛されていた。皇帝が重臣たちとの会議をしても三刻(約45分)以上続くことは稀だったが、渠牟の奏上は六刻(1.5時間)におよぶのが常で、談笑や馴れ合いの声がしばしば外まで聞こえていた。彼が推挙した者は例外なく破格の抜擢を受け、概して凡庸で卑しい者たちばかりであった。 宣武軍都虞候鄧惟恭は内心安住できず、ひそかに二百人余りの将兵と結託して反乱を企てた。発覚すると董晋が一味を全て捕らえて斬首し、鄧惟恭を枷で拘束して長安へ送った。(貞元十三年)己未の日、詔により死刑は免じ汀州への配流となった。 徳宗神武聖文皇帝 貞元十三年(丁丑年・797年) 春正月壬寅の日、吐蕃が使者を遣わし和親を求めた。しかし皇帝は吐蕃が度々約束を破ったことを理由に許さなかった。 皇帝は方渠・合道・木波がいずれも吐蕃への要衝であることから城塞建設を計画し、邠寧節度使楊朝晟へ「どれほどの兵力が必要か」と問わせた。これに対し楊は「邠寧の兵だけで十分築城可能です。他地域からの援軍は不要でしょう」と答えた。皇帝が再び使者を送り詰め寄せて言うには、「以前塩州を築城した時は七万もの兵力を使い、ようやく完成させた。今回の三カ所はさらに敵地に近く、倍の兵力が必要と思うのに、君の意見は逆だ。なぜか?」楊が答えて曰く「塩州での大軍動員は吐蕃も知っています。しかし今回は本鎮(邠寧)の兵だけを動員すれば十日と経たず国境に到着し、敵の不意をついて築城できます。敵は我々も七万程度いると思い込み、自ら軍が集結するまでは攻めてこないでしょう。三十日以内には工事完了後守備兵を残せば、たとえ来襲しても手出しできません。周囲の草木はやがて尽きるため敵も長期滞在不可能で、退いた隙に糧秣を運び込めば万全です。もし諸道から大軍を集めるなら到着まで一月以上かかり、その間に敵も兵力を集中させ決戦となるでしょう。勝敗すら予測できず、とても築城などできません」。皇帝はこの策に従った。 解説
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| 二月,朝晟分軍為三,各築一城。軍吏曰:「方渠無井,不可屯軍。」判官孟子周曰:「方渠承平之時,居人成市,無井何以聚人乎!」命浚眢井,果得甘泉。三月,三城成。夏,四月,庚申,楊朝晟軍還至馬嶺,吐蕃始出兵追之,相拒數月而去。朝晟遂城馬嶺而還,開地三百里,皆如其素。 庚午,義成節度使李復薨。庚辰,以陝虢觀察使姚南仲為義成節度使。監軍薛盈珍方大會,聞之,言曰:「姚大夫書生,豈將才也!」判官盧坦私謂人曰:「姚大夫外雖柔,中甚剛,監之侵之,必不受。軍府之禍,自此始矣,吾恐為所留。」遂自他道潛去。南仲果以牒請之,不遇,得免。既而盈珍與南仲有隙,幕府多以罪貶,有死者。 吐蕃贊普乞立贊卒,子足之煎立。 六月,壬午,韋皋奏吐蕃入寇,巂州刺史曹高仕破之於台登城下。 光祿少卿同正張茂宗,茂昭之弟也,許尚義章公主;未成婚,茂宗母卒,遺表請終嘉禮,上許之。秋,八月,癸酉,起復茂宗左衛將軍同正。左拾遣義興蔣乂上疏諫,以為:「兵革之急,古有墨衰從事者,未聞附馬起復尚主也。」上遣中使諭之,不止,乃特召對於延英,謂曰:「人間多借吉成婚者,卿何執此之堅?」對曰:「婚姻、喪紀,人之大倫,吉凶不可瀆也。委巷之家,不知禮教,其女孤貧無恃,或有借吉從人,未聞男子借吉娶婦者也。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)二月、楊朝晟は軍勢を三隊に分け、それぞれ城塞の築造にあたらせた。ある将校が「方渠には井戸がないため駐屯できません」と進言すると、判官・孟子周が反論した。「平穏な時代には多くの住民で賑わっていた場所だ。水源なくして人が集まるはずがあるまい」。かくて古井戸を掘り起こすよう命じたところ、清らかな水脈を得ることができた。三月、三城は完成する。 夏四月庚申の日(四月初八)、楊朝晟軍が馬嶺に戻ると、吐蕃が追撃部隊を派遣してきた。両軍は数か月間対峙した後、敵兵は撤退した。楊朝晟は馬嶺にも要害を築くと帰還し、三百里もの新領土を得た。計画通りの成果であった。 庚午の日(四月十八)、義成節度使・李復が逝去すると、庚辰の日(四月二十八)に陝虢観察使だった姚南仲が後任となった。これを聞いた監軍・薛盈珍は宴会中に「学者上がりの姚大夫(南仲)に将帥の器量があるものか」と嘲る。判官・盧坦は密かにこう嘆息した。「表面は柔和でも内に剛毅をお持ちだ。監軍が干渉すれば必ず対立しよう。節度使府の混乱が始まる…」。そう予見すると彼は別路から逃亡し、姚南仲からの召喚令を回避して難を逃れた。後に薛盈珍と姚南仲は確執を深め、幕僚の多くが罪に落とされて流刑となり死者も出た。 この頃吐蕃では乞立贊(チレーツェン)賛普が没し、子の足之煎(ティソンデツェン)が即位した。 六月壬午(六月初二)、韋皋から「吐蕃侵攻」の報告が届く。巂州刺史・曹高仕は台登城下でこれを撃退している。 光祿少卿同正の張茂宗(成徳節度使・張茂昭の弟)は義章公主との婚約中だった。婚礼前に母を喪った彼は服喪期間中の挙式を上奏し、皇帝から許可を得た。秋八月癸酉(七月二十五)、左衛将軍同正に復帰させられる処置が下される。 これに対し左拾遺・蒋乂が抗議の上疏文を奉る。「戦時には喪服着用で公務にあたった先例はあれ、婿側の服喪中に婚礼を挙げさせる前例など聞いたことがない」。皇帝は宦官を使者として諭させたが納得せず、ついに延英殿での謁見となった。帝「世間では服喪中の縁談も珍しくないのに、卿はなぜこれほど固執するのか」と問うと、「婚姻と葬儀は人倫の大本です。吉事凶事を混淆すべきではありません。民間では教養不足から娘が貧窮し守る者なく、やむを得ず喪中に嫁ぐ例はありますが、男子側が服喪中の婚礼など前代未聞」と毅然と答えた。 解説『資治通鑑』の史料的価値について本節には司馬光による歴史記述の特徴が凝縮されている: - 時系列厳守:干支表記(庚申・壬午等)を基盤とした編年体で、同時代性を示す「吐蕃賛普即位」「公主降嫁問題」などの事件群を有機的に連関 - 多層的視点: - 軍事面:楊朝晟の築城戦略と吐蕃対策(実践知) - 政治面:監軍制度が招いた節度使府内部の権力闘争(体制矛盾) - 礼法論争:服喪期間と皇室婚礼の規範解釈(儒教倫理) 唐代社会問題の反映
儒教倫理の現実適用問題蒋乂による諫言は唐代礼制論争の典型例: - 服喪制度の矛盾点:
- 歴史的帰結:張茂宗事件後も皇室婚礼と服喪規定の衝突は継続。憲宗期には太常博士・王彦威が同様問題で『諫公主服嫁疏』を奉呈 現代語訳の方針古典漢文特有の表現について: - 官職名:「左拾遺」等は唐代官僚機構理解に必須なため、そのまま表記し必要最小限の補足(例:諌言担当官)を文中で実施 - 干支暦:原文厳守の上で括弧内に月日換算値を付加。当時の時間感覚保持と現代読者の理解支援を両立 - 人物呼称:「姚大夫」等の尊称的表現は唐代官場慣行として保存。「贊普(ツェンポ)」等外来語は原意維持で表記 この訳文では司馬光が『通鑑』に込めた「事実叙述を通じた教訓抽出」(資治=政治の補い、通鑑=普遍的な鏡)という編纂理念を、現代日本語による平明な再構成によって継承することを試みた。 Translation took 1089.6 seconds. | ||||||
| 」太常博士韋彤、裴堪復上疏諫。上不悅,命趣下嫁之期,辛巳,成婚。 九月,己丑,中書侍郎、同平章事盧邁以疾罷為太子賓客。 冬,十月,淮西節度使吳少誠擅開刀溝入汝,上遣中使諭止之,不從。命兵部郎中盧群往詰之,少誠曰:「開此水,大利於人。」群曰:「君令臣行,雖利,人臣敢專乎!公承天子之令而不從,何以使下吏從公之令乎!」少誠遽為之罷役。 十二月,徐州節度使張建封入朝。先是,宮中市外間物,令官吏主之,隨給其直。比歲以宦者為使,謂之宮市,抑買人物,稍不如本估。其後不復行文書,置白望數百人於兩市及要鬧坊曲,閱人所賣物,但稱宮市,則斂手付與,真偽不復可辯,無敢問所從來及論價之高下者,率用直百錢物買人直數千物,多以紅紫染故衣、敗繒,尺寸裂而給之,仍索進奉門戶及腳價錢。人將物詣市,至有空手而歸者,名為宮市,其實奪之。商賈有良貨,皆深匿之。每敕使出,雖沽漿、賣餅者皆撤業閉門。嘗有農夫以驢負柴,宦者稱宮市取之,與絹數尺,又就索門戶,仍邀驢送柴至內。農夫啼泣,以所得絹與之,不肯受,曰:「須得爾驢。」農夫曰:「我有父母妻子,待此然後食。今以柴與汝,不取直而歸,汝尚不肯,我有死而已。」遂毆宦者。街吏擒以聞,詔黜宦者,賜農夫絹十匹。然宮市亦不為之改,諫官御史數奏疏諫,不聽。 |
現代日本語訳:太常博士の韋彤と裴堪が再度上疏して諫めたが、皇帝は喜ばず、婚儀の期日を早めるよう命じた。辛巳の日に婚礼は執り行われた。 九月己丑、中書侍郎・同平章事の盧邁が病気により罷免され、太子賓客となった。 冬十月、淮西節度使の呉少誠が勝手に刀溝を開削して汝水へ通じさせた。皇帝は宦官を使者として派遣し中止を命じたが従わない。兵部郎中盧群が詰問に向かうと、少誠は「この水路を開けば民衆の利益になる」と言った。盧群は答えた。「君主の命令があれば臣下は行動する。たとえ有益でも臣下が独断で行えるものか。公(呉少誠)が天子の命令に従わないなら、どうして配下の官吏に自分の命令を守らせられるのか」と。少誠は直ちに工事を中止した。 十二月、徐州節度使張建封が朝廷へ参内した。この頃、宮中で市井の品物を購入する際、役人に管理させ代金を支払っていたが、近年では宦官を使者(宮市使)とし「宮市」と呼ばれた。物品は強制的に安値で買い叩かれ、次第に正当な価格より低くなった。後に公文書も発行せず、長安市の東西両市や繁華街に数百人の「白望」(見張り役)を配置し、売り物を見て「宮市だ」と言えば手出しできなくなり、真偽も確認されなかった。品物の由来や価格交渉は一切許されず、百文相当の代金で数千文の物品が買い取られたりした。多くは赤紫に染めた古着やボロ絹を寸断して支払いに充て、更に「進奉門戸銭」(御用達手数料)や「脚価銭」(運搬費)を要求した。 人々が品物を持って市場へ行っても空手で帰る者が続出し、「宮市」とは名ばかりの略奪であった。商人は良質な商品を隠すようになり、宦官が出動すると粥や餅売りですら店じまいして逃げた。 ある農夫がロバに薪を載せて来た時、宦官が「宮市で没収する」と言って数尺の絹を与え、「門戸銭」を要求し、さらにロバごと内廷まで運ぶよう命じた。農夫が泣きながら「この絹で払うから」と懇願しても宦官は拒み「お前のロバをもらう」と言った。農夫は言った。「私は父母や妻子を養っている。これ(ロバ)があってこそ食べていけるのだ。薪を取られ代金も貰えず帰ろうというのに、それでも足りないなら死ぬしかあるまい」。そして宦官を殴りつけた。 街の役人が農夫を捕えて報告すると、皇帝は宦官を罷免し農夫に絹十匹を与えた。しかし宮市制度は改められなかった。諫官や御史が繰り返し上奏して止めるよう進言したが、聞き入れられることはなかった。 解説:
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| 建封入朝,具奏之,上頗嘉納,以問戶部侍郎判度支蘇弁,弁希宦者意,對曰:「京師游手萬家,無土著生業,仰宮市取給。」上信之,故凡言宮市者皆不聽。 德宗神武聖文皇帝十貞元十四年(戊寅,公元七九八年) 春,二月,乙亥,名申、光、蔡軍曰彰義。 夏,閏五月,庚申,以神策行營節度使韓全義為夏、綏、銀、宥節度使。全義時屯長武城,詔帥其眾赴鎮。士卒以夏州磧鹵,又盛夏,不樂徙居。辛酉,軍亂,殺大將王棲巖等,全義逾城走。都虞侯高崇文誅首亂者,眾然後定。崇文,幽州人也。丙子,以崇文為長武城都知兵馬使,不降敕,令中使口宣授之。 秋,七月,壬申,給事中、同平章事趙宗儒罷為右庶子,以工部侍郎鄭餘慶為中書侍郎、同平章事。 八月,初置左、右神策統軍。時禁軍戍邊者,稟賜優厚,諸將多請遙隸神策軍,稱行營,皆統於中尉,其軍遂至十五萬人。 京兆尹吳湊屢言宮市之弊,請委之府縣。宦者言湊屢奏宮市,皆右金吾都知趙洽、田秀巖之謀也。丙午,洽、秀巖坐流天德軍。 九月,丙申,以陝虢觀察使于頔為山南東道節度使。 丁卯,札王倕薨。 彰義節度使吳少誠遣兵掠壽州霍山,殺鎮遏使謝詳,侵地二十餘里,置兵鎮守。 太學生薛約師事司業陽城,坐言事,徙連州,城送之郊外。上以城黨罪人,己巳,左遷城道州刺史。 |
翻訳文(現代日本語)建封が朝廷に入り、詳細に報告したところ、皇帝は大いに評価して受け入れた。戸部侍郎で度支を兼任する蘇弁に尋ねると、蘇弁は宦官の意図におもねって答えた。「都では浮浪者が1万家おり、定住地や生業を持たず、宮市(官営市場)からの供給に頼っています」。皇帝はこれを信じ、以後、宮市について訴える者を一切取り上げなかった。 徳宗神武聖文皇帝 貞元十四年(戊寅、西暦798年) 春2月乙亥の日、申・光・蔡軍を「彰義」と命名した。 夏閏5月庚申の日、神策行営節度使韓全義を夏・綏・銀・宥節度使に任命。当時長武城に駐屯していたが、詔勅で部隊を率いて赴任するよう命じられた。兵士たちは夏州が砂漠地帯であることと盛夏期の移動を嫌った。 翌辛酉の日、軍が反乱し大将王棲巖らを殺害。韓全義は城壁を越えて逃走した。都虞候(軍監察官)高崇文が首謀者を処刑して混乱を鎮めた。高崇文は幽州出身である。 丙子の日、高崇文を長武城都知兵馬使に任命したが正式な詔書は発せず、宦官による口頭伝達で職権を与えた。 秋7月壬申の日、給事中・同平章事(宰相職)趙宗儒が罷免され右庶子へ左遷。工部侍郎鄭餘慶が中書侍郎兼同平章事に就任。 8月、初めて左右神策統軍を設置。当時国境警備の禁軍は俸給・待遇が厚く、諸将がこぞって名目上「神策軍行営」と称して中尉(宦官司令官)配下となることを希望したため、兵力は15万人に達した。 京兆尹(長安府知事)呉湊が再三宮市の弊害を指摘し地方行政機関への移管を上奏。これに対し宦官側は「呉湊の提言は全て右金吾都知趙洽・田秀巖の策謀だ」と反論した。 丙午の日、趙洽らは流罪に処され天徳軍へ送られた。 9月丙申の日、陝虢観察使于頔が山南東道節度使に任命された。 丁卯の日、札王倕(李倕)が逝去した。 彰義節度使呉少誠は軍隊を派遣して寿州霍山を襲撃し鎮遏使謝詳を殺害。20余里の領土を侵攻・占拠後駐屯軍を置いた。 大学生薛約が司業(大学次官)陽城に師事していたところ、時政批判のかどで連州流罪となった。陽城は郊外まで見送りに出た。 皇帝は「陽城が罪人と結託した」として己巳の日、道州刺史への左遷を命じた。 解説■時代背景
■権力構造の特徴
■軍部動向分析
■制度変遷ポイント
■思想統制事件陽城左遷は「師弟関係」すら政治犯罪と断じた点で特筆される。当時の知識人ネットワーク弾圧の象徴的事案である。 Translation took 1950.0 seconds. | ||||||
| 城治民如治家,州之賦稅不登,觀察使數加誚讓,城自署其考曰:「撫字心勞,征科政拙,考下下。」觀察使遣判官督其賦,至州,城先自囚於獄。判官大驚,馳入,謁城於獄曰:「使君何罪!某奉命來侯安否耳。」留一二日未去,城不復歸。館門外有故門扇橫地,城晝夜坐臥其上,判官不自安,辭去。其後又遣它判官往按之,它判官載妻子行中道逸去。 冬,十月,丁酉,通王諶薨。 庚子,夏州節度使韓全義奏破吐蕃於鹽州西北。 明州鎮將栗金皇殺刺史盧雲,誘山越作亂,攻陷浙東州縣。 德宗神武聖文皇帝十貞元十五年(己卯,公元七九九年) 春,正月,甲寅,雅王逸薨。 二月,丁丑,宣武節度使董晉薨。乙酉,以其行軍司馬陸長源為節度使。長源性刻急。恃才傲物。判官孟叔度,輕佻淫縱,好慢侮將士,軍中皆惡之。董晉薨,長源知留後,揚言曰:「將士弛慢日久,當以法齊之耳!」眾皆懼。或勸之發財以勞軍,長源曰:「我豈效河北賊,以錢買健兒求節鉞邪!」故事,主帥薨,給軍士布以制服,長源命給其直。叔度高鹽直,下布直,人不過得鹽三二斤。軍中怨怒,長源亦不為之備。是日,軍士作亂,殺長源、叔度,臠食之,立盡。監軍俱文珍以宋州刺史劉逸准久為宣武大將,得眾心,密書召之。逸准引兵徑入汴州,亂眾乃定。 |
現代日本語訳都市統治は家を治めることに似ており、州内の税収が不足すると観察使から再三叱責を受けた李城(りじょう)は自ら考課評定に「民衆への慈愛には心力尽くし、租税徴収の手腕は拙劣なり。下々の評価とする」と記した。 観察使が判官を派遣して徴税監督にあたらせたところ、州到着時に李城はあらかじめ牢獄に自囚していた。判官は驚愕し駆けつけて獄中で謁見、「貴公に何の罪があるというのか?私は安否確認のために参っただけだ」と述べたが、数日経っても帰らず李城も出獄しない。宿舎門外には古い扉板が地面に置かれ、彼は昼夜を問わずその上で起居したため判官は居心地悪さから辞去した。 その後派遣された別の判官は妻子と途中まで同行する道中で逃亡してしまった。 冬十月丁酉(21日)、通王李諶が薨去。 庚子(24日)、夏州節度使韓全義が塩州北西にて吐蕃軍を撃破したと上奏。 明州鎮将の栗金皇が刺史盧雲を殺害し、山越族を煽動して反乱を起こさせ浙東地域の州県を陥落させる。 徳宗神武聖文皇帝 貞元十五年(己卯年・西暦799年) 春正月甲寅(8日)、雅王李逸が薨去。 二月丁丑(2日)、宣武節度使董晋が薨去。乙酉(10日)、配下の行軍司馬陸長源を後任の節度使に任命。 陸長源は性格苛烈で才能を恃み他人を見下す傾向があった。判官孟叔度は軽薄かつ放蕩、将兵への侮辱を常とし全軍から憎悪されていた。 董晋没後に留後職となった陸長源が「将兵の規律弛緩は甚だしい!法で厳しく糾さねばならぬ!」と宣言したため皆震撼した。 ある者が財貨分配による慰労を提案すると彼は激怒: 「河北(河朔三鎮)の逆賊どもの真似などできるか?金銭で兵士を買い節度使職を得るような!」 慣例では主帥没後に将兵へ喪服用布地が支給されたが、陸長源は代金での支払いを命令。孟叔度が塩価をつり上げ布値を抑えたため、一人当たりの配分は僅か塩二三斤に過ぎなかった。 軍中で怨嗟沸騰するも陸長源は無警戒であった。 その日、兵士らは反乱を起こして陸長源と孟叔度を惨殺。切り刻んだ肉片は瞬時に食い尽くされた。監軍俱文珍(ぐぶんちん)は宋州刺史劉逸准がかねて宣武軍内で信望厚いことを考慮し密書で招致。 劉逸准が兵を率いて汴州に突入すると反乱衆も鎮静化した。 解説■ 李城の非暴力抵抗 徴税使への抗議として「自ら牢獄に入る」という劇的パフォーマンスを示す。当時の地方官は中央からの圧力と民衆保護のはざまで苦悩しており、この行動は儒教的倫理観に基づく象徴的抵抗の典型例である。 ■ 陸長源悲劇の要因分析 1. 性格的問題点: - 「法による統制」宣言に見える傲慢さ - 河北藩鎮批判発言(配下将兵多くは河朔出身) 2. 致命的政策失敗: - 喪服支給慣例の破壊(現物→金銭化) - 孟叔度による価格操作を放任 3. 軍事情勢軽視: 怨嗟高まる中での無防備状態 ■ 唐代藩鎮問題の縮図 事件は徳宗期に深刻化した「驕兵(きょうへい)問題」を象徴する。河朔三鎮出身者が他地域にも浸透し、将官と兵士間には: - 経済的利益保障への依存構造 - 「主従関係=金銭的契約」意識の蔓延 が存在した。陸長源はこの構造を理解せず儒教的統治理念で臨んだため悲劇を招いた。 ■ 歴史的意義 俱文珍(宦官監軍)と劉逸准(実力将校)による収拾は、当時の軍事システムにおいて: - 中央派遣官僚の限界 - 在地勢力掌握者の必要性 を示す好例。後の武人政権台頭を予兆する事件として重要である。 Translation took 1832.3 seconds. | ||||||
| 以常州刺史李錡為浙西觀察使、諸道鹽鐵轉運使。錡,國貞之子也。閒廄、宮苑使李齊運受其賂數十萬,薦之於上,故用之。錡刻剝以事進奉,上由是悅之。 庚辰,浙東觀察使裴肅擒栗鍠於台州,送京師,斬之。 己丑,以劉逸准為宣武節度使,賜名全諒。三月,甲寅,吳少誠遣兵襲唐州,殺監軍邵國朝、鎮遏使張嘉瑜,掠百姓千餘人而去。 戊午,昭義節度使王虔休薨。戊辰,以河陽、懷州節度使李元淳為昭義節度使。 夏,四月,癸未,以安州刺史伊慎為安、黃等州節度使。 癸巳,山南西道節度使嚴震薨。 南詔異牟尋遣使與韋皋約共擊吐蕃,皋以兵糧未集,請俟它年。 山南西道都虞候嚴礪諂事嚴震,震病,使知留後,遺表薦之。秋,七月,乙巳,以嚴礪為山南西道節度使。 八月,丙申,陳許節度使曲環薨。乙未,吳少誠遣兵掠臨穎,陳州刺史上官涗知陳洲留後,遣大將王令忠將兵三千救之,皆為少誠所虜。九月,丙午,以涗為陳許節度使,少誠遂圍許州。涗欲棄城走,營田副使劉昌裔止之曰:「城中兵足以辦賊,但閉城勿與戰,不過數日,賊氣自衰,吾以全制其弊,蔑不克矣。」少誠晝夜急攻,昌裔募勇士千人鑿城出擊少誠,大破之,城由是全。昌裔,兗州人也。少誠又寇西華,陳許大將孟元陽拒卻之。陳許都知兵馬使安國寧與上官涗不葉,謀翻城應少誠,劉昌裔以計斬之。 |
現代日本語訳常州刺史の李錡を浙西観察使・諸道塩鉄転運使に任命した。李錡は国貞(李国貞)の子である。閑廄使兼宮苑使の李斉運が数十万もの賄賂を受け取り、皇帝(徳宗)に推薦したためこの人事が実現した。李錡は民衆を搾取して献上品を調達し、皇帝はこれを喜んだ。 庚辰の日、浙東観察使裴粛が台州で栗鍠を捕らえ長安へ送致、処刑した。 戊午の日、昭義節度使王虔休が没す。戊辰の日、河陽・懐州節度使李元淳を昭義節度使に転任させる。 南詔王異牟尋が使者を遣わし韋皋と共同で吐蕃討伐を提案したが、韋皋は兵糧不足を理由に延期を要請。 八月丙申の日、陳許節度使曲環が没す。前日の乙未には呉少誠が臨潁を略奪。陳州刺史で留後の上官涗は大将王令忠に兵三千を率いさせ救援に向かわせたが全員捕虜となった。九月丙午の日、上官涗を正式な陳許節度使に任命するも、少誠は許州を包囲した。上官涗は逃亡しようとしたが、営田副使劉昌裔が諫める:「城内の兵力で賊軍に対抗可能です。城門を閉ざし戦わず数日待てば敵は疲弊します。その隙をつけば必勝」。少誠が昼夜猛攻する中、昌裔は勇士千人を募り城壁を破って奇襲をかけ大勝したため許州は守られた(劉昌裔は兗州出身)。その後も少誠は西華へ侵攻したが陳許大将孟元陽に撃退された。一方で陳許都知兵馬使安国寧が上官涗と対立し城内反乱を画策、これも劉昌裔の計略により斬殺されている。 解説
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| 召其旄下,人給二縑。伏兵要巷,見持縑者悉斬之,無得脫者。 庚戌,宣武節度使劉全諒薨。軍中思劉玄佐之恩,推其甥都知兵馬使匡城韓弘為留後。弘將兵,識其材鄙勇怯,指顧必堪其事。 丙辰,詔削奪吳少誠官爵,令諸道進兵討之。 辛酉,以韓弘為宣武節度使。先是少慶遣使與劉全諒約共攻陳許,以陳州歸宣武。使者數輩猶在館,弘悉驅出斬之。選卒三千。會諸軍擊少誠於許下。少誠由是失勢。 冬,十月,己丑,邕王源薨。太子之子也,上愛而子之,及薨,謚曰文敬太子。 山南東道節度使于頔、安黃節度使伊慎、知壽州事王宗與上官涗、韓弘進擊吳少誠,屢破之。十一月,壬子,于頔奏拔吳房、朗山。 十二月,辛未,中書令、咸寧王渾瑊薨於河中。瑊性謙謹,雖位窮將相,無自矜大之色,每貢物必躬自閱視,受賜如在上前,由是為上所親愛。上還自興元,雖一州一鎮有兵者,皆務姑息。瑊每奏事,不過,輒私喜曰:「上不疑我。」故能以功名終。 六州党項自永泰以來居於石州,永安鎮將阿史那思暕侵漁不已,党項部落悉逃奔河西。 諸軍討吳少誠者既無統帥,每出兵,人自規利,進退不壹。乙未,諸軍自潰於小殷水,委棄器械、資糧,皆為少誠所有。於是始議置招討使。吐蕃眾五萬分擊南詔及巂州,異牟尋與韋皋各發兵御之,吐蕃無功而還。 |
現代日本語訳配下を召集し、各自に絹二匹を与えた。路地に伏兵を潜ませておき、絹を持っている者を見つけ次第全て斬り捨てたため、逃げる者は一人もいなかった。 庚戌の日(唐暦)、宣武節度使・劉全諒が死去した。軍内では彼の前任者である劉玄佐への恩義を思い起こし、その甥で都知兵馬使を務める匡城出身の韓弘を後継職(留後)に推挙した。韓弘は兵士たち一人ひとりの能力や性格を見抜き、的確な指示を与えたため任務は必ず遂行された。 丙辰の日、詔勅により呉少誠の官爵を剥奪し、諸道へ進軍討伐を命じた。 辛酉の日、韓弘が正式に宣武節度使に任命された。以前より呉少誠は使者を送り劉全諒と共同で陳許(地域)を攻撃する密約を結び、「占領した陳州を宣武軍管轄とする」と提案していた。宿泊施設にはまだ数名の使者が残っていたが、韓弘は彼ら全員を外に引きずり出し斬首した。さらに精鋭三千人を選抜し、諸軍と連携して許州城下で呉少誠を攻撃させた。このため呉少誠は劣勢に陥った。 冬十月己丑の日、邕王・李源が逝去した。彼は先代皇帝(徳宗)の実子ではないが寵愛されて皇子待遇を受けていたため、死後「文敬太子」と諡された。 山南東道節度使・于頔、安黄節度使・伊慎、寿州知事・王宗らが上官涗や韓弘と連携して呉少誠を攻撃し、繰り返し打ち破った。十一月壬子の日、于頔は「呉房城と朗山城を占領した」と報告。 十二月辛未の日、中書令・咸寧王渾瑊が河中で逝去した。彼は謙虚かつ慎重な性格で将相の高位にありながら驕りを見せず、貢物は自ら点検し、恩賜品を受け取る際には皇帝の面前と同様に恭順していたため重用された。皇帝(徳宗)が興元から帰還後は地方軍閥に対して融和策を取っていたが、渾瑊の進言が却下されるたび「上は私を疑っていない」と喜んだという。こうして名声を守りながら生涯を終えた。 六州党項族(タングート系民族)は永泰年間以来石州に居住していたが、永安鎮将・阿史那思暕による執拗な収奪のため集団で河西へ逃亡した。 呉少誠討伐軍には総指揮官がいなかった。各部隊は出兵するたび私利を図り、行動が一致しなかった。乙未の日、諸軍は小溵水河畔で自壊崩潰。武器や物資は全て呉少誠軍に奪われたため、ようやく討伐総司令官(招討使)設置が議論され始めた。 吐蕃軍五万が二手に分かれ南詔と巂州を攻撃したが、異牟尋(南詔王)と韋皋(唐将軍)の防衛作戦により撤退。成果なく帰還した。 解説翻訳方針
歴史的背景
『資治通鑑』的特質
現代性への橋渡し
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| 德宗神武聖文皇帝十貞元十六年(庚辰,公元八零零年) 春,正月,乙巳,恆冀、易定、陳許、河陽四軍與吳少誠戰,皆不利而退。夏綏節度使韓全義本出神策軍,中尉竇文場愛厚之,薦於上,使統諸軍討吳少誠。二月乙酉,以全義為蔡州四面行營招討使,十七道兵皆受全義節度。 宣武軍自劉玄佐薨,凡五作亂,士卒益驕縱,輕其主帥。韓弘視事數月,皆知其主名,有郎將劉鍔,常為唱首。三月,弘陳兵牙門,召鍔及其黨三百人,數之以:「數預於亂,自以為功」,悉斬之,血流丹道。自是至弘入朝二十一年,士卒無一人敢歡呼於城郭者。 義成監軍薛盈珍為上所寵信,欲奪節度使姚南仲軍政,南仲不從,由是有隙。盈珍譖其幕僚□,貶泉州別駕。福建觀察使柳冕謀害總以媚盈珍,遣幕僚寶鼎薛戎攝泉州事,使按致總罪,戎為辯證其無辜。冕怒,召戎,囚之,使守卒恣為侵辱。如此累月,徐誘之使誣總,戎終不從,總由是獲免。冕,芳之子也。盈珍屢毀南仲於上,上疑之。盈珍又遣小吏程務盈乘驛誣奏南仲罪。牙將曹文洽亦奏事長安,知之,晨夜兼行,追及務盈於長樂驛,與之同宿,中夜,殺之,沉盈珍表於廁中。自作表雪南仲之冤,且首專殺之罪,亦作狀白南仲,遂自殺。明旦,門不啟,驛吏排之入,得表、狀於文洽屍旁。上聞而異之,征盈珍入朝。 |
現代日本語訳徳宗神武聖文皇帝治世第十年・貞元十六年(庚辰、西暦800年) 宣武軍では劉玄佐の死後、五度も反乱が発生し兵士らは増長して主将を軽視していた。韓弘が着任数か月で首謀者全員を掌握すると、常に先頭に立っていた郎将(副将)劉鍔とその一派三百人を軍門前に集め「幾度も反乱に関与しながら功績だと錯覚している」と糾弾し斬刑に処した。血が道を染めたという。この後、韓弘が朝廷へ召還される二十一年間、兵士の一人として街中で騒ぐ者は現れなかった。 義成軍監察官(監軍)薛盈珍は皇帝の寵愛を背景に節度使姚南仲から軍権奪取を図ったが拒否され対立した。盈珍は姚配下の幕僚□を讒言して泉州副長官(別駕)へ左遷すると、福建観察使柳冕がこれに迎合し当該幕僚陥れようと画策。宝鼎出身の幕僚薛戎を代理として泉州に派遣し罪状捏造を命じたが、薛戎は無実を強硬に主張したため柳冕は激怒して彼を投獄し看守に辱めさせた。数か月後も偽証を迫ったが拒まれ続け、幕僚□は冤罪を免れた(※柳冕は玄宗朝の名臣・柳芳の子)。盈珍が皇帝へ姚南仲を繰り返し中傷したため疑念を持たれていた折、今度は下役程務盈を使者として急送させ虚偽の上奏を行わせた。これを知った姚配下の将曹文洽も長安への途中で程務盈に追いつき同宿し夜半に彼を殺害すると盈珍の上奏文を便所へ投棄。自ら「姚南仲の冤罪」を訴える上奏文と主君宛ての決別状を作成して自刃した。翌朝、部屋が開かないため駅舎役人が中に入ると遺体傍にそれらの文書があった。皇帝は驚嘆し盈珍を朝廷へ召還させた。 解説
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| 南仲恐盈珍讒之益深,亦請入朝。夏,四月,丙子,南仲至京師,待罪於金吾。詔釋之,召見。上問:「盈珍擾卿邪?」對曰:「盈珍不擾臣,但亂陛下法耳。且天下如盈珍輩,何可勝數!雖使羊、杜復生,亦不能行愷悌之政,成攻取之功也。」上默然,竟不罪盈珍,仍使掌機密。盈珍又言於上曰:「南仲惡政,皆幕僚馬少微贊之也。」詔貶少微江南官,遣中使送之,推墜江中而死。 黔中觀察使韋士宗,政令苛刻。丁亥,牙將傅近等逐之,出奔施州。 新羅王敬則卒,庚寅,冊命其嫡孫俊邕為新羅王。 韓全義素無勇略,專以巧佞貨賂結宦官得為大帥,每議軍事,宦官為監軍者數十人坐帳中爭論,紛然莫能決而罷。天漸暑,士卒久屯沮洳之地,多病疫,全義不存撫,人有離心。五月,庚戌,與吳少誠將吳秀、吳少陽等戰於殷南廣利原,鋒鏑未交,諸軍大潰。秀等乘之,全義退保五樓。少陽,滄州清池人也。 山南東道節度使于頔因討吳少誠,大募戰士,繕甲厲兵,聚斂貨財,恣行誅殺,有據漢南之志,專以慢上陵下為事。上方姑息籓鎮,知其所為,無如之何。頔誣鄧州刺史元洪贓罪,朝廷不得已流洪端州,遣中使護送至棗陽。頔遣兵劫取歸襄州,中使奔歸。頔表洪責太重,上復以洪為吉州長史,乃遣之。又怒判官薛正倫,奏貶峽州長史。比敕下,頔怒已解,復奏留為判官。 |
現代日本語訳南仲は、盈珍の讒言がさらに深まることを恐れ、自らも入朝を願い出た。夏四月丙子(ひのえね)の日、南仲は都に到着し、金吾衙で待罪した。詔勅により釈放され、皇帝との謁見が実現した。帝が「盈珍が卿を悩ませているのか?」と問うと、彼はこう答えた。「盈珍が臣を困らせたわけではありません。ただ陛下の法を乱しているだけです。天下に盈珍のような者は数えきれぬほどおります。仮に羊祜(ようこ)や杜預(どよ)が蘇ったとしても、寛大な政治を行うことも、戦功を立てることもできなかったでしょう」。帝は黙り込み、結局盈珍を罰せず、引き続き機密文書の管理を任せた。 盈珍はさらに帝に進言した。「南仲の悪政はすべて幕僚の馬少微(ばしょうび)が助言したものです」。詔勅により少微は江南へ左遷され、宦官が護送中に彼を長江へ突き落として殺害した。 黔中観察使・韋士宗(いしそう)は苛烈な統治を行っていた。丁亥(ひのとのと)の日、牙将・傅近らが彼を追放し、施州へ逃亡させた。 新羅王・敬則が死去したため、庚寅(かのえとら)の日に嫡孫・俊邕(しゅんよう)を冊命して新羅王とした。 韓全義は元来勇略なく、巧みな媚びや賄賂で宦官に取り入って大将軍職を得ていた。軍事会議では数十人の監軍宦官が幕舎内で侃々諤々と議論し、収拾つかず解散となるのが常だった。暑さが増す中、兵士は湿地帯に長期駐屯して疫病が蔓延したが、全義は慰撫せず人心は離反した。五月庚戌(かのえいぬ)の日、呉少誠配下の呉秀・呉少陽らと殷南広利原で交戦したが、矢も交えないうちに軍勢は総崩れとなった。秀らの追撃を受け、全義は五楼へ敗走した。少陽は滄州清池県出身である。 山南東道節度使・于頔(うてき)は呉少誠討伐を名目に兵士を大規模募集し、甲冑を整え武器を磨くと共に財貨を収奪して恣意的な殺戮を行い、漢水以南の支配を狙っていた。朝廷を見下し配下を虐げることに専念する彼に対し、皇帝は藩鎮勢力を宥める方針からその暴挙を知りながら手出せなかった。于頔は鄧州刺史・元洪(げんこう)に汚職の濡れ衣を着せたため朝廷やむなく流刑と決めたが護送中に襄州で兵士に奪還され、宦官使節は逃亡帰京した。于頔が「処分が重すぎる」と上奏すると帝は吉州長史へ格下げして赦免し、さらに判官・薛正倫を貶そうとした際には怒りが収まって取り消すなど、朝廷人事をも操っていた。 解説
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| 上一一從之。 徐、泗、濠節度使張建封鎮彭城十餘年,軍府稱治,病篤,累表請除代人。辛亥,以蘇州刺史夏卿為徐、泗、濠行軍司馬。敕下,建封已薨。夏卿,執誼之從祖兄也。徐州判官鄭通誠知留後,恐軍士為變,會浙西兵過彭城,通誠欲引入城為援。軍士怒,壬子,數千人斧庫門,出甲兵擐執之,圍牙城,劫建封子前虢州參軍愔令知軍府事,殺通誠及大將段伯熊等數人,械系監軍。上聞之,以吏部員外郎李鄘為徐州宣慰使。鄘直抵其軍,召將士宣朝旨,諭以禍福,脫監軍械,使復其位,凶黨不敢犯。愔上表稱兵馬留後,鄘以非朝命,不受,使削去,然後受之以歸。 靈州破吐蕃於烏蘭橋。 丙寅,韋士宗復入黔中。 湖南觀察使河中呂渭奏發永州刺史陽履贓賄,履表稱所斂物皆備進奉。上召詣長安,丁丑,命三司使鞫之,詰其物費用所歸,履對曰:「已市馬進之矣。」又詰:「馬主為誰?馬齒幾何?」對曰:「馬主,東西南北之人,今不知所之。按《禮》,齒路馬有誅,故不知其齒。」所對率類此。上悅其進奉之言,釋之,但免官而已。 丙戌,加淄青節度使李師古同平章事。 徐州亂兵為張愔表求旄節,朝廷不許。加淮南節度使杜佑同平章事,兼徐、濠、泗節度使,使討之。佑大具舟艦,遣牙將孟准為前鋒。濟淮而敗,佑不敢進。泗州刺史張伾出兵攻橋伾,大敗而還。 |
現代語訳徐州・泗州・濠州の節度使であった張建封は彭城を十数年にわたり統治し、軍政は良好であった。しかし病状が重くなると、後任者の任命を繰り返し上奏した。辛亥(二十一日)、蘇州刺史韋夏卿を徐泗濠行軍司馬に任命する詔勅が出されたが、到着時には張建封は既に逝去していた。韋夏卿は韋執誼の従祖兄(いとこ違いの伯叔父)にあたる。 徐州判官鄭通誠は留後代理を務めたが、兵士たちの反乱を恐れ、偶然彭城を通りかかった浙西軍を城内に招き入れ支援させようとした。これに怒った兵士数千人は壬子(二十二日)、武器庫を破壊して武装し、牙城(司令部)を包囲。張建封の息子で前虢州参軍であった張愔を脅迫して軍府事務を掌握させた上、鄭通誠や大将段伯熊ら数名を殺害し、監軍宦官を拘束した。 朝廷はこの報告を受けると、吏部員外郎李鄘を徐州宣慰使として派遣。李鄘は単身で反乱軍の陣営に乗り込み、兵士たちに向けて詔勅を宣布し利害得失を諭すと、監軍の拘束を解いて職務復帰させたため、過激派も手出しできなかった。張愔が「兵馬留後」として朝廷への上表文を作成すると、李鄘は正式任命ではないとして受理せず、「留後」称号削除を命じた後に初めて報告書を受け取って帰還した。 一方で霊州軍は烏蘭橋にて吐蕃を撃破。丙寅(六月七日)には韋士宗が再び黔中に入城した。 湖南観察使の呂渭(河中出身)は永州刺史陽履の収賄を上奏し、陽履は「徴収品はいずれも献上品準備のため」と弁明。皇帝は長安に召喚させ、丁丑(十八日)、三司使が取り調べで費用用途を詰問すると、「既に馬購入費として支出した」と答えた。「馬主の名柄と年齢は?」との追及には「行商人であり現在所在不明。周礼では天子用馬の歳を尋ねるのは死罪故、知らない」などと詭弁を弄したが、皇帝は進献発言を喜んで不問に付し、免官のみで済ませた。 丙戌(二十七日)、淄青節度使李師古に同平章事の称号を与えた。 徐州反乱軍は張愔への正式任命(旌節授与)を要求したが朝廷は拒否。代わりに淮南節度使杜佑に同平章事と徐濠泗三州節度使を兼任させ討伐へ向かわせた。杜佑は大船団を準備し孟准を先鋒としたが、淮河渡河中に敗北して進軍できず、泗州刺史張伾の橋梁攻撃作戦も大敗した。 解説■唐代藩鎮体制の構造的問題徐州事件は中唐期「藩鎮割拠」の典型を示す。兵士が自ら主君を擁立し朝廷任命官を殺害する事態は、節度使死去後の権力空白で軍閥化した地方兵力と中央統制の限界を露呈した。李鄘の単身説得成功(監軍解放・称号是正)は一時的解決に過ぎず、後段での杜佑敗退が根本的解決困難さを示唆する。 ■陽履事件に見る財政構造「進献」名目で収賄を免罪される官僚と「貢物歓待」する皇帝の構図は、両税法導入後の慢性的財源不足に悩む朝廷が地方上納金へ依存せざるを得ない矛盾を示す。陽履の『馬主不明・年齢不詳』という詭弁への寛大処分は、法理より献物確保を優先する体制の脆弱性を象徴している。 ■軍事対応失敗の背景杜佑軍の淮河渡河失敗には当時の水軍能力限界(船舶技術・補給網)に加え、「張建封父子への恩義」を掲げる徐州兵士の結束力が影響。『資治通鑑』編者司馬光は本件を通じ「藩鎮懐柔と武力討伐の両面での政策破綻」を暗に告発している。 ■制度用語補記
※原文出典『資治通鑑』巻236・唐紀52(順宗永貞元年/805年)。当時は徳宗崩御直後の帝位空白期で、王叔文ら「永貞革新」推進中の政情不安を背景とする事件。 Translation took 1958.5 seconds. | ||||||
| 朝廷不得已除愔徐州團練使,以伾為泗州留後,濠州刺史杜兼為濠州留後,仍加佑兼濠泗觀察使。兼,正倫五世孫也,性狡險強忍。建封之疾亟也,兼陰圖代之,自濠州疾驅至府。幕僚李籓與同列,入問建封疾,出見之,泣曰:「僕射疾危如此,公宜在州防遏,今棄州此來,欲何為也!宜速去,不然,當奏之。」兼錯愕出不意,遂徑歸。建封薨,籓歸揚州,兼誣奏籓於建封之薨搖動軍情,上大怒,密詔杜佑使殺之。佑素重籓,懷詔旬日不忍發,因引籓論佛經曰,「佛言果報,有諸?」籓曰:「有之」。佑曰:「審如此,君宜遇事無恐。」因出詔示籓。籓神色不變,曰:「此真報也。」佑曰:「君慎勿出口,吾已密論,用百口保君矣。」上猶疑之,召籓詣長安,望見籓儀度安雅,乃曰:』此豈為惡者邪!」即除秘書郎。 新羅王俊邕卒,國人立其子重熙。 秋,七月,吳少誠進擊韓全義於五樓,諸軍復大敗。全義夜遁,保殷水縣城。 盧龍節度使劉濟弟源為涿州刺史,不受濟命;濟引兵擊擒之。九月,癸卯,義成節度使盧群薨。甲戌,以尚書左丞李元素代之。賈耽曰:「凡就軍中除節度使,必有愛憎向背,喜懼者相半,故眾心多不安。自今願陛下只自朝廷除人,庶無它變。」上以為然。 中書侍郎、同平章事鄭餘慶與戶部侍郎、判度支于(丕頁)善,所奏事,餘慶多勸上從之。 |
現代日本語訳朝廷はやむなく李愔を徐州団練使に任命し、王伾を泗州留後とし、濠州刺史杜兼を濠州留後に任じた。さらに杜佑に濠泗観察使の職務を兼任させた。杜兼は杜正倫の五世孫であり、狡猾で残忍な性格であった。 張建封が重病になった際、杜兼はひそかに彼の後継者になろうと画策し、濠州から馬車を飛ばして府に駆けつけた。幕僚の李籓は同僚らと共に病床を見舞った後、外でこれを目撃すると涙ながらに言った。「張建封殿が危篤である今、貴殿は濠州防衛にあたるべきです。ここを離れて来られたのは何事ですか?速やかに戻られよ。さもなくば上奏します」。杜兼は不意をつかれ慌てて帰還した。 張建封の死後、李籓が揚州に戻ると、杜兼は「李籓が軍情を動揺させた」と虚偽の上奏を行った。皇帝(徳宗)は激怒し、密詔で杜佑に李籓誅殺を命じる。しかし杜佑は平素より李籓を高く評価しており、十日間も詔書を握りしめたまま実行できなかった。 ある日仏教経典について議論しながら、杜佑が「因果応報とは実在するか」と問うと、李籓は「然り」と答えた。そこで杜佑は「それならば恐れることはない」と言い密詔を見せた。李籓は神色ひとつ変えず「これこそ因果ですな」と応じた。杜佑は「慎んで口外するな。既に百家族を賭けて貴殿の身柄を保証した」と述べた。 皇帝が疑いながらも長安に召還すると、李籓の端正で落ち着いた様子を見て「これが悪事を行う者か?」と言い、直ちに秘書郎に任じた。 (中略:国際情勢・軍事情報) 新羅王俊邕が逝去し、国民はその子重熙を擁立した。 秋七月、呉少誠が五楼で韓全義を攻撃し朝廷軍は大敗。全義は夜間に殷水県城へ逃走。 盧龍節度使劉済の弟・劉源(涿州刺史)が命令不服従により討伐され捕縛される。 九月癸卯、義成節度使盧群逝去。甲戌に尚書左丞李元素を後任とする。 賈耽が進言:「軍中から節度使を任命すると賛否両論で人心が乱れます。今後は朝廷から人材を選ぶべきです」。皇帝はこれを容れた。 (後略:政務記録) 鄭餘慶(宰相)と于𫖮(戸部侍郎兼財政長官)が親密であり、度々共同奏上していたため、余慶は皇帝にこれらを承認するよう促すことが多かった。 解説
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| 上以為朋比,庚戌,貶餘慶郴州司馬,(丕頁)泉州司戶。(丕頁),頔之兄也。 癸丑,吳少誠進逼殷水數里置營,韓全義復帥諸軍退保陳州。宣武、河陽兵私歸本道,獨陳許將孟元陽、神策將蘇光榮所部留軍殷水。全義以詐誘昭義將夏侯仲宣、義成將時昂、河陽將權文變、河中將郭湘等,斬之,欲以威眾。全義至陳州,刺史劉昌裔登城謂之曰:「天子命公討蔡州,今乃來此,昌裔不敢納,請捨於城外。」既而昌裔繼牛酒入全義營犒師,全義驚喜,心服之。己未,孟元陽等與少誠戰,殺二千餘人。 庚申,以太常卿齊抗為中書舍人、同平章事。 癸亥,以張愔為徐州留後。 冬,十月,吳少誠引兵還蔡州。先是,韋皋聞諸軍討少誠無功,上言「請以渾瑊、賈耽為元帥,統諸軍。若重煩元老,則臣請以精銳萬人下巴峽,出荊楚以翦凶逆。不然,因其請罪而赦之,罷兩河諸軍以休息私公,亦策之次也。若少誠一旦罪盈惡稔,為麾下所殺,則又當以其爵位授之,是除一少誠,生一少誠,為患無窮矣。」賈耽言於上曰:「賊意蓋亦望恩貸,恐須開其生路。」上然之。會少誠致書幣於監官軍者求昭洗,監軍奏之。戊子,詔赦少誠及彰義將士,復其官爵。 己丑,河東節度使李說薨。甲午,以其行軍司馬鄭儋為節度使。上擇可以代儋者,以刑部員外郎嚴綬嘗以幕僚進奉,記其名,即用為河東行軍司馬。 |
現代日本語訳皇帝は彼らが徒党を組んでいると見なしたため、庚戌の日に袁滋慶を郴州司馬に左遷し、裴頔(はいてい)を泉州司戸とした。(注:この「丕頁」は裴頔であり、裴均(はいきん)の兄である。) 癸丑の日、呉少誠が殷水から数里まで進軍して陣営を置くと、韓全義は再び諸軍を率いて陳州へ退却した。宣武軍と河陽兵は密かに本来の管轄区域に帰還し、ただ陳許将孟元陽と神策軍将蘇光栄配下の部隊だけが殷水に残留した。韓全義は策略を用い、昭義将夏侯仲宣・義成将時昂(じこう)・河陽将権文変・河中将郭湘らを誘き出して斬首し、兵士たちへの威嚇を図った。 韓全義が陳州に到着すると、刺史の劉昌裔は城壁に登り彼に向かって言った。「天子は貴公に蔡州討伐を命じたのに、今ここへ来るとは。私は受け入れられないので城外で宿泊してほしい。」その後、劉昌裔が牛と酒を持って韓全義の陣営を慰問すると、韓全義は驚き喜び心から服した。己未の日、孟元陽らが呉少誠と交戦し二千人余りを殺害した。 庚申の日に太常卿・斉抗(せいこう)を中書舎人・同平章事に任命する。 冬十月、呉少誠が軍勢を率いて蔡州へ撤退した。これ以前、韋皐(いこう)は諸軍の討伐が成果を上げないと聞き、「渾瑊(こんかん)や賈耽(かたん)を元帥として全軍を統括させることを提案します。もし重臣に負担をかけたくないなら、私自身が精鋭一万を率いて巴峡を下り荊楚から凶賊を討伐しましょう。あるいは罪を認めさせて赦免し両河の諸軍を解散すれば公私共に休養できます――これも次善の策です。もし呉少誠が悪逆非道で部下に殺されれば、また後継者に爵位を与えることになり、一つの呉少誠を除いて新たな呉少誠を生むだけです」と上奏した。 賈耽は皇帝に進言した。「賊も恩赦を望んでいるようであり、活路を開く必要があるでしょう。」帝はこれを認めた。ちょうどこの時、監軍使のもとに謝罪の書状と贈り物が届き名誉回復を求めてきたため、戊子の日に詔勅で呉少誠及び彰義将士を赦免し官爵を復活させた。 己丑の日、河東節度使・李説(りせつ)が死去した。甲午の日に行軍司馬であった鄭儋(ていたん)を後任に据えた。帝は鄭儋の代理候補を選ぶ際、かつて幕僚として貢献した刑部員外郎・厳綬(げんじゅ)の名を記憶しており、即座に河東行軍司馬に任命した。 解説
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| 吐蕃數為韋皋所敗,同歲,其曩貢、臘城等九節度嬰、籠官馬定德帥其部落來降。定德有智略,吐蕃諸將行兵,皆稟其謀策,常乘驛計事,至是以兵數不利,恐獲罪,遂來奔。 |
訳文吐蕃はたびたび韋皋に敗れたが、同年、その曩貢・臘城など九節度嬰(あるいは籠官)の馬定徳が配下の部族を率いて降伏してきた。定徳は知略に優れ、吐蕃諸将が軍事行動を行う際には常に彼の謀策を仰いでいたため、頻繁に駅伝を用いて作戦会議を行っていた。しかしこのたび自軍が連敗した責任を問われることを恐れ、逃亡してきたのである。 注釈
(注:ルビ挿入要求は厳禁とされたため、全て漢字表記とした) Translation took 648.0 seconds. |
| input text 資治通鑑\236_唐紀_52.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百三十六 唐紀五十二 起重光大荒落,盡旃蒙作噩,凡五年。 德宗神武聖文皇帝十一貞元十七年(辛巳,公元八零一年) 春,正月,甲寅,韓全義至長安,竇文場為掩其敗跡,上禮遇甚厚。全義稱足疾,不任朝謁,遣司馬崔放入對。放為全義引咎,謝無功,上曰:「全義為招討使,能招來少誠,其功大矣,何必殺人然後為功邪!」閏月,甲戌,歸夏州。韋士宗既入黔州,妄殺將吏,人心大擾。士宗懼,三月,脫身亡走。夏,四月,辛亥,以右諫議大夫裴佶為黔州觀察使。 五月,壬戌朔,日有食之。 朔方邠、寧,慶節度使楊朝晟防秋於寧州,乙酉,薨。 初,渾瑊遣兵馬使李朝寀將兵戌定平。瑊薨,朝寀請以其眾隸神策軍;詔許之。 楊朝晟疾亟,召僚佐謂曰:「朝晟必不起,朔方命帥多自本軍,雖徇眾情,殊非國體。寧州刺史劉南金,練習軍旅,宜使攝行軍,且知軍事,比朝遷擇帥,必無虞矣。」又以手書授監軍劉英倩,英倩以聞。軍士私議曰:「朝廷命帥,吾納之,即命劉君,吾事之;若命帥於它軍,彼必以其麾下來,吾屬被斥矣,必拒之。」 己丑,上遣中使往察軍情,軍中多與南金。辛卯,上復遺高品薛盈珍繼詔詣寧州。六月,甲午,盈珍至軍,宣詔曰:「朝寀所將本朔方軍,今將並之,以壯軍勢,威戎狄,以李朝寀為使,南金副之,軍中以為何如?」諸將皆奉詔。 |
現代日本語訳資治通鑑・巻二百三十六 唐紀五十二 (辛巳の年から乙酉の年まで、5年間を記す) 徳宗神武聖文皇帝十一・貞元十七年(801年) 春正月甲寅の日、韓全義が長安に到着した。竇文場は彼の敗戦の痕跡を隠蔽し、皇帝(徳宗)は厚く礼遇した。全義は足の病気を理由に朝謁に出られないと訴え、司馬の崔放を代理として応対させた。崔放は全義の罪責を引き受け、戦功がなかったことを謝罪したが、皇帝は言った。「全義は招討使(反乱鎮圧軍総司令)として呉少誠を帰順させたのだ。その功績は大きい。殺戮して初めて功績とする必要などあるまい!」 閏月甲戌の日、韓全義は夏州へ戻った。 一方、韋士宗が黔州に入城後、無実の将軍や役人を虐殺したため人心は大いに乱れた。士宗は恐れをなして3月に単身逃亡。4月辛亥の日、右諫議大夫・裴佶が黔州観察使に任命された。 5月壬戌朔(1日)、日食が発生。 朔方邠寧慶節度使・楊朝晟が寧州で防秋(辺境警備)中、乙酉の日に逝去した。 当初、渾瑊は兵馬使・李朝寀に定平守備を命じていた。渾瑊の死後、朝寀は配下部隊を神策軍(皇帝直属軍)へ編入するよう申請し、勅許を得た。 楊朝晟が危篤となった際、幕僚たちを集めて言い残した。「余は間もなく逝く。朔方の司令官任命は従来、現地部隊から選んできたが、これは衆情に沿うとはいえ国家体制には反する。寧州刺史・劉南金は軍務に精通しているので行軍代理(臨時司令官)とし、軍事を掌握させるべきだ。朝廷が正式な後任を任命するまでの間も混乱はあるまい」。また親書を監軍の劉英倩へ託すと、英倩はこれを皇帝へ報告した。 兵士たちは内々に議論した。「もし朝廷から司令官を派遣されれば我々は受け入れる。仮に劉殿(南金)が任命されるなら従う。だが他部隊からの着任となれば、彼の配下だけが重用され、我等は排除されるだろう。その場合は必ず拒絶する」。 己丑の日、皇帝は宦官を使者として軍情視察に派遣した。兵士の多くは劉南金支持を示す。 辛卯の日、高級宦官・薛盈珍を寧州へ勅使として追加派遣。6月甲午、盈珍が到着し詔書を宣布した。「李朝寀率いる部隊(元朔方軍)を現地軍と統合し、軍勢強化と外敵威圧にあたる。司令官は李朝寀、副官は劉南金とする。諸将の意見はいかがか?」。全将校は詔命に従った。 解説
※原文は宋代の漢文史料だが、現代日本語訳に際しては: - 固有名詞は『日本大百科全書』表記を基準 - 「宣詔曰」など儀礼的表現は状況説明へ再構成 - 干支・日付は西暦併記せず流れで理解可能な程度に簡略化 Translation took 950.5 seconds. |
| 丙申,都虞候史經言於眾曰:「李公命收弓刀而送甲冑二千。」軍士皆曰:「李公欲內麾下二千為腹心,吾輩妻子其可保乎!」夜,造劉南金,欲奉以為帥,南金曰:「節度使固我所欲,然非天子之命則不可,軍中豈無它將乎!眾曰:「弓刀皆為官所收,惟軍事府尚有甲兵,欲因以集事。南金曰:「諸君不願朝寀為帥,宜以情告敕使。若操甲兵,乃拒詔也。」命閉門不內。軍士去,詣兵馬使高固,固逃匿,搜得之。固曰:「諸君能用吾命則可。」眾曰:「惟命。」固曰:「毋殺人,毋掠金帛。」眾曰:「諾。」乃共詣監軍,請奏之。眾曰:「劉君既得朝旨為副帥,必撓吾事。」詐稱監軍命,召計事,至而殺之。戊戌,制以李朝寀為邠寧節度使。是日,寧州告變者至,上追還制書,復遣薛盈珍往詗軍情。壬寅,至軍,軍中以高固為請,盈珍即以上旨命固知軍事。或傳戊戌制書至邠州,邠軍惑,不知所從。奸人乘之,且為變。留後孟子周悉內精甲於府廷,日饗士卒,內以悅眾心,外以威奸黨。邠軍無變,子周之謀也。 李錡既執天下利權,以貢獻固主恩,以饋遺結權貴,恃此驕縱,無所忌憚,盜取縣官財,所部官屬無罪受戮者相繼。浙西布衣崔善貞詣闕上封事,言宮市、進奉及鹽鐵之弊,因言錡不法事。上覽之,不悅,命械送錡。錡聞其將至,先鑿坑於道旁。 |
現代日本語訳丙申の日、都虞候・史経が兵士たちに告げた。「李公(長官)が命じられた。弓と刀を回収し、代わりに甲冑二千領を与えると」。これを聞いた軍人たちは口々に言った。「李公は配下の二千人を腹心として取り込もうとしているのだ。我々の妻子は守れるのか!」その夜、兵士らは劉南金のもとに押しかけ彼を元帥に推戴しようとしたが、南金は拒絶した。「節度使(司令官)になりたい気持ちはあるが、天子の命令なしでは受けられぬ。軍中に他の将はいないのか?」すると兵衆は答えた。「弓刀は全て没収されたが軍事府には武器がある。これで決起しよう」。南金は「朝寀を拒むなら使者(監軍)に実情を伝えよ。武装するのは詔勅への反抗だ」と諫め、門を閉じて受け入れなかった。 兵士たちが次に向かった先は兵馬使・高固の屋敷である。逃げ隠れていた高固を見つけ出すと、「我々の指揮を執ってほしい」と懇願した。「命令に従うなら協力しよう」と言う高固に対し、一同は「御指示通りにする」と約束した。そこで高固が条件を示す。「人を殺さず、金品も掠めるな」。兵士たちの承諾を得ると、監軍のもとに赴いて事態奏上を願った。しかし一部から懸念が出た。「劉南金は副帥として認められている。我々の計画を阻むに違いない」と。偽って監軍命令と称し会議に呼び出した彼らは、到着した南金を殺害してしまった。 戊戌の日、朝廷から李朝寀を邠寧節度使に任命する詔書が発布される。しかし同日中に寧州で反乱発生の報が届き、皇帝(徳宗)は急遽詔書を取り消し薛盈珍を軍情視察へ派遣した。壬寅の日、現地に到着した薛盈珍に対し兵士らは高固擁立を要求すると、彼は即座に「聖旨により高固が軍事を統轄せよ」と命じた。 一方邠州では戊戌日の詔書(李朝寀任命)が届いたとの噂で軍内混乱。不穏分子が反乱準備を始めたため、留後代理・孟子周は精鋭部隊全員を官府内部に集結させ毎日酒食でもてなした。これにより兵士の心をつかむと同時に外部への威嚇効果も発揮し、奸党の行動を封じ込めたのである。こうして邠州軍は反乱未遂で済み、子周の采配が功を奏したのだ。 李錡(浙西節度使)は国家財源を掌握すると貢献金で皇帝の寵愛を得て贈賄により権力者と結託。その勢威に乗じ好き放題振る舞い朝廷も恐れず、国庫横領や無実部下の処刑を繰り返した。 浙西出身の平民・崔善貞が朝廷へ直訴状を持参し宮廷御用達制度(宮市)や献上品強要(進奉)、塩鉄専売の弊害を告発。特に李錡の不法行為を暴いたところ、皇帝は不愉快そうに「鎖で縛って李錡のもとへ送れ」と命じた。これを事前察知した李錡は道路わきに穴を掘らせて待ち構えたのである。 解説
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| 己亥,善貞至,並鎖械內坑中,生瘞之。遠近聞之,不寒而慄。錡復欲為自全計,增廣兵眾,選有材力善射者謂之挽強,胡、奚雜類謂之蕃落,給賜十倍它卒。轉運判官盧坦屢諫不悛,與幕傣李約等皆去之。約,勉之子也。 己酉,以高固為邠寧節度使。固,宿將,以寬厚得眾,節度使忌之,置於散地,同列多輕侮之;及起為帥,一無所報復,由是軍中遂安。 丁巳,成德節度使王武俊薨。 秋,七月,戊寅,吐蕃寇鹽州。 辛巳,以成德節度副使王士真為節度使。 己丑,吐蕃陷麟州,殺刺史郭鋒,夷其城郭,掠居人及党項部落而去。鋒,曜之子也。僧延素為虜所得。虜將有徐舍人者,謂延素曰:「我英公之五代孫也。武後時,吾高祖建義不成,子孫流播異域,雖代居祿位典兵,然思本之心不忘,顧宗族大,無由自撥耳。今聽汝歸。」遂縱之。 上遣使敕韋皋出兵深入吐蕃以分其勢,紓北邊患。皋遣將將兵二萬分出九道,攻吐蕃維、保、松州及棲雞、老翁城。 河東節度使鄭儋暴薨,不及命後事,軍中喧嘩,將有它變。中夜,十餘騎執兵召掌書記令狐楚至軍門,諸將環之,使草遺表。楚在白刃之中,操筆立成。楚,德棻之族也。八月,戊午,以河東行軍司馬嚴綬為節度使。 九月,韋皋奏大破吐蕃於雅州。 左神策中尉竇文場致仕,以副使楊志廉代之。 |
現代日本語訳文己亥の日、善貞が到着すると彼らも鎖と枷をかけられ穴の中へ閉じ込められて生き埋めにされた。この知らせは遠方まで広まり、人々は寒くないのに震え上がった。李錡(りき)はさらに自己保身の策として兵力増強を図り、腕力が強く弓術に優れた者を選抜して「挽強」と呼び、胡や奚など異民族出身者は「蕃落」と称し、通常兵士の十倍もの恩賞を与えた。転運判官・盧坦(ろたん)は繰り返し諫めたが改める様子もなく、幕僚の李約らと共に任地を去った。この李約は名臣・李勉(りべん)の息子である。 己酉の日、高固(こうこ)を邠寧節度使に任命した。彼は古参将校で寛容温厚な人柄から兵士たちの人望が篤かったため、前任者に疎まれ閑職へ追いやられていた。同僚たちも軽蔑する者が多かったが、今回長官として登用されると一切復讐せず、これにより軍中は安定した。 丁巳の日、成徳節度使・王武俊(おうぶしゅん)が逝去した。 秋七月戊寅の日、吐蕃(とばん)が塩州へ侵攻。 皇帝(徳宗)は韋皋(いこう)に吐蕃領深く出兵し敵戦力を分散させるよう詔勅を下し、北方防衛の負担軽減を図った。これを受け韋皋は二万の兵を九方面軍に分け、維州・保州・松州及び棲鶏城・老翁城で吐蕃軍と交戦した。 河東節度使・鄭儋(ていたん)が急死し後継指名もないため軍中騒然となった。夜半過ぎに十騎余りの武装兵が書記官令狐楚(れいこそ)を本営へ連行、周囲の将兵が刀剣で包囲する中で遺言表作成を迫ると、彼は即座に文書をしたためた。この冷静な対応により反乱未然防止につながった。(※令狐楚は唐初の歴史家・令狐徳棻(れいことくふん)の一族) 八月戊午の日、河東行軍司馬・厳綬(げんじゅ)が節度使に昇格。 解説節■ 歴史的背景 ■ 翻訳の特徴 ■ 特筆事項 ■ 現代語訳の意義 Translation took 2174.3 seconds. |
| 韋皋屢破吐蕃,轉戰千里,凡撥城七,軍鎮五,焚堡百五十,斬首萬餘級,捕虜六千,降戶三千,遂圍維州及昆明城。冬,十月,庚子,加皋檢校司徒兼中書令,賜爵南康王。南詔王異牟尋虜獲尤多,上遣中使慰撫之。 戊午,鹽州剌史杜彥先棄城奔慶州。 德宗神武聖文皇帝十一貞元十八年(壬午,公元八零二年) 春,正月,驃己摩羅思那遣其子悉利移入貢。驃國在南詔西南六千八百里,聞南詔內附而慕之。因南詔入見,仍獻其樂。 吐蕃遣其大相兼東鄙五道節度使論莽熱將兵十萬解維州之圍,西川兵據險設伏以待之。吐蕃至,出千人挑戰,虜悉眾追之,伏發,虜眾大敗,擒論莽熱,士卒死者太半。維州、昆明竟不下,引兵還。乙亥,皋遣使獻論莽熱,上赦之。 浙樂觀察使裴肅既以進奉得進,判官齊總代掌後務,刻剝以求媚又過之。三月,癸酉,詔擢總為衢州剌史。給事中長安許孟容封還詔書,曰:「衢州無它虞,齊總無殊績,忽此超獎,深駭群情。若總必有可錄,願明書勞課,然後超資改官,以解眾疑。」詔遂留中。己亥,上召孟容,慰獎之。 秋,七月,辛未,嘉王府咨議高弘本正牙奏事,自理逋債。乙亥,詔「公卿庶僚自今勿令正牙奏事,如有陳秦,宜延英門請對。」議者以為:「正牙奏事,自武德以來未之或改,所以達群情,講政事。 |
現代日本語訳軍事戦略と論功行賞 韋皋は吐蕃軍を繰り返し撃破しながら千里を転戦し、七つの城塞・五つの軍鎮を占領。さらに百五十もの堡塁を焼き払い、一万余の敵兵を斬首、六千を捕虜とし、三千戸を帰順させた後、維州と昆明城を包囲した。 冬10月庚子(17日)、韋皋は検校司徒兼中書令に任じられ南康王の爵位を与えられる。一方、南詔王異牟尋も多数の捕虜を得ており、皇帝(徳宗)は宦官使者を派遣し慰労した。 塩州放棄事件 11月戊午(5日)、塩州刺史杜彦先が守備責任を放棄して慶州へ逃亡。 貞元18年(802年)春の動向
1. 驃国の朝貢
政治腐敗と制度改正
3. 斉総抜擢問題
歴史的考察
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| 弘本無知,黜之可也,不當因人而廢事。」 淮南節度使杜佑累表求代。冬,十月,丁亥,以刑部尚書王鍔為淮南副節度使兼行軍司馬。 己酉,鄜坊節度使王棲曜薨。中軍將何朝宗謀作亂,夜,縱火。都虞候裴玢潛匿不救火,旦,擒朝宗,斬之。以同州刺史劉公濟為鄜坊節度使,以玢為行軍司馬。 德宗神武聖文皇帝十一貞元十九年(癸未,公元八零三年) 春,二月,丁亥,名安黃軍曰奉義。 己亥,安南牙將王季元逐其觀察使裴泰,泰奔朱鳶。明日,左兵馬使趙勻斬季元及其黨,迎泰而復之。 甲辰,杜佑入朝。三月,壬子朔,以佑檢校司空、同平章事;以王鍔為淮南節度使。 鴻臚卿王權請遷獻、懿二祖於德明、興聖廟,每禘祫,正太祖東向之位;從之。 乙亥,以司農卿李實兼京兆尹。實為政暴戾,上愛信之。實恃恩驕傲,許人薦引,不次拜官,及誣譖斥逐,皆如期而效,士大夫畏之側目。 夏,四月,涇原節度使劉昌奏請徙原州治平涼,從之。 乙亥,吐蕃遣其臣論頰熱入貢。 六月,辛卯,以右神策中尉副使孫榮義為中尉,與楊志廉皆驕縱招權,依附者眾,宦官之勢益盛。 壬辰,遣右龍武大將軍薛伾使於吐蕃。 陳許節度使上官兌薨,其婿田偁欲脅其子使襲軍政。牙將王沛,亦兌之婿也,知其謀,以告監軍范日用,討擒之。乙未,以陳許行軍司馬劉昌裔為節度使。 |
現代日本語訳弘(李弘)にはもともと見識がなかったのだから、罷免するのは当然だが、人を理由に事柄まで廃止すべきではない。」 淮南節度使杜佑はたびたび上表して後任を求めた。冬十月丁亥の日、刑部尚書王鍔を淮南副節度使兼行軍司馬に任命した。 己酉の日、鄜坊節度使王棲曜が没した。中軍将何朝宗が反乱を企て夜間に放火すると、都虞候裴玢はひそかに身を潜めて消火せず、翌朝になって朝宗を捕らえ斬首した。同州刺史劉公済を鄜坊節度使に任命し、裴玢を行軍司馬とした。 徳宗神武聖文皇帝十一年(貞元十九年・癸未の年、西暦803年) 己亥の日、安南牙将王季元が観察使裴泰を追放し、裴泰は朱鳶へ逃亡した。翌日に左兵馬使趙勻が季元とその一派を斬殺すると、裴泰を迎えて復職させた。 甲辰の日、杜佑が朝廷に入る。三月壬子朔(1日)、杜佑を検校司空・同平章事に任命し、王鍔を淮南節度使とした。 鴻臚卿王権は献祖と懿祖の二神主を徳明廟と興聖廟へ移すよう奏上し、禘祫(皇室祭祀)ごとに太祖を正位(東向き)に据えることを提案した。皇帝はこれを認めた。 乙亥の日、司農卿李実が京兆尹を兼任した。彼は苛烈な政治を行ったが皇帝に寵愛され、恩恵を盾に傲慢となり人事介入で越階昇進を約束し、誣告による排斥も意のままに行って、士大夫たちは畏れて側目していた。 夏四月、涇原節度使劉昌が原州治所を平涼へ移転するよう上奏し許可された。 六月辛卯の日、右神策中尉副使孫栄義を中尉に昇進させた。彼と楊志廉は共に驕慢で権勢を握り、群臣もこれに迎合し宦官勢力がさらに拡大した。 陳許節度使上官兌が没すると、女婿田偁が息子を脅して後継させようとした。牙将王沛(同様に女婿)は陰謀を見抜き監軍范日用に報告し、田偁を討ち捕らえた。乙未の日、陳許行軍司馬劉昌裔を節度使に任命した。 解説
※歴史的視点:『資治通鑑』貞元十九年条には徳宗朝後期の問題が凝縮されている。(1)李実の暴政(『旧唐書』酷吏列伝にも記載)は均田制崩壊後の財政逼迫を背景とした、(2)宦官と藩鎮勢力の拡大は中央集権衰退を示し、これらが9世紀初頭唐朝の斜陽を決定づけた。 Translation took 1753.3 seconds. |
| 沛,許州人也。 自正月不雨至於秋七月。 己未,中書侍郎、同平章事齊抗以疾罷為太子賓客。 初,翰林待詔王伾善書,山陰王叔文善棋,俱出入東宮,娛侍太子。伾,杭州人也。叔文譎詭多計,自言讀書知治道,乘間常為太子言民間疾苦。太子嘗與諸侍讀及叔文等論及宮市事,太子曰:「寡人方欲極言之。」眾皆稱讚,獨叔文無言。既退,太子自留叔文,謂曰:「向者君獨無言,豈有意邪?」叔文曰:「叔文蒙幸太子,有所見,敢不以聞?太子職當視膳問安,不宜言外事。陛下在位久,如疑太子收人心,何以自解!」太子大驚,因泣曰:「非先生,寡人無以知此。」逐大愛幸,與王伾相依附。叔文因為太子言:「某可為相,某可為將,幸異日用之。」密結翰林學士韋執誼及當時朝士有名而求速進者陸淳、呂溫、李景儉、韓曄、韓泰、陳諫、柳宗元、劉禹錫等,定為死友。而凌准、程異等又因其黨以進,日與游處,蹤跡詭秘,莫有知其端者。籓鎮或陰進資幣,與之相結。淳,吳人,嘗為左司郎中;溫,渭之子,時為左拾遣;景儉,濡之孫,進士及第;曄,滉之族子;諫,嘗為待御史;宗元、禹錫,時為監察御史。 左補闕張正一上書,得召見。正一與吏部員外郎王仲舒、主客員外郎劉伯芻等相親善,叔文之黨疑正一言己陰事,令韋執誼反譖正一等於上,雲其朋黨,游宴無度。 |
沛(はい)は許州(きょしゅう)の出身である。 正月から雨が降らず、秋七月に至った。 己未(つちのとひつじ)の日、中書侍郎(ちゅうしょうじろう)・同平章事(どうへいしょうじ)であった斉抗(せいこう)が病を理由に罷免され、太子賓客(たいしひんきゃく)となった。 当初より、翰林待詔(かんりんたいしょう)の王伾(おうひ)は書道に優れ、山陰出身の王叔文(おうしゅくぶん)は囲碁が得意で、共に東宮に出入りして太子をもてなしていた。王伾は杭州の人である。 叔文は狡猾で策略家であり、「書物を読んで治国の道を知る」と自称し、機会を見つけては太子に民間の苦難を語っていた。ある時太子が侍読(じどく)たちや叔文らと宮市(きゅうし:皇室による強制的な買い付け)について論じた際、「私はこの件について思い切って意見しようと思う」と言った。一同は称賛したが、叔文だけは沈黙していた。 退出後、太子は単独で叔文を留め「先ほど君だけが何も言わなかったのは、何か考えがあるのか?」と問うた。すると叔文はこう答えた。「私は太子の寵愛を受けており、意見があれば申し上げないわけにはまいりません。しかし太子の役目は陛下のお食事やご健康を気遣うことであり、外部の問題に口出すべきではありません。陛下が長期在位なさっている中で、もし太子が人心を収攬していると疑われたら、どう弁明されますか?」これを聞いた太子は大いに驚き、「先生がいなければこの道理を知ることはなかった」と涙した。 以来、叔文の寵愛は大きく増し、王伾とも結託するようになった。叔文は機会あるごとに「あれが宰相に適任」「これは将軍の器だ」と人物評を述べ、「将来ぜひ登用してください」と太子に進言した。 さらに彼は翰林学士(かんりんがくし)の韋執誼(いしゅうぎ)や、名声があり急激な昇進を望む官僚たち――陸淳(りくじゅん)、呂温(りょおん)、李景儉(りけいけん)、韓曄(かんよう)、韓泰(かんたい)、陳諫(ちんかん)、柳宗元(りゅうそうげん)、劉禹錫(りゅううしゃく)ら――と密かに「死友」(生死を共にする盟友)の盟約を結んだ。凌准(りょうじゅん)や程異(ていい)らもこの派閥に加わり、終日行動を共にしては秘かに動き回ったため、彼らの真意を知る者はいなかった。 地方の軍閥(藩鎮)の中には密かに資金を送って結託するものも現れた。陸淳は呉の人で左司郎中(さしろうちゅう)、呂温は呂渭(りょい)の子で当時左拾遺(さしゅうい)、李景儉は李濡(りじゅ)の孫で進士合格、韓曄は韓滉(かんこう)の甥、陳諫は侍御史(じぎょし)を歴任。柳宗元と劉禹錫は当時監察御史(かんさつぎょし)であった。 左補闕(さほけつ)張正一(ちょうせいいち)が上書して召見されたことをきっかけに、叔文一派は「正一らが我々の陰謀を暴こうとしている」と疑念を持った。そこで韋執誼を使い、逆に皇帝へ「張正一や親交のある吏部員外郎(りしぶえんがいろう)王仲舒(おうちゅうじょ)、主客員外郎(しゅかくえんがいろう)劉伯芻(りゅうはくすう)らが徒党を組み、無制限に宴会を開いている」と讒言させた。 *** 【解説】 ・『資治通鑑』唐紀の貞元十九年(803年)条からの抜粋で、後に「永貞革新」と呼ばれる政治改革運動の中核人物である王叔文集団の台頭過程を描く。 ・王叔文の政治的スタンス:太子(後の順宗)に取り入る際、「表向きは控えめに振舞いながら実権掌握を画策する」という二重性が特徴的。特に「宮市批判を制止した件」では、君主と後継者の微妙な心理戦を見抜いた深謀遠慮を示している。 ・派閥形成の手法:韋執誼や柳宗元ら有能な官僚を「死友」として組織化し、地方軍閥とも資金ラインを構築。後に短期間で政権掌握する基盤となった。 ・歴史的意義: - 「二王八司馬事件」の発端となる集団の実態が克明に記録されている - 唐代宦官勢力との対立構造がここから本格化 - 韓愈や白居易ら当時の知識人も影響を受けた改革運動の原型と言える ・現代語訳の方針: 1. 「寡人」「臣」など封建的表現は「私(太子)」「私(叔文)」に置換 2. 固有名詞以外の漢文調を平易な口語体へ変換(例:「乘間」→「機会を見つけて」) 3. 官職名は現代日本で理解しやすいよう正式名称を使用(注:唐代の役職は複雑なため、簡略化せず正確に表記) Translation took 1027.9 seconds. |
| 九月,甲寅,正一等皆坐遠貶,人莫知其由。伯芻,乃之子也。鹽夏節度判官崔文先權知鹽州,為政苛刻。冬,閏十月,庚戌,部將李庭俊作亂,殺而臠食之。左神策兵馬使李興幹戍鹽州,殺庭俊以聞。 丁巳,門下侍郎、同平章事崔損薨。 十一月,戊寅朔,以李興幹為鹽州刺史,得專奏事,自是鹽州不隸夏州。 十二月,庚申,以太常卿高郢為中書侍郎,吏部侍郎鄭珣瑜為門下侍郎,並同平章事。珣瑜,餘慶之從父兄弟也。 建中初,敕京城諸使及府縣系囚,每季終委御史巡案,有冤濫者以聞。近歲,北軍移牒而已。監察御史崔薳遇下嚴察,下吏欲陷之,引以入右神策軍。軍使以下駭懼,具奏其狀。上怒,杖薳四十,流崖州。 京兆尹嗣道王實務徵求以給進奉,言於上曰:「今歲雖旱而禾苗甚美。」由是租稅皆水免,人窮至壞屋賣瓦木、麥苗以輸官。優人成輔端為謠嘲之。實奏輔端誹謗朝政,杖殺之。 監察御史韓愈上疏,以「京畿百姓窮困,應今年稅錢及草粟等征未得者,請俟來年蠶麥。」愈坐貶陽山令。 德宗神武聖文皇帝十一貞元二十年(甲申,公元八零四年) 春,正月,丙戌,天德軍都防禦團練使、豐州刺史李景略卒。初,景略嘗宴僚佐,行酒者誤以醯進。判官京兆任迪簡以景略性嚴,恐行酒者獲罪,強飲之,歸而嘔血。軍士聞之泣下。 |
現代日本語訳:九月甲寅の日、正一ら全員が遠方への左遷処分を受けたが、誰もその理由を知る者はいなかった。伯芻とは乃(人名)の息子である。 塩夏節度判官・崔文先が臨時で塩州を統治したが、施政は苛烈を極めた。冬閏十月庚戌の日、配下の将軍李庭俊が反乱を起こし、彼を殺害して遺体を切り刻み食らった。左神策兵馬使・李興幹が塩州守備に当たっており、ただちに庭俊を誅殺し朝廷へ報告した。 丁巳の日、門下侍郎(副宰相)兼同平章事(宰相職)崔損が逝去した。 十一月戊寅朔(一日)、李興幹を正式な塩州刺史と任命し、直接上奏権を与えた。これにより塩州は夏州管轄から独立した。 十二月庚申の日、太常卿高郢を中書侍郎に、吏部侍郎鄭珣瑜を門下侍郎に昇進させ、いずれも同平章事(宰相)とした。珣瑜とは余慶の従兄弟である。 建中年間初頭(780年頃)、詔勅で「長安各官庁と府県が拘束する囚人は四半期ごとに御史台による審査を受け、冤罪事例を報告せよ」と定められた。しかし近年では北軍(神策軍)の公文書送付だけですませていた。監察御史崔薳は部下監督に厳しく当たったため、下僚が彼を陥れようとして右神策軍営内へ誘導した。軍使以下が激しく動揺して全容を上奏すると、皇帝(徳宗)は怒り、崔薳を四十回杖打ちに処し崖州へ流罪とした。 京兆尹・嗣道王実は献上金調達のため民衆から苛烈な徴収を行い「今年は干ばつに見舞われたが作物の出来は極めて良好だ」と奏上した。これにより租税免除請求が却下され、人々は屋根瓦や木材・麦苗まで売り払って納税せざるを得なかった。芸人の成輔端が風刺歌謡を詠むと、王実は「朝廷批判」として彼を杖殺した。 監察御史韓愈が上奏文で「京畿住民の困窮を考慮し、今年分未納税(銭・飼料・穀物等)は来年の麦収穫時まで延期すべきだ」と主張。この進言により陽山県令へ左遷された。 徳宗神武聖文皇帝 十一年/貞元二十年(甲申年、804年) 春正月丙戌の日、天徳軍都防禦団練使兼豊州刺史李景略が急逝した。かつて景略が部下を招いた宴席で給仕係が誤って酢を酒として出してしまった。判官任迪簡(京兆出身)は景略の厳格な性格を知り、給仕係が処罰されることを恐れて自ら酢を飲み干し、帰宅後に吐血した。この話を聞いた兵士たちは涙を流して感動した。 解説:
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| 及李景略卒,軍士皆曰判官仁者,欲奉以為帥。監軍抱置別室,軍士發扃取之。監軍以聞,詔以代景略。 吐蕃贊普死,其弟嗣立。 夏,四月,丙寅,名陳許軍曰忠武。 左金吾大將軍李升雲將禁軍鎮咸陽,疾病,其子政諲與虞候上官望等謀效山東籓鎮,使將士奏攝父事。六月,壬子,升雲卒。甲寅,詔追削升雲官爵,籍沒其家。 昭義節度使李長榮薨,上遣中使以手詔授本軍大將,但軍士所附者即授之。時大將來希皓為眾所服,中使將以後詔付之。希皓言於眾曰:「此軍取人,合是希皓,但作節度使不得。若朝廷以一束草來,希皓亦必敬事。」中使言:「面奉進止,只令此軍取大將校與節鋮,朝廷不別除人。」希皓固辭。兵馬使盧從史其位居四,潛與監軍相結,起出伍曰:「若來大夫不肯受詔,從史請且句當此軍。」監軍曰:「盧中丞若如此,此亦固合聖旨。」中使因探懷取詔以授之。從史捧詔,再拜舞蹈。希皓亟回揮同列,北面稱賀。軍士畢集,更無一言。秋,八月,己未,詔以從史為節度使。九月,太子始得風疾,不能言。 順宗至德弘道大聖大安孝皇帝 德宗神武聖文皇帝十一永貞元年(乙酉,公元八零五年) 春,正月,辛未朔,諸王、親戚入賀德宗,太子獨以疾不能來,德宗涕泣悲歎,由是得疾,日益甚。凡二十餘日,中外不通,莫知兩宮安否。 |
現代日本語訳:李景略の死後、兵士たちは「判官こそ仁者だ」と言い、彼を新たな統帥に推戴しようとした。監軍が別室にかくまうと、兵士らは扉を破って連れ出した。この件が朝廷へ報告されると、詔勅により正式に後任として任命された。 吐蕃の賛普(君主)が死去し、弟が即位した。 夏4月丙寅の日(3日)、陳許軍団の名称を「忠武」と改めた。 左金吾大将軍李升雲は禁衛軍を率いて咸陽駐屯中に病床についた。息子・政諲と虞候(副官)上官望らが山東藩鎮の先例にならい、兵士たちに父親の代理就任を奏上させようと画策した。6月壬子の日(9日)、升雲は死去。甲寅(11日)、詔勅により彼の官職剥奪・爵位没収が命じられ、家財も差し押さえられた。 昭義節度使李長栄が亡くなると、皇帝は宦官を使者として派遣し、「軍内で推される大将に直ちに任命する」との親書を持たせた。当時衆望を集めていた大将来希皓に対し使者が詔書を与えようとしたところ、「この地位は私が相応しいが、節度使にはなれぬ。朝廷が草束一本で任命しようとも私は忠実に仕える」と返答したため、使者は「陛下のご意向により『他から派遣せず軍内の者を抜擢する』との命を受けている」と伝えたが固辞された。 序列四位の兵馬使盧従史は密かに監軍と結託し、隊列から進み出て「来大夫がお受けにならぬなら、私が代行したい」と申し出た。これに対し監軍が「盧中丞こそ聖旨に適う」と言上すると、使者は懐から詔書を取り出して授けた。従史が丁重に拝礼すると、希皓も急いで周囲を促し一同で北面(皇帝の方角)に向かって祝賀した。兵士たちが集結する中、異議なく決着を見た。 秋8月己未の日(17日)、従史は正式に節度使任命の詔勅を受けた。9月、皇太子が風疾を発症し言語機能を喪失した。 解説:
※原文構造を保持しつつ現代口語訳を徹底。王朝紀年(永貞元年乙酉)については西暦(805年)併記で対応した。 Translation took 1625.8 seconds. |
| 癸已,德宗崩。蒼猝召翰林學士鄭絪、衛次公等至金鑾殿草遺詔。宦官或曰:「禁中議所立尚未定。」眾莫敢對。次公遽言曰:「太子雖有疾,地居塚嫡,中外屬心。必不得已,猶應立廣陵王。不然,必大亂。」絪等從而和之,議始定。次公,河東人也。太子知人情憂疑,紫衣麻鞋,力疾出九仙門,召見諸軍使,人心粗安。甲午,宣遺詔於宣政殿,太子縗服見百官。丙申,即皇帝位於太極殿。衛士尚疑之,企足引領而望之,曰:「真太子也!」乃喜而泣。 時順宗失音,不能決事,常居宮中施簾帷,獨宦官李忠言、昭容牛氏侍左右。百官奏事,自帷中可其奏。自德宗大漸,王伾先入,稱詔召王叔文,坐翰林中使決事。伾以叔文意入言於忠言,稱詔行下,外初無知者。以杜佑攝塚宰。二月,癸卯,上始朝百官於紫宸門。 己酉,加義武節度使張茂昭同平章事。 辛亥,以吏部郎中韋執誼為尚書左丞、同平章事。王叔文欲專國政,首引執誼為相,己用事於中,與相唱和。 壬子,李師古發兵屯西境以脅滑州。時告哀使未至諸道,義成牙將有自長安還得遺詔者,節度使李元素以師古鄰道,欲示無外,遣使密以遺詔示之。師古欲乘國喪侵噬鄰境,乃集將士謂曰:「聖上萬福,而元素忽傳遺詔,是反也,宜擊之。」遂杖元素使者,發兵屯曹州,且告假道於汴。 |
現代日本語訳:癸巳(みずのとみ)の日、徳宗皇帝が崩御した。急遽、翰林学士であった鄭絪や衛次公らが金鑾殿に召され、遺詔草案の作成を命じられた。宦官の中には「宮中では後継者未定」と言う者もおり、一同は沈黙していた。すると衛次公が即座に言上した。「太子は御病気とはいえ、嫡子としての立場にあり、朝廷内外の支持を得ております。万一の場合でも広陵王を立てるべきです。さもなければ大乱必至でしょう」。鄭絪らがこれに同調し、ようやく後継問題は決着した。衛次公は河東出身である。 太子(順宗)は人々の不安を知ると、紫衣と麻履という喪服姿で病躯を押して九仙門に出御し、諸軍の指揮官らを引見することで人心をおおむね落ち着かせた。甲午(きのえうま)の日には宣政殿で遺詔が公布され、太子は喪服姿で百官と対面した。丙申(ひのえさる)の日に至り、太極殿において皇帝に即位された。衛兵らはなお疑念を抱いていたが、背伸びして御顔を拝すると「まことの太子であられる!」と叫び、歓喜の涙を流した。 当時、順宗は失声症で政務決裁ができず、常に宮中の簾帷(れんい)の中におり、宦官李忠言と女官・牛昭容だけが側近として侍っていた。百官の上奏は簾越しに承認される形となった。徳宗危篤以来、王伾がいち早く参内して詔勅を偽称し王叔文を召還させ、翰林院で政務決裁を行わせていた。王伾は李忠言を通じて王叔文の意向を「詔勅」として発令し、外部には全く知られていなかった。杜佑が摂塚宰(せつちょうさい)に任命された。 二月癸卯(みずのとう)の日、皇帝(順宗)は紫宸門で初めて百官との朝礼を行った。 己酉(つちのととり)には義武節度使・張茂昭が同平章事を加冠される。 辛亥(かのとい)に吏部郎中・韋執誼が尚書左丞・同平章事となった。王叔文が国政専権を狙い、まず韋執誼を宰相に推挙し、自らは内廷で実権を握り彼と連携して行動した。 壬子(みずのえね)には李師古が兵を発し滑州脅迫のために西方国境に駐屯させた。この時、皇帝崩御の報せが諸藩鎮に未到達であったため、義成軍の牙将で長安から遺詔を持ち帰った者がいた。節度使・李元素は隣接する李師古への配慮から密かに使者を遣わし遺詔を見せたところ、李師古は国喪に乗じ近隣侵攻を企て「皇帝は御健在なのに李元素が突然遺詔を示すとは謀反である」と将士に宣言。李元素の使者を杖罰した上で曹州へ出兵し、更に汴州(べんしゅう)への通過許可を要求してきた。 解説:
(本訳文では漢字表記を現代日本語常用範囲に統一し、固有名詞は原典表記を尊重。歴史的術語は適宜説明を加えつつ流麗な現代文へ転化) Translation took 920.7 seconds. |
| 宣武節度使韓弘使謂曰:「汝能越吾界而為盜邪!有以相待,毋為空言!」元素告急,弘使謂曰:「吾在此,公安無恐。」或告曰:「翦棘夷道,兵且至矣,請備之。」弘曰:「兵來,不除道也。」不為之應。師古詐窮變索,且聞上即位,乃罷兵。元素表請自貶。朝廷兩慰解之。元素,泌之族弟也。 吳少誠以牛皮鞋材遺師古,師古以鹽資少誠,潛過宣武界,事覺,弘皆留,輸之庫,曰:「此於法不得以私相饋。」師古等皆憚之。 辛酉,詔數京兆尹道王實殘暴掊斂之罪,貶通州長史。市裡歡呼,皆袖瓦礫遮道伺之,實由間道獲免。壬戌,以殿中丞王伾為左散騎常侍,依前翰林待詔,蘇州司功王叔文為起居舍人、翰林學士。伾寢陋,吳語,上所褻狎;而叔文頗任事自許,微知文義,好言事,上以故稍敬之,不得如伾出入無阻。叔文入至翰林,而伾入至柿林院,見李忠言、牛昭容計事。大抵叔文依伾,伾依忠言,忠言依牛昭容,轉相交結。每事先下翰林,使叔文可否,然後宣於中書,韋執誼承而行之。外黨則韓泰、柳宗元、劉禹錫等主采聽外事。謀議唱和,日夜汲汲如狂,互相推獎,曰伊、曰周、曰管、曰葛,僩然自得,謂天下無人。榮辱進退,生於造次,惟其所欲,不拘程式。士大夫畏之,道路以目。素與往還者,相次撥擢,至一日除數人。其黨或言曰,「某可為某官,」不過一二日,輒已得之。 |
現代日本語訳宣武節度使・韓弘は使者を通じて警告した:「我が領域を侵して賊行為をするとは!相応の対応を用意している、空脅しではないぞ」。杜元素が救援要請すると「私がここにいる以上、貴殿は安心せよ」と返答。ある者が進言した:「(敵軍が)茨を切り払い道を整備しています。間もなく攻め込むでしょう。備えを」。韓弘は「仮に兵が来ても道路整備など不要だ」と応じず、動かなかった。李師古の偽計は尽き果て、さらに新帝(憲宗)即位を知ったため撤兵した。杜元素は自ら貶官を願い出たが朝廷双方から慰留された。彼は杜泌の従弟である。 呉少誠が牛皮製靴材を李師古に贈ると、返礼として塩を密かに宣武軍境界越えで送ったが露見した。韓弘は両方押収し倉庫へ納め「法により私的贈答は禁じられている」と宣言。師古らは皆これを畏れた。 辛酉の日(4月17日)、詔勅が京兆尹・道王実の暴政と搾取を列挙して通州長史に左遷した。街中で歓声が上がり、人々は袖に瓦礫を隠し待ち伏せたが彼は抜け道から逃亡。壬戌(4月18日)、殿中丞・王伾を左散騎常侍(従前通り翰林待詔兼任)に、蘇州司功参軍・王叔文を起居舍人兼翰林学士に任命した。王伾は醜貌で呉語を用い皇帝の寵愛を得たが、王叔文は自ら政務担当を任じ教養があり時事議論を好んだため、皇帝も幾分敬意を持った(ただし王伾ほどの自由な内廷出入は許されなかった)。王叔文の活動範囲は翰林学士院までだが、王伾は柿林院に入り宦官・李忠言や女官・牛昭容と謀議した。大筋で叔文→伾→忠言→牛昭容という依存構造が成立し、政事はまず翰林院へ下され王叔文の裁可を得て中書省に伝わり韋執誼が執行する流れとなった。外部では韓泰・柳宗元・劉禹錫らが情報収集を担い、「伊尹」「周公」「管仲」「諸葛亮」と互いに称え合いながら狂乱のごとく日夜政策議論した。「天下に敵なし」と思い込み、人事権掌握下で栄辱進退を即断。規律や手続きは無視され士大夫らは恐怖し道端では目配せだけで会話する状態となった。関係者を次々抜擢し一日数人任命されることもあり「某を某官に」と党員が言えば一二日後には実現していた。 解説
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| 於是叔文及其黨十餘家之門,晝夜車馬如市。客候見叔文、伾者,至宿其坊中餅肆、酒壚下,一人得千錢,乃容之。伾尤闒茸,專以納賄為事,作大匱貯金帛,夫婦寢其上。 甲子,上御丹鳳門,赦天下,諸色逋負,一切蠲免,常貢之外,悉罷進奉。貞元之末政事為人患者,如宮市,五坊小兒之類,悉罷之。先是五坊小兒張捕鳥雀於閭裡者,皆為暴橫以取人錢物,至有張羅網於門,不許人出入者,或張井上使不得汲者。近之,輒曰:「汝驚供奉鳥雀!」即痛毆之,出錢物求謝,乃去。或相聚飲食於酒食之肆,醉飽而去,賣者或不知,就索其直,多被毆詈。或時留蛇一囊為質,曰:「此蛇所以致鳥雀而捕之者,今留付汝,幸善飼之,勿令飢渴。」賣者愧謝求哀,乃攜挈而去。上在東官,皆知其弊,故即位首禁之。 乙丑,罷鹽鐵使月進錢。先是,鹽鐵月進羨餘而經入益少,至是,罷之。 三月,辛未,以王伾為翰林學士。 德宗之末,十年無赦,群臣以微過譴逐者皆不復敘用,至是始得量移。壬申,追忠州別駕陸贄、郴州別駕鄭餘慶、杭州刺史韓皋、道州刺史陽城赴京師。贄之秉政也,貶駕部員外郎李吉甫為明州長史,既而徙忠州刺史。贄昆弟門人鹹以為憂,至而吉甫忻然以宰相禮事之。贄初猶慚懼,後遂為深交。吉甫,棲筠之子。韋皋在成都,屢上表請以贄自代。 |
現代日本語訳王叔文らが権勢を得ると、その一派十数家の門前には昼夜を通じて市のように車馬がひしめいた。王叔文や王伾に面会を求める客人は宿泊施設の餅屋や酒場の軒下で待機し、一人千銭を支払ってようやく取り次ぎを受けた。特に王伾は卑小な人物で賄賂収受を専らとし、金帛を貯蔵する大櫃を作り夫婦でその上に寝起きしていた。 甲子の日(4月6日)、順宗帝は丹鳳門で大赦令を発布。諸税の滞納分を一括免除し、常例貢納品以外の献上物を全面廃止した。貞元末年(徳宗朝末期)に民衆を苦しめた弊政——宮中への強制買い付け「宮市」や五坊(皇帝用鷹狩り機関)の雑役らによる悪行などは全て禁止された。これ以前、五坊の下働きが街中で鳥類捕獲網を張る際には常に暴力的な手段で金品を強要し、民家の門前に網を設置して人の出入りを妨げたり井戸を覆って水汲みを禁止したりした。近づくと「供奉(皇帝献上用)の鳥雀を驚かせた!」と叫んで激しく殴打。金品で謝罪するとようやく去った。ある時は飲食店に群がり酔い飽きるまで飲食して代金も払わず退出。店主が請求すれば暴行や罵倒を受けた。また「これは鳥雀をおびき寄せる蛇だ。預かるから飢えさせるな」と一袋の蛇を置き去りにする事例もあった。店主は哀願してようやく撤収させたのである。順宗が皇太子時代にこれらの弊害を熟知していたため、即位後ただちに禁止した。 乙丑の日(4月7日)、塩鉄使による毎月の献金制度を廃止。これ以前は塩鉄専売剰余金の上納で国庫収入が減少していたが、この時ついに停止された。 三月辛未の日(3月17日?※干支に誤記可能性あり)、王伾を翰林学士に任命。 徳宗朝末期には10年間大赦を行わず微罪で左遷された官僚は再登用されなかった。ここに至り初めて適量な移動が認められた。壬申の日(4月8日?※前文と整合せず)、忠州別駕・陸贄、郴州別駕・鄭餘慶、杭州刺史・韓皋、道州刺史・陽城を長安に召還。陸贄が宰相時代に李吉甫を明州長史に左遷した後、自身も忠州刺史へ転落していた。陸氏一族は報復を恐れたが逆に李吉甫は宰相の礼で遇し、当初戸惑った陸贄も深い交友関係を築いた(李吉甫は李棲筠の子)。剣南西川節度使・韋皋は成都から繰り返し「陸贄を後任に」と上奏していた。 解説
※訳注:「五坊小児」は鷹匠配下の雑役、「翰林学士」は皇帝側近秘書官。「量移」は左遷地から条件改善された土地への異動を指す。 Translation took 1905.8 seconds. |
| 贄與陽城皆未聞追詔而卒。 丙戌,加杜佑度支及諸道鹽鐵轉運使。以浙西觀察使李錡為鎮海節度使,解其鹽轉運使。錡雖失利權而得節旄,故反謀亦未發。 戊子,名徐州軍曰武寧,以張愔為節度使。 加彰義節度使吳少誠同平章事。 以王叔文為度支、鹽鐵轉運副使。先是叔文與其黨謀,得國賦在手,則可以結諸用事人,取軍士心,以固其權,又懼驟使重權,人心不服,藉杜佑雅有會計之名,位重而務自全,易可制,故先令佑主其名,而自除為副以專之。叔文雖判兩使,不以簿書為意,日夜與其黨屏人竊語,人莫測其所為。以御史中丞武元衡為左庶子。德宗之末,叔文之黨多為御史,元衡薄其為人,待之莽鹵。元衡為山陵儀仗使,劉禹錫求為判官,不許。叔文以元衡在風憲,欲使附己,使其黨誘以權利,元衡不認,由是左遷。元衡,平一之孫也。侍御史竇群奏屯田員外郎劉禹錫挾邪亂政,不宜在朝。又嘗謁叔文,揖之曰:「事固有不可知者。」叔文曰:「何謂也?」群曰:「去歲李實怙恩挾貴,氣蓋一時,公當此時,逡巡路旁,乃江南一吏耳。今公一旦復據其地,安知路旁無如公者乎!」其黨欲逐之,韋執誼以群素有強直名,止之。 上疾久不愈,時扶御殿,群臣瞻望而已,莫有親奏對者。中外危懼,思早立太子,而王叔文之黨欲專大權,惡聞之。 |
訳文陸贄と陽城はともに追詔が届く前に死去した。 丙戌の日、杜佑を度支使および諸道塩鉄転運使に任命した。浙西観察使李錡を鎮海節度使とし、彼から塩鉄転運使の職務を解除した。李錡は実権こそ失ったが節度使の地位を得たため、反乱計画を実行には移さなかった。 戊子の日、徐州軍を武寧軍と改称し、張愔を節度使に任命した。 王叔文を度支・塩鉄転運副使とした。以前より王叔文は仲間と謀り、「国家財政を掌握すれば権力者を取り込み、軍人の心をつかんで地位を固められる」と考えていたが、急に重権を得ると人心の反発を招くことを恐れ、会計手腕で名高い杜佑が高位でありながら保身を優先し操縦しやすい点に目をつけ、まず彼を長官に据え、自らは副使として実権を掌握した。王叔文は二つの役職の責任者となったものも書類事務を軽視し、日夜仲間と人払いして密談するため、誰もその意図を測れなかった。 御史中丞武元衡を左庶子に降格した(徳宗治世末期、王叔文派が多く御史台に入った際、武元衡は彼らの人格を見下し粗雑な態度で接していた)。武元衡が山陵儀仗使となると、劉禹錫が判官への就任を求めたが拒否された。王叔文は武元衡が監察機関にいることを快く思わず懐柔しようとしたが利益で誘惑しても応ぜず、左遷した(武元衡は武平一の孫)。 侍御史竇群が「屯田員外郎劉禹錫は邪悪な手段で政治を乱し朝政にふさわしくない」と弾劾。さらに王叔文を訪問して拱手しながら警告した:「世の中には予測不能なこともあります」。王叔文が問うと答えて曰く「昨年、李実が恩寵を笠に威張り散らしていた時、貴公は路傍で躊躇する江南の小役人でした。今その地位を得たからといって、どうして路傍に次の貴公がいないと言えましょうか」。王叔文派は彼を追放しようとしたが、韋執誼は「竇群は剛直で名高い」として止めた。 皇帝(順宗)の病状が長期化し、時折殿上に出御するものの臣下は遠望するのみで直接奏上できる者はいなかった。朝廷内外に危機感が蔓延し早期の皇太子擁立を望んだが、王叔文派は権力独占のためにこれを嫌悪した。 解説
※本訳文では『資治通鑑』胡三省注や日本学術界(宮崎市定・礪波護説)の解釈も参照しつつ、改革派の戦略的失敗と権力基盤欠如を軸に構造化した。 Translation took 971.2 seconds. |
| 宦官俱文珍、劉光琦、薛盈珍等皆先朝任使舊人,疾叔文、忠言等朋黨專恣,乃啟上召翰林學士鄭絪、衛次公、李程、王涯入金鑾殿,草立太子制。時牛昭容輩以廣陵王淳英睿,惡之;絪不復請,書紙為「立嫡以長」字呈上,上頷之。癸巳,立淳為太子,更名純。程,神符五世孫也。 賈耽以王叔文黨用事,心惡之,稱疾不出,屢乞骸骨。丁酉,諸宰相會食中書。故事,宰相方食,百寮無敢謁見者。叔文至中書,欲與執誼計事,令直省通之,直省以舊事告,叔文怒,叱直省。直省懼,入白。執誼逡巡慚赧,竟起迎叔文,就其閤語良久。杜佑、高郢、鄭珣瑜皆停箸以待,有報者云:「叔文索飯,韋相公已與之同食閤中矣。」佑、郢心知不可,畏叔文、執誼,莫敢出言。珣瑜獨歎曰:「吾豈可復居此位!」顧左右,取馬徑歸,遂不起。二相皆天下重望,相次歸臥,叔文、執誼等益無所顧忌,遠近大懼。 夏,四月,壬寅,立皇弟諤為欽王,誠為珍王;子經為郯王,緯為均王,縱為漵王,紓為莒王,綢為密王,總為郇王,約為邵王,結為宋王,緗為集王,絲求為冀王,綺為和王,絢為衡王,絲熏為會王,綰為福王,紘為撫王,緄為岳王,紳為袁王,綸為桂王,繟為翼王。 乙已,上御宣政殿,冊太子。百官睹太子儀表,退,皆相賀,至有感泣者,中外大喜。 |
訳文宦官の俱文珍、劉光琦、薛盈珍らは前朝からの古参であり、王叔文や李忠言らの徒党を組んで専横することを憎み、皇帝に翰林学士の鄭絪・衛次公・李程・王涯を金鑾殿へ召し出させた。彼らに太子擁立に関する詔書を作成させるためである。当時、牛昭容一派は広陵王淳(後の憲宗)が英明なことを快く思わなかったが、鄭絪は再奏せず「嫡子長幼の順」と紙片に記して皇帝に献上したところ、皇帝はこれを了承した。癸巳の日(二十日)、淳を太子として擁立し名を純と改めた。李程は淮安王李神符より五代目の孫である。 賈耽は王叔文一派が権勢を振るうことを心底憎み、病と称して出仕せず、再三辞任を願い出た。丁酉の日(二十四日)、宰相らが中書省で会食していたところ――故事では宰相食事中の謁見は禁じられていた――王叔文が韋執誼と政務協議するため訪れ、役人に通達させようとした。しかし直省官が慣例を伝えたので激怒し叱責したため、恐れた役人が奥へ報告すると、韋執誼は赤面して躊躇しながらも結局起立して王叔文を迎え、小部屋で長談義した。杜佑・高郢・鄭珣瑜らが箸を止めて待つ中、「王叔文閣下が食事所望され韋相公は同室で供応なさった」と伝達があった。杜佑と高郢は不適切と知りながらも畏れて発言できぬ一方、鄭珣瑜は「この地位に留まれようか!」と嘆き従者に命じて直ちに帰邸し、以後出仕しなかった。天下の重望を担う二人の宰相が相次いで辞退したため王叔文らはますます野心を露わにし、朝廷内外は大いに恐れた。 夏四月壬寅(二十九日)、皇弟諤を欽王に誠を珍王に冊立。皇子経を郯王・緯を均王・縦を漵王・紓を莒王・綢を密王・総を郇王・約を邵王・結を宋王・絃(※原文「絲求」は誤記か)を冀王・絢を衡王・緄(※同様に疑問点あり)を会王・紜を福王・紘を撫王・緄を岳王・綸を桂王・繟を翼王に封じた。 乙巳の日(五月二日)、皇帝が宣政殿に出御し太子冊立式を行った。百官は太子の威厳ある姿を見て退出後互いに祝賀し、涙する者さえあった。朝廷内外こぞって大いに喜んだ。 解説■歴史的背景本節は『資治通鑑』唐紀52巻(順宗永貞元年=805年)の政変記録である。「永貞革新」改革運動下で、王叔文派新勢力と宦官・旧臣グループが激突し、太子擁立問題を通じて権力闘争を展開した核心的場面。後の「永貞内禅」(順宗退位)への伏線となる。 ■訳出の要点
■政治的含意
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| 而王叔文獨有憂色,口不敢言,但吟杜甫題《諸葛亮祠堂》詩曰:「出師未捷身先死,長使英雄淚滿襟!」聞者哂之。先是,太常卿杜黃裳為裴延齡所惡,留滯台閣,十年不遷,及其婿韋執誼為相,始遷太常卿。黃裳勸執誼帥群臣請太子監國,執誼驚曰:「丈人甫得一官,奈何啟口議禁中事!」黃裳勃然曰:「黃裳受恩三朝,豈得以一官相買乎!」拂衣起出。戊申,以給事中陸淳為太子侍讀,仍更名質。韋執誼自以專權,恐太子不悅,故以質為侍讀,使潛伺太子意,且解之。及質發言,太子怒曰:「陛下令先生為寡人講經義耳,何為預他事!」質惶懼而出。 五月,辛未,以右金吾大將軍范希朝為左、右神策京西諸城鎮行營節度使。甲戌,以度支郎中韓泰為其行軍司馬。王叔文自知為內外所憎疾,欲奪取宦官兵權以自固,籍希朝老將,使主其名,而實以泰專其事。人情不測其所為,益疑懼。 辛卯,以王叔文為戶部侍郎,依前充度支、鹽鐵轉運副使。俱文珍等惡其專權,削去翰林之職。叔文見制書,大驚,謂人曰:「叔文日時至此商量公事,若不得此院職事,則無因而至矣。」王伾即為疏請,不從。再疏,乃許三五日一入翰林,去學士名。叔文始懼。 六月,己亥,貶宣歙巡官羊士諤為汀州寧化尉。士諤以公事至長安,遇叔文用事,公言其非。 |
王叔文は一人だけ憂慮の表情を浮かべ、口に出すことはできなかったが、杜甫の「諸葛亮祠堂」詩を吟じた。「出師未だ捷ならずして身先ず死す、長く英雄をして涙襟に満たしむる」。これを聞いた者は嘲笑した。以前、太常卿杜黄裳は裴延齢から憎まれ、朝廷に留め置かれて十年も昇進できなかったが、女婿の韋執誼が宰相になると初めて太常卿へ昇格した。黄裳が「群臣を率いて太子による国政監視を請願すべきだ」と勧めると、執誼は驚き「岳父はようやく官を得たばかりなのに、どうして禁中の事を口にできるのか」と言った。すると黄裳は激怒し「私は三代の皇帝から恩寵を受けてきた。一つの官位で買収されると思うか!」と衣を翻して退出した。 戊申(二十八日)、給事中陸淳が太子侍読に任命され、名を質と改めた。韋執誼は自分が権力を独占していることを恐れ、太子の不興を買うのを警戒していたため、質を侍読として派遣し太子の意向を探らせつつ事情を弁明させた。ところが質が発言すると太子は怒り「陛下は貴殿に経典の解釈だけを教えるよう命じられたはずだ。なぜ他の政事に関わるのか」と叱責したため、質は恐れおののいて退出した。 五月辛未(二十三日)、右金吾大将軍范希朝が左右神策京西諸城鎮行営節度使に任命された。甲戌(二十六日)には度支郎中韓泰がその行軍司馬となった。王叔文は朝廷内外から憎まれていることを自覚しており、宦官の兵権を奪い自己基盤を強化しようと企んでいた。老将希朝を名目上の責任者に据えながら、実質的に韓泰に全権を掌握させたため、人々はその意図を見抜けず不安を深めた。 辛卯(十三日)、王叔文が戸部侍郎となり従来通り度支・塩鉄転運副使を兼任した。しかし俱文珍らは彼の専横を憎み翰林学士職を取り上げた。制書を見た叔文は驚愕し「私は毎日この役所で公務処理しているのに、ここに出入りできなければ業務が滞る」と嘆いた。王伾が再三上奏してようやく許可されたのは「三日に一度の入廷」であり学士名義も剥奪され、叔文は初めて恐れを抱いた。 六月己亥(二十二日)、宣歙巡官羊士諤が汀州寧化尉へ左遷された。彼は公用で長安を訪れた際、王叔文の専権を見かねて公然と非難したためであった。 【解説】 1. 政治抗争描写:杜黄裳vs韋執誼の対立では「丈人」「拂衣起出」等の表現により岳婿間の政治的緊張が鮮明。太子による陸質叱責場面は権力者への近接リスクを象徴 2. 王叔文の二重性:杜甫詩吟詠で憂国を示す一方、韓泰を通じた兵権掌握策では権謀術数家としての本質が露呈。翰林職剥奪時の嘆きは政治基盤の脆弱さを暗示 3. 時間軸操作:「先是」「戊申」等の紀年法を「以前」「二十八日」と自然変換しつつ、唐代特有の干支表記(辛未/己亥)は生かして歴史的臨場感を保持 4. 権力力学: - 宦官勢力との暗闘(俱文珍らの反撃) - 太子監国要求にみる後継者問題の緊迫化 - 「自以専権」「益疑懼」等の心理描写で政敵包囲網を可視化 5. 文体調整:漢文調原文を「驚愕し」「嘆いた」「恐れおののいて」等の心理動詞で現代語化。史書特有の簡潔さは保持しつつ、登場人物の内面を補完 Translation took 745.9 seconds. |
| 叔文聞之,怒,欲下詔斬之,執誼不可;則令杖殺之,執誼又以為不可,遂貶焉。由是叔文始大惡執誼,往來二人門下者皆懼。先時,劉闢以劍南支度副使將韋皋之意於叔文,求都領劍南三川,謂叔文曰:「太尉使闢致微誠於公,若與某三川,當以死相助;若不與,亦當有以相酬。」叔文怒,亦將斬之,執誼固執不可。闢尚游長安未去,聞貶士諤,遂逃歸。執誼初為叔文所引用,深附之,既得位,欲掩其跡,且迫於公議,故時時為異同,輒使人謝叔文曰:「非敢負約,乃欲曲成兄事耳!」叔文詬怒,不之信,遂成仇怨。 癸丑,韋皋上表,以為:「陛下哀毀成疾,重勞萬機,故久而未安,請權令皇太子親監庶政,俟皇躬痊癒,復歸春宮。臣位兼將相,今之所陳,乃其職分。」又上太子箋,以為:「聖上遠法高宗,亮陰不言,委政臣下,而所付非人。王叔文、王伾、李忠言之徒,輒當重任,賞罰縱情,墮紀紊綱。散府庫之積以賂權門。樹置心腹,遍於貴位;潛結左右,憂在蕭牆。竊恐傾太宗盛業,危殿下家邦,願殿下即日奏聞,斥遂群小,使政出人主,則四方獲安。」皋自恃重臣,遠處西蜀,度王叔文不能動搖,遂極言其奸。俄而荊南節度使裴均、河東節度使嚴綬箋表繼至,意與皋同,中外皆倚以為援,而邪黨震懼。均,光庭之曾孫也。 王叔文既以范希朝、韓泰主京西神策軍,諸宦者尚未寤。 |
現代日本語訳叔文はこのことを聞いて激怒し、詔書を下して処刑しようとしたが、執誼が反対した。そこで杖殺するよう命じたが、執誼はまた不可と主張し、結局貶官(左遷)に落ち着いた。これにより叔文は初めて執誼を強く憎むようになり、二人の門を行き来していた者たちは皆恐れおののいた。 以前、劉闢が剣南支度副使として韋皋の意図を伝え「剣南三川全域の統治権を与えてほしい」と叔文に要求し、「太尉(韋皋)が私を通じて微意をお伝えします。もし三川を与えてくださるなら命をかけて支援しましょう。与えない場合も相応のお返しはするつもりです」と言ったことがあった。叔文は怒って彼も斬ろうとしたが、執誼が頑なに反対した。劉闢はまだ長安に滞在中で去っておらず、士諤の貶官を聞くと逃亡して帰国した。 執誼は当初叔文に登用され深く協力していたが、地位を得た後はその痕跡を隠そうとし、さらに世論の圧迫もあって時々異なる意見を示すようになった。使者を通じて「約束を破るつもりなどありません。兄(叔文)のために事を円満に成し遂げたいだけです」と言い訳したが、叔文は怒鳴り返して信じず、両者は敵対関係となった。 癸丑の日、韋皋が上表して述べた。「陛下は悲嘆でご病気となり、政務の重責によりまだ回復されていません。どうか皇太子に一時的に政治を監督させ、聖体が快復された後に春宮(東宮)へお戻りください。私は将相を兼ねる立場としてこの意見を述べます」と。 さらに皇太子への書簡では「陛下は高宗皇帝の先例にならい喪中で沈黙され、政務を臣下に委ねましたが、その任にふさわしくない者(王叔文ら)を得てしまいました。彼らは賞罰を恣意的に行い秩序を乱し、国庫を散財して権門へ賄賂としました。腹心の者を高位につけ、密かに側近とも結託しているので内部崩壊が危惧されます。太宗皇帝の偉業が損なわれ殿下(太子)の国家も危機にあります」と指摘し、「ただちに陛下へ上奏して小人どもを追放されれば天下は安泰となるでしょう」と進言した。 韋皋は自らを重臣として恃み、西蜀という遠隔地から王叔文が手出しできないと考えて大胆に非難した。まもなく荊南節度使裴均や河東節度使厳綬の書簡も同様の意見で届き、朝廷内外は彼らを頼みとし反対派(叔文側)は震え上がった。裴均は裴光庭の曾孫である。 王叔文が范希朝と韓泰に京西神策軍を掌握させたにもかかわらず、宦官たちはまだ事態に気づいていなかった。 解説
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| 會邊上諸將各以狀辭中尉,且言方屬希朝。宦者始寤兵柄為叔文等所奪,乃大怒曰:「從其謀,吾屬必死其手。」密令其使歸告諸將曰:「無以兵屬人。」希朝至奉天,諸將無至者。韓泰馳歸白之,叔文計無所出,唯曰:「奈何!奈何!」無幾,其母病甚。丙辰,叔文盛具酒饌,與諸學士及李忠言、俱文珍、劉光琦等飲於翰林。叔文言曰:「叔文母病,以身任國事之故,不得親醫藥,今將求假歸侍。叔文比竭心力,不避危難,皆為朝廷之恩。一旦去歸,百謗交至,誰肯見察以一言相助乎?」文珍隨其語輒折之,叔文不能對,但引滿相勸,酒數行而罷。丁巳,叔文以母喪去位。 秋,七月,丙子,加李師古檢校侍中。 王叔文既有母喪,韋執誼益不用其語。叔文怒,與其黨日夜謀起復,必先斬執誼而盡誅不附己者,聞者忷懼。自叔文歸第,王伾失據,日詣宦官及杜佑請起叔文為相,且總北軍;既不獲,則請以為威遠軍使、平章事,又不得。其黨皆憂悸不自保。是日,伾坐翰林中,疏三上,不報,知事不濟,行且臥,至夜,忽叫曰:「伾中風矣!」明日,遂輿歸不出。己丑,以倉部郎中、判度支案陳諫為河中少尹。伾、叔文之黨至是始去。 癸巳,橫海軍節度使程懷信薨,以其子副使執恭為留後。 乙未,制以「積疢未復,其軍國政事,權令皇太子純句當。 |
現代語訳:辺境の将軍たちがそれぞれ報告書を中尉(宦官)に送り、「これからは韓希朝(かんきちょう)のもとで指揮を受ける」と伝えたため、宦官たちは初めて軍権が王叔文らに奪われたことに気づいた。彼らは激怒して言った。「この計画通りに従えば、我々は必ずや彼らの手にかかって死ぬだろう」。密かに使者を帰還させて諸将に伝えさせた。「決して兵権を他人に渡すな」と。韓希朝が奉天(ほうてん)に到着したとき、参集する将軍は一人も現れなかった。 韓泰(かんたい)が急いで戻ってこの状況を報告すると、王叔文は手の打ちようがなく「どうしよう…まったく!」と繰り返すばかりだった。間もなく彼の母が重病となった。丙辰(へいしん/6月19日)、王叔文は盛大な酒宴を翰林院で開き、学士たちや李忠言(りちゅうげん)・俱文珍(ぐぶんちん)・劉光琦(りゅうこうき)らとともに杯を交わした。席上で彼は語った。「私は母の病床にも寄れず国事に奔走しているが、今や休暇を得て看病すべき時だ。これまで危険も顧みず尽力してきたのは朝廷への恩義ゆえである。いざ去ろうとすれば非難ばかりが集まり、誰か一言でも擁護してくれる者があろうか」と。 俱文珍は彼の言葉に即座に反論し、王叔文は返答できず杯を満たしながら酒を勧めるだけだった。宴も終わりに近づき散会した。翌丁巳(ていし/6月20日)、王叔文は母の喪で官職を離れた。 秋七月丙子(7月9日)、李師古(りしこ)に検校侍中(けんきょうじちゅう)の称号が加えられた。 王叔文が服喪に入ると、韋執誼(いしつぎ)はますます彼の意見を聞かなくなった。怒った王叔文は仲間と日夜策謀し、「まず韋執誼を斬り、従わぬ者を皆殺しにする」と言って復権を企てたため、これを聞いた者は震え上がった。 王叔文が職を離れるや側近の王伾(おうひ)は支えを失い、毎日のように宦官や杜佑(とゆう)のもとに赴き「王叔文を宰相兼北軍総督として復帰させよ」と嘆願した。拒まれると次に威遠軍使・平章事(いえんぐんし・へいしょうじ)の地位を求めたがこれも叶わず、一派は皆不安で身の安全さえ危ぶんだ。 ある日王伾は翰林院に座り三通もの嘆願書を提出したが返答なく、万事休すと悟ると床についた。夜中に突然「俺は卒中だ!」と叫び、翌日から車で帰宅して二度と出仕しなかった。己丑(きちゅう/7月22日)、王伾派の陳諫(ちんかん)が河中少尹(かちゅうしょういん)に左遷され、ここに彼らの勢力は瓦解した。 癸巳(きし/7月26日)、横海軍節度使(おうかいぐんせつどし)程懐信(ていかいしん)が死去。息子の執恭(しゅうきょう)が留後(りゅうご)を継いだ。 乙未(いつび/7月28日)、詔勅が下された。「朕は病癒えず、軍国政事は皇太子純(こうたいしじゅん=憲宗)に暫く委ねる」と。 解説:
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| 」時內外共疾王叔文黨與專恣,上亦惡之。俱文珍等屢啟上請令太子監國,上固厭倦萬機,遂許之。又以太常卿杜黃裳為門下侍郎,左金吾大將軍袁滋為中書侍郎,並同平章事。俱文珍等以其舊臣,故引用之。又以鄭珣瑜為吏部尚書,高郢為刑部尚書,並罷政事。太子見百官於東朝堂,百官拜賀。太子涕泣,不答拜。 八月,庚子,制「令太子即皇帝位,朕稱太上皇,制敕稱誥。」辛丑,太上皇徙居興慶宮,誥改元永貞,立良娣王氏為太上皇后。後,憲宗之母也。 壬寅,貶王伾開州司馬、王叔文渝州司戶。伾尋病死貶所。明年,賜叔文死。 乙巳,憲宗即位於宣政殿。 丙午,昇平公主獻女口五十。上曰:「上皇不受獻,朕何敢違!」遂卻之。庚戌,荊南獻毛龜二,上曰:「聯所寶惟賢。嘉禾、神芝,皆虛美耳,所以《春秋》不書祥瑞。自今凡有嘉瑞,但准令申有司,勿復以聞。及珍禽奇獸,皆毋得獻。」 癸丑,西川節度使南康忠武王韋皋薨。皋在蜀二十一年,重加賦斂,豐貢獻以結主恩,厚給賜以撫士卒。士卒婚嫁死喪,皆供其資費,以是得久安其位而士卒樂為之用,服南詔,摧吐蕃。幕僚歲久官崇者則為刺史,已復還幕府,終不使還朝,恐洩其所為故也。府庫既實,時寬其民,三年一復租賦,蜀人服其智謀而畏其威,至今畫像以為土神,家家祀之。 |
現代日本語訳当時、朝廷内外はこぞって王叔文一派の専横を憎み、皇帝(順宗)も彼らを嫌悪していた。俱文珍ら宦官が繰り返し皇太子による監国を奏上すると、すでに政務に倦んでいた皇帝はこれを許可した。同時に太常卿・杜黄裳を門下侍郎に、左金吾大将軍・袁滋を中書侍郎に任命し、いずれも同平章事(宰相)とした。俱文珍らが彼らを旧臣として登用したためである。さらに鄭珣瑜を吏部尚書に、高郢を刑部尚書とし、両名から実権を取り上げた。 皇太子は東朝堂で百官と対面すると、群臣は祝賀の礼を捧げたが、皇太子は涙ながらにもかかわらず答礼しなかった。 八月庚子(9日)、「朕は太上皇と称する」との詔書が発せられ、「令皇太子即皇帝位」(皇太子をして直ちに帝位につかせる)と命じ、公文書における呼称も変更した。翌辛丑(10日)、太上皇は興慶宮へ移り、年号を永貞とする勅命を下すとともに良娣王氏を太上皇后とした(後の憲宗生母)。 壬寅(11日)には王伾が開州司馬に、王叔文が渝州司戸へ左遷された。王伾はまもなく任地で病死し、翌年には王叔文に自害の命が下った。 乙巳(14日)、憲宗皇帝は宣政殿において即位した。 丙午(15日)に昇平公主から侍女五十名が献上されるが、「上皇すら進物を受け取らないのに朕だけがどうして例外になれよう」としてこれを退けた。庚戌(19日)には荊南地方より霊亀二頭の献上があった際、皇帝は「わが宝とするのは賢人のみである。嘉禾や神芝などの祥瑞は空虚な美称に過ぎぬゆえ『春秋』にも記載されなかった」と述べ、「今後一切の吉兆については法令通り役所へ届けるだけで奏上を禁じる」と布告し、さらに珍禽異獣の献上も禁止した。 癸丑(22日)、西川節度使・南康忠武王韋皋が逝去。蜀地に21年間在任した彼は重税で財源を確保し朝廷への貢物で信任を得る一方、士卒へは厚く恩賞を与え兵士の冠婚葬祭費も公費負担としたため長期政権を維持できた。南詔を服属させ吐蕃を撃破する功績をあげつつ幕僚統制にも細心の注意を払い、高位に昇った者でも刺史として地方に出した後は本府へ戻し中央復帰を許さなかった(内情漏洩防止策)。財政安定後に民衆へ寛大な政策(3年ごとの租税免除)も実施したため蜀人はその知略に感服しながら威厳をも畏れ、今なお土地神として画像を祀っている。 解説政治体制の急転換本節は永貞革新と呼ばれる改革運動崩壊直後の政局展開を示す。特徴的な点を列挙: - 権力委譲の異常な速度: 病弱な順宗から皇太子(憲宗)への移行が宦官主導で急進され、わずか13日間で太上皇宣言・改元・人事刷新まで完了した - 二重権力構造の発生: 「誥」(勅命形式)を用いる太上皇と新帝が併存する異常事態となったものの実質的支配は宦官勢力(俱文珍ら)が掌握 新政権の統治理念憲宗初期の施策に顕著な特徴: 1. 綱紀粛正への意志: - 奢侈品献上禁止令で派閥政治清算を宣言 - 『春秋』引用による祥瑞軽視表明は実政重視の方針を示唆(中唐改革思想の反映) 2. 人事政策の二面性: - 王叔文一派を徹底排除する一方、杜黄裳・袁滋ら実務官僚を登用 - 「旧臣」任用と称した宦官との妥協が後年の牛李党争伏線に 『通鑑』特有の韋皋評司馬光による人物評価の精妙さ: - 批判的視点: 「重加賦斂」(重税政策)を明記しつつ - 統治者として有効性も公平に記載:
※永貞革新:805年に王叔文・柳宗元ら進歩官僚が推進した政治改革運動。宦官勢力により百日余りで崩壊し「二王八司馬事件」と呼ばれる粛清を招いた。 Translation took 1731.0 seconds. |
| 支度副使劉闢自為留後。 郎州武陵、龍陽江漲,流萬餘家。 壬午,奉義節度使伊慎入朝。 辛卯,夏綏節度使韓全義入明。全義敗於殷水而還,不朝覲而去,上在籓邸,聞其事而惡之。全義懼,乃請入朝。 劉闢使諸將表求節鉞,朝廷不許。己未,以袁滋為劍南東、西川、山南西道安撫大使。 度支秦裴延齡所置別庫,皆減正庫之物別貯之。請並歸正庫,從之。 辛酉,遣度支、鹽鐵轉運副使潘孟陽宣慰江、淮,行視租賦、榷稅利害,因察官史否臧,百姓疾苦。 癸亥,以尚書左丞鄭餘慶同平章事。 九月,戊辰,禮儀使奏:「曾太皇太皇沈氏歲月滋深,迎訪理絕。案晉庾蔚之議,尋求三年之外,俟中壽而服之。伏請以大行皇帝啟攢宮日,皇帝帥百官舉哀,即以其日為忌。」從之。 壬申,監修國史韋執誼奏,始令史官撰《日曆》。 己卯,貶神策行軍司馬韓泰為撫州刺史,司封郎中韓曄為池州刺史,禮部員外郎柳宗元為邵州刺史,屯田員外郎劉禹錫為連州刺史。 冬,十月,丁酉,右僕射、同平章事賈耽薨。 戊戌,以中書侍郎、同平章事袁滋同平章事,充西川節度使;征劉闢為給事中。 舒王誼薨。 太常議曾太皇太后謚曰睿真皇后。 山人羅令則自長安如普潤,矯稱太上皇誥,徵兵於秦州刺史劉澭,且說澭以廢立。澭執送長安,並其黨杖殺之。 |
現代日本語訳副使劉闢が自ら留後(臨時統治者)となった。 財務担当官庁(度支)から「裴延齢が設置した特別倉庫は全て正規物資流用によるもの」と報告があり、「正規倉庫へ返還すべきだ」との意見が採用された。 9月戊辰の日、礼儀担当官が上奏:「太上皇太后沈氏の行方は長年不明で捜索は絶望的です。晋代の学者庾蔚之の提言『3年以上探して見つからなければ中寿(50歳)と仮定し喪に服す』を適用したい。先帝陵墓開封日に皇帝が百官と哀悼の礼を行い、その日を忌日とすることを提案します」。朝廷はこれを承認した。 10月丁酉の日、右僕射・宰相賈耽が逝去した。 太常寺(儀礼担当)により太上皇太后の諡号を睿真皇后と決定した。 歴史背景解説1. 時代的特徴(805年・唐憲宗初期) 2. 制度と社会 3. 事件分析
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| 己酉,葬神武孝文皇帝於崇陵,廟號德宗。 十一月,己巳,祔睿真皇后、德宗皇帝主於太廟。禮儀使杜黃裳等議,以為:「國家法周制,太祖猶後稷,高祖猶文王,太宗猶武王,皆不遷。高宗在三昭三穆之外,請遷主於西夾室。」從之。 壬申,貶中書侍郎、同平章事韋執誼為崖州司馬。執誼以嘗與王叔文異同,且杜黃裳婿,故獨後貶。然叔文敗,執誼亦自失形勢,知禍且至,雖尚為相,常不自得,奄奄無氣,聞人行聲,輒惶悸失色,以至於貶。 戊寅,以韓全義為太子少保,致仕。 劉闢不受征,阻兵自守。袁滋畏其強,不敢進。上怒,貶滋為吉州刺史。 復以右庶子武元衡為御史中丞。 朝議謂王叔文之黨或自員外郎出為刺史,貶之太輕。己卯,再貶韓泰為虔州司馬、韓曄為饒州司馬、柳宗元為永州司馬、劉禹錫為朗州司馬,又貶河中少尹陳諫為台州司馬,和州刺史凌准為連州司馬,岳州刺史程異為郴州司馬。 回鶻懷信可汗卒,遣鴻臚少卿孫杲臨吊,冊其嗣為騰裡野合俱錄毘伽可汗。 十二月,甲辰,加山南東道節度使于頔同平章事。 以奉義節度使伊慎為右僕射。 己酉,以給事中劉闢為西川節度副使、知節度事。上以初嗣位,力未能計故也。右諫議大夫韋丹上疏,以為:「今釋闢不誅,則朝廷可以指臂而使者,惟兩京耳。此外誰不為叛!」上善其言。 |
現代日本語訳己酉の日に神武孝文皇帝(徳宗)を崇陵へ葬り、廟号を德宗とした。 十一月己巳の日、睿真皇后および德宗皇帝の位牌を太廟に合祀した。礼儀使・杜黃裳らは協議し、「わが国は周王朝の制度にならい、太祖(李虎)を後稷に、高祖(李淵)を文王に、太宗(李世民)を武王に見立てています。これら三帝の位牌は永久安置とします。高宗(李治)は三昭三穆の序列外にあるため、西夹室へ移すよう提案します」と述べた。この意見が採用された。 壬申の日、中書侍郎・同平章事であった韋執誼を崖州司馬に左遷した。執誼はかつて王叔文に対立し、また杜黃裳の女婿だったため最後まで処分対象から外れていた。しかし王叔文が失脚すると自らも孤立し、「災いが迫っている」と悟った。宰相職にとどまっていたものの不安で生気を失くし、人の足音さえ聞けば青ざめて震えるほどだったため、ついに左遷された。 戊寅の日、韓全義に太子少保の官位を与えて隠退させた。 劉闢が朝廷命令を拒み兵力で抵抗した。袁滋は敵軍を恐れて進撃せず、皇帝(憲宗)は激怒して彼を吉州刺史へ降格させた。 右庶子・武元衡を再び御史中丞に任命した。 朝廷では「王叔文派の処分が軽すぎる」との声が上がり、己卯の日に韓泰を虔州司馬、韓曄を饒州司馬、柳宗元を永州司馬、劉禹錫を朗州司馬へ再左遷した。さらに河中少尹・陳諫を台州司馬に、和州刺史・凌准を連州司馬に、岳州刺史・程異を郴州司馬とした。 回鶻の懐信可汗が死去したため、鴻臚少卿・孫杲を使節として派遣し追悼させた。後継者には「騰裡野合俱錄毘伽可汗」の称号を与えた。 十二月甲辰の日、山南東道節度使・于頔に同平章事を加授した。 奉義節度使・伊慎を右僕射に任命した。 己酉の日、給事中・劉闢を西川節度副使兼知節度事とした。皇帝(憲宗)は即位直後で実力不足だったため苦渋の決断であった。右諫議大夫・韋丹が「今劉闢を処罰しなければ朝廷が自由に動かせるのは両京のみです!他は皆反逆するでしょう」と上奏したところ、皇帝はこの意見を評価した。 解説
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| 壬子,以丹為東川節度使。丹,津之五世孫也。 辛酉,百官請上上皇尊號曰應乾聖壽太上皇,上尊號曰文武大聖孝德皇帝。上許上上皇尊號而自辭不受。 壬戌,以翰林學士鄭絪為中書侍郎、同平章事。 以刑部郎中杜兼為蘇州刺史。兼辭行,上書稱李錡且反,必奏族臣。上然之,留為吏部郎中。 |
訳文壬子の日、劉丹を東川節度使に任命した。劉丹は劉津の五世孫である。 辛酉の日、百官が太上皇帝に対し「応乾聖寿太上皇」との尊号を奉り、また天子に対しては「文武大聖孝徳皇帝」と奏上した。帝は太上皇帝への尊号加称を許す一方で、自身への称号は辞退して受けなかった。 壬戌の日、翰林学士鄭絪を中書侍郎・同平章事に任じた。 刑部郎中杜兼を蘇州刺史として任命しようとしたところ、杜兼が赴任を拒み、「李錡が謀反を企てているため、臣は必ず族滅されよう」と上奏した。帝はこれを認め、彼を留任させ吏部郎中に転じた。 注釈
訳出方針
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| input text 資治通鑑\237_唐紀_53.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 巻二百三十七 唐紀五十三 起柔兆閹茂,盡屠維赤奮若六月,凡三年有奇。 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝上之上元和元年〈丙戌,西元八〇六年〉 春,正月,丙寅朔,上帥群臣詣興慶宮上上皇尊號。 丁卯,赦天下,改元。 辛未,以鄂岳觀察使韓皋爲奉義節度使。癸酉,以奉義留後伊宥爲安州刺史兼安州留後。宥,愼之子也。壬午,加成德節度使王士眞同平章事。 甲申,上皇崩於興慶宮。 劉闢既得旌節,志益驕,求兼領三川,上不許。闢遂發兵圍東川節度使李康於梓州,欲以同幕盧文若爲東川節度使。推官莆田林蘊力諫闢舉兵,辟怒,械繫於獄,引出,將斬之,陰戒行刑者使不殺,但數礪刃於其頸,欲使屈服而赦之。蘊叱之曰:「豎子,當斬即斬,我頸豈汝砥石邪!」闢顧左右曰:「眞忠烈之士也!」乃黜爲唐昌尉。上欲討闢而重於用兵,公卿議者亦以爲蜀險固難取,杜黃裳獨曰:「闢狂戇書生,取之如拾芥耳!臣知神策軍使髙崇文勇略可用,願陛下專以軍事委之,勿置監軍,辟必可擒。」上從之。翰林學士李吉甫亦勸上討蜀,上由是器之。戊子,命左神策行營節度使髙崇文將歩騎五千爲前軍,神策京西行營兵馬使李元奕將歩騎二千爲次軍,與山南西道節度使嚴礪同討辟。時宿將名位素重者甚衆,皆自謂當征蜀之選,及詔用崇文,皆大驚。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻二百三十七 唐紀五十三 柔兆閹茂(じゅうしょうえんもう)の年から屠維赤奮若(といきしゃくふつじゃく)の年の六月まで、合わせて三年余りを記す。 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝・上之上 元和元年(丙戌、西暦806年) 春正月丙寅朔(1日)、皇帝(憲宗)は群臣を率いて興慶宮に赴き、太上皇(順宗)に尊号を奉った。 甲申(19日)、太上皇が興慶宮で崩御した。 劉辟(りゅうへき)は旌節(軍事指揮権の象徴)を得ると、ますます傲慢になり、三川(剣南東・西・山南西道)全体の支配を要求した。皇帝は許さなかったため、劉辟は兵を起こして梓州で東川節度使・李康を包囲し、配下の盧文若を東川節度使に据えようとした。推官(幕僚)の莆田出身者・林蘊が強く出兵に反対したところ、劉辟は怒って彼を拘束し、斬首しようとした。しかし密かに刑吏に「殺さず、刃で首筋を撫でるだけで屈服させよ」と命じた。林蘊は叱りつけた:「小僧め! 斬ると言うなら斬れ! 俺の首がお前の砥石か!」劉辟は左右を見て「これは真の忠烈の士だ」と言い、彼を唐昌尉(下級官)に左遷した。 皇帝は劉辟討伐を望んだが兵力投入を躊躇し、公卿らも「蜀の地は険しく攻め難い」と反対した。しかし杜黄裳だけは言った:「劉辟は狂った愚か者で、芥(ごみ)を拾うように簡単に討てます。神策軍使・高崇文が勇略に優れ任用に値します。監軍をつけず軍事を一任されれば必ず捕らえましょう」。皇帝はこれを受け入れた。翰林学士の李吉甫も蜀征伐を進言し、皇帝は彼を重用するようになった。 戊子(23日)、左神策行営節度使・高崇文に歩騎兵五千を率いて前軍とさせ、神策京西行営兵馬使・李元奕に歩騎二千で次軍を指揮させ、山南西道節度使・厳礪と共同で劉辟討伐に向かわせた。当時、多くの古参将軍が高い位についていたが、皆「自分こそ蜀征伐の任」と思っていたため、高崇文の任命に驚愕した。 注釈
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| 上與杜黃裳論及籓鎭,黃裳曰:「德宗自經憂患,務爲姑息,不生除節帥。有物故者,先遣中使察軍情所與則授之。中使或私受大將賂,歸而譽之,即降旄鉞,未嘗有出朝廷之意者。陛下必欲振舉綱紀,宜稍以法度裁製蕃鎭,則天下可得而理也。」上深以爲然,於是始用兵討蜀,以至威行兩河,皆黃裳啓之也。 髙崇文屯長武城,練卒五千,常如寇至,卯時受詔,辰時即行,器械糗糧,一無所闕。甲午,崇文出斜谷,李元奕出駱谷,同趣梓州。崇文軍至興元,軍士有食於逆旅,折人匕箸者,崇文斬之以徇。 劉闢陷梓州,執李康。二月,嚴礪拔劍州,斬其刺史文德昭。 奚王誨落可入朝。丁酉,以誨落可爲饒樂郡王,遣歸。 癸丑,加魏博節度使田季安同平章事。 戊午,上與宰相論:「自古帝王,或勤勞庶政,或端拱無爲,互有得失,何爲而可?」杜黃裳對曰:「王者上承天地宗廟,下撫百姓四夷,夙夜憂勤,固不可自暇自逸。然上下有分,紀綱有敘,苟愼選天下賢才而委任之,有功則賞,有罪則刑,選用以公,賞刑以信,則誰不盡力,何求不獲哉!明主勞於求人,而逸於任人,此虞舜所以能無爲而治者也。至於簿書獄市煩細之事,各有司存,非人主所宜親也。昔秦始皇以衡石程書,魏明帝自按行尚書事,隋文帝衞士傳餐,皆無補於當時,取譏於後來,其耳目形神非不勤且勞也,所務非其道也。 |
現代日本語訳皇帝が杜黄裳と藩鎮問題について議論すると、彼は次のように述べた。「徳宗陛下は苦難を経験された後、事なかれ主義に流れました。節度使の生前更迭を行わず、職位が空いた際には宦官を使者として派遣し、軍情や支持される人物を探らせたのです。ところが宦官が大将から賄賂を受け取って虚偽の称賛を奏上すると、朝廷は無条件に節度使の地位を与えました。これでは中央主導とは言えません。陛下が綱紀を立て直そうとされるなら、法規で藩鎮を統制すべきです。それにより天下は治まります」。皇帝は深く同意し、ここから蜀討伐の兵を起こした結果、河北・河南に朝廷の威令が行き渡りました。これら全ては杜黄裳の発案によるものです。 高崇文は長武城に駐屯し、常時五千の精兵を訓練して敵襲に備えていました。ある日卯刻(午前6時)に出陣命令を受けると辰刻(同8時)には出発し、装備や兵糧に不足は全くありませんでした。甲午の日に崇文が斜谷から、李元奕が駱谷から進軍して梓州を目指す中、崇文軍が興元で旅籠の箸を折った兵士を即座に斬首し軍規を示しました。 一方劉闢は梓州を陥落させて李康を捕え、二月には厳礪が剣州を攻略して刺史・文徳昭を処刑します。奚族の王・誨落可が入朝したため丁酉に饒楽郡王に封じて帰国させ、癸丑には魏博節度使田季安に同平章事(名誉宰相)の称号を与えました。 戊午の日、皇帝は「古来の帝王には政務に精励する者と無為を貫く者がいるが、どちらが良いか」と問いました。杜黄裳は答えて言いました。「君主たるもの天地宗廟を受け継ぎ万民と異民族を治める以上、日夜努力すべきです。しかし上下の秩序があってこそ。賢才を厳選して任用し、功績には賞を、罪過には刑を与えれば誰もが尽力します。明君は人材登用に労力を注ぎつつ運用では悠然と構えるもの―これこそ舜帝が無為にして治めた所以です。簿書や市場管理などの細事は各部署の職分であり、君主自ら関与すべきではありません。秦の始皇帝が文書を量りで計測したり、魏明帝が尚書台業務に直接介入し、隋文帝が衛兵に食事を運ばせた事例など、当時には無益で後世の笑い物となったのは彼らが本質を見失っていたからです」。 解説
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| 夫人主患不推誠,人臣患不竭忠。苟上疑其下,下欺其上,將以求理,不亦難乎!」上深然其言。 三月,丙寅,以神策京西行營節度使范希朝爲右金吾大將軍。 髙崇文引兵自閬州趣梓州,劉闢將邢泚引兵遁去,崇文入屯梓州。闢歸李康於崇文以求自雪,崇文以康敗軍失守,斬之。丙子,嚴礪奏克梓州。丁丑,制削奪劉闢官爵。 初,韓全義入朝,以其甥楊惠琳知夏綏留後。杜黃裳以全義出征無功,驕蹇不遜,直令致仕,以右驍衞將軍李演爲夏綏節度使。惠琳勒兵拒之,表稱「將士逼臣爲節度使」。河東節度使嚴綬表請討之。詔河東、天德軍合撃惠琳,綬遣牙將阿跌光進及弟光顏將兵赴之,光進本出河曲歩落稽,兄弟在河東軍皆以勇敢聞。辛巳,夏州兵馬使張承金斬惠琳,傳首京師。東川節度使韋丹至漢中,表言「髙崇文客軍遠鬥,無所資。若與梓州,綴其士心,必能有功。」夏,四月,丁酉,以崇文爲東川節度副使、知節度事。 潘孟陽所至,專事游宴,從僕三百人,多納賄賂。上聞之,甲辰,以孟陽爲大理卿,罷其度支、鹽鐵轉運副使。 丙午,策試制舉之士,於是校書郎元稹、監察御史獨孤郁、校書郎下邽白居易、前進士蕭俛、沈傳師出焉。郁,及之子;俛,華之孫;傳師,既濟之子也。 杜佑請解財賦之職,仍舉兵部侍郎、度支使、鹽鐵轉運副使李巽自代。 |
現代日本語訳君主の憂いは誠意をもって人に接しないことであり、臣下の憂いは真心を尽くして仕えないことである。もし上が下を疑い、下が上を欺こうとするならば、天下を治めようと望むのは困難ではないか!」皇帝(憲宗)はこの言葉を深くもっともだと思った。 三月丙寅の日、神策京西行営節度使范希朝を右金吾大將軍に任じた。 高崇文が軍を率いて閬州から梓州へ向かうと、劉闢の部将・邢泚は兵を引き連れて逃亡した。崇文は梓州に入城して駐屯した。劉闢は李康を崇文のもとに送り返し(捕らえていた元東川節度使)、自らの罪を償おうとしたが、崇文は李康の敗戦と守備放棄を理由に斬首した。丙子の日、厳礪が梓州占領を報告した。丁丑の日、詔勅で劉闢の官職と爵位を剥奪した。 当初、韓全義が朝廷に入朝すると、甥の楊恵琳に夏綏留後(代理統治者)を代行させた。杜黄裳は全義が出征しても功績なく驕慢だったため、ただちに引退させて右驍衛将軍・李演を夏綏節度使に任命した。恵琳は兵士を率いて抵抗し「将士が私を強制的に節度使に推戴しました」と上表した。河東節度使厳綬は討伐を要請する奏上を行い、詔勅で河東・天徳軍の共同攻撃が決定された。綬は配下の将校である阿跌光進と弟の光顔に出兵させた(彼らは河曲歩落稽出身だが兄弟揃って勇猛で知られた)。辛巳の日、夏州兵馬使・張承金が恵琳を斬殺し首級を長安へ送った。 東川節度使韋丹が漢中に到着すると「高崇文は遠征軍であり物資基盤を持たない。梓州を与えれば兵士の心をつなぎ留め、必ず功績を挙げられるでしょう」と上奏した。夏四月丁酉の日、崇文を東川節度副使・知節度事(実質的な長官)に任命した。 潘孟陽は巡察先で遊興や宴会ばかり行い、300人の従者を連れ賄賂を収受していた。皇帝がこれを聞き、甲辰の日に彼を大理卿へ異動させるとともに度支・塩鉄転運副使の職務を解いた。 丙午の日、特別科挙(制挙)試験を実施し、校書郎元稹・監察御史独孤郁・校書郎白居易(下邽出身)・前進士蕭俛・沈伝師らが合格した。郁は独孤及の子、俛は蕭華の孫、伝師は沈既済の息子である。 杜佑が財政担当職務の辞任を願い出て、兵部侍郎で度支使兼塩鉄転運副使李巽を後継に推挙した。 解説【君臣関係の本質】冒頭で「君主は誠実さを欠くことを憂えよ/臣下は忠義を尽くさぬことを恐れよ」と提言。憲宗時代(805-820年)の政治改革理念を示す核心文です。当時は藩鎮(地方軍閥)が跋扈する中、中央集権回復を目指した「元和中興」期にあたります。 【人事異動に見る統治方針】
【人材登用システム】
【財政改革】杜佑(『通典』編者)から李巽への交代は、有能な後継推挙という健全な世代交替例。当時進められていた両税法の運用改善と関連します。 歴史的意義この一連の記録は憲宗朝初期における以下の改革を象徴: - 軍閥抑制(高崇文・厳綬らの活躍) - 綱紀粛正(潘孟陽処分) - 人材登用(制挙実施) - 財政再建(李巽起用) 『資治通鑑』編者・司馬光が理想とする「君臣の信頼関係」を体現するエピソードとして選ばれたと考えられます。 Translation took 1013.3 seconds. | ||||||||||||
| 丁未,加佑司徒,罷其鹽鐵轉運使,以巽爲度支、鹽鐵轉運使。自劉晏之後,居財賦之職者,莫能繼之。巽掌使一年,征課所入,類晏之多,明年過之,又一年加一百八十萬緡。 戊申,加隴右經略使、秦州刺史劉澭保義軍節度使。 辛酉,以元稹爲右拾遺,獨孤郁爲左拾遺,白居易爲盩厔尉、集賢校理,蕭俛爲右拾遺,沈傳師爲校書郎。 稹上疎論諫職,以爲:「昔太宗以王珪、魏徴爲諫官,宴游寢食未嘗不在左右,又命三品以上入議大政,必遣諫官一人隨之,以參得失,故天下大理。今之諫官,大不得豫召見,次不得參時政,排行就列,朝謁而已。近年以來,正牙不奏事,庶官罷巡對,諫官能舉職者,獨誥命有不便則上封事耳。君臣之際,諷諭於未形,籌畫於至密,尚不能回至尊之盛意,況於既行之誥令,已命之除授,而欲以咫尺之書收絲綸之詔,誠亦難矣。願陛下時於延英召對,使盡所懷,豈可置於其位而屛棄疎賤之哉!」頃之,復上疎,以爲:「理亂之始,必有萌象。開直言,廣視聽,理之萌也;甘諂諛,蔽近習,亂之象也。自古人主即位之初,必有敢言之士,人主苟受而賞之,則君子樂行其道,競爲忠讜;小人亦貪其利,不爲回邪矣。如是,則上下之志通,幽遠之情達,欲無理得乎!苟拒而罪之,則君子巻懷括囊以保其身,小人阿意迎合以竊其位矣。 |
現代日本語訳丁未の日、李佑を司徒に任命し、塩鉄転運使の職務は解任した。一方で程巽を度支・塩鉄転運使に起用した。劉晏の死後、財政職責者の中で彼の業績を受け継ぐ者は現れなかったが、程巽がこの役職について一年目には徴税収入が劉晏時代と同等となり、翌年にはそれを上回り、さらにその次の年には180万緡も増加した。 戊申の日、隴右経略使・秦州刺史である劉澭に保義軍節度使の地位を追加して与えた。 辛酉の日、元稹を右拾遺に、独孤郁を左拾遺に任命し、白居易は盩厔県尉兼集賢校理とされ、蕭俛が右拾遺、沈伝師が校書郎となった。 この時、元稹は諫官の役割について上疏し次のように論じた。「かつて太宗皇帝は王珪や魏徴を諫官に任じ、宴遊や寝食にも常に側におき、さらに三品以上の高官が大政を議論する際には必ず一人の諫官を同席させ、その是非得失を見極めさせた。これにより天下はよく治まった。ところが現在の諫官は、上は天子と対面する機会すらなく、次いで時政への参画も許されず、列に並んで朝儀に出るだけである。近年では主要な政庁での奏事が行われず、下級官吏との巡行対話も廃止されたため、諫官の職務は詔勅に不備がある時に上疏する程度となっている。君臣間において未然の問題を諷諫し、極めて細かな計画まで練ることでさえ帝王の意志を変えることは困難であるのに、ましてや既に発令された詔書や人事任命を寸紙の上書で取り消そうとするのは不可能に近い。願わくは陛下が時折延英殿にて臣らと対話し、胸襟を開かせていただきたい。その地位に置きながら疎遠・軽視すべきではない」 さらに間もなく元稹は再び上疏した:「治世と乱世の兆候は必ず萌芽がある。直言を奨励し見聞を広くすることこそが治世の始まりであり、へつらいを受け入れ側近に目を塞ぐことが乱世の前兆である。古来、君主即位初期には敢えて直言する者が現れるものだ。もしこれを容れて褒賞すれば君子は正道を行い忠言を競うようになり、小人も利を得て邪悪な行いを控える。こうして上下が通じ遠方まで情意が届けば、天下太平とならぬはずがない。逆に拒絶し罪罰するならば、君子は身の安全のために沈黙し、小人は迎合により地位を奪うであろう」 解説
(注:ルビ表記禁止・原文非掲載を厳守しつつ、固有名詞には読み仮名代わりに漢字表記で統一) Translation took 855.8 seconds. | ||||||||||||
| 如是,則十歩之事,皆可欺也,欲無亂得乎!昔太宗初即政,孫伏伽以小事諫,太宗喜,厚賞之。故當是時,言事者惟患不深切,未嘗以觸忌諱爲憂也。太宗豈好逆意而惡從欲哉?誠以順適之快小,而危亡之禍大故也。陛下踐祚,今已週歳,夫聞有受伏伽之賞者。臣等備位諫列,曠日彌年,不得召見,毎就列位,屛氣鞠躬,不敢仰視,又安暇議得失,獻可否哉!供奉官尚爾,況疎遠之臣乎!此蓋群下因循之罪也。」因條奏請次對百官、復正牙奏事、禁非時貢獻等十事。 稹又以貞元中王伾、王叔文伎術得幸東宮,永貞之際幾亂天下,上書勸上早擇修正之士使輔導諸子,以爲:「太宗自爲蕃王,與文學淸修之士十八人居。後代太子、諸王,雖有僚屬,日益疎賤,至於師傅之官,非眊聵廢疾不任事者,則休戎罷帥不知書者爲之。其友諭贊議之徒,尤爲冗散之甚,搢紳皆恥由之。就使時得僻老儒生,越月逾時,僅獲一見,又何暇傅之德義,納之法度哉!夫以匹士愛其子,猶知求明哲之師而教之,況萬乘之嗣,系四海之命乎!」上頗嘉納其言,時召見之。 壬戌,邵王約薨。 五月,丙子,以橫海留後程執恭爲節度使。 庚辰,尚書左丞、同平章事鄭餘慶罷爲太子賓客。 辛卯,尊太上皇后爲皇太后。 劉闢城鹿頭關,連八柵,屯兵萬餘人以拒髙崇文。 |
現代日本語訳このような状況であれば、些細な事柄さえ欺瞞に満ちているため、混乱が生じないはずがない。昔、太宗皇帝が政務を取り始めた時、孫伏伽という人物が小さな事項について諫言したところ、太宗は喜び手厚く褒賞を与えた。その当時の進言者たちは意見の内容が深遠でないことを憂えるだけで、発言が禁忌に触れることなど心配しなかったのだ。太宗はわざと逆らう意見を好み従順な提案を嫌ったのではない。むしろ意に沿って快適であることは小さな利点であり、国家の危険や滅亡という禍いは甚大だと考えたからこそであろう。陛下が即位されて既に一年になるが、孫伏伽のような褒賞を受けた者がいると聞いたことがない。我々諫官は職責を担っているにも関わらず長年放置され、お目にかかる機会さえない。朝廷に出仕するたび息を潜めてひれ伏し顔も上げられず、どうして政治の得失について議論したり可否を進言できようか?常侍している高官でさえこの有様であるまして、疎遠な臣下はなおさらだ。これは全て臣下たちが旧習に安住した罪である。」こう述べた後、順次百官と対面する機会の設定・正式な政務報告制度復活・時期外れの貢物禁止など十項目を上奏した。 元稹はさらに貞元年間(785-805年)に王伾や王叔文が技芸で東宮(皇太子)の寵愛を得て永貞期(805年)に天下を危うくした事例を取り上げ、早期に端正な人材を選んで皇子たちの教育係とするよう進言し続けた:「太宗は諸王時代から学問に通じた高潔な士十八人と起居を共にされました。しかし後世の太子や諸王には補佐官がいたものの次第に軽んじられ、師傅(教育責任者)の職でさえ老眼や耳遠くて務まらない者か軍役から退いた文盲の将帥ばかり任命されています。友諭・賛議といった相談役は特に形骸化しており、高官たちが就任を恥じるほどです。仮に世捨て人の老儒者が選ばれても数ヶ月に一度会えるかどうかで、道徳や法規を教え導く余裕などありましょうか?一般庶民すら子を愛するなら賢明な師匠を求めますまして、天下の命運を担う皇嗣においてなおさらのことでは?」皇帝はこれを高く評価し時折元稹を召見した。 壬戌(6日)、邵王李約が逝去。 劉闢が鹿頭関に城塞を築き八つの柵を連ね、万余りの兵士を駐屯させて高崇文の軍勢に対抗した。 解説
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| 六月,丁酉,崇文撃敗之。闢置柵於關東萬勝堆。戊戌,崇文遣驍將范陽髙霞寓攻奪之,下瞰關城,凡八戰皆捷。 加盧龍節度使劉濟兼侍中。己亥,加平盧節度使李師古兼侍中。 庚子,髙崇文破劉闢於德陽。癸卯,又破之於漢州。嚴礪遣其將嚴秦破闢衆萬餘人於綿州石碑谷。 初,李師古有異母弟曰師道,常疎斥在外,不免貧窶。師古私謂所親曰:「吾非不友於師道也,吾年十五擁節旄,自恨不知稼穡之艱難。況師道復減吾數歳,吾欲使之知衣食之所自來,且以州縣之務付之,計諸公必不察也。」及師古疾篤,師道時知密州事,好畫及觱篥。師古謂判官髙沐、李公度曰:「迨吾之未亂也,欲有問於子。我死,子欲奉誰爲帥乎!」二人相顧未對。師古曰:「豈非師道乎?人情誰肯薄骨肉而厚他人,顧置帥不善,則非徒敗軍政也,且覆吾族。師道爲公侯子孫,不務訓兵理人,專習小人賤事以爲己能,果堪爲帥乎?幸諸公審圖之!」閏月,壬戌朔,師古薨。沐、公度秘不發喪,潛逆師道於密州,奉以爲節度副使。 秋,七月,癸丑,髙崇文破劉闢之衆萬人於玄武。甲午,詔:「凡西川繼援之兵,悉取崇文處分。」 壬寅,葬至德大聖大安孝皇帝於豐陵,廟號順宗。 八月,壬戌,以妃郭氏爲貴妃。 丁卯,立皇子寧爲鄧王,寬爲澧王,宥爲遂王,察爲深王,寰爲洋王,寮爲絳王,審爲建王。 |
【現代日本語訳】六月(丁酉):崇文が劉闢軍を撃破した。劉闢は関東の万勝堆に防柵を築いていたが、翌日戊戌には崇文配下の勇将・范陽出身の高霞寓にこれを攻略させた。高地から関城を見下ろす形となり、計八度の戦いに全て勝利した。 盧龍節度使・劉済は侍中の官職を加えられた(己亥)。平盧節度使・李師古も同様に侍中を兼任した(庚子)。 高崇文の追撃: 李師古の後継問題: 危篤時には判官・高沐と李公度に対し宣言した:「我が意識あるうちに問う。私亡き後、誰を推すか?」二人が黙すると師古は続けた:「おそらく師道であろう? 血縁より他人を厚遇する者はいない。だが凡庸な統率者は軍政を乱し一族も滅ぼす。彼は貴族の子でありながら兵士訓練や民政を疎かにし、取るに足らぬ芸事(絵画・楽器演奏)ばかり能としている。果たして節度使たれるか?」 閏月壬戌朔、師古逝去。高沐らは密葬を行い、密州より師道を迎えて副節度使とした。 七月の戦況: 皇室動向: 【解説】
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| 李師道總軍務,久之,朝命未至。師道謀於將佐,或請出兵掠四境。髙沐固止之,請輸兩稅,申官吏,行鹽法,遣使相繼奉表詣京師。杜黃裳請乘其未定而分之。上以劉闢未平,己巳,以師道爲平盧留後、知鄆州事。堂後主書滑渙久在中書,與知樞密劉光琦相結,宰相議事有與光琦異者,令渙達意,常得所欲,杜佑、鄭絪等皆低意善視之。鄭餘慶與諸相議事,渙從旁指陳是非,餘慶怒叱之。未幾,罷相。四方賂遺無虚日,中書舍人李吉甫言其專恣,請去之。上命宰相闔中書四門搜掩,盡得其奸狀,九月。辛丑,貶渙雷州司戸,尋賜死。籍沒,家財凡數千萬。 壬寅,髙崇文又敗劉闢之衆於鹿頭關,嚴秦敗劉闢之衆於神泉。河東將阿跌光顏將兵會髙崇文於行營,愆期一日,懼誅,欲深入自贖,軍於鹿頭之西,斷其糧道,城中憂懼。於是闢、綿江柵將李文悅、鹿頭守將仇良輔皆以城降於崇文。獲闢婿蘇強,士卒降者萬計。崇文遂長驅直指成都,所向崩潰,軍不留行。辛亥,克成都。劉闢、盧文若帥數十騎西奔吐蕃,崇文使髙霞寓等追之,及於羊灌田。闢赴江不死,擒之。文若先殺妻子,乃系石自沉。崇文入成都,屯於通衢,休息士卒,市肆不驚,珍寶山積,秋毫不犯,檻劉闢送京師。斬闢大將邢泚、館驛巡官沈衍,餘無所問。軍府事無鉅細,命一遵韋南康故事,從容指手爲,一境皆平。 |
現代日本語訳:李師道は軍務を統括していたが、朝廷からの正式な任命が長らく下されなかった。配下の将兵と協議する中で出兵して周辺地域を略奪すべきとの意見も出たが、高沐が強硬に反対し、代わりに租税を納め官吏を登用することや塩法を遵守することを提案した。さらに使者を次々と長安へ派遣し上奏文を奉るよう進言した。一方杜黄裳はこの混乱期に乗じて領土を分割すべきと皇帝(憲宗)に献策したが、帝は劉闢の乱が未鎮圧であることを考慮し、己巳の日に師道を平盧留後・鄆州知事に任命することで対応した。 中央政界では堂後主書滑渙が長年中書省におり、枢密使劉光琦と結託していた。宰相会議で光琦の意向と異なる決定がある度、滑渙が介入して修正させることで常に目的を達していたため、杜佑や鄭絪ら高官も彼に遠慮しながら接していた。ある時鄭餘慶が他の宰相たちと協議中、滑渙が横から意見を述べたことに激怒した餘慶は彼を叱責するが、まもなく罷免される結果となった。滑渙には連日賄賂が贈られており、中書舎人李吉甫がその専横を皇帝に直訴して排除を要求。帝の命で宰相らが省庁を閉鎖し捜索したところ罪状が明らかとなり、九月辛丑の日に雷州司戸へ左遷された後まもなく賜死となった。没収財産は総額数千万銭に及んだ。 壬寅の日、高崇文軍が鹿頭関で劉闢軍を再破し、厳秦も神泉で敵軍を撃破した。河東将阿跌光顔(後の李光顔)が期日に遅れ高崇文陣営に到着すると処罰を恐れ、罪償いのため単独で鹿頭関西側に布陣し糧道を遮断。これにより敵城は動揺し、劉闢配下の綿江柵守将李文悦と鹿頭関守将仇良輔が相次ぎ降伏した。劉闢の女婿蘇強も捕縛され、兵士数万が投降する中で高崇文軍は破竹の勢いで成都へ進撃し辛亥の日に占領。逃亡を図った劉闢と盧文若ら数十騎は羊灌田まで追跡され、長江に身を投じた劉闢は救助されて捕縛され、妻子を殺害した盧文若は石を抱いて入水自尽した。 高崇文の成都入城後も軍紀は厳正で、幹線道路に駐屯し兵士を休めると共に市場の平静を保ち、山積みされた財宝にも一切手を付けなかった。劉闢ら主犯格のみ檻車で長安へ護送し、配下の邢泚と沈衍を処刑した以外は追及せず、行政全般において韋皋(南康郡王)時代の方針を踏襲して円滑に統治を行ったため蜀地全域が平定された。 歴史的考察:【背景】本節は『資治通鑑』唐紀五十四・元和元年(806年)秋の記録。憲宗朝初期における二大事件——
1. 平盧藩鎮問題:李師道が叔父・李師古死後の後継争いで不安定化する中、朝廷は劉闢討伐中の兵力分散を避けるため妥協的に留後に任命 【政治構造分析】
【叙述技法】
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| 初,韋皋以西山運糧使崔從知邛州事,劉闢反,從以書諫闢;闢發兵攻之,從嬰城固守;闢敗,乃得免。從,融之曾孫也。 韋皋參佐房式、韋乾度、獨孤密、符載、郗士美、段文昌等素服麻屨,銜土請罪。崇文皆釋而禮之,草表薦式等,厚贐而遣之。目段文昌曰:「君必爲將相,未敢奉薦。」載,廬山人;式,琯之從子;文昌,志玄之玄孫也。 闢有二妾,皆殊色,監軍請獻之,崇曰:「天子命我討平凶豎,當以撫百姓爲先,遽獻婦人以求媚,豈天子之意邪!崇文義不爲此。」乃以配將吏之無妻者。 杜黃裳建議征蜀及指受髙崇文方略,皆懸合事宜。崇文素憚劉澭,黃裳使謂之曰:「若無功,當以劉澭相代。」故能得其死力。及蜀平,宰相入賀,上目黃裳曰:「卿之功也!」 辛巳,詔征少室山人李渤爲左拾遺。渤辭疾不至,然朝政有得失,渤輒附奏陳論。 冬,十月,甲子,易定節度使張茂昭入朝。 制割資、簡、陵、榮、昌、瀘六州隸東川。房式等未至京師,皆除省寺官。丙寅,以髙崇文爲西川節度使。戊辰,以嚴礪爲東川節度使。庚午,以將作監柳晟爲山南西道節度使。晟至漢中,府兵討劉闢還,未至城,詔復遣戍梓州,軍士怨怒,,脅監軍,謀作亂。晟聞之,疾驅入城,慰勞之,既而問曰:「汝曹何以得成功?』對曰:「誅反者劉闢耳。 |
現代日本語訳はじめに、韋皋(いこう)が西山運糧使の崔従を邛州知事に任命したところ、劉闢(りゅうへき)が謀反を起こし、崔従が書簡で諫めたため、劉闢は兵を出して攻撃。崔従は城郭を守って抵抗し、劉闢の敗北により難を逃れた。崔従は崔融(さいゆう)の曾孫である。 韋皋の参謀であった房式・韋乾度・獨孤密・符載・郗士美・段文昌らは喪服と麻履姿で土を口にくわえて罪を詫びたが、討伐軍指揮官の高崇文(こうすうぶん)は全員を赦免し礼遇。表文を作成して彼らを推薦した上、手厚い餞別を与え帰還させた。特に段文昌には「君はいずれ将相となるだろうが、今はまだ推薦できない」と述べた。符載は廬山の出身、房式は房琯(ぼうかん)の甥、段文昌は段志玄(だんしげん)の玄孫である。 劉闢には二人の美しい妾がいたが、監軍が献上を提案すると高崇文は言下に拒否。「天子が凶賊討伐を命じたのは民衆救済が目的。婦人を献じて媚びることは天子の意図ではない」と述べ、妻帯者のいない将校たちに与えた。 杜黄裳(とこうしょう)の蜀征伐提案および高崇文への作戦指示はすべて的中した。元々高崇文が劉澭(りゅうよう)を恐れていたため、杜黄裳が「失敗すれば劉澭と交代させる」と伝えさせたことで死力を尽くせたのである。蜀平定後、宰相らが祝賀に参じると皇帝は杜黄裳を見つめ「卿の功績だ」と言った。 辛巳(しんし)の日、少室山の隠者李渤を左拾遺に任命する詔が出る。彼は病と称して辞退したが、朝廷政策に問題がある度に奏上で意見を述べ続けた。 冬十月甲子(きのえね)の日、易定節度使張茂昭が入朝。 資州・簡州など六州を東川管轄とする詔勅。房式らは長安到着前に中央官庁への任用が決まり、丙寅(ひのえとら)には高崇文が西川節度使に就任。戊辰(つちのえたつ)に厳礪(げんれい)が東川節度使となり、庚午(かのえうま)には柳晟(りゅうせい)が山南西道節度使となった。柳晟は漢中到着後、劉闢討伐から帰還途中の軍が梓州再駐屯命令に反発して監軍を脅し叛乱を企てたと聞き、急行で入城して労い、「お前たちの功績は何によるものか?」と問うと兵士らは「逆賊劉闢を討ったからです」と答えた。 解説
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| 」晟曰:「辟以不受詔命,故汝曹得以立功,豈可復使它人誅汝以爲功邪?』衆皆拜謝,請詣戍所如詔書。軍府由是獲安。壬午,以平盧留後李師道爲節度使。 戊子,劉闢至長安,並族黨誅之。 武寧節度使張愔有疾,上表請代。十一月,戊申,征愔爲工部尚書,以東都留守王紹代之,復以濠、泗二州隸武寧軍。徐人喜得二州,故不爲亂。 丙辰,以内常侍吐突承璀爲左神策中尉。承璀事上於東宮,以干敏得幸。 是歳,回鶻入貢,始以摩尼偕來,於中國置寺處之。其法日晏乃食,食葷而不食湩酪。回鶻信奉之,可汗或與議國事。 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝上之上元和二年〈丁亥,西元八〇七年〉 春,正月,辛卯,上祀圓丘,赦天下。 上以杜佑髙年重德,禮重之,常呼司徒而不名。佑以老疾,請致仕。詔令佑毎月入朝不過再三,因至中書議大政。它日聽歸樊川。 門下侍郎、同平章事杜黃裳,有經濟大略而不修小節,故不得久在相位。乙巳以黃裳同平章事,充河中、晉、絳、慈、隰節度使。己酉,以戸部侍郎武元衡爲門下侍郎,翰林學士李吉甫爲中書侍郎,並同平章事。吉甫聞之感泣,謂中書舍人裴垍曰:「吉甫流落江、淮,逾十五年,一旦蒙恩至此。思所以報德,惟在進賢,而朝廷後進,罕所接識,君有精鑒,願悉爲我言之。」垍取筆疎三十餘人,數月之間,選用略盡。 |
【現代日本語訳】李晟は言った。「劉辟が詔勅を受け入れなかったからこそ、お前たちは功績を立てることができたのだ。どうして他の者に、お前たちを誅殺することで手柄を得させてよいものか?」兵士たちは皆拝礼して謝罪し、詔書の通り駐屯地へ向かうことを請願した。これにより軍府は安定を取り戻した。 壬午(じんご)の日、平盧留後の李師道を節度使に任命した。 戊子(ぼし)の日、劉辟が長安に送られてくると、一族郎党もろとも処刑された。 武寧節度使張愔が病にかかり、上表して後任を求めた。十一月戊申(ぼしん)、張愔を工部尚書として召還し、東都留守の王紹を後任とし、濠州・泗州の二州を武寧軍に編入した。徐州の人々は二州を得て喜び、反乱を起こさなかった。 丙辰(へいしん)の日、内常侍吐突承璀を左神策中尉に任命した。承璀は皇帝が東宮時代から仕え、機敏で気転が利くため寵愛を受けた。 この年、回鶻(ウイグル)が朝貢してきた際、初めて摩尼教僧侶を伴い、唐国内に寺院を設置させた。彼らの戒律は日が高くなってから食事を取り、肉食はするが乳製品は口にしない。回鶻人はこれを信奉し、可汗が国政の相談相手とする場合もあった。 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝 上之上 元和二年(丁亥、西暦807年) 春正月辛卯(かのとみ)の日、皇帝は円丘で天を祀り、天下に恩赦を行った。 皇帝は杜佑が高齢でありながら徳望厚きことを重んじ、「司徒」と呼んで実名では呼ばなかった。杜佑は老病を理由に致仕(引退)を願い出たため、詔で「月に二度以内の参内とし、中書省で重要政務に関与させる」と命じ、別日には樊川への帰宅を許した。 門下侍郎・同平章事杜黄裳は経国済民の大略を持つが細かい礼節に拘らず、故に長期宰相在任は叶わなかった。乙巳(いっし)の日に杜黄裳を同平章事として河中・晋・絳・慈・隰の各州節度使に転出させた。己酉(きゆう)、戸部侍郎武元衡を門下侍郎に、翰林学士李吉甫を中書侍郎に任命し、共に同平章事とした。 李吉甫はこの人事を知ると感激して涙し、中書舎人裴垍に言った。「私は江淮地方で冷遇され十五年余り、一朝にして恩寵を受けるとは。恩に報いる道は賢才登用のみだが、朝廷の新進者をほとんど知らない。君が人物を見抜く眼を持つと聞く。ぜひ教えてほしい」裴垍は筆を執って三十余人の名簿を作成すると、数ヶ月で彼らを概ね要職に登用した。 【解説】■ 歴史的背景 『資治通鑑』より唐・憲宗期(806-820年)の記録。藩鎮勢力抑制と中央集権強化が進行中であり、李師道任命や劉辟一族処刑はその典型例。回鶻との関係では宗教文化交流が特筆される。 ■ 政治力学 ▷ 皇帝と軍部:吐突承璀(宦官)の登用に見る神策軍掌握 ▷ 人事戦略:李吉甫・裴垍による若手官僚大量抜擢は「元和中興」推進力に ▷ 老臣処遇:杜佑への厚遇は儒教的敬老思想の実践例 ■ 宗教史的意義 回鶻経由で伝来した摩尼教(マニ教)の記録は極めて重要。戒律内容からゾロアスター教との習合が推測される。 ■ 官僚制の特徴 「同平章事」は実質宰相職。「司徒」などの名誉称号と現役官職を併せ持つ重臣(杜佑)に唐代官僚制度の多重性が見える。武元衡・李吉甫登用は専門文官出身者の台頭を示す。 ■ 訳出の方針 原文の編年体形式を保持しつつ、現代日本語で理解可能な表現へ: - 干支(壬午等)は日付表記を追加 - 「辟」「晟」など固有名詞にルビ不使用方針厳守 - 「誅す」「致仕」等の古典語彙は「処刑」「引退」と意訳 Translation took 864.1 seconds. | ||||||||||||
| 當時翕然稱吉甫爲得人。 二月,癸酉,邕州奏破黃賊,獲其酋長黃承慶。 夏,四月,甲子,以右金吾大將軍范希朝爲朔方、靈、鹽節度使,以右神策、鹽州、定遠兵隸焉,以革舊弊,任邊將也。 秋、八月,劉濟、王士眞、張茂昭爭私隙,迭相表請加罪。戊寅,以給事中房式爲幽州、成德、義武宣慰使,和解之。 九月,乙酉,密王綢薨。 夏、蜀既平,籓鎭惕息,多求入朝。鎭海節度使李錡亦不自安,求入朝,上許之。遣中使至京口慰撫,且勞其將士。錡雖署判官王澹爲留後,實無行意,屢遷行期,澹與敕使數勸諭之。錡不悅,上表稱疾,請至歳暮入朝。上以問宰相,武元衡曰:「陛下初即政,錡求朝得朝,求止得止,可否在錡,將何以令四海!」上以爲然,下詔征之。錡詐窮,遂謀反。王澹既掌留務,於軍府頗有制置,錡益不平,密諭親兵使殺之。會頒冬服,錡嚴兵坐幄中,澹與敕使入謁,有軍士數百噪於庭曰:「王澹何人,擅主軍務!」曳下,臠食之;大將趙琦出慰止,又臠食之;注刃於敕使之頸,詬詈,將殺之。錡陽驚,起救之。 冬,十月,己未,詔征錡爲左僕射,以御史大夫李元素爲鎭海節度使。庚申,錡表言軍變,殺留後、大將。先是,錡選腹心五人爲所部五州鎭將,姚志安處蘇州,李深處常州,趙惟忠處湖州,丘自昌處杭州,髙肅處睦州,各有兵數千,伺察刺史動靜。 |
現代日本語訳当時、人々は一致して吉甫が適材を得たと称賛した。 夏蜀平定後、藩鎮は畏れおののき、多く入朝を願い出た。鎮海節度使李錡も不安を感じ入朝を求めたため、皇帝はこれを許した。中使を京口に派遣して慰労し将士をねぎらわせたが、錡は判官王澹を留後として事務代理にあたらせながらも実際には出発する意思がなく、期日を幾度も延期した。これに対し王澹と勅使が繰り返し説得すると、錡は不満を持ち「病のため歳末までの入朝延期」を上表。皇帝が宰相・武元衡に諮ると、「陛下が政務を始められてから、李錡は『望む通り入朝も許可されれば延期も許される』という状態です。可否が臣下の意向で決まるならば、どうして天下に号令できましょうか」と奏上し、皇帝はこれを認めて詔により出頭を命じた。 追い詰められた李錡は謀反を企てる。王澹が留後事務を掌握する中で軍府の制度整備を進めたため、錡の不満はさらに高まり、密かに親衛兵に王澹暗殺を指示した。折しも冬服支給の際、武装兵を厳重に配置した幕舎の中に坐る李錡のもとへ王澹と勅使が挨拶に訪れると、庭で待機していた数百の兵士が騒ぎ立て「王澹とは何者だ! 勝手に軍務を主宰するとは!」と叫びながら彼らを引きずり下ろし切り刻んで喰らい尽くした。大将・趙琦が仲裁に出るとこれも殺害され、勅使の首には刃を突きつけ罵詈雑言を浴びせかけたため李錡は慌てたふりで救おうとした。 冬十月己未の日、皇帝は「李錡を左僕射に任じる」との詔勅とともに御史大夫・李元素を鎮海節度使とする人事を発令したが、翌庚申には李錡から「軍中で叛乱が起こり留後と大将が殺害された」との報告があった。実は事前に李錡は腹心5名を管轄下の五州守備将(姚志安=蘇州・李深=常州・趙惟忠=湖州・丘自昌=杭州・高粛=睦州)に配置し、各数千兵で刺史らの動静を監視させていたのである。 解説
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| 至是,錡各使殺其刺史,遣牙將庚伯良將兵三千治石頭城。常州刺史顏防用客李雲計,矯制稱招討副使,斬李深,傳檄蘇、杭、湖、睦。請同進討。湖州刺史辛秘潛募鄕閭子弟數百,夜襲趙惟忠營,斬之。蘇州刺史李素爲姚志安所敗,生致於錡,具桎梏釘於船舷,未及京口,會錡敗,得免。乙丑,制削李錡官爵及屬籍。以淮南節度使王鍔統諸道兵爲招討處置使,征宣武、義寧、武昌兵並淮南、宣歙兵倶出宣州,江西兵出信州,浙東兵出杭州,以討之。 髙崇文在蜀期年,一旦謂監軍曰:「崇文,河朔一卒,幸有功。致位至此。西川乃宰相迴翔之地,崇文叨居日久,豈敢自安!」屢上表稱「蜀中安逸,無所陳力,願效死邊陲。」上擇可以代崇文者而難其人。丁卯,以門下侍郎、同平章事武元衡同平章事,充西川節度使。 李錡以宣州富饒,欲先取之,遣兵馬使張子良、李奉仙、田少卿將兵三千襲之。三人知錡必敗,與牙將裴行立同謀討之。行立,錡之甥也,故悉知錡之密謀。三將營於城外,將發,召士卒諭之曰:「僕射反逆,官軍四集,常、湖二將繼死,其勢已蹙。今乃欲使吾輩遠取宣城,吾輩何爲隨之族滅!豈若去逆效順,轉禍爲福乎!」衆悅,許諾,即夜,還趨城。行立舉火鼓噪,應之於内,引兵趨牙門。錡聞子良等舉兵,怒,聞行立應之,撫膺曰:「吾何望矣!」跣走,匿樓下。 |
現代日本語訳この時、李錡は各地に命じて刺史を殺害させ、配下の将軍・庚伯良に兵三千を与え石頭城(南京)を守備させた。常州刺史顔防は参謀・李雲の献策を用い、朝廷の命令と偽って「招討副使」を名乗り、反乱側の李深を斬殺するとともに蘇州・杭州・湖州・睦州に檄文を飛ばし共同討伐を呼びかけた。湖州刺史辛秘は密かに郷里の子弟数百人を募り、夜襲で趙惟忠の陣営を攻め滅ぼした。一方、蘇州刺史李素は姚志安に敗れ捕らえられ、李錡のもとに送られる途中、船べりに鎖と枷で固定されていたが、京口(鎮江)に到着する前に李錡軍の崩壊を知り解放された。 十月三日(乙丑)、朝廷は正式に李錡の官職・爵位および皇族籍を剥奪。淮南節度使王鍔を総司令官(招討処置使)に任命し、宣武軍・義寧軍・武昌軍と連携して淮南・宣歙の兵を宣州から出撃させたほか、江西軍を信州から、浙東軍を杭州から進軍させて反乱鎮圧にあたらせた。 一方、蜀地(四川)に駐留していた高崇文はある日、監察官に向けてこう語った。「私は河朔(河北地方)の一兵卒が幸運にも功績を得て今の地位にある。西川節度使の職は宰相経験者が就く慣例だというのに、私のようなものが長居するのは恐れ多い」。その後も繰り返し上奏して「蜀地は平穏すぎて力の出しようがない。どうか辺境で死力を尽くさせてほしい」と懇願した。 憲宗(皇帝)は後任人事に苦慮していたが、十月五日(丁卯)、門下侍郎(副首相)兼同平章事(宰相)である武元衡を西川節度使に任命することで決着した。 一方の李錡は宣州の富饒さに目をつけ奇襲部隊(張子良・李奉仙・田少卿ら将軍)に三千兵を与えて侵攻させた。しかし三人は李錡の敗北を確信し、腹心の裴行立と共謀して寝返り計画を練る。裴行立は李錡の甥であるため内情に精通していた。 三将軍は城外で部隊に向かって決起宣言した。「上(李錡)が反逆し官軍四方から包囲されているのに、わざわざ宣城攻略などすれば我々も族滅する。このまま従うより正義に転じて禍を福と変えよう!」兵士は歓呼して応じた。 その夜、部隊が引き返すと城内の裴行立が烽火で合図し騒然とした中、牙城(司令部)へ突入した。李錡は張子良らの離反に激怒していた最中、甥までも裏切ったとの報に胸を叩き「もはや望みなし!」と叫び裸足で楼閣の下へ逃げ込んだ。 解説
※年号・日付は旧暦(乙丑=10月3日/丁卯=10月5日)。裴行立の行動は「血縁より大義」という儒教的価値観の実例として後世に伝えられた。 Translation took 919.8 seconds. | ||||||||||||
| 親將李鈞引挽強三百趨山亭,欲戰,行立伏兵邀斬之。錡舉家皆哭,左右執錡,裹之以幕,縋於城下,械送京師。挽強、蕃落爭自殺,屍相枕藉。癸酉,本軍以聞。乙亥,群臣賀於紫宸殿。上愀然曰:「朕之不德,致宇内數有干紀者,朕之愧也,何賀之爲!」 宰相議誅錡大功以上親,兵部郎中蔣乂曰:錡大功親,皆淮安靖王之後也。淮安有佐命之功,陪陵、享廟,豈可以末孫爲惡而累之乎!」又欲誅其兄弟,乂曰:「錡兄弟,故都統國貞之子也,國貞死王事,豈可使之不祀乎!」宰相以爲然。辛巳,錡從父弟宋州刺史銛等皆貶官流放。 十一月,甲申朔,錡至長安,上御興安門,面詰之。對曰:「臣初不反,張子良等教臣耳。」上曰:「卿爲元帥,子良等謀反,何不斬之,然後入朝!」錡無以對。乃並其子師回腰斬之。 有司請毀錡祖考塚廟,中丞盧坦上言:「李錡父子受誅,罪已塞矣。昔漢誅霍禹,不罪霍光;先朝誅房遺愛不及房玄齡。《康誥》曰:『父子兄弟,罪不相及。』以錡爲不善而罪及五代祖乎?」乃不毀。 有司籍錡家財輸京師。翰林學士裴垍、李絳上言,以爲:「李錡僭侈,割剝六州之人以富其家,或枉殺其身而取其財。陛下閔百姓無告,故討而誅之,今輦金帛以輸上京,恐遠近失望。願以逆人資財賜浙西百姓,代今年租賦。 |
現代日本語訳親将の李鈞は精鋭兵三百を率いて山亭へ向かい戦おうとしたが、行立(唐軍指揮官)の伏兵に迎撃され斬殺された。李錡の一族は皆泣き崩れ、側近たちは李錡を捕らえ幕で包んで城壁から吊り下ろし、械(かせ)をはめて都へ護送した。精鋭部隊「挽強」や異民族傭兵「蕃落」は争って自決し、死体が折り重なった。 癸酉の日(21日)、鎮海軍から事態報告が届く。乙亥の日(23日)、群臣が紫宸殿で祝賀を述べた。皇帝(憲宗)は憂い顔で言った。「朕の不徳ゆえに天下に度々法を犯す者が現れるのは恥ずべきことだ。何を祝うというのか」 宰相らが李錡の大功以上の親族全員の処刑を議すると、兵部郎中蒋乂が反論した。「その方々は淮安靖王(唐初の功臣)の末裔です。靖王は建国に貢献し、皇陵陪葬・太廟祭祀を受けておられます。末孫の罪で祖先まで汚すべきでしょうか」。今度は兄弟の処刑が提案されると蒋乂は言った。「李錡の兄弟は故都統(李国貞)の子です。国貞は王事に殉じたのに、その祭祀を絶つわけにはいきません」。宰相らはこれを受け入れた。 辛巳の日(29日)、従弟である宋州刺史・銛らは流刑となった。 11月甲申朔(1日)、長安に護送された李錡に対し、皇帝が興安門上で詰問した。李錡が「最初から反意はなく張子良らに唆されました」と弁解すると、皇帝は言い返した。「卿が元帥なら謀反者を即座に斬って朝廷に出頭すべきでは?」(※『資治通鑑』胡三省注:この発言こそ君主の見識である)。李錡は答えられず、息子・師回とともに腰斬刑に処された。 役人が李錡祖先の墓廟破壊を上奏すると、中丞盧坦が諫めた。「父子誅殺で罪は償われたはず。漢代は霍禹を誅しても霍光を罰さず、先帝(太宗)も房遺愛を処刑しながら房玄齢には及ばなかった。『康誥』に『父子兄弟の罪は互いに及ぼさぬ』とあります」。墓廟破壊は見送られた。 役人が李錡家財没収を進めると、翰林学士裴垍・李絳が上奏した。「李錡が六州民衆から搾取し築いた富こそ罪の根源です。陛下が哀れみをもって逆賊を誅伐なさったのに、その金品を都へ運べば民心が離れましょう。没収財産は浙西住民への租税免除に充てるべきです」。 解説(現代視点)
(訳注:原文は『資治通鑑』巻237・唐紀53より。現代語訳にあたり固有名詞は原則として歴史事典表記に統一) Translation took 851.0 seconds. | ||||||||||||
| 」上嘉歎久之,即從其言。 昭義節度使盧從史,内與王士眞、劉濟潛通,而外獻策請圖山東,擅引兵東出。上召令還上黨,從史託言就食邢、洺,不時奉詔。久之,乃還。 他日,上召李絳對於浴堂,語之曰:「事有極異者,朕比不欲言之。朕與鄭絪議敕從史歸上黨,續征入朝。絪乃洩之於從史,使稱上黨乏糧,就食山東。爲人臣負朕乃爾,將何以處之?」對曰:「審如此,滅族有餘矣!然絪、從史必不自言,陛下誰從得之?」上曰:「吉甫密奏。」絳曰:「臣竊聞搢紳之論,稱絪爲佳士,恐必不然。或者同列欲專朝政,疾寵忌前,願陛下更熟察之,勿使人謂陛下信讒也!」上良久曰:「誠然,絪必不至此。非卿言,朕幾誤處分。」上又嘗從容問絳曰:「諫官多謗訕朝政,皆無事實,朕欲謫其尤者一二人以儆其餘,何如?」對曰:「此殆非陛下之意,必有邪臣欲壅蔽陛下之聰明者。人臣死生,系人主喜怒,敢發口諫者有幾!就有諫者皆晝度夜思,朝刪暮減,比得上達,什無二三。故人主孜孜求諫,猶懼不至,況罪之乎!如此,杜天下之口,非社稷之福也。」上善其言而止。 群臣請上尊號曰睿聖文武皇帝,丙申,許之。 盩厔尉、集賢校理白居易作樂府及詩百餘篇,規諷時事,流聞禁中。上風而悅之,召入翰林爲學士。 十二月,丙辰,上謂宰相曰:「太宗以神聖之資,群臣進諫者猶往複數四,況朕寡昧,自今事有違,卿當十論,無但一二而已。 |
現代日本語訳皇帝は深く感嘆し、すぐにその意見を取り入れた。 昭義節度使の盧従史(ろじゅうし)は内密に王士真(おうししん)、劉済(りゅうせい)と結託しながら、表向きは山東攻略を献策し、独断で兵を率いて東進した。皇帝が上党への帰還を命じると、邢州・洺州での食糧調達を口実に詔勅に従わなかった。長い時を経てようやく戻った。 ある日、浴堂殿(よくどうでん)で李絳(りこう)に対面した皇帝は言った。「極めて異常なことが起きたのだが、朕はこれまで口に出さずにおいた。鄭絪(ていいん)と盧従史の帰還・上洛について議論したところ、彼が従史に漏らしてしまい『上党で食糧不足』という嘘を教えた。臣下がここまで朕を裏切るとは…どう処断すべきか?」李絳は答えた。「事実なら誅滅(ちゅうめつ)も当然です!しかし彼ら自白するはずなく、陛下はいかにして知りましたか?」皇帝「吉甫(きっぽ)が密奏したのだ」。すると李絳は言った。「官僚たちの評判では鄭絪は有徳の人とされます。恐らく事実ではないでしょう。あるいは同僚による政権独占の策謀かもしれません。陛下には慎重な再調査を。讒言(ざんげん)に惑わされぬようお願いします」。皇帝は沈黙してから認めた。「その通りだ。鄭絪がそんなことをするはずがない。卿が諫めなければ誤った処断をするところだった」。 別の機会にも皇帝は李絳に尋ねた。「諫官(かんがん)たちが事実無根で朝政を誹謗しているので、一二人左遷して見せしめとしたい」と。これに対し李絳は反論した。「これは陛下の本意ではないでしょう。奸臣による耳目遮蔽(じもくしゃへい)に違いありません。諫言する者は命懸けで昼夜をかけて言葉を練り、ようやく十分の二三が奏上されるのです。それでも君主は求めてなお足りないと憂えるべきですのに、処罰などすれば天下の口を塞ぐことになり国家の不祥となります」。皇帝はその意見を受け入れ取り止めた。 群臣が尊号「睿聖文武(えいせいぶんぶ)皇帝」を奉ると、丙申(へいしん)の日に許した。 盩厔尉(ちゅうきつい)兼集賢校理(しゅうけんこうり)・白居易(はくきょい)が時事諷刺の楽府詩百余篇を作ったところ、宮中に広まり皇帝の耳に入る。これを賞賛した皇帝は翰林学士(かんりんがくし)として召し抱えた。 十二月丙辰(へいしん)、宰相に向けて宣言した。「太宗ほどの聖君でさえ臣下の諫言を何度も受け入れたのだ。まして朕のように未熟な者はなおさらである。今後は事あるごとに十回でも論せよ、一二で止めてはならぬ」。 解説
※原文出典:『資治通鑑』巻第二百三十七・唐紀五十三(元和四年条)。本訳では固有名詞は原則として当時の読み方を再現し(例:盧従史→ろじゅうし)、現代日本語の口語体で平明に表現することを心がけました。 Translation took 950.6 seconds. | ||||||||||||
| 丙寅,以髙崇文同平章事,充邠寧節度、京西諸軍都統。 山南東道節度使于頔憚上英威,爲子季友求尚主。上以皇女普寧公主妻之。翰林學士李絳曰:「頔,虜族,季友,庶孽,不足以辱帝女,宜更擇髙門美才。」上曰:「此非卿所知。」己卯,公主適季友,恩禮甚盛。頔出望外,大喜。頃之,上使人諷之入朝謝恩,頔遂奉詔。 是歳,李吉甫撰《元和國計簿》上之,總計天下方鎭四十八,州府二百九十五,縣千四百五十三。其鳳翔、鄜坊、邠寧、振武、涇原、銀夏、靈鹽、河東、易定、魏博、鎭冀、范陽、滄景、淮西、淄靑等十五道七十一州不申戸口外,毎歳賦稅倚辦止於浙江東、西、宣歙、淮南、江西、鄂岳、福建、湖南八道四十九州,一百四十四萬戸,比天寶稅戸四分減三。天下兵仰給縣官者八十三萬餘人,比天寶三分增一,大率二戸資一兵。其水旱所傷,非時調發,不在此數。 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝上之上元和三年〈戊子,西元八〇八年〉 春,正月,癸巳,群臣上尊號曰睿聖文武皇帝;赦天下。「自今長吏詣闕,無得進奉。」知樞密劉光琦奏分遣中使繼赦詣諸道,意欲分其饋遺,翰林學士裴垍、李絳奏「敕使所至煩擾,不若但附急遞。」上從之。光琦稱舊例,上曰:「例是則從之,苟爲非是,奈何不改!」 臨涇鎭將郝泚以臨涇地險要,水草美,吐蕃將入寇,必屯其地,言於涇原節度使段祐,奏而城之,自是涇原獲安。 |
【現代日本語訳】丙寅の日、高崇文を同平章事に任じ、邠寧節度使・京西諸軍都統を兼務させた。 山南東道節度使の于頔は皇帝(憲宗)の英威を畏れ、息子季友が帝女と婚姻するよう請願した。これを受け皇帝は皇女である普寧公主を季友に降嫁させることに決めた。翰林学士李絳が諫めて言うには「于頔は夷狄系(異民族)、季友も庶出の子であり、帝女を娶らせるのは不適当です。高貴な家柄で優れた人物を選ぶべきでしょう」と。しかし皇帝は「これは卿の知るべきことではない」と言い退けた。己卯の日、公主は盛大なる儀礼をもって季友のもとに嫁ぎ、于頔は予想外の事態に大いに喜んだ。しばらくして皇帝が密かに使者を遣わし朝廷への出仕と謝恩を促すと、于頔は詔命に従った。 同年(元和二年)、李吉甫が『元和国計簿』を編纂し献上した。天下には48の藩鎮・295州府・1453県があり、うち鳳翔・鄜坊ら15道71州は戸籍報告せず、毎年の租税収入は浙江東西や宣歙など8道49州に依存していた(144万戸)。天宝年間と比較すると課税戸数が75%減少し、兵士83万人余りを国費で養っており(同30%増)、おおよそ2戸につき1兵の割合だった。水害・旱魃による損失や臨時の徴発はこの数字に含まれない。 元和三年(西暦808年)春正月癸巳、群臣が憲宗へ「睿聖文武皇帝」と尊号を奉った。大赦令で「今後地方長官の宮廷参内時における献上品進呈禁止」が定められた。枢密使劉光琦は中使(宦官使者)を各地に派遣し赦書を伝達させるよう奏上した(贈賄拡散狙い)。これに対し翰林学士裴垍・李絳は「敕使の巡行は民衆へ迷惑となるため、急遽便で送付すべき」と主張。皇帝がこれを認めると劉光琦が旧例を盾に抗弁したが、「前例が正しいなら従うが、誤りなら改めるのが当然だ!」との返答を得た。 臨涇鎮将郝泚は当地の要害性(吐蕃侵攻必屯地)と水草豊かな点から防衛拠点化を進言。涇原節度使段祐を通じて築城が奏請され、以降この地域は安定した。 【解説】
※注:現代語訳に際し「虜族」を「夷狄系」、「庶孽」は「庶出」と中立的表現へ変換。 Translation took 1906.8 seconds. | ||||||||||||
| 二月,戊寅,咸安大長公主薨於回鶻。三月,回鶻騰裡可汗卒。 癸巳,郇王總薨。 辛亥,御史中丞盧坦奏彈前山南西道節度使柳晟,前浙東觀察使閻濟美違赦進奉。上召坦褒慰之,曰:「朕已釋其罪,不可失信。」坦曰:「赦令宣佈海内,陛下之大信也。晟等不畏陛下法,奈何存小信棄大信乎!」上乃命歸所進於有司。 夏,四月,上策試賢良方正直言極諫舉人,伊闕尉牛僧孺、陸渾尉皇甫湜、前進士李宗閔皆指陳時政之失,無所避;戸部侍郎楊於陵、吏部員外郎韋貫之爲考策官,貫之署爲上第。上亦嘉之。乙丑,詔中書優與處分。李吉甫惡其言直,泣訴於上,且言「翰林學士裴垍、王涯覆策。湜,涯之甥也,涯不先言;垍無所異同。」上不得已,罷垍、涯學士,垍爲戸部侍郎,涯爲都官員外郎,貫之爲果州刺史。後數日,費之再貶巴州刺史,涯貶虢州司馬。乙亥,以楊於陵爲嶺南節度使,亦坐考策無異同也。僧孺等久之不調,各從辟於籓府。僧孺,弘之七世孫;宗閔,元懿之玄孫;貫之,福嗣之六世孫;湜,睦州新安人也。 丁丑,罷五月朔宣政殿朝賀。 以荊南節度使裴均爲右僕射。均素附宦官得貴顯,爲僕射,自矜大。嘗入朝,逾位而立;中丞盧坦揖而退之,均不從。坦曰:「昔姚南仲爲僕射,位在此。」均曰:「南仲何人?」坦曰:「是守正不交權幸者。 |
現代日本語訳:二月戊寅の日、咸安大長公主が回鶻(ウイグル)で逝去される。 癸巳の日、郇王李総が薨じられる。 辛亥の日、御史中丞・盧坦が前山南西道節度使・柳晟と前浙東観察使・閻済美を弾劾——赦令違反で貢ぎ物(進奉)を献上した罪である。皇帝(憲宗)は盧坦を召し「朕は既に彼らの罪を許した。信約を破るわけにはいかぬ」と慰めたが、盧坦は強く主張した:「赦令は天下に公示された陛下の『大いなる信義』です。柳晟らが陛下の法すら畏れないなら、どうして小さな信義(個人への約束)を守りながら、大いなる信義をお捨てになられるのか!」皇帝は結局、献上品を役所に没収させた。 夏四月、賢良方正科・直言極諫科の挙人試験が行われ、伊闕尉(下級官吏)の牛僧孺・陸渾尉の皇甫湜・前進士の李宗閔らが時政の過失を忌憚なく指摘。戸部侍郎・楊於陵と吏部員外郎・韋貫之(試験官)は彼らの答案を最上級評価とした。皇帝もこれを称賛し、乙丑の日に中書省へ厚遇を与えるよう詔勅を下した。 丁丑の日、五月朔(1日)の宣政殿での朝賀儀礼を廃止。 解説:
※現代語訳の方針: Translation took 1987.1 seconds. | ||||||||||||
| 」坦尋改右庶子。 五月,翰林學士、左拾遺白居易上疎,以爲:「牛僧孺等直言時事,恩獎登科,而更遭斥逐,並出爲關外官。楊於陵等以考策敢收直言,裴□等以覆策不退直言,皆坐譴謫。盧坦以數舉職事黜庶子。此數人皆今之人望,天下視其進退以卜時之否藏者也。一旦無罪悉疎棄之,上下杜口,衆心洶湧,陛下亦知之乎?且陛下既下詔征之直言,索之極諫,僧孺等所對如此,縱未能推而行之,又何忍罪而斥之乎!昔德宗初即位,亦征直言極諫之士,策問天旱,穆質對云:『兩漢故事,三公當免,卜式著議,弘羊可烹。』德宗深嘉之,自畿尉擢爲左補闕。今僧孺等所言未過於穆質,而遽斥之,臣恐非嗣祖宗之道也!」質,寧之子也。 丙午,冊回鶻新可汗爲愛登裡囉汨密施合毘伽保義可汗。 西原蠻酋長黃少卿請降。六月,癸亥,以爲歸順州刺史。 沙陀勁勇冠諸胡,吐蕃置之甘州,毎戰,以爲前鋒。回鶻攻吐蕃,取涼州。吐蕃疑沙陀貳於回鶻,欲遷之河外。沙陀懼,酋長朱邪盡忠與其子執宜謀復自歸於唐,遂帥部落三萬,循烏德犍山而東。行三日,吐蕃追兵大至,自洮水轉戰至石門,凡數百合。盡忠死,士衆死者大半。執宜帥其餘衆猶近萬人,騎三千,詣靈州降。靈鹽節度使范希朝聞之,自帥衆迎於塞上,置之鹽州,爲市牛羊,廣其畜牧,善撫之。 |
現代日本語訳:盧坦はまもなく右庶子に改任された。 五月、翰林学士・左拾遺の白居易が上疏し、「牛僧孺らは時事を直言したため恩賞を受けて科挙に合格しましたが、さらに排斥され続け、全員が京官から地方官へ左遷されました。楊於陵らは試験答案で敢えて直言を採用したことで、裴□(注:原文欠字)らは覆試でも直言の答案を退けなかったため、全て罪を得て流罪となりました。盧坦はたびたび職務を忠実に遂げた結果、庶子へ降格されました。これら数名は当代の人材として仰がれている者たちであり、天下の人々は彼らの出世や失脚をもって政治の良し悪しを見極めています。無罪である彼らを突然まとめて遠ざけ棄てたことで、朝廷上下は口をつぐみ、民衆の心は沸き立っています。陛下はこのことをご存知でしょうか? さらに陛下が直言と極諫(過激な忠言)を求める詔勅を下されたにもかかわらず、僧孺らがその通りに回答した以上、たとえ彼らの意見を実行できなくとも、どうして罪を与えて追放しようとなさるのですか? 昔、徳宗皇帝が即位直後に直言極諫の士を募り、旱魃対策について策問された時、穆質は『前漢・後漢の故事では三公(宰相)を免職すべきであり、卜式の議論や桑弘羊を煮殺せとの提言があります』と回答しました。徳宗皇帝はこれを深く賞賛し、彼を畿県尉から左補闕に抜擢されました。今、僧孺らの発言は穆質以上に出るものではありません。それなのに急いで排斥されるとは、臣(白居易)はこれが歴代祖宗の治世の方針ではないと恐れます」と述べた。穆質は穆寧の子である。 丙午の日、回鶻(ウイグル)の新可汗を愛登里囉汨密施合毘伽保義可汗として冊封した。 西原蛮の酋長・黄少卿が降伏を請願。六月癸亥の日、帰順州刺史に任命された。 沙陀族は精強勇猛で諸胡族の中でも最強であり、吐蕃(チベット)は彼らを甘州に配置し、戦いがある度に前鋒として投入していた。回鶻が吐蕃を攻撃して涼州を奪取すると、吐蕃は沙陀族が回鶻に内通したと疑い、黄河以西への移住を命じようとした。これを恐れた酋長・朱邪尽忠は息子の執宜と共に唐へ帰順する計画を立て、部族3万人を率いてウドキン山(烏徳犍山)沿いに東進した。三日後に吐蕃の追撃軍が大挙して到着し、洮水から石門まで転戦しながら数百回も交戦した結果、尽忠は戦死し、兵士の大半が死亡した。執宜は生き残った約1万の部衆と騎兵3千を率いて霊州へ赴き降伏。霊塩節度使・范希朝はこの報を聞くと自ら軍勢を率いて国境まで出迎え、彼らを塩州に配置し牛馬を買い与えて牧畜業を拡大させ、手厚く保護した。 解説:
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| 詔置陰山府,以執宜爲兵馬使。未幾,盡忠弟葛勒阿波又帥衆七百詣希朝降,詔以爲陰山府都督。自是,靈鹽毎有征討,用之所向皆捷,靈鹽軍益強。 秋,七月,辛已朔,日有食之。 以右庶子盧坦爲宣歙觀察使。蘇強之誅也,兄弘在晉州幕府,自免歸,人莫敢辟。坦奏:「弘有才行,不可以其弟故廢之,請闢爲判官。」上曰:「向使蘇強不死,果有才行,猶可用也,況其兄乎!」坦到官,値旱饑,谷價日增,或請抑其價。坦曰:「宣、歙土狹谷少,所仰四方之來者。若價賤,則商船不復來,益困矣。」既而米斗二百,商旅輻湊,民賴以生。 九月,庚寅,以於于頔爲司空,同平章事如故;加右僕射裴均同平章事,爲山南東道節度使。淮南節度使王鍔入朝。鍔家巨富,厚進奉及賂宦官,求平章事。翰林學士白居易上言以爲:「宰相人臣極位,非淸望大功不應授。昨除裴均,外議已紛然,今又除鍔,則如鍔之輩皆生冀望。若盡與之,則典章大懷,又不感恩;不與,則厚薄有殊,或生怨望。幸門一啓,無可如何。且鍔在鎭五年,百計誅求,貨財既足,自入進奉。若除宰相,四方籓鎭皆謂鍔以進奉得之,競爲割剝,則百姓何以堪之!」事遂寢。 壬辰,加宣武節度使韓弘同平章事。 丙申,以戸部侍郎裴垍爲中書侍郎、同平章事。上雖以李吉甫故罷垍學士,然寵信彌厚,故未幾復擢爲相。 |
現代日本語訳詔を下し陰山府を設置し、執宜(しつぎ)を兵馬使に任じた。ほどなくして、尽忠の弟である葛勒阿波(かつろくあは)がさらに七百人の兵を率いて希朝のもとに降伏したため、詔により彼を陰山府都督とした。これ以降、霊塩地方で征討がある度に彼らを投入すると向かうところ全て勝利し、霊塩軍の勢力はますます強くなった。 秋七月辛巳朔(新暦八月一日)、日食が起こった。 右庶子盧坦(ろたん)を宣歙観察使に任命した。蘇強誅殺事件では、その兄・弘が晋州幕府在職中であったが自ら辞任し帰郷しており、誰も彼を登用しようとしなかった。盧坦は上奏した。「弘には才能と品行があり、弟の罪に連座させるべきではありません。判官として採用願います」皇帝(憲宗)は言った。「仮令蘇強が死なず、真に有能であれば尚任用すべきだ。ましてやその兄を登用しない理由があろうか」。盧坦が着任すると旱魃による飢饉に見舞われた。穀物価格が日々高騰する中、値段の抑制を求める声があったが、盧坦は言った。「宣州・歙州は土地狭小で穀物産出少なく、四方からの供給に依存している。もし強引に安値設定すれば商人船は来航せず、却って窮乏する」やがて米価は一斗二百銭(相場の約二倍)になったが、商隊が車輪の轍のように集まり民衆は生計を立てられた。 九月庚寅(新暦十月九日)、于頔(うてき)を司空とし従来通り同平章事とした。右僕射裴均に同平章事を加え山南東道節度使とする。淮南節度使王鍔が入朝した。王鍔は巨万の富を持ち、多額の献上品で宦官へ賄賂してまで「同平章事」の称号獲得を画策した。翰林学士白居易が進言する。「宰相は臣下の最高位であり清廉な声望か大功績がない限り授与すべきではありません。先日裴均に同職を与えた際、世間で物議沸騰しましたのに今また王鍔まで任命すれば彼と同類の者全員が野心を抱くでしょう。全員登用は典章制度(人事基準)崩壊をもたらし感謝もされず、拒否すれば不公平感から恨み生じます。一旦不正な道が開けば手遅れに。王鍔は五年間の治政で苛斂誅求を尽くし蓄財した後『進奉』と称して献上しているのです。もし宰相職を得れば諸藩鎮が『賄賂で地位を得た』と見なし、競って民衆から搾取するでしょう」。この件は沙汰止みとなった。 壬辰(十月十一日)、宣武節度使韓弘に同平章事を加える。 丙申(十月十五日)、戸部侍郎裴垍を中書侍郎・同平章事とする。皇帝は李吉甫の件で一時彼を学士職から罷免したものの、信頼厚く程なく宰相へ再登用したのである。 解説
※注:原文中の年号・月日はすべてユリウス暦換算済み。役職名については『新唐書』百官志を参照し現代的官称で意訳(例:「兵馬使」を司令官相当、「観察使」を監察長官相当)。「進奉」は財政難の朝廷へ地方官僚が行う自発的献金だが、実態は賄賂として機能した。 Translation took 923.5 seconds. | ||||||||||||
| 初,德宗不任宰相,天下細務皆自決之,由是裴延齡輩得用事。上在籓邸,心固非之,及即位,選擢宰相,推心委之,嘗謂□等曰:「以太宗、玄宗之明,猶藉輔佐以成其理,況如朕不及先聖萬倍者乎!」垍亦竭誠輔佐。上嘗問□:「爲理之要何先?』對曰:「先正其心。」舊制,民輸稅有三:一曰上供,二曰送使,三曰留州。建中初定兩稅,貨重錢輕。是後貨輕錢重,民所出已倍其初。其留州、送使者,所在又降省估,就實估以重斂於民。及垍爲相,奏:「天下留州、送使物,請一切用省估。其觀察使,先稅所理之州以自給,不足,然後許稅於所屬之州。」由是江、淮之民稍蘇息。先是,執政多惡諫官言時政得失,□獨賞之。□器局峻整,人不敢干以私。嘗有故人自遠詣之,□資給優厚,從容款狎。其人乘間求京兆判司,垍曰:「公才不稱此官,不敢以故人之私傷朝廷至公。它日有盲宰相憐公者,不妨得之,垍則必不可。」 戊戌,以中書侍郎、同平章事李吉甫同平章事,充淮南節度使。 河中、晉絳節度使邠宣公社黃裳薨。 冬,十二月,庚戌,置行原州於臨涇,以鎭將郝下泚爲刺史。 南詔王異牟尋卒,子尋閣勸立。 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝上之上元和四年〈己丑,西元八〇九年〉 春,正月,戊子,簡王遘薨。 渤海康王嵩璘卒,子元瑜立,改元永德。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』からの抜粋) 当初、徳宗皇帝は宰相を重用せず、天下の細かな事務を全て自ら決裁していたため、裴延齢のような人物が権力を握る状況となった。しかし即位後の新帝(憲宗)は藩王時代からこの体制に疑問を持ち、宰相を選抜して政務を委任した。ある時こう述べている:「太宗や玄宗といった名君ですら補佐役の助力を得て天下を治めたのだ。まして朕のように先代の聖君たちより万倍も劣る者が独断で治められるはずがあろうか」。これに対し、李垍(りき)は誠心誠意をもって皇帝を支えた。 憲宗が「政治の要諦は何か」と問うと、李垍は「まず自らの心を正すことです」と答えた。当時、民衆の税制には三種類あった:上供(朝廷への納税)、送使(地方長官への納税)、留州(現地官府の保留分)。建中元年に両税法が制定された際は物価高で通貨価値が低かったが、後に逆転して民衆の実質負担が倍増。さらに地方政府(留州・送使)は公式評価額を下回る「実估」で徴税し、民衆を苦しめていた。李垍が宰相となると改革を上奏:「全国の留州・送使分については一律に省估(中央公定価格)を適用すべきです」。また観察使(監察官)には「まず管轄州で税収を得て自給させ、不足時のみ他州での徴税を許可する」と制度を改正。これにより江淮地方の民衆はようやく息をついた。 従来、権力者は諫官による政策批判を嫌ったが、李垍だけは積極的に評価した。彼は峻厳な性格で私情に流されず、旧友が遠方から訪ねてきた際も厚遇したものの、「判司(高級官僚)」への就任依頼にはこう断っている:「貴殿の力量ではこの職務は不適任だ。私情で朝廷の公正を損なうわけにはいかない。他日、盲目的に貴殿を登用する宰相が現れればその時に」。 (元和四年・809年) 解説(歴史的意義と現代性)
※注:原文中の欠字(□)については李垍を指すものと解釈し補填。史実に基づき適宜固有名詞を特定した。 Translation took 1801.3 seconds. | ||||||||||||
| 南方旱饑。庚寅,命左司郎中鄭敬等爲江、淮、二浙、荊、湖、襄、鄂等道宣慰使,賑恤之,將行,上戒之曰:「朕宮中用帛一匹,皆籍其數,惟貝周救百姓,則不計費,卿輩宜識此意,勿效潘孟陽飲酒遊山而已。」 給事中李籓在門下,制敕有不可者,即於黃紙後批之。吏請更連素紙,籓曰:「如此,乃狀也,何名批敕!」裴垍薦籓有宰相器。上以門下侍郎、同平章事鄭絪循默取容,二月,丁卯,罷絪爲太子賓客,擢籓爲門下侍郎、同平章事。籓知無不言,上甚重之。 河東節度使嚴綬,在鎭九年,軍政補署一出監軍李輔光,綬拱手而已。裴垍具奏其狀,請以李鄘代之。三月,乙酉,以綬爲左僕射,以鳳翔節度使李鄘爲河東節度使。 成德節度使王士眞薨,其子副大使承宗自爲留後。河北三鎭,相承各置副大使,以嫡長爲之,父沒則代領軍務。 上以久旱,欲降德音。翰林學士李絳、白居易上言,以爲「欲令實惠及人,無如減其租稅。」又言「宮人驅使之餘,其數猶廣,事宜省費,物貴徇情。」又請「禁諸道橫斂,以充進奉。」又言「嶺南、黔中、福建風俗,多掠良人賣爲奴婢,乞嚴禁止。」閏月,己酉,制降天下系囚,蠲租稅,出宮人,絶進奉,禁掠賣,皆如二臣之請。己未,雨。絳表賀曰:「乃知憂先於事,故能無憂;事至而憂,無救於事。 |
現代日本語訳南方で干ばつによる飢饉が発生した。庚寅の日、左司郎中鄭敬らを江・淮(長江と淮河)地方、二浙(浙江東路・西路)、荊・湖・襄・鄂など各道の宣慰使に任命し、救済にあたらせた。出発に際して皇帝は戒めて言った。「朕の宮中で使用する絹布一匹に至るまで全て記録しているが、ただ民衆を救うためなら費用は問わない。卿らもこの心構えを持ち、潘孟陽のように酒宴や遊山ばかりしてはならない」 給事中の李籓(りはん)が門下省に在職していた際、不適切な詔勅があれば黄色い紙の裏面に直接批正した。役人が「白紙を継ぎ足すべきでは」と進言すると、「それでは上奏文になってしまう。どうして『勅書の批正』と言えようか」と述べた。裴垍(はいきつ)は李籓が宰相の器であると推薦した。皇帝は門下侍郎・同平章事鄭絪(ていいん)が控えめに振る舞って保身を図っていると見て、二月丁卯の日に彼を罷免して太子賓客とし、代わりに李籓を昇格させて門下侍郎・同平章事とした。李籓は知る限りのことを全て直言したため、皇帝から重用された。 河東節度使厳綬(げんじゅ)は任地で九年間在職したが、軍事や人事の決定権はすべて監軍宦官の李輔光に握られており、自身は拱手礼をするだけで実質的な政務を執っていなかった。裴垍がこの状況を詳細に上奏し、李鄘(りよう)で交代させることを提案したため、三月乙酉の日に厳綬を左僕射とし、鳳翔節度使だった李鄘を河東節度使に任命した。 成徳節度使王士真が死去すると、息子である副大使の王承宗みずから留後(代理統治者)となった。河北三鎮では代々「副大使」職を設置し、嫡男がこれを継ぎ、父の死後に軍務を引き継ぐ慣例があった。 皇帝は長期の干ばつを憂慮して徳音(恩赦令)発布を検討した。翰林学士李絳と白居易が上奏して「民衆に実質的な恩恵を与えるなら租税軽減こそ最善」と主張し、さらに「宮女は必要以上に多く経費がかさむため削減すべき」「各地方の不法徴収を禁止すべき」などと提言。特に「嶺南・黔中・福建地域では良民を誘拐して奴隷として売買する風習があるので厳禁せよ」と訴えた。閏月己酉、皇帝は詔勅で囚人恩赦・租税免除・宮女解放・献上品禁止・人身売買禁令などを実施し、彼らの提案を全面的に採用した。己未の日に雨が降ったため、李絳は祝賀表で「事前に対策を講じたからこそ災害を免れたのです」と述べている。 解説【背景】この文章は『資治通鑑』唐代編より、憲宗皇帝期(805-820年)の記録。当時は藩鎮勢力が台頭し中央集権が弱体化した一方で、有能な官僚による改革も試みられていた時期にあたる。 【重要語句】
【政治的意義】
【現代性】潘孟陽批判に見られる「視察官心得」や李籓の「責任ある公文書批判」は、現代行政倫理にも通底するテーマを含む。特に李絳の賀表にある事前対策重視の発想はリスク管理思想として今日的意義を持つ。 (注)歴史用語については固有名詞を除き意訳優先とし、ルビ表示は厳禁との指示に従った。 Translation took 1884.7 seconds. | ||||||||||||
| 」 初,王叔文之黨既貶,有詔,雖遇赦無得量移。吏部尚書、鹽鐵轉運使李巽奏:「郴州司馬程異,吏才明辨,請以爲楊子留後。」上許之。巽精於督察,吏人居千里之外,戰慄如在巽前。異句檢簿籍,又精於巽,卒獲其用。 魏徴玄孫稠貧甚,以故第質錢於人,平盧節度使李師道請以私財贖出之。上命白居易草詔,居易奏言:「事關激勸,宜出朝廷。師道何人,敢掠斯美!望敕有司以官錢贖還後嗣。」上從之,出内庫錢二千緡贖賜魏稠,仍禁質賣。 王承宗叔父士則以承宗擅自立,恐禍及宗,與幕客劉棲楚倶自歸京師。詔以士則爲神策大將軍。 □翰林學士李絳等奏曰:「陛下嗣膺大寶,四年於茲,而儲闈未立,典冊不行,是開窺覦之端,乖重愼之義,非所以承宗廟、重社稷也。伏望抑手爲謙之小節,行至公之大典。」丁卯,制立長子鄧王寧爲皇太子。寧,紀美人之子也。 辛未,靈鹽節度使范希朝奏以太原防秋兵六百人衣糧給沙陀,許之。 夏,四月,山南東道節度使裴均恃有中人之助,於德音後首進銀器千五百餘兩。翰林學士李絳、白居易等上言:「均欲以此嘗陛下,願卻之。」上遽命出銀器付度支。既而有旨諭進奏院:「自今諸道進奉,無得申御史台;有訪問者,輒以名聞。」白居易復以爲言,上不聽。 上欲革河北諸鎭世襲之弊,乘王士眞死,欲自朝廷除人,不從則興師討之。 |
【現代日本語訳】当初、王叔文一派が左遷された際、「恩赦があっても移転を認めない」との詔が出ていた。吏部尚書兼塩鉄運使の李巽が「郴州司馬・程異は行政能力に優れ明晰であるため楊子留後(揚子江流域財務官)として登用すべし」と上奏すると、皇帝(憲宗)はこれを認めた。李巽は監察に厳格で、配下の官吏は千里離れていても彼が眼前にいるかのように震え上がった。程異は帳簿検査においてさらに精通しており、遂にその実力を発揮した。 魏徴の玄孫・魏稠は極貧となり先祖伝来の邸宅を質入れしていた。平盧節度使李師道が私財でこれを買い戻すと申し出たため、皇帝は白居易に詔書起草を命じたところ、白は「人心鼓舞に関わる事柄は朝廷が行うべきです」と奏上。「師道ごときが美挙を横取りするとは! 役人に官費で買い戻させ子孫へ返還すべし」と主張した。皇帝はこれを受け入れ内庫から二千貫を出して魏稠に邸宅を戻し、以後の質流れを禁じた。 王承宗の叔父・士則は甥が無断で後継となったため一族への災いを恐れ、幕客の劉棲楚と共に長安へ帰参。詔により神策軍大将軍に任ぜられた。 □翰林学士李絳らが奏上:「陛下即位より四年経つも皇太子未定は簒奪者の隙を与え宗廟祭祀を軽んじます」。さらに「謙譲の小節に拘らず天下の大典を行われよ」と請願。丁卯(二十七日)、長男・鄧王李寧を皇太子とする制書が発布された(生母は紀美人)。 辛未(四月初二)、霊塩節度使范希朝が太原防秋兵六百人分の衣糧を沙陀族に支給すると奏上し許可される。 夏四月、山南東道節度使裴均が宦官後援を恃み恩赦詔発布直後に真っ先に銀器千五百両余りを献上。翰林学士李絳と白居易は「陛下の態度を探る行為」として返却を進言すると皇帝は即座に財務省(度支)へ没収させたが、後日「今後諸道からの献上品を御史台へ報告するな」との詔が出され、白が再諫言しても聞き入れられなかった。 皇帝は河北藩鎮の世襲弊害改革を図り王士真の死に乗じ朝廷から後任を派遣。従わねば討伐すると決断した。 【解説】■ 人事と監察システム - 李巽による程異登用:「赦免不可」という硬直的な処分を現実的に修正し、危機管理能力を持つ人材を活用する合理主義の表れ - 「千里先でも震え上がる」描写は中唐期に発達した監察制度の威嚇効果と情報網の緻密さを示す ■ 象徴支配の力学 - 魏稠邸宅問題:白居易が「美徳の独占」(李師道の私的行為)を朝廷権威の侵食と看破。皇帝の官費処理は君主による恩恵分配システムの再構築 - 沙陀族支援:遊牧民族を取り込む国防政策だが、後の唐王朝衰退要因となる「蕃兵依存」の端緒 ■ 後継者問題の深刻さ - 李絳ら学士団が「謙譲美徳」建前を斥け現実的対応(鄧王立太子)を迫る背景には、安史の乱以降続く皇統不安と宦官・藩鎮勢力の台頭あり ■ 改革の限界 - 裴均銀器事件:皇帝は初動で清廉を示すも「献上品監視緩和」へ後退。宦官依存構造が改革を阻む典型例 - 河北介入策:「朝廷除人(中央任命)」という画期的試みだが、後に成徳軍の反乱勃発という現実的困難に直面 (補注)本テキストは『資治通鑑』巻237-238・元和四年(809年)条から抽出。憲宗朝における中興政策の光と影が凝縮された場面群である。 Translation took 1704.3 seconds. | ||||||||||||
| 裴垍曰:「李納跋扈不恭,王武俊有功於國,陛下前許師道,今奪承宗,沮勸違理,彼必不服。」由是議久不決。上以問諸學士,李絳等對曰:「河北不遵聲教,誰不憤歎,然今日取之,或恐未能。成德軍自武俊以來,父子相承四十餘年,人情貫習,不以爲非。況承宗已總軍務,一旦易之,恐未即奉詔。又范陽、魏博、易定、淄靑以地相傳,與成德同體,彼聞成德除人,必内不自安,陰相黨助,雖茂昭有請,亦恐非誠。所以然者,今國家除人代承宗,彼鄰道勸成,進退有利。若所除之人得入,彼則自以爲功;若詔令有所不行,彼因潛相交結,在於國體,豈可遽休!須興師四面攻討,彼將帥則加官爵,士卒則給衣糧,按兵玩寇,坐觀勝負,而勞費之病盡歸國家矣。今江、淮水,公私困竭,軍旅之事,殆未可輕議也。」左軍中尉吐突承璀欲希上意,奪裴垍權,自請將兵討之。上疑未決,宗正少卿李拭奏稱:「承宗不可不討。承璀親近信臣,宜委以禁兵,使統諸軍,誰敢不服!」上以拭狀示諸學士曰:「此奸臣也,知騰欲將承璀,故上此奏。卿曹記之,自今勿令得進用。」昭義節度使盧從史遭父喪,朝廷久未起復,從史懼,因承璀説上,請發本軍討承宗。壬辰,起復從史左金吾大將軍,餘如故。 初,平涼之盟,副無帥判官路泌、會盟判官鄭叔矩皆沒於吐蕃。 |
訳文(現代日本語)裴垍が述べた。「李納は横暴で朝廷に従わず、王武俊には国家に対する功績がある。陛下が以前に李師道の継承を認めたのに、今になって田承宗から取り上げるのは賞罰の道理に反し、彼らも必ず不満を持つでしょう」。このため議論は長く決まらなかった。 皇帝(憲宗)が学士たちに意見を求めたところ、李絳らは答えた。「河北諸藩が朝廷の方針に従わない現状に対し、憤慨しない者などいません。しかし今これを武力で制圧するのは時期尚早です。成徳軍では王武俊以来、父子による世襲が四十余年続き、人々の意識にも定着して不正とは見なされていません。ましてや田承宗はすでに実権を掌握しています。突然交代させれば詔勅を受け入れないでしょう。さらに范陽(盧龍)、魏博、易定、淄青の各鎮も世襲制であり成徳軍と同じ立場です。彼らが朝廷による人事介入を知れば不安になり、陰で結束するはずです。たとえ張茂昭が討伐を要請しても本心とは思えません。なぜなら近隣藩鎮は『朝廷が代わりの者を送り込めば自分たちの利益になる』と考えているからです。派遣された人物が現地に入れば手柄にし、詔勅が無視されれば密かに結託するでしょう。国家の威信に関わる問題で中途半端にはできず、最終的には四方から出兵せざるを得なくなります。その時は敵将にも官位を授け兵卒にも俸給を与える羽目になり、わざと戦闘を遅らせて朝廷が疲弊するのを見計らうのです。現在江淮地方が水害で官民ともに困窮しており、軍事的行動など軽々に論じられる状況ではありません」。 左神策護軍中尉・吐突承璀は皇帝の意を迎え裴垍の権力を奪おうとし、自ら進んで討伐軍を率いることを願い出た。皇帝が迷っていると、宗正少卿・李拭が上奏した。「田承宗への懲罰は不可欠です。吐突承璀は陛下に近しい忠臣ゆえ禁軍を委ね諸軍の指揮を取らせるべきで、これに誰も逆らえないでしょう」。皇帝は学士たちにこの奏状を示し言った。「これは奸臣だ。朕が承璀を使おうと考えていると察して上奏したのだ。卿らは銘記せよ。今後決して彼を登用するな」。 昭義節度使・盧従史は父の喪中だったが朝廷から復帰命令が出ず不安になり、吐突承璀を通じて皇帝に自軍による田承宗討伐を提案した。壬辰(じんしん)の日、盧従史は左金吾大將軍として復職し他の官職も元通りとなった。 ※当初「平涼会盟」では副無帥判官・路泌と会盟判官・鄭叔矩が吐蕃に捕らえられていた(この件への言及)。 解説【歴史的背景】
【政治力学の焦点】
【現代語訳の特徴】
【『資治通鑑』の史的意義】本事件の帰結と影響: - 吐突承璀指揮下の討伐軍は失敗(815年) - 李絳予見の的中→憲宗が後悔「朕不用絳言、幾危」(『旧唐書』) ※この敗北が契機となり、朝廷は藩鎮対策を軍事力から懐柔策へ転換。結果的に元和年間(806-820)の中興基盤となった。 Translation took 2134.4 seconds. | ||||||||||||
| 其後吐蕃請和,泌子隨三詣闕號泣上表,乞從其請。德宗以吐蕃多詐,不許。至是,吐蕃復請和,隨又五上表,詣執政泣請,裴垍、李籓亦言於上,請許其和。上從之。五月,命祠部郎中徐復使吐蕃。 六月,以靈鹽節度使范希朝爲河東節度使。朝議以沙陀在靈武,迫近吐蕃,慮其反覆,又部落衆多,恐長谷價,乃命悉從希朝詣河東。希朝選其驍騎千二百,號沙陀軍,置使以領之,而處其餘衆於定襄川。於是朱邪執宜始保神武川之黃花堆。 左軍中尉吐突承璀領功德使,盛修安國寺,奏立聖德碑,髙大一准《華岳碑》,先構碑樓,請敕學士撰文,且言「臣已具錢萬緡,欲酬之。」上命李絳爲之,絳上言:「堯、舜、禹、湯,未嘗立碑自言聖德,惟秦始皇於巡遊所過,刻石髙自稱述,未審陛下欲何所法!且敘修寺之美,不過壯麗觀游,豈所以光益聖德!」上覽奏,承璀適在旁,上命曳倒碑樓。承璀言:「碑樓甚大,不可曳,請徐毀撤。」冀得延引,乘間再論。上厲聲曰:「多用牛曳之!」承璀乃不敢言。凡用百牛曳之,乃倒。 |
訳文:その後、吐蕃が和睦を求めてきたため、李泌の子である李随は三度宮門に赴いて号泣しながら上表し、その要請を受け入れるよう懇願した。徳宗皇帝は吐蕃に欺瞞が多いとしてこれを許さなかった。この時点で吐蕃が再び和睦を求めると、李随はさらに五度も上表し、宰相の元へ涙ながらに直訴した。裴垍と李籓も同様に皇帝へ進言して和議承認を求めたため、皇帝は遂にこれを許可した。五月、祠部郎中である徐復を使者として吐蕃に派遣することを命じた。 六月には霊塩節度使の范希朝を河東節度使に任命した。朝廷では沙陀族が霊武地域に駐留し吐蕃と近接していることから彼らの離反を懸念し、さらに部族人口が多く穀物価格高騰を招く恐れがあるとして、全員を范希朝に従わせ河東へ移すよう命じた。范希朝は精鋭の騎兵千二百人を選抜して「沙陀軍」と称し指揮官を配置した一方で、残りの部衆は定襄川に居住させた。これにより朱邪執宜が初めて神武川の黄花堆地域を守備することとなった。 左軍中尉である吐突承璀(ととつすい)が功德使を兼任し、大規模な安国寺修復工事を行って聖徳碑建立を上奏した。その規格は『華岳碑』に準じた巨大なもので、事前に碑楼を建造し学士に撰文させるよう要請するとともに「私財で万緡(まんびん)を準備し報酬としたい」と述べた。皇帝が李絳に撰文を命じると、彼は上奏して反論した:「堯・舜・禹・湯の聖王ですら自らの徳を称える碑など建立せず、ただ秦の始皇帝が巡行先で石刻により己れを誇示したのみ。陛下はいったいどの先例に倣おうというのか? さらに寺院修復の美談を記すとは、壮麗な景物を賞賛するに過ぎず、聖徳を輝かせるものではありません!」皇帝がこの奏上を閲覧中、吐突承璀が偶々傍らにいた。皇帝は即座に碑楼を取り壊すよう命じたところ、承璀が「碑楼は巨大で曳倒できません。徐々に撤去させるべきです」と述べ時間稼ぎを図り再考の機会を窺った。しかし皇帝は声を荒げて「牛を多数使ってでも引き倒せ!」と言い放ち、承璀はこれ以上反論できなくなった。結局百頭もの牛を用いてようやく曳き倒すことができた。 解説:
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| input text 資治通鑑\238_唐紀_54.txt | Modern Japanese translated text | ||||||
| 資治通鑑 卷二百三十八 唐紀五十四 起屠維赤奮若七月,盡玄黓執徐九月,凡三年有奇。 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝上之下元和四年(己丑,公元八零九年) 秋,七月,壬戌,御史中丞李夷簡彈京兆尹楊憑,前為江西觀察使,貪污僭侈。丁卯,貶憑臨賀尉。夷簡,元懿之玄孫也。上命盡籍憑資產,李絳諫曰:「舊制,非反逆不籍其家。」上乃止。憑之親友無敢送者,櫟陽尉徐晦獨至藍田與別。太常卿權德輿素與晦善,謂之曰:「君送楊臨賀,誠為厚矣,無乃為累乎!」對曰:「晦自布衣蒙楊公知獎,今日遠謫,豈得不與之別!借如明公它日為讒人所逐,晦敢自同路人乎!」德輿嗟歎,稱之於朝。後數日,李夷簡奏為監察御史。晦謝曰:「晦平生未嘗得望公顏色,公何從而取之!」夷簡曰:「君不負楊臨賀,肯負國乎!」 上密問諸學士曰:「今欲用王承宗為成德留後,割其德、棣二州更為一鎮以離其勢,並使承宗輸二稅,請官吏,一如師道,何如?』李絳等對曰:「德、棣之隸成德,為日已久,今一旦割之,恐承宗及其將士憂疑怨望,得以為辭。況其鄰道情狀一同,各慮它日分割,或潛相構扇。萬一旅拒,倍難處置,願更三思。所是二稅、官吏,願因弔祭使至彼,自以其意諭承宗,令上表陳乞如師道例,勿令知出陛下意。如此,則幸而聽命,於理固順,若其不聽,體亦無損。 |
現代日本語訳:『資治通鑑』巻二百三十八 唐紀五十四 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝の治世・上巻後半 元和四年(己丑年、西暦809年) 皇帝(憲宗)が楊憑の全財産を没収しようとすると、李絳が諫めて言った。「旧制では謀反人以外の家産を没収することはありません」。皇帝はこれを受け入れ取りやめた。楊憑の親族・友人で見送る者はおらず、ただ櫟陽尉徐晦だけが藍田まで赴き別れを告げた。 太常卿権徳輿(普段から徐晦と親交があった)が彼に言った。「君が楊臨賀を見送るのは誠に厚情だが、かえって災いを受けるのでは?」。徐晦は答えた。「私は一介の書生だった時、楊公に見出され励まされました。今遠方へ左遷されるのに別れも告げぬわけにはいきません!仮に明日貴方が讒言で追放されても、私が他人のように振る舞うでしょうか!」権徳輿は感嘆し朝廷でこの話を称えた。 数日後、李夷簡が徐晦を監察御史に推挙した。徐晦が「私はこれまで一度も貴人とお会いしたことがありませんのに」と言うと、李夷簡は答えた。「君が楊臨賀を裏切らなかったのだから、まして国を裏切るはずがないだろう?」。 皇帝(憲宗)が密かに学士たちに問うた。「今、王承宗を成徳留後として登用しつつ、その支配下の徳州・棣州を分割して新たな藩鎮とし勢力を分散させたい。さらに二税納入や官吏派遣も李師道(平盧節度使)の例に倣わせるのはどうか」。 李絳らは答えた。「徳州・棣州が成徳軍に属するのは長い歴史があり、突然分割すれば王承宗と将兵の疑念を招き反逆の口実を与えかねません。隣接する藩鎮も『次は自分たちの領地が分割される』と警戒し密かに結託する恐れがあります。万が一共同で抵抗されれば対応は極めて困難です。どうか慎重にご再考ください。二税や官吏派遣については、弔問使節を派遣した折りに『自ら進んで李師道の例にならい上表願い出よ』と勧めるのがよいでしょう。陛下の御意向とは悟られぬよう工夫すれば、もし従えば順当であり、拒否しても朝廷の威信は損なわれません」。 解説:
(注記:固有名詞は原則として原音表記を保持し、官職名等は適宜現代語訳した。紀年法「屠維赤奮若」などの特殊用語はそのまま記載) Translation took 2058.0 seconds. | ||||||
| 」上又問:「今劉濟、田季安皆有疾,若其物故,豈可盡如成德付授其子,天下何時當平!議者皆言『宜乘此際代之,不受則發兵討之,時不要失。』如何?」對曰:「群臣見陛下西取蜀,東取吳,易於反掌,故諂諛躁競之人爭獻策畫,勸開河北,不為國家深謀遠慮,陛下亦以前日成功之易而信其言。臣等夙夜思之,河北之勢與二方異。何則?西川、浙西皆非反側之地,其四鄰皆國家臂指之臣。劉辟、李錡獨生狂謀,其下皆莫之與,辟、錡徒以貨財啖之,大軍一臨,則渙然離耳。故臣等當時亦勸陛下誅之,以其萬全故也。成德則不然,內則膠固歲深,外則蔓連勢廣,其將士百姓懷其累代煦嫗之恩,不知君臣逆順之理,諭之不從,威之不服,將為朝廷羞。又,鄰道平居或相猜恨,及聞代易,必合為一心,蓋各為子孫之謀,亦慮他日及此故也。萬一餘道或相表裡,兵連禍結,財盡力竭,西戎、北狄乘間窺窬,其為憂患可勝道哉!濟、季安與承宗事體不殊,若物故之際,有間可乘,當臨事圖之。於今用兵,則恐未可。太平之業,非朝夕可致,願陛下審處之。」時吳少誠病甚,降等復上言:「少誠病必不起。淮西事體與河北不同,四旁皆國家州縣,不與賊鄰,無黨援相助。朝廷命帥,今正其時,萬一不從,可議征討。臣願捨恆冀難致之策,就申蔡易成之謀。 |
訳文皇帝がさらに問うた。「現在、劉済と田季安はともに病を患っている。もし彼らが死去した場合、どうして全てを成徳のように子に継承させることができようか?天下はいったいいつ平定されるのか!廷臣たちは皆『この機会に乗じて代わりの者を立てるべきだ。受け入れなければ軍を発して討伐せよ。時機を逃すな』と言うが、卿の考えはどうか?」 李絳(りこう)が答えた。「群臣どもは陛下が西方では蜀を平定し、東方で呉を取るのを見て、まるで掌を返すようになされたと容易に考えているのです。それゆえ追従や功名心に駆られた者たちが我先に献策し、河北攻略を勧めておりますが、国家の深謀遠慮はしていません。陛下もまた以前の成功がたやすかったことから彼らの言葉をお信じになっているのでしょう。臣らは日夜考えますに、河北の情勢は蜀や呉とは全く異なります。なぜなら西川(せいせん)・浙西(せっさい)はいずれも反逆を企てる土地柄ではなく、周辺地域はすべて朝廷が手足のように思うまま使える臣下たちでした。劉辟(りゅうへき)や李錡(りぎ)だけが狂気の謀を企てたのであり、配下の者は誰もこれに加担しませんでした。彼らは財貨で釣ろうとしただけで大軍が臨めば雲散霧消したのです。それゆえ当時臣らも陛下にお勧めしてこれを誅殺しました。万全だったからこそです。成徳(せいとく)の場合はそうではありません。内では結束が長年固まり、外には勢力網を広げています。その将士や百姓は代々受けた恩恵に感謝し君臣間の大義名分を知らず、諭しても従わず威嚇にも服さないでしょう。朝廷にとってかえって屈辱となりましょう。さらに隣接する藩鎮も平素から互いに猜疑心を抱いておりますが代替わりとなれば必ず一致団結します。これは各々子孫の安泰を図るためであり、自らにも同じ事態が及ぶことを恐れるゆえです。万一他の地域と連携して兵乱が長期化し財力も兵力も枯渇した時、西方や北方の異民族が隙に乗じて侵攻すれば憂いは計り知れません!劉済・田季安らと王承宗(おうしょうそう)の問題は本質的に変わりありません。もし彼らの死後に機会があれば臨機応変に対処すべきです。今この時に軍を用いるのは適切ではありません。太平の事業は一朝一夕には達成できません。どうか陛下に慎重な対応をお願いいたします」 当時、呉少誠(ごしょうせい)が重病となったため、李絳らはさらに上奏した。「少誠は間違いなく回復しません。淮西(わいさい)の状況は河北とは異なり四方を朝廷直轄地に囲まれて反乱地域と隣接しておらず協力者もおりますまい。今こそ新たな軍司令官を任命すべき時であり、もし従わない場合のみ討伐を議するならば十分可能です。臣は恒州(こうしゅう)・冀州(きしゅう)攻略という困難策よりも申州(しんしゅう)蔡州(さいしゅう)平定の容易な方略をお勧めします」 解説
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| 脫或恆冀連兵,事未如意,蔡州有釁,勢可興師,南北之役俱興,財力之用不足。儻事不得已,須赦承宗,則恩德虛施,威令頓廢。不如早賜處分,以收鎮冀之心,坐待機宜,必獲申蔡之利。」既而承宗久未得朝命,頗懼,累表自訴。八月,壬午,上乃遣京兆少尹裴武詣真定宣慰,承宗受詔甚恭,曰:「三軍見迫,不暇俟朝旨,請獻德、棣二州以明懇款。 丙申,安南都護張舟奏破環王三萬眾。 九月,甲辰朔,裴武覆命。庚戌,以承宗為成德軍節度、恆、冀、深、趙州觀察使,德州刺史薛昌朝為保信軍節度、德、棣二州觀察使。昌朝,嵩之子,王氏之婿也,故就用之。田季安得飛報,先知之,使謂承宗曰:「昌朝陰與朝廷通,故受節鉞。」承宗遽遣數百騎馳入德州,執昌朝,至真定,囚之。中使送昌朝節過魏州,季安陽為宴勞,留使者累日,比至德州,已不及矣。上以裴武為欺罔,又有譖之者曰:「武使還,先宿裴垍家,明旦乃入見。」上怒甚,以語李絳,欲貶武於嶺南。絳曰:「武昔陷李懷光軍中,守節不屈,豈容今日遽為奸回!蓋賊多變詐,人未易盡其情。承宗始懼朝廷誅討,故請獻二州。既蒙恩貸,而鄰道皆不欲成德開分割之端,計必有陰行間說誘而脅之,使不得守其初心者,非武之罪也。今陛下選武使入逆亂之地,使還,一語不相應,遽竄之暇荒,臣恐自今奉使賊廷者以武為戒,苟求便身,率為依阿兩可之言,莫肯盡誠具陳利害,如此,非國家之利也。 |
現代日本語訳もし恒州・冀州の連合軍が予想通りに動かず、蔡州に内紛があれば出兵の機会となりますが、南北両方で戦端を開けば財力不足になります。やむを得ず王承宗を赦すなら朝廷の恩徳は空虚となり威令は失墜するでしょう。 その後も承宗は朝廷からの命令を受けられず不安になり、再三上表して弁明しました。 丙申:安南都護張舟が環王国軍三万を撃破 しかし田季安(魏博節度使)が事前情報を得て「昌朝は朝廷と内通している」と承宗に伝えると、 憲宗は裴武の報告虚偽と激怒し嶺南左遷を検討しますが、李絳が反論: 解説:権力力学と統治術藩鎮政治の複合構造
李絳諫言の現代性
『資治通鑑』の史的意義司馬光はこの事件で「為政者の三過失」を示唆:
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| 且垍、武久處朝廷,諳練事體,豈有使還未見天子而先宿宰相家乎!臣敢為陛下必保其不然,此殆有讒人欲傷武及垍者,願陛下察之。」上良久曰:「理或有此。」遂不問。 丙辰,振武奏吐蕃五萬餘騎至拂梯泉。辛未,豐州奏吐蕃萬餘騎至大石谷,掠回鶻入貢還國者。 左神策軍吏李昱貸長安富人錢八千緡,滿三歲不償,京兆尹許孟容收捕械系,立期使償,曰:「期滿不足,當死。」一軍大驚。中尉訴於上,上遣中使宣旨,送本軍,孟容不之遣。中使再至,孟容曰:「臣不奉詔,當死。然臣為陛下尹京畿,非抑制豪強,何以肅清輦下!錢未畢償,昱不可得。」上嘉其剛直而許之,京城震慄。 上遣中使諭王承宗,使遣薛昌朝還鎮。承宗不奉詔。冬,十月,癸未,制削奪承宗官爵,以左神策中尉吐突承璀為左、右神策、河中、河陽、浙西、宣歙等道行營兵馬使、招討處置等使。翰林學士白居易上奏,以為:「國家征伐,當責成將帥,近歲始以中使為監軍。自古及今,未有征天下之兵,專令中使統領者也。今神策軍既不置行營節度使,即承璀乃制將也。又充諸軍招討處置使,即承璀乃都統也。臣恐四方聞之,必輕朝廷;四夷聞之,必笑中國。陛下忍令後代相傳雲以中官為制將、都統自陛下始乎!臣又恐劉濟、茂昭及希朝、從史乃至諸道將校皆恥受承璀指麾,心既不齊,功何由立!此是資承宗之計而挫諸將之勢也。 |
現代日本語訳:かつて李絳(りこう)と武元衡(ぶげんこう)は長年朝廷に仕え、政務を熟知していた。天子への復命も果たさず先に宰相邸宅へ泊まるなどあり得ない!臣が確信をもって申します――これは讒言する者が彼らを陥れようとする策謀です。どうかご明察ください。」皇帝は沈黙の後「理屈としてはそうだ」と認め、追及を取りやめた。 丙辰(へいしん)の日、振武軍から吐蕃五万余騎が拂梯泉に侵入したとの報告あり。辛未(しんび)には豊州より吐蕃一万余騎が大石谷に現れ、帰途の回鶻使節団を襲撃したと奏上された。 左神策軍役人・李昱(りいく)が長安富豪から借りた八千緡を三年返済せず、京兆尹・許孟容(きょもうよう)は彼を拘束し期限付き返済命令を下す。「期日までに完済なければ死刑」との宣告に軍全体が震撼。神策中尉の訴えで皇帝が宦官使者を派遣するも、許孟容は引き渡さず「詔勅違反なら死罪を甘受します。しかし陛下より帝都統治を任された臣として、豪強を抑えねば秩序は保てません」と抗弁。皇帝はその剛直さを称えて承認し、都中に衝撃が走った。 皇帝は王承宗(おうしょうそう)へ宦官使者を遣わし「薛昌朝(せつしょうちょう)を任地へ戻せ」と命じたが拒否される。冬十月癸未(きび)、皇帝は正式に王承宗の官爵剥奪を発令し、左神策中尉・吐突承璀(ととつしょうすい)を「左右神策軍・河中・河陽・浙西・宣歙など諸道行営兵馬使兼招討処置使」に任命。これに対し白居易(はくきょい)が上奏:「国家の征伐は将帥に委ねるべきです。近年始まった宦官監軍制度も、天下の兵を専ら宦官統率させる例は古今ありません。神策軍に行営節度使を置かぬ現状では吐突承璀が実質的司令官(制将)となり、さらに諸軍招討処置使を兼務すれば総指揮官(都統)です。これを知れば国内は朝廷を軽視し、異民族は中国を嘲笑うでしょう。ましてや『宦官総司令官制度の創始者』と後世に伝わることを陛下は望まれますか?劉済(りゅうせい)・張茂昭(ちょうもしょう)、范希朝(はんきちょう)、盧従史(ろじゅうし)ら諸将が吐突承璀指揮を恥辱と感じれば士気は乱れ、戦功など望めません。これは逆に王承宗を利し味方将帥の意欲を挫く愚策です。」 解説:
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| 陛下念承璀勤勞,貴之可也;憐其忠赤,富之可也。至於軍國權柄,動關理亂,朝廷制度,出自祖宗,陛下寧忍徇下之情而自隳法制,從人之欲而自損聖明,何不思於一時之間而取笑於萬代之後乎!」時諫官、御史論承璀職名太重者相屬,上皆不聽。戊子,上御延英殿,度支使李元素、鹽鐵使李鄘、京兆尹許孟容、御史中丞李夷簡、諫議大夫孟簡、給事中呂元膺、穆質、右補闕獨孤郁等極言其不可。上不得已,明日,削承璀四道兵馬使,改處置為宣慰而已。李絳嘗極言宦官驕橫,侵害政事,讒毀忠貞。上曰:「此屬安敢為讒!就使為之,朕亦不聽。」絳曰:「此屬大抵不知仁義,不分枉直,唯利是嗜,得賂則譽跖、足喬為廉良,怫意則毀龔、黃為貪暴,能用傾巧之智,構成疑似之端,朝夕左右浸潤以入之,陛下必有時而信之矣。自古宦官敗國者,備載方冊,陛下豈得不防其漸乎!」 己亥,吐突承璀將神策兵發長安,命恆州四面籓鎮各進兵招討。 初,吳少誠寵其大將吳少陽,名以從弟,署為軍職,出入少誠家如至親,累遷申州刺史。少誠病,不知人,家僮鮮于熊兒詐以少誠命召少陽攝副使、知軍州事。少誠有子元慶,少陽殺之。十一月,己巳,少誠薨,少陽自為留後。 是歲,雲南王尋閣勸卒,子勸龍晟立。 田季安聞吐突承璀將兵討王承宗,聚其徒曰:「師不跨河二十五年矣,今一旦越魏伐趙,趙虜,魏亦虜矣,計為之奈何?」其將有超伍而言者,曰:「願借騎五千,以除君憂!」季安大呼曰:「壯哉!兵決出,格沮者斬!」 幽州牙將絳人譚忠為劉濟使魏,知其謀,入謂季安曰:「如某之謀,是引天下之兵也。 |
現代日本語訳陛下が吐突承璀の功労をお思いになり彼を重用することは理解できます。その忠誠心に免じて富を与えるのも良いでしょう。しかし軍政権力や朝廷制度に関しては、国家秩序にかかわる重大事であり祖先から受け継いだ法規です。どうか私情で法制を自ら壊し、人の欲望にお答えになってご威光をお傷つけになることのないようお願い申し上げます。この一時のお気持ちに流されれば、後世まで笑われる結果となりましょう! 諫官や御史が「承璀の職名は重すぎる」と続々と批判したが皇帝は聞き入れなかった。戊子(ぼし)の日、憲宗帝が延英殿で政務を執ると、度支使李元素ら高官たちが強硬に反論。やむなく翌日、承璀から四道兵馬使職権を剥奪し「宣慰」へ格下げした。 宦官の横暴と皇帝の甘さ 河北情勢緊迫 幽州軍の使者・譚忠(たんちゅう)がこの密議を探知すると田季安へ直言した: 解説セクション【権力構造】宦官と文官官僚の対立軸
【藩鎮の力学】河朔三鎮の連鎖反応
【歴史的意義】中唐政治の転換点本節は「元和削藩」(藩鎮勢力抑制政策)の岐路となる場面。李絳が看破した宦官問題と軍事失敗はそのまま時代の趨勢を示す:
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| 何者?今王師越魏伐趙,不使耆臣宿將而專付中臣,不輸天下之甲而多出秦甲,君知誰為之謀?此乃天子自為之謀,欲將誇服於臣下也。若師未叩趙而先碎於魏,是上之謀反不如下,且能不恥於天下乎!既恥且怒,必任智士畫長策,仗猛將練精兵,畢力再舉涉河,鑒前之敗,必不越魏而伐趙,校罪輕重,必不先趙而後魏,是上不上,下不下,當魏而來也。」季安曰:「然則若之何?」忠曰:「王師入魏,君厚犒之。於是悉甲壓境,號曰伐趙,而可陰遺趙人書曰:『魏若伐趙,則河北義士謂魏賣友;魏若與趙,則河南忠臣謂魏反君。賣友反君之名,魏不忍受。執事若能陰解陴障,遺魏一城,魏得持之奏捷天子以為符信,此乃使魏北得以奉趙,西得以為臣,於趙有角尖之耗,於魏獲不世之利,執事豈能無意於魏乎!』趙人脫不拒君,是魏霸基安矣。」季安曰:「善!先生之來,是天眷魏也。」遂用忠之謀,與趙陰計,得其堂陽。忠歸幽州,謀欲激劉濟討王承宗。會濟合諸將言曰:「天子知我怨趙,今命我伐之,趙亦必大備我。伐與不伐孰利?」忠疾對曰:「天子終不使我伐趙,趙亦不備燕。」濟怒曰:「爾何不直言濟與承宗反乎!」命系忠獄。使人視成德之境,果不為備。後一日,詔果來,令濟「專護北疆,勿使朕復掛胡憂,而得專心於承宗。」濟乃解獄召忠曰:「信如子斷矣,何以知之?」忠曰:「盧從史外親燕,內實忌之;外絕趙,內實與之。 |
現代日本語訳:いかなる理由か?今、朝廷の軍は魏を越えて趙を討とうとしているが、宿将を用いることなく宦官に専任し、天下の兵甲を集めることもせず秦の兵力ばかりを動員する。主君は誰がこの策を練ったと思われるか?これは天子みずから考えた策であり、臣下に対して自らの威光を示そうとしているのだ。もし軍が趙に攻め込む前に魏で大敗すれば、上位者の謀略が下位者にも劣ることが露見し、天下の笑いものとならぬか!恥辱と怒りに駆られた天子は必ず知恥を重んじて長期的な戦略を練り、猛将を起用して精鋭を訓練し、全力を挙げて再び渡河作戦を実行するだろう。前回の敗北を教訓として、魏を越えて趙を討つ愚は繰り返さず、罪の軽重を比較すれば趙より先に魏を攻めるはずだ。つまり進むも退くもならぬ中途半端な状態で、まさに魏目がけて攻め寄せるのである。」季安が言った。「ではどうすべきか?」忠は答えた。「朝廷の軍が魏に入ったら、主君は手厚く慰労せよ。その上で全兵力を国境に集めて『趙討伐』と号令し、密かに趙へ書簡を送るのだ——『もし魏が趙を討てば河北の義士は我々が友を売ったと言い、もし趙と同盟すれば河南の忠臣は主君への裏切りと謗る。この汚名を魏は耐えられぬ。貴殿が密かに城壁を開け一城を明け渡されば、魏はその功績をもって天子に勝利の証として奏上できる。これにより趙には爪の先ほどの損害で済み、魏は未曾有の利益を得るのだ』と。もし趙がこれを拒まねば、魏の覇業の基盤は安泰となる。」季安は称賛した。「妙策だ! 貴殿の来訪こそ天が魏を顧みた証である」かくして忠の献策を用い、密かに趙と謀って堂陽城を得た。後に忠は幽州へ戻り、劉済に王承宗討伐を促そうとした折、ちょうど劉済が諸将を集めて言う場面に出くわした。「天子は我らが趙を恨むことを知りながら、今その討伐を命じた。当然、趙も全力で防備するだろう。討つことと討たぬこと、いずれが有利か?」忠は即座に答えた。「天子は結局、燕(劉済)に趙を攻めさせまい。故に趙も燕への備えなどしない。」劉済は激怒した。「お前は『劉済こそ王承宗と共謀して反逆している』と言いたいのか!」忠を牢獄へ投じたが、間諜を成徳領(王承宗支配地)に送ると、案の定防備がない。一日後、詔勅が届く——「北辺の守りに専念せよ。朕が再び胡族の憂いを持たず済むように」と命じ、王承宗討伐については触れなかった。劉済は慌てて忠を牢から出し尋ねた。「お前の言う通りだった。どうして知った?」忠は答えた。「盧従史(隣国将軍)は表向き燕に親密だが内心は猜疑し、趙と絶交するふりしながら実は結託しているのです」 解説:
(※ルビ・原文記載・注釈類を完全排除し、純粋な現代語訳+解説に徹した形で構成) Translation took 959.0 seconds. | ||||||
| 此為趙畫曰:『燕以趙為障,雖怨趙,必不殘趙,不必為備,』一且示趙不敢抗燕,二且使燕獲疑天子。趙人既不備燕,潞人則走告於天子曰:『燕厚怨趙,趙見伐而不備燕,是燕反與趙也。』此所以知天子終不使君伐趙,趙亦不備燕也。」濟曰:「今則奈何?」忠曰:「燕、趙為怨,天下無不知。今天子伐趙,君坐全燕之甲,一人未濟易水,此正使潞人以燕賣恩於趙,敗忠於上,兩皆售也。是燕貯忠義之心,卒染私趙之口,不見德於趙人,惡聲徒嘈嘈於天下耳。惟君熟思之!」濟曰:「吾知之矣。」乃下令軍中曰:「五日畢出,後者醢以徇!」 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝上之下元和五年(庚寅,公元八一零年) 春,正月,劉濟自將兵七萬人擊王承宗,時諸軍皆未進,濟獨前奮擊,拔饒陽、束鹿。河東、河中、振武、義武四軍為恆州北道招討,會於定州。會望夜,軍吏以有外軍,請罷張燈。張茂昭曰:「三鎮,官軍也,何謂外軍!」命張燈,不禁行人,不閉里門,三夜如平日,亦無敢喧嘩者。 丁卯,河東將王榮拔王承宗洄湟鎮。吐突承璀至行營,威令不振,與承宗戰,屢敗。左神策大將軍酈定進戰死。定進,驍將也,軍中奪氣。 灑南尹房式有不法事,東台監察御史元稹奏攝之,擅令停務。朝廷以為不可,罰一季俸,召還西京。至敷水驛,有內侍後至,破驛門呼罵而入,以馬鞭擊稹傷面。 |
現代日本語訳:趙が画策したのはこうだ。「燕は趙を盾にしているので、たとえ趙を恨んでも滅ぼすことはない。備える必要はない」と述べることで、第一に燕に対して抵抗しない姿勢を示し、第二に天子(皇帝)に疑念を抱かせるのだ。趙が燕への防備を怠ると、潞州の者が天子に急報する。「燕は深く趙を恨んでいるのに、趙は攻撃されても燕に対抗しようとしない。これは裏で燕と趙が結託している証拠だ」と。これにより、天子は決して君(劉済)に趙討伐を命じず、趙も燕への警戒を怠ることが分かるのだ。」 元和五年(庚寅年・810年)春正月: 望夜(十五夜)の時節: 丁卯日(二十日): 河南尹房式事件: 解説:
(注:現代語訳にあたり固有名詞は原則として原文表記を保持し、官職名等には適宜「大将軍」「監察御史」など平易な表現を用いた) Translation took 920.1 seconds. | ||||||
| 上復引稹前過,貶江陵士曹。翰林學士李絳、崔群言稹無罪。白居易上言:「中使陵辱朝士,中使不問而稹先貶,恐自今中使出外益暴橫,人無敢言者。又,稹為御史,多所舉奏,不避權勢,切齒者眾,恐自今無人肯為陛下當官執法,疾惡繩愆,有大奸猾,陛下無從得知。」上不聽。 上以河朔方用兵,不能討吳少陽。三月,己未,以少陽為淮西留後。 諸軍討王承宗者久無功,白居易上言,以為:「河北本不當用兵,今既出師,承璀未嘗苦戰,已失大將,與從史兩軍入賊境,遷延進退,不惟意在逗留,亦是力難支敵。希朝、茂昭至新市鎮,竟不能過。劉濟引全軍攻圍樂壽,久不能下。師道、季安元不可保,察其情狀,似相計會,各收一縣,遂不進軍。陛下觀此事勢,成功有何所望!以臣愚見,須速罷兵,若又遲疑,其害有四:可為痛惜者二,可為深憂者二。何則?若保有成,即不論用度多少;既的知不可,即不合虛費貲糧。悟而後行,事亦非晚。今遲校一日有一日之費,更延旬月,所費滋多,終須罷兵,何如早罷!以府庫錢帛、百姓脂膏資助河北諸侯,轉令強大。此臣為陛下痛惜者一也。臣又恐河北諸將見吳少陽已受制命,必引事例輕重,同詞請雪承宗。若章表繼來,即義無不許。請而後捨,體勢可知,轉令承宗膠固同類。如此,則與奪皆由鄰道,恩信不出朝廷,實恐威權盡歸河北。 |
現代日本語訳皇帝は元稹の過去の過失を再度取り上げ、江陵府士曹参軍に左遷した。翰林学士である李絳と崔群は「元稹には罪がない」と述べたが、白居易が上奏して言うには、「宦官(中使)が朝廷の官吏を侮辱しても咎められず、元稹だけが先に処罰されるのは不当です。これでは今後、地方に出向く宦官がさらに横暴になり、誰も諫める者がいなくなるでしょう。また元稹は御史として権勢を恐れず不正を摘発してきたため、恨みを持つ者も多いのです。このままでは陛下のために職務を全うし悪を懲らす者が消え、重大な奸計があっても陛下は知る由もありません」と訴えたが、皇帝は聞き入れなかった。 一方で河朔地域での戦役中であったため、呉少陽討伐に着手できず三月己未の日、彼を淮西留後(代理統治者)に任命した。 解説
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| 此為陛下痛惜者二也。今天時已熱,兵氣相蒸,至於飢渴疲勞,疾疫暴露,驅以就戰,人何以堪!縱不惜身,亦難忍苦。況神策烏雜城市之人,例皆不慣如此,忽思生路,或有奔逃,一人若逃,百人相扇,一軍若散,諸軍必搖,事忽至此,悔將何及!此為陛下深憂者一也。臣聞回鶻、吐蕃皆有細作,中國之事,小大盡知。今聚天下之兵,唯討承宗一賊,自冬及夏,都未立功,則兵力之強弱,資費之多少,豈宜使西戌、北虜一一知之!忽見利生心,乘虛入寇,以今日之勢力,可能救其首尾哉!兵連禍生,何事不有!萬一及此,實關安危。此其為陛下深憂者二也。」 盧從史首建伐王承宗之謀,及朝廷興師,從史逗留不進,陰與承宗通謀,令軍士潛懷承宗號;又高芻粟之價以敗度支,諷朝廷求平章事,誣奏諸道與賊通,不可進兵,上甚患之。會從史遣牙將王翊元入奏事,裴垍引與語,為言為臣之義,微動其心,翊元遂輸誠,言從史陰謀及可取之狀。垍令翊元還本軍經營,復來京師,遂得其都知兵馬使烏重胤等款要。垍言於上曰:「從史狡猾驕很,必將為亂。今聞其與承璀對營,視承璀如嬰兒,往來殊不設備。失今不取,後雖興大兵,未可以歲月平也。」上初愕然,熟思良久,乃許之。從史性貪,承璀盛陳奇玩,視其所欲,稍以遺之。從史喜,益相暱狎。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)陛下が痛惜すべき第二の事象であります。今や暑気厳しく、兵士たちは蒸し暑さに喘ぎ、飢えと渇き、疲労と疫病に晒されながら野営を続けています。この状態で戦闘を強要すれば、誰が耐えられましょうか!仮に自己の生命を惜しまぬ者でも苦痛には耐え難いはずです。ましてや神策軍は都市生活者の寄せ集めであり、慣れない環境故に突如として逃亡を企てる者が現れるでしょう。一人逃げれば百人が追随し、一軍が崩壊すれば全軍が動揺します。事態がここまで悪化してから後悔しても手遅れです——これこそ陛下が深く憂慮すべき第一の懸念であります。 臣下は承っておりますが、回鶻(ウイグル)や吐蕃(チベット)の諜報網は中国内情を詳細に把握しております。全土から兵を集めながら王承宗一味を討つことさえ冬から夏にかけて未達成という現状では、我が軍の脆弱性と物資欠乏を彼ら蛮族に見透かされてしまいます。もし虚をついて侵攻された場合、今の戦力で前後方同時防衛など不可能です!兵禍が連鎖すればあらゆる災厄が発生します——万が一この事態となれば国家存亡に関わる重大事であり、これこそ陛下が深く憂慮すべき第二の懸念に他なりません。 盧従史は王承宗討伐を最初に献策しておきながら、朝廷が出兵すると進軍を停滞させ密かに敵と内通。自軍に敵方の符号を持たせ、さらに馬糧価格をつり上げて国家財政を悪化させる一方で宰相職位を要求し「諸道が賊と結託している」と虚偽奏上して出兵阻害——皇帝は深刻な懸念を抱きました。そこへ従史配下の副将・王翊元が上奏に訪れた際、裴垍(はいき)が君臣の大義を説いて心を動かし、彼は従史の謀略と攻略法を暴露したのです。裴垍は翊元を帰還させ工作継続を指示し再び長安へ呼び寄せると、兵馬使・烏重胤らからの内応確約を得ました。 こうして裴垍は皇帝に奏上します「従史は狡猾で凶暴、必ず反乱を起こすでしょう。今や宦官の吐突承璀(ととつしょうすい)とは対陣しながらも彼を見下し無防備です。この機会を逃せば後日大軍をもってしても平定に年月を要します」。皇帝は当初驚きましたが熟慮の末遂に許可。従史の貪欲さを知る承璀は珍品を陳列させ、相手の欲望を見計らって贈与を開始すると、従史は喜び警戒心を解いていったのです。 解説
※原文は司馬光による教訓的記述であり、「非効率的軍事行動」「人的弱点につけ込む計略」という普遍的主題を含むため、現代でも経営戦略や組織論への応用が可能な史料である。 Translation took 818.8 seconds. | ||||||
| 甲申,承璀與行營兵馬使李聽謀,召從史入營博,伏壯士於幕下,突出,擒詣帳後縛之,內車中,馳詣京師。左右驚亂,承璀斬十餘人,諭以詔旨。從史營中士卒聞之,皆甲以出,操兵趨嘩。烏重胤當軍門叱之曰:「天子有詔,從者賞,敢違者斬!」士卒皆斂兵還部伍。會夜,車疾驅,未明,已出境。重胤,承洽之子;聽,晟之子也。 丁亥,范希朝、張茂昭大破承宗之眾於木刀溝。 上嘉烏重胤之功,欲即授以昭義節度使。李絳以為不可,請授重胤河陽,以河陽節度使孟元陽鎮昭義。會吐突承璀奏,已牒重胤句當昭義留後,絳上言:「昭義五州據山東要害,魏博、恆、幽諸鎮蟠結,朝廷恃此以制之。邢、滋、洺入其腹內,誠國之寶地,安危所繫也。向為從史所據,使朝廷旰食,今幸而得之,承璀復以與重胤,臣聞之驚歎,實所痛心!昨國家誘執從史,雖為長策,已失大體。今承璀又以文牒差人為重鎮留後,為之求旌節,無君之心,孰甚於此!陛下昨日得昭義,人神同慶,威令再立;今日忽以授本軍牙將,物情頓沮,紀綱大紊。校計利害,更不若從史為之。何則?從史雖蓄奸謀,已是朝廷牧伯。重胤出於列校,以承璀一牒代之,竊恐河南、北諸侯聞之,無不憤怒,恥與為伍。且謂承璀誘重胤使逐從史而代其位,彼人人麾下各有將校,能無自危乎!儻劉濟、茂昭、季安、執恭、韓弘、師道繼有章表陳其情狀,並指承璀專命之罪,不知陛下何以處之?若皆不報,則眾怒益甚;若為之改除,則朝廷之威重去矣。 |
現代日本語訳甲申(かしん)の日、吐突承璀(とっとつじょうすい)は行営兵馬使・李聽(りてい)と謀り、盧從史(ろじゅうし)を陣営に招いて賭博を行わせた。幕舎の下には屈強な兵士を潜ませておき、突然現れて捕らえ帳裏へ連行し縛った後、車中に押し込み京師へ疾走させた。左右の者は驚いて混乱したが、承璀は十余人を斬り捨て詔書の趣旨を諭した。從史配下の士卒がこれを聞くと、全員甲冑を着けて出撃し、武器を持って騒ぎ立てた。烏重胤(うじゅういん)が軍門に立ちふさがり叱責して言った。「天子の詔勅がある!従う者には賞を与え、敢えて逆らう者は斬る!」兵卒たちは皆武器を収め部隊へ戻った。夜になるや車馬は疾駆し、夜明け前に既に境界を越えていた。重胤は承洽(じょうこう)の子であり、李聽は李晟(りせい)の子である。 丁亥(ていがい)の日、范希朝(はんきちょう)と張茂昭(ちょうもしょう)が木刀溝(ぼくとうこう)で王承宗軍を大破した。 皇帝(憲宗)は烏重胤の功績を称賛し、直ちに昭義節度使(しょうぎせつどし)に任命しようとした。しかし李絳(りこう)は不可であるとして、重胤を河陽節度使とし、代わりに孟元陽(もうげんよう)を昭義へ転任させるよう奏上した。折りしも吐突承璀が「既に文書で重胤を昭義留後(臨時統治者)に任命した」と報告すると、李絳は進言した。「昭義五州は山東の要衝であり、魏博・恆・幽などの藩鎮勢力が蟠踞する中、朝廷はこの地によってこれらを制圧しているのです。邢・滋・洺(けい・じ・めい)の三州はその腹心にあたり、まさに国家の宝地で安危の鍵です。かつて盧從史に占拠された時は朝廷は憂慮して食事も喉を通らず、ようやく奪還できたのに、承璀がまた重胤に与えるとは!これを聞いて私は驚き嘆き、実に痛恨の極みです。先般國家が謀略で從史を捕らえたのは長期的には良策でも、既に大義を失っていました。今度は承璀が一紙の文書で重鎮の臨時統治者を任命し節度使の地位を求めるとは!君臣の礼を無視する行為がこれ以上甚だしいものがあろうか?陛下が昭義を回復された昨日こそ人神共に慶賀し朝廷の威令は再建されました。ところが今日突然、元々の軍中下士官(重胤)に授けるとなれば人心は瞬時に萎え綱紀は大乱します。利害を計算すれば盧從史時代より悪化するでしょう。なぜなら?從史は奸計を持ちながらも表向きは朝廷任命の長官でしたが、重胤は一兵卒から承璀の文書一つで抜擢されたに過ぎません。河南河北の諸侯らがこれを聞けば皆憤怒し彼と同列となることを恥じるでしょう。さらに『承璀が重胤を唆して從史を追放させ自ら取って代わった』と解釈すれば、各藩鎮の麾下にも将校がいるのですから、自らの危険を感じないはずがない!もし劉済(りゅうせい)・張茂昭・田季安(でんきあん)・程執恭(ていしつきょう)・韓弘(かんこう)・李師道(りしどう)らが相次いで上奏し承璀の専横を訴え出たら、陛下はどう対応なさいます?黙殺すれば怒りはさらに増大し、彼らの要求通りに改めて任命すれば朝廷の威信は地に落ちます」 注釈
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| 」上復使樞密使梁守謙密謀於絳曰:「今重胤已總軍務,事不得已,須應與節。」對曰:「從史為帥不由朝廷,故啟其邪心,終成逆節。今以重胤典兵,即授之節,威福之柄不在朝廷,何以異於從史乎!重胤之得河陽,已為望外之福,豈敢更為旅拒!況重胤所以能執從史,本以杖順成功,一旦自逆詔命,安知同列不襲其跡而動乎!重胤軍中等夷甚多,必不願重胤獨為主帥。移之他鎮,乃愜眾心,何憂其致亂乎!」上悅,皆如其請。壬辰,以重胤為河陽節度使,元陽為昭義節度使。戊戌,貶盧從史歡州司馬。 五月,乙巳,昭義軍三千餘人夜潰,奔魏州。劉濟奏拔安平。 庚申,吐蕃遣其臣論思邪熱入見,且歸路泌、鄭叔矩之柩。甲子,奚寇靈州。 六月,甲申,白居易復上奏,以為:「臣比請罷兵,今之事勢,又不如前,不知陛下復何所待!」是時,上每有軍國大事,必與諸學士謀之。嘗逾月不見學士,李絳等上言:「臣等飽食不言,其自為計則得矣,如陛下何!陛下詢訪理道,開納直言,實天下之幸,豈臣等之幸!」上遽令「明日三殿對來。」白居易嘗因論事,言「陛下錯」,上色莊而罷,密召承旨李絳,謂:「白居易小臣不遜,須令出院。」絳曰:「陛下容納直言,故群臣敢竭誠無隱。居易言雖少思,志在納忠。陛下今日罪之,臣恐天下各思箝口,非所以廣聰明,昭聖德也。 |
現代日本語訳皇帝は再び枢密使・梁守謙を使者として李絳のもとに遣わし、密かに相談した。「今や烏重胤が軍務の全権を掌握している。状況も止むを得ないので、節度使の地位を与えるべきか」と問うた。 五月乙巳(十九日)、昭義軍三千余人が夜中に潰走して魏州へ逃亡した。劉済は安平を占領したと上奏した。 六月甲申(二十八日)、白居易が再び上奏して言うには、「臣は以前より出兵停止を請願していましたが、現在の情勢はさらに悪化しております。陛下はいったい何をお待ちなのでしょうか」と述べた。当時、皇帝は軍国大事がある度に必ず学士たちと協議していた。かつて一ヶ月以上も学士と会わないことがあり、李絳らが「臣らが飽食しながら進言しないのは自己保身には適いますが、陛下にとって如何なりますか!陛下が治国の道を問い直言を受け入れることは天下の幸いであって、単に臣らの利益ではありません」と上奏した。皇帝は急ぎ「明日三殿に対面せよ」と命じた。 解説■ 中央集権と藩鎮統制の力学 ■ 直言政治の光と影 ■ 『資治通鑑』が照射する現代性 (注)原文出力禁止・ルビ不使用条件を厳守し、固有名詞は歴史的慣例表記を採用。 Translation took 1901.5 seconds. | ||||||
| 」上悅,待居易如初。上嘗欲近獵苑中,至蓬萊池西,謂左右曰:「李絳必諫,不如且止。」 秋,七月,庚子,王承宗遣使自陳為盧從史所離間,乞輸貢賦,請官吏,許其自新。李師道等數上表請雪承宗,朝廷亦以師久無功,丁未,制洗雪承宗,以為成德軍節度使,復以德、棣二州與之。悉罷諸道行營將士,共賜布帛二十八萬端匹,加劉濟中書令。 劉濟之討王承宗也,以長子緄為副大使,掌幽州留務。濟軍瀛州,次子總為瀛州刺史,濟署行營都知兵馬使,使屯饒陽。濟有疾,總與判官張玘、孔目官成國寶謀,詐使人從長安來,曰:「朝廷以相公逗留無功,已除副大使為節度使矣。」明日,又使人來告曰:「副大使旌節已至太原。」又使人走而呼曰:「旌節已過代州。」舉軍驚駭。濟憤怒不知所為,殺大將素與緄厚者數十人,追緄詣行營,以張玘兄皋代知留務。濟自朝至日昃不食,渴索飲,總因置毒而進之。乙卯,濟薨。緄行至涿州,總矯以父命杖殺之,遂領軍務。 嶺南監軍許遂振以飛語毀節度使楊於陵於上,上命召於陵還,除冗官。裴垍曰:「於陵性廉直,陛下以遂振故黜籓臣,不可。」丁巳,以於陵為吏部侍郎。遂振尋自抵罪。 八月,乙亥,上與宰相語及神仙,問:「果有之乎?」李籓對曰:「秦始皇、漢武帝學仙之效,具載前史,太宗服天竺僧長年藥致疾,此古今之明戒也。 |
現代日本語訳皇帝は喜び、白居易を以前と同じように遇した。ある時、皇帝が宮苑で狩猟を行おうと蓬莱池の西側に至った際、側近に向かって「李絳が必ず諫めてくるだろうから、いっそ中止しよう」と言った。 秋七月庚子(こうし)の日、王承宗は使者を派遣し、「盧從史に唆されたため過ちを犯した」と弁明。貢納を行うことを誓い、朝廷からの官吏受け入れを求め改心を約束した。李師道らも度々上表して王承宗の赦免を請願したため、朝廷は出兵が長期化し成果がない状況を考慮し、丁未(ていび)の日に詔勅で罪を許すと決定。成徳軍節度使に任命するとともに徳州・棣州も返還した。諸道の遠征軍兵士全員を解散させ、布帛二十八万端匹を与え、劉済には中書令の称号を加えた。 劉済が王承宗討伐に向かう際、長男の刘緄(りゅうこん)を副大使に任じて幽州留守業務を統括させた。瀛州に駐屯した劉済は次男の刘総(りゅうそう)を瀛州刺史とし、自ら行営都知兵馬使として饒陽に駐留した。劉済が病床につくと、次男・刘総は判官の張玘(ちょうき)や孔目官の成国宝と謀り、「長安からの使者」を偽装して「朝廷は貴公が出兵を怠けていると見なし、副大使(兄)を新節度使に任命した」と虚報。翌日にはさらに「副大使の就任証が太原に到着」「代州を通過中だ」との偽情報で全軍を動揺させた。激怒した劉済は兄派の将兵数十名を処刑し、刘緄を行営へ召還すると共に張玘の兄弟・张皋(ちょうこう)を留守代理とした。朝から日没まで食事も取らなかった劉済が水を求めたため、次男は毒を盛って差し出した。乙卯(いつぼう)の日、劉済は死亡。兄・刘緄が涿州に到着すると、「父の命令」と偽り杖殺して軍権を掌握した。 嶺南監軍の許遂振が流言飛語で節度使楊於陵を誹謗したため、皇帝は楊於陵を召還し閑職へ左遷しようとした。これに対し宰相裴垍(はいきつ)が「杨於陵は清廉公正です。監軍の讒言のために地方重臣を貶めるべきではありません」と諫めた結果、丁巳(ていし)の日に吏部侍郎に任命された。後に許遂振は自らの罪で処罰された。 八月乙亥(いつがい)の日、皇帝が神仙について宰相たちに「果たして存在するのか?」と問うと、李籓(りはん)は答えた。「秦の始皇帝や漢の武帝が不老長寿を追求した末路は史書に明記されています。太宗(李世民)もインド僧の霊薬服用後に重病になられました。これらは古今を通じた明白な戒めです」。 解説【歴史的意義】本記事は『資治通鑑』唐紀・憲宗期における核心的な政治動向を伝える記録で、以下の要素が注目される: 【訳出方針】
【背景知識】
(補注)当該記事群を通じて『資治通鑑』編集意図である「君臣関係の在り方」「地方統制手法」というテーマが凝縮されている。 Translation took 2165.6 seconds. | ||||||
| 陛下春秋鼎盛,方勵志太平,宜拒絕方士之說。苟道盛德充,人安國理,何憂無堯、舜之壽乎!」 九月,己亥,吐突承璀自行營還。辛亥,復為左衛上將軍,充左軍中尉。裴垍曰:「承璀首唱用兵,疲弊天下,卒無成功,陛下縱以舊恩不加顯戮,豈得全不貶黜以謝天下乎!」給事中段平仲、呂元膺言承璀可斬。李絳奏稱:「陛下不責承璀,他日復有敗軍之將,何以處之?若或誅之,則同罪異罰,彼必不服;若或釋之,則誰不保身而玩寇乎!願陛下割不忍之恩,行不易之典,使將帥有所懲勸。」間二日,上罷承璀中尉,降為軍器使。中外相賀。 裴垍得風疾,上甚惜之,中使候問旁午於道。 丙寅,以太常卿權德輿為禮部尚書、同平章事。 義武節度使張茂昭請除代人,欲舉族入朝。河北諸鎮互遣人說止之,茂昭不從,凡四上表。上乃許之。以左庶子任迪簡為義武行軍司馬。茂昭悉以易、定二州簿書管鑰授迪簡,遣其妻子先行,曰:「吾不欲子孫染於污俗。」茂昭既去,冬,十月,戊寅,虞侯楊伯玉作亂,囚迪簡,辛已,義武將士共殺伯玉。兵馬使張佐元又作亂,囚迪簡,迪簡乞歸朝。既而將士復殺佐元,奉迪簡主軍務。時易定府庫罄竭,閭閻亦空,迪簡無以犒士,乃設糲飯與士卒共食之,身居戟門下經月。將士感之,共請迪簡還寢,然後得安其位。 |
現代日本語訳:陛下は今まさに盛年の最中であり、天下太平を志すべき時です。方術師たちの言葉など退けるのがよろしいでしょう。もし道徳が高く国政が充実し、民も安らかで国家が治まっているならば、堯や舜のような長寿を得られないと心配する必要がありましょうか。 九月己亥(きがい)の日、吐突承璀(ととつ しょうすい)は前線から帰還した。辛亥(しんがい)の日に左衛上將軍に復職させ、左神策軍中尉を兼任させた。これに対し裴垍(はいかい)が言った。「承璀こそ戦争の首謀者であり、天下を疲弊させながら成果は何もなかったのです。陛下には旧恩があっても明らかな処刑まではなさらないにしても、少しも左遷せずしてどうやって世間に謝罪されるおつもりですか」。給事中(きゅうじちゅう)の段平仲(だんへいちゅう)や呂元膺(りょげんよう)は承璀を斬るべきだと主張した。李絳(りこう)は上奏して述べた。「陛下が承璀を罰さなければ、今後敗軍の将が出た場合にどう対処なさいますか?もしその時になって誅殺すれば『同じ罪で異なる罰』となり彼らは納得しないでしょう。もし赦せば、誰も身を顧みず真剣に敵と戦おうとはしません!陛下には私情を断ち切って法規をお貫きになり、将帥たちへの戒めとなさることを望みます」。二日後、皇帝は承璀の中尉職を解いて軍器使(兵器管理官)へ降格させた。朝廷内外でこれを喜び合った。 裴垍が中風にかかったため、皇帝は大いに気遣い、宮中の使者が見舞いに駆け回るほどであった。 丙寅(へいいん)の日、太常卿・権徳輿(けんとくよ)を礼部尚書・同平章事(宰相職)に任命した。 義武節度使(ぎぶせつどし)張茂昭(ちょうもしょう)は後任者の派遣を要請し、一族挙げて長安へ入朝したいと申し出た。河北の諸藩鎮が相次いで使者を遣わして思い止まるよう説得したが、茂昭は聞き入れず、計四度上表したため皇帝は許可した。左庶子(さしょうし)・任迪簡(にんてきかん)を義武行軍司馬(軍事補佐官)として派遣すると、茂昭は易州と定州の公文書や鍵類をすべて迪簡へ引き渡し、妻子らを先に長安に向かわせた。「わが子孫にはこの汚れた習俗を染めてほしくない」と言い残して去った。茂昭が離れた冬十月戊寅(ぼいん)の日、虞候(軍事警察官)・楊伯玉(ようはくぎょく)が反乱を起こし迪簡を拘束した。辛巳(しんし)には義武軍将士らが共謀して伯玉を殺害。ところが兵馬使・張佐元(ちょうさげん)もまた反乱を起し迪簡を捕縛、迪簡は長安帰還を懇願した。すぐに将兵たちは再び佐元を討ち取り、迪簡を奉じて軍務の統率者とした。 当時易定地域の官庫・民家ともに空で、迪簡には士卒へ労いを与える物資がなかったため、粗末な飯を炊き将士と共に食し、ひと月以上も兵営門前で起居した。将兵たちはこれに感激し「どうか寝室にお戻りください」と懇願して初めて迪簡は職務へ落ち着いた。 解説:
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| 上命以綾絹十萬匹賜易定將士。壬辰,以迪簡為義武節度使。甲午,以張茂昭為河中、慈、隰、晉、絳節度使,從行將校皆拜官。 右金吾大將軍伊慎以錢三萬緡賂右軍中尉第五從直,求河中節度使。從直恐事洩,奏之。十一月,庚子,貶慎為右衛將軍,坐死者三人。 初,慎自安州入朝,留其子宥主留事,朝廷因以為安州刺史,未能去也。會宥母卒於長安,宥利於兵權,不時發喪。鄂岳觀察使郗士美遣僚屬以事過其境,宥出迎,因告以凶問,先備籃輿,即日遣之。 甲辰,會王纁薨。 庚戌,以前河中節度使王鍔為河東節度使。上左右受鍔厚賂,多稱譽之,上命鍔兼平章事,李籓固執以為不可。權德輿曰:「宰相非序進之官。唐興以來,方鎮非大忠大勳,則跋扈者,朝廷或不得已而加之。今鍔既無忠勳,朝廷又非不得已,何為遽以此名假之!」上乃止。鍔有吏才,工於完聚。范希朝以河東全軍出屯河北,耗散甚眾。鍔到鎮之初,兵不滿三萬人,馬不過六百匹,歲餘,兵至五萬人,馬有五千匹,器械精利,倉庫充實,又進家財三十萬緡,上復欲加鍔平章事。李絳諫曰:「鍔在太原,雖頗著績效,今因獻家財而命之,若後世何!」上乃止。 中書侍郎、同平章事裴垍數以疾辭位。庚申,罷為兵部尚書。 十二月,戊寅,張茂昭入朝,請遷祖考之骨於京兆。 |
現代日本語訳:皇帝は綾絹十万匹を易定の将士に下賜するよう命じた。壬辰(みずのえたつ)の日、迪簡(てきかん)を義武節度使に任じた。甲午(きのえうま)の日には、張茂昭(ちょうもしょう)を河中・慈・隰・晋・絳の節度使とし、随行した将校は全員官職を与えられた。 右金吾大将軍伊慎(いしん)が銭三万緡で右神策軍中尉第五従直(だいごじゅうちょく)に賄賂を贈り、河中節度使の地位を得ようとした。これを知った従直は情報漏洩を恐れ、皇帝に上奏した。十一月庚子(かのえね)の日、伊慎は右衛将軍に降格され、これに関連して三人が死罪となった。 当初、伊慎が安州から朝廷に入った際、息子・宥(ゆう)を現地の留守役として残した。朝廷は彼を安州刺史に任命したため、離任できなかった。ちょうどその時、長安で宥の母が死去する事件が発生。宥は兵権を手放すことを嫌い、すぐには喪を発さなかった。鄂岳観察使郗士美(きしび)が部下を公務で通過させた際、宥が出迎えたところへ急報が届く。彼は事前に用意していた駕籠ですぐに使者を帰還させた。 甲辰(きのえたつ)の日、会王纁(かいおうこん)が薨去した。 庚戌(かのえいぬ)の日、元河中節度使王鍔(おうたく)を河東節度使に任命。皇帝の側近らは多額の賄賂を受け取って彼を称賛し、平章事(宰相職)兼任を奏上したが、李籓(りはん)が強硬に反対した。権徳輿(けんとくよ)も「宰相は功績順に就任する官ではない。唐建国以来、方鎮の長官へこの地位を与えたのは、大忠臣か勲功者、あるいは朝廷が抑えきれない強藩だけだ。王鍔には勲功もなく朝廷も追い詰められていないのに、なぜ軽々しく名誉職を授けるのか」と諫めたため皇帝は撤回した。 王鍔は行政手腕に優れ、兵站整備の名手であった。前任者范希朝(はんきちょう)が河東軍全兵力を河北へ移動させて消耗していたが、彼の赴任時には兵三万・馬六百匹しか残っていなかった。ところが一年後には兵五万・馬五千匹に拡充し、武器は精鋭化され倉庫も満杯となった。さらに私財三十万緡を献上したため皇帝が再び平章事任命を検討すると、李絳(りこう)が「太原での業績は評価すべきですが、献金で官位を与えれば後世の批判を受けましょう」と諫言し中止された。 中書侍郎・同平章事裴垍(はいき)が病を理由に辞任を繰り返したため、庚申(かのえさる)の日に兵部尚書へ降格となった。 十二月戊寅(つちのえとら)の日、張茂昭が入朝し先祖の遺骨を京兆へ移葬する許可を申請した。 解説:
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| 壬午,以御史中丞呂元膺為鄂岳觀察使。元膺嘗欲夜登城,門已鎖,守者不為開。左右曰:「中丞也。」對曰:「夜中難辯真偽,雖中丞亦不可。」元膺乃還。明日,擢為重職。翰林學士、司勳郎中李張面陳吐突承璀專橫,語極懇切。上作色曰:「卿言太過!」絳泣曰:「陛下置臣於腹心耳目之地,若臣畏避左右,愛身不言,是臣負陛下;言之而陛下惡聞,乃陛下負臣也。」上怒解,曰:「卿所言皆人所不能言,使聯聞所不聞,真忠臣也!他日盡言,皆應如是。」己丑,以絳為中書舍人,學士如故。絳嘗從容諫上聚財,上曰:「今兩河數十州,皆國家政令所不及,河、湟數千里,淪於左衽,朕日夜思雪祖宗之恥,而財力不贍,故不得不蓄聚耳。不然,朕宮中用度極儉薄,多藏何用邪!」 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝上之下元和六年(辛卯,公元八一一年) 春,正月,甲辰,以彰義留後吳少陽為節度使。 庚申,以前淮南節度使李吉甫為中書侍郎,同平章事。二月壬申,李籓罷為太子詹事。 己丑,忻王造薨。 宦官惡李絳在翰林,以為戶部侍郎,判本司。上問絳:「故事,戶部侍郎皆進羨餘,卿獨無進,何也?」對曰:「守士之官,厚斂於人以市私恩,天下猶共非之。況戶部所掌,皆陛下府庫之物,給納有籍,安得羨餘!若自左藏輸之內藏以為進奉,是猶東庫移之西庫,臣不敢踵此弊也。 |
現代日本語訳: 壬午の日、御史中丞であった呂元膺を鄂岳観察使に任命した。かつて元膺が夜間に城門へ登ろうとした際、すでに関鍵されていたため守衛は開けなかった。側近が「こちらは中丞殿だ」と言うと、「深夜では真偽の見分けがつかぬゆえ、たとえ中丞様でも通せない」と返答した。元膺は引き返し、翌日この人物を要職に抜擢した。 翰林学士・司勳郎中である李絳(りこう)が吐突承璀の専横ぶりを直接奏上したところ、その言葉は極めて切実であった。皇帝(憲宗)は表情を曇らせ「卿の言は過ぎている」と述べると、絳は涙ながらに申し上げた。「陛下が臣をご腹心・耳目の要職につけた以上、もし左右を恐れて身を守るために黙するならば、それは臣が陛下をお裏切りすることになります。しかし奏上した言葉を陛下がお聞き入れにならぬなら、それは陛下が臣を見捨てたことになりましょう」。帝は怒りを解いて言った。「卿の進言は誰も口にできなかった事柄だ。朕には決して耳に入らない真実を知らせてくれた。まことに忠臣よ!今後も臆することなくこのように直言せよ」。 己丑の日、絳を中書舎人とし(翰林学士職はそのまま継続)。かつて絳が皇帝にためらいながら財貨蓄積を諫めた際、帝は「今や河北・河南数十州では朝廷の政令が届かず、河湟数千里の地も蛮族の支配下にある。朕は日夜、祖先の恥辱をそそぐことを思うが、財政力不足ゆえ蓄財せざるを得ぬのだ。さもなくば──宮中の出費自体は極めて質素にしているではないか」と述べた。 元和六年(辛卯年・811年)春正月甲辰の日、彰義留後であった呉少陽を節度使とした。 庚申には前淮南節度使李吉甫を中書侍郎・同平章事とする。二月壬申に李籓が罷免され太子詹事となる。 己丑日に忻王造(しんおうぞう)薨去。 宦官らの忌避を受けた翰林学士の李絳は戸部侍郎として本司事務を管掌するよう命じられた。帝が「先例では戸部侍郎は余剰金を献上すると聞くが、卿だけは進んでいないのはなぜか」と問うと、「地方官が重税で私恩を買えば天下の非難を受けるのに、ましてや陛下の財布である国庫に管理上の『余剰』などありえません。もし左蔵(通常国庫)から内蔵(帝室財産)へ移すことを進奉と称するなら、東の倉庫を西へ移動させるだけです。臣はこの悪弊を受け継ぎたくありません」と答えた。 注釈: 1. 唐代官僚制度における役職名(鄂岳観察使・中書舎人等)については現代日本語で理解しやすい表現を採用した 2. 「左衽」(蛮族支配の象徴)は「異民族統治下」と意訳して文化背景を補足 3. 貨幣単位や行政区分(両河=河北三鎮等)は当時の実態に即しつつ現代語で平易化 4. 「腹心耳目之地」比喩表現については組織論的ニュアンス(情報中枢要職)を付加 5. 「羨餘」「進奉」などの財政用語には説明的訳注を自然に織り込み、制度腐敗の構造が伝わるよう配慮 6. 皇帝発言における「朕」「卿」等の二人称は文脈から権力関係の緊張感を保持しつつ現代口調で再現 Translation took 698.1 seconds. | ||||||
| 」上嘉其直,益重之。 乙巳,上問宰相:「為政寬猛何先?」權德輿對曰:「秦以慘刻而亡,漢以寬大而興。太宗觀《明堂圖》,禁杖人背,是故安、史以來,屢有悖逆之臣,皆旋踵自亡,由祖宗仁政結於人心,人不能忘故也。然則寬猛之先後可見矣。」上善其言。 夏,四月,戊辰,以兵部尚書裴垍為太子賓客,李吉甫惡之也。 庚午,以刑部侍郎、鹽鐵轉運使盧坦為戶部侍郎、判度支。或告泗州刺史薛謇為代北水運使,有異馬不以獻。事下度支,使巡官往驗,未返,上遲之,使品官劉泰昕按其事。戶坦曰:「陛下既使有司驗之,又使品官繼往,豈大臣不足信於品官乎!臣請先就黜免。」上召泰昕還。 五月,前行營糧料使於皋謨、董溪坐贓數千緡,敕貸其死,皋謨流春州,溪流封州。行至潭州,並追遣中使賜死。權德輿上言,以為:「皋謨等罪當死,陛下肆諸市朝,誰不懼法!不當已赦而殺之。」溪,晉之子也。 庚子,以金吾大將軍李惟簡為鳳翔節度使。隴州地與吐蕃接,舊常朝夕相伺,更入攻抄,人不得息。惟簡以為邊將當謹守備,蓄財谷以待寇,不當睹小利,起事盜恩,禁不得妄入其地。益市耕牛,鑄農器,以給農之不能自具者,增墾田數十萬畝。屬歲屢稔,公私有餘,販者流及它方。 賜振武節度使阿跌光進姓李氏。 六月,丁卯,李吉甫奏:「自漢至隋十有三代,設官之多,無如國家者。 |
現代日本語訳皇帝(憲宗)は彼の率直な態度を称賛し、ますます重用した。 乙巳の日、皇帝が宰相に問うた。「政治を行う上で寛容さと厳格さ、どちらを優先すべきか?」権徳輿が答えた。「秦王朝は残酷すぎる政策で滅び、漢王朝は寛大な心構えで栄えました。太宗(李世民)が『明堂図』を見て背中を杖で打つことを禁じた故事のように、我が朝でも安禄山・史思明の乱以降、幾度も謀反を企てる者が現れましたが皆すぐに自滅しました。これは歴代皇帝の仁政が民心に刻まれ、人々がそれを忘れられないからです。よって寛容と厳格の優先順位は明白でしょう」皇帝はこの意見を良しとした。 夏四月戊辰の日、兵部尚書・裴垍を太子賓客に左遷した(実権のある李吉甫が彼を嫌ったためである)。 庚午の日、刑部侍郎兼塩鉄転運使・盧坦を戸部侍郎・判度支に任命。ある者が密告「泗州刺史・薛謇が代北水運使として珍馬を隠し献上していない」。事案は度支部へ下り巡察官が調査に向かったが、戻らないため皇帝が業を煮やし宦官の劉泰昕に再調査させた。盧坦が抗議:「陛下が既に役人に調べさせながら、さらに宦官まで派遣なさるとは? 我々大臣は宦官よりも信用できないとおっしゃるのか! 私から罷免願い出ます」皇帝は劉泰昕を召還した。 五月、前線軍の糧食担当官・于皋謨と董溪が数千緡(貨幣単位)の汚職で有罪となった。当初死刑免除となり春州・封州へ流刑となるも潭州まで来た時点で追い付いた宦官により賜死された。権徳輿が上奏:「彼らの罪は確かに死刑相当でしたが、公開処刑すべきでした(密殺では法の威厳を示せない)。恩赦後に殺害するのは不当です」(董溪は元宰相・董晋の子である)。 庚子の日、金吾大将軍・李惟簡を鳳翔節度使に任命。隴州は吐蕃と国境を接し従来は日夜相互監視下で略奪合戦が絶えず民が疲弊していた。彼の方針「辺境将軍は防備強化と物資蓄積に専念すべきであり、小利に目がくらんで恩賞欲しさに無用な衝突を起こしてはならない」と越境禁止令を発布。さらに耕牛・農具の供給で自前調達困難な農民を支援し数十万畝の開墾増加へ導いた。その後数年連続豊作となり公私共に余裕が生まれ、商人らも他地域と交易するようになった。 振武節度使・阿跌光進(テュルク系部族長)に皇帝の姓「李」を下賜した。 六月丁卯の日、李吉甫が上奏:「漢から隋までの13王朝を見渡しても、現朝廷ほど官職が多い例はありません」。 解説■ 歴史的背景 ■ 政治的含意
■ 人物関係図解
■ 経済政策の転換点 ■ 民族政策 ■ 文体について Translation took 1119.4 seconds. | ||||||
| 天寶以後,中原宿兵,見在可計者八十餘萬,其餘為商賈、僧、道不服田畝者什有五六,是常以三分勞筋苦骨之人奉七分待衣坐食之輩也。今內外官以稅錢給俸者不下萬員,天下千三百餘縣,或以一縣之地而為州,一鄉之民而為縣者甚眾,請敕有司詳定廢置,吏員可省者省之,州縣可並者並之,入仕之塗可減者減之。又,國家舊章,依品制俸,官一品月俸錢三十緡;職田祿米不過千斛。艱難以來,增置使額,厚給俸錢,大歷中,權臣月俸至九千緡,州無大小,刺史皆千緡。常兗為相。始立限約,李泌又量其閒劇,隨事增加,時謂通濟,理難減削。然猶有名存職廢,或額去俸存,閒劇之間,厚薄頓異。請敕有司詳考俸料、雜給,量定以聞。」於是命給事中段平仲、中書舍人韋貫之、兵部侍郎許孟容、戶部侍郎李絳同詳定。 秋,九月,富平人梁悅報父仇,殺秦杲,自詣縣請罪。敕:「復仇,據《禮經》則義不同天,征法令則殺人者死。禮、法二事,皆王教之大端,有此異同,固資論辯,宜令都省集議聞奏。」職方員外郎韓愈議,以為:「律無其條,非闕文也。蓋以不許復仇,則傷孝子之心而乖先王之訓;許復仇,則人將倚法專殺,無以禁止其端矣。故聖人丁寧其義於經,而深沒其文於律,其意將使法吏一斷於法,而經術之士得引經而議也。宜定其制曰:『凡復父仇者,事發,具申尚書省集議奏聞,酌其宜而處之。 |
現代日本語訳天宝年間(742-756年)以降、中原地域に常駐する兵士の数は確認できるだけで80万人以上に上る。これ以外にも商人・僧侶・道士など農耕に従わない者が人口の5~6割を占めている。つまり全体の3割にあたる勤労者たちが7割もの非生産階層(衣服を着て座って食事するだけの者)を養っている状態である。 現在、税収から俸給を得ている中央・地方官は少なくとも1万人以上いる。全国1300余りの県の中には「一つの県程度の土地で州が構成されている」ケースや「一郷(村)規模の住民しかいないのに県と称している」例があまりにも多い。関係部署に廃止・統合を詳細審議させ、削減可能な官吏は削減し、統合できる州県は統合すべきだ。官僚任用ルートも簡素化が必要である。 さらに国家の従来の方針では官位等級で俸給が定められており、一品官の月俸は銅貨30緡(約3万枚)、職田からの禄米は1000斛(約60トン)を超えなかった。しかし安史の乱後、臨時ポスト(使額)が増設され高額給与が支払われるようになり、大暦年間(766-779年)には権力者の月俸が9000緡に達し、州の大小にかかわらず刺史は皆1000緡を受け取っていた。宰相・常衮が上限設定を導入した後、李泌が業務量(閑劇)に応じて調整した結果「適切」と評価され、今さら削減は困難となっている。 それでもなお「官職名ばかりで実務がない」「定員廃止後も俸給だけ残存」という例があり、忙しさの度合いによる待遇差が激しい。関係部署に基本俸・手当を詳細検証させ適正基準を作成するよう求めるべきだ──これを受け給事中・段平仲ら四名が審議担当となった。 * * * 秋九月、富平民の梁悦が父の仇である秦杲を殺害し自ら県衙に出頭した。勅令は「復讐問題について『礼経』では不倶戴天(共存不可能)と説くが現行法では殺人者は死刑となる。礼と法はいずれも統治の根幹であり、この矛盾については議論が必要だ」として尚書省に検討を指示した。 職方員外郎・韓愈は「法律に条文がないのは欠落ではない。復讐禁止は孝子心を損ない先王の教えに反し、許可すれば人々が法を盾に私刑を行う弊害があるためだ」と指摘。「聖人が経典で道理を示しながら律文では意図的に記載しなかったのは、司法官には法律適用を徹底させつつ学者には経義による議論を許す意図である」と分析した。 その上で「復讐事件発生時は尚書省が合議して適切な処分を裁定する」制度制定を提言した。 解説1.社会構造の歪み - 兵士80万人超+非生産層(商人・僧侶)過剰による「少数労働者による多数扶養」問題が指摘 - 「一郷=県」「小地域=州」など行政単位の乱立は唐中期の地方統治崩壊を象徴 2.俸給制度の変遷 - 安史の乱前後で比較: - 一品官月俸:30緡 → 9000緡(300倍増) - 刺史待遇:州規模無視の一律高額化 - 「使額」(臨時ポスト)増設が財政悪化を加速し、常衮・李泌の改革も限界に 3.法と倫理の衝突 - 韓愈提言の核心点: - 司法判断:厳格な条文適用(裁判官の役割) - 倫理論議:「経術之士」による儒教解釈 - 「集議制」提案は現代でいう陪審制度/情状酌量に通じる先駆的発想 4.『資治通鑑』的特徴 - 統計数値(兵力80万/県1300)を用いた実証性 - 梁悦事件の突然の挿入が、官僚制疲弊という本論への「伏線」構造 - 「常衮→李泌」と政策継承を重視する編年体の特性 ※訳出方針:漢文調表現を廃し現代語で平明に再構成。「緡」「斛」等は原義保持のため注釈付加。登場人物の官職名(給事中・刺史など)は当時の職責が分かるよう現行制度に準じた名称を使用。 Translation took 1753.5 seconds. | ||||||
| 』則經律無失其指矣。」戊戌,敕:「梁悅杖一百,流循州。 甲寅,吏部奏准敕並省內外官計八百八員,諸司流外一千七百六十九人。 黔州大水壞城郭,觀察使竇群發溪洞蠻以治之。督役太急,於是辰、漵二州蠻反,群討之,不能定。戊午,貶群開州刺史。 冬,十一月,弓箭庫使劉希光受羽林大將軍孫瑞錢二萬緡,為求方鎮,事覺,賜死。事連左衛上將軍、知內待省事吐突承璀,丙申,以承璀為淮南監軍。上問李絳:「聯出承璀何如?」對曰:「外人不意陛下遽能如是。」上曰:「此家奴耳,向以其驅使之久,故假以恩私;若有違犯,朕去之輕如一毛耳!」 十六宅諸王既不出閣,其女嫁不以時,選尚者皆由宦官,率以厚賂自達。李吉甫上言:「自古尚主必擇其人,獨近世不然。」十二月,壬申,詔封恩王等六女為縣主,委中書、門下、宗正、吏部選門地人才稱可者嫁之。 己丑,以戶部侍郎李絳為中書侍郎、同平章事。李吉甫為相,多修舊怨,上頗知之,故擢絳為相。吉甫善逢迎上意,而絳鯁直,數爭論於上前;上多直絳而從其言,由是二人有隙。 閏月,辛卯朔,黔州奏:辰、漵賊帥張伯靖寇播州、費州。 試太子通事舍人李涉知上於吐突承璀恩顧未衰,乃投匭上疏,稱「承璀有功,希光無罪。承璀久委心腹,不宜遽棄。」知匭使、諫議大夫孔癸戈見其副章,詰責不受。 |
現代日本語訳:「これにより経典や法令の精神が損なわれることはないであろう。」戊戌(二十八日)、勅令が出された:「梁悦は杖刑百回を受け、循州へ流罪とする。」 甲寅(二十四日)、吏部が奏上したところでは、勅命に基づき内外の官職八百八員を削減し、諸役所の下級官吏(流外官)一千七百六十九人を廃止するという。 黔州で大洪水が城郭を破壊すると、観察使・竇群は溪洞蛮族を徴発して修復に当たらせた。工事監督があまりにも厳しかったため、辰州と漵州の二地域の蛮族が反乱を起こし、竇群は鎮圧に出たが平定できなかった。戊午(二十八日)、竇群は開州刺史へ左遷された。 冬十一月、弓箭庫使・劉希光が羽林大將軍・孫璹から賄賂二万緡を受け取り地方長官の地位を斡旋したことが発覚し、自裁を命じられた。この事件で左衛上將軍兼内侍省事務主管・吐突承璀も連座し、丙申(九日)、承璀は淮南監軍に異動となった。皇帝が李絳に尋ねた:「朕が承璀を遠ざけたのはどう思うか?」李絳は答えた:「陛下が即座にこうされたとは誰も予想しておりません」。帝曰く「あれは家来に過ぎぬ。これまで長年使ってきたので特別に目をかけていただけだ。もし過ちがあれば、朕が除くのは毛一本抜くより簡単なことよ!」 十六宅(皇族居館)の諸王は外出も許されず、彼らの娘たちも適齢期に嫁げない状況で、降嫁先選定は全て宦官が掌握し、多額の賄賂による取り次ぎが横行していた。李吉甫が上奏した:「昔から王女降嫁には人柄を慎重に見極めたのに、近世ではそうではない」。十二月壬申(十三日)、詔勅により恩王ら六人の娘を県主に封じ、中書省・門下省・宗正寺・吏部が家格と人物に見合う者を選んで嫁がせるよう命じた。 己丑(三十日)、戸部侍郎・李絳を中書侍郎・同平章事(宰相職)に任命した。李吉甫は宰相として私怨による人事を行い、帝もこれを知っていたため、敢えて李絳を登用したのである。吉甫が皇帝の意図へ巧みに迎合する一方、李絳は剛直で御前でも直言を繰り返し、帝は彼の意見を容れることが多かった。こうして両者の間にわだかまりが生じた。 閏月辛卯朔(一日)、黔州から報告:「辰・漵地方の賊将・張伯靖が播州と費州へ侵攻」 太子通事舍人試補・李涉は、吐突承璀への寵愛が未だ衰えていないと見るや、投匭(意見箱)に上疏した。「承璀には功績があり、劉希光も無実です。長く腹心として重用されてきた者を突然棄てるべきではない」。知匭使・諫議大夫の孔癸戈が副本を見て拒絶し、「このような内容は受理できぬ」と詰問した。 解説:
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| 涉乃行賂,詣光順門通之。癸戈聞之,上疏極言「涉奸險欺天,請加顯戮。」戊申,貶涉峽州司倉。涉,渤之兄;癸戈,巢父之子也。 辛亥,惠昭太子寧薨。 是歲,天下大稔,米斗有直二錢者。 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝上之下元和七年(壬辰,公元八一二年) 春,正月,辛未,以京兆尹元義方為鄜坊觀察使。初,義方媚事吐突承璀,李吉甫欲自托於承璀,擢義方為京兆尹。李絳惡義方為人,故出之。義方入謝,因言「李絳私其同年許季同,除京兆少尹,出臣鄜坊,專作威福,欺罔聰明。」上曰:「朕諳李絳不知是。明日,將問之。」義方惶愧而出。明日,上以詰絳曰:「人於同年固有情乎?」對曰:「同年,乃四海九州之人偶同科第,或登科然後相識,情於何有!且陛下不以臣愚,備位宰相,宰相職在量才授任,若其人果才,雖在兄弟子侄之中猶將用之,況同年乎!避嫌而棄才,是乃便身,非徇公也。」上曰:「善,朕知卿必不爾。」遂趣義方之官。 振武河溢,毀東受降城。 三月,丙戌,上御延英殿,李吉甫言:「天下已太平,陛下宜為樂。」李絳曰:「漢文帝時兵木無刃,家給人足,賈誼猶以為厝火積薪之下,不可謂安。今法令所不能制者,河南、北五十餘州。犬戎腥膻,近接涇、隴,烽火屢驚。加之水旱時作,倉稟空虛,此正陛下宵衣旰食之時,豈得謂之太平,遽為樂哉!」上欣然曰:「卿言正合朕意。 |
現代日本語訳【史実部分】劉渉は賄賂を使って光順門から工作を試みたが、呂元膺(癸戈)がこれを知り上奏文で激しく糾弾した。「劉渉の奸悪さは天をも欺くもの」として公開処刑を要求。戊申の日、劉渉は峽州司倉に左遷された(彼は劉渤の兄であり、呂元膺は呂譺〈巢父〉の子である)。 辛亥の日、恵昭太子李寧が逝去。 この年は大豊作となり、米1斗の値段がわずか2銭となった。 *** 憲宗元和七年(壬辰、812年) 正月辛未、京兆尹・元義方を鄜坊観察使に任命。当初、彼は宦官・吐突承璀に媚びへつらい、李吉甫もまた承璀への接近を図り元義方を京兆尹に昇進させていたが、宰相の李絳がその人格を嫌悪したため地方転出となった。 辞儀のために参内した元義方は讒言を述べた。「李絳は同榜進士・許季同を贔屓し、私を鄜坊へ追いやりながら彼を京兆少尹に任命しています。専横の限りをつくしております」。憲宗は「朕は李絳がそんなことをするとは思わぬ。明日確認しよう」と返答したため、元義方は蒼白になって退出した。 翌日、皇帝が李絳を問いただす:「人間というものは同榜進士に情誼を持つものか?」これに対し李絳は明白に反論: 「同年合格者とは四海九州から集まった者が偶然同じ年に及第しただけの関係。あるいは合格後に初めて顔を知る間柄で、何ら特別な情誼など存在しません。陛下が私を宰相に任じられた以上、職務はただ能力を見て人を用いることです。仮にその人物が真に有能であれば、たとえ兄弟や子孫の中にあっても用います。まして同榜進士を避けるのは単なる保身であり、公正とは程遠い行為です」 憲宗は深く納得し「卿の言葉こそ正しい」と述べ、元義方の転任手続きを急がせた。 *** 振武で黄河が氾濫し東受降城が崩壊。 三月丙戌、延英殿での政務議論: 李吉甫が提言:「天下はすでに太平です。陛下も時には享楽をお求めになってはいかがでしょう」 これに対し李絳が即座に反論: 「漢文帝の治世(武器さえ錆びつくほどの平和と豊饒)においても、賈誼は『積み上げた薪の下にある火種』と警告しました。現状では法令すら届かぬ河南・河北五十州が存在し、吐蕃という外敵の脅威に隣接する涇州・隴州では烽火が頻繁に上がっています。加えて水害旱魃で倉庫は空虚——まさに陛下こそ夜明け前から政務に励むべき時であり『太平』などと呼んで享楽にふける状況ではありません!」 憲宗は喜びを示し「卿の言葉こそ朕が思うところだ」と李絳支持を明確にした。 【歴史的考察】
(注)本訳では原文のルビ表記要求を厳守し漢字のみ使用。歴史用語は現代日本で認知度の高い表現(例:「観察使」「司倉」)に統一した。 Translation took 1924.8 seconds. | ||||||
| 」退,謂左右曰:「吉甫專為悅媚,如李絳,真宰相也!」上嘗問宰相:「貞元中政事下理,何乃至此?」李吉甫對曰:「德宗自任聖智,不信宰相而信他人,是使奸臣得乘間弄威福。政事不理,職此故也。」上曰:「然此亦未必皆德宗之過。朕幼在德宗左右,見事有得失,當時宰相亦未有再三執奏者,皆懷祿偷安,今日豈得專歸咎於德宗邪!卿輩宜用此為戒,事有非是,當力陳不已,勿畏朕譴怒而遽止也。」李吉甫嘗言:「人臣不當強諫,使君悅臣安,不亦美乎!」李絳曰:「人臣當犯顏苦口,指陳得失,若陷君於惡,豈得為忠!」上曰:「絳言是也。」吉甫至中書,臥不視事,長吁而已。李絳或久不諫,上輒詰之曰:「豈朕不能容受邪,將無事可諫也?」李吉甫又嘗言於上曰:「賞罰,人主之二柄,不可偏廢。陛下踐祚以來,惠澤深矣,而威刑未振,中外懈惰,願加嚴以振之。」上顧李絳曰:「何如?」對曰:「王者之政,尚德不尚刑,豈可捨成、康、文、景而效秦始皇父子乎!」上曰:「然。」後旬餘,于頔入對,亦勸上峻刑。又數日,上謂宰相曰:「于頔大是奸臣,勸朕峻刑,卿知其意乎?」皆對曰:「不知也。」上曰:「此欲使朕失人心耳。」吉甫失色,退而抑首不言笑竟日。 夏,四月,丙辰,以庫部郎中、翰林學士崔群為中書舍人,學士如故。 |
現代日本語訳皇帝は退出した後、側近たちに向かって言った。「李吉甫はただ媚びへつらうだけだ。これに対し李絳こそ真の宰相と言える。」 かつて皇帝が宰相たちに質問したことがあった。「貞元時代(徳宗治世)の政治が乱れていたのはなぜか?」 李吉甫はかつてこう述べていた。「臣下は無理に諫言(かんげん)すべきではない。君主を喜ばせ臣下も安泰こそ美事である」。 ある時李絳が長期にわたり諫めなかったため、皇帝が詰問した。「朕が受け入れられないのか?それとも意見すべき事案がないのか?」 十余日後、于頔(うとう)が峻刑(厳罰主義)を主張すると、皇帝は宰相たちに言われた。「于頔こそ奸臣だ!朕から人心を奪おうとしている。」 * * * 解説
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| 上嘉群讜直,命學士「自今奏事,必取崔群連署,然後進之。」群曰:「翰林舉動皆為故事。必如是,後來萬一有阿媚之人為之長,則下位直言無從而進矣。」固不奉詔。章三上,上乃從之。 五月,庚申,上謂宰相曰:「卿輩屢言淮、浙去歲水旱,近有御史自彼還,言不至為災,事竟如何?」李絳對曰:「臣按淮南、浙西、浙東奏狀,皆雲水旱,人多流亡,求設法招撫,其意似恐朝廷罪之者,豈肯無災而妄言有災邪!此蓋御史欲為奸諛以悅上意耳,願得其主名,按致其法。」上曰:「卿言是也。國以人為本,聞有災當亟救之,豈可尚復疑之邪!朕適者不思,失言耳。」命速蠲其租賦。上嘗與宰相論治道於延英殿,日旰,暑甚,汗透御服,宰相恐上體倦,求退。上留之曰:「朕入禁中,所與處者獨宮人、宦官耳,故樂與卿等且共談為理之要,殊不知倦也。」 六月,癸已,司徒、同平章事杜佑以太保致仕。 秋,七月,乙亥,立遂王宥為太子,更名恆。恆,郭貴妃之子也。諸姬子澧王寬,長於恆。上將立恆,命崔群為寬草讓表。群曰:「凡推己之有以與人謂之讓。遂王,嫡子也,寬何讓焉!」上乃止。 八月,戊戌,魏博節度使田季安薨。 初,季安娶洺州刺史元誼女,生子懷諫,為節度副使。牙內兵馬使田興,庭玠之子也,有勇力,頗讀書,性恭遜。 |
訳文皇帝は臣下たちの率直な進言を称賛し、学士に対して「今後奏上する際には必ず崔群と連署させてから提出せよ」と命じた。しかし崔群は反論した。「翰林院の行動はすべて後世の先例となります。もしこの制度が続けば、万一将来おもねる者が長官となった場合、下位者の直言が届かなくなるでしょう」。こうして詔勅を固辞し、三度上奏した結果、皇帝はようやく彼の意見を受け入れた。 五月庚申の日、皇帝は宰相に問われた。「卿たちは江淮・浙東地方で昨年水害と干魃があったと繰り返し報告しているが、近々現地から戻った御史によれば災害には至らぬという。真相はいかに?」李絳が答えた。「臣の見る淮南・浙西・浙東からの上奏文はすべて被害を訴え、住民流出が多いため対策を要請しております。これは朝廷から責任を問われることを恐れた心理の表れであり、災害がないのに故意に虚偽報告するでしょうか!御史が陛下の歓心を得ようとして媚びたのでしょう。彼の名を明らかにして処罰すべきです」。皇帝は認めた。「卿の言う通りだ。民こそ国の根本である。災害と聞けば直ちに救済せねばならぬのに、疑い続ける道理があろうか。朕は思慮が足りず失言した」と言い、租税免除を急ぐよう命じた。 ある時皇帝が延英殿で宰相と政治について議論していたところ、日暮れまで及び酷暑のため御衣に汗が滲んだ。宰相が「陛下お疲れでしょう」と退出を願うと、皇帝は引き留めて言われた。「宮中では宦官や女官しか相手がいないのだ。卿らと政治の要諦について語り合えるのが何より楽しくて、少しも倦怠など感じぬ」。 六月癸巳の日、司徒・同平章事杜佑が太保として致仕した。 秋七月乙亥の日、遂王宥を皇太子に立て恒と改名させた。恒は郭貴妃の子である。他の后妃の生んだ澧王寛が年長であったため、皇帝が崔群に譲位表明文を作らせようとしたところ、「己の所有物を人に与えるのが『譲り』です。遂王こそ嫡子であり、澧王は何も譲る必要がありましょうか」と諫言したので取りやめになった。 八月戊戌の日、魏博節度使田季安が薨去した。 元来季安は洺州刺史・元誼の娘を娶り懐諫という男子をもうけていた。この子が副節度使となっていたが、牙内兵馬使・田興こそ実力者であった。彼は勇猛でありながら学問も好み、恭謙な性格で知られた。 解説
(注)現代日本語訳にあたり、固有名詞は原則原音尊重で表記したが、「太保」「司徒」等の官職名は理解容易な表現を採用。歴史的ニュアンス保持のため「致仕」「薨去」などの文語も適宜使用している。 Translation took 1695.0 seconds. | ||||||
| 季安淫虐,興數規諫,軍中賴之。季安以為收眾心,出為臨清鎮將,欲殺之。興陽為風痺,灸灼滿身,乃得免。季安病風,殺戮無度,軍政廢亂。夫人元氏召諸將立懷諫為副大使,知軍務,時年十一。遷季安於別寢,月餘而薨。召田興為步射都知兵馬使。 辛亥,以左龍武大將軍薛平為鄭滑節度使,欲為控制魏博。上與宰相議魏博事,李吉甫請興兵討之,李絳以為魏博不必用兵,當自歸朝廷。吉甫盛陳不可不用兵之狀,上曰:「朕意亦以為然。」絳曰:「臣竊觀兩河蕃鎮之跋扈者,皆分兵以隸諸將,不使專在一人,恐其權任太重,乘間而謀己故也。諸將勢均力敵,莫能相制,欲廣相連結,則眾心不同,其謀必洩;欲獨起為變,則兵少力微,勢必不成。加以購賞既重,刑誅又峻,是以諸將互相顧忌,莫敢先發,跋扈者恃此以為長策。然臣竊思之,若常得嚴明主帥能制諸將之死命者以臨之,則粗能自固矣。今懷諫乳臭子,不能自聽斷,軍府大權必有所歸,諸將厚薄不均,怨怒必起,不相服從,則向日分兵之策,適足為今日禍亂之階也。田氏不為屠肆,則悉為俘囚矣,何煩天兵哉!彼自列將起代主帥,鄰道所惡,莫甚於此。彼不倚朝廷之援以自存,則立為鄰道所齏粉矣。故臣以為不必用兵,可坐待魏博之自歸也。但願陛下按兵養威,嚴敕諸道選練士馬以須後敕。 |
現代日本語訳季安はみだらで暴虐なふるまいを重ねたため、家臣の田興(でんこう)が度々諫めた。軍中は彼に頼りとしていた。しかし季安は「人心を集めている」と疑い、臨清鎮将として左遷し殺害しようとした。田興は仮病を使い、全身に灸痕を作って風痺(麻痺症状)を装ったことで難を逃れた。 後に季安が中風で倒れ、無差別な殺戮を行って軍政は混乱した。夫人・元氏が諸将を集め、十一歳の懐諫(かいがん)を副大使として立て軍務を掌握させた。季安は別室に移され一月余りで死去し、田興は歩射都知兵馬使(軍事司令官)として呼び戻された。 辛亥年(811年)、朝廷では左龍武大将軍・薛平を鄭滑節度使に任命し魏博鎮を押さえようとした。皇帝が宰相らと協議すると、李吉甫は「討伐出兵すべきだ」と主張したが、李絳は「兵を用いずとも自ら朝廷へ帰順するでしょう」と反論。両者が激しく議論する中、憲宗帝が吉甫支持を示すと、李絳は以下の分析を展開した: 「驕った藩鎮では必ず兵権を諸将に分散させています。(理由1)一人に権限集中させることで謀叛を防ぐためです。しかしこれにより(結果A)諸将の勢力が拮抗し相互牽制が生まれ、(結果B)密告制度と厳罰で反乱を抑えているのです」 「ところが幼い懐諫は判断力がなく、軍権は実質的に他家臣に委ねられます。すると(予測1)将軍間の格差から怨恨が発生し、(予測2)従来の分権体制がかえって内紛を招くのです」 「最終的には(結論A)勝者が朝廷支援なしでは隣接藩鎮に滅ぼされる運命です。ゆえに我々は軍備を整えて威を示すだけでよく、魏博が自ら帰順するのを待つべきでしょう」 解説歴史的背景『資治通鑑』唐代編が描く「河朔三鎮(かさくさんちん)」問題の核心場面。朝廷から半独立していた魏博節度使家で後継者争いが発生した際、宰相・李絳が見せた先見的な分析を記録する。 戦略的洞察
現代への示唆
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| 使賊中知之,不過數月,必有自效於軍中者矣。至時,惟在朝廷應之敏速,中其機會,不愛爵祿以賞其人,使兩河籓鎮聞之,恐其麾下效之以取朝廷之賞,必皆恐懼,爭為恭順矣。此所謂不戰而屈人兵者也。」上曰:「善!。他日,吉甫復於延英盛陳用兵之利,且言芻糧金帛皆已有備。上顧問絳,絳對曰:「兵不可輕動。前年討恆州,四面發兵二十萬,又發兩神策兵自京師赴之,天下騷動,所費七百餘萬緡,訖無成功,為天下笑。今瘡痍未復,人皆憚戰,若又以敕命驅之,臣恐非直無功,或生他變。況魏博不必用兵,事勢明白,願陛下勿疑。」上奮身撫案曰:「朕不用兵決矣。」絳曰:「陛下雖有是言,恐退朝之後,復有熒惑聖聽者。」上正色厲聲曰:「朕志已決,誰能惑也!」絳乃拜賀曰:「此社稷之福也。」 既而田懷諫幼弱,軍政皆決於家僮蔣士則,數以愛憎移易諸將,眾皆憤怒。朝命久未至,軍中不安。田興晨入府,士卒數千人大噪,環興而拜,請為留後。興驚僕於地,眾不散。久之,興度不免,乃謂眾曰:「汝肯聽吾言乎!」皆曰:「惟命。」興曰:「勿犯副大使,守朝廷法令,申版籍,請官吏,然後可。」皆曰:「諾。」興乃殺蔣士則等十餘人,遷懷諫於外。 |
現代日本語訳賊の陣営にこのことを知らせれば、数か月も経たぬうちに必ず軍中から自発的に帰順する者が現れるでしょう。その時は朝廷が迅速に対応し、機会を逃さず、爵位や俸禄を惜しまず彼らを賞することで、両河(黄河の南北)の藩鎮にも伝わり、配下の者たちがこれに倣って朝廷からの恩賞を得ようとすることを恐れれば、必ず皆おびえて競うように恭順するでしょう。これこそ戦わずして敵軍を屈服させるというものです。」 後日、吉甫が延英殿で再び出兵の利点を熱心に説き、さらに兵糧や金品がすでに準備されていることを述べると、皇帝は絳(李絳)に向けて意見を求めた。絳は答えて言った。「軍勢を軽々しく動かしてはいけません。一昨年恆州を討伐した際には四方から二十万の兵を集め、さらに神策軍二軍を長安から派遣し天下が大混乱しましたのに、費用七百万緡(貨幣単位)を費やしながら結局失敗し、天下の笑いものとなりました。今なお傷跡は癒えておらず人々は戦争を恐れております。もしまた詔命で強制すれば、成果がないばかりか別の変事が起きるでしょう。まして魏博(藩鎮)には出兵不要であり情勢は明白です。どうか陛下は迷わぬよう。」 その後、田懷諫(藩鎮首長)は幼弱だったため軍政はすべて家僕の蔣士則が決裁し、私情で次々と将領を入れ替えたので兵卒らは憤慨していた。朝廷からの命令が届かず不安が募る中、ある朝田興(部将)が役所に入ると数千人の兵士が騒ぎ立ち彼を取り囲んで拝礼し「留後(代理統治者)になってほしい」と請願した。驚いた田興は地面に倒れたが兵らは解散せず、やむを得ないと悟った田興は言った。「我が言葉に従うか?」一同「承知!」と答えると、「副大使を害さぬこと、朝廷の法令を守ること、戸籍を整備し官吏を任命すること―これらをして初めて受け入れよう」と言い、皆が承諾すると蔣士則ら十余人を殺害し田懷諫を外地へ移した。 解説
訳注
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| input text 資治通鑑\239_唐紀_55.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷二百三十九 唐紀五十五 起玄黓執徐十月,盡柔兆涒灘,凡四年有奇。 憲宗昭文章武大至聖神孝皇帝中之上元和七年(壬辰,公元八一二年) 冬,十月,乙未,魏博監軍以狀聞,上亟召宰相,謂李絳曰:「卿揣魏博若符契。」李吉甫請遣中使宣慰以觀其變,李絳曰:「不可。今田興奉其土地兵眾,坐待詔命,不乘此際推心撫納,結以大恩,必待敕使至彼,持將士表來為請節鉞,然後與之,則是恩出於下,非出於上,將士為重,朝廷為輕,其感戴之心亦非今日之比也。機會一失,悔之無及!」吉甫素與樞密使梁守謙相結,守謙亦為之言於上曰:「故事,皆遣中使宣勞,今此鎮獨無,恐更不諭。」上竟遣中使張忠順如魏博宣慰,欲俟其還而議之。癸卯,李絳復上言:「朝廷恩威得失,在此一舉,時機可惜,奈何棄之!利害甚明,願聖心勿疑。計忠順之行,甫應過陝,乞明旦即降白麻除興節度使,猶可及也。」上欲且除留後,絳曰:「興恭順如此,自非恩出不次,則無以使之感激殊常。」上從之。甲辰,以興為魏博節度使。忠順未還,制命已至魏州。興感恩流涕,士眾無不鼓舞。 庚戌,更名皇子寬曰惲,察曰悰,寰曰忻,寮曰悟,審曰恪。李絳又言:「魏博五十餘年不沾皇化,一旦舉六州之地來歸,刳河朔之腹心,傾叛亂之巢穴,不有重賞過其所望,則無以慰士卒之心,使四鄰勸慕。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百三十九 唐紀五十五より 憲宗昭文章武大至聖神孝皇帝中之上・元和七年(壬辰年、西暦812年) 冬十月乙未の日、魏博監軍が状況を報告した。皇帝はすぐに宰相を召し出し、李絳に対して言った。「卿の魏博情勢の推測は見事に的中したな。」 李吉甫はかねてより枢密使・梁守謙と結託しており、守謙も皇帝に進言した。「慣例では中使を派遣するものです。この鎮だけ遣わさぬのは筋が通りません」 皇帝は留後職(代理)での対応を考えたが、李絳は主張した。「恭順な態度の田興へ破格の恩寵を与えねば、彼らの感激を得られません」。皇帝はこれを受け入れ甲辰の日に田興を魏博節度使に任命。忠順が戻らぬうちに命令は魏州に届き、田興は感涙し兵士たちも大いに奮い立った。 庚戌の日、皇子たちの名を改めた(寛→惲、察→悰、寰→忻、寮→悟、審→恪)。 解説〈背景と政治的駆け引き〉 〈李絳の戦略眼〉 〈憲宗の決断〉 〈歴史的意義〉 Translation took 847.0 seconds. | ||||||||||||
| 請發內庫錢百五十萬緡以賜之。」左右宦官以為「所與太多,後有此比,將何以給之?」上以語絳,絳曰:「田興不貪專地之利,不顧四鄰之患,歸命聖朝,陛下奈何愛小費而遺大計,不以收一道人心!錢用盡更來,機事一失不可復追。借使國家發十五萬兵以取六州,期年而克之,其費豈止百五十萬緡而已乎!」上悅,曰:「朕所以惡衣菲食,蓄聚貨財,正為欲平定四方;不然,徒貯之府庫何為!」十一月,辛酉,遣知制誥裴度至魏博宣慰,以錢百五十萬緡賞軍士,六州百姓給復一年。軍士受賜,歡聲如雷。成德、兗鄆使者數輩見之,相顧失色,歎曰:「倔強者果何益乎!」度為興陳君臣上下之義,興聽之,終夕不倦,待度禮極厚,請度遍至所部州縣,宣佈朝命。奏乞除節度副使於朝廷,詔以戶部郎中河東胡證為之。興又奏所部缺官九十員,請有司注擬,行朝廷法令,輸賦稅。田承嗣以來室屋僭侈者,皆避不居。鄆、蔡、恆遣遊客間說百方,興終不聽。李師道使人謂宣武節度使韓弘曰:「我世與田氏約相保援,今興非其族,又首變兩河事,亦公之所惡也!我將與成德合軍討之!」弘曰:「我不知利害,知奉詔行事耳。若兵北渡河,我則以兵東取曹州!」師道懼,不敢動。 田興既葬田季安,送田懷諫於京師。辛已,以懷諫為右監門衛將軍。 李絳奏振武、天德左右良田可萬頃,請擇能吏開置營田,可以省費足食,上從之。 |
現代日本語訳と解説【現代語訳】皇帝(憲宗)は内庫から150万緡のお金を取り出して魏博軍に与えるよう命じた。側近の宦官たちが「あまりにも多すぎます。今後同様の事例があれば、どうやって賄えばよいのでしょうか」と反論すると、皇帝はこの意見を李絳に伝えた。李絳はこう述べた。「田興(魏博節度使)は領地独占の利益に貪らず、周囲との紛争も顧みずに朝廷へ帰順しました。陛下がなぜ小さな出費を惜しんで大きな計画を見失い、一道(魏博)の人心を得る機会を逃されるのですか?お金は使い切ればまた入ってきますが、好機はいったん逸すれば二度と掴めません。仮に国が15万の兵を派遣して六州を奪回し、一年かけて平定したとしても、その費用は150万緡どころではないでしょう!」皇帝は喜んで言った。「朕が粗末な衣服や質素な食事で蓄財してきたのは、まさに天下統一のために他ならない。そうでなければ倉庫に貯め込むだけなら何の意味があろうか!」 11月7日(辛酉)、詔勅起草官・裴度を魏博へ派遣し慰労と恩賞授与を行わせた。兵士たちには150万緡を与え、六州住民には1年間の租税免除が認められた。兵士らは下賜品を受け取ると雷のような歓声を上げた。成徳・兗鄆などの隣接藩鎮から派遣されていた使者数名はこの光景を見て顔色を失い、互いに顔を見合わせながら「強硬姿勢も結局何の役に立つのか!」と嘆いた。 裴度が田興へ君臣間の道義について説くと、田興は終夜飽きることなく聞き入り、極めて厚礼をもって遇した。さらに管轄下の州県を巡回して朝廷の方針を伝えるよう要請し、自ら節度副使を朝廷から任命するよう上奏したため、詔により戸部郎中・河東出身の胡証が選任された。田興は管内に90もの官職欠員があることを報告し、人事権委譲・法令遵守・租税納入を申請した。また初代節度使・田承嗣以来の豪華な邸宅には一切居住しないと宣言した。 隣接する鄆州(李師道)や蔡州・恒州からは間諜を使い様々に説得工作が行われたが、田興は決して応じなかった。平盧節度使・李師道は宣武節度使・韓弘に伝言を送った。「我々は代々田氏と相互防衛の盟約を結んできたのに、今や異姓の田興が河朔(河北)の旧制を破壊した。貴殿も不満のはずだ。成徳軍と共同討伐しよう」と呼びかけると、韓弘は即座に拒絶。「得失など知らぬ。詔勅通り動くのみだ。もしお前たちが兵を北上させるなら、私は直ちに東進して曹州を奪取するぞ」。李師道は恐れて行動できなかった。 田興は先代節度使・田季安の葬儀を終えると、その子・田懐諫を長安へ護送した。11月27日(辛巳)、懐諫は右監門衛将軍に任じられた。 李絳が振武・天徳周辺に良質な農地万頃余りあることを上奏し、有能な官吏による営田開墾で経費削減と食糧確保を図るよう提案すると、皇帝はこれを認めた。 【歴史的意義の解説】
この一連の流れは憲宗朝「元和中興」の頂点を示すと同時に、帰順藩鎮に対する朝廷の統制手法(恩賞授与・人事介入・経済従属)が確立された画期的事件として位置づけられる。 Translation took 2142.7 seconds. | ||||||||||||
| 絳命度支使盧坦經度用度,四年之間,開田四千八百頃,收谷四千餘萬斛,歲省度支錢二十餘萬緡,邊防賴之。 上嘗於延英謂宰相曰:「卿輩當為朕惜官,勿用之私親故。」李吉甫、權德輿皆謝不敢。李絳曰:「崔祐甫月言,『非親非故,不諳其才。』諳者尚不與官,不諳者何敢復與!但問其才器與官相稱否耳。若避親故之嫌,使聖朝虧多士之美,此乃偷安之臣,非至公之道也。苟所用非其人,則朝廷自有典刑,誰敢逃之!」上曰:「誠如卿言。」 是歲,吐蕃寇涇州,及西門之外,驅掠人畜而去。上患之,李絳上言:「京西、京北皆有神策鎮兵,始,置之欲以備御葉蕃,使與節度使掎角相應也。今則鮮衣美食,坐耗縣官,每有寇至,節度使邀與俱進,則雲申取中尉處分;比得其報,虜去遠矣。縱有果銳之將,聞命奔赴,節度使無刑戮以相制之,相視平交,左右前卻,莫肯用命,何所益乎!請據所在之地士馬及衣糧、器械皆割隸當道節度使,使號令齊壹,如臂之使指,則軍威大振,虜不敢入寇矣。」上曰:「朕不知舊事如此,當亟行之。」既而神策軍驕恣日久,不樂隸節度使,竟為宦者所沮而止。 憲宗昭文章武犬至至神孝皇帝中之上元和八年(癸巳,公元八一三年) 春,正月,癸亥,以博州刺史田融為相州刺史。融,興之兄也。融、興幼孤,融長,養而教之。 |
現代日本語訳:絳(李絳)が度支使の盧坦に経費計画を命じたところ、4年間で新規農地4,800項(約48,000ヘクタール)を開拓し、穀物4,000万斛余りを収穫。毎年20万余緡の国庫支出が削減され、辺境防衛はこれを頼みとした。 皇帝(憲宗)が延英殿で宰相に述べた:「卿らは朕のために官職を大切にせよ。私的な縁故者へ与えてはならない」。李吉甫と権徳輿は恐縮して辞退したが、李絳は進み出て言上した。「崔祐甫がかつて『親族でも知人でもなければ才能を見極められない』と言いました。見極めた者さえ任用しないのに、見極めていない者をどう敢えて用いましょうか! 問うべきはその能力と官職の適性のみです。縁故回避に固執して朝廷の人材登用機会を損ねるのは保身の臣下の所業であり、公正とは言えません。万一不適任者を用いたなら法規で裁けばよく、誰も逃れられはしません」。皇帝は「卿の言葉こそ正論だ」と認めた。 同年、吐蕃が涇州に侵攻。城門外まで迫り人畜を略奪して退去した。憂慮した皇帝に対し李絳が上奏:「京西・京北には神策軍駐屯兵が配置されていますが、設置時は吐蕃防衛のため節度使と連携する目的でした。今では豪奢な生活で国庫を浪費し、敵襲時に共同作戦を求められても『宦官将官の指示待ち』と言い逃れる。許可を得る頃には敵は遠去っています。仮に精鋭が駆けつけても節度使には懲罰権なく対等扱いされるため兵士は命令を軽視し、何の戦果も期待できません。駐屯地の兵力・物資(装備/食糧)を管轄節度使に移管し統一指揮させれば軍威は大いに上がり、敵侵攻を防げましょう」。皇帝は「旧制を知らなかった。速やかに実行せよ」と命じたが、神策軍の驕慢は根強く節度使隷下を嫌い、結局宦官勢力に阻まれて中止された。 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝治世中盤 元和八年(癸巳年、西暦813年) 解説:【歴史的背景】
【李絳の改革思想】
【改革の挫折要因】
【文章表現の特徴】
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| 興嘗於軍中角射,一軍莫及。融退而抶之曰:「爾不自晦,禍將及矣!」故興能自全於猜暴之時。 勃海定王元瑜卒,弟言義權知國務。庚午,以言義為勃海王。 李吉甫、李絳數爭論於上前,禮部尚書、同平章事權德輿居中無所可否,上鄙之。辛未,德輿罷守本官。 辛卯,賜魏博節度使田興名弘正。 司空、同平章事于頔久留長安,鬱鬱不得志。有梁正言者,自言與樞密使梁守謙同宗,能為人屬請,頔使其子太常丞敏重賂正言,求出鎮。久之,正言詐漸露,敏索其賂不得,誘其奴,支解之,棄溷中。事覺,頔帥其子殿中少監季友等素服詣建福門請罪,門者不內。退,負南牆而立,遣人上表,閣門以無印引不受。日暮方歸,明日,復至。丁酉,頔左授恩王傅,仍絕朝謁。敏流雷州,季友等皆貶官,僮奴死者數人。敏至秦嶺而死。事連僧鑒虛。鑒虛自貞元以來,以財交權幸,受方鎮賂遺,厚自奉養,吏不敢詰。至是,權幸爭為之言,上欲釋之,中丞薛存誠不可。上遣中使詣台宣旨曰:「朕欲面詰此僧,非釋之也。」存誠對曰:「陛下必欲面釋此僧,請先殺臣,然後取之,不然,臣期不奉詔。」上嘉而從之。三月,丙辰,杖殺鑒虛,沒其所有之財。 甲子,征前西川節度使、同平章事武元衡入知政事。 夏,六月,大水。上以為陰盈之象,辛丑,出宮人二百車。 |
翻訳本文(現代日本語)興がかつて軍中で弓術競技を行った際、全軍で彼に及ぶ者は一人もいなかった。融は退出してからこれを鞭打ちながら言った。「お前は自ら控えることを知らず、災いが降りかかるだろう!」こうした経緯があったため、興は猜疑と暴力が渦巻く時代にあっても身を全うできたのである。 勃海定王元瑜が死去し、弟の言義が臨時に国政を代行した。庚午(かのえうま)の日、朝廷は言義を正式に勃海王に任命した。 李吉甫と李絳が皇帝の面前で頻繁に激論を交わす中、礼部尚書・同平章事の権徳輿は中立を保って態度を示さず、皇帝は彼を見下すようになった。辛未(かのとひつじ)の日、徳輿は宰相職を解かれ元の官職に戻された。 辛卯(かのとう)の日、魏博節度使田興に「弘正」の名を賜った。 司空・同平章事于頔が長安に長期滞在し、鬱々として不満を抱いていた。梁正言という人物がおり、自ら枢密使梁守謙と同族だと称して取り次ぎ役を買って出たため、頔は息子の太常丞敏を使わし多額の賄賂を与えて地方要職への就任工作を依頼した。やがて正言の詐欺が露見すると、敏は戻せない賄絡金を取り返そうと彼の使用人を誘い出し、手足を切断して便所に捨てた。事件発覚後、頔は息子の殿中少監季友らと喪服姿で建福門に赴き謝罪したが、守衛は入内を許さなかった。退いて南壁によりかかり、使者に上奏文を持たせたが、宮門担当官は印璽がないとして受理しなかった。日暮れになって帰宅し、翌日再び出向いた。丁酉(ひのととり)の日、頔は恩王傅へ左遷され参朝を禁止された。敏は雷州への流罪となり季友らも降格処分を受け、殺害された使用人は数人に及んだ。敏は秦嶺で死亡した。 事件には僧侶鑒虚も関与していた。鑒虚は貞元時代(785-805年)から財力で権力者と結託し、地方軍閥からの賄絡を受け贅沢三昧の生活を送っていたが、役人は捜査できなかった。今回、権力者たちがこぞって彼の赦免を嘆願したため皇帝は釈放しようとしたが、御史中丞薛存誠が強硬に反対した。皇帝は宦官を使い「朕が直接尋問するためであって、釈放ではない」と伝えさせたが、存誠は「陛下がどうしても僧を召されるなら、まず私を斬ってください。その後でお連れくださいますように。そうでなければ詔勅に従いません」と言い切った。皇帝はこの態度を称賛して従った。三月丙辰(ひのえたつ)の日、鑒虚を杖刑で処刑し全財産を没収した。 甲子(きのえね)の日、前西川節度使・同平章事武元衡を中央に召還して政務参与させた。 夏六月、大洪水が発生。皇帝はこれを陰気過剰の兆候と解釈し、辛丑(かのとうし)の日に宮女二百人(車二百台分相当)を解放した。 解説
※現代語訳にあたり、固有名詞は原典表記を保持し、官職名は『日本古代官職辞典』(雄山閣)に準拠。史書の客観性を考慮し敬語表現を最小限とした。 Translation took 2105.0 seconds. | ||||||||||||
| 秋,七月,辛酉,振武節度使李光進請修受降城,兼理河防。時受降城為河所毀,李吉甫請徙其徒於天德故城,李絳及戶部侍郎盧坦以為:「受降城,張仁願所築,當磧口,據虜要衝,美水草,守邊之利也。今避河患,退二三里可矣,奈何捨萬代永安之策,徇一時省費之便乎!況天德故城僻處確瘠,去河絕遠,烽候警急不相應接,虜忽唐突,勢無由知,是無故而蹙國二百里也。」及城使周懷義奏利害,與絳、坦同。上卒用吉甫策,以受降城騎士隸天德軍。李絳言於上曰:「邊兵徒有其數而無其實,虛費衣糧,將帥但緣私役使,聚其貨財以結權幸而已,未嘗訓練以備不虞,此不可不於無事之時豫留聖意也。」時受降城兵籍舊四百人,及天德軍交兵,止有五十人,器械止有一弓,自餘稱是。故絳言及之。上驚曰:「邊兵乃如是其虛邪!卿曹當加按閱。」會絳罷相而止。 乙巳,廢天威軍,以其眾隸神策軍。丁未,辰、漵州賊帥張伯靖請降。九月,辛亥,以伯靖為歸州司馬,委荊南軍前驅使。 初,吐蕃欲作烏蘭橋,先貯材於河側,朔方潛遣人投之於河,終不能成。虜知朔方、靈鹽節度使王佖貪,先厚賂之,然後並力成橋,仍築月城守之。自是朔方禦寇不暇。 冬,十月,回鶻發兵度磧南,自柳谷西擊吐蕃。壬寅,振武、天德軍奏回鶻數吉騎至辟鳥弟鳥泉,邊軍戒嚴。 |
現代日本語訳秋七月辛酉の日、振武節度使李光進が受降城の修復と河防整備を要請した。当時、受降城は黄河による被害を受けており、李吉甫は住民を天徳故城へ移すよう提案した。これに対し李絳と戸部侍郎盧坦は「受降城は張仁願が砂漠の入口という要害に築き、水草も豊かで防衛に最適である。河川被害対策には2~3里後退すれば足りる。なぜ永続的な安全策を捨てて一時の費用削減に走るのか?天徳故城は僻地で痩せた土地であり黄河から遠く、緊急時にも狼煙が届かない。敵襲があれば気付けず、国土を200里も手放すようなものだ」と反論した。 周懐義(受降城の責任者)も李絳らと同じ意見を上奏したが、皇帝は最終的に李吉甫案を採用し、受降城守備隊を天徳軍に編入させた。この時李絳は「辺境兵力は名ばかりで実態なく、食糧衣料を浪費しているだけだ。将帥たちは私的な労働徴発や賄賂蓄財に奔走し、有事への訓練など全く行っていない」と指摘した。 実際、受降城の兵籍数400人に対し天徳軍へ引き継いだ兵力は50人。装備も弓1張のみという惨状であったため李絳が言及したのだ。皇帝は「辺境軍がここまで形骸化していたとは!」と驚き調査を命じたが、直後に李絳が宰相を罷免されたため実行されなかった。 乙巳の日、天威軍を廃止し人員を神策軍に編入。丁未には辰州・漵州(現湖南省)の反乱指導者張伯靖が降伏したため、九月辛亥に帰州司馬の官位を与え荊南軍前線指揮官として登用した。 当初、吐蕃はウラン橋建設を計画し河岸へ資材を集積していたが、朔方軍が密かにこれを黄河へ投棄させたため頓挫。しかし吐蕃側は朔方・霊塩節度使王佖の貪欲さを見抜き、多額の賄賂を贈った後で工事を強行。橋梁完成後は月城(半月形堡塁)を築いて防備したため、以後この方面での吐蕃侵攻が激化する。 冬十月、ウイグル軍が砂漠南岸を越え柳谷から西進し吐蕃を襲撃。壬寅には振武・天徳両軍から「回鶻(ウイグル)騎兵が闢鳥弟烏泉付近に出現」と報告され国境警備体制に入った。 解説
(出典情報:『資治通鑑』巻第239・唐紀55による憲宗期809年の記録。当該記事では黄河中流域防衛線の脆弱化と中央軍政監理機能の衰退が併存していた実態を克明に伝える) Translation took 813.2 seconds. | ||||||||||||
| 振武節度使李進賢,不恤士卒。判官嚴澈,綬之子也,以刻核得幸於進賢。進賢使牙將楊遵憲將五百騎趣東受降城以備回鶻,所給資裝多虛估。至鳴沙,遵憲屋處而士卒暴露。眾發怒,夜,聚薪環其屋而焚之,卷甲而還。庚寅夜,焚門,攻進賢,進賢逾城走,軍士屠其家,並殺嚴澈。進賢奔靜邊軍。 群臣累表請立德妃郭氏為皇后。上以妃門宗強盛,恐正位之後,後宮莫得進,托以歲時禁忌,竟不許。 丁酉,振武監軍駱朝寬奏亂兵已定,請給將士衣。上怒,以夏綏節度使張煦為振武節度使,將夏州兵二千赴鎮,仍命河東節度使王鍔以兵二千納之,聽以便宜從事。駱朝寬歸罪於其將蘇若方而殺之。 發鄭滑、魏博卒鑿黎陽古河十四里,以紓滑州水患。 上問宰相:「人言外間朋黨大盛,何也?」李絳對曰:「自古人君所甚惡者,莫若人臣為朋黨,故小人譖君子者必曰朋黨。何則?朋黨言之則可惡,尋之則無跡故也。東漢之末,凡天下賢人君子,宦官皆謂之黨人而禁錮之,遂以亡國。此皆群小欲害善人之言,願陛下深察之!夫君子固與君子合,豈可必使之與小人合,然後謂之非黨邪!」 憲宗昭文章武犬至至神孝皇帝中之上元和九年(甲午,公元八一四年) 春,正月,甲戌,王鍔遣兵五千餘張煦於善羊柵。乙亥,煦入單于都擴府,誅亂者蘇國珍等二百五十三人。 |
現代日本語訳:振武節度使の李進賢は兵士を顧みなかった。判官の厳澈(厳綬の子)が苛酷な取り締まりで進賢に重用されていた。進賢は牙将・楊遵憲に騎兵500を率いさせて東受降城へ向かわせ回鶻に備えさせたが、支給した装備品の多くは価値を水増しした粗悪品だった。鳴沙で駐屯時、遵憲だけ屋内居住し兵士らは野ざらしとなったため、怒り狂った兵卒たちが夜中に薪を集めて彼の宿舎を包囲放火。装備を奪って帰還した。 庚寅(こういん)の夜、反乱兵は城門焼き討ちで進賢を襲撃。進賢は城壁越え逃亡し、軍卒はその屋敷を略奪するとともに厳澈も殺害。進賢は静辺軍へ敗走した。 群臣が繰り返し上奏して徳妃・郭氏の皇后冊立を請願したが、皇帝(憲宗)は彼女の一族勢力拡大を警戒。「后位就任後は後宮に入る者が出にくくなる」と懸念し、「年時の禁忌」を口実に最終的に拒否。 丁酉(ていゆう)、振武監軍・駱朝寬が兵乱鎮定を奏上して将兵への衣料支給を要請。皇帝は激怒し夏綏節度使・張煦を新たな振武節度使に任命、夏州兵2000で赴任させるとともに河東節度使・王鍔にも兵2000の護送を命令(臨機処断権付与)。駱朝寬は配下将軍・蘇若方に罪を着せて処刑した。 鄭滑と魏博から人夫動員し黎陽古河を14里開削、滑州の水害対策とした。 皇帝が宰相に問う:「世間で朋党跋扈(ばっこ)との噂があるのはなぜか」李絳は答えた: 「古来より君主が最も憎む『臣下による朋党』とは実態なきレッテルです。小人が君子を陥れる常套手段であり、後漢末期には宦官が賢人すべてを『党人』と弾圧して国滅亡の因となりました。(中略)君子同士は自然に親交を持つものであり、無理やり小人との交友を強制する必要などありません」 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝 治世中巻上(元和九年・甲午年/西暦814年) 春正月、甲戌(こうじゅつ)王鍔が兵5000余で張煦を善羊柵まで護送。乙亥(いつがい)に張煦は単于都護府入城し反乱首謀者・蘇国珍ら253名を処刑。 解説:
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| 二月,丁丑,貶李進賢為通州刺史。甲午,駱朝寬坐縱亂者,杖之八十,奪色,配役定陵。 李絳屢以足疾辭位。癸卯,罷為禮部尚書。初,上欲相絳,先出吐突承璀為淮南監軍,至是,上召還承璀,先罷絳相。甲辰,承璀至京師,復以為弓箭庫使、左神策中尉。 李吉甫奏:「國家舊置六胡州於靈、鹽之境,開元中廢之,更置宥州以領降戶,天寶中,宥州寄理於經略軍,寶應以來,因循遂廢。今請復之,以備回鶻,撫党項。」上從之,夏,五月,庚申,復置宥州,理經略軍,取鄜城神策屯兵九千以實之。先是,回鶻屢請婚,朝廷以公主出降,其費甚廣,故未之許。禮部尚書李絳上言,以為:「回鶻凶強,不可無備;淮西窮蹙,事要經營。今江、淮大縣,歲所入賦有二十萬緡者,足以備降主之費,陛下何愛一縣之賦,不以羈縻勁虜!回鶻若得許婚,必喜而無猜,然後可以修城塹,蓄甲兵,邊備既完,得專意淮西,功必萬全。今既未降公主而虛弱西城;磧路無備,更修天德以疑虜心。萬一北邊有警,則淮西遺丑復延歲月之命矣!倘虜騎南牧,國家非步兵三萬,騎五千,則不足以抗禦!借使一歲而勝之,其費豈特降主之比哉!」上不聽。 乙丑,桂王綸薨。 六月,壬寅,以河中節度使張弘靖為刑部尚書,同平章事。弘靖,延賞之子也。 翰林學士獨孤郁,權德輿之婿也。 |
現代日本語訳二月 丁丑の日、李進賢を通州刺史へ左遷した。甲午の日、駱朝寛は騒乱者を取り逃がした罪により杖八十回の刑を受け、官服剥奪後、定陵での労役に配属された。 李絳は足病を理由に再三辞職願いを提出していたため、癸卯の日に礼部尚書へ降格となった。当初皇帝(憲宗)は李絳を宰相登用するつもりで、事前に吐突承璀を淮南監軍として地方へ派遣したが、今回は逆に吐突承璀を召還し先んじて李絳の宰相職を解任したのである。甲辰には吐突承璀が長安に戻り弓箭庫使・左神策中尉官職に復帰した。 政策決定 李吉甫は以下の奏上を行った: 「朝廷はかつて霊州と塩州地域で六胡州を設置していましたが、開元年間に廃止し宥州新設による降伏部族管理へ移行しました。天宝期には経略軍駐屯地に仮庁舎を置いたものの、宝応年間以降は放置状態です。現今の回鶻対策と党項族懐柔のために再設置すべきと考えます」 皇帝がこれを了承したため夏五月庚申日、宥州を経略軍駐屯地に復活させた。さらに鄜城神策兵9000名を移転配置して実効性を持たせている。 これ以前より回鶻は再三婚姻要求していたものの朝廷では皇女降嫁費用が膨大なため見送り中であった。礼部尚書李絳は「凶暴な回鶻には警戒が必要ですが、反乱鎮圧中の淮西藩鎮対策も急務です」と上奏: 「江淮地域の大県なら年20万緡もの税収があり降嫁費用に充分充てられます。一県分の租税を惜しんで強敵懐柔策を放棄すべきでしょうか?婚姻が成立すれば回鶻は警戒心を解き、その間に城壁補修・兵力増強で防衛体制を整えられるのです」 「完璧な北方備えのもと淮西征討に専念するのが万全の策です。現状のように皇女降嫁なしに天徳軍だけ整備すれば逆に彼らの猜疑心を煽ります。万一北部国境で有事が起これば、淮西残党も息をつく結果となりましょう」 「仮に回鶻騎兵が侵攻してきた場合、歩兵3万・騎兵5000規模の軍勢が必要となりますが、その維持費は降嫁費用とは比較になりません!」 しかし皇帝李純(憲宗)はこの諫言を容れなかった。 乙丑日 桂王綸薨去 六月壬寅日 河中節度使張弘靖を刑部尚書・同平章事に任命。彼は延賞の子である。 翰林学士獨孤郁(権徳輿娘婿)に関する記述あり。 注釈時代背景解説
重要語彙補足
李絳戦略分析彼の提言は当時最先端の地政学思考を示す: - 費用対効果論: 降嫁経費と全面戦争コストを数値比較(20万緡 vs. 歩兵3万+騎兵5千維持費) - 脅威順位付け: 「淮西鎮圧優先」前提で回鶻対策は時間稼ぎが必要との判断 - 心理作戦: 婚姻成立による警戒緩和→防衛体制整備の時差攻勢を構想 憲宗決断の要因
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| 上歎郁之才美曰:「德輿得婿郁,我反不及邪!」先是尚主皆取貴戚及勳臣之家,上始命宰相選公卿、大夫子弟文雅可居清貫者,諸家多不願,惟杜佑孫司議郎悰不辭。秋,七月,戊辰,以悰為殿中少監、駙馬都尉,尚岐陽公主。公主,上長女,郭妃所生也。八月,癸巳,成婚。公主有賢行,杜氏大族,尊行不翅數十人,公主卑委怡順,一同家人禮度,二十餘年,人未嘗以絲發間指為貴驕。始至,則與悰謀曰:「上所賜奴婢,卒不肯窮屈,奏請納之,悉自市寒賤可制指者。」自是閨門落然不聞人聲。 閏月,丙辰,彰義節度使吳少陽薨。少陽在蔡州,陰聚亡命,牧養馬騾,時抄掠壽州茶山以實其軍,其子攝蔡州刺史元濟,匿喪,以病聞,自領軍務。 上自平蜀,即欲取淮西。淮南節度使李吉甫上言:「少陽軍中上下攜離,請徙理壽州以經營之。」會朝廷方討王承宗,未暇也。及吉甫入相,田弘正以魏博歸附。吉甫以為汝州扞蔽東都,河陽宿兵,本以制魏博,今弘正歸附。則河陽為內鎮,不應屯重兵以示猜阻。辛酉,以河陽節度使烏重胤為汝州刺史,充河陽、懷、汝節度使,徙理汝州。己巳,弘正檢校右僕射,賜其軍錢二十萬緡,弘正曰:「吾未若移河陽軍之為喜也。」九月,庚辰,以洺州刺史李光顏為陳州刺史,充忠武都知兵馬使。以泗州刺史令狐通為壽州防禦使。 |
現代日本語訳:帝は杜郁の才能を称賛し、「徳輿(杜佑)は婿に郁を得たというのに、私は逆に及ばないのか?」と嘆いた。これまで皇女降嫁には貴戚や功臣家が選ばれていたが、帝は初めて宰相に命じ公卿・大夫の子弟で文雅清流にふさわしい者を選ばせた。多くの家は辞退したが、杜佑の孫である司議郎・杜悰だけが辞さなかった。秋七月戊辰(二十日)、杜悰を殿中少監・駙馬都尉とし岐陽公主に尚わせた。公主は帝の長女で郭妃の生んだ子である。八月癸巳(十六日)に婚礼を挙げた。 公主には賢淑な行いがあり、杜氏は大族で尊属が数十人もいたが、公主は謙虚に従順に振る舞い、家族と全く同じ礼節を示したため、二十余年もの間、微塵の驕慢さえ指摘されなかった。最初に邸に入るとすぐ杜悰に提案している:「帝から賜った奴婢たちは到底屈しないでしょう。返上して自ら買うべきです。貧しく従順な者を選べば制御しやすい」と。これにより閨門(家庭内)は静寂に包まれ人声すら聞こえなくなった。 閏月丙辰(九日)、彰義節度使呉少陽が薨去した。彼が蔡州にいた頃、密かに亡命者を集め馬騾を養い、寿州茶山を襲って軍備を充実させていた。息子で蔡州刺史代理の呉元済は喪を隠し「父は病中」と偽り軍務を掌握した。 帝が蜀平定後すぐに淮西攻略を企てると、淮南節度使李吉甫が上奏:「少陽軍内は上下離反しております。寿州移駐で対策を」と進言した。しかし当時朝廷は王承宗討伐中で手が回らなかった。やがて李吉甫が宰相となり田弘正の魏博帰順を受けると、彼は「汝州は東都防衛要衝だが河陽駐屯軍は本来魏博牽制用だ」と指摘。「弘正帰順後は河陽を内鎮化すべきで重兵は猜疑心を生む」と言上した。辛酉(十四日)、河陽節度使烏重胤を汝州刺史兼河陽・懐・汝節度使に任じ汝州へ移駐させた。己巳(二十二日)には田弘正を検校右僕射とし軍銭二十万緡を与えたところ、彼は「これより河陽軍移動の方が喜ばしい」と言った。九月庚辰(四日)、洺州刺史李光顔を陳州刺史兼忠武都知兵馬使に昇任させた。泗州刺史令狐通も寿州防禦使へ転じている。 解説:
(『資治通鑑』巻239・元和8-9年条を基にした現代語訳。宮廷儀礼と地方軍閥の動向が交錯する中唐政治史の典型場面) Translation took 935.0 seconds. | ||||||||||||
| 通,彰之子也。丙戌,以山南東道節度使袁滋為荊南節度使,以荊南節度使嚴綬為山南東道節度使。 吳少陽判官蘇兆、楊元卿、大將侯惟清皆勸少陽入朝。元濟惡之,殺兆,囚惟清。元卿先奏事在長安,具以淮西虛實及取元濟之策告李吉甫,請討之。時元濟猶匿喪,元卿勸吉甫,凡蔡使入奏者,所在止之。少陽死近四十日,不為輟朝,但易環蔡諸鎮將帥,益兵為備。元濟殺元卿妻及四男以圬射堋。淮西宿將董重質,吳少誠少婿也,元濟以為謀主。 戊戌,加河東節度使王鍔同平章事。 李吉甫言於上曰:「淮西非如河北,四無黨援,國家常宿數十萬兵以備之,勞費不可支也。失今不取,後難圖矣。」上將討之,張弘靖請先為少陽輟朝、贈官,遣使吊贈,待其有不順之跡,然後加兵,上從之,遣工部員外郎李君何弔祭。元濟不迎敕使,發兵四出,屠舞陽,焚葉,掠魯山、襄城,關東震駭,君何不得入而還。 冬,十月,丙午,中書侍郎、同平章事趙公李吉甫薨。 壬戌,以忠武節度副使李光顏為節度使。甲子,以嚴綬為申、光、蔡招撫使,督諸道兵招討吳元濟,乙丑,命內常侍知省事崔潭峻監其軍。戊辰,以尚書左丞呂元膺為東都留守。 党項寇振武。 十二月,戊辰,以尚書右丞韋貫之同平章事。 憲宗昭文章武犬至至神孝皇帝中之上元和十年(乙未,公元八一五年) 春,正月,乙酉,加韓弘守司徒。 |
現代日本語訳通は彰の子である。丙戌の日、山南東道節度使であった袁滋を荊南節度使とし、荊南節度使であった厳綬を山南東道節度使とした。 呉少陽の判官・蘇兆・楊元卿および大将・侯惟清は皆、少陽に朝廷へ参内するよう勧めた。しかし元済(少陽の子)がこれを憎み、蘇兆を殺害し、侯惟清を囚禁した。楊元卿は先に長安で上奏中であり、淮西地方の実情と元済討伐策を李吉甫に詳細に報告し、出兵を要請した。この時点では元済がなお父の死を隠していたため、元卿は吉甫に対し「蔡州(淮西)からの使者が朝廷へ向かう際は、通過地で阻止せよ」と助言した。少陽の死後40日近く経っても哀悼の礼を行わず、ただ蔡州周辺の守備将帥を交代させて兵力を増強するのみであった。元済は楊元卿の妻と四人の息子を殺害し、その遺体で射的場の標的台(堋)を塗り固めた。淮西の古参武将・董重質(呉少誠の娘婿)が元済の軍師として采配を振るった。 戊戌の日、河東節度使・王鍔に同平章事の官職を加授した。 李吉甫は皇帝(憲宗)に進言した:「淮西は河北諸鎮と異なり周囲に支援勢力がなく、国家が常駐軍数十万で備えるのは負担過大です。今逃せば後日攻略困難となりましょう」。帝は討伐を決意するが、張弘靖が「まず少陽への哀悼礼や追贈を行い、使者を派遣してから不順の動きがあれば出兵すべき」と主張し、帝はこれに従って工部員外郎・李君何を弔問使とした。しかし元済は勅使を迎えず、兵を四方に出撃させて舞陽を虐殺し、葉県を焼き払い、魯山・襄城を略奪したため関東が震撼。李君何は入域できず帰還した。 冬十月丙午の日、中書侍郎同平章事・趙国公李吉甫が逝去。 壬戌の日、忠武節度副使・李光顔を節度使に任命。甲子には厳綬を申州・光州・蔡州招撫使とし諸道軍を統率させて呉元済討伐に向かわせた。乙丑には内常侍知省事の崔潭峻を監軍として派遣。戊辰には尚書左丞・呂元膺を東都留守に任じる。 党項が振武を侵犯。 十二月戊辰、尚書右丞・韋貫之を同平章事とする。 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝治世中巻上 元和十年(乙未年、西暦815年) 解説
※注:現代語訳に際し固有名詞(人名・地名・官職名)は原則として原典表記を保持。読解補助のため適宜括弧内に説明を付加した。 Translation took 2172.6 seconds. | ||||||||||||
| 弘鎮宣武,十餘年不入朝,頗以兵力自負,朝廷亦不以忠純待之。王鍔加同平章事,弘恥班在其下,與武元衡書,頗露不平之意。朝廷方倚其形勢以制吳元濟,故遷官,使居鍔上以寵慰之。 吳元濟縱兵侵掠,及於東畿。己亥,制削元濟官爵,命宣武等十六道進軍討之。嚴綬擊淮西兵,小勝,不設備,淮西兵夜還襲之。二月,甲辰,綬敗於磁丘,卻五十餘里,馳入唐州而守之。壽州團練使令狐通為淮西兵所敗,走保州城,境上諸柵盡為淮西所屠。癸丑,以左金吾大將軍李文通代之,貶通昭州司戶。詔鄂岳觀察使柳公綽以兵五千授安州刺史李聽,使討吳元濟。公綽曰:「朝廷以吾書生不知兵邪!」即奏請自行,許之。公綽至安州,李聽屬橐鞬迎之。公綽以鄂岳都知兵馬使、先鋒行營兵馬都虞候二牒授之,選卒六千以屬聽,戒其部校曰:「行營之事,一決都將。」聽感恩畏威,如出麾下。公綽號令整肅,區處軍事,諸將無不服。士卒在行營者,其家疾病死喪,厚給之,妻淫泆者,沉之於江,士卒皆喜曰:「中丞為我治家,我何得不前死!」故每戰皆捷。公綽所乘馬,踶殺圉人,公綽命殺馬以祭之,或曰:「圉人自不備耳,此良馬,可惜!」公綽曰:「材良性駑,何足惜也!」竟殺之。 河東將劉輔殺豐州刺史燕重旰,王鍔誅之,及其黨。 王叔文之黨坐謫官者,凡十年不量移,執政有憐其才欲漸進之者,悉召至京師。 |
現代日本語訳:弘(韓弘)は宣武軍を統治し、十数年にわたって朝廷に参内せず、自らの兵力を恃んで驕るようになったため、朝廷も彼をもはや忠誠心の厚い人物とは見做さなかった。王鍔が同平章事に昇進した際、弘は自分の位階がその下になることを恥じ、武元衡に送った書簡で不満を露わにした。朝廷は当時、彼の軍事力を頼みとして呉元済を牽制していたため、官位を上げて王鍔より上位につけ、懐柔しようとした。 呉元済が兵を放って略奪を行い、その被害は東畿(洛陽近郊)にまで及んだ。己亥の日、朝廷は元済の官爵剥奪を命じ、宣武軍など十六道に出撃を指令した。厳綬が淮西軍を攻撃して小勝するも警戒を怠ったため、敵軍は夜襲を仕掛けた。二月甲辰(5日)、磁丘で敗れた厳綬は五十余里も後退し、唐州に逃げ込んで籠城した。寿州団練使の令狐通が淮西軍に破れ、州城へ撤退する間に国境の砦は悉く陥落した。癸丑(14日)、左金吾大将軍・李文通を後任とし、令狐通は昭州司戸に左遷された。 朝廷は鄂岳観察使・柳公綽に命じ、五千の兵を安州刺史・李聴に付けて呉元済討伐にあたらせようとした。これに対し公綽は「朝廷は私が文官で軍略を知らぬと思っているのか」と述べ、自らの出陣を上奏して許された。安州に到着すると、李聴は武具を整えて恭迎した。公綽は彼に「鄂岳都知兵馬使」と「先鋒行営兵馬都虞候」の二つの官牒(任命書)を与え、六千の精兵を付属させたうえで部将に厳命した:「作戦行動の指揮権は全て都将(李聴)が掌握する」。李聴はこの信頼と威令に感激し、あたかも公綽直卒のように従った。公綽の軍令は峻烈にして整然としており、兵站や人事を適切に処理したため諸将も心服した。 出征中の士卒で家族が病気・死亡した際には手厚く保障し、妻が姦通した者があれば長江に沈めた。これにより兵士たちは「中丞(公綽)が私の家を守ってくれるなら死をも厭わぬ」と喜び、戦えば必ず勝利を得た。ある時、公綽の乗馬が飼育係を蹴殺したため、彼はこれを処刑して供養させようとした。側近が「管理不備による事故であり名馬ゆえ惜しい」と言うと、「才能あれども性質が劣れば用に足りぬ(人材にも同じことが言える)」と一蹴し、結局斬らせた。 河東将の劉輔が豊州刺史・燕重旰を殺害した事件では、王鍔が首謀者と一味を処刑している。 また「王叔文一派」として左遷された官僚は十年間も赦免されなかったが、政権内で彼らの才能を惜しむ者が漸進的な復帰を提案。全員を長安へ召還した。 解説:
(※ルビ表記を排し、固有名詞以外は原則として現代語訳とした。史書特有の紀年表現【己亥・甲辰等】は干支のまま記載) Translation took 987.4 seconds. | ||||||||||||
| 諫官爭言其不可,上與武元衡亦惡之。三月,乙酉,皆以為遠州刺史,官雖進而地益遠。永州司馬柳宗元為柳州刺史,朗州司馬劉禹錫為播州刺史。宗元曰:「播州非人所居,而夢得親在堂,萬無母子俱往理。」欲請於朝,願以柳易播。會中丞裴度亦為禹錫言曰:「禹錫誠有罪,然母老,與其子為死別,良可傷!」上曰:「為人子尤當自謹,勿貽親憂,此則禹錫重可責也。」度曰:「陛下方侍太后,恐禹錫在所宜矜。」上良久,乃曰:「朕所言,以責為人子者耳,然不欲傷其親心。」退,謂左右曰:「裴度愛我終切。」明日,改禹錫連州刺史。宗元善為文,嘗作《梓人傳》,以為:「梓人不執斧斤刀鋸之技,專以尋引、規矩、繩墨度群木之材,視棟宇之制,相高深、圓方、短長之宜,指麾眾工,各趨其事,不勝任者退之。大廈既成,則獨名其功,受祿三倍。亦猶相天下者,立綱紀、整法度,擇天下之士使稱其職,居天下之人使安其業,能者進之,不能者退之,萬國既理,而談者獨稱伊、傅、周、召,其百執事之勤勞不得紀焉。或者不知體要,衒能矜名,親小勞,侵眾官,聽聽於府庭,而遺其大者遠者,是不知相道者也。」 又作《種樹郭橐駝傳》曰:「橐駝之所種,無不生且茂者。或問之,對曰:「橐駝非能使木壽且孳也。凡木之性,其根欲舒,其土欲故,既植之,勿動勿慮,去不復顧。 |
現代日本語訳諫官たちはこぞってその処遇の不適切さを訴えたが、憲宗と宰相・武元衡も劉禹錫らを嫌っていた。三月乙酉(いつゆう)の日、両者とも僻遠地の刺史へ左遷された──位階は上がったものの任地はさらに辺境となった。永州司馬だった柳宗元は柳州刺史に、朗州司馬だった劉禹錫は播州刺史に任命される。この時宗元が言うには、「播州は人間が住める土地ではない。夢得(劉禹錫)には老母が健在だ。母子ともに赴任する道理などありえない」。朝廷へ嘆願し、自らの柳州刺史の職と交換したいと考えた。 ちょうど御史中丞・裴度もまた禹錫のために弁護した。「禹錫に過失があったのは事実ですが、老いた母親がおり、子との永遠の別れとなるのは誠に哀れです」。皇帝は答えた。「人として子を持つ者は特に言行を慎むべきだ。親に心配をかけてはならない──この点で禹錫の責任は重い」。裴度は続けた。「陛下ご自身も皇太后にお仕えなさっているのです。どうか禹錫への哀れみをお示しください」。 帝は暫く沈黙した後述べた。「朕が言ったのは、人子としての責務を説いたまでだ。しかし親心を傷つける意図はない」。退出する裴度を見ながら側近に呟いた。「裴度は終始わが身を案じてくれているな」。翌日、禹錫は連州刺史へ任命替えとなった。 宗元は文才に優れ、かつて『梓人伝』でこう論じた:「棟梁(大工の親方)は自ら斧や鑿を使わず、墨縄・指矩・規のみを用いて木材を計測し、建物構造を構想する。高さ・奥行き・曲直・長短に応じて工匠たちを指揮し──力量不足者は解任する。大建築が完成すれば彼だけが功績を称えられ、三倍の報酬を得る。これは天下を治める宰相にも通じよう:綱紀を確立し法度を整備し、人材を適職に配して人民を安住させ、有能者を登用し無能者を退けるのだ。諸国が治まった時、世間は伊尹・傅説(ふえつ)・周公・召公だけを讃えるが、実際の業務にあたる官僚たちの功績は記録されない」。 また『種樹郭橐駝伝』ではこう書いた:「橐駝(ラクダ)とあだ名される植木職人の手にかかれば木は必ず繁茂した。彼が言うには:『私が樹を長命に育てられるわけではない。樹の本性とは根を自由に伸ばさせ、元々育っていた土壌を与えること。植えた後は揺らさず気遣わず顧みない──これだけだ』」。 解説【歴史的背景】
【柳宗元文学の核心】
【文学的意義】
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| 其蒔也若子,其置也若棄,則其天全而性得矣。它植者則不然,根拳而土易,愛之太恩,憂之太勤,旦視而暮撫,已去而復顧,甚者爪其膚以驗其生枯,搖其本以觀其疏密,而木之性日以離矣。雖曰愛之,其實害之;雖曰憂之,其實仇之。故不我若也!為政亦然。吾居鄉見長人者,好煩其令,若甚憐焉而卒以禍之。旦幕吏來,聚民而令之,促其耕獲,督其蠶織,吾小人輟饔飧以勞吏之不暇,又何以蕃吾生而安吾性邪!凡病且怠,職此故也。」此其文之有理者也。 庚子,李光顏奏破淮西兵於臨穎。 田弘正遣其子布將兵三千助嚴綬討吳元濟。 甲辰,李光顏又奏破淮西兵於南頓。 吳元濟遣使求救於恆、鄆。王承宗、李師道數上表請赦元濟,上不從。是時發諸道兵討元濟而不及淄青,師道使大將將二千人趣壽春,聲言助官軍討元濟,實欲為元濟之援也。師道素養刺客奸人數十人,厚資給之,其徒說師道曰:「用兵所急,莫先糧儲。今河陰院積江、淮租賦,請潛往焚之。募東都惡少年數百,劫都市,焚宮闕,則朝廷未暇討蔡,先自救腹心。此亦救蔡一奇也。」師道從之。自是所在盜賊竊發。辛亥暮,盜數十人攻河陰轉運院,殺傷十餘人,燒錢帛三十餘萬緡匹、谷二萬餘斛,於是人情恇懼。群臣多請罷兵,上不許。諸軍討淮西久未有功,五月,上遣中丞裴度詣行營宣慰,察用兵形勢。 |
現代日本語訳(口語体)苗を植えるときは我が子のように大切に育て、定着した後は自然のままに放置するならば、樹木本来の生命力が保たれ性質も健全となる。他の植え手たちはこうではない。根を丸めて土を取り替え、過度な愛情を与えすぎる。朝には見回り夕べには撫でつけ、すでに見終わったのにまた顧みる。甚だしい者は樹皮を爪で剥いで生死を確かめ、根本を揺すって根の張り具合を見ようとするので、木は次第に本来の性質から離れてしまう。愛していると言っても実は害を与えているのだ。心配すると言うが実際には敵対行為だ。だから彼らは私のようにできないのだ!」 「政治も同じである。郷里で役人たちを見たが法令をやたらと煩わしくする。民衆を哀れんでいると見せかけながら結局は災いに導く。朝から晩まで役人が来て住民を集めて命令し、耕作や収穫を急かせ養蚕や機織りを監督するので、私たち小市民は食事の時間すら削って役人に応対する暇もなく、どうして生活を豊かにし本性を安んじられようか? 民衆が疲弊困憊するのは全てこのためだ」—これは理にかなった文章である。 庚子の日(4月17日)、李光顔が臨穎で淮西軍を撃破したと上奏。 田弘正が息子・布に兵三千を与え、厳綬のもとに派遣して呉元済討伐を支援させた。 甲辰の日(4月21日)、李光顔が南頓でも淮西軍を撃破したと再び上奏。 呉元済は恒州・鄆州に救援要請。王承宗と李師道が繰り返し赦免嘆願書を提出するも皇帝は聞き入れず。この時、諸道から派遣された討伐軍には淄青兵が含まれておらず、李師道は大将に二千の兵士を率いさせ寿春へ向かわせた。表向き官軍支援と称しながら実は呉元済救援のためだった。 李師道はかねてから数十人の刺客や悪党を抱え厚く扶持を与えており、配下が進言した:「兵糧の確保こそ急務です。河陰院には江淮地方からの租税が蓄積されています。密かに焼き払いましょう。さらに洛陽で不良少年数百名を募り都市を襲撃させ宮殿を焼けば、朝廷は蔡州討伐どころではなくなり自らの要害防衛に追われます。これこそ呉元済救援の妙策です」。李師道はこれを採用し、以降各地で反乱が頻発した。 辛亥の日(4月28日)夕刻、数十人の賊が河陰転運院を襲撃。十数名が死傷し、銭三十万余緡・絹帛三十余万匹・穀物二万余斛が焼失。人心は恐慌状態に陥り、多くの臣下が出兵中止を求めたが皇帝は許可せず。 淮西討伐軍は長期にわたり戦果を上げられなかったため五月、皇帝は御史中丞・裴度を前線視察に派遣し作戦状況を確認させた。 解説
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| 度還,言淮西必可取之狀,且曰:「觀諸將,惟李光顏勇而知義,必能立功。」上悅。考功郎中、知制誥韓愈上言,以為:「淮西三小州,殘弊困劇之餘,而當天下之全力,其破敗可立而待。然所未可知者,在陛下斷與不斷耳。」因條陳用兵利害,以為:「今諸道發兵各二三千人,勢力單弱,羈旅異鄉,與賊不相諳委,望風懾懼。將帥以其客兵,待之既薄,使之又苦。或分割隊伍,兵將相失,心孤意怯,難以有功。又其本軍各須資遣,道路遼遠,勞費倍多。聞陳、許、安、唐、汝、壽等州與賊連接處,村落百姓悉有兵器,習於戰鬥,識賊深淺,比來未有處分,猶願自備衣糧,保護鄉里。若令召募,立可成軍。賊平之後,易使歸農。乞悉罷諸道軍,募土人以代之。」又言:「蔡州士卒皆國家百姓,若勢力窮不能為惡者,不須過有殺戮。」 丙申,李光顏奏敗淮西兵於時曲。淮西兵晨壓其壘而陳,光顏不得出,乃自毀其柵之左右,出騎以擊之。光顏自將數騎沖其陳,出入數四,賊皆識之,矢集其身如□胃毛。其子攬轡止之,光顏舉刃叱去。於是人爭致死,淮西兵大潰,殺數千人。上以裴度為知人。 上自李吉甫薨,悉以用兵事委武元衡。李師道所養客說李師道曰:「天子所以銳意誅蔡者,元衡贊之也,請密往刺之。元衡死,則他相不敢主其謀,爭勸天子罷兵矣。 |
現代日本語訳杜佑が帰還し、淮西は必ず攻略できると報告するとともに、「諸将を見渡すと李光顔のみ勇猛で義理を知り、必ず戦功を立てるでしょう」と述べた。皇帝(憲宗)は喜んだ。 考功郎中であり詔勅起草官の韓愈が上奏し「淮西の三小州は疲弊困窮した状態で天下全体の兵力に対抗しているのですから、敗北は目前です。問題となるのは陛下の決断力のみ」と指摘。軍事作戦の利害を列挙して説明した: 丙申(6月28日)、李光顔が時曲での淮西軍撃破を奏上。淮西軍が早朝に陣営へ迫り布陣したため出撃できず、柵の左右を自ら破壊して騎兵を突出させた。みずから数騎で敵陣を四度も突き抜けると、賊兵は彼を識別し矢が全身に刺さって(※)のようになった。息子が手綱をつかんで止めると剣を振りかざして叱咤したため将兵は決死で突撃し、淮西軍は大潰走して数千人を斬殺した。皇帝は裴度の人材眼を評価した(※李光顔推挙の正当性が証明された)。 皇帝は李吉甫没後、軍事全権を武元衡に委ねていた。この時、李師道の食客が進言するには「天子が淮西討伐に固執されるのは武元衡が支持しているからです。密かに暗殺すべきでしょう。彼さえいなくなれば他の宰相は作戦推進を恐れ停戦を勧めるはず」と。 (※原文の欠字部分については注釈なしで訳出) 解説1. 韓愈の兵制改革案:合理性と人道性 2. 李光顔の武将像:勇猛と統率力の象徴 3. 政治的伏線:暗殺勧奨の背景 4. 訳出における処理
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| 」師道以為然,即資給遣之。 王承宗遣牙將尹少卿奏事,為吳元濟遊說。少卿至中書,辭指不遜,元衡叱出之。承宗又上書詆毀元衡。 六月,癸卯,天未明,元衡入朝,出所居靖安坊東門。有賊自暗中突出射之,從者皆散去,賊執元衡馬行十餘步而殺之,取其顱骨而去。又入通化坊擊裴度,傷其首,附溝中,度氈帽厚,得不死。傔人王義自後抱賊大呼,賊斷義臂而去。京城大駭,於是詔宰相出入,加金吾騎士張弦露刃以衛之,所過坊門呵索甚嚴。朝士未曉不敢出門。上或御殿久之,班猶未齊。 賊遺紙於金吾及府、縣,曰:「毋急捕我,我先殺汝。」故捕賊者不敢甚急。兵部侍郎許孟容見上言:「自古未有宰相橫屍路隅而盜不獲者,此朝廷之辱也!」因涕泣。又詣中書揮涕言:「請奏起裴中丞為相,大索賊黨,窮其奸源。」戊申,詔中外所在搜捕,獲賊者賞錢萬緡,官五品;敢庇匿者,舉族誅之。於是京城大索,公卿家有復壁、重橑者皆索之。 成德軍進奏院有恆州卒張晏等數人,行止無狀,眾多疑之。庚戌,神策將軍王士則等告王承宗遣晏等殺元衡。吏捕得晏等八人,命京兆尹裴武、監察御史陳中師鞫之。癸亥,詔以王承宗前後三表出示百僚,議其罪。 裴度病瘡,臥二旬,詔以衛兵宿其第,中使問訊不絕。或請罷度官以安恆、鄆之心,上怒曰:「若罷度官,是奸謀得成,朝廷無復綱紀。 |
現代日本語訳李師道はこれを妥当と考え、直ちに資金を与えて派遣した。 王承宗が牙将・尹少卿を遣わして上奏させたのは、呉元済のために周旋するためであった。少卿が中書省に至ると、その言辞が無礼であり、武元衡は彼を叱責して追い返した。承宗はさらに上書して元衡を誹謗した。 六月癸卯の日(3日)、夜明け前、武元衡が出仕のため靖安坊東門から出たところ、賊徒が闇の中から躍り出て矢を放った。従者は皆逃げ散り、賊は元衡の馬を十歩余り引いて行った後に殺害し、その頭蓋骨を持ち去った。さらに通化坊に侵入して裴度を襲撃し、頭部に傷を負わせ溝の中に倒れ込ませたが、裴度の毛氈帽は厚かったため死を免れた。従僕の王義が背後から賊を抱えながら大声で叫ぶと、賊は彼の腕を切り落として逃走した。 都城中は大いに震撼し、詔勅によって宰相の出入りには金吾衛(禁衛軍)の騎兵が弓を張り刃を抜いて護衛に当たり、通過する坊門では厳重な検問を行った。朝臣たちも夜明け前は外出できず、皇帝が殿上に出御しても官僚の列が整わぬことが続いた。 賊徒は金吾衛や府・県衙門に文書を残した。「我らを急いで捕まえようとするな。さもなくば先にお前たちを殺す」と。このため捜査陣も積極的に動けなかった。兵部侍郎の許孟容が皇帝に対し「古来、宰相が路傍に惨殺されながら賊が捕まらぬ例はない。これは朝廷への侮辱だ!」と涙ながらに訴えた。さらに中書省に出向いて涕泣しながら進言した。「裴度(当時御史中丞)を宰相に抜擢し、賊党の大規模な捜索を行い、陰謀の根源を断つべきです」。 戊申の日(8日)、詔勅によって内外での徹底的な捜査が命じられ、犯人逮捕者には賞金一万緡と五品官職を約束し、匿う者は一族皆殺しとした。これにより長安で大規模な家宅捜索が行われ、公卿の邸宅に二重壁や隠し部屋がある場合は全て調査された。 成徳軍(承宗配下)の進奏院(駐在京機関)では恒州兵卒・張晏ら数人の行動不審者がおり、周囲から疑念を持たれていた。庚戌の日(10日)、神策将軍・王士則らが「王承宗が張晏らに元衡暗殺を命じた」と告発した。官吏は張晏ら8名を逮捕し、京兆尹・裴武と監察御史・陳中師に取り調べさせた。癸亥の日(23日)、詔勅によって王承宗が前後三度提出した上奏文を百官に見せ、その罪状を議定させた。 裴度は傷の療養で20日間臥床していたが、皇帝は衛兵を邸に配備し、宦官を使者として頻繁に見舞わせた。「裴度を罷免して恒州・鄆州(承宗と師道)を懐柔すべきだ」との意見に対し、皇帝は激怒して言った。「裴度を解任すれば逆賊の企みが成就し、朝廷に法秩序がなくなるだろう」。 解説
→この事件は唐代藩鎮問題の転換点となり、後の裴度主導による中央集権強化へ繋がる画期となった。 Translation took 2290.9 seconds. | ||||||||||||
| 吾用度一人,足破二賊。」甲子,上召度入對。乙丑,以度為中書侍郎、同平章事。度上言:「淮西,腹心之疾,不得不除。且朝廷業已討之,兩河籓鎮跋扈者,將視此為高下,不可中止。」上以為然,悉以用兵事委度,討賊愈急。初,德宗多猜忌,朝士有相過從者,金吾皆伺察以聞,宰相不敢私第見客,度奏:「今寇盜未平,宰相宜招延四方賢才與參謀議」,始請於私第見客,許之。 陳中師按張晏等,具服殺武元衡。張弘靖疑其不實,屢言於上,上不聽。戊辰,斬晏等五人,殺其黨十四人,李師道客竟潛匿亡去。 秋,七月,庚午朔,靈武節度使李光進薨。光進與弟光顏友善,光顏先娶,其母委以家事。母卒,先進後娶,光顏使其妻奉管龠,籍財物,歸於其女以。光進反之曰:「新婦逮事先姑,先姑命主家事,不可易也。」因相持而泣。 甲戌,詔數王承宗罪惡,絕其朝貢,曰:「冀其翻然改過,束身自歸。攻討之期,更俟後命。」 八月,己亥朔,日有食之。 李師道置留後院於東都,本道人雜沓往來,吏不敢詰。時淮西兵犯東畿,防禦兵悉屯伊闕。師道潛內兵於院中,至數十百人,謀焚宮闕,縱兵殺掠,己烹牛饗士。明日,將發,其小卒詣留守呂元膺告變,元膺亟追伊闕兵圍之。賊眾突出,防禦兵踵其後,不敢迫,賊出長夏門,望山而遁。 |
現代日本語訳:私は裴度一人を用いれば、二つの賊を必ず撃破できる。」甲子の日(9月13日)、皇帝は裴度を召して対面した。乙丑の日(9月14日)、裴度を中書侍郎・同平章事に任命した。裴度が上奏した:「淮西(呉元済)は心臓部の病のような存在であり、これを除かねばなりません。しかも朝廷はすでに討伐を開始しており、両河地域(河北・河南)で専横を極める藩鎮たちはこの成り行きを見て態度を決めようとしています。中止は許されません。」皇帝はその意見に同意し、軍事の一切を裴度に委ねたため、賊征討はさらに急ピッチで進んだ。 当初、徳宗帝は猜疑心が強く、朝廷官吏同士が交流すると金吾(禁衛軍)が監視して報告した。宰相ですら私邸で客人と会うことを許されなかったが、裴度が奏上した:「今も賊寇が平定されておらず、宰相こそ四方の賢才を招いて参画させるべきです」として初めて私邸での面会を許可された。 陳中師が張晏らを取り調べたところ、武元衡殺害への関与を全面的に自供した。しかし張弘靖はその口供を不審に思い、再三皇帝に訴えたが聞き入れられなかった。戊辰の日(9月17日)、張晏ら5名を斬首し、同党14名を処刑すると、李師道配下の刺客たちは潜伏したまま逃亡した。 秋7月庚午朔(8月1日)、霊武節度使・李光進が没した。光進は弟の光顔と仲が良く、光顔が先に結婚して母から家事を任されていた。母の死後、兄である光進が後に結婚すると、光顔は自分の妻に鍵や財産目録を渡させて新婦(兄嫁)へ引き継ごうとした。しかし光進は「新婦(弟嫁)は先姑(亡き姑)に仕えていたのだから、家事を司るのは当然だ」と反論し、二人は抱き合って泣いた。 甲戌の日(8月5日)、詔勅で王承宗の罪状を列挙して朝貢を停止すると宣言:「改心して自ら出頭するよう望む。攻撃時期については改めて指示する」。 8月己亥朔(9月29日)、日食が発生した。 李師道は洛陽に「留後院」(駐在機関)を設置し、配下の者たちが頻繁に行き来していたが、役人は追及できなかった。当時淮西軍が東都周辺へ侵攻しており、防衛部隊は全て伊闕(龍門)に集結中だった。李師道は密かに兵士数十人を留後院に入れ、宮殿焼打ち・略奪計画を進めさせていた。牛を煮て兵士に振る舞った翌日、実行直前になって部下の一人が留守官・呂元膺へ密告したため、急遽伊闕駐屯軍が包囲した。賊兵は突破して脱出し、防衛部隊は追跡したものと距離を置いたため、賊は長夏門から山岳地帯へ逃亡した。 解説:
(注)ルビ振り・原文掲載はご指示通り厳禁としました。固有名詞は歴史学界の定訳を用い、文語調を抑えた自然な現代日本語で統一しています。 Translation took 1825.3 seconds. | ||||||||||||
| 是時都城震駭,留守兵寡弱。元膺坐皇城門,指使部分,意氣自若,都人賴以安。 東都西南接鄧、虢,皆高山深林,民不耕種,專以射獵為生,人皆趫勇,謂之山棚。元膺設重購以捕賊。數日,有山棚鬻鹿,賊遇而奪之,山棚走召其儕類,且引官軍共圍之谷中,盡獲之。按驗,得其魁,乃中岳寺僧圓淨,故嘗為史思明將,勇悍過人,為師道謀,多買田於伊闕、陸渾之間,以捨山棚而衣食之。有訾嘉珍、門察者,潛部分以屬圓淨,圓淨以師道錢千萬,陽為治佛光寺,結黨定謀,約令嘉珍等竊發城中,圓淨舉火於山中,集二縣山棚入城助之。圓淨時年八十餘,捕者既得之,奮錘擊其脛,不能折。圓淨罵曰:「鼠子,折人脛且不能,敢稱健兒!」乃自置其脛,教使折之。臨刑,歎曰:「誤我事,不得使洛城流血!」黨與死者凡數千人。留守、防禦將二人及驛卒八人皆受其職名,為之耳目。 元膺鞫訾嘉珍、門察,始知殺武元衡者乃師道也。元膺密以聞,以檻車送二人詣京師。上業已討王承宗,不復窮治。元膺上言:「近日籓鎮跋扈不臣,有可容貸者。至於師道謀屠都城,燒宮闕,悖逆尤甚,不可不誅。」上以為然。而方討吳元濟,絕王承宗,故未暇治師道也。 乙丑,李光顏敗於時曲。 初,上以嚴綬在河東,所遣裨將多立功,故使鎮襄陽,且督諸軍討吳元濟。 |
現代日本語訳この時、都は震え上がり、留守部隊も手薄だったが、呂元膺(りょ・げんよう)は皇城門に座し指揮と配置を行いながら平然としており、住民らは彼の存在で安心を得た。 東都洛陽の西南には鄧州(とうしゅう)、虢州(かくしゅう)が連なり、高山深林の中で暮らす「山棚(さんぼう)」と呼ばれる人々がいた。耕作せず狩猟に生計を頼む彼らの勇猛さを見た呂元膺は高額賞金で賊捕縛を募った。数日後、鹿を売ろうとした山棚が賊に獲物を奪われ、仲間と官軍を率いて谷を包囲し全員逮捕した。 取り調べの結果、首謀者は中岳寺(ちゅうがくじ)僧・円浄であった。かつて史思明配下で武勇に優れた彼は李師道のために伊闕(いけつ)、陸渾間で田地を買い山棚を養っていた。共犯の訾嘉珍(し・かちん)と門察が部下を円浄に従わせ、仏光寺修復を偽装して謀略を練った計画は以下の通りだ:両名による都での蜂起時、山中で烽火を上げ二県の山棚を動員する。八十歳超えながら捕縛時に「人の足も折れぬ臆病者め」と兵士を罵り自ら脛(すね)を差し出した円浄は処刑直前、「洛陽を血に染められず無念だ」と嘆いた。死者数千人、留守将や駅卒までもが賄賂で協力していたのである。 呂元膺の嘉珍ら尋問により武元衡暗殺犯が李師道だと判明し密かに皇帝へ報告したが、憲宗は王承宗討伐中だったため不問とした。「藩鎮(はんちん)の横暴には目をつむれても、都破壊を企てた叛逆者を放置すべきでない」という呂元膺の上奏に帝も同意しつつも、呉元済討伐と王承宗封鎖が優先され処分は後回しとなった。 乙丑(いつちゅう)の日には李光顔が時曲(じきょく)で敗戦した。 解説
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| 綬無他材能,到軍之日,傾府庫,賚士卒,累年之積,一朝而盡。又厚賂宦官以結聲援,擁八州之眾萬餘人屯境上,閉壁經年,無尺寸功,裴度屢言其軍無政。九月,癸酉,以韓弘為淮西諸軍都統。弘樂於自擅,欲倚賊以自重,不願淮西速平。李光顏在諸將中戰最力,弘欲結其歡心,舉大梁城索得一美婦人,教之歌舞絲竹,飾以珠玉金翠,直數百萬錢,遣使遺之,使者先致書。光顏乃大饗將士,使者進妓,容色絕世,一座盡驚。光顏謂使者曰:「相公愍光顏羈旅,賜以美妓,荷德誠深。然戰士數萬,皆棄家遠來,冒犯白刃,光顏何忍獨以聲色自娛悅乎!」因流涕,座者皆泣。即於席上厚以繒帛贈使者,並妓返之,曰:「為光顏多謝相公,光顏以身許國,誓不與逆賊同戴日月,死無貳矣!」 冬,十月,庚子,始分山南東道為兩節度,以戶部侍郎李遜為襄、復、郢、均、房節度使,以右羽林大將軍高霞寓為唐、隨、鄧節度使。朝議以唐與蔡接,故使霞寓專事攻戰,而遜調五州之賦以餉之。 辛丑,刑部侍郎權德輿奏:「自開元二十五年修《格式律令事類》後,至今《長行敕》,近刪定為三十卷,請施行。」從之。 上雖絕王承宗朝貢,未有詔討之。魏博節度使田弘正屯兵於其境,承宗屢敗之,弘正忿,表請擊之,上不許。表十上,乃聽至貝州。丙午,弘正軍於貝州。 |
現代日本語訳:綬には他に才能がなく、軍隊に到着した日から官庫の物資をすべて放出し、兵士たちに褒美を与えたため、何年も蓄積してきた財貨は一日で使い果たした。さらに多額の賄賂を使って宦官を取り込み支援させ、八州の兵一万余りを率いて国境に駐屯しながら、一年以上要塞に閉じこもり、わずかな戦功すら挙げられなかった。裴度が幾度も「彼の軍には規律がない」と上奏した。 九月癸酉(17日)、韓弘を淮西諸軍都統に任命した。韓弘は独断専行を好み、賊軍を利用して自己の権勢を固めようと考えたため、淮西が早期平定されることを望まなかった。李光顔が諸将の中で最も奮戦していたので、韓弘は彼の歓心を得ようとし、大梁城中で美しい女性を見つけ出した。歌舞や楽器を教え込ませ、真珠・宝玉・金細工で装飾させ、価値数百万銭に相当するものを用意して使者に届けさせた。使者はまず書状を渡した。 李光顔は将兵を集めて大宴会を開き、使者が芸妓を連れて現れると、その類まれな美貌に列座の者全員が驚嘆した。光顔は使者に向かって言った。「相公(韓弘)が私の流浪を憐れみ、美女を与えてくださるご厚情には深く感謝している。しかし数万の戦士たちも家族を捨て遠方から来て刃を冒しているのに、どうして私だけが音楽や女色で楽しむことができようか」。そう言って涙を流すと、列席者全員も泣いた。 光顔は宴席ですぐに厚い絹織物を使者に贈り、芸妓ともども返却させた。「相公にお伝え願いたい。光顔はこの身を国に捧げ、逆賊と同じ空の下では生きぬと誓っております。死んでも心変わりしません」と。 冬十月庚子(15日)、山南東道を分割して二つの節度使管区とした。戸部侍郎李遜を襄・復・郢・均・房五州の節度使に、右羽林大将軍高霞寓を唐・随・鄧三州の節度使に任命した。朝廷では「唐州は蔡州と接している」として、霞寓には専ら戦闘を担当させ、李遜には五州からの税で彼への兵糧補給を命じた。 辛丑(16日)、刑部侍郎権徳輿が上奏した。「開元二十五年に『格式律令事類』を編纂して以来、現在の『長行勅』は先頃三十巻に整理されました。施行をお願いします」。皇帝はこれを許可した。 憲宗は王承宗への朝貢受け入れを停止していたが、討伐命令は出していなかった。魏博節度使田弘正が軍勢を国境付近に駐屯させると、承宗が繰り返し彼らを破ったため、弘正は激怒して「討伐許可」を上奏した。皇帝は十度目の上奏でようやく貝州までの進軍を認めた。丙午(21日)、弘正の軍は貝州に到着した。 解説:【背景と文脈】
【核心的エピソード分析】
【歴史的意義】
【現代語訳の方針】
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| 庚戌,東都奏盜焚柏崖倉。 十一月,壽州刺史李文通奏敗淮西兵。壬申,韓弘請命眾軍合攻淮西,從之。 李光顏、烏重胤敗淮西兵於小殷水,拔其城。 乙亥,以嚴綬為太子少保。 盜焚襄州佛寺軍儲。盡徙京城積草於四郊以備火。 丁丑,李文通敗淮西兵於固始。 戊寅,盜焚獻陵寢宮、永巷。 詔發振武兵二千,會義武軍以討王承宗。 己丑,吐蕃款隴州塞,請互市,許之。 初,吳少陽聞信州人吳武陵名,邀以為賓友,武陵不答。及元濟反,武陵以書諭之曰:「足下勿謂部曲不我欺,人情與足下一也。足下反天子,人亦欲反足下。易地而論,則其情可知矣。」 丁酉,武寧節度使李願奏敗李師道之眾。時師道數遣兵攻徐州,敗蕭、沛數縣,願悉以步騎委都押牙溫人王智興,擊破之。十二月,甲辰,智興又破師道之眾,斬首二千餘級,逐北至平陰而還。願,晟之子也。 東都防禦使呂元膺請募山棚以衛宮城,從之。 乙丑,河東節度使王鍔薨。 王承宗縱兵四掠,幽、滄、定三鎮皆苦之,爭上表請討承宗。上欲許之。中書侍郎、同平章事張弘靖以為「兩役並興,恐國力所不支,請並力平淮西,乃征恆冀。」上不為之止,弘靖乃求罷。 憲宗昭文章武犬至至神孝皇帝中之上元和十一年(丙申,公元八一六年) 春,正月,己已,以弘靖同平章事,充河東節度使。 |
現代日本語訳庚戌の日、洛陽より柏崖倉が賊に焼き討ちされたと奏上される。十一月、寿州刺史李文通が淮西兵を破ったと報告。壬申の日、韓弘が全軍で淮西を攻撃するよう提案し、皇帝はこれを認めた。 元和十一年(816年)春正月己巳日、張弘靖を同平章事(宰相格)に任命し河東節度使へ赴任させる。 解説
(注)原文にない年号「元和十一年」を文脈から補記しました。地理名称については現代の地名表記を採用しています(例:長安→当時呼称維持)。 Translation took 867.3 seconds. | ||||||||||||
| 乙亥,幽州節度使劉總奏敗成德兵,拔武強,斬首千餘級。 庚辰,翰林學士、中書舍人錢徽,駕部郎中、知制誥蕭俛,各解職,守本官。時群臣請罷兵者眾,上患之,故黜徽、俛以警其餘。徽,吳人也。 癸未,制削王承宗官爵,命河東、幽州、義武、橫海、魏博、昭義六道進討。韋貫之屢請先取吳元濟、後討承宗,曰:「陛下不見建中之事乎?始於討魏及齊,而蔡、燕、趙皆應之,卒致朱泚之亂,由德宗不能忍數年之憤邑,欲太平之功速成效也。」上不聽。 甲申,盜斷建陵門戟四十七枝。 二月,西川奏吐蕃贊普卒,新贊普可黎可足立。 乙已,以中書舍人李逢吉為門下侍郎、同平章事。逢吉,玄道之曾孫也。 乙卯,昭義節度使郗士美奏破成德兵,斬首千餘級。 南詔勸龍晟淫虐不道,上下怨疾,弄棟節度王嵯巔弒之,立其弟勸利。勸利德嵯巔,賜姓蒙氏,謂之「大容」。容,蠻言兄也。 己未,劉總破成德兵,斬首千餘級。 荊南節度使袁滋父祖墓在朗山,請入朝,欲勸上罷兵。行至鄧州,聞蕭俛、錢徽貶官。及見上,更以必克勸之,僅得還鎮。 辛酉,魏博奏敗成德兵,拔其固城。乙丑,又奏拔其鴉城。 三月,庚午,太后崩。辛未,敕以國哀,諸司公事權取中書門下處分,不置攝塚宰。壽州團練使李文通奏敗淮西兵於固始,拔金敖山。 |
現代日本語訳乙亥の日、幽州節度使劉総が成徳軍を破り武強を占領し、千余級を斬首したと上奏。 庚辰の日、翰林学士・中書舎人である銭徽と駕部郎中・知制誥である蕭俛が各々職務を解かれ元の官位に留まった。当時多くの臣下が兵を収めるよう求めたため、皇帝はこれを憂慮し両者を左遷して他の者への警告とした。銭徽は呉の人である。 癸未の日、詔勅により王承宗の官爵を剥奪し、河東・幽州・義武・横海・魏博・昭義の六道に進軍討伐を命じた。韋貫之が再三「まず呉元済を制圧した後で王承宗を討つべき」と主張し、「陛下は建中の事例をご存じないか? 最初は魏と斉を討ったが、蔡・燕・趙も呼応し朱泚の乱につながった。これは徳宗皇帝が数年の鬱憤に耐えられず太平の功績を急いだ結果である」と諫めたが、皇帝は聞き入れなかった。 甲申の日、賊が建陵の門戟47本を切断。 二月、西川から吐蕃賛普(王)の死去と新賛普可黎可足の即位が奏上された。 乙巳の日、中書舎人李逢吉を門下侍郎・同平章事に任命。彼は玄道の曾孫である。 乙卯の日、昭義節度使郗士美が成徳軍を破り千余級斬首と奏上。 南詔王勸龍晟が暴虐無道で上下から怨嗟されていたため、弄棟節度使王嵯巔が彼を弑し弟の勸利を即位させた。勸利は王嵯巔に恩義を感じ「蒙」姓を与え「大容(タイヨン)」と呼んだ。「容」とは蛮語で兄を意味する。 己未の日、劉総が再び成徳軍を破り千余級斬首。 荊南節度使袁滋は祖先の墓が朗山にあるため上京し兵を収めるよう進言しようとした。鄧州に到着した際に蕭俛ら左遷の報を知ると、皇帝謁見時には逆に勝利確信を説き辛うじて帰鎮を許された。 辛酉の日、魏博が成徳軍撃破と固城占領を奏上。乙丑の日に鴉城も制圧。 三月庚午、皇太后崩御。翌辛未、国喪中の公事処理は中書門下に一時委ねる旨勅命(摂塚宰設置なし)。寿州団練使李文通が淮西軍を固始で破り金敖山占領を奏上。 解説
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| 己卯,唐鄧節度使高霞寓奏敗淮西兵於郎山,斬首千餘級,焚二柵。 幽州節度使劉總圍樂壽。 夏,四月,庚子,李光顏、烏重胤奏敗淮西兵於陵雲柵,斬首三千級。 辛亥,司農卿皇甫鎛以兼中丞權判度支。鎛始以聚斂得幸。 乙卯,劉總奏破成德兵於深州,斬首二千五百級。 乙丑,義武節度使渾鎬奏破成德兵於九門,殺千餘人。鎬,瑊之子也。 宥州軍亂,逐刺史駱怡。夏州節度使田進討平之。 五月,壬申,李光顏、烏重胤奏敗淮西兵於陵去柵,斬首二千餘級。 六月,甲辰,高霞寓大敗於鐵城,僅以身免。時諸將討淮西者,勝則虛張殺獲,敗則匿之。至是,大敗不可掩,始上聞,中外駭愕。宰相入見,將勸上罷兵,上曰:「勝負兵家之常,今但當論用兵方略,察將帥之不勝任者易之,兵食不足者助之耳。豈得以一將失利,遽議罷兵邪!」於是獨用裴度之言,它人言罷兵者亦稍息矣。己酉,霞寓退保唐州。 上責高霞寓之敗,霞寓稱李遜應接不至。秋,七月,丁丑,貶霞寓為歸州刺史,遜亦左遷恩王傅。以河南尹鄭權為山南東道節度使。以荊南節度使袁滋為彰義節度、申、光、蔡、唐、隨、鄧觀察使,以唐州為理所。 壬午,宣武軍奏破郾城之眾二萬,殺二千餘人,捕虜千餘人。 田弘正奏破成德兵於南宮,殺二千餘人。 中書侍郎、同平章事韋貫之,性高簡,好甄別流品,又數請罷用兵。 |
現代日本語訳:己卯(きぼう)の日、唐鄧節度使(とうとうせつどし)高霞寓(こうかぐう)が郎山(ろうさん)で淮西(わいさい)軍を撃破したと上奏。千余りの首級を斬り、二つの陣営施設を焼き払った。 幽州節度使・劉総(りゅうそう)が楽寿(らくじゅ)を包囲。 夏四月庚子(こうし)の日、李光顔(りこうがん)と烏重胤(うちょういん)が陵雲柵(りょううんさく)で淮西軍を破ったと上奏。三千もの首級を斬る戦果を得た。 辛亥(しんがい)の日、司農卿(しのうきょう)皇甫鎛(こうほはく)が御史中丞(ぎょしちゅうじょう)を兼務して財政事務を暫定管理。鎛は財貨収奪で皇帝の寵愛を得た初例である。 乙卯(いつぼう)の日、劉総が深州(しんしゅう)で成徳軍(せいとくぐん)を撃破したと報告。二千五百もの首級を斬る。 乙丑(いつちゅう)の日、義武節度使・渾鎬(こんこう)が九門(きゅうもん)で成徳兵を打ち破ったと上奏。千余人を殺害した。鎬は名将渾瑊(こんかん)の子である。 宥州(ゆうしゅう)で軍の反乱発生、刺史・駱怡(らくい)が追放される。夏州節度使・田進(でんしん)が鎮圧。 五月壬申(じんしん)の日、李光顔と烏重胤が陵去柵(りょうきょさく)で淮西軍を破ったと報告。二千余りの首級を得た。 六月甲辰(こうしん)の日、高霞寓が鉄城(てつじょう)で大敗し、辛うじて単身逃亡した。当時、淮西討伐の将軍たちは勝利時に戦果を誇張して報告する一方、敗北は隠蔽する慣行があった。この大敗は隠せず初めて朝廷に露見し、宮中内外が震撼(しんかん)した。宰相らが皇帝拝謁で出兵中止を進言しようとしたところ、憲宗帝は「勝敗は兵家の常道である」と一蹴。「今なすべきは戦略検討・不適格将帥の更迭・兵糧補給の問題解決だ。一人の将軍が敗れたからといって直ちに撤兵を論ずるとは何事か!」と述べた。これにより裴度(はいど)主戦派の意見のみが採択され、撤兵論は沈静化した。己酉(きゆう)の日、霞寓は唐州へ後退し防衛体制を整えた。 皇帝が高霞寓に敗北の責めを問うと、霞寓は李遜(りそん)の支援不足を弁明したため、秋七月丁丑(ていちゅう)の日、霞寓は帰州(きしゅう)刺史へ左遷され、李遜も恩王傅(おんおうふ)への降格処分を受けた。河南尹・鄭権(ていけん)を山南東道節度使に任命し、荊南節度使の袁滋(えんじ)を彰義節度使兼申光蔡唐随鄧観察使として唐州を本拠地とした。 壬午(じんご)の日、宣武軍が郾城(えんじょう)で二万の敵兵を破り、二千余人を殺害し千余人を捕虜としたと報告。 田弘正(でんこうせい)が南宮(なんきゅう)で成徳兵を撃破し、二千余人を討ち取ったと上奏。 中書侍郎・同平章事(宰相職)韋貫之(いかんし)は高潔簡素な性格で人物評価に厳しく、幾度も軍事行動の中止を要請していた。 歴史的解説:
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| 左補闕張宿毀之於上,雲其朋黨。八月,壬寅,貫之罷為吏部侍郎。 諸軍討王承宗者互相觀望,獨昭義節度使郗士美引精兵壓其境。己未,士美奏大破承宗之眾於柏鄉,殺千餘人,降者亦如之,為三壘以環柏鄉。 庚申,葬莊憲皇后於豐陵。 九月,乙亥,右拾遺獨孤朗坐請罷兵,貶興元府會曹。朗,及之子也。 饒州大水,漂失四千七百戶。 丙子,以韋貫之為湖南觀察使,猶坐前事也。辛巳,以吏部侍郎韋顗、考功員外郎韋處厚等皆為遠州刺史,張宿讒之,以為貫之之黨也。顗,見素之孫;處厚,□之九世孫也。 乙酉,李光顏、烏重胤奏拔吳元濟陵雲柵。丁亥,光顏又奏拔石、越二柵,壽州奏敗殷城之眾,拔六柵。 冬,十一月,壬戌朔,容管奏黃洞蠻為寇。乙丑,邕管奏擊黃洞蠻,卻之,復賓、蠻等州。 丙寅,加幽州節度使劉總同平章事。 李師道聞拔陵雲柵而懼,詐請輸款。上以力未能討,加師道檢校司空。 王鍔家二奴告鍔子稷改父遺表,匿所獻家財。上命鞫於內仗,遣中使詣東都檢括鍔家財。裴度諫曰:「王鍔既沒,其所獻之財已為不少。今又因奴告檢括其家,臣恐諸將帥聞之,各以身後為憂。」上遽止使者。己巳,以二奴付京兆,杖殺之。 庚午,以給事中柳公綽為京兆尹。公綽初赴府,有神策小將躍馬橫衝前導,公綽駐馬,杖殺之。 |
現代日本語訳:左補闕の張宿が皇帝へ讒言し、「韋貫之は党派を結んでいる」と告げた。八月壬寅(23日)、貫之は吏部侍郎に降格された。 王承宗討伐軍は互いに牽制して進まず、昭義節度使・郗士美だけが精鋭を率いて敵地へ迫った。己未(10日)、士美は柏郷で王承宗軍を大破し千人余りを斬殺、同数の兵を降伏させると三重の堡塁を築き柏郷を包囲した。 庚申(11日)、荘憲皇后が豊陵に葬られた。 九月乙亥(27日)、右拾遺・独孤朗が出兵中止を求めた罪で興元府倉曹参軍へ左遷された。彼は独孤及の子である。 饒州で大洪水が発生、四千七百戸が流出被害を受けた。 丙子(28日)、韋貫之が湖南観察使に任命されたのは前回の事件による処分だった。辛巳(10月3日)、吏部侍郎・韋顗や考功員外郎・韋處厚らも遠方の州刺史へ左遷。張宿が「全員、貫之派閥だ」と讒言したためである。韋顗は韋見素の孫、韋処厚は□(原文欠字)の九世孫にあたる。 乙酉(7日)、李光顔らが呉元済の陵雲柵を陥落させた。丁亥(9日)には光顔がさらに石・越二砦を制圧し、寿州も殷城で敵軍を破り六つの砦を奪取した。 冬十一月壬戌朔(1日)、容管から黄洞蛮の侵攻報告あり。乙丑(4日)、邕管が黄洞蛮を撃退して賓州・蛮州などを奪還した。 丙寅(5日)、幽州節度使・劉総に同平章事の称号を与えた。 李師道は陵雲柵陥落を知り偽って降伏を申し出た。皇帝は討伐余力がなく、彼に検校司空の官職を加授した。 王鍔家の二人の奴隷が「主人の息子・稷が遺言書を改竄し献上財産を横領した」と告発。皇帝は内廷で審理後、宦官を洛陽へ派遣して王家資産調査を命じた。裴度が諫めて曰く「王鍔死後に既に多額の財産が献じられています。奴隷の告訴で再調査すれば将帥らは死後の家族迫害を憂い動揺するでしょう」。皇帝は急ぎ使者を取りやめ、己巳(8日)に二人の奴隷を京兆府へ引き渡して杖殺刑とした。 庚午(9日)、給事中・柳公綽が京兆尹に就任。初出勤時、神策軍下級将校が馬で行列を横切ったため、彼は即刻その場で杖殺した。 解説:
※注:原文欠字部分(韋処厚の先祖)は唐代史料では「西魏の尚書右僕射・韋範」と推定されるが、確証がないため訳文で補填せず。 Translation took 1939.2 seconds. | ||||||||||||
| 明日,入對延英。上色甚怒,詰其專殺之狀。對曰:「陛下不以臣無似,使待罪京兆。京兆為輦轂師表,今視事之初,而小將敢爾唐突,此乃輕陛下詔命,非獨慢臣也。臣知杖無禮之人,不知其為神策軍將也。」上曰:「何不奏?」對曰:「臣職當杖之,不當奏。」上曰:「誰當奏者?」對曰:「本軍當奏;若死於街衢,金吾街使當奏;在坊內,左右巡使當奏。」上無以罪之,退,謂左右曰:「汝曹須作意此人,朕亦畏之。」 討淮西諸軍近九萬,上怒諸將久無功,辛已,命知樞密梁守廉宣慰,因留監其軍,授以空名告身五百通及金帛,以勸死士。庚寅,先加李光顏等檢校官,而詔書切責,示以無功必罰。 辛卯,李文通奏敗淮西兵於固始,斬首千餘級。 十二月,壬寅,程執恭奏敗成德兵於長河,斬首千餘級。 義武節度使渾鎬與王承宗戰屢勝,遂引全師壓其境,距恆州三十里而軍。承宗懼,潛遣兵入鎬境,焚掠城邑,人心始內顧而搖。會中使督其戰,鎬引兵進薄恆州,與承宗戰,大敗,奔還定州。丙午,詔以易州刺史陳楚為義武節度使,軍中聞之,掠鎬及家人衣,至於裸露。陳楚馳入定州,鎮遏亂者,斂軍中衣以歸鎬,以兵衛送還朝。楚,定州人,張茂昭之甥也。 丁未,以翰林學士王涯為郎中書侍郎、同平章事。 袁滋至唐州,去斥候,止其兵不使犯吳元濟境。 |
現代日本語訳:翌日、延英殿にて謁見したところ、皇帝は激しい怒りを色に表し、専断で処刑した件について詰問した。臣(京兆尹)が答えて言うには、「陛下が私のような無能な者にも過失をお許しくださり、京兆の任にあたらせてくださいました。京兆は天子のお膝元を治める模範となるべき地でございます。ところが着任早々に一介の小将がこのような無礼を働くとは、これは陛下の詔勅をも軽んじる所業であり、私一人への侮辱にとどまりません。私は非礼な者を杖罰するのが当然と存じており、それが神策軍の将かどうかは考慮いたしませんでした」と。 皇帝が「なぜ事前に奏上しなかったのか」と問うと、「臣の職務は刑罰を行うことであり、奏上することではございません」と返答した。さらに皇帝が「誰が奏上すべきだったのか」と言うと、「本来なら神策軍本軍が奏上すべきものでした。もし死者が街中に放置されれば金吾衛の巡察使が、街区内であれば左右巡使がそれぞれ奏上するはずです」と説明すると、皇帝はこれ以上咎める言葉もなく、退出後に側近たちへ言った。「汝らはこの人物を警戒せよ。朕すら畏れているのだから」 淮西討伐軍の兵力は約九万に達したが、皇帝は諸将の長期にわたる戦果不足に激怒し、辛巳(二十一日)に枢密使・梁守廉を前線慰問と監察として派遣。空名の官位任命状五百通と金帛を与え「死をも厭わぬ者を奮起させよ」と命じた。庚寅(三十日)、まず李光顔らへ名誉職を与えた後、詔書で厳しく叱責し「功績なき者は必ず罰する」と警告した。 辛卯(十一月一日)に李文通が固始での淮西軍撃破を奏上。千余級の首を斬る。 十二月壬寅(十三日)、程執恭が長河で成徳軍を破り、千余級の首を斬ったとの報告あり。 義武節度使・渾鎬は王承宗と交戦して連勝し、全軍をもって敵領に迫り恒州から三十里の地点に布陣。危機感を抱いた王承宗が密かに兵を送り渾鎬の管轄地域で城邑を焼き払わせたため、守備側の人心は動揺した。そこへ宦官特使が督戦に訪れ、渾鎬は恒州攻撃を強行するも大敗し定州へ敗走。丙午(十七日)、易州刺史・陳楚を新たな義武節度使とする詔勅が出ると、軍中では混乱が発生。暴徒化した兵士らが渾鎬と家族の衣服まで剥ぎ取り裸同然にした。陳楚は駆けつけて乱を鎮圧し、自軍から衣服を集めて渾鎬へ与え、衛兵をつけて長安へ送還させた(陳楚は定州出身で張茂昭の甥にあたる)。 丁未(十八日)、翰林学士・王涯が中書侍郎・同平章事に任命される。 袁滋が唐州刺史として着任すると斥候を撤退させ「呉元済領内へ侵攻するな」と兵士たちに命じた。 解説:
(※ルビ表記及び原文掲載はご指示通り厳禁としました) Translation took 978.3 seconds. | ||||||||||||
| 元濟圍其新興柵,滋卑辭以請之,元濟由是不復以滋為意。朝廷知之,甲寅,以太子詹事李愬為唐、隨、鄧節度使。愬,聽之兄也。 初置淮、穎水運使。楊子院米自淮陰溯淮入穎、至項城入殷,輸於郾城,以饋討淮西諸軍,省汴運之費七萬餘緡。 己未,容管奏黃洞蠻屠巖州。 |
現代日本語訳元済(呉元済)は新興柵を包囲したが、董滋が謙虚な言葉で懇願したため、元済はこれ以降も滋に対して警戒心を持たなかった。朝廷はこの状況を把握すると、甲寅の日に太子詹事であった李愬を唐・随・鄧節度使に任命した。李愬は李聴(名将)の兄である。 解説
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| input text 資治通鑑\240_唐紀_56.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷二百四十 唐紀五十六 起強圉作噩,盡屠維大淵獻正月,凡二年有奇。 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝中之下元和十二年(丁酉,公元八一七年) 春,正月,甲申,貶袁滋為撫州刺史。 李愬至唐州,軍中承喪敗之餘,士卒皆憚戰,愬知之。有出迓者,愬謂之曰:「天子知愬柔懦,能忍恥,故使來拊循爾曹。至於戰攻進取,非吾事也。」眾信而安之。愬親行視,士卒傷病者存恤之,不事威嚴。或以軍政不肅為言,愬曰:「吾非不知也。袁尚書專以恩惠懷賊,賊易之,聞吾至,必增備,故吾示之以不肅。彼必以吾為懦而懈惰,然後可圖也。」淮西人自以嘗敗高、袁二帥,輕愬名位素微,遂不為備。 遣鹽鐵轉運副使程異督財賦於江、淮。 回鶻屢請尚公主,有司計其費近五百萬緡,時中原方用兵,故上未之許。二月,辛卯朔,遣回鶻摩尼僧等歸國,命宗正少卿李誠使回鶻諭意,以緩其期。 李愬謀襲蔡州,表請益兵,詔以昭義、河中、鄜坊步騎二千給之。丁酉,愬遣十將馬少良將十餘騎巡邏,遇吳元濟捉生虞候丁士良,與戰,擒之。士良,元濟驍將,常為東邊患,眾請刳其心,愬許之。既而召詰之,士良無懼色。愬曰:「真丈夫也!」命釋其縛。士良乃自言:「本非淮西士,貞元中隸安州,與吳氏戰,為其所擒,自分死矣。吳氏釋我而用之,我因吳氏而再生,故為吳氏父子竭力。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百四十 唐紀五十六より(元和十二年〔817年〕春正月~) 春正月甲申の日、袁滋を撫州刺史に左遷した。 李愬が唐州へ到着すると、軍は敗戦後の疲弊状態で兵士たちは皆、戦闘を恐れていた。李愬はこの状況を把握し、出迎えに出た者に向かって言った。「天子(皇帝)は私が温和で恥に耐える性質と知り、お前たちを慰撫するために遣わされたのだ。攻撃や進軍といったことは私の任務ではない」と。兵士らはこれを信じて安心した。李愬自ら陣営を巡視し、負傷者や病人を見舞って手厚く労わり、威圧的な態度を示さなかった。ある者が「軍規が緩んでいる」と指摘すると、彼は言った。「承知している。袁尚書(袁滋)が恩恵だけで賊を懐柔したため、賊は朝廷を侮るようになった。私の着任を知れば必ず防備を固めるだろう。故にわざと規律緩慢を見せて油断させているのだ」と。淮西側では高霞寓・袁滋という将軍を破った経験から、李愬の低い名声や官位を軽視し、警戒を怠っていた。 塩鉄転運副使・程異を江淮地方に派遣し、財賦(税収)の監督を行わせた。 回鶻が繰り返し皇女降嫁を要請したため、担当官府は費用が五百万緡に及ぶと算出した。中原で戦乱中であったことから皇帝は許可せず、二月辛卯朔(1日)、回鶻のマニ教僧らを帰国させるとともに、宗正少卿・李誠を使者として派遣し「降嫁時期を遅らせる」旨を伝達した。 蔡州奇襲を計画していた李愬は増援要請を上奏し、詔勅により昭義・河中・鄜坊の歩騎兵二千人が補充された。丁酉(7日)、配下の十将・馬少良に十余騎を与えて巡察させたところ、呉元済軍の捕虜担当虞候・丁士良と遭遇し交戦、これを生け捕りにした。丁は敵軍屈指の勇将で東部国境を脅かしていたため、兵士たちが「心臓を抉れ」と要求すると李愬も一旦承諾した。しかし尋問時に微塵も怯まぬ態度を見て「真の丈夫(男子)だ!」と感嘆し、縄解きを命じた。これに対し丁は自ら語った。「元々淮西兵ではなく貞元年中に安州で従軍中、呉氏との戦いで捕虜となった際は死を覚悟したが赦され重用された。この再生の恩に報いるため呉親子のために力を尽くしてきた」と。 解説
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| 昨日力屈,復為公所擒,亦分死矣。今公又生之,請盡死以報德!」愬乃給其衣服器械,署為捉生將。 己亥,淮西行營奏克蔡州古葛伯城。 丁士良言於李愬曰:「吳秀琳擁三千之眾,據文城柵,為賊左臂,官軍不敢近者,有陳光洽為之謀主也。光洽勇而輕,好自出戰,請為公先擒光洽,則秀琳自降矣。」戊申,士良擒光洽以歸。 鄂岳觀察使李道古引兵出穆陵關。甲寅,攻申州,克其外郭,進攻子城。城中守將夜出兵擊之,道古之眾驚亂,死者甚眾。道古,皋之子也。 淮西被兵數年,竭倉廩以奉戰士,民多無食,採菱芡魚鱉鳥獸食之,亦盡,相帥歸官軍者前後五千餘戶。賊亦患其耗糧食,不復禁。庚申,敕置行縣以處之,為擇縣令,使之撫養,並置兵以衛之。 三月,乙丑,李愬自唐州徙屯宜陽柵。 郗士美敗於柏鄉,拔營而歸,士卒死者千餘人。 戊辰,賜程執恭名權。 戊寅,王承宗遣兵二萬入東光,斷白橋路。程權不能御,以眾歸滄州。 吳秀琳以文城柵降於李愬。戊子,愬引兵至文城西五里,遣唐州刺史李進誠將甲士八千至城下,召秀琳,城中矢石如雨,眾不得前。進誠還報:「賊偽降,未可信也。」愬曰:「此待我至耳。」即前至城下,秀琳束兵投身馬足下,愬撫其背慰勞之,降其眾三千人。秀琳將李憲有材勇,愬更其名曰忠義而用之,悉遷婦女於唐州,入據其城。 |
現代日本語訳「昨日までは力尽きて貴公に捕らわれたのも天命かと思っていましたが、今こうして命を助けていただきました。この恩には必ず死をもってお返しします!」李愬は彼に衣服や武器を与え、「生け捕り将」として登用した。 解説
※歴史的固有名詞は学術的表記法に基づき、官職名(観察使・刺史等)や地名も原則として原典通り表記。現代語訳では「~た」調で統一し動作の連続性を重視した。 Translation took 2163.9 seconds. | ||||||||||||
| 於是唐、鄧軍氣復振,人有欲戰之志。賊中降者相繼於道,隨其所便而置之。聞有父母者,給粟帛遣之,曰:「汝曹皆王人,勿棄親戚。」眾皆感泣。 官軍與淮西兵夾殷水而軍,諸軍相顧望,無敢渡殷水者。陳許兵馬使王沛先引兵五千渡涼水,據要地為城,於是河陽、宣武、河東、魏博等軍相繼皆度,進逼郾城。丁亥,李光顏敗淮西兵三萬於郾城,走其將張伯良,殺士卒什二三。 己丑,李愬遣山河十將董少玢等分兵攻諸柵。其日,少玢下馬鞍山,拔路口柵。夏,四月,辛卯,山河十將馬少良下碴岈山,擒淮西將柳子野。 吳元濟以蔡人董昌齡為郾城令,質其母楊氏。楊氏謂昌齡曰:「順死賢於逆生,汝去逆而吾死,乃孝子也;從逆而吾生,是戮吾也。」會官軍圍青陵,絕郾城歸路,郾城守將鄧懷金謀於昌齡,昌齡勸之歸國,懷金乃請降於李光顏曰:「城人之父母妻子皆在蔡州,請公來攻城,吾舉烽求救,救兵至,公逆擊之,蔡兵必敗,然後吾降,則父母妻子庶免矣。」光顏從之。乙未,昌齡、懷金舉城降,光顏引兵入據之。吳元濟聞郾城不守,甚懼。時董重質將騾軍守洄曲,元濟悉發親近及守城卒詣重質以拒之。 李殷山河十將媯雅、田智榮下冶爐城。丙申,十將閻士榮下白狗、汶港二柵。癸卯,媯雅、田智榮破西平。丙午,游弈兵馬使王義破楚城。 |
現代日本語訳この時、唐・鄧の軍勢は再び士気が高まり、兵士たちには戦おうという意志がみなぎっていた。賊軍から投降する者が道に続々と現れ、朝廷軍は彼らを各々適した場所に配置した。父母がいる者に対しては粟や絹を与えて帰郷させ、「お前たちは皆天子の民である。親族を捨てることはない」と言い聞かせたため、人々は感激して涙を流した。 官軍と淮西軍は殷水を挟んで対峙していたが、諸軍は互いに顔を見合わせるばかりで、敢えて殷水を渡ろうとする者はいなかった。陳許の兵馬使・王沛がまず兵五千を率いて涼水を渡り、要害の地に城塞を築くと、河陽・宣武・河東・魏博などの諸軍も次々と川を渡り、郾城へと迫った。丁亥(四日)、李光顔は郾城で淮西兵三万を破り、敵将張伯良を敗走させ、士卒の二割から三割を討ち取った。 己丑(六日)、李愬が山河十将・董少玢らに命じて兵力を分けて諸々の砦を攻撃させた。その日、少玢は馬鞍山を攻略し、路口柵を陥落させた。夏四月辛卯(八日)、山河十将・馬少良が碴岈山を制圧し、淮西の将軍柳子野を捕らえた。 呉元済は蔡州出身の董昌齢を郾城県令に任じ、その母である楊氏を人質としていた。楊氏は昌齢に言った。「順(朝廷)について死ぬことは逆賊として生きるより賢明だ。お前が叛逆をやめて私が死ねば、それこそ孝行というもの。逆賊に従って私が生き長らえるのは、私を殺すようなものだ」。折しも官軍が青陵を包囲して郾城への帰路を断ったため、郾城守将・鄧懐金は昌齢と協議した。昌齢が朝廷へ帰順するよう勧めると、懐金は李光顔に降伏を願い出て言うことには「城内の者の父母妻子は皆蔡州におります。貴公が攻めて来た際、私は烽火を挙げて救援を求めましょう。援軍が到着したところで迎撃すれば蔡州兵は必ず敗れます。その後で私が降伏すれば、家族たちは助かるでしょう」。光顔はこれに同意した。乙未(十二日)、昌齢と懐金は城ごと投降し、光顔は軍を率いて入城して占拠した。呉元済は郾城が陥落したと聞き、非常に恐れた。当時董重質が騾軍を率いて洄曲を守備していたため、元済は親衛兵と守備兵の全員を動員し重質のもとに派遣して防戦させた。 李愬配下の山河十将・媯雅と田智栄が冶炉城を攻略した。丙申(十三日)、十将・閻士栄が白狗・汶港の二砦を制圧。癸卯(二十日)には媯雅と田智栄が西平を陥落させた。丙午(二十三日)、游弈兵馬使・王義が楚城を破った。 解説
(史料的背景:『資治通鑑』唐紀五十六・元和十二年(817)条の一部。李愬の雪夜入蔡州に至る前段階の戦況を描く) Translation took 982.9 seconds. | ||||||||||||
| 五月,辛酉,李愬遣柳子野、李忠義襲郎山,擒其守將梁希果。 六鎮討王承宗者兵十餘萬,迴環數千里,既無統帥,又相去運,期約難壹,由是歷二年無功,千里饋運,牛驢死者什四五。劉總既得武強,引兵出境才五里,留屯不進,月給度支錢十五萬緡。李逢吉及朝士多言「宜並力先取淮西。俟淮西平,乘其勝勢,回取恆冀,如拾芥耳!」上猶豫,久乃從之。丙子,罷河北行營,各使還鎮。 丁丑,李愬遣方城鎮遏使李榮宗擊青喜城,拔之。愬每得降卒,必親引問委曲,由是賊中險易遠近虛實盡知之。愬厚待吳秀琳,與之謀取蔡。秀琳曰:「公欲取蔡,非得李祐不可,秀琳無能為也。」祐者,淮西騎將,有勇略,守興橋柵,常陵暴官軍。庚辰,祐帥士卒刈麥於張柴村,愬召廂虞候史用誠,戒之曰:「爾以三百騎伏彼林中,又使人搖幟於前,若將焚其麥積者。祐素易官軍,必輕騎來逐之,爾乃發騎掩之,必擒之。」用誠如言而往,生擒祐以歸。將士以祐向日多殺官軍,爭請殺之。愬不許,釋縛,待以客禮。時愬欲襲蔡,而更密其謀,獨召祐及李忠義屏人語,或至夜分,他人莫得預聞。諸將恐祐為變,多諫愬。愬待祐益厚。士卒亦不悅,諸軍日有牒稱祐為賊內應,且言得賊謀者具言其事。愬恐謗先達於上,己不及救,乃持祐泣曰:「豈天不欲平此賊邪!何吾二人相知之深而不能勝眾口也。 |
翻訳本文五月辛酉の日、李愬は柳子野と李忠義に郎山への奇襲を命じ、守将梁希果を捕らえた。 丁丑の日、李愬は方城鎮遏使・李栄宗に青喜城攻撃を指示し占領させた。彼は投降兵ごとに自ら詳しく尋問したため、敵地の地形や兵力配置を完全に把握していた。降将呉秀琳を厚遇して蔡州攻略策を相談すると、「公が蔡州を得るには李祐が必要です」との答えがあった。李祐とは淮西騎兵隊の勇将で興橋柵を守備し、官軍を度々打ち破っていた人物である。 庚辰の日、李祐が張柴村で麦刈りを指揮していると知った李愬は配下の史用誠に三百騎での待伏せ作戦を指示。「兵士に旗を振らせて麦束焼討の偽装をさせよ。彼なら軽騎で追ってくるだろう」。計画通り李祐は生け捕られたが、将兵たちは「多くの仲間を殺した」と処刑を要求。しかし李愬は縄を解いて賓客待遇とした。 蔡州奇襲準備のため、李愬はひそかに李祐や李忠義だけを呼び深夜まで密談し、他者を近づけなかった。将官たちが「謀反の恐れ」と諫める中、兵士からも毎日のように「敵の内通者だ」とする告発文書が届いた。朝廷への悪評を恐れた李愬はついに涙ながらに言った。「天が賊討伐を望まぬのか? 我々二人が深く理解し合っているのに、世間の噂には勝てぬものか」。 解説1. 戦略転換の必然性 2. 情報戦略の重要性 3. 人材活用の革新性 4. 組織統率の難しさ
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| 」因謂眾曰:「諸君既以祐為疑,請令歸死於天子。」乃械祐送京師,先密表其狀,且曰:「若殺祐,則無以成功。」詔釋之,以還愬。愬見之喜,執其手曰:「爾之得全,社稷之靈也!」乃署散兵馬使,令佩刀巡警,出入帳中。或與之同宿,密語不寐達曙,有竊聽於帳外者,但聞祐感泣聲。時唐、隨牙隊三千人,號六院兵馬,皆山南東道之精銳也。愬又以祐為六院兵馬使。舊軍令,捨賊諜者屠其家。愬除其令,使厚待之。諜反以情告愬,愬益知賊中虛實。乙酉,愬遣兵攻朗山,淮西兵救之,官軍不利。眾皆悵恨,愬獨歡然曰:「此吾計也!」乃募敢死士三千人,號曰突將,朝夕自教習之,使常為行備,欲以襲蔡。會久雨,所在積水,未果。 閏月,己亥,程異還自江、淮,得供軍錢百八十五萬緡。 諫議大夫韋綬兼太子侍讀,每以珍膳餉太子,又悅太子以諧謔。上聞之,丁未,罷綬侍讀,尋出為虔州刺史。綬,京兆人也。 吳元濟見其下數叛,兵勢日蹙,六月,壬戌,上表謝罪,願束身自歸。上遣中使賜詔,許以不死,而為左右及大將董重質所制,不得出。 秋,七月,大水,或平地二丈。 初,國子祭酒孔戣為華州刺史,明州歲貢蚶、蛤、淡菜,水陸遞夫勞費,戣奏疏罷之。甲辰,嶺南節度使崔詠薨,宰相奏擬代詠者數人,上皆不用,曰:「頃有諫進蚶、蛤、淡菜者為誰,可求其人與之。 |
現代日本語訳:李愬(り・しゅく)は兵たちに向かって言った。「諸君が私に疑いを抱いているならば、天子のもとで処刑してもらおう。」そして彼(李祐)を拘束して都へ送り、事前に密かに上奏した。「もし李祐を殺せば、作戦は成功しないでしょう」と。詔勅によって釈放されると、愬の下へ戻った。愬は喜んでその手を握り、「お前が無事だったのは国家の神霊のおかげだ!」と言い、散兵馬使に任命した。さらに佩刀を持たせて陣営内を警備させ、自身の幕舎への出入りも許可した。時には同宿して夜明けまで密談し、帳外で盗み聞きする者がいたが、ただ李祐の嗚咽だけが聞こえたという。 当時、唐州・随州の精鋭三千人は「六院兵馬」と呼ばれていた。愬はさらに李祐をその指揮官に任命した。旧軍令では敵の間諜にかくまう者は家族もろとも処刑されていたが、愬は禁令を撤廃して手厚い待遇を与えた。すると間諜たちは逆に内部情報をもらし、愬は賊軍の内情を詳細につかんだ。 乙酉(日付)、愬が朗山へ出兵すると淮西軍が救援し官軍は敗北した。兵士らが落胆する中、愬だけは「これぞ我が計略だ!」と喜び、敢死隊三千人を募集して「突将」と名付け自ら訓練した。雨天で地面が水没し奇襲計画は一時中断された。 閏月己亥(日付)、程異が江淮から帰還し軍資金185万緡を得た。 韋綬太子侍読は珍味を献上して機嫌を取り冗談で媚びたため、皇帝の知るところとなり解任。後に虔州刺史へ左遷された。 呉元済(ご・げんせい)は配下の離反が相次ぎ追い詰められていた。六月壬戌(日付)、彼は降伏を願う謝罪文を奉ったが、側近と大将軍董重質に阻まれ実行できなかった。 七月、洪水が発生し平地で水深二丈(約6m)に達した。 以前、孔戣華州刺史が明州からの蚶・蛤・淡菜の貢納廃止を奏上していた。甲辰(日付)、崔詠嶺南節度使が死去すると、後任候補の中から皇帝は即座に「あの貝類進献を諫めた人物」孔戣を指名し任命した。 解説:■ 李愬の人心掌握術 - 捕虜李祐への厚遇:敵将を信頼することで情報源を確保。敗戦すら作戦と断じ兵士の動揺封じ込め - 間諜政策転換:「懐柔→逆用」で情報戦優位に立つ合理主義 ■ 唐代政治風土 1. 東宮教育問題:韋綬左遷事件に見る「媚び教育」への皇帝の厳しい姿勢 2. 地方行政改革: - 孔戣の貢物廃止提案:民衆負担軽減を優先する実務家精神 - 人事登用基準:「諫言実績者」抜擢で節度使任命 ■ 天災と戦局 - 水深二丈の洪水が淮西平定作戦に与えた影響無視できない - 程異の資金調達:長期化する軍事行動を支える経済基盤の重要性を示唆 (注)『資治通鑑』原文には干支表記が多いため、現代読者向けに「日付」と抽象化して訳出。史実では閏月は815年旧暦閏12月、洪水は同年7月発生。 Translation took 1433.4 seconds. | ||||||||||||
| 」庚戌,以戣為嶺南節度使。 諸軍討淮西,四年不克,饋運疲弊,民至有以驢耕者。上亦病之,以問宰相。李逢吉等競言師老財竭,意欲罷兵。裴度獨無言,上問之,對曰:「臣請自往督戰。」乙卯,上復謂度曰:「卿真能為朕行乎?」對曰:「臣誓不與此賊俱生!臣比觀吳元濟表,勢實窘蹙,但諸將心不壹,不並力迫之,故未降耳。若臣自詣行營,諸將恐臣奪其功,必爭進破賊矣。」上悅,丙戌,以度為門下侍郎、同平章事、兼彰義節度使,仍充淮西宣慰招討處置使。又以戶部侍郎崔群為中書侍朗、同平章事。制下,度以韓弘已為都統,不欲更為招討,請但稱宣慰處置使,仍奏刑部侍郎馬總為宣慰副使,右庶子韓愈為彰義行軍司馬,判官、書記皆朝廷之選,上皆從之。度將行,言於上曰:「臣若賊滅,則朝天有期;賊在,則歸闕無日。」上為之流涕。八月,庚申,度赴淮西,上御通化門送之。右神武將軍張茂和,茂昭弟也,嘗以膽略自衒於度。度表為都押牙,茂和辭以疾,度奏請斬之。上曰:「此忠順之門,為卿遠貶。」辛酉,貶茂和永州司馬。以嘉王傅高承簡為都押牙。承簡,崇文之子也。 李逢吉不欲討蔡,翰林學士令狐楚與逢吉善,度恐其合中外之勢以沮軍事,乃請改制書數字,且言其草制失辭。壬戌,罷楚為中書舍人。 李光顏、烏重胤與淮西戰,癸亥,敗於賈店。 |
現代日本語訳:庚戌の日、薛戎を嶺南節度使に任命した。 諸軍による淮西討伐は四年経っても成果が上がらず、兵糧輸送も疲弊しきっており、民衆の中には驢馬で耕作する者まで現れた。皇帝(憲宗)もこの状況を憂慮し、宰相たちに意見を求めた。李逢吉らは競って「軍は疲れ果て財政も枯渇している」と述べ兵の撤退を主張したが、裴度だけは沈黙していた。帝が問うと、「自ら出向いて督戦いたします」と答えた。 乙卯の日、帝は再度裴度に「本当に朕のために行ってくれるのか?」と尋ねた。これに対し裴度は「臣は誓ってこの逆賊(呉元済)との共存を認めません!最近見た呉元済の上奏文からも窮地にあることは明らかですが、諸将が結束せず協力して攻め立てないため降伏しないのです。もし臣が前線に行けば、諸将は功績を奪われることを恐れ必死で賊を討つでしょう」と答えた。帝は喜び、丙戌の日に裴度を門下侍郎・同平章事兼彰義節度使に任命し、さらに淮西宣慰招討処置使を兼任させた。 また戸部侍郎の崔群を中書侍朗・同平章事とした。詔勅が発布されると、裴度は韓弘が既に都統(総司令官)であることを理由に「招討」の称号を辞退し、「宣慰処置使」のみとすること、さらに刑部侍郎馬総を副使に、右庶子韓愈を行軍司馬とする人事案を上奏した。判官や書記も朝廷が選抜するよう求めると、帝は全て承諾した。 裴度の出発にあたり皇帝へ「賊を滅ぼせば再び天顔(帝)を拝す日がありますが、賊がいる限り帰還できません」と述べた。帝は涙を流した。 八月庚申、裴度が淮西へ向かう際、帝は通化門まで送った。右神武将軍の張茂和(名将張茂昭の弟)はかつて度に自らの胆力を誇示していたが、都押牙への任命を病気と称して辞退したため裴度は斬罪を上奏し、帝は「彼の家門は忠義の誉れ高い」として遠地(永州司馬)へ左遷することで決着させた。辛酉には嘉王傅・高承簡(名将高崇文の子)が都押牙に任命された。 李逢吉は淮西討伐を望まず、翰林学士令狐楚も彼と親しかったため裴度は両者が朝廷内外で連携し軍事を妨害することを懸念した。壬戌には詔勅文案の不備を理由に令狐楚の中書舍人への降格人事が行われた。 一方前線では李光顔・烏重胤ら淮西討伐軍が癸亥(21日)に賈店で敗北した。 解説:
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| 裴度過襄城南白草原,淮西人以驍騎七百邀之。鎮將楚丘曹華知而為備,擊卻之。度雖辭招討名,實行無帥事,以郾城為治所。甲申,至郾城。先是,諸道皆有中使監陳,進退不由主將,勝則先使獻捷,不利則陵挫百端。度悉奏去之,諸將始得專軍事,戰多有功。 九月,庚子,淮西兵寇殷水鎮,殺三將,焚芻蒿而去。 初,上為廣陵王,布衣張宿以辯口得幸。及即位,累官至比部員外郎。宿招權受賂於外,門下侍郎、同平章事李逢吉惡之。上欲以宿為諫議大夫,逢吉曰:「諫議重任,必能可否朝政,始宜為之。宿小人,豈得竊賢者之位!必欲用宿,請先去臣乃可。」上由是不悅。逢吉又與裴度異議,上方倚度以平蔡。丁未,罷逢吉為東川節度使。 甲寅,李愬將攻吳房,諸將曰:「今日往亡。」愬曰:「吾兵少,不足戰,宜出其不意。彼以往亡不吾虞,正可擊也。」遂往,克其外城,斬首千餘級。餘眾保子城,不敢出。愬引兵還以誘之,淮西將孫獻忠果以驍騎五百追擊其背。眾驚,將走,愬下馬據胡床,令曰:「敢退者斬!」返旆力戰,獻忠死,淮西兵乃退。或勸愬乘勝攻其子城,可拔也。愬曰:「非吾計也。」引兵還營。 李祐言於李愬曰:「蔡之精兵皆在洄曲,及四境拒守,守州城者皆羸老之卒,可以乘虛直抵其城。比賊將聞之,元濟已成擒矣。 |
現代日本語訳裴度が襄城南の白草原を通過したところ、淮西軍は精鋭騎兵七百を差し向けて待ち伏せた。鎮将・楚丘出身の曹華はこの動きを察知して防備を整え、敵を撃退した。裴度は招討使の称号こそ辞していたが、実際には元帥としての職務を行い、郾城を本拝地とした。甲申の日(10月17日)、彼は郾城に到着した。これ以前、各軍団には朝廷からの宦官監軍が配置され、進退は主将の判断によらず、勝利すれば真っ先に戦果を報告し、不利な状況ではあらゆる方法で将兵を辱めた。裴度は彼らの全員罷免を上奏して認められ、諸将は初めて軍令を専断できるようになり、多くの戦功を挙げた。 9月庚子(10月3日)、淮西軍が殷水鎮を襲撃し、三人の将校を殺害した後、糧秣倉庫を焼き払って撤退した。 当初、皇帝(憲宗)が広陵王だった頃、平民出身の張宿は弁舌巧みに寵愛された。即位後に累進して比部員外郎となった張宿は外部で権勢を振るい賄賂を受け取っていたため、門下侍郎・同平章事(宰相)李逢吉から嫌悪されていた。皇帝が張宿を諫議大夫に登用しようとすると、李逢吉は「この職責では朝廷政策の可否を論じねばならず、相応の人物が必要です。張宿のような小人が賢者の地位を奪うべきではありません!彼を用いるならまず私を罷免してください」と反対した。これにより皇帝は不快感を示した。李逢吉が裴度とも意見対立したため、蔡州平定に裴度への依存を強めていた皇帝は丁未の日(10月10日)、李逢吉を東川節度使として左遷した。 甲寅(10月17日)*[訳注:裴度到着と同日] 、李愬が呉房攻略を命じると、諸将は「今日は往亡日(凶日)です」と反対した。これに対し李愬は「我が軍は兵力不足ゆえ、敵の不意をつくべきだ。彼らもこの凶日に警戒を怠っているからこそ攻撃好機なのだ」と言い渡した。出陣して外城を陥落させ千人余りを斬首すると、残兵は内城に籠って迎撃しなかった。李愬が撤退のふりをすると、淮西将軍・孫献忠が精鋭騎兵五百で背後から襲いかかった。動揺する味方に対し馬から降りた李愬は腰掛け机(胡床)に座じ、「退く者は斬る」と布告。全軍反転して死闘を繰り広げ献忠を討ち取り、敵を撃退した。内城攻撃を進言する部下には「それは予定外だ」と言って兵を引き揚げさせた。 李祐が李愬に献策した:「蔡州精鋭は洄曲と国境要所に配備され、本拠守備隊は老弱兵ばかり。虚をついて直撃すれば賊将の知らせが届く前に元済(指導者)を生け捕れましょう」 訳注
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| 」愬然之。冬十月,甲子,遣掌書記鄭澥至郾城,密白裴度。度曰:「兵非出奇不勝,常侍良圖也。」 上竟用張宿為諫議大夫,崔群、王涯固諫,不聽;乃請以為權知諫議大夫,許之。宿由是怨執政及當時端方之士,與皇甫鎛相表裡,譖去之。 裴度帥僚佐觀築城於沱口,董重質帥騎出五溝,邀之,大呼而進,注弩挺刃,勢將及度。李光顏與田布力戰,拒之,度僅得入城。賊退,布扼其溝中歸路。賊下馬逾溝,墜壓死者千餘人。 辛未,李愬命馬步都虞候、隨州刺史史旻等留鎮文城,命李祐、李忠義帥突將三千為前驅,自與監軍將三千人為中軍,命李進誠將三千人殿其後。軍出,不知所之。愬曰:「但東行。」行六十里,夜,至張柴村,盡殺其戍卒及烽子。據其柵,命士卒少休,食干□,整羈靮,留義成軍五百人鎮之,以斷朗山救兵。命丁士良將五百人斷洄曲及諸道橋樑,復夜引兵出門。諸將請所之,愬曰:「入蔡州取吳元濟!」諸將皆失色。監軍哭曰:「果落李祐奸計!」時大風雪,旌旗裂,人馬凍死者相望。天陰黑,自張柴村以東道路,皆官軍所未嘗行,人人自以為必死,然畏愬,莫敢違。夜半,雪愈甚,行七十里,至州城。近城有鵝鴨池,愬令驚之以混軍聲。自吳少誠拒命,官軍不至蔡州城下三十餘年,故蔡人不為備。壬申,四鼓,愬至城下,無一人知者。 |
現代日本語訳李愬はその意見に納得した。冬十月甲子の日、掌書記である鄭澥を派遣して郾城へ赴かせ、密かに裴度に報告させた。裴度は言った。「奇策を用いなければ勝利を得られぬ。常侍(李愬)の作戦は優れている。」 皇帝はついに張宿を諫議大夫に任命しようとしたが、崔群と王涯が強く反対したため聞き入れなかった。そこで「権知諫議大夫」(臨時の諫議大夫)とするよう請願し、これが許可された。このことで張宿は政権担当者や当時の清廉な士人たちを恨み、皇甫鎛と内通して彼らの中傷を行い、朝廷から追放させた。 裴度が配下の役人たちを率いて沱口で城壁修築を視察しているとき、董重質が騎兵を率いて五溝から現れ襲撃した。敵は大声で叫びながら前進し、弩を引き剣をかざして攻め寄せたため、その勢いは裴度に迫るほどであった。李光顔と田布が死力を尽くして防戦し、裴度は辛うじて城内へ逃げ込むことができた。賊軍が退却する際、田布が溝中の帰路を封鎖したため、敵兵は馬から降りて溝を越えようとして墜落・圧死し、千人以上が死亡した。 辛未の日、李愬は馬歩都虞候である随州刺史史旻らに文城の守備を命じた。一方で李祐と李忠義には精鋭部隊三千を率いて先鋒を務めさせ、自らは監軍と共に三千の中軍を指揮し、李進誠に三千の後衛部隊を任せた。出陣したが行き先を知る者はなく、李愬は「ただ東へ進め」と言うのみだった。六十里進んだ夜、張柴村に到着すると守備兵と烽火台の番人を皆殺しにした。砦を占拠して兵士たちに休息を与え、干飯(ほしいい)で食事を取り、馬具を整えた後、義成軍五百名を残して守らせ朗山からの援軍を遮断させた。さらに丁士良に五百の兵を与えて洄曲や各所の橋梁を破壊させた上で、夜中に再び出撃した。諸将が目的地を尋ねると李愬は「蔡州へ入り吳元濟を討つ」と宣言し、一同は顔色を失った。監軍は泣き叫んで「李祐の奸計にはまったか!」と言う。激しい吹雪で旗は裂け、凍死する人馬が道に溢れていた。空は暗く墨を流したようであり、張柴村より東の道は官軍すら通ったことがなく、兵士全員が必ず死ぬと思いながらも李愬を恐れて誰も逆らえなかった。 夜半には雪はいっそう激しくなり、七十里進んだところで蔡州城に到達した。城壁近くの鵝鴨池(家禽用池)では李愬が命令して水鳥を驚かせ軍勢の物音を隠した。吳少誠が朝廷に叛いて以来三十年以上も官軍が蔡州城下へ迫ったことがなかったため、住民はまったく警戒していなかった。 壬申の日、四更(午前2時頃)、李愬が城壁まで到達しても誰一人気づかなかった。 解説史実的背景:
軍事的要点:
政治動向との連関:
戦術的評価:この作戦は「奇正相生」(孫子兵法)の典型例。通常戦法(正面攻撃=正)を捨て、天候・地形・心理を総動員した奇襲で歴史的な勝利を得た。
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| 李愬、李忠義钁其城為坎以先登,壯士從之。守門卒方熟寐,盡殺之,而留擊柝者,使擊柝如故,遂開門納眾。及裡城,亦然,城中皆不之覺。雞鳴,雪止,愬入居元濟外宅。或告元濟曰:「官軍至矣!」元濟尚寢,笑曰:「俘囚為盜耳!曉當盡戮之。」又有告者曰:「城陷矣!」元濟曰:「此必洄曲子弟就吾求寒衣也。」起,聽於廷,聞愬軍號令曰:「常侍傳語!」應者近萬人。元濟始懼,曰:「何等常侍,能至於此!」乃帥左右登牙城拒戰。 時董重質擁精兵萬餘人據洄曲。愬曰:「元濟所望者,重質之救耳。」乃訪重質家,厚撫之,遣其子傳道持書諭重質。重質遂單騎詣愬降。 愬遣李進誠攻牙城,毀其外門,得甲庫,取其器械。癸酉,復攻之,燒其南門,民爭負薪芻助之,城上矢如□胃毛。晡時,門壞,元濟於城上請罪,進誠梯而下之。甲戌,愬以檻車送元濟詣京師,且告於裴度。是日,申、光二州及諸鎮兵二萬餘人相繼來降。自元濟就擒,愬不戮一人,凡元濟官吏、帳下、廚廄之卒,皆復其職,使之不疑,然後屯於鞠場以待裴度。 以淮南節度使李鄘為門下侍郎、同平章事。 己卯,淮西行營奏獲吳元濟,光祿少卿楊元卿言於上曰:「淮西大有珍寶,臣能知之,往取必得。」上曰:「朕討淮西,為人除害,珍寶非所求也。 董重質之去洄曲軍也,李光顏馳入其壁,悉降其眾。 |
現代日本語訳李愬と李忠義は城壁を掘って足場を作り先に登り、勇士たちが続いた。門番の兵卒らは深く眠っていたため全員殺したが、夜回りの木柝(きたく)を打つ者だけは生かし、従来通り時報を告げさせた。こうして城門を開いて味方軍勢を受け入れた。内側の城壁でも同じ方法を用いると、城中は全く気づかなかった。 鶏が鳴き雪が止んだ頃、李愬は呉元済の外邸に入った。ある者が「官軍が来た!」と報告したが、呉元済はまだ床の中にいて笑って言う。「捕虜どもが暴れているだけだ。朝になったら皆殺しにする」。さらに別の者が「城が陥落しました!」と告げると、「これは洄曲(かいきょく)駐屯部隊が防寒具を求めに来たのだ」と言い、起き上がって中庭で音を聞いたところ、李愬軍の号令「常侍殿のお言葉!」と呼び掛ける声が響き、応答する者はほぼ一万人。ようやく呉元済は恐怖し、「何者だ?この常侍という人物がここまで来るとは」と言うと、側近を率いて牙城(本丸)で防戦した。 当時、董重質は精鋭一万余りを率い洄曲を守備していた。李愬は「呉元済の頼みは董重質の援軍だけだ」と看破し、彼の家族のもとへ使いを送って厚遇した上で、息子・伝道に書簡を持たせ説得させた。こうして董重質は単騎で李愬のもとに降伏した。 李愬が李進誠に牙城攻撃を命じると外門を破壊し武器庫を占拠、兵器類を奪った。癸酉(10日目)の日に再び猛攻して南門へ火をつけると、住民らは競って薪や飼料を背負い協力したため、城壁から降る矢はウサギの毛のように密集した。申の刻(午後4時頃)、門が崩壊し呉元済は城上で謝罪したので、李進誠が梯子を使って彼を下ろした。 甲戌(11日目)に李愬は檻車へ呉元済を乗せ都へ護送すると同時に裴度にも報告。この日に申州・光州及び諸鎮の兵二万余りが相次いで投降した。捕らえた後も、李愬は一人も処刑せず呉元済配下の官吏や幕僚、厨房・厩舎(きゅうしゃ)の者まで全員を原職に戻して疑念を持たせなかった。その後鞠場(まりば)で陣営を整え裴度到着を待った。 淮南節度使・李鄘が門下侍郎兼同平章事に任じられた。 董重質が洄曲軍から離脱すると、李光顔が急行して陣営に乗り込み全将兵を投降させた。 解説1. 奇襲戦術の緻密さ 2. 人心掌握術の卓越 3. 呉元済の慢心構造 4. 歴史的意義
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| 庚辰,裴度遣馬總先入蔡州慰撫。辛巳,度建彰義軍節,將降卒萬餘人入城,李愬具橐鞬出迎,拜於路左。度將避之,愬曰:「蔡人頑悖,不識上下之分,數十年矣。願公因而示之,使知朝廷之尊。」度乃受之。李愬還軍文城,諸將請曰:「始公敗於郎山而不憂,勝於吳房而不取,冒大風甚雪而不止,孤軍深入而不懼,然卒以成功,皆眾人所不諭也,敢問其故?」愬曰:「朗山不利,則賊輕我而不為備矣。取吳房,則其眾奔蔡,並力固守,故存之以分其兵。風雪陰晦,則烽火不接,不知吾至。孤軍深入,則入皆致死,戰自倍矣。夫視元者不顧近,慮大者不計細,若矜小勝,恤小敗,先自撓矣,何暇立功乎!」眾皆服。愬儉於奉己而豐於待士,知賢不疑,見可能斷,此其所以成功也。 裴度以蔡卒為牙兵,或諫曰:「蔡人反仄者尚多,不可不備。」度笑曰:「吾為彰義節度使,元惡既擒,蔡人則吾人也,又何疑焉!」蔡人聞之感泣。先是吳氏父子阻兵,禁人偶語於塗,夜不然燭,有以酒食相過從者罪死。度既視事,下令惟禁盜賊鬥殺,餘皆不問,往來者不限晝夜,蔡人始知有生民之樂。 甲申,詔韓弘、裴度條列平蔡將士功狀及蔡之將士降者,皆差第以聞。淮西州縣百姓,給復二年;近賊四州,免來年夏稅。官軍戰亡者,皆為收葬,給其家衣糧五年;其因戰傷殘廢者,勿停衣糧。 |
現代日本語訳:庚辰(こうしん)の日、裴度(はいど)は馬総を先遣させて蔡州へ赴き住民を慰撫した。辛巳(しんし)の日、裴度が彰義軍節度使の印旗を掲げ、降伏兵万余りを率いて城に入ると、李愬(りくつ)は武具を携えて出迎え、道端で恭しく拝礼した。裴度が辞退しようとすると、李愬は進言した。「蔡州の民は頑迷で上下の分を弁えず、この状態は数十年も続いております。どうか公(貴方)が威厳を示し朝廷の尊さをお教えください」。裴度はこれを受け入れた。 李愬が文城へ帰還すると、諸将が質問した。「当初、郎山で敗北しても動揺せず、呉房で勝利しながら占領せず、大風雪の中でも進軍を止めず、孤軍で敵地深く侵攻してなお恐れなかった。しかし遂に成功されたのは我々の理解を超えます」。李愬は答えた。「郎山での敗北は賊に油断させた。呉房を占領すれば敵は蔡州へ逃げ守備を固めるため、あえて残して兵力分散を図った。風雪で視界不良なら烽火が届かず我々の接近を悟られぬ。孤軍深追いすれば兵士は死力を尽くす。大事を成す者は細事に拘らず、小勝や小敗に一喜一憂するようでは成功など望めん」。配下は皆敬服した。李愬は己には質素だが将兵には厚遇し、人材を見抜けば疑わず、決断時には果断であった。これが勝利の要因である。 裴度が蔡州降兵を親衛隊に登用すると、諫めがあった。「裏切りかねない者も多いのに無防備では危険です」。裴度は笑って言った。「我こそ彰義節度使なり。主犯は既に捕らわれた。蔡州の民は今や我が民である」。これを聞いた蔡州の人々は感涙した。以前、呉親子(反乱軍)が支配下では路上での私語・夜間の灯火を禁じ、飲食のもてなしは死罪だった。裴度が政務につくと「殺傷と強盗のみ禁止し他は不問」と布告。昼夜を問わぬ往来を許したため蔡州民は初めて平穏な生活を知った。 甲申(こうしん)の日、詔勅が下る:韓弘と裴度に蔡州平定の功臣および降伏将士の名簿を作成させ序列をつけて報告せよ。淮西地域住民には2年間の租税免除を、戦場周辺4州には翌年の夏税免除を命ず。官軍戦死者は手厚く葬り遺族へ5年間衣糧支給を、戦傷で障害者となった者は終身衣糧を与えよ。 解説:1. 李愬の「敗北の活用」戦略 - 郎山での意図的敗退:敵に油断させ情報収集(『孫子』"能にして不能を示す"の実践) - 局地占領回避:敵主力を分散固定化する陽動作戦 - "風雪侵攻"と"孤軍突入"は「死地に陥れて生かす」(九地篇)の究極的適用 2. 裴度の人心掌握術 - 降兵登用劇:信頼こそ最高の安全保障との信念(『三略』"得人則安、失人則危"の体現) - 「三不政策」(私語・灯火・交流禁止)から「一禁策」(殺傷強盗のみ禁止)への転換: 恐怖支配から最小限統治へ。貞観政要流「煩瑣を省けば民自ずと安んず」の実例 3. 詔勅にみる戦後処理の典範 - 差別的恩賞:降伏将士も序列化(帰順促進) - 復興支援策:租税免除は現代の経済特区政策に通じる - 保障制度革新: - 遺族への5年保障 → 当時としては画期的な社会保障 - 傷病兵終身保証 → 世界軍事史上早期の障害者福祉施策
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| 十一月,丙戌朔,上御興安門受俘,遂以吳元濟獻廟社,斬於獨柳之下。 初,淮西之人劫於李希烈、吳少誠之威虐,不能自拔,久而老者衰,幼者壯,安於悖逆,不復知有朝廷矣。自少誠以來,遣諸將出兵,皆不束以法制,聽各以便宜自戰,故人人得盡其才。韓全義之敗於殷水也,於其帳中得朝貴所與問訊書,少誠束而示眾曰:「此皆公卿屬全義書,雲破蔡州日,乞一將士妻女為婢妾。」由是眾皆憤怒,以死為賊用。雖居中士,其風俗獷戾,過於夷貊。故以三州之眾,舉天下之兵環而攻之,四年然後克之。官軍之攻元濟也,李師道募人通使於蔡,察其形勢,牙前虞候劉晏平應募,出汴、宋間,潛行至蔡。元濟大喜,厚禮而遣之。晏平還至鄆,師道屏人而問之,晏平曰:「元濟暴兵數萬於外,阽危如此,而日與僕妾遊戲博奕於內,晏然曾無憂色。以愚觀之,殆必亡,不久矣!」師道素倚淮西為援,聞之驚怒,尋誣以他過,杖殺之。 戊子,以李愬為山南東道節度使,賜爵涼國公;加韓弘兼侍中;李光顏、烏重胤等各遷官有差。 舊制,御史二人知驛。壬辰,詔以宦者為館驛使。左補闕裴潾諫曰:「內臣外事,職分各殊,切在塞侵官之源,絕出位之漸。事有不便,必戒於初;令或有妨,不必在大。」上不聽。 甲午,恩王連薨。 辛丑,以唐、隨兵馬使李祐為神武將軍,知軍事。 |
現代日本語訳11月1日(丙戌)、皇帝は興安門で捕虜を受け取り、呉元済を宗廟に献上した後、「独柳の下」で斬首した。 そもそも淮西の人々は李希烈や呉少誠による恐怖支配に苦しみ自抜け出せず、長い年月で老人は衰え若者は成長する中で反逆が当然となり朝廷を忘れていた。少誠以降、将軍たちの出兵には法規制を設けず「臨機応変」な独自作戦を許したため能力を発揮できた。韓全義が殷水で敗れた際、陣営から朝廷高官の書簡が見つかると、少誠は束ねて兵士に見せ「公卿たちが呉元済に『蔡州陥落時には将兵の妻娘を奴婢として献上せよ』と命じている」と言い放った。これで兵士らは激怒し死力を尽くして賊軍に従った。(淮西は)中原にありながら風俗が獰猛な異民族以上であったため、わずか三州の兵力に対し全国の官軍が包囲攻撃しても陥落まで四年を要した。 官軍が呉元済を攻めた時、李師道は密使を募り蔡州内情を探らせた。牙前虞候・劉晏平が応じ汴宋地方を通って潜入に成功すると、元済は大いに喜び厚遇して帰した。鄆州で人払いされた晏平の報告「元済は数万兵を危険な前線に出しながら、毎日奥方や妾たちと室内で博奕遊戯にふけるばかり。憂色すら見えず、私見では近く必ず滅びましょう」を聞いた師道(淮西軍依存の立場)は驚き怒り、まもなく別罪を着せて杖殺した。 11月3日(戊子) ■ 駅伝制度 ■ 11月9日(甲午) 歴史的考察【淮西長期抵抗の背景】
【政治的含意】
『資治通鑑』筆法の特徴
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| 裴度以馬總為彰義留兵。癸丑,發蔡州。上封二劍以授梁守謙,使誅吳元濟舊將。度至郾城,遇之,復與俱入蔡州,量罪施刑,不盡如詔旨,仍上疏言之。 十二月,壬戌,賜裴度爵晉國公,復入知政事。以馬總為淮西節度使。 初,吐突承璀方貴寵用事,為淮南監軍。李鄘為節度使,性剛嚴,與承璀互相敬憚,故未嘗相失。承璀歸,引鄘為相。鄘恥由宦官進,及將佐出祖,樂作,鄘泣下曰:「吾老安外鎮,宰相非吾任也!」戊寅,鄘至京師,辭疾,不入見,不視事,百官到門,皆辭不見。 庚辰,貶淮西降將董重質為春州司戶。重質為吳元濟謀主,屢破官軍。上欲殺之,李愬奏先許重質以不死。 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝中之下元和十三年(戊戌,公元八一八年) 春,正月,乙酉朔,赦天下。 初,李師道謀逆命,判官高沐與同僚郭日戶、李公度屢諫之。判官李文會、孔目官林英素為師道所親信,涕泣言於師道曰:「文會等盡誠為尚書憂家事,反為高沐等所疾,尚書奈何不憂十二州之土地,以成沐等之功名乎!」師道由是疏沐等,出沐知萊州。會林英入奏事,令進奏吏密申師道云:「沐潛輸款於朝廷。」文會從而構之,師道殺沐,並囚郭日戶,凡軍中勸師道效順者,文會皆指為高沐之黨而囚之。及淮西平,師道憂懼,不知所為。李公度及牙將李英曇因其懼而說之,使納質獻地以自贖。 |
現代日本語訳裴度は馬総を彰義留後(臨時司令官)に任命した。癸丑の日、蔡州から出発した。皇帝(憲宗)は二振りの剣を梁守謙に授け、呉元済配下の旧将軍たちを処刑するよう命じた。裴度が郾城で梁守謙と合流すると、共に蔡州へ戻り、罪状に応じて量刑を行い、詔勅通りには処断せず、上疏してその旨を報告した。 十二月壬戌の日、裴度は晋国公の爵位を与えられ、再び政事(宰相職)を執ることとなった。馬総が淮西節度使に任命された。 当初、吐突承璀は権勢を誇り重用されていた時期があり、淮南監軍を務めていた。李鄘が節度使として赴任すると、その剛直な性格ゆえ、互いに警戒し合いながらも衝突は避けていたため、表立った対立はなかった。後に吐突承璀が都に戻ると、李鄘を宰相に推挙した。しかし李鄘は宦官の推挙で出世することを恥じ、将兵たちが見送りに来た際、宴席で突然涙を流して「私は地方長官として老いるつもりだ。宰相など務まらない」と述べた。戊寅の日、李鄘は都へ到着したが病気と称し、謁見せず政務にも就かず、訪問する百官に面会を拒んだ。 庚辰の日、淮西から降伏した将軍・董重質は春州司戸(地方事務官)に左遷された。彼は呉元済の参謀長として何度も官軍を破った人物である。皇帝が処刑を望んだ際、李愬が「かつて助命を約束していた」と上奏したためであった。 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝 治世中巻・元和十三年(戊戌、西暦818年) 春正月乙酉朔の日、天下に恩赦が行われた。 当初、李師道が反逆を企てていた際、判官の高沐は同僚の郭日戸や李公度とともに再三諫言していた。これに対し判官・李文会と書記官・林英ら側近たちは涙ながらに「我々こそ尚書(李師道)の家業を案じているのに、高沐らが邪魔をする。なぜ十二州の領土を守って彼らの功名心を満たす必要があるのか」と訴えた。これにより李師道は高沐らを遠ざけ、莱州刺史として左遷した。後に林英が長安へ出向いた際、密かに「高沐は朝廷に内通している」との報告を行わせ、李文会も讒言を重ねたため、李師道は高沐を処刑し郭日戸ら改革派を投獄した。淮西平定後、動揺した李師道に対し李公度と牙将・李英曇が「人質を差し出して領土返上で罪を償うべきだ」と進言するに至った経緯である。 解説
(本訳ではルビ表記を厳禁とする条件に従い、全て漢字仮名交じり文で統一。固有名詞は原則として原典表記を保持した) Translation took 922.8 seconds. | ||||||||||||
| 師道從之,遣使奉表,請使長子入侍,並獻沂、密、海三州。上許之。乙巳,遣左常侍李遜詣鄆州宣慰。 上命六軍修麟德殿。右龍武統軍張奉國、大將軍李文悅以外寇初平,營繕太多,白宰相,冀有論諫。裴度因奏事言之。上怒,二月,丁卯,以奉國為鴻臚卿,壬申,以文悅為右武衛大將軍,充威遠營使。於是浚龍首池,起承暉殿,土木浸興矣。 李愬奏請判官、大將以下官凡百五十員,上不悅,謂裴度曰:「李愬誠有奇功,然奏請過多。使如李晟、渾瑊,又何如哉!」遂留中不下。 李鄘固辭相位,戊戌,以鄘為戶部尚書。以御史大夫李夷簡為門下侍郎、同平章事。 初,渤海僖王言義卒,弟簡王明忠立,改元太始;一歲卒,從父仁秀立,改元建興。乙巳,遣使來告喪。 橫海節度使程權自以世襲滄景,與河朔三鎮無殊,內不自安。己酉,遣使上表,請舉族入朝,許之。橫海將士樂自擅,不聽權去,掌書記林蘊諭以禍福,權乃得出。詔以蘊為禮部員外郎。 裴度之在淮西也,布衣柏耆以策干韓愈曰:「吳元濟既就擒,王承宗破膽矣,願得奉丞相書往說之,可不煩兵而服。」愈白度,為書遣之。承宗懼,求哀於田弘正,請以二子為質,及獻德、棣二州,輸租稅,請官史。弘正為之奏請,上初不許;弘正上表相繼,上重違弘正意,乃許之。夏,四月,甲寅朔,魏博遣使送承宗子知感、知信及德、棣二州圖印至京師。 |
現代日本語訳:師道はこれに従い、使者を派遣して上表文を奉り、長男を入侍させるとともに沂・密・海の三州を献じた。皇帝(憲宗)はこれを許した。乙巳の日、左常侍李遜を鄆州へ遣わし慰諭を行わせた。 皇帝が六軍に命じて麟徳殿を修繕させると、右龍武統軍張奉国と大将軍李文悦は「外敵がようやく平定されたばかりなのに土木工事があまりにも多い」と宰相に訴え、諫言を期待した。裴度が奏上を通じてこの意見を伝えると、皇帝は激怒し、二月丁卯の日に奉国を鴻臚卿に左遷し、壬申の日には文悦を右武衛大将軍(名誉職)とし威遠営使へ異動させた。こうして龍首池の浚渫や承暉殿の造営が始まり、土木事業は拡大していった。 李愬が判官・大将以下の役職約150名の任命を奏請すると、皇帝は不満を示し裴度に言った。「李愬の奇功は認めるが、奏請が過剰だ。彼が李晟や渾瑊のような功臣であったとしても、これほど要求するものか」。結局この上奏は宮中に留め置かれ裁可されなかった。 李鄘が固辞したため戊戌の日、彼を戸部尚書とし、代わりに御史大夫李夷簡を門下侍郎・同平章事(宰相)に任命した。 当初、渤海国では僖王言義が没すると弟の簡王明忠が即位して元号を太始と改めたが一年で死去。叔父の仁秀が立って建興と改元し、乙巳の日に使者を派遣して喪を報告した。 横海節度使程権は「滄景地域を世襲する点で河朔三鎮(半独立勢力)と変わらない」と内心不安を抱き、己酉の日に上表して一族ごとの入朝を請うた。許可を得るが、自立を好む横海軍将士が彼の離脱を阻んだため、掌書記林蘊が利害を説いてようやく出発できた。詔により林蕴は礼部員外郎に抜擢された。 淮西で裴度が指揮中、民間人柏耆が韓愈へ献策した。「呉元済捕縛後、王承宗は胆をつぶしています。丞相の書簡を携えて説得に向かえば出兵せず降伏させられます」。韓愈が裴度に伝え書状を送ると、承宗は田弘正へ救援を求め「二人の息子を人質とし徳・棣二州を献上、租税納入と官吏派遣を受け入れます」と申し出た。弘正が再三奏請したため皇帝は渋々これを許容。夏四月甲寅朔(1日)、魏博から承宗の息子知感・知信及び二州の地図印章が長安へ届けられた。 解説:【政治力学】
【社会経済】
【国際関係】
【支配手法】
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| 幽州大將譚忠說劉總曰:「自元和以來,劉辟、李錡、田季安、盧從史、吳元濟,阻兵憑險,自以為深根固蒂,天下莫能危也。然顧盼之間,身死家覆,皆不自知,此非人力所能及,殆天誅也。況今天子神聖威武,苦身焦思,縮衣節食,以養戰士,此志豈須臾忘天下哉!今國兵駸駸北來,趙人已獻城十二,忠深為公憂之。」總泣且拜曰:「聞先生言,吾心定矣。」遂專意歸朝廷。 戊辰,內出廢印二紐,賜左、右三軍辟仗使。舊制,以宦官為六軍辟仗使,如方鎮之監軍,無印。及張奉國等得罪,至是始賜印,得糾繩軍政,事任專達矣。 庚辰,詔洗雪王承宗及成德將士,復其官爵。 李師道闇弱,軍府大事,獨與妻魏氏、奴胡惟堪、楊自溫、婢蒲氏、袁氏及孔目官王再升謀之,大將及幕僚莫得預焉。魏氏不欲其子入質,與蒲氏、袁氏言於師道曰:「自先司徒以來,有此十二州,奈何無故割而獻之!今計境內之兵不下數十萬,不獻三州,不過以兵相加。若力戰不勝,獻之未晚。」師道乃大悔,欲殺李公度,幕僚賈直言謂其用事奴曰:「今大禍將至,豈非高沐冤氣所為!若又殺公度,軍府其危哉!」乃囚之。遷李英曇於萊州,未至,縊殺之。李遜至鄆州,師逆大陣兵迎之,遜盛氣正色,為陳禍福,責其決語,欲白天子。師道退,與其黨謀之,皆曰:「弟許之,他日正煩一表解紛耳。 |
現代日本語訳幽州の大将であった譚忠が劉総に進言した。「元和年間以降、劉辟・李錡・田季安・盧従史・呉元済らは軍勢を頼み険阻な地で独立し、深く根を張り固い基盤を得たと自負しており、天下の誰も彼らを脅かせないと思っていました。しかし一瞬の間に身を滅ぼし家を失い、皆その時が来ることを悟れませんでした。これは人の力でどうにかなることではなく、天罰と言うべきでしょう。ましてや今上天皇は神聖にして威武があり、自らを苦しめ思慮を凝らし、衣食を切り詰めて兵士を養っておられます。このようなご意志が天下統一の志を忘れられるはずがありません! 今や朝廷軍は北へと迫り、趙州では既に十二城を献上しています。私は貴公のために深く憂慮しているのです。」劉総は涙ながらに拝礼し、「先生のお言葉で心が定まりました」と言い、ひたすら朝廷への帰順を決意した。 戊辰の日(3月17日)、宮中より廃印二顆が出され、左右三軍辟仗使へ賜った。旧制では宦官を六軍辟仗使とし、方鎮における監軍のような役目で印章は持たせなかったが、張奉国らが罪を得て以来、この時に初めて印章を与えられたため、軍事行政の監督権限を持ち、事柄を直接処理できるようになった。 庚辰の日(3月29日)、詔勅を下し王承宗及び成徳将士らの汚名をそそぎ官爵を回復させた。 李師道は暗愚で優柔不断であり、軍府の大事もひたすら妻・魏氏や家奴の胡惟堪・楊自温、婢女の蒲氏・袁氏、そして事務担当官である王再升とだけ相談し、大将や幕僚たちには一切関与させなかった。魏氏は息子を人質に出したくないため、蒲氏・袁氏らと共に師道へ言った。「先代の司徒(李師古)以来守り続けたこの十二州を、なぜ理由もなく割譲などするのですか! 今や領内の兵力は数十万にも上ります。三州を献じなければ朝廷軍が攻めて来るだけでしょう。もし戦って力尽きてからでも、その時に献上すれば遅くありません。」これを聞いた師道は深く後悔し李公度を殺そうとしたが、幕僚の賈直言が実権を持つ家奴へ諫めた。「今まさに大禍が迫っているのは高沐(冤罪で処刑された幕僚)の怨霊の仕業ではないか! もしさらに公度をも殺せば軍府は危うくなりますぞ!」そこで師道は李公度を拘束し、李英曇を萊州へ左遷したが到着前に絞殺した。朝廷使節・李遜が鄆州に至ると、師道は大軍を整えて出迎えたものの、李遜は厳しい表情で禍福を説き決断を迫り、天子への報告もほのめかした。引き下がった師道が配下と協議すると皆が言うには「ひとまず従うふりをして、後日改めて上奏書で事態収拾を図ればよい」と。 注釈
訳注:固有名詞(人名・地名・官職名)は原則として原漢字表記を保持し、現代日本語で理解可能な範囲で説明を付与。『資治通鑑』原文の簡潔硬質な文体を、主語明確化・補足情報追加により平易に再構成した Translation took 955.2 seconds. | ||||||||||||
| 」師道乃謝曰:「向以父子之私,且迫於將士之情,故遷延未遣。今重煩朝使,豈敢復有二三!」遜察師道非實誠,歸,言於上曰:「師道頑愚反覆,恐必須用兵。」既而師道表言軍情,不聽納質割地,上怒,決意討之。賈直言冒刃諫師道者二:輿櫬諫者一,又畫縛載檻車妻子係累者以獻。師道怒,囚之。 五月,丙申,以忠武節度使李光顏為義成節度使,謀討師道也。以淮西節度使馬總為忠武節度使,陳、許、殷、蔡州觀察使。以申州隸鄂岳,光州隸淮南。 辛丑,以知勃海國務大仁秀為勃海王。 以河陽都知兵馬使曹華為棣州刺史,詔以河陽兵二千送至商河。會縣為平盧兵所陷,華擊卻之,殺二千餘人,復其縣以聞。詔加橫海節度副使。 六月,癸丑朔,日有食之。 丁丑,復以烏重胤領懷州刺史,鎮河陽。 秋,七月,癸未朔,徙李愬為武寧節度使。乙酉,下制罪狀李師道,令宣武、魏博、義成、武寧、橫海兵共討之,以宣歙觀察使王遂為供軍使。遂,方慶之孫也。 上方委裴度以用兵,門下侍郎、同平章事李夷簡自謂才不及度,求出鎮。辛丑,以夷簡同平章事,充淮南節度使。 八月,壬子朔,中書侍郎、同平章事王涯罷為兵部侍郎。 吳元濟既平,韓弘懼;九月,自將兵擊李師道,圍曹州。 淮西既平,上浸驕侈。戶部侍郎判度支皇甫鎛、衛尉卿、鹽鐵轉運使程異曉其意,數進羨餘以供其費,由是有寵。 |
現代語訳師道は謝罪して言った。「かつて親子の情に駆られ、また将士たちの感情にも押されて、使者派遣を遅らせていました。今また朝廷からの使者が来られるとは、二心など抱けましょうか」。しかし李遜(りそん)は師道が誠実でないと見抜き、帰還後、皇帝に報告した。「師道は頑迷にして言動が定まらず、おそらく武力行使が必要でしょう」。 その後すぐに師道は上表し、「軍の意向として人質提出も領土割譲も受け入れられぬ」と述べた。これに憲宗皇帝は激怒し、討伐を決意した。 賈直言(かちょくげん)が刃を冒して二度直諫し、棺桶を運んで一度死諌し、さらには絵画で「妻子が檻車に縛られ連行される姿」を示して警告した。師道は怒って彼を投獄した。 五月丙申の日(6日)、忠武節度使・李光顔を義成節度使に任命――これは師道討伐計画による人事である。淮西節度使・馬総を忠武節度使ならびに陳許殷蔡州観察使に、申州を鄂岳の管轄下へ、光州を淮南の管轄下へそれぞれ移した。 辛丑(11日)、渤海国政務担当者の大仁秀(だいじんしゅう)を渤海王に封じた。 河陽都知兵馬使・曹華を棣州刺史とし、詔勅で河陽兵二千を派遣して商河まで護送させた。折しも県城が平盧軍に占拠されており、曹華はこれを撃退し二千余人を斬殺、奪還を報告したため、詔により横海節度副使を加授された。 六月癸丑朔(1日)、日食があった。 丁丑(25日)、烏重胤が再び懐州刺史となり河陽鎮守を命じられた。 秋七月癸未朔(1日)、李愬を武寧節度使に転任させた。乙酉(3日)、詔勅で李師道の罪状を公布し、宣武・魏博・義成・武寧・横海の諸軍が共同討伐するよう命じた。宣歙観察使・王遂を供軍使に任命――彼は王方慶(おうほうけい)の孫である。 憲宗皇帝が裴度へ軍事指揮権を委ねると、門下侍郎同平章事・李夷簡は「自分は裴度に及ばぬ」と自覚し地方転出を希望。辛丑(19日)、彼を淮南節度使として同平章事のまま赴任させた。 八月壬子朔(1日)、中書侍郎同平章事・王涯が罷免され兵部侍郎となった。 呉元済平定後、韓弘は不安を抱き九月に自ら出陣して李師道を攻撃、曹州を包囲した。 淮西鎮の制圧後、憲宗皇帝は次第に驕慢奢侈になった。戸部侍郎で度支判官の皇甫鎛(こうほばく)と衛尉卿・塩鉄転運使の程異(ていい)がこれを察し、たびたび剰余金を献上して帝の支出を賄ったため寵遇を得た。 解説【歴史的背景】
【人物動向】
【政治手法】
【天象と人事】
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| 鎛又厚賂結吐突承璀。甲辰,鎛以本官、異以工部侍郎並同平章事,判使如故。制下,朝野駭愕,至於市井負販者亦嗤之。裴度、崔群極陳其不可,上不聽。度恥與小人同列,表求自退。不許。度復上疏,以為:「鎛、異皆錢穀吏,佞巧小人,陛下一旦置之相位,中外無不駭笑。況鎛在度支,專以豐取刻與為務,凡中外仰給度支之人無不思食其肉。比者裁損淮西糧料,軍士怨怒。會臣至行營曉諭慰勉,僅無潰亂。今舊將舊兵悉向淄青,聞鎛入相,必盡驚憂,知無可訴之地矣。程異雖人品庸下,然心事和平,可處煩劇,不宜為相。至如鎛,資性狡詐,天下共知,唯能上惑聖聰,足見奸邪之極。臣若不退,天下謂臣不知廉恥;臣若不言,天下謂臣有負恩寵。今退既不許,言又不聽,臣如烈火燒心,眾鏑叢體。所可惜者,淮西蕩定,河北底寧,承宗斂手削地,韓弘輿疾討賊,豈朝廷之力能制其命哉?直以處置得宜,能服其心耳。陛下建昇平之業,十已八九,何忍還自墮壞,使四方解體乎?」上以度為朋黨,不之省。 鎛自知不為眾所與,益為巧諂以自固,奏減內外官俸以助國用。給事中崔植封還敕書,極論之,乃止。植,祐甫之弟子也。 時內出積年繒帛付度支令賣,鎛悉以高價買之,以給邊軍。其繒帛朽敗,隨手破裂,邊軍聚而焚之。度因奏事言之,鎛於上前引其足曰:「此靴亦內庫所出,臣以錢二千買之,堅完可久服。 |
現代日本語訳皇甫鎛はさらに多額の賄賂で吐突承璀と結託した。甲辰(21日)、鎛は本来の官職のまま、程異は工部侍郎としてともに同平章事に任命され、従来の使職も引き続き担当することになった。この人事が発表されると朝廷内外は驚愕し、市井の物売りに至るまで嘲笑した。裴度と崔群は強硬に反対したが、皇帝(憲宗)は聞き入れなかった。 裴度は小人たちと同じ列に立つことを恥じ、辞任を願い出たが許されない。再び上疏し「皇甫鎛と程異は財務官僚出身の媚びへつらう者です。陛下が突然彼らを宰相に任命されたため、国内外で嘲笑しない者はありません」と述べ、さらに痛烈な批判を加えた。「特に皇甫鎛は度支使として重税を課し支出を削り、朝廷内外で度支の供給を受ける者がこぞって彼への憎悪を抱いています。淮西では兵糧が削減され、将兵は怒り狂いました(※李愬の雪中行軍時)。私が陣営に出向いて慰撫したから潰乱しなかったのです」と指摘。 さらに憂慮を示す:「今や精鋭部隊が淄青へ進軍中です。皇甫鎛の宰相就任を知れば動揺必至で、訴える先もなくなるでしょう」。程異については「凡庸だが実務能力はある」と部分的に認めつつ、「彼を宰相にするのは不適切だ」と断じた。そして決定的な警告で結ぶ:「淮西・河北の平定(※藩鎮勢力制圧)は朝廷が武力でねじ伏せたのではなく、適切な処置で人心を得たからこそです。天下統一まであと一歩のこの時期に、どうして自ら基盤を崩されましょうか」。 しかし皇帝は裴度の進言を「派閥争い」と決めつけ取り合わなかった。 さらに悪質な事件も:宮廷倉庫の古い絹帛を度支に売却させると、皇甫鎛は高値で買い取り辺境軍へ支給した。しかしそれらは腐朽して触れるだけで崩れ、兵士たちは集めて焼却する始末。裴度が御前報告すると、鎛はわざと靴を掲げて「宮中から二千銭で買ったこの靴は丈夫です」と強弁し、問題のすり替えを図ったのであった。 解説
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| 度言不可信。」上以為然。由是鎛益無所憚。程異亦自知不合眾心,能廉謹謙遜,為相月餘,不敢知印秉筆,故終免於禍。 五坊使楊朝汶妄捕系人,迫以考捶,責其息錢,遂轉相誣引,所繫近千人。中丞蕭俛劾奏其狀,裴度、崔群亦以為言。上曰:「姑與卿論用兵事,此小事朕自處之。」度曰:「用兵事小,所憂不過山東耳。五坊使暴橫,恐亂輦轂。」上不悅,退,召朝汶責之曰:「以汝故,令吾羞見宰相!」冬,十月,賜朝汶死,盡釋系者。 上晚節好神仙,詔天下求方士。宗正卿李道古先為鄂岳觀察使,以貪暴聞,恐終獲罪,思所以自媚於上,乃因皇甫鎛薦山人柳泌,雲能合長生藥。甲戌,詔泌居興唐觀煉藥。 十一月,辛巳朔,鹽州奏吐蕃寇河曲、夏州。靈武奏破吐蕃長樂州,克其外城。 柳泌言於上曰:「天台山神仙所聚,多靈草,臣雖知之,力不能致,誠得為彼長吏,庶幾可求。」上信之。丁亥,以泌權知台州刺史,仍賜服金紫。諫官爭論奏,以為:「人主喜方士,未有使之臨民賦政者。」上曰:「煩一州之力而能為人主致長生,臣子亦何愛焉!」由是群臣莫敢言。 甲午,鹽州奏吐蕃引去。 壬寅,以河陽節度使烏重胤為橫海節度使。丁未,以華州刺史令狐楚為河陽節度使。重胤以河陽精兵三千赴鎮,河陽兵不樂去鄉里,中道潰歸,又不敢入城,屯於城北,將大掠。 |
現代日本語訳(前略)李絳は「信用すべきではない」と述べたが、憲宗は同意しなかった。このため皇甫鎛はますます畏れるところがなくなった。程異も自ら衆人の心に沿わぬことを悟り、清廉で慎み深く振る舞い、宰相となって一か月余りも印璽を扱うことや筆執りの職務を行おうとせず、そのため禍を免れた。 五坊使の楊朝汶が無実の人々を捕らえて拘束し、拷問で自白を強要し、利息銭を取り立てたため、互いに偽りの証言をする者が続出し、収監者は千人に迫った。中丞蕭俛がこの状況を弾劾したところ、裴度と崔群も同様の意見を述べた。憲宗は「まず戦争の話を進めよう。こうした小事は朕自ら処断する」と言うと、裴度が応じた。「軍事より深刻です。山東地方の問題程度なら憂えるに足りませんが、五坊使の暴虐は帝都の秩序すら乱しかねない」。憲宗は不機嫌になったが退廷後、楊朝汶を詰問した。「お前のために朕は宰相たちに面目を失った!」冬十月、楊朝汶を死罪とし収監者全員を釈放した。 晩年の憲宗は神仙術に凝り、天下の方士を探すよう命じた。宗正卿李道古(元鄂岳観察使)は貪欲で暴虐な人物として知られ、いずれ罰せられることを恐れて皇帝の機嫌を取ろうと画策し、皇甫鎛を通じて山人・柳泌を推薦した。「長生不死の薬を作れる」というのである。甲戌(10月9日)、憲宗は詔勅で柳泌に興唐観に居住して製薬するよう命じた。 十一月辛巳朔(11月1日)、塩州が吐蕃軍が河曲・夏州を侵犯したと奏上。霊武からは長楽州の外城を陥落させ吐蕃軍を破ったとの報告があった。 柳泌は憲宗に奏上した。「天台山には神仙が集い霊草が豊富ですが、臣が知っていても入手できません。もし当地の刺史となれば採取できるでしょう」。これを信じた憲宗は丁亥(11月7日)、柳泌を暫定的な台州刺史とし紫袍金帯を与えた。諫官たちが猛反対した「君主が方士を重用しても民を治めさせる例はありません」という奏上に、憲宗は言い放った。「たかだか一州の労力で君主の長生を得られるなら、臣下も惜しむべきではない!」以後誰も諫める者は現れなかった。 甲午(11月14日)、塩州から吐蕃軍撤退を奏上。 解説
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| 令狐楚適至,單騎出,慰撫之,與俱歸。 先是,田弘正請自黎陽渡河,會義成節度使李光顏討李師道,裴度曰:「魏博軍既渡河,不可復退,立須進擊,方有成功。既至滑州,即仰給度支,徒有供餉之勞,更生觀望之勢。又或與李光顏互相疑阻,益致遷延。與其渡河而不進,不若養威於河北。宜且使之秣馬厲兵,俟霜降水落,自楊劉渡河,直指鄆州,得至陽谷置營,則兵勢自盛,賊眾搖心矣。」上從之。是月,弘正將魏博全師自楊劉渡河,距鄆州四十里築壘。賊中大震。 功德使上言:「鳳翔法門寺塔有佛指骨,相傳三十年一開,開則歲豐人安。來年應開,請迎之。」十二月,庚戌朔,上遣中使帥僧眾迎之。 戊辰,以春州司戶董重質為試太子詹事,委武寧軍驅使,李愬請之也。戊寅,魏博、義成軍送所獲李師道都知兵馬使夏侯澄等四十七人,上皆釋弗誅,各付所獲行營驅使,曰:「若有父母欲歸者,優給遣之。朕所誅者,師道而已。」於是賊中聞之,降者相繼。初,李文會與兄元規皆在李師古幕下。師古薨,師道立,元規辭去,文會屬師道親黨請留。元規將行,謂文會曰:「我去,身退而安全;汝留,必驟貴而受禍。」及官軍四臨,平盧兵勢日蹙,將士喧然,皆曰:「高沐、郭日戶、李存為司空忠謀,李文會奸佞,殺沐,囚日戶、存,以致此禍。 |
現代日本語訳令狐楚がちょうど到着し、単騎で出向いて兵士たちを慰撫し、彼らと共に帰還した。 先だって田弘正が黎陽から黄河渡河を請願し、義成節度使李光顔と合流して李師道討伐にあたろうとした際、裴度は次のように進言した。「魏博軍がいったん渡河すれば後退できず、直ちに進攻せねば成功しない。滑州に到着しても度支(財政当局)からの補給に依存するなら、供給の労が増えるだけで、かえって観望の空気を生む。あるいは李光顔軍と相互猜疑を起こして作戦はさらに遅延しよう。渡河しながら進撃しないくらいなら、河北で兵威を養う方がましだ。まず兵馬に糧を与えて鍛錬させ、霜降(二十四節気)後に水位が下がった時点で楊劉から渡河し、陽谷に前線基地を設置して鄆州へ直進すべきである。そうすれば兵力は自然と充実し、賊軍の動揺も誘発できる」。皇帝はこれに従った。今月、弘正は魏博全軍を率いて楊劉から渡河し、鄆州まで四十里(約22km)の地点に堡塁を築いたため、賊軍内で大騒動が起きた。 功德使が上奏した。「鳳翔法門寺塔には仏舎利があり、三十年ごとの開扉時は五穀豊穣・世情安定と伝わります。来年が開扉年に当たるので奉迎を乞います」。十二月一日庚戌の日、皇帝は宦官を使者として僧衆を率いさせて迎接に向かわせた。 十四日戊辰、春州司戸(流罪中の身分)だった董重質を試行任用で太子詹事に任じ武寧軍へ配属した。李愬の要請による処遇である。二十四日戊寅、魏博・義成両軍が捕虜とした李師道配下の都知兵馬使夏侯澄ら四十七名を護送すると、皇帝は全員赦免して各戦線へ配置し、「父母のもとへ帰りたい者は手厚く旅費を与えよ。朕が誅するのは師道ただ一人だ」と宣言した。これにより賊軍内で降伏者が相次いだ。 当初、李文会は兄の元規と共に李師古幕下に仕えていた。師古没後、師道が継ぐと元規は辞去しようとしたが、文会は師道側近に取り入って残留した。退去する際、元規は文会へ忠告した。「私の離脱は身を引いて安全を得るためだ。お前が残れば出世は早いが禍を受けるだろう」。官軍が四方から迫り平盧(李師道勢力)の劣勢が深刻化すると、将兵らは騒然として言った。「高沐・郭日戸・李存こそ忠誠ある献策者だったのに、奸臣李文会が彼らを殺害・投獄したせいでこの窮地に陥ったのだ」と。 解説
(訳注:固有名詞は原則として原表記を保持し、官職名等については現代日本語で理解可能な範囲で簡略化した) Translation took 856.4 seconds. | ||||||||||||
| 」師道不得已,出文會攝登州刺史,召日戶、存還幕府。 上常語宰相:「人臣當力為善,何乃好立朋黨!朕甚惡之。」裴度對曰:「方以類聚,物以群分。君子、小人志趣同者,勢必相合。君子為徒,謂之同德;小人為徒,謂之朋黨;外雖相似,內實懸殊,在聖主辯其所為邪正耳。」 武寧節度使李愬與平盧兵十一戰,皆捷。己卯晦,進攻金鄉,克之。李師道性懦怯,自官軍致討,聞小敗及失城邑,輒憂悸成疾,由是左右皆蔽匿,不以實告。金鄉,兗州之要地,既失之,其刺史遣驛騎告急,左右不為通,師道至死竟不知也。 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝中之下元和十四年(己亥,公元八一九年) 春,正月,辛已,韓弘拔考城,殺二千餘人。 丙戌,師道所署沐陽令梁洞以縣降於楚州刺史李聽。 吐蕃遣使者論短立藏等來修好,未返,入寇河曲。上曰:「其國失信,其使何罪!」庚寅,遣歸國。 壬辰,武寧節度使李愬拔魚台。 中使迎佛骨至京師,上留禁中三日,乃歷送諸寺,王公士民瞻奉捨施,惟恐弗及,有竭產充施者,有然香臂頂供養者。刑部侍郎韓愈上表切諫,以為:「佛者,夷狄之一法耳。自黃帝以至禹,湯、文、武,皆享壽考,百姓安樂,當是時,未有佛也。明帝時,始有佛法。其後亂亡相繼,運祚不長。宋、齊、梁、陳、元魏已下,事佛漸謹,年代尤促。 |
現代日本語訳:師道はやむを得ず、文会を登州刺史代理として派遣し、日戸と存を幕府に召還した。 皇帝が常々宰相に語った:「臣下は力を尽くして善行を行うべきであるのに、どうして党派を作ることを好むのか。朕はこれをひどく嫌う。」裴度が応えて言った:「『方は類をもって集まり、物は群れを以て分かれる』と申します。君子と小人では志や趣向の同じ者が自然に結びつきます。君子のグループは『同徳(道義で結ばれた仲間)』と呼び、小人の徒党は『朋党(私利で固まった集団)』と言います。外見は似ていますが内実には大きな差があり、聖なる君主こそその行いの邪正を見分けられるのです。」 武寧節度使李愬は平盧軍と十一度戦い全て勝利した。己卯(晦日)、金郷を攻撃して陥落させた。李師道は気弱で臆病な性格であり、官軍が討伐を始めてからは小敗や都市喪失の報に接するたび憂いと恐怖で病気になったため、側近たちは実情を隠し報告しなかった。金郷は兗州の要地であったが、これを陥落させられた際も刺史が駅伝使で緊急を告げても側近は取り次がず、師道は死ぬまでこの事実を知らされなかった。 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝 中之下(巻240)元和十四年(己亥の年、西暦819年) 春正月辛巳(二日)、韓弘が考城を攻略し二千余人を斬殺した。 丙戌(七日)、師道配下の沐陽県令梁洞が楚州刺史李聴に降伏した。 吐蕃が使者論短立蔵らを派遣して親善を求めてきたが、帰国前に河曲地方へ侵攻した。皇帝は「彼らの国が信義を失ったのだから使者に罪はない」と言い、庚寅(十一日)に本国へ送還させた。 壬辰(十三日)、武寧節度使李愬が魚台を攻略した。 宦官が仏舎利を長安に迎えると、皇帝は三日間宮中に安置した後、諸寺で順次公開した。王侯貴族から庶民まで熱狂的に参拝し寄進を行い、財産を使い果たす者や腕や頭に香を焚いて供養する者が現れた。刑部侍郎韓愈が上表して厳しく諫めた:「仏教は夷狄の信仰です。黄帝から禹・湯・文王・武王までは皆長寿で民衆も安楽でしたが、当時は仏法ありませんでした。後漢明帝時に初めて伝来した後、乱亡が相次ぎ国運は短くなりました。宋・斉・梁・陳・北魏以降はますます篤く仏教を崇めながら王朝寿命はいっそう縮みました。」 解説:
(出典箇所:『資治通鑑』巻240・唐紀五十六/元和十四年条) Translation took 1794.9 seconds. | ||||||||||||
| 惟梁武帝在位四十八年,前後三捨身為寺家奴,竟為侯景所逼,餓死台城,國亦尋滅。事佛求福,乃更得禍。由此觀之,佛不足信亦可知矣!百姓愚冥,易惑難曉,苟見陛下如此,皆云『天子大聖,猶一心敬信;百姓微賤,於佛豈可更惜身命。』佛本夷狄之人,口不言先王之法言,身不服先王之法服,不知君臣之義、父子之恩。假如其身尚在,奉國命來朝京師,陛下容而接之,不過宣政一見,禮賓一設,賜衣一襲,衛而出之於境,不令惑眾也。況其身死已久,枯朽之骨,豈宜以入宮禁!古之諸侯得吊於國,尚令巫祝先以桃茢祓除不祥。今無故取朽穢之物親視之,巫祝不先,桃茢不用,群臣不言其非,御史不舉其罪,臣實恥之!乞以此骨會有司,投諸水火,永絕要本,斷天下之疑,絕後代之惑,使天下之人知大聖人之所作為,出於尋常萬萬也,豈不盛哉!佛如有靈,能作禍福,凡有殃咎,宜加臣身。」 上得表,大怒,出示宰相,將加愈極刑。裴度、崔群為言:「愈雖狂,發於忠懇,宜寬容以開言路。」癸巳,貶愈為潮州刺史。 自戰國之世,老、莊與儒者爭衡,更相是非。至漢末,益之以佛,然好者尚寡。晉、宋以來,日益繁熾,自帝王至於士民,莫不尊信。下者畏慕罪福,高者論難空有。獨愈惡其蠹財惑眾,力排之,其言多矯激太過。惟《送文暢師序》最得其要,曰:「夫鳥俯而啄,仰而四顧,獸深居而簡出,懼物之為己害也,猶且不免焉。 |
翻訳結果梁武帝編 梁の武帝は在位四十八年にわたり、三度も自ら身分を捨て寺院奴隷となったが、結局侯景に追い詰められ台城で餓死し、国も瞬く間に滅亡した。仏事によって福を得ようとしたのに、かえって災禍を招いたのだ。 この事実から見ても、仏教は信頼するに足りないと明らかに分かる!民衆は愚昧であり、惑わされやすく道理を理解し難い。もし陛下がこのような姿を見せれば皆、「天子たる大聖人でさえ一心に敬虔であるのに、我々卑賤な者が仏のために身命を惜しむことがあろうか」と言うであろう。 そもそも仏陀は夷狄の出身であり、口に出すのは先王が定めた正しい言葉ではなく、身につけるのも先王の礼装ではない。君臣の義も父子の恩情も理解していない。仮に彼が生きて国命を受け都へ来朝したとしても、陛下が接見するならせいぜい宣政殿での一度のお目通りと賓客待遇、衣服一式の下賜程度で、護衛をつけて国外退去させるのが関の山であろう。民衆を惑わすことなど許されない。 ましてや死後久しく枯れ朽ちた骨となったものを宮中に招き入れる道理があろうか!古代において諸侯が国賓として弔問する際でさえ、巫祝に桃の枝で祓い清めさせ不浄を除いたものだ。今は理由もなく朽ち穢れた物を直覧されるのに、祓い清めを行わず桃の枝すら用いない。群臣はその非を指摘せず、御史も罪状を挙げようとしない。私はまことに恥辱に思う! 願わくばこの遺骨を担当官庁へ引き渡し水火の中に投じ、永遠に根源を断ち切ってほしい。天下の疑念を払拭し後世への迷いを絶つことであろう。これにより陛下という大聖人の御行動が凡庸とは比べ物にならないことを世に知らしめん!もし仏陀に霊験があって禍福をもたらすならば、災いはすべて私の身に降りかからせていただきたい。 韓愈左遷編 皇帝は上奏文を読み激怒。宰相に見せつけながら韓愈への極刑適用を示唆したが、裴度と崔群が「韓愈の発言は狂気じみているものの忠誠心からのものです。広く意見を受け入れるため寛大な処置をお願いします」と助命を嘆願。癸巳(きし)の日、韓愈は潮州刺史に左遷された。 思想史的背景解説 戦国時代には老荘思想が儒家と覇権を争い相互批判したが、漢末以降仏教も加わったものの信徒は少なかった。晋・宋代になると帝王から民衆まで篤く信奉するようになり、下層階級は因果応報への畏怖で帰依し、知識人は空有論に熱中した。 ただ韓愈のみが「財を浪費し大衆を惑わす」と憎悪して激しく排斥。その言説は過激すぎる傾向があったものの『送文暢師序』では本質をついてこう記している:「鳥がうつむき餌をついばみ仰ぎ見て周囲を見渡すのは、獣が深く穴に潜んでめったに出ないのも他者から害を被らないための警戒である。それでもなお災いは免れぬのだ」と。 翻訳解説言語的処理
思想的背景
訳文の特徴
補足事項左遷年月は元和14年(819年)正月。潮州(現広東省)赴任途上の「雲横秦嶺家何在」(『左遷至藍関示姪孫湘』)が著名。「論難空有」とは竜樹中観派の空仮有論争を指し、当時インド仏教と中国思想の接触点として注目された Translation took 2259.6 seconds. | ||||||||||||
| 弱之肉,強之食。今吾與文暢安居而暇食,優遊以生死,與禽獸異者,寧可不知其所自邪!」 丙申,田弘正奏敗淄青兵於東阿,殺萬餘人。 滄州刺史李宗奭與橫海節度使鄭權不葉,不受其節制,權奏之。上遣中使追之,宗奭使其軍中留己,表稱懼亂未敢離州。詔以烏重胤代權,將吏懼,逐宗奭。宗奭奔京師,辛丑,斬於獨柳之下。 丙午,田弘正奏敗平盧兵於陽谷。 |
現代日本語訳弱い者の肉は強い者に食われるのが世の常だ。しかし今、我々が文暢と共に安穏な日々を送りゆったりと生死を過ごせるのは(禽獣とは異なる人間としての)道理によるものではないか!どうしてその根源を知ろうとしないのか? 丙申の日に田弘正から「淄青軍勢を東阿で破り、一万人余を討ち取った」との上奏があった。 滄州刺史・李宗奭は横海節度使・鄭権と対立し命令に従わなかったため、鄭権がこれを朝廷へ報告した。皇帝(憲宗)は使者を派遣して召喚しようとしたが、李宗奭は配下の軍勢に「引き留め」させて動かず、「反乱を恐れて州から離れられない」と上表する。詔勅で烏重胤が後任となると、役人や将兵らは恐怖し李宗奭を追放した。彼は長安へ逃亡したが辛丑の日、独柳(刑場)の下で斬首された。 丙午の日に田弘正から「平盧軍勢を陽谷で撃破した」との上奏があった。 解説
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| input text 資治通鑑\241_唐紀_57.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百四十一 唐紀五十七 起屠維大淵獻二月,盡重光赤奮若六月,凡二年在奇。 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝下 元和十四年(己亥,公元八一九年) 二月,李聽襲海州,克東海、朐山、懷仁等縣。李愬敗平盧兵於沂州,拔丞縣。李師道聞官軍侵逼,發民治鄆州城塹,修守備,役及婦人,民益懼且怨。都知兵馬使劉悟,正臣之孫也,師道使之將兵萬餘人屯陽谷以拒官軍。悟務為寬惠,使士卒人人自便,軍中號曰劉父。及田弘正渡河,悟軍無備,戰又數敗。或謂師道曰:「劉悟不修軍法,專收眾心,恐有他志,宜早圖之。」師道召悟計事,欲殺之。或諫曰:「今官軍四合,悟無逆狀,用一人言殺之,諸將誰肯為用!是自脫其爪牙也。」師道留悟旬日,復遣之,厚贈金帛以安其意。悟知之,還營,陰為之備。師道以悟將兵在外,署悟子從諫門下別奏。從諫與師道諸奴日遊戲,頗得其陰謀,密疏以白父。又有謂師道者曰:「劉悟終為患,不如早除之。」丙辰,師道潛遣二使繼帖授行營兵馬副使張暹,令斬悟首獻之,勒暹權領行營。時悟方據高丘張幕置酒,去營二三里。二使至營,密以貼授暹。暹素與悟善,陽與使者謀曰:「悟自使府還,頗為備,不可匆匆,暹請先往白之,云:『司空遣使存問將士,兼有賜物,請都頭速歸,同受傳語。 |
現代日本語訳【本文】資治通鑑巻二百四十一 唐紀五十七 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝(下) 二月、李聴が海州を襲撃し、東海・朐山・懐仁などの県を陥落させた。李愬は沂州で平盧軍を破り、丞県を占領した。 都知兵馬使・劉悟(正臣の孫)は、李師道から一万余りの兵を率いて陽谷に駐屯し官軍を防ぐよう命じられた。 しかし田弘正が黄河を渡河すると、劉悟の軍は無防備で戦いも連敗した。 李師道は劉悟が外で軍を指揮している状況を利用し、その息子・劉従諫を「門下別奏(近侍の役職)」に任命した。 さらに李師道に進言する者が現れた。「劉悟は結局禍根です。早く除くべきでしょう」。 【解説】
(訳注) Translation took 935.1 seconds. |
| 』如此,則彼不疑,乃可圖也。」使者然之。暹懷帖走詣悟,屏人示之。悟潛遣人先執二使,殺之。時已向暮,悟按轡徐行還營,坐帳下,嚴兵自衛。召諸將,厲色謂之曰:「悟與公等不顧死亡以抗官軍,誠無負於司空。今司空信讒言,來取悟首。悟死,諸公其次矣。且天子所欲誅者獨司空一人。今軍勢日蹙,吾曹何為隨之族滅!欲與諸公卷旗束甲,還入鄆州,奉行天子之命,豈徒免危亡,富貴可圖也。諸公以為何如?」兵馬使趙垂棘立於眾首,良久,對曰:「如此,事果濟否?」悟應聲罵曰:「汝與司空合謀邪!」立斬之。遍問其次,有遲疑未言者,悉斬之,並斬軍中素為眾所惡者,凡三十餘,屍於帳前。餘皆股粟,曰:「惟都頭命,願盡死!」乃令士卒曰:「入鄆,人賞錢百緡,惟不得近軍帑。其使宅及逆黨家財,任自掠取,有仇者報之。」使士卒皆飽食執兵,夜半聽鼓三聲絕即行,人銜枚,馬縛口,遇行人,執留之,人無知者。距城數里,天未明,悟駐軍,使聽城上柝聲絕,使十人前行,宣言「劉都頭奉帖追入城。」門者請俟寫簡白使,十人拔刃擬之,皆竄匿。悟引大軍繼至,城中噪嘩動地。比至,子城已洞開,惟牙城拒守,尋縱火,斧其門而入。牙中兵不過數百,始猶有發弓矢者,俄知力不支,皆投於地。悟勒兵升聽事,使捕索師道。 |
現代日本語訳「このようにすれば、相手は疑わずに済み、計画を遂行できるであろう。」使者はこれに同意した。劉暹(りゅうせん)は密書を懐にして悟のもとへ駆け戻り、人払いしてこれを示した。李悟(りぎょ)はひそかに使いの者を先に派遣し二名の使者を拘束させた上で殺害した。 時すでに夕暮れとなっていたが、悟は手綱を抑えながらゆっくりと軍営へ戻ると、陣幕の中に座り厳重な兵備をもって自衛態勢を固めた。諸将を召集し、険しい表情で言い放った。「私は諸君らと共に死を顧みず官軍と戦い、司空(李師道)に対して一点の非も無かった。ところが今、司空は讒言を信じ、私の首を取りに来たのだ。私が殺されれば次は諸君らの番だ。しかも天子が誅伐しようとしておられるのは司空ただ一人である。現在わが軍情勢は日々逼迫しているのに、我ら一族皆殺しにされるまで付き従う必要があろうか! 諸君と共に旗を巻き鎧をたたみ鄆州へ戻り、天子の命令を奉じて行動したい。これにより危難から逃れるだけでなく富貴を得ることも可能だ。諸君はどう思うか?」 兵馬使(ひょうばし)の趙垂棘(ちょうすいきょく)が将兵の先頭に立ってしばらく黙考した後、応えて言った。「それでも…果たして成功しますでしょうか?」悟は即座に怒鳴りつけた。「お前は司空と共謀しているのか!」その場で斬首した。次々に他の者にも意見を求めると、躊躇って返答しない者は全て処刑し、加えて軍中で以前から憎まれていた者三十余名もまとめて斬った。遺体は陣幕の前に晒された。 生き残った将兵たちは震え上がり声を揃えた。「都頭(指揮官)様の命令に従います! 命尽きるまで!」悟は士卒へ宣告した。「鄆州入城後には一人当たり銭百緡を与える。ただし軍用金庫には近づくべからず。司空邸と反逆者の家財は自由に掠奪せよ。仇討ちも認める。」 全兵士に十分な食事を取らせ武装させると、夜半の三通の太鼓が鳴り止んだ時点で進軍開始とした。兵士は枚(くわえ木)を口にくわえ、馬には轡(くつわ)を付け、道中に出会った通行人は全て拘束したため動きは露見しなかった。 城から数里の地点に着いた時、まだ夜明け前であった。悟が軍勢を停止させると、城壁の柝(とき・警戒用拍子木)の音が途絶えるのを待った。十名の先遣隊を行かせて「劉都頭が公文書を持って入城する」と宣言させたところ、門番が「まず文書で上官に報告を」と言い淀んだため、十人は即座に刃を抜いて威嚇した。守備兵は逃げ散った。 悟の本隊が続々と到着すると城内は天震わんばかりの騒動となった。内城(子城)に到達した時には既に門は開け放たれており、ただ牙城(中枢区域)だけが抵抗していたが、すぐに火を放ち斧で門を破壊して突入した。守備兵はわずか数百、最初こそ弓矢を射かけたものの力及ばぬと悟り全員武器を捨てた。 悟は軍勢を整えて政庁へ進み、李師道を捕縛するよう命じた。 解説
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| 師道與二子伏廁床下,索得之,悟命置牙門外隙地,使人謂曰:「悟奉密詔送司空歸闕,然司空亦何顏復見天子!」師道猶有幸生之意,其子弘方仰曰:「事已至此,速死為幸!」尋皆斬之。自卯至午,悟乃命兩都虞候巡坊市,禁掠者,即時皆定。大集兵民於球場,親乘馬巡繞,慰安之。斬贊師道逆謀者二十餘家,文武將吏且懼且喜,皆入賀。悟見李公度,執手歔欷;出賈直言於獄,置之幕府。悟之自陽谷還兵趨鄆也,潛使人以其謀告田弘正曰:「事成,當舉烽相白。萬一城中有備不能入,願公引兵為助。功成之日,皆歸於公,悟何敢有之!」且使弘正進據己營。弘正見烽,知得城,遣使往賀。悟函師道父子三首遣使送弘正營,弘正大喜,露布以聞。淄、青等十二州皆平。弘正初得師道首,疑其非真,召夏侯澄使識之。澄熟視其面,長號隕絕者久之,乃抱其首,舐其目中塵垢,復慟哭。弘正為之改容,義而不責。 壬戌,田弘正捷奏至。乙丑,命戶部侍郎楊於陵為淄青宣撫使。己巳,李師道首函至。自廣德以來,垂六十年,籓鎮跋扈河南、北三十餘州,自除官吏,不供貢賦,至是盡遵朝廷約束。上命楊於陵分李師道地,於陵按圖籍,視土地遠邇,計士馬眾寡,校倉庫虛實,分為三道,使之適均:以鄆、曹、濮為一道,淄、清、齊、登、萊為一道,兗、海、沂、密為一道,上從之。 |
現代日本語訳師道と二人の息子は便所の床下に隠れたが、捜索されて発見された。悟は彼らを牙門外の空き地に置くよう命じ、「私は密詔を受けて司空(李師道)をご帰還させるのだ。しかし司空には天子にお会いする面目があろうか!」と伝えさせた。師道がなお生還を願う様子を見せると、息子の弘方が顔を上げて言った。「事ここに至っては、速やかな死こそ幸いです」。間もなく三人とも斬首された。 卯(午前6時)から午(正午)にかけて、悟は両都虞候に街中を見回らせ掠奪を禁止させたため、瞬く間に治安が回復した。球場に兵士と民衆を大集結させると、自ら馬で巡回し慰撫した。李師道の謀反計画に関与した者二十余家族を処刑すると、文武の役人たちは恐れつつも喜び入って祝賀した。 悟が李公度に会うと手を取り合い嗚咽した。牢獄から賈直言を釈放し幕府に迎えた。陽谷から軍勢を返して鄆州へ向かう際、悟は密かに使者を通じて田弘正に計画を伝えていた。「成功すれば烽火(のろし)で合図する。万一城内が防備を固め入れぬ時は貴公の援軍を乞う。功績は全て貴公に帰属させよう」。さらに自陣への進駐も要請していたため、弘正が烽火を見て成功を知り祝賀使を送ったのである。 悟は師道父子三人の首級を箱に入れ弘正の本営へ届けさせた。弘正は大いに喜び公開文書で朝廷に報告した。淄州・青州など十二州が悉く平定されたのである。弘正が初めて師道の首を見た時、偽物ではないかと疑い夏侯澄を呼んで確認させた。澄は顔面をじっと見つめると長く号泣して卒倒し、抱き上げて瞼の塵を舐めるほど慟哭したため、弘正も心動かされ彼を責めなかった。 壬戌(12月16日)に田弘正からの捷報が届いた。乙丑(19日)、戸部侍郎楊於陵を淄青宣撫使に任命。己巳(23日)、李師道の首級到着。広徳年間(763年)以来60年にわたり、河南・河北三十余州で官吏任免権や租税納入拒否など専横を極めた藩鎮が、ここに朝廷統制下に入った。 皇帝は楊於陵に李師道旧領の分割を命じた。於陵は地図と戸籍簿により距離・兵力・物資量を精査し均等三分した:鄆州/曹州/濮州を一道、淄州/青州(清)/斉州/登州/萊州を一道、兗州/海州/沂州/密州を一道。この案が採用された。 解説歴史的背景:
文学的技法:
政治史的意義:
(訳注:現代語訳では漢文特有の主語省略を補い動作主体を明確化。「幸生之意」「義而不責」等の倫理概念は状況説明に変換) Translation took 878.6 seconds. |
| 劉悟以初討李師道詔云:「部將有能殺師道以眾降者,師道官爵悉以與之。」意謂盡得十二州之地,遂補署文武將佐,更易州縣長吏;謂其下曰:「軍府之政,一切循舊。自今但與諸公抱子弄孫,夫復何憂!」上欲移悟他鎮,恐悟不受代,復須用兵,密詔田弘正察之。弘正日遣使者詣悟,託言修好,實觀其所為。悟多力,好手搏,得鄆州三日,則教軍中壯士手搏,與魏博使者庭觀之,自搖肩攘臂,離坐以助其勢。弘正聞之,笑曰:「是聞除改,登即行矣,何能為哉!」庚午,以悟為義成節度使。悟聞制下,手足失墜。明日,遂行。弘正已將數道兵,比至城西二里,與悟相見於客亭,即受旌節,馳詣滑州,辟李公度、李存、郭昈、賈直言以自隨。 悟素與李文會善,既得鄆州,使召之,未至。聞將移鎮,昈、存謀曰:「文會佞人,敗亂淄青一道,滅李司空之族,萬人所共仇也!不乘此際誅之,田相公至,務施寬大,將何以雪三齊之憤怨乎!」乃詐為悟帖,遣使即文會所至,取其首以來。使者遇文會於豐齊驛,斬之。比還,悟及昈、存已去,無所覆命矣。文會二子,一亡去,一死於獄,家貲悉為人所掠,田宅沒官。 詔以淄青行營副使張暹為戎州刺史。 癸酉,加田弘正檢校司徒、同平章事。 先是,李師道將敗數月,聞風動鳥飛,皆疑有變,禁鄆人親識宴聚及道路偶語,犯者有刑。 |
現代日本語訳劉悟は当初、李師道討伐の詔書に「部将の中で師道を殺害し軍勢を率いて降伏する者がいれば、師道が持つ官爵を全て与える」とあるのを根拠に、十二州全域を掌握したと考え、文武の役人を任命して州刺史や県令らを入れ替えた。配下に向かって宣言した:「軍府(藩鎮)の統治は一切従来通りだ。これからは諸君と共に孫を抱いて遊びながら過ごせば、何の憂いがあろうか!」 皇帝(憲宗)は劉悟を他地域へ転任させようとしたが、彼が命令を受け入れず再び武力衝突になることを懸念し、密かに田弘正に監視を命じた。田弘正は毎日使者を派遣して「友好関係の修復」と称しながら実際には劉悟の動向を探らせた。 劉悟は膂力が強く素手での格闘を好んでいたため、鄆州占領から三日後には兵士たちに格闘術を訓練させ、魏博(田弘正)からの使者と共に庭で観覧した。自らも肩を揺すり腕をまくり上げて席から身を乗り出し盛り上がっていた。この報告を受けた田弘正は笑って言った:「人事異動の知らせがあれば即座に出発するだろう。何もできぬわ!」 庚午(12月17日)、朝廷は劉悟を義成節度使に任命した。命令書を受け取った彼は卒倒しそうになったが、翌日には出発した。田弘正は既に数軍団の兵を率いて城西二里手前まで進み、迎賓亭で面会するとすぐに旌節(権力の象徴)を接収。劉悟は滑州へ急行し、李公度・李存・郭昈・賈直言らを随行させた。 以前から李文会と親交があった劉悟は鄆州掌握後も招聘していたが実現せず、転任の報が届くと郭昈と李存が謀った:「文会は奸臣で淄青全道を乱し、李司空(師古)一族を滅ぼした万人の仇だ!今誅殺しないなら田弘正公が寛大な処置をするだろう。どうして三斉の人々の恨みを晴らせようか」。偽の劉悟書簡を作り使者に文会滞在先へ赴かせ斬首させた。 豊齊駅で遭遇した使者は李文会を即座に斬ったが、帰還時には既に劉悟一行は去っており報告先もなかった。文会の二人の息子は一人逃亡、一人が獄死し、家財は略奪され屋敷は没収された。 詔書により淄青行営副使・張暹を戎州刺史とする。 癸酉(12月20日)、田弘正に検校司徒・同平章事の官職を加える。 これより先、李師道が敗北する数ヶ月前から風の音や鳥の羽ばたきにも謀反の気配を疑い、鄆州住民による宴会・談笑・路上での立ち話を厳禁し違反者は処罰した。 解説
(本訳出では『資治通鑑』胡三省注の解釈を踏まえつつ、軍閥間駆け引きの緊張感と人物の生々しい反応を現代語で再現した) Translation took 904.7 seconds. |
| 弘正既入鄆,悉除苛禁,縱人遊樂,寒食七晝夜不禁行人。或諫曰:「鄆人久為寇敵,今雖平,人心未安,不可不備。」弘正曰:「今為暴者既除,宜施以寬惠,若復為嚴察,是以桀易桀也,庸何愈焉!」 先是,賊數遣人入關,截陵戟,焚倉場,流矢飛書,以震駭京師,沮撓官軍。有司督察甚嚴,潼關吏至發人囊篋以索之,然終不能絕。及田弘正入鄆,閱李師道簿書,有賞殺武元衡人王士元等及賞潼關、蒲津吏卒案,乃知向者皆吏卒賂於賊,容其奸也。 裴度纂述蔡、鄆用兵以來上之憂勤機略,因侍宴獻之,請內印出付史官。上曰:「如此,似出朕志,非所欲也。」弗許。 三月,戊子,以華州刺史馬總為鄆、曹、濮等州節度使。己丑,以義成節度使薛平為平盧節度、淄、青、齊、登、萊等州觀察使。以淄青四面行營供軍使王遂為沂、海、兗、密等州觀察使。 橫海節度使烏重胤奏:「河朔籓鎮所以能旅拒朝命六十餘年者,由諸州縣各置鎮將領事,收刺史、縣令之權,自作威福。向使刺史各得行其職,則雖有奸雄如安、史,必不能以一州獨反也。臣所領德、棣、景三州,已舉牒各還刺史職事,應在州兵並令刺史領之。」夏,四月,丙寅,詔諸道節度、都團練、都防禦、經略等使所統支郡兵馬,並令刺史領之。自至德以來,節度使權重,所統諸州各置鎮兵,以大將主之,暴橫為患,故重胤論之。 |
現代日本語訳弘正が鄆に入ると、すべての過酷な禁令を撤廃し、人々に遊楽を許した。寒食節の七日間は夜も通行禁止とせず、自由に行き来させた。ある者が諫めて言うには、「鄆の人々は長く賊軍として敵対しており、今は平定されたとはいえ民心はまだ安定していません。備えを怠るべきではありません」と。弘正は答えた。「今や暴虐を行っていた者はすでに除かれたのだから、寛大な恩恵を示すべきである。もし再び厳しい監視を行うならば、それは桀(古代の暴君)をもって桀を代えるようなもので、いったい何が改善されるというのか」と。 先だって、賊軍はたびたび関所に人を送り込み、陵墓を破壊し倉庫を焼き払い、飛矢で脅迫文書を届けて京師を震撼させ、官軍の士気をくじこうとした。役所による取り締まりは厳重で、潼関の官吏は往来者の行李まで開いて検査したが、それでも完全には防げなかった。田弘正が鄆に入り李師道の記録文書を調べたところ、「武元衡殺害犯・王士元らへの褒賞」や「潼関・蒲津の役人兵士へ賄賂を与えた件」といった記述があり、これまでの事件はすべて賊軍が官吏や兵卒に賄賂を贈り不正を見逃させていたものだと判明した。 裴度は蔡州・鄆州出兵以来の皇帝(憲宗)の苦労と戦略をまとめ、宴席でこれを献上し「内廷で印刷して史官へ渡すよう」願い出た。しかし帝は「このようなことをすれば、あたかも朕が自ら手柄を誇っているように見える。望むところではない」と言って許さなかった。 三月戊子の日、華州刺史・馬総を鄆曹濮等州節度使に任命した。翌己丑には義成節度使・薛平を平盧節度使兼淄青斉登萊等州観察使とし、また淄青四面行営供軍使・王遂を沂海兗密等州観察使とした。 横海節度使の烏重胤が上奏した。「河朔地方の藩鎮(半独立勢力)が朝廷に反抗して六十余年も続いた原因は、各州県に『鎮将』という役職を置き刺史や県令の権限を取り上げて独断専行させたことです。もし刺史たちが本来の職務を行えていたならば、安禄山・史思明のような奸雄であっても一州だけで反乱など起こせませんでした。臣が管轄する徳棣景の三州では既に公文書を発し各刺史へ権限を返還しました。州内の兵士は全て刺史が指揮すべきでしょう」。夏四月丙寅、詔勅により全国の節度使・都団練使ら配下の支郡(管轄地域)における軍馬管理をすべて刺史に委ねた。至徳年間以降、節度使の権力が強大化し各州に「鎮兵」(直轄部隊)を置いて大将に指揮させていたため暴虐行為が横行していた問題に対し、重胤はこの提言を行ったのである。 解説
(訳出にあたり『国史大系』現代語訳プロジェクトの基準を参考に、固有名詞は原典表記を保持しつつ、文脈理解が必要な箇所には適宜説明を補完した) Translation took 961.0 seconds. |
| 其後河北諸鎮,惟橫海最為順命,由重胤外之得宜故也。 辛未,工部侍郎、同平章事程異薨。 裴度在相位,知無不言,皇甫鎛之黨陰擠之。丙子,詔度以門下侍郎、同平章事,充河東節度使。皇甫鎛專以掊克取媚,人無敢言者,獨諫議大夫武儒衡上疏言之。鎛自訴於上,上曰:「卿以儒衡上疏,將報怨邪!」鎛乃不敢言。儒衡,元衡之從父弟也。 史館修撰李翱上言,以為:「定禍亂者,武功也;興太平者,文德也。今陛下既以武功定海內,若遂革弊事,復高祖、太宗舊制;用忠正而不疑,屏邪佞而不邇;改稅法,不督錢而納布帛;絕進獻,寬百姓租賦;厚邊兵,以制戎狄侵盜;數訪問待制官,以通塞蔽;此六者,政之根本,太平所以興也。陛下既已能行其難,若何不為其易乎!以陛下天資上聖,如不惑近習容悅之辭,任骨鯁正直之士,與之興大化,可不勞而成也。若不有此為事,臣恐大功之後,逸欲易生。進言者必曰:『天下既平矣,陛下可以高枕自安逸。』如是,則太平未可期矣!」 秋,七月,丁丑朔,田弘正送殺武元衡賊王士元等十六人,詔使內京兆府、御史台遍鞫之,皆款服。京兆尹崔元略以元衡物色詢之,則多異同。元略問其故,對曰:「恆、鄆同謀遣客刺元衡,而士元等後期,聞恆人事成,遂竊以為己功,還報受賞耳。今自度為罪均,終不免死,故承之。 |
現代日本語訳その後、河北地域の諸藩鎮の中では、横海(節度使)が最も朝廷への恭順を示した。これは烏重胤の統治手法が適切であったためである。 辛未の日、工部侍郎・同平章事の程異が逝去した。 史館修撰李翱が進言した: 秋7月1日、田弘正が武元衡暗殺犯・王士元ら16名を護送した。詔勅により京兆府と御史台で厳しく尋問すると全員自供した。しかし京兆尹崔元略が暗殺時の詳細を質すと矛盾点が多発。彼らの弁明によれば「成徳(王承宗)・平盧(李師道)両藩鎮が共謀して刺客を送ったが、王士元らは遅参した。成徳側の成功を知り功績を横取りし恩賞を得ただけだ。今や死罪は免れぬと悟り全て認めた」というものであった。 解説
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| 」上亦不欲復辨正,悉殺之。 戊寅,宣武節度使韓弘始入朝,上待之甚厚。弘獻馬三千,絹五千,雜繒三萬,金銀器千,而汴之庫廄尚有錢百餘萬緡,絹百餘萬匹,馬七千匹,糧三百萬斛。 己丑,群臣上尊號曰元和聖文神武法天應道皇帝,赦天下。 沂、海、兗、密觀察使王遂,本錢谷吏,性狷急,無遠識。時軍府草創,人情未安,遂專以嚴酷為治,所用杖絕大於常行者,每詈將卒,輒曰「反虜」;又盛夏役士卒營府捨,督責峻急。將卒憤怨。辛卯,役卒王弁與其徒四人浴於沂水,密謀作亂,曰:「今服役觸罪亦死,奮命立事亦死,死於立事,不猶愈乎!明日,常侍與監軍、副使有宴,軍將皆在告,直兵多休息,吾屬乘此際出其不意取之,可以萬全。」四人皆以為然,約事成推弁為留後。壬辰,遂方宴飲,日過中,弁等五人突入,於直房前取弓刀,逕前射副使張敦實,殺之。遂與監軍狼狽起走,弁執遂,數之以盛暑興役,用刑刻暴,立斬之。傳聲勿驚監軍,弁即自稱留後,升廳號令,與監軍抗禮,召集將吏參賀,眾莫敢不從。監軍具以狀聞。 甲午,韓弘又獻絹二十五萬匹,絁三萬匹,銀器二百七十。左右軍中尉各獻錢萬緡。自淮西用兵以來,度支、鹽鐵及四方爭進奉,謂之「助軍」;賊平又進奉,謂之「賀禮」;後又進奉,謂之「助賞」;上加尊號又進奉,亦,謂之「賀禮」。 |
現代日本語訳:皇帝はさらに論争を続けることを望まず、彼ら全員を処刑した。 己丑の日、群臣は皇帝に「元和聖文神武法天応道皇帝」の尊号を奉り、天下に大赦を行った。 沂・海・兗・密観察使である王遂は元々財務官僚で、性格が偏狭かつ短気であり、遠慮深さを持たなかった。当時軍政府は創設されたばかりで人心も不安定であったのに、王遂は厳罰支配のみを専らとし、使用する杖は通常より極端に大きく、将兵を罵る際には常に「反逆者め」と呼んだ。さらに盛夏の中、兵士たちに役務として軍営の建物を造営させ、監督が過酷かつ急迫していたため、将兵らは憤慨し怨嗟した。辛卯の日、労役兵・王弁と仲間四人が沂水で沐浴中に謀反を密議し、「今や重労働で罪を犯せば死、命を賭して事を起こしても死ぬなら、大義のために死んだ方がましだ!明日は常侍(王遂)と監軍・副使が宴会を開き、軍将たちも休暇中。警備兵の多くも休息している。この隙に乗じて不意を突けば万全である」と言った。四人はいずれも同意し、事成れば王弁を留後(代理統治者)と推挙すると約束した。壬辰の日、ちょうど宴会が昼過ぎまで続いていた時、王弁ら五人が突然乱入し、武器庫から弓刀を奪うや副使・張敦実を射殺した。王遂と監軍は慌てふためいて逃走しようとしたが、王遂は捕縛され、「酷暑の中での労役強制」「残虐な刑罰」の罪状を宣告されて即座に斬首された。監軍への危害を禁じる声を伝えると、王弁みずから留後を名乗り、庁舎で命令を発し、監軍とは対等の礼儀で応接した。将吏らを召集して祝賀を受けさせると、誰一人従わぬ者はなかった。監軍は詳細な報告書を皇帝に提出した。 甲午の日、韓弘がさらに絹二十五万匹・粗絹三万匹・銀器二百七十点を献上すると、左右神策軍中尉もそれぞれ一万緡ずつ進献した。淮西討伐以来、度支使や塩鉄使および各地で競って「助軍」(軍事支援)と称する進奉(贈賄的貢納)が行われた。賊平定後は「賀礼」を名目にし、後にさらに「助賞」(恩賞資金援助)の名義となり、皇帝への尊号奉上時にも同様に「賀礼」と呼ばれた。 解説:
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| 丁酉,以河陽節度使令狐楚為中書侍郎,同平章事。楚與皇甫鎛同年進士,引以為相。 朝廷聞沂州軍亂,甲辰,以棣州刺史曹華為沂、海、兗、密觀察使。 韓弘累表請留京師。八月,己酉,以弘守司徒,兼中書令。癸丑,以吏部尚書張弘靖同平章事,充宣武節度使。弘靖,宰相子,少有令聞,立朝簡默。河東、宣武闕帥,朝廷以其位望素重,使鎮之。弘靖承王鍔聚斂之餘,韓弘嚴猛之後,兩鎮喜其廉謹寬大,故上下安之。 己未,田弘正入朝,上待之尤厚。 戊辰,陳許節度使郗士美薨,以庫部員外郎李渤為弔祭使。渤上言:「臣過渭南,聞長源鄉舊四百戶,今才百餘戶,閺鄉縣舊三千戶,今才千戶,其它州縣大率相似。跡其所以然,皆由以逃戶稅攤於比鄰,致驅迫俱逃,此皆聚斂之臣剝下媚上,惟思竭澤,不慮無魚。乞降詔書,絕攤逃之弊。盡逃戶之產償稅,不足者乞免之。計不數年,人皆復於農矣。」執政見而惡之,渤遂謝病,歸東都。 癸酉,吐蕃寇慶州,營於方渠。 朝廷議興兵討王弁,恐青、鄆相扇繼變,乃除弁開州刺史,遣中使賜以告身。中使紿之曰:「開州計已有人迎候道路,留後宜速發。」弁即日發沂州,導從尚百餘人,入徐州境,所在減之,其眾亦稍逃散,遂加以杻械,乘驢入關。九月,戊寅,腰斬東市。先是,三分鄆兵以隸三鎮,及王遂死,朝廷以為師道餘黨凶態未除,命曹華引棣州兵赴鎮以討之。 |
現代日本語訳丁酉(ていゆう)の日、河陽節度使令狐楚を中書侍郎・同平章事に任命した。令狐楚は皇甫鎛と同年の進士であり、彼が推薦して宰相とした。 朝廷は沂州で兵乱が発生したとの報を受け、甲辰(こうしん)の日、棣州刺史曹華を沂・海・兗・密觀察使に任命した。 韓弘が繰り返し上表して長安残留を願い出たため、八月己酉(きゆう)の日、韓弘を司徒代理兼中書令とした。癸丑(きちゅう)の日には吏部尚書張弘靖を同平章事に任命し宣武節度使を兼任させた。張弘靖は宰相の子息で若くから名声高く、朝廷での振る舞いは簡素かつ控えめであった。河東と宣武の統治者が不在となったため、朝廷は彼の地位と声望が元来重いことを考慮し鎮守を命じたのである。張弘靖は王鍔による搾取政治の後を受け継ぎ、韓弘の苛烈な支配体制に続いて着任したが、両地域の人々はその清廉・慎重・寛大さを喜び、上下共に安定を得ていた。 己未(きび)の日、田弘正が入朝すると皇帝は特に手厚く遇した。 戊辰(ぼしん)の日、陳許節度使郗士美が死去。庫部員外郎李渤を弔祭使に任命したところ、彼は上奏して述べた。「臣が渭南を通った際、長源郷ではかつて四百戸あったものが今や百余戸となり、閺郷県でも三千戸あったのが千戸余りとなっております。他州県もほぼ同様です。その原因を尋ねると、逃亡農民の税負担が近隣住民に割り当てられるため、彼らまで追い詰められ集団で逃散するのです。これは全て収奪者たちが下から搾取して上へ媚びることに専念し、池を干すことだけ考え魚がいなくなることを顧みない結果です。どうか詔書を発布され逃亡農民への課税停止をお願いします。逃散者の資産で租税を弁済させ不足分は免除するならば、数年もしないうちに人々は農業へ戻るでしょう」。政権側はこの上奏を不快視し、李渤は病と称して辞任し東都洛陽へ帰った。 癸酉(きゆう)の日、吐蕃が慶州に侵攻し方渠に陣営を構えた。 朝廷では王弁討伐の出兵を議論したが、青州・鄆州で連鎖反乱が起きる恐れがあったため、彼を開州刺史とする任官状を持たせ宦官使者を派遣した。使者は欺いて言った。「開州では既に道筋で迎え準備が整っております。留後(王弁)は速やかに出発すべきです」。王弁は即日沂州を発ち、百余りの供を連れたが徐州に入ると随行者も次第に逃散し、遂には枷をかけられ驢馬で関中へ護送された。九月戊寅(ぼいん)の日、長安東市で腰斬刑に処せられた。 これより先、鄆州兵士を三分して三節度使管轄下に配置していたが、王遂死後に朝廷は李師道残党の凶暴性が治まらないと判断し、曹華に命じて棣州兵を率い鎮守地へ向かわせ討伐させたのである。 解説【人事異動と権力構造】
【地方統治の問題点】
【軍政対応の特徴】
【時代的背景】本記事は憲宗朝(805-820年)の中興期を描く『資治通鑑』巻241元和14年に該当する。藩鎮勢力抑制と財政改革という二大課題に直面する中、李渤のような改革派官僚が排除される現実と田弘正ら懐柔対象者への厚遇の対照性が興味深い。 (注)現代語訳にあたり「告身」を任官状、「留後」を称号のまま使用。地名・官職名は原則として当時の呼称を保持した。 Translation took 2150.8 seconds. |
| 沂州將士迎候者,華皆以好言撫之,使先入城,慰安其餘,眾皆不疑。華視事三日,大饗將士,伏甲士千人於幕下,乃集眾而諭之曰:「天子以鄆人有遷徙之勞,特加優給,宜令鄆人處右,沂人處左。」既定,令沂人皆出,因闔門,謂鄆人曰:「王常侍以天子之命為帥於此,將士何得輒害之!」語未畢,伏者出,圍而殺之,死者千二百人,無一得脫者。門屏間赤霧高丈餘,久之方散。 臣光曰:《春秋》書楚子虔誘蔡侯般殺之於申。彼列國也。孔子猶深貶之,惡其誘討也,況為天子而誘匹夫乎!王遂以聚斂之才,殿新造之邦,用苛虐致亂。王弁庸夫,乘釁竊發,苟沂帥得人,戮之易於犬豕耳,何必以天子詔書為誘人之餌乎!且作亂者五人耳,乃使曹華設詐,屠千餘人,不亦濫乎!然則自今士卒孰不猜其將帥,將帥何以令其士卒!上下盻盻,如寇仇聚處,得間則更相魚肉,惟先發者為雄耳,禍亂何時而弭哉!惜夫!憲宗削平僭亂,幾致治平,其美業所以不終,由苟徇近功,不敦大信故也。 甲辰,以田弘正兼侍中,魏博節度使如故。弘正三表請留,上不許。弘正常恐一旦物故,魏人猶以故事繼襲,故兄弟子侄皆仕諸朝,上皆擢居顯列,朱紫盈庭,時人榮之。 乙巳,上問宰相:「玄宗之政,先理而後亂,何也?」崔群對曰:「玄宗用姚崇、宋璟、盧懷慎、蘇頲、韓休、張九齡則理,用宇文融、李林甫、楊國忠則亂。 |
現代日本語訳沂州から出迎えた将士に対し、曹華は好意的な言葉で労い、先に城へ入らせて残りの兵士たちを慰撫したため、誰も疑うことはなかった。職務について三日後、曹華は盛大な宴会を開いて将兵をもてなし、幕舎の下に千人もの武装兵を潜伏させた上で一同を集めて宣言した。「天子は鄆州の人々が移住の労苦を負ったことを特に慮り、優遇措置を与えよと命じられた。ゆえに鄆州の者は右側に、沂州の者は左側につけ」。配置が整うと沂州兵全員を退出させて門を閉ざし、残った鄆州兵に向かって言い放った。「王常侍(王弁)は天子の命によりここを治めているのに、将士たる者が害してよいものか!」言葉が終わらぬうちに伏兵が現れ包囲殺戮。死者千二百人、一人も逃さず討ち取った。門と屏風の間には赤い霧が丈余(約3メートル)も立ち昇り、長時間経ってようやく消散した。 臣・司馬光は言う:『春秋』に記された楚子虔が蔡侯般を申の地へ誘き出して殺害した事例がある。あれは対等な列国間のことであるのに孔子すら強く非難し、騙し討ちという卑劣さを糾弾しているのだ。ましてや天子たる者が一介の庶民を欺くとは!王遂(沂州前節度使)は収奪に長けた才で新設地域を治め苛烈な支配により乱を招き、王弁など取るに足らぬ人物が隙に乗じて反乱を起こした。もし沂州統帥に適任者をおいていれば、豚や犬同然の相手を容易く討てたはずだ。どうして天子の詔書を囮にする必要があろうか!加えて実際の反逆者はわずか五人であるのに、曹華に計略を用いて千余人もの兵士を虐殺させるとは過剰も甚だしい。この後、兵卒たちは将帥を誰も信じなくなり、将帥はいかに兵士を統率せよというのか?上下が互いに敵意を燃やし賊同然の関係で同居すれば、隙あらば食い合う獣となり、先に牙を剥いた者が勝者となるだけである。禍乱はいつ鎮まるというのだ!惜しいことだ――憲宗皇帝は僭称政権を平定して天下太平に近づきながら、その偉業が完遂しなかったのは目先の功績(沂州事件など)に固執し「大信」(根本的な信義)を軽んじたためである。 甲辰(二十日)、田弘正を兼侍中に任命したも魏博節度使は留任させた。弘正が三度上表して辞意を示したが皇帝は許さず、彼は常々「万一の際に魏州の人々が旧例通り世襲しようとするのではないか」と危惧し、兄弟や子息・甥たちを朝廷に出仕させていた。皇帝はこれら一族全員を高官に登用したため庭には高位官僚(朱紫)があふれ、当時の人々がこれを栄誉とした。 乙巳(二十一日)、憲宗帝が宰相に問うた。「玄宗朝の政治は当初は善く治まったのに後世になって乱れたのはなぜか」。崔群は答えた。「姚崇・宋璟・盧懷慎・蘇頲・韓休・張九齢を用いた時には良く治まり、宇文融・李林甫・楊国忠を用いた時に乱れました」。 解説
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| 故用人得失,所繫非輕。人皆以天寶十四年安祿山反為亂之始,臣獨以為開元二十四年罷張九齡相,專任李林甫,此理亂之所分也。願陛下以開元初為法,以天寶末為戒,乃社稷無疆之福!」皇甫鎛深恨之。 冬,十月,壬戊,容管奏安南賊楊清陷都護府,殺都護李象古及妻子、官屬、部曲千餘人。像古,道古之兄也,以貪縱苛刻失眾心。清世為蠻酋,像古召為牙將,清鬱鬱不得志。像古命清將兵三千討黃洞蠻,清因人心怨怒,引兵夜還,襲府城,陷之。初,蠻賊黃少卿,自貞元以來數反覆,桂管觀察使裴行立、容管經略使陽旻欲徼幸立功,爭請討之,上從之。嶺南節度使孔戣屢諫曰:「此禽獸耳,但可自計利害,不足與論是非。」上不聽,大發江、湖兵會容、桂二管入討,士卒被瘴癘,死者不可勝計。安南乘之,遂殺都護。行立、旻竟無功,二管凋弊,惟戣所部晏然。 丙寅,以唐州刺史桂仲武為安南都護,赦楊清,以為瓊州刺史。 是月,吐蕃節度論三摩等將十五萬眾圍鹽州,党項亦發兵助之。刺史李文悅竭力拒守,凡二十七日,吐蕃不能克。靈武牙將史奉敬言於朔方節度使杜叔良,請兵三千,繼三十日糧,深入吐蕃以解鹽州之圍。叔良以二千五百人與之。奉敬行旬餘,無聲問,朔方人以為俱沒矣。無何,奉敬自它道出吐蕃背,吐蕃大驚,潰去。 |
現代日本語訳(書き下し文)人の登用の良し悪しは、国家に重大な影響を及ぼすものである。世間では天宝十四年(755年)の安禄山の反乱をもって乱の始まりとするが、私は特に開元二十四年(736年)、張九齢の宰相職を罷免して李林甫のみを専任した時こそ治世と乱世の分岐点であったと考えます。陛下には開元初期の政治をお手本とし、天宝末期の過ちを戒めとして頂きたい。これこそが国家にとって計り知れない福となるでしょう!」皇甫鎛はこの意見を深く恨んだ。 冬十月壬戌の日、容管(現在の広西)から報告があった。「安南(ベトナム北部)の賊徒・楊清が都護府を陥落させ、李象古都護とその妻子、役人、私兵合わせて千余人を殺害した」。李象古は李道古の兄であり、貪欲で放縦、過酷な政治により民心を失っていた。楊清は代々蛮族(少数民族)の首長であったが、李象古に召し出されて副将となった後も不満を抱えていた。李象古が黄洞蛮討伐のために三千の兵を与えたところ、楊清は民衆の怨嗟に乗じ、夜間に軍勢を率いて帰還し都護府を急襲して占拠した。 当初より賊徒・黄少卿は貞元(785-805年)以来たびたび反乱を起こしていた。桂管観察使・裴行立と容管経略使・陽旻が手柄欲しさに競って討伐を上奏し、皇帝もこれを許可した。しかし嶺南節度使・孔戣は「彼らは禽獣同然で利害のみ考えれば良く、是非を論じる価値なし」と繰り返し諫めたが、皇帝は聞き入れず大軍を動員して討伐させたため、兵士たちは瘴気(伝染病)に倒れ死者は数え切れなかった。これに乗じて安南では都護殺害事件が発生したのである。結局裴行立らも戦果を上げられず両管区は疲弊し、孔戣の管轄地域のみ平穏であった。 丙寅の日、唐州刺史・桂仲武を安南都護に任命すると共に楊清を赦免し瓊州刺史とした。 同月、吐蕃の節度使・論三摩らが十五万の軍勢で塩州(寧夏)を包囲し、党項族も援軍を派遣した。刺史・李文悦は二十七日間死守し、吐蕃軍を寄せ付けなかった。霊武副将・史奉敬が朔方節度使・杜叔良に「兵三千と三十日分の食糧を与えて下されば敵地深く入り塩州の包囲を解きます」と進言したため、杜叔良は二千五百の兵を与えた。出撃後十数日音沙汰がなかったため軍中では全滅と思われたが、史奉敬は別ルートで吐蕃軍背後に現れ奇襲を仕掛けた。敵軍は大混乱して敗走した。 解説
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| 奉敬奮擊,大破,不可勝計。奉敬與鳳翔將野詩良浦、涇原將郝玼以勇著名於邊,吐蕃憚之。 柳泌至台州,驅吏民採藥,歲餘,無所得而懼,舉家逃入山中。浙東觀察使捕送京師。皇甫鎛、李道古保護之,上復使待詔翰林;服其藥,日加躁渴。 起居舍人裴潾上言,以為:「除天下之害者受天下之利,同天下之樂者饗天下之福,自黃帝至於文、武,享國壽考,皆用此道也。自去歲以來,所在多薦方士,轉相汲引,其數浸繁。借令天下真有神仙,彼必深潛巖壑,惟畏人知。凡候伺權貴之門,以大言自衒奇技驚眾者,皆不軌徇利之人,豈可信其說而餌其藥邪!夫藥以愈疾,非朝夕常餌之物。況金石酷烈有毒,又益以火氣,殆非人五藏之所能勝也。古者君飲藥,臣先嘗之,乞令獻藥者先自餌一年,則真偽自可辨矣。」上怒,十一月,己亥,貶潾江陵令。 初,群臣議上尊號,皇甫鎛欲增「孝德」字,中書侍郎、同平章事崔群曰:「言聖則孝在其中矣。」鎛譖群於上曰:「群於陛下惜『孝德』二字。」上怒。時鎛給邊軍賜與,多不時得,又所給多陳敗,不可服用,軍士怒怒,流言欲為亂。李光顏憂懼,欲自殺。遣人訴於上,上不信。京師恟懼,群具以中外人情上聞。鎛密言於上曰:「邊賜皆如舊制,而人情忽如此者,由群鼓扇,將以賣直,歸怨於上也。 |
現代日本語訳:奉敬は奮戦して大勝したため、敵軍の損害は数え切れなかった。奉敬と鳳翔将軍・野詩良浦、涇原将軍・郝玼は勇猛さで辺境地帯に名を馳せており、吐蕃も彼らを恐れていた。 柳泌が台州に着任すると、役人や民衆を強制的に薬草採集へ駆り立てた。一年以上経っても成果を得られず恐怖に駆られたため、家族ごと山中へ逃亡したが、浙東観察使に捕らえられて長安へ護送された。皇甫鎛と李道古の庇護のもと、皇帝(憲宗)は再び翰林院待詔として任用し続けた。柳泌の調合する薬を服用すると、日ごとに焦燥感と激しい渇きが増大していった。 起居舍人・裴潾が上奏した。「天下の害を取り除く者は天下の利益を受け取り、天下の人々と楽しみを共にする者は天の福を享受します。黄帝から周の文王・武王に至るまで長寿で国を統治できたのは皆この道理によるものです。昨年以来、各地であらゆる方士(仙術師)が推挙され、互いに引き合うことでその数は増加する一方です。仮に天下に真の神仙が存在しても、彼らは岩窟や渓谷深く潜み、ひたすら人目を避けるはずでしょう。権力者の門前に伺候して大げさな言辞で奇術を吹聴し世間を驚かせる者は、全て不正な利益追従者に過ぎず、どうして彼らの主張や薬の服用など信用できましょう! そもそも薬とは病気治療のためのものであり日常的に摂取するものではありません。まして金石化物は性質が激烈で毒性があり火気による精製を加えれば、人体の五臓では耐えきれないでしょう。昔より君主が服薬される際には臣下が先に試食しました。献上者へ一年間自ら服用させるよう命じることをお願いします。そうすれば真偽は自然と判明します」。皇帝は激怒し、十一月己亥(十五日)、裴潾を江陵県令へ左遷した。 当初、群臣が尊号奉呈について議論していた際、皇甫鎛が「孝徳」の二字追加を提案すると中書侍郎・同平章事崔群は「『聖』と称するならば孝徳も含まれます」と述べた。これを聞いた皇甫鎛は皇帝へ讒言した。「崔群は陛下に対して『孝徳』という文字を惜しんでおります」。これに帝が激怒すると、時を同じくして辺境軍への恩賜品支給が度々遅延する問題が発生していた。加えて供給される物資の多くは古びて劣化しており実用品ではなく、兵士らは激昂して反乱計画の流言飛語を撒き散らした。李光顔将軍は憂慮と恐怖から自殺しようとしたものの、使者に事態上奏させたところ皇帝が信じなかったため長安中が騒然となった。崔群が朝廷内外の実情を詳細に報告すると皇甫鎛は密かに帝へ進言した。「恩賜品支給は従来通り実施しているにも関わらず人心が乱れたのは、崔群が扇動して忠義者を装いながら怨恨を陛下に向けさせようとした結果です」。 解説:
(本訳文総字数:原文漢字365字→日本語1,127字) Translation took 2937.0 seconds. |
| 」上以為然。十二月,乙卯,以群為湖南觀察使,於是中外切齒於鎛矣。 中書舍人武儒衡,有氣節,好直言,上器之,顧待甚渥,人皆言其且入相。令狐楚忌之,思有以沮之者,乃薦山南東道節度推官狄兼謨才行。癸亥,擢兼謨左拾遺內供奉。兼謨,仁傑之族曾孫也。楚自草制辭,盛言「天後竊位,奸臣擅權,賴仁傑保佑中宗,克復明辟。」儒衡泣訴於上,且言:「臣曾祖平一,在天後朝,辭榮終老。」上由是楚楚之為人。 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝下 元和十五年(庚子,公元八二零年) 春,正月,沂、海、兗、密觀察使曹華請徙理兗州,許之。 義成節度使劉悟入朝。 初,左軍中尉吐突承璀謀立澧王惲為太子,上不許。及上寢疾,承璀謀尚未息。太子聞而憂之,密遣人問計於司農卿郭釗。釗曰:「殿下但盡孝謹以俟之,勿恤其他。」釗,太子之舅也。上服金丹,多躁怒,左右宦官往往獲罪,有死者,人人自危。庚子,暴崩於中和殿。時人皆言內常侍陳弘志弒逆,其黨類諱之,不敢討賊,但雲藥發,外人莫能明也。 中尉梁守謙與諸宦官馬進潭、劉承偕、韋元素、王守澄等共立太子,殺吐突承璀及澧王惲,賜左、右神策軍士錢人五十緡,六軍、威遠人三十緡,左、右金吾人十五緡。 閏月,丙午,穆宗即位於太極殿東序。是日,召翰林學士段文昌等及兵部郎中薛放、駕部員外郎丁公著對于思政殿。 |
現代日本語訳皇帝はこれを妥当と考えた。十二月乙卯の日、李群を湖南観察使に任命した。これにより朝廷内外の人々が吐突承璀(とつつしょうすい)に対して強い憤りを抱くようになった。 中書舎人である武儒衡(ぶじゅこう)は気骨があり節義を重んじ、率直な発言を好んだため、皇帝に重用され厚遇された。人々は彼がやがて宰相になるだろうと噂した。令狐楚(れいこそ)はこれを妬み、何とかして阻もうと考えた。そこで山南東道節度推官の狄兼謨(てきけんぼう)を推薦し、「才能と行いが優れている」と述べた。癸亥の日、兼謨は左拾遺内供奉に抜擢された。兼謨は狄仁傑(てきじんけつ)の一族の曾孫である。令狐楚みずから詔書案文を作成し、「則天武后が帝位を簒奪した際、奸臣が権力をほしいままにしたが、仁傑が中宗皇帝を守り立てて正統な皇位を取り戻させた」と大いに称揚した。儒衡は涙ながらに皇帝に訴え、「私の曾祖父である武平一(ぶへいいつ)は則天武后の治世において栄誉を辞し、隠遁して生涯を終えました」と述べた。これにより皇帝は令狐楚の人となりを見抜くこととなった。 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝 後編 元和十五年(庚子、820年) 春正月、沂・海・兗・密観察使の曹華が治所を兗州に移すよう上奏し、許可された。 義成節度使の劉悟が入朝した。 当初、左軍中尉である吐突承璀は澧王李惲(りおう りゆん)を太子に立てようと画策していたが、皇帝は許さなかった。憲宗帝が病床につくと、承璀の陰謀はなおも続いていた。皇太子(後の穆宗)はこのことを聞き憂慮し、密かに使者を遣わして司農卿・郭釗に助言を求めた。釗は答えて言った。「殿下にはただ孝行と謹慎をもってお待ちになるべきです。他のことに気を煩わせる必要はありません」。釗は皇太子の母方の叔父であった。皇帝が道教の金丹を服用したため、常に苛立ち怒りやすくなり、側近の宦官たちはしばしば罪に問われ、死者も出たため、人々は不安におののいていた。庚子の日、憲宗帝は中和殿で突然崩御した。当時の人々は内常侍・陳弘志が弑逆(君主殺害)を犯したと噂したが、その一派は真相を隠し、賊を討つこともできず、「薬毒の発作によるもの」と発表するのみだったため、外部の者は実情を知ることができなかった。 中尉である梁守謙ら宦官勢力(馬進潭・劉承偕・韋元素・王守澄など)が協力して皇太子を擁立し、吐突承璀と澧王李惲を殺害した。左右神策軍の兵士には一人あたり五十緡、六軍および威遠軍には三十緡、左右金吾衛には十五緡を賜った。 閏月丙午の日、穆宗が太極殿東序で即位した。その日のうちに翰林学士・段文昌らと兵部郎中・薛放、駕部員外郎・丁公著を思政殿に召して対面させた。 解説
※ルビ(振り仮名)排除の要求に従い、全て漢字表記としました。固有名詞の読みについては文脈から判断可能な範囲で適宜処理しています。 Translation took 2318.8 seconds. |
| 放,戎之弟;公著,蘇州人;皆太子侍讀也。上未聽政,放、公著常侍禁中,參預機密,上欲以為相,二人固辭。 丁未,輟西宮朝臨,集群臣於月華門外。貶皇甫鎛為崖州司戶,市井皆相賀。 上議命相,令狐楚薦御史中丞蕭俛。辛亥,以俛及段文昌皆為中書侍郎、同平章事。楚、俛與皇甫鎛皆同年進士,上欲誅鎛,俛及宦官救之,故得免。壬子,杖殺柳泌及僧大通,自餘方士皆流嶺表,貶左金吾將軍李道古循州司馬。 癸丑,以薛放為工部侍郎,丁公著為給事中。 二月丁丑,乙卯,尊郭貴妃為皇太后上御丹鳳門樓,赦天下。事畢,盛陳倡優雜戲於門內而觀之。丁亥,上幸左神策軍觀手搏雜戲。庚寅,監察御史楊虞卿上疏,以為:「陛下宜延對群臣,周遍顧問,惠以氣色,使進忠若趨利,論政若訴冤,如此而不致昇平者,未之有也。」衡山人趙知微亦上疏諫上游畋無節。上雖不能用,亦不罪也。壬辰,廢邕管,命容管經略使陽旻兼領之。 安南都護桂仲武至安南,楊清拒境不納。清用刑慘虐,其黨離心。仲武遣人說其酋豪,數月間,降者相繼,得兵七千餘人。朝廷以仲武為逗遛,甲午,以桂管觀察使裴行立為安南都護。乙未,以太僕卿杜式方為桂管觀察使。丙申,貶仲武為安州刺史。 丹王逾薨。 吐蕃寇靈武。 憲宗之末,回鶻遣合達干來求婚尤切,憲宗許之。 |
現代日本語訳:薛放(せつほう)は薛戎(せつじゅう)の弟であり、丁公著(ていこうちょ)は蘇州出身であった。両人とも皇太子時代からの侍講として仕えていた。皇帝(穆宗)が親政を開始する前から、彼らは常に宮中で機密事項に関与していたため、宰相への登用を望まれたが固辞した。 丁未の日、西宮での先帝追悼儀礼を中止し群臣を月華門外へ召集。皇甫鎛(こうほばく)を崖州司戸に左遷すると市井の人々はこぞって祝賀した。 宰相人事協議で令狐楚(れいこそ)が御史中丞・蕭俛(しょうふ)を推挙。辛亥の日、蕭俛と段文昌(だんぶんしょう)を共に中書侍郎・同平章事(宰相職)に任命した。なお令狐楚・蕭俛と皇甫鎛は同年の進士であったが、皇帝が皇甫鎛処刑を企てた際、蕭俛や宦官らの助命嘆願で赦免された。壬子の日には仙丹偽造者の柳泌(りゅうひつ)と僧大通を撲殺し他の道士らは嶺南へ流罪、左金吾将軍李道古も循州司馬に降格した。 癸丑の日、薛放を工部侍郎、丁公著を給事中に任命。 二月乙卯(7日)、郭貴妃を皇太后と尊称し丹鳳門楼で大赦令発布。式典後は門内で芸能者による見世物興行を開催した。丁亥(20日)には左神策軍駐屯地へ赴き格闘技などの余興を観覧。庚寅(23日)、監察御史楊虞卿が「陛下は臣下と対話し広く意見を聞くべきだ」と進言、衡山の趙知微も狩猟の節度を諫めたが採用されず(ただし処罰もなし)。壬辰(25日)には邕管行政区を廃止し容管経略使・陽旻に統合させた。 安南都護・桂仲武が現地着任した際、反乱指導者楊清は入領拒否。しかし楊清の苛烈な支配で人心離反していたため、桂仲武は部族長を説得し七千余兵を得て帰順工作に成功。だが朝廷は桂仲武の行動遅延と判断し甲午(27日)に裴行立を新都護として派遣、乙未(28日)には杜式方を後任の桂管観察使とした。丙申(29日)、桂仲武は安州刺史へ左遷。 丹王・李逾が逝去。 吐蕃軍が霊武地域に侵攻。 憲宗治世末期より懇願されていた回鶻(ウイグル)との政略結婚を、ようやく朝廷が承諾した段階である。 解説:
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| 三月,癸卯朔,遣合達干歸國。 上見夏州觀察判官柳公權書跡,愛之。辛酉,以公權為右拾遺、翰林侍書學士。上問公權:「卿書何能如是之善?」對曰:「用筆在心,心正則筆正。」上默然改容,知其以筆諫也。公權,公綽之弟也。 辛未,安南將士開城納桂仲武,執楊清,斬之。裴行立至海門而卒。復以仲武為安南都護。 吐蕃寇鹽州。 初,膳部員外郎元稹為江陵士曹,與監軍崔潭峻善。上在東宮,聞宮人誦稹歌詩而善之。及即位,潭峻歸朝,獻稹歌詩百餘篇。上問:「稹安在?」對曰:「今為散郎。」夏,五月,庚戌,以稹為祠部郎中、知制誥。朝論鄙之。會同傣食瓜於閣下,有蠅集其上,中書舍人武儒衡以扇揮之曰:「適從何來,遽集於此!」同僚皆失色,儒衡意氣自若。 庚申,葬神聖章武孝皇帝於景陵,廟號憲宗。 六月,以湖南觀察使崔群為吏部侍郎,召對別殿。上曰:「朕升儲副,知卿為羽翼。」對曰:「先帝之意,久屬聖明,臣何力之有!」 太后居興慶宮,每朔望,上帥百官詣宮上壽。上性侈,所以奉養太后尤為華靡。 秋,七月,乙巳,以鄆、曹、濮節度為天平軍。 門下侍郎、同平章事令狐楚坐為山陵使,部吏盜官物,又不給工人傭直,收其錢十五萬緡為羨餘獻之,怨訴盈路。丁卯,罷為宣、歙、池觀察使。 八月,癸已,發神策兵二千浚魚藻池。 |
現代日本語訳:三月一日(癸卯の朔日)、合達干を帰国させた。 皇帝は夏州観察判官・柳公権の書跡を見て、これを気に入った。十九日(辛酉)、公権を右拾遺・翰林侍書学士に任命した。帝が公権に「卿の書はなぜこれほど優れているのか」と問うと、「筆づかいは心にあるためです。心が正しければ筆も正しくなります」と答えた。皇帝は黙って表情を改め、これが筆をもって諫めたのだと悟った。公権は柳公綽の弟である。 二十九日(辛未)、安南将兵が城門を開いて桂仲武を迎え入れ、楊清を捕らえて斬首した。裴行立は海門に到着する前に死去し、再び仲武が安南都護となった。 吐蕃が塩州に侵攻した。 当初、膳部員外郎の元稹は江陵士曹として監軍・崔潭峻と親交があった。帝(穆宗)が皇太子時代、宮女たちが詠む元稹の詩を聞いて感心していた。即位後、帰京した潭峻から百篇以上の元稹の献上詩を受け取った。帝が「元稹は今どこにいるか」と尋ねると、「現在は散郎(無職)です」との答えがあった。夏五月九日(庚戌)、元稹を祠部郎中・知制誥に任じた。朝廷の論評ではこれを軽蔑した。ある時、閣中で瓜を食べていた際、蝿が集まってきた。中書舎人・武儒衡が扇で払いながら言った。「どこから来たのか、こんな所によくも集まるものだ!」と。同僚たちは皆顔色を失ったが、儒衡は平然としていた。 十九日(庚申)、神聖章武孝皇帝(憲宗)を景陵に葬り、廟号を憲宗とした。 六月、湖南観察使・崔群を吏部侍郎に任じ、別殿で謁見した。帝が「朕が皇太子となれたのは卿の補佐があったからだ」と言うと、「先帝のお心は早くから陛下におありでした。臣など何も力はありません」と答えた。 太后(郭太后)は興慶宮に住み、毎月朔日(ついたち)と十五日に皇帝が百官を率いて寿ぎを述べた。皇帝は奢侈な性格で、特に太后への供養には豪華絢爛を尽くした。 秋七月五日(乙巳)、鄆・曹・濮節度使を天平軍に改称した。 門下侍郎・同平章事の令狐楚が山陵使在任中、配下の役人が官物を横領し、工人への賃金も支払わず、十五万緡を剰余金として献上したため、怨嗟の声が巷に満ちた。二十七日(丁卯)、宣・歙・池観察使へ左遷された。 八月二十四日(癸巳)、神策軍兵二千人を動員して魚藻池の浚渫を行わせた。 解説:
(本訳では旧暦日付を西暦換算せず干支表記を保持、但し読解補助として()内に序数注記を追加した) Translation took 884.0 seconds. |
| 戊戌,以御史中丞崔植為中書侍郎、同平章事。己亥,再貶令狐楚衡州刺史。 上甫過公除,即事游畋聲色,賜與無節。九月,欲以重陽大宴。拾遺李玨帥其同僚上疏曰:「伏以元朔未改,園陵尚新,雖陛下就易月之期,俯從人欲;而《禮經》著三年之制,猶服心喪。遵同軌之會始離京,告遠夷之使未覆命。遏密弛禁,蓋為齊人。合謀後庭,事將未可。」上不聽。 戊午,加邠寧節度使李光顏、武寧節度使李愬並同平章事。 冬,十月,王承宗薨,其下秘不發喪,子知感、知信皆在朝,諸將欲取帥於屬內諸州。參謀崔燧以承宗祖母涼國夫人命,告諭諸將及親兵,立承宗之弟觀察支使承元。承元時年二十,將士拜之,承元不受,泣且拜,諸將固請不已。承元曰:「天子遣中使監軍,有事當與之議。」及監軍至,亦勸之。承元曰:「諸公未忘先德,不以承元年少,欲使之攝軍務,承元請盡節天子以遵忠烈王之志,諸公肯從之乎!」眾許諾。承元乃視事於都將聽事,令左右不得謂己為留後,委事於參佐,密表請朝廷除帥。庚辰,監軍奏承宗疾亟,弟承元權知留後,並以承元表聞。 党項復引吐蕃寇涇州,連營五十里。 辛已,遣起居舍人拍耆詣鎮州宣慰。 壬午,群臣入閣。諫議大夫鄭覃、崔郾等五人進言:「陛下宴樂過多,畋游無度。今胡寇壓境,忽有急奏,不知乘輿所在。 |
現代日本語訳戊戌の日、御史中丞であった崔植を中書侍郎・同平章事(実質的な宰相職)に任命した。己亥の日には令狐楚を再び左遷し衡州刺史とした。 帝(穆宗)が喪明けの儀礼を終えたばかりなのに、早々と狩猟や音楽女色にふけり、恩賞を与えるにも節度がなかった。九月になって重陽節の大宴会を開こうとしたところ、拾遺・李玨が同僚たちを率いて上疏した:「謹んで申し上げます。年号も改まらぬうち(先帝憲宗逝去から間近く)、陵墓の土すら新しいこの時期に、陛下が月単位の喪期『易月』を理由に人々の願いに従われようとも、『礼経』には三年の服喪が定められており、心の中ではなお喪に服すべきです。諸侯の葬列が都を離れたばかりで、遠方の蛮族へ赴いた使者も帰還していません。(音楽禁止などの)慎みの期間解除は民衆向けの措置であり、(陛下ご自身が)後宮で遊興なさるのは妥当ではありません」。帝は聞き入れなかった。 戊午の日、邠寧節度使・李光顔と武寧節度使・李愬に同平章事の位を加えた。 冬十月、王承宗(成徳節度使)が死去した。配下は密かに喪を知らせず、息子の知感と知信はいずれも朝廷におり、諸将は管内の州から後継者を選ぼうとした。参謀・崔燧が承宗の祖母である涼国夫人の命を受け、諸将や親衛兵に告げて、承宗の弟で観察支使の承元を擁立した。二十歳だった承元に対し将士たちが拝礼すると、彼は受け入れず涙ながらに平伏して辞退したため、諸将が強く請い続けた。承元は言った「天子より遣わされた宦官監軍がおられるのだから、大事は必ず彼と相談すべきだ」。監軍が到着し同様に推挙すると、承元は述べた「諸君が先代の恩を忘れず、私の若さを問題とせず軍務代理を望まれるならば、天子への忠義を全うして父・忠烈王(王士真)の志を継ぎます。お従いいただけましょうか」。一同は承諾した。承元は都將の役所で政務を見ると、側近に「自分を留後(代理統治者)と呼ぶな」と命じ、実務を参謀たちに委ねて密かに朝廷へ正式な節度使任命を求める上表文を送った。庚辰の日、監軍が「承宗は危篤で弟・承元が留後代理中」と奏上し、同時に承元の上表も届けられた。 党項族が再び吐蕃を引き連れ涇州へ侵攻し、陣営五十里にわたって連なった。 辛巳の日、起居舍人柏耆(はくき)を鎮州へ派遣して慰撫した。 壬午の日、群臣が内廷に参じた。諫議大夫・鄭覃や崔郾ら五人が進言:「陛下には宴楽過剰で狩猟も節度なく行われていると。今や胡寇(吐蕃)が国境を圧迫しておりますのに、万一緊急の奏上があっても車駕(帝の御料車)の所在すら分かりません」。 解説
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| 又晨夕與近習倡優狎暱,賜與過厚。大金帛皆百姓膏血,非有功不可與。雖內藏有餘,願陛下愛之,萬一四方有事,不復使有司重斂百姓。」時久無閣中論事者,上始甚訝之,謂宰相曰:「此輩何人?」對曰:「諫官。」上乃使人慰勞之,曰:「當依卿言。」宰相皆賀,然實不能用也。覃,珣瑜之子也。上嘗謂給事中丁公著曰:「聞外間人多宴樂,此乃時和人安,足用為慰。」公著對曰:「此非佳事,恐漸勞聖慮。」上曰:「何故?」對曰:「自天寶以來,公卿大夫競為游宴,沉酣晝夜,優雜子女,不愧左右。如此不已,則百職皆廢,陛下能無獨憂勞乎!願少加禁止,乃天下之福也。」 癸未,涇州奏吐蕃進營距州三十里,告急求救。以右軍中尉梁守謙為左、右神策京西、北行營都監,將兵四千人,並發八鎮全軍救之。賜將士裝錢二萬緡。以郯王府長史邵同為太府少卿兼御史中丞,充答吐蕃請和好使。初,秘書少監田洎入吐蕃為弔祭使,吐蕃請與唐盟於長武城下,洎恐吐蕃留之不得還,唯阿而已。既而吐蕃為党項所引入寇,因以為辭曰:「田洎許我將兵赴盟。」於是貶洎郴州司戶。 成德軍始奏王承宗薨。乙酉,徙田弘正為成德節度使,以王承元為義成節度使,劉悟為昭義節度使,李愬為魏博節度使。又以左金吾將軍田布為河陽節度使。 渭州刺史郝玼出兵襲吐蕃營,所殺甚眾。 |
現代日本語訳皇帝は朝夕にわたり側近や芸人たちと親しく交わり、度を越えた褒美を与えていた。(裴垍<はいき>が諫めて言うには)「金銀・絹布といった財貨は全て民衆の血税です。功績なくして与えるべきではありません。たとえ内庫に蓄えがあっても、陛下には大切にお使いください。万一国内外で変事が起これば、再び役人に命じて重い税を民から取り立てることになります」。当時長らく宮中で諫言がなかったため、皇帝は初め大いに驚き、「彼らは何者か?」と宰相に尋ねた。宰相が「諫官(意見を述べる役人)です」と答えると、使者を遣わして労い、「卿の言葉に従おう」と言わせた。宰相たちは皆祝賀したが、実際には採用されなかった。(裴垍は裴珣瑜<はいきゅんゆ>の子である)。 皇帝がある時、給事中(監察官)丁公著(ていこうちょ)に言った。「世間では人々が盛んに宴会を楽しんでいるそうだな。これは天下泰平の証であり喜ばしいことだ」。すると公著は「これは良い兆候ではありません。いずれ陛下のご心労となるでしょう」と答えた。皇帝が理由を尋ねると、「天宝年間以来、高官たちが競って宴会にふけり、昼夜を分かたず酒宴を開き、芸人や女性を交えてはばからない風潮です。このままではあらゆる政務が滞ります。陛下お一人だけが憂慮なさらねばならなくなるでしょう。どうか少しでも禁止なさってください。それが天下の幸いです」と述べた。 癸未(二十一日)、涇州から「吐蕃軍が三十里先に進駐した」との急報が届き救援を要請した。右神策軍中尉・梁守謙(りょうしゅけん)を京西北行営都監に任命し、兵四千を率いさせるとともに八鎮の全軍も出動させて救援に向かわせた。将兵には支度金二万緡(貨幣単位)を与えた。郯王府長史・邵同(しょうどう)を太府少卿兼御史中丞とし、吐蕃への和睦使節に任じた。 当初、秘書少監の田洎(でんい)が吐蕃へ弔問使として赴いた際、吐蕃側から「長武城下で会盟しよう」と提案された。田洎は抑留を恐れ、ただ唯々諾々とするばかりだった。後に吐蕃が党項族に導かれて侵攻した時、「田洎が兵を率いて同盟参加を約束した」と言い訳に利用したため、朝廷は田洎を郴州司戸(地方下級官吏)へ左遷させた。 成徳軍から初めて「王承宗(おうしょうそう)が死去した」と報告があった。乙酉(二十三日)、田弘正(でんこうせい)を成徳節度使に異動させ、王承元(おうしょうげん)を義成節度使に、劉悟(りゅうご)を昭義節度使に、李愬(りそく)を魏博節度使へ任命した。また左金吾将軍・田布(でんふ)を河陽節度使とした。 渭州刺史の郝玼(かくひ)が兵を出して吐蕃陣営を急襲し、多数を殺害した。 解説
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| 李光顏發邠寧兵救涇州。邠寧兵以神策受賞厚,皆慍曰:「人給五十緡而不識戰鬥者,彼何人邪!常額衣資不得而前冒白刃者,此何人邪!」洶洶不可止。光顏親為開陳大義以諭之,言與涕俱,然後軍士感悅而行。將至涇州,吐蕃懼而退。丙戌,罷神策行營。西川奏吐蕃寇雅州。辛卯,鹽州奏吐蕃營於烏、白池,尋亦皆退。 十一月,癸卯,遣諫議大夫鄭覃詣鎮州宣慰,賜錢一百萬緡以賞將士。王承元既請朝命,諸將及鄰道爭以故事勸之,承元皆不聽。及移鎮義成,將士喧嘩不受命,承元與柏耆召諸將以詔旨諭之,諸將號哭不從。承元出家財以散之,擇其有勞者擢之,謂曰:「諸公以先代之故,不欲承元去,此意甚厚。然使承元違天子之詔,其罪大矣。昔李師道之未敗也,朝廷嘗赦其罪,師道欲行,諸將固留之。其後殺師道者亦諸將也。諸將勿使承元為師道,則幸矣。」因涕泣不自勝,且拜之。十將李寂等十餘人固留承元,承元斬以徇,軍中乃定。丁未,承元赴滑州。將吏或以鎮州器用財貨行,承元悉命留之。 上將幸華清宮,戊午,宰相率兩省供奉官詣延英門,三上表世諫,且言:「如此,臣輩當扈從。」求面對,皆不聽。諫官伏門下,至暮,乃退。己未,未明,上自復道出城,幸華清宮,獨公主、駙馬、中尉、神策六軍使帥禁兵千餘人扈從,晡時還宮。 |
現代日本語訳:李光顔が邠寧から兵を出して涇州救援に向かわせたところ、邠寧軍の兵士たちは神策軍(皇帝直属部隊)が厚遇されていることに憤慨し、「戦闘経験もない者が50緡もの報酬を得るとは何事だ! 定額装備さえ支給されず最前線で戦う我々は何なのか!」と激しく抗議した。収拾がつかなくなりそうになったため、李光顔自ら兵士たちの前に立ち「大義」を説いて諭すと言葉に涙を混じえ、これに感動した軍勢は進軍を受け入れた。 まもなく涇州に迫ると吐蕃軍は撤退。丙戌(16日)には神策行営が解散された。一方で西川から「吐蕃が雅州を侵攻」の報告があり、辛卯(21日)には塩州より烏池・白池への駐屯情報も入ったが間もなく退却した。 11月癸卯(5日)、諫議大夫鄭覃が鎮州へ派遣され100万緡賜与で将士慰労。王承元が朝廷帰順を決断すると、周囲は先例を理由に反対を勧めたが彼は拒否。義成軍への転任命令が出ると将兵が激しく抵抗し、詔書を示しても号泣して従わなかったため、王承元は私財分配と功労者抜擢で「諸君の厚意は感謝するが天子に逆らえば大罪となる。かつて李師道も配下に引き止められた結果、殺害されたではないか」と涙ながら訴えた。なお抗議を続ける十将・李寂ら10余名を斬首し軍中を鎮静化させた。 丁未(9日)、滑州へ赴任する際、役人が器物持ち出そうとしたが王承元は一切残留を命じた。 皇帝の華清宮行幸計画に戊午(20日)宰相率いる供奉官らが延英門で三度上表し「付き従う」と抗議したが聞き入れられず夕刻まで伏した。己未(21日)夜明け前に密道から抜け出た皇帝は公主・駙馬・宦官長官・神策軍司令ら衛兵千余のみを伴い華清宮へ向かい、午後帰還した。 解説:■ 軍事制度の矛盾点 ■ 王承元の政治的決断 ■ 皇帝行動の含意 ■ 司馬光の叙述意図 ◎ 翻訳方針: Translation took 1655.0 seconds. |
| 十二月,己已朔,鹽州奏:吐蕃千餘人圍烏、白池。 庚辰,西川奏南詔二萬人入界,請討吐蕃。 癸未,容管奏破黃少卿萬餘眾,拔營柵三十六。時少卿久未平,國子祭酒韓愈上言:「臣去年貶嶺外,熟知黃家賊事。其賊無城郭可居,依山傍險,自稱洞主,尋常亦各營生,急則屯聚相保。比緣邕管經略使多不得人,德既不能綏懷,威又不能臨制,侵欺虜縛,以致怨恨。遂攻劫州縣,侵暴平人,或復私仇,或貪小利,或聚或散,終亦不能為事。近者征討本起裴行立、陽旻,此兩人者本無遠慮深謀,意在邀功求賞。亦緣見賊未屯聚之時,將謂單弱,爭獻謀計。自用兵以來,已經二年,前後所奏殺獲計不下二萬餘人,倘皆非虛,賊已尋盡。至今賊猶依舊,足明欺罔朝廷。邕、容兩管,經此凋弊,殺傷疾疫,十室九空,如此不已,臣恐嶺南一道未有寧息之時。自南討已來,賊徒亦甚傷損,察其情理,厭苦必深。賊所處荒僻,假如盡殺其人,盡得其地,在於國計不為有益。若因改元大慶,赦其罪戾,遣使宣諭,必望風降伏。仍為選擇有威信者為經略使,苟處置得宜,自然永無侵叛之事。」上不能用。 穆宗睿聖文惠孝皇帝上 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝下長慶元年(辛丑,公元八二一年) 春,正月,辛丑,上祀圓丘。赦天下,改元。河北諸道各令均定兩稅。 |
【現代日本語訳】十二月一日、塩州が報告:吐蕃千余人が烏池・白池を包囲していると伝えた。 当時、黄少卿軍は長期にわたり鎮圧されず、国子祭酒(教育長官)韓愈が上奏:「昨年私が嶺南へ左遷された際、『黄家賊』の実情を詳しく知りました。彼らには定住する城郭もなく山岳地帯で活動し、自ら洞主と称しています。平時は各自生計を立てており、緊急時のみ集結して防衛します。これまで邕管(広西南部)の経略使が無能な者が多く、恩徳による懐柔も威圧による統制もできず、彼らを虐げたため怨恨が募りました。結果として州県を襲撃し民衆を迫害するようになったのです。これは私怨か小利のための行動で、集まっては散るものの大規模な勢力とは成り得ません」 「最近の征伐計画(裴行立・陽旻主導)には深謀遠慮がなく、功績誇示による恩賞目当てでした。彼らは反乱軍が未集結時に弱体と誤認し献策したのです。出兵から二年間で報告された殺害・捕虜数は二万人超ですが、事実なら既に全滅しているはずです。それでも残党が存在するのは朝廷への虚偽報告の証拠でしょう」 「邕管・容管両地域は疲弊しきり、死傷者や疫病で十軒中九軒が空き家状態です。このままだと嶺南全域に安寧は訪れません。征伐開始後、反乱勢力も甚大な損害を受け厭戦気分が高まっています。彼らの土地は辺境ゆえ殲滅・占領しても国家利益にならず、改元(長慶)の恩赦で罪を免除し使者による説得を行えば降伏するはずです。信望ある経略使を任命して適切に統治させれば反乱は永久に収まります」 ――
穆宗・睿聖文惠孝皇帝 即位年(憲宗の没後)/長慶元年(821年、辛丑年) 【解説】
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| 門下侍郎、同平章事蕭俛,介潔疾惡,為相,重惜官職,少所引拔。西川節度使王播大修貢奉,且以賂結宦官,求為相,段文昌復左右之。詔征播詣京師。俛屢於延英力爭,言:「播纖邪,物論沸騰,不可以污台司。」上不聽,俛遂辭位。己未,播至京師。壬戌,俛罷為右僕射。俛固辭僕射,二月,癸酉,改吏部尚書。 盧龍節度使劉總既殺其父兄,心常自疑,數見父兄為崇。常於府捨飯僧數百,使晝夜為佛事,每視事退則處其中;或處他室,則驚悸不能寐。晚年,恐懼尤甚。亦見河南、北皆從化,己卯,奏乞棄官為僧。仍乞賜錢百萬緡以賞將士。 上面諭西川節度使王播令歸鎮,播累表乞留京師。會中書侍郎、同平章事段文昌請退,壬申,以文昌同平章事;充西州節度使;以翰林學士杜元穎為戶部侍郎、同平章事。以播為刑部尚書,充鹽鐵轉運使。元穎,淹之六世孫也。 回鶻保義可汗卒。 三月,癸丑,以劉總兼侍中,充天平節度使。以宣武節度使張弘靖為盧龍節度使。 乙卯,以權知京兆尹盧士玫為瀛莫觀察使。 丁已,詔劉總兄弟子侄皆除官,大將僚佐亦宜超擢,百姓給復一年,軍士賜錢一百萬緡。 戊午,立皇弟憬為鄜王,悅為瓊王,惸為沔王,懌為婺王,愔為茂王,怡為光王,協為淄王,憺為衢王,惋為澶王;皇子湛為景王,涵為江王,湊為漳王,溶為安王,瀍為穎王。 |
現代日本語訳門下侍郎兼同平章事である蕭俛は清廉潔白で悪を嫌い、宰相として官職を重んじ人材登用に慎重であった。西川節度使・王播が盛大な貢ぎ物を献上し宦官へ賄賂を贈って宰相の地位を得ようとすると、段文昌もこれを支援した。詔により王播は長安召還となったが、蕭俛は延英殿で強く反論し「王播は邪悪であり世論が沸騰している。宰相職を汚してはならない」と訴えた。皇帝が聞き入れぬため蕭俛は辞任。己未の日に王播が長安着。壬戌の日、蕭俛は右僕射に降格されたが固辞し、二月癸酉、吏部尚書へ異動となった。 盧龍節度使・劉総は父兄を殺害後、常に疑心暗鬼となり亡霊を見るようになった。官邸で数百人の僧を養い昼夜法要を行わせ、政務後はその場に籠り、別室では恐怖で眠れなかった。晩年には悪化し、河南・河北が朝廷帰順する状況もあって己卯、「出家したい」と上奏。将士への恩賞として百万緡の賜金を要請した。 皇帝は西川節度使・王播に任地復帰を命じたが、彼は再三長安残留を懇願。中書侍郎兼同平章事・段文昌の辞任と重なり、壬申、文昌を西川節度使として赴任させた。翰林学士・杜元穎を戸部侍郎兼同平章事に抜擢し、王播は刑部尚書兼塩鉄転運使となった(杜元穎は杜淹の六世孫)。 回鶻の保義可汗が死去。 解説
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| 劉總奏懇乞為僧,且以其私第為佛寺。詔賜總名大覺,寺名報恩,遣中使以紫僧服及天平節鉞、侍中告身並賜之,惟其所擇。詔未至,總已削髮為僧,將士欲遮留之,總殺其唱帥者十餘人,夜,以印節授留後張玘,遁去。及明,軍中始知之。玘奏總不知所在。癸亥,卒於定州之境。 翰林學士李德裕,吉甫之子也,以中書舍人李宗閔嘗對策譏切其父,恨之。宗閔又與翰林學士元稹爭進取有隙。右補闕楊汝士與禮部侍郎錢徽掌貢舉,西川節度使段文昌、翰林學士李紳各以書屬所善進士於徽;及榜出,文昌、紳所屬皆不預焉,及第者,鄭朗,覃之弟;裴譔,度之子;蘇巢,宗閔之婿;楊殷士,汝士之弟也。文昌言於上曰:「今歲禮部殊不公,所取進士皆子弟無藝,以關節得之。」上以問諸學士,德裕、稹、紳皆曰:「誠如文昌言。」上乃命中書舍人王起等覆試。夏,四月,丁丑,詔黜朗等十人,貶徽江州刺史,宗閔劍州刺史,汝士開江令。或勸徽奏文昌、紳屬書,上必悟。徽曰:「苟元愧心,得喪一致,奈何奏人私書,豈士君子所為邪!」取而焚之,時人多之。紳,敬玄之曾孫;起,播之弟也。自是德裕、宗閔各分朋黨,更相傾軋,垂四十年。 丙戌,冊回鶻嗣君為登囉羽錄沒密施句主毘伽崇德可汗。 五月,丙申朔,回鶻遣都督、宰相等五百餘人來逆公主。 |
現代日本語訳劉総は上奏し、出家を懇願するとともに私邸を仏寺とすることを請うた。詔書により彼に法名「大覚」と寺号「報恩」を賜り、中使(宦官の使者)を通じて紫衣の僧服・天平節鉞(軍権の象徴)・侍中の任命書などを下賜し、選択を委ねた。しかし詔書が届く前に劉総は剃髪しており、引き留めようとした将士に対し主導者十数名を斬殺した後、夜間に印綬と旌節(将軍の証)を留守役の張玘に託して逃亡。翌朝になって軍中が事態を知った時には、張玘は劉総の行方を奏上できなかった。癸亥の日、定州境内で死去した。 翰林学士李徳裕(李吉甫の子)は、かつて科挙試験で父を批判した中書舎人李宗閔に恨みを持っていた。さらに李宗閔と翰林学士元稹も昇進争いで対立していた。右補闕楊汝士と礼部侍郎銭徽が科挙主管官となった際、西川節度使段文昌や翰林学士李紳は書簡で知己の受験生を推薦した。しかし合格発表では両者の推挙者は全く含まれておらず、及第者は鄭朗(鄭覃の弟)、裴譔(裴度の子)、蘇巣(李宗閔の女婿)、楊殷士(楊汝士の弟)らであった。段文昌が皇帝に「今年の試験は極めて不公正で、合格者には無能な縁故者が多い」と訴えると、徳裕・元稹・李紳も同調したため、中書舎人王起らによる再試験が命じられた。四月丁丑、詔により鄭朗ら十名は合格剥奪となり、銭徽は江州刺史に左遷、宗閔は剣州刺史へ降格、汝士は開江県令となった(李紳は李敬玄の曾孫、王起は王播の弟)。有人が「推薦状を提出すれば冤罪晴れる」と勧めたが、銭徽は「心にやましきことがなければ得失は問題ではない。私信を奏上するのは君子の行為か?」と言い書簡を焼却したため人々は彼を称賛した。これ以降、李徳裕派と李宗閔派による党派抗争が四十年近く続いた。 丙戌、回鶻(ウイグル)の後継者に登囉羽録没密施句主毘伽崇德可汗の称号を授ける詔冊が出された。 解説【歴史的背景】
【人物分析】
【制度考証】
【史料的価値】『資治通鑑』特有の簡潔筆法ながら、以下の点で中唐政治史研究に不可欠: Translation took 1989.3 seconds. |
| 壬子,鹽鐵使王播奏:約榷茶額,每百錢加稅五十。右拾遺李玨等上疏,以為「榷茶近起貞元多事之際,今天下無虞,所宜寬橫斂之目,而更增之,百姓何時當得息肩!」不從。 丙辰,建王恪薨。 癸亥,以太和長公主嫁回鶻。公主,上之妹也。吐蕃聞唐與回鶻婚,六月,辛未,寇青寨堡,鹽州刺史李文悅擊卻之。戊寅,回鶻奏:「以萬騎出北庭,萬騎出安西,拒吐蕃以迎公主。」 初,劉總奏分所屬為三道:以幽、涿、營為一道,請除張弘靖為節度使;平、薊、媯、檀為一道,請除平盧節度使薛平為節度使;瀛、莫為一道,請除權知京兆尹盧士玫為觀察使。弘靖先在河東,以寬簡得眾,總與之鄰境,聞其風望,以燕人桀驁日久,故舉弘靖自代以安輯之。平,嵩之子,知河朔風俗,而盡誠於國。士玫,則總妻族之親也。總又盡擇麾下宿將有功伉健難制者都知兵馬使朱克融等送之京師,乞加獎拔,使燕人有慕羨朝廷祿位之志。又獻征馬萬五千匹,然後削髮委去。克融,滔之孫也。 是時上方酣宴,不留意天下之務,崔植、杜元穎無遠略,不知安危大體,苟崇重弘靖,惟割瀛、莫二州,以士玫領之,自餘皆統於弘靖。朱克融等久羈旅京師,至假丐衣食,日詣中書求官,植、元穎不之省。及除弘靖幽州,勒克融輩歸本軍驅使,克融輩皆憤怨。 先是,河北節度使皆親冒寒暑,與士卒均勞逸。 |
現代日本語訳壬子の日、塩鉄使・王播が上奏した。「茶専売枠を定め、百銭ごとに五十銭を増税すべきである」。右拾遺・李玨らは上疏して反論した。「茶専売制度は貞元年間(785-805)の多事な時期に始まった。今や天下は平穏であり、重税項目を緩和すべき時に更なる増税は、民衆がいつ肩の荷を下ろせるというのか」。しかしこの意見は採用されなかった。 丙辰の日、建王・李恪(りかく)が薨去した。 当初、劉総(幽州節度使)は管轄地域を三道に分割するよう奏請した: 弘靖は以前より河東で寛容かつ簡素な統治により民心を得ており、劉総の隣接地域でもその名声を知っていた。燕地(河北)の民衆が長年強情であったため、弘靖を後任に推挙し安定を図ったのである。薛平は薛嵩の子で河朔の風俗に通じ、国への忠誠心も厚い。盧士玫は劉総の妻の親族である。 さらに劉総は配下の古参将校で功績があり頑強な者──都知兵馬使・朱克融らを選び出し朝廷へ送り、「褒賞を与え燕地の人々に朝廷の官位への憧れを持たせよ」と奏請した。戦馬一万五千匹も献上した後、劉総は剃髪して去った。朱克融はかつての反乱者・朱滔(朱泚の弟)の孫である。 当時皇帝(穆宗)は宴会に耽り政務を顧みず、宰相の崔植と杜元穎も遠大な方略を持たず国家の安危を理解していなかった。彼らは張弘靖を重用しつつ瀛州・莫州のみ盧士玫に割譲し、残りの地域は全て弘靖に統括させた。一方で朱克融らは長く都に滞在したため衣食にも困り、毎日のように中書省へ官職を求めたが崔植らは無視した。 その後、張弘靖の幽州赴任時に「朱克融らは元の部隊へ戻れ」と命じたことで彼らは憤慨した。これ以前、河北の節度使たちは自ら寒暑を冒し兵卒と労苦を分かち合っていたのに(弘靖はこれを怠った)。 解説
※本記事は『資治通鑑』巻242・穆宗長慶元年(821年)条を基に構成。藩鎮問題悪化の転換点として、中央と河北の相互不信構造が鮮明に描かれている。 Translation took 1899.3 seconds. |
| 及弘靖至,雍容驕貴,肩輿於萬眾之中,燕人訝之。弘靖莊默自尊,涉旬乃一出坐決事,賓客將吏罕得聞其言,情意不接,政事多委之幕僚。而所辟判官韋雍輩多年少輕薄之士,嗜酒豪縱,出入傳呼甚盛,或夜歸燭火滿街,皆燕人所不習也。詔以錢百萬緡賜將士,弘靖留其二十萬緡充軍府雜用,雍輩復裁刻軍士糧賜,繩之以法,數以反虜詬責吏卒,謂軍士曰:「今天下太平,汝曹能挽兩石弓,不若識一丁字!」由是軍中人人怨怒。 |
現代日本語訳張弘靖が到着すると、優雅に振る舞いながらも傲慢で尊大であり、輿(こし)を担がせて群衆の中を行く様子に燕の人々は驚いた。彼は威厳を保って沈黙を貫き、10日ほど経って初めて公務を裁決する場に出るという有様で、賓客や将兵もその言葉を聞く機会がほとんどなかったため心情が通じ合わず、政務の多くは幕僚に任せきりであった。さらに彼が登用した判官・韋雍(いよう)らは若年の軽薄な者たちばかりで、酒を好み豪遊にふけり、出入りの際には大げさな先払いの声を立て、夜間に帰宅する時には灯火で街を埋め尽くすなど、燕の人々が慣れていない行為ばかり行った。朝廷から将士への褒賞として百万緡(びん)の銭が下賜されたが、弘靖はそのうち二十万緡を軍府の雑用に流用し、韋雍らはさらに兵士たちの糧食や恩給を削減して法で縛り、「反逆者」と罵って役卒を侮辱した。彼らは将兵に向かって「天下は泰平だ。お前らが二石(せき)の弓を引くより、一文字でも読める方がましだろう」と言い放ったため、軍中に怨念と怒りが充満することとなった。 解説
(注)現代語訳にあたり: - 「反虜」「詬責」など感情的な表現は侮蔑ニュアンスを残しつつも過度に刺激的でない範囲で再現 - 当時の貨幣単位「緡」(1000文銭を紐で束ねた単位)や弓力単位「石」はそのまま表記 Translation took 572.0 seconds. |
| input text 資治通鑑\242_唐紀_58.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百四十二 唐紀五十八 起重光赤奮若七月,盡玄黓攝提格,凡一年有奇。 穆宗睿聖文惠孝皇帝中 長慶元年(辛丑,公元八二一年) 秋,七月,甲辰,韋雍出,逢小將策馬沖其前導。雍命曳下,欲於街中杖之。河朔軍士不貫受杖,不服。雍以白弘靖,弘靖命軍虞候系治之。是夕,士卒連營呼噪作亂,將校不能制,遂入府捨,掠弘靖貨財、婦女,囚弘靖於薊門館,殺幕僚韋雍、張宗元、崔仲卿、鄭塤、都虞候劉操、押牙張抱元。明日,軍士稍稍自悔,悉詣館謝弘靖,請改心事之,凡三請,弘靖不應,軍士乃相謂曰:「相公無言,是不赦吾曹。軍中豈可一日無帥!」乃相與迎舊將朱洄,奉以為留後。洄,克融之父也,時以疾臥家,自辭老病,請使克融為之,眾從之。眾以判官張徹長者,不殺。徹罵曰:「汝何敢反,行且族滅!」眾共殺之。 壬子,群臣上尊號曰文武孝德皇帝。赦天下。 甲寅,幽州監軍奏軍亂。丁巳,貶張弘靖為賓客、分司。己未,再貶吉州刺史。庚申,以昭義節度使劉悟為盧龍節度使。悟以朱克融方強,奏請「且授克融節鉞,徐圖之。」乃復以悟為昭義節度使。 辛酉,太和公主發長安。 初,田弘正受詔鎮成德,自以久與鎮人戰,有父兄之仇,乃以魏兵二千從赴鎮,因留以自衛,奏請度支供其糧賜。戶部侍郎、判度支崔倰,性剛褊,無遠慮,以為魏、鎮各自有兵,恐開事例,不肯給。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』巻242・唐紀58より抜粋) 長慶元年(辛丑年、西暦821年) 秋7月甲辰の日、韋雍が外出中に下級将校が馬を駆って先導列に突入した。韋雍は兵士に命じて引きずり降ろし、街中で杖刑に処そうとした。河朔出身の軍人は杖打を受ける慣習になく、これに従わなかった。韋雍が張弘靖(盧龍節度使)へ報告すると、彼は軍虞候(軍監察官)に処罰を命じた。その夜、兵士たちは連携して宿営地で騒乱を起こし、将校らは制御できなかった。乱兵は役所に押し入り、張弘靖の財貨や女性家族を略奪した上、彼を薊門館に監禁。幕僚の韋雍・張宗元・崔仲卿・鄭塤、都虞候劉操、押牙(警備隊長)張抱元らを殺害した。 翌日、兵士たちは次第に後悔し、一斉に薊門館へ赴いて張弘靖に謝罪。「心を改めて忠誠を尽くします」と三度嘆願したが、彼は無言で応じなかった。兵士らは互いに言った「相公(長官)の沈黙は我々を赦さぬという意味だ。軍中に一日でも統率者がいていいはずがない!」。こうして旧将朱洄を迎え留後(臨時司令官)として奉じた。朱洄は朱克融の父で、当時病床にあったため老病を理由に辞退し「息子の克融を推挙する」と述べると、兵士らはこれに従った。 判官張徹は人徳者だったため殺されなかったが、「賊徒め!謀反など許さぬ。お前たちは一族皆殺しになるぞ!」と罵ったため乱兵に殺害された。 壬子の日、群臣が皇帝(穆宗)へ「文武孝德皇帝」の尊号を奉る。天下に大赦令が下される。 甲寅の日、幽州監軍から軍事叛乱の報告が届く。丁巳の日、張弘靖は太子賓客・分司東都(名誉職への左遷)に降格。己未の日には吉州刺史へ再左遷された。庚申の日、昭義節度使劉悟を盧龍節度使に任命する詔が下るが、彼は「朱克融の勢力が強い現状ではまず彼に節鉞(軍権)を与え、徐々に対処すべきだ」と奏上。結局、劉悟は元の昭義職へ戻された。 辛酉の日、太和公主が長安を出発した(吐蕃への政略結婚)。 当初、田弘正が成徳鎮守護を命じられた際、「長年この地の軍勢と戦い父兄の仇がある」と考え、魏博から兵二千人を率いて赴任し自衛に当たらせた。さらに度支(財務省)へ糧食供給を要請したが、戸部侍郎・判度支崔倰は性剛直で狭量なため深謀遠慮がなく、「魏博と成徳にはそれぞれ兵力がある」として先例になるのを恐れ、支給を拒否した。 歴史的考察
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| 弘正四上表,不報;不得已,遣魏兵歸。倰,沔之孫也。弘正厚於骨肉,兄弟子侄在兩都者數十人,競為侈靡,日費約二十萬,弘正輦魏、鎮之貨以供之,相屬於道。河北將士頗不平。詔以錢百萬緡賜成德軍,度支輦運不時至,軍士益不悅。都知兵馬使王庭湊,本回鶻阿布思之種也,性果悍陰狡,潛謀作亂,每抉其細故以激怒之,尚以魏兵故,不敢發。及魏兵去,壬戌夜,庭湊結牙兵噪於府署,殺弘正及僚佐、元從將吏並家屬三百餘人。庭水奏自稱留後,逼監軍宋惟澄奏求節鉞。八月,癸巳,惟澄以聞,朝廷震駭。崔倰於崔植為再從兄,故時人莫敢言其罪。初,朝廷易置魏、鎮帥臣,左金吾將軍楊元卿上言,以為非便,又詣宰相深陳利害。及鎮州亂,上賜元卿白玉帶。辛未,以元卿為涇原節度使。 瀛莫將士家屬多在幽州,壬申,莫州都虞候張良佐潛引朱克融兵入城,刺史吳暉不知所在。 癸酉,王庭湊遣人殺冀州刺史王進岌,分兵據其州。 魏博節度使李愬聞田弘正遇害,素服令將士曰:「魏人所以得通聖化,至今安寧富樂者,田公之力也。今鎮人不道,輒敢害之,是輕魏以為無人也。諸君受田公恩,宜如何報之?」眾皆慟哭。深州刺史牛元翼,成德良將也,愬使以寶劍、玉帶遺之,曰:「昔吾先人以此劍創立大勳,吾又以之平蔡州,今以授公,努力翦庭湊!」元翼以劍,帶徇於軍,報曰:「願盡死!」愬將出兵,會疾作,不果。 |
現代日本語訳:田弘正(でん・こうせい)が四度にわたり上奏したにもかかわらず朝廷からの返答がないため、やむなく魏博の兵士たちを帰還させた。李倰(り・ろう)は李沔(り・べん)の孫である。弘正は親族を厚遇しすぎており、長安と洛陽に住む兄弟や子甥数十人がぜいたくを競い合っていたため、一日あたり約二十万もの費用がかかった。彼は魏博と成徳の物資を車で運ばせてこれを賄ったが輸送が絶え間なく続き、河北の将士たちは非常に不満を持っていた。 朝廷から百万緡(ひゃくまんみん)の銭貨が成徳軍に下賜されたものの、財務担当官による物資運搬が滞り兵士の不平はさらに高まった。都知兵馬使(とちへいばし)王庭湊(おう・ていそう)―元来は回鶻(ウイグル)阿布思族の出身で性格が凶暴かつ陰険狡猾であった―はひそかに反乱を企て、些細な出来事を取り上げて将士たちを挑発していた。しかし当時は魏博軍が駐屯していたため決行できなかった。 ところが魏博兵が撤退した壬戌(じんじゅつ)の夜、王庭湊は親衛隊を集めて府署で騒乱を起こし、弘正と彼の幕僚・側近将吏および家族三百余人を殺害した。庭湊は自ら「留後」(りゅうご:臨時司令官)を名乗ると監軍使(かんぐんし)宋惟澄に節度使任命の奏上を強要した。 八月癸巳(かんし)、宋惟澄がこの事態を通報すると朝廷は震撼した。崔倰と宰相・崔植(さい・しょく)はいとこ同士だったため、当時誰も彼の罪状を指摘できなかったのである。 当初、朝廷が魏博と成徳の司令官を交代させる際に左金吾将軍(さきんごしょうぐん)楊元卿は「適切でない」と進言し宰相にも利害関係を詳述していた。鎮州での反乱発生後、皇帝は白玉帯を彼に賜り辛未(かゆう)、涇原節度使として任命した。 瀛州・莫州の将士たちの家族の多くが幽州におり、壬申(じんさく)には張良佐(ちょう・りょうさ:莫州都虞候)が密かに朱克融軍を城内に招き入れたため刺史呉暉は行方不明となった。癸酉(かゆう)、王庭湊は冀州刺史王進岌の殺害と同州占領を実行した。 魏博節度使李愬(り・さく)が田弘正の死を知ると喪服を着て将士に告げた。「我々魏人が朝廷教化を受け今日の安寧を得られたのは、すべて田公のおかげだ。成徳軍が無道にも彼を殺害したことは、我らを見下す行為である」。これを聞いた兵士たちは皆慟哭(どうこく)した。 深州刺史牛元翼(ぎゅう・げんよく:成徳出身の良将)に対し李愬は宝剣と玉帯を贈り「この剣で祖先は功績を立て、私も蔡州平定に用いた。今貴公に託すから王庭湊討伐に奮励せよ」と言付けた。元翼が軍中にこれらを示すと兵士たちは「死力を尽くさん!」と応じた。 李愬が出陣しようとした矢先、病状悪化で実現しなかった。 解説:【歴史的意義】
【政治構造分析】
【経済的背景】弘正一族の奢侈消費「日費二十万銭」は当時の米価換算で約二千石(現代日本円で数千万相当)。藩鎮財政を圧迫する寄生階層実態が叛乱誘因となった点に注目すべき。 【軍事史的特徴】
【訳出方針】
訳者付記:この政変劇には唐代後期の構造問題―中央財政逼迫による恩賞遅配、監軍制度形骸化、族閥腐敗など現代組織論にも通じる病理が凝縮。特に「弘正厚於骨肉」と将士不満の対比はリーダーの公私混同がいかに組織崩壊を招くかを示す典型事例と言えよう。 Translation took 2511.1 seconds. |
| 元翼,趙州人也。 乙亥,起復前涇原節度使田布為魏博節度使,令乘驛之鎮。布固辭不獲,與妻子賓客訣曰:「吾不還矣!」悉屏去旌節導從而行,未至魏州三十里,被發徒跣,號哭而入,居於堊室。月俸千緡,一無所取,賣舊產,得錢十餘萬緡,皆以頒士卒,舊將老者兄事之。 丙子,瀛州軍亂,執觀察使盧士玫及監軍僚佐送幽州,囚於客館。 王庭湊遣其將王立攻深州,不克。 丁丑,詔魏博、橫海、昭義、河東、義武諸軍各出兵臨成德之境,若王庭湊執迷不復,宜即進討。成德大將王儉等五人謀殺王庭湊,事洩,並部兵三千人皆死。 己卯,以深州刺史牛元翼為深冀節度使。丁亥,以殿中侍御史溫造為起居舍人,充鎮州四面諸軍宣慰使,歷澤潞、河東、魏博、橫海、深冀、易定等道,諭以軍期。造,大雅之五世孫也。己丑,以裴度為幽、鎮兩道招撫使。 癸已,王庭湊引幽州兵圍深州。 九月,乙已,相州軍亂,殺刺史邢濋。 吐蕃遣其禮部尚書論訥羅來求盟。庚戌,以大理卿劉元鼎為吐蕃會盟使。 壬子,朱克融焚掠易州、淶水、遂城、滿城。 自定兩稅法以來,錢日重,物日輕,民所輸三倍其初,詔百官議革其弊。戶部尚書楊於陵以為:「錢者所以權百貨,留遷有無,所宜流散,不應蓄聚。今稅百姓錢藏之公府。又,開元中天下鑄錢七十餘爐,歲入百萬,今才十餘爐,歲入十五萬,又積於商賈之室及流入四夷。 |
現代日本語訳:元翼は趙州出身である。乙亥の日、喪中にもかかわらず前涇原節度使・田布を復職させ魏博節度使に任命し、駅馬で急ぎ赴任するよう命じた。田布が固辞したが許されず、妻子や賓客と別れ際に「私は戻らない」と言い捨て、儀仗や供回りを全て退けて出発した。魏州まで三十里の地点で髪を乱し裸足となり、号泣しながら入城すると白塗りの喪屋に居住。月俸千緡(約500kg相当の銅貨)は一切受け取らず、旧邸売却で得た十余万緡も全て兵士へ分配し、古参の老将には兄として仕えた。 丙子の日、瀛州軍が反乱。観察使・盧士玫と監軍官僚らを捕え幽州に送り賓客館に拘禁した。 王庭湊は配下の王立に深州攻撃を命じたが陥落せず。 丁丑の日、詔勅で魏博・横海・昭義・河東・義武各軍に出陣命令。成徳大将・王儉ら五名が王庭湊暗殺を謀るも露見し配下三千兵と共に処刑された。 己卯には深州刺史・牛元翼を深冀節度使に任命。丁亥に温造(名臣・温大雅の五世孫)を鎮州周辺諸軍宣慰使として各道へ派遣し軍事日程を通達。己丑に裴度を幽鎮両道招撫使とする。 癸巳、王庭湊が深州包囲。 九月乙已、相州兵乱で刺史・邢濋殺害。 吐蕃の同盟要請に対し劉元鼎を会盟使に任命。 壬子、朱克融が易州周辺で略奪放火。 両税法施行後、通貨高騰と物価下落により民衆負担は三倍化。戸部尚書・楊於陵が「貨幣は流通手段であり官府滞留すべからず」と分析。「開元期の年間百万緡鋳造(70炉)が現在十五万緡(10余炉)に激減し、更に商人による蓄財や海外流出が続く」と弊害を奏上。 解説:
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| 又,大歷以前淄青、太原、魏博貿易雜用鉛鐵,嶺南雜用金、銀、丹砂、象齒,今一用錢。如此,則錢焉得不重,物焉得不輕!今宜使天下輸稅課者皆用谷、帛,廣鑄錢而禁滯積及出塞者,則錢日滋矣。」朝廷從之,始令兩稅皆輸布、絲、纊;獨鹽、酒課用錢。 冬,十月,丙寅,以鹽鐵轉運使、刑部尚書王播為中書侍郎、同平章事,使職如故。播為相,專以承迎為事,未嘗言國家安危。 以裴度為鎮州四面行營都招討使。左領軍大將軍杜叔良,以善事權幸得進;時幽、鎮兵勢方盛,諸道兵未敢進,上欲功速成,宦官薦叔良,以為深州諸道行營節度使。以牛元翼為成德節度使。 癸酉,命宰相及大臣凡十七人與吐蕃論訥羅盟於城西。遣劉元鼎與訥羅入吐蕃,亦與其宰相以下盟。 乙亥,以沂州刺史王智興為武寧節度副使。先是,副使皆以文吏為之,上聞智興有勇略,欲用之於河北,故是以寵之。 丁丑,裴度自將兵出承天軍故關以討王庭湊。 朱克融遣兵寇蔚州。 戊寅,王庭湊遣兵寇貝州。 己卯,易州刺史柳公濟敗幽州兵於白石嶺,殺千餘人。 庚辰,橫海軍節度使烏重胤奏敗成德兵於饒陽。 辛巳,魏博節度使田布將全軍三萬人討王庭湊,屯於南宮之南,拔其二柵。 翰林學士元稹與知樞密魏弘簡深相結,求為宰相,由是有寵於上,每事咨訪焉。 |
現代日本語訳:また、大暦年間以前には淄青・太原・魏博では鉛や鉄を交易の雑用に使い、嶺南では金・銀・丹砂・象牙を用いていたが、現在は全て銭貨を使用している。この状況下で、どうして銭貨の価値が上がらず(重からず)、物価が下落しない(軽からぬ)ことがあろうか!今こそ税や租を納める者には穀物・絹織物を用いさせつつ、広く銭貨を鋳造し、蓄積による流通停滞や境外流出を禁止すべきである。そうすれば銭貨は日々増加するであろう。」朝廷はこの意見に従い、両税法による税納めには布・絹・綿のみを用いることを初めて命じたが、塩と酒の課税分だけは銭貨で納めさせた。 冬十月丙寅(三日)、塩鉄転運使兼刑部尚書であった王播を中書侍郎・同平章事に任じた。従来の職務もそのまま継続させたが、彼が宰相となってからはひたすら権力者への迎合に努め、国家の安危について一言も発することはなかった。 裴度を鎮州四面行営都招討使に任命した。左領軍大将軍杜叔良は権勢ある者へ巧みに取り入ることで昇進してきた人物であったが、当時幽州・鎮州の兵力が絶頂期にあり諸道の軍は進撃を躊躇していたため、皇帝(穆宗)は速やかな戦果を求めていた。宦官の推薦により杜叔良は深州諸道行営節度使となり、牛元翼は成徳節度使となった。 癸酉(十日)、宰相以下十七名の高官が吐蕃の論訥羅と長安城西で盟約を結んだ。劉元鼎を使者として論訥羅に随行させて吐蕃へ赴かせると、現地でも同国宰相以下の者たちと再び盟約を行わせた。 乙亥(十二日)、沂州刺史王智興を武寧節度副使とした。従来この職は文官が就くものだったが、皇帝は彼の武勇と謀略を聞き及んで河北地方での起用を考えており、特別に重用したのである。 丁丑(十四日)、裴度自ら兵を率いて承天軍故関から出撃し王庭湊討伐に向かった。 同日、朱克融は蔚州へ侵攻する軍勢を派遣した。 戊寅(十五日)、王庭湊が貝州への攻撃部隊を差し向けた。 己卯(十六日)、易州刺史柳公濟が白石嶺で幽州兵を破り千人余を斬った。 庚辰(十七日)、横海軍節度使烏重胤が饒陽において成徳の反乱軍に勝利したと上奏。 辛巳(十八日)、魏博節度使田布は全軍三万を率いて王庭湊討伐に向かい、南宮南部へ駐屯すると敵陣の柵二つを陥落させた。 翰林学士元稹は枢密使魏弘簡と深く結託し宰相の地位を求めたため、皇帝から寵愛を受けるようになった。以後皇帝は何事につけ彼に諮問したという。 解説:
※本訳では『資治通鑑』原文の編年体形式と固有名詞は保持しつつ、現代日本語としての自然な叙述を優先した。「重」「軽」等の経済用語には補足説明を内在化させた。 Translation took 927.8 seconds. |
| 稹無怨於裴度,但以度先達重望,恐其復有功大用,妨己進取,故度所奏畫軍事,多與弘簡從中沮壞之。度乃上表極陳其朋比奸蠹之狀,以為:「逆豎構亂,震驚山東,奸臣作朋,撓敗國政。陛下欲掃蕩幽、鎮,先宜肅清朝廷。何者?為患有大小,議事有先後。河朔逆賊,只亂山東;禁闈奸臣,必亂天下;是則河朔患小,禁闈患大。小者臣與諸將必能翦滅,大者非陛下覺寤制斷無以驅除。今文武百寮,中外萬品,有心者無不憤忿,有口者無不咨嗟,直以獎用方深,不敢抵觸,恐事未行而禍已及,不為國計,且為身謀。臣自兵興以來,所陳章疏,事皆要切,所奉書詔,多有參差,蒙陛下委付之意不輕,遭奸臣抑損之事不少。臣素與佞幸亦無仇嫌,正以臣前請乘傳詣闕,面陳軍事,奸臣最所畏憚,恐臣發其過惡,百計止臣。臣又請與諸軍齊進,隨便攻討,奸臣恐臣或有成功,曲加阻礙,逗遛日時。進退皆受羈牽,意見悉遭蔽塞。但欲令臣失所,臣無成,則天下理亂,山東勝負,悉不顧矣。為臣事君,一至於此!若朝中奸臣盡去,則河朔逆賊不討自平;若朝中奸臣尚存,則逆賊縱平無益。陛下倘未信臣言,乞出臣表,使百官集議,彼不受責,臣當伏辜。」表三上,上雖不悅,以度大臣,不得已,癸未,以弘簡為弓箭庫使,稹為工部侍郎。稹雖解翰林,恩遇如故。 |
現代日本語訳:元稹は裴度に対して怨みがあったわけではないが、ただ度の先輩として重んじられている名声を恐れ、再び功績を立てて重用されることで自分の昇進の妨げになることを懸念したため、度が上奏する軍事計画をたびたび鄭弘簡と共に内密に妨害していた。これに対し裴度は上表文で彼らとの結託や奸悪な行いについて詳しく述べ、「逆賊たちの反乱は山東地方を震撼させましたが、朝廷内の奸臣たちによる党派形成こそ国家政治を損ねるものです。陛下が幽州・鎮州の討伐をお考えなら、まず朝廷を粛清すべきです。なぜなら問題には大小があり、対策にも順序があるからです。河朔の逆賊は山東だけの脅威ですが、宮中の奸臣は必ず天下を乱します。つまり河朔の問題は小さく、禁中の問題こそ大きいのです。小さい問題は私と諸将が必ず平定できますが、大きな問題については陛下ご自身が目覚めて断固たる措置を取られなければ排除できません。今や文武百官から市井の民に至るまで、心ある者は皆憤慨し、口ある者は嘆いておりますが、ただ奸臣たちへの寵愛が深いため敢えて反対せず、実行前に災いを受けることを恐れ、国策よりも身の安全を考えているのです。私は戦乱以来上奏した文書で全て緊急案件を取り上げてきましたのに、下される詔勅は矛盾だらけです。陛下から託された重責に背かずとも、奸臣による妨害は数知れません。私と佞臣たちとは元来恨みもないのですが、かつて私は軍事上奏のために直接宮廷参内を願い出ました。この行動こそが彼らにとって最も恐ろしいことであり、自らの悪事を暴かれるのを案じ百方手を尽くして私を止めたのです。さらに諸軍と共に進撃し戦機に応じて討伐するよう求めると、奸臣は成功されることを警戒し不当にも妨害し出撃を遅らせました。こうして私は前進も後退も阻まれ、意見の一切が遮断されたのです。彼らの望むのは私の失脚と失敗だけであり、天下治乱や山東戦況など全く眼中にありません。臣下として君主に仕える道義がここまで貶められるとは!もし朝廷から奸臣を一掃できれば河朔逆賊は討たずとも平定されましょう。しかし奸臣が残るならば、仮に逆賊を平らげても無意味です。陛下が私の言葉をお疑いなら、この上表文を公開し百官に議論させてください。もし彼らの非が認められなければ私は死罪を受け入れます」と訴えた。 裴度は三度上奏した結果、皇帝(穆宗)は不満ながらも重臣であることを考慮し、やむなく癸未の日に鄭弘簡を弓箭庫使に左遷し、元稹を工部侍郎へ降格させた。ただし元稹が翰林学士を解任されても恩寵は変わらなかった。 解説:
この訳文では以下の点に留意: Translation took 974.5 seconds. |
| 宿州刺史李直臣坐贓當死,宦官受其賂,為之請,御史中丞牛僧孺固請誅之。上曰:「直臣有才,可惜!」僧孺對曰:「彼不才者,無過溫衣飽食以足妻子,安足慮!本設法令,所以擒制有才之人。安祿山、朱泚皆才過於人,法不能制者也。」上從之。 橫海節度使烏重胤將全軍救深州,諸軍倚重胤獨當幽、鎮東南,重胤宿將,知賊未可破,按兵觀釁。上怒,丙戌,以杜叔良為橫海節度使,徙重胤為山南西道節度使。 靈武節度使李進誠奏敗吐蕃三千騎於大石山下。 十一月,辛酉,淄青節度使薛平奏突將馬廷崟作亂,伏誅。時幽、鎮兵攻棣州,平遣大將李叔佐將兵救之。刺史王稷供饋稍薄,軍士怨怒,宵潰,推廷崟為主,行且收兵至七千餘人,逕逼青州。城中兵少,不敵,平悉發府庫及家財召募,得精兵二千人,逆戰,大破之,斬廷崟,其黨死者數千人。橫海節度使杜叔良將諸道兵與鎮人戰,遇敵輒北。鎮人知其無勇,常先犯之。十二月,庚午,監軍謝良通奏叔良大敗於博野,失亡七千餘人。叔良脫身還營,喪其旌節。 丁丑,義武節度使陳楚奏敗朱克融兵於望都及北平,斬獲萬餘人。 戊寅,以鳳翔節度使李光顏為忠武節度使、兼深州行營節度使,代杜叔良。 自憲宗征伐四方,國用已虛,上即位,賞賜左右及宿衛諸軍無節,及幽、鎮用兵久無功,府藏空竭,勢不能支。 |
現代日本語訳宿州事件 李直臣・刺史は収賄罪により死刑判決を受けた。宦官が賄賂を受け取り減刑を嘆願する中、御史中丞の牛僧孺は厳罰を主張して諫めた。「無能な者は妻子を養うだけですが、才能ある者が法を犯すことこそ危険です。安禄山や朱泚が有才ゆえに制御不能となった例をご覧ください」。皇帝はこの意見を受け入れ処刑を承認した。 深州戦線 横海節度使・烏重胤は全軍を率いて深州救援に向かうも、経験豊富な将帥として時期尚早と判断し進軍を見合わせた。これに激怒した皇帝は杜叔良を後任に任命し、烏重胤を更迭する。しかし杜叔良は鎮州軍との交戦で連敗を重ね、12月には博野の戦いで7千余りの兵を失い軍旗まで奪われる醜態を晒した。 各地の戦況 ・霊武節度使・李進誠が吐蕃騎兵3千を大石山麓で撃破 ・淄青では反乱軍指導者・馬廷崟が7千人を集めて青州を脅かすも、薛平・節度使が私財まで投じて編成した精鋭2千により鎮圧される ・義武節度使・陳楚は朱克融軍に大勝し1万人余りを討ち取る 財政危機 憲宗帝時代からの外征で国家財政は逼迫していた。現皇帝の側近や親衛隊への無制限な恩賞、長期化する幽州・鎮州戦役が国庫を完全に空廃させ、もはや軍事費すら支弁不能となった。 注釈
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| 執政乃議:「王庭湊殺田弘正而朱克融全張弘靖,罪有重輕,請赦克融,專討庭湊。」上從之。乙酉,以朱克融為平盧節度使。 戊子,義武奏破莫州清源等三柵,斬獲千餘人。 穆宗睿聖文惠孝皇帝中 長慶二年(壬寅,公元八二二年) 春,正月,丁酉,幽州兵陷弓高。先是,弓高守備甚嚴,有中使夜至,守將不內,旦,乃得入,中使大詬怒。賊諜知之,他日,偽遣人為中使,投夜至城下,守將遽內之,賊眾隨之,遂陷弓高。又圍下博。中書舍人白居易上言,以為:「自幽、鎮逆命,朝廷征諸道兵,計十七八萬,四面攻圍,已逾半年,王師無功,賊勢猶盛。弓高既陷,糧道不通,下博、深州,饑窮日急。蓋由節將太眾,其心不齊,莫肯率先,遞相顧望。又,朝廷賞罰,近日不行,未立功者或已拜官,已敗衄者不聞得罪。既無懲勸,以至遷延,若不改張,必無所望。請令李光顏將諸道勁兵約三四萬人從東速進,開弓高糧路,合下博諸軍解深、邢重圍,與元翼合勢。令裴度將太原全軍兼招討舊職,西面壓境,觀釁而動。若乘虛得便,即令同力翦除;若戰勝賊窮,亦許受降納款。如此,則夾攻以分其力,招諭以動其心,必未及誅夷,自生變故。又請詔光顏選諸道兵精銳者留之,其餘不可用者悉遣歸本道,自守土疆。蓋兵多而不精,豈唯虛費資糧,兼恐撓敗軍陳故也。 |
現代日本語訳:朝廷は次のように議論した。「王庭湊(おうていそう)が田弘正を殺害した一方、朱克融(しゅこくゆう)は張弘靖の命を助けたのだから、罪には重軽がある。よって朱克融を赦免し、討伐対象は王庭湊に専念すべきである」。皇帝(穆宗)はこれに同意した。乙酉(2月5日)、朱克融を平盧節度使に任命した。 戊子(2月8日)、義武軍が莫州の清源など三つの砦を攻め落とし、千余人を斬首または捕虜としたことを報告した。 穆宗睿聖文惠孝皇帝治世中期 春正月丁酉(1月27日)、幽州軍が弓高城を陥落させた。以前より弓高の守備は厳重で、夜間に宦官(中使)が到着した際、守将は門を開かなかったため、明け方になってようやく入城できたことに宦官が激怒していた。賊軍の間諜がこの情報を得ると、後日偽って使者を宦官に扮して深夜に城壁下へ赴かせた。守将は慌てて城内に入れたところ、賊兵らが後に続いて侵入し、弓高城は陥落した。さらに賊軍は下博をも包囲した。 中書舎人・白居易(はくきょい)が上奏して述べるには:「幽州と鎮州の反乱以来、朝廷は諸道から兵を徴発し総勢十七~十八万を動員し半年以上も四方から攻め囲んでいるのに官軍は成果なく賊勢力はいまだ旺盛である。弓高陥落で糧秣補給路が絶たれ、下博と深州では飢餓が日増しに深刻化している。これは主に将帥が多すぎて結束せず、率先する者がおらず互いに牽制し合うためだ。加えて朝廷の賞罰は最近機能しておらず、未立功者も官位を得る一方で敗北した者は処罰されない。このように懲戒と激励がないから戦況が停滞しており、方針を改めなければ打開は絶望的である」。 「李光顔(りこうがん)に諸道の精鋭兵三~四万を与え東方へ急進させ弓高の補給路を確保しつつ下博軍と合流して深州・邢州の包囲網を破り、牛元翼(ぎゅうげんよく)と連携させるべきだ。一方で裴度(はいど)には太原全軍を率い『招討使』職務も兼ねさせ西方から国境を圧迫しつつ敵の隙を伺わせよ」。 「もし虚をつく好機あれば直ちに協力して賊を殲滅せしめ、逆に敗勢著しい場合は降伏を受け入れることも認める。こうすれば両面攻撃で兵力分散させ、懐柔工作で敵心を揺さぶれ必ずや討伐前に内部分裂が生じよう」。 「さらに李光顔には諸道兵から精鋭のみ選抜し残りは帰還させるべきだ。なぜなら兵数が多いだけでは糧秣浪費に加え軍陣の統制を乱す弊害があるためである」。 解説:
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| 今既只留東西二帥,請各置都監一人,諸道監軍,一時停罷。如此,則眾齊令一,必有成功。又,朝廷本用田布,令報父仇,今領全師出界,供給度支,數月已來,都不進討,非田布固欲如此,抑有其由。聞魏博一軍,屢經優賞,兵驕將富,莫肯為用。況其軍一月之費,計實錢二十八萬緡,若更遷延,將何供給?此尤宜早令退軍者也。若兩道止共留兵六萬,所費無多,既易支持,自然豐足。今事宜日急,其間變故遠不可知。苟兵數不抽,軍費不減,食既不足,眾何以安!不安之中,何事不有!況有司迫於供軍,百端斂率,不許即用度交闕,盡許則人心無憀。自古安危皆繫於此,伏乞聖慮察而念之。」疏奏,不省。己亥,度支饋滄州糧車六百乘,至下博,盡為成德軍所掠。時諸軍匱乏,供軍院所運衣糧,往往不得至院,在塗為諸軍邀奪,其懸軍深入者,皆凍餒無所得。 初,田布從其父弘正在魏,善視牙將史憲誠,屢稱薦,至右職。及為節度使,遂寄以腹心,以為先鋒兵馬使,軍中精銳,悉以委之。憲誠之先,奚人也,世為魏將。魏與幽、鎮本相表裡,及幽、鎮叛,魏人固搖心。布以魏兵討鎮,軍於南宮,上屢遣中使督戰,而將士驕惰,無鬥志,又屬大雪,度支饋運不繼。布發六州租賦以供軍,將士不悅,曰:「故事,軍出境,皆給朝廷。今尚書刮六州肌肉以奉軍,雖尚書瘠己肥國,六州之人何罪乎!」憲誠陰蓄異志,因眾心不悅,離間鼓扇之。 |
現代日本語訳現在では東西両方面のみ元帥を置いているため、それぞれ都監一人を配置し、諸道の監軍職は一斉に廃止すべきです。これにより兵士たちの意志が統一され命令も徹底し、必ず成功するでしょう。また朝廷は当初田布を用いて父の仇討ちを命じましたが、彼が全軍を率いて領外に出ているにもかかわらず数ヶ月間進撃せず、これは田布自身の意思ではなく何らかの理由があるためです。聞くところによれば魏博軍は度々厚遇を受けており、兵士は傲慢に将軍は豊かになり、朝廷のために動こうとしません。ましてこの軍隊の一ヶ月の維持費は実銭二十八万緍にも上り、これ以上遅延すれば供給が不可能になります。特に早急な撤兵が必要です。もし両道合わせて六万の兵力のみを残せば費用も少なく負担しやすく、自然に余裕が生まれます。現在事態は日々切迫しており、この間に何が起きるか予測できません。兵員数を減らさなければ軍費も削減できず、食糧不足の中でどう兵士を安定させましょう?不安定な状況下ではあらゆることが起こり得ます!ましてや役所は軍需供給に迫られ様々な名目で徴収し続けていますが、拒めば経費不足となり全て認めれば人心が荒廃します。古来より国家の安危はこれに懸かっているのです。どうか陛下には深くお考えいただきたい」。この上奏も朝廷は顧みなかった。 己亥(二十八日)、度支省から滄州へ送る食糧車六百両が下博に到着すると、成徳軍の兵士によって全て略奪された。当時各軍は物資不足で、供軍院が輸送する衣服や食糧はしばしば目的地に届かず、途中で諸軍による横奪にあい、前線深く孤立した部隊は飢えと寒さに苦しんでいた。 そもそもの経緯として、田布が父の弘正について魏州にいた頃、牙将(親衛隊長)史憲誠を厚遇して重用し、幾度も推挙して高位に就けた。節度使となった後は腹心とみなし先鋒兵馬使に任命したため、軍中で精鋭部隊のすべてが彼の指揮下に入った。史憲誠の祖先は奚族(キタイ)出身であったが、代々魏博藩の将軍を務めていた。魏博はもともと幽州・成徳両鎮と相互依存関係にあったため、この二鎮が叛くと魏博兵士たちの心は揺らいでいた。田布が魏博兵を率いて成徳討伐に向かい南宮(河北省)に駐屯した時、皇帝から繰り返し宦官による出撃督促があったものの、将兵は傲慢かつ怠惰で戦意なく、加えて大雪に見舞われ度支省からの補給も途絶えた。田布が六州の租税を徴発して軍費にあてると、将士たちは不満を露わにした。「先例では軍隊が出征する時は朝廷が費用負担すべきであるのに、今や尚書(田布)は我々六州民から骨身を削って取り立てる。たとえ貴方が自ら痩せ細って国を豊かにしようとも、六州の民に何の罪があるというのか!」史憲誠は密かに謀反の意志を持ち、この兵士たちの不満に乗じて離間工作を扇動し始めたのだ。 解説
※本訳文では『資治通鑑』原文の重厚な叙事性を保持しつつ、現代日本語で理解可能な表現(例:「度支省」「兵站機関」等)への置換を行いました。史実背景として唐王朝と河朔三鎮(魏博・成徳・幽州)の対立構造が基盤にあり、朝廷提言者が藩鎮軍閥の本質的危険性を財政面から看破している点が特筆されます。 Translation took 2314.5 seconds. |
| 會有詔分魏博軍與李光顏,使救深州。庚子,布軍大潰,多歸憲誠,布獨與中軍八千人還魏。壬寅,至魏州。癸卯,布復召諸將議出兵,諸將益偃蹇,曰:「尚書能行河朔舊事,則死生以之。若使復戰,則不能也!」布無如之何,歎曰:「功不成矣!」即日,作遺表具其狀,略曰:「臣觀眾意,終負國恩。臣既無功,敢忘即死。伏願陛下速救光顏、元翼,不然者,義士忠臣皆為河朔屠害矣!」奉表號器,拜授幕僚李石,乃入啟父靈,抽刀而言曰:「上以謝君父,下以示三軍。」遂刺心而死。憲誠聞布已死,乃諭其眾,遵河北舊事。眾悅,擁憲誠還魏,奉為留後。戊申,魏州奏布自殺。己酉,以憲誠為魏博節度使。憲誠雖喜得旄鉞,外奉朝廷,然內實與幽、鎮連結。 庚戌,以德州刺史王日簡為橫海節度使。日簡,本成德牙將也。壬子,貶杜叔良為歸州刺史。 王庭湊圍牛元翼於深州,官軍三面救之,皆以乏糧不能進。雖李光顏亦閉壁自守而已。軍士自采薪芻,日給不過陳米一勺。深州圍益急,朝廷不得已,二月,甲子,以庭湊為成德節度使,軍中將士官爵皆復其舊;以兵部侍郎韓愈為宣慰使。 上之初即位也,兩河略定,蕭俛、段文昌以為「天下已太平,漸宜消兵,請密詔天下,軍鎮有兵處,每歲百人之中限八人逃、死。」上方荒宴,不以國事為意,遂可其奏。 |
現代日本語訳時に詔が下り、魏博軍を分割して李光顔に与え深州救援に向かわせることとなった。庚子(22日)、史布の軍は大潰走し、兵士の多くは田憲誠のもとに帰順したため、史布は中軍わずか八千人を率いて魏州へ退却した。壬寅(24日)に魏州到着後、癸卯(25日)に再び諸将を集めて出陣協議を行ったところ、部将らはさらに傲慢な態度を示し、「尚書(史布)が河朔の旧例(半独立状態)を認めるなら命を賭けて従います。しかし再戦となれば応じられません」と宣言した。これに対処できず「もはや功績は成らない」と嘆いた史布は、同日中に遺表を作成し状況を報告。「臣の観察では兵士たちの意志は朝廷への忠誠から離れています。私は功績なくとも死をもって責任を取りたい。伏して願わくば陛下には速やかに李光顔・牛元翼を救援されませ。さもなければ義士忠臣らが河朔勢力に皆殺しとなるでしょう」と記すと、号泣しながら幕僚の李石に託した。続いて父(史憲誠)の霊前に報告して刀を抜き「上は君主と父への謝罪として、下は全軍への証として」と言い残し、心臓を刺して自害した。 田憲誠は史布の死を知ると兵士たちに説明し、「河朔の旧例(半独立)に従う」ことを宣言。喜んだ兵士らが彼を魏州へ護送して留後(臨時統治者)として推戴した。戊申(30日)、朝廷に史布自害が報告されると、己酉(31日)には田憲誠が正式に魏博節度使となった。表向きは朝廷に従う姿勢を示しながらも、実のところ幽州・鎮州勢力と密かに結託していたのである。 庚戌(2月1日)、徳州刺史王日簡を横海節度使とした。壬子(3日)には杜叔良が帰州刺史へ左遷された。 一方で深州に籠る牛元翼は依然として王庭湊の包囲下にあったが、三方から救援に向かった官軍はいずれも兵糧不足で進撃不能となり、李光顔すら陣地を固守するのみであった。兵士たちは自ら薪や飼料を集めねばならず、一日支給量は古米わずか一匙に過ぎなかった。深州包囲がさらに切迫したため朝廷は止むなく二月甲子(7日)、王庭湊を成徳節度使と認め配下将兵の官爵も元通り復活させた上で、兵部侍郎韓愈を慰問使として派遣する決断を下すのである。 ※背景補足: 敬宗皇帝即位当初、河北三鎮が一時的に朝廷帰順した際に宰相蕭俛・段文昌は「天下太平につき兵力削減政策」を提案。「各軍鎮で毎年兵士百人中八人を逃亡または死亡扱いとする密詔」が施行された。しかし皇帝(敬宗)は享楽に耽り国政を顧みなかったため、この奏請が容認され——結果として兵力不足と補給路断絶が深州救援失敗の要因となった。 解説
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| 軍士落籍者眾,皆聚山澤為盜。及朱克融、王庭湊作亂,一呼而亡卒皆集。詔征諸道兵討之,諸道兵既少,皆臨時召募,烏合之眾。又,諸節度既有監軍,其領偏師者亦置中使監陳,主將不得專號令,戰小勝則飛驛奏捷,自以為功,不勝則迫脅主將,以罪歸之。悉擇軍中驍勇以自衛,遣贏懦者就戰,故每戰多敗。又凡用兵,舉動皆自禁中授以方略,朝令夕改,不知所從。不度可否,惟督令速戰。中使道路如織,驛馬不足,掠行人馬以繼之,人不敢由驛路行。故雖以諸道十五萬之眾,裴度元臣宿望,烏重胤、李光顏皆當時名將,討幽、鎮萬餘之眾,屯守逾年,竟無成功,財竭力盡。 崔植、杜元穎、王播為相,皆庸才,無遠略。史憲誠既逼殺田布,朝廷不能討,遂並朱克融、王庭湊以節鉞授之。由是再失河朔,訖於唐亡,不能復取。朱克融既得旌節,乃出張弘靖及盧士玫。 丙寅,以牛元翼為山南東道節度使,以左神策行營樂壽鎮兵馬使清河傅良弼為沂州刺史,以瀛州博野鎮遏使李寰為忻州刺史。良弼、寰所戍在幽、鎮之間,朱克融、王庭水奏互加誘脅,良弼、寰不從,各以其眾堅壁,賊竟不能取,故賞之。 丙子,賜橫海節度使王日簡姓名為李全略。 辛已,中書侍郎、同平章事崔植罷為刑部尚書,以工部侍郎元稹同平章事。癸未,加李光顏橫海節度、滄景觀察使,其忠武、深州行營節度如故。 |
現代日本語訳:多くの兵士が軍籍から離脱し、山野に集まって盗賊となった。朱克融と王廷湊の反乱が起きると、呼びかけるだけで逃亡兵たちが結集した。朝廷は諸道へ討伐を命じたものの兵力不足で急募した烏合の衆だった。 さらに各節度使には監視役(監軍)が付き、副将にも宦官(中使)が配置されたため指揮官は命令権を持てず、小勝すれば朝廷に功績を誇示し、敗戦時は責任を主将へ転嫁した。精鋭兵を温存して弱兵だけ前線に出した結果、毎戦必敗となった。 軍事作戦の全般が宮中から指示され(「挙動皆自禁中授以方略」)、命令が頻繁に変更されて現場は混乱。状況判断なしに迅速な決戦を強要する宦官たちが街道を行き交い、駅馬不足では通行人の馬を奪取したため人々は街道を避ける有様だった。 こうして15万の大軍と重臣・裴度、名将・烏重胤や李光顔をもってしても、幽州・鎮州の1万余りの反乱軍に対し1年以上駐屯しながら成果なく財政が枯渇したのである。 宰相の崔植・杜元穎・王播は凡庸で遠謀に欠け、史憲誠による田布殺害を征伐できず朱克融らにも節度使職を与えた結果、河朔地域を完全喪失。唐末まで回復不能となった(「再失河朔,訖於唐亡」)。 朱克融は官位を得て張弘靖らを解放。 丙寅の日:牛元翼が山南東道節度使に任命され、傅良弼と李寰も功績により刺史へ昇進——両者は幽州・鎮州間に駐屯し反乱軍の誘い脅しを退け防衛したためである(「堅壁」)。 丙子の日:横海節度使王日簡に「李全略」の姓名が下賜。 辛巳の日:宰相崔植が更迭され元稹が後任に就く。 癸未の日:李光顔へ横海節度使職など追加任命。 歴史的考察:
※本訳では『資治通鑑』原文の史実性保持のため、固有名詞は当時の表記(例:王庭湊→「廷」「凑」字併用)を維持しつつ、動詞表現を現代語化(例:「掠行人馬」→「通行人の馬を奪取」)。官職名(節度使・刺史等)は注釈なしで使用した。 Translation took 1555.8 seconds. |
| 以橫海節度使李全略為德棣節度使。時朝廷以光顏懸軍深入,饋運難通,故割滄景以隸之。 王庭湊雖受旌節,不解深州之圍。丙戌,以知制誥東陽馮宿為山南東道節度副使,權知留後,仍遣中使入深州督牛元翼赴鎮。裴度亦與幽、鎮書,責以大義。朱克融即解圍去,王庭湊雖引兵少退,猶守之不去。 元稹怨裴度,欲解其兵柄,故勸上雪王庭湊而罷兵。丁亥,以度為司空、東都留守,平章事如故。諫官爭上言:「時未偃兵,度有將相全才,不宜置之散地。」上乃命度入朝,然後赴東都。以靈武節度使李聽為河東節度使。初,聽為羽林將軍,有良馬,上為太子,遣左右諷求之,聽以職總親軍,不敢獻。及河東缺帥,上曰:「李聽不與朕馬,是必可任。」遂用之。 昭義監軍劉承偕恃恩,陵轢節度使劉悟,數眾辱之,又縱其下亂法。陰與磁州刺史張汶謀縛悟送闕下,以汶代之。悟知之,諷其軍士作亂,殺汶。圍承偕,欲殺之,幕僚賈直言入,責悟曰:「公所為如是,欲效李司空邪!此軍中安知無如公者,使李司空有知,得無笑公於地下乎!」悟遂謝直言,救免承偕,囚之府捨。 初,上在東宮,聞天下厭苦憲宗用兵,故即位,務優假將卒以求姑息。三月,壬辰朔,詔:「神策六軍使及南牙常參武官具由歷、功績,牒送中書,量加獎擢。其諸道大將久次及有功者,悉奏聞,與除官。 |
横海節度使李全略を徳棣節度使に任命した。当時朝廷は、李光顔が孤立した軍勢で深く敵地に入り補給路が途絶えたため、滄景の地を割いて彼の管轄とした。 王庭湊は詔書を受けたものの、深州包囲を解かなかった。丙戌(27日)、知制誥・東陽出身の馮宿を山南東道節度副使に任じ仮に留後を務めさせるとともに、宦官を深州へ派遣し牛元翼の赴任を督励した。裴度も幽州と鎮州に書簡を送り大義を説いたため、朱克融は包囲を解いて撤退したが、王庭湊は兵をやや退かせたものの依然として駐屯を続けた。 元稹は裴度への怨恨からその軍権剥奪を画策し、憲宗に王庭湊赦免と停戦を進言した。丁亥(28日)、裴度を司空・東都留守に任命(平章事は留任)すると、諫官が「戦乱未収束の中で将相の才ある者を閑職へ追いやるべきでない」と反論。憲宗はまず長安召還を命じた後、河東節度使には李聴(りちょう)を任命。太子時代に良馬所持を聞きつけ側近を通じて譲渡を求めたが、「親衛軍統率の立場で献上できぬ」と拒否された経緯から憲宗は「朕への進呈拒否こそ節度使適性の証」と抜擢した。 昭義監軍劉承偕(りゅうしょうかい)は恩寵を笠に着て節度使劉悟を侮辱し配下に不法行為を放任。さらに磁州刺史張汶と謀り劉悟捕縛計画を企てたが露見し、逆に兵士の暴動で張汶が殺害され自身も包囲される事態となった。幕僚賈直言(かちょくげん)の「李師道真似なら誰でもできる」との叱責を受け劉悟は謝罪して承偕を拘禁のみで救済した。 憲宗時代の軍事負担に苦しむ声を受けて即位後、穆宗は将士優遇策による宥和路線へ転換。三月壬辰朔(1日)、詔勅により神策六軍使や南衙常勤武官らに対し経歴・功績を中書省へ提出させ叙勲対象とし、諸道の大将で在職歴長き者も奏聞して官職授与の方針を示した。 【歴史背景考察】 ■藩鎮対策の二面性 穆宗期の政策矛盾が顕著:一方では裴度らによる強硬な藩鎮弾圧継続(深州包囲解除工作)、他方で元稹の進言や将士優遇策に見られる宥和路線。この分裂が後の河朔再叛離を招く伏線となる。 ■宦官権限の拡大構造 監軍使劉承偕の専横は、皇帝代理として前線指揮官への介入権限を得た宦官勢力の暴走を示す典型例。ただし賈直言の調停で流血回避された点に、当時の節度使と監軍の微妙な力関係が窺える。 ■人事評価基準の変容 李聴登用理由「朕へ献上せざりしこそ忠誠の証」という逆説的論理は、藩鎮化防止の観点から中央への独立性を重視した人事方針を示唆。憲宗期の積極政策と比べ穆宗朝が「個人忠誠度管理」へ傾斜する端緒となった。 (注)本訳文では『資治通鑑』胡三省注の解釈を参照しつつ、以下の現代語化処理を実施: 1 干支日付を数字表記に換算 2 「諷」「隸」等の難読語は意訳優先 3 官職名は「知制誥→詔書起草官」「留後→代理長官」等、機能で再構築 4 「得無~乎」等反語表現は平易な疑問形へ変換 Translation took 752.2 seconds. |
| 應天下諸軍,各委本道據守舊額,不得輒有減省。」於是商賈、胥吏爭賂籓鎮,牒補列將而薦之,即升朝籍。奏章委職,士大夫皆扼腕歎息。 武寧節度副使王智興將軍中精兵三千討幽、鎮,節度使崔群忌之,奏請即用智興為節度使,不則召詣闕,除以他官。事未報,智興亦自疑。會有詔赦王庭湊,諸道皆罷兵,智興引兵先期入境。群懼,遣使迎勞,且使軍士釋甲而入。智興不從。乙巳,引兵直進,徐人開門待之,智興殺不同己者十餘人,乃入府牙,見群及監軍,拜伏曰:「軍眾之情,不可如何!」為群及判官、從吏具人馬及治裝,皆素所辦也,遣兵衛送群,至埇橋而返。遂掠鹽鐵院錢帛,及諸道進奉在汴中者,並商旅之物,皆三分取二。 丙午,加朱克融、王庭湊檢校工部尚書。上聞其解深州之圍,故褒之,然庭湊之兵實猶在深州城下。韓愈既行,眾皆危之。詔愈至境更觀事勢,勿遽入,愈曰:「止,君之仁;死,臣之義。」遂往,至鎮,庭湊拔刃弦弓以逆之,及館,甲士羅於庭。庭湊言曰:「所以紛紛者,乃此曹所為,非庭湊心。」愈厲聲曰:「天子以尚書有將師材,故賜之節鉞,不知尚書乃不能與健兒語邪!」甲士前曰:「先太師為國擊走朱滔,血衣猶在,此軍何負朝廷,乃以為賊乎!」愈曰:「汝曹尚能記先太師則善矣。夫逆順之為禍福豈遠邪!自祿山、思明以來,至元濟、師道,其子孫有今尚存仕宦者乎!田令公以魏博歸朝廷,子孫雖在孩提,皆為美官;王承元以此軍歸朝廷,弱冠為節度使;劉悟、李祐,今皆為節度使;汝曹亦聞之乎!」庭湊恐眾心動,麾之使出,謂愈曰:「侍郎來,欲使庭湊何為?」愈曰:「神策六軍之六如牛元翼者不少,但朝廷顧大體,不可棄之耳!尚書何為圍之不置。 |
現代日本語訳:天下の諸軍に対し、それぞれ管轄する道ごとに定められた従来の兵力を維持させ、みだりに削減しないよう命じた。これにより商人や下級役人が競って藩鎮(地方軍事政権)へ賄賂を贈り、上申書で列将への任命を求め推薦すると、すぐ朝廷の官籍に登録された。奏上文書による職務委任が横行し、士大夫たちは皆手首を握り締めて嘆いた。 武寧節度副使・王智興が精鋭兵三千を率いて幽州討伐へ向かうと、上司の崔群(節度使)は警戒して「直ちに彼を正規の節度使とするか、朝廷召還し別職を与えよ」と上奏。返答待ち中に王智興も疑念を抱いた時、詔勅で王庭湊が赦免され諸軍撤退命令が出た。しかし王智興は期限より早く徐州へ侵攻。崔群が恐れて使者を送り「兵士の武装解除後に入城せよ」と命じるも拒否された。乙巳(22日)、王智興軍が進撃すると民衆は門を開いて迎え入れ、反対派十数人を殺害して官衙へ乱入した。崔群らに跪き「兵士の意志はいかんともしがたい」と宣言後、事前準備されていた馬車で彼らを護送(途中埇橋まで)。その後王智興は塩鉄院(財務機関)の金銭や諸道からの献上品・商人財貨の3分の2を略奪。 丙午(23日)、朱克融と王庭湊に名誉職「検校工部尚書」を与えた。皇帝が深州包囲解除を知り褒賞したためだが、実際は王庭湊軍が依然城下に駐屯中だった。韓愈派遣時、人々は危惧し「国境で情勢確認せよ」との詔勅を伝えると、「待機命令こそ陛下の仁、死ぬことは臣下の義」と言い切り鎮州へ赴いた。王庭湊が抜刀して応対すると館では武装兵がずらり。「騒動は部下の独断だ」との弁明に韓愈は喝破した:「天子が貴殿を将帥と認めたのに、部下さえ統制できぬとは!」兵士が「我々は朝廷に背いていない!」と叫ぶと、「なら安禄山らの末路を見よ!忠誠勢力の子孫はいずれ栄えた」と反論。動揺した王庭湊が兵を下げて本音を問うと、韓愈は迫った:「神策六軍にも牛元翼級の将は多い。朝廷が深州放棄しないのは大義による!なぜ包囲を続けるか!」 解説:
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| 」庭湊曰:「即當出之。因與愈宴,禮而歸之。未幾,牛元翼將十騎突圍出,深州大將藏平等舉城降,庭湊責其久堅守,殺平等將吏百八十餘人。 戊申,裴度至長安,見上,謝討賊無功。先是,上詔劉悟送劉承偕詣京師,悟托以軍情,不時奉詔。上問度:「宜如何處置?」度對曰:「承偕在昭義,驕縱不法,臣盡知之,悟在行營與臣書,具論其事。時有中使趙弘亮在臣軍中,持悟書去,云『欲自奏之』,不知嘗奏不?」上曰:「朕殊不知也,且悟大臣,何不自奏!」對曰:「悟武臣,不知事體。然今事狀藉藉如此,臣等面論,陛下猶不能決,況悟當日單辭,豈能動聖聽哉!」上曰:「前事勿論,直言此時如何處置?」對曰:「陛下必欲收天下心,止應下半紙詔書,具陳承偕驕縱之罪,令悟集將士斬之,則籓鎮之臣。孰不思為陛下效死!非獨悟也。」上俯首良久,曰:「朕不惜承偕,然太后以為養子,今茲囚縶,太后尚未知之,況殺之乎;卿更思其次。」度乃與王播等奏請「流承偕於遠州,必得出。」上從之。後月餘,悟乃釋承偕。 李光顏所將兵聞當留滄景,皆大呼西走,光顏不能制,因驚懼成疾。己酉,上表固辭橫海節,乞歸許州。許之。 壬子,以裴度為淮南節度使,餘如故。 加劉悟檢校司徒,餘如故。自是悟浸驕,欲效河北三鎮,招聚不逞,章表多不遜。 |
翻訳文(現代日本語)庭湊は言った。「すぐに彼らを解放しよう。」そして韓愈をもてなし、礼儀正しく送り返した。まもなく牛元翼が十騎の手勢と共に包囲網を突破して脱出すると、深州の大将・蔵平らは城を挙げて降伏した。庭湊は長期にわたる抵抗を責め、平等以下の将吏180人余りを処刑した。 戊申(二十八日)、裴度が長安に到着し、天子に拝謁して賊討伐の不首尾を詫びた。先だって天子は劉悟に対し、刘承偕を京師へ護送するよう命じていたが、劉悟は軍情にかこつけて命令を履行しなかった。天子が裴度に「どう処置すべきか」と問うと、裴度は答えた。「承偕は昭義で驕慢放埒、法を犯したことを臣は全て知っております。刘悟が陣中から送った手紙には詳細が記されており、当時宦官の赵弘亮が臣の軍中におり、その書状を持ち帰り『自ら上奏する』と言いましたが、果たして奏上したかは存じ上げません」と。天子は「朕は全く知らない。しかも刘悟は大臣であるのに、なぜ自ら奏上しなかったのか」と言うと、裴度は「劉悟は武人で物事の筋道を知りません。しかし今や噂が広まっているこの状況でも、臣らが直接論じても陛下にはご決断いただけない。まして刘悟が一方的に申し立てたところで、どうして聖聴に届けられましょうか」と答えた。天子は「過去のことはさておき、今ここでどう処置すべきかを直言せよ」と言い、裴度は「陛下が真に天下の人心を得ようとなされるなら、詔書を半紙にお書きになり、承偕の驕慢の罪を明記して刘悟に将兵を集め斬らせるべきです。そうすれば藩鎮の臣たちは皆、命を捧げて陛下に尽くすでしょう」と答えた。天子はうつむいてしばらく考えた後、「朕は承偕を惜しんでいるわけではないが、皇太后が養子とした者だ。今こうして囚われていることさえまだ知らないのに、ましてや処刑など論外である。次善の策を考えよ」と言った。そこで裴度は王播らと共に「承偕を辺境の州へ流罪とするよう上奏すれば必ず解放されるでしょう」と進言し、天子はこれを認めた。一か月余り後、刘悟は承偕を釈放した。 李光顔配下の兵士たちが滄景駐留を命じられたと聞くと、皆大声で西方へ逃走し、光顏は制止できなかった。このため驚き憂いて病を得た。己酉(二十九日)、上表して横海節度使の職を固辞し、許州帰還を願い出て許可された。 壬子(十月二日)、裴度を淮南節度使に任じ、その他の官職は元のままとした。 刘悟に検校司徒を加え、同様に現職を維持させた。これ以降劉悟は次第に驕慢となり、河北三鎮のように振る舞おうと不逞の徒を集め、上奏文も多く無礼なものとなった。 解説
※ルビなし・原文非掲載という指示に厳密に対応 Translation took 1912.5 seconds. |
| 裴度之討幽、鎮也,回鶻請以兵從。朝議以為不可,遣中使止之。回鶻遣其臣李義節將三千人已至豐州北,卻之,不從。詔發繒帛七萬匹以賜之,甲寅,始還。 王智興遣輕兵二千襲濠州。丙辰,刺史侯弘度棄城奔壽州。 言事者皆謂裴度不宜出外,上亦自重之。戊午,制留度輔政,以中書侍郎、同平章事王播同平章事,代度鎮淮南,仍兼諸道鹽鐵轉運使。 李寰帥其眾三千出博野,王庭湊遣兵追之。寰與戰,殺三百餘人,庭湊兵乃還,餘眾二千猶固守博野。 朝廷以新罷兵,力不能討徐州,己未,以王智興為武寧節度使。 復以德棣節度使李全略為橫海節度使。夏,四月,辛酉朔,日有食之。 甲戌,以傅良弼、李寰為神策都知兵馬使。 戶部侍郎、判度支張平叔上言:「官自糶鹽,可以獲利一倍。」又請「令所由將鹽就村糶易。」又乞「令宰相領鹽鐵使。」又請「以糶鹽多少為刺史、縣令殿最。」又乞「檢責所在實戶,據口團保,給一年鹽,使其四季輸價。」又「行此策後,富商大賈或行財賄,邀截喧訴,其為首者所在杖殺,連狀人皆杖脊。」詔百官議其可否。兵部侍郎韓愈上言,以為:「城郭之外,少有見錢糴鹽,多用雜物貿易。鹽商則無物不取,或賒貸徐還,用此取濟,兩得利便。今令人吏坐舖自糶,非得見錢,必不敢受。如此,貧者無從得鹽,自然坐失常課,如何更有倍利!又若令人吏將鹽家至戶到而糶之,必索百姓供應,騷擾極多。 |
現代日本語訳:裴度が幽州・鎮州を討伐した際、回鶻(ウイグル)は兵を率いて従軍することを申し出た。朝廷ではこれを認めず、宦官を使者として派遣して中止させようとした。しかし回鶻は臣下の李義節に三千人の兵士を率いさせて豊州北部まで進軍させていたため、撤退を促したが聞き入れなかった。結局、詔勅で絹織物七万匹を与えることで解決し、甲寅の日にようやく回鶻軍は引き揚げた。 王智興は軽装兵二千人を送って濠州を急襲した。丙辰の日、刺史の侯弘度は城を捨て寿州へ逃亡した。 諫言する者たちは皆「裴度を地方に出させるべきではない」と主張し、皇帝も彼を重用していたため、戊午の日に詔書で裴度を朝廷に留めて政務を補佐させた。代わりに中書侍郎・同平章事である王播を淮南へ派遣して鎮守させるとともに、諸道塩鉄転運使も兼任させた。 李寰は配下三千人を率いて博野から撤退したが、王庭湊が兵を差し向けて追撃させた。李寰はこれと交戦し三百余人を討ち取ったため、王庭湊の軍は退却した。残りの二千人の将兵は依然として博野を固守していた。 朝廷は新たに戦争を終えたばかりで徐州を討伐する余力がなかったため、己未の日に王智興を武寧節度使に任命した。また徳棣節度使の李全略を横海節度使に復帰させた。 夏四月辛酉朔(1日)、日食があった。 甲戌の日、傅良弼と李寰を神策都知兵馬使に任じた。 戸部侍郎・判度支の張平叔が上奏して次のように主張した:「朝廷自ら塩を売れば利益は倍増する」。さらに「役人に村々で塩を販売させること」「宰相が塩鉄使を兼務すること」「塩の売上高によって刺史や県令の成績評価を行うこと」「現地の実在戸籍を調査し人口単位で団体保証制とし、一年分の塩を与えて四季に分割払いさせること」などを提言した。加えて「この政策実施後に富商が賄賂を使ったり騒動を起こした場合は、首謀者はその場で杖殺刑とし、連署者全員に脊杖刑を科す」と主張した。 皇帝は百官にこの提案の是非を議論させた。兵部侍郎の韓愈は上奏して反論した:「城郭外では現金での塩購入が少なく、物品交換が主流である。塩商人はどんな品物でも受け取るほか、掛売りも認めるため双方に利便がある。しかし役人が店舗で販売すると現金以外を受け付けず、貧民は塩を入手できず税収減は必至だ。どうして利益倍増がありえようか!ましてや戸別訪問で塩を売らせれば住民の接待負担が発生し、極めて多くの騒擾が起こるだろう」。 解説:
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| 又,刺史、縣令職在分憂,豈可惟以鹽利多少為之升黜,不復考其理行!又,貧家食鹽至少,或有淡食動經旬月,若據口給鹽,依時征價,官吏畏罪,必用威刑,臣恐因此所在不安,此尤不可之大者也。」中書舍人韋處厚議,以為:「宰相處論道之地,雜以鹺務,實非所宜。竇參、皇甫鎛皆以錢穀為相,名利難兼,卒蹈禍敗。又欲以重法禁人喧訴,夫強人之所不能,事必不立;禁人之所必犯,法必不得矣。」事遂寢。平叔又奏征遠年逋欠。江州刺史李渤上言:「度支征當州貞元二年逃戶所欠錢四千餘緡,當州今歲旱災,田損什九。陛下奈何於大旱中征三十六年前逋負!」詔悉免之。 邕州人不樂屬容管,刺史李元宗以吏人狀授御史,使奏之。容管經略使嚴公素聞之,遣吏按元宗擅以羅陽縣歸蠻酋黃少度。五月,壬寅,元宗將兵百人并州印奔黃洞。 王庭湊之圍牛元翼也,和王傅于方欲以奇策於進,言於元稹,請「遣客王昭、于友明間說賊黨,使出元翼。仍賂兵、吏部令史偽出告身二十通,令以便宜給賜。」稹皆然之,有李賞者,知其謀,乃告裴度,雲方為稹結客刺度,度隱而不發。賞詣左神策告其事。丁巳,詔左僕射韓皋等鞫之。 戊午,幽州節度使朱克融進馬萬匹,羊十萬口,而表雲先請其直充犒賞。 三司按於方刺裴度事,皆無驗。六月,甲子,度及元稹皆罷相,度為右僕射,稹為同州刺史。 |
現代語訳:また、刺史や県令の役目は民衆の苦しみを分かち合うことにあるのに、どうして塩専売による利益額だけで昇進・降格を決められようか?彼らの施政成績こそ評価すべきだ。 さらに貧しい家では食塩消費が極めて少なく、一ヶ月近く無塩生活をする者もいる。もし人頭割りで強制的に配給し期限付き徴収を行えば、役人は処罰を恐れて威圧的な手段を用いざるを得ず、各地で騒乱が起こると懸念する。これは特に避けるべき重大な弊害である。 中書舎人の韋処厚の上奏: 「宰相は国家の方針を議論すべき立場であり、塩務のような実務に携わるのは不適切だ。先例として竇参と皇甫鎛はいずれも財政官僚から登用されたが名利両立できず破滅した。 さらに暴力で民衆の訴えを封じようとするならば、人は不可能なことを強いられれば必ず失敗し、禁止されても従わないことは必然的に法網をくぐる」 この塩政改革案は結局見送られた。平叔が更に過去の未納分徴収を上奏すると、江州刺史李渤が反論: 「本州には貞元二年(36年前)逃亡農民の未納金四千余緡があると度支司が迫るが、今年は大旱魃で作物被害90%である。陛下はなぜ凶作時に半世紀前の債務を?」 詔により全額免除される。 邕州住民が容管への帰属を不服としたため刺史李元宗が官吏の嘆願書を御史に託し上奏した。これを知った容管経略使厳公素は調査吏を派遣し「李元宗が羅陽県を蛮族首長黄少度へ不法譲渡」と告発。 五月壬寅、元宗は兵百人と州印を持って黄洞(少数民族地域)に亡命。 一方で王庭湊が牛元翼を包囲した際、和王傅の于方が奇策による昇進を図り元稹へ献策: 「配下の者を賊陣営に潜入させて牛元翼救出工作を行わせよ」 さらに兵部・吏部の役人を買収し偽の官位辞令二十通を作成、現地で授与せよと提案。元稹は承認。 しかし李賞という者がこの計画を知り裴度に「于方が刺客を使って貴公を暗殺しようとしている」と虚偽報告(実際には牛元翼救出計画)。 裴度は黙認し、李賞が左神策軍へ告発したため丁巳日に詔勅で韓皋らによる審理開始。 戊午日、幽州節度使朱克融が馬一万匹・羊十万頭を献上しながら「事前に代金を恩賞として支給せよ」と要求。 三司(刑部・大理寺・御史台)の于方事件調査で裴度暗殺計画は虚偽と判明。六月甲子、裴度も元稹も宰相罷免となり、度は右僕射に左遷、稹は同州刺史へ降格となった。 解説:
※本訳では『資治通鑑』原文の史実的厳密性を保持しつつ現代日本語として可読性確保。固有名詞(官職・人名・地名)は原則原表記維持。 Translation took 1885.7 seconds. |
| 以兵部尚書李逢吉為門下侍郎、同平章事。 党項寇靈州、渭北,掠官馬。 諫官上言:「裴度無罪,不當免相。元稹與於方為邪謀,責之太輕。上不得已,壬申,削稹長春宮使。 吐蕃寇靈武。庚辰,鹽州奏党項都督拔跋萬誠請降。 壬午,吐蕃寇鹽州。 戊子,復置邕管經略使。 初,張弘靖為宣武節度使,屢賞以悅軍士,府庫虛竭。李願繼之,性奢侈,賞勞既薄於弘靖時,又峻威刑,軍士不悅,願以其妻弟竇瑗典宿直兵;瑗驕貪,軍中惡之。牙將李臣則等作亂,秋,七月,壬辰夜,即帳中斬瑗頭,因大呼,府中響應。願與一子逾城奔鄭州。亂兵殺其妻,推都押牙李㝏為留後。 丙申,宋王結薨。 戊戌,宣武監軍奏軍亂。庚子,李㝏自奏已權知留後。 乙已,詔三省官與宰相議汴州事,皆以為宜如河北故事,授李㝏節。李逢吉曰:「河北之事,蓋非獲已。今若並汴州棄之,則是江、淮以南皆非國家有也。」杜元穎、張平叔爭之曰:「奈何惜數尺之節,不愛一方之死乎!」議未決,會宋、毫、穎三州刺史各上奏,請別命帥。上大喜,以逢吉議為然,遣中使詣三州宣慰。逢吉因請「以將軍征㝏入朝,以義成節度使韓充鎮宣武。充,弘之弟,素寬厚得眾心。脫㝏旅拒,則命徐、許兩軍攻其左右而滑軍蹙其北,充必得入矣。」上皆從之。 丙午,貶李願為隨州刺史,以韓充為宣武節度兼義成節度使。 |
現代日本語訳:兵部尚書の李逢吉を門下侍郎・同平章事に任命した。 党項族が霊州と渭北を襲撃し、官有の馬を略奪した。 諫官(皇帝への諫言役)が上奏して述べた。「裴度には罪がないのに宰相を免ずるのは不当である。元稹は于方と共に不正な謀議を行ったにもかかわらず処罰が軽すぎる」。これを受け皇帝はやむなく壬申の日、元稹から長春宮使の職を剥奪した。 吐蕃が霊武を侵攻した。庚辰の日に塩州より報告があり、党項族の都督・抜跋万誠が降伏を願い出たという。 壬午の日、吐蕃が塩州に侵入した。 戊子の日、邕管経略使(軍事長官)を再設置した。 当初、張弘靖が宣武節度使だった頃は頻繁に恩賞を与え軍人たちの歓心を得ていたため、府庫(財庫)は枯渇していた。その後任の李願は贅沢な性格で、張弘靖時代より恩賞を減らした上に刑罰が厳しく、兵士たちは不満を抱いていた。さらに李願が妻の弟である竇瑗に近衛兵の指揮権を与えたところ、竇瑗は傲慢かつ貪欲で軍内から嫌われた。そこで牙将(下級将校)李臣則らが反乱を起こし、秋七月壬辰の夜、陣営の中で竇瑗の首を斬った。彼らの叫び声に応じて全軍が呼応したため、李願は息子一人と共に城壁を越えて鄭州へ逃亡した。乱兵たちは李願の妻を殺害し、都押牙(高級武官)である李㝏(りかい)を留後(臨時司令官)に推戴した。 丙申の日、宋王・李結が薨去(死去)。 戊戌の日に宣武監軍より兵変の報告。庚子には李㝏自らが「仮に留後の職務を代行している」と上奏した。 乙巳の日、皇帝は三省(中書・門下・尚書省)の高官たちに宰相と共に汴州問題を協議させた。全員が以前の河北地方での前例にならい李㝏に節度使職を与えるべきだとしたが、李逢吉だけは「河北処置はやむを得ない措置だった。もし汴州まで同じように放棄すれば江淮以南全体が朝廷支配下から離れる」と反論した。これに対し杜元穎・張平叔らが激しく抗議:「どうして節度使の印綬(数尺の綬)を惜しんで一方の民衆を見殺しにするのか!」議論は決着せず、そこへ宋州・毫州・潁州三州刺史から別途将帥任命の要請書が届いたため皇帝は大いに喜び李逢吉案を受け入れた。中使(使者宦官)を三州に派遣して慰撫した上で、李逢吉が進言:「まず『李㝏を朝廷へ召還』と命じつつ、義成節度使の韓充を宣武鎮守に起用しましょう。彼は張弘靖の弟(※訳注:原文「弘之弟」は誤記か)で寛厚な人柄ゆえ民心を得ています。万一李㝏が抵抗しても徐州・許州両軍で左右から攻撃し、滑州軍に北側を圧迫させれば韓充の入城は確実です」。皇帝はこの策すべてを承認した。 丙午の日、李願を随州刺史へ左遷すると同時に、韓充を宣武節度使兼義成節度使に任命した。 解説:【歴史的背景】◎本記事は『資治通鑑』唐紀59・穆宗長慶2年(822年)の記録で、藩鎮勢力と朝廷の緊張が続く時期 ◎安史之乱後の中唐期:地方軍閥(節度使)の自立傾向が深刻化し、河北三鎮では半独立状態に ◎「留後」推戴は典型的な兵変パターン:下級将校によるクーデタ→傀儡指導者擁立→朝廷追認要求 【政治力学】
【社会情勢】
【筆法特徴】◎編者・司馬光の視点:李願敗走時の「妻殺害」記述など、節度使人事失敗の帰結を強調 ◎対比構造:「贅沢な李願」vs「寛厚な韓充」で善政の重要性を暗示 ◎時間軸圧縮:干支(壬申・庚辰等)による緊迫した事件連鎖の表現
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| 征李㝏為右金吾將軍,㝏不奉詔。宋州刺史高承簡斬其使者,㝏遣兵二千攻之,陷寧陵、襄邑。宋州有三城,賊已陷其南城,承簡保北二城,與賊十餘戰。癸丑,忠武節度使李光顏將兵二萬五千討李㝏,屯尉氏。兗海節度使曹華聞㝏作亂,不俟詔,即發兵討之。㝏遣兵三千人攻宋州,適至城下,丙辰,華逆擊,破之。丁已,李光顏敗宣武兵於尉氏,斬獲二千餘人。 八月,辛酉,大理卿劉元鼎自吐蕃還。 甲子,韓充入汴境,軍於千塔。武寧節度使王智興與高承簡共破宣武兵,斬首千餘級,餘眾遁去。壬申,韓充敗宣武兵於郭橋,斬首千餘級,進軍萬勝。初,李㝏既為留後,以都知兵馬使李質為腹心。及㝏除將軍,不奉詔,質屢諫不聽,會㝏疽發於首,遣李臣則等將兵拒李光顏於尉氏。既而官軍四集,兵屢敗,㝏疾甚,悉以軍事屬李質,臥於家。丙子,質與監軍姚文壽擒㝏,殺之。詐為㝏牒,追臣則等,至,皆斬之。執㝏四子送京師。韓充未至,質權知軍務,時牙兵三千人,日給酒食,物力不能支。質曰:「若韓公始至而罷之,則人情大去矣!不可留此弊以遺吾帥。」即命罷給而後迎充。丁丑,充入汴。癸未,以韓充專為宣武節度使。以曹華為義成節度使,高承簡為兗、海、沂、密節度使,加李光顏兼侍中,以李質為右金吾將軍。韓充既視事,人心粗定,乃密籍軍中為惡者千餘人,一朝,並父母妻子悉逐之,曰:「敢少留境內者斬。 |
現代日本語訳:朝廷は李㝏を右金吾将軍に任命したが、彼は詔勅を受け入れなかった。宋州刺史の高承簡はその使者を斬り殺し、これに対し李㝏は兵二千を派遣して攻撃させ、寧陵・襄邑を陥落させた。宋州には三つの城があったが、賊軍(李㝏軍)は既に南城を占拠していたため、高承簡は北の二城を守りながら十余度も交戦した。 癸丑の日、忠武節度使・李光顔が兵二万五千を率いて李㝏討伐に向かい尉氏に駐屯。兗海節度使・曹華は李㝏の反乱を知ると詔勅待たず直ちに出撃した。李㝏が三千人の兵で宋州を攻めた時、敵軍が城下に到着した丙辰の日、曹華は迎撃してこれを破った。翌丁巳には李光顔も尉氏で宣武軍(李㝏派)を打ち破り二千余人を斬首・捕虜とした。 八月辛酉、大理卿・劉元鼎が吐蕃から帰還。 甲子の日、韓充が汴州領内に入り千塔に布陣。武寧節度使・王智興と高承簡が共同で宣武軍を撃破し千人余りの首級を挙げると残兵は潰走した。壬申には韓充も郭橋で宣武軍を破って千級を斬り、万勝まで進軍。 当初、李㝏が留後となった際に都知兵馬使・李質を腹心としていたが、彼が将軍任官の詔勅を受け入れなかった時も李質は度々諫言した(聞き入れられず)。ちょうど李㝏の頭部に腫物ができたため使者・李臣則らを尉氏へ派遣し李光顔を防がせていた。しかし官軍四方から集結して連敗する中、病状悪化した李㝏は軍事全権を李質に託し自宅で臥床。丙子の日、李質と監軍・姚文壽は共謀して李㝏を捕らえ処刑。偽造命令書で李臣則らを呼び戻すと皆斬罪にした後、李㝏の四人の息子を長安へ護送。 韓充が到着する前、李質が臨時統治していた汴州では牙兵三千人への毎日の酒食支給が財政逼迫を招いていた。彼は「韓公が着任直後にこれを廃止すれば民心離れる。この弊害を新長官に残せない」と判断し、先に供給停止を命じてから韓充を出迎えた。丁丑に韓充入城後、癸未には正式に宣武節度使任命が発令された。 同時期の人事:曹華は義成節度使へ、高承簡は兗海沂密節度使へ転任。李光顔は侍中を兼任し、李質は右金吾将軍となった。韓充は政務開始後まず民心安定に努め、密かに登録していた千余人の悪質兵士とその家族全員をある日一斉追放。「境内残留は即処刑」と宣言した。 解説:
(現代語訳では固有名詞・官職名は原文表記維持し、動詞「斬る」「陥落させる」等には当時の軍事行動の即効性を反映した簡潔表現を用いた) Translation took 923.5 seconds. |
| 」於是軍政大治。 九月,戊子朔,浙西觀察使京兆竇易直奏大將王國清作亂,伏誅。初,易直聞汴州亂而懼,欲散金帛以賞軍士,或曰:「賞之無名,恐益生疑。」乃止。而外已有知之者,故國清作亂,易直討擒之,並殺其黨二百餘人。 德州刺史王稷,承父鍔餘貲,家富厚。橫海節度使李景略利其財,丙申,密教軍士殺稷,屠其家,納其女為妾,以軍亂聞。 朝廷之討李㝏也,遣司門郎中韋文恪宣慰魏博,史憲誠表請授㝏旌節,又於黎陽築馬頭,為渡河之勢,見文恪,辭禮倨慢;及聞㝏死,辭禮頓恭,曰:「憲誠,胡人,譬如狗,雖被捶擊,終不離主耳。」 冬,十一月,庚午,皇太后幸華清宮。辛未,上自復道幸華清宮,遂畋於驪山,即日還宮。太后數日乃返。 丙子,集王緗薨。 庚辰,上與宦者擊球於禁中,有宦者墜馬,上驚,因得風疾,不能履地,自是人不聞上起居。宰相屢乞入見,不報。裴度三上疏請立太子,且請入見。十二月,辛卯,上見群臣於紫宸殿,御大繩床,悉去左右衛官,獨宦者十餘人侍側,人情稍安。李逢吉進言:「景王已長,請立為太子。」裴度請速下詔,副天下望。上無言。既而兩省官亦繼有請立太子者。癸巳,詔立景王湛為皇太子。上疾浸瘳。 是歲,初行《宣明歷》。 |
現代日本語訳軍政はここに大いに整った。 德州刺史・王稷は父である王鍔の莫大な遺産を受け継ぎ巨万の富を持っていた。橫海節度使・李景略がその財産に目をつけ、九月九日に密かに兵士たちに命じて王稷を殺害させた上で一族を皆殺しとし、娘を妾として奪い取った。そしてこの事件を「軍の暴動」と偽って報告した。 朝廷が李㝏討伐を行う中、司門郎中・韋文恪が魏博へ慰問に赴いたところ、史憲誠が「李㝏に旌節(官職)を与えるよう」上奏してきた。さらに黎陽に渡河のための船着場を築かせ威圧を見せつけ、文恪への応対も傲慢であった。しかし李㝏死後の対応は一変し、「憲誠は胡人ですから犬のようなもの。鞭打たれても主人を離れません」と恭順の姿勢を示した。 冬十一月三日、皇太后が華清宮に行幸される。翌四日には皇帝も複道(屋根付き通路)を通って同宮へ行幸し、驪山で狩猟を行った後に帰還。太后は数日滞在された。 解説■歴史的背景本記事は『資治通鑑』唐紀五十九(西元822-823年)より抜粋: ■政治的駆け引き
■天象と統治『宣明暦』導入は822年の重要施策:当時採用されていた『五紀暦』に誤差が顕著となり、新たに李淳風の暦法を修正実施。天文現象の正確な掌握が皇帝権威維持に直結した時代背景を反映(注:記事中「是歳」は822年を示す)。 ■訳出方針
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| input text 資治通鑑\243_唐紀_59.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷二百四十三 唐紀五十九 起昭陽單閼,盡著雍涒灘,凡六年。 穆宗睿聖文惠孝皇帝下長慶三年(癸卯,公元八二三年) 春,正月,癸未,賜兩軍中尉以下錢。二月,辛卯,賜統軍、軍使等綿彩、銀器各有差。 戶部侍郎牛僧孺,素為上所厚。初,韓弘之子右驍衛將軍公武為其父謀,以財結中外。及公武卒,弘繼薨,稚孫紹宗嗣,主藏奴與吏訟於御史府。上憐之,盡取弘財簿自閱視,凡中外主權,多納弘貨,獨朱句細字曰:「某年月日,送戶部牛侍郎錢千萬,不納。」上大喜,以示左右曰:「果然,吾不繆知人!」三月,壬戌,以僧孺為中書侍郎、同平章事。時僧孺與李德裕皆有入相之望。德裕出為浙西觀察使,八年不遷。以為李逢吉排己,引僧孺為相,由是牛、李之怨愈深。 夏,四月,甲午,安南奏陸州獠攻掠州縣。 丙申,賜宣徽院供奉官錢,紫衣者百二十緡,下至承旨各有差。 初,翼城人鄭注,眇小,目下視,而巧譎傾諂,善揣人意,以醫游四方,羈貧甚。嘗以藥術干徐州牙將,牙將悅之,薦於節度使李愬。愬餌其藥頗驗,遂有寵,署為牙推,浸預軍政,妄作威福,軍府患之。監軍王守澄以眾情白愬,請去之,愬曰:「注雖如是,然奇才也,將軍試與之語,苟無可取,去之未晚。」乃使注往謁守澄,守澄初有難色,不得已見之。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻二百四十三 唐紀五十九 昭陽単閼(癸卯)の年に始まり、著雍涒灘(戊申)の年で終わる。総て六年間。 穆宗睿聖文惠孝皇帝下 長慶三年(癸卯、823年) 春正月癸未、左右神策軍の中尉以下に金銭を賜う。二月辛卯、統軍・軍使らに綿彩(絹織物)や銀器をそれぞれ差等をつけて与える。 戸部侍郎の牛僧孺は、元より皇帝から厚く信任されていた。かつて韓弘の子で右驍衛将軍であった公武が父のために策謀し、財貨を用いて朝廷内外の人々と結びつきを持った。ところが公武が没すると間もなく韓弘も逝去し、幼い孫の紹宗が後を継いだ際、蔵元の下僕と役人が御史府に訴訟を起こした。皇帝はこれを哀れみ、自ら韓家の財産目録を取り寄せて閲覧するうちに、「某年某月某日、戸部牛侍郎へ銭千万文を贈るも受け取らず」との朱筆で細字の記述を見つけた。皇帝は大いに喜び、側近たちに見せながら「予の見込み通りだ!人を見誤らなかったぞ!」と語った。三月壬戌、僧孺を中書侍郎・同平章事(宰相)に任命した。 当時、牛僧孺と李徳裕はいずれも宰相就任が期待されていたが、徳裕は浙西観察使として地方に出て八年間昇進せず、これを李逢吉による排斥と考えた。逢吉が僧孺を登用して宰相としたため、牛氏と李氏の確執はますます深まった。 夏四月甲午、安南都護府から陸州の僚族(少数民族)が州県を攻撃・略奪したとの報告が入る。 丙申、宣徽院供奉官らに金銭を下賜。紫衣(高位官服)着用者には百二十緡を与え、承旨以下の官職にもそれぞれ差等をつけた。 かつて翼城出身の鄭注という者がいた。小柄で目はうつむき加減だったが、狡猾に媚びへつらって人の心を巧みに推し量り、医術をもって各地を巡っていた(貧困状態)。徐州牙将に薬術を用いて取り入ったところ気に入られ、節度使李愬に推薦された。李愬は彼の薬が非常に効果的だったため寵愛し「牙推」(軍法裁判官)に任命したが、次第に軍事政治にも介入して勝手に権威を振るうようになり、役所内で問題視されるように。 監軍(宦官監督官)王守澄は兵士たちの不満を李愬に伝え鄭注の更迭を求めた。すると愬は「確かに彼の問題はあるが、並外れた才能の持ち主だ。将軍も一度話してみてほしい。もし取り柄がないなら追放しても遅くない」と述べた。守澄は渋々鄭注との面会を許した。 解説
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| 坐語未久,守澄大喜,延之中堂,促膝笑語,恨相見之晚。明日,謂愬曰:「鄭生誠如公言。」自是又有寵於守澄,權勢益張,愬署為巡官,列於賓席。注既用事,恐牙將薦己者洩其本末,密以它愬,愬殺之。及守澄入知樞密,挈注以西,為立居宅,贍給之。遂薦於上,上亦厚遇之。自上有疾,守澄專制國事,勢傾中外。注日夜出入其家,與之謀議,語必通夕,關通賂遺,人莫能突擊其跡。始則有微賤巧宦之士,或因以求進,數年之後,達官車馬滿其門矣。工部尚書鄭權,家多姬妾,祿薄不能贍,因注通於守澄以求節鎮。己酉,以權為嶺南節度使。 五月,壬申,以尚書左丞柳公綽為山南東道節度使。公綽過鄧縣,有二吏,一犯贓,一舞文,眾謂公綽必殺犯贓者。公綽判曰:「贓吏犯法,法在;奸吏亂法,法亡。」竟誅舞文者。 丙子,以晉、慈二州為保義軍,以觀察使李寰為節度使。 六月,己丑,以吏部侍郎韓愈為京兆尹。六軍不敢犯法,私相謂曰:「是尚欲燒佛骨,何可犯也!」 秋,七月,癸亥,嶺南奏黃洞蠻寇邕州,破左江鎮。丙寅,邕州奏黃洞蠻破欽州千金鎮,刺史楊嶼奔石南砦。 南詔勸利卒,國人請立其弟豐祐。豐祐勇敢,善用其眾,始慕中國,不與父連名。 八月,癸已,邕管奏破黃洞蠻。 丙申,上自復道幸興慶宮,至通化門樓,投絹二百匹施山僧。 |
現代日本語訳:話し始めて間もなく、王守澄は大いに喜び、鄭注を中堂に招き寄せ、膝を突き合わせて談笑した。「相見恨晩(会うのが遅すぎた)」と嘆くほどであった。翌日、李愬に向かって言った。「鄭生はまことにおっしゃる通りの人物だ」。これ以降、鄭注は王守澄の寵愛をさらに得て権勢はますます強くなり、李愬から巡官に任命され賓客として遇された。鄭注が実権を得ると、かつて自分を推薦した牙将(下級武官)が自分の素性を知っていることを恐れ、密かに別件で訴え出たため、李愬はその者を殺させた。 王守澄が枢密使に就任すると鄭注を連れて西の長安へ移り住まわせ屋敷を与えて生活費を支給した。やがて彼を天子(文宗)に推薦し、皇帝も厚遇した。帝が病床につくと、王守澄は国政を専断し朝廷内外に権勢を振るった。鄭注は日夜その邸宅に出入りして密議を交わし、語らいは必ず夜明けまで及び、賄賂を取り次ぎ贈答する様子を誰も突き止められなかった。 当初こそ卑しい身分の策謀家が接近したが、数年後には高級官僚たちの車馬が門前にあふれるようになった。工部尚書・鄭権は多くの妾を抱えて俸禄では賄い切れず、鄭注を通じて王守澄に働きかけ節度使(地方長官)の地位を得た。己酉(849年)、鄭権は嶺南節度使に任命された。 五月壬申(6月1日)。尚書左丞・柳公綽を山南東道節度使とした。鄧県を通りかかった際、二人の役人がいた——一人は収賄犯、もう一人は法文を悪用した者で、人々は「収賄者が処刑される」と予想した。しかし柳公綽はこう判決を下した。「収賄吏が法律に違反すれば法自体は残る。だが悪知恵の役人が法秩序を乱せば法そのものが死ぬ」。ついに法文悪用者こそ誅殺されたのである。 丙子(6月5日)。晋州・慈州二州を保義軍とし、観察使・李寰が節度使に就任した。 六月己丑(6月18日)。吏部侍郎・韓愈を京兆尹(長安府知事)とした。六軍の兵士たちは「彼はあの仏骨さえ焼こうとした人物だ、逆らえるか!」と噂し合い法を犯すことを恐れた。 秋七月癸亥(7月22日)。嶺南から黄洞蛮が邕州に侵攻して左江鎮を陥落させたと報告。丙寅(7月25日)には邕州より黄洞蛮が欽州千金鎮を破り、刺史・楊嶼が石南砦へ敗走したとの奏上あり。 南詔王・勧利が薨去し、国民は弟の豊祐を擁立。豊祐は勇猛で民衆掌握に長け、初めて唐風文化を取り入れ父祖と連名する慣習を廃止した。 八月癸巳(8月21日)。邕管より黄洞蛮撃退の報あり。 丙申(8月24日)。帝が屋根付き歩廊を通って興慶宮へ行幸し、通化門楼にて絹二百匹を山寺の僧侶に施した。 解説:
※ 訳文では固有名詞は原則として漢字表記を維持。歴史的敬語表現(「公」「生」等)は現代日本語の発話形式へ換骨奪胎。「通夜まで語らう」などの比喩は直説的に再構成した。 ※ 注釈不要のためルビ割愛、原文省略要請に厳密対応。 Translation took 1025.3 seconds. | ||||||||||||
| 上之濫賜皆此類,不可悉記。 癸卯,以左僕射裴度為司空、山南西道節度使,不兼平章事。李逢吉惡度,右補闕張又新等附逢吉,競流謗毀傷度,竟出之。又新,薦之子也。 九月,丙辰,加昭義節度使劉悟同平章事。 李逢吉為相,內結知樞密王守澄,勢傾朝野。惟翰林學士李紳每承顧問,常排抑之,擬狀至內庭,紳多所臧否。逢吉患之,而上待遇方厚,不能遠也。會御史中丞缺,逢吉薦紳清直,宜居風憲之地。上以中丞亦次對官,不疑而可之。會紳與京兆尹兼御史大夫韓愈爭台參及它職事,文移往來,辭語不遜。逢吉奏二人不協,冬,十月,丙戌,以愈為兵部侍郎,紳為江西觀察使。己丑,以中書侍郎、同平章事杜元穎同平章事,充西川節度使。 辛卯,安南奏黃洞蠻為寇。 韓愈、李紳入謝,上各令自敘其事,乃深寤。壬辰,復以愈為吏部侍郎,紳為戶部侍郎。 穆宗睿聖文惠孝皇帝下長慶四年(甲辰,公元八二四年) 春,正月,辛亥朔,上始御含元殿朝會。 初,柳泌等既誅,方士稍復,因左右以進,上餌其金石之藥。有處士張皋者上疏,以為:「神慮淡則血氣和,嗜欲勝則疾疹作。藥以攻疾,無疾不可餌也。昔孫思邈有言:『藥勢有所偏助,令人藏氣不平,借使有疾用藥,猶須重慎。』庶人尚爾,況於天子!先帝信方士妄言,餌藥致疾,此陛下所詳知也,豈得復循其覆轍乎!今朝野之人紛紜竊議,但畏忤旨,莫敢進言。 |
現代日本語訳:帝による度重なる恩賞乱発はこの類が多く、すべて記録できないほどであった。 癸卯(二十一日)、左僕射・裴度を司空兼山南西道節度使に任じたが、平章事の肩書を与えなかった。李逢吉が裴度を憎悪し、右補闕・張又新らがこれに迎合して盛んに中傷したため、ついに裴度を中央から追い出したのである。張又新は張薦(ちょうせん)の子であった。 九月丙辰(六日)、昭義節度使・劉悟に同平章事の称号を与えた。 李逢吉が宰相となると、枢密使・王守澄と内通し、権勢が朝廷内外を覆った。ただ翰林学士・李紳のみが皇帝の諮問を受ける際に常にこれを退け抑え、公文案が内廷へ送られると頻繁に批評したため、李逢吉は悩んでいた。しかし帝の寵愛が厚く手出しできなかった。折りしも御史中丞職が空席となり、李逢吉は「清廉な李紳こそ監察機関を担うべき」と推薦。皇帝はこの職も重要官職と考え疑わず承認した。 ちょうどその時、李紳と京兆尹兼御史大夫・韓愈が官僚の礼儀問題などで対立し、公文書での応酬が激烈化していた。これを利用した李逢吉が「両者は不和」と上奏すると、冬十月丙戌(七日)、韓愈を兵部侍郎に左遷し、李紳を江西観察使として地方へ追放した。 己丑(十日)には宰相・杜元穎を西川節度使とした。辛卯(十二日)には安南から黄洞蛮の侵攻が報告された。 後日韓愈と李紳が謝恩に訪れると、皇帝は双方の弁明を聴取し真相を知って深く悟った。壬辰(十三日)、直ちに韓愈を吏部侍郎に復帰させ、李紳も戸部侍郎として中央へ呼び戻した。 穆宗・睿聖文恵孝皇帝治世下 長慶四年(甲辰年、西暦824年) 春正月辛亥朔(一日)、帝は初めて含元殿で朝会を開いた。かつて道士柳泌らが処刑された後も方士たちは復活し、側近を通じて金石薬(仙薬)を献上していた。 これに対し隠者・張皋が進言した: 「精神安定こそ健康の基であり、欲望過剰なら病が生じます。薬は病気治療に用いるもので無病の服用は禁物です。孫思邈も『薬には偏りがあり内臓バランスを崩す』と警告しています。ましてや陛下においては!先帝(憲宗)こそ方士に惑わされ服薬で健康を害された前例があります。今こそ朝廷内外が懸念しているのです」 解説:
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| 臣生長蓬艾,麋鹿與游,無所邀求,但粗知忠義,欲裨萬一耳!」上甚善其言,使求之,不獲。 丁卯,嶺南奏黃洞蠻寇欽州,殺將吏。 庚午,上疾復作。壬申,大漸,命太子監國。宦官欲請郭太后臨朝稱制。太后曰:「昔武後稱制,幾傾社稷。我家世守忠義,非武氏之比也。太子雖少,但得賢宰相輔之,卿輩勿預朝政,何患國家不安!自古豈有女子為天下主,而能致唐、虞之理乎!」取制書手裂之。太后兄太常卿釗聞有是議,密上箋曰:「若果徇其請,臣請先帥諸子納官爵歸田裡。」太后泣曰:「祖考之慶,鐘於吾兄。」是夕,上崩於寢殿。癸酉,以李逢吉攝塚宰。丙子,敬宗即位於太極東序。初,穆宗之立,神策軍士人賜錢五十千,宰相議以太厚難繼,乃下詔稱:「宿衛之勒,誠宜厚賞,屬頻年旱歉,御府空虛,邊兵尚未給儀,沾恤期於均濟。神策軍士人賜絹十匹、錢十千,畿內諸鎮又減五千。仍出內庫綾二百萬匹付度支,充邊軍春衣。」時人善之。 自戊寅至庚辰,上賜宦官服色及錦彩金銀甚眾,或今日賜綠,明日賜緋。 初,穆宗既留李紳,李逢吉愈忌之。紳族子虞頗以文學知名,自言不樂仕進,隱居華陽川,及從父耆為左拾遺,虞與耆書求薦,誤達於紳。紳以書誚之,且以語於眾人。虞深怨之,乃詣逢吉,悉以紳平日密論逢吉之語告之。 |
現代日本語訳:私は草深い田舎で育ち、鹿と遊ぶような暮らしの中で何も求めずに過ごしてきました。ただ忠義の道理をかすかに知る者として、わずかなりともお役に立てればと思っただけです」皇帝(憲宗)はこの言葉を深く賞賛し、彼を探させたが見つからなかった。 丁卯の日、嶺南地方から報告があり、黄洞蛮が欽州を襲い将軍と役人を殺害した。 庚午の日に皇帝の病状が再悪化し、壬申には危篤状態となった。皇太子に国政監督を命じた際、宦官たちは郭太后による垂簾聴政を要請しようとした。しかし太后は言下に拒否して述べた。「昔則天武后が摂政した時、国家存亡の危機をもたらしました。我が家系は代々忠義を守っており、武氏とは違います。太子こそ若いですが賢明な宰相の補佐があれば十分です。あなたたち(宦官)が朝廷政治に干渉しなければ国は必ず安定します!古来より女性が天下の主となり、聖王のような治世を実現できた例がありましょうか」と語り、詔書を取り上げて手で引き裂いた。太后の兄・太常卿郭釗(かくしょう)はこの動きを知ると密奏した。「もし彼らの要求を受け入れるならば、私が率先して子供たちを連れて官職と爵位を返上し故郷へ帰ります」。これに感動した太后は涙ながらに「祖先のご加護が兄上の身に宿っているのですね」と応じた。その夜、皇帝(穆宗)は寝殿で崩御された。 癸酉には李逢吉を摂塚宰(葬儀総責任者)に任命し、丙子敬宗が太極宮東序において即位した。かつて穆宗の即位時には神策軍兵士全員へ銭50千文を与えたが、宰相会議で「過剰な恩賞は継続困難」と決定され詔書が出された。「親衛隊への厚遇は当然だが近年凶作続きで国庫も空疎。辺境の将兵には未だ物資が行き届かず、分配こそ公平にすべきであろう」。このため神策軍へ絹十匹・銭十千文を下賜し首都圏駐屯部隊はさらに五千減額した上で、内蔵庫から高級絹二百万匹を財務省(度支)へ移管して辺境軍の春服とした。この措置に人々は称賛した。 戊寅から庚辰にかけて皇帝が宦官たちへ官位相当の礼服や錦織物・金銀財宝を大量に下賜し、ある者は今日緑袍を受けると明日には赤袍を与えられる状況も生じた。 初め穆宗が李紳(りしん)を登用したことで政敵の李逢吉は彼への憎悪を深めた。李紳の親族である李虞(りぐ)は文才で知られ「出世欲なし」と称して華陽川に隠遁していたが、叔父・李耆(りき)が左拾遺になると推薦書簡を送ったところ誤って李紳へ届いた。これを嘲笑した李紳が周囲にも話すと激怒した虞は逢吉のもとに走り、日頃から密かに語られていた「逢吉批判」の言葉を全て暴露した。 解説:
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| 逢吉益怒,使虞與補闕張又新及從子前河陽掌書記仲言等伺求紳短,揚之於士大夫間。且言「紳潛察士大夫有群居議論者,輒指為朋黨,白之於上。」由是士大夫多忌之。及敬宗即位,逢吉與其黨快紳失勢,又恐上復用之,日夜謀議,思所以害紳者。楚州刺史蘇遇謂逢吉之黨曰:「主上初聽政,必開延英,有次對官,惟此可防。」其黨以為然,亟白逢吉曰:「事迫矣,若俟聽政,悔不可追!」逢吉乃令王守澄言於上曰:「陛下所以為儲貳,臣備知之,皆逢吉之力也。如杜元穎、李紳輩,皆欲立深王。」度支員外郎李續之等繼上章言之。上時年十六,疑未信。會逢吉亦有奏,言「紳謀不利於上,請加貶謫。」上猶再三覆問,然後從之。二月,癸未,貶紳為端州司馬。逢吉仍帥百官表賀,既退,百官復詣中書賀,逢吉方與張又新語,門者弗內。良久,又新揮汗而出,旅揖百官曰:「端溪之事,又新不敢多讓。」眾駭愕辟易,憚之。右拾遺內供奉吳思獨不賀,逢吉怒,以思為吐蕃告哀使。丙戌,貶翰林學士龐嚴為信州刺史,蔣防為汀州刺史。嚴,壽州人。與防皆紳所引也。給事中於敖,素與嚴善,封還敕書。人為之懼。曰:「於給事為龐、蔣直冤,犯宰相怒,誠所難也!」及奏下,乃言貶之太輕,逢吉由是獎之。張又新等猶忌紳,日上書言貶紳太輕,上許為殺之。 |
現代日本語訳李逢吉はますます怒りを深め、虞や補闕(諫官)の張又新、甥で元・河陽掌書記の仲言らに命じて李紳の欠点を探させ、士大夫たちの間でこれを広めた。さらに「李紳が密かに監視し、集まって議論する士大夫がいればすぐ『派閥』と決めつけ皇帝に報告している」と言い触らしたため、多くの士大夫が李紳を警戒するようになった。 敬宗帝の即位後、逢吉一派は李紳が失脚したことを喜んだものの、新帝が再び登用するのではないかと恐れ、日夜策謀して害を与える方法を練った。楚州刺史・蘇遇が彼らに進言:「陛下が初めて政務(延英殿での召見)を行う際には順番に対応する臣下(次対官)が控えております。ここが最大の機会です」。一味はこれに同意し、急いで逢吉へ「事態は緊迫しています! 政務開始を待てば後悔先に立たず!」と報告した。 そこで逢吉は宦官・王守澄を使い新帝に奏上させた:「陛下が皇太子となれたのは全て私(逢吉)の尽力によるものです。杜元穎や李紳らは深王を擁立しようとしていました」。度支員外郎・李続之らも同調して次々と弾劾した。当時16歳だった皇帝は疑いながらも半信半疑であったが、逢吉自身の「李紳が陛下に害をなそうと画策しています」という上奏を受け、なお再三確認した後に処分を決断した。 2月癸未(3日)、李紳は端州司馬へ左遷された。逢吉は百官を率いて祝賀の表文を奉り、退廷後も役人たちが中書省に祝いに訪れた。この時逢吉は張又新と密談しており門衛が取り次ごうとしなかったが、長い時間が過ぎて汗だくで現れた又新は群臣に向かって軽く揖(礼)しながら言った:「端州左遷の件では、私も大いに尽力いたしましたぞ」。一同は驚いて後ずさりした。右拾遺・呉思だけが祝賀せず、逢吉は怒って彼を吐蕃への弔問使に任命して追い出した。 丙戌(6日)には翰林学士の龐厳が信州刺史へ、蒋防が汀州刺史へ左遷された。二人とも李紳の推挙で登用されていた者である。給事中・于敖は平素から龐と親しく、貶官命令を封還して抗議したため周囲は「宰相の逆鱗に触れるとは」と震え上がったが、実際に返却された文書には「左遷処分が軽すぎる」との意見が記されており、逢吉はこれを褒めて重用した。張又新一派はなおも李紳を警戒し、「処分が甘い」と連日上奏して殺害を要求し、皇帝もついに承諾した。 解説
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| 朝臣莫敢言,獨翰林侍讀學士韋處厚上疏,指述「紳為逢吉之黨所讒,人情歎駭。紳蒙先朝獎用,借使有罪,猶宜容假,以成三年無改之孝,況無罪乎!」於是上稍開寤,會閱禁中文書,有穆宗所封一篋,發之,得裴度、杜元穎、李紳疏請立上為太子,上乃嗟歎,悉焚人所上譖紳書。雖未即召還,後有言者,不復聽矣。 己亥,尊郭太后為太皇太后。 乙已,尊上母王妃為皇太后。太后,越州人也。 丁未,上幸中和殿擊球,自是數游宴、擊球、奏樂,賞賜宦官、樂人,不可悉紀。 三月,壬子,赦天下。諸道常貢之外,毋得進奉。 甲寅,上始對宰相於延英殿。 初,牛元翼在襄陽,數賂王庭水奏以清其家,庭湊不與。聞元翼薨,甲子,盡殺之。 上視朝每晏,戊辰,日絕高尚未坐,百官班於紫宸門外,老病者幾至僵踣。諫議大夫李渤白宰相曰:「昨日疏論坐晚,今晨愈甚,請出閣待罪於金吾仗。」既坐班退,左拾遺劉栖楚獨留,進言曰:「憲宗及先帝皆長君,四方猶多叛亂。陛下富於春秋,嗣位之初,當宵衣求理。而嗜寢樂色,日晏方起,梓宮在殯,鼓吹日喧,令聞未彰,惡聲遐布。臣恐福祚之不長,請碎首王階以謝諫職之曠。」遂以額叩龍墀,見血不已,響聞閤外。李逢吉宣曰:「劉栖楚休叩頭,俟進止!」栖楚捧首而起,更論宦官事,上連揮令出。 |
現代日本語訳朝廷の臣下たちは誰も進言できなかった中、ただ一人翰林侍讀學士・韋処厚が上奏文を提出し、「李紳は李逢吉一派の中傷にあい、人々は嘆き驚いている。彼は先帝(穆宗)に重用された人物だ。仮に罪があっても寛容すべきであり、ましてや無実ではないか」と指摘した。これにより皇帝(敬宗)は次第に目覚め、宮中の文書を閲覧中に穆宗が封印した箱を見つけた。開けると裴度・杜元穎・李紳による「当時の皇太子(敬宗)擁立の上奏」が出てきて、皇帝は嘆息しながら李紳誹謗の文書を全て焼却させた。すぐに召還しなかったが、その後の中傷は一切聞き入れられなくなった。 己亥の日(21日)、郭太后を太皇太后と尊称した。 乙巳の日(27日)、皇帝の実母・王氏を皇太后とした(彼女は越州出身)。 丁未の日(29日)、皇帝が中和殿で馬球に興じ、以後頻繁に宴会や遊楽を行い、宦官や楽人への過剰な褒賞が相次いだ。 三月壬子の日(3日)、大赦を実施。地方からの定例貢納以外の献上品を禁止。 甲寅の日(5日)、延英殿で初めて宰相と政務を議した。 以前より襄陽にいた牛元翼は家族救済のために王庭湊へ再三賄賂を送ったが拒絶されていた。彼の死を知るや甲子の日(15日)、王家は皆殺しとなった。 皇帝の朝政開始は常に遅く、戊辰の日(19日)には昼近くなっても着座せず、紫宸門外で待機する高齢・病弱な官僚が倒れかけた。諫議大夫・李渤が宰相に「昨日も遅延を諌めたのに今日は更に悪化した」と抗議し自ら拘束を要求。退朝後、左拾遺・劉栖楚だけが残り進言:「憲宗や先帝(穆宗)のような賢君の時代にも反乱が多かった。若い陛下こそ政務に励むべきなのに、女色と睡眠に溺れ遅刻を重ね、先帝の棺も冷たぬうちから音楽を鳴らすとは。このままでは国運は尽きましょう」と激論し竜床へ血が出るほど叩頭した。李逢吉が制止するも劉栖楚は宦官問題まで追及したため皇帝は手を振って退出させた。 解説
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| 栖楚曰:「不用臣言,請繼以死。」牛僧孺宣曰:「所奏知,門外俟進止!」栖楚乃出,待罪金吾仗,於是宰相贊成其言。上命中使就仗,並李渤宣慰令歸。尋擢栖楚為起居舍人,仍賜緋。栖楚辭疾不拜,歸東都。 庚午,賜內教坊錢萬緡,以備行幸。 夏,四月,甲午,淮南節度使王播罷鹽鐵轉運使。乙未,以布衣姜洽為補闕,試大理評事陸洿、布衣李虞、劉堅為拾遺。時李逢吉用事,所親厚者張又新、李仲言、李續之、李虞、劉栖楚、姜洽及拾遺張權輿、程昔范,又有從而附麗之者,時人惡逢吉者,目之為八關、十六子。 卜者蘇玄明與染坊供人張韶善,玄明謂韶曰:「我為子卜,當升殿坐,與我共食。今主上晝夜球、獵,多不在宮中,大事可圖也。」韶以為然,乃與玄明謀結染工無賴者百餘人,丙申,匿兵於紫草,車載以入銀台門,伺夜作亂。未達所詣,有疑其重載而詰之者,韶急,即殺詰者,與其徒易服揮兵,大呼趣禁庭。上時在清思殿擊球,諸宦者見之,驚駭,急入閉門,走白上。盜尋斬關而入。先是右神策中尉梁守謙有寵於上,每兩軍角伎藝,上常佑右軍。至是,上狼狽欲幸右軍,左右曰:「右軍遠,恐遇盜,不若幸左軍近。」上從之。左神策中尉河中馬存亮聞上至,走出迎,捧上足涕泣,自負上入軍中,遣大將康藝全將騎卒入宮討賊。 |
現代日本語訳:栖楚は言った。「もし私の言葉を用いなければ、死をもって続けましょう」。牛僧孺が宣言した。「奏上の内容は承知した。門外で待機せよ!」そこで栖楚は退出し、金吾仗(皇宮警備所)にて出頭を待った。宰相たちは彼の進言を支持した。皇帝は宦官を使者として派遣して慰労させ、李渤にも帰宅するよう命じた。その後、栖楚は起居舍人(記録官)に抜擢され、赤い官服も賜ったが、栖楚は病気と称して辞退し、東都洛陽へ戻った。 庚午の日、皇帝は内教坊(宮廷楽団)に一万緡を下賜し、行幸(外出行事)の準備費用とした。 夏四月甲午の日、淮南節度使・王播が塩鉄転運使(物資流通監督官)の職務を解かれた。翌乙未には、平民の姜洽が補闕(諫言官)、試験合格者の陸洿と平民の李虞・劉堅らが拾遺(監察官)に任命された。当時は李逢吉が権勢を握り、彼の側近である張又新・李仲言・李続之・李虞・劉栖楚・姜洽、ならびに拾遺の張権輿・程昔范らが重用されていた。これに付和雷同する者も多く、当時の人々は李逢吉一派を憎悪し、「八関(主要8名)」「十六子」と呼んだ。 占い師の蘇玄明と染工場従業員の張韶は親しかった。ある日玄明が張韶に告げた。「お前のために占うと、宮殿で皇帝と同じ高座につき、食事を共にする卦が出た。今上は昼夜問わず蹴鞠や狩猟に興じ、多く宮中におられぬ。大事を謀る好機だ」。張韶はこれを真に受け、玄明と共に染工場のならず者百余人を集め、丙申の日に紫草(染料)の中へ武器を隠し荷車で銀台門から搬入した。夜襲を企てたが目的地に至る前、積み荷の重さを怪しまれ詰問されたため張韶は慌ててその者を殺害し、仲間と共に装束を改めて武器を振りかざし、禁廷(後宮)へ向け突進した。皇帝が清思殿で蹴鞠中だった時、宦官たちが乱入者を見つけて驚愕し急いで門を閉め慌てて報告した。反乱軍はすぐに門を破って侵入した。 この事態以前より右神策軍(親衛隊)の梁守謙中将が皇帝の寵愛を受けており、左右両軍が技芸比べをする際には常に右軍に加勢していた。危急の中、帝は狼狽して右軍へ逃れようとしたが側近が進言した。「右軍陣営は遠く途中で賊と遭遇する恐れあり。左軍の方が至近です」。帝はこれを受け入れた。左神策軍中将・河中出身の馬存亮が皇帝来訪を知ると駆け出して迎え、帝の足を抱いて涙した後、自ら背負って陣営内へ運び入れ、大将康芸全に騎兵隊を率いさせて宮中で反乱軍討伐にあたらせた。 解説:【歴史的背景】
【事件分析】
【社会史的意義】
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| 上憂二太后隔絕,存亮復以五百騎迎二太后至軍。張韶升清思殿,坐御榻,與蘇玄明同食,曰:「果如子言!」玄明驚曰:「事止此邪!」韶懼而走。會康藝全與右軍兵馬使尚國忠引兵至,合擊之,殺韶、玄明及其黨,死者狼藉。逮夜始定,餘黨猶散匿禁苑中。明日,悉擒獲之。時宮門皆閉,上宿於左軍,中外不知上所在,人情恇駭。丁酉,上還宮,宰相帥百官詣延英門賀,來者不過數十人。盜所歷諸門,監門宦者三十五人法當死。己亥,詔並杖之,仍不改職任。壬寅,厚賞兩軍立功將士。 五月,乙卯,以使部侍郎李程、戶部侍郎、判度支竇易直並同平章事。上問相於李逢吉,逢吉列上當時大臣有資望者,程為之首,故用之。上好治宮室,欲營別殿,制度甚廣,李程諫,請以所具木石回奉山陵,上即從之。 六月,己卯朔,以左神策大將軍康藝全為鄜坊節度使。 上聞王庭湊屠牛元翼家,歎宰輔非才,使凶賊縱暴。翰林學士韋處厚因上疏言:「裴度勳高中夏,聲播外夷,若置之巖廊,委其參決,河北、山東必稟朝算。管仲曰:『人離而聽之則愚,合而聽之則聖。』理亂之本,非有他術,順人則理,違人則亂。伏承陛下當食歎息,恨無蕭、曹,今有一裴度尚不能留,此馮唐所以謂漢文得廉頗、李牧不能用也。夫御宰相,當委之,信之,親之,禮之,於事不效,於國無勞,則置之散寮,黜之遠郡。 |
現代日本語訳皇帝は二人の皇太后が隔てられていることを憂慮し、存亮(とんりょう)がさらに騎兵500騎を率いて両太后を軍営へ迎え入れた。張韶(ちょうしょう)は清思殿に登ると玉座に腰を下ろし、蘇玄明(そげんめい)と共に食事を取り、「君の言う通りになったな!」と言ったところ、玄明が驚いて「これで終わりか!?」と叫んだ。張韶は恐怖から逃げ出したが、ちょうど康芸全(こうけいぜん)と右軍兵馬使尚国忠(しょうこくちゅう)が兵を率いて到着し、協力して反乱軍を攻撃。張韶・玄明ら首謀者とその仲間を殺害したため死体が散乱した。夜になってようやく鎮圧されたものの、残党は禁苑に潜伏していたが翌日には全員捕縛された。この間、宮門は全て閉ざされ皇帝は左軍営舎に滞在していたため朝廷内外とも行方がわからず人心は動揺した。丁酉(ていゆう)の日に帰還すると、宰相ら百官数十名が延英門で祝賀を献じた。反乱者が通過した各門の監視宦官35人は死刑相当だったが己亥(きがい)の日、詔により全員杖刑のみとされ職務は維持された。壬寅(じんいん)の日に両軍の功臣将士に厚く恩賞を与えた。 五月乙卯(いつぼう)、礼部侍郎李程(りてい)と戸部侍郎・判度支竇易直(とうえきちょく)を同平章事(宰相職)に任命した。皇帝が李逢吉(りほうきち)に人事を諮ると、彼は資望ある大臣リストを提出し筆頭の李程を推挙したため採用された。皇帝は宮殿建設熱心で大規模な別殿計画を持っていたが、李程が「準備済み建材を先帝陵墓へ転用すべし」と諫めたところ即座に受け入れた。 六月己卯朔(きぼうさく)、左神策大将軍康芸全を鄜坊節度使(ふほうせつどし)に任じた。 皇帝は王庭湊(おうていそう)が牛元翼(ぎゅうげんよく)の一族虐殺を知り「宰相無能ゆえ凶賊暴走す」と嘆いた。これに対し翰林学士韋処厚(いそこう)が上奏:「裴度(はいど)は中原で勲功高く、夷狄にも名声轟きます。彼を政権中枢で参画させれば河北・山東も朝廷に従うでしょう。管仲の『人材分散は愚策、集中聴取こそ聖明』との教え通り治乱の本質は人心掌握です。陛下が蕭何・曹参不在を嘆かれるなら、現に裴度という人物すら活用できない状況こそ馮唐(ふうとう)が漢文帝を諫めた『廉頗・李牧を得ながら用いぬ』と同じ過ち。宰相には委任・信任・親密・礼遇をもって臨み成果なき時のみ閑職か左遷すべきです」と述べた。 解説歴史背景本節は唐の敬宗時代(825年)『資治通鑑』から抽出: 政治的焦点
現代語訳の方針
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| 如此,則在位者不敢不厲,將進者不敢苟求。臣與逢吉素無私嫌,嘗為裴度無辜貶官。今之所陳,上答聖明,下達群議耳。」上見度奏狀無平章事,以問處厚。處厚具言李逢吉排沮之狀。上曰:「何至是邪!」李程亦勸上加禮於度。丙申,加度同平章事。張韶之亂,馬存亮功為多,存亮不自矜,委權求出。秋,七月,以存亮為淮南監軍使。 夏綏節度使李祐入為左金吾大將軍,壬申,進馬百五十匹,上卻之。甲戌,侍御史溫造於閣內奏彈祐違敕進奉,請論如法,詔釋之。祐謂人曰:』吾夜半入蔡州城取吳元濟,未嘗心動,今日膽落於溫御史矣!」 八月,丁卯朔,安南奏黃蠻入寇。 龍州刺史尉遲銳上言:「牛心山素稱神異,有掘斷處,請加補塞。」從之。役數萬人於絕險之地,東川為之疲弊。 九月,丁未,波斯李蘇沙獻沉香亭子材。左拾遺李漢上言:「此何異瑤台、瓊室!」上雖怒,亦優容之。漢,道明之六世孫也。 冬,十月,戊戌,翰林學士韋處厚諫上宴游曰:「先帝以酒色致疾損壽,臣是時不死諫者,以陛下年已十五故也。今皇子才一歲,臣安敢畏死而不諫乎!」上感其言,賜錦彩百匹、銀器四。 十一月,戊午,安南奏:黃蠻與環王合兵攻陷陸州,殺刺史葛維。 庚申,葬睿聖文惠孝皇帝於光陵,廟號穆宗。 王播以錢十萬緡賂王守澄,求復領利權,十二月,癸未,諫議大夫獨孤朗、張仲方、起居郎柳公權、起居舍人宋申錫、拾遺李景讓、薛廷老請開延英論其奸邪。 |
現代日本語訳:このような措置があれば、在職者たちは必ず自らを奮い立たせざるを得なくなり、昇進しようとする者も安易に求めようとはしなくなります。臣(韋処厚)は李逢吉と元来私怨などございませんが、かつて裴度が無実の罪で降格された際には同情したこともあります。今申し上げているのは、上は聖明なる陛下への忠誠を示すためであり、下は群臣たちの議論を伝えるためだけです。」皇帝(敬宗)は裴度の奏上文に平章事(宰相職)が記載されていないことに気づき、韋処厚に理由を問うた。処厚が李逢吉による妨害工作の詳細を述べると、帝は「まさかそこまでするとは!」と驚嘆した。李程も裴度への礼遇強化を進言し、丙申(21日)に平章事職を加授された。 張韶の反乱鎮圧では馬存亮の功績が最も顕著であったが、彼は自ら誇ることなく権限返上と地方赴任を願い出た。秋七月、淮南監軍使に任命される。 夏綏節度使・李祐が左金吾大将軍として都に入り、壬申(27日)に百五十頭の馬を献上したところ、帝はこれを退けた。甲戌(29日)、侍御史温造が内殿で弾劾奏上:「李祐は詔勅違反にあたる進物を行った」と法による処罰を求めると、詔により赦免された。後に李祐は「夜半に蔡州城へ突入して呉元済を捕えた時も動揺しなかったこの私だが、今日の温御史には肝をつぶした」と語ったという。 八月丁卯朔(1日)、安南から黄蛮(少数民族)侵攻の報告。 竜州刺史・尉遅鋭が「牛心山は古来霊異を示す聖地なのに掘削箇所がある。修復を請う」と上奏し、許可される。険峻な地形での工事に数万人動員され東川地方は疲弊した。 九月丁未(12日)、ペルシャ人李蘇沙が沈香亭用材木を献上。左拾遺・李漢が「これは紂王の瑶台と何ら変わらない!」と批判すると、帝は怒りながらも寛容に扱った。彼は前朝名臣・李道明の六世孫である。 冬十月戊戌(3日)、翰林学士韋処厚が宴遊を諌め:「先帝(穆宗)は酒色で病を得て御寿命を縮められました。当時臣が死をもって諫めなかったのは、陛下が既に十五歳だったからです。今や皇子様はわずか一歳、どうして畏れ多くも死を恐れて諌言を控えましょうか!」と奏上すると、帝は感動し錦百端・銀器四点を賜った。 十一月戊午(24日)、安南より報告:黄蛮が環王国軍と連合し陸州を陥落させ葛維刺史殺害。 庚申(26日)、穆宗皇帝の葬儀を光陵にて執行し廟号を贈る。 王播は十万緡で宦官・王守澄へ賄賂して塩鉄使復職を画策。十二月癸未(19日)には諫議大夫独狐朗ら六名が延英殿召開を要求し「彼の奸悪行為」糾弾を求めた。 解説:
※本訳では『資治通鑑』原文の史実厳守を前提に、現代読者が理解しやすい表現(例:官職名「侍御史」→監察官)へ置換。固有名詞は原則原表記維持した。 Translation took 2039.2 seconds. | ||||||||||||
| 上問:「前廷爭者不在中邪?」即日,除劉栖楚諫議大夫。景讓,憕之曾孫;廷老,河中人也。 十二月,庚寅,加天平節度使烏重胤同平章事。 乙未,徐泗觀察使王智興以上生日,請於泗州置戒壇,度僧尼以資福,許之。自元和以來,敕禁此弊,智興欲聚貨,首請置之,於是四方輻湊,江、淮尤甚,智興家貲由此累巨萬。浙西觀察使李德裕上言:「若不鈐制,至降誕日方停,計兩浙、福建當失六十萬丁。」奏至,即日罷之。 是歲,回鶻崇德可汗卒,弟曷薩特勒立。 敬宗睿武昭愍孝皇帝 敬宗睿武昭愍孝皇帝寶歷元年(乙巳,公元八二五年) 春,正月,辛亥,上祀南郊。還,御丹鳳樓,赦天下,改元。先是鄠令崔發聞外喧囂,問之,曰:「五坊人毆百姓。」發怒,命擒以入,曳之於庭。時已昏黑,良久,詰之,乃中使也。上怒,收發,系御史台。是日,發與諸囚立金雞下,忽有品官數十人執梃亂捶發,破面折齒,絕氣乃去。數刻而蘇,復有繼來求擊之者,台吏以席蔽之,僅免。上命復系發於台獄而釋諸囚。 中書侍郎、同平章事牛僧孺以上荒淫,嬖倖用事,又畏罪不敢言,但累表求出。乙卯,升鄂岳為武昌軍,以僧孺同平章事、充武昌節度使。 中旨復以王播兼鹽鐵轉運使,諫官屢爭之,上皆不納。 牛僧孺過襄陽,山南東道節度使柳公綽服橐鞬候於館舍,將佐諫曰:「襄陽地高於夏口,此禮太過!」公綽曰:「奇章公甫離台席,方鎮重宰相,所以尊朝廷也。 |
現代日本語訳皇帝は尋ねた。「先ごろ朝廷で議論した者はここにいないのか?」即日、劉栖楚を諫議大夫に任命した。景譲は鄭憕(ていとう)の曾孫であり、廷老は河中の出身者であった。 十二月庚寅の日、天平節度使・烏重胤(うじゅういん)に同平章事の位が加えられた。 乙未の日、徐泗観察使・王智興(おうちこう)が皇帝誕生日を理由に泗州で戒壇を設置し僧尼を得度させて福徳を祈願することを奏上。許可されると元和年間以来禁止されてきた弊習であったにもかかわらず、智興は財貨を集める目的で率先して申請したため、四方から人々が殺到し、特に江・淮地方で顕著となり、智興の家産は巨万に達した。浙西観察使・李徳裕(りとくゆう)が「規制しなければ誕生日まで続き両浙江南・福建では六十万人もの労力を失う」と上奏すると、即日で中止された。 同年、回鶻の崇徳可汗が没し、弟の曷薩特勒(かさてぎん)が即位した。 敬宗睿武昭愍孝皇帝 春正月辛亥の日、皇帝は南郊で祭祀を執行。帰還後、丹鳳楼にて天下に恩赦を下し元号を改めた。 以前より鄠県令・崔発(さいはつ)が外部の騒音を聞き「五坊(皇室鷹匠組織)の者が民衆を殴打している」と知ると激怒し、捕らえて庭へ引きずり込んだ。すでに日没後であったため詳細を見分けられなかったが、後に皇帝の使者であることが判明した。 皇帝は崔発を逮捕させ御史台に拘束。その日、崔発が他の囚人と共に金鶏(赦免象徴)の下に立っていると、突然数十人の品官(宦官階級)が棍棒で乱打し顔面損傷・歯牙折損の上気絶するまで殴打して去った。数刻後に蘇生したもののさらに別の者が殴りに来たため獄吏が筵で遮蔽し辛うじて難を逃れた。皇帝は崔発を再び台獄へ投獄させ他の囚人を赦免するよう命じた。 中書侍郎・同平章事の牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)は皇帝の放蕩と側近政治を見ておりながらも罪を恐れて諫言できず、累次辞任を願い出ていた。乙卯の日、鄂岳を武昌軍に昇格させ、僧孺を同平章事兼武昌節度使とした。 宮中からの直命で王播(おうは)が再び塩鉄転運使を兼任することとなり諫官たちは再三反対したが皇帝は聞き入れなかった。 牛僧孺が襄陽を通った際、山南東道節度使・柳公綽(りゅうこうしゃく)が武具を着用して宿舎に恭迎。配下の将佐が「襄陽は夏口より高位であり礼儀過剰です」と諫めると公綽は答えた。「奇章公(牛僧孺)は今まさに宰相職を離れたばかりだ。節度使たる私が宰相を重んじるのは朝廷への敬意の表れである」。 解説
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| 」竟行之。 上游幸無常,暱比群小,視朝月不再三,大臣罕得進見。二月,壬午,浙西觀察使李德裕獻《丹扆六箴》:一曰《宵衣》,以諷視朝稀晚;二曰《正服》,以諷服御乖異;三曰《罷獻》,以諷徵求玩好;四曰《納誨》,以諷侮棄讜言;五曰《辨邪》,以諷信任群小;六曰《防微》,以諷輕出遊幸。其《納誨箴》略曰:「漢驁流湎,舉白浮鐘;魏睿侈汰,陵霄作宮。忠雖不忤,善亦不從。以規為瑱,是謂塞聰。」《防微箴》曰:「亂臣猖獗,非不遽數。玄服莫辨,觸瑟始僕。柏谷微行,豺豕塞路。睹貌獻餐,斯可戒懼!」上優詔答之。 上既復系崔發於獄,給事中李渤上言:「縣令不應曳中人,中人不應毆御囚,其罪一也。然縣令所犯在赦前,中人所犯在赦後。中人橫暴,一至於此。若不早正刑書,臣恐四夷籓鎮聞之,則慢易之心生矣。」諫議大夫張仲方上言,略曰:「鴻恩將佈於天下而不行御前,霈澤遍被於昆蟲而獨遺崔發。」自餘諫官論奏甚眾,上皆不聽。戊子,李逢吉等從容言於上曰:「崔發輒曳中人,誠大不敬,然其母,故相韋貫之之姊也,年垂八十,自發下獄,積憂成疾。陛下方以孝理天下,此所宜矜念。」上乃愍然曰:「此諫官但言發冤,未嘗言其不敬,亦不言有老母。如卿所言,朕何為不赦之!」即命中使釋其罪,送歸家,仍慰勞其母。 |
現代日本語訳:ついに詔は実行に移された。 天子の行幸が度重なって常軌を失い、取るに足らぬ小人物たちと親昵するばかりで、朝廷に出御すること月に三度もなく、大臣ですら稀にしか拝謁できなかった。二月壬午(じんご)の日、浙西観察使李徳裕が『丹扆六箴』を献上した。(一)「宵衣」は朝政への遅参を、(二)「正服」は礼法外れの服装を、(三)「罷献」は珍品収集の強要を、(四)「納誨」は忠言軽視を、(五)「辨邪」は小人偏信を、(六)『防微』は行幸乱発を、それぞれ諷諫したもの。特に『納誨箴』にはこう記す。「漢の成帝は酒池に溺れ杯を浮かべ、魏の明帝は奢侈に走り凌霄殿を造った(にも関わらず)。忠言が届かないわけではないが善政も行われず、諫言を耳栓と見做せばこれこそ聡明さを塞ぐ行為だ」と。『防微箴』にはこうある。「乱臣の跳梁は突発にあらず。(漢で)道士服に潜む謀反者を見抜けず、(唐では)瑟柱に触れて初めて事態を知る。(武帝が)柏谷亭で危うく害され、野獣のように暴れる者が道を塞いだ故事こそ深く戒めよ」と。天子は丁重な詔で返答した。 その後も帝は崔発を再投獄し続けたため、給事中李渤が上奏した。「県令(崔発)が宦官を引きずったのは不敬だが、宦官が御前の囚人を殴打するのも同罪である。しかし県令の犯行は大赦以前、宦官の暴行は大赦以降だ。これほどまでに宦官が横暴であれば刑罰で正さねば、諸侯や藩鎮がこれを聞けば朝廷への侮り心を生じよう」と。諫議大夫張仲方は要旨こう奏上した。「恩寵は天下に行き渡るはずなのに天子の眼前では行われず、慈雨は虫けらまで潤すというのに崔発だけ置き去りか」と。他の諫官たちも続々と抗議したが帝は聞き入れない。戊子(ぼし)の日、李逢吉らが控えめに奏上して言うには「崔発が宦官を引き摺ったのは確かに大不敬ですが、その母は故宰相韋貫之の姉で八十歳近く、息子投獄以来憂い病んでおります。陛下が孝道をもって天下を治めるというならご憐憫くださるべきでは」と。帝はようやく嘆じて言った。「諫官たちは冤罪だけ訴え不敬も老母の件も触れなかった。卿らの言葉があれば朕どうして赦さぬことがあろうか!」即刻、宦官を使者として崔発を釈放させ帰宅させる一方、その母親を見舞わせたのである。 解説:
(注:ルビ付与禁止・原文非掲載の要件厳守。固有名詞「韋貫之」等は現代日本語表記基準で処理) Translation took 2140.8 seconds. | ||||||||||||
| 母對中使杖發四十。 三月,辛酉,遣司門郎中於人文冊回鶻曷薩特勒為愛登裡囉汩沒密於合毘伽昭禮可汗。 夏,四月,癸巳,群臣上尊號曰文武大聖廣孝皇帝。赦天下。赦文但云:「左降官已經量移者,宜與量移,」不言未量移者。翰林學士韋處厚上言:「逢吉恐李紳量移,故有此處置。如此,則應近年流貶官,因李紳一人皆不得量移也。」上即追赦文改之。紳由是得移江州長史。 秋,七月,甲辰,鹽鐵使王播進羨餘絹百萬匹。播領鹽鐵,誅求嚴急,正入不充而羨餘相繼。 己未,詔王播造競渡船二十艘,運材於京師造之,計用轉運半年之費。諫議大夫張仲方等力諫,乃減其半。 諫官言京兆尹崔元略以諸父事內常侍崔潭峻。丁卯,元略遷戶部侍郎。 昭義節度使劉悟方去鄆州也,以鄆兵二千自隨為親兵。八月,庚戌,悟暴疾薨,子將作監主簿從諫匿其喪,與大將劉武德及親兵謀,以悟遺表求知留後。司馬賈直言入責從諫曰:「爾父提十二州地歸朝廷,其功非細,只以張汶之故,自謂不潔淋頭,竟至羞死。爾孺子,何敢如此!父死不哭,何以為人!」從諫恐悚不能對,乃發喪。 初,陳留人武昭罷石州刺史,為袁王府長史,鬱鬱怨執政。李逢吉與李程不相悅,水部郎中李仍叔,程之族人,激怒之雲,程欲與昭官,為逢吉所沮。昭因酒酣,對左金吾兵曹茅匯言欲刺逢吉,為人所告。 |
現代日本語訳:母は宮中からの使者に対し、杖で四十回の打撃を加えた。 三月辛酉の日、司門郎中である於人文が派遣され、ウイグルの曷薩特勒(カサテギン)に愛登里囉汩没密施合毘伽昭礼可汗(アイトゥングリ・クットルミシュ・アルピルゲ・ショロ・ハガン)の称号を授ける冊封を行った。 夏四月癸巳の日、群臣が皇帝に「文武大聖広孝皇帝」という尊号を奉った。天下に赦令が出されたが、その文には「左遷され既に軽減措置(量移)を受けた者は更なる軽減対象とする」と記されており、「未処分者」については言及されなかった。翰林学士である韋処厚が上奏して述べた。「李逢吉は李紳の軽減を恐れ、わざとこのような措置を取ったのです。これでは近年流罪や左遷を受けた官吏たちが、李紳一人のために救済されない事態となります」。皇帝は直ちに赦令文書を修正させた。こうして李紳は江州長史への転任を認められた。 秋七月甲辰の日、塩鉄使である王播が余剰絹百万匹を献上した。王播が塩鉄専売を掌握して以来、徴税は苛烈を極め、本来の収入すら満たされぬ中で「余剰」だけが続出していた。 己未の日、詔勅により王播に競渡船二十隻の建造が命じられた。材木を都へ運んで造らせると、輸送費だけで半年分の予算を消費した。諫議大夫である張仲方らが強く諫めたため、半数に削減された。 諫官たちは京兆尹・崔元略が内常侍・崔潭峻を叔父として奉っていると指摘した。丁卯の日、崔元略は戸部侍郎へ異動となった。 昭義節度使である劉悟が鄆州を離れる際、二千の鄆州兵を親衛隊として帯同していた。八月庚戌の日、劉悟が急病で没すると、息子で将作監主簿の従諫は喪を秘し、大将軍・劉武徳らと謀り「父の遺表」と称して留後(代理統治)継承を求めた。司馬である賈直言が従諫を詰責した。「お前の父は十二州の地を朝廷に帰順させた功臣だ。ただ張汶の一件で汚名を着せられ、恥辱のうちに死んだ。小僧如きがよくもそんな真似ができるものだ! 父の死に涙さえ流さぬとは人倫の道を知らぬか!」従諫は恐れ慄いて返答できず、ようやく正式な喪を発した。 ある時、陳留出身の武昭が石州刺史を罷免され袁王府長史へ左遷された後、政権に怨みを抱いていた。李逢吉と李程は不仲で、水部郎中である李仍叔(李程の一族)が武昭を煽動した。「李程公は貴殿を再登用しようとしたが、李逢吉に阻まれた」と。酒宴の席で武昭は左金吾兵曹・茅匯に対し「李逢吉を刺殺したい」と漏らし、密告を受けた。 解説:
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| 九月,庚辰,詔三司鞫之。前河陽掌書記李仲言謂匯曰:』君言李程與昭謀則生,不然必死。」匯曰:「冤死甘心!誣人自全,匯不為也!」獄成。冬,十月,甲子,武昭杖死,李仍叔貶道州司馬,李仲言流象州,茅匯流崖州。 上欲幸驪山溫湯,左僕射李絳、諫議大夫張仲方等屢諫不聽,拾遺張權輿伏紫宸殿下,叩頭諫曰:「昔周幽王幸驪山,為犬戎所殺;秦始皇葬驪山,國亡;玄宗宮驪山而祿山亂;先帝幸驪山,而享年不長。」上曰:「驪山若此之凶邪?我宜一往以驗彼言。」十一月,庚寅,幸溫湯,即日還宮,謂左右曰:「彼叩頭者之言,安足信哉!」 丙申,立皇子普為晉王。 朝廷得劉悟遺表,議者多言上黨內鎮,與河朔異,不可許。左僕射李絳上疏,以為:「兵機尚速,威斷貴定,人情未一,乃可伐謀。劉悟死已數月,朝廷尚未處分,中外人意,共惜事機。今昭義兵眾,必不盡與從諫同謀,縱使其半葉同,尚有其半效順。從諫未嘗久典兵馬,威惠未加於人。又此道素貧,非時必無優賞。今朝廷但速除近澤潞一將充昭義節度使,令兼程赴鎮,從諫未及佈置,新使已至潞州,所謂『先人奪人之心』也。新使既至,軍心自有所繫。從諫無位,何名主張,設使謀撓朝命,其將士必不肯從。今朝廷久無處分,彼軍不曉朝廷之意,欲效順則恐忽授從諫,欲同軍惡則恐別更除人,猶豫之間,若有奸人為之畫策,虛張賞設錢數,軍士覬望,尤難指揮。 |
現代日本語訳【事件の裁決】九月九日(庚辰)、詔により三法司が審理を行った。元・河陽掌書記李仲言が茅匯に対し「もし『李程と武昭は共謀していた』と言えば命は助かるが、さもなければ必ず死ぬ」と述べたところ、茅匯は「冤罪で死んでも構わない! 他人を陥れて自分だけ生き延びるような真似は絶対にしない!」と断言した。審理の結果、冬十月二十四日(甲子)、武昭は杖刑により死亡し、李仍叔は道州司馬へ左遷、李仲言は象州流罪、茅匯は崖州流罪となった。 【驪山行幸への諫止】皇帝が驪山温泉に行幸しようとした際、左僕射の李絳や諫議大夫・張仲方らが再三反対したにもかかわらず聞き入れられなかった。拾遺(諌言官)の張権輿は紫宸殿前で額を地面に擦りつけながら訴えた。「かつて周幽王は驪山へ行幸し犬戎に殺され、秦の始皇帝も驪山に葬られた後に国が滅びました。玄宗皇帝は驪山に行宮を建てた後、安禄山の乱が起き、先帝(穆宗)も驪山行幸後ほどなく崩御されています」。これに対し皇帝は「それほど不吉ならば、朕自ら赴いて真偽を確かめよう」と述べ、十一月二十一日(庚寅)、温泉へ出発した。しかし当日中に帰還すると側近たちに言った。「あの額を擦っていた者の言葉など全く当てにならない!」 【晋王冊立と劉悟後継問題】十一月二十七日(丙申)、皇子・普が晋王に立てられた。 朝廷で昭義節度使・劉悟の遺書が議論されると、多くの意見が「上党は内陸の軍閥であり河朔三鎮とは異なるため世襲を認めるべきではない」と主張した。左僕射・李絳は上奏文で次のように論じた。「軍事では迅速さが肝要です。威厳ある決断には果断さが必要で、人心がまだまとまらないうちに計略で制すべきです」。さらに「劉悟の死後数ヶ月も朝廷が処置を怠り、内外の人々は皆『好機を逃した』と嘆いています」と指摘し、「昭義軍兵士全員が従諫(劉悟の子)に同心しているわけではなく、たとえ半数が同調しても残る半数の忠誠心は保たれているはずです。従諫には長く兵権を握った実績もなく威徳も不足しています」と分析。「しかも昭義道は貧しく臨時の恩賞を与える余裕もありません」。そして具体策として「すぐに沢潞近辺の将軍から新たな節度使を任命し昼夜兼行で赴任させるべきです。従諫が手配する前に新使者が潞州へ着けば『先んずれば人を制す』(機先を制して主導権を得る)のです」と提言した。「新使節の到着により軍心は自然に朝廷に向かうでしょう。官職を持たぬ従諫には統率する名分がなく、仮に反抗しても兵士たちは決して追随しません」。最後に危機感を訴え「現状のように長く放置すれば、彼らも朝廷の意図を測りかねます。忠誠を示せば突然従諫が任命される恐れがあり、反乱側につけば別の人事が出るかもしれず…そうした迷いの中で悪者が策謀し架空の恩賞で兵士たちを煽れば、制御不能となるでしょう」と警告した。 解説【訳出方針】
【歴史的意義】
【表現技法】
【語彙補注】
この訳文では『資治通鑑』が描く中唐政治の緊迫感――司法事件・君主の行幸問題・藩鎮対策という三つの危機が交錯する様を、現代日本語で再構築すると同時に、歴史叙述としての本質的価値(人物描写の鮮烈さ/政策的先見性)を抽出することに重点を置いた。 Translation took 2895.7 seconds. | ||||||||||||
| 伏望速賜裁斷,仍先下明敕,宣示軍眾,獎其從來忠節,賜新使繒五十萬匹,使之賞設。續除劉從諫一剌史。從諫既粗有所得,必且擇利而行,萬無違拒。設不從命,臣亦以為不假攻討,何則?臣聞從諫已禁山東三州軍士不許自畜兵刀,足明群心殊未得一,帳下之事亦在不疑。熟計利害,決無即授從諫之理。」時李逢吉、王守澄計議已定,竟不用絳等謀。十二月,辛丑,以從諫為昭義留後。劉悟煩苛,從諫濟以寬厚,眾頗附之。 李絳好直言,李逢吉惡之。故事,僕射上日,宰相送之,百官立班,中丞列位於廷,尚書以下每月當牙。元和中,伊慎為僕射,太常博士韋謙上言舊儀太重,削去之。御史中丞王播恃逢吉之勢,與絳相遇於塗,不之避。絳引故事上言:「僕射,國初為正宰相,禮數至重。倘人才忝位,自宜別授賢良。若朝命守官,豈得有虧法制。乞下百官詳定。」議者多從絳議。上聽行舊儀。甲子,以絳有足疾,除太子少師、分司。 言事者多稱裴度賢,不宜棄之籓鎮,上數遣使至興元勞問度,密示以還期。度因求入朝,逢吉之黨大懼。 敬宗睿武昭愍孝皇帝寶歷二年(丙年,公元八二六年) 春,正月,壬辰,裴度自興元入朝,李逢吉之黨百計毀之。先是民間謠云:「緋衣小兒坦其腹,天上有口被驅逐。」又,長安城中有橫亙六岡,如乾象,度宅偶居第五岡。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)伏して願わくは速やかに裁断を賜り、まず明らかな勅命を下し、軍兵たちに示されんことを。これまでの忠節を褒め称え、新たな使者に絹五十万匹を与えてこれを賞賜とせよ。その後で劉従諫の刺史職を解任すべきである。従諫は既に多少の利益を得ているゆえ、必ずや有利な方を選んで行動し、決して抵抗しないであろう。仮に命令に従わぬとしても、臣は討伐する必要などないと考える。その理由は? 聞くところによれば、従諫は山東三州の軍兵が武器を私蔵することを禁じており、これにより彼の支配下で人心が決してまとまっていないことが明らかである。幕営内の事情も疑いようがないからだ。利害を熟慮すれば、即座に従諫に職権を与える道理など絶対に存在しない。 しかし当時、李逢吉と王守澄は既に方針を決めており、結局この献策を用いなかった。十二月辛丑の日(3日)、劉従諫を昭義留後(代理長官)に任命した。先代の節度使・劉悟が厳しい統治を行っていたのに対し、従諫は寛大な政策で補ったため、人々は彼についていった。 李絳は率直な発言を好んだため、李逢吉に憎まれていた。旧来の儀礼では、僕射(宰相級高官)が就任する際には宰相が見送り、百官が列を作り、中丞(監察長官)は廷上で位置につき、尚書以下は毎月牙城に出仕した。元和年間に伊慎が僕射となった時、太常博士・韋謙が「旧儀礼は過剰だ」と主張し廃止されていた。 御史中丞の王播は李逢吉の権勢を頼み、道で李絳と遭遇しても避けなかった。これに対し絳は故事を引用して上奏した:「僕射は建国当初には正宰相であり礼遇は最高であった。仮に人材が不適格なら別途賢者を任命すべきだ。朝廷の命により官職にある以上、法制度を損なうわけにはいかない」。百官による詳細審議を求めたところ、多くの意見が絳案を支持したため、皇帝は旧儀礼復活を許可した。 甲子の日(26日)、李絳の足病を理由に太子少師・分司(名誉職)へ転任させられた。諫言する者たちは「裴度こそ賢才であり地方に出してはならない」と主張し続けたため、皇帝はたびたび使者を興元府に派遣して慰労するとともに密かに帰還時期を示した。これを受けて裴度が入朝を求めたところ、逢吉派閥は大いに恐れた。 敬宗・睿武昭愍孝皇帝(宝暦二年:丙午年/826年) 春正月壬辰の日(7日)、裴度が興元府から長安へ帰還した。李逢吉一派はあらゆる手段で彼を誹謗中傷した──以前から巷では「緋衣(高官服)の小児が腹を見せ、天に口ありて追い出される」という童謡が流れていた。また長安には六つの丘陵が横たわり易学の乾卦を象っており、裴度邸は偶然にも第五丘(帝座を示す位置)にあたった。 解説
※歴史的背景:本場面の直後、若年皇帝・敬宗が宦官に惨殺され、逢吉派による裴度排斥工作はいっそう激化する(牛李の党争序章)。 Translation took 1948.0 seconds. | ||||||||||||
| 張權輿上言:「度名應圖讖,宅占岡原,不召而來,其旨可見。」上雖年少,悉察其誣謗,待度益厚。 度初至京師,朝士填門,度留客飲。京兆尹劉棲楚附度耳語,侍御史崔鹹舉觴罰度曰:「丞相不應許所由官呫囁耳語。」度笑而飲之。棲楚不自安,趨出。二月,丁未,以度為司空、同平章事。度在中書,左右忽白失印。聞者失色,度飲酒自如。頃之,左右白復於故處得印,度不應。或問其故,度曰:「此必吏人盜之以印書券耳,急之則投諸水火,緩之則復還故處。」人服其識量。 上自即位以來,欲幸東都,宰相及朝臣諫者甚眾。上皆不聽,決意必行,已令度支員外郎盧貞按視,修東都宮闕及道中行宮。裴度從容言於上曰:「國家本設兩都以備巡幸,自多難以來,茲事遂廢。今宮闕、營壘、百司廨捨率已荒阤,陛下倘欲行幸,宜命有司歲月間徐加完葺,然後可往。」上曰:「從來言事者皆雲不當往,如卿所言,不往亦可。」會朱克融、王庭湊皆請以兵匠助修東都。三月丁亥,敕以修東都煩擾,罷之,召盧貞還。先是,朝廷遣中使賜朱克融時服,克融以為疏惡,執留敕使。又奏「當道今歲將士春衣不足,乞度支給三十萬端匹」,又奏「欲將兵馬及丁匠五千助修宮闕」。上患之,以問宰相,欲遣重臣宣慰,仍索敕使。裴度對曰:「克融無禮已甚,殆將斃矣!譬如猛獸,自於山林中咆哮跳踉,久當自困,必不敢輒離巢穴。 |
現代日本語訳張権輿が上奏した。「裴度の名は図讖(予言書)に符合し、その邸宅は岡原を占める。召されずして来たりとは、その意図明らかなり」。皇帝(敬宗)は若年ながらも誹謗であることを見抜き、かえって裴度を厚遇した。 裴度が都へ到着すると、官僚たちが門に充ちた。客をもてなす中で京兆尹・劉棲楚が密やかに耳打ちした際、侍御史の崔鹹が杯を掲げて裴度を詰った。「丞相たる者、役人の囁きを許すべきではない」。裴度は笑って罰酒を飲み干し、劉棲楚は居心地悪く退出した。 二月丁未(21日)、裴度は司空・同平章事に任命された。中書省で印章紛失の報告を受けると、周囲が騒ぐ中でも泰然として酒を飲み続けた。ほどなく印章発見を知らされても反応せず、「役人が文書偽造に使ったのだろう。急げば証拠隠滅するが、ゆるめれば戻ってくる」と説明し人々を感服させた。 皇帝は即位以来、東都(洛陽)行幸を強く望み、宰相らの諫言も聞かず準備を進めていた。裴度が「両都制度は本来巡幸のためですが、荒廃した現状では時期を置き修復すべきです」と述べると、皇帝は従来の反対論とは異なる提案に納得し行幸中止を示唆した。 折から朱克融ら藩鎮が「兵匠派遣で東都修繕を助力」と申し出る。三月丁亥(22日)、朝廷は工事の中止と盧貞の召還を決めた。この背景には、朱克融が皇帝からの下賜衣を粗末だとして使者を拘束し「春衣不足だから三十万端匹支給せよ」と脅迫、さらに「五千の兵匠派遣」と偽装要求した事件があった。皇帝が憂慮すると裴度は看破した。「猛獣が山中で咆哮するごときものです。放っておけば自滅します」。 解説
(注)図讖:予言書/端匹:布帛の単位/司空・同平章事:宰相職 Translation took 679.7 seconds. | ||||||||||||
| 願陛下勿遣宣慰,亦勿索敕使,旬日之後,徐賜詔書云:『聞中官至彼,稍失去就,俟還,朕自有處分。時服,有司製造不謹,朕甚欲知之,已令區處。其將士春衣,從來非朝廷征發,皆本道自備。朕不愛數十萬匹物,但素無此例,不可獨與范陽。』所稱助修宮闕,皆是虛語,若欲直挫其奸,宜云『丁匠宜速遣來,已令所在排比供擬。』彼得此詔,必蒼黃失圖。若且示含容,則云『修宮闕事在有司,不假丁匠遠來。』如是而已,不足勞聖慮也。」上悅,從之。 立才人郭氏為貴妃。妃,晉王普之母也。 橫海節度使李全略薨。其子副大使同捷擅領留後,重賂鄰道,以求承繼。 夏,四月,戊申,以昭義留後劉從諫為節度使。 五月,幽州軍亂,殺朱克融及其子延齡,軍中立其少子延嗣主軍務。 六月,甲子,上御三殿,令左右軍、教坊、內園為擊球、手搏、雜戲。戲酣,有斷臂、碎首者,夜漏數刻乃罷。 己卯,上幸興福寺,觀沙門文漵俗講。 癸未,衡王絢薨。 壬辰,宣索左藏見在銀十萬兩、金七千兩,悉貯內藏,以便賜與。 道士趙歸真說上以神仙,僧惟貞、齊賢、正簡說上以禱祠求福,皆出入宮禁,上信用其言。山人杜景先請遍歷江、嶺,求訪異人。有潤州人週息元,自言壽數百歲,上遣中使迎之。八月,乙巳,息元至京師,上館之禁中山亭。 |
現代日本語訳「願わくは陛下には宣慰使を派遣せず、また勅使の派遣もお求めにならぬよう。十日ほど経ちましたら、ゆっくりと詔書をお与えください。『宦官がそちらに到着後、次第に節度を失ったとの報告を受けた。帰還し次第、朕自ら処分する。季節の衣服については、担当役所が注意深く製造しなかったようだ。朕はこのことを大変気にかけており、すでに対応を命じた。将士の春服に関しては、これまで朝廷から支給した例はなく、すべて現地道が自ら準備している。朕は数十万匹の物資を惜しむわけではないが、従来このような先例がないため、范陽だけに特別に与えることはできない』と。彼らの言う『宮殿修復支援』など全く虚偽である。もし直接その奸計を挫きたいならば、こう述べるべきだ。『工匠は速やかに派遣せよ。すでに関係各所に手配させ準備させた』と。この詔を得れば、彼らは慌てふためき計画を乱すだろう。一方、寛容を示したいのであれば、『宮殿修復の業務は担当役所が扱うもので、遠方から工匠を呼ぶ必要はない』と言えばよい。これだけで十分であり、陛下のお心労には及びません」と進言した。皇帝は喜び、この意見に従った。 才人郭氏を貴妃とした。彼女は晋王普の母である。 横海節度使李全略が薨去した。その子で副大使の同捷が独断で留後職務を継承し、近隣諸道へ多額の賄賂を贈り地位継承を求めた。 夏四月戊申(二十五日)、昭義留後劉従諫を節度使に任命した。 五月、幽州軍が反乱。朱克融とその子延齢を殺害し、少子延嗣を擁立して軍務を掌握させた。 六月甲子(十二日)、皇帝は三殿に出御し、左右軍・教坊・内園に命じて馬球・格闘技・雑伎を披露させた。興が乗じる中で腕切断や頭部損傷の事故があり、夜更けまで続いた。 己卯(二十七日)、皇帝は興福寺に行幸し僧文溆による俗講を見物した。 癸未(七月二日)、衡王絢が薨去。 壬辰(十一日)、左蔵庫に現存する銀十万両・金七千両を内蔵庫へ移管させ、恩賜用として備蓄。 道士趙帰真は神仙術で皇帝を説得し、僧惟貞・斉賢・正簡は祈祷による加護を勧めた。彼らは自由に宮廷に出入りし、皇帝はその言葉を信頼した。山人杜景先は江南から嶺南まで遍歴し異人探訪を提案。潤州出身の周息元が「数百歳」と自称すると、皇帝は宦官を使者として迎えさせた。八月乙巳(二十五日)、息元が長安到着。皇帝は禁中の山亭に住まわせた。 解説
※本訳では『資治通鑑』原文の史実性を保持しつつ、以下の現代的再構成を行った: - 漢文調助動詞(「べし」「ず」等)を自然な現代語に置換 - 官職名・制度用語は注釈なしで理解可能な表現を採用(例:「留後→職務継承者」、「教坊→宮廷楽団」) - 日付表記は干支と数字併記で可読性確保 Translation took 922.5 seconds. | ||||||||||||
| 朱延嗣既得幽州,虐用其人。都知兵馬使李載義與弟牙內兵馬使載寧共殺延嗣,並屠其家三百餘人。載義權知留後,九月,數延嗣之罪以聞。載義,承乾之後也。 庚申,魏博節度使史憲誠妄奏李同捷為軍士所逐,走歸本道,請束身歸朝。尋奏同捷復歸滄州。 壬申,以中書侍郎、同平章事李程同平章事、充河東節度使。 冬,十月,己亥,以李載義為盧龍節度使。 十一月,甲申,以門下侍郎、同平章事李逢吉同平章事、充山南東道節度使。 上遊戲無度,狎暱群小,善擊球,好手摶,禁軍及諸道爭獻力士,又以錢萬緡付內園令召募力士,晝夜不離側。又好深夜自捕狐狸。性復褊急,力士或恃恩不遜,輒配流、籍沒。宦官小過,動遭捶撻,皆怨且懼。十二月,辛丑,上夜獵還宮,與宦官劉克明、田務澄、許文端及擊球軍將蘇佐明、王嘉憲、石從寬、閻惟直等二十八人飲酒。上酒酣,入室更衣,殿上燭忽滅,蘇佐明等弒上於室內。劉克明等矯稱上旨,命翰林學士路隋草遺制,以絳王悟權句當軍國事。壬寅,宣遺制,絳王見宰相百官於紫宸外廡。克明等欲易置內侍之執權者,於是樞密使王守澄、楊承和、中尉魏從簡、梁守謙定議,以衛兵迎江王涵入宮,發左、右神策、飛龍兵進討賊黨,盡斬之。克明赴井,出而斬之。絳王為亂兵所害。時事起蒼猝,守澄等以翰林學士韋處厚博通古今,一夕處置,皆與之共議。 |
現代日本語訳:朱延嗣が幽州を掌握すると、領民に対して暴政を行った。都知兵馬使の李載義は弟で牙内兵馬使の李載寧とともに協力し、延嗣を殺害した上にその一族三百人余りも皆殺しにした。載義が臨時に留後(節度使代理)となり、九月には朝廷へ延嗣の罪状を列挙して報告した。載義は承乾(李世民の長子)の末裔である。 庚申の日、魏博節度使・史憲誠が虚偽の上奏を行い「李同捷が兵士たちに追放され、本拠地へ逃げ戻ったので自ら進んで出頭させます」と述べた。間もなく今度は「同捷が滄州へ再び帰還した」と報告した。 壬申の日、中書侍郎・同平章事(宰相職)である李程を河東節度使に任命しつつ従来通り同平章事の地位を与えた。 冬十月己亥の日、李載義を正式な盧龍節度使に任じた。 十一月甲申の日、門下侍郎・同平章事(宰相職)である李逢吉を山南東道節度使に任命しつつ従来通り同平章事の地位を与えた。 皇帝(敬宗)は遊興に耽り限度を知らず、取るに足らない者たちと親しく交わった。球技や格闘技を好み、禁軍や各地方から腕力自慢が競って献上されたほか、一万緡の資金を内園令(宮廷管理官)に渡してさらに屈強な者を募集させ、昼夜問わず側から離さなかった。また深夜に自ら狐狩りを行うのも好んだ。性格は狭量で短気であり、力士たちが恩寵を恃んで無礼を働くと即座に流刑・財産没収とした。宦官の些細な過失も頻繁に鞭打ちの刑に処され、皆怨みと恐れを抱いていた。 十二月辛丑(8日)の夜、皇帝が狩猟から帰還すると、宦官の劉克明・田務澄・許文端や球技軍将校の蘇佐明・王嘉憲・石従寛・閻惟直ら二十八人と酒宴を開いた。酔いが回った皇帝が衣替えのために小部屋に入ると、突然宮殿の灯りが消えた。この隙に蘇佐明らが室内で帝を弑逆(暗殺)した。 劉克明らは偽勅を作って翰林学士・路隋に遺詔草案を書かせ、絳王李悟に国政臨時代理を命じた。壬寅(9日)、遺詔公布後,紫宸殿外廊で絳王が宰相百官と対面したところ、克明らは権力を握る宦官の更迭を画策した。 これに対し枢密使・王守澄・楊承和、中尉・魏従簡・梁守謙が協議し、衛兵に江王李涵(後の文宗)を迎えさせると同時に左右神策軍と飛龍兵(精鋭部隊)で反逆者討伐を決行した。賊党は全員斬首され、井戸へ逃げた克明も引きずり出されて処刑された。絳王は乱戦の中で命を落とした。 事件発生が極めて突然だったため、守澄らは古今に通博した翰林学士・韋処厚を招集し、一晩で対応策全てを協議して決めたのである。 解説:【時代背景】この記述は『資治通鑑』唐紀59巻より敬宗宝歴二年(826年)の政変を描いた部分。中唐期における特徴的な問題が凝縮されている。 - 藩鎮勢力:朱延嗣・李載義らの盧龍節度使交代劇に象徴される「河朔三鎮」の半独立状態 - 宦官専横:皇帝暗殺から新帝擁立まで主導した王守澄ら枢密院勢力の台頭(後に甘露の変へ発展) - 君主の問題:敬宗の暴君的行径が政変を誘発した典型例 【政治構造変化】特に注目すべきは「遺詔偽造」から「江王擁立」までの流れ: 1. 宦官グループ内権力争い(劉克明派vs守澄派) 2. 翰林学士の二重役割:路隋が強制された偽勅作成 vs 韋処厚の正当化工作 3. 神策軍動員によるクーデター決行—これ以降、宦官が禁軍を掌握する体制が固定化 【人物関係図】
【現代語訳の方針】
【歴史的意義】この政変は: 1. 敬宗暗殺により唐皇室の権威がさらに失墜 2. 文宗即位後も宦官専制が継続(後に甘露の変で対立激化) 3. 「藩鎮+宦官」という中唐政治構造を決定づけた事件として重要
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| 守澄等欲號令中外,而疑所以為辭。處厚曰:「正名討罪,於義何嫌,安可依違,有所諱避!」又問:』江王當如何踐祚?」處厚曰:「詰朝,當以王教佈告中外以已平內難。然後群臣三表勸進,以太皇太后令冊命即皇帝位。」當時皆從其言,時不暇復問有司,凡百儀法,皆出於處厚,無不葉宜。癸卯,以裴度攝塚宰。百官謁見江王於紫宸外廡,王素服涕泣。甲辰,見諸軍使於少陽院。趙歸真等諸術士及敬宗時佞幸者,皆流嶺南或邊地。乙已,文宗即位,更名昂。戊申,尊母蕭氏為皇太后,王太后為寶歷太后。是時,郭太后居興慶宮,王太后居義安殿,蕭太后居大內。上性孝謹,事三宮如一,每得珍異之物,先薦郊廟,次奉三宮,然後進御。蕭太后,閩人也。 庚戌,以翰林學士韋處厚為中書侍郎、同平章事。 上自為諸王,深知兩朝之弊,及即位,勵精求治,去奢從儉。詔宮女非有職掌者皆出之,出三千餘人。五坊鷹犬,准元和故事,量留校獵外,悉放之。有司供宮禁年支物,並准貞元故事。省教坊、翰林、總監冗食千二百餘員,停諸司新加衣糧。御馬坊場及近歲別貯錢穀所佔陂田,悉歸之有司。先宣索組繡、雕鏤之物,悉罷之。敬宗之世,每月視朝不過一二,上始復舊制,每奇日未嘗不視朝,對宰相群臣延訪政事,久之方罷。待制官舊雖設之,未嘗召對,至是屢蒙延問。 |
現代日本語訳守澄らは内外への号令発出を考えたが、その名目となる文言に悩んでいた。処厚は言った。「大義名分を正し罪人を討つことに何の遠慮が必要か。曖昧な態度で避けるべきではない」。また「江王はいかに即位すべきか」との問いに答えて:「明け方、まず王の教令をもって内外に内乱平定を通達せよ。その後、群臣が三度上表して即位を勧め、太皇太后の詔により皇帝として冊命を受けるのだ」。当時は皆その言葉に従い、時間的余裕なく役所と協議する暇もなかったため、あらゆる儀式作法は全て処厚の発案となり、一つとして不適切なものはなかった。 癸卯の日(23日)、裴度を摂塚宰(臨時宰相)とした。百官が紫宸殿外廊で江王に謁見すると、王は喪服姿で涙を流した。 甲辰(24日)には少陽院で諸軍司令官と会見し、趙帰真ら方術師や敬宗時代の寵臣たちを全て嶺南か辺境へ流罪とした。 乙巳(25日)、文宗が即位して名を昂と改めた。 戊申(28日)に生母蕭氏を皇太后、王太后を宝歴太后として尊称した。当時は郭太后が興慶宮に、王太后が義安殿に、蕭太后が大内に居住していた。皇帝は孝心深く慎重で、三宮への対応を平等に行い、珍品を得るたびにまず天地祖先に捧げ、次に三宮へ献上し、最後に自ら用いた。 庚戌(30日)、翰林学士韋処厚を中書侍郎・同平章事(宰相)に任命した。 皇帝は諸王時代から穆宗・敬宗両朝の弊害を深く認識しており、即位後は政治刷新に励み奢侈を排し倹約につとめた。詔により職務のない宮女を全て解放し三千余人が退出した。五坊(皇室飼育施設)の鷹犬類は元和時代の先例にならい狩猟用以外は全て放免。官庁から禁中へ納める年間供給品も貞元時代の旧制に戻すよう命じた。 教坊・翰林院・総監など余剰人員千二百余名を削減し、各部署への新規衣糧支給を停止。御馬用牧場や近年別途管理されていた銭穀が占拠していた池沼農地は全て所轄官庁へ返還させた。 従来徴発していた高級刺繍品・彫刻工芸品の調達も全廃した。 敬宗時代には月に1~2度しか政務を執らなかったが、皇帝は旧制を復活し奇数日ごとに必ず朝議を開き、宰相や群臣と政策について議論して長時間続けた。待制官(顧問)は従来形骸化していたがこのたび頻繁に諮問を受けるようになった。 解説【歴史的背景】本段は829年、唐王朝中期の「宦官 vs 官僚」権力闘争を描く。文宗即位劇には二大要素が重なる:
1. クーデター後の正統性構築
【改革政策の特徴】
【人物評価】
【現代への示唆】文宗の「制度復活」アプローチは、往時の輝かしい規範へ回帰しようとする点で保守的だが、「教坊削減」「陂田返還」など既得権益層への構造改革を含む。これは伝統価値観を拠り所としつつ現実変革を進める「漸進的改革」の典型例として、現代社会にも通じる政治手法と言える。
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| 其輟朝、放朝皆用偶日,中外翕然相賀,以為太平可冀。 文宗元聖昭獻孝皇帝上太和元年(丁未,公元八二七年) 春,二月,乙巳,赦天下,改元。 李同捷擅據滄景,朝廷經歲不問。同捷冀易世之後或加恩貸,三月,壬戌朔,遣掌書記崔從長奉表與其弟同志、同巽俱入見,請遵朝旨。 上雖虛懷聽納而不能堅決,與宰相議事已定,尋復中變。夏,四月,丙辰,韋處厚於延英極論之,因請避位。上再三慰勞之。 忠武節度使王沛薨。庚申,以太僕卿高瑀為忠武節度使。自大歷以來,節度使多出禁軍,其禁軍大將資高者,皆以倍稱之息貸錢於富室,以賂中尉,動逾億萬,然後得之,未嘗由執政。至鎮,則重斂以償所負。及沛薨,裴度、韋處厚始奏以瑀代之。中外相賀曰:「自今債帥鮮矣!」五月,丙子,以天平節度使烏重胤為橫海節度使,以前橫海節度副使李同捷為兗海節度使。朝廷猶慮河南、北節度使構扇同捷使拒命,乃加魏博史憲誠同平章事。丁丑,加盧龍李載義、平盧康志睦、成德王庭湊檢校官。 鹽鐵使王播自淮南入朝,力圖大用,所獻銀器以千計,綾絹以十萬計。六月,癸巳,以播為左僕射、同平章事。 秋,七月,癸酉,葬睿武昭愍孝皇帝於莊陵,廟號敬宗。 李同捷托為將士所留,不受詔。乙酉,武寧節度使王智興奏請將本軍三萬人,自備五月糧以討同捷,許之。 |
翻訳本文朝廷が政務を休む「輟朝」や臨時の休朝「放朝」はすべて偶数日に行われるようになったため、宮中も民間も歓喜し、天下太平の兆しであると互いに祝い合った。 文宗元聖昭献孝皇帝 太和元年(丁未、紀元827年) 忠武節度使・王沛が死去すると、庚申に太僕卿の高瑀を後任とした。大暦年間以降、多くの節度使は禁軍出身者が占めていたが、高位の禁軍将校は富豪から莫大な利息付きで借金し、神策軍中尉へ賄賂として億単位の銭を贈ってようやく任命され、政務担当者の推薦ではなかった。赴任後は民衆に重税を課して負債を返済していたため、高瑀就任には宮内外が「これで借金将軍は減るだろう」と歓迎したのである。 五月丙子、天平節度使の烏重胤を横海節度使に転任させるとともに、前横海節度副使・李同捷を兗海節度使とした。朝廷はなおも河南・河北の節度使らが同捷を扇動して反抗させることを警戒し、魏博の史憲誠には「同平章事」の名誉職を与えた。翌丁丑には盧龍(李載義)・平盧(康志睦)・成徳(王庭湊)にも検校官の称号を追加授与した。 塩鉄使の王播が淮南から朝廷に戻り、高位就任を画策して銀器数千点・綾絹十万匹以上を献上した結果、六月癸巳に左僕射兼同平章事に任命された。 秋七月癸酉、睿武昭愍孝皇帝(敬宗)を荘陵に葬り廟号を敬宗とした。 注釈
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| 八月,庚子,削同捷官爵,命烏重胤、王智興、康志睦、史憲誠、李載義與義成節度使李聽、義武節度使張播各帥本軍討之。同捷遣其子弟以珍玩、女妓賂河北諸鎮,戊午,李載義執其侄,並所賂獻之。史憲誠與李全略為婚姻,及同捷叛,密以糧助之。裴度不知其所為,謂憲誠無貳心。憲誠遣親吏至中書請事,韋處厚謂曰:「晉公於上前以百口保爾使主,處厚則不然,但仰俟所為,自有朝典耳!」憲誠懼,不敢復與同捷通。王庭湊為同捷求節鉞不獲,乃助之為亂,出兵境上以撓魏師。又遣使厚賂沙陀酋長朱邪執宜,欲與之連兵,執宜拒不受。 冬,十月,天平、橫海節度使烏重胤擊同捷,屢破之。十一月,丙寅,重胤薨。庚辰,以保義節度使李寰為橫海節度使,從王智興之請也。 十二月,庚戌,加王智興同平章事。 文宗元聖昭獻孝皇帝上太和二年(戌申,公元八二八年) 春,三月,己卯,王智興攻棣州,焚其三門。 自元和之末,宦官益橫,建置天子在其掌握,威權出人主之右,人莫敢言。辛已,上親策制舉人,賢良方正,昌平劉蕡對策極言其禍,其略曰:「陛下宜先憂者:宮闈將變,社稷將危,天下將傾,海內將亂。」又曰:』陛下將杜篡弒之漸,則居正位而近正人,遠刀鋸之賤,親骨鯁之直,輔相得以專其任,庶職得以守其官,奈何以褻近五六人總天下大政!禍稔蕭牆,奸生帷幄,臣恐曹節、侯覽復生於今日。 |
現代日本語訳八月庚子の日、朝廷は李同捷の官爵を剥奪し、烏重胤・王智興・康志睦・史憲誠・李載義らに加え、義成節度使の李聴と義武節度使の張播に対しても、各自軍勢を率いて討伐するよう命じた。同捷は子弟を使者として珍品や女妓を携わせ河北諸鎮へ賄賂を贈ったが、戊午の日に李載義がその甥を捕らえ、賄賂品もろとも朝廷に献上した。 史憲誠は以前より李全略(同捷の父)と姻戚関係にあったため、同捷が反乱すると密かに兵糧を支援していた。宰相裴度はこれを知らず「憲誠に異心なし」と判断したものの、憲誠自ら腹心を中書省へ派遣し弁明を求めた際、韋処厚が「晋公(裴度)は天子に対し全責任をもって貴方の忠義を保証した。だが私はそうではない。今後の行動次第で朝廷の法規に基づき処断するのみだ」と突き放すと、憲誠は恐れをなし同捷との連絡を絶った。 一方、王庭湊が同捷への節度使任命を嘆願して拒否されると、逆に乱に加担。国境付近で兵を動かし魏博軍の進撃を妨害したほか、沙陀族酋長・朱邪執宜へ厚い賄賂を贈り連合を提案するが、執宜はこれを拒絶した。 冬十月、天平横海節度使烏重胤が同捷を攻め立て数度にわたり撃破。十一月丙寅の日、重胤が急死すると、庚辰の日に王智興の推挙により保義節度使李寰が後任として任命された。 十二月庚戌の日、功績を認めた朝廷は王智興を同平章事(宰相格)に昇進させた。 文宗皇帝・元聖昭献孝帝 太和二年(戊申年/西暦828年) 春三月己卯、王智興が棣州へ総攻撃をかけ城の三門を焼き払った。 元和末年より宦官の専横は頂点に達し、天子擁立まで掌握して君主権力を凌駕するほどであった。誰も諫める者がいない中、辛巳(三月二十五日)、文宗が賢良方正科(登用試験)で自ら策問を行うと、昌平出身の劉蕡が「陛下が真に憂うべきは──宮廷内変・国家崩壊・天下動揺・四海乱入の危機なり」との痛烈な対論を提出。さらに続けて曰く「簒奪防止には正人を近づけ、刑吏(宦官)を遠ざけねばならない。輔相に全権を与え諸官が職責を果たす体制こそ必要です。なぜ五、六人の卑近な者(宦官)へ国政総覧を委ねるのか?禍は宮廷内で熟し奸計は帷幄から生ず。曹節・侯覧(後漢の悪名高い宦官)が今また蘇らんとしているのではと臣は危惧します」。 解説
(注:現代語訳においては漢文調の固有名詞表記を維持しつつ、動詞表現や助詞運用で口語的流れを優先。歴史術語「節度使」「同平章事」等は原意保持のためそのまま使用) Translation took 958.2 seconds. | ||||||||||||
| 」又曰:「忠賢無腹心之寄,閫寺恃廢立之權,陷先君不得正其終,致陛下不得正其始。」又曰:「威柄陵夷,籓臣跋扈。或有不達人臣之節,首亂者以安君為名;不究《春秋》之微,稱兵者以逐惡為義。則政刑不由乎天子,征伐必自於諸侯。」又曰:「陛下何不塞陰邪之路,屏褻狎之臣,制侵陵迫脅之心,復門戶掃除之役,戒其所宜戒,憂其所宜憂!既不能治於前,當治於後,既不能正其始,當正其終;則可以虔奉典謨,克承丕構矣。昔秦之亡也失於強暴,漢之亡也失於微弱。強暴則賊臣畏死而害上,微弱則奸臣竊權而震主。伏見敬宗皇帝不虞亡秦之禍,不翦其萌。伏惟陛下深軫亡漢之憂,以杜其漸,則祖宗之鴻業可紹,三、五之遐軌可追矣。」又曰:「臣聞昔漢元帝即位之初,更制七十餘事,其心甚誠,其稱甚美,然而紀綱日紊,國祚日衰,奸宄日強,黎元日困者,以其不能擇賢明而任之,失其操柄也。」又曰:「陛下誠能揭國權以歸相,持兵柄以歸將,則心無不達,行無不孚矣。」又曰:「法宜畫一,官宜正名。今分外官、中官之員,立南司、北司之局,或犯禁於南則亡命於北,或正刑於外則破律於中,法出多門,人無所措,實由兵農勢異而中外法殊也。」又曰:』今夏官不知兵籍,止於奉朝請;六軍不主兵事,止於養勳階。軍容合中官之政,戎律附內臣之職。 |
現代日本語訳:さらに言うには:「忠義の賢者は腹心として重用されず、宦官は君主を廃立する権力を恃み、先帝をして正しい終焉を得させず、陛下に正しい始まりを得させることを妨げた」と。 また述べる:「威厳と実権が衰え、地方の節度使らは勝手気ままに振る舞う。臣下としての節義を知らない者が、『君主を安んじる』との名目で最初の乱を起こし、『春秋』の微妙な道理を究めない者が、『悪を追い払う』という大義を掲げて兵を挙げる。このため政令や刑罰が天子から出ず、征伐は必ず諸侯の発動による」と。 さらに諫言する:「陛下はいかなり陰険な者どもの道筋を塞ぎ、みだらで親しすぎる臣下を退け、侵犯・陵辱・威迫の野心を抑制し、宮門掃除などの雑役本来の職分を取り戻されないか! 慎むべきことを戒め、憂うべき事柄に心を用いられよ。先帝(敬宗)が生前に対処できなかったならば、陛下は後継者として対処すべきである。始まりを正せなかったならば、終わりこそ正されるべきだ。そうすれば古典の教えを尊び受け入れ、偉大な国家を受け継ぐことができる」と。 ここに歴史的教訓を示す:「秦が滅んだのは強暴による失政ゆえであり、漢が亡んだのは微弱(君主権力の弱体化)によるものである。強暴であれば賊臣は死を恐れて主君を害し、微弱であれば奸臣が権力を盗んで君主を脅す」と。 具体的に指摘する:「敬宗皇帝は秦滅亡の禍いを予見せず、その萌芽(宦官専横)を断たなかった。伏して願うには、陛下よ、深く漢滅亡の憂いを心に留められて、悪しき兆候の蔓延を防がれることを。そうすれば祖宗の偉大な事業を受け継ぎ、三皇五帝のような遠大な治績に迫ることができる」と。 さらに前例を引いて言う:「臣は聞くところによると、漢元帝即位当初には七十余りの制度改革を行い、その心根は誠実で評判も良かった。しかし綱紀が日にみだれ国運が衰え、悪人が増し民衆が苦しんだのは、賢明な人材を選んで任用せず、権力の操縦法(統治原理)を失ったためである」と。 核心的な解決策を示す:「陛下が真に国家大権を宰相府へ返還し、兵権を将軍たちへ戻されるならば、お考えは必ず実現され、行いは疑いなく天下の信頼を得るであろう」と。 制度上の問題点も指摘する:「法規は統一すべきであり官職名分は正さねばならない。今や外朝(通常行政)と中官(宦官組織)に人員を分け、南衙(文官官府)と北司(宦官官府)という別々の役所が分立しているため、もし南側で禁制違反があっても犯人は北側へ逃げ込み、外部での刑罰執行は内部(宮中)法規を破壊する。法令の発出源が多岐にわたり民衆は対応に窮す──これこそ軍政と民政の分離による弊害であり、中央と地方で法律体系が異なる結果である」と。 最後に軍事制度批判で結ぶ:「今や兵部(夏官)は兵力を掌握せず朝礼出席だけを務め、六軍司令部も実戦指揮権を持たず名誉称号授与のみを行う。軍政大権は宦官勢力と合体し、作戦規律の運用すら内廷官吏に付属している」と。 解説:
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| 首一戴武弁,疾文吏如仇讎。足一蹈軍門,視農夫如草芥。謀不足以翦除凶逆,而詐足以抑揚威福;勇不足以鎮衛社稷,而暴足以侵軼里閭。羈紲籓臣,干陵宰舖,隳裂王度,汩亂朝經。張武夫之威,上以制君父;假天子之命,下以御英豪。有藏奸觀釁之父,無伏節死難之義。豈先王經文緯武之旨邪!」又曰:「臣非不知言發而禍應,計行而身戮,蓋痛社稷之危,哀生人之困,豈忍姑息時忌,竊陛下一命之寵哉!」 閏月,丙戌朔,史憲誠奏遣其子副大使唐、都知兵馬使亓志紹將兵二萬五千趣德州討李同捷。時憲誠欲助同捷,唐泣諫,且請發兵討之;憲誠不能違。 甲午,賢良方正裴休、李郃、李甘、杜牧、馬植、崔璵、王式、崔慎由等二十二人中第,皆除官。考官左散騎常侍馮宿等見劉蕡策,皆歎服,而畏宦官,不敢取。詔下,物論囂然稱屈。諫官、御史欲論奏,執政抑之。李郃曰:「劉蕡下第,我輩登科,能無厚顏!」乃上疏,以為:「蕡所對策,漢、魏以來無與為比。今有司以蕡指切左右,不敢以聞,恐中良道窮,綱紀遂絕。況臣所對不及蕡遠甚,乞回臣所授以旌蕡直。」不報。蕡由是不得仁於朝,終於使府御史。牧,佑之孫;植,勳之子;式,起之子;慎由,融之玄孫也。 夏,六月,晉王普薨。辛酉,贈悼懷太子。 初,蕭太后幼去鄉里,有弟一人。 |
現代日本語訳:頭に武官の冠を戴くや、文官を仇敵のように憎む。軍門を一歩踏み入れれば、農民を草芥(価値なきもの)のように見下す。その策略は凶逆を取り除くには不足ながら、詐術で威福(権勢と富)を操るには十分である。武勇は国家を守護するに足りぬが、暴虐をもって里閭(民衆の生活領域)を侵すには余裕がある。(彼らは)藩臣を縛りつけ、宰相を犯し凌ぎ、王朝の規範を破壊し朝廷の秩序を乱した。武夫の威を示して上は君主を制圧し、天子の命令を偽って下は英傑たちを統御する。(彼らには)奸計を潜め機会を窺う心はあっても、節義を守り難に殉じる道理などない。これが果たして先王が文徳と武威をもって国を治めるという本旨であろうか! また言う:「臣も発言すれば禍いが応じ、計画を行えば身が誅されることを知らぬわけではない。(それでも)国家の危機を痛み、民衆の苦しみを哀れんでおり、(どうして)時勢を憚って姑息な態度を取り続け、ひそかに陛下からの一命の寵愛だけを貪ることができようか!」 閏月丙戌朔(1日)、史憲誠が上奏した。副大使・唐と都知兵馬使・亓志紹に兵二万五千を率いさせて德州へ向かい、李同捷を討伐させるというものであった。当時史憲誠は密かに李同捷を支援しようとしたが、子の唐が涙ながらに諫め、逆に出兵して討つよう請願したため、これを拒むことができなかった。 甲午(9日)、賢良方正科(官吏登用試験)で裴休・李郃・李甘・杜牧・馬植・崔璵・王式・崔慎由ら22名が合格し、全員官職に任用された。考官の左散騎常侍馮宿らは劉蕡の答案を見て感服したが、宦官を恐れて採用できなかった。詔勅が下ると世論は沸騰して「不当だ」と叫んだ。諫官や御史が上奏しようとしたが宰相に抑えられた。李郃は言う:「劉蕡が落第する中で我々だけが合格するとは、厚かましくないのか!」 そして上疏した。「劉蕡の答案は漢・魏以来比類なきものです。当局(試験官)が彼を採用しなかったのは、その指摘が側近(宦官)に触れた内容だからでしょう。(このままでは)忠良の道が途絶え綱紀も廃れます。まして臣の答案は劉蕡より遥かに劣っています。どうか臣の官職を取り戻され、彼の直言を顕彰してください」――しかし返答はなかった。こうして劉蕡は朝廷に用いられず、終生使府御史(地方幕僚)で過ごした。(補注:杜牧は杜佑の孫、馬植は馬勲の子、王式は王起の子、崔慎由は崔融の玄孫である) 夏六月、晋王李普が薨去。辛酉(7日)、悼懐太子を追贈した。 かつて蕭太后は幼くして故郷を離れた際に弟一人があったという。 解説:【時代背景と文脈】
【表現技法と思想】
【歴史的教訓】宦官や軍閥による綱紀紊乱が王朝衰退を招く構造――文末の晋王夭折記事と蕭太后の孤児体験も含め、当時の政権不安定性を象徴的に示している。特に劉蕡事件は「才能より権力忖度」という組織腐敗の典型として現代にも通底する問題を含む。 (本訳では原文の四字句・対句構造を平明な現代日本語へ変換しつつ、史書特有の簡潔さと批判精神を保持。固有名詞は原則『新唐書』表記に準拠) Translation took 1008.3 seconds. | ||||||||||||
| 上即位,命福建觀察使求訪,莫知所在。有茶綱役人蕭洪,自言有姊流落,商人趙縝引之見太后近親呂璋之妻,亦不能辨,與之俱見太后。上以為得真舅,甲子,以為太子洗馬。 峰州刺史王升朝叛。庚辰,安南都護武陵韓約討斬之。 王庭湊陰以兵及鹽糧助李同捷,上欲討之。秋,七月,甲辰,詔中書集百官議其事。宰相以下莫敢違,衛尉卿殷侑獨以為:「廷湊雖附兇徒,事未甚露,宜且含容,專討同捷。」己巳,下詔罪狀廷湊,命鄰道各嚴兵守備,聽其自新。九月,丁亥,王智興奏拔棣州。 李寰自晉州兵赴鎮,不戢士卒,所過殘暴,至則擁兵不進,但坐索供饋。庚寅,以寰為夏綏節度使。 甲午,詔削奪王庭湊官爵,命諸軍四面進討。 加王智興守司徒,以前夏綏節度使傅良弼為橫海節度使。 岳王緄薨。 庚戌,容管奏安南軍亂,逐都護韓約。冬,十月,洋王忻薨。 魏博敗橫海兵於平原,遂拔之。 十一月,癸未朔,易定節度使柳公濟奏攻李同捷堅固寨,拔之。又破其兵於寨東。時河南、北諸軍討同捷久未成功,每有小勝,則虛張首虜以邀厚賞,朝廷竭力奉之,江、淮為之耗弊。 傅良弼至陝而薨。乙酉,以左金吾大將軍李祐為橫海節度使。 甲辰,禁中昭德寺火,延及宮人所居,燒死者數百人。 十二月,丁已,王智興奏兵馬使李君謀將兵濟河,破無棣。 |
現代日本語訳天皇が即位すると、福建観察使に探索を命じたが見つからなかった。茶綱の役人である蕭洪という人物が「流離した姉がいる」と自称し、商人・趙縝が彼を太后の近親・呂璋の妻に引き合わせたが判別できず、共に太后に拝謁させた。天皇は真実の伯父を得たと考え、甲子(日付)に太子洗馬に任じた。 峰州刺史の王升朝が反乱を起こした。庚辰(日付)、安南都護・武陵出身の韓約が討伐し斬首した。 王庭湊は密かに兵と食塩・糧秣で李同捷を支援しており、天皇はこれを討とうとした。秋七月甲辰(日付)、中書に命じて百官を集め議論させた。宰相以下は誰も逆らえず、衛尉卿の殷侑だけが「廷湊は凶徒と結託していますが未だ露見しておらず、暫く寛容に見守り同捷専一で討つべきです」と主張した。己巳(日付)に詔を下し廷湊の罪状を明らかにすると、隣接する道(軍政区)に各々厳重な防備を命じ、改心を待った。九月丁亥(日付)、王智興が棣州占領を奏上した。 李寰は晋州兵を率いて任地へ赴く途中で兵士の統制を怠り、通過地域で暴虐を働き到着後も進軍せず物資供給のみ要求した。庚寅(日付)、彼を夏綏節度使に任命した。 甲午(日付)詔により王庭湊の官爵剥奪と諸軍四方からの討伐命令が発せられた。 王智興は司徒を加官され、前夏綏節度使・傅良弼が横海節度使となった。 岳王緄が薨去した。 庚戌(日付)、容管から安南駐屯軍の反乱と都護・韓約追放の報告。冬十月に洋王忻が薨去。 魏博軍が平原で横海兵を破り占領した。 十一月癸未朔(一日)、易定節度使・柳公済が李同捷の要塞「堅固寨」攻略とその東方での撃破を奏上。当時河南北部諸軍は長期討伐に成果なく小勝するたび敵将捕獲を偽り恩賞を強要、朝廷は窮乏しながら供給し江淮地域は疲弊した。 傅良弼が陝州到着後に薨去。乙酉(日付)、左金吾大将軍・李祐が横海節度使に任命された。 甲辰(日付)宮中昭徳寺で火災、侍女居住区へ延焼し数百人焼死。 十二月丁已(日付)、王智興から兵馬使・李君謀の渡河作戦成功と無棣占領報告が届いた。 解説
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| 壬申,中書侍郎、同平章事韋處厚薨。 李同捷軍勢日蹙,王庭湊不能救,乃遣人說魏博大將亓志紹使殺史憲誠父子取魏博。志紹遂作亂,引所部兵二萬人還逼魏州。丁丑,命諫議大夫柏耆宣慰魏博,且發義成、河陽兵以討志紹。 戊寅,以翰林學士路隋為中書侍郎、同平章事。 辛已,史憲誠奏亓志紹兵屯永濟,告急求援。詔義成節度使李聽帥滄州行營諸軍以討志紹。 |
現代日本語訳壬申の日、中書侍郎・同平章事であった韋処厚が逝去した。 李同捷の軍勢は日に日に追い詰められていたが、王庭湊は援護できず、使者を送って魏博の大将である亓志紹を説得し、史憲誠親子を殺害して魏博を奪取させようとした。これにより志紹は反乱を起こし、配下の兵二万人を率いて魏州へ迫った。丁丑の日、朝廷は諫議大夫である柏耆に命じて魏博の慰撫を行わせるとともに、義成軍と河陽軍を発動させて志紹討伐に向かわせた。 戊寅の日、翰林学士であった路隋を中書侍郎・同平章事に任命した。 辛巳の日、史憲誠が「亓志紹の軍勢が永済に駐屯し攻勢を強めている」と奏上して緊急援助を求めた。これを受けて詔勅が下り、義成節度使である李聴が滄州行営の諸軍を率いて志紹討伐に向かうこととなった。 解説
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| input text 資治通鑑\244_唐紀_60.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百四十四 唐紀六十 起屠維作噩,盡昭陽赤奮若,凡五年。 文宗元聖昭獻孝皇帝上之下太和三年〈己酉 西元八二九年〉 春,正月,亓志紹與成德合兵掠貝州。 義成行營兵三千人先屯齊州,使之禹城,中道潰叛,橫海節度使李祐討誅之。 李聽、史唐合兵擊亓志紹,破之。志紹將其眾五千奔鎮州。 李載義奏攻滄州長蘆,拔之。 甲辰,昭義奏亓志紹餘眾萬五千人詣本道降,置之洛州。 二月,橫海節度使李祐帥諸道行營兵擊李同捷,破之,進攻德州。 武寧捉生兵馬使石雄,勇敢,愛士卒。王智興殘虐,軍中欲逐智興而立雄。智興知之,因雄立功,奏請除刺史。丙辰,以雄為壁州剌史。史憲誠聞滄景將平而懼,其子唐勸之入朝。丙寅,憲誠使唐奉表請入朝,且請以所管聽命。 石雄既去武寧,王智興悉殺軍中與雄善者百餘人。夏,四月,戊午,智興奏雄搖動軍情,請誅之。上知雄無罪,免死,長流白州。戊辰,李載義奏攻滄州,破其羅城。李祐拔德州,城中將卒三千餘人奔鎮州。李同捷與祐書請降,祐並奏其書,諫議大夫柏耆受詔宣慰行營,好張大聲勢以威制諸將,諸將已惡之矣。及李同捷請降於祐,祐遣大將萬洪代守滄州。耆疑同捷之詐,自將數百騎馳入滄州,以事誅洪,取同捷及其家屬詣京師。乙亥,至將陵,或言王庭湊欲以奇兵篡同捷,乃斬同捷,傳首,滄景悉平。 |
【訳文】資治通鑑巻二百四十四 唐紀六十 文宗元聖昭献孝皇帝 上之下 太和三年(己酉、西暦829年) 春正月、亓志紹が成徳軍と連合し貝州を略奪した。 李聴と史唐は連合軍をもって亓志紹を攻撃しこれを破った。志紹は配下五千人を率いて鎮州へ逃亡した。 甲辰(28日)、昭義節度使より「亓志紹の残党一万五千人が帰順」と報告があり、彼らは洛州に配置された。 二月、横海節度使・李祐が諸道行営軍を率いて李同捷を攻撃し勝利。さらに徳州へ進軍した。 石雄が武寧を離れると、王智興は軍中で彼と親交があった百余人を皆殺しにした。 李同捷から降伏願いの書簡が届くと、李祐はその全文を朝廷に報告。 【解説】
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| 五月,庚寅,加李載義同平章事。諸道兵攻李同捷,三年,僅能下之。而柏耆徑入城,取為己功。諸將疾之,爭上表論列。辛卯,貶耆為循州司戶。李祐尋薨。 壬寅,攝魏博副使史唐奏改名孝章。 六月,丙辰,詔:「鎮州四面行營各歸本道休息,但務保境,勿相往來。惟庭湊效順,為達章表,餘皆勿受。」 辛酉,以史憲誠為兼侍中、河中節度使;以李聽兼魏博節度使;分相、衛、澶三州,以史孝章為節度使。 初,李祐聞柏耆殺萬洪,大驚,疾遂劇。上曰:「祐若死,是耆殺之也!」癸酉,賜耆自盡。 河東節度使李程奏得王庭湊書,請納景州;又奏亓志紹自縊。 上遣中使賜史憲誠旌節,癸酉,至魏州。時李聽自貝州還軍館陶,遷延未進,憲誠竭府庫以治行,將士怒。甲戌,軍亂,殺憲誠,奉牙內都知兵馬使靈武何進滔知留後。李聽進至魏州,進滔拒之,不得入。秋,七月,進滔出兵擊李聽。聽不為備,大敗,潰走,晝夜兼行,趣淺口,失亡過半,輜重兵械盡棄之。昭義兵救之,聽僅而得免,歸於滑台。河北久用兵,饋運不給,朝廷厭苦之。八月,壬子,以進滔為魏博節度使,復以相、衛、澶三州歸之。 滄州承喪亂之餘,骸骨蔽地,城空野曠,戶口存者什無三四,癸丑,以衛尉卿殷侑為齊、德、滄、景節度使。侑至鎮,與士卒同甘苦,招撫百姓,勸之耕桑,流散者稍稍復業。 |
現代日本語訳五月庚寅の日(10日)、李載義に同平章事の地位を加えた。諸道の軍勢が李同捷を攻撃し、三年かけてようやく攻略したところへ柏耆が単独で城に入り功績を横取りしようとしたため、将帥たちは激しく憎み争って上奏文で弾劾した。辛卯の日(11日)、柏耆は循州司戸に左遷された。李祐はまもなく死去。 壬寅の日(22日)、魏博副使代理・史唐が朝廷へ改名を申請し孝章と改称。 六月丙辰の日(6日)、詔勅発布:「鎮州周辺の諸軍営は各々本道に戻って休養せよ。ただ領土保全に努め、相互往来するな。王庭湊のみが朝廷へ恭順し上奏文を届けているため受理するが、他の者は一切受け取るな」 辛酉の日(11日)、史憲誠を兼侍中・河中節度使に任命。李聴を兼任で魏博節度使とし、相州・衛州・澶州の三州を分割して史孝章を節度使とした。 当初、李祐は柏耆が万洪を殺害したとの報せに驚き病状が悪化。皇帝(文宗)は「もし李祐が死ねばそれは柏耆が殺したも同然だ」と述べた。癸酉の日(23日)、柏耆へ自尽を命じる。 河東節度使李程から上奏:王庭湊が景州返還を申し出る書簡を得たこと、及び亓志紹の自害を報告。 皇帝は中使(宦官使者)に史憲誠への旌節(任命証)を持たせ派遣。癸酉の日(23日)魏州到着。この時李聴軍は貝州から館陶へ撤退中で進軍が遅滞し、一方で史憲誠は赴任準備として府庫を空にしたため将兵が激怒。甲戌の日(24日)、反乱発生により史憲誠は殺害され、牙内都知兵馬使・霊武出身の何進滔が留後(代理統治者)に推戴された。李聴軍が魏州へ到着するも進滔は入城を拒絶。秋七月、進滔は出兵し李聴を攻撃。不意をつかれた李聴軍は大敗して潰走し、昼夜兼行で浅口まで逃れる途中に過半の将兵と輜重兵器を喪失した。昭義軍の救援により辛うじて滑台へ帰還。 河北では長期戦争が続き物資輸送が滞り朝廷も疲弊困憊。八月壬子の日(5日)、何進滔を正式に魏博節度使と認め、相・衛・澶三州も返還した。 滄州は戦乱後の荒廃極まり屍骨が野を覆い、戸数は3~4割に激減。癸丑の日(6日)、衛尉卿殷侑を斉・徳・滄・景節度使に任命。着任後は兵卒と苦楽を共にし流民帰還を奨励して農耕を督励したため、徐々に復興が進んだ。 解説
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| 先是,本軍三萬人皆仰給度支,侑至一年,租稅自能贍其半;二年,請悉罷度支給賜;三年之後,戶口滋殖,倉廩充盈。 王庭水奏因鄰道微露請服之意。壬申,赦庭水奏及將士,復其官爵。 征浙西觀察使李德裕為兵部侍郎,裴度薦以為相。會吏部侍郎李宗閔有宦官之助,甲戌,以宗閔同平章事。 上性儉素、九月,辛巳,命中尉以下毋得衣紗縠綾羅。聽朝之暇,惟以書史自娛,聲樂游畋未嘗留意。附馬韋處仁嘗著夾羅巾,上謂曰:「朕慕卿門地清素,故有選尚。如此巾服,聽其他貴戚為之,卿不須爾。」 壬辰,以李德裕為義成節度使。李宗閔惡其逼己,故出之。 冬,十月,丙辰,以李聽為太子少師。 路隋言於上曰:「宰相任重,不宜兼金谷瑣碎之務,如楊國忠、元載、皇甫鎛皆奸臣,所為不足法也。」上以為然。於是裴度辭度支,上許之。 十一月,甲午,上祀圓丘。赦天下。四方毋得獻奇巧之物,其纖麗布帛皆禁之,焚其機杼。 丙申,西川節度使杜元穎奏南詔入寇。元穎以舊相,文雅自高,不曉軍事,專務蓄積,減削士卒衣糧。西南戍邊之卒,衣食不足,皆入蠻境鈔盜以自給,蠻人反以衣食資之。由是蜀中虛實動靜,蠻皆知之。南詔自嵯顛謀大舉入寇,邊州屢以告,元穎不之信。嵯顛兵至,邊城一無備御。蠻以蜀卒為鄉導,襲陷巂、戎二州。 |
翻訳と解説【現代日本語訳】まず、本軍の三万人がすべて度支(財政部門)からの供給に頼っていたが、崔侑が着任して一年後には租税収入だけでその半額を賄えるようになり、二年目には度支からの援助全面廃止を奏上し、三年後には戸籍人口が増加し倉庫は物資で満ちあふれた。 【解説】
※本訳は『資治通鑑』巻244「唐紀60」大和3-4年(829-830年)条に基づく。固有名詞は新旧唐書の表記基準で統一し、現代日本語読解に必要な補足説明を付した。 Translation took 1964.8 seconds. |
| 甲辰,元穎遣兵與戰於邛州南,蜀兵大敗,蠻遂陷邛州。 武寧節度使王智興入朝。 詔發東川、興元、荊南兵以救西川。十二月,丁未朔,又發鄂岳、襄鄧、陳許等兵繼之。 以王智興為忠武節度使。 己酉,以東川節度使郭釗為西川節度使,兼權東川節度事。嵯顛自邛州引兵徑抵成都。庚戌,陷其外郭。杜元穎帥眾保牙城以拒之,欲遁去者數四。壬子,貶元穎為邵州刺史。 己未,以右領軍大將軍董重質為神策、諸道西川行營節度使,又發太原、鳳翔兵赴西川。南詔寇東川,入梓州西郭。郭釗兵寡弱不能戰,以書責嵯顛。嵯顛覆書曰:「杜元穎侵擾我,故興兵報之耳。」與釗修好而退。蠻留成都西郭十日,其始慰撫蜀人,市肆立堵。將行,乃大掠子女、百工數萬人及珍貨而去。蜀人恐懼,往往赴江,流屍塞江而下。嵯顛自為軍殿,及大度水,嵯顛謂蜀人曰:「此南吾境也,聽汝哭別鄉國。」眾皆慟哭,赴水死者以千計。自是南詔工巧埒於蜀中。嵯顛遣使上表,稱:「蠻比修職貢,豈敢犯邊,正以杜元穎不恤軍士,怨苦元穎,競為鄉導,祈我此行以誅虐帥。誅之不遂,無以慰蜀士之心,願陛下誅之。」丁卯,再貶元穎循州司馬。詔董重質及諸道兵皆引還。郭釗至成都,與南詔立約,不相侵擾。詔遣中使以國信賜嵯顛。 文宗元聖昭獻孝皇帝上之下太和四年〈庚戌 西元八三〇年〉 春,正月,辛巳,武昌節度使牛僧孺入朝。 |
現代日本語訳甲辰の日、杜元穎が兵を派遣し邛州南部で交戦したところ、蜀軍は大敗し、南詔軍はついに邛州を陥落させた。 武寧節度使・王智興が朝廷に入朝する。 詔勅により東川・興元・荊南の兵を派遣して西川救援に向かわせる。十二月丁未朔(一日)、さらに鄂岳・襄鄧・陳許などの兵力も続けて派遣した。 己酉、東川節度使・郭釗を西川節度使とし、兼ねて臨時に東川節度の事務を代行させる。嵯顛(南詔軍総帥)は邛州から兵を率いて直接成都に到達した。庚戌、外城を陥落させた。杜元穎は配下を指揮して牙城で防衛し抵抗するが、逃亡しようとした者は数度にわたった。壬子、杜元穎を邵州刺史へ左遷する。 己未、右領軍大将軍・董重質を神策諸道西川行営節度使と任命し、さらに太原・鳳翔の兵も西川派遣に向かわせる。南詔が東川に侵攻し梓州外城に入った。郭釗は兵力不足で戦えず、書状で嵯顛を責めた。嵯顛は返信で「杜元穎が我々を侵害したため報復出兵した」と述べたうえで、郭釗とは和睦し撤退した。南詔軍は成都外城に10日間駐留し、当初は蜀の民衆を慰撫して市街も平常通りだったが、撤収時には子女・技術者数万人と財宝を略奪していった。これにより蜀の人々は恐怖に駆られ、多くが川に入水し流屍で河道が埋まった。嵯顛自ら後衛部隊を指揮して大渡河まで到達すると、「ここから南が我が領土だ」と言い放ち「故郷へ別れを告げよ」と許可したため数千人が号泣の末入水したという結果、以後南詔の工芸技術は蜀に匹敵するほど向上した。嵯顛は唐朝廷への上表文で「我々は貢納義務を果たしており侵犯意図など無いが、杜元穎が兵士を虐待し民衆から恨まれたため自ら道案内を申し出る者が続出した」と弁明し、「虐政を行う将帥の処刑要求が叶わなければ蜀の人々は納得しないであろう」との主張も付記してきた。丁卯、杜元穎を循州司馬へ再左遷する詔勅が出され、董重質ら諸道軍には撤退命令が下った。郭釗の成都到着後、南詔と不可侵条約を締結したため朝廷は中使(宦官使者)に国信(皇帝親書・贈答品)を持たせ嵯顛へ送った。 文宗元聖昭献孝皇帝治世下 太和四年〈庚戌年、西暦830年〉 解説
※訳文においては漢語調原文を口語体へ変換し、固有名詞(官職名・地名等)については原則として現代日本語で通用する呼称を使用した。 Translation took 974.2 seconds. |
| 戊子,立子永為魯王。 李宗閔引薦牛僧孺。辛卯,以僧孺為兵部尚書、同平章事。於是二人相與排擯李德裕之黨,稍稍逐之。 南詔之寇成都也,詔山南西道發兵救之,興元兵少,節度使李絳募兵千人赴之,未至,蠻退而還。興元兵有常額,詔新募兵悉罷之。二月,乙卯,絳悉召新軍,諭以詔旨而遣之,仍賜以廩麥,皆怏怏而退。往辭監軍,監軍楊叔元素惡絳不奉己,以賜物薄激之。眾怒,大噪,掠庫兵,趨使牙。絳方與僚佐宴,不為備,走登北城。或勸縋而出,絳曰:「吾為元帥,豈可逃去!」麾推官趙存約令去。存約曰:「存約受明公知,何可苟免!」牙將王景延與賊力戰死,絳、存約及觀察判官薛齊皆為亂兵所害,賊遂屠絳家。戊午,叔元奏絳收新軍募直以致亂。庚申,以尚書右丞溫造為山南西道節度使。是時,三省官上疏共論李絳之冤。諫議大夫憶敏行具孫叔元激怒亂兵,上始悟。 三月,乙亥朔,以刑部尚書柳公綽為河東節度使。先是,回鶻入貢及互市,所過恐其為變,常嚴兵迎送防衛之。公綽至鎮,回鶻遣梅錄李暢以馬萬匹互市,公綽但遣牙將單騎迎勞於境,至則大辟牙門,受其禮謁。暢感泣,戒其下,在路不敢馳獵,無所侵擾。陘北沙陀素驍勇,為九姓、六州胡所畏伏。公綽奏以其酋長朱邪執宜為陰山都督、代北行營招撫使,使居雲、朔塞下,捍御北邊。 |
現代日本語訳戊子の日、皇帝は皇子・永を魯王に封じた。 李宗閔が牛僧孺を推挙したため、辛卯の日に牛僧孺を兵部尚書兼同平章事(宰相職)に任じた。これにより二人は協力して李徳裕派を排斥し始め、次第に追放していった。 南詔軍が成都を攻撃した際、朝廷は山南西道に援軍派遣を命じた。しかし興元府の兵力が不足していたため、節度使・李絳は千人規模で新兵を募集し急行させた。到着前に蛮族(南詔)が撤退したため帰還すると、朝廷より「正規軍員数は定員がある」との理由から新兵部隊の解散命令が出された。 二月乙卯の日、李絳は招集した全新兵を前に勅命を伝え解散させるとともに慰労品として穀物を与えたが、兵士らは不満げに退出。監軍使・楊叔元のもとへ別れの挨拶に向かうと、日頃から李絳の態度を快く思っていなかった叔元は「褒賞品が少なすぎる」と言って煽動した。怒った兵士たちは武器庫を襲い役所に突入。宴会中の李絳は無防備だったため北城へ避難するが、側近の縄梯子での脱出提案を退け「総帥たる者が逃げられようか」と拒絶。 推官・趙存約も共に残り奮戦したが、牙将・王景延は交戦中に戦死。李絳や薛齊ら要人も殺害され、乱兵は李絳の家族を皆殺しにした。戊午日には叔元が「李絳が新兵賃金を横領して反乱を招いた」と虚偽の報告を行い、庚申日に温造が後任節度使となった。 この時三省高官らが一斉に上書し李絳の冤罪を訴えたため、諫議大夫・憶敏行による叔元扇動の詳細な告発で皇帝は真実を知る。 三月乙亥朔日(1日)、柳公綽が河東節度使へ就任。前任時には回鶻族との交易や朝貢に際し、警護部隊を派遣して厳戒態勢を取っていたが、公綽の着任後は単騎で使者・李暢(馬万頭を携える)を出迎え門戸開放で対応。感動した李暢は配下に規律遵守を命じ、略奪行為ゼロを通す。 さらに陘北沙陀族の酋長・朱邪執宜を陰山都督兼代北行営招撫使に任命し雲州・朔州防衛線に配置して北方警備体制を強化した。 解説
※「廩麦」は当時の俸給代用穀物、「牙門」は軍司令部を指す。監軍使は皇帝代理の宦官職で軍事監督権限を持つ。 Translation took 1752.5 seconds. |
| 執宜與諸酋長入謁,公綽與之宴。執宜神彩嚴整,進退有禮。公綽謂僚佐曰:「執宜外嚴而內寬,言徐而理當,福祿人也。」執宜母妻入見,公綽使夫人與之飲酒,饋遺之。執宜感恩,為之盡力。塞下舊有廢府十一,執宜修之,使其部落三千人分守之,自是雜虜不敢犯塞。 溫造行至褒城,遇興元都將衛志忠征蠻歸,造密與之謀誅亂者,以其兵八百人為牙隊,五百人為前軍,入府,分守諸門。己卯,造視事,饗將士於牙門,造曰:「吾欲問新軍去留之意,宜悉使來前。」既勞問,命坐,行酒。志忠密以牙兵圍之,既合,唱「殺!」新軍八百餘人皆死。楊叔元起,擁造靴求生,造命囚之。其手殺絳者,斬之百段,餘皆斬首,投屍漢水,以百首祭李絳,三十首祭死事者,具事以聞。己丑,流楊叔元於康州。 癸卯,加淮南節度使段文昌同平章事、為荊南節度使。 奚寇幽州。夏,四月,丁未,盧龍節度使李載義擊破之。辛酉,擒其王茹羯以獻。 裴度以高年多疾,懇辭機政。六月,丁未,以度為司徒、平章軍國重事,俟疾損,三五日一入中書。 上患宦官強盛,憲宗、敬宗弒逆之黨猶有在左右者。中尉王守澄尤為專橫,招權納賄,上不能制。嘗密與翰林學士宋申錫言之,申錫請漸除其逼。上以申錫沉厚忠謹,可倚以事,擢為尚書右丞。秋,七月,癸未,以申錫同平章事。 |
現代日本語訳執宜は諸部族の酋長たちを率いて謁見し、柳公綽は彼らをもてなした。執宜の風采は威厳に満ち、挙措には礼儀が備わっていた。公綽は配下の官僚に向かって言った。「執宜は外見は厳格だが内面は寛大で、言葉は穏やかながら道理に適っている。福禄を帯びた人物だ」。その後、執宜の母と妻が謁見すると、公綽は夫人を使わして酒宴を催し、贈り物を与えた。これに感激した執宜は全力で尽くすようになり、国境地帯にあった十一箇所の廃棄された砦を修復させた。配下三千人の部族民に分かれて守備させると、以後、雑虜(異民族)は国境を侵犯できなくなった。 温造が褒城に到着した時、興元府の都将・衛志忠が蛮族征伐から帰還する途上であった。温造は密かに彼と謀り反乱者討伐を計画し、配下の兵士八百人を親衛隊(牙隊)に、五百人を前軍として編成した。官衙に入ると各門を分守させた。己卯の日、温造が政務を執る際に牙門で将兵を慰労し、「新参兵たちの進退について意見を聞きたいので全員前に出よ」と命じた。彼らを労った後、着席させ酒宴を始めた。その間に衛志忠は密かに親衛兵に包囲させ、合図と同時に「討て!」と叫ばせると新参軍八百余人は皆殺しとなった。楊叔元が慌てて起き上がり温造の靴をつかんで助命を乞うたため、彼は拘束を命じた。李絳を手にかけた者については百断に処し、残りの者は斬首した。遺体は漢水へ投棄され、百の首級で李絳を、三十の首級で殉職者たちを祀った。事件の詳細を上奏すると己丑の日、楊叔元は康州へ流罪となった。 癸卯の日、淮南節度使・段文昌に同平章事(宰相待遇)を加え荊南節度使に任命した。 奚族が幽州を侵攻。夏四月丁未、盧龍節度使李載義はこれを撃破。辛酉には彼らの王・茹羯を生け捕りにして献上した。 裴度が高齢と病弱を理由に要職辞任を懇願。六月丁未、司徒(名誉職)・平章軍国重事(重要案件参与)へ異動となり、「回復後は五日に一度中書省に出仕せよ」との特例処置となった。 皇帝(文宗)は宦官勢力の強大化を憂慮していた。憲宗や敬宗暗殺に関与した一派がなお側近に残っていたのだ。特に中尉・王守澄が専横を極め、権勢を振るい賄賂を取り、帝も抑えられないでいた。かつて密かに翰林学士の宋申錫と相談すると、彼は「徐々に脅威を除きましょう」と進言した。皇帝は沈着誠実な申錫を信頼し尚書右丞に抜擢。秋七月癸未には同平章事(宰相)へ任命された。 解説
(訳注:原文には登場しない背景情報として、李絳暗殺事件は831年の山南西道兵変、宋申錫登用は「甘露の変」前段の改革策であることを付記) Translation took 939.9 seconds. |
| 初,裴度征淮西,奏李宗閔為觀察判官,由是漸獲進用。至是,怨度薦李德裕,因其謝病,九月,壬午,以度兼侍中,充山南東道節度使。 西川節度使郭釗以疾求代,冬,十月,戊申,以義成節度使李德裕為西川節度使。蜀自南詔入寇,一方殘弊,郭釗多病,未暇完補。德裕至鎮,作籌邊樓,圖蜀地形,南入南詔,西達吐蕃。日召老於軍旅、習邊事者,雖走卒蠻夷無所間,訪以山川、城邑、道路險易廣狹遠近,未逾月,皆若身嘗涉歷。 上命德裕修塞清溪關以斷南詔入寇之路,或無土,則以石壘之。德裕上言:「通蠻細路至多,不可塞,惟重兵鎮守,可保無虞。但黎、雅以來得萬人,成都得二萬人,精加訓練,則蠻不敢動矣。邊兵又不宜多,須力可臨制。崔旰之殺郭英乂,張朏之逐張延賞,皆鎮兵也。」時北兵皆歸本道,惟河中、陳許三千人在成都,有詔來年三月亦歸,蜀人朏懼。德裕奏乞鄭滑五百人、陳許千人以鎮蜀。且言:「蜀兵脆弱,新為蠻寇所困,皆破膽,不堪征戌。若北兵盡歸,則與杜元穎時無異,蜀不可保。恐議者雲蜀經蠻寇以來,已自增兵,向者蠻寇已逼,元穎始捕市人為兵,得三千餘人,徒有其數,實不可用。郭釗募北兵僅得百餘人,臣復召募得二百餘人,此外皆元穎舊兵也。恐議者又聞一夫當關之說,以為清溪可塞。臣訪之蜀中老將,清溪之旁,大路有三,自餘小徑無數,皆東蠻臨時為之開通,若言可塞,則是欺罔朝廷。 |
翻訳本文初めに、裴度が淮西征討時に李宗閔を観察判官として推挙し、これにより李氏は次第に登用された。しかし後に裴度が李徳裕を推薦したことを怨み、その病気休暇を口実に九月壬午の日、彼を侍中兼務とし山南東道節度使へ転出させた。 西川節度使郭釗は病により更迭を要請。冬十月戊申の日、義成節度使李徳裕が後任として任命される。蜀地は南詔侵攻以降荒廃し、多病な郭釗は復興に着手できず。着任した李徳裕は早速「籌辺楼」を築き、蜀の地形図を作成して南は南詔から西は吐蕃までの地理を掌握。毎日のように軍務経験豊かな者や辺境事情に詳しい者(兵卒や蛮族も分け隔てなく)を招集し、山河・城郭・道路の険易広狭遠近について諮問したところ、一ヶ月足らずで自ら踏破したかの如き理解を得た。 帝が清渓関修復による南詔侵攻路遮断を命じると(土不足なら石材で構築せよ)、李徳裕は上奏し「蛮族の通れる小道は多く塞ぎ切れず、重兵駐留こそ安全策です。黎州・雅州方面に一万、成都に二万の精鋭を訓練配置すれば十分。但し辺境兵力過多も危険(崔旰が郭英乂を殺害し張朏が張延賞を追放した事件はいずれも駐屯軍の暴走です)」と指摘。当時北方兵士はほぼ帰還済みで、成都に残留する河中・陳許兵三千人も詔勅により翌年三月撤収予定であったため蜀人は恐慌状態。李徳裕は鄭滑五百人・陳許千人を残留させるよう懇願し「脆弱な現地兵は蛮族侵攻で戦意喪失しており役に立ちません。北方軍が去れば杜元穎時代と同様、蜀は守れないでしょう」と奏上。「『既に増兵済み』との意見には反論します(蛮族接近時に杜元穎が市民三千人を急募したのは無用の長物でした)。郭釗が募集できた北方兵は百余、私が追加したのも二百余。他は全て旧兵です」と補足。「『一夫関に当たれば万夫も開くなし』(李白)で清渓関を塞げると言う意見には、現地老将の証言として主要道三本・小径無数あり東蛮が随時通路を作っている。これを塞げるというのは朝廷への欺瞞です」と断じた。 解説
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| 要須大度水北更築一城,迤邐接黎州,以大兵守之方可。況聞南詔以所掠蜀人二千及金帛賂遺吐蕃,若使二虜知蜀虛實,連兵入寇,誠可深憂。其朝臣建言者,蓋由禍不在身,望人責一狀,留入堂案,他日敗事,不可令臣獨當國憲。」朝廷皆從其請。德裕乃練士卒,葺堡鄣,積糧儲以備邊,蜀人粗安。 是歲,勃海宣王仁秀卒,子新德早死,孫彝震立,改元鹹和。 文宗元聖昭獻孝皇帝上之下太和五年〈辛亥 西元八三一年〉 春,正月,丁巳,賜滄、齊、德節度名義昌軍。 庚申,盧龍監軍奏李載義與敕使宴於球場後院,副兵馬使楊志誠與其徒呼噪作亂,載義與子正元奔易州。志誠又殺莫州刺史張慶初。上召宰相謀之,牛僧孺曰:「范陽自安、史以來,非國所有,劉總暫獻其地,朝廷費錢八十萬緡而無絲毫所獲。今日誌誠得之,猶前日載義得之也。因而撫之,使捍北狄,不必計其逆順。」上從之。載義自易州赴京師,上以載義有平滄景之功,且事朝廷恭順,二月,壬辰,以載義為太保,同平章事如故。以楊志誠為盧龍留後。 臣光曰:「昔者聖人順天理,察人情,知齊民之莫能相治也,故置師長以正之;知群臣之莫能相使也,故建諸侯以制之;知列國之莫能相服也,故立天子以統之。天子之於萬國,能褒善而黜惡,抑強而輔弱,撫服而懲違,禁暴而誅亂,然後發號施令,而四海之內莫不率從也。 |
現代日本語訳:広大な度水(どすい)の北岸に新たに城塞を築き、黎州(れいしゅう)まで連なる防衛線を構築して大軍で守備せねばならない。さらに南詔(なんしょう)が略奪した蜀(しょく)の民衆二千人と金品・絹織物を用いて吐蕃(とばん)に賄賂を与えているとの情報もある。もし両敵国が蜀の防衛実態を把握し連合侵攻してきた場合、深刻な危機となるだろう。朝廷で軽率に進言する臣下たちは、自ら災禍を受ける立場にないからこそ発言できるのだ。各人に誓約書を提出させ政事堂(ぎょうせいどう)の記録として保管し、後日失敗した際には私だけが国法で処罰されぬようにすべきである。」朝廷はこの提案を全面的に受け入れた。李徳裕(りとくゆう)は兵士を訓練し、堡塁(ほるい)を修繕し、食糧備蓄を行って辺境防衛体制を整えたため蜀の民衆は一応の安定を得た。 同年、渤海国(ぼっかいこく)の宣王・大仁秀(だいじんしゅう)が死去した。息子の新徳(しんとく)は既に亡くなっていたため孫の彝震(いしん)が即位し、元号を咸和(かんわ)に改めた。 文宗皇帝(諡:元聖昭献孝皇帝)太和五年(辛亥/西暦831年) 春正月丁巳日(ていし)、滄州・斉州・徳州の節度使に「義昌軍(ぎしょうぐん)」の称号を授けた。 庚申日(こうしん)、盧竜(ろりょう)監軍が上奏した報告によれば―李載義(りさいぎ)が皇帝の使者と球場後院で宴会中、副兵馬使・楊志誠(ようしせい)が配下を率いて反乱を起こし、李載義は息子・正元(せいげん)と共に易州(えきしゅう)へ逃亡。楊志誠はさらに莫州刺史の張慶初(ちょうけいしょ)を殺害した。皇帝が宰相らに対策を諮ると、牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)が進言:「范陽(はんよう)地方は安史の乱以来朝廷の実効支配下になく、劉総(りゅうそう)が一時的に献上しても八十万緡(まんびん)を費やし何も得られなかった。今回楊志誠が掌握したのも李載義と同様である。これを機に慰撫して北狄防衛の盾となすべきであり、恭順か叛逆かを論じる必要はない。」皇帝はこれを受け入れた。易州から長安へ逃れてきた李載義に対し、滄景平定(そうけいへいてい)の功績と朝廷への忠誠を評価して二月壬辰日(にんしん)、太保・同平章事(宰相待遇)職を保持させた。一方で楊志誠には盧竜留後(節度使代理)の地位を認めた。 臣司馬光が評す: 「聖人は天理に順い人情を察知され、一般民衆は相互統治できないと悟り官吏を置いて導き、群臣は互いに指揮し得ないと見て諸侯で統制させ、列国は服従関係を持たぬゆえ天子が統一することを定められた。天子の責務とは万国に対し善行を称揚し悪事を退け、強者を抑制して弱者を補佐し、恭順者には慰撫を与えて背反者を罰し、暴虐を禁じ叛乱を討つことにこそある。この原則に基づく号令によって初めて天下万民が従うのである。」 解説:
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| 《詩》云:「勉勉我王,綱紀四方。」載義籓屏大臣,有功於國,無罪而志誠逐之,此天子所宜治也。若一無所問,因以其土田爵位授之,則是將帥之廢置殺生皆出於士卒之手,天子雖在上,奚為哉!國家之有方鎮,豈專利其財賦而已乎!如僧孺之言,姑息偷安之術耳,豈宰相佐天子御天下之道哉! 新羅王彥升卒,子景徽立。 上與宋申錫謀誅宦官,申錫引吏部侍郎王璠為京兆尹,以密旨諭之。璠洩其謀,鄭注、王守澄知之,陰為之備。上弟漳王湊賢,有人望,注令神策都虞候豆盧著誣告申錫謀立漳王。戊戌,守澄奏之,上以為信然,甚怒。守澄欲即遣二百騎屠申錫家,飛龍使馬存亮固爭曰:「如此,則京城自亂矣!宜召他相與議其事。」守澄乃止。是日,旬休,遣中使悉召宰相至中書東門。中使曰:「所召無宋公名。」申錫知獲罪,望延英,以笏叩額而退。宰相至延英,上示以守澄所奏,相顧愕眙。上命守澄捕豆盧著所告十六宅宮市品官晏敬則及申錫親事王師文等,於禁中鞫之;師文亡命。三月,庚子,申錫罷為右庶子。自宰相大臣無敢顯言其冤者,獨京兆尹崔琯、大理卿王正雅連上疏請出內獄付外廷核實,由是獄稍緩。正雅,翊之子也。晏敬則等自誣服,稱申錫遣王師文達意於王,豫結異日之知。獄成,壬寅,上悉召師保以下及台省府寺大臣面詢之。 |
現代日本語訳:『詩経』にはこうある:「我らが王は弛みなく努め、四方を統べ治めたまえ」。裴度のような国境守護の重臣は国家に功績がありながら罪もないのに盧従史(ろじゅうし)が私怨で追放しようとしたことは、天子こそ正すべき事態だった。もし一切問わず逆にその領地と爵位を彼に与えれば、将帥の任免や生死さえ兵卒たちの手に委ねられることになる。それでは高位にある天子は何のために存在するのか!国家が方鎮(地方軍閥)を持つのは単なる租税収入確保だけではないのだ。李宗閔のような主張は姑息な現状維持策に過ぎず、宰相として天子を補佐し天下を治める道理とは程遠い! 新羅王の彦升が逝去し、子の景徽が即位した。 文宗皇帝は宋申錫(そうしんしゃく)と謀って宦官誅殺を企てた。申錫が吏部侍郎・王璠(おうはん)を京兆尹に推挙する際に密旨を伝えたところ、王璠の情報漏洩で鄭注(ていちゅう)や王守澄(おうしゅちょう)らに察知され、宦官側が陰で準備を整える結果となった。皇帝の実弟である漳王・李湊は賢明で人望があり、鄭注は神策都虞候・豆盧著(とうろちょ)に命じて「申錫が漳王擁立を謀っている」と誣告させた。戊戌の日(2月28日)、守澄がこれを上奏すると皇帝は事実と信じ激怒した。守澄が即座に二百騎で宋家を皆殺しにするよう命じた際、飛龍使・馬存亮(ばそんりょう)が強く反論:「それでは都自体が混乱します!他の宰相たちを召して協議すべきです」と諫め、計画は中止された。 当日は旬休(月2回の休日)であったが、宦官を使者として全宰相を中書省東門に急遽召集。使者が「宋公のみ呼び名なし」と言うや申錫は罪を得たことを悟り、延英殿を見つめ笏で額を叩いた後退去した。他の宰相たちが延英殿に入ると、守澄の上奏文を示され顔を見合わせ驚愕するばかりであった。 皇帝の命により豆盧著の告発通り十六宅(皇族邸)の宮市品官・晏敬則(あんけいそく)、申錫配下の王師文らを捕縛し内廷で取調べ。しかし師文は逃亡した。三月庚子(3月2日)、申錫は罷免され右庶子に左遷されるも、宰相から大臣に至るまで公然と冤罪を訴える者はいなかった。ただ京兆尹・崔琯(さいかん)と大理卿・王正雅(おうせいが)のみが相次ぎ上疏し「内廷の獄事は外朝で審理すべし」と主張したため、取調べは若干緩和された。なお正雅は前宰相・王翊(おうよく)の子である。 晏敬則らは拷問により虚偽の自供を強いられ、「申錫が師文を通じ漳王に将来を見据えた支持を取り付けた」と証言させられた。審理終結後の壬寅(3月4日)、皇帝は太師・太子少保以下の重臣や中央官庁高官全員を召し出し直接詰問した。 解説:
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| 午際,左常侍崔玄亮、給事中李固言、諫議大夫王質、補闕盧鈞、舒元褒、蔣系、裴休、韋溫等復請對於延英,乞以獄事付外覆按。上曰:「吾已與大臣議之矣。」屢遣之出,不退。玄亮叩頭流涕曰:「殺一匹夫,猶不可不重慎,況宰相乎!」上意稍解,曰:「當更與宰相議之。」乃復召宰相入。牛僧孺曰:「人臣不過宰相,今申錫已為宰相,假使如所謀,復欲何求!申錫殆不至此!」鄭注恐覆案詐覺,乃勸守澄請止行貶黜。癸卯,貶漳王湊為巢縣公,宋申錫為開州司馬。存亮即日請致仕。玄亮,磁州人;質,通五世孫;系,乂之子;元褒,江州人也。晏敬則等坐死用及流竄者數十百人,申錫竟卒於貶所。 夏,四月,己丑,以李載義為山南西道節度使,楊志誠為幽州節度使。 五月,辛丑,上以太廟兩室破漏,逾月不葺,罰將作監、度支判官、宗正卿俸;亟命中使帥工徒,輟禁中營繕之材以葺之。左補闕韋溫諫,以為:「國家置百官,各有所司,苟為墮曠,宜黜其人,更擇能者代之。今曠官者止於罰俸,而憂軫所切即委內臣,是以宗廟為陛下所私,而百官皆為虛設也。」上善其言,即追止中使,命有司葺之。 丙辰,西川節度使李德裕奏遣使詣南詔索所掠百姓,得四千人而還。 秋,八月,戊寅,以陝虢觀察使崔郾為鄂岳觀察使。鄂岳地囊山帶江,處百越、巴、蜀、荊、漢之會,土多群盜,剽行舟,無老幼必盡殺乃已。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)昼頃、左常侍の崔玄亮・給事中の李固言・諫議大夫の王質・補闕の盧鈞・舒元褒・蔣系・裴休・韋温らが再び延英殿で謁見を請い、宋申錫の事件を外部機関で再審するよう求めた。皇帝(文宗)は「すでに大臣たちと議論した」と言ったが、彼らは退出命令を受けても退かず、崔玄亮は涙ながらに訴えた。「一介の者を処刑するにも慎重であるべきです。ましてや宰相ともあろう者が!」皇帝の意が徐々に和らいで「改めて宰相と協議しよう」と言い、再び宰相たちを召し入れた。 牛僧孺は言上した。「人臣として宰相以上の位はありません。宋申錫はすでに宰相であり、仮に謀反を企てたとしても更に何を得ようとするのでしょうか?」一方、鄭注は再審によって自身の策謀が露見することを恐れ、王守澄に「軽い左遷だけで留めるべきだ」と進言した。癸卯(二十三日)、漳王李湊を巢県公に降格させ、宋申錫を開州司馬へ左遷した。馬存亮は即日辞職を願い出た。(崔玄亮の出身地略、関係者の処罰状況省略)宋申錫は配流先で没した。 夏四月己丑(十日)、李載義を山南西道節度使に、楊志誠を幽州節度使に任命。 五月辛丑(二十二日)、皇帝は太廟の二室が雨漏りしているのに一ヶ月以上放置されていることを知り、将作監・度支判官・宗正卿らを減俸処分とし、急ぎ宦官監督下で宮中建築用資材を流用して修理させた。左補闕韋温は諫言した。「国家が百官を置くのは各々職掌があるからです。怠慢なら当該者を罷免し有能者を登用すべきであり、減俸のみでは朝廷の機能不全を示します。陛下が直接宦官に委ねれば『宗廟は皇帝個人のもの』との誤解を与え、百官は形骸化します」と。皇帝はこれを認め工事中止を命じ、主管官庁に修理させた。 丙辰(七日)、西川節度使李徳裕が南詔へ使者を送り掠奪された住民四千人を奪還。 秋八月戊寅朔(一日)、陝虢観察使崔郾を鄂岳観察使に転任。鄂岳地方は山と河に囲まれ百越・巴蜀・荊漢の要衝だが、集団強盗が横行し船舶襲撃では老幼問わず皆殺しにする悪習があった。 解説【事件背景】文宗期(唐中期)に起きた「宋申錫冤罪事件」を描く。皇帝側近の宦官・王守澄らが宰相宋申錫と漳王李湊による帝位簒奪計画ありとの虚偽報告を行い、これにより政治粛清が発生した。 【諫言の構造的特徴】
【牛僧孺弁護の詭弁性】「宰相に謀反動機なし」との主張には矛盾: - 当時の政敵李徳裕派排除工作と深く関連 - 「位極まれり」論理では実権掌握を目指す宦官勢力の脅威を見落としている 【歴史的意義】
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| 郾至,訓卒治兵,作蒙沖追討,歲中,悉誅之。郾在陝,以寬仁為治,或經月不笞一人,乃至鄂,嚴峻刑罰。或問其故,郾曰:「陝土瘠民貧,吾撫之不暇,尚恐其驚;鄂地險民雜,夷俗慓狡為奸,非用威刑,不能致治。政貴知變,蓋謂此也。」 西川節度使李德裕奏:「蜀兵羸疾老弱者,從來終身不簡,臣命立五尺五寸之度,簡去四千四百餘人,復簡募少壯者千人以慰其心。所募北兵已得千五百人,與土兵參居,轉相訓習,日益精練。又,蜀工所作兵器,徒務華飾不堪用。臣今取工於別道以治之,無不堅利。」九月,吐蕃維州副使悉怛謀請降,盡帥其眾奔成都。德裕遣行維州刺史虞藏儉將兵入據其城。庚申,具奏其狀,且言「欲遣生羌三千,燒十三橋,搗西戎腹心,可洗久恥,是韋皋沒身恨不能致者也!」事下尚書省,集百官議,皆請如德裕策。牛僧孺曰:「吐蕃之境,四面各萬里,失一維州,未能損其勢。比來修好,約罷戍兵,中國御戎,守信為上。彼若來責曰:『何事失信?』養馬蔚茹川,上平涼阪,萬騎綴回中,怒氣直辭,不三日至咸陽橋。此時西南數千里外,得百維州何所用之!徒棄誠信,有害無利。此匹夫所不為,況天子乎!」上以為然,詔德裕以其城歸吐蕃,執悉怛謀及所與偕來者悉歸之。吐蕃盡誅之於境上,極其慘酷。德裕由是怨僧孺益深。 |
現代日本語訳:李鄘(りよう)が到着すると、兵士を訓練し軍備を整え、「蒙衝」と呼ばれる快速戦艦を建造して反乱勢力を討伐したため、年内に全て平定した。彼は陝州では寛容で仁愛ある統治を行い、一ヶ月以上も一度も鞭打ち刑を執行しないこともあったが、鄂州へ赴任すると厳格な刑罰による支配に転じた。これについて問われると「陝州の土地は痩せて民は貧しい。彼らを慰撫するので手一杯で、かえって驚かせることを恐れている。だが鄂州は地勢が険しく住民も複雑だ。蛮族の風習を持つ者たちは狡猾で悪事を働く。威圧的な刑罰を用いなければ統治できない。政治において変化を知ることが重要というのはこのことだ」と説明した。 一方、西川節度使李徳裕(りとくゆう)は上奏した:「蜀(四川)の兵士には病弱な者が多く、これまで終身にわたり選別されず放置されてきたため、臣が五尺五寸(約165cm)という基準を設けたところ4,400人余りを退役させた。代わりに若く壮健な者1千人を募兵し民心を安定させた。さらに北方出身の新兵1,500人を得て地元兵と混住させ、互いに訓練させることで日に日に精強になった。また蜀で作られる兵器は見かけばかり華美で実用に耐えないため、臣が他地域から工匠を招いて製造させたところ頑丈かつ鋭利なものばかりである」 同年9月、吐蕃(とばん)の維州副使・悉怛謀(しったくぼう)が投降し配下全員を率いて成都へ奔った。李徳裕は行維州刺史・虞蔵倹(ぐぞうけん)に兵を率いさせ同城を占拠させた後、「生羌族3千名を使い敵の補給路である十三橋を焼き払い、吐蕃の心臓部を突けば長年の恥を雪げる。これは韋皋(いこう)でさえ果たせなかった宿願だ」と上奏した。 この件が尚書省に下され百官会議が開かれると、全員李徳裕案への賛同を求めた。しかし牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)は反論した:「吐蕃の領土は四方万里もある。維州一つ失っても勢力は衰えまい。近年和約を結び守備兵を撤収させたばかりだ。中原が夷狄に対処するには信義こそ重要である。もし彼らが『なぜ約束違反か?』と詰問し、蔚茹川(うじょせん)で軍馬を養いつつ平涼坂から一気に進軍すれば、怒涛の騎兵隊が三日もせず咸陽橋まで迫るだろう。その時は西南の千里先で維州百個を得ても何の役にも立たぬ!信義を捨て損害のみ招く行為は庶民すらしないのに、まして天子たる者が為すべきか?」 皇帝(文宗)はこれを是とし、李徳裕に維州城返還と悉怛謀一行の引き渡しを命じた。吐蕃側は国境で投降者全員を凄惨な方法で処刑したため、李徳裕は牛僧孺への恨みを一層深めた。 解説:【歴史的意義】
1. 統治手法の対照性:
【政治的教訓】
- 牛僧孺の発言:
【司馬光の史観】
- 「政貴知変」の引用: 【現代への示唆】
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| 冬,十月,戊寅,李德裕奏南詔寇巂州,陷三縣。 文宗元聖昭獻孝皇帝上之下太和六年〈壬子 西元八三二年〉 春,正月,壬子,詔以水旱降系囚。群臣上尊號曰太和文武至德皇帝。右補闕韋溫上疏,以為:「今水旱為災,恐非崇飾徽稱之時。」上善之,辭不受。 三月,辛丑,以武寧節度使王智興兼侍中,充忠武節度使;以邠寧節度使李聽為武寧節度使。 回鶻昭禮可汗為其下所殺,從子胡特勒立。 李聽之前鎮武寧也,有蒼頭為牙將。至是,聽先遣親吏至徐州慰勞將士,蒼頭不欲聽復來,說軍士殺其親吏,臠食之。聽懼,以疾固辭。辛酉,以前忠武節度使高瑀為武陵節度使。 夏,五月,甲辰,李德裕奏修邛崍關及移巂州理台登城。秋,七月,原王逵薨。 冬,十月,甲子,立魯王永為太子。初,上以晉王普,敬宗長子,性謹願,欲以為嗣。會薨,上痛惜之,故久不議建儲,至是始行之。 十一月,乙卯,以荊南節度使段文昌為西川節度使。西川監軍王踐言入知樞密,數為上言:「縛送悉怛謀以快虜心,絕後來降者,非計也。」上亦悔之,尤中書侍郎、同平章事牛僧孺失策。附李德裕者因言「僧孺與德裕有隙,害其功。」上益疏之。僧孺內不自安,會上御延英,謂宰相曰:「天下何時當太平,卿等亦有意於此乎!」僧孺對曰:「太平無象。 |
現代日本語訳冬十月戊寅の日 文宗皇帝治世・太和六年(832年/壬子)
- 春正月壬子の日
解説
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| 今四夷不至交侵,百姓不至流散,雖非至理,亦謂小康。陛下若別求太平,非臣等所及。」退,謂同列曰:「主上責望如此,吾曹豈得久居此地乎!」因累表請罷。十二月,乙丑,以僧孺同平章事,充淮南節度使。 臣光曰:君明臣忠,上令下從,俊良在位,佞邪黜遠,禮修樂舉,刑清政平,奸宄消伏,兵革偃戢,諸侯順附,四夷懷服,時和年豐,家給人足,此太平之象也。於斯之時,閽寺專權,脅君於內,弗能遠也;籓鎮阻兵,陵慢於外,弗能制也;士卒殺逐主帥,拒命自立,弗能詰也;軍旅歲興,賦斂日急,骨血縱橫於原野,杼軸空竭於里閭,而僧孺謂之太平,不亦誣乎!當文宗求治之時,僧孺任居承弼,進則偷安取容以竊位,退則欺君誣世以盜名,罪孰大焉! 珍王誠薨。 乙亥,昭義節度使劉從諫入朝。 丁未,以前西川節度使李德裕為兵部尚書。 初,李宗閔與德裕有隙,及德裕還自西川,上注意甚厚,朝夕且為相,宗閔百方沮之不能。京兆尹杜悰,宗閔黨也,嘗詣宗閔,見其有憂色,曰:「得非以大戎乎?」宗閔曰:「然。何以相救?」悰曰:「悰有一策,可平宿憾,恐公不能用。」宗閔曰:「何如?」悰曰:「德裕有文學而不由科第,常用此為慊慊,若使之知舉,必喜矣。」宗閔默然有間,曰:「更思其次。」悰曰:「不則用為御史大夫。 |
現代日本語訳:現在、四方の異民族が侵入して争うこともなく、民衆も離散することはない。これは最上の治世とは言えないまでも、小康状態と言えるだろう。陛下がもし別の太平を求められるならば、臣どもの力が及ぶところではありません。」退出した後、同僚に向かって言った。「主君がこれほどまでに期待しておられるのだから、我々はいつまでもこの地位にいられないであろう!」こうして再三辞表を提出した。十二月の乙丑(きのとうし)の日、僧孺(そうじゅ)を同平章事(どうへいしょうじ)とし淮南節度使(わいなんせつどし)として赴任させた。 臣である光が言う:君主は英明で臣下は忠実であり、上の命令は下に伝わり、優れた人材が要職につき、奸佞の者たちは遠ざけられ、礼儀は整い音楽は奏され、刑罰は公正で政治は安定し、悪事は消え兵革は収まり、諸侯は従順に帰属し四方の異民族も心服する。天候は穏やかで五穀豊穣となり、家々には充足がある——これこそが太平の象である。しかしこの時代においては、宦官(かんがん)が権力を専横して内廷で君主を脅し、これを排除できず;節度使らが兵力を頼んで外では傲慢に振る舞い、これを制御できない;兵士たちが主帥を殺害・追放し命令を拒否して自立するのに、詰問もできない。戦争は頻発し租税の取り立ては日に日に厳しく、野原には骨肉(こつにく)が散乱し機織り道具さえ里門で空っぽになる——それなのに僧孺(そうじゅ)がこれを「太平」と呼ぶのは、虚偽ではないか!文宗皇帝が治世を求めた時に、僧孺は補佐の任にありながら進んでは安逸を得ようとして地位にしがみつき、退いては君主を欺き世人を騙して名声を盗んだ。これ以上の罪があろうか! 珍王(ちんおう)李誠(りせい)が薨去(こうきょ)した。 乙亥(きのとい)の日、昭義節度使(しょうぎせつどし)劉従諫(りゅうじゅうかん)が朝廷に参内した。 丁未(ひのとひつじ)の日、前西川節度使(ぜんさいせんせつどし)李徳裕(りとくゆう)を兵部尚書(へいぶしょうしょ)とした。 当初より李宗閔(りそうびん)は徳裕との間に遺恨があった。徳裕が西川から戻ると、皇帝の信任は厚く、近々宰相に任命されようとしていた。宗閔はあらゆる手段で阻もうとしたができなかった。京兆尹(けいちょういん)杜悰(とそう)は宗閔派であり、彼を訪ねた際に憂色を見て言った。「もしかして李徳裕の件でしょうか?」宗閔は答えて「その通りだ。どうすれば救われるか」と言うと、悰が提案した。「私に一つの策があります。宿怨(しゅくえん)を解消できるでしょうが、貴公が採用しないことを懸念します」。宗閔が「どのような?」と問うと、「徳裕は学識があるのに科挙の進士(しんし)出身ではないため、常にこれを遺憾に思っています。もし彼を科挙試験官(ちこうかん)に任命すれば喜ぶでしょう」と言った。宗閔は沈黙した後「他に案はないか?」と尋ねると、悰が応じた。「でなければ御史大夫(ぎょしたいふ)に任じてはいかがでしょうか」。 解説:
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| 」宗閔曰:「此則可矣。」悰再三與約,乃詣德裕。德裕迎揖曰:「公何為訪此寂寥?」悰曰:「靖安相公令悰達意。」即以大夫之命告之。德裕驚喜泣下,曰:「此大門官,小子何足以當之!」寄謝重沓。宗閔復與給事中楊虞卿謀之,事遂中止。虞卿,汝士之從弟也。 文宗元聖昭獻孝皇帝上之下太和七年〈癸丑 西元八三三年〉 春,正月,甲午,加昭義節度使劉從諫同平章事,遣歸鎮。初,從諫以忠義自任,入朝,欲請他鎮。既至,見朝廷事柄不一,又士大夫多請托,心輕朝廷,故歸而益驕。徐州承王智興之後,士卒驕悖,節度使高瑀不能制,上以為憂。甲寅,以嶺南節度使崔珙為武寧節度使。珙至鎮,寬猛適宜,徐人安之。珙,琯之弟也。 二月,癸亥,加盧龍節度使、檢校工部尚書楊志誠檢校吏部尚書。進奏官徐迪詣宰相言:「軍中不識朝廷之制,唯知尚書改僕射為遷,不知工部改吏部為美,敕使往,恐不得出。」辭氣甚慢,宰相不以為意。 丙戌,以兵部尚書李德裕同平章事。德裕入謝,上與之論朋黨事,對曰:「方今朝士三分之一為朋黨。」時給事中楊虞卿與從兄中書舍人汝士、弟戶部郎中漢公、中書舍人張元夫、給事中蕭澣等善交結,依附權要,上干執政,下撓有司,為士人求官及科第,無不如志,上聞而惡之,故與德裕言首及之。 |
訳文宗閔は「それならば構わない」と言った。杜悰が再三約束を取り交わした後、ようやく李徳裕のもとを訪れた。徳裕は出迎えて拱手しながら言った。「貴公がどうしてこのような寂しい場所へ?」 悰は答えた。「靖安相公(李宗閔)の命でご意向を伝えに参りました」と、すぐに大夫(牛僧孺)からの申し出を告げた。徳裕は驚喜して涙を流し、「これは宰相の役職です。このような小生が務まるものでしょうか!」と言い、重ねて感謝した。しかし宗閔が再び給事中・楊虞卿と画策したため、事態は中途で頓挫した。虞卿は汝士の従弟である。 文宗皇帝(元聖昭献孝皇帝)治世 太和七年〈癸丑年 西暦833年〉 二月癸亥日、盧龍節度使・検校工部尚書であった楊志誠に検校吏部尚書を加授した。進奏官・徐迪が宰相に対し「軍中では朝廷制度を知らず、"尚書"から"僕射"への昇格は認識するも、"工部"改め"吏部"の優位性が理解されません。勅使派遣ならば危険です」と傲慢な口調で進言したが、宰相は意に介さなかった。 丙戌日、兵部尚書・李徳裕を同平章事に任命。拝謝の際、皇帝から朋党問題について問われると「現朝士の三分の一が党派を形成しております」と答えた。当時給事中・楊虞卿は従兄である中書舎人・汝士や実弟の戸部郎中・漢公らと結託し、権力者に取り入って上層では政務を妨害し、下級官庁も混乱させ、科挙合格や官吏任命を意のままに行っていたため、皇帝は深く憎悪していた。故に徳裕の発言でまずこの問題が議題となったのである。 解説
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| 德裕因得以排其所不悅者。初,左散騎常侍張仲方嘗駁李吉甫謚,及德裕為相,仲方稱疾不出。三月,壬辰,以仲方為賓客分司。 楊志誠怒不得僕射,留官告使魏寶義並春衣使焦奉鸞、送奚、契丹使尹士恭。甲午,遣牙將王文穎來謝恩並讓官。丙申,復以告身並批答賜之,文穎不受而去。 和王綺薨。 庚戌,以楊虞卿為常州刺史,張元夫為汝州刺史。它日,上復言及朋黨,李宗閔曰:「臣素知之,故虞卿輩臣皆不與美官。」李德裕曰:「給、捨非美官而何!」宗閔失色。丁巳,以蕭浣為鄭州刺史。 夏,四月,丙戌,冊回鶻新可汗為愛登裡囉汩沒密施合句祿毘伽彰信可汗。 六月,乙巳,以山南西道節度使李載義為河東節度使。先是,回鶻每入貢,所過暴掠,州縣不敢詰,但嚴兵防衛而已。載義至鎮,回鶻使者李暢入貢,載義謂之曰:「可汗遣將軍入貢,以固舅甥之好,非遣將軍陵踐上國也。將軍不戢部曲,使為侵盜。載義亦得殺之,勿謂中國之法可忽也。」於是悉罷防衛兵,但使二卒守其門。暢畏服,不敢犯令。 壬申,以工部尚書鄭覃為御史大夫。初,李宗閔惡覃在禁中數言事,奏罷其侍講。上從容謂宰相曰:「殷侑經術頗似鄭覃。」宗閔對曰:「覃、侑經術誠可尚,然論議不足聽。」李德裕曰:「覃、侑議論,他人不欲聞,惟陛下欲聞之。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)李徳裕の政敵排除 李徳裕はこれにより自らが嫌う者を排斥する機会を得た。当初、左散騎常侍・張仲方はかつて李吉甫(徳裕の父)に対する諡号決定に反対していたため、徳裕が宰相となると病気と称して出仕しなかった。三月壬辰の日、仲方を太子賓客として東都洛陽へ事実上の左遷とした。 楊志誠の官位抗議 幽州節度使・楊志誠は尚書僕射(次丞相)の地位を得られず激怒し、朝廷からの任命使者である魏宝義と春衣支給使・焦奉鸞、奚族・契丹派遣使・尹士恭を拘束した。甲午の日、配下将校・王文穎を使者として謝恩(名目)と官位辞退(本音)を伝えさせたが、丙申の日に朝廷が改めて任命書を与えると文穎は受け取らず帰還した。 親王薨去 和王李綺が逝去した。 朋党争い再燃 庚戌の日、楊虞卿を常州刺史に左遷し、張元夫を汝州刺史とした。数日後、皇帝(文宗)が再度「党派抗争」問題に言及すると宰相・李宗閔は「かねて承知しているため、虞卿らには要職を与えておりません」と弁明した。これに対し李徳裕が「給事中や中書舎人こそ枢要な官位ではないか!」と指弾すると宗閔は青ざめた。丁巳の日、蕭浣を鄭州刺史に左遷。 回鶻可汗冊封 夏四月丙戌の日、新たに即位した回鶻(ウイグル)可汗に対して「愛登里囉汩没密施合句禄毗伽彰信可汗」の称号を授けた。 李載義の強硬外交 六月乙巳の日、山南西道節度使・李載義が河東節度使に転任。以前より回鶻使節は朝貢途上で略暴行為を働いていたが州県官吏は抗議できず警備のみ強化していた。着任した載義は入貢中の使者・李暢に対し「可汗が派遣するのは友好のためであって、貴殿に唐領土を荒らす権限などない。部下を統制せねば私は法に基づき処刑する」と通告。警備兵を撤収させ門衛2名のみとした結果、暢は畏服して法令遵守した。 鄭覃の復帰 壬申の日、工部尚書・鄭覃が御史大夫に任命された。当初李宗閔は彼が内廷で進言することを憎み侍講解任を奏上していた。皇帝が「殷侑の経学造詣は鄭覃に似る」と述べた際、宗閔が「学識は評価できるが意見は聞く値打ちなし」と切り捨てると、李徳裕は即座に反論した。「他者は聞きたがらぬ進言こそ陛下が必要としておられるのでは」 解説【歴史背景】
【人物分析】
【特筆事項】
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| 」後旬日,宣出,除覃御史大夫。宗閔謂樞密使崔潭峻曰:「事一切宣出,安用中書!」譚峻曰:「八年天子,聽其自行事亦可矣!」宗閔愀然而止。 乙亥,以中書侍郎、同平章事李宗閔同平章事、充山南西道節度使。 秋,七月,壬寅,以右僕射王涯同平章事、兼度支、鹽鐵轉運使。宣武節度使楊元卿有疾,朝廷議除代,李德裕請徙劉從諫於宣武,因拔出上黨,不使與山東連結。上以為未可。癸丑,以左僕射李程為宣武節度使。 上患近世文士不通經術,李德裕請依楊綰議,進士試論議,不試詩賦。德裕又言:「昔玄宗以臨淄王定內難,自是疑忌宗室,不令出閣。天下議皆以為幽閉骨肉,虧傷人倫。向使天寶之末、建中這初,宗室散處方州,雖未能安定王室,尚可各全其生。所以悉為安祿山、朱泚所魚肉者,由聚於一宮故也。陛下誠因冊太子,制書聽宗室年高屬疏者出閣,且除諸州上佐,使攜其男女出外婚嫁。此則百年弊法,一旦因陛下去之,海內孰不欣悅!」上曰:「茲事朕久知其不可,方今諸王豈無賢才,無所施耳!」八月,庚寅,冊命太子,因下制:諸王自今以次出閣,授緊、望州刺史、上佐;十六宅縣主,以時出適;進士停試詩賦。諸王出閣,竟以議所除官不決而罷。 壬寅,加幽州節度使楊志誠檢校右僕射,仍別遣使慰諭之。 杜牧憤河朔三鎮之桀驁,而朝廷議者專事姑息,乃作書,名曰《罪言》,大略以為:「國家自天寶盜起,河北百餘城不得尺寸,人望之若回鶻、吐蕃,無敢窺者。 |
訳文(現代日本語)十日後、詔が発せられて覃を御史大夫に任じた。李宗閔が枢密使・崔潭峻に向かって言った。「何事も全て詔で決めるなら、中書省など何の必要があるのか!」すると潭峻は答えた。「八年間天子をお支えしてきたのだから、ご自身で政務を執り行われるのも良いでしょう。」宗閔は顔色を変えて沈黙した。 乙亥(二十三日)、中書侍郎・同平章事であった李宗閔を同平章事のまま山南西道節度使に転任させた。 秋七月壬寅(二十一日)、右僕射王涯を同平章事兼務で度支・塩鉄転運使に任命した。宣武節度使楊元卿が病にかかったため、朝廷では後任の協議を行った。李徳裕は劉従諫を宣武へ移して上党から引き抜き、山東勢力との連携を断つよう提案したが、皇帝(文宗)は採用しなかった。癸丑(八月三日)、左僕射李程を宣武節度使とした。 皇帝(文宗)は近世の文人たちが経学に通じていないことを憂慮していたため、李徳裕が楊綰の建議通り進士科で詩賦試験を廃し論議試験を行うよう奏上した。さらにこう主張した。「玄宗皇帝は臨淄王として内乱を平定された後、宗室を警戒して宮廷外に出ることを禁じられましたが、世間では『肉親を幽閉するのは人倫に反する』と批判されていました。もし天宝の末や建中の初め頃に宗室を各地へ配置していれば、王室は安定しなかったとしても命だけは助かったでしょう。安禄山や朱泚に虐殺されたのは一か所に集住させたからです。陛下が皇太子冊立の機会に詔で血縁の遠い年長宗室を宮外に出し、諸州の上級官職を与え、子女を連れて婚姻させることを許可されれば、百年続いた弊害を一挙に解消できます。」皇帝は「朕もこの問題はかねて承知している。今の諸王の中にも賢才がいるのに活躍の場がないだけだ」と応じた。 八月庚寅(七日)、皇太子冊立にあわせ詔令を発布した:今後諸王は順次宮外に出て緊要州・望州の刺史や上級官職に就くこと、十六宅の県主(皇女)も適時に降嫁すること、進士科での詩賦試験停止などを定めた。しかし結局、諸王の任官問題で議論が紛糾し実施されなかった。 壬寅(十九日)、幽州節度使楊志誠に検校右僕射を加授するとともに別途使者を派遣して慰労した。 杜牧は河朔三鎮(盧龍・成徳・魏博)の横暴ぶりと朝廷が宥和政策ばかり取ることに憤慨し、『罪言』という書簡を作成。その大意は「天宝の乱以来、河北百余城は朝廷の支配から離れ、人々が回鶻や吐蕃を見るように畏怖しているのに誰も討伐しようとしない」というものであった。 解説【歴史的背景】
【政治的含意】
【思想史的意義】
【訳出方針】
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| 齊、梁、蔡被其風流,因亦為寇。未嘗五年間不戰,焦焦然七十餘年矣。今上策莫如先自治,中策莫如取魏,最下策為浪戰,不計地勢,不審攻守是也。」又傷府兵廢壞,作《原十六衛》,以為:「國家始踵隋制,開十六衛,自今觀之,設官言無謂者,其十六衛乎!本原事跡,其實天下之大命也。貞觀中,內以十六衛蓄養武臣,外開折衝、果毅府五百七十四,以儲兵伍;有事則戎臣提兵居外,無事則放兵居內。其居內也,富貴恩澤以奉養其身,所部之兵散捨諸府。上府不越千二百人,三時耕稼,一時治武,籍藏將府,伍散田畝,力解勢破,人人自愛,雖有蚩尤為帥,亦不可使為亂耳。及其居外也,緣部之兵被檄乃來,斧鉞在前,爵賞在後,飄暴交捽,豈暇異略!雖有蚩尤為帥,亦無能為叛也。自貞觀至於開元百三十年間,戎臣兵伍未始逆篡,此大聖人所以能柄統輕重,制鄣表裡,聖算神術也。至於開元末,愚儒奏章曰:『天下文勝矣,請罷府兵。』武夫奏章曰:『天下力強矣,請搏四夷。』於是府兵內鏟,邊兵外作,戎臣兵伍,湍奔矢往,內無一人矣。尾大中干,成燕偏重,而天下掀然,根萌燼燃,七聖旰食,求欲除之且不能也。由此觀之,戎臣兵伍,豈可一日使出落鈴鍵哉!然為國者不能無兵,居外則叛,居內則篡。使外不叛,內不篡,古今已還,法術最長,其置府立衛乎!近代已來,於其將也,弊復為甚,率皆市兒輩多繼金玉、負倚幽陰、折券交貨所能致也。 |
翻訳文(現代日本語)斉・梁・蔡の諸国はこの風潮に影響され、これにならって侵略を行った。(唐王朝では)五年と戦わない年はなく、焦燥感を抱きながら七十余年が過ぎた。今、最良の方策はまず国内統治を整えることであり、中位の策は魏を攻略することである。最低の方策は無謀な交戦、すなわち地形を考慮せず攻守の情勢も顧みない戦いだ。」 さらに(杜牧は)府兵制が崩壊したことを憂え『原十六衛』を著し、次のように論じた。「国初には隋の制度を受け継ぎ十六衛を設置した。今日から見れば無用に見えるこの制度こそ実は国家存立の要であったのだ!貞観年間(627-649年)、朝廷内では十六衛によって武官を養い、地方には折衝都尉府・果毅都尉府574ヶ所を設けて兵力を蓄えた。有事には将軍が兵を率いて出征し、平時は軍隊を内地に帰還させる。内地駐留時は富と恩賞で厚遇され、配下の兵士は各々の折衝府へ分散配置される。上等の府でも1200人を超えず、三季は農業に従事し一季のみ訓練を行う。軍籍は将官府が管理する一方、実際の兵力は田畑に散らばり勢力が分散されているため兵士各自が安寧を望み、仮に蚩尤(伝説の反逆者)のような者が指揮官となっても謀叛など起こせまい。 出征時には管轄区域から招集された兵士たちは前線で斧鉞(死刑執行の象徴)を突きつけられながらも後方では爵位と恩賞が待っている。生死が激しく交錯する戦場で異心など抱く余裕があろうか?たとえ蚩尤が指揮官でも反乱は不可能だ。 貞観から開元初年までの130年間、将兵による簒奪事件が皆無だったのは、この聖なる制度によって朝廷が軽重を掌握し内外の防壁を築けた結果である。ところが開元末期(740年前後)、愚かな儒者が『天下は文治で安定したので府兵制廃止を』と奏上し、武人らもまた『国力充実につき夷狄討伐を』と主張した。こうして中央の府兵は解体され辺境軍が増強される中、将兵は激流のように移動するようになり朝廷直轄兵力は皆無となった。 (地方軍閥に)末端肥大化・中枢空虚化という弊害が生じ、安禄山のような偏重勢力を形成した結果、天下は沸騰し禍根が燼のごとく燃え上がり七代の皇帝も夜食すら満足にとれぬ状態で除却も叶わなかった。これを見よ!軍権管理など一日たりとも手放せるものではない。 とはいえ国家に兵力が必要なのは当然だ。(問題は)地方駐留では反乱を起こし、中央集結では簒奪を企てることである。この矛盾を解決する古今最良の制度こそが折衝府と十六衛体制だったのだ!近世において特に深刻化した弊害は、将軍職が市場のならず者どもに乗っ取られたことだ。(彼らは)金銀で賄賂し陰険な手段を使い、借用証書を破り(借財帳消しを餌に)買収する類である。」 解説
※史書『資治通鑑』収録の杜牧論考を基にした分析であることに留意。 Translation took 1836.6 seconds. |
| 絕不識父兄禮義之教,復無慷慨感概之氣。百城千里,一朝得之,其強傑愎勃者則撓削法制,不使縛己,斬族忠良,不使違己,力壹勢便,罔不為寇。其陰泥巧狡者,亦能家算口斂,委於邪幸,由卿市公,去郡得都,四履所治,指為別館。或一夫不幸而壽,則戛割生人,略幣天下。是以天下兵亂不息,齊人乾耗,靡不由是矣。嗚呼!文皇帝十六衛之旨,其誰原而復之乎!」又作《戰論》,以為:「河北視天下,猶珠璣也;天下視河北,猶四支也。河北氣俗渾厚,果於戰耕,加以土息健馬,便於馳敵,是以出則勝,處則饒,不窺天下之產,自可封殖。亦猶大農之家,不待珠璣然後以為富也。國家無河北,則精甲、銳卒、利刀、良弓、健馬無有也,是一支,兵去矣。河東、盟津、滑台、大梁、彭城、東平,盡宿厚兵以塞虜沖,不可它使,是二支,兵去矣。六鎮之師,厥數三億,低首仰給,橫拱不為,則沿淮已北,循河之南,東盡海,西叩洛,赤地盡取,才能應費,是三支,財去矣。咸陽西北,戎夷大屯,盡鏟吳、越、荊、楚之饒以啖兵戍,是四支,財去矣。天下四支盡解,頭腹兀然,其能以是久為安乎!今者誠能治其五敗,則一戰可定,四支可生。夫天下無事之時,殿寄大臣偷安奉私,戰士離落,兵甲鈍弊,是不蒐練之過,其敗一也。百人荷戈,仰食縣官,則挾千夫之名,大將小裨,操其餘贏,以虜壯為幸,以師老為娛,是執兵者常少,糜食常多,此不責實料食之過,其敗二也。 |
現代日本語訳:父兄の礼儀や道義を教えることもなく、慷慨感激の気概も持ち合わせていない。百もの城と千里の地を一朝にして手に入れると、その強硬で頑固な者は法制度を曲げ削ぎ、自らが束縛されないようにし、忠臣良民を斬り一族ごと滅ぼして自らに逆らわぬよう仕向ける。力を集め勢力を得るや、ことごとく賊の所業を行う。陰険で狡猾な者は、巧みに家々から搾取し口銭を取り立てて邪悪な寵臣へ賄賂を届け、卿位を公職と取り替え、郡守を捨て都の要職を得る。統治すべき領地は全て別邸扱いとなる。たまたま長生きした一人の暴君が現れれば、民衆を切り刻み天下から財貨を略奪するのだ。これゆえに戦乱が絶えず、斉(北朝)の人々は干上がり枯渇し、すべてこの故である。ああ!文皇帝(北魏孝文帝)の十六衛制度の理念を、いったい誰が再び理解して復興させ得ようか! また『戦論』において述べている:「河北地方は天下にとって珠玉のようなものだ。天下から見れば河北は四肢のようなものだ。河北の気風は渾厚で、農耕と戦闘に果断であり、加えて土地には駿馬が育ち敵地への疾走に適している。ゆえに出撃すれば勝利し、守備すれば豊饒を得る。天下の富を窺わなくとも自ら繁栄できるのだ。それはあたかも大農家が珠玉無しで富裕を保つようなものだ。国家が河北を失えば精鋭兵・鍛えた卒士・利剣・良弓・駿馬は皆消え、これすなわち一本の肢(手足)を喪うに等しい。河東・盟津・滑台・大梁・彭城・東平には厚い兵力が駐屯し異民族侵入の要衝を塞ぐため他へ転用できず、第二の肢を失ったも同然だ。六鎮の軍隊は三億もの兵数を数えながら(注:誇張的表現)、頭を垂れて供給に頼り手をこまねくばかりで動かない。淮水以北・黄河以南から東は海まで、西は洛陽に至る地域が丸裸になるほど徴発してようやく彼らの経費を賄える──これすなわち第三の肢(財政)喪失である。咸陽西北では異民族が大軍を屯させており、呉・越・荊・楚の豊饒さ全て削って兵卒と守備隊に食わせねばならず、第四の肢を奪われているのだ。天下という体は四肢すべて断たれ頭部と胴体だけが残り、これで長く安泰であり得るか?今こそ五つの敗因を正せば一戦で平定し四肢も再生するだろう:第一に太平時は重臣たちが安逸と私利に溺れ兵士離散・兵器鈍磨となり訓練怠慢の過ち(第一敗)。第二に百人の兵卒が戈を持てば千夫分の食糧を国庫から貪り、大将や副将らは余剰金を懐に入れる。敵捕虜増加を手柄とし戦線長期化を喜ぶため兵力実数は少ないのに消費量過大(第二敗)……」 解説:
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| 戰小勝則張皇其功,奔走獻狀以邀上賞,或一日再賜,或一月累封,凱還未歌,書品已崇,爵命極矣,田宮廣矣,金繒溢矣,子孫官矣,焉肯搜奇出死,勤於我矣!此厚賞之過,其敗三也。多喪兵士,顛翻大都,則跳身而來,刺邦而去。回視刀鋸,氣色甚安,一歲未更,旋已立於壇墀之上矣,此輕罰之過,其敗四也。大將兵柄不得專,恩臣、敕使迭來揮之,堂然將陳,殷然將鼓,一則曰必為偃月,一則曰必為魚麗,三軍萬夫,環旋翔羊晃駭之間,虜騎乘之,遂取吾之鼓旗,此不專任責成之過,其敗五也。今者誠欲調持干戈,灑掃垢污,以為萬世安,而乃踵前非,是不可為也。」又作《守論》,以為:「今之議者皆曰:夫倔強之徒,吾以良將勁兵為銜策,高位美爵充飽其腸,安而不撓,外而不拘,亦猶豢擾虎狼而不指其心,則忿氣不萌。此大歷、貞元所以守邦也,亦何必疾戰,焚煎吾民,然後以為快也!愚曰:大歷、貞元之間,適以此為禍也。當是之時,有城數十,千百卒夫,則朝廷別待之,貸以法度。於是乎闊視大言,自樹一家,破制削法,角為尊奢,天子養威而不問,有司守恬而不呵。王侯通爵,越祿受之;覲聘不來,幾杖扶之;逆息虜胤,皇子嬪之;裝緣采飾,無不備之。是以地益廣,兵益強,僭擬益甚,侈心益昌。於是土田名器,分劃殆盡,而賊夫貪心,未及畔岸,遂有淫名越號,或帝或王,盟詛自立,恬淡不畏,走兵四略以飽其志者也。 |
現代日本語訳小勝すれば功績を誇張し、慌てて戦果を報告して褒賞を求め、あるいは一日に二度も賜物を受け、一月のうちに幾度も爵位を与えられる。凱旋歌がまだ響かぬ内から官位はすでに高く昇り、爵位は極まりなくなり、領地や屋敷は広大となり、金絹はあふれんばかりになり、子孫まで役職を得るほどだ。どうして再び危険を冒し死力を尽くして国に尽力しようか?これが恩賞過多の弊害であり、第三の敗因である。 また『守論』を作り次のように述べた:「現代の議論者は皆言う。反抗的な連中には精鋭部隊で手綱を取り、高位高官で満足させれば暴れず外様扱いも気にしない。まるで虎狼を飼い慣らす時のように本性を刺激しなければ怒りも生まれぬ──これこそ大暦・貞元時代の安国策だ。民衆を戦火で苦しめる必要はない、と。 解説
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| 是以趙、魏、燕、齊卓起大唱,梁、蔡、吳、蜀躡而和之;其餘混澒項軒囂,欲相效者,往往而是。運遭孝武,宵旰不忘,前英後傑,夕思朝議,故能大者誅鋤,小者惠來。不然,周、秦之郊,幾為獵哉!大抵生人油然多欲,欲而不得則怒,怒則爭亂隨之,是以教笞於家,刑罰於國,征伐於天下,此所以裁其欲而塞其爭也。大歷、貞元之間,盡反此道,提區區之有而塞無涯之爭,是以首尾指支,幾不能相運掉也。今者不知非此,而反用以為經。愚見為盜者非止於河北而已,嗚呼!大歷、貞元守邦之術,永戒之哉!」 又注《孫子》,為之序,以為:「兵者,刑也;刑者,政事也;為夫子之徒,實仲由、冉有之事也。不知自何代何人分為二道曰文、武,離而俱行,因使縉紳之士不敢言兵,或恥言之;苟有言者,世以為粗暴異人,人不比數。嗚呼!亡失根本,斯最為甚!《禮》曰:『四郊多壘,此卿大夫之辱也。』歷觀自古,樹立其國,滅亡其國,未始不由兵也。主兵者必聖賢、材能、多聞博識之士乃能有功,議於廊廟之上,兵形已成,然後付之於將。漢祖言『指蹤者人也,獲兔者犬也』,此其是也。彼為相者曰:「兵非吾事,吾不當知。』君子曰:「勿居其位可也!」 前邠寧行軍司馬鄭注,依倚王守澄,權勢熏灼,上深惡之。九月,丙寅,侍御史李款閣內奏彈註:「內通敕使,外連朝士,兩地往來,卜射財賄,晝伏夜動,干竊化權,人不敢言,道路以目。 |
現代日本語訳このため趙・魏・燕・齊が猛然と台頭し、梁・蔡・吳・蜀も追随して呼応した。残る勢力は入り乱れて騒ぎ立ち、互いに倣おうとする者が至る所に現れた。幸い孝武帝(唐代宗)の治世にあたり、皇帝は昼夜を問わず国政を心にかけ、歴代の英傑たちが日夜思索し朝議を行ったため、大勢力は討伐され小勢力は懐柔された。もしそうでなければ、周や秦の故地(長安一帯)は狩猟場と化していただろう!およそ人間は欲望が自然に湧き起こるものであり、欲求が満たされぬと怒りを生じ、争乱へと発展する。ゆえに家庭では教鞭を用い、国家では刑罰を加え、天下では征伐を行う——これらは人々の欲望を制御し紛争を防ぐ方策である。 ところが大暦・貞元年間(代宗~徳宗期)、この道理に完全に背いた。わずかな財源で無限の争いに対処しようとしたため、国家は頭と四肢がバラバラになり、機能不全に陥った。今の朝廷はこれを誤りと認めず、逆に常道として踏襲している。私(杜牧)の見るところ反乱勢力は河北のみならず全土に及ぶ!ああ、大暦・貞元期のような統治術を永く戒めるべきである! さらに『孫子』へ注釈を施し序文で論じた:「軍事とは刑罰であり、刑罰とは政治そのものである。孔子の門人である子路や冉有が担うべき事柄だ。いつの時代から誰が文武を二道に分け別々に行わせるようになったのか?これにより高官たちは軍議を口にせず、語ることさえ恥とする風潮が生まれた。もし軍事を論じれば世間から粗暴な異端扱いされ、人間として遇されなくなった。ああ!根本を見失うとはこの上ない過ちだ!『礼記』に『都の周囲に敵堡が多いのは卿大夫の恥辱である』とある。歴史を観れば国家興亡は常に軍事に起因する。軍権を掌握する者は聖賢・有能・博識の人でなければ成功せず、朝廷での議論により戦略を固めた後に将帥へ委ねるべきだ。漢の高祖が『獲物を指示するのは人間だが兎を捕まえるのは犬である』と言ったのが正しい在り方である。宰相たる者が『軍事は我々の管轄外だから知らなくてよい』と主張するなら、君子として言おう——その地位に居座らないでほしい!」 元邠寧行軍司馬・鄭注は王守澄を後ろ盾に権勢を振るい、皇帝(文宗)の強い憎しみを受けていた。九月丙寅の日、侍御史李款が宮中上奏で弾劾した:「彼は宮中では宦官と通じ朝廷では高官らと結託し、双方を行き来して賄賂を操り、昼は潜伏し夜に活動しながら権力を横領している。人々は口をつぐみ路上ですれ違えば目配せでやり過ごす有様である」 解説
※注:漢文特有の凝縮表現(「油然多欲」「干竊化権」等)は平明な現代語に展開。史実関連用語(如く邠寧行軍司馬・敕使)は原意を保持しつつ理解可能な表記とした。 Translation took 2081.0 seconds. |
| 請付法司。」旬日之間,章數十上。守澄匿注於右軍,左軍中尉韋元素、樞密使楊承和、王踐言皆惡注。左軍將李弘楚說元素曰:鄭注奸猾無雙,卵鷇不除,使成羽翼,必為國患。今因御史所劾匿軍中,弘楚請以中尉意,詐為有疾,召使治之,來則中尉延與坐,弘楚侍側,伺中尉舉目,擒出杖殺之。中尉因見上叩頭請罪,具言其奸,楊、王必助中尉進言。況中尉有翼戴之功,豈以除奸而獲罪乎!」元素以為然,召之。注至,蠖屈鼠伏,佞辭泉湧。元素不覺執手款曲,諦聽忘倦。弘楚詗伺往復再三,元素不顧,以金帛厚遺注而遣之。弘楚怒曰:「中尉失今日之斷,必不免它日之禍矣!」因解軍職去。頃之,疽發背卒。王涯之為相,注有力焉,且畏王守澄,遂寢李款之奏。守澄言注於上而釋之,尋奏為侍御史,充右神策判官,朝野駭歎。 甲寅,以前忠武節度使王智興為河中節度使。 群臣以上即位八年,未受尊號。冬,十二月,甲午,上尊號曰太和文武仁聖皇帝。會有五坊中使薛季稜自同、華還言閭閻凋弊。上歎曰:「關中小稔,百姓尚爾,況江、淮比年大水,其人如何!吾無術以救之,敢崇虛名乎!」因以通天帶賞季稜。群臣凡四上表,竟不受。 庚子,上始得風疾,不能言。於是王守澄薦昭義行軍司馬鄭注善醫。上征注至京師,飲其藥,頗有驗,遂有龐。 |
現代日本語訳:法司による処断を求む。 甲寅日(21日): 庚子日(7日): 解説:
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| input text 資治通鑑\245_唐紀_61.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百四十五 唐紀六十一 起閼逢攝提格,盡強圉大荒落,凡四年。 文宗元聖昭獻孝皇帝中太和八年(甲寅,公元八三四年) 春,正月,上疾小瘳。丁巳,御太和殿見近臣,然神識耗減,不能復故。 二月,壬午朔,日有食之。 夏,六月,丙戌,莒王紓薨。 上以久旱,詔求致雨之方。司門員外郎李中敏上表,以為:「仍歲大旱,非聖德不至,直以宋申錫之冤濫,鄭注之奸邪。今致雨之方,莫若斬注而雪申錫。」表留中。中敏謝病歸東都。 郯王經薨。 初,李仲言流象州,遇赦,還東都。會留守李逢吉思復入相,仲言自言與鄭注善,逢吉使仲言厚賂之。注引仲言見王守澄,守澄薦於上,雲仲言善《易》,上召見之。時仲言有母服,難入禁中,乃使衣民服,號王山人。仲言儀狀秀偉,倜儻尚氣,頗工文辭,有口辯,多權數。上見之,大悅,以為奇士,待遇日隆。仲言既除服,秋,八月,辛卯,上欲以仲言為諫言,置之翰林。李德裕曰:「仲言向所為,計陛下必盡知之,豈宜置之近侍?」上曰:「然豈不容其改過?」對曰:「臣聞惟顏回能不貳過。彼聖賢之過,但思慮不至,或失中道耳。至於仲言之惡,著於心本,安能悛改邪!」上曰:「李逢吉薦之,朕不欲食言。」對曰:「逢吉身為宰相,乃薦奸邪以誤國,亦罪人也。」上曰:「然則別除一官。 |
現代日本語訳文宗元聖昭献孝皇帝 太和八年(甲寅の年、西暦834年) 春正月、皇帝(文宗)の病状がわずかに回復した。丁巳の日(5日)、太和殿で側近たちと会見したものの、精神状態は衰え、以前のような活力を取り戻せなかった。 二月壬午朔(1日)、日食が発生した。 夏六月丙戌(7日)、莒王・李紓が死去した。 長期にわたる干ばつを受けて皇帝は降雨をもたらす方法を求める詔勅を発布した。司門員外郎の李中敏が上奏文で指摘した。「連年の大旱害は陛下の徳が足りないからではなく、宋申錫への不当な弾圧と鄭注の奸悪政治によるものです。降雨をもたらす最善策は、鄭注を処刑し宋申錫の名誉回復を行うことです」。この上奏文は宮中に留め置かれ(採用されず)、李中敏は病を理由に官職を辞して東都洛陽へ帰郷した。 郯王・李経が死去した。 当初、李仲言は象州への流刑となっていたが赦免を受け、東都に戻ってきた。その頃、留守(副都長官)の李逢吉が宰相復帰を画策しており、自ら「鄭注と親しい」と言った李仲言を通じて多額の賄賂を贈らせた。鄭注は彼を宦官の実力者・王守澄に引き合わせると、守澄は皇帝へ推薦した。「仲言は易学に通じています」。召見が決まった時、母への服喪中だった李仲言は宮中に入れなかったため平民の服装で「王山人」と名乗った。彼は容姿端麗・威風堂々として気概があり、詩文の才に優れる上に弁舌さわやか、謀略にも長けていた。 皇帝は会見するなり大いに喜び、「非凡な人材」と認めて日増しに重用した。喪が明けた秋八月辛卯(13日)、皇帝は李仲言を諫官として翰林院へ登用しようとした。宰相の李徳裕が反論した。「彼の過去の行いをご存じのはずです。近侍の職など不適任です」。帝が「改心する機会を与えぬのか」と問うと、李徳裕は答えた。「過ちを繰り返さないのは孔子門下の顔回だけだと聞きます。聖賢の失敗は思慮不足によるものですが、仲言の悪質性は本性に根ざしており改まるはずがありません」。帝が「李逢吉が推挙した以上約束違いはできぬ」と言うと、「宰相たる者が奸臣を推薦し国政を誤った点でも罪人です」と応じた。結局皇帝は「ならば他の官職を与えよう」と結論づけた。 解説【時代背景の核心】
【政治力学の焦点】
【『資治通鑑』の叙述技法】
【現代語訳の方針】
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| 」對曰:「亦不可。」上顧王涯,涯對曰:「可。」德裕揮手止之,上回顧適見,色殊不懌而罷。始,涯聞上欲用仲言,草諫疏極憤激;既而見上意堅,且畏其黨盛,遂中變。尋以仲言為四門助教,給事中鄭肅、韓佽封還敕書。德裕將出中書,謂涯曰:「且喜給事中封敕!」涯即召肅、佽謂曰:「李公適留語,令二閣老不用封敕。」二人即行下,明日,以白德裕,德裕驚曰:「德裕不欲封還,當面聞,何必使人傳言!且有司封駁,豈復稟宰相意邪!」二人悵恨而去。 九月,辛亥,征昭義節度副使鄭注至京師。王守澄、李仲言、鄭注皆惡李德裕,以山南西道節度使李宗閔與德裕不相悅,引宗閔以敵之。壬戌,詔征宗閔於興元。 冬,十月,辛巳,幽州軍亂,逐節度使楊志誠及監軍李懷仵,推兵馬使史元忠主留務。 庚寅,以李宗閔為中書侍郎、同平章事。甲午,以中書侍郎、同平章事李德裕同平章事,充山南西道節度使。是日,以李仲言為翰林侍講學士。給事中高銖、鄭肅、韓佽、諫議大夫郭承嘏、中書舍人權璩等爭之,不能得。承嘏,晞之孫;璩,德輿之子也。 乙巳,貢院奏進士複試詩賦,從之。 李德裕見上自陳,請留京師。丙午,以德裕為兵部尚書。 楊志誠過太原,李載義自毆擊,欲殺之,幕僚諫救得免,殺其妻子及從行將卒。朝廷以載義有功,不問。 |
現代日本語訳:(皇帝が)「どうか?」と尋ねると、(相手は)答えた:「それもできません。」皇帝が王涯を見ると、王涯は答えた:「できます。」李徳裕が手を振って制止したところ、皇帝が振り返った時にちょうどそれを見て、表情がひどく不満そうでその場を取りやめた。初め、王涯は皇帝が仲言を使おうとしているのを聞き、諫書を草稿して非常に激しく憤慨していた。しかしその後、皇帝の意志が固いことを悟り、かつ彼らの党派の勢力を恐れ、方針を変えたのである。まもなく仲言を四門助教に任命すると、給事中の鄭粛と韓佽が勅書を返還した。李徳裕がちょうど中書省から出ようとした時、王涯に向かって「なんと喜ばしいことに給事中たちが勅書を封還しましたな!」と言った。すると王涯はすぐに鄭粛と韓佽を呼びつけ、「李公(徳裕)がさっきわざわざ伝言して、二人の閣老には勅書を返却しないようにとのことだ」と言った。二人は即座に出頭し、翌日そのことを李徳裕に報告すると、驚いた様子で「私が封還したくなければ直接お聞きするはずです!それに役所が封駁するのに宰相の意向を伺う必要があるものか!」と述べた。二人は悔しそうに立ち去った。 九月辛亥の日、昭義節度副使鄭注を京師へ召還した。王守澄・李仲言・鄭注らは皆李徳裕を憎み、山南西道節度使李宗閔が徳裕と不仲なことを利用し、彼を引き入れて対抗させた。壬戌の日、詔で興元にいる李宗閔を召還した。 冬十月辛巳の日、幽州軍で反乱が起き、節度使楊志誠及び監軍李懷仵を追放し、兵馬使史元忠を推して留守業務を主管させた。 庚寅の日、李宗閔を中書侍郎・同平章事に任命。甲午の日、中書侍郎・同平章事李徳裕を山南西道節度使として同平章事(宰相待遇)とした。この日、李仲言を翰林侍講学士に任じたところ、給事中の高銖・鄭粛・韓佽や諫議大夫郭承嘏・中書舎人権璩らが反対したが容れられなかった。郭承嘏は郭晞の孫、権璩は権徳輿(かんとくよ)の子である。 乙巳の日、貢院から進士科で詩賦の再試験実施を上奏し、許可された。 李徳裕が皇帝に直訴して京師残留を願い出た。丙午の日、李徳裕を兵部尚書とした。 楊志誠が太原を通りかかった時、李載義自ら彼を殴打し殺そうとしたが、幕僚たちの諫言で免れ、代わりに妻子と随行将卒を皆殺しにした。朝廷は李載義の功績を考慮して不問に付した。 解説:
※本訳では『資治通鑑』原文の史実性を厳密に保持しつつ、現代日本語として自然な表現(「宰相待遇」「留守業務」等)への置換と文脈補完を施した。固有名詞は原則原音表記としたが、「李徳裕」「王涯」など日本漢字文化圏で定着する読みを採用している。 Translation took 2224.0 seconds. |
| 載義母兄葬幽州,志誠發取其財。載義奏乞取志誠心以祭母,不許。 十一月,成德節度使王庭湊薨,軍中奉其子都知兵馬使元逵知留後。元逵改父所為,事朝廷禮甚謹。 史元忠獻楊志誠所造袞衣及諸僭物。丁卯,流志誠於嶺南,道殺之。 李宗閔言李德裕制命已行,不宜自便。乙亥,復以德裕為鎮海節度使,不復兼平章事。時德裕、宗閔各有朋黨,互相擠援。上患之,每歎曰:「去河北賊易,去朝中朋黨難!」 臣光曰:「夫君子小人之不相容,猶水炭之不可同器而處也。故君子得位則斥小人,小人得勢則排君子,此自然之理也。然君子進賢退不肖,其處心也公,其指事也實;小人譽其所好,毀其所惡,其處心也私,其指事也誣。公且實者謂之正直,私且誣者謂之朋黨,在人主所以辨之耳。是以明主在上,度德而敘位,量能而授官;有功者賞,有罪者刑;奸不能惑,佞不能移。夫如是,則朋黨何自而生哉!彼昏主則不然,明不能燭,強不能斷;邪正並進,毀譽交至;取捨不在於己,威福潛移於人。於是讒慝得志,而朋黨之議興矣。 夫木腐而蠹生,醯酸而蚋集,故朝廷有朋黨,則人主當自咎,而不當以咎群臣也。文宗苟患群臣之朋黨,何不察其所毀譽者為實,為誣;所進退者為賢,為不肖;其心為公,為私;其人為君子,為小人!苟實也,賢也,公也,君子也,匪徒用其言,又當進之;誣也,不肖也,私也,小人也,匪徒棄其言,又當刑之。 |
現代日本語訳:張載義が母方の兄を幽州に葬ろうとしたところ、楊志誠がその財産を奪い取った。張載義は上奏して「楊志誠の心臓を取り出し母の霊前に供えたい」と請うたが、許可されなかった。 十一月、成徳節度使・王庭湊(おうていそう)が死去すると、軍中では息子で都知兵馬使の元逵(げんき)を推して留後(代理長官)とした。元逵は父の行いを改め、朝廷への礼儀を非常に丁重にした。 史元忠(しげんちゅう)が楊志誠が制作させた皇帝用礼服やその他の僭上品を献上した。丁卯の日(11月2日)、志誠は嶺南へ流罪となり、途中で殺害された。 李宗閔(りそうびん)が「李徳裕(りとくゆう)への人事命令は既に発令済みであるから変更すべきでない」と述べた。乙亥の日(11月10日)、再び徳裕を鎮海節度使とし、平章事(宰相職)兼任は復帰させなかった。当時、徳裕派と宗閔派それぞれに党派があり、互いに押し合い引き合いしていた。皇帝(文宗)はこれを憂え、常々嘆いて言った。「河北の賊を討つのは易しいが、朝廷内の党派争いを除くのは難しい!」 臣・光(司馬光)曰く: 「君子と小人が相容れないのは、水と炭火が同じ器に入り得ぬことと同じである。故に君子が権位を得れば小人を排斥し、小人が勢力を得れば君子を排除する——これは自然の道理だ。しかし君子は賢者を登用し不適格者を退け、その心構えは公的であり行動は実直である。一方で小人は好む者を称賛し嫌う者を誹謗し、その心は私利にあり行為は虚偽である。公正かつ実直な者は『正直』と呼ばれ、私利かつ虚偽の輩は『党派(朋党)』と称される——これは君主がどう見極めるかにかかっている。 よって英明なる君主のもとでは:徳を量り官位を与え、能力を見て職務を授け、功績ある者は賞し罪ある者は罰する。奸計は惑わせず媚言も動揺させない。このようにすれば党派など生じるはずがない!これに対し暗君は:洞察力が不十分で決断力に欠けるため、正邪併存のまま讃美と中傷が入り乱れ、判断を他者に委ね威福(権限)も知らぬ間に奪われる。こうして奸臣が跳梁し党派争いが興るのだ。 木材が腐れば虫が湧き、酢が酸っぱければ蝿が集まるように、朝廷に党派が生じたなら君主は自らの過ちを咎めるべきであって、群臣の責任にしてはならない。文宗帝よ、もしも臣下の党派争いを憂うのであれば、なぜ以下の点を見定めないのか: ・誹謗や称賛される者の真偽 ・登用・罷免される人物が賢者か否か ・彼らの心が公か私か ・当人が君子か小人かを! もしも実直で賢明、公正なる君子であれば——その言葉を採用するだけでなく抜擢すべきだ。虚偽で無能、私利私欲の小人ならば——意見を棄てるのみならず刑罰に処せよ。」 解説:
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| 如是,雖使之為朋黨,孰敢哉!釋是不為,乃怨群臣之難治,是猶不種不芸而怨田之蕪也。朝中之黨且不能去,況河北賊乎! 丙子,李仲言請改名訓。 幽州奏莫州軍亂,刺史張元泛不知所在。 十二月,乙卯,以昭義節度副使鄭注為太僕卿。郭承嘏累上疏言其不可,上不聽。於是注詐上表固辭,上遣中使再以告身賜之,不受。 癸未,以史元忠為盧龍留後。 初,宋申錫與御史中丞宇文鼎受密詔誅鄭注,使京兆尹王璠掩捕之。璠密以堂帖示王守澄,注由是得免,深德璠。璠又與李訓善,於是訓、注共薦之,自浙西觀察使征為尚書左丞。 文宗元聖昭獻孝皇帝中太和九年(乙卯,公元八三五年) 春,正月,乙卯,以王元逵為成德節度使。 巢公湊薨,追贈齊王。 鄭注上言秦地有災,宜興役以禳之。辛卯,發左、右神策千五百人浚曲江及昆明池。 三月,冀王絿薨。 丙辰,以史元忠為盧龍節度使。 初,李德裕為浙西觀察使,漳王傅母杜仲陽坐宋申錫事放歸金陵,詔德裕存處之。會德裕已離浙西,牒留後李蟾使如詔旨。至是,左承王璠、戶部侍郎李漢奏德裕厚賂仲陽,陰結漳王,圖為不軌。上怒甚,召宰相及璠、漢、鄭注等面質之。璠、漢等極口誣之,路隋曰:「德裕不至有此。果如所言,臣亦應得罪!」言者稍息。夏,四月,以德裕為賓客分司。 |
現代日本語訳このようにすれば、たとえ彼らに党派を作るよう促しても誰も敢えて従わないでしょう!その方法を用いず、かえって臣下たちの統制が難しいと不満を持つのは、種を蒔きもせず耕しもしないで田畑が荒れることを嘆くようなものです。朝廷内の党派すら除去できないのに、ましてや河北(黄河以北)の賊軍などなおさらです。 丙子日:李仲言は名を訓に改めるよう願い出た。 幽州から報告があった:莫州で兵士が反乱し、刺史・張元汎の行方がわからないという。 十二月乙卯日:昭義節度副使・鄭注を太僕卿(九寺長官)に任命した。郭承嘏は繰り返し上奏してこの人事は不適当だと訴えたが、皇帝(文宗)は聞き入れなかった。そこで鄭注は偽って固辞する表文を提出し、帝は宦官の使者を使者として二度も告身(任命書)を与えようとしたが彼は受け取らなかった。 癸未日:史元忠を盧龍留後(代理節度使)に任じた。 以前のこと:宋申錫と御史中丞・宇文鼎は密詔を受けて鄭注誅殺を計画し、京兆尹・王璠に捕縛させようとした。しかし王璠は内密に堂帖(官庁文書)を宦官の王守澄に見せたため、鄭注は難を逃れ、深く王璠に恩義を感じるようになった。また王璠は李訓とも親しくしていたので、李訓と鄭注が共同で彼を推薦し、浙西観察使から中央に召還して尚書左丞(省次官)とした。 文宗元聖昭献孝皇帝 治世中盤・太和九年(乙卯年/紀元835年) 春正月乙卯日:王元逵を成徳節度使に任命した。 巢公・李湊が薨去し、斉王の称号を追贈された。 鄭注が上奏して「秦地(関中地域)で災異が見られたので土木工事を行って厄払いすべきだ」と進言。辛卯日:左軍・右軍の神策軍から1500人を動員し、曲江池と昆明池の浚渫作業に当たらせた。 三月:冀王・李絿が薨去。 丙辰日:史元忠を正式な盧龍節度使に任命した。 以前のこと:李徳裕が浙西観察使だった時、漳王の傅母(養育係)杜仲陽は宋申錫事件に関連して金陵へ追放されていた。詔勅で彼女への配慮を命じられたが、ちょうど李徳裕は離任中であったため、留後・李蟾に詔書通り対応するよう通達した。この度になって左丞(尚書省次官)王璠と戸部侍郎・李漢が「李徳裕は多額の賄賂を杜仲陽に送り、密かに漳王と結んで謀反を企てている」と上奏。皇帝は激怒して宰相や王璠らを召し出し対質させたところ、王璠らが声高に誣告したため状況悪化の危機だったが、路隋(宰相)が「李徳裕がそんなことをするはずがない。もし事実なら私も連座すべきだ」と擁護すると、讒言は沈静化した。夏四月:李徳裕を太子賓客(名誉職)として分司(陪都勤務)に左遷した。 解説
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| 癸巳,以鄭注守太僕卿,兼御史大夫,注始受之,仍舉倉部員外郎李款自代曰:「加臣之罪,雖於理而無辜;在款之誠,乃事君而盡節。」時人皆哂之。 丙申,以門下侍郎、同平章事路隋同平章事,充鎮海節度使,趣之赴鎮,不得面辭。坐救李德裕故也。 初,京兆尹河南賈餗,性褊躁輕率,與李德裕有隙,而善於李宗閔、鄭注。上巳,賜百官宴於曲江,故事,尹於外門下馬,揖御史。餗恃其貴勢,乘馬直入,殿中侍御史楊儉、蘇特與之爭,餗罵曰:「黃面兒敢爾!」坐罰俸。餗恥之,求出,詔以為浙西觀察使。尚未行,戊戌,以餗為中書侍郎、同平章事。 庚子,制以曏日上初得疾,王涯呼李德裕奔問起居,德裕竟不至。又在西蜀征逋懸錢三十萬緡,百姓愁困。貶德裕袁州長史。 初,宋申錫獲罪,宦官益橫。上外雖包容,內不能堪。李訓、鄭注既得幸,揣知上意,訓因進講,數以微言動上。上見其才辯,意訓可與謀大事,且以訓、注皆因王守澄以進,冀宦官不之疑,遂密以誠告之。訓、注遂以誅宦官為己任,二人相挾,朝夕計議,所言於上無不從,聲勢炟赫。注多在禁中,或時休沐,賓客填門,賂遺山積。外人但知訓、注倚宦官擅作威福,不知其與上有密謀也。上之立也,右領軍將軍興寧仇士良有功。王守澄抑之,由是有隙。訓、注為上謀,進擢士良以分守澄之權。 |
現代日本語訳癸巳の日、鄭注を太僕卿に任じ御史大夫を兼任させた。鄭注は初めてこの職務を受け入れた際、倉部員外郎の李款を自らの後継として推挙し、「私への罪状が加えられても道理上無実である一方、李款の忠誠こそ君主に節義を尽くすものだ」と述べた。当時の人々は皆これを嘲笑した。 丙申の日、門下侍郎・同平章事であった路隋を鎮海節度使として赴任させ(同平章事の職は保持)、面会での辞儀も許さず急ぎ出発を命じた。これは李徳裕を擁護したためである。 元来より京兆尹賈餗(河南出身)は偏狭で軽率な性格であり、李徳裕と不和だったが李宗閔・鄭注とは親密であった。上巳の節句に皇帝が曲江で百官に宴を賜った際、慣例では京兆尹は外門で下馬し御史に揖礼するものだが、賈餗は高位を笠に馬上から直入した。殿中侍御史の楊儉と蘇特が抗議すると、「青二才めがよくも!」と罵倒し俸禄減給となった。賈餗は恥じて地方転出を望み、詔により浙西観察使に任命された。しかし未だ赴任せぬ戊戌の日、中書侍郎・同平章事へ抜擢されることとなる。 庚子の日、「先般皇帝が病臥した際、王涯は李徳裕に見舞いを促したのに遂に参上せず、また西蜀で滞納金三十万緡を取り立て民衆を苦しめた」との勅命により、李徳裕は袁州長史へ左遷された。 かつて宋申錫が罪を得た事件以来、宦官の横暴が増していた。皇帝は表向き寛容を示したものの内心耐え難く、寵臣となった李訓と鄭注はこれを察知する。李訓は講義中に仄めかしで皇帝を動かし、その才弁から「大事を謀れる」と評価される。さらに両名が宦官・王守澄の推挙で登用された経緯から「疑われまい」と考えた皇帝は密かに真意を打ち明けた。これにより李訓らは宦官誅伐を使命と定め、二人は協力して日夜策謀し、進言は全て容れられたため権勢が盛んとなった。 鄭注は宫中に常駐することが多く、休暇時には賓客で門前が埋まり賄賂が山積みになった。世間では彼らが宦官の威を借りて専横していると見做していたが、皇帝との密謀とは知る由もなかった。 皇帝即位時に右領軍将軍仇士良(興寧出身)は功績があったが、王守澄に抑えられ対立関係にあった。李訓らは「仇士良を昇進させて王守澄の権力を分散せよ」と献策したのである。 解説【政治的背景】
【人物分析】
【策略の本質】李訓・鄭注クーデター計画(甘露の変)への布石として: 1. 欺瞞工作:王守澄推薦者を装い宦官勢力の警戒心を緩める 2. 分断策:仇士良登用で敵対派閥を作り内部崩壊誘導 3. 情報統制:表向きは「宦官の手先」と偽装し密謀を隠蔽 【歴史的意義】
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| 五月,乙丑,以士良為左神策中尉,守澄不悅。 戊辰,以左丞王璠為戶部尚書、判度支。 京城訛言鄭注為上合金丹,須小兒心肝,民間驚懼,上聞而惡之。鄭注素惡京兆尹楊虞卿,與李訓共構之,雲此語出於虞卿家人。上怒,六月,下虞卿御史獄。注求為兩省官,中書侍郎、同平章事李宗閔不許,注毀之於上。會宗閔救楊虞卿,上怒,叱出之。壬寅,貶明州刺史。 左神策中尉韋元素、樞密使楊承和、王踐言久居中用事,與王守澄爭權不葉,李訓、鄭注因之出承和於西川,元素於淮南,踐言於河東,皆為監軍。秋,七月,甲辰朔,貶楊虞卿虔州司馬。 庚戌,作紫雲樓於曲江。 辛亥,以御史大夫李固言為門下侍郎、同平章事。李訓、鄭注為上畫太平之策,以為當先除宦官,次復河、湟,次清河北,開陳方略,如指諸掌。上以為信然,寵任日隆。初,李宗閔為吏部侍郎,因附馬都尉沈結女學士宋若憲、知樞密楊承和得為相。及貶明州,鄭注發其事,壬子,再貶處州長史。著作郎、分司舒元輿與李訓善,訓用事,召為右司郎中,兼侍御史知雜,鞫楊虞卿獄。癸丑,擢為御史中丞。元輿,元褒之兄也。貶吏部侍郎李漢為汾州刺史,刑部侍郎蕭浣為遂州刺史,皆坐李宗閔之黨。是時李訓、鄭注連逐三相,威震天下,於是平生絲恩發怨無不報者。 李訓奏僧尼猥多,耗蠹公私。 |
五月乙丑に士良を左神策中尉とし、守澄は快く思わなかった。 戊辰に左丞王璠を戸部尚書・判度支とした。 都中で鄭注が天子のために金丹を作る際、小児の心肝が必要だという噂が流れ、民間は驚き恐れた。帝はこれを聞いて嫌悪した。鄭注はかねてより京兆尹楊虞卿を憎んでおり、李訓と共に謀って「この言葉は虞卿の家人が出した」と誣告した。帝は怒り、六月に虞卿を御史台の獄に下した。 鄭注が両省官への就任を求めたが、中書侍郎・同平章事李宗閔が許さず、注は帝に彼を讒言した。折しも宗閔が楊虞卿を救おうとしたため、帝は怒って叱りつけて退けた。壬寅に明州刺史へ左遷した。 左神策中尉韋元素・枢密使楊承和・王踐言らは長年中枢で権勢を振るい、王守澄と権力争いで不仲であった。李訓と鄭注はこれにつけ込み、承和を西川に、元素を淮南に、踐言を河東に左遷し、全て監軍とした。 秋七月甲辰朔(1日)、楊虞卿を虔州司馬へ降格した。 庚戌(7日)に曲江に紫雲楼を造営した。 辛亥(8日)に御史大夫李固言を門下侍郎・同平章事に任命。李訓と鄭注は天子に対し太平の策を進言し「まず宦官を除き、次いで河湟を回復し、さらに河北を平定すべし」と方略を述べて掌を指すが如く明快であった。帝は真実と思い寵遇を日々厚くした。 初め李宗閔が吏部侍郎の時、駙馬都尉沈漬を通じて女学士宋若憲・知枢密楊承和に取り入り宰相となった。明州左遷後、鄭注がこの事実を暴露し壬子(9日)に処州長史へ再降格した。 著作郎・分司の舒元輿は李訓と親しく、訓が権勢を得ると右司郎中兼侍御史知雑として召され楊虞卿の獄を審理。癸丑(10日)、御史中丞に抜擢された。元輿は元褒の兄である。 吏部侍郎李漢を汾州刺史へ、刑部侍郎蕭浣を遂州刺史へ降格し、共に李宗閔派として連座した。 この時点で李訓・鄭注は三相(宰相三人)を続けて追放し威勢が天下を震わせたため、平生の些細な恩讐すら必ず報いられる状況となった。 李訓が「僧尼が猥雑に多く公私の財を消耗している」と上奏した。 [解説] *時代背景:唐王朝中期(9世紀初頭)、宦官勢力全盛期における文宗朝甘露の変直前の政治情勢 *権力構造: - 李訓・鄭注グループが皇帝信用を得て急成長中 - 王守澄ら大宦官との対立軸と内部抗争が交錯 *「三相連逐」とは宰相三人(李宗閔・楊虞卿・李漢)の追放劇を指す *手法特徴: 1. 噂話操作:鄭注による小児心肝デマ戦略 2. 派閥粛清:「李宗閔党」罪名での体系的な政敵排除 3. 司法利用:御史台獄を弾圧機関化(舒元輿登用) *歴史的意義: - 紫雲楼造営は文化事業で皇帝の威信高揚策 - 僧尼整理案は宗教政策より財源確保が目的 *「太平三策」は後に甘露の変へ発展する改革構想原型 訳文の方針: 1. 『日本大百科全書』基準の歴史用語(例:枢密使→知枢密) 2. 漢文調を崩さず現代日本語で再構成 3. 官職名は当時の実態に即して「同平章事=宰相」等と理解しつつ原文表記保持 *注記:資治通鑑本文では日付(干支)・人事異動・事件を極限まで凝縮した編年体で、背景説明皆無のため現代語訳においても情報密度を維持する必要あり。 Translation took 812.7 seconds. |
| 丁巳,詔所在試僧尼誦經不中格者,皆勒歸俗。禁置寺及私度人。 時人皆言鄭注朝夕且為相,侍御史李甘揚言於朝曰:「白麻出,我必壞之於庭!」癸亥,貶甘封州司馬。然李訓亦忌注,不欲使為相,事竟寢。 甲子,以國子博士李訓為兵部郎中、知制誥,依前侍講學士。 貶左金吾大將軍沈為邵州刺史。八月,丙子,又貶李宗閔潮州司戶,賜宋若憲死。 丁丑,以太僕卿鄭注為工部尚書,充翰林侍講學士。注好服鹿裘,以隱淪自處,上以師友待之。注之初得幸,上嘗問翰林學士、戶部侍郎李玨曰:「卿有鄭注乎?亦嘗與之言乎?」對曰:「臣豈特知其姓名,兼深知其為人。其人奸邪,陛下寵之,恐無益聖德。臣忝在近密,安敢與此人交通!」戊寅,貶玨江州刺史。再貶沈柳州司戶。 丙申,詔以楊承和庇護宋申易,韋元素、王踐言與李宗閔、李德裕中外連結,受其賂遺。承和可驩州安置,元素可像州安置,踐言可恩州安置,令所在錮送。楊虞卿、李漢、蕭浣為朋黨之首,貶虞卿虔州司戶,漢汾州司馬,浣遂州司馬。尋遣使追賜承和、元素、踐言死。時崔潭峻已卒,亦剖棺鞭屍。己亥,以前廬州刺史羅立言為司農少卿。立言贓吏,以賂結鄭注而得之。鄭注之入翰林也,中書舍人高元裕草制,言以醫藥奉君親,注銜之。奏元裕嘗出郊送李宗閔,壬寅,貶元裕閬州刺史。 |
現代日本語訳丁巳の日、詔を下した:各地で試験を行い、経典を誦読できず基準に達しない僧尼は全て強制的に還俗させる。寺院建立や私的な出家(公認されない度牒)も禁止せよ。 当時、人々は「鄭注が近く宰相になる」と噂していた。侍御史・李甘は朝廷で声高に宣言した:「白麻詔書(任官辞令)が出たら、必ず宮廷で引き裂いてみせる!」癸亥の日、李甘は封州司馬へ左遷された。しかし李訓も鄭注を警戒しており宰相就任を望まず、結局この件は立ち消えとなった。 甲子の日、国子博士・李訓を兵部郎中に任命し知制誥(詔書起草官)を兼務させたが、侍講学士としての職務は従来通り継続させる。 左金吾大将軍・沈?を邵州刺史へ降格。八月丙子の日には更に李宗閔を潮州司戸に左遷し、宋若憲に自尽を命じた。 丁丑の日、太僕卿・鄭注を工部尚書とし翰林侍講学士を兼任させた。鄭注は鹿皮衣を好む隠遁者のような生活だったが、皇帝(文宗)は師友として遇した。寵愛を受けた当初、帝が翰林学士・戸部侍郎の李玨に「卿は鄭注を知っているか?話したことはあるか?」と尋ねると、答えていうには:「臣は名だけでなく人柄も熟知しております。彼は奸邪な人物で、陛下が寵愛されれば聖徳を損ないましょう。近侍の身でありながらどうしてこのような者と交われましょうか!」戊寅の日、李玨は江州刺史へ左遷された。沈?も再び柳州司戸に降格。 丙申の日、詔で宣告:楊承和が宋申錫を庇護した件、韋元素・王踐言らが李宗閔・李徳裕と朝廷内外で結託し賄賂を受けた件について――楊承和は驩州へ配流(現地監禁)、韋元素は象州へ配流、王践言は恩州へ配流。各地の官府は厳重に護送せよ。また朋党首謀者・楊虞卿を虔州司戸へ、李漢を汾州司馬へ、蕭浣を遂州司馬へ左遷する。後に遡って使者を遣わし楊承和・韋元素・王踐言に自尽を命じた。既に死去していた崔潭峻は棺を開き鞭打ち刑を行った。己亥の日、前廬州刺史の羅立言(収賄官吏)が鄭注へ賄賂し司農少卿となった。また鄭注が翰林入りした際、中書舎人・高元裕が「医術で君親に仕える者」と詔書起草したため恨まれていた件があり、「郊外まで李宗閔を見送った罪」として壬寅の日、高元裕を閬州刺史へ左遷した。 解説
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| 元裕,士廉之六世孫也。時注與李訓所惡朝士,皆指目為二李之黨,貶逐無虛日,班列殆空,廷中恟恟,上亦知之。訓、注恐為人所搖,九月,癸卯朔,勸上下詔:「應與德裕、宗閔親舊及門生故吏,今日以前貶黜之外,餘皆不問。」人情稍安。 鹽鐵使王涯奏改江淮、嶺南茶法,增其稅。 庚申,以鳳翔節度使李聽為忠武節度使,代杜悰。 憲宗之崩也,人皆言宦官陳弘志所為。時弘志為山南東道監軍,李訓為上謀召之,至青泥驛,癸亥,封杖殺之。 鄭注求為鳳翔節度使,門下侍郎、同平章事李固言不可。丁卯,以固言為山南西道節度使、注為鳳翔節度使。李訓雖因注得進,及勢位俱盛,心頗忌注。謀欲中外協勢以誅宦官,故出注於鳳翔。其實俟既誅宦官,併圖注也。注欲取名家才望之士為參佐,請禮部員外郎韋溫為副使,溫不可。或曰:「拒之必為患。」溫曰:「擇禍莫若輕。拒之止於遠貶,從之有不測之禍。」卒辭之。 戊辰,以右神策中尉、行右衛上將軍、知內侍省事王守澄為左、右神策觀軍容使,兼十二衛統軍。李訓、鄭注為上謀,以虛名尊守澄,實奪之權也。 己巳,以御史中丞兼刑部侍郎舒元輿為刑部侍郎,兵部郎中知制誥、充翰林侍講學士李訓為禮部侍郎,並同平章事。仍命訓三二日一入翰林講《易》。元輿為中丞,凡訓、注所惡者,則為之彈擊,由是得為相。 |
現代日本語訳(会昌年間の記録) 李元裕は、高士廉の六世孫である。当時、鄭注と李訓が嫌う朝廷官僚たちは皆、「二李」(徳裕・宗閔)派閥とみなされ、毎日のように左遷や追放が続き、官廷は空席状態で騒然となっていた。皇帝(文宗)もこの事態を把握していた。李訓と鄭注は人心の動揺を恐れ、九月一日癸卯朔に皇帝へ進言して詔勅を下させた。「徳裕・宗閔との縁故関係や門生旧吏である者は、本日以前の処分対象者以外は一切追及しない」。これにより人心がようやく落ち着いた。 塩鉄使王涯は江淮(長江下流域)・嶺南地方の茶専売法改正を上奏し、課税強化を図った。 庚申(19日)、鳳翔節度使李聴を忠武節度使に任命し杜悰と交代させた。 鄭注が鳳翔節度使就任を希望すると門下侍郎・同平章事の李固言が反対した。丁卯(26日)、朝廷は固言を山南西道節度使へ左遷し、代わりに鄭注を鳳翔節度使とした。 戊辰(27日)、右神策中尉・行右衛上将軍・知内侍省事の王守澄に「左右神策観軍容使兼十二衛統軍」という名誉職を与えたが、これは李訓らによる策略で虚位を授けて実権剥奪を図ったものだ。 己巳(28日)、御史中丞兼刑部侍郎舒元輿を刑部侍郎に昇進させ、兵部郎中知制誥・翰林侍講学士の李訓も礼部侍郎とし共に同平章事(宰相)とした。さらに詔で「李訓は二日に一度《易経》を進講せよ」と命じた。舒元輿が中丞時代、李訓らに嫌われた官僚を弾劾して登用された背景には政権掌握への協力があった。 解説
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| 又上懲李宗閔、李德裕多朋黨,以賈餗及元輿皆孤寒新進,故擢為相,庶其無黨耳。訓起流人,期年致位宰相,天子傾意任之。訓或在中書,或在翰林,天下事皆決於訓。而涯輩承順其風旨,惟恐不逮。自中尉、樞密、禁衛諸將,見訓皆震慴,迎拜叩首。壬申,以刑部郎中兼御史知雜李孝本權知御史中丞。孝本,宗室之子,依訓、注得進。 李聽自恃勳舊,不禮於鄭注。注代聽鎮鳳翔,先遣牙將丹駿至軍中慰勞,誣奏聽在鎮貪虐。冬,十月,乙亥,以聽為太子太保、分司,復以杜悰為忠武節度使。鄭注每自負經濟之略,上問以富人之術,注無以對,乃請榷茶。於是以王涯兼榷茶使,涯知不可而不敢違,人甚苦之。 鄭注欲收僧尼之譽,固請罷沙汰,從之。 李訓、鄭注密言於上,請除王守澄。辛巳,遣中使李好古就第賜鴆,殺之,贈揚州大都督。訓、注本因守澄進,卒謀而殺之,人皆快守澄之受佞而疾訓、注之陰狡,於是元和之逆黨略盡矣。乙酉,鄭注赴鎮。 庚子,以東都留守、司徒兼侍中裴度兼中書令,餘如故。李訓所獎拔,率皆狂險之士,然亦時取天下重望認順人心,如裴度、令狐楚、鄭覃皆累朝耆俊,久為當路所軋,置之散地,訓皆引居崇秩。由是士大夫亦有望其真能致太平者,不惟天子惑之也。然識者見其橫甚,知將敗矣。 十一月,丙午,以大理卿郭行餘為邠寧節度使。 |
現代日本語訳また、皇帝(文宗)は李宗閔や李徳裕の党派争いを戒めとして、賈餗と元輿がどちらも貧寒な出自から登用された新進気鋭の人材であることから、彼らを宰相に抜擢した。これは党派を作らないことを期待してのことだった。 李訓は流刑者からの身分であったが、一年で宰相の地位まで上り詰め、皇帝も心を傾けて政務を任せた。李訓は中書省にも翰林院にも出入りし、天下の政治はすべて彼によって決断された。王涯らはひたすら李訓の意向に従い、追いつこうと必死だった。 神策軍中尉や枢密使、禁衛軍の将兵たちでさえも、李訓を見ると震え上がって平伏し頭を地につけた。壬申(10日)、刑部郎中兼御史知雑であった李孝本が権知御史中丞に任命された。彼は皇族の子孫であり、李訓と鄭注の後ろ盾で昇進した人物である。 一方、李聽は自身が功臣としての功績を恃み、鄭注に対して無礼な態度を見せていた。後に鄭注が鳳翔節度使として赴任する際、先に牙将・丹駿を派遣して慰労と称しながら密かに監視させた上で「李聽は領内で貪欲かつ暴虐である」と虚偽の報告を行った。冬十月乙亥(3日)、李聽は太子太保・分司という閑職に左遷され、代わりに杜悰が忠武節度使となった。 鄭注は常々「経世済民の才略がある」と自負していたため、皇帝から富国策を問われるも答えられず、慌てて茶専売制(榷茶)を提案した。これにより王涯が兼務で榷茶使となり、彼は実施不可と知りながら反論できなかったために民衆は酷く苦しめられた。 また鄭注は僧侶や尼の支持を得ようと「僧尼淘汰令撤回」を強硬に主張して認めさせた。李訓と鄭注は密かに皇帝へ進言し、王守澄排除を画策した。辛巳(9日)、宦官・李好古が邸宅で毒酒を賜って暗殺。死後「揚州大都督」の名誉称号を与えられた。 諷刺なことに、訓と注自身も元は守澄の引き立てで出世した者たちであった。その恩人すら謀殺する行為に、世間は王守澄への天罰を快哉しつつも李訓・鄭注の陰険さには嫌悪を示し、こうして元和期の反逆勢力は一掃されたのである。 乙酉(13日)、鄭注が鳳翔へ赴任。庚子(28日)に東都留守で司徒兼侍中の裴度を中書令と併任させた(他の官職保持)。李訓が登用した人物の多くは過激派だったが、時には天下から重んじられる人材も起用して人心掌握を図った。例えば裴度・令狐楚・鄭覃ら歴代王朝で活躍した高齢の俊英たちは長年政権中枢から排除され閑職にあったが、李訓は彼らを高位につけた。 このため士大夫階級の中には「本当に太平をもたらすのではないか」と期待する者も現れ、皇帝だけではなく世論も惑わされた。しかし洞察力ある者はその横暴さを見抜き破綻を予見していたのである。 十一月丙午(5日)、大理卿・郭行餘が邠寧節度使に任命された。 解説この文章は『資治通鑑』唐紀における「甘露の変」(835年)前夜の政治状況について記述したものです。以下の点に特徴があります:
※注:現代語訳にあたっては以下の点を工夫しました Translation took 1063.2 seconds. |
| 癸丑,以河東節度使、同平章事李載義兼侍中。丁巳,以戶部尚書、判度支王璠為河東節度使。戊午,以京兆尹李石為戶部侍郎、判度支;以京兆少尹羅立言權知府事。石,神符之五世孫也。己未,以太府卿韓約為左金吾衛大將軍。 始,鄭注與李訓謀,至鎮,選壯士數百,皆持白棓,懷其斧,以為親兵。是月,戊辰,王守澄葬於滻水,注奏請入護葬事,因以親兵自隨。仍奏令內臣中尉以下盡集滻水送葬,注因闔門,令親兵斧之,使無遺類。約既定,訓與其黨謀:「如此事成,則注專有其功,不若使行餘、璠以赴鎮為名,多募壯士為部曲,並用金吾、台府吏卒,先期誅宦者,已而並注去之。」行餘、璠、立言、約及中丞李孝本,皆訓素所厚也,故列置要地,獨與是數人及舒元輿謀之,它人皆莫之知也。 壬戌,上御紫宸殿。百官班定,韓約不報平安,奏稱:「左金吾聽事後石榴夜有甘露,臣遞門奏訖。」因蹈舞再拜,宰相亦帥百官稱賀。訓、元輿勸上親往觀之,以承天貺,上許之。百官退,班於含元殿。日加辰,上乘軟輿出紫宸門,升含元殿。先命宰相及兩省官詣左仗視之,良久而還。訓奏:「臣與眾人驗之,殆非真甘露,未可遽宣佈,恐天下稱賀。」上曰:「豈有是邪!」顧左、右中尉仇士良、魚志弘帥諸宦者往視之。宦者既去,訓遽召郭行餘、王璠曰:「來受敕旨!」璠股慄不敢前,獨行餘拜殿下。 |
訳文癸丑の日、河東節度使・同平章事李載義を侍中兼任とする。丁巳の日、戸部尚書・判度支王璠を河東節度使に任命する。戊午の日、京兆尹李石を戸部侍郎・判度支とし、京兆少尹羅立言を権知府事とした。李石は神符の五世孫である。己未の日、太府卿韓約を左金吾衛大將軍に任ず。 当初、鄭注と李訓が謀り「赴任先で数百人の壮士を選抜し、白棒を持たせ斧を隠し持たせて親兵とする」と計画していた。同月戊辰の日、王守澄が滻水で葬られる際、鄭注は「葬礼護衛のために出向く」と奏上し親兵を伴った。さらに「内臣中尉以下の全員を滻水に集めて葬儀に参列させる」よう提案し、その場で門を閉ざして親兵に斧で宦官を皆殺しにするつもりであった。 計画が固まると李訓は仲間と謀議した:「このままでは鄭注が功績を独占する。むしろ郭行餘や王璠に『赴任のため』と称して壮士を募らせ、金吾衛や御史台の兵卒も動員し、事前に宦官を誅殺した上で鄭注も除こう」と。郭行余・王璠・羅立言・韓約及び中丞李孝本はいずれも李訓が重用していた者たちであるため要職に就けており、この数名と舒元輿のみが計画を知っていた。 壬戌の日、皇帝(文宗)が紫宸殿に出御。百官が整列するなか韓約は平安を奏上せず「左金吾庁の石榴樹に夜露の甘露が降りました」と報告し、踊るようにして再拝した。宰相らも群臣を率いて祝賀したため李訓と舒元輿は皇帝自らの観覧を勧め「天の賜物を受け取るべき」と奏上し、許された。 百官が含元殿に退出後、辰の刻(午前8時頃)に皇帝は腰輿で紫宸門を出て含元殿へ。まず宰相ら両省官人を左金吾庁に見分させたが戻ってこない。李訓が奏上「臣らの検分では真の甘露ではないようです。慌てて公表すべきではなく、もし偽りなら天下の笑いものになります」と述べると皇帝は左右神策軍中尉仇士良・魚志弘に宦官を率いて再確認を命じた。 宦官らが退出すると李訓は急ぎ郭行余と王璠を呼び「勅旨を受けよ!」と呼んだ。王璠は震えて進み出ず、郭行餘のみが殿下で拝礼した。 解説歴史的背景本段落は『資治通鑑』唐紀62・大和九年(835年)の「甘露の変」クライマックスを描く。文宗皇帝による宦官粛清計画が露見し、逆に多くの官僚が惨殺された政変である。 訳出方針
事件の本質表向きは「左金吾庁に甘露(吉兆)出現」という偽装工作だが、核心は以下の三点: 補足事項「白棓」(白色棍棒)には武器隠蔽機能が、「石榴夜有甘露」ではナツメザクロ(多産の象徴)を用いた偽装工作という歴史的細部を忠実に再現。なお登場人物の多くは変後に宦官勢力によって虐殺される。 Translation took 1906.7 seconds. |
| 時二人部曲數百,皆執兵立丹鳳門外,訓已先使人召之,令人受敕。獨東兵入,邠寧兵竟不至。 仇士良等至左仗視甘露,韓約變色流汗。士良怪之曰:「將軍何為如是?」俄風吹幕起,見執兵者甚眾,又聞兵仗聲,士良等驚駭走出。門者欲閉之,士良叱之,關不得上。士良等奔詣上告變。訓見之,遽呼金吾衛士曰:「來上殿衛乘輿者,人賞錢百緡!」宦官曰:「事急矣,請陛下還宮!」即舉軟輿,迎上扶升輿,決殿後罘罳,疾趨北出。訓攀輿呼曰:「臣奏事未竟,陛下不可入宮!」金吾兵已登殿。羅立言帥京兆邏卒三百餘自東來,李孝本帥御史台從人二百餘自西來,皆登殿縱擊,宦官流血呼冤,死傷者十餘人,乘輿迤邐入宣政門,訓攀輿呼益急,上叱之,宦者郗志榮奮拳毆其胸,偃於地。乘輿即入,門隨闔,宦者皆呼萬歲,百官駭散出。訓知事不濟,脫從吏綠衫衣之,走馬而出,揚言於道曰:「我何罪而竄謫!」人不之疑。王涯、賈餗、舒元輿還中書,相謂曰:「上且開延英,召吾屬議之。」兩省官詣宰相請其故,皆曰:「不知何事,諸公各自便!」士良等知上豫其謀,怨憤,出不遜語,上慚懼不復言。士良等命左、右神策副使劉泰倫、魏仲卿等各帥禁兵五百人,露刃出閣門討賊。王涯等將會食,吏白:「有兵自內出,逢人輒殺!」涯等狼狽步走,兩省及金吾吏卒千餘人填門爭出。 |
現代日本語訳:その時、二人の部曲数百人が武装して丹鳳門外に待機していた。李訓は事前に彼らを呼び寄せて「勅命を受領せよ」と伝えさせたが、実際に入城できたのは東軍のみで、邠寧兵は遂に到着しなかった。 仇士良ら左仗へ赴き甘露(瑞兆)を視察中、韓約が青ざめ汗を流した。怪訝に思った仇士良が「将軍、どうされたのか?」と問うと、突風で幕が捲れ武装兵多数の姿が露呈し、武器の音も響いたため驚いて逃走。門番が閉門しようとしたが仇士良に叱責され扉は閉まらなかった。 急ぎ皇帝へ変事を奏上する仇士良に対し、李訓は金吾衛兵に向かって「御殿で天子を護れ!百緡の褒賞を与える!」と叫んだ。宦官たちが「陛下、至急宮中に戻ることを」と訴え輿を押し出し、殿舎後ろの衝立を破り北へ疾走させた。李訓は輿に縋りつき「奏上未了につき入内不可!」と喚起するが、金吾兵は既に殿上乱入。 羅立言率いる京兆巡邏兵三百余(東側より)と李孝本率いる御史台従者二百余(西側より)が斬り込みをかけ、宦官らは流血しながら冤罪を叫び十数名の死傷者が発生。輿が宣政門へ向かう中、激しく抗議する李訓に皇帝が叱責すると、宦官郗志栄が猛然と拳で彼の胸を殴打し地面に倒した。 宮門閉鎖後「万歳」の歓声が上がる一方、官僚らは恐慌状態で散乱。事態収拾不可能と悟った李訓は従吏から緑袍を奪い着替え、「何の罪があって流刑だ!」と叫びながら馬で逃走(人々は不審を持たず)。 王涯・賈餗・舒元輿が中書省へ戻り「やがて延英殿会議があるだろう」と語る場面に、両省役人が事件の顛末を詰問。彼らは「詳細不明、各自帰宅せよ」と返答。 仇士良ら皇帝も陰謀に関与していた事実を知り激怒し宮中で罵声を浴びせる(恐怖のあまり黙する天子)。左右神策副使劉泰倫・魏仲卿に禁兵五百名ずつ帯刀させ討伐に出撃させる。 食事中の王涯らへ「内廷から兵が無差別殺戮!」と急報。狼狽して徒歩脱出を図る中、両省役人や金吾衛隊千余名が門に押し合い混乱した。 解説:
※ルビ表記は厳禁との指示通り実施 Translation took 1912.1 seconds. |
| 門尋闔,其不得出者六百餘人皆死。士良等分兵閉宮門,索諸司,討賊黨。諸司吏卒及民酤販在中者皆死,死者又千餘人,橫屍流血,狼籍塗地,諸司印及圖籍、帷幕、器皿俱盡。又遣騎各千餘出城追亡者,又遣兵大索城中。舒元輿易服單騎出安化門,禁兵追擒之。王涯徒步至永昌裡茶肆,禁兵擒入左軍。涯時年七十餘,被以桎梏,掠治不勝苦,自誣服,稱與李訓謀行大逆,尊立鄭注。王璠歸長興坊私第,閉門,以其兵自防。神策將至門,呼曰:「王涯等謀反,欲起尚書為相,魚護軍令致意!」璠喜,出見之。將趨賀再三,璠知見紿,涕泣而行,至左軍,見王涯曰:「二十兄自反,胡為見引?」涯曰:「五弟昔為京兆尹,不漏言於王守澄,豈有今日邪!」璠俯首不言。又收羅立言於太平裡,及涯等親屬奴婢,皆入兩軍系之。戶部員外郎李元皋,訓之再從弟也,訓實與之無恩,亦執而殺之。故嶺南節度使胡證,家巨富,禁兵利其財,托以搜賈餗入其家,執其子殷,殺之。又入左常侍羅讓、詹事渾金歲、翰林學士黎埴等家,掠其貲財,掃地無遺。金歲,瑊之子也,坊市惡少年因之報私仇,殺人,剽掠百貨。互相攻劫,塵埃蔽天。 癸亥,百官入朝,日出,始開建福門,惟聽以從者一人自隨,禁兵露刃夾道。至宣政門,尚未開。時無宰相御史知班,百官無復班列。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』甘露の変より)宮殿の城門は全て閉ざされ、脱出できなかった六百名余が皆殺害された。田令孜らは兵を分けて宮門を封鎖し、各官庁を捜索して反乱分子を討伐した。役所に居合わせた下級官吏・雑用係や民間の酒売り・行商人までもが殺され、犠牲者はさらに千名以上に上った。遺体は折り重なり血が地面を覆い、各官庁の印章・記録文書・幕・調度品はことごとく破壊された。 騎兵隊が千人単位で城外へ逃亡者追跡に向かい、別動隊も城内を徹底捜索した。舒元輿は衣服を変えて単身で安化門から脱出しようとしたが、禁軍に捕縛された。王涯は永昌里の茶店まで歩いたところで左神策軍に拉致される。七十歳過ぎの彼は枷を嵌められ拷問に耐えかね、「李訓と共謀して鄭注を擁立しようとした」と虚偽の自白を強要された。 王璠が長興坊の私邸に戻り防備を固めていると、神策軍将校が「宰相就任のお祝いです」と呼びかけた。騙されて出頭した彼は左軍営で王涯と対峙し、「兄貴が謀反したのに何故俺まで巻き込むのか」と詰め寄るが、王涯は「お前が王守澄に密告さえしなければこんな事態にはならなかった」と逆襲。羅立言や官僚の家族・使用人も次々と捕縛され、李元皋のように無関係ながら姻戚という理由で処刑される者も現れた。 巨富の胡証邸では禁軍が財産目当てに「賈餗探索」を口実に押し入り、息子・胡殷を殺害。羅譲・渾釒歳(渾瑊の子)・黎埴ら高官宅も略奪され、悪少年たちまで便乗して私怨による殺戮や略奪を繰り返したため、街中が埃で覆われる混乱となった。 癸亥(次の日)、朝廷へ出仕する百官は建福門が開くのを日の出後まで待たされた。帯剣の禁軍に挟まれて宣政門へ進むも扉は閉ざされたまま。宰相や監察官不在の中、官僚たちは列を作ることも許されず立ち尽くした。 歴史背景解説
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| 上御紫宸殿,問:「宰相何為不來?」仇士良曰:「王涯等謀反繫獄。」因以涯手狀呈上,召左僕射令狐楚、右僕射鄭覃等升殿示之。上悲憤不自勝,謂楚等曰:「是涯手書乎?」對曰:「是也!」「誠如此,罪不容誅!」因命楚、覃留宿中書,參決機務。使楚草制宣告中外。楚敘王涯、賈餗反事浮泛,仇士良等不悅,由是不得為相。時坊市剽掠者猶未止,命左、右神策將楊鎮、靳遂良等各將五百人分屯通衢,擊鼓以警之,斬十餘人,然後定。賈餗變服潛民間經宿,自知無所逃,素服乘驢詣興安門,自言:「我宰相賈餗也,為奸人所污,可送我詣兩軍!」門者執送西軍。李孝本改衣綠,猶服金帶,以帽鄣面,單騎奔鳳翔,至咸陽西,追擒之。 甲子,以右僕射鄭覃同平章事。 李訓素與終南僧宗密善,往投之。宗密欲剃其發而匿之,其徒不可。訓出山,將奔鳳翔,為盩厔鎮遏使宋楚所擒,械送京師。至昆明池,訓恐至軍中更受酷辱,謂送者曰:「得我者則富貴矣!聞禁兵所在搜捕,汝必為所奪,不若取我首送之!」送者從之,斬其首以來。 乙丑,以戶部侍郎、判度支李石同平章事,仍判度支。前河東節度使李載義復舊任。左神策出兵三百人,以李訓首引王涯、王璠、羅立言、郭行餘;右神策出兵三百人,擁賈餗、舒元輿、李孝本獻於廟社,徇於兩市。 |
現代日本語訳紫宸殿において皇帝が問われた。「宰相はなぜ参上しないのか?」仇士良が答えた。「王涯らが謀反を企て獄につながれております。」そして王涯の自供書を差し出した。左僕射・令狐楚と右僕射・鄭覃らを召して殿上に昇らせ、これを示された。皇帝は悲憤のあまり自制できず、令狐楚らに言われた。「これは王涯の直筆か?」彼らが「その通りです」と答えると、「真実ならば極刑も当然だ!」そして令狐楚と鄭覃に中書省での宿直を命じ、機密事務への参与を許した。 さらに令狐楚に詔勅の起草を命じて内外に公示させたが、彼が王涯や賈餗らの謀反事件を曖昧に記述したため、仇士良らは不快を示し、これが原因で宰相にはなれなかった。当時、市場での略奪行為が依然として止まず、左右神策軍の将・楊鎮と靳遂良らに各々五百人の兵を率いさせて主要街道に駐屯させた。太鼓を打ち鳴らして警告した後、十余人を斬首し、ようやく治安を回復した。 賈餗は衣装を変えて民間に潜伏していたが、翌日には逃亡不可能と悟り、喪服姿で驢馬に乗って興安門へ現れた。「私は宰相の賈餗である。奸臣に誣告されたのだ。両軍(神策軍)へ連れて行け!」と言い放ち、守衛に捕らえられ西軍へ送致された。李孝本は緑色の官服に着替えたが金帯を付けたままであり、帽子で顔を隠し単騎で鳳翔へ逃亡した。咸陽西郊で追手に捕縛される。 甲子(日付)、右僕射・鄭覃を同平章事(宰相職)に任命。 乙丑(日付)、戸部侍郎・判度支の李石を同平章事とし、引き続き財政を管掌させる。前河東節度使・李載義を元の職務へ復帰させた。左神策軍が兵三百を出し、李訓の首級を持って王涯・王璠・羅立言・郭行餘らの処刑を見届けさせた。右神策軍も同数で賈餗・舒元輿・李孝本を捕え宗廟に献上した後、東西両市での晒し首とした。 解説
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| 命百官臨視,腰斬於獨柳之下,梟其首於興安門外。親屬無問親疏皆死,孩稚無遺,妻女不死者沒為官婢。百姓觀者怨王涯榷茶,或詬詈,或投礫擊之。 臣光曰:「論者皆謂涯、餗有文學名聲,初不知訓、注之謀,橫罹覆族之禍,憤歎其冤。臣獨以為不然。夫顛危不扶,焉用彼相!涯、餗安高位,飽重祿;訓、注小人,窮奸究險,力取將相。涯、餗與之比肩,不以為恥;國家危殆,不以為憂。偷合苟容,日復一日,自謂得保身之良策,莫我如也。若使人人如此而無禍,則奸臣孰不願之哉!一旦禍生不虞,足折刑剭,蓋天誅之也,士良安能族之哉! 王涯有再從弟沐,家於江南,老且貧。聞涯為相,跨驢詣之,欲求一簿、尉。留長安二歲餘,始得一見,涯待之殊落莫。久之,沐因嬖奴以道所欲,涯許以微官,自是旦夕造涯之門以俟命;及涯家被收,沐適在其第,與涯俱腰斬。舒元輿有族子守謙,願而敏,元輿愛之,從元輿者十年,一旦忽以非罪怒之,日加譴責,奴婢亦薄之。守謙不自安,求歸江南,元輿亦不留,守謙悲歎而去。夕,至昭應,聞元輿收族,守謙獨免。 是日,以令狐楚為鹽鐵轉運使,左散騎常侍張仲方權知京兆尹。時數日之間,殺生除拜,皆決於兩中尉,上不豫知。 初,王守澄惡官者田全操、劉行深、周元稹、薛士幹、似先義逸、劉英□等,李訓、鄭注因之遣分詣鹽州、靈武、涇原、夏州、振武、鳳翔巡邊,命翰林學士顧師邕為詔書賜六道,使殺之。 |
現代語訳百官に監視するよう命じ、独柳(どくりゅう)の下において腰斬刑とし、首級を興安門外で晒した。親族は親疎に関係なく全て死刑となり、幼い子供も一人残さず処刑され、妻や娘たちは死罪を免れた者も官婢(奴隷)として没収された。見物していた民衆は王涯の茶専売制(榷茶)への不満から罵声を浴びせたり、小石を投げつけたりした。 臣・司馬光が言う。「世論では『王涯と賈餗(かしゅく)は学識名声があり李訓や鄭注の陰謀を知らず、無実ながら一族皆殺しの災禍に遭った』と冤罪を嘆いている。しかし私はそう考えない。危機にあって救わぬ宰相など何の役立つというのか!王涯らが高位で厚禄を得ている間に、李訓・鄭注のような小人は悪巧みで将相の座まで奪い取ったのだ。彼らがこうした者と肩を並べることを恥ともせず、国家の危機も憂えなかったのは、保身だけを図り『これこそ最善策だ』と思っていたからである。もし奸臣全員が罰を受けぬなら、誰が悪事を恐れようか?不意に災禍に見舞われ刑死したのは天誅であり、宦官の仇士良(きゅうしりょう)によるものではない! 王涯の再従弟(はとこ)・王沐は江南で貧しい暮らしをしていた。宰相就任を知ると驢馬に乗って面会を求め、低い役職を得たいと願ったが、長安で二年以上待たされてようやく冷遇された対応を受けた。寵臣を通じて懇願すると微禄の官位を約束され、以後は毎日その屋敷へ辞令を待ちに通った。捕縛時にも邸内におり王涯と共に腰斬刑となった。舒元輿(じょげんよ)には甥の守謙がおり、温順で聡明だったため寵愛され十年間従っていたが、ある日突然無実の罪を着せられ叱責され続けた。奴婢にも軽んじられた守謙は帰郷を願い出たが引き留めもなく悲しみながら去った。夜に昭応(現在の臨潼)へ着いた時、舒一族逮捕を知り彼だけ逃れた。 同日、令狐楚(れいこそ)を塩鉄転運使(専売運輸長官)、左散騎常侍・張仲方を京兆尹代理とした。当時の生殺与奪や人事は全て左右神策軍中尉(宦官の最高職)が決め、皇帝すら事前に知ることはなかった。 当初、宦官王守澄は田全操ら六人の同僚を憎んでいたため、李訓と鄭注は彼らを塩州・霊武など辺境巡察へ派遣し、翰林学士顧師邕(こしよう)に詔書を作成させて現地で誅殺するよう命じた。」 解説
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| 會訓敗,六道得詔,皆廢不行。丙寅,以師邕為矯詔,下御史獄。 先是,鄭注將親兵五百,已發鳳翔,至扶風。扶風令韓遼知其謀,不供具,攜印及吏卒奔武功。注知訓已敗,復還鳳翔。仇士良等使人繼密敕授鳳翔監軍張仲清令取注,仲清惶惑,不知所為。押牙李叔說仲清曰:「叔和為公以好召注,屏其從兵,於坐取之,事立定矣!」仲清從之,伏甲以待注。注恃其兵衛,遂詣仲清。叔和稍引其從兵,享之於外,注獨與數人入。既啜茶,叔和抽刀斬注,因閉外門,悉誅其親兵。乃出密赦,宣示將士,遂滅注家,並殺副使錢可復、節度判官盧簡能、觀察判官蕭傑、掌書記盧弘茂等及其枝黨,死者千餘人。可復,徽之子;簡能,綸之子;人桀,俛之弟也。朝廷未知注死,丁卯,詔削奪注官爵,令鄰道案兵觀變。以左神策大將軍陳君弈為鳳翔節度使。戊辰夜,張仲清遣李叔和等以注首入獻,梟於興安門,人情稍安,京師諸軍始各還營。 詔將士討賊有功及娖隊者,官爵賜賚各有差。右神策軍獲韓約於崇義坊,己巳,斬之。仇士良等各進階遷官有差。自是天下事皆決於北司,宰相行文書而已。宦官氣益盛,迫脅天子,下視宰相,陵暴朝士如草芥。每延英議事,士良等動引訓、注折宰相。鄭覃、李石曰:「訓、注誠為亂首,但不知訓、注始因何人得進?」宦者稍屈,縉紳賴之。 |
現代日本語訳:甘露の変(会昌の変)が失敗した後、六道に発令された詔勅は全て無効とされ実行されなかった。丙寅の日、師邕を偽詔書の発布者として御史台の獄へ下した。 以前より鄭注は親衛兵500名を率いて鳳翔を出発し扶風へ到着していたが、扶風県令・韓遜は彼らの陰謀を知り物資供給を拒否。官印を持ち官吏と兵卒を引き連れ武功へ逃亡した。鄭注は李訓の敗北を知ると鳳翔に撤退する。仇士良らは密勅を携えた使者を派遣し、鳳翔監軍・張仲清に鄭注誅殺を命じた。張仲清は動揺して対応できずにいたが、押牙(武官)李叔和が進言:「和睦のためと偽り鄭注をお招き下さい。護衛兵を別室へ案内し宴席で捕らえれば事態収拾できます」。張仲清はこれを受け入れ伏兵を配置した。 鄭注は自軍への過信から警戒せず張仲清のもとへ赴く。李叔和が徐々に彼の護衛を室外へ誘導して酒宴をもてなす中、鄭注は数名のみを伴い室内に入った。茶を一服したところで李叔和が突然刀を抜いて斬りつけ、外門を閉じて親兵全員を殺害。密勅を公開して将士に示し、鄭注の一族を皆殺しにするとともに副使・銭可復(文官・銭徽の子)、節度判官・盧簡能(詩人・盧綸の子)、観察判官・蕭傑(政治家・蕭俛の弟)、掌書記・盧弘茂ら側近千余人を処刑した。 朝廷は鄭注死亡を知らないまま丁卯日に詔書で彼の官爵剥奪と周辺藩鎮への待機命令を発令。左神策大将軍・陳君弈を鳳翔節度使に任命するが、翌戊辰日の夜中に張仲清配下の李叔和が鄭注の首級を持参し、興安門で晒し首となったため人心は漸く安定した。これにより長安駐留軍各部隊は兵営へ帰還している。 詔勅で反乱鎮圧に功績があった将士や規律部隊に対し官位と褒賞を授与する中、右神策軍が逃亡中の韓約を崇義坊で捕縛し己巳日に処刑。仇士良ら宦官も昇進し「天下の政務は全て北司(宦官機関)が決定」という状況となり宰相は文書処理係に堕落した。宦官勢力は天子を威圧し、宰相を見下すとともに廷臣たちを草芥同然に虐待。延英殿会議では仇士良らが頻繁に李訓・鄭注の事例で宰相(鄭覃・李石)を恫喝したため、両者は「彼等を登用した張本人こそ問題だ」と反論し宦官側を一時的に押さえ込んだ。この対応により官僚勢力はかろうじて面目を保った。 解説:
▶ この事件が示す本質は、皇帝権力の空洞化の中で軍事力を掌握した宦官集団がいかに司法・人事まで掌握し、文官システムを形骸化させたかの典型事例である。 Translation took 1979.2 seconds. |
| 時中書惟有空垣破屋,百物皆闕。江西、湖南獻衣糧百二十分,充宰相召募從人。辛未,李石上言:「宰相若忠正無邪,神靈所祐,縱遇盜賊,亦不能傷。若內懷奸罔,雖兵衛甚設,鬼得而誅之。臣願竭赤心以報國,止循故事,以金吾卒導從足矣。其兩道所獻衣糧,並乞停寢。」從之。 十二月,壬申朔,顧師邕流儋州,至商山,賜死。 榷茶使令狐楚奏罷榷茶,從之。 度支奏籍鄭注家貲,得絹百餘萬匹,他物稱是。 庚辰,上問宰相:「坊市安未?」李石對曰:「漸安。然比日寒冽特甚,蓋刑殺太過所致。」鄭覃曰:「罪人周親前已皆死,其餘殆不足問。」時宦官深怨李訓等,凡與之有瓜葛親,或暫蒙獎引者,誅貶不已,故二相言之。 李訓、鄭注既誅,召六道巡邊使。田全操追忿訓、注之謀,在道楊言:「我入城,凡儒服者,無貴賤當盡殺之!」癸未,全操等乘驛疾驅入金光門,京城訛言有寇至,士民驚噪縱橫走,塵埃四起。兩省諸司官聞之,皆奔散,有不及束帶襪而乘馬者。鄭覃、李石在中書,顧吏卒稍稍逃去。覃謂石曰:「耳目頗異,宜且出避之!」石曰:「宰相位尊望重,人心所屬,不可輕也!今事虛實未可知,堅坐鎮之,庶幾可定。若宰相亦走,則中外亂矣。且果有禍亂,避亦不免!」覃然之。石坐視文案,沛然自若。敕使相繼傳呼:「閉皇城諸司門!」左金吾大將軍陳君賞帥其眾立望仙門下,謂敕使曰:「賊至,閉門未晚,請徐觀其變,不宜示弱!」至晡後乃定。 |
現代日本語訳当時、中書省には空っぽの塀と壊れた建物があるだけで、あらゆる物資が欠乏していた。江西・湖南から献上された衣服や食糧120人分を宰相が従者募集に充てようとしたところ、辛未(11月29日)に李石が上奏した。「宰相が忠義正しく邪心なき者は神霊の加護を受け、仮に盗賊に出会っても害されません。内心で奸計を抱く者がいれば、警備兵を厚く配置しても鬼が誅するでしょう。臣は赤誠を尽くして国に報いたい。旧例通り、金吾衛(禁衛軍)の兵卒による先導・護衛だけで十分です。両道から献上された衣服食糧は停止なさってください」。帝はこれに従った。 12月壬申朔(1日)、顧師邕が儋州へ流罪となり、商山で賜死となった。 庚辰(9日)、帝が宰相に尋ねた。「都の治安は回復したか?」李石が答えた。「次第に安定しております。しかしこのところ酷寒なのは刑殺過多の影響でしょう」。鄭覃が続けた。「罪人の近親者は既に処刑され、残りは問題にならない」。当時宦官らは李訓らを深く恨み、彼らと縁故のある者や一時でも推挙された者は次々誅殺・左遷されており、両宰相の発言もこれを踏まえたものだった。 李訓・鄭注処刑後、辺境巡察使6名が召還された。田全操は李訓らの謀略に激怒し、帰途で「俺が都に入ったら儒者風の者は身分問わず皆殺しだ!」と公言した。癸未(12日)、彼らが駅馬を飛ばして金光門から突入すると、都では賊軍襲来の噂が流れ、民衆は驚き叫びながら逃げ惑い砂塵が舞い上がった。官庁の役人たちは帯も靴下も付けずに馬に飛び乗って逃亡し、中書省でも鄭覃と李石の目の前で役卒が次々逃走した。鄭覃が「様子がおかしい、避難すべきだ」と言うと、李石は答えた。「宰相は重責を担い人心の帰するところです。軽率に動けません!今は真偽不明だが座して鎮めれば収拾できる。宰相まで逃げたら内外大混乱となる。仮に禍あっても避けて通れまい」。鄭覃も同意し、李石は書類を悠然と見続けた。勅使が「皇城諸門閉鎖せよ!」と叫ぶ中、左金吾大将軍・陳君賞が望仙門前に陣取り言下に宣言した。「賊が来てから閉めても遅くない。弱みを見せるな!様子を慎重に見よ」。夕刻になってようやく事態は収束した。 解説
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| 是日,坊市惡少年皆衣緋皁,持弓刀北望,見皇城門閉,即欲剽掠,非石與君賞鎮之,京城幾再亂矣。時兩省官應入直者,皆與其家人辭訣。 甲申,敕罷修曲江亭館。 丁亥,詔:「逆人親黨,自非前已就戮及指名收捕者,餘一切不問。諸司官吏雖為所脅從,涉於詿誤,皆赦之。他人毋得妄相告言及相恐惕。見亡匿者,勿復追捕,三日內各聽自歸本司。」時禁軍暴橫,京兆尹張仲方不敢詰,宰相以其不勝任,出為華州刺史,以司農卿薛元賞代之。元賞常詣李石第,聞石方坐聽事與一人爭辯甚喧,元賞使覘之,雲有神策軍將訴事。元賞趨入,責石曰:「相公輔佐天子,紀綱四海。今近不能制一軍將,使無禮如此,何以鎮服四夷!」即趨出上馬,命左右擒軍將,俟於下馬橋,元賞至,則已解衣跽之矣。其黨訴於仇士良,士良遣宦者召之曰:「中尉屈大尹。」元賞曰:「屬有公事,行當繼至。」遂杖殺之。乃白服見士良,士良曰:「癡書生何敢杖殺禁軍大將!」元賞曰:「中尉大臣也,宰相亦大臣也,宰相之人若無禮於中尉,如之何?中尉之人無禮於宰相,庸可恕乎!中尉與國同體,當為國惜法,元賞已囚服而來,惟中尉死生之!」士良知軍將已死,無可如何,乃呼酒與元賞歡飲而罷。初,武元衡之死,詔出內庫弓矢、陌刀給金吾仗,使衛從宰相,至建福門而退。 |
現代日本語訳その日、街中でならず者たちが赤や黒の衣をまとい、武器を持って北を望み見たところ、皇城の門は閉ざされていたため、略奪を企てようとした。しかし李石と薛元賞が鎮圧したことで、長安の都は再び乱れる寸前であった。 この時、朝廷に詰めているはずだった両省(中書省・門下省)の役人たちは皆、家族との別れを覚悟していたほどである。 甲申の日には曲江亭館(離宮施設)の修繕中止が勅令で発表された。丁亥の日には詔書が出され、「反逆者の縁者については既に処刑済みか指名手配中の者以外は一切不問とする。脅されて関与した官吏も罪を赦す。他人への密告や威嚇は厳禁。逃亡者は追わず三日以内の出頭を待て」と布告された。 当時、神策軍(皇帝親衛隊)が暴虐を極める中で京兆尹(長安府知事)張仲方は取締りすらできなかった。宰相は彼の失態を責め華州刺史へ左遷し、後任に司農卿・薛元賞を起用する。 ある時元賞が李石邸を訪れると、応接間で誰かと激しく論争している声が聞こえた。部下に確認させると「神策軍の将校が訴えに来ている」という。元賞はすぐさま中へ入り宰相を叱責した:「閣下は天子を補佐し天下を治める立場なのに、目の前の一軍人さえ統制できぬとは!これでは諸外国を従わせられまい」。即座に外へ飛び出して馬に乗ると部下に命じ「犯人は下馬橋で待て」と伝達させた。 元賞が到着した時には将校は既に上衣を脱ぎ跪かされていた。この件を知った宦官勢力の巨頭・仇士良(神策軍中尉)は使者を遣わし「中尉様が京兆尹をお呼びだ」と召還命令を下す。元賞は「公務中ゆえ後程参る」と言い放ち、その場で将校を杖殺刑に処した。 白装束(喪服)のまま仇士良のもとに現れた元賞に、「無礼者め!禁軍大将を勝手に処刑するとは!」と詰め寄られる。すると彼はこう反論した:「中尉も宰相も同格の大臣です。もし宰相側が中尉へ無礼働けばどうなさいます?逆の場合が許される道理がありましょうか。国の柱である貴方こそ法を守るべきでは?」さらに「私は死装束で参った。生死は貴方が決めよ」と迫ると、仇士良は既に将校が死亡したことを悟り引き下がらざるを得なかった。 やむなく酒席を設けて元賞をもてなすことで事件の幕引きとした。かつて武元衡宰相暗殺を受けた際には詔勅で武器庫開放し、金吾衛(皇宮警備隊)に武装させ建福門まで宰相護衛を強化していたのである。 解説歴史的背景
薛元賞の人物像
法制史的特徴
権力構造
文章技法
この記述は唐代中央政界の危機管理実態を示すと同時に、司馬光(『資治通鑑』編者)による「法秩序こそ乱世を収める要」という史観が反映された代表的な章段である。 Translation took 979.6 seconds. |
| 至是,悉罷之。 文宗元聖昭獻孝皇帝中開成元年(丙辰,公元八三六年) 春,正月,辛丑朔,上御宣政殿,赦天下,改元。仇士良請以神策仗衛殿門,諫議大夫馮定言其不可,乃止。定,宿之弟也。 二月,癸未,上與宰相語,患四方表奏華而不典,李石對曰:「古人因事為文,今人以文害事。」 昭義節度使劉從諫上表請王涯等罪名,且言:「涯等儒生,荷國榮龐,鹹欲保身全族,安肯構逆!訓等實欲討除內臣,兩中尉自為救死之謀,遂致相殺,誣以反逆,誠恐非辜。設右宰相實有異圖,當委之有司,正其刑典,豈有內臣擅領甲兵,恣行剽劫,延及士庶,橫被殺傷!流血千門,殭屍萬計,搜羅枝蔓,中外恫疑。臣欲身詣闕庭,面陳臧否,恐並陷孥戮,事亦無成。謹當修飾封疆,訓練士卒,內為陛下心腹,外為陛下籓垣。如奸臣難制,誓以死清君側!」丙申,加從諫檢校司徒。 天德軍奏吐谷渾三千帳詣豐州降。 三月,壬寅,以袁州長史李德裕為水除州刺史。左僕射令狐楚從容奏:「王涯等既伏辜,其家夷滅,遺骸棄捐。請官為收瘞,以順陽和之氣。」上慘然久之,命京兆收葬涯等十一人於城西,各賜衣一襲。仇士良潛使人發之,棄骨於渭水。丁未,皇城留守郭皎奏:「諸司儀仗有鋒刃者,請皆輸軍器使,遇立仗別給儀刀!」從之。劉從諫復遣牙將焦楚長上表讓官,稱:臣之所陳,系國大體。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』開成元年の記述より)皇帝はこれら全てを廃止した。 文宗元聖昭献孝皇帝・開成元年(丙辰、西暦836年) 二月十三日、帝が「各地からの上奏文が体裁ばかりで中身がない」と宰相に憂いを示すと、李石が応じた。「昔の人は事実を基に文章を作りましたが、今の者は見栄えのために真実を歪めます」 昭義節度使劉従諫が上表して王涯らの冤罪を訴えた。「彼らは恩恵を受けた文官で、一族保全こそ望む者たちです。どうして謀反など起こせましょうか?李訓らが狙ったのは宦官排除であり、仇士良ら中尉は保身のために殺戮を拡大し『謀反』と偽装したのです。たとえ宰相に異心があっても司法機関で裁くべきで、なぜ宦官が勝手に軍隊を動かし民間人まで虐殺できるのか?宮廷流血・屍累万という惨状は国内外に衝撃を与えた。私みずから朝廷に出向いて弁明したいが族誅される恐れがあるため断念する代わり、国境防備と軍訓練で陛下の盾となることを誓います。もし奸臣を抑えられぬ時は命賭けて君側(皇帝周辺)を清めます!」二十六日、劉従諫に名誉職「検校司徒」が授けられた。 天徳軍から「吐谷渾族三千幕舎が豊州へ投降」と報告された。 三月三日、袁州刺史李徳裕を滁州刺史とする。左僕射令狐楚は控えめに奏上した。「王涯ら処刑者の遺骸放置は不適切です。朝廷で埋葬し天地の調和を保つべきでしょう」。帝が悲痛な表情で了承すると、役人が長安城西に11体を葬り各々衣装一式を与えたが、仇士良が密かに墓を暴かせ遺骨を渭水へ投棄した。八日、皇城留守郭皎の「儀仗用武器は軍器庫で管理し式典時のみ貸与すべき」という提案を採用。劉従諫が再び使者を通じ加官辞退と陳情書を提出。「私の主張は国家存立に関わる重大事です」 解説
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| 可聽則涯等宜蒙湔洗,不可聽則賞典不宜妄加!安有死冤不申而生者荷祿!」因暴揚仇士良等罪惡。辛酉,上召見楚長,慰諭遣之。時士良等恣橫,朝臣日憂破家。及從諫表至,士良等憚之。由是鄭覃、李石粗能秉政,天子倚之亦差以自強。 夏,四月,己卯,以潮州司戶李宗閔為衡州司馬。凡李訓所指為李德裕、宗閔黨者,稍收復之。 淄王協薨。 甲午,以山南西道節度使李固言為門下侍郎、同平章事,以左僕射令狐楚代之。 戊戌,上與宰相從容論詩之工拙,鄭覃曰:「詩之工者,無若三百篇,皆國人作之以刺美時政,王者采之以觀風俗耳,不聞王者為詩也。後代辭人之詩,華而不實,無補於事。陳後主、隋煬帝皆工於詩,不免亡國,陛下何取焉!」覃篤於經術,上甚重之。 己酉,上御紫宸殿,宰相因奏事拜謝,外間因訛言:「天子欲令宰相掌禁兵,已拜恩矣。」由是中外復有猜阻,人情恟恟,士民不敢解衣寢者數日。乙丑,李石奏請召仇士良等面釋其疑。上為召士良等出,上及石等共諭釋之,使毋疑懼,然後事解。 閏月,乙酉,以太子太保、分司李聽為河中節度使。上常歎曰:「付之兵不疑,置之散地不怨,惟聽為可以然。」 乙未,李固言薦崔球為起居舍人,鄭覃再三以為不可,上曰:「公事勿相違!」覃曰:「若宰相盡同,則事必有欺陛下者矣!」 李孝本二女配沒右軍,上取之入宮。 |
現代日本語訳:もし(訴えを)聴き入れるならば、涯らは当然罪を洗い流されるべきであり、聞き入れないのであれば恩賞を安易に加えるべきではない!どうして死者の冤罪が晴らされずに生きている者が禄を受けることがあろうか!」こうして仇士良らの罪悪を公然と暴露した。辛酉(かのとのとり)の日、皇帝は楚長を召し出して慰め諭し帰した。当時、士良らが横暴を極めたため、朝廷の臣たちは毎日のように家を滅ぼされることを憂えていた。従諫の上奏文が届くと、士良らはこれを恐れた。これにより鄭覃(ていたん)や李石(りせき)がようやく政務を執ることができ、天子も彼らに頼ることでかろうじて自立できた。 夏四月己卯(つちのとうぼう)の日、潮州司戸(ちょうしゅうしこ)であった李宗閔(りそうびん)を衡州司馬(こうしゅうしま)とした。かつて李訓が「李徳裕・宗閔派」と指摘した者たちは次第に復職させられた。 淄王協(しおうきょう)が薨去(こうきょ)した。 甲午(きのえうま)の日、山南西道節度使(さんなんせいどうせつどし)李固言を門下侍郎・同平章事に任じ、左僕射令狐楚(さぼくやれいこそ)が後任となった。 戊戌(つちのえいぬ)の日、皇帝が宰相たちと詩歌の巧拙について気楽に議論したところ、鄭覃は言った:「最も優れた詩といえば『三百篇』(詩経)であり、全て民衆が時政を諷刺・称賛して作ったもので、王者が風俗を見るために採集されたのです。王者自ら詩を作られた話は聞きません。後世の文人の詩は華やかだが実質なく、事態の改善に役立ちません。陳の後主(こうしゅ)も隋の煬帝(ようだい)も詩を巧みに詠んだが滅亡を免れず、陛下は何故それを取り上げられるのですか?」覃は経書の学問に篤く、皇帝は彼を非常に重んじた。 己酉(つちのとのとり)の日、紫宸殿で宰相たちが政務報告後拝謝したため、外間では「天子が宰相に禁軍指揮権を与え、すでに恩賞を受けた」という噂が流れた。これにより朝廷内外に再び疑念が生じ、人心は動揺し、数日間にわたり官民とも安心して寝られなかった。乙丑(きのとのうし)の日、李石が仇士良らを召し出して直接疑惑を解くよう上奏した。皇帝は士良らに出頭させ、自ら李石らとともに事情を説明して疑念を晴らすように諭し、事態は収拾された。 閏月乙酉(うるうづき きのとのとり)の日、太子太保・分司(ぶんし)であった李聴(りちょう)を河中節度使に任命した。皇帝は常々嘆じて言った:「兵権を与えても疑わず、閑職にあっても怨まないのは、聴だけがこのようにできるのだ」。 乙未(きのとのひつじ)の日、李固言が崔球(さいきゅう)を起居舎人に推挙したところ、鄭覃は再三反対した。皇帝が「公務では互いに矛盾するな」と言うと、覃は答えた:「もし宰相全員が同調すれば、必ず陛下に対して欺くことが起こるでしょう!」 李孝本(りこうほん)の二人の娘が右軍に没収された後、皇帝が彼女らを宮中に召し入れた。 解説:
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| 秋,七月,右拾遺魏謨上疏,以為:「陛下不邇聲色,屢出宮女以配鰥夫。竊聞數月以來,教坊選試以百數,莊宅收市猶未已;又召李孝本女入宮,不避宗姓,大興物論,臣竊惜之。昔漢光武一顧列女屏風,宋弘猶正色抗言,光武即撤之。陛下豈可不思宋弘之言,欲居光武之下乎!」上即出孝本女。擢謨為補闕,曰:「朕選市女子,以賜諸王耳。憐孝本女宗枝髫齔孤露,故收養宮中。謨於疑似之間皆能盡言,可謂愛我,不忝厥祖矣!」命中書優為制辭以賞之。謨,征之五世孫也。 鄜坊節度使蕭洪詐稱太后弟,事覺。八月,甲辰,流驩州,於道賜死。趙縝、呂璋等皆流嶺南。初,李訓知洪之詐,洪懼,辟訓兄仲京置幕府。先是,自神策軍出為節度使者,軍中皆資其行裝,至鎮,三倍償之。有自左軍出鎮鄜坊未償而死者,軍中征之於洪,洪恃訓之勢,不與。又征於死者之子,洪教其子遮宰相自言,訓判絕之。仇士良由是恨洪。太后有異母弟在閩中,孱弱不能自達。有閩人蕭本從之得其內外族諱,因士良進達於上,且發洪之詐,洪由是得罪。上以本為真太后弟,戊申,擢為右贊善大夫。 九月,丁丑,李石為上言宋申錫忠直,為讒人所誣,竄死遐荒,未蒙昭雪。上俯首久之,既而流涕泫然曰:「茲事朕久知其誤,奸人逼我,以社稷大計,兄弟幾不能保,況申錫,僅全腰領耳。 |
現代日本語訳:秋七月、右拾遺(諫官)の魏謨が上疏し、「陛下は音楽や女色におぼれず、繰り返し宮女を放出して独り身の男性と結婚させておられます。しかし私が聞くところではここ数ヶ月、教坊(宮廷楽団)で数百人規模の選抜試験を行い、荘宅使(皇室財産管理局)による女性購入も続いているとのことです。さらに李孝本の娘を後宮に入れるにあたり、同姓であることを避けなかったため、世間の非難が高まっております。昔、漢の光武帝が列女図屏風を見た時、宋弘が厳しく諫めたところ、光武帝はすぐに撤去させました。陛下はどうして宋弘の言葉を顧みず、光武帝より劣ろうとなさるのですか」と述べた。皇帝(文宗)は直ちに李孝本の娘を宮外に出し、魏謨を補闕へ昇進させて説明した。「朕が女性を買ったのは諸王に賜うためだ。李孝本の娘は皇族であり幼くして孤児となったことを哀れみ、後宮で養育していただけである」と前置きしつつ、「魏謨は疑わしい点を見逃さず直言できる人物だ。まことに朕を愛する忠臣であり、祖先(名臣・魏徴)に恥じぬ者である」と称賛した。中書省へ表彰文の作成を命じた。魏謨は魏徴の五世孫であった。 鄜坊節度使の蕭洪が太后の実弟だと偽った事件が発覚する。八月甲辰、驩州(現ベトナム)への流罪となり移送中に自害を命ぜられた。趙縝・呂璋らも嶺南へ流された。当初、宰相李訓は蕭洪の詐欺を知ると脅しをかけたため、蕭洪は恐れて李訓の兄・仲京を幕僚として迎えた。当時、神策軍から地方節度使に転出する際には軍隊が装備資金を貸す慣例があり、赴任地で3倍返済していた。ところが鄜坊へ向かう前に債務未払いのまま死亡した左神策軍出身者がおり、部隊は蕭洪に請求したが彼は李訓の権勢を頼み無視し、死者の息子から取り立てようとした。蕭洪はその息子に宰相へ直訴させたが李訓が却下したため、宦官・仇士良は蕭洪への恨みを深めた。一方、太后には異母弟(本物)が閩(福建)におり貧弱で都に出られぬ中、閩出身者・蕭本がその一族情報を入手し仇士良経由で皇帝に奏上すると同時に蕭洪の詐欺を告発したため、蕭洪は罪を得た。皇帝は蕭本こそ真実の太后弟と認め戊申日に右贊善大夫へ抜擢した。 九月丁丑、宰相李石が文宗帝に対し「宋申錫(冤罪で処刑された前宰相)は忠義の人でありながら讒言により流刑死し名誉回復されていない」と進言すると、皇帝は長くうつむいた後に涙を浮かべて語った。「この件の過ちは以前から承知していた。だが奸臣(宦官)に脅迫され国家存亡に関わる中で兄弟ですら守れなかったのに、ましてや宋申錫など腰斬刑だけが免れたのだ」と。 解説:【歴史背景】本史料は『資治通鑑』唐紀・文宗期(835年頃)の記録。当時は宦官勢力が朝廷を掌握し「甘露の変」(宦官大量粛清未遂事件)直前の緊張下にあった。皇族詐称問題や諫官の発言力など、唐代後期の政治構造が凝縮されている。 【核心的テーマ】
【特筆事項】
【現代語訳の工夫】
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| 非獨內臣,外廷亦有助之者。皆由朕之不明,向使遇漢昭帝,必無此冤矣!」鄭覃、李固言亦共言其冤,上深痛恨,有慚色。庚辰,詔悉復申錫官爵,以其子慎微為成固尉。 李石用金部員外郎韓益判度支,案益坐贓三千餘緡,繫獄。石曰:「臣始以益頗曉錢穀,故用之,不知其貪乃如是!」上曰:「宰相但知人則用,有過則懲,如此則人易得。卿所用人不掩其惡,可謂至公。從前宰相用人好曲蔽其過,不欲人彈劾,此大病也。」冬,十一月,丁巳,貶益梧州司戶。 上自甘露之變,意忽忽不樂,兩軍球鞠之會什減六七,雖宴享音伎雜遝盈庭,未嘗解顏。閒居或徘徊眺望,或獨語歎息。壬午,上於延英謂宰相曰:「朕每與卿等論天下事,則不免愁。」對曰:「為理者不可以速成。」上曰:「聯每讀書,恥為凡主。」李石曰:「方今內外之臣,其間小人尚多疑阻,願陛下更以寬御之,彼有公清奉法如劉弘逸、薛季稜者,陛下亦宜褒賞以勸為善。」甲申,上復謂宰相曰:「我與卿等論天下事,有勢未得行者,退但飲醇酒求醉耳!」對曰:「此皆臣等之罪也。」 有司以左藏積弊日久,請行檢勘,且言官典罪在赦前者,請宥之,上許之。既而果得繒帛妄稱漬污者,敕赦之。給事中狄兼謨封還敕書曰:「官典犯贓,理不可赦!」上諭之曰:「有司請檢之初,聯既許之矣。 |
現代日本語訳(注:原文は『資治通鑑』の漢文であるため、歴史的状況を考慮しつつ口語体で表現) 単なる宦官だけではなく、朝廷外にも彼らに加勢する者がいた。これこそ朕が明君ではない証だ。もしも孝昭帝(前漢の中興の祖)のような君主のもとにあったなら、このような冤罪は決して起こらなかっただろう!」 李石が金部員外郎・韓益を度支判事に登用したところ、後になって韓益が三千余緡(当時の通貨単位)もの汚職に関与していた罪で投獄される事件が起きた。 甘露の変(皇帝派宦官誅殺計画が失敗した政変)以降、皇帝はぼんやりとして楽しみを失い、禁軍主催の馬球大会も十中六七減り、宴席では音楽や芸能で庭がいっぱいになっても一度も笑顔を見せなかった。独りの時には窓辺を行きつ戻りつしたり、独り言をつぶやいてはため息をついた。 役所が左蔵庫(国庫)の腐敗が長年放置されているとして監査を申請し、かつ赦令以前の担当官吏の罪を許すよう請うたため皇帝は許可した。 解説(歴史的意義と現代性)■文宗皇帝の苦悩に見る「明君」のジレンマ
■狄兼謨の諫言と法理思想
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| 與其失信,寧失罪人。卿能奉職,朕甚嘉之!」 十二月,庚戌,以華州刺史盧鈞為嶺南節度使。李石言於上曰:「盧鈞除嶺南,朝士皆相賀。以為嶺南富饒之地,近歲皆厚賂北司而得之;今北司不撓朝權,陛下宜有以褒之。庶幾內外奉法,此致理之本也。」上從之。鈞至鎮,以清惠著名。 己未,淑王縱薨。 文宗元聖昭獻孝皇帝中開成二年(丁巳,公元八三七年) 春,二月,己未,上謂宰相:「薦人勿問親疏,聯聞竇易直為相,未嘗用親故。若親故果才,避嫌而棄之,是亦不為至公也。」 均王緯薨。 三月,有慧星出於張,長八丈餘。壬申,詔撤樂減膳,以一日之分充十日。 夏,四月,甲辰,上對中書舍人、翰林學士兼侍書柳公權等於便殿,上舉衫袖示之曰:「此衣已三浣矣!」眾皆美上之儉德,公權獨無言。上問其故,對曰:「陛下貴為天子,富有四海,當進賢退不肖,納諫諍,明賞罰,乃可以致雍熙。服浣濯之農,乃末節耳。」上曰:「聯知舍人不應復為諫議,以卿有諍臣風采,須屈卿為之。」乙巳,以公權為諫議大夫,餘如故。 戊戌,以翰林學士、工部侍郎陳夷行同平章事。 六月,河陽軍亂,節度使李泳奔懷州。軍士焚腐署,殺泳二子,大掠數日方止。泳,長安市人,寓籍禁軍,以賂得方鎮。所至恃所交結,貪殘不法,其不下堪命,故作亂。 |
現代日本語訳:「信義を損なうよりは罪人を取り逃がす方がましだ。卿が職責を果たしていることに、朕は深く感心している!」 十二月庚戌(二十日)、華州刺史・盧鈞を嶺南節度使に任命した。李石が皇帝に進言した。「盧鈞の嶺南赴任について朝廷官僚たちは互いに祝賀しております。近年、嶺南のような豊かな土地は全て北司(宦官機構)への多額の賄賂で得ていたものですが、今や北司が朝廷の権威を侵さなくなったのは陛下が褒賞すべきことです。これにより内外に法が行き渡り、天下太平の基となるでしょう」。皇帝はこれを容れた。盧鈞は任地で清廉かつ慈恵ある統治を行い名声を得た。 己未(二十九日)、淑王・李縦が薨去した。 文宗元聖昭献孝皇帝 治世中/開成二年(丁巳の年、西暦837年) 春二月己未(三日)、皇帝は宰相に述べた。「人材を推挙する際には親疎を問うな。朕が聞くところでは竇易直が宰相だった時、決して身内を用いなかったという。もし身内に真の才能があるのに嫌疑を避けてこれを退けるのは公平とは言えぬ」。 均王・李緯が薨去した。 三月、張宿(星宿)の方角に彗星が現れ長さ八十丈余に及んだ。壬申(十六日)、詔勅で「音楽を止め膳部を減らし、一日分の費用で十日間賄え」と命じた。 夏四月甲辰(十九日)、皇帝は便殿において中書舎人・翰林学士兼侍書である柳公権らに接見し、袖を持ち上げて示しながら言った。「この衣はすでに三度洗っている」。一同がこぞって皇帝の倹約を称賛する中、公権だけが沈黙した。理由を問われ彼は答えた。「陛下は天子として四海の富を持つ身でありなすべきことは――賢者を登用し不肖を退け、諫言を受け入れ賞罰を明らかにすることです。それこそ太平への道であって、洗い繕った衣服などは末節に過ぎません」。皇帝は応じた。「舎人(中書舎人)が同時に諫議大夫となるのは慣例ではないが、卿には諍臣の風格があるゆえこの職を与えるのだ」。乙巳(二十日)、公権を諫議大夫とし従前の官職は留任させた。 戊戌※(四月十三日の誤記か? 前段甲辰十九日に矛盾)、翰林学士・工部侍郎であった陳夷行を同平章事に任命した。 六月、河陽で兵乱が勃発。節度使李泳は懐州へ逃亡。軍士たちは役所を焼き払い李泳の二人の息子を殺害し、数日間にわたり略奪を行った後ようやく鎮静化した。李泳は長安商人出身で禁軍に籍を置いた後、賄賂によって節度使職を得た者である。赴任先ではコネを頼みに貪欲残酷な振る舞いで法を無視し、配下が耐えかねて反乱を起こしたのである。 解説:
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| 丁未,貶泳澧州長史。戊申,以左金吾將軍李執方為河陽節度使。 秋,七月,癸亥,振武奏党項三百餘帳剽掠逃去。 給事中韋溫為太子侍讀,晨詣東宮,日中乃得見。溫諫曰:「太子當雞鳴而起,問安視膳,不宜專事宴安!」太子不能用其言,溫乃辭侍讀。辛未,罷守本官。 振武突厥百五十帳叛,剽掠營田。戊寅,節度使劉沔擊破之。八月,庚戌,以昭儀王氏為德妃,昭容楊氏為賢妃。立敬宗之子休復為梁王,執中為襄王,言楊為杞王,成美為成王。癸丑,立皇子宗儉為蔣王。 河陽軍士既逐李泳,日相扇,欲為亂。九月,李執方索得首亂者七十餘人,悉斬之,餘黨分隸外鎮,然後定。 冬,十月,國子監《石經》成。 福建奏晉江百姓蕭弘稱太后族人,詔御史台案之。 戊申,以門下侍郎、同平章事李固言同平章事,充西川節度使。 甲寅,御史台奏蕭弘詐妄。詔遞歸鄉里,不之罪,冀得其真。 |
現代日本語訳丁未の日に李泳を澧州長史に左遷した。翌日戊申には、左金吾将軍である李執方を河陽節度使に任命した。 秋七月癸亥(7月3日)、振武から「党項族三百帳余りが略奪して逃亡した」との報告が入る。 給事中・韋温は太子侍読として東宮を朝早く訪れたが、昼過ぎになるまで面会できなかった。温は諫めて言った:「皇太子様は鶏の鳴く時刻に起きて両親への挨拶や食事の世話をすべきです。安逸だけを求めるのは良くありません」。しかし皇太子は彼の意見を受け入れず、韋温は侍読職を辞任した。辛未(7月11日)、元々の給事中の官職に戻された。 振武で突厥族百五十帳が反乱し、屯田地帯を略奪。戊寅(7月18日)には節度使・劉沔が彼らを撃破。 八月庚戌(8月19日)、昭儀王氏を徳妃に、昭容楊氏を賢妃に冊立した。先帝敬宗の皇子たちも封じられ:休復は梁王、執中は襄王、言揚は杞王、成美は成王となった。 癸丑(8月22日)、当時の皇帝(文宗)の子である宗儉を蔣王に封ずる。 河陽駐屯軍兵士が李泳追放後も騒動続きで反乱寸前だった。九月、新節度使・李執方が首謀者七十余人を見つけ出して全員斬罪とし、残党は辺境の部隊に分散配置させて事態を鎮めた。 冬十月のある日(原文日付欠落)、国子監で『石経』(石刻による儒教経典)が完成。 福建地方から「住民・蕭弘が皇太后(文宗生母)の親族と名乗っている」との報告を受け、御史台に調査を命令。戊申(11月7日?※前出と重複)、門下侍郎で宰相職の李固言を西川節度使として派遣。 甲寅(11月13日)、御史台から「蕭弘は偽装である」と奏上されるも、詔勅では郷里送還のみで不問に付した。真実の親族発見への期待を示す措置だった。 解説
※注:原文「戊申」重複日付については唐代史料における干支誤記問題あり。本訳では月次進行で11月説採用(李固言任命)。 Translation took 1321.7 seconds. |
| input text 資治通鑑\246_唐紀_62.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百四十六 唐紀六十二 起著雍敦牂,盡玄默閹茂,凡五年。 文宗元聖昭獻孝皇帝下開成三年〈戊午,西元八三八年〉 春,正月,甲子,李石入朝,中塗有盜射之,微傷。左右奔散,石馬驚,馳歸第。又有盜邀擊於坊門,斷其馬尾,僅而得免。上聞之,大驚,命神策六軍遣兵防衞,敕中外捕盜甚急,竟無所獲。乙丑,百官入朝者九人而已。京城數日方安。 丁卯,追贈故齊王湊爲懷懿太子。 戊申,以鹽鐵轉運使、戸部尚書楊嗣復,戸部侍郎、判戸部李玨並同平章事,判、使如故。嗣復,於陵之子也。 中書侍郎、同平章事李石,承甘露之亂,人情危懼,宦官恣橫,忘身徇國,故紀綱粗立。仇士良深惡之,潛遣盜殺之,不果。石懼,累表稱疾辭位。上深知其故而無如之何。丙子,以石同平章事,充荊南節度使。 陳夷行性介直,惡楊嗣復爲人,毎議政事,多相抵斥。壬辰,夷行以足疾辭位,不許。上命起居舍人魏謨獻其祖文貞公笏,鄭覃曰:「在人不在笏。」上曰:「亦甘棠之比也。」 楊嗣復欲援進李宗閔,恐爲鄭覃所沮,乃先令宦官諷上。上臨朝,謂宰相曰:「宗閔積年在外,宜與一官。」鄭覃曰:「陛下若憐宗閔之遠,止可移近北數百里,不宜再用。用之,臣請先避位。」陳夷行曰:「宗閔向以朋黨亂政,陛下何愛此纖人!」楊嗣復曰:「事貴得中,不可但徇愛憎。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百四十六 唐紀六十二より 開成三年(戊午、西暦838年)春正月、甲子の日、李石が朝廷へ向かう途中、盗賊に矢を射かけられ軽傷を負った。周囲の者は逃げ散り、彼の馬は驚いて邸宅まで駆け戻った。さらに別の盗賊が町門で待ち伏せし、馬の尾を切り落とすなど危うい状況だったが辛うじて難を逃れた。皇帝(文宗)はこの報告を受け大いに驚き、神策六軍に兵を派遣させて防衛にあたらせるとともに、内外へ盗賊逮捕の厳命を下したが、結局捕まえることはできなかった。翌日乙丑には朝廷に出仕した官僚はわずか九人であった。長安の都が落ち着きを取り戻すまで数日を要した。 丁卯、亡くなった斉王・湊に「懐懿太子」の称号を追贈した。 戊申(誤記注:前段から時系列矛盾)、塩鉄転運使兼戸部尚書である楊嗣復と、戸部侍郎で判戸部を務める李玨をともに同平章事に任命し、従来の職掌も引き続き担当させた。楊嗣復は于陵(ようりょう)の子息である。 中書侍郎兼同平章事の李石は、「甘露の変」後の人心動揺と宦官の横暴が続く状況下で、身を顧みず国政に尽くし綱紀を維持していた。これに憎悪を抱いた仇士良(きゅうしよう)が密かに刺客を送ったものの果たせなかった。李石は恐怖から繰り返し病気と称して辞任を願い出るが、皇帝は真相を知りながらも為す術がなかった。丙子、彼を同平章事として荊南節度使に転出させることで決着した。 陳夷行は剛直な性格で楊嗣復の人物を嫌っており、政務協議では頻繁に対立していた。壬辰、陳夷行は足病を理由に辞任を申し出るが許されなかった。皇帝が起居舎人・魏謨(ぎぼ)に命じて先祖である文貞公(魏徴)の笏を献上させた際、鄭覃が「大切なのは人物であって器物ではない」と諫めると、帝は「これも『甘棠』の故事と同じく先賢を偲ぶよすがだ」と述べた。 楊嗣復は李宗閔(りそうびん)を登用しようとしたが鄭覃に阻まれることを懸念し、まず宦官を通じて皇帝に働きかけさせた。帝は朝廷で宰相たちに向かい「長年地方にいた宗閔にも官職を与えるべきだ」と述べるや、鄭覃が即座に反論した:「陛下が彼の遠隔を哀れむなら数百里移動させる程度にとどめるべきです。重用すれば臣は辞任せざるを得ません」。これに対し陳夷行も「宗閔は以前派閥で朝政を乱しました。なぜあのような小人物を?」と迫ったが、楊嗣復は「事柄の適中こそ重要であり、私情だけで決めるべきではない」と応酬した。 解説
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| 」上曰:「可與一州。」覃曰:「與州太優,止可洪州司馬耳。」因與嗣復互相抵訐以爲黨。上曰:「與一州無傷。」覃等退,上謂起居郎周敬復、舍人魏謨曰:「宰相喧爭如此,可乎?」對曰:「誠爲不可。然覃等盡忠憤激,不自覺耳。」丁酉,以衡州司馬李宗閔爲杭州刺史。李固言與楊嗣復、李玨善,故引居大政以排鄭覃、陳夷行,毎議政之際,是非鋒起,上不能決也。 三月,牂柯寇涪州清溪鎮,鎮兵擊卻之。 初,太和之末,杜悰爲鳳翔節度使,有詔沙汰僧尼。時有五色雲見於岐山,近法門寺,民間訛言佛骨降祥,以僧尼不安之故。監軍欲奏之,悰曰:「雲物變色,何常之有!佛若果愛僧尼,當見於京師。」未幾,獲白兔,監軍又欲奏之,曰:「此西方之瑞也。」悰曰:「野獸未馴,且宜畜之。」旬日而斃。監軍不悅,以爲掩蔽聖德,獨畫圖獻之。及鄭注代心宗鎮鳳翔,奏紫雲見,又獻白雉。是歳,八月,有甘露降於紫宸殿前櫻桃之上,上親采而嘗之,百官稱賀。其十一月,遂有金吾甘露之變。及悰爲工部尚書、判度支,河中奏騶虞見,百官稱賀。上謂悰曰:「李訓、鄭注皆因瑞以售其亂,乃知瑞物非國之慶。卿前在鳳翔,不奏白兔,真先覺也。」對曰:「昔河出圖,伏羲以畫八卦;洛出書,大禹以敘九疇,皆有益於人,故足尚也。至於禽獸草木之瑞,何時無之!劉聰桀逆,黃龍三見;石季龍暴虐,得蒼麟十六、白鹿七,以駕芝蓋。 |
現代日本語訳皇帝が言った。「一州を与えよ。」崔覃は「州を与えるのは過分です。洪州司馬に留めるべきでしょう」と応じた。こうして李宗閔の処遇を巡り、楊嗣復らと激しく対立し派閥争いとなった。皇帝が「一州を与えても問題なかろう」と言うと、崔覃らは退出した。 三月、牂柯(現在の貴州)の賊軍が涪州清渓鎮を襲撃したが、守備兵が撃退した。 解説歴史的背景訳出箇所は『資治通鑑』唐紀六十二(会昌元年/841年)より。武宗朝初期の政治混乱期にあたる: 登場人物関係図``` 牛党(進士派): 楊嗣復・李玨 → 宗閔処遇緩和を主張 李固言 - 両派調停役だが実は牛党支持 李党(門閥派): 鄭覃・陳夷行 ← 厳罰論で対抗 ↑ 皇帝武宗 → 当初中立姿勢も次第に廃仏推進へ傾斜 ``` 杜悰の合理性監軍役人との逸話は「瑞祥崇拝への批判」が核心: 訳出方針
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| 以是觀之,瑞豈在德!玄宗嘗爲潞州別駕,及即位,潞州奏十九瑞,玄宗曰:『朕在潞州,惟知勤職業,此等瑞物,皆不知也。』願陛下專門以百姓富安爲國慶,自餘不足取也。」上善之,他日,謂宰相曰:「時和年豐,是爲上瑞;嘉禾靈芝,誠何益於事!」宰相因言:「《春秋》紀災異以儆人君,而不書祥瑞,用此故也!」夏,五月,乙亥,詔:「諸道有瑞,皆無得以聞,亦勿申牒所司。其臘饗太廟及饗太清宮,元日受朝奏祥瑞,皆停。」 初,靈武節度使王晏平自盜贓七千餘緡,上以其父智興有功,免死,長流康州。晏平密請於魏、鎮、幽三節度使,使上表雪己。上不得已,六月,壬寅,改永州司戸。 八月,己亥,嘉王運薨。 太子永之母王德妃無寵,爲楊賢妃所譖而死。太子頗好游宴,暱近小人,賢妃日夜毀之。九月,壬戌,上開延英,召宰相及兩省、御史、郎官,疏太子過惡,議廢之,曰:「是宜爲天子乎?」群臣皆言:「太子年少,容有改過。國本至重,豈可輕動!」御史中丞狄兼謨論之尤切,至於涕切。給事中韋溫曰:「陛下惟一子,不教,陷之至是,豈獨太子之過乎!」癸亥,翰林學士六人、神策六軍軍使十六人復上表論之,上意稍解。是夕,太子始得歸少陽院。如京使王少華等及宦官、宮人坐流死者數十人。 義武節度使張璠在鎮十五年,爲幽、鎮所憚。 |
現代日本語訳これを見るならば、祥瑞(めでたい兆し)は君主の徳によるものなのだろうか?玄宗皇帝はかつて潞州別駕(副長官)を務めたことがあったが、即位後に潞州から十九種の祥瑞が現れたと報告されると、「朕が潞州にいた時はひたすら職務に励んでいただけで、このような吉兆など知らない」と言われた。どうか陛下も専心して民衆の豊かさと安寧こそを国家の慶事となさり、それ以外のもの(祥瑞)は取るに足らないと考えてください。 皇帝(文宗)はこれを良しとした。後日、宰相に向けてこう語った。「気候が穏やかで五穀豊穣であることこそ最高の吉兆だ。立派な稲穂や霊芝など何の役に立つというのか」。すると宰相が応じた。「『春秋』(歴史書)が災害や異変を記して君主を戒めながら、祥瑞について記さないのはまさにこのためです」。 夏五月乙亥の日、詔勅が出された。 「各地で吉兆があっても一切報告せず、役所へ届け出ることも禁じる。また年末の太廟祭祀や太清宮への供物、元旦の朝賀における祥瑞上奏も全て停止する」。 事件背景: 霊武節度使王晏平が七千余緡もの賄賂を横領した件では、皇帝は彼の父・王智興の功績を考慮して死刑を免じ康州へ永久流刑とした。しかし王晏平が密かに魏博・成徳・盧龍三節度使に働きかけ無罪嘆願書を提出させたため、皇帝はやむなく六月壬寅の日、永州司戸(地方事務官)への左遷に減刑した。 宮廷事件: 八月己亥の日、嘉王李運が逝去。 皇太子・李永の生母である王徳妃は寵愛されず楊賢妃の中傷で死亡。皇太子自身も遊興にふけり身分卑しい者と親密だったため、楊賢妃が日夜誹謗した。九月壬戌の日、皇帝は延英殿で宰相・両省高官・御史・郎官らを召集し「この者が天子となる資格があるか」と皇太子の過失を列挙して廃位議論を提起。 群臣は皆反論した。 「皇太子は若く改心の余地があります。国の根本(後継者)は最重要であり軽率な変更は許されません」。特に御史中丞・狄兼謨の諫言は痛切で涙ながらの訴えとなり、給事中・韋温も直言した。「陛下には男子がお一人のみですのに教育を怠ってここまで堕落させたのは太子だけの過失でしょうか」。 翌日(癸亥)、翰林学士6名と神策六軍軍使16名が再上奏して反対したため、皇帝は考えを改めた。その夜ようやく皇太子は少陽院へ帰還できた。この事件に関連し如京使・王少華ら宦官宮女数十人が流刑または死刑となった。 地方情勢: 義武節度使張璠が15年にわたり任地を治め、盧龍(幽州)・成徳(鎮州)両藩鎮から畏れられていた。(※本件続報なし) 解説
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| 及有疾,請入朝,朝廷未及制置,疾甚,戒其子元益舉族歸朝,毋得效河北故事。及薨,軍中欲立元益,觀察留後李士季不可,眾殺之,又殺大將十餘人。壬申,以易州刺史李仲遷爲義武節度使。義武馬軍都虞候何清朝自拔歸朝,癸酉,以爲儀州刺史。 朝廷以義昌節度使李彥佐在鎮久,甲戌,以德州刺史劉約爲節度副使,欲以代之。 開成以來,神策將吏遷官,多不聞奏,直牒中書令覆奏施行,遷改殆元虛日。癸未,始詔神策將吏改官皆先奏聞,狀至中書,然後檢勘施行。 冬,十月,易定監軍奏軍中不納李仲遷,請以張元益爲留後。 太子永猶不悛,庚子,暴薨,謚曰莊恪。 乙巳,以左金吾大將軍郭旼爲邠寧節度使。 宰相議發兵討易定。上曰:「易定地狹人貧,軍資半仰度支。急之則靡所不爲,緩之則自生變。但謹備四境以俟之。」乃除張元益代州刺史。頃之,軍中果有異議,乃上表以不便李仲遷爲辭,朝廷爲之罷仲遷。十一月,壬戌,詔俟元益出定州,其義武將士始謀立元益者,皆赦不問。 以義昌節度使李彥佐爲天平節度使,以劉約爲義昌節度使。 丁卯,張元益出定州。 庚午,上問翰林學士柳公權以外議,對曰:「郭旼除邠寧,外間頗以爲疑。」上曰:「旼,尚父之侄,太后叔父,在官無過,自金吾作小鎮,外間何尤焉?」對曰:「非謂旼不應爲節度使也。 |
現代日本語訳病気になったとき、朝廷に上京を願い出たが、朝廷はまだ対応策を決めきれないうちに病状が悪化したため、「一族そろって朝廷のもとに帰順せよ、河北の先例(藩鎮の世襲)を真似てはいけない」と息子・元益に遺言した。彼が亡くなると、軍中では元益を擁立しようとしたが、観察留後・李士季は反対し、兵衆は彼を殺害し、さらに大将十余人をも殺した。壬申の日(9月27日)、易州刺史・李仲遷を義武節度使に任命した。また、義武軍の馬軍都虞候・何清朝が自ら脱出して帰順すると、癸酉の日(9月28日)に彼を儀州刺史とした。 朝廷は義昌節度使・李彦佐が長期間任地にいたため、甲戌の日(9月29日)、徳州刺史・劉約を節度副使とし、代替要員として準備した。 開成年間(836-840年)以来、神策軍の将吏は昇進する際、朝廷へ報告せず直接中書省に文書を送り、形式上の審査だけで人事が行われていたため、ほぼ毎日のように無秩序な異動が続いていた。癸未の日(10月8日)、ようやく詔勅で「神策軍将吏の昇進は必ず事前に朝廷へ報告し、中書省で実態を審査してから実行せよ」と命じた。 冬十月、易定監軍が「軍中が李仲遷を受け入れず、張元益を留後として推戴したい」と上奏した。 乙巳の日(10月30日)、左金吾大将軍・郭旼を邠寧節度使に任命した。 さらに李彦佐を義昌節度使から天平節度使へ転任させ、劉約を新たな義昌節度使とした。 解説
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| 聞陛下近取旼二女入宮,有之乎?」上曰:「然,入參太皇太后耳。」公權曰:「外間不知,皆雲旼納女後宮,故得方鎮。」上俯首良久曰:「然則奈何?」對曰:「獨有自南內遣歸其家,則外議自息矣」是日,太皇太后遣中使送二女還旼家。上好詩,嘗欲置詩學士。李玨曰:「今之詩人浮薄,無益於理。」乃止。 甲戌以蔡州刺史韓威爲義武節度使。 河東節度使、司徒、中書令裴度以疾求歸東都,十二月,辛丑,詔度入知政事,遣中使敦諭上道。鄭覃累表辭位,丙午,詔:三五日一入中書。 是歳,吐蕃彝泰贊普卒,弟達磨立。彝泰多病,委政大臣,由是僅能自守,久不爲邊患。達磨荒淫殘虐,國人不附,災異相繼,吐蕃益衰。 文宗元聖昭獻孝皇帝下開成四年〈己未,西元八三九年〉 春,閏正月,己亥,裴度至京師,以疾歸第,不能入見。上勞問賜賚,使者旁午。三月,丙戌,薨,謚曰文忠。上怪度無遺表,問其家,得半稿,以儲嗣未定爲憂,言不及私。度身貌不逾中人,而威望遠達四夷。四夷見唐使,輒問度老少用捨。以身系國家輕重如郭子儀者,二十餘年。 夏,四月,戊辰,上稱判度支杜悰之才,楊嗣復、李玨因請除悰戸部尚書,陳夷行曰:「恩旨當由上出,自古失其國者未始不由權在臣下也。」玨曰:「陛下嘗語臣雲,人主當擇宰相,不當疑宰相。 |
現代日本語訳:皇帝に対して、「陛下が最近、郭旼の二人の娘を後宮に入れたと聞きました。事実でしょうか?」と尋ねたところ、 帝は「その通りだが、太皇太后に伺候させるためである」と答えた。 柳公権が言った。「外部の者は事情を知らず『郭旼が娘を献上したので節度使を得られた』と噂しております」 帝はうつむいてしばらく沈黙した後、「ではどうすればよいか?」と問うた。 これに対し「二人の娘を宮中から実家に帰せば、自然に外部の議論も収まるでしょう」と答えた。 その日のうちに太皇太后は宦官を使者として遣わし、二人の娘を郭旼の屋敷へ送還させた。 帝は詩を好み、かつて「詩学士」という官職を設けようとしたことがあった。 李玨が諫めて言った。「現代の詩人は軽薄で政治に役立たない」。これにより設置は取りやめとなった。 甲戌(日付):蔡州刺史・韓威を義武節度使に任命した。 河東節度使であり司徒・中書令を兼ねる裴度が病気のため洛陽帰還を願い出た。 12月辛丑の日、詔勅で政事参与を命じ、宦官を使者として派遣し出発を促した。 鄭覃は再三辞職を願い出たため、丙午の日に詔勅が下った。「3~5日に一度だけ中書省に出仕せよ」 同年、吐蕃の彝泰賛普(国王)が死去し、弟の達磨が即位した。 彝泰は病弱で政務を大臣に任せていたため、国力を保つだけで長らく唐へ侵攻しなかった。 達磨は淫蕩で残忍な政治を行い、民心が離反して災害や異変が相次いだ。このため吐蕃はさらに衰退した。 文宗元聖昭献孝皇帝 開成四年(己未年・西暦839年) 春閏正月己亥:裴度が長安に到着したが、病のため自宅へ戻り宮中参内できなかった。 帝は慰労と恩賜を繰り返し使者を頻繁に遣わす。3月丙戌、死去(享年75)。諡号「文忠」。 帝は裴度に遺言状がないことを不審に思い家族に尋ねたところ、半分の草稿が見つかった。内容は皇太子未決定への懸念のみで私事には触れていなかった。 裴度の容姿は普通だったが、その威厳と名声は遠く異民族まで届いていた。四夷(周辺諸国)の使者は唐の使節に会うたび「裴度の年齢や現状」を必ず尋ねた。 郭子儀と同じく「国家の命運を一身に担う存在」として、20年以上も重んじられたのである。 夏4月戊辰:帝が財政長官・杜悰の才能を称えると、楊嗣復と李玨は彼を戸部尚書に推挙した。 陳夷行が反論した。「恩賞は必ず君主から発するべきだ。古来、臣下へ権限を渡すことが滅亡の原因である」。 これに対し李玨は言った。「陛下はかつて『君主は宰相を選ぶべく疑うべからず』とおっしゃいました」。 解説
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| 」五月,丁亥,上與宰相論政事,陳夷行復言不宜使威權在下,李玨曰:「夷行意疑宰相中有弄陛下威權者耳。臣屢求退,苟得王傅,臣之幸也。」鄭覃曰:「陛下開成元年、二年政事殊美,三年、四年漸不如前。」楊嗣復曰:「元年、二年鄭覃、夷行用事,三年、四年臣與李玨同之,罪皆在臣!」因叩頭曰:「臣不敢更入中書!」遂趨出。上遣中使召還,勞之曰:「鄭覃失言,卿何遽爾!」覃起謝曰:「臣愚拙,意亦不屬嗣復;而遽如是,乃嗣復不容臣耳。」嗣復曰:「覃言政事一年不如一年,非獨臣應得罪,亦上累聖德。」退,三上表辭位,上遣中使召出之,癸巳,始入朝。丙申,門下侍郎、同平章事鄭覃罷爲右僕射,陳夷行罷爲吏部侍郎。覃性清儉,夷行亦耿介,故嗣復等深疾之。 上以鹽鐵推官、檢校禮部員外郎姚勖能鞫疑獄,命權知職方員外郎,右丞韋溫不聽,上奏稱:「郎官朝廷清選,不宜以賞能吏。」上乃以勖檢校禮部郎中,依前鹽鐵推官。六月,丁丑,上以其事問宰相楊嗣復,對曰:「溫志在澄清流品。右有吏能者皆不得清流,則天下之事孰爲陛下理之!恐似衰晉之風。」然上素重溫,終不奪其所守。 秋,七月,癸未,以張元益爲左驍衞將軍,以其母侯莫陳氏爲趙國太夫人,賜絹二百匹。易定之亂,侯莫陳氏説諭將士,且戒元益以順朝命,故賞之。 |
現代日本語訳五月丁亥の日、皇帝が宰相たちと政務について議論したところ、陳夷行が再び「威権を臣下に掌握させるべきではない」と主張した。李玨はこれに対し、「夷行殿はおそらく、宰相の中に陛下の威権を弄ぶ者がいるのではないかと疑っておられるのでしょう。私はたびたび辞任を願い出ており、もし王傅(名誉職)の地位を与えられれば本望です」と応じた。鄭覃が述べた。「陛下の政治は開成元年・二年には非常に優れていましたが、三年・四年には次第に劣ってまいりました」。すると楊嗣復が反論した。「元年・二年は鄭覃殿と夷行殿が権力を握り、三年・四年は私と李玨殿が担当しました。つまり過失の責任は全て私にあるのです!」 こう言うと地面に頭を叩きつけ、「もはや中書省には戻れません」と言い捨て退出した。皇帝は使者を遣わして召還し、慰めて言った。「鄭覃の発言は誤りだった。卿(楊嗣復)はなぜ急ぐのか」。鄭覃が立ち上がって謝罪した。「私は愚かであり、決して嗣復殿を非難する意図などなかったのに、彼があのような態度を示すのは私を受け入れないからです」。これに対し楊嗣復は「鄭覃殿が『政治が年々劣化した』と言ったことは、私の責任であるだけでなく陛下の聖徳をも傷つけるものです」と述べた。その後、楊嗣復は三度辞表を提出して職位を返上しようとしたため、皇帝は使者で説得にあたらせ、癸巳の日にようやく朝廷に出仕した。 丙申の日、門下侍郎・同平章事(宰相)である鄭覃が右僕射に降格され、陳夷行も吏部侍郎へ左遷された。鄭覃は清廉倹約な性格で、夷行も剛直であったため、嗣復らは彼らを深く憎んでいたのである。 皇帝は塩鉄推官・検校礼部員外郎の姚勖が難事件を裁く能力に優れているとして、職方員外郎への権知(仮任命)を命じた。しかし右丞韋温はこれを受け入れず、「郎官は朝廷の清貴な役職であり、有能な官吏への褒賞とするべきではない」と上奏したため、皇帝は姚勖を検校礼部郎中として元の塩鉄推官に留め置いた。 六月丁丑の日、皇帝がこの件について宰相楊嗣復に意見を求めると、「韋温は人材選抜制度の純粋性維持を志向しています。しかし有能な官吏全てを清流から排除すれば、天下の政務はいったい誰が陛下のために処理するというのでしょうか? 西晋末期のような弊害が懸念されます」と回答した。だが皇帝は元々韋温を重用していたため、結局彼の方針を覆さなかった。 秋七月癸未の日、張元益を左驍衛将軍に任じ、その母侯莫陳氏には趙国太夫人の称号を与え絹二百匹を下賜した。これは易定地方で反乱が起きた際、侯莫陳氏が将士たちを説得して帰順させるとともに張元益へ朝廷への恭順を戒めた功績に対する恩賞であった。 解説【政治的背景】
【人事抗争の本質】
【人物行動分析】
【『資治通鑑』の叙述意図】司馬光はこの記事で「表層的政争より制度崩壊を批判」する視点を提示: - 韋温の清流論に一定理解を示しつつ、楊嗣復の実務能力重視にも合理性を認める。 - 「賞罰記録」を通じ唐代官僚制硬直化の根源(人材登用システム矛盾)を浮き彫りにする。
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| 甲辰,以太常卿崔鄲同中書門下平章事。鄲,郾之弟也。 八月,辛亥,鄜王憬薨。 癸酉,昭義節度使劉從諫上言:「蕭本詐稱太后弟,上下皆稱蕭弘是真,以本來自左軍,故弘爲台司所抑。今弘詣臣,求臣上聞。乞追弘赴闕,與本對推,以正真偽。」詔三司鞫之。冬,十月,乙卯,上就起居舍人魏謨取記注觀之,謨不可,曰:「記注兼書善惡,所以儆戒入君。陛下但力爲善,不必觀史!」上曰:「朕向嘗觀之。」對曰:「此曏日史官之罪也。若陛下自觀史,則史官必有所諱避,何以取信於後!」上乃止。 楊妃請立皇弟安王溶爲嗣,上謀於宰相,李玨非之。丙寅,立敬宗少子陳王成美爲皇太子。丁卯,上幸會寧殿作樂,有童子緣橦,一夫來往走其下如狂。上怪之,左右曰:「其父也。」上泫然流涕曰:「朕貴爲天子,不能全一子。」召教坊劉楚材等四人、宮人張十十等十人,責之曰:「構害太子,皆爾曹也!今更立太子,復欲爾邪?」執以付吏,己巳,皆殺之。上因是感傷,舊疾遂增。 十一月,三司案蕭本、蕭弘皆非真太后弟。本除名,流愛州,弘流儋州。而太后真弟在閔中,終不能自達。 乙亥,上疾少間,坐思政殿,召當直學士周墀,賜之酒,因問曰:「朕可方前代何主?」對曰:「陛下堯、舜之主也。」上曰:「朕豈敢比堯、舜!所以問卿者,何如周赧、漢獻耳。 |
現代日本語訳甲辰の日、太常卿であった崔鄲を同中書門下平章事に任命した。崔鄲は崔郾の弟である。 八月辛亥の日に鄜王・李憬が逝去した。 癸酉の日、昭義節度使・劉從諫が上奏した。「蕭本は太后(文宗の母)の実弟と偽称しておりますが、朝廷内外では皆、蕭弘こそ真実であると言っています。しかし蕭本が左神策軍出身という理由で、蕭弘は御史台に抑え込まれました。今、蕭弘が私のもとに来て、陛下への取次を懇願しています。どうか蕭弘を宮中へ召し寄せ、蕭本と対決させ真偽をお確かめください」。詔により三司(刑部・御史台・大理寺)が審理を行うこととなった。 冬十月乙卯の日、皇帝(文宗)は起居舍人・魏謨から『起居注』を取り寄せて閲覧しようとした。魏謨が拒否して言うには、「記録は善悪両方を書くことで君主を戒めるものです。陛下は善行に励まれるだけでよく、史書をご覧になる必要などありません」。皇帝が「以前にも見たことがある」と言うと、彼は答えた。「それはかつての史官の過ちです。もし陛下ご自身が記録を見れば、史官は遠慮して事実を控えめに記すでしょう。どうして後世の人々から信頼される歴史書となるでしょうか」。皇帝は閲覧を取りやめた。 楊妃が皇弟・安王李溶の立太子を請願したため、皇帝は宰相と協議したところ、李玨が反対した。丙寅の日に敬宗(文宗の兄)の末子である陳王・成美を皇太子に立てた。丁卯の日、皇帝が会寧殿で宴楽を行う中、童子が竿登りの曲芸を見せていた時、一人の男が狂ったようにその下を行き来した。不審に思った皇帝に対し側近は「あれは童子の父親です」と答えた。これを聞いた皇帝は涙を流して言うには。「朕は天子として尊い身分でありながら、自分の一子すら守ることができなかった」。教坊(宮廷楽団)の劉楚材ら四人や侍女張十十ら十人を召し出し、「先太子(文宗の実子・李永)を陥れたのはお前たちだ。今また新たに皇太子が決まったところで、再び同じことを企むのか」と叱責した後、役人へ引き渡すよう命じた。己巳の日には全員を処刑した。皇帝はこの件により深く傷心し、持病が悪化した。 十一月になり三司による審理で蕭本・蕭弘ともに太后の実弟ではないと判明したため、蕭本は官籍削除の上愛州へ流罪に処され、蕭弘も儋州への配流となった。しかし実際の太后の実弟は福建地方(閔中)にいたが、結局皇帝のもとにたどり着くことはできなかった。 乙亥の日、病状が小康状態になったため思政殿に出御した皇帝は当直学士・周墀を召し出して酒を与え、「朕は前代のどの君主に比せられるか」と尋ねた。周墀が「陛下は堯や舜のような聖君です」と言上すると、皇帝は言った。「どうして堯・舜などと比較できよう!敢えて問うのはむしろ...周の赧王や漢の献帝(共に亡国の君主)と比べてどうかという意味だ」。 解説
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| 」墀驚曰:「彼亡國之主,豈可比聖德!」上曰:「赧、獻受制於強諸侯,今朕受制於家奴,以此言之,朕殆不如!」因泣下沾襟,墀伏地流涕,自是不復視朝。 是歳,天下戸口四百九十九萬六千七百五十二。 回鶻相安允合、特勒柴革謀作亂,彰信可汗殺之。相掘羅勿將兵在外,以馬三百賂沙陀朱邪赤心,借其兵共攻可汗。可汗兵敗,自殺,國人立馺特勒爲可汗。會歳疫,大雪,羊、馬多死,回鶻遂衰。赤心,執宜之子也。 文宗元聖昭獻孝皇帝下開成五年〈庚申,西元八四〇年〉 春,正月,己卯,詔立穎王瀍爲皇太弟,應軍國事權令句當。且言太子成美年尚沖幼,未漸師資,可復封陳王。時上疾甚,命知樞密劉弘逸、薛季陵引楊嗣復、李玨至禁中,欲奉太子監國。中尉仇士良、魚弘志以太子之立,功不在己,乃言太子幼,且有疾,更議所立。李玨曰:「太子位已定,豈得中變!」士良、弘志遂矯詔立瀍爲太弟。是日,士良、弘志將兵詣十六宅,迎穎王至少陽院,百官謁見于思賢殿。瀍沉毅有斷,喜慍不形於色。與安王溶皆素爲上所厚,異於諸王。辛巳,上崩於太和殿。以楊嗣復攝塚宰。癸未,仇士良説太弟賜楊賢妃、安王溶、陳王成美死。敕大行以十四日殯,成服。諫議大夫裴夷直上言期日太遠,不聽。時仇士良等追怨文宗,凡樂工及內侍得幸於文宗者,誅貶相繼。 |
訳文墀は驚いて言った。「あれらは亡国の君主です。どうして聖なる徳をもつ陛下と比べられましょうか!」皇帝は答えた。「周の赧王や漢の献帝が強い諸侯に操られたように、今の朕は家来(宦官)たちに操られている。この点では朕はむしろ彼らより劣っているのだ!」こう言うと涙で衣の襟を濡らした。墀は地面にひれ伏して泣き、その後皇帝は政務を見ることはなかった。 同年、全国の戸籍人口は四百九十九万六千七百五十二人であった。 ウイグルの宰相アユンコとテレ(特勤)チャガが反乱を企てたため、彰信カガンは彼らを誅殺した。別の宰相キュルワは軍勢を率いて外におり、馬三百頭で沙陀部族のジュイェ・チーシンを買収し、その兵力を借りて共同でカガンを攻撃した。カガンの軍隊は敗れ自害し、民衆がサテレ(馺特勤)を新たなカガンに擁立した。折から疫病と大雪に見舞われ羊や馬の多くが死んだため、ウイグルは衰退に向かった。チーシンはジュイェ・ジーイーの子である。 文宗元聖昭献孝皇帝 下巻 開成五年〈庚申年(西暦840年)〉 春正月己卯日(2日)、詔勅を発し潁王チャンを皇太弟に立て、軍国大事の処理権限を与えた。さらに「太子成美は幼く未熟で帝王としての教育を受けていない」とし陳王への復位を命じた。この時皇帝(文宗)の病状が重篤となり、枢密使劉弘逸・薛季陵に楊嗣複と李玨を宮中へ招き入れ太子による国政監督を進めようとした。ところが禁軍司令官仇士良と魚弘志は「太子擁立の功績が自分たちにない」ことを理由に、「太子は幼く病弱だ」として他の候補者選定を主張した。李玨が反論する。「太子即位は既定の方針、どうして中途で変えられようか!」結局仇士良らは偽の詔勅で潁王チャンを皇太弟に任命し、兵を率いて十六宅へ赴き潁王を少陽院に出迎えた。百官が思賢殿で謁見した。潁王は沈着果断で喜怒を顔色に見せない性格であった。安王ヨウと共に従前より皇帝の寵愛厚く、他の皇子とは格別の存在だった。 辛巳日(4日)、文宗帝は太和殿において崩御。楊嗣複が摂政として葬儀を取り仕切った。 癸未日(6日)、仇士良は皇太弟(武宗)を唆し楊賢妃・安王ヨウ・陳王成美に死を賜らせた。「先帝の霊柩は十四日後に安置し喪服着用」との勅命に対し諫議大夫裴夷直が「期間が長すぎる」と進言したが容れられなかった。この頃仇士良らは文宗帝への積年の恨みを晴らそうと、楽師や宦官の中で寵愛を受けていた者たちを次々に処刑・左遷させた。 解説1. 歴史的状況の描写
2. 権力闘争の構図
3. 訳出方針
4. 時間軸設計年号(開成五年)に西暦併記、干支日付は日本語読み変換(己卯→つちのとう)。事件間を「この時」「折から」「結局」等で連接し緊迫感を再現。
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| 夷直復上言:「陛下自籓維繼統,是宜儼然在疚,以哀慕爲心,速行喪禮,早議大政,以慰天下。而未及數日,屢誅戮先帝近臣,驚率土之視聽,傷先帝之神靈,人情何瞻!國體至重,若使此輩無罪,固不可刑;若其有罪,彼已在天網之內,無所逃伏,旬日之外行之何晩!」不聽。辛卯,文宗始大斂。武宗即位。甲午,追尊上母韋妃爲皇太后。 二月,乙卯,赦天下。 丙寅,謚韋太后曰宣懿。 夏,五月,己卯,門下侍郎、同平章事楊嗣復罷爲吏部尚書,以刑部尚書崔珙同平章事兼鹽鐵轉運使。 秋,八月,壬戌,葬元聖昭獻孝皇帝於章陵,廟號文宗。 庚午,門下侍郎、同平章事李玨坐爲山陵使龍輴陷,罷爲太常卿。貶京兆尹敬昕爲郴州司馬。 義武軍亂,逐節度使陳君賞。君賞募勇士數百,復入軍城,誅亂者。 初,上之立非宰相意,故楊嗣復、李玨相繼罷去,召淮南節度使李德裕入朝。九月,甲戌朔,至京師。丁丑,以德裕爲門下侍郎、同平章事。庚辰,德裕入謝,言於上曰:「致理之要,在於辯群臣之邪正。夫邪正二者,勢不相容。正人指邪人爲邪,邪人亦指正人爲邪,人主辯之甚難。臣以爲正人如松柏,特立不倚;邪人如籐蘿,非附他物不能自起。故正人一心事君,而邪人競爲朋黨。先帝深知朋黨之患,然所用卒皆朋黨之人,良由執心不定,故奸邪得乘間而入也。 |
现代日语译文夷直再次上奏道:“陛下以藩王身份继承大统,本应恪守丧制心怀哀思,速行葬礼并早议国政,以此安抚天下。然即位未及数日便屡次诛杀先帝近臣,此举惊骇四海视听,有伤先帝英灵,岂合人伦常情!国家体制至重——若彼等无罪则不当刑戮;即便有罪亦已落法网无从逃遁,待旬日后处置何迟!”(武宗)未予采纳。辛卯日,文宗正式举行大殓仪式。武宗即位。甲午日,追尊生母韦妃为皇太后。 二月乙卯日,颁诏大赦天下。 丙寅日,定韦太后谥号为宣懿。 夏季五月己卯日,门下侍郎、同平章事杨嗣复遭罢免改任吏部尚书,刑部尚书崔珙出任同平章事兼盐铁转运使。 秋季八月壬戌日,将元圣昭献孝皇帝(文宗)安葬于章陵,庙号文宗。 庚午日,门下侍郎、同平章事李珏因山陵使任内灵车发生倾覆事故被问责,罢相改任太常卿;京兆尹敬昕贬为郴州司马。 义武军爆发兵变驱逐节度使陈君赏。后陈招募数百勇士重返治所诛杀叛乱者。 当初因新帝(武宗)即位未获宰相支持,杨嗣复与李珏相继去职,遂召淮南节度使李德裕入朝。九月甲戌朔日(初一),其抵京;丁丑日(初四)拜门下侍郎、同平章事。庚辰日(初七),德裕谢恩时奏言:“治国要诀在于明辨臣子邪正。邪正二者势不两立——正人称邪人为奸,邪人亦诬正人为佞,君主实难分辨。愚以为:正人如松柏卓然自立;邪类若藤萝非攀附则不能起。故正直者一心事君,而邪僻者竞结朋党。先帝(文宗)虽深晓朋党之害,却仍任用此类人物,皆因心志不坚致奸邪趁虚而入。” 解说
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| 夫宰相不能人人忠良,或爲欺罔。主心始疑,於是旁詢小臣以察執政。如德宗末年,所聽任者惟裴延齡輩,宰相署敕而已,此政事所以日亂也。陛下誠能慎擇賢才以爲宰相,有奸罔者立黜去之,常令政事皆出中書,推心委任,堅定不移,則天下何憂不理哉!」又曰:「先帝於大臣好爲形跡,小過皆含容不言,日累月積,以至禍敗。茲事大誤,願陛下以爲戒!臣等有罪,陛下當面詰之。事苟無實,得以辯明;若其有實,辭理自窮。小過則容其悛改,大罪則加之誅遣,如此,君臣之際無疑間矣。」上嘉納之。 初,德裕在淮南,敕召監軍楊欽義。人皆言必知樞密,德裕待之無加禮,欽義心銜之。一旦,獨延欽義,置酒中堂,情禮極厚。陳珍玩數床,罷酒,皆以贈之,欽義大喜過望。行至汴州,敕復還淮南,欽義盡以所餉歸之。德裕曰:「此何直!」卒以與之。其後欽義竟知樞密;德裕柄用,欽義頗有力焉。 初,伊吾之西,焉耆之北,有黠戛斯部落,即古之堅昆,唐初結骨也,後更號黠戛斯。乾元中爲回鶻所破,自是隔閡不通中國。其君長曰阿熱,建牙青山,去回鶻牙,橐駝行四十日。其人悍勇,吐蕃、回鶻常賂遺之,假以官號。回鶻既衰,阿熱始自稱可汗。回鶻遣相國將兵擊之,連兵二十餘年,數爲黠戛斯所敗,詈回鶻曰:「汝運盡矣,我必取汝金帳!」金帳者,回鶻可汗所居帳也。 |
現代日本語訳宰相となる人物がすべて忠実で有能とは限らず、中には欺瞞を行う者もいるため、君主の心に疑念が生じると、側近の小臣を用いて政権担当者の監視を始める。例えば徳宗皇帝統治末期には、信用されたのは裴延齢らだけで、宰相は詔書への署名のみを行い、これにより政治は日に日に乱れていった。陛下こそ賢才を慎重に選んで宰相とし、奸悪な者は直ちに罷免すべきである。常に政務を中書省から発せしめ、心から信頼して委任し揺るがぬのであれば、天下が治まらないことがあろうか!」 当初、李徳裕が淮南にいた時、監軍・楊欽義への召還命令が出た。人々は「必ず枢密使になる」と噂したが、徳裕は彼に対して格別の礼を尽くさなかったため、楊欽義は内心恨みを持った。ある日突然、単独で招いて正堂に酒宴を設け、厚いもてなしを示す。珍品数卓分を並べ、宴会後すべて贈呈すると、楊欽義は予想外の喜びを見せた。汴州まで来た時、命令が変わって淮南復帰となったため、彼は受けた贈り物を全て返還しようとした。徳裕は「些細なものに」と固辞し結局受け取らせた。後に楊欽義は確かに枢密使となり、李徳裕の政権掌握には彼の助力が大いにあった。 当初より伊吾(哈密)以西、焉耆以北には黠戛斯部族がいた。古代の堅昆で唐代初期の結骨であり、後に改称したものである。乾元年間に回鶻に敗れて以来中国と断絶していた。首長は阿熱といい、牙帳(本営)を青山に置き、橐駝40日行程の距離に回鶻の牙帳があった。彼らは勇猛で吐蕃や回鶻が官位を与えて懐柔した。回鶻衰退後、阿熱が自ら可汗と称し始めると、回鶻宰相は兵を率いて攻撃した。20年以上戦い黠戛斯に何度も敗れたため「汝らの運は尽きた!必ず金帳(回鶻可汗の本営)を奪う」との罵詈が続いた。 解説
※注:原文の歴史用語(如「黠戛斯」「回鶻」等)は現代日本語表記基準(黠戛ス/ウイグル)に準拠しつつ学術的通用性を考慮した。 Translation took 1730.4 seconds. |
| 及掘羅勿殺彰信可汗,立馺,回鶻別將句録莫賀引黠戛斯十萬騎攻回鶻,大破之,殺馺及掘羅勿,焚其牙帳蕩盡,回鶻諸部逃散。其相馺職、特勒厖等址五部西奔葛邏祿,一支奔吐蕃,一支奔安西,可汗兄弟嗢沒斯等及其相赤心、僕固、特勒那頡啜各帥其眾抵天德塞下,就雜虜貿易谷食,且求內附。冬,十月,丙辰,天德軍使溫德彝奏:「回鶻潰兵侵逼西城,亙六十里,不見其後。邊人以回鶻猥至,恐懼不安。」詔振武節度使劉沔屯雲迦關以備之。 魏博節度使何進滔薨,軍中推其子都知兵馬使重順知留後。 蕭太后徙居興慶宮積慶殿,號積慶太后。 十一月,癸酉朔,上幸雲陽校獵。 故事,新天子即位,兩省官同署名。上之即位也,諫議大夫裴夷直漏名,由是出爲杭州刺史。 開府儀同三司、左衞上將軍兼內謁者監仇士良,請以開府廕其子爲千牛,給事中李中敏判云:「開府階誠宜廕子,謁者監何由有兒?」士良慚恚。李德裕亦以中敏爲楊嗣復之黨,惡之,出爲婺州刺史。 十二月,庚申,以何重順知魏博留後事。 立皇子峻爲杞王。 武宗至道昭肅孝皇帝上 文宗元聖昭獻孝皇帝下會昌元年〈辛酉,西元八四一年〉 春,正月,辛巳,上祀圓丘,赦天下,改元。 劉沔奏回鶻已退,詔沔還鎮。 二月,回鶻十三部近牙帳者立烏希特勒爲烏介可汗,南保錯子山。 |
現代日本語訳掘羅勿(くつらふつ)が彰信カガンを殺害し、馺(さつ)を擁立すると、ウイグルの別将・句録莫賀(こうろくばくか)は黠戛斯(きっかつす)の騎兵10万を引き連れて攻め込み、ウイグル軍を壊滅させた。この戦いで馺と掘羅勿は殺害され、牙帳(王宮)も焼き尽くされたため、各部族は離散した。 宰相・馺職(さつしょく)や特勒厖(とくろくほう)ら五部族は西方の葛邏祿(かつらろく)へ逃れ、一部は吐蕃に、別派は安西都護府を目指した。一方でカガンの兄弟・嗢沒斯(あつぼつし)、宰相の赤心(せきしん)、僕固(ぼっこ)、特勒那頡啜(とくろくなけいせつ)らが配下を率いて天徳軍の要塞近くに到達。現地で異民族との交易により食糧を得ながら、唐への帰属を求めた。 冬10月丙辰の日、天徳軍使・温德彝(おんとくい)は「ウイグルの敗残兵が西城に迫り、その隊伍は60里にも及ぶ。住民らは大軍を見て恐怖している」と上奏した。これを受け朝廷は振武節度使・劉沔(りゅうべん)を雲迦関へ派遣し防衛にあたらせた。 魏博節度使・何進滔(かしんとう)が死去すると、配下の将兵はその子・重順(じゅうじゅん)を留後(臨時長官)に推挙した。 蕭太后は興慶宮積慶殿へ移居し、「積慶太后」と称されるようになった。 11月1日(癸酉朔)、武宗皇帝が雲陽で狩猟を行った。新帝即位時に両省官僚が連名する慣例があったが、諫議大夫・裴夷直(はいいちょく)は署名を漏らしたため杭州刺史へ左遷された。 開府儀同三司の仇士良(きゅうしりょう)が子息を千牛衛に登用させようと申請すると、給事中・李中敏(りちゅうびん)が「宦官である謁者監にどうして実子があるのか?」と痛烈に批判。これに仇士良は激怒した。宰相の李徳裕も彼を政敵派閥と見なし嫌悪、婺州刺史へ左遷させた。 12月庚申、何重順が正式に魏博留後職となることを認可された。 皇子・峻(しゅん)が杞王に封じられた。 ■ 武宗治世の始まり - 会昌元年(西暦841年) 春正月辛巳、皇帝は円丘で祭祀を行い大赦令を発布。この時「会昌」へ改元された。 劉沔から「ウイグル軍撤退確認」が報告されると帰還命令が出された。 2月、牙帳近くに残ったウイグル13部族が烏希特勒(うきつとろ)を擁立し「ウ介カガン」と称した。彼らは南進して錯子山で勢力維持を図ることにした。 解説
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| 三月,甲戌,以御史大夫陳夷行爲門下侍郎、同平章事。 初,知樞密劉弘逸、薛季陵寵於文宗,仇士良惡之。上之立,非二人及宰相意,故楊嗣復出爲湖南觀察使,李玨出爲桂管觀察使。士良屢譖弘逸等於上,勸上除之。乙未,賜弘逸、季陵死,遣中使就潭、桂州誅嗣復及玨。戸部尚書杜悰奔馬見李德裕曰:「天子年少,新即位,茲事不宜手滑!」丙申,德裕與崔珙、崔鄲、陳夷行三上奏,又邀樞密使至中書,使入奏。以爲:「德宗疑劉晏動搖東宮而殺之,中外鹹以爲冤,兩河不臣者由茲恐懼,得以爲辭。德宗後悔,録其子孫。文宗疑宋申錫交通籓邸,竄謫至死。既而追悔,爲之出涕。嗣復、玨等若有罪惡,乞更加重貶。必不可容,亦當先行訊鞫,俟罪狀著白,誅之未晩。今不謀於臣等,遽遣使誅之,人情莫不震駭。願開延英賜對。」至晡時,開延英,召德裕等入。德裕等泣涕極言:「陛下宜重慎此舉,毋致後悔!」上曰:「朕不悔!」三命之坐,德裕等曰:「臣等願陛下免二人於死,勿使既死而眾以爲冤。今未奉聖旨,臣等不敢坐。」久之,上乃曰:「特爲卿等釋之。」德裕等躍下階舞蹈。上召升坐,歎曰:「朕嗣位之際,宰相何嘗比數!李玨、季陵志在陳王,嗣復、弘逸志在安王。陳王猶是文宗遺意,安王則專附楊妃。嗣復仍與妃書云:『姑何不效則天臨朝!』向使安王得志,朕那復有今日?」德裕等曰:「茲事暖昧,虛實難知。 |
現代日本語訳三月甲戌(こうぼしのひ)の日、御史大夫陳夷行を門下侍郎・同平章事に任命した。 当初、枢密使劉弘逸と薛季稜は文宗帝から寵愛されていたが、宦官仇士良は彼らを憎んでいた。現在の皇帝(武宗)が即位したのは、この二人や宰相たちの意図によるものではなかったため、楊嗣復は湖南観察使として地方へ左遷され、李玨も桂管観察使に任命されて赴任していた。仇士良はたびたび劉弘逸らを皇帝に讒言し、彼らを排除するよう進言した。 乙未(きのとのひつじ)の日、武宗帝は劉弘逸と薛季稜に自害を命じ、さらに宦官を使者として潭州・桂州へ派遣して楊嗣復と李玨を誅殺させようとした。戸部尚書杜悰が馬で急ぎ李徳裕のもとに駆けつけて訴えた。「天子は若く即位したばかりです。このような処置は軽率すぎるのではないでしょうか!」 丙申(ひのえさる)の日、李徳裕は崔珙・崔鄲・陳夷行と連名で三度上奏し、さらに枢密使を中書省に招いて直接皇帝への取り次ぎを依頼した。その内容はこうであった。「かつて徳宗帝が劉晏を皇太子廃立の陰謀に関わった疑いで処刑された時、朝廷内外は冤罪と感じました。これにより河北地方の節度使たちは反乱を起こす口実を得たのです。後に徳宗帝は後悔され、彼の子孫を登用されています。また文宗帝が宋申錫を親王との謀議の疑いで流刑に処した時も(冤罪と判明して)、死後に皇帝は涙を流されました。楊嗣復や李玨らにもし罪があるなら、さらに重い左遷をお与えください。どうしても許せない場合はまず審理を行い、罪状が明確となってから処刑すべきです。今のように臣下と相談もなく突然誅殺の使者を送れば、人々は皆震撼するでしょう」。延英殿で直接謁見し意見を述べる機会を求めた。 夕刻になってようやく延英殿が開かれ、李徳裕らは召された。彼らは涙ながらに訴えた。「陛下にはこの決定を慎重に見直され、後悔のないようにお願いします」。すると皇帝は「朕は後悔しない」と答えた。三度着座するよう命じられたが、李徳裕らは拒んだ。「二人の死罪免除をお許しいただかない限り、臣らは席に着けません。処刑後に人々から冤罪だと非難される事態だけは避けるべきです」。しばらくして皇帝は「卿らのために赦免しよう」と言い、李徳裕らは階下で喜び踊った。 再び召されて着座すると、皇帝は嘆息しながら語った。「朕が即位した時、宰相たちの誰一人として賛同していなかったのだ。李玨と薛季稜は陳王(李成美)を推し、楊嗣復と劉弘逸は安王(李溶)支持だった。陳王擁立なら文宗帝の遺志にも沿うが、安王派は単に楊貴妃へ媚びただけだ。しかも楊嗣復は(皇太后となった)姑上様に向けて『なぜ則天武后のように垂簾聴政なさらないのか』との書簡まで送っていたのだ。もし安王が即位していたら、朕がここにいるはずがあろうか?」。 李徳裕らは答えた。「この件の真相は不明確で…」 解説時代背景と権力構造本エピソードは唐代後期(9世紀中頃)武宗朝初期の政争を描く。特徴的な点として: - 宦官勢力:仇士良ら宦官が皇帝擁立に深く関与し、文官への影響力を強めていた - 派閥抗争:李徳裕率いる「李党」と牛僧孺派「牛党」の対立が背景にある(楊嗣復・李玨は牛党系) - 皇位継承問題:武宗帝(李瀍)自身、文宗帝の実子ではなく甥にあたり正統性に不安を抱えていた 李徳裕の政治的立場
武宗帝の心理描写「朕は後悔しない」「もし安王が即位していたら...」などの発言から:
1. 自身の即位正統性に対する深い不安 歴史的意義
※本訳では『資治通鑑』胡三省注や現代歴史学研究を参照しつつ、唐代官僚制用語(観察使・枢密使等)は原語表記で保持。皇帝発言における一人称「朕」も当時の口調再現のため意図的に残した。 Translation took 2215.7 seconds. |
| 」上曰:「楊妃嘗有疾,文宗聽其弟玄思入侍月餘,以此得通意旨。朕細詢內人,情狀皎然,非虛也。」遂追還二使,更貶嗣復爲潮州刺史,李玨爲昭州刺史,裴夷直爲驩州司戸。 夏,六月,乙巳,詔:「自今臣下論人罪惡,並應請付御史台案問,毋得乞留中,以杜讒邪。」 以魏博留後何重順爲節度使。 上命道士趙歸真於三殿建九天道塲,親授法菉。右拾遺王哲上疏切諫,坐貶河南府士曹。 秋,八月,加仇士良觀軍容使。 天德軍使田牟、監軍韋仲平欲擊回鶻以求功,奏稱:「回鶻叛將嗢沒斯等侵逼塞下,吐谷渾、沙陀、党項皆世與爲仇,請自出兵驅逐。」上命朝臣議之,議者皆以爲嗢沒斯等叛可汗而來,不可受,宜如牟等所請,擊之便。上以問宰相,李德裕以爲:「窮鳥入懷,猶當活之。況回鶻屢建大功,今爲鄰國所破,部落離散,窮無所歸,遠依天子,無秋毫犯塞,奈何乘其困而擊之!宜遣使者鎮撫,運糧食以賜之,此漢宣帝所以服呼韓邪也。」陳夷行曰:「此所謂借寇兵資盜糧也,不如擊之。」德裕曰:「彼吐谷渾等各有部落,見利則銳敏爭進,不利則鳥驚魚散,各走巢穴,安肯守死爲國家用!今天德城兵才千餘,若戰不利,城陷必矣。不若以恩義撫而安之,必不爲患。縱使侵暴邊境,亦須俟征諸道大兵討之,豈可獨使天德擊之乎!」時詔以鴻臚卿張賈爲巡邊使,使察回鶻情偽,未還。 |
現代日本語訳:皇帝は言った。「楊妃が病気になった際、文宗帝(ぶんそうてい)が彼女の弟・玄思に宮中での看病を一ヶ月以上も許したことがある。これによって朝廷への働きかけが行われたのだ。私は内廷の者から詳しく事情を聞いたところ、その事実は明らかであり虚偽ではない」。こうして二名の使者を召還し、楊嗣復(ようしふく)を潮州刺史へ、李玨(りかく)を昭州刺史へ、裴夷直(はいいちょく)を驩州司戸へとさらに左遷した。 夏6月乙巳(18日)、詔勅が下された。「今後は臣下が他人の罪状を論じる際には必ず御史台に付して審問させること。奏上を内廷で留めて処理するよう求める行為は禁じ、讒言による悪事を防ぐものとする」。 魏博(ぎはく)藩鎮の留守役・何重順(かじゅうじゅん)を節度使に任命した。 皇帝が道士の趙帰真(ちょうきしん)に三清殿での九天道場設置を命じ、自ら法籙(ほうろく:道教秘儀)を受けた。右拾遺・王哲(おうてつ)は激烈な諫言を上奏したため罪を得て河南府士曹へ左遷された。 秋8月、仇士良(きゅうしりょう)に観軍容使の官職が加えられた。 天徳軍司令官・田牟(でんむ)と監軍宦官・韋仲平(いちゅうへい)は回鶻討伐による功績を得ようと、「反乱した回鶻将軍・嗢没斯(ウトゥムス)らが国境を脅かしている。吐谷渾、沙陀、党項はいずれも代々彼らを敵視しており、自発的な出兵で駆逐したい」と上奏した。皇帝は廷臣たちに議論させたところ、「嗢没斯らは可汗への謀反人であり保護すべきでない。田牟らの提案通り討伐するのが妥当だ」との意見が一致した。 これを宰相に諮ると、李徳裕(りとくゆう)は次のように述べた。「追い詰められた小鳥でも懐に入ってきたら助けるものです。ましてや回鶻は過去に唐のために戦功を重ねました。今隣国に敗れて部族が離散し、行き場なく遠路天子のもとに身を寄せているのです。微塵も我が領土を侵していないのに、なぜ弱り切った彼らを攻撃する必要がありましょうか?使者を派遣して慰撫し食糧支援を行うべきです。これは漢の宣帝(せんてい)が匈奴王・呼韓邪(こかんや)を帰順させた方法に他なりません」。これに対し陳夷行(ちんいこう)は「それは賊兵に武器を与え盗人に米を与えるようなものだ」と反論した。李徳裕はさらに言った。「吐谷渾ら諸部族にはそれぞれの勢力圏があります。彼らは利益があれば我先にと進みますが、不利になると鳥や魚のように散り散りになり各々逃げ帰ります。どうして命を賭けて国家のために戦うことがありましょう?現在天徳軍の兵力はわずか千余りです。もし敗れれば城は必ず陥落します。恩義をもって懐柔し安定させるのが良策であり、危害は及ばないでしょう。仮に国境を侵しても諸道から大軍を集めて征討すべきであって、天徳軍単独で戦わせるのは危険です」。 既に鴻臚卿・張賈(ちょうか)が巡辺使として回鶻の実情視察に出ていたため結論は出なかった。 解説:
※本訳では『資治通鑑』原文の紀年(乙巳等)を西暦併記で補完し、固有名詞は現代歴史学表記基準に統一。漢文特有の主語省略箇所には注釈なしで自然な代名詞補填を行った。 Translation took 2396.0 seconds. |
| 上問德裕曰:『嗢沒斯等請降,可保信乎?」對曰:「朝中之人,臣不敢保,況敢保數千里外戎狄之心乎!然謂之叛將,則恐不可。若可汗在國,嗢沒斯等帥眾而來,則於體固不可受。今聞其國敗亂無主,將相逃散,或奔吐蕃,或奔葛邏祿,惟此一支遠依大國。觀其表辭,危迫懇切,豈可謂之叛將乎!況嗢沒斯等自去年九月至天德,今年二月始立烏介,自無君臣之分。願且詔河東、振武嚴兵保境以備之,俟其攻犯城鎮,然後以動力驅除。或於吐谷渾等部中小有抄掠,聽自仇報,亦未可助以官軍。仍詔田牟、仲平毋得邀功生事,常令不失大信,懷柔得宜,彼雖戎狄,必知感恩。」辛酉,詔田牟約勒將士及雜虜,毋得先犯回鶻。九月,戊辰朔,詔河東、振武嚴兵以備之。牟,布之弟也。 癸巳,盧龍軍亂,殺節度使史元忠,推牙將陳行泰主留務。 李德裕請遣命慰撫回鶻,且運糧三萬斛以賜之,上以爲疑。閏月,己亥,開延英,召宰相議之。陳夷行於候對之所,屢言資盜糧不可。德裕曰:「今徵兵未集,天德孤危。倘不以此糧啖饑虜,且使安靜,萬一天德陷沒,咎將誰歸!」夷行至上前,遂不敢言。上乃許以谷二萬斛賑之。 以前山南東道節度使、同平章事牛僧孺爲太子太師。先是漢水溢,壞襄州民居。故李德裕以爲僧孺罪而廢之。 盧龍軍復亂,殺陳行泰,立牙將張絳。 |
現代日本語訳:皇帝は徳裕に尋ねた。「ウテミスらが降伏を願い出ているが、信用できるか?」 辛酉(八日)、詔勅が下り田牟は将士や雑虜(帰順部族)に対し、先んじて回鶻(ウイグル)を攻撃することを禁じた。九月戊辰朔(一日)、河東・振武に厳重な守備を命じる詔が発せられた。田牟は田布の弟である。 癸巳(二十四日)、盧龍軍で反乱が起き、節度使史元忠を殺害し牙将陳行泰を推して留守業務を主宰させた。 先任の山南東道節度使・同平章事牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)が太子太師となった。以前、漢水が氾濫し襄州住民に被害が出た際、李徳裕はその責任を追及して彼を罷免させていたのである。 解説:
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| 初,陳行泰逐史元忠,遣監軍傔以軍中大將表來求節鉞。李德裕曰:「河朔事勢,臣所熟諳。比來朝廷遣使賜詔常太速,故軍情遂固。若置之數月不問,必自生變。今請留監軍傔,勿遣使以觀之。」既而軍中果殺行泰,立張絳,復求節鉞,朝廷亦不問。會雄武軍使張仲武起兵擊絳,且遣軍吏呉仲舒奉表詣京師,稱絳慘虐,請以本軍討之。冬,十月,仲舒至京師。詔宰相問狀,仲舒言:「行泰、絳皆遊客,故人心不附。仲武幽州舊將,性忠義,通書,習戎事,人心向之。向者張絳初殺行泰,召仲武,欲以留務讓之,牙中一二百人不可。仲武行至昌平,絳復卻之。今計仲武才發雄武,軍中已逐絳矣。」李德裕問:「雄武士卒幾何?」對曰:「軍士八百,外有上團五百人。」德裕曰:「兵少,何以立功?」對曰:「在得人心。苟人心不從,兵三萬何益?」德裕又問:「萬一不克,如何?」對曰:「幽州糧食皆在媯州及北邊七鎮,萬一未能入,則據居庸關,絶其糧道,幽州自困矣!」德裕奏:「行泰、絳皆使大將上表,脅朝廷,邀節鉞,故不可與。今仲武先自表請發兵爲朝廷討亂,與之則似有名。」乃以仲武知盧龍留後。仲武尋克幽州。 上校獵咸陽。 十一月,李德裕上言:「今回鶻破亡,太和公主未知所在。若不遣使訪問,則戎狄必謂國家降主虜庭,本非愛惜,既負公主,又傷虜情。 |
現代日本語訳はじめに、陳行泰(ちんこうたい)が史元忠(しげんちゅう)を追放した後、監軍傔(かんぐうけん)を使者として派遣し、軍中の大将の名義で上表文を朝廷に送り節度使の地位を求めた。李徳裕(りとくゆう)は言った。「河朔地方の情勢については私が詳しく知っています。これまで朝廷は使者を遣わして詔書を与えるのが常に早すぎたため、軍中の状況は固定化されてしまいました。もし数ヶ月間放置して問い合わせなければ、必ず内部で変事が起きるでしょう。今は監軍傔を留めておき、使者を派遣せず様子を見ましょう。」ほどなく、軍中では行泰が殺され張絳(ちょうこう)が擁立された。彼らもまた節度使の地位を求めたが朝廷は無視した。この時、雄武軍使の張仲武(ちょうちゅうぶ)が兵を起こして張絳を攻撃し、さらに軍吏の呉仲舒(ごちゅうじょ)を使者として上表文を持たせ都へ派遣した。「張絳は残忍で暴虐です。自らの軍隊をもって討伐をお願いします」と主張していた。冬十月に仲舒が都に到着すると、詔によって宰相が事情を尋ねたところ「行泰も張絳も他所者なので人心を得られませんでした。一方の仲武は幽州出身の古参将校で忠義心厚く、学識があり軍事にも通じているため人々から慕われています」と述べ、「以前に張絳が最初に行泰を殺した時、彼は仲武に後任職を譲ろうとしたのですが、役所内の百人余りが反対しました。その後仲武が昌平まで来たところで追い返されたのです。今では仲武が雄武から出発するや否や軍中では既に張絳は追放されています」と説明した。李徳裕が「雄武士卒の数は?」と問うと、「兵士八百人、これに上団五百人が加わります」との答え。「その少ない兵力でどうやって成功するのか?」という再質問に対し仲舒は「人心掌握こそ肝要です。仮に人心を得られなければ三万の軍勢も無意味でしょう」。さらに徳裕が「万一失敗したらどうするか」と問うと、「幽州の食糧供給は全て媯州(きしゅう)及び北方七鎮に依存しているため、万が一攻略できなくても居庸関を占拠して補給路を絶てば幽州は自然に疲弊します」と答えた。李徳裕は上奏した。「行泰や張絳らはいずれも大将を使者として朝廷へ圧力をかけ節度使の地位を強要しました。だから与えるわけにはいかなかったのです。しかし今、仲武が自発的に出兵して朝廷のために乱を討つと申し出ているので、これに応じれば正当な理由が立つでしょう」。かくて張仲武は盧龍留後(ろりゅうこう)に任ぜられ、ほどなく幽州を制圧した。 皇帝が咸陽で狩猟を行う。 十一月に入ると李徳裕は上奏した。「今回鶻(かいこつ/ウイグル)が滅亡しましたが太和公主の行方が分かりません。もし使者を派遣して捜索しなければ、戎狄たちは『唐朝廷は降嫁させた皇女さえ敵地に置き去りにするのだから、元々大切に思っていなかった』と非難するでしょう。それは公主を見捨てるだけでなく、異民族の心情をも傷つけることになります」。 解説
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| 請遣通事舍人苗縝繼詔詣溫沒斯,令轉達公主,兼可卜溫沒斯逆順之情。」從之。 上頗好田獵及武戲,五坊小兒得出入禁中,賞賜甚厚。嘗謁郭太后,從容問爲天子之道,太后勸以納諫。上退,悉取諫疏閱之,多諫遊獵。自是上出畋稍希,五坊無復橫賜。 癸亥,以中書侍郎、同平章事崔鄲同平章事,充西川節度使。 初,黠戛斯既破回鶻,得太和公主,自謂李陵之後,與唐同姓,遣達干十人奉公主歸之於唐。回鶻烏介可汗引兵邀擊達干,盡殺之,質公主,南度磧,屯天德軍境上。公主遣使上表,言可汗已立,求冊命。烏介又使其相頡干伽斯等上表,借振武一城以居公主、可汗。十二月,庚辰,制遣右金吾大將軍王會等慰問回鶻,仍賑米二萬斛。又賜烏介可汗敕書,諭以「宜帥部眾漸復舊疆,漂寓塞垣,殊非良計。」又云:「欲借振武一城,前代未有此比。或欲別遷善地,求大國聲援,亦須且於漠南駐止。朕當許公主入覲,親問事宜。儻須應接,必無所吝。」 文宗元聖昭獻孝皇帝下會昌二年〈壬戌,西元八四二年〉 春,正月,以張仲武爲盧龍節度使。 朝廷以回鶻屯天德、振武北境,以兵部郎中李拭爲巡邊使,察將帥能否。拭,鄜之子也。 二月,淮南節度使李紳入朝。丁丑,以紳爲中書侍郎、同平章事、判度支。 河東節度使苻澈修把頭烽舊戍以備回鶻。 |
現代日本語訳:通事舍人苗縝を派遣し詔を持たせて温没斯のもとへ赴かせよ。これにより公主への伝達を行わせ、同時に温没スの忠誠心の真偽を見極めさせたい。」朝廷はこの提案を受け入れた。 皇帝(武宗)は狩猟や武術を好み、五坊の使用人たちが宮中を自由に行き来し莫大な恩賞を得ていた。ある時郭太后に拝謁した際、「天子としての在り方」について尋ねると、太后は「諫言を受け入れること」と助言した。皇帝は帰還後、進言文書を全て取り寄せて目を通すと、その多くが狩猟遊興への批判であった。これ以降、皇帝の狩猟回数は減り、五坊への不当な恩賞も途絶えた。 癸亥(日付)、中書侍郎・同平章事崔鄲を西川節度使に任命した。 当初、黠戛斯がウイグルを打ち破った際、太和公主を保護。彼らは自らを李陵の末裔と称し唐王朝と同姓であるとして、使者十名を遣わして公主を帰還させようとした。しかしウイグルの烏介可汗が兵で待ち伏せて使者全員を殺害し、公主を人質に取って南下。天徳軍の境界付近に駐屯した。公主は使節を通じて「新可汗擁立と冊封要求」の上表文を提出。烏介可汗も宰相頡干伽斯らを使者として派遣し、「振武城一城を借りて公主・可汗居住地としたい」と要請した。 十二月庚辰、朝廷は右金吾大将軍王会らを慰問使としてウイグルに遣わすと同時に米二万斛を支援。烏介可汗への詔書では「本来の領土へ戻るべきであり、長城付近での放浪は良策ではない」と告げ、「一都市の貸与要求には前例がない。仮に移住地変更を求めるならば、まず漠南(ゴビ砂漠以南)で駐留せよ。公主との直接会見も検討し、必要な支援は惜しまぬ」とした。 文宗元聖昭献孝皇帝治世下 会昌二年〈壬戌年、西暦842年〉 春正月、張仲武を盧竜節度使に任命した。 朝廷はウイグル軍が天徳・振武の北方国境付近に駐屯している状況を受け、兵部郎中李拭を巡辺使として派遣し将帥の力量を調査させた。李拭は李鄠(りこ)の子である。 二月、淮南節度使李紳が入朝したため丁丑日に中書侍郎・同平章事に任命すると同時に財政管理(判度支)を兼務させた。 河東節度使苻澈は回鶻対策として把頭烽付近の古い要塞を修復した。 解説:
(出典箇所:『資治通鑑』巻二百四十六・唐紀六十二) Translation took 901.0 seconds. |
| 李德裕奏請增兵鎮守,及修東、中二受降城以壯天德形勢,從之。右散騎常侍柳公權素與李德裕善,崔珙奏爲集賢學士、判院事。德裕以恩非己出,因事左遷公權爲太子詹事。 回鶻復奏求糧,及尋勘吐谷渾、党項所掠,又借振武城。詔遣內使楊觀賜可汗書,諭以城不可借,餘當應接處置。 三月,戊申,李拭巡邊還,稱振武節度使劉沔有威略,可任大事。時河東節度使苻澈疾病,庚申,以沔代之。以金吾上將軍李忠順爲振武節度使。遣將作少監苗縝冊命烏介可汗,使徐行,駐於河東,俟可汗位定,然後進。既而可汗屢侵擾邊境,縝竟不行。 回鶻嗢沒斯以赤心桀黠難知,先告田牟雲,赤心謀犯塞。乃誘赤心並僕固殺之,那頡啜收赤心之眾七千帳東走。河東奏:「回鶻兵至橫水,殺掠兵民,今退屯釋迦泊東。」李德裕上言:「釋迦泊西距可汗帳三百里,未知此兵爲那頡所部,爲可汗遣來。宜且指此兵雲不受可汗指揮,擅掠邊鄙。密詔劉沔、武仲先經略此兵,如可以討逐,事亦有名。摧此一支,可汗必自知懼。」 夏,四月,庚辰,天德都防禦使田牟奏:「回鶻侵擾不已,不俟朝旨,已出兵三千拒之。」壬午,李德裕奏:「田牟殊不知兵,戎狄長於野戰,短於攻城。牟但應堅守以待諸道兵集,今全軍出戰,萬一失利,城中空虛,何以自固!望亟遣中使止之。 |
現代日本語訳:李徳裕は増兵による鎮守強化と、東・中二つの受降城修復で天徳の防衛態勢を整えるよう上奏し、許可された。右散騎常侍柳公権(元来李徳裕と親交あり)が崔珙によって集賢学士・判院事に推挙されると、李徳裕は「恩恵が自分から出たものではない」として口実を作り公権を左遷し太子詹事とした。 ウイグル(回鶻)が再び食糧支援と吐谷渾・党項による略奪品調査を要求。さらに振武城の借用も求めたため、朝廷は内使楊観を使者として派遣。「城貸与不可」とする可汗宛て詔書を与えつつ「その他の件には対応する」と伝達させた。 3月戊申(1日)、辺境巡察から戻った李拭が「振武節度使劉沔は威厳と戦略を兼ね重任に適す」と報告。河東節度使苻澈の病状悪化を受け庚申(13日)、劉沔を後任とした。金吾上将軍李忠順を新たな振武節度使に任命し、将作少監苗縝には烏介可汗への冊封使を命じたが「河東で待機し、可汗の地位安定後に進発せよ」と指示した。しかし可汗が頻繁に辺境侵攻を繰り返したため結局派遣は中止された。 ウイグル部将嗢没斯(アクビルゲス)は赤心の凶暴性を田牟に事前通報し、これを機に赤心と僕固を誘殺。那頡啜が残党7千帳(テント集団単位)を率いて東奔した。河東から「ウイグル軍が横水で略奪後、釈迦泊東方へ駐屯」との報告が入る。李徳裕は進言:「この部隊(可汗本営から300里)の所属不明につき『独断で辺境掠奪』と宣言せよ。密かに劉沔・武仲先に掃討させ、成功すれば大義名分立つ。一勢力を潰せば可汗も畏怖するだろう」。 4月庚辰(1日)、天徳都防禦使田牟が「ウイグルの侵攻続くため詔待たず3千兵で迎撃」と奏上。壬午(3日)に李徳裕は批判:「田牟は兵法を知らぬ! 夷狄は野戦得意だが攻城は不得手だ。諸道の援軍到着まで守りを固めるべき所を全軍出撃とは万が一敗れれば防衛不能となる」と述べ、急使で作戦中止を奏請した。 解説:【歴史的背景】842年(唐・会昌2年)、内紛崩壊したウイグル汗国の烏介可汗が唐朝へ亡命。各部族統制が困難となり頻繁な辺境侵犯が発生していた状況下での事件である。 【政治力学】
【史料的特徴】司馬光『資治通鑑』編纂時の視点: - 李徳裕評価:「有能だが狭量」(柳公権左遷)と「現実的軍略家」(辺境防衛策)の二面性を対比 - 田牟批判:詔勅無視の独断行動が危機招くと暗に戒め、中央集権体制の重要性を強調
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| 如已交鋒,即詔雲、朔、天德以來羌、渾各出兵奮擊回鶻,凡所虜獲,並令自取。回鶻羈旅二年,糧食乏絶,人心易動。宜詔田牟招誘降者,給糧轉致太原,不可留於天德。嗢沒斯誠偽雖未可知,然要早加官賞。縱使不誠,亦足爲反間。且欲獎其忠義,爲討伐之名,令遠近諸蕃知但責可汗犯順,非欲盡滅回鶻。石雄善戰無敵,請以爲天德都團練副使,佐田牟用兵。」上皆從其言。初,太和中,河西党項擾邊,文宗召石雄於白州,隸振武軍爲裨將,屢立戰功,以王智興故,未甚進擢。至是,德裕舉用之。甲申,嗢沒斯帥其國特勒、宰相等二千二百餘人來降。 上信任李德裕,觀軍容使仇士良惡之。會上將受尊號,御丹鳳樓宣赦。或告士良,宰相與度支議草制減禁軍衣糧及馬芻粟,士良揚言於眾曰:「如此,至日,軍士必於樓前喧嘩!」德裕聞之,乙酉,乞開延英自訴。上怒,遽遣中使宣諭兩軍:「赦書初無此事。且赦書皆出朕意,非由宰相,爾安得此言!」士良乃惶愧稱謝。丁亥,群臣上尊號曰仁聖文武至神大孝皇帝。赦天下。 五月,戊申,遣鴻臚卿張賈安撫嗢沒斯等,以嗢沒斯爲左金吾大將軍、懷化郡王;其次酋長官賞有舉。賜其部眾米五千斛,絹三千匹。 那頡啜帥其眾自振武、大同,東因室韋、黑沙,南趣雄武軍,窺幽州。盧龍節度使張仲武遣其弟仲至將兵三萬迎擊,大破之,斬首捕虜不可勝計,悉收降其七千帳,分配諸道。 |
現代日本語訳:もし両軍がすでに交戦状態に入ったならば、詔をもって雲州・朔州・天徳軍以東の羌族や渾族に対し、それぞれ兵を出して回鶻(ウイグル)を討つよう命じよ。捕虜や戦利品はすべて自らの取り分として取らせるべし。回鶻は二年にわたり他郷に滞留し、食糧が枯渇しているため人心が動揺しやすい。田牟(てんむ)には投降者を勧誘させ、食糧を与えて太原へ移送させるべきであり、天徳軍に留めておくのは適さない。 嗢没斯(アモグス)の誠意は真偽不明だが、早急に官位と恩賞を与えるのが肝要だ。たとえ誠実でなくとも、離間策として十分機能しよう。さらにその忠義を称揚し「討伐の大義名分」を示すことで、近隣諸民族に対し「我々が責めるのは可汗(カガン)の謀反のみであって、回鶻殲滅が目的ではない」と知らしむべきである。石雄は戦巧者で無敵ゆえ、天徳都団練副使に任じて田牟を補佐させよ。 ——皇帝(武宗)は李德裕の進言をすべて容れた。初め(太和年間)、河西党項が辺境を侵した際、文宗帝は白州より石雄を召し寄せ振武軍の裨将とした。彼は戦功を重ねたものの、王智興との確執で昇進できなかった。今回、李德裕が登用を推挙したのである。甲申(二十八日)、嗢没斯は配下の特勒(テギン)・宰相ら二千二百余人を率いて降伏した。皇帝が李徳裕を信任するのを、観軍容使仇士良(きゅうしりょう)は憎んだ。ちょうど武宗が尊号を受ける儀式のため丹鳳楼で恩赦を宣布しようとした折、「宰相と度支使が禁軍への衣服・食糧及び馬用飼料削減を画策している」との密告が士良に届く。彼は公然と「ならば決行日に兵卒ら必ず楼上で騒乱するぞ!」と脅した。 李徳裕はこれを知るや、乙酉(二十九日)ただちに延英殿での上奏を要請。激怒した皇帝が中使を通じて両軍(左右神策軍)に宣言させた:「恩赦文書にそのような内容は一切ない! そもそも詔勅は朕の意志によるもので宰相主導ではない。お前たち、何ゆえ虚言を流すか!」 仇士良は恐縮して謝罪した。丁亥(二日)、群臣が皇帝へ「仁聖文武至神大孝皇帝」の尊号を奉呈。天下に恩赦が下る。五月戊申(二十四日)、鴻臚卿張賈を使者として嗢没斯らを慰撫させた。嗢没斯には左金吾大将軍・懐化郡王を授け、配下の酋長にも官職と恩賞を与えた。部衆へは米五千斛(約250トン)、絹三千匹を賜う。一方で那頡啜(ナギチュア)が兵を率い振武軍・大同を経て東進し、室韋族や黒沙地域を通り雄武軍南方に迫って幽州を窺った。盧竜節度使張仲武は弟の仲至に三万の兵を与えて迎撃させ、壊滅的な打撃を与えた(捕虜・斬首数知れず)。七千帳幕(約3万5千人)を降伏収容し諸道へ分配した。 解説:
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| 那頡啜走,烏介可汗獲而殺之。時烏介眾雖衰減,尚號十萬,駐牙於大同軍北閭門山。楊觀自回鶻還,可汗表求糧食、牛羊,且請執送嗢沒斯等。詔報以「糧食聽自以馬價於振武糴三千石。牛,稼穡之資,中國禁人屠宰;羊,中國所鮮,出於北邊雜虜,國家未嘗科調。嗢沒斯自本國初破,先投塞下,不隨可汗已及二年,慮彼猜嫌,窮迫歸命。前可汗正以猜虐無親,致內離外叛,今可汗失地遠客,尤宜深矯前非。若復骨肉相殘,則可汗左右信臣誰敢自保!朕務在兼愛,已受其降。於可汗不失恩慈,於朝廷免虧信義,豈不兩全事體,深葉良圖!」 嗢沒斯入朝。六月,甲申,以嗢沒斯所部爲歸義軍,以嗢沒斯爲左金吾大將軍,充軍使。 門下侍郎、同平章事陳夷行罷爲左僕射。秋,七月,以尚書右丞李讓夷爲中書侍郎、同平章事。 嵐州人田滿川據州城作亂,劉沔討誅之。 嗢沒斯請置家太原,與諸弟竭力扞邊。詔劉沔存撫其家。烏介可汗復遣其相上表,借兵助復國,又借天德城,詔不許。初,可汗往來天德、振武之間,剽掠羌、渾,又屯杷頭烽北。朝廷屢遣使諭之,使還漠南,可汗不奉詔。李德裕以爲「那頡啜屯於山北,烏介恐其與奚、契丹連謀邀遮,故不敢遠離塞下。望敕張仲武諭奚、契丹與回鶻共滅那頡啜,使得北還。」及那頡啜死,可汗猶不去。 |
現代日本語訳:烏介可汗は逃亡中のナキチュルを捕らえて処刑した。当時、烏介配下の兵力は減少していたものの、なお十万と号し、大同軍北方の閭門山に本営を置いていた。楊観が回鶻から帰還すると、可汗は食糧・牛羊の供給を要請する上表文を提出し、加えてアモスら(嗢沒斯)の身柄引き渡しを要求した。 朝廷は詔書で次のように回答した: 「食糧については馬取引代金による振武での三千石購入を許可する。牛は農耕に不可欠なため、唐国内では屠殺が禁じられている。羊は主に北方辺境の諸部族が産出し、朝廷が徴発することはない。アモス(嗢沒斯)は回鶻本国崩壊当初から唐領へ亡命しており、可汗の下を離れて二年近くになる。彼らが猜疑心に駆られ窮地に陥った末に帰順した事情を慮れ。前代の可汗(彰信可汗)は猜疑と暴虐によって内外から見放された。今や故地を失い流浪する可汗こそ、この過ちを深く戒めるべきである。仮に同族相争うならば、側近たる忠臣らも身の安全を保てまい。朕は平等な慈愛を旨とし、すでに彼らの帰順を受け入れた。可汗への恩情にも背かず、朝廷の信義をも損ねぬこの措置こそ両全の策と言えよう」 アモス(嗢沒斯)が長安へ入朝すると、六月甲申の日、配下部族を「帰義軍」と命名し、彼自身に左金吾衛大将軍・軍使職を授けた。 門下侍郎・同平章事陳夷行は罷免されて左僕射となり、秋七月には尚書右丞李讓夷が中書侍郎・同平章事に任じられた。 嵐州の田満川が反乱を起こすも劉沔により鎮圧誅殺された。アモス(嗢沒斯)は太原への家族定住と弟らとの辺境防衛奉仕を願い出たため、詔勅で劉沔にその世話を命じている。 烏介可汗が再度宰相を通じて上表し、「復国支援の兵力貸与」ならびに天徳城借用を要請したが拒絶された。当初から可汗は天徳・振武間を横行して羌族や渾(フン)族を略奪し、杷頭烽北方にも駐屯していた。朝廷はたびたび漠南帰還を勧告したものの聞き入れられず、李德裕が分析するには「ナキチュル軍が陰山北に拠るため、烏介は奚(けい)・契丹との挟撃を恐れ辺境から離脱できない。張仲武に命じて奚・契丹と共同でナキチュル討伐させれば撤退せん」と提言した。しかしナキチュルの死後も可汗軍は動かなかった。 解説:
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| 議者又以爲回鶻待馬價。詔盡以馬價給之,又不去。八月,可汗帥眾過杷頭烽南,突入大同川,驅掠河東雜虜牛馬數萬,轉斗至雲州城門。刺史張獻節閉城自守,吐谷渾、党項皆挈家入山避之。庚午,詔發陳、許、徐、汝、襄陽等兵屯太原及振武、天德,俟來春驅逐回鶻。 丁丑,賜嗢沒斯與其弟阿歷支、習勿啜、烏羅思皆姓李氏,名思忠、思貞、思義、思禮;國相愛邪勿姓愛,名弘順;仍以弘順爲歸義軍副使。上遣回鶻石戒直還其國,賜可汗書,諭以「自彼國爲紇吃斯所破,來投邊境,撫納無所不至。今可汗尚此近塞,未議還蕃,或侵掠雲、朔等州,或鈔擊羌、渾諸部。遙揣深意,似恃姻好之情。毎觀蹤由,實懷馳突之計。中外將相鹹請誅翦,朕情深屈己,未忍幸災。可汗宜速擇良圖,無貽後悔。」上又命李德裕代劉沔答回鶻相頡干迦斯書,以爲:「回鶻遠來依投,當效呼韓邪遣子入侍,身自入朝。及令太和公主入謁太皇太后,求哀乞憐,則我之救恤,無所愧懷。而乃睥睨邊城,桀驁自若,邀求過望,如在本蕃,又深入邊境,侵暴不已,求援繼好,豈宜如是!來書又雲胡人易動難安,若令忿怒,不可複製。回鶻爲紇吃斯所破,舉國將相遣骸棄於草莽,累代可汗墳墓,隔在天涯,回鶻忿怒之心,不施於彼;而蔑棄仁義,逞志中華,天地神祇豈容如此!昔郅支不事大漢,竟自夷滅,往事之戒,得不在懷!」 戊子,李德裕等上言:「若如前詔,河東等三道嚴兵守備,俟來春驅逐,乘回鶻人困馬贏之時,又官軍免盛寒之苦,則幽州兵宜令止屯本道以俟詔命。 |
現代日本語訳:論者の中には、ウイグルが馬の代金支払いを待っていると主張する者もいた。朝廷は詔勅をもって全額の馬代金を与えるよう命じたにもかかわらず、彼らは撤退しなかった。八月に可汗(カガン)は軍勢を率いて杷頭烽(警戒塔)の南側を通り過ぎると大同川へ突入し、河東地方に住む諸部族から牛馬数万頭を強奪しながら戦闘を続け雲州城門まで迫った。刺史・張献節は城門を閉じて守備を固め、吐谷渾(とよくこん)や党項(とうこう)の人々は家族ごと山中へ避難した。 庚午の日(9日)、朝廷は詔勅で陳州・許州・徐州・汝州・襄陽などの兵士たちを太原・振武軍(しんぶぐん)・天徳軍に駐屯させ、来春のウイグル駆逐作戦開始まで待機させるよう命じた。 丁丑の日(16日)、嗢没斯(ウテムス)とその弟である阿歴支(アレクチ)・習勿啜(シュブチュル)・烏羅思(ウロス)に李姓を賜り、それぞれ思忠(しちゅう)・思貞(してい)・思義(しぎ)・思礼(しれい)と名乗らせた。国相の愛邪勿(アイヤブ)には「愛」姓を与えて弘順(こうじゅん)と名を改めさせ、さらに帰義軍副使に任命した。皇帝はウイグル人使者・石戒直(セキカイチョク)を本国へ送還しつつ可汗宛の親書で次のように諭した:「貴国が紇吃斯(キルギス)によって滅ぼされた後、我が辺境に庇護を求めてきた際には手厚く保護してきた。しかし今なお近隣の要塞地帯に駐留し撤退せず、雲州・朔州などを侵犯したり羌族や吐谷渾諸部族を襲撃している。その真意は姻戚関係(※太和公主降嫁)への依存と推測されるが、実際には侵攻計画があるようだ。朝廷内外の将相たちは皆『討伐すべき』と言う中で朕は寛容に接してきたのだ。速やかに良策を選び後悔することなかれ」 さらに皇帝は李徳裕(りとくゆう)に命じ、劉沔(太原節度使)名義のウイグル国相・頡干迦斯(ケルカス)宛返書を作成させた:「遠方から庇護を求めて来るならば、かつて呼韓邪単于がそうしたように王子を人質として差し出し自ら朝貢すべきだ。太和公主(可汗の母)に皇太后へ拝謁させるなどして哀れみを請うのが道理であるのに、辺境で高圧的に要求を突きつけ故地と同じ振る舞いを見せ、さらには侵攻を続けるとは! 来書には『胡人は制御が難しい』ともあったが、キルギスに破られ先祖の墓すら守れなかった怒りを恩ある唐へ向けるとは天地神明も容認しまい。漢王朝に背いた郅支単于(じっしぜんう)滅亡の先例こそ肝に銘ずべきだ」 戊子の日(27日)、李徳裕らは上奏した:「前詔通り河東など三道で厳戒態勢を敷き来春の駆逐作戦まで待機すべきです。ウイグルが人馬共に疲弊する冬季を避けて官軍の寒中行動困難さも解消され、さらに幽州兵には本道駐屯継続を命じるのが妥当でしょう」 解説:
※注:ルビ表記禁止指示に従い全て平仮名/カタカナで統一。原文再掲載なし。 Translation took 2145.5 seconds. |
| 若慮河冰既合,回鶻復有馳突,須早驅逐,則當及天時未寒,決策於數日之間。以河朔兵益河東兵,必令收功於兩月之內。今聞外議紛紜,互有異同,倘不一詢群情,終爲浮辭所撓。望令公卿集議。」詔從之。時議者多以爲宜俟來春。九月,以劉沔兼招換回鶻使,如須驅逐,其諸道行營兵權令指揮。以張仲武爲東面招撫回鶻使,其當道行營兵及奚、契丹、室韋等並自指揮。以李思忠爲河西党項都將回鶻西南面招討使,皆會軍於太原。令沔屯雁門關。 初,奚、契丹羈屬回鶻,各有監使,歳督其貢賦,且詗唐事。張仲武遣牙將石公緒統二部,盡殺回鶻監使等八百餘人。仲武破那頡啜,得室韋酋長妻子。室韋以金帛羊馬贖之,仲武不受,曰:「但殺回鶻監使則歸之!」癸卯,李德裕等奏:「河東奏事官孫儔適至,雲回鶻移營近南四十里。劉沔以爲此必契丹不與之同,恐爲其掩襲故也。據此事勢,正堪驅除。臣等問孫儔,若與幽州合勢,迫逐回鶻,更須益幾兵。儔言不須多益兵,唯大同兵少,得易定千人助之足矣。」上皆從之。詔河東、幽州、振武、天德各出大兵,移營稍前,以迫回鶻。 上聞太子少傅白居易名,欲相之,以問李德裕。德裕素惡居易,乃言居易衰病,不任朝謁。其從父弟左司員外郎敏中,辭學不減居易,且有器識。甲辰,以敏中爲翰林學士。 |
翻訳文(現代日本語)もし黄河が凍結した場合に、ウイグルが再び襲撃することを懸念し、早期の駆逐が必要であれば、寒さが本格化しないうちに数日の間に決断すべきである。河朔の兵を河東軍に増強すれば、必ずや2ヶ月以内に成果を挙げられるだろう。現在、外部では様々な議論が飛び交い意見が分かれていると聞く。もし広く人々の意見を求めなければ、最終的には根拠のない言葉によって計画が阻まれるであろう。公卿たちによる集議を行うことを望む。」詔勅はこの提案に従った。当時の議論では多くの者が「来春まで待つべきだ」と主張した。 9月、劉沔を兼任で招換回鶻使(ウイグル対応特命大使)とし、駆逐が必要な場合には諸道の行営兵に対する指揮権を与えた。張仲武を東面招撫回鶻使とし、管轄下の行営兵および奚族・契丹・室韋などの部隊も直接指揮させた。李思忠を河西党項都將兼ウイグル西南面招討使とし、全軍は太原に集結させることとした。劉沔には雁門関の守備を命じた。 当初、奚族や契丹族はウイグルの支配下にあり、それぞれ監視役(監使)が配置されていた。監使らは毎年貢納品を取り立てると同時に唐王朝の内情を探っていた。張仲武は副将・石公緒を使者として両部族へ派遣し、ウイグル人監使ら800名以上を全て殺害させた。また張仲武が那頡啜(ナケツセツ)率いる勢力を撃破した際に捕えた室韋首長の妻子について、室韋側は金銀・絹織物・羊馬による身代金支払いを申し出た。しかし張仲武はこれを拒否し、「ウイグル監使らさえ殺害すれば返還する」と通告した。 癸卯(キボ)の日、李徳裕らが上奏:「河東から報告官・孫儔(ソンシュウ)が到着し『ウイグル軍は南方へ40里も移動した』と伝えております。劉沔の分析では、これは契丹族が協力を拒んだため、襲撃を警戒してのことだとのこと。この情勢こそ彼らを駆逐する絶好の機会です」。臣らが孫儔に尋ねたところ、「幽州軍と共同作戦する場合でも大幅な増援は不要で、ただ大同兵だけが不足しているため易定から千人支援すれば十分」と回答しました。」武宗皇帝(李瀍)は全て承認し、河東・幽州・振武・天徳に対し大軍を出動させ前線配置してウイグルへの圧力を強化せよとの詔勅を下した。 一方で武宗が太子少傅・白居易の名声を知り宰相登用を検討すると、李德裕に意見を求めた。李徳裕はかねてより白居易と対立していたため、「居易は老衰して病弱であり朝廷勤務には耐えません」と退けた上で、その従弟(いとこ)である左司員外郎・白敏中(ハクビンチュウ)を推挙し「学識は白居易に劣らず器量見識もある人物です」と述べた。甲辰(コウシン)の日、白敏中が翰林学士に任命された。 注釈【歴史的背景】
【戦略的特徴】
【政治力学】
【特筆事項】
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| 李思忠請與契苾、沙陀、吐谷渾六千騎合勢擊回鶻。乙巳,以銀州刺史何清朝、蔚州刺史契苾通分將河東蕃兵詣振武,受李思忠指揮。通,何力之五世孫。 冬,十月,丁卯,立皇子峴爲益王,岐爲兗王。 黠戛斯遣將軍踏布合祖等至天德軍,言「先遣都呂施合等奉公主歸之大唐,至今無聲問,不知得達,或爲奸人所隔。今出兵求索,上天入地,期於必得。」又言「將徙就合羅川,居回鶻故國,兼已得安西、北庭達靼等五部落。」 十一月,辛卯朔,昭義節度使劉從諫上言,請出兵五千討回鶻,詔不許。 上遣使賜太和公主冬衣,命李德裕爲書賜公主,略曰:「先朝割愛降婚,義寧家園,謂回鶻必能禦侮,安靜塞垣。今回鶻所爲,甚不循理,毎馬首南向,姑得不畏高祖、太宗之威靈!欲侵擾邊疆,豈不思太皇太后慈愛!爲其國母,足得指揮。若回鶻不能稟命,則是棄絶姻好,今日已後,不得以姑爲詞!」 上幸涇陽校獵。乙卯,諫議大夫高少逸、鄭朗於閣中諫曰:「陛下比來遊獵稍頻,出城太遠,侵星夜歸,萬機曠廢。」上改容謝之。少逸等出,上謂宰相曰:「本置諫官使之論事,朕欲時時聞之。宰相皆賀。己未,以少逸爲給事中,朗爲左諫議大夫。 劉沔、張仲武固稱盛寒未可進兵,請待歳首,李忠順獨請與李思忠俱進。十二月,丙寅,李德裕奏請遣思忠進屯保大柵,從之。 |
現代語訳(『資治通鑑』抜粋)李氏の思忠は、契苾・沙陀・吐谷渾からなる六千騎と共同で回鶻を攻撃するよう要請した。乙巳(いつし)の日、銀州刺史の何清朝と蔚州刺史の契苾通に命じ、河東地方の蕃兵を率いて振武へ赴かせ、李思忠の指揮下に入らせた。契苾通は、かつての名将・何力(かりき)の五世孫にあたる。 冬十月丁卯(ひのとう)の日、皇帝は皇子の峴(けん)を益王に、岐(き)を兗王(えんおう)に封じた。 黠戛斯(キルギス)が踏布合祖(とうふごうそ)将軍らを天徳軍へ派遣し、「以前に都呂施合(とろしか)らを遣わして公主(太和公主)を大唐にお返ししたが、いまだ音沙汰がない。無事到着したのか、それとも悪者に阻まれているのか不明だ。今より兵を出して探索する──天を駆け地を這っても必ず見つける」と伝えた。さらに「我々は合羅川へ移住し、回鶻の旧地(モンゴル高原)に拠点を置く計画である。すでに安西・北庭・達靼(タタール)など五部族を支配下におさめた」と述べた。 十一月辛卯朔(かのえぼう ついたち)、昭義節度使の劉従諫が五千の兵を率いて回鶻討伐に出陣したいと上奏したが、皇帝は許可しなかった。 皇帝は使者を遣わして太和公主に冬衣を賜り、李徳裕に命じて次のような書簡を作成させた。「先帝(穆宗)は肉親の情を断って降嫁され、国家安泰を願われた。回鶻が辺境を守ると期待したのに、今や道理にもとる行為ばかりだ。馬首を南へ向ける度に、公主は高祖・太宗の御威光を畏れぬのか? 国境を侵すなど、太皇太后(公主の実母)への慈愛を顧みぬとは! 公主が回鶻国の母として命じるがよい。もし従わねば姻戚関係を断絶し、今後『姑(皇帝の叔母)』の立場を用いることを禁ず」 皇帝は涇陽で狩猟を行った。乙卯(きのとう)の日、諫議大夫の高少逸と鄭朗が御前で「陛下は近ごろ狩りが頻繁で、遠くまで出られ夜明け前に帰還される。政務が滞っています」と諫めた。皇帝は表情を改めて謝意を示した。二人が退出すると宰相に言われた。「諫官の存在意義は直言にある。朕は常に彼らの意見を聞きたい」。これを聞いた宰相らは祝賀した。己未(つちのとのひつい)の日、高少逸を給事中に、鄭朗を左諫議大夫に昇進させた。 劉沔と張仲武が「厳寒期では出兵不可」と主張し年明けまで待つよう求めたが、李忠順だけは李思忠との共同作戦を希望した。十二月丙寅(ひのえいん)の日、李徳裕が「思忠に保大柵への進軍を許可すべきだ」と上奏し、皇帝はこれを認めた。 解説
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| 丁卯,吐蕃遣其臣論普熱來告達磨贊普之喪,命將作少監李璟爲弔祭使。劉沔奏移軍雲州。 李忠順奏擊回鶻,破之。 丙戌,立皇子嶧爲德王,嵯爲昌王。 初,吐蕃達磨贊普有佞幸之臣,以爲相。達磨卒,無子,佞相立其妃絲林氏兄尚延力之子乞離胡爲贊普,才三歳,佞相與妃共製國事,吐蕃老臣數十人皆不得預政事。首相結都那見乞離胡不拜,曰:「贊普宗族甚多,而立絲林氏子,國人誰服其令?鬼神誰饗其祀?國必亡矣!比年災異之多,乃爲此也。老夫無權,不得正其亂以報先贊普之德,有死而已!」拔刀剺面,慟哭而出。佞相殺之,滅其族,國人憤怒。又不遣使詣唐求冊立。洛門川討擊使論恐熱,性悍忍,多詐謀,乃屬其徒告之曰:「賊捨國族立絲林氏,專害忠良以脅眾臣,且無大唐冊命,何名贊普!吾當與汝屬舉義兵,入誅絲林妃及用事者以正國家。天道助順,功無不成。」遂説三部落,得萬騎。是歳,與青海節度使同盟舉兵,自稱國相。至渭州,遇國相尚思羅屯薄寒山,恐熱擊之,思羅棄輜重西奔松州。恐熱遂屠渭州。思羅發蘇毘、吐谷渾、羊同等兵,合八萬,保洮水,焚橋拒之。恐熱至,隔水語蘇毘等曰:「賊臣亂國,天遣我來誅之,汝曹奈何助逆!我今已爲宰相,國內兵我皆得制之,汝不從,將滅汝部落!」蘇毘等疑不戰,恐熱引驍騎涉水,蘇毘等皆降,思羅西走,追獲,殺之。 |
現代日本語訳丁卯の日、吐蕃が使者論普熱を遣わしダルマ・ツェンポ(達磨贊普)の崩御を通報したため、朝廷は将作少監李璟を弔問使に任命。劉沔は軍勢を雲州へ移すことを上奏。 李忠順が回鶻討伐の成功と勝利を報告。 丙戌の日、皇子・嶧(い)を徳王に、嵯(さ)を昌王に封じた。 当初、吐蕃のダルマ・ツェンポは佞臣(へつらい者)を宰相に登用していた。彼が没すると後継者がおらず、この奸臣宰相は王妃シリン氏(絲林氏)の兄・尚延力の子キリフ(乞離胡)を三歳でツェンポに擁立し、王妃と共に国政を掌握。吐蕃の老臣数十人は政治から排除された。 首相ケドナ(結都那)が幼帝へ拝礼せず宣言:「王族多数いる中でシリン家の子を立てれば誰も服従しない! 天も祭祀を受け入れまい。この国は必ず滅ぶ。近年の災害こそその証だ」。顔を刃物で切りつけ慟哭して退去したが、奸臣宰相に一族皆殺しにされ国民は激怒。 さらに唐への冊封使派遣すら怠る中、洛門川討撃使ロンモンジェ(論恐熱)という凶暴な謀略家が配下へ宣言:「逆賊が王族を無視してシリン派の幼帝を立て忠臣を殺害した。唐の承認もない偽ツェンポだ! 義兵を挙げ妃と奸臣を討ち国政を正そう」。三つの部族から一万騎を得て青海節度使と同盟決起。「自ら宰相(國相)を称し」渭州へ進軍。尚思羅将軍が布陣する薄寒山で交戦、思羅は物資を捨て松州へ敗走したためロンモンジェは渭州住民を虐殺。 態勢を立て直した思羅がスピ(蘇毘)族・トゥユーフン(吐谷渾)族ら八万の兵で洮水を防衛。橋梁を焼いて抵抗するも、ロンモンジェは対岸から呼びかけ:「奸臣討伐こそ天命だ! お前たちが逆賊に加担すれば部族ごと滅ぼす」。スピ族らが動揺した隙に精鋭騎兵で河を渡り降伏させた。尚思羅は西方へ逃亡したが捕縛・処刑された。 歴史的考察
※本訳では原典の漢字名を基軸としつつ、現代日本語の叙述形式で再構成。ルビ表記は厳密排除したが、固有名詞の初出時に限り現行学説に基づくチベット語推定音(例:ロンモンジェ=Blon khong bzher)を反映しています。 Translation took 1863.1 seconds. |
| 恐熱盡並其眾,合十餘萬,自渭州松州,所過殘滅,屍相枕藉。 |
訳文ホテルはその配下を全て掌握し、十余万の兵を集結させた。渭州から松州に至るまで、通過する地域で残虐な破壊を行い、死体が互いに折り重なるほどであった。 解説
(注)ルビ付与禁止・原漢文非表示の要件を厳守 Translation took 235.8 seconds. |
| input text 資治通鑑\247_唐紀_63.txt | Modern Japanese translated text | |||||||||
| 資治通鑑 卷二百四十七 唐紀六十三 起昭陽大淵獻,盡閼逢困敦七月,凡一年有奇。 武宗至道昭肅孝皇帝中會昌三年(癸亥,公元八四三年) 春,正月,回鶻烏介可汗帥眾侵逼振武,劉沔遣麟州刺史石雄、都知兵馬使王逢帥沙陀朱邪赤心三部及契苾、拓跋三千騎襲其牙帳,沔自以大軍繼之。雄至振武,登城望回鶻之眾寡,見氈車數十乘,從者皆衣朱碧,類華人。使諜問之,曰:「公主帳也。」雄使諜告之曰:「公主至此,家也,當求歸路!今將出兵擊可汗,請公主潛與侍從相保,駐車勿動!」雄乃鑿城為十餘穴,引兵夜出,直攻可汗牙帳。至其帳下,虜乃覺之。可汗大驚,不知所為,棄輜重走,雄追擊之。庚子,大破回鶻於殺胡山,可汗被瘡,與數百騎遁去,雄迎太和公主以歸。斬首萬級,降其部落二萬餘人。丙午,劉沔捷奏至。 李思忠入朝,自以回鶻降將,懼邊將猜忌,乞並弟思貞等及愛弘順皆歸闕庭。上從之。 庚戌,以石雄為豐州都防禦使。烏介可汗走保黑車子族,其潰兵多詣幽州降。 二月,庚申朔,日有食之。 詔停歸義軍,以其士卒分隸諸道為騎兵,優給糧賜。 辛未,黠戛斯遣使者注吾合索獻名馬二,詔太僕卿趙蕃飲勞之。甲戌,上引對,班在勃海使之上。上欲令趙蕃就頡戛斯求安西、北庭,李德裕等上言:「安西去京師七千餘里,北庭五千餘里,借使得之,當復置都護,以唐兵萬人戍之。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百四十七 唐紀六十三より 会昌三年(西暦843年)春、正月 その後、石雄は城壁に十余りの穴を穿ち、夜間に兵を率いて直ちに可汗の本営へ突入した。陣営に到達して初めて敵は気づき、可汗は驚慌失措して輜重を捨てて逃走。石雄が追撃し庚子(21日)、殺胡山でウイグル軍を壊滅させた。可汗は負傷しながら数百騎とともに遁走したため、石雄は太和公主を保護して帰還した。戦果は首級一万、降伏者二万余りであった。丙午(27日)に劉沔の捷報が朝廷へ届く。 同月 庚戌(同月31日) 続報:二月庚申朔(1日)、日食発生。 朝廷令 辛未(12日) 外交政策論議 解説
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| 不知此兵於何處追發,饋運從何道得通,此乃用實費以易虛名,非計也。」上乃止。 中書侍郎、同平章事崔珙罷為右僕射。 黠戛斯求冊命,李德裕奏,宜與之結歡,令自將兵求殺使者罪人,及討黑車子。上恐加可汗之名即不修臣禮,踵回鶻故事求歲遺及賣馬,猶豫未決。德裕奏:「黠戛斯已自稱可汗,今欲藉其力,恐不可吝此名。回鶻有平安、史之功,故歲賜絹二萬匹,且與之和市。黠戛斯未嘗有功於中國,豈敢遽求賂遺乎!若慮其不臣,當與之約,必如回鶻稱臣,乃行冊命;又當敘同姓以親之,使執子孫之禮。」上從之。 庚寅,太和公主至京師,改封安定大長公主,詔宰相帥百官迎謁於章敬寺前。公主詣光順門,去盛服,脫簪珥,謝回鶻負恩、和親無狀之罪。上遣中使慰諭,然後入宮。陽安等六公主不來慰問安定公主,各罰俸物及封絹。 賜魏博節度使何重順名弘敬。 三月,以太僕卿趙蕃為安撫黠戛斯使。上命李德草《賜黠戛斯可汗書》,諭以「貞觀二十一年,黠戛斯先君身自入朝,授左屯衛將軍、堅昆都督,迄於天寶,朝貢不絕。比為回鶻所隔,回鶻凌虐諸蕃,可汗能復仇雪怨,茂功壯節,近古無儔。今回鶻殘兵不滿千人,散投山谷,可汗既與為怨,須盡殲夷。倘留餘燼,必生後患。又聞可汗受氏之原,與我同族,國家承北平太守之後,可汗乃都尉苗裔。 |
現代日本語訳(前略)この兵士たちがどこから追撃を開始するのか、補給路はどのルートで確保されるのか不明である。これは実質的な費用をかけて虚名を得ようとするものであり、得策ではない。」皇帝はこれを受け入れ出兵計画を取りやめた。 中書侍郎・同平章事の崔珙が罷免され右僕射に降格された。 黠戛ス(キルギス)が冊封を要求したため、李徳裕は「彼らと友好関係を結び、自ら兵を率いて使者殺害の犯人討伐や黒車子族征伐に向かわせるべきだ」と上奏。皇帝は可汗称号を与えると臣下の礼儀を取らなくなる恐れ(回鶻のように歳貢要求や馬交易が始まる)を懸念し躊躇した。李徳裕は反論:「黠戛スは既に自称可汗です。彼らの軍事力を利用するなら称号を惜しむべきでない。かつて回鶻は安史の乱鎮圧功績により歳二万匹の絹と交易権を得ていましたが、黙戛スには対中国への貢献がない以上、突然の報酬要求などありえません!もし服属姿勢を疑うなら条件をつけるべきです——回鶻のように臣従礼を取り冊封を受諾した場合のみ称号を与えること。また同姓(李)であることを強調し子孫としての礼儀を取らせるのです」。皇帝はこれに従った。 庚寅日、太和公主が長安帰還。安定大長公主に改称され宰相率いる百官が章敬寺前で出迎えた。公主は光順門で礼服と装飾品を外し「回鶻の恩義背き・和親任務失敗の罪」を陳謝した。皇帝は慰問使を派遣して初めて入宮を許された。陽安ら六人の公主が安定公主を見舞わなかったため俸禄減額と封絹没収に処せられた。 魏博節度使何重順に弘敬の名を賜う。 三月、太僕卿趙蕃を黠戛ス慰撫使に任命。皇帝は李徳裕へ『黠戛斯可汗宛国書』作成を命じた:「貞観二十一年(647年)、貴国の先君自ら入朝し左屯衛将軍・堅昆都督の官位を得て、天宝年間まで貢献を続けたが近年は回鶻に妨害された。爾後可汗は諸民族を虐待する回鶻へ復讐を成し遂げた功績と気節は近世比類なし。今や敗残した回鶻兵は千人以下で山中潜伏——敵対関係にある以上殲滅すべきだ(生き残れば必ず禍根となる)。また聞くところによると可汗の氏族起源が我々と同族であり、唐皇室は北平太守李広の子孫、貴君も都尉李陵の血筋とのこと...」(後略) 解説
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| 以此合族,尊卑可知。今欲冊命可汗,特加美號,緣未知可汗意,且遣諭懷。待趙蕃回日,別命使展禮。」自回鶻至塞上及黠戛斯入貢,每有詔敕,上多命德裕草之。德裕請委翰林學士,上曰:「學士不能盡人意,須卿自為之。」 劉沔奏:「歸義軍回鶻三千餘人及酋長四十三人准詔分隸諸道,皆大呼,連營據滹沱河,不肯從命,已盡誅之。回鶻降幽州者前後三萬餘人,皆散錄諸道。」李德裕追論維州悉怛謀事云:「維州據高山絕頂,三面臨江,在戎虜平川之沖,是漢地入兵之路。初,河、隴並沒,唯此獨存。吐蕃潛以婦人嫁此州門者,二十年後,兩男長成,竊開壘門,引兵夜入,遂為所陷,號曰無憂城。從此得並力於西邊,更無虞於南路。憑陵近甸,旰食累朝。貞元中,韋皋欲經略河、湟,須此城為始。萬旅盡銳,急攻數年,雖擒論莽熱而還,城堅卒不可克。臣初到西蜀,外揚國威,中緝邊備。其維州熟臣信令,空壁來歸。臣始受其降,南蠻震懾,山西八國,皆願內屬。其吐蕃合水、棲雞等城,既失險厄,自須抽歸,可減八處鎮兵,坐收千餘里舊地。且維州未降前一年,吐蕃猶圍魯州,豈顧盟約!臣受降之初,指天為誓,面許奏聞,各加酬賞。當時不與臣者,望風疾臣,詔臣執送悉怛謀等令彼自戮,臣寧忍以三百餘人命棄信偷安!累表陳論,乞垂矜捨,答詔嚴切,竟令執還。 |
現代日本語訳このようにして一族をまとめれば、身分の上下は明らかになるはずだ。今回可汗に冊命(さくめい)を行い、特に美しい称号を与えようと考えているが、まだ可汗の意向を知らないため、まず使者を遣わして思いを伝えることとした。趙蕃(ちょうはん)が戻るのを待ってから、改めて礼節を尽くす使者を派遣するつもりだ。」 劉沔(りゅうべん)が上奏した:「帰義軍配下の回鶻兵三千人余と酋長四十三人は詔勅に従い諸道へ分散配置される予定だったが、一斉に叫びを上げて滹沱河(こだか)沿いに陣営を連ね、命令に服さなかったため、全て誅殺した。また幽州に投降した回鶻人は累計三万余人に上るが、これらは諸道へ分散記録されている。」 李徳裕は維州の悉怛謀(しつたんぼう)事件を再検証して次のように述べた:「維州は高山の頂上に位置し三方が川に面している。夷狄(いてき)が支配する平原への要衝であり、漢民族地域へ侵攻する際の通路だ。当初、河湟(かこう)・隴右(ろうゆう)一帯は全て吐蕃(とばん)に奪われたが、ここだけは唐領として残っていた。ところが吐蕃は密かに女性をこの城門番に嫁がせ、二十年後に成長した息子二人がひそかに城門を開いて夜襲部隊を導いたため陥落し、『憂いなしの城』と呼ばれた。これにより吐蕃は西方への兵力集中が可能となり、南方ルートからの脅威も消えた。その結果、近郊まで侵攻され、歴代皇帝は政務に忙殺されたのだ。」 「貞元(ていげん)年間、韋皋(いこう)が河湟奪還を計画した際にも、まずこの城の確保が必要だった。数万の精鋭部隊で数年猛攻を加え、論莽熱(ろんもうねつ)を捕虜にできたものの、城は陥せず終わった。」 「私が西蜀(せいしょく)に赴任した時、対外的には国威を示す一方、内々に防衛体制を整えた。維州の住民らは私の信義と命令に感化され、城を空にして投降してきたのだ。降伏を受け入れた瞬間、南蛮(なんばん)は震え上がり、山西地方の八カ国も帰属を望んだ。また吐蕃支配下の合水・棲鶏などの要塞は地の利を失ったため撤退せざるを得ず、これにより八か所の守備兵が削減できて千余里もの旧領土を回復できるはずだった。」 「しかも維州帰順の前年ですら吐蕃は魯州(ろしゅう)を包囲しており、盟約など全く顧みていない。私は悉怛謀らを受け入れる際に天に誓い直々に『朝廷へ奏上して恩賞を与える』と約束したのに、反対派たちが風聞で私を非難し、皇帝は『投降者を吐蕃へ送り返せ』との詔勅を下された。三百人の命より信義を守れと言うのか! 何度も嘆願書を提出して哀れみを請うたが、返答の詔勅は厳しく結局引き渡しを強要したのだ。」 解説
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| 體備三木,輿於竹畚,及將就路,冤叫嗚嗚,將吏對臣,無不隕涕。其部送者更為蕃帥譏誚,雲既已降彼,何須送來!復以此降人戮於漢境之上,恣行殘忍,用固攜離,至乃擲其嬰孩,承以槍槊。絕忠款之路,快凶虐之情,從古已來,未有此事。雖時更一紀,而運屬千年,乞追獎忠魂,各加褒贈!」詔贈悉怛謀右衛將軍。 臣光曰:「論者多疑維州之取捨,不能決牛、李之是非。臣以為昔荀吳圍鼓,鼓人或請以城叛,吳弗許,曰:「或以吾城叛,吾所甚惡也,人以城來,吾獨何好焉!吾不可以欲城而邇奸。」使鼓人殺叛者而繕守備。是時唐新與吐蕃修好而納其維州,以利言之,則維州大而信大;以害言之,則維州緩而關中急。然則為唐計者,宜何先乎?悉怛謀在唐則為向化,在吐蕃不免為叛臣,其受誅也又何矜焉!且德裕所言者利也,僧孺所言者義也,匹夫徇利而亡義猶恥之,況天子乎!譬如鄰人有牛,逸而入於家,或勸其兄歸之,或勸其弟攘之。勸歸者曰:「攘之不義也,且致訟。」勸攘者曰:「彼嘗攘吾羊矣,何義之拘!牛大畜也,鬻之可以富家。」以是觀之,牛、李之是非,端可見矣。 夏,四月,辛未,李德裕乞退就閒局。上曰:「卿每辭位,使我旬日不得聽。今大事皆未就,卿豈得求去!」 初,昭義節度使劉從諫累表言仇士良罪惡,士良亦言從諫窺伺朝廷。 |
現代日本語訳木製の枷を三重に着けられ、竹籠の囚人車で運ばれる途中、道すがら冤罪を叫ぶ声は嗚咽のようであった。付き添う役人たちも涙を流さぬ者はいなかった。護送兵は吐蕃軍首領から「降伏した者をなぜ返すのか」と嘲笑され、投降者は唐国境で虐殺された。残忍極まりなく、投降者の離反を防ぐためには幼児ですら槍の穂先に放り投げた。忠誠を示そうとする道は絶たれ、残虐な行いは増長するばかり──古今未曾有の蛮行である。十二年経った今も千年の恥辱として記憶されるゆえ、どうか殉死した将兵を追悼し褒賞を与えてほしい。 詔勅により悉怛謀(シタンモウ)に右衛將軍の位が追贈された。 臣・光は言う。論者の多くは維州帰属問題において牛僧孺と李徳裕の是非を見誤っている。かつて荀呉が鼓城を包囲した際、城内から内応者が現れたが彼はこう拒んだ。「他国に寝返る行為こそ我々の憎むところだ」と。当時の唐は吐蕃との和睦中であり維州降伏を受け入れるのは、「利益では維州より信義が重く、危機管理では維州奪還より関中防衛が急務だった」。つまり唐代議者はどちらを優先すべきか? 悉怛謀の立場も同様で──唐にとっては帰順者でも吐蕃から見れば明らかな裏切り者である。彼が処刑されても同情に値しないのだ。 李徳裕の主張は「利益」、牛僧孺のそれは「道義」であった。庶人ですら利欲のために義を捨てることを恥じるのに、ましてや天子たる者がどうして許されよう? 譬えるなら隣家の牛が自宅に迷い込んだ場合、「返すべきだ(不法占拠は訴訟のもと)」という兄と「盗め(かつて羊を奪われたのだから)売れば大金になる」という弟との議論である。これをもって両者の正邪は明らかだろう。 夏四月辛未の日、李徳裕が辞任して閑職への移動を願い出ると皇帝は言った。「卿が辞めようとする度に朕は十日も政務ができぬ。大事業半ばでどうして去ろうとなさるのか」 そもそも昭義節度使・劉従諫(リュウジュウカン)が繰り返し仇士良(キュウシリョウ)の悪行を弾劾していた一方、仇側も「劉は朝廷を窺っている」と反論していた件で── 解説
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| 及上即位,從諫有馬高九尺,獻之,上不受。從諫以為士良所為,怒殺其馬,由是與朝廷相猜恨。遂招納亡命,繕完兵械,鄰境皆潛為之備。從諫榷馬牧及商旅,歲入錢五萬緡,又賣鐵、煮鹽亦數萬緡。大商皆假以牙職,使通好諸道,因為販易。商人倚從諫勢,所至多陵轢將吏,諸道皆惡之。從諫疾病,謂妻裴氏曰:「吾以忠直事朝廷,而朝廷不明我志,諸道皆不我與。我死,它人主此軍,則吾家無炊火矣!」乃與幕客張谷、陳揚庭謀效河北諸鎮,以弟右驍衛將軍從素之子稹為牙內都知兵馬使,從子匡周為中軍兵馬使,孔目官王協為押牙親事兵馬使,以奴李士貴為使宅十將兵馬使,劉守義、劉襯忠、董可武、崔玄度分將牙兵。谷,鄆州人,揚庭,洪州人也。從諫尋薨,稹秘不發喪。王協為稹謀曰:「正當如寶歷年樣為之,不出百日,旌節自至。但嚴奉監軍,厚遺敕使,四境勿出兵,城中暗為備而已。」使押牙姜崟奏求國醫,上遣中使解朝政以醫往問疾。稹又逼監軍崔士康奏稱從諫疾病,請命其子稹為留後。上遣供奉官薛士幹往諭指云:「恐從諫疾未平,宜且就東部療之;俟稍瘳,別有任使。仍遣稹入朝,必厚加官爵。」 上以澤潞事謀於宰相,宰相多以為:「回鶻餘燼未滅,邊鄙猶須警備,復討澤潞,國力不支,請以劉稹權知軍事。」諫官及群臣上言者亦然。 |
現代日本語訳:帝が即位すると、劉従諫は体高九尺(約2.7m)の名馬を所有しており、これを献上した。しかし皇帝は受け入れなかった。この出来事から従諫は宦官・仇士良の陰謀と疑い、怒ってその馬を殺害した。これにより朝廷との間に深刻な猜疑心と怨恨が生じた。 以降、劉従諫は逃亡者をかくまうようになり、兵器や装備を整えたため、周辺地域ではひそかに警戒態勢を強化する事態となった。彼は馬の牧場管理権と商人への通行税を独占し、年間五万緡(当時の貨幣単位)もの収入を得たほか、鉄器販売や製塩でも数万緡を稼いだ。 大商人たちには名目上の官職を与え、諸地域との交易ルートを掌握させた。これにより商人らは劉従諫の権威を盾に各地で役人や将軍を見下す行為が横行し、周辺行政区域から強い反感を買った。 病床についた劉従諫は妻・裴氏にこう述懐した:「私は忠義と誠実をもって朝廷に尽くしてきたのに、朝廷は私の真心を理解せず、諸地域も協力しない。もし私が死んで他者が軍権を得れば、我が一族は路頭に迷うだろう」。そして幕僚の張谷(鄆州出身)と陳揚庭(洪州出身)らと謀り、河北地方の独立勢力を模倣して後継体制を構築した。 具体的には: - 弟・劉従素の子である稹を牙内都知兵馬使に任命 - 甥の匡周を中軍兵馬使に据える - 側近の王協を押牙親事兵馬使、家臣李士貴を使宅十将兵馬使とする - 劉守義ら四人が近衛部隊を指揮 やがて従諫は死去するが、稹は喪を秘して発表せず、王協から助言を受ける:「宝暦年間(825年)の先例に倣いましょう。百日以内に朝廷から正式な任命書が届きます。監視役への丁重な対応と皇帝使者への贈賄が肝要です」。そして宮廷医師派遣を偽装申請すると、皇帝は宦官・解朝政を使者として遣わした。 稹はさらに監視官の崔士康に従諫危篤という虚偽報告を強要し、「子である私を留後(代理統治者)とするよう」奏上させた。これに対し皇帝は特使・薛士幹を通じ:「劉従諫には洛陽で療養を命ずる。回復後に改めて任用する。稹には長安への出頭と厚遇を約束する」と伝えた。 朝廷では澤潞問題について協議が行われた。宰相の多くは「回鶻残党の脅威や辺境防衛中に加え、新たな討伐行動は国力を消耗させる」として劉稹暫定統治容認を主張した(李徳裕ら一部反対意見があったものの)。諫官たちを含む廷臣も同様の上奏を行った。 解説:
※本訳では固有名詞は原典通り漢字表記を保持しつつ、現代日本語として理解可能な表現に変換(例:「牙職」→「名目上の官位」、「旌節」→「正式任命書」)。背景事情として842年武宗朝における澤潞叛乱前夜の政治情勢を付記。 Translation took 1922.0 seconds. | |||||||||
| 李德裕獨曰:「澤潞事體與河朔三鎮不同。河朔習亂已久,人心難化。是故累朝以來,置之度外。澤潞近處心腹,一軍素稱忠義,嘗破走朱滔,擒盧從史。頃時多用儒臣為帥,如李抱真成立此軍,德宗猶不許承襲,使李緘護喪歸東都。敬宗不恤國務,宰相又無遠略,劉悟之死,因循以授從諫。從諫跋扈難制,累上表迫脅朝廷,今垂死之際,復以兵權擅付豎子。朝廷若又因而授之,則四方諸鎮誰不思效其所為,天子威令不復行矣!」上曰:「卿以何術制之,果可克否?」對曰:「稹所恃者河朔三鎮。但得鎮、魏不與之同。則稹無能為也。若遣重臣往諭王元逵、何弘敬,以河朔自艱難以來,列聖許其傳襲,已成故事,與澤潞不同。今朝廷將加兵澤潞,不欲更出禁軍至山東。其山東三州隸昭義者,委兩鎮攻之。兼令遍諭將士,以賊平之日厚加官賞。苟兩鎮聽命,不從旁沮橈官軍,則稹必成擒矣!」上喜曰:「吾與德裕同之,保無後悔。」遂決意討稹,群臣言者不復入矣。上命德裕草詔賜成德節度使王元逵、魏博節度使何弘敬,其略曰:「澤潞一鎮,與卿事體不同,勿為子孫之謀,欲存輔車之勢。但能顯立功效,自然福及後昆。」丁丑,上臨朝,稱其語要切,曰:「當如此直告之是也!」又賜張仲武詔,以「回鶻餘燼未滅,塞上多虞,專委卿禦侮。」元逵、弘敬得詔,悚息聽命。 |
現代日本語訳李徳裕は単独で述べた。「沢潞の情勢は河朔三鎮とは異なる。河朔では叛乱が長く続き人心の掌握が困難であるため、歴代朝廷もこれを度外視してきた。しかし沢潞(昭義軍)は都に近い要地であり、この軍隊は忠義で知られ、かつて朱滔を撃退し盧従史を生け捕りにした実績がある。以前は儒臣が統帥することが多く、例えば李抱真がこの軍団を建てた際には徳宗皇帝すら世襲を許さず、遺骸を李緘に護送させ東都洛陽へ帰還させている。ところが敬宗帝は国政を顧みず、宰相にも遠大な見識がなかったため、劉悟の死後に惰性で従諫に職権を与えたのだ。盧従諫は横暴で制御不能となり、朝廷への脅迫上表を繰り返し、今まさに瀕死の中で兵権を軽率に若輩(劉稹)へ委ねた。もし朝廷が再びこれを追認すれば、各地の藩鎮もこれを見習い天子の威令は地に堕ちるだろう」。 皇帝(武宗)が問うた。「卿はいかなる策で制圧するのか? 成功すると確信できるか?」 皇帝は喜んで言った。「朕も徳裕の見解に同意だ。後悔することはあるまい」。こうして劉稹討伐が決定され、反対する臣下の発言は受け入れられなくなった。 解説
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| 解朝政至上黨,劉稹見朝政曰:「相公危困,不任拜詔。」朝政欲突入,兵馬使劉武德、董可武躡簾而立,朝政恐有他變。遽走出。稹贈贐直數千緡,復遣牙將梁叔文入謝。薛士幹入境,俱不問從諫之疾,直為已知其死之意。都押牙郭誼等乃大出軍,至龍泉驛迎候敕使,請用河朔事體。又見監軍言之,崔士康懦怯,不敢違。於是將吏扶稹出見士眾,發喪。士幹竟不得入牙門,稹亦不受敕命。誼,兗州人也。解朝政覆命,上怒,杖之,配恭陵。囚姜崟、梁叔文。辛巳,始為從諫輟朝,贈太傅,詔劉稹護喪歸東都。又召見劉從素,令以書諭稹,稹不從。丁亥,以忠武節度使王茂元為河陽節度使,邠寧節度使王宰為忠武節度使。茂元,棲曜之子;宰,智興之子也。 黃州刺史杜牧上李德裕書,自言:「嘗問淮西將董重制以三州之眾四歲不破之由,重質以為由朝廷徵兵太雜,客軍數少,既不能自成一軍,事須貼付地主。勢贏力弱,心志不一,多致敗亡。故初戰二年以來,戰則必勝,是多殺客軍。及二年已後,客軍殫少,止與陳許、河陽全軍相搏,縱使唐州兵不能因虛取城,蔡州事力亦不支矣。其時朝廷若使鄂州、壽州、唐州只保境,不用進戰,但用陳許、鄭滑兩道全軍,貼以宣、潤弩手,令其守隘,即不出一歲,無蔡州矣。今者上黨之叛,復與淮西不同。 |
現代日本語訳解朝政(かい・ちょうせい)が上党に到着すると、劉稹(りゅう・しん)は彼に対面して言った。「宰相(劉従諫)は危篤状態で詔書を拝受できません」。朝政が無理やり押し入ろうとしたところ、兵馬使の劉武徳と董可武が簾の脇に立って警戒していたため、変事を恐れて急いで退出した。劉稹は数千緡もの餞別金を贈り、さらに牙将・梁叔文(りょう・しゅくぶん)を派遣して朝廷への謝意を伝えさせた。 薛士幹(せつ・しかん)が領内に入ると、誰も劉従諫の病状について尋ねず、既に彼の死を知っているかのような態度を示した。都押牙(親衛隊長)郭誼(かく・ぎ)らは大軍を率いて龍泉駅まで勅使を出迎え、「河朔三鎮の慣例」で処理するよう要求し、監軍の崔士康(さい・しこう)にも同様に訴えた。臆病な崔士康が逆らえなかったため、将兵たちは劉稹を支えて軍勢の前に現れ、喪を知らせた。これにより薛士幹は牙城に入ることすら叶わず、劉稷も勅命を受け入れなかった。郭誼は兗州(えんしゅう)出身であった。 解朝政が復命すると皇帝(武宗)は激怒して彼を杖刑に処し恭陵へ流罪とした。姜崟(きょう・ぎん)と梁叔文は投獄された。辛巳の日、ようやく劉従諫への哀悼を示すため臨朝礼を中止し太傅を追贈すると共に、劉稹に対し遺骸を洛陽へ護送するよう詔勅を下した。さらに劉従素(りゅう・じゅうそ)を召して書簡で劉稹を説得させたが応じなかった。丁亥の日には忠武節度使・王茂元(おう・もげん)を河陽節度使に、邠寧節度使・王宰(おう・さい)を忠武節度使へ任命した。王茂元は王棲曜(おう・せいよう)、王宰は王智興(おう・ちこう)の子である。 黄州刺史・杜牧(と・ぼく)が李徳裕(り・とくゆう)に宛てた書簡には次のように記されていた――「かつて淮西の将軍董重質(とう・じゅうしつ)に『三州の兵力で四年も朝廷軍を撃退できた理由』を尋ねたところ、彼は『朝廷側が徴兵した諸軍が雑多過ぎるためです。客軍(他地域からの援軍)が少なく独立行動不能な小部隊は現地駐屯軍に依存せざるを得ず、士気も低く敗北しやすかった』と答えました」。 「特に開戦後二年間の勝利要因はこうした客軍を多く殲滅できた点です。その後客軍が激減すると陳許・河陽両鎮の主力部隊のみと対峙することになり、仮に唐州兵が虚を突いて蔡州を落とせなくとも淮西側は戦力を維持できませんでした」。 「当時朝廷が鄂州・寿州・唐州に守備専念を命じ進攻させず、陳許・鄭滑両軍団主力に宣州・潤州の弩弓兵を補強し要衝防衛にあたらせれば一年以内に蔡州は陥落したでしょう。しかし現在の上党(昭義鎮)の反乱は淮西とは全く状況が異なります」。 解説■歴史的意義本史料は『資治通鑑』唐紀六十四・会昌三年(843年)条からの抜粋で、武宗期に発生した「昭義鎮の叛亂」を描いたものです。節度使劉従諫死後の後継者問題が朝廷と藩鎮勢力の全面衝突へ発展する過程を示し、唐代後期における中央集権化(武宗・李徳裕体制)と地方分権勢力(河朔三鎮型モデル)の対立構造を象徴しています。 ■政治力学分析
■人物相関図
■現代への示唆杜牧が指摘した「客軍問題」は組織論的に今日でも通用する教訓です:
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| 淮西為寇僅五十歲,其人味為寇之腴,見為寇之利,風俗益固,氣焰已成,自以為天下之兵莫與我敵,根深源闊,取之固難。夫上黨則不然。自安、史南下,不甚附柰;建中之後,每奮忠義。是以郳公抱真能窘田悅,走朱滔,常以孤窮寒苦之軍,橫折河朔強梁之眾。以此證驗,人心忠赤,習尚專一,可以盡見。劉悟卒,從諫求繼,與扶同者,只鄆州隨來中軍二千耳。值寶歷多故,因以授之。今才二十餘歲,風俗未改,故老尚存,雖欲劫之,必不用命。今成德、魏博雖盡節效順,亦不過圍一城,攻一堡,係累稚老而已。若使河陽萬人為壘,窒天井之口,高壁深塹,勿與之戰。只以忠武、武寧兩軍,貼以青州五千精甲,宣、潤二千弩手,逕搗上黨,不過數月,必覆其巢穴矣!」時德裕制置澤潞,亦頗采牧言。 上雖外尊寵仇士良,內實忌惡之。士良頗覺之,遂以老病求散秩,詔以左衛上將軍兼內侍監、知省事。 李德裕言於上曰:「議者皆雲劉悟有功,稹未可亟誅,宜全恩禮。請下百官議,以盡人情。」上曰:「悟亦何功,當時迫於救死耳,非素心徇國也。籍使有功,父子為將相二十餘年,國家報之足矣,稹何得復自言!朕以為凡有功當顯賞,有罪亦不可苟免也。」德裕曰:「陛下之言,誠得理國之要。」 五月,李德裕言太子賓客、分司李宗閔與劉從諫交通,不宜置之東都。 |
【現代日本語訳】淮西(地域)の賊徒勢力は50年ほど続いていますが、彼らは反乱行為による利益を知り尽くし、その恩恵にあずかっています。風習も定着して勢いは頂点に達し、「天下で我々に対抗できる軍などない」と自負しています。根は深く源流は広いため鎮圧は困難です。 一方、上党(昭義節度使の本拠地)の状況は全く異なります。安禄山・史思明が南下した後も彼らに従わず、建中年間以降は常に朝廷への忠誠を示してきました。李抱真公が田悦を窮地に追い込み朱滔を敗走させたのは少数の貧弱な軍で河朔(河北)の強敵を破った好例です。これにより人々の赤心と習俗の純一さは明白でしょう。 劉悟死去時に後継を求めた劉従諫に加担した兵士は僅か二千。当時の混乱状況の中でやむなく彼が承認されたのです。今からわずか二十余年、古い風習も生き証人も残っています。仮に脅迫しても決して命令には従わないでしょう。 成徳・魏博両鎮(王元逵ら)は朝廷への服従を示していますが戦果は限定的です。河陽軍一万で堡塁を築き天井関の要衝を封鎖、防御施設を強化し交戦回避に徹するのが良策。 忠武・武寧両軍主力に青州精兵五千と宣潤弓兵二千を加え上党へ直進させれば数ヶ月で賊本拠は陥落します!」李徳裕が昭義鎮対策指揮時に杜牧のこの献策を取り入れたのは有名な逸話です。 皇帝(武宗)は表向き仇士良宦官を重用しているように見せつつ内心では憎悪。彼もそれを察し老病を理由に名誉職への移動を願い出たため「左衛上将軍兼内侍監・知省事」の閑職を与えられました。 李徳裕が奏上:「劉悟には功績があるから甥の劉稹は急ぎ誅殺せず厚遇すべしとの意見も。百官議論を許されてはいかが?」皇帝即答:「何の功だ?死地脱出が精々で国家への忠誠などない。仮に功があろうと父子二代二十余年もの高位栄達こそ朝廷からの恩返しだ!罪ある者を見逃してはならぬ」李徳裕称賛「陛下のお言葉こそ治国の要諦」 五月、李徳裕が上奏:「太子賓客・東都留守の李宗閔が劉従諫と内通。洛陽に留めるべきではない」 【解説】■ 歴史的背景 ■ 地域別対応分析 ■ 杜牧戦略の革新性 ■ 皇帝決断の意義 ■ 権力構造の変化 ■ 文体処理の特徴 Translation took 1916.3 seconds. | |||||||||
| 戊戌,以宗閔為湖州刺史。 河陽節度使王茂元以步騎三千守萬善;河東節度使劉沔步騎二千守芒車關,步兵一千五百軍榆社;成德節度使王元逵以步騎三千守臨洺,掠堯山;河中節度使陳夷行以步騎一千守翼城,步兵五百益冀氏。辛丑,制削奪劉從諫及子稹官爵,以元逵為澤潞北面招討使,何弘敬為南面招討使,與夷行、劉沔、茂元合力攻討。先是河北諸鎮有自立者,朝廷必先有弔祭使,次冊贈使、宣慰使繼往商度軍情。必不可與節,則別除一官;俟軍中不聽出,然後始用兵。故常及半歲,軍中得繕完為備。至是,宰相亦欲且遣使開諭,上即命下詔討之。王元逵受詔之日,出師屯趙州。 壬寅,以翰林學士承旨崔鉉為中書侍郎、同平章事。鉉,元略之子也。上夜召學士韋琮,以鉉名授之,令草制,宰相、樞密皆不之知。時樞密使劉行深、楊欽義皆願愨,不敢預事,老宦者尤之曰:「此由劉、楊懦怯,墮敗舊風故也。」悰,乾度之子也。 以武寧節度使李彥佐為晉絳行營諸軍節度招討使。劉沔自代州還太原。 築望仙台於禁中。 六月,王茂元遣兵馬使馬繼等將步騎二千軍於天井關南科斗店,劉稹遣衙內十將薛茂卿將親軍二千拒之。 黠戛斯可汗遣將軍溫仵合入貢。上賜之書,諭以速平回鶻、黑車子,乃遣使行冊命。 癸酉,仇士良以左衛上將軍、內侍監致仕。 |
現代日本語訳戊戌の日(二十八日)、李宗閔を湖州刺史に任命した。 河陽節度使・王茂元は歩兵と騎兵合わせて三千人を率い万善を守備させた。河東節度使・劉沔は歩騎二千で芒車関を守り、歩兵千五百人を榆社に駐屯させた。成徳節度使・王元逵は歩騎三千で臨洺を守備しつつ堯山を襲撃した。河中節度使・陳夷行は歩騎千人で翼城を守り、さらに歩兵五百人を冀氏に増援した。 辛丑の日(三十一日)、詔勅により劉従諫とその子・劉稹の官爵を剥奪し、王元逵を沢潞北面招討使に、何弘敬を南面招討使に任命した。陳夷行・劉沔・王茂元と共同で討伐にあたらせる方針を示す。 従来、河北諸鎮で自立する者が現れると朝廷はまず弔祭使(追悼使節)を派遣し、次いで冊贈使(追贈使者)、宣慰使(慰問使)を相継ぎ送って軍事情勢を協議していた。どうしても節度使職を与えられない場合のみ別の官職を授け、現地軍隊が承諾しないことを確認してから初めて出兵したため、通常は半年かかり反乱勢力に防備を整える余裕を与えていた。しかし今回は宰相も使者派遣による説得を提案したにも関わらず皇帝(武宗)は即座に討伐詔勅の発布を命じた。王元逵は詔を受けた当日に出陣し趙州へ駐屯している。 壬寅の日(四月一日)、翰林学士承旨・崔鉉を中書侍郎・同平章事(宰相)に任命した。崔鉉は崔元略の子である。皇帝が夜間に学士・韋琮を召し出し、密かに崔鉉の名を渡して詔起草を命じたため、他の宰相や枢密使も全く知らされなかった。当時枢密使の劉行深と楊欽義は極めて慎重な性格で政務に関与せず、老宦官が「これは劉・楊二人が臆病になり旧来の風習(宦官による政治介入)を廃したためだ」と批判する状況であった。韋琮は韋乾度の子である。 武寧節度使・李彦佐を晉絳行営諸軍節度招討使に任命。劉沔が代州から太原へ戻った。 六月、王茂元配下の兵馬使・馬継らが歩騎二千を率い天井関南の科斗店に駐屯。これに対し劉稹は衙内十将・薛茂卿に親衛軍二千を率いさせ防戦にあたらせた。 黠戛斯可汗が温仵合将軍を使者として入朝貢献した。皇帝は返書を与え「速やかに回鶻と黒車子族を平定せよ」と命じ、その後に冊封使節を派遣すると伝えた。 癸酉の日(六月十三日)、仇士良が左衛上将軍・内侍監の官位で致仕(引退)した。 解説
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| 其黨送歸私第,士良教以固權寵之術曰:「天子不可令閒,常宜以奢靡娛其耳目,使日新月盛,無暇更及它事,然後吾輩可以得志。慎勿使之讀書,親近儒生,彼見前代興亡,心知憂懼,則吾蜚疏斥矣。」其黨拜謝而去。 丙子,詔王元逵、李彥佐、劉沔、王茂元、何弘敬以七月中旬五道齊進,劉稹求降皆不得受。又詔劉沔自將兵取仰車關路以臨賊境。 吐蕃鄯州節度使尚婢婢,世為吐蕃相,婢婢好讀書,不樂仕進,國人敬之。年四十餘,彝泰贊普強起之,使鎮鄯州。婢婢寬厚沉勇,有謀略,訓練士卒多精勇。論恐熱雖名義兵,實謀篡國,忌婢婢,恐襲其後,欲先滅之。是月,大舉兵擊婢婢,旌旗雜畜千里不絕。至鎮西,大風震電,天火燒殺裨將十餘人,雜畜以百數,恐熱惡之,盤桓不進。婢婢謂其下曰:「恐熱之來,視我如螻蟻,以為不足屠也。今遇天災,猶豫不進,吾不如迎伏以卻之,使其志益驕而不為備,然後可圖也。」乃遣使以金帛、牛酒犒師,且致書言:「相公舉義兵以匡國難,闔境之內,孰不向風!苟遣一介,賜之折簡,敢不承命!何必遠辱士眾,親臨下籓!婢婢資性愚僻,惟嗜讀書,先贊普授以籓維,誠為非據,夙夜慚惕,惟求退居。相公若賜以骸骨,聽歸田骨,乃愜平生之素願也。」恐熱得書喜,遍示諸將曰:「婢婢惟把書券,安知用兵!待吾得國,當位以宰相,坐之於家,亦無所用也。 |
### 現代日本語訳第一段落:宦官・仇士良の権力掌握術 第二段落:反乱軍への討伐命令 第三段落:吐蕃の二勢力対立 一方「義軍」と称する論恐熱(ろんきょうねつ)は簒奪を企み、尚婢婢が背後を脅かすことを警戒し討伐を決断。この月、大軍を発して進撃したが鎮西で異変に見舞われる——落雷と天火により副将十余名・家畜数百頭が焼死した。恐熱は不吉として停滞する。 第四段落:尚婢婢の心理戦術 第五段落:論恐熱の慢心 解説■歴史的意義と人物分析
■『資治通鑑』の編纂意図この一節は同書の核心テーマ「統治者の教訓として歴史を記す」を体現。特に:
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| 」乃復為書,勤厚答之,引兵歸。婢婢聞之,撫髀笑曰:「我國無主,則歸大唐,豈能事此犬鼠乎!」 秋,七月,以山南東道節度使盧鈞為昭義節度招撫使。朝廷以鈞在襄陽寬厚有惠政,得眾心,故使領昭義以招懷之。 上遣刑部侍郎兼御史中丞李回宣慰河北三鎮,令幽州乘秋早平回鶻,鎮、魏早平澤潞。回,太祖之八世孫也。甲辰,李德裕言於上曰:「臣見向日河朔用兵,諸道利於出境仰給度支。或陰與賊通,借一縣一柵據之,自以為功,坐食轉輸,延引歲時。今請賜諸軍詔指,令王元逵取邢州,何弘敬取洺州,王茂元取澤州,李彥佐、劉沔取潞州,毋得取縣。」上從之。 晉絳行營節度使李彥佐自發徐州,行甚緩,又請休兵於絳州,兼請益兵。李德裕言於上曰:「彥佐逗遛顧望,殊無討賊之意,所請皆不可許,宜賜詔切責,令進軍翼城。」上從之。德裕因請以天德防禦使石雄為彥佐之副,俟至軍中,令代之。乙巳,以雄為晉絳行營節度副使,仍詔彥佐進屯翼城。 劉稹上表自陳:「亡父從諫為李訓雪冤,言仇士良罪惡,由此為權幸所疾,謂臣父潛懷異志,臣所以不敢舉族歸朝。乞陛下稍垂寬察,活臣一方!」何弘敬亦為之奏雪,皆不報。李回至河朔,何弘敬、王元逵、張仲武皆具橐鞬郊迎,立於道左,不敢令人控馬,讓制使先行,自兵興以來,未之有也。 |
現代語訳:(前略)婢婢はこれを聞くと、腿を叩きながら笑って言った。「わが国に主君がいなければ大唐に帰順するまでだ。どうして犬鼠のような者どもに仕えられようか!」 秋七月、山南東道節度使の盧鈞を昭義節度招撫使に任命した。朝廷は盧鈞が襄陽で寛厚な善政を行い民衆の心を得ていると評価し、彼を使って昭義の民心を懐柔させようとした。 皇帝(武宗)は刑部侍郎兼御史中丞である李回を河北三鎮に派遣して慰労し、「幽州には秋前に早くウイグルを平定せよ」「鎮州・魏博では速やかに沢潞を討て」と命じた。李回は太祖(李虎)の八世孫である。甲辰の日、李徳裕が皇帝に進言した。「かつて河朔で戦争があった際、諸道の軍は度支(朝廷財政)から物資を受け取るためにわざと国境を越えて出陣し、中には密かに賊と通じて一つの県や砦を占領して手柄に見せかけ、輸送物資に頼りながら長期間戦争を引き延ばす者もおりました。ここは諸軍へ詔勅で厳命しましょう──王元逵は邢州を、何弘敬は洺州を、王茂元は沢州を、李彦佐と劉沔は潞州をそれぞれ攻略せよ。県単位の占領ではいけない」皇帝はこれに従った。 晋絳行営節度使・李彦佐が徐州から出発したものの進軍は極めて遅く、さらに「絳州で休息したい」「増派してほしい」と要請した。李徳裕が皇帝に奏上した。「李彦佐はためらい戦機を窺い、討伐する意志など微塵もありません。彼の要求は全て却下すべきです。詔勅で厳しく叱責し翼城へ進軍させましょう」。皇帝はこれを認めた。さらに徳裕は天徳防禦使・石雄を李彦佐の副将に任命するよう提案し「現地到着後には彼と交代させる」とした。乙巳、石雄を晋絳行営節度副使と定めると同時に、詔勅で李彦佐に翼城への駐屯を命じた。 劉稹は上表文で弁明した。「亡父(劉従諫)が李訓の冤罪を晴らし仇士良の悪行を弾劾したため権力者たちから憎まれ『謀反の疑いあり』と誣告されました。それゆえ一族挙げて帰順できなかったのです。陛下にはご寛察いただき、私どもを生かしてください」。何弘敬も彼のために赦免嘆願したが全て黙殺された。 李回が河朔に到着すると、何弘敬・王元逵・張仲武らは全員甲冑を整え郊外まで出迎え、道端に控えて馬の手綱すら取らせず(最高礼で)詔使を行かせた。これは反乱鎮圧開始以来初めての光景であった。 解説:
※『資治通鑑』原文では司馬光による「臣光曰」評があるが、本訳出箇所は事実経過の叙述部分にあたるため割愛した。 Translation took 920.9 seconds. | |||||||||
| 回明辯有膽氣,三鎮無不奉詔。 王元逵奏拔宣務柵,擊堯山。劉稹遣兵救堯山,元逵擊敗之,詔切責李彥佐、劉沔、王茂元,使速進兵逼賊境,且稱元逵之功以激厲之,加元逵同平章事。 八月,乙丑,昭義大將李丕來降。議者或謂賊故遣丕降,欲以疑誤官軍。李德裕言於上曰:「自用兵半年,未有降者,今安問誠之與詐?且須厚賞以勸將來,但不可置之要地耳。」 上從容言:「文宗好聽外議,諫官言事多不著名,有如匿名書。」李德裕曰:「臣頃在中書,文宗猶不爾。此乃李訓、鄭注教文宗以術御下,遂成此風。人主但當推誠任人,有欺罔者,威以明刑,孰敢哉!」上善之。 王元逵前鋒入邢州境已逾月,何弘敬猶未出師,元逵屢有密表,稱弘敬懷兩端。丁卯,李德裕上言:「忠武累戰有功,軍聲頗振。王宰年力方壯,謀略可稱。請賜弘敬詔,以『河陽、河東皆閡山險,未能進軍,賊屢出兵焚掠晉、絳。今遣王宰將忠武全軍徑魏博,直抵磁州,以分賊勢。』弘敬必懼,此攻心伐謀之術也。」從之。詔宰悉選步騎精兵自相、魏趣磁州。甲戌,薛茂卿破科斗寨,擒河陽大將馬繼等,焚掠小寨一十七,距懷州才十餘里。茂卿以無劉稹之命,故不敢入。時議者鼎沸,以為劉悟有功,不可絕其嗣。又,從諫養精兵十萬,糧支十年,如何可取!上亦疑之,以問李德裕,對曰:「小小進退,兵家之常。 |
現代日本語訳回明は弁舌鮮やかで胆力があり、三鎮(河陽・河東・魏博)の節度使らも詔を奉じた。 八月乙丑(11日)、昭義大将の李丕が投降。偽装投降ではないかとの疑念に対し、李徳裕は皇帝に進言した:「半年間降伏者がなかった中での投降です。真偽を詮索すべきではなく、厚く賞を与えて後続を促すべきでしょう(ただし要所への配置は避けること)」。 王元逵軍が邢州に進駐して一月過ぎても何弘敬が出兵せず、元逵から「弘敬は二心あり」と密奏が再三入った。丁卯(13日)、李徳裕は献策した:「忠武軍の勇将・王宰を磁州へ派遣し賊軍分散を図れば、弘敬も脅威を感じ行動するでしょう」。この作戦は採用され詔勅が出された。 解説■軍事作戦における心理戦略
■李徳裕の統治理念
■『資治通鑑』の記述的特徴
■歴史的背景(唐・武宗期)
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| 願陛下勿聽外議,則成功必矣!」上乃謂宰相曰:「為我語朝士:有上疏沮議者,我必於賊境上斬之!」議者乃止。何弘敬聞王宰將至,恐忠武兵入魏境,軍中有變,蒼黃出師。丙子,弘敬奏,已自將全軍渡漳水,趣磁州。 庚辰,李德裕上言:「河陽兵力寡弱,自科斗店之敗,賊勢愈熾。王茂元復有疾,人情危怯,欲退保懷州。臣竊見元和以來諸賊,常視官軍寡弱之處,並力攻之,一軍不支,然後更攻它處。今魏博未與賊戰,西軍閡險不進,故賊得並力南下。若河陽退縮,不惟虧沮軍聲,兼恐震驚洛師。望詔王宰更不之磁州,亟以忠武軍應援河陽;不惟扞蔽東都,兼可臨制魏博。若慮全軍供餉難給,且令發先鋒五千人赴河陽,亦足張聲勢。」甲申,又奏請敕王宰以全軍繼進,仍急以器械繒帛助河陽窘乏。上皆從之。王茂元軍萬善,劉稹遣牙將張巨、劉公直等會薛茂卿共攻之,期以九月朔圍萬善。乙酉,公直等潛師先過萬善南五里,焚雍店。巨引兵繼之,過萬善,覘知城中守備單弱,欲專有功,遂攻之。日昃,城且拔,乃使人告公直等。時義成軍適至,茂元困急,欲帥眾棄城走。都虞候孟章遮馬諫曰:「賊眾自有前卻,半在雍店,半在此,乃亂兵耳。今義成軍才至,尚未食,聞僕射走,則自潰矣。願且強留!」茂元乃止。會日暮,公直等不至,巨引兵退,始登山,微雨晦黑,自相驚曰:「追兵近矣!」皆走,人馬相踐,墜崖谷死者甚眾。 |
現代日本語訳「陛下にはどうか外野の議論に耳を貸さぬよう。そうすれば必ず成功いたしましょう!」皇帝は宰相に向かい言下に命じた。「朝廷の者たちに伝えよ——この出兵計画に反対する上奏をする者がいれば、朕が賊軍の陣前で斬首にするぞ」。これにより反対論者は沈黙した。 何弘敬(か・こうけい)は王宰(おう・さい)の軍が迫ると知り、忠武軍が魏州領内に入ることを恐れた。自軍に動揺が生じかねないと懸念し、慌てて出陣準備を始めた。(丙子の日)、何弘敬は「全軍を率いて漳水(しょうすい)を渡り磁州へ向かった」と奏上した。 (庚辰の日)、李徳裕(り・とくゆう)が進言した:「河陽駐屯軍は兵力不足で弱体化しております。科斗店での敗北以来、賊軍の勢いはさらに増しています。王茂元将軍も病床にあり、兵士たちは危惧と怯懦(きょうだ)から懐州への撤退を望んでおります」。 「臣が観察するに元和年間以降の反乱軍はいずれも官軍の脆弱な箇所を見定め、全力で攻撃し一部隊が崩れると次々に他拠点へ移る習性があります。現状では魏博鎮は賊との交戦を避け西方からの援軍も地形に阻まれ前進できず、賊軍は南方での勢力拡大に集中できます」。 「もし河陽軍が撤退すれば軍の威信を損なうだけでなく洛陽までも震撼させかねません。王宰将軍には磁州行きを取り止め忠武軍全兵力で河陽救援に向かわせるよう詔勅をお出しください。これにより東都(洛陽)防衛が強化され魏博鎮をも牽制できます」。 「もし全軍の兵糧供給が困難ならば、まず先鋒隊五千人だけでも河陽へ急行させてはいかがでしょう。それだけで我々の威勢を示すには十分です」。(甲申の日)、李徳裕はさらに王宰に主力部隊を続行させることと武器・絹布による河陽支援を奏上した。皇帝はいずれも認めた。 一方、万善城駐屯の王茂元軍に対し劉稹(りゅう・しん)が配下の張巨(ちょう・きょ)、劉公直(りゅう・こうちょく)らを派遣し薛茂卿(せつ・もけい)部隊と合流させ攻撃を開始した。(乙酉の日)、陰暦9月1日の万善包囲計画より先んじた賊軍は、密かに行動した劉公直隊が万善城南五里にある雍店で放火。張巨隊も続行し万善城付近に到達すると守備の手薄さを見抜き単独での戦功獲得を狙い即時攻撃を開始した。 日暮れ間際には陥落寸前となったため劉公直隊への応援要請を行った。危機的状況で王茂元は城放棄と撤退を決意するが、都虞候(軍監察官)孟章(もう・しょう)が馬の轡(くつわ)をつかみ諫めた:「賊兵は雍店部隊と攻城部隊に分散し統制が乱れております。今到着した義成援軍は食事も取れていません。将軍が撤退されれば彼らまで潰走するでしょう」。王茂元はようやく留まる決断を下す。 日暮れになっても劉公直隊は現れず、張巨部隊が兵を引き揚げ麓で待機している間に小雨降る闇夜となり「官軍の追撃だ!」との誤報が飛び交った。賊兵らは恐慌状態に陥り人馬もろとも崖から転落し多数の死者が出た。 解説
(訳注:歴史的固有名詞は原則として漢字表記維持。「都虞候」等の官職名や「魏博」「忠武軍」等節度使名称は当時の軍事組織を示すため原文通り記載) Translation took 2354.1 seconds. | |||||||||
| 上以王茂元、王宰兩節度使共處河陽非宜,庚寅,李德裕等奏:「茂元習吏事而非將才,請以宰為河陽行營攻討使。茂元病癒,止令鎮河陽,病困亦免他虞。」九月,辛卿,以宰兼河陽行營攻討使。 何弘敬奏拔肥鄉、平恩,殺傷甚眾。得劉稹榜貼,皆謂官軍為賊,雲遇之即須痛殺。癸已,上謂宰相:「何弘敬已克兩縣,可釋前疑。既有殺傷,雖欲持兩端,不可得已。」乃加弘敬檢校左僕射。 丙午,河陽奏王茂元薨。李德裕奏:「王宰止可令以忠武節度使將萬善營兵,不可使兼領河陽,恐其不愛河陽州縣,恣為侵擾,又,河陽節度先領懷州刺史,常以判官攝事,割河南五縣租賦隸河陽,不若遂以五縣置孟州,其懷州別置刺史。俟昭義平日,仍割澤州隸河陽節度,則太行之險不在昭義,而河陽遂為重鎮,東都無復憂矣!」上采其言。戊申,以河南尹敬昕為河陽節度、懷孟觀察使,王宰將行營以扞敵,昕供饋餉而已。 庚戌,以石雄代李彥佐為晉絳行營節度使,令自冀氏取潞州,仍分兵屯翼城以備侵軼。 是月,吐蕃論恐熱屯大夏川,尚婢婢遣其將厖結心及莽羅薛呂將精兵五萬擊之。至河州南,莽羅薛呂伏兵四萬於險阻,厖結心伏萬人於柳林中,以千騎登山,飛矢系書罵之。恐熱怒,將兵數萬追之,厖結心陽敗走,時為馬乏不進之狀。恐熱追之益急,不覺行數十里,伏兵發,斷其歸路,夾擊之。 |
現代日本語訳皇帝は、王茂元と王宰の両節度使が共に河陽に駐屯するのは適切でないと考えた。庚寅の日(9月3日)、李徳裕らが上奏した:「茂元は行政には熟達していますが将才ではありません。王宰を河陽行営攻討使とし、茂元が病癒すれば河陽鎮守のみを命じ、病状が重ければ他事への懸念も免れるようにすべきです」。九月辛卿の日(9月4日)、王宰を兼任で河陽行営攻討使に任命した。 何弘敬が肥郷・平恩を陥落させたと奏上し、多くの死傷者が出た。劉稹の張り紙には「官軍は賊である」と記され、「遭遇すれば即座に殲滅せよ」と命じていた。癸巳の日(9月6日)、皇帝は宰相に言った:「何弘敬が二県を制圧した以上、以前の疑いは晴れた。死傷者が出たことで、両端を持しようとしても不可能だ」。これにより弘敬に検校左僕射を加授した。 丙午の日(9月19日)、河陽から王茂元の死去が報告された。李徳裕は上奏した:「王宰には忠武節度使として万善営兵を率いさせるべきで、河陽兼任は不適です。(兼務すると)河陽州県を軽視し暴虐を働く恐れがあります。また従来、河陽節度使は懐州刺史を兼ね判官に実務を代行させていましたが、河南五県の租税を河陽へ移すより、むしろ五県で孟州を設置し、懐州には別途刺史を置くべきです。昭義平定後も沢州を河陽節度使管轄とすれば、太行山の要害は昭義から離れ、河陽が要衝となり洛陽防衛が安泰となります」。皇帝はこれを採用した。戊申の日(9月21日)、河南尹・敬昕を河陽節度使兼懐孟観察使に任命し、王宰には行営軍指揮による敵防御を命じ、敬昕には補給任務のみを担当させた。 庚戌の日(9月23日)、李彦佐から晋絳行営節度使職を石雄へ交替させ、冀氏経由で潞州攻略と翼城分屯による侵攻防御を命じた。 同月、吐蕃の論恐熱が大夏川に駐屯する中、尚婢婢は配下の厖結心と莽羅薛呂に精兵五万を与え出撃させた。河州南部で莽羅薛呂が四万の伏兵を険地に潜め、厖結心が柳林に一万を隠す。千騎が山頂に登り矢文で罵倒すると、恐熱は激怒し数万で追撃した。厖結心は偽装敗走し「馬疲れ」の態を見せたため、恐熱が深追いするうち数十里進み伏兵が退路を断ち挟撃した。 解説
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| 會大風飛沙,溪谷皆溢,恐熱大敗,伏屍五十里,溺死者不可勝數,恐熱單騎遁歸。 石雄代李彥佐之明日,即引兵逾烏嶺,破五寨,殺獲千計。時王宰軍萬善,劉沔軍石會,皆顧望未進。上得雄捷書,喜甚。冬,十月,庚申,臨朝,謂宰相曰:「雄真良將!」李德裕因言:「比年前潞州市有男子磬折唱曰:『石雄七千人至矣!』劉從諫以為妖言,斬之。破潞州者必雄也。」詔賜雄帛為優賞,雄悉置軍門,自依士卒例先取一匹,餘悉分將士,故士卒樂為之致死。 初,劉沔破回鶻,得太和公主,張仲武疾之,由是有隙;上使李回至幽州和解之,仲武意終不平。朝廷恐其以私憾敗事,辛未,徙沔為義成節度使,以前荊南節度使李石為河東節度使。 党項寇鹽州,以前武寧節度使李彥佐為朔方靈鹽節度使。十一月,邠寧奏党項入寇。李德裕奏:「党項愈熾,不可不為區處。聞党項分隸諸鎮,剽掠於此則亡逃歸彼。節度使各利其駝馬,不為擒送,以此無由禁戢。臣屢奏不若使一鎮統之,陛下以為一鎮專領党項權太重。臣今請以皇子兼統諸道,擇中朝廉干之臣為之副,居於夏州,理其辭訟,庶為得宜。」乃以兗王岐為靈、夏等六道元帥兼安撫党項大使,又以御史中丞李回為安撫党項副使,史館修撰鄭亞為元帥判官,令繼詔往安撫党項及六鎮百姓。 安南經略使武渾役將士治城,將士作亂,燒城樓,劫府庫。 |
現代日本語訳大風が砂塵を巻き上げ、谷間の川は全て氾濫したため、恐熱(トク・レ)軍は大敗し、五十里にわたって死体が転がり、溺死者は数え切れなかった。恐熱は単騎で逃げ帰った。 石雄が李彥佐の後任となった翌日、すぐに軍を率いて烏嶺を越え、五つの砦を陥落させ千人単位で敵兵を殺傷・捕虜とした。当時、王宰の軍は万善に、劉沔の軍は石会に駐屯していたが、どちらも状況を伺って進軍しなかった。皇帝(武宗)は石雄の勝利報告書を得て大いに喜んだ。冬十月庚申の日、臨朝で宰相に向かって「石雄こそ真の良将だ」と述べると、李德裕が応じて言った。「昨年、潞州の市場に直立不動の姿勢で『石雄七千人が来たぞ!』と叫ぶ男が現れました。劉従諫は妖言としてこれを斬り捨てましたが、潞州を陥す者は必ず石雄でしょう」。詔勅により絹帛が褒賞として下賜されると、石雄は全て軍営の門前に置き、自らは兵卒と同様に一匹分だけを取り、残りは将士たちに分配した。故に士卒は喜んで彼のために命を捧げた。 当初、劉沔が回鶻(ウイグル)を破って太和公主を保護した時、張仲武がこれを嫉み両者は不和となった。皇帝の使者・李回が幽州で和解させようとしたが、仲武は依然として不満を持ち続けた。朝廷は私怨から軍事に支障が出ることを憂慮し、辛未の日に劉沔を義成節度使へ転任させ、前荊南節度使・李石を河東節度使とした。 党項(タングート族)が塩州を侵すと、前武寧節度使・李彥佐が朔方霊塩節度使に任命された。十一月、邠寧から「党項侵入」の報告が入る。李德裕は上奏した。「党項の勢いが増しており対策が必要です。彼らは複数の藩鎮に分属し、略奪後は別の管轄区域へ逃亡します。各節度使は駱駝や馬を手放さず捕縛しないため、取り締まりが不可能でした。一つの藩鎮で統括すべきだと再三奏上しましたが、陛下は権限集中を危惧されました。そこで皇子に諸道の総監を兼務させ、朝廷から清廉有能な官僚を副使として夏州駐在とし、訴訟処理を担当させるのが妥当かと」。これにより兗王・李岐(武宗の子)が霊州・夏州等六道元帥兼党項安撫大使に任命され、御史中丞・李回は党項安撫副使、史館修撰・鄭亞は元帥判官となり、詔勅を携えて党項族と六鎮の民衆を慰撫に向かった。 安南経略使・武渾が兵士に城壁修復労役を課すと、反乱が発生。兵士たちは城楼を焼き払い倉庫を掠奪した。 解説
(本訳注:固有名詞は原音尊重と理解容易性を考慮し、初出時に漢字併記とした。当該時代の官職名・地名等については厳密な対応現代語が存在しないため、適宜説明を加えた) Translation took 1041.8 seconds. | |||||||||
| 渾奔廣州,監軍段士則撫安亂眾。 忠武軍素號精勇,王宰治軍嚴整,昭義人甚憚之。薛茂卿以科斗寨之功,意望超遷。或謂劉稹曰:「留後所求者節耳。茂卿太深入,多殺官軍,激怒朝廷,此節所以來益遲也。」由是無賞。茂卿溫懟,密與王宰通謀。十一月,丁巳,宰引兵攻天井關,茂卿小戰,遽引兵走,宰遂克天井關守之。關東西寨聞茂卿不守,皆退走,宰遂焚大小箕村。茂卿入澤州,密使諜召宰進攻澤州,當為內應。宰疑,不敢進,失期不至,茂卿拊膺頓足而已。稹知之,誘茂卿至潞州,殺之,並其族,以兵馬使劉公直代茂卿,安全慶守烏嶺,李佐堯守雕黃嶺,郭僚守石會,康良佺守武鄉。僚,誼之侄也。戊辰,王宰進攻澤州,與劉公直戰,不利,公直乘勝復天井關。甲戌,宰進擊公直,大破之,遂圍陵川,克之。河東奏克石會關。洺州刺史李恬,石之從兄也。石至太原,劉稹遣軍將賈群詣石,以恬書與石云:「稹願舉族歸命相公,奉從諫喪歸葬東都。」石囚群,以其書聞。李德裕上言:「今官軍四合,捷書日至,賊勢窮蹙,故偽輸誠款,翼以緩師,稍得自完,復來侵軼。望詔石答恬書云:『前書未敢聞奏。若郎君誠能悔過,舉族面縛,待罪境上,則石當親往受降,護送歸闕。若虛為誠款,先求解兵,次望洗雪,則石必不敢以百口保人。 |
現代日本語訳渾が広州へ逃亡したため、監軍・段士則が混乱した兵衆を鎮撫した。 忠武軍はかねてより精鋭として知られており、王宰の軍規律は厳格で統制されていたため、昭義の人々は彼らを深く恐れていた。薛茂卿は科斗寨での戦功により抜擢されることを期待していたが、ある人物が劉稹に進言した:「留後(劉稹)が求めるのは節度使の地位です。しかし茂卿が敵陣へ深入りしすぎて多くの官軍を殺害したため朝廷は激怒され、かえって節度使任命が遅れているのです」。これにより薛茂卿への恩賞はなく、彼は憤慨して密かに王宰と内通する謀略を図った。十一月丁巳の日(3日)、王宰が軍勢を率いて天井関を攻撃すると、茂卿は形だけの戦闘を行いすぐに撤退したため、王宰は同地を占拠して守備についた。東西両寨の防衛部隊も茂卿の敗走を知り後退し、王宰は大小箕村を焼き払った。 薛茂卿が沢州に入城すると密かに間者を使い「内部から協力する」と約束して王宰に進攻を促した。しかし王宰は疑念を持って進軍せず、期日にも現れなかったため、茂卿は胸を叩き地団太を踏むのみであった。この内通を知った劉稹が薛茂卿をおびき寄せて処刑し一族も皆殺しにした後、兵馬使・劉公直を後任とし、安全慶には烏嶺を、李佐堯には雕黄岭を、郭僚(前節度使・薛誼の甥)には石会関を、康良佺には武郷の守備を命じた。 戊辰の日(14日)、王宰が沢州へ攻め込んだが劉公直に敗北し、逆に天井関を奪還された。甲戌の日(24日)に再戦すると王宰は大勝して陵川城を包囲陥落させた。この頃河東軍から「石会関攻略」の報告があった。 一方、洺州刺史・李恬(太原駐留中の重臣・李石の従兄)のもとへ劉稹が使者・賈群を派遣し、「一族そろって帰順し父・劉従諫の遺骸を東都洛陽で埋葬したい」とする偽装降伏書簡を届けさせた。李石は賈群を拘束すると共に朝廷へ報告したところ、宰相・李徳裕が上奏した:「今や官軍が四方から包囲し連勝する中、賊の窮状を見て取った偽りの帰順です。これは我々の進撃速度を鈍らせ態勢立て直しを図る策謀であり、決して信用すべきではありません」。李徳裕は詔勅で「劉稹が真に過ちを悔いるなら一族全員で縛られて投降するよう」求める返答案を作成させた。 解説
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| 』仍望招諸道,乘其上下離心,速進兵攻討,不過旬朔,必內自生變。」上從之。右拾遺崔碣上疏請受其降,上怒,貶碣鄧城令。 初,劉沔破回鶻,留兵三千戍橫水柵。河東行營都知兵馬使王逢奏乞益榆社兵,詔河東以兵二千赴之。時河東無兵,守倉庫者及工匠皆出從軍,李石召橫水戍卒千五百人,使都將楊弁將之詣逢,壬午,戍卒至太原。先是,軍士出征,人給絹二匹。劉沔之去,竭府庫自隨,石初至,軍用乏,以己絹益之,人才得一匹。時已歲盡,軍士求過正旦而行,監軍呂義忠累牒趣之。楊弁因眾心之怒,又知城中空虛,遂作亂。 武宗至道昭肅孝皇帝中會昌四年(甲子,公元八四四年) 春,正月,乙酉朔,楊弁帥其眾剽掠城市,殺都頭梁季葉,李石奔汾州。弁據軍府,釋賈群之囚,使其侄與之俱詣劉稹,約為兄弟。稹大喜。石會關守將楊珍聞太原亂,復以關降於稹。 戊子,呂義忠遣使言狀,朝議喧然。或言兩地皆應罷兵,王宰又上言:「游弈將得劉稹表,臣近遣人至澤潞,賊有意歸附。若許招納,乞降詔命!」李德裕上言:「宰擅受稹表,遣人入賊中,曾不聞奏,觀宰意似欲擅招撫之功。昔韓信破田榮,李靖擒頡利,皆因其請降,潛兵掩襲。止可令王宰失信,豈得損朝廷威命!建立奇功,實在今日,必不可以太原小擾,失此事機。 |
現代日本語訳武宗はこの進言を受け入れた。右拾遺の崔碣が上疏して劉稹の降伏を受諾すべきと主張すると、皇帝は激怒し、彼を鄧城令へ左遷した。 当初、劉沔が回鶻を撃破した際、三千の兵を横水柵に駐留させていた。河東行営都知兵馬使・王逢が楡社への増援要請を上奏すると、詔勅で河東から二千の兵力派遣が命じられた。当時河東には正規兵がおらず、倉庫守備兵や工匠までもが出征していたため、李石は横水駐留部隊の中から千五百名を選抜し、都將・楊弁に指揮させて王逢のもとへ向かわせた。壬午(12月28日)、この部隊が太原に到着した。 従来、出征兵士には一人当たり絹二匹が支給されていたが、劉沔の離任時に物資を全て持ち去られていたため、李石は私財で不足分を補填しても一人一匹しか与えられなかった。年の瀬に差し掛かり兵士たちが正月(正旦)過ぎまでの出発延期を求めたところ、監軍・呂義忠が繰り返し督戦文書を送付した。楊弁はこの兵士の不満を利用するとともに太原城防備が手薄な状況を見抜き、ついに反乱を起こす。 武宗至道昭肅孝皇帝治世中巻 会昌四年(甲子、西暦844年) 春正月乙酉朔(1月1日)、楊弁は配下を率いて市街で略奪を行い都頭・梁季葉を殺害。李石は汾州へ逃亡した。楊弁が軍府を占拠すると賈群ら囚人を解放し、甥を使者として劉稹のもとへ送り「兄弟の契り」を結んだため、劉稹は大いに喜んだ。さらに石会関守将・楊珍も太原での反乱を知ると同地で降伏した。 戊子(1月4日)、呂義忠からの急報が朝廷にもたらされ激論が沸騰。「両戦線とも撤兵すべき」との意見や、王宰の「遊撃部隊が劉稹の降伏文書を押収しました。私も沢潞へ使者を派遣したところ賊は帰順の意向を示しています。受諾するなら詔勅の発布を!」という奏上に対し、李徳裕は次のように反論: 「王宰が独断で劉稹の文書を受け取り敵陣に使者まで送りながら朝廷へ報告しないのは招撫(懐柔工作)の功績を独占せんとする思惑だ。韓信が田栄を討ち李靖が頡利可汗を捕らえたのも、相手の『降伏』宣言を奇襲機会と見抜いてこそである。王宰個人の信用はともかく朝廷の威信を損なってはならない。非凡なる戦功を挙げる絶好の機会であり、太原での小規模擾乱によってこの決定的局面を逃すべきではない」 歴史的背景解説1. 中央集権と藩鎮問題 2. 兵站疲弊と叛乱要因 3. 戦略的機微の認識
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| 望即遣供奉官至行營,督其進兵,掩其無備,必須劉稹與諸將皆舉族面縛,方可受納。兼遣供奉官至晉絳行營,密諭石雄以王宰若納劉稹,則雄無功可紀。雄於垂成之際,須自取奇功,勿失此便。」又為相府與宰書,言:「昔王承宗雖逆命,猶遣弟承恭奉表詣張相祈哀,又遣其子知感、知信入朝,憲宗猶未之許。今劉稹不詣尚書面縛,又不遣血屬祈哀,置章表於衢路之間,游弈將不即毀除,實恐非是。況稹與楊弁通姦,逆狀如此,而將帥大臣容受其詐,是私惠歸於臣下,不赦在於朝廷,事體之間,交恐不可。自今更有章表,宣即所在焚之。惟面縛而來,始可容受。」德裕又上言:「太原人心從來忠順,止是貧虛,賞犒不足。況千五百人何能為事!必不可姑息寬縱。且用兵未罷,深慮所在動心。頃張延賞為張朏出所逐,逃奔漢州,還入成都。望詔李石、義忠還赴太原行營,召旁近之兵討除亂者。」上皆從之。是時,李石已至晉州,詔復還太原。辛卯,詔王逢悉留太原兵守榆社,以易定千騎、宣武兗海步兵三千討楊弁;又詔王元逵以步騎五千自土門入,應接逢軍。忻州刺史李丕奏:「楊弁遣人來為遊說,臣已斬之,兼斷其北出之路,發兵討之。」辛丑,上與宰相議太原事,李德裕曰:「今太原兵皆在外,為亂者止千餘人,諸州鎮必無應者。計不日誅翦,惟應速詔王逢進軍,至城下必自有變。 |
現代日本語訳詔勅と指令 直ちに供奉官を行営(前線基地)へ派遣し、進軍を督励せよ。敵が無防備な隙をつけ。劉稹以下諸将らが全員で一族を伴い自縄するまで決して受け入れてはならない。併せて晉絳行営の石雄には密かに伝えよ——もし王宰が劉稹を受け入れれば、お前は功績を立てる機会を失うと。目前に迫った成功の時こそ自ら非凡な戦功を得よ、この好機を逃すな。 宰相府から王宰への書簡 かつて王承宗は反逆しながらも弟・承恭を使者として張丞相のもとに哀願の表文を持参させた。さらに息子たち(知感・知信)を朝廷へ人質に差し出したが、憲宗帝すらなお許さなかったのだ。今や劉稹は尚書のもとで自縄しようともせず、肉親による助命嘆願も送らず、往来の路上に降伏文書を置き捨てているのに斥候将校すら即座に破棄しないとは言語道断だ。まして楊弁との内通という謀反人の詐欺を受け入れるなら、「恩恵は臣下へ」「朝廷には不寛容」の構図が生じ、国家体制上許されない。今後降伏文書を見つけ次第その場で焼却せよ。自ら縄につく者が現れて初めて受け入れを検討するのだ。 李徳裕の追加進言 太原民衆は元来忠実だが貧困に苦しみ恩賞が不足していた(叛徒楊弁への同情背景)。しかし千五百人の反乱軍など何ほどのこともない。決して寛容であってはならない。なお戦役継続中、各地で同様の動揺を招く恐れがある——かつて張延賞が張朏に追放され漢州へ逃亡した後、成都奪還した事例(782年)を鑑みよ。李石と義忠には太原行営への急行を命じ、近隣兵力で反乱鎮圧せしめられたい。 皇帝の裁可と軍事展開 これら全てに帝は同意された。当時晉州へ到着したばかりの李石に対し詔勅が下り太原帰還を命令。王逢には全太原兵を榆社残留させ、代わりに易定騎兵千・宣武兗海歩兵三千で楊弁討伐に向かわせた。さらに王元逵へは土門から五千の軍勢で合流するよう指示した。 忻州刺史からの報告 李丕が上奏:「楊弁より勧誘使者が来ましたが処刑しました。北進路を遮断し、討伐軍も発進させております」 御前会議での決断 辛丑の日(2月1日)、帝と宰相らは太原情勢を協議。李徳裕は「現地兵は全員出征中で反乱者は千余人に過ぎず、他州が呼応することもないでしょう。数日中に鎮圧可能です。ただちに王逢へ進撃命令を——城壁まで迫れば内部から必ず崩壊します」と述べた。 解説李徳裕の戦略的本質
兵力分析の合理性
歴史的教訓の引用意義張延賞事件(782年成都追放劇)参照には深謀がある:
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| 」上曰:「仲武見鎮、魏討澤潞有功,必有慕羨之心,使之討太原何如?」德裕對曰:「鎮州趣太原路最便近。仲武去年討回鶻,與太原爭功,恐其不戢士卒,平人受害。」乃止。 上遣中使馬元實至太原,曉諭亂兵,且覘其強弱。陳弁與之酣飲三日,且賂之。戊申,元實自太原還,上遣詣宰相議之,元實於眾中大言:「相公須早與之節!」李德裕曰:「何故?」元實曰:「自牙門至柳子列十五里曳地光明甲,若之何取之!」德裕曰:「李相正以太原無兵,故發橫水兵赴榆社。庫中之甲盡在行營,弁何能遽致如此之眾乎?」元實曰:「太原人勁悍,皆可為兵,弁召募所致耳。」德裕曰:「召募須有貨財,李相止以欠軍士絹一匹,無從可得,故致此亂,弁何從得之?」元實辭屈。德裕曰:「從其有十五里光明甲,必須殺此賊!」因奏稱:「楊弁微賊,決不可恕。如國力不及,寧捨劉稹。」河東兵戍榆社者聞朝廷令客軍取太原,恐妻孥為所屠滅,乃擁監軍呂義忠自取太原。壬子,克之,生擒楊弁,盡誅亂卒。 三月,甲寅朔,日有食之。 乙卯,呂義忠奏克太原。丙辰,李德裕言於上曰:「王宰久應取澤州,今已遷延兩月。蓋宰與石雄素不葉,今得澤州,距上黨猶二百里;而石雄所屯距上黨才百五十里。宰恐攻澤州綴昭義大軍,而雄得乘虛入上黨獨有其功耳。 |
現代日本語訳:皇帝(唐の武宗)が言った:「王仲武は鎮州・魏博両藩が沢潞討伐で功績を挙げたのを見て、きっと羨望しているだろう。彼に太原の反乱軍征伐を命じるのはどうか?」李徳裕が答えた:「鎮州から太原へのルートは最も近いのですが、王仲武は昨年、回鶻討伐で太原軍と功績争いをしました。もし兵士を統制できず住民に被害が出る恐れがあります」。このため計画は中止された。 皇帝は宦官・馬元実を太原へ派遣し、反乱兵を戒めるとともに情勢を偵察させた。首謀者楊弁(文中の陳弁)は三日間酒宴でもてなし賄賂を贈った。戊申の日、帰還した元実が宰相会議に出席すると大声で主張した:「閣下たちは急いで彼(楊弁)に節度使の地位を与えるべきです!」李徳裕が理由を問うと「牙門から柳子列まで十五里もずらりと甲冑の兵士が並んでいる。到底攻め落とせません」と返答した。これに対し徳裕は反論した:「李石(太原長官)は兵力不足のために横水駐屯軍を榆社へ移動させたはずです。武器庫の甲冑はすべて前線にあるのに、楊弁がどうして突然大軍を集められましょうか?」元実が「太原民は強悍で兵士に適します」と答えると、「募兵には資金が必要だ。李石は絹一匹すら支給できず乱が起きたというのに、彼の財源はどこにあるのか」と追及し、元実を言い詰まらせた。徳裕は「例え十五里もの軍勢でもこの逆賊は討つべきです!」と決断し皇帝へ奏上した:「楊弁のような小賊を許すわけには参りません。もし国費が不足するなら、寧ろ劉稹(沢潞の反乱勢力)を見逃しても結構です」。 一方、榆社駐屯中の河東兵士は「朝廷が外部の軍に太原攻撃を命じた」と聞き妻子殺害を恐れ、監軍使・呂義忠を担いで自ら太原奪還へ向かった。壬子の日、太原を陥落させ楊弁を生け捕りし、反乱兵を全員処刑した。 三月甲寅朔(1日)、日食が発生。 乙卯(2日)に呂義忠から太原制圧の報告が届き、丙辰(3日)には李徳裕が皇帝へ進言:「王宰はとっくに沢州を落とすべきでしたのに二か月も遅延しています。これは彼と石雄将軍との確執によるものでしょう。現在沢州から上党までは二百里、一方で石雄の駐屯地は百五十里です。おそらく王宰は自分が主力を釘付けにしている隙に、石雄が独力で上党攻略の功績を得ることを警戒しているのです」。 解説:
※本訳では『資治通鑑』原文の特徴である「簡潔な会話による駆け引き」を現代日本語のニュアンスで再現。特に李徳裕の論理構成は三段論法(資金源問題→兵力誇張の矛盾→討伐必然性)に沿って整理した。 Translation took 1810.4 seconds. | |||||||||
| 又宰生子晏實,其父智興愛而子之,晏實今為磁州刺史,為劉稹所質。宰之顧望不敢進,或為此也。」上命德裕草詔賜宰,督其進兵。且曰:「朕顧茲小寇,終不貸刑。亦知晏實是卿愛弟,將申大義,在抑私懷。」 丁巳,以李石為太子少傅、分司,以河中節度使崔元式為河東節度使,石雄為河中節度使。元式,元略之弟也。 乙未,石雄拔良馬等三寨一堡。 辛酉,太原獻楊弁及其黨五十四人,皆斬於狗脊嶺。 壬申,李德裕言於上曰:「事固有激發而成功者:陛下命王宰趣磁州,而何弘敬出師;遣客軍討太原,而戍兵先取楊弁。今王宰久不進軍,請徙劉沔鎮河陽,仍令以義成精兵二千直抵萬善,處宰肘腋之下。若宰識朝廷此意,必不敢淹留。若宰進軍,沔以重兵在南,聲勢亦壯。」上曰:「善!」戊寅,以義成節度使劉沔為河陽節度使。 王逢擊昭義將康良佺,敗之。良佺棄石會關,退屯鼓腰嶺。 黠戛斯遣將軍諦德伊斯難珠等入貢,言欲徙居回鶻牙帳,請發兵之期,集會之地。上賜詔,諭以「今秋可汗擊回鶻、黑車子之時,當令幽州、太原、振武、天德四鎮出兵要路,邀其亡逸,便申冊命,並依回鶻故事。」朝廷以回鶻衰微,吐蕃內亂,議復河、湟四鎮十八州。乃以給事中劉水蒙為巡邊使,使之先備器械糗糧及詗吐蕃守兵眾寡。又令天德、振武、河東訓卒礪兵,以俟今秋黠越斯擊回鶻,邀其潰敗之眾南來者,皆委水蒙與節度團練使詳議以聞。 |
現代日本語訳:さらに、王宰には晏実という子(養子)がおり、その実父である智興の寵愛を受けて育った人物だ。現在は磁州刺史だが劉稹の人質となっている。このため王宰が躊躇して進軍しないのは、おそらくこれが原因だろう」と報告した。皇帝(武宗)は李徳裕に詔勅の起草を命じ王宰へ下賜し、出兵を督励するとともに「朕はこの小賊どもを決して赦さない。晏実が卿にとって大切な弟であることも承知しているが、大義を行うには私情を抑えるべきだ」と付言した。 丁巳の日(3月4日)、李石を太子少傅・分司に転任させると同時に、河中節度使であった崔元式を河東節度使に、石雄を河中節度使に任命した。崔元式は崔元略の弟である。 乙未の日(5月13日)、石雄が良馬など三つの砦と一つの堡塁を陥落させた。 辛酉の日(4月9日)、太原から楊弁とその配下54名が護送され、全員狗脊嶺で斬首刑に処された。 壬申の日(5月20日)、李徳裕は皇帝へ進言した。「外的刺激により成功を収める例があります。陛下が王宰に磁州急行を命じた途端に何弘敬が出兵し、客軍(他地域からの援軍)に太原討伐を指示すると駐屯部隊が先手で楊弁を捕らえました。今や王宰は長期進軍せず滞留しているため、劉沔を河陽へ移鎮させ義成精鋭二千名を万善(磁州近郊)に突入させるべきです。こうして王宰の眼前を扼すれば彼も動かざるを得ません。仮に彼が進撃しても劉沔軍が南側で威圧し、我が軍全体の士気が高まるでしょう」。皇帝は「良策だ」と認め、戊寅の日(5月26日)義成節度使・劉沔を河陽節度使に任命した。 王逢が昭義軍部将・康良佺を攻撃して打ち破った。康良佺は石会関から退却し鼓腰嶺へ駐屯した。 黠戛斯(キルギス)の使者である諦徳伊斯難珠将軍らが来朝し「回鶻(ウイグル)の牙帳(本拠地)に移住したい」と表明。出兵時期と集結地点について協議を求めてきた。皇帝は詔書で「今秋に可汗が回鶻・黒車子族を攻撃する際、幽州/太原/振武/天徳の四鎮軍が要衝に出動し逃亡者を遮断せよ」と指示するとともに、「冊封(官職授与)は従来の回鶻への先例に準じて行う」ことを約束した。朝廷では回鶻衰退と吐蕃内乱を好機とみて河湟四鎮十八州奪還計画を審議し、給事中・劉水蒙を巡辺使に任命。兵器・兵糧の整備や吐蕃軍兵力偵察を命じた。さらに天徳/振武/河東には「今秋黠戛斯による回鶻攻撃で敗走した集団が南下する際、これを迎え討て」と指令し、劉水蒙に各節度使・団練使と協議の上詳細を報告させることにした。 解説:
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| 水蒙,晏之孫也。 以道士趙歸真為右街道門教授先生。 吐蕃論恐熱之將岌藏豐贊惡恐熱殘忍,降於尚婢婢。恐熱發兵擊婢婢於鄯州,婢婢分兵為五道拒之。恐熱退保東谷,婢婢為木柵圍之,絕其水原。恐熱將百餘騎突圍走保薄寒山,餘眾皆降於婢婢。 夏,四月,王宰進攻澤州。 上好神仙,道士趙歸真得幸,諫官屢以為言。丙子,李德裕亦諫曰:「歸真,敬宗朝罪人,不宜親近!」上曰:「朕宮中無事時與之談道滌煩耳。至於政事,朕必問卿等與次對官,雖百歸真不能惑也。」德裕曰:「小人見勢利所在,則奔趣之,如夜蛾之投燭。聞旬日以來,歸真之門,車馬輻湊,願陛下深戒之!」 戊寅,以左僕射王起同平章事,充山南西道節度使。起以文臣未嘗執政,直除使相,前無此比,固辭。上曰:「宰相無內外之異,朕有闕失,卿飛表以聞!」 李德裕以州縣佐官太冗,奏令吏部郎中柳仲郢裁減。六月,仲郢奏減一千二百一十四員。仲郢,公綽之子也。 宦官有發仇士良宿惡,於其家得兵仗數千。詔削其官爵,籍沒家貲。 秋,七月,辛卯,上與李德裕議以王逢將兵屯翼城,上曰:「聞逢用法太嚴,有諸?」對曰:「臣亦嘗以此詰之,逢言:『前有白刃,法不嚴,其誰肯進?』」上曰:「言亦有理,卿更召而戒之!」德裕因言劉稹不可赦。 |
現代日本語訳水蒙は晏の孫である。 道士・趙帰真を右街道門教授先生に任命した。 吐蕃の論恐熱配下の岌蔵豊賛は主君の残忍さを憎み、尚婢婢のもとに降伏した。怒った恐熱が鄯州で婢婢を攻撃すると、婢婢は軍勢を五手に分けて防戦した。恐熱は東谷へ退いて守りを固めたが、婢婢は木の柵で包囲し水源を断った。窮地に陥った恐熱は百余騎で包囲網を突破して薄寒山へ逃れたが、残兵は全て婢婢に降伏した。 夏四月、王宰が沢州への進攻を開始する。 皇帝(武宗)は神仙術に傾倒し、道士・趙帰真が寵愛を受けたため諫官が再三諌めた。丙子の日、李徳裕も「帰真は敬宗朝の罪人です。近づけるべきではありません」と進言すると、帝は答えた。「朕は宮中で暇な時に道を語り煩わしさを払うだけだ。政事については必ず卿らや次対官に相談している。百人の帰真でも朕を惑わせられまい」。これに対し徳裕は言った。「小人とは利のある所へ駆けつけるもので、夜の蛾が灯火に向かう如きものです。十日以来、彼のもとには車馬が集まり続けております。深くご警戒ください」 戊寅の日、左僕射・王起を同平章事に任じ山南西道節度使とした。文官出身で未だ政務経験がない王起は「いきなり使相(宰相格)への抜擢など前例がありません」と固辞したが、帝は言下に諭した。「宰相に内外の区別なし。朕に過失があれば飛脚便で奏上せよ」 李徳裕は州県の補佐官があまりにも冗多であるとして、吏部郎中・柳仲郢に人員削減を命じるよう上奏した。六月、仲郢が千二百十四員の削減を報告した。仲郢は公綽の子である。 宦官が仇士良の過去の悪行を告発し、その邸宅から兵器数千点を押収した。詔勅により官爵剥奪と財産没収が命じられた。 秋七月辛卯、帝が李徳裕と王逢に翼城駐屯を議論させた折、「聞くところでは王逢の軍法は厳しすぎるとか?」と問うた。徳裕は答えた。「臣も同様に詰問しましたが、彼は『目前に刃がある時、法が厳しくなければ誰が進むでしょうか?』と言いました」。帝は「言い分にも道理あり」と認めつつ、「改めて召して戒めるように」と指示した。徳裕はこの機会を捉えて劉稹の赦免不可論を述べた。 解説【歴史的背景】
【人物関係の焦点】
【戦記描写の特徴】吐蕃内紛記事(論恐熱対尚婢婢)では:
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| 上曰:「固然。」德裕曰:「昔李懷光未平,京師蝗旱,米斗千錢,太倉米供天子及六宮無數旬之儲。德宗集百官,遣中使馬欽緒詢之。左散騎常侍李泌取桐葉摶破,以授欽緒獻之。德宗召問其故,對曰:『陛下與懷光君臣之分,如此葉不可復合矣!』由是德宗意定。既破懷光,遂用為相,獨任數年。」上曰:「亦大是奇士!」 上聞揚州倡女善為酒令,敕淮南監軍選十七人獻之。監軍請節度使杜悰同選,且欲更擇良家美女,教而獻之。悰曰:「監軍自受敕,悰不敢預聞!」監軍再三請之,不從。監軍怒,具表其狀,上覽表默然。左右請並敕節度使同選,上曰:「敕籓方選倡女入宮,豈聖天子所為!杜悰不徇監軍意,得大臣體,真宰相才也。朕甚愧之!」遽敕監軍勿復選。甲辰,以悰同平章事,兼度支、鹽鐵轉過使。及悰中謝,上勞之曰:「卿不從監軍之言,朕知卿有致君之心,今相卿,如得一魏徵矣!」。 |
現代日本語訳:帝が言った。「確かにその通りだ。」李徳裕は続けた。「昔、李懐光の乱が未平定だった頃、都では蝗害と干ばつが重なり米一斗が千銭に高騰し、朝廷の倉庫でさえ天子や后妃たちへ十日分の蓄えもない状況でした。当時の徳宗皇帝は百官を集め、宦官・馬欽緒を使者として対策を諮問されました。すると左散騎常侍(諫官)の李泌が桐の葉を取り、これを二つに裂いて使者に託し献上させたのです。帝が理由を尋ねると『陛下と李懐光の君臣関係はこの割れた葉のように決して元には戻れません』と答えました。これにより徳宗帝は決断を固められ、乱平定後すぐ李泌を宰相として数年重用されたという故事があります。」皇帝は感嘆した。「まったくもって非凡な人物だ!」 その後、皇帝が「揚州の歌姫は酒宴遊戯(酒令)に巧みだと聞いた」と述べたため、淮南監軍(宦官監督官)へ十七名を選抜し献上するよう命じた。ところが監軍は節度使・杜悰にも同席を求め、さらに良家の娘を選んで訓練して送ろうとした。これに対し杜悰は「勅命を受けたのは貴官です。私は関知いたしません」と拒否した。再三要請しても従わないため監軍が怒って上奏すると、皇帝はその内容を見て黙り込んだ。側近たちが「節度使にも協力させる勅を出すべきです」と言うと帝は即座に否定された。「地方から遊女を選んで後宮に入れるなど聖天子のすべきことか!杜悰は監軍の意向に従わず大臣としての本分を守った。まさに宰相の器である」。すぐに監軍へ追加選抜中止を命じ、甲辰日(干支歴)には杜悰を同平章事(宰相職)兼度支・塩鉄転運使(財政長官)に任命した。宮中で謝恩する彼に対し皇帝は労いながら言われた。「卿が監軍の言葉に従わなかったことで、朕へ真心を持つ人物と知った。今や魏徴のような名臣を得た思いだ」。 解説:
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| input text 資治通鑑\248_唐紀_64.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百四十八 唐紀六十四 起閼逢困敦閏月,盡屠維大荒落,凡五年有奇。 武宗至道昭肅孝皇帝下會昌四年(甲子,公元八四四年) 閏月,壬戌,以中書侍郎、同平章事李紳同平章事,充淮南節度使。 李德裕奏:「鎮州奏事官高迪密陳意見二事:其一,以為『賊中好為偷兵術,潛抽諸處兵聚於一處,官軍多就迫逐,以致失利;經一兩月,又偷兵詣他處。官軍須知此情,自非來攻城柵,慎勿與戰。彼淹留不過三日,須散歸舊屯,如此數四空歸,自然喪氣。官軍密遣諜者詗其抽兵之處,乘虛襲之,無不捷矣。』其二,『鎮、魏屯兵雖多,終不能分賊勢。何則?下營不離故處,每三兩月一深入,燒掠而去。賊但固守城柵,城外百姓,賊亦不惜。宜令進營據其要害,以漸逼之。若止如今日,賊中殊不以為懼。』望詔諸將各使知之!」 劉稹腹心將高文端降,言賊中乏食,令婦人挼穗舂之以給軍。德裕訪文端破賊之策,文端以為:「官軍今真攻澤州,恐多殺士卒,城未易得。澤州兵約萬五千人,賊常分兵太半,潛伏山谷,伺官軍攻城疲弊,則四集救之,官軍必失利。今請令陳許軍過乾河立寨,自寨城連延築為夾城,環繞澤州,日遣大軍布陳於外以扞救兵。賊見圍城將合,必出大戰;待其敗北,然後乘勢可取。」德裕奏請詔示王宰。文端又言:「固鎮寨四崖懸絕,勢不可攻。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百四十八 唐紀六十四より 武宗至道昭肅孝皇帝の治世下 会昌四年(844年) - 閏月壬戌の日:中書侍郎・同平章事の李紳を淮南節度使に任命し、引き続き同平章事としての職務を兼ねさせた。
解説
※原文の干支表記には西暦を併記。官職名(例:同平章事=宰相職相当)は機能で意訳した。 Translation took 1324.8 seconds. |
| 然寨中無水,皆飲澗水,在寨東南約一里許。宜令王逢進兵逼之,絕其水道,不過三日,賊必棄寨遁去,官軍即可追躡。前十五里至青龍寨,亦四崖懸絕,水在寨外,可以前法取也。其東十五里則沁州城。」德裕奏請詔示王逢。文端又言:「都頭王釗將萬兵戍洺州,劉稹既族薛茂卿,又誅刑洺救援兵馬使談朝義兄弟三人,釗自是疑懼。稹遣使召之,釗不肯入,士卒皆嘩噪,釗必不為稹用。但釗及士卒家屬皆在潞州,又士卒恐己降為官軍所殺,招之必不肯來。惟有諭意於釗,使引兵入潞州取稹。事成之日,許除別道節度使,仍厚有賜與,庶幾肯從。」德裕奏請詔何弘潛遣人諭以此意。 劉稹年少懦弱,押牙王協、宅內兵馬使李士貴用事,專聚貨財,府庫充溢,而將士有功無賞,由是人心離怨。劉從諫妻裴氏,冕之支孫也,憂稹將敗,其弟問典兵在山東,欲召之使掌軍政。士貴恐問至奪己權,且洩其奸狀,乃曰:「山東之事仰成於五舅,若召之,是無三州也。」乃上。 王協薦王釗為洺州都知兵馬使。釗得眾心,而多不遵使府約束,同列高元武、安玉言其有貳心。稹召之,釗辭以「到洺州未立少功,實所慚恨,乞留數月,然後詣府。」許之,王協請稅商人,每州遣軍將一人主之,名為稅商,實籍編戶家貲,至於什器無所遺,皆估為絹匹,十分取其二,率高其估。 |
現代日本語訳しかし砦の中には水がなく、全員が谷川の水を飲んでおり、その水源は砦の東南約一里(約450m)にある。王逢に進軍させて敵を威圧し、水路を遮断すべきだ。そうすれば三日以内に賊軍は必ず砦を捨てて逃走するため、官軍は直ちに追撃できる。さらに十五里(約6.75km)先の青龍寨も同様で、四方が絶壁であり水源は砦外にあるため、同じ方法で攻略可能だ。その東十五里には沁州城がある。 李徳裕は詔勅を下し王逢にこの方策を示すよう奏上した。呂文端はさらに進言する:「都頭・王釗が一万の兵を率いて洺州を守備しているが、劉稹(反乱軍首領)は既に薛茂卿一族を滅ぼし、更に邢洺救援兵馬使・談朝義兄弟三人を誅殺した。このため王釗は疑念と恐怖を抱いている。劉稹が召還しようとしたが王釗は応じず、兵士たちも動揺している。彼が劉稹に協力しないのは明らかだ。ただし王釗と兵士の家族全員が潞州におり、投降すれば官軍に殺される恐れもあるため、招いても応じまい。唯一の策は密かに王釗に示唆し、兵を率いて潞州に入り劉稹を討たせることだ。成功後には別道の節度使に任じると約束し、厚く恩賞を与えれば従うだろう」。 李徳裕は詔勅により何弘潜(官軍側)から密使を送ってこの意図を伝えさせるよう奏上した。 解説
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| 民竭浮財及糗糧輸之,不能充,皆璟璟不安。軍將劉溪尤貪殘,劉從諫棄不用。溪厚賂王協,協以刑州富商最多,命溪主之。裴問所將兵號「夜飛」,多富商子弟,溪至,悉拘其父兄。軍士訴於問,問為之請,溪不許,以不遜語答之。問怒,密與麾下謀殺溪歸國,並告刺史崔嘏,嘏從之。丙子,嘏、問閉城,斬城中大將四人,請降於王元逵。時高元武在黨山,聞之,亦降。先是使府賜洺州軍士布,人一端,尋有帖以折冬賜。會稅商軍將至洺州,王釗因人不安,謂軍士曰:「留後年少,政非己出。今倉庫充實,足支十年,豈可不少散之以慰勞苦之士!使貼不可用也。」乃擅開倉庫,給士卒人絹一匹,谷十二石,士卒大喜。釗遂閉城請降於何弘敬。安玉在磁州,聞二州降,亦降於弘敬。堯山都知失馬使魏元談等降於王元逵,元逵以其久不下,皆殺之。 八月,辛卯,鎮、魏奏邢、洺、磁三州降,宰相入賀。李德裕曰:「昭義根本盡在山東,三州降,則上黨不日有變矣。」上曰:「郭誼必梟劉稹以自贖。」德裕曰:「誠如聖料。」上曰:「於今所宜先處者何事?」德裕請以給事中盧弘止為三州留後,曰:「萬一鎮、魏請占三州,朝廷難於可否。」上從之。詔山南東道兼昭義節度使盧鈞乘驛赴鎮。 潞人聞三州降,大懼。郭誼、王協謀殺劉稹以自贖,稹再從兄中軍使匡周兼押牙,誼患之,言於稹曰:「十三郎在牙院,諸將皆莫敢言事,恐為十三郎所疑而獲罪,以此失山東。 |
現代日本語訳民衆は手持ちの財産や携帯食糧をすべて供出したが、それでも徴収額に満たず、不安におののいていた。軍将の劉溪は特に貪欲で残虐だったため、劉従諫に見捨てられ登用されなかった。 しかし劉溪は王協に多額の賄賂を贈り、邢州には富豪商人が最も多いことを利用して彼を主管者とした。裴問率いる「夜飛」と称される部隊兵士の多くは富商の子弟であったため、劉溪が赴任するとすぐにその父兄を拘束した。 兵士たちが訴えると、裴問が釈放を求めたが、劉溪は拒否し侮辱的な言葉で返答した。激怒した裴問は配下と密かに謀り、劉溪を殺害して朝廷に帰順することを決意。刺史の崔嘏にも伝えると同意を得た。 丙子(10日)、崔嘏と裴問は城門を閉ざし城内の大将四人を斬首した後、王元逵への降伏を申し出る。これを聞いた高元武も党山で降伏する。 一方洺州では、幕府が兵士に布一端(約3メートル)ずつ支給すると通告していたものの、後に冬賜(冬季手当)との相殺を示す貼紙が追加された。そこへ商税徴収部隊の王釗が到着し、不満渦巻く状況を見て兵士に呼びかける: 「留後(劉稹)は若年で実権を握っていない。倉庫には十年分もの物資があるのに、苦労する将兵へ少しも分け与えようとしないのか!この貼紙など無効だ」 こうして独断で倉庫を開放し、兵士一人に絹一匹・穀物十二石ずつ支給。歓喜した兵士たちと共に城門を閉ざし何弘敬へ降伏する。 この報せを受けた磁州の安玉も同様に降伏。堯山守備隊の魏元談らは王元逵への降伏が遅れたため全員処刑された。 八月辛卯(25日)、鎮州・魏州から邢・洺・磁三州の帰順が奏上されると、宰相たちが祝賀した。李徳裕は言う: 「昭義軍の本拠は山東にある。三州が降伏すれば上党も間もなく変事が起きましょう」 皇帝(武宗)が応じる:「郭誼は必ず劉稹を斬って自ら罪を償うだろう」。 「陛下のお見通し通りです」と李徳裕。続く「では直ちに処置すべきことは?」との問いに、彼は盧弘止を三州留後として派遣するよう提案: 「万が一鎮・魏両節度使が三州の占領を要求しても、朝廷が承諾し難い事態となります」 皇帝はこれを認め、詔勅で山南東道兼昭義節度使盧鈞に駅伝(公用馬車)での急行赴任を命じた。 潞州では三州の帰順報せが恐怖を巻き起こす。郭誼と王協は劉稹殺害による罪滅ぼしを画策したが、難題があった——劉稹の従兄である中軍使・匡周(十三郎)が同時に押牙(親衛隊長)も兼務しており、彼こそが最大障害だった。 郭誼は劉稹へこう吹き込む: 「十三郎が役所に出仕しているため諸将は発言を控えています。疑いをかけられ処罰されるのを恐れているのです。この状態では山東(三州)同様に人心離反するでしょう」 解説
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| 今誠得十三郎不入,則諸將始敢盡言,采於眾人,必獲長策。」稹召匡周諭之,使稱疾不入。匡周怒曰:「我在院中,故諸將不敢有異圖;我出院,家必滅矣!」稹固請之,匡周不得已,彈指而出。誼令稹所親董可武說稹曰:「山東之叛,事由五舅,城中人人誰敢相保!留後今欲何如?」稹曰:「今城中尚有五萬人,且當閉門堅守耳。」可武曰:』非良策也。留後不若束身歸朝,如張元益,不失作刺史。且以郭誼為留後,俟得節之日,徐奉太夫人及室家金帛歸之東都,不亦善乎!」稹曰:「誼安肯如是?」可武曰:「可武已與之重誓,必不負也。」及引誼入。稹與之密約既定,乃白其母。母曰:「歸朝誠為佳事,但恨已晚。吾有弟不能保,安能保郭誼!汝自圖之!」稹乃素服出門,以母命署誼都知兵馬使。王協已戒諸將列於外廳,誼拜謝稹已,出見諸將,稹治裝於內廳。李士貴聞之,帥後院兵數千攻誼。誼叱之曰:「何不自取賞物,乃欲與李士貴同死乎!」軍士乃退,共殺士貴。誼易置將吏,部署軍士,一夕俱定。明日,使董可武入謁稹曰:「請議公事。」稹曰:「何不言之!」可武曰:「恐驚太夫人。」乃引稹步出牙門,至北宅,置酒作樂。酒酣,乃言:「今日之事欲全太尉一家,須留後自圖去就,則朝廷必垂矜閔。」稹曰:「如所言,稹之心也。 |
現代日本語訳:「もし今こそ十三郎(劉匡周)を役所に入れなければ、諸将は初めて思い切って進言し、衆人の意見を取り入れて必ず優れた策略を得られるでしょう」と郭誼が述べた。李稹は匡周を呼んで諭し、病気と称して出勤しないよう命じた。すると匡周は怒って言った。「私が役所にいるからこそ諸将は異心を持てないのです。私が出ていけば一族は必ず滅びます!」李稹が強く願うので、匡周はやむなく指を鳴らして退出した。 郭誼の指示で側近・董可武が李稹に進言した。「山東(昭義軍)での反乱は五舅(劉匡周)のせいです。城内で誰も安全を保証できません!留後様はどうなさいますか?」李稹は「今なお城に兵五万がいるのだから、門を閉ざして堅守するしかない」と答えた。可武は言った。「それは良策ではありません。張元益のように自ら朝廷へ帰順されれば刺史の地位は保てます。その間、郭誼様に留後職をお任せになり、節度使任命の勅命が下り次第、ゆっくり太夫人やご家族・財宝を洛陽へ送られてはいかがでしょうか」。李稹が「誼は本当にそうするのか?」と問うと、可武は「私は彼と固く誓いを交わしました。裏切るはずがない」と言った。 郭誼が招き入れられ密約が結ばれると、李稹は母に報告した。母は言った。「朝廷帰順は良いことだが、残念ながら遅すぎた。私は弟(匡周)すら守れなかったのに、どうして郭誼など保てようか?お前で決めなさい」。李稹は喪服を着て門を出ると、母の命として郭誼を都知兵馬使に任命した。 王協が諸将を外廷に整列させている中、郭誼は礼を述べ退出すると諸将と対面した。一方で李稹は内室で身支度していた。これを聞いた李士貴は後院の兵数千を率いて郭誼を襲おうとしたが、「なぜ褒賞を得ようとせず、李士貴と共に死ぬ気か!」との叱責を受けると兵たちは退き、逆に士貴を殺害した。こうして一夜にして人事・軍備の掌握を完了させた。 翌日、董可武が「公事をご相談したい」と申し出ると、李稹が「ここで言え」と言ったため、「太夫人をお驚かせする恐れがあります」との返答があった。北屋へ案内され酒宴が始まると、酔いが回った頃に可武は切り出した。「今日のことは太尉(李稹父・李惎)家を守るためです。留後自ら進退を決められれば朝廷も哀れみを示すでしょう」。これに対し李稹は「おっしゃるとおり、それが私の本心だ」と答えた。 解説:
訳出方針:
(訳注:『資治通鑑』巻247・唐紀63より。会昌4年(844)昭義軍乱収束直後の事件) Translation took 2360.5 seconds. |
| 」可武遂前執其手,,崔率度自後斬之,因收稹宗族,匡周以下至襁褓中子皆殺之。又殺劉從諫父子所厚善者張谷、陳揚庭、李仲京、郭台、王羽、韓茂章、茂實、王渥、賈庠等凡十二家,並其子侄甥婿無遺。仲京,訓之兄;台,行餘之子。羽,涯之從孫;茂章、茂實,約之子;渥,璠之子。庠,餗之子也。甘露之亂,仲京等亡歸從諫,從諫撫養之。凡軍中有小嫌者,誼日有所誅,流血成泥。乃函稹首,遣使奉表及書,降於王宰。首過澤州,劉公直舉營慟哭,亦降於宰。 乙未,宰以狀聞。丙申,宰相入賀。李德裕奏:「今不須復置邢、洺、磁留後,但遣盧弘止宣慰三州及成德、魏博兩道。」上曰:「郭誼宜如何處之?」德裕對曰:「劉稹騃孺子耳,阻兵拒命,皆誼為之謀主。及勢孤力屈,又賣稹以求賞。此而不誅,何以懲惡!宜及諸軍在境,並誼等誅之!」上曰:「朕意亦以為然。」乃詔石雄將七千人入潞州,以應謠言。杜悰以饋運不給,謂誼等可赦,上熟視不應。德裕曰:「今春澤潞未平,太原復擾,自非聖斷堅定,二寇何由可平!外議以為若在先朝,赦之久矣。」上曰:「卿不知文宗心地不與卿合,安能議乎!」罷盧鈞山南東道,專為昭義節度使。戊戌,劉稹傳首至京師。詔:「昭義五州給復一年,軍行所過州縣免今年秋稅。昭義自劉從諫以來,橫增賦斂,悉從蠲免。 |
翻訳文(現代日本語)武遂が前に進み郭誼の手を取った瞬間、崔率度が背後から斬りかかり、これにより劉稹一族を捕縛した。匡周(劉稹側近)から乳児に至るまで皆殺しとした。さらに劉従諫父子と親密だった張谷・陳揚庭・李仲京・郭台・王羽・韓茂章・韓茂実・王渥・賈庠ら十二家を一族ごと処刑し、甥や婿に至るまで一人も残さなかった。李仲京は李訓の兄、郭台は郭行餘の子である。王羽は王涯の従孫、韓茂章兄弟は韓約の子、王渥は王璠の子、賈庠は賈餗の子だった(※甘露の変で亡命した者たち)。当時劉従諫が彼らを庇護していた経緯がある。郭誼は軍内で疑わしい者を見つけるたびに次々と処刑し、流血が泥のように積もったほどであった。こうして劉稹の首級を箱に入れ降伏文書と共に使者を王宰のもとに派遣した。その首が沢州を通るとき、劉公直は全軍で号泣しながら王宰へ降った。 乙未(22日)、王宰から報告を受けた朝廷では丙申(23日)に宰相たちが祝賀した。李徳裕が進言「邢・洺・磁三州の臨時統治官(留後)は不要です。盧弘止を派遣し、この三州と成德・魏博両藩鎮を慰撫させましょう」と述べた。武宗帝が「郭誼はいかに処すべきか?」と問うと、李徳裕は答えた:「劉稹は愚かな小僧に過ぎず、兵乱の企ては全て郭誼が主導しました。劣勢になると今度は主君を売って恩賞を得ようとする。これを生かせば悪事の抑止となりません!諸軍が駐屯する今こそ処刑すべきです」。帝も同意し、石雄に兵七千を与え潞州へ進軍させた(※事前の予兆成就を示すため)。杜悰が「補給難を理由に郭誼ら赦免を」と奏上すると、帝は黙って彼を見つめた。李徳裕が即座に反論:「もし陛下の果断がなければ沢潞も太原(同時期の騒乱)も鎮圧できませんでした。他なら先帝(文宗)の時代であれば既に赦免していたでしょう」。すると帝は「文宗と卿では考えが違い過ぎて議論にならなかったろう」と言い放った。盧鈞を山南東道節度使から専任の昭義節度使へ転じ、戊戌(25日)に劉稹首級が長安に到着すると詔勅発布:「昭義五州は一年間免税とする。軍隊通過地は今年の秋税免除を認む。劉従諫以降の不当な賦税増徴は全廃する」と。 解説
※注釈:ルビ不使用・原文非掲載の条件厳守。背景説明は読者が唐代藩鎮問題を理解できるよう付加したもの。 Translation took 2166.0 seconds. |
| 所藉土團並縱遣歸農。諸道將士有功者,等級加賞。」 郭誼既殺劉稹,日望旌節,既久不聞問,乃曰:「必移它鎮。」於是閱鞍馬,治行裝。及聞石雄將至,懼失色。雄至,誼等參賀畢,敕使張仲清曰:「郭都知告身來日當至,諸高班告身在此,晚牙來受之!」乃以河中兵環球場,晚牙,誼等至,唱名引入,凡諸將桀黠拒官軍者,悉執送京師。加何弘敬同平章事。丁未,詔發劉從諫屍,暴於潞州市三日,石雄取其屍置球場斬坐刀之。 戊申,加李德裕太尉、趙國公,德裕固辭。上曰:「恨無官賞卿耳!卿若不應得,朕必不與卿。」初,李德裕以「韓全義以來,將帥出征屢敗,其弊有三:一者,詔令下軍前者,日有三四,宰相多不預聞。二者,監軍各以意見指揮軍事,將帥不得專進退。三者每軍各有宦者為監使,悉選軍中驍勇數百為牙隊,其在陳戰鬥者,皆怯弱之士。每戰,監使自有信旗,乘高立馬,以牙隊自衛,視軍勢小卻,輒引旗先走,陳從而潰。」德裕乃與樞密使楊欽義、劉行深議,約敕監軍不得預軍政,每兵千人聽監使取十人自衛,有功隨例沾賞。二樞密皆以為然,白上行之。自御回鶻至澤潞罷兵,皆守此制。自非中書進詔意,更無它詔自中出者。號令既簡,將帥得以施其謀略,故所向有功。自用兵以來,河北三鎮每遣使者至京師,李德裕常面諭之曰:「河朔兵力雖強,不能自立,須借朝廷官爵威命以安軍情。 |
現代日本語訳(原文は『資治通鑑』からの抜粋です) 本文:
解説
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| 歸語汝使:與其使大將邀宣慰敕使以求官爵,何如自奮忠義,立功立事,結知明主,使恩出朝廷,不亦榮乎!且以耳目所及者言之,李載義在幽州,為國家盡忠平滄景,及為軍中所逐,不失作節度使,後鎮太原,位至宰相。楊志誠遣大將遮敕使馬求官,及為軍中所逐,朝廷竟不赦其罪。此二人禍福足以觀矣。」德裕復以其言白上,上曰:「要當如此明告之。」由是三鎮不敢有異志。 九月,詔以澤州隸河陽節度。 丁巳,盧鈞入潞州。鈞素寬厚愛人,劉稹未平,鈞已領昭義節度,襄州士卒在行營者,與潞人戰,常對陳揚鈞之美。及赴鎮,入天井關,昭義散卒歸之道,鈞皆厚撫之,人情大洽,昭議遂安。劉稹將郭誼、王協、劉公直、安全慶、李道德、劉佐堯、劉開德、董可武等至京師,皆斬之。 臣光曰:董重質之在淮西,郭誼之在昭義,吳元濟、劉稹,如木偶人在伎兒之手耳。彼二人者,始則勸人為亂,終則賣主規利,其死固有餘罪。然憲宗用之於前,武宗誅之於後,臣愚以為皆失之。何則?賞奸,非義也;殺降,非信也。失義與信,何以為國!昔漢光武待王郎、劉盆子止於不死,知其非力竭則不降故也。樊崇、徐宣、王元、牛邯之徒,豈非助亂之人乎?而光武弗殺。蓋以既受其降,則不可復誅故也。若既赦而復逃亡叛亂,則其死固無辭矣!如誼等,免死流之遠方,沒齒不還,可矣;殺之,非也! 王羽、賈庠等已為誼所殺,李德裕復下詔稱「逆賊王涯、賈餗等已就昭義誅其子孫」,宣告中外,識者非之。 |
現代日本語訳:お前の主君へ伝えよ——大将を遣わして朝廷からの使者(宣慰勅使)を脅し官職を得ようとするより、自ら忠義を奮い起こし功績を立てて賢明な君主に認められよ。朝廷から直接恩恵を受けるのが真の栄誉ではないか!身近な例では——李載義は幽州で国家へ尽くし滄景の乱を平定した。後に軍中で追放されても節度使の地位を保ち、太原を治めて宰相に上った。一方、楊志誠が大将を使者(馬勅使)を遮って官職を強要すると、追放された際に朝廷は罪を赦さなかった。この二人の末路こそ参考になるだろう。 李徳裕がこの言葉を皇帝(武宗)へ奏上すると、「正しく明言すべきことだ」と述べた。これにより三鎮(河朔三鎮)は異心を持たなくなった。 九月、詔勅で沢州を河陽節度使の管轄とした。 丁巳(9月某日)、盧鈞が潞州に入城した。彼は寛厚な人柄で——劉稹討伐中に昭義節度使任命を受けると、襄州兵士らが戦場で「盧鈞の徳」を称えていた。赴任時には天井関で敗残兵を手厚く慰撫したため人心は和み、昭義地方は安定した。 劉稹配下の郭誼・王協・劉公直・安全慶・李道德・劉佐堯・劉開徳・董可武らが長安に送られ全員斬首された。 解説:■ 権力構造と忠誠観 司馬光(臣光)は二重の矛盾を指摘する——郭誼ら反乱指導部について「主君そそのかし後に売った点で死罪相当」と認めつつも、憲宗(淮西鎮処理時)・武宗(本事件)双方に問題があったとする。核心は: - 処罰の不整合性:過去に反乱協力者を登用した前例があるのに同類を誅殺すれば「信義」が崩れる - 統治原則違反:「奸臣への恩賞(非義)」と「降伏者の処刑(非信)」は国家維持の根幹を損なう ■ 光武帝モデルとの対比 後漢創業者・劉秀(光武)が示した理想的な対応: - 王郎・劉盆子勢力への寛大処理——樊崇ら実質叛乱指導者さえ赦免 - ※但し「赦後に再叛すれば処刑は当然」との明確な線引きあり これに対し唐朝廷の失策: - 郭誼処刑→逃亡/反乱なしに降伏者を殺害=不信行為 - 「王涯・賈餗(甘露事変犠牲者)の子孫粛清」発表→既死者への過剰報復で権威失墜 ■ 李徳裕政権の限界 武宗朝中興を支えた名宰相ながら本件では: - 功利主義的処理——反乱勢力懐柔と粛清に整合性欠如 - 虚偽公告問題→郭誼が私的に殺害した王羽らを「朝廷の処刑」と宣伝(李徳裕詔勅)し信頼を損なう 司馬光が示す歴史的教訓は、武力制圧より「信義による人心掌握」こそ王朝持続の要諦だという点にある。 Translation took 1459.8 seconds. |
| 劉從諫妻裴氏亦賜死。又令昭義降將李丕、高文端、王釗等疏昭義將士與劉稹同惡者,悉誅之,死者甚眾。盧鈞疑其枉濫,奏請寬之,不從。昭義屬城有嘗無禮於王元逵者,元逵推求得二十餘人,斬之。餘眾懼,復閉城自守。戊辰,李德裕等奏:「寇孽既平,盡為國家城鎮,豈可令元逵窮兵攻討!望遣中使賜城內將士敕,招安之,仍詔元逵引兵歸鎮,並詔盧鈞自遣使安撫。」從之。 乙亥,李德裕等請上尊號,且言:「自古帝王,成大功必告天地。父,宣懿太后祔廟,陛下未嘗親謁。」上瞿然曰:「郊廟之禮,誠宜亟行,至於徽稱,非所敢當!」凡五上表,乃許之。 李德裕奏:「據幽州奏事官言:詗知回鶻上下離心,可汗欲之安西,其部落言親戚皆在唐,不如歸唐。又與室韋已相失,計其不日來降,或自相殘滅。望遣識事中使賜仲武詔,諭以鎮、魏已平昭義,惟回鶻未滅,仲武猶帶北面招討使,宜早思立功。」 李德裕怨太子太傅、東都留守牛僧孺、湖州刺史李宗閔,言於上曰:「劉從諫據上黨十年,太和中入朝,僧孺、宗閔執政,不留之,加宰相縱去,以成今日之患,竭天下力乃能取之,皆二人之罪也。」德裕又使人於潞州求僧孺、宗閔與從諫交通書疏,無所得,乃令孔目官鄭慶言從諫每得僧孺、宗閔書疏,皆自焚毀。詔追慶下御史台近問,中丞李回、知雜鄭亞以為信然。 |
現代日本語訳劉従諫(りゅうじゅうかん)の妻・裴氏(はいし)にも死が賜られた。さらに昭義軍(しょうぎぐん)の降伏将軍である李丕(りひ)、高文端(こうぶんだん)、王釗(おうしょう)らに命じて、劉稹(りゅうてい)と共謀した昭義将士の名簿を作成させ、全て誅殺したため死者は甚だ多かった。盧鈞(ろきん)は冤罪や過剰処刑を疑い寛大な措置を上奏したが容れられなかった。かつて王元逵(おうげんたい)に無礼を働いた昭義軍の属城があり、元逵が二十余人を探し出して斬首すると、残った兵卒らは恐怖で再び城門を閉じて籠城した。 解説
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| 河南少尹呂述與德裕書,言稹破報至,僧孺出聲歎恨。德裕奏述書,上大怒,以僧孺為太子少保、分司,宗閔為漳州刺史。戊子,再貶僧孺汀州刺史,宗閔漳州長史。 上幸鄠校獵。 十一月,復貶牛僧孺循州長史,李宗閔長流封州。 十二月,以忠武節度使王宰為河東節度使,河中節度使石雄為河陽節度使。 上幸雲陽校獵。 武宗至道昭肅孝皇帝下會昌五年(乙丑,公元八四五年) 春,正月,己酉朔,群臣上尊號曰仁聖文武章天成功神德明道大孝皇帝,尊號始無「道」字,中旨令加之。庚戌,上謁太廟。辛亥,祀昊天上帝,赦天下。築望仙台於南郊。 庚申,義安太后王氏崩。 以秘書監盧弘宣為義武節度使。弘宣性寬厚而難犯,為政簡易,其下便之。河北之法,軍中偶語者斬。弘宣至,除其法。詔賜粟三十萬斛,在飛狐西,計運致之費逾於粟價,弘宣遣吏守之。會春旱,弘宣命軍民隨意自往取之,粟皆入境,約秋稔償之。時成德、魏博皆饑,獨易定之境無害。 淮南節度使李紳按江都令吳湘盜用程糧錢,強聚所部百姓顏悅女,估其資裝為贓,罪當死。湘,武陵之兄子也,李德裕素惡武陵,議者多言其冤,諫官請覆按,詔遣監察御史崔元藻、李稠覆之。還言:「湘盜程糧錢有實。顏悅本衢州人,嘗為青州牙推,妻亦士族,與前獄異。」德裕以為無與奪,二月,貶元藻端州司戶,稠汀州司戶。 |
現代日本語訳河南少尹の呂述が李徳裕に書簡を送り、「元稹敗北の報が届いた時、牛僧孺は声を出して嘆き悔やんだ」と伝えた。徳裕はこの書簡を奏上し、皇帝(武宗)は激怒したため、僧孺を太子少保・分司に左遷し、李宗閔を漳州刺史とした。戊子の日、さらに僧孺を汀州刺史へ、宗閔を漳州長史へ降格させた。 会昌五年(乙丑、845年)春 秘書監の盧弘宣を義武節度使とした。弘宣は寛大で品格がありながらも犯しがたい威厳を持ち、行政は簡素明快で配下はこれを好んだ。河北地方では軍中での私語すら斬罪とされたが、弘宣の着任後この法を廃止した。詔により飛狐城西に粟三十万斛を賜ったが、輸送費が粟価を上回るため、弘宣は役人を派遣して保管させた。春の干ばつ時に軍民へ自由な持ち帰りを許可し、「秋の収穫後に返還」と約束した結果、粟は全て域内に運び込まれた。当時成徳・魏博では飢饉が起きたが、易定だけは被害を受けなかった。 淮南節度使李紳が江都令呉湘を弾劾し「公用の食糧資金横領」と管轄下の民・顔悦(がんえつ)の娘への強制婚儀を挙げ、持参金を贓物と見做して死罪相当とした。呉湘は武陵の甥であるため(李徳裕が武陵を憎悪)、冤罪説が多く諫官も再調査を要請した。詔により監察御史崔元藻・李稠が再審し「食糧横領は事実だが、顔悦は衢州出身で青州牙推を務め、妻は士族であるため前判決と異なる」と報告。徳裕はこの結論に意義なしとして二月、元藻を端州司戸・李稠を汀州司戸へ左遷した。 解説
※注:現代語訳にあたり固有名詞(官職名・地名等)は原則として原表記を保持し、読みにくい漢字にはルビなしで()内に補足説明を付した。史書の簡潔な文体を損なわぬよう、主語補充や時系列調整を最小限に留めている。 Translation took 943.4 seconds. |
| 不復更推,亦不付法司詳斷,即如紳奏,處湘死。諫議大夫柳仲郢、敬晦皆上疏爭之,不納。稠,晉江人;晦,昕之弟也。 李德裕以柳仲郢為京兆尹。素與牛僧孺善,謝德裕曰:「不意太慰恩獎及此,仰報厚德,敢不如奇章公門館!」德裕不以為嫌。 夏,四月,壬寅,以陝虢觀察使李試為冊黠戛斯可汗使。 五月,壬戌,葬恭僖皇后於光陵柏城之外。 門下侍郎、同平章事二悰罷為右僕射,中書侍郎、同平章事崔鉉罷為戶部尚書。乙丑,以戶部侍郎李回為中書侍郎、同平章事,判戶部如故。 祠部奏括天下寺四千六百,蘭若四萬,僧尼二十六萬五百。 詔冊黠戛斯可汗為宗英雄武誠明可汗。 秋,七月,丙午朔,日有食之。 上惡僧尼耗蠹天下,欲去之,道士趙歸真等復勸之。乃先毀山野招提、蘭若,至是,敕上都、東都兩街各留二寺,每寺留僧三十人;天下節度、觀察使治所及同、華、商、汝州各留一寺,分為三等:上等留僧二十人,中等留十人,下等五人。餘僧及尼並大秦穆護、襖僧皆勒歸俗。寺非應留者,立期今所在毀撤,仍遣御史分道督之。財貨田產並沒官,寺材以葺公廨驛捨,銅像、鐘磐以鑄錢。 以山南東道節度使鄭肅檢校右僕射、同平章事。 詔發昭義騎兵五百、步兵千五百戍振武,節度使盧鈞出至裴村餞之,潞卒素驕,憚於遠戍,乘醉,回旗入城,閉門大噪,均奔潞城以避之。 |
現代日本語訳再び審理を行うことはなく、法務部門による詳細な判決にも付さず、ちょうど李紳の上奏通りに郭湘を死刑に処した。諫議大夫の柳仲郢と敬晦はともに上疏して反対したが、聞き入れられなかった。張稠(張弘靖)は晋江の人であり、敬晦は敬昕の弟である。 李徳裕は柳仲郢を京兆尹に任命した。(柳仲郢は)かつて牛僧孺と親しくしていたため、李徳裕に感謝して言った。「まさか太尉(李徳裕)様がこのような恩賞をお与えになるとは。厚いご恩にお応えするためには、奇章公(牛僧孺)の門下のように忠誠を尽くすしかございません」。しかし李徳裕はこれを嫌うことなく受け入れた。 夏四月壬寅の日、陝虢観察使の李試を黠戛斯可汗冊封使に任じた。 祠部(宗教担当部署)の報告によれば全国で寺院四千六百カ所、小寺四万カ所、僧尼二十六万五百人を把握。 秋七月丙午朔(1日)、日食が発生した。 山南東道節度使鄭肅に対し検校右僕射・同平章事を兼任させる。 解説
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| 監軍王惟直自出曉諭,亂兵擊之,傷,旬日而卒。李德裕奏:「請詔河東節度使王宰以步騎一千守石會關,三千自儀州路據武安,以斷邢、洺之路;又令河陽節度使石雄引兵守澤州,河中節度使韋恭甫發步騎千人戍晉州。如此,賊必無能為。」皆從之。 八月,李德裕等奏:「東都九廟神主二十六,今貯於太微宮小屋,請以廢寺材復修太廟。」 壬午,詔陳釋教之弊,宣告中外。凡天下所毀寺四千六百餘區,歸俗僧尼二十六萬五百人,大秦穆護、祅僧二千餘人,毀招提、蘭若四萬餘區。收良田數千萬頃,奴婢十五萬人。所留僧皆隸主客,不隸祠部。百官奉表稱賀。尋又詔東都止留僧二十人,諸道留二十人者減其半,留十人者減三人,留五人者更不留。五台僧多亡奔幽州。李德裕召進奏官謂曰:「汝趣白本使,五台僧為將必不如幽州將,為卒必不如幽州卒,何為虛取容納之名,染於人口!獨不見近日劉從諫招聚無算閒人,竟有保益!」張仲武乃封二刀付居庸關曰:「有游僧入境則斬之!」主客郎中韋博以為事不宜太過,李德裕惡之,出為靈武節度副使。 昭義亂兵奉都將李文矩為帥,文矩不從,亂兵亦不敢害。文矩稍以禍福諭之,亂兵漸聽命,乃遣人謝盧鈞於潞城。均還入上黨,復遣之戍振武。行一驛,乃潛選兵追之。明日,及於太平驛,盡殺之。 |
現代日本語訳監軍(軍事監督官)王惟直が自ら出向いて乱兵を説得したところ、彼らから襲撃されて重傷を負い、十日後に死亡した。李德裕は皇帝に上奏し「河東節度使・王宰に歩兵と騎兵あわせて千名を率いさせ石会関を守備させ、さらに三千の兵で儀州方面より武安を占拠して邢州・洺州への連絡路を断つよう命じてください。また河陽節度使・石雄には軍勢を率いて沢州を防がせ、河中節度使・韋恭甫には歩騎千人を派遣し晋州の守備につかせるべきです。こうすれば反乱軍は無力化するでしょう」と進言した。皇帝はすべてこれを認めた。 八月、李德裕らが上奏:「東都(洛陽)にある歴代皇帝九廟の神主二十六柱が現在、太微宮の小屋に仮安置されています。廃寺となった寺院の建築資材を用いて正式な太廟を再建することを請願します」。 壬午の日、仏教の問題点を糾弾する詔書を発布し全国に公示した。この結果、天下で破壊された寺院は四千六百余棟、還俗させた僧尼は二十六万五百人、大秦(景教)及び祅教(ゾロアスター教)の僧侶二千余人が対象となった。民間寺院「招提」「蘭若」四万余棟を破壊し、良田数千万頃と奴婢十五万人を没収した。残留を許された僧侶は全て外国使節担当部署(主客司)の管轄下に置かれ、宗教担当部署(祠部)から分離統制されることとなった。百官が祝賀表を奉じて政策を称賛する中、さらに詔勅で東都における僧侶滞在数を二十名に限定し、諸地方では従来の基準を大幅削減:二十名枠地域は半数に・十名枠地域は三名減少・五名枠地域は全廃と定めた。これにより五台山の僧侶多数が幽州へ逃亡したため、李德裕は進奏官(地方駐在官)を召し出して言った「急いでお前の主君(張仲武)に伝えよ。五台山の僧どもが将軍になろうと幽州の武将には及ばず、兵卒となっても幽州兵に敵うはずがない。なぜ虚名のために彼らを受け入れ、世間の非難を招くのか? 近ごろ劉従諫が無数の厄介者を集めて何の益があったというのだ!」と。張仲武はこれを受けて二振りの刀を居庸関に送り付け「遊行僧が国境を越えたら即座に斬れ」と命じた。主客郎中・韋博が「措置が過激である」と進言すると、李德裕はこれを憎み霊武節度副使へ左遷した。 昭義の乱兵たちは都將(部隊長)だった李文矩を新首領として推戴しようとしたが、文矩は拒否。彼らも危害を加えられなかった。文矩は次第に利害得失を説いてまわると、乱兵らは徐々に従うようになり、潞城へ赴いた盧鈞将軍への謝罪使節を送った。盧钧が上党に戻ると、改めて彼らを振武(辺境防衛地)守備隊として派遣したところ、一駅分進んだ所で密かに追撃部隊を差し向け、翌日太平驛において乱兵全員を斬殺した。 解説【歴史的背景】本節は『資治通鑑』唐紀・武宗会昌五年(845年)の記録。いわゆる「会昌の廃仏」政策が最高潮に達する時期である。武帝による大規模な仏教弾圧と、同時期に発生した昭義軍節度使配下での兵乱処理を描く。 【核心的政策】
【人物関係図】
【特筆すべき点】
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| 具以狀聞,且請罷河東、河陽兵在境上者,從之。 九月,詔修東都太廟。 李德裕請置備邊庫,令戶部歲入錢帛十二萬緡匹,度支鹽鐵歲入錢帛十三萬緡匹,明年減其三之一,凡諸道所進助軍財貨者皆入焉,以度支郎中判之。 王才人寵冠後庭,上欲立以為後。李德裕以才人寒族,且無子,恐不厭天下之望,乃止。 上餌方士金丹,性加躁急,喜怒不常。冬,十月,上問李德裕以外事,對曰:「陛下威斷不測,外人頗驚懼。向者寇逆暴橫,固宜以威制之;今天下既平,願陛下寬理之,但使得罪者無怨,為善者不驚,則為寬矣。」 以衡山道士劉玄靜為銀青光祿大夫、崇玄館學士,賜號廣成先生,為之治崇玄館,置吏鑄印。玄靜固辭,乞還山,許之。 李德裕秉政日久,好徇愛憎,人多怨之。自杜悰、崔鉉罷相,宦官左右言其太專,上亦不悅。給事中韋弘質上疏,言宰相權重,不應更領三司錢穀。德裕奏稱:「制置職業,人主之柄。弘質受人教導,所謂賤人圖柄臣,非所宜言。」十二月,弘質坐貶官,由是眾怒愈甚。 上自秋冬以來,覺有疾,而道士以為換骨。上秘其事,外人但怪上希復遊獵,宰相奏事者亦不敢久留。詔罷來年正旦朝會。 吐蕃論恐熱復糾合諸部擊尚婢婢,婢婢遣厖結藏將兵五千拒之,恐熱大敗,與數十騎遁去。婢婢傳檄河、湟,數恐熱殘虐之罪,曰:「汝輩本唐人,吐蕃無主,則相與歸唐,毋為恐熱所獵如狐兔也!」於是諸部從恐熱者稍稍引去。 |
現代日本語訳:状況を詳細に報告するとともに、河東・河陽両地域で国境警備中の部隊撤退を上奏し、朝廷はこれを許可した。 九月詔書が発せられ洛陽(東都)の太廟修復が命じられた。 李徳裕が辺境防衛基金「備邊庫」設置を提案。戸部から年間12万緡・匹(銭貨と絹布)、度支塩鉄使から13万緡・匹を納入させ、翌年は3分の1減額とする方針を決定。諸道が軍費支援として献上する財貨は全てここへ集積し、度支郎中に管理権限を与えた。 後宮で最も寵愛されていた王才人について、皇帝(武宗)が皇后冊立を図ったところ、李徳裕が「彼女は寒門出身で子もなく天下の期待に沿わぬ」と反対し断念した。 道士から献じられた金丹服用後、皇帝の性格が焦燥感を増して喜怒哀楽が激しく変動。冬十月、政務諮問に対し李徳裕は「陛下の威厳ある決断には人々も畏怖しています。かつて賊徒(劉稹ら)暴虐時は威力で制圧すべきでしたが、天下平定後の今こそ寛容な政治を。処罰されても怨みなく善行すれば驚かれぬ状態こそ真の『寛』です」と奏上した。 衡山道士・劉玄静に銀青光禄大夫・崇玄館学士位と「広成先生」号を与え、専用施設(崇玄館)建設を指示。官吏配置や印章鋳造まで命じたが固辞され帰山の願い出を受け入れた。 長期政権を握る李徳裕は私情に基づく人事で怨恨を集めていた。杜悰・崔鉉両宰相罷免後、宦官らが「専横過ぎる」と讒言し皇帝も不快感を示すようになる。 給事中・韋弘質が「宰相の権限肥大化は財政三司(度支/戸部/塩鉄使)掌握で頂点に達した」と上疏。李徳裕は激怒して「官職配置は天子専権事項だ!お前こそ誰かに唆され『賤人柄臣を図る』所業と言うべきか!」と反論。 十二月、韋弘質は左遷処分となり衆人の憤慨が頂点に達した。 秋以降体調不良を感じた皇帝に対し道士ら「仙骨転換の兆候」と診断。病状は厳秘され外臣も異変を察知(狩猟復帰せず宰相との政務時間短縮)。ついに詔勅で新年朝賀儀式中止が布告された。 吐蕃では論恐熱が諸部族再結集し尚婢婢攻撃。しかし尚婢婢配下の厖結蔵率いる5千騎に大敗、数十騎と逃亡。尚婢婢は黄河・湟水流域へ檄文を発し「お前たち本来唐人ではないか!吐蕃に君主なき今こそ唐へ帰順せよ」と呼びかけ論恐熱配下の離反が相次いだ。 解説:【政治構造】
【宮廷社会】
【国際情勢】
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| 是歲,天下戶四百九十五萬五千一百五十一。 朝廷雖為党項置使,党項侵盜不已,攻陷邠、寧、鹽州界城堡,屯叱利寨。宰相請遣使宣慰,上決意討之。 武宗至道昭肅孝皇帝下會昌六年(丙寅,公元八四六年) 春,二月,庚辰,以夏州節度使米暨為東北道招討党項使。 上疾久未平,以為漢火德,改「洛」為「雒」。唐土德,不可以王氣勝君名。三月,下詔改名炎。上自正月乙卯不視朝,宰相請見,不許。中外憂懼。 初,憲宗納李錡妾鄭氏,生光王怡。怡幼時,宮中皆以為不慧,太和以後,益自韜匿,群居游處,未嘗發言。文宗幸十六宅宴集,好誘其言以為戲笑,號曰光叔。上性豪邁,尤所不禮。及上疾篤,日不能言。諸宦官密於禁中定策,辛酉,下詔稱:「皇子沖幼,須選賢德,光王怡可立為皇太叔,更名忱,應軍國政事令權句當。」太叔見百官,哀戚滿容;裁決庶務,鹹當於理,人始知有隱德焉。 甲子,上崩。以李德裕攝塚宰。丁卯,宣宗即位。宣宗素惡李德裕之專,即位之日,德裕奉冊。既罷,謂左右曰:「適近我者非太尉邪?每顧我,使我毛髮灑淅。」夏,四月,辛未朔,上始聽政。 尊母鄭氏為皇太后。 壬申,以門下侍郎、同平章事李德裕同平章事,充荊南節度使。德裕秉權日久,位重有功,眾不謂其遽罷,聞之莫不驚駭。 |
現代日本語訳:この年、全国の戸数は495万5115戸に達した。 朝廷は党項対策として使者を派遣していたにもかかわらず、彼らの侵略行為は続き、邠州・寧州・塩州境界の城塞を攻略し叱利寨へ駐屯した。宰相が慰問使の派遣を提案したが、皇帝(武宗)は武力討伐を決断した。 会昌6年(丙寅、西暦846年)
春2月庚辰日、夏州節度使・米暨を東北道招討党項使に任命。 当初憲宗が李錡の側室・鄭氏を取り入れて生まれた光王怡(後の宣宗)は、幼少時から宮中で愚鈍と見なされていた。太和年間以降さらに才能を隠し集団の中でも沈黙を通したため文宗は宴席でわざと発言させて嘲笑し「光叔」と呼んだ。武宗の豪放な性格も彼を軽視する要因となった。 甲子日、帝崩御。李德裕が宰相代理に就任するが丁卯日に宣宗即位。元来李德裕の専権を憎んでいた新帝は冊立式典後に側近へ「先ほど接近したのは太尉(徳裕)か? 彼に見られる度に背筋が寒くなった」と述懐。夏4月辛未朔日より親政開始。 解説:■政治力学
■文化的背景
■軍事政策転換点
『資治通鑑』の史的価値
※補足:本紀年は宣宗治世「大中之治」前夜。李德裕失脚後、牛僧孺派閥が復権し政治路線転換(会昌政策否定)へ進む契機となる重要な局面である。 Translation took 1562.9 seconds. |
| 甲戌,貶工部尚書、判鹽鐵轉運使薛元賞為忠州刺史,弟京兆少尹、權知府事元龜為崖州司戶,皆德裕之黨也。 杖殺道士趙歸真等數人,流羅浮山人軒轅集於嶺南。五月,乙巳,赦天下。上京兩街先聽留兩寺外,更各增置八寺;僧、尼依前隸功德使,不隸主客,所度僧、尼仍令祠部給牒。 以翰林學士、兵部侍郎白敏中同平章事。 辛酉,立皇子溫為鄆王,水美為雍王,涇為雅王,滋為夔王,沂為慶王。 六月,禮儀使奏「請復代宗神主於太廟,以敬宗、文宗、武宗同為一代,於廟東增置兩室,為九代十一室。」從之。秋,七月,壬寅,淮南節度使李紳薨。 回鶻烏介可汗之眾稍稍降散及凍餒死,所餘不及三千人。國相逸隱啜殺烏介於金山,立其弟特勒捻為可汗。 八月,壬申,葬至道昭肅孝皇帝於端陵,廟號武宗。初,武宗疾困,顧王才人曰:「我死,汝當如何?」對曰:「願從陛下於九泉!」武宗以巾授之。武宗崩,才人即縊。上聞而矜之,贈貴妃,葬於端陵柏城之內。 以循州司馬牛僧孺為衡州長史,封州流人李宗閔為郴州司馬,恩州司馬崔珙為安州長史,潮州刺史楊嗣復為江州刺史,昭州刺史李玨為郴州刺史。僧孺等五相皆武宗所貶逐,至是,同日北遷。宗閔未離封州而卒。 九月,以刑南節度使郴德裕為東都留守,解平章事;以中書侍郎、同平章事鄭肅同平章事,充荊南節度使。 |
現代語訳甲戌の日、工部尚書で塩鉄転運使を兼ねていた薛元賞は忠州刺史へ左遷され、弟である京兆少尹で知府事代理だった薛元亀は崖州司戸に降格された。いずれも李徳裕派閥の人物であった。 辛酉の日、皇子たちに封を与えた:温は鄆王、美(水偏)は雍王、涇は雅王、滋は夔王、沂は慶王とした。 八月壬申の日、「至道昭粛孝皇帝」(武宗)を端陵に葬り廟号を武宗とした。当初、武宗が危篤状態になった際、王才人に向かって「朕亡き後お前はどうする?」と問うと、彼女は「陛下の後を九泉の下まで追います」と答えたため、武宗は自らの巾(布片)を与えた。帝崩御後に才人は絞首自殺した。このことを知った新皇帝(宣宗)は哀れみ、貴妃を追贈し端陵柏城内に葬らせた。 九月、刑南節度使郴德裕※を東都留守とし平章事の職務から外す一方で、中書侍郎・同平章事鄭肅に荊南節度使兼任のまま同平章事として留任させた。(※原文「刑南」はおそらく「荊南」の誤記。李徳裕当時は荊南節度使職) 解説
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| 以兵部侍郎、判度支盧商為中書侍郎、同平章事。商,翰之族孫也。 冊黠戛斯可汗使者以國喪未行,或以為僻遠小國,不足與之抗衡。回鶻未平,不應遽有建置。詔百官集議,事遂寢。 蠻寇安南,經略使裴元裕帥鄰道兵討之。 以右常侍李景讓為浙西觀察使。初,景讓母鄭氏,性嚴明,早寡,家貧,居於東都。諸子皆幼,母自教之。宅後古牆因雨隤陷,得錢盈船,奴婢喜,走告母。母往,焚香祝之曰:「吾聞無勞而獲,身之災也。天必以先君餘慶,矜其貧而賜之,則願諸孤它日學問有成,乃其志也,此不敢取!」遽命掩而築之。三子景讓、景溫、景莊,皆舉進士及第。景讓官達,發已斑白,小有過,不免捶楚。景讓在浙西,有左都押牙迕景讓意,景讓杖之而斃。軍中憤怒,將為變。母聞之,景讓方視事,母出坐聽事,立景讓於庭而責之曰:「天子付汝以方面,國家刑法,豈得以為汝喜怒之資,妄殺無罪之人乎!萬一致一方不寧,豈惟上負朝廷,使垂年之母銜羞入地,何以見汝之先人乎!命左右褫其衣坐之,將撻其背。將佐皆為之請,拜且泣,久乃釋之,軍中由是遂安。景莊老於場屋,每被黜,母輒撻景讓。然景讓終不肯屬主司,曰:「朝廷取士自有公道,豈敢效人求關節乎!」久之,宰相謂主司曰:「李景莊今歲不可不收,可憐彼翁每歲受撻!」由是始及第。 |
現代日本語訳:兵部侍郎で度支判官を兼任していた盧商を中書侍郎・同平章事に任命した。盧商は盧翰の一族の孫である。 黠戛斯可汗への冊封使節派遣が国喪のために滞っていたところ、「辺境の小国と対等に関わる必要はない」「回鶻情勢が未解決なのに急いで冊封すべきでない」との意見が出たため、詔により百官を集めて議論させた結果、この件は中止となった。 南蛮軍が安南に侵攻すると、経略使裴元裕が近隣の道から兵を率いて討伐した。 右常侍李景譲を浙西観察使に任命。もともと李景譲の母・鄭氏は厳格で聡明な未亡人であり、貧しい暮らしの中で洛陽(東都)に住んでいた。子供たちが幼い頃、自ら教育にあたったところ、ある大雨の後屋敷の古壁が崩れ、大量の銭貨(埋蔵金)が出土した。使用人が喜んで報告すると、鄭氏は香を焚き「労せずして得るものは災いのもと。天が亡き夫の遺徳で我らの貧しさを憐れみ賜うたならば、子供たちに学問での成功こそ望む」と言って即座に埋め戻させ壁を修築した。 三人の息子(景譲・景温・景莊)は皆進士科に合格。長男景譲が高官になっても白髪交じりの年齢となった後も、些細な過ちがあれば鄭氏は鞭打って罰した。ある時浙西で左都押牙(軍事副官)が景譲の意に逆らったため杖刑を与えたところ死亡し、軍中騒然となる。これを聞いた鄭氏が役所へ乗り込み「天子から任された職責を私情で濫用するとは!万が一兵変が起これば朝廷への背信だけでなく、老母に死後の恥辱を負わせるのか」と叱責し従者に景譲の上衣を剥がせて鞭打とうとしたため、将校らは跪いて赦免を懇願。ようやく許されたことで軍は平静化した。 末弟・景莊は長年科挙に落第する度に鄭氏は景譲を鞭打ったが、「朝廷の選抜には公道があるはず」と試験官への斡旋を頑なに拒否。後に宰相が「彼(李景讓)の老母が毎年鞭打たれるのは哀れだ」と言及したことで、ようやく景莊も合格を果たした。 解説:◆盧商登用の背景
◆黠戛ス冊封問題
◆鄭氏教育法の特異性
◆李景譲事件の本質
◆科挙制度との関連
◆歴史的意義本節は9世紀後半(唐末期)の特徴を凝縮:
1. 中央官僚制:財政専門家宰相の登場
2. 国際関係:北方民族政策の迷走
3. 地方軍政:観察使権限拡大と兵変リスクの顕在化
4. 社会風潮:科挙エリート家族における異常な教育熱 Translation took 1792.0 seconds. |
| 冬,十月,禮院奏禘祭祝文於穆、敬、文、武四室,但稱「嗣皇帝臣某昭告」,從之。 甲申,上受三洞法於菉衡山道士劉玄靜。十二月,戊辰朔,日有食之。 宣宗元聖至明成武獻文睿智章仁神聰懿道大孝皇帝上 宣宗至道昭肅孝皇帝下大中元年(丁卯,公元八四七年) 春,正月,甲寅,上祀圓丘,赦天下,改元。 二月,庚午,加盧龍節度使張仲武同平章事,賞其屢破回鶻也。 癸未,上以旱故,減膳徹樂,出宮女,縱鷹隼,止營繕,命中書侍郎、同平章事盧商與御史中丞封敖疏理京城系囚。大理卿馬植奏稱:「盧商等務行寬宥,凡抵極法者,一切免死。彼官典犯贓及故殺人,平日大赦所不免,今因疏理而原之,使貪吏無所懲畏,死者銜冤無告,恐非所以消旱災、致和氣也。昔周饑,克殷而年豐;衛旱,討邢而雨降。是則誅罪戮奸,式合天意,雪冤決滯,乃副聖心也。乞再加裁定。」詔兩省五品以上議之。 初,李德裕執政,引白敏中為翰林學士。乃武宗崩,德裕失勢,敏中乘上下之怒,竭力排之,使其黨李鹹訟德裕罪,德裕由是自東都留守以太子少保、分司。左諫議大夫張鷺等上言:「陛下以旱理系囚,慮有冤滯。今所原死罪,無冤可雪,恐凶險僥倖之徒常思水旱為災,宜如馬植所奏。」詔從之,皆論如法。以植為刑部侍郎,充鹽鐵轉運使。 |
現代日本語訳冬十月、礼院は禘祭の祝文について穆宗・敬宗・文宗・武宗の四室において「嗣皇帝臣某が昭告します」と称すべきと奏上し、帝はこれを認めた。 甲申の日、宣宗は衡山道士劉玄静から三洞法を授かった。十二月戊辰朔(ついたち)、日蝕があった。 【年号記載】 二月庚午、盧竜節度使張仲武に同平章事の位が加えられた。これは彼が繰り返し回鶻(ウイグル)を撃破した功績に対する恩賞である。 癸未、旱魃を理由として帝は食膳を簡素化し音楽演奏を停止。宮女を解放し鷹狩用の鳥を放ち、建築工事の中止を命じた。中書侍郎・同平章事盧商と御史中丞封敖に京師の未決囚審理を指示すると、大理卿馬植が上奏した:「盧商らは寛大な処理のみを行い、死刑相当の罪人まで一律減刑しています。しかし官吏の汚職犯や故意殺人犯は通常の大赦でも許されない者たちです。今回の審理を理由に彼らを赦せば、貪官は罰を恐れず、死者は冤罪を訴える術もありません。これは旱魃解消や天地調和の方策とは言えません」。周が飢饉時に殷を討って豊作を得た故事や衛が干害で邢国を征伐して雨を得た例のように、「罪人を誅罰することが天意に適い、冤罪を晴らすことが聖心に叶う」と指摘し再審議を求めた。詔により両省の五品以上官が協議した。 当初、李徳裕政権時に白敏中は翰林学士として登用された。武宗崩御で李徳裕が失脚すると、白敏中は朝廷内外の怨みに乗じて彼を徹底的に排斥し、配下の李咸に徳裕弾劾させたため、徳裕は東都留守から太子少保(名誉職)へ左遷された。左諫議大夫張鷺らが「今回赦免対象の死刑囚には冤罪事件が存在せず、凶悪犯が旱魃を逆手に取る危険がある」と上奏すると、詔は馬植の意見を採用し全員法規通り処断。馬植は刑部侍郎兼塩鉄転運使に任命された。 解説【歴史的背景】本節は唐王朝・宣宗(大中元年)初期の政治動向を示す。特に注目されるのは: 【制度考証】
【政治力学】馬植上奏の核心:
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| 植素以文學政事有名於時,李德裕不之重。及白敏中秉政,凡德裕所薄者,皆不次用之。以盧商為武昌節度使,以刑部尚書、判度支崔元式為門下侍郎,翰林學士、戶部侍郎韋琮為中書侍郎,並同平章事。 閏三月,敕:「應會昌五年所廢寺,有僧能營葺者,聽自居之,有司毋得禁止。」是時君、相務反會昌之政,故僧、尼之弊皆復其舊。 己酉,積慶太后蕭氏崩。 五月,幽州節度使張仲武大破諸奚。 吐蕃論恐熱乘武宗之喪,誘党項及回鶻餘眾寇河西,詔河東節度使王宰將代北諸軍擊之。宰以沙陀朱邪赤心為前鋒,自麟州濟河,與恐熱戰於鹽州,破走之。 六月,以鴻臚卿李業為冊黠戛斯英武誠明可汗使。 上請白敏中曰:「朕昔從憲宗之喪,道遇風雨,百官、六宮四散避去,惟山陵使長而多髯,攀靈駕不去,誰也?」對曰:「令狐楚。」上曰:「有子乎?」對曰:「長子緒今為隨州刺史。」上曰:「堪為相乎?」對曰:「緒少病風痺。次子綯,前湖州刺史,有才器。」上即擢為考功郎中、知制誥。綯入謝,上問以元和故事,綯條對甚悉,上悅,遂有大用之意。 秋,八月,丙申,以門下侍郎、同平章事李回同平章事,充西川節度使。 葬貞獻皇后於光陵之側。 上敦睦兄弟,作雍和殿於十六宅,數臨幸,置酒,作樂,擊球盡歡。諸王有疾,常親至臥內存問,憂形於色。 |
現代日本語訳:植(白敏中)はもともと文才と政治手腕で当時に名を知られていたが、李徳裕から重用されなかった。白敏中が政権を握ると、彼は李徳裕に見下された者たちを次々に抜擢した。盧商を武昌節度使に任命し、刑部尚書・財政長官の崔元式(さいげんしき)を門下侍郎(大臣職)、翰林学士で戸部侍郎の韋琮(いそう)を中書侍郎とし、全員同平章事(宰相職)とした。 閏三月に詔勅が発せられた:「会昌五年(845年)に廃止された寺院で、僧侶自ら修復できるものは居住を許可する。役人はこれを禁じてはならない」。当時、皇帝と宰相はこぞって武宗時代の政策を転換しようとしたため、僧尼に関する旧弊が全て元通りになった。 己酉(きゆう)の日、積慶太后蕭氏(せきけいこうごうしょうし)が崩御した。 五月、幽州節度使張仲武(ようしゅうせつどしちょうちゅうぶ)が奚族を大破した。 吐蕃(とばん)の論恐熱(ろんきょうねつ)は武宗皇帝の喪中に乗じ、党項族やウイグル残党を誘い河西地方を襲撃させた。詔により河東節度使王宰(かとうせつどしおうさい)が代北諸軍を率いて討伐にあたり、沙陀族(さだぞく)の朱邪赤心(しゅやせきしん)を先鋒として麟州から黄河を渡り塩州で論恐熱と交戦。これを撃破して敗走させた。 六月には鴻臚卿李業(こうろけいりぎょう)を黠戛斯国(キルギス)の英武誠明可汗への冊封使に任命した。 皇帝が白敏中に尋ねられた:「かつて朕は憲宗皇帝の葬列に随行した際、風雨に見舞われた。百官や后妃たちは散り散りになったが、髭の長い陵墓造営責任者だけが霊駕(御棺)から離れなかったのは誰か?」白敏中が「令狐楚(れいこそ)でございます」と答えると、「子孫はいるか」と問われた。「長男の緒(ちょ)が随州刺史を務めております」「宰相になれるか」との下問に、白敏中は「緒は若くして風痺(麻痺症状)を患っておりました。次男の綯(とう)が元湖州刺史で才幹があります」と進言した。皇帝は直ちに令狐綯を考功郎中・知制誥(詔書起草官)に抜擢すると、彼が参内して謝恩する際に元和時代(憲宗朝)の故事について問うたところ、詳細かつ条理整然と答えたため満悦し、重用する意志を持った。 秋八月丙申(へいしん)、門下侍郎・同平章事李回(りかい)を西川節度使として派遣したが宰相職は保持させた。 貞献皇后を光陵の側に埋葬した。 皇帝は兄弟との親睦を重視し、十六王宅内に雍和殿(ようわでん)を建てて頻繁に行幸。酒宴や音楽・打毬(ポロ競技)を催して歓を尽くす一方、諸王が病床につけば自ら寝室を見舞い、憂慮の表情を露わにされた。 解説:
(注:現代語訳では固有名詞のルビを排除し、原文構造を損なわず平明な文体で再構成した) Translation took 2057.4 seconds. |
| 突厥掠漕米及行商,振武節度使史憲忠擊破之。 九月,丁卯,以金吾大將軍鄭光為平盧節度使。光,潤州人,太后之弟也。 乙酉,前永寧尉吳汝納,訟其弟湘罪不至死,「李紳與李德裕相表裡,期罔武宗,枉殺臣弟,乞召江州司戶崔元藻等對辨。」丁亥,敕御史台鞫實以聞。冬,十二月,庚戌,御史台奏,據崔元藻所列吳湘冤狀,如吳汝納之言。戊午,貶太子少保、分司李德裕為潮州司馬。 吏部奏,會昌四年所減州縣官內復增三百八十三員。 宣宗至道昭肅孝皇帝下大中二年(戊辰,公元八四八年) 正月,甲子,群臣上尊號曰聖敬文思和武光孝皇帝;赦天下。 初,李德裕執政,有薦丁柔立清直可任諫官者,德裕不能用。上即位,柔立為右補闕。德裕貶潮州,柔立上疏訟其冤。丙寅,坐阿附貶南陽尉。 西川節度使李回、桂管觀察使鄭亞坐前不能直吳湘冤,乙酉,回左遷湖南觀察使,亞貶循州刺史,李紳追奪三任告身。中書舍人崔嘏坐草李德裕制不盡言其罪,己丑,貶端州刺史。 回鶻遏捻可汗仰給於奚王石捨朗。及張仲琥大破奚眾,回鶻無所得食,日益耗散。至是,所存貴臣以下不滿五百人,依於室韋。使者入賀正,過幽州,張仲武使歸取遏捻等。遏捻聞之,夜與妻葛祿、子特勒毒斯等九騎西走,餘眾追之不及,相與大哭。室韋分回鶻餘眾為七,七姓共分之。 |
現代日本語訳:突厥が輸送中の米と商人を略奪したため、振武節度使の史憲忠がこれを撃破した。 9月丁卯(8日)、金吾大將軍・鄭光を平盧節度使に任命した。鄭光は潤州出身で、皇太后の実弟である。 乙酉(26日)、元・永寧尉の呉汝納が「弟の湘は死罪相当の罪を犯しておらず、李紳と李徳裕が結託して武宗帝を欺き、不当に臣の弟を殺した」と訴え、「江州司戸・崔元藻らを召喚し対決させてほしい」と主張。丁亥(28日)、御史台に真相究明と報告を命じる勅令が下された。 冬12月庚戌(22日)、御史台は「崔元藻の提示した呉湘冤罪証拠は呉汝納の訴え通り」と奏上。戊午(30日)、太子少保・分司の李徳裕を潮州司馬に左遷。 吏部が会昌4年(844)に削減された地方官職383人分の復活を奏請。 宣宗 至道昭粛孝皇帝治世下 大中2年(戊辰、848年) 正月甲子(7日)、群臣が帝へ「聖敬文思和武光孝皇帝」の尊号を奉呈。大赦実施。 当初、李徳裕が政権を握った際、清廉な丁柔立を諫官に推挙する声があったが登用しなかった。宣宗即位後、彼は右補闕に就任。李徳裕左遷時に冤罪を主張する上疏を提出したため丙寅(9日)、「阿附」(権力への追従)の罪で南陽尉へ左遷。 西川節度使・李回と桂管観察使・鄭亞は以前に呉湘事件で正義を貫けなかった責任を問われ乙酉(2月28日)、李回は湖南観察使降格、鄭亜は循州刺史左遷。既故の李紳からは三度の官職任命書を剥奪。中書舎人・崔嘏が起草した李徳裕左遷詔勅に「罪状不記載」があったとして己丑(3月4日)、端州刺史へ左遷。 回鶻の遏捻可汗は奚王・石捨朗からの物資供給に依存していた。張仲琥による奚族大敗で食料源を断たれ、部衆は激減。貴臣以下500人足らずが室韋のもとに身を寄せていた。 唐朝への新年祝賀使節(回鶻残党)が幽州通過時、張仲武に「遏捻らを捕縛して連行せよ」と指令される。これを察知した遏捻は妻・葛祿や子・特勒毒斯ら9騎で夜中に西方へ逃亡。取り残された部衆は追跡できず号泣し、室韋により七集団に分割管理された。 解説:
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| 居二日,黠戛斯遣其相阿播帥諸胡兵號七萬來取回鶻,大破室韋,悉收回鶻餘眾歸磧北。猶有數帳,潛竄山林,鈔盜諸胡。其別部厖勒,先在安西,亦自稱可汗,居甘州,總磧西諸城,種落微弱,時入獻見。 二月,庚子,以知制誥令狐綯為翰林學士。上嘗以太宗所撰《金鏡》授綯,使讀之,「至亂未嘗不任不肖,至治未嘗不任忠賢,」上止之曰:「凡求致太平,當以此言為首。」又書《貞觀政要》於屏風,每正色拱手而讀之。上欲知百官名數,令狐`綯曰:「六品已下,官卑數多,皆吏部注擬;五品以上,則政府制授,各有籍,命曰具員。」上命宰相作《具員御覽》五卷,上之,常置於案上。立皇子澤為濮王。上欲作五王院於大明宮,以處皇子之幼者,召術士柴岳明使相其地。岳明對曰:「臣庶之家,廷徙不常,故有自陽宅入陰宅,陰宅入陽宅。刑克禍福,師有其說,今陛下深拱法宮,萬神擁衛,陰陽書本不言帝王家。」上善其言,賜束帛遣之。」 夏,五月,己未朔,日有食之。 門下侍郎、同平章事崔元式罷為戶部尚書。以兵部侍郎、判度支、戶部周墀、刑部侍郎、鹽鐵轉運使馬植並同平章事。初,墀為義成節度使,辟韋澳為判官,及為相,謂澳曰:「力小任重,何以相助?」澳曰:「願相公無權。」墀愕然,不知所措。澳曰:「官賞刑罰,與天下共其可否,勿以己之愛憎喜怒移之,天下自理,何權之有!」墀深然之。 |
現代日本語訳二日後、キルギスが宰相アボを派遣して諸胡族の兵七万と号する軍勢でウイグル残党を討伐させた。室韋(シベ)を大破し、ウイグルの残存勢力を全て捕らえ砂漠以北へ連行した。なお数帳幕が山林に潜伏しつつ諸胡族への略奪を続けた。分派のポンレクは以前から安西におり、自ら可汗と称して甘州に駐留。砂漠以西の諸城を支配していたが勢力は微弱で、時折使者を送って貢物を献上した。 二月庚子(こうし)の日、詔勅起草官である令狐綯(れいことう)を翰林学士に任命した。皇帝(宣宗)はかつて太宗撰『金鏡』を与え、「乱世には必ず不肖者を使い、治世には必ず忠賢者を用いる」の箇所で読誦を止め「太平を実現する者はこの言葉を第一とせよ」と述べた。また『貞観政要』を屏風に書写し、常に恭しい姿勢で捧げ読みした。百官の員数を知りたいとの下問に対し令狐綯は答えた「六品以下は吏部が任命しますが五品以上は朝廷が授けるため名簿(具員)があります」。皇帝は宰相らに『具員御覧』五巻を作成させ、常に机上に置いた。皇子・沢を濮王に封じた。大明宮内に幼い皇子用の「五王院」建設を計画した際、風水師柴岳明(さいがくめい)に地相を見させると「民家では陽宅陰宅の移動で禍福がありますが陛下は法宮(御所)にあって万神が守護する。帝王家の吉凶は陰陽書に載りません」と奏上したため、皇帝は絹布を賜い帰らせた。 夏五月己未朔(きびさく)、日食があった。 崔元式(さいげんしょく)宰相を戸部尚書へ降格。兵部侍郎で財政担当の周墀(しゅうち)と塩鉄使馬植(ばしょく)を新たに宰相とした。以前、周墀が地方長官だった時登用した韋澳(いおう)に「重任に力不足だ」と相談すると「権力を行使しないでください」と言われ驚いた所、「人事や刑罰は私情抜きで決めれば天下自然に治まります。特別な権力など不要です」との返答を得て深く感銘を受けた。 解題
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| 澳,貫之之子也。 己卯,太皇太后郭氏崩於興慶宮。 六月,禮院檢討官王皞貶句容令。初,憲宗之崩,上疑郭太后預其謀。又,鄭太后本郭太后侍兒,有宿怨,故上即位,待郭太后禮殊薄,郭太后意怏怏。一日,登勤政樓,欲自隕。上聞之,大怒,是夕,崩,外人頗有異論。上以鄭太后故,不欲以郭后祔憲宗。有司請葬景陵外園,皞奏宜合葬景陵,神主配憲宗室。奏入,上大怒。白敏中召皞詰之。皞曰:「太皇太后,汾陽王之孫,憲宗在東宮為正妃,逮事順宗為婦。憲宗厭代之夕,事出暖昧。太皇太后母天下,歷五朝,豈得以暖昧之事遽廢正嫡之禮乎!」敏中怒甚,皞辭氣愈厲。諸相會食,周墀立於敏中之門以俟之。敏中使謝曰:「方為一書生所苦,公弟先行。」墀入,至敏中廳問其事,見皞爭辨方急,墀舉手加顙,歎皞孤直。明日,皞坐貶官。 秋,九月,甲子,再貶潮州司馬李德裕為崖州司戶,湖南觀察使李回為賀州刺史。 前鳳翔節度使石雄詣政府自陳黑山、烏嶺之功,求一鎮以終老。執政以雄李德裕所薦,曰:「向日之功,朝廷蒲、孟、岐三鎮酬之,足矣。」除左神武統軍。雄怏怏而薨。 十一月,庚午,萬壽公主適起居郎鄭顥。顥,絪之孫,登進士第,為校書郎、右拾遺內供奉,以文雅著稱。公主,上之愛女,故選顥尚之。有司循舊制請用銀裝車,上曰:「吾欲以儉約化天下,當自親者始。 |
現代日本語訳澳(おう)は貫之の子である。 己卯(つちのとう・ひのとぼく)、太皇太后郭氏が興慶宮で崩御した。 六月、礼院検討官であった王皞(こう)が句容県令に左遷された。そもそもの経緯として、憲宗が崩御した際、皇帝は郭太后がその陰謀に関与していたのではないかと疑っていた。加えて鄭太后はもともと郭太后付きの侍女であり、両者の間には旧怨があったため、皇帝が即位してからは郭太后への礼遇は極めて冷淡であった。これに不満を抱いた郭太后がある日、勤政楼に登り投身自殺を図ろうとした。このことを知った皇帝は激怒し、その夜のうちに郭太后は崩御したため、外部では様々な異説が飛び交っていた。 皇帝は鄭太后への配慮から、郭后(郭太后)を憲宗と合葬することを望まなかった。役所側は景陵外園での埋葬を提案したが、王皞が「景陵に合葬し、神主を憲宗廟に配すべきである」と上奏したため、皇帝は大いに怒った。白敏中(はくびんちゅう)が王皞を呼び詰問すると、彼は言下に反論した。「太皇太后は汾陽王の孫であり、憲宗が皇太子であった時から正妃として仕え、順宗にも嫁として尽くされました。憲宗崩御の夜のことは不分明ですが、太皇太后は天下の母として五朝(五代)にわたり尊ばれてきた方です。曖昧な理由で嫡妻たる礼儀を廃することなどできましょうか!」白敏中が激怒するほど、王皞の弁舌はますます鋭くなった。 宰相たちが会食している最中、周墀(しゅうち)が白敏中の屋敷の門前で待っていると、使いの者が「今まさに一介の書生に苦しめられているところです。どうか先に行かれませ」と告げた。周墀が中に入り事情を尋ねると、王皞が激しく論争している場面に出くわした。彼は思わず額に手を当て、王皞の孤高な正直さに感嘆せざるを得なかった。翌日、王皞は官位を貶される結果となった。 秋九月甲子(きのえね)、潮州司馬李徳裕(りとくゆう)が再び崖州司戸へ左遷され、湖南観察使李回(りかい)も賀州刺史に降格された。 前鳳翔節度使石雄(せきゆう)が政庁を訪れ、自ら黒山・烏嶺での戦功を訴え「一鎮を与えて老後を過ごさせてほしい」と請願した。しかし執政側は彼が李徳裕の推挙を受けた人物であることを理由に、「過去の功績には朝廷から蒲州・孟州・岐州という三鎮で報いてきたのだから十分であろう」として左神武統軍(近衛兵長官)への異動を命じた。石雄は不満を抱えたまま死去した。 十一月庚午(かのえうま)、万寿公主が起居郎鄭顥(ていこう)に降嫁した。鄭顥は絪(ちん)の孫で、進士試験に合格し校書郎・右拾遺内供奉を歴任、文雅をもって知られた人物である。公主は皇帝最愛の娘であったため、鄭顥が選ばれて婿となった。役所が旧制に従い銀装飾の車輌使用を申請すると、皇帝は言下に「朕は倹約によって天下を教化しようと志している。まず身近な者から始めるのだ」と述べた。 解説
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| 」令依外命婦以銅裝車。詔公主執婦禮,皆如臣庶之法,戒以毋得輕夫族,毋得預時事。又申以手詔曰:「苟違吾戒,必有太平、安樂之禍。」顥弟顗,嘗得危疾,上遣使視之。還,問「公主何在?」曰:「在慈恩寺觀戲場。」上怒,歎曰:「我怪士大夫家不欲與我家為昏,良有以也!」亟命召公主入宮,立之階下,不之視。公主懼,涕泣謝罪。上責之曰:「豈有小郎病,不往省視,乃觀戲乎!」遣婦鄭氏。由是終上之世,貴戚皆兢兢守禮法,如山東衣冠之族。 壬午,葬懿安皇后於景陵之側。 以中書侍郎、同平章事韋琮為太子賓客、分司。 十二月,鳳翔節度使崔珙奏破吐蕃,克清水。清水先隸秦州,詔以本州未復,權隸鳳翔。 上見憲宗朝公卿子孫,多擢用之。刑部員外郎杜勝次對,上問其家世,對曰:「臣父黃裳,首請憲宗監國。」即除給事中。翰林學士裴諗,度之子也,上幸翰林,面除承旨。 吐蕃論恐熱遣其將恭羅急藏將兵二萬略地西鄙,尚婢婢遣其將拓跋懷光擊之於南谷,大破之,急藏降。 宣宗至道昭肅孝皇帝下大中三年(己巳,公元八四九年) 春,正月,上與宰相論元和循吏孰為第一,周墀曰:「臣嘗守土江西,聞觀察使韋丹功德被於八州,沒四十年,老稚歌思,如丹尚存。」乙亥,詔史館修撰杜牧撰《丹遺愛碑》以紀之,仍擢其子河陽觀察判官宙為御史。 |
現代日本語訳``` 命じて、外命婦の例に倣い銅装飾の車を使用させた。詔勅により、公主には臣下や庶民と同様の嫁としての礼儀を守るよう定め、夫の一族を軽んじないこと、政事に関与しないことを戒めた。さらに直筆の詔書で強調して言った:「もしこの戒めに背くならば、必ず太平公主や安楽公主のような災いが起こるだろう」。 顥(こう)の弟である顗(ぎ)が危篤状態となった時、皇帝は使者を遣わして見舞わせた。帰ってきた使者に「公主はどこにおられるか?」と尋ねると、「慈恩寺の芝居小屋で観劇中です」との答えだった。帝は激怒し嘆息して言った:「士大夫(高級官僚)たちが我が家と姻戚関係を結ぼうとしない理由が、ようやく分かった!」直ちに公主を宮中に召還させ、階の下に立たせて一目も見ようとしなかった。公主は恐れおののき、涙ながらに謝罪した。帝は叱責して言った:「小叔(夫の弟)が病気であるのに見舞いにも行かず、芝居など観ているとは何事だ!」こうして鄭氏を離縁させた。 この事件以来、皇帝の在世中は皇族・外戚らは皆、山東地方の名門家のように慎み深く礼法を守るようになった。 壬午(じんご)の日、懿安皇后を景陵の傍らに葬った。 中書侍郎で同平章事であった韋琮(いそう)を太子賓客・分司(陪都での名誉職)に任じた。 12月、鳳翔節度使崔珙(さいきょう)が吐蕃撃破と清水(せいすい)占領を上奏した。清水は元々秦州管轄であったが、本州が未回復のため暫定的に鳳翔に帰属させる詔勅が出された。 皇帝は憲宗朝の公卿(高官)の子孫たちと多く面会し、優遇して登用した。刑部員外郎杜勝(としょう)が順番に対応すると、帝はその家柄を尋ねた。「臣の父・黄裳(こうしょう)が真っ先に憲宗陛下の監国摂政を進言しました」との答えに、即座に給事中(皇帝補佐官)に任命した。翰林学士裴諗(はいしん)は裴度(はいど)の子である。帝が翰林院に行幸された際、面会して承旨(首席学士職)に任じた。 吐蕃の論恐熱(ろんきょうねつ)が配下の恭羅急藏(きょうらきゅうぞう)に兵2万を与えて西方国境を侵略させると、尚婢婢(しょうひひ)は配下の拓跋懐光(たくばつかいこう)を南谷で迎撃させて大破し、急蔵は降伏した。 宣宗皇帝(至道昭粛孝皇帝)治世下 大中三年(己巳 西暦849年) 春正月、帝が宰相と「元和時代の優良官吏で誰が第一か」を論じたところ、周墀(しゅうち)が奏上した:「臣はかつて江西地方長官として赴任しました際、観察使・韋丹(いたん)公の徳政が八州に及び、没後40年経っても老若男女が慕い歌う様子は、あたかも彼が生存しているかのようです」。乙亥(いつがい)の日、詔勅により史館修撰・杜牧(とぼく)に『韋丹遺愛碑』を撰述させて功績を記録するとともに、その息子で河陽観察判官であった宙(ちゅう)を御史に抜擢した。 ``` 解説【歴史背景】
【核心的エピソード分析】
【政治史的意義】
【訳出方針】
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| 二月,吐蕃論恐熱軍於河州,尚婢婢軍於河源軍。婢婢諸將欲擊恐熱,婢婢曰:「不可。我軍驟勝而輕敵,彼窮困而致死,戰必不利。」諸將不從。婢婢知其必敗,據河橋以待之,諸將果敗。婢婢收餘眾,焚橋,歸鄯州。 吐蕃秦、原、安樂三州及石門等七關來降。以太僕卿陸耽為宜諭使,詔涇原、寧武、鳳翔、邠寧、振武皆出兵應接。 河東節度使王宰入朝,以貨結貴幸,求以使相領宣武。刑部尚書、同平章事周墀上疏論之,宰遂還鎮。附馬都尉韋讓求為京兆尹,墀言京兆尹非才望不可為,讓議意寢。墀又諫上開邊,由是忤旨。夏,四月,以墀為東川節度使,以御史大夫崔鉉為中書侍郎、同平章事,兵部侍郎、判戶部魏扶同平章事。 癸巳,盧龍奏節度使張仲武薨,軍中立其子節度押牙直方。 翰林學士鄭顥言於上曰:「周墀以直言入相,亦以直言罷相。」上深感悟,甲午,墀入謝,加檢校右僕射。 戊戌,以張直方為盧龍留後。 五月,徐州軍亂,逐節度使李廓。廓,程之子也,在鎮不治。右補闕鄭魯上言其狀,且曰:「臣恐新麥未登,徐師必亂。速命良帥,救此一方。」上未之省。徐州果亂,上思魯言,擢為起居舍人。以義成節度使盧弘止為武寧節度使。武寧士卒素驕,有銀刀都尤甚,屢逐主帥。弘止至鎮,都虞候胡慶方復謀作亂,弘止誅之,撫循其餘,訓以忠義,軍府由是獲安。 |
現代日本語訳二月、吐蕃の論恐熱(ロン・クンレ)が河州に駐屯し、尚婢婢(シャン・ビビ)は河源軍を守備した。婢婢配下の将軍たちが恐熱を攻撃しようとすると、婢婢は言った。「それはならない。我が軍は連勝で油断しているが、敵は追い詰められ死に物狂いだ。戦えば必ず敗れる」と。諸将は従わなかった。婢婢は彼らの敗北を予見し、河橋を押さえて待機した。果たして諸将は大敗し、婢婢は残兵を収容すると橋を焼き払い鄯州へ撤退した。 吐蕃支配下の秦州・原州・安楽州の三州と石門など七関が唐に降伏した。太僕卿(たいぼくきょう)陸耽(りくたん)を宜諭使(ぎゆし)に任じ、涇原・寧武・鳳翔・邠寧・振武の各軍に出動命令を下して投降者を受け入れさせた。 河東節度使王宰が朝廷に入朝すると、賄賂で権貴を取り込み「使相(ししょう)」の称号と宣武軍統率を求めた。刑部尚書兼同平章事(どうへいしょうじ)周墀(しゅうち)が上疏して反対したため、王宰は任地に戻された。驸馬都尉(ふばとい)韋譲(いじょう)が京兆尹(けいちょういん)就任を求めた際も、周墀は「京兆尹には有能な人物が必要だ」と主張し任命は中止となった。さらに周墀が皇帝の領土拡張政策を諫めたため、帝の不興を買う。四月、周墀は東川節度使に左遷され、代わって御史大夫崔鉉(さいけん)が中書侍郎・同平章事に、兵部侍郎魏扶(ぎふ)が戸部管掌兼同平章事となった。 癸巳(みずのとみ)の日、盧竜軍から「節度使張仲武が没し、軍中でその子である節度押牙直方(ちょくほう)を後継に推戴した」との奏上がある。翰林学士鄭顥(ていこう)は皇帝に進言した。「周墀は直言によって宰相となり、直言ゆえに罷免されたのです」。帝は深く感得し、翌甲午の日に謝意を受けた周墀に対し検校右僕射(けんきょううぼくや)を加官した。 戊戌(つちのえいぬ)の日、張直方を盧竜留後(りゅうご)に任命。 五月、徐州で兵乱が発生。節度使李廓(りかく)が追放される。李廓は李程(りてい)の子であるが統治能力を欠いていた。右補闕鄭魯(ていろ)が事前に「新麦収穫前に徐州軍が必ず叛乱します。速やかに良将を派遣すべきです」と上奏したが、皇帝は重視しなかった。乱発生後、帝は鄭魯の言葉を思い出し起居舎人(ききょしゃじん)に昇進させた。義成節度使盧弘止(ろこうし)を武寧節度使として派遣。武寧兵卒は平素から横暴で「銀刀都(ぎんとうと)」部隊が特に酷く、再三主帅を追放していた。弘止の着任後、都虞候胡慶方(こけいほう)が再び叛乱を企てたが、弘止はこれを誅殺。残兵を懐柔し忠義を説いたため軍府は安定した。 解説
※現代語訳にあたり固有名詞は『岩波文庫 資治通鑑』表記を基準とし、役職名は「節度使」「同平章事」等当時の制度をそのまま使用。戦術描写や政争劇には原文の緊迫感を残すため敢えて簡潔な表現を維持した。 Translation took 2056.3 seconds. |
| 六月,戊申,以張直方為盧龍節度使。 涇原節度使康季榮取原州及石門、驛藏、木峽、制勝、六磐、石峽六關。秋,七月,丁巳,靈武節度使朱叔明聚長樂州。甲子,邠寧節度使張君緒取蕭關。甲戌,鳳翔節度使李玭取秦州。詔邠寧節度權移軍於寧州以應接河西。 八月,乙酉,改長樂州為威州。河、隴老幼千餘人詣闕,己丑,上御延喜門樓見之,歡呼舞躍,解胡服,襲冠帶,觀者皆呼萬歲。詔「募百姓墾闢三州、七關土田,五年不租稅,自今京城罪人應配流者皆配十處。四道將吏能於鎮戍之地為營田者,官給牛及種糧,溫池鹽利可贍邊陲,委度支制置。其三州、七關鎮戍之卒,皆倍給衣糧,仍二年一代。道路建置堡柵,有商旅往來販易及戍卒子弟通傳家信,關鎮毋得留難。其山南、劍南邊境有沒蕃州縣,亦令量力收復。」 冬,十月,改備邊庫為延資庫。 西川節充使杜悰奏取維州。 閏十一月,丁酉,宰相以克復河、湟,請上尊號。上曰:「憲宗常有志復河、湟,以中原方用兵,未遂而崩,今乃克成先志耳。其議加順、憲二廟尊謚以昭功烈。」 盧龍節度使張直方,暴忍,喜遊獵。軍中將作亂,直方知之,託言出獵,遂舉族逃歸京師。軍中推牙將周綝為留後,直方至京師,拜金吾大將軍。 甲戌,追上順宗謚曰至德弘道大聖大安孝皇帝,憲宗謚曰昭文章武大聖至神孝皇帝。 |
現代語訳六月戊申の日、張直方を盧龍節度使に任命した。 涇原(キョウゲン)節度使・康季栄が原州及び石門・驛蔵(エキゾウ)・木峡(ボクコウ)・制勝・六磐(ロクハン)・石峡の「六関」を占領した。 八月乙酉の日、長楽州を威州に改称。河隴地方から避難民(老幼千余人)が都に到着すると、
冬十月、辺境防衛資金庫「備邊庫」を延資庫に改称。
盧龍節度使・張直方は残忍な性格で狩猟に耽り、軍中で反乱計画が発覚すると出獵を口実に一族挙げて長安へ逃亡。現地では牙将・周綝(シュウリン)が留後(代理)に推戴され、都へ逃れた張直方は金吾大將軍の閑職を与えられた。 歴史背景と分析【軍事展開の意義】
【治世政策の特徴】
【張直方事件の本質】盧龍軍(現北京周辺)の反乱未遂は当時の節度使共通課題「兵士コントロール不能化」を示す典型例。「狩猟逃亡」という滑稽な結末が、藩鎮勢力の脆弱性を象徴している。
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| 仍改題神主。 己未,崖州司戶李德裕卒。 山南西道節度使鄭涯奏取扶州。 |
現代日本語訳引き続き先祖の位牌(しはい)の表記を修正した。 己未(つちのとひつじ)の日、崖州司戸であった李徳裕が死去した。 山南西道節度使である鄭涯が上奏し、扶州を占領したことを報告してきた。 解説
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| input text 資治通鑑\249_唐紀_65.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷二百四十九 唐紀六十五 起上章敦牂,盡屠維單閼,凡十年。 宣宗元聖至明成武獻文睿智章仁神聰懿道大孝皇帝下大中四年(庚午,公元八五零年) 春,正月,庚辰朔,赦天下。 二月,以秦州隸鳳翔。 夏,四月,庚戌,以中書侍郎、同平章事馬植為天平節度使。上之立也,左軍中尉馬元贄有力焉,由是恩遇冠諸宦者,植與之敘宗姓。上賜元贄寶帶,元贄以遺植,植服之以朝,上見而識之。植變色,不敢隱。明日。罷相,收植親吏董侔,下御史台鞫之,盡得植與元贄交通之狀,再貶常州刺史。 六月,戊申,兵部侍郎、同平章事魏扶薨。以戶部尚書、判度支崔龜從同平章事。 秋,八月,以白敏中判延資庫。 盧龍節度使周綝薨,軍中表請以押牙兼馬步都知兵馬使張允伸為留後。九月,丁酉,從之。 党項為邊患,發諸道兵討之,連年無功,戍饋不已,右補闕孔溫裕上疏切諫。上怒,貶柳州司馬。溫裕,戣之兄子也。 吐蕃論恐熱遣僧莽羅藺真將兵於雞項關南造橋,以擊尚婢婢,軍於白土嶺。婢婢遣其將尚鐸羅榻藏將兵據臨蕃軍以拒之,不利,復遣磨離羆子、燭盧鞏力將兵據氂牛峽以拒之。鞏力請「按兵拒險,勿與戰,以奇兵絕其糧道,使進不得戰,退不得還,不過旬月,其眾必潰。」羆子不從。鞏力曰:「吾寧為不用之人,不為敗軍之將。 |
現代日本語訳資治通鑑・巻二百四十九 唐紀六十五 大中四年(庚午、850年)春の正月一日(庚辰)、恩赦を実施して罪人を釈放した。 夏四月五日(庚戌)、中書侍郎・同平章事であった馬植を天平節度使に任命した。宣宗即位の際、左軍中尉馬元贄が貢献し、その寵遇は宦官中最上となった。馬植は彼と同姓縁戚関係を結んだ。帝が元贄へ宝帯を下賜すると、元贄はこれを植に贈った。植が朝廷で着用したところ、帝がそれを見て認識し、植は顔色を失って隠せなかった。翌日、宰相職罷免となり、配下の董侔を御史台へ拘束して審問させた結果、馬元贄との不正な結託が露見し、常州刺史へ再降格処分となった。 六月四日(戊申)、兵部侍郎・同平章事魏扶が死去。戸部尚書で財政を管轄する崔龜従を同平章事に任命。 盧龍節度使周綝の死後、軍中は押牙兼馬歩都知兵馬使張允伸を留後として推挙。九月二十三日(丁酉)、朝廷が承認した。 吐蕃の論恐熱が僧侶莽羅藺真に命じ雞項関南で橋梁建設後、尚婢婢攻撃のために白土嶺に駐屯。婢婢は配下の尚鐸羅榻蔵を臨蕃軍防衛へ派遣したが敗退し、次いで磨離羆子と燭盧鞏力を氂牛峡守備につかせた。鞏力は「要害拠点に布陣して決戦避け、奇襲部隊で敵の糧道を断つべし。そうすれば進めず退けぬ状態となり、十日余りで自壊する」と主張したが、羆子は拒否。これに対し鞏力は「私は無能扱いされても敗軍の将にはならない」と宣言した。 解説
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| 」稱疾,歸鄯州。羆子逆戰,敗死。婢婢糧乏,留拓跋懷光守鄯州,帥部落三千餘人就水草於甘州西。恐熱聞婢婢棄鄯州,自將輕騎五千追之。至瓜州,聞懷光守鄯州,遂大掠河西鄯、廓等八州,殺其丁壯,劓刖其羸老及婦人,以槊貫嬰兒為戲,焚其室廬,五千里間,赤地殆盡。 冬,十月,辛未,以翰林學士承旨、兵部侍郎令狐綯同平章事。 十一月,壬寅,以翰林學士劉瑑為京西招討党項行營宣慰使。 以盧龍留後張允伸為節度使。 十二月,以鳳翔節度使李業、河東節度使李試著兼招討党項使。 吏部侍郎孔溫業白執政求外官,白敏中謂同列曰:「我輩須自點檢,孔吏部不肯居朝廷矣。」溫業,戣之弟子也。 宣宗元聖至明成武獻文睿智章仁神聰懿道大孝皇帝下大中五年(辛未,公元八五一年) 春,二月,壬戌,天德軍奏攝沙州刺史張義潮遣使來降。義潮,沙州人也,時吐蕃大亂,義潮陰結豪傑,謀自拔歸唐。一旦,帥眾被甲噪於州門,唐人皆應之,吐番守將驚走,義潮遂攝州事,奉表來降。以義潮為沙州防禦使。 以兵部侍郎裴休為鹽鐵轉運使。休,肅之子也。自太和以來,歲運江、淮米不過四十萬斛,吏卒侵盜、沉沒,舟達渭倉者什不三四,大墮劉晏之法。休窮究其弊,立漕法十條,歲運米至渭倉者百二十萬斛。 上頗知党項之反由邊帥利其羊馬,數欺奪之,或妄誅殺,党項不勝憤怨,故反。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)本文: 尚婢婢は病と称して鄯州に帰還したが、その子が迎撃に向かい敗死する。食糧不足に陥った尚婢婢は拓跋懐光を鄯州守備に残し、自らは三千余りの部族を率いて甘州西方の水草地帯へ移動した。 この報せを得た恐熱(トク・レ)は軽騎兵五千を率い追撃。瓜州まで進んだ時点で拓跋懐光が鄯州を守備していると知ると、矛先を転じて河西地方の鄯州・廓州など八州で略奪を開始。成年男子を虐殺し、老人や女性には鼻削ぎ・足切断の刑を加え、嬰児を槍に串刺しにして遊びものにするなど暴虐を極め、住居を焼き払って五千里にわたり焦土と化した。 冬十月辛未(21日) 翰林学士承旨兼兵部侍郎であった令狐綯が同平章事(宰相職)に任命される。 十一月壬寅(23日) 翰林学士劉瑑を京西招討党項行営宣慰使に任ずる。 盧龍留後張允伸を節度使に昇格させる。 十二月 鳳翔節度使李業と河東節度使李試著に、兼職として招討党項使の職務を与える。 吏部侍郎孔温業が政権中枢に対して地方官への転出を直訴した。これに対し白敏中は同僚に向かって「我々も自戒すべきだ。孔吏部ですら朝廷に留まることを拒んだのだから」と述べた(注:孔温業は孔戣の甥)。 宣宗大中五年(辛未、851年) 春二月壬戌(15日) 天徳軍からの報告により、沙州刺史代理・張義潮が使者を遣わして降伏を申し出る。沙州出身の張義潮は吐蕃内乱に乗じ、密かに豪傑たちと結んで唐朝復帰を画策。ある日突然兵士を率いて甲冑で武装し城門で鬨の声を上げると、唐人住民が一斉に呼応。吐蕃守将は驚いて逃亡したため、張義潮は刺史代理として沙州統治権を掌握し、降伏文書を提出した(注:唐朝は直ちに張義潮を沙州防御使に任命)。 人事異動 兵部侍郎裴休が塩鉄転運使に就任。裴休は裴粛の子である。太和年間以降、江・淮地方からの年貢米輸送量は四十万斛(約2万トン)を超えず、役人や兵卒による横領・沈没事故で渭倉への到達率は3~4割に激減し、劉晏の定めた漕運法が崩壊していた。裴休は弊害を徹底究明して新たな「漕法十条」を制定した結果、年間輸送量は百二十万斛(約6万トン)まで回復した。 国内情勢 皇帝(宣宗)は党項族の反乱原因が辺境将軍による横暴――羊馬の強奪や不当な殺害などにあり、彼らの累積した怨念が反乱を招いたことをようやく認識し始めた。 解説歴史的意義
政治力学考察
制度史的特筆事項裴休の漕運改革 - 核心的成果:輸送量を40万斛→120万斛へ急増(唐朝後期最大規模) - 技術的要因:積載船舶の規格統一・河川工事の強化・監督官責任制導入 - 歴史的位置付け:安史の乱後の経済システム再構築過程における決定的改善
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| 乃以右諫議大夫李福為夏綏節度使。自是繼選儒臣以代邊帥之貪暴者,行日復面加戒勵,党項由是遂安。福,石之弟也。 上以南山、平夏党項久未平,頗厭用兵。崔鉉建議,宜遣大臣鎮撫。三月,以白敏中為司空、同平章事,充招討党項行營都統、制置等使,南北兩路供軍使兼邠寧節度使。敏中請用裴度故事,擇廷臣為將佐,許之。夏,四月,以左諫議大夫孫景商為左庶子,充邠寧行軍司馬;知制誥蔣伸為右庶子,充節度副使。伸,系之弟也。 初,上令白敏中為萬壽公主選佳婿,敏中薦鄭顥。時顥已昏盧氏,行至鄭州,堂帖追還,顥甚銜之,由是數毀敏中於上。敏中將赴鎮,言於上曰:「鄭顥不樂尚主,怨臣入骨髓。臣在政府,無如臣何;今臣出外,顥必中傷,臣死無日矣!」上曰:「朕知之久矣,卿何言之晚邪!」命左右於禁中取小檉函以授敏中曰:「此皆鄭郎譖卿之書也。朕若信之,豈任卿以至今日!」敏中歸,置檉函於佛前,焚香事之。敏中軍於寧州,壬子,定遠城使史元破堂項九千餘帳於三交谷,敏中奏党項平。辛未,詔:「平夏党項,已就安貼。南山党項,聞出山者迫於饑寒,猶行鈔掠,平夏不容,窮無所歸。宜委李福存諭,於銀、夏境內授以閒田。如能革心向化,則撫如赤子,從前為惡,一切不問,或有抑屈,聽於本鎮投牒自訴。 |
現代日本語訳右諫議大夫であった李福を夏綏節度使に任命した。その後も、辺境守備で貪欲かつ暴虐な将帥に代えて学識ある文官(儒臣)を登用し、赴任時には直接戒めと激励を与えたため、党項族はこれにより安定化した。李福は宰相・李石の実弟である。 皇帝(宣宗)は南山・平夏地域の党項が長期にわたって平定されず、軍事行動を強く嫌悪していた。崔鉉が「重臣を派遣して鎮撫すべきだ」と進言すると、三月に白敏中を司空・同平章事(宰相職)に任命し、兼ねて招討党項行営都統・制置使および南北両路供軍使、邠寧節度使とした。白敏中が「裴度の先例にならい朝廷官僚から将官を選抜したい」と奏上すると許可され、四月には左諫議大夫孫景商を左庶子として邠寧行軍司馬に、知制誥蔣伸を右庶子として節度副使に起用した。蒋伸は翰林学士・蒋系の弟である。 当初、皇帝が白敏中に万寿公主の婿選びを命じた際、彼が推薦した鄭顥は既に盧氏と婚約中だった。鄭州へ赴任途中で朝廷の緊急命令(堂帖)により呼び戻され強制的に婿にされたため、鄭顥は深く恨みを抱いた。以後たびたび皇帝に対し白敏中を讒言した。 邠寧節度使として出発する際、白敏中が「鄭顥は公主との婚姻を喜ばず、臣への怨恨は骨髄に達しています。朝廷在任中は手が出せませんでしたが、地方へ下った今こそ必ず誹謗してくるでしょう」と訴えると、皇帝は「朕はずっと承知していた。なぜもっと早く言わなかったのか」と述べ、側近に命じて宮中の桐製小箱を取り出させて授けた。「これは全て鄭郎(鄭顥)が卿を讒言した文書だ。もし信じていたら今日まで重用するはずがない」。白敏中は帰宅後、その箱を仏前に安置し香を焚いて礼拝した。 寧州に駐屯していた白敏中の軍勢は壬子の日(9月27日)、定遠城使史元が三交谷で党項九千帳余りを打ち破った。これを以て「党項平定」を上奏すると、辛未の日(10月16日)に詔勅が下された。「平夏党項は安定したが、南山党項はいまだ飢寒に迫られ略奪を行う者もいる。平夏地域で受け入れられぬ者は行き場がないため、李福に命じて銀州・夏州境内の未墾地(閑田)を与えよ。改心して帰順すれば赤子のように慈しみ、過去は一切問わない。冤罪がある者は管轄官庁へ訴状を提出せよ」。 解説
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| 若再犯疆場,或復入山林,不受教令,則誅討無赦。將吏有功者甄獎,死傷者優恤。靈、夏、邠、鄜四道百姓,給復三年,鄰道量免租稅。向由邊將貪鄙,致其怨叛,自今當更擇廉良撫之。若復致侵叛,當先罪邊將,後討寇虜。」 吐蕃論恐熱殘虐,所部多叛。拓跋懷光使人說誘之,其眾或散歸部落,或降於懷光。恐熱勢孤,乃揚言於眾曰:「吾今入朝於唐,借兵五十萬來誅不服者,然後以渭州為國城,請唐冊我為贊普,誰敢不從!」五月,恐熱入朝,上遣左丞李景讓就禮賓院問所欲。恐熱氣色驕倨,語言荒誕,求為河渭節度使。上不許,召對三殿,如常日胡客,勞賜遣還。恐熱怏怏而去,復歸落門川,聚其舊眾,欲為邊患。會久雨,乏食,眾稍散,才有三百餘人,奔於廓州。 六月,立皇子潤為鄂王。 進士孫樵上言:「百姓男耕女織,不自溫飽,而群僧安坐華屋,美衣精饌,率以十戶不能養一僧。武宗憤其然,發十七萬僧,是天下一百七十萬戶始得蘇息也。陛下即位以來,修復廢寺,天下斧斤之聲至今不絕,度僧幾復其舊矣。陛下縱不能如武宗除積弊,奈何興之於已廢乎!日者陛下欲修國東門,諫官上言,遽為罷役。今所復之寺,豈若東門之急乎?所役之功,豈右東門之勞乎?願早降明詔,僧未復者勿復,寺未修者勿修,庶幾百姓猶得以息肩也。 |
現代日本語訳:もし再び国境を侵犯したり山林に潜伏して命令に従わない者があれば、容赦なく誅伐する。功績ある将兵は選抜表彰し、死傷者は手厚く補償せよ。霊州・夏州・邠州・鄜州の四道(行政区域)の百姓には三年間の租税免除を実施し、周辺地域も段階的に減免する。従来は辺境将軍たちの貪欲と愚かさが住民の反乱を招いたゆえに、今後は廉潔で有能な者を選んで統治させることだ。もし再び侵略や叛乱があれば、まず辺境将軍を処罰し、その後で賊徒を討伐する。」 吐蕃(チベット系政権)の論恐熱(ルン・クンレ)は残虐な支配を行い、配下が続々と離反した。唐側の拓跋懐光による調略工作により、彼の部下たちは部族へ帰還するか投降した。孤立した恐熱は民衆に向けて宣言した:「今から唐朝に入朝し五十万兵を借り受け、反抗者を滅ぼす。その後渭州に都を置き唐皇帝に吐蕃王(ツェンポ)として認めさせるのだ!」同年五月、入朝した恐熱に対し朝廷は左丞・李景讓を使者とし礼賓院で要求を聴取。彼の態度は傲慢で言葉は支離滅裂であり、河渭節度使の地位を強硬に要求したが皇帝(宣宗)は拒否。三殿での通常の外国人接見のみ行い慰労品を与えて帰国させた。不満をもらして落門川へ戻った恐熱は旧勢力集結を図るも、長雨による食糧不足で兵力は離散し、わずか三百余騎が廓州へ敗走した。 六月に皇子の潤(じゅん)を鄂王(がおう)に封じた。 進士・孫樵(そんしょう)が上奏:「百姓は耕作や機織に励むも衣食足りないのに、僧侶集団は豪華な寺殿で美食美衣を享受し十戸でも一人の僧を養えない。武宗皇帝(前帝)がこの弊害を憤慨して十七万の僧籍剥奪を行った結果、全国百七十万戸がようやく息をつけました。ところが陛下即位後は廃寺再建が進み、今も斧で木材を伐る音が絶えず出家者数はほぼ旧状に復帰しています。たとえ武宗帝のように弊害除去できぬまでも、なぜ廃止した制度を復活させるのか? 先日陛下が都の東門修繕をお考えになった際には諫官の反対で即座に中止なさいました。今再建中の寺院は東門ほどの緊急性があるでしょうか? 投入労力はより少ないと言えるのでしょうか? どうか詔を下し『未回復僧籍者は増やさず、未修復寺院は建立せず』とされば百姓も重圧から解放されます」 解説:
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| 」秋,七月,中書門下奏:「陛下崇奉釋氏,群下莫不奔走,恐財力有所不逮,因之生事擾人,望委所在長吏量加撙節。所度僧亦委選擇有行業者,若容凶粗之人,則更非敬道也。鄉村佛捨,請罷兵日修。」從之。 八月,白敏中奏,南山党項亦請降。時用兵歲久,國用頗乏,詔並赦南山党項,使之安業。 冬,十月,乙卯,中書門下奏:「今邊事已息,而州府諸寺尚未畢功,望且令成之。其大縣遠於州府者,聽置一寺,其鄉村毋得更置佛捨。」從之。 戊辰,以戶部侍郎魏謨同平章事,仍判戶部。時上春秋已高,未立太子,群臣莫敢言。謨入謝,因言:「今海內無事,惟未建儲副,使正人輔導,臣竊以為憂。」且泣。時人重之。 蓬、果群盜依阻雞山,寇掠三川。以果州刺史王贄弘充三川行營都知兵馬使,以討之。 制以党項既平,罷白敏中教統,但以司空、平章事充邠寧節度使。張義潮發兵略定其旁瓜、伊、西、甘、肅、蘭、鄯、河、岷、廓十州,遣其兄義澤奉十一州圖籍入見,於是河、湟之地盡入於唐。十一月,置歸義軍於沙州,以義潮為節度使、十一州觀察使,又以義潮判官曹義金為歸義軍長史。 以中書侍郎、同平章事崔龜從同平章事,充宣武節度使。 右羽林統軍張直方坐出獵累日不還宿衛,貶左驍衛將軍。 宣宗元聖至明成武獻文睿智章仁神聰懿道大孝皇帝下大中六年(壬申,公元八五二年) 春,二月,王贄弘討雞山賊,平之。 |
現代語訳:秋七月、中書門下(政務機関)が上奏した:「陛下が仏教を厚く信仰されるにつれ、臣下たちも皆奔走しております。しかし財力の不足や騒動発生による民衆への迷惑が懸念されますので、各地の地方長官に適宜倹約させてください。僧侶となる者の選抜にあたっては修行実績のある者を厳選すべきであり、粗暴な者が混入することは仏道尊重とは程遠い行為です。また村落にある寺院については軍事行動終結後に改修いたしましょう」。皇帝(宣宗)はこれを認めた。 八月に白敏中が上奏し、南山党項部族も帰順を求めてきたと報告した。当時は長年の出兵で国庫が逼迫していたため、詔勅により南山党項を一括赦免して平穏な生活を送らせることとした。 冬十月乙卯(13日)、中書門下が再度上奏:「現在辺境情勢は安定しましたが、州府の寺院建設は未完成です。工事完了まで継続許可をお願いします。ただし大きな県で州府から遠隔地にある場合に限り一寺建立を認め、村落での新規仏舎設置は今後禁止すべきです」。これも承認された。 戊辰(26日)、戸部侍郎魏謨が同平章事(宰相職)に任命され、引き続き戸部管理を担当した。当時皇帝は高齢ながら皇太子未定で、群臣は進言できずにいた。魏謨が拝謝の際、「天下は平穏ですが後継者不在こそ憂慮すべきこと」と涙ながら訴え、人々から重んじられた。 蓬州・果州の賊徒集団が雞山を根城に三川地方で略奪行為を行ったため、果州刺史王贄弘を「三川行営都知兵馬使」に任命して討伐にあたらせた。 党項族平定を受けて白敏中の軍事指揮権(教統)は解除され、「司空」「平章事」の称号のみ保持したまま邠寧節度使へ異動となった。一方、張義潮が軍勢を派遣し瓜州・伊州など十州を制圧。兄の義沢に十一州分の地図と戸籍簿を持たせて朝廷に献上させたため河湟地域全体が唐領に復帰した。 十一月には沙州に「帰義軍」を設置。張義潮を節度使兼十一州観察使に任命し、配下の曹義金を長史とした。また中書侍郎崔亀從は宣武節度使へ転出した。 右羽林統軍張直方は狩猟で数日間も宿衛任務を怠り、左驍衛将軍への降格処分を受けた。 大中六年(壬申年・852年)春二月、王贄弘が雞山の賊徒集団を平定した。 解説:
※本訳では『資治通鑑』の記述様式を踏襲しつつ、以下の現代化処理を施した: - 干支・日付(乙卯等)に西暦併記 - 「中書門下」「節度使」など当時の官職名はそのまま表記し補足説明を加筆 - 歴史的意義が理解できるよう地理範囲(河湟地域=青海湖~黄河上流域)や政治的背景を暗喩的に挿入 Translation took 1835.0 seconds. | ||||||||||||
| 是時,山南西道節度使封敖奏巴南妖賊言辭悖慢,上怒甚。崔鉉曰:「此皆陛下赤子,迫於饑寒,盜弄陛下兵於溪谷間,不足辱大軍,但遣一使者可平矣。」乃遣京兆少尹劉潼詣果州招諭之。潼上言請不發兵攻討,且曰:「今以日月之明燭愚迷之眾,使之稽顙歸命,其勢甚易。所慮者,武臣恥不戰之功,議者責欲速之效耳。」潼至山中,盜彎弓待之,潼屏左右直前曰:「我面受詔赦汝罪,使汝復為平人。聞汝木弓射二百步,今我去汝十步,汝真欲反者,可射我!」賊皆投弓列拜,請降。潼歸館,而王贄弘與中使似先義逸引兵已至山下,竟擊滅之。 三月,敕先賜右衛大將軍鄭光鄠縣及雲陽莊並免稅役。中書門下奏,以為:「稅役之法,天下皆同。陛下屢發德音,欲使中外畫一,今獨免鄭光,似稍乖前意。事雖至細,系體則多。」敕曰:「朕以鄭光元舅之尊貴,欲優異令免徵稅,初不細思。況親戚之間,人所難議,卿等苟非愛我,豈進嘉言!庶事能盡如斯,天下何憂不理!有始有卒,當共守之,並依所奏。」 夏,四月,甲辰,以邠寧節度使白敏中為西川節度使。 湖南奏,團練副使馮少端討衡州賊帥鄧裴,平之。 党項復擾邊,上欲擇可為邠寧帥者而難其人,從容與翰林學士、中書舍人須昌畢諴論邊事,諴援古據今,具陳方略。上悅曰:「吾方擇帥,不意頗、牧近在禁廷。 |
現代日本語訳この時、山南西道節度使・封敖より「巴南地方で妖賊が不敬な言葉を用いている」との報告があり、皇帝は激怒した。崔鉉が進言した。「これらは陛下の民(赤子)であり、飢えと寒さに追われて渓谷間で武器を弄んでいるだけです。大軍を派遣するには及ばず、使者一人を遣わせば鎮圧できるでしょう」。そこで京兆少尹・劉潼が果州へ赴き投降勧告を行うこととなった。 劉潼は上奏し「出兵攻撃を行わないよう」求め、「今や日月のごとき聖明をもって愚かな民衆を照らせば、彼らが額づいて帰順するのは容易です。ただ懸念されるのは、武人が戦闘なき功績を恥じたり、議政官が迅速な成果のみを追求することでしょう」と述べた。山中に到着した劉潼に対し、賊兵は弓を構えて待ち受けた。彼は従者を退け単身前に進み出て言った。「私は詔勅を直々受け、お前たちの罪を赦すよう命じられている。聞くところ木製の弓で二百歩飛ぶとか。今ここに十歩まで近づく。真に反逆するつもりなら射ってみよ!」賊兵は皆、弓を投げ捨て平伏し投降した。 劉潼が宿舎へ戻ると、王贄弘と宦官使節・似先義逸が既に軍勢を率いて山下に到着しており、結局彼らを攻め滅ぼしてしまったのである。 (三月)詔勅により右衛大将軍・鄭光の鄠県および雲陽荘について先行して租税免除が下賜された。中書門下は「税法は天下統一すべきものです。陛下は度々内外均一化を表明されてきたのに、鄭光のみ特別に免税なさるのは趣旨に反します。些細ながら制度の根幹に関わる問題です」と抗議した。皇帝は詔で回答した。「朕は鄭光が太后の兄(元舅)である尊貴ゆえ優遇したまでで、深く考えなかった。まして親族間の問題を論じるのは困難だ。卿らこそ真に朕を憂うればこその進言であろう!万事このように尽くせば天下は必ず治まる。終始一貫し共に守り抜こう」。結局奏請通り撤回した。 (夏四月甲辰)邠寧節度使・白敏中が西川節度使へ転任した。 解説■歴史的背景本節は『資治通鑑』唐紀・宣宗大中年間(847-860年頃)の実録である。地方反乱処理・外戚優遇問題・辺境防衛という当時の三大課題が凝縮されている。特に劉潼と賊兵の劇的対峙、皇帝による諫言受諾は『通鑑』編者司馬光の理想とする統治理念を体現したエピソードとして著名。 ■人物描写の深層
■思想的意義
■叙述技法『資治通鑑』特有の簡潔筆法が光る場面: ■現代性「武臣恥不戰之功」という指摘は軍事的成果偏重組織への警鐘として、「党項復擾邊」対応では専門家知見(畢諴)活用の重要性を提示。外戚優遇問題は権力者の縁故主義批判へと普遍化可能な本質を有する。 Translation took 2084.2 seconds. | ||||||||||||
| 卿其為朕行乎!」諴欣然奉命。上欲重其資履,六月,壬申,先以諴為刑部侍郎,癸酉,乃除邠寧節度使。雍王水美薨,追謚靖懷太子。 河東節度使李業縱吏民侵掠雜虜,又妄殺降者,由是北邊擾動。閏月,庚子,以太子少師盧鈞為河東節度使。業內有所恃,人莫敢言,魏謨獨請貶黜。上不許,但徙義成節度使。盧鈞奏度支郎中韋宙為副使。宙遍詣塞下,悉召酋長,諭以禍福,禁唐民毋得入虜境侵掠,犯者必死,雜虜由是遂安。掌書記李璋杖一牙職,明日,牙將百餘人訴於鈞,鈞杖其為首者,摘戍外鎮,餘皆罰之,曰:「邊鎮百餘人,無故橫訴,不可不抑。」璋,絳之子也。 八月,甲子,以禮部尚書裴休同平章事。 獠寇昌、資二州。 冬,十月,邠寧節度使畢諴奏招諭党項皆降。 驍衛將軍張直方坐以小過屢殺奴婢,貶恩州司戶。 十一月,立憲宗子惴為棣王。 十二月,中書門下奏:「度僧不精,則戒法墮壞;造寺無節,則損費過多,請自今諸州准元敕許置寺外,有勝地靈跡許修復,繁會之縣許置一院。嚴禁私度僧、尼。若官度僧、尼有闕,則擇人補之,仍申祠部給牒。其欲遠遊尋師者,須有本州公驗。」從之。 宣宗元聖至明成武獻文睿智章仁神聰懿道大孝皇帝下大中七年(癸酉,公元八五三年) 春,正月,戊申,上祀圓丘;赦天下。 |
現代日本語訳:帝が「卿、朕のために赴いてくれぬか!」と言うと、畢諴(ひつけん)は喜んで命を受けた。皇帝は彼の経歴を重んじようと考え、6月壬申の日、まず刑部侍郎に任じ、翌日癸酉には邠寧節度使に任命した。この頃雍王李水美が逝去し、「靖懐太子」と追諡された。 河東節度使・李業(りぎょう)は役人や民衆による北方異民族への略奪を放置し、投降者を無実の罪で殺害したため、北部国境が混乱状態に陥った。閏月庚子の日、太子少師・盧鈞(ろきん)が河東節度使に任命される。李業には朝廷内に後ろ盾があったため批判する者はいなかったが、魏謨(ぎぼ)のみは彼の左遷を上奏した。皇帝はこれを受け入れず、義成節度使への転任にとどめた。盧鈞は度支郎中・韋宙(いちゅう)を副使に推挙し、韋宙は国境沿いの砦を巡って各部族長を集め「従わねば災いが起きる」と諭した上で、「唐人による異民族地域への侵入や略奪は死罪とする」と布告。これにより辺境は安定化した。また書記官・李璋(りしょう)が下級役人を杖罰すると、翌日100人以上の将校が抗議に押し寄せたが、盧鈞は首謀者を杖打ちの上で辺境へ左遷し、「無実の罪で集団訴えるなど軍規紊乱だ」と全員を処分した(李璋は名臣・李絳の子)。 8月甲子の日、礼部尚書・裴休(はいきゅう)が同平章事(宰相)に任命。 南方少数民族・獠族(りょうぞく)が昌州と資州を襲撃。 10月、邠寧節度使・畢諴が党項族の懐柔政策成功と全帰順を上奏。 驍衛将軍・張直方(ちょうちょくほう)が些細な過失で奴婢を繰り返し殺害した罪により恩州司戸へ左遷。 11月、憲宗の皇子・李惴(りすい)を棣王に冊立。 12月、中書門下(政務機関)が「僧侶選考が杜撰だと戒律崩壊を招き、寺院建設が無制限だと財政逼迫の元凶」と上奏し対策案を提案:
- 勅許を得た既存寺院以外は霊跡地のみ修復許可
- 人口密集地域で1院設置限定
- 私的な僧尼資格取得禁止
- 公認僧侶欠員時は選考補充後に祠部が渡牒(身分証明書)発行
- 他州での修行希望者は本州の公文書携帯義務化 宣宗元聖至明成武獻文睿智章仁神聰懿道大孝皇帝治世下 大中7年(癸酉、853年) 正月戊申の日、円丘で祭祀を執行し天下に恩赦令発布。 注釈:
※本訳では『資治通鑑』原文の紀年体形式を改め、現代語で理解しやすい叙述に再構成。皇帝称号「宣宗元聖...」は当時の尊号制度を示すため省略せず記載したが、過剰な神格化表現については実質的統治理念(儒教的孝道と道教的神威の融合)を考慮して簡潔化。 Translation took 1894.5 seconds. | ||||||||||||
| 夏,四月,丙寅,敕:「自今法司處罪,用常行杖。杖脊一,折法杖十;杖臀一,折笞五。使吏用法有常准。」 冬,十二月,左補闕趙璘請罷來年元會,止御宣政。上以問宰相,對曰:「元會大禮,不可罷。況天下無事。」上曰:「近華州奏有賊光火劫下邽,關中少雪,皆朕之憂,何謂無事!雖宣政亦不可御也。」 上事鄭太后甚謹,不居別宮,朝夕奉養。舅鄭光歷平盧、河中節度使。入朝,上與之論為政,光應對鄙淺,上不悅,留為右羽林統軍,使奉朝請。太后數言其貧,上輒厚賜金帛,終不復任以民宮。 度支奏:「自河、湟平,每歲天下所納錢九百二十五萬餘緡,內五百五十萬餘緡租稅,八十二萬餘緡榷酤,二百七十八萬餘緡鹽利。」 宣宗元聖至明成武獻文睿智章仁神聰懿道大孝皇帝下大中八年(甲戌,公元八五四年) 春,正月丙戌朔,日有食之。罷元會。 上自即位以來,治弒憲宗之黨,宦官、外戚乃至東宮官屬,誅竄甚眾。慮人情不安,丙申,詔:「長慶之初,亂臣賊子,頃搜擿餘黨,流竄已盡,其餘族從疏遠者,一切不問。」 二月,中書門下奏拾遺、補闕缺員,請更增補。上曰:「諫官要在舉職,不必人多,如張道符、牛叢、趙璘輩數人,使朕日聞所不聞足矣。」叢,僧孺之子也。久之,叢自司勳員外郎出為睦州刺史,入謝,上賜之紫。 |
現代日本語訳夏四月丙寅の日、詔勅が下される:「今後は司法機関が刑罰を行う場合、通常使用する杖を用いよ。背中への笞打ち(脊杖)一発は法定標準十回に相当し、尻への笡打ち(臀杖)一発は軽い鞭打ち五回に相当すると定める。これにより官吏の法執行が統一基準を持つようにせよ」 冬十二月、左補闕趙璘が翌年の元旦朝賀の中止を奏上し宣政殿でのみ儀式を行うよう提案した。皇帝(唐の宣宗)は宰相らに意見を求めると、「元会は重大な礼典であり中止できません。まして天下は平穏です」と答えた。これに対し皇帝は「近ごろ華州から賊が下邽で強盗放火したとの報告があり、関中地方では降雪不足の懸念もある。これら全て朕の憂い事であるのに何をもって無事と言うのか!宣政殿での儀式すらず控えるべきだ」と述べた。 皇帝は鄭太后への孝養を厚くし、別宮に移住せず朝夕仕えた。叔父・鄭光が平盧節度使や河中節度使を歴任後、朝廷に入った際には政治について問うたところ、その応答が低俗で見識不足だったため不満を示す。右羽林統軍の閑職に留め朝議への参加権(奉朝請)のみを与えた。太后は幾度も鄭光の貧窮を訴えたが、皇帝は金品や絹を厚く下賜するだけで民衆に関わる官職には再任しなかった。 財政担当役所(度支)からの奏上:「河湟地方平定後、毎年天下から納入される銭額は925万余緡で内訳は租税550万余緡・酒専売82万余緡・塩専売利益278万余緡である」 宣宗大中八年(甲戌の年、854年) 即位以来、憲宗暗殺に関与した者たち——宦官や外戚から太子付属官に至るまで——を多く誅殺・流刑としてきたため人心不安を慮り、丙申日に詔勅発布:「長慶初年(821年)の乱臣賊子については余党探索は完了し一族でも縁遠い者は一切追及しない」 二月、中書門下が諫官(拾遺・補闕)の欠員補充を奏上すると皇帝は「諫言役で肝心なのは職責遂行であって人数ではない。張道符や牛叢(ごうそう)、趙璘ら数人が朕に未知の事実を知らせてくれれば十分だ」と述べた。牛叢は元宰相・牛僧孺の子である。後に彼が司勳員外郎から睦州刺史へ転出する際、紫袍(高官服)を下賜された。 解説
※原文出典:『資治通鑑』巻249・唐紀65より宣宗大中七年~八年条に基づく翻訳。固有名詞(例:「牛叢」は当時の推定音で「ごうそう」)や官職名は現代日本語表記を優先した。 Translation took 1861.0 seconds. | ||||||||||||
| 叢既謝,前言曰:「臣所服緋,刺史所借也。」上遽曰:「且賜緋。」上重惜服章,有司常具緋、紫衣數襲從行,以備賞賜,或半歲不用其一,故當時以緋、紫為榮。上重翰林學士,至於遷官,必校歲月,以為不可以官爵私近臣也。 秋,九月,丙戌,以右散騎常侍高少逸為陝虢觀察使。有敕使過硤石,怒餅黑,鞭驛吏見血。少逸封其餅以進。敕使還,上責之曰:「深山中如此食豈易得!」謫配恭陵。 立皇子洽為懷王,汭為昭王,汶為康王。 上獵於苑北,遇樵夫,問其縣,曰:「涇陽人也。」「令為誰?」曰:「李行言。」「為政何如?」曰:「性執。有強盜數人,軍家索之,竟不與,盡殺之。」上歸,帖其名於寢殿之柱。冬,十月,行言除海州刺史,入謝。上賜之金紫,問曰:「卿知所以衣紫乎?」對曰:「不知。」上命取殿柱之貼示之。 上以甘露之變,惟李訓、鄭注當死,自餘王涯、賈餗等無罪,詔皆雪其冤。 上召翰林學士韋澳,托以論詩,屏左右與之語曰:「近日外間謂內侍權勢何如?」對曰:「陛下威斷,非前朝之比。」上閉目搖首曰:「全未,全未!尚畏之在。卿謂策將安在!」對曰:「若與外廷議之,恐有太和之變,不若就其中擇有才識者與之謀。」上曰:「此乃末策。朕已試之矣,自衣黃、衣綠至衣緋,皆感恩,才衣紫則相與為一矣!」上又嘗與令狐綯謀盡誅宦官,恐濫及無辜,密奏曰:「但有罪勿捨,有闕勿補,自然漸耗,至於盡矣。 |
現代日本語訳:叢が退出した後、改めて申し上げた。「私が着ている緋衣は刺史からお借りしているものです」。すると皇帝は即座に「ではこれを賜ろう」と言った。皇帝は官服を非常に重んじており、役所では常に数揃いの緋衣や紫衣を持ち歩かせており、恩賞を与える際に備えていたが、半年間で一度も使わないこともあったため、当時の人々は緋色や紫色の官服を得ることを大変な名誉と考えた。皇帝は翰林学士を特に重用し、彼らを昇進させる時には必ず在職期間を厳密に計算した。「近しい臣下に対して個人的感情で官爵を与えるべきではない」という考えからである。 秋9月4日、右散騎常侍の高少逸を陝虢観察使に任命した。ある勅命伝達役が硤石を通りかかった際、餅の色が黒ずんでいることに腹を立て駅舎の役人を鞭で打ち、血が出るほどの傷を負わせた。少逸はその餅を封じて皇帝へ献上した。帰還した勅命伝達役に対し、皇帝は責めて言った。「深い山中でこのような食物を得ることが容易だと思うか?」結局、彼は恭陵への流罪となった。 皇子の洽を懐王に、汭を昭王に、汶を康王として封じた。 皇帝が苑林の北側で狩りを行っている時、薪取りに出会い「どこの県の人だ」と尋ねると、「涇陽県です」との答え。「長官は誰か」「李行言という者です」「政治の手腕はどうか」。すると「頑固な性格ですが…盗賊数人を捕らえた際に、軍が引き渡しを要求したのに結局応じず全員処刑しました」と答えた。皇帝は帰還後、彼の名を寝殿の柱へ書き留めた。冬10月、行言が海州刺史に任命され御礼のために参内すると、皇帝は金印紫綬(高官の象徴)を与え「卿がなぜ紫衣を着る資格を得たか分かるか」と問うた。「存じません」との答えに対し、柱に貼った紙を示すよう命じた。 甘露の変に関して、皇帝は李訓・鄭注のみ死罪相当で王涯・賈餗らには無実として詔を下し全員の冤罪を晴らした。 皇帝が翰林学士韋澳を呼び「詩論」と称して左右を退けさせて語った。「最近、朝廷外では宦官たちの権勢についてどう言っているか」。すると答えて「陛下のお決断は前代とは比較にならないほど威厳があります」と言う。皇帝が目を閉じ首を振り「全く違う!まだ恐れているのだ。何か良策があれば教えよ!」と問うと、「もし外廷の官僚たちで議論すれば、太和年間(甘露の変)のような事態になる懸念があります。むしろ宦官の中から有識者を選んで相談すべきです」と提案した。皇帝は「それは下策だ。朕も試みたことがある──黄衣や緑衣(下級官服)までなら恩に感じるが、紫衣(上級官服)になると結束してしまうのだ!」と言った。また令狐綯とも宦官全員誅殺を謀議した際、「無実の者までも巻き込む恐れがある」との懸念から密奏があった。「罪ある者は必ず処罰し、欠員は補充しないことです。そうすれば自然に数が減り消滅するでしょう」。 解説:
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| 」宦者竊見其奏,由是益與朝士相惡,南北司如水火矣。 宣宗元聖至明成武獻文睿智章仁神聰懿道大孝皇帝下大中九年(乙亥,公元八五五年) 春,正月,甲申,成德軍奏節度使王元逵薨,軍中立其子節度副使紹鼎。癸卯,以紹鼎為成德留後。 二月,以醴泉令李君奭為懷州刺史。初,上校獵渭上,有父老以十數,聚於佛祠。上問之,對曰:「醴泉百姓也。縣令李君奭有異政,考滿當罷,詣府乞留,故此祈佛,冀諧所願耳。」及懷州刺史闕,上手筆除君奭,宰相莫之測。君奭入謝,上以此獎厲,眾始知之。三月,詔邠寧節度使畢諴還邠州。先是,以河、湟初附,党項未平,移邠寧軍於寧州。至是,南山、平夏、党項皆安,威、鹽、武三州軍食足,故令還理所。 夏,閏四月,詔以「州縣差役不均,自今每縣據人貧富及役輕重作差科簿,送刺史檢署訖,鎖於令廳,每有役事委令,據簿輪差。」 五月,丙寅,以王紹鼎為成德節度使。 上聰察強記,宮中廝役給灑掃者,皆能識其姓名,才性所任,呼召使令,無差誤者。天下奏獄吏卒姓名,一覽皆記之。度支奏漬污帛,誤書「漬」為「清」,樞密承旨孫隱中謂上不之見,輒足成之,及中書復入,上怒,推按擅改章奏者罰謫之。上密令翰林學士韋澳纂次諸州境土風物及諸利害為一書,自寫而上之,雖子弟不知也,號曰《處分語》。 |
翻訳文宦官がこっそりその奏上文を見たことで、以後いよいよ朝廷官僚との対立が深まり、「南司」(文官機構)と「北司」(宦官機構)の関係は水と火のように相容れぬものとなった。 宣宗・大中九年(乙亥年、西暦855年) 二月、醴泉県令・李君奭を懐州刺史に抜擢した。以前、皇帝が渭水河畔で狩猟を行った際、十数人の老人が仏寺に集まっているのをご覧になった。お尋ねになると「私どもは醴泉県の住民です。李君奭県令が優れた治績を上げておりましたが任期満了で退任となります。役所へ留任懇願に向かう途中、仏に祈って願いが叶いますようにと念じております」と答えた。後に懐州刺史のポストが空いた際、皇帝は直筆で李君奭を任命され(宰相すらその理由を知らなかった)、彼が謝恩に参内した時にはこの件を取り上げて褒賞し、人々は初めて事情を理解したのである。 三月、邠寧節度使・畢諴に対し本拠地の邠州へ帰還するよう詔勅を下す。以前は河湟地域が唐に復帰したばかりで党項族も未平定だったため、邠寧軍を寧州に移していたが、この時点では南山・平夏などの党項部族が安定し、威州・塩州・武州の三州で兵糧が充足したため、本来の駐屯地へ戻させたものだ。 夏閏四月、「各州县における労役配分に不公平がある」として詔勅を発布。「今後は県ごとに住民の貧富差と労働負担の重さに基づき『差科簿(賦課台帳)』を作成せよ。刺史が検閲・署名した後、令庁で厳重保管し、労役が必要となる度に長官がこの台帳を基準として順次徴発すること」。 五月丙寅の日、王紹鼎を正式に成徳節度使に任命する。 皇帝は聡明かつ記憶力絶大であり、宮中で掃除をする雑用係り一人ひとりの氏名と性格・適性を把握し、呼び出して用いる際にも誤りがなかった。全国から報告される獄吏や兵卒の名簿も一読すれば全て記憶した。度支(財務官庁)が提出した「汚損絹布」に関する上奏文で、「漬」(染み)を誤って「清」と記していた時、枢密承旨・孫隠中は皇帝が見逃すだろうと思い勝手に修正した。しかし中書省経由で再提出された際、皇帝は激怒し、無断で奏文を改変した者を調査させて罰則を与えたのだった。 また皇帝はひそかに翰林学士・韋澳に対し、各州の境界線・地理環境・特産物及び利害関係を一冊の書物にまとめるよう命じた(『処分語』と命名)。自ら清書して保管したため、身内ですらその存在を知らず「有事対応マニュアル」として活用されたのである。 解説
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| 他日,鄧州刺史薛弘宗入謝,出,謂澳曰:「上處分本州事驚人。」澳詢之,皆《處分語》中事也。澳在翰林,上或遣中使宣旨草詔。事有不可者,澳輒曰:「茲事須降御札,方敢施行。」淹留至旦,上疏論之,上多從之。 秋,七月,浙東軍亂,逐觀察使李訥。訥,遜之弟子也,性卞急,遇將士不以禮,故亂作。 淮南饑,民多流亡,節度使杜悰荒於游宴,政事不治。上聞之,甲午,以門下侍郎、同平章事崔鉉同平章事,充淮南節度使。丁酉,以悰為太子太傅、分司。 九月,乙亥,貶李訥為朗州刺史,監軍王宗景杖四十,配恭陵。仍詔「自今戎臣失律,並坐監軍。」以禮部侍郎沈詢為浙東觀察使。詢,傳師之子也。 冬,十一月,以吏部侍郎柳仲郢為兵部侍郎,充鹽鐵轉運使。有閭閻醫工劉集因緣交通禁中,上敕鹽鐵補場官。仲郢上言:「醫工術精,宜補醫官。若委務銅鹽,何以課其殿最!且場官賤品,非特敕所宜親,臣未敢奉詔!」上遽批:「劉集宜賜絹百匹,遣之。」他日,見仲郢,勞之曰:「卿論劉集事甚佳。」上嘗若不能食,召醫工梁新診脈,治之數日,良已。新因自陳求官,上不許,但敕鹽鐵使月給錢三十緡而已。 右威衛大將軍康季榮前為涇原節度使,擅用官錢二萬緡,事覺,季榮請以家財償之。上以季榮有開河、湟功,許之。 |
現代日本語訳ある日、鄧州刺史の薛弘宗が入朝して謝恩した際、退出時に周澳に言った。「陛下による本州への処分は驚くべきものであった。」周澳が詳しく尋ねると、それは全てかつて自分が起草した『処分語』(皇帝裁定文書)に記されていた事柄であった。周澳が翰林学士を務めていた時、皇帝が宦官を使者として遣わし口頭で詔勅の草案作成を命じることがあった。その内容が適切でない場合、周澳は「この件については陛下直筆の御札(親筆命令)を賜らねば実行できません」と述べ、敢えて夜明けまで引き延ばして上疏し論諫したため、皇帝も多く彼の意見に従った。 秋七月、浙東で兵乱が発生し、観察使・李訥が追放された。李訥は李遜(唐の高官)の甥であり、性急な性格で将兵を礼をもって遇さなかったため、反乱が起きたのである。 淮南では飢饉が起こり多くの民衆が流亡したが、節度使・杜悰が遊興と宴会にふけり政務を顧みなかった。この状況を知った皇帝は甲午(日付)、門下侍郎・同平章事の崔鉉を淮南節度使として派遣。丁酉(三日後)には杜悰を太子太傅・分司(名誉職)に左遷した。 九月乙亥、李訥を朗州刺史へ貶官し、監軍・王宗景は杖刑四十回の上で恭陵への配流とした。さらに詔勅で「今後、軍事責任者が規律違反すれば監軍も連座させる」と定め、礼部侍郎・沈詢を浙東観察使に任命した。沈詢は先代官僚・沈伝師の子である。 冬十一月、吏部侍郎・柳仲郢を兵部侍郎兼塩鉄転運使(財政長官)に起用した際、民間医師の劉集が宮廷コネを得て皇帝から「塩鉄部門の役職を与えよ」との勅命が出た。しかし柳仲郢は上奏して反論:「彼が優れた医者なら医学関連の官職を。銅・塩管理という専門職に素人を充てれば業績評価も不可能です。ましてや末端役職への任命に陛下みずから介入されるべきではなく、勅命を奉じかねます」と述べたため、皇帝は即座に「劉集には絹百匹を与えて帰せ」と修正した。後日、皇帝が柳仲郢を労い「卿の諫言は正しかった」と語る一幕もあった。 また別の機会に、食欲不振となった皇帝が医師・梁新を召して診察させたところ、数日で回復した。恩賞として官職を求める梁新に対し、皇帝は「塩鉄使から月30緡(貨幣単位)を与えよ」と命じるにとどめた。 元涇原節度使・右威衛大将軍の康季栄が公金2万緡を横領した事件では、彼が私財で弁済すると申し出たため、皇帝はかつて河湟地方平定の功績があったことを考慮して赦免した。 解説
(訳注:固有名詞は原文表記を基本とし、役職名等については現代日本語で理解可能な範囲で簡略化しました) Translation took 913.9 seconds. | ||||||||||||
| 給事中封還敕書,諫官亦上言。十二月,庚辰,貶季榮夔州長史。 江西觀察使鄭祗德以其子顥尚主通顯,固求散地,甲午,以祗德為賓客、分司。 宣宗元聖至明成武獻文睿智章仁神聰懿道大孝皇帝下大中十年(丙子,公元八五六年) 春,正月,丁巳,以御史大夫鄭朗為工部尚書、同平章事。 上命裴休極言時事,休請早建太子,上曰:「若建太子,則朕遂為閒人。」休不敢復言。二月,丙戌,休以疾辭位,不許。 三月,辛亥,詔以「回鶻有功於國,世為婚姻,稱臣奉貢,北邊無警。會昌中虜廷喪亂,可汗奔亡,屬奸臣當軸,遽加殄滅。近有降者雲,已厖歷今為可汗,尚寓安西,俟其歸復牙帳,當加冊命。」 上以京兆久不理,夏,五月,丁卯,以翰林學士、工部侍郎韋澳為京兆尹。澳為人公直,既視事,豪貴斂手。鄭光莊吏恣橫,為閭裡患,積年租稅不入,澳執而械之。上於延英問澳,澳具奏其狀。上曰:「卿何以處之?」澳曰:「欲置於法。」上曰:「鄭光甚愛之,何如?」對曰:「陛下自內庭用臣為京兆,欲以清畿甸之積弊,若鄭光莊吏積年為蠹,得寬重辟,是陛下之法獨行於貧戶耳,臣未敢奉詔。」上曰:「誠如此。但鄭光□帶我不置,卿與痛杖,貸其死,可乎?」對曰:「臣不敢不奉詔,願聽臣且系之,俟征足及釋之。」上曰:「灼然可。 |
現代日本語訳:給事中(審議官)が勅書を差し戻し、諫言を行う役人も意見を上奏しました。十二月庚辰の日、季栄は夔州長史に左遷されました。 江西観察使・鄭祗徳(ていきとく)は息子の顥(こう)が皇女を娶り高位にあったため、自ら閑職を望み、甲午の日に賓客・分司という名誉職に任命されました。 宣宗皇帝(尊号:元聖至明成武献文睿智章仁神聰懿道大孝皇帝)治世下 大中十年(丙子の年、西暦856年) 春正月丁巳の日、御史大夫・鄭朗を工部尚書兼同平章事(宰相職)に任命しました。 皇帝が裴休に対し時政について率直な意見を求めると、彼は早期の皇太子冊立を提案。しかし皇帝は「もし皇太子を立てれば朕は無用の人となる」と述べたため、裴休はこれ以上進言できませんでした。二月丙戌の日、病気を理由に辞任を申し出ましたが許可されませんでした。 三月辛亥の日、「回鶻(ウイグル)は代々国に功績があり、皇室とも婚姻関係で結ばれ臣下として貢物を献じてきたため北方辺境は平穏であった。会昌年間(841-846年)に可汗朝廷が混乱し可汗が逃亡した際、当時政権を握っていた奸臣たちがあっさり殲滅してしまった。最近投降者の話では厖歴(パングレ)という者が現在の可汗となり安西地域に滞在しているとのこと。彼が帰還して本拠地を回復したら正式な冊封を行う」との詔書が出されました。 皇帝は長年統治が行き届かなかった京兆府の問題を受け、夏五月丁卯の日、翰林学士兼工部侍郎・韋澳(いおう)を京兆尹に任命しました。韋澳は公正剛直な人物で就任すると有力者たちは行動を慎みました。皇帝の叔父・鄭光(ていこう)家の荘園管理人が横暴を極め、地域住民を苦しめて多年納税せずにおり、韋澳はこれを拘束して枷をかけました。 延英殿で皇帝が事情聴取すると韋澳は詳細を奏上。皇帝が「どう処分するか」と問うと「法に基づき裁く所存です」と答え、皇帝が「鄭光は彼を大変気に入っているのだが…」と言うと、「陛下が宮中から私を京兆尹に抜擢されたのは帝都周辺の積弊を正せとのお考えでしょう。長年悪事を行ってきた荘園管理人だけ特別扱いすれば、貧しい民衆にはのみ法が適用されると示すことになります」と反論しました。 皇帝は「確かにその通りだ…しかし鄭光から(欠字部分:執拗に?)迫られているのだ。痛めつけるほど杖で打った上で命だけは助けてやるのはどうか?」と提案すると、韋澳は「詔勅には従いますが、まず拘束を続け納税完了まで待って解放する案はいかがでしょう」と述べました。 皇帝は「それなら問題ない」と認めました。 解説:■歴史的背景
■核心的政治事件
■史料的特徴
■現代語訳の方針
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| 朕為鄭光故撓卿法,殊以為愧。」澳歸府,即杖之。督租數百斛足,乃以吏歸光。 六月,戊寅,以中書侍郎、同平章事裴休同平章事,充宣武節度使。 司農卿韋廑欲求夏州節度使,有術士知之,詣廑門曰:「吾善醮星辰,求官無不如意。」廑信之,夜,設醮具於庭。術士曰:「請公自書官階一通。」既得之,仰天大呼曰:「韋廑有異志,令我祭天。」廑舉家拜泣曰:「願山人賜百口之命!」家之貨財珍玩盡與之。邏者怪術士服鮮衣,執以為盜。術士急,乃曰:「韋廑令我祭天,我欲告之,彼以家財求我耳。」事上聞,秋,九月,上召廑面詰之,具知其冤,謂宰相曰:「韋廑城南甲族,為奸人所誣,勿使獄吏辱之。」立以術士付京兆,杖死,貶廑永州司馬。 戶部侍郎、判戶部、附馬都尉鄭顥營求作相甚切。其父祗德聞之,與書曰:「聞汝已判戶部,是吾必死之年;又聞欲求宰相,是吾必死之日也。」顥懼,累表辭劇務。 冬,十月,乙酉,以顥為秘書監。 上遣使詣安西鎮撫回鶻,使者至靈武,會回鶻可漢遣使入貢。十一月,辛亥,冊拜為嗢祿登裡羅汩沒密施合俱錄毘伽懷建可汗,以衛尉少卿王端章充使。 吏部尚書李景讓上言:「穆宗乃陛下兄,敬宗、文宗、武宗乃兄之子,陛下拜兄尚可,拜侄可乎!是使陛下不得親事七廟也,宜遷四主出太廟,還代宗以下入廟。 |
現代日本語訳(口語体)「私は鄭光の情けによってあなたの法を曲げてしまい、深く恥じ入る。」澳は役所に戻るとすぐに杖刑を行った。租税数百斛を厳しく督促して完納させた後、ようやくその役人を鄭光のもとに帰した。 六月戊寅の日(注:旧暦6月22日)、中書侍郎・同平章事裴休を同平章事のまま宣武節度使に任命した。 司農卿韋廑が夏州節度使の官職を得ようとしたところ、ある占い師がこれを察知し、韋廑の屋敷を訪ねて言った。「私は星辰(星神)への祈祷術に長けており、望む官位は必ず叶えます」。韋廑は信じ、夜間に庭で祈祷の道具を整えさせた。占い師が「ご自身で希望する官職名を書いてください」と言うので、書き終えると突然天を仰ぎ大声で叫んだ。「韋廑に謀反の企てあり! 私に天を祭らせようとした!」韋廑は家族全員で平伏して泣きながら請うた。「どうか我が一族百名の命をお助けください」。家財・宝物のすべてを与えた。巡回中の役人が占い師の派手な衣服を怪しみ盗賊として逮捕したところ、慌てた占い師は「韋廑に天祭りをさせられました。告発しようとしたら、家族の財産で封じ込められたのです」と供述した。 事件が皇帝(宣宗)の耳に入ると、秋九月、韋廑を召し出して直接問いただし冤罪であることを確かめた。宰相に言った。「韋廑は都城南郊の名門だ。奸人に誣告されただけだから、獄吏に辱めさせてはならない」。即座に占い師を京兆尹(長安府)へ引き渡して杖殺し、韋廑は永州司馬へ左遷した。 戸部侍郎・判戸部・駙馬都尉鄭顥が猛烈に宰相の地位を求めた。父の祗徳がこれを聞き手紙を送った。「お前が戸部次官になったと聞いた時、これで私の寿命は尽きたと思いなさい(注:高級官僚になることは一族滅亡の端緒)。ましてや宰相になど望むとは、それこそ我が命日の到来だ」。鄭顥は恐れおののき、再三上表して要職を辞任した。 冬十月乙酉(旧暦10月2日)、鄭顥を秘書監に転じた。 皇帝が使者を安西へ派遣しウイグル族を鎮撫させようとしたところ、霊武でウイグル可汗の貢使と遭遇した。十一月辛亥(同11月29日)、新可汗に対し「嗢禄登里羅汩没密施合倶録毘伽懐建可汗」の冊封称号を与え、衛尉少卿王端章を使者に任命した。 吏部尚書李景讓が上奏した。「穆宗皇帝は陛下(宣宗)にとって兄君にあたり、敬宗・文宗・武宗三代の帝はその甥御です。先代君主への礼拝において、兄君へ拝礼するのはともかく、どうして甥たちに頭を下げられましょう? これは陛下が七廟祭祀(天子のみ行える祖先祭祀)を軽んじることになります」。穆宗以降の四帝を太廟から移し、代宗以下の正統な序列を回復されるべきです。 解説
※本訳では『資治通鑑』原文の史実性を損なわぬよう、以下の対応: - 官職名は現代日本語に直しつつ註釈付与 - 「杖死」「貶」等の刑罰表現は当時の制度通り記載 - 回鶻(ウイグル)・霊武等の固有名詞を現行表記で統一 ※皇帝発言「朕」「上」などは文脈に応じて「皇帝」または動作主明示で処理。 Translation took 1039.5 seconds. | ||||||||||||
| 」詔百官議其事,不決而止。時人以是薄景讓。敕「於靈感、會善二寺置戒壇,諸僧、尼應填闕者委長老僧選擇,給公賃,赴兩壇受戒,兩京各選大德十人主其事。有不堪者罷之,堪者給牒,遣歸本州。不見戒壇公牒,毋得私容。仍先選舊僧、尼,舊僧、尼無堪者,乃選外人。」 壬辰,以戶部侍郎、判戶部崔慎由為工部尚書、同平章事。上每命相,左右無知者。前此一日,令樞密宣旨於學士院,以兵部侍郎、判度支蕭鄴同平章事。樞密使王歸長、馬公儒覆奏:「鄴所判度支應罷否?」上以為歸長等佑之,即手書慎由名及新命付學士院,仍云「落判戶部事」。鄴,明之八世孫也。 內園使李敬寔遇鄭郎不避馬,郎奏之。上責敬寔,對曰:「供奉官例不避。」上曰:「汝銜敕命,橫絕可也,豈得私出而不避宰相乎!」命剝色,配南牙。 宣宗元聖至明成武獻文睿智章仁神聰懿道大孝皇帝下大中十一年(丁丑,公元八五七年) 春,正月,丙午,以御史中丞兼尚書右丞夏侯孜為戶部侍郎、判戶部事。先是,判戶部有缺,京兆尹韋澳奏事,上欲以澳補之。辭曰:「臣比年心力衰耗,難以處繁劇,屢就陛下乞小鎮,聖恩未許。」上不悅。及歸,其甥柳玼之。澳曰:「主上不與宰輔僉議,私慾用我,人必謂我以他歧得之,何以自明!且爾知時事浸不佳乎?由吾曹貪名位所致耳。 |
現代日本語訳:詔書が百官にこの件を議論させたが、結論が出ずに終わった。当時の人々はこれにより李景譲を見下すようになった。「霊感寺と会善寺の二ヶ所に戒壇を設置し、僧侶・尼で欠員補充が必要な場合には長老僧が選抜せよ。官費を支給して両戒壇で受戒させ、長安と洛陽からそれぞれ高僧十人を選び事務を主管させる。不適格者は排除し、適格者には証明書を交付して本籍地に帰還させよ。戒壇発行の公文書がない者を私的に受け入れてはならない。まず既存の僧侶・尼から選抜し、適任者がいない場合のみ外部者を採用せよ」との勅令が下された。 壬辰の日、戸部侍郎で戸部事務を兼務していた崔慎由を工部尚書・同平章事に任命した。皇帝(宣宗)は宰相を任命する際、側近にも知らせなかった。前日には枢密院を通じて学士院へ「兵部侍郎で財政担当の蕭鄴を同平章事に」と伝えていたが、枢密使の王帰長と馬公儒が追認奏上した。「蕭鄴の財政兼任職は解任すべきでしょうか?」皇帝は彼らが蕭鄴を擁護していると考え、直筆で崔慎由の名と新任命を学士院に伝え、「戸部兼務を解除せよ」と付記した。蕭鄴は南朝梁の武帝蕭衍の八世孫である。 内園使(宦官)李敬寔が鄭朗(宰相)の馬車を避けなかったため、鄭朗が上奏した。皇帝が李敬寔を叱責すると、「供奉官は元来回避しない慣例です」と弁解した。これに対し皇帝は「勅命を帯びて公務中ならともかく、私用外出で宰相を避けぬとは!」と激怒。李敬寔の官服を剥奪し南衙(宮廷警備部隊)への配属を命じた。 宣宗大中十一年(丁丑年、西暦857年) 春正月丙午の日、御史中丞兼尚書右丞夏侯孜を戸部侍郎・戸部事務担当に任命した。これ以前、戸部担当官が空位となった際、京兆尹韋澳が奏上していたところ皇帝は彼を起用しようとした。しかし韋澳は辞退して「近年体力が衰え要職は荷いきれません。かねて地方の小役所への異動をお願いしている次第です」と述べたため、皇帝は不満を示した。帰宅後、甥の柳玭にこう語った。「陛下が宰相たちと協議せず私的に任用しようとしたのだ。世間は『不正登用』と疑うだろう。そもそも政情悪化の原因は我々高官の名利欲にあるのだ」と。 解説:
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| 」丙辰,以澳為河陽節度使。玼仲郢之子也。 上欲幸華清宮,諫官論之甚切,上為之止。上樂聞規諫,凡諫官論事、門下封駁,苟合於理,多屈意從之;得大臣章疏,必焚香盥手而讀之。 二月,辛巳,以門下侍郎、同平章事魏謨同平章事,充西川節度使。謨為相,議事於上前,它相或委曲規諷,謨獨正言無所避。上每歎曰:「謨綽有祖風,我心重之」。然竟以剛直為令狐綯所忌而出之。 嶺南溪洞蠻屢為侵盜。夏,四月,壬申,以右千牛大將軍宋涯為安南、邕管宣慰使。五月,乙巳,以涯為安南經略使。容州軍亂,逐經略使王球。六月,癸巳,以涯為容管經略使。 甲午,立皇子灌為衛王,澭為廣王。 秋,七月,庚子,以兵部侍郎、判度支蕭鄴同平章事,仍判度支。 教坊祝漢貞,滑稽敏給,上或指物使之口占,摹詠有如宿構,由是寵冠諸優。一日,在上前抵掌詼諧,頗及外事。上正色謂之曰:「我畜養爾曹,正供戲笑耳,豈得輒預朝政邪!」自是疏之。會其子坐贓,杖死,流漢貞於天德軍。樂工羅程,善琵琶,自武宗朝已得幸。上素曉音律,尤有寵。程恃恩暴橫,以睚眥殺人,系京兆獄。諸樂工欲為之請,因上幸後苑奏樂,乃設虛坐,置琵琶,而羅拜於庭,且泣。上問其故,對曰:「羅程負陛下,萬死,然臣等惜其天下絕藝,不復得奉宴游矣!」上曰:「汝曹所惜者羅程藝,朕所惜者高祖、太宗法。 |
現代日本語訳丙辰の日、韋澳を河陽節度使に任命した。(彼は)韋玼と仲郢の子である。 帝が華清宮に行幸しようとしたところ、諫官たちが強硬に反対したため、帝は中止した。帝は進言を聞くことを好み、諫官が論事を述べたり門下省が詔勅に異議を唱える場合、道理にかなっていれば自らの意思を曲げて従うことが多かった。大臣からの上奏文を受け取ると必ず香を焚き手を洗い清めてから読んだ。 二月辛巳の日、門下侍郎・同平章事である魏謨を(そのまま)同平章事としつつ西川節度使に充てた。魏謨が宰相であった時、帝の面前で政務を議論すると他の宰相たちは遠回しな表現で諫めることがあったが、彼だけは正論を堂々と述べて躊躇わなかった。帝は常々「魏謨には祖先(魏徴)の風格があり、私は深く重んじている」と感慨したものだが、剛直さゆえに令狐綯から疎まれて中央を離れる結果となった。 嶺南地方の渓洞蛮がたびたび侵略行為を行ったため、夏四月壬申の日、右千牛大将軍宋涯を安南・邕管宣慰使とした。五月乙巳には同人を安南経略使とする詔が出された。(さらに)容州で兵乱が発生し経略使王球が追放されたため、六月癸巳に宋涯を容管経略使へ転任させた。 甲午の日、皇子灌(かん)を衛王とし、澭(よう)を広王として封じた。 秋七月庚子の日、兵部侍郎で度支事務を兼務していた蕭鄴を同平章事に任命し、引き続き度支担当とした。 教坊所属の俳優・祝漢貞は機知に富み才弁が立ち、帝がある物を示せば即興で詩文を作り上げる才能があったため寵愛された。ある日帝の面前で世間話をする際、朝廷外の政事にも触れたところ、帝は厳しい表情で「お前たちを養っているのは笑いを取らせるためだ。どうして朝政に関わるのか」と叱責した。以降冷遇され、息子が収賄罪で杖殺刑に処された後、自身も天徳軍へ流刑となった。 琵琶奏者羅程(らてい)は武宗の時代から寵愛を受けており、帝自ら音律に通じていたため特に重用されていた。しかし彼は恩寵を盾に横暴となり、些細な恨みで人を殺害し京兆府の獄につながれた。他の楽工たちが嘆願しようと機会を窺い、帝が後苑に行幸した際に演奏中わざと空席を作り琵琶を置き、皆で庭に平伏して涙ながらに訴えた。「羅程は陛下への背信行為により死罪も当然ですが、我等は彼の天下無双の技芸が宴席で披露されなくなるのが惜しいのです」。すると帝は即座に拒絶し「お前たちが惜しむのは羅程の技だが、朕が守るべきは高祖(李淵)・太宗(李世民)の定めた法だ」と断言した。 注釈
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| 」竟杖殺之。八月,成德節度使王紹鼎薨。紹鼎沉湎無度,好登樓彈射人以為樂,眾欲逐之。會病薨,軍中立其弟節度副命名紹懿。戊寅,以紹懿為成德留後。 九月,辛酉,以太子太師盧鈞同平章事,充山南西道節度使。 冬,十月,己巳,以秦成防禦使李承勳為涇原節度使。承勳,光弼之孫也。先是,吐蕃酉長尚延心以河、渭二州部落來降,拜武衛將軍。承勳利其羊馬之富,誘之入鳳林關,居秦州之西。承勳與諸將謀執延心,誣雲謀叛,盡掠其財,徙其眾於荒遠。延心知之,因承勳軍宴,坐中謂承勳曰:「河、渭二州,土曠人稀,因以饑疫。唐人多內徙三川,吐蕃皆遠遁於疊宕之西,二千里間,寂無人煙。延心欲入見天子,請盡帥部眾分徙內地,為唐百姓,使西邊永無揚塵之警,其功亦不愧於張義潮矣。」承勳欲自有其功,猶豫未許。延心復曰:「延心既入朝,落部內徙,但惜秦州無所復恃耳。」承勳與諸將相顧默然。明日,諸將言於承勳曰:「明公首開營田,置使府,擁萬兵,仰給度支,將士無戰守之勞,有耕市之利。若從延心之謀,則西陲無事,朝廷必罷使府,省戍兵,還以秦州隸鳳翔,吾屬無所復望矣。」承勳以為然,即奏延心為河、渭都游奕使,使統其眾居之。 中書侍郎、同平章事鄭朗以疾辭位。壬申,以朗為太子太師。 上晚節頗好神仙,遣中使迎道士軒轅集於羅浮山。 |
現代日本語訳:ついに杖刑で彼を打ち殺した。八月、成徳節度使の王紹鼎が死去した。紹鼎は酒に溺れて節度なく、楼閣に登って人々に向かって矢を射ることを楽しみとし、民衆は追放しようとしたが病没したため、軍中では弟である節度副使・王紹懿を擁立した。戊寅(十五日)、紹懿を成徳留後に任命した。 九月辛酉(二十九日)、太子太師の盧鈞を同平章事とし山南西道節度使に充てた。 冬十月己巳(七日)、秦成防禦使・李承勲を涇原節度使とした。承勛は名将・李光弼の孫である。先頃、吐蕃首長の尚延心が河州と渭州の部族を率いて帰順し武衛将軍に任じられていた。承勳は彼らの豊富な羊馬を狙い鳳林関へ誘導して秦州西部に居住させた後、諸将と謀り「反乱計画」で延心を逮捕しようとしたが露見する。宴席で延心は承勲に対しこう述べる:「河渭二州は荒廃し住民もまばらだ。唐人(漢民族)は三川へ移住し吐蕃人は宕州以西に退去したため、二千里の地域に人影がない。私は朝廷に出向き部族全員を内地へ分散移住させたい。これで西方国境が永く安定すれば張義潮ほどの功績となろう」。承勲が躊躇すると延心は「私が出仕すれば秦州には守る者がいなくなる」と述べたため、一同は沈黙した。翌日諸将は承勲を諌めた:「貴公の屯田政策で我々は朝廷補給を受け戦わずに利益を得ている。もし延心案が実現すれば西方が平穏化され役所も駐屯兵も廃止されるだろう」。承勲はこれを受諾し、延心を河渭都游奕使(遊撃司令官)として現地残留させた。 中書侍郎・同平章事の鄭朗が病気で辞任。壬申(十日)、太子太師に転じる。 皇帝(武宗)は晩年に神仙術へ傾倒し、宦官を遣わして道士・軒轅集を羅浮山から招聘した。 解説:【歴史的意義】
【人物分析】
【社会構造】
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| 王端章冊立回鶻可汗,道為黑車子所塞,不至而還。辛卯,貶端章賀州司馬。 十一月,壬寅,以成德軍留後王紹懿為節度使。 十二月,蕭鄴罷判度支。 宣宗元聖至明成武獻文睿智章仁神聰懿道大孝皇帝下大中十二年(戌寅,公元八五八年) 春,正月,以康王傅、分司王式為安南都護、經略使。式有才略,至交趾,樹芀木為柵,可支數十年。深塹其外,洩城中水,塹外植竹,寇不能冒。選教士卒甚銳。頃之,南蠻大至,屯錦田步,去交趾半日程。式意思安閒,遣譯逾之,中其要害,蠻一夕引去,遣人謝曰:「我自執叛獠耳,非為寇也。」安南都校羅行恭,久專府政,麾下精兵二千,都護中軍才羸兵數百。式至,杖其背,黜於邊徼。 初,戶部侍郎、判度支劉瑑為翰林學士,上器重之。時為河東節度使。手詔征入朝,瑑奏發河東,外人始知之。戊午,以瑑同平章事。瑑,仁軌之五世孫也。瑑與崔慎由議政於上前,慎由曰:「惟當甄別品流,上酬萬一。」□彖曰:「昔王夷甫祖尚浮華,妄分流品,致中原丘虛。今盛明之朝,當循名責實,使百官各稱其職;而遽以品流為先,臣未知致理之日。」慎由無以對。軒轅集至長安,上召入禁中,問曰:「長生可學乎?」對曰:「王者屏欲而崇德,則自然受天遐福,何處更求長生?」留數月,堅求還山,乃遣之。 |
【現代日本語訳】王端章が回鶻可汗の冊立使節として派遣されたが、途中で黒車子族に進路を阻まれ、目的地へ到達できず帰還した。辛卯(かのとう)の日、端章は賀州司馬に左遷された。 十一月壬寅(みずのえとら)、成徳軍留後であった王紹懿を節度使に任命。 十二月、蕭鄴が判度支の職務を解かれる。 宣宗皇帝(諡号:元聖至明成武献文睿智章仁神聰懿道大孝皇帝)治世下・大中十二年(戊寅年、西暦858年) 春正月、康王傅で分司官であった王式が安南都護兼経略使に任命される。彼は卓越した戦略家であり、交趾に着任するとタバコノキの柵を築いて数十年耐える防御陣地とし、外堀には排水路を設け城内外を分断。さらに竹藪で遮蔽して敵軍の接近を阻んだ。兵士は鍛え抜かれ精鋭化したほどである。 間もなく南蛮軍が錦田歩に集結(交趾から半日の距離)。王式は悠然と通訳を使者として送り込み、敵の弱点を衝く指摘を行うと、蛮軍は一夜で撤退し「反乱分子追討が目的であり侵攻意図なし」との謝罪文を残した。一方、安南都校・羅行恭(らぎょうきょう)は長年実権を掌握し精兵二千を擁するも、都護直属軍は弱兵数百のみという状態だった。王式の着任後、彼は背中を杖打たれた上で辺境へ左遷された。 元々戸部侍郎・判度支であった劉瑑(りゅうせん)は翰林学士として皇帝に重用されていたが、当時河東節度使を務めていた。皇帝の親書による召還命令が出ると、彼の発進報告で外部が事態を知ったという経緯がある。戊午(つちのえうま)、劉瑑が同平章事に任命される。彼は名臣・劉仁軌(りゅうじんき)の五世孫である。 ある時、劉瑑と崔慎由(さいしんゆ)が皇帝面前で政論を交わした際、崔が「人材の家格選別こそ朝廷への奉仕」と主張するに対し、劉は反論:「西晋の王夷甫(おういほ)が家柄偏重人事を行った結果、中原は荒廃しました。名実相伴う職責遂行を求めるべきであり、流品鑑定優先では国家は乱れます」と述べたため崔は返答に窮した。 道士・軒轅集(けんえんしゅう)が長安入りすると皇帝は内廷で「不老不死術は修得可能か」と問う。彼の回答:「君主が欲望を捨て徳政を行えば天祐を得られ、敢えて神仙を求める必要はありません」。数ヶ月滞在後、帰山を強く望んだため送還された。 【解説】1.軍事戦略分析 - 王式の安南統治:物理的防御(竹柵・堀)と心理的威圧(通訳による交渉)を併用し損害なしに撤退させた点で、唐朝辺境経営の成功例として特筆される。 - 羅行恭粛清問題:地方軍閥が中央派遣官より兵力優位となる「藩鎮化」の典型。王式の断固たる処置は朝廷権威回復を示す。 2.政治思想史的背景 - 劉瑑と崔慎由の論争:「家格選別重視(貴族主義)」対「実務能力評価(実績主義)」は科挙制度成熟期における理念衝突。当時進行中だった門閥貴族衰退を反映。 - 軒轅集の発言:儒教徳治思想と道教神仙術の融合を示すが、皇帝個人の不死願望より国家統治理念を優先した点に唐代知識人の特徴。 3.時代的特徴 本節は大中暫治(宣宗治世後期)における: - 辺境防衛システム再構築(王式事例) - 貴族制から能力主義人事への移行過程(劉瑑登用) - 皇帝の求仙志向と儒家官僚思想の対立 という三層構造で描かれる。特に竹柵による物理的防御と「名実相応」を掲げる人的防御は、唐朝再生に向けた現実主義路線を示唆している。 4.歴史的意義 黒車子族阻害事件に端を発する外交失敗から始まり、安南防衛成功・中央人事刷新・皇帝諫言まで包含する構成は、『資治通鑑』編纂目的である「統治者の教訓集約」が明瞭。王式の築城術と劉瑑の人材論に共通する実用主義こそ、晩唐体制維持の基幹思想であったと言える。 Translation took 1905.9 seconds. | ||||||||||||
| 二月,甲子朔,罷公卿朝拜光陵及忌日行香,悉移宮人於諸陵。 戊辰,以中書侍郎、同平章事崔慎由為東川節度使。 上欲御樓肆赦,令狐綯曰:「御樓所費甚廣,事須有名,且赦不可數。」上不悅,曰:「遣朕於何得名!」慎由曰:「陛下未建儲宮,四海屬望。若舉此禮,雖郊祀亦可,況於御樓!」時上餌方士藥,已覺躁渴,而外人未知,疑忌方深,聞之,俯首不復言。旬日,慎由罷相。 勃海王彝震卒。癸未,立其弟虔晃為勃海王。 夏,四月,以右街使、附馬都尉劉異為邠寧節度使。異尚安平公主,上妹也。 庚子,嶺南都將王令寰作亂,囚節度使楊發。發,蘇州人也。 戊申,以兵部侍郎、鹽鐵轉運使夏侯孜同平章事。 五月,丙寅,工部尚書、同平章事劉瑑薨。瑑病篤,猶手疏論事,上皆惜之。 以右金吾大將軍李燧為嶺南節度使,已命中使賜之節,給事中蕭倣封還制書。上方奏樂,不暇別召中使,使優人追之,節及燧門而返。倣,俛之從父弟也。辛巳,以涇原節度使李承勳為嶺南節度使,發鄰道兵討亂者,平之。 是日,湖南軍亂,都將石載順等逐觀察使韓悰,殺都押牙王桂直。琮待將士不以禮,故及於難。 六月,丙申,江西軍亂,都將毛鶴逐觀察使鄭憲。 初,安南都護李涿為政貪暴,強市蠻中馬牛,一頭止與鹽一鬥。又殺蠻酋杜存誠。 |
現代日本語訳:二月一日、光陵への公卿の拝礼及び忌日の行香を廃止し、宮人全てを諸陵に移した。 四日、中書侍郎・同平章事崔慎由を東川節度使に任命した。 皇帝(宣宗)が楼閣で恩赦を行う意向を示すと、令狐綯が「楼閣使用は経費が莫大です。名目が必要であり、恩赦も頻繁には行えません」と諫言した。帝は不満を露わにし「朕はいったい何で名目を得ればよいのか!」と反論すると、崔慎由が「陛下は後継者を定めておられず、天下が期待しております。この儀式を行えば郊祀(天地祭祀)にも匹敵する意義があり、楼閣使用など問題になりません」と奏上した。当時帝は道士の薬を服用してすでに体調不良(躁渇症状)を自覚していたが外部には知られておらず、内心疑念と猜忌が深まっていたため、この言葉を聞いてうつむき再び発言しなかった。十日後、崔慎由は宰相を罷免された。 渤海王彝震が死去したので、十九日にその弟虔晃を新たな渤海王とした。 夏四月、右街使・駙馬都尉劉異を邠寧節度使に任命。劉異は安平公主(帝の妹)と結婚していた。 六日、嶺南で都將王令寰が反乱を起こし、節度使楊發を監禁した。楊發は蘇州出身である。 十四日、兵部侍郎・塩鉄転運使夏侯孜を同平章事に任命。 五月三日、工部尚書・同平章事劉瑑が逝去。病床でなお上奏文を認めるほど尽忠し、帝はその死を深く惜しんだ。 右金吾大将軍李燧の嶺南節度使任命時、すでに中使(宦官使者)が旌節(権限証)を授けに出発していたところ、給事中蕭倣が詔書を差し戻した。帝は音楽演奏中のため別の中使を呼ぶ暇がなく、芸人を使わせて追跡させた結果、李燧宅の門前で旌節を持ち帰らせた。蕭倣は蕭俛(先代高官)の従弟である。十八日、涇原節度使李承勲を嶺南節度使に任命し、近隣藩鎮の兵に乱討伐を命じて平定させた。 同日、湖南で軍乱が発生。都將石載順らが観察使韓悰を追放し、都押牙王桂直を殺害した。韓琮(原文は「琮」だが前後から韓悰の誤記か)が将兵への礼遇を欠いたため禍を招いた。 六月四日、江西で軍乱発生。都將毛鶴が観察使鄭憲を追放した。 当初、安南都護李涿は貪欲苛酷な統治を行い、蛮族から牛馬を強制買付け(一頭あたり塩一斗のみ支給)し、さらに蛮酋杜存誠を殺害していた。 解説:■ 政治的背景 ■ 社会経済的要因 ■ 制度史的特筆事項 ■ 人物評 ■ 訳文処理方針 (本訳では『資治通鑑』胡三省注ならびに新旧唐書を参照しつつ、現代日本語読解性を優先) Translation took 976.1 seconds. | ||||||||||||
| 群蠻怨怒,導南詔侵盜邊境。峰州有林西原,舊有防冬兵六千,其旁七綰洞蠻,其酋長曰李由獨,常助中國戍守,輸租賦。知峰州者言於涿,請罷戍兵,專委由獨防遏。於是由獨勢孤,不能自立,南詔拓東節度使以書誘之,以甥妻其子,補拓東押牙,由獨遂帥其眾臣於南詔。自是安南始有蠻患。是月,蠻寇安南。 秋,七月,丙寅,宣州都將康全泰作亂,逐觀察使鄭薰。薰奔揚州。 丁卯,右補闕內供奉張潛上疏,以為:「籓府代移之際,皆奏倉庫蓄積之數,以羨餘多為課績,朝廷亦因而甄獎。竊惟籓府財賦,所出有常,苟非賦斂過差,及停廢將士,減削衣糧,則羨餘何從而致!比來南方諸鎮數有不寧,皆此故也。一朝有變,所蓄之財悉遭剽掠。又發兵致討,費用百倍,然則朝廷竟有何利!乞自今籓府長吏,不增賦斂,不減糧賜,獨節游宴,省浮費,能致羨餘者,然後賞之。」上嘉納之。容管奏都虞候來正謀叛,經略使宋涯捕斬之。初,忠武軍精兵皆以黃冒首,號黃頭軍。李承勳以百人定嶺南,宋涯使麾下效其服裝,亦定容州。安南有惡民,屢為亂,聞之,驚曰:「黃頭軍度海來襲我矣!」相與夜圍交趾城,鼓噪:「願送都護北歸,我須此城御黃頭軍。」王式方食,或勸出避之。式曰:「吾足一動,則城潰矣。」徐食畢,擐甲,率左右登城,建大將旗,坐而責之,敵者反走。 |
現代日本語訳:群蛮が怨恨を抱き、南詔を引き入れて辺境を侵犯した。峰州にある林西原には従来六千の防冬兵(越冬守備隊)が駐屯していたが、近隣の七綰洞蛮の首長・李由独は常に唐王朝を支援し、租税も納めていた。峰州知事が安南都護府へ「守備兵を撤退させ、防衛を全面的に李由独に委ねるべきだ」と提言した結果、李由独は孤立して自立できなくなり、南詔の拓東節度使が書簡で懐柔。姪娘を彼の息子に嫁がせた上、拓東押牙(軍事副官)の地位を与えたため、李由独は配下を率いて南詔へ帰順した。これ以降、安南地域で初めて蛮族による被害が発生するようになった。この月(六月)、蛮軍は安南を襲撃。 秋七月丙寅日(六日)、宣州都将・康全泰が反乱を起こし、観察使・鄭薰を追放した。鄭薰は揚州へ逃亡。 丁卯日(七日)、右補闕内供奉の張潜が上疏:「藩鎮長官交代時には必ず倉庫貯蔵高を報告し、剰余金が多いほど業績優秀と評価されますが、財源に限りのある地方で過重課税や兵士削減・俸給カット以外に剰余など生じようはずがない。近年の南方諸鎮の反乱は全てこれが原因です。いったん反乱が起きれば蓄財は略奪され、討伐費用も莫大になる。朝廷に何の利益があるのか? 今後は『増税せず俸給を減らさず』遊興費と無駄遣いのみ削減して剰余を生み出した長官だけ賞すべきです」皇帝(宣宗)はこれを嘉納。 容管から「都虞候・来正が反乱計画。経略使・宋涯が捕斬」の報告。かつて忠武軍精鋭部隊は黄色頭巾で"黄頭軍"と呼ばれ、李承勲が百人余りで嶺南を平定した故事があった。宋涯も配下に同様の装束をさせ容州安定化に成功。 安南では凶暴な民衆が反乱を繰り返していたが、この情報を得て「黄頭軍が海を渡って攻めてくる!」と恐慌状態となり、夜間に交趾城を包囲して叫嚷:「都護(王式)を北方へ返せ! 我々がこの城で黄頭軍と戦う」食事中の王式に避難勧告があったが「私が動けば城は崩壊する」と言い切り、平然と食事を終えると甲冑を着て城壁に登り大将旗を掲げ座ったまま叱責。すると反乱軍は逆に逃走した。 解説:
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| 明日,悉捕誅之。有杜守澄者,自齊、梁以來擁眾據溪洞,不可制。式離間其親黨,守澄走死。安南饑亂相繼,六年無上供,軍中犒賞。式始修貢賦,饗將士。占城、真臘皆復通使。 淮南節度使崔鉉奏已出兵討宣州賊。八月,甲午,以鉉兼宣歙觀察使。己亥,以宋州刺史溫璋為宣州團練使。璋,造之子也。 河南、北、淮南大水,徐、泗水深五丈,漂沒數萬家。 冬,十月,建州刺史於延陵入辭,上曰:「建州去京師幾何?」對曰:「八千里。」上曰:「卿到彼為政善惡,朕皆知之,勿謂其遠。此階前則萬里也,卿知之乎?」延陵悸懾失緒,上撫而遣之。到官,竟以不職貶復州司馬。 令狐綯擬李遠杭州刺史,上曰:「吾聞遠詩云:『長日惟消一局棋』,安能理人!」綯曰:「詩人托此為高興耳,未必實然。」上曰:「且令往試觀之。」上詔刺史毋得外徙,必令至京師,面察其能否,然後除之。令狐綯嘗徙其故人為鄰州刺史,便道之官。上見其謝上表,以問綯,對曰:「以其道近,省送迎耳。」上曰:「朕以刺史多非其人,為百姓害,故欲一一見之,訪問其所施設,知其優劣以行黜陟。而詔命既行,直廢格不用,宰相可畏有權!」時方寒,綯汗透重裘。 上臨朝,接對群臣如賓客,雖左右近習,未嘗見其有惰容。每宰相奏事,旁無一人立者,威嚴不可仰視。 |
現代日本語訳: 翌日、反乱者を全て捕らえ誅殺した。杜守澄という人物は南斉・梁の時代から配下を率いて渓谷地帯に拠り、朝廷の統制が及ばなかった。韋式(いしき)は彼と側近たちの離間工作を行い、守澄は逃亡中に死亡した。安南部では飢饉と反乱が相次ぎ、6年間も租税納入や軍への慰労品供給が途絶えていた。韋式が初めて貢納を再開し、将士へ酒食を振る舞ったため、占城(チャンパ王国)・真臘(カンボジア)も使者派遣を復活させた。 淮南節度使崔鉉は「宣州の賊討伐軍を出動済み」と上奏した。8月甲午日、彼に宣歙観察使を兼任させる。己亥日には宋州刺史温璋を宣州団練使とする。璋は名臣・温造(おんぞう)の子である。 河南・河北・淮南が大洪水に見舞われた。徐州や泗州では水深5丈に達し、数万戸が流された。 冬10月、建州刺史于延陵が赴任前の挨拶をすると皇帝は問う。「建州から都までの距離は?」「八千里(約4,000km)」「卿の善政も悪政も朕のもとへ届く。遠いなどと思うな」―御階を指して言下に続けた。「この玉座前こそ万里に等しいのだ」。延陵は恐怖で言葉を失ったが、皇帝は労って送り出した。後に在職中に不適格により復州司馬へ左遷された。 令狐綯(れいことう)が李遠の杭州刺史任命を提案すると帝が反論。「『一日一局の碁』と詠んだ者が政務など執れるか?」「詩人の遊び心です」との弁明に、「では試しに見せよ」。皇帝は刺史への転任禁止令を発布した。必ず都へ召還して能力査定後、改めて任命する制度である。 令狐綯が旧知の者を隣州刺史として赴任途中で就任させた際、帝が謝恩表を見つけて詰問。「送迎省略の便です」との返答に激怒:「朕は人選不適による民害を憂えているのに、卿ら宰相が勅命を無視するとは畏れ多い権勢だ!」。厳寒期にもかかわらず令狐綯は重ね着した衣も汗で濡れた。 帝の朝議では臣下を賓客のように遇し、側近すら彼に怠惰な様を見たことがない。宰相の奏上時には侍立者一人置かず、その威厳は仰ぎ見ることもできないほどであった。 解説: 1. 時代考証:唐代官職名「節度使」「観察使」等を原語尊重しつつ現代読解可能な形で保持。地理名称には現地名(チャンパ王国など)注記付加 2. 人物描写の深化:「悸懾失緒」(恐怖による言動停止)は心理状態を具体化、「汗透重裘」比喩表現を「衣も汗で濡れた」と実態描写に転換 3. 皇帝台詞の劇的再現:宣宗帝の空間認識論(玉座前=万里)を視覚的に強調。令狐綯叱責場面では権力構造を現代語感で表現 4. 政治文脈整理: - 杜守澄粛清と安南統治回復を因果連鎖として再構築 - 刺史人事制度への皇帝介入意図(「面察其能否」)を中央集権強化の観点から提示 5. 気候描写の象徴性:令狐綯発汗シーンの「時方寒」(厳冬期設定)→肉体的寒冷と精神的灼熱の対比効果に注目 6. 史書文体再現:「捕誅之」「走死」等の簡潔表現は漢文調を残しつつ「処刑した」「逃亡中死亡」と完結訳。『資治通鑑』特有の緊迫感維持 Translation took 2316.2 seconds. | ||||||||||||
| 奏事畢,忽怡然曰:「可以閒語矣。」因問閭閻細事,或談宮中游宴,無所不至。一刻許,復整容曰:「卿輩善為之,朕常恐卿輩負朕,後日不復得再相見。」乃起入宮。令狐綯謂人曰:「吾十年秉政,最承恩遇;然每延英奏事,未嘗不汗沾衣也!」 初,山南東道節度使徐商,以封疆險闊,素多盜賊,選精兵數百人別置營訓練,號捕盜將。及湖南逐帥,詔商討之。南遣捕盜將二百人討平之。 崔鉉奏克宣州,斬康全泰及其黨四百餘人。 上以光祿卿韋宙父丹有惠政於江西,以宙為江西觀察使,發鄰道兵以討毛鶴。 崔鉉以宣州已平,辭宣歙觀察使。十一月,戊寅,以溫璋為宣歙觀察使。 兵部侍部、判戶部蔣伸從容言於上曰:「近日官頗易得,人思僥倖。」上驚曰:「如此,則亂矣!」對曰:「亂則未亂,但僥倖者多,亂亦非難。」上稱歎再三。伸三起,上三留之,曰:「異日不復得獨對卿矣。」伸不諭。十二月,甲寅,以伸同平章事。 韋宙奏克洪州,斬毛鶴及其黨五百餘人。宙過襄州,徐商遣都將韓季友帥捕盜將從行。宙至江州,季友請夜帥其眾自陸道間行,比明,至洪州,州人不知,即日討平之,宙奏留捕盜將二百人於江西,以季友為都虞候。 宣宗元聖至明成武獻文睿智章仁神聰懿道大孝皇帝下大中十三年(己卯,公元八五九年) 春,正月,戊午朔,赦天下。 |
現代日本語訳用件を終えた後、帝は突然穏やかな表情で言った。「そろそろ雑談でもしようか」と。そして市井の細々とした話題に及んだり、宮中での宴遊について語ったり、あらゆることに話が及んだ。約一時間ほどして、再び厳しい顔つきになり、「卿たちはよく務めよ。朕は常に恐れるのだ、卿たちが朕を裏切るのではないかと。そうなれば後日二度と会えぬであろう」と言い残し、立ち上がって宮中へ入った。令狐綯(れいこ・とう)は人々に向けてこう語っている。「私は十年政務を執り、最も恩寵を受けた者だ。しかし延英殿での奏上では毎回、必ず汗で衣が濡れるほど緊張したのだ!」 初めに、山南東道節度使の徐商(じょ・しょう)は管轄地域が険阻かつ広大であり、古くから盗賊が多いことを理由に、精兵数百名を選抜して別部隊「捕盗将」を編成し訓練していた。湖南で藩鎮主帥が追放された際、詔勅により徐商が討伐に向かい、彼は捕盗将二百名を派遣して乱を平定した。 崔鉉(さい・げん)は宣州制圧の報告を行い、康全泰(こう・ぜんたい)とその配下四百余名を斬首した旨を上奏した。 帝は光禄卿韋宙(い・ちゅう)の父である韋丹(い・たん)が江西で善政を敷いた功績に鑑み、韋宙を江西観察使に任命し近隣道の兵士を動員して毛鶴(もう・かく)討伐にあたらせた。 崔鉉は宣州平定後、宣歙観察使辞任を願い出る。十一月戊寅日、温璋(おん・しょう)が新たに宣歙観察使となった。 兵部侍郎で戸部判官の蔣伸(しょう・しん)が帝に対し落ち着いて述べた。「近時は官位を得やすくなり、人々が僥倖を狙う風潮です」と。帝は驚き「それでは乱世となるな!」と言うと、彼は応えた。「乱世とはまだなりませんが、僥倖者ばかり増えれば乱も遠くないでしょう」。これを聞いた帝は再三称賛した。蔣伸が退出しようと三度立ち上がるたびに帝は引き止め、「後日もう卿と二人きりで話せぬかもしれん」と言った。彼はその真意を理解できなかった。十二月甲寅日、蔣伸は同平章事(宰相)に任命された。 韋宙が洪州制圧の報告を行い、毛鶴と配下五百余名を斬首した。途中襄州を通りかかった際、徐商が都將韓季友(かん・きゆう)率いる捕盗将部隊を同行させた。江州に到着すると韓季友は夜襲作戦を提案し、陸路から密かに行軍して明け方までに洪州に到達。市民に気付かれぬうちに即日で乱を平定したため、韋宙は捕盗将二百名の江西残留と韓季友の都虞候(軍事監察官)任命を上奏した。 宣宗元聖至明成武献文睿智章仁神聡懿道大孝皇帝 治世下 大中十三年(己卯、西暦859年) 春正月戊午朔日(1月1日)、天下に恩赦が行われた。 解説【史書の特徴】『資治通鑑』は北宋・司馬光による編年体歴史書。原文では: - 簡潔な筆致:人物の動作や発言を通じて情勢を描写(例:宣宗の「汗沾衣」表現で廷臣の緊張感を伝える) - 対比構造:「怡然→整容」「僥倖者多→乱亦非難」など、変化と因果関係を強調 【翻訳の方針】
【歴史的背景】
【人物評】
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| 三月,割河東雲、蔚、朔三州隸大同軍。 夏,四月,辛卯,以校書郎于琮為左拾遺內供奉。初,上欲以悰尚永福公主,既而中寢。宰相請其故,上曰:「朕近與此女子會食,對朕輒折匕箸。性情如是,豈可為士大夫妻!」乃更命悰尚廣德公主。二公主皆上女。琮,敖之子也。 武寧節度使康季榮不恤士卒,士卒噪而逐之。上以左金吾大將軍田牟嘗鎮徐州,有能名,復以為武寧節度使,一方遂安。貶季榮於嶺南。 六月,癸巳,封憲宗子惕為彭王。 初,上長子鄆王溫,無寵,居十六宅,餘子皆居禁中。夔王滋,第三子也,上愛之,欲以為嗣,為其非次,故久不建東宮。上餌醫官李玄伯、道士虞紫芝、山人王樂藥,疽發於背。八月,疽甚,宰相及朝臣皆不得見,上密以夔王屬樞密使王歸長、馬公儒、宣徽南院使王居方,使立之。三人及右軍中尉王茂玄,皆上平日所厚也。獨左軍中尉王宗實素不同心,三人相與謀,出宗實為淮南監軍。宗實已受敕於宣化門外,將自銀台門出。左軍副使亓元實謂宗實曰:「聖人不豫逾月,中尉止隔門起居,今日除改,未可辨也。何不見聖人而出!」宗實感寤,復入,諸門已踵故事增人守捉矣。亓元實翼導宗實直至寢殿,上已崩,東首環泣矣。宗實叱歸長等,責以矯詔,皆捧足乞命。乃遣宣徽北院使齊元簡迎鄆王。 |
現代日本語訳三月、河東の雲州・蔚州・朔州の三州を割いて大同軍に属させた。 夏四月辛卯(じんぼう)の日、校書郎であった于琮(うそう)を左拾遺内供奉に任命した。当初、皇帝は永福公主を于琮と結婚させる意向だったが、後に取りやめた。宰相がその理由を尋ねると、皇帝は言った。「朕が最近この娘と食事を共にした際、彼女は朕の前で匙や箸を折ってしまった。このような性格では士大夫(高級官僚)の妻として相応しくない」。そこで代わりに広德公主を于琮に娶わせた。二人の姫はいずれも皇帝の娘である。于琮は于敖(うごう)の子である。 武寧節度使・康季榮(こうきえい)が兵士たちを顧みなかったため、兵士たちが騒動を起こし彼を追放した。皇帝は左金吾大将軍であった田牟(でんむ)がかつて徐州を統治して有能な評判を得ていたことを考慮し、再び武寧節度使に任命した。こうして地域は安定を取り戻した。季栄は嶺南へ左遷された。 六月癸巳(きし)の日、憲宗皇帝の子・李惕(りてき)を彭王として封じた。 当初、皇帝の長男である鄆王・温(おん)は寵愛されず、「十六宅」に居住していた。他の皇子たちは皆、宮中で暮らしていた。夔王・滋(し)は第三子であり、皇帝が最も可愛がり後継者としたいと考えていたが、順序を飛び越えるため長期にわたり東宮(皇太子の居所)を定めなかった。 皇帝は医官の李玄伯(りげんぱく)、道士・虞紫芝(ぐしし)、山人(隠遁者)・王楽(おうらく)が調合した薬を服用し、背中に腫れ物が生じた。八月になって症状が悪化すると、宰相や廷臣たちは皇帝と面会できなくなり、皇帝は密かに夔王の後継指名を枢密使・王帰長(おうきちょう)、馬公儒(ばこうじゅ)、宣徽南院使・王居方(おうきょほう)に託し彼を即位させるよう命じた。三人と右軍中尉・王茂玄(おうもげん)はいずれも皇帝が信任していた側近である。 しかし左軍中尉・王宗実(おうそうじつ)だけは元々異心を持っていたため、三人は協議し宗実を淮南監軍に転出させようとした。宗実が宣化門外で辞令を受け銀台門から退出しようとしていた時、左軍副使の亓元実(ぎげんじつ)が進言した。「陛下は一ヶ月以上も病床におられますのに、中尉様はただ宮門越しに安否を伺うだけです。今日突然の人事異動には疑念があります。なぜ陛下とお会いにならず退出されるのですか」。宗実は悟り再び入城すると、各所の門では既に見張りの兵士が増員されていた。 亓元実は宗実を護衛しながら寝殿に直行したところ、皇帝はすでに崩御しており東枕(顔を東に向けて安置)された遺体を取り囲み廷臣たちが泣いていた。宗実が「偽詔の罪である」と帰長らを叱責すると彼らは足にすがって命乞いした。結局、宣徽北院使・斉元簡(せいげんかん)を派遣して鄆王を迎えさせた。 注釈
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| 壬辰,下詔立鄆王為皇太子,權句當軍國政事,仍更名漼。收歸長、公儒、居方,皆殺之。癸巳,宣遺制,以令狐綯攝塚宰。 宣宗性明察沉斷,用法無私,從諫如流,重惜官賞,恭謹節儉,惠愛民物,故大中之政,訖於唐亡,人思詠之,謂之小太宗。 丙申,懿宗即位。癸卯,尊皇太后為太皇太后。以王宗實為驃騎上將軍。李玄伯、虞紫芝、王樂皆伏誅。 九月,追尊上母晁昭容為元昭皇太后。 加魏博節度使何弘敬兼中書令,幽州節度使張允伸同平章事。冬,十月,辛卯,赦天下。 十一月,戊午,以門下侍郎、同平章事蕭鄴同平章事,充荊南節度使。 十二月,甲申,以翰林學士承旨、兵部侍郎杜審權同平章事。審權,元穎之弟孫也。 浙東賊帥裘甫攻陷象山,官軍屢敗,明州城門晝閉,進逼剡縣,有眾百人,浙東騷動。觀察使鄭祗德遣討擊副使劉勍、副將范居植將兵三百,合台州軍共討之。 司空、門下侍郎、同平章事令狐綯執政歲久,忌勝己者,中外側目,其子水高頗招權受賄。宣宗既崩,言事者競攻其短。丁酉,以綯同平章事,充河中節度使。以前荊南節度使、同平章事白敏中守司徒、兼門下侍郎、同平章事。 初,韋皋在西川,開青溪道以通群蠻,使由蜀入貢。又選群蠻子弟聚之成都,教以書數,欲以慰悅羈縻之。業成則去,復以他子弟繼之。 |
訳文(現代日本語)壬辰の日に詔を下し、鄆王を皇太子に立てて軍国政事を代理執掌させるとともに、名を漼と改めさせた。李帰長・馬公儒・王居方を捕らえ、皆これを斬った。 癸巳の日には遺制が発表され、令狐綯が塚宰(宰相)として摂政することとなった。 宣宗皇帝は性格が明察にして沈着果断であり、法を適用するのに私情を挟まず、諫言を受け入れること流れのように円滑であった。官爵や恩賞を与えることを厳しく節制し、恭謹で倹約に努め、民衆と万物に対して慈愛をもって接したため、「大中」の治世は唐が滅亡するまで人々から称賛され続け、「小太宗」(第二の太宗皇帝)と呼ばれた。 丙申の日に懿宗が即位し、癸卯には皇太后を太皇太后として尊んだ。王宗実を驃騎上将軍に任じた。李玄伯・虞紫芝・王楽は皆誅殺された。 九月になり、先帝(宣宗)の生母である晁昭容を元昭皇太后と追尊した。 魏博節度使何弘敬には中書令を兼任させ、幽州節度使張允伸には同平章事(宰相待遇)を与えた。冬十月辛卯に大赦を行った。 十一月戊午には門下侍郎・同平章事の蕭鄴をそのまま同平章事として荊南節度使に任命した。 十二月甲申、翰林学士承旨・兵部侍郎杜審権を同平章事とした。杜審権は杜元穎の弟の孫にあたる。 浙東の賊将裘甫が象山を陥落させると官軍は敗戦続きとなり、明州城門は昼間でも閉ざされる状態となった。剡県に迫る勢いで兵力百人(注:実際には数万とされる)にもかかわらず浙東一帯は騒然とした。 観察使鄭祗徳が討撃副使劉勍・副将范居植らに兵三百を率いさせ、台州軍と合同してこれを討伐した。 司空兼門下侍郎同平章事の令狐綯は長年政権を握り、自分より優れた者を妬んだため朝廷内外から睨まれる存在であった。その子である水高(令狐滈)も盛んに権勢をかさに賄賂を受け取っていた。 宣宗の崩御後、諫言する者が競って彼らの欠点を攻撃した結果、丁酉には令狐綯は同平章事として河中節度使へ左遷された。前荊南節度使で同平章事だった白敏中が司徒兼門下侍郎同平章事に任命され政権中枢に復帰した。 昔、韋皋が西川(四川)を統治していた時、青溪道を開いて西南蛮族との通路とし、彼らが蜀経由で朝貢できるようにした。また蛮族の子弟たちを選抜して成都に集め、文字や算術を教えて懐柔しようとした。 学業を終えた者は帰国させつつ新たな子弟を受け入れる循環システムを作り上げていた。 訳注
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| 如是五十年,群蠻子弟學於成都者殆以千數,軍府頗厭於稟給。又,蠻使入貢,利於賜與,所從傔人浸多,杜悰為西川節度使,奏請節減其數,詔從之。南詔豐祐怒,其賀冬使者留表付巂州而還。又索習學子弟,移牒不遜,自是入貢不時,頗擾邊境。會宣宗崩,遣中使告哀,時南詔豐祐適卒,子酋龍立,怒曰:「我國亦有喪,朝廷不弔祭。又詔書乃賜故王。」遂置使者於外館,禮遇甚薄。使者還,具以狀聞。上以酋龍不遣使來告喪,又名近玄宗諱,遂不行冊禮。酋龍乃自稱皇帝,國號大禮,改元建極,遣兵陷播州。 |
現代日本語訳こうした状態が五十年続き、成都で学ぶ諸部族(群蠻)の子弟は千人の規模に達し、軍府(西川節度使の役所)は食糧供給の負担をかなり重く感じていた。また、南詔からの朝貢使節も朝廷から賜る品物を目当てとしており、従者(傔人)が次第に増加していた。 そこで西川節度使・杜悰(と そう)は彼らの数を減らすよう上奏し、皇帝の許可を得た。これに対し南詔王・豊祐(ほうゆう)は怒り、冬至を祝賀する使者に報告文書(表)だけ巂州(きしゅう:現在の四川省西昌市付近)で預けさせて帰国させるという抗議行動に出た。さらに学問中の子弟たちの返還を要求するとともに、公文書(牒)では無礼な表現を用いた。これ以降、南詔は定期的に朝貢せず、辺境地帯をしばしば脅かすようになった。 ちょうど唐の宣宗が崩御したため、朝廷から使者(中使:宦官の使者)が訃報を知らせに来た。その時、南詔でも豊祐王が死去しており、息子・酋龍(しゅうりゅう)が即位していたところだった。新王は激怒して言った。「我が国にも喪中であるのに朝廷は弔問も供養もしないのか。それに送られてきた詔書には『故王』(前の王)への下賜と記されているではないか。」使者を賓客用宿舎(外館)に隔離し、礼遇は非常に冷淡なものだった。 使者が帰国して事態を報告すると、皇帝(唐の懿宗)は酋龍が自ら喪を知らせる使節も送らず、その名「世隆」の中の「隆」字が玄宗皇帝(李隆基:り りゅうき)の諱(いみな・実名)に触れることを理由として、正式な冊封の儀礼を行わなかった。これに対し酋龍は自ら皇帝を称し、「大礼」と国号を改め、「建極」(けんきょく)と元号を定めた上で、軍隊を派遣して播州(ばしゅう:現在の貴州省遵义市一帯)を陥落させた。 解説
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| input text 資治通鑑\250_唐紀_66.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百五十 唐紀六十六 起上章執徐,盡強圉大淵獻,凡八年。 懿宗昭聖恭惠孝皇帝上咸通元年(庚辰,公元八六零年) 春,正月,乙卯,浙東軍與裘甫戰於桐柏觀前,范居植死,劉勍僅以身免。乙丑,甫帥其徒千餘人陷剡縣,開府庫,募壯士,眾至數千人。越州大恐。時二浙久安,人不習戰,甲兵朽鈍,見卒不滿三百,鄭祗德更募新卒以益之。軍吏受賂,率皆得孱弱者。祗德遣子將沈君縱、副將張公署、望海鎮將李珪將新卒五百擊裘甫。二月,辛卯,與甫戰於剡西,賊設伏於三溪之南,而陳於三溪之北,壅溪上流,使可涉。既戰,陽敗走,官軍追之,半涉,決壅,水大至,官軍大敗,三將皆死,官軍幾盡。於是山海諸盜及它道無賴亡命之徒,四面雲集,眾至三萬,分為三十二隊。其小帥有謀略者推劉暀,勇力推劉慶、劉從簡。群盜皆遙通書幣,求屬麾下。甫自稱天下都知兵馬使,改元曰羅平,鑄印曰天平。大聚資糧,購良工,治器械,聲震中原。 丙申,葬聖武獻文孝皇帝於貞陵,廟號宣宗。 丙午,白敏中入朝,墜陛,傷腰,肩輿以歸。鄭祗德累表告急,且求救於鄰道。浙西遣牙將凌茂貞將四百人、宣歙遣牙將白琮將三百人赴之。祗德始令屯郭門及東小江,尋復召還府中以自衛。祗德饋之,比度支常饋多十三倍,而宣、潤將士猶以為不足。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百五十 唐紀六十六の記録(庚辰年~丁亥年の8年間) 懿宗皇帝・咸通元年(860年) 当時、浙東・浙西地域は長期の平和で軍備が弛緩しており、現役兵は三百人未満だったため、鄭祗徳(観察使)は新兵を募集した。しかし軍吏が賄賂を受け取った結果、集まったのは病弱な者ばかりであった。 鄭祗徳は配下の沈君縦・張公署・李珪に新兵五百人を率いさせて裘甫討伐に向かわせた。二月辛卯(10日)、剡県西で交戦となる。賊軍は三渓南岸に伏兵を置き、北岸に布陣して上流をせき止め渡河可能な状態を作った。開戦後、賊が偽装撤退すると官軍は追撃し、川の中程まで来た時に堰が決壊。濁流で官軍は壊滅し三将も戦死した。 この勝利で山海の賊徒や他地域のならず者が続々と集結し、総勢三万・三十二隊に拡大。劉暀(参謀)・劉慶らが頭角を現す。各地の反乱勢力は傘下入りを求め、裘甫は「天下都知兵馬使」を自称して年号を羅平と改め、「天平」印璽を鋳造。食糧徴発や兵器製造で中原(朝廷)に衝撃を与えた。 二月丙申(15日)、宣宗皇帝を貞陵に葬り廟号を奉る。 鄭祗徳は再三救援要請を上奏すると共に近隣藩鎮にも支援を求めた。浙西道は凌茂貞率いる四百人、宣歙道は白琮率いる三百人を派遣するが、鄭祗徳は当初城門守備につかせた後、自身護衛のために城内へ召還。兵士への給与を通常予算の十三倍支払ったにも関わらず、宣州・潤州出身の将士らはなお不満を訴えた。 解説
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| 宣、潤將士請土軍為導,以與賊戰。諸將或稱病,或陽墜馬,其肯行者必先邀職級,竟不果遣。賊游騎至平水東小江,城中士民儲舟裹糧,夜坐待旦,各謀逃潰。朝廷知祗德懦怯,議選武將代之。夏侯孜曰:「浙東山海幽阻,可以計取,難以力攻。西班中無可語者。前安南都護王式,雖儒家子,在安南威服華夷,名聞遠近,可任也。」諸相皆以為然。遂以式為浙東觀察使,征祗德為賓客。三月,辛亥朔,式入對,上問以討賊方略。對曰:「但得兵,賊必可破。」有宦官侍側,曰:「發兵,所費甚大。」式曰:「臣為國家惜費則不然。兵多賊速破,其費省矣。若兵少不能勝賊,延引歲月,賊勢益張,則江、淮群盜將蜂起應之。國家用度盡仰江、淮,若阻絕不通,則上自九廟,下及十軍,皆無以供給,其費豈可勝計哉!」上顧宦官曰:「當與之兵。」乃詔發忠武、義成、淮南等諸道兵授之。裘甫分兵掠衢、婺州。婺州押牙房郅、散將樓曾、衢州十將方景深將兵拒險,賊不得入。又分兵掠明州,明州之民相與謀曰:「賊若入城,妻子皆為菹醢,況貨財,能保之乎!」乃自相帥出財募勇士,治器械,樹柵,浚溝,斷橋,為固守之備。賊又遣兵掠台州,破唐興。己巳,甫自將萬餘人掠上虞,焚之。癸酉,入余姚,殺丞、尉。東破慈溪,入奉化,抵寧海,殺其令而據之,分兵圍象山。 |
現代日本語訳:宣州・潤州の将士らは土地に詳しい者を案内役として求め、反乱軍との戦いに備えた。しかし諸将の中には病と称する者や偽って落馬したふりをする者がおり、進んで行こうとする者は必ず先に官位の昇進を要求し、結局派遣は実現しなかった。 賊軍の遊撃隊が平水東側の小江まで迫ると、城の中の住民らは舟や食糧を準備し、夜通し座って夜明けを待ちながら、それぞれ逃げ出す計画を立てていた。朝廷では高祗徳(こうしとく)が臆病で頼りにならないことを知り、武官から代わりの者を選ぶ議論を行った。 夏侯孜(かこうじ)は言上した。「浙東地域は山や海に囲まれ複雑な地形のため、策略で制圧すべきであり武力での鎮圧は困難です。禁軍の中には相談できる者がおりません。かつて安南都護を務めた王式(おうしき)は儒学者の家柄ながら、安南では漢民族も異民族も威徳をもって服従させ、その名声は遠近に轟いております。彼こそ適任でしょう」。 重臣たち全員がこれに同意したため、王式を浙東観察使に任命し、高祗徳は賓客(名誉職)として召還された。 三月の辛亥朔日(新月)、王式が参内して対応策について上奏すると、皇帝が賊征討の方策を問うた。彼は答えた。「兵力さえ頂ければ必ず賊を撃破できます」。側にいた宦官が「兵を動員すれば莫大な費用がかかる」と反論した。 王式は即座に述べた。「臣は国家の財源を節約すべきだとは思いません。兵が多いほど速やかに賊を打ち破れ、逆に経費は削減できます。もし兵力不足で敗北すれば戦いは長期化し、賊勢力が拡大するでしょう。そうなれば長江・淮河流域の反乱軍が蜂起して呼応します。国家財政は全て江淮地域に依存しております。そこが遮断されれば、朝廷の祭祀から禁衛軍十軍まで物資供給が途絶え、その損失はいったいどれほどの金額になるでしょうか!」。 皇帝は宦官を振り返り「兵を与えるべきだ」と述べ、忠武・義成・淮南など諸道からの出兵命令書を王式に交付した。 一方の裘甫(きゅうほ)軍は衢州・婺州へ分隊で略奪に出た。婺州では押牙(軍事判官)房郅(ぼういつ)、散将(下級武官)楼曾(ろうそう)が、衢州からは十将(小隊長)方景深(ほうけいしん)らが要害を守ったため賊軍の侵入を阻んだ。 さらに明州へ略奪に向かった部隊に対しては、住民たちが「もし城に乱入されれば妻子も醢(しびつき=塩漬け刑)にされるだろう。まして財産など保てるはずがない」と話し合い、自ら率先して資金を出し勇士を募った。武器を整え柵を築き堀を深め橋を破壊するなど、防衛体制を固めた。 賊軍はさらに台州へも侵攻し唐興(とうこう)県を陥落させた。己巳の日には裘甫自身が万余りの兵を率いて上虞を襲撃・放火した。癸酉の日に余姚に入ると丞(副知事)と尉(警察長官)を殺害。東進して慈渓を破壊し奉化へ侵入、寧海に到達すると県令を殺害して占拠し、別働隊で象山包囲に向かわせた。 解説:
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| 所過俘其少壯,餘老弱者蹂踐殺之。 及王式除書下,浙東人心稍安。裘甫方與其徒飲酒,聞之不樂。劉暀歎曰:「有如此之眾,而策畫未定,良可惜也!今朝廷遣王中丞將兵來,聞其人智勇無敵,不四十日必至。兵馬使宜急引兵取越州,憑城郭,據府庫,遣兵五千守西陵,循浙江築壘以拒之。大集舟艦,得間,則長驅進取浙西,過大江,掠揚州貨財以自實。還,修石頭城而守之,宣歙、江西必有響應者。遣劉從簡以萬人循海而南,襲取福建。如此,則國家貢賦之地盡入於我矣。但恐子孫不能守耳,終吾身保無憂也。」甫曰:「醉矣,明日議之!」暀以甫不用其言,怒,陽醉而出。有進士王輅在賊中,賊客之,輅說甫曰:「如劉副使之謀,乃孫權所為也。彼乘天下大亂,故能據有江東;今中國無事,此功未易成也。不如擁眾據險自守,陸耕海漁,急則逃入海島,此萬全策也。」甫畏式,猶豫未決。 夏,四月,式行至柿口,義成軍不整,式欲斬其將,久乃釋之,自是軍所過若無人。至西陵,裘甫遣使請降。式曰:「是必無降心,直欲窺吾所為,且欲使吾驕怠耳。」乃謂使者曰:「甫面縛以來,當免而死。」乙未,式入越州,既交政,為鄭祗德置酒,曰:「式主軍政,不可以飲,監軍但與眾賓盡醉。」迨夜,繼以燭,曰:「式在此,賊安能妨人樂飲!」丙申,餞祗德於遠郊,復樂飲而歸。 |
現代日本語訳通過した地域では若者を捕らえ、残りの老人や弱者は踏みつけて殺害した。 王式の任命書が届くと浙東の人々の心はようやく落ち着いた。裘甫(きゅうほ)は仲間と酒宴中だったが、この知らせを聞いて不愉快になった。劉暀(りゅうこう)が嘆息して言った。「これほど多くの兵力を持っていながら作戦計画が定まらないとは実にもったいない!朝廷から王中丞(おうちょうじょう/式の官名)が軍勢を率いて来るという。彼は知勇兼備で無敵と聞く。40日もせずに到着するだろう。兵馬使(ひょうばし/裘甫の自称)は急いで越州を奪取すべきだ。城郭を頼り、倉庫を占拠した後、5千の兵を西陵に置き守らせる。浙江沿いに堡塁を築いて敵軍を防ぐのだ。舟艦を大量に集め機会を見て浙西へ進撃し、長江を渡って揚州の財貨を掠奪して我々の実力を強化する。戻った後は石頭城(せきとうじょう)を修復して守りを固める。そうすれば宣歙(せんきょう)や江西が必ず呼応するだろう。劉従簡に1万の兵を与え海沿いに南下させ、福建を急襲占領させるのだ。こうなれば朝廷の貢賦(租税)の拠点は全て我々の手中に入る。ただ子孫が維持できるか心配だが、私が生きている間は安泰だろう」。裘甫は「酔ったぞ。明日また議論しよう」と言うと、劉暀は意見を採用しないことに怒り、酒に酔ったふりをして退出した。 賊軍の中には進士の王輅(おうろ)がおり、賓客として遇されていた。彼は裘甫に説いた。「劉副使の策は孫権と同じ手法です。天下大乱に乗じて江東を占領できましたが、今は国内平穏で成功困難でしょう」。不如兵を集めて要害を守り陸では農耕し海では漁労するのが良い。緊急時には島へ逃れれば万全の策となります」と助言した。裘甫は王式を恐れて決断できず、躊躇していた。 夏四月、王式が柿口(しこう)に到着すると義成軍(ぎせいぐん)の規律が乱れていたため彼は将兵の処刑を検討したものも最終的に赦免する。以後、行軍は秩序厳然となる。西陵へ至ると裘甫が降伏使者を派遣してきた。王式は「本心からではない。我々の様子を探り油断させようとしている」と看破し、「裘甫自ら縛って来れば死罪を免じよう」と宣言した。乙未(いつび)の日、越州に入城した王式は鄭祗徳(ていちとく/前任長官)との政務引継ぎ後「私は軍司令官ゆえ酒宴に参加できぬが監軍殿以下は存分にお楽しみを」と述べ夜まで宴会を続けさせた。自らは燭火の下で宣言した。「私がここにいる限り賊どもが諸君の歓楽を妨げることはない!」翌日、郊外での鄭祗徳送別会では再び酒宴を行い陽気に帰還したのである。 解説■ 戦略対立と心理描写 ■ 歴史的教訓 ■ 人物評
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| 於是始修軍令,告饋餉不足者息矣,稱疾臥家者起矣,先求遷職者默矣。賊別帥洪師簡、許會能帥所部降。式曰:「汝降是也,當立效以自異。」使帥其徒為前鋒,與賊戰有功,乃奏以官。 先是,賊諜入越州,軍吏匿而飲食之。文武將吏往往潛與賊通,求城破之日免死及全妻子。或詐引賊將來降,實窺虛實。城中密謀屏語,賊皆知之。式陰察知,悉捕索,斬之。刑將吏尤橫猾者,嚴門禁,無驗者不得出入,警夜周密,賊始不知我所為矣。式命諸縣開倉廩以賑貧乏,或曰:「賊未滅,軍食方急,不可散也。」式曰:「非汝所知。」官軍少騎卒,式曰:「吐蕃、回鶻比配江、淮者,其人習險阻,便鞍馬,可用也。」舉籍府中,得驍健者百餘人。虜久羈旅,所部遇之無狀,困餒甚。式既犒飲,又賙其父母妻子,皆泣拜歡呼,願效死,悉以為騎卒,使騎將石宗本將之。凡在管內者,皆視此籍之,又奏得龍陂監馬二百匹,於是騎兵足矣。或請為烽燧以詗賊遠近眾寡,式笑而不應。選懦卒,使乘健馬,少與之兵,以為候騎。眾怪之,不敢問。於是閱諸營見卒及土糰子弟,得四千人,使導軍分路討賊。府下無守兵,更籍土團千人以補之。乃命宣歙將白琮、浙西將凌茂貞帥本軍,北來將韓宗政等帥土團,合千人;石宗本帥騎兵為前鋒,自上虞趨奉化,解像山之圍,號東路軍。 |
現代日本語訳そこで(裴)式は初めて軍令を整え始めたところ、(兵士が)食糧供給不足だと訴える声は収まり、「病気」と称して家で寝ていた者も起き上がり、先に昇進を求めていた者も沈黙した。賊の別動隊長・洪師簡(こうしかん)と許会能(きょかいのう)が配下を率いて投降すると、(裴)式は言った。「お前たちの降伏は正しい。手柄を立てて差別化を見せよ」と述べ、彼らに部下を率いさせ先鋒として賊との戦いに当たらせた。功績があったため(裴)式は官位授与を上奏した。 これ以前より、賊の間者が越州城に入り込むと軍吏が匿って食事を与えていた。文武の将兵もしばしば密かに賊と通じ「落城時に命や妻子を助けてもらおう」と画策していた者もいた。偽装投降して実情を探る例すらあり、城内での機密会談でさえ賊に筒抜けであった。(裴)式は陰でこれを察知し、容赦なく捕縛・処刑した。特に横暴な将吏を罰し、城門管理を厳重化(通行証なしの出入り禁止)、夜間警戒も完璧に行ったため賊軍はこちらの動きを知れなくなった。 (裴)式が諸県に倉庫開放と貧民救済を命じると「賊未滅で兵糧確保優先すべき」との反論が出た。彼は「お前にはわからんことだ」と一蹴した。官軍の騎兵不足に対しては「江淮地方へ移住させられた吐蕃・回鶻族は険しい地形に慣れ馬術にも長けている」と言及し、役所記録を調査して精鋭百余りを見出した。これらの異民族兵士は流浪生活で冷遇され飢えていたが、(裴)式が酒食を振る舞い家族へも援助すると涙ながらに歓呼「命を捧げます」と誓ったため全員騎兵登用し、石宗本(せきそうほん)の指揮下に入れた。管内全体で同様の調査を行い名簿作成後、龍陂監から軍馬200頭を得るよう奏上して認められ、騎兵力を充足させた。 ある者が烽火台設置による賊情偵察を提案すると(裴)式は笑って無視し、「臆病な兵に駿馬と軽装備を与え少数の斥候隊」を編成した。人々は怪訝ながらも質問できなかった。こうして各営の現有兵力と郷土防衛団(土糰)から4,000名を選抜し、投降者らに案内させて討伐軍を分派。州府守備兵不足には新たな土糰民兵1,000人で補充した。 最終的に宣歙出身の白琮(はくそう)、浙西出身の凌茂貞(りょうもしん)率いる正規軍、韓宗政(かんそうせい)指揮下の北来兵と土糰混成部隊1,000人に加え、石宗本騎兵隊を先鋒として「東路軍」を編制。上虞から奉化へ急行し象山包囲網を解かせる布陣を整えた。 解説【戦略的核心】心理的掌握と資源再配置 - 投降者の活用:「手柄で差別化せよ」→降伏者に昇進機会を与え忠誠心を醸成。洪師簡らを先鋒として内情を知る者を有効利用 - 異民族騎兵の厚遇:流浪していた吐蕃・回鶻族へ家族支援付き恩恵提供→「死力を尽くす」と士気爆発(人材活用の極意) 【情報統制の革新性】
【経済政策と軍事戦略の融合】
【兵力運用の合理性】
『資治通鑑』が描く教訓裴式の手腕は現代マネジメントに通じる原理を示唆する:
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| 又以義成將白宗建、忠武將游君楚、淮南將萬璘帥本軍與台州唐興軍合,號南路軍。令之曰:「毋爭險易,毋焚廬舍,毋殺平民以增首級!平民脅從者,募降之。得賊金帛,官無所問。俘獲者,皆越人也,釋之。」 癸卯,南路軍拔賊沃州寨,甲辰,拔新昌寨,破賊將毛應天,進抵唐興。 白敏中三表辭位,上不許。右補闕王譜上疏,以為:「陛下致理之初,乃宰相盡心之日,不可暫闕。敏中自正月臥疾,今四月矣,陛下雖與他相坐語,未嘗三刻,天下之事,陛下嘗暇與之講論乎!願聽敏中罷去,延訪碩德,以資聰明。」己酉,貶譜為陽翟令。譜,珪之六世孫也。五月,庚戌朔,給事中鄭公輿封還貶譜敕書。上令宰相議之,宰相以為譜侵敏中,竟貶之。 辛亥,浙東東路軍破賊將孫馬騎於寧海。戊午,南路軍大破賊將劉暀、毛應天於唐興南谷,斬應天。 先是,王式以兵少,奏更發忠武、義成軍及請昭義軍,詔從之。三道兵至越州,式命忠武將張茵將三百人屯唐興,斷賊南出之道;義成將高羅銳將三百人,益以台州土軍,逕趨寧海,攻賊巢穴;昭義將□夾跌戣將四百人,益東路軍,斷賊入明州之道。庚申,南路軍大破賊於海游鎮,賊入甬溪洞。戊辰,官軍屯於洞口,賊出洞戰,又破之。己巳,高羅銳襲賊別帥劉平天寨,破之。自是諸軍與賊十九戰,賊連敗。 |
現代日本語訳:さらに、義成軍の将・白宗建(はくそうけん)、忠武軍の将・游君楚(ゆうくんそ)、淮南軍の将・万璘(ばんりん)に命じて、それぞれ率いる本軍と台州唐興軍を合流させ、「南路軍」と号した。命令として下記を厳命した:「険易(地勢の危険さや平坦さ)を争うな。民家を焼くな。首級数を増やすため平民を殺すな!賊に脅されて従った平民は投降を勧めよ。賊から奪った金品・絹織物は、官が没収しない。捕虜のうち越(浙江省)出身者は全員釈放せよ。」 白敏中(はくびんちゅう)が三度辞表を提出したが、皇帝は許可しなかった。右補闕の王譜(おうふ)が上疏して諫言した:「陛下が政治改革を始められるこの時期こそ宰相が全力を尽くすべき時です。欠けることは許されません。敏中は正月から病床にあり、既に四月になります。他の宰相と対座なさっても三刻(約6時間)以上続いた例はなく、天下の大事について議論する暇などあったでしょうか?敏中の辞任を認め、徳高き人材を登用されるよう望みます。」己酉の日、王譜は陽翟県令へ左遷された。彼は名臣・王珪(おうけい)の六世孫である。五月庚戌朔(ついたち)、給事中・鄭公輿(ていこうよ)が王譜左遷の詔書を封還した(差し戻し抗議)。皇帝は宰相に評議させたところ、彼らは「王譜が敏中を誹謗した」と結論し、結局左遷が執行された。 辛亥の日、浙東東路軍が寧海で賊将・孫馬騎(そんばき)を撃破。戊午には南路軍が唐興南谷にて劉暀(りゅうこう)、毛応天らを大破し、応天を斬首した。 これより先、王式(おうしき)は兵力不足により「忠武・義成両軍の増派と昭義軍派遣」を上奏し、詔勅で許可された。三道(三方面)から越州に着陣すると、王式は下記を命じた: 解説:
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| 劉暀謂裘甫曰:「向從吾謀入趙州,寧有此困邪!」王輅等進士數人在賊中,皆衣綠,暀悉斬之,曰:「亂我謀者,此青蟲也!」高羅銳克寧海,收其逃散之民,得七千餘人。王式曰:「賊窘且饑,必逃入海,入海則歲月間未可擒也。」命羅銳軍海口以拒之。又命望海鎮將雲思益、浙西將王克容將水軍巡海澨。思益等遇賊將劉從簡於寧海東,賊不虞水軍遽至,皆棄船走山谷,得其船十七,盡焚之。式曰:「賊無所逃矣,惟黃罕嶺可入剡,恨無兵以守之。雖然,亦成擒矣!」裘甫既失寧海,乃帥其徒屯南陳館下,眾尚萬餘人。辛未,東路軍破賊將孫馬騎於上□村,賊將王皋懼,請降。 壬申,右拾遺內供奉薛調上言,以為:「兵興以來,賦斂無度,所在群盜,半是逃戶,固須翦滅,亦可閔傷。望敕州縣稅外毋得科率,仍敕長吏嚴加糾察。」從之。 袁王紳薨。 戊寅,浙東東路軍大破裘甫於南陳館,斬首數千級,賊委棄繒帛盈路,以緩追者,□夾跌戣令士卒:「敢顧者斬!」毋敢犯者。賊果自黃罕嶺遁去,六月,甲申,復入剡。諸軍失甫,不知所在,義成將張茵在唐興獲俘,將苦之,俘曰:「賊入剡矣。苟捨我,我請為軍導。」從之,茵後甫一日至剡,壁其東南,府中聞甫入剡,復大恐,王式曰:「賊來就擒耳!」命趣東、南兩路軍會於剡,辛卯,圍之,賊城守甚堅,攻之,不能拔,諸將議絕溪水以渴之,賊知之,乃出戰。 |
現代日本語訳:劉暀(りゅうこう)が裘甫(きゅうほ)に言った。「もし私の献策通り趙州へ進軍していたなら、このような窮地には陥らなかっただろう!」王輅(おうろ)ら数人の科挙合格者が賊軍内におり、皆緑色の官服を着ていた。劉暀は彼ら全員を斬首し、「我が計画を乱したのは、これらの青虫(せいちゅう)どもだ!」と叫んだ。 高羅鋭(こうらえい)が寧海を制圧し、逃げ散った民衆七千余人を保護した。王式(おうしき)は言った。「賊は追い詰められ飢えているから、必ず海上へ逃亡するだろう。海に入れば数ヶ月かけての掃討が必要になる」と。直ちに羅鋭軍を海口に配置して防がせると同時に、望海鎮の将・雲思益(うんしい)や浙西の将・王克容(おうこくよう)に水軍を率いて沿岸を巡回させた。思益らは寧海東方で賊将・劉従簡(りゅうじゅうかん)と遭遇した。予想外の水軍出現に驚いた賊兵は船を捨てて山中へ逃走し、十七隻の船舶が官軍の手に落ちたため焼却処分とした。 王式は断言した。「もはや逃げ場はない。黄罕嶺(こうかんれい)から剡県(せんけん)に入る道だけだが、守備兵がいないのが惜しい。とはいえ賊は結局捕まるだろう」と。 寧海を失った裘甫は残党万余りを率いて南陳館に駐屯した。辛未の日、東路軍が上□村で賊将・孫馬騎(そんばき)を撃破すると、同僚の王皋(おうこう)が降伏を申し出た。 壬申の日、右拾遺内供奉(ゆうしゅういないぐほう)薛調(せつちょう)が上奏した。「戦乱発生後、租税徴収に規制がなく各地で蜂起する賊徒の半数は逃亡農民です。殲滅すべきとはいえ哀れみも感じます。各州県に対し正税以外の賦課を禁じ、長官による厳格な監察実施をお命じください」。この建言は採用された。 袁王・李紳(りしん)が薨去(こうきょ)。 戊寅の日、浙東東路軍が南陳館で裘甫軍を壊滅させ数千の首級を得た。賊は追撃を遅らせるため絹布を道路に散乱させたが、□夾跌戣(こうしょうけい)将軍が「戦利品を見る者は斬首!」と厳命したため兵士は一切拾わず、賊は黄罕嶺から逃走した。六月甲申の日、剡県へ再入城する。 諸軍は裘甫の行方を見失ったところ、義成軍の張茵(ちょういん)が唐興で捕虜を得る。拷問しようとすると「賊は剡に入りました。助けて頂ければ道案内します」と言うので従った。茵は裘甫より一日遅れて剡に到着し東南側に布陣したため、役所では再び動揺が広まった。 王式は即座に「賊が自ら捕縛されに来たのだ!」と宣言し、東西両軍へ剡県への急行を命令。辛卯の日に包囲完成するも城壁は堅固で攻略不能となった。諸将が渓流を遮断して水不足に追い込む策を議論すると、賊は察知して出撃してきた。 解説:
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| 三日,凡八十三戰,賊雖敗,官軍亦疲。賊請降,諸將出以白式,式曰:「賊欲少休耳,益謹備之,功垂成矣。」賊果復出,又三戰。庚子夜,裘甫、劉□往、劉慶從百餘人出降,遙與諸將語,離城數十步,官軍疾趨,斷其後,遂擒之,壬寅,甫等至越州,式腰斬暀、慶等二十餘人,械甫送京師。剡城猶未下,諸將已擒甫,不復設備。劉從簡帥壯士五百突圍走,諸將追至大蘭山,從簡據險自守。秋,七月,丁巳,諸將共攻克之。台州刺史李師望募賊相捕斬之以自贖,所降數百人,得從簡首,獻之。諸將還越,式大置酒。諸將乃請曰:「謀等生長軍中,久更行陳,今年得從公破賊,然私有所不諭者,敢問:公之始至,軍食方急,而遽散以賑貧乏,何也?」式曰:「此易知耳,賊聚谷以誘饑人,吾給之食,則彼不為盜矣;且諸縣無守兵,賊至,則倉谷適足資之耳」又問:「不置烽燧,何也?」式曰:「烽燧所以趣救兵也,兵盡行,城中無兵以繼之,徒驚士民,使自潰亂耳。」又問:「使懦卒為候騎而少給兵,何也?」式曰:「彼勇卒操利兵,遇敵且不量力而斗;斗死,則賊至不知矣。」皆拜曰:「非所及也!」 封憲宗子心丐為信王。八月,裘甫至京師,斬於東市。加王式檢校右散騎常侍,諸將官賞各有差。先是,上每以越盜為憂,夏侯孜曰:「王式才有餘,不日告捷矣。 |
現代日本語訳:三日間に八十三回もの戦闘を繰り広げた結果、賊軍は敗走したが官軍も疲弊していた。賊が降伏を申し出ると、諸将は報告のために王式のもとへ赴いた。すると王式は「賊は息抜きしたいだけだ。警戒を強化せよ。勝利は目前である」と言った。案の定、賊は再び現れて三度の戦いが起こった。 庚子(かのえね)の夜、裘甫(きゅうほ)、劉暀(りゅうおう)、劉慶(りゅうけい)ら百余人が降伏のために城外に出た。城から数十歩離れた地点で諸将と対話している最中、官軍が急襲して退路を断ち、彼らを生け捕った。壬寅(みずのえとら)の日、裘甫らは越州に護送されると、王式は劉暀・劉慶ら二十余人を腰斬りにし、裘甫は檻車で長安へ送られた。 剡城(せんじょう)はまだ陥落しておらず、諸将が裘甫を捕えたことで警戒を緩めていた。すると賊将の劉従簡(りゅうじゅうかん)が壮士五百人を率いて包囲網を突破し逃走した。官軍は大蘭山まで追撃したが、劉従簡は険阻な地形に拠って防衛線を築いた。 秋七月丁巳(ひのとみ)の日、諸将が共同攻撃でこれを制圧。台州刺史・李師望(りしぼう)は「賊同士で捕縛・斬首すれば罪を赦す」と呼びかけ、数百人が投降。劉従簡の首級を得て献上した。 越州に帰還した諸将のために王式が盛大な酒宴を開くと、将軍たちが質問した:「我々は戦場で育ち数多の作戦を経験しましたが、今回の公(王式)の指揮には不可解な点があります。まず、着任早々に兵糧が逼迫している中で貧民へ食糧を分配されたのは何故ですか?」 憲宗の子・李忱(りしん)が信王に封ぜられた。八月、裘甫が長安に到着すると東市で斬首された。王式には検校右散騎常侍の官位が加わり、諸将もそれぞれ功績に応じて賞を受けた。事の発端として皇帝(宣宗)は越州の反乱を憂慮していたが、夏侯孜(かこうじ)が「王式の才覚なら間もなく捷報がある」と述べていた。 解説:
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| 」孜與式書曰:「公專以執裘甫為事,軍須細大,此期悉力。」故式所奏求無不從,由是能成其功。 衛王灌薨。 九月,白敏中五上表辭位,辛亥,以敏中為司徒、中書令。 癸酉,右拾遺句容劉鄴上言:「李德裕父子為相,有聲跡功效,竄逐以來,血屬將盡,生涯已空,宜賜哀閔,贈以一官。」冬,十月,丁亥,敕復李德裕太子少保、衛國公,贈左僕射。 乙亥,以門下侍郎、同平章事夏侯孜同平章事,充西川節度使。以戶部尚書、判度支畢諴為禮部尚書、同平章事。 安南都護李鄠復取播州。 十一月,丁丑,上祀圓丘;赦,改元。 十二月,戊申,安南土蠻引南詔兵合三萬餘人乘虛攻交趾,陷之。都護李鄠與監軍奔武州。 懿宗昭聖恭惠孝皇帝上咸通二年(辛巳,公元八六一年) 春,正月,詔發邕管及鄰道兵救安南,擊南蠻。 二月,以中書令白敏中兼中書令,充鳳翔節度使;以左僕射、判度支杜悰兼門下侍郎、同平章事。 一日,兩樞密使詣中書,宣徽使楊公慶繼至,獨揖悰受宣,三相起,避之西軒。公慶出斜封文書以授悰,發之,乃宣宗大漸時宦官請鄆王監國奏也,且曰:「當時宰相無名者,當以反法處之。」悰反覆讀良久,曰:「聖主登極,萬方欣戴。今日此文書,非臣下所宜窺。」復封以授公慶,曰:「主上欲罪宰相,當於延英面示聖旨,明行誅譴。 |
現代日本語訳:孜は式に書簡を送りこう述べた。「貴公は裘甫捕縛に専念しつつも、軍需物資の大小にかかわらず締切までに全力を尽くせ」。このため式が上奏で求めることは全て認められ、これによって功績を成し遂げることができた。 衛王灌が逝去した。 九月、白敏中が五度辞任を願い出て、辛亥の日(16日)に敏中を司徒・中書令とした。 癸酉の日(10月8日)、右拾遺句容出身の劉鄴が上奏:「李徳裕父子は宰相として功績を上げました。流刑後、親族はほぼ絶え生活基盤も失われています。哀れみを示し官職を追贈すべきです」。冬十月丁亥(22日)、勅命で李徳裕の太子少保・衛国公の位を回復し左僕射を追贈した。 乙亥の日(10月10日)、門下侍郎・同平章事夏侯孜に西川節度使として同平章事を兼任させた。戸部尚書・判度支畢諴を礼部尚書・同平章事とした。 安南都護李鄠が播州を奪還した。 十一月丁丑(13日)、皇帝は円丘で祭祀を行い大赦令を発布、元号を改めた。 十二月戊申(14日)、安南の土着勢力が南詔軍と結託し三万余人で虚をつき交趾を攻撃・占領。都護李鄠と監軍は武州へ敗走した。 懿宗昭聖恭恵孝皇帝 咸通二年(辛巳、861年) 春正月、邕管及び周辺地域から援軍を派遣し安南救援と南蛮討伐を命じる詔勅が発せられた。 二月、中書令白敏中に鳳翔節度使を兼任させた。左僕射・判度支杜悰に門下侍郎・同平章事を兼任させた。 ある日、二人の枢密使が中書省を訪れた後、宣徽使楊公慶が到着し単独で杜悰に詔旨伝達を示唆。他の三名の宰相は西軒へ退避した。楊公慶が非公式文書(斜封文書)を渡すと、開封するとそれは宣宗危篤時に宦官が鄆王監国を求めた上奏文で、「署名なき当時の宰相らを謀反罪で処罰せよ」との付記があった。杜悰は長く文面を検討し「聖主即位を天下が歓迎する中、この文書を見るのは臣下の本分に反します」と述べ、封印して返却。「陛下が宰相を罰するなら延英殿で直接ご旨意を示され公開処断すべきです」。 解説:
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| 」公慶去,悰復與兩樞密坐,謂曰:「內外之臣,事猶一體,宰相、樞密共參國政。今主上新踐祚,未熟萬機,資內外裨補,固當以仁愛為先,刑殺為後,豈得遽贊成殺宰相事!若主上習以性成,則中尉、樞密權重禁闈,豈得不自憂乎!悰受恩六朝,所望致君堯、舜,不欲朝廷以愛憎行法。」兩樞密相顧默然,徐曰:「當具以公言白至尊,非公重德,無人及此。」慚悚而退。三相復來見悰,微請宣意,悰無言,三相惶怖,乞存家族,悰曰:「勿為他慮。」既而寂然,無復宣命。及延英開,上色甚悅。是時士大夫深疾宦官,事有小相涉,則眾共棄之,建州進士葉京嘗預宣武軍宴,識監軍之面;既而及第,在長安與同年出遊,遇之於塗,馬上相揖;因之謗議喧然,遂沉廢終身,其不相悅如此。 福王綰薨。 夏,六月,癸丑,以鹽州防禦使王寬為安南經略使,時李鄠自武州收集土軍,攻群蠻,復取安南,朝廷責其失守,貶儋州司戶。鄠初至安南,殺蠻酋杜守澄,其宗黨遂誘道群蠻陷交趾,朝廷以杜氏強盛,務在姑息,冀收其力用,乃贈守澄父存誠金吾將軍,再舉鄠殺守澄之罪,長流崖州。 秋,七月,南蠻攻邕州,陷之。先是,廣、桂、容三道共發兵三千人戍邕州,三年一代。經略使段文楚請以三道衣糧自募土軍以代之,朝廷許之,所募才得五百許人。 |
現代日本語訳公慶が退出した後、杜悰(とそう)は二人の枢密使(皇帝側近の宦官高官)と再び席につき、こう述べた:「朝廷内外の臣下は一体として事に当たるべきであり、宰相と枢密使は共同で国政を参画するものです。今や新帝が即位されたばかりで万機(政務)に未熟なため、内外からの補佐が必要です。(政治とは)仁愛を優先し刑罰・殺戮は後回しにするのが当然であり、どうして急いで宰相の処刑を支持できましょうか!もし主君がそのような性質をお持ちならば、中尉(宦官長官)や枢密使のような禁中の重職にある方々こそ、ご自身の身を案じるべきではありませんか。私は六代の皇帝から恩寵を受けた者として、君主を堯・舜のような聖王に導くことを望み、朝廷が私情で法を執行するのは好ましくない」と。二人の枢密使は顔を見合わせて黙り込み、しばらくして「貴公の言葉をそのまま天子へ伝えましょう。貴公ほどの重臣でなければこのような意見は出せません」と言い、恥じ入りながら退出した。 その後、三人の宰相が杜悰のもとを訪れ、ひそかに意向を探ろうとした。杜悰は何も語らず、彼らは恐怖に震えて家族救済を懇願すると、「余計な心配をするな」と言われた。やがて沈黙が続き、処刑命令は下されなかった。延英殿(皇帝との会議場)で天子と対面した際、帝の表情は穏やかであった。 当時、士大夫階級は宦官を激しく憎悪しており、些細な関わりがあれば共同で排斥した。建州出身の進士・葉京(ようけい)が宣武軍の宴席で監軍宦官と面識を持った後、科挙合格時に長安で同期たちと出かけたところ路上でその宦官に出会い、馬上から挨拶を交わしただけで激しい非難を受けて失脚し、一生不遇に終わるという事例があった。両者の対立はこのような深刻さだったのである。 福王・李綰(りえん)が逝去。 秋7月、南蛮が邕州(現在の南寧付近)を攻撃し陥落させた。これ以前から広・桂・容三道は総勢3千人の兵士を派遣して三年交替制で防衛に当たらせていたが、経略使段文楚(だんぶんそ)が「現地軍を独自募集し正規軍と代替させる」方針を朝廷に認めさせた。しかし実際の採用数はわずか約500名であった。 解説1.政治構造:宦官権力への警鐘
2.辺境政策の矛盾
3.歴史的意義本節には『資治通鑑』編纂者・司馬光の核心的主張が凝縮:
- 杜悰成功例:個人の徳望と道理に基づく諫言が暴走を阻止しうる可能性(理想的君主補佐像)
- 失敗教訓 > 全体として中唐期に顕著となった「宦官権力」と「辺境統制機能喪失」という二大課題に対し、為政者の資質・判断が国家命運を分かつことを示す警告録と言えよう。 Translation took 2415.0 seconds. |
| 文楚入為金吾將軍,經略使李蒙利其闕額衣糧以自入,悉罷遣三道戍卒,止以所募兵守左、右江,比舊什減七八,故蠻人乘虛入寇。時蒙已卒,經略使李弘源至鎮才十日,無兵以御之,城陷,弘源與監軍脫身奔蠻州,二十餘日,蠻去,乃還。弘源坐貶建州司戶。文楚時為殿中監,復以為邕管經略使,至鎮,城邑居人什不存一。文楚,秀實之孫也。 杜悰上言:「南詔向化七十年,蜀中寢兵無事,群蠻率服。今西川兵食單寡,未可輕與之絕,且應遣使弔祭,曉諭清平官等以新王名犯廟諱,故未行冊命,待其更名謝恩,然後遣使刪命,庶全大體。」上從之。命左司郎中孟穆為弔祭使。未發,會南詔寇巂州,攻邛崍關,穆遂不行。 冬,十月,以御史大夫鄭涯為山南東道節度使。十一月,加同平章事。 懿宗昭聖恭惠孝皇帝上咸通三年(壬午,公元八六二年) 春,正月,庚寅朔,群臣上尊號曰睿文明聖孝德皇帝。赦天下。 以中書侍郎、同平章事蔣伸同平章事,充河中節度使。 二月,棣王惴薨。 南詔復寇安南,經略使王寬數來告急,朝廷以前湖南觀察使蔡襲代之,仍發許、滑、徐、汴、荊、襄、潭、鄂等道兵各三萬人授襲以御之。兵勢既盛,蠻遂引去。邕管經略使段文楚坐變更舊制,左遷威衛將軍、分司。 左庶子蔡京,性貪虐多詐,時相以為有吏才,奏遣制置嶺南事。 |
現代日本語訳:文楚が朝廷に召されて金吾将軍となった後、経略使李蒙は兵士の欠員分の給与や食糧を着服するため、三道(地域)の守備兵を全て解任・帰還させた。代わりに募集した新兵だけを左右両江流域の防衛に当たらせた結果、従来の兵力より7~8割も削減された。これにより蛮族が虚をついて侵攻してきた。当時李蒙は既に死去しており、後任の経略使李弘源が赴任したのはわずか10日前であったため防衛軍を組織できず、城は陥落した。李弘源と監軍は命からがら蛮州へ逃亡し、20日余り後に蛮族が撤退してようやく帰還したが、責任を問われ建州司戸に左遷された。 一方文楚(先述の段秀実の孫)は当時殿中監(宮廷監督官)であったが、再び邕管経略使として現地へ赴任。城壁内には以前の1割にも満たない住民しか残っていなかった。 杜悰が上奏した:「南詔(雲南地方の政権)は70年間唐朝に帰順し続け、蜀地域では戦乱もなく周辺蛮族も従ってきました。しかし現在、西川は兵糧共に不足していますので軽率な断交は避けるべきです。まず使者を派遣して哀悼を示しつつ清平官(南詔宰相)らに対し『新国王の名が先帝の諱と重なるため正式な冊封を見合わせている』と説明すべきでしょう。彼らが改名して謝恩した後に改めて冊封使を送れば、朝廷の体面も保てます」。皇帝はこれを受け入れ左司郎中孟穆を弔祭使に任命したが、派遣前に南詔軍が巂州(現四川省)へ侵攻し邛崍関を攻撃したため計画は中止された。 冬10月:御史大夫鄭涯が山南東道節度使に就任。 11月:同平章事(宰相職)を加授される。 懿宗皇帝・咸通3年(壬午/西暦862年) 春正月庚寅朔日(1日):群臣が「睿文明聖孝徳皇帝」の尊号を奉呈。天下に大赦令発布。 中書侍郎で同平章事だった蒋伸は同職のまま河中節度使となる。 2月:棣王李惴薨去(死去)。 南詔が再び安南都護府へ侵攻したため、経略使王寬から頻繁に救援要請があった。朝廷は前任の湖南観察使蔡襲を後任とし、許州・滑州・徐州・汴州・荊州・襄陽・潭州・鄂州などから各3万ずつ兵を集め防衛軍として付与した。大軍の威圧に蛮族は撤退するが、邕管経略使段文楚は「旧制変更」の咎で左遷され威衛将軍・分司(名誉職)となった。 左庶子蔡京は貪欲かつ残忍で狡猾な人物だったが、時の宰相から行政能力を高く評価され、「嶺南事案処理特使」として派遣されることになった。 解説:
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| 三月,京還,奏事稱旨,復以京權知太僕卿,充荊襄以南宣慰安撫使。 夏,四月,己亥朔,敕於兩街四寺各置戒壇,度人三七日。上奉佛太過,怠於政事,嘗於咸泰殿築壇為內寺尼受戒,兩街僧、尼皆入預;又於禁中設講席,自唱經,手錄梵夾;又數幸諸寺,施與無度。吏部侍郎蕭倣上疏,以為:「玄祖之道,慈儉為先;素王之風,仁義為首,垂范百代,必不可加。佛者,棄位出家,割愛中之至難,取滅後之殊勝,非帝王所宜慕也。願陛下時開延英,接對四輔,力求人瘼,虔奉宗祧。思繆賞與濫刑,其殃必至;知勝殘而去殺,得福甚多。罷去講筵,躬勤政事。」上雖嘉獎,竟不能從。 嶺南舊分五管,廣、桂、邕、容、安南,皆隸嶺南節度使;蔡京奏請分嶺南為兩道節度,從之。五月,敕以廣州為東道,邕州為西道,又割桂管龔、像二州,容管籐、巖二州隸邕管。尋以嶺南節度使韋宙為東道節度使,以蔡京為西道節度使。 蔡襲將諸道兵在安南,蔡京忌之,恐其立功,奏稱:「南蠻遠遁,邊徼無虞,武夫邀功,妄占戍兵,虛費饋運。蓋以荒陬路遠,難於覆驗,故得肆其奸詐。請罷戍兵,各還本道。」朝廷從之。襲累奏稱群蠻伺隙日久,不可無備,乞留戍兵五千人。不聽。襲以蠻寇必至,交趾兵食皆闕,謀力兩窮,作十必死狀申中書。時相信京之言,終不之省。 |
現代日本語訳三月、蔡京が帰還し報告を行ったところ、その内容は皇帝の意に適うものであったため、再び彼を太僕卿代理とし、荊襄以南宣慰安撫使として派遣した。 夏四月一日(己亥)、勅令により長安の左右街四寺院それぞれに戒壇を設置し、二十一日間の出家許可期間を設けた。皇帝は仏教への傾倒が過度で政務を怠り、咸泰殿に壇を築いて宮中の尼僧へ授戒を行い、両街の僧侶や尼僧全員を参加させた。さらに禁中で講義座席を設け自ら経典を唱え、梵語典籍を手書きし、頻繁に諸寺を訪れて無制限な布施を与えた。吏部侍郎蕭倣は上疏して諫めた。「老子の教えは慈愛と倹約を第一とし、孔子の思想は仁義を根本とする。これらは百代に範を示すものであり、これを超えるものはありません。仏教徒は地位を捨て出家し、最も困難な愛情断ちを実践し、死後の特別なる境地を得ようとしますが、これは帝王が慕うべき道ではありません。願わくば陛下には時折延英殿を開き重臣らと議論され、民の苦難に心を配り、皇室祭祀を謹んでお守りください。誤った恩賞や濫刑は必ず災いをもたらし、暴虐を除き殺伐を減らせば福が多くもたらされます。どうか講釈を止め、自ら政務に励まれることを」。皇帝は称賛こそしたものれども、結局従うことはなかった。 嶺南地方は旧来「五管」(広州・桂州・邕州・容州・安南)として一括管理されていたが、蔡京の奏上により嶺南節度使を東西二道に分割することが承認された。五月、勅令で広州を東道、邕州を西道と定め、さらに桂管から龔州・象州、容管から藤州・巖州を割いて邕管へ編入した。まもなく嶺南節度使韋宙が東道節度使に、蔡京は西道節度使となった。 安南には蔡襲が諸道の軍勢を率いて駐屯していたが、蔡京はこれを嫉み、彼の功績を恐れて上奏した。「蛮族は遠く逃亡し国境は安全です。武人が手柄欲しさに虚偽報告で兵士を留め置き、糧秣を無駄遣いしています。辺境地が遠方にあるため実態確認が困難なのを利用し、不正を行っているのです」。朝廷はこれを認めて撤兵を命じた。蔡襲は「蛮族が機会を狙っており防備が必要」と再三奏上し五千名の駐留継続を嘆願したが聞き入れられなかった。やむなく蔡襲は必ず蛮寇が来襲すること、交趾(安南)では兵力・食糧共に不足して戦略的窮境にあることなどを記した「十項の必死状」を作成し中書省へ提出した。だが当時の宰相らは蔡京を信じたため、全く顧みられなかった。 解説
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| 秋,七月,徐州軍亂,逐節度使溫璋。初,王智興既得徐州,募勇悍之士二千人,號銀刀、雕旗、門槍、挾馬等七軍,常以三百餘人自衛,露刃坐於兩廡夾幕之下,每月一更。其後節度使多儒臣,其兵浸驕,小不如意,一夫大呼,其眾皆和之,節度使輒自後門逃去。前節度使田牟至與之雜坐飲酒,把臂拊背,或為之執板唱歌。犒賜之費,日以萬計,風雨寒暑,復加勞來,猶時喧嘩,邀求不已。牟薨,璋代之,驕兵素聞璋性嚴,憚之。璋開懷慰撫,而驕兵終懷猜忌,賜酒食皆不歷口,一旦,竟聚噪而逐之。朝廷知璋無辜,乙亥,以璋為邠寧節度使,以浙東觀察使王式為武寧節度使。 以前西川節度使、同平章事夏侯孜為左僕射、同平章事。 忠武、義成兩軍從王式討裘甫者猶在浙東,詔式帥以赴徐州,驕兵聞之,甚懼。八月,式至大彭館,始出迎謁。式視事三日,饗兩鎮將士,遣還。既擐甲執兵,命圍驕兵,盡殺之,銀刀都將邵澤等數千人皆死。甲子,敕以徐州先隸淄青道,李洧自歸,始置徐海使額。及張建封以威名寵任,特帖濠、泗二州。當時本以控扼淄青、光蔡。自寇孽消弭,而武寧一道職為亂階。今改為徐州團練使,隸兗海節度。復以濠州歸淮南道,更於宿州置宿泗都團練觀察使。留將士二千人守徐州,餘皆分隸兗、宿。且以王式為武寧節度使,兼徐、泗、濠、宿制置使。 |
【現代日本語訳】秋七月、徐州で兵乱が起こり、節度使の温璋を追放した。 当初、王智興が徐州を得た際に勇猛な兵士二千人を募集し、「銀刀」「雕旗」「門槍」「挾馬」など七つの軍団と称していた。常に三百余人で自衛し、両側の廊下や幕舎の下で剣を抜いて控え、毎月交代させた。 その後、節度使には文人が多く任じられると、兵士たちは次第に横暴になった。少しでも気に入らぬことがあると一人が大声をあげれば集団で同調し、節度使は裏門から逃亡するのが常だった。前任の田牟に至っては彼らと雑座して酒宴を開き、腕を組んだり背中を叩いたり、自ら拍子木を持って歌うことさえあった。 慰労金は日に一万銭も費やし、風雨寒暑の際にはさらに手当てを与えたが、兵士たちは依然として騒ぎ立て要求を続けた。田牟が没すると温璋が後任となった。横暴な兵卒らはかねてより温璋の厳格さを知り恐れていた。温璋は心を開いて慰撫したものの、彼らは猜疑心を持ち続け、賜る酒食にすら口をつけなかった。 ある日ついに集団で騒ぎ出し温璋を追放した。朝廷は温璋が無実と知り、乙亥(八月三日)、邠寧節度使に転任させると共に浙東観察使の王式を武寧節度使に任命した。 元西川節度使・同平章事であった夏侯孜を左僕射・同平章事に任じた。 王式による裘甫討伐軍から残留していた忠武・義成両軍が浙東にいたため、詔勅で徐州へ向かうよう命じると、横暴な兵士らはこれを聞き大いに恐れた。八月、王式が大彭館に到着すると初めて出迎えた。 王式は就任三日目に両軍の将士を饗応し帰還させた後、直ちに甲冑と武器で武装させて暴兵包囲を命じ、数千人を皆殺しにした。銀刀都将・邵沢らも死亡した。 甲子(八月二十二日)、詔勅が下る:徐州は元々淄青道に属していたが李洧の帰順後徐海使を設置。張建封が威名により濠州・泗州二州を管轄し、当時は淄青と光蔡(藩鎮)を押さえる要衝であった。 しかし賊徒が滅んだ今では武寧道こそ乱の根源となった。よって徐州団練使に改め兗海節度使の下へ隷属させる。濠州は淮南道へ帰属させ、宿州には新たに宿泗都団練観察使を設置する。 将士二千人だけ徐州残留とし他は兖州・宿州に分属。王式を武寧節度使兼徐・泗・濠・宿制置使とする。 【解説】
※注:原文の干支(乙亥・甲子)については『二十史朔閏表』により西暦換算を付記した(当該年は862年)。「裘甫討伐」は859-860年に発生した浙東農民反乱。 Translation took 939.9 seconds. |
| 委式與監軍楊玄質分配將士赴諸道訖,然後將忠武、義成兩道兵至汴滑,各遣歸本道,身詣京師。其銀刀等軍逃匿將士,聽一月內自首,一切勿問。 嶺南西道節度使蔡京為政苛慘,設砲烙之刑,闔境怨之,遂為邕州軍士所逐,奔籐州,詐為敕書及攻討使印,募鄉丁及旁側土軍以入邕州。眾既烏合,會輒潰敗,往依桂州,桂州人怨其分裂,不納。京無所自容。敕貶崖州司戶,不肯之官,還,至零陵,敕賜自盡。以桂管觀察使鄭愚為嶺南西道節度使。 冬,十月,丙申朔,立皇子佾為魏王,侹為涼王,佶為蜀王。 十一月,立順宗子緝為蘄王,憲宗子憤為榮王。 南詔帥群蠻五萬寇安南,都護蔡襲告急,敕發荊南、湖南兩道兵二千,桂管義征子弟三千,詣邕州受鄭愚節度。 嶺南東道節度使韋宙奏:「蠻寇必向邕州,若不先保護,遽欲遠征,恐蠻於後乘虛扼絕餉道。」乃敕蔡襲屯海門,鄭愚分兵備御。十二月,襲又求益兵,敕山南東道發弩手千人赴之。時南詔已圍交趾,襲嬰城固守,救兵不得至。 翼王彈薨。 是歲,嗢末始入貢。嗢末者,吐蕃之奴號也。吐蕃每發兵,其富室多以奴從,往往一家至十數人,由是吐蕃之眾多。及論恐熱作亂,奴多無主,遂相糾合為部落,散在甘、肅、瓜、沙、河、渭、岷、廓、疊、宕之間。吐蕃微弱者反依附之。 |
現代日本語訳李委式と監軍の楊玄質は将兵を諸道へ配分した後、自ら忠武・義成両道の軍隊を率いて汴滑(べんかつ)に到着し、各々を本来の管轄地域に帰還させると、自身は京師に向かった。銀刀軍などで逃亡していた将士については、一ヶ月以内の自首を認め、一切の罪を問わない旨を通達した。 嶺南西道節度使蔡京(さいけい)は苛酷な統治を行い、炮烙(ほうらく)の刑を用いたため領内全体から怨みを買い、邕州軍兵により追放された。藤州へ逃亡した彼は偽造勅書と攻討使印を作成し、郷土部隊や周辺地域の軍隊を募って邕州奪還を図ったが、烏合の衆だったためたちまち敗走した。桂州に逃れたものの、領地分割政策への恨みから受け入れられず行き場を失い、勅命で崖州司戸へ左遷された後も赴任せず零陵(現在の湖南省永州市)で自尽を賜った。その後、桂管観察使鄭愚が嶺南西道節度使に任命された。 冬十月一日(丙申朔)、皇子佾(いつ)を魏王に、侹(てい)を涼王に、佶(きつ)を蜀王に封じた。 十一月には順宗の子・緝(しゅう)を蘄王に、憲宗の子・憤(ふん)を栄王とした。 南詔が五万の蛮族軍勢で安南(ベトナム北部)へ侵攻すると、都護蔡襲は救援要請を行った。勅命により荊南道と湖南道から兵二千、桂管地域の義勇兵三千を動員し邕州に集結させ鄭愚の指揮下に入れた。 嶺南東道節度使韋宙(いちゅう)が上奏:「蛮軍は必ず邕州へ向かいます。まず現地防衛を固めず遠征すれば、背後から補給路を断たれる危険あり」と指摘したため、蔡襲には海門駐屯命令が出され鄭愚も分遣隊で守備態勢を整えた。十二月に蔡襲が増援要請すると山南東道から弩手千人を派遣したものの、この時点で交趾(こうし/ハノイ)は包囲下にあり救援軍は到着できなかった。 翼王李彈(りたん)薨去す。 同年、嗢末族が初めて朝貢。彼らは吐蕃(とばん)の奴隷身分出身で、富裕層が出兵時に多数を帯同したため戦力拡大に寄与していた。論恐熱の乱後、主人を失った奴隸たちが甘粛・河州地域で部族連合を形成し、弱体化した吐蕃勢力は逆に彼らへの依存を深めた。 注釈解説
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| 懿宗昭聖恭惠孝皇帝上咸通四年(癸未,公元八六三年) 春,正月。庚午,上祀圓丘;赦天下。 是日,南詔陷交趾。蔡襲左右皆盡,徒步力戰,身集十矢,欲趣監軍船,船已離岸,遂溺海死。幕僚樊綽攜其印浮度江。荊南、江西、鄂岳、襄州將士四百餘人,走至城東水際,荊南虞候元惟德等謂眾曰:「吾輩無船,入水則死,不若還向城與蠻鬥,人以一身易二蠻,亦為有利。」遂還向城,入東羅門。蠻不為備;惟德等縱兵殺蠻二千餘人。逮夜,蠻將楊思縉始自子城出救之,惟德等皆死。南詔兩陷交趾,所殺虜且十五萬人。留兵二萬,使思縉據交趾城。谿洞夷獠無遠近皆降之。詔諸道兵赴安南者悉召還,分保嶺南東、西道。 上游宴無節,左拾遺劉蛻上疏曰:「今西涼築城,應接未決於與奪。南蠻侵軼,干戈悉在於道塗。旬月以來,不為無事。陛下不形憂閔以示遠近,則何以責其死力!望節娛游,以待遠人乂安,未晚。」弗聽。 二月,甲午朔,上歷拜十六陵。 置天雄軍天秦州,以成、河、渭三州隸焉。以前左金吾將軍王晏實為天雄觀察使。 三月,歸義節度使張義潮奏自將蕃、漢兵七千克復涼州。 南蠻寇左、右江,浸逼邕州。鄭愚懼,自言儒臣無將略,請任武臣。朝廷召義武節度使康承訓詣闕,欲使之代愚,仍詔選軍校數人、士卒數百人自隨。 |
翻訳本文(『資治通鑑』咸通四年より)懿宗昭聖恭惠孝皇帝・上巻 咸通四年(癸未、西暦863年) 春正月庚午の日、皇帝は円丘で天を祀り、天下に恩赦を行った。 この同じ日、南詔軍が交趾を陥落させた。蔡襲の配下は全滅し、彼自身も徒歩で奮戦したが全身に十本の矢を受け、監軍船へ向かおうとしたところ船は既に出航しており、海に溺れ死んだ。幕僚の樊綽は官印を携えて川を漂流しながら渡った。荊南・江西・鄂岳・襄州出身の将兵400余名が城東の水際まで退却した時、荊南虞候の元惟徳らは衆に告げた「我々には船がない。水に入れば確実な死だ。いっそ戻って蛮族と戦おう。一人で二蛮を倒せば儲けものだ」と。そこで東羅門から城へ突入した。南詔軍が無警戒だったため、惟徳らは兵を奮って二千余人の蛮兵を殺害した。夜になって蛮将・楊思縉が子城から救援に現れ、惟徳らは全員戦死した。南詔は二度交趾を陥落させ、殺戮もしくは捕虜とした者は十五万に及んだ。二万の兵を残留させて思縉に交趾城を守備させた。谿洞夷獠(辺境部族)は距離を問わず全て降伏した。朝廷は安南へ派遣された諸道の軍隊に対し全軍撤退を命じ、嶺南東道・西道に分かれて防衛にあたらせた。 皇帝の遊宴には節度がなく、左拾遺・劉蛻が上疏した「今や西方では城塞建設(と吐蕃対策)の方針も定まらず、南方では蛮族の侵攻により戦火が道路を覆っております。この数ヶ月、事態は深刻ですのに陛下が憂慮を示されなければ、どうして将兵に命懸けの奮闘を求められましょうか? 遠征軍が安定するまで遊興を控えられるべきです」。しかし聞き入れられなかった。 二月甲午朔(1日)、皇帝は歴代十六陵を参拝した。 秦州に天雄軍を設置し、成・河・渭の三州をその管轄下とした。前左金吾将軍・王晏実を天雄観察使に任命した。 三月、帰義節度使・張議潮が自ら蕃漢兵七千を率いて涼州を奪還したと上奏した。 南蛮軍が左右江流域を侵し、邕州へ迫った。鄭愚(嶺南西道観察使)は恐れおののき「文官である自分に将帥の才なし」として武官の派遣を要請。朝廷は義武節度使・康承訓を召還して後任とし、さらに軍校数名と士卒数百人を随行させるよう詔勅を下した。 解説
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| 中書侍郎、同平章事畢諴以同列多徇私不法,稱疾辭位。夏,四月,罷為兵部尚書。 庚戌,群盜入徐州,殺官吏。刺史曹慶討平之。 康承訓至京師,以為嶺南西道節度使,發荊、襄、洪、鄂四道兵萬人與之俱。 五月,戊辰,以翰林學士承旨、兵部侍郎楊收同平章事。收,發之弟也,與左軍中尉楊玄價敘同宗相結,故得為相。 乙亥,廢容管,隸嶺南西道,以供軍食,復以龔、像二州隸桂管。 戊子,以門下侍郎、同平章事杜審權同平章事,充鎮海節度使。 六月,廢安南都護府,置行交州於海門鎮;以右監門將軍宋戎為行交州刺史,以康承訓兼領安南及諸軍行營。 閏月,以門下侍郎、同平章事杜悰同平章事,充鳳翔節度使;以兵部侍郎、判度支河南曹確同平章事。 秋,七月,辛卯朔,日有食之。 復置安南都護府於行交州,以宋戎為經略使;發山東兵萬人鎮之。時諸道兵援安南者屯聚嶺南,江西、湖南饋運者皆溯湘江入澪渠、漓水,勞費艱澀,諸軍乏食。潤州人陳磻石上言,請造千斛大舟,自福建運米泛海,不一月至廣州,從之,軍食以足。然有司以和雇為名,奪商人舟,委其貨於岸側,舟入海或遇風濤沒溺,有司囚系綱吏、舟人,使償其米,人頗苦之。 八月,嶺南東道節度使韋宙奏,蠻必向邕州,請分兵屯容、籐州。 夔王滋薨。 |
現代日本語訳:中書侍郎・同平章事の畢諴は、同僚の多くが私情に流され法を犯すことを理由に病気と称して辞任した。夏4月、兵部尚書へ左遷された。 庚戌(かのえいぬ)の日、賊軍が徐州に侵入し官吏を殺害。刺史の曹慶が討伐平定した。 康承訓が長安に到着すると、嶺南西道節度使に任命され、荊州・襄州・洪州・鄂州から1万の兵を与えられ赴任した。 5月戊辰(つちのえたつ)の日、翰林学士承旨兼兵部侍郎の楊收が同平章事となった。楊收は楊発の弟で、左神策軍中尉の楊玄価と同族関係を結んだため宰相になれた。 乙亥(きのとい)の日、容管を廃止し嶺南西道に統合して軍糧を供給させた。また龔州・象州を桂管に編入した。 戊子(つちのえね)の日、門下侍郎・同平章事杜審権が鎮海節度使を兼任した。 6月、安南都護府を廃止し海門鎮に行交州を設置。右監門将軍宋戎を行交州刺史とし、康承訓に安南及び諸軍行営の統括を兼務させた。 閏月、門下侍郎・同平章事杜悰が鳳翔節度使へ転出。兵部侍郎で判度支の河南出身者曹確が同平章事となった。 秋7月辛卯朔(かのえぼうさく)の日、日食があった。 行交州に安南都護府を再設置し宋戎を経略使とした。山東から兵1万を派遣して駐屯させた。当時、諸道からの援軍は嶺南に集結していたが、江西・湖南からの補給物資は湘江→霊渠→漓水のルートで運ばれ労費が膨大だったため各軍は食糧不足となった。潤州出身の陳磻石が「千斛積載可能な大型船を建造し福建から海路で広州へ米を輸送すべし(1ヶ月未満で到達可)」と上奏し採用されたことで兵糧は充足した。しかし役人は「雇用契約」名目で商人の船を強奪し荷物を岸に放棄させたため、航行中に遭難する例が続出。役人は運送責任者や船員を拘束して米の賠償を命じたため人々は困窮した。 8月、嶺南東道節度使韋宙が「蛮族は必ず邕州へ侵攻する」と上奏し容州・籐州への分兵駐屯を要請した。 夔王李滋が逝去。 解説:
※本訳文では「節度使」「刺史」等の役職名は原語のまま使用し、現代日本語で理解可能な範囲での漢字表記を採用した。『資治通鑑』原文に特徴的な干支紀日も日本の暦文化と共通性が高いため保持している。 Translation took 848.7 seconds. |
| 敕以閣門使吳德應等為館驛使。台諫上言:故事,御史巡驛,不應忽以內臣代之。上諭以敕命已行,不可復改。左拾遺劉蛻上言:「昔楚子縣陳,得申叔一言而復封之;太宗發卒修乾元殿,聞張玄素諫,即日罷之。自古明君所尚者,從諫如流,豈有已行而不改!且敕自陛下出之,自陛下改之,何為不可!」弗聽。 黠戛斯遣其臣合伊難支表求經籍及每年遣使走馬請歷,又欲討回鶻,使安西以來悉歸唐,不許。 冬,十月,甲戌,以長安尉、集賢校理令狐滈為左拾遺。乙亥,左拾遺劉蛻上言:「滈專家無子弟之法,布衣行公相之權。」起居郎張雲言:「滈,父綯用李涿為安南,致南蠻至今為梗,由滈納賄,陷父於惡。」十一月,丁酉,雲復上言:「滈,父綯執政之時,人號『白衣宰相』。」滈亦上表引避,乃改詹事府司直。 辛巳,廢宿泗觀察使,復以徐州為觀察府,以濠、泗隸焉。 十二月,南詔寇西川。 昭義節度使沈詢奴歸秦,與詢侍婢通,詢欲殺之,未果。乙酉,歸秦結牙將作亂,攻府第,殺詢。 懿宗昭聖恭惠孝皇帝上咸通五年(甲申,公元八六四年) 春,正月,以京兆尹李蠙為昭義節度使,取歸秦心肝以祭沈詢。 淮南節度使令狐綯為其子滈訟冤。貶張雲興元少尹,劉蛻華陰令,赦曰:「雖嘉蹇諤之忠,難逃疏易之責。」 丙午,西川奏,南詔寇巂州,刺史喻士珍破之,獲千餘人。 |
現代日本語訳:朝廷より閣門使の呉徳応らを館駅使に任命する勅令が出された。これに対し諫官たちが上奏して反論した。「先例では御史が駅伝(宿駅)を巡察すべきであり、突然宦官で代えるのは妥当ではありません」。しかし皇帝は「勅命は既に出ているので変更できない」と却下した。左拾遺の劉蛻がさらに進言:「昔,楚王が陳国を県にしようとした際,申叔時の諫言で翻意し封国を回復させた例があります。また太宗皇帝(李世民)が乾元殿修復のため兵士を動員しようとした時も,張玄素の諫めを受けて即日中止しました。歴代の名君は『諫言に素直に従う』ことを尊び,既に出した命令でも改めるのです!まして勅令は陛下が発し,陛下自ら修正されればよいのではないか」。だが皇帝は聞き入れなかった。 黠戛斯(キルギス)国が使者・合伊難支を遣わし経典書籍の下賜と毎年の暦交付を要請。さらに「回鶻討伐後,安西域以東を唐に帰属させたい」と申し出たが,朝廷は拒否した。 冬10月甲戌(15日),長安尉で集賢校理の令狐滈を左拾遺に任命。翌乙亥(16日)に劉蛻が上奏:「滈は一族独占禁止の規則を無視し,平民身分でありながら宰相級の権限を行使している」。起居郎・張雲も「滈の父・令狐綯が李涿を安南に登用したため蛮族が今なお侵攻するのは,滈が賄賂を受け父親を悪事に巻き込んだからだ」と指摘。11月丁酉(9日)には張雲が再上奏:「令狐綯は宰相在任中『白衣(無官の)宰相』と呼ばれた」(※実権掌握批判)。これを受け滈も辞表を提出し,結局詹事府司直に異動となった。 辛巳(22日),宿泗観察使職を廃止。徐州を再び観察府と定め濠州・泗州を管轄下に置いた。 12月,南詔が西川地方へ侵攻した。 昭義節度使の沈詢は家奴・帰秦が侍女と密通していることを知り殺害しようとしたが未遂。乙酉(27日),帰秦が牙将らを糾合し反乱を起こして府邸を襲撃,沈詢を殺害した。 懿宗皇帝咸通5年(甲申,864年) 春正月,京兆尹・李蠙を昭義節度使に任命。赴任後ただちに帰秦の心臓と肝臓を取り出し沈詢の霊前に供えた。 淮南節度使令狐綯が息子滈への不当処分を訴え続けた結果,張雲は興元少尹へ左遷され,劉蛻も華陰県令に降格された。詔書には「直言の忠誠は評価するが軽率さは問わねばならぬ」との理由が記された。 丙午(21日),西川から報告:「南詔軍が巂州を襲撃したが刺史・喻士珍がこれを破り,千余人を捕虜とした」。 解説:
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| 詔發右神策兵五千及諸道兵戍之。忠武大將顏慶復請築新安、遏戎二城,從之。 以容管經略使張茵兼句當交州事。益海門鎮兵滿二萬五千人,令茵進取安南。 二月,己巳,以刑部尚書、鹽鐵轉運使李福同平章事、充西川節度使。 甲申,前西川節度使蕭鄴左遷山南西道觀察使。 三月,丁酉,彗星出於婁,長三尺。己亥,司天監奏:「按《星經》,是名含譽,瑞星也。」上主大喜。請宣示中外,編諸史策。」從之。 康承訓至邕州,蠻寇益熾,詔發許、滑、青、汴、兗、鄆、宣、潤八道兵以授之。承訓不設斥候,南詔帥群蠻近六萬寇邕州,將入境,承訓乃遣六道兵凡萬人拒之,以獠為導,紿之。敵至,不設備,五道兵八千人皆沒,惟天平軍後一日至,得免。承訓聞之,惶怖不知所為。節度副使李行素帥眾治壕柵,甫畢,蠻軍已合圍。留四日,治攻具,將就,諸將請夜分道斫蠻營,承訓不許,有天平小校再三力爭,乃許之。小校將勇士三百,夜,縋而出,散燒蠻營,斬首五百餘級。蠻大驚,間一日,解圍去。承訓乃遣諸軍數千追之,所殺虜不滿三百級,皆溪獠脅從者。承訓騰奏告捷,雲大破蠻賊,中外皆賀。 夏,四月,以兵部侍郎、判戶部蕭置同平章事。置,復之孫也。 加康承訓檢校右僕射,賞破蠻之功也。自餘奏功受賞者,皆承訓子弟親暱,燒營將校不遷一級,由是軍中怨怒,聲流道路。 |
現代日本語訳詔により右神策兵五千と諸道の兵が動員され守備に就いた。忠武大将軍顔慶復は新安・遏戎(あくじゅう)二城の築城を上奏し、認められた。 二月己巳(きし)、刑部尚書・塩鉄転運使李福を同平章事(宰相待遇)に任じ西川節度使を兼務させる。 三月丁酉(ていゆう)、婁宿(ろうしゅく)の方角に長さ三尺の彗星が出現した。己亥(きがい)、司天監は「『星経』によればこれは含譽(がんよ:名誉を授ける星)と呼ばれる瑞兆である」と奏上。皇帝は大いに喜び「内外に公示し史書に記録せよ」と命じた。 康承訓が邕州(ようしゅう)へ到着すると南詔軍の侵攻が激化したため、許・滑・青・汴・兗・鄆・宣・潤の八道から援兵を派遣する詔が出された。しかし承訓は斥候を配置せず、六万に迫る蛮族連合軍が邕州へ侵攻して国境目前となってからようやく一万の諸道兵を派遣。僚族(ちょうぞく)を案内役と偽装させて欺こうとしたが、敵襲時に無防備だったため八路中五路八千人が全滅し、一日遅れで到着した天平軍のみが難を逃れた。 夏四月、兵部侍郎・判戸部蕭置(しょうおき)を同平章事に任ず。置は蕭復(しょうふく)の孫である。 解説
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| 五月,敕:「徐州土風雄勁,甲士精強,比因罷節,頗多逃匿,宜令徐泗團練使選募軍士三千人赴邕州防戍,待嶺外事寧,即與代歸。」 秋,七月,西川奏兩林鬼主邀南詔蠻,敗之,殺獲甚眾。保塞城使杜守連不從南詔,帥眾詣黎州降。 嶺南東道節度使韋宙具知康承訓所為,以書白宰相。承訓亦自疑懼,累表辭疾,乃以承訓為右武衛大將軍、分司,以容管經略使張茵為嶺南西道節度使,復以容管四州別為經略使。時南詔知邕州空竭,不復入寇,茵久之不敢進軍取安南。夏侯孜薦驍衛將軍高駢代之,乃以駢為安南都護、本管經略招討使,茵所將兵悉以授之。駢,崇文之孫也,世在禁軍。駢頗讀書,好談今古,兩軍宦官多譽之,累廷右神策都虞候;党項叛,將禁兵萬人戍長武,屢有功,遷秦州防禦使,復有功,故委以安南。 冬,十一月,以門下侍郎、同平章事夏侯孜同平章事,充河東節度使。 壬寅,以翰林學士承旨、兵部侍郎路巖同平章事,時年三十六。 懿宗昭聖恭惠孝皇帝上咸通六年(乙酉,公元八六五年) 春,正月,丁已,始以懿安皇后配饗憲宗室。時王皞復為禮院檢討官,更申前議,朝廷竟從之。 諸道進私白者,閩中為多,故宦官多閩人。福建觀察使杜宣猷每寒食遣吏分祭其先□,宦官德之,庚申,以宣猷為宣歙觀察使,時人謂之「敕使墓戶」。 |
現代日本語訳:五月条: 徐州には武勇を尊ぶ気風があり兵士も精強であった。しかし節度使廃止後、多くの兵が逃亡・潜伏している実情を受け、朝廷は詔勅で「徐泗団練使に命じ軍士三千人を選抜し邕州の守備に当たらせよ」と指令した。嶺南地域の安定後に交替させる方針も明記された。 七月条: 西川節度使から戦勝報告が入る──両林地方の首長(鬼主)が南詔軍を迎撃し大勝、多数を捕殺した。さらに保塞城守備隊長・杜守連が配下を率いて黎州へ投降してきた。 人事異動: 嶺南東道節度使・韋宙は康承訓の不正行為を詳細に把握し宰相に報告。これを受けて承訓は辞任を繰り返し願い出たため、名誉職である右武衛大将軍(分司)へ事実上の左遷となった。後任には容管経略使・張茵が嶺南西道節度使に抜擢され、容管四州は新設の経略使が統轄することになった。 安南情勢: 南詔軍は邕州防衛力の手薄さを察知しながら侵攻せず、張茵も長期間にわたり安南奪還作戦を躊躇した。これを受け夏侯孜の推挙で驍衛将軍・高駢が安南都護兼経略招討使に任命され、張茵軍の全指揮権を継承した。高駢は名将・高崇文の孫として近衛軍(禁軍)で育ち、兵書に通じた人物であった。過去には党項族平定戦で功績を挙げており、この実績が安南要職起用の決め手となった。 冬十一月条: 宰相・夏侯孜が河東節度使へ転出(同平章事待遇保持)。壬寅日(11月19日)、翰林学士筆頭・路巖が36歳で史上最年少の同平章事(宰相)に就任した。 咸通六年春: 丁已日(1月5日)、憲宗廟への懿安皇后合祀が初めて実施された。これは礼院検討官・王皞が以前から提唱していた案で、朝廷はついにこれを承認したのである。 宦官勢力の実態: 地方から「私白」(去勢済み男子=宦官候補)を送る制度では福建(閩中)出身者が最多であり、中央官庁には同地出身宦官が多数在籍していた。杜宣猷・福建観察使は寒食節毎に配下を使い彼らの先祖墓を祭祀したため、宦官勢力の後押しを得て宣歙観察使へ栄転──世間では「勅命で任命された墓守」と揶揄された。 解説:
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| 三月,中書侍郎、同平章事蕭置薨。 夏,四月,以前東川節度使高璩為兵部侍郎、同平章事。璩,元裕之子也。 楊收建議,以「蠻寇積年未平,兩河兵戍嶺南冒瘴霧物故者什六七,請於江西積粟,募強弩三萬人,以應接嶺南,道近便,仍建節以重其權。」從之。五月,辛丑,置鎮南軍於洪州。 巂州刺史喻士珍貪獪,掠兩林蠻以易金。南詔復寇巂州,兩林蠻開門納之,南詔盡殺戍卒,士珍降之。 壬寅,以桂管觀察使嚴譔為鎮南節度使。譔,震之從孫也 六月,高璩薨。 以御史大夫徐商為兵部侍郎、同平章事。 秋,七月,立皇子侃為郢王,儼為普王。 高駢治兵於海門,未進。監軍李維周惡駢,欲去之,屢趣駢使進軍。駢以五千人先濟,約維周發兵應援。駢既行,維周擁餘眾,不發一卒以繼之。九月,駢至南定,峰州蠻眾近五萬,方獲田,駢掩擊,大破之,收其所獲以食軍。 冬,十二月,壬子,太皇太后鄭氏崩。 懿宗昭聖恭惠孝皇帝上咸通七年(丙戌,公元八六六年) 春,二月,歸義節度使張義潮奏北庭回鶻固俊克西州、北庭、輪台、清鎮等城。 論恐熱寓居廓州,糾合旁側諸部,欲為邊患,皆不從。所向盡為仇敵,無所容。仇人認告拓跋懷光於鄯州,懷光引兵擊破之。 三月,戊寅,以河東節度使劉潼為西川節度使。初,南詔圍巂州,東蠻浪稽部竭力助之,遂屠其城,卑籠部怨南詔殺其父兄,導忠武戍兵襲浪稽,滅之。 |
現代日本語訳三月、中書侍郎・同平章事の蕭置が死去した。 夏四月、元東川節度使であった高璩を兵部侍郎・同平章事に任命した。高璩は高元裕の子である。 楊收が提言を行った。「蛮族の侵入が長年鎮圧されず、両河地域から嶺南へ派遣された兵士のうち瘴気や霧で死亡する者が十中六七に及んでいます。江西に食糧を備蓄し、強弩を使いこなす三万人を募集して嶺南への支援とすべきです。補給路が近くて便利であり、さらに節度使を設置して権限を強化すべきです」。この提案は採用された。 五月辛丑の日(1日)、洪州に鎮南軍を設置した。 巂州刺史の喻士珍は貪欲で狡猾であり、両林蛮族から金を得るために略奪を行った。これに対し南詔が再び巂州へ侵攻すると、両林蛮族は自ら城門を開いて迎え入れ、南詔軍は守備兵を皆殺しにしたため、喻士珍は降伏した。 壬寅の日(2日)、桂管観察使の厳譔を鎮南節度使に任命した。厳譔は厳震の従孫である。 六月、高璩が死去した。 御史大夫の徐商を兵部侍郎・同平章事に任命した。 秋七月、皇子侃(かん)を郢王に、儼(げん)を普王に封じた。 高駢は海門で軍備を整えていたが進軍しなかった。監軍の李維周が高駢を憎悪して更迭しようと企み、再三進軍を促した。高駢は五千兵を先発させ、李維周に援軍派遣を約束させた。しかし高駢が出撃すると、李維周は残りの兵力を保持し、一兵も後続させなかった。 九月、高駢が南定に到着した時、峰州蛮族の五万近い勢力がちょうど収穫作業中だった。高駢は不意打ちでこれを撃破し、彼らの収穫物を奪って軍糧とした。 冬十二月壬子の日(5日)、太皇太后鄭氏が崩御した。 懿宗 昭聖恭恵孝皇帝紀 咸通七年(丙戌・866年) 春二月、帰義節度使張議潮が「北庭回鶻の固俊が西州・北庭・輪台・清鎮等の城を占領した」と上奏した。 論恐熱が廓州に寄寓し近隣部族を糾合して辺境侵攻を企てたが、いずれも従わなかった。行く先々で敵対され居場所を失った末、仇人によって鄯州の拓跋懐光へ密告されたため、懐光は軍勢を率いて論恐熱を撃破した。 三月戊寅の日(27日)、河東節度使劉潼を西川節度使に任命した。当初南詔が巂州を包囲した際、東蛮浪稽部が全力でこれを支援し、ついに城を陥落させた。これに対し卑籠部は南詔による父兄殺害を怨み、忠武鎮の守備兵を導いて浪稽部を襲撃・殲滅した。 解説歴史的背景 - 咸通年間(860-874年): 唐末期で藩鎮勢力が台頭し辺境防衛体制が逼迫。南詔や吐蕃など周辺民族との紛争が頻発。 - 官職体系の特徴: 「同平章事」は実質的な宰相格、「節度使」は軍政を掌握する地方長官で、この時代には中央集権の弱体化を示す。 軍事戦略分析 1. 楊収提案の合理性: - 嶺南地域での兵士死亡率(60-70%)に着目した兵力補充策。江西からの支援ルート構築は補給効率化という合理的判断。 - 「強弩三万人」募集案:当時最先端兵器である弩を活用し、人的消耗を最小限にする戦略。
政治力学 - 監軍制度の弊害: 宦官李維周が軍事指揮官(高駢)を牽制した事例は、唐後期における宦官権力拡大の縮図。 - 蛮族間対立の巧妙利用: - 南詔VS両林蛮→卑籠部の反乱という連鎖から、唐朝が異民族間抗争を逆用して勢力均衡を維持。 人物評価 - 高璩・蕭置の相次ぐ死去: 「同平章事」要職の短期交代は政権不安定性を示唆。 - 厳譔登用の意味: 名門(厳震家系)出身者抜擢により、藩鎮勢力との均衡を図った人事。 歴史的意義 本記事が記す866年は以下の転換点: 1. 北庭回鶻による西域支配確定(張議潮上奏) 2. 吐蕃内紛の決着(論恐熱敗死) 3. 南詔対策として鎮南軍設置→後の五代十国へ続く地方軍事権限強化の端緒 補足 - 「物故」:当時の公文書で「死亡」を意味する婉曲表現。 - 日付表記(戊寅など)は干支暦に基づき、実際の西暦月日に換算するとズレが生じる場合あり。 Translation took 1073.9 seconds. |
| 南詔由是怨唐。南詔遣清平官董成等詣成都,節度使李福盛儀衛以見之。故事,南詔使見節度使,拜伏於庭,成等曰:「驃信已應天順人,我見節度使當抗禮。」傳言往返,自旦至日中不決。將士皆憤怒,福乃命捽而毆之,因械繫於獄。劉潼到鎮,釋之,奏遣還國。詔召成等至京師,見於別殿,厚賜,勞而遣之。 成德節度使王紹懿,在鎮十年,為政寬簡,軍民便之。疾病,召兄紹鼎之子都知兵馬使景崇而告之曰:「吾兄以汝之幼,以軍政授我。汝今長矣,我復以軍政歸汝。努力為之,上忠朝廷,下和鄰籓,勿墜吾兄之業,汝之功也。」言竟而薨。 閏月,吐蕃寇邠寧,節度使薛弘宗拒卻之。 夏,四月,辛巳,貶前西川節度使李福為蘄王傅。 五月,葬孝明皇后於景陵之側,主祔別廟。 六月,魏博節度使何弘敬薨,軍中立其子左司馬全皞為留後。 以王景崇為成德留後。 南詔酋龍遣善闡節度使楊緝思助安南節度使段酋遷守交趾,以范暱些為安南都統,趙諾眉為扶邪都統。監陳敕使韋仲宰將七千人至峰州,高駢得以益其軍,進擊南詔,屢破之。捷奏至海門,李維周皆匿之,數月無聲問。上怪之,以問維周,維周奏駢駐軍峰州,玩寇不進。上怒,以右武衛將軍王晏權代駢鎮安南,召駢詣闕,欲重貶之。晏權,智興之從子也。是月,駢大破南詔蠻於交趾,殺獲甚眾,遂圍交趾城。 |
現代日本語訳:唐に対し恨みを抱いた南詔は、清平官(宰相)の董成らを使者として成都へ派遣した。節度使・李福は盛大な儀仗兵を整えてこれと会見したが、従来の慣例では南詡使節は節度使に対し庭で跪拝するものだった。ところが董成らは「驃信(南詔王)は既に天命を受け民心を得ているのだから、我々も節度使と対等の礼儀をもって臨むべきだ」と主張した。双方の応酬は朝から正午まで決着せず、将兵たちが怒りを露わにする中、李福は董成らを捕えて殴打し、さらに拘束して獄に繋いだ。後任として赴任した劉潼が彼らを解放し、朝廷へ帰国させるよう上奏すると、詔勅によって長安へ召還された一行は別殿で皇帝拝謁の後に厚遇され労われて帰国した。 成徳節度使・王紹懿は十年間統治し寛容かつ簡素な政治を行い軍民に慕われた。病床についた彼は兄(王紹鼎)の子である都知兵馬使・景崇を呼び「我が兄君は汝が幼少だったため軍事権限を私に託した。今や成長した汝へこれを返還する。朝廷への忠義と近隣藩鎮との融和を忘れず、父の遺業を見事継げばそれが汝の功績だ」と言い終えて没した。 閏月には吐蕃が邠寧に侵攻したが節度使・薛弘宗がこれを撃退。四月辛巳(十七日)、前任西川節度使・李福は蘄王傅へ左遷された。五月、孝明皇后を景陵の側に葬り別廟で祭祀を行った。 六月、魏博節度使・何弘敬が没すると軍中では息子の左司馬・全皞を留後(代理統治者)として推戴した。また王景崇も成徳留後に任命された。 南詔王・酋龍は善闡節度使・楊緝思を交趾守備中の安南節度使・段酋遷の援軍に派遣し、范暱些を安南都統、趙諾眉を扶邪都統とした。監軍宦官・韋仲宰率いる七千人の援兵が峰州へ到着すると高駢はこれで兵力を強化し南詔軍を幾度も撃破した。しかし勝利の報は海門(唐安南部隊本部)に届くたび李維周によって隠蔽され、数ヶ月報告がない事態となった。皇帝が不審に思い問いただすと「高駢は峰州駐屯のままで敵を侮り進軍しません」と虚偽を奏上したため怒った皇帝は右武衛将軍・王晏権(王智興甥)を安南鎮守使として派遣。一方で高駤は都へ召還され厳罰が検討された。だがその月、高駢は交趾付近で大勝し多数の敵兵を捕殺すると、ついに交趾城包囲に成功したのである。 注釈:
(本訳では『資治通鑑』原文に基づき固有名詞は当時の表記を保持しつつ、現代日本語読解に適した語法で構成。軍事官職名等については必要最小限の説明的表現を採用) Translation took 835.4 seconds. |
| 秋,七月,以何全皞為魏博留後。 冬,十月,甲申,以門下侍郎、同平章事楊收為宣歙觀察使。收性侈靡,門吏僮奴多倚為奸利。楊玄價兄弟受方鎮之賂,屢有請托,收不能盡從。玄價怒,以為叛己,故出之。 拓跋懷光以五百騎入廓州,生擒論恐熱,先刖其足,數而斬之,傳首京師。其部眾東奔秦州,尚延心邀擊,破之,悉奏遷於嶺南。吐蕃由是衰絕,乞離胡君臣不知所終。 高駢圍交趾十餘日,蠻困蹙甚,城且下,會得王晏權牒,已與李維周將大軍發海門。駢即以軍事授韋仲宰,與麾下百餘人北歸。先是,仲宰遣小使王惠贊,駢遣小校曾袞入告交趾之捷。至海中,望見旌旗東來,問遊船,雲新經略使與監軍也。二人謀曰:「維周必奪表留我。」乃匿於島間,維周過,即馳詣京師。上得奏,大喜,即加駢檢校工部尚書,復鎮安南。駢至海門而還。 王晏權暗懦,動稟李維周之命;維周凶貪,諸將不為之用,遂解重圍,蠻遁去者太半。駢至,復督勵將士攻城,遂克之,殺段酋遷及土蠻為南詔鄉導者朱道古,斬首三萬餘級,南詔遁去。駢又破土蠻附南詔者二洞,誅其酋長,土蠻帥眾歸附者萬七千人。 十一月,壬子,赦天下。詔安南、邕州、西川諸軍各保疆域,勿復進攻南詔。委劉潼曉諭,如能更修舊好,一切不問。置靜海軍於安南,以高駢為節度使。 |
現代日本語訳:秋七月、何全皞(かぜんこう)を魏博留後(地方長官代理)に任命した。 拓跋懐光(たくばつかいこう:唐側将軍)は五百騎で廓州へ奇襲し、吐蕃の論恐熱(ろんきょうねつ)を生け捕った。まず両足を切断して責めたてた後、斬首しその首級を長安に送った。配下の兵士が秦州へ逃亡すると尚延心(しょうえんしん:唐協力者)が迎撃して壊滅させ、「全員嶺南流刑」と奏上した。これにより吐蕃は衰退・壊滅し、王・乞離胡(きつりこ)らの行方は不明となった。 高駢(こうべん:唐将軍)の交趾包囲戦十数日目、蛮族軍が窮地に陥る中で、副官・王晏権からの「李維周監軍と共に援軍発進」との報告書を受け取る。彼は直ちに指揮を韋仲宰(いちゅうさい)へ委ね百余騎で北帰した。 しかし王晏権が臆病で李維周の命令のみ動き、貪欲な李維周を諸将が軽視したため包囲網は瓦解。蛮族軍の大半が脱出する失態となる。 十一月壬子、全国に恩赦発令。「安南・邕州・西川各軍は防衛体制へ転換し南詔進攻停止」を命じる。劉潼(りゅうとう)を使者とし「旧来の友好回復なら一切不問」との条件提示も実施した。同時に安南守備軍を静海軍と改編し、高駢が初代司令官となった。 解説:
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| 自李涿侵擾群蠻,為安南患殆將十年,至是始平。駢築安南城,週三千步,造屋四十餘萬間。 十二月,黠戛斯遣將軍乙支連幾入貢,奏遣鞍馬迎冊立使及請亥年歷日。 以成德留後王景崇為節度使。 上好音樂宴游,殿前供奉樂工常近五百人,每月宴設不減十餘,水陸皆備,聽樂觀優,不知厭倦,賜與動及千緡。曲江,昆明、灞滻、南宮、北苑、昭應、咸陽,所欲游幸即行,不待供置,有司常具音樂、飲食、幄帟,諸王立馬以備陪從。每行幸,內外諸司扈從者十餘萬人,所費不可勝紀。 懿宗昭聖恭惠孝皇帝上咸通八年(丁亥,公元八六七年) 春,正月,以魏博留後何全皞為節度使。 二月,歸義節度使張義潮入朝,以為右神武統軍,命其族子惟深守歸義。 自安南至邕、廣,海路多潛石覆舟,靜海節度使高駢募工鑿之,漕運無滯。 四川近邊六姓蠻,常持兩端,無寇則稱效順,有寇必為前鋒。卑籠部獨盡心於唐,與群蠻為仇,朝廷賜姓李,除為刺史。節度使劉潼遣將將兵助之,討六姓蠻,焚其部落,斬首五千餘級。 樂工李可及善為新聲,三月,上以可及為左威衛將軍。曹確諫曰:「太宗定文武官六百餘員,謂房玄齡曰『朕以待天下賢士,工商雜流,不可處也。』大和中,文宗欲以樂工尉遲璋為王府率,拾遺竇洵直諫,即改光州長史。乞以兩朝故事,別除可及官。 |
訳文李涿による南方諸族への侵攻と騒乱は安南地方を脅かし、ほぼ十年にわたって続いたが、このたびようやく平定された。高駢は安南城を築き、周囲三千歩(約4.5km)の規模で四十万余りの屋舎を建造した。 十二月、キルギス(黠戛斯)が将軍イジレンギ(乙支連幾)を使者として派遣し貢物を献上。鞍馬を準備して冊立使を迎えることと、亥年の暦の交付を求める上奏を行った。 成徳留後であった王景崇を節度使に任命した。 皇帝は音楽と遊宴を好み、殿前に伺候する楽人は常時五百人近くに及んだ。月々十回以上も宴会が開かれ、山海の珍味を並べ、演劇や曲芸を飽きることなく鑑賞し、下賜する金品は一度に千緡(約500kg分の銅貨)にも達した。曲江池・昆明池・灞水と滻水・南宮・北苑・昭応県・咸陽などへは、供御の準備を待たず即時に遊幸し、関係官庁は常に楽団や飲食、天幕を用意し、諸王も騎乗して随行に備えた。行幸の度には内外諸司から供奉する者が十余万人に及び、費用は計り知れなかった。 懿宗昭聖恭恵孝皇帝 咸通八年(丁亥、西暦八六七年) 春正月、魏博留後であった何全皞を節度使に任命した。 二月、帰義軍節度使張義潮が入朝し、右神武統軍の官職を与えられ、甥の張惟深に帰義軍の留守を命じた。 安南から邕州・広州に至る海路には暗礁による難所が多く船が転覆していたため、静海軍節度使高駢は工人を募りこれを開削。水運が滞りなく通ずるようになった。 四川辺境の六姓蛮(六部族)は常に対唐政策を二転三転させ、外寇がない時だけ恭順を示し、侵略があると必ず先鋒となった。卑籠部のみが一貫して唐朝に忠誠を尽くし、他部族と敵対していたため朝廷より李氏の姓を賜り刺史に任じられた。節度使劉潼は将兵を派遣してこれを支援し、六姓蛮を討伐して集落を焼き払い五千余級を斬首した。 楽工李可及は新曲創作に長けていたため三月、皇帝は彼を左威衛将軍に任命しようとした。これに対し曹確が諫言:「太宗皇帝は文武官六百余名の定員を制定され『朕が登用するのは天下の賢才のみ。工商や雑流(芸能人など)は官職にふさわしくない』と房玄齢に述べられました。大和年間には文宗皇帝も楽工尉遅璋を王府率に任じようとしたところ、拾遺竇洵直が諫めたため光州長史に格下げとなりました。どうか両朝の先例に倣い、李可及への官職授与をご再考ください」 解説■ 歴史的背景 1. 「咸通八年(867年)」:唐王朝末期・懿宗治世下で、奢侈と地方支配の弱体化が進行した時期。安南平定や辺境民族政策の記述は、唐朝の支配圏維持努力を示す。 2. 「キルギスからの朝貢」:当時ユーラシア中央部に存在した堅昆(キルギス)汗国との外交関係を反映。鞍馬と暦要請は遊牧国家の特性に合致。 ■ 政治・社会 1. 「楽工登用問題」: - 曹確の諫言には「士農工商」階級観が明示され、芸能人の官職就任が如何に異例か強調。 - 尉遅璋(文宗朝)と李可及(懿宗朝)の事例から、皇帝権力と官僚制度の緊張関係が見える。
■ 軍事・経済 1. 「高駢の業績」: - 安南城築城と海路開鑿は、南海貿易路確保を目的としたインフラ整備。特に暗礁除去は中継貿易強化策。 2. 「六姓蛮討伐」: - 「五千余級斬首」は史書の定型表現だが、四川周辺部族間の複雑な力学(卑籠部の親唐姿勢など)を浮き彫りにする。 ■ 訳出方針 1. 固有名詞処理: - 「乙支連幾」→中央アジア風人名として片仮名表記 - 「六姓蛮」「卑笼部」は漢字のまま注釈的説明を追加 2. 度量衡: - 「周三千歩」を現代人に理解可能な「約4.5km」と換算併記 3. 官職名: - 「左威衛将軍」「光州長史」など唐代武官・地方官は原漢字維持 ※本訳文では『資治通鑑』の編年体特性を活かし、政治動向・社会風俗・辺境政策の三点を軸に現代語化。特に懿宗朝の退廃的風潮と帝国維持努力の矛盾を対比させる表現とした。 Translation took 1044.7 seconds. |
| 」不從。 夏,四月,上不豫,群臣希進見。 五月,丙辰,疏理天下系囚,非臣蠹不可赦者,皆遞降一等。 秋,七月,壬寅,蘄王緝薨。 懷州民訴旱,刺史劉仁規揭榜禁之,民怒,相與作亂,逐仁規,仁規逃匿村舍。民入州宅,掠其家貲,登樓擊鼓,久之乃定。 甲子,以兵部侍郎、充諸道鹽鐵轉運等使、附馬都尉于琮同平章事。 宣歙察使楊收過華岳廟,施衣物,使巫祈禱,縣令誣以為收罪。右拾罪韋保衡復言,收前為相,除嚴譔江西節度使,受錢百萬,又置造船務,人訟其侵隱。八月,庚寅,貶收端州司馬。 九月,上疾瘳。 冬,十二月,信王心丐薨。 加嶺南東道節度使韋宙同平章事。 |
現代日本語訳:(以下の文章は『資治通鑑』からの抜粋を現代語に翻訳したものです) ``` 従わなかった。 夏四月、皇帝の体調が悪化し、臣下たちもほとんど謁見できなくなった。 五月丙辰の日、天下の囚人を調査させ、凶悪犯でない限り恩赦対象とし、全員罪一等を減じた。 秋七月壬寅の日、蘄王李緝が逝去した。 懐州(現:河南省)の民衆が旱害を訴えたが、刺史・劉仁規は禁令を掲示してこれを抑えつけた。これに怒った民衆は団結して反乱を起こし、劉仁規を追放。彼は村落に逃亡して潜伏した。 民衆は州庁舎に侵入し、劉家の財産を略奪するとともに楼閣に登り太鼓を打ち鳴らし、長時間騒動が続いた後にようやく収束した。 甲子の日、兵部侍郎で諸道塩鉄転運使・駙馬都尉(皇族の女婿)である于琮を同平章事(宰相職)に任命。 宣歙観察使・楊收が華岳廟参拝時に衣服や物品を寄進し巫女に祈祷させた件で、県令が彼を誣告。右拾遺・韋保衡はさらに「楊收は以前の丞相時代に厳譔(げんせん)を江西節度使に任命した際百万銭を受け取り、造船所設置でも横領疑惑がある」と追及。 八月庚寅の日、楊収は端州司馬へ左遷された。 九月、皇帝が病状回復。 冬十二月、信王李心丐(しんおう りしんがい)逝去。 嶺南東道節度使・韋宙に同平章事の官位を加えた。 ``` 解説:
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| input text 資治通鑑\251_唐紀_67.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百五十一 唐紀六十七 起著雍困敦,盡屠維赤奮若,凡二年。 懿宗昭聖恭孝文宗皇帝中咸通九年(戊子,公元八六八年) 夏,六月,鳳翔少尹李師望上言:「巂州控扼南詔,為其要衝,成都道遠,難以節制,請建定邊軍,屯重兵於巂州,以邛州為理所。」朝廷以為信然,以師望為巂州刺史,充定邊軍節度,眉、蜀、邛、雅、嘉、黎等州觀察,統押諸蠻並統領諸道行營、制置等使。師望利於專制方面,故建此策。其實邛距成都才百六十里,巂距邛千里,其欺罔如此。 初,南詔陷安南,敕徐泗募兵二千赴援,分八百人別戍桂州,初約三年一代。徐泗觀察使徐彥曾,慎由之從子也,性嚴刻;朝廷以徐兵驕,命鎮之。都押牙尹戡、教練使杜璋、兵馬使徐行儉用事,軍中怨之。戍桂州者已六年,屢求代還,戡言於彥曾,以軍帑空虛,發兵所費頗多,請更留舊戍卒一年。彥曾從之。戍卒聞之,怒。都虞候許佶、軍校趙可立、姚周、張行實皆故徐州群盜,州縣不能討,招出之,補牙職。會桂管觀察使李叢移湖南,新使未至。秋,七月,佶等作亂,殺都將王仲甫,推糧料判官龐勳為主,劫庫兵北還,所過剽掠,州縣莫能御。朝廷聞之,八月,遣高品張敬思赦其罪,部送歸徐州,戍卒乃止剽掠 以前靜海節度使高駢為右金吾大將軍。駢請以從孫潯代鎮交趾,從之。 |
現代日本語訳巻二百五十一 唐紀六十七 懿宗皇帝・咸通九年(西暦868年) 当初、南詔が安南を陥落させた際、勅命により徐泗から二千の兵士を募集して救援に向かわせ、うち八百人を桂州に駐屯させた。当初は三年ごとに交代すると約束されていた。しかし徐泗観察使崔彦曾(※原文「徐彥曾」は誤記)―慎由の甥で性格が厳格冷酷―が着任し、朝廷は徐州兵の横暴を抑えるため彼を派遣した。都押牙尹戡・教練使杜璋・兵馬使徐行儉らが実権を握ると軍中に不満が蔓延し、桂州駐屯兵は既に六年も服役しながら交代要請を繰り返していた。ここで尹戡が彦曾へ「軍事費が不足しているため新たな派兵には多額の費用が必要」と訴え、現地兵をもう一年残留させるよう進言した。彦曾はこれを受け入れた。 この決定を知った駐屯兵らは激怒した。都虞候許佶・軍校趙可立・姚周・張行実はいずれも元徐州の盗賊で、州県が鎮圧できなかったため懐柔されて将校職を得ていた者たちである。折しも桂管観察使李叢が湖南へ転任し後任が未着任の中、同年秋七月に許佶らは反乱を起こした。彼らは都統王仲甫を殺害し、糧料判官龐勳を首領として担ぎ上げると武器庫を襲って武装し北帰を開始。途上の州県で略奪を繰り返すもこれを阻止できる者はなかった。 朝廷が事態を知ったのは八月であった。高級宦官張敬思を派遣して罪を赦免したうえ徐州への帰還を許可すると、兵士たちはようやく掠奪行為を止めた。 解説
※注記:原文中「徐彥曾」は唐代史料では通常「崔彦曾」(『新唐書』等)。本訳文も史実に基づき修正。「慎由之従子」を兄弟の子=甥(おい)と解釈した(当時「従子」は広義で使用される語)。 Translation took 1846.1 seconds. |
| 九月,戊戌,以山南東道節度使盧耽為西川節度使,以有定邊軍之故,不領統押諸蠻安扶等使。 龐勳等至湖南,監軍以計誘之,使悉輸其甲兵。山南東道節度使崔鉉嚴兵守要害,徐卒不敢入境,泛舟沿江東下。許佶等相與謀曰:「吾輩罪大於銀刀,朝廷所以赦之者,慮緣道攻劫,或潰散為患耳,若至徐州,必菹醢矣!」乃各以私財造甲兵旗幟。過浙西,入淮南,淮南節度使令狐綯遣使慰勞,給芻米。都押牙李湘言於綯曰:「徐卒擅歸,勢必為亂,雖無敕令誅討,籓鎮大臣當臨事制宜。高郵岸峻而水深狹,請將奇兵伏於其側,焚荻舟以塞其前,以勁兵蹙其後,可盡擒也。不然,縱之使得渡淮,至徐州,與怨憤之眾合,為患必大。」綯素懦怯,且以無敕書,乃曰:「彼在淮南不為暴,聽其自過,餘非吾事也。」 勳招集銀刀等都竄匿及諸亡命匿於舟中,眾至千人。丁巳,至泗州,刺史杜慆饗之於球場,優人致辭。徐卒以為玩己,擒優人,欲斬之,坐者驚散。悰素為之備,徐卒不敢為亂而止。悰,慆之弟也。 先是,朝廷屢敕崔彥曾慰撫戍卒擅歸者,勿使憂疑。彥曾遣使以敕意諭之,道路相望。勳亦申狀相繼,辭禮甚恭。戊午,行及徐城,勳與許佶等乃言於眾曰:「吾輩擅歸,思見妻子耳。今聞已有密敕下本軍,至則支分滅族矣!丈夫與其自投羅網,為天下笑,曷若相與戮力同心,赴蹈湯火,豈徒脫禍,兼富貴可求!況城中將士皆吾輩父兄子弟,吾輩一唱於外,彼必響應於內矣。 |
現代日本語訳:九月戊戌(三日)、山南東道節度使盧耽を西川節度使に任命した。これは定辺軍を鎮めた功績によるものだが、「統押諸蛮安撫等使」の職務は兼任させなかった。 龐勳らが湖南へ到着すると、監軍は策略で彼らの武装解除を行わせた。山南東道節度使崔鉉が要所に厳重な守備を敷いたため、徐州兵(反乱兵)は領内に入れず船で長江東下した。許佶らは密議して「我々の罪は銀刀軍より重い。朝廷が赦免したのは街道での略奪や散兵化を恐れたからだ。徐州へ着けば必ず処刑される」と結論し、私財で武器・旗印を調達。浙西経由で淮南に入ると、節度使令狐綯は食糧供給し慰労したが、都押牙李湘が進言:「無断帰還の徐州兵は必ず反乱します。討伐勅命なくとも臨機応変に対処すべきです。高郵は水路狭窄で岸壁険峻、奇襲部隊で焚舟封鎖し精鋭で挟撃すれば殲滅可能。さもなければ淮河を渡り徐州の怨兵と合流すると大害となります」と。しかし令狐綯は臆病な性格かつ勅書なしを理由に「淮南領内で暴れぬなら通過許可せよ、他は関知しない」とした。 龐勳は逃亡中の銀刀軍残党や亡命者を船にかくまい集団は千人規模となった。丁巳(二十日)泗州到着時、刺史杜慆が球場で饗応し芸人に挨拶させたところ徐州兵は嘲笑と受け取り斬ろうとしたため宴席は混乱したが、杜慆の事前準備により反乱未遂に終わる(杜慆は泗州刺史の弟)。 朝廷は崔彦曾に対し「無断帰還兵を慰撫せよ」との勅命を再三発しており使者が往来。龐勳も丁重な謝罪文書を送り続けていた。しかし戊午(二十一日)徐城到着時、龐勳と許佶は兵卒に宣言:「帰還したのは妻子に会うためだ。だが朝廷から『族滅』の密勅が下ったとの情報がある!天下の笑い者になるより決起せよ。死力を尽くせば禍転じて富貴も得られる。城内の将兵は我々の兄弟、外で挙兵すれば必ず内応する」と。 解説:
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| 然後遵王侍中故事,五十萬賞錢,翹足可待也。」眾皆呼躍稱善。將士趙武等十二人獨憂懼,欲逃去,勳悉斬之,遣使致其首於彥曾,且為申狀,稱:「勳等遠戍六年,實懷鄉里;而武等因眾心不安,輒萌奸計。將士誠知詿誤,敢避誅夷!今既蒙恩全宥,輒共誅首惡以補愆尤。」冬,十月,甲子,使者至彭城,彥曾執而訊之,具得其情。乃囚之。丁卯,勳復於遞中申狀,稱:「將士自負罪戾,各懷憂疑,今已及苻離,尚未釋甲。蓋以軍將尹戡、杜璋、徐行儉等狡詐多疑,必生釁隙,乞且停此三人職任,以安眾心,仍乞戍還將士別置二營,共為一將。」 時戍卒拒彭城止四驛,闔城忷懼。彥曾召諸將謀之,皆泣曰:「比以銀刀凶悍,使一軍皆蒙惡名,殲夷流竄,不無枉濫。今冤痛之聲未已,而桂州戍卒復爾猖狂,若縱使入城,必為逆亂,如此,則闔境塗地矣!不若乘其遠來疲弊,發兵擊之,我逸彼勞,往無不捷。」彥曾猶豫未決。團練判官溫庭皓復言於彥曾曰:「安危之兆,已在目前。得失之機,決於今日。今擊之有三難,而捨之有五害:詔釋其罪而擅誅之,一難也;帥其父兄,討其子弟,二難也;枝黨鉤連,刑戮必多,三難也。然當道戍卒若擅歸,不誅則諸道戍邊者皆效之,無以制御,一害也;將者一軍之首,而輒敢害之,則凡為將者何以號令士卒!二害也;所過剽掠,自為甲兵,招納亡命,此而不討,何以懲惡!三害也;軍中將士,皆其親屬,銀刀餘黨,潛匿山澤,一旦內外俱發,何以支梧!四害也;逼脅軍府,誅所忌三將,又欲自為一營,從之則銀刀之患復起,違之則托此為作亂之端,五害也。 |
現代日本語訳:その後、王侍中の先例に倣い五十万銭の恩賞が下されるのは目前だ。」一同は跳び上がって歓声を挙げた。しかし趙武ら十二名の将兵だけは憂慮し逃亡しようとしたため、勳(龐勳)は彼らを全員斬首した上で使者を派遣し、その首級を彦曾(杜彦曽)に送り届けさせるとともに申状を添えた:「我々遠征軍は六年間も防衛任務に就き故郷を懐かしく思っておりました。ところが趙武らが兵士の不安につけ込み奸計を企てたのです。将兵一同は過ちを深く悟り、敢えて誅罰から逃れようとは思いません!恩赦により罪を許された今、速やかに首謀者を処刑して過ちの埋め合わせと致します」 冬十月甲子(四日)、使者が彭城に到着すると彦曾は拘束し尋問した結果、事件の全容を把握。使者を投獄する。 丁卯(七日)になって再び勳から駅伝経由で申状が届く:「将兵らは自らの罪深さを痛感し不安を抱えております。苻離に到着した今も武装解除できません。これは尹戡・杜璋・徐行儉の三人の軍将が狡猾多疑なため、必ず禍根を残すからです。彼らを解任して兵士を安心させてください。さらに帰還する遠征部隊のために別途二つの営舎を設け、一将軍に統括させるようお願い致します」 当時反乱軍は彭城まで四駅(約120里)の距離に迫り、城内は恐怖に包まれていた。彦曾が諸将を集めて協議すると、皆涙ながらに訴えた:「以前銀刀軍(徐州精鋭部隊)の暴虐により全軍が汚名を着せられ無実の者まで処刑・流罪となりました。その怨嗟の声も収まらぬ中で桂州遠征軍がまた暴れ出すとは!もし入城を許せば必ず反乱が起き、この地は壊滅します。遠征による疲労を衝いて討伐すべきです。我々は以逸待労(守備側の有利)の態勢で必勝できます」 彦曾が躊躇していると、団練判官温庭皓が進言:「危機の兆候は目前に迫っています。 ■討撃には三難: ■放置すれば五害: 注釈:
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| 惟明公去其三難,絕其五害,早定大計,以副眾望。」時城中有兵四千三百,彥曾乃命都虞候元密等將兵三千人討勳,數勳之罪以令士眾,且曰:「非惟塗炭平人,實亦污染將士,倘國家發兵誅討,則玉石俱焚矣!」又曰:「凡彼親屬,無用憂疑,罪止一身,必無連坐。」仍命宿州出兵苻離,泗州出兵於虹以邀之,且奏其狀。彥曾戒元密無傷敕使。 戊辰,元密發彭城,軍容甚盛。諸將至任山北數里,頓兵不進,共思所以奪敕使之計,欲俟賊入館,乃縱兵擊之,遣人變服負薪以詗賊。日暮,賊至任山,館中空無人,又無供給,疑之,見負薪者,執而榜之。果得其情,乃為偶人執旗幟列於山下而潛遁。比夜,官軍始覺之,恐賊潛伏山谷及間道來襲,復引兵退宿於城南,明旦,乃進追之。 時賊已至苻離,宿州戍卒五百人出戰於濉水上,望風奔潰,賊遂抵宿州。時宿州闕刺史,觀察副使焦璐攝州事,城中無復餘兵。庚午,賊攻陷之,璐走免。賊悉聚城中貨財,令百姓來取之,一日之中,四遠雲集,然後選募為兵,有不願者立斬之,自旦至暮,得數千人。於是勒兵乘城,龐勳自稱兵馬留後。再宿,官軍始至,賊守備已嚴,不可復攻。先是,焦璐聞苻離敗,決汴水以斷北路,賊至,水尚淺可涉,比官軍至,已深矣。壬申,元密引兵渡水,將圍城,會大風,賊以火箭射城外茅舍,延及官軍營,士卒進則冒矢石,退則限水火,賊急擊之,死者近三百人。 |
現代日本語訳:明智な主君は三つの難題を取り除き、五つの害を絶ち切り、速やかに大計(重要施策)を定め、民衆の期待に応えるべきである。」と述べた。 当時、城には兵が四千三百人いた。彦曾(げんそう)は都虞候(といこう)元密らに三千人の兵力を与えて勳討伐に向かわせるとともに、士卒たちに対して勲の罪状を列挙し、「単に民衆を苦しめるだけでなく、将兵までも汚染している。もし国家が誅罰のために出兵すれば、玉(善人)も石(悪人)も共に焼け死ぬことになろう」と警告した。さらに「彼の親族は心配するな。罪は本人のみに及び連座することはない」と付け加えた。同時に宿州には苻離からの、泗州には虹からの出兵を命じて挟撃態勢を整えさせるとともに、状況を朝廷へ奏上した。彦曾は元密に対し「勅使(皇帝の使者)を傷つけてはならない」と厳命した。 戊辰の日、元密は彭城から出陣し、軍容は盛大であった。諸将が任山の北数里に至ると、兵を停止させ進まなかった。皆で勅使奪還策を議論し、「賊が宿舎に入ったところを奇襲しよう」と決め、変装した斥候に薪を背負わせ様子を探らせた。 日暮れ時、賊軍は任山に到着するも宿舎には人影も物資もなく不審を抱いた。そこへ「薪売り」を見つけ捕らえて拷問すると作戦を知ってしまう。賊は人形を並べて旗を掲げる偽装工作を行い、密かに撤退した。 夜になって官軍がこれに気づくも、「山道や谷間に伏兵あり」と恐れ城南へ退却し翌朝追撃を再開する。一方で既に苻離に到着していた賊は宿州守備隊五百人を濉水の戦いで瞬時に壊走させ、宿州城へ迫った。 当時宿州には刺史がおらず、観察副使焦璐(しょうろ)が臨時代理となっていた。城内には兵力もなく庚午の日陥落し焦璐は辛くも脱出した。賊軍は城中の財貨を集めて民衆に開放すると「欲しいだけ取れ」と宣言、一日で四方から群衆が殺到した。その後兵士募集を行い拒否者を即座に斬首、夕刻までに数千人を動員する。 こうして城壁防備を固めた龐勳(ほうくん)は自ら「兵馬留後」(臨時司令官)と称した。二日経ってようやく到着した官軍だったが賊の守りは既に完璧で攻めあぐねた。 この前、焦璐は苻離での敗報を聞き汴水(べんすい)を決壊させ北進路を断とうとした。しかし水量不足であっさり渡られてしまう。逆に官軍が到着した壬申の日には水位が上昇していたため、元密は渇水して攻城準備中に大風に見舞われる。 賊軍は城外茅屋へ火箭攻撃を行い延焼させると、火勢はたちまち官軍陣営へ波及。兵士らは前進すれば矢石の雨を浴び、退けば水火に阻まれ、激しい追撃を受けて三百人近くが戦死した。 解説:
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| 元密等以為賊必固守,但為攻取之計。賊夜使婦人持更,掠城中大船三百艘,備載資糧,順流而下,欲入江湖為盜。以千縑贈張敬思,遣騎送至汴之東境,縱使西歸。明旦,官軍知賊已去,狼狽追之,士卒皆未食,比追及,已饑乏。賊艤舟堤下而陳於堤外,伏千人於舟中,官軍將至,陳者皆走入陂中。密以為畏己,縱兵追之;賊自舟中出,夾攻之,自午及申,官軍大敗。密引兵走,陷於荷涫,賊追及之,密等諸將及監陳敕使皆死,士卒死者殆千人,其餘皆降於賊,無一人還徐者。賊問降卒以彭城人情計謀,知其無備,始有攻彭城之志。 乙亥,龐勳引兵北渡濉水,逾山趣彭城。其夕,崔彥曾始知元密敗,移牒鄰道求救。明日,塞門,選城中丁壯為守備,內外震恐,無復固志。或勸彥曾奔兗州,彥曾怒曰:「吾為元帥,城陷而死,職也!」立斬言者。丁丑,賊至城下,眾六七千人,鼓噪動地,民居在城外者,賊皆慰撫,無所侵擾,由是人爭歸之,不移時,克羅城。彥曾退保子城,民助賊攻之,推草車塞門而焚之,城陷。賊囚彥曾於大彭館,執尹戡、杜璋、徐行儉,刳而坐刀之,盡滅其族。勳坐聽事,盛陳兵衛,文武將吏伏謁,莫敢仰視。即日,城中願附從者萬餘人。 戊寅,勳召溫庭皓,使草表求節鉞,庭皓曰:「此事甚大,非頃刻可成,請還家徐草之。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)元密らは賊軍が守りを固めると考え、攻撃計画のみを練っていた。しかし賊は夜間に女性に時を知らせさせながら、城中の大船三百隻を奪い、物資や食糧を満載して川下りし、江湖で盗賊となることを企てた。千匹の絹を張敬思に贈り、騎兵に汴州東境まで護衛させて西帰を許した。 翌朝、官軍が賊の撤退を知ると慌てて追撃したが、兵士はまだ食事も取っておらず、追いついた時には飢え疲れ切っていた。賊は堤防下に船をつなぎ、堤外で陣を敷く一方、千人を船内に潜伏させていた。官軍が近づくと、堤外の部隊はわざと湿地へ逃げ込んだ。元密は敵が恐れて退いたと思い込み、全軍に追撃を命じた。すると賊軍が船から現れ挟み撃ちにし、正午から夕刻まで戦って官軍は大敗した。 元密は兵を率いて撤退しようとしたが蓮沼で足止めされ、賊に追いつかれた。元密ら諸将や監軍の勅使も全員討死し、千人近い兵士が死亡、残りは全て賊に降伏して徐州へ帰還した者は一人もなかった。 賊軍は捕虜から彭城(徐州)の防衛状況を聞き取り、無防備と知るや攻撃を決意する。 乙亥の日、龐勳が兵を率いて濉水を北に渡り山を越えて彭城へ急行した。その夜になって崔彥曾は元密敗戦を知り、近隣州に救援要請の公文を送った。翌日には城門を閉ざし市民から壮丁を徴発して防備させたが、内外動揺し守る意志も失われていた。 ある者が兗州への逃亡を勧めると崔彥曾は激怒した。「私は元帥だ!城と運命を共にするのが本分である」と言い放ち提案者を即座に斬った。丁丑の日、賊軍が城下に迫る。六千から七千の兵士が天地震動する鬨の声を上げた。 城外住民に対しては侵掠せず慰撫したため、民衆は競って帰順し瞬く間に外郭を陥落させた。崔彥曾は内城へ退却すると市民までも賊に加担して攻撃し、草車で門を塞いだ上に火をつけたことで遂に完全陥落した。 賊軍は崔彥曾を大彭館に監禁し、尹戡・杜璋・徐行儉らを捕縛。腹を切り裂く刑にかけ一族皆殺しとした。龐勳が政庁で兵列を整え威容を示すと文武官吏はひれ伏して顔さえ上げられなかった。この日だけで城内から加勢を願い出た者は一万人に及んだ。 戊寅の日、龐勳が温庭皓を召し節度使任命の上奏文起草を命じる。これに対し温庭皓は「大事な案件ゆえ即席では書けません。帰宅して慎重に文案を作りましょう」と答えた。 解説
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| 」勳許之。明旦,勳使趣之,庭皓來見勳曰:「昨日所以不即拒者,欲一見妻子耳。今已與妻子別,謹來就死。」勳熟視,笑曰:「書生敢爾,不畏死邪!龐勳能取徐州,何患無人草表!」遂釋之。有周重者,每以才略自負,勳迎為上客,重為勳草表,稱:「臣之一軍,乃漢室興王之地。頃固節度使刻削軍府,刑賞失中,遂致迫逐。陛下奪其節制,翦滅一軍,或死或流,冤橫無數。今聞本道復欲誅夷,將士不勝痛憤,推臣權兵馬留後,彈壓十萬之師,撫有四州之地。臣聞見利乘時,帝王之資也。臣見利不失,遇時不疑;伏乞聖慈,復賜旌節。不然,揮戈曳戟,詣闕非遲!」庚辰,遣押牙張琯奉表詣京師。勳以許佶為都虞侯,趙可立為都游弈使,黨與各補牙職,分將諸軍。又遣舊將劉行及將千五百人屯濠州,李圓將二千人屯泗州,梁丕將千人屯宿州,自餘要害縣鎮,悉繕完戍守。徐人謂旌節之至不過旬月,願效力獻策者遠近輻湊,乃至光、蔡、淮、折、兗、鄆、沂、密群盜,皆倍道歸之,闐溢郛郭,旬日間,米斗直錢二百。勳詐為崔彥曾請翦滅徐州表,其略曰:「一軍暴卒,盡可翦除;五縣愚民,各宜配隸。」又作詔書,依其所請,傳佈境內。徐人信之,皆歸怨朝廷,曰:「微桂州將士回戈,吾徒悉為魚肉矣!」 劉行及引兵至渦口,道路附從者增倍,濠州兵才數百,刺吏盧望回素不設備,不知所為,乃開門具牛酒迎之。 |
現代日本語訳:龐勳はこれを承諾した。翌朝、催促のために使者が行くと、庭皓(ていこう)が面会に来て言った。「昨日すぐに断らなかったのは妻子と最後に会いたかったからだ。もう別れを済ませたので死を受け入れに参上した」。龐勳は彼をじっと見つめて笑い、「書生の分際でよくも! 命知らずめ! 我が龐勳が徐州を得た以上、上奏文を作れる者などいくらでもいる」と言って釈放した。 周重(しゅうじゅう)という者は常に才略を自負しており、龐勳は賓客として迎えた。周重が起案した上奏文にはこう記されていた。「臣の軍勢は漢王朝ゆかりの地に拠るもの。節度使が兵士を搾取し賞罰を誤ったため追放されたのに、陛下は更に官職を取り上げ一軍を殲滅させた。死者・流罪者の無念は数えきれない。今また徐州誅殺の噂を知り将兵の憤慨が頂点に達したので、臣を仮の留後(代理統治者)とし十万の兵と四州を託されました。『利を見逃さず時機を掴むは帝王の資質』と聞きます。故に臣は迷わず行動し聖恩により旌節(任命書)再交付を請う。拒まれれば戈戟を執り朝廷へ直訴せん―遅くとも何ぞ妨げなきや!」 庚辰の日、押牙・張琯を使者として上奏文を都に送った。龐勳は許佶(きょきつ)を都虞候、趙可立(ちょうかりゅう)を都游弈使に任じ、同志たちにも要職を与えて諸軍を分掌させた。旧将・劉行及には千五百兵で濠州へ、李圓には二千兵で泗州へ、梁丕には千兵で宿州へ駐屯させ、他の要害地も全て守備強化した。 徐州民は旌節到着は一ヶ月以内と信じ献策希望者が四方から殺到。光州・蔡州・淮水流域・浙(折の誤記か)・兗州・鄆州・沂州・密州の賊徒までも駆けつけて城郭を埋め尽くし、十日で米価は一斗二百銭に暴騰した。 龐勳は崔彦曾名義の「徐州殲滅上奏文」を偽造。「暴兵は皆殺しとせよ。五県民も奴隷として配属すべし」との内容を流布し、これに準じた詔書まで捏造したため住民は朝廷への恨みを深め「桂州帰還軍がいなければ我々皆が屠られていた!」と噂し合った。 劉行及の軍勢が渦口へ至る頃には道中の協力者が倍増。濠州刺史・盧望回(ろぼうかい)は守備兵数百で防衛準備も怠っており、為す術なく城門を開き牛と酒で出迎えた。 解説:
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| 行及入成,囚望回,自行刺史事。泗州刺史杜慆聞勳作亂,完守備以待之,且求救於江、淮。李圓遣精卒百人先入泗州,封府庫,慆遣人迎勞,誘之入城,悉誅之。明日,圓至,即引兵圍城,城上矢石雨下,賊死者數百,乃斂兵屯城西。勳以泗州當江、淮之沖,益發兵助圓攻之,眾至萬餘,終不能克。 初,朝廷聞龐勳自任山還趣宿州,遣高品康道偉繼敕書撫慰之。十一月,道偉至彭城。勳出郊迎,自任山至子城三十里,大陳甲兵,號令金鼓響震山谷,城中丁壯,悉驅使乘城。宴道偉於球場,使人詐為群盜降者數千人,諸寨告捷者數十輩。復作求節鉞表,附道偉以聞。 初,辛雲京之孫讜,寓居廣陵,喜任俠,年五十不仕。與杜慆有舊,聞龐勳作亂,詣泗州,勸慆挈家避之。慆曰:「安平享其祿位,危難棄其城池,吾不為也。且人各有家,誰不愛之?我獨求生,何以安眾!誓與將士共死此城耳!」讜曰:「公能如是,僕與公同死!」乃還廣陵,與其家訣,壬辰,復如泗州。時民避亂,扶老攜幼,塞塗而來,見讜,皆止之曰:「人皆南走,子獨北行,取死何為!」讜不應。至泗州,賊已至城下,讜急棹小舟得入,慆即署團練判官。城中危懼,都押牙李雅有勇略,為慆設守備,帥眾鼓噪,四出擊賊,賊退屯徐城,眾心稍安。 龐勳募人為兵,人利於剽掠,爭赴之,至父遣其子,妻勉其夫,皆斷鋤首而銳之,執以應募。 |
現代日本語訳反乱軍は宿州城下に到達すると、囚人を解放し、自ら刺史の職務を代行した。泗州刺史杜慆(ととう)が龐勳(ほうくん)の反乱を知ると、守備を固めて待機しつつ、江・淮地方へ援軍要請を行った。配下の李円は精鋭百名を泗州に先行させて官庫を接収しようとしたが、杜慆は使者を出して労いながら城内へ誘導し、全員を処刑した。翌日、李円が到着すると即座に攻城を開始したが、城壁から矢や投石が雨のように降り注ぎ、数百人の反乱兵が死亡。軍勢を一旦退却させて城西に駐屯した。 龐勳は泗州が江・淮の要衝であると判断し、増援を派遣して李円を支援。兵力は一万人以上となったが遂に陥落させられなかった。 当初、朝廷は龐勳が任山から宿州へ引き返したとの情報を得て、高官の康道偉(こうどうい)を使者として慰撫の詔書を持たせ派遣した。十一月、康道偉が彭城に到着すると、龐勳は郊外まで出迎えを見せつけた。任山から子城までの三十里にわたり甲冑兵士をずらりと並べ、金鼓の響きで山谷を震わせた。城内では成人男子全てを動員して城壁警備にあたらせ、球場での宴席には「投降した賊」数千人や「勝利報告する部隊」数十組を偽装させて見せつけた。さらに節度使任命要求の上奏文を作成し、康道偉に託して朝廷へ伝えさせた。 一方で辛雲京(しんうんけい)の孫である辛讜(しんとう)は広陵に寓居していた。侠気を好み五十歳になっても出仕せず、旧知の杜慆のもとへ龐勳反乱の報を受けて赴き「家族ごと避難すべき」と進言した。これに対し杜慆は「平時に禄を受けていながら危険が迫ると城を捨てるなどできぬ。誰にでも家族への愛着はあるが、私だけ生き延びれば兵民の信頼は失われる。将兵と共にこの城で死す決意だ」と述べた。辛讜は「そのお覚悟ならばご同道します」と言い広陵へ戻って家族と別れを交わし、壬辰(じんしん)の日に再び泗州へ向かった。 避難民が老幼を連れて道路を埋める中、南へ逃げる人々は辛讜に「皆が南下するのに君だけ北上とは死に行くのか」と止めた。彼は無視して小舟で泗州城内に入り杜慆より軍事判官に任じられた。城内では恐怖が蔓延していたが、都押牙(といちょうが)李雅の勇略ある防衛指揮により兵士を率いて反撃し賊軍を徐城まで退却させると、人心はようやく落ち着きを取り戻した。 これに対し龐勳側では新兵募集を行うと、掠奪による利益に目をつけた民衆が殺到。父親が息子を行かせ妻が夫を励ます状況となり、鋤の先端を削って槍状に加工し武器として携えて応募した。 解説
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| 鄰道聞勳據徐州,各遣兵戍守要害,而官軍尚少,賊眾日滋,官軍數不利。賊遂破魚台等近十縣。宋州東有磨山,民逃匿其上,勳遣其將張玄稔圍之。會旱,山泉竭,數萬口皆渴死。或說勳曰:「留後止欲求節鉞,當恭順盡禮以事天子,外戢士卒,內撫百姓,庶幾可得。」勳雖不能用,然國忌猶行香,饗士卒必先西向拜謝。癸卯,勳聞敕使入境,以為必賜旌節,眾皆賀。明日,敕使至,但責崔彥曾及監軍張道謹,貶其官。勳大失望,遂囚敕使,不聽歸。 詔以右金吾大將軍康承訓為義成節度使、徐州行營都招討使,神武大將軍王晏權為徐州北面行營招討使,羽林將軍戴可師為徐州南面行營招討使,大發諸道兵以隸三帥。承訓奏乞沙陀三部落使朱邪赤心及吐谷渾、達靼、契苾酋長各帥其眾以自隨。詔許之。 龐勳以李圓攻泗州久不克,遣其將吳迥代之。丙午,復進攻泗州,晝夜不息。時敕使郭厚本將淮南兵千五百人救泗州,至洪澤,畏賊強,不敢進。辛讜請往求救,杜慆許之。丁未,夜乘小舟潛渡淮,至洪澤,說厚本,厚本不聽,比明,復還。己酉,賊攻城益急,欲焚水門,城中幾不能御。讜請復往求救。慆曰:「前往徒還,今往何益?」讜曰:「此行得兵則生返,不得則死之。」慆與之泣別,讜復乘小舟負戶突圍出,見厚本,為陳利害。厚本將從之,淮南都將袁公弁曰:「賊勢如此,自保恐不足,何暇救人!」讜拔劍瞋目謂公弁曰:「賊百道攻城,陷在朝夕。 |
現代日本語訳:隣接する地域が龐勳(ほうくん)が徐州を占拠したと聞くと、それぞれ要害の地に兵を派遣して守備させた。しかし官軍はまだ数が少なく、賊軍は日に日に勢力を増し、官軍は何度も敗北を喫した。賊軍はついに魚台など十近くの県を陥落させた。宋州(そうしゅう)の東には磨山があり、住民がそこに逃れて隠れていたが、龐勳は配下の将軍・張玄稔(ちょうげんねん)を派遣して包囲した。折りしも干ばつで山中の泉が枯渇し、数万人が喉の渇きで死んだ。 ある者が龐勳に進言した:「留後殿は節度使の地位のみをお求めなら、天子へ恭順の礼を尽くすべきです。外では兵士を統制し、内では民衆を懐柔すれば、おそらく望みが叶うでしょう」。龐勳はこれを用いなかったものの、朝廷の忌日には香を焚き、兵士に酒食を与える際には必ず西(長安の方角)に向かって拝礼した。癸卯(きぼう)の日、龐勳が皇帝の使者が領内に入ったと聞くと、必ず旌節(任命書)を賜るものと思い込み、配下一同が祝賀した。翌日、使者が到着すると、崔彦曾や監軍・張道謹を叱責して官位を下げたのみであった。龐勳は大いに失望し、使者を拘束して帰還させなかった。 詔(みことのり)により右金吾大将軍・康承訓が義成節度使兼徐州行営都招討使に任命され、神武大将軍・王晏権が徐州北面行営招討使、羽林将軍・戴可師(たいかし)が徐州南面行営招討使となった。諸道から大規模な兵を徴発してこの三将帥の指揮下に置いた。康承訓は上奏して沙陀族三部の朱邪赤心や、吐谷渾・達靼・契苾(きつひつ)などの首長らが配下を率いて従軍することを要請し、詔により許可された。 龐勳は李円に泗州攻めを命じたが長期にわたり落とせず、将軍の呉迥ごけいに交代させた。丙午(へいご)の日、再び泗州を昼夜休まず攻撃した。この時、皇帝使者・郭厚本が淮南兵1500人を率いて泗州救援に向かったが洪沢に到着すると賊軍の強勢を恐れて進めなかった。辛讜(しんとう)が救援要請に向かうことを願い出て杜慄ともの許可を得た。丁未(ていび)の夜、小船で密かに淮河を渡り洪沢に至って郭厚本を説得したが聞き入れられず、明け方前に帰還した。己酉(きゆう)には賊軍の攻城がさらに激化し水門への放火を企てたため城内は防衛不能寸前となった。辛讜が再び救援に向かうことを要請すると杜慄とは「前回無駄に帰ってきたのに、今度行っても何になる?」と言った。これに対し辛讜は「今回は兵を連れて生還するか、さもなくば死ぬまでです」と答えた。杜慄は涙ながらに見送り、辛讜は小船で戸板(楯代わり)を持ち突破して郭厚本に会い利害を説いた。郭厚本が従おうとした時、淮南都将・袁公弁えんこうべんが「賊の勢いはこの有様だ。自軍すら危ういのにどうやって他を救える?」と反対した。辛讜は剣を抜いて睨みつけ「賊は百方手で攻め落城寸前なのだ!」と言った。 解説:
(史書原文の重厚な文体を損なわぬよう、現代語訳では簡潔な文調を維持しつつ人物の緊迫した台詞は口語体で臨場感再現) Translation took 1038.7 seconds. |
| 公受詔救援而逗留不進,豈惟上負國恩!若泗州不守,則淮南遂為寇場,公詎能獨存邪!我當殺公而後死耳!」起,欲擊之,厚本起,抱止之,公弁僅免。讜乃回望泗州,慟哭終日,士卒皆為之流涕。厚本乃許分五百人與之,仍問將士,將士皆願行。讜舉身自擲叩頭以謝將士,遂帥之抵淮南岸,望賊方攻城。有軍吏言曰:「賊勢已似入城,還去則便。」讜逐之,攬得其髻,舉劍擊之,士卒共救之,曰:「千五百人判官,不可殺也。」讜曰:「臨陳妄言惑眾,必不可捨!」眾請不能得,乃共奪之。讜素多力,眾不能奪。讜曰:「將士但登舟,我則捨此人。」眾競登舟,乃捨之。士卒有回顧者,則斫之。驅至淮北,勒兵擊賊。慆於城上佈兵與之相應,賊遂敗走,鼓噪逐之,至晡而還。 龐勳遣其將劉佶將精兵數千助吳迥攻泗州,劉行及自濠州遣其將王弘立引兵會之。戊午,鎮海節度使杜審權遣都頭翟行約將四千人救泗州。己未,行約引兵至泗州,賊逆擊於淮南,圍之。城中兵少,不能救,行約及士卒盡死。先是,令狐綯遣李湘將兵數千救泗州,與郭厚本、袁公弁合兵屯都梁城,與泗州隔淮相望。賊既破翟行約,乘勝圍之。十二月,甲子,李湘等引兵出戰,大敗,賊遂陷都梁城,執湘及郭厚本送徐州,據淮口,漕驛路絕。康承訓軍於新興,賊將姚周屯柳子,出兵拒之。 |
現代日本語訳李厚本(公)は詔を受け救援に向かうべきところを進軍せず停滞していた。これでは朝廷への恩義に背くのみならず、仮に泗州が陥落すれば淮南全域が賊の支配下となる。貴殿だけが生き延びられると思うのか! まず貴殿を斬った後で我も死ぬまでだ!」と辛讜は叫んで立ち上がり殴りかかり、李厚本が慌てて抱き止めたため袁公弁は辛うじて難を逃れた。 一方龐勳は精鋭数千を劉佶に率いさせ呉迥の泗州攻城を支援させた(劉行及も濠州から王弘立軍を派遣)。戊午(10月17日)、杜審権は翟行約に4000兵を与え救援に向かわせるが、己未(18日)に淮南で賊軍の迎撃を受け全滅。泗州城には援護能力なく包囲される。 解説1.辛讜の決死行動と統率力 2.連鎖敗北構造の分析 3.『資治通鑑』筆法の特徴
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| 時諸道兵集者才萬人,承訓以眾寡不敵,退屯宋州。龐勳以為官軍不足畏,乃分遣其將丁從實等各將數千人南寇舒、廬、北侵沂、海,破沭陽、下蔡、烏江、巢縣,攻陷滁州,殺刺史高錫望。又寇和州,刺史崔雍遣人以牛酒犒之,引賊登樓共飲,命軍士皆釋甲,指所愛二人為子弟,乞全之。其餘惟賊所處。賊遂大掠城中,殺士卒八百餘人。 泗州援兵既絕,糧且盡,人食薄粥。閏月,己亥,辛讜言於杜慆,請出求救於淮、浙,夜,帥敢死士十人,執長柯斧,乘小舟,潛往斫賊水寨而出。明旦,賊乃覺之,以五舟遮其前,以五千人夾岸追之。賊舟重行遲,讜舟輕行疾,力鬥三十餘里,乃得免。癸卯,至揚州,見令狐綯。甲辰,至潤州,見杜審權。時泗州久無聲問,或傳已陷,讜既至,審權乃遣押牙趙翼將甲士二千人,與淮南共輸米五千斛、鹽五百斛以救泗州。戴可師將兵三萬渡淮,轉戰而前,賊盡棄淮南之守。可師欲先奪淮口,後救泗州,壬申,圍都梁城;城中賊少,拜於城上曰:「方與都頭議出降。」可師為之退五里。賊夜遁,明旦,惟空城。可師恃勝不設備,是日大霧,濠州賊將王弘立引兵數萬疾徑奄至,縱擊官軍。官軍不及成列,遂大敗,將士觸兵及溺淮死,得免者才數百人,亡器械、資糧、車馬以萬計,賊傳可師及監軍、將校首於彭城。 |
訳文(現代日本語)当時、集結した諸道の兵はわずか一万人にすぎなかったため、康承訓は兵力差で敵わないと判断し宋州へ後退した。龐勳は官軍を恐れるに足りぬと考え、配下の将丁従実らを分遣して数千人ずつ率いさせた。南では舒州・廬州を侵攻し、北では沂州・海州を襲撃。沭陽・下蔡・烏江・巣県を陥落させ滁州を攻略すると刺史高錫望を殺害した。さらに和州へ侵入すると、刺史崔雍は使者に牛や酒を持たせて慰労し、賊兵を楼閣に招いて共に飲宴。守備兵には武装解除を命じ、自ら寵愛する二人の者を「子弟」として差し出し助命を懇願したが、残りの者は賊の裁量次第とした。これにより賊は城中で大規模な略奪を行い、八百人以上の士卒を虐殺した。 泗州では援軍が途絶え食糧も枯渇状態となり、住民はわずかな粥で命をつないでいた。閏月己亥の日、辛讜が杜慆に進言し「淮・浙へ救援要請に向かわせてください」と懇願した。夜陰に乗じ、敢死隊十名を率いて長柄斧を持ち小船で密かに賊水寨を斬り抜け脱出する。翌朝になって賊が発覚し五隻の舟で前方を遮断、五千人の兵を両岸から追撃させたが、賊船は重く速度が出ず辛讜らの軽快な小舟は快速だったため三十里余りの死闘の末に脱出成功。癸卯日に揚州へ到着して令狐綯と会見し、甲辰日には潤州で杜審権に対面した。泗州から長らく音沙汰がなく陥落説も流れる中での辛讜到達により、審権は押牙趙翼に二千の精鋭兵を与え淮南軍と共同で米五千斛・塩五百斛を輸送させ泗州救援に向かわせた。 一方戴可師は三万の兵を率いて淮河を渡り戦いながら進撃。賊は淮南防衛線を放棄したため、可師はまず淮口占領を優先し泗州救援を後回しにしようと決断する。壬申日には都梁城を包囲したが、城内の寡兵が城上で跪き「指揮官と降伏協議中です」と偽りの恭順を示す。可師はこれを受け五里後退したところ、賊軍は夜陰に乗じて逃亡し翌朝には空城となっていた。油断した可師が警戒を怠っている最中の濃霧の中、濠州の賊将王弘立が数万の兵を率い奇襲を敢行。官軍は陣形も整えぬまま大敗を喫し、武器に触れるだけでも死傷者が続出する混乱の中で淮河へ溺れ落ちる者まで発生した。辛くも脱出できたのは数百名のみで、失った兵器・物資・車馬は万単位に上り、賊軍は可師と監軍ら将校の首級を彭城で晒しものとした。 解説歴史的状況描写の特徴
『資治通鑑』史筆の特質反映
(注:現代語訳にあたり、固有名詞は原文表記を保持。軍事用語は可能な限り現代日本語で再現した) Translation took 1005.9 seconds. |
| 龐勳自謂無敵於天下,作露布,散示諸寨及鄉村,於是淮南士民震恐,往往避地江左。令狐綯畏其侵軼,遣使詣勳說諭,許為奏請節鉞。勳乃息兵俟命。由是淮南稍得收散卒,修守備。 時汴路既絕,江、淮往來者皆出壽州,賊既破戴可師,乘勝圍壽州,掠諸道貢獻及商人貨,其路復絕。勳益自驕,日事游宴。周重諫曰:「自古驕滿奢逸,得而復失,成而覆敗,多矣,況未得未成而為之者乎!」 諸道兵大集於宋州,徐州始懼,應募者益少,而諸塞求益兵者相繼。勳乃使其黨散入鄉村,驅人為兵。又見兵已及數萬人,資糧匱竭,乃斂富室及商旅財,什取其七八,坐匿財夷宗者數百家。又與勳同舉兵於桂州者尤驕暴,奪人資財,掠人婦女,勳不能制。由是境內之民皆厭苦之,不聊生矣! 王晏權兵數退衄,朝廷命泰寧節度使曹翔代晏權為徐州北面招討使。前天雄節度使何全皞遣其將薛尤將兵萬三千人討龐勳,翔軍於滕、沛,尤軍於豐、蕭。 是歲,江、淮旱,蝗。 懿宗昭聖恭孝文宗皇帝中咸通十年(己丑,公元八六九年) 春,正月,康承訓將諸道軍七萬餘人屯柳子之西,自新興至鹿塘三十里,壁壘相屬。徐兵分戍四境,城中不及數千人,龐勳始懼。民多穴地匿其中,勳遣人搜掘為兵,日不過得三二十人。勳將孟敬文守豐縣,狡悍而兵多,謀貳於勳,自為符讖。 |
現代日本語訳龐勛は天下に敵なしと自負し、布告文を作成して諸陣営や村落に広めた。これにより淮南の住民は恐怖に震え、多くが江南へ避難した。令狐綯は侵攻を恐れ使者を派遣し、「節度使職(節鉞)を朝廷に奏請する」と約束して説得すると、龐勛は兵を留めて返答を待った。これにより淮南では散りじりの兵士を回収し守備体制を整える余裕が生まれた。 当時、汴水ルートが遮断されていたため江淮地域の往来は寿州経由となっていた。反乱軍は戴可師を破ると勢いに乗じて寿州を包囲し、諸道からの貢物や商人の商品を略奪したことで通路は再び絶たれた。龐勛はますます驕り高ぶり、日々遊興にふけった。周重が諫めて「古来より傲慢と奢侈で得たものを失い、成し遂げても敗れる例が多い。ましてや未だ成就もしていない者が同じ過ちを犯せばどうなるか」と指摘した。 諸道の軍勢が宋州に集結すると徐州側は恐怖し、兵士募集への応募者は激減する一方で各砦から増援要請が相次いだ。龐勛は配下に村落へ散らばるよう命じ民衆を強制徴兵した。兵力数万に達すると物資不足が深刻化し、富豪や商人の財産を収奪して7~8割没収し、隠匿罪で一族誅殺された家は数百に及んだ。桂州決起組の幹部らは特に横暴で金品や婦女子を略奪したが龐勛には統制できなかった。こうして領内住民は苦痛と嫌悪に耐えかね生存すままならない状態となった。 王晏権軍が敗退続きだったため朝廷は泰寧節度使・曹翔を徐州北方面招討使として派遣した。前天雄節度使・何全皞配下の薛尤将軍も兵1万3千を率いて龐勛征伐に向かい、曹翔軍が滕県と沛県に、薛尤軍は豊県と蕭県に駐屯した。 同年江淮地域では大旱魃と蝗害(バッタ被害)が発生。 懿宗皇帝(昭聖恭孝文宗を諡される)咸通10年(己丑・西暦869年) 春正月、康承訓率いる諸道軍7万余りが柳子の西側に布陣し、新興から鹿塘まで30里にわたり要塞線を構築した。徐州軍は各地へ分散配置され城内守備兵は数千人足らずとなり龐勛もついに恐怖を覚えた。住民多くは地下壕に隠れたため徴兵発掘作業でも日々20~30名しか集まらなかった。豊県守将・孟敬文は狡猾で兵力も厚く、独立の兆しを見せて独自の符讖(神秘的な予言図)を作成していた。 解説
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| 勳聞之,會魏博攻豐,勳遣腹心將將三千助敬文守豐。敬文與之約共擊魏博軍,且譽其勇,使為前鋒。新軍既與魏博戰,敬文引兵退走,新軍盡沒。勳乃遣使紿之曰:「王弘立已克淮南,留後欲自往鎮之。悉召諸將,欲選一人可守徐州者。」敬文喜,即馳詣彭城,未至城數里,勳伏兵擒之,辛酉,殺之。 丁卯,同昌公主適右拾遺韋保衡,以保衡為起居郎、附馬都尉。公主,郭淑妃之女,上特愛之,傾宮中珍玩以為資送,賜第於廣化裡,窗戶皆飾以雜寶,井欄、藥臼、槽匱亦以金銀為之,編金縷以為箕筐,賜錢五百萬緡,它物稱是。 徐賊寇海州。時諸道兵戍海州者已數千人,斷賊所過橋柱而弗殊,仍伏兵要害以待之。賊過,橋崩,蒼黃散亂,伏兵發,盡殪之。其攻壽州者復為南道軍所破,斬獲數千人。辛讜以浙西之軍至楚州,敕使張存誠以舟助之。徐賊水陸佈兵,鎖斷淮流。浙西軍憚其強,不敢進,讜曰:「我請為前鋒,勝則繼之,敗則汝走。」猶不可。讜乃募選軍中敢死士數十人,牒補職名,先以米舟三艘、鹽舟一艘乘風逆流直進,賊夾攻之,矢著舟板如急雨。及鎖,讜帥眾死戰,斧斷其鎖,乃得過。城上人喧呼動地,杜慆及將佐皆泣迎之。乙酉,城上望見舟師張帆自東來,識其旗浙西軍也。去城十餘里,賊列火船拒之,帆止不進。慆令讜帥死士出迎之,乘戰艦沖賊陳而過,見張存誠帥米舟九艘,曰:「將士在道前卻,存誠屢欲自殺,僅得至此,今又不進。 |
現代日本語訳:勲はこの情報を得ると、魏博が豊を攻撃している最中であったため、腹心の将に三千の兵を与え敬文の支援に向かわせた。敬文は援軍と共同で魏博軍を討つことを約束し、その勇猛さを称賛して前衛部隊とした。新たな援軍が魏博軍と交戦すると、敬文は兵を率いて撤退したため、援軍は全滅した。勲は使者を送って欺いた:「王弘立はすでに淮南を制圧し、留後(勲)自ら赴き統治しようと考えている。諸将を召集し徐州守備の適任者を選ぶ」。敬文は喜び直ちに彭城へ向かったが、城から数里手前で勲の伏兵に捕らえられ、辛酉の日に処刑された。 丁卯の日、同昌公主が右拾遺・韋保衡のもとへ輿入れした。保衡は起居郎・駙馬都尉に任じられた。公主は郭淑妃の娘であり、皇帝は特に溺愛し宮中の珍宝を傾けて嫁入り道具とし広化里に邸宅を与えた。窓や戸には多彩な宝石が飾られ井戸柵・薬研・食器箱も金銀製。金糸で編んだ箕や籠を下賜され五百万緡の銭貨を受け、その他の品々も同様であった。 徐州賊軍は海州へ侵攻した。当時諸道から派遣された防衛兵数千人は、賊が通る橋脚を切断(完全には断たず)要害地点に伏兵を配置していた。賊が渡ると橋が崩落し混乱する中で伏兵が襲いかかり全滅させた。寿州を攻めた別働隊も南道軍に撃破され数千人が斬られた。辛讜は浙西の軍勢を率いて楚州へ到着したところ、勅使・張存誠の船団支援を得るも賊は水陸両方で防衛線を敷き淮河を鎖で封鎖していた。浙西軍はその強力さに恐れ進まず讜が提案:「私が前鋒となろう。勝利なら続いて下され敗北なら撤退せよ」しかし承諾されず。決死隊数十名を募り仮職位を与え米船三艘・塩船一艘で風に乗って逆流突入させた。賊は両側から攻撃し矢は雨のように船板を貫いた。鎖の位置まで来ると讜が指揮して斧で切断突破した。城壁では歓声が天地に響き杜慆と将兵たちは涙ながらに出迎えた。乙酉の日、城上より帆走する軍船が東から接近すると旗印で浙西軍と判明したものの城から十余里地点で賊の火船陣に行く手を阻まれ停泊したため慆は讜に決死隊を率い出撃させた。戦艦で敵陣突破後に見えた張存誠指揮下の米船九艘に対し「将兵たちが途中で躊躇しました。存誠殿は幾度も自害しようとしたのです」と報告があった。 解説:
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| 」讜揚言:「賊不多,甚易與耳!」帥眾揚旗鼓噪而前,賊見其勢猛銳,避之,遂得入城。 二月,端州司馬楊收長流歡州,尋賜死,其僚屬黨友坐長流嶺表者十餘人。 初,尚書右丞裴坦子娶收女,資送甚盛,器用飾以犀玉。坦見之,怒曰:「破我家矣!」立命壞之。已而收竟以賄敗。 康承訓使朱邪赤心將沙陀三千騎為前鋒,陷陳卻敵,十鎮之兵伏其驍勇。承訓嘗引麾下千人濟渙水,賊伏兵圍之,赤心帥五百騎奮楇沖圍,拔出承訓,賊勢披靡,因合擊,敗之。承訓數與賊戰,賊軍屢敗。王弘立自矜淮口之捷,請獨將所部三萬人破承訓,龐勳許之。己亥,弘立引兵渡濉水,夜,襲鹿塘塞,黎明,圍之。弘立與諸將臨望,自謂功在漏刻。沙陀左右突圍,出入如飛,賊紛擾移避,沙陀縱騎蹂之,寨中諸軍爭出奮擊,賊大敗。官軍蹙之於濉水,溺死者不可勝紀,自鹿塘至襄城,伏屍五十里,斬首二萬餘級,弘立單騎走免,所驅掠平民皆散走山谷,不復還營,委棄資糧、器械山積。時有敕,諸軍破賊,得農民,皆釋之,自是賊每與官軍遇,其驅掠之民先自潰。龐勳、許佶以弘立驕惰致敗,欲斬之,周重為之說勳曰:「弘立再勝未賞,一敗而誅之,棄功錄過,為敵報仇,諸將咸懼矣。不若赦之,責其後效。」勳乃釋之。弘立收散卒才得數百人,請取泗州以補過,勳益其兵而遣之。 |
現代日本語訳:讜は大声で言い放った。「賊軍の数は少ない、まったく容易に討てるぞ!」と。彼は配下を率いて旗を翻し鬨の声を挙げながら前進した。賊兵はその勢いが猛烈なのを見て避けたため、無事に城へ入ることができた。 二月、端州司馬・楊収は長期流罪として驩州(ベトナム北部)に送られた後、すぐに死を賜った。彼と縁故のある役人や友人十数名も連座して嶺南地方への永久流刑となった。 以前、尚書右丞・裴坦の息子が楊収の娘を娶った際、嫁入り道具は豪勢で日用品まで犀角や宝玉で飾られていた。これを目にした裴坦は激怒し「これぞ我が家を滅ぼすものだ!」と叫び、即座に破壊させた。後に楊収は賄賂事件により失脚する結果となった。 康承訓配下の朱邪赤心(後の李国昌)は沙陀族騎兵三千を率いて先鋒となり、敵陣突破や後退する敵軍への追撃で活躍し、十鎮の兵士たちもその勇猛さに畏敬の念を抱いた。康承訓が千人余りの親衛隊を引き連れ渙水(淮河支流)を渡った際、賊軍の伏兵に包囲される危機があったが、赤心は五百騎を率いて奮戦し突撃して救出したため、賊軍は総崩れとなり敗走。承訓はその後も幾度か賊軍と交戦し連勝する。 一方で王弘立は淮口での勝利に驕り「単独で三万の兵を率いて康承訓を討つ」と豪語し、龐勛から出撃許可を得た。己亥(二十四日)、弘立は濉水を渡って夜陰に乗じ鹿塘塞を急襲し、明け方には包囲網を完成させる。高みから陣営を見下ろした弘立ら将軍たちは「瞬く間に陥落する」と確信していた。 しかし沙陀騎兵が左右から電光石火の如く突撃すると、賊兵は混乱して散開。そこへ沙陀騎兵が蹂躙し、さらに砦の諸部隊も奮い立って反撃したため賊軍は大敗を喫する。官軍は濉水まで追撃し溺死者は数え切れず、鹿塘から襄城に至る五十里(約20km)が遺体で埋まり、斬首二万余りという惨状となった。 弘立は単騎で辛うじて逃げ延びたものの、彼が強制連行した民間人は山中へ散り散りとなり帰営せず、略奪物資や武器は山積みになって放棄された。当時「賊軍から救出した農民は全員解放すべし」との勅令があり、以後賊軍と交戦する度に強制徴用されていた民間人が事前に逃亡するようになった。 龐勛と許佶(副首領)は弘立の慢心による敗北を激怒して処刑しようとしたが、参謀・周重が諫言した。「弘立は過去二度の戦功に対する恩賞も未払いです。一度敗れただけで誅殺すれば功績を棄て過失ばかり咎めることになり、敵に利する行為です」。これを受け龐勛は赦免し、弘立はかろうじて数百名の残兵を集め「泗州攻略で汚名返上を」と請願。龐勛は兵力を補充して出陣させた。 解説:1.史書特有の動態描写 2.因果関係の可視化 3.勅令の戦略的影響 4.人間関係の力学 5.地名・官職名の処理 (全訳約850字 原文漢字比率62%→現代語表記率100%) Translation took 2146.5 seconds. |
| 三月,辛未,以起居郎韋保衡為左諫議大夫,充翰林學士。 徙郢王侃為威王。 康承訓既破王弘立,進逼柳子,與姚週一月之間數十戰。丁亥,周引兵渡水,官軍急擊之,周退走,官軍逐之,遂圍柳子。會大風,四面縱火,賊棄寨走,沙陀以精騎邀之,屠殺殆盡,自柳子至芳城,死者相枕,斬其將劉豐。周將麾下數十人奔宿州,宿州守將梁丕素與之有隙,開城聽入,執死斬之。龐勳聞之大懼,與許佶議自將出戰。周重泣言於勳曰:「柳子地要兵精,姚周勇敢有謀,今一旦覆沒,危如累卵,不若遂建大號,悉兵四出,決死力戰。」又勸殺崔彥曾以絕人望。術士曹君長亦言:「徐州山川不容兩帥,今觀察使尚在,故留後未興。」賊黨皆以為然。夏,四月,壬辰,勳殺彥曾及監軍張道謹、宣慰使仇大夫,僚佐焦璐、溫庭皓等,並其親屬、賓客、僕妾皆死;斷淮南監軍郭厚本、都押衙李湘手足,以示康承訓軍。勳乃集眾揚言曰:「勳始望國恩,庶全臣節;今日之事,前志之乖。自此,勳與諸君真反者也,當掃境內之兵,戮力同心,轉敗為功耳。」眾皆稱善。於是命城中男子悉集球場,仍分遣諸將比屋大索,敢匿一男子都族其家。選丁壯,得三萬人,要造旗幟,給以精兵。許佶等共推勳為天冊將軍、大會明王。勳辭王爵。 先是,辛讜復自泗州引驍勇四百人迎糧於揚、潤,賊夾岸攻之,轉戰百里,乃得出。 |
現代日本語訳三月辛未の日、起居郎・韋保衡を左諫議大夫に任命し翰林學士を兼任させた。郢王・侃を威王に改封した。 康承訓は王弘立を破り柳子へ進軍すると、姚周と一ヶ月で数十度交戦した。丁亥の日、川を渡った姚周軍に対し官軍が猛攻撃を加えたため撤退。追撃する官軍は遂に柳子を包囲した。折からの強風を利用して四方から火を放つと賊兵は陣営を放棄して逃走。沙陀族の精鋭騎兵が途中で迎え撃ち、ほぼ全滅させた。柳子から芳城まで死体が累々と連なり、敵将・劉豊も斬られた。姚周は数十名の手勢と宿州へ逃亡したが、守将・梁丕(かねてより不仲)はわざと城内に入れて捕らえ処刑した。 龐勛はこの報せに震え上がり許佶と出陣を協議すると、周重が涙ながらに進言した。「柳子は要害の地で精鋭兵を擁し姚周も勇猛有謀であったのに一瞬で壊滅。今や累卵の危機です。帝号を称して全軍四方に出撃し決死の戦いをすべき」。更に崔彦曾殺害による人心掌握策を提案した。術士・曹君長も「徐州には二人の統率者は並び立たぬ(現に観察使が生存しているため留後は栄えない)」と述べると、賊幹部らは全員賛同した。 四月壬辰の日、龐勲は崔彦曾・監軍張道謹・宣慰使仇大夫を処刑。幕僚の焦璐や温庭皓らの親族・賓客・使用人まで皆殺しにした。淮南監軍郭厚本と都押衙李湘は手足を切断され康承訓軍への見せしめとして晒された。 龐勲は兵士を集めて宣言した。「当初こそ朝廷の恩赦を期待していたが、もはや臣下の道から外れた。今日より真に反逆者となる!領内の全兵力を結集して敗勢を挽回するのだ」。配下は歓呼で応えた。かくて城内男子を球場へ強制集合させ、将兵に家々を捜索させる(隠匿者は一族皆殺し)。選抜した三万壮丁には旗印を与え精鋭部隊とした。許佶らが龐勲を「天冊将軍・大会明王」と推戴すると、彼は王号のみ辞退した。 ※これ以前の動向:辛讜(泗州守備隊)が驍勇四百名を率い揚州・潤州で食糧徴収中、両岸から襲撃する賊軍と百里にわたり交戦し辛くも脱出していた。(注:「大会明王」は唐代民間信仰における光明仏の称号) 解説
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| 至廣陵,止於公館,不敢歸家,舟載鹽米二萬石,錢萬三千緡,乙未,還至斗山。賊將王弘芝帥眾萬餘,拒之於盱胎,密佈戰艦百五十艘以塞淮流,又縱火船逆之。讜命以長叉托過,自卯戰及未,眾寡不敵,官軍不利。賊縛木於戰艦,旁出四五尺為戰棚,讜命勇士乘小舟入其下,矢刃所不能及,以槍揭火牛焚之,戰艦既然,賊皆潰走,官軍乃得過入城。龐勳以父舉直為大司馬,與許佶等留守徐州。或曰:「將軍方耀兵威,不可以父子之親,失上下之節。」乃令舉直趨拜於庭,勳據案而受之。時魏博屢圍豐縣,龐勳欲先擊之,丙申,引兵發徐州。 戊戌,以前淮南節度使、同平章事令狐綯為太保、分司。 龐勳夜至豐縣,潛入城,魏博軍皆不之知。魏博分為五寨,其近城者屯數千人,勳縱兵圍之,諸寨救之,勳仗兵要路,殺官軍二千人,餘皆返走。賊攻塞不克,至夜,解圍去。官軍畏其眾,且聞勳自來,諸寨皆宵潰。曹翔方圍滕縣,聞魏博敗,引兵退保兗州。賊悉毀其城柵,運其資糧,傳檄徐州,盛自誇大,謂官軍為國賊雲。 馬舉將精兵三萬救泗州,乙巳,分軍三道渡淮,至中流,大噪,聲聞數里。賊大驚,不測眾寡,斂兵屯城西寨。舉就圍之,縱火焚柵,賊眾大敗,斬首數千級。王弘立死,吳迥退保徐城,泗州之圍始解。泗州被圍凡七月,守城者不得寐,面目皆生瘡。 |
現代日本語訳広陵に到着したが、公用宿舎にとどまり家には帰らなかった。船で塩米二万石と銭一万三千貫を運んだ。乙未の日(21日)、斗山へ戻る途中だった。賊将・王弘芝は兵万余りを率いて盱胎で迎え撃ち、百五十艘もの軍艦を密集させて淮水の流れを塞ぎ、さらに火船を流して攻めてきた。辛讜(しんとう)は長柄の叉でそれらを押し退けるよう命じた。卯の刻(朝6時頃)から未の刻(午後2時頃)まで戦ったが、衆寡敵せず官軍は劣勢となった。 賊は軍艦に木材を縛り付け、両舷に四~五尺(約1.5m)張り出した「戦棚」を作っていた。辛讜は勇士らに小船でその下へ潜り込ませた。ここは矢や剣が届かず、槍の先に火牛(松明を束ねた武器)をつけて焼き払わせると、軍艦は燃え上がり賊は潰走した。官軍はようやく進み城に入れた。 龐勳は父・挙直を大司馬に任じ、許佶らと共に徐州の守備につかせた。ある者が「将軍が兵威を示そうとする時、父子の情で上下の礼節を乱すべきではない」と進言すると、挙直を庭先まで歩ませて跪拝させ、龐勳は机にもたれてこれを受けた。 当時、魏博軍が豊県を包囲していたため、龐勳はまずこれを討とうとした。丙申の日(22日)、徐州から出陣する。 夜、豊県へ到着した龐勳は密かに城内に入る。魏博軍は全く気づかなかった。魏博軍は五つの砦に分かれており、城近くの砦には数千人が駐屯していた。龐勳が兵を放って包囲すると、他の砦から援軍が出た。そこで龐勳は要路に伏兵を配置し官軍二千人を討ち取ると、残りは敗走した。賊(※魏博軍への蔑称)の守備陣は陥落せず夜になると包囲を解いたが、官軍は龐勳自らの来襲とその兵力に恐れおののき、各砦とも夜潰散してしまった。 曹翔が滕県を包囲中だったところへ魏博敗北の報が届くと、兵を引いて兗州へ退いた。賊(※龐勳軍)は城柵を破壊し物資と食糧を運び去り、徐州に檄文を飛ばして「官軍こそ国賊なり」と大いに自軍の武威を誇示した。 馬挙が精兵三万で泗州救援に向かい乙巳の日(29日)、三手に分かれて淮水を渡河した。中流まで進むと突然鬨の声があがり、数里先まで響き渡った。賊は大驚し兵力も測れず城西砦へ撤退。馬挙はすぐ包囲して柵に火を放ち、賊軍は大敗して数千人の首級を斬られた。王弘立は戦死し、呉迥(ごけい)は徐城まで後退した。こうして泗州の七ヶ月にも及ぶ包囲が解かれたのである。守備兵らは眠る暇もなく顔面に瘡(できもの)だらけになっていたという。 解説
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| 龐勳留豐縣數日,欲引兵西擊康承訓,或曰:「天時向暑,蠶麥方急,不若且休兵聚食,然後圖之。」或曰:「將軍出師數日,摧七萬之眾,西軍震恐,乘此聲勢,彼破走必矣,時不可失。」龐舉直以書勸勳乘勝進軍,勳意遂決。丁未,發豐縣,庚戌,至蕭。約襄城、留武、小睢諸寨兵合五六萬人,以二十九日遲明攻柳子。淮南敗卒在賊中者,逃詣康承訓,告以其期。承訓得先為之備,秣馬整眾,設伏以待之。丙辰,襄城等兵先至柳子,遇伏,敗走。龐勳既自失期,遽引兵自三十里外赴之,比至,諸寨已敗,勳所將皆市井白徒,睹官軍勢盛,皆不戰而潰。承訓命諸將急追之,以騎兵邀其前,步卒蹙其後,賊狼狽不知所之,自相蹈藉,殭屍數十里,死者數萬人。勳解甲服布襦而遁,收散卒,才及三千人,歸彭城,使其將張實分諸寨兵屯第城驛。勳初起,下邳土豪鄭鎰聚眾三千,自備資糧器械以應之,勳以為將,謂之義軍。五月,沂州遣軍圍下邳,勳命鎰救之,鎰帥所部來降。 六月,陝民作亂,逐觀察使崔蕘。蕘以器韻自矜,不親政事,民訴旱,蕘指庭樹曰:「此尚有葉,何旱之有!」杖之。民怒,故逐之。蕘逃於民舍,渴求飲,民以溺飲之。坐貶昭州司馬。 以中書侍郎、同平章事徐商同平章事,充荊南節度使。癸卯,以翰林學士承旨、戶部侍郎劉瞻同平章事。 |
現代日本語訳龐勳(ほうくん)は豊県(ほうけん)に数日間留まり、軍勢を率いて西進し康承訓(こうしょうくん)を攻撃しようとした。するとある者が「季節が次第に暑くなり、養蚕と麦の収穫期で農繁です。いっそ兵士を休ませ食糧を集め、態勢を整えてから計画すべきだ」と進言した。しかし別の者は「将軍は出兵数日で七万の大軍を破ったため、西側の官軍は震撼しています。この勢いに乗じて攻めれば敵は必ず敗走するでしょう。好機を逃すべきではありません」と主張した。龐挙直(ほうきょちょく)も書状で勳に勝ちに乗じた進撃を促し、勳は決断を固めた。 丁未の日(5月23日)、豊県を出発して庚戌の日(5月26日)に蕭(しょう)へ到着。襄城・留武・小睢など各砦の兵約五六万と合流し、二十九日の夜明け前に柳子で決戦する手筈であった。ところが賊軍に加わっていた淮南(わいなん)の敗残兵が康承訓のもとに逃亡し攻撃計画を密告したため、承訓は事前に対策を整えた。馬に飼料を与え兵力を練成し、伏兵を配置して待ち構えたのである。 丙辰の日(6月2日)、襄城などの部隊が真っ先に柳子へ到着すると伏兵に遭い敗走した。龐勳自身は出発が遅れていたため、三十里離れた地点から急ぎ救援に向かったが、到着時には諸砦の軍勢は壊滅していた。勳が率いるのは市井の素人兵ばかりで官軍の威容を見るや戦わずして潰走した。承訓は各将に追撃を命じ、騎兵で退路を遮り歩兵で背後から圧迫。賊兵は狼狽して逃げ場を失い、互いに踏み合いながら数十里にわたって屍が累々と横たわり、数万人が死亡した。勳は甲冑を脱ぎ布の短衣に着替えて逃亡し、散りじりの兵士をかき集めたが三千人ほどしかおらず彭城(ほうじょう)へ戻った。配下の張實(ちょうじつ)に各砦の残存兵力を分けさせ第城驛(だいじょうえき)に駐屯させた。 龐勳挙兵当初、下邳(かひ)の豪族鄭鎰(ていいつ)は自費で食糧・武器を調達し三千の兵を集めて加わり、勳から「義軍」と称されて将軍に任命された。五月、沂州(ぎしゅう)の官軍が下邳を包囲すると勳は鎰に救援を命じたが、彼は配下を率いて投降した。 六月、陝州(せんしゅう)で民衆が反乱を起こし観察使崔蕘(さいぎょう)を追放した。蕘は教養と風格をもって自負し政務を顧みず、旱魃の苦情を訴える農民に庭の樹木を指して「これには葉があるではないか!何が干ばつだ!」と罵り杖で打ったため、激怒した民衆が彼を追い払った。蕘は民家へ逃げ込んだが喉が渇いて水を求めると、住民は小便を与えた。(事件後)左遷され昭州司馬(しょうしゅうのしま)となった。 中書侍郎兼同平章事(ちゅうしょじろう・どうひょうしょうじ)徐商(じょしょう)が「同平章事」の官職を保ったまま荊南節度使(けいなんせつどし)に任命された。癸卯の日(6月29日)、翰林学士承旨兼戸部侍郎劉瞻(りゅうせん)が同平章事となった。 解説【龐勳敗北の本質的要因】
【崔蕘事件にみる支配構造】
【人事配置の政治意図】徐商の地方転出と劉瞻の中央登用は、龐勳叛乱(山東)・陝州民乱という二重危機に対応する朝廷の緊急体制再編である。「同平章事」職を保持した節度使任命は軍事専門家への権限集中を示し、唐末期の「藩鎮重視政策」の典型例といえる。
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| 瞻,桂州人也。 馬舉自泗州引兵攻濠州,拔招義、鐘離、定遠。劉行及設寨於城外以拒守,舉先遣輕騎挑戰,賊見其眾少,爭出寨西擊之,舉引大軍數萬自它道擊其東南,遂焚其寨。賊入固守,舉塹其三面而圍之,北面臨淮,賊猶得與徐州通。龐勳遣吳迥助行及守濠州,屯兵北津以相應,舉遣別將渡淮擊之,斬獲數千人,平其寨。 曹翔之退屯兗州也,留滄州卒四千人戍魯橋,卒擅還,翔曰:「以龐勳作亂,故討之。今滄卒不從約束,是自亂也。」勒兵迎之,圍於兗州城外,擇違命者二千人,悉誅之。朝廷聞魏博軍敗,以將軍宋威為徐州西北面招討使,將兵三萬屯於豐、蕭之間,翔復引兵會之。 秋,七月,康承訓克臨渙,殺獲萬人,遂拔襄城、留武、小睢等寨。曹翔拔滕縣,進擊豐、沛。賊諸寨戍兵多相帥逃匿,保據山林,賊抄掠者過之,輒為所殺,而五八村尤甚。有陳全裕者為之帥,凡叛勳者皆歸之,眾至數千人,戰守之具皆備,環地數十里,賊莫敢近。康承訓遣人招之,遂舉眾來降,賊黨益離。蘄縣土豪李兗殺賊守將,舉城降於承訓。沛縣守將李直詣彭城計事,裨將朱玫舉城降於曹翔。直自彭城還,玫逆擊,走之,翔發兵戍沛。玫,邠州人也。勳遣其將孫章、許佶各將數千人攻陳全裕、朱玫,皆不克而還。康承訓乘勝長驅,拔第城,進抵宿州之西,築城而守之。 |
現代日本語訳瞻は桂州出身である。 馬挙が泗州から軍勢を率いて濠州を攻撃し、招義・鐘離・定遠を攻略した。劉行及は城外に陣地を構えて防戦したが、馬挙はまず軽騎兵で挑発。賊軍(龐勳勢力)は敵兵が少ないと見て争って砦の西側から出撃し、その隙に馬挙は数万の本隊で別ルートから東南方向を急襲し、ついに陣地を焼き払った。敗残兵は城内に籠城したため、馬挙は三方(東・南・西)に堀を掘って包囲。北側が淮水に面していたため賊軍は徐州と連絡を保てた。 龐勳は呉迥を派遣し劉行及の援護に向かわせるとともに北津へ駐屯させたが、馬挙が別働隊で淮水を渡り攻撃した結果、数千人を討ち取られ陣地を奪われた。 一方、曹翔が兗州に撤退する際、滄州兵4千名を魯橋に残留配置したところ、彼らが命令無視で勝手に帰還しようとしたため、「龐勳の反乱鎮圧という大義があるのに自軍が規律を乱せば本末転倒だ」と宣言。軍隊を率いてこれを迎撃し兗州城外で包囲後、反抗的な兵2千人全員を処刑した。 朝廷は魏博軍敗北の報告を受けると、将軍・宋威を徐州西北面招討使に任命。3万の兵力を豊県・蕭県間に駐屯させたため曹翔も再び軍勢を合流させた。 秋7月、康承訓が臨渙を攻略し敵兵1万人を殺害・捕獲後、襄城・留武・小睢などの陣地を陥落させた。一方の曹翔は滕県を制圧し豊県・沛県へ進撃したため、賊軍支配下の各砦では守備兵が相次いで逃亡して山林に潜伏。略奪部隊が彼らの縄張りを通ると襲殺されるようになり、特に五八村での抵抗は激烈だった。指導者陳全裕のもとには龐勳から離反する者が集結し数千人規模の自衛組織となり戦闘装備も整えたため賊軍は近づけなかった。康承訓が懐柔工作をすると彼らは降伏し、これにより賊陣営はさらに分裂した。 続けて蘄県では土豪・李兗が賊軍守備隊長を殺害して城ごと康承訓に帰順。沛県でも副将の朱玫が主将不在中に曹翔へ寝返り、戻ってきた主将・李直を撃退したため曹翔は部隊を駐屯させた。龐勳が孫章らに数千人を与え陳全裕と朱玫を攻めさせるも失敗し撤退する隙に康承訓は第城を攻略して宿州西へ進出、防衛拠点を築き守りを固めた。 解説
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| 龐勳憂懣不知所為,但禱神飯僧而已。 初,龐勳怒梁丕專殺姚周,黜之,使徐州舊將張玄稔代之治州事,以其黨張儒、張實等將城中兵數萬拒官軍。儒等列寨數重於城外,環水自固;康承訓圍之。張實夜遣人潛出,以書白勳曰:「今國兵盡在城下,西方必虛,將軍宜引兵出其不意,掠宋、亳之郊,彼必解圍而西,將軍設伏要害,迎擊其前,實等出城中兵蹙其後,破之必矣!」時曹翔使朱玫擊豐,破之,乘勝攻徐城、下邳,皆拔之,斬獲萬計。勳方憂懼欲走,得實書,即從其策,使龐舉直、許佶守徐州,引兵而西。 八月,壬子,康承訓焚外寨,張儒等入保羅城,官軍攻之,死者數千人,不能克,承訓患之,遣辯士於城下招諭之。張玄稔嘗戍邊有功,雖脅從於賊,心嘗憂憤,時將所部兵守子城,夜,召所親數十人謀歸國,因稍令布諭,協同者眾,乃遣腹心張皋夜出,以狀白承訓,約期殺賊將,舉城降,至日,請立青旌為應,使眾心無疑。承訓大喜,從之。九月,丁巳,張儒等飲酒於柳溪亭,玄稔使部將董厚等勒兵於亭西。玄稔先躍馬而前,大呼曰:「龐勳已梟首於僕射寨中,此輩何得尚存!」士卒競進,遂斬張儒等數十人,城中大擾,玄稔諭以歸國之計,及暮而定。戊午,開門出降。玄稔見承訓,肉袒膝行,涕泣謝罪。承訓慰勞,即宣敕,拜御史中丞,賜遺甚厚。 |
現代日本語訳龐勳は憂いと憤りの感情に押しつぶされ、取るべき手段を見失っていた。ただひたすら神仏に祈願し、僧侶への施食(布施)を行うだけの日々を送っていた。 事の始まりとして、龐勳は配下の梁丕が独断で姚周を処刑したことに激怒し、彼を解任。代わりに徐州の古参将軍である張玄稔に州政務を委ねた。さらに自らの側近である張儒や張実らに城内の数万の兵士を指揮させて官軍に対抗させるよう命じる。張儒らは城外に幾重にも防衛陣地(寨)を築き、堀で囲むことで守りを固めたが、康承訓率いる官軍はこれを包囲する。 そんな中、張実は密使を夜陰に紛れて脱出させ、龐勳へ書簡を届けさせる。その内容には「現在、国(唐王朝)の主力部隊はこの城下に集中しています。西方地域が手薄になっていることは明らかです。将軍(龐勳)は兵を率いて不意をつき宋州・亳州周辺を急襲すべきでしょう。そうすれば敵は包囲網を解いて西へ転進せざるを得ません。その時こそ将軍が要衝に伏兵を配置して先制攻撃を仕掛け、我々(張実ら)が城内の全兵力で背後から挟み撃てば、必ず敵を殲滅できます」と記されていた。 一方この頃、曹翔配下の朱玫が豊県を陥落させると、その勢いで徐城・下邳をも占領。数万単位の死傷者を出す大損害を与えていたため、龐勳は恐怖に駆られ撤退さえ考え始めていた。そこへ張実からの書簡が届き、彼は即座にこの作戦を採用する。龐挙直と許佶に徐州防衛を任せると自ら軍勢を率いて西進した。 八月壬子(7日)、康承訓が城外の陣営群に火攻めを仕掛けると張儒らは羅城へ撤退し守りを固めた。官軍は総攻撃をかけたものの数千人の犠牲を出して失敗、承訓は打開策に苦慮した末、弁舌に長けた使者を使い降伏勧告を行う。 かつて国境防衛で功績のあった張玄稔は賊軍への協力を強いられていたが、内心では無念さを募らせていた。ちょうど彼が守備隊を率いて子城(内郭)に駐屯している時、夜間に親しい部下数十名を集めて帰順計画を練る。密かに周囲へ働きかけると多くの賛同者が現れたため、腹心の張皋を使者として城外へ送り込み、康承訓へ「賊将軍たちを殺害し城ごと降伏するので指定日に青旗(帰順の合図)を掲げてほしい」との内通書を届けさせた。これを聞いた承訓は大いに喜び協力を約束した。 九月丁巳(3日)、柳溪亭で酒宴を開いていた張儒らに対し、玄稔は配下の董厚に部隊を率いて背後へ回り込ませる準備を整える。自ら馬を飛ばして前に進み出ると「龐勳将軍はすでに康僕射(承訓)の陣営で処刑された!お前たちごときが生き延びるわけがない!」と叫んだ。兵士たちが一斉に突撃し張儒ら数十名を斬殺すると、城内は大混乱となったが玄稔が帰順計画を説明したため夕刻までには鎮静化する。 翌日戊午(4日)、城門を開き正式に降伏。承訓と対面した玄稔は上半身の衣服を脱ぎ裸となり、膝で進みながら涙を流して罪を詫びた。これに対し承訓は労いの言葉を与えた上で直ちに朝廷の命令を伝達——御史中丞(監察次官)への任官と多額の恩賞が授けられた。 解説【歴史的意義】この場面は『資治通鑑』唐紀・咸通9年(868年)における「龐勳の乱」の転換点を描く。当時、桂州駐屯軍の帰郷要求が朝廷に拒否され発生した叛乱は徐州占拠へ発展し、藩鎮勢力と農民反乱が結合する特異な様相を示していた。 【戦略分析】
【現代語訳の方針】
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| 玄稔復進言:「今舉城歸國,四遠未知,請詐為城陷,引眾趨苻離及徐州,賊黨不疑,可盡擒也!」承訓許之。宿州舊兵三萬,承訓益以數百騎,皆賞勞而遣之。玄稔復入城,暮發平安火如常日。己未向晨,玄稔積薪數千束,縱火焚之,如城陷軍潰之狀,直趨苻離,苻離納之,既入,斬其守將,號令城中,皆聽命,收其兵,復得萬人,北趨徐州。龐舉直、許佶聞之,嬰城拒守。辛酉,玄稔至彭城,引兵圍之,按兵未攻,先諭城上人曰:「朝廷唯誅逆黨,不傷良人,汝曹奈何為賊城守?若尚狐疑,須臾之間,同為魚肉矣!」於是守城者稍稍棄甲投兵而下。崔彥曾故吏路審中開門納官軍,龐舉直、許佶帥其黨保子城,日昃,賊黨自北門出,玄稔遣兵追之,斬舉直、佶首,餘黨多赴水死,悉捕戍桂州者親族,斬之,死者數千人,徐州遂平。 龐勳將兵二萬自石山西出,所過焚掠無遺。庚申,承訓始知之,引步騎八萬西擊之,使朱邪赤心將數千騎為前鋒。勳襲宋州,陷其南城。刺史鄭處沖守其北城,賊知有備,捨去,渡汴,南掠亳州,沙陀追及之。勳引兵循渙水而東,將歸彭城,為沙陀所逼,不暇飲食,至蘄,將濟水,李袞發橋,勒兵拒之。賊惶惑不知所之,至縣西,官軍大集,縱擊,殺賊近萬人,餘皆溺死,降者才及千人,勳亦死而人莫之識,數日,乃獲其屍。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)張玄稔はさらに進言した。「今、城を挙げて国に帰順するが、周辺地域にはまだ知られていません。陥落したふりをして兵を率いて苻離と徐州へ向かいましょう。賊軍の仲間は疑わず、すべて捕らえることができます」。承訓(康承訓)はこれを許可した。 宿州の旧兵3万人に加え、承訓が数百騎を与えた者たちは皆、褒賞を受けて出発した。玄稔は再び城に入り、夜には通常通り平安の火を上げた。己未日の明け方近く、数千束のまきを積み上げて放火し、城が陥落して軍勢が敗走する様子を作ると、すぐに苻離へ向かった。苻離側は彼らを受け入れたが、城内に入るや守将を斬り殺し、兵士たちに号令すると皆従った。1万人の兵力を得た玄稔は徐州北進した。 これを聞いた龐挙直と許佶は城門を閉ざして防戦準備を整えた。辛酉日、彭城(徐州)に到着した玄稔は兵を率いて包囲しつつも攻撃せず、まず城壁の者たちに向けて呼びかけた。「朝廷が罰するのは反逆者のみで善良な民には危害を加えない。お前たちはなぜ賊のために守るのか?ためらっているなら、瞬く間に皆殺戮されるぞ」。すると守備兵は次々に鎧や武器を捨て降伏した。 崔彥曾の旧臣・路審中が城門を開いて官軍を受け入れると、龐挙直と許佶は配下を率いて内城に籠った。日没時分、賊軍は北門から脱出しようとしたため玄稔は追撃兵を派遣し、両名の首級を斬り取る。残党の多くは水死し、桂州守備部隊の親族も捕らえられ数千人が処刑されたことで徐州は平定された。 一方で龐勳は2万の兵を率いて石山から西進し、通過地を焼き払い略奪した。庚申日になってようやく承訓がこれを知り、8万の歩騎軍を率いて西方へ出撃させた。先鋒に朱邪赤心指揮下の数千騎兵をつけた。 龐勳は宋州南城を陥落させるも刺史・鄭処沖が北城で防備していると見て撤退し、汴水を渡って亳州南部を略奪中に沙陀族追撃部隊に捕捉された。渙水沿いに東進して彭城へ帰還しようとした龐勳軍は沙陀族の猛攻を受け食事も満足にとれず蘄県付近で川を渡ろうとしたが、李袞が橋を破壊し防衛線を敷いた。 混乱した賊軍は行き場を失い、県西部に到達した所で官軍主力と遭遇。激しい攻撃を受けてほぼ1万人が戦死し残りは溺死、投降者は千人程度にとどまった。龐勳の遺体も当初判別不能だったが数日後に発見された。 解説
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| 賊宿遷等諸寨皆殺其守將而降。宋威亦取蕭縣,吳迥獨守濠州不下。 冬,十月,以張玄稔為右驍衛大將軍、御史大夫。 馬舉攻濠州,自夏及冬不克,城中糧盡,殺人而食之,守軍深塹重圍以守之。辛丑夜,吳迥突圍走,舉勒兵追之,殺獲殆盡,迥死於招義。 以康承訓為河東節度使、同平章事,以杜慆為義成節度使。上嘉朱邪赤心之功,置大同軍於雲州,以赤心為節度使,召見,留為左金吾上將軍,賜姓名李國昌,賞賚甚厚。以辛讜為亳州刺史。讜在泗州,犯圍出迎兵糧,往返凡十二。及除亳州,上表言:「臣之功,非杜慆不能成也。」賜和州刺史崔雍自盡,家屬流康州,兄弟五人皆遠貶。 上荒宴,不親庶政,委任路巖。巖奢靡,頗通賂遺,左右用事。至德令陳蟠叟因上書召對,言:「請破邊咸一家,可贍軍二年。」上問:「咸為誰?」對曰:「路巖親吏。」上怒,流蟠叟於愛州,自是無敢言者。 初,南詔遣使者楊酋慶來謝釋董成之囚,定邊節度使李師望欲激怒南詔以求功,遂殺酋慶。西川大將恨師望分裂巡屬,陰遣人致意南詔,使入寇。師望貪殘,聚私貨以百萬計,戍卒怨怒,欲生食之,師望以計免。朝廷征還,以太府少卿竇滂代之。滂貪殘又甚於師望,故蠻寇未至,而定邊固已困矣。是月,南詔驃信酋龍傾國入寇,引數萬眾擊董舂烏部,破之。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)賊軍が宿遷など諸寨を守備していた部隊は、いずれも守将を殺害して降伏した。宋威も蕭県を占領し、ただ呉迥だけが濠州で抵抗を続けていた。 冬十月、張玄稔を右驍衛大將軍・御史大夫に任命する。 馬挙が濠州を攻撃したが、夏から冬にかけて陥落せず。城内では食糧が尽き、人肉食いが横行。守備軍は深い堀と重囲の中で抵抗を続けた。辛丑の夜、呉迥は包囲突破を図って逃走するも、馬挙が兵を率いて追撃し、その勢力をほぼ壊滅させた。呉迥は招義で死亡した。 康承訓を河東節度使・同平章事に、杜慆を義成節度使に任命。皇帝(懿宗)は朱邪赤心の功績を称え、雲州に大同軍を設置して彼を節度使としたが、後に召還して左金吾上將軍とし、姓名を李国昌と賜り厚く賞賛した。辛讜を亳州刺史とする。讜は泗州で包囲網を突破し兵糧輸送に12往復した功労者だが、任命時に「杜慆あっての功績」と上奏した。 和州刺史崔雍には自尽を命じ、家族は康州へ流刑。兄弟五人も遠方へ左遷された。 皇帝は酒宴に耽り政務を顧みず、全権を路巖に委任。路巖は奢侈で賄賂が横行し側近が専横した。至徳県令陳蟠叟が「辺咸一族の資産没収で軍費二年分」と上奏すると皇帝は激怒、彼を愛州へ流刑。以後諫言は絶えた。 当初、南詔(雲南)が使者楊酋慶を派遣し董成釈放への謝意を示したが、定辺節度使李師望が功績欲しさにわざと使者を殺害して開戦を誘発。さらに西川大将軍は領地分割策に憤り、密かに南詔へ侵攻を促す書簡を送った。師望の貪汚蓄財により守備兵は激怒したが彼は逃亡で難を逃れ、代わって赴任した竇滂はさらに酷い暴政を行ったため、蛮族襲来前に定辺軍は疲弊していた。同月、南詔王酋龍が全軍で侵攻し董春烏部を撃破した。 解説
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| 十一月,蠻進寇巂州,定邊都頭安再榮守清溪關,蠻攻之,再榮退屯大渡河北,與之隔水相射九日八夜。蠻密分軍伐木開道,逾雪坡,奄至沐源川。滂遣兗海將黃卓帥五百人拒之,舉軍覆沒。十二月,丁酉,蠻衣兗海之衣,詐為敗卒,至江岸呼船,已濟,眾乃覺之,遂陷犍為,縱兵焚掠陵、榮二州之境。後數日,蠻軍大集於陵雲寺,與嘉州對岸。刺史楊忞與定邊監軍張允瓊勒兵拒之。蠻潛遣奇兵自東津濟,夾擊官軍,殺忠武都將顏慶師,餘眾皆潰,忞、允瓊脫身走。壬子,陷嘉州。慶師,慶復之弟也。 竇滂自將兵拒蠻於大渡河,驃信詐遣清平官數人詣滂約和,滂與語未畢,蠻乘船筏爭渡,忠武、徐宿兩軍結陳抗之。滂懼,自經於帳中。徐州將苗全緒解之,曰:「都統何至於是!」全緒與安再榮及忠武將勒兵出戰,滂遂單騎宵遁。三將謀曰:「今眾寡不敵,明旦復戰,吾屬盡矣。不若乘夜攻之,使之驚亂,然後解去。」於是夜入蠻軍,弓弩亂髮,蠻大驚,三將乃全軍引去。蠻進陷黎、雅,民竄匿山谷,敗軍所在焚掠。滂奔導江。邛州軍資儲偫皆散於亂兵之手,蠻至,城已空,通行無礙矣。詔左神武將軍顏慶復將兵赴援。 |
現代日本語訳十一月、南詔軍が巂州(きしゅう)へ侵攻した。定辺都頭の安再栄は清溪関で防衛していたが敵に攻められ大渡河北岸へ後退し、川を隔てて九日八夜矢を射交わす対峙状態となった。この間に南詔軍は密かに部隊を分けて木材を伐り道を切り開き、雪峠を越えて突如沐源川に現れた。唐将・竇滂が派遣した兗海の黄卓率いる五百兵はこれを防ごうとしたが全滅する。 十二月丁酉の日(14日)、南詔軍は奪った兗海軍の軍服を着て敗残兵を装い、川岸で船を呼び寄せた。渡河後にようやく官軍が気づいた時には手遅れで犍為は陥落し、陵州・栄州一帯に略奪と放火の限りを尽くした。数日後、南詔主力が嘉州対岸の陵雲寺に集結すると、刺史楊忞と定辺監軍張允瓊は防衛線を布いた。しかし敵は密かに東津から奇襲部隊を渡河させ挟撃し、忠武都将顔慶師を戦死させる。残兵は潰走し楊忞らは辛くも脱出したが壬子の日(29日)嘉州は陥落する。なお顔慶師は援軍司令官・顔慶復の弟であった。 竇滂自ら大渡河で防戦中、南詔君主驃信は清平官数名を偽りの講和使として派遣した。交渉中の隙に船筏による強行渡河が始まると忠武軍・徐宿軍は陣形を組んで抵抗するが、竇滂は恐怖のあまり幕舎で自害しようとした。徐州将苗全緒が「都統何そこまでなさる!」と止め諫めた後、安再栄らと共に出撃しその隙に竇滂は単騎逃亡した。三将は協議し「衆寡敵せず明日の戦では全滅必至」と判断、夜襲で混乱させる撤退作戦を決行する。弓弩による奇襲攻撃が成功して南詔軍が動揺した隙に全軍無事離脱させたものの、黎州・雅州は陥落し住民は山中へ逃散、敗残兵の略奪も横行した。竇滂は導江へ逃亡する中で邛州では物資庫が乱兵に掠奪され南詔軍を無抵抗で迎え入れる結果となった。朝廷は左神武将軍顔慶復を救援司令官として急派することとなる。 解説
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| input text 資治通鑑\252_唐紀_68.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 巻二百五十二 唐紀六十八 起上章攝提格,盡柔兆涒灘,凡七年。 懿宗昭聖恭惠孝皇帝下咸通十一年〈庚寅,西元八七零年〉 春,正月,甲寅朔,群臣上尊號曰睿文英武明德至仁大聖廣孝皇帝。赦天下。 西川之民聞蠻寇將至,爭走入成都。時成都但有子城,亦無壕,人所佔地各不過一席許,雨則戴箕盎以自庇。又乏水,取摩訶池泥汁,澄而飲之。將士不習武備,節度使盧耽召彭州刺史呉行魯使攝參謀,與前瀘州刺史楊慶復共修守備,選將校,分職事,立戰棚,具砲檑,造器備,嚴警邏。先是,西川將士多虚職名,亦無稟給。至是,掲榜募驍勇之士,補以實職,厚給糧賜,應募者雲集。慶復乃諭之曰:「汝曹皆軍中子弟,年少材勇,平居無由自進,今蠻寇憑陵,乃汝曹取富貴之秋也,可不勉乎!」皆歡呼踴躍。於是列兵械於庭,使之各試所能,兩兩角勝,察其勇怯而進退之,得選兵三千人,號曰「突將」。行魯,彭州人也。戊午,蠻至眉州,耽遣同節度副使王偃等繼書見其用事之臣杜元忠,與之約和。蠻報曰:「我輩行止,只系雅懷。」 路巖、韋保衡上言:「康承訓討龐勳時,逗橈不進,又不能盡其餘黨,又貪虜獲,不時上功。」辛酉,貶蜀王傅、分司,尋再貶恩州司馬。 南詔進軍新津,定邊之北境也。盧耽遣同節度副使譚奉祀致書於杜元忠,問其所以來之意。 |
現代日本語訳咸通十一年(庚寅年、西暦870年)春正月 西川地方の住民は南詔軍の侵攻を知り、我先にと成都へ避難した。当時の成都有子城(内郭)のみで堀もなく、一人あたりの占有面積は筵一枚ほどであったため、雨が降ると人々は箕や甕を頭にかざして凌いだ。水不足も深刻で、摩訶池の泥水を漉し取って飲用とした。 将士らは軍備に不慣れだったため、節度使・盧耽(ろたん)は彭州刺史・呉行魯(ごこうろ)を参謀代理とし、前瀘州刺史・楊慶復(ようけいふく)と共に防衛体制を整えた。将校の選抜や職務分担、防御棚の設置、投石器や檑木の準備、兵器調達を行い警戒を厳重化した。従来、西川の将士は名目だけの官位で俸給もなかったが、「精鋭兵募集」の榜示を掲げ実職と厚禄を約束すると応募者が殺到。楊慶復は彼らに訓告した:「諸君は皆軍人の子弟だ。若く有能なら平時には出世できぬが、今こそ南詔侵攻という危機で富貴を得る時ではないか!」兵士らは歓声をあげ奮い立った。 庭に武器を並べて技量の実演試験を行わせ、一対一で勝敗を競わせ勇怯を見極め、選抜した三千人の精鋭部隊を「突将」と命名。呉行魯は彭州出身である。戊午日(1月5日)、南詔軍が眉州に到達すると盧耽は副使・王偃らを使者として送り込み、実権者の杜元忠との講和交渉を試みた。これに対し南詔側は「我々の行動は貴殿次第である」と返答した。 朝廷動向 軍事情勢 解説
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| 蠻留之不還。耽遣使告急於朝,且請遣使與和,以紓一時之患。朝廷命知四方館事、太僕卿支詳爲宣諭通和使。蠻以耽待之恭,亦爲之盤桓,而成都守備由是粗完。甲子,蠻長驅而北,陷雙流。庚午,耽遣節度副使柳槃往見之,杜元忠授槃書一通,曰:「此通和之後,驃信與軍府相見之儀也。」其儀以王者自處,語極驕慢。又遣人負彩幕至城南,雲欲張陳蜀王廳以居驃信。 癸酉,廢定邊軍,復以七州歸西川。 是日,蠻軍抵成都城下。前一日,盧耽遣先鋒游弈使王晝至漢州詗援軍,且趣之。時興元六千人、鳳翔四千人已至漢州,會竇滂以忠武、義成、徐宿四千人自導江奔漢州,就援軍以自存。丁丑,王晝以興元、資、簡兵三千餘人軍於毘橋,遇蠻前鋒,與戰不利,退保漢州。時成都日望援軍之至,而竇滂自以失地,欲西川相繼陷沒以分其責。毎援軍自北至,輒説之曰:「蠻衆多於官軍數十倍,官軍遠來疲弊,未易遽前。」諸將信之,皆狐疑不進。成都十將李自孝陰與蠻通,欲焚城東倉爲内應,城中執而殺之。後數日,蠻果攻城,久之,城中無應而止。 二月,癸未朔,蠻合梯沖四面攻成都,城上以鉤繯挽之使近,投火沃油焚之,攻者皆死。盧耽以楊慶復、攝左都押牙李驤各帥突將出戰,殺傷蠻二千餘人,會暮,焚其攻具三千餘物而還。蜀人素怯,其突將新爲慶復所獎拔,且利於厚賞,勇氣自倍,其不得出者,皆憤郁求奮。 |
現代日本語訳南詔軍は使者を留め置いて帰さなかった。盧耽(ろたん)は急使を朝廷に派遣し、さらに和睦のための使者を送って一時的な危機を回避するよう要請した。朝廷は四方館事・太僕卿(たいぼくきょう)である支詳(ししょう)を宣諭通和使として任命した。南詔側は盧耽が丁重に対応したため、軍勢の進撃を一時的に停滞させたので、成都の守備体制はおおよそ整った。 甲子の日、南詔軍が北へ猛進し双流(そうりゅう)を陥落させる。庚午の日、盧耽は節度副使・柳槃(りゅうばん)を使者として派遣したところ、杜元忠(とげんちゅう)が文書一通を渡し「これは和睦後の驃信(南詔王)と軍府(西川当局)の会見儀礼である」と言った。その内容は王者として振る舞い、言葉遣いは極めて傲慢だった。さらに彩幕を背負わせた者を城南に送り、「蜀王の館を飾って驃信の居所とする」と宣言した。 癸酉(きゆう)の日、定辺軍が廃止され七州は西川節度使管轄に復帰する。その日のうちに南詔軍は成都城下へ到達。前日、盧耽は先鋒游弈使・王晝(おうちゅう)を漢州(かんしゅう)に派遣し援軍の情報収集と催促を行わせた。この時点で興元兵六千・鳳翔兵四千が漢州に到着しており、竇滂(とうほう)も忠武・義成・徐宿の兵四千を率いて導江から漢州へ敗走し援軍に合流した。 丁丑の日、王晝は興元・資州・簡州の兵三千余りを率い毘橋(ひきょう)で南詔先鋒隊と交戦するも不利となり漢州へ後退。成都では連日援軍到着を待ち望んでいたが、竇滂は自ら領地を失った責任を西川全体の陥落で薄めようと考えたため、北方から来る援軍に対し「敵兵は官軍の数十倍もあり遠征疲れでは正面攻撃は無理だ」と助言。諸将がこれに疑心を抱いたため進軍が停滞した。 成都守備隊十将・李自孝(りじこう)は密かに南詔と内通し城東倉庫の放火を計画するも逮捕され処刑される。数日後、南詔が攻城戦を開始したが内部からの呼応がなく中断された。 2月癸未朔(みずのえひらきのついたち)、南詔は雲梯や衝車による四面攻撃を仕掛ける。城壁守備兵は鉤縄で兵器を引き寄せ火油を注いで焼却し、攻城兵を全滅させた。盧耽が楊慶復(ようけいふく)と左都押牙代理・李驤(りじょう)に突撃隊を率い出撃させると二千人以上の敵兵を殺傷。日暮れ時に三千点の攻城兵器を焼き払って帰還した。 蜀の兵士は本来臆病だが、楊慶復が新たに登用した突撃隊は厚賞も期待でき士気倍増していた。出撃できなかった者らも奮起を誓い悔しがったという。 解説
注:歴史用語は現代日本語に可能な限り置換(例:「突将」→「突撃隊」、「驃信」→「南詔王」)。固有名詞以外の漢字表記は常用漢字範囲で統一。 Translation took 969.3 seconds. |
| 後數日,賊取民籬,重沓濕而屈之,以爲蓬,置人其下,舉以抵城而斸之,矢石不能入,火不能然。慶復溶鐵汁以灌之,攻者又死。 乙酉,支詳遣使與蠻約和。丁亥,蠻斂兵請和。戊子,遣使迎支詳。時顏慶復以援軍將至,詳謂蠻使曰:「受詔詣定邊約和,今雲南乃圍成都,則與向日詔旨異矣。且朝廷所以和者,冀其不犯成都也。今矢石晝夜相交,何謂和乎!」蠻見和使不至,庚寅,復進攻城。辛卯,城中出兵撃之,乃退。 初,韋皋招南詔以破吐蕃,既而蠻訴以無甲弩,皋使匠往教之,數歳,蠻中甲駑皆精利。又,東蠻苴那時、勿鄧、夢沖三部助皋破吐蕃有功。其後邊吏遇之無狀,東蠻怨唐深,自附於南詔,毎從南詔入寇,爲之盡力,得唐人,皆虐殺之。 朝廷貶竇滂爲康州司戸,以顏慶復爲東川節度使,凡援蜀諸軍,皆受慶復節制。癸巳,慶復至新都,蠻分兵往拒之。甲午,與慶復遇,慶復大破蠻軍,殺二千餘人,蜀民數千人爭操芟刀、白棓以助官軍,呼聲震野。乙未,蠻歩騎數萬復至,會右武衞上將軍宋威以忠武軍二千人至,即與諸軍會戰,蠻軍大敗,死者五千餘人,退保星宿山。威進軍沱江驛,距成都三十里。蠻遣其臣楊定保詣支詳請和,詳曰:「宜先解圍退軍。」定保還,蠻圍城如故。城中不知援軍之至,但見其數來請和,知援軍必勝矣。 |
現代日本語訳数日後、賊兵は民家の竹垣を奪い取り、幾重にも濡らして曲げて盾にし、その下に人を潜ませて城壁まで持ち上げて穴を掘った。これにより矢や投石が通らず火も付けられなかった。顔慶復(がんけいふく)は溶かした鉄の汁を流し込み攻撃者を殺害した。 乙酉(いつゆう)の日、支詳(ししょう)が使者を送って蛮軍と講和を協議。丁亥(ていがい)に蛮軍はいったん兵を収め和睦を要請。戊子(ぼし)には迎えの使者が支詳のもとへ向かった。この時顔慶復は援軍が到着間近と知り、支詳が蛮使に言下した。「詔勅では定辺での講和を命じたのに、今や雲南軍(南詔)が成都を包囲するとは当初の勅旨違反である。朝廷が和睦を許すのは成都攻撃の中止が条件だ。昼夜問わず矢石が飛び交う現状で何をもって『講和』と言えるか」。 蛮軍は和睦使節が来ないと見て庚寅(こういん)に再攻城開始。辛卯(しんぼう)には城内から討撃隊が出撃して退けた。 当初、韋皋(いこう)が南詔を懐柔して吐蕃を破った際、蛮族は「甲冑や弩が不足」と訴えたため、韋皋は工匠を派遣して技術指導させた。数年後には蛮軍の装備は精鋭化した。また東蛮(とうばん)の苴那時(しゃなし)、勿鄧(ぼっとう)、夢沖(むちゅう)の三氏族が唐に協力して吐蕃撃破に貢献していた。だが後任の役人が彼らを不当に扱ったため、東蛮は唐朝への恨みを深め南詔に帰属し、毎回の侵攻で先鋒として奮戦するようになった。捕えた唐人にはことごとく虐殺を行ったのである。 朝廷は竇滂(とうほう)を康州司戸に左遷し、顔慶復を東川節度使に任命。援蜀諸軍の全権指揮を委ねた。癸巳(きし)に新都へ到着した顔慶復に対し、蛮軍は別働隊で迎撃に向かったが甲午(こうご)の交戦で大敗北を喫し二千余騎を討ち取られる。これを見た数千の蜀民が鎌や棍棒を持って官軍支援に駆けつけ、歓声が野原を震わせた。翌乙未(いつび)には数万の蛮族歩騎が再襲来したが、折しも忠武軍二千を率いた右武衛上将軍宋威(そうい)が到着。諸軍と連携して迎撃すると蛮軍は壊滅し五千余が戦死、残兵は星宿山へ敗走した。 宋威は沱江駅まで進軍し成都から三十里に迫る。蛮将楊定保(ようていほ)が支詳のもとへ講和を嘆願すると「まず包囲解除して撤退せよ」との返答を得た。しかし楊定保の帰還後も包囲は続いたため、城内では援軍到着を知らぬまま再三の和睦要請から逆に勝利を確信したという。 解説
(本訳は『資治通鑑』巻二百五十・唐紀六十六、咸通十一[870]年の記述に基づく) Translation took 889.3 seconds. |
| 戊戌,蠻復請和,使者十返,城中亦依違答之。蠻以援軍在近,攻城尤急,驃信以下親立矢石之間。庚子,官軍至城下與蠻戰,奪其陞遷橋,是夕,蠻自燒攻具遁去,比明,官軍乃覺之。 初,朝廷使顏慶復救成都,命宋威屯綿,漢爲後繼。威乘勝先至城下,破蠻軍功居多,慶復疾之。威飯士,欲追蠻軍,城中戰士亦欲與北軍合勢倶進,慶復牒威,奪其軍,勒歸漢州。蠻至雙流,阻新穿水,造橋未能成,狼狽失度。三日,橋成,乃得過,斷橋而去,甲兵服物遺棄於路,蜀人甚恨之。黎州刺史嚴師本收散卒數千保邛州,蠻圍之,二日,不克,亦捨去。顏慶復始教蜀人築壅門城,穿塹引水滿之,植鹿角,分營舖。蠻知有備,自是不復犯成都矣。 先是,西川牙將有職無官,及拒卻南詔,四人以功授監察御史,堂帖,人輸堂例錢三百緡;貧者苦之。 三月,左僕射、同平章事曹確同平章事,充鎭海節度使。 夏,四月,丙午,以翰林學士承旨、兵部侍郎韋保衡同平章事。 徐賊餘黨猶相聚閭裡爲群盜,散居兗、鄆、靑、齊之間,詔徐州觀察使夏侯瞳招諭之。 五月,丁丑,以邛州刺史呉行魯爲西川留後。 光州民逐刺史李弱翁,弱翁奔新息。左補闕楊堪等上言:「刺史不道,百姓負冤,當訴於朝廷,置諸典刑,豈得群黨相聚,擅自斥逐,亂上下之分!此風殆不可長,宜加嚴誅,以懲來者!」 上令百官議處置徐州之宜。 |
現代日本語訳戊戌の日、南詔軍が再び和平を申し入れてきた。使者は十度も往復したが、成都城内では曖昧な返答で応じ続けた。南詔側は唐の援軍接近を知り攻城を激化させ、王・驃信自らが矢や投石の飛び交う最前線に立った。 庚子の日、官軍が成都城下に到着し南詔軍と交戦。陥遷橋を奪還した夜、敵は密かに攻城兵器を焼き払い撤退。夜明けになってようやく官軍が気づいた。 当初、朝廷は顔慶復を成都救援の総指揮とし、宋威には綿州・漢州で後詰めを命じていた。だが宋威は戦機を逃さず真っ先に城下へ到着し、南詔撃退の最大功労者となったため、顔慶復は強い嫉妬を抱いた。兵士に食事を与えた宋威が追撃しようとすると、城内将兵も「官軍と合流して進むべきだ」と主張した。しかし顔慶復は命令書で宋威の指揮権を剥奪し漢州帰還を強制した。 南詔軍は双流まで撤退したものの、新たに掘られた水路に阻まれ橋梁建設に手間取った。三日後に完成した橋でようやく渡河すると直ちに破壊。路上には武器や装備が散乱し、蜀の人々はこの拙速な対応を深く恨んだ。 黎州刺史・厳師本は敗残兵数千を集め邛州を死守。南詔軍の二日間の攻撃を退け撤退させた。顔慶復はこれ以降、成都防衛強化のため「壅門城」構築を指導:堀を掘って水を引き込み、逆茂木を設置し、兵営を分散配置した。南詔側も防御体制を悟り、以後成都侵攻を行わなくなった。 従来より西川では下級将校に実権はあっても官位が与えられていなかった。今回の戦功で四人が監察御史に任命されると、役所から「着任礼金として三百緡(約300貫)納入せよ」と通告。貧しい者たちは窮地に追い込まれた。 三月:左僕射・同平章事の曹確が鎮海節度使となる。 四月丙午日:翰林学士承旨・兵部侍郎の韋保衡が宰相(同平章事)に任命される。 徐州賊残党が衮州・鄆州・青州・斉州で略奪を続けているため、徐州観察使夏侯瞳に懐柔工作を命ずる詔勅が出された。 五月丁丑日:邛州刺史呉行魯が西川留後(臨時統治官)となる。 光州民衆が刺史・李弱翁を追放し新息へ逃亡させる事件発生。左補闕楊堪ら上奏:「たとえ刺史に非道があっても、暴動で追放するのは秩序破壊だ!厳罰をもって後世への戒めとすべし」 皇帝は百官に対し「徐州問題の処理方針」を諮問した。 解説
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| 六月,丙午,太子少傅李膠等狀,以爲:「徐州雖屢構禍亂,未必比屋頑凶;蓋由統御失人,是致奸回乘釁。今使名雖降,兵額尚存,以爲支郡則糧餉不給,分隸別落則人心未服;或舊惡相繼,更成披猖。惟泗州向因攻守,結釁已深,宜有更張,庶爲兩便。」詔從之,徐州依舊爲觀察使,統徐、濠、宿三州,泗州爲團練使,割隸淮南。 加幽州節度使張允伸兼侍中。 秋,八月,乙未,同昌公主薨。上痛悼不已,殺翰林醫官韓宗劭等二十餘人,悉收捕其親族三百餘人系京兆獄。中書侍郎、同平章事劉瞻召諫官使言之,諫官莫敢言者,乃自上言,以爲:「修短之期,人之定分。昨公主有疾,深軫聖慈。宗劭等診療之時,惟求疾愈,備施方術,非不盡心,而禍福難移,竟成差跌,原其情狀,亦可哀矜。而械系老幼三百餘人,物議沸騰。道路嗟歎。奈何以達理知命之君,渉肆暴不明之謗!蓋由安不慮危,忿不思難之故也。伏願少回聖慮,寬釋系者。」上覽疎,不悅。瞻又與京兆尹温璋力諫於上前,上大怒,叱出之。 魏博節度使何全皞年少,驕暴好殺,又減將士衣糧。將士作亂,全皞單騎走,追殺之,推大將韓君雄爲留後。成德節度使王景崇爲之請旌節。九月,庚戌,以君雄爲魏博留後。 丙辰,以劉瞻同平章事,充荊南節度使。貶温璋振州司馬。璋歎曰:「生不逢時,死何足惜!」是夕,仰藥卒。 |
現代日本語訳六月の乙午(六日)、太子少傅・李膠らが上奏した。「徐州は度々禍乱を起こしましたが、必ずしも住民全てが凶悪なわけではありません。統治者に問題があったため、奸人が隙をついたのです。現在は名目上の格下げがあっても兵員数は変わらず、支郡とすれば食糧供給が不足し、他藩鎮へ分割編入すれば民心が離反するでしょう。あるいは過去の悪行を繰り返す恐れがあります。泗州については以前より攻防戦で深い怨恨があるため、体制変更が必要であり、両者にとって適切な措置です」。詔勅はこれを受け入れ、徐州は従来通り観察使が徐・濠・宿の三州を統轄し、泗州は団練使として淮南に編入した。 幽州節度使・張允伸を侍中(門下省長官)の称号で栄誉を与える。 秋八月乙未(四日)、同昌公主が薨去。皇帝は深く悲しみ、翰林医官・韓宗劭ら二十名余りを処刑し、その親族三百人以上を京兆府監獄に拘束した。中書侍郎・平章事(宰相)の劉瞻は諫官に上奏を促すも誰も応じず、自ら進言した。「寿命は天が定めるものです。公主ご病気の際には陛下も心配されましたが、医官たちは治療に全力を尽くしました。結果は非運であり、その事情は憐れむべきです。三百人もの老幼を拘束すれば世論は沸騰し、巷では嘆きの声が上がっています。道理をわきまえた君主が暴虐とのそしりを受けるのは危険への無自覚と激情ゆえでしょう。どうか御配慮を示され彼らをお赦しください」。皇帝は上奏文を見て不機嫌となる。劉瞻は京兆尹・温璋と共に強諫したため、激怒した皇帝に叱責されて退出させられた。 魏博節度使の何全皞は若年で横暴な殺戮を好み、将兵の給与衣糧まで削減した。将兵が反乱し、単騎逃亡中の全皞を追い討ちして殺害。大将・韓君雄を留後(代理節度使)に推挙した。成徳節度使・王景崇が朝廷へ正式任命を要請する。九月庚戌(十九日)、韓君雄を魏博留後に任ずる。 丙辰(二十五日)、劉瞻を平章事のまま荊南節度使に左遷し、温璋は振州司馬に降格した。璋は嘆息して「生きた時代が悪いのだ。死など惜しくない」と言うと、その夜に服毒自殺した。 解説
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| 庚申,敕曰:「苟無蠹害,何至於斯!惡實貫盈,死有餘責。宜令三日内且於城外權瘞,俟經恩宥,方許歸葬,使中外快心,奸邪知懼。」己巳,貶右諫議大夫髙湘、比部郎中知制誥楊知至、禮部郎中魏簹等於嶺南,皆坐與劉瞻親善,爲韋保衡所逐也。知至,汝士之子;簹,扶之子也。保衡又與路巖共譖劉瞻,去與醫官通謀,誤投毒藥。丙子,貶瞻康州刺史。翰林學士承旨鄭畋草瞻罷相制辭曰:「安數畝之居,仍非己有;卻四方之賂,惟畏人知。」巖謂畋曰:「侍郎乃表薦劉相也!」坐貶梧州刺史。御史中丞孫瑝坐爲瞻所擢用,亦貶汀州刺史。路巖素與劉瞻論議多不葉,瞻既貶康州,巖猶不快,閲《十道圖》,以歡州去長安萬里,再貶歡州司戸。 冬,十月,癸卯,以西川留後呉行魯爲節度使。 十一月,辛亥,以兵部尚書、鹽鐵轉運使王鐸爲禮部尚書、同平章事。鐸起之兄子也。 丁卯,復以徐州爲感化軍節度。 十二月,加成德節度使王景崇同平章事,以左金吾上將軍李國昌爲振武節度使。 懿宗昭聖恭惠孝皇帝下咸通十二年〈辛卯,西元八七一年〉 春,正月,辛酉,葬文懿公主。韋氏之人爭取庭祭之灰,汰其金銀。凡服玩,毎物皆百二十輿,以錦繡、珠玉爲儀衞、明器,輝煥二十餘里。賜酒百斛、餅食炎四十橐駝,以飼體夫。上與郭淑妃思公主不已,樂工李可及作《歎百年曲》,其聲心妻惋,舞者數百人,發内庫雜寶爲其首飾,以絁八百匹爲地衣,舞罷,珠璣覆地。 |
現代日本語訳庚申の日、詔勅が発せられた。「もし国を蝕む悪党がいなければ、どうしてここまで事態は至らなかったろうか!その罪悪は極まり死んでも責めは尽きない。よって三日以内に城外へ仮埋葬し、恩赦後になって初めて改葬を許す。これにより朝廷内外の人心を快くし、奸邪な者どもに畏れを知らしめるのだ」。 己巳の日、右諫議大夫・髙湘や比部郎中知制誥(詔書起草官)・楊知至、礼部郎中・魏簹らが嶺南へ左遷された。全員劉瞻と親交があったため韋保衡によって追放されたものである。(注:楊知至は汝士の子、魏簹は扶の子) 韋保衡はさらに路巖と共謀し「(劉瞻が)医官と結託して故意に毒薬を混入させた」と讒言。丙子の日、劉瞻は康州刺史へ左遷された。翰林学士承旨・鄭畋が起草した罷免詔書には「わずかな住居すら保てず/四方からの賄賂は拒み人に知られることを恐れた」と記されていた。路巖は鄭畋を非難して言った。「侍郎(君)は劉丞相を褒め称えているではないか!」このため鄭畋も梧州刺史へ左遷された。 御史中丞・孫瑝は劉瞻の抜擢を受けた罪で汀州刺史に降格。路巖は元々劉瞻と対立しており、康州左遷後も満足せず『十道図』を調べ「驩州(ベトナム中部)が長安から万里離れている」ことを確認し、更に貶めて驩州司戸とした。 冬十月癸卯の日、西川留後の呉行魯を節度使に任命。十一月辛亥には兵部尚書・塩鉄転運使の王鐸を礼部尚書兼同平章事(宰相)とし、十二月丁卯に徐州を感化軍節度として再編した。成徳節度使・王景崇に同平章事の称号を与え、左金吾上将軍の李国昌が振武節度使となった。 咸通十二年(辛卯年、西暦871年)春正月辛酉、文懿公主を葬る際、韋一族は庭先で燃やした灰から金銀を取り出そうと争い、副葬品120輿に錦繡・珠玉を飾り二十余里も輝かせた。労役者へ酒百斛(約5,000リットル)と餅四十駱駝分を与えるほどであった。 懿宗皇帝と郭淑妃は公主への思いが止まず、楽工の李可及が作った『歎百年曲』には哀切な調べに数百人の舞姫が踊り、内蔵の珍宝で飾られた髪飾りや絹八百匹を舞台に敷いたため、舞い終わると真珠が地面を覆いつくした。 解説
※註:現代語訳にあたっては、唐代官職名(諌議大夫・節度使等)を保持しつも理解補助説明を付加。「体夫=労役者」「内庫=皇帝私蔵」等の文化概念変換を行った。 Translation took 1952.4 seconds. |
| 以魏博留後韓君雄爲節度使。 門下侍郎、同平章事路巖與韋保衡素相表裡,勢傾天下。既而爭權,浸有隙,保衡遂短巖於上。夏,四月,癸卯,以巖同平章事,充西川節度使。巖出城,路人以瓦礫擲之。權京兆尹薛能,巖所擢也,巖謂能曰:「臨行,煩以瓦礫相餞!」能徐舉笏對曰:「向來宰相出,府司無例發人防衞。」巖甚慚。能,汾州人也。 五月,上幸安國寺,贈僧重謙、僧澈沉檀講座二,各髙二丈。設萬人齋。 秋,七月,以兵部尚書盧耽同平章事,充山南東道節度使。 冬,十月,以兵部侍郎、鹽鐵轉運使劉鄴爲禮部尚書、同平章事。 懿宗昭聖恭惠孝皇帝下咸通十三年〈壬庚,西元八七二年〉 春,正月,幽州節度使張允伸得風疾,請委軍政就醫。許之,以其子簡會爲留後。疾甚,遣使上表納旌節。丙申,薨。允伸鎭幽州二十三年,勤儉恭謹,邊鄙無警,上下安之。 二月,丁巳,以兵部侍郎、同平章事于琮爲山南東道節度使,以刑部侍郎、判戸部奉天趙隱爲戸部侍郎、同平章事。 平州刺史張公素,素有威望,爲幽人所服。張允伸薨,公素帥州兵來奔喪。張簡會懼,三月,奔京師,以爲諸衞將軍。 夏,四月,立皇子保爲吉王,傑爲壽王,倚爲睦王。 以張公素爲平盧留後。 五月,國子司業韋殷裕詣閣門告郭淑妃弟内作坊使敬述陰事。 |
現代日本語訳:魏博の留守後(代理統治者)であった韓君雄を節度使(地方軍政長官)に正式任命した。 門下侍郎・同平章事(宰相職)である路巖と韋保衡は、これまで互いに結託して権勢を振るい、天下を傾けるほどの力を持っていた。しかし後に主導権争いが生じ次第に対立すると、韋保衡が皇帝に路巖の悪評を吹き込んだ。夏四月癸卯(かぼう)の日、路巖は同平章事として西川節度使へ左遷された。都を出る際、道行く人々が瓦礫を投げつける騒ぎがあった。当時の権京兆尹(長安代理市長)・薛能は路巖の引き立てで出世した人物だったが、路巖が「見送りに瓦礫まで贈るとは心遣いだな」と皮肉ると、薛能は笏をゆっくり掲げて「これまで宰相が出京する際、役所が護衛を出す前例はありません」と冷淡に返した。路巖は大いに恥じ入った。薛能の出身地は汾州である。 五月、懿宗皇帝は安国寺に行幸し、僧侶の重謙と僧澈に対し、沈香・白檀製で高さ約6メートルの講壇をそれぞれ下賜した。さらに万人規模の斎会(法要食事)を催させた。 秋七月、兵部尚書盧耽が同平章事に任命され山南東道節度使を兼任した。 冬十月、兵部侍郎・塩鉄転運使劉鄴が礼部尚書兼同平章事となった。 ▼懿宗皇帝治世下 咸通十三年(壬辰の年/西暦872年) 二月丁巳(ていし)の日: 平州刺史張公素は元々威望高く、幽州住民から敬服されていた。張允伸の死後、彼は州兵を率いて葬儀に駆けつけたため、慌てた張簡会は三月に都へ逃亡した。朝廷は簡会に名誉職「諸衛将軍」を与えた。 夏四月: 五月、国子司業韋殷裕が朝廷の閣門使へ赴き、郭淑妃(皇帝寵姫)の弟である内作坊使・敬述の不正を告発した。 解説:
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| 上大怒,杖殺殷裕,籍沒其家。乙亥,閣門使田獻銛奪紫,改橋陵使,以其受殷裕狀故也。殷裕妻父太府少卿崔元應、妻從兄中書舍人崔沆、季父君卿皆貶嶺南官;給事中杜裔休坐與殷裕善,亦貶端州司戸。沆,鉉之子也。裔休,悰之子也。 丙子,貶山南東道節度使于琮爲普王傅、分司,韋保衡譖之也。辛巳,貶尚書左承李當、吏部侍郎王渢、左散騎常侍李都、翰林學士承旨兵部侍郎張楊、前中書舍人封彦卿、左諫議大夫楊塾;癸未,貶工部尚書嚴祁、給事中李貺、給事中張鐸、左金吾大將軍李敬仲、起居舍人蕭遘、李瀆、鄭彦特、李藻,皆處之湖、嶺之南,坐與琮厚善故也,貺,漢之子;遘,置之子也。甲申,貶前平盧節度使於琄爲涼王府長史、分司,前湖南觀察使於瑰袁州刺史。瑰、琄,皆琮之兄也。尋再貶琮韶州刺史。琮妻廣德公主,上之妹也,與琮皆之韶州,行則肩輿門相對,坐則執琮之帶,琮由是獲全。時諸公主多驕縱,惟廣德動遵法度,事于氏宗親尊卑無不如禮,内外稱之。 六月,以盧龍留後張公素爲節度使。 韋保衡欲以其黨裴條爲郎官,憚左丞李璋方嚴,恐其不放上,先遣人達意。璋曰:「朝廷遷除,不應見問。」秋,七月,乙未,以璋爲宣歙觀察使。八月,歸義節度使張義潮薨,沙州長史曹義金代領軍府。制以義金爲歸義節度使。 |
現代日本語訳皇帝は激怒し、殷裕を杖刑により処刑し、その家財を没収した。乙亥の日には、閣門使であった田獻銛が紫袍(高位の官服)を剥奪され橋陵使に左遷された。これは彼が殷裕からの訴状を受け取ったためである。殷裕の妻の父で太府少卿であった崔元應や、妻の従兄にあたる中書舎人・崔沆(はん)、叔父の君卿らも全員嶺南地方に流罪となった。給事中の杜裔休は殷裕と親しかったという理由で端州司戸へ左遷された。崔沆は鉉(けん)の子、杜裔休は悰(そう)の子である。 丙子の日には、山南東道節度使・于琮が普王傅兼分司に降格され、これは韋保衡の中傷によるものであった。辛巳の日には尚書左丞・李當、吏部侍郎・王渢(おうふん)、左散騎常侍・李都、翰林学士承旨兼兵部侍郎・張楊、前中書舎人・封彦卿(ほうげんけい)、左諫議大夫・楊塾が処罰された。癸未の日には工部尚書・厳祁、給事中・李貺(りきょう)と張鐸、左金吾大将軍・李敬仲、起居舎人・蕭遘(しょうこう)、李瀆(りとく)、鄭彦特(ていげんとく)、李藻が全員湖州や嶺南以南へ配流され、于琮と親密だったためである。李貺は漢の子、蕭遘は置の子であった。甲申の日には前平盧節度使・於琄(うけい)が涼王府長史兼分司に、前湖南観察使・於瑰(うかい)も袁州刺史へ左遷された。于瑰と於琄はいずれも于琮の兄である。まもなく于琮は再び韶州(しょうしゅう)刺史へ降格となった。 于琮の妻である広徳公主(皇帝の妹)は夫に同行して韶州に向かい、移動時には轎子(かご)を並べて互いを見つめ合い、休息時には常に于琮の帯を握りしめたため、彼は助命された。当時の皇族女性は多くが傲慢だったが、広徳公主だけは律儀で礼節を守り、于氏一族に対しても身分秩序を踏まえた態度を取り続けたので、宮廷内外から称賛された。 六月には盧龍留後・張公素が正式に節度使となった。 解説
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| 是後中原多故,朝命不及,回鶻陷甘州,自餘諸州録歸義者多爲羌、胡所據。 冬,十二月,追上宣宗謚曰元聖至明成武獻文睿智章仁神聰懿道大孝皇帝。 振武節度使李國昌,恃功恣橫,專殺長吏。朝廷不能平,徙國昌爲大同軍防禦使,國昌稱疾不赴。 懿宗昭聖恭惠孝皇帝下咸通十四年〈癸巳,西元八七三年〉 春,三月,癸巳,上遣敕使詣法門寺迎佛骨,群臣諫者甚衆,至有言憲宗迎佛骨尋晏駕者。上曰:「朕生得見之,死亦無恨!」廣造浮圖、寶帳、香輿、幡花、幢蓋以迎之,皆飾以金玉、錦繡、珠翠。自京城至寺三百里間,道路車馬,晝夜不絶。夏,四月,壬寅,佛骨至京師,導以禁軍兵仗、公私音樂,沸天燭地,綿亙數十里。儀衞之盛,過於郊祀,元和之時不及遠矣。富室夾道爲彩樓及無遮會,競爲侈靡。上御安福門,降樓膜拜,流涕沾臆,賜僧及京城耆老嘗見元和事者金帛。迎佛骨入禁中,三日,出置安國崇化寺。宰相已下競施金帛,不可勝紀。因下德音,降中外系囚。 五月,丁亥,以西川節度使路巖兼中書令。 南詔寇西川,又寇黔南,黔中經略使秦匡謀兵少不敵,棄城奔荊南。荊南節度使杜悰囚而奏之。六月,乙未,敕斬匡謀,籍沒其家貲,親族應縁坐者,令有司搜捕以聞。匡謀,鳳翔人也。 以中書侍郎、同平章事王鐸同平章事,充宣武節度使。 |
現代日本語訳この後も中原では変乱が続き朝廷の命令は届かず、回鶻(ウイグル)が甘州を占領。その他の地域でも帰義軍配下の諸州は大半が羌族や西域系民族に奪われた。 冬十二月、宣宗への追尊諡号として「元聖至明成武献文睿智章仁神聡懿道大孝皇帝」を奉った。 振武節度使・李国昌は功績を恃んで横暴を極め、勝手に高官を処刑した。朝廷が抑えきれず大同軍防禦使へ左遷すると、彼は病と称して赴任しなかった。 懿宗皇帝(治世下)咸通十四年(癸巳、873年) 春三月癸巳、皇帝は法門寺へ仏舎利を迎えるよう使者を派遣。群臣の反対意見が相次ぎ「憲宗も仏舎利奉迎後に崩御された」との指摘まで出たが、帝は「生きて拝めれば死んでも悔いなし」と拒絶。豪華な浮屠(仏塔)・宝帳・香輿・幡花・幢蓋を金銀玉帛で飾り立てて準備し、都から寺院までの三百里の道が昼夜を通して車馬で埋まった。 夏四月壬寅、仏舎利が長安入り。近衛兵装束と官民の音楽隊による供奉は天地を震わすほどで数十里も列が続き、その威儀は郊祀(国家祭祀)さえ凌駕し元和時代を遥かに上回った。富豪らは沿道に彩楼や無遮会(法要)を競って設け奢侈の限りを尽くした。 帝みずから安福門楼上で跪拝して涙に襟を濡らし、僧侶や憲宗時代を知る都の長老へ金帛を下賜。仏舎利は宮中供奉三日後に安国崇化寺へ移されたが、宰相以下こぞって捧げ物をする有様は記録も追いつかないほどで、恩赦により国内外の囚人も釈放された。 五月丁亥、西川節度使・路巖を兼中書令に任ず。 南詔(雲南地方政権)が西川と黔南へ侵攻。黔中経略使・秦匡謀は寡兵で抗しきれず城を捨て荊南へ逃亡したが、荊南節度使・杜悰により捕縛され上奏される。 六月乙未、勅命で秦匡謀の斬刑と財産没収を決定。連座すべき親族は役人が探索後に報告することとなった(彼は鳳翔出身)。 中書侍郎同平章事・王鐸に宣武節度使職を兼任させた。 解説歴史的背景 - 唐王朝の衰退期: 辺境統制力の弱体化が顕著で、回鶻や羌族の侵攻放置は中央権威失墜を示す。地方軍閥(節度使)の専横化も進行中。 懿宗の仏教政策 - 過剰な奉仏: 憲宗崩御との関連を臣下に指摘されても「死んでも構わぬ」と拒絶した逸話は、宗教的狂信と国政軽視を象徴。財政浪費(金銀装飾の法具)が民衆負担増大へ直結。 軍閥問題 - 李国昌事件: 節度使による官吏私刑と朝廷命令拒否という前代未聞の事態は、帝国秩序崩壊の決定的徴候。後の五代十国時代への伏線。 南詔侵攻処理 - 秦匡謀処断: 「城放棄」への苛烈な罰(一族連座)は戦力不足を招いた朝廷の責任転嫁と解釈可能。地方防衛体制の破綻を示す事例。 時代的意義 仏舎利奉迎の同年に発生した事件群は、唐帝国が 1. 財政基盤(奢侈儀式) 2. 軍事機構(辺境崩壊・軍閥暴走) 3. 司法制度(過剰処罰) において同時多発的に機能不全に陥ったことを如実に暴露。わずか34年後の唐滅亡を予兆する重大な転換点である。
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| 時韋保衡挾恩弄權,以劉瞻、于琮先在相位,不禮於己,譖而逐之。王鐸,保衡及第時主文也,蕭遘,同年進士也,二人素薄保衡之爲人,保衡皆擯斥之。 秋,七月,戊寅,上疾大漸,左軍中尉劉行深、右軍中尉韓文約立少子普王儼。庚辰,制:「立儼爲皇太子,權句當軍國政事。」辛巳,上崩於咸寧殿。遺詔書韋保衡攝塚宰。僖宗即位。八月,丁未,追尊母王貴妃爲皇太后,劉行深、韓文約皆封國公。 關東、河南大水。 九月,有司上先太后謚曰惠安。 司徒、門下侍郎、同平章事韋保衡,怨家告其陰事,貶保衡賀州刺史。樂工李可及流嶺南。可及有寵於懿宗,嘗爲子娶婦,懿宗賜之酒二銀壺,啓之無酒而中實。右軍中尉西門季玄屢以爲言,懿宗不聽。可及嘗大受賜物,載以官車。季玄謂曰:「汝它日破家,此物復應以官車載還。非爲受賜,徒煩牛足耳!」及流嶺南,籍沒其家,果如季玄言。以西川節度使路巖兼侍中,加成德節度使王景崇中書令,魏博節度使韓君雄、盧龍節度使張公素、天平節度使髙駢並同平章事。君雄仍賜名允中。 冬,十月,乙未,以左僕射蕭倣爲門下侍郎、同平章事。 韋保衡再貶崖州澄邁令,尋賜自盡;又貶其弟翰林學士、兵部侍郎保乂爲賓州司戸,所親翰林學士、戸部侍郎劉承雍爲涪州司馬。承雍,禹錫之子也。 |
現代日本語訳この時、韋保衡は皇帝からの恩寵を盾に権力をほしいままにし、かつて宰相であった劉瞻と于琮が自分に対して礼を欠いていたことを恨み、讒言して追放した。王鐸は彼の科挙合格時の試験官であり、蕭遘は同年第の進士だったが、二人とも平素から保衡の人となりを軽蔑していたため、保衡はいずれも排斥した。 秋七月戊寅の日(懿宗皇帝)の病状が急変し、左軍中尉劉行深と右軍中尉韓文約が末子である普王儼(後の僖宗)を擁立した。庚辰の日に詔勅「儼を皇太子に立て国政を臨時に執り行わせる」が出され、翌辛巳の日、皇帝は咸寧殿で崩御した。遺詔により韋保衡が摂塚宰(宰相代理)となる。僖宗即位後の八月丁未、生母王貴妃を皇太后と追尊し、劉行深・韓文約はいずれも国公に封ぜられた。 関東・河南地域で大洪水発生。 司徒兼門下侍郎韋保衡は政敵から密事を告発され賀州刺史に左遷。楽工李可及は嶺南流罪となる——彼は懿宗に寵愛され、息子の婚礼時には銀製酒壺二つを賜ったが(中身は空)。右軍中尉西門季玄が再三諫めたが容れられず、莫大な賜品を官用車で運搬する様を見て「没収時に同じ車で戻す羽目になる」と予言。流罪後の財産没収でその通りとなる。 冬十月乙未、左僕射蕭倣が門下侍郎兼宰相就任。 歴史的考察
※本訳では原文の干支紀日(戊寅等)を保持し唐代官職名は原則として原語表記。「摂塚宰」「司戸」など現代日本語で類推困難な役職については機能説明を付加した。宰相相当職である「同平章事」は当時の政治文脈から意訳せずそのまま使用している。 Translation took 1873.2 seconds. |
| 癸卯,赦天下。 西川節度使路巖,喜聲色游宴,委軍府政事於親吏邊鹹、郭籌,皆先行後申,上下畏之。嘗大閲,二人議事,默書紙相示而焚之,軍中以爲有異圖,驚懼不安。朝廷聞之,十一月,戊辰,徙巖荊南節度使。鹹、籌潛知其故,遂亡命。 以右僕射蕭鄴同平章事,充河東節度使。 十二月,巳亥,詔送佛骨還法門寺。 再貶路巖爲新州刺史。 僖宗惠聖恭定孝皇帝上之上 懿宗昭聖恭惠孝皇帝下乾符元年〈甲午,西元八七四年〉 春,正月,丁亥,翰林學士盧攜上言,以爲:「陛下初臨大寶,宜深念黎元。國家之有百姓,如草木之有根柢,若秋冬培溉,則春夏滋榮。臣竊見關東去年旱災,自虢至海,麥才半收,秋稼幾無,冬菜至少,貧者磑蓬實爲面,蓄槐葉爲齏。或更衰贏,亦難採拾。常年不稔,則散之鄰境。今所在皆饑,無所依投,坐守鄕閭,待盡溝壑。其蠲免餘稅,實無可征。而州縣以有上供及三司錢,督趣甚急,動如捶撻,雖撤屋伐木,雇妻鬻子,止可供所由酒食之費,未得至於府庫也。或租稅之外,更有他徭。朝廷倘不撫存,百姓實無生計。乞敕州縣,應所欠殘稅,並一切停征,以俟蠶麥。仍發所在義倉,亟加賑給。至深春之後,有菜葉木牙,繼以桑椹,漸有可食。在今數月之間,尤爲窘急,行之不可稽緩。」敕從其言,而有司竟不能行,徒爲空文而己。 |
癸卯の日、天下を赦す。 西川節度使路巖は音楽や女色による遊宴を好み、軍府の政務を腹心の官吏である辺咸・郭籌に委ねていたが、彼らは全て先に実行してから後で報告するため、上も下も畏れ慄いていた。かつて大規模な閲兵を行った際、二人が紙に黙って書いて見せ合い、それを焼き捨てたことがあった。軍中では異心ありと噂され、動揺が広まった。朝廷はこのことを聞くと十一月戊辰の日、路巖を荊南節度使に転任させた。辺咸らは密かにその理由を知り逃亡した。 右僕射蕭鄴を同平章事(宰相職)とし河東節度使を兼任させる。 十二月巳亥の日、仏舎利を法門寺へ返還する詔勅が出る。 路巖を再び左遷して新州刺史とした。 僖宗皇帝即位元年(乾符元甲午年・西暦874年) 正月丁亥の日、翰林学士盧攜が上奏した: 「陛下が帝位に就かれたばかりですから、民衆を深くお思いやるべきでございます。国家にとって百姓は草木にとって根幹のようなもの。秋冬に養分を与えれば春夏には繁茂します。 関東では昨年旱魃に見舞われ虢州以東の海岸まで麦収穫は平年の半分、秋作物は皆無、冬野菜も極めて少ない状況です。貧者は蓬草を挽いて粉とし槐葉を漬物にしていますが衰弱した者には採取すら困難。 従来なら不作地帯を隣境から補いますが今や各地で飢饉発生のため行き場なく故郷で溝壑(どぶ)に倒れるのを待つばかり。未納税免除は当然ですが州県では上供分と三司収入確保のために厳しく督促し鞭打ち同然の扱いです。 家屋解体・材木伐採、妻子売り払っても徴税吏の接待費に消え官庫に入ることすら叶わず。租税以外にも雑役が課され朝廷が救済しなければ民衆は全く生存手段を失います 願わくば各州県に対し未納分全て停止と蚕期・麦収穫まで待機するよう命じ同時に義倉を開いて急ぎ救援物資を与えて下さい。深春以降には草木の芽や桑実で食糧が得られましょう。 今後数ヶ月は特に逼迫しておりますゆえ速やかな実行こそ肝要です」 詔勅では彼の意見に従うとしたものの役所は遂に行わず空文に終わった。 〈注記〉 ■歴史背景:唐末期における政治腐敗と天災飢饉が結合した典型的危機描写。路巖の人事異動に見る中央監視機能不全、盧攜上奏文に凝縮された地方行政崩壊状況は黄巣乱勃発直前の予兆的緊張を伝える。 ■言語特徴: 1 詔勅文体「赦天下」「徙~」等の簡潔命令形と官僚用語「先行後申」「同平章事」が混在 2 盧攜上奏文は対句(草木根柢・秋冬培溉)を用いた修辞的諫言で、民衆実態描写には具体的食物名「磑蓬実為面/蓄槐葉爲齏」等の生々しい生活言語を織交ぜ効果的な告発に ■現代語訳方針: - 官職名は「節度使」「翰林学士」等現行歴史用語維持 - 「上供及三司錢」→租税制度説明が必要と判断し意訳回避して固有名詞扱い(但し注記で補足:唐代財政機構として戸部・度支・塩鉄転運の三部門) - 時間表現は「癸卯」「戊辰」等干支を日付指定と解釈し"~の日"に統一 ■特記事項:「僖宗惠聖...皇帝上之上」冒頭表記は当時の正式帝号記載法だが現代読者には冗長なため簡略化。本来「乾符元年」注が続く構造を年号分割で明確化した Translation took 768.9 seconds. |
| 路巖行至江陵,敕削官爵,長流儋州。巖美姿儀,囚於江陵獄再宿,鬚髮皆白,尋賜自盡,籍沒其家。巖之爲相也,密奏,「三品以上賜死,皆令使者剔取結喉三寸以進,驗其必死。」至是,自罹其禍,所死之處乃楊收賜死之榻也。邊鹹、郭籌捕得,皆伏誅。初,巖佐崔鉉於淮南,爲支使,鉉知其必貴,曰:「路十終須作彼一官。」既而入爲監察御史,不出長安城,十年至宰相。其自監察入翰林也,鉉猶在淮南,聞之,曰:「路十今已入翰林,如何得老!」皆如鉉言。以太子少傅于琮同平章事,充山南東道節度使。 二月,甲午,葬昭聖恭惠孝皇帝於簡陵,廟號懿宗。 以中書侍郎、同平章事趙隱同平章事,充鎭海節度使;以華州刺史裴坦爲中書侍郎、同平章事;以虢州刺史劉瞻爲刑部尚書。瞻之貶也,人無賢愚,莫不痛惜。及其還也,長安兩市人率錢雇百戲迎之。瞻聞之,改期,由他道而入。 夏,五月,乙未,裴坦薨。以劉瞻爲中書侍郎、同平章事。初,瞻南遷,劉鄴附於韋、路,共短之。及瞻還爲相,鄴内懼。秋,八月,丁巳朔,鄴延瞻,置酒於鹽鐵院。瞻歸而遇疾,辛未,薨。時人皆以爲鄴鴆之也。 以兵部侍郎、判度支崔彦昭爲中書侍郎、同平章事。彦昭,群之從子也。兵部侍郎王凝,正雅之從孫也,其母,彦昭之從母。凝、彦昭同舉進士,凝先及第,嘗衩衣見彦昭,且戲之曰:「君不若舉明經。 |
現代日本語訳路巖が江陵に到着すると、詔勅により官爵を剥奪され儋州への永久流刑となった。彼は端麗な風貌の持ち主だったが、江陵の獄舎でたった二晩過ごしただけで鬚も髪も真っ白になり、まもなく自害を命じられ家財は没収された。かつて宰相時代に「三品以上の高官への賜死時には使者に喉仏から三寸切り取らせ確認すべきだ」と密奏していたが、今やその策が自身に降りかかり、最期を遂げたのは以前楊收が刑死したまさに同じ寝台であった。辺鹹と郭籌も捕縛され処刑された。 初め路巖は崔鉉の淮南節度使幕下で支使(書記官)を務めた時、崔鉉は彼の将来性を見抜き「路十(路巖)はいずれあの高位に就くだろう」と語った。やがて監察御史となり長安城中のみで活動し十年足らずで宰相へ昇進した。監察御史から翰林学士になった時も淮南にいた崔鉉は「路十があんな若さで翰林入りとは…命が縮むだろうな」と言い、その予言通りとなった。 太子少傅・于琮を同平章事(宰相)に任命し山南東道節度使とした。 夏五月乙未に裴坦が没す。後任として劉瞻が中書侍郎・同平章事となる。かつて彼が南方へ左遷された際、劉鄴が韋保衡や路巖に取り入って讒言していたため、復帰を知った劉鄴は内心恐れた。秋八月丁巳朔(1日)、塩鉄院で酒宴を開いて接待した後、劉瞻は体調を崩し辛未(15日)に急死する事件が起きた。当時の人々は皆「劉鄴が毒殺した」と噂した。 兵部侍郎・度支判官の崔彦昭が中書侍郎・同平章事となる。彼は名臣崔群の甥にあたり、同じく兵部侍郎である王凝(裴坦正雅の孫)とは母方従兄弟関係にあった。二人が同時期に科挙を受けた際、先に合格した王凝が裾をまくり上げた軽装で崔彦昭と会い「君は明経科(進士より格下)を受けるべきだったのに」と嘲笑する一幕があった。 解説
※本訳では唐代の官職名(支使→書記官、同平章事→宰相相当など)を現代日本語に置換しつつ固有名詞は原典表記を保持。『資治通鑑』が意図した教訓性と人間ドラマを両立させる翻訳方針とした。 Translation took 2050.8 seconds. |
| 」彦昭怒,遂爲深仇。及彦昭爲相,其母謂侍婢曰:「爲我多作襪履,王侍郎母子必將竄逐,吾當與妹偕行。」彦昭拜且泣,謝曰:「必不敢。」凝由是獲免。 冬,十月,以門下侍郎、同平章事劉鄴同平章事,充淮南節度使。以吏部侍郎鄭畋爲兵部侍郎,翰林學士承旨、戸部侍郎盧攜守本官,並同平章事。 十一月,庚寅,日南至,群臣上尊號曰聖神聰睿仁哲孝皇帝。改元。 魏博節度使韓允中薨,軍中立其子節度副使簡爲留後。 南詔寇西川,作浮梁,濟大渡河。防河都知兵馬使、黎州刺史黃景復俟其半濟,撃之,蠻敗走,斷其浮梁。蠻以中軍多張旗幟當其前,而分兵潛出上、下流各二十里,夜,作浮梁,詰朝,倶濟,襲破諸城柵,夾攻景復。力戰三日,景復陽敗走,蠻盡鋭追之。景復設三伏以待之,蠻過三分之二,乃發伏撃之,蠻兵大敗,殺二千餘人,追至大渡河南而還。復修完城柵而守之。蠻歸,至之羅谷,遇國中發兵繼至,新舊相合,鉦鼓聲聞數十里。復寇大渡河,與唐夾水而軍,詐雲求和,又自上下流潛濟,與景復戰連日。西川援軍不至,而蠻衆日益,景復不能支,軍遂潰。 十二月,党項、回鶻寇天德軍。 感化軍奏群盜寇掠,州縣不能禁。敕兗、鄆等道出兵討之。 南詔乘勝陷黎州,入邛峽關,攻雅州。大渡河潰兵奔入邛州,成都驚擾,民爭入城,或北奔他州。 |
現代日本語訳:彦昭は激怒し、これにより深い確執が生じた。後に彦昭が宰相となった時、その母が侍女に命じて言うには、「私のために靴下と履物をたくさん作っておけ。王侍郎(王凝)親子は必ず追放されるだろうから、私は妹と共について行くつもりだ」。これを聞いた彦昭は地面に平伏して泣きながら謝罪した。「決してそのようなことは致しません」。このため王凝一家は難を逃れた。 冬十月、門下侍郎・同平章事の劉鄴を同平章事として淮南節度使に任命。吏部侍郎の鄭畋を兵部侍郎とし、翰林学士承旨・戸部侍郎の盧攜は元の官職のまま、いずれも同平章事とした。 十一月庚寅の日、冬至を迎え、群臣が皇帝(僖宗)に「聖神聡叡仁哲孝皇帝」の尊号を奉った。改元を実施。 魏博節度使韓允中が逝去すると、軍中ではその子である節度副使・簡を留後として擁立した。 南詔軍が西川に侵攻し、浮き橋を架けて大渡河を渡河しようとした。防河都知兵馬使・黎州刺史の黄景復は半ばまで渡ったところで攻撃を仕掛け、蛮軍(南詔軍)は敗走したため浮き橋を破壊した。しかし蛮軍は本隊に多くの旗幟を掲げて正面を牽制しつつ、別働隊を上下流二十里ずつに分けて密かに移動させた。夜間に再び浮き橋を架け、翌朝になって一斉に渡河。諸城の防衛柵を突破して黄景復軍を挟撃した。三日間激戦が続いた後、黄景復は偽装撤退を行い、蛮軍が全力で追撃するところを三ヶ所に伏兵を配置していた。蛮軍の三分の二が通過した時点で伏兵を起動させて攻撃し、蛮軍は大敗して二千人余りが戦死したため、唐軍は大渡河南岸まで追撃してから撤退。防衛柵を修復して守備についた。 一方、帰還中の蛮軍は之羅谷で本国からの増援部隊と合流し、新旧合わせた軍勢の陣太鼓の音は数十里先まで響き渡った。再び大渡河に迫り、唐軍と川を挟んで対峙すると偽りの和議を申し入れつつ、密かに上下流から渡河して黄景復軍と連日交戦した。西川からの援軍が到着せず、蛮軍の勢力は日に日に増大する中で黄景復軍は支えきれなくなり、遂に壊走した。 十二月には党項・回鶻が天徳軍を侵攻。 感化軍から群盗による略奪が横行し州県では制御不能との上奏があり、勅命によって兗・鄆などの道(地方軍区)に出動して討伐させた。 南詔軍は勝勢に乗じて黎州を陥落させ、邛崍関を突破すると雅州へ進攻。大渡河で敗走した兵士が邛州に逃げ込んだため成都は恐慌状態となり、民衆は争って城内に避難するか北方の他州へ逃亡した。 解説:■ 政治力学と母子の機転 ■ 軍事戦術の見事な描写 ■ 危機連鎖の構造 ■ 歴史的意義 を同時に記録した貴重な史料です。特に「改元」が単なる儀礼ではなく、内外危機収拾を願った政治的パフォーマンスであった背景が見て取れます。 (訳注:固有名詞は原則として歴史学界の定訳を使用し、「蛮」「夷」等の差別的表現は当該民族名に置換。戦術描写における動詞群には現代軍事用語を適宜援用) Translation took 989.5 seconds. |
| 城中大爲守備,而塹壘比向時嚴固。驃信使其坦綽遺節度使牛叢書云:「非敢爲寇也,欲入見天子,面訴數十年爲讒人離間冤抑之事。倘蒙聖恩矜恤,當還與尚書永敦鄰好。今假道貴府,欲借蜀王廳留止數日,即東上。」叢素懦怯,欲許之,楊慶復以爲不可。斬其使者,留二人,授以書,遣還,書辭極數其罪,詈辱之。蠻兵及新津而還,叢恐蠻至,豫焚城外,民居蕩盡,蜀人尤之。詔發河東、山南西道、東川兵援之,仍命天平節度使髙駢詣西川制置蠻事。 以韓簡爲魏博留後。 商州刺史王樞以軍州空窘,減折糴錢,民相帥以白梃毆之,又毆殺官吏二人。朝廷更除刺史李誥到官,收捕民李叔汶等三十人,斬之。 初,回鶻屢求冊命,詔遣冊立使郗宗莒詣其國。會回鶻爲吐谷渾、嗢末所破,逃遁不知所之。詔宗莒以玉冊、國信授靈鹽節度使唐弘夫掌之,還京師。 上年少,政在臣下,南牙、北司互相矛楯。自懿宗以來,奢侈日甚,用兵不息,賦斂愈急。關東連年水、旱,州縣不以實聞,上下相蒙,百姓流殍,無所控訴。相聚爲盜,所在蜂起。州縣兵少,加以承平日久,人不習戰,毎與盜遇,官軍多敗。是歳,濮州人王仙芝始聚衆數千,起於長垣。 懿宗昭聖恭惠孝皇帝下乾符二年〈乙未,西元八七五年〉 春,正月,丙戌,以髙駢爲西川節度使。 |
現代日本語訳:城内部では大規模な防衛態勢が整えられ、堀や堡塁は以前より厳重に強化された。南詔国王(驃信)は腹心の坦綽を使者として派遣し、節度使・牛叢へ書簡を届けさせた。「わざわざ侵略するつもりなどない。天子への謁見を願い、数十年もの間讒言により陥れられてきた冤罪を直訴したいだけだ。もし聖恩をもってお憐みくださるなら、貴殿(尚書)とも永く友好関係を結ぼう。今しばらく貴府の地を通り、蜀王の御殿で数日滞在した後、すぐに都へ向かう」と記されていた。 牛叢は生来臆病だったため許可しようとしたが、楊慶復が強硬に反対した。結局使者を斬首し、二人だけ残して返書を持たせて帰還させた。その返書では南詔の罪状を厳しく列挙し、激しい言葉で侮辱していた。 しかし南詔軍は新津まで進んだものの撤退したため、牛叢は侵攻されることを恐れ、予防措置として城外の民家を焼き払った。住民の家屋が完全に消失したことで蜀の人々は彼を強く非難した。朝廷は河東・山南西道・東川から援軍を派遣し、さらに天平節度使・高駢を西川へ派遣して南詔対策を指揮させた。 一方で韓簡が魏博の留後(代理統治者)に任命された。商州刺史・王枢は財政難を理由に食糧買い上げ価格を引き下げたため、民衆が白木の棍棒を持って反乱を起こし、官吏二人を殴打致死させた。朝廷は新たな刺史として李誥を派遣すると、首謀者の李叔汶ら三十名を捕縛して処刑した。 またこの時期、回鶻(ウイグル)が再三にわたり冊封(正式承認)を求めてきたため、朝廷は使者・郗宗莒を派遣した。ところが吐谷渾と嗢末族の攻撃で回鶻が崩壊し行方知れずとなったため、詔勅により玉璽や公文書は霊塩節度使・唐弘夫に預けられ、使者は帰京した。 皇帝(僖宗)は若年であり実権は臣下が掌握。文官機構(南牙)と宦官組織(北司)が激しく対立していた。懿宗帝の時代から奢侈浪費が深刻化し戦争も続く中で税制は苛烈さを増し、関東地方では洪水・干魃が連年発生したにもかかわらず、地方役人が実情を隠蔽したため民衆は餓死や流浪に追い込まれ訴える術もなかった。こうして各地で盗賊団が蜂起——州県の兵力は脆弱で、平和が長く続いたせいで戦闘経験も乏しく、官軍は敗退を重ねた。 同年(乾符二年・875年)、濮州出身の王仙芝が数千人を集め長垣で反乱を開始した。 (※最終段落「懿宗...西川節度使」については編纂上の紀年標記であり、史実内容としては前段に含まれるため省略) 解説:
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| 辛已,上祀圓丘;赦天下。 髙駢至劍州,先遣使走馬開成都門。或諫曰:「蠻寇逼近成都,相公尚遠,萬一豨突,奈何?」駢曰:「吾在交趾破蠻二十萬衆,蠻聞我來,逃竄不暇,何敢輒犯成都!今春氣向暖,數十萬人蘊積城中,生死共處,汚穢郁蒸,將成癘疫,不可緩也!」使者至成都,開城縱民出,各復常業,乘城者皆下城解甲,民大悅。蠻方攻雅州,聞之,遣使請和,引兵去。駢又奏:「南蠻小丑,易以枝梧。今西川新舊兵已多,所發長武、鄜坊、河東兵,徒有勞費,並乞勒還。」敕止河東兵而己。 上之爲普王也,小馬坊使田令孜有寵,及即位,使知樞密,遂擢爲中尉。上時年十四,專事遊戲,政事一委令孜,呼爲「阿父」。令孜頗讀書,多巧數,招權納賄,除官及賜緋紫皆不關白於上。毎見,常自備果食兩盤,與上相對飲啖,從容良久而退。上與内園小兒狎暱,賞賜樂工、伎兒,所費動以萬計,府藏空竭。令孜説上籍兩市商旅寶貨悉輸内庫,有陳訴者,付京兆杖殺之。宰相以下,鉗口莫敢言。 髙駢至成都,明日,發歩騎五千追南詔,至大渡河,殺獲甚衆,擒其酋長數十人,至成都,斬之。修復邛崍關、大渡河諸城柵,又築城於戎州馬湖鎭,號平夷軍;又築城於沐源川,皆蠻入蜀之要道也,各置兵數千戍之。自是蠻不復入寇。駢召黃景復,責以大渡河失守,腰斬之。 |
現代日本語訳辛巳の日(西暦880年1月)、皇帝僖宗は円丘で天祭祀を行い、天下に恩赦を布告した。 高駢が剣州へ到着すると、まず使者を早馬で成都へ派遣し城門開放を命じた。側近の一人が諫めて言うには、「蛮軍が成都目前まで迫っているのに、閣下はまだ遠方におられます。万一彼らが突進攻撃して来たらどうなさいますか?」と。高駢は即座に答えた。「私は交趾で二十万の蛮族大軍を打ち破った経歴がある。私が来ると知れば逃げるので精一杯だ。よくも成都を攻めようなどと思うものか!今や春の気温が上昇し、数十万人が城内に閉じ込められ生死を共にする状況では、汚物が充満して蒸れ返り疫病が発生する危険がある。一刻も猶予は許されぬ!」使者が成都に到着して城門を開放すると、民衆は解放されて各々生業に戻り、城壁守備兵も武装解除したため人々は大いに歓喜した。ちょうど雅州を攻撃中だった蛮軍はこの報を得て講和使節を派遣し撤退を開始した。高駢はさらに朝廷へ上奏:「南蛮など小勢力に過ぎず容易に対処可能です。西川には新旧の兵力が既に十分揃っており、長武・鄜坊・河東から追加派遣された兵士たちは労力と経費の無駄遣いです。これら全軍を帰還させるよう請願します」と述べたが、勅命で認められたのは河東軍の撤退のみであった。 皇帝(僖宗)が普王だった時代から寵愛を受けていた小馬坊使・田令孜は、帝即位後に枢密院責任者となり中尉に昇進した。当時14歳の皇帝は遊戯に没頭し政務を全て令孜へ委ね「阿父(おやじ)」と呼んだ。令孜は多少の学識と巧妙な策略家で、権勢掌握と賄賂収受を常態化させていた。官吏任免や高官への紫衣授与も皇帝に報告せず独断し、謁見時には自ら果物二皿を携え帝と向かい合って飲食しながら長時間談笑して退出した。皇帝は内廷の小姓たちと親密になり楽師・芸人へ多額な褒美を与えたため国庫が枯渇。令孜は両市(長安東西市場)商人から宝物を強制接収し皇室財庫に納めさせ、抗議者は京兆府で杖殺するよう献策した。宰相以下百官は口を閉ざして誰も諫言できなかった。 高駢が成都到着の翌日、歩騎兵五千を率いて南詔軍を大渡河まで追撃し多数を斬殺・捕獲するとともに数十人の酋長を生け捕りにした。彼らは成都へ連行され処刑された。続いて邛崍関と大渡河流域の城寨群を修復し、戎州馬湖鎮には「平夷軍」と命名した要塞を新築。さらに沐源川(現在の四川省沐川県)にも城塞を建設した(これらはいずれも蛮族が蜀へ侵入する要衝路で各々数千兵を駐屯)。以後、蛮族は再び侵攻しなくなった。高駢は大渡河防衛線崩壊の責任者・黄景復を召喚して腰斬刑に処した。 解説
※ 原文『資治通鑑』特有の簡潔文体を現代語化する際、軍事行動(「発歩騎五千」→歩騎兵五千を派遣)や官職名(「知樞密」→枢密院責任者)など具体性を付加しつつ、司馬光が込めた因果関係の暗示(例:民衆解放直後の蛮族撤退=高駢威嚇効果)を損なわないよう配慮した。 Translation took 2046.3 seconds. |
| 駢又奏請自將本管及天平、昭義、義成等軍共六萬人撃南詔,詔不許。先是,南詔督爽屢牒中書,辭語怨望,中書不答。盧攜奏稱:「如此,則蠻益驕,謂唐無以答,宜數其十代受恩以責之。然自中書發牒,則嫌於體敵,請賜髙駢及嶺南西道節度使辛讜詔,使録詔白,牒與之。」從之。 三月,以魏博留後韓簡爲節度使。 去歳,感化軍發兵詣靈武防秋,會南詔寇西川,敕往救援。未至成都,蠻退,遣還;至鳳翔,不肯詣靈武,欲擅歸徐州。内養王裕本、都將劉逢搜擒唱帥者胡雄等八人,斬之,衆然後定。 初,南詔圍成都,楊慶復以右職優給募突將以御之,成都由是獲全。及髙駢至,悉令納牒,又托以蜀中屢遭蠻寇,人未復業,停其稟給,突將皆忿怨。駢好妖術,毎發兵追蠻,皆夜張旗立隊,對將士焚紙畫人馬,散小豆,曰:「蜀兵懦怯,今遣玄女神兵前行。」軍中壯士皆恥之。又索闔境官有出於胥吏者,皆停之。令民間皆用足陌錢,陌不足者皆執之,劾以行賂,取與皆死。刑罰嚴酷,由是蜀人皆不悅。夏,四月,突將作亂,大噪突入府廷。駢走匿於廁間,突將索之,不獲。天平都將張傑帥所部數百人被甲入府撃突將,突將撤牙前儀注兵仗,無者奮梃揮拳,乘怒氣力鬥,天平軍不能敵,走歸營。突將追之,營門閉,不得入。監軍使人招諭,許以復職名稟給,久之,乃肯還營。 |
現代語訳高駢はさらに自ら率いる管轄部隊と天平・昭義・義成などの諸軍合わせて六万人で南詔を討伐するよう上奏したが、朝廷は許可しなかった。これ以前に南詔の督爽(行政官)が繰り返し中書省へ公文書を送り、怨恨を含む言葉をつづっていたが、中書省は返答していなかった。盧攜が「このままでは蛮族(南詔)が増長して唐に対応能力がないと思い込むでしょう。十世代にわたって受けてきた恩義を列挙し責めるべきです。ただし中書省から直接公文を送れば対等と見なされる懸念があるため、高駢と嶺南西道節度使の辛讜に詔勅を与え、その写しを彼ら経由で送付させるのが適切です」と上奏。皇帝はこれを認めた。 三月、魏博留後(代理長官)韓簡が正式に節度使となった。 前年、感化軍から霊武防衛のため派遣された部隊が南詔の西川侵攻を受け救援へ向かうよう命じられた。成都到着前に蛮族は撤退したため帰還命令が出たが、鳳翔まで来ると兵士たちは霊武行きを拒否し徐州への勝手な帰還を図った。内養(宦官)王裕本と都將劉逢が首謀者胡雄ら八名を捕縛・斬首してようやく部隊は鎮静化した。 かつて南詔が成都を包囲した際、楊慶復は高位の官職と厚遇で「突将(精鋭部隊)」を募り防衛に成功していた。高駢着任後は彼らに任命書返納を命じ、「蜀では蛮族被害が続き民生不安定」として俸給支給を停止したため、突将は激しく憤慨した。高駢は妖術を好み、追撃戦のたび夜間に旗を立て隊列を整え、将士の前で紙の人馬を焼き小豆を撒いて「蜀兵は臆病だから玄女神兵を先鋒にする」と宣言。将兵らはこれを恥とした。さらに管内の役人出身者全員を罷免し、民間には銭貨枚数の厳密な計数(足陌銭)を強制した。規定に満たない者は賄賂罪で逮捕され、授受双方が死刑となる苛烈な刑罰により蜀の人々は皆不満を抱いた。 夏四月、突将が反乱を起こし怒号と共に節度使官府へ突入。高駢は厠に隠れて難を逃れた。天平軍の都將張傑が数百の武装兵を率いて鎮圧に向かうも、突将は儀式用武器や棍棒で応戦し激怒のまま奮闘したため敗退。追撃された天平軍は兵営に閉じこもった。監軍(宦官監督官)が出向き「復職と俸給回復」を約束して説得、ようやく反乱兵を帰還させた。 解説
※本訳では原文の人物評価を排し、当該期における「兵士階層の政治参加」「在地勢力と中央官僚の対立」という構造的視点に重点。特に盧攜提案や監軍調停に、唐後期特有の多元的権力バランスが顕現している点を解釈軸とした。 Translation took 1917.4 seconds. |
| 天平軍復開門出,爲追逐之勢。至城北,時方修球塲,役者數百人,天平軍悉取其首,還,詣府,云「已誅亂者」。駢出見之,厚以金帛賞之。明日,榜謝突將,悉還其職名、衣糧。自是日令諸道將士從己來者更直府中,嚴兵自衞。 加成德節度使王景崇兼侍中。 浙西狼山鎭遏使王郢等六十九人有戰功,節度使趙隱賞以職名而不給衣糧,郢等論訴不獲,遂劫庫兵作亂,行收黨衆近萬人,攻陷蘇、常,乘舟往來,泛江入海,轉掠二浙,南及福建,大爲人患。 五月,以太傅、分司令狐綯同平章事,充鳳翔節度使。 司空、同平章事蕭倣薨。 六月,以御史大夫李蔚爲中書侍郎、同平章事。 辛未,髙駢陰籍突將之名,使人夜掩捕之,圍其家,挑牆壞戸而入,老幼孕病,悉驅去殺之,嬰兒或撲於階,或撃於柱,流血成渠,號哭震天,死者數千人,夜,以車載屍投之於江。有一婦人,臨刑,戟手大罵曰:「髙駢!汝無故奪有功將士職名、衣糧,激成衆怒。幸而得免,不省己自咎,乃更以詐殺無辜近萬人,天地鬼神,豈容汝如此!我必訴汝於上帝,使汝他日舉家屠滅如我今日,冤抑汚辱如我今日,驚憂惴恐如我今日!」言畢,拜天,怫然就戮。久之,突將有自戍役歸者,駢復欲盡族之,有元從親吏王殷諫曰:「相公奉道,宜好生惡殺,此屬在外,初不同謀,若復誅之,則自危者多矣!」駢乃止。 |
現代日本語訳: 天平軍は再び城門を開いて出撃し、追い討ちの態勢を見せた。城壁の北側では球場修復工事中で数百人の労働者がいたため、天平軍は彼らの首をすべて刎ねて持ち帰り、役所に「反乱者を処刑した」と報告した。高駢(こうべん)がこれを目にして金銀や絹織物で厚く褒賞を与えた。 翌日、突将部隊に対して謝罪の公示を行い、官職名・軍服・食糧をすべて返還した。以後は毎日、諸地域から自らに従ってきた将士たちを役所で交替勤務させ、厳重な警備で身を守った。 成徳節度使(せいとくせつどし)の王景崇(おうけいすう)に侍中(じちゅう)職を兼任させる。 浙西地方の狼山鎮司令官・王郢ら69人は戦功があったが、節度使趙隠は名誉称号のみ与えて軍服や食糧を与えず、訴えも聞き入れなかった。このため武器庫を襲って反乱し、勢力を拡大してほぼ1万人に膨れ上がった。蘇州・常州を陥落させた後、船で長江を行き来しながら海へ出て浙江一帯を略奪南下し福建まで被害を広げ、大きな脅威となった。 5月、名誉職の太傅令狐綯(たいふ れいことう)に宰相待遇官を与え鳳翔節度使とする。宰相蕭倣が逝去。 6月、検察長官李蔚を副首相格の中書侍郎兼同平章事に任命した。 21日、高駢はひそかに突将部隊の名簿を作成し夜襲で逮捕。家屋を包囲して壁や戸を破壊し侵入すると、老人から幼児・妊婦・病人まで皆殺しにし、乳児は階段へ叩きつけられたり柱に打ち付けられるなどしたため流血が溝となり悲鳴が天を震わせ数千人が死亡。夜間に遺体を車で運び川へ投棄した。 刑の直前にある女性が手を振りかざして激しく罵った:「高駢よ!お前は無実の功臣たちから官職と食糧を取り上げて民衆の怒りを買いながら、逃げ切ってなお反省せず、今度は謀略で罪なき者ほぼ万人を殺戮するとは。天地神明が許すものか!必ず天帝に訴えてやるぞ。いつかお前も今日の私のように一族皆殺しされ、冤罪と屈辱にまみれ、恐怖におののかせる時を見届ける!」天に向かって一礼すると凛として刑死した。 後日、駐屯地から戻った突将部隊員を高駢が皆殺しにしようとした際、側近王殷(おういん)が諫めた:「道教を尊ぶ貴公は生命尊重こそ大切になさるべきです。彼らは反乱計画に関わっておらず処刑すれば動揺必至」。これで思いとどまった。 解説: 【歴史的背景】 『資治通鑑』唐紀・乾符四年(877年)の記録。黄巣の乱前夜、名将高駢が蜀地統治中に起こした軍粛清事件を描く。 ※「突将」は精鋭親衛隊、「天平軍」は高駢直属部隊 【権力構造分析】 ① 虚偽報告と褒賞:民間人虐殺を謀反鎮圧として利用 ② 王郢の乱背景:「名誉称号のみで実利なし」という制度矛盾 ③ 二重統治システム: - 節度使(軍事司令官)が侍中(中央官職)兼任 - 私兵掌握と朝廷権威併用による支配強化 【高駢の人物像】 ◎道教信仰者でありながら大量虐殺実行という矛盾 →「好生悪殺」(生命尊重)理念との乖離 ◎弾圧正当化プロセス: 謝罪公示(表向き懐柔) ↓ 粛清リスト作成(準備周到な計画性) ↓ 無差別虐殺(幼児・妊婦まで対象) 【文学的表現】 ● 誇張技法の効果: 「流血成渠」(血流が溝となる)/「号哭震天」(悲鳴で天揺れる) →非情さを視覚的・聴覚的に強調 ● 女性の罵倒劇:個人の尊厳と権力暴力の対比構造 【現代への示唆】 ◎弾圧プロセスの典型例: 1. 既得権剥奪(官職・俸給停止) 2. 反発を「謀反」に仕立て治安問題化 3. 無差別粛清による恐怖支配完成 ◎情報操作パターン: 民間人虐殺→「反乱鎮圧」と虚偽報告 【翻訳方針】 1. 固有名詞は現代通用表記(例:高駢→こうべん) 2. 「詣府」「更直」等の古語を平易化 3. 残酷描写は事実叙述に徹しセンセーショナリズム回避 4. 官職名:「同平章事=宰相待遇」「鎮遏使=司令官」と具体化 【歴史的教訓】 王殷諫言で示される「粛清拡大が統治基盤を弱める」という指摘は、安史の乱後の唐王朝が繰り返した過ち。高駢自身も後に部下離反で滅亡する点に皮肉がある。権力維持のために暴力装置を使い果たす指導者の末路を暗示した記録といえる。 Translation took 2238.6 seconds. |
| 王仙芝及其黨尚君長攻陷濮州、曹州,衆至數萬。天平節度使薛崇出兵撃之,爲仙芝所敗。冤句人黃巣亦聚衆數千人應仙芝。巣少與仙芝皆以販私鹽爲事,巣善騎謝,喜任俠,粗渉書傳,屢舉進士不第,遂爲盜,與仙芝攻剽州縣,橫行山東,民之困於重斂者爭歸之,數月之間,衆至數萬。 盧龍節度使張公素,性暴戾,不爲軍士所附。大將李茂勳,本回鶻阿布思之族,回鶻敗,降於張仲武;仲武使戍邊,屢有功,賜姓名。納降軍使陳貢言者,幽之宿將,爲軍士所信服,茂勳潛殺貢言,聲雲貢言舉兵向薊;公素出戰而敗,奔京師。茂勳入城,衆乃知非貢言也,不得已,推而立之,朝廷因以茂勳爲留後。 秋,七月,蝗自東而西,蔽日,所過赤地。京兆尹楊知至奏「蝗入京畿,不食稼,皆抱荊棘而死。」宰相皆賀。 八月,李茂勳爲盧龍節度使。 九月,左補闕董禹諫上游畋、乘驢撃球,上賜金帛以褒之。邠寧節度使李侃奏爲假父華淸宮使道雅求贈官,禹上疎論之,語頗侵宦官。樞密使楊復恭等列訴於上,冬,十月,禹坐貶郴州司馬。復恭,欽義之養孫也。 昭義軍亂,大將劉廣逐節度使髙湜,自爲留後。以左金吾大將軍曹翔爲昭義節度使。 回鶻還至羅川,十一月,遣使者同羅楡祿入貢;賜拯接絹萬匹。 群盜侵淫,剽掠十餘州,至於淮南,多者千餘人,少者數百人。 |
現代日本語訳:王仙芝とその一派である尚君長が濮州・曹州を陥落させると、兵力は数万人に膨れ上がった。天平節度使の薛崇が出兵して討伐したが、逆に王仙芝に敗北した。冤句県(現在の山東省)出身の黄巣も数千人の勢力を集めてこれに呼応。黄巣は若い頃から王仙芝と共に密売塩で生計を立てており、騎射に長け侠気を好んだ性格だった。わずかに学問に触れた程度であったが科挙の進士試験に繰り返し落第したため、ついに盗賊となり王仙芝と連携して州県を略奪。山東地方で暴れまわるうち、重税に苦しむ民衆が次々に合流し、数ヶ月で兵力は数万規模となった。 一方、盧龍節度使の張公素は苛烈な性格ゆえ兵士たちから嫌われていた。配下の将軍・李茂勲(元ウイグル族アブス部出身)は回鶻崩壊後に唐に降伏し辺境防衛で功績を挙げ、朝廷より姓名を与えられた人物である。彼は兵士たちから信頼されていた古参武将の陳貢言を密かに殺害した上、「陳貢言が薊城へ反乱軍を率いる」と偽情報を流布。張公素が出撃して敗れると都へ逃亡し、李茂勲が城内に入ったことで兵士たちは真相を知るもやむなく彼を推戴したため、朝廷はその地位(留後)を追認せざるを得なかった。 秋七月には大規模な蝗害発生。東から西へ飛来するイナゴの大群が太陽を覆い尽くし、通過地は草木一本残さぬ荒廃状態となったのに、京兆尹・楊知至が「皇都に侵入した蝗虫は作物を食わず自ら荊棘で死んだ」と奏上すると宰相たちは祝賀の声をあげた。 八月には李茂勲が正式に盧龍節度使となる。 九月、諫官(左補闕)である董禹が皇帝の鷹狩やロバ乗りでのポロ遊戯を批判したところ褒美として金帛を与えられた。しかし邠寧節度使・李侃が宦官養父への名誉官位授与を申請すると、董禹は上疏でこれに異議を唱え言辞が宦官勢力へ及んだため、枢密使の楊復恭らが皇帝に訴えた結果、冬十月に郴州司馬へ左遷された(この楊復恭は大宦官・楊欽義の養孫にあたる)。 昭義軍では内乱発生。大将劉広が節度使・高湜を追放して自ら留後となったため、朝廷は曹翔を新節度使に任命。 十一月には移動中の回鶻部族が羅川付近まで到達し使者を派遣したので、唐朝廷は支援物資として絹一万匹を与えた。 各地で盗賊集団の活動が拡大。十以上の州から淮南地域(現在の江蘇・安徽)にかけて略奪が横行し、その規模は多い場合千人以上、少なくとも数百人に及んだ。 解説:【時代背景】 【政治的要因分析】 【社会経済的危機】 【司馬光の筆法】 【現代への示唆】 Translation took 2033.9 seconds. |
| 詔淮南、忠武、宣武、義成、天平五軍節度使、監軍亟加討捕及招懷。十二月,王仙芝寇沂州,平盧節度使宋威表請以歩騎五千別爲一使,兼帥本道兵所在討賊。乃以威爲諸道行營招討草賊使,仍給禁兵三千、甲騎五百。因詔河南方鎭所遣討賊都頭並取威處分。 懿宗昭聖恭惠孝皇帝下乾符三年〈丙申,西元八七六年〉 春,正月,天平軍奏遣將士張晏等救沂州,還,至義橋,聞北境復有盜起,留使扞御。晏等不從,喧噪趣鄆州。都將張思泰、李承祐走馬出城,裂袖與盟,以俸錢備酒餚慰諭,然後定。語本軍宣慰一切,無得窮詰。 二月,敕福建、江西、湖南諸道觀察、刺史,皆訓練士卒。又令天下鄕邨各置弓刀鼓板以備群盜。賜兗海節度號泰寧軍。 三月,盧龍節度使李茂勳請以其子幽州左司馬可舉知留後,自求致仕。詔茂勳以左僕射致仕,以可舉爲盧龍留後。 門下侍郎、同平章事崔彦昭罷爲太子太傅。以左僕射王鐸兼門下侍郎、同平章事。 南詔遣使者詣髙駢求和而盜邊不息,駢斬其使者。蠻之陷交趾也,虜安南經略判官杜驤妻李瑤。瑤,宗室之疎屬也。蠻遣瑤還,遞木夾以遺駢,稱「督爽牒西川節度使」,辭極驕慢。駢送瑤京師。甲辰,復牒南詔,數其負累聖恩德、暴犯邊境、殘賊欺詐之罪,安南、大渡覆敗之狀,折辱之。 原州刺史史懷操貪暴,夏,四月,軍亂,逐之。 |
現代日本語訳詔勅によって淮南・忠武・宣武・義成・天平の五軍節度使と監察官に対し、直ちに討伐を強化し投降勧告を行うよう命じられた。十二月、王仙芝が沂州を襲撃すると、平盧節度使宋威は歩兵騎兵五千からなる別働隊編成を上奏し、自ら本道の軍勢を率いて賊征討に当たると請願した。これを受け朝廷は宋威を「諸道行営招討草賊使」に任命するとともに、禁衛兵三千・甲冑騎兵五百を与えた。同時に河南地方の各軍鎮が派遣する討伐部隊の指揮権を全て宋威へ集中させる詔勅が出された。 懿宗昭聖恭恵孝皇帝 乾符三年(丙申年、西暦八七六年) 春正月、天平軍は将兵張晏らを沂州救援に差し向けたが、帰途・義橋付近で北方国境における新たな賊徒発生の報を得て現地防衛命令を受ける。しかし張晏らはこれに従わず騒乱を起こして鄆州へ進軍しようとしたため、都将の張思泰と李承祐が城門から駆け出し自らの袖を裂いて盟約を示すことで俸給で酒食を調達。これを慰労品として兵士を宥めるとようやく鎮静化した。本営では「一切不問」の方針を宣布し、事態の追及を行わないことを明示した。 二月には福建・江西・湖南各道の観察使と刺史に対し兵卒訓練徹底の勅命が下る。さらに全国全ての村落に弓刀や警鼓(警戒用太鼓)を配備させ群盗対策とする方針も発令された。兗海節度使には「泰寧軍」の称号が授けられる。 三月、盧龍節度使李茂勲は息子の幽州左司馬・可挙に留後職(代理統治者)を継承させたいと奏上し自身は引退を願い出たため、詔により李茂勲を左僕射として致仕(隠退)させるとともに、可挙が正式に盧龍軍の留後に任命された。 門下侍郎兼同平章事の崔彦昭が太子太傅へ降格となる一方で、左僕射・王鐸が門下侍郎兼同平章事を兼任した。 南詔国は使者を派遣して高駢に講和を求めたものの国境侵犯は止まず、これを受け高駢は使者を斬首。以前ベトナム(交趾)占領時に捕虜とした安南経略判官・杜驤の妻である李瑤(唐皇室の遠縁者)を解放し帰還させる際、「督爽牒」と呼ばれる木製公文書で西川節度使宛てに極めて傲慢な文面を届けさせた。高駢はまず李瑤を長安へ護送した後、甲辰の日に南詔に対抗して「唐朝への背恩・国境侵攻暴行・残虐的詐欺行為」ならびに過去の安南・大渡河での敗北事実を列挙した非難文書で屈辱を与えた。 原州刺史史懐操が貪欲かつ残酷な統治を行ったため、夏四月に兵士による反乱が発生し追放された。 歴史背景解説
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| 賜宣武、感化節度、泗州防禦使密詔,選精兵數百人於巡内游奕,防衞綱船,五日一具上供錢米平安狀聞奏。 五月,昭王汭薨。 以盧龍留後李可舉爲節度使。 六月,撫王紘薨。 雄州地震裂,水湧,壞州城及公私戸捨倶盡。 秋,七月,以前巖州刺史髙傑爲左驍衞將軍,充縁海水軍都知兵馬使,以討王郢。 鄂王潤薨。 加魏博節度使韓簡同平章事。 宋威撃王仙芝於沂州城下,大破之,仙芝亡去。威奏仙芝已死,縱遣諸道兵,身還靑州。百官皆入賀。居三日,州縣奏仙芝尚在,攻剽如故。時兵始休,詔復發之,士皆忿怨思亂。八月,仙芝陷陽翟、郟城,詔忠武節度使崔安潛發兵撃之。安潛,愼由之弟也。又命昭義節度使曹翔將歩騎五千及義成兵衞東都宮,以左散騎常侍曾元裕爲招討副使,守東都,又詔山南東道節度使李福選歩騎二千守汝、鄧要路。仙芝進逼汝州,詔邠寧節度使李侃、鳳翔節度使令狐綯選歩兵一千、騎兵五百守陝州、潼關。 加成德節度使王景崇兼中書令。 九月,乙亥朔,日有食之。 丙子,王仙芝陷汝州,執刺史王鐐。鐐,鐸之從父兄弟也。東都大震,士民挈家逃出城。乙酉敕王仙芝、尚君長罪,除官,以招諭之。仙芝陷陽武,攻鄭州,昭義監軍判官雷殷符屯中牟,撃仙芝,破走之。冬,十月,仙芝南攻唐、鄧。 |
現代語訳:宣武節度使、感化節度使、泗州防禦使に対して密詔を下し、「数百人の精鋭兵士を選抜して管内を巡回させ、輸送船団の警護に当たらせよ。五日ごとに上納金銭・米穀が無事である旨を報告すること」と命じる。 五月、昭王李汭(り ぜい)が薨去。 盧龍留後であった李可挙(り かきょ)を節度使に任命。 六月、撫王李紘(り こう)が薨去。 雄州で大地震が発生。地割れから水が噴出し、州城と官民の家屋すべてが倒壊。 秋七月、元巌州刺史・高傑(こう けつ)を左驍衛将軍に任命し、沿海水軍都知兵馬使として王郢討伐に向かわせる。 鄂王李潤(り じゅん)が薨去。 魏博節度使韓簡(かん かん)に同平章事の官職を加授。 宋威(そう い)が沂州城下で王仙芝(おう せんし)軍を攻撃し大破。仙芝は逃亡した。宋威は「仙芝は戦死」と上奏し、諸道から集めた兵士を解散させて自ら青州へ帰還。百官が祝賀するが三日後、州県より「仙芝は生存して略奪中」の報告あり。休戦直後の再召集に兵士の不満が高まり叛乱の機運強まる。 八月、王仙芝が陽翟・郟城を占領。忠武節度使崔安潜(さい あんせん)に出撃命令(安潜は崔慎由の弟)。昭義節度使曹翔(そう しょう)に歩騎兵五千と義成軍を率いさせ東都宮殿警備にあたらせる。左散騎常侍曾元裕(そう げんゆう)を招討副使として東都守備を命じ、山南東道節度使李福(り ふく)には歩騎二千を選抜し汝州・鄧州の要路防衛にあたらせる。仙芝が汝州に迫ると邠寧節度使李侃(り かん)、鳳翔節度使令狐綯(れいこ とう)に対し、歩兵一千・騎兵五百を選抜して陝州と潼関の守備を強化させる。 加成徳節度使王景崇(おう けいすう)に中書令を兼務させる。 九月一日乙亥(いつがい)、日食発生。 二日丙子、王仙芝が汝州占領。刺史王鐐(おう りょう)を捕縛(鐐は宰相王鐸の従兄弟)。東都大混乱で官民が家族ごと脱出。 同月十日乙酉に勅令発布:王仙芝・尚君長(しょう くんちょう)の罪を赦免し官職を与えて帰順を促す。だが仙芝は陽武占領後、鄭州へ進攻。昭義監軍判官雷殷符(らい いんぷ)が中牟で迎撃し敗走させる。 冬十月、王仙芝は南下して唐州・鄧州を攻撃。 解説:
※本訳では『資治通鑑』特有の編年体形式を保持しつつ、戦略的動きを時系列で再構成。固有名詞は現代日本語表記基準(例:令狐綯→れいこ とう)に統一したが、史書としての正確性優先のため官職名は意訳せず忠実再現。 Translation took 2065.5 seconds. |
| 西川節度使髙駢築成都羅城,使僧景仙規度,週二十五里,悉召縣令庀徒賦役,吏受百錢以上皆死。蜀土疎惡,以甓甃之,還城十里内取土,皆劃丘垤平之,無得爲坎埳以害耕種;役者不過十日而代,衆樂其均,不費撲撻而功辦。自八月癸丑築之,至十一月戊子畢功。役之始作也,駢恐南詔揚聲入寇,雖不敢決來,役者必驚擾,乃奏遣景仙托遊行入南詔,説諭驃信使歸附中國,仍許妻以公主,因與議二國禮儀,久之不決。駢又聲言欲巡邊,朝夕通烽火,至大渡河,而實不行,蠻中惴恐。由是訖於城成,邊候無風塵之警。先是,西川將吏入南詔,驃信皆坐受其拜,駢以其俗尚浮屠,故遣景仙往,驃信果帥其大臣迎拜,信用其言。 王仙芝攻郢、復二州,陷之。 王郢因温州刺史魯寔請降,寔屢爲之論奏,敕郢詣闕。郢擁兵遷延,半年不至,固求望海鎭使;朝廷不許,以郢爲右率府率,仍令左神策軍補以重職,其先所掠之財,並令給與。 十二月,王仙芝攻申、光、廬、壽、舒、通等州。淮南節度使劉鄴奏求益兵,敕感化節度使薛能選精兵數千助之。鄭畋以言計不行,稱疾遜位,不許,乃上言:「自沂州奏捷之後,仙芝愈肆猖狂,屠陷五六州,瘡痍數千里。宋威衰老多病,自妄奏以來,諸道尤所不服,今淹留毫州,殊無進討之意。曾元裕擁兵蘄、黃,專慾望風退縮。 |
現代日本語訳西川節度使高駢による成都城壁修築 西川節度使の高駢が、僧侶である景仙に設計を命じて成都の外郭(羅城)を建造した。その周囲は二十五里におよんだ。管下の県令たちを召集し人員と物資の調達にあたらせたところ、役人で百銭以上も賄賂を受け取る者はすべて死刑に処された。 蜀の地は土質が粗悪だったため煉瓦(レンガ)を用いて城壁を補強した。また、掘削用の土砂採取は城郭から十里以内の範囲と定められ、丘や塚を平らにならす形で行われたので農耕地に穴をあけることがなく耕作への害がなかった。 労役者は十日ごとに交替し負担も公平だったため人々は喜んで従い、鞭打ちなどの強制なしでも工事は順調に進んだ。八月癸丑(九日)に着工され十一月戊子(十五日)には完成した。 高駢の南詔対策 この築城事業が始まった時点で、高駢は「南詔国が侵攻を口実にすることを警戒していた。(実際に侵入するかどうかは不明だが)工事中の民衆が動揺するおそれがある」と考えた。そこで景仙を名目上「巡礼僧」として南詔へ派遣し、驃信(南詔王)に対して帰順すべきことを説得させると同時に唐の公主(皇女)との婚姻をも示唆した。 さらに両国の儀礼に関する協議を行わせてわざと長引かせた。加えて高駢自身が「国境巡察に出向く」という噂を流し、昼夜を通じて烽火台による連絡網を大渡河(南詔国境地帯)まで整備した(実際には行かなかった)。このため蛮族たちは不安に陥った。結果として城壁完成までの間、辺境警備方面では敵の侵犯というような緊急事態は起きなかった。 以前にも西川節度使配下の将吏が南詔を訪れた際には驃信(王)が彼らからの拝礼を受けるのが通例だった。しかし高駢は「当地で仏教信仰が盛んである」ことを考慮して僧侶・景仙を使者に選んだところ、驃信自ら大臣たちを率いて迎えに出て恭しく拝し、その言葉を受け入れたのである。 王仙芝と王郢の動向 一方で賊軍指導者の王仙芝は郢州(湖北省)・復州(湖北省)を攻撃して陥落させた。 別勢力である海賊頭目の王郢が温州刺史魯寔を通じて降伏を申し出ると、魯寔も彼のために何度か朝廷へ取りなしたため皇帝は詔勅で「京師に出仕せよ」と命じた。しかし王郢は兵権を持ったまま動こうとせず半年経っても都に赴かなかった。「望海鎮使(温州の軍政長官)を希望する」という頑なな要求を続けたのである。 朝廷がこれを認めなかったため、代わりに「右率府率」(名誉職的な武官位)を与え左神策軍においても重い地位につけることを約束した。また以前略奪してきた財物については没収せず保有させる旨伝えた。 情勢悪化と鄭畋の進言 十二月になると王仙芝は申州(河南省)、光州(河南省)、廬州(安徽省)、寿州(安微省)、舒州(安徽省)、通州など淮南地方へ侵攻を拡大した。 この事態を受けて現地責任者である淮南節度使劉鄴が増援要請の上奏を行うと、朝廷は感化節度使薛能に数千人の精鋭部隊選抜・派遣を命じた。これに対して宰相鄭畋(ていでん)は自らの献策が採用されないことを理由として病気と称して辞任しようとした。 しかし許されなかったため改めて上奏した:「王仙芝軍は沂州での敗戦報告以降、かえって暴虐を増し五~六州もの都市を蹂躙することで数千里にわたる被害をもたらしています。討伐総司令官・宋威(そうい)は老齢で病弱であり、(自力で賊首級を取ったという)虚偽の報告以後、諸道軍から特に不満を持たれていますが今も毫州に滞陣し進撃する意志すら見せません。副将格である曾元裕(そうげんゆう)は蘄州・黄州付近で兵を擁しながらただ形勢を見て退却することばかり考えているのです」 解説高駢の成都城壁事業
唐朝廷の危機対応の問題点
歴史的意義この時期(879年)、高駢による西川統治が一定の成功を見せる一方で、中原における王仙芝・黄巣軍の活動は唐王朝の軍事システム崩壊を加速させていた。鄭畋の進言内容からは「中央集権的軍隊の弱体化」と「地方節度使勢力への依存深化」という構造的矛盾が浮き彫りとなり、これは後に朱全忠らによる唐朝滅亡(907年)へ至る道筋を予兆している。 Translation took 2530.6 seconds. |
| 若使賊陷揚州,則江南亦非國有。崔安潛威望過人,張自勉驍雄良將,宮苑使李晟,西平王晟之孫,嚴而有勇。請以安潛爲行營都統,瑑爲招討使代威,自勉爲副使代元裕。」上頗采其言。 靑、滄軍士戍安南,還至桂州,逐觀察使李瓚。瓚,宗閔之子也。以右諫議大夫張禹謨爲桂州觀察使。桂管監軍李維周驕橫,瓚曲奉之,浸不能制。桂管有兵八百人,防禦使才得百人,餘皆屬監軍。又預於逐帥之謀,強取兩使印,擅補知州官,奪昭州送使錢。詔禹謨並按之。禹謨,徹之子也。 招討副使、都監楊復光奏尚君長弟讓據査牙山,官軍退保鄧州。復光,玄價之養子也。 王仙芝攻蘄州,蘄州刺史裴渥,王鐸知舉時所擢進士也。王鐐在賊中,爲仙芝以書説渥。渥與仙芝約,斂兵不戰,許爲之奏官;鐐亦説仙芝許以如約。渥乃開城延仙芝及黃巣輩三十餘人入城,置酒,大陳貨賄以贈之,表陳其狀。諸宰相多言:「先帝不赦龐勳,期年卒誅之。今仙芝小賊,非龐勳之比,赦罪除官,益長奸宄。」王鐸固請,許之。乃以仙芝爲左神策軍押牙兼監察御史,遣中使以告身即蘄州授之。仙芝得之甚喜,鐐、渥皆賀。未退,黃巣以官不及己,大怒曰:「始者共立大誓,橫行天下,今獨取官赴左軍,使此五千餘衆安所歸乎!」因毆仙芝,傷其首,其衆喧噪不已。仙芝畏衆怒,遂不受命。 |
現代語訳:もし賊軍が揚州を陥落させれば、江南地域も朝廷の支配下から失われるだろう。崔安潛は抜きん出た威厳と声望を持ち、張自勉は勇猛で有能な将軍である。宮苑使・李晟(西平王・李晟の孫)は厳格にして勇敢だ。どうか安潜を行営都統に任命し、宋瑑を招討使として宋威と交代させ、自勉を副使として曾元裕と替えられたい。」皇帝はこの意見をおおむね受け入れた。 青州・滄州の兵士が安南守備から帰還途中、桂州で観察使・李瓚を追放した。瓚は宰相・李宗閔の子である。右諫議大夫・張禹謨を新たな桂州観察使に任命した。桂管監軍・李維周が驕慢横暴だったため、前任者の李瓚は彼におもねって次第に統制不能となっていた。桂管には800人の兵力があったが防禦使の指揮下は100人だけで、残りは全て監軍が掌握していた。さらに李維周は観察使追放計画にも加担し、強引に二つの印璽を奪い取って知州官を勝手に任命し、昭州から朝廷へ送る資金も横領した。詔勅により禹謨がこれら不正の糾明にあたることとなった。禹謨は張徹(名士)の子である。 招討副使兼都監・楊復光が上奏:「賊将・尚君長の弟・譲が査牙山を占拠し、官軍は鄧州へ後退して防衛中」と報告した。復光は宦官・楊玄价の養子である。 王仙芝が蘄州を攻撃すると、刺史・裴渥(宰相・王鐸が科挙試験官だった時の進士)が降伏交渉に応じた。賊軍に捕らわれていた王鐐(王鐸の弟)は使者となり書簡で説得し、仙芝と停戦協定を結び朝廷への官位推挙を約束した。王鐐もこれを後押ししたため、裴渥は城門を開いて仙芝や黄巣ら30余人を招き酒宴を開催。多額の賄賂を贈りながら上奏文を作成した。 しかし宰相陣営から「先帝(懿宗)が龐勳の乱で恩赦を与えず一年で鎮圧された前例があるのに、仙芝のような小賊に官職を与えるのは逆効果だ」との反論が噴出。王鐸の強硬な主張によりようやく許可され、左神策軍押牙兼監察御史という地位と告身(任命書)を蘄州で授与することとなった。 仙芝は大いに喜び、王鐐と裴渥も祝賀したが、黄巣だけは官位を得られなかったため激怒。「共に天下を席巻すると誓ったのに、お前だけ朝廷の高官になるとは。この五千余りの兵士たちを見捨てるのか!」と仙芝を殴打して頭部に負傷させた。配下らも騒然となり抗議したため、衆怒を恐れた仙芝は任命を辞退せざるを得なかった。 解説:
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| 大掠蘄州,城中之人,半驅半殺,焚其廬舍。渥奔鄂州,敕使奔襄州,鐐爲賊所拘。賊乃分其軍三千餘人從仙芝及尚君長,二千餘人從巣,各分道而去。 |
翻訳文唐軍は蘄州を大規模に略奪し、城内の住民の半数は追い立てられ、半数は殺害された。家屋も焼き払われた。杜渥(とあく)は鄂州へ逃亡し、皇帝の使者は襄州へ逃れ、張鐐(ちょうりょう)は反乱軍に拘束された。賊軍はさらに三千人余りの兵を王仙芝(おうせんし)や尚君長(しょうくんちょう)に付け、二千人あまりを黄巣(こうそう)の配下とし、それぞれ別方向へ進軍させた。 解説
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| input text 資治通鑑\253_唐紀_69.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百五十三 唐紀六十九 起強圉作噩,盡上章困敦十月,凡三年有奇。 僖宗聖恭定孝皇帝上之下乾符四年(丁酉,公元八七七年) 春,正月,王郢誘寔入舟中,執之,將士從寔者皆奔潰。朝廷聞之,以右龍武大將軍宋皓為江南諸道招討使,先征諸道兵外,更發忠武、宣武、感化三道、宣、泗二州兵,新舊合萬五千餘人,並受皓節度。二月,郢攻陷望海鎮,掠明州,又攻台州,陷之;刺史王葆退守唐光。詔二浙、福建各出舟師以討之。 王仙芝陷鄂州。 黃巢陷鄆州,殺節度使薛崇。 南詔酋龍嗣立以來,為邊患殆二十年,中國為之虛耗,而其國中亦疲弊。酋龍卒,謚曰景莊皇帝;子法立,改元貞明承智大同,國號鶴拓,亦號大封人。法好畋獵酣飲,委國事於大臣。閏月,嶺南西首節度使辛讜奏南詔遣阤西段瑳寶等來請和,且言「諸道兵戍邕州歲久,饋餉之費,疲弊中國,請許其和,使贏瘵息肩。」詔許之。讜遣大將杜弘等繼書幣,送瑳寶還南詔,但留荊南、宣歙數軍戍邕州,自餘諸道兵什減其七。王郢橫行浙西,鎮海節度使裴璩嚴兵設備,不與之戰,密招其黨朱實降之,散其徒六七千人,輸器械二十餘萬,舟航、粟帛稱是。敕以實為金吾將軍。於是郢黨離散。郢收餘眾,東至明州,甬橋鎮遏使劉巨容以筒箭射殺之,餘黨皆平。 |
現代日本語訳:乾符四年(丁酉、紀元877年)春、正月。王郢は実を船内におびき寄せて捕らえ、実に従っていた将兵は全て逃走した。朝廷がこの報を知ると、右龍武大将軍の宋皓を江南諸道招討使に任命し、各地方から徴発した兵力に加えて忠武・宣武・感化の三軍団と宣州・泗州の守備隊を動員し、新旧合わせて一万五千余りの兵士が全て宋皓の指揮下に入った。二月、王郢は望海鎮を陥落させ明州を略奪した後、台州を攻撃して占領。刺史の王葆は唐光へ退却して防衛した。朝廷は浙江東道・浙江西道と福建に水軍派遣を命じて討伐にあたらせた。 一方で王仙芝が鄂州を陥落させ、黄巢も鄆州を奪取し節度使の薛崇を殺害する事件が発生。南詔では酋龍(景荘皇帝と諡される)が即位して以降ほぼ二十年にわたり唐国境を脅かし、中原は疲弊したが南詔国内もまた消耗していた。酋龍の死後、子の法が継承し元号を貞明承智大同と改め、国号を鶴拓(あるいは大封人)とした。法は狩猟や酒宴に耽り政務を大臣に委ねていた。 閏月、嶺南西道節度使辛讜の上奏により、南詔が使者段瑳宝らを派遣して和睦を求めてきたことが報告される。「邕州駐留軍の長期化による兵糧輸送が中原を疲弊させている」との理由で講和を許可する詔勅が出され、辛讜は大将杜弘に国書と貢物を持たせ段瑳宝を帰還させた。これにより邕州駐留軍は荊南・宣歙の数部隊のみとし他地域の兵士は七割削減された。 浙西で横行していた王郢に対して鎮海節度使裴璩は堅固な防衛態勢を敷き直接対決を避け、配下の朱実を密かに懐柔して投降させた。これにより六七千人の兵が解散し兵器二十万点余と相当量の船舶・物資が接収された。朝廷は朱実を金吾将軍に任命したため王郢陣営は離散、明州へ逃亡した残党も甬橋鎮遏使劉巨容の筒箭射殺により平定された。 解説:
(本訳文は歴史叙述における事実経過の明確化を優先し、固有名詞については原典表記を基本とした。軍事動員数値等の具体性保持により当時の紛争規模が可視化されるよう留意した) Translation took 756.3 seconds. |
| 璩,諝之從曾孫也。 三月,黃巢陷沂州。 夏,四月,壬申朔,日有食之。 賊帥柳彥璋剽掠江西。 陝州軍亂,逐觀察使崔碣;貶碣杯州司馬。 黃巢與尚讓合兵保查牙山。 五月,甲子,以給事中楊損為陝虢觀察使。損至官,誅首亂者。損,嗣復之子也。 初,桂管觀察使李瓚失政,支使薛堅石屢規正之,瓚不能從。及瓚被逐,堅石攝留務,移牒鄰道,禁遏亂兵,一方以安。詔擢堅石為國子博士。 六月,柳彥璋襲陷江州,執刺史陶祥,使祥上表,彥璋亦自附降狀。敕以彥璋為右監門將軍,令散眾赴京師。以左武衛將軍劉秉仁為江州刺史。彥璋不從,以戰艦百餘固湓江為水寨,剽掠如故。 忠武都將李可封戍邊還,至邠州,迫脅主帥,索舊欠糧鹽,留止四月,闔境震驚。秋,七月,還至許州,節度命名崔安潛悉按誅之。 庚申,王仙芝、黃巢攻宋州,三道兵與戰,不利,賊遂圍宋威於宋州。甲寅,右威衛上將軍張自勉將忠武兵七千救宋州,殺賊二千餘人,賊解圍遁去。王鐸、盧攜欲使張自勉以所將兵受宋威節度,鄭畋以為威與自勉已有疑忿,若在麾下,必為所殺,不肯署奏。八月,辛未,鐸、攜訴於上,求罷免;庚辰,畋請歸滻川養疾;上皆不許。 王仙芝陷安州。 鹽州軍亂,逐刺史王承顏,詔高品牛從珪往慰諭之,貶承顏象州司戶。 |
現代日本語訳璩(きょ)は、諝(しゅ)の従曾孫である。 三月、黄巣が沂州を陥落させた。 夏四月壬申朔(じんしんさく)、日食があった。 賊将・柳彦璋(りゅうげんしょう)が江西で略奪を行った。 陝州で兵乱が起こり、観察使の崔碣(さいけつ)を追放。碣は杯州司馬に左遷された。 黄巣と尚譲(じょうじょう)が合流し查牙山(さがざん)を守備した。 五月甲子(こうし)、給事中の楊損(ようそん)を陝虢観察使に任命。着任後、楊損は首謀者を処刑した。楊損は嗣復の子である。 当初、桂管観察使・李瓚(りさん)が失政を重ねた際、支使(しし)の薛堅石(せつけんせき)が再三諫めたが、李瓚は聞き入れなかった。追放された後、堅石は臨時統治を行い、近隣地域に乱兵の流入防止を要請して一帯を安定させた。詔勅により堅石は国子博士(こくしはかせ)に昇進した。 六月、柳彦璋が江州を急襲・占領。刺史陶祥(とうしょう)を捕らえ降伏文書の作成を強要するとともに自らも降伏願いを提出。朝廷は彦璋を右監門将軍に任じ解散上京を命じた。一方で左武衛将軍・劉秉仁(りゅうへいにん)を江州刺史としたが、彦璋は従わず百余隻の戦艦で湓江(ほんこう)に水寨(すいさい)を構築し略奪を継続。 忠武将・李可封(りかふう)が辺境守備から帰還。邠州(ひんしゅう)で主将を脅迫して未払いの食糧と塩を要求、四ヶ月滞留したため地域は大混乱に陥った。秋七月、許州へ戻ると節度使・崔安潜(さいあんせん)が全員逮捕処刑した。 庚申(こうしん)、王仙芝(おうせんし)と黄巣が宋州を攻撃。三方面の官軍は敗北し賊軍は宋威(そうい)を包囲。甲寅(こういん)、右威衛上将軍・張自勉(ちょうじめん)が忠武兵七千で救援に向かい二千余賊兵を討ち取ると、賊軍は包囲解除して逃走した。 王鐸(おうたく)と盧携(ろけい)は張自勉の部隊に宋威の指揮下に入るよう要求。鄭畋(ていでん)は「両将は既に対立しているため指揮権を渡せば殺害される」と反対し署名拒否。 八月辛未、王鐸らが皇帝に訴えて罷免を求めたが認められず、庚辰には鄭畋も病養の帰郷願いを提出したがいずれも却下された。 王仙芝が安州を陥落させた。 塩州で兵乱発生。刺史・王承顔(おうしょうがん)は追放され、高級宦官・牛従珪(ぎゅうじょうけい)が慰撫に派遣される一方、承顔は象州司戸へ左遷された。 解説
※『資治通鑑』該当箇所:唐紀68-69(僖宗乾符年間・874-879年)の記述で、黄巣の乱勃発直前の社会混乱期にあたる。 Translation took 981.6 seconds. |
| 承顏及崔碣素有政聲,以嚴肅為驕卒所逐,朝廷與貪暴致亂者同貶,時人惜之。從珪自鹽州還,軍中請以大將王宗誠為刺史。詔宗誠詣闕,將士皆釋罪,仍如優給。 乙卯,王仙芝陷隨州,執刺史崔休征。山南東道節度使李福遣其子將兵救隨州,戰死。福奏求援兵,遣左武衛大將軍李昌言將鳳翔五百騎赴之,仙芝遂轉掠復、郢。忠武大將張貫等四千人與宣武兵援襄州,自申、蔡間道逃歸。詔忠武節度使崔安潛、宣武節度使穆仁裕遣人約還。 冬,十月,邠寧節度使李侃奏遣兵討王宗誠,斬之,餘黨悉平。 鄭畋與王鐸、盧攜爭論用兵於上前,畋不勝,退,復上奏,以為:「自王仙芝俶擾,崔安潛首請會兵討之,繼發士卒,罄供資糧。賊往來千里,塗炭諸州,獨不敢犯其境。又以本道兵援張自勉,解宋州圍,使江、淮漕運流通,不輸寇手。今蒙盡以自勉所將七千兵令張貫將之,隸宋威。自勉獨歸許州,威復奏加誣毀。因功受辱,臣竊痛之。安潛出師,前後克捷非一,一旦強兵盡付它人,良將空還,若勍敵忽至,何以枝梧!臣請以忠武四千人授威,餘三千人使自勉將之,守衛其境,既不侵宋威之功,又免使安潛愧恥。」時盧攜不以為然,上不能決。畋復上言:「宋威欺罔朝廷,敗衄狼藉。又聞王仙芝七狀請降,威不為聞奏。朝野切齒,以為宜正軍法。 |
現代語訳(『資治通鑑』抜粋)承顔と崔碣はもともと善政で知られていたが、厳格な態度を兵卒の反感を買い追放された。朝廷は彼らを貪欲暴虐で乱を招いた者と同じ処分としたため、当時の人々はこれを惜しんだ。一方、王宗誠という将軍が塩州から帰還すると、軍中では彼を刺史に推挙した。詔勅により宗誠が朝廷に出頭することになり、将士の罪は赦され、手厚い待遇を与えられた。 乙卯(日付)、賊徒・王仙芝が随州を陥落させ、刺史の崔休征を捕らえた。山南東道節度使・李福は息子に兵を率いさせ救援に向かわせたが戦死した。李福が援軍要請の上奏を行うと、左武衛大将軍・李昌言が鳳翔騎兵五百を率いて赴任したため、王仙芝は復州・郢州へ転進して略奪を行った。忠武軍の大将・張貫ら四千人は宣武軍と共に襄州救援に向かったが、申州・蔡州間の迂回路から逃亡帰還した。詔勅により忠武節度使・崔安潜と宣武節度使・穆仁裕は兵を回収するよう命じられた。 冬十月、邠寧節度使・李侃が王宗誠討伐の兵を派遣し斬首、残党を平定したとの上奏があった。 朝廷では鄭畋(ていでん)と王鐸(おうたく)、盧携(ろけい)が軍事方針を激論。鄭畋は皇帝の前で議論に敗れ退いた後、改めて上奏した:「王仙芝の乱発生時、崔安潜はいち早く連合討伐を提案し兵糧を供出したため、賊は諸州を荒らしながらも彼の管轄地域だけは侵犯できなかった。また配下・張自勉に宋州包囲救援を命じ江淮の物資輸送路を死守させた。ところが今、朝廷は張自勉率いる七千兵を宋威(そうい)の指揮下に入れ、張貫に統括させている。自勉は許州へ帰還を余儀なくされ、宋威から誹謗を受ける始末だ。功績ある者が辱められるのは痛ましい。安潜軍は勝利を重ねてきたのに精鋭部隊を取り上げられ良将が宙ぶらりんでは、強敵襲来時に防衛不能である。提案として忠武兵四千のみ宋威に預け、残り三千は自勉に統率させ本国防衛にあたらせよ。これで宋威の功績を損なわず安潜の面目も保てる」。しかし盧携が反論し皇帝は決断できなかった。鄭畋は重ねて奏上:「宋威は朝廷を欺き敗戦続きである。王仙芝が七度も降伏を申し出たのに報告せず、朝野の怒りを買っている。軍法で厳罰すべきだ」。 解説
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| 跡狀如此,不應復典兵權,願與內大臣參酌,早行罷黜。」不從。 河中軍亂,逐節度使劉侔,縱兵焚掠。以京兆尹竇璟為河中宣慰制置使。 黃巢寇掠蘄、黃,曾元裕擊破之,斬首四千餘級。巢遁去。 十一月,己酉,以竇璟為河中節度使。 招討副使、都監楊復光遣人說諭王仙芝,仙芝遣尚君長等請降於復光,宋威遣兵於道中劫取君長等。十二月,威奏與君長等戰於穎州西南,生擒以獻;復光奏君長等實降,非威所擒。詔侍御史歸仁紹等鞫之,竟不能明。斬君長等於狗脊嶺。 黃巢陷匡城,遂陷濮州。詔穎州刺史張自勉將諸道兵擊之。 江州刺史劉秉仁乘驛之官,單舟入柳彥璋水。賊出不意,即迎拜,秉仁斬彥璋,散其眾。 王仙芝寇荊南。節度使楊知溫,知至之兄也,以文學進,不知兵,或告賊至,知溫以為妄,不設備。時漢水淺狹,賊自賈塹度。 僖宗聖恭定孝皇帝上之下乾符五年(戊戌,公元八七八年) 春,正月,丁酉朔,大雪,知溫方受賀,賊已至城下,遂陷羅城。將佐共治子城而守之,及暮,知溫猶不出。將佐請知溫出撫士卒,知溫紗帽皁裘而行;將佐請知溫擐甲以備流矢,知溫見士卒拒戰,猶賦詩示幕僚,遣使告急於山南東道節度使李福,福悉其眾自將救之。時有沙陀五百在襄陽,福與之俱至荊門,遇賊,沙陀縱騎奮擊,破之。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』乾符五年の記述より)節度使罷免要求と容認されず 事態がこのような状況である以上、彼に兵権を掌握させるべきではない。内大臣と協議し速やかに解任すべし──との意見が出されたが、朝廷は従わなかった。 河中軍の反乱 河中の駐留軍が反乱を起こし、節度使・劉侔を追放して略奪暴行を行った。京兆尹の竇璟(とうけい)を河中宣慰制置使に任命した。 黄巣討伐戦 賊将・黄巣が蘄州・黄州で掠奪を行うと、曾元裕がこれを撃破し四千余級を斬首。黄巣は敗走した。 新たな節度使任命 十一月己酉の日(※注:干支歴による)、竇璟を河中節度使に正式任命した。 降伏工作と混乱 招討副使・都監の楊復光が使者を送り王仙芝へ帰順勧告を行うと、配下の尚君長らを使者として派遣。しかし宋威(当時の賊軍包囲責任者)が途中でこれを強奪し「潁州西南で交戦して生け捕った」と朝廷に報告した。楊復光は「彼らは真実降伏しようとしたのに宋威が横取りした」と反論するも、侍御史・帰仁紹らの調査でも真相不明となり、尚君長らは狗脊嶺で処刑された。 黄巣の新たな侵攻 黄巣が匡城を陥落させ濮州も占領。潁州刺史の張自勉に諸道軍団を率いて迎撃させる詔勅が出される。 水賊討伐劇 江州刺史・劉秉仁は駅馬で急行し、単身小船で柳彦璋(水賊首領)の拠点へ突入。不意をつかれた賊が挨拶に来た隙を斬り捨て配下を散亡させた。 荊南侵攻と奇跡的防衛 王仙芝軍が漢水浅瀬から渡河し荊州(江陵府)へ迫る。文学出身の節度使・楊知溫は「賊来襲は虚報」として無警戒──正月元日の大雪中、彼が新年祝賀式典を開いているまさにその時、賊軍は外城門まで到達していた。家臣団が内城防衛線を急造し守り抜くも楊知溫は動かず、ようやく出てきても礼服のまま。将兵から「矢除けに甲冑を」と促されながら戦況を詩作する始末。 山南東道節度使・李福へ救援要請が届くと、彼は襄陽駐留の沙陀族騎兵500人を含む全軍で出陣。荊門付近で賊軍を撃破し江陵府を死守した。 解説歴史的意義 本節は唐末期(878年)における「黄巣の乱」前夜を描く。地方統治崩壊と中央政府機能不全が露呈する中、以下の重要要素が見られる: 1. 軍閥化した藩鎮: 河中軍反乱や宋威・楊復光の対立は節度使勢力の暴走を示す 2. 科挙官僚の限界: 文人出身の楊知溫が軍事無能を露呈(詩作しながら防戦命令) 3. 異民族兵力依存: 沙陀族騎兵の活躍が後の五代沙台王朝成立へ連なる伏線 特筆すべき表現技法
- 対照的描写: 祝賀式典中の楊知溫と迫り来る賊軍という「時間差演出」で危機を強調
- 行動劇化: 劉秉仁の単身乗り込み(水上版・関羽単刀赴会)や沙陀騎兵突撃など映像的表現 現代性 当時と共通する問題として「情報軽視」(楊知温)、「縄張り争い優先」(宋威)が組織崩壊を招く様は、現代企業・行政にも通底する警鐘と言える。特に朝廷が尚君長処刑で真相究明を放棄した点は、「責任のなすり合いによる決断停滞」の古典的ケーススタディである。 Translation took 1641.3 seconds. |
| 仙芝聞之,焚掠江陵而去。江陵城下舊三十萬戶,至是死者什三四。 壬寅,招討副使曾元裕大破王仙芝於申州東,所殺萬人,招降散遣者亦萬人。敕以宋威久病,罷招討使,還青州。以曾元裕為招討使,穎州刺史張自勉為副使。 庚戌,以西川節度使高駢為荊南節度使兼鹽鐵轉運使。 振武節度使李國昌之子克用為沙陀副兵馬使,戍蔚州。時河南盜賊蜂起,雲州沙陀兵馬使李盡忠與牙將康君立、薛志勤、程懷信、李存璋等謀曰:「今天下大亂,朝廷號令不復行於四方,此乃英雄立功名富貴之秋也。吾屬雖各擁兵眾,然李振武功大官高,名聞天下,其子勇冠諸軍。若輔以舉事,代北不足平也。」眾以為然。君立,興唐人;存璋,雲州人;志勤,奉誠人也。 會大同防禦使段文楚兼水陸發運使,代北荐饑,漕運不繼。文楚頗減軍士衣米,又用法稍峻,軍士怨怒。盡忠遣君立潛詣蔚州說克用起兵,除文楚而代之。克用曰:「吾父在振武,俟我稟之。」君立曰:「今機事已洩,緩則生變,何暇千里稟命乎!」於是盡忠夜帥牙兵攻牙城,執文楚及判官柳漢璋等繫獄,自知軍州事,遣召克用。克用帥其眾趣雲州,行收兵,二月,庚午,至城下,眾且萬人,屯於鬥雞台下。壬申,盡忠遣使送符印,請克用為防禦留後。癸酉,盡忠械文楚等五人送鬥雞台下,克用令軍士玼食之,以騎踐其骸。 |
現代日本語訳:仙芝はこの知らせを聞くと江陵に火をつけて略奪し去った。かつて三十万戸あった江陵の城下では死者が十人中三~四人という惨状となった。 壬寅の日、招討副使・曾元裕が申州東で王仙芝軍を撃破し、殺害した者は一万人に上り、投降して解散させた者もまた一万人だった。朝廷は宋威が長期療養中であることを考慮し、彼の招討使職務を解いて青州へ戻すよう命じるとともに、曾元裕を新たな招討使とし、潁州刺史・張自勉を副使に任命した。 庚戌の日、西川節度使であった高駢が荊南節度使兼塩鉄転運使となった。 振武節度使・李国昌の子である克用は沙陀副兵馬使として蔚州守備についていた。当時河南地方では反乱軍が蜂起しており、雲州の沙陀兵馬使・李尽忠と配下の牙将(親衛隊長)康君立・薛志勤・程懐信・李存璋らは謀議した:「今や天下大乱で朝廷命令は各地に届かず、英雄が功績を立て富貴を得る絶好の機会だ。我々も兵力を持つとはいえ、李振武(国昌)将軍は高位高官で名声轟き、その子息克用は諸軍最強の勇士である。彼らと共に挙兵すれば代北平定など容易い」一同は賛同した。君立は興唐人、存璋は雲州人、志勤は奉誠人の出身であった。 折しも大同防禦使・段文楚が水陸輸送監督を兼務しており、代北地方で飢饉が続く中での食糧供給不足に直面していた。文楚は兵士への衣服と米の支給量を減らす上に法規運用を厳格化し、軍内不満が高まっていた。尽忠は君立を蔚州へ密使として送り込み克用に挙兵を促して文楚排除を提案すると、克用は「父(国昌)が振武におられるので指示を得ねば」と答えた。これに対し君立は「計画は既に漏れており遅れれば事態悪化必至です!千里も離れた場所へ指示を仰ぐ余裕などない!」と言い切った。 ここにおいて尽忠は夜陰に乗じ牙兵(精鋭部隊)を率いて司令部を急襲し、文楚と判官・柳漢璋らを捕縛して投獄。自ら雲州の行政を代行すると克用へ合流要請した。克用は配下軍勢を引き連れ進軍途中で兵力を増強しながら雲州に向かい、二月庚午日に城下に到着(総兵力約一万)。全軍は闘鶏台付近に布陣し、壬申日には尽忠が使者を通じて官印を届け克用の防禦留後(代理長官)就任を要請。癸酉日、文楚ら五名を檻に入れて闘鶏台下へ護送すると、克用は兵士に彼らの肉を切り取って食わせた上で騎馬隊に骸骨を踏み潰させた。 解説歴史的意義:
注目すべき点:
現代語訳の方針:
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| 甲戌,克用入府捨視事,令將士表求敕命;朝廷不許。李國昌上言:「乞朝廷速除大同防禦使。若克用違命,臣請帥本道兵討之,終不愛一子以負國家。」朝廷方欲使國昌諭克用,會得其奏,乃以司農卿支詳為大同軍宣慰使,詔國昌語克用,令迎候如常儀,除克用官,必令稱愜。又以太僕卿盧簡方為大同防禦使。 貶楊知溫為郴州司馬。 曾元裕奏大破王仙芝於黃梅,殺五萬餘人,追斬仙芝,傳首,餘黨散去。 黃巢方攻亳州未下,尚讓帥仙芝餘眾歸之,推巢為王,號沖天大將軍,改元王霸,署官屬。巢襲陷沂州、濮州。既而屢為官軍所敗,乃遺天平節度使張裼書,請奏之。詔以巢為右衛將軍,令就鄆州解甲。巢竟不至。 加山南東道節度使李福同平章事,賞救荊南之功也。 三月,群盜陷朗州、岳州。招討使曾元裕屯荊、襄,黃巢自濮州掠宋、汴,乃以副使張自勉充東南面行營招討使。黃巢攻衛南,遂攻葉、陽翟。詔發河陽兵千人赴東都,與宣武、昭義兵二千人共衛宮闕。以左神武大將軍劉景仁充東都應援防遏使,並將三鎮兵,仍聽於東都募兵二千人。景仁,昌之孫也。又詔曾元裕將兵徑還東都,發義成兵三千守轘轅、伊闕、河陰、武牢。 王仙芝餘黨王重隱陷洪州,江西觀察使高湘奔湖口。賊轉掠湖南,別將曹師雄掠宣、潤。詔曾元裕、楊復光引兵救宣、潤。 |
現代日本語訳甲戌の日、李克用は府衙に入り政務を取り仕切った。配下の将士に命じて上表させ朝廷からの正式な任命書を求めたが、許可されなかった。李国昌は上奏して言うには、「どうか朝廷は速やかに大同防御使を任命してください。もし克用が命令に背くならば、臣が本道の兵を率いて討伐し、決して一人の子のために国家への忠義を裏切りません」と述べた。朝廷ではちょうど国昌に克用を諭させようとしたところ、彼の上奏文を得たため、司農卿・支詳を大同軍宣慰使に任命した。詔勅で国昌は克用に対し「従来通りの礼儀をもって出迎えよ」と伝えるように命じ、克用への官職授与については必ず満足させるよう指示された。さらに太僕卿・盧簡方を大同防御使とした。 楊知温を郴州司馬に左遷した。 曾元裕が黄梅で王仙芝軍を大破し、五万余りを討ち取ったと上奏した。仙芝を追撃して斬首し、その首級は送られてきたが残党は散りじりになった。 一方の黄巢は亳州攻めに苦戦していたところへ尚譲が仙芝の残兵を率いて合流すると、共に黄巢を王として推戴した。「沖天大将軍」と号し元号を「王霸」とした。配下に官職を授けた後、沂州・濮州を襲撃占領するもその後は幾度か官軍に敗れ、天平節度使張裼宛てに書簡を送り朝廷への奏上を依頼した。詔勅で黄巢を右衛将軍とし鄆州での武装解除を命じたが、結局彼は応じなかった。 山南東道節度使李福に同平章事の称号を加えたのは、荊南救援の功績への恩賞である。 三月になると群盗が朗州・岳州を陥落させた。招討使曾元裕が荆襄地域に駐屯する中、黄巢は濮州から宋州・汴州へ侵攻したため副使張自勉を東南面行営招討使とした。その後黄巢は衛南を攻撃し葉県・陽翟へ進軍した。朝廷では河陽兵千人を洛陽に派遣し宣武・昭義の兵二千人と共に宮城防衛にあたらせた。左神武大将軍劉景仁を東都応援防御使として三鎮の兵を指揮させるとともに、洛陽で新たに二千人の募兵も許可した(景仁は劉昌の孫)。さらに曾元裕には直ちに帰還して洛陽防衛にあたり義成軍から三千人を派遣し轘轅・伊闕・河陰・武牢を守備させた。 王仙芝残党の王重隠が洪州を陥落させると江西観察使高湘は湖口へ敗走した。賊軍は湖南に転戦し別働隊の曹師雄は宣州・潤州を掠奪したため詔勅で曾元裕と楊復光に援軍を派遣し宣潤地域を救援させた。 解説
※本訳は『資治通鑑』唐紀68(880年頃)を基に構成。藩鎮勢力と農民反乱が交錯する中で唐朝衰退が決定的となる過渡期を描出した箇所である。 Translation took 1959.2 seconds. |
| 湖南軍亂,都將高傑逐觀察使崔瑾。瑾,郾之子也。 黃巢引兵度江,攻陷虔、吉、饒、信等州。 朝廷以李克用據雲中,夏,四月,以前大同軍防禦使盧簡方為振武節度使,以振武節度使李國昌為大同節度使,以為克用必無以拒也。詔以東都軍儲不足,貸商旅富人錢穀以供數月之費,仍賜空名殿中侍御史告身五通,監察御史告身十通,有能出家財助國稍多者賜之。時連歲旱、蝗,寇盜充斥,耕桑半廢,租賦不足,內藏虛竭,無所人次助。兵部侍郎、判度支楊嚴三表自陳才短,不能濟辦,乞解使務,辭極哀切。詔不許。 曹師雄寇湖州,鎮海節度使裴璩遣兵擊破之。王重隱死,其將徐唐莒據洪州。饒州將彭幼璋合義營兵克復饒州。 南詔遣其酋望趙宗政來請和親,無表,但令督爽牒中書,請為弟而不稱臣。詔百官議之,禮部侍郎崔澹等以為:「南詔驕僭無禮,高駢不達大體,反因一僧呫囁卑辭誘致其使,若從其請,恐垂笑後代。」高駢聞之,上表與澹爭辯,詔諭解之。澹,璵之子也。 五月,丙申朔,鄭畋、盧攜議蠻事,攜欲與之和親,畋固爭以為不可。攜怒,拂衣起,袂罥硯墮地,破之。上聞之,曰:「大臣相詬,何以儀刑四海!」丁酉,畋、攜皆罷為主子賓客、分司。以翰林學士承旨、戶部侍郎豆盧瑑為兵部侍郎,吏部侍郎崔沆為戶部侍郎,並同平章事。 |
現代日本語訳:湖南で軍の反乱が発生し、都将・高傑が観察使・崔瑾を追放した。崔瑾は崔郾の子である。 黄巢が兵を率いて長江を渡り、虔州(贛州)、吉州(吉安)、饒州(鄱陽)、信州(上饒)などの州を陥落させた。 朝廷では李克用が雲中(大同)に拠点を構えている状況を受け、夏四月に元大同軍防禦使・盧簡方を振武節度使とし、現任の振武節度使・李国昌を大同節度使に任命した。これにより李克用は抵抗できなくなると判断したのである。 朝廷は詔勅で東都(洛陽)の軍需物資が不足しているため、商人や富裕層から金銭と穀物を借り受け数カ月分の経費を賄うよう命じた。さらに空欄の殿中侍御史任命書五通と監察御史任命書十通を用意し、私財を多く提供して国を支援する者に授けるとした。 当時は旱魃や蝗害が連年続き、賊徒が横行したため農耕は半ば停滞。租税の徴収も不十分で朝廷の財政は枯渇し、援助を得られる手段がなかった。 兵部侍郎・度支担当(財務長官)の楊厳は「才能不足で職務を遂行できない」と三度上表して辞任を懇願したが、詔勅により却下された。 曹師雄が湖州に侵攻すると鎮海節度使・裴璩が派兵して撃破。王重隠の死後、配下の徐唐莒が洪州(南昌)を占拠していたが、饒州将軍・彭幼璋は義勇兵と連合し饒州を奪還した。 南詔国が首長・趙宗政を使者として派遣。和親(王室婚姻による同盟)を求めてきたが、正式な上奏文なく「督爽」(南詔官庁名)の公文書で「弟」と称し臣従を拒否した。 朝廷は百官に議論させたところ、礼部侍郎・崔澹らは「南詔は傲慢無礼。高駢も軽率にも僧侶を使い卑屈な言葉で使者を誘導した。この要求を受け入れれば後世の笑い者となる」と批判。 これに対し高駢が上表して反論したため、朝廷は両者の調停を試みた(崔澹は崔璵の子である)。 五月一日丙申、鄭畋と盧攜が南詔対策で激論。盧攜は和親賛成であったが、鄭畋は強硬に反対し衣の袖で硯を払い落として破損させた。 皇帝は「大臣同士が罵り合うとは天下の模範となるべきか」と不快を示し、翌二日丁酉には両者を太子賓客(名誉職)に左遷。代わりに翰林学士承旨・戸部侍郎の豆盧瑑を兵部侍郎に、吏部侍郎の崔沆を戸部侍郎に任命し、いずれも同平章事(宰相職)とした。 解説:
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| 時宰相有好施者,常使人以布囊貯錢自隨,行施丐者,每出,襤褸盈路。有朝士以書規之曰:「今百姓疲弊,寇盜充斥,相公宜舉賢任能,紀綱庶務,捐不急之費,杜私謁之門,使萬物各得其所,則家給人足,自無貧者,何必如此行小惠乎!」宰相大怒。 邕州大將杜弘送段瑳寶至南詔,逾年而還。甲辰,辛讜復遣攝巡官賈宏、大將左瑜、曹朗使於南詔。 李國昌欲父子並據兩鎮,得大同制書,毀之,殺監軍,不受代,與李克用合兵陷遮虜軍,進擊寧武及岢嵐軍。盧簡方赴振武,至嵐州而薨。丁巳,河東節度使竇浣發民塹晉陽。己未,以都押衙康傳圭為代州刺史,又發土團千人戍代州。土團至城北,娖隊不發,求優賞。時府庫空竭,浣遣馬步都虞候鄧虔往慰諭之,土團C061虔,床舁其屍入府。浣與監軍自出慰諭,人給錢三百,布一端,眾乃定。押牙田公鍔給亂軍錢布,從遂劫之以為都將,赴代州,浣借商人錢五萬緡以助軍。朝廷以浣為不才,六月,以前昭義節度使曹翔為河東節度使。 王仙芝餘黨剽掠浙西,朝廷以荊南節度使高駢先在天平有威名,仙芝黨多鄆人,乃徙駢為鎮海節度使。 沙陀焚唐林、崞縣,入忻州境。 秋,七月,曹翔至晉陽。己亥,捕土團殺鄧虔者十三人,殺之。義武兵至晉陽,不解甲,歡噪求優賞,翔斬其十將一人,乃定。 |
現代日本語訳当時、施しを好む宰相がおり、常に従者に布袋で金銭を持たせて同行させ、物乞いへの施しを行っていた。外出する度に路上はぼろ服の乞食であふれていた。ある朝臣が書簡でこれを諫めた:「今や民衆は疲弊し賊徒が横行しております。閣下こそ賢者を登用し行政を整え、不急の支出を削減し私的な取次ぎを断つべきです。そうすれば万物各々所を得て天下に貧者はいなくなるでしょう。なぜこのような小細工めいた施しが必要でしょうか?」宰相は激怒した。 邕州の大将杜弘が段瑳宝を南詔へ送り届け、一年余り後に帰還した。甲辰(かしん)の日、辛讜は再び代理巡官賈宏と大将左瑜・曹朗を南詔への使者として派遣した。 李国昌は父子で二つの軍事拠点を支配しようと画策し、大同赴任命令書を受け取るとこれを破棄。監察官を殺害して交代を拒否し、息子李克用と合流して遮虜軍を陥落させた後、寧武及び岢嵐軍へ進攻した。盧簡方が振武に向かう途上、嵐州で死去。丁巳(ていし)の日、河東節度使竇浣は住民を動員し晋陽に堀を掘らせた。己未(きび)の日には都押衙康伝圭を代州刺史に任命すると共に、土着兵団千人を徴発して代州守備につかせた。 兵団が城北へ到着すると隊列を整えず厚遇と恩賞を要求。官庫は空であったため竇浣が軍警察長鄧虔を慰撫に派遣したところ、兵団は虔を撲殺し遺体を担架で役所へ運び込んだ。浣と監察官みずから出向いて説得し、一人あたり銭三百文・布一端を与えたことでようやく鎮静化。押牙田公鍔が乱兵に金品を分配すると、彼らは公鍔を強制的に「都将」として担ぎ代州へ赴いたため、浣は商人から五万緡を借財して軍費にあてた。朝廷は竇浣の無能さを見抜き六月、前昭義節度使曹翔を河東節度使に任命した。 王仙芝残党が浙西で略奪を行うと、朝廷は荊南節度使高駢(かつて天平軍統治時に威名あり)を鎮海節度使へ転任させた。沙陀族が唐林・崞県を焼き討ちした後忻州に侵攻。 秋七月、曹翔が晋陽到着。己亥の日には鄧虔殺害犯である土団兵十三名を処刑すると、援軍として来ていた義武兵が甲冑も脱がず恩賞要求で騒擾。翔はその指揮官一名を斬首し鎮圧した。 解説
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| 發義成、忠武、昭義、河陽兵會於晉陽,以御沙陀。八月,戊寅,曹翔引兵救忻州。沙陀攻岢嵐軍,陷其羅城,敗官軍於洪谷,晉陽閉門城守。 黃巢寇宣州,宣歙觀察使王凝拒之,敗於南陵。巢攻宣州不克,乃引兵入浙東,開山路七百里,攻剽福建諸州。 九月,平盧軍奏節度使宋威薨。 辛丑,以諸道行營招討使曾元裕領平盧節度使。 壬寅,曹翔暴薨。丙午,昭義兵大掠晉陽,坊市民自共擊之,殺千餘人,乃潰。 中書侍郎、同平章事李蔚罷為東都留守。以吏部尚書鄭從讜為中書侍郎、同平章事。從讜,餘慶之孫也。 以戶部尚書、判戶部事李都同平章事兼河中節度使。 冬,十月,詔昭義節度使李鈞、幽州節度使李可舉與吐谷渾酋長赫連鐸、白義誠、沙陀酋長安慶、薩葛酋長米海萬,合兵討李國昌父子於蔚州。十一月,甲午,岢嵐軍翻城應沙陀。丁未,以河東宣慰使崔季康為河東節度、代北行營招討使。沙陀攻石州,庚戌,崔季康救之。 十二月,甲戌,黃巢陷福州,觀察使韋岫棄城走。 南詔使者趙宗政還其國,中書不答督爽牒,但作西川節度使崔安潛書意,使安潛答之。 崔季康及昭義節度使李鈞與李克用戰於洪谷,兩鎮兵敗,鈞戰死。昭義兵還至代州,士卒剽掠,代州民殺之殆盡,餘眾自鴉鳴谷走歸上黨。 王郢之亂,臨安人董昌以土團討賊有功,補石鏡鎮將。 |
現代日本語訳:義成軍、忠武軍、昭義軍、河陽軍の兵を晋陽(太原)に集結させ、沙陀族に対抗した。八月戊寅の日、曹翔が軍勢を率いて忻州救援に向かった。しかし沙陀は岢嵐城を攻撃して外郭を陥落させると洪谷で官軍を破り、晋陽では城門を閉じて籠城に徹した。 黄巢が宣州に侵攻すると、宣歙観察使の王凝は防戦するも南陵で敗北。攻略を断念した黄巢は浙東へ転進し、七百里(約390km)もの山道を開削して福建諸州を略奪した。 九月、平盧軍より節度使宋威の死去が奏報された。 辛丑の日、諸道行営招討使・曾元裕に平盧節度使職を与えた。 壬寅の日に曹翔が急死すると、丙午には昭義兵が晋陽で暴動を起こし略奪。町民らが自衛団を結成して反撃し千余人を殺害したため鎮圧された。 中央政界では中書侍郎・同平章事(宰相)李蔚が更迭され東都留守に左遷。後任には吏部尚書鄭従讜が就いた(彼は名臣・鄭余慶の孫にあたる)。また戸部長官の李都を河中節度使兼宰相とした。 十月、朝廷は昭義軍・幽州軍に吐谷渾や沙陀などの異民族勢力と連合させ蔚州で反乱軍・李国昌父子討伐を命じた。十一月甲午には岢嵐城が内応して沙陀側につき、丁未に崔季康が代北方面司令官として派遣されたが、庚戌に出動した石州救援は失敗した。 十二月甲戌、黄巢軍が福州を占領すると観察使韋岫は逃亡。 南詔国からの使者趙宗政への返答で朝廷は外交文書「督爽牒」に直接応じず、西川節度使崔安潜を通じて間接回答するという異例対応を示した。 洪谷の戦いでは官軍(昭義・河東連合)が李克用軍に惨敗し李鈞は戦死。代州へ撤退した昭義兵暴徒化で住民報復を受けて壊滅、生き残りは鴉鳴谷経由で上党へ逃走した。 最後の挿話として臨安出身者董昌が郷土防衛隊(土団)を率いて王郢の乱鎮圧に功績を挙げ石鏡鎮将に抜擢された事実を付記する。 歴史的考察:
※本訳では紀年(干支)と地理名称を厳密に対応させつつ、戦闘描写は動態的表現で再現。「羅城→外郭」「翻城→内応」など中世軍制用語は現代語に置換。登場人物のルビ表記は史書様式に準じて省略した。 Translation took 1901.1 seconds. |
| 是歲,曹師雄寇二浙,杭州募諸縣鄉兵各千人以討之,昌與錢塘劉孟安、阮結、富陽聞人宇、鹽官徐及、新城杜稜、餘杭凌文舉、臨平曹信各為之都將,號杭州八都,昌為之長。其後宇卒,錢塘人成及代之。臨安人錢鏐以驍勇事昌,以功為石鏡都知兵馬使。 僖宗聖恭定孝皇帝上之下乾符六年(己亥,公元八七九年) 春,正月,魏王佾薨。 鎮海節度使高駢遣其將張璘、梁纘分道擊黃巢,屢破之,降其將秦彥、畢師鐸、李罕之、許勍等數十人,巢遂趣廣南。彥,徐州人;師鐸,冤句人;罕之,項城人也。 賈寵等未至南詔,相繼卒於道中,從者死亦太半。時辛讜已病風痺,召攝巡官徐雲虔,執其手曰:「讜已奏朝廷發使入南詔,而使者相繼物故,奈何?吾子既仕則思詢國,能為此行乎?讜恨風痺不能拜耳。」因嗚咽流涕。雲虔曰:「士為知己死!明公見辟,恨無以報德,敢不承命!」讜喜,厚具資裝而遣之。二月,丙寅,雲虔至善闡城,驃信見大使抗禮,受副使以下拜。己巳,驃信使慈雙羽、楊宗就館謂雲虔曰:「貴府牒欲使驃信稱臣,奉表貢方物;驃信已遣人自西川入唐,與唐約為兄弟,不則舅甥。夫兄弟舅甥,書幣而已,何表貢之有?」雲虔曰:「驃信既欲為弟、為甥,驃信景莊之子,景莊豈無兄弟,於驃信為諸父,驃信為君,則諸父皆稱臣,況弟與甥乎!且驃信之先,由大唐之命,得合六詔為一,恩德深厚,中間小忿,罪在邊鄙。 |
現代日本語訳:この年、曹師雄が二浙地方を侵犯したため、杭州では各県から千人ずつ郷兵を募って討伐にあたらせた。董昌と銭塘の劉孟安・阮結、富陽の聞人宇、塩官の徐及、新城の杜稜、余杭の凌文挙、臨平の曹信がそれぞれ都将となり、「杭州八都」と呼ばれ、董昌がその長となった。その後聞人宇が亡くなると、銭塘出身の成及が後を継いだ。臨安出身の錢鏐は勇猛さで董昌に仕え、功績により石鏡都知兵馬使に任じられた。 僖宗聖恭定孝皇帝上之下 乾符六年(己亥年、紀元879年) 鎮海節度使高駢は配下の将軍張璘と梁纙を別々に派遣して黄巣を攻撃させた。何度も勝利し、秦彦・畢師鐸・李罕之・許勍ら数十人の部下が降伏したため、黄巣は広南へ逃走した。秦彦は徐州出身、畢師鐸は冤句出身、李罕之は項城出身である。 賈寵らが南詔に到着する前に次々と道中で死去し、同行者の大半も死亡した。当時辛讜はすでに風痺(麻痺症状)を患っており、巡官代理の徐雲虔を呼び寄せて手を取りながら言った。「私は朝廷に南詔への使者派遣を上奏していたが、使者たちが相次いで亡くなってしまった。どうすればよいか? 貴殿はすでに官職にあるのだから国恩に報いるべきだ。この任務を引き受けてくれぬか? 風痺のせいで礼もできないのが無念だ」と嗚咽して涙を流した。徐雲虔は「士は知己のために死す! 明公(辛讜)に見出された恩に報いる術がなく残念でした。お引き受けします!」と答えた。喜んだ辛讜は多額の旅費を与えて送り出した。 二月丙寅日、徐雲虔は善闡城に到着すると、驃信(南詔王)は大使に対等の礼で接し、副使以下には跪拝を要求した。己巳日、驃信は慈双羽と楊宗を使者として宿舎へ遣わし「貴政府の文書では驃信に臣下として貢物を献上せよとあるが、すでに西川経由で唐に入る使者を送り『兄弟』もしくは『叔父甥』の関係で盟約しようとした。その場合礼状や贈り物だけで正式な朝貢など必要ない」と伝えた。徐雲虔は「驃信が弟か甥となるのであれば、景庄王(先代)には兄弟がおられ諸父(叔伯父)にあたる方々もいます。彼らでさえ驃信を君主として臣下の礼を取っているのに、まして弟や甥などなおさらです! そもそも南詔王家は唐から六詔統一を命じられた大恩がある。近年の小競り合いは辺境役人の過失であり...」と反論した。 解説:
※注:ルビ付与禁止のため難読地名・人名は全て常用漢字表記とし、王号(僖宗/驃信)や年号(乾符)などの固有名詞は歴史書慣例に従った。 Translation took 2043.5 seconds. |
| 今驃信欲修舊好,豈可違祖考之故事乎!順祖考,孝也;事大國,義也;息戰爭,仁也;審名分,禮也。四者,皆令德也,可不勉乎!」驃信待雲虔甚厚,雲虔留善闡十七日而還。驃信以木夾二授雲虔,其一上中書門下,其一牒嶺南西道,然猶未肯奉表稱貢。 辛未,河東軍至靜樂,士卒作亂,殺孔目官石裕等。壬申,崔季康逃歸晉陽。甲戌,都頭張鍇、郭昢帥行營兵攻東陽門,入府,殺季康。辛巳,以陝虢觀察使高潯為昭義節度使;以邠寧節度使李侃為河東節度使。 三月,天平軍節度使張裼薨,牙將崔君裕自知州事,淄州刺史曹全晸討誅之。 夏,四月,庚申朔,日有食之。 西川節度使崔安潛到官不詰盜,蜀人怪之。安潛曰:「盜非所由通容則不能為。今窮核則應坐者眾,搜捕則徒為煩擾。」甲子,出庫錢千五百緡,分置三市,置榜其上曰:「有能告捕一盜,賞錢五百緡。盜不能獨為,必有侶。侶者告捕,釋其罪,賞同平人。」未幾,有捕盜而至者,盜不服,曰:「汝與我同為盜十七年,贓皆平分,汝安能捕我!我與汝同死耳。」安潛曰:「汝既知吾有榜,何不捕彼以來!則彼應死,汝受賞矣。汝既為所失,死復何辭!」立命給捕者錢,使盜視之,然後C061盜於市,並滅其家。於是諸盜與其侶互相疑,無地容足,夜不及旦,散逃出境,境內遂無一人為盜。 |
現代日本語訳:「今、驃信(ビルマ王)が旧来の友好関係を修復しようと望んでいるのに、どうして先祖代々の方針に背けようか。祖先に従うことは孝行であり、大国へ仕えるのは義理である。戦争を終わらせるのは仁愛であり、身分秩序を守るのは礼儀だ。この四つは全て優れた徳目である。努めるべきではないか!」驃信は使者の雲虔(李雲虔)を厚遇し、彼は善闡で十七日滞在した後に帰還した。驃信は木製の公文書二通を託したが、唐朝への正式な朝貢表文提出には応じなかった。 辛未(21日)、河東軍が静楽に着くと兵士らが反乱し孔目官・石裕らを殺害。壬申(22日)崔季康は晋陽へ逃亡。甲戌(24日)都頭の張鍇と郭昢が行営兵を率い役所を襲撃して季康を殺した。辛巳(31日)、陝虢観察使・高潯を昭義節度使に、邠寧節度使・李侃を河東節度使に任命。 三月、天平軍節度使の張裼が死去すると牙将・崔君裕が州政を掌握。淄州刺史の曹全晸は討伐してこれを誅殺した。 夏四月庚申朔(1日)、日食発生。 西川節度使・崔安潜は着任後も盗賊取締りを行わず、住民は怪訝に思った。安潜は言う。「役人の黙認なくして盗みなどできぬ。今厳しく調べれば連座者が多く出るが、大規模捜索では混乱を招くだけだ」。甲子(5日)、官庫から千五百緡を取り出し三市場に掲示:「盗賊一名の告発・逮捕者には賞金五百緡。共犯者の密告者は罪を赦免され同額給与」。間もなく一組が捕らえられた時、被疑者が抗弁した。「お前は17年も俺と盗みを働き分け前も平等だったのに、どうして逮捕できる? 共倒れだぞ」。安潜は即座に裁定:「私の公示を知りながらなぜ彼を告発しなかった? そうすれば賞金を得られたはずだ。自ら機会を逃した以上死をもって償え」と。密告者へ直ちに賞金を与えて見せた後、市場で処刑し家族も皆殺しとした。これにより盗賊仲間は互いに疑心暗鬼となり夜の明けぬうちに散り失せ、管内から盗賊はいなくなった。 解説:
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| 安潛以蜀兵怯弱,奏遣大將繼牒詣陳、許諸州募壯士,與蜀人相雜,訓練用之,得三千人,分為三軍,亦戴黃帽,號黃頭軍。又奏乞洪州弩手,教蜀人用弩走丸而射之,選得千人,號神機弩營。蜀兵由是浸強。 涼王侹薨。 上以群盜為憂,王鐸曰:「臣為宰相之長,在朝不足分陛下之憂,請自督諸將討之。」乃以鐸守司徒兼侍中,充荊南節度使、南面行營招討都統。 五月,辛卯,敕賜河東軍士銀。牙將賀公雅所部士卒作亂,焚掠三城,執孔目官王敬送馬步司。節度使李侃與監軍自由慰諭,為之斬敬於牙門,乃定。 泰寧節度使李系,晟之曾孫也,有口才而實無勇略,王鐸以其家世良將,奏為行營副將統兼湖南觀察使,使將精兵五萬並土團屯潭州,以塞嶺北之路,拒黃巢。 河東都虞候每夜密捕賀公雅部卒作亂者,族滅之。丁巳,餘黨近百人稱「報冤將」,大掠三城,焚馬步都虞候張鍇、府城都虞候郭昢家。節度使李侃下令,以軍府不安,曲順軍情,收鍇、昢,斬於牙門,並逐其家;以賀公雅為馬步都虞候。鍇、昢臨刑,泣言於眾曰:「所殺皆捕盜司密申,今日冤死,獨無烈士相救乎!」於是軍士復大噪,篡取鍇、昢歸都虞候司。尋下令,復其舊職,並召還其家。收捕盜司元義宗等三十餘家,誅滅之。己未,以馬步都教練使朱玫等為三城斬斫使,將兵分捕報冤將,悉斬之,軍城始定。 |
現代日本語訳:安潜は蜀の兵士が弱々しいと見て、上奏し大将を派遣して陳州や許州などで壮健な者を募らせた。彼らを蜀人と混ぜ合わせ訓練に当たらせると、三千人が集まり三軍に分けられた。これらも黄帽をかぶり「黄頭軍」と呼称した。さらに洪州の弩弓手を派遣してほしいとも上奏し、蜀人に弩の扱いや玉を使った射撃法を教え習得させた千人は「神機弩営」と名付けられた。こうして蜀兵は次第に強くなっていった。 涼王侹が逝去した。 皇帝(僖宗)は賊徒集団を憂慮していたところ、王鐸が言上した。「臣は宰相の長として朝廷にあって陛下のご心労をお分けできずにおります。ぜひ自ら諸将を率いて討伐させてください。」そこで王鐸を司徒兼侍中に任じ、荊南節度使・南面行営招討都統を兼任させることとなった。 五月辛卯の日(二日)、河東軍兵士に銀貨が下賜された。牙将賀公雅配下の士卒が反乱を起こし三城で略奪放火、孔目官王敬を捕らえて馬歩司へ送りつけた。節度使李侃と監軍は自ら慰諭に出向き、牙門(司令部)前で王敬を斬ってようやく鎮静化した。 泰寧節度使李系(李晟の曾孫)は弁舌に優れるが実戦指揮能力は乏しかった。王鐸は彼の家柄(名将の子孫)を考慮し、行営副都統兼湖南観察使に推挙。精兵五万と郷土防衛部隊を率いて潭州に駐屯させ嶺北への道を封鎖し、黄巢軍に対峙させることにした。 河東都虞候は毎夜ひそかに賀公雅配下の反乱者を捕らえ一族ごと処刑していた。丁巳(二十八日)、残党百人近くが「冤罪報復隊」を名乗り三城で略奪、馬歩都虞候張鍇と府城都虞候郭昢の家を焼き払った。節度使李侃は軍情安定のため両者を逮捕し牙門前で斬首、家族も追放した上で賀公雅を馬歩都虞候に任命する詔令を出した。 張鍇と郭昢は処刑直前「我々が殺害したのは捕盗司からの密告者だ。今や冤罪で死ぬことになるのに、義士すらいないのか」と群衆に向かって泣き叫んだ。すると兵士らが再び騒然となり両者を奪還して都虞候司に連れ帰った。すぐに旧職復帰と家族召還の命令が出た代わりに捕盗司元義宗ら三十余家は逮捕され誅殺された。 己未(三十日)、馬歩教練使朱玫らが「三城斬斫使」となり兵を率いて残党狩りを行い全員処刑、ようやく軍管区は安定した。 解説:
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| 黃巢與浙東觀察使崔璆、嶺南東道節度使李迢書,求天平節度使,二人為之奏聞,朝廷不許。巢復上表求廣州節度使,上命大臣議之。左僕射于琮以為:「廣州市舶寶貨所聚,豈可令賊得之!」亦不許,乃議別除官。六月,宰相請除巢率府率,從之。 河東節度使李侃以軍府數有亂,稱疾,請尋醫。敕以代州刺史康傳圭為河東行軍司馬,征侃詣京師。秋,八月,甲子,侃發晉陽。尋以東都留守節蔚同平章事,充河東節度使。 鎮海節度使高駢奏:「請以權舒州刺史郎幼復充留後,守浙西,遣都知兵馬使張璘將兵五千於郴州守險,兵馬留後王重任將兵八千於循、潮二州邀遮,臣將萬人自大庾嶺趣廣州,擊黃。巢聞臣往,必當遁逃,乞敕王鐸以所部兵三萬於梧、昭、桂、永四州守險。」詔不許。 九月,黃巢得率府率告身,大怒,詬執政,急攻廣州,即日陷之,執節度使李迢,轉掠嶺南州縣。巢使迢草表述其所懷,迢曰:「予代受國恩,親戚滿朝,腕可斷,表不可草。」巢殺之。 冬,十月,以鎮海節度使高駢為淮南節度使,充鹽鐵轉運使,以涇原節度使周寶為鎮海節度使,以山南東道行軍司馬劉臣容為節度使。寶,平州人也。 黃巢在嶺南,士卒罹瘴疫死者什三四,其徒勸之北還以圖大事,巢從之。自桂州編大筏靈數千,乘暴水,沿湘江而下,歷衡、永州,癸未,抵潭州城下。 |
現代日本語訳:黄巣が浙東観察使の崔璆と嶺南東道節度使の李迢に書簡を送り、天平節度使への任命を要求した。両者はこれを朝廷へ上奏したが、許可されなかった。黄巣は再び広州節度使就任を求める上表を行い、皇帝(僖宗)が大臣たちに審議させた。左僕射・于琮が「広州は市舶司による海外珍宝の集積地である。賊に渡すべきではない」と反対し、結局拒否された代わりに別の官職を与えることとなった。六月、宰相(盧携)が黄巣を率府率(東宮武官)に任命するよう奏上し、皇帝はこれを認可した。 河東節度使・李侃は軍府で反乱が頻発していることを理由に病気と称し、休職を願い出た。詔勅により代州刺史の康伝圭が河東行軍司馬に任命され、李侃は長安へ召還された。秋八月甲子(7日)、李侃は晋陽を出発した。間もなく東都留守・節蔚が同平章事(宰相格)を兼ねて河東節度使となった。 鎮海節度使・高駢が上奏:「舒州刺史代理の郎幼復に浙西留後を務めさせ、都知兵馬使張璘には兵5千を率いて郴州で要害を守備させる。また兵馬留後王重任に8千の兵で循州・潮州を遮断させた上で、臣自ら1万の軍勢を率い大庾嶺から広州へ進撃し黄巣を討伐します。賊が我々の進攻を知れば必ず逃亡するでしょう。王鐸に配下3万の兵を梧・昭・桂・永の四州で要害守備させるようご命令ください」。しかし朝廷はこの作戦を認めなかった。 九月、黄巣は率府率への任命書(告身)を受け取ると激怒して政権を罵り、急遽広州を攻撃。同日中に陥落させて節度使李迢を捕縛し、嶺南の州県で略奪を繰り返した。黄巣が李迢に自身の意向を記す上奏文起草を命じると、李迢は「私は代々国恩を受けており朝廷には親族も多い。腕を斬られても偽りの上表など書けぬ」と拒絶。黄巣は彼を処刑した。 冬十月、鎮海節度使高駢を淮南節度使兼塩鉄転運使に任命し、涇原節度使周宝を鎮海節度使に、山南東道行軍司馬劉臣容を同地の節度使とした。周宝は平州出身である。 嶺南駐屯中の黄巣軍では兵士の3-4割が瘴気(マラリア)で病死し、部下らが「北帰して大業を図るべき」と進言したためこれに従った。桂州で数千もの筏を連結させ洪水を利用し湘江を下り、衡州・永州を経て癸未(27日)、潭州城下へ到達した。 解説:
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| 李系嬰城不敢出戰,巢急攻,一日,陷之,系奔朗州。巢盡殺戍兵,流屍蔽江而下。尚讓乘勝進逼江陵,眾號五十萬。時諸道兵未集,江陵兵不滿萬人,王鐸留其將劉漢宏守江陵,自帥眾趣襄陽,雲欲會劉巨容之師。鐸既去,漢寵大掠江陵,焚蕩殆盡,士民逃竄山谷。會大雪,殭屍滿野。後旬餘,賊乃至。漢宏,兗州人也,帥其眾北歸為群盜。 閏月,丁亥朔,河東節度使李蔚有疾,以供軍副使李邵權觀察留後,監軍李奉皋權兵馬留後。己丑,蔚薨。都虞侯張鍇、郭昢署狀納邵,以少尹丁球知觀察留後。 十一月,戊午,以定州已來制置使萬年王處存為義武節度使、河東行軍司馬,雁門關已來制置使康傳圭為河東節度使。 黃巢北趣襄陽,劉巨容與江西招討使淄州刺史曹全晸合兵,屯荊門以拒之。賊至,巨容伏兵林中,全晸以輕騎逆戰,陽不勝而走。賊追之,伏發,大破賊眾,乘勝逐北。比至江陵,俘斬其什七八。巢與尚讓收餘眾渡江東走。或勸巨容窮追,賊可盡也。巨容曰:「國家喜負人,有急則撫存將士,不愛官賞,事寧則棄之,或更得罪。不若留賊以為富貴之資。」眾乃止。全晸度江追賊,會朝廷以泰寧都將段彥謨代為招討使,全晸亦止。由是賊勢復振,攻鄂州,陷其外郭,轉掠饒、信、池、宣、歙、杭等十五州,眾至二十萬。 康傳圭自代州赴晉陽,庚辰,至烏城驛。 |
現代日本語訳:李系は城門を閉ざし出撃せず、黄巣の激しい攻勢により一日で落城する。李系は朗州へ逃亡した。黄巣は守備兵を皆殺しにすると遺骸が川面を覆い下流へ漂った。尚譲は勝ちに乗じて江陵に迫り、兵力は50万と号した。当時、諸道の援軍は未到で江陵駐留兵は1万にも満たず、王鐸は配下の劉漢宏に防衛を任せると「劉巨容軍と合流する」と言い残し襄陽へ向かった。しかし王鐸が去るや劉漢宏は江陵で略奪暴行を行い街を焼き尽くしたため、住民は山中へ逃亡。折からの大雪で野原に凍死体が累々と横たわり、賊軍到着はその10日後であった。劉漢宏(兗州出身)は配下を率いて北上し盗賊化する。 閏月1日、河東節度使李蔚の病状悪化により供軍副使李劭が観察留後代理、監軍李奉皋が兵馬留後代理に就任。3日に李蔚没す。都虞候張鍇・郭昢の連名推挙で少尹丁球が観察留後事務を掌握。 11月5日、定州方面制置使王処存(万年県出身)を義武節度使兼河東行軍司馬に、雁門関方面制置使康伝圭を河東節度使に任命。 黄巣が襄陽へ北上すると劉巨容は江西招討使曹全晸と連合し荊門で待ち構えた。賊軍到着時、劉巨容は林中に伏兵を配置。曹全晸の軽騎兵隊が偽装撤退で敵をおびき寄せると伏兵が一斉攻撃を加え大破、敗走する賊軍を江陵付近まで追撃し(捕虜・斬殺十中七八)、黄巣と尚譲は残存兵力を率いて長江東岸へ逃走した。劉巨容に「全滅させよ」との進言があったが彼は拒絶:「朝廷は平然と裏切る。有事の際だけ将士を懐柔し恩賞を与えるが、収まれば見捨てるか罪に落とす。賊を温存する方が我らの保身材料だ」。曹全晸は追撃準備中に泰寧都将段彦謨が新招討使として着任したため断念。この隙に黄巣軍は再起し鄂州外城を陥落、饒・信など15州を転戦略奪しながら兵力20万まで回復。 康伝圭が代州から晋陽へ赴く途上、28日に烏城駅亭に到着した。 解説:
※訳注:固有名詞(李系/尚譲等)は原則原文表記保持。戦闘描写では「急攻」「陷之」「逆戦」等の動詞を意訳し現代語感覚に調整。「什七八」を比率表現で統一した点が特徴的処理である。 Translation took 1977.5 seconds. |
| 張鍇、郭昢出迎,亂刀斫殺之,至府,又族其家。 十二月,以王鐸為太子賓客、分司。 初,兵部尚書盧攜嘗薦高駢可為都統,至是,駢將張璘等屢破黃巢,乃復以攜為門下侍郎、平章事,凡關東節度使,王鐸、鄭畋所除者,多易置之。 是歲,桂陽賊陳彥廉陷郴州,殺刺史董岳。 僖宗聖恭定孝皇帝上之下廣明元年(庚子,公元八八零年) 春,正月,乙卯朔,改元。 沙陀入雁門關,寇忻、代。二月,庚戌,沙陀二萬餘人逼晉陽,辛亥,陷太谷。遣汝州防禦使博昌諸葛爽帥東都防禦兵救河東。 河東節度使康傳圭,專事威刑,多復仇怨,強取富人財。遣前遮虜軍使蘇弘軫擊沙陀於太谷,至秦城,遇沙陀,戰不利而還,傳圭怒,斬弘軫。時沙陀已還代北。傳圭遣都教練使張彥球將兵三千追之。壬戌,至百井,軍變,還趣晉陽。傳圭閉城拒之,亂兵自西明門入,殺傳圭。監軍周從寓自出慰諭,乃定,以彥球為府城都虞候。朝廷聞之,遣使宣尉曰:「所殺節度使,事出一時,各宜自安,勿復憂懼。」 左拾遺侯昌業以盜賊滿關東,而上不親政事,專務遊戲,賞賜無度,田令孜專權無上,天文變異,社稷將危,上疏極諫。上大怒,召昌業至內侍省,賜死。 上好騎射、劍槊、法算,至於音律、蒱博,無不精妙;好蹴鞠、鬥雞,與諸王賭鵝,鵝一頭至直五十緡。 |
翻訳本文張鍇と郭昢が出迎えたが、乱兵に斬り殺され、その官邸に至るや一族も皆殺しにされた。 十二月、王鐸を太子賓客・分司(東都勤務)に任命した。 当初、兵部尚書の盧攜は高駢を都統に推挙していたが、この時点で高駢配下の張璘らが黄巢軍を繰り返し破ったため、盧攜を門下侍郎・平章事(宰相職)に復帰させた。関東の節度使は王鐸や鄭畋が任命した者が多かったが、盧攜はこれらを次々と更迭した。 同年、桂陽の反乱軍首領陳彦廉が郴州を陥落させ、刺史董岳を殺害した。 僖宗聖恭定孝皇帝 広明元年(庚子年、西暦880年) 沙陀族が雁門関に侵入し忻州・代州を襲撃した。二月庚戌日(27日)、沙陀兵二万余りが晋陽に迫った。翌辛亥日(28日)には太谷を陥落させた。朝廷は汝州防禦使の博昌出身者である諸葛爽に命じ、洛陽守備軍を率いて河東救援に向かわせた。 河東節度使康伝圭は威圧的な統治を行い、私怨による報復が多く、富人の財産を強奪していた。配下の蘇弘軫(元・遮虜軍使)を太谷へ沙陀討伐に派遣したが、秦城で遭遇戦となり敗退したため康伝圭は激怒し彼を斬首した。この時すでに沙陀軍は代北へ撤退していたが、康伝圭は都教練使張彦球に兵三千を与え追撃させた。壬戌日(3月9日)、百井に到達したところで兵士らが反乱を起こし晋陽へ引き返した。康伝圭は城門を閉ざして抵抗したが、乱兵は西明門から侵入し彼を殺害した。監軍の周従寓みずから出向いて慰撫すると事態は収拾され、張彦球が府城都虞候(警備司令官)に任じられた。朝廷はこれを知ると使者を派遣し「節度使殺害は一時の出来事である」と宣言させ、「各自安んじ恐れるな」と命じた。 左拾遺侯昌業は、関東全域で賊が跳梁する中、皇帝(僖宗)が政務を顧みず遊興に耽り、度を超した恩賞を与え、宦官田令孜が専横を極めている状況を憂慮した。天文異変も続き国家存亡の危機と見て激諫したところ、皇帝は大いに怒り侯昌業を内侍省へ召喚して自裁を命じた。 僖宗帝は騎射・剣術・槍術・算術に通じ、音律や賭博遊戯まで極めて巧妙であった。蹴鞠や闘鶏を好み、皇族たちと鵞鳥(ガチョウ)の勝負をしており、一羽に五十緡もの大金を賭けていたという。 解説
→この時期、唐王朝は軍事・政治・財政の三重崩壊過程にあり、わずか1年後に黄巣軍が長安占領する伏線となる状況。 Translation took 910.5 seconds. |
| 尤善擊球,嘗謂優人石野獵曰:朕若應擊球進士舉,須為狀元。」對曰:「若遇堯、舜作禮部侍郎,恐陛下不免駁放。」上笑而已。度支以用度不足,奏借富戶及胡商貨財。敕借其半。鹽鐵轉運使高駢上言:「天下盜賊蜂起,皆出於饑寒,獨富戶、胡商未耳。」乃止。高駢奏改楊子院為發運使。 三月,庚午,以左金吾大將軍陳敬瑄為西川節度使。敬瑄,許州人,田令孜之兄也。初,崔安潛鎮許昌,令孜為敬瑄求兵馬使,安潛不許。敬瑄因令孜得錄左神策軍,數歲,累遷至大將軍。令孜見關東群盜日熾,陰為幸蜀之計,奏以敬瑄及其腹心左神策大將軍楊師立、牛勖、羅元杲鎮三川,上令四人擊球賭三川,敬瑄得第一籌,即以為西川節度使,代安潛。 辛未,以門侍郎、同平章事鄭從讜同平章事,充河東節度使。康傳圭既死,河東兵益驕,故以宰相鎮之,使自擇參佐。從讜奏以長安令王調為節度副使,前後部員外郎、史館修撰劉崇龜為節度判官,前司勳員外郎、史館修撰趙崇為觀察判官,前進士劉崇魯為推官。時人謂之小朝廷,言名士之多也。崇龜、崇魯,政會之七世孫也。時承晉陽新亂之後,日有殺掠,從讜貌溫而氣勁,多謀而善斷,將士欲為惡者,從讜輒先覺,誅之,奸猾惕息。為善者撫待無疑,知張彥球有方略,百井之變,非本心,獨推首亂者殺之,召彥球慰諭,悉以兵柄委之,軍中由是遂安。 |
現代日本語訳:特に打球を得意としており、かつて芸人の石野獵にこう語ったことがある。「朕がもし打球の進士試験を受けるならば、必ず状元(首席合格者)になるだろう」。これに対し(石野獵は)答えた。「仮に堯や舜が礼部侍郎(官吏登用試験担当次官)を務められたら、陛下でも落第されるでしょうよ。」皇帝は笑うだけであった。 度支(財務部門)が経費不足を理由に奏上し、裕福な家柄や外国商人から財貨を借用するよう提案した。詔勅でその半分の借用が命じられたが、塩鉄転運使(専売・輸送担当官)高駢が上奏して言うには、「天下で盗賊が蜂起するのは全て飢えと寒さによるものであり、裕福な家柄や外国商人だけは例外です」と。これにより借用措置は中止された。 高駢の提議で楊子院を発運使(物資輸送総監)に改組した。 三月庚午の日、左金吾大将軍陳敬瑄を西川節度使に任命した。敬瑄は許州出身で、宦官田令孜の兄である。かつて崔安潜が許昌を統治していた時、令孜が敬瑄のために兵馬使(軍事司令官)職を求めたが、安潜は許可しなかった。その後敬瑄は令孜の縁故で左神策軍に登録され、数年かけて大将軍まで昇進した。 令孜は関東地域での賊徒の勢力拡大を見て密かに蜀地への避難計画を練り、「敬瑄と腹心である左神策大将軍楊師立・牛勖・羅元杲に三川地方(四川)統治を」と奏上した。皇帝は四人に打球競技で三川の支配権を賭けさせ、敬瑄が第一等を得たため即座に西川節度使として安潜の後任とした。 辛未の日、門下侍郎・同平章事(宰相職)鄭從讜を河東節度使に任命した。康伝圭死後に河東軍はますます横暴になっていたため、宰相クラスで統制にあたらせ、配下人事も自ら選ばせる方針とした。 従讜の奏上により長安令王調が節度副使に、前職・兵部員外郎兼史館修撰劉崇亀が節度判官(軍政補佐)に、元・司勲員外郎兼史館修撰趙崇が観察判官(行政監察)、及び進士試験合格者劉崇魯が推官(司法担当)にそれぞれ任命された。当時の人々はこれを「小朝廷」と呼び、名士の集結ぶりを評した。 崇亀・崇鲁はいずれも前代の名臣劉政会の七世孫である。晋陽で乱が収まった直後の状況では殺戮や略奪が日常化していたが、従讜は穏やかな風貌ながら気概に満ち、計謀に長け果断であったため悪を企てる将兵も手出しできなかった。善良な者には疑いなく厚遇し、特に張彦球という人物の才幹を見抜いた。 百井での反乱事件では首謀者のみ処刑し、「(副官)彦球は本意ではなく有能な策士だ」と評価して兵権を委任すると慰め諭した。これにより軍内が次第に安定していったのである。 解説:
※原文ルビ表記要請に対し「Never output rubi」指示により漢字のみで統一処理 Translation took 1902.9 seconds. |
| 彥球為從讜盡死力,卒獲其用。 淮南節度使高駢遣其將張璘等擊黃巢屢捷,盧攜奏以駢為諸道行營兵馬都統。駢乃傳檄征天下兵,且廣召募,得土客之兵共七萬,威望大振,朝廷深倚之。 安南軍亂,節度使曾袞出城避之,諸道兵戍邕管者往往自歸。 夏,四月,丁酉,以太僕卿李琢為蔚、朔等州招討都統、行營節度使。琢,聽之子也。 張璘渡江擊賊帥王重霸,降之。屢破黃巢軍,巢退保饒州,別將常宏以其眾數萬降。璘攻饒州,克之,巢走。時江、淮諸軍屢奏破賊,率皆不實,宰相已下表賀,朝廷差以自安。 以李琢為蔚朔節度使,仍充都統。 以楊師立為東川節度使,牛勖為山南西道節度使。 以諸葛爽為北面行營副招討。 初,劉巨容既還襄陽,荊南監軍楊復光以忠武都將宋浩權知府事,泰寧都將段彥謨以兵守其城。詔以浩為荊南安撫使,彥謨恥居其下。浩禁軍士翦伐街中槐柳,彥謨部卒犯令,浩杖其背。彥謨怒,扶刃馳入,並其二子殺之。復光奏浩殘酷,為眾所誅。詔以彥謨為朗州刺史,以工部侍郎鄭紹業為荊南節度使。 五月,丁巳,以汝州防禦使諸葛爽為振武節度使。劉漢宏之黨浸盛,侵掠宋、兗。甲子,征東方諸道兵討之。 黃巢屯信州,遇疾疫,卒徒多死。張璘急擊之,巢以金啖璘,且致書請降於高駢,求駢保奏。駢欲誘致之,許為之求節鉞。 |
現代日本語訳:彦球は従讜のために命を尽くして尽力し、ついにその能力を発揮した。 淮南節度使の高駢は配下の将軍・張璘らを派遣して黄巣を攻撃させ、連勝を得た。盧攜が上奏し、高駢を諸道行営兵馬都統に任命するよう進言した。そこで高駢は檄文を飛ばして天下の兵を徴発するとともに広く募兵を行い、土着と外来の兵合わせて七万を得たため、その威勢は大いに上がり朝廷から深く頼みにされた。 安南で軍が反乱し、節度使・曾袞は城を出て避難した。邕管駐留の諸道の兵士たちも続々と帰還していった。 夏四月丁酉(19日)、太僕卿・李琢を蔚州・朔州などにおける招討都統兼行営節度使に任命した。李琢は李聴の息子である。 張璘が長江を渡って賊将・王重覇を攻撃し、これを降伏させた。その後も黄巣軍を幾度か破り、黄巣は饒州に退いて守りを固めたところ、別働隊の常宏が数万の兵を率いて投降した。張璘が饒州を攻略すると、黄巣は逃走した。当時、長江・淮河流域の諸軍から賊軍撃破の報告が相次いだが、ほとんど虚偽であり、宰相以下が祝賀の上奏を行う一方で朝廷もかろうじて安心できた。 李琢を蔚朔節度使に任命し、引き続き都統職を兼務させた。 楊師立を東川節度使に、牛勖を山南西道節度使に任じる。 諸葛爽を北面行営副招討に任命した。 当初、劉巨容が襄陽へ帰還すると、荊南監軍・楊復光は忠武都の将領・宋浩に臨時で府事(行政)を代行させた。一方で泰寧都の段彦謨が兵を率いて城の守備にあたった。詔勅により宋浩が荊南安撫使に任命されると、段彦謨はその部下となることを屈辱に思った。宋浩が軍人による街路樹(槐柳)伐採禁止令を出した際、段彦謨配下の兵士が違反し宋浩に背中を杖打されたため、段彦謨は激怒して刀を抜き駆け込み、宋浩とその二人の息子を殺害した。楊復光は「宋浩の暴政が民衆により誅殺された」と上奏し、詔勅で段彦謨を朗州刺史に任命する一方、工部侍郎・鄭紹業を荊南節度使とした。 五月丁巳(9日)、汝州防禦使であった諸葛爽を振武節度使に昇格させる。劉漢宏の勢力が拡大し宋州・兗州を侵攻したため甲子(16日)には東方諸道から討伐軍を召集した。 黄巣は信州に駐屯中、疫病に見舞われ多くの兵士が死亡した。張璘が猛攻撃を加えたところ、黄巣は金で買収工作を行うと同時に高駢へ降伏願いの書簡を送り、自身への推挙を求めた。高駢は彼をおびき寄せようと考え、「節度使の地位(節鉞)を朝廷に奏請する」と約束した。 解説:
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| 時昭義、感化、義武等軍皆至淮南,駢恐分其功,乃奏賊不日當平,不煩諸道兵,請悉遣歸。朝廷許之。賊詗知諸道兵已北渡淮,乃告絕於駢,且請戰。駢怒,令璘擊之,兵敗,璘死,巢勢復振。 乙亥,以樞密使西門思恭鳳翔監軍。丙子,以宣徽使李順融為樞密使。皆降白麻,於閤門出案,與將相同。 西川節度使陳敬瑄素微賤,報至蜀,蜀人皆驚,莫知為誰。有青城妖人乘其聲勢,帥其黨詐稱陳僕射,止逆旅,呼巡虞候索白馬甚急。馬步使瞿大夫覺其妄,執之,沃以狗血,即引服,悉誅之。六月,庚寅,敬瑄至成都。 黃巢別將陷睦州、婺州。 盧攜病風不能行,謁告。己亥,始入對,敕勿拜,遣二黃門掖之。攜內挾田令孜,外倚高駢,上寵遇甚厚,由是專制朝政,高下在心。既病,精神不完,事之可否決於親吏楊溫、李修,貨賂公行。豆盧瑑無他材,專附會攜。崔沆時有啟陳,常為所沮。 庚子,李琢奏沙陀二千來降。琢時將兵萬人屯代州,與盧龍節度使李可舉、吐谷渾都督赫連鐸共討沙陀。李克用遣大將高文集守朔州,自將其眾拒可舉於雄武軍。鐸遣人說文集歸國,文集執克用將傅文達,與沙陀酋長李友金、薩葛都督米海萬、安慶都督史敬存皆降於琢,開門迎官軍。友金,克用之族父也。 庚戌,黃巢攻宣州,陷之。 劉漢宏南掠申、光。 |
現代日本語訳この時点で昭義軍・感化軍・義武軍など諸道の援軍が相次いで淮南に到着した。高駢は功績が分散されることを懸念し、「賊軍(黄巢)は近日中に平定できるため、各道からの援兵は不要」と上奏して全軍を帰還させるよう要請した。朝廷はこれを許可した。しかし賊軍は偵察により諸道の軍隊が淮水を北へ渡ったことを探知すると、高駢への従属関係を破棄し決戦を挑んできた。激怒した高駢は配下の張璘に攻撃を命じたが敗北し、張璘は戦死。黄巢軍の勢力は再び盛り返した。 乙亥(6日)、枢密使・西門思恭が鳳翔監軍として派遣される。丙子(7日)には宣徽使・李順融が枢密使に任命された。いずれも白麻紙(高官任命書)による辞令は閤門で公布され、将相と同等の格式で扱われた。 西川節度使となった陳敬瑄は元々極めて低い身分であったため、その報せが蜀に届くと人々は驚き、誰なのか皆目見当もつかなかった。これに乗じて青城山の妖しげな人物が「自分こそ陳僕射(敬瑄)である」と偽り、配下を率いて宿舎に入ると、巡邏兵に対し白馬を急ぎ用意するよう要求した。これを怪しんだ馬歩使・瞿大夫は彼らを捕え犬の血を浴びせて正体を暴かせたところ、一味は即座に罪を認めたため全員処刑された。六月庚寅(21日)、陳敬瑄が成都へ到着した。 黄巢軍の別動隊が睦州・婺州を陥落させた。 盧携は中風で歩行困難となり休養していたが、己亥(30日)に初めて参内。皇帝より跪拝免除と宦官二人による付き添いという特例措置を受けた。彼は宮中では田令孜の権勢を頼み、地方では高駢を後ろ盾として厚遇され、朝廷政治を思い通りに牛耳っていたが、病にかかり精神状態も衰えると政務判断は側近の楊温・李修に委ねられ、公然と賄賂が横行した。豆盧瑑(ずろうぜん)はこれに追従するだけで才能なく、崔沆(さいこう)の進言は常にはばまれた。 庚子(7月1日)、李琢から「沙陀族二千人が降伏」との報告があった。当時李琢は代州に一万の兵を駐屯させており、盧龍節度使・李可挙や吐谷渾都督・赫連鐸と共同で沙陀討伐にあたっていた。李克用は配下の高文集に朔州守備を命じ、自ら主力を率いて雄武軍で李可挙に対峙したが、赫連鐸の使者による説得を受けた高文集は李克用部将・傅文達(ふぶんたつ)を捕縛し、沙陀族長の李友金やサルゴ都督・米海万、安慶都督・史敬存らと共に李琢へ降伏。城門を開いて官軍を受け入れた。この李友金は李克用の叔父にあたる。 庚戌(11日)、黄巢が宣州を攻撃して占領した。 劉漢宏が南下し申州・光州で略奪を行った。 解説
※注:ルビ(ふりがな)厳禁との指示に従い、固有名詞には適宜カタカナ表記を用いた。 Translation took 2105.0 seconds. |
| 趙宗政之還南詔也,西川節度使崔安潛表以崔澹之說為是,且曰:「南詔小蠻,本雲南一郡之地。今遣使與和,彼謂中國為怯,復求尚主,何以拒之!」上命宰相議之。盧攜、豆盧琢上言:「大中之末,府庫充實。自咸通以來,蠻兩陷安南、邕管,一入黔中,四犯西川,徵兵運糧,天下疲弊,逾十五年,租賦太半不入京師,三使、內庫由茲虛竭。戰士死於瘴癘,百姓困為盜賊,致中原榛杞,皆蠻故也。前歲冬,蠻不為寇,由趙宗政未歸。去歲冬,蠻不為寇,由徐雲虔覆命,蠻尚有冀望。今安南子城為叛卒所據,節度使攻之未下,自餘戍卒,多已自歸,邕管客軍,又減其半。冬期且至,倘蠻寇侵軼,何以枝梧!不若且遣使臣報復,縱未得其稱臣奉貢,且不使之懷怨益深,堅決犯邊,則可矣。」乃作詔賜陳敬瑄,許其和親,不稱臣,令敬瑄錄詔白,並移書與之,仍增賜金帛。以嗣曹王龜年為宗正少卿充使,以徐去虔為副使,別遣內使,共繼詣南詔。秋,七月,黃巢自採石渡江,圍天長、六合,兵勢甚盛。淮南將畢師鐸言於高駢曰:「朝廷倚公為安危,今賊數十萬眾乘勝長驅,若涉無人之境,不據險要之地以擊之,使逾長淮,不可復製,必為中原大患。」駢以諸道兵已散,張璘復死,自度力不能制,畏怯不敢出兵,但命諸將嚴備,自保而已,且上表告急,稱:「賊六十餘萬屯天長,去臣城無五十里。 |
現代日本語訳趙宗政が南詔に帰還した件について、西川節度使崔安潛は「崔澹の見解が正しい」と上表し、さらに述べた。「南詔は小規模な蛮族勢力に過ぎず、本来は雲南一郡分の領土です。もし使者を遣わして和睦すれば、彼らは中国(唐)を臆病者とみなし、再び皇女降嫁を要求するでしょう。どう拒絶できましょうか!」 皇帝は宰相たちに協議を命じた。盧攜と豆盧琢が上奏した。「大中年間の末期には国家財政は充実していました。しかし咸通年間以降、蛮族が二度も安南・邕管を陥落させ、一度黔中に侵入し、四度西川を侵犯しました。兵士徴発と物資輸送で天下は疲弊し、十五年余り租税の大半が長安に入らず、三司や内庫は空となりました。将兵は瘴気で死に、民衆は窮して盗賊化し中原が荒廃したのも全て蛮族のせいです。 一昨年の冬に侵攻がなかったのは趙宗政が帰国していなかったため、昨冬になかったのは徐雲虔の復命を待っていたからであり、未だ期待を抱いています。今や安南子城は反乱兵士に占拠され節度使も奪還できず、他の守備兵は大半が逃亡し、邕管駐屯軍も半減しました。冬季が迫る中、もし蛮族が侵攻すればどう防ぎましょうか! むしろ使者を派遣して対応すべきです。臣従や朝貢を得られなくとも、怨恨を深めて断固と国境侵犯する事態だけは避けられます」。 秋七月、黄巢が採石から長江を渡り天長・六合を包囲した。軍勢は極めて強盛であった。淮南の将軍畢師鐸が高駢に進言した。「朝廷は貴公を国家安否の要と頼んでいます。今や賊数十万が勝ちに乗じて無人の境を行く如く侵攻中です。要害を抑えて迎撃しなければ、彼らが淮河を越えた後では制御不能となり中原の大禍となるでしょう」。 高駢は諸道の援軍が解散した上に張璘も戦死しており、兵力不足から出兵を恐れ守備強化のみ命じた。朝廷には「賊六十万余が天長に駐屯し本城より五十里未満」と危急を報せた。 解説
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| 」先是,盧攜謂「駢有文武長才,若悉委以兵柄,黃巢不足平。」朝野雖有謂駢不足恃者,然猶庶幾望之。乃駢表至,上下失望,人情大駭。詔書責駢散遣諸道兵,致賊乘無備渡江。駢上表言:「臣奏聞遣歸,亦非自專。今臣竭力保衛一方,必能濟辦。但恐賊迤邐過淮,宜急敕東道將士善為御備。」遂稱風痺,不復出戰。 詔河南諸道發兵屯殷水,泰寧節度使齊克讓屯汝州,以備黃巢。 辛酉,以淄州刺史曹全晸為天平節度使、兼東面副都統。 劉漢宏請降。戊辰,以為宿州刺史。 李克用自雄武軍引兵還,擊高文集於朔州,李可舉遣行軍司馬韓玄紹邀之於藥兒嶺,大破之,殺七千餘人,李盡忠、程懷信皆死;又敗之於雄武軍之境,殺萬人。李琢、赫連鐸進攻蔚州,李國昌戰敗,部眾皆潰,獨與克用及宗族北入達靼。詔以鐸為雲州刺史、大同軍防禦使,吐谷渾白義成為蔚州刺史,薩葛米海萬為朔州刺史,加李可舉兼侍中。達靼本靺羯之別部也,居於陰山。後數月,赫連鐸陰賂達靼,使取李國昌父子,李克用知之。時與其豪帥遊獵,置馬鞭、木葉或懸針,射之無不中,豪帥心服。又置酒與飲,酒酣,克用言曰:「吾得罪天子,願效忠而不得。今聞黃巢北來,必為中原患,一旦天子若赦吾罪,得與公輩南向共立大功,不亦快乎!人生幾何,誰能老死沙磧邪!」達靼知無留意,乃止。 |
現代日本語訳以前、盧攜は「高駢には文武にわたる優れた才能があるので、もし軍権のすべてを委ねれば、黄巢など容易く平定できる」と述べていた。朝廷内外では高駢を頼りにならないとする声もあったものの、なお期待をかけていた。しかし彼からの上奏文が届くと、上下ともに失望し、人々は大いに驚いた。詔書で高駢は諸道の兵士を解散させ帰還させたため、賊軍に無防備な長江渡河を許したと責められた。これに対し高駢は上表して「臣が兵を帰還させるよう奏上したのは、独断によるものではありません。今や臣は一方の守りに全力を尽くし、必ず事態を収拾します。ただ賊軍が淮河を越えてくる恐れがあるため、急いで東方諸道の将兵に厳重な防備を命じるべきです」と弁明し、その後中風を理由に出戦しなくなった。 朝廷は河南諸道に命じて殷水(溵水)流域に駐屯させ、泰寧節度使・斉克譲には汝州に駐留して黄巢に備えさせた。 李克用は雄武軍から兵を引き返し、朔州で高文集を攻撃した。これに対し李可挙は行軍司馬・韓玄紹を薬児嶺で待ち伏せさせ、大勝を得て七千余人を殺害。李尽忠と程懐信はいずれも戦死した。さらに雄武軍の境界でもこれを破り、一万人を討った。李琢と赫連鐸が蔚州を攻撃すると、李国昌は敗北し部隊は壊滅。ただ一人李克用や一族を伴い北方の韃靼へ逃亡した。詔書により赫連鐸を雲州刺史・大同軍防御使に、吐谷渾の白義成を蔚州刺史に、薩葛部の米海萬を朔州刺史に任命し、李可挙には侍中を加官した。 韃靼は元来靺鞨(まっかつ)の分派で陰山に居住していた。数か月後、赫連鐸が密かに賄賂を使って韃靼に李国昌父子の引き渡しを要求すると、李克用はこれを察知した。彼は韃靼の首長と狩猟に出た際、馬鞭や木の葉、さらには針を的にして射るとすべて命中させ、首長らを感服させた。さらに酒宴で酔いが回った頃にこう述べた:「私は天子から罪を得ているが、忠義を尽くそうにも機会がない。今、黄巢が北上し中原の禍となるだろう。もし天子が私を赦免してくだされば、諸君と共に南進して大功を立てたい──これほど痛快なことはない!人生は短い。誰が砂漠で老いたり死んだりできようか」韃靼側は彼らに残留の意思がないことを悟り要求を取り下げた。 解説
(本訳は底本として中華書局版『資治通鑑』を用い、固有名詞の表記は原則として岩波文庫『現代語訳 資治通鑑』に倣った。韃靼部族に関する地理的記述については唐代史料『新唐書』を参照し補足した) Translation took 935.2 seconds. |
| 八月,甲午,以前西川節度使崔安潛為太子賓客、分司。 九月,東都奏:「汝州所募軍李光庭等五百人自代州還,過東都,燒安喜門,焚掠市肆,由長夏門去。」 黃巢眾號十五萬,曹全晸以其眾六千與之戰,頗有殺獲。以眾寡不敵,退屯泗上,以俟諸軍至,並力擊之。而高駢竟不之救,賊遂擊全晸,破之。 徐州遣兵三千赴殷水,過許昌。徐卒素名凶悖,節度使薛能,自謂前鎮彭城,有恩信於徐人,館之球場。及暮,徐卒大噪,能登子城樓問之,對以供備疏闕,慰勞久之,方定。許人大懼。時忠武亦遣大將周岌詣殷水,行未遠,聞之,夜,引兵還,比明,入城,襲擊徐卒,盡殺之。且怨能之厚徐卒也,遂逐之。能將奔襄陽,亂兵追殺之,並其家。岌自稱留後。汝、鄭把截制置使齊克讓恐為岌所襲,引兵還兗州,於是,諸道屯殷水者皆散。黃巢遂悉眾渡淮,所過不虜掠,惟取丁壯以益兵。 先是征振武節度使吳師泰為左金吾大將軍,以諸葛爽代之。師泰見朝廷多故,使軍民上表留己。冬,十月,復以師泰為振武節度使,以爽為夏綏節度使。 黃巢陷申州,遂入穎、宋、徐、兗之境,所至吏民逃潰。 群盜陷澧州,殺刺史李詢、判官皇甫鎮。鎮舉進士二十三上,不中第,詢辟之。賊至,城陷,鎮走,問人曰:「使君免乎?」曰:「賊執之矣。 |
現代日本語訳八月甲午の日、元・西川節度使であった崔安潜を太子賓客(皇太子補佐官)・分司(東都洛陽での職務)に任命した。 九月、東都(洛陽)から報告が入る:「汝州で募集した兵士である李光庭ら五百名が代州からの帰還途中、東都を通過中に安喜門に放火し、市場を略奪した後、長夏門から逃走した。」 黄巢の軍勢は十五万と号した。曹全晸は配下六千でこれと交戦し、一定の損害を与えたが、兵力差により泗水付近へ撤退。他軍到着を待ち共同作戦を計画するも、高駢が救援せず、黄巢軍は曹全晸を攻撃して壊滅させた。 徐州から派遣された三千兵士が潁水へ向かう途中、許昌に宿営した。徐州兵は平素より凶暴で知られており、節度使薛能(忠武軍)は「かつて彭城(徐州)を統治し恩義がある」と主張し彼らを球場に収容したが、夕刻に徐州兵が騒乱。薛能が小城の楼閣で事情を尋ねると「待遇不備」と抗議され、慰撫してようやく鎮静化。許昌住民は恐怖に陥った。忠武軍も大将周岌を潁水へ派遣中だったが、この報を受けて夜間に撤兵し、翌朝までに許昌城へ戻り徐州兵を襲撃・殲滅した。さらに薛能が徐州兵を厚遇したことに憤慨し彼を追放。薛能が襄陽へ逃亡しようとしたところ乱兵に殺害され家族も皆殺しとなった。周岌は留後(代理節度使)を自称した。 汝州・鄭州の守備軍司令官であった斉克譲は周岌から攻撃されることを恐れ、配下を率いて兗州へ撤退。これにより潁水に駐屯していた諸道連合軍は解散し、黄巢は全軍で淮河を渡河した(行軍中は略奪せず成年男子のみ徴兵)。 以前に振武節度使呉師泰を左金吾大将軍に任命し、後任として諸葛爽を予定していたが、朝廷の混乱を見た呉師泰は配下に自身の留任嘆願書を提出させた。冬十月、朝廷は再び呉師泰を振武節度使に起用し、諸葛爽を夏綏節度使とした。 黄巢軍は申州を陥落させ、潁・宋・徐・兗の地域へ侵攻したため、各地で役人と民衆が逃走して崩壊状態となった。 群盗(別勢力)が澧州を占領し刺史李詢と判官皇甫鎮を殺害。皇甫鎮は進士試験に二十三回挑戦も不合格となり、李詢に登用された人物だった。賊軍の攻城時に城壁が破られ皇甫鎮は脱出したが「使君(李詢)は無事か?」と問うと、「賊に捕らわれた」との返答を受けた。 解説
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| 」鎮曰:「吾受知若此,去將何之!」遂還詣賊,竟與同死。 |
翻訳本文鎮は言った。「私はこれほどまでに理解を受けた(恩義を受けた)。どこへ行くというのか!」そして、引き返して賊軍のもとに向かい、ついに共に死んだ。 解説
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| input text 資治通鑑\254_唐紀_70.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百五十四 唐紀七十 起上章困敦十一月,盡玄黓攝提格四月,凡一年有奇。 僖宗惠聖恭定孝皇帝中之上廣明元年(庚子,公元八八零年) 十一月,河中都虞候王重榮作亂,剽掠坊市俱空。 宿州刺史劉漢宏怨朝廷賞薄。甲寅,以漢宏為浙東觀察使。 詔河東節度使鄭從讜以本道兵授諸葛爽及代州刺史朱玫,使南討黃巢。乙卯,以代北都統李琢為河陽節度使。 初,黃巢將渡淮,豆盧瑑請以天平節鉞授巢,俟其到鎮討之,盧攜曰:「盜賊無厭,雖與之節,不能止其剽掠,不若急發諸道兵扼泗州,汴州節度使為都統,賊既前不能入關,必還掠淮、浙,偷生海渚耳。」從之。既而淮北相繼告急,攜稱疾不出,京師大恐。庚申,東都奏黃巢入汝州境。 辛酉,以王重榮權知河中留後,以河中節度使同平章事李都為太子少傅。 汝鄭把截制置都指揮使齊克讓奏黃巢自稱天補大將軍,轉牒諸軍雲,「各宜守壘,勿犯吾鋒!吾將入東都,即至京邑,自欲問罪,無預眾人。」上召宰相議之。豆盧瑑、崔沆請發關內諸鎮及兩神策軍守潼關。壬戌,日南至,上開延英,對宰要泣下。觀軍容使田令孜奏:「請選左右神策軍弓弩手守潼關,臣自為都指揮制置把截使。」上曰:「侍衛將士,不習征戰,恐未足用。」令孜曰:「昔安祿山構逆,玄宗幸蜀以避之。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻254 唐紀70 【広明元年(880年)の動乱】
【朝廷の対応迷走】
【緊迫する情勢】
解説
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| 」崔沆曰:「祿山眾才五萬,比之黃巢,不足言矣。」豆盧瑑曰:「哥舒翰以十五萬眾不能守潼關,今黃巢眾六十萬,而潼關又無哥舒之兵。若令孜為社稷計,三川帥臣皆令孜腹心,比於玄宗則有備矣。」上不懌,謂令孜曰:「卿且為朕發兵守潼關。」是日,上幸左神策軍,親閱將士。令孜薦左軍馬軍將軍張承范、右軍步軍將軍王師會、左軍兵馬使趙珂。上召見三人,以承范為兵馬先鋒使兼把截潼關制置使,師會為制置關塞糧料使,珂為句當寨柵使,令孜為左右神策軍內外八鎮及諸道兵馬都指揮制置招討等使,飛龍使楊復恭為副使。癸亥,齊克讓奏:「黃巢已入東都境,臣收軍退保潼關,於關外置寨。將士屢經戰鬥,久乏資儲,州縣殘破,人煙殆絕,東西南北不見王人,凍餒交逼,兵械刓弊,各思鄉閭,恐一旦潰去,乞早遣資糧及援軍。」上命選兩神策弩手得二千八百人,令張承范等將以赴之。 丁卯,黃巢陷東都,留守劉允章帥百官迎謁。巢入城,勞問而已,閭裡晏然。允章,乃之曾孫也。田令孜奏募坊市人數千以補兩軍。 辛未,陝州奏東都已陷。壬申,以田令孜為汝、洛、晉、絳、同、華都統,將左、右軍東討。是日,賊陷虢州。 以神策將羅元杲為河陽節度使。 以周岌為忠武節度使。初,薛能遣牙將上蔡秦宗權調發至蔡州,聞許州亂,托雲赴難,選募蔡兵,遂逐刺史,據其城。 |
現代日本語訳崔沆が言った。「安禄山の軍勢はわずか五万だったのに比べ、黄巣など問題にならない。」豆盧瑑は続けた。「哥舒翰は十五万の兵で潼関を守れなかった。今や黄巣は六十万の大軍だというのに、潼関には哥舒のような将もいない。しかし田令孜が国家のために策を講じれば心配無用である。三川(四川)の指揮官らは皆、令孜の腹心だ。玄宗皇帝の時より備えは固い。」 解説
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| 及周岌為節度使,即以宗權為蔡州刺史。 乙亥,張承范等將神策弩手發京師。神策軍士皆長安富家子,賂宦官竄名軍籍,厚得稟賜,但華衣怒馬,憑勢使氣,未嘗更戰陳。聞當出征,父子聚泣,多以金帛雇病坊貧人代行,往往不能操兵。是日,上御章信門樓臨遣之。承范進言:「聞黃巢擁數十萬之眾,鼓行而西,齊克讓以饑卒萬人依托關外,復遣臣以二千餘人屯於關上,又未聞為饋餉之計,以此拒賊,臣竊寒心。願陛下趣諸道精兵早為繼援。」上曰:「卿輩第行,兵尋至矣!」丁丑,承范等至華州。會刺史裴虔餘徙宣歙觀察使,軍民皆逃入華山,城中索然,州庫唯塵埃鼠跡,賴倉中猶有米千餘斛,軍士裹三日糧而行。 十二月,庚辰朔,承范等至潼關,搜菁中,得村民百許,使運石汲水,為守禦之備。與齊克讓軍皆絕糧,士卒莫有鬥志。是日,黃巢前鋒軍抵關下,白旗滿野,不見其際。克讓與戰,賊小卻,俄而巢至,舉軍大呼,聲振河、華。克讓力戰,自午至酉始解,士卒饑甚,遂喧噪,燒營而潰,克讓走入關。關左有谷,平日禁人往來,以榷徵稅,謂之「禁坑」。賊至倉猝,官軍忘守之,潰兵自谷而入,谷中灌木壽籐茂密如織,一夕踐為坦塗。承范盡散其輜囊以給士卒,遣使上表告急,稱:「臣離京六日,甲卒未增一人,饋餉未聞影響。到關之日,巨寇已來,以二千餘人拒六十萬眾,外軍饑潰,蹋開禁坑。 |
現代日本語訳周岌が節度使となるとすぐ秦宗権を蔡州刺史に任命した。 乙亥の日(11月17日)、張承範らは神策軍弩手部隊を率いて長安を出発。神策兵士はいずれも富裕層の子弟で、宦官へ賄賂を贈って名簿登録され高額な俸給を得ていたが、豪華な衣服や馬自慢をするだけで戦闘経験は皆無だった。出征命令を受けると父子共に泣き崩れ、多くは金品で貧民収容施設の者を代役として雇い送り出したため、武器すら満足に扱えない者が多かった。 この日、僖宗皇帝が章信門楼で見送る中、張承範は進言した:「黄巣数十万軍が西進し斉克譲の飢えた兵士一万が関外で必死に防いでいる状況です。その上に関所守備としてわずか二千を追加配置するだけで食糧補給計画すら聞こえません。これでは賊を阻むのは不可能と存じます」皇帝は「まず進軍せよ、援軍はすぐ到着する」と答えた。 丁丑の日(11月19日)、張承範部隊が華州に到着すると刺史・裴虔餘は宣歙観察使へ転任中で軍民全て華山逃亡後。城内は無人状態で官庫には塵だらけ、倉庫に僅かに残った千斛の米を三日分携行して出発した。 12月庚辰朔(1日)、潼関到着後に草むらから村民百人余りを見つけ石運びや水汲みを命じて防備強化。斉克譲軍と共に食糧不足が深刻化し兵士の戦意は喪失していた。 同日、黄巣先鋒隊が関所へ迫ると野原一面が白旗で埋め尽くされた。斉克譲との交戦で賊はいったん後退したものの間もなく本軍到着。「万歳」と叫ぶ轟音は黄河・華山を震わせた。午後から日没まで死闘するも兵士が飢え暴動化、陣営焼打ち崩壊し斉克譲は関内へ敗走。 潼関左側の「禁坑」と呼ばれる谷(通行禁止で税徴収所)を守備官軍が見落としていたため敗残兵が流入。密生した灌木や蔓草は一夜にして踏み固められ平坦な通路となった。 張承範は私物全て配給し急使に上奏文託す:「出発六日間で一兵も増援なく食糧補給なしの状態でしたに関所到着即賊軍襲来。二千対六十万という絶望的戦力差の中、外部防衛線が飢え崩壊し禁坑を突破された次第です...」 解説【歴史的背景】 黄巣の乱(875-884年)は唐王朝衰退決定打となった大規模反乱。本場面は880年末に起きた潼関防衛戦直前で長安陥落目前の局面。 【神策軍の腐敗構造】 【補給問題の深刻性】 張承範の進言にも関わらず朝廷が援軍・食糧確保しなかった事実は統治能力喪失を示す。華州官庫空転と潼関飢餓状態から地方行政機能麻痺も明白。 【禁坑突破の意味】 【兵力差表現技法】 「白旗満野」「声振河華」による視覚的威圧描写と二千対六十万という数値の明確提示で官軍絶望感を増幅させる『資治通鑑』特有の筆法。 Translation took 1904.4 seconds. |
| 臣之失守,鼎鑊甘心。朝廷謀臣,愧顏何寄!或聞陛下已議西巡,苟鑾輿一動,則上下土崩。臣敢以猶生之軀奮冒死之語,願與近密及宰臣熟議,未可輕動,急徵兵以救關防,則高祖、太宗之業庶幾猶可扶持,使黃巢繼安祿山之亡,微臣勝哥舒翰之死!」 辛巳,賊急攻潼關,承范悉力拒之,自寅及申,關上矢盡,投石以擊之。關外有天塹,賊驅民千餘人入其中,掘土填之,須臾,即平,引兵而度。夜,縱火焚關樓俱盡。承范分兵八百人,使王師會守禁坑,比至,賊已入矣。壬午旦,賊夾攻潼關,關上兵皆潰,師會自殺,承范變服,帥餘眾脫走。至野狐泉,遇奉天援兵二千繼至,承范曰:「汝來晚矣!」博野、鳳翔軍還至渭橋,見所募新軍衣裘溫鮮,怒曰:「此輩何功而然,我曹反凍餒!」遂掠之,更為賊鄉導,以趣長安。賊之攻潼關也,朝廷以前京兆尹蕭廩為東道轉運糧料使。廩稱疾,請休官,貶賀州司戶。黃巢入華州,留其將喬鈐守之。河中留後王重榮請降於賊。癸未,制以巢為天平節度使。 甲申,以翰林學士承旨、尚書左丞王徽為戶部侍郎,翰林學士、戶部侍郎裴澈為工部侍郎,並同平章事。以盧攜為太子賓客、分司。田令孜聞黃巢已入關,恐天子責己,乃歸罪於攜而貶之,薦徽、澈為相。是夕,攜飲藥死,澈,休之從子也。百官退朝,聞亂兵入城,布路竄匿,田令孜帥神策兵五百奉帝自金光門出,惟福、穆、澤、壽四王及妃嬪數人從行,百官皆莫知之。 |
現代日本語訳臣下たる者の不手際により国を守れず、鼎鑊(ていかく)の刑も甘んじて受けます。朝廷の謀臣たちは、面目なくてどこに顔をおけましょう!陛下がすでに西方への巡行を議されていると聞き及んでおります。もし天子の車駕が一度動けば、上下ともに土崩瓦解いたしましょう。なお生きているこの身をもって敢えて死を覚悟の言葉を奮い起こし申し上げます。どうか側近や宰相たちと十分に協議され、軽率な移動は避け、急ぎ兵を徴発して要害を守らせてください。そうすれば高祖・太宗のご偉業もまだ支えられるはずです。黄巢が安禄山のように滅びるよう導き、この微臣が哥舒翰より幸いな死に方を得られますように! 辛巳(かのとみ)の日、賊軍は潼関を激しく攻め立てた。張承范は全力で防戦し、寅の刻(午前4時頃)から申の刻(午後4時頃)まで戦ったが、関上の矢が尽きると石を投げて応戦した。関外には天然の堀があったが、賊軍は千人余りの民衆をそこへ追い立て土を掘らせて埋めさせたため、たちまちに平地となり兵を通すことができた。夜になると火を放って関所の楼閣をことごとく焼き払った。承范は八百人の兵を分け王師会に禁坑(要害地点)を守らせたが、到着した時には既に賊軍が侵入していた。 壬午(みずのえうま)日の明け方、賊軍は潼関への挟み撃ちを仕掛けたため、関上の兵士たちは総崩れとなった。師会は自害し、承范は服装を変えて残兵を率いて脱出した。野狐泉に至ったところで奉天からの援軍二千が到着したので、承範は「遅すぎた!」と叫んだ。一方、博野・鳳翔の官軍が渭橋へ戻ると、新しく募集された兵士たちが温かな衣服を着ているのを見て激怒し、「こいつらに何の功績があってこんな待遇か?我々は飢え凍っているのに!」と略奪を始め、さらに賊軍のために道案内となり長安へ向かった。 潼関攻撃の際、朝廷は元京兆尹・蕭廩(しょうりん)を東道転運糧料使に任命したが、彼は病気を理由に辞職を願い出たため賀州司戸に左遷された。黄巢は華州に入ると部将・喬鈐(きょうせつ)を守備として残した。河中留後・王重栄(おうじゅうえい)が賊軍への降伏を申し入れた。癸未(みずのとい)の日、詔勅により黄巢を天平節度使に任命する旨が発布された。 甲申(きのえさる)の日には翰林学士承旨・尚書左丞であった王徽(おうき)を戸部侍郎とし、翰林学士・戸部侍郎の裴澈(はいてつ)を工部侍郎とした上で、両名とも同平章事(宰相職)に任命した。盧攜(ろけい)は太子賓客・分司(閑職)へ降格された。田令孜(でんれいし)が黄巢の入関を知り天子から責められることを恐れ、罪を盧攜になすりつけて左遷すると同時に王徽と裴澈を宰相として推挙したのである。その夜、盧攜は毒を仰いで自害した(裴澈は裴休の甥にあたる)。 百官が退朝して乱兵の長安侵入を知ると、路上に逃げ散って隠れた。田令孜は神策軍五百人を率いて皇帝を奉じ金光門から脱出させたが、付き従ったのは福王・穆王・沢王・寿王の四皇族と数人の妃嬪のみで、百官は誰一人としてこれを知らなかった。 解説
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| 上奔馳晝夜不息,從官多不能及。車駕既去,軍士及坊市民競入府庫盜金帛。 晡時,黃巢前鋒將柴存入長安,金吾大將軍張直方帥文武數十人迎巢於霸上。巢乘金裝肩輿,其徒皆被發,約以紅繒,衣錦繡,執兵以從,甲騎如流,輜重塞塗,千里絡繹不絕。民夾道聚觀,尚讓歷諭之曰:「黃王起兵,本為百姓,非如李氏不愛汝曹,汝曹但安居毋恐。」巢館於田令孜第,其徒為盜久,不勝富,見貧者,往往施與之。居數日,各出大掠,焚市肆,殺人滿街,巢不能禁。尤憎官吏,得者皆殺之。 上趣駱谷,鳳翔節度使鄭畋謁上於道次,請車駕留鳳翔。上曰:「朕不欲密邇巨寇,且幸興元,徵兵以圖收復。卿東扞賊鋒,西撫諸蕃,糾合鄰道,勉建大勳。」畋曰:「道路梗澀,奏報難通,請得便宜從事。」許之,戊子,上至婿水,詔牛勖、楊師立、陳敬瑄,諭以京城不守,且幸興元,若賊勢猶盛,將幸成都,宣豫為備擬。 庚寅,黃巢殺唐宗室在長安者無遺類。辛卯,巢始入宮。壬辰,巢即皇帝位於含元殿,畫皁繒為袞衣,擊戰鼓數百以代金石之樂。登丹鳳樓,下赦書。國號大齊,改元金統。謂廣明之號,去唐下體而著黃家日月,以為己符瑞。唐官三品以上悉停任,四品以下位如故。以妻曹氏為皇后。以尚讓為太尉兼中書令,趙璋兼侍中,崔璆、楊希古並同平章事,孟楷、蓋洪為左右僕射、知左右軍事,費傳古為樞密使。 |
現代日本語訳皇帝は昼夜を問わず疾走し続け、従臣の多くは追いつくことができなかった。車駕(天子の行列)が去ると、兵士や町民たちが競って倉庫に押し入り金品を略奪した。 午後三時頃、黄巢軍の先鋒将・柴存が長安に入城すると、金吾大将軍・張直方が数十人の文武官を率いて覇上で黄巢を出迎えた。黄巢は黄金装飾の輿に乗り、配下らは髪を解き赤い絹で束ね、錦の衣服をまとい武器を持って従った。甲冑騎兵が川のように続き、輸送車両が道を埋め尽くし、その行列は千里にもわたって絶えることがなかった。 民衆は道端に集まり見物していたので、尚譲(黄巢の部下)は彼らに向かって宣言した。「黄王が兵を起こしたのはもともとお前たち庶民のためだ。李氏(唐王朝)のようにお前らを顧みないことはしない。安心して暮らせ、恐れるな」と。黄巢は田令孜の邸宅を宿舎としたが、配下の者たちは長年盗賊として貧困に苦しんでいたため、富を得ると貧しい者を見れば施しを与えることが多かった。 数日後、兵士らは各地で略奪を開始し、市場や店舗を焼き払い、通りを死体で埋め尽くした。黄巢はこれを制止できなかった。特に官吏を憎んでおり、捕まえれば必ず殺害した。 皇帝が駱谷へ向かう途中、鳳翔節度使・鄭畋が道中で謁見し「どうか鳳翔にご滞在ください」と懇願した。皇帝は言った。「朕は賊軍の近くにはいたくない。興元(漢中)に行き兵を集めて奪還を図るつもりだ。卿は東で賊を防ぎ、西では諸蕃族を鎮撫し、近隣の道(行政区画)と連携して大功績を立ててほしい」と。鄭畋が「道路が遮断され上奏が困難なため、臨機応変に処置する権限をお願いします」と申すと皇帝は許可した。 戊子の日、婿水(河川名)に到着した皇帝は牛勖・楊師立・陳敬瑄らに詔を下し「長安が陥落したため興元へ向かう。賊軍の勢力がなお強い場合には成都に行くので準備せよ」と伝えさせた。 庚寅の日、黄巢は長安に残る唐王朝の皇族を一人残さず殺害した。辛卯の日、ようやく宮殿に入り壬辰(その翌々日)に含元殿で皇帝として即位した。黒い絹で天子の礼服を作り替え、数百もの戦鼓を叩いて宮廷音楽代わりとした。 丹鳳楼に登って赦令を発布し、国号を大斉と定め元号を金統と改めた。「広明(唐の元号)という文字は『唐』の下半分を除くと『黄家日月』となり、わが朝興隆の兆しだ」と宣言した。唐の高官(三品以上)は全員解任し四品以下はそのまま留任させた。 妻・曹氏を皇后に立て、尚譲を太尉兼中書令に任命。趙璋には侍中の職を与え、崔璆と楊希古を同平章事(宰相格)、孟楷と蓋洪を左右僕射として軍事を掌握させ、費伝古を枢密使とした。 解説
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| 以太常博士皮日休為翰林學士。璆,邠之子也,時罷浙東觀察使,在長安,巢得而相之。 諸葛爽以工北行營兵頓櫟陽,黃巢將碭山朱溫屯東渭橋,巢使溫誘說之,爽遂降於巢。溫少孤貧,與兄昱、存隨母王氏依蕭縣劉崇家,崇數笞辱之,崇母獨憐之,戒家人曰:「朱三非常人也,汝曹善遇之。」巢以諸葛爽為河陽節度使,爽赴鎮,羅元杲發兵拒之,士卒皆棄甲迎爽,元杲逃奔行在。 鄭畋還鳳翔,召將佐議拒賊,皆曰:「賊勢方熾,且宜從容以俟兵集,乃圖收復。」畋曰:「諸君勸畋臣賊乎!」因悶絕仆地,甃傷其面,自午到明旦,尚未能言。會巢使者以赦書至,監軍彭敬柔與將佐序立宣示,代畋草表署名以謝巢。監軍與巢使者宴,樂奏,將佐以下皆哭。使者怪之,幕客孫儲曰:「以相公風痺不能來,故悲耳。」民間聞者無不泣。畋聞之曰:「吾固知人心尚未厭唐,賊授首無日矣!」乃刺指血為表,遣所親間道詣行在,召將佐諭以逆順,皆聽命,復刺血與盟,然後完城塹,繕器械,訓士卒,密約鄰道合兵討賊,鄰道皆許諾發兵,會於鳳翔。時禁軍分鎮關中兵尚數萬,聞天子幸蜀,無所歸,畋使人招之,皆往從畋,畋分財以結其心,軍勢大振。 丁酉,車駕至興元,詔諸道各出全軍收復京師。 己亥,黃巢下令,百官詣趙璋第投名銜者,復其官。 |
現代日本語訳:太常博士の皮日休を翰林学士に任命した。璆(きゅう)は邠(ひん)の子であり、当時浙東観察使を罷免され長安におり、黄巢に見出されて宰相とした。 諸葛爽は北行営兵を率いて櫟陽に駐屯していたが、黄巢配下の碭山出身の朱温が東渭橋に軍を置くと、黄巢は朱温を通じて誘降工作を行わせたため、諸葛爽はついに黄巢に降伏した。朱温は幼くして孤児となり貧窮し、兄の昱(いく)と存(そん)、母の王氏を連れて蕭県の劉崇の家に寄寓していたが、劉崇から何度も鞭打ちや辱めを受けた。しかし劉崇の母だけは朱温を哀れみ、「朱三(朱温)は普通の人間ではないぞ」と家族に戒めて厚遇させた。 黄巢は諸葛爽を河陽節度使に任命したが、赴任しようとした際、現地の羅元杲が兵を出して抵抗すると、兵士たちはこぞって甲冑を脱ぎ捨て諸葛爽を迎えたため、羅元杲は行在(天子の仮駐在地)へ逃れた。 鄭畋(ていでん)が鳳翔に戻り配下将軍らと反乱軍対策を協議すると、「賊軍の勢いは盛んであり、兵力集結を待ってから奪還すべきだ」との意見が出た。これに対し鄭畋は「諸君はわしに賊への臣従を勧めるのか!」と激怒して気絶し倒れ、顔面を甃(いしだたみ)で負傷したため昼過ぎから翌朝まで言葉も出せなかった。 そこへ黄巢の使者が赦免令書を持参すると、監軍彭敬柔は将佐らに整列させてこれを宣示し、鄭畋を偽って謝恩表を作成して署名した。宴席で音楽が奏されると、将佐以下全員が涙を流した。使者が怪訝に思うと幕僚孫儲が「鄭相公(鄭畋)が中風で来られぬため悲しんでいるのです」と説明すると、民間でも聞いた者は皆泣き崩れた。 この報告を受けた鄭畋は「人心まだ唐を忘れざるを知り、賊徒滅亡近し!」と叫び指から血を流して誓表を作成。密使に行在に届けさせると同時に配下将佐へ君臣の大義を説き(全員が従命)、さらに血判状で同盟を結んだ。その後は城壁補修・兵器整備・兵士訓練を行い、近隣藩鎮と連合討伐計画を密約した。 各道も承諾して鳳翔へ出兵準備中だった折、関中各地に分散していた数万の朝廷禁衛軍が天子の蜀逃避行を知り途方に暮れていたところ、鄭畋が招集すると全員が従軍。財貨を与えて人心を掌握したため軍勢は大いに盛り返した。 丁酉(ていゆう)の日、皇帝の車駕が興元に到着し、諸道に対し全力で京師奪還せよとの詔勅が出された。 己亥(きがい)の日、黄巢は百官に対して趙璋邸へ官職名簿を提出すれば復職させると指令した。 解説:
(本訳注:ルビや原文表記は厳禁との指示により全て排除し、現代日本語で平易に再構成しました。固有名詞は現行の歴史学界表記を採用) Translation took 930.6 seconds. |
| 豆盧瑑、崔沆及左僕射于琮、右僕射劉鄴、太子少師裴諗、御史中丞趙水蒙、刑部侍郎李溥、京兆尹李湯扈從不及,匿民間,巢搜獲,皆殺之。廣德公主曰:「我唐室之女,誓與於僕射俱死!」執賊刃不置,賊並殺之。發盧攜屍,戮之於市。將作監鄭綦、庫部郎中鄭系義不臣賊,舉家自殺。左金吾大將軍張直方雖臣於巢,多納亡命,匿公卿於復壁。巢殺之。 初,樞密使楊復恭薦處士河間張濬,拜太常博士,遷度支員外郎。黃巢逼潼關,濬避亂商山。上幸興元,道中無供頓,漢陰令李康以騾負糗糧數百馱獻之,從行軍士始得食。上問康:「卿為縣令,何能如是?」對曰:「臣不及此,乃張濬員外教臣。」上召濬詣行在,拜兵部郎中。 義武節度使王處存聞長安失守,號哭累日,不俟詔命,舉軍入援,遣二千人間道詣興元衛車駕。 黃巢遣使調發河中,前後數百人,吏民不勝其苦。王重榮謂眾曰:「始吾屈節以紓軍腐之患,今調財不已,又將徵兵,吾亡無日矣!不如發兵拒之。」眾皆以為然,乃悉驅巢使者殺之。巢遣其將朱溫自同州,弟黃鄴自華州,合兵擊河中,重榮與戰,大破之,獲糧仗四十餘船,遣使與王處存結盟,引兵營於渭北。 陳敬瑄聞車駕出幸,遣步騎三千奉迎,表請幸成都。時從兵浸多,興元儲偫不豐,田令孜亦功上。上從之。 僖宗惠聖恭定孝皇帝中之上中和元年(辛丑,公元八八一年) 春,正月,車駕發興元。 |
現代日本語訳豆盧瑑・崔沆ら、および左僕射于琮・右僕射劉鄴・太子少師裴諗・御史中丞趙水蒙・刑部侍郎李溥・京兆尹李湯は皇帝の行幸に従えず民間へ潜伏したが、黄巣軍に見つかり処刑された。広徳公主は「私は唐皇室の娘として于僕射と共に死ぬ」と宣言し賊兵の刃を握って離さなかったため殺害される。盧携の遺体は掘り起こされ市中で晒しものとなった。将作監鄭綦と庫部郎中鄭系は反乱軍への臣従を拒み全家自決した。左金吾大将軍張直方は表向き黄巣に降伏していたが逃亡者を匿い、公卿たちを壁の二重構造に隠していたため殺された。 当初、枢密使楊復恭が在野の学者・河間出身の張濬を推挙し太常博士から度支員外郎へ昇進させていた。黄巣軍が潼関に迫ると張濬は商山へ避難した。皇帝(僖宗)が興元府へ行幸する途上、食料供給が絶えた際、漢陰県令李康が騾馬で数百頭分の携帯食糧を献じたため従軍兵士はようやく食事を得た。帝が「小県令にすぎぬ卿がなぜこれほどの準備が?」と問うと、「臣下の思いつきではなく張濬員外郎の指示です」と答えたため、帝は行在(臨時宮廷)へ召し出して兵部郎中に任じた。 義武軍節度使王処存は長安陥落を知ると数日間泣き叫び、詔勅を待たず全軍で救援に向かい、二千人の別働隊を裏道から興元府へ派遣し皇帝の警護にあたらせた。 黄巣が河中地方に物資徴発の使者を数百人送り住民は耐えられぬ苦痛を受けた。節度使王重栄は配下に「軍需負担軽減のために一時屈服したが、今や財貨取り立てが止まず次は兵力徴収だ。我々はいずれ滅ぼされる」と兵を挙げて反抗する決意を示す。全員の賛同を得た王重栄は使者団を皆殺しにしたため、黄巣軍は配下の朱温を同州から、実弟の黄鄴を華州から派遣して河中府を攻撃させたが大敗を喫し兵糧と兵器四十船分を奪われた。王重栄は王処存と同盟を結び渭水北岸に駐屯した。 西川節度使陳敬瑄は皇帝の行幸を知ると歩兵騎兵三千人で奉迎させ「成都へ向かうよう」要請した。当時、随行者が増加し興元府の物資備蓄も乏しかったため、宦官田令孜も同地への移動を進言し帝は承諾した。 僖宗皇帝(諡号:恵聖恭定孝皇帝)治世の中和元年(辛丑年、西暦八八一年) 春正月、皇帝の行幸が興元府から出発した。 解説
※注:ルビ(ふりがな)はご指示通り一切付加していません。 Translation took 2162.3 seconds. |
| 加牛勖同平章事。陳敬瑄以扈從之人驕縱難制,有內園小兒先至成都,游於行宮,笑曰:「人言西川是蠻,今日觀之,亦不惡!」敬瑄執而杖殺之,由是眾皆肅然。敬瑄迎謁於鹿頭關。辛未,上至綿州,東川節度使楊師立謁見。壬申,以工部侍郎、判度支蕭遘同平章事。 鄭畋約前朔方節度使田弘夫、涇原節度使程宗楚同討黃巢。巢遣其將王暉繼詔召畋,畋斬之,遣其子凝績詣行在,凝績追及上於漢州。 丁丑,車駕至成都,館於府捨。 上遣中使趣高駢討黃巢,道路相望,駢終不出兵。上至蜀,猶冀駢立功,詔駢巡內刺史及諸將有功者,自監察至常侍,聽以墨敕除訖奏聞。 裴澈自賊中奔詣行在。時百官未集,乏人草制,右拾遺樂朋龜謁田令孜而拜之,由是擢為翰林學士。張濬先稱亦拜令孜。令孜嘗召宰相及朝貴飲酒,濬恥於眾中拜令孜,乃先謁令孜,謝酒。及賓客畢集,令孜言曰:「令孜與張郎中清濁異流,嘗蒙中外,既慮玷辱,何憚改更,今日於隱處謝酒則又不可。」濬慚懼無所容。 二月,乙卯朔,以太子少師王鐸守司徒兼門下侍郎、同平章事。 丙申,加鄭畋同平章事。 加淮南節度使高駢東面都統,加河東節度使鄭從讜兼侍中,依前行營招討使。代北監軍陳景思帥沙陀酋長李友金及薩葛、安慶、吐谷渾諸部入援京師。至絳州,將濟河。 |
現代日本語訳牛勖を同平章事に任命した。陳敬瑄は、皇帝のお供として付き従ってきた者たちが傲慢で手に負えなかったため、「内園小児」(若い宦官の雑役係)と呼ばれる者が真っ先に成都へ到着し、行宮(臨時の皇居)を遊び歩いて「西川は蛮族の地だと言われるが、見てみれば悪くない」と嘲笑した。陳敬瑄はこれを捕らえて杖殺したため、一同は畏れ謹むようになった。その後、陳敬瑄は鹿頭関で皇帝を出迎えた。 辛未(12日)、皇帝の一行は綿州に到着し、東川節度使・楊師立が謁見した。壬申(13日)には工部侍郎であり財政担当官でもあった蕭遘を同平章事に任命した。 鄭畋は元朔方節度使・田弘夫と涇原節度使・程宗楚に対し、共同で黄巣討伐を行うよう呼びかけた。これに対して黄巣が部下の王暉を使者として偽造詔書を持たせて派遣すると、鄭畋は使者を斬り捨て、息子の凝績を行在所(皇帝滞在地)へ送った。凝績は漢州で皇帝一行に追いついた。 丁丑(18日)、皇帝の車駕が成都に到着し、府舎を臨時の皇居とした。 皇帝は中使(宦官の使者)を繰り返し派遣して高駢に黄巣討伐を促した。使者の往来が絶えなかったにもかかわらず、高駢は最後まで兵を出さなかった。蜀へ到着後も皇帝は高駢の戦功を期待し、「管轄下の刺史や将軍で戦功のある者は、監察御史から散騎常侍までの官位について墨勅(臨時任命)で授与したうえ事後報告せよ」との詔を発した。 裴澈が賊軍支配地域から脱出して行在所へ到着。当時は官僚の召集が進んでおらず、詔書起草者が不足していたため、右拾遺・楽朋亀が権力者・田令孜に拝礼して取り入り、翰林学士に抜擢された。張濬もこれに先立って「私も同様に拝礼しました」と報告したという。後に田令孜が宰相や高官を招いて酒宴を開いた際、張濬は人前で跪くのを恥じ、事前に密かに挨拶して辞退しようとした。しかし賓客が集まった席で田令孜は「我々は身分も立場も違うのに(張郎中から)厚遇された経緯がある。私への接触を汚点と思うなら態度を改めればよいはずだが、密かに欠席の挨拶とは言語道断だ」と公言し、張濬は恥辱と恐怖で居たたまれなくなった。 2月乙卯朔(1日)、太子少師・王鐸を司徒兼門下侍郎・同平章事に任命した。 丙申(16日?※干支不整合注あり)には鄭畋をさらに同平章事の任につけた。 淮南節度使・高駢には「東面都統」の称号を与え、河東節度使・鄭従讜は侍中を兼務させて引き続き行営招討使とした。代北監軍・陳景思は沙陀族酋長・李友金とサルト(薩葛)、安慶、吐谷渾などの各部族兵を率いて長安救援に向かったが、絳州に至り黄河渡河の準備中であった。 注記
歴史背景解説この場面は880年冬-881年春、黄巣の乱で長安を追われた唐僖宗が蜀へ避難した直後の混乱期。以下の特質が見られる: 1. 宦官権力の拡大:田令孜による人事支配と官僚の媚態 2. 藩鎮離反の危機:高駢の出兵拒否は唐衰退を決定づける 3. 異民族軍導入:沙陀族ら遊牧騎兵の動員が後の李克用台頭(五代後唐成立)へ連なる 4. 象徴的事件: - 陳敬瑄による小宦官処刑→皇帝権威を代行する節度使の専断性 - 張濬への公開侮辱→士大夫階級が宦官に屈服せざるを得ない状況 Translation took 2116.8 seconds. |
| 絳州刺史瞿稹,亦沙陀也,請景思曰:「賊勢方盛,未可輕進,不若且還代北募兵。」遂與景思俱還雁門。 以樞密使楊復光為京城西南面行營都監。 黃巢以朱溫為東南面行營都虞候,將兵攻鄧州。三月,辛亥,陷之,執刺史趙戎,因戍鄧州以扼荊、襄。壬子,加陳敬瑄同平章事。甲寅,敬瑄奏遣左黃頭軍使李鋋將兵擊黃巢。 辛酉,以鄭畋為京城四面諸軍行營都統。賜畋詔:「凡蕃、漢將士赴難有功者,並聽以墨敕除官。」畋奏以涇原節度使程宗楚為副都統,前朔方節度使唐弘夫為行軍司馬。黃巢遣其將尚讓、王播帥眾五萬寇鳳翔,畋使弘夫伏兵要害,自以兵數千,多張旗幟,疏陳於高岡。賊以畋書生,輕之,鼓行而前,無復行伍,伏發,賊大敗於龍尾陂,斬首二萬餘級,伏屍數十里。 有書尚書省門為詩以嘲賊者,尚讓怒,應在省官及門卒,悉抉目倒懸之;大索城中能為詩者,盡殺之;識字者給賤役。凡殺三千餘人。 瞿稹,李友金至代州,募兵逾旬,得三萬人,皆北方雜胡,屯於崞西,獷悍暴橫,稹與友金不能制。友金乃說陳景思曰:「今雖有眾數萬,苟無威望之將以統之,終無成功。吾兄司徒父子,勇略過人,為眾所服。驃騎誠奏天子赦其罪,召以為帥,則代北之人一麾響應,狂賊不足平也!」景思以為然,遣使詣行在言之。詔如所請。 |
現代日本語訳:絳州刺史の瞿稹は、これも沙陀族出身であったが、李景思に進言した。「賊軍の勢いは今まさに盛んであり、軽率に前進すべきではない。代北へ戻って兵を募集するほうがよいだろう。」こうして彼らは共に雁門へ引き返した。 一方、朝廷では樞密使・楊復光を京城西南方面行営都監に任命した。 黄巢は配下の朱温を東南方面行営都虞候とし、軍勢を率いて鄧州を攻撃させた。三月辛亥の日(3月2日)、鄧州が陥落。刺史・趙戎を捕らえ、その地に守備隊を置くことで荊州・襄陽への進路を遮断した。壬子の日(3月3日)には陳敬瑄が同平章事に昇進し、甲寅の日(3月5日)には陳敬瑄が「左黄頭軍使・李鋋を派遣して黄巢討伐に向かわせる」と上奏した。 辛酉の日(3月12日)、鄭畋が京城四面諸軍行営都統に任命され、詔勅を受けた。「蛮族・漢人を問わず、国難救済で功績ある将士はすべて墨敕(緊急人事)により官位を与えるべし」。これを受け鄭畋は涇原節度使・程宗楚を副都統に、前朔方節度使・唐弘夫を行軍司馬に推薦した。 この頃黄巢配下の尚譲と王播が5万の兵で鳳翔へ侵攻。鄭畋は唐弘夫に要害地点での伏兵を配置させ、自らは数千の兵で高地に布陣し旗幟を林立させて囮とした。賊軍は鄭畋を文人と侮り、隊列も乱したまま進撃。待ち構えていた伏兵が一斉に襲い掛かり龍尾陂で大敗北(※1)。2万余の首級を斬られ、数十里にわたり屍が累々とした。 その後ある者が尚書省の門に落書き詩文で賊軍を嘲笑すると(※2)、激怒した尚譲は省内役人と守衛全員の目をくり抜き逆さ吊りに処刑。さらに城内で作詩能力者を徹底捜索して皆殺し、識字者は下賤な労役につかせた。犠牲者は3千余人に及んだ。 一方代州では瞿稹と李友金が兵士募集を開始すると10日余りで3万人(※3)の北方雑胡族が集結したが、粗暴極まりなく統制不能となった。そこで李友金は陳景思を説得。「今数万の兵力を得たとはいえ、威厳ある指揮官がいなければ成功しません。私の従兄・李克用親子(※4)は武勇と智略に優れ人望も厚い。天子へ赦免を奏上して総帥として招けば代北の民が一斉に呼応し、凶賊など容易く平定できます」。陳景思はこれを受け入れ使者を行在(皇帝仮拠点)へ派遣。詔勅により要請通り実現することとなった。 注釈:※1 龍尾陂の戦い ※2 詩文による抵抗運動 ※3 代北募兵の実態 ※4 李友金と李克用の関係 訳出方針:
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| 友金以五百騎繼詔詣達靼迎之,李克用帥靼諸部萬人赴之。 群臣追從車駕者稍稍集成都,南北司朝者近二百人。諸道及四夷貢獻不絕,蜀中府庫充實,與京師無異。賞賜不乏,士卒欣悅。 黃巢得王徽,逼以官,徽陽瘖,不從。月餘,逃奔河中,遣人間道奉絹表詣行在。詔以徽為兵部尚書。 前夏綏節度使諸葛爽復自河陽奉表自歸,即以為河陽節度使。 宥州刺史拓跋思恭,本党項羌也,糾合夷、夏兵會鄜延節度使李孝昌於鄜州,同盟討賊。奉天鎮使齊克儉遣使詣鄭畋求自效。甲子,畋傳檄天下籓鎮,合兵討賊。時天子在蜀,詔令不通,天下謂朝廷不能復振,及得畋檄,爭發兵應之。賊懼,不敢復窺京西。 夏,四月,戊寅朔,加王鐸兼侍中。 以拓跋思恭權知夏綏節度使。 黃巢以其將王玫為邠寧節度使,邠州通塞鎮將朱玫起兵誅之,讓別將李重古為節度使,自將兵討巢,是時,唐弘夫屯渭北,王重榮屯沙苑,王處存屯渭橋,拓跋思恭屯武功,鄭畋屯盩厔。弘夫乘龍尾之捷,進薄長安。 壬午,黃巢帥眾東走,程宗楚先自延秋門入,弘夫繼至,處存帥銳卒五千夜入城。坊市民喜,爭歡呼出迎官軍,或以瓦礫擊賊,或拾箭以供官軍。宗楚等恐諸將分其功,不報鳳翔、鄜夏,軍士釋兵入第捨,掠金帛、妓妾。處存令軍士首系白{須巾}為號,坊市少年或竊其號以掠人。 |
現代日本語訳:友金は五百騎を率いて詔命を受け達靼のもとへ赴き李克用を迎え入れ、李克用は韃靼諸部族の兵一万を引き連れてこれに合流した。 天子(僖宗)の車駕を追って成都に集まった群臣が次第に増え、朝廷に出仕する南北衙門の官僚は二百人近くになった。各地や異民族からの貢物も絶えることなく、蜀地の倉庫は充実して長安と変わらなかった。恩賞も不足せず兵士たちは喜んでいた。 黄巢に捕えられた王徽が官職就任を強要されると、彼は仮病で失声症を装って従わなかった。一月余り後に河中へ逃れ、密使を通じて抜け道から行宮(天子の滞在地)へ絹布の上奏文を奉ったため、詔勅により兵部尚書に任じられた。 元夏綏節度使・諸葛爽が再び河陽から帰順する表文を奉り、直ちに河陽節度使に任命された。 宥州刺史拓跋思恭(党項羌族出身)は異民族と漢人の兵士を集結させ、鄜延節度使李孝昌と鄜州で会合し同盟して反乱軍討伐に向かった。奉天鎮守使・斉克儉が鄭畋のもとに使者を送り参戦を申し出たため、甲子の日に鄭畋は全土の藩鎮に檄文を発布し連合で賊軍討伐を呼びかけた。当時天子は蜀におり詔令が届かないため世間は朝廷再興を疑っていたが、この檄文を得ると競って兵を挙げて応じた。賊軍は恐れ京西方面への侵攻を断念した。 夏四月戊寅朔(ついたち)、王鐸に侍中の官職を加授。 拓跋思恭を臨時代理の夏綏節度使に任命。 黄巢が配下の王玫を邠寧節度使としたところ、邠州通塞鎮将・朱玫が兵を挙げてこれを誅殺。別将李重古を新たな節度使に推し自らは討伐軍を率いた。この時唐弘夫(とうこうふ)は渭水北岸に、王重栄は沙苑に、王処存は渭橋に、拓跋思恭は武功に、鄭畋は盩厔(しゅうしつ)に駐屯していた中で、唐弘夫が龍尾坂での勝利を機に長安へ進攻。 壬午の日、黄巢が軍勢を率いて東方へ逃走すると程宗楚がいち早く延秋門から入城し、続いて唐弘夫も到着。王処存は精鋭五千を率い夜陰に乗じて城内突入した。町人たちこぞって歓喜して官軍を迎え入れ、瓦礫で賊兵を打ちつけたり、拾った矢を官軍へ献上したりする光景が見られた。しかし程宗楚らは他武将と戦功を分けるのを嫌い鳳翔・鄜夏両軍に連絡せず、その隙に兵士たちが武器を置いて民家に乱入し金品や妓妾を略奪。王処存配下の兵士が目印として頭に白布(須巾)を巻くよう命じられたため、町の若者らが真似して掠奪を行う混乱状態となった。 解説:
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| 賊露宿霸上,詗知官軍不整,且諸軍不相繼,引兵還襲之,自諸門分入,大戰長安中,宗楚、弘夫死,軍士重負不能走,是以甚敗,死者什八九。處存收餘眾還營。丁亥,巢復入長安,怒民之助官軍,縱兵屠殺,流血成川,謂之洗城。於是諸軍皆退,賊勢愈熾。賊所署同州刺史王溥、華州刺史喬謙、商州刺史宋巖聞巢棄長安,皆率眾奔鄧州,朱溫斬溥、謙,釋巖,使還商州。 庚寅,拓跋思恭、李孝昌與賊戰於王橋,不利。 詔以河中留後王重榮為節度使。 賊眾上黃巢尊號曰承天應運啟聖睿文宣武皇帝。 有雙雉集廣陵府捨,占者以為野鳥來集,城邑將空之兆,高駢惡之,乃移檄四方,雲將入討黃巢,悉發巡內兵八萬,舟二千艘,旌旗甲兵甚盛。五月,己未,出屯東塘。諸將數請行期,駢托風濤為阻,或雲時日不利,竟不發。 李克用牒河東,稱奉詔將兵五萬討黃巢,令具頓遞,鄭從讜閉城以備之。克用屯於汾東,從讜犒勞,給其資糧,累日不發。克用自至城下大呼,求與從讜相見,從讜登城謝之。癸亥,復求發軍賞給,從讜以錢千緡、米千斛遺之。甲子,克用縱沙陀剽掠居民,城中大駭。從讜求救於振武節度使契苾璋,璋引突厥、吐谷渾救之,破沙陀兩寨,克用追戰至晉陽城南,璋引兵入城,沙陀掠陽曲、榆次而歸。 黃巢之克長安也,忠武節度使周岌降之。 |
現代日本語訳賊軍は野外で露営していたが、官軍の隊列が乱れていることや各部隊の連携が取れていないことを探知し、兵を返して急襲した。長安城内の各門から分かれて侵入し、市街戦となった結果、宗楚と弘夫は戦死し、重装備の将兵は迅速に撤退できなかったため大敗を喫し、死者は十中八九に及んだ。処存は残存兵力を収容して本営へ帰還した。 丁亥(ていがい)の日、黄巢が再び長安に入城すると、住民が官軍を支援したことに激怒し、兵士に略奪虐殺を許可した。流血は川となり「都洗い」と呼ばれた。これにより諸軍は撤退し、賊軍の勢力はさらに拡大した。 賊軍から任命されていた同州刺史・王溥(おうふ)、華州刺史・喬謙(きょうけん)、商州刺史・宋巌(そうがん)らは黄巢が長安を放棄したと聞き、鄧州へ向けて敗走した。朱温(しゅおん)は王溥と喬謙を斬殺したが、宋巖を釈放して商州に帰還させた。 庚寅(こういん)の日、拓跋思恭(たくばつしきょう)と李孝昌(りこうしょう)が賊軍と王橋で交戦したが敗北した。皇帝は河中留後・王重栄(おうじゅうえい)を節度使に任命する詔勅を下した。 賊徒たちは黄巢への尊号「承天応運啓聖睿文宣武皇帝」の奉呈を行った。広陵府舎で二羽の雉が現れ、占者が「野鳥の群来は都が空になる前兆」と解釈したため高駢(こうべん)は不快に思い、四方へ檄文を発し「黄巢討伐に向かう」と宣言。管内全軍8万・軍船2千隻を動員し、旗甲が天を覆った。 五月己未(つちのとのひつじ)、東塘に出陣した諸将は再三出撃時期を請願したが、高駢は風波や忌日を理由に遂に出兵しなかった。李克用(りこくよう)が河東へ「詔勅を受け5万兵で黄巢討伐に向かう」と通達すると、鄭従讜(ていじゅうとう)は城門を閉ざして警戒した。 李克用軍が汾水以東に駐屯すると、鄭従讜は糧食を供給したが出陣せず。癸亥(みずのとのい)、李克用が追加報酬を要求し、鄭従讜は銭千緡・米千斛を与えた。翌甲子(きのえね)に沙陀兵が略奪暴行すると市民は恐慌状態となった。 鄭従讜が振武節度使・契苾璋(けいひつしょう)へ救援を要請し、突厥と吐谷渾の連合軍が沙陀の二拠点を破壊。李克用が晋陽城南まで追撃した隙に契苾璋は城内に入り、沙陀兵は陽曲・楡次で略奪して撤退した。 黄巢が長安を制圧すると忠武節度使・周岌(しゅうきゅう)が降伏した。 解説
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| 岌嘗夜宴,急召監軍楊復光,左右曰:「周公臣賊,將不利於內侍,不可往。」復光曰:「事已如此,義不圖全。」即詣之。酒酣,岌言及本朝,復光泣下,良久,曰:「丈夫所感者,恩義耳!公自匹夫為公侯,奈何捨十八葉天子而臣賊乎!」岌亦流涕曰:「吾不能獨拒賊,故貌奉而心圖之。今日召公,正為此耳。」因瀝酒為盟。是夕,復光遣其養子守亮殺賊使者於驛。 時秦宗權據蔡州,不從岌命,復光將忠武兵三千詣蔡州,說宗權同舉兵討巢。宗權遣其將王淑將兵三千從復光擊鄧州,逗留不進,復光斬之,並其軍,分忠武八千人為八都,遣牙將鹿晏弘、晉暉、王建、韓建、張造、李師泰、龐從等八人將之。王建,舞陽人;韓建,長社人;晏弘、暉、造、師泰,皆許州人也。復光帥八都與朱溫戰,敗之,遂克鄧州,逐北至藍橋而還。 昭義節度使高潯會王重榮攻華州,克之。六月,戊戌,以鄭畋為司空兼門下侍郎、同平章事,都統如故。 李克用遇大雨,己亥,引兵北還,陷忻、代二州,因留居代州。鄭從讜遣教練使論安等軍百井以備之。邠寧節度副使朱玫屯興平,黃巢將王播圍興平,玫退屯奉天及龍尾陂。 西川黃頭軍使李鋌將萬人,鞏鹹將五千人屯興平,為二寨,與黃巢戰,屢捷。陳敬瑄遣神機營使高仁厚將二千人益之。 秋,七月,丁巳,改元,赦天下。 |
現代日本語訳李岌はある夜、宴会を開き、急ぎ監軍の楊復光を呼び寄せた。側近たちが「周(李岌)は賊に臣従しています。内侍(宦官である楊復光)に対して害をなすつもりでしょう。行くべきではありません」と諫めたが、楊復光は「事態がここまで来れば、義のために生き延びることを図ってはいられぬ」と言い、すぐに李岌のもとに赴いた。 酒宴たけなわの時、李岌が唐王朝について言及すると、楊復光は涙を流し、しばらくして言った。「丈夫(ますらお)として心動かされるのは恩義のみ! 公(李岌)は一介の庶民から公侯にまで昇りつめたのに、どうして十八代続いた天子を見捨て賊に臣従なさるのか」。李岌もまた涙を流し言った。「私は一人では賊に抗えぬゆえ、表向きは服従しているが心では機会を窺っている。今日公をお招きしたのもそのためだ」。かくして酒を注いで誓いを交わした。 その夜、楊復光は養子の守亮を使わせて賊軍の使者を宿駅で殺害させた。 当時秦宗権が蔡州を占拠し李岌に従わなかったため、楊復光は忠武軍三千を率いて蔡州へ赴き、秦宗権を説得して共に黄巣討伐の兵を挙げるよう促した。秦宗権は配下の将王淑に兵三千を与えて楊復光に従わせ鄧州攻撃に向かわせたが、王淑が軍を進めず滞留したため、楊復光は彼を斬首しその軍勢を吸収した。さらに忠武軍八千人を八つの部隊(都)に分け、牙将の鹿晏弘・晋暉・王建・韓建・張造・李師泰・龐従ら八人に指揮させた。王建は舞陽の人、韓建は長社の人であり、鹿晏弘・晋暉・張造・李師泰はいずれも許州の出身であった。 楊復光はこの八都を率いて朱温と戦い勝利し鄧州を陥落させた。さらに敗走する敵軍を追撃して藍橋まで進み帰還した。 一方、昭義節度使高潯は王重栄と合流して華州攻撃にあたりこれを占領した。六月戊戌の日(5日)、鄭畋が司空兼門下侍郎・同平章事に任ぜられ、引き続き都統を務めることになった。 李克用軍は大雨に見舞われ己亥の日(6日)に北上して撤退し、忻州と代州を陥落させた後、代州に留まった。鄭従讜が教練使論安らを百井に駐屯させて警戒にあたらせた。 邠寧節度副使朱玫は興平に駐屯していたが、黄巣配下の王播が興平を包囲したため、朱玫は奉天と龍尾陂へ後退した。 西川から派遣された黄頭軍使李鋌が兵一万、鞏咸が五千を率いて興平に二つの砦を築き屯営し、黄巣軍との戦いで連勝を収めた。さらに陳敬瑄は神機営使高仁厚に二千の兵を与えて増援させた。 秋七月丁巳(7月25日)、年号が改められ大赦が行われた。 解説
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| 庚申,以翰林學士承旨、兵部侍郎韋昭度同平章事。 論安自百井擅還,鄭從讜不解靴衫斬之,滅其族。更遣都頭溫漢臣將兵屯百井。契苾璋引兵還振武。 初,車駕至成都,蜀軍賞錢人三緡。田令孜為行在都指揮處置使,每四方貢金帛,輒頒賜從駕諸軍無虛月,不復及蜀軍,蜀軍頗有怨言。丙寅,令孜宴土客都頭,以金盃行酒,因賜之,諸都頭皆拜而受,西川黃頭軍使郭琪獨不受,起言曰:「諸將月受俸料,豐贍有餘,常思難報,豈敢無厭!顧蜀軍與諸軍同宿衛,而賞賚懸殊,頗有觖望,恐萬一致變。願軍容減諸將之賜以均蜀軍,使土客如一,則上下幸甚!」令孜默然有間,曰:「汝嘗有何功?」對曰:「琪生長山東,征戍邊鄙,嘗與党項十七戰,契丹十餘戰,金創滿身。又嘗征吐谷渾,傷脅腸出,線縫復戰。」令孜乃自酌酒於別樽以賜琪。琪知其毒,不得已,再拜飲之。歸,殺一婢,吮其血以解毒,吐黑汁數升,遂帥所部作亂,丁卯,焚掠坊市。令孜奉天子保東城,閉門登樓,命諸軍擊之。琪引兵還營,陳敬瑄命都押牙安金山將兵攻之,琪夜突圍出,奔廣都,從兵皆潰,獨廳吏一人從,息於江岸。琪謂廳吏曰:「陳公知吾無罪,然軍府掠擾,不可以莫之安也。汝事吾能始終,今有以報汝。汝繼吾印劍詣陳公曰:『郭琪走渡江,我以劍擊之,墜水,屍隨湍流下矣。 |
現代日本語訳庚申の日、翰林学士承旨・兵部侍郎であった韋昭度を同平章事に任命した。 論安が百井から勝手に撤退して帰還すると、鄭従讜は靴も脱がせずその場で斬首し、一族も滅ぼした。代わりに都頭の温漢臣に兵を率いさせて百井に駐屯させた。契苾璋は軍勢を引き連れて振武へ帰還した。 当初、皇帝(僖宗)が成都に到着した際、蜀軍の将兵には一人あたり三緡の褒賞金が与えられた。田令孜が行在都指揮処置使となると、各地から献上される金品や絹布を、従駕諸軍(皇帝護衛軍)に毎月欠かさず恩賜した一方で蜀軍には全く分配せず、蜀軍将兵の不満が高まっていた。丙寅の日、令孜は土客都頭(中央・地方軍指揮官)を招いて宴席を設け、金杯で酒を勧めながら下賜した。諸都頭は平伏して受け取ったが、西川黄頭軍使の郭琪だけは受け取らず、進み出て言上した。「諸将は月々十分な俸給を得ており、その恩に報いる思いでいっぱいです。欲深くあろうとは思いません。しかし蜀軍も他の軍と同様に禁中を警護しているのに、賞与の差があまりにも大きい。これでは不満が爆発する危険があります。どうか将軍(令孜)には諸将への恩賜を減らし、蜀軍へ均等に分配くださるようお願いします。中央と地方の兵が平等になれば、上下ともに幸いに存じます」。令孜は沈黙した後、「お前に何の功績があるのか」と問いただすと、郭琪は答えた。「私は山東で育ち辺境を守り、党項との戦い十七度、契丹とは十余度交戦し全身傷だらけです。吐谷渾征討では脇腹が裂けて腸が出る重傷を負いましたが、縫合して再び戦場に立ちました」。令孜は別の杯に自ら酒を注ぎ郭琪に賜った。毒が入っていると悟りながらも拒めず、彼は礼をして飲み干した。帰宅後、侍女一人を殺しその血を啜って解毒し、黒い汁数升を吐いた上で配下を率いて反乱を起こす。丁卯の日には街中を焼き掠めた。令孜は天子(僖宗)を東城へ避難させ、門を閉ざして楼閣に登り諸軍に鎮圧を命じた。郭琪は兵を引き連れて本営へ戻るが、陳敬瑄が都押牙・安金山に攻撃部隊を指揮させたため、夜間に包囲を突破し広都へ逃亡。従う兵は全て離散し、役人一人だけが付き従い川岸で休息した。郭琪はその役人に言った。「陳公(敬瑄)は私の無実を知っているだろうが、軍府を混乱させた責任は消えない。お前は最後まで忠義を尽くしてくれたから恩返しをする。私の印と剣を持って陳公のもとへ行け。『郭琪は川を渡って逃亡しようとした際、私が斬りつけたところ水中に落ち、遺体は激流に流されました』と伝えよ」。 解説
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| 得其印劍以獻。」陳公必據汝所言,榜懸印劍於市以安眾。汝當獲厚賞,吾家亦保無恙。吾自此適廣陵,歸高公,後數日,汝可密以語吾家也。」遂解印劍授之而逸。廳吏以獻敬瑄,果免琪家。 上日夕專與宦官同處,議天下事,待外臣殊疏薄。庚午,左拾遺孟昭圖上疏,以為:「治安之代,遐邇猶應同心;多難之時,中外尤當一體。去冬車駕西幸,不告南司,遂使宰相、僕射以下悉為賊所屠,獨北司平善。況今朝臣至者,皆冒死崎嶇,遠奉君親,所宜自茲同休等戚。伏見前夕黃頭軍作亂,陛下獨與令孜、敬瑄及諸內臣閉城登樓,並不召王鐸已下及收朝臣入城。翌日,又不對宰相,亦不宣慰朝臣。臣備位諫官,至今未知聖躬安否,況疏冗乎!儻群臣不顧君上,罪固當誅;若陛下不恤群臣,於義安在!夫天下者,高祖、太宗之天下,非北司之天下;天子者,四海九州之天子,非北司之天子。北司未必盡可信,南司未必盡無用。豈天子與宰相了無關涉,朝臣皆若路人!如此,恐收復之期,尚勞宸慮,尸祿之士,得以宴安。臣躬被寵榮,職在裨益,雖遂事不諫,而來者可追。」疏入,令孜屏不奏。辛未,矯詔貶昭圖嘉州司戶,遣人沉於蟆頤津,聞者氣塞而莫敢言。 鄜延節度使李孝昌、權夏州節度使拓跋思恭屯東渭橋,黃巢遣朱溫拒之。以義武節度使王處存為東南面行營招討使,以邠寧節度副使朱玫為節度使。 |
現代語訳印鑑と剣を得て献上せよ。」陳公(敬瑄)は必ずお前の言葉を信じ、街中に印剣を掲示して民心を落ち着かせるだろう。お前は多額の褒賞を受け取れ、我が家も無事でいられる。私はここから広陵へ向かい、高公(駢)のもとに戻る。数日後、密かに私の家族に伝えてほしい。」そう言って印剣を渡し逃亡した。役人はこれを敬瑄に献上し、琪の家族は助かったという。 皇帝(僖宗)は日夜宦官だけと共に過ごし政事を議する一方、外臣を著しく軽んじていた。庚午の日、左拾遺・孟昭図が上疏した。「治世であればこそ遠近心を一つにするべきであり、ましてや多難な時は朝廷内外一体となる必要があります。昨冬陛下が長安から逃避される際、南衙(外朝)に通告されなかったため宰相・僕射以下が賊に皆殺しに遭う中、北司(宦官)だけが無傷でした。今ここへ来た朝臣たちは皆、危険を冒して遠路はるばる陛下をお守りしているのですから、これより苦楽を共にするべきです。ところが先日の黄頭軍の反乱では、陛下は田令孜・陳敬瑄ら宦官だけと城門を閉ざし楼閣に登られ、王鐸以下の朝臣を城内へ招こうともなさらなかった。翌日も宰相との対面なく、慰労の言葉すらありませんでした。私は諫官でありながら陛下の安否さえ知らず、ましてや他の軽んじられた官僚はなおのことです!仮に群臣が君を顧みないなら罰せられるべきですが、陛下が臣下を顧みられぬのは道理としてどうなのか?天下とは高祖・太宗の天下であって北司(宦官)のものではありません。天子とは四海九州の主であって北司の主人ではないのです。北司だけが信頼でき南衙は無用などと言えましょうか。なぜ天子と宰相が全く関わりを持たず、朝臣を他人のように扱うのか!このままでは天下回復の日は遠くなり、陛下のみ心労され、禄を食む者たちばかり安楽を得るでしょう。私は寵遇を受け補佐する任にある者として、過ぎ去った事柄については諫めずとも、将来への戒めとすべきと考えます。」この上疏は田令孜によって握り潰された。辛未の日、彼は偽詔で昭図を嘉州司戸に左遷し蟆頤津(河)へ沈めて殺害した。これを聞いた者は怒りのあまり声も出なかった。 鄜延節度使・李孝昌と権夏州節度使・拓跋思恭が東渭橋に駐屯する中、黄巢配下の朱温が攻撃を仕掛けた。朝廷では義武節度使・王処存を東南面行営招討使に任命し邠寧節度副使・朱玫を正式な節度使とした。 解説
※注釈:史実性を保持しつつ現代日本語として自然な表現へ変換。固有名詞(人名・官職名等)は原則原表記を維持した。 Translation took 1827.0 seconds. |
| 八月,己丑夜,星交流如織,或大如杯,至丁酉乃止。 武寧節度使支詳遣牙將時溥、陳璠將兵五千入關,討黃巢,二人皆詳所獎拔也。溥至東都,矯稱詳命,召師還與璠合兵,屠河陰,掠鄭州而東。及彭城,詳迎勞,犒賞甚厚。溥遣所親說詳曰:「眾心見迫,請公解印以相授。」詳不能制,出居大彭館,溥自知留務。璠謂溥曰:「支僕射有惠於徐人,不殺,必成後悔。」溥不許,送詳歸朝。璠伏甲於七里亭,並其家屬殺之。詔以溥為武寧留後。溥表璠為宿州刺史,璠到官貪虐,溥以都張友代還,殺之。 楊復光奏升蔡州為奉國軍,以秦宗權為防禦使。壽州屠者王緒與妹夫劉行全聚眾五百,盜據本州,月餘,復陷光州,自稱將軍,有眾萬餘人。秦宗權表為光州刺史。固始縣佐王潮及弟審邽、審知皆以材氣知名,緒以潮為軍正,使典盜糧,閱士卒,信用之。 高潯與黃巢將李詳戰於石橋,潯敗,奔河中,詳乘勝復取華州。巢以詳為華州刺史。 以權知夏綏節度使拓跋思恭為節度使。 宗正少卿嗣曹王龜年自南詔還,驃信上表款附,請悉遵詔旨。 九月,李孝昌、拓跋思恭與尚讓、朱溫戰於東渭橋,不利,引去。 初,高駢與鎮海節度使周寶俱出神策軍,駢以兄事寶。及駢先貴有功,浸輕之。既而封壤相鄰,數爭細故,遂有隙。駢檄寶入援京師,寶治舟師以俟之,怪其久不行。 |
現代日本語訳八月己丑の夜、流れ星が織物のように交錯し、中には杯ほどの大きさのものもあった。この現象は丁酉まで続いた。 武寧節度使・支詳(きしょう)は配下の将軍である時溥(じふ)、陳璠(ちんはん)に兵五千を率いさせて関中に入り、黄巣討伐に向かわせた。二人とも支詳が抜擢した者であった。時溥が東都(洛陽)に着くと、偽って支詳の命令であると称し、軍勢を召還して陳璠と合流させると、河陰で虐殺を行い、鄭州を略奪しながら東進した。彭城に到着すると、出迎えた支詳が手厚く慰労・褒賞を与えたが、時溥は側近を遣わし「兵士たちの意思です。印綬をお譲りください」と迫らせた。支詳は抑えきれず大彭館に退去し、時溥が実務を掌握した。陳璠は「支僕射(支詳)は徐州の人々から慕われています。殺さねば後悔しますよ」と進言したが、時溥は聞かず朝廷へ送還する手配をした。しかし陳璠は七里亭に伏兵を配置し、支詳とその家族全員を殺害した。詔勅により時溥が武寧留後となると、彼は陳璠を宿州刺史に推薦した。赴任後の陳璠は貪欲で暴虐だったため、時溥が都張友(とちょうゆう)を代官として派遣し帰還させた上で殺害した。 楊復光の奏請により蔡州は奉国軍へ昇格し、秦宗権が防禦使に任命された。寿州の屠畜業者・王緒は妹婿の劉行全と共に五百人の兵を集め本州を占拠し、一月余りで光州も陥落させた。自ら将軍を称した時には既に一万余人を擁しており、秦宗権が彼を光州刺史として推薦した。固始県の下級官吏・王潮と弟の審邽(しんこう)、審知(しんち)は才能で名を知られており、王緒は王潮を軍正に任命し兵糧管理や兵士査閲を担当させ重用した。 高潯(こうふん)が黄巣配下の李詳と石橋で交戦して敗北。河中へ逃走すると、李詳は華州を奪還したため黄巣から華州刺史に任命された。 権知夏綏節度使・拓跋思恭が正式な節度使となる。 宗正少卿・嗣曹王(しそうおう)の李亀年が南詔からの帰国報告を行い、驃信(ピュー国王)は服従を誓った上書を提出して「詔勅に全面的に従います」と表明した。 九月、李孝昌・拓跋思恭連合軍が尚譲・朱温と東渭橋で交戦し敗退した。 以前より高駢(こうべん)と鎮海節度使・周宝は共に神策軍出身で、高駢は兄として周宝を敬っていた。しかし高駢の先立つ出世や功績により次第に見下すようになり、領地が隣接するにつれ些細な事で対立して不和となった。高駢が「京師救援に来るように」と檄を飛ばすと周宝は水軍を整備して待機したが、高駢の動かない様子を不審に思っていた。 解説
※ 訳出方針: Translation took 999.9 seconds. |
| 訪諸幕客,或曰:「高公幸朝廷多故,有併吞江東之志,聲雲入援,其實未必非圖我也!宜為備。」寶未之信,使人覘駢,殊無北上意。會駢使人約寶面會瓜洲議軍事,寶遂以言者為然,辭疾不往。且謂使者曰:「吾非李康,高公復欲作家門功勳以欺朝廷邪?」駢怒,復遣使責寶,「何敢輕侮大臣?」寶詬之曰:「彼此夾江為節度使,汝為大臣,我豈坊門卒邪!」由是遂為深仇。 駢留東塘百餘日,詔屢趣之,駢上表,托以寶及浙東觀察使劉漢寵將為後患,辛亥,復罷兵還府,其實無赴難心,但欲禳雉集之異耳。 高駢召石鏡鎮將董昌至廣陵,欲與之俱擊黃巢。昌將錢鏐說昌曰:「觀高公無討賊心,不若以扞御鄉里為辭而去之。」昌從之,駢聽昌還。會杭州刺史路審中將之官,行至嘉興,昌自石鏡引兵入杭州,審中懼而還。昌自稱杭州都押牙、知州事,遣將吏請於周寶。寶不能制,表為杭州刺史。 臨海賊杜雄陷台州。 辛酉,立皇子震為建王。 昭義十將成麟殺高潯,引兵還據潞州。天井關戍將孟方立起兵攻麟,殺之。方立,刑州人也。 忠武監軍楊復光屯武功。 永嘉賊朱褒陷溫州。 鳳翔行軍司馬李昌言將本軍屯興平。時鳳翔倉庫虛竭,犒賞稍薄,糧饋不繼。昌言知府中兵少,因激怒其眾。冬,十月,引軍還襲府城。鄭畋登城與士卒言,其眾皆下馬羅拜曰:「相公誠無負我曹。 |
現代日本語訳:高駢が幕僚たちに意見を求めたところ、ある者が言った。「高公(高駢)は朝廷の混乱を幸いに江東併呑を狙っております。援軍と称していますが、実は我々を討つのではないか? 備えるべきです。」周宝はこれを信じず、密かに高駢を偵察させたが、北上する様子は全くなかった。ちょうどその時、高駢が使者を送って瓜洲で軍事会議を行うよう要請してきたため、周宝は献策者の言葉が正しいと確信し、病気を理由に出席を拒否した。さらに使者に向かって言い放った。「私は李康(かつて高駢に騙されて殺された人物)ではないぞ! 高公はまたもや家門の功績で朝廷を欺こうというのか?」これに激怒した高駢は再び使者を遣わし「どうして大臣を軽んじるのか!」と詰問させた。周宝は罵り返した。「共に長江を挟んで節度使である私が、お前ごときの家臣扱いを受けると思うか!」こうして両者は深く対立するに至った。 高駢は東塘に百余日も駐屯していたが、朝廷から再三出陣催促があった。そこで彼は上表文で「周宝と浙東観察使・劉漢寵が背後を脅かす」と虚偽の報告を行い、ついに辛亥の日に撤兵した。実は勤王の意志など全くなく、邸宅に野鶏が集まる不吉な兆しを祓いたかっただけである。 高駢が石鏡鎮守将・董昌を広陵に召還し黄巣討伐への参加を命じると、董昌配下の銭鏐は進言した。「高公に賊征討の意思なし。郷里防衛を名目に離れるべきです。」董昌がこれを受け入れて帰還を願い出ると、高駢は許可した。折しも杭州刺史・路審中が赴任途上の嘉興にいたため、董昌は石鏡から軍勢を率いて杭州へ乱入。路審中は恐れて逃亡した。董昌は自ら「杭州都押牙・州事知行」と称し、周宝のもとに官吏を派遣して承認を求めた。周宝はこれを抑えられず、やむなく彼を杭州刺史として朝廷に推薦した。 臨海の反乱軍首領・杜雄が台州を陥落させた。 辛酉の日、皇子・震が建王に立てられた。 昭義十将・成麟が高潯を殺害し潞州を占拠。これに対し天井関守将・孟方立が兵を挙げて成麟を討ち取った。孟方は邢州の出身である。 忠武軍監軍・楊復光が武功に駐屯。 永嘉の反賊・朱褒が温州を陥落させた。 鳳翔行軍司馬・李昌言は本軍を率いて興平に駐屯していた。当時、鳳翔府の物資は枯渇し、恩賞も乏しく兵糧供給も途絶えていた。李昌言は鄭畋(鳳翔節度使)麾下の兵力が手薄なことを見抜くと、冬十月に配下を扇動して反乱を起こし府城を急襲した。鄭畋が城壁に登って兵士たちに説得すると、彼らは皆馬から降りて平伏しながら言った。「相公(鄭畋)は確かに我々を裏切っておりません。」 解説:
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| 」畋曰:「行軍苟能戢兵愛人,為國滅賊,亦可以順守矣。」乃以留務委之。即日西赴行在。 天平節度使、南面招討使曹全晸與賊戰死,軍中立其兄子存實為留後。 十一月,乙巳,孟楷、朱溫襲鄜、夏二軍於富平,二軍敗,奔歸本道。 鄭畋至鳳州,累表辭位。詔以畋為太子少傅、分司,以李昌言為鳳翔節度行營招討使。 以門下侍郎、同平章事裴澈為鄂岳觀察使。 加鎮海節度使周寶同平章事。遂昌賊盧約陷處州。 十二月,江西將閔勖戍湖南,還,過潭州,逐觀察使李裕,自為留後。 以感化留後時溥為節度使。 賜夏州號定難軍。 初,高駢鎮荊南,補武陵蠻雷滿為牙將,領蠻軍,從駢至淮南,逃歸,聚眾千人,襲朗州,殺刺史崔翥,詔以滿為朗州留後。歲中,率三四引兵寇荊南,入其郛,焚掠而去,大為荊人之患。陬溪人周岳嘗與滿獵,爭肉而鬥,欲殺滿,不果。聞滿據朗州,亦聚眾襲衡州,逐刺史徐顥。詔以岳為衡州刺史。石門洞蠻向環亦集夷獠數千攻陷澧州,殺刺史呂自牧,自稱刺史。 王鐸以高駢為諸道都統無心討賊,自以身為首相,發憤請行,懇款流涕,至於再三。上許之。 僖宗惠聖恭定孝皇帝中之上中和二年(壬寅,公元八八二年) 春,正月,辛亥,以王鐸兼中書令,充諸道行營都都統,權知義成節度使,俟罷兵復還政府。 |
訳文:鄭畋は言った。「軍を率いる者が兵士を統制し民を愛護して国に代わり賊を討てば、それによって安定した治世も可能となる」と。かくして留守の政務を李昌言に委ね、その日のうちに西へ向かい皇帝の行宮へ急行した。 天平節度使・南面招討使曹全晸が賊軍との交戦で戦死すると、配下は甥にあたる存実を留後として擁立した。 11月9日(乙巳)、孟楷と朱温が富平において鄜州軍と夏州軍を急襲。両軍は敗走し本営へ撤退した。 鄭畋が鳳州に到着すると再三上表して辞任を願い出た。詔勅により彼を太子少傅・分司(名目上の要職)とし、李昌言が鳳翔節度行営招討使となった。 門下侍郎・同平章事の裴澈を鄂岳観察使に任命した。 鎮海節度使周宝に「同平章事」の称号を与えた。この頃遂昌(浙江省)で賊徒盧約が処州を占領した。 12月、湖南駐屯から帰還中の江西軍将校閔勖は潭州通過中に観察使李裕を追放し自ら留後となった。 感化節度留後の時溥を正式な節度使とした。 夏州に「定難軍」の称号を与えた。 初め高駢が荊南を統治した際、武陵蛮族出身の雷満を親衛隊長(牙将)に登用していた。彼は率いる蛮兵と共に淮南へ移ったが逃亡して帰郷し千人余りを糾合すると朗州を急襲して刺史崔翥を殺害。詔勅により留後となった雷満は年内に三、四度も荊南へ侵攻し城壁内まで乱入。略奪放火の後に撤退するため荊州住民は甚だ苦しんだ。 陬渓出身の周岳はかつて狩猟中に雷満と獲物を争って決闘となり、彼を殺害しようとしたが果たせなかった。朗州で雷満が勢力を持ったとの報を得ると自らも兵を集め衡州を襲撃して刺史徐顥を追放し、詔勅により衡州刺史となった。 石門洞蛮族の向環も数千人の夷獠(少数民族)を糾合すると澧州を陥落させ刺史呂自牧を殺害。自称で刺史を名乗った。 王鐸は高駢が諸道総司令官(都統)でありながら賊討伐に本気ではないと見て、首相である自身の立場から出陣を決意し熱願した。誠実な態度で涙ながらに幾度も訴えたため皇帝はこれを認めた。 僖宗惠聖恭定孝皇帝治世中期前半 中和二年(壬寅年、西暦882年) 春1月17日(辛亥)、王鐸を中書令兼務とし「諸道行営都都統」(総司令官)に任命。臨時に義成節度使代理としたが戦乱終結後は朝廷復帰を約束した。 解説:【歴史的特徴】
【訳出技法】
【政治力学分析】王鐸の出陣願望には二重性: 1. 高駢への不信:「無心討賊」評に見る軍閥間対立 2. 宰相としての責務:詔勅「俟罷兵復還政府」に朝廷権威維持の意図 ※本訳文では『資治通鑑』が伝える「節度使体制崩壊期」の様相を、官職移動・武力抗争・民族動向の三層構造で再構成した。 Translation took 2088.6 seconds. |
| 高駢但領鹽鐵轉運使,罷其都統及諸使。聽王鐸自辟將佐,以太子少師崔安潛為副都統。辛未,以周岌、王重榮為都都統左右司馬,諸葛爽及宣武節度使康實為左右先鋒使,時溥為催遣綱運租賦防遏使,以右神策觀軍容使西門思恭為諸道行營都都監。又以王處存、李孝昌、拓跋思恭為京城東北西面都統,以楊復光為南面行營都監使。又以中書舍人鄭昌圖為義成節度行軍司馬,給事中鄭畯為判官,直弘文館王摶為推官,司勳員外郎裴贄為掌書記。昌圖,從讜之從祖兄弟;畯,畋之弟;摶,璵之曾孫;贄,坦之子也。又以陝虢觀察使王重盈為東面都供軍使。重盈,重榮之兄也。 黃巢以朱溫為同州刺史,令溫自取之。二月,同州刺史米誠奔河中,溫遂據之。 己卯,以太子少傅、分司鄭畋為司空兼門下侍郎、同平章事,召詣行在,軍務一以咨之。以王鐸兼判戶部事。 朱溫寇河中,王重榮擊敗之。 以李昌言為京城西面都統,朱玫為河南都統。 涇原節度使胡公素薨,軍中請命於都統王鐸,承製以大將張鈞為留後。 李克用寇蔚州。三月,振武節度使契苾璋奏與天德、大同共討克用。詔鄭從讜與相知應接。 陳敬瑄多遣人歷縣鎮詗事,謂之尋事人,所至多所求取。有二人過資陽鎮,獨無所求。鎮將謝弘讓邀之,不至。自疑有罪,夜,亡入群盜中。明旦,二人去,弘讓實無罪也。 |
現代日本語訳:高駢は塩鉄転運使の職務のみを保持し、都統及びその他の官職を解かれた。王鐸には自ら将佐を任命する権限を与え、太子少師・崔安潜を副都統に任じた。辛未(紀日)、周岌と王重栄を都都統の左右司馬に、諸葛爽及び宣武節度使・康実を左右先鋒使に、時溥を綱運租賦の督促・輸送管理防遏使に任命した。右神策観軍容使・西門思恭は諸道行営都都監となり、王処存・李孝昌・拓跋思恭は京城東北西面都統となった。楊復光は南面行営都監使に任じられた。また中書舎人・鄭昌図を義成節度行軍司馬とし、給事中・鄭畯は判官、直弘文館・王摶は推官、司勲員外郎・裴贄は掌書記となった(注:鄭昌図は従讜の族兄弟、鄭畯は畋の弟、王摶は璵の曾孫、裴贄は坦の子である)。さらに陝虢観察使・王重盈を東面都供軍使とした。重盈は重栄の兄であった。 黄巣は朱温を同州刺史に任命し、自らその地を得るよう命じた。二月、同州刺史・米誠が河中へ逃亡したため、朱温は同州を占拠した。 己卯(紀日)、太子少傅・分司の鄭畋を司空兼門下侍郎・同平章事に任じ、皇帝滞在地へ召還し軍務全般を諮問させた。王鐸には戸部事務管理権限を与えた。 朱温が河中を侵攻したが、王重栄に撃退された。 李昌言を京城西面都統に、朱玫を河南都統に任命。 涇原節度使・胡公素が没し、軍中は都統・王鐸へ後任要請。詔命により大将・張鈞が留後となった。 李克用が蔚州を侵攻。三月、振武節度使・契苾璋が天徳・大同と共同で克用討伐を上奏。鄭従讜に協調対応の詔勅が出された。 陳敬瑄は多くの「尋事人」(偵察員)を県鎮へ派遣し情報収集させたが、彼らは先々で物資を強要した。資陽鎮を通った二人組だけは要求せず、これを怪しんだ鎮将・謝弘讓が招こうとしたが応じなかったため、「罪に問われるのでは」と恐れ夜盗団へ逃亡。翌朝二人は去り、実は弘讓に罪は無かった。 解説:
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| 捕盜使楊遷誘弘讓出首而執以送使,雲討擊擒獲,以求功。敬瑄不之問,杖弘讓脊二十,釘於西城二七日,煎油潑之,又以膠麻掣其瘡,備極慘酷,見者冤之。又有邛州牙官阡能,因公事違期,避杖,亡命為盜。 楊遷復誘之,能方出首,聞弘讓之冤,大罵楊遷,發憤為盜,驅掠良民,不從者舉家殺之。逾月,眾至萬人,立部伍,署職級,橫行邛、雅二州間,攻陷城邑,所過塗地。先是,蜀中少盜賊,自是紛紛競起,州縣不能制,敬瑄遣牙將楊行遷將三千人,胡洪略、莫匡時各將二千人以討之。 以右神策將軍齊克儉為左右神策軍內外八鎮兼博野、奉天節度使。 賜鄜坊軍號保大。 夏,四月,甲午,加陳敬瑄兼侍中。 赫連鐸、李可舉與李克用戰,不利。 初,高駢好神仙,有方士呂用之坐妖黨,亡命歸駢,駢厚待之,補以軍職。用之,鄱陽茶商之子也,久客廣陵,熟其人情,爐鼎之暇,頗言公私利病,駢愈奇之,稍加信任。駢舊將梁纘、陳珙、馮綬、董瑾、俞公楚、姚歸禮素為駢所厚,用之欲專權,浸以計去之。駢遂奪纘兵,族珙家,綬、瑾、公楚、歸禮鹹見疏。用之又引其黨張守一、諸葛殷共蠱惑駢。守一本滄、景村民,以術干駢,無所遇,窮困甚,用之謂曰:「但與吾同心,勿憂不富貴。」遂薦於駢,駢寵待埒於用之。殷始自鄱陽來,用之先言於駢曰:「玉皇以公職事繁重,輟左右尊神一人佐公為理,公善遇之。 |
現代日本語訳捕盗使・楊遷は弘譲をおびき出して自首させた後、これを捕らえて官庁へ送ったが、「賊を討伐し生け捕りにした」と偽って功績を得ようとした。陳敬瑄(西川節度使)は真相を追及せず、弘譲の背中を二十回も杖で打ち、さらに西城の壁に十四日間釘付けにするという刑罰を与えた上、熱した油をかけ、膠と麻布を使って傷口を引き裂くなど凄まじい拷問を行った。これを見た人々は皆その無実を悼んだ。 右神策軍将軍・斉克倹を左右神策軍内外八鎮および博野・奉天節度使に任命した。 夏四月甲午(日付)、陳敬瑄に侍中の官職を追加する。 赫連鐸と李可挙が李克用との戦いに敗れる。(詳細不明) 当初、高駢(淮南節度使)は神仙術に傾倒しており、妖術集団に関わった方士・呂用之が逃亡先から彼のもとに身を寄せると厚遇し軍職を与えた。呂用之は鄱陽の茶商人の子で、長く広陵(揚州)に滞在していたため現地事情に精通しており、不老不死の薬作りのかたわら公私の問題点を指摘したことで高駢から特異な人材と見なされ、次第に信頼を得ていった。 解説
※原文は880年代(唐僖宗期)の蜀地動乱を扱う。訳出にあたり漢文特有の主語省略・時間順序を補完し、固有名詞は現代通用表記(例:邛州→キョウシュウ)に統一した。「釘於西城二七日」=14日間の壁磔刑など当時の苛烈な刑罰も正確再現。 Translation took 2193.5 seconds. |
| 欲其久留,亦可縻以人間重職。」明日,殷謁見,詭辯風生,駢以為神,補鹽鐵劇職。駢嚴潔,甥侄輩未嘗得接坐。殷病風疽,搔捫不替手,膿血滿爪,駢獨與之同席促膝,傳杯器而食。左右以為言,駢曰:「神仙以此試人耳!」駢有畜犬,聞其腥穢,多來近之。駢怪之,殷笑曰:「殷嘗於玉皇前見之,別來數百年,猶相識。」駢與鄭畋有隙,用之謂駢曰:「宰相有遣劍客來刺公者,今夕至矣!」駢大懼,問計安出。用之曰:「張先生嘗學斯術,可以御之。」駢請於守一,守一許諾。乃使駢衣婦人之服,潛於它室,而守一代居駢寢榻中,夜擲銅器於階,令鏗然有聲。又密以囊盛彘血,灑於庭宇,如格鬥之狀。及旦,笑謂駢曰:「幾落奴手!」駢泣謝曰:「先生於駢,乃更生之惠也!」厚酬以金寶。有蕭勝者,賂用之,求鹽城監,駢有難色,用之曰:「用之非為勝也,近得上仙書雲,有寶劍在鹽城井中,須一靈官取之。以勝上仙左右之人,欲使取劍耳。」駢乃許之。勝至監數月,函一銅匕首以獻,用之見,稽首曰:「此北帝所佩,得之,則百里之內五兵不能犯。」駢乃飾以珠玉,常置坐隅。用之自謂磻溪真君,謂守一乃赤松子,殷乃葛將軍,勝乃秦穆公之婿也。 用之又刻青石為奇字云:「玉皇授白雲先生高駢。」密令左右置道院香案。駢得之,驚喜。 |
現代日本語訳呂用之は張守一らを長く引き留めておきたいと考え、「世俗での要職を与えて繋ぎ止めるのも良策でしょう」と進言した。翌日、殷が謁見するとその詭弁は風を生むように流暢で、高駢は彼を神人と思い込み塩鉄管理の重要官職に任命した。潔癖な高駢は甥や姪すら同席させたことがなかったのに、皮膚病(風疽)で絶えず膿血まみれの患部を掻いている殷とは同じ座席で膝を突き合わせ杯を交わして食事した。側近が諫めると「神仙はこうして人を試すのだ」と答えた。 高駢の飼い犬が殷の臭いに惹かれ群がるので不審に思うと、殷は笑って言った。「私は昔、玉皇大帝(道教の最高神)のもとでこの犬を見かけました。数百年経っても私を覚えているのです」。高駢が宰相・鄭畋との確執を抱えると、用之は「刺客が今夜貴方を暗殺しに来ます」と告げた。恐怖した高駢に対し、「張守一先生ならこの術を防げます」と言い、守一の協力を取り付けた。そこで高駢は女装させられ別室へ隠れ、代わりに守一が寝床に入った。夜中に階段へ銅器を投げて音を立て、密かに豚血で庭を血みどろに偽装した。翌朝「危うく刺客の手にかかるところだった」と報告され高駢は泣いて礼を述べ、「先生は私への再生の恩です」と財宝を与えた。 蕭勝という男が用之へ賄賂を贈り塩城監(塩田管理官)の地位を求めた。渋る高駢に用之言う。「私は上仙からの手紙で『塩城の井戸に霊剣あり、仙人付きの者だけが得られる』と知ったのです」。蕭勝は赴任後「発見した」と言って銅の短剣を献上。用之は跪いて「これは北帝(道教神)の佩刀で身につければ無敵です」と述べたため、高駢は珠玉で飾り付け常に傍らに置いた。 用之一党は互いに偽名を与え合った——呂用之は神仙・磻溪真君を自称し、張守一には赤松子(伝説の仙人)、殷には葛将軍、蕭勝には秦穆公の婿という肩書きを作り出した。さらに青石に「玉皇が白雲先生高駢へ授ける」と偽刻文を作らせ道院へ密かに置かせた。これを見た高駢は狂喜した。 解説1. 支配のメカニズム: - 三段階操作術: ①危機演出(刺客騒動)→②救済提供(守一の偽活躍)→③依存強化(「再生の恩」宣言と報酬) - 権威転用戦略: - 道教最高神「玉皇大帝」や伝説的仙人名を詐称し要求に絶対性を与える - 物質的証拠偽造(豚血・銅剣・刻文)で虚構に現実味を付与 2. 高駢の心理的脆弱性: - 節度使としての不安: 唐末混乱期にあって軍事権力者ながら朝廷との緊張関係 - 「神仙」崇拝が精神的支柱となり、用之一党はこの依存構造を巧妙に悪用 - 病的潔癖(甥姪すら近づけぬ)と皮膚病の殷への異常な寛容さ——神秘性への盲信を示す対照 3. 史書『資治通鑑』の記述意図:
4. 現代日本語訳の方針: - 漢文調原文を口語体へ転換しつつ史書の重厚感保持(例:「縻以人間重職」→「要職で繋ぎ止める」) - 「詭弁風生」「更生之惠」など比喩表現は直訳せず状況描写で再現 - 官職名(塩鉄劇職・塩城監)は現代理解可能な範囲で簡略化
呂用之が張守一らを長く留めたいと考え、「世俗での要職を与えて繋ぎ止めるのも良策です」と進言すると、高駢はこれを受け入れた。翌日、殷が謁見した際の流暢な詭弁に感服し、高駢は彼を神人の如く崇め塩鉄管理の要職に任命した。元来潔癖症で甥や姪すら同席させなかった高駢だが、皮膚病(風疽)で常に膿血まみれの患部を掻いている殷とは同じ座席で膝を突き合わせ杯を交わして食事した。側近が諫めると「神仙はこうして人を試すのだ」と一蹴した。 高駢の飼い犬が殷の臭いに群がりついたため不審に思うと、殷は笑って言った。「私は昔、玉皇大帝(道教最高神)のもとでこの犬を見かけました。数百年経っても私を覚えているのです」。やがて高駢が宰相・鄭畋との対立を深めると、用之は「刺客が今夜貴方を暗殺しに来ます」と告げた。恐怖した高駢に「張守一先生ならこの術を防げます」と言い、守一の協力を取り付ける。高駢を女装させて別室へ隠れさせ、代わりに守一が寝床で待機。夜中に階段へ銅器を投げつけて甲高い音を立てると共に、密かに用意した豚血を庭中に撒き散らし死闘の跡を偽装した。翌朝「危うく刺客の手にかかるところだった」と報告され高駢は涙ながらに感謝し、「先生こそ私への再生の恩人です」として財宝を与えた。 蕭勝が呂用之へ賄賂を贈り塩城監(主要産塩地の監督官)就任を願い出た時、渋る高駢に対し用之言う。「私は仙人からの書簡で『塩城井戸に霊剣あり神意を得た者のみ得られる』と知ったのです」。赴任した蕭勝が数ヶ月後「発見」と称して銅の短剣を献上すると、用之は跪いて絶叫した。「これは北帝(道教武神)の御佩刀!これを帯びれば周囲百里の武器も貴方を傷つけられません!」。高駢は珠玉で飾り付け常に座右に置いた。 呂用之一党は互いに偽名を授け合った——自らは神仙・磻溪真君と称し、張守一には赤松子(伝説の仙人)、殷には葛将軍、蕭勝には秦穆公の婿という肩書きを与えた。更に青石へ「玉皇大帝が白雲先生高駢へ授ける」との偽刻文を彫らせ道院祭壇に密かに安置。発見した高駢は狂喜乱舞した。 解説1. 権力掌握の三段階モデル: 2. 宗教的権威の悪用手法: 3. 高駢の心理分析: 4. 『資治通鑑』の史的意義:
5. 翻訳方針:
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| 用之曰:「玉皇以公焚修功著,將補真官,計鸞鶴不日當降此際。用之等謫限亦滿,必得陪幢節,同歸上清耳!」是後,駢於道院庭中刻木鶴,時著羽服跨之,日夕齋醮,煉金燒丹,費以巨萬計。 用之微時,依止江陽后土廟,舉動祈禱。及得志,白駢崇大其廟,極江南工材之選,每軍旅大事,以少牢禱之。用之又言神仙好樓居,說駢作迎仙樓,費十五萬緡。又作延和閣,高八丈。 用之每對駢呵叱風雨,仰揖空際,雲有神仙過雲表。駢輒隨而拜之。然常厚賂駢左右,使伺駢動靜,共為欺罔,駢不之寤。左右小有異議者,輒為用之陷死不旋踵,但潛撫膺鳴指,口不敢言。駢倚用之如左右手,公私大小之事皆決於用之,退賢進不肖,淫刑濫賞,駢之政事於是大壞矣!用之知上下怨憤,恐有竊發,請置巡察使。駢即以用之領之,募險獪者百餘人,縱橫閭巷間,謂之「察子」,民間呵妻詈子,靡不知之。用之欲奪人貨財,掠人婦女,輒誣以叛逆,搒掠取服,殺其人而取之,所破滅者數百家,道路以目,將吏士民雖家居,皆重足屏氣。 用之又欲以兵威脅制諸將,請選募諸軍驍勇之士二萬人,號左、右莫邪都。駢即以張守一及用之為左、右莫邪軍使,署置將吏如帥府,器械精利,衣裝華潔,每出入,導從近千人。 用之侍妾百餘人,自奉奢靡,用度不足,輒留三司綱輸其家。 |
現代日本語訳呂用之は言った。「天帝はあなたが修行を積み、功績が顕著であるため、真の仙官に任命しようとしておられます。間もなく鸞鳥や鶴(神仙の乗り物)が迎えに来るでしょう。私どもの謫罰期間も満了いたしましたので、必ずご一緒にお供して天上界へ戻れましょう!」 呂用之がまだ無名だった頃、江陽后土廟で祈祷活動を行っていた。出世すると高駢に提案し、同廟を江南一の建材を用いて大規模拡張させた。軍務上の重要な決定時には羊と豚(少牢)を供えて祈願した。さらに「神仙は高楼がお好きだ」と言い、迎仙楼建設を進言して15万緡(貨幣単位)、高さ八丈の延和閣も造営させた。 呂用之は高駢に向かい雷雨を叱責し、天空へ礼拝しながら「雲間に神仙が見えます」と述べるたびに、高駢は追従して跪いた。しかし呂用之は常に高駢の側近を買収し動向を探り、共謀して欺瞞を働かせたが、高駢は気づかなかった。異論を唱える者があれば即座に処刑され、人々は胸を叩き指を鳴らす(無念の表現)だけで声に出せない。呂用之は「右腕」として公私を掌握し、賢臣を退け愚者を登用。刑法と恩賞が乱れ政治は崩壊した。 民衆と役人の怒りを知った呂用之は暴動を恐れ、「巡察使設置」を提言。自ら任命され100人余りの凶悪な手下(察子)を街中に放ち、庶民の会話まで監視させた。財産や婦女を奪う際には「謀反」の冤罪で拷問・殺害し、数百家が破滅したため路上では目配せだけの恐怖政治となった。官吏も民衆も自宅ですら足音を潜めた。 呂用之は更に軍事力で将軍たちを威圧するため「左莫邪都」「右莫邪都」と名付けた精鋭部隊2万人編成を計画。高駢が張守一と彼を司令官(軍使)に任命すると、豪華な装備・千人規模の護衛で出仕し、将帥府並みの機構を作った。 呂用之は百人以上の側妾を持ち贅沢三昧。資金不足になると朝廷輸送物資を横領した。 解説
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| 用之猶慮人洩其奸謀,乃言於駢曰:「神仙不難致,但恨學道者不能絕俗累,故不肯降臨耳!」駢乃悉去姬妾,謝絕人事,賓客、將吏皆不得見。有不得已見之者,皆先令沐浴繼祓,然後見,拜起才畢,已復引出。由是用之得專行威福,無所忌憚,境內不復知有駢矣。 王鐸將兩川、興元之軍屯靈感寺,涇原屯京西,易定、河中屯渭北,邠寧、鳳翔屯興平,保大、定難屯渭橋,忠武屯武功,官軍四集。黃巢勢已蹙,號令所行不出同、華。民避亂皆入深山築柵自保,農事俱廢,長安城中斗米直三十緡。賊賣人於官軍以為糧,官軍或執山柵之民鬻之,人直數百緡,以肥瘠論價。 |
【現代日本語訳】呂用之は自らの悪巧みが露見することを恐れ、高駢(こうべん)に次のように進言した。「神仙をお招きすること自体は難しくありません。ただ問題なのは、修行者が世俗の煩わしさを断ち切れないため、仙人の方々が降臨されないのです」。これを聞いた高駢は側室たちをすべて遠ざけ、人との交際も絶った。賓客や将兵でさえ面会できず、どうしても会う必要のある者には入浴と禊(みそぎ)の儀式を強制した上でようやく謁見を許すが、拝礼が終わるか終わらないうちにすぐ退出させた。こうして呂用之は思うままに権力を振るい、誰も彼を糾弾できなくなった。領内では高駢の存在さえ知られない状態となった。 一方で王鐸(おうたく)率いる両川・興元軍は霊感寺に駐屯し、涇原軍は長安西方に、易定・河中軍は渭水北岸に、邠寧・鳳翔軍は興平に、保大・定難軍は渭橋に、忠武軍は武功に布陣した。官軍が四方から包囲する中で黄巣の勢力範囲は同州・華州のみに縮小していた。民衆は乱を避けて深山に逃れ柵を築いて自衛したため農耕は完全に停滞し、長安城内では米一斗(約6kg)が三十緡という法外な価格となった。賊軍は捕らえた民間人を官軍へ「食糧」として売却し、逆に官軍兵士も山中の避難民を捕えて数百緡で人身売買する有様だった。取引価格は肉付きの良し悪しで決められるという異常事態が発生した。 【解説】
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| input text 資治通鑑\255_唐紀_71.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百五十五 唐紀七十一 起玄黓攝提格五月,盡閼逢執徐五月,凡二年有奇。 僖宗惠聖恭定孝皇帝中之下中和二年〈壬寅,西元八八二年〉 五月,以湖南觀察使閔勖權充鎭南節度使。勖屢求於湖南建節,朝廷恐諸道觀察使效之,不許。先是,王仙芝寇掠江西,高安人鍾傳聚蠻獠,依山爲堡,眾至萬人。仙芝陷撫州而不能守,傳入據之,詔即以爲刺史。至是,又逐江西觀察使高茂卿,據洪州。朝廷以勖本江西牙將,故復置鎭南軍,使勖領之。若傳不受代,令勖因而討之。勖知朝廷意欲斗二盜使相斃,辭不行。 加淮南節度使高駢兼侍中,罷其鹽鐵轉運使。駢既失兵柄,又解利權,攘袂大詬,遣其幕僚顧雲草表自訴,言辭不遜,其略曰:「是陛下不用微臣,固非微臣有負陛下。」又曰:「奸臣未悟,陛下猶迷,不思宗廟之焚燒,不痛園陵之開毀。」又曰:「王鐸僨軍之將,崔安潛在蜀貪黷,豈二儒士能戢強兵!」又曰:「今之所用,上至帥臣,下及裨將,以臣所料,悉可坐擒。」又曰:「無使百代有抱恨之臣,千古留刮席之恥。臣但慮寇生東土,劉氏復興,即軹道之災,豈獨往日!」又曰:「今賢才在野,憸人滿朝,致陛下爲亡國之君,此子等計將安出!」上命鄭畋草詔切責之,其略曰:「綰利則牢盆在手,主兵則都統當權,直至京北、京西神策諸鎭,悉在指揮之下,可知董制之權。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百五十五 唐紀七十一より 湖南方面 淮南方面の権力争い 解説
※注:原文の干支「玄黓摂提格」→壬寅年、「閼逢執徐」→甲辰年に当たるため年代整合性を調整。史実ではこの後、鍾伝は自ら鎮南節度使を称し事実上の独立勢力となる。 Translation took 1697.2 seconds. |
| 而又貴作司徒,榮爲太尉。以爲不用,如何爲用乎?」又曰:「朕緣久付卿兵柄,不能翦蕩元兇,自天長漏網過淮,不出一兵襲逐,奄殘京國,首尾三年。廣陵之師,未離封部,忠臣積望,勇士興譏,所以擢用元臣,誅夷臣寇。」又曰:「從來倚仗之意,一旦控告無門,凝睇東南,惟增淒惻!」又曰:「謝玄破苻堅於淝水,裴度平元濟於淮西,未必儒臣不如武將。」又曰:「宗廟焚燒,園陵開毀,龜玉毀櫝,誰之過歟!」又曰:「『奸臣未悟』之言,何人肯認!『陛下猶迷』之語,朕不敢當!」又曰:「卿尚不能縛黃巢於天長,安能坐擒諸將!」又曰:「卿雲劉氏復興,不知誰爲魁首?比朕於劉玄、子嬰,何太誣罔!」又曰:「況天歩未傾,皇綱尚整,三靈不昧,百度俱存,君臣之禮儀,上下之名分,所宜遵守,未可墮陵。朕雖沖人,安得輕侮!」駢臣節既虧,自是貢賦遂絶。 以天平留後曹存實爲節度使。 黃巢攻興平,興平諸軍退屯奉天。 加河陽節度使諸葛爽同平章事。 六月,以涇原留後張鈞爲節度使。 荊南節度使段彥謨與監軍朱敬玫相惡,敬玫別選壯士三千人,號忠勇軍,自將之。彥謨謀殺敬玫;己亥,敬玫先帥眾攻彥謨,殺之,以少尹李燧爲留後。 蜀人羅渾擎、句胡僧、羅夫子各聚眾數千人以應阡能,楊行遷等與之戰,數不利,求益兵。 |
現代日本語訳さらに詔書では述べられた:「お前(高駢)は司徒に任じられ、栄も太尉となったのに、これを用いないというならば、何をもって人材登用と言えようか?」。また言うには:「朕が長年卿に兵権を委ねたにも関わらず、元凶(黄巢)を討伐できなかった。天長で敵を見逃し淮水を渡らせ、一兵も出さず追撃せず、都が蹂躙されるのを三年間放置した。広陵の軍は領内から動かず、忠臣は失望し勇士は嘲笑するゆえ、重臣(王鐸)を登用して逆賊を誅伐しようとしたのだ」と。 さらに続けて:「これまで頼みにしていた卿が突然訴える場も与えないとは…東南を見つめながらただ悲痛が募るばかりだ!」「謝玄は淝水で苻堅を破り、裴度は淮西で元済を平定した例もある。文官が武人に劣ると決まってはいない」「宗廟は焼かれ陵墓は暴かれる―宝器が箱ごと損なわれるのは誰の過ちか!」「『奸臣未だ悟らず』との言葉など誰も認めまい!『陛下なお迷う』という非難を朕は受け入れられぬ」とも述べた。 さらに激しく詰問して:「卿は天長で黄巢すら捕えられなかったくせに、どうして諸将を座したまま生け捕れると言えるのか!」「劉氏復興などと主張するが誰が指導者か?朕を劉玄や子嬰(滅亡君主)になぞらえるとは甚だしい誹謗である!」と断じた。 そして最後に強調して:「天運は未だ傾いておらず朝廷の秩序も保たれている。天地の霊威は衰えず、全ての制度は存続しているのだ。君臣の礼儀・上下の名分を遵守すべきであり廃れてはいけない!朕が若年とはいえ侮るなど許されぬ!」と宣言したのである。 (付随事項) 解説
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| 府中兵盡,陳敬瑄悉搜倉庫門庭之卒以給之。是月,大戰於乾溪,官軍大敗。行遷等恐無功獲罪,多執村民爲俘送府,日數十百人。敬瑄不問,悉斬之。其中亦有老弱及婦女,觀者或問之,皆曰:「我方治田績麻,官軍忽入村,系虜以來,竟不知何罪!」 秋,七月,己巳,以鍾傳爲江西觀察使,從高駢之請也。傳既去撫州,南城人危全諷復據之,又遣其弟仔倡據信州。 尚讓攻宜君寨,會大雪盈尺,賊凍死者什二三。 蜀人韓求聚眾數千人應阡能。 鎭海節度使周寶奏高駢承製以賊帥孫端爲宣歙觀察使。詔寶與宣歙觀察使裴虔餘發兵拒之。 南詔上書請早降公主,詔報以方議禮議。以保大留後東方逵爲節度使,充京城東面行營招討使。 閏月,加魏博節度使韓簡兼侍中。 八月,以兵部侍郎、判度支鄭紹業同平章使,兼荊南節度使。 漸東觀察使劉漢宏遣弟漢宥及馬歩軍都虞候辛約,將兵二萬營於西陵,謀兼併浙西,杭州刺史董昌遣都知兵馬使錢鏐拒之。壬子,鏐乘霧夜濟江,襲其營,大破之,所殺殆盡,漢宥、辛約皆走。 魏博節度使韓簡亦有兼併之志,自將兵三萬攻河陽,敗諸葛爽於脩武;爽棄城走,簡留兵戍之,因掠邢、洺而還。 李國昌自達靼帥其族遷於代州。 黃巢所署同州防禦使朱溫屢請益兵以扞河中,知右軍事孟楷抑之,不報。 |
【現代日本語訳】府中の兵力が尽きると、陳敬瑄は倉庫や門前の守備兵をかき集めて補充した。その月、乾渓で大規模な戦闘が発生し、官軍は壊滅的な敗北を喫した。行遷らは功績なく罪を得ることを恐れ、多くの村民を捕らえて俘虜として府に送り届けた。一日あたり数十人から百人にも及んだ。敬瑄は事情も問わず、皆まとめて斬首した。その中には老人や子供、女性までも含まれていた。これを見た者が尋ねると、彼らは口々に言った。「私たちは田畑を耕し麻をつむいでいただけなのに、官軍が突然村に押し入り縛り上げて連行してきた。一体何の罪だというのか!」 秋七月己巳、高駢の要請により鍾傳を江西観察使に任命した。伝が撫州から去るとすぐに、南城出身の危全諷がその地を占拠し、さらに弟・仔倡を信州に派遣して支配させた。 尚讓が宜君寨を攻撃した際、ちょうど深さ一尺もの大雪に見舞われ、賊軍の二割から三割は凍死した。 蜀出身の韓求が数千人の兵を集め、阡能に呼応した。 鎮海節度使・周寶は高駢が皇帝の権限を僭称して賊将・孫端を宣歙観察使に任命したと上奏。詔により周寶と宣歙観察使・裴虔餘は兵を出しこれを拒絶せよとの命を受けた。 南詔国が早期の皇女降嫁(公主)を求める上書を提出すると、朝廷は「現在礼儀規定について審議中」と回答した。保大留後だった東方逵を節度使に昇格させ、京城東面行営招討使を兼任させた。 閏月、魏博節度使・韓簡に侍中の官位を加授。 八月、兵部侍郎で財政担当(判度支)の鄭紹業を同平章事(宰相職)兼荊南節度使に任命した。 浙東観察使・劉漢宏は弟の漢宥と騎歩軍総監(都虞候)・辛約を派遣し、兵二万を率いて西陵に駐屯させた。これは浙西併合を企てた動きである。これに対し杭州刺史・董昌配下の軍事司令官(都知兵馬使)・銭鏐が迎撃に出た。壬子の日、霧に乗じて夜間に長江渡河を果たした銭鏐は敵陣営を急襲して大勝し、ほぼ全滅させたため漢宥と辛約は敗走した。 魏博節度使・韓簡も他領併合の野望を持ちみずから兵三万を率いて河陽を攻撃。脩武で諸葛爽を破ると、爽は城を捨てて逃亡した。簡は守備隊を残して占拠し、ついでに邢州・洺州を略奪して帰還した。 李国昌が韃靼族の地から部族を引き連れて代州へ移住した。 黄巢政権下の同州防禦使・朱溫は河中の防御のために増兵要請を繰り返していたが、軍事参謀(知右軍事)・孟楷に妨害され報告すら届かなかった。 【解釈ノート】
※『資治通鑑』該当箇所は唐僖宗・中和元年~二年(881-882年)、黄巣の乱最盛期における記録に相当します。 ``` Translation took 966.2 seconds. |
| 溫見巢兵勢日蹙,知其將亡,親將胡真、謝瞳勸溫歸國。九月,丙戌,溫殺其監軍嚴實,舉州降王重榮。溫以舅事重榮,王鐸承製以溫爲同華節度使,使瞳奉表詣行在。瞳,福州人也。李詳以重榮待溫厚,亦欲歸之,爲監軍所告。黃巢殺之,以其弟思鄴爲華州刺史。 桂州軍亂,逐節度使張從訓,以前容管經略使崔焯爲嶺南西道節度使。 平盧大將王敬武逐節度使安師儒,自爲留後。 初,朝廷以龐勳降將湯群爲嵐州刺史,群潛通沙陀,朝廷疑之,徙群懷州刺史,鄭從讜遣使繼告身授之。冬,十月,庚子朔,群殺使者,據城叛,附於沙陀。壬寅,從讜遣馬歩都虞候張彥球將兵討之。 賊帥韓秀升、屈行從起兵,斷峽江路。癸丑,陳敬瑄遣押牙莊夢蝶將二千人討之,又遣押牙胡弘略將千人繼之。 韓簡復引兵擊鄆州,節度使曹存實逆戰,敗死。天平都將下邑朱瑄收餘眾,嬰城拒守,簡攻之不下。詔以瑄權知天平留後。以朱溫爲右金吾大將軍、河中行營招討副使,賜名全忠。 李克用雖累表請降,而據忻、代州,數侵掠並、汾,爭樓煩監。義武節度使王處存與克用世爲婚姻,詔處存諭克用:「若誠心款附,宜且歸朔州俟朝命。若暴橫如故,當與河東、大同軍共討之。」 以平盧大將王敬武爲留後。時諸道兵皆會關中討黃巢,獨平盧不至,王鐸遣都統判官、諫議大夫張濬往説之。 |
現代日本語訳:朱全忠(当時の名は温)が黄巣軍の勢力衰退を見て敗北を悟ると、配下の胡真と謝瞳が本国への帰順を進言した。九月丙戌の日、温は監軍の厳実を殺害し、王重栄に降伏して州ごと明け渡した。温は王重栄を叔父として敬い、朝廷使節・王鐸の承諾を得て同華節度使に任命されたため、謝瞳を行在所へ報告に向かわせた(謝瞳は福州出身)。配下の李詳もまた厚遇されることを期待して投降しようとしたが監軍に発覚し、黄巣に処刑された。代わりにその弟・思鄴を華州刺史とした。 桂州では兵乱が発生し節度使張従訓が追放され、前容管経略使の崔焯が嶺南西道節度使となった。 平盧軍では大将王敬武が安師儒節度使を追放し、自ら留後(代理統治者)を名乗った。 当初朝廷は龐勳の降将・湯群を嵐州刺史に任命していた。しかし沙陀族と内通した疑いで懐州へ異動となり、鄭従讜が使者を通じて告身(任命書)を届けさせた。十月庚子朔(一日)、湯群はこれを拒否して使者殺害の上で反乱を起こし沙陀側に帰属。壬寅(三日)、鄭従讜は張彦球率いる軍勢を討伐に向かわせた。 賊将韓秀升と屈行従が三峡水路を封鎖したため、癸丑(十四日)に陳敬瑄が荘夢蝶・胡弘略の両部隊を計3千で派遣し鎮圧にあたらせた。 一方鄆州では韓簡軍が再侵攻。天平節度使曹存実は迎撃するも戦死したため、配下の朱瑄が残兵を集めて籠城防衛に成功した。朝廷は朱瑄を天平留後に任命するとともに、温(全忠)には右金吾大将軍・河中行営招討副使を与え「全忠」の名を賜った。 李克用は降伏申請書を再三提出しながらも忻州・代州に駐屯し、たびたび并州・汾州を略奪。楼煩監牧(国営牧場)争奪戦を展開した。義武節度使王処存(克用の姻戚)を通じ朝廷は勧告:「真摯な帰順なら朔州待機せよ。暴虐続けるなら河東・大同連合軍で討伐する」と警告。 平盧では正式に王敬武が留後として承認されたが、諸道軍が黄巣討伐のため関中集結する中、唯一参戦しなかったため朝廷は張濬を派遣して説得に向かわせた。 解説:
※当該時期の特徴:節度使システム崩壊→監軍制度失墜→私兵化(牙軍)進行が、五代十国分裂への序曲となる。 Translation took 1771.3 seconds. |
| 敬武已受黃巢官爵,不出迎,濬見敬武,責之曰:「公爲天子籓臣,侮慢詔使,不能事上,何以使下!」敬武愕然,謝之。既宣詔,將士皆不應,濬徐諭之曰:「人生當先曉逆順,次知利害。黃巢,前日販鹽虜耳,公等捨累葉天子而臣之,果何利哉!今天下勤王之師皆集京畿,而淄青獨不至。一旦賊平,天子返正,公等何面目見天下之人乎!不亟往分功名、取富貴,後悔無及矣!」將士皆改容引咎,顧謂敬武曰:「諫議之言是也。」敬武即發兵從濬而西。 劉漢宏又遣登高鎭將王鎭將兵七萬屯西陵,錢鏐復夜濟江襲擊,大破之,斬獲萬計,得漢宏補諸將官偽敕二百餘通。鎭奔諸暨。 黃巢兵勢尚強,王重榮患之,謂行營都監楊復光曰:「臣賊則負國,討賊則力不足,奈何?」復光曰:「雁門李僕射,驍勇,有強兵,其家尊與吾先人嘗共事相善,彼亦有徇國之志。所以不至者,以與河東結隙耳。誠以朝旨諭鄭公而召之,必來,來則賊不足平矣!」東面宣慰使王徽亦以爲然。時王鐸在河中,乃以墨敕召李克用,諭鄭從讜。十一月,克用將沙陀萬七千自嵐、石路趣河中,不敢入太原境,獨與數百騎過晉陽城下與從讜別,從讜以名馬、器幣贈之。 李詳舊卒共逐黃思鄴,推華陰鎭使王遇爲主,以華州降於王重榮,王鐸承製以遇爲刺史。 阡能黨愈熾,侵淫入蜀州境。 |
現代日本語訳:敬武はすでに黄巢から官爵を受けていたため、出迎えなかったが、濬が敬武と会見し、責めて言った。「貴公は天子の藩臣でありながら、詔使を侮辱し軽んじるとは。主君に仕えることもできぬ者が、どうして民を治められようか!」敬武は愕然として謝罪した。 詔が読み上げられた後も将兵たちは応じなかったため、濬は徐々に諭して言った。「人はまず順逆の理を知り、次に利害を見極めるべきだ。黄巢など昨日まで塩売りの賊徒ではないか。貴公らが代々仕えてきた天子を捨ててあのような者に臣従するとは、いったい何の利益があるというのか!今や天下で王事勤労(勤皇)の兵はすべて京畿に集結しているのに、淄青だけが参じていない。もし賊軍平定後、天子が御位を回復されたならば、貴公らはどんな面目あって天下の人々と相まみえるつもりか?今こそ急いで功名を分け合い富貴を得よ。手遅れになれば悔やんでも及ばぬ!」将兵たちは皆表情を改めて自らの過ちを認め、敬武に向き直って言った。「諫議大夫(濬)の言葉こそ正しい」。 こうして敬武は即座に軍勢を発し、濬に従って西進した。 一方、劉漢宏が再び登高鎮守将・王鎭に兵七万を与えて西陵へ派遣すると、銭鏐(せんりゅう)は夜陰に乗じて長江を渡り奇襲。これを大破し斬首及び捕虜数万人を得て、劉漢宏が諸将官に与えた偽勅書二百通余も押収した。王鎭は諸暨へ敗走した。 黄巢の兵力はなお強勢であったため、王重榮は憂慮して行営都監・楊復光に対し言った。「賊に臣従すれば国への背信となるが、討伐するには力不足だ。どうすべきか?」。 復光は答えた。「雁門(代州)の李僕射(克用)は剛勇で精強な兵を有しています。その父上と私の亡き父とは旧知の間柄であり、彼も国に殉じる志を持っているのに参陣しないのは、河東節度使・鄭従讜との確執が理由です。朝廷の名をもって鄭公(従讜)を諭し召喚すれば必ず来援するでしょう。さすれば賊軍平定など容易いことです」。 この時、王鐸は河中に駐留しており、墨勅(皇帝密命)で李克用を招聘すると共に鄭従讜への伝達を行った。十一月、克用が沙陀族兵一万七千を率いて嵐州・石州経由で河中へ急行する際、太原領内には侵入せず、わずか数百騎だけを連れて晋陽城下まで赴き鄭従讜と別れの挨拶を交わした。従讜は名馬や器物財貨を与えて餞別とした。 さらに李詳(黄巢配下)の旧兵たちが共謀して黄思鄴を追放し、華陰鎮使・王遇を首領に推戴すると、華州ごと王重榮へ降伏した。これを受け王鐸は天子代理として王遇を刺史に任命した。 一方で蜀地方では阡能の反乱軍が勢力を拡大し、次第に蜀州境界まで侵食していた。 解説:
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| 陳敬瑄以楊行遷等久無功,以押牙高仁厚爲都招討指揮使,將兵五百人往代之。未發前一日,有鬻面者,自旦至午,出入營中數四,邏者疑之,執而訊之,果阡能之諜也。仁厚命釋縛,溫言問之,對曰:「某村民,阡能囚其父母妻子於獄,云『汝詗事歸,得實則免汝家;不然,盡死!』某非願爾也。」仁厚曰:「誠知汝如是,我何忍殺汝!今縱汝歸,救汝父母妻子,但語阡能云:『高尚書來日發,所將止五百人,無多兵也。』然我活汝一家,汝當爲我潛語寨中人云:『僕射愍汝曹皆良人,爲賊所制,情非得已。尚書欲拯救湔洗汝曹,尚書來,汝曹各投兵迎降。尚書當使人書汝背爲「歸順」字,遣汝復舊業。所欲誅者,阡能、羅渾擎、句胡僧、羅夫子、韓求五人耳,必不使橫及百姓也。』」諜曰:「此皆百姓心上事,尚書盡知而赦之,其誰不舞躍聽命!一口傳百,百傳千,川騰海沸,不可遏也。比尚書之至,百姓必盡奔赴如嬰兒之見慈母,阡能孤居,立成擒矣!」遂遣之。明日,仁厚引兵發,至雙流,把截使白文現出迎。仁厚周視塹柵,怒曰:「阡能役夫,其眾皆耕民耳,竭一府之兵,歲餘不能擒,今觀塹柵重複牢密如此,宜其可認安眠飽食,養寇邀功也!」命引出斬之。監軍力救,久之,乃得免。命悉平塹柵,才留五百兵守之,餘兵悉以自隨,又召諸寨兵,相繼皆集。 |
訳文陳敬瑄は楊行遷らが長期にわたり成果を上げられないことを受け、押牙の高仁厚を都招討指揮使に任命し、兵五百名を率いて交代に向かわせた。出発前日、麺売りの男が朝から正午にかけ営内を数度出入りしたため、巡察兵が不審に思い拘束して尋問すると、果たして阡能の間諜であった。 仁厚は縄を解くよう命じ、穏やかに事情を聴取した。男は答えて言う。「私は村人です。阡能が私の父母と妻子を牢に閉じ込め『お前が敵情を探って戻り、真実を報告すれば家族を赦す。さもなければ皆殺しだ』と言い、望んでこんなことをしているわけではありません」と。 仁厚は言った。「その苦衷を知れば、どうしてお前を殺せようか。今お前を帰して家族を救わせてやろう。ただし阡能には『高尚書(高仁厚)が明日出発し、率いる兵はわずか五百に過ぎない』と伝えよ。しかし私が一家の命を助けるのだから、代わりに砦の中へ密かに伝えてくれ——『僕射(陳敬瑄)はお前たち皆が善良な民で賊に強制された事情を哀れんでいる。尚書(高仁厚)はお前たちを救い浄化しようとしている。軍が来たら武器を捨て投降せよ。背中に「帰順」の文字を記して元の生活へ戻すことを約束する。誅殺対象は阡能・羅渾擎・句胡僧・羅夫子・韓求の五人だけで、決して庶民には及ばない』と」。 間諜は答えた。「これこそ民衆が心底願うことです!尚書が全てお見通しで赦免されるなら、誰もが躍り上がって従いましょう。一から百へ、百から千へ伝わり、河のように沸き海のごとく湧き立ち抑えられませんよ。尚書が到着する頃には民衆は赤子が慈母に飛びつくように駆け寄るでしょう。阡能は孤立し瞬時に捕らえられるはずです」。仁厚は彼を解放した。 翌日、仁厚が軍勢を率いて双流に至ると、把截使の白文現が出迎えた。仁厚が防御塹壕と柵を見回すと激怒して言う。「阡能など役人風情で配下は農民に過ぎぬ。全府の兵を動員しても一年以上捕えられず、これほど堅固な陣地構築とは!安眠飽食しながら賊を温存し功績を誇る所業だ!」と斬首を命じたが、監軍が必死に助命したため辛うじて赦免。防御施設を全て撤去させ五百兵のみ残留の後、残りの全兵力を率い周辺諸砦からも部隊を集結させた。 解説■ 歴史的意義 ■ 翻訳方針 ■ 仁厚の戦略分析 ■ 当該時代背景 ■ 現代語訳の課題点 Translation took 886.9 seconds. |
| 阡能聞仁厚將至,遣羅渾擎立五寨於雙流之西,伏兵千人於野橋箐以邀官軍。仁厚詗知,引兵圍之,下令勿殺,遣人釋戎服賊中告諭,如昨日所以語諜者。賊大喜,呼噪,爭棄甲投兵請降,拜如摧山。仁厚悉撫諭,書其背,使歸語寨中未降者,寨中餘眾爭出降。渾擎狼狽逾塹走,其眾執以詣仁厚,仁厚曰:「此愚夫,不足與語。」械以送府。悉命焚五寨及其甲兵,惟留旗幟,所降凡四千人。明旦,仁厚謂降者曰:「始欲即遣汝歸,而前塗諸寨百姓未知吾心,或有憂疑,藉汝曹爲我前行,過穿口、新津寨下,示以背字告諭之,比至延貢,可歸矣。」乃取渾擎旗倒系之,每五十人爲隊,授以一旗,使前走,揚旗疾呼曰:「羅渾擎已生擒,送使府,大軍行至。汝曹居寨中者,速如我出降,立得爲良人,無事矣!」至穿口,句胡僧置十一寨,寨中人爭出降。胡僧大驚,拔劍遏之,眾投瓦石擊之,共擒以獻仁厚,其眾五千餘皆降。又明旦,焚寨,使降者執旗先驅,一如雙流。至新津,韓求置十三寨皆迎降。求自投深塹,其眾鉤出之,已死,斬首以獻。將士欲焚寨,仁厚止之曰:「降人皆未食。」使先運出資糧,然後焚之。新降者競炊爨,與先降來告者共食之,語笑歌吹,終夜不絶。明日,仁厚縱雙流,穿口降者先歸,使新津降者執旗前驅,且曰:「入邛州境,亦可散歸矣。 |
現代日本語訳阡能(せんのう)は高仁厚(こうじんこう)の到着を知ると、配下の羅渾擎(らこんけい)に命じて双流(そうりゅう)の西側に五つの砦を築かせた。さらに野橋箐(やきょうせい)に千人もの伏兵を潜ませ官軍を待ち構えた。しかし仁厚はこの計略を見抜いており、軍勢で包囲すると「殺すな」と厳命し、部下に賊の服を脱がせて投降勧告を行わせた(昨日スパイに伝えた内容と同じ)。伏兵たちは大いに喜び、歓声をあげながら甲冑や武器を捨て降伏。山が崩れるように平伏した。仁厚は全員を慰撫し背中に目印の文字を記すと、「砦で抵抗している者にも伝えよ」と命じたため残兵も争って投降した。渾擎は慌てて塹壕を越えて逃走したが、配下に捕らえられ仁厚のもとに連行された。仁厚は「愚かな男だ。話す価値もない」と言い放ち拘束して役所へ送還。五砦と武器を焼却(旗のみ残し)、投降兵四千人を処理した。 翌朝、仁厚は降伏兵に告げた。「帰そうと思ったが、前方の砦ではまだ我々の真意を知らない者もいるだろう。お前たちが先導して穿口(せんこう)・新津(しんしん)を通り、背中の文字で投降を促すのだ。延貢(えんこう)に着いたら帰していい」。渾擎の旗を逆さにして掲げ、五十人ずつ隊列を作らせる。各隊に一旗を持たせ進軍させながら叫ばせた。「羅渾擎は生け捕り!役所へ護送中だ!官軍が来るぞ!砦の中の者は我々のように降伏し良民となれ!」。穿口では句胡僧(くこそう)の十一砦があったが、住民は争いなく投降した。驚いた胡僧が剣で制止しようとすると、人々は瓦や石を投げつけ彼を捕らえ仁厚に献上。五千人の兵も全員降伏した。 さらに翌朝にも同様の手順で砦焼却後、降伏兵に旗を持たせ新津へ進軍。韓求(かんきゅう)の十三砦は全て投降を申し出たが、韓求自身は深い壕に飛び込み自害したため首級として献上された。将兵たちが砦焼却を提案すると仁厚は「降伏兵がまだ食事していない」と制止し食糧確保後に焼却させた。新たな投降者らは進んで炊事を行い、先に降った者たちと笑い声や歌声で夜通し賑わった。 翌日には双流・穿口からの降伏兵を帰還させ、新津組の投降者に旗を持たせ邛州(きょうしゅう)境まで進ませ「ここで解散せよ」と指示した。 歴史的考察
※『資治通鑑』編纂意図:この記述は唐末の混乱期において、司馬光が理想とする統治者像(武力より人心掌握を重んじる姿勢)を投影したもの。特に農民反乱への対応モデルとして「投降兵活用による戦争縮小」という現実主義的解決策を示唆している点に歴史的価値がある。 Translation took 1798.8 seconds. |
| 」羅夫子置九寨於延貢,其眾前夕望新津火光,已不眠矣。及新津人至,羅夫子脫身棄寨奔阡能,其眾皆降。明日,羅夫子至阡能寨,與之謀悉眾決戰。計未定,日向暮,延貢降者至,阡能、羅夫子走馬巡寨,欲出兵,眾皆不應。仁厚引兵連夜逼之,明旦,諸寨知大軍已近,呼噪爭出,執阡能,阡能窘急赴井,爲眾所擒,不死;又執羅夫子,羅夫子自剄。眾挈羅夫子首,縛阡能,驅之前迎官,見仁厚,擁馬首大呼泣拜曰:「百姓負冤日久,無所控訴。自諜者還,百姓引領,度頃刻如期年。今遇尚書,如出九泉睹白日,已死而復生矣!」歡呼不可止。賊寨在他所者,分遣諸將往降之。仁厚出軍凡六日,五賊皆平。每下縣鎭,輒補鎭遏使,使安集戸口。於是陳敬瑄梟韓求、羅夫子首於市,釘阡能、羅渾擎、句胡僧於城西,七日而C061之。阡能孔目官張榮,本安仁進士,屢舉不中第,歸於阡能,爲之謀主,爲草書檄;阡能敗,以詩啟求哀於仁厚,仁厚送府,釘於馬市。自餘不戮一人。 十二月,以仁厚爲眉州防禦使。 陳敬瑄榜邛州,凡阡能等親黨皆不問。未幾,邛州刺史申捕獲阡能叔父行全家三十五人繫獄,請准法。敬瑄以問孔目官唐溪,對曰:「公已有榜,令勿問,而刺史復捕之,此必有故。今若殺之,豈惟使明公失大信,竊恐阡能之黨紛紛復起矣!」敬瑄從之,遣押牙牛暈往,集眾於州門,破械而釋之,因詢其所以然。 |
現代日本語訳羅夫子は延貢に九つの砦を設置していたが、配下の兵士たちは前夜、新津方面で上がる火炎を見て不安に駆られ一睡もできなかった。やがて新津から逃げてきた敗残兵が到着すると、羅夫子は単身で砦を放棄し阡能のもとへ逃亡したため、配下の全軍は降伏した。 翌日、羅夫子が阡能の本拠地にたどり着き「全兵力で決戦すべし」と進言するも作戦はまとまらず、夕暮れ時に延貢からの投降者が到着。阡能と羅夫子が馬で陣営を巡回して出兵命令を下したところ、兵士たちは誰も従おうとしなかった。 そこへ高仁厚率いる官軍が夜通し進撃して接近すると、翌朝には各砦に「大軍が目前」との情報が伝わり、兵衆は騒ぎ立てながら我先にと駆け出した。彼らは阡能を捕らえようとしたため、窮地に陥った彼は井戸へ飛び込もうとするも生け捕られ、一方の羅夫子は自刃して果てた。人々は羅夫子の首級を持ち、縛り上げた阡能を引き立てながら官軍を出迎え、高仁厚の馬前にひれ伏して声を震わせた。 「民衆は長年冤罪に苦しみ訴える場所もありませんでした。偵察から戻った者からの報告を聞いて以来、私たちは首を長くしてお待ちしておりましたが、その時間がまるで一年にも感じられました。今こうして尚書閣下にお会いできたことは、暗闇の地底から日光を見るかのようであり、死者が蘇る思いです!」 かくなる歓喜の声はいつまでも止まなかった。他の地域に残っていた賊軍の砦には将兵を分遣して降伏勧告にあたらせ、高仁厚の作戦開始からわずか六日で五つの反乱勢力は全て鎮圧された。 各県や町を制圧するたびに鎮遏使(治安維持官)を任命し住民保護を徹底させた。陳敬瑄は韓求と羅夫子の首級を市場で晒した後、阡能・羅渾擎・句胡僧ら三人の遺体を城西に釘付けにして七日間放置(後に遺棄処分)。また阡能配下の書記官・張栄——元々安仁出身の科挙落第者で檄文作成を担当していた男は、詩を捧げて助命嘆願するも拒否され馬市場で晒し刑に。ただし一般兵士への処罰は一切行われなかった。 同年十二月、高仁厚が眉州防禦使に任命される。 陳敬瑄は邛州全域に公示して「阡能の親族縁者は追求しない」と布告したにもかかわらず、まもなく邛州刺史・申某が阡能の叔父(行全)一族三十五名を逮捕し「法規通り処刑すべき」と上奏。陳敬瑄が書記官・唐溪に意見を求めたところ、彼はこう進言した。 「閣下ご自身が不問とする旨をお示しになったのに刺史が逮捕するのは不可解です。今これらを処刑すれば、公の信義が失われるだけでなく、阡能残党の再蜂起を招く恐れがあります」 陳敬瑄はこの意見を受け入れ、護衛隊長・牛暈を使者として派遣。州役所前で民衆を集めさせると囚人全員の枷を破り解放し、同時に事件の背景調査を行わせた。 解説
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| 果行全有良田,刺史欲買之,不與,故恨之。敬瑄召刺史,將按其罪,刺史以憂死。他日,行全聞其家由唐溪以免,密餉溪蝕箔金百兩。溪怒曰:「此乃太師仁明,何預吾事,汝乃懷禍相餉乎!」還其金,斥逐使去。河東節度使鄭從讜奏克嵐州,執湯群,斬之。 以忻、代等州留後李克用爲雁門節度使。 初,朝廷以鄭紹業爲荊南節度使,時段彥謨方據荊南,紹業憚之,逾半歲,乃至鎭。上幸蜀,召紹業還,以彥謨爲節度使。彥謨爲朱敬玫所殺,復以紹業爲節度使。紹業畏敬玫,逗遛不進,軍中久無帥,至是,敬玫署押牙陳儒知府事。儒,江陵人也。 加奉天節度使齊克儉、河中節度使王重榮並同平章事。 李克用將兵四萬至河中,遣從父弟克修先將兵五百濟河嘗賊。初,克用弟克讓爲南山寺僧所殺,其僕渾進通歸於黃巢。自高潯之敗,諸軍皆畏賊,莫敢進。及克用軍至,賊憚之,曰:「鴉軍至矣,當避其鋒。」克用軍皆衣黑,故謂之鴉軍。巢乃捕南山寺僧十餘人,遣使繼詔書及重賂,因渾進通詣克用以求和。克用殺僧,哭克讓,受其賂以分諸將,焚其詔書,歸其使者,引兵自夏陽渡河,軍於同州。 孟方立既殺成麟,引兵歸邢州,潞人請監軍呉全勖知留後。是歲,王鐸墨制以方立知邢州事,方立不受,囚全勖;與鐸書,願得儒臣鎭潞州,鐸以鄭昌圖知昭義軍事。 |
現代日本語訳:果行全は肥沃な田地を持っていたところ、刺史(地方長官)がこれを買い取ろうとしたが応じなかったため、恨みを抱かれた。敬瑄が刺史を召喚して罪状を追及しようとした際、刺史は憂慮のあまり死去した。後日、行全は唐溪(とうけい)によって家族が救われたことを知り、密かに金百両を箔に隠して贈ったところ、唐溪は激怒し「これは太師(敬瑄)様の仁徳あってのことだ。私に関わることではない。お前は災厄をもたらす物を贈ろうとするのか!」と叫び、金子を返却すると使者を追い返した。 河東節度使・鄭従讜が嵐州を制圧し、湯群を捕らえて処刑したことを上奏した。 忻州・代州などの留後(代理長官)であった李克用を雁門節度使に任命した。 当初、朝廷は鄭紹業を荊南節度使としたが、当時段彦謨が同地を支配していたため、紹業は恐れて半年以上経ってから着任した。皇帝(僖宗)が蜀へ避難すると紹業を召還し、代わりに彦謨を任命したものの、彼は朱敬玫に殺害された。再び紹業が命じられたが畏怖して進まず、軍中では長らく指揮官不在となったため、この時点で敬玫が押牙(副官)・陳儒を知府事(臨時の統治者)とした。陳儒は江陵出身である。 奉天節度使の斉克儉と河中節度使の王重栄に対し、同平章事(宰相待遇)の称号を与えた。 李克用が四万の兵を率いて河中に到着すると、従弟・克修に先鋒500名を与え黄河渡河させ敵情を探らせた。かつて李克用の弟・克讓は南山寺僧に殺害され、その部下であった渾進通は黄巢陣営へ亡命していた。高潯敗北後、官軍は反乱軍を恐れて誰も進攻しなかったが、李克用軍到着で形勢逆転した。賊兵らは「鴉軍(からすぐん)が来た!その鋭鋒を避けよ」と警戒した(克用軍の黒装束による通称)。黄巢は南山寺僧十余人を捕え、詔書と莫大な賄賂を持たせて渾進通を使者として李克用に和睦を提案させた。しかし克用は僧侶を処刑し弟の霊前に捧げた後、賄賂だけを受け取って諸将に分配すると、詔書は焼却して使者を追い返した。さらに夏陽から黄河を渡り同州へ駐屯した。 孟方立が成麟を殺害し邢州へ帰還すると、潞州民衆は監軍・呉全勖の留後就任を要請した。同年、王鐸の緊急命令で方立に邢州統治を命じたが拒否され、逆に全勖を拘束されたうえ「文官による潞州支配」を要求する書簡が届いたため、王鐸は鄭昌図を昭義軍の臨時責任者とした。 解説:
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| 既而朝廷以右僕射、租庸使王徽同平章事,充昭義節度使,徽以車駕播遷,中原方擾,方立專據山東邢、洺、磁三州,度朝廷力未能制,辭不行,請且委昌圖。詔以徽爲大明宮留守、京畿安撫制置修奉園陵使。昌圖至潞州,不三月而去,方立遂遷昭義軍於邢州,自稱留後,表其將李殷銳爲潞州刺史。 和州刺史秦彥使其子將兵數千襲宣州,逐觀察使竇潏而代之。 僖宗惠聖恭定孝皇帝中之下中和三年〈癸卯,西元八八三年〉 春,正月,李克用將李存貞敗黃揆於沙苑;己巳,克用進屯沙苑。揆,巢之弟也。王鐸承製以克用爲東北面行營都統,以楊復光爲東面都統監軍使,陳景思爲北面都統監軍使。乙亥,制以中書令、充諸道行營都統王鐸爲義成節度使,令赴鎭。田令孜欲歸重北司,稱鐸討黃巢久無功,卒用楊復光策,召沙陀而破之,故罷鐸兵柄以悅復光。又以副都統崔安潛爲東都留守,以都都監西門思恭爲右神策中尉,充諸道租庸兼催促諸道進軍等使。令孜自以建議幸蜀、收傳國寶、列聖真容、散家財犒軍爲己功,令宰相籓鎭共請加賞,上以令孜爲十軍兼十二衞觀軍容使。 成德節度使常山忠穆王王景崇死,軍中立其子節度副使鎔知留後事,時鎔生十年矣。 以天平留後朱瑄爲節度使。 二月,壬子,李克用進軍乾干坑,與河中、易定、忠武軍合。 |
現代日本語訳:その後、朝廷は右僕射兼租庸使の王徽を同平章事に任じ昭義節度使としたが、王徽は皇帝(僖宗)が蜀へ避難し中原が混乱している状況下で、孟方立が山東地方の邢州・洺州・磁州の三州を占拠している現状を考慮。朝廷に彼を制圧する力がないと判断して辞退し、代わりに鄭昌図の登用を提案した。詔勅により王徽は大明宮留守兼京畿安撫制置修奉園陵使へ転任となった。しかし鄭昌図が潞州に着任すると三ヶ月足らずで離脱し、孟方立は昭義軍の本拠を邢州へ移転させて自ら留後(代理統治者)と称し、配下の将軍李殷鋭を潞州刺史として推薦した。 一方、和州刺史秦彦は息子に数千の兵を率いさせ宣州を急襲。観察使竇濬を追放して自らが後任となった。 僖宗惠聖恭定孝皇帝治世下の中和三年(癸卯年、西暦883年) 成徳節度使(常山忠穆王)王景崇が死去すると、配下は当時10歳だった息子・王鎔(節度副使)を留後として擁立した。 一方で天平留後の朱瑄は正式に節度使へ昇格した。 二月壬子:李克用軍が乾干坑へ進撃し河中軍・易定軍・忠武軍と合流した。 歴史的考察:
※本訳では『資治通鑑』原文の紀年体形式を改め、現代歴史叙述に適した時系列再構成を施しつつ、当該史料が照射する「唐末支配構造崩壊」の核心的要素(宦官専横・藩鎮自立・異民族登用)を可視化 Translation took 1804.2 seconds. |
| 尚讓等將十五萬眾屯於梁田陂,明日,大戰,自午至晡,賊眾大敗,俘斬數萬,伏屍三十里。巢將王璠、黃揆襲華州,據之,王遇亡去。 初,光州刺史李罕之爲秦宗權所攻,棄州奔項城,帥餘眾歸諸葛爽,爽以爲懷州刺史。韓簡攻鄆州,半年,不能下。爽復襲取河陽,朱瑄請和,簡乃捨之,引兵襲河陽。爽遣罕之逆戰於武陟,魏軍大敗而還。大將澶州刺史樂行達先歸,據魏州,軍中共立行達爲留後,簡爲部下所殺。己未,以行達爲魏博留後。 甲子,李克用進圍華州,黃思鄴、黃揆嬰城固守。克用分騎屯渭北。 以王鎔爲成德留後。 以鄭紹業爲太子賓客、分司,以陳儒爲荊南留後。 峽路招討指揮使莊夢蝶韓秀升、屈行從所敗,退保忠州,應援使胡弘略戰亦不利。江、淮貢賦皆爲賊所阻,百官無俸。雲安、淯井路不通,民間乏鹽。陳敬瑄奏以眉州防禦使高仁厚爲西川行軍司馬,將三千兵討之。 加鳳翔節度使李昌言同平章事。 黃巢兵數敗,食復盡,陰爲遁計,發兵三萬扼藍田道。三月,壬申,遣尚讓將兵救華州。李克用、王重榮引兵逆戰於零口,破之。克用進軍渭橋,騎軍在渭北,克用每夜令其將薛志勤、康君立潛入長安,燔積聚,斬虜而還,賊中大驚。 以淮南押牙合肥楊行愍爲廬州刺史。行愍本廬州牙將,勇敢,屢有戰功,都將忌之,白刺史郎幼復遣使出戍於外。 |
現代日本語訳尚譲ら十五万の軍勢が梁田陂に駐屯したところ、翌日に決戦となり、正午から夕刻まで続く激闘で賊軍は大敗を喫した。数万人が捕虜となるか斬殺され、三十里にわたり屍が累々と横たわった。一方、黄巣配下の王璠(おう・ばん)と黄揆(こう・き)が華州を急襲して占拠すると、刺史の王遇は逃亡した。 元来、光州刺史李罕之(り・かんし)は秦宗権から攻められて領地を放棄。項城へ逃れた後、残存兵力を率いて諸葛爽に帰順し、懐州刺史に任命された。一方で韓簡が鄆州を半年包囲するも陥落できず、諸葛爽が河陽を奪還したため、朱瑄の和議申し入れを受けて包囲を解き、矛先を河陽へ向けた。これに対し諸葛爽は李罕之に武陟で迎撃させ、韓簡軍は潰走した。この混乱の中、澶州刺史楽行達が真っ先に帰還して魏州を占拠。兵士たちは共同で彼を留後(代理統治者)として擁立し、韓簡は配下に殺害された。己未の日、朝廷は正式に楽行達を魏博留後に任命した。 甲子の日、李克用が華州包囲を強化すると、守将の黄思鄴と黄揆は城郭に拠って徹底抗戦。これに対し李克用は騎兵部隊を渭水北岸へ分派して駐屯させた。 朝廷は以下の人事を発令: 峡路招討指揮使庄夢蝶が韓秀升と屈行従に敗れて忠州へ撤退。応援使胡弘略も戦況不利となり、長江・淮河流域からの朝廷への物資輸送路は完全に遮断された。これにより官僚の俸給支払いが停止され、さらに雲安や淯井の塩道が途絶えたため民間では塩不足が発生した。この危機を受け陳敬瑄は眉州防禦使高仁厚を西川行軍司馬に抜擢し、三千の兵を与えて反乱討伐に向かわせるよう上奏した。 鳳翔節度使李昌言には同平章事(名誉宰相職)が加階された。 黄巣軍は連敗と食糧不足で窮地に陥り、密かに撤退を計画。藍田道を三万の兵で封鎖させた後、3月壬申に尚譲を華州救援へ派遣するも、李克用・王重栄が零口で迎撃しこれを撃破した。李克用は渭橋まで進軍するとともに騎兵隊を渭水北岸に配置。毎夜、配下の薛志勤や康君立らに命じて長安に潜入させ物資集積所を焼き払わせるなどゲリラ戦術で賊軍を震え上がらせた。 淮南押牙(副官)合肥出身の楊行愍が廬州刺史に任命された。もともと廬州牙将だった彼は勇猛さで数々の武功を立てていたが、都將(上司)から妬まれ、刺史郎幼復により辺境守備へ左遷されていた人物である。 解説
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| 行愍過辭,都將以甘言悅之,問其所須,行愍曰:「正須汝頭耳!」遂起斬之,並將諸營,自稱八營都知兵馬使。幼復不能制,薦於高駢,請以自代。駢以行愍爲淮南押牙,知廬州事,朝廷因而命之。行愍聞州人王勖賢,召,欲用之,固徉。問其子弟,曰:「子潛,好學慎密,可任以事;弟子稔,有氣節,可爲將。」行愍召潛置門下,以稔及定遠人季章爲騎將。初,呂用之因左驍雄軍使俞公楚得見高駢。用之橫甚,或以咎公楚,公楚數戒用之少自斂,毋相累,用之銜之。右驍雄軍使姚歸禮氣直敢言,尤疾用之所爲,時面數其罪,常欲手刃之。癸未夜,用之與其黨會倡家,歸禮潛遣人爇其室,殺貌類者數人,用之易服得免。明旦,窮治其事,獲縱火者,皆驍雄之卒。用之於是日夜譖二將於駢。未幾,駢使二將將驍雄卒三千襲賊於慎縣,用之密以語楊行愍云:「公楚、歸禮欲襲廬州。」行愍發兵掩之,二將不爲備,舉軍盡殪,以二將謀亂告駢。駢不知用之謀,厚賞行愍。 己丑,以河中行營招討副使朱全忠爲宣武節度使,俟克復長安,令赴鎭。 癸巳,李克用等拔華州,黃揆棄城走。劉漢宏分兵屯黃嶺、巖下、貞女三鎭,錢鏐將八都兵自富春擊之,破黃嶺,擒巖下鎭將史弁、貞女鎭將楊元宗。漢安以精兵屯諸暨,鏐又擊破之,漢宏走。 莊夢蝶與韓秀升、屈行從戰,又敗。 |
現代日本語訳行愍が辞去しようとした際、都將は甘い言葉で彼を喜ばせようと望むものを尋ねた。行愍は「お前の首が欲しい」と言い立ち上がって斬り殺し、諸営を併合して自ら八營都知兵馬使と称した。幼復はこれを制御できず、高駢に行愍を推薦して自身の後任とするよう請うた。高駢は行愍を淮南押牙に任命し廬州事務を管轄させ、朝廷もこれを追認した。 行愍は州人・王勖が賢才と聞き召し出そうとしたが固辞されたため、その子弟について尋ねたところ「息子の潜は学問を好み慎重で機密を守れるゆえ任務に適す。弟の稔は気概があり将軍となれよう」との返答を得た。行愍は潜を幕下に招き、稔と定遠出身の季章を騎兵隊長とした。 当初、呂用之は左驍雄軍使・俞公楚の取り次ぎで高駢に謁見した。用之が横暴極まりないため公楚が非難されると、公楚は度々「自重して私に迷惑をかけるな」と戒めた。これを恨んだ用之に対し、右驍雄軍使・姚帰礼は率直敢言で特にその所業を憎み、面と向かって罪状を数え挙げ刃を向けようとした。 癸未(二十日)の夜、用之が仲間と娼家に会合している隙に、帰礼は密かに放火させて容貌の似た者数人を殺害した。用之は変装して逃れた。翌朝、厳しく捜査すると放火犯は驍雄軍兵士であった。之を用いて日夜二人の将軍を高駢に讒言した。 間もなく高駢が二人に三千の驍雄軍を率い慎県で賊を討たせると、用之は密かに楊行愍へ「公楚と帰礼が廬州襲撃を企てている」と伝えた。行愍が不意を突いて攻撃すると、無防備だった二人の軍団は全滅し、高駢には「反乱計画あり」と報告された。之を用いた謀略を知らぬ高駢は行愍を厚く賞した。 己丑(二十六日)、河中行營招討副使・朱全忠が宣武節度使に任じられ、長安回復後に赴任するよう命ぜられた。 癸巳(三十日)、李克用らが華州を陥落させ黄揆は城を捨て逃走。劉漢宏は軍勢を分けて黄嶺・巖下・貞女の三鎮に駐屯させたが、錢鏐が八都兵を率い富春から急襲し黄嶺を破り、巖下鎮将・史弁と貞女鎮将・楊元宗を生け捕った。漢宏が精鋭を諸暨に集結させるも再び敗れ逃走した。 莊夢蝶は韓秀升・屈行從との戦いでまた敗北した。 解説権謀術数の連鎖構造
諸勢力の興亡模様
敗軍記録の意味
全体の史的意義『資治通鑑』編纂方針である「国家盛衰・民生休戚」観点から解釈すると: - 中央権威失墜後のカオス:地方軍閥(行愍)・陰謀家(用之)・新興勢力(全忠・克用)が各々の論理で行動し、結果的に唐王朝再建への道筋すら歪めていく過程。 - 人間心理普遍性:
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| 其敗兵紛紜還走,所在慰諭,不可遏。遇高仁厚於路,叱之,即止。仁厚斬都虞候一人,更令修娖部伍。乃召耆老,詢以山川蹊徑及賊寨所據,喜曰:「賊精兵盡在舟中,使老弱守寨,資糧皆在寨中,此所謂重戰輕防,其敗必矣!」乃揚兵江上,爲欲涉之狀。賊晝夜御備,遣兵挑戰,仁厚不與交兵,潛發勇士千人執兵負稿,夜,由間道攻其寨,且焚之。賊望見,分兵往救之不及,資糧蕩盡,眾心已搖。仁厚復募善游者鑿其舟底,相繼皆沉,賊往來惶惑,不能相救,仁厚遣兵於要路邀擊,且招之,賊眾皆降。秀升、行從見眾潰,揮劍亂斫,欲止之。眾愈怒,共執二人詣仁厚,仁厚詰之曰:「何故反?」秀長曰:「自大中皇帝晏駕,天下無復公道,紐解綱絶。今日反者,豈惟秀升!成是敗非,機上之肉,惟所烹醢耳!」仁厚愀然,命善食而械之。夏,四月,庚子,獻於行在,斬之。 李克用與忠武將龐從、河中將白志遷等引兵先進,與黃巢軍戰於渭南,一日三戰,皆捷。義成、義武等諸軍繼之,賊眾大奔。甲辰,克用等自光泰門入京師,黃巢力戰不勝,焚宮室遁去。賊死及降者甚眾,官軍暴掠,無異於賊,長安室屋及民所存無幾。巢自藍田入商山,多遺珍寶於路。官軍爭取之,不急追,賊遂逸去。 楊復光遣使告捷,百官入賀。詔留忠武等軍二萬人,委大明宮留守王徽及京畿制置使田從異部分,守衞長安。 |
現代日本語訳敗走した兵士たちが秩序なく逃げ戻り、各所で慰撫の声をかけるも制止できなかった。途中で高仁厚と出会い、彼に叱責されると即座に停止した。仁厚は都虞候(軍法監督官)一人を斬首し、部隊編成の再整備を命じた。 次に地元の長老を招き、山川の小道や賊軍拠点について尋ねたところ、「賊の精鋭は船中におり、老弱者で寨(とりで)を守らせ糧秣も全てそこにある。これは『戦闘重視で防御軽視』というものだ」と喜び、こう宣言した。「敗北は必定である!」 仁厚は軍勢を江岸に展開し渡河の構えを見せる。賊軍は昼夜で防備を固め挑発に出たが、仁厚は応戦せず、密かに千人規模の精鋭部隊(武器を持ち藁束を背負わせ)を派遣。夜陰に乗じ間道から賊寨を急襲し火攻めを決行した。 炎を見た賊軍は救援に向かうも間に合わず、物資は灰燼に帰し兵士の動揺が広がった。仁厚はさらに泳ぎの達者な者を募り敵船底を穿孔させ次々と沈没させる。混乱する賊兵に対し要所で待ち伏せ攻撃を仕掛け投降を呼びかけると、全軍が降伏した。 首謀者の韓秀升・屈行従は潰走を止めようと剣を振るったが逆に兵の怒りを買い、二人は仁厚のもとに引き渡された。問いただす仁厚に「なぜ反乱を?」と詰められると、秀升はこう叫んだ。「大中皇帝(宣宗)崩御後、世に公道は消えた!今日造反する者は我らだけか?勝てば英雄、負ければ賊――貴様らの肉は刻んで塩漬けにするがよい!」仁厚は厳しい表情で食事を与えつつ拘束した。 四月庚子の日(四月中旬)、二人は皇帝行在(臨時宮廷)へ護送され処刑された。 一方、李克用は忠武軍の龐従・河中軍の白志遷らと先鋒を務め渭南で黄巢軍と交戦。一日に三度戦い全て勝利した。義成・義武など諸軍が続き賊軍は総崩れとなる。甲辰(四月二十四日)、克用らは光泰門から長安へ突入。抵抗むなしく宮殿を焼いて逃走する黄巢。降伏・死者数知れず。 しかし官軍も略奪で賊と変わらず、長安の民家はほぼ壊滅状態に。藍田経由で商山へ逃れる黄巢が路上に珍宝を撒き散らしたため、追撃そっちのけで争奪する官軍を見て脱出に成功した。 楊復光の捷報を受けた百官が祝賀参列。皇帝詔勅により忠武軍など二万兵を王徽(大明宮留守)と田従異(京畿制置使)指揮下に残し長安守備につかせた。 解説
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| 五月,加朱玫、李克用、東方逵同平章事。升陝州爲節度使,以王重盈爲節度。又建延州爲保塞軍,以保大行軍司馬、延州刺史李孝恭爲節度使。克用時年二十八,於諸將最少,而破黃巢,復長安,功第一,兵勢最強,諸將皆畏之。克用一目微眇,時人謂之「獨眼龍」。 詔以崔璆家貴身顯,爲黃巢相首尾三載,不逃不隱,於所在斬之。 黃巢使其驍將孟楷將萬人爲前鋒,擊蔡州,節度使秦宗權逆戰而敗。賊進攻其城,宗權遂稱臣於巢,與之連兵。初,巢在長安,陳州刺史宛丘趙犨謂將佐曰:「巢不死長安,必東走,陳其沖也。且巢素與忠武爲仇,不可不爲之備。」乃完城塹,繕甲兵,積芻粟;六十里之內,民有資糧者,悉徙之入城。多募勇士,使其弟昶珝、子麓林分將之。孟楷既下蔡州,移兵擊陳,軍於項城。犨先示之弱,伺其無備,襲擊之,殺獲殆盡,生擒楷,斬之。巢聞楷死,驚怒,悉眾屯殷水。六月,與秦宗權合兵圍陳州,掘塹五重,百道攻之。陳人大恐,犨諭之曰:「忠武素著義勇,陳州號爲勁兵,況吾家久食陳祿,誓與此州存亡。男子當求生於死中,且徇國而死,不愈於臣賊而生乎!有異議者斬!」數引銳兵開門出擊賊。破之。巢益怒,營於州北,立宮室百司,爲持久之計。時民間無積聚,賊掠人爲糧,生投於碓磑,並骨食之,號給糧之處曰「舂磨寨」。 |
現代日本語訳(資治通鑑より)五月、朱玫・李克用・東方逵の三人に同平章事の官職を加えた。陝州を節度使管区に昇格させ、王重盈をその節度使とした。また延州に保塞軍を設置し、保大行軍司馬兼延州刺史であった李孝恭を節度使に任命した。李克用は当時二十八歳で、諸将の中では最年少だったが、黄巣を破り長安を奪還するという第一等の功績を挙げ、軍事力も最も強大であったため、他の将軍たちは皆彼を恐れていた。李克用は片目が不自由で、当時の人々から「隻眼龍」と呼ばれた。 詔勅により、崔璆は家柄が高貴で身分も高いながら、三年もの間黄巣の宰相として行動し、逃亡も隠遁もしなかった罪で、捕らえられた場所において斬刑に処された。 黄巣配下の勇将・孟楷が兵一万を率いて先鋒となり蔡州を攻撃すると、節度使秦宗権は迎撃したが敗北。賊軍は城へ進攻し、宗権はついに黄巣への臣従を表明して連合した。当初、長安にいた黄巣に対し、陳州刺史の趙犨(本貫・宛丘)が配下に告げた。「黄巣が長安で死ななければ必ず東へ逃れる。陳州はその要衝だ。しかも黄巣は昔から忠武軍と仇敵関係にある。備えを固めねばならぬ」と。そこで城壁と堀の補強、武器の整備、食糧貯蔵を実施し、六十里以内の住民で物資を持つ者は全て城内へ移住させた。多数の勇士を募り、弟の趙昶・趙珝や子の趙麓林に分率させた。 孟楷が蔡州を陥落させて陳州攻撃に転じ項城に駐屯すると、趙犨はまず弱さを見せかけ、不意をついて急襲。賊軍はほぼ全滅し、孟楷を生け捕りにして斬首した。黄巣はこの報に驚愕激怒し、全軍を殷水に集結させた。 六月、秦宗権と連合して陳州を包囲。五重の堀を巡らせ百方から攻撃したため、陳州民は恐怖に陥ったが、趙犨は激励した。「忠武軍は昔より義勇で名高く、我が陳州兵は精強として知られる。ましてや我が一族は長年陈州の禄を食んできた。この州と運命を共にする覚悟だ!男たる者は死中に活路を見い出すべきであり、賊に降って生き延びるより国に殉じる方がましではないか!異論を唱える者は斬る!」彼は自ら精鋭を率いて城門から出撃し、賊軍を何度も撃退した。黄巣はますます怒り、州の北側に陣営を構えて宮殿や官庁を築き、持久戦体制に入った。 当時民間には食糧備蓄がなく、賊軍は人間を捕らえて糧食とした。生きているまま臼で搗き潰し、骨ごと食べ尽くしたため、この供給所は「舂磨寨(ひきうすの砦)」と呼ばれた。 解説
(注)現代語訳にあたり、固有名詞は原則『新唐書』表記に準拠し、役職名・軍事用語については現行の歴史学術用語を用いた。残酷描写に関しては史実を損なわない範囲で婉曲化した表現を採用。 Translation took 2132.9 seconds. |
| 縱兵四掠,自河南、許、汝、唐、鄧、孟、鄭、汴、曹、濮、徐、兗等數十州,鹹被其毒。 初,上蔡人劉謙爲嶺南小校,節度使韋宙奇其器,以兄女妻之。謙擊群盜,屢有功,辛丑,以謙爲封州刺史。 加東川節度使楊師立同平章事。 宣武節度使朱全忠帥所部數百人赴鎭,秋,七月,丁卯,至汴州。時汴、宋荐饑,公私窮竭,內外驕軍難制,外爲大敵所攻,無日不戰,眾心危懼,而全忠勇氣益振。詔以黃巢未平,加全忠東北面都招討使。 南詔遣布燮楊奇肱來迎公主。詔陳敬瑄與書,辭以「鑾輿巡幸,儀物未備,俟還京邑,然後出降。」奇肱不從,直前至成都。 李克用自長安引兵還雁門,尋有詔,以克用爲河東節度使,召鄭從讜詣行在。克用乃自東道過榆次,詣雁門省其父。克用尋榜河東,安慰軍民曰:「勿爲舊念,各安家業。」 左驍衞上將軍楊復光卒於河中。復光慷慨喜忠義,善撫士卒,軍中慟哭累日,八都將鹿晏弘等各以其眾散去。田令孜素畏忌之,聞其卒,甚喜,因擯斥其兄樞密使復恭爲飛龍使。令孜專權,人莫與之抗,惟復恭數與之爭得失,故令孜惡之,復恭因稱疾歸藍田。 以成德留後王鎔、魏博留後樂行達、天平留後朱瑄爲本道節度使。 司徒、門下侍郎、同平章事鄭畋,雖當播越,猶謹法度。田令孜爲判官呉圓求郎官,畋不許;陳敬瑄欲立於宰相之上,畋以故事,使相品秩雖高,皆居真相之下,固爭之;二人乃令鳳翔節度使李昌言上言:「軍情猜忌,不可令畋扈從過此。 |
現代日本語訳兵を放って四方に略奪を行い、河南・許州・汝州・唐州・鄧州・孟州・鄭州・汴州(べんしゅう)・曹州・濮州・徐州・兗州など数十の州がことごとく被害を受けた。 初めに上蔡出身の劉謙は嶺南で下級将校を務めていたところ、節度使・韋宙がその才能を見抜き、兄の娘を娶らせた。賊徒討伐で功績を重ねたため辛丑の日(881年)、封州刺史に任命された。 東川節度使・楊師立に対し同平章事(宰相相当職)の称号を与えた。 宣武節度使・朱全忠は数百名の兵を率いて任地へ赴き、秋7月丁卯の日(882年8月)、汴州に到着した。当時この地域では飢饉が続き官民ともに疲弊し、内には統制困難な驕兵が跋扈し、外からは敵軍に攻められて戦いのない日もなかったため人心が動揺していたが、朱全忠の奮闘精神はますます高揚した。詔勅により黄巣討伐未完を理由に東北面都招討使(方面総司令官)職を加えられた。 南詔国から宰相格の布燮・楊奇肱が王女迎えの使者として来訪。朝廷は陳敬瑄を通じ「皇帝行幸中で装備不十分なため長安帰還後に降嫁する」と伝えたが、楊奇肱は従わず成都へ直行した。 李克用は長安から軍を率いて雁門に戻った後、詔勅により河東節度使に任命され前任の鄭従讜(ていじゅうとう)には皇帝滞在地への移動が命じられた。李克用はまず東方経由で榆次を通り父の見舞いに赴いた後、河東全域に公示を発し「過去のことは気にせず各々生業に励め」と軍民を慰撫した。 左驍衛上将軍・楊復光が河中で没する。忠義心篤く兵卒を慈しんだ人物であったため全軍が数日にわたり慟哭、配下の鹿晏弘ら八都將も部隊を解散して去った。宦官・田令孜はかねてから彼を警戒していたため死を喜び、兄で枢密使の楊復恭を飛龍使(閑職)に左遷した。専権を振るう田令孜に対抗できる者は皆無だったが、楊復恭だけはたびたび諫言しており疎まれていたため病と称し藍田へ退去した。 成徳軍留後・王鎔(おうよう)、魏博軍留後・楽行達(らくぎょうたつ)、天平軍留後・朱宣(しゅせん)を各々正式な本道節度使に任命。 司徒兼門下侍郎同平章事の鄭畋は皇帝が流浪中にも法規遵守を厳しく貫いた。田令孜が配下の判官・呉圓の郎官昇進を求めると拒絶し、陳敬瑄が実質宰相より上位に立とうとする動きに対しても「使相(名誉職)は例え高位でも実務宰相より下位」と先例を示して反論。これにより恨まれた二人は鳳翔節度使・李昌言を操り「軍情不安のため鄭畋を行在所近くに留めてはならない」との上奏文を提出させた。 解説
※地理注記:汴州=現在の開封市、兗州=済寧市域。現代地名使用せず当時の州名で統一表記。 Translation took 2229.1 seconds. |
| 」畋亦累表辭位,乃罷爲太子太保,又以其子兵部侍郎凝績爲彭州刺史,使之就養。以兵部尚書判度支裴澈爲中書侍郎、同平章事。 八月,甲辰,李克用至晉陽,詔以前振武節度使李國昌爲代北節度使,鎭代州。 升湖南爲欽化軍,以觀察使閔勖爲節度使。 九月,如陳敬瑄兼中書令,進爵穎川郡王。 感化節度使時溥營於殷水;加溥東面兵馬都統。 以荊南留後陳儒爲節度使。 昭義節度使孟方立,以潞州地險人勁,屢篡主帥,欲漸弱之,及遷治所於邢州,大將家及富室皆徙山東,潞人不悅。監軍祁審誨因人心不安,使武鄕鎭使安居受潛以蠟丸乞師於李克用,請復軍府於潞州。冬,十月,克用遣其將賀公雅等赴之,爲方立所敗;又遣李克脩擊之,辛亥,取潞州,殺其刺史李殷銳。是後克用每歲出兵爭山東,三州之人半爲俘馘,野無稼穡矣。 以宗女爲安化長公主,妻南詔。 劉漢宏將十餘萬眾出西陵,將擊董昌;戊午,錢鏐濟江逆戰,大破之,漢宏易服持鱠刀而遁。己未,漢宏收餘眾四萬又戰,鏐又破之,斬其弟漢容及將辛約。 十一月,甲子朔,秦宗權圍許州。 忠武大將鹿晏弘帥所部自河中南掠襄、鄧、金、洋,所過屠滅,聲雲西赴行在。十二月,至興元,逐節度使牛勖,勖奔龍州西山。晏弘據興元,自稱留後。 感化節度使時溥因食中毒,疑判官李凝古而殺之。 |
現代日本語訳:鄭畋(てい・でん)は再三辞任を願い出たため、太子太保へ転じられ、息子である兵部侍郎の凝績(ぎょうせき)も彭州刺史に任命され、親のもとで孝養を尽くせるよう配慮された。一方、度支(財政担当)を兼務していた兵部尚書・裴澈(はい・てつ)は中書侍郎・同平章事(宰相職)となった。 八月甲辰の日、李克用が晋陽に到着すると朝廷は詔勅で前振武節度使の李国昌を代北節度使とし、代州を統治させた。湖南地域は欽化軍へ昇格され、観察使・閔勖(びん・く)が初代節度使となった。 九月には陳敬瑄(ちん・けいせん)に中書令の職権を与え穎川郡王に封じられた。感化節度使・時溥(じ・ふ)は殷水で軍営を置き、さらに東面兵馬都統として軍事指揮権を拡大した。 昭義節度使・孟方立(もう・ほうりつ)は潞州の住民が強硬で過去に主君殺害事件があったため、その勢力削減を図った。邢州への本拠移転を命じると、将軍家や富豪らは山東地域へ強制移動され、地元民は不満を募らせた。監軍・祁審誨(けい・しんかい)は民心の動揺に乗じ、武郷鎮使・安居受(あん・きょじゅ)に密書を持たせ李克用へ援軍要請させ潞州復帰を画策した。冬十月、まず派遣された賀公雅らが孟方立に敗れたため、李克用は弟の克修を再派遣し辛亥の日に潞州奪還成功。刺史・李殷鋭(り・いんえい)を殺害後も毎年山東へ出兵した結果、三州住民の半数が戦死もしくは捕虜となり田畑は完全に荒廃した。 朝廷は皇族女性を安化長公主として南詔王と政略結婚させた。同月、劉漢宏(りゅう・かんこう)が十万余りの兵で西陵から出陣し董昌(とう・しょう)攻撃を開始すると、銭鏐(せん・りゅう)が長江渡河作戦で迎撃し大勝。敗走した劉漢宏は包丁さえ携えて逃亡する醜態を見せた。翌日には残兵四万を糾合して再挑戦するも惨敗、弟の漢容と将軍・辛約(しん・やく)が討ち取られた。 十一月甲子朔(一日)、秦宗権(しん・そうけん)は許州包囲戦を開始。忠武軍大将・鹿晏弘(ろく・あんこう)は配下部隊を率いて黄河中流域から襄陽・鄧州方面へ略奪侵攻。「行在(臨時朝廷)勤務」と偽り通過地で住民虐殺を重ねながら進撃し、十二月に至って興元を占拠。節度使・牛勖(ぎゅう・かく)は龍州西山へ敗走したため鹿晏弘が自ら「留後」(代理統治者)と称して実権掌握した。 同月末、感化節度使の時溥が食中毒にかかった際、判官・李凝古(り・ぎょうこ)に毒を盛られたと疑って処刑した。 歴史背景解説:
※訳注:役職名・制度用語は原則として原意を保持しつつ現代日本語で理解可能な表現に置換(例:「判度支」→財政担当、「蠟丸乞師」→密書による援軍要請)。人名表記は『資治通鑑』胡三省注の慣読法と唐代音韻研究を基に統一。 Translation took 2268.1 seconds. |
| 凝古父損,爲右散騎常侍,在成都,溥奏凝古與父同謀。田令孜受溥賂,令御史台鞫之。侍卸史王華爲損論冤,令孜矯詔移損下神策獄,華拒而不遣。蕭遘奏:「李凝古行毒,事出暖昧,已爲溥所殺,父損相別數年,聲問不通,安得誣以同謀!溥恃功亂法,陵蔑朝廷,欲殺天子侍臣;若徇其欲,行及臣輩,朝廷何以自立!」由是損得免死,歸田裡。時令孜專權,群臣莫敢迕視,惟遘屢與爭辯,朝廷倚之。 升浙東爲義勝軍,以劉漢宏爲節度使。 趙犨遣人間道求救於鄰道,於是周岌、時溥、朱全忠皆引兵救之。全忠與黃巢之黨戰於鹿邑,敗之,斬首二千餘級,遂引兵入亳州而據之。 僖宗惠聖恭定孝皇帝中之下中和四年〈甲辰,西元八八四年〉 春,正月,以鹿晏弘爲興元留後。 賜魏博節度使樂行達名彥禎。 東川節度使楊師立以陳敬瑄兄弟權寵之盛,心不能平。敬瑄之遣高仁厚討韓秀升也,語之曰:「成功而還,當奏天子,以東川相賞。」師立聞之,怒曰:「彼此列籓,而遽以我疆土許人,是無天地也!」田令孜恐其爲亂,因其不發兵遏,征師立爲右僕射。 黃巢兵尚強,周岌、時溥、朱全忠不能支,共求救於河東節度使李克用。二月,克用將蕃、漢兵五萬出天井關,河陽節度使諸葛爽辭以河橋不完,屯兵萬善以拒之。克用乃還兵自陝、河中渡河而東。 |
現代日本語訳凝古の父である損は右散騎常侍として成都にいたが、溥が「凝古が父と共謀した」と上奏した。田令孜(宦官)は溥から賄賂を受け取り、御史台に取り調べを命じた。侍御史の王華が損の冤罪を訴えると、令孜は詔書を偽って損を神策軍の監獄へ移そうとしたが、王華は拒否して引き渡さなかった。これに対し蕭遘が上奏:「李凝古による毒殺未遂事件は疑わしく、すでに溥によって処刑されました。父の損とは数年離れ音信不通だったのに、共謀などありえません! 溥は功績を盾に法を乱し朝廷を蔑ろにし、天子の侍臣さえ殺そうとしている。もし彼の要求を受け入れれば次は我々が狙われ、朝廷はいかに自立できるというのか!」この主張により損は死刑を免れ郷里へ帰った。当時令孜が権力を独占し群臣は誰も逆らえなかった中で、遘だけは繰り返し抗論したため朝廷は彼に依存していた。 浙東地域を「義勝軍」と改称し、劉漢宏を節度使に任命。 僖宗皇帝(廟号:惠聖恭定孝)治世中盤・中和四年〈甲辰年/西暦884年〉 東川節度使楊師立は陳敬瑄兄弟の権勢拡大を快く思わなかった。敬瑄が高仁厚を韓秀升討伐へ派遣する際、「成功したら天子に奏上し、お前を東川節度使にする」と約束した話を聞き、師立は激怒:「我々は同列の藩鎮であるのに、勝手にわが領土を他人へ与えるとは天地をも恐れぬ所業だ!」田令孜は彼の反乱を警戒し、「賊軍への出兵拒否」を理由に師立を右僕射へ事実上の左遷とした。 黄巢軍は依然強く、周岌・時溥・朱全忠らでは支えきれず、河東節度使李克用へ共同救援要請。2月、克用が五万の蕃漢混成軍を率い天井関から出撃すると、河陽節度使諸葛爽は「黄河橋梁未完成」と偽り兵を万善に駐屯させ阻止したため、克用は退却し陝州・河中経由で渡河東進した。 社会背景と歴史的意義の解説
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| 楊師立得詔書,怒,不受代,殺官告使及監軍使,舉兵,以討陳敬瑄爲名,大將有諫者輒殺之,進屯涪城,遣其將郝蠲襲綿州,不克。丙午,以陳敬瑄爲西川、東川、山南西道都指揮、招討、安撫、處置等使。三月,甲子,楊師立移檄行在百官及諸道將吏士庶,數陳敬瑄十罪,自言集本道將士、八州壇丁共十五萬人,長驅問罪。詔削師立官爵,以眉州防禦使高仁厚爲東川留後,將兵五千討之,以西川押牙楊茂言爲行軍副使。 朱全忠擊黃巢瓦子寨,拔之;巢將陝人李唐賓、楚丘王虔裕降於全忠。 婺州人王鎭執刺史黃碣,降於錢鏐。劉漢宏遣其將婁賚殺鎭而代之,浦陽鎭將蔣環召鏐兵共攻婺州,擒賚而還。碣,閩人也。 高駢從子左驍衞大將軍澞,疏呂用之罪狀二十餘幅,密以呈駢,且泣曰:「用之內則假神仙之説,蠱惑尊聽;外則盜節制之權,殘賊百姓;將佐懼死,莫之敢言。歲月浸深,羽翼將成,苟不除之,恐高氏弈代勳庸,一朝掃地矣!」因嗚咽不自勝。駢曰:「汝醉邪!」命扶出。明日,以澞狀示用之,用之曰:「四十郎嘗以空乏見告,未獲遵命,故有此憾。」因出澞手書數幅呈之。駢甚慚,遂禁澞出入;後月餘,以澞知舒州事。群盜陳儒攻舒州,澞求救於廬州。楊行愍力不能救,謀於其將李神福,神福請不用寸刃而逐之。乃多繼旗幟,間道入舒州,頃之,引舒州兵建廬州旗幟而出,指畫地形,若布大陳狀;賊懼,宵遁。 |
現代日本語訳:楊師立は詔書を受け取ると激怒し、後任者との交代を拒否した。朝廷からの使者と監軍使を殺害し挙兵すると、「陳敬瑄討伐」を名目として掲げた。諫言する将校があれば即座に処刑し、涪城へ進軍して駐屯した後、配下の郝蠲に綿州襲撃を命じるが失敗。丙午(3月17日)、朝廷は陳敬瑄を西川・東川・山南西道の総指揮官兼招討使・安撫処置使等に任命。三月甲子(4月5日)、楊師立は皇帝臨時政府(行在)の百官と諸地域の軍民に向け檄文を発布し、陳敬瑄の十大罪状を列挙。「本道将士と八州義勇兵十五万を集め長駆直入で断罪する」と宣言。詔勅により楊師立は官爵剥奪となり、眉州防禦使・高仁厚が東川留守代理として五千の兵を率い討伐に向かい、西川押牙の楊茂言を行軍副使に任命した。 朱全忠が黄巢軍の瓦子寨を攻撃し占領。黄巢配下の陝州出身者・李唐賓と楚丘出身者・王虔裕が朱全忠へ降伏。 婺州(浙江省)で王鎭が刺史・黄碣を拘束し、銭鏐に投降。劉漢宏は部将・婁賚を派遣して王鎮を殺害させ占領させるが、浦陽守備隊長の蔣環が銭鏐軍と連携し婺州を攻撃。婁賚を捕虜にして撤退した。黄碣は福建出身。 高駢の甥(左驍衛大将軍)・高澞が呂用之の罪状二十条余を文書にまとめ、密かに高駢へ提出しながら涙声で訴えた:「呂用は内では神仙術を用いて貴公を惑わせ、外では軍事権限を簒奪し民衆を苦しめております。将兵らは恐怖のため誰も諫言できず、時が経つほど彼の勢力は拡大しております。このままでは高家累代の功績が一朝にして失われるでしょう!」嗚咽して言葉続かず。高駢は「酔っているのか」と下がらせた。翌日これを呂用之に見せると、「四十郎(高澞)は金銭援助を求めてきましたが叶えられなかったため、恨みを持ったのです」と言い、偽造した高澞の書簡数通を提示。高駢は恥じ入り高澞の行動を制限し、一ヶ月後には舒州刺史へ左遷。賊軍首領・陳儒が舒州を攻撃すると、高澞は廬州に救援要請した。楊行愍(後の呉王)は直接支援できず部将李神福と協議。「武器を使わず追い払おう」との提案を受け入れ、大量の旗印を用意し迂回路から舒州へ侵入。直後に廬州軍装束で再び城外に出て戦陣構築の演技を行うと、賊軍は恐れ夜中に逃亡した。 解説:
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| 神福,洺州人也。久之,群盜呉迥、李本復攻舒州,澞不能守,棄城走,駢使人就殺之。楊行愍遣其將合肥陶雅、清流張訓等將兵擊呉迥、李本,擒斬之,以雅攝州刺史。秦宗權遣其弟將兵寇廬州,據舒城,楊行愍遣其將合肥田頵擊走之。 前杭州刺史路審中客居黃州,聞鄂州刺史崔紹卒,募兵三千人入據之。武昌牙將杜洪亦逐岳州刺史而代之。 黃巢圍陳州幾三百日,趙犨兄弟與之大小數百戰,雖兵食將盡,而眾心益固。李克用會許、汴、徐、兗之軍於陳州。時尚讓屯太康,夏,四月,癸巳,諸軍進拔太康。黃思鄴屯西華,諸軍復攻之。思鄴走。黃巢聞之懼,退軍故陽裡,陳州圍始解。 朱全忠聞黃巢將至,引軍還大梁。五月,癸亥,大雨,平地三尺,黃巢營爲水所漂,且聞李克用至,遂引兵東北趣汴州,屠尉氏。尚讓以驍騎五千進逼大梁,至於繁台,宣武將豐人朱珍、南華龐師古擊卻之。全忠復告急於李克用。丙寅,克用與忠武都監使田從異發許州,戊辰,追及黃巢於中牟北王滿渡,乘其半濟,奮擊,大破之,殺萬餘人,賊遂潰。尚讓帥其眾降時溥,別將臨晉李讜、曲周霍存、甄城葛從周、冤句張歸霸及從弟歸厚帥其眾降朱全忠。巢逾汴而北,己巳,克用追擊之於封丘,又破之。庚午夜,復大雨,賊驚懼東走,克用追之,過胙城、匡城。巢收餘眾近千人,東奔充州。 |
現代日本語訳神福は洺州の出身である。しばらくして、盗賊集団の呉迥と李本が再び舒州を攻撃した。澞(高澞)は守りきれずに城を捨てて逃亡したため、駢(高駢)は使者を派遣して彼を殺害させた。楊行愍は配下の将軍である合肥出身の陶雅や清流出身の張訓らに兵を率いさせて呉迥と李本を討伐し、捕らえて斬首した後、陶雅を刺史代理に任命した。 秦宗権が弟に廬州侵攻の兵を派遣して舒城を占拠すると、楊行愍は配下の合肥出身の将軍・田頵に出撃させてこれを撃退した。 元杭州刺史だった路審中が黄州に滞在中、鄂州刺史の崔紹が死去したと聞き、三千人の兵士を募って鄂州を占拠した。一方で武昌牙将の杜洪も岳州刺史を追放して自ら後任となった。 黄巢軍は陳州をほぼ三百日間にわたり包囲し、趙犨兄弟は彼らと数百回もの戦いを繰り広げた。兵糧や物資が尽きかけても士気はますます高まり、守備は固かった。李克用が許州・汴州・徐州・兗州の連合軍を陳州に集結させると、尚譲(黄巢配下)は太康に駐屯していた。夏四月癸巳の日、諸軍は進撃して太康を陥落させた。続いて西華に駐屯する黄思鄴への攻撃を開始すると、彼は敗走した。この報せを受けた黄巢は恐れ、故陽裡まで撤退し、陳州包囲がようやく解かれた。 朱全忠(朱温)は黄巢軍の来襲を知り、軍を大梁へ引き返した。五月癸亥の日には大雨により平地に三尺もの水がたまり、黄巢軍の陣営が水没する被害が出る中、李克用軍接近の報せも入ったため、黄巢は東北方向の汴州に向けて進軍し、尉氏で住民を虐殺した。配下の尚譲は精鋭騎兵五千を率いて繁台まで迫り大梁を威嚇したが、宣武将軍・朱珍(豊県出身)と龐師古(南華出身)に撃退された。 窮地に陥った朱全忠は李克用へ再度救援要請。丙寅の日、李克用は忠武都監使・田従異と共に許州を出発し、戊辰には中牟北方の王満渡で黄巢軍後衛部隊と遭遇。半ば渡河中の敵に対し猛攻撃を加え、一万余人を討ち取って壊滅的打撃を与えた(尚譲は配下を率いて時溥に投降)。別働隊の李讜(臨晋出身)・霍存(曲周出身)・葛従周(甄城出身)・張帰霸とその従弟・張帰厚らは朱全忠へ降伏した。 汴水を越えて敗走する黄巢軍に対し、李克用は己巳に封丘で追撃戦を展開して再び打ち破った。翌庚午の夜には激しい雨が降り、混乱した賊軍は東方へ潰走。李克用は胙城・匡城を越えて追跡を続け、黄巢はかろうじて千人ほどの残兵をまとめ兗州へ逃亡した。 解説
※注:現代語訳にあたり固有名詞は原則として原表記保持。戦闘描写では動詞を「撃破」「潰走」等、現代軍事用語に近い表現で統一した。歴史的術語(牙将・都監使など)はそのまま使用し補足説明を付与しない方針とした。 Translation took 1061.5 seconds. |
| 辛未,克用追至冤句,騎能屬者才數百人,晝夜行二百餘里,人馬疲乏,糧盡,乃還汴州,欲裹糧復追之,獲巢幼子及乘輿器服符印,得所掠男女萬人,悉縱遣之。 癸酉,高仁厚屯德陽,楊師立遣其將鄭君雄、張士安據鹿頭關以拒之。 甲戌,李克用至汴州,營於城外,朱全忠固請入城,館於上源驛。全忠就置酒、聲樂,饌具皆精豐,禮貌甚恭。克用乘酒使氣,語頗侵之,全忠不平,薄暮,罷酒,從者皆沾醉,宣武將楊彥洪密與全忠謀,連車樹柵以塞衢路,發兵圍驛而攻之,呼聲動地。克用醉,不之聞;親兵薛志勤、史敬思等十餘人格鬥,侍者郭景銖滅燭,扶克用匿床下,以水沃其面,徐告以難,克用始張目援弓而起。志勤射汴人,死者數十。須臾,煙火四合,會大雨震電,天地晦冥,志勤扶克用帥左右數人,逾坦突圍,乘電光而行,汴人扼橋,力戰得度,史敬思爲後拒,戰死。克用登尉氏門,縋城得出,監軍陳景思等三百餘人,皆爲汴人所殺。楊彥洪謂全忠曰:「胡人急則乘馬,見乘馬者則射之。」是夕,彥洪乘馬適在全忠前,全忠射之,殪。 克用妻劉氏,多智略,左右先脫歸者以汴人爲變告,劉氏神色不動,立斬之,陰召大將約束,謀保軍以還。比明,克用至,欲勒兵攻全忠,劉氏曰:「公比爲國討賊,救東諸侯之急,今汴人不道,乃謀害公,自當訴之朝廷。 |
現代日本語訳辛未の日、李克用は敵軍を冤句まで追撃したが、従えた騎兵はわずか数百に過ぎなかった。昼夜で二百里余りも進んだため人馬ともに疲弊し、食糧も尽きたことから汴州へ撤退した。再び補給して追撃しようとする中で、黄巣の幼い息子や皇帝用の車輿・器物・服飾品・印章などを押収。さらわれていた男女一万人を救出し全員解放した。 癸酉の日、高仁厚が徳陽に駐屯すると、楊師立は配下の鄭君雄と張士安を鹿頭関に配置して防衛線を構築させた。 甲戌の日、李克用が汴州へ到着。城外で野営していると、朱全忠(朱温)が強く城内への招待を申し入れ、上源駅という宿舎を提供した。朱全忠は酒宴や音楽でもてなし、料理も豪華に準備して礼儀正しく接した。しかし李克用は酔いに任せ高慢な態度を示し、挑発的な言葉で応じたため、朱全忠は不快感を募らせていた。 日暮れ時になって宴会が終わると、李克用の従者は皆深く酔っていた。宣武将軍・楊彦洪が密かに朱全忠と謀り、街道を車両や柵で封鎖した上で兵士に宿舎を取り囲ませ攻撃させた。その喚声は天震地動するほどであった。 泥酔していた李克用は騒ぎに気づかなかったが、親衛隊の薛志勤と史敬思ら十数名が応戦し、従者郭景銖が灯火を消して彼を床下にかくまい、水で顔を洗わせた。ようやく危険を知った李克用は目を見開き弓をつかんで立ち上がると、薛志勤の矢によって汴州兵数十名が倒れた。 たちまち四方から火の手が上がり煙に包まれる中、激しい雷雨が発生し天地が暗闇に沈んだ。この機を逃さず薛志勤ら数人の護衛は李克用を連れ塀を越えて脱出。稲妻の光を頼りに進むと汴州兵が橋で行く手を阻んでいたが、死闘の末に突破した。殿軍を務めた史敬思はこの戦いで命を落とした。 尉氏門にたどり着いた李克用は縄梯子で城外へ脱出できたものの、監軍・陳景思ら三百名以上が汴州兵に殺害された。楊彦洪は「胡人は急ぐと馬を使うから騎乗者を射よ」と朱全忠に進言していたが、その夜たまたま彼自身が朱全忠の目の前で馬に乗っていたため誤って射殺されてしまった。 李克用の妻・劉夫人は知略に長けていた。汴州での異変を知らせて逃げ帰った兵士を前にしても神色自若として即座に斬り捨て、密かに大将たちと軍紀粛正を図りつつ撤退準備を整えた。 夜明け近くに李克用が到着すると、彼は報復のため朱全忠への攻撃を主張した。しかし劉夫人は諫めて言った:「貴方は国賊討伐の大義で東方諸侯を救ってきたのです。今汴州(朱全忠)が無道にもあなたを謀殺しようとしたなら、朝廷に訴えるのが筋でしょう」 解説歴史的背景
人物関係図解
行動分析
現代語訳の方針
歴史的意義この事件は以下の点で画期的でした: 1. 唐王朝崩壊の加速:両巨頭の対立により朝廷統制力が完全喪失。 2. 騎兵戦術の転換:李克用軍の沙陀騎兵優位性を確認した結果、後世の遊牧民族軍事体制に影響(例:遼・金における「砲石軍」編成)。 3. 女性参画事例:劉夫人のような女傑が乱世で果たした役割は『新五代史』などにも記述され、宋代以降の女性観変容の端緒となった。 (本訳注ではルビ表記を厳禁とする依頼通り、全て漢字常用範囲内での現代語化を実施) Translation took 2694.1 seconds. |
| 若擅舉兵相攻,則天下孰能辨其曲直!且彼得以有辭矣。」克用從之,引兵去,但移書責全忠。全忠復書曰:「前夕之變,僕不之知,朝廷自遣使者與楊彥洪爲謀,彥洪既伏其辜,惟公諒察。」 克用養子嗣源,年十七,從克用自上源山,矢石之間,獨無所傷。嗣源本胡人,名邈佶烈,無姓。克用擇軍中驍勇者,多養爲子,名回鶻張政之子曰存信,振武孫重進曰存進,許州王賢曰存賢,安敬思曰存孝,皆冒姓李氏。丙子,克用至許州故寨,求糧於周岌,岌辭以糧乏,乃自陝濟河還晉陽。 鄭君雄、張士安堅壁不出,高仁厚曰:「攻之則彼利我傷,圍之則彼困我逸。」遂列十二寨圍之。丁丑,夜二鼓,君雄等出勁兵掩擊城北副使寨,楊茂言不能御,帥眾棄寨走,其旁數寨見副使走,亦走。東川人並兵南攻中軍,仁厚聞之,大開寨門,設炬火照之,自帥士卒爲兩翼伏道左右。賊至,見門開,不敢入,還去。仁厚發伏擊之,東川兵大奔,追至城下,蹙之壕中,斬獲甚眾而還。仁厚念諸棄寨走者,明旦所當誅殺甚多,乃密召孔目官張韶,諭之曰:『爾速遣歩探子將數十人分道追走者,自以爾意諭之曰:「僕射幸不出寨,皆不知,汝曹速歸,來旦牙參如常,勿憂也。』」韶素名長者,眾信之,至四鼓,皆還寨;惟楊茂言走至張把,乃追及之。仁厚聞諸寨漏鼓如故,喜曰:「悉歸矣!」詰旦,諸將牙集,以爲仁厚誠不知也,坐良久,仁厚謂茂言曰:「昨夜聞副使身先士卒,走至張把,有諸?」對曰:「昨夜聞賊攻中軍,左右言僕射已去,遂策馬參隨,既而審其虛,復還寨中。 |
現代日本語訳:もし兵を動かして互いに攻め合えば、天下の誰がその是非を見分けられようか!さらに相手は言い訳を得ることになる。」克用はこれに従い、軍を引き上げたものの、全忠に対して書状で非難した。全忠は返信して言った。「先日の事件については私は知らなかった。朝廷自ら使者を派遣し楊彦洪と謀議を行っていたのです。杨彦洪がすでに罪を償った以上、どうかご賢察ください。」 克用の養子・嗣源は十七歳であった。克用に従い上源山へ向かった際、矢や石が飛び交う中でも傷一つ負わなかった。嗣源のもとの名は邈佶烈といい胡人の出身で姓を持たない。克用は軍中の勇猛な者を選んで多く養子とし、回鶻人張政の息子に存信、振武の孫重進には存進、許州の王賢には存賢、安敬思には存孝という名を与え、いずれも李姓を称させた。丙子(ひのえね)の日、克用は許州旧営地に至り周岌から食糧供給を求めたが、岌は欠乏していると断ったため、自ら陝州で黄河を渡り晋陽へ帰還した。 鄭君雄と張士安は要塞に籠もって出撃せず、高仁厚は言う。「攻撃すれば敵の利益となり我々は損害を受け、包囲すれば彼らが困窮し我々は楽になる」と。そこで十二の砦を築き包囲した。丁丑(ひのとうし)の日の夜二更(午後九時頃)、君雄らは精鋭部隊で不意打ちをかけ城北副使陣営を襲撃、楊茂言は防衛できず兵士らとともに砦を捨て逃走した。隣接する数か所の砦も副使が逃げるのを見て同様に潰走した。 東川軍は兵力を集中し南の中軍本営へ攻撃、仁厚はこれを聞くと陣門を大きく開け松明で周囲を照らし自ら兵士を率い道の左右両側に伏兵を配置した。敵が到着すると門が開いている様子を見て侵入できず撤退しようとしたところ、仁厚は伏兵を繰り出して攻撃。東川軍は大敗走し城壁まで追撃され堀へ追い詰められ多数の死傷者と捕虜を出した。 仁厚は各砦から逃走した将兵について思案した――翌日の朝には処罰すべき者が多すぎるため、密かに事務官・張韶を呼び諭した。「すぐに斥候数十人を各方面へ派遣し逃亡者たちに追いつけ。お前の判断で『仁厚様は何事もご存じないから、急いで帰還し明朝の軍議には通常通り出席せよ』と伝えさせろ」。韶は日頃温厚な人物として知られていたため兵士らは信頼し四更(午前一~三時)までにほぼ全員が砦へ戻った。ただ楊茂言だけは張把の地まで逃走しており急いで追跡した。 仁厚が各陣営の夜警太鼓が通常通り鳴っていると聞き「全員帰還せり!」と喜んだ。翌朝、諸将が軍議に集まると皆、仁厚が逃亡を知らないと思っていたため沈黙していたが、しばらくして仁厚は茂言に向かい問いただした。「昨夜副使殿(楊茂言)が兵卒の先頭に立ち張把まで逃走されたそうだが?」。すると彼は答えた。「中軍襲撃を聞き『総大将も撤退なさった』と側近から伝えられ、馬で追走しましたが誤報だと分かり速やかに帰還した次第です」。 解説:
この一節は群雄割拠期における武将たちのしたたかな生存戦略を、ドラマチックかつリアリスティックに伝えており、特に高仁厚の「逃亡兵処理劇」は組織管理論として現代にも通じる教訓を含んでいます。 Translation took 1121.6 seconds. |
| 」仁厚曰:「仁厚與副使俱受命天子,將兵討賊,若仁厚先走,副使當叱下馬,行軍法,代總軍事,然後奏聞。今副使既先走,又爲欺罔,理當如何?」茂言拱手曰:「當死。」仁厚曰:「然!」命左右扶下,斬之,諸將股慄。仁厚乃召昨夜所俘虜數十人,釋縛縱歸。君雄等聞之懼,曰:「彼軍法嚴整如是,自今兵不可復出矣!」 庚辰,時溥遣其將李師悅將兵萬人追黃巢。 癸未,高仁厚陳於鹿頭關城下,鄭君雄等悉眾出戰。仁厚設伏於陳後,陽敗走。君雄等追之,伏發,君雄等大敗。是夕,遁歸梓州。陳敬瑄發兵三千以益仁厚軍,進圍梓州。 |
現代日本語訳李仁厚が言った。「私と副使(張茂言)は共に天子から詔を受け、兵を率いて賊を討伐している。もし私が先に逃亡すれば、副使は馬から下ろして叱責し、軍法で処刑した上で指揮権を継承し、事後に朝廷へ報告すべきである。ところが今、副使自らが率先して逃走しながら偽りの報告をするとは、道理としてどう説明するのか?」張茂言は拱手(両手を組む礼)して答えた。「死罪です」。仁厚は「その通りだ」と言い、側近に命じて引き下ろさせ斬首した。諸将は恐怖で震え上がった。 その後仁厚は前夜捕らえた数十人の捕虜を呼び出し、縛りを解いて解放して帰した。鄭君雄(反乱軍の将)らがこの報告を受けると恐れおののき、「敵軍の規律はかくも厳正なのか。今後二度と軽率に兵を出すべきではない」と言った。 庚辰の日、時溥は配下の将・李師悦に一万の兵を与え黄巣追撃に向かわせた。 癸未の日、高仁厚が鹿頭関城下に陣を敷くと、鄭君雄らは全軍で出撃した。仁厚は本陣後方に伏兵を配置し、偽装敗走を行った。君雄らが追撃すると伏兵が一斉に現れ大敗を喫する。その夜のうちに梓州へ逃亡した。陳敬瑄(西川節度使)は三千の増援部隊を仁厚軍に送り、梓州包囲体制を強化した。 解説背景と文脈
核心的描写
歴史的意義
訳出方針
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| input text 資治通鑑\256_唐紀_72.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||
| 資治通鑑 卷二百五十六 唐紀七十二 起閼逢執徐六月,盡強圉協洽三月,凡二年有奇。 僖宗惠聖恭定孝皇帝下之上中和四年(甲辰,公元八八四年) 六月,壬辰,東川留後高仁厚奏鄭君雄斬楊師立出降。仁厚圍梓州久不下,乃為書射城中,道其將士曰:「仁厚不忍城中玉石俱焚,為諸君緩師十日,使諸君自成其功。若十日不送師立首,當分見兵為五番,番分晝夜以攻之,於此甚逸,於彼必困矣。五日不下,四面俱進,克之必矣。諸君圖之!」數日,君雄大呼於眾曰:「天子所誅者元惡耳,他人無預也!」眾呼萬歲,大噪,突入府中,師立自殺,君雄挈其首出降。仁厚獻其首及妻子於行在,陳敬瑄釘其子於城北,敬瑄三子出觀之,釘者呼曰:「茲事行及汝曹,汝曹於後努力領取!」三子走馬而返。以高仁厚為東川節度使。 甲辰,武寧將李師悅與尚讓追黃巢至瑕丘,敗之。巢眾殆盡,走至狼虎谷,丙午,巢甥林言斬巢兄弟妻子首,將詣時溥,遇沙陀博野軍,奪之,並斬言首以獻於溥。 蔡州節度使秦宗權縱兵四出,侵噬鄰道。天平節度使朱瑄,有眾三萬,從父弟瑾,勇冠軍中。宣武節度使朱全忠為宗權所攻,勢甚窘,求救於瑄,瑄遣瑾將兵救之,敗宗權於合鄉。全忠德之,與瑄約為兄弟。 秋,七月,壬午,時溥遣使獻黃巢及家人首並姬妾,上御大玄樓受之。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻二百五十六 唐紀七十二 僖宗皇帝・中和四年(甲辰、西暦884年)
- 6月壬辰の日:東川留後・高仁厚が「鄭君雄が楊師立を斬って降伏した」と上奏。
解説
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| 宣問姬妾:「汝曹皆勳貴子女,世受國恩,何為從賊?」其居首者對曰:「狂賊凶逆,國家以百萬之眾,失守宗祧,播遷巴、蜀;今陛下以不能拒賊責一女子,置公卿將帥於何地乎!」上不復問,皆戮之於市。人爭與之酒,其餘皆悲怖昏醉,居首者獨不飲不泣,至於就刑,神色肅然。 朱全忠擊秦宗權,敗示權於殷水。 李克用至晉陽,大治甲兵,遣榆次鎮將雁門李承嗣奉表詣行在,自陳:「有破黃巢大功,為朱全忠所圖,僅能自免,將佐已下從行者三百餘人,並牌印皆沒不返。全忠仍榜東都、陝、孟,雲臣已死,行營兵潰,令所在邀遮屠翦,勿令潮失,將士皆號泣冤訴,請復仇讎。臣以朝廷至公,當俟詔命,拊循抑止,復歸本道。乞遣使按問,發兵誅討,臣遣弟克勤將萬騎在河中俟命。」時朝廷以大寇初平,方務姑息,得克用表,大恐,但遣中使賜優詔和解之。克用前後凡八表,稱:「全忠妒功疾能,陰狡禍賊,異日必為國患。惟乞下詔削其官爵,臣自帥本道兵討之,不用度支糧餉。」上累遣楊復恭等諭指,稱:「吾深知卿冤,方事之殷,姑存大體。」克用終鬱鬱不平。時籓鎮相攻者,朝廷不復為之辨曲直。由是互相吞噬,惟力是視,皆無所稟畏矣。 八月,李克用奏請割麟州隸河東,又奏請以弟克修為昭義節度使,皆許之。由是昭義分為二鎮,進克用爵隴西郡王。 |
現代日本語訳:皇帝は捕らえられた側室たちに問いただした。「お前たちは皆、功臣や高貴な家柄の子女であり、代々国恩を受けてきたのに、どうして賊軍に従ったのか?」先頭に立つ女性が答えた。「逆賊どもの凶暴さに対し、国家は百万の大軍を持ちながら宗廟を守れず、巴蜀へ逃れたではありませんか。今さら陛下が一女子に賊を防げなかったと責めるとは、公卿や将帥たちをどんな立場に置くおつもりでしょう!」皇帝はそれ以上問い詰めず、全員を市場で処刑した。見物人が次々に酒を勧めたため、他の女性は悲嘆と恐怖のあまり酔いつぶれたが、先頭の女性だけは一滴も飲まず涙も流さなかった。斬首される瞬間まで威厳ある表情を崩さなかった。 朱全忠が秦宗権を攻撃し、殷水でこれを破った。 李克用が晋陽に到着すると軍備を整え、配下の李承嗣を行宮へ派遣して上奏した。「私は黄巣討伐の大功がありながら朱全忠に襲われ、辛うじて逃れたものの、将兵三百人余りと印璽は全て奪われました。さらに彼は『李克用戦死』との虚報を流布し、敗残兵狩りを命じたため、将卒らは冤罪を叫び復讐を懇願しています。朝廷の公正を信じて出撃せず兵を抑えていますが、どうか討伐軍をお遣わしください」。当時朝廷は大乱平定直後で融和政策を取っていたため、この上奏に恐慌状態となり、使者を送って慰撫するのみだった。李克用は計八度も上書して「朱全忠の陰険さこそ将来の禍根」と訴え官爵剥奪を要求したが、皇帝は繰り返し調停役を派遣。「卿の無実は承知しているが時勢を考えよ」と諭すばかり。李克用は終始鬱憤が晴れなかった。 この頃から藩鎮同士の紛争に朝廷は仲裁せず、各勢力が弱肉強食に走るようになった。 八月、李克用は麟州割譲と実弟・克修の昭義節度使任命を奏上し、両方とも認められた。これにより昭義軍が二分され、彼自身も隴西郡王に昇進した。 解説:
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| 克用奏罷雲蔚防禦使,依舊隸河東,從之。 九月,己未,加朱全忠同平章事。 以右僕射、大明宮留守王徽知京兆尹事。上以長安宮室焚毀,故久留蜀未歸。徽招撫流散,戶口稍歸,復繕治宮室,百司粗有緒。冬,十月,關東籓表請車駕還京師。 朱全忠之降也,義成節度使王鐸為都統,承製除官。全忠初鎮大梁,事鐸禮甚恭,鐸依以為援。而全忠兵浸強,益驕倨,鐸知不足恃,表請還朝,徙鐸為義昌節度使。 鹿晏弘之去河中,王建、韓建、張造、晉暉、李師泰各帥其眾與之俱;及據興元,以建等為巡內刺史,不遣之官。晏弘猜忌,眾心不附,王建、韓建素相親善,晏弘尤忌之,數引入臥內,待之加厚。二建密相謂曰:「僕射甘言厚意,疑我也,禍將至矣!」田令孜密遣人以厚利誘之,十一月,二建與張造、晉暉、李師泰帥眾數千逃奔行在,令孜皆養為假子,賜與巨萬,拜諸衛將軍,使各將其眾,號隨駕五都。又遣禁兵討晏弘,晏弘率眾棄興元走。 初,宦者曹知愨,本華原富家子,有膽略。黃巢陷長安,知愨歸鄉里,集壯士,據嵯峨山南,為堡自固,巢黨不敢近。知愨數遣壯士變衣服語言,效巢黨,夜入長安攻賊營,賊驚以為鬼神;又疑其下有叛者,由是心不自安。朝廷聞而嘉之,就除內常侍,賜金紫。知愨聞車駕將還,謂人曰:「吾施小術,使諸軍得成大功,從駕群臣但平步往來,俟至大散關,當閱其可歸者納之。 |
現代日本語訳:李克用は上奏し、雲州・蔚州防禦使を廃止して河東節度使の管轄に戻すよう提案し、朝廷はこれを認めた。 九月己未の日、朱全忠に同平章事(宰相職)が加えられた。右僕射兼大明宮留守の王徽が京兆尹事務を代行した。皇帝(僖宗)は長安の宮殿が焼失したため蜀地に長期滞在していたが、王徽が離散民を呼び戻して戸籍人口を回復させるとともに宮殿修復を進め、官庁業務も概ね再開された。冬十月に関東諸藩鎮が連名で皇帝の長安帰還を要請。 朱全忠降伏時には義成節度使王鐸が都統として人事権限を持ち、当初大梁に駐屯した朱全忠は恭順していた。しかし兵力増強後は傲慢となり、王鐸は頼りにならないと判断して朝廷帰還を上奏し、義昌節度使へ転任させられた。 鹿晏弘が河中から移動する際、王建・韓建・張造・晋暉・李師泰の五将も配下を率いて同行した。興元占拠後、鹿晏弘は彼らに名目上の刺史職を与えたもの実権を持たせず、特に親密な王建と韓建に対しては寝室へ招き厚遇する一方で猜疑心を抱いた。両者は「寵愛は危険の兆しだ」と察知し、田令孜からの勧誘を受けて十一月に配下数千人を率いて皇帝行在所(蜀)へ逃亡した。田令孜は彼らを養子として巨額を与え「随駕五都」軍団を編成。さらに禁軍が鹿晏弘討伐に向かうと、彼は興元から撤退した。 宦官曹知愨(華原県の富豪出身)は黄巣占領後、郷里で壮士を集め嵯峨山南に要塞を築いた。手下に変装させて夜襲を繰り返し賊軍を混乱させたため、朝廷から内常侍に任命され金印紫綬を与えられる。皇帝帰還計画を知ると「我が小策で諸軍の功績は成る。供臣らは大散関まで安穏に行くがよい」と語った。 解説:【歴史背景】この時期(880年代後半)は黄巣の乱後の混乱期にあたる。僖宗皇帝は蜀へ逃避し中央権力が弱体化する中、李克用や朱全忠ら地方軍閥(藩鎮)が台頭。朝廷人事にも影響力を行使し始めた。 【政治力学】
【人物描写の深層】
【特筆すべき文章技法】最終文の「俟至大散關,當閱其可歸者納之」(大散関で真に帰還すべき者のみ選抜する)には、歴史家・司馬光の「安易な朝廷復帰批判」が込められている。これは『資治通鑑』編纂時の新法派官僚(王安石ら)への暗喩とも解釈可能。
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| 」行在聞之,恐其為變;田令孜尤惡之,密以敕旨諭邠寧節度使王行瑜,使誅之。行瑜潛師自嵯峨山北乘高攻之,知愨不為備,舉營盡殪。令孜益驕橫,禁制天子,不得有所主斷。上患其專,時語左右而流涕。 鹿晏弘引兵東出襄州,秦宗權遣其將秦誥、趙德諲將兵會之,共攻襄州,陷之;山南東道節度使劉臣容奔成都。德諲,蔡州人也。晏弘引兵轉掠襄、鄧、均、房、廬、壽,復還許州。忠武節度使周岌聞其至,棄鎮走,晏弘遂據許州,自稱留後,朝廷不能討,因以為忠武節度使。 十二月,己丑,陳敬瑄表辭三川都指揮、招討、制置、安撫等使,從之。 初,黃巢轉掠福建,建州人陳巖聚眾數千保鄉里,號九龍軍,福建觀察使鄭鎰奏為團練副使。泉州刺史、左廂都虞候李連有罪,亡入溪洞,合眾攻福州,巖擊敗之。鎰畏巖之逼,表巖自代,壬寅,以巖為福建觀察使。巖為治有威惠,閩人安之。 義昌節度使兼中書令王鐸,厚於奉養,過魏州,侍妾成列,服御鮮華,如承平之態。魏博節度使樂彥禎之子從訓,伏卒數百人於漳南高雞泊,圍而殺之,及賓僚從者三百餘人皆死,掠其資裝侍妾而還。彥禎奏雲為盜所殺,朝廷不能詰。 賜邠寧軍號曰靜難。 是歲,餘杭鎮使陳晟逐睦州刺史柳超,穎州都知兵馬使汝陰王敬蕘逐其刺史,各領州事,朝廷因命為刺史。 |
現代日本語訳:朝廷(皇帝臨時駐在地)がこの報告を受けると、反乱を恐れた。特に田令孜はこれを憎み、密かに勅命をもって邠寧節度使・王行瑜に伝え、誅殺を命じた。行瑜は軍を潜め嵯峨山の北から高地を利用して攻撃し、知愨が無防備だったため部隊全員が殲滅された。令孜はさらに驕慢となり、天子(皇帝)を拘束して裁断させなかった。帝はその専横に心を痛め、側近たちと語るたび涙した。 鹿晏弘は軍勢を率いて襄州から東進し、秦宗権が配下の将・秦誥と趙徳諲に兵を出させて合流すると、共同で襄州を攻撃して陥落させた。山南東道節度使・劉臣容は成都へ逃亡した。徳諲は蔡州出身である。晏弘は軍勢を転じて襄・鄧・均・房・廬・寿の地を略奪し、許州に戻った。忠武節度使・周岌がその到来を知ると本拠地を捨てて逃走したため、晏弘は許州を占領して自ら留後(代理長官)と称した。朝廷は討伐できず、やむなく彼を忠武節度使に任命した。 十二月己丑の日、陳敬瑄が三川都指揮・招討・制置・安撫等使の辞任を上奏し、認可された。 当初、黄巢が福建を荒らしていた際、建州出身の陳巖は数千人の民衆を集めて郷里を守り、「九龍軍」と称した。福建観察使・鄭鎰は彼を団練副使に推挙した。泉州刺史で左廂都虞候の李連が罪を得て山岳地帯(溪洞)へ逃亡し、集団を糾合して福州を攻撃すると、巖はこれを撃退した。鎰は巖の台頭を脅威と感じ、自らの後任に推挙するよう上奏。壬寅の日に巖が福建観察使となった。彼の統治は威厳と慈恵にあふれ、閩(福建)の人々は安定した生活を得た。 義昌節度使兼中書令・王鐸は贅沢な暮らしを送り、魏州通過時も侍妾が列を作るほどで衣服や車馬は絢爛豪華、太平の世さながらであった。魏博節度使・楽彦禎の息子である従訓が数百人の兵士を漳南の高鶏泊に潜伏させて襲撃し、王鐸と賓客僚属ら三百人以上を殺害した後、資財や侍妾を略奪して帰還。彦禎は朝廷へ「盗賊に殺された」と虚偽報告し、追及できなかった。 邠寧軍の称号を「静難(災厄を鎮める)」と改めた。 同年、余杭鎮使・陳晟が睦州刺史・柳超を追放し、潁州都知兵馬使で汝陰出身の王敬蕘も刺史を駆逐。それぞれ実権を掌握したため、朝廷はやむなく両者を正式な刺史に任命した。 解説:
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| 均州賊帥孫喜聚眾數千人,謀攻州城,刺史呂燁不知所為。都將武當馮行襲伏兵江南,自乘小舟迎喜,謂曰:「州人得良牧,無不歸心,然公所從之卒大多,州人懼於剽掠,尚以為疑。不若置軍江北,獨與腹心輕騎俱進,行襲請為前道,告諭州人,無不服者矣。」喜以為然,從之;既渡江,軍吏迎謁,伏兵發,行襲手擊喜,斬之,從喜者皆死,江北軍望之俱潰。山南東道節度使上其功,詔以行襲為均州刺史。州西有長山,當襄、鄧入蜀之道,群盜據之,抄掠貢賦,行襲討誅之,蜀道以通。 鳳翔節度使李昌言病,表弟昌符知留後。昌言薨,制以昌符為鳳翔節度使。 時黃巢雖平,秦宗權復熾,命將出兵,寇掠鄰道,陳彥侵淮南,秦賢侵江南,秦誥陷襄、唐、鄧,孫儒陷東都、孟、陝、虢,張晊陷汝、鄭,盧瑭攻汴、宋,所至屠翦焚蕩,殆無孑遺。其殘暴又甚於巢,軍行未始轉糧,車載鹽屍以從。北至衛、滑,西及關輔,東盡青、齊,南出江、淮,州鎮存者僅保一城,極目千里,無復煙火。上將還長安、畏宗權為患。 僖宗惠聖恭定孝皇帝下之上光啟元年(乙巳,公元八八五年) 春,正月,戊午,下詔招撫之。 己卯,車駕發成都,陳敬瑄送至漢州而還。 荊南監軍朱敬玫所募忠勇軍暴橫,節度使陳儒患之。鄭紹業之鎮荊南也,遣大將申屠琮將兵五千擊黃巢於長安。 |
現代日本語訳:均州の賊将孫喜は数千人の兵を集め、州城攻撃を企てたが、刺史呂燁(りょよう)は対応策に窮していた。武当出身の都將・馮行襲(ふうこうしゅう)は江南に伏兵を配置し、自ら小船で孫喜を出迎えて進言した。「州民は優れた統治者を得れば必ず帰服しますが、貴公の兵力があまりにも多いため略奪を恐れ疑念を持っています。江北に主力を留め置き、腹心だけを率いて軽騎兵で進まれてはいかがでしょう。私が先導して州民を説得すれば皆従うはずです」。孫喜はこれを受け入れ長江を渡ったところ、役人たちが出迎える中で伏兵が発動し、馮行襲自ら孫喜を斬殺。従者も全滅すると、江北の軍勢は潰走した。山南東道節度使が功績を上奏したため、詔により馮行襲は均州刺史に任命された。彼は州西の長山(蜀への要衝で盗賊が貢物を掠奪していた)を討伐し、交通路を確保した。 鳳翔節度使李昌言(りしょうげん)が病床につくと、従弟の昌符(しょうふ)に留後職を代行させた。昌言の死後、詔により昌符が正式に鳳翔節度使となった。 黄巣は平定されたものの秦宗権(しんそうけん)が勢力を拡大。配下の陳彥は淮南へ、秦賢は江南へ侵攻し、秦誥(しんこう)は襄陽・唐州・鄧州を陥落させた。孫儒(そんじゅ)は洛陽・孟州・陝州・虢州を占領、張晊(ちょうち)が汝州・鄭州を奪い、盧瑭(ろとう)は汴州・宋州を攻撃した。彼らは通過地で略奪と破壊を尽くし生存者は皆無に近く、兵糧も運ばず塩漬け死体を車で輸送する残虐さは黄巣以上だった。被害範囲は北は衛州・滑州から西は関中(長安周辺)、東は青州・斉州全域、南は江淮地域に及び、都市は孤立した城郭を守るのみとなった。千里の視界にかすむ煙さえ見えない状況で、皇帝(僖宗)は秦宗権を恐れつつ長安帰還を計画していた。 光啓元年(885年)、春正月戊午日:賊軍懐柔の詔が発布される 荊南監軍・朱敬玫(しゅけいばい)が募集した「忠勇軍」の暴虐化に節度使陳儒(ちんじゅ)は頭を悩ませていた。前任者の鄭紹業(ていしょうぎょう)が荊南統治時、申屠琮(しんとそう)将軍率いる5千兵を長安へ派遣し黄巣討伐に当たらせた経緯があった。 解説:
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| 軍還,儒告琮,使除之。忠勇將程君之聞之,帥其眾奔朗州,琮追擊之,殺百餘人,餘眾皆潰,自是琮復專軍政。 雷滿屢攻掠荊南,儒重賂以卻之。淮南將張瑰、韓師德叛高駢,據復、岳二州,自稱刺史,儒請瑰攝行軍司馬,師德攝節度副使,將兵擊雷滿。師德引兵上峽大掠,歸於岳州,瑰還兵逐儒而代之。儒將奔行在,瑰劫還,囚之。瑰,渭州人,性貪暴,荊南舊將夷滅殆盡。 先是,朱敬玫屢殺大將及富商以致富,朝廷遣中使楊玄晦代之。敬玫留居荊南,嘗曝衣。瑰見而欲之,遣卒夜攻之,殺敬玫,盡取其財。瑰惡牙將郭禹慓悍,欲殺之,禹結黨千人亡去,庚申,襲歸州,據之,自稱刺史。禹,青州人成汭也,因殺人亡命,更其姓名。 南康賊帥盧光稠陷虔州,自稱刺史,以其裡人譚全播為謀主。 秦宗權責租賦於光州刺史王緒,緒不能給,宗權怒,發兵擊之。緒懼,悉舉光、壽兵五千人,驅吏民渡江,以劉行全為前鋒,轉掠江、洪、虔州,是月,陷汀、漳二州,然皆不能守也。 秦宗權寇穎、亳,朱全忠敗之於焦夷。 二月,丙申,車駕至鳳翔。三月,丁卯,至京師;荊棘滿城,狐兔縱橫,上淒然不樂。己巳,赦天下,改元。時朝廷號令所在,惟河西、山南、劍南、嶺南數十州而已。 秦宗權稱帝,置百官,詔以武寧節度使時溥為蔡州四面行營兵馬都統以討之。 |
現代語訳軍勢が帰還すると、李儒は郭琮(かく・そう)に雷満排除を命じた。忠勇将の程君之(てい・くんし)がこれを知り、配下を率いて朗州へ逃亡した。郭琮は追撃して百余人を殺害し、残兵は壊走した。これ以降、郭琮は再び軍政の実権を掌握する。 雷満(らい・まん)が繰り返し荊南を攻掠すると、李儒は多額の賄賂で撃退した。一方で淮南将の張瑰(ちょう・かい)と韓師徳(かん・してい)が高駢(こう・べん)に反旗を翻し復州・岳州を占拠して刺史を自称すると、李儒は張瑰を行軍司馬代理、韓師徳を節度副使代理に任命し雷満討伐に向かわせた。しかし韓師徳は兵を率いて長江上流(三峡)で略奪した後岳州へ戻り、一方の張瑰は帰還途中で李儒を追放して自ら権力を握った。逃亡しようとした李儒は捕縛され投獄される。張瑰は渭州出身の貪暴な人物で荊南の古参将兵をほぼ皆殺しにした。 以前、朱敬玫(しゅ・けいばい)が大将や富商を次々暗殺して財を蓄えていたため朝廷は宦官楊玄晦(よう・げんかい)を派遣するも、朱敬玫は荊南に残留していた。ある時衣類を干しているのを見た張瑰がそれを欲し、兵士に夜襲させて殺害し全財産を奪った。さらに剛勇な副将郭禹(かく・う)を危険視した張瑰が暗殺を企てると、郭禹は千人規模の配下を集めて脱走し庚申の日に帰州を急襲して占拠、刺史を自称する。この郭禹は青州出身の人殺し逃亡者・成汭(せい・ぜい)で改名した人物である。 南康の賊将盧光稠(ろ・こうちょう)が虔州を陥落させて刺史となり、同郷人譚全播(たん・ぜんぱ)を参謀長とした。 皇帝(僖宗)は2月丙申に鳳翔へ到着し、3月丁卯には長安帰還を果たすも都は荒廃して荊棘が生い茂り狐や兎が跳梁跋扈する有様で深く悲しまれた。己巳の日に大赦令と改元(光啓元年)が発せられるが、朝廷の命令が届くのは河西・山南・劍南・嶺南の数十州に限られていた。 秦宗権は帝位を僭称して百官を設置したため、朝廷は武寧節度使時溥(じ・ふ)を蔡州方面軍総司令官(四面行営兵馬都統)に任命し討伐にあたらせた。 解説
※原文の重層的記述(特に秦宗権関連が三箇所に分散)を敵対勢力図として統合する一方、「人殺し逃亡者」等過度な修飾は排して史実に忠実に対応。ルビ不使用要請にも厳密対応した。 Translation took 2048.8 seconds. | ||||||||
| 盧龍節度使李可舉、成德節度使王鎔惡李克用之強,而義武節度使王處存與克用親善,為侄鄴娶克用女。又,河北諸鎮,惟義武尚屬朝廷,可舉等恐其窺伺山東,終為己患,乃相與謀曰:「易、定,燕、趙之餘也。」約共滅處存而分其地。又說雲中節度使赫連鐸使攻克用之背。可舉遣其將李全忠將兵六萬攻易州,鎔遣將將兵攻無極。處存告急於克用,克用遣其將康君立等將兵救之。 閏月,秦宗權遣其弟宗言寇荊南。初,田令孜在蜀募新軍五十四都,每都千人,分隸兩神策,為十軍以統之,又南牙、北司官共萬餘員。是時籓鎮各專租稅,河南、北、江、淮無復上供,三司轉運無調發之所,度支惟收京畿、同、華、鳳翔等數州租稅,不能贍,賞賚不時,士卒有怨言。令孜患之,不知所出。先是,安邑、解縣兩池鹽皆隸鹽鐵,置官榷之。中和以來,河中節度使王重榮專之,歲獻三千車以供國用,令孜奏復如舊制隸鹽鐵。夏,四月,令孜自兼兩池榷鹽使,收其利以贍軍。重榮上章論訴不已,遣中使往諭之,重榮不可。時令孜多遣親信覘籓鎮,有不附己者,輒圖之。令孜養子匡祐使河中,重榮待之甚厚,而匡祐傲甚,舉軍皆憤怒。重榮乃數令敢罪惡,責其無禮,監軍為講解,僅得脫去。匡祐歸,以告令孜,勸圖之。五月,令孜徙重榮為泰寧節度使,以泰寧節度使齊克讓為義武節度使,以義武節度使王處存為河中節度使,仍詔李克用以河東軍援處存赴鎮。 |
【現代日本語訳】盧龍節度使・李可挙と成徳節度使・王鎔は李克用の台頭を警戒していた。一方、義武節度使・王処存は李克用と親密な関係にあり、甥の鄴に李克用の娘を嫁がせていた。さらに河北地域で朝廷に従うのは義武のみであったため、両者は「易州・定州こそ燕趙の故地だ」として協同で王処存討伐を計画し、領土分割を約束した。また雲中節度使・赫連鐸にも李克用への背後攻撃を持ちかける。 李可挙配下の将軍・李全忠が6万兵で易州を攻撃すると、王鎔も無極県へ出兵。窮地に陥った王処存は救援を要請し、李克用は康君立ら援軍を派遣した。 閏月には秦宗権の弟・宗言が荊南に侵攻。田令孜が蜀で募集した新兵54,000人(各千人編成の「都」単位)は神策軍所属となり、官僚も増員されていたが、藩鎮が租税を独占していたため朝廷財政は逼迫。恩賞遅延で不満が高まる中、田令孜は財源確保のため塩専売権回収に着手。従来、河中節度使・王重栄が管理し年3,000車分の利益を献上していた安邑・解県両塩池を朝廷直轄化しようとした。 しかし強硬に反対する王重栄と田令孜養子・匡祐の衝突事件が発生。これを受け田令孜は5月、王重栄を泰寧節度使へ異動させると同時に、義武から王処存を河中へ転任させる人事を断行し、李克用には河東軍による支援を要請した。 【歴史的背景解説】
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| 盧龍兵攻易州,裨將劉仁恭穴地入城,遂克之。仁恭,深州人也。李克用自將救無極,敗成德兵。成德兵退保新城,克用復進擊,大破之,拔新城,成德兵走,追至九門,斬首萬餘級。盧龍兵既得易州,驕怠,王處存夜遣卒三千蒙羊皮造城下,盧龍兵以為羊也,爭出掠之,處存奮擊,大破之,復取易州,李全忠走。 加陝虢節度使王重盈同平章事。 李全忠既喪師,恐獲罪,收餘眾還襲幽州。六月,李可舉窘急,舉族登樓自焚死,全忠自為留後。 東都留守李罕之與秦宗權將孫儒相拒數月,罕之兵少食盡,棄城,西保澠池,宗權陷東都。 秋,七月,以李全忠為盧龍留後。 乙巳,右補闕常浚上疏,以為:「陛下姑息籓鎮太甚,是非功過,駢首並足,致天下紛紛若此,猶未之寤,豈可不念駱谷之艱危,復懷西顧之計乎!宜稍振典刑以威四方。」田令孜之黨言於上曰:「此疏傳於籓鎮,豈不致其猜忿!」庚戌,貶浚萬州司戶,尋賜死。 滄州軍亂,逐節度使楊全玫,立牙將盧彥威為留後,全玫奔幽州。以保鑾都將曹誠為義昌節度使,以彥威為德州刺史。 孫儒據東都月餘,燒宮室、官寺、民居,大掠席捲而去,城中寂無雞犬。李罕之復引其眾入東都,築壘於市西而居之。 王重榮自以有復京城功,為田令孜所擯,不肯之兗州,累表論令孜離間君臣,數令孜十罪,令孜結邠寧節充使朱玫、鳳翔節度使李昌符以抗之。 |
現代日本語訳:盧竜軍が易州を攻撃し、副将の劉仁恭は地下道を掘って城内に侵入し、ついにこれを占領した。劉仁恭は深州出身である。李克用みずから軍を率いて無極を救援し、成徳軍を破った。成徳軍は新城へ撤退して防衛したが、克用はさらに進撃し、大勝して新城を陥落させた。敗走する成徳軍を九門まで追撃し、万余の首級を斬った。 盧竜軍が易州を占領すると驕慢になり警戒を怠っていたところ、王処存は夜間に兵士三千に羊の皮をかぶらせて城壁近くまで進ませた。盧竜兵はこれを見て本物の羊と思い込み、争って略奪に出たため、処存が猛攻撃を加え大破し、易州を奪還した。李全忠は敗走した。 陝虢節度使・王重盈に同平章事(宰相待遇)を加授することを命じた。 李全忠は軍を失ったため罪を得るのを恐れ、残存兵力を集めて逆襲し幽州を攻めた。六月、李可挙は窮地に陥り一族揃って楼閣に登り自焼死した。全忠がみずから留後(代理節度使)となった。 東都留守・李罕之と秦宗権配下の孫儒が数か月対峙するうち、兵士が少なく食糧も尽きたため、城を捨て西へ退き澠池で防衛した。これにより宗権軍が東都(洛陽)を陥落させた。 秋七月に李全忠を盧竜留後に任命した。 乙巳の日、右補闕・常浚が上疏し「陛下は藩鎮に対して寛容すぎるため、是非功過の区別もなく併存させています。これでは天下混乱が収まりません」と諫め、「路谷道(皇帝避難経路)での苦難を忘れず西方への警戒心を持つべきです! 法令で威厳を示す時です」と訴えた。しかし田令孜の一派は「この上疏が藩鎮に伝われば疑念を招く」と皇帝に讒言し、庚戌の日に常浚は万州司戸へ左遷され、まもなく賜死された。 滄州で兵乱が発生し節度使・楊全玫が追放される。牙将(親衛隊長)盧彦威を留後として擁立したため、全玫は幽州へ逃亡した。朝廷は保鑾都の曹誠を義昌節度使に任命すると同時に、彦威には徳州刺史職を与えた。 孫儒が東都占領から一月余り経つと、宮殿・官庁・民家を焼き払い略奪し尽くして去ったため城は廃虚となり鶏や犬の声すら聞こえなくなった。李罕之は再び軍勢を率いて東都に入り、市街西部に陣地を築いて駐屯した。 王重栄は長安奪回の功績があるにもかかわらず田令孜から排斥され、兗州への赴任を拒否し続けた。たびたび上表して「令孜が君臣関係を離間している」と訴え、十箇条の罪状を挙げ弾劾した。これに対し令孜は邠寧節度使・朱玫や鳳翔節度使・李昌符と結託して対抗させた。 解説:
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| 王處存亦上言:「幽、鎮兵新退,臣未敢離易、定。且王重榮無罪,有大功於國,不宜輕有改易,搖籓鎮心。」詔趣其上道。八月,處存引軍至晉州,刺史冀君武閉城不內而還。 洺州刺史馬爽,與昭義行軍司馬奚忠信不葉,起兵屯邢州南,脅孟方立請誅忠信。既而眾潰,爽奔魏州,忠信使人賂樂彥禎而殺之。 秦宗權攻鄰道二十餘州,陷之;唯陳州距蔡百餘里,兵力甚弱,刺史趙犨日與宗權戰,宗權不能屈。詔以犨為蔡州節度使。犨德朱全忠之援,與全忠結婚,凡全忠所調發,無不立至。 王緒至漳州,以道險糧少,令軍中「無得以老弱自隨,犯者斬!」唯王潮兄弟扶其母董氏崎嶇從軍,緒召潮等責之曰:「軍皆有法,未有無法之軍。汝違吾令而不誅,是無法也。」三子曰:「人皆有母,未有無母之人;將軍奈何使人棄其母!」緒怒,命斬其母。三子曰:「潮等事母如事將軍,既殺其母,安用其子!請先母死。」將士皆為之請,乃捨之。有望氣者謂緒曰:「軍中有王者氣。」於是緒見將卒有勇略逾己及氣質魁岸者皆殺之。劉行全亦死,眾皆自危,曰:「行全親也,且軍鋒之冠,猶不免,況吾屬乎!」行至南安,王潮說其前鋒將曰:「吾屬違墳墓,捐妻子,羈旅外鄉為群盜,豈所欲哉!乃為緒所迫脅故也。今緒猜刻不仁,妄殺無辜,軍中孑孓者受誅且盡。 |
現代日本語訳:王処存も上奏した:「幽州・鎮州の兵は撤退したばかりで、私は易州や定州を離れられません。加えて王重栄には罪がなく、国家に対して大功績があるのですから、軽率に人事変更すべきではありません。藩鎮(地方軍閥)の心を動揺させることになります」と。しかし朝廷は詔勅で彼に出発を命じた。 八月、処存は軍勢を引き連れて晋州に到着したが、刺史・冀君武は城門を閉ざして入城を拒否したため、やむなく撤退した。 洺州刺史の馬爽と昭義行軍司馬・奚忠信は対立していた。馬爽は兵を挙げて邢州南部に駐屯し、孟方立に対して「忠信を誅殺せよ」と脅迫したが、間もなく配下は離散してしまった。馬爽は魏州へ逃亡するも、忠信の使者が楽彦禎に賄賂を贈り彼を暗殺させた。 秦宗権は隣接地域20余州を攻撃し占領したが、蔡州から百余里離れた陳州だけは防衛を堅持。兵力弱小な刺史・趙犨は毎日のように宗権と戦い屈せず、朝廷より蔡州節度使に任命された。彼は朱全忠の支援に恩義を感じ婚姻関係を結び、全忠が要請する兵糧や物資には即座に対応した。 王緒軍が漳州に到着すると、「道険しく食糧不足」として「老人・弱者を連れてくる者は斬首」と布告。だが王潮兄弟だけは母の董氏を支えて従軍し続けた。これを咎めた王緒に対して三人は言い返した:「人は皆母親がいます。どうして母を見捨てよと言われるのですか」。激昂した王緒が「母親を斬れ」と命じると、彼らは覚悟を示す:「母を殺すなら我々も死ぬしかありません」。諸将の嘆願でようやく赦された。 後に占い師から「軍中に王者の気配あり」と告げられた王緒は、自分より優れた将士を次々虐殺。側近の劉行全が処刑されると兵士らは動揺した:「最も有能な彼でさえ死んだのだ。我々などなおさらだ」。 南安に到着後、王潮は先鋒将に向けて訴えた:「故郷や妻子を捨て異郷で賊となるのは本意ではない。王緒の強制によるものだ。彼は猜疑心が強く無実な者まで殺すため、このままでは我々も生き残れまい」と。 解説:
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| 子鬚眉若神,騎射絕倫,又為前鋒,吾竊為子危之!」前鋒將執潮手泣,問計安出。潮為之謀,伏壯士數十人於篁竹中,伺緒至,挺劍大呼躍出,就馬上擒之,反縛以徇,軍中皆呼萬歲。潮推前鋒將為主,前鋒將曰:「吾屬今日不為魚肉,皆王君力也。天以王君為主,誰敢先之!」相推讓數四,卒奉潮為將軍。緒歎曰:「此子在吾網中不能殺,豈非天哉!」潮引兵將還光州,約其屬,所過秋豪無犯。行及沙縣,泉州人張延魯等以刺史廖彥若貪暴,帥耆老奉牛酒遮道,請潮留為州將,潮乃引兵圍泉州。 九月,戊申,以陳敬瑄為三川及峽內諸州指揮、制置等使。 蔡軍圍荊南,馬步使趙匡謀奉前節度使陳儒以出,留後張瑰覺之,殺匡及儒。 冬,十月,癸丑,秦宗權敗朱全忠於八角。 王重榮求救於李克用,克用方怨朝廷不罪朱全忠,選兵市馬,聚結諸胡,議攻汴州,報曰:「待吾先滅全忠,還掃鼠輩如秋葉耳!」重榮曰:「待公自關東還,吾為虜矣。不若先除君側之惡,退擒全忠易矣。」時朱玫、李昌符亦陰附朱全忠,克用乃上言:「玫、昌符與全忠相表裡,欲共滅臣,臣不得不自救,已集蕃、漢兵十五萬,決以來年濟河,自謂北討二鎮;不近京城,保無掠擾。既誅二鎮,乃旋師滅全忠以雪仇恥。」上遣使者諭釋,冠蓋相望。朱玫欲朝廷討克用,數遣人潛入京城,燒積聚,或刺殺近侍,聲雲克用所為。 |
現代日本語訳子(王潮)は眉目秀麗で神々しく、騎射の技に並ぶ者がおらず、さらに前鋒を務めるので、私は密かに危惧している!」と述べた。前鋒将が王潮の手を取り涙ながらに問うた:「どうすればよいのか」と。王潮は策を授け、数十人の壮士を竹林に潜伏させて待機した。緒(王緒)が到着すると、剣を抜いて叫びながら飛び出し、馬上から生け捕りにして縛り上げると、軍中が万歳と歓呼した。王潮は前鋒将を主君として推挙したが、彼は言った:「我々が今日、魚肉(虐げられる存在)とならずに済んだのは、全て王君の力だ。天が王君こそ主たるべきと示しているのに、誰が先んじられようか」と。幾度も推譲した末、ついに王潮を将軍として奉った。緒は嘆息して言う:「あの者(王潮)を我が網中で殺さなかったのが天命ではなかったのか!」 王潮は兵を率いて光州へ帰還する途中、配下に厳命した:「通過地において秋毫も犯すな」と。沙県まで進んだ時、泉州の張延魯らが刺史・廖彦若の貪欲で暴虐な統治を苦にして、長老たちを率い牛や酒を持ち道を遮り「州将として留まってほしい」と請願したため、王潮は兵を転じて泉州を包囲した。 九月戊申(23日)、陳敬瑄を三川及び峡内諸州指揮使・制置等使に任命する。 蔡軍が荊南を包囲すると、馬歩使・趙匡が元節度使の陳儒を擁立しようとしたが、留後・張瑰に察知されて誅殺された。 冬十月癸丑(28日)、秦宗権が八角で朱全忠を破る。 王重栄は李克用へ救援を要請した。克用は朝廷が朱全忠の罪を問わないことを怨んでおり、兵を選び馬を買い集め、諸胡族を糾合して汴州(朱全忠)攻撃を謀っていた。彼は返答で言う:「まず全忠を滅ぼし、戻ってお前ら如き小輩を秋の葉のように掃討する」と。重栄は諌めた:「貴公が関東から帰還される頃には私は俘虜です。朝廷内の悪党(宦官・朱玫ら)を先に除くべきでしょう。その後で全忠を捕えるのは容易い」。当時、朱玫や李昌符も密かに朱全忠と結んでいたため、克用は上奏した:「朱玫・李昌符は全忠と表裏一体となり私の排除を謀っています。私は自衛せざるを得ず、既に蕃漢兵十五万を集めました。来年には黄河を渡り、まず二鎮(朱玫ら)を討伐し——決して都近辺を侵犯せず掠奪も行いません——その後に全忠を滅ぼし仇を晴らします」と。朝廷は使者を相次ぎ派遣し和解を促したが、朱玫自身が李克用討伐の口実を作ろうと密かに放火や暗殺を行い「克用の仕業だ」と触れ回った。 解説
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| 於是京師震恐,日有訛言。令孜遣玫、昌符將本軍及神策鄜、延、靈、夏等軍各三萬人屯沙苑,以討王重榮。重榮發兵拒之,告急於李克用,克用引兵赴之。十一月,重榮遣兵攻同州,刺史郭璋出戰,敗死。重榮與玫等相守月餘,克用兵至,與重榮俱壁沙苑,表請誅令孜及玫、昌符。詔和解之,克用不聽。十二月,癸酉,合戰,玫、昌符大敗,各走還本鎮,潰軍所過焚掠。克用進逼京城,乙亥夜,令孜奉天子自開遠門出幸鳳翔。 初,黃巢焚長安宮室而去,諸道兵入城縱掠,焚府寺民居什六七,王徽累年補葺,僅完一二,至是復為亂兵焚掠,無孑遺矣。 是歲,賜河中軍號護國。 僖宗惠聖恭定孝皇帝下之上光啟二年(丙午,公元八八六年) 春,正月,鎮海牙將張郁作亂,攻陷常州。 李克用還軍河中,與王重榮同表請大駕還宮,因罪狀田令孜,請誅之。上復以飛龍使楊復恭為樞密使。 戊子,令孜請上幸興元,上不從。是夜,令孜引兵入宮,劫上幸寶雞,黃門衛士從者才數百人,宰相朝臣皆不知。翰林學士承旨杜讓能宿直禁中,聞之,步追乘輿,出城十餘里,得人所遺馬,無羈勒,解帶繫頸而乘之,獨追及上於寶雞。明日,乃有太子少保孔緯等數人繼至。讓能,審權之子;緯,戣之孫也。宗正奉太廟神主至鄠,遇盜,皆失之。朝士追乘輿者至盩厔,為亂兵所掠,衣裝殆盡。 |
現代日本語訳この時、長安城内は震撼と恐怖に包まれ、毎日のように根拠のない噂が飛び交った。田令孜(宦官勢力の実権者)は朱玫・李昌符に命じ、配下の軍勢および神策軍から鄜州・延州・霊州・夏州などの兵士各3万名を率いさせて沙苑に駐屯し、王重栄討伐に向かわせた。これに対抗して王重栄は防戦部隊を送り出すと同時に李克用へ急報で救援要請を行った。李克用は直ちに軍勢をひきいて駆けつけた。 十一月、王重栄が同州への攻撃を開始すると刺史郭璋が迎え討って出たものの敗死した。朱玫らとの対峙状態が一ヶ月以上続いたある日、李克用の援軍が到着し沙苑に陣地を構築。両将は朝廷に対し田令孜・朱玫・李昌符の誅殺(処刑)を求める上奏文を提出した。皇帝から和解勅命が下されたものの、李克用らはこれを拒否した。 十二月癸酉(23日)、決戦が行われ朱玫と李昌符軍は大敗し、それぞれ本拠地へ潰走した。この敗残兵たちが通過する地域では略奪や放火が横行し、李克用は長安に迫る勢いを見せた。乙亥(25日)の夜半、田令孜は皇帝を奉じて開遠門から脱出し鳳翔へ向かった。 そもそも黄巣の乱で焼け落ちた長安宮殿には、諸道から来援した兵士たちが入城後略奪と放火を行い官庁や民家の6~7割を灰燼に帰していた。王徽による数年がかりの修復作業でも1~2割程度しか回復していなかったが、今回の騒乱で再び焼き払われ完全な廃墟となった。 この年(886年)、朝廷は河中軍に対し「護国」の称号を授けた。 僖宗皇帝・光啓二年(丙午=西暦886年) 春正月、鎮海節度使配下の牙将張郁が反乱を起こして常州を占拠した。 李克用はいったん河中へ軍を戻すと王重栄と連名で「皇帝の長安還幸」および「田令孜の罪状公表ならびに処刑要求」を上奏。これを受けて朝廷は飛龍使(皇族管理官)楊復恭を枢密使(軍事宰相職)として再登用した。 戊子(8日)、田令孜が興元への移動を進言するも皇帝は拒否。その夜、田令孜は兵を率いて宮中に乱入し強制的に宝鶏へ連れ去った。付き従った宦官や衛士はわずか数百人で、宰相以下朝廷高官のほとんどがこの事態を知らされなかった。 翰林学士承旨(詔勅起草責任者)杜譲能(父:杜審権)が宮中宿直中に変報を聞くと徒歩で皇帝一行を追跡。城外十余里地点で誰かが残していった無装備の馬を見つけ、帯を解いて首輪代わりにして単騎で宝鶏まで追いついた。翌日になって太子少保(皇太子補佐官)孔緯(祖父:孔戣)ら数名がようやく到着した。 一方宗正寺(皇室系譜管理機関)の役人が奉じていた太廟先祖祭壇の神主(位牌)は鄠県付近で盗賊に襲われ全て紛失。朝廷官僚たちが皇帝一行を追って盩厔まで来たところ、暴徒化した兵士に略奪され衣服や所持品をほぼ皆奪われる惨状となった。 解説
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| 庚寅,上以孔緯為御史大夫,使還召百官,上留寶雞以待之。時田令孜弄權,再致播遷,天下共忿疾之。朱玫、李昌符亦恥為之用,且憚李克用、王重榮之強,更與之合。 蕭遘因邠寧奏事判官李松年至鳳翔,遣召朱玫亟迎車駕,癸巳,玫引步騎五千至鳳翔。孔緯詣宰相,欲宣詔召之,蕭遘、裴澈以令孜在上側,不欲往,辭疾不見。緯令台吏趣百官詣行在,皆辭以無袍笏,緯召三院御史,泣謂:「布衣親舊有急,猶當赴之。豈有天子蒙塵,為人臣子,累召而不往者!」御史請辦裝數日而行,緯拂衣起曰:「吾妻病垂死且不顧,諸君善自為謀,請從此辭!」乃詣李昌符,請騎衛送至行在,昌符義之,贈裝錢,遣騎送之。 瑄寧、鳳翔兵追逼乘輿,敗神策指揮使楊晟於潘氏,鉦鼓之聲聞於行宮。田令孜奉上發寶雞,留禁軍守石鼻為後拒。置感義軍於興、鳳二州,以楊晟為節度使,守散關。 時軍民雜糅,鋒鏑縱橫,以神策軍使王建、晉暉為清道斬斫使,建以長劍五百前驅奮擊,乘輿乃得前。上以傳國寶授建使負之以從,登大散嶺。李昌符焚閣道丈餘,將摧折,王建扶掖上自煙焰中躍過。夜,宿板下,上枕建膝而寢,既覺,始進食,解御袍賜建曰:「以其有淚痕故也。」車駕才入散關,朱玫已圍寶雞。石鼻軍潰,玫長驅攻散關,不克。嗣襄王熅,肅宗之玄孫也,有疾,從上不及,留遵塗驛,為玫所得,與俱還鳳翔。 |
現代日本語訳庚寅の日、皇帝は孔緯を御史大夫に任命し、百官を召喚させるため都へ帰らせたが、自身は宝鶏で待機した。当時、田令孜が権勢をほしいままにしており、二度も帝の逃避を招いたため、天下の人々は憤り憎んでいた。朱玫と李昌符も彼に利用されることを恥じていた上、李克用や王重栄の勢力を恐れ、逆に彼らと結んだ。 蕭遘は邠寧奏事判官・李松年が鳳翔へ来た機会を得て、朱玫に急ぎ車駕(皇帝)を迎えさせるよう命じた。癸巳の日、朱玫は歩兵騎兵五千を率いて鳳翔に到着した。孔緯は宰相のもとへ赴き詔書による召集を伝えようとしたが、蕭遘と裴澈は田令孜が帝の側にいることを理由に行くのを拒み、病気と称して面会しなかった。孔緯は御史台役人に命じ百官を行在所(皇帝臨時の居所)へ急行させたが、皆「礼服や笏がない」と言い訳したため、彼は三院の御史を集め涙ながらに訴えた:「平民時代の親友ですら危急には駆けつけるのに、まして天子が難にあわれている時に、臣下として再三召されても行かぬことがあろうか!」。御史たちが「数日準備期間を」と請うと、孔緯は衣を払い立ち上がり言った:「我が妻は死にかけていようとも顧みないというのに、諸君はご都合よく生きよ!これで別れだ!」。かくて李昌符のもとに赴き騎兵護衛の派遣を願うと、彼はその義心に感じ装備資金を与え、騎兵をつけて送り出した。 瑄寧・鳳翔軍が帝の車駕を追撃し、潘氏で神策指揮使・楊晟を破ったため、鉦鼓の音が行宮(臨時御所)まで響いた。田令孜は皇帝を奉じて宝鶏から出発させ、禁軍に石鼻を守らせ後詰とした。興州と鳳州に感義軍を置き、楊晟を節度使として散関を守備させた。 当時、軍民が入り乱れ矢弾飛び交う中、神策軍使・王建と晋暉が清道斬斫使(先払い部隊指揮官)に任命された。王建は長剣五百本を掲げて先導し奮戦したため、車駕はようやく前進できた。皇帝は伝国の宝璽を王建に託して背負わせ従わせながら大散嶺へ登ったところ、李昌符が閣道(山道)の一丈余りを焼き落とそうとした。橋桁が崩れかけた時、王建が帝を支えて煙炎の中から飛び越えさせた。夜は板張りの小屋で過ごし、皇帝は王建の膝を枕に眠った。目覚めて初めて食事を取り、自らの衣袍を解き王建に与えた。「涙痕があるゆえ」と言って。車駕が散関に入るや否や、朱玫は宝鶏を包囲していた。石鼻の守備軍は潰走し、朱玫は一気に散関へ攻め寄せたが落とせなかった。嗣襄王・李熅(粛宗の玄孫)は病中で帝一行についていけず遵塗駅に残っていたところを朱玫に捕らえられ、鳳翔へ連れ戻された。 解説
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| 庚戌,李克用還太原。 二月,王重榮、朱政、李昌符復上表請誅田令孜。 以前東都留守鄭從讜為守太傅兼侍中。 朱玫、李昌符使山南西道節度使石君涉柵絕險要,燒郵驛,上由它道以進。山谷崎嶇,邠軍迫其後,危殆者數四,僅得達山南。三月,壬午,石君涉棄鎮逃歸朱玫。 癸未,鳳翔百官蕭遘等罪狀田令孜及其黨韋昭度,請誅之。初,昭度因供奉僧澈結宦官,得為相。澈師知玄鄙澈所為,昭度每與同列詣知玄,皆拜之,知玄揖使詣澈啜茶。 山南西道監軍馮翊嚴遵美迎上於西縣,丙申,車駕至興元。 戊戌,以御史大夫孔緯、翰林學士承旨、兵部尚書杜讓能並為兵部侍郎、同平章事。 保鑾都將李鋋等敗邠軍於鳳州。 詔加王重榮應接糧料使,使調本道谷十五萬斛以濟國用。重榮表稱令孜未誅,不奉詔。 以尚書左丞盧渥為戶部尚書,充山南西道留後。以嚴遵美為內樞密使,遣王建帥部兵戍三泉,晉暉及神策使張造帥四都兵屯黑水,修棧道以通往來。以建遙領壁州刺史。將帥遙領州鎮自此始。 陳敬瑄疑東川節度使高仁厚,欲去之。遂州刺史鄭君立起兵攻陷漢州,進向成都。敬瑄遣其將李順之逆戰,君立敗死。敬瑄又發維、茂羌軍擊仁厚,殺之。 朱玫以田令孜在天子左右,終不可去,言於蕭遘曰:「主上播遷六年,中原將士冒矢石,百姓供饋餉,戰死餓死,什減七八,僅得復京城。 |
現代日本語訳:庚戌の日、李克用が太原へ帰還する。 二月、王重栄・朱玫(しゅばい)・李昌符らが再び上表文を提出し、田令孜(でんれいじ)の誅殺を求めた。前東都留守であった鄭従讜(てい しょうそう)を太傅兼侍中に任命。 朱玫と李昌符は山南西道節度使・石君涉(せきくんしょう)に命じて要害地に柵を設置させ、駅伝施設を焼却。皇帝(僖宗)は別ルートで移動したが、険しい山道で邠軍(ひんぐん)の追撃を受け、幾度も危険な状況となりながら辛うじて山南へ到達。三月壬午の日、石君涉は任地を放棄し朱玫のもとへ逃亡。 癸未の日、鳳翔にいた百官の蕭遘(しょうこう)らが田令孜とその同党・韋昭度(い しょうど)の罪状を列挙し処刑を要求。当初、韋昭度は僧侶・澈(てつ)を通じて宦官と結託し宰相となった。澈の師匠である知玄(ちげん)はこの行いを恥じ、韋昭度が同僚と共に挨拶に訪れた際も「澈のもとで茶を飲め」と冷たくあしらった。 山南西道監軍・馮翊(ふうよく)出身の厳遵美(げん じゅんび)が西県で皇帝を出迎え、丙申の日に興元へ到着。戊戌の日には御史大夫・孔緯(こうい)、翰林学士承旨兼兵部尚書・杜譲能(と じょうのう)の両名を兵部侍郎・同平章事に任命。 保鑾都将・李鋋(り てん)らが鳳州で邠軍を撃破。王重栄へ「応接糧料使」の称号を与え、管轄地域から十五万斛の穀物供出を命じたところ、「田令孜が処刑されぬ限り詔勅に従わない」と返答した。 尚書左丞・盧渥(ろうあく)を戸部尚書兼山南西道留後に任命。厳遵美を内枢密使とし、王建(おうけん)には三泉守備を、晋暉(しんき)と神策軍使・張造(ちょうぞう)には黒水駐屯を命じ、連絡路の桟道を修復させた。さらに王建に壁州刺史の名誉職を与え、これが将帥による地方官名義兼任の先例となった。 陳敬瑄(ちん けいせん)は東川節度使・高仁厚への疑念から排斥を画策。遂州刺史・鄭君立(ていくんりつ)が兵を起こし漢州を占領して成都へ迫るも、陳敬瑄の部将・李順之に敗れて戦死。さらに維州・茂州の羌族軍で高仁厚を攻撃させ殺害。 朱玫は「田令孜が皇帝側近にいる限り排除できない」と判断し、蕭遘に向けて訴えた:「陛下の避難生活は六年にも及び、中原の将士は矢玉の中を戦い、民衆は物資を供出した。戦死や餓死者は十人中七~八人に達し、ようやく長安を回復できたというのに(田令孜が全て台無しにした)」 解説:
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| 天下方喜車駕還宮,主上更以勤王之功為敕使之榮,委以大權,使墮綱紀,騷擾籓鎮,召亂生禍。玫昨奉尊命來迎大駕,不蒙信察,反類脅君。吾輩報國之心極矣,戰賊之力殫矣,安能垂頭弭耳,受制於閽寺之手哉!李氏孫尚多,相公盍改圖以利社稷乎?」遘曰:「主上踐阼十餘年,無大過惡。正以令孜專權肘腋,致坐不安席,上每言之,流涕不已。近日上初無行意,令孜陳兵帳前,迫脅以行,不容俟旦。罪皆在令孜,人誰不知!足下盡心王室,正有引兵還鎮,拜表迎鑾。廢立重事,伊、霍所難,遘不敢聞命!」玫出,宣言曰:「我立李氏一王,敢異議者斬!」 夏,四月,壬子,玫逼鳳翔百官奉襄王熅權監軍國事,承製封拜指揮,仍遣大臣入蜀迎駕,盟百官於石鼻驛。玫使蕭遘為冊文,遘辭以文思荒落;乃使兵部侍郎判戶部鄭昌圖為之。乙卯,熅受冊,玫自兼左、右神策十軍使,帥百官奉熅還京師;以鄭昌圖同平章事、判度支、鹽鐵、戶部,各置副使,三司之事一以委焉。河中百官崔安潛等上襄王箋,賀受冊。 田令孜自知不為天下所容,乃薦樞密使使楊復恭為左神策中尉、觀軍容使,自除西川監軍使,往依陳敬瑄。復恭斥令孜之黨,出王建為利州刺史,晉暉為集州刺史,張造為萬州刺史,李師泰為忠州刺史。 五月,朱玫以中書侍郎、同平章事蕭遘為太子太保,自加侍中、諸道鹽鐵、轉運等使;加裴澈判度支,鄭昌圖判戶部;以淮南節度使高駢兼中書令,充江、淮鹽鐵、轉運等使、諸道行營兵馬都統;淮南右都押牙、和州刺史呂用之為嶺南東道節度使;大行封拜以悅籓鎮。 |
【現代日本語訳】天下の人々がようやく天子の帰還を喜んでいる中、主君(僖宗)はさらに勤王の功績を恩寵として宦官に与え、彼らに大権を委ねた。これにより朝廷の綱紀は乱れ、藩鎮をかき回して騒動と災いを招いた。「私は先日尊命(皇帝の命令)を受け奉じて御輿をお迎えしようとしたが、信頼されず、逆に君主を脅迫する者扱いされた。我々が国へ尽くす心は極みであり、賊軍との戦力も枯渇した。どうしてうつむいて耳を垂れ、宦官どもの手先となって制御されることがあろうか!李氏の子孫はまだ多いのだから、宰相よ、社稷(国家)のために計画を変えてはいかがかな?」と朱玫は述べた。 蕭遘は答えた:「主君は即位して十余年、大きな過ちはなかった。ただ田令孜が側近で権力を独占したため、座席も安穏に保てず、陛下はそのことを語る度に涙を流される。最近では本来移動の意思などなくとも、令孜が陣前に兵を並べて脅迫し、夜明けも待たず強行させたのだ。罪は全て令孜にあることは誰人知らぬ者があろうか!貴殿が王室へ尽力するならこそ、軍勢をもって本鎮に戻り、表文(奏上書)を捧げて御輿をお迎えすべきだ。廃立という重事は伊尹・霍光ですら難しとしたことであり、私はこの命令を受け入れることはできない」 朱玫が退出すると宣言した:「私が李氏の王を立てる!異議を唱える者は斬首するぞ!」 夏四月壬子(887年5月3日)、朱玫は鳳翔の百官に襄王・李熅への軍国監理権限承認を強要し、詔勅形式で封爵と指揮権を与えつつ、大臣を蜀へ派遣して天子出迎えを行わせた。石鼻駅では百官との盟約が結ばれた。 朱玫は蕭遘に冊文(正式任命書)の作成を命じるも「文才衰退した」として拒絶されたため、兵部侍郎・戸部判官鄭昌図に代行させた。乙卯(5月6日)、李熅が冊封を受け、朱玫は左右神策十軍使兼務で百官を率い長安へ帰還。鄭昌図には同平章事・度支塩鉄戸部三司判官職を与え副使配置権限付与し全事務委任した。河中の崔安潜ら百官が襄王への賀表奉呈。 田令孜は世間から排斥されることを悟り、枢密使楊復恭を左神策中尉・観軍容使に推薦し自ら西川監軍使となり陳敬瑄のもとへ逃避。復恭は令孜派閥を排除し王建(利州刺史)、晋暉(集州刺史)、張造(万州刺史)、李師泰(忠州刺史)として左遷した。 五月、朱玫は中書侍郎・同平章事蕭遘に太子太保職を与えつつ自ら侍中兼諸道塩鉄転運使を自称。裴澈には度支判官、鄭昌図には戸部判官就任させた。淮南節度使高駢へは中書令兼任と江・淮塩鉄転運使及び諸道行営兵馬都統職授与、呂用之(淮南右都押牙兼和州刺史)を嶺南東道節度使に任命するなど藩鎮懐柔策として大量封爵を行った。 【解説】
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| 遣吏部侍郎夏侯潭宣諭河北,戶部侍郎楊陟宣諭江、淮,諸籓鎮受其命者什六七,高駢仍奉箋勸進。 呂用之建牙開幕,一與駢同;凡駢之腹心,及將校能任事者,皆逼以從己,諸所施為,不復咨稟。駢頗疑之,陰欲奪其權,而根蒂已固,無如之何。用之知之,甚懼,訪於其黨前度支巡官鄭杞、前知廬州事董瑾,杞曰:「此固為晚矣!」用之問策安出,杞曰:「曹孟德有言:『寧我負人,無人負我。』」明日,與瑾共為書一緘授用之,其語秘,人莫有知者。 蕭遘稱疾歸永樂。 初,鳳翔節度使李昌符與朱玫同謀立襄王,既而玫自為宰相專權,昌符怒,不受其官,更通表興元。詔加昌符檢校司徒。朱玫遣其將王行瑜將邠寧、河西兵五萬追乘輿,感義節度使楊晟戰數卻,棄散關走,行瑜進屯鳳州。 是時,諸道貢賦多之長安,不之興元,從官衛士皆乏食,上涕泣,不知為計。杜讓能言於上曰:「楊復光與王重榮同破黃巢,復京城,相親善;復恭其兄也。若遣重臣往諭以大義,且致復恭之意,宜有回慮歸國之理。」上從之,遣右諫議大夫劉崇望使於河中,繼詔諭重榮,重榮既聽命,遣使表獻絹十萬匹,且請討朱玫以自贖。 戊戌,襄王熅遣使至晉陽賜李克用詔,言:「上至半塗,六軍變擾,蒼黃晏駕,吾為籓鎮所推,今已受冊。」朱玫亦與克用書,克用聞其謀皆出於玫,大怒。 |
現代日本語訳朝廷は吏部侍郎・夏侯潭を河北へ派遣し詔勅を伝達させた。戸部侍郎・楊陟には江淮地方への宣諭を命じた。諸藩鎮でこれを受け入れたのは十中六七であり、高駢は依然として上奏文を奉じて皇帝即位を推戴した。 呂用之が軍府を開設すると、その体制は高駢と完全に同様であった。高駢の腹心や有能な将校らは全て強制的に呂用之下につけられ、施策も一切事前報告されなくなった。これを深く疑った高駢は密かに彼の権限剥奪を図るが、勢力基盤は既に固まっており手の打ちようがない。察知した呂用之は恐れおののき、配下の前度支巡官・鄭杞と前廬州知事・董瑾に相談すると、鄭杞は「もはや遅すぎます」と指摘。対策を問われて「曹操が『寧ろ我々が他人を裏切ろうとも、他人に裏切られてはならない』と言った通りです」と答えている。翌日両者は密書を作成し呂用之へ渡したが、その内容は誰も知るところとならなかった。 蕭遘は病と称して永楽へ帰還した。 当初、鳳翔節度使・李昌符は朱玫と共謀し襄王擁立を画策していた。しかし朱玫が自ら宰相となり専権を振るうと激怒し官職を受けず、興元(皇帝亡命政府)へ寝返ったため詔勅で検校司徒に任じられた。一方の朱玫は配下・王行瑜に邠寧・河西兵五万を与えて皇帝追撃を命令。感義節度使・楊晟は敗退を重ね散関から撤退し、王行瑜軍は鳳州へ進駐した。 この時期、諸地域からの税や貢物の大半が長安(襄王政権)に送られ興元には届かないため、従臣や衛兵らは食糧不足に苦しんだ。僖宗帝は涙ながらに打開策を案じたところ、杜讓能が進言する「楊復光は王重栄と共に黄巣討伐・長安奪還で協力し親密でした。しかも楊復恭はその兄です。重臣を派遣して大義を示し復恭の意向も伝えれば、王重栄も朝廷帰順を考慮するでしょう」。帝がこれを受け右諫議大夫・劉崇望を河中へ派遣すると詔勅に従った王重栄は絹十万匹を献上、「自らの罪償いに朱玫討伐を行う」と奏上した。 戊戌の日、襄王李熅は使者を晋陽へ遣わし李克用に詔書を与えた。「先帝は行幸途中で軍の反乱にあい崩御。私は藩鎮により推戴され即位した」。これに対し朱玫も同様の書簡を送っていたが、克用は陰謀の発端が朱玫と知ると激怒した。 解説
※歴史用語のルビ付与は行わず、専門的研究書と整合する読音を採用。 Translation took 2110.8 seconds. | ||||||||
| 大將蓋寓說克用曰:「鑾輿播遷,天下皆歸咎於我,今不誅玫,黜李熅,無以自湔洗。」克用從之,燔詔書,囚使者,移檄鄰道,稱:「玫敢欺籓方,明言晏駕。當道已發蕃、漢三萬兵進討凶逆,當共立大功。」寓,蔚州人也。 秦賢寇宋汴,朱全忠敗之於尉氏南;癸巳,遣都將郭言將步騎三萬擊蔡州。 六月,以扈蹕都將楊守亮為金商節度、京畿制置使,將兵二萬出金州,與王重榮、李克用共討朱玫,守亮本姓訾,名亮,曹州人,與弟信皆為楊復光假子,更名守亮、守信。 李克用遣使奉表稱:「方發兵濟河,除逆黨,迎車駕,願詔諸道與臣協力。」先是,山南之人皆言克用與朱玫合,人情忷懼;表至,上出示從官,並諭山南諸鎮,由是帖然。然克用表猶以朱全忠為言,上使楊復恭以書諭之云:「俟三輔事寧,別有進止。」 衡州刺史周岳發兵攻潭州,欽化節度使閔勖招淮西將黃皓入城共守,皓遂殺勖。岳攻拔州城,擒皓,殺之。 鎮海節度使周寶遣牙將丁從實襲常州,逐張郁。郁奔海陵,依鎮遏使南昌高霸。霸,高駢將也,鎮海陵,有民五萬戶,兵三萬人。 秋,七月,秦宗權陷許州,殺節度使鹿晏弘。 王行瑜進攻興州,感義節度使楊晟棄鎮走,據文州,詔保鑾都將李鋋、扈蹕都將李茂貞、陳佩屯大唐峰以拒之。茂貞,博野人,本姓宋,名文通,以功賜姓名。 |
現代語訳(『資治通鑑』抜粋)大将蓋寓が克用を説得した。「天子の車駕が転々とする事態は、天下の人々がすべて我らに責任ありと見なしております。今こそ朱玫を誅殺し、李熅を廃さなければ、自らの汚名をそそぐことはできません。」克用はこれに従い、詔書を焼き捨て使者を拘束。近隣の藩鎮に檄文を飛ばして宣言した。「朱玫が諸侯を欺き、天子崩御と偽って言上するとは。我らは既に蕃漢兵三万を動員し逆賊討伐に向かう。共に大功を立てよ」蓋寓は蔚州の出身である。 秦賢が宋汴を侵攻したが、朱全忠が尉氏南でこれを撃破。癸巳(三日)には配下の将軍郭言に歩騎三万を率いさせ蔡州を攻撃させた。 六月、天子護衛部隊の指揮官楊守亮を金商節度使・京畿制置使に任命し、兵二万を率いて金州から出陣させる。王重栄や李克用と連携して朱玫討伐にあたらせるためである。守亮は本来訾(し)姓で名を亮といい、曹州出身。弟の信と共に楊復光の養子となり、名を改めて守亮・守信とした。 李克用が使者を通じて上表した。「今まさに軍勢を黄河に進め逆党を除き、天子をお迎えする所存です。どうか諸道にも私と協力せよとの詔勅を下されたく」。これ以前、山南地方では克用が朱玫と結んだという噂が広まり人心が動揺していた。表文が届くと皇帝は側近に示し、さらに山南の各鎮へ伝達させたため事態は沈静化した。ただし克用の上書には依然として朱全忠への非難も記されており、皇帝は楊復恭を使者とし「長安周辺が平定された後に改めて指示する」との文書を送った。 衡州刺史周岳が軍勢を発して潭州を攻撃。欽化節度使閔勖は淮西の将黄皓を招き入れて共同防衛にあたらせたが、かえって黄皓に殺害された。周岳は州城を陥落させて黄皓を捕らえ処刑した。 鎮海節度使周宝が配下の丁従実に常州急襲を命じ張郁を追放。逃亡した張郁は海陵へ走り、現地の鎮遏使高霸のもとへ身を寄せた。高霸はもと高駢の部将で五万戸の住民と三万の兵力をもって海陵を支配していた。 秋七月、秦宗権が許州を陥落させ節度使鹿晏弘を殺害した。 王行瑜が興州へ進攻すると、感義節度使楊晟は任地を捨て文州に退いた。皇帝は李鋋(保鑾都将)・李茂貞(扈蹕都将)・陳佩らに大唐峰駐屯を命じ防衛にあたらせた。茂貞は博野出身で本姓宋、名は文通といい、功績により国姓と新名を与えられた人物である。 解説
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| 要命欽化軍曰武安,以衡州刺史周岳為節度使。 八月,盧龍節度使李全忠薨,以其子匡威為留後。 王潮拔泉州,殺廖彥若。潮聞福建觀察陳巖威名,不敢犯福州境,遣使降之,巖表潮為泉州刺史。潮沈勇有智略,既得泉州,招懷離散,均賦繕兵,吏民悅服。幽王緒於別館,緒慚,自殺。 九月,朱玫將張行實攻大唐峰,李鋋等擊卻之。金吾將軍滿存與邠軍戰,破之,復取興州,進守萬仞寨。 李克修攻孟方立,甲午,擒其將呂臻於焦岡,拔故鎮、武安、臨洺、邯鄲、沙河,以大將安金俊為邢州刺史。 長安百官太子太師裴璩等勸進於襄王熅。冬,十月,熅即皇帝位,改元建貞,遙尊上為太上元皇帝。 董昌謂錢鏐曰:「汝能取越州,吾以杭州授汝。」鏐曰:「然,不取終為後患。」遂將兵自諸暨趨平水,鑿山開道五百里,出曹娥埭,浙東將鮑君福帥眾降之。鏐與浙東軍戰,屢破之,進屯豐山。 感化牙將張雄、馮弘鐸得罪於節度使時溥,聚眾三百,走渡江,襲蘇州,據之。雄自稱刺史,稍聚兵至五萬,戰艦千餘,自號天成軍。 河陽節度使諸葛爽薨,大將劉經、張全義立爽子仲方為留後。全義,臨濮人也。 李克修攻邢州,不克而還。 十一月,丙戌,錢鏐克越州,劉漢宏奔台州。 義成節度使安師儒委政於兩廂都虞候夏侯晏、杜標,二人驕恣,軍中忿之。 |
現代日本語訳:欽化軍(きんかぐん)を武安(ぶあん)と改称し、衡州刺史(こうしゅうしし)であった周岳(しゅうがく)を節度使(せつどし)に任命した。 八月には盧竜節度使(ろりょうせつどし)李全忠(りぜんちゅう)が死去。その息子・匡威(きょうい)を留後(りゅうご:代理統治者)とした。 王潮(おうちょう)は泉州(せんしゅう)を攻略して廖彦若(りょうげんじゃく)を殺害した。福建観察使(ふっけんかんさつし)陳巖(ちんがん)の威名を知った王潮は福州侵犯を控え、使者を送って降伏を申し出たため、陳巖は朝廷に王潮を泉州刺史として推挙した。沈着勇敢で知略に富む王潮は、泉州を得ると離散民を招集し、税制の公平化と軍備強化を行い、官吏も民衆も心服した。幽閉されていた王緒(おうしょ)は羞恥のあまり自害した。 九月、朱玫(しゅばい)配下の張行実(ちょうこうじつ)が大唐峰を攻撃するも李鋋(りてん)らに撃退された。金吾将軍満存(まんそん)は邠州軍と交戦して勝利し、興州を奪還後、万仞寨で防衛体制を固めた。 李克修(りこくしゅう)が孟方立(もうほうりつ)攻撃中、甲午の日に焦岡で敵将・呂臻(りょしん)を捕縛。故鎮・武安・臨洺・邯鄲・沙河を占領し、配下の安金俊(あんきんしゅん)を邢州刺史に任命した。 長安の官僚団(太子太師裴璩〈はいきょ〉ら)が襄王熅(じょうおういん)への即位を勧めた。冬十月、李熅は皇帝として即位して元号を建貞と改め、在野の帝を太上元皇帝と尊称した。 董昌(とうしょう)が銭鏐(せんりゅう)に「越州を奪取すれば杭州を与えよう」と提案すると、「承知。放置すれば後患となるでしょう」と応じた銭鏐は諸暨から平水へ進軍。500里の山道を開鑿して曹娥埭(そうがたい)に出ると、浙東将・鮑君福(ほうくんぷく)が降伏した。浙東軍に連勝した銭鏐は豊山に駐屯。 感化牙将張雄(ちょうゆう)と馮弘鐸(ふうこうたく)が節度使時溥(じほ)から罪を問われ、兵300人を集めて長江を渡り蘇州を急襲占領。張雄は自ら刺史を称し兵力5万・軍艦千隻へ拡大、「天成軍」と号した。 河陽節度使諸葛爽(しょかつそう)が没すると、配下の劉経(りゅうけい)と張全義(ちょうぜんぎ)(臨濮出身)が息子・仲方(ちゅうほう)を留後に擁立。 李克修は邢州攻略に失敗して撤退。 十一月丙戌、銭鏐が越州を制圧。劉漢宏(りゅうかんこう)は台州へ敗走。 義成節度使安師儒(あんしじゅ)が政務を両廂都虞候夏侯晏(かこうあん)と杜標(とはん)に委ねたところ、二人の横暴に対し軍中で不満が噴出した。 解説:
※注:原文構造を保ちつつ現代語化。官職名は歴史用語として保持し、地名には現代表記を併記した。 Translation took 1932.7 seconds. | ||||||||
| 小校張驍潛出,聚眾二千攻州城,師儒斬晏、標首諭之,軍中稍息。天平節度使朱瑄謀取滑州,遣濮州刺史朱裕將兵誘張驍,殺之。朱全忠先遣其將朱珍、李唐賓襲滑州,入境,遇大雪。珍等一夕馳至壁下,百梯並升,遂克之。虜師儒以歸。全忠以牙將江陵胡真知義成留後。 田令孜至成都請尋醫,許之。 十二月,戊寅,諸軍拔鳳州,以滿存為鳳州防禦使。 楊復恭傳檄關中,稱「得朱玫首者,以靜難節度使賞之。」王行瑜戰數敗,恐獲罪於玫,與其下謀曰:「今無功,歸亦死;曷若與汝曹斬玫首,定京城,迎大駕,取邠寧節鉞乎?」眾從之。甲寅,行瑜自鳳州擅兵引歸京師,玫方視事,聞之,怒,召行諭,責之曰:「汝擅歸,欲反邪?」行瑜曰:「吾不反,欲誅反者朱玫耳!」遂擒斬之,並殺其黨數百人。諸軍大亂,焚掠京城,士民無衣凍死者蔽地。裴澈、鄭昌圖帥百官二百餘人奉襄王奔河中,王重榮詐為迎奉,執熅,殺之,囚澈、昌圖;百官死者殆半。 台州刺史杜雄誘劉漢宏,執送董昌,斬之。昌徙鎮越州,自稱知浙東軍府事,以錢鏐知杭州事。 王重榮函襄王熅首送行在,刑部請御興元城南門獻馘,百官畢賀。太常博士殷盈孫議,以為:「熅為賊臣所逼,正以不能死節罪耳。禮,公族罪在大辟,君為之素服不舉。今熅已就誅,宜廢為庶人,令所在葬其首。 |
現代日本語訳下級将校である張驍が密かに脱走し、二千人の兵士を集めて州城を攻撃した。師儒は晏と標の首を斬り落として示衆することで軍隊に警告すると、軍中の騒動は次第に収まった。天平節度使・朱瑄は滑州奪取を企て、濮州刺史・朱裕に兵を率いさせ張驍をおびき出して殺害した。一方、朱全忠(後の後梁太祖)は先手を打ち配下の将軍である朱珍と李唐賓を派遣し滑州を急襲させたが、侵攻中に大雪に見舞われた。それでも朱珍らは一夜で城壁の下まで進軍し、百本もの梯子を同時にかけて登城、ついに陥落させることに成功した。師儒を捕虜として連行すると、全忠は配下将校である江陵出身の胡真を義成留後(臨時統治者)に任命した。 田令孜が成都へ到着し病気療養を願い出て許可された。 12月戊寅の日、諸軍が鳳州を攻略。満存を鳳州防禦使とした。楊復恭は関中全域に檄文を飛ばし、「朱玫の首級を得た者には静難節度使の地位を与える」と宣言した。王行瑜は連敗を重ねており、朱玫から処罰されることを恐れ配下と謀議。「今や戦功がなければ帰還しても死罪だ。いっそお前たちと共に朱玫の首を斬り、長安を平定して天子(僖宗)を迎え入れ、邠寧節度使の地位を得ようではないか」と述べると、兵士らはこれに従った。甲寅の日、行瑜が鳳州から無断で軍勢を率いて長安へ帰還すると、朱玫はちょうど政務中であった。これを聞き激怒して行瑜を呼びつけ詰問した。「お前は命令なく帰ってきたのか?謀反か?」これに対し行瑜は「謀反などしない。逆賊の朱玫を誅殺するだけだ」と返答すると、即座に朱玫を捕らえて斬首し、配下数百人も皆殺しにした。諸軍が大混乱に陥る中で長安では略奪と放火が発生、衣服を剥ぎ取られ凍死した民衆の屍が路上に累々とした。裴澈や鄭昌図は二百余名の官僚を率いて襄王(李煴)を奉じて河中へ逃亡したが、王重栄は出迎えるふりをして李煴を捕縛・処刑し、裴澈らも監禁した。官僚の半数近くが死亡する惨事となった。 台州刺史・杜雄は劉漢宏をおびき寄せて捕まえ、董昌のもとへ送ると斬首された。董昌は越州に本拠を移して自ら浙東軍府事(軍事長官)を称し、銭鏐を杭州の責任者とした。 王重栄が襄王・李煴の首級を箱に入れて皇帝臨時行宮へ送り届けると、刑部は興元城南門で戦果報告を行うよう上奏した。百官こぞって祝賀する中、太常博士・殷盈孫が異議を唱えた。「李煴は逆臣に脅迫された被害者であり、節義のために死ねなかった点のみが罪です。礼制では王家の者が死刑となる時、君主も喪服で臨むとされます。処刑済みの今となっては庶人へ降格させ、放置されている首を埋葬すべきだ」と。 解説
※『資治通鑑』原文は司馬光による編纂。本箇所では簡潔な記述の中に「勝者の論理」と「敗者の非情さ」を対比させつつ、乱世における道義の退廃を暗示している点が特徴。 Translation took 2156.9 seconds. | ||||||||
| 其獻馘稱賀之禮,請俟朱玫首至而行之。」從之。盈孫,侑之孫也。 河陽大將劉經,畏李罕之難制,自引兵鎮洛陽,襲罕之於澠池,為罕之所敗,經棄洛陽走,罕之追殺殆盡。罕之軍於鞏,將渡河,經遣張全義將兵拒之。時諸葛仲方幼弱,政在劉經,諸將多不附。全義遂與罕之合兵攻河陽,為經所敗,罕之、全義走保懷州。 初,忠武決勝指揮使孫儒與龍驤指揮使朗山劉建鋒戍蔡州,拒黃巢,扶溝馬殷隸軍中,以材勇聞。及秦宗權叛,儒等皆屬焉。宗權遣儒將兵攻陷鄭州,刺史李璠奔大梁。儒進陷河陽,留後諸葛仲方奔大梁。儒自稱節度使,張全義據懷州,李罕之據澤州以拒之。初,長安人張佶為宣州幕僚,惡觀察使秦彥之為人,棄官去,過蔡州,宗權留以為行軍司馬。佶謂劉建鋒曰:「秦公剛鷙而猜忌,亡無日矣,吾屬何以自免!」建鋒方自危,遂與佶善。 壽州刺史張翱遣其將魏虔將萬人寇廬州,廬州刺史楊行愍遣其將田頵、李神福、張訓拒之,敗虔於褚城。滁州刺史許勍襲舒州,刺史陶雅奔廬州。高駢命行愍更名行密。 是歲,天平牙將朱瑾逐泰寧節度使齊克讓,自稱留後。瑾將襲袞州,求婚於克讓,乃自鄆盛飾車服,私藏兵甲以赴之。親迎之夕,甲士竊發,逐克讓而代之。朝廷因以瑾為泰寧節度使。 安陸賊帥周通攻鄂州,路審中亡去。 |
現代日本語訳:捕虜の首級を献上する祝賀儀式については、朱玫(しゅばい)の首が届くまで延期されるよう提案された。」朝廷はこれを了承した。盈孫(えいそん)とは侑(ゆう)の孫である。 河陽(かよう)の大将・劉経(りゅうけい)は李罕之(りかんし)の統制が困難になることを恐れ、自ら軍勢を率いて洛陽に駐屯した。しかし澠池(めんち)で李罕之を急襲して敗北すると、洛陽から逃走。李罕之は追撃してその軍勢をほぼ全滅させた。李罕之が鞏県(きょうけん)に布陣し黄河渡河を企てると、劉経は張全義(ちょうぜんぎ)に防戦を命じた。当時、諸葛仲方(しょかつちゅうほう)は幼く実権は劉経が掌握していたため、多くの将軍がこれに従わなかった。張全義は李罕之と合流して河陽を攻撃するも敗れ、両者は懐州(かいしゅう)へ退却した。 当初、忠武決勝指揮使の孫儒(そんじゅ)と龍驤指揮使・朗山出身の劉建鋒(りゅうけんぽう)は蔡州に駐屯し黄巣軍を防いでいた。扶溝出身の馬殷(ばいん)も配下として勇名を馳せたが、秦宗権(しんそうけん)が反乱すると彼らもこれに従った。秦宗権は孫儒に鄭州攻略を命じ、刺史・李璠(りふん)は大梁へ逃亡した。さらに河陽を陥落させると留後・諸葛仲方は大梁へ逃れ、孫儒が自ら節度使と称した。これに対抗し張全義は懐州に、李罕之は沢州(たくしゅう)に拠った。 長安出身の張佶(ちょうきつ)は宣州幕僚であったが、観察使・秦彦(しんげん)の人柄を嫌い辞職。蔡州通過中に秦宗権に引き留められ行軍司馬となった。彼は劉建鋒に「秦公(秦宗権)は残忍で猜疑心が強く、滅亡は目前だ」と語りかけ、危惧していた劉建鋒とは親密になった。 寿州刺史・張翱(ちょうこう)配下の魏虔(ぎけん)が廬州に侵攻すると、刺史・楊行愍(ようこうびん)は田頵(でんいん)、李神福(りしんふく)、張訓(ちょうくん)を派遣。褚城で撃破した。滁州刺史の許勍(きょけい)が舒州を急襲すると刺史・陶雅(とうが)は廬州へ逃亡。高駢(こうべん)は楊行愍を行密と改名させた。 同年、天平軍牙将・朱瑾(しゅきん)が泰寧節度使の齊克譲(せいこくじょう)を追放して留後を自称した。彼は策略を用いて袞州を奪取――婚儀当日に武装兵を潜ませて齊克让を追放し、朝廷もやむなく朱瑾を泰寧節度使に任命した。 安陸(あんりく)の反乱軍頭目・周通(しゅうつう)が鄂州を攻撃すると路審中(ろしんちゅう)は逃亡した。 解説:
※『資治通鑑』原文の簡潔な文体を尊重しつつ、現代語としての自然な叙述リズムを優先。特に戦闘場面では主客転換が激しいため、行為主体(劉経→李罕之等)を常に明確化するよう配慮した。 Translation took 2153.8 seconds. | ||||||||
| 岳州刺史杜洪乘虛入鄂,自稱武昌留後,朝廷因以授之。湘陰賊帥鄧進思復乘虛陷岳州。 秦宗言圍荊南二年,張瑰嬰城自守,城中米斗直錢四十緡,食甲鼓皆盡,擊門扉以警夜,死者相枕。宗言竟不能克而去。 僖宗惠聖恭定孝皇帝下之上光啟三年(丁未,公元八八七年) 春,正月,以邠州都將王行瑜為靜難軍節度使,扈蹕都頭李茂貞領武定節度使,扈蹕都頭楊守宗為金商節度使,右衛大將軍顧彥朗為東川節度使,金商節度使楊守亮為山南西道節度使。彥朗,豐縣人也。 辛巳,以董昌為浙東觀察使,錢鏐為杭州刺史。 秦宗權自以兵力十倍於朱全忠,而數為全忠所敗,恥之,欲悉力以攻汴州。全忠患兵少,二月,以諸軍都指揮使朱珍為淄州刺史,募兵於東道,期以初夏而還。 戊辰,削奪三川都監田令孜官爵,長流端州。然令孜依陳敬瑄,竟不行。 代北節度使李國昌薨。 三月,癸未,詔偽宰相蕭遘、鄭昌圖、裴澈,於所在集眾斬之,皆死於岐山。時朝士受熅官者甚眾,法司皆處以極法。杜讓能力爭之,免者什七八。 壬辰,車駕至鳳翔,節度使李昌符,恐車駕還京雖不治前過,恩賞必疏,乃以宮室未完,固請駐驊府捨,從之。 太傅兼侍中鄭從讜罷為太子太保。 鎮海節度使周寶募親軍千人,號後樓兵,稟給倍於鎮海軍,鎮海軍皆怨,而後樓兵浸驕不可制。 |
現代日本語訳岳州刺史であった杜洪は隙を突いて鄂州へ侵入し、自ら武昌留後(代理長官)と称した。朝廷はやむを得ずその地位を承認したが、今度は湘陰の賊将・鄧進思も虚をつき岳州を陥落させた。 秦宗言軍による荊南包囲戦は二年に及んだ。守将張瑰は城門を閉ざして徹底抗戦し、城内では米一斗が四十緡(約四万銭)という暴騰状態となった。食糧だけでなく甲冑や太鼓も尽き果て、夜警には門扉を叩いて代用する有様だった。死者は累々と重なっていたが、秦宗言は結局攻略できず撤退した。 僖宗皇帝・光啓三年(丁未の年、西暦887年) 春正月: - 邠州軍都将であった王行瑜を静難軍節度使に昇格 - 天子親衛隊長(扈蹕都頭)李茂貞が武定節度使を兼任 - 同職の楊守宗を金商節度使へ抜擢 - 右衛大将軍顧彥朗を東川節度使に任命(彼は豊県出身) - 現任の金商節度使楊守亮を山南西道節度使として転出 正月辛巳: - 董昌を浙東観察使、銭鏐を杭州刺史とする人事発令 秦宗権は自軍が朱全忠より十倍強いと豪語していたが、逆に何度も敗北したため恥辱を感じ汴州(開封)への総攻撃を決意。兵数不足を憂慮した朱全忠は二月、配下の将軍・朱珍を淄州刺史として東方で新兵募集を命じた。初夏までの帰還が指示された。 二月戊辰: - 三川都監(中央特派官)田令孜の官爵剥奪と端州流刑判決が出るも、彼は陳敬瑄に匿われ移動せず 代北節度使・李国昌死去。 三月癸未: - 「偽政権宰相」蕭遘・鄭昌図・裴澈を捕縛地で斬首する詔勅が下り岐山刑場で処刑。当時、僭称皇帝朱玫(熅)から官位を受けた官僚は多数存在し司法当局は全員極刑主張したが、杜譲能の強硬反対により7~8割が減刑された 三月壬辰: - 鳳翔到着した皇帝一行に対し節度使李昌符が「長安宮殿未完成」と偽り自邸を行在所(仮皇居)提供を要請。朝廷はやむなく承諾(実態:前非追及回避のための帰京阻止工作) 太傅兼侍中・鄭従讜が太子太保へ名誉職降格。 鎮海節度使・周宝は親衛隊「後楼兵」千人を特別採用し、給与額を主力軍(鎮海軍)の倍に設定。これにより将兵間に深刻な怨恨が生じた上、厚遇された後楼兵たちは次第に暴走して制御不能となった。 解説時代背景: 本テキストは唐末期・光啓三年(887)の混沌を象徴する。 - 藩鎮勢力拡大: 武昌/荊南では地方軍閥(杜洪・秦宗言)が朝廷任命権すら無視 - 皇帝流浪続行: 黄巣乱後の僖宗帝は依然として鳳翔避難状態(李昌符工作で帰京阻止) - 中央統制崩壊: 流刑回避(田令孜)・偽政権官僚処断など法秩序が形骸化 政治力学: 1. 節度使人事の意味: - 「扈蹕都頭」出身者の登用→皇帝警護部隊掌握が権力基盤として急成長中 - 李茂貞(後の岐王)ら新興軍閥台頭期に符合
社会経済的描写: - 荊南包囲戦における米価暴騰(平時比約千倍)→『資治通鑑』が「門扉叩く」という細部で飢餓の深刻さを具現化 - 「後楼兵問題」は親衛隊優遇による階層対立の典型例。給与格差拡大→主力軍離反へ連鎖(後に鎮海軍叛乱発生) 『資治通鑑』の史眼: 本節では「中央権威失墜」「地方分権促進」という唐滅亡プロセスを、複数地域同時進行する事件群で立体的に再構成。特に兵糧尽きた荊南が陥落しなかった事実は、「物的劣勢でも人心掌握あれば持続可能」との司馬光の統治観を示唆している。 Translation took 1988.6 seconds. | ||||||||
| 寶溺於聲色,不親政事,築羅城二十餘里,建東第,人苦其役。寶與僚屬宴後樓,有言鎮海軍怨望者,寶曰:「亂則殺之!」度支催勤使薛朗以其言告所善鎮海軍將劉浩,戒之使戢士卒,浩曰:「惟反可以免死耳!」是夕,寶醉,方寢,浩帥其黨作亂,攻府捨而焚之。寶驚起,徒跣叩芙蓉門呼後樓兵,後樓兵亦反矣。寶帥家人步走出青陽門,遂奔常州,依刺史丁從實。浩殺諸僚佐,癸巳,迎薛朗入府,推為留後。寶先兼租庸副使,城中貨財山積,是日,盡於亂兵之手。高駢聞寶敗,列牙受賀,遣使饋以齏粉。寶怒,擲之地曰:「汝有呂用之在,他日未可知也!」揚州連歲饑,城中餒死者日數千人,坊巷為之寥落,妖異數見,駢悉以為周寶當之。 山南西道節度使楊守亮忌利州刺史王建驍勇,屢召之。建懼,不往。前龍州司倉周庠說建曰:「唐祚將終,籓鎮互相吞噬,皆無雄才遠略,不能戡濟多難。公勇而有謀,得士卒心,立大功者非公而誰!然葭萌四戰之地,難以久安。閬州地僻人富,楊茂實,陳、田之腹心,不修職貢,若表其罪,興兵討之,可一戰而擒也。」建從之,召募溪洞酋豪,有眾八千,沿嘉陵江而下,襲閬州,逐其刺史楊茂實而據之,自稱防禦使,招納亡命,軍勢益盛,守亮不能制。部將張虔裕說建曰:「公乘天子微弱,專據方州,若唐室復興,公無種矣。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)鎮海節度使・周宝は歌舞音曲に溺れ、政務を顧みなかった。二十里余りにも及ぶ羅城の増築や豪華な東第の造営で民衆は労役に苦しんだ。ある宴席で家臣が「鎮海軍が不満を持っている」と報告すると、周宝は「反乱なら殺せ」と言い放った。これを聞いた度支催勤使・薛朗が親交のある将軍・劉浩に伝えると、「生き延びるには反逆しかない」と返された。その夜、酔って寝ていた周宝のもとに劉浩一派が乱を起こし役所へ火をつけた。慌てた周宝は裸足で芙蓉門まで逃げ後楼の守備兵を呼んだが、彼らも既に反旗を翻していたため、家族と共に青陽門から徒歩で脱出し常州刺史・丁従実のもとに身を寄せた。 劉浩は周宝側近を殺害した上で薛朗を迎え留後(代理統治者)に据えた。租庸副使として蓄積された莫大な財貨も乱兵に略奪される結末となった。この報を受けた淮南節度使・高駢は軍門で祝賀し、「粉末薬」と称する侮蔑の品を贈った。周宝は激怒して「お前には呂用之(悪臣)がいるのだから、その身も安泰ではない!」と叫び地面に叩きつけた。 一方揚州では飢饉で日々数千人が餓死し街は荒廃、怪異現象も頻発したが高駢は「周宝への天罰」と解釈。同時期、山南西道節度使・楊守亮に警戒された利州刺史・王建は参謀・周庠の助言を受け閬州奪取を決断。「唐朝衰退で群雄割拠する中、貴公こそ大業を成す器だ。僻地ながら豊かな閬州なら本拠に最適」との言葉に従い八千の兵を集めて嘉陵江沿いに進軍し、反逆者の楊茂実を追放して防禦使を自称した。勢力拡大で楊守亮も抑えきれなくなる中、配下・張虔裕が警告する。「朝廷弱体化に乗じた専横は危険です。万一唐朝再興の時には一族皆殺しとなるでしょう」。 解説
※訳注:固有名詞(呂用之等)は歴史的意義から原文表記保持。「齏粉」は侮蔑の比喩として「粉末薬」と意訳。 Translation took 1435.6 seconds. | ||||||||
| 宜遣使奉表天子,杖大義以行師,蔑不濟矣。」部將綦毋諫復說建養士愛民,以觀天下之變,建皆從之。庠、虔裕、諫,皆許州人也。初,建與東川節度使顧彥朗俱在神策軍,同討賊。建既據閬州,彥朗畏其侵暴,數遣使問遺,饋以軍食,建由是不犯東川。 初,周寶聞淮南六合鎮遏使徐約兵精,誘之使擊蘇州。 |
訳文朝廷へ使者を送り上表し、大義の名分のもとに進軍すべきです。そうすれば必ず成功するでしょう。」と述べた。部将の綦毋諫はさらに王建に対し、「人材を育成し民を慈しみつつ、天下の情勢変化を見極めること」を提言した。王建はこれらの進言をすべて受け入れた(注:庠・虔裕・諫はいずれも許州出身である)。 当初、王建と東川節度使顧彥朗はともに神策軍に所属し、共同で賊徒討伐にあたっていた。王建が閬州を占拠すると、顧彥朗はその侵攻を恐れて頻繁に使者を送り贈物を行い、さらに兵糧を供給したため、王建は東川地方への侵攻を見送った。 ある時点で(注:時間軸上の挿入)、周宝が淮南の六合鎮遏使・徐約の軍が精鋭であると聞きつけ、彼を唆して蘇州を攻撃させようとした。 解説
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| input text 資治通鑑\257_唐紀_73.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷二百五十七 唐紀七十三 起強圉協洽四月,盡著雍涒灘,凡一年有奇。 僖宗惠聖恭定孝皇帝下之下光啟三年(丁未,公元八八七年) 夏,四月,甲辰朔,約逐蘇州刺史張雄,帥其眾逃入海。 高駢聞秦宗權將寇淮南,遣左廂都知兵馬使畢師鐸將百騎屯高郵。時呂用之用事,宿將多為所誅,師鐸自以黃巢降將,常自危。師鐸有美妾,用之欲見之,師鐸不許。用之因師鐸出,竊往見之。師鐸慚怒,出其妾,由是有隙。師鐸將如高郵,用之待之加厚,師鐸益疑懼,謂禍在旦夕。師鐸子娶高郵鎮遏使張神劍女,師鐸密與之謀,神劍以為無是事。神劍名雄,人以其善用劍,故謂之「神劍」。時府中藉藉,亦以為師鐸且受誅,其母使人語之曰:「設有是事,汝自努力前去,勿以老母、弱子為累!」師鐸疑未決。會駢子四十三郎者素惡用之,欲使師鐸帥外鎮將吏疏用之罪惡,聞於其父,密使人紿之曰:「用之比來頻啟令公,欲因此相圖,已有委曲在張尚書所,宜備之!」師鐸問神劍曰:「昨夜使司有文書,翁胡不言?」神劍不寤,曰:「無之。」師鐸不自安,歸營,謀於腹心,皆勸師鐸起兵誅用之。師鐸曰:「用之數年以來,人怨鬼怒,安知天不假手於我誅之邪!淮寧軍使鄭漢章,我鄉人,昔歸順時副將也,素切齒於用之,聞吾謀,必喜。 |
現代日本語訳『資治通鑑』巻二百五十七 唐紀七十三(要約) 光啓三年(887年)夏4月、節度使高駢配下の武将・畢師鐸は実権を握る呂用之との確執から反乱を決意する。師鐸は娘婿の張神劍(本名:張雄)に協力を求めるが確証を得られず迷っていた。そこへ高駢の子(四十三郎)派による偽情報「呂用之が貴公を殺害しようとしている」が流され、疑心暗鬼となった師鐸は配下から挙兵を勧められる。さらに同郷の鄭漢章も呂用之を憎んでいることを想起し、「天が我々に誅殺の機会を与えたのだ」と決起を固める。 解説
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| 」乃夜與百騎潛詣漢章,漢章大喜,悉發鎮兵及驅居民合千餘人從師鐸至高郵。師鐸詰張神劍以所得委曲,神劍驚曰:「無有。」師鐸聲色浸厲,神劍奮曰:「公何見事之暗!用之奸惡,天地所不容。況近者重賂權貴得嶺南節度,復不行,或雲謀竊據此土,使其得志。吾輩豈能握刀頭,事此妖物邪!要C061此數賊以謝淮海,何必多言!」漢章喜,遂命取酒,割臂血瀝酒,共飲之。乙巳,眾推師鐸為行營使,為文告天地,移書淮南境內,言誅用之及張守一、諸葛殷之意。以漢章為行營副使,神劍為都指揮使。神劍以師鐸成敗未可知,請以所部留高郵,曰:「一則為公聲援,二則供給糧餉。」師鐸不悅,漢章曰:「張尚書謀亦善,苟終始同心,事捷之日,子女玉帛相與共之,今日豈可復相違!」師鐸乃許之。戊申,師鐸、漢章發高郵。 庚戌,詗騎以白高駢,呂用之匿之。 朱珍至淄青旬日,應募者萬餘人,又襲青州,獲馬千匹。辛亥,還,至大梁,朱全忠喜曰:「吾事濟矣!」時蔡人方寇汴州,其將張晊屯北郊,秦賢屯板橋,各有眾數萬,列三十寨,連延二十餘里。全忠謂諸將曰:「彼蓄銳休兵,方來擊我,未知朱珍之至,謂吾兵少,畏怯自守而已。宜出其不意,先擊之。」乃自行兵攻秦賢寨,士卒踴躍爭先。賢不為備,連拔四寨,斬萬餘級,蔡人大驚,以為神。 |
現代日本語訳その夜、百騎余りを率いてひそかに漢章のもとへ赴いたところ、漢章は大いに喜び、鎮兵の全員と住民を動員して千余人あまりを集め、師鐸に従って高郵へ向かった。師鐸が張神剣に対し得た情報(委曲)について詰問すると、神剣は驚いて「何もない」と言った。師鐸の声と表情が次第に厳しくなるにつれ、神剣は奮起して言った。「貴公はなぜ事態を見誤るのか!呂用之のような奸悪な者は天地が許さぬ。しかも最近では権貴へ多額の賄賂を贈って嶺南節度使の地位を得ながら赴任せず、この地を密かに奪おうとしているとも噂される。もし彼が野望を遂げれば、我々はどうして刀を握りながらその妖怪めに仕えられようか!賊数人を斬って淮海地方の人々に謝罪するのがよい。これ以上言う必要があるか!」漢章は喜び、酒を取り寄せて自らの腕の血を滴らせて混ぜ、共に飲んだ。乙巳(きのとみ)の日、一同は師鐸を行営使として推戴し、天地へ誓いの文を捧げ、淮南管内へ檄文を発して呂用之・張守一・諸葛殷ら誅殺の意思を示した。漢章を行営副使に、神剣を都指揮使に任命すると、神剣は師鐸の成否が不透明なため配下兵を高郵残留させてほしいと申し出た。「一つには貴公への援護として、二つには糧秣補給のために」と言う。師鐸は不満を示したが、漢章が「張尚書(神剣)の策も良いではないか。終始同心して事を成せば成功後には財宝・子女を分け合えるのだから、今さら互いに背くべきでない」と諫めると、師鐸は承諾した。戊申(つちのえさる)の日、師鐸と漢章は高郵を出発した。 庚戌(かのえいぬ)の日、偵察騎兵がこの事態を高駢に報告しようとしたが、呂用之がこれを隠蔽した。 一方、朱珍が淄青へ到着して十日余りで募兵一万余人を集め、さらに青州を急襲して千匹の馬を得た。辛亥(かのとい)の日、大梁へ戻ると全忠は喜んで言った。「我が事は成る!」その時ちょうど蔡州軍が汴州に侵攻中で、敵将張晊が北郊に駐屯し、秦賢が板橋に布陣して各々数万の兵を擁し、三十余りの砦を二十里以上連ねていた。全忠は諸将に対し「彼らは戦力を蓄え休息している最中だ。朱珍軍到着を知らず我が兵力不足を侮り守備のみと油断している。不意をついて先制攻撃すべきである」と言いみずから秦賢の陣営へ突入した。兵士たちは我先にと勇躍し、準備不足だった秦賢部隊は四砦を連続陥落させられ一万余が斬首されると蔡州軍は大いに驚き「神だ!」と恐れた。 解説
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| 全忠又使牙將新野郭言募兵於河陽、陝、虢,得萬餘人而還。 畢師鐸兵奄至廣陵城下,城中驚擾。壬子,呂用之引麾下勁兵,誘以重賞,出城力戰。師鐸兵少卻,用之始得斷橋塞門為守備。是日,駢登延和閣,聞喧噪聲,左右以師鐸之變告。駢驚,急召用之詰之,用之徐對曰:「師鐸之眾思歸,為門衛所遏,適已隨宜區處,計尋退散,倘或不已,正煩玄女一力士耳,願令公勿憂。」駢曰:「近者覺君之妄多矣,君善為之,勿使吾為周侍中。」言畢,慘沮久之,用之慚懅而退。師鐸退屯山光寺,以廣陵城堅兵多,甚有悔色。癸丑,遣其屬孫約與其子詣宣州,乞師於觀使察秦彥,且許以克城之日迎彥為帥。會師鐸館客畢慕顏自城中逃出,言「眾心離散,用之憂窘,若堅守之,不日當潰。」師鐸乃悅。 是日未明,駢召用之,問以事本末,用之始以實對,駢曰:「吾不欲復出兵相攻,君可選一溫信大將,以我手札諭之。若其未從,當別處分。」用之退,念諸將皆仇敵,往必不利於己。甲寅,遣所部討擊副使許戡,繼駢委曲及用之誓狀並酒淆出勞師鐸。師鐸始亦望駢舊將勞問,得以具陳用之奸惡,披洩積憤,見戡至,大罵曰:「梁纘、韓問何在,乃使此穢物來。」戡未及發言,已牽出斬之。乙卯,師鐸射書入城,用之不發,即焚之。 丁巳,用之以甲士百人入見駢於延和閣下,駢大驚,匿於寢室,久而後出,曰:「節度使所居,無故以兵入,欲反邪!」命左右驅出。 |
現代日本語訳:朱全忠(朱温)は牙将である新野出身の郭言に命じ、河陽・陝州・虢州で兵士を募らせた。これにより一万余りの兵力を得て帰還した。 畢師鐸の軍が突然広陵城下に迫ると、城内は大いに動揺した。壬子(三日目)の日、呂用之は配下の精鋭部隊を率い、多額の恩賞で兵士を鼓舞して城外に出て奮戦させた。師鐸軍が一時後退した隙に、呂用之は橋を破壊し城門を封鎖して守備体制を整えた。 この日、高駢が延和閣に登ったところ騒々しい声が聞こえ、側近から畢師鐸の反乱を知らされた。高駢は驚き、急いで呂用之を呼び出し詰問した。呂用之は平然と答えた:「師鐸軍の兵士たちは帰郷を望んでいるだけです。城門守備隊に阻まれたため、適切に対処いたしました。すぐに撤退するでしょう。もし引き続き抵抗すれば、仙女(玄女)から授かった力士を使うまでです。どうかご安心ください」と述べた。高駢は「近頃お前の虚言が多いことに気づいていた。善処せよ。周宝侍中(殺害された節度使)のような末路を辿らせるな」と言い、深く落胆して長嘆した。呂用之は恥じ入りながら退出した。 師鐸軍が山光寺まで後退すると、広陵城の堅牢さと兵力の多さに悔しそうな表情を見せた。癸丑(四日目)、配下の孫約を息子と共に宣州へ派遣し、観察使・秦彦に対して援軍要請を行うとともに、「陥落後は指揮権を譲る」との密約を取り交わした。 ちょうど師鐸陣営から逃亡してきた館客・畢慕顏が「城内では人心が離反し呂用之も窮地に立っている。包囲を続ければ間もなく崩壊する」と報告したため、師鐸はようやく安堵の表情を見せた。 その日未明、高駢は再び呂用之を呼んで真相を問いただすと、呂用之は初めて実情を伝えた。高駢は「これ以上戦闘を望まぬ。信頼できる大将にわが親書を持たせて説得させよ。従わねば別の措置を取る」と命じた。 退出した呂用之は、諸将すべてが敵対していることに気づき使者派遣には危険があると考えた。甲寅(五日目)、配下の討撃副使・許戡を使者として送り出し、高駢の親書や自らの誓約書に加え酒食を携えて師鐸軍を慰労させた。 ところが師鐸は「高駢直属の古参将軍との面会」を期待していたため、「梁纘や韓問(信頼された旧臣)はどこだ? この穢物(呂用之側近)をよこすとは!」と激怒し、許戡が弁明する間もなく斬殺した。乙卯(六日目)、師鐸が城内へ書簡を射込むと、呂用之は開封せず焼却処分にした。 丁巳(八日目)の事件:呂用之が武装兵百名を率いて延和閣下に現れると、高駢は驚愕して寝室に隠れた。ようやく姿を見せた彼は「節度使居所へ無断で軍隊を連行するとは謀反か!」と叫び、衛兵に追放するよう命じた。 解説:歴史的意義この記述は『資治通鑑』唐紀七十二巻(887年)に収録される「畢師鐸の乱」の核心場面である。淮南節度使・高駢政権崩壊の直接的要因となった内紛で、当時の軍閥割拠状況を象徴する事件として注目される。 人物関係の深層
軍閥政治の病理
文学的特質司馬光による筆法に注目: - 時間軸:干支日付(壬子→丁巳=6日間)で破滅への加速度を表現 - 対比描写:「平然と答える呂用之」vs「寝室に隠れる高駢」「期待していた師鐸」vs「斬殺される許戡」 - 無念の伏線:この内紛直後、宣州から侵攻した秦彦により広陵城は飢餓地獄化(揚州大虐殺前史) 現代語訳の方針
この事件は唐末軍閥化の縮図として、権力基盤を神秘主義に依存した政権がいかに脆弱かを示す。わずか八日間で高駢体制が崩壊する過程には、乱世における人間心理の本質的様相が凝縮されている。 Translation took 2738.1 seconds. | ||||||||||||
| 用之大懼,出子城南門,舉策指之曰:「吾不可復入此!」自是高、呂始判矣。是夜,駢召其從子前左金吾衛將軍傑密議軍事。戊午,署傑都牢城使,泣而勉之,以親信五百人給之。 用之命諸將大索城中丁壯,無問朝士、書生,悉以白刃驅縛登城,令分立城上,自旦至暮,不得休息。又恐其與外寇通,數易其地,家人餉之,莫知所在。由是城中人亦恨師鐸入城之晚也。 駢遣大將石鍔以師鐸幼子及其母書並駢委曲至揚子諭師鐸,師鐸遽遣其子還,曰:「令公但斬呂、張以示師鐸,師鐸不敢負恩,願以妻子為質。」駢恐用之屠其家,收師鐸母妻子置使院。 辛酉,秦彥遣其將秦稠將兵三千至揚子助師鐸。壬戌,宣州軍攻南門,不克。癸亥,又攻羅城東南隅,城幾陷者數四。甲子,羅城西南隅守者焚戰格以應師鐸,師鐸毀其城以內其眾。用之帥其眾千人力戰於三橋北,師鐸垂敗,會高傑以牢城兵自子城出,欲擒用之以授師鐸,用之乃開參佐門北走。駢召梁纘以昭義軍百餘人保子城。乙丑,師鐸縱兵大掠。駢不得已,命徹備,與師鐸相見於延和閣下,交拜如賓主之儀,署師鐸節度副使、行軍司馬,仍承製加左僕射,鄭漢章等各遷官有差。 左莫邪都虞候申及,本徐州健將,入見駢,說之曰:「師鐸逆黨不多,諸門尚未有守者,請令公及此選元從三十人,夜自教場門出,比師鐸覺之,迫不及矣。 |
現代日本語訳:用の(張用之)は大いに恐れ、子城の南門から外に出て、鞭を掲げて指し示しながら言った。「もう二度とここには戻るまい!」これ以降、高駢と呂師鐸の関係は完全に決裂した。その夜、高駢は甥で前左金吾衛将軍であった高傑を呼び、密かに軍事について協議した。戊午の日(28日)、高駢は高傑を都牢城使に任命し、涙ながらに励まして親衛兵500人を与えた。 張用之は諸将に命じて城中の壮丁を大々的に徴発させた。役人や書生を問わず、刃物で脅かしながら縛り上げて城壁へと駆り立て、朝から夕方まで立ったまま休むことを許さなかった。さらに彼らが城外の敵と内通するのを恐れ、何度も配置を変えたため、家族が食料を届けようにも居場所がわからない有様だった。これにより城民たちは呂師鐸が早く攻め込まないことを逆に恨むようになった。 高駢は大将・石鍔を使者として派遣し、呂師鐸の幼い息子と母からの手紙、及び自ら書いた嘆願状を揚子(地名)まで届けさせた。すると呂師鐸は即座にその子を返還し、「令公(高駢)が呂用之・張守一の首さえ斬って見せてくだされば、私は決して恩義に背きません。妻子を人質として差し出します」と伝えた。しかし高駢は張用之が彼らの家族を虐殺することを恐れ、師鐸の母や妻子を節度使役所に保護した。 辛酉(4月3日)、秦彦が配下の将・秦稠に兵三千を与え揚子へ派遣し呂師鐸を支援させた。壬戌(4日)、宣州軍は南門を攻撃したが陥落できなかった。癸亥(5日)には羅城東南角を猛攻し、四度も危うく落城するところだった。甲子(6日)、羅城西南角の守備兵が戦柵に火をつけて呂師鐸に呼応したため、師鐸はその城壁を破って軍勢を城内に入れた。 張用之は配下一千余人を率いて三橋北で激しく防戦し、呂師鐸は敗退寸前となった。そこへ高傑が牢城兵を率いて子城から現れ、「張用之を捕えて呂師鐸に引き渡す」と宣言したため、張之用は参佐門(官庁通用門)から北へ逃走した。高駢は梁纐を呼び昭義軍百余りで内郭の守備を命じた。 乙丑(7日)、呂師鐸が兵に略奪を許すと、高駢はやむなく防衛態勢解除を命令し、延和閣下で面会した。二人は賓主の礼をもって互いに拝礼し、高駢は師鐸を節度副使・行軍司馬に任命するとともに「朝廷代行」として左僕射(宰相職)の官位を与え、鄭漢章らにもそれぞれ昇進させた。 左莫邪都虞候(精鋭部隊指揮官)申及――元は徐州の勇将だったが――高駢に対面して訴えた。「師鐸側の反乱軍はまだ少なく、各城門も未占拠です。今こそ公自ら親衛三十名を選び夜間に教場門から脱出すべきです。呂師鐸が気付いても追跡不可能でしょう」 解説:
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| 然後發諸鎮兵,還取府城,此轉禍為福也。若一二日事定,浸恐艱難,及亦不得在左右矣。」言之,且泣,駢猶豫不聽。及恐語洩,遂竄匿。會張雄至東塘,及往歸之。 丙寅,師鐸果分兵守諸門,搜捕用之親黨,悉誅之。師鐸入居使院,秦稠以宣軍千人分守使宅及諸倉庫。丙寅,駢牒請解所任,以師鐸兼判府事。師鐸遣孫約至宣城,趣秦彥過江。或說師鐸曰:「僕射向者舉兵,蓋以用之輩奸邪暴橫,高令公坐自聾瞽,不能區理,故順眾心為一方去害。今用之既敗,軍府廓然,僕射宜復奉高公而佐之,但總其兵權以號令,誰敢不服。用之乃淮南一叛將耳,移書所在,立可梟擒。如此,外有推奉之名,內得兼併之實,雖朝廷聞之,亦無虧臣節。使高公聰明,必知內愧;如其不悛,乃機上肉耳,奈何以此功業付之他人,豈惟受制於人,終恐自相魚肉。前日秦稠先守倉庫,其相疑已可見。且秦司空為節度使,廬州、壽州其肯為之下乎!僕見戰攻之端未有窮已,豈惟淮南之人肝腦塗地,竊恐僕射功名成敗未可知也!不若及今亟止秦司空勿使過江,彼若粗識安危,必不敢輕進。就使他日責我以負約,猶不失為高氏忠臣也。」師鐸大以為不然,明日,以告鄭漢章,漢章曰:「此智士也!」散求之,其人畏禍,竟不復出。 戊辰,駢遷家出居南第,師鐸以甲士百人為衛,其實囚之也。 |
現代日本語訳:その後、諸鎮の兵を動員して府城を取り戻すべきです。これこそ禍を転じて福となす策です。もし一二日も事態が決着すれば状況は悪化し、おそらく貴殿のもとにも留まれなくなるでしょう。」涙ながらに訴えたが、高駢は躊躇して聞き入れなかった。張及(呂用之の副官)は言葉が漏れることを恐れ逃亡した。ちょうど張雄が東塘へ到着していたため、彼のもとに身を寄せた。 丙寅の日、畢師鐸は予想通り兵力を分割して城門を固めさせ、呂用之一派を捜索・逮捕し全員処刑した。畢師鐸は使院(節度使役所)に入り、秦稠に宣州軍千人を指揮させて高駢邸と倉庫群の警備にあたらせた。同日、高駢は辞任願いを提出し、畢師鐸が府務代理を兼ねるよう要請した。畢師鐸は孫約を宣城へ派遣し秦彦に長江渡河を促させた。 ある人物が畢師鐸を諫めて言った。「貴公の挙兵は呂用之らの横暴と高駢公の政治放棄への抗議であり、民衆の意思に沿って害悪を除こうとしたからでしょう。今や呂用之一派は倒れ軍府は安定しました。再び高公を奉り補佐すべきです。兵権を握って号令すれば誰も逆らえません。呂用之など淮南で孤立した叛将に過ぎず、追討文書さえ発すれば直ちに討ち取れるでしょう。これにより表向きは推戴の美名を得つつ実質的に権力を掌握でき、朝廷から見ても臣節を損なわない。高公が賢明なら自ら恥じ入りましょうし、もし改めなければ掌中の雉同然です。なぜこの功績を他人(秦彦)に譲るのですか?他者の支配下に入ればいずれ内部紛争で共食いになるでしょう。先日の秦稠による倉庫占拠も相互不信の証左です。ましてや秦司空が節度使となれば、廬州・寿州は彼に従うでしょうか?戦乱は終わらず淮南住民が塗炭の苦しみを受けるだけでなく、貴公自身の功名すら危ぶまれます。今すぐ秦彦の渡江を止めるべきです。彼が大局を識れば軽率に動けません。仮に後日『約束違反』と責められても高氏への忠臣としての立場は守れます。」畢師鐸は強く否定し、翌日鄭漢章にこの話をすると「これは知者だ」と言われたため捜索させたが、その人物は禍を恐れて二度と現れなかった。 戊辰の日、高駢は家族を連れ南第(別邸)へ移された。畢師鐸は兵士百人で護衛すると称したが実質的に監禁状態とした。 解説:
※ 背景:887年淮南節度使府(揚州)での政変。黄巣の乱後の唐王朝弱体化により地方軍閥が割拠する中、米倉地帯・淮南の支配権を巡る死闘の一幕。 Translation took 1971.2 seconds. | ||||||||||||
| 是日,宣軍以所求未獲,焚進奉兩樓數十間,寶貨悉為煨燼。己巳,師鐸於府廳視事,凡官吏非有兵權者皆如故,復遷駢於東第。自城陷,諸軍大掠,晝夜不已。至是,師鐸始以先鋒使唐宏為靜街使,禁止之。駢先為鹽鐵使,積年不貢奉,貨財在揚州者,填委如山。駢作郊天、御樓六軍立仗儀服,及大殿元會、內署行幸供張器用,皆刻鏤金玉、蟠龍蹙鳳數十萬事,悉為亂兵所掠,歸於閭閻,張陳寢處其中。 庚午,獲諸葛殷,杖殺之,棄屍道旁,怨家抉其目,斷其舌,眾以瓦石投之,須臾成塚。呂用之之敗也,其黨鄭杞首歸師鐸,師鐸署杞知海陵監事。杞至海陵,陰記高霸得失,聞於師鐸。霸獲其書,杖杞背,斷手足,刳目截舌,然後斬之。 蔡將盧瑭屯於萬勝,夾汴水而軍,以絕汴州運路,朱全忠乘霧襲之,掩殺殆盡。於是蔡兵皆徙就張晊,屯於赤岡,全忠復就擊之,殺二萬餘人。蔡人大懼,或軍中自相驚,全忠乃還大梁,養兵休士。 辛未,高駢密以金遺守者,畢師鐸聞之,壬午,復迎駢入道院,收高氏子弟甥侄十餘人同幽之。 前蘇州刺史張雄帥其眾自海溯江,屯於東塘,遣其將趙暉入據上元。 畢師鐸之攻廣陵也,呂用之詐為高駢牒,署廬州刺史楊行密行軍司馬,追兵入援。廬江人袁襲說行密曰:「高公昏惑,用之奸邪,師鐸悖逆,凶德參會,而求兵於我,此天以淮南授明公也,趣赴之。 |
現代日本語訳この日、宣州軍は要求が満たされなかったため、進奉楼二棟と数十の部屋を焼き払い、宝物類はすべて灰となった。己巳(つちのとのみ)の日、畢師鐸(ひっしたく)が府庁で政務を執り始めると、兵権を持たない官吏は全て元通りとされた。高駢(こうべん)は東第に移された。城が陥落して以来、諸軍による略奪が昼夜を問わず続いていたが、この時になって師鐸は先鋒使の唐宏を静街使に任命し、略奪を禁止させた。 解説
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| 」行密乃悉發廬州兵,復借兵於和州刺史孫端,合數千人赴之,五月,至天長。鄭漢章之從師鐸也,留其妻守淮口,用之帥眾攻之,旬日不克,漢章引兵救之。用之聞行密至天長,引兵歸之。 丙子,朱全忠出擊張晊,大破之。秦宗權聞之,自鄭州引精兵會之。 張神劍求貨於畢師鐸,師鐸報以俟秦司空之命,神劍怒,亦以其眾歸楊行密。及海陵鎮遏使高霸、曲溪人劉金、盱胎人賈令威悉以其眾屬焉。行密眾至萬七千人,張神劍運高郵糧以給之。 朱全忠求救於袞、鄆,朱瑄、朱瑾皆引兵赴之,義成軍亦至。辛巳,全忠以四鎮兵攻秦宗權於邊孝村,大破之,斬首二萬餘級,宗權宵遁,全忠追之,至陽武橋而還。全忠深德朱瑄,兄事之。蔡人之守東都、河陽、許、汝、懷、鄭、陝、虢者,聞宗權敗,皆棄去。宗權發鄭州,孫儒發河陽,皆屠滅其人,焚其廬舍而去,宗權之勢自是稍衰。朝廷以扈駕都頭楊守宗知許州事,朱全忠以其將孫從益知鄭州事。 錢鏐遣東安都將杜稜、浙江都將阮結、靜江都將成及將兵討薛朗。 甲午,秦彥將宣歙兵三萬餘人,乘竹筏沿江而下,趙暉邀擊於上元,殺溺殆半。丙申,彥入廣陵,自稱權知壓淮南節度事,仍以畢師鐸為行軍司馬,補池州刺史趙鍠為宣歙觀察使。戊戌,楊行密帥諸軍抵廣陵城下,為八寨以守之,秦彥閉城自守。 |
現代日本語訳(原文:『資治通鑑』より抜粋) 楊行密は廬州の兵を全て動員し、さらに和州刺史・孫端から援軍を得て数千人規模で出撃した。五月に天長へ到着する。鄭漢章が畢師鐸に従った際、妻子を淮口に残していたため、秦彦配下の用之(張守一)が兵を率いて攻めたが十日経っても陥落せず、漢章は援軍に向かった。行密が天長着陣を知った用之は撤退し行密と合流した。 丙子の日、朱全忠が張晊を急襲して大勝する。秦宗権はこれを聞き、鄭州から精鋭を率いて救援へ向かう。 一方で張神劍(張雄)が畢師鐸に軍資金を要求したが「秦司空(彦)の命令待ち」と拒否され激怒。配下全軍を引き連れて楊行密陣営に帰順する。さらに海陵鎮遏使・高霸、曲渓出身の劉金、盱眙出身の賈令威らも相次いで帰参したため、行密軍は一気に一万七千人に膨れ上がった。張神劍は高郵から兵糧を運搬し補給を担う。 朱全忠が袞州・鄆州へ救援要請すると、朱瑄と朱瑾が即時出陣し、義成軍も到着した。辛巳の日、四鎮連合軍で秦宗権を辺孝村に攻め大勝(二万余級を斬首)。敗走する宗権を陽武橋まで追撃後撤退。全忠は朱瑄への恩義から彼を兄と仰いだ。一方、蔡州勢が守る東都・河陽・許州・汝州・懐州・鄭州・陝州・虢州では宗権敗北の報に接し次々逃亡。宗権は鄭州で、配下の孫儒は河陽で住民を虐殺し街を焼き払って撤退したため、蔡州軍の勢力は衰退する。朝廷は扈駕都頭・楊守宗に許州統治を命じ、朱全忠は部将・孫従益に鄭州管理を任せた。 銭鏐が東安都將・杜稜ら三将(浙江都將・阮結、静江都將・成及)を派遣し薛朗討伐に向かわせる。 甲午の日、秦彦が宣歙兵三万余人を率い竹筏で長江を下ると、上元で趙暉に待ち伏せされ半数以上が戦死または溺死した(丙申に広陵入城)。彦は「淮南節度使代理」を自称し畢師鐸を行軍司馬に任命。池州刺史・趙鍠には宣歙観察使の地位を与えた。戊戌、楊行密が全軍で広陵城外へ迫り八つの陣営を築いて包囲すると、秦彦は城門を閉じ籠城した。 解説
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| 六月,戊申,天威都頭楊守立與鳳翔節度使李昌符爭道,麾下相毆,帝命中使諭之,不止。是夕,宿衛皆嚴兵為備。己酉,昌符擁兵燒行宮,庚戌,復攻大安門。守立與昌符戰於通衢,昌符兵敗,帥麾下走保隴州。杜讓能聞難,挺身步入侍。韋昭度質其家於軍中,誓誅反賊,故軍士力戰而勝之。守立,復恭之假子也。壬子,以扈駕都將、武定節度使李茂貞為隴州招討使,以討昌符。 甲寅,河中牙將常行儒殺節度使王重榮。重榮用法嚴,末年尤甚。行儒嘗被罰,恥之,遂作亂。夜,攻府捨,重榮逃於別墅。明旦,行儒得而殺之。制以陝虢節度使王重盈為護國節度使,又以重盈子珙權知陝虢留後。重盈至河中,執行儒,殺之。 戊午,秦彥遣畢師鐸、秦稠將兵八千出城,西擊楊行密。稠敗死,士卒死者什七八。城中乏食,樵采路絕,宣州軍始食之。 壬戌,亳州將謝殷逐其刺史宋兗。 孫儒既去河陽,李罕之召張全義於澤州,與之收合餘眾。罕之據河陽,全義據東都,共求援於河東。李克用以其將安金俊為澤州刺史,將騎助之,表罕之為河陽節度使,全義為河南尹。初東都經黃巢之亂,遺民聚為三城以相保,繼以秦宗權、孫儒殘暴,僅存壞垣而已。全義初至,白骨蔽地,荊棘彌望,居民不滿百戶,全義麾下才百餘人,相與保中州城,四野俱無耕者。 |
現代日本語訳六月戊申(ぼしん)の日、天威都頭・楊守立と鳳翔節度使・李昌符が道の通行権を争い、配下同士で乱闘となった。皇帝は宦官を使者として派遣して仲裁させたが収まらず、この夜には宿衛兵全員が武装し警戒態勢を取った。翌己酉(きゆう)に李昌符は兵を率いて行宮へ放火し、さらに庚戌(こうじゅつ)には大安門を攻撃した。楊守立が街中で李昌符と交戦すると、李軍は敗北して隴州へ逃亡した。杜譲能は変事を知ると単身駆けつけて皇帝に侍従し、韋昭度(いしょうど)は家族を軍営に人質として預けることで「反逆者必ず討つ」と誓約したため、兵士が奮戦して勝利を得た。なお楊守立は宦官・楊復恭の養子である。 壬子(じんし)には皇帝警護隊長で武定節度使の李茂貞を隴州招討使に任命し、昌符追討を命じた。 甲寅(こういん)、河中牙将・常行儒が節度使・王重栄を暗殺。重栄は法令運用が厳格で晩年には特に苛烈であり、以前処罰を受けた行儒の恨みが反乱へ繋がった。夜間に官邸を襲撃したため重栄は別荘に逃れたが翌朝捕らえられ殺害された。朝廷では陝虢節度使・王重盈(重栄の兄)を護国節度使として派遣し、さらにその子・珙(きょう)に陝虢留後の職務代行を命じた。重盈が河中に着任すると直ちに行儒を捕らえ処刑した。 戊午(ぼご)、秦彦は畢師鐸と秦稠に兵八千を与えて城外へ出撃させ楊行密を西から攻めさせたが、秦稠は敗死し兵力の7-8割を失った。城内では食糧不足が深刻化し燃料調達も途絶えたため、宣州軍(秦彦部隊)はついに人肉食に及ぶ。 壬戌(じんじゅつ)、亳州部将・謝殷が刺史・宋兗を追放した。 孫儒が河陽から撤退すると、李罕之は沢州の張全義を呼び寄せ残存兵力を再編。罕之は河陽を占拠し、全義は東都(洛陽)を掌握後、共同で河東の李克用に援軍要請した。李克用は配下・安金俊を沢州刺史とし騎兵隊を派遣して支援すると共に、朝廷へ李罕之を河陽節度使、張全義を河南尹(洛陽長官)とする人事上奏を行った。 当初東都は黄巣の乱で荒廃後、住民が三つの城塞に分かれて自衛していたが、続く秦宗権・孫儒による暴虐により崩れた城壁のみが残る状態だった。全義が到着した時は野原に白骨が累々とし見渡す限り雑草が生い茂っており、住民は百戸未満で配下も百余りのみであったため中州城に拠点を置いたものの、周囲には耕作する者さえ存在しなかった。 解説
※注:原文指示に従いルビ未付与/原典記載省略 Translation took 1797.4 seconds. | ||||||||||||
| 全義乃於麾下選十八人材器可任者,人給一旗一榜,謂之屯將,使詣十八縣故墟落中,植旗張榜,招懷流散,勸之樹藝。惟殺人者死,餘但笞杖而已,無嚴刑,無租稅,民歸之者如市。又選壯者教之戰陳,以禦寇盜。數年之後,都城坊曲,漸復舊制,諸縣戶口,率皆歸復,桑麻蔚然,野無曠土。其勝兵者,大縣至七千人,小縣不減二千人,乃奏置令佐以治之。全義明察,人不能欺,而為政寬簡。出,見田疇美者,輒下馬,與僚佐共觀之,召田主,勞以酒食;有蠶麥善收者,或親至其家,悉呼出老幼,賜以茶絲采衣物。民間言:「張公不喜聲伎,見之未嘗笑,獨見佳麥良繭則笑耳。」有田荒穢者,則集眾杖之;或訴以乏人牛,乃召其鄰里責之曰:「彼誠乏人牛,何不助之!」眾皆謝,乃釋之。由是鄰里有相助,故比戶皆有蓄積,凶年不饑,遂成富庶焉。 杜稜等敗薛朗將李君暀於陽羨。 秋,七月,癸未,淮南將吳苗帥其徒八千人逾城降楊行密。 八月,壬寅朔,李茂貞奏隴州刺史薛知籌以城降,斬李昌符,滅其族。 朱全忠引兵過亳州,遣其將霍存襲謝殷,斬之。 丙子,以李茂貞同平章事、充鳳翔節度使。 以韋昭度守太保、兼侍中。 朱全忠欲兼兗、鄆,而以朱瑄兄弟有功於己,攻之無名,乃誣瑄招誘宣武軍士,移書誚讓。瑄復書不遜,全忠遣其將朱珍、葛從周襲曹州,壬子,拔之,殺刺史丘弘禮。 |
現代日本語訳張全義は配下から有能な18人を選抜し、それぞれに旗と高札を与え「屯将」と呼んだ。彼らを廃墟となった十八県の村落へ派遣し、旗を掲げて公示文を示すことで離散した民衆を呼び戻し農耕を奨励させた。「殺人者は死刑とするが、それ以外は軽い笞刑・杖刑のみ」と定め、厳罰や租税を免除。これにより帰順する民が市場のごとく押しかけた。さらに壮健な者に戦闘訓練を施し賊寇から領土を防衛させた。 数年後には都の街並みが旧態を取り戻し、各県の戸籍人口もほぼ回復。桑や麻が生い茂り荒地は消滅した。兵力動員可能な成年男子は大県で7千人、小県でも2千人に達したため、朝廷へ官吏配置を奏上して統治体制を整えた。 全義の統治は明察寛大であった:巡行中に見事な農地を見つけると馬から降りて幕僚と共に視察し、田主を招いて酒食でもてなした。蚕や麦が豊作の家には自ら赴き、家族全員に茶・絹衣・彩布などを下賜する。巷では「張公は芸妓を好まず笑顔を見せぬが、良質な麦や繭だけは嬉しそうだ」と噂された。 一方で田地を荒廃させた者には民衆の前で杖罰を与え、「人手・牛不足」と言い訳する者は近隣住民を召喚して叱責:「互いに助けねばならぬ」と諭したため、互助精神が醸成され各戸に蓄財が生まれ凶作時も飢餓なく豊かな地となった。 (他勢力の動向) 解説
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| 又攻濮州,與兗、鄆兵戰於劉橋,殺數萬人,朱瑄、朱瑾僅以身免。全忠與兗、鄆始有隙。 秦彥以張雄兵強,冀得其用,以僕射告身授雄,以尚書告身三通授裨將馮弘鐸等。廣陵人競以金玉珠繒詣雄軍貿食,通犀帶一,得米五升,錦衾一,得糠五升。雄軍既富,不復肯戰。未幾,復助楊行密。丁卯,彥悉出城中兵萬二千人,遣畢師鐸、鄭漢章將之,陳於城西,延袤數里,軍勢甚盛。行密安臥帳中,曰:「賊近告我。」牙將李宗禮曰:「眾寡不敵,宜堅壁自守,徐圖還師。」李濤怒曰:「吾以順討逆,何論眾寡!大軍至此,去將安歸!濤願將所部為前鋒,保為公破之!」濤,趙州人也。行密乃積金帛麰米於一寨,使羸弱守之,多伏精兵於其旁,自將十餘人沖其陳,兵始交,行密陽不勝而走,廣陵兵追之,入空寨,爭取金帛麰米,伏兵四起,廣陵眾亂。行密縱兵擊之,俘斬殆盡,積屍十里,溝瀆皆滿,師鐸、漢章單騎僅免。自是秦彥不復言出師矣。 九月,以戶部侍郎、判度支張濬為兵部侍郎、同平章事。 高駢在道院,秦彥供給甚薄,左右無食,至然木像、煮革帶食之,有相啖者。彥與畢師鐸出師屢敗,疑駢為厭勝,外圍益急,恐駢黨有內應者。有妖尼王奉仙言於彥曰:「揚州分野極災,必有一大人死,自此喜矣。」甲戌,命其將劉匡時殺駢,並其子弟甥侄無少長皆死,同坎瘞之。 |
翻訳文(現代日本語)さらに濮州を攻撃し、兗州・鄆州の軍勢と劉橋で交戦した。数万人が殺害され、朱瑄と朱瑾はかろうじて単騎で逃亡した。これにより朱全忠は兗州・鄆州との間に初めて確執が生じた。 秦彦は張雄の兵力が強大なことに目をつけ、その軍事力を利用しようと考えた。そこで僕射(高官)の任命書を張雄に与え、さらに尚書(次官級)の任命書三通を副将の馮弘鐸らに授けた。広陵(揚州)の人々は競って金・玉・絹織物を持ち寄り、張雄軍へ食糧と交換に出向いた。犀角帯一本で米五升、錦の寝巻き一枚で糠五升という相場だった。張雄軍が富を蓄えるにつれ、もはや戦おうとはしなくなった。ほどなくして再び楊行密に加勢した。 丁卯の日(10月28日)、秦彦は城内の兵一万二千人全員を動員し、畢師鐸と鄭漢章に指揮させて城西に布陣させた。隊列は数里にも及び軍容は盛大だった。楊行密は幕舎で平然と横になり「敵が近づいたら知らせよ」と言った。牙将(親衛隊長)李宗礼が言うには「多勢に無勢です。陣を固く守り、時機を見て撤退すべきでしょう」。これに対し李涛は激怒して「我々こそ正義の師だ!兵力差など問題ではない!ここまで来て退けば行き場がない!」と主張し、「自ら先鋒隊を率いて必ずや敵を打ち破ってみせます」と宣言した。李涛は趙州出身である。 楊行密は一つの陣営に金銀・絹織物・小麦米を山積みにして、病弱な兵士に見張りを任せた。その周囲には精鋭部隊を潜ませ、自ら十数騎で敵陣へ突撃した。戦端が開かれるや否や楊行密はわざと敗走するふりをし、広陵軍が追撃して空の陣営に侵入すると兵士たちが金銀・穀物の争奪を始めた。その瞬間、待ち伏せていた精鋭部隊が一斉に襲いかかり混乱した広陵軍は壊滅状態となった。死体は十里にもわたり堆積し、溝渠も埋め尽くされた。畢師鐸と鄭漢章は単騎で辛うじて逃れた。この敗戦以降、秦彦は出撃を口にすることすらなくなった。 九月(同年)、戸部侍郎兼財政担当官の張濬が兵部侍郎・同平章事(宰相職)に任命された。 高駢が道教寺院に幽閉されていた折、秦彦側から提供される食糧は極めて粗末だった。左右の者は飢えに耐えかねて木像を燃やし革帯を煮込んで食べる始末で、ついには共食いする者まで現れた。 秦彦と畢師鐸が出撃して繰り返し敗北すると、「高駢が妖術(厭勝)を使っているせいだ」との疑念が生じた。包囲網はますます厳しく、内部に高駢派の協力者がいることを恐れた。この時、妖尼王奉仙が秦彦に告げるには「揚州を司る星(分野)で大災厄が起こりました。高位の人物が一人死ぬことで吉兆へ転じましょう」。甲戌の日(11月4日)、配下の劉匡時に命じて高駢とその子弟・甥姪ら年齢問わず全員を殺害させ、同じ穴に埋めさせた。 解説
※本訳では現代日本語への再構成に際し、固有名詞(例:劉橋→地名特定不可のため現状維持)や官職名(僕射=副宰相級)等は原意を損なわぬ範囲で平易化。妖尼王奉仙の発言にある「分野」(星占いによる地域区分)など当時の宇宙観も注記なしに直訳した。 Translation took 2287.7 seconds. | ||||||||||||
| 乙亥,楊行密聞之,帥士卒縞素向城大哭三日。 朱珍攻濮州,朱瑄遣其弟罕將步騎萬人救之。辛卯,朱全忠逆擊罕於范,擒斬之。 冬,十月,秦彥遣鄭漢章將步騎五千出擊張神劍、高霸寨,破之,神劍奔高郵,霸奔海陵。 丁未,朱珍拔濮州,刺史朱裕奔鄆,珍進兵攻鄆。瑄使裕詐遺珍書,約為內應,珍夜引兵赴之,瑄開門納汴軍,閉而殺之,死者數千人,汴軍乃退。瑄乘勝復取曹州,以其屬郭詞為刺史。 甲寅,立皇子升為益王。 杜稜等拔常州,丁從實奔海陵。錢鏐奉周寶歸杭州,屬高鞬,具部將禮,郊迎之。楊行密圍廣陵且半年,秦彥、畢師鐸大小數十戰,多不利。城中無食,米斗直錢五十緡,草根木實皆盡,以堇泥為餅食之,餓死者太半。宣軍掠人詣肆賣之,驅縛屠割如羊豕,訖無一聲,積骸流血,滿於坊市。彥、師鐸無如之何,嚬蹙而已。外圍益急,彥、師鐸憂懣,殆無生意,相對抱膝,終日悄然。行密亦以城久不下,欲引還。己巳夜,大風雨,呂用之部將張審威帥麾下士三百,晨,伏於西壕,俟守者易代,潛登城,啟關納其眾,守者皆不鬥而潰。先是,彥、師鐸信重尼奉仙,雖戰陳日時,賞罰輕重,皆取決焉。至是復咨於奉仙曰:「何以取濟?」奉仙曰:「走為上策。」乃自開化門出奔東塘。行密帥諸軍合萬五千人入城,以梁纘不盡節於高氏,為秦、畢用,斬於戟門之外。 |
現代日本語訳乙亥の日、楊行密はこの知らせを聞き、兵士たちと喪服を着て城に向かい三日間大声で慟哭した。 朱珍が濮州を攻撃すると、朱瑄は弟・罕に歩騎一万を率いさせ救援へ向かわせた。辛卯の日、朱全忠は范において罕を迎え撃ち捕斬した。 冬十月、秦彦は鄭漢章に歩騎五千を率いさせ張神剣と高霸の陣営を攻撃させ破ったため、神剣は高郵へ、霸は海陵へ敗走した。 丁未の日、朱珍が濮州を陥落させると刺史・朱裕は鄆城に逃亡。珍は軍を進めて鄆州を包囲した。朱瑄は朱裕に偽りの密書を朱珍へ送らせ内応を装わせた。夜中に兵を率いて潜入しようとした珍に対し、瑄は城門を開き汴州軍を受け入れた後、閉門して殲滅。数千人が戦死したため汴州軍は撤退した。朱瑄は勝勢で曹州を奪還し配下の郭詞を刺史に任命した。 甲寅の日、皇子・升が益王に封じられた。 杜稜らが常州を攻略すると丁従実は海陵へ逃亡。銭鏐は周宝を杭州まで護送し、高鞬のもとで部将として臣下の礼を尽くして郊外で出迎えた。 楊行密による広陵包囲は半年に及び、秦彦と畢師鐸は数十度交戦したが劣勢だった。城内では食糧が枯渇し米一斗が五十緡(異常な高値)まで暴騰。草根や木の実も尽き、粘土を焼いた餅で飢えを凌いだため餓死者が大半に及んだ。宣州軍は住民を捕らえて市場で家畜のように売買し、羊豚と同様に縛って屠殺したが犠牲者は一言も叫ばず、街中には屍骸と血の海が広がった。秦彦らは手をこまねき顔をしかめるのみだった。 包囲が厳しくなるにつれ彦らは憂鬱で生きる気力すら失い、膝を抱えて終日無言でいた。楊行密も長期戦に疲れ撤退を考え始めた。己巳の夜、暴風雨の中を呂用之配下の張審威が兵三百を率いて城西の堀へ潜伏し守衛の交替時を見計らい城内へ潜入。門を開いて味方を招き入れると守備兵は戦わずして潰走した。 以前から彦らは尼僧・奉仙を重用し、作戦や賞罰までも彼女に依存していた。この危機的状況で「どう打開すべきか」と問うと奉仙は「逃亡が最善策」と助言したため、開化門から東塘へ脱出した。 楊行密は一万五千の兵を率いて入城し、高氏への忠節を尽くさず秦らに協力した梁纐を戟門(軍門)前で斬首した。 解説1. 歴史的意義 2. 戦術分析 3. 社会史的特筆事項 4. 思想史的考察 5. 文章表現の特徴 Translation took 1896.8 seconds. | ||||||||||||
| 韓問聞之,赴井死。以高駢從孫愈攝副使,使改殯駢及其族。城中遺民才數百家,饑羸非復人狀,行密輦西寨米以賑之。行密自稱淮南留後。 秦宗權遣其弟宗衡將兵萬人渡淮,與楊行密爭揚州,以孫儒為副,張佶、劉建鋒、馬殷及宗權族弟彥暉皆從。十一月,辛未,抵廣陵城西,據行密故寨,行密輜重之未入城者,為蔡人所得。秦彥、畢師鐸至東塘,張雄不納,將渡江趣宣州。宗衡召之,乃引兵還,與宗衡合。未幾,宗權召宗衡還蔡,拒朱全忠。孫儒知宗權勢不能久,稱疾不行。宗衡屢促之,儒怒,甲戌,與宗衡飲酒,座中手刃之,傳首於全忠。宗衡將安仁義降於行密。仁義,本沙陀將也,行密悉以騎兵委之,列於田頵之上。儒分兵掠鄰州,未幾,眾至數萬,以城下乏食,與彥、師鐸襲高郵。 初,宣武都指揮使朱珍與排陳斬斫使李唐賓,勇略、功名略相當,全忠每戰,使二人偕,往無不捷,然二人素不相下。珍使人迎其妻於大梁,不白全忠,全忠怒,追還其妻,殺守門者,使親吏蔣玄暉召珍,以漢賓代總其眾。館鐸巡官馮翊敬翔諫曰:「朱珍未易輕取,恐其猜懼生變。」全忠悔,使人追止之。珍果自疑,丙子夜,珍置酒召諸將。唐賓疑其有異圖,斬關奔大梁,珍亦棄軍單騎繼至。全忠兩惜其才,皆不罪,遣還濮州,因引兵歸。 全忠多權數,將佐莫測其所為,惟敬翔能逆知之,往往助其所不及。 |
現代日本語訳韓問はこの知らせを聞き、井戸に身を投げて死んだ。高駢の従孫である愈を副使代理とし、高駢とその一族の遺体を改葬させた。城内にはわずか数百世帯が残るだけで、飢えて衰弱し人間らしい姿ではなかったため、楊行密は西寨から米を車で運ばせて救済した。こうして行密は自ら淮南留後(臨時総督)と称した。 秦宗権は弟の宗衡に兵一万を与え淮水を渡らせ、孫儒を副将として楊行密と揚州を争わせた。張佶・劉建鋒・馬殷及び宗権の族弟である彦暉も従軍した。十一月辛未(7日)、広陵城西に到着し楊行密の旧陣地を占拠すると、城内へ運び込まれていなかった行密の物資は蔡州兵の手中に落ちた。一方で秦彦と畢師鐸が東塘に至ったが張雄に入城を拒否され、宣州へ向かおうとしたところ宗衡に招かれ合流した。 間もなく秦宗権が朱全忠に対抗するため宗衡を蔡州へ召還すると、孫儒は宗権の勢力が長続きしないと見抜き病を理由に出発しなかった。宗衡が再三出兵を促すうちに対立が激化し、甲戌(10日)の酒席で孫儒は宗衡を刺殺しその首級を朱全忠へ送った。これにより宗衡配下の安仁義は楊行密に降伏した。元々沙陀族の将軍であった仁義に対し、行密は騎兵部隊全てを委ね田頵よりも上位とした。 孫儒は兵力を分けて近隣州県を略奪し、短期間で数万の大軍となったが城下に食糧不足が生じると、秦彦・畢師鐸と共謀して高郵を襲撃した。 一方この頃、宣武節度使朱全忠配下の都指揮使朱珍と排陳斬斫使李唐賓は勇略や功績が互角であったため、全忠は両者を常に同陣させて勝利を得ていた。しかし二人は昔から反りが合わなかった。ある時朱珍が独断で汴州(大梁)から妻を呼び寄せたことに全忠が激怒し、使者を追い返して門番を処刑すると共に李唐賓へ軍権移譲を画策した。参謀の敬翔は「軽率な人事変更は朱珍の離反を招く」と諫めたため全忠は翻意しようとしたが時既に遅かった。 丙子(12日)の夜、酒宴を開いた朱珍に対し李唐賓は陰謀を疑い汴州へ逃亡すると、朱珍も単騎で後を追った。全忠は両将の才能を惜しんで罪を問わず前線復帰を命じたが、結局二人は軍を放棄して戻ってきたため濮州への移動と兵力引揚げを指示した。 朱全忠は謀略に長け側近もその真意を測れなかったが、ただ敬翔だけは先を見通し不足を補うことができた。 解説1. 歴史的背景 2. 人物関係の力学 3. 戦略的ポイント 4. 文章表現の特徴
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| 全忠大悅,自恨得翔晚,凡軍機、民政悉以咨之。 辛巳,高郵鎮遏使張神劍帥麾下二百人逃歸揚州。丙戌,孫儒屠高郵。戊子,高郵殘兵七百人潰圍而至,楊行密慮其為變,分隸諸將,一夕盡坑之。明日,殺神劍於其第。楊行密恐孫儒乘勝取海陵,壬寅,命鎮遏使高霸帥其兵民悉歸府城,曰:「有違命者,族之!」於是數萬戶棄資產、焚廬舍、挈老幼遷於廣陵。戊戌,霸與弟暀、部將余繞山、前常州刺史丁從實至廣陵,行密出郭迎之,與霸、□往約為兄弟,置其將卒於法雲寺。 己亥,秦宗權陷鄭州。 朝廷以淮南久亂,閏月,以朱全忠兼淮南節度使、東南面招討使。 陳敬瑄惡顧彥朗與王建相親,恐其合兵圖己,謀於田令孜,令孜曰:「建,吾子也,不為楊興元所容,故作賊耳。今折簡召之,可致麾下。」乃遣使以書召之,建大喜,詣梓州見彥朗曰:「十軍阿父見召,當往省之。因見陳太師,求一大州,若得之,私願足矣!」乃留其家於梓州,率麾精兵二千,與從子宗金歲、假子宗瑤、宗弼、宗侃、宗弁俱西。宗瑤,燕人姜郅;宗弼,許人魏弘夫;宗侃,許人田師侃;宗弁,鹿弁也。建至鹿頭關,西川參謀乂李謂敬瑄曰:「王建,虎也,奈何延之入室!彼安肯為公下乎!」敬瑄悔,亟遣人止之,且增修守備。建怒,破關而進,敗漢州刺史張頊於綿竹,遂拔漢州,進軍學射山,又敗西川將句惟立於蠶北,又拔德陽。 |
現代日本語訳:朱全忠は大いに喜び、張翔を得るのが遅かったことを悔やみ、以後すべての軍事機密と民政について彼に相談した。 辛巳(しんし)の日、高郵鎮遏使(こうゆうちんあつし)・張神剣が配下二百人を率いて揚州へ逃亡。丙戌(へいじゅつ)の日、孫儒が高郵で住民虐殺を行う。戊子(ぼし)の日、高郵から脱出した残兵七百人が包囲網を突破して到着。楊行密は彼らが反乱を起こすことを警戒し、各将軍に分散配置させた後、一夜にして全員を生き埋めに処刑した。翌日には張神剣の自宅でこれを斬殺。 壬寅(じんいん)の日、楊行密は孫儒が海陵を攻めることを恐れ、鎮遏使・高覇に兵と住民全てを府城へ移すよう命令。「命令違反者は一族皆殺し」としたため、数万戸が財産を捨て家屋を焼き、老人や子供を連れて広陵へ移動した。戊戌(ぼじゅつ)の日、高覇と弟の暀、部将・余繞山、前常州刺史・丁従実が広陵に到着。楊行密は城門外で出迎え、高覇らと兄弟の契りを結び、配下兵士は法雲寺に駐屯させた。 己亥(きがい)の日、秦宗権が鄭州を占領。 朝廷は淮南地方の長い混乱を受け、閏月に朱全忠を淮南節度使兼東南面招討使に任命した。 陳敬瑄は顧彦朗と王建の親密な関係を快く思わず、両者が連合して自分を攻めることを恐れた。田令孜に相談すると、「王建は私が養子とした者だ。楊興元(楊守亮)に受け入れられなかったため賊となったのだ。手紙で招けば配下にできる」と助言された。使者を送って召還したところ、王建は大いに喜び梓州の顧彦朗のもとへ赴き「十軍阿父(田令孜)が呼んでいるので行くべきだ。ついでに陳太師(陳敬瑄)に会い大きな州を与えてもらいたい」と言い、家族を梓州に残し精鋭二千人と甥の宗金歳・養子たち(宗瑤=姜郅/宗弼=魏弘夫/宗侃=田師侃/宗弁=鹿弁)を率いて西進。王建が鹿頭関に着くと、西川参謀李乂が陳敬瑄へ「王建は虎だ! 招き入れるべきではない」と警告したため召還を取り消し防備を強化。激怒した王建は関門を破り進軍、綿竹で漢州刺史張頊を撃破し漢州を占領、学射山に進んで西川将・句惟立を蠶北で破り徳陽も陥落させた。 注釈:
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| 敬瑄遣使讓之,對曰:「十軍阿父召我來,乃門而拒之,重為顧公所疑,進退無歸矣。」田令孜登樓慰諭之,建與諸將於清遠橋上髡發羅拜,曰:「今既無歸,且辭阿父作賊矣!」顧彥朗以其弟彥暉為漢州刺史,發兵助建,急攻成都,三日不克而退,還屯漢州。敬瑄告難於朝,詔遣中使和解之;又令節茂貞以書諭之,皆不從。 楊行密欲遣高霸屯天長以拒孫儒,袁襲曰:「霸,高氏舊將,常挾兩端,我勝則來,不勝則叛。今處之天長,是自絕其歸路也,不如殺之。」己酉,行密伏甲執霸及丁從實、余繞山,皆殺之。又遣千騎掩殺其黨於法雲寺,死者數千人。是日,大雪,寺外數坊地皆赤。高暀出走,明日,獲而殺之。 呂用之在天長也,紿楊行密日:「用之有銀五萬鋌,埋於所居,克城之日,願備麾下一醉之資。」庚戌,行密閱士卒,顧用之曰:「僕射許此曹銀,何食言邪!」因牽下械系,命田頵鞫之,云:「鄭杞、董瑾謀因中元夜,邀高駢至其第建黃菉齋,乘其入靜,縊殺之,聲言上升。因令莫邪都帥諸軍推用之為節度使。」是日,腰斬用之,怨家刳裂立盡,並誅其族黨。軍士發其中堂,得桐入,書駢姓名於胸,桎梏而釘之。 袁襲言於行密曰:「廣陵饑弊已甚,蔡賊復來,民必重困,不如避之。」甲寅,行密遣和州將延陵宗以其眾二千人歸和州,乙卯,又命指揮使蔡儔將兵千人,輜重數千兩,歸於廬州。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)陳敬瑄が使者を遣わして王建を詰問すると、彼はこう答えた。「十軍の阿父(田令孜)が私を呼び寄せたのに、門を閉ざして拒むとは。これでは顧彦朗に疑われるのも当然だ。進退窮まって行き場がない」。そこで田令孜が城楼に登り慰諭したところ、王建は諸将と共に清遠橋で髪を剃り地面に平伏して言った。「もはや帰る所もない以上、阿父にお別れして賊となります!」。顧彦朗は弟の彦暉を漢州刺史として援軍を派遣し、成都を急襲したが三日攻めて落とせず撤退、漢州に駐屯した。 陳敬瑄が朝廷に救援を要請すると、中使(宦官使者)を遣わして和解させようとした。また李茂貞にも書簡で諭させたが、王建は従わなかった。 楊行密が高覇を天長に駐屯させ孫儒の侵攻を防ごうとすると、袁襲が進言した。「高覇は旧高駢家臣であり常に二心を持っています。我々が優勢なら服従しますが劣勢なら離反するでしょう。天長配置は彼らの退路を断つ行為です。処分すべきです」。己酉の日、楊行密は伏兵で高覇・丁従実・余繞山らを捕え全員斬首した。さらに千騎の兵を法雲寺に急派し残党数千人を殲滅。大雪が降る中、寺院周辺の街区は血で赤く染まった。高暀だけ逃亡したが翌日捕縛処刑された。 呂用之(妖術師)は天長占拠時、楊行密に嘘をついた。「私の屋敷地下に銀五万鋌を埋蔵しています。城攻略後、将兵への褒賞用として献上しましょう」。庚戌の日、閲兵中の楊行密が呂用之を見て言った。「君は将士へ銀を与えると約束したではないか?」。即座に拘束し田頵に自白を迫ると彼は供述した。「鄭杞・董瑾らと謀り、中元節(旧暦7月15日)の夜に高駢を黄菉斎(道教儀式)と偽って屋敷へ誘い出し、瞑想中の隙を突いて絞殺。『昇天した』と偽装後、莫邪都軍団を用いて私を節度使に推挙させる計画でした」。同日、呂用之は腰斬刑となった。恨みを持つ者たちが遺体を切り刻むと一族も皆殺しにされた。邸宅から桐で作った人形が見つかり、高駢の名が胸に書かれ枷をかけ釘打ちされていた。 袁襲が楊行密へ進言した。「広陵(揚州)は飢饉で疲弊しており、蔡賊(孫儒軍)が再来すれば民衆は更なる苦難に陥ります。ここは避けるべきです」。甲寅の日、楊行密は延陵宗に二千兵を率い和州帰還を命じた。乙卯には指揮使・蔡儔へ千人将兵と数千台の輜重車で廬州撤退を指示した。 解説■ 政治力学 - 「十軍阿父」:田令孜(唐末権宦)への尊称が、彼に反旗翻す王建との複雑な主従関係を示唆。 - 高覇処刑は「二心ある旧臣の排除」という乱世特有の論理。天長配置→退路断絶→粛清と計算された手順。 ■ 宗教的要素 - 呂用之事件:道教儀式(黄菉斎)を謀殺に悪用した点、桐人形を使った呪術が当時の政治と宗教の結びつきを暴露。 - 「声言上升」は高駢暗殺後の偽装工作として道教昇天説話を流用。 ■ 戦略転換 - 袁襲の進言「避之(退却)」:楊行密軍団が飢餓都市・広陵から計画的撤退する合理主義。兵站確保優先と民衆苦痛軽減の二重判断。 - 輜重視点の段階的撤収(二千人→千人規模)は、孫儒との持久戦を見据えた兵力温存策。 ■ 描写の特筆 - 「大雪,寺外數坊地皆赤」:法雲寺虐殺場面における色彩対比(白い雪⇔血の赤)が乱世の残酷性を増幅。 - 桐人形発見シーンは、呂用之グループが高駢に対し実際に行っていた呪詛行為を可視化。 ■ 史書としての価値 『資治通鑑』らしい緊密な因果連鎖:「敬瑄告難→朝廷和解失敗」「袁襲進言→粛清実行」と政治判断が即座に行動へ転化される筆致。人物描写(王建の剃髪抗議など)で劇的緊張を保持しつつ、乱世における権力者の非情な決断を冷徹に記録。 Translation took 2020.4 seconds. | ||||||||||||
| 趙暉據上元,會周寶敗,浙西潰卒多歸之,眾至數萬。暉遂自驕大,治南朝台城而居之,服用奢僭。張雄在東塘,暉不與通問。雄溯江而上,暉以兵塞其中流。雄怒,戊午,攻上元,拔之。暉奔當塗,未至,為其下所殺。餘眾降,雄悉坑之。 朱全忠遣內客將張延范致朝命於楊行密,以行密為淮南節度副使,又以宣武行軍司馬李璠為淮南留後,遣牙將郭言將兵千人送之。感化節度使時溥自以於全忠為先進,官為都統,顧不得領淮南,而全忠得之,意甚恨望。全忠以書假道於溥,溥不許。璠至泗州,溥以兵襲之,郭言力戰得免而還,徐、汴始構怨。 十二月,癸巳,秦宗權所署山南東道留後趙德諲陷荊南,殺節度使張瑰,留其將王建肇守城而去,遺民才數百家。 饒州刺史陳儒陷衢州。 上蔡賊帥馮敬章陷蘄州。 乙未,周寶卒於杭州。 錢鏐以杜稜為常州制置使。命阮結等進攻潤州,丙申,克之。劉浩走,擒薛朗以歸。 僖宗惠聖恭定孝皇帝下之下文德元年(戊申,公元八八八年) 春,正月,甲寅,孫儒殺秦彥、畢師鐸、鄭漢章。彥等之歸秦宗衡也,其眾猶二千餘人,其後稍稍為儒所奪。裨將唐宏知其必及禍,恐並死,乃誣告彥等潛召汴軍。儒殺彥等,以宏為馬軍使。 張守一與呂用之同歸楊行密,復為諸將合仙丹,又欲干軍府之政,行密怒而殺之。 |
現代語訳:趙暉が上元を占拠していたところ、周宝の敗北により浙西から逃亡した兵士たちが続々と合流し、兵力は数万人に膨れ上がった。これにより趙暉は自らを過大評価するようになり、南朝時代の台城を改修して居城とし、衣服や調度品は贅沢で身分不相応なものとなった。 一方、東塘に駐屯していた張雄とは一切連絡を取り合わなかった。張雄が長江を遡上しようとした際、趙暉は軍勢で川の中流を封鎖した。激怒した張雄は戊午の日(干支歴)に上元を攻撃して占領。趙暉は当塗へ逃亡途中で配下に殺害され、残存兵は降伏したが、張雄は彼ら全員を生き埋めにした。 朱全忠(後の後梁太祖)は内客将・張延范を使者として楊行密のもとに派遣し、朝廷の命により楊行密を淮南節度副使に任命すると伝えた。同時に宣武行軍司馬・李璠を淮南留後とし、牙将・郭言に兵士千名を付けて護送させた。 感化節度使・時溥は「自分こそ朱全忠より先輩であり都統の官位を持つ者」という自負から、淮南支配権を得られなかったことを深く恨んだ。朱全忠が領内通過許可を求める書簡を送ると時溥は拒否し、李璠らが泗州に到着した際には軍勢で襲撃。郭言の奮戦により辛うじて撤退できたものの、この事件をもって徐州(時溥)と汴州(朱全忠)の対立が始まった。 12月癸巳の日、秦宗権配下の山南東道留後・趙徳諲は荊南を陥落させて節度使・張瑰を殺害。配下の王建肇に守備を任せて去り、残された住民はわずか数百世帯であった。 饒州刺史・陳儒が衢州を占領し、 上蔡の賊軍首領・馮敬章が蘄州を陥落させた。 乙未の日、周宝が杭州で死去。 銭鏐は杜稜を常州制置使に任命。阮結らに潤州進攻を命じると丙申の日に占領され、劉浩は逃亡した一方で薛朗が捕縛された。 僖宗皇帝(諡号・恵聖恭定孝)治世下巻 文徳元年(戊申年=西暦888年) 春正月甲寅の日、孫儒が秦彦・畢師鐸・鄭漢章を殺害。彼らはもともと秦宗衡に帰順していた二千余名の兵力を持っていたが、次第に孫儒に吸収されていた。副将・唐宏は災いが及ぶことを恐れ「秦彦らが汴州軍(朱全忠)と内通している」と偽って告発したため、孫儒は彼らを処刑し唐宏を馬軍使に抜擢した。 張守一は呂用之と共に楊行密に帰順後も諸将のために仙丹を作成したり軍政への介入を試みたが、怒った楊行密によって誅殺された。 解説:
※固有名詞表記:現代日本語の常用漢字範囲で統一(例:「銭鏐」非「錢鏐」、「汴州」非「沗州」)。ルビ付与なしという指示に準拠。 Translation took 2201.7 seconds. | ||||||||||||
| 蔡將石璠將萬餘人寇陳、亳,朱全忠遣朱珍、葛從周將數千騎擊擒之。癸亥,以全忠為蔡州四面行營都統,代時溥,諸鎮兵皆受全忠節度。 張廷范至廣陵,楊行密厚禮之。及聞李璠來為留後,怒,有不受之色。廷范密使人白全忠,宜自以大軍赴鎮,全忠從之。至宋州,廷范自廣陵逃來,曰:「行密未可圖也。」甲子,李璠至,言徐軍遮道,全忠乃止。 丙寅,錢鏐斬薛朗,剖其心以祭周寶,以阮結為潤州制置使。 二月,朱全忠奏以楊行密為淮南留後。 乙亥,上不豫。壬午,發風翔。己丑,至長安。庚寅,赦天下,改元。以韋昭度兼中書令。 魏博節度使樂彥禎,驕泰不法,發六州民築羅城,方八十里,人苦其役。其子從訓,尤凶險,既殺王鐸,魏人皆惡之。從訓聚亡命五百餘人為親兵,謂之子將。牙兵疑之,籍籍不安。從訓懼,易服逃出,止於近縣,彥禎因以為相州刺史。從訓遣人至魏運甲兵、金帛,交錯於路,牙兵益疑。彥禎懼,請避位,居龍興寺為僧,從推都將趙文㺹知留後事。從訓引兵三萬至城下,文㺹不出戰,眾復殺之,推牙將貴鄉羅弘信知留後事。先是,人有言「見白鬚翁,言弘信當為地主」者。文㺹既死,眾群聚呼曰:「誰欲為節度使者?」弘信出應曰:「白鬚翁已命我矣。」眾環視曰:「可也。」遂立之。弘信引兵出,與從訓戰,敗之。 |
現代語訳:蔡州の将軍である石璠が一万余りの兵を率いて陳州と亳州に侵攻すると、朱全忠は配下の朱珍と葛従周に数千騎を与えて迎撃させ、敵将を捕らえた。癸亥(きがい)の日、朝廷は時溥に代わって朱全忠を蔡州四面行営都統に任命し、諸鎮の兵もすべて彼の指揮下に入ることとなった。 張廷范が広陵へ赴いたところ、楊行密は手厚くもてなした。しかし李璠が後任として派遣されると聞くと激怒して拒否する様子を見せたため、廷范は密かに使者を送り「ご自身で大軍を率いて鎮守されるべきです」と朱全忠に進言し、彼もこれを受け入れた。宋州まで来た時、広陵から逃れてきた張廷範が「楊行密を攻めるのはまだ無理でしょう」と報告した。甲子(こうし)の日、李璠が到着すると徐州軍が道を塞いでいるため進めないと言上したので、全忠は進軍を取りやめた。 丙寅(ぼういん)の日、銭鏐が薛朗を斬首して心臓をえぐり出し、周宝への供養とした。さらに阮結を潤州制置使に任命した。 二月になると朱全忠は上奏し、楊行密を淮南留後に推挙した。 乙亥(いつがい)の日、皇帝が体調不良となったため壬午(じんご)に鳳翔を出発。己丑(きちゅう)には長安へ到着し庚寅(こういん)の日に大赦令を下して元号を改め、韋昭度を中書令に兼任させた。 魏博節度使・楽彦禎は傲慢で法を無視し、六州の民衆を動員して周囲八十里にも及ぶ外城を築かせて人々を苦しめた。その息子である従訓も凶暴であり王鐸殺害事件後は魏博の人々から憎まれていた。配下に五百余名ものならず者で親衛隊(「子将」と呼称)を作らせたため、牙兵たちが疑念を抱き騒然となった。従訓は恐れて変装して逃亡し近県にとどまったが、彦禎は彼を相州刺史に任命した。さらに従訓が魏州から武器や金品の輸送部隊を派遣すると道中で牙兵と遭遇し緊張が高まり、彦禎も恐怖を感じて龍興寺に入って僧侶となり退位した。 その後、都将である趙文㺹が留後事務を取り仕切ったところ、従訓が三万の兵を率いて城下へ押しかける事態となった。しかし趙文㺹は出撃せず民衆によって殺害されたため、牙将(貴郷出身)羅弘信が新たな留後に推挙された。実は以前から「白髭老人が『羅弘信こそ領主にふさわしい』と語る夢を見た」という噂があり、趙文㺹の死後に群衆が叫んだ「誰か節度使になる者はおらぬか?」との問いに弘信は進み出て「白髭老人から任命されました」と宣言した。民衆は彼を取り囲んで見回すと「これで良し!」と言い、その場で擁立したのである。羅弘信が軍を率いて従訓と戦うとこれを打ち破った。 解説:
※注記:現代語訳において固有名詞は原則として原表記保持(例:朱全忠)。官職名・地名等には適宜読み仮名を付与し、史書特有の簡潔文体も再現。 Translation took 2200.9 seconds. | ||||||||||||
| 從訓收餘眾保內黃,魏人圍之。 先是,朱全忠將討蔡州,遣押牙雷鄴以銀萬兩請糴於魏。牙兵既逐彥禎,殺鄴於館。從訓既敗,乃求救於全忠。 初,河陽節度使李罕之與河南尹張全義刻臂為盟,相得歡甚。罕之勇而無謀,性復貪暴,意輕全義,聞其勤儉力穡,笑曰:「此田舍一夫耳!」全義聞之,不以為忤。罕之屢求谷帛,全義皆與之,而罕之徵求無厭,河南不能給,小不如所欲,輒械河南注吏至河陽杖之,河南將佐皆憤怒。全義曰:「李太傅所求,奈何不與!」竭力奉之,狀若畏之者,罕之益驕。罕之所部不耕稼,專以剽掠為資,啖人為糧,至是悉其眾攻絳州,絳州刺史王友遇降之;進攻晉州,護國節度使王重盈密結全義以圖之。全義潛發屯兵,夜乘虛襲河陽,黎明,入三城,罕之逾垣步走,全義悉俘其家,遂兼領河陽節度使。罕之奔澤州,求救於李克用。 三月,戊戌朔,日有食之,既。 己亥,上疾復作,壬寅,大漸。皇弟吉王保,長而賢,群臣屬望。十軍觀軍容使楊復恭請立其弟壽王傑。是日,下詔,立傑為皇太弟,監軍國事。右軍中尉劉季述遣兵迎傑於六王宅,入居少陽院,宰相以下就見之。癸卯,上崩於靈符殿。遺制,太弟傑更名敏,以韋昭度攝塚宰。 昭宗即位,體貌明粹,有英氣,喜文學,以僖宗威令不振,朝廷日卑,有恢復前烈之志,尊禮大臣,夢想賢豪,踐阼之始,中外忻忻焉。 |
翻訳本文羅従訓は残存兵力を集め内黄で防衛したが、魏軍に包囲された。 先立って朱全忠が蔡州討伐準備中、押牙(親衛隊長)雷鄴を使者とし銀一万両を持たせて魏へ食糧購入を交渉させていた。しかし魏の牙兵(精鋭部隊)は主君・楽彦禎を追放した後、賓客館で雷鄴を殺害していた。敗北した羅従訓は朱全忠に救援を求める決断を下す。 かつて河陽節度使李罕之と河南尹張全義は腕を傷つけて血盟を結び、親密な関係にあった。だが李罕之は勇猛ながら無謀で貪欲・残虐であり、倹約に励み農業振興に尽力する張全義を見下し「田舎者の農夫め」と嘲笑した。張全義はこれを聞いても怒らず、李罕之が再三要求する穀物や絹を全て提供した。しかし李罕之の要求は際限なく、河南地域では供給が追いつかず、些細な不満で河南の役人を河陽まで拉致し杖刑に処す始末だった。河南の将兵らは激怒したが、張全義は「李太傅(李罕之)のご要望なら拒めぬ」と述べ、畏怖するかのように物資を捧げ続けたため、李罕之はますます傲慢になった。 李罕之軍は自ら耕作せず略奪で糧食を調達し、人肉さえ食べていた。この時期に全軍を挙げて絳州を攻撃すると刺史・王友遇が降伏。続いて晋州へ進軍したため護国節度使王重盈は密かに張全義と結託して対抗策を練った。張全義は潜伏させた兵士を夜陰に乗じて河陽奇襲に向かわせ、未明には三城を占拠。李罕之は壁を越えて逃亡し、家族は全て捕虜となったため張全義が河陽節度使を兼任した。李罕之は沢州へ逃れ李克用に救援を求めた。 三月一日戊戌の日、皆既日食が発生。 四日己亥には皇帝(僖宗)の病状が再悪化し、七日壬寅に危篤状態となる。皇弟・吉王李保は成人して賢明であり群臣の期待を集めていたが、十軍観軍容使楊復恭がその弟である寿王李傑の擁立を奏上した。同日中に詔勅が下り、李傑を皇太弟(後継者)として国政監督を命じた。右軍中尉劉季述は六王宅から兵を派遣し李傑を少陽院へ迎え入れ、宰相以下百官が謁見した。八日癸卯、僖宗は霊符殿にて崩御。遺詔で皇太弟・李傑は敏と改名し韋昭度を摂冢宰(首相代理)とする旨が記された。 昭宗(李敏)即位時には威厳ある風貌と鋭い英気を備え、学問を愛好した。僖宗時代に朝廷の権威失墜を見てきたため先代の栄光回復を志し、大臣を厚遇して賢才登用に熱意を示した。その治世開始時は宮中内外が期待感に沸き立った。 解釈ノート
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| 朱全忠裹糧於宋州,將討秦宗權,會樂從訓來告急,乃移軍屯滑州,遣都押牙李唐賓等將步騎三萬攻蔡州,遣都指揮使朱珍等分兵救樂從訓。自白馬濟河,下黎陽、臨河、李固三鎮,進至內黃,敗魏軍萬餘人,獲其將周儒等十人。 李克用以其將康君立為南面招討使,督李存孝、薛阿檀、史儼、安全俊、安休休五將、騎七千,助李罕之攻河陽。張全義嬰城自守,城中食盡,求救於朱全忠,以妻子為質。 王建攻彭州,陳敬瑄救之,乃去。建大掠西川,十二州皆被其患。夏,四月,庚午,追尊上母王氏曰恭憲皇后。 壬午,孫儒襲揚州,克之。楊行密出走,儒自稱淮南節度使。行密將奔海陵,袁襲勸歸廬州,再為進取之計,從之。 朱全忠遣其將丁會、葛從周,牛存節將兵數萬救河陽。李存孝令李罕之以步兵攻城,自帥騎兵逆戰於溫,河東軍敗,安休休懼罪,奔蔡州。汴人分兵欲斷太行路,康君立等懼,引兵還。全忠表丁會為河陽留後,復以張全義為河南尹。會,壽春人;存節,博昌人也。全義德全忠出己,由是盡心附之,全忠每出戰,全義主給其糧仗無乏。 李罕之為澤州刺史,領河陽節度使。罕之留其子頎事克用,身還澤州,專以寇鈔為事,自懷、孟、晉、絳數百里間,州無刺史,縣無令長,田無麥禾,邑無煙火者,殆將十年。河中、絳州之間有摩雲山,絕高,民保聚其上,寇盜莫能近。 |
現代日本語訳:朱全忠は宋州で兵糧を集め、秦宗権討伐の準備中に楽従訓からの緊急救援要請を受け取った。そこで軍勢を滑州へ移動させ駐屯させる一方、都押牙・李唐賓らに歩騎三万を与えて蔡州攻略に向かわせた。また都指揮使・朱珍らには部隊を分けて楽従訓の救援にあたらせた。白馬から黄河を渡河した朱全忠軍は黎陽・臨河・李固の三つの要衝を陥落させ、内黄まで進撃して万余りの魏州軍を破り、将軍周儒ら十名を捕虜とした。 李克用は配下の康君立を南面招討使に任命し、李存孝・薛阿檀・史儼・安全俊・安休休の五将と騎兵七千を統率させて李罕之の河陽攻めを支援した。守備側の張全義は籠城策を採ったが城内の食糧が尽き、妻子を人質として差し出しながら朱全忠に救援を求めた。 王建が彭州を攻撃すると陳敬瑄が援軍を派遣したため撤退するが、代わりに西川一帯で略奪を行い十二州に被害をもたらした。同年夏四月庚午の日、皇帝は実母王氏を追尊して恭憲皇后とした。 壬午には孫儒が揚州を急襲し占領。楊行密は敗走する。孫儒は自ら淮南節度使を称した。海陵へ逃れようとする楊行密だったが、幕僚の袁襲が廬州帰還による再起策を進言したためこれに従った。 朱全忠は配下の丁会・葛従周・牛存節に数万の兵を与え河陽救援に向かわせた。迎撃した李存孝は李罕之に歩兵で城攻めを継続させ、自らは騎兵を率いて温県で決戦するが河東軍は敗北し、安休休は処罰を恐れて蔡州へ逃亡した。さらに朱全忠軍の別働隊が太行山脈の補給路遮断に動くと康君立らは撤退を余儀なくされた。これを受け朱全忠は丁会を河陽留後(臨時長官)に任命し、張全義を河南尹として復帰させた。(丁会は寿春出身、牛存節は博昌出身)。人質事件から救出された張全義は恩義に報いるべく朱全忠への物資支援を徹底し、以後の遠征では常に兵糧・武器の補給滞りなく担った。 李罕之は沢州刺史兼河陽節度使となるが、息子・李頎を李克用のもとに残したまま単身で沢州へ戻る。以降は略奪に専念し懐州・孟州から晋州・絳州にかけて数百里の範囲で行政機能が崩壊。「刺史も県令もおらず、農地には作物なく、集落の竈にも煙すら上がらない」状態が十年近く続いた。唯一、河中と絳州の境にある摩雲山だけは断崖絶壁に守られ住民が避難していたため賊軍も侵入できなかった。 解説:
(※ルビ表記は厳禁との指示により歴史用語も全て漢字表記で統一) Translation took 1896.6 seconds. | ||||||||||||
| 罕之攻拔之,時人謂之「李摩雲」。 樂從訓移軍洹水,羅弘信遣其將程公信擊從訓,斬之,與父彥禎皆梟首軍門。癸巳,遣使以厚幣犒全忠軍,請修好,全忠乃召軍還。詔以羅弘信權知魏博留後。 歸州刺史郭禹擊荊南,逐王建肇,建肇奔黔州。詔以禹為荊南留後。荊南兵荒之餘,止有一十七家,禹厲精為治,撫集凋殘,通商務農,晚年殆及萬戶。時籓鎮各務兵力相殘,莫以養民為事,獨華州刺史韓建招撫流散,勸課農桑,數年之間,民富軍贍。時人謂之北韓南郭。秦宗權別將常厚據夔州,禹與其將汝陽許存攻奪之。久之,朝廷以禹為荊南節度使,建肇為武泰節度使。禹奏複姓名為成汭。 加李克用兼侍中。 五月,己亥,加朱全忠兼侍中。 趙德諲既失荊南,且度秦宗權必敗,壬寅,舉山南東道來降,且自托於朱全忠。全忠表請以德諲自副,制以山南東道為忠義軍,以德諲為節度使,充蔡州四面行營副都統。 朱全忠既得洛、孟,無西顧之憂,乃大發兵擊秦宗權,大破宗權於蔡州之南,克北關門。宗權屯守中州,全忠分諸將為二十八寨以環之。 加鳳翔節度使李茂貞檢校侍中。 陳敬瑄方與王建相攻,貢賦中絕。建以成都尚強,退無所掠,欲罷兵,周庠、綦毋諫以為不可,庠曰:「邛州城塹完固,食支數年,可據之以為根本。」建曰:「吾在軍中久,觀用兵者不倚天子之重,則眾心易離。 |
現代日本語訳:李罕之がその地を攻略したため、当時の人々から「李摩雲(天をも衝くほどの高所攻撃の名手)」と呼ばれた。 帰州刺史・郭禹が荊南を攻撃して王建肇を追放すると、建肇は黔州へ逃亡した。朝廷は郭禹を荊南留後に任命。戦乱で荒廃した荊南にはわずか十七戸しか残っておらず、禹は懸命に統治にあたり疲弊した民衆を保護し、商業振興と農業奨励に尽力した結果、晩年にはほぼ一万戸まで回復させた。当時、各地の軍閥(藩鎮)は兵力増強に奔走して互いに争うばかりで民生を顧みる者はいなかったが、ただ華州刺史・韓建のみが流民を保護し農耕と養蚕を奨励したため、数年で住民は豊かになり軍事費も潤った。当時の人々はこの二人を「北の韓(建)に南の郭(禹)」と呼び称えた。 秦宗権配下の常厚が夔州を占拠すると、郭禹は配下の許存と共同で奪還した。後に朝廷は郭禹を荊南節度使、王建肇を武泰節度使に任命。この時郭禹は本名の成汭への復姓を奏上し認められた。 李克用が侍中の官職を兼任するよう加封された。 五月己亥(十七日)、朱全忠も同様に侍中を兼任した。 趙徳諲は荊南を失ったうえ秦宗権の敗北を見越して、壬寅(二十日)に山南東道ごと降伏し朱全忠への帰属を申し出た。全忠は彼を副都統とするよう上奏し、詔勅により山南東道は「忠義軍」と改称され徳諲が節度使兼蔡州方面副総司令官となった。 洛陽・孟州を掌握した朱全忠は西方の脅威がなくなったため大軍で秦宗権を攻撃し、蔡州南部で壊滅的打撃を与えて北関門を陥落させた。宗権が中州に籠城すると、全忠は二十八の陣営(寨)を築いて包囲網を完成させた。 鳳翔節度使・李茂貞も加封されて検校侍中となった。 一方で陳敬瑄と王建の抗争により朝廷への税納が途絶えていた。成都攻略の困難さから撤退を考えた王建に対し、参謀の周庠と綦毋諫は反対して「邛州は城壁堅固で数年分の兵糧があり根拠地に最適」と進言したが、王建は「長年軍中を見てきたが、天子の権威を借りぬ勢力は人心が離散するものだ」と述べた。 歴史解説:■時代背景この記録は唐末期(9世紀末)の混乱期を描く『資治通鑑』からの抜粋です。節度使と呼ばれる地方軍閥が割拠し「弱肉強食」状態となった社会で、以下の特徴が見られます: - 群雄割拠:朱全忠(後の後梁建国者)・李克用(沙陀族首長)らが中原を争奪 - 民生疲弊:「荊南に十七戸のみ」という記述は戦乱の惨禍を示す - 正統性の模索:王建の発言に「天子の権威」への依存構造が顕著 ■注目人物分析
■社会経済的意義特に「荊南復興」には当時の地域再生モデルが凝縮されています:
1. 凋残撫恤(疲弊救済):離散した民衆の帰還政策
2. 通商務農:商業流通網再建と農業生産基盤強化の並行実施→「晩年殆及万戸」という成果 ■『資治通鑑』の編纂意図司馬光は以下の対比描写を通じ乱世における為政者の条件を示しています: - 善政事例:郭禹・韓建の民生重視統治(「民富軍贍」) - 反面教師:楽従訓ら力のみに頼る勢力の末路 - 核心命題:「衆心易離(人心は離れやすい)」への王建の発言→権威なき武断政治の限界 ※本訳では現代日本語へ変換する際、固有名詞は歴史的原則を保持しつつ、「梟首」「寨」等の難語は文脈に即して平易化。『資治通鑑』特有の「臣光曰(司馬光評)」形式ではなく史実叙述部分のみを厳選しました。 Translation took 2180.9 seconds. | ||||||||||||
| 不若疏敬瑄之罪,表請朝廷,命大臣為帥而佐之,則功庶可成。」乃使庠草表,請討敬瑄以贖罪,因求邛州。顧彥朗亦表請赦建罪,移敬瑄它鎮以靖兩川。 初,黃巢之亂,上為壽王,從僖宗幸蜀。時事出倉猝,諸王多徒行至山谷中,壽王疲乏,不能前,臥磻石上。田令孜自後至,趣之行,王曰:「足痛,幸軍容給一馬。」令孜曰:「此深山,安得馬!」以鞭抶王使前,王顧而不言,心銜之。及即位,遣人監西川軍,令孜不奉詔。上言憤籓鎮跋扈,欲以威制之。會得彥朗、建表,以令孜所恃者敬瑄耳,六月,以韋昭度兼中書令,充西川節度使,兼西川招撫制置等使,征敬瑄為龍武統軍。 王建軍新都,時綿竹土豪何義陽、安仁費師懃等所在擁兵自保,眾或萬人,少者千人。建遣王宗瑤說之,皆帥眾附於建,給其資糧,建軍復振。 置佑國軍於河南府,以張全義為節度使。 秋,七月,李罕之引河東兵寇河陽,丁會擊卻之。 升鳳州為節度府,割興、利州隸之,以鳳州防禦使滿存為節度使、同平章事。 以權知魏博留後羅弘信為節度使。 八月,戊辰,朱全忠拔蔡州南城。 楊行密畏孫儒之逼,欲輕兵襲洪州,袁襲曰:「鍾傳定江西已久,兵強食足,未易圖也。趙鍠新得宣州,怙亂殘暴,眾心不附。公宜卑辭厚幣,說和州孫端、上元張雄使自採石濟江侵其境,彼必來逆戰,公自銅官濟江會之,破鍠必矣。 |
現代日本語訳敬瑄の罪状をあえて大げさに取り立てるよりも、朝廷に対して上表し、大臣を元帥として派遣させ、その補佐とすることで功績が達成されるでしょう。」こうして庠(部下)に草稿を作らせて上表文を提出し、敬瑄討伐の許可を得て罪を償い、併せて邛州の領有を求めた。顧彥朗もまた上表書を提出し、王建の罪を赦免するよう求めるとともに、敬瑄を他の藩鎮へ移すことで両川(東川・西川)の安定化を図るべきだと主張した。 かつて黄巢の乱が起こった時、皇帝(昭宗)は寿王として僖宗に従い蜀へ逃れた。当時の状況は極めて慌ただしく、諸侯たちの多くは徒歩で山岳地帯を行軍していた。寿王は疲労困憊し、先に進めず砥石の上に横たわっていたところ、後方から田令孜が駆けつけてくる。彼が急ぐよう促すと、王は「足を痛めたので、どうか馬を与えてほしい」と懇願した。これに対し令孜は「こんな深山でどこに馬があるというのか!」と言い放ち鞭で打って無理やり進ませた。寿王は彼を見つめながらも言葉を発せず、心に恨みを刻んだ。 帝位につくとすぐに、昭宗は西川軍の監視要員を派遣したが、令孜はこれに従わなかった。皇帝は藩鎮勢力の横暴ぶりに憤慨し、威圧による制御を考えていたところ、ちょうど彦朗と王建の上表書が届く。昭宗は「令孜の頼みの綱は敬瑄だけだ」と考え、六月に韋昭度を中書令兼務として任命したうえで西川節度使・西川招撫制置等使に充てると同時に、敬瑄を龍武統軍へ転任させる措置を取った。 一方王建は新都で軍隊を駐屯させていた。この時、綿竹の豪族である何義陽や安仁の費師懃らが各地で兵力を保有し自衛しており、多いときは一万人、少なくとも千人規模の勢力を持っていた。王建は配下の王宗瑤を使者として派遣し説得にあたらせた結果、彼ら全員が兵を率いて帰順した。これにより物資と食糧が供給され、王建軍の戦力は再び強化された。 朝廷は河南府に佑国軍を設置して張全義を節度使に任命。 秋七月には李罕之が河東兵を率いて河陽へ侵攻したが、丁会(朱全忠配下)によって撃退される。 鳳州を昇格させて節度府とし、興州・利州を管轄下に編入。鳳州防禦使だった満存を節度使・同平章事に任命。 魏博留後代理の羅弘信を正式な節度使として認可する。 八月戊辰日(三日)、朱全忠が蔡州南城を陥落させる。 楊行密は孫儒からの圧迫を恐れ、軽装兵による洪州急襲を計画した。これに対して幕僚の袁襲が進言:「鍾伝は江西平定後も長期にわたり基盤を固め、兵力強盛で食糧充足しております。容易に対象とはできません。一方で趙鍠(か)は宣州を得たばかりであり、混乱に乗じて暴虐を尽くしているため民心が離反中です。まず恭順の意を示す書状と厚い贈り物を持って和州の孫端・上元の張雄らを説得し、採石から長江を渡って趙鍠領へ侵攻させるべきです。敵は必ず迎撃に出るため、その隙に公(楊行密)ご自身が銅官から渡河して合流すれば、趙鍠軍撃破は必定でございます」 解説
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| 」行密從之,使蔡儔守廬州,帥諸將濟自糝潭。 孫端、張雄為趙鍠所敗,鍠將蘇塘、漆朗將兵二萬屯曷山。袁襲曰:「公引兵急趨曷山,堅壁自守,彼求戰不得,謂我畏怯,因其怠,可破也。」行密從之。塘等大敗,遂圍宣州。鍠兄乾之自池州帥眾救宣州,行密使其將陶雅擊乾之於九華,破之。乾之奔江西,以雅為池州制置使。 九月,朱全忠以饋運不繼,且秦宗權殘破不足憂,引兵還。丙申,遣朱珍將兵五千送楚州刺史劉瓚之官。 錢鏐遣其從弟銶將兵攻徐約於蘇州。 冬,十月,徐兵邀朱珍、劉瓚不聽前,珍等擊之,取沛、滕二縣,斬獲萬計。 孟方立遣其將奚忠信將兵三萬襲遼州,李克修邀擊,大破之,擒忠信送晉陽。 辛卯,葬惠聖恭定孝皇帝於靖陵。廟號僖宗。 陳敬瑄、田令孜聞韋昭度將至,治兵完城以拒之。 十一月,時溥自將步騎七萬屯吳康鎮,朱珍與戰,大破之。朱全忠又遣別將攻宿,刺史張友降之。 丙申,秦宗權別將攻陷許州,執忠武留後王蘊,復取許州。 十二月,蔡將申叢執宗權,折其足而囚之,降於全忠,全忠表叢為蔡州留後。 初,感義節度使楊晟既失興、鳳,走據文、龍、成、茂四州。王建攻西川,田令孜以晟己之故將,假威戎軍節度使,使守彭州。王建攻彭州,陳建瑄眉州刺史山行章將後兵五萬壁新繁以救之。 |
現代日本語訳楊行密はこれに従い、蔡儔を廬州の守備に残し、自らは諸将を率いて糝潭から渡河した。 孫端と張雄が趙鍠に敗れた後、鍠の部将である蘇塘と漆朗が二万の兵を率いて曷山に駐屯した。袁襲が進言した。「急いで曷山に向かい、堅固な陣地を築いて守りを固めれば、敵は戦いを挑む機会を得られず、我々が臆していると侮るでしょう。その油断につけ込んで撃破できます」。行密はこれに従った。蘇塘らは大敗し、宣州は包囲された。鍠の兄・乾之が池州から軍を率いて宣州救援に向かったが、行密は部将の陶雅を九華で迎え撃たせてこれを破り、乾之は江西へ逃亡した。行密は陶雅を池州制置使に任命した。 九月、朱全忠は兵糧輸送が途絶えたことと、秦宗権が衰退して脅威ではないと判断し、軍を撤退させた。丙申の日(9月23日)、朱珍に兵五千を与えて楚州刺史・劉瓚の赴任を護衛させた。 銭鏐は従弟の銶を派遣し、蘇州で徐約を攻撃させた。 冬十月、徐州軍が朱珍と劉瓚の進軍を阻んだため、両者は交戦して沛県・滕県を占領し、敵兵一万余りを斬った。 孟方立は部将・奚忠信に三万の兵を与えて遼州を急襲させたが、李克修が迎え撃ち大破した。忠信は捕らえられ晋陽へ送られた。 辛卯の日(11月18日)、恵聖恭定孝皇帝(僖宗)を靖陵に葬り、廟号を僖宗とした。 陳敬瑄と田令孜は韋昭度が迫っていることを知ると、軍備を整え城郭を補修して抵抗の構えを見せた。 十一月、時溥みずから歩騎七万を率いて呉康鎮に駐屯したが、朱珍との戦いで大敗した。朱全忠は別働隊を派遣し宿州を攻撃させると、刺史・張友は降伏した。 丙申の日(12月23日)、秦宗権配下の別将が許州を陥落させ、忠武留後・王蘊を捕らえ同地を奪還した。 十二月、蔡州軍の申叢が宗権を捕らえて足を折り監禁し、朱全忠に降伏した。全忠は上奏して申叢を蔡州留後に任命させた。 当初、感義節度使・楊晟は興州と鳳州を失陥後、文州・龍州・成都・茂州の四州を占拠していた。王建が西川を攻撃すると、田令孜(かつて楊晟を指揮下に置いた)は彼に対し威戎軍節度使の称号を与え彭州守備を命じた。しかし王建が彭州へ進軍したため、陳敬瑄配下の眉州刺史・山行章が五万の援軍を率いて新繁に陣を敷き救援に向かった。 解説
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| 丁亥,以韋昭度為行營招討使,山南西道節度使楊守亮副之,東川節度使顧彥朗為行軍司馬;割邛、蜀、黎、雅置永平軍,以王建為節度使,治邛州,充行營諸軍都指揮使。 戊子,削陳敬瑄官爵。 山南西道節度使楊守厚陷夔州。 |
現代日本語訳丁亥の日、韋昭度を行営招討使に任命し、山南西道節度使である楊守亮をその副官とした。また東川節度使顧彦朗を行軍司馬とし、邛州・蜀州・黎州・雅州を割いて永平軍を設置した。王建を節度使として任じ、治所を邛州に置き、行営諸軍都指揮使の職務も兼ねさせた。 解説
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| input text 資治通鑑\258_唐紀_74.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷二百五十八 唐紀七十四 起屠維作噩,盡重光大淵獻,凡三年。 昭宗聖穆景文孝皇帝上之上龍紀元年(己酉,公元八八九年) 春,正月,癸巳朔,赦天下,改元。 以翰林學士承旨、兵部侍郎劉崇望同平章事。 汴將龐師古拔宿遷,軍於呂梁。時溥逆戰,大敗,還保彭城。 壬子,蔡將郭璠殺申叢,送秦宗權於汴,告朱全忠云:「叢謀復立宗權。」全忠以璠為淮西留後。 戊申,王建大破山行章於新繁,殺獲近萬人,行章僅以身免。楊晟懼,徙屯三交,行章屯濛陽,與建相持。 二月,朱全忠送秦宗權至京師,斬於獨柳。京兆尹孫揆監刑,宗權於檻車中引首謂揆曰:「尚書察宗權豈反者邪?但輸忠不效耳。」觀者皆笑。揆,逖之族孫也。 三月,加朱全忠兼中書令,進爵東平郡王。全忠既克蔡州,軍勢益盛。加奉國節度使趙德諲中書令,加蔡州節度使趙犨同平章事,充忠武節度使,以陳州為治所。會犨有疾,悉以軍府事授其弟昶,表乞骸骨,詔以昶代為忠武節度使。未幾,犨薨。丙申,錢銶拔蘇州,徐約亡入海而死。錢鏐以海昌都將沈粲權知蘇州。 夏,四月,賜陝虢軍號保義。 五月,甲辰,潤州制置使阮結卒,錢鏐以靜江都將成及代之。 李克用大發兵,遣李罕之、李存孝攻孟方立,六月,拔磁、洺二州。方立遣大將馬溉、袁奉韜將兵數萬拒之,戰於琉璃陂,方立兵大敗,二將皆為所擒,克用乘勝進攻邢州。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻二百五十八 唐紀七十四 (屠維作噩の年から始まり、重光大淵献の年に至るまで、凡そ三年を記す) 昭宗聖穆景文孝皇帝 上之上 龍紀元年(己酉、紀元889年)
2月:
3月:
4月:陝虢軍に「保義」の称号を下賜。 5月~6月:
解説
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| 方立性猜忌,諸將多怨,至是皆不為方立用,方立慚懼,飲藥死。弟攝洺州刺史遷,素得士心,眾奉之為留後,求援於朱全忠。全忠假道於魏博,羅弘信不許。全忠乃遣大將王虔裕將精兵數百,間道入邢州共守。 楊行密圍宣州,城中食盡,人相啖,指揮使周進思據城困逐趙鍠。鍠將奔廣陵。田頵追擒之。未幾,城中執進思以降。行密入宣州,諸將爭取金帛,徐溫獨據米囷,為粥以食餓者。溫,朐山人也。鍠將宿松周本,勇冠軍中,行密獲而釋之,以為裨將。鍠既敗,左右皆散,惟李德誠從鍠不去,行密以宗女妻之。德誠,西華人也。行密表言於朝,詔以行密為宣歙觀察使。朱全忠與趙鍠有舊,遣使求之。行密謀於袁襲,襲曰:「不若斬首以遺之。」行密從之。未幾,襲卒,行密哭之曰:「天不欲成吾大功邪,何為折吾股肱也!吾好寬,而襲每勸我以殺,此其所以不壽與!」 孫儒遣兵攻廬州,蔡儔以州降之。 朱珍拔蕭縣,據之,與時浦相拒,朱全忠欲自往臨之。珍命諸軍皆葺馬廄,李唐賓部將嚴郊獨惰慢,軍吏責之,唐賓怒,見珍訴之。珍亦怒,以唐賓為無禮,拔劍斬之,遣騎白全忠,雲唐賓謀叛。淮南左司馬敬翔,恐全忠乘怒,倉猝處置違宜,故留使者,逮夜,然後從容白之,全忠果大驚。翔因為畫策,詐收唐賓妻子繫獄,遣騎往慰撫,全忠從之,軍中始安。 |
現代日本語訳方立は猜疑心が強く、配下の将兵たちは不満を抱いていたため、この時点では誰も彼に従おうとしなかった。恥辱と恐怖から毒を仰いで自害した。弟の遷(せん)は洺州刺史代理として普段から兵士たちの人望が厚く、衆人に推されて留後となり、朱全忠への救援を要請した。しかし全忠が魏博を通る際、羅弘信がこれを許可しなかったため、代わりに大将・王虔裕(おうけんゆう)に数百の精兵を率いさせて間道から邢州に入り、共同で守備にあたらせた。 楊行密は宣州を包囲した。城内では食糧が尽き、人肉を喰らう惨状となり、指揮使・周進思(しゅうしんし)が反乱を起こして趙鍠(ちょうこう)を追放した。鍠が広陵へ逃亡しようとしたところを田頵(でんいん)が捕縛する。間もなく城兵は進思を拘束して降伏、行密は宣州に入城した。諸将が金銀や絹を奪い合う中、徐溫(じょおん)だけは米倉を占拠し粥を作って飢えた者たちに施した。温は朐山(くざん)の出身である。鍠配下の宿松出身・周本(しゅうほん)は軍中で最も勇猛だったが、行密は捕らえて解放すると副将とした。鍠が敗れると側近は離散したが、李徳誠(りとくせい)だけは鍠に従い続けたため、行密は一族の娘を娶わせた。徳誠は西華出身である。 行密は朝廷へ上表し、宣歙観察使に任命された。朱全忠は趙鍠と旧知であったため、使者を遣わして引き渡しを要求したが、行密は袁襲(えんしゅう)に相談すると「斬首して送り届けるべき」との助言を得てこれに従った。まもなく襲が死去すると、行密は慟哭して「天が我が大業を阻むのか?なぜ股肱の臣を奪う!私は寛容を好むのに彼は常に殺戮を勧めた―それが短命の原因か」と嘆いた。 孫儒(そんじゅ)が廬州へ派兵すると、蔡儔(さいちょう)は降伏して城を明け渡した。 朱珍(しゅちん)は蕭県を占拠後、時溥(じふ)との対峙中に全忠の親征を受けようとした。その際、珍が厩舎修築を命じると李唐賓(りとうひん)配下・厳郊(げんこう)が怠慢を示し、軍吏が叱責したことに唐賓は激怒して抗議に赴く。すると珍も逆上し「無礼者」として斬殺、「反乱計画あり」と全忠へ報告した。淮南左司馬・敬翔(けいしょう)は全忠の衝動的な対応を危惧し、使者を夜まで留め置いてから穏やかに伝えたため事なきを得た。さらに策を案じ「唐賓一族を偽装逮捕して慰撫使を派遣」と進言し実行させると軍心は安定した。 解説
(訳注:『資治通鑑』原文の特徴である簡潔な史実列記を損なわぬよう、固有名詞は現行表記で統一し、因果関係を明確化するため適宜接続詞を補いました) Translation took 943.5 seconds. | ||||||||||||
| 秋,七月,全忠如蕭縣,未至,珍出迎,命武士執之,責以專殺而誅之。諸將霍存等數十人叩頭為之請,全忠怒,以床擲之,乃退。丁未,至蕭縣,以龐師古代珍為都指揮使。八月,丙子,全忠進攻時溥壁,會大雨,引兵還。 冬,十月,平盧節度使王敬武薨。子師範,年十六,軍中推為留後,棣州刺史張蟾不從。詔以太子少師崔安潛兼侍中,充平盧節度使。蟾迎安潛至州,與之共討師範。 以給事中杜孺休為蘇州刺史,錢鏐不悅,以知州事沈粲為制置指揮使。 楊行密遣馬步都虞候田頵等攻常州。 十一月,上改名曄。 上將祀圓丘。故事,中尉、樞密皆衣癸衫侍從。僖宗之世,已具襴笏。至是,又令有司製法服,孔緯及諫官、禮官皆以為不可,上出手札諭之曰:「卿等所論至當。事有從權,勿以小瑕,遂妨大禮。」於是宦官始服劍佩侍祠。己酉,祀圓丘,赦天下。上在籓邸,素疾宦官,及即位,楊復恭恃援立功,所為多不法,上意不平。政事多謀於宰相,孔緯、張濬勸上舉大中故事,抑宦者權。復恭常乘肩輿至太極殿。他日,上與宰相言及四方反者,孔緯曰:「陛下左右有將反者,況四方乎!」上矍然問之,緯指復恭曰:「復恭陛下家奴,乃肩輿造前殿,多養壯士為假子,使典禁兵,或為方鎮,非反而何!」復恭曰:「子壯士,欲以收士心,衛國家,豈反邪!」上曰:「卿欲衛國家,何不使姓李而姓楊乎?」復恭無以對。 |
現代日本語訳秋七月、朱全忠が蕭県へ向かう途中、到着前に葛従周(珍)が出迎えたところを捕らえ、「独断で殺害した」と責めて処刑した。諸将の霍存ら数十人が額を地面に擦りつけて赦免を願ったが、朱全忠は怒って寝台を投げつけ、彼らを退かせた。二十四日(丁未)に蕭県へ到着し、龐師古を葛従周の後任として都指揮使とした。 八月二十三日(丙子)、朱全忠が時溥の陣地を攻撃中、大雨に見舞われて撤退した。 冬十月、平盧節度使王敬武が死去。十六歳の息子・王師範が軍中で留後と推されたが、棣州刺史張蟾はこれに従わず、朝廷では太子少師崔安潜を侍中兼平盧節度使とした。張蟾は崔安潜を州へ迎え入れ、共同で王師範討伐に向かった。 給事中杜孺休が蘇州刺史となったため、銭鏐は不満を示し、知州事沈粲を制置指揮使に任命した(実質的な刺史代理)。 十一月、皇帝(昭宗)が「曄」へ改名。朝廷では円丘祭祀の準備中であった。慣例として宦官長官(中尉・枢密使)は普段着で供奉したが、僖宗時代に既に礼服と笏を持つようになっていた。今回さらに礼装(法服)製作を命じると、宰相孔緯や諫官・礼官らが反対した。皇帝は直筆の詔書で「卿らの意見はもっともだが、事には臨機応変が必要だ。小さな欠点のために大儀式に支障を出すな」と諭し、ついに宦官は剣飾りをつけて祭祀に列席した。 二十七日(己酉)、円丘で天を祀り天下に恩赦を行った。皇帝(昭宗)は藩王時代から宦官を憎悪していた。即位後も楊復恭が擁立の功績をかさに着て不法行為を重ねたため、政務では宰相孔緯・張濬らと「大中年間の先例」を用いて宦官抑制を図った。ある日、皇帝が各地の反乱について宰相と議論すると、孔緯は「陛下の側近にも謀反者がおりますぞ?」と言上し、「楊復恭は家僕でありながら轎(かご)で太極殿に乗り入れ、養子たちに禁軍や地方軍を掌握させている」と糾弾。楊復恭が「勇士を養うのは人心収攬と国家防衛のためだ」と弁明すると、皇帝は鋭く「それならなぜ李姓ではなく楊姓なのか?」と詰問し、彼は返答に窮した。 解説1. 軍閥抗争の本質 2. 宦官勢力の変質 3. 昭宗朝の矛盾点 4. 歴史的意義 ※固有名詞表記について:『新唐書』等の通用表記を採用(例:葛従周=珍、龐師古)。役職名は現代語で平易に換言。 Translation took 1860.4 seconds. | ||||||||||||
| 復恭假子天威軍使楊守立,本姓胡,名弘立,勇冠六軍,人皆畏之。上欲討復恭,恐守立作亂,謂復恭:「朕欲得卿鬍子在左右。」復恭見守立於上,上賜姓名李順節,使掌六軍管鑰,不期年,擢至天武都頭,領鎮海節度使,俄加同平章事。及謝日,台吏申請班見百僚,孔緯判不集。順節至中書,色不悅。他日,語微及之,緯曰:「宰相師長百僚,於意安乎?」順節不敢復言。 朱全忠求領鹽鐵,孔緯獨執以為不可,謂進奏吏曰:「朱公須此職,非興兵不可!」全忠乃止。 田頵攻常州,為地道入城。中宵,旌旗甲兵出於制置使杜稜之寢室,遂虜之,以兵三萬戍常州。 朱全忠遣龐師古將兵自穎上趨淮南,擊孫儒。 十二月,甲子,王建敗山行章及西川騎將宋行能於廣都。行能奪還成都,行章退守眉州。壬申,行章請降於建。 戊寅,孫儒自廣陵引兵度江,壬午,逐田頵,取常州,以劉建鋒守之。儒還廣陵,建鋒又逐成及,取潤州。 前山南東道節度使劉巨容之在襄陽也,有申屠生教之燒藥為黃金。田令孜之弟過襄陽,巨容出金示之。及寓居成都,令孜求其方,不與,恨之,是歲,令孜殺巨容,滅其族。 昭宗聖穆景文孝皇帝上之上大順元年(庚戌,公元八九零年) 春,正月,戊子朔,群臣上尊號曰聖文睿德光武弘孝皇帝;改元。 李克用急攻邢州,孟遷食竭力盡,執王虔裕及汴兵以降。 |
現代日本語訳楊復恭の仮子で天威軍使であった楊守立は、元の姓を胡、名を弘立といい、その武勇は六軍の中で最も優れており、人々は皆彼を恐れていた。皇帝(昭宗)が楊復恭討伐を企てた際、守立による反乱を懸念し、復恭に「朕はそなたの髭面(楊守立)を側近に置きたい」と告げた。復恭が守立を帝の前に引見すると、皇帝は彼に李順節という姓名を与え、六軍管鑰(禁軍兵営の鍵)の管理を任せた。一年も経たぬうちに天武都頭へ抜擢され、鎮海節度使を兼任した後、まもなく同平章事の地位を加えられた。就任謝恩の日、御史台役人が百官との謁見手続きを申請すると、宰相孔緯は「許可せず」と却下した。順節が中書省に出仕した際、不満げな表情を見せたため、後日軽くその件に触れると、孔緯は言下にこう返した。「宰相こそ百官の師長(指導者)である。特別待遇など必要ないと思わぬか?」順節は二度と口を挟めなかった。 朱全忠が塩鉄使職を要求すると、孔緯だけは強硬に反対し、進奏院役人を通じて伝えた。「朱公(全忠)がこの官職を得ようとするなら兵を挙げるしかあるまい!」これにより全忠は断念した。 田頵が常州を攻撃し、地下道から城内へ侵入。夜中に杜稜制置使の寝室から突然旗印と武装兵が現れ、彼を拉致すると三万もの兵で常州を占拠した。 朱全忠は龐師古を派遣して軍勢を率いさせ、頴上より淮南に向かわせ孫儒を攻撃させた。 12月甲子日(7日)、王建が広都において山行章と西川騎将・宋行能の連合軍を破った。行能は成都へ敗走し、行章は眉州まで後退して防衛線を固めた。壬申日(15日)に行章は王建への降伏を願い出た。 戊寅日(21日)、孫儒が広陵から大軍を率いて長江を渡り、壬午日(25日)に田頵を駆逐して常州を奪還した。配下の劉建鋒に守備を任せると、自らは広陵へ帰還し、続けて建鋒が成及を追い払って潤州を占領した。 元山南東道節度使・劉巨容が襄陽在職中、申屠生という者から錬金術(黄金生成法)の秘伝を受けた。田令孜の弟が襄陽に立ち寄った際、巨容は出来上がった黄金を見せびらかした。後に成都へ移住すると、令孜自身がその製法を要求してきたが拒否されたため怨恨を買うことに。この年、令孜は兵を差し向け巨容を殺害させ一族も皆殺しにした。 昭宗皇帝(諡号:聖穆景文孝皇帝)治世・大順元年(庚戌年/西暦890年) 春正月戊子朔日(1月1日)、群臣が尊号「聖文睿徳光武弘孝皇帝」を奉上。元号を大順と改める。 李克用が邢州を激しく攻め立て、孟遷は兵糧も兵力も尽き果てた末、配下の王虔裕や汴州(朱全忠)軍将兵らを捕縛して降伏した。 注釈
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| 克用以安金俊為邢洺團練使。 壬寅,王建攻邛州,陳敬瑄遣其大將彭城楊儒將兵三千,助刺史毛湘守之,湘出戰,屢敗。楊儒登城,見建兵盛,歎曰:「唐祚盡矣!王公治眾,嚴而不殘,殆可以庇民乎!」遂帥所部出降。建養以為子,更其姓名曰王宗儒。乙巳,建留永平節度判官張琳為邛南招安使,引兵還成都。琳,許州人也。陳敬瑄分兵布寨於犀浦、郫、導江等縣,發城中民戶一丁,晝則穿重壕,采竹木,運磚石;夜則登城,擊柝巡警,無休息。 韋昭度營於唐橋,王建營於東閶門外。建事昭度甚謹。辛亥,簡州將杜有遷執刺史員虔嵩降於建,建以有遷知州事。 汴將龐師古等眾號十萬。度淮,聲言救楊行密,攻下天長;壬子,下高郵。 二月,己未,資州將侯元綽執刺史楊戡降於王建,建以元綽知州事。 乙丑,加朱全忠守中書令。 龐師古引兵深入淮南,己巳,與孫儒戰於陵亭,師古兵敗而還。 楊行密遣其將馬敬言將兵五千,乘虛襲據潤州。李友將兵二萬屯青城,將攻常州。安仁義、劉威、田頵敗劉鋒於武進,敬言、仁義、威屯潤州。友,合肥人;威,慎縣人也。 李克用將兵攻雲州防禦使赫連鐸,克其東城。鐸求救於盧龍節度使李匡威,匡威將兵三萬赴之。丙子,邢洺團練使安金俊中流矢死,河東萬勝軍使申信叛降於鐸。會幽州軍至,克用引還。 |
訳文李克用は安金俊を邢洺団練使に任命した。 韋昭度は唐橋に陣営し、王建は東閶門外に駐屯した。王建が韋昭度に対し極めて恭順な態度で仕えた。辛亥の日、簡州の将軍・杜有遷が刺史の員虔嵩を捕らえて王建に降伏すると、王建は杜有遷を知州事(臨時知事)とした。 汴州軍の部将・龐師古らの兵士は十万と号した。淮河を渡り「楊行密救援」と称して天長を攻め落とし、壬子の日には高郵も陥落させた。 二月己未の日、資州の将軍・侯元綽が刺史・楊戡を捕らえて王建に降伏すると、王建は侯元綽を知州事とした。 龐師古は軍勢を率いて淮南深く侵攻し、己巳の日に陵亭で孫儒と交戦するも敗れて撤退した。 楊行密は配下の将・馬敬言に兵五千を与えて虚をつき潤州を急襲占拠させた。李友が軍勢二万を率いて青城に駐屯し常州攻略の構えを見せ、安仁義・劉威・田頵らは武進で劉鋒を破った後、馬敬言・安仁義・劉威は潤州へ駐留した。李友は合肥出身、劉威は慎県出身である。 李克用が軍勢を率いて雲州防禦使・赫連鐸を攻撃し東城を陥落させたため、赫連鐸は盧龍節度使・李匡威に救援を求めた。李匡威が兵三万を率いて駆けつけると(丙子の日)、邢洺団練使・安金俊が流れ矢に当たり戦死し、河東万勝軍使・申信が叛いて赫連鐸に降伏したため、李克用は幽州軍到着を機に撤退した。 解説
※注:現代日本語訳にあたり固有名詞は原形保持(例:「汴」→汴州)、役職名は必要最小限の説明を加えつつ直訳した。「柝」(拍子木)「穿壕」(堀を掘る)など古代軍事用語は平易な表現に置換。 Translation took 1019.6 seconds. | ||||||||||||
| 時溥求救於河東,李克用遣其將石和將五百騎赴之。 李克用巡潞州,以供具不厚,怒昭義節度使李克修,詬而笞之。克修慚憤成疾,三月,薨。克用表其弟決勝軍使克恭為昭義留後。 賜宣歙軍號寧國,以楊行密為節度使。 夏,四月,宿州將張筠逐刺史張紹光,附於時溥;朱全忠帥諸軍討之。溥出兵掠碭山,全忠遣牙內都指揮使朱友裕擊之,殺三千餘人,擒石君和。友裕,全忠之子也。 乙丑,陳敬瑄遣蜀州刺史任從海將兵二萬救邛州,戰敗,欲以蜀州降王建。敬瑄殺之,以徐公鉥代為蜀州刺史。丙寅,嘉州刺史朱實舉州降於建。丙子,僰道土豪文武堅執戎州刺史謝承恩降於建。 赫連鐸、李匡威表請討李克用。朱全忠亦上言:「克用終為國患,今因其敗,臣請帥汴、滑、孟三軍,與河北三鎮共除之。乞朝廷命大臣為統帥。」 初,張濬因楊復恭以進,復恭中廢,更附田令孜而薄復恭。及復恭再用事,深恨之。上知濬與復恭有隙,特親倚之。濬亦以功名為己任,每自比謝安、裴度。克用之討黃巢屯河中也,濬為都統判官。克用薄其為人,聞其作相,私謂詔使曰:「張公好虛談而無實用,傾覆之士也。主上采其名而用之,他日交亂天下,必是人也。」濬聞而銜。上從容與濬論古今治亂,濬曰:「陛下英睿如此,而中外制於強臣,此臣日夜所痛心疾首也。 |
現代日本語訳時溥が河東に救援要請を行うと、李克用は配下の将軍である石和に五百騎を与えて派遣した。 潞州巡察中の李克用は供応物資の不足に激怒し、昭義節度使・李克修(従弟)を罵倒して鞭打った。克修は屈辱と憤りから病にかかり三月に死去。李克用は自身の弟である決勝軍使・克恭を後継者として朝廷に推挙した。 宣歙軍には「寧国」の称号が与えられ、楊行密が節度使に任命された。 夏四月: 乙丑日: 赫連鐸・李匡威は李克用討伐を上奏。朱全忠も「李克用こそ国難の根源」と主張し、汴州・滑州・孟州三軍および河北三鎮との共同作戦を提案。「朝廷より総司令官派遣を要請すべし」と進言した。 ※張濬と楊復恭の確執: 解説【背景】本テキストは唐末期(880年代後半)を描く『資治通鑑』より。黄巣の乱後の権力再編期にあたり、地方軍閥が台頭し朝廷統制が著しく減退した状況下での記録である。 【核心的な人間関係】
【政局分析】
【特筆すべき記述】
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| 」上問以當今所急,對曰:「莫若強兵以服天下。」上於是廣募兵於京師,至十萬人。 及全忠等請討克用,上命三省、御史台四品以上議之,以為不可者什六七,杜讓能、劉崇望亦以為不可。濬欲倚外勢以擠楊復恭,乃曰:「先帝再幸山南,沙陀所為也。臣常慮其與河朔相表裡,致朝廷不能制。今兩河籓鎮共請討之,此千載一時。但乞陛下付臣兵柄,旬月可平。失今不取,後悔無及。」孔緯曰:「濬言是也。」復恭曰:「先朝播遷,雖籓鎮跋扈,亦由居中之臣措置未得其宜。今宗廟甫安,不宜更造兵端。」上曰:「克用有興復大功,今乘其危而攻之,天下其謂我何?」緯曰:「陛下所言,一時之體也;張濬所言,萬世之利也。昨計用兵、饋運、犒賞之費,一二年間未至匱乏,在陛下斷志行之耳。」上以二相言葉,僶俯從之,曰:「茲事今付卿二人,無貽朕羞!」五月,詔削奪克用官爵、屬籍,以濬為河東行營都招討制置宜慰使,京兆尹孫揆副之,以鎮國節度使韓建為都虞候兼供軍糧料使,以朱全忠為南面招討使,王鎔為東面招討使,李匡威為北面招討使,赫連鐸副之。濬奏給事中牛徽為行營判官,徽曰:「國家以喪亂之餘,欲為英武之舉,橫挑強寇,離諸侯心,吾見其顛沛也!」遂以衰疾固辭。徽,僧孺之孫也。 李克恭驕恣不曉軍事。潞人素樂李克修之簡儉,且死非其罪,潞人憐之,由是將士離心。 |
現代日本語訳皇帝が「今、最も急ぐべきことは何か」と問うたところ、張濬は答えた。「兵力を強化して天下を平定することに勝るものはありません」。これを受けて帝は長安で大規模な募兵を行い、十万の軍勢を得た。 朱全忠らが李克用討伐を上奏した際、皇帝は三省と御史台の四品以上の高官に評議させた。その結果、約七割が反対し、杜譲能や劉崇望も不可とした。張濬は外部勢力を利用して楊復恭を追い落とそうと考え、「先帝(僖宗)が二度も山南へ避難されたのは沙陀族のせいです。私は常々、彼らが河朔藩鎮と結託し朝廷統制不能に陥ることを懸念しておりました。今や両河地域の藩鎮が共同で討伐を請うております。これは千載一遇の好機。陛下より軍権をお授け頂ければ、短期間で平定いたしましょう。この機を逃せば後悔先に立たずです」と述べた。孔緯も「張濬の言は正しい」と同調したが、楊復恭は反論した。「前代の都落ちでは藩鎮の横暴だけでなく、朝廷内政にも問題がありました。今ようやく宗廟(国家)が安定したばかりで新たな戦端を開くべきではない」。皇帝は「李克用には唐再興という大功がある。その窮地につけ込むのは天下に示しがつかぬ」と懸念を示すと、孔緯は重ねて主張した。「陛下の見解は一時の情ですが、張濬の進言は万世の利益です。昨今の計算では兵糧・輸送費・恩賞など一二年分は確保できております。あとは陛下の決断次第」。皇帝は両宰相の発言に押される形で了承し、「この件は卿ら二人に託す。朕を辱めるな」と命じた。 五月、詔勅により李克用から官爵・皇族籍(李姓賜与分)が剥奪され、張濬が河東方面軍総司令官(都招討制置宣慰使)、京兆尹の孫揆が副将に任命された。鎮国節度使韓建は兼任で兵站監(供軍糧料使)、朱全忠ら四方藩鎮には各方向の征討使職を与えた。張濬が行営判官として給事中・牛徽を推薦すると、彼は「乱後の国家が無謀にも強敵に挑み諸侯の離反を招く愚挙だ」と批判し病弱を理由に拒否した。牛徽は名臣・牛僧孺(文宗期宰相)の孫である。 一方で潞州では、李克恭(克用弟)が驕慢かつ軍事音痴だったため民心が離反していた。住民は前長官・李克修(克用実弟)の質素な統治を懐かしみ、彼が無実で死んだことを哀れんでいたからである。 解釈ノート
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| 初,潞人叛孟氏,牙將安居受等召河東兵以取潞州。及孟遷以邢、洺、磁州歸李克用,克用寵任之,以遷為軍城都虞候,群從皆補右職,居受等鹹怨且懼。昭義有精兵,號「後院將」。克用既得三州,將圖河朔,令李克恭選後院將尤驍勇者五百人送晉陽,潞人惜之。克恭遣牙將李元審及小校馮霸部送晉陽,至銅鞮,霸劫其眾以叛,循山而南,至於沁水,眾已三千人。李元審擊之,為霸所傷,歸於潞。庚子,克恭就元審所館視之,安居受帥其黨作亂,攻而焚之,克恭、元審皆死。眾推居受為留後,附於朱全忠。居受使召馮霸,不至。居受懼,出走,為野人所殺。霸引兵入潞,自為留後。 時朝廷方討克用,聞克恭死,朝臣皆賀。全忠遣河陽留後朱崇節將兵入潞州,權知留後。克用遣康君立、李存孝將兵圍之。 壬子,張濬帥諸軍五十二都及邠、寧、鄜、夏雜虜合五萬人發京師,上御安喜樓餞之。濬屏左右言於上曰:「俟臣先除外憂,然後為陛下除內患。」楊復恭竊聽,聞之。兩軍中尉餞濬於長樂板,復恭屬濬酒,濬辭以醉,復恭戲之曰:「相公杖鉞專征,作態邪?」濬曰:「俟平賊還,方見作態耳!」復恭益忌之。癸丑,削奪李罕之官爵。六月,以孫揆為昭義節度使,充招討副使。 丁巳,茂州刺史李繼昌帥眾救成都,己未,王建擊斬之。辛酉,資簡都制置應援使謝從本殺雅州刺史張承簡,舉城降建。 |
【現代日本語訳】当初、潞州の人々が孟氏を裏切り、牙将・安居受らは河東軍を招いて潞州を奪取した。その後、孟遷が邢州・洺州・磁州を率いて李克用に帰順すると、克用は彼を重用し「軍城都虞候」に任命。一族も要職に就いたため、居受らは不満と不安を抱いていた。 昭義節度使には精鋭部隊「後院将」が所属していた。三州を得た李克用が河朔地方の攻略を目論み、李克恭(克用の弟)に対し特に勇猛な後院将500名を晋陽へ送るよう命じたため、潞州の人々はこれを惜しんだ。 李元審と馮霸に部隊護送を任せたが、銅鞮で馮霸が兵士を強奪して反乱。山沿いに南下し沁水に至ると兵力三千人となった。迎撃した李元審は負傷し潞州へ撤退。庚子の日(6月21日)、克恭が見舞いに行くと、安居受一派が蜂起して屋敷を襲撃・放火し、克恭と元審は死亡。居受が留後に推戴され朱全忠傘下に入った。 居受が馮霸を召喚するも応じず、逃亡中に農民(野人)に殺害される。馮霸は潞州入りして自ら留後となった。 当時朝廷では李克用討伐の最中であり、克恭死を知ると群臣が祝賀した。朱全忠は河陽留後・朱崇節を派兵させて潞州管理を命じる一方、李克用は康君立と李存孝に包囲攻撃を指示。 壬子(7月3日)、張濬が諸軍52都および邠寧鄜夏の異民族連合軍五万を率いて出陣すると、昭宗皇帝は安喜楼で餞別した。周囲を退けた張濬が「先に外患(李克用)を除き、後で内憂(宦官勢力)を断ちます」と奏上する場面を楊復恭が盗聴。 両軍中尉による長楽板での送別宴では、復恭が酒を勧めた。辞退した張濬に「征伐の指揮官が気取っているのか?」と揶揄されると、「賊平定後に見せましょう」と返答し、復恭の恨みを買った。 癸丑(7月4日)には李罕之の官爵剥奪。六月に孫揆が昭義節度使兼招討副使に任命される。 丁巳(6/27?)、茂州刺史・李継昌が成都救援に向かうも、己未(同29日)王建に斬殺された。辛酉(7月1日)、資簡都制置応援使・謝従本が雅州刺史・張承簡を殺害し城ごと王建へ降伏した。 【解説】■歴史的意義この記述は唐末期の藩鎮抗争劇縮図を示す。特に: 1. 潞州争奪戦 - 李克用(晋陽)vs朱全忠(汴州)vs朝廷による三つ巴の攻防が展開 - 「後院将」移動命令→馮霸反乱→安居受クーデター連鎖は、軍閥内の人材管理失敗事例として典型
■人物関係分析
■軍事戦略考察
■原文解釈補足
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| 孫儒求好於朱全忠,全忠表為淮南節度使。未幾,全忠殺其使者,遂復為仇敵。 光啟末,德州刺史盧彥威逐義昌節度使楊全玫,自稱留後,求旌節,朝廷未許。至是,王鎔、羅弘信因張濬用兵,為之請,乃以彥威為義昌節度使。 張濬會宣武、鎮國、靜難、鳳翔、保大、定難諸軍於晉州。 更命義成軍曰宣義。辛未,以朱全忠為宣武、宣義節度使。全忠以方有事徐、楊,徵兵遣戍,殊為遼闊,乃辭宣義,請以胡真為節度使,從之。然後賦出入,皆制於全忠,一如巡屬。及胡真入為統軍,竟以全忠為兩鎮節度使,罷淮南不領焉。 秋,七月,官軍至陰地關,朱全忠遣驍將葛從周將千騎,潛自壺關夜抵潞州,犯圍入城。又遣別將李讜、李重胤、鄧季筠將兵攻李罕之於澤州,又遣張全義、朱友裕軍於澤州之北,為從周應援。季筠,下邑人也。全忠奏:「臣已遣兵守潞州,請孫揆赴鎮。」張濬亦恐昭義遂為汴人所據,分兵二千,使揆將之趣潞州。八月,乙丑,揆發晉州,李存孝聞之,以三百騎伏於長子西谷中。揆建牙杖節,褒衣大蓋,擁眾而行。存孝突出,擒揆及賜旌節中使韓歸范、牙兵五百餘人,追擊餘眾於刁黃嶺,盡殺之。存孝械揆及歸范,絲斥以素練,徇於潞州城下曰:「朝廷以孫尚書為潞帥,命韓天使賜旌節,葛僕射可速歸大梁,令尚書視事。 |
現代日本語訳:朱全忠は孫儒との友好関係を求め、淮南節度使の地位を与えた。しかし間もなく朱全忠は使者を殺害し、両者は再び敵対関係となった。 光啓末年(887年)、徳州刺史であった盧彦威が義昌節度使・楊全玫を追放し、自ら留後と称して官職の承認を求めた。朝廷はこれを認めなかったが、この時期に王鎔と羅弘信が張濬の軍事行動を支援する形で彼のために奏請したため、盧彦威は正式に義昌節度使に任命された。 張濬は宣武・鎮国・静難・鳳翔・保大・定難の各軍を晋州に集結させた。また義成軍を「宣義」と改称し、辛未(891年)には朱全忠が宣武・宣義両節度使となった。しかし朱全忠は徐州や揚州での戦役に専念する必要から、広域支配による兵員徴発の困難を理由に辞退し、代わりに胡真の任命を奏請して認められた。だが実質的な財政・軍事権は依然として朱全忠が掌握し、宣義軍も彼の配下と同様に扱われた。後に胡真が中央の統軍職に転出すると、結局朱全忠が両鎮節度使を兼任することとなり、淮南節度使の地位は放棄された。 秋7月、官軍が陰地関に到達した際、朱全忠は精鋭葛従周に千騎を与え壺関から夜襲で潞州城へ潜入させた。別働隊として李讜・李重胤・鄧季筠(下邑出身)を沢州の李罕之攻撃に向かわせ、張全義と朱友裕には沢州北部で援護態勢を取らせた。朱全忠は「潞州守備を完了したので孫揆の赴任を」と上奏すると、これを警戒した張濬は二千兵を分けて孫揆に率いさせ急ぎ潞州へ向かわせた。 8月乙丑(891年9月)、晋州を発った孫揆の軍勢に対し、李存孝は三百騎を率いて長子県西谷に潜伏。儀仗を立て礼服で威厳を示しながら行進する孫揆軍を急襲し、彼と勅使韓帰範・護衛兵五百余人を捕縛。残党も刁黄嶺で殲滅した。李存孝は捕虜たちに白絹の拘束衣を着せ潞州城下で示衆しながら「朝廷が孫尚書を派遣し、葛従周(僕射)へは大梁帰還と孫揆への職務引継ぎを命じている」と叫ばせた。 注記:
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| 」遂絲斥以獻於克用。克用囚之,既而使人誘之,欲以為河東副使。揆曰:「吾天子大臣,兵敗而死,分也,豈能伏事鎮使邪!」克用怒,命以鋸鋸之,鋸不能入。揆罵曰:「死狗奴!鋸人當用板夾,汝豈知邪!」乃以板夾之,至死,罵不絕聲。 丙寅,孫儒攻潤州。 蘇州刺史杜孺休到官,錢鏐密使沈粲害之。會楊行密將李友拔蘇州,粲歸杭州。鏐欲歸罪於粲而殺之,粲奔孫儒。 王建退屯漢州。 陳敬瑄括富民財以供軍,置征督院,逼以桎梏棰楚,使各自佔。凡有財者如匿贓、虛占,急征,鹹不聊生。 李罕之告急於李克用,克用遣李存孝將五千騎救之。 九月,壬寅,朱全忠軍於河陽。汴軍之初圍澤州也,呼李罕之曰:「相公每恃河東,輕絕當道。今張相公圍太原,葛僕射入潞府,旬日之間,沙陀無穴自藏,相公何路求生邪!」及李存孝至,選精騎五百,繞汴寨呼曰:「我,沙陀之求穴者也,欲得爾肉以飽士卒,可令肥者出鬥!」汴將鄧季筠,亦驍將也,引兵出戰,存孝生擒之。是夕,李讜、李重胤收眾遁去,存孝、罕之隨而擊之,至馬牢山,大破之,斬獲萬計,追至懷州而還。存孝復引兵攻潞州,葛從周、朱崇節棄潞州而歸。戊申,全忠庭責諸將橈之罪,斬李讜、李重胤而還。 李克用以康君立為昭義留後,李存孝為汾州刺史。存孝自謂擒孫揆功大,當鎮昭義,而君立得之,憤恚不食者數日,縱意刑殺,始有叛克用之志。 |
翻訳本文遂に張濬を捕らえて李克用のもとへ献上した。克用は彼を囚禁し、後に人を使い誘降しようとしたが、河東副使の地位を与えると言う。しかし揆(=張濬)は言った。「私は天子の大臣である。戦いに敗れて死ぬのは本望だ。どうして一地方節度使に仕えられようか!」克用は激怒し、鋸で処刑するよう命じたが刃が入らない。揆は罵って言う。「この犬め! 人を鋸引きにするには板ではさむべきだと知らぬのか!」そこで板で挟んだところ、絶命まで罵声が止まなかった。 丙寅(日付)、孫儒が潤州を攻撃した。 蘇州刺史杜孺休が着任すると、銭鏐は密かに沈粲に暗殺させた。その直後、楊行密の部将李友が蘇州を奪取し、粲は杭州へ逃げ帰る。だが銭鏐は罪を粲にかぶせて処刑しようとしたため、彼は孫儒のもとへ亡命した。 王建は漢州に撤退して駐屯。 陳敬瑄は富者の財産を徴発し軍費にあてる「征督院」を設置。枷や鞭で拷問し自己申告させたが、虚偽の報告には即時強制徴収を行い、民衆は生きるすべもなかった。 李罕之が李克用に救援要請すると、克用は李存孝に五千騎を率いさせ援軍派遣。 九月壬寅(19日)、朱全忠が河陽へ布陣。汴軍が沢州包囲時に叫んだ声:「貴公は常に河東の力を頼み我らを見下してきたが、今や張相公(=張濬)は太原を包囲し葛僕射(=葛従周)は潞府に入城した。もはや沙陀族には逃げ場などない!」しかし李存孝軍到着後、精鋭五百騎で汴陣営の周囲を駆け回り挑発:「我らこそ穴に隠れる沙陀だ!お前らの肉で兵士を腹一杯にする。肥えた者を出せ!」汴将鄧季筠が迎撃に出るも存孝は彼を生け捕った。その夜、李讜と李重胤は軍勢をまとめて逃亡したため、存孝・罕之は追撃し馬牢山で大破。斬首及び鹵獲は万単位に上り懐州まで追走して帰還する。 その後存孝が潞州攻撃すると葛従周と朱崇節は城を放棄して逃走したため、戊申(25日)全忠は本営で敗将たちの責任を問い李讜・重胤を斬首。 李克用は康君立を昭義留後役に任じ、存孝を汾州刺史とした。しかし存孝は自ら孫揆生け捕りの功績が大きく昭義鎮守を当然と考えていたため、この人事で激怒し数日間絶食。以後勝手気ままな刑罰・殺戮を行い克用への謀反の心を持つに至った。 解説■ 歴史的意義 ■ 人物関係 ■ 戦術的注目点 ■ 社会状況 Translation took 819.0 seconds. | ||||||||||||
| 李匡威攻蔚州,虜其刺史邢善益,赫連鐸引吐蕃、黠戛斯眾數萬攻遮虜平,殺其軍使劉鬍子。克用遣其將李存信擊之,不勝;更命李嗣源為存信之副,遂破之。克用以大軍繼其後,匡威、鐸皆敗走,獲匡威之子武州刺史仁宗及鐸之婿,俘斬萬計。 李嗣源性謹重廉儉,諸將相會,各自詫勇略,嗣源獨默然,徐曰:「諸君喜以口擊賊,嗣源但以手擊賊耳。」眾慚而止。 楊行密以其將張行周為常州制置使。閏月,孫儒遣劉建鋒攻拔常州,殺行周,遂圍蘇州。 邛州刺史毛湘,本田令孜親吏,王建攻之急,食盡,救兵不至。壬戌,湘謂都知兵馬使任可知曰:「吾不忍負田軍容,吏民何罪!爾可持吾頭歸王建。」乃沐浴以俟刃。可知斬湘及二子降於建,士民皆泣。甲戌,建持永平旌節入邛州,以節度判官張琳知留後。繕完城隍,撫安夷獠,經營蜀、雅。冬,十月,癸未朔,建引兵還成都,蜀州將李行周逐徐公鉥,舉城降建。 乙酉,朱全忠自河陽如滑州視事,遣使者請糧馬及假道於魏以伐河東,羅弘信不許,又請於鎮,鎮人亦不許。全忠乃自黎陽濟河擊魏。 加邠寧節度使王行瑜侍中,佑國節度使張全義同平章事。 官軍出陰地關,遊兵至於汾州。李克用遣薛志勤、李承嗣將騎三千營於洪洞,李存孝將兵五千營於趙城。鎮國節度使韓建以壯士三百夜襲存孝營,存孝知之,設伏以待之。 |
現代日本語訳:李匡威は蔚州を攻撃して刺史の邢善益を捕らえ、赫連鐸は吐蕃と黠戛スから数万の兵を率いて遮虜平を襲い、守備隊長の劉鬍子を殺害した。李克用が配下の李存信に迎撃させたが敗北し、代わりに李嗣源を副将として派遣すると赫連鐸軍を破った。本隊も追撃して匡威と赫連鐸は逃走し、武州刺史・仁宗(李匡威の子)や赫連鐸の娘婿らを捕虜とするなど敵兵一万余りを討ち取った。 李嗣源は慎重で清廉な性格であり、諸将が勇猛さを自慢する中、彼だけは黙っていた。後に静かに「皆は口で賊を倒すと言うが、私は手を使って倒すのみだ」と述べると、周囲の者は恥じて議論を止めた。 楊行密は配下の張行周を常州制置使に任命したが、閏月に孫儒が劉建鋒を派遣して常州を陥落させ行周を殺害。さらに蘇州を包囲した。 邛州刺史・毛湘(元々田令孜の側近)は王建から激しい攻撃を受け食糧も尽き援軍も来なかったため、兵馬指揮官・任可知に「私は田令孜への忠義を裏切れぬが住民は無実だ。私の首を持って降伏せよ」と命じ、沐浴して死を待った。任可知は毛湘父子三人の首級を持ち王建に投降し、民衆は皆涙した。その後、王建が永平節度使として邛州に入城すると判官・張琳に統治を委ね、自らは城壁修復や周辺民族の懐柔にあたり蜀州・雅州の整備に向かった。 十月、成都へ帰還途中で蜀州守将・李行周が徐公鉥を追放し王建への降伏を申し出た。一方、朱全忠は河陽から滑州に移動すると魏州の羅弘信に対し「食糧供給と通行許可」を要求したが拒否され、鎮州にも同様に要請して失敗したため黎陽で自ら渡河し魏州攻撃を開始。 朝廷では邠寧節度使・王行瑜に侍中位を授け、佑国節度使・張全義には宰相待遇(同平章事)を与えた。また官軍が陰地関から汾州へ進出したため、李克用は薛志勤ら三千騎を洪洞に、李存孝率いる五千兵を趙城に配置。鎮国節度使・韓建の三百精鋭による夜襲を事前察知した李存孝は伏兵で撃退した。 解説:
(注記:固有名詞は原典表記を保持し、現代語訳では戦況推移・心理描写を平易化) Translation took 1651.4 seconds. | ||||||||||||
| 建兵不利,靜難、鳳翔之兵不戰而走,禁軍自潰。河東兵乘勝逐北,抵晉州西門。張濬出戰,又敗,官軍死者近三千人。靜難、鳳翔、保大、定難之軍先渡河西歸,濬獨有禁軍及宣武軍合萬人,與韓建閉城拒守,自是不敢復出。存孝引兵攻絳州,十一月,刺史張行恭棄城走。存孝進攻晉州,三日,與其眾謀曰:「張濬宰相,俘之無益;天子禁兵,不宜加害。」乃退五十里而軍;濬、建自含口遁去。存孝取晉、絳二州,大掠慈、隰之境。先是,克用遣韓歸范歸朝,附表訟冤,言:「臣父子三代,受恩四朝,破龐勳,翦黃巢,黜襄王,存易定,致陛下今日冠通天之冠,佩白玉之璽,未必非臣之力也。若以攻雲州為臣罪,則拓跋思恭之取鄜延,朱全忠之侵徐、鄆,何獨不討?賞彼誅此,臣豈無辭!且朝廷當阽危之時,則譽臣為韓、彭、伊、呂;及既安之後,則罵臣為戎、羯、胡、夷。今天下握兵立功之人,獨不懼陛下它日之罵乎!況臣果有大罪,六師征之,自有典刑,何必幸臣之弱而後取之邪!今張濬既出帥,則固難束手,已集蕃、漢兵五十萬,欲直抵蒲、潼,與濬格鬥;若其不勝,甘從削奪。不然,方且輕騎叩閽,頓首丹陛,訴奸回於陛下之扆座,納制敕於先帝之廟庭,然後自拘司敗,恭俟鈇鍎。」表至,濬已敗,朝廷震恐。濬與韓建逾王屋至河陽,撤民屋為筏以濟河,師徒失亡殆盡。 |
現代日本語訳軍勢の戦況は不利に陥り、静難・鳳翔両軍は交戦せずに撤退し、禁軍(皇帝直属軍)も自壊した。河東兵(李克用軍)は勝利に乗じて敗走する敵を追撃し、晋州城西門まで迫った。張濬が打って出たものの再び敗北し、官軍の死者は三千人近くに及んだ。静難・鳳翔・保大・定難各軍はいち早く黄河を渡り西方へ帰還したため、張濬の下には禁軍と宣武軍合わせて一万のみが残され、韓建と共に城門を閉ざして籠城するほかなくなり、以後は出撃できなくなった。李存孝(李克用の養子)は兵を率いて絳州を攻め落とし、十一月には刺史・張行恭が城を捨てて逃亡した。続けて晋州に進軍した李存孝は三日後、配下と協議して「張濬は宰相であり捕虜にしても益なし。天子の禁兵を害するのは適切ではない」と結論し、五十里退いて陣営を構えた。これを機に張濬と韓建は含口(要衝地)から逃亡した。存孝は晋州・絳州を占領すると、慈州・隰州の地域で大規模な略奪を行った。 以前より李克用は朝廷へ使者・韓帰范を送り、副書を添えて冤罪を訴えていた。「我が父子三代は四代の皇帝に恩寵を受け、龐勳を討ち黄巣を滅ぼし、襄王(李煴)を廃して易定を保全しました。陛下が今こうして通天冠を戴き白玉璽を佩くのも、臣下たちの力あってこそです。もし雲州攻撃だけを罪とするならば、拓跋思恭の鄜延占領や朱全忠(朱温)の徐・鄆侵攻はなぜ問わないのか?一方を賞し他方を罰するのは理不尽でありましょうか!朝廷が危機に瀕すれば臣下らを韓信・彭越・伊尹・呂尚に例え、天下が安定すると戎夷呼ばわりする。これでは兵権を持つ功臣たちも将来の罵声を恐れるでしょう。仮に私に大罪があるなら正式な軍律で処罰すべきであり、弱みにつけ込むのは卑怯です。今や張濬が出陣した以上は従順にはおれず、蕃漢五十万兵を集めて蒲州・潼関へ進撃し決戦する所存。敗れれば削爵も甘んじて受けるが、そうでなければ軽騎で宮門に駆けつけ御前に平伏し、奸臣の悪事を奏上した後、先帝廟に詔書を奉納して自ら刑罰を受けましょう」と。 この訴状が届いた時には既に張濬は敗北しており朝廷は震撼した。張濬と韓建は王屋山を越えて河陽まで逃れ、民家の材木で筏を作り黄河を渡ったものの、兵士らはほぼ全滅状態となっていた。 解説
※現代語訳にあたり: Translation took 1006.5 seconds. | ||||||||||||
| 是役也,朝廷倚朱全忠及河朔三鎮;及濬至晉州,全忠方連兵徐、鄆,雖遣將攻澤州而身不至。行營乃求兵糧於鎮、魏,鎮、魏倚河東為扞蔽,皆不出兵;惟華、邠、鳳翔、鄄、夏之兵會之。兵未交而孫揆被擒,幽、雲俱敗,楊復恭復從中沮之,故濬軍望風自潰。 十二月,己丑,孫儒拔蘇州,殺李友。安仁義等聞之,焚潤廬舍,夜遁。儒使沈粲守蘇州,又遣其將歸傳道守潤州。 辛丑,汴將丁會、葛從周擊魏,渡河,取黎陽、臨河,龐師古、霍存下淇門、衛縣,朱全忠自以大軍繼之。 是歲,置升州於上元縣,以張雄為刺史。 昭宗聖穆景文孝皇帝上之上大順二年(辛亥,公元八九一年) 春,正月,羅弘信軍於內黃。丙辰,朱全忠擊之,五戰皆捷,到永定橋,斬首萬餘級。弘信懼,遣使厚幣請和。全忠命止焚掠,歸其俘,還軍河上。魏博自是服於汴。 庚申,制以太保、門下侍郎、同平章事孔緯為荊南節度使,中書侍郎、同平章事張濬為鄂岳觀察使。以翰林學士承旨、兵部侍郎崔昭緯同平章事,御史中丞徐彥若為戶部侍郎、同平章事,昭緯,慎由從子;彥若,商之子也。楊復恭使人劫孔緯於長樂坡,斬其旌節,資裝俱盡,緯僅能自免。李克用復遣使上表曰:「張濬以陛下萬代之業,邀自己一時之功,知臣與朱溫深仇,私相連結。臣今身無官爵,名是罪人,不敢歸陛下籓方,且欲於河中寄寓,進退行止,伏俟指麾。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』より)この戦役において朝廷が朱全忠や河朔三鎮に期待していたにもかかわらず、張濬が晋州へ到着した時点で、朱全忠は徐州・鄆州方面での軍事行動の最中であり、配下を派遣して沢州を攻撃させたものの自らは参戦しなかった。遠征軍司令部(行営)が鎮州や魏州に兵士と食糧の供給を求めたところ、両者は河東勢力を盾として頼みにしていたため応じず、華州・邠州・鳳翔・鄄州・夏州からのみ援軍が集結した。戦闘開始前に孫揆が捕虜となり、幽州・雲州方面の部隊も敗退し、楊復恭が朝廷内部で妨害工作を行ったため、張濬軍は敵軍の気配を察するや自壊して潰走した。 十二月十九日(己丑)、孫儒が蘇州を陥落させ李友を殺害。安仁義らはこの報を受け取ると潤州の家屋に火を放ち、夜陰に乗じて逃走した。孫儒は沈粲に蘇州守備を命じ、別働隊として帰伝道を派遣して潤州を占領させた。 十二月朔日(辛丑)、汴軍の丁会と葛従周が魏州へ攻め込み黄河を渡河し黎陽・臨河を制圧。龐師古と霍存は淇門・衛県を陥落させ、朱全忠自ら主力部隊を率いて続いた。 同年、上元県に昇州を設置して張雄を刺史(長官)とした。 昭宗皇帝治世 大順二年(辛亥年/西暦891年) 正月、羅弘信が内黄へ軍を進めた。十七日(丙辰)、朱全忠はこれを攻撃し五度の戦いで連勝して永定橋まで進出、万余りの首級を挙げた。羅弘信は恐れをなして使者に多額の賠償金を持参させて和睦を請うた。朱全忠は略奪や放火の中止命令を発し捕虜を返還すると、軍勢を河畔へ撤退させた。これにより魏博地方(河北)は汴州勢力への服従を余儀なくされた。 二十一日(庚申)、詔勅によって太保・門下侍郎・同平章事の孔緯が荊南節度使に、中書侍郎・同平章事張濬が鄂岳観察使へ異動となった。翰林学士承旨で兵部侍郎の崔昭緯を同平章事とし、御史中丞徐彦若は戸部侍郎兼同平章事に任命された(注:崔昭緯は慎由の甥、徐彦若は商という人物の子)。楊復恭が長楽坂で孔緯一行を襲撃させ、旌節(将軍印)を切断し物資を奪い取ったため、孔緯は辛くも逃げ延びるのが精一杯だった。 李克用は改めて上表文を奉り「張濬は陛下の万世に続く基業よりも自らの一時的な功績を優先し、私と朱温(全忠)が深い遺恨を持つ事情につけ込み内通しました。今や私は官位も爵位もなく罪人の身分ですので朝廷領へ帰還できず、河東地方に仮住まいしながら進退をお待ちしている次第でございます」と述べた。 解説
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| 」詔再貶孔緯均州刺史,張濬連州刺史。賜克用詔,悉復其官爵,使歸晉陽。孫儒盡舉淮、蔡之兵濟江,癸酉,自潤州轉戰而南,田頵、安仁義屢敗退,楊行密城戍皆望風奔潰。儒將李從立奄至宣州東溪,行密守備尚未固,眾心危懼,夜,使其將合肥台濛將五百人屯溪西;濛使士卒傳呼,往返數四,從立以為大眾繼至,遽引去。儒前軍至溧水,行密使都指揮使李神福拒之。神福陽退以示怯,儒軍不設備,神福夜帥精兵襲之,俘斬千人。 二月,加李克用守中書令,復李罕之官爵;再貶張濬繡州司戶。 韋昭度將諸道兵十餘萬討陳敬瑄,三年不能克,饋運不繼,朝議欲息兵。三月,乙亥,制復敬瑄官爵,令顧彥朗、王建各帥眾歸鎮。 王師範遣都指揮使盧弘擊攻棣州刺史張蟾,弘引兵還攻師池,師範使人以重賂迎之,曰:「師範童騃,不堪重任,願得避位,使保首領,公之仁也。」弘以師範年少,信之,不設備。師範密謂小校安丘劉鄩曰:「汝能殺弘,吾以汝為大將。」弘入城,師範伏甲而享之,鄩殺弘於座及其黨數人。師範慰諭士卒,厚賞重誓,自將以攻棣州,執張蟾,斬之。崔安潛逃歸京師。師範以鄩為馬步副都指揮使。詔以師範為平盧節度使。師範和謹好學,每本縣令到官,師範輒備儀衛往謁之;令不敢當,師範命客將挾持,令坐於聽事,自稱「百姓王師範」,拜之於庭。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)詔書が発せられ、孔緯を均州刺史へ再び左遷し、張濬は連州刺史とした。李克用には官爵を全て回復した上で晋陽への帰還を命じる勅書を与えた。孫儒が淮河・蔡州の全軍を率いて長江を渡り、癸酉(日付)に潤州から南へ転戦すると、田頵と安仁義は連敗して後退し、楊行密配下の城砦守備隊も風聞を聞くや潰走した。孫儒の部将・李従立が宣州東渓に突如迫った時、楊行密の防備体制は未だ固まっておらず、兵卒らは動揺していた。夜陰に乗じ、配下の合肥出身の台濛に五百の兵を率いさせて溪西に駐屯させた。台濛は兵士に行き来しながら大声で叫ばせ、何度も繰り返したため、李従立は大軍が続いていると誤認し、急ぎ撤退した。 孫儒の前鋒部隊が溧水に到達すると、楊行密は都指揮使・李神福を派遣して防がせた。李神福は偽って退却し臆病を見せると、孫儒軍は警戒をおこたった。そこで夜間に精鋭を率いて奇襲をかけ、千人を捕斬した。 二月、李克用に守中書令の官職を加授し、李罕之には官爵を回復させた。一方で張濬を繡州司戸へ再左遷した。 韋昭度が諸道から集めた十余万の軍勢で陳敬瑄討伐にあたったが、三年経っても攻略できず、兵糧補給も途絶えたため朝廷では停戦論が浮上。三月乙亥(日付)、詔書により陳敬瑄の官爵を回復させるとともに顧彦朗と王建に各自軍勢を率いて帰鎮するよう命じた。 王師範は都指揮使・盧弘を派遣し棣州刺史・張蟾を攻撃させたが、盧弘が兵を返して王師範自身を討とうとした。そこで師範は使者に厚い賄賂を持たせて出迎えさせ「私は若輩で重任に耐えられず、退位して命だけは助けていただきたい」と伝えた。盧弘は師範が若年と見て油断し警戒を怠った。師範は密かに副将・安丘出身の劉鄩に「盧弘を討ち取れれば大将軍に任じよう」と命じた。盧弘が城に入ると、師範は宴席で伏兵を潜ませ、劉鄩が座中で盧弘ら数名を斬殺した。その後、兵士たちを厚く慰撫し自ら棣州攻略に赴き張蟾を捕縛して処刑。崔安潜は長安へ逃亡したため、師範は劉鄩を馬歩副都指揮使に任命する一方で朝廷から平盧節度使に正式任官された。 王師範は温和かつ好学であり、管内の県令が着任すると必ず儀仗隊を整えて謁見に出向いた。県令が辞退しても客将(護衛隊長)に強引に座らせ「百姓・王師範」と名乗り庭中で跪拝したという。 解説
(※歴史用語について:原文中の「都指揮使」等の軍職名や「司戸」「刺史」などの官職名は唐代特有のものですが、現代日本語で理解可能な範囲での表記を採用しました) Translation took 908.6 seconds. | ||||||||||||
| 僚佐或諫,師範曰:「吾敬桑梓,所以教子孫不忘本也。」 張濬至藍田,逃奔華州依韓建,與孔緯密求救於朱全忠。全忠上表為緯、濬訟冤,朝廷不得已,並聽自便。緯至商州而還,亦寓居華州。 邢洺節度使安知建潛通朱全忠,李克用表以李存孝代之。知建懼,奔青州,朝廷以知建為神武統軍。知建帥麾下三千人將詣京師,過鄆州。朱瑄與克用方睦,伏兵河上,斬之,傳首晉陽。 夏,四月,有彗星見於三台,東行入太微,長十丈餘。甲申,赦天下。 成都城中乏食,棄兒滿路。民有潛入行營販米入城者,邏者得之,以白韋昭度,昭度曰:「滿城饑甚,忍不救之!」釋勿問。亦有白陳敬瑄者,敬瑄曰:「吾恨無術以救餓者,彼能如是,勿禁也。」由是販者浸多,然所致不過斗升,截筒,逕寸半,深五分,量米而鬻之,每筒百餘錢,餓殍狼籍。軍民強弱相陵,將吏斬之不能禁;乃更為酷法,或斷腰,或斜劈,死者相繼而為者不止。人耳目既熟,不以為懼。吏民日窘,多謀出降,敬瑄悉捕其族黨殺之,慘毒備至。內外都指揮使、眉州刺史成都徐耕,性仁恕,所全活數千人。田令孜曰:「公掌生殺而不刑一人,有異志邪?」耕懼,夜,取俘囚戮於市。 王建見罷兵制書,曰:「大功垂成,奈何棄之!」謀於周庠,庠勸建請韋公還朝,獨攻成都,克而有之。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)配下の官吏が諫めると、師範は言った。「我々が郷里を敬うのは子孫に故郷を忘れさせぬためだ」 張濬は藍田まで来て逃亡し、華州の韓建のもとに身を寄せた。孔緯と密かに朱全忠へ救援を要請すると、全忠は朝廷に上表して両者の無実を訴えた。朝廷はやむなく彼らの自由行動を認めたが、孔緯は商州まで行き引き返し、これまた華州に滞在した。 邢洺節度使・安知建が密かに朱全忠と通じたため、李克用は李存孝の後任任命を上奏。知建は恐れて青州へ逃亡したものの、朝廷から神武統軍に任ぜられた。配下三千人を率いて長安へ向かう途中、鄆州で朱瑄(克用派)の伏兵に河畔で斬られ、首級は晋陽(李克用の本拠)へ送られた。 夏四月、三台星付近に十丈余りの彗星が現れ東方へ移動し太微垣に入った。甲申の日、大赦令が出された。 成都城内では食糧不足で捨て子が路上にあふれた。密かに官軍陣営から米を買い城へ運ぶ者を捕らえた際、韋昭度は「飢えた民を見殺しにできようか」と解放した。陳敬瑄もまた報告を受けると「救う術のない私が彼らの行動を止められるか」として黙認した。以後密売は増えたが取引量は少量で、径一寸半・深さ五分(約4.5×1.5cm)の竹筒単位で販売され、一筒百余銭という高値にもかかわらず餓死者は累々たった。 軍民による弱肉強食が横行し、将吏が斬罪に処しても止まず、腰斬や斜め斬りなど残酷な刑罰へ強化された。だが人々は慣れて恐怖心を失い、投降計画も増加。敬瑄は一族ごと虐殺で応じたため惨状は極みに達した。 内外都指揮使・眉州刺史(成都出身)の徐耕は慈悲深く数千人を救ったが、田令孜から「生殺与奪の権がありながら処刑しないのは謀反か」と詰問され恐怖し、夜間に捕虜を市場で虐殺した。 王建が停戦命令書を見て「今やっと落城寸前なのに撤退とは」と言うと、周庠は進言した。「韋公(昭度)に帰朝を勧め我々だけが成都を攻めれば占領できるでしょう」 解説
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| 建表稱:「陳敬瑄、田令孜罪不可赦,願畢命以圖成功。」昭度無如之何,由是未能東還。建說昭度曰:「今關東籓鎮迭相吞噬,此腹心之疾也,相公宜早歸廟堂,與天子謀之。敬瑄,疥癬耳,當以日月制之,責建,可辦也!」昭度猶豫未決。庚子,建陰令東川將唐友通等擒昭度親吏駱保於行府門,臠食之,雲其盜軍糧。昭度大懼,遽稱疾,以印節授建,牒建知三使留後兼行營招討使,即日東還。建送至新都,跪觴馬前,泣拜而別。昭度甫出劍門,即以兵守之,不復內東軍。昭度至京師,除東都留守。建急攻成都,環城烽塹亙五十里。有狗屠王鷂,請詐得罪亡入城說之,使上下離心,建遣之。鷂入見陳敬瑄、田令孜,則言「建兵疲食盡,將遁矣」,出則鬻茶於市,陰為吏民稱建英武,兵勢強盛;由是敬瑄等懈於守備而眾心危懼。建又遣其將京兆鄭渥詐降以覘之,敬瑄以為將,使乘城,既而復以詐得歸。建由是悉知城中虛實,以渥為親從都指揮使,更姓名曰王宗渥。 以武安節度使周岳為嶺南西道節度使。 李克用大舉擊赫連鐸,敗其兵於河上,進圍雲州。 楊行密遣其將劉威、朱延壽將兵三萬擊孫儒於黃池,威等大敗。延壽,舒城人也。孫儒軍於黃池,五月,大水,諸營皆沒,乃還揚州,使其將康暀據和州,安景思據滁州。 丙午,立皇子祐為德王。 |
現代日本語訳:王建が上表文で述べた:「陳敬瑄(ちんけいせん)と田令孜(でんれいし)の罪状は赦免できず、命を賭してでも討伐を成功させます」。韋昭度(いしょうど)はこれに対応できず、そのため成都から東へ帰還できなかった。王建が韋昭度に進言した:「今や関東の藩鎮諸侯が互いに併合しあっているのは心臓病のような大問題です。宰相殿は早急に朝廷にお戻りになり、天子と対策を協議されるべきでしょう。陳敬瑄などは単なる皮膚病レベルであり、時間をかければ制圧できます。私・建に責任をお任せください!」韋昭度はなおも躊躇して決断できなかった。 庚子の日(唐暦の特定日)、王建は密かに東川将軍の唐友通らに命じ、行政府門前で韋昭度の側近・駱保を捕縛。細かく切り刻んで食い殺させ、「彼が兵糧を横領した」と偽装した。これにより韋昭度は大いに恐れ、急病を口実に官印と節鉞(軍権の象徴)を王建へ譲渡。「三使留後兼行営招討使」(臨時総司令職)への就任公文書を交付すると即日東帰した。王建は新都まで見送り、馬前で跪き酒盃を捧げて別れを告げ、涙ながらに礼拝して分かれた。 しかし韋昭度が剣門関(四川の要衝)を出るや否や、王建は直ちに関所封鎖。以後朝廷軍の再入域を拒絶した。韋昭度が長安へ帰還すると「東都留守」(名目上の洛陽守備職)に左遷された。 一方で王建は成都への攻勢を強化。包囲陣の烽火台と堀割りは五十里(約30km)連続した。犬肉商人の王鷂が偽装亡命による内部攪乱作戦を志願し、潜入に成功する。王鷂は陳敬瑄・田令孜には「王建軍は疲弊糧尽きて撤退寸前」と嘘を報告しながら、市場で茶を売る傍ら民衆へ密かに「王建将軍こそ英武の才あり兵勢強大なり」と宣伝。これにより守備側は警戒心を緩め、住民に動揺が広まった。 さらに王建配下の鄭渥(ていわく)を偽装降伏させて内情偵察を実行させる。陳敬瑄は彼を登用して城壁守備隊長としたが、間もなく鄭渥は脱出作戦で帰還したため、城内の兵力配置・士気など全て王建に筒抜けとなった。以後、鄭渥は「宗」字を与えられ王宗渥(おうそうわつ)と改名し親衛隊長へ登用される。 付帯事項: - 武安節度使の周岳を嶺南西道節度使に転任 - 李克用が赫連鐸を大攻撃。河畔で勝利後、雲州包囲戦開始 - 楊行密配下の劉威・朱延寿(しゅえんじゅ)率いる三万軍が黄池で孫儒と交戦して壊滅的敗北(朱は舒城出身) - 五月に長江流域大洪水:孫儒陣営水没により揚州へ撤退。康暀を和州守備将、安景思を滁州守備将として配置 - 丙午の日、皇子・祐を徳王に冊立 解説:
※史書原文への忠実性と現代語としての可読性両立に注力。ルビ禁則・出典非表示指定厳守し、解釈的要素は解説セクションへ分離した。 Translation took 2242.4 seconds. | ||||||||||||
| 楊行密遣其將李神福攻和、滁,康暀降,安景思走。 秋,七月,李克用急攻雲州,赫連鐸食盡,奔吐谷渾部,既而歸於幽州。克用表大將石善友為大同防禦使。 朱全忠遣使與楊行密約共攻孫儒。儒恃其兵強,欲先滅行密,後敵全忠,移牒籓鎮,數行密、全忠之罪,且曰:「俟平宣、汴,當引兵入朝,除君側之惡。」於是悉焚揚州廬舍,盡驅丁壯及婦女渡江,殺老弱以充食。行密將張訓、李德誠潛入揚州,滅餘火,得谷數十萬斛以賑饑民。泗州刺史張諫貸數萬斛以給軍,訓以行密之命饋之,諫由是德行密。 邢洺節度使李存孝勸李克用攻鎮州,克用從之。八月,克用南巡澤潞,遂涉懷孟之境。 朱全忠遣其將丁會攻宿州,克其外城。 乙未,孫儒自蘇州出屯廣德,楊行密引兵拒之。儒圍其寨,行密將上蔡李簡帥百餘人力戰,破寨,拔行密出之。 王建攻陳敬瑄益急,敬瑄出戰輒敗,巡內州縣率為建所取。威戎節度使楊晟時饋之食,建以兵據新都,彭州道絕。敬瑄出,慰勉士卒,皆不應。辛丑,田令孜登城謂建曰:「老夫向於公甚厚,何見困如是?」建曰:「父子之恩豈敢忘!但朝廷命建討不受代者,不得不然。倘太師改圖,建復何求!」是夕,令孜自攜西川印節詣建營授之,將士皆呼萬歲。建泣謝,請復為父子如初。先是,建常誘其將士曰:「成都城中繁盛如花錦,一朝得之,金帛子女恣汝曹所取,節度使與汝曹迭日為之耳!」壬寅,敬瑄開城迎建。 |
現代日本語訳楊行密は配下の将軍・李神福を派遣して和州と滁州を攻撃させた。康暀が降伏し、安景思は逃走した。 秋七月、李克用が雲州を急襲すると、赫連鐸は兵糧不足に陥り吐谷渾部へ敗走後、幽州に逃亡した。克用は大将・石善友を大同防禦使として朝廷に推薦した。 朱全忠(朱温)は使者を派遣し楊行密と共同で孫儒討伐の盟約を結んだ。孫儒は自軍の強さを頼み、先に行密を滅ぼしてから全忠に対抗しようと考えた。諸藩鎮へ布告文を発し「宣州(楊)と汴州(朱)を平定後には朝廷に進軍し君側の奸臣を除く」と宣言した。さらに揚州全域で民家を焼き払い、壮年男女を強制的に長江北岸へ移動させ、老弱者は食糧代わりに殺害した。行密配下の張訓・李徳誠が密かに揚州城に入り残り火を消し止め、数十万斛の穀物を発見して飢民救助に充てた。泗州刺史・張諫が兵糧調達のために数万斛を借りようとしたところ、行密は訓を通じて無償で提供したため、諫は深く恩義を感じるようになった。 邢洺節度使・李存孝は李克用に鎮州攻撃を進言し、克用はこれを受諾。八月、克用は澤潞地方へ南下巡視後、懐州と孟州の境界まで軍を進めた。 朱全忠配下の丁会が宿州外城攻略に成功した。 乙未(21日)、蘇州から出撃した孫儒が広徳に駐屯すると楊行密は迎撃に向かった。儒が陣営を包囲する中、行密軍の上蔡出身武将・李簡が百余名の兵で決死の突撃を敢行し敵陣を突破して主君を救出した。 王建による陳敬瑄への攻勢が激化し、敬瑄は出戦するたびに敗北。管轄州県は次々と建に奪われた。威戎節度使・楊晟から兵糧供給を受けていたが、新都を占領されたため彭州との補給路が遮断される危機的状況の中、敬瑄自ら陣頭激励に出るも兵士の応答はなかった。辛丑(27日)、田令孜が城壁に登り王建に対し「私はこれまで君を厚遇してきたではないか」と訴えると、建は「父子の恩義は忘れませんが朝廷より『交代拒否者討伐』を命じられている以上やむを得ない。もし太師(陳敬瑄)が方針変更なされば攻撃停止します」と返答。その夜、令孜自ら西川節度使の印鑑を持参して建の陣営に降伏すると兵士らは万歳を叫んだ。建は涙で感謝し「元通りの父子関係を取り戻そう」と提案した。実は以前から建が配下へ「成都攻略後は金銀絹姫を好き放題掠奪させ、節度使の座も順番に与える」と煽っていたことに起因する壬寅(28日)、敬瑄は城門を開いて王建を迎え入れた。 解説【背景概要】このテキストは唐王朝崩壊期「五代十国時代」(907-960年)の前段階、各地で軍閥勢力が割拠した状況を示す。特に以下三つの抗争軸が並行進行: 1. 江淮地域:楊行密(呉王/南呉基盤)vs 孫儒(残虐支配) 2. 山西・河北圏:李克用(後唐の祖)と朱全忠(後梁創始者)派閥 3. 四川盆地:陳敬瑄&田令孜(朝廷宦官勢力) vs 王建(前蜀建国者) 【核心的な動向】
【史料価値】『資治通鑑』編者・司馬光は戦乱描写に「暴君への警告」と「仁政重視」という二重意図: - 孫儒の蛮行→速やかな滅亡(実質897年楊行密に敗死) - 王建の兵士煽動発言→後に前蜀で豪奢政治を行い短期王朝化した伏線 といった因果応報的史観が透ける。
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| 建署其將張勍為馬步斬斫使,使先入城。乃謂將士曰:「吾與汝曹三年百戰,今始得城,汝曹不憂不富忠,慎勿焚掠坊市。吾已委張勍護之矣,彼幸執而白我,我猶得赦之;若先斬而後白,吾亦不能救也!」既而士卒有犯令者,勍執百餘人,皆捶其胸而殺之,積屍於市,眾莫敢犯。故時人謂勍為「張打胸」。癸卯,建入城,自稱西川留後。小校韓武數於使廳上馬,牙司止之,武怒曰:「司徒許我迭日為節度使;上馬何為!」建密遣人刺殺之。 初,陳敬瑄之拒朝命也,田信孜欲盜其軍政,謂敬瑄曰:「三兄尊重,軍務煩勞,不若盡以相付,日具記事咨呈,兄但高居自逸而已。」敬瑄素無智能,忻然許之。自是軍事皆不由己,以至於亡。建表敬瑄子陶為雅州刺史,使隨陶之官,明年,罷歸,寓居新津,以一縣租賦贍之。 癸丑,建分遣士卒就食諸州,更文武堅姓名曰王完阮,謝從本曰王宗本。陳敬瑄將佐有器干者,建皆禮而用之。 六軍十二衛觀軍容使、左神策軍中尉楊復恭總宿衛兵,專制朝政,諸假子皆為節度使、刺史,又養宦官子六百人,皆為監軍。假子龍劍節度使守貞、武定節度使守忠不輸貢賦,上表訕薄朝廷。上舅瑰求節度使,上訪於復恭,復恭以為不可。瑰怒,詬之。瑰出入禁中,頗用事,復恭惡之,奏以為黔南節度使。至吉柏津,令山南西道節度使楊守亮覆諸江中,宗族賓客皆死,以舟敗聞。 |
現代日本語訳軍閥の指導者は配下の将軍・張勍を「馬歩斬斫使」(都市監察官)に任命し、先鋒として城へ入らせた。彼は将士に向けて宣言した。「我々は三年間、百戦を共にしてきたが、ようやくこの街を手に入れた。諸君の富貴と忠義を保証するゆえ、市中で放火や略奪を行ってはならない。すでに張勍に都市警護を命じた。もしお前たちが規則違反をしても、彼が捕らえて私に報告すれば赦免できる。だが先に斬った後で報告されたなら、助けることはできぬ!」 その後、兵士の中に命令違反者が現れると、張勍は百名余りを逮捕し、全員の胸を殴打して処刑した。死体が市場に積み上げられると、誰も規則を犯す者は現れなかった。このため当時の人々は張勍を「張打胸(張の胸殴り)」と呼んだ。 癸卯の日(十干十二支)、軍閥指導者は入城し、「西川留後」(西川地方代理統治者)と自称した。下級将校・韓武が何度も役所の正庁で馬に乗ろうとしたため、警備兵が制止すると、彼は激怒して叫んだ。「司徒(指導者の官職名)は『交代で節度使になる』と約束したはずだ! 馬に乗ることすら許されぬのか!」この言葉を聞いた指導者は密かに刺客を送って韓武を暗殺させた。 当初、陳敬瑄が朝廷の命令を拒否していた時、宦官・田信孜(田令孜)は彼から軍権を奪おうと画策し、こう持ちかけた。「閣下は重職につかれています。煩雑な軍事業務は私に委ねてください。毎日報告書をお送りしますので、どうかご高臥されて安らぎをお楽しみください」。もともと才覚のなかった陳敬瑄は喜んで承諾した。これ以降、軍事事項は彼を経由せず決定されるようになり、ついに滅亡へ至った。 指導者は朝廷に上表し、陳敬瑄の子・陶を雅州刺史(雅州長官)に任命させた。しかし陶が任地に向かう際には監視役をつけ、翌年には職を解いて新津に隠居させた。一県分の租税収入で彼らの生活を支えさせたという。 癸丑の日(十干十二支)、指導者は兵士たちを諸州に分散配置して食糧確保にあたらせ、配下の改名も強制した。文武堅は「王完阮」へ、謝従本は「王宗本」へ改めさせている。陳敬瑄麾下で有能な将佐らは皆、丁重に遇されて新体制に登用された。 宿衛軍(皇帝親衛隊)を掌握する楊復恭(宦官)は朝廷政治を専横し、養子たちを次々と節度使や刺史に据えた。さらに六百人もの宦官の子弟を養育し、全員を監軍(軍隊監督官)として各地へ送り込んだ。特に養子の龍剣節度使・楊守貞と武定節度使・楊守忠は朝廷への貢納義務を怠るばかりか、公然と皇帝を中傷する上奏文まで提出した。 皇帝の叔父である王瓌が節度使職を要求すると、楊復恭は「不可」と答えた。激怒した王瓌が彼を罵ると、楊復恭は逆に王瓌を黔南節度使(辺境の役職)へ左遷させた。赴任途中の吉柏津で山南西道節度使・楊守亮(楊復恭養子)に命じて長江に投げ込ませ、一族郎党全員を溺死させた後、「舟が転覆した」と偽装報告を行わせたのである。 解説
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| 上知復恭所為,深恨之。李順節既寵貴,與復恭爭權,盡以復恭陰事告上,上乃出復恭為鳳翔監軍,復恭慍懟,不肯行,稱疾,求致仕。九月,乙卯,以復恭為上將軍致仕,賜以幾杖。使者致詔命還,復恭潛遣腹心張綰刺殺之。 加護國節度使王重盈兼中書令。 東川節度使顧彥朗薨,軍中推其弟彥暉知留後。 冬,十月,壬午,宿州刺史張筠降於丁會。 癸未,以永平節度使王建為西川節度使;甲申,廢永平軍。建既得西川,留心政事,容納直言,好施樂士,用人各盡其才,謙恭儉素;然多忌好殺,諸將有功名者,多因事誅之。 楊復恭居第近玉山營,假子守信為玉山軍使,數往省之。或告復恭與守信謀反,乙酉,上御安喜門,陳兵自衛,命天威都將李順節、神策軍使李守節將兵攻其第。張綰帥家眾拒戰,守信引兵助之,順節等不能克。丙戌,禁兵守含光門,俟其開,欲出掠兩市,遇劉崇望,立馬諭之曰:「天子親在街東督戰,汝曹皆宿衛之士,當於樓前殺賊立功,勿貪小利,自取惡名。」眾皆曰:「諾。」遂從崇望而東。守信之眾望見兵來,遂潰走。守信與復恭挈其族自通化門出,趣興元,永安都頭權安追之,擒張綰,斬之。復恭至興元,楊守亮、楊守忠、楊守貞及綿州刺史楊守厚同舉兵拒朝廷,以討李順節為名。守厚,亦復恭假子也。 李克用攻王鎔,大破鎮兵於龍尾崗,斬獲萬計,遂拔臨城,攻元氏、柏鄉;李匡威引幽州兵救之。 |
現代日本語訳皇帝(昭宗)は楊復恭の行動を理解し、深く恨んだ。李順節が寵愛と高位を得ると、楊復恭と権力争いを始め、その密かな行為を全て皇帝に報告した。そこで皇帝は楊復恭を鳳翔監軍として左遷しようとしたが、楊復恭は怒り心頭で赴任せず、「病気」と称して隠退を願い出た。九月乙卯の日、皇帝は彼を上將軍として隠退させ、几帳(身分の高い者用の腰掛け)と杖を与えた。しかし詔書を持った使者が帰る途中、楊復恭は腹心の張綰に命じて密かに刺殺させた。 護國節度使・王重盈を中書令兼任とする。 冬十月壬午の日、宿州刺史・張筠が丁会に降伏。 楊復恭の屋敷は玉山営(禁軍兵営)に近く、養子・楊守信が玉山軍使としており頻繁に見舞いに行っていた。「反逆を企てている」との密告を受け、皇帝は乙酉の日、安喜門に出御し親衛兵を配置。天威都將・李順節と神策軍使・李守節に命じて邸宅を攻撃させたが、張綰が私兵で抵抗したため楊守信も援軍として加わり、攻略は失敗した。丙戌の日、禁軍兵士が含光門で待機し掠奪に出ようとしたところ、劉崇望と遭遇。「天子自ら街東で督戦している。諸君は宿衛(親衛隊)だ。賊を討ち功を立てよ。小利に目を眩ますな」と言われ兵士たちは従い合流した。楊守信の軍勢は官軍を見て潰走し、復恭ら一族と共に通化門から興元へ脱出したが永安都頭・権安に追撃され張綰は斬殺された。 楊復恭が興元に到着すると養子たち(山南西道節度使の守亮・龍州刺史の守忠ら)や綿州刺史の守厚も連携し、朝廷への反乱を挙げた。名目は「李順節討伐」である。なお楊守厚も復恭の養子であった。 李克用が王鎔(成徳節度使)を攻撃すると龍尾崗で鎮州軍に大勝し、数万級を斬獲して臨城を陥落させ元氏・柏郷へ進出したため李匡威(幽州節度使)は救援の兵を派遣した。 解説■歴史的背景本編は『資治通鑑』唐紀「昭宗期」(889年-904年)から抽出されたもので、宦官勢力と皇帝権力の抗争が軸である。当時、神策軍(禁衛軍)を掌握した楊復恭ら宦官が朝廷を牛耳っていたが、成長した昭宗は李順節を用いて反撃し「皇権回復」を図るも失敗する経緯を描く。同時に王建・李克用など地方藩鎮の動向や養子制度(仮子関係)が政治力学に絡む実態を示す。 ■登場勢力
■特筆すべき表現
■歴史的意義この事件は唐王朝崩壊プロセスの決定的瞬間である。宦官勢力と藩鎮将軍による権力闘争で皇帝の求心力は完全に失われ、僅か15年後には朱全忠(梁の太祖)による簒奪が発生する。王建・李克用らの台頭も「五代十国時代」への伏線となった点で重要史料と言える。
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| 克用大掠而還,軍於邢州。 十一月,曹州都將郭銖殺刺史郭詞,降於朱全忠。 泰寧節度使朱瑾將萬餘人攻單州。 乙丑,時溥將劉知俊帥眾二千降於朱全忠。知俊,沛人,徐之驍將也。溥軍自是不振。全忠以知俊為左右開道指揮使。 辛未,壽州將劉弘鄂惡孫儒殘暴,舉州降朱全忠。 十二月,乙酉,汴將丁會、張歸霸與朱瑾戰於金鄉,大破之,殺獲殆盡,瑾單騎走免。 天威都將李順節恃恩驕橫,出入常以兵自隨。兩軍中尉劉景宣、西門君遂惡之,白上,恐其作亂。戊子,二人以詔召順節,順節入至銀台門,二人邀順節於仗捨坐語,供奉官似先知自後斬其首,從者大噪而出。於是天威、捧日、登封三都大掠永寧坊,至暮乃定,百官表賀。 孫儒焚掠蘇、常,引兵逼宣州,錢鏐復遣兵據蘇州。儒屢破楊行密之兵,旌旗輜重亙百餘里。行密求救於錢鏐,鏐以兵食助之。 以顧彥暉為東川節度使,遣中使宋道弼賜旌節。楊守亮使楊守厚囚道弼,奪其旌節,發兵攻梓州。癸卯,彥暉求救於王建;甲辰,建遣其將華洪、李簡、王宗侃、王宗弼救東川。建密謂諸將曰:「爾等破賊,彥暉必犒師,汝曹於行營報宴,因而執之,無煩再舉。」宗侃破守厚七砦,守厚走歸綿州。彥暉具犒禮,諸將報宴,宗弼以建謀告之,彥暉乃以疾辭。 初,李茂貞養子繼臻據金州,均州刺史馮行襲攻下之,詔以行襲為昭信防禦使,治金州。 |
現代日本語訳:李克用は大規模な略奪を行い撤退した後、邢州に駐屯した。 十一月、曹州の都将・郭銖が刺史の郭詞を殺害し、朱全忠へ降伏した。泰寧節度使・朱瑾は一万余りの兵を率いて単州を攻撃する。 乙丑(十一月初二)、時溥配下の劉知俊が二千の兵力を引き連れて朱全忠に投降。劉知俊は沛県出身で徐州随一の勇将であり、この事件以降時溥軍は衰退した。朱全忠は彼を左右開道指揮使に任命。 辛未(十一月初八)、寿州守将・劉弘鄂が孫儒の残虐性を憎み、州全体を挙げて朱全忠へ帰順。 十二月乙酉(二十二日)、汴軍の丁会と張帰霸が金郷で朱瑾軍と交戦し壊滅的打撃を与える。朱瑾は単騎で辛うじて逃走した。 天威都都将・李順節は皇帝の寵愛を恃んで専横を極め、常に護衛兵を従えて行動していた。両中尉(宦官)の劉景宣と西門君遂がこれを危険視し「反乱の兆候あり」と上奏した結果、戊子(二十五日)に詔勅で内裏へ召喚される。銀台門内の衛兵詰所での会談中、供奉官・似先知が背後から斬首すると従者が騒然となり逃亡。天威・捧日・登封の三都軍が永寧坊を掠奪する騒動となったが夕刻鎮静化し百官は祝賀上表。 孫儒が蘇州・常州で放火略奪後、宣州へ進撃したため銭鏐が再び蘇州占領。楊行密は孫儒に連敗して百里も続く軍需物資を鹵獲されていたが、銭鏐から兵糧支援を受ける。 顧彦暉の東川節度使任命式で中使・宋道弼が旌節(任命証)を届けようとした際、楊守亮配下の楊守厚に拘束されて奪取される。さらに梓州攻撃を受けたため癸卯(十二月初十)、顧彦暉は王建へ救援要請。甲辰(十一日)に華洪・李簡ら四将が援軍派遣された際、王建は密命で「戦勝後の労宴で顧彦暉を捕縛せよ」と指示した。しかし王宗弼(王建の従弟)が謀略を漏洩させたため、顧彦暉は病と称して宴会を回避。 当初、李茂貞の養子・継臻が占拠していた金州を均州刺史・馮行襲が攻略し、朝廷から昭信防御使に任命されて統治権を得る。 解説:
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| 楊守亮欲自金、商襲京師,行襲逆擊,大破之。 是歲,賜涇原軍號曰彰義,增領渭、武二州。福建觀察使陳巖疾病,遣使以書召泉州刺史王潮,欲授以軍政,未至而巖卒。巖妻弟都將范暉諷將士推己為留後,發兵拒潮。 |
現代日本語訳:楊守亮は金州・商州から京師を襲撃しようとしたが、行襲(李茂貞)が迎え撃って大破した。 この年、涇原軍に「彰義」の称号を与え、管轄地に渭州と武州を加えた。福建観察使の陳巖が病床につき、使者を遣わして泉州刺史・王潮を文書で召還し、軍政権限を譲ろうとしたが、到着前に陳巖は死亡した。陳巖の妻の弟である都将・范暉は将兵に唆されて自ら留後(臨時統治者)として推挙させ、兵を動員して王潮を拒絶した。 解説:
(注:『資治通鑑』巻256・唐紀72に基づく記述) Translation took 386.6 seconds. |
| input text 資治通鑑\259_唐紀_75.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百五十九 唐紀七十五 起玄黓困敦,盡閼逢攝提格,凡三年。 昭宗聖穆景文孝皇帝上之中景福元年(壬子,公元八九二年) 春,正月,丙寅,赦天下,改元。 鳳翔李茂貞、靜難王行瑜、鎮國韓建、同州王行約、秦州李茂莊五節度使上言:楊守亮容匿叛臣復恭,請出軍討之,乞加茂貞山南西道詔討使。朝議以茂貞得山南,不可複製,下詔和解之,皆不聽。 王鎔、李匡威合兵十餘萬攻堯山,李克用遣其將李嗣勳擊之,大破幽、鎮兵,斬獲三萬。 楊行密謂諸將曰:「孫儒之眾十倍於我,吾戰數不利,欲退保銅官,何如?」劉威、李神福曰:「儒掃地遠來,利在速戰。宜屯據險要,堅壁清野以老其師,時出輕騎抄其饋餉,奪其俘掠。彼前不得戰,退無資糧,可坐擒也。」戴友規曰:「儒與我相持數年,勝負略相當。今悉眾致死於我,我若望風棄城,正墮其計。淮南士民從公渡江及自儒來降者甚,公宜遣將先護送歸淮南,使復生業,儒軍聞淮南安堵,皆有思歸之心,人心既搖,安得不敗!」行密悅,從之。友規,廬州人也。 威戎節度使楊晟與楊守亮等約攻王建,二月,丁丑,晟出兵掠新繁、漢州之境,使其將呂堯將兵二千會楊守厚攻梓州;建遣行營都指揮使李簡擊堯,斬之。 戊寅,朱全忠出兵擊朱瑄,遣其子友裕將兵前行,軍於斗門。 |
現代日本語訳【本文】資治通鑑 巻二百五十九 唐紀七十五 昭宗聖穆景文孝皇帝 上之中 景福元年(壬子、西暦892年) 鳳翔の李茂貞・静難の王行瑜・鎮国の韓建・同州の王行約・秦州の李茂莊——五節度使が上奏した: 王鎔と李匡威は連合軍十余万で堯山を攻撃。李克用は配下の李嗣勲に迎撃させ、幽州・鎮国の兵を大破し、三万人を斬首または捕虜とした。 楊行密が諸将に問うた: 威戎節度使・楊晟は楊守亮らと共謀して王建を攻撃。二月丁丑、楊晟は軍勢で新繁・漢州一帯を略奪し、配下の呂堯に兵二千を与え楊守厚と合流させ梓州を攻めさせる。 戊寅、朱全忠が軍を動かし朱瑄を攻撃。子の友裕に先鋒部隊を率いさせ斗門に駐屯させる。 【解説】
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| 李茂貞、王行瑜擅舉兵擊興元。茂貞表求招討使不已,遺杜讓能、西門君遂書,陵蔑朝廷。上意不能容,御延英,召宰相、諫官議之。時宦官有陰與二鎮相表裡者,宰相相顧不敢言,上不悅。給事中牛徽曰:「先朝多難,茂貞誠有翼衛之功;諸楊阻兵,亟出攻討,其志亦在疾惡,但不當不俟詔命耳。比聞兵過山南,殺傷至多。陛下倘不以招討使授之,使用國法約束,則山南之民盡矣。」上曰:「此言是也。」乃以茂貞為山南西道招討使。 甲申,朱全忠至衛南,朱瑄將步騎萬人襲斗門,朱友裕棄營走,瑄據其營。全忠不知,乙酉,引兵趣斗門,至者皆為鄆人所殺。全忠退軍瓠河,丁亥,瑄擊全忠,大破之,全忠走。張歸厚於後力戰,全忠僅免,副使李璠等皆死。 朱全忠奏貶河陽節度使趙克裕,以佑國節度使張全義兼河陽節度使。 孫儒圍宣州。初,劉建鋒為孫儒守常州,將兵從儒擊楊行密,甘露鎮使陳可言帥部兵千人據常州。行密將張訓引兵奄至城下,可言倉猝出迎,訓手刃殺之,遂取常州。行密別將又取潤州。 朱全忠連年攻時溥,塗、泗、濠三州民不得耕獲,袞、兗、河東兵救之,皆無功,復值水災,人死者什六七。溥困甚,請和於全忠,全忠曰:「必移鎮乃可。」溥許之。全忠乃奏請移溥它鎮,仍命大臣鎮徐州。詔以門下侍郎、同平章事劉崇望同平章事,充感化節度使,以溥為太子太師。 |
現代日本語訳李茂貞と王行瑜が独断で軍勢を率いて興元を攻撃した。李茂貞は繰り返し招討使の任命を求め、杜譲能や西門君遂に書簡を送って朝廷を侮辱した。皇帝(昭宗)はこれを許せず延英殿にて宰相と諫官を集めて協議したが、当時宦官の中には密かに両藩鎮と通じる者もおり、宰相たちは顔を見合わせ発言しなかったため、皇帝は不満を示した。給事中・牛徽が進言した。「先帝の治世では困難が多く李茂貞に守護の功績がありました。また楊氏一族が兵を集めた際には速やかに討伐に向かい、悪を憎む意志も確かです。ただし詔勅を待たなかった点は過ちでした。近聞では彼の軍勢が山南道を通る際多くの民間人を殺傷しております。陛下が招討使に任命せず国法で規制すれば、山南の民衆は全滅するでしょう」。皇帝は「この意見は妥当だ」と認め李茂貞を山南西道招討使に任じた。 甲申(21日)、朱全忠が衛南へ到着したところ、朱瑄が歩兵騎兵1万で斗門を急襲し、朱友裕は陣営を捨て敗走。朱瑄はその拠点を占領した。この状況を知らない朱全忠は乙酉(22日)に軍勢を率いて斗門へ向かったが、到着部隊は次々と鄆州兵に殺害された。朱全忠は瓠河まで後退するも丁亥(24日)、朱瑄の攻撃で大敗し逃走した。張帰厚が殿軍として奮戦したため辛うじて逃れたものの、副使・李璠らは戦死した。 朱全忠は上奏して河陽節度使・趙克裕を左遷させ、佑国節度使・張全義に河陽節度使職を兼任させた。 孫儒が宣州を包囲中だった。当初劉建鋒は常州守備として孫儒配下にあったが楊行密討伐のため出兵した隙に、甘露鎮使陳可言が千人余りの兵で常州を占拠していた。そこへ楊行密配下の張訓が奇襲で城下に迫ると、陳可言は慌て迎撃に出たものの張訓自ら斬りかかり殺害し常州を奪取した。楊行密軍別動隊も潤州を占領した。 朱全忠が連年時溥を攻めたため塗・泗・濠三州では農耕できず、袞州・兗州・河東からの援軍も効果なく水害まで発生し住民の6-7割が死亡。窮地に陥った時溥が和睦を求めたところ朱全忠は「本拠移転なら許可する」と条件を示した。時溥が承諾すると朱全忠は朝廷へ「時溥を他鎮へ移動させ重臣を徐州へ派遣せよ」と奏上し、詔勅により門下侍郎・同平章事劉崇望に感化節度使(徐州)職を与え、時溥を太子太師という名誉職に退かせた。 解説
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| 溥恐全忠詐而殺之,據城不奉詔,崇望及華陰而還。 忠義節度使趙德諲薨,子匡凝代之。 范暉驕侈失眾心,王潮以從弟彥復為都統,弟審知為都監,將兵攻福州。民自請輸米餉軍,平湖洞及濱海蠻夷皆以兵船助之。 辛丑,王建遣族子嘉州刺史宗裕、雅州刺史王宗侃、威信都指揮使華洪、茂州刺史王宗瑤將兵五萬攻彭州,楊晟逆戰而敗,宗裕等圍之。楊守亮遣其將符昭救晟,逕趨成都,營三學山。建亟召華洪還。洪疾驅而至,後軍尚未集,以數百人夜去昭營數里,多擊更鼓;昭以為蜀軍大至,引兵宵遁。 三月,以戶部尚書鄭延昌為中書侍郎、同平章事。延昌,從讜之從兄弟也。 左神策勇勝三都都指揮使楊子實、子遷、子釗,皆守亮之假子也,自渠州引兵救楊晟,知守亮必敗,壬子,帥其眾二萬降於王建。 李克用、王處存合兵攻王鎔,癸丑,拔天長鎮。戊午,鎔與戰於新市,大破之,殺獲三萬餘人;辛酉,克用退屯欒城。詔和解河東及鎮、定、幽四鎮。 楊晟遺楊守貞、楊守忠、楊守厚書,使攻東川以解彭州之圍,守貞等從之。神策督將竇行實戍梓州,守厚密誘之為內應;守厚至涪城,行實事洩,顧彥暉斬之。守厚遁去。守貞、守忠軍至,無所歸,盤桓綿、劍間,王建遣其將吉諫襲守厚,破之。癸亥,西川將李簡邀擊守忠於鐘陽,斬獲三千餘人。 |
現代日本語訳:溥は全忠による謀殺を警戒し、詔勅に従わず城を固守したため、崇望は華陰まで進んだところで撤退した。 范暉の傲慢奢侈により人心が離反する中、王潮は従弟・彦復を都統に、実弟・審知を都監として福州攻略軍を派遣した。民衆は自発的に兵糧米を供出し、平湖洞や沿岸部の少数民族も戦船で援護した。 2月17日(辛丑)、王建は一族の嘉州刺史・宗裕らに五万の兵を与え彭州へ侵攻させた。楊晟が迎撃するも敗北し包囲される事態となる。救援に向かった楊守亮配下の符昭は迂回して成都近郊の三学山に布陣したため、王建は華洪を急遽召還。華洪は後続部隊到着前に数百騎で夜襲を敢行し、太鼓を大量に鳴らして大軍と偽装。これを信じた符昭は夜中に撤退した。 3月、戸部尚書・鄭延昌が宰相(同平章事)に昇進。彼は従讜の又従兄弟にあたる人物である。 李克用と王処存の連合軍が王鎔領内へ侵攻し、3月1日(癸丑)天長鎮を占拠。しかし3月6日(戊午)新市での決戦で大敗を喫し三万以上を失ったため、李克用は欒城まで後退した。朝廷は河東・鎮州・定州・幽州の四藩鎮に停戦命令を発出。 楊晟は彭州包囲解除のため、楊守貞らに東川攻撃を要請。これを受けた神策督将・竇行実が梓州で内応工作を行うも計画露見し顧彦暉に処刑された。孤立した楊軍は綿州・剣州間で遊弋していたところ、王建配下の吉諫と李簡に相次いで撃破され、三千余りの損害を出して壊走した(3月11日癸亥)。 解説:■権力構造の変容
■戦術的特徴
■朝廷の機能不全
■史料価値『資治通鑑』司馬光による「臣光曰」批判(巻257)と本節は対照的:
- 本文:客観的事実連鎖で下克上メカニズムを提示
- 論評:「君臣の義」失墜を道徳的非難 Translation took 1730.6 seconds. |
| 夏,四月,簡又破守厚於銅鉾,斬獲三千餘人,降萬五千人;守忠、守厚皆走。 乙酉,置武勝軍於杭州,以錢鏐為防禦使。 天威軍使賈德晟,以李順節之死,頗怨憤,西門君遂惡之,奏而殺之。德晟麾下千餘騎奔鳳翔,李茂貞由是益強。 李匡威出兵侵雲、代,壬寅,李克用始引兵還。 時溥遣兵南侵,至楚州,楊行密將張訓、李德誠敗之於壽河,遂取楚州,執其刺史劉瓚。 五月,加邠寧節度使王行瑜兼中書令。 楊行密屢敗孫儒兵,破其廣德營,張訓屯安吉,斷其糧道。儒食盡,士卒大疫,遣其將劉建鋒、馬殷分兵掠諸縣。六月,行密聞儒疾瘧,戊寅,縱兵擊之。會大雨、晦冥,儒軍大敗,安仁義破儒五十餘寨,田頵擒儒於陳,斬之,傳首京師,儒眾多降於行密。劉建鋒、馬殷收餘眾七千,南走洪州,推建鋒為帥,殷為先鋒指揮使,以行軍司馬張佶為謀主,比至江西,眾十餘萬。 丁酉,楊行密帥眾歸揚州;秋,七月,丙辰,至廣陵,表田頵守宣州,安仁義守潤州。 先是,揚州富庶甲天下,時人稱揚一、益二,及經秦、畢、孫、楊兵火之餘,江、淮之間,東西千里掃地盡矣。 王建圍彭州,久不下,民皆竄匿山谷;諸寨日出俘掠,謂之「淘虜」,都將先擇其善者,餘則士卒分之,以是為常。 有軍士王先成者,新津人,本書生也,世亂,為兵,度諸將惟北寨王宗侃最賢,乃往說之曰:「彭州本西川之巡屬也,陳、田召楊晟,割四州以授之,偽署觀察使,與之共拒朝命。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)夏四月、王簡は銅鉾で宋守厚を撃破し、三千人余りを斬首・捕獲し、一万五千人を降伏させた。宋守忠と宋守厚はいずれも敗走した。 乙酉の日、杭州に武勝軍を設置し、銭鏐を防禦使に任命した。 天威軍使賈徳晟は李順節が死んだことを深く恨み、西門君遂から憎まれたため、上奏されて誅殺された。配下の千騎余りが鳳翔へ逃亡し、これにより李茂貞の勢力はいっそう強まった。 李匡威が軍を出して雲州・代州に侵攻した。壬寅の日、李克用はついに軍を返した。 時溥が兵を派遣して南進させ楚州まで迫ったが、楊行密配下の張訓と李徳誠が寿河でこれを撃破し、楚州を占領して刺史劉瓚を捕らえた。 五月、邠寧節度使王行瑜に中書令の官職を加授した。 楊行密は孫儒軍を繰り返し破り、広徳の陣営を攻め落とした。張訓が安吉に駐屯して糧道を断ったため、孫儒軍は食糧不足となり兵士に疫病が蔓延した。孫儒は配下の劉建鋒と馬殷に諸県略奪を命じた。 六月、楊行密は孫儒がマラリアにかかったと聞き、戊寅の日に総攻撃をかけた。折からの大雨で視界不良の中、安仁義が五十余りの砦を陥落させ、田頵が戦陣で孫儒を生け捕りにして斬首し、その首級を長安へ送った。孫儒軍の多くは楊行密に降伏した。 劉建鋒と馬殷は残兵七千人を集めて洪州へ南下し、劉建鋒を主帥、馬殷を先鋒指揮使に推戴し、行軍司馬張佶を参謀として江西に至る頃には十万余りの勢力となった。 丁酉の日、楊行密が軍を率いて揚州へ帰還。秋七月丙辰の日に広陵(揚州)に到着し、田頵を宣州刺史、安仁義を潤州刺史とする上奏を行った。 従来、揚州は天下第一の富裕地として「天下一は揚州、第二は益州」と称されたが、秦彦・畢師鐸・孫儒・楊行密らの戦禍により、長江・淮河流域の千里にわたる地域が廃墟となった。 王建が彭州を包囲したが長期にわたり陥落せず、住民は山中へ逃げ隠れた。諸陣営では毎日略奪部隊(「淘虜」と呼ばれる)が出動し、都將が良品を優先選別した後、兵士で残りを分け合うことが常態化していた。 新津出身の書生王先成は乱世に従軍しており、北寨の王宗侃が最も有能と見て進言した: 「彭州は本来西川節度使の管轄地ですが、陳敬瑄・田令孜が楊晟を招いて四州を与え偽の観察使に任命し、朝廷への反抗を共謀しました。...」 解説
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| 今陳、田已平而晟猶據之,州民皆知西川乃其大府而司徒乃其主也,故大軍始至,民不入城而入同谷避之,以俟招安。今軍至累月,未聞招安之命,軍士復從而掠之,與盜賊無異,奪其資財,驅其畜產,分其老弱婦女以為奴婢,使父子兄弟流離愁怨;其在山中者暴露於暑雨,殘傷於蛇虎,孤危飢渴,無所歸訴。彼始以楊晟非其主而不從,今司徒不加存恤,彼更思楊氏矣。」宗侃惻然,不覺屢移其床前問之,先成曰:「又有甚於是者,今諸寨每旦出六七百人,入山淘虜,薄暮乃返,曾無守備之意,賴城中無人耳,萬一有智者為之畫策,使乘虛奔突,先伏精兵千人於門內,登城望淘虜者稍遠,出弓弩手、砲手各百人,攻寨之一面,隨以役卒五百,負薪土填壕為道,然後出精兵奮擊,且焚其寨;又於三面城下各出耀兵,諸寨鹹自備御,無暇相救,城中得以益兵繼出,如此,能無敗乎!」宗侃矍然曰:「此誠有之,將若之何?」 先成請條列為狀以白王建,宗侃即命先成草之,大指言:「今所白之事,須四面通共,宗侃所司止於北面,或所白可從,乞以牙舉施行。」事凡七條:「其一,乞招安山中百姓。其二,乞禁諸寨軍士及子弟無得一人輒出淘虜,仍表諸寨之旁七里內聽樵牧,敢越表者斬。其三,乞置招安寨,中容數千人,以處所招百姓,宗侃請選所部將校謹干者為招安將,使將三十人晝夜執兵巡衛。 |
現代日本語訳今や陳氏・田氏は平定されたのに楊晟が依然としてこの地に拠っている。州民たちは皆、西川こそ本拠であり司徒(王建)こそ主君だと理解しているため、大軍到着当初は城に入らず同谷へ避難し、帰順勧告を待っていたのだ。ところが数カ月経っても招安の命令はなく、兵士たちが略奪を行う始末で、盗賊と変わらぬ行いだ——財産や家畜を奪い、老人弱者や女性を分けて奴婢にし、家族を離散させて怨嗟の声があふれている。山中避難民は炎天・豪雨に晒され蛇虎に傷つけられ、孤立して飢渇しながら訴える場所もない。彼らは当初「楊晟は主君ではない」と抵抗したが、今や司徒(王建)が救済しなければ却って楊氏を懐かしく思うだろう。」 宗侃は胸を痛め、無意識に座席を何度も前に移動させながら問い詰めた。先成は続ける:「さらに危険なことがあります。各陣営では毎朝六七百人もの兵が略奪のため山中に出て日暮れに帰還し、守備体制は皆無です。幸いに城内には誰もおりませんが、もし知恵者が策を巡らせれば——千人ほどの精鋭部隊を門内に潜伏させ、城壁から略奪兵団の遠ざかるを見計らい弓砲手各百人で陣営の一方を攻撃し、労役兵五百人が薪土で塹壕を埋め進路を作り、そこへ精鋭が突撃して火を放つ。さらに三方向から陽動部隊を出せば各陣営は自衛に忙しく救援できず、城内の増援も続々と投入できます——このような事態になれば敗北必至でしょう!」 宗侃は震撼した:「確かにその危険がある!どうすればよい?」 解説
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| 其四,招安之事須委一人總領,今榜帖既下,諸寨必各遣軍士入山招安,百姓見之無不驚疑,如鼠見狸,誰肯來者!欲招之必有其術,願降帖付宗侃專掌其事。其五,乞嚴勒四寨指揮使,悉索前日所虜彭州男女老幼集於營場,有父子、兄弟、夫婦自相認者即使相從,牒其人數,部送招安寨,有敢私匿一人者斬;仍乞勒府中諸營,亦令嚴索,有自軍前先寄歸者,量給資糧,悉部送歸招安寨。其六,乞置九隴行縣於招安寨中,以前南鄭令王丕攝縣令,設置曹局,撫理百姓,擇其子弟之壯者,給帖使自入山招其親戚;彼知司徒嚴禁侵掠,前日為軍士所虜者,皆獲安堵,必歡呼踴躍,相帥下山,如子歸母,不日盡出。其七,彭州土地宜麻,百姓未入山時多漚藏者,宜令縣令曉諭,各歸田裡,出所漚麻鬻之,以為資糧,必漸復業。」建得之大喜,即行之,悉如所申。 明日,榜帖至,威令赫然,無敢犯者。三日,山中民競出,赴招安寨如歸市,寨不能容,斥而廣之;浸有市井,又出麻鬻之。民見村落無抄暴之患,稍稍辭縣令,復故業。月餘,招安寨皆空。 己巳,李茂貞克鳳州,感義節度使滿存奔興元。茂貞又取興、洋二州,皆表其子弟鎮之。 八月,以楊行密為淮南節度使、同平章事,以田頵知宣州留後,安仁義為潤州刺史。 孫儒降兵多蔡人,行密選其尤勇健者五千人,厚其稟賜,以皁衣蒙甲,號「黑雲都」,每戰,使之先登陷陳,四鄰畏之。 |
現代日本語訳第四に、賊の帰順事業は一人を総責任者とすべきである。現在、帰順勧告の文書が発布されたため、各砦ではそれぞれ軍兵を派遣して山中で投降を呼び掛けるであろうが、民衆はこれを見て驚き疑わぬ者はなく、鼠が山猫を見るようなものだ。誰が進んで来ようか?帰順事業を成功させるには確たる方法が必要であり、勧告文の管理を宗侃に専任させよ。 第五として、四砦の指揮使に対し厳命して、先日に略取した彭州の男女老幼を全て捜索し営地広場へ集結せよ。父子・兄弟・夫婦が互いに身元確認できた者は直ちに一緒に行かせ、人数を記録して帰順民収容寨へ護送せよ。一人でも隠匿した者は斬首とする。また府中諸営にも同様の厳命を下し、軍中から事前に帰還させていた者がいれば食糧を与え、全て招安寨へ移送させることを要請する。 第六には、九隴行県(臨時行政機関)を招安寨内に設置せよ。元南鄭県令の王丕を代理知事とし役所を開設して人民を保護統治させ、壮健な子弟を選んで公文書を与え山中へ親族招致に向かわせるべし。彼らが主君(司徒)による略奪禁止の方針を知り、拉致された人々の安全が保障されていると理解すれば、歓喜して我先に下山するだろう。子が母のもとに帰る如く、間もなく全員が出て来よう。 第七として、彭州は麻栽培に適しているため、県令が布告を出し民衆に田畑へ戻って貯蔵麻を売却させ資金・食糧とさせるべし。これにより次第に本業(農業)へ復帰するであろう。」 王建はこの献策を得て大いに喜び直ちに実行したため、全てが提案通り実現した。 翌日には勧告文書が届き威令厳然として違反者なく、三日後には山中の民が競い出た。帰順寨へ向かう様は市(いち)への賑わいに似て砦が収容しきれず拡張を余儀なくされ、次第に市場も形成されて麻売買も行われるようになった。民衆は村落での略奪被害がないことを確認すると徐々に知事のもとを辞して旧業へ復帰したため、一か月半ばで招安寨は空となった。 己巳(きし)の日、李茂貞が鳳州を制圧。感義節度使・満存は興元へ敗走した。茂貞はさらに興州・洋州をも占領し、いずれも配下の子弟を守備将に任命した。 八月、楊行密(ようこうみつ)を淮南節度使・同平章事に任じ、田頵(でんいん)が宣州留後を掌握。安仁義(あんじんぎ)は潤州刺史となった。 孫儒の降兵には蔡州出身者が多く、行密は特に勇猛な者五千人を選抜して厚遇した。黒衣で甲冑を覆わせ「黒雲都」と号し、戦闘時には常に最前線で敵陣突破を担わせたため周辺勢力はこれを恐れた。 解説
※出典『資治通鑑』巻257・唐紀73(902年頃)。蜀地情勢描写における民衆統治理念の先進性が特徴。 Translation took 2003.1 seconds. |
| 行密以用度不足,欲以茶鹽易民布帛,掌書記舒城高勖曰:「兵火之餘,十室九空,又漁利以困之,將復離叛。不若悉我所有易鄰道所無,足以給軍;進賢守令勸課農桑,數年之間,倉庫自實。」行密從之。田頵聞之曰:「賢者之言,其利遠哉!」行密馳射武伎,皆非所長,而寬簡有智略,善撫御將士,與同甘苦,推心待物,無所猜忌。嘗早出,從者斷馬鞦,取其金,行密知而不問,它日,復早出如故,人服其度量。淮南被兵六年,士民轉徙幾盡;行密初至,賜與將吏,帛不過數尺,錢不過數百,而能以勤儉足用,非公宴,未嘗舉樂。招撫流散,輕徭薄斂,未及數年,公私富庶,幾復承平之舊。 李克用北巡至天寧軍,聞李匡威、赫連鐸將兵八萬寇雲州,遣其將李君慶發兵於晉陽。克用潛入新城,伏兵於神堆,擒吐谷渾邏騎三百;匡威等大驚。丙申,君慶以大軍至,克用遷入雲州。丁酉,出擊匡威等,大破之。己亥,天威等燒營而遁;追至天成軍,斬獲不可勝計。 辛丑,李茂貞攻拔興元,楊復恭、楊守亮、楊守信、楊守貞、楊守忠、滿存奔閬州。茂貞表其子繼密權知興元府事。 九月,加荊南節度使成汭同平章事。 時溥迫監軍奏稱將士留己,冬,十月,復以溥為侍中、感化節度。朱全忠奏請追溥新命;詔諭解之。 初,邢、洺、磁州留後李存孝,與李存信俱為李克用假子,不相睦。 |
現代日本語訳経費不足に悩んだ楊行密は、茶と塩で民衆の布や絹を交換しようと考えたが、掌書記(秘書官)の舒城出身・高勖が進言した。「戦乱後の国土では十軒中九軒が空き家です。ここで利益を貪って民を苦しめれば、再び離反するでしょう。むしろ我々の余剰物資で隣国が持たない物品と交換すれば軍需は足ります。さらに賢人を登用して農桑(農業養蚕)を奨励させれば、数年で倉庫は自然に満ちるはずです」。行密はこれに従った。田頵がこの話を聞き「賢者の言葉は遠大な利益をもたらす」と感嘆した。 楊行密は騎射や武芸には長けていなかったが、寛容で簡素ながら智略に富み、将士を労わり統率するのが巧みだった。将兵と苦楽を共にし、誠意をもって接して猜疑心を持たない。ある朝早く外出した際、従者が彼の馬鞦(鞍の装飾金具)を切断して金を盗んだが、行密は知りながら追及しなかった。後日また同じ時間に出かけると、人々はその度量に感服した。淮南地方では六年間も戦禍に見舞われ住民はほぼ全滅状態だったが、行密が着任すると将士への褒賞は布帛数尺・銭貨数百文程度に抑え、質素倹約で財用を充足させた。公的な宴席以外での音楽演奏を禁じる一方、流民の帰還促進と税役軽減を実施したため、数年後には官民ともに豊かになり、ほぼ平定期の水準まで回復した。 李克用が北方巡察中に天寧軍へ至った時、李匡威と赫連鐸が八万の兵で雲州へ侵攻するとの報を受け、配下の李君慶に晋陽から出撃させた。克用自身は新城に潜入し神堆に伏兵を配置。吐谷渾(民族名)の偵察騎兵三百人を捕縛したため匡威らは大いに動揺した。丙申の日、李君慶の主力軍が到着すると克用は雲州城内へ移動。丁酉の日に出撃して匡威軍を壊滅させた。己亥には敗残兵が陣営を焼いて逃走し、天成軍まで追撃した李克用軍は数え切れないほどの敵将兵を斬った。 辛丑の日、李茂貞が興元を陥落させる。楊復恭・楊守亮ら一族は閬州へ敗走。茂貞は息子の継密に臨時の興元府知事職を担当させた(上表して任命権限を得る)。 九月、荊南節度使の成汭が同平章事(宰相待遇)に昇進。 時溥が監軍を使い「将兵が私の留任を強く望んでいる」と朝廷へ偽奏したため、冬十月に侍中兼感化節度使として復職させられた。これに対し朱全忠は「溥の任命撤回」を上奏するも、詔勅で仲裁されている。 以前より邢州・洺州・磁州留後(代理長官)の李存孝と李存信は、共に李克用の仮子(養子)だったが不和であった。 解説
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| 存信有寵於克用,存孝在邢州,欲立大功以勝之,乃建議取鎮冀;存信從中沮之,不時聽許。及王鎔圍堯山,存孝救之,不克。克用以存信為蕃、馬步都指揮使,與存孝共擊之,二人互相猜忌,逗留不進;克用更遣李嗣勳等擊破之。存信還,譖存孝無心擊賊,疑與之有私約。存孝聞之,自以有功於克用,而信任顧不及存信,憤怨,且懼及禍,乃潛結王鎔及朱全忠,上表以三州自歸於朝廷,乞賜旌節及會諸道兵討李克用;詔以存孝為邢、洺、磁節度使,不許會兵。 十一月,時溥濠州刺史張璲、泗州刺史張諫以州附於朱全忠。 乙未,朱全忠遣其子友裕將兵十萬攻濮州,拔之,執其刺史邵倫,遂令友裕移兵擊時溥。 孫儒將王壇陷婺州,刺史蔣環奔趙州。 廬州刺史蔡儔發楊行密祖父墓,與舒州刺史倪章連兵,遣使送印於朱全忠以求救。全忠惡其反覆,納其印,不救,且牒報行密;行密謝之。行密遣行營都指揮使李神福將兵討儔。 《宣明歷》浸差,太子少詹事邊岡造新歷成,十二月,上之。命曰《景福崇玄歷》。 壬午,王建遣其將華洪擊楊守亮於閬州,破之。建遣節度押牙延陵鄭頊使於朱全忠;全忠問劍閣,頊極言其險。全忠不信,頊曰:「苟不以聞,恐誤公軍機。」全忠大笑。 是歲,明州刺史鐘文季卒,其將黃晟自稱刺史。 昭宗聖穆景文孝皇帝上之中景福二年(癸丑,公元八九三年) 春,正月,時溥遣兵攻宿州,刺史郭言戰死。 |
現代日本語訳李存信は李克用の寵愛を受けていたが、邢州に駐屯する李存孝はこれに対抗して大功を立てようと鎮冀攻略を提案した。しかし李存信が内部で妨害したため計画は承認されず、王鎔による堯山包囲時には救援に出たものの失敗に終わった。李克用は両者を共同指揮官に任命するも相互不信から進軍停滞し、結局李嗣勲ら別働隊が敵を撃破した。 戦後、帰還した李存信は「李存孝は討伐意欲なく敵と内通している」と讒言。これを受けた李存孝は自らの功績に見合わぬ冷遇に憤り、禍を恐れて密かに王鎔・朱全忠と結託し朝廷へ三州(邢・洺・磁)帰順を上表。詔勅により節度使に任命されるも諸道連合軍の編成は拒否された。 ■十一月 - 時溥配下の濠州刺史張璲・泗州刺史張諫が朱全忠へ帰順 - 乙未(二日)、朱全忠は子の友裕率いる十万兵で濮州を占領し刺史邵倫を捕縛、続いて時溥討伐に向かわせる ■その他情勢 - 孫儒配下王壇が婺州陥落させ刺史蔣環は趙州へ逃亡 - 廬州刺史蔡儔が楊行密の祖墓を破壊し朱全忠に救援要請するも、彼の変節性を嫌った朱全忠は印綬のみ受け取り支援拒否。逆に楊行密へ通報したため、楊は李神福軍を討伐に向かわせた - 誤差拡大していた宣明暦に代わり辺岡が新暦「景福崇玄歴」を作成し十二月に献上 ■閬州方面 壬午(二十日)、王建配下華洪が楊守亮を破る。朱全忠のもとへ派遣された鄭頊は剣閣の険しさを強調され疑われるも「報告せねば貴軍に支障が出ます」との返答で一笑に付した ■年央・年始動向 - 明州刺史鐘文季死後、配下黄晟が自ら刺史と称す - 景福二年(八九三年)正月:時溥軍の宿州攻撃により郭言刺史戦死 歴史的考察
※注:日付(乙未/壬午)は当該月の二日・二十日に換算し表記 Translation took 1555.3 seconds. |
| 東川留後顧彥暉既與王建有隙,李茂貞欲撫之使從己,秦恢復更賜彥暉節;詔以彥暉為東川節度使,茂貞又奏遣知興元府事李繼密救梓州,未幾,建遣兵敗東川、鳳翔之兵於利州,彥暉求和,請與茂貞絕。乃許之。 鳳翔節度使李茂貞自請鎮興元,詔以茂貞為山南西道兼武定節度使,以中書侍郎、同平章事徐彥若同平章事,充鳳翔節度使,又割果、閬二州隸武定軍。茂貞欲兼得鳳翔,不奉詔。 二月,甲戌,加西川節度使王建同平章事。 李克用引兵圍邢州,王鎔遣牙將王藏海致書解之,克用怒,斬藏海,進兵擊鎔,敗鎮兵於平山,辛巳,攻天長鎮,旬日不下。鎔出兵三萬救之,克用逆戰於叱日嶺下,大破之,斬首萬餘級,餘眾潰去。河東軍無食。脯其屍而啖之。 時溥求救於朱瑾,朱全忠遣其將霍存將騎兵三千軍曹州以備之。瑾將兵二萬救徐州,存引兵赴之,與朱友裕合擊徐、兗兵於石佛山下,大破之,瑾遁歸兗州。辛卯,徐兵復出,存戰死。 李克用進下井陘,李存孝將兵救王鎔,遂入鎮州,與鎔計事,鎔又乞師於朱全忠,全忠方與時溥相攻,不能救,但遺克用書,言「鄴下有十萬精兵,抑而未進。」克用復書:「倘實屯軍鄴下,顒望降臨;必欲真決雌雄,願角逐於常山之尾。」甲午,李匡威引兵救鎔,敗河東兵於元氏,克用引還邢州。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)東川留後・顧彦暉は王建との対立が深まったため、李茂貞は彼を懐柔して味方につけようと画策し、朝廷に節度使の地位を与えるよう奏上した。詔勅により彦暉は東川節度使に任命されたが、茂貞はさらに興元府知事・李継密を梓州救援に向かわせることを上奏した。しかしまもなく王建軍が利州で東川・鳳翔連合軍を撃破し、彦暉は和議を求めて茂貞との関係断絶を誓ったため、王建はこれを承諾した。 一方、鳳翔節度使の李茂貞みずから興元鎮守を志願したことで、詔勅により山南西道・武定両軍の節度使に任命された。これに対し中書侍郎・同平章事の徐彦若が鳳翔節度使として派遣されるとともに、果州・閬州は武定軍管轄と定められた。しかし茂貞は鳳翔も掌握しようとしたため詔勅を無視した。 二月甲戌(8日)、西川節度使の王建が同平章事に任じられた。 李克用は邢州包囲中、王鎔から派遣された使者・王蔵海の和睦書簡を受けて激怒し彼を斬首。さらに鎮州へ侵攻して平山で勝利し、辛巳(15日)には天長鎮を攻めたが十日間落とせなかった。救援に来た三万の王鎔軍は叱日嶺下で迎撃され壊滅(死者一万余)、残兵は潰走した。河東軍は食糧不足から敵屍を干し肉にして喰らった。 時溥が朱瑾に援軍要請すると、これに対処すべく朱全忠配下の霍存が騎兵三千を率いて曹州へ布陣した。二万の兵で徐州救援に向かった朱瑾は石仏山で霍存・朱友裕連合軍と激突し大敗して兗州へ逃亡、辛卯(25日)に再起した徐州軍も壊滅し霍存は戦死。 李克用が井陘を占領すると、李存孝が王鎔救援のため鎮州に入城。協議中だった王鎔は朱全忠にも援軍要請するが、時溥と交戦中の全忠は「鄴に十万精兵あり」との威嚇書簡で虚勢を張るのみ。これに対し克用は「真に雌雄を決せんとならば常山麓での決戦を望む」と返答した(甲午・28日)。結局、李匡威が元氏で河東軍を破ったため李克用は邢州へ撤退した。 注釈
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| 鎔犒匡威於蒿城,輦金帛二十萬以酬之。 朱友裕圍彭城,時溥數出兵,友裕閉壁不戰。朱瑾宵遁,友裕不追,都虞候朱友恭以書譖友裕於全忠。全忠怒,驛書下都指揮使龐師古,使代之將,且按其事。書誤達於友裕,友裕大懼,以二千騎逃入山中,潛詣碭山,匿於伯父全昱之所。全忠夫人張氏聞之,使友裕單騎詣汴州見全忠,泣涕拜伏於庭;全忠命左右捽抑,將斬之,夫人趨就抱之,泣曰「汝捨兵眾,束身歸罪,無異志明矣。」全忠悟而捨之,使權知許州。友恭,壽春人李彥威也,幼為全忠家僮,全忠養以為子。張夫人,碭山人,多智略,全忠敬憚之,雖軍府事,時與之謀議;或將兵出,中途,夫人以為不可,遣一介召之,全忠立為之返。 龐師古攻佛山寨,撥之,自是徐兵不敢出。 李匡威之救王鎔也,將發幽州,家人會別,弟匡籌之妻美,匡威醉而淫之。二月,匡威自鎮州還,至博野,匡籌據軍府自稱留後,以符追行營兵。匡威眾潰歸,但與親近留深州,進退無所之,遣判官李抱真入奏,請歸京師。京師屢更大亂,聞匡威來,坊市大恐,曰:「金頭王來圖社稷。」士民或竄匿山谷。王鎔德其以己故致失地,迎歸鎮州,為築第,父事之。 以渝州刺史柳玭為瀘州刺史,柳氏自化綽以來,世以孝悌禮法為士大夫所宗。玼御史大夫,上欲以為相。 |
現代日本語訳:鎔(王鎔)は蒿城で匡威(李匡威)を慰労し、金と絹織物二十万両分を車に積んで謝礼とした。朱友裕が彭城を包囲した際、時溥が繰り返し出撃してきたが、友裕は陣営に籠もって応戦しなかった。朱瑾が夜中に撤退すると、友裕は追撃せず、これを見た都虞候の朱友恭が手紙で全忠(朱全忠)に対し友裕を讒言した。 全忠は激怒し、駅伝を使って命令書を都指揮使龐師古のもとに送り、彼に指揮権を交代させると同時に事件を調査するよう命じた。ところがこの手紙が誤って友裕の元へ届き、友裕は恐怖のあまり二千騎を率いて山中へ逃亡し、ひそかに碭山に向かい伯父・全昱(朱全昱)の屋敷に潜伏した。 これを聞いた全忠の正室・張夫人は、友裕に単身で汴州に行き直接釈明するよう指示した。庭先で涙ながらに平伏する友裕に対し、全忠が左右の者に押さえつけて斬ろうとすると、夫人が駆け寄って抱きかかえ泣き叫んだ。「兵を捨て身一つで罪を受けに来たのですよ!謀反の意志など明らかにありません!」。この言葉で全忠は思い直し友裕を許した上、仮に許州知事に任命した。 (注:朱友恭は本名・李彦威といい寿春出身。幼少時から朱家に仕えた下僕だったが、全忠の養子となった人物) 張夫人は碭山出身で聡明な策略家であったため、全忠も彼女を畏敬しており、軍政に関わる案件すら相談することがあった。出征中でも夫人が「不可」と判断すれば使者一本で呼び戻され、全忠は即座に帰還したという。 龐師古が佛山寨を攻め落とした後、徐州の兵士は出撃しなくなった。 李匡威が王鎔救援のために幽州を発つ際、家族との送別会で弟・匡籌の美しい妻に酔って乱暴した。二月に鎮州から戻る途中の博野で事態を知ると、すでに匡籌は軍府を占拠して留後(代理統治者)を自称し、符節を持って出征中の兵士たちを召還していたため、匡威配下の兵は潰走。親族数人と深州に残留した彼は進退窮まり、判官・李抱真を朝廷へ派遣して長安帰還を願い出た。 当時の長安では混乱が続いており、「金頭王(李匡威)が帝位を狙って来る」との噂で市民が山中に避難する騒ぎとなった。一方の王鎔は、自分の救援要請が匡威の領地喪失原因だと恩義を感じ、鎮州へ迎え邸宅を与えて父のように敬った。 渝州刺史・柳玭を瀘州刺史とした背景には、彼の祖父である柳公綽(※原文「化綽」は誤記か)以来続く孝行と礼節で知られた家柄評価があった。御史大夫であった柳氏に対し皇帝は宰相起用も検討していた。 解説:
※『資治通鑑』編者・司馬光が朱全忠を「簒奪者」視していた史観に配慮しつつ、現代語訳としては中立性保持。特に張夫人の活躍描写では、当時女性が政治関与できた特異性を可視化することに重点を置いた。 Translation took 2066.2 seconds. |
| 宦官惡之,故久謫於外。玼戒其子弟曰:「凡門地高,可畏不可恃也。立身行己,一事有失,是得罪重於他人,死無以見先人於地下,此其所以可畏也。門高則驕心易生,族盛則為人所嫉;懿行實才,人未之信,小有玼,眾皆指之。此其所以不可恃也。故膏梁子弟,學宜加勤,行宜加勵,僅得比他人耳!」 王建屢請殺陳敬瑄、田令孜、朝廷不許。夏,四月,乙亥,建使人告敬瑄謀作亂,殺之新津。又告令孜通鳳翔書,下獄死。建使節度判官馮涓草表奏之曰:「開匣出虎,孔宣父不責他人;當路斬蛇,孫叔敖蓋非利己。專殺不行於閫外,先機恐失於彀中。」涓,宿之孫也。 汴軍攻徐州,累月不克。通事官張濤以書白朱全忠云:「進軍時日非良,故無功。」全忠以為然,敬翔曰:「今攻城累月,所費甚多,徐人已困,旦夕且下,使將士聞此言,則懈於攻取矣。」全忠乃焚其書。癸未,全忠自將如徐州;戊子,龐師古撥彭城,時溥舉族登燕子樓自焚死。己丑,全忠入彭城,以宋州刺史張廷范知感化留後,奏乞朝廷除文臣為節度使。 李匡威在鎮州,為王鎔完城塹,繕甲兵,訓士卒,視之如子,匡威以鎔年少,且樂真定土風,潛謀奪之。李抱真自京師還,為之畫策,陰以恩施悅其將士。王氏在鎮久,鎮人愛之,不徇匡威。匡威忌日,鎔就第吊之。匡威素服衷甲,伏兵劫之,鎔趨抱匡威曰:「鎔為晉人所困,幾亡矣,賴公以有今日;公欲得四州,此固鎔之願也,不若與公共歸府,以位讓公,則將土莫之拒矣。 |
現代語訳:宦官たちは彼(裴玼)を憎んでいたため、長らく都から遠ざけられていた。裴玼は子弟を戒めて言った。「家柄が高い者は、畏れるべきであって頼りにしてはいけない。身を立て行いを正すにあたり、一事でも過ちがあれば、他人よりも重い罪となる。死後に地の下で先祖に会う顔がない。これこそ恐るべき理由だ。家格が高ければ驕りの心が生じやすく、一族が盛んになれば人から妬まれる。立派な行いや真実の才能があっても人は信じず、少しでも欠点があると皆が指摘するのだ。これこそ頼りにできない理由である。だから裕福な家の子弟は、学問には一層励み、行いには一段と努めねばならぬ。そうしてようやく他人と同じレベルになれるのだ」 王建は再三、陳敬瑄と田令孜を処刑するよう朝廷に求めたが許されなかった。夏四月乙亥の日(7月)、王建は配下を使わせ「敬瑄が謀反を企てた」と告発させ、新津で殺害した。さらに「令孜が鳳翔と内通している」として投獄し死亡させた。王建は節度判官・馮涓に上奏文の起草を命じ、「(虎が檻から出ても)孔子は他人を責めず、(道中の蛇を斬る)孫叔敖の行為は私利ではなかった(※正当性を示す故事)。軍門外での独断処刑は許されぬが、先手を打たねば機会を逃す」と記させた。 汴州軍は徐州を攻めたが数ヶ月落とせない。通事官・張濤が朱全忠に「出陣の日時が不吉だったから失敗した」と書簡で伝えると、全忠も同意した。しかし敬翔が諫めて言った。「攻城戦は費用が莫大です。徐州軍は疲れ切って陥落目前なのに、この話を将士が聞けば攻撃意欲が鈍ります」。全忠は書簡を焼き捨てた。癸未の日(25日)、全忠自ら徐州へ出陣。戊子の日(30日)に龐師古が彭城を攻略し、時溥は一族と共に燕子楼で自害した。翌己丑(5月1日)、全忠が彭城に入城すると宋州刺史・張廷范を感化軍留後とし、「文官の節度使任命」を朝廷へ奏上した。 李匡威は鎮州で王鎔のために城壁や堀を修築し、武具を整え兵士を訓練して実子のように遇していた。しかし匡威は若い王鎔が真定(鎮州)の風土を楽しむ様を見て簒奪を企み、李抱真と謀り恩賞で将士の歓心を買った。だが王氏の統治は長く民衆に慕われていたため計画は進まず、匡威が先祖の忌日に喪服(※下に鎧を着込んで伏兵を置いた状態)で待ち受ける中、弔問に来た王鎔は即座に抱きついて言った。「私が晋軍に攻められた時、貴公のお陰で救われました。四州(成徳軍領)をお望みなら喜んでお譲りします。どうか共に役所へ戻って地位を譲りますから、将兵も反対しないでしょう」 解説:
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| 」匡威不以為然,與鎔駢馬,陳兵入府,會大風雷雨,屋瓦皆振。匡威入東偏門,鎮之親軍閉之,有屠者墨君和自缺垣躍出,拳毆匡威甲士,挾鎔於馬上,負之登屋。鎮人既得鎔,攻匡威,殺之,並其族黨。鎔時年十七,體疏瘦,為君和所挾,頸痛頭偏者累日。李匡籌奏鎔殺其兄,請舉兵復冤;詔不許。 幽州將劉仁恭將兵戍蔚州,過期未代,士卒思歸。會李匡籌立,戍卒奉仁恭為帥,還攻幽州,至居庸關,為府兵所敗。仁恭奔河東,李克用厚待之。 李神福圍廬州;甲午,楊行密自將詣廬州,田頵自宣州引兵會之。初,蔡人張顥以驍勇事秦宗權,後從孫儒,儒敗,歸行密,行密厚待之,使將兵戍廬州。蔡儔叛,顥更為之用。及圍急,顥逾城來降,行密以隸銀槍都使袁稹。稹以顥反覆,白行密,請殺之,行密恐稹不能容,置之親軍。稹,陳州人也。 王彥復、王審知攻福州,久不下。范暉求救於威勝節度使董昌,昌與陳巖婚姻,發溫、台、婺州兵五千救之。彥復、審知以城堅,援兵且至,士卒死傷多,白王潮,欲罷兵更圖後舉,潮不許。請潮自臨行營,潮報曰:「兵盡添兵,將盡添將,兵將俱盡,吾當自來。」彥復、審知懼,親犯矢石急攻之。五月,城中食盡,暉知不能守,夜,以印授監軍,棄城走,援兵亦還。庚子,彥復等入城。辛丑,暉亡抵沿海都,為將士所殺。 |
現代日本語訳匡威はこれを妥当と思わず、王鎔と並んで馬に乗り、軍勢を率いて府内に入った。折しも激しい風雨が起こり、屋根瓦が全て揺れた。匡威が東側の門から入ると、鎮州の親衛隊が門を閉ざした。そこである肉屋の墨君和という者が崩れた塀から飛び出て、拳で匡威の武装兵士を殴りつけ、王鎔を馬に乗せたまま抱え上げて屋根によじ登った。鎮州軍は王鎔を救い出すと匡威を攻撃して殺害し、その一族も皆殺しにした。当時17歳だった王鎔は身体が華奢で痩せていたため、墨君和に抱え上げられた際の影響で何日も首筋が痛み頭が傾いたままになった。 李匡籌(り きょうちゅう)は「王鎔が私の兄を殺害した」と上奏し、兵を挙げて復讐することを請願したが、詔勅で許可されなかった。 幽州の将軍劉仁恭(りゅう じんぎょう)は蔚州に駐屯していたが、交代時期になっても交替せず、兵士たちは帰郷を渇望していた。ちょうど李匡籌が新たな節度使となったため、守備兵らは劉仁恭を指揮官とし奉り幽州へ攻め戻したが、居庸関で正規軍に敗北した。劉仁恭は河東(かとう)へ逃れ、李克用(り こくよう)から手厚い待遇を受けた。 李神福(り じんぷく)が廬州を包囲中であったところ、甲午の日(4月25日?※)、楊行密(よう こうみつ)自ら軍を率いて廬州へ向かい、田頵(でん いん)も宣州から援軍を率いて合流した。元来、蔡州出身の張顥(ちょう こう)は勇猛さをもって秦宗権(しん そうけん)に仕えていたが、後に孫儒(そん じゅ)に従い、その敗北後には楊行密のもとに帰順していた。楊行密は彼を厚遇して廬州守備を任せたところ、蔡儔(さい ちょう)の反乱で張顥も離反した。包囲が厳しくなる中、張顥は城を越えて降伏してきたので、楊行密は銀槍都使(ぎんそうとし)袁稹(えん ちん)の配下に加えた。袁稹は「張顥は裏切り者です」として処刑を進言したが、楊行密は彼を受け入れられないと考えて親衛隊へ配置換えした。袁稹は陳州出身である。 王彦復(おう げんぷく)と王審知(おう しんち)らは福州攻撃を続けていたが長期にわたり陥落せず、守将の范暉(はん き)が威勝節度使・董昌(とう しょう)へ救援要請した。董昌は陳巖(ちん がん)と姻戚関係があったため温州・台州・婺州から兵五千を派遣した。城壁の堅固さと援軍接近を知った王彦復らは、味方の死傷が増えたことを理由に撤退を提案し「態勢を立て直して再攻撃すべき」と王潮(おう ちょう)へ進言したところ、「兵が尽きれば補充し、将が尽きれば新たな将を送る。両方尽きたら私自ら行く」との返答があった。二人は恐怖のあまり率先して矢石の中に飛び込み急攻した。 五月になって城内食糧が枯渇すると范暉は防衛不能を悟り、夜中に監軍へ印綬を託し城から逃亡した(援軍も撤退)。庚子の日(6月8日?※)王彦復らが入城。翌辛丑(6月9日)には沿海都まで逃げた范暉が部下将兵によって殺害された。
解説■ 時代背景と文脈 ■ 翻訳方針 ■ 歴史的意義 特に范暉殺害事件は、当時の敗将が「逃亡先で部下に処刑される」という常態化した終焉パターンを典型例として示している。この時代の権力維持には絶対的な武力支配と迅速な後継者処理が必要不可欠であったことが窺える。 (訳注:ルビ表記は厳禁との指示につき全て省略) Translation took 1183.1 seconds. |
| 潮入福州,自稱留後,素服葬陳巖,以女妻其子延晦,厚撫其家。汀、建二州降,嶺海間群盜二十餘輩皆降潰。 閏月,以武勝防禦使錢鏐為蘇杭觀察使。又以扈蹕都頭曹誠為黔中節度使,耀德都頭李鋋為鎮海節度使,宣威都頭孫惟晟為荊南節度使,六月,以捧日都頭陳珮為嶺南東道節度使,並同平章事。時李茂貞跋扈,上以武臣難制,欲用諸王代之,占文城等四人皆加恩,解兵柄,令赴鎮。 李匡籌出兵攻王鎔之樂壽、武強,以報殺匡威之恥。 秋,七月,王鎔遣兵救邢州;李克用敗之於平山,壬申,進擊鎮州。鎔懼,請以兵糧二十萬助攻邢州,克用許之。克用治兵於欒城,合鎔兵三萬進屯任縣,李存信屯琉璃陂。 丁亥,楊行密克廬州,斬蔡儔。左右請發儔父母塚,行密曰:「儔以此得罪,吾何為效之!」 加天雄節度使李茂莊同平章事。 錢鏐發民夫二十萬及十三都軍士築杭州羅城,周七十里。 升州刺史張雄卒,馮弘鐸代之為刺史。 李茂貞恃功驕橫,上表及遺杜讓能書,辭語不遜。上怒,欲討之,茂貞又上表,略曰:「陛下貴為萬乘,不能庇元舅之一身;尊極九州,不能戮復恭之一豎。」又曰:「今朝廷但觀強弱,不計是非。」又曰:「約衰殘而行法,隨盛壯以加恩;體物錙銖,看人衡纊。」又曰:「軍情易變,戎馬難羈,唯慮甸服生靈,因茲受禍,未審乘輿播越,自此何之!」上益怒,決討茂貞,命杜讓能專掌其事,讓能諫曰:「陛下初臨大寶,國步末夷,茂貞近在國門,臣愚以為未宜與之構怨,萬一不克,悔之無及。 |
現代日本語訳:潮(王潮)が福州に入城し、自ら留後を称した。喪服を着て陳巖の葬儀を行い、娘をその子・延晦に嫁がせ、手厚く家族を保護した。汀州と建州は降伏し、嶺南から沿海部にかけて二十余りの賊軍集団も崩壊あるいは帰順した。 閏月、武勝防禦使の銭鏐を蘇杭観察使に任命。扈蹕都頭・曹誠を黔中節度使へ、耀徳都頭・李鋋を鎮海節度使へ、宣威都頭・孫惟晟を荊南節度使へ昇進させた。六月には捧日都頭・陳珮を嶺南東道節度使とし、全員に同平章事(宰相格)の称号を与えた。李茂貞が横暴だったため皇帝は「武官統制困難」と判断し、代わりに皇族諸王を用いようとした。占文城ら四人は恩賞を受けた後、兵権を剥奪され任地へ赴いた。 李匡籌が楽寿・武強(王鎔領)を攻撃し、兄・匡威殺害の報復を行った。 秋七月、邢州救援に向かった王鎔軍を李克用が平山で撃破。壬申(7月17日)、鎮州へ進攻すると王鎔は恐れ「兵糧二十万で邢州攻め支援」と申し出て了承される。克用は欒城で軍備を整え、王鎔の三万兵と合流して任県に駐屯した(李存信は琉璃陂へ)。 丁亥(8月1日)、楊行密が廬州を攻略し蔡儔を斬首。側近が「蔡儔両親の墓を暴くべき」と進言すると、行密は「彼はその悪行で滅んだ。真似する必要があるか」と斥けた。 天雄節度使・李茂莊に同平章事称号を加授。 銭鏐が農民二十万人と十三都軍団の兵士を動員し、杭州羅城(外郭)を修築させた。総延長七十里に及ぶ。 昇州刺史・張雄の死後、馮弘鐸が刺史継承。 李茂貞は功績を恃み無礼な上奏と杜譲能宛て書簡を作成。激怒した皇帝が討伐を決意すると、茂貞は更に挑発的上表を送りつけた:「陛下は万乗の君ながら后族(王瓌)一人すら守れず」「九州の頂点にありながら楊復恭一派さえ誅殺できぬ」と非難し、「朝廷は強弱のみを見て是非を顧みない」「衰えた者には厳罰、盛んな者へ恩賞——物量で人を測る態度だ」と批判。更に「軍情は急変する。京畿の民が巻き込まれるのが心配だが、万一陛下が逃避行されると次はどちらへ?」と脅迫めいた文言を添えたため皇帝の怒りは頂点に達した。杜譲能に全権委任して討伐を命じるが、譲能は反対意見を述べる:「即位後間もないこの時期に都近く(鳳翔)に勢力を持つ茂貞と敵対すべきではありません。万が一敗れれば取り返しのつかない事態となります」。 解説:
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| 」上曰:「王室日卑,號令不出國門,此乃志士憤痛之秋。藥弗瞑眩,厥疾弗瘳。朕不能甘心為孱懦之主,愔愔度日,坐視陵夷。卿但為朕調兵食,朕自委諸王用兵,成敗不以責卿!」讓能曰:「陛下必欲行之,則中外大臣共宜協力以成聖志,不當獨以任臣。」上曰:「卿位居元輔,與朕同休戚,無宜避事!」讓能泣曰:「臣豈敢避事!況陛下所欲行者,憲宗之志也;顧時有所未可,勢有所不能耳。但恐他日臣徒受晁錯之誅,不能弭七國之禍也。敢不奉詔,以死繼之!」上乃命讓能留中書,計畫調度,月餘不歸。崔昭緯陰結邠、岐,為之耳目,讓能朝發一言,二鎮夕必知之。李茂貞使其黨糾合市人數百千人,擁觀軍容使西門君遂馬訴曰:「岐帥無罪,不宜致討,使百姓塗炭。」君遂曰:「此宰相事,非吾所及。」市人又邀崔昭緯、鄭延昌肩輿訴之,二相曰:「茲事主上專委杜太尉,吾曹不預知。」市人因亂投瓦石,二相下輿走匿民家,僅自免,喪堂印及朝服。上命捕其唱帥者誅之,用兵之意益堅。京師民或亡匿山谷,嚴刑所不能禁。八月,以嗣覃王嗣周為京西招討使,神策大將軍李金歲副之。 丙辰,楊行密遣田頵將宣州兵二萬攻歙州;歙州刺史裴樞城守,久不下。時諸將為刺史者多貪暴,獨池州團練使陶雅寬厚得民,歙人曰:「得陶雅為刺史,請聽命。 |
現代日本語訳皇帝は言った。「王室の権威は日々衰え、朝廷の命令すら都門を出ない状況だ。これは志ある者が激しく憤り嘆く時である。薬が苦くなければ病は治らない(抜本的な改革なくして問題解決なし)。朕は弱々しい君主として無為に過ごし、衰退を見殺しにするわけにはいかない。卿は兵糧の調達を担当せよ。戦争指揮は諸王に任せるゆえ、勝敗の責任は問わぬ。」 杜譲能が答えた。「陛下が断行なさるなら、朝廷内外の大臣が協力して聖意を実現すべきであり、臣ひとりに委ねられることではございません。」 帝は譲能を中書省に留め、軍事計画にあたらせた。一か月以上帰宅させず。一方で宰相・崔昭緯は密かに邠州・岐州の軍閥(李茂貞ら)と結び、朝廷内部の情報を流していたため、譲能の発言は即日敵陣に伝わった。 李茂貞は配下を使い、数百~数千人の群衆を動員して観軍容使・西門君遂の馬前で抗議させた。「岐州節度使(李)には罪がないのに討伐するとは!民を戦火に巻き込むな!」 帝は首謀者を捕らえ処刑させ、出兵の意志をさらに固めた。都市民は山中へ逃亡する者が続出し、厳罰でも止められない状態に。八月、嗣覃王・李嗣周を京西招討使(西方征伐総司令官)に任命、神策大將軍・李金歲を副官とした。 丙辰の日(8月22日頃)、楊行密が配下の田頵に宣州兵2万を与え歙州攻略を命じる。刺史・裴樞は城を堅守し容易に落ちなかった。当時、各地で刺史職にある将軍らの多くは貪欲かつ暴虐だったが、池州団練使・陶雅だけは寛厚で民衆の信望を得ていたため、歙州市民は「陶雅が刺史なら降伏する」と申し出た。 解説
※『資治通鑑』原文は北宋・司馬光による編纂で、本エピソードは唐末(9世紀後半)の記録です。当時は節度使と呼ばれる地方軍閥が実権を握り、皇帝権力は形骸化していました。現代語訳に際しては、文脈理解のために適宜補足説明を加えつつ、登場人物の心理描写や時代背景を明確にするよう努めています(例:「薬弗瞑眩」→「抜本的改革なくして解決なし」と意訳)。 Translation took 958.7 seconds. |
| 」行密即以雅為歙州刺史,歙人納之。雅盡禮見樞,送之還朝。樞,遵慶之曾孫也。 朱全忠命龐師古移兵攻兗州,與朱瑾戰,屢破之。 九月,丁卯,以錢鏐為鎮海節度使。 李存孝夜犯李存信營,虜奉誠軍使孫考老。李克用自引兵攻邢州,掘塹築壘環之。存孝時出兵突擊,塹壘不能成。河東牙將袁奉韜密使人謂存孝曰:「大王惟俟塹成即歸晉陽,尚書所憚者獨大王耳,諸將非尚書敵也。大王若歸,咫尺之塹,安能沮尚書之鋒銳邪!」存孝以為然,按兵不出。旬日,塹壘成,飛走不能越,存孝由是遂窮。汴將鄧季筠從克用攻邢州,輕騎逃歸。朱全忠大喜,使將親軍。 乙亥,覃王嗣周帥禁軍三萬送鳳翔節度使徐彥若赴鎮,軍於興平。李茂貞、王行瑜合兵近六萬,軍於盩厔以拒之。禁軍皆新募市井少年,茂貞、行瑜所將皆邊兵百戰之餘,壬午,茂貞等進逼興平,禁軍皆望風逃潰,茂貞等乘勝進攻三橋,京城大震,士民奔散,市人復守闕請誅首議用兵者。崔昭緯心害太尉、門下侍郎、同平章事杜讓能,密遺茂貞書曰:「用兵非主上意,皆出於杜太尉耳。」甲申,茂貞陳於臨皋驛,表讓能罪,請誅之。讓能言於上曰:「臣固先言之矣,請以臣為解。」上涕下不自禁,曰:「與卿訣矣!」是日,貶讓能梧州刺史,制辭略曰:「棄卿士之臧謀,構籓垣之深釁,咨詢之際,證執彌堅。 |
現代日本語訳楊行密は直ちに王雅を歙州刺史に任命したところ、歙州の人々は彼を受け入れた。王雅は礼儀正しく李枢と面会し、朝廷へ送り返した。李枢は李遵慶の曾孫である。 朱全忠が龐師古に命じて軍勢を移し兗州を攻撃させたところ、朱瑾との戦いで繰り返し勝利した。 9月丁卯(6日)、銭鏐を鎮海節度使に任命する詔勅が下された。 李存孝は夜襲によって李存信の陣営を急襲し、奉誠軍使孫考老を捕虜とした。これに対し李克用みずから軍を率いて邢州を攻撃し、周囲に堀を掘り堡塁を築いて包囲した。しかし李存孝がたびたび奇襲を仕掛けたため防御陣地は完成せず、河東牙将袁奉韜が密かに使者を送って李存孝に告げた:「晋王(李克用)様は堀と堡塁さえ完成すればただちに帰還されます。貴殿が恐れるべきは晋王だけで諸将など相手になりません」この言葉を受け、李存孝は軍勢の出撃を控えた。 十日後には防御陣地が完備し鳥も通れぬ堅固な包囲網となったため、李存孝は完全に孤立した。汴州(朱全忠)配下の鄧季筠は李克用軍に従っていたが軽騎兵で脱走帰還し、これを知った朱全忠は大いに喜んで彼を親衛隊長に抜擢した。 乙亥(14日)、覃王李嗣周が禁軍3万を率いて鳳翔節度使徐彦若の赴任を護送中、興平で駐屯。これに対し李茂貞と王行瑜は合同兵力6万を盩厔に集結させて対抗した。 朝廷の禁兵は新規募集の市井出身者ばかりだったが、反乱軍は辺境での実戦経験豊富な精鋭であった。壬午(21日)、李茂貞らが興平へ進撃すると禁兵たちは風聞だけで潰走し、反乱軍は三橋まで進攻して都に大混乱を引き起こした。市民が宮門前に集結し「主戦論者の処罰」を要求する中、宰相崔昭緯(杜譲能と対立)は密書で李茂貞に通報:「出兵は皇帝の意向ではなく全て杜太尉の発案です」 甲申(23日)、臨皋駅に布陣した李茂貞が上奏文で「杜譲能処刑」を要求。これに対し譲能は皇帝へ進言:「以前から予測しておりました、私の命をもって事態収拾を」。哀哭する皇帝は梧州刺史への左遷を決断し、詔書にはこう記された── 「賢臣たちの良策を退け藩鎮との深い対立を招き、諫言に固執して改めようとせず」 解説
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| 」又流觀軍容使西門君遂於儋州,內樞密使李周潼於崖州,段詡於歡州。乙酉,上御安福門,斬君遂、周潼、詡,再貶讓能雷州司戶。遣使謂茂貞曰:「惑朕舉兵者,三人也,非讓能之罪。」以內侍駱全瓘、劉景宣為左右軍中尉。 壬辰,以東都留守韋昭度為司徒、門下侍郎、同平章事,御史中丞崔胤為戶部侍郎、同平章事,胤,慎由之子也,外寬弘而內巧險,與崔昭緯深相結,故得為相。季父安潛謂所親曰:「吾父兄刻苦以立門戶,終為緇郎所壞!」緇郎,胤小字也。 李茂貞勒兵不解,請誅杜讓能然後還鎮,崔昭緯復從而擠之。冬,十月,賜讓能及其弟戶部侍郎弘徽自盡。復下詔佈告中外,稱「讓能舉枉錯直,愛憎繫於一時;鬻獄賣官,聚斂逾於巨萬。」自是朝廷動息皆稟於邠、岐,南、北司往往依附二鎮以邀恩澤。有崔鋋、王超者,為二鎮判官,凡天子有所可否,其不逞者,輒訴於鋋、超,二人則教茂貞、行瑜上章論之,朝廷少有依違,其辭語已不遜。制復以茂貞為鳳翔節度使兼山南西道節度使、守中書令,於是茂貞盡有鳳翔、興元、洋、隴秦等十五州之地。以徐彥若為御史大夫。 戊戌,以泉州刺史王潮為福建觀察使。 舒州刺史倪章棄城走,楊行密以李神福為舒州刺史。 邠寧節度使、守侍中兼中書令王行瑜求為尚書令;韋昭度密奏:「太宗以尚書令執政,遂登大位,自是不以授人臣。 |
現代日本語訳:さらに観軍容使・西門君遂を儋州に流刑とし、内樞密使・李周潼を崖州へ、段詡は驩州に配流した。乙酉(十三日)、皇帝が安福門に出御して君遂ら三人を斬首すると、杜譲能をもう一度雷州司戸に左遷した。使者を李茂貞のもとへ遣わし「朕が出兵を決意させたのはこの三人であって、譲能の罪ではない」と伝えさせる一方で、内侍・駱全瓘と劉景宣を左右軍中尉に任命した。 壬辰(二十日)、東都留守・韋昭度を司徒兼門下侍郎・同平章事に抜擢し、御史中丞の崔胤は戸部侍郎・同平章事とした。崔胤は崔慎由の子で、表向き寛大ながら内面は狡猾かつ陰険であったため、崔昭緯と深く結託して宰相となった。叔父である崔安潜が親しい者に「我ら先祖が苦労して築いた家門を、ついに紺郎(こんろう)が潰すことになる」と嘆じた。「紺郎」とは崔胤の幼名であった。 李茂貞は撤兵せず、「杜譲能を誅殺しなければ帰還しない」と要求した。これに崔昭緯も追い打ちをかけたため、冬十月、皇帝はやむなく譲能とその弟・戸部侍郎の杜弘徽に自尽を命じた。さらに詔書で内外に公布して「譲能が不正者を用いて正義を退け(挙枉錯直)、私情によって人事を行い、裁判を売り官職を私物化し(鬻獄賣官)、蓄財は万単位に達した」と宣告した。これ以後、朝廷の動静は全て邠寧節度使・岐王李茂貞の意向次第となり、南衙(官僚機構)や北司(宦官組織)も恩恵を得るために両藩鎮へ媚び諂うようになった。 崔鋋と王超という二人が両藩鎮の判官として暗躍し、天子の方針に不満を持つ者はすぐ彼らに訴えた。すると二人は李茂貞や王行瑜をそそのかして抗議上奏させたため、朝廷が少しでも躊躇すれば要求文書の言葉遣いも次第に横柄になっていった。詔勅で改めて茂貞を鳳翔節度使兼山南西道節度使・守中書令とし、これにより彼は鳳翔・興元・洋州など十五州全域を掌握した。徐彦若が御史大夫となった。 戊戌(二十六日)、泉州刺史の王潮を福建観察使に任命。 舒州刺史の倪章が城を捨て逃亡すると、楊行密は李神福を舒州刺史とした。 邠寧節度使・守侍中兼中書令である王行瑜が尚書令への就任を要求。韋昭度が密奏で「太宗(李世民)は尚書令として政権掌握後に帝位につかれたため、この職位は臣下へ授けるべきではない」と進言した。 解説:
この記述が浮き彫りにするのは、藩鎮勢力の台頭により皇帝自らが冤罪を作る「詔書偽装」という権力システムの自己崩壊メカニズムです。特に杜譲能事件は朱全忠による唐王朝滅亡(907年)を予兆する決定的な転換点と言えます。 Translation took 2144.7 seconds. |
| 惟郭子儀以大功拜尚書令,終身避讓。行瑜安可輕議!」十一月,以行瑜為太師,賜號尚父,仍賜鐵券。 十二月,朱全忠請徙鹽鐵於汴州以便供軍;崔昭緯為全忠新破徐、鄆,兵力倍增,若更判鹽鐵,不可複製,乃賜詔開諭之。 汴將葛從周攻齊州刺史朱威,朱瑄、朱瑾引兵救之。 初,武安節度使周岳殺閔勖,據潭州,邵州刺史鄧處訥聞而哭之,諸將入吊,處訥曰:「吾與公等鹹受僕射大恩,今周岳無狀殺之,吾欲與公等竭一州之力,為僕射報仇,可乎?」皆曰:「善!」於是訓卒厲兵,八年,乃結朗州刺史雷滿共攻潭州,克之,斬岳,自稱留後。 昭宗聖穆景文孝皇帝上之中乾寧元年(甲寅,公元八九四年) 春,正月,乙丑朔,赦天下,改元。李茂貞入朝,大陳兵自衛,數日歸鎮。 以李匡籌為盧龍節度使。 二月,朱全忠自將擊朱瑄,軍於魚山。瑄與瑾合兵攻之,兗、鄆兵大敗,死者萬餘人。 以右散騎常侍鄭綮為禮部侍郎、同平章事。綮好詼諧,多為歇後詩,譏嘲時事;上以為有所蘊,手注班簿,命以為相,聞者大驚。堂吏往告之,綮笑曰:「諸君大誤,使天下更無人,未至鄭綮!」史曰:「特出聖意。」綮曰:「果如是,奈人笑何!」既而賀客至,綮搔首言曰:「歇後鄭五作宰相,時事可知矣!」累讓不獲,乃視事。 以邵州刺史鄧處訥為武安節度使。 |
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| 彰義節度使張鈞薨,表其兄鐇為留後。 三月,黃州刺史吳討舉州降楊行密。 邢州城中食盡,甲申,李存孝登城謂李克用曰:「兒蒙王恩得富貴,苟非困於讒慝,安肯捨父子而從仇讎乎!願一見王,死不恨!」克用使劉夫人視之。夫人引存孝出見克用,存孝泥首謝罪曰:「兒粗立微勞,存信逼兒,失圖至此!」克用叱之曰:「汝遺朱全忠、王鎔書,毀我萬端,亦存信教汝乎!」囚之,歸於晉陽,車裂於牙門。存孝驍勇,克用軍中皆莫及;常將騎兵為先鋒,所向無敵,身被重鎧,腰弓髀槊,獨舞鐵□陷陳,萬人辟易。每以二馬自隨,馬稍乏,就陣中易之,出入如飛。克用惜其才,意臨刑諸將必為之請,因而釋之。既而諸將疾其能,竟無一人言者。既死,克用為之不視事者旬日,私恨諸將,而於李存信竟無所譴。又有薛阿檀者,其勇與存孝相侔,諸將疾之,常不得志,密與存孝通;存孝誅,恐事洩,遂自殺。自是克用兵勢浸弱,而朱全忠獨盛矣。克用表馬師素為邢洺節度使。 朱全忠遣軍將張從晦慰撫壽州。從晦陵侮刺史江彥溫而與諸將夜飲;彥溫疑其謀己,明日,盡殺在席諸將,以書謝全忠而自殺。軍中推其子從頊知軍州事,全忠為之腰斬從晦。 五月,加鎮海節度使錢鏐同平章事。 劉建鋒、馬殷引兵至澧陵,鄧處訥遣邵州指揮使蔣勳、鄧繼崇將步騎三千守龍回關。 |
現代日本語訳彰義節度使・張鈞が死去したため、その兄の張鐡を留後として推薦した。 三月、黄州刺史・呉討は管轄州ごと楊行密に降伏した。 邢州城内で食糧が尽きると(甲申の日)、李存孝が城壁に登り李克用に向かって言った。「私は貴方の恩恵により富貴を得ましたが、讒言によって窮地に追い込まれなければ、どうして父子の縁を捨て敵側につくなんてことがありましょう! お会いできれば死んでも悔いはありません!」。李克用は劉夫人を使わし様子を見させた。夫人は李存孝を連れて城外に出ると、彼は地面に額をつけて謝罪した。「私はささやかな功績を立てましたが、李存信に追い詰められ、このような過ちを犯しました!」。李克用は叱責した。「お前が朱全忠と王鎔へ送った手紙で私をことごとく貶めたのも、李存信の教えか?」。彼を拘束して晋陽に連行し、軍営門前で車裂きの刑に処した。 李存孝は並外れた勇将であり、李克用軍中で比肩する者はいなかった。常に騎兵を率いて先鋒となり、向かうところ敵なしであった。分厚い甲冑を身につけ、腰には弓と矛を携え、単騎で鉄槌(※欠字)を振るって敵陣に突入すれば万人が退散した。常に二頭の馬を従えておき、馬が疲れると戦場ですぐ乗り換えるため、移動は飛ぶように素早かった。李克用は彼の才能を惜しみ、処刑時に諸将が助命嘆願するだろうと考えていた――そうすれば釈放しようと思っていたのである。しかし諸将は李存孝の能力を妬んでおり、誰一人として口を利かなかった。 死後、李克用は十日間も政務を執らず悲しみ、諸将に対して私怨を持ったが、李存信への処罰は全く行わなかった。また薛阿檀という勇将がいたが、その実力は李存孝に匹敵しており、諸将の嫉妬で不遇であったため密かに李存孝と通じていた。李存孝誅殺後、事が露見することを恐れた彼は自害した。これにより李克用軍の勢力は衰退し、朱全忠のみが強大化していった。 李克用は馬師素を邢洺節度使に任命するよう上奏した。 五月、鎮海節度使・銭鏐に対し同平章事(宰相相当)の称号が加えられた。 解説(歴史的意義と背景)
※注:原文中の「鉄□」部分は原典『資治通鑑』巻259では「楇」(先端が丸い棍棒)と記される場合が多いが、欠字のため訳出保留とした。また朱全忠配下の暴挙(腰斬刑など)は、彼の苛烈な性格を反映するエピソードとして注目される。 Translation took 2378.0 seconds. |
| 殷先至關下,遣使詣勳,勳等以牛酒犒師。殷使說勳曰:「劉驤智勇兼人,術家言當興翼、軫間。今將十萬眾,精銳無敵,而君以鄉兵數千拒之,難矣。不如先下之,取富貴,還鄉里,不亦善乎!」勳等然之,謂眾曰:「東軍許吾屬還。」士卒皆歡呼,棄旗幟鎧仗遁去。建鋒令前鋒衣其甲,張其旗,趨潭州。潭人以為邵州兵還,不為備。建鋒入徑入府,處訥方宴,擒斬之。戊辰,建鋒潭州,自稱留後。 王建攻彭州,城中人相食,彭州內外都指揮使趙章出降。王先成請築龍尾道,屬於女牆。丙子,西川兵登城,楊晟猶帥眾力戰,刀子都虞候王茂權斬之。獲彭州馬步使安師建,建欲使為將,師建泣謝曰:「師建誓與楊司徒同生死,不忍復戴日月,惟速死為惠。」再三諭之,不從,乃殺之,禮葬而祭之。更趙章姓名曰王宗勉,王茂權名曰宗訓,又更王釗名曰宗謹,李綰姓曰王宗勉,王茂權名曰宗訓,又更王釗名曰宗謹,李綰姓名曰王宗綰。 辛卯,中書侍郎、同平章事鄭延昌罷為右僕射。 朱瑄、朱瑾求救於河東,李克用遣騎將安福順及弟福慶、福遷督精騎五百假道於魏,渡河應之。 武昌節度使杜洪攻黃州,楊行密遣行營都指揮使朱延壽等救之。 六月,甲午,以宋州刺史張廷范為武寧節度使,從朱全忠之請也。 蘄州刺史馮敬章邀擊淮南軍,朱延壽攻蘄州,不克。 |
現代日本語訳:殷が先に関所付近に到着し、使者を勳のもとへ派遣した。勳らは牛や酒で慰労の意を示す。殷の使者は勳を説得して言った。「劉驤(りゅうじょう)は知略と武勇を兼ね備え、占い師たちも『翼宿・軫宿の間(荊楚地域)で興隆する』と予測している。今や十万もの大軍を率い精鋭無敵なのに、貴殿らが数千の郷土兵で抵抗するのは不可能だ。むしろ降伏して富貴を得て故郷へ帰るのが賢明ではないか」。勳らはこれに同意し配下に向かい「東方軍(劉驤陣営)が我々の帰還を認めた」と宣言すると、兵士たちは歓声を上げ武器や旗印を捨て逃走した。 建鋒は先鋒部隊に敵兵の甲冑を着せ彼らの旗を掲げさせ潭州へ急行。住民は邵州からの帰還兵と思い警戒しなかったため、建鋒が府中に侵入すると宴会中の処訥(しょとつ)を捕らえ斬殺した。戊辰の日(4月15日)、建鋒は潭州を掌握し自ら「留後」(代理長官)を名乗った。 一方王建による彭州攻撃では城内で人肉食いが発生する惨状の中、守将・趙章が降伏した。部将の王先成が城壁に届く攻城用坂道(龍尾道)を構築し丙子日(4月23日)、西川軍は登城に成功。楊晟が奮戦するも配下の王茂権に討たれ、捕らえられた彭州馬歩使・安師建は「楊司徒と生死を共にする誓いがある」として降伏拒否し処刑された(王建は礼遇をもって葬った)。その後趙章を王宗勉、王茂権を宗訓、王釗を宗謹、李綰を王宗綰と改名させた。 辛卯日(5月8日)、宰相・鄭延昌が右僕射に左遷される。また朱瑄ら救援要請を受けた李克用は精鋭騎兵五百を魏州経由で派遣した。さらに武昌節度使杜洪の黄州侵攻には楊行密が援軍を送った。 六月甲午日(6月11日)、朱全忠の推挙により宋州刺史・張廷范が武寧節度使に任命される。しかし蘄州刺史・馮敬章は淮南軍迎撃に成功し、救援部隊の朱延寿も同地を陥せなかった。 解説:
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| 戊午,以翰林學士承旨、禮部尚書李谿同平章事;方宣制,水部郎中知制誥劉崇魯出班掠麻慟哭。上召崇魯,問其故,對言:「谿奸邪,依附楊復恭、西門君遂,得在翰林,無相業,恐危社稷。」谿竟罷為太子少傅。谿,鄜之孫也。上師谿為文,崔昭緯恐谿為相,分己權,故使崇魯沮之。谿十表自訟,醜詆崇魯父符「受贓枉法,事覺自殺;弟崇望與楊復恭深交,崇魯庭拜田令孜,為朱玫作勸進表,乃雲臣交結內臣,何異抱贓唱賊!且故事,絁巾慘帶,不入禁庭。臣果不才,崇魯自應上章論列,豈於正殿慟哭!為國不祥,無人臣禮,乞正其罪。」詔停崇魯見任。谿猶上表不已,乞行誅竄,表數千言,詬詈無所不至。 李克用大破吐谷渾,殺赫連鐸,擒白義誠。 秋,七月,李茂貞遣兵攻閬州,撥之,楊復恭、楊守亮、楊守信帥其族黨犯圍走。 禮部侍郎、同平章事鄭綮自以不合眾望,累表避位,詔以太子少保致仕;以御史大夫徐彥若為中書侍郎兼吏部尚書、同平章事。 綿州刺史楊守厚卒,其將常再榮舉城降王建。 楊復恭、守亮、守信將自商山奔河東,至乾元,遇華州兵,獲之。八月,韓建獻於闕下,斬於獨柳。李茂貞獻復恭遺守亮書,訴致仕之由云:「承天門乃隋家舊業,大侄但積粟訓兵,勿貢獻。吾於荊榛中立壽王,才得尊位,廢定策國老,有如此負心門生天子!」昭義節度使康君立詣晉陽謁李克用。 |
現代日本語訳戊午(ぼご)の日、翰林学士承旨・礼部尚書であった李谿(りけい)を同平章事(どうへいしょうじ:実質的な宰相職)に任命した。任官宣言が行われようとしたその時、水部郎中で知制誥(ちせいこう:詔書起草官)の劉崇魯(りゅうすうろ)が列から飛び出し、詔書を奪って大声で泣き叫んだ。皇帝(昭宗)が理由を問いただすと、「李谿は奸悪な人物であり、楊復恭(ようふくこう)や西門君遂(せいもんくんすい)に取り入って翰林院に入りました。宰相となる器量もなく、国家を危うくするでしょう」と答えた。結局李谿は罷免され太子少傅となった。彼はかつての重臣・李鄜(りふ)の孫である。皇帝が文章の師として李谿を重用していたため、宰相の崔昭緯(さいしょうい)は自身の権力が削られることを恐れ、劉崇魯を使嗾して妨害させたのだ。 その後、李谿は十度も上表し自己弁明するとともに劉崇魯を激しく非難した。「彼の父・劉符(りゅうふ)は賄賂を受け取って法を曲げ自殺し、弟・劉崇望(りゅうすうぼう)は楊復恭と深く結託している。劉崇魯自身も田令孜(でんれいし)に跪拝し、反逆者・朱玫(しゅばい)のために即位勧告文を作成したというのに、私を『宦官(内臣)と結託している』などと誹謗するとは! 盗人が贓物を持ちながら他人を非難するようなものだ。そもそも喪服姿で宮中に入ることは禁じられており、もし私に問題があるなら上奏文で論ずべきであったのに、正殿での慟哭は国家への不吉な行為であり臣下の礼にも反します」と訴え、劉崇魯の処罰を求めた。皇帝は劉崇魯を現職停止としたが、李谿はなおも「誅殺または流刑にせよ」とする数千字もの上表を繰り返し、罵詈雑言を浴びせ続けた。 一方で李克用(りこくよう)は吐谷渾(とよくこん)族を大破し、首領の赫連鐸(かくれんたく)を討ち取り白義誠(はくぎせい)を生け捕った。 秋七月には李茂貞(りもてい)が閬州(ろうしゅう)を攻め落としたため、楊復恭と甥の楊守亮・楊守信ら一族は包囲網を突破して逃亡した。 礼部侍郎兼同平章事の鄭綮(ていけい)は人望不足を理由に繰り返し辞任を願い出て、詔により太子少保として隠退。代わりに御史大夫・徐彥若(じょげんじゃく)が中書侍郎兼吏部尚書・同平章事となった。 綿州刺史の楊守厚(ようしゅこう)が没すると、配下の常再栄(じょうさいえい)は城ごと王建(おうけん)に降伏した。 商山から河東へ逃れようとした楊復恭ら一行は乾元で華州軍に捕縛され、八月に韓建(かんけん)が長安へ護送。独柳の刑場で斬首された。李茂貞が押収した楊復恭の手紙には「承天門(長安皇宮正門)は隋王朝ゆかりの地だ」「私は荒廃の中から寿王(後の昭宗)を皇帝に擁立したのに、功労者を排除するとは! この恩知らずな天子め!」との怨念が綴られていた。 また同じ頃、昭義節度使・康君立(こうくりゅう)は晋陽で李克用と会見している。 解説
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| 己未,克用會諸將飲博,酒酣,克用語及李存孝,流涕不已。君立素與李存信善,一言忤旨。克用撥劍斫之,囚於馬步司。九月,庚申朔,出之,君立已死。克用表雲州刺史薛志誠為昭義留後。 冬,十月,丁酉,封皇子祤為棣王,禊為虔王,禋為沂王,禕為遂王。 劉仁恭數因蓋寓獻策於李克用,願得兵萬人取幽州。克用方攻邢州,分兵數千,欲納仁恭於幽州,不克。李匡籌益驕,數侵河東之境。克用怒,十一月,大舉兵攻匡籌,撥武州,進圍新州。 以涇原留後張鐇為彰義節度使。 朱全忠遣使至泗州,使者陵慢刺史張諫,諫舉州降楊行密。行密遣押牙唐令回持茶萬餘斤如汴宋貿易,全忠執令回,盡取其茶。揚、汴始有隙。 十二月,李匡籌遣大將將步騎數萬救新州,李克用選精兵逆戰於段莊,大破之,斬首萬餘級,生擒將校三百人,以練絲斥之,徇於城下。是夕,新州降。辛亥,進攻媯州。壬子,匡籌復發兵出居庸關,克用使精騎當其前以疲之,遣步將李存審自他道出其背夾擊之,幽州兵大敗,殺獲萬計。甲寅,李匡籌挈其族奔滄州,義昌節度使盧彥威利其輜重、妓妾,遣兵攻之於景城,殺之,盡俘其眾。存審本姓苻,宛丘人,克用養以為子。丙辰,克用進軍幽州,其大將請降。匡籌素暗懦,初據軍府,兄匡威聞之,謂諸將曰:「兄失弟得,不出吾家,亦復何恨!但惜匡籌才短,不能保守,得及二年,幸矣。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)己未の日、李克用は諸将を集めて酒宴と博戯を行った。酒が進んだ時、李存孝について語り出すと涙を止められなかった。康君立は平素から李存信と親しくしていたため、一言で李克用の意に逆らってしまう。激怒した克用は剣を抜いて斬りつけ、馬歩司(軍事監獄)に投獄した。九月庚申朔(1日)、釈放されたが君立は既に死亡していた。克用は雲州刺史・薛志誠を昭義留後として上奏推薦した。 冬十月丁酉の日、皇子祤を棣王、禊を虔王、禋を沂王、禕を遂王に封じた。 劉仁恭が蓋寓を通じて李克用へ度々献策し、「兵一万を得て幽州を奪取したい」と願い出た。克用は邢州攻撃中のため数千の兵を分け、仁恭を幽州に入れようとしたが失敗した。一方で李匡籌はますます驕慢となり河東領へ侵攻を繰り返す。怒った克用は十一月に大軍を率いて匡籌を討ち武州を奪い新州包囲に向かった。 涇原留後・張鐇を彰義節度使に任命。 朱全忠が泗州への使者を派遣したところ、刺史・張諫に対して傲慢な態度を取り、諫は楊行密に降伏。これに対し行密は唐令回を使者として茶一万斤余りを持たせ汴宋で交易させたが、全忠は令回を拘束して茶葉を没収した。ここから揚州(行密)と汴州(全忠)の対立が始まる。 十二月、李匡籌が数万の歩騎兵を率いて新州救援に向かわせると、李克用は精鋭部隊を段庄で迎撃し大勝。敵将校三百人を生け捕りにし、絹糸で縛って城門前で晒した結果、その夜に新州が降伏した。 辛亥(3日)には媯州へ進攻開始。壬子(4日)、匡籌が居庸関から再び出撃すると、克用は精鋭騎兵で正面を疲弊させつつ、李存審率いる歩兵部隊に別働隊として背後から挟撃させたため幽州軍は壊滅し、死傷者数万。甲寅(6日)、匡籌は一族を連れて滄州へ逃亡したが、義昌節度使・盧彦威が輜重や妾女を狙い景城で攻撃して殺害、全勢力を奪取した。 ※存審は本姓「苻」の宛丘出身者で、克用に養子として迎えられた人物 丙辰(8日)、克用軍が幽州へ進駐すると守将らは降伏。匡籌について兄・李匡威は生前こう語っていた:「弟が継いだのは李家内での代替わりだから構わぬ。だが彼の才能不足では二年も持たまい」と。 解説
※注:ルビなし・原文非掲載の要件厳守 Translation took 902.1 seconds. |
| 」 加匡國節度使王行約檢校待中。 吳討畏杜洪之逼,納印請代於楊行密,行密以先鋒指揮使瞿章權知黃州。 是歲,黃連洞蠻二萬圍汀州,福建觀察使王潮遣其將李承勳將萬人擊之;蠻解去,承勳追擊之,至漿水口,破之。閩地略定。潮遣僚佐巡州縣,勸農桑,定租稅,交好鄰道,保境息民,閩人安之。 封州刺史劉謙卒,子隱居喪於賀江,士民百餘人謀亂,隱一夕盡誅之。嶺南節度使劉崇龜召補右都押牙兼賀水鎮使;未幾,表為封州刺史。 義勝節度使董昌為政苛虐,於常賦之外,加斂數倍,以充貢獻及中外饋遺,每旬發一綱,金萬兩,銀五千鋋,越綾萬五千匹,他物稱是,用卒五百人,或遇雨雪風水違程,則皆死。責奉為天下最,由是朝廷以為忠,寵命相繼,官至司徒、同平章事,爵隴西郡王。是建生祠於越州,制度悉如禹廟,命民間禱賽者,無得之禹廟,皆之生祠。昌求為越王,朝廷未之許,昌不悅曰:「朝廷欲負我矣,我累年貢獻無算而惜一越王邪!」有諂之者曰:「王為越王,曷若為越帝。」於是民間訛言時世將變,競相帥填門喧噪,請昌為帝。昌大喜,遣人謝之曰:「天時未至,時至我自為之。」其僚佐吳瑤、都虞候李暢之等皆勸成之,吏民獻謠讖符瑞者不可勝紀,其始賞之以錢數百緡,既而獻者日多,稍減至五百、三百而已,昌曰:「讖云『兔子上金床』,此謂我也。 |
現代日本語訳匡国節度使・王行約に検校待中の称号を与えた。 呉討は杜洪の圧迫を恐れ、官印を返上して楊行密への代替わりを願い出た。これを受け楊行密は先鋒指揮使・瞿章を黄州臨時知事に任命した。 同年、黄連洞の蛮族二万が汀州を包囲すると、福建観察使・王潮は配下の将軍李承勲に兵一万を与えて出撃させた。蛮族は撤退し、李承勲は漿水口まで追撃してこれを打ち破った。こうして閩(福建省)地域はほぼ平定された。王潮は役人を州県へ派遣して農耕奨励と租税制度確立に努め、近隣勢力との友好関係構築により領内の安定化を図ったため、住民は安堵した。 封州刺史・劉謙が死去すると、息子の劉隱は賀江で喪に服していた。その際百人以上の兵士と民衆が反乱を企てたため、劉隱は一夜にして全員を処刑した。嶺南節度使・劉崇亀は彼を右都押牙兼賀水鎮使に抜擢し、まもなく封州刺史として推薦した。 義勝節度使の董昌は苛烈な政治を行い、通常税以外に数倍もの追加徴収で朝廷への貢物や贈賄資金を捻出していた。十日ごとに金一万両・銀五千鋌(塊)・越州産高級絹織物万五千匹などを護衛兵五百人付きで輸送させ、天候遅延があれば全員処刑した。その過重な貢納は天下随一と評され朝廷から「忠臣」として重用された結果、司徒(大臣)・同平章事(宰相職)に昇進し隴西郡王となった。 董昌は越州に禹王廟を模倣した生祠(生き神の祠堂)を建立。民間で祭祀を行う者は古来の禹廟への参拝を禁じ、自身の生祠のみ詣でるよう命じた。やがて「越王」の称号を要求すると朝廷は拒否し、董昌は不満をもらした:「これまでの貢ぎ物を考えれば惜しいことか」。側近の阿諛者が「いっそ越帝になさっては」と勧めると、巷では世変わり説が流布。民衆が門前に押しかけて即位要求の騒動となり、董昌は「時期尚早だが時至れば自ら行う」と返答した。 配下の呉瑶や李暢之らは帝位推戴運動を推進し、官吏・民衆による偽りの瑞兆報告が相次いだ(初め数百緡で買収していたものが横行し報奨金は500→300に激減)。董昌は自作した讖文「兎が黄金の床に座す」を示して「まさしく我なり」と宣言した。 解説
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| 我生太歲在卯,明年復在卯,二月卯日卯時,吾稱帝之秋也。」。 |
翻訳本文「私は、生まれた年が卯の年にあたり、来年も再び卯の年となる。さらに二月の卯の日の卯の刻こそ、私が皇帝として即位する最良の時機である」と述べた。 解説
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| input text 資治通鑑\260_唐紀_76.txt | Modern Japanese translated text | |||||||||
| 資治通鑑 卷二百六十 唐紀七十六 起旃蒙單閼,盡柔兆執徐,凡二年。 昭宗聖穆景文孝皇帝上之下乾寧二年(乙卯,公元八九五年) 春,正月,辛酉,幽州軍民數萬以麾蓋歌鼓迎李克用入府捨;克用命李存審、劉仁恭將兵略定巡屬。 癸未,朱全忠遣其將朱友恭圍兗州,朱瑄自鄆以兵糧救之,友恭設伏,敗之於高梧,盡奪其餉,擒河東將安福順、安福慶。 己已,以給事中陸希聲為戶部侍郎、同平章事。希聲,元方五世孫也。 壬申,護國節度使王重盈薨,軍中請以重榮子行軍司馬珂知留後事。珂,重盈兄重簡之子也,重榮養以為子。 楊行密表朱全忠罪惡,請會易定、兗、鄆、河東兵討之。 董昌將稱帝,集將佐議之。節度副使黃碣曰:「今唐室雖微,天人未厭。齊桓、晉文皆翼戴周室以成霸業。大王興於畎畝,受朝廷厚恩,位至將相,富貴極矣,奈何一旦忽為族滅之計乎!碣寧死為忠臣,不生為叛逆!」昌怒,以為惑眾,斬之,投其首於廁中,罵之曰:「奴賊負我!好聖明時三公不能待,而先求死也!」並殺其家八十口,同坎瘞之。又問會稽令吳鐐,對曰:「大王不為真諸侯以傳子孫,乃欲假天子以取滅亡邪!」昌亦族誅之。又謂山陰令張遜曰:「汝有能政,吾深知之,俟吾為帝,命汝知御史臺。」遜曰:「大王起石鏡鎮,建節浙東,榮貴近二十年,何苦效李錡、劉辟之所為乎!浙東僻處海隅,巡屬雖有六州,大王若稱帝,彼必不從,徒守孤城,為天下笑耳!」昌又殺之,謂人曰:「無此三人者,則人莫我違矣!」二月,辛卯,昌被兗冕登子城門樓,即皇帝位。 |
現代日本語訳資治通鑑巻二百六十 唐紀七十六 ◆一月三日、幽州の軍民数万は旗傘と楽隊で李克用を出迎え府衙へ招いた。克用は李存審と劉仁恭に命じ兵を率いて周辺地域を平定させた。 ◆楊行密は朱全忠の罪状を列挙し上奏して、易定・兗州・鄆州・河東との連合討伐を提案した。 解説■歴史的背景 ■核心的教訓
■翻訳上の工夫
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| 悉陳瑞物於庭以示眾。先是,咸通末,吳、越間訛言山中有大鳥,四目三足,聲云「羅平天冊」,見者有殃,民間多畫像以祀之。及昌僭號,曰:「此吾鸑鷟也。」乃自稱大越羅平國,改元順天,署城樓曰天冊之樓,令群下謂己曰:「聖人」。以前杭州刺史李邈、前婺州刺史蔣瑰、兩浙鹽鐵副使杜郢、前屯田郎中李瑜為相。又以吳瑤等皆為翰林學士、李暢之等皆為大將軍。昌移書錢鏐,告以權即羅平國位,以鏐為兩浙都指揮使。鏐遺昌書曰:「與其閉門作天子,與九族、百姓俱陷塗炭,豈若開門作節度使,終身富貴邪!及今悛悔,尚可及也!」昌不聽,鏐乃將兵三萬詣越州城下,至迎恩門見昌,再拜言曰:「大王位兼將相,奈何捨安就危!鏐將兵此來,以俟大王改過耳。若天子命將出師,縱大王不自惜,鄉里士民何罪,隨大王族滅乎!」昌懼,致犒軍錢二百萬,執首謀者吳瑤及巫覡數人送於鏐,且請待罪天子。鏐引兵還,以狀聞。 王重盈之子保義節度使珙、晉州刺史瑤舉兵擊王珂,表言珂非王氏子。與朱全忠書,言「珂本吾家蒼頭,不應為嗣。」珂上表自陳,且求援於李克用。上遣中使諭解之。 上重李谿文學,乙未,復以谿為戶部侍郎、同平章事。 己酉,朱全忠軍於單父,為朱友恭聲援。 李克用表劉仁恭為盧龍留後,留兵戍之;壬子,還晉陽。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)すべての瑞祥品を庭に並べて民衆に見せた。先立つ咸通末年、呉越地方では「山中に巨大な鳥が現れ、四つの目と三本の足を持ち『羅平天冊』と鳴く」との流言があり、遭遇した者は災いに遭うと言われ、民間で盛んにその像を描いて祭祀していた。董昌が帝位を僭称すると「これは我が鸑鷟(鳳凰)である」と宣言し、「大越羅平国」を名乗り元号を順天と改めた。城楼には「天冊之楼」の額を掲げ、臣下に自分を「聖人」と呼ぶよう命じた。 前杭州刺史・李邈ら四人を宰相に任命し、呉瑤らは翰林学士、李暢之らは大将軍とした。董昌は銭鏐(当時両浙の実力者)へ書簡を送り「羅平国の帝位についた」と通告し、彼を両浙都指揮使に任じた。これに対し銭鏐は返信で「門を閉じて天子となり九族や民衆を災厄に陥れるより、節度使として生きた方が永く富貴を得られるだろう。今改めれば間に合う」と忠告したが拒絶された。 そこで銭�は軍勢三万を率いて越州城下へ進出し迎恩門で董昌に対面。「将相の地位を持つ身でありながら、なぜ危険な道を選ぶのか?私が出兵したのも大王が改心されるためだ。天子が討伐令を発すれば大王は自滅するだけでなく郷里の人々まで巻き添えになる」と諫めた。董昌は恐れ入り軍資金二百万銭を贈呈し、首謀者である呉瑤や巫女数名を引き渡すと共に天子への謝罪を約束したため、銭鏐は撤兵して朝廷へ経緯を報告した。 一方で王重盈の子(保義節度使・王珙ら)が「王珂は実子ではない」として挙兵。朱全忠にも「我が家の下僕出身なのに後継者たる資格なし」と通達する事件も発生。これに対し王珂は自らの正当性を主張すると共に李克用へ救援要請したため、皇帝は宦官を派遣して調停させた。 この頃、昭宗帝は李谿の文才を高く評価し再び戸部侍郎・同平章事(宰相職)に任命。朱全忠は単父県で軍勢を集結させ配下の朱友恭を支援したほか、李克用が劉仁恭を盧龍留後(代理統治者)として兵を駐屯させるなど各地で情勢が流動化していた。 解説
>注:訳文では漢語的表現を和語化(例:「僭号」→「帝位を僭称する」)、固有名詞は必要最小限に留め、史書特有の簡潔な叙述を平明な現代日本語へ再構成した。『資治通鑑』原典が持つ動的描写と政治力学の緊迫感を伝えるため、比喩表現(「捨安就危」→「安全な道を捨て危険に飛び込む」)は意訳により可読性を確保している。 Translation took 883.8 seconds. | |||||||||
| 媯州人高思繼兄弟,在武干,為燕人所服,克用皆以為都將,分掌幽州兵;部下士卒,皆山北之豪也,仁恭憚之。久之,河東兵戍幽州者暴橫,思繼兄弟以法裁之,所誅殺甚多。克用怒,以讓仁恭,仁恭訴稱高氏兄弟所為,克用俱殺之。仁恭欲收燕人心,復引其諸子置帳下,厚撫之。 崔昭緯與李茂貞、王行瑜深相結,得天子過失,朝廷機事,悉以告之。邠寧節度副使崔鋋,昭緯之族也,李谿再入相,昭緯使鋋告行瑜曰:「向者尚書令之命已行矣,而韋昭度沮之,今又引李谿為同列,相與熒惑聖聽,恐復有杜太尉之事。」行瑜乃與茂貞表稱谿奸邪,昭度無相業,宜罷居散秩。上報曰:「軍旅之事,聯則與籓鎮圖之;至於命相,當出朕懷。」行瑜等論列不已,三月,谿復罷為太子少師。 王珙、王瑤請朝廷命河中帥,詔以中書侍郎、同平章事崔胤同平章事,充護國節度使;以戶部侍郎、判戶部王摶為中書侍郎、同平章事。 王珂,李克用之婿也。克用表重榮有功於國,請賜其子珂節鉞。王珙厚結王行瑜、李茂貞、韓建三帥,更上表稱珂非王氏子,請以珂為陝州、珙為河中。上諭以先已允克用之秦,不許。 加王鎔兼侍中。 楊行密浮淮至泗州,防禦使台濛盛飾供帳,行密不悅。既行,濛於臥內得補綻衣,馳使歸之。行密笑曰:「吾少貧賤,不敢忘本。 |
現代日本語訳媯州出身の高思継兄弟は武勇に優れ、燕の人々から敬服されていた。李克用は彼らを都将として登用し、幽州軍の指揮を分担させたが、配下の兵士はいずれも山北地方の豪族であり、劉仁恭はこれを危惧していた。時が経つにつれて河東から派遣された幽州駐留兵が横暴となり、高兄弟が法に基づき制裁したため多くの死者を出した。李克用が激怒して劉仁恭を責めたところ、仁恭は「すべて高氏兄弟の独断です」と報告し、これにより克用は彼らを処刑した。後に仁恭は燕の人々の支持を得ようと、高家の子息たちを幕下に招き入れ厚遇した。 崔昭緯は李茂貞・王行瑜と密接に結託し、皇帝の過失や朝廷機密を漏洩していた。邠寧節度副使の崔鋋(昭緯の同族)を通じ、「先日の尚書令任命決定後に韋昭度が阻止し、今また李谿を宰相登用して聖意を惑わしている」と王行瑜に伝えさせた。これを受け行瑜らは連名で「李谿は奸臣、昭度には宰相の能力なし」として罷免を要求した。皇帝は詔勅で「軍事は藩鎮と協議するが宰相任命は朕の専権である」と返答したものの、彼らの抗議が止まぬため三月に李谿は太子少師へ左遷された。 王珙・王瑤による河中部隊統帥要請に対し朝廷は崔胤(現職宰相)を護国節度使に任命。後任として戸部侍郎の王摶が新たな宰相となった。 王珂(李克用女婿)について、克用は「重栄には国家功績あり」と奏上して彼への節鉞授与を要請した。一方で王珙は行瑜・茂貞・韓建らに賄賂を贈り、「珂は王家の子孫ではない(故に珙が正当)」とする反対書簡を提出させたが、皇帝は既に克用の奏請を承認済みとして却下した。 成徳節度使王鎔へ侍中の官職を加授した。 楊行密が淮河経由で泗州入りした際、防禦使台濛が豪華な接待設備を準備したため不快を示す。出発後、台濛が寝室に残された繕いだらけの衣服を見つけて急送すると、「若き日の貧しさを忘れぬよう心掛けている」と笑って応じた。 歴史解説1. 河東軍閥内の権力構図 2. 唐朝廷の権威失墜 3. 節度使継承を巡る駆け引き 4. 楊行密の人心掌握術 ※歴史的背景 Translation took 1830.2 seconds. | |||||||||
| 」濛甚慚。行密攻濠州,撥之,執刺史張璲。行密軍士掠得徐州人李氏之子,生八年矣,行密養以為子,行密長子渥憎之;行密謂其將徐溫曰:「此兒質狀性識,頗異於人,吾度渥必不能容,今賜汝為子。」溫名之曰知誥。知誥事溫,勤孝過於諸子。嘗得罪於溫,溫笞而逐之;及歸,知誥迎拜於門。溫問:「何故猶在此?」知誥泣對曰:「人子捨父母將何之!父怒而歸母,人情之常也。」溫以是益愛之,使掌家事,家人無違言。及長,喜書善射,識度英偉。行密常謂溫曰:「知誥俊傑,諸將子皆不及也。」丁亥,行密圍壽州。 上以郊畿多盜,至有逾垣入宮或侵犯陵寢者,欲令宗室諸王將兵巡警,又欲使之四方撫慰籓鎮。南北司用事之臣恐其不利於己,交章論諫。上不得已,夏,四月,下詔悉罷之。 朝廷以董昌有貢輸之勤,今日所為,類得心疾,詔釋其罪,縱歸田裡。 戶部侍郎、同平章事陸希聲罷為太子少師。 楊行密圍壽州,不克,將還;庚寅,其將朱延壽請試往更攻,一鼓撥之,執剌史江從勖。行密以延壽權知壽州團練使。未幾,汴兵數萬攻壽州,州中兵少,吏民忷懼。延壽制,軍中每旗二十五騎。命黑雲隊長李厚將十旗擊汴兵,不勝;延壽將斬之,厚稱眾寡不敵,願益兵更往,不勝則死。都押牙汝陽柴再用亦為之請,乃益以五旗。厚殊死戰,再用助之,延壽悉眾乘之,汴兵敗走。 |
現代日本語訳楊行密は甚く恥じ入った。彼は濠州を攻撃し、これを陥落させて刺史の張璲を捕らえた。その際、楊行密軍の兵士が徐州出身の李氏の子(当時八歳)を略奪してきたため、行密は養子としたが、長男の楊渥がこの子を憎んだ。行密は配下の将軍・徐温に告げて言うには「この児童の資質や識見は常人と異なるゆえ、我が子である渥が必ず容れぬだろう。今より汝の子として与える」と。徐温は彼を知誥(ちこう)と名付けた。知誥は徐温に仕えて勤勉かつ孝行心厚く、他の実子たちを凌いだ。ある時過失により徐温が杖で打って追放すると、帰参した際も知誥は門前で恭しく迎えた。徐温が「何故まだここにいるのか」と問うと、彼は涙ながらに答えて曰く「人の子たるもの父母を捨てて他に行きようがありましょうか?父の怒りを受け母(養家)へ帰るのは人情の常です」。徐温はこれを聞いて一層愛し、家事一切を任せると家族も異論なく従った。成長後は書に親しみ弓術にも優れ、英邁な識見を示したため、行密も「知誥こそ俊傑なり」と評している。 四月丁亥(二十一日)、楊行密が寿州を包囲する中で皇帝は近郊の盗賊多発や皇陵侵犯事件を受け宗室諸王に兵を率いさせ警備強化と藩鎮慰撫を計画した。しかし朝廷内外の実権派官僚たちが自己の利益損なう恐れから反対上奏を連ねたため、皇帝は四月夏期に入り詔勅で撤回せざるを得なかった。 朝廷では董昌に対し貢納功績に鑑み「心疾(精神錯乱)による所業なり」として赦免・帰郷処分とした。一方で戸部侍郎陸希声が太子少師へ左遷され、楊行密は寿州攻略失敗後に撤退準備中だったが配下朱延寿の進言を受け庚寅(二十四日)に再攻撃を決行。わずか一戦で陥落させ刺史江従勖を捕縛したため朱延寿を暫定団練使とした。 直後、汴州軍数万が寿州へ侵攻すると兵少ない城内は恐慌状態となった。この時朱延寿が「黒雲隊」隊長李厚に二百五十騎(十旗分)を与えて迎撃させるも敗北したため処刑を宣告する場面で李厚が増援要請し、都押牙柴再用の助言を得て更に五旗追加。死戦覚悟の反攻により汴軍は潰走した。 解説
(注:ルビ表記禁止条件に基づき漢字は全て常用範囲で統一し、歴史用語には適宜説明を付与) Translation took 839.3 seconds. | |||||||||
| 厚,蔡州人也。行密又遣兵襲漣水,撥之。 錢鏐表董昌僭逆,不可赦,請以本道兵討之。 太傅、門下侍郎、同平章事韋昭度以太保致仕。 戊戌,以劉建鋒為武安節度使。建鋒以馬殷為內外馬步軍都指揮使。 楊行密遣使詣錢鏐,言董昌已改過,宜釋之;亦遣詣昌,使趣朝貢。 河東遣其將史儼、李承嗣以萬騎馳入於鄆,朱友恭退歸於汴。五月,詔削董昌官爵,委錢鏐討之。 初,王行瑜求尚書令不獲,由是怨朝廷。畿內有八鎮兵,隸左右軍。郃陽鎮近華州,韓建求之;良原鎮近邠州,王行瑜求之。宦官曰:「此天子禁軍,何可得也!」王珂、王珙爭河中,行瑜、建及李茂貞皆為珙請,不能得,恥之。珙使人語三帥曰:「珂不受代而與河東昏姻,必為諸公不利,請討之。」行瑜使其弟匡國節度使行約攻河中,珂求救於李克用。行瑜乃與茂貞、建各將精兵數千入朝,甲子,至京師,坊市民皆竄匿。上御安福門以待之,三帥盛陳甲兵,拜伏舞蹈於門下。上臨軒,親詰之曰:「卿輩不奏請俟報,輒稱兵入京城,其志欲何為乎?若不能事朕,今日請避賢路!」行瑜、茂貞流汗不能言,獨韓建粗述入朝之由。上與三帥宴,三帥奏稱:「南、北司互有朋黨,墮紊朝政。韋昭度討西川失策,李谿作相,不合眾心,請誅之。」上未之許。是日,行瑜等殺昭度、谿於都亭驛,又殺樞密使康尚弼及宦官數人。 |
現代日本語訳:厚は蔡州出身である。楊行密はさらに兵を派遣し漣水を急襲して占領した。 銭鏐が董昌の帝位僭称と叛逆行為について上表し、「赦免すべきでない」として自軍による討伐を要請した。 太傅・門下侍郎・同平章事であった韋昭度が太保の地位で引退(致仕)した。 戊戌の日、劉建鋒を武安節度使に任命。劉建鋒は馬殷を内外馬歩軍都指揮使に抜擢した。 楊行密は銭鏐のもとに使者を送り「董昌は改心したので赦すべきだ」と述べさせると同時に、董昌にも別の使者を派遣し朝廷への貢物を急がせた。 河東(李克用)配下の史儼・李承嗣が精鋭騎兵一万を率いて鄆州へ突入したため、朱友恭は汴州へ撤退した。五月、詔勅で董昌の官職と爵位を剥奪し、銭鏐に討伐を命じた。 当初、王行瑜が尚書令の地位を得られず朝廷への恨みを持っていた。京畿には八つの軍鎮(駐屯地)があり左右軍に属していた中で: さらに王珂と王珙が河中節度使の地位を争い、王行瑜・韓建・李茂貞三人そろって王珙支持を上奏したが認められず屈辱を感じた。王珙は密かに「王珂は交代拒否し河東(李克用)と姻戚関係を結んだ。このままでは諸公に不利益をもたらす」と伝え討伐を促した。 これを受け王行瑜が弟の匡国節度使・行約に河中攻撃を命じたため、王珂は李克用へ救援要請。すると王行瑜は李茂貞・韓建と共に精兵数千を率いて長安へ侵入し、甲子の日に到着した際には街中が無人化するほど市民は逃亡した。 皇帝(昭宗)が安福門に出御して待つ中、三人は武装兵をずらりと並べ城門前で跪礼した。帝は高みから詰問:「奏上もせず許可を得ぬまま軍勢を率いて入京するとは何の意思か?朕に仕える意志がなければ退位しよう」。王行瑜と李茂貞は冷汗だらけで返答できず、韓建のみが強引に出京理由を説明した。 宴席で三人が共同上奏:「文官(南司)と宦官(北司)が徒党を組み朝政を混乱させている。韋昭度の西川討伐は失策であり李谿の宰相就任は人心に背く。両名を処刑すべし」。帝が拒否するも、その日のうちに三人は都亭駅で韋昭度と李谿を殺害し、枢密使康尚弼や宦官数人をも斬った。 解説:
※ルビ排除・原文非掲載の要請に厳密対応。解説では歴史用語のみカッコ内に読みを示した。 Translation took 2134.6 seconds. | |||||||||
| 又言:「王珂、王珙嫡庶不分,請除王珙河中,徙王行約於陝,王珂於同州。」上皆許之。始,三帥謀廢上,立吉王保;至是,聞李克用已起兵於河東,行瑜、茂貞各留兵二千人宿衛京師,與建皆辭還鎮。貶戶部尚書楊堪為雅州刺史。堪,虞卿之子,昭度之舅也。 初,崔胤除河中節度使,河東進奏官薛志勤揚言曰:「崔公雖重德,以之代王珂,不若光德劉公於我公厚也。」光德劉公者,太常卿劉崇望也。及三帥入朝,聞志勤之言,貶崇望昭州司馬。李克用聞三鎮兵犯闕,即日遣使十三輩發北部兵,期以來月渡河入關。 六月,庚寅,以錢鏐為浙東招討使;鏐復發兵擊董昌。 辛卯,以前均州刺史孔緯、繡州司戶張濬並為太子賓客。壬辰,以緯為吏部尚書,復其階爵;癸已,拜司空,兼門下侍郎、同平章事。以張濬為兵部尚書、諸道租庸使。時緯居華州,濬居長水,上以崔昭緯等外交籓鎮,朋黨相傾,思得骨鯁之士,故驟用緯、濬。緯以有疾,扶輿至京師,見上,涕泣固辭;上不許。 李克用大舉蕃、漢兵南下,上表稱王行瑜、李茂貞、韓建稱兵犯闕,賊害大臣,請討之,又移檄三鎮,行瑜等大懼。克用軍至絳州,刺史王瑤閉城拒之;克用進攻,旬日,拔之。斬瑤於軍門,殺城中違拒者千餘人。秋,七月,丙辰朔,克用至河中,王珂迎謁於路。 |
現代日本語訳さらに上奏した。「王珂と王珙には嫡子と庶子の区別がつかないため、王珙を河中の地から退け、王行約を陝州へ移し、王珂は同州へ遷すようお願いします。」皇帝はすべてこれを認めた。当初、三将軍(李茂貞・王行瑜・韓建)が謀反を企て、帝位を廃して吉王保を即位させようとしたが、この時点で李克用が河東から兵を起こしたと知ると、行瑜と茂貞はそれぞれ二千人の兵士を京師の守備に残し、韓建も加わって任地へ戻った。戸部尚書楊堪は雅州刺史への左遷となった。楊堪は虞卿の息子であり、宰相・王昭度の叔父にあたる。 当初、崔胤が河中節度使に任命された際、河東進奏官(駐在武官)薛志勤が公然と述べた。「崔公は高徳ではあるが、彼を王珂の後任とするより、むしろ光德里出身の劉公こそ我ら主君(李克用)への恩誼に厚い人物だ」と。その「光德劉公」とは太常卿・劉崇望のことである。三将軍が朝廷入りした際、この志勤の発言を聞きつけ、劉崇望は昭州司馬へ左遷された。 李克用は三藩鎮の兵が長安に乱入したと知るや、即日に十三組の使者を立てて北方部族の兵力動員を命じ、「来月までに関中へ渡河進軍する」との期限を設定した。 六月庚寅(3日)、銭鏐は浙東招討使に任命された。彼は再び兵を起こして董昌を攻撃した。 辛卯(4日)、元均州刺史・孔緯と前繡州司戸・張濬が共に太子賓客となった。壬辰(5日)には孔緯が吏部尚書となり官位爵位を回復、癸巳(6日)には司空兼門下侍郎・同平章事(宰相)へ昇進した。また張濬は兵部尚書と諸道租庸使に任じられた。 当時、孔緯は華州に滞在し、張濬は長水県にいたが、皇帝崔昭緯らが地方藩鎮と結託し党派抗争で国政を混乱させる状況を見て、「骨鯁の士(剛直な人物)」を得たいと考えたため、突如として孔緯・張濬を重用した。重病中の孔緯は輿に乗って長安入りし皇帝拝謁時に涙ながらに辞退を固請したが、帝は許さなかった。 李克用は大規模な異民族兵と漢族部隊を率いて南下し「王行瑜・李茂貞・韓建らが武力で朝廷を犯し大臣を殺害した」との討伐表文を奉ると同時に三藩鎮へ檄文を飛ばしたため、行瑜らは恐怖に震えた。李克用軍が絳州に至った時、刺史王瑤は城門を閉ざして抵抗した。攻撃開始から十日で落城し、王瑶は陣営の門前で斬首され、城内では反抗者千余名が処刑された。 秋七月丙辰朔(1日)、河中へ到着した李克用を同地にいた王珂が路上で出迎えた。 解説【歴史的背景】この記述は唐末期の895年「三帥乱」(李茂貞・王行瑜・韓建による長安占拠事件)直後の政局を描く。当時、節度使(軍閥)勢力が朝廷を圧迫する中で、李克用(沙陀族出身)が皇室救済の名目で介入し、中央権威回復を図る動きを示す。 【政治力学】
【軍事的展開】
【人物関係図】
【訳出のポイント】
この記述は唐王朝崩壊前夜の特徴を凝縮している。すなわち〈皇帝権威の形骸化〉〈節度使による人事操作〉〈異民族軍事力への依存〉という三大要素が、李克用登場により一応の収束を見せる過渡期的局面である。特に孔緯・張濬登用は「文治派復活」の象徴だが、その実態は軍閥間バランスの中での暫定的措置にすぎなかった。 Translation took 2748.7 seconds. | |||||||||
| 匡國節度使王行約敗於朝邑,戊午,行約棄同州走,己未,至京師。行約弟行實時為左軍指揮使,帥眾與行約大掠西市。行實奏稱同華已沒,沙陀將至,請車駕幸邠州。庚申,樞密使駱全瓘奏請車駕幸鳳翔。上曰:「朕得克用表,尚駐軍河中。就使沙陀至此,朕自有以枝梧,卿等但各撫本軍,勿令搖動。」 右軍指揮使李繼鵬,茂貞假子也,本姓名閻珪,與駱全瓘謀劫上幸鳳翔。中尉劉景宣與王行實知之,欲劫上幸邠州。孔緯面折景宣,以為不可輕離宮闕。向晚,繼鵬連奏請車駕出幸,於是王行約引左軍攻右軍,於樓前侍衛。繼鵬復縱火焚宮門,煙炎蔽天。時有鹽州六都兵屯京師,素為兩軍所憚,上急召令入衛;既至,兩軍退走,各歸邠州及鳳翔。城中大亂,互相剽掠,上與諸王及親近幸李筠營,護蹕都頭李居實帥眾繼至。 或傳王行瑜、李茂貞欲自來迎車駕,上懼為所迫,辛酉,以筠、居實兩都兵自衛,出啟夏門,趣南山,宿莎城鎮。士民追從車駕者數十萬人,比至谷口,暍死者三之一,夜,復為盜所掠,哭聲震山谷。時百官多扈從不及,戶部尚書、判度支及鹽鐵轉運使薛王知柔獨先至,上命權知中書事及置頓使。 壬戌,李克用入同州。崔昭緯、徐彥若、王摶至莎城。甲子,上徙幸石門鎮,命薛王知柔與知樞密院劉光裕還京城,制置守衛宮禁。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)匡国節度使・王行約は朝邑で敗北し、戊午の日に同州から逃亡。己未の日には都に到着した。弟の行実(当時左軍指揮使)が配下を率いて合流すると、共に西市を略奪。行実は「同華地方は陥落し沙陀族が迫っている」と奏上して皇帝の邠州避難を要請した。翌庚申の日には枢密使・駱全瓘も鳳翔への移動を進言した。 これに対し昭宗帝は宣言する。「李克用からの書状によれば彼らは河中に駐留中だ。仮に沙陀族が来襲しても朕が対応する。卿らは各自の軍を統制せよ」と。 右軍指揮使・李継鵬(李茂貞の養子で本名閻珪)は駱全瓘と共に皇帝を鳳翔へ強制移送しようと画策。一方、中尉・劉景宣と王行実は邠州への移動を企てた。孔緯が宮殿離脱に反対する諫言をするも、夕刻までに李継鵬が繰り返し避難を要求したため事態は急転。王行約率いる左軍が右軍を攻撃し、楼前で乱闘となった。 さらに李継鵬が宮門への放火を指示すると炎煙が空を覆う混乱の中、皇帝は塩州から駐屯していた精鋭「六都兵」を緊急招集。その到着により両軍は撤退(邠州と鳳翔へ帰還)したものの、長安城内では略奪が横行。帝は諸王や側近らと共に李筠陣営へ避難し、護蹕都頭・李居実の部隊も合流して警護にあたった。 ここで「王行瑜と李茂貞が自ら皇帝を迎えに来る」との噂が流れる。帝は彼らに拘束されることを恐れ、辛酉の日に啓夏門から南山へ脱出し莎城鎮で宿営した。この際数十万の民衆が追随したものの、谷口までに熱中症死者が3分の1を占め、夜間には盗賊の襲撃を受けて慟哭が山谷に響いた。 壬戌日に李克用が同州へ入城する一方、遅れて合流した崔昭緯・徐彦若・王摶ら官僚は莎城で帝と面会。甲子の日には石門鎮へ移動すると同時に薛王知柔と劉光裕を長安に派遣し、宮殿警備体制を整えさせた。 歴史的考察1. 唐朝廷の権威失墜 - 節度使勢力が皇帝避難先を巡って私闘(左軍vs右軍)する事態は中央統制の崩壊を示す象徴的事件 - 「六都兵」招集に依存せざるを得なかった点で、常備禁軍の機能不全が顕著化 2. 民衆動向の重要性 - 数十万民衆が危険を顧みず帝について逃避行した事実は「天子観念」の根強さを示す - 一方で3分の1もの熱中症死者が出た記録は、当時の移動手段・医療環境の苛烈さを物語る 3. 李克用台頭の契機 - 沙陀族(突厥系)勢力が「秩序回復者」として登場した本件は、五代十国時代への過渡期を象徴 - 後に後唐を建国する李氏集団の政治的立場強化に直結する転換点 4. 情報操作の実態 - 王行実の虚偽報告(「同華陥落」)や李継鵬の強硬手段は、軍閥が恐慌を煽って皇帝移動を誘導した可能性を示唆 - 「盗賊に襲われる民衆」描写には、朝廷側記録として反軍閥プロパガンダの意図が読み取れる 5. 行政機能の崩壊 - 百官の大半が追随不能だった状況下で薛王知柔のみが対応した事実は、財政機構(度支・塩鉄)が最後まで維持された貴重な証言 - 「権知中書事」任命に見る臨時体制が、その後の藩鎮勢力への人事権浸食を予兆 Translation took 1720.9 seconds. | |||||||||
| 丙寅,李克用遣節度判官王瑰奉表問起居。丁卯,上遣內侍郗廷昱繼詔詣李克用軍,令與王珂各發萬騎同赴新平。又詔彰義節度使張鐇以涇原兵控扼鳳翔。 李克用遣兵攻華州;韓建登城呼曰:「僕於李公未嘗失禮,何為見攻?」克用使謂之曰:「公為人臣,逼逐天子,公為有禮,孰為無禮者乎!」會郗廷昱至,言李茂貞將兵三萬至盩厔,王行瑜將兵至興平,皆欲迎車駕,克用乃釋華州之圍,移兵營渭橋。 以薛王知柔為清海節度使、同平章事,仍權知京兆尹、判度支,充鹽鐵轉運使,俟反正日赴鎮。 上在南山旬餘,士民從車駕避亂者日相驚曰:「邠、岐兵至矣!」上遣延王戒丕詣河中,趣李克用令進兵。壬午,克用發河中。八月,上遣供奉官張承業詣克用軍。承業,同州人,屢奉使於克用,因留監其軍。己丑,克用進軍渭橋,遣其將李存貞為前鋒;辛卯,撥永壽,又遣史儼將三千騎詣石門侍衛。癸已,遣李存信、李存審會保大節度使李思孝攻王行瑜黎園寨,擒其將王令陶等,獻於行在。思孝本姓拓跋,思恭之弟也。李茂貞懼,斬李繼鵬,傳首行在,上表請罪,且遣使求和於克用。上復遣延王戒丕、丹王允諭克用,令且赦茂貞,並力討行瑜,俟其殄平,當更與卿議之。且命二王拜克用為兄。 以前河中節度使崔胤為中書侍郎、同平章事。 戊戌,削奪王行瑜官爵。 |
現代日本語訳丙寅の日(三日)、李克用は節度判官・王瓌を遣わし、上表文を奉じて皇帝の安否を問うた。丁卯の日(四日)、皇帝は内侍・郗廷昱に詔書を持たせて李克用軍のもとへ赴かせ、王珂と共に騎兵一万ずつを率いて新平へ急行するよう命じた。また彰義節度使・張鐇に対し、涇原の兵で鳳翔を抑える詔を下す。 李克用は軍勢を派遣して華州を攻撃した。韓建が城壁に登り叫んだ。「私は李公(克用)に対して礼を欠いたことはない。なぜ攻めるのか?」 これに対し、克用は使者を通じて言わせた。「貴殿は臣下でありながら天子を追い詰めた。それが礼ならば、無礼とは何だというのか!」 ちょうど郗廷昱が到着し、「李茂貞が兵三万を率いて盩厔へ、王行瑜が興平へ進軍し、ともに車駕(皇帝)を迎えようとしている」と報告したため、克用は華州包囲を解き渭橋に陣営を移した。 薛王・李知柔を清海節度使・同平章事に任命。さらに京兆尹代理・財政担当兼塩鉄転運使を兼任させ、朝廷が復帰する日まで現地へ赴任させることを命じた。 皇帝が南山に滞在して十余日が経った時、車駕に従って避難した士民らは連日のように「邠州軍・岐州軍が攻めてきた!」と騒いだ。皇帝は延王・李戒丕を河中へ派遣し李克用に出撃を促すよう命じた。壬午の日(十九日)、克用は河中から進発した。八月、皇帝は供奉官・張承業を使者として克用軍に遣わした。承業は同州出身で度々使節を務めており、監軍として現地に残留した。 己丑の日(二十六日)に克用が渭橋へ進軍すると、配下の李存貞を先鋒とした。辛卯の日(二十八日)、永寿を陥落させると史儼に騎兵三千を与え石門で皇帝護衛にあたらせた。癸巳の日(三十日)には李存信と李存審を派遣し、保大節度使・拓跋思孝(漢名:李思孝)と協力して王行瑜の黎園寨を攻撃させ、配下の将軍・王令陶らを捕縛して皇帝行宮へ送った。思孝は本来「拓跋」姓で、元鎮守者・思恭(同族)の弟である。 李茂貞が恐れおののき、配下の李継鵬を斬首した上でその首を行宮に届けさせ謝罪表を提出し、克用へも和睦使節を送った。皇帝は再び延王・戒丕と丹王・允(いずれも皇族)を遣わして「茂貞の赦免」「行瑜討伐への協力」を勅諭させ、「乱平定後に改めて協議する」ことを約束し、さらに二人に命じて克用へ兄として礼を取らせた。 前・河中節度使であった崔胤を中書侍郎・同平章事(宰相職)に任命した。戊戌の日(九月五日)、王行瑜は官爵剥奪とされた。 解説
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| 癸卯,以李克用為邠寧四面行營都招討使,保大節度使李思孝為北面招討使,定難節度使李思諫為東面招討使,彰義節度使張鐇為西面招討使。克用遣其子存勖詣行在,年十一,上奇其狀貌,撫之曰:「兒方為國之棟樑,它日宜盡忠於吾家。」克用表請上還京;上許之。令克用遣騎三千駐三橋為備御。辛亥,車駕還京師。壬子,司空兼門下侍郎、同平章事崔昭緯罷為右僕射。 以護國留後王珂、盧龍留後劉仁恭各為本鎮節度使。 時宮室焚毀,未暇完葺,上寓居尚書省,百官往往無袍笏僕馬。以李克用為行營都統。 九月,癸亥,司空兼門下侍郎、同平章事孔緯薨。 辛未,朱全忠自將擊朱瑄,戰於梁山;瑄敗走還鄆。 李克用急攻梨園,王行瑜求救於李茂貞,茂貞遣兵萬人屯龍泉鎮,自將兵三萬屯咸陽之旁。克用請詔茂貞歸鎮,仍削奪其官爵,欲分兵討之。上以茂貞自誅繼鵬,前已赦宥,不可復削奪誅討,但詔歸鎮,仍令克用與之和解。以昭義節度使李罕之檢校侍中,充邠寧四面行營副都統。史儼敗邠寧兵於雲陽,擒雲陽鎮使王令誨等,獻之。 王建遣簡州刺史王宗瑤等將兵赴難;甲戌,軍於綿州。 董昌求救於楊行密,行密遣泗州防禦使台濛攻蘇州以救之,且表昌引咎,願修職貢,請復官爵。又遺錢鏐書,稱:「昌狂疾自立,已畏兵諫,執送同惡。 |
現代日本語訳癸卯の日、李克用を邠寧四面行営都招討使に任命した。保大節度使李思孝は北面招討使、定難節度使李思諫は東面招討使、彰義節度使張鐇は西面招討使となった。李克用が息子の存勖(当時11歳)を行在所へ派遣すると、皇帝(昭宗)はその風貌に驚嘆し、「お前こそ将来の国家の柱石だ」と頭を撫でながら述べ、後に「必ず我が皇室への忠義を尽くせよ」と命じた。李克用の長安帰還要請を皇帝が許可すると、彼は3000騎兵を三橋に駐屯させて警備を固めた。辛亥の日に皇帝は長安へ戻り、壬子の日には崔昭緯が司空・門下侍郎・同平章事から右僕射へ降格となった。 護国留後であった王珂と盧龍留後の劉仁恭を各々本鎮の節度使に任命。当時は宮殿が焼け落ちて修復も進まず、皇帝は尚書省に仮住まいし、官僚の多くは礼服・笏板・従者・馬すら欠いていたため、李克用を行営都統(総司令官)へ抜擢した。 9月癸亥には孔緯(司空兼門下侍郎・同平章事)が逝去。辛未に朱全忠が自軍を率いて朱瑄と梁山で交戦し、朱瑄は鄆州へ敗走した。 李克用が梨園を猛攻すると、王行瑜が李茂貞に救援を要請。李茂貞は1万兵を龍泉鎮に駐屯させ、自ら3万の軍勢を咸陽近郊に出撃させた。これに対し李克用は「李茂貞を本領へ帰還させる詔勅」と「官爵剥奪による討伐」を上奏したが、皇帝(昭宗)は「李継鵬誅殺の功績があるため処罰不能」として兵を退くよう命じ、李克用に和解を指示。さらに李罕之を邠寧四面行営副都統へ補任する一方、史儼が雲陽で敵将・王令誨らを生け捕りにして献上した。 王建は簡州刺史の王宗瑤ら救援軍を派遣し、甲戌に綿州へ到着。董昌が楊行密へ援軍要請すると、彼は泗州防禦使台濛を蘇州攻撃に向かわせて牽制させるとともに朝廷へ「董昌が罪を認め官爵復帰と朝貢再開を願っている」と上奏。また銭鏐宛てに書簡を送り、「董昌は錯乱して自立したが、兵諫で恐怖し共犯者を拘束・引渡すだろう」と伝えさせた。 解説
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| 不當復伐之。」 冬,十月,丙戌,河東將李存貞敗邠寧軍於梨園北,殺千餘人。自是梨園閉壁不敢出。 貶右僕射崔昭緯為梧州司馬。 魏國夫人陳氏,才色冠後宮;戊子,上以賜李克用。克用令李罕之、李存信等急攻梨園;城中食盡,棄城走。罕之等邀擊之,所殺萬餘人,克梨園等三寨,獲王行瑜子知進及大將李元福等;克用進屯梨園。庚寅,王行約、王行實燒寧州遁去。克用奏請以匡國節度使蘇文建為靜難節度使,趣令赴鎮,且理寧州,招撫降人。 上遷居大內。 朱全忠遣都將葛從周擊兗州,自以大軍繼之。癸卯,圍兗州。 楊行密遣寧國節度使田頵、潤州團練使安仁義攻杭州鎮戍以救董昌,昌使湖州將徐淑會淮南將魏約共圍嘉興。錢鏐遣武勇都指揮使顧全武救嘉興,破烏墩、光福二寨。淮南將柯厚破蘇州水柵。全武,餘姚人也。 義武節度使王處存薨,軍中推其子節度副使郜為留後。 以京兆尹武邑孫偓為兵部侍郎、同平章事。王行瑜以精甲五千守龍泉寨,李克用攻之。李茂貞以兵五千救之,營於鎮西。李罕之擊鳳翔兵,走之,十一月,丁巳,撥龍泉寨。行瑜走入邠州,遣使請降於克用。 齊州刺史朱瓊舉州降於朱全忠。瓊,瑾之從父兄也。 衢州刺史陳儒卒,弟岌代之。 李克用引兵逼邠州,王行瑜登城,號哭謂克用曰:「行瑜無罪,迫脅乘輿,皆李茂貞及李繼鵬所為。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)【戦況経過】冬十月丙戌の日、河東軍の将・李存貞が梨園北方で邠寧軍を破り、千余人を討ち取った。以後、梨園守備軍は城門を閉ざして出撃しなくなった。 右僕射・崔昭緯は梧州司馬へ左遷された。 魏国夫人陳氏は才色ともに後宮随一であったが、戊子の日、皇帝(昭宗)により李克用に下賜される。これを機に克用は李罕之や李存信らに梨園への猛攻を命じた。城内の食糧が尽きたため守備軍は城を捨てて逃走。罕之らは途中で迎撃し、万余りを討ち取って梨園など三つの砦を陥落させ、王行瑜の子・知進や大将李元福らを捕虜とした。克用は本営を梨園へ移す。 庚寅の日、王行約と王行実が寧州に火を放ち逃走した。これを受け李克用は「匡国節度使・蘇文建を静難節度使に任命し、直ちに赴任させて寧州を統治させ降伏者を懐柔すべし」と上奏。 皇帝は大内(皇居)へ移御された。 朱全忠が都將・葛従周を兗州攻撃に向かわせた後、自ら主力軍を率いて続行。癸卯の日には兗州を包囲した。 楊行密は寧国節度使・田頵と潤州団練使・安仁義を杭州方面へ派遣し董昌救援にあたらせるが、董昌側では湖州将・徐淑が淮南軍の魏約と連合して嘉興を包囲。これに対し銭鏐は武勇都指揮使・顧全武に嘉興救援を命じた。全武(余姚出身)は烏墩・光福二砦を攻略したものの、淮南将・柯厚には蘇州水柵を突破される。 義武節度使・王処存が薨去すると、軍中では息子である節度副使・郜を留後として推戴。京兆尹(武邑出身)孫偓は兵部侍郎兼同平章事に任じられた。 【龍泉寨攻防】王行瑜は精鋭五千で龍泉寨を死守していたが、李克用の猛攻を受ける。李茂貞が五千の援軍を送って鎮西に布陣するも、李罕之に撃退された。十一月丁巳の日、ついに龍泉寨陥落。行瑜は邠州へ敗走し、克用への降伏使節を派遣した。 【諸将動向】斉州刺史・朱瓊が全州を挙げて朱全忠に帰順(朱瓊は朱瑾の従兄)。衢州刺史陳儒の死後は弟の岌が跡を継いだ。 李克用が軍勢を率いて邠州へ迫ると、王行瑜は城壁に登り慟哭して訴えた。「私に行瑜に罪などない。天子への脅迫行為も全て李茂貞と李継鵬の仕業である」 解説【歴史的背景】
【政治力学】
【軍事戦術特徴】
【人物関係図】
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| 請移兵問鳳翔,行瑜願束身歸朝。」克用曰:「王尚父何恭之甚!僕受詔討三賊臣,公預其一,束身歸朝,非僕所得專也。」丁卯,行瑜挈族棄城走。克用入邠州,封府庫,撫居人,命指揮使高爽權巡撫軍城,奏趣蘇文建赴鎮。行瑜走至慶州境,部下斬行瑜,傳首。 朱瑄遣其將賀瑰、柳存及河東將何懷寶將兵萬餘人襲曹州,以解兗州之圍。瑰,濮陽人也。丁卯,全忠自中都引兵夜追之,比明,至巨野南,及之,屠殺殆盡,生擒瑰存、懷寶,俘士卒三千餘人,是日晡後,大風沙塵晦冥,全忠曰:「此殺人未足耳!」下令所得之俘盡殺之。庚午,縛瑰等徇於兗州城下,謂朱瑾曰:「卿兄已敗,何不早降!」 丁丑,雅州刺史王宗侃攻撥利州,執刺史李繼顒,斬之。 朱瑾偽遣使請降於朱全忠,全忠自就延壽門下與瑾語。瑾曰:「欲送符印,願使兄瓊來領之。」辛巳,全忠使瓊往,瑾立馬橋上,伏驍果董懷進於橋下,瓊至,懷進突出,擒之以入,須臾,擲首城外。全忠乃引兵還,以瓊弟玭為齊州防禦使,殺柳存、何懷寶;聞賀瑰名,釋而用之。 李克用旋軍渭北。 加靜難節度使蘇文建同平章事。 蔣勳求為邵州刺史,劉建鋒不許,勳乃與鄧繼崇起兵,連飛山、梅山蠻寇湘潭,據邵州,使其將申德昌屯定勝鎮以扼潭人。 十二月,甲申,閬州防禦使李繼雍、蓬州刺史費存、渠州刺史陳璠各帥所部兵奔王建。 |
現代日本語訳:李行瑜が李克用へ懇請した:「鳳翔への進軍をお願いします。私は自ら身を縛り朝廷に帰順いたします。」これに対し克用は応じた:「王尚父(尊称)よ、なぜそこまで恭しいのか? 我は詔を受け三賊臣を討つ使命があるが、貴公もその一人だ。帰朝したいと言うなら、私の独断で決められることではない。」 丁卯の日、行瑜は一族を連れて城から逃亡した。克用が邠州に入ると、倉庫を封鎖し住民を慰撫。指揮使・高爽に軍と都市の警備を暫定管理させた上で、蘇文建の急ぎの赴任を朝廷へ奏請した。行瑜は慶州境まで逃れたところで配下に斬られ、首級が送られた。 朱瑄は部将の賀瑰・柳存と河東軍の何懐宝に兵万余りを率いさせ曹州を急襲し、兗州包囲網突破を図った。賀瑰は濮陽出身である。丁卯の日、全忠(朱全忠)が中都から夜間追撃を開始。明け方には巨野南部で敵軍に追いつきほぼ殲滅した。生け捕りにした賀瑰・柳存・何懐宝らと捕虜兵三千余人に対し、日暮れ時に砂塵を巻く大風が吹き荒れた。全忠は「これは殺戮が足りぬとの天の啓示だ」と叫び、全捕虜の処刑を命じた。 庚午の日、賀瑰らを縛って兗州城壁前で晒し者にすると、朱瑾へ呼びかけた:「貴公の兄(朱瑄)は敗れた! 早く降伏せよ!」 丁丑の日、雅州刺史・王宗侃が利州を攻略。刺史の李継顒を捕らえ斬首した。 朱瑾は偽りの降伏使者を全忠のもとへ送った。全忠みずから延寿門に出向いて対話すると、瑾は要求した:「印綬をお渡ししますので、兄(朱瓊)に受け取りにお越しいただきたい」。辛巳の日、全忠が朱瓊を行かせると、橋上で待ち構えた瑾は伏兵・董懐進を潜ませていた。朱瓊到着と同時に拉致して城内へ連行し、間もなく首を城外へ投げ捨てた。 この事件を受け全忠は撤兵したが、朱瓊の弟・玭(ピン)を斉州防禦使とした。また柳存と何懐宝を処刑する一方、賀瑰の名を知っていたため解放して登用した。 李克用軍が渭水北岸へ移動。 静難節度使・蘇文建に同平章事(宰相職)を加任。 蒋勲は邵州刺史就任を要請したが劉建鋒が拒否。これにより蔣勲と鄧継崇が反旗を翻し、飛山や梅山の蛮族と連合して湘潭を襲撃。邵州を占拠すると部将・申徳昌に定勝鎮を守らせ潭州勢への防衛線とした。 十二月甲申の日、閬州防御使・李継雍、蓬州刺史・費存、渠州刺史・陳璠が各軍を率いて王建陣営へ投降した。 解説:
※現代語訳にあたり固有名詞(人名・地名)は原典表記を基本としたが、「朱全忠→全忠」「李克用→克用」など頻出名については二度目以降省略した。戦闘描写については過剰な残虐表現を抑制しつも史実を厳密に再現。 Translation took 2148.9 seconds. | |||||||||
| 乙酉,李克用軍於雲陽。 王建奏:「東川節度使顧彥暉不發兵赴難,而掠奪輜重,遣瀘州刺史馬敬儒斷峽路,請興兵討之。」戊子,華洪大破東川兵於楸林,俘斬數萬,拔揪林寒。 乙未,進李克用爵晉王,加李罕之兼侍中,以河東大將蓋寓領容管觀察使;自餘克用將佐、子孫並進官爵。克用性嚴急,左右小有過輒死,無敢違忤;惟蓋寓敏慧,能揣其意,婉辭裨益,無不從者。克用或以非罪怒將吏,寓必陽助之怒,克用常釋之;有所諫諍,必征近事為喻;由是克用愛信之,境內無不依附,權與克用侔。朝廷及鄰道遣使至河東,其賞賜賂遺,先入克用,次及寓家。朱全忠數遣數人間之,及揚言雲蓋寓已代克用,而克用待之益厚。 丙申,王建攻東川,別將王宗弼為東川兵所擒,顧彥暉畜以為子,戊戌,通州刺史李彥昭將所部兵二千降於建。 李克用遣掌書記李襲吉入謝恩,密言於上曰:「比年以來,關輔不寧,乘此勝勢,遂取鳳翔,一勞永逸,時不可失。臣屯軍渭北,專俟進止。」上謀於貴近,或曰:「茂貞覆滅,則沙陀大盛,朝廷危矣!」上乃賜克用詔,褒其忠款,而言:「不臣之狀,行瑜為甚。自朕出幸以來,茂貞、韓建自知其罪,不忘國恩,職貢相繼,且當休兵息民。」克用奉詔而止。既而私於詔使曰:「觀朝廷之意,似疑克用有異心也。 |
現代日本語訳乙酉(いつゆう)の日、李克用(りこくよう)は雲陽(うんよう)に軍営を置いた。 王建(おうけん)が上奏した:「東川節度使(とうせんせつどし)・顧彦暉(こげんき)は賊討伐のため出兵せず、逆に輜重隊(しちょうたい)を略奪し、瀘州(ろしゅう)刺史・馬敬儒(ばけいじゅ)を使わして峽路(きょうろ)を遮断しております。どうか討伐軍をお起こしください」。戊子(ぼし)の日、華洪(かこう)が楸林(しゅうりん)で東川軍を大破し、数万人を捕虜・斬首するとともに揪林寒(地名)を攻略した。 乙未(きつび)の日、李克用は晋王(しんおう)に昇爵され、李罕之(りかんし)は侍中(じちゅう)を兼任、河東軍の大将・蓋寓(がいぐう)が容管観察使(ようかんかんさつし)に任命された。その他の李克用配下の将官や子孫も一様に昇進した。克用は性格が厳格かつ短気で、側近が些細な過ちを犯せば即座に死刑としたため、逆らう者はいなかった。ただ蓋寓のみが聡明機転に長け、常に彼の意図を推察し婉曲に助言したので、克用もこれを受け入れた。克用が無実の罪で将兵を叱責すると、蓋寓は表向き同調して激怒するふりをし、結局処罰を取りやめさせた。諫言(かんげん)が必要な際には身近な事例を引き合いに出したため、克用は彼を深く信頼し、領内の者も皆これに従った。その権勢は克用と並ぶほどとなり、朝廷や隣国からの使者が河東(かとう)を訪れる際は、贈答品はまず克用へ、次いで蓋寓の屋敷へ届けられた。朱全忠(しゅぜんちゅう)が繰り返し間者を使って「蓋寓が既に克用から実権を奪った」と流言したにもかかわらず、克用はますます厚遇した。 丙申(ぼうしん)の日、王建が東川を攻撃する中で別将・王宗弼(おうそうひつ)が捕虜となったが、顧彦暉は彼を養子とした。戊戌(ぼじゅつ)の日、通州(つうしゅう)刺史・李彦昭(りげんしょう)が配下2千兵を率いて王建に降伏した。 李克用は書記官長・李襲吉(りしゅうきち)を使者として朝廷へ派遣し謝恩するとともに、密かに皇帝(昭宗)に奏上した:「近年、関中地方(かんちゅうちほう)が不安定な折から、この勝利の勢いに乗じて鳳翔(ほうしょう:李茂貞本拠地)を攻略すれば一挙永逸となります。今こそ絶好の機会です。臣が渭水北岸に駐屯しているのも陛下からの出撃命令をお待ちしているためです」。皇帝は側近と協議すると、ある者が「もし李茂貞(りもてい)を滅ぼせば沙陀族(さだぞく:李克用勢力)が強大化し朝廷は危うい」と進言した。そこで詔書で克用の忠誠を称えつつこう伝えた:「不臣の中でも王行瑜(おうぎょうゆ)が最悪であった。朕(ちん)が長安を離れて以来、李茂貞や韓建(かんけん)らは自らの過ちを悟り朝廷への貢献も続けている。今こそ兵を休め民力を養う時である」。克用は詔に従って出撃を取りやめたが、後に詔使へ密かに漏らした:「朝廷の意向を見るに、私(克用)に謀反心があると疑っているようだ」。 解説
歴史的背景と意義この記述は895年(唐・乾寧2年)、唐王朝が崩壊へ向かう「藩鎮割拠」期の典型的事象を描く:
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| 然不去茂貞,關中無安寧之日。」又詔免克用入朝,將佐或言:「今密邇闕庭,豈可不入見天子,!」克用猶豫未決,蓋寓言於克用曰:「向者王行瑜輩縱兵狂悖,致鑾輿播越,百姓奔散。今天子還未安席,人心尚危,大王若引兵渡渭,竊恐復驚駭都邑。人臣盡忠,在於勤王,不在入覲,願熟圖之!」克用笑曰:「蓋寓尚不欲吾入朝,況天下之人乎!」乃表稱:「臣總帥大軍,不敢徑入朝覲,且懼部落士卒侵擾渭北居人。」辛亥,引兵東歸。表至京師,上下始安。詔賜河東士卒錢三十萬緡。克用既去,李茂貞驕橫如故,河西州縣多為茂貞所據,以其將胡敬璋為河西節度使。 朱全忠之去兗州也,留葛從周將兵守之,朱瑾閉城不復出,從周將還,乃揚言「天平、河東救兵至,引兵西北邀之,」夜半,潛歸故寨。瑾以從周精兵悉出,果出兵攻寨。從周突出奮擊,殺千餘人,擒其都將孫漢筠而還。 加鎮海節度使錢鏐兼侍中。 彰義節度使張鐇薨,以其子璉權知留後。 朱瑄、朱瑾屢為朱全忠所攻,民失耕稼,財力俱弊。告急於河東,李克用遣大將史儼、李承嗣將數千騎假道於魏以救之。 安州防禦使家晟與朱全忠親吏蔣玄暉有隙,恐及禍,與指揮使劉士政、兵馬監押陳可璠將兵三千襲桂州,殺經略使周元靜而代之。晟醉侮可璠,可璠手刃之,推士政知軍府事,可璠自為副使。 |
現代日本語訳:しかし茂貞を除かなければ、関中に安寧の日は来ない。」また詔書で克用の入朝免除が発表されると、配下の中には「今まさに宮廷のすぐ近くまで来ているのだから、天子にお目通りせずにどうしてよいものか!」と進言する者もいた。克用が躊躇していると、蓋寓が次のように述べて諫めた:「以前にも王行瑜らが兵を暴走させた結果、御輿(天子)は難を避けて逃亡され、民衆は散り散りになりました。今なお陛下の座席すら安泰でなく、人心も不安定です。もし大王(克用)が軍勢を率いて渭水を渡れば、再び都の人々を驚かせる恐れがあります。人臣たる者の忠義とは、王室のために尽力することにあり、必ずしも参内することではありません。どうか慎重にお考えください」。これを聞いた克用は笑いながら言った:「蓋寓でさえ入朝することを望んでいないのだから、まして天下の人がどう思うかは分かったものだ!」 こうして上表文を提出した:「臣が大軍を統率している身では、直接参内することなど恐れ多い。また配下の兵士たちが渭水北部住民に危害を与える懸念もあります」。辛亥(二十八日)、克用は軍勢を東へ引き返させた。この上表文が都に届くと朝廷上下はようやく安堵した。詔勅により河東士卒には銭三十万緡の恩賜があった。 克用が去った後、李茂貞は相変わらず傲慢で横暴を極め、河西の州県も多く彼によって占拠され、配下の胡敬璋を河西節度使に任命した。 朱全忠が兗州から撤退する際、葛従周に守備兵を残していた。すると城門を閉ざして出撃しない朱瑾に対し、葛従周は帰還しようとしたところで「天平・河東からの援軍が到着した」と噂を流布。西北方向へ進むふりをしながら夜中に密かに本営へ戻った。これを聞いた朱瑾は精鋭部隊が出払ったと思い込み、実際に出撃して敵陣を攻めた。葛従周は猛然と反撃し、千余人を斬殺すると同時に相手の都将・孫漢筠を生け捕りにして帰還した。 鎮海節度使・銭鏐には侍中の官職が加えられた。 彰義節度使・張鐇が死去。後任として息子の張璉が留後の権限を与えられる形で後継となった。 朱瑄と朱瑾はたびたび朱全忠に攻撃され、民衆は耕作もできず財政・兵力ともに疲弊していた。彼らが河東へ救援を要請すると、李克用は大将の史儼と李承嗣に数千騎を与え、魏州を通る偽装ルートで援軍派遣を行った。 安州防禦使・家晟は朱全忠側近の蒋玄暉との確執が原因で災いを恐れ、指揮使・劉士政や兵馬監押・陳可璠と共に三千の兵を率いて桂州を急襲。経略使周元静を殺害して自ら後任となった。ところが家晟は酒席で陳可璠を侮辱したため、逆に刺し殺される結果となる。劉士政が軍府事務を代行することとなり、陳可璠自身も副使の地位を得た。 解説:
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| 詔即以士政為桂管經略使。玄暉,吳人也。 昭宗聖穆景文孝皇帝上之下乾寧三年(丙辰,公元八九六年) 春,正月,西川將王宗夔攻拔龍州,殺刺史田昉。丁已,劉建鋒遣都指揮使馬殷將兵討蔣勳,攻定勝寨,破之。 辛未,安仁義以舟師至湖州,欲渡江應董昌,錢鏐遣武勇都指揮使顧全武、都知兵馬使許再思守西陵,仁義不能度。昌遣其將湯臼守石城,袁邠守餘姚。 閏月,克用遣蕃、漢都指揮使李存信將萬騎假道於魏以救兗、鄆,軍於莘縣。朱全忠使人謂羅弘信曰:「克用志吞河朔,師還之日,貴道可憂。」存信戢眾不嚴,侵暴魏人。弘信怒,發兵三萬夜襲之。存信軍潰退。保洺州,喪士卒什二三,委棄資糧兵械萬樓;史儼、李承嗣之軍隔絕不得還。弘信自是與河東絕,專志於汴。金忠方圖兗、鄆,畏弘信議其後,弘信每有贈遺,全忠必對使者北向拜授之,曰:「六兄於予,倍年以長,固非諸鄰之比。」弘信信之,全忠以是得專意東方。 丁亥,果州刺史張雄降於王建。 二月,戊辰,顧全武、許再思敗湯臼於石城。上用楊行密之請,赦董昌,復其官爵;錢鏐不從。以通王滋判侍衛諸將事。 朱全忠薦兵部尚書張濬,上欲復相之;李克用表請發兵擊全忠,且言「濬朝為相,臣則夕至闕庭!」京師震懼,上下詔和解之。 三月,以天雄留後李繼徽為節度使。 |
現代日本語訳:詔書により士政を直ちに桂管経略使に任命した。玄暉は呉出身である。 昭宗聖穆景文孝皇帝の治世、乾寧三年(丙辰年、西暦896年) 春正月、西川将軍王宗夔が龍州を攻略し刺史田昉を討ち取った。丁巳の日、劉建鋒は都指揮使馬殷に兵を与え蒋勳征伐に向かわせ定勝寨を攻撃して陥落させた。 辛未の日、安仁義が水軍を率いて湖州に到着し長江渡河による董昌支援を図ったが、銭鏐が派遣した武勇都指揮使顧全武と都知兵馬使許再思が西陵で防衛線を構築。これにより安仁義は渡河できなかった。董昌配下の湯臼は石城守備に、袁邠は余姚守備についた。 閏月、李克用は蕃漢混成部隊指揮官李存信に騎兵一万を与え魏を通過して兗州・鄆州救援に向かわせた。軍勢が莘県に駐屯すると朱全忠は羅弘信へ警告した:「李克用の野心は河朔全域制圧にある。撤退後には貴地も危うくなるだろう」と。李存信の部隊規律が弛緩し魏住民を侵害していたため、激怒した羅弘信は三万の兵で夜襲を決行。壊走した李存信軍は洺州に退却する際、将兵の2~3割を失い膨大な物資・武器を放棄(史儼と李承嗣部隊も孤立)。これにより羅弘信は河東との同盟を破棄し汴州支持へ転換。兗鄆攻略中の朱全忠は背後脅威を回避すべく、贈り物のたび「六兄(羅)こそ世代上の指導者」と北向き拝礼で敬意を示したため弘信は心服。これにより朱全忠は東方作戦に集中可能となった。 丁亥日、果州刺史張雄が王建に降伏。 二月戊辰日、顧全武・許再思連合軍が石城で湯臼を撃破。昭宗帝は楊行密の奏請を受け董昌赦免と官爵復活を命じたが銭鏐は従わなかった。通王滋に親衛部隊統括権を与える。 朱全忠が推挙した兵部尚書張濬再任に対し、李克用が「登用されれば直ちに出兵」と脅迫状を送り朝廷震撼。詔勅による和解調停となる。 三月、天雄留後李継徽を正式な節度使とする。 解説:
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| 保大節度使李思孝表請致仁,薦弟思敬自代,詔以思孝為太師,致仕,思敬為保大留後。 朱全忠遣龐師古將兵伐鄆州,敗鄆兵於馬頰,遂抵其城下。 己酉,顧全武等攻餘姚,明州刺史黃晟遣兵助之;董昌遣其將徐章救餘姚,全武擊擒之。 夏,四月,辛酉,河漲,將毀滑州城,朱全忠命決為二河,夾滑城而東,為害滋甚。 李克用擊羅弘信,攻洹水,殺魏兵萬餘,進攻魏州。 武安節度使劉建鋒既得志,嗜酒,不親政事。長直兵陳贍妻美,建鋒私之。贍袖鐵撾擊殺建鋒;諸將殺贍,迎行軍司馬張佶為留後。佶將入府,馬忽踶嚙,傷左髀。時馬殷攻邵州未下,佶謝諸將曰:「馬公勇而有謀,寬厚樂善,吾所不及,真乃主也。」乃以牒召之。殷猶豫未行,聽直軍將汝南姚彥章說殷曰:「公與劉龍驤、張司馬,一體人也,今龍驤遇禍,司馬傷髀,天命人望,捨公尚誰屬哉!」殷乃使親從都指揮使李瓊留攻邵州,逕詣長沙。 淮南兵與鎮海兵戰於皇天蕩,鎮海兵不利,楊行密遂圍蘇州。錢鏐、鍾傳、杜洪畏楊行密之強,皆求援於朱全忠;全忠遣許州刺史朱友恭將兵萬人渡淮,聽以便宜從事。 董昌使人覘錢鏐兵,有言其強盛者輒怒,斬之;言兵疲食盡,則賞之。戊寅,袁邠以餘姚降於鏐;顧全武、許再思進兵至越州城下。五月,昌出戰而敗,嬰城自守,全武等圍之。 |
現代日本語訳:保大節度使の李思孝は引退を願い出て弟・思敬を後任に推挙したため、詔により思孝を太師として致仕させ、思敬を保大留後とした。 朱全忠が龐師古に兵を率いて鄆州討伐を命じた。馬頰で鄆州軍を破り、その城下に迫った。 己酉の日(3月)、顧全武らが餘姚を攻撃すると、明州刺史・黄晟は援軍を派遣した。これに対し董昌は部将・徐章を救援に向かわせたが、顧全武が迎撃して捕虜とした。 夏4月辛酉の日(14日)、黄河が増水して滑州城の崩壊が懸念されたため、朱全忠は河を二股に分流させるよう命じた。しかし流路が滑州城を挟んで東進したことで、かえって被害が拡大した。 李克用が羅弘信を攻撃し、洹水で魏博兵1万余を殲滅後、さらに魏州へ進攻した。 武安節度使・劉建鋒は権力を掌握すると酒に溺れ政務を怠った。長直軍の陳贍の妻が美人であったため彼女と密通し、これに怒った陳贍が袖に隠した鉄撾(てつか)で建鋒を撲殺。諸将は陳贍を処刑後、行軍司馬・張佶を留後として迎えた。ところが張佶が節度使府に入ろうとした際、乗馬が突然暴れて左腿に重傷を負わせた。折しも馬殷が邵州攻略中であったため、張佶は諸将に「馬公は勇略に優れ寛厚な人物で私より適任だ」と述べ、文書で招致した。馬殷が躊躇すると配下の姚彦章が進言:「劉龍驤(建鋒)・張司馬と三位一体であった貴公こそ天意に叶う」と説得。これを受け馬殷は李瓊に邵州攻撃を継続させ、自ら長沙へ急行した。 淮南軍と鎮海軍が皇天蕩で交戦し、敗れた鎮海軍の劣勢を見た楊行密は蘇州包囲に移った。これに対し銭鏐・鍾伝・杜洪らは楊行密の圧力を恐れ朱全忠へ救援を要請。全忠は許州刺史・朱友恭に兵1万を与え淮水渡河を命じ、現地判断での行動を許可した。 董昌が銭鏐軍の偵察報告を聞く際、「敵が強盛」と述べた者は処刑し「兵疲れ食尽きた」との報告には褒賞を与えた。戊寅(閏4月1日)、袁邠が餘姚で銭鏐に降伏すると、顧全武・許再思は越州城下へ進軍した。5月、董昌が出撃して敗れたため籠城し、全武らは包囲を強化した。 解説:
※本訳では原文の紀年(己酉・辛酉等)は干支+月日併記とし、地名・官職名には現代語訳を採用。『資治通鑑』原典が持つ緊迫感を平明な現代日本語で再現するよう心がけた。 Translation took 2281.1 seconds. | |||||||||
| 昌始懼,去帝號,復稱節度使。 馬殷至長沙,張佶肩輿入府,坐受殷拜謁,已,乃命殷升聽事,以留後讓之,即趨下,帥將吏拜賀,復為行軍司馬,代殷將兵攻邵州。 癸未,蘇州常熟鎮使陸郢以州城應楊行密,虜刺史成及。行密閱及家所蓄,惟圖書、藥物,賢之,歸,署行軍司馬。及拜且泣曰:「及百口在錢公所。失蘇州不能死,敢求富貴!願以一身易百口之死!」引佩刀欲自刺。行密遽執其手,止之,館於府捨。其室中亦有兵仗,行密每單衣詣之,與之共飲膳,無所疑。錢鏐聞蘇州陷,急召顧全武,使趨西陵備行密,全武曰:「越州賊之根本,奈何垂克而棄之!請先取越州,後復甦州。」鏐從之。 淮南將朱延壽奄至蘄州,圍其城。大將賈公鐸方獵,不得還,伏兵林中,命勇士二人衣羊皮夜入延壽所掠羊群,潛入城,約夜半開門舉火為應,復衣皮返命。公鐸如期引兵至城南,門中火舉,力戰,突圍而入。延壽驚曰:「吾常恐其潰圍而出,反潰圍而入,如此,城安可猝拔!」乃白行密,求軍中與公鐸有舊者持誓書金帛往說之,許以婚。壽州團練副使柴再用請行,臨城與語,為陳利害。數日,公鐸及刺史馮敬章請降。以敬章為左都押牙,公鐸為右監門衛將軍。延壽進拔光州,殺刺吏劉存。 丙戌,上遣中使詣梓州和解兩川,王建雖奉詔還成都,然猶連兵未解。 |
現代日本語訳:昌(李昌)はついに恐れをなして皇帝の称号を取りやめ、再び節度使と称した。 馬殷が長沙に到着すると、張佶は駕籠で府中に入り、堂々と馬殷の拝謁を受けた。その後すぐに馬殷を政務室へ上げて留後の地位を譲ると、自らは素早く階下へ降り、将兵や官吏を率いて祝賀の礼を行った。張佶自身は行軍司馬に戻り、代わって馬殷が兵を指揮して邵州を攻撃した。 癸未(日付)、蘇州常熟鎮使の陸郢が州城を挙げて楊行密に呼応し、刺史・成及を捕らえた。楊行密は成及の家財を調べたところ、書籍と薬品のみであったためその人物を高く評価した。帰還後に行軍司馬に任命すると、成及は泣きながら拝礼して言った。「私の一族百人はいまだ銭公(銭鏐)のもとにいます。蘇州を失いながら死ねず、富貴など望めません!どうかこの身をもって一族の命と引き換えに!」佩刀を抜いて自害しようとしたため、楊行密は急いでその手を押さえて止めた。その後も成及の屋敷には武器が置かれていたが、楊行密は単衣姿でたびたび訪れ、共に飲食して疑う様子を見せなかった。 銭鏐は蘇州陥落を知ると急いで顧全武を召し出し西陵へ向かわせて楊行密への備えとさせようとした。しかし顧全武が「越州こそ賊の本拠です。今まさに陥落せんとする地をなぜ放棄するのか!まず越州を取った後、蘇州を奪還すべきです」と進言し、銭鏐はこれに従った。 淮南軍の朱延寿が蘄州へ急襲して城を包囲した。大将・賈公鐸はちょうど狩猟中で戻れず、林の中に伏兵を置いた上で二人の勇士に羊皮を着せて夜間に敵陣の羊群へ潜入させた。彼らは城内に入り込み「夜半に門を開き烽火を合図とする」と約束すると再び羊皮をまとって帰還した。賈公鐸は予定通り城南へ軍勢を進めると、城中で烽火が上がったため死戦の末包囲網を突破して入城した。朱延寿は驚嘆して言う。「常に敵の脱出を恐れていたのに逆に突入されるとは!これでは短期攻略など不可能だ」。そこで楊行密へ報告し、軍中で賈公鐸と旧知の者を使者として誓約書・金帛を持たせ降伏勧告に向かわせた。さらに縁組も提案したところ、寿州団練副使・柴再用が自ら志願して城壁前で利害を説いた。数日後、賈公鐸と刺史馮敬章は降伏を申し出たため、楊行密は馮敬章を左都押牙に、賈公鐸を右監門衛将軍に任じた。朱延寿はさらに光州へ進撃して陥落させ、刺吏劉存を殺害した。 丙戌(日付)、皇帝(昭宗)は使者を梓州へ派遣し両川(東川・西川)の和解を命じた。王建は詔勅を受け入れて成都へ帰還したものの、依然として兵を引くことはなかった。 解説:
※本訳文は『資治通鑑』胡三省注を参照しつつ、固有名詞は現代歴史学の定説に基づき統一(例:楊行密→当時の姓名表記)、軍制用語は現代日本語で理解可能な表現へ変換しています。 Translation took 1090.6 seconds. | |||||||||
| 崔昭緯復求救於朱全忠。戊子,遣中使賜昭緯死,行至荊南,追及,斬之,中外咸以為快。 荊南節度使成汭與其將許存溯江略地,盡取濱江州縣。武泰節度使王建肇棄黔州,收餘眾保豐都。存又引兵西取諭、涪二州,汭以其將趙武為黔中留後,存為萬州刺史。汭知存不得志,使人詗之,曰:「存不治州事,日出蹴鞠。」汭曰:「存將逃,先勻足力也。」遣兵襲之,存棄城走;其眾稍稍歸之,屯於茅壩。趙武數攻豐都,王建肇不能守,與存皆降於王建,建忌存勇略,欲殺之,掌書記高燭曰:「公方總攬英雄以圖霸業,彼窮來歸我,奈何殺之!」建使戍蜀州,陰使知蜀州王宗綰察之。宗綰密言存忠勇廉厚,有良將才,建乃捨之,更其姓名臼王宗播,而宗綰竟不使宗播知其免己也。宗播元從也目官柳修業,每勸宗播慎靜以免禍。其後宗播為建將,遇強敵諸將所憚者,以身先之。及有功,輒稱病,不自伐,由是得以功名終。 甲午,夜,顧全武急攻越州,乙未旦,克其外郭,董昌猶據牙城拒之。戊戌,鏐遣昌故將駱團紿昌云:「奉詔,令大王致仕歸臨安。」昌乃送牌印,出居清道坊。己亥,全武遣武勇都監使吳璋以舟載昌如杭州,至小江南,斬之,並其家三百餘人,宰相李邈、蔣瑰以下百餘人。昌在圍城中,貪吝益甚,口率民間錢帛,減戰士糧。及城破,庫有金帛雜貨五百間,倉有糧三百萬斛。 |
現代日本語訳崔昭緯が再び朱全忠への救援を求めたが、戊子の日(4月29日)、朝廷は使者を派遣して彼に自害を命じた。荊南へ向かう途中で追いつかれ斬首されると、朝廷内外の人々は皆これを快哉とした。 荊南節度使・成汭は配下の許存と共に長江を遡り領土を攻略し、沿岸の州県を占拠した。武泰節度使・王建肇は黔州から撤退し残兵を集めて豊都で防衛するが、許存がさらに軍勢を率いて西進し諭州・涪州を奪取すると、成汭は配下の趙武を黔中留後(臨時統治者)に任命し、許存には万州刺史の地位を与えた。 しかし成汭は許存が不満を持っていることに気づき密偵を派遣すると、「彼は政務を顧みず毎日蹴鞠ばかりしている」と報告された。成汭は「逃亡する前に足腰を鍛えているのだ」と判断し軍勢で急襲したため、許存は城を捨てて逃走。配下の兵も次第に離散し茅壩へ駐屯した。一方、趙武が豊都を攻撃すると王建肇は防衛できず、許存と共に王建(前蜀創始者)に降伏する。 王建は許存の勇略を警戒して殺害しようとしたが、書記官・高燭が「殿は英雄を集めて覇業を成そうとしておられるのに、困窮して投降した者をなぜ殺すのですか」と諫めたため、蜀州守備に任命しつつ密かに監視させた。知蜀州・王宗綰(こうそうわん)が「許存は忠勇かつ廉潔で良将の才あり」と報告すると、王建は処刑を中止し彼を「王宗播」と改名した。ただし王宗綰は自らが助命工作したことを生涯明かさなかった。 元々従っていた幕僚・柳修業(りゅうしゅうぎょう)の「慎重沈着であれ」との忠告を受け、王宗播は以後、他の将軍が恐れる強敵戦では常に先頭に立ちながらも、武功を立てると病と称して手柄を誇らず、結果として名誉ある生涯を全うした。 甲午(6月5日)の夜、顧全武による越州急襲で乙未(6月6日)明け方には外郭が陥落するも、董昌は牙城に籠って抵抗した。戊戌(6月9日)、銭鏐(せんりゅう)が派遣した旧臣・駱団(らくだん)が「詔勅により殿下を引退させ臨安へ帰す」と偽ると、董昌は信じて印璽を渡し清道坊に退去。翌己亥(6月10日)、顧全武配下の呉璋が船で杭州へ護送する途中の小江南において董昌と一族三百人余り、加えて宰相・李邈や蒋瑰以下百余人を斬殺した。 籠城中も董昌は民衆から金品を徴収しつつ兵士への食糧供給を減らしていたため、陥落時には倉庫に五百室分の財宝と三百万斛(約1.5億リットル)もの米が残されていた。 解説【権力構造の力学】
【乱世における武将の生存戦略】
【董昌滅亡の本質的要因】
『資治通鑑』の史的視点
【戦略的教訓】
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| 錢鏐傳昌首於京師,散金帛以賞將士,開倉以振貧乏。 李克用攻魏博,侵掠遍六州。朱全忠召葛從周於鄆州,使將兵營洹水以救魏博,留龐師古攻鄆州,六月,克用引兵擊從周,汴人多鑿坎於陳前,戰方酣,克用之子鐵林指揮使落落馬遇坎而躓,汴人生擒之;克用自往救之。馬亦躓,幾為汴人所獲;克用顧射汴將一人,斃之,乃得免。克用請修好以贖落落,全忠不許,以與羅弘信,使殺之。克用引軍還。葛從周自洹水引兵濟河,屯於楊劉,復擊鄆,及兗、鄆、河東之兵戰於故樂亭,破之,兗、鄆屬城皆為汴人所據,屢求救於李克用,克用發兵赴之,為羅弘信所拒,不得前,兗、鄆由是不振。 初,李克用屯渭北,李茂貞、韓建憚之,事朝廷禮甚恭。克用去,二鎮貢獻漸疏,表章驕慢,上自石門還,於神策兩軍之外,更置軍聖、捧宸、保寧、宣化等軍,選補數萬人,使諸王將之;嗣延王戒丕、嗣賈王嗣周又自募麾下數千人。茂貞以為欲討己;語多怨望,嫌隙日構。茂貞亦勒兵揚言欲詣闕訟冤;京師士民爭亡匿山谷。上命通王滋及嗣周、戒丕分將諸軍以衛近畿,戒丕屯三橋。茂貞遂表言「延王無故稱兵討臣,臣今勒兵入朝請罪。」上遽遣使告急於河東。丙寅,茂貞引兵逼京畿,覃王與戰於婁館,官軍敗績。秋,七月,茂貞進逼京師。延王戒丕曰:「今關中籓鎮無可依者,不若自鄜州濟河,幸太原,臣請先往告之。 |
現代日本語訳:銭鏐(せんりゅう)は羅紹威の首を朝廷へ送り、金品や絹布を将兵に褒美として分け与え、倉庫を開いて貧民を救済した。 李克用が魏博を攻撃し六州全域で略奪を行った。朱全忠は鄆(うん)州から葛従周を召還して軍勢を率いさせ洹水(かんすい)に駐屯させて魏博救援に向かわせ、龐師古には鄆州攻略を継続させた。六月、李克用が兵を進めて葛従周と交戦すると、汴(朱全忠)軍は陣地の前に多数の落とし穴を掘っていた。激闘中に李克用の息子で鉄林指揮使・李落落が馬ごと穴に落ちて捕らえられたため、李克用自ら救出に向かったが自身も転倒して危うく捕まる所だった。汴軍の将兵を射殺し辛くも脱出したものの、朱全忠は和睦による息子の身柄引き渡しを拒否し羅弘信に預けて処刑させたため、李克用は撤退した。 葛従周は洹水から進軍して黄河を渡り楊劉(ようりゅう)へ駐屯。鄆州を再攻撃すると兗(えん)・鄆連合軍と故楽亭で交戦し勝利したため両地域の属城は汴軍に占拠された。度重なる救援要請を受けた李克用だったが羅弘信に阻まれて進めず、これにより兗州・鄆州勢力は衰退した。 当初、李克用が渭水北岸へ駐屯していた時には李茂貞や韓建ら藩鎮は彼を恐れ朝廷に恭順の姿勢を示していた。しかし李克用撤退後、両者は貢物を減らし上奏文も傲慢となった。昭宗(皇帝)が石門から帰還すると神策軍とは別に「軍聖」「捧宸」等の新軍団を編成して数万人を諸王に指揮させたため、李茂貞は自身への討伐と疑い不満を露わにした。 李茂貞が兵を集めて「朝廷へ冤罪を訴える」と宣言すると長安市民は山中へ逃亡。昭宗は通王らに近衛軍を率いさせ京郊外を防備させる一方、延王戒丕(かいひ)には三橋駐屯を命じたが李茂貞は「延王が無断出兵した」と逆上訴し進軍を開始。丙寅の日に関中で衝突すると官軍は敗北し七月に長安へ迫ったため、延王戒丕は「関中の藩鎮は頼りにならない。太原(李克用)へ行幸されるべきです」と奏上した。 解説:
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| 」辛卯,詔幸鄜州;壬辰,上出至渭北;韓建遣其子從允奉表請幸華州,上不許,以建為亦畿都指揮、安撫制置及開通四面道路、催促諸道綱運等使。而建奉表相繼,上及從官亦憚遠去,癸己,至富平,遣宣徽使元公訊召建,面議去留。甲午,建詣富平見上,頓首涕泣言:「方今籓臣跋扈者,非止茂貞。陛下若去宗廟園陵,遠巡邊鄙,臣恐車駕濟河,無復還期。今華州兵力雖微,控帶關輔,亦足自固。臣積聚訓厲,十五年矣,西距長安不遠,願陛下臨之,以圖興復。」上乃從之。乙未,宿下邽;丙申,至華州,以府署為行宮;建視事於龍興寺。茂貞遂入長安,自中和以來所葺宮室、市肆,燔燒俱盡。 乙己,以中書侍郎、同平章事崔胤同平章事,充武安節棄使。上以胤,崔昭緯之黨也,故出之。 丙午,以翰林學士承旨、尚書左丞陸扆為戶部侍郎、同平章事。扆,陝人也。 水部郎中何迎表薦國子《毛詩》博士襄陽朱朴,才如謝安,道士許巖士亦薦朴有經濟才。上連日召對,朴有口辯,上悅之,曰:「朕雖非太宗,得卿如魏徵矣。」賜以金帛,並賜何迎。 以徐彥若為大明宮留守,兼京畿安撫制置等使。 楊行密表請上遷都江淮,王建請上幸成都。 宰相畏韓建,不敢專決政事。八月,丙辰,詔建關議朝政;建上表固辭,乃止。韓建移檄諸道,令共輸資糧詣行在。 |
現代日本語訳辛卯の日、皇帝は鄜州行幸を宣言した。壬辰の日、渭水北岸に出たところで韓建が息子・従允を使者として遣わし、「華州へお移りください」と上表文を奉った。しかし帝は許可せず、代わりに韓建を畿内都指揮使・安撫制置使・四面道路開通監督使・諸道物資輸送督促使などに任命した。 それでも韓建の使者が繰り返し訪れたため、皇帝も従臣たちも遠征を躊躇するようになった。癸巳の日、富平に着いた帝は宣徽使・元公訊を遣わして韓建と直接協議させた。甲午の日、韓建が富平で謁見し「今や横暴な藩鎮は李茂貞だけではありません。宗廟や陵墓を離れ辺境へ向かわれれば、黄河を渡った後には帰還できなくなるでしょう。華州こそ要害の地です」と涙ながらに訴えたため、帝はついに承諾した。 乙未に下邽で宿泊し丙申に華州到着。府庁を行宮(仮皇居)と定め、韓建は龍興寺で政務を執った。一方、李茂貞が長安に入城すると、中和年間以来整備された宮殿や市場街は全て焼失した。 乙巳の日、中書侍郎・崔胤を武安節度使として左遷(彼が政敵・崔昭緯派閥と見做されたため)。丙午には翰林学士・陸扆(陝州出身)を宰相に昇進させた。 水部郎中・何迎が『毛詩』博士の朱朴を「謝安級の人材」として推薦したところ、道士・許巖士も彼の経世才を称賛。皇帝は連日対話し「朕こそ太宗帝には及ばぬが、卿を得たことは魏徴を得るがごとき幸せだ」と感激して金品を与えた。 徐彦若を大明宮留守に任命する中で楊行密は江淮遷都を、王建は成都移転を要請したが、宰相たちは韓建の権勢におびえて決断できなかった。八月丙辰、「韓建を朝議参加させよ」との詔勅が出るも彼が固辞し撤回された。その後韓建は諸道に「行宮へ物資輸送せよ」と指令を発した。 解説1. 皇帝の漂流性 2. 朱朴登用の象徴性 3. 韓建の二面戦略 4. 長安炎上の意味 5. 体制矛盾の極致 Translation took 1762.5 seconds. | |||||||||
| 李克用聞之,歎曰:「去歲從余言,豈有今日之患!」又曰:「韓建天下癡物,為賊臣弱帝室,是不為李茂貞所擒,則為朱全忠所虜耳!」因奏將與鄰道發兵入援。 加錢鏐兼中書令。 癸丑,以王建為鳳翔西面行營招討使。 甲寅,以門下侍郎、同平章事王摶同平章事,充威勝節度使。 上憤天下之亂,思得奇傑之士不次用之。國子博士朱朴自言:「得為宰相,月餘可致太平。」上以為然。乙丑,以朴為左諫議大夫、同平章事。朴為人庸鄙迂僻,無它長。製出,中外大驚。丙寅,加韓建兼中書令。 九月,庚辰,升福建為威武軍,以觀察使王潮節度使。 以湖南留後馬殷判湖南軍府事。殷以高郁為謀主。郁,揚州人也。殷畏楊行密、成汭之強,議以金帛結之,高郁曰:「成汭不足畏也,行密公之仇。雖以萬金賂之,安肯為吾援乎!不若上奉天子,下撫士民,訓卒厲兵,以修霸業,則誰與為敵矣。」殷從之。 崔胤出鎮湖南,韓建之志也。胤密求援於朱全忠,且教之營東都宮闕,表迎車駕,且全忠與河南尹張全義表請上廷都洛陽,全忠仍請以兵二萬迎車駕,且言崔胤忠臣,不宜出外。韓建懼,復奏召胤為相,遣使諭全忠以且宜安靜,全忠乃止。乙未,復以胤為中書侍郎、同平章事。以翰林學士承旨、兵部侍郎崔遠同平章事。遠,珙弟璵之孫也。 |
現代日本語訳李克用はこの知らせを聞き、嘆息して言った。「もし昨年、私の意見に従っていれば、今日のような災難は起きなかったはずだ」。さらに続けて述べた。「韓建など天下の愚物め。逆臣として帝室を弱体化させておいて、李茂貞か朱全忠のどちらかに捕まるのが関の山だろう」と。こうして李克用は近隣諸道と連携し援軍を派遣することを上奏した。 一方で銭鏐には中書令の地位が加えられた。 皇帝は天下の乱れに憤り、卓越した人材を破格登用することを望んだ。国子博士朱朴が自ら進み出て「私を宰相とすれば一ヶ月余で太平を取り戻せます」と主張し、皇帝もこれを認めた。乙丑(いつちゅう)の日、朱朴は左諫議大夫・同平章事に任じられる。しかし彼は凡庸で見識が狭く、これといった長所がない人物だったため、人事発表が出ると朝廷内外が大いに驚いた。丙寅(へいいん)の日には韓建にも中書令職が加えられた。 九月庚辰(かのえたつ)の日、福建は威武軍に昇格し、観察使王潮がその節度使となった。 崔胤が湖南に左遷されたのは韓建の策謀によるものだった。しかし崔胤は密かに朱全忠に援助を求めると同時に、「東都(洛陽)に宮殿を整備し皇帝を迎えよ」と助言した。朱全忠もこれに応じ、河南尹張全義と連名で遷都を上奏すると共に二万の兵で奉迎しようとした。さらに「崔胤は忠臣であるから地方に出すべきではない」とも主張したため、韓建は恐れをなして崔胤を復職させた。使者を通じて朱全忠には「事態を静観せよ」と伝えたことで彼も兵を引いた。乙未(きつび)の日、崔胤は中書侍郎・同平章事に再任され、翰林学士承旨・兵部侍郎の崔遠が同平章事となった。この崔遠はかつて宰相だった崔珙(さいきょう)の弟である崔璵(さいよ)の孫にあたる。 解説
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| 丁酉,貶中書侍郎、同平章事陸扆為硤州刺史。崔胤恨扆代己,誣扆,雲黨於李茂貞而貶之。 己亥,以朱朴兼判戶部,凡軍旅財賦之事,上一以委之。以孫偓為鳳翔四面行營都統,又以前定難節度使李思諫為靜難節度使,兼副都統。 以保大留後李思敬為節度使。河東將李存信攻臨清,敗汴將葛從周於宗城北,乘勝至魏州北門。 冬,十月,壬子,加孫偓行營節度、招討、處置等使。丁已,以韓健權知京兆尹,兼把截使。戊午,李茂貞上表請罪,願得自新,仍獻助修宮室錢;韓建復佐佑之,竟不出師。 錢鏐令兩浙吏民上表,請以鏐兼領浙東;朝廷不得已,復以王摶為吏部尚書、同平章事,以鏐為鎮海、威勝兩軍度使。丙子,更名威勝曰鎮東軍。 李克用自將攻魏州,敗魏兵於白龍潭,追至觀音門。朱全忠復遣葛從周救之,屯於洹水,全忠以大軍繼之。克用乃還。 加河中節度使王珂同平章事。 十一月,朱全忠還大梁,復遣葛從周東會龐師古,攻鄆州。 湖州刺史李師悅求旌節,詔置忠國軍於湖州,以師悅為節度使。賜告身旌節者未入境,戊子,師悅卒。楊行密表師悅子前綿州刺史彥徽知州事。 淮南將安仁義攻婺州。 十二月,東川兵焚掠漢、眉、資簡之境。 清海節度使薛王知柔行至湖南,廣州牙將盧琚、譚弘𤣱據境拒之,使弘𤣱守端州。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)丁酉の日、中書侍郎・同平章事陸扆を硤州刺史に左遷した。崔胤は陸扆が自分の後任となったことを恨み、「李茂貞と結託している」と誣告して貶官させた。 己亥の日、朱朴に戸部判事を兼任させ、軍事・財政の全権を委ねた。孫偓を鳳翔四面行営都統に任命し、元定難節度使李思諫を静難節度使兼副都統とした。 保大留後李思敬を正式な節度使に昇格させた。河東の将軍李存信が臨清を攻撃し、宗城北で汴州軍の葛従周を破り、魏州北門まで進出した。 冬十月壬子の日、孫偓に行営節度・招討・処置使の官職を加授。丁巳に韓健を権知京兆尹兼把截使とした。戊午には李茂貞が上表して罪を認め「改心したい」と陳謝し、宮殿修復費を献上した。これに韓建も同調し、結局討伐軍は出動しなかった。 銭鏐が両浙の官民に命じて上表させ、「銭鏐による浙東兼任」を朝廷に要請。やむなく王摶を吏部尚書・同平章事とし、銭鏐には鎮海軍と威勝軍(後に鎮東軍と改称)の節度使職を与えた。 李克用が自ら魏州を攻撃し白龍潭で勝利。観音門まで追撃したが、朱全忠の援軍(葛従周・洹水駐屯)に阻まれ撤退。 河中節度使王珂に同平章事の位を加授。 十一月、朱全忠は大梁に帰還し、再び葛従周を派遣して龐師古と合流させ鄆州攻撃に向かわせた。 湖州刺史李師悦が旌節(軍権)を要請したため、朝廷は湖州に忠国軍を設置し彼を節度使とした。しかし任命書が届く前に戊子の日、師悦は死去。楊行密は「師悦の子・前綿州刺史李彦徽を刺史代理とすべし」と上奏。 淮南将領安仁義が婺州を攻撃。 十二月に東川軍が漢州・眉州・資州・簡州の境界域で略奪放火を行った。 清海節度使薛王知柔が湖南へ赴任途中、広州牙将盧琚と譚弘𤣱(※注)が領地を占拠して抵抗。譚弘𤣱に端州守備を命じた。
解説
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| 弘𤣱結封州刺史劉隱,許妻以女。隱偽許之,託言親迎,伏甲舟中,夜入端州,斬弘𤣱;遂襲廣州,斬琚;具軍容迎知柔入視事,知柔表隱為行軍司馬。 |
翻訳文弘𤣱は封州刺史の劉隠と同盟を結び、娘を嫁がせると約束した。劉隠は偽って承諾し、「みずから迎えに行く」と言って兵士を船に潜ませ、夜間に端州に入り弘𤣱を斬った。さらに広州へ急襲して琚を斬殺すると、軍勢を整えて知柔を迎え入れて政務を執らせた。知柔は劉隠を行軍司馬に任命した。 解説
※現代語訳に際し、固有名詞は原典表記を保持(弘𤣱・琚等)。史実的には902年嶺南節度使交替劇の一局面。 Translation took 275.6 seconds. |
| input text 資治通鑑\261_唐紀_77.txt | Modern Japanese translated text | |||||||||||||||
| 資治通鑑 卷二百六十一 唐紀七十七 起強圉大荒落,盡屠維協洽,凡三年。 昭宗聖穆景文孝皇帝中之上乾寧四年(丁巳,公元八九七年) 春,正月,甲申,韓建奏:「防城將張行思等告睦、濟、韶、通、彭、韓、儀、陳八王謀殺臣,劫車駕幸河中。」建惡諸王典兵,故使行思等告之。上大驚,召建諭之,建稱疾不入。令諸王詣建自陳,建表稱:「諸王忽詣臣理所,不測事端。臣詳酌事體,不應與諸王相見。」又稱:「諸王當自避嫌疑,不可輕為舉措。陛下若以友愛含容,請依舊制,令歸十六宅,妙選師傅,教以詩書,不令典兵預政。」且曰:「乞散彼烏合之兵,用光麟趾之化。」建慮上不從,仍引麾下精兵圍行宮,表疏連上。上不得已,是夕,詔諸王所領軍士並縱歸田裡,諸王勒歸十六宅,其甲兵並委韓建收掌。建又奏:「陛下選賢任能,足清禍亂,何必別置殿後四軍。縱有厚薄之恩,乖無偏無黨之道。且所聚皆坊市無賴奸猾之徒,平居猶思禍變,臨難必不為用,而使之張弓挾刃,密邇皇輿,臣竊寒心,乞皆罷。」遣詔亦從之。於是殿後四軍二萬餘人悉散,天子之親軍盡矣。捧日都頭李筠,石門扈從功第一,建復奏斬於大雲橋。建又奏:「玄宗之末,永王璘暫出江南,遽謀不軌。代宗時吐蕃入寇,光啟中朱玫亂常,皆援立宗支以系人望。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』巻261「唐紀七十七」より) 乾寧四年(西暦897年)、春正月甲申の日: 昭宗は大いに驚き、韓建を召して説得しようとしたが、彼は病気と称して参内しなかった。代わりに「諸王は自ら韓建のもとに赴いて弁明すべし」と命じるも、韓建は上表文で「諸王が突然臣の役所へ来訪すれば、予測不能な事態を招く恐れがあります。状況を慎重に鑑みれば、彼らと面会すべきではありません」と拒否。さらに「諸王は自ら嫌疑を避ける行動を取るべきで、軽率な挙動は控えることです。陛下が兄弟愛をもって寛容であられるならば、従来の制度に基づき、彼らを『十六宅』(皇族居住区)へ戻し、優れた師傅を選んで詩書を教えさせ、兵権や政務への関与を禁じることをお勧めします」と主張。その上で「烏合の衆のような私兵は解散させ、『麟趾』(周王朝の理想的政治)の教化を広めるべきだ」と述べた。 韓建は昭宗が従わない可能性を見越し、配下の精鋭部隊を行宮(皇帝臨時の居所)へ派遣して包囲させると同時に、次々と上奏文を送った。やむなく昭宗はその夜、「諸王率いる兵士は全て帰農させること」「諸王は十六宅へ戻ること」「武器類は韓建が管理すること」の詔勅を発した。 さらに韓建は追加上奏:「陛下が賢才を登用すれば禍乱は収まります。わざわざ『殿後四軍』(皇帝親衛隊)を設置する必要はありません。たとえ恩寵に厚薄があっても、『偏りなく公平であるべき』という道理には反します。しかも彼らは市井の無頼や奸悪な者ばかりで、平時ですら変乱を企み、有事では決して役立ちません。これら武装集団が御輿(皇帝)の近くにいるなど、臣は慄然とします。解散を要請します」。詔勅によりこの要求も認められ、殿後四軍2万余人は解体され、皇帝直属兵力は完全消滅した。 捧日都頭・李筠は石門での護衛功績第一の者であったが、韓建は「大雲橋で斬首すべし」と奏上してこれを殺害。さらに彼は例証を挙げて警告:「玄宗末期には永王璘(皇子)が江南へ赴き謀反しました。代宗期の吐蕃侵入時や光啓年間の朱玫叛乱では、いずれも皇族を擁立して人心掌握を図ったのです」。 解説
(※現代語訳にあたり漢文調を平易な日本語に改め、固有名詞は原典表記を保持) Translation took 897.0 seconds. | |||||||||||||||
| 今諸王銜命四方者,乞皆召還。」又奏:「諸方士出入禁庭,眩惑聖聽,宜皆禁止,無得入宮。」詔悉從之。建既幽諸王於別第,知上意不悅,乃奏請立德王為太子,欲以解之。丁亥,詔立德王祐為皇太子,仍更名裕。 龐師古、葛從周並兵攻鄆州,朱瑄兵少食盡,不復出戰,但引水為深壕以自固。辛卯,師古等營於水西南,命為俘梁。登已,潛決濠水。丙申,浮梁成,師古夜以中軍先濟。瑄聞之,棄城奔中都,葛從周逐之,野人執瑄及妻子以獻。 己亥,罷孫偓鳳翔四面行營節度等使,以副都統李思諫為寧塞節度使。錢鏐使行軍司馬杜稜救婺州。安仁義移兵攻睦州,不克而還。 朱全忠入鄆州,以龐師古為天平留後。朱瑾留大將康懷貞守兗州。與河東將史儼、李承嗣掠徐州之境給軍食。全忠聞之,遣嵩從周將兵襲兗州。懷貞聞鄆州已失守,汴兵奄至,遂降。二月,戊申,從周入兗州,獲瑾妻子。朱瑾還,無所歸,帥其眾趨沂州,刺史尹處賓不納,走保海州,為汴兵所逼,與史儼、李承嗣擁州民度淮,奔楊行密。行密逆之於高郵,表瑾領武寧節度使。全忠納瑾之妻,引兵還,張夫人逆於封丘,全忠以得瑾妻告之。夫人請見之,瑾妻拜,夫人答拜,且泣曰:「兗、鄆與司空同姓,約為兄弟,以小故恨望,起兵相攻,使吾姒辱於此。他日汴州失守,吾亦如吾姒之今日乎!」全忠乃送瑾妻於佛寺為尼,斬朱瑄於汴橋。 |
【現代日本語訳】当時、各地に派遣されていた諸王たちがいたため、「彼らをすべて召還すべきだ」と上奏した。さらに「方士(道士)たちが宮中に入り乱れ、陛下の判断を惑わしているのは問題です。入宮禁止にするべきだ」とも進言し、皇帝は全てこれを認めた。 李建は諸王を別邸に幽閉していたが、皇帝の不満を知ると、徳王・祐(ゆう)を皇太子に立てるよう奏上して機嫌を取り戻そうとした。丁亥の日(紀年法)、詔勅で徳王・祐が皇太子となった(後に裕と改名)。 龐師古(ほうしこ)と葛従周(かつじゅうしゅう)は共同で鄆州を攻撃した。朱瑄(しゅけん)の軍勢は兵も少なく食糧も尽き、出戦せずに深い堀を引いて水を張り守備を固めていた。辛卯の日、龐師古らは水路南西側に陣取り、渡河用の浮橋建造を命じた。癸巳(みづのとみ)の日には密かに決壊させて堀の水を流した。丙申の日に浮橋が完成し、夜中に龐師古自ら中軍を率いて先陣で渡河した。朱瑄はこれを知ると城を捨て中都へ逃亡したが、葛従周が追撃し、野辺の民に捕らえられ妻子もろとも献上された。 己亥の日、孫偓(そんかく)から鳳翔四面行営節度使等の職務を解任し、副都統・李思諫(りしけん)を寧塞節度使に任命した。銭鏐(せんりゅう)は杜稜(とりょう)を行軍司馬として派遣し婺州救援に向かわせたが、安仁義(あんじんぎ)の攻勢で睦州へ転進するも攻略できず撤退した。 朱全忠(しゅぜんちゅう)は鄆州に入城すると龐師古を天平留後とした。一方、朱瑾(しゅきん)は康懐貞(こうかいてい)に兗州守備を任せると、河東の将軍・史儼(しげん)、李承嗣(りしょうし)と共に徐州で略奪して兵糧を調達した。朱全忠がこれを聞き葛従周に命じて急襲させたところ、康懐貞は鄆州陥落を知ると間もなく開城降伏。二月戊申の日、葛従周が兗州に入り朱瑾の妻子を捕縛した。 帰還した朱瑾には居場所が無く、配下を率いて沂州へ向かったが刺史・尹処賓(いんしょひん)に拒絶され海州で抵抗するも追撃を受け、史儼らと住民を連れて淮河を渡り楊行密(ようこうみつ)のもとへ奔った。楊行密は高郵まで出迎え朱瑾を武寧節度使として推挙した。 一方の朱全忠は捕えた朱瑾の妻を受け入れ帰還途中、封丘で正室・張夫人が出迎えると「鄆州や兗州の者たちとは同姓兄弟のはずが些細な恨みで戦い合い、姉(=朱瑾の妻)を辱めました。もし汴州が落ちたら私も同じ目に遭うのでしょう」と涙したため、全忠は直ちに朱瑾の妻を尼寺へ送り出家させた。そして汴橋で捕らえた朱瑄を処刑した。 【解説】
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| 於是鄆、齊、曹、棣、兗、沂、密、徐、宿、陳、許、鄭、滑、濮皆入於全忠。惟王師範保淄青一道,亦服於全忠。李存信在魏州,聞兗、鄆皆陷,引兵還。淮南舊善水戰,不知騎射,及得河東、兗、鄆兵,軍聲大振。史儼、李承嗣皆河東驍將,李克用深惜之,遣使間道詣楊行密請之。行密許之,亦遣使詣克用修好。 戊午,王建遣邛州刺史華洪、彭州刺史王宗祐將兵五萬攻東川,以戎州刺史王宗謹為鳳翔西面行營先鋒使,敗鳳翔李繼徽等於玄武。繼徽本姓楊,名崇本,茂貞之假子也。 己未,赦天下。 上饗行廟。 庚申,王建以決雲都知兵馬使王宗侃為應援開峽都指揮使,將兵八千趨渝州;決勝都知兵馬使王宗阮為開江防送進奉使,將兵七千趨滬州。辛未,宗侃取渝州,降刺史牟崇厚;癸酉,宗阮拔瀘州,斬刺史馬敬儒,峽路始通。鳳翔將李繼昭救梓州,留偏將守劍門,西川將王宗播擊擒之。乙亥,門下侍郎、同平章事孫偓罷守本官,中書侍郎、同平章事朱朴罷為秘書監。朴既秉政,所言皆不效,外議沸騰。太子詹事馬道殷以天文,將作監許巖士以醫得幸於上,韓建誣二人以罪而殺之,且言偓、朴與二人交通,故罷相。 詔以楊行密為江南諸道行營都統,以討武昌節度使杜洪。 張佶克邵州,擒蔣勳。 三月,丙子,朱全忠表曹州刺史葛從周為泰寧留後,朱友裕為天平留後,龐師古為武寧留後。 |
現代日本語訳:この時点で鄆州・齊州・曹州・棣州・兗州・沂州・密州・徐州・宿州・陳州・許州・鄭州・滑州・濮州はすべて朱全忠の支配下に帰した。ただ王師範が守る淄青一道だけが独立を保っていたものの、結局は朱全忠へ服属した。李存信は魏州におり、兗州と鄆州が陥落したとの報を受けると軍勢を率いて撤退した。 淮南(楊行密)軍はもともと水戦に優れていたが騎射の技術を持たなかった。しかし河東・兗州・鄆州出身の兵士を得たことで、軍の威勢は大いに高まった。史儼と李承嗣はいずれも河東(李克用)の勇将であり、李克用は彼らの離脱を深く惜しみ、密使を遣わして楊行密のもとに赴き返還を求めた。楊行密はこれに同意し、同様に使者を李克用のもとへ送り友好関係を結んだ。 戊午の日(2月22日)、王建が邛州刺史・華洪と彭州刺史・王宗祐に命じ兵5万を率いて東川を攻撃させた。また戎州刺史・王宗謹を鳳翔西面行営先鋒使として玄武で鳳翔軍の李継徽らを破った。李継徽は本来、楊崇本という名であり、李茂貞の養子であった。 己未の日(2月23日)、天下に大赦が行われた。 皇帝は行廟(移動式祖廟)において祭祀を行った。 庚申の日(2月24日)、王建は決雲都知兵馬使・王宗侃を応援開峡都指揮使とし、兵8千を率いて渝州へ向かわせた。また決勝都知兵馬使・王宗阮を開江防送進奉使として兵7千で滬州(瀘州)へ派遣した。辛未の日(3月5日)、王宗侃が渝州を占領し、刺史牟崇厚は降伏した。癸酉の日(3月7日)、王宗阮が瀘州を攻略し、刺史馬敬儒を斬首して三峡水路が開通した。 鳳翔将軍・李継昭が梓州救援に向かった際、副将に剣門関を守備させていたところ、西川将軍・王宗播の攻撃で捕らえられた。乙亥の日(3月9日)、門下侍郎・同平章事(宰相)孫偓は罷免されて原官職へ戻り、中書侍郎・同平章事朱朴も秘書監へ左遷された。朱朴が政権を握ってから献策した政策はすべて効果なく、朝廷内外で非難が沸騰していた。太子詹事馬道殷は天文術で、将作監許巖士は医術で皇帝に寵愛されていたが、韓建が無実の罪を着せて両者を殺害し、「孫偓と朱朴が彼らと結託している」と讒言したため罷免された。 詔勅により楊行密が江南諸道行営都統に任じられ、武昌節度使杜洪討伐の指揮権を与えられた。 張佶が邵州を占領し、蔣勳を捕らえた。 3月丙子(10日)、朱全忠は上表して曹州刺史葛従周を泰寧留後に、朱友裕を天平留後に、龐師古を武寧留後に任命した。 解説:
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| 保義節度使王珙攻護國節度使王珂,珂求援於李克用,珙求援於朱全忠。宣武將張存敬、楊師厚敗河中兵於猗氏南。河東將李嗣昭敗陝兵於猗氏,又敗之於張店,遂解河中之圍。師厚,斤溝人;嗣昭,克用弟克柔之假子也。更名感義軍曰昭武,治利州,以前靜難節度使蘇文建為節度使。 夏,四月,以同州防禦使李繼瑭為匡國節度使。繼瑭,茂貞之養子也。 以右諫議大夫李洵為兩川宣諭使,和解王建及顧彥暉。 辛亥,錢鏐遣顧全武等將兵三千自海道救嘉興,己未,至城下,擊淮南兵,大破之。 杜洪為楊行密所攻,求救於朱全忠。全忠遣其將聶金掠泗州,朱友恭攻黃州。行密遣右黑雲都指揮使馬珣等救黃州。黃州刺史瞿章聞友恭至,棄城,擁眾南保武昌寨。 癸亥,兩浙將顧全武等破淮南十八營,虜淮南將士魏約等三千人。淮南將田頵屯驛亭埭,兩浙兵乘勝逐之。甲戌,頵自湖州奔還,兩浙兵追敗之,頵眾死者千餘人。 韓建惡刑部尚書張禕等數人,皆誣奏,貶之。 五月,加奉國節度使崔洪同平章事。 辛巳,朱友恭為浮梁於樊港,進攻武昌寨,壬午,拔之,執瞿章,遂取黃州。馬珣等皆敗走。 丙戌,王建以節度副使張琳守成都,自將兵五萬攻東川。更華洪姓名曰王宗滌。 六月,己酉,錢鏐如越州,受鎮東節鉞。 李茂貞表:「王建攻東川,連兵累歲,不聽詔命。 |
日本語訳及び解説翻訳文: 保義軍節度使・王珙が護國軍節度使・王珂を攻撃すると、王珂は李克用に援軍を求め、一方の王珙は朱全忠への支援を要請した。宣武軍配下の張存敬と楊師厚は猗氏(いし)の南で河中軍を打ち破り、河東軍所属の李嗣昭は陝州軍を猗氏で撃破すると、さらに張店でも勝利してついに河中包囲網を解いた。この楊師厚は斤溝出身であり、李嗣昭は李克用の弟・克柔の養子であった。朝廷は感義軍を「昭武軍」と改称し本拠地を利州に移転させ、前静難節度使である蘇文建を新たな節度使に任命した。 夏四月、同州防禦使であった李継瑭(りけいとう)を匡國節度使に昇格させた。この李継瑭は李茂貞の養子である。 右諫議大夫・李洵(りじゅん)が両川宣諭使として派遣され、王建と顧彦暉(こげんき)との和解工作にあたらせられた。 辛亥の日(四月二十三日)、銭鏐(せんりゅう)は配下の顧全武らに兵三千を率いさせ海路から嘉興救援に向かわせた。己未の日(同二十九日)に城下へ到着すると、淮南軍を攻撃して大勝した。 杜洪が楊行密からの攻撃を受けたため朱全忠に援軍を要請すると、全忠は配下の聶金(じょうきん)に泗州を襲撃させ、また朱友恭に黄州攻略を命じた。これに対し楊行密は右黒雲都指揮使・馬珣らを派遣して黄州防衛にあたらせたが、刺史の瞿章(くしょう)は敵軍接近を知ると城を放棄し兵士たちを集めて武昌寨へ撤退した。 癸亥の日(五月三日)、両浙軍顧全武部隊が淮南軍十八陣営を破り魏約ら将兵三千人を捕虜とした。淮南軍田頵(でんいん)が駐屯する驛亭埭(えきていたい)に攻め寄せると、両浙兵は勝勢に乗じて追撃した。甲戌の日(十四日)、田頵は湖州から敗走し、これを追った両浙軍によってさらに打ち破られ千余人もの戦死者を出した。 韓建が刑部尚書・張禕(ちょうい)ら数名を憎悪して虚偽の上奏を行わせたため、彼らは左遷された。 五月には奉國節度使である崔洪に同平章事(宰相待遇)が加えられた。 辛巳の日(二十一日)、朱友恭軍団が樊港に舟橋を架けて武昌寨へ侵攻した。壬午の日(二十二日)についに要塞は陥落し瞿章を捕虜として黄州を制圧、馬珣らは敗走した。 丙戌の日(二十六日)、王建が節度副使・張琳に成都守備を任せると自ら五万の兵を率いて東川へ侵攻した。配下の華洪には新たに「王宗滌」(おうそうじょう)と改名させている。 六月己酉(十九日)、銭鏐は越州で鎮東節度使としての任命を受領した。 李茂貞が上奏文を提出し:「王建が累年にわたり詔勅を無視して東川へ侵攻しております」と報告している。 解説:
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| 」甲寅,貶建南州刺史。乙卯,加茂貞為西川節度使,以覃王嗣周為鳳翔節度使。癸亥,王建克梓州南寨,執其將李繼寧。丙寅,宣諭使李洵至梓州,己巳,見建於張杷砦,建指執旗者曰:「戰士之情,不可奪也。」 覃王赴鎮,李茂貞不受代,圍覃王於奉天。置寧遠軍於容州,以李克用大將蓋寓領節度使。 秋,七月,加荊南節度使成汭兼侍中。 韓建移書李茂貞,茂貞解奉天之圍,覃王歸華州。 以天雄節度使李繼徽為靜難節度使。 庚戌,錢鏐還杭州,遣顧全武取蘇州。乙未,拔松江。戊戌,拔無錫。辛丑,拔常熟、華亭。 初,李克用取幽州,表劉仁恭為節度使,留戍兵及腹心將十人典其機要,租賦供軍之外,悉輸晉陽。及上幸華州,克用徵兵於仁恭,又遣成德節度使王鎔、義武節度使王郜書,欲與之共定關中,奉天子還長安。仁恭辭以契丹入寇,須兵扞御,請俟虜退,然後承命。克用屢趣之,使者相繼,數月,兵不出。克用移書責之,仁恭抵書於地,慢罵,囚其使者,欲殺河東戍將,戍將遁逃獲免。克用大怒,八月,自將擊仁恭。 上欲幸奉天親討李茂貞,令宰相議之。宰相切諫,乃止。 延王戒丕還自晉陽,韓建奏:「自陛下即位以來,與近輔交惡,皆因諸王典兵,兇徒樂禍,致鑾輿不安。比者臣奏罷兵權,實慮不測之變。今聞延王、覃王尚苞陰計,願陛下聖斷不疑,制於未亂,則社稷之福。 |
【現代日本語訳】甲寅(こういん)の日、建南州刺史を左遷した。 乙卯(きつぼう)の日、李茂貞(りもてい)を西川節度使に任じ、覃王嗣周(しんおうししゅう)を鳳翔節度使とした。 癸亥(きがい)の日、王建(おうけん)が梓州南寨を陥落させ、敵将・李継寧(りけいねい)を捕らえた。 丙寅(ていいん)の日、宣諭使・李洵(りじゅん)が梓州に到着。己巳(きし)に張杷砦で王建と会見した際、王建は軍旗を持つ兵士を指さして「戦士たちの意志は変えられぬ」と言った。 覃王が任地へ赴こうとしたところ、李茂貞が交替を受け入れず奉天(ほうてん)で包囲。 容州に寧遠軍を設置し、李克用(りこくよう)配下の蓋寓(がいぐう)に節度使を命じた。 秋七月、荊南節度使・成汭(せいぜい)に侍中の官職を加えた。 韓建(かんけん)が李茂貞へ書簡を送ると包囲は解かれ、覃王は華州へ帰還。 天雄節度使・李継徽(りけいき)を静難節度使とした。 庚戌(こうじゅつ)の日、銭鏐(せんりゅう)が杭州に戻ると顧全武(こぜんぶ)を派遣して蘇州攻略へ。乙未(いつび)には松江占拠、戊戌(ぼじゅつ)に無錫奪取、辛丑(しんちゅう)に常熟・華亭を陥落させた。 当初李克用が幽州を得た際、劉仁恭(りゅうじんきょう)を節度使に推挙したものの、自軍兵士と腹心の将十名を残して実権掌握。租税も軍事費以外は全て晋陽へ送らせていた。 僖宗皇帝が華州に行幸すると、克用は仁恭に出兵要請し成徳節度使・王鎔(おうよう)や義武節度使・王郜(おうこう)にも「共に関中を平定し天子を長安に戻そう」と書簡を送った。しかし仁恭は契丹の侵援で防衛が必要として拒否。 克用が再三出兵催促すると、仁恭は使者への返信を地面に叩きつけ罵倒した上で監禁。更には残留河東軍将兵も殺害しようとした(彼らは逃亡して難を免れた)。激怒した克用は八月みずから討伐へ向かった。 皇帝が奉天に行幸し李茂貞親征を企てると、宰相たちが強く諫めて中止させた。 延王・戒丕(かいひ)が晋陽からの帰還後、韓建は上奏した: 「陛下即位以来、近隣諸藩との紛争は全て諸侯に兵権を与えた結果です。奸臣らが混乱を望み御輿の安泰を危うくしました。先日私が諸王から兵権剥奪を進言したのも不測事態懸念ゆえでしたのに、今なお延王・覃王は陰謀を巡らせていると聞きます。陛下には速やかな決断をもって乱未然に制御されんことを——これこそ国家の福です」 【解説】
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| 」上曰:「何至於是!」數日不報。建乃與知樞密劉季述矯制發兵圍十六宅。諸王被髪,或緣垣,或登屋,或升木,呼曰:「宅家救兒!」建擁通、沂、睦、濟、韶、彭、韓、陳、覃、延、丹十一王至石堤谷,盡殺之,以謀反聞。 貶禮部尚書孫偓為南州司馬。秘書監朱朴先貶夔州司馬,再貶郴州司戶。朴之為相,何迎驟遷至右諫議大夫,至是亦貶湖州司馬。 鍾傳欲討吉州刺史襄陽周琲,琲帥其眾奔廣陵。 王建與顧彥暉五十餘戰,九月,癸酉朔,圍梓州。蜀州刺史周德權言於建曰:「公與彥暉爭東川三年,士卒疲於矢石,百姓困於輸輓。東川群盜多據州縣,彥暉懦而無謀,欲為偷安之計,皆啗以厚利,恃其救援,故堅守不下。今若遣人諭賊帥以禍福,來者賞之以官,不服者威之以兵,則彼之所恃,反為我用矣。」建從之,彥暉勢益孤。德權,許州人也。 丁丑,李克用至安塞軍,辛巳,攻之。幽州將單可及引騎兵至,克用方飲酒,前鋒曰:「賊至矣。」克用醉,曰:「仁恭何在?」對曰:「但見可及輩。」克用瞋目曰:「可及輩何足為敵!」亟命擊之。是日大霧,不辨人物,幽州將楊師侃伏兵於木瓜澗,河東兵大敗,失亡太半。會大風雨震電,幽州兵解去。克用醒而後知敗,責大將李存信等曰:「吾以醉廢事,汝曹何不力爭!」 湖州刺史李彥徽欲以州附於楊行密,其眾不從。 |
現代日本語訳皇帝は言った。「そこまでする必要があろうか!」数日間、返答しなかった。韓建は知枢密使の劉季述と共に詔書を偽造し兵士を動員し、十六宅(皇族邸宅)を取り囲んだ。諸王たちは髪を振り乱し、塀によじ登る者、屋根へ逃げる者、木に登る者がいて、「陛下よ!子供をお救いください!」と叫び続けた。韓建は通王・沂王ら十一人の王族を石堤谷まで連行して皆殺しにした後、「謀反」として報告した。 礼部尚書の孫偓は南州司馬へ左遷された。秘書監だった朱朴もまず夔州司馬、さらに郴州司戸へと降格となった。かつて朱朴が宰相時代に右諫議大夫まで急速昇進させた何迎(かげい)も湖州司馬へ左遷された。 鍾伝が吉州刺史の周琲を討とうとしたところ、周琲は配下を率いて広陵へ逃亡した。 王建と顧彦暉の間で五十回以上の戦闘後、9月1日(癸酉朔)に梓州を包囲。蜀州刺史・周徳権が進言した:「貴公が東川争奪戦を続けて3年、兵士は矢石に疲れ民衆は物資輸送で困窮しています。賊徒らは各州県を占拠し、彦暉は無謀にも彼らへ厚利を与えて支援頼みとしているため城が落ちません。今こそ賊将たちの頭領に利害を説き、従えば官位を授け、逆らえば兵力で威圧すれば、敵方の勢力を我が軍のために利用できます」。王建はこれを受け入れ、彦暉は孤立した(周徳権は許州出身)。 丁丑日(5日)、李克用が安塞軍に到着し辛巳日(9日)に攻撃開始。幽州将・単可及の騎兵隊が現れると、酒宴中の克用へ「敵襲です」との報告に酔った彼は「劉仁恭はどこだ?」と問い、「ただ単可及らが見えます」と言われて激怒。「あんな者どもが我が軍に対抗できるか!」即座攻撃を命じる。この日濃霧で視界不良の中、幽州将・楊師侃の伏兵により河東軍は大敗し兵力の大半を喪失した(風雨雷鳴に救われ敵撤退)。克用は酔いが覚めて初めて敗北を知り大将らを叱責:「余が酒でしくじったとは言え、お前たちはなぜ諫めなかったのか!」 湖州刺史・李彦徽が州ごと楊行密へ帰属しようとしたが配下の兵士が従わなかった。 注釈
※固有名詞は原則として原音再現(例:単可及→タン・カジ)とし、官職名は「知枢密使」「司馬」等現代読者に理解可能な表記で統一。戦闘描写では動詞を口語体化して臨場感保持。 Translation took 1889.0 seconds. | |||||||||||||||
| 彥徽奔廣陵,都指揮使沈攸以州歸錢鏐。 以彰義節度使張璉為鳳翔西北行營招討使,以討李茂貞。 復以王建為西川節度使、同平章事。加義武節度使王郜同平章事。削奪新西川節度使李茂貞官爵,複姓名宋文通。 朱全忠既得兗、鄆,甲兵益盛,乃大舉擊楊行密,遣龐師古以徐、宿、宋、滑之兵七萬壁清口,將趣揚州,葛從周以兗、鄆、曹、濮之兵壁安豐,將趨壽州,全忠自將頓宿州。淮南震恐。 匡國節度使李繼瑭聞朝廷討李茂貞而懼,韓建復從而搖之,繼瑭奔鳳翔。冬,十月,以建為鎮國、匡國兩軍節度使。 壬子,知遂州侯紹帥眾二萬,乙卯,知合州王仁威帥眾千人,戊午,鳳翔將李繼溥以援兵二千,皆降於王建。建攻梓州益急。庚申,顧彥暉聚其宗族及假子共飲,遣王宗弼自歸於建。酒酣,命其假子瑤殺己及同飲者,然後自殺。建入梓州,城中兵尚七萬人,建命王宗綰分兵徇昌、普等州,以王宗滌為東川留後。 劉仁恭奏稱:「李克用無故稱兵見討,本道大破其黨於木瓜澗,請自為統帥以討克用。」詔不許。又遺朱全忠書。全忠奏加仁恭同平章事,朝廷從之。仁恭又遣使謝克用,陳去就不自安之意。克用復書略曰:「今公仗金戊控兵,理民立法,擢士則欲其報德,選將則望彼酬恩。己尚不然,人何足信!僕料猜防出於骨肉,嫌忌生於屏帷,持干將而不敢授人,捧盟盤而何詞著誓!」 甲子,立皇子祕為景王,祚為輝王,祺為祁王。 |
現代日本語訳:彦徽が広陵へ逃亡し、都指揮使の沈攸は管轄州ごと銭鏐に帰順した。 朱全忠が兗州・鄆州を得て兵力を強化すると、大規模に楊行密攻撃を開始した。龐師古には徐州・宿州・宋州・滑州からの兵七万を与えて清口に布陣させ揚州へ向かわせ、葛従周には兗州・鄆州・曹州・濮州の軍勢で安豊に駐屯し寿州を目指させる一方、全忠自身は宿州に本営を置いた。これにより淮南地域は震撼した。 匡国節度使の李継瑭が朝廷による李茂貞討伐を知り動揺すると、韓建も不安を煽ったため、継瑭は鳳翔へ逃亡した。冬十月、韓建を鎮国・匡国の両軍節度使に任命した。 劉仁恭が「李克用が不当に我が領土へ侵攻したため木瓜澗で撃破し、自ら総帥となって克用討伐にあたりたい」と奏上したが朝廷は許可せず。その後密かに朱全忠へ書簡を送ると、全忠の推挙により仁恭も同平章事に任ぜられた。しかし彼は同時に李克用への使者にも「去就に苦慮している」と弁明し、克用から痛烈な返書が届いた: 甲子(こうし)の日、皇子たちを封じて祕(ひつ)を景王・祚(そ)を輝王・祺(き)を祁王とした。 時代背景解説:この記述は唐末五代十国期初期(902年頃)に当たります。朝廷の権威が衰退し、朱全忠(後の後梁太祖)、李克用(沙陀族勢力)、楊行密(呉国の礎)、王建(前蜀建国者)ら地方軍閥(節度使)が激しく抗争した時代です。 政治力学:
戦略的展開:
人間模様:
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| 加彰義節度使張璉同平章事。 楊行密與朱瑾將兵三萬拒汴軍於楚州,別將張訓自漣水引兵會之,行密以為前鋒。龐師古營於清口,或曰:「營地汙下,不可久處。」不聽。師古恃眾輕敵,居常弈棋。朱瑾壅淮上流,欲灌之。或以告師古,師古以為惑眾,斬之。十一月,癸酉,瑾與淮南將侯瓚將五千騎潛渡淮,用汴人旗幟,自北來趣其中軍,張訓逾柵而入。士卒蒼黃拒戰,淮水大至,汴軍駭亂。行密引大軍濟淮,與瑾等夾攻之,汴軍大敗。斬師古及將士首萬餘級,餘眾皆潰。葛從周屯於壽州西北,壽州團練使朱延壽擊破之,退屯濠州,聞師古敗,奔還。行密、瑾、延壽乘勝追之,及於淠水。從周半濟,淮南兵擊之,殺溺殆盡,從周走免。遏後都指揮使牛存節棄馬步鬥,諸軍稍得濟淮,凡四日不食,會大雪,汴卒緣道凍餒死,還者不滿千人。全忠聞敗,亦奔還。行密遺全忠書曰:「龐師古、葛從周,非敵也,公宜來淮上決戰。」行密大會諸將,謂行軍副使李承嗣曰:「始吾欲先趣壽州,副使雲不如先向清口。師古敗,從周自走,今果如所料。」賞之錢萬緡,表承嗣領鎮海節度使。行密待承嗣及史儼甚厚,第捨、姬妾,鹹選其尤者賜之,故二人為行密盡力,屢立功,竟卒於淮南。行密由是遂保據江、淮之間,全忠不能與之爭。 戊寅,立淑妃何氏為皇后。 |
現代日本語訳:彰義節度使の張璉を同平章事に任ずる。 楊行密は朱瑾と共に兵三万を率いて楚州で汴軍(朱全忠軍)を迎え撃ち、別将の張訓が漣水から軍勢を引き連れて合流した。行密は彼を前鋒とした。龐師古は清口に陣営を構えたが、「陣地が低湿地であり長期駐屯には適さない」との意見を聞き入れなかった。師古は兵数の多さを頼みにして敵を侮り、日常的に囲碁に興じていた。 朱瑾は淮水(淮河)の上流をせき止め、汴軍陣営への水攻めを計画した。これを龐師古に告げる者があったが、師古は「人心惑わし」としてその者を斬った。十一月癸酉の日、朱瑾と淮南将・侯瓚は五千騎を率いて密かに淮水を渡り、汴軍の旗印を用いながら北側から中軍へ突進した。張訓も柵を越えて攻め込んだ。汴兵は慌てふためき応戦するが、折しも淮水の濁流が押し寄せ、軍は大混乱に陥った。 楊行密は本軍を率いて淮水を渡り、朱瑾らと挟撃を加えると、汴軍は壊滅的大敗を喫した。師古および将士一万余りの首級を斬り、残兵は悉く潰走した。葛従周が寿州西北に駐屯していたところ、寿州団練使・朱延寿に破られ濠州へ退却中、師古の敗報を知って本営へ奔還した。 行密・瑾・延寿は勝勢に乗じて追撃し、淠水で汴軍を捕捉。渡河中の葛従周軍に対し淮南兵が猛攻を加え、敵兵はほぼ全滅(溺死者含む)となったが、従周だけは辛うじて逃走した。遏後都指揮使・牛存節は馬を捨て歩戦で奮闘し、諸軍に淮水渡河の時間を稼いだ。汴軍将兵は四日間も食糧を得られず、大雪の中で凍死や餓死者が続出。帰還できた者は千人にも満たなかった。 朱全忠(汴軍総帥)は敗報を受けると自らも撤退した。楊行密は彼へ書簡を送り「龐師古・葛従周ごときでは相手にならない。貴公みずから淮上で決戦すべし」と挑発している。 のちに行密が諸将を集めた際、行軍副使・李承嗣に言及した。「当初は寿州急襲を考えたが、君が『清口先攻』を進言した。師古敗北で従周も退き、まさに予見通りとなった」と万緡の銭を賜り、鎮海節度使兼任を上奏させた。 行密は承嗣と史儼を厚遇し、屋敷・妾侍まで精選して与えたため、二人は淮南のために尽力し数々の戦功を立て、ついにこの地で没した。こうして楊行密は江淮地域を確保すると、朱全忠もこれに抗えなくなった。 戊寅の日、淑妃何氏が皇后に冊立される。 解説:
※注:ルビ表記や原文再掲は厳禁という指示に従い、純然たる現代語訳+解説構成とした。 Translation took 2063.9 seconds. | |||||||||||||||
| 后,東川人,生德王、輝王。 威武節度使王潮弟審知,為觀察副使,有過,潮猶加捶撻,審知無怨色。潮寢疾,捨其子延興、延虹、延豐、延休,命審知知軍府事。十二月,丁未,潮薨。審知以讓其兄泉州刺史審邽,審邽以審知有功,辭不受。審知自稱福建留後,表於朝廷。 壬戌,王建自梓州還。戊辰,至成都。是歲,南詔驃信舜化有上皇帝書函及督爽牒中書木夾,年號中興。朝廷欲以詔書報之。王建上言:「南詔小夷,不足辱詔書。臣在西南,彼必不敢犯塞。」從之。 黎、雅間有淺蠻曰劉王、郝王、楊王,各有部落,西川歲賜繒帛三千匹,使覘南詔,亦受南詔賂詗成都虛實。每節度使到官,三王帥酋長詣府,節度使自謂威德所致,表於朝廷。而三王陰與大將相表裡,節度使或失大將心,則教諸蠻紛擾。先是節度使多文臣,不欲生事,故大將常籍此以邀姑息,而南詔亦憑之屢為邊患。及王建鎮西川,絕其舊賜,斬都押牙山行章以懲之。邛崍之南,不置鄣候,不戍一卒,蠻亦不敢侵盜。其後遣王宗播擊南詔,三王漏洩軍事,召而斬之。 右拾遺張道古上疏,稱:「國家有五危、二亂。昔漢文帝即位未幾,明習國家事。今陛下登極已十年,而曾不知為君馭臣之道。太宗內安中原,外開四夷,海表之國,莫不入臣。今先朝封域,日蹙幾盡。臣雖微賤,竊傷陛下朝廷社稷始為奸臣弄,終為賊臣所有也。 |
現代日本語訳:その後、東川出身の女性が徳王と輝王を産んだ。 威武節度使・王潮の弟である審知は観察副使であったが、過失があっても兄から鞭打ちの刑を受けても怨む様子を見せなかった。王潮が病床に伏すと、実子の延興・延虹・延豊・延休を差し置いて、審知に軍府事務の統轄を命じた。十二月丁未の日、王潮は逝去した。審知は職務を泉州刺史である兄の審邽に譲ろうとしたが、審邽は「弟には功績がある」として固辞したため、審知は自ら福建留後(臨時総督)と称し朝廷へ報告した。 壬戌の日、王建が梓州から帰還。戊辰の日に成都に到着した。この年、南詔国の驃信(君主)舜化が皇帝宛て書簡と中書省への公文書を木夾(木製容器)で送付し「中興」と独自年号を使用していた。朝廷は返答の詔勅発給を検討したが、王建が「南詔など小国に詔書を与える価値なし。私が西南を守る限り彼らは辺境を犯せまい」と進言し、これが容れられた。 黎州・雅州の間に居住する浅蛮(未開部族)の劉王・郝王・楊王は各部族を率いており、西川節度使は毎年絹帛三千匹を与えて南詔国偵察を依頼していた。しかし彼らは同時に南詔から賄賂を受け成都の情報を流していた。新たな節度使が着任するたび三人の王は酋長を率いて謁見し、節度使はこれを「自己の威徳による帰服」と朝廷へ報告した。実際には彼らは軍大将と内通しており、もし節度使が大将の不興を買えば、蛮族に騒乱を起こさせていた。従来の文官出身の節度使は事態拡大を避けたため、将軍たちはこの弱点につけ込み甘い措置を要求し、南詔もこれに乗じて頻繁に辺境を侵した。 しかし王建が西川を統治すると旧例の賜与を廃止し、内通者の都押牙・山行章を斬首して見せしめとした。さらに邛崍山脈以南に哨所も兵卒も配置せずとも蛮族は侵攻しなくなった。その後王宗播を南詔征伐に向かわせた際、三王が軍事情報を漏洩したため召還して処刑した。 右拾遺・張道古が上疏(意見書)で述べるには:「国家に五つの危機と二つの乱れあり。昔の漢文帝は即位後短期間で国政を掌握されたのに、陛下は十年経っても君臣統御の道理をご存じない。太宗皇帝は内は中原を安定させ外は四方の異民族を従え、海外国までも服属させた。ところが先帝以来の領土は今や殆ど失われようとしている。微臣ながら陛下の朝廷と社稷(国家)が奸臣に弄ばれ、ついには賊臣に奪われることを憂う」。 解説:
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| 」上怒,貶道古施州司戶。仍下詔罪狀道古,宣示諫官。道古,青州人也。 昭宗聖穆景文孝皇帝中之上光化元年(戊午,公元八九八年) 春,正月,兩浙、江西、武昌、淄青各遣使詣闕,請以朱全忠為都統,討楊行密。詔不許。 加平盧節度使王師範同平章事。 以兵部尚書劉崇望同平章事,充東川節度使。以昭信防禦使馮行襲為昭信節度使。 上下詔罪己息兵,復李茂貞姓名官爵,應諸道討鳳翔兵皆罷之。 壬辰,河中節度使王珂親迎於晉陽,李克用遣其將李嗣昭守河中。 李茂貞、韓建皆致書於李克用,言大駕出幸累年,乞修和好,同獎王室,兼乞丁匠助修宮室,克用許之。 初,王建攻東川,顧彥暉求救於李茂貞,茂貞命將出兵救之,不暇東逼乘輿,詐稱改過,與韓建共翼戴天子。及聞朱全忠營洛陽宮,累表迎車駕,茂貞、韓建懼,請修復宮闕,奉上歸長安。詔以韓建為修宮闕使。諸道皆助錢及工材。建使都將蔡敬思督其役。既成,二月,建自往視之。 錢鏐請徙鎮海軍於杭州,從之。 復以李茂貞為鳳翔節度使。 三月,己丑,以王審知充威武留後。 朱全忠遣副使萬年韋震入奏事,求兼鎮天平,朝廷未之許,震力爭之。朝廷不得已,以全忠為宣武、宣義、天平三鎮節度使。全忠以震為天平留後,以前台州刺史李振為天平節度副使。 |
現代日本語訳帝は激怒し、道古を施州司戸に左遷した。さらに詔書で道古の罪状を列挙し、諫官たちへの見せしめとした。道古は青州出身であった。 昭宗聖穆景文孝皇帝 中之上 光化元年(戊午、紀元898年) 春正月、両浙・江西・武昌・淄青がそれぞれ使者を宮中に派遣し、朱全忠を総司令官(都統)として楊行密討伐を要請した。詔書はこれを許可しなかった。 平盧節度使の王師範を同平章事に昇進させた。 兵部尚書の劉崇望を同平章事とし、東川節度使に任命した。昭信防御使の馮行襲を昭信節度使とした。 帝は詔書で自らの過ちを認め戦争停止を宣言し、李茂貞の本名(宋文通)と官爵を復帰させた。鳳翔討伐のために派遣されていた諸道の軍隊は全て解散させられた。 壬辰(二十日)、河中節度使の王珂が晋陽で自ら出迎えたため、李克用は配下の将軍・李嗣昭に河中守備を命じた。 李茂貞と韓建がそろって李克用に書簡を送り、「天子が数年にわたり都を離れている。和睦して皇室を共に支えたい。加えて工匠を派遣し宮殿修復を助力せよ」と要請した。克用はこれを承諾した。 当初、王建が東川を攻撃すると、顧彦暉は李茂貞に救援を求めたため、茂貞は軍勢の派遣を余儀なくされ皇帝への圧迫ができなくなった。そこで偽って改心を表明し韓建と共に天子支持を装っていた。 ところが朱全忠が洛陽宮殿修復を進め再三にわたり帝の行幸を要請しているとの情報を得ると、茂貞と韓建は危機感を抱き「宮殿を修復して長安へ戻そう」と提案した。詔書により韓建が修宮闕使(宮殿修復責任者)に任命され、諸道から資金・労力・資材の提供を受けた。配下の都将・蔡敬思に工事監督を命じた。完成後の二月、韓建自ら視察に向かった。 銭鏐が鎮海軍本営を杭州へ移転するよう上奏し、許可された。 李茂貞を再び鳳翔節度使に任じた。 三月己丑(十七日)、王審知を威武留後とした。 朱全忠は副使・韋震(万年出身)を使者として派遣し天平節度使の兼任を要求した。朝廷が拒否すると、震は強硬に主張したため止むなく承諾され、全忠は宣武・宣義・天平の三鎮節度使となった。全忠は韋震を天平留後に任命し、前台州刺史の李振を天平節度副使とした。 解説
(訳注:固有名詞表記について) Translation took 939.9 seconds. | |||||||||||||||
| 振,抱真之曾孫也。 淮南將周本救蘇州,兩浙將顧全武擊破之。淮南將秦裴以兵三千人拔昆山而戍之。 以潭州刺史、判湖南軍府事馬殷知武安留後。時湖南管內七州,賊帥楊師遠據衡州,唐世旻據永州,蔡結據道州,陳彥謙據郴州,魯景仁據連州,殷所得惟潭、邵而已。 義昌節度使盧彥威,性殘虐,又不禮於鄰道。與盧龍節度使劉仁恭爭鹽利,仁恭遣其子守文將兵襲滄州,彥威棄城,挈家奔魏州。羅弘信不納,乃奔汴州。仁恭遂取滄、景、德三州,以守文為義昌留後。仁恭兵勢益盛,自謂得天助,有併吞河朔之志,為守文請旌節,朝廷未許。會中使至范陽,仁恭語之曰:「旌節吾自有之,但欲得長安本色耳,何為累章見拒,為吾言之!」其悖慢如此。 朱全忠與劉仁恭修好,會魏博兵擊李克用。夏,四月,丁未,全忠至巨鹿城下,敗河東兵萬餘人,遂北至青山口。 以護國節度使王珂兼侍中。 丁卯,朱全忠遣葛從周分兵攻洺州,戊辰,拔之,斬刺史邢善益。 五月,己巳朔,赦天下。 葛從周攻邢州,刺史馬師素棄城走。辛未,磁州刺史袁奉滔自剄。全忠以從周為昭義留後,守邢、洺、磁三州而還。 以武定節度使李繼密為山南西道節度使。 朝廷聞王建已用王宗滌為東川留後,乃召劉崇望還,為兵部尚書,仍以宗滌為留後。湖南將姚彥章言於馬殷,請取衡、永、道、連、郴五州,仍薦李瓊為將。 |
現代日本語訳:振(しん)は抱真(ほうしん)の曾孫である。 潭州刺史兼湖南軍府事の馬殷(ばいん)が武安留後(臨時長官)となるよう命じられた。当時の湖南七州では、賊将・楊師遠(ようしえん)が衡州を占拠し、唐世旻(とうせいびん)は永州、蔡結(さいけつ)は道州、陳彦謙(ちんげんけん)は郴州、魯景仁(ろけいじん)は連州を支配していたため、馬殷の実効支配地は潭州と邵州のみであった。 義昌節度使・盧彦威(ろがんい)は残虐な性格で近隣勢力への礼儀も欠いており、盧龍節度使・劉仁恭(りゅうじんきょう)とは塩の利権を巡って対立した。劉仁恭が息子・守文(しゅぶん)に軍勢を率いさせて滄州を急襲すると、盧彦威は城を捨て家族と共に魏州へ逃亡。しかし節度使・羅弘信(らこうしん)に受け入れられず汴州へ落ち延びた。劉仁恭はこれにより滄州・景州・德州の三州を掌握、守文を義昌留後とした。勢力拡大した劉仁恭は「天の加護を得た」と自負し河朔地方併合を企図。朝廷に守文への正式任命(旌節)を求めたが拒否される。赴任中の宦官に対して「任命書など自分で作れる。欲しいのは長安発行の正規品だ。なぜ再三拒むのか朝廷に伝えよ」と暴言し、その横柄さを示した。 朱全忠(しゅぜんちゅう)が劉仁恭との関係改善中、魏博軍が李克用(りこくよう)を攻撃。4月丁未の日、朱全忠は巨鹿城下で河東軍1万余を破り青山口まで進軍した。 同月丁卯、朱全忠配下の葛従周(かつじゅうしゅう)が分軍して洺州を攻撃し翌戊辰日に占領。刺史・邢善益(けいぜんえき)は斬首された。 武定節度使・李継密(りけいみつ)が山南西道節度使に任命される。 歴史的背景解説:
※本訳では『資治通鑑』原文の編年体形式を保持しつつ、現代日本語で理解可能な歴史叙述とした。特に「旌節吾自有之」など生々しい台詞は乱世における権威と実力の乖離を物語る史料として重視した。 Translation took 2242.1 seconds. | |||||||||||||||
| 殷以瓊及秦彥暉為嶺北七州游奕使,張圖英、李唐副之,將兵攻衡州,斬楊師遠,引兵趣永州,圍之月餘,唐世旻走死。殷以李唐為永州刺史。 六月,以濠州刺史趙珝為忠武節度使。珝,犨之弟也。 秋,七月,加武貞節度使雷滿同平章事,加鎮南節度使鍾傳兼侍中。 忠義節度使趙匡凝聞朱全忠有清口之敗,陰附於楊行密。全忠遣宿州刺史尉氏氏叔琮將兵伐之,丙申,拔唐州,擒隨州刺史趙匡璘,敗襄州兵於鄧城。 八月,庚戌,改華州為興德府。 戊午,汴將康懷貞襲鄧州,克之,擒刺史國湘。趙匡凝懼,遣使請服於朱全忠,全忠許之。 己未,車駕發華州。壬戌,至長安。甲子,赦天下,改元。 上欲籓鎮相與輯睦,以太子賓客張有孚為河東、汴州宣慰使,賜李克用、朱全忠詔,又令宰相與之書,使之和解。克用欲奉詔,而恥於先自屈,乃致書王鎔,使通於全忠。全忠不從。 九月,乙亥,加韓建守太傅、興德尹,加王鎔兼中書令,羅弘信守侍中。 己丑,東川留後王宗滌言於王建,以東川封疆五千里,文移往還,動逾數月,請分遂、合、瀘、渝、昌五州別為一鎮,建表言之。 顧全武攻蘇州,城中及援兵食皆盡。甲申,淮南所署蘇州刺史台濛棄城走,援兵亦遁。全武克蘇州,追敗周本等於望亭。獨秦裴守昆山不下,全武帥萬餘人攻之。 |
現代日本語訳殷は瓊および秦彥暉を嶺北七州游奕使に任命し、張図英と李唐を副官とした。軍勢を率いて衡州を攻撃し楊師遠を斬殺後、永州へ進軍して一ヶ月余り包囲した結果、唐世旻は逃亡中に死亡した。殷は李唐を永州刺史に任命した。 六月、濠州刺史の趙珝が忠武節度使となった。趙珝は趙犨の弟である。 秋七月、武貞節度使・雷満に対し同平章事の称号を与え、鎮南節度使・鍾傳には侍中の兼職を加えた。 忠義節度使・趙匡凝が朱全忠の清口での敗戦を知り、密かに楊行密に接近した。これを受け朱全忠は宿州刺史・尉氏叔琮を派遣して討伐させ(丙申)、唐州を陥落させ随州刺史・趙匡璘を捕縛。さらに鄧城で襄州軍を撃破した。 八月庚戌、華州が興徳府に改称された。 戊午の日、汴将・康懐貞が鄧州を急襲して占領し刺史・国湘を捕虜とした。趙匡凝は恐れをなして朱全忠への服従を誓い、これを受諾される(己未)。皇帝の行列が華州を出発し壬戌に長安到着。甲子には大赦令が出て元号が改められた。 朝廷は藩鎮間の和睦促進のため、太子賓客・張有孚を河東・汴州宣慰使として派遣。李克用と朱全忠へ和解詔書を与え、宰相にも仲介文書を送らせた。李克用は詔勅に従おうとしたが率先して屈服するのを恥じ、王鎔を通じて朱全忠との交渉を試みるも拒絶された。 九月乙亥、韓建に守太傅・興徳尹の官職を与え、王鎔には中書令を兼任させ、羅弘信に侍中の称号を授けた。 己丑、東川留後・王宗滌が「五千里に及ぶ東川領では文書往復に数ヶ月かかる」と王建に訴え、遂州・合州・瀘州・渝州・昌州の五州分割による新たな藩鎮設置を提言。これを受け王建は上奏した。 顧全武が蘇州を攻囲し城内と援軍の兵糧が尽きる(甲申)。淮南勢力から派遣された刺史・台濛が逃亡すると援軍も退却。顧全武は蘇州を占領後、望亭で周本らを追撃して破った。ただ秦裴だけが昆山に籠城し抵抗したため、顧全武は万余の兵を率いて攻囲を続けた。 解説
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| 裴屢出戰,使病者被甲執矛,壯者彀弓弩,全武每為之卻。全武檄裴令降。全武嘗為僧,裴封函納款,全武喜,召諸將發函,乃佛經一卷,全武大慚,曰:「裴不憂死,何暇戲予!」益兵攻城,引水灌之,城壞,食盡,裴乃降。錢鏐設千人饌以待之,及出,羸兵不滿百人。鏐怒曰:「單弱如此,何敢久為旅拒!」對曰:「裴義不負楊公,今力屈而降耳,非心降也。」鏐善其言。顧全武亦勸鏐宥之,鏐從之。時人稱全武長者。 魏博節度使羅弘信薨,軍中推其子節度副使紹威知留後。 汴將朱友恭將兵還自江、淮,過安州,或告刺史武瑜潛與淮南通,謀取汴軍,冬,十月,己亥,友恭攻而殺之。 李克用遣其將李嗣昭、周德威將步騎二萬出青山,將復山東三州。壬寅,進攻邢州,葛從周出戰,大破之。嗣昭等引兵退入青山,從周追之,將扼其歸路。步兵自潰,嗣昭不能制。會橫衝都將李嗣源以所部兵至,謂嗣昭曰:「吾輩亦去,則勢不可支矣,我試為公擊之。」嗣昭曰:「善,我請從公後。」嗣源乃解鞍厲鏃,乘高佈陣,左右指畫,邢隊莫之測。嗣源直前奮擊,嗣昭繼之,從周乃退。德威,馬邑人也。 癸卯,以威武留後王審知為節度使。 以羅紹威知魏博留後。 丁巳,以東川留後王宗滌為節度使。 加佑國節度使張全義兼侍中。 王珙引汴兵寇河中,王珂告急於李克用。 |
現代日本語訳裴は繰り返し出撃し、病人には甲冑を着せて矛を持たせ、壮健な者には強弓や弩(いしゆみ)を張らせて備えさせたため、全武の軍勢はその度に退却した。全武将が文書で裴に対し降伏を勧告すると、かつて僧籍にあった全武将のもとへ、裴は密かに封書による投降意思を示す使者を送った。全武将は喜んで諸将を集め開封させたところ、中身は仏経一巻であった。全武将は深く恥じ入り「裴よ、死をも恐れぬお前がわざわざ私を愚弄するとはな」と怒鳴り、増援を得て攻勢を強めた。城へ水を引き灌漑(そそ)いだ結果、城壁は崩壊し食糧も尽き、ついに裴は降伏した。 銭鏐(せんりゅう)は千人分の宴席を準備して出迎えたが、実際に出てきた兵士は疲れ切った者百人にも満たなかった。これを見た銭鏐は激怒し「かくも少数でよくも長らく抵抗できたものだな」と詰め寄ると、裴は「私は楊公への義理を貫いたまでです。力尽きて降るのであって心から従う訳ではございません」と答えた。この言葉に感銘を受けた銭鏐は顧全武の助言も容れ裴を赦したため、当時の人々は全武を「篤実な人物(長者)」と称賛した。 魏博節度使・羅弘信が死去すると、軍中ではその子で節度副使であった紹威を推挙し留後職を代行させた。汴州の将軍朱友恭は江淮地方から撤兵する途中、安州を通りかかったところ刺史武瑜が密かに淮南と通じ汴軍を襲撃しようとしているとの情報を得る。同年冬十月己亥(きがい)、友恭は攻撃を加えて武瑜を殺害した。 李克用配下の将軍李嗣昭・周徳威は歩兵騎兵合わせて二万を率い青山から出撃し、山東三州奪還を図った。壬寅(じんいん)日には邢州に進攻するが、葛従周の反撃で大敗した。嗣昭らは青山へ撤退したところ従周軍に追撃され退路を断たれそうになる中、自軍歩兵部隊が崩壊し統制不能となった。危機的状況において横衝都(精鋭部隊)指揮官李嗣源が麾下の兵を率いて到着。「このまま撤退すれば全滅は必至です」と告げると「私が先鋒をつとめましょう、後続をお願いします」と嗣昭が応じた。嗣源は鞍を外し矢尻を研ぎ直すと高地に布陣した。左右自在の指揮で邢州軍を翻弄しながら果敢な突撃を敢行し、これに嗣昭も呼応して従周軍を撤退させた(徳威は馬邑出身)。 癸卯(きぼう)日:威武留後王審知が正式に節度使となる。 羅紹威が魏博留後職代行のまま承認される。 丁巳(ていし)日:東川留後王宗滌が節度使に任命された。 佑国節度使張全義は侍中の官職を加えられる。 王珙(おうきょう)が汴州軍を率いて河中地域へ侵攻すると、王珂は李克用に救援要請した。 解説
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| 克用遣李嗣昭救之,敗汴兵於胡壁,汴人走。前常州刺史王柷,性剛介,有時望。詔征之,時人以為且入相。過陝,王珙延奉甚至,請敘子侄之禮拜之,柷固辭不受。珙怒,使送者殺之,並其家人悉投諸河,掠其資裝,以覆舟聞。朝廷不敢詰。 閏月,錢鏐以其將曹圭為蘇州制置使,遣王球攻婺州。 十一月,甲寅,立皇子禎為雅王,祥為瓊王。 以魏博留後羅紹威為節度使。 衢州刺史陳岌請降於楊行密,錢鏐使顧全武討之。 朱全忠以奉國節度使崔洪與楊行密交通,遣其將張存敬攻之。洪懼,請以弟都指揮使賢為質,且言:「將士頑悍,不受節制,請遣二千人詣麾下從征伐。」全忠許之,召存敬還。存敬,曹州人也。 十二月,昭義節度使薛志勤薨。 李克用之平王行瑜也,李罕之求邠寧於克用。克用曰:「行瑜恃功邀君,故吾與公討而誅之。昨破賊之日,吾首奏趣蘇文建赴鎮。今才達天聽,遽復二三,朝野之論,必喧然謂吾輩復如行瑜所為也。吾與公情如同體,固無所愛,俟還鎮,當更為公論功賞所為也。吾與公情如同體,固無所愛,俟還鎮,當更為公論功賞耳。」罕之不悅而退,私於蓋寓曰:「罕之自河陽失守,依托大庇,歲月已深。比來衰老,倦於軍旅,若蒙吾王與太傅哀愍,賜一小鎮,使數年之間休兵養疾,然後歸老閭閻,倖免。 |
現代日本語訳:李克用は李嗣昭を派遣して救援に向かわせ、胡壁で汴軍を破り、汴軍は敗走した。 元常州刺史の王柷は性格が剛直で潔癖であり、当時の声望があった。詔勅により召還された際、人々は彼が宰相に登用されると予想していた。陝州を通った時、王珙が過剰なほど丁重にもてなし、子や孫の礼をもって拝謁しようとしたが、王柷は固辞して受け入れなかった。王珙は怒り、護送役に命じて彼を殺害し、家族もろとも黄河に投げ込ませた上で財産を奪い、「舟が転覆した」と朝廷に報告した。朝廷は詰問できなかった。 閏月、銭鏐は配下の曹圭を蘇州制置使に任命し、王球に婺州攻撃を命じた。 十一月甲寅日、皇子禎を雅王、祥を瓊王に封じた。 魏博留後の羅紹威を節度使に任じた。 衢州刺史の陳岌が楊行密への降伏を申し出たため、銭鏐は顧全武を派遣して討伐させた。 朱全忠は奉国節度使崔洪が楊行密と内通したとして配下の張存敬に攻撃を命じた。崔洪が恐れて弟で都指揮使の賢を人質に出し、さらに「将兵が強悍で制御不能なため、二千名を貴軍に派遣して従軍させます」と申し出たので、朱全忠は許可し張存敬を召還した。張存敬は曹州出身である。 十二月、昭義節度使薛志勤が死去。 李克用が王行瑜討伐で勝利した時、李罕之が邠寧の領地を要求した。これに対し李克用は「王行瑜は功績を盾に君命を軽んじたため共に討ったのに、我らが先日ようやく蘇文建の着任を奏上したばかりだ。今またすぐに変更すれば世論は『我々も王行瑜同然』と非難するであろう。貴公とは一心同体ゆえ領地を惜しむわけではないが、帰還後に改めて功績に応じた恩賞を与える」と述べた。 李罕之は不満ながら退出後、側近の蓋寓に打ち明けた。「私は河陽失陥以来ここで庇護を受けて久しい。老いて軍務に疲れたゆえ王や太傅(李克用)が哀れみをかけ小領地を与えてくれれば数年休養し、その後隠居して平穏な余生を送りたい」 解説:
(本訳注では歴史的典拠と文脈分析に重点を置き、ルビ表記は原著編集方針に従い割愛) Translation took 814.6 seconds. | |||||||||||||||
| 」寓為之言,克用不應。每籓鎮缺,議不及罕之,罕之甚鬱鬱。寓恐其有它志,亟為之言,克用曰:「吾於罕之豈愛一鎮,但罕之,鷹也,饑則為用,飽則背飛。」及志勤薨,旬日無帥,罕之擅引澤州兵夜入潞州,據之,以狀白克用,曰:「薛鐵山死,州民無主,慮不逞者為變,故罕之專命鎮撫,取王裁旨。」克用怒,遣人讓之。罕之遂遣其子顥請降於朱全忠,執河東將馬溉等及沁州刺史傅瑤送汴州。克用遣李嗣昭將兵討之,嗣昭先取澤州,收罕之家屬送晉陽。楊行密遣成及等歸兩浙以易魏約等,錢鏐許之。 韶州刺史曾兗舉兵攻廣州,州將王鐐帥戰艦應之。清海行軍司馬劉隱一戰破之。韶州將劉潼復據湞、涵,隱討斬之。 昭宗聖穆景文孝皇帝中之上光化二年(己未,公元八九九年) 春,正月,丁未,中書侍郎兼吏部尚書、同平章事崔胤罷守本官。以兵部尚書陸扆同平章事。 朱全忠表李罕之為昭義節度使,又表權知河陽留後丁會、武寧留後王敬蕘、彰義留後張珂並為節度使。 楊行密與朱瑾將兵數萬攻徐州,軍於呂梁,朱全忠遣騎將張歸厚救之。 劉仁恭發幽、滄等十二州兵十萬,欲兼河朔。攻貝州,拔之,城中萬餘戶,盡屠之,投屍清水。由是諸城各堅守不下。仁恭進攻魏州,營於城北。魏博節度使羅紹威求救於朱全忠。 朱全忠遣崔賢還蔡州,發其兵二千詣大梁。 |
現代語訳(『資治通鑑』より抜粋)李克用は李罕之の不満を聞いても反応を示さなかった。藩鎮に空位が生じるたび、登用人選で李罕之の名があがらず、彼は深く落胆した。幕僚の郭寓(郭崇韜)は謀反を警戒し再三進言したが、李克用は「一つの藩鎮など惜しくない。だが李罕之は飢えた鷹のようなものだ。空腹なら使い物になるが、腹が満ちれば飛び去る」と答えるだけだった。 後任の節度使・賀志勤(薛志勤)が死去すると、潞州は十日間も無主状態となった。李罕之はこれを好機と見て、独断で沢州兵を率いて夜間に潞州へ侵攻し占拠した。そして李克用に「薛鉄山(賀志勤の別名)が死去し民衆が混乱しているため、反乱防止のために鎮撫しました」と報告すると、激怒した李克用は使者を送り非難した。李罕之は子・李顥を派遣して朱全忠への降伏を申し入れ、さらに河東軍の馬溉らと沁州刺史・傅瑤を捕えて汴州へ護送した。これに対し李克用は李嗣昭に討伐軍を率いさせ、まず沢州を奪還すると李罕之の家族を晋陽へ移送した。 一方、楊行密が成及らを釈放して両浙(銭鏐勢力)へ帰還させる代わりに捕虜・魏約らの返還を要求し、銭鏐はこれを受諾した。 韶州刺史の曾兗が広州を攻撃すると、州将・王鐐が軍船で呼応した。しかし清海行軍司馬の劉隠が一戦でこれを破り、続いて韶州将・劉潼が湞陽・涵江に拠って反乱を起こすと、討伐して斬首した。 昭宗皇帝光化二年(己未年/899年)正月丁未日、中書侍郎兼吏部尚書崔胤は宰相職を解かれて本官のみとなり、兵部尚書の陸扆が新たに同平章事(宰相)となった。 朱全忠は朝廷へ李罕之を昭義節度使に任命するよう上奏し、さらに河陽留後の丁会・武寧留後の王敬蕘・彰義留後の張珂ら三人についても正式な節度使昇進を推挙した。 楊行密が朱瑾と共に数万の兵で徐州へ侵攻し呂梁に駐屯すると、朱全忠は騎将・張帰厚を救援に向かわせた。一方、幽州の劉仁恭は十二州から十万兵を動員して河朔制圧を図り、貝州を攻略すると住民万余家を虐殺し清河水へ遺棄したため周辺都市が徹底抗戦態勢に入った。魏州城北に布陣した彼に対し、魏博節度使・羅紹威は朱全忠へ救援要請した。 また朱全忠は蔡州から二千兵士を大梁(汴州)へ移動させるため崔賢を使者として帰還させた。 解釈メモ
(注)ルビ表記は固有名詞以外削除し、現代日本語訳では文語調を平易な表現に変換。史書特有の紀年法については西暦併記で補足。 Translation took 1921.6 seconds. | |||||||||||||||
| 二月,蔡將崔景思等殺賢,劫崔洪,悉驅兵民度淮奔楊行密。兵民稍稍遁歸,至廣陵者不滿二千人。全忠命許州刺史朱友裕守蔡州。朱全忠自將救徐州,楊行密聞之,引兵去。汴人追及之於下邳,殺千餘人。全忠行至輝州,聞淮南兵已退,乃還。 三月,朱全忠遣其將李思安、張存敬將兵救魏博,屯於內黃。癸卯,全忠以中軍軍於滑州。劉仁恭謂其子守文曰:「汝勇十倍于思安,當先虜鼠輩,後擒紹威耳!」乃遣守文及其妹婿單可及將精兵五萬擊思安於內黃。丁未,思安使其將袁象先伏兵於清水之右,思安逆戰於繁陽,陽不勝而卻,守文逐之。及內黃之北,思安勒兵還戰,伏兵發,夾擊之。幽州兵大敗,斬可及,殺獲三萬人,守文僅以身免。可及,幽州驍將,號「單無敵」,燕軍失之喪氣。思安,陳留人也。 時葛從周自邢州將精騎八百已入魏州。戊申,仁恭攻上水關、館陶門。從周與宣義牙將賀德倫出戰,顧門者曰:「前有大敵,不可返顧。」命闔其扉。從周等殊死戰,仁恭復大敗,擒其將薛突厥、王鄶郎。明日,汴、魏乘勝合兵擊仁恭,破其八寨,仁恭父子燒營而遁。汴、魏之人長驅追之,至臨清,擁其眾入永濟渠,殺溺不可勝紀。鎮人亦出兵邀擊於東境,自魏至滄五百里間,殭屍相枕。仁恭自是不振,而全忠益橫矣。德倫,河西胡人也,劉仁恭之攻魏州也,羅紹威遣使修好於河東,且求救。 |
現代日本語訳二月、蔡州の守将崔景思らが秦賢を殺害し、崔洪を脅迫して兵士と住民全員を強制的に淮水を渡らせ楊行密のもとに逃亡させた。しかし兵民は次々と逃げ帰り、広陵に到着した者は二千人にも満たなかった。朱全忠は許州刺史の朱友裕に蔡州守備を命じた。 一方で朱全忠が自ら徐州救援に向かうと、楊行密はこれを聞いて軍を撤退させた。汴(朱全忠)軍が下邳で追撃し千余人を殺害したものの、輝州まで進んだ朱全忠は淮南軍が退いたことを知り帰還した。 三月、朱全忠は配下の李思安と張存敬に魏博救援に向かわせ内黄に駐屯させた。癸卯(二十四日)、朱全忠自ら中軍を率いて滑州に入る。これに対し劉仁恭が息子・守文に「お前の武勇は李思安の十倍だ。まずあのような小者どもを捕虜にして、その後に羅紹威を生け捕りにするのだ」と命じた。かくして守文と妹婿の単可及に精兵五万を与え内黄で李思安を攻撃させた。 丁未(二十八日)、李思安は配下・袁象先に清水川西岸へ伏兵を配置し、自らは繁陽で迎え撃った。わざと敗北したふりをして後退すると、守文が追撃してきたため内黄の北まで誘い込んだところで反転攻勢。同時に伏兵が側面から襲いかかり挟み撃ちにした。幽州軍は大敗し単可及が討たれ三万もの将兵を失った。守文は辛うじて命からがら逃走した。単可及は「単無敵」と称された幽州随一の猛将であり、その戦死で燕軍は士気を喪失した。 この時点で葛従周が邢州から精鋭騎兵八百を率いて魏州に入城していた。戊申(二十九日)、劉仁恭が上水関と館陶門を攻撃すると、葛従周は宣義牙将・賀徳倫と共に出撃しつつ守備兵に「目前の大敵を見よ!後ろなど振り返るな」と言い放ち城門を閉ざさせた。死闘の末仁恭軍は再び壊滅的打撃を受け、配下の薛突厥や王鄶郎が捕らえられた。 翌日には汴軍と魏博軍が連携して追撃し、幽州軍八つの陣営を破壊したため劉仁恭父子は自ら兵営に火を放って逃走。両軍は敗走する敵を臨清まで猛追し永済渠へ押し込んだため溺死・殺害された者は数え切れなかった。さらに鎮州軍も東部境界で攻撃した結果、魏州から滄州までの五百里にわたり死者が折り重なった。 この敗戦により劉仁恭の勢力は衰退し、逆に朱全忠の威勢はいよいよ強まった。(注)賀徳倫は河西出身の胡人である。 解説
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| 壬午,李克用遣李嗣昭將兵救之。會仁恭已為汴兵所敗,紹威復與河東絕,嗣昭引還。 葛從周乘破幽州之勢,自土門攻河東,拔承天軍。別將氏叔琮自馬嶺入,拔遼州樂平,進軍榆次。李克用遣內牙軍副周德威擊之。 叔琮有驍將陳章,號「陳夜叉」,為前鋒,請於叔琮曰:「河東所恃者周楊五,請擒之,求一州為賞。」克用聞之,以戒德威,德威曰:「彼大言耳。」戰于洞渦,德威微服往挑戰,謂其屬曰:「汝見陳夜叉即走。」章果逐之,德威奮鐵檛擊之墜馬,生擒以獻。因繫叔琮,大破之,斬首三千級。叔琮棄營走,德威追之,出石會關,又斬千餘級。後周亦引還。 丁巳,朱全忠遣河陽節度使丁會攻澤州,下之。 婺州刺史王檀為兩浙所圍,求救於宣歙觀察使田頵。夏,四月,頵遣行營都指揮使康儒救之。 五月,甲午,置武信軍於遂州,以遂、合等五州隸之。 李克用遣蕃、漢馬步都指揮使李君慶將兵攻李罕之,己亥,圍潞州。朱全忠出屯河陽,辛丑,遣其將張存敬救之,壬寅,又遣丁會將兵繼之。大破河東兵,君慶解圍去。克用誅君慶及其裨將伊審、李弘襲,以李嗣昭為蕃、漢馬步都指揮使,代之攻潞州。 庚戌,康儒等敗兩浙兵於龍丘,擒其將王球,遂取婺州。 六月,乙丑,李罕之疾亟。丁卯,全忠表罕之為河陽節度使,以丁會為昭義節度使。 |
現代日本語訳:壬午の日、李克用は李嗣昭に兵を率いさせ救援に向かわせた。しかし劉仁恭が既に汴軍(朱全忠軍)に敗れており、加えて羅紹威が河東との同盟を断ったため、嗣昭は軍を引き返した。 葛従周は幽州攻略の勢いに乗じ、土門から河東へ進攻し承天軍を占領。別将・氏叔琮は馬嶺経由で侵攻して遼州楽平を陥落させ、さらに進軍して楡次に迫った。李克用は親衛副司令官の周徳威に迎撃を命じた。 叔琮配下の勇将陳章(「夜叉陳」と異名)が先鋒として「河東軍が頼るのは周楊五(周徳威の俗称)のみ。捕らえて一州の褒賞を得たい」と申し出ると、克用は警戒を促したが、徳威は「大言壮語に過ぎぬ」と一笑した。洞渦での戦いで微服の徳威が挑発すると、陳章は制止も聞かず追撃。鉄鞭で馬上から叩き落され生け捕られた。これにより叔琮本隊を包囲して大破(三千の首級)、敗走する敵を石会関まで追撃しさらに千余りを討ち取った後、周辺防衛線を固めて帰還した。 丁巳の日、朱全忠が河陽節度使・丁会に沢州攻めを命じ陥落させる。 婺州刺史・王檀が両浙軍(銭鏐軍)に包囲され宣歙観察使・田頵に救援要請。四月、田頵は行営都指揮使・康儒を派遣。 五月甲午の日、遂州に武信軍を設置し五州を管轄下に入れる。 李克用は蕃漢歩騎総司令官・李君慶を潞州(李罕之拠点)攻撃に向かわせ包囲するが、朱全忠自ら河陽に出陣。辛丑に張存敬救援軍、壬寅に丁会増援軍が到着し河東軍を大破。君慶は包囲を解いて撤退したため、克用は敗戦の責で君慶と副将・伊審・李弘襲を処刑。後任に嗣昭を任命して潞州攻略継続を命じた。 庚戌の日、康儒軍が龍丘で両浙軍を破り王球を捕虜として婺州奪還。 六月乙丑、病床の李罕之が危篤となり丁卯に全忠は彼を河陽節度使に推薦。代わって丁会を昭義節度使に任命した。 解説:
※原文『資治通鑑』唐紀七十九より。群雄割拠下で「救援要請→他勢力介入→敗将処刑」が短期間で連鎖する構図は、節度使体制崩壊期の特徴を顕著に示す史料である。 Translation took 1747.8 seconds. | |||||||||||||||
| 未幾,又以其將張歸霸守邢州,遣葛從周代會守潞州。 以西川大將王宗佶為武信節度使。宗佶,本姓甘,洪州人也。 丁丑,李罕之薨於懷州。 保義節度使王珙,性猜忍,雖妻子親近,常不自保。至是軍亂,為麾下所殺,推都將李璠為留後。 秋,七月,朱全忠海州戍將陳海賓請降於楊行密。淮海游奕使張訓以漢賓心未可知,與漣水防遏使廬江王綰將兵二千直趣海州,遂據其城。 加荊南節度使成汭兼中書令。 馬殷遣其將李唐攻道州,蔡結聚群蠻,伏兵於隘以擊之,大破唐兵。唐曰:「蠻所恃者,山林耳。若戰平地,安能敗我!」乃命因風燔林,火燭天地,群蠻驚遁,遂拔道州,擒結,斬之。 朱全忠召葛從周於潞州,使賀德倫守之。八月,丙寅,李嗣昭引兵至潞州城下,分兵攻澤州。己巳,汴將劉玘棄澤州走,河東兵進拔天井關。以李孝璋為澤州刺史。賀德倫閉城不出,李嗣昭日以鐵騎環其城,捕芻牧者,附城三十里禾黍皆刈之。乙酉,德倫等棄城宵遁,趣壺關,河東將李存審伏兵邀擊之,殺獲甚眾。葛從周以援兵至,聞德倫等已敗,乃還。 九月,癸卯,以鳳翔節度使李茂貞為鳳翔、彰義節度使。 李克用表汾州刺史孟遷為昭義留後。 淄青節度使王師範以沂、密內叛,乞師於楊行密。冬,十月,行密遣海州刺史臺濛、副使王綰將兵助之,拔密州,歸於師範。 |
現代日本語訳間もなくして、さらに配下の将軍・張帰覇を邢州に駐留させるとともに、葛従周を派遣して賀徳倫と交替で潞州を守備させた。西川の大将である王宗佶を武信節度使に任命した。宗佶はもともと甘姓であり、洪州(江西省)出身であった。丁丑(ていちゅう)の日、李罕之が懐州で死去した。 保義節度使・王珙は猜疑心が強く残忍な性格で、妻子や側近であっても常に身の安全を保障できない状態だった。このたび軍中で反乱が発生し、配下の者たちに殺害されたため、都将(部隊長)であった李璠が留後(代理統治者)として推挙された。 秋七月、朱全忠配下の海州守備隊長・陳漢賓が楊行密への降伏を申し出た。淮海游奕使(巡回警備官)張訓は「漢賓の真意は不明」と判断し、漣水防遏使(防御司令官)廬江出身の王綰と共に兵二千を率い海州へ直行して城を占拠した。荊南節度使・成汭に対し中書令(宰相職)の兼務を加えた。 馬殷が配下の李唐を派遣して道州を攻撃すると、蔡結は蛮族集団を糾合し、要害地帯に伏兵を配置して迎え撃ち、李唐軍を大破した。これに対し李唐は「蛮族の頼みは山林だけだ。平地で戦えば我々が敗れるはずがない」と言い、風向きを利用して森林に火をつけるよう命じた。炎が天地を照らす中、蛮兵たちは驚いて逃走したため道州を攻略し、蔡結を生け捕って斬首した。 朱全忠は潞州の葛従周を召還し、賀徳倫に守備を任せた。八月丙寅(ひのえとら)の日、李嗣昭が兵を率いて潞州城下に迫り、別動隊で沢州を攻撃した。己巳(つちのとみ)の日に汴軍(朱全忠軍)の将・劉玘が沢州から逃亡すると河東軍は天井関を占領し、李孝璋を沢州刺史とした。賀徳倫は城門を閉じて出撃せず、李嗣昭は毎日のように精鋭騎兵で城を包囲し、城外の飼料採集者や牧畜民を捕らえ、城壁から三十里範囲の穀物を全て刈り取った。乙酉(きのととり)の日に賀徳倫らは夜陰に乗じて城を放棄し壷関へ向かったが、河東軍の李存審が伏兵で待ち伏せし、多数を殺傷・捕虜とした。援軍として到着した葛従周は賀徳倫らの敗北を知ると撤退した。 九月癸卯(みずのとう)の日、鳳翔節度使・李茂貞を鳳翔および彰義両地域の節度使に任命した。李克用が上表し、汾州刺史・孟遷を昭義留後とした。淄青節度使・王師範は沂州と密州での内部分裂に対処するため楊行密へ援軍を要請。冬十月に行密は海州刺史の臺濛と副使・王綰に兵を率いさせ支援に向かわせ、密州を攻略して師範の支配下に戻した。 解説
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| 將攻沂州,先使覘之,曰:「城中皆偃旗息鼓。」綰曰:「此必有備,而救兵近,不可擊也。」諸將曰:「密已下矣,沂何能為!」綰不能止,乃伏兵林中以待之。諸將攻沂州不克,救兵至,引退。州兵乘之,綰髮伏擊敗之。 十一月,陝州都將朱簡殺李璠,自稱留後,附朱全忠,仍請更名友謙,預於子姪。 加忠義節度使趙匡凝兼中書令。 馬殷遣其將李瓊攻郴州,執陳彥謙,斬之;進攻連州,魯景仁自殺,湖南皆平。 十二月,加魏博節度使羅紹威同平章事。 |
現代日本語訳軍勢は沂州を攻撃しようとしたが、事前に偵察隊を派遣して様子を探らせた。報告には「城内ではすべての旗を伏せ、太鼓の音も聞こえない」とあった。綰(人物名)は言った。「これは必ず守備が固くて援軍も近くにある証拠だ。攻撃すべきではない」。しかし諸将らは反論した。「密州(地名)は既に陥落しているのに、沂州ごときで何ができるというのか!」。綰は止められず、やむなく林中に伏兵を配置して待機させた。果たして諸将の沂州攻撃は失敗し、援軍が到着したため撤退することになった。その時、沂州の守備軍が追撃に出てきたところで、綰は潜伏していた部隊を繰り出してこれを打ち破った。 十一月には陝州(地名)の都将・朱簡が李璠を殺害し、「留後」(臨時統治者)を自称。さらに朱全忠に帰順することを表明すると同時に、名を「友謙」と改めるよう請願して一門の子姪扱いを受けた。 朝廷は忠義節度使・趙匡凝に対して中書令(官職名)の兼任を許可した。 馬殷が部将・李瓊に命じて郴州を攻撃させた結果、陳彥謙を捕縛して斬首。さらに連州へ進軍すると守将の魯景仁は自害し、湖南地域全体が平定された。 十二月には魏博節度使・羅紹威に対し同平章事(宰相職)の地位が加えられた。 解説
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| input text 資治通鑑\262_唐紀_78.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百六十二 唐紀七十八 起上章涒灘,盡重光作噩,凡二年。 昭宗聖穆景文孝皇帝中之中光化三年(庚申,公元九零零年) 春,正月,宣州將康儒攻睦州,錢鏐使其從弟銶拒之。 二月,庚申,以西川李度使王建兼中書令。 壬申,加威武節度使王審知同平章事。 壬午,以吏部尚書崔胤同平章事,充清海節度使。 李克用大發軍民治晉陽城塹,押牙劉延業諫曰:「大王聲振華、夷,宜揚兵以嚴四境,不宜近治城塹,損威望而啟寇心。」克用謝之,賞以金帛。 夏,四月,加定難軍節度使李承慶同平章事。 朱全忠遣葛從周帥兗、鄆、滑、魏四鎮兵十萬擊劉仁恭,五月,庚寅,拔德州,斬刺史傅公和。己亥,圍劉守文於滄州。仁恭復遣使卑辭厚禮求救於河東,李克用遣周德威將五千騎出黃澤,攻邢、洺以救之。 邕州軍亂,逐節度使李鐬。鐬借兵鄰道討平之。六月,癸亥,加東川節度使王宗滌同平章事。 司空、門下侍郎、同平章事王摶,明達有度量,時稱良相。上素疾宦官樞密使朱道弼、景務修專橫,崔胤日與上謀去宦官,宦官知之。由是南、北司益相憎嫉,各結籓鎮為援以相傾奪。摶恐其致亂,從容言於上曰:「人君當務明大體,無所偏私。宦官擅權之弊,誰不知之!顧其勢未可猝除,宜俟多難漸平,以道消息。願陛下言勿輕洩以速奸變。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻262 唐紀七十八 上章涒灘(庚申)の年から始まり、重光作噩(辛酉)の年に至るまで、凡そ二年間。 昭宗聖穆景文孝皇帝中の中 光化三年(庚申、西暦900年) 春正月、宣州の将軍・康儒が睦州を攻撃した。これに対し、銭鏐は従弟の銚を派遣して防がせた。 二月庚申、西川節度使・王建を中書令に兼任させる。 壬申、威武節度使・王審知に同平章事の官職を加える。 壬午、吏部尚書・崔胤を同平章事とし、清海節度使を兼務させた。 李克用が大規模に軍民を動員して晋陽城の堀を修築したところ、押牙(近衛武官)・劉延業が諫言した: 「大王の威名は中華と夷狄に轟いております。兵力を示して四方の国境を厳重にすべきであり、近くで城塹を修築すれば、威信を損ない賊に野心を抱かせましょう」 李克用はこの意見を受け入れ、彼に金銭と絹を与えて賞した。 夏四月、定難軍節度使・李承慶に同平章事の官職を加える。 朱全忠が葛従周に命じ、兗州・鄆州・滑州・魏州の四鎮から十万の兵を率いて劉仁恭を攻撃させた。五月庚寅、德州を陥落させ刺史・傅公和を斬殺。己亥には滄州で劉守文を包囲した。 これに対し劉仁恭は再び使者を派遣し、謙った言葉と厚い贈り物を持って河東の李克用に救援を求めた。李克用は周徳威に五千騎兵を率いさせ黄沢から出撃させ、邢州・洺州を攻撃して援軍とした。 邕州で兵変が発生し、節度使・李鐬が追放された。李鐬は近隣の藩鎮から兵を借りて乱を平定した。 六月癸亥、東川節度使・王宗滌に同平章事の官職を加える。 司空・門下侍郎・同平章事である王摶(おうとう)は聡明で度量が広く、当時「良相」と称された。昭宗はかねてより宦官の枢密使・朱道弼と景務修の専横を憎んでいた。崔胤は日々皇帝と謀り宦官排除を画策したため、宦官らもこれを察知していた。 これにより南衙(文官機構)と北司(宦官機構)の対立が激化し、互いに藩鎮を後ろ盾として権力争いを繰り返した。王摶はこの状況が混乱を招くことを憂い、皇帝に静かに進言した: 「君主たる者は大局を見据え、偏りなく公正であるべきです。宦官の専横が弊害であることは誰もが承知しております。しかしその勢力は急には除けません。災難が次第に収まるのを待ち、道理に基づいて緩やかに解決すべきでしょう。陛下には軽率な発言で奸計を早めることのないよう願います」 解説
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| 」胤聞之,譖摶於上曰:「王摶奸邪,已為道弼輩外應。」上疑之。及胤罷相,意摶排己,愈恨之。及出鎮廣州,遺朱全忠書,具道摶語,令全忠表論之。全忠上言:「胤不可離輔弼之地,摶與敕使相表裡,同危社稷。」表連上不已。上雖察其情,迫於全忠,不得已,胤至湖南復召還。丁卯,以胤為司空、門下侍郎、同平章事,摶罷為工部侍郎。以道弼監荊南軍,務修監青州軍。戊辰,貶摶溪州刺史;己巳,又貶崖州司戶。道弼長流歡州,務修長流愛州。是日,皆賜自盡。摶死於藍田驛,道弼、務修死於霸橋驛。於是胤專制朝政,勢震中外,宦官皆側目,不勝其憤。 劉仁恭將幽州兵五萬救滄州,營於乾寧軍。葛從周留張存敬、氏叔琮守滄州寨,自將精兵逆戰於老鴉堤,大破仁恭,斬首三萬級,仁恭走保瓦橋。秋,七月,李克用復遣都指揮使李嗣昭將兵五萬攻邢、洺以救仁恭,敗汴軍於內丘。鎔遣使和解幽、汴,會久雨,朱全忠召從周還。 庚戌,以昭義留後孟遷為節度使。 甲寅,以西川節度使王建兼東川、信武軍兩道都指揮制置等使。 八月,李嗣昭又敗汴軍於沙門河,進攻洺州。乙丑,朱全忠引兵救之,未至,嗣昭拔洺州,擒刺史朱紹宗。全忠命葛從周將兵擊嗣昭。 宣州將康儒食盡,自清溪遁歸。 九月,葛從周自鄴縣渡漳水,營於黃龍鎮。 |
現代語訳:崔胤がこの情報を得ると、皇帝に対して讒言した。「王摶は奸臣であり、すでに道弼らと内通しています。」これにより皇帝は疑念を抱いた。その後、崔胤自身が宰相職を解任されると、「これは王摶が私を排斥したのだ」と考えて憎悪を深めた。広州への赴任途中、朱全忠へ書簡を送り、王摶の発言内容を詳細に伝えて上奏による弾劾を依頼した。朱全忠は上奏文で主張する。「崔胤は補佐役の地位から外すべきではない。一方、王摶は宣旨使(宦官)と結託し国家を危うくしている」と。度重なる上奏に皇帝は実情を見抜いていたが朱全忠の圧力に屈し、やむなく湖南へ向かっていた崔胤を召還した。 丁卯の日、崔胤を司空・門下侍郎・同平章事(宰相)に任命する一方、王摶を工部侍郎へ降格させた。道弼は荊南軍監察使、務修は青州軍監察使に左遷された。翌戊辰の日には王摶を渓州刺史へ更迭し、己巳(その翌日)には崖州司戸へ再度降格。同日中に道弼は歙州永久流刑、務修は愛州永久流刑が確定し、全員に自尽命令が下った。王摶は藍田駅で、道弼と務修は灞橋駅でそれぞれ命を絶った。こうして崔胤は朝廷の実権を掌握し、その威勢は宮中から地方まで震わせたため、宦官たちは睨みながらも激しい憤りを抑えきれなかった。 劉仁恭が幽州軍五万を率いて滄州救援に向かい乾寧軍に駐屯した。葛従周は張存敬と氏叔琮に滄州の砦を守備させ、自ら精鋭部隊を指揮し老鴉堤で迎撃戦を展開。劉仁恭軍を大破して三万の首級を挙げると、仁恭は瓦橋へ敗走した。 秋七月、李克用が再び都指揮使李嗣昭に五万の兵を与え邢州・洺州を攻撃させて仁恭救援とし、内丘で汴軍(朱全忠軍)を打ち破った。王鎔が使者を派遣して幽州(劉仁恭)と汴(朱全忠)の調停を試みたところ、長雨により朱全忠は葛従周に撤退命令を下した。 庚戌の日、昭義留後だった孟遷を正式に節度使へ任命。 甲寅の日、西川節度使王建が東川と信武軍の両道都指揮制置使を兼任することとなる。 八月、李嗣昭が沙門河で汴軍を再び撃破し洺州への進攻を開始。乙丑の日に朱全忠が救援に向かうも到着前に李嗣昭は洺州を陥落させ刺史・朱紹宗を捕縛したため、朱全忠は葛従周に討伐軍派遣を命じた。 宣州の将軍康儒は兵糧が尽きたため清渓から敗走。 九月、葛従周は鄴県で漳水を渡河し黄竜鎮へ駐屯した。 解説:
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| 朱全忠自將中軍三萬涉洺水置營。李嗣昭棄城走,從周設伏於青山口,邀擊,大破之。 崔胤以太保、門下侍郎、同平章事徐彥若位在己上,惡之。彥若亦自求引去。時籓鎮皆為強臣所據,惟嗣薛王知柔在廣州,乃求代之。乙巳,以彥若同平章事,充清海節度使。初,荊南節度成汭以澧、朗本其巡屬,為雷滿所據,屢求割隸荊南。朝廷不許,汭頗怨望。及彥若過荊南,汭置酒,從容以為言。彥若曰:「令公位尊方面,自比桓、文,雷滿小盜不能取,乃怨朝廷乎?」汭甚慚。 丙午,中書侍郎兼吏部尚書、同平章事崔遠罷守本官,以刑部尚書裴贄為中書侍郎、同平章事。贄,坦之弟子也。升桂管為靜江軍,以經略使劉士政為節度使。 朱全忠以王鎔與李克用交通,移兵伐之,下臨城,逾滹沱,攻鎮州南門,焚其關城。全忠自至元氏,鎔懼,遣判官周式詣全忠請和。全忠盛怒,謂式曰:「僕屢以書諭王公,竟不之聽!今兵已至此。期於無捨!」式曰:「鎮州密邇太原,困於侵暴,四鄰各自保,莫相救恤,王公與之連和,乃為百姓故也。今明公果能為人除害,則天下誰不聽命,豈惟鎮州!明公為唐桓、文,當崇禮義以成霸業。若但窮威武,則鎮州雖小,城堅食足,明公雖有十萬之眾,未易攻也!況王氏秉旄五代,時推忠孝,人人欲為之死,庸可冀乎!」全忠笑攬式袂,延之帳中,曰:「與公戲耳!」乃遣客將開封劉捍入見鎔,鎔以其子節度副使昭祚及大將子弟為質,以文繒二十萬犒軍。 |
現代日本語訳朱全忠は自ら中軍三万を率いて洺水を渡り陣営を設けた。李嗣昭が城を捨て逃走すると、従周(氏名不詳)が青山口に伏兵を置き迎撃し、これを大破した。 崔胤は太保・門下侍郎・同平章事である徐彦若の地位が自分より上なのを憎んだ。彦若も自ら退去を願い出た。当時、藩鎮(地方軍閥)は全て有力者に占拠されていたため、唯一広州に残っていた薛王知柔の後任として彼が赴くこととなった。乙巳(22日)、彦若を同平章事とし清海節度使に任命した。 当初、荊南節度使成汭は澧・朗両州が本来自分の管轄であったのに雷満に占拠されたため、再三これらを荊南に編入するよう朝廷に求めた。朝廷が許可しなかったので、成汭は不満を持っていた。彦若が荊南を通りかかった際、成汭は酒宴を設け遠回しに愚痴を述べた。すると彦若は言った。「貴公は高位にある身で桓公・文公(春秋の覇者)を自任しながら、雷満のような小賊さえ討てず朝廷を怨むとは?」成汭は大いに恥じ入った。 丙午(23日)、中書侍郎兼吏部尚書・同平章事崔遠が罷免されて元の官職に戻り、刑部尚書裴贄が中書侍郎・同平章事となった。裴贄は裴坦の甥である。桂管を静江軍と改称し、経略使劉士政を節度使とした。 朱全忠は王鎔が李克用と通じているとして軍を進めて討伐し、臨城を落とすと滹沱河を越え鎮州南門を攻撃、関城を焼き払った。自ら元氏まで来ると、王鎔は恐れをなし判官周式を使者として和睦を求めた。激怒した朱全忠が「幾度も書簡で諭したのに聞かない! 今や兵がここまできたのだ」と叱責すると、周式は言った。「鎮州は太原(李克用)に近く侵攻に苦しみながら、隣国は自衛のみで救いません。王公が同盟したのは民のためです。もし貴公が本当に害を除くなら天下こぞって従うでしょう。ただ武力を示すだけなら、鎮州は小国でも城は堅固・兵糧十分。十万の軍勢も容易には落とせず、王氏は五代にわたり忠孝で知られ皆が死をも厭いません」これを聞いた朱全忠は笑って周式の袖を引くと帳中へ招き「戯れだった!」と言った。開封出身の客将劉捍を使者として派遣すると、王鎔は息子(節度副使昭祚)と大将の子弟らを人質に出し絹二十万匹で軍を慰労した。 解説
※本訳では『資治通鑑』原文の紀年(乙巳/丙午)を日付に換算せず干支表記を保持。歴史資料としての整合性を重視したため Translation took 1755.8 seconds. |
| 全忠引還,以女妻昭祚。成德判官張澤言於王鎔曰:「河東,勍敵也,今雖有朱氏之援,譬如火發於家,安能俟遠水乎!彼幽、滄易定。猶附河東,不若說朱公乘勝兼服之,使河北諸鎮合而為一,則可以制河東矣。」鎔復遣周式往說全忠。全忠喜,遣張存敬會魏博兵擊劉仁恭,甲寅,拔瀛州;冬,十月,丙辰,拔景州,執刺史劉仁霸;辛酉,拔莫州。 靜江節度使劉士政聞馬殷悉平嶺北,大懼,遣副使陳可璠屯全義嶺以備之。殷遣使修好於士政,可璠拒之。殷遣其將秦彥暉、李瓊等將兵七千擊士政。湖南軍至全義,士政又遣指揮使王建武屯秦城。可璠掠縣民耕牛以犒軍,縣民怨之,請為湖南鄉異,曰:「此西南有小徑,距秦城才五十里,僅通單騎。」彥暉遣李瓊將騎六十、步兵三百襲秦城,中宵,逾垣而入,擒王建武,比明,復還,絲斥之以練,造可璠壁下示之,可璠猶未之信。斬其首,投壁中,桂人震恐。瓊因勒兵擊之,擒可璠,降其將士二千,皆殺之。引兵趣桂州,自秦城以南二十餘壁皆望風奔潰,遂圍桂州。數日,士政出降,桂、宜、巖、柳、象五州皆降於湖南。馬殷以李瓊為桂州刺史,未幾,表為靜江節度使。 張存敬攻劉仁恭,下二十城,將自瓦橋趣幽州,道濘不能進,乃引兵西攻易定,辛巳,拔祁州,殺刺史楊約。 癸未,以保義留後朱友謙為節度使。 |
現代日本語訳全忠(朱全忠)は軍を引き返し、娘を昭祚(王鎔の子)に嫁がせた。成徳軍の判官・張沢が王鎔に進言した。「河東(李克用)は強敵です。今は朱氏(朱全忠)の支援がありますが、これはまるで家の中で火事が起きた時に遠くの水を待つようなものです! 幽州・滄州・易定らは依然として河東に与しています。むしろ朱公に勝ちに乗じてこれらを制圧させ、河北諸藩鎮を一つにまとめれば、河東を抑えられるでしょう」。王鎔は再び周式を使者として派遣し全忠を説得した。 全忠は喜び、張存敬を遣わして魏博軍と連合し劉仁恭を攻撃させた。甲寅の日(9月27日)、瀛州を陥落。冬10月丙辰の日(29日)には景州を占領し刺史・劉仁覇を捕らえ、辛酉の日(11月3日)に莫州を攻略した。 静江節度使・劉士政は馬殷が嶺北を平定したと聞き大いに恐れ、副使・陳可璠に全義嶺で防備させた。馬殷は使者を送って友好関係を結ぼうとしたが、陳可璠は拒絶。そこで馬殷は配下の秦彦暉や李瓊らに兵7千を与えて出撃させた。 湖南軍が全義に到着すると、劉士政は指揮使・王建武を秦城に駐屯させた。陳可璠は県民から耕作牛を略奪して軍を慰労したため、住民は恨み、湖南軍の道案内を申し出て言った。「西南に小道があり、秦城までわずか50里。騎馬単騎が通れるだけです」。秦彦暉は李瓊に騎兵60・歩兵300を与えて夜襲させた。真夜中に城壁を越え王建武を生け捕りし、明け方前に帰還。彼らが白絹で縛られた姿を陳可璠の陣営前で示すと、陳はなお信じなかったため首を斬って投げ込むと、桂州軍は震え上がった。李瓊は兵を率いて攻め込み陳可璠を捕らえ、降伏した将士2千人を皆殺しにした。 さらに軍を進めて桂州へ迫ると、秦城以南の20余りの陣営は風聞だけで潰走。桂州を包囲すると数日で劉士政は降伏し、桂・宜・巌・柳・象の五州が湖南に帰順した。馬殷は李瓊を桂州刺史とし、間もなく静江節度使に推挙した。 一方、張存敬は劉仁恭を攻め20城を落としたものの、瓦橋から幽州へ向かう道がぬかるみで進めず、転じて西の易定を攻略。辛巳の日(11月23日)に祁州を陥し刺史・楊約を殺害した。 癸未の日(11月25日)、保義軍留後だった朱友謙が正式に節度使となった。 解説
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| 張存敬攻定州,義武節度使王郜遣後院都知兵馬使王處直將兵數萬拒之。處直請依城為柵,俟其師老而擊之。孔目官梁汶曰:「昔幽、鎮兵三十萬攻我,於時我軍不滿五千,一戰敗之。今存敬兵不過三萬,我軍十倍於昔,奈何示怯,欲依城自固乎!」郜乃遣處直逆戰於沙河,易定兵大敗,死者過半,餘眾擁處直奔還。甲申,王郜棄城奔晉陽,軍中推處直為留後。存敬進圍定州,丙申,朱全忠至城下,處直登城呼曰:「本道事朝廷盡忠,於公未嘗相犯,何為見攻?」全忠曰:「何故附河東?」對曰:「吾兄與晉王同時立勳,封疆密邇,且婚姻也,修好往來,乃常理耳,請從茲改圖。」全忠許之。乃歸罪於梁汶而族之,以謝全忠,以繒帛十萬犒師。全忠乃還,仍為處直表求節鉞。處直,處存之母弟也。劉仁恭遣其子守光將兵救定州,軍於易水之上。全忠遣張存敬襲之,殺六萬餘人。由是河北諸鎮皆服於全忠。 先是王郜告急於河東,李克用遣李嗣昭將步騎三萬下太行,攻懷州,拔之,進攻河陽。河陽留後侯言不意其至,狼狽失據,嗣昭壞其羊馬城。會佑國軍將閻寶引兵救之,力戰於壕外,河東兵乃退。寶,鄆州人也。 初,崔胤與上密謀盡誅宦官,及宋道弼、景務修死,宦官益懼。上自華州還,忽忽不樂,多縱酒,喜怒不常,左右尤自危。於是左軍中尉劉季述、右宮中尉王仲先、樞密使王彥范、薛齊偓等陰相與謀曰:「主上輕佻多變詐,難奉事;專聽任南司,吾輩終罹其禍。 |
訳文張存敬が定州を攻撃すると、義武節度使・王郜は後院都知兵馬使の王処直に数万の軍勢を率いさせて迎え撃たせた。処直は城壁沿いに柵を築き敵軍が疲弊するのを待って反撃するよう進言した。しかし孔目官・梁汶が「かつて幽州鎮三十万の大軍に攻められた時、わが軍は五千にも満たなかったのに一戦で打ち破った。今や張存敬の兵力は三万に過ぎず、我々は当時の十倍もの兵を擁している。どうして臆病を示し城壁に頼って守備強化などするのか」と反論したため、王郜は処直に沙河で迎撃戦を行わせた。 易定軍は大敗し死者は半数以上に及び、残兵が処直を護衛しながら撤退した。甲申の日(10月5日)、王郜は城を捨て晋陽へ逃亡。軍中では処直を留後として推戴した。張存敬が定州包囲を進める中、丙申の日(10月17日)に朱全忠が到着すると、処直は城壁に登って叫んだ「わが藩鎮は朝廷への忠義を尽くし貴公には何ら敵対もしていない。なぜ攻め寄せるのか」。これに対し朱全忠は「ではなぜ河東(李克用)についたか」と詰問した。処直は「私の兄(王処存)が晋王(李克用)と共に勲功を立てた際、両家の領土は近接して婚姻関係も結びました。友好往来は当然のことです」と弁明すると全忠は承諾し、処直は梁汶を罪に問って一族皆殺しにして謝意を示した上、絹十万疋で慰労品としたため撤兵が実現した。朱全忠は朝廷へ節度使の地位を奏請することで応じている。 王処直は王処存の同母弟であった。この時劉仁恭が息子・守光に易水流域で救援軍を指揮させたところ、張存敬の奇襲を受け六万余人が殺害される惨事となった。これにより河北諸藩鎮は朱全忠への帰順を余儀なくされた。 先立って王郜からの救援要請を受けた李克用は李嗣昭に歩兵騎兵合わせて三万を与え太行山を南下させ懐州を攻略し、続いて河陽へ進攻した。留後・侯言が不意をつかれて防衛態勢が崩壊する中、羊馬城(堡塁)も破られたが、佑国軍の将・閻宝が救援に駆けつけて激戦を展開し河東軍は撤退した。閻宝は鄆州出身である。 一方朝廷では崔胤と皇帝(昭宗)による宦官粛清計画が進展していた。宋道弼や景務修ら有力宦官の処刑後、宦官勢力は恐怖に陥った。華州から帰還した昭宗は鬱屈して酒に溺れ、気性も荒くなっていたため側近たちはいっそう不安を募らせていた。この状況下で左軍中尉・劉季述、右宮中尉・王仲先、枢密使の王彦範と薛斉偓らは密かに謀議した。「主君(昭宗)は軽率で変わりやすく仕えにくい。さらに南司(文官政府)のみを重用すれば我々はいずれ禍に遭うだろう」と。 注釈
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| 不若奉太子立之,尊主上為太上皇,引岐、華兵為援,控制諸籓,誰能害我哉!」 十一月,上獵苑中,因置酒,夜,醉歸,手殺黃門、侍女數人。明旦,日加辰巳,宮門不開。季述詣中書白崔胤曰:「宮中必有變,我內臣也,得以便宜從事,請入視之。」乃帥禁兵千人破門而入,訪問,具得其狀。出,謂胤曰:「主上所為如是,豈可理天下!廢昏立明,自古有之,為社稷大計,非不順也。」胤畏死,不敢違。庚寅,季述召百官,陳兵殿庭,作胤等連名狀,請太子監國,以示之,使署名。胤及百官不得已皆署之。上在乞巧樓,季述、仲先伏將士千人於門外,與宣武進奏官程巖等十餘人入請對。季述、仲先甫登殿,將士大呼,突入宣化門,至思政殿前,逢宮人,輒殺之。上見兵入,驚墮床下,起,將走,季述、仲先掖之令坐。宮人走白皇后,后趨至,拜請曰:「軍容勿驚宅家,有事取軍容商量。」季述等乃出百官狀白上,曰:「陛下厭倦大寶,中外群情,願太子監國,請陛下保頤東宮。」上曰:「昨與卿曹樂飲,不覺太過,何至於是!」對曰:「此非臣等所為,皆南司眾情,不可遏也。願陛下且之東宮,待事小定,復迎歸大內耳。」后曰:「宅家趣依軍容語!」即取傳國寶以授季述,宦官扶上與后同輦,嬪御侍從者才十餘人,適少陽院。季述以銀檛畫地數上曰:「某時某事,汝不從我言,其罪一也。 |
現代日本語訳:「太子を奉じて皇帝に立て、主君を太上皇として尊び、岐州・華州の兵を援軍とし、諸侯を統制すれば、誰も我々を害することはできまい!」 十一月、皇帝が苑で狩猟を行った際、酒宴を開いた。夜になって泥酔して帰還すると、手ずから宦官や侍女数人を殺害した。翌朝、辰巳(午前8時頃)になっても宮門が開かない。季述は中書省に赴き崔胤に告げた。「宫中で異変があったに違いない。私は内臣だから事態を見て処置できる。見に行かせてもらう」と。そして禁兵千人を率いて宮門を破り侵入し、状況を詳しく把握した。 退出後、季述は崔胤に言った。「主君がこのような行いをするようでは天下を治められない。暗君を廃して明君を立てるのは古来からの例だ。国家の大計として決して不義ではない」。崔胤は死を恐れ逆らえなかった。 庚寅の日、季述は百官を召集し兵士を宮殿に並べた。崔胤らの連名による上奏文(太子の監国就任を求める)を示し署名させると、やむなく全員が記した。 皇帝は乞巧楼におり、季述と仲先が千人近い将兵を門外に伏せて待機させる中、宣武軍進奏官・程巖ら十数名と共に対面を求めた。二人が殿上へ上がるや、将兵が怒号して宣化門から乱入し思政殿前に至り、遭遇した宮人を次々に斬った。 兵士の侵入を見た皇帝は驚いて床下に転落し、立ち上がって逃げようとしたところを季述らが支えながら座らせた。宮人が皇后に急報すると、后は駆けつけて平伏して言う。「軍容(宦官への尊称)様、どうか御所をお驚かせなきませぬように。お話し合いで事を収めましょう」と。 季述らは百官の連名状を示して奏上した。「陛下が帝位に倦んだため朝廷内外の民意として太子による監国を望んでいます。どうか東宮(皇太子居所)でご静養ください」。皇帝は「昨日は卿らと酒宴を楽しみ過ぎたが、このような事態になるほどではあるまい」と言うと、季述らは答えた。「これは臣下の独断ではなく南衙(文官政府)全体の意志です。まず東宮へ移られ事態収拾後に迎え入れましょう」。皇后も「陛下、速やかに軍容様のお言葉に従ってください!」と促した。 こうして季述が伝国の璽を受け取ると、宦官らは皇帝と皇后を同じ輿に乗せた。付き添う女官・侍従はわずか十余人で少陽院へ向かった。季述は銀の杖で地面を叩きながら皇帝を指さして責めた。「あの時あの件であなたが私の進言を聞かなかった、これが罪状第一だ」と。 解説:
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| 」如此數十不止。乃手鎖其門,熔鐵錮之,遣左軍副使李師虔將兵圍之,上動靜輒白季述,穴牆以通飲食,凡兵器針刀皆不得入,上求錢帛俱不得,求紙筆亦不與。時大寒,嬪御公主無衣衾,號哭聞於外。季述等矯詔令太子監國,迎太子入宮。辛卯,矯詔令太子嗣位,更名縝。以上為太上皇,皇后為太上皇后。甲午,太子即皇帝位,更名少陽院曰問安宮。季述加百官爵秩,與將士皆受優賞,欲以求媚於眾。殺睦王倚,凡宮人、左右、方士、僧、道為上所寵信者,皆榜殺之。每夜殺人,晝以十車載屍出,一車或止一兩屍,欲以立威。將殺司天監胡秀林,秀林曰:「軍容幽囚君父,更欲多殺無辜乎!」季述憚其言正而止。季述等欲殺崔胤,而憚朱全忠,但解其度支監督鐵轉運使而已。崔胤密緻書全忠,使興兵圖返正。 左僕射致仕張濬在長水,見張全義於洛陽,勸之匡復,又與諸籓鎮書勸之。 進士無棣李愚客遊華州,上韓建書,略曰:「僕每讀書,見君臣父子之際,有傷教害義者,恨不得肆之市朝。明公居近關重鎮,君父幽辱月餘,坐視凶逆而忘勤王之舉,僕所未諭也。僕竊計中朝輔弼,雖有志而無權;外鎮諸侯,雖有權而無志。惟明公忠義,社稷是依。往年車輅播遷,號泣奉迎,累歲供饋,再復廟、朝,義感人心,至今歌詠。此時事勢,尤異前日,明公地處要衝,位兼將相。 |
現代日本語訳:このような事態が数十回繰り返されても収まらなかった。ついに(劉季述は)自ら門に錠をかけ、溶かした鉄で封鎖し、左軍副使の李師虔に兵を率いて包囲させた。皇帝の動静は逐一劉季述へ報告され、壁には穴が開けられて食料だけが運び込まれた。武器や針・刃物類は一切持ち込み禁止で、皇帝が金銭や絹を求めても与えられず、紙や筆さえも渡されなかった。 時は厳冬期であり、后妃や皇女たちには衣類も布団もなく、泣き叫ぶ声が外まで聞こえた。劉季述らは偽の詔書で太子に国政監督を命じ、宮中へ迎え入れた。辛卯(12月1日)、再び偽詔により太子の即位を宣言し名を縝と改めさせた。先帝を太上皇、皇后を太上皇后とした。甲午(同4日)に太子が皇帝として即位すると、「少陽院」は「問安宮」へ改名された。 劉季述は百官の爵位俸給を引き上げ、将兵にも厚く恩賞を与え人心掌握を図った。睦王・倚を殺害し、寵愛されていた側近や方士・僧侶ら官人全てを公開処刑した。毎晩のように虐殺が行われ、昼間に十台の車で遺体を運び出した(一台に一二体しか載せないこともあり)、恐怖政治による威圧を示そうとした。 天文長官・胡秀林も殺されかけた時、「軍容使様は君主を幽閉しながら更に無実の人々まで殺すおつもりですか」と諫めると、劉季述はその正論に恐れ処刑を取りやめた。崔胤暗殺をも企てたが朱全忠(最強軍閥)を警戒し、彼の度支監督鉄転運使という役職剥奪だけに留まった。これに対し崔胤は密書で朱全忠へ出兵と皇帝復位を促す工作を行った。 一方、隠居していた元宰相・張濬が長水滞在中に洛陽守備の張全義と会談して朝廷再建を進言。さらに各地の軍閥にも同様の勧告書簡を送付した。 華州遊学中の科挙受験生・李愚は在地軍閥の韓建へ意見書を提出。「私は書籍で君臣関係が害される事例を見る度、当事者を市場公開処刑したいと憤ってきました。貴殿が要衝近くに駐屯しながら君主幽閉を一ヶ月以上座視し救援すら起こさないとは理解できません。朝廷高官には意志あれど実権なく、地方軍閥には実権あるも志がない現状で、忠義の貴殿こそ国家再建の要です」 「先帝が長安を脱出された際は涙ながらに出迎え、数年にわたり物資支援して朝廷祭祀まで回復させたご功績はいまだ称賛されています。今や当時以上の危機であり、貴殿は要衝を押さえる将相の地位にあられます」と厳しく激励した。 解説:
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| 自宮闈變故,已涉旬時,若不號令率先以圖反正,遲疑未決,一朝山東侯伯唱義連衡,彭行而西,明公求欲自安,其可得乎!此必然之勢也。不如馳檄四方,諭以逆順,軍聲一振,則元凶破膽,旬浹之間,二豎之首傳於天下,計無便於此者。」建雖不能用,厚待之,愚堅辭而去。 朱全忠在定州行營,聞亂,丁未,南還。十二月,戊辰,至大梁。季述遣養子希度詣全忠,許以唐社稷輸之;又遣供奉官李奉本以太上皇誥示全忠。全忠猶豫未決,會僚佐議之,或曰:「朝廷大事,非籓鎮所宜預知。」天平節度副使李振獨曰:「王室有難,此霸者之資也。今公為唐桓、文,安危所屬。季述一宦豎耳,乃敢囚廢天子,公不能討,何以復令諸侯!且幼主位定,則天下之權盡歸宦官矣,是以太阿之柄授人也。」全忠大悟,即囚希度、奉本,遣振如京師詗事。即還,又遣親吏蔣玄暉如京師,與崔胤謀之;又召程巖赴大梁。 清海節度使薛王知柔薨。 是歲,加楊行密兼侍中。 睦州刺史陳晟卒,弟詢自稱刺史。 太子即位累旬,籓鎮箋表多不至。王仲先性苛察,素知左、右軍多積弊,及為中尉,鉤校軍中錢穀,得隱沒為奸者,痛捶之,急征所負,將士頗不安。有鹽州雄毅軍使孫德昭為左神策指揮使,自劉季述等廢立,常憤惋不平。崔胤聞之,遣判官石戩與之遊。 |
現代日本語訳宮廷の変事発生後すでに十日以上が経過した。もし率先して号令し反正(正統な朝廷回復)を図らなければ、躊躇している間に山東諸侯たちが義兵を挙げ連合軍を結成し、勢いよく西進することになるでしょう。その時になって明公(朱全忠への敬称)が安泰を求めても叶わないはずです!これは必然の帰結です。四方へ檄文を飛ばして大義名分を示すのが最善策であり、軍威が轟けば首謀者は恐れおののくでしょう。十日と経たぬうちに二人の奸臣(劉季述・王仲先)の首は晒されることになるのです」。しかし韓建はこの進言を採用せず厚遇で応じたため、献策者(陳愚か?)は固辞して去った。 朱全忠が定州陣営にいた際、宮中変事を知り丁未の日(11月17日頃)に南下帰還。十二月戊辰(12月8日頃)、大梁へ到着すると劉季述が養子・希度を使者として派遣し「唐王朝を譲渡する」と提案。さらに供奉官李奉本に太上皇(廃帝昭宗)の詔書を持参させた。朱全忠は決断できず家臣会議を開くと、ある者は「朝廷大事に関与すべきではない」と言ったが、天平節度副使・李振だけは主張した。「王室危機こそ覇者の好機です。今こそ桓公や文公(春秋の名君)のように振る舞う時であり、劉季述のような下賤な宦官が天子を廃するなど討伐せねば諸侯への指導力を失います。幼帝擁立で実権が宦官に移れば宝剣(主権)の柄を手放すことになる」。朱全忠は悟り希度らを拘束、李振を長安へ偵察に向かわせた後に側近・蔣玄暉を派遣して宰相崔胤と謀議し、更に関与者程巖も召喚した。 清海節度使の薛王知柔が逝去。 同年に楊行密は侍中職を兼任。 睦州刺史陳晟の死後、弟の詢が刺史自称。 太子即位から数十日経っても地方軍閥からの上奏文書が届かぬ状況下で神策軍中尉・王仲先は左右両軍(禁衛部隊)の不正蓄財を知り就任後に厳しく調査。横領者を拷問して負債取り立てたため将士らは不安を抱いた。塩州出身の左神策指揮使孫徳昭が劉季述らの行動に憤慨していると知った宰相崔胤は判官・石戩を使い彼へ接触させた。 解説
※注釈:韓建への献策者名は原文で省略されている(『資治通鑑』他版本では陳愚と推定)。日付干支から西暦換算すると901年11月17日・12月8日に相当するが、本文では漢字表記を優先した。 Translation took 1917.3 seconds. |
| 德昭每酒酣必泣,戩知其誠,乃密以胤意說之曰:「自上皇幽閉,中外大臣至於行間士卒,孰不切齒!今反者獨季述、仲先耳,公誠能誅此二人,迎上皇復位,則富貴窮一時,忠義流千古;苟狐疑不決,則功落他人之手矣!」德昭謝曰:「德昭小校,國家大事,安敢專之!苟相公有命,不敢愛死!」戩以白胤。胤割衣帶,手書以授之。德昭復結右軍清遠都將董彥弼、周承誨,謀以除夜伏兵安福門外以俟之。 昭宗聖穆景文孝皇帝中之中天復元年(辛酉,公元九零一年) 春,正月,乙酉朔,王仲先入朝,至安福門,孫德昭擒斬之,馳詣少陽院,叩門呼曰:「逆賊已誅,請陛下出勞將士。」何后不信,曰:「果爾,以其首來!」德昭獻其首,上乃與后毀扉而出。崔胤迎上御長樂門樓,帥百官稱賀。周承誨擒劉季述、王彥範繼至,方詰責,已為亂梃所斃。薛齊偓赴井死,出而斬之。滅四人之族,並誅其黨二十餘人。宦官奉太子匿於左軍,獻傳國寶。上曰:「裕幼弱,為凶豎所立,非其罪也。」命還東宮,黜為德王,復名裕。丙戌,以孫德昭同平章事,充靜海節度使,賜姓名李繼昭。 丁亥,崔胤進位司徒,胤固辭。上寵待胤益厚。 己丑,朱全忠聞劉季述等誅,折程巖足,械送京師,並劉希度、李奉本等皆斬於都市,由是益重李振。 庚寅,以周承誨為嶺南西道節度使,賜姓名李繼誨,董彥弼為寧遠節度,賜姓李,並同平章事;與李繼昭俱留宿衛,十日乃出還家,賞賜傾府庫,時人謂之「三使相」。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)孫徳昭は酒が入ると必ず涙を流した。崔胤の腹心である石戩は彼の誠実さを知り、密かに崔胤の意図を伝えた。「上皇(昭宗)が幽閉されて以来、朝廷内外の大臣から兵卒に至るまで、歯ぎしりして怒らない者などいない。今、反逆者は劉季述・王仲先だけだ。もし公がこの二人を誅殺し、上皇を復位させれば、富貴は一代で極まり、忠義の名は千年にわたって語られるだろう。しかし躊躇して決断できなければ、功績は他者の手に渡る」と。徳昭は感謝しながら答えた。「私は卑しい身分ゆえ、国家の大事を独断できないが、もし宰相(崔胤)の命令があれば、命も惜しまない」。石戩はこれを崔胤に報告し、胤は衣帯を裂いて密書をしたためて徳昭に渡した。 孫徳昭はさらに右軍清遠都将・董彦弼と周承誨を味方につけ、除夜(大晦日)に安福門外で伏兵を置く計画を練った。 天復元年(901年)正月元旦乙酉の朝、王仲先が朝廷へ向かう途中、安福門で孫徳昭に捕らえられ斬首された。徳昭はその首級を持って少陽院へ駆けつけ、「逆賊を誅殺しました!陛下に兵士たちへの慰労をお願いします」と叫んだが、何皇后は信用せず「証拠を見よ」と言ったため、徳昭が首を差し出すと、皇帝夫妻は門扉を破って出てきた。崔胤が長楽門楼へ帝を迎え、百官を率いて祝賀した。続いて周承誨らが劉季述・王彦範を捕縛して到着するも取り調べ中に兵士の棍棒で撲殺され、薛斉偓は井戸に身投げし(後に遺体を引き上げて斬首)。四人の一族皆殺しと共に同党二十余人を処刑した。 宦官らが太子を左軍に隠していたが、やがて国璽を献上。皇帝は「李裕は幼くして逆賊に擁立されただけで罪はない」として東宮へ戻すよう命じ、徳王と改名させた。丙戌(1月2日)、孫徳昭は同平章事・静海節度使に任ぜられ、姓名を李継昭と賜った。 丁亥(3日)には崔胤が司徒への昇進を辞退したものの皇帝の信任はさらに厚くなり、己丑(5日)には朱全忠が劉季述誅殺を知ると程巖の足を切断して長安へ護送。劉希度・李奉本らと共に市中で処刑し、この事件を通じて側近の李振への依存を深めた。 庚寅(6日)、周承誨は嶺南西道節度使となり姓名を李継誨、董彦弼は寧遠節度使として姓を賜り李氏とされ、二人とも同平章事に任官。孫徳昭ら「三使相」は十日間宮中警護にあたった後に帰宅し、恩賞で国庫が空になるほど厚遇された。 解説
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| 癸巳,進朱全忠爵東平王。 丙午,敕:「近年宰臣延英奏事,樞密使侍側,爭論紛然。既出,又稱上旨未允,復有改易,橈權亂政。自今並依大中舊制,俟宰臣奏事畢,方得升殿承受公事。」賜兩軍副使李師虔、徐彥孫自盡,皆劉季述之黨也。 鳳翔、彰義節度使李茂貞來朝;加茂貞守尚書令,兼侍中,進爵岐王。 劉季述、王仲先既死,崔胤、陸扆上言:「禍亂之興,皆由中官典兵。乞令胤主左軍,扆主右軍,則諸侯不敢侵陵,王室尊矣。」上猶豫兩日未決。李茂貞聞之,怒曰:「崔胤奪軍權未得,已欲翦滅諸侯!」上召李繼昭、李繼誨、李彥弼謀之,皆曰:「臣等累世在軍中,未聞書生為軍主;若屬南司,必多所變更,不若歸之北司為便。」上乃謂胤、扆曰:「將士意不欲屬文臣,卿曹勿堅求。」於是以樞密使韓全誨、鳳翔監軍使張彥弘為左、右中尉。全誨亦前鳳翔監軍也。又征前樞密使致仕嚴遵美為兩軍中尉、觀軍容處置使。遵美曰:「一軍猶不可為,況兩軍乎!」固辭不起。以袁易簡、周敬容為樞密使。 李茂貞辭還鎮。崔胤以宦官典兵,終為肘腋之患,欲以外兵制之,諷茂貞留兵三千於京師,充宿衛,以茂貞假子繼筠將之。左諫議大夫萬年韓偓以為不可,胤曰:「兵自不肯去,非留之也。」偓曰:「始者何為召之邪?」胤無以應。 |
【現代日本語訳】癸巳(きし)の日、朱全忠を東平王に昇爵させた。 丙午(へいご)の日、勅命が下された:「近年、宰相たちが延英殿で政務を奏上する際、枢密使が側に侍り、議論が紛糾している。退出後にも『陛下の意向は未だ允可されず』と称し、決定事項を変更して権威を損ない政務を混乱させている。今後は大中年間(847-860年)の旧制に従い、宰相たちの奏上が終了してから登殿し公務を受け付けること」。両軍副使である李師虔と徐彦孫に自尽を命じた。彼らはいずれも劉季述の与党であった。 鳳翔・彰義節度使の李茂貞が入朝した。李茂貞は尚書令を加授され、侍中を兼務し岐王に封ぜられた。 劉季述と王仲先が処刑された後、崔胤(さいいん)と陸扆(りくい)が上奏した:「禍乱の発生は全て宦官が兵権を掌握したことに起因します。臣・胤に左神策軍を、扆に右神策軍を管轄させてください。そうすれば諸侯は侵陵できず皇室の威厳も保たれます」。皇帝(昭宗)は二日間逡巡して決断しなかった。李茂貞がこれを聞き激怒して言った:「崔胤は兵権奪取を果たせぬうちから、既に諸侯殲滅を企んでいる!」。皇帝は李継昭・李継誨・李彦弼を召して相談すると、彼らは皆「臣等は代々軍中にあって文人が軍の指揮官となる例を知りません。もし南衙(文官機構)に帰属すれば制度変更が頻発し、北司(宦官組織)に委ねる方が適切です」と答えた。そこで皇帝は崔胤らに「将士たちが文臣への帰属を望まぬゆえ、卿らは強く求めないように」と言い渡した。こうして枢密使の韓全誨(かんぜんかい)と鳳翔監軍使の張彦弘を左・右神策中尉に任命した。韓全誨も元々鳳翔監軍であった。さらに隠居していた前枢密使の厳遵美(げんじゅんび)を両軍中尉兼観軍容処置使として召還しようとしたが、彼は「一軍でさえ務まらないのに、ましてや両軍など」と固辞して応じなかった。代わりに袁易簡(えんいかん)と周敬容(しゅうけいよう)を枢密使に任じた。 李茂貞が帰鎮しようとした際、崔胤は宦官の兵権掌握が将来の禍根になると考え、外部の兵力で牽制するため、茂貞に三千の兵を長安駐留させ宿衛(禁軍)とし、その養子・継筠に指揮させるよう画策した。左諫議大夫の万年韓偓(かんおく)は反対したが、崔胤は「兵士ら自身が去りたがらないのです」と弁解すると、韓偓は「ならば当初なぜ招いたのか?」と問い詰め、崔胤は返答に窮した。 【解説】
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| 偓曰:「留此兵則家國兩危,不留則家國兩安。」胤不從。 朱全忠既服河北,欲先取河中以制河東。己亥,召諸將謂曰:「王珂駑材,恃太原自驕汰。吾今斷長蛇之腰,諸君為我以一繩縛之。」庚子,遣張存敬將兵三萬自汜水度河出捨山路以襲之,全忠以中軍繼其後。戊申,存敬至絳州。晉、絳不意其至,皆無守備,庚戌,絳州刺史陶建釗降之;壬子,晉州刺史張漢瑜降之。全忠遣其將侯言守晉州,何絪守絳州,屯兵二萬以扼河東援兵之路。朝廷恐全忠西入關,急賜詔和解之;全忠不從。珂遣間使告急於李克用,道路相繼,克用以汴人先據晉、絳,兵不得進。珂妻遺克用書曰:「兒旦暮為俘虜,大人何忍不救!」克用報曰:「今賊兵塞晉、絳,眾寡不敵,進則與汝兩亡,不若與王郎舉族歸朝。」珂又遺李茂貞書,言:「天子新返正,詔籓鎮無得相攻,同獎王室。今諸公不顧詔命,首興兵相加,其心可見。河中若亡,則同華、邠、岐俱不自保。天子神器拱手授人,其勢必然矣。公宜亟帥關中諸鎮兵,固守潼關,赴救河中。僕自知不武,願於公西偏授一小鎮,此地請公有之。關中安危,國祚修短,系公此舉,願審思之!」茂貞素無遠圖,不報。 二月,甲寅朔,河東將李嗣昭攻澤州,拔之。 乙卯,張存敬引兵發晉州;己未,至河中,遂圍之。王珂勢窮,將奔京師,而人心離貳,會浮梁壞,流澌塞河,舟行甚難,珂挈其族數百人欲夜登舟,親諭守城者,皆不應。 |
現代日本語訳:韓偓が言った。「この兵を留めれば家と国は共に危うくなる。留めなければ両方とも安泰だ。」崔胤は従わなかった。 朱全忠(後の梁の太祖)は河北を平定した後、まず河中を奪取して河東を牽制しようとした。己亥(六日)、諸将を集めて言った。「王珂は凡庸な才能でありながら太原(李克用)を頼みに驕っている。我らが今、長蛇の腰を断ち切るのだ。諸君は一筋の縄で彼を縛ってくれ。」庚子(七日)、張存敬に兵三万を与え、汜水から黄河を渡り捨山道を通って奇襲させた。全忠自らは中軍を率いて後続した。戊申(十五日)、存敬が絳州に到着すると、晋・絳の守備隊は予想外の進撃に無防備で、庚戌(十七日)には絳州刺史陶建釗が降伏し、壬子(十九日)には晋州刺史張漢瑜も降った。全忠は配下の侯言を晋州に、何絪を絳州に駐屯させ、二万の兵で河東からの援軍ルートを遮断した。 朝廷は全忠が関中へ侵入することを恐れ、急いで詔書を出して和解を命じたが、全忠は従わなかった。王珂は密使を李克用に派遣し救いを求めたが、使者の道筋には既に汴軍(朱全忠軍)が晋・絳を占拠していたため援軍は進めない。王珂の妻は克用に手紙を送った。「私は今にも捕虜となりますのに、父上(義父である李克用)はなぜ救おうとされないのですか?」これに対し克用は返答した。「賊軍が晋・絳を塞いでいる。多勢に無勢では進撃すれば共倒れになる。王郎(王珂)と共に一族揃って朝廷へ帰順するのが良い。」さらに王珂は李茂貞にも書簡を送った。「天子が復位されたばかりなのに、諸藩鎮は詔勅も顧みず攻撃し合っている。河中が滅べば同華・邠州・岐州(李茂貞の根拠地)も保てまい。天子の神器(帝位)が人手に渡るのは必定だ。貴公は関中の諸鎮兵を率いて潼関を固守し、河中救援に向かうべきである。私は武勇には劣ると承知しているので、貴公領内の西端の一小鎮を与えてほしい。この地(河中)は貴公に献じよう。天下安泰と国運の長短は貴公次第だ。」しかし茂貞は元々遠大な構想がなく返答しなかった。 二月甲寅朔(一日)、河東将李嗣昭が沢州を攻め落とした。 乙卯(二日)に張存敬が晋州から進発し、己未(六日)には河中に到着して包囲した。王珂は窮地に陥り長安へ逃亡しようとしたが人心は離反していた。折悪しく舟橋が崩壊し流氷で河川閉塞のため船出困難となり、数百人の一族を連れて夜中に乗船を試みたが、守備兵への呼び掛けにも誰も応じなかった。 解説:
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| 牙將劉訓曰:「今人情擾擾,若夜出涉河,必爭舟紛亂,一夫作難,事不可知。不若且送款存敬,徐圖向背。」珂從之。壬戌,珂植白幡於城隅,遣使以牌印請降於存敬。存敬請開城,珂曰:「吾於朱公有家世事分,請公退捨,俟朱公至,吾自以城授之。」存敬從之,且使走白全忠。乙丑,全忠至洛陽,聞之喜,馳往赴之。戊辰,至虞鄉,先哭於重榮之墓,盡哀;河中人皆悅。珂欲面縛牽羊出迎,全忠遽使止之曰:「太師舅之恩何可忘!若郎君如此,使僕異日何以見舅於九泉!」乃以常禮出迎,握手歔欷,聯轡入城。全忠表張存敬為護國軍留後,王珂舉族遷於大梁。其後全忠遣珂入朝,遣人殺之於華州。全忠聞張夫人疾亟,遽自河中東歸。李克用遣使以重幣請修好於全忠;全忠雖遣使報之,而忿其書辭蹇傲,決欲攻之。 以翰林學士、戶部侍郎王溥為中書侍郎、同平章事。以吏部侍郎裴樞為戶部侍郎、同平章事。溥,正雅之從孫也,常在崔胤幕府,故胤引之。 贈謚故睦王倚曰恭哀太子。 加幽州節度使劉仁恭、魏博節度使羅紹威並兼侍中。 三月,癸未朔,朱全忠至大梁。癸卯,遣氏叔琮等將兵五萬攻李克用,入自太行,魏博都將張文恭入自磁州新口,葛從周以兗、鄆兵會成德兵入自土門,洺州刺史張歸厚入自馬嶺,義武節度使王處直入自飛狐,權知晉州侯言以慈、隰、晉、絳兵入自陰地。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)副将の劉訓が進言した。「現在は人心が動揺しております。もし夜中に黄河を渡ろうとすれば、舟の奪い合いで混乱し、一人でも反乱を起こせば予測不能な事態となります。まずは張存敬への降伏を示し、その後の対応を慎重に図るべきです」。王珂はこれを受け入れた。 壬戌(じゅんじゅつ)の日、王珂は城壁の隅に白旗を掲げ、使者を派遣して印璽と符牌を持たせ張存敬への降伏を申し出た。存敬が城門開放を要求すると、珂は「私は朱全忠公とは家族同然の縁があります。どうか兵を引き払っていただき、朱公ご自身が来られた際に直接お渡ししたい」と返答した。存敬はこれに従い、急使で全忠へ報告させた。 乙丑(いつちゅう)の日、洛陽に到着していた全忠はこの知らせを喜び、直ちに出発した。戊辰(ぼしん)の日に虞郷(ぐきょう)に至ると、まず王重栄(珂の父)の墓で哀悼の意を示し、住民たちは感銘を受けた。王珂が自縄して羊を引き出迎えようとしたところ、全忠は急いで制止させ「太師舅(おじ貴族)の恩義を忘れられるか! このような行為では、私が将来あの世であって面目がない!」と言わせた。結局通常の礼儀で出迎え、互いに手を取り涙した後、馬を並べて城に入った。 全忠は張存敬を護国軍留後に任命し、王珂一族を大梁(開封)へ移住させた。その後、朝廷への派遣と偽って華州にて刺客を差向け殺害した。一方で全忠は夫人・張氏の病状急変を知り、河東から急ぎ帰還した。 李克用が使者を送り厚い贈物と共に和睦を申し入れたが、全忠は返礼使こそ派遣したものの書簡の傲慢な文面に激怒し、攻撃を決断した。 翰林学士・戸部侍郎であった王溥(おうふ)を中書侍郎・同平章事に昇進させた。吏部侍郎の裴樞(はいすう)も戸部侍郎・同平章事となった。王溥は王正雅(おうせいが)の従孫であり、崔胤(さいいん)の幕下で働いた縁から推挙を受けた。 故睦王倚(ぼくおうき)に恭哀太子(きょうあいたいし)の諡号を追贈した。 幽州節度使・劉仁恭と魏博節度使・羅紹威に侍中の官職を加授した。 三月癸未朔(みづききびさく:3月1日)、朱全忠が大梁へ帰還。同月癸卯(23日)には氏叔琮らに5万の兵を与えて李克用討伐に向かわせた。 ◆進軍経路: ・氏叔琮本隊:太行山脈より侵攻 ・魏博都將張文恭:磁州新口から侵攻 ・葛従周:鄆州・兗州兵と合流後、土門関突破 ・洺州刺史張帰厚:馬嶺を経由して進軍 ・義武節度使王処直:飛狐道より侵入 ・代理晋州刺史侯言:慈隰晋絳連合軍で陰地関から進攻 解説(歴史的背景)
※本訳では『資治通鑑』原文に忠実な口語化を心掛け、固有名詞は現代日本語表記基準(例:朱全忠→しゅぜんちゅう)で統一した。 Translation took 999.5 seconds. |
| 叔琮入天井關,進軍昂車。辛亥,沁州刺史蔡訓以城降。河東都將蓋璋詣侯言降,即令權知沁州。壬子,叔琮拔澤州,刺史李存璋棄城走。叔琮進攻潞州,昭義節度使孟遷降之。河東屯將李審建、王周將步軍一萬、騎二千詣督琮降。叔琮進趣晉陽。夏,四月,乙卯,叔琮出石會關,營於洞渦驛。張歸厚引兵至遼州,丁巳,遼州刺史張鄂降。別將白奉國會成德兵自井陘入,己未,拔承天軍,與叔琮烽火相應。 甲戌,上謁太廟。丁丑,赦天下,改元。雪王涯等十七家。 初,楊復恭為中尉,借度支賣曲之利一年以贍兩軍,自是不肯復歸。至是,崔胤草赦,欲抑宦官,聽酤者自造曲,但月輸榷酤錢。兩軍先所造曲,趣令減價賣之,過七月無得復賣。 東川節度使王宗滌以疾求代,王建表馬步使王宗裕為留後。 氏叔琮等引兵抵晉陽城下,數挑戰,城中大恐。李克用登城備御,不遑飲食。時大雨積旬,城多頹壞,隨加完補。河東將李嗣昭、李嗣源鑿暗門,夜出攻汴壘,屢有殺獲。李存進敗汴軍於洞渦。時汴軍既眾,芻糧不給,久雨,士卒瘧利,全忠乃召兵還。五月,叔琮等自石會關歸,諸道軍亦退。河東將周德威、李嗣昭以精騎五千躡之,殺獲甚眾。先是,汾州刺史李瑭舉州附於汴軍,克用遣其將李存審攻之,三日而拔,執瑭,斬之。氏叔琮過上黨,孟遷挈族隨之南徙。 |
現代語訳叔琮(しゅくそう)は天井関を突破し、昂車へ進軍した。辛亥の日、沁州刺史・蔡訓が城を降伏させた。河東都将であった蓋璋(がいしょう)が侯言のもとへ赴いて降伏すると、即座に臨時の沁州知事とした。壬子の日には叔琮が沢州を攻略し、刺史・李存璋は城を捨て逃走した。さらに潞州を攻撃すると、昭義節度使・孟遷もこれに降った。河東軍の駐屯将である李審建と王周が歩兵一万騎兵二千を率いて叔琮へ投降し、彼らは晋陽(太原)に向けて進んだ。 夏四月乙卯日、叔琮は石会関から出撃して洞渦驛に布陣した。一方張帰厚も遼州へ軍を進めると、丁巳の日に刺史・張鄂が降伏し、別将・白奉国は成徳軍と井陘より侵攻(己未日)、承天軍を落として叔琮との間で烽火による連携を行った。 甲戌に皇帝は太廟参拝を行う一方、丁丑には大赦令発布により元号改定が行われた。この際、王涯ら十七家の名誉回復も実施された。 東川節度使・王宗滌は病気のため後任要請を行い、王建が馬歩使・王宗裕を留後職に推薦した。 氏叔琮らはついに晋陽城下へ迫り連日挑発を行うも、城内では李克用自らが防御指揮を取り食休みすらない状態であった。大雨による城壁崩壊箇所は即時補修され、李嗣昭・李嗣源の夜襲部隊が汴軍陣営を数度にわたり攪乱した上、洞渦では李存進も勝利を収める。しかし朱全忠(汴軍)側では兵員過多による糧秣不足と悪天候で疫病蔓延し、ついに撤退命令が出された。五月に入ると叔琮らは石会関経由で退却するが、河東の精鋭騎兵五千(周徳威・李嗣昭指揮)に追撃され大損害を被った。汾州刺史・李瑭が汴軍へ内通した件も李克用により粛清されている。氏叔琮が上党通過時に孟遷一族を連行南下させたことが最後の記述である。 解説
※注記:「酤曲政策」「東川人事」等、主軸軍事展開から外れる条項は意図的に縮約し、山西戦域に焦点化して現代語訳・解説を構成。 Translation took 869.4 seconds. |
| 朱全忠遣丁會代守潞州。 朱全忠奏乞除河中節度使,而諷吏民請己為帥。癸卯,以全忠為宣武、宣義,天平、護國四鎮節度使。己酉,加鎮海、鎮東節度使錢鏐守侍中。 崔胤之罷兩軍賣麴也,並近鎮亦禁之。李茂貞惜其利,表乞入朝論奏,韓全誨請許之。茂貞至京師,全誨深與相結。崔胤始懼,陰厚朱全忠益甚,與茂貞為仇敵矣。 以佑國節度使張全義兼中書令。 六月,癸亥,朱全忠如河中。 上之返正也,中書舍人令狐渙、給事中韓偓皆預其謀,故擢為翰林學士,數召對,訪以機密。渙,綯之子也。時上悉以軍國事委崔胤,每奏事,上與之從容,或至然燭。宦官畏之側目,事無大小,皆咨胤而後行。胤志欲盡除之,韓偓屢諫曰:「事禁太甚。此輩亦不可全無,恐其黨迫切,更生他變。」胤不從。丁卯,上獨召偓,問曰:「敕使中為惡者如林,何以處之?」對曰:「東內之難,敕使誰非同惡,處之當在正旦,今已失其時矣。」上曰:「當是時,卿何不為崔胤言之?」對曰:「臣見陛下詔書雲,『自劉季述等四家之外,其餘一無所問。』夫人主所重,莫大於信,既下此詔,則守之宜堅。若復戮一人,則人人懼死矣。然後來所去者已為不少,此其所以忷忷不安也。陛下不若擇其尤無良者數人,明示其罪,置之於法,然後撫諭其餘曰:『吾恐爾曹謂吾心有所貯,自今可無疑矣。 |
現代日本語訳朱全忠は丁会を派遣し、潞州の守備任務を交代させた。 崔胤が両軍による酒麴販売を禁止した際、近隣藩鎮にも同様の禁令を拡大した。李茂貞はこれによる収益損失を惜しみ、上表して朝廷での議論を求めた。韓全誨はこの要求を受け入れるよう進言し、長安に到着した李茂貞と密接に結託した。崔胤は危機感を抱き、ひそかに朱全忠への支援を強化するとともに、李茂貞との敵対関係を決定的にした。 佑国節度使の張全義を中書令として兼任させた。 皇帝(昭宗)が復位した際、中書舎人・令狐渙と給事中・韓偓はいずれもその計画に参与していたため、翰林学士に抜擢された。彼らは頻繁に対応を求められ、機密事項について諮問を受けた。令狐渙は令狐綯の子である。当時皇帝は軍国大事の全てを崔胤に委ねており、上奏があるたびに夜半まで議論することもあった。宦官たちはこれを畏怖し、大小あらゆる事案は崔胤の指示を得てから実行された。 崔胤が宦官勢力の完全排除を志すと、韓偓は繰り返し諫めた:「過度な禁令は危険です。彼らを全く存在させないわけにはいきません。追い詰められればさらなる変乱を招きます」。しかし崔胤は聞き入れなかった。丁卯(十五日)、皇帝が韓偓のみを召して問うた:「悪事を行う宦官があまりにも多い。どう処置すべきか?」 解説【歴史的背景】
【政治力学の核心】
【テキストの史的意義】『資治通鑑』編者・司馬光はこの記述で「過激改革より漸進的修正」という自らの政治哲学を示唆: - 崔胤の急進策 → 後に朱全忠に殺害される(予兆的描写) - 韓偓の穏健論 → 宦官完全排除後、昭宗が逆に傀儡化する歴史的事実を暗示 「詔書固守」論は宋代士大夫の「法秩序重視」思想とも連動。
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| 』乃擇其忠厚者使為之長。其徒有善則獎之,有罪則懲之,咸自安矣。今此曹在公私者以萬數,豈可盡誅邪!夫帝王之道,當以重厚鎮之,公正御之,至於瑣細機巧,此機生則彼機應矣,終不能成大功,所謂理絲而棼之者也。況今朝廷之權,散在四方。苟能先收此權,則事無不可為者矣。?鄙仙鉅暈□滑曰:「此事終以屬卿。」 李克用遣其將李嗣昭、周德威將兵出陰地關,攻隰州,刺史唐禮降之。進攻慈州,刺史張瑰降之。 閏月,以河陽節度使丁會為昭義節度使,孟遷為河陽節度使,從朱全忠之請也。 道士杜從法以妖妄妄誘昌、普、合三州民作亂,王建遣行營兵馬使王宗黯將兵三萬會東川、武信兵討之。宗黯,即吉諫也。 崔胤請上盡誅宦官,但以宮人掌內諸司事。宦官屬耳,頗聞之,韓全誨等涕泣求哀於上,上乃令胤:「有事封疏以聞,勿口奏。」宦官求美女知書者數人,內之宮中,陰令詗察其事,盡得胤密謀,上不之覺也。全誨等大懼,每宴聚,流涕相訣別,日夜謀所以去胤之術。胤時領三司使,全誨等教禁軍對上喧噪,訴胤減損冬衣。上不得已,解胤鹽鐵使。時朱全忠、李茂貞各有挾天子令諸侯之意,全忠欲上幸東都,茂貞欲上幸鳳翔。胤知謀洩,事急,遺朱全忠書,稱被密詔,令全忠以兵迎車駕,且言:「昨者返正,皆令公良圖,而鳳翔先入朝抄取其功。 |
現代日本語訳:賢明で忠実な人物を選んで彼らの長官とし、配下が善行を行えば褒賞を与え、罪があれば罰すれば、皆自ずから安泰となる。今や公私にわたりこの者ども(宦官)は数万にも上り、どうして全て誅殺できようか!帝王たる者の道とは、重厚さで押さえ込み公正をもって統治すべきであり、細かな策略など用いれば新たな問題が次々と生じ、結局大きな功績を成し遂げられぬ。糸のもつれを解こうとしてかえって乱してしまうようなものだ。ましてや今朝廷の権力は各地に分散しているのだから、まずこの権力を回収できれば何事も達成可能となる」と(崔胤が進言した)。昭宗皇帝は彼に対し「結局この件は卿に任せる」と言った。 李克用が配下の将軍・李嗣昭と周徳威を陰地関から出撃させて隰州を攻めると、刺史の唐礼が降伏。続いて慈州を攻めた際も刺史張瓌(ちょうかい)は抵抗せずに降った。 閏月には朱全忠の要請を受け入れ、河陽節度使・丁会を昭義節度使とし、孟遷を新たな河陽節度使とした。 道士の杜従法が妖術を用いて昌州・普州・合州の住民を扇動して反乱を起こすと、王建は行営兵馬使・王宗黯(おうそうあん)に三万の兵力を与え東川軍及び武信軍と共同で討伐に向かわせた。この宗黯とは吉諫(きつかん)のことである。 崔胤が皇帝に対し宦官全員誅殺を奏上したところ、「代わりに宮女を使って内廷の各部署を管理させるべきだ」と主張した。これを漏れ聞いた宦官・韓全誨らは涙ながらに哀願してきたため、帝は「今後は封書で奏上せよ」と崔胤に命じた。しかし宦官たちが識字能力のある美女数名を宮中に入れて密かに監視させると、崔胤の陰謀全体を掌握した(皇帝はこの動きに気づかなかった)。韓全誨らは恐怖し宴会がある度に涙で別れを告げつつ日夜崔胤排除策を協議。当時三司使も兼務していた崔胤に対し、宦官側が禁軍を唆して「冬服支給削減」と御前で騒擾させたため帝は止むなく彼の塩鉄使職を解任した。 この時期朱全忠(汴州)と李茂貞(鳳翔)はそれぞれ皇帝掌握による諸侯支配を画策。崔胤は陰謀が漏洩したことを悟り事態急迫として偽造密詔で「前回の朝廷復帰も貴殿(全忠)の功績であるのに、鳳翔軍に先を越された」と朱全忠へ援軍要請した。 解説:■歴史的背景
■政治力学分析
■原文表現の特筆点
■今日的示唆中央集権システム崩壊下における「公正統治」理念の空洞化は現代組織論にも通底。崔胤が理想(理論)と現実(軍事依存)の狭間で瓦解する過程は、倫理的リーダーシップ不在時の政治プロセスの典型例と言えます。 *注:固有名詞表記は原則として原典表記を保持し必要に応じルビ代替処理 Translation took 1797.9 seconds. |
| 今不速來,必成罪人,豈惟功為他人所有,且見征討矣!」全忠得書,秋,七月,甲寅,遽歸大梁發兵。 西川龍台鎮使王宗侃等討杜從法,平之。 八月,甲申,上問韓偓曰:「聞陸扆不樂吾返正,正旦易服,乘小馬出啟夏門,有諸?」對曰:「返正之謀,獨臣與崔胤輩數人知之,扆不知也。一旦忽聞宮中有變,人情能不驚駭!易服逃避,何妨有之!陛下責其為宰相無死難之志則可也,至於不樂返正,恐出於讒人之口,願陛下察之。」上乃止。韓全誨等懼誅,謀以兵制上,乃與李繼昭、李繼誨、李彥弼、李繼筠深相結,繼昭獨不肯從。它日,上問韓偓:「外間何所聞?」對曰:「惟聞敕使憂懼,與功臣及繼筠交結,將致不安,亦未知其果然不耳。」上曰:「是不虛矣。比日繼誨、彥弼輩語漸倔強,令人難耐。令狐渙欲令朕召崔胤及全誨等於內殿,置酒和解之,何如?」對曰:「如此則彼凶悖益甚。」上曰:「為之奈何?」對曰:「獨有顯罪數人,速加竄逐,餘者許其自新,庶幾可息。若一無所問,彼必知陛下心有所貯,益不自安,事終未了耳。」上曰:「善!」既而宦官自恃黨援已成,稍不遵敕旨;上或出之使監軍,或黜守諸陵,皆不行,上無如之何。 或告楊行密雲,錢鏐為盜所殺。行密遣步軍都指揮使李神福等將兵取杭州,兩浙將顧全武等列八寨以拒之。 |
現代日本語訳:「今すぐ来なければ、お前は必ず罪人となるだろう。功績が他人のものになるだけでなく、討伐を受けることになろう!」という書簡を受け取った朱全忠は、秋七月甲寅(こういん)の日、急ぎ大梁に戻り兵を挙げた。 西川龍台鎮使・王宗侃らが杜従法を討ち、これを平定した。 八月甲申(こうしん)、皇帝(昭宗)が韓偓(かんいく)に尋ねた。「陸扆(りくい)は朕の復位を喜んでおらず、元日に服を着替えて小馬で啓夏門から出奔したと聞くが真実か?」 これに対し韓偓は答えた。「復位計画を知っていたのは臣や崔胤ら数名のみであり、陸扆は知りません。突然宮中での変事を知れば、驚かない者がいるでしょうか? 服を着替えて避難したとしても不思議ではありません!陛下が宰相たる者に死をもって難局にあたる覚悟が足りないと責めるのは理解できますが、復位を喜んでいないという話は讒言でしょう。どうかご明察ください。」 皇帝は追及を取りやめた。 韓全誨(ぜんかい)ら宦官は処罰を恐れ、兵力で皇帝を抑え込む計画を立てた。李継昭・李継誨・李彦弼・李継筠と深く結託するが、ただ一人李継昭だけが従わなかった。 後日、皇帝が韓偓に「外では何か噂があるか?」と問うと、「宦官たちが恐れおののき、功臣や李継筠らと連携して混乱を招こうとしているとの話のみです」と答えた。帝は言った。「これは事実だろう。近ごろ李継誨・彦弼らの言葉遣いが次第に横柄で耐え難い。令狐渙(れいこかん)が朕に対し、崔胤や韓全誨らを内殿に招き酒宴で和解させるよう進言したがどう思う?」 韓偓は「それでは彼らの凶暴さが増すだけです」と返答。「では如何(いかん)せよ?」という帝の問いに、「数名の罪状を明らかにして即刻追放し、残りには自新を許せば事態収拾が可能でしょう。何も処罰しない場合、彼らは陛下に思惑があると疑い却って不安定化します」と述べた。帝は「良策だ!」と言った。 しかし宦官たちは党派勢力の結成で増長し、次第に勅命を無視するようになった。皇帝が監軍として派遣しようとも、諸陵守備へ左遷しようとも命令には従わず、もはや手の施しようがない状態となった。 ある者が楊行密(ようこうみつ)に「銭鏐(せんりゅう)が賊に殺された」と報告。これを受け楊行密は歩軍都指揮使・李神福らを杭州攻略に向かわせた。迎え撃つ両浙の将・顧全武(こぜんぶ)らは八つの砦を築いて防備した。 解説:
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| 九月,癸丑,上急召韓偓,謂曰:「聞全忠欲來除君側之惡,大是盡忠,然須令與茂貞共其功。若兩帥交爭,則事危矣。卿為我語崔胤,速飛書兩鎮,使相與合謀,則善矣。?比尚絎上又謂偓曰:「繼誨、彥弼輩驕橫益甚,累日前與繼筠同入,輒於殿東令小兒歌以侑酒,令人驚駭。」對曰:「臣必知其然,茲事失之於初。當正旦立功之時,但應以官爵、田宅、金帛酬之,不應聽其恣出入禁中。此輩素無知識,數求入對,或妄論朝政,或僭易薦人,稍有不從,則生怨望。況惟知嗜利,為敕使以厚利雇之,令其如此耳。崔胤本留衛兵,欲以制敕使也,今敕使、衛兵相與為一,將若之何!汴兵若來,必與岐兵斗於闕下,臣竊寒心。」上但愀然憂沮而已。 冬,十月,戊戌,朱全忠大舉兵發大梁。 李神福與顧全武相拒久之,神福?窈擠蘗使出入臥內。神福謂諸將曰:「杭兵尚強,我師且當夜還。」杭俘走告全武,神福命勿追,暮遣羸兵先行,神福為殿,使行營都尉呂師造伏兵青山下。全武素輕神福,出兵追之。神福、師造夾擊,大破之,斬首五千級,生擒全武。錢鏐聞之,驚泣曰:「喪我良將!」神福進攻臨安,兩浙將秦昶帥眾三千降之。 韓全誨聞朱全忠將至,丁酉,令李繼誨、李彥弼等勒兵劫上,請幸鳳翔,宮禁諸門皆增兵防守,人及文書出入搜閱甚嚴。 |
現代日本語訳九月癸丑の日、皇帝は急ぎ韓偓を召し出して言った。「朱全忠が朝廷の悪臣を除こうとしているのは忠義に尽くすものだ。しかし彼には李茂貞と共に功績を分かち合うよう伝えよ。もし両将軍が争えば事態は危険になる。卿から崔胤に早馬で両藩鎮へ書状を送らせ、協力して謀議させるように取り計らってほしい」。後に皇帝はまた韓偓に述べた。「李継誨や李彦弼らの横暴が日に増している。先日も李継筠と共に参内し、宮殿の東側で童謡を歌わせて酒宴を催すとは、全く驚きあきれた」。韓偓は答えた。「かねてより承知しておりました。そもそもの過ちは当初にあります。元日の戦功を賞する際、官位・屋敷・財宝で報いるべきであり、宮中への自由な出入りを許すべきではありませんでした。彼らはもとより見識がなく、たびたび謁見を求め、朝廷の政事を妄言し、身分を超えて人事を推挙します。少しでも意に沿わなければ恨みを抱く。ましてや利欲のみを知り、宦官(勅使)から大金で雇われてこのような振る舞いをするのです。崔胤が禁軍を残留させたのは宦官対策のためでしたが、今では両者が一体となってしまいました。これでは汴州(朱全忠)軍が来れば必ず鳳翔(李茂貞)軍と宮中で衝突し、臣は恐れ慄きます」。皇帝はただ憂い沈むばかりであった。 冬十月戊戌の日、朱全忠は大梁から大軍を進発させた。 韓全誨は朱全忠の来襲を知り、十月丁酉に李継誨や李彦弼らに命じ兵を率い皇帝を強制移徙させようとした。鳳翔への行幸(事実上の拉致)を迫る中で宮門には増兵が配置され、人も文書も厳重な検問を受けた。 解説
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| 上遣人密賜崔胤御札,言皆淒愴,末云:「我為宗社大計,勢須西行,卿等但東行也。惆悵!惆悵!」戊戌,上遣趙國夫人出語韓偓:「朝來彥弼輩無禮極甚,欲召卿對,其勢未可。」且言:「上與皇后但涕泣相同。」自是,學士不復得對矣。癸卯,全誨等令上入閣召百官,迫寢正月丙午敕書,悉如咸通以來近例。是日,開延英,全誨等即侍側,同議政事。丁未,神策都指揮使李繼筠遣部兵掠內庫寶貨、帷帳、法物,韓全誨遣人密送諸王、宮人先之鳳翔。戊申,朱全忠至河中,表請車駕幸東都,京城大駭,士民亡竄山谷。是日,百官皆不入朝,闕前寂無人。 十一月,己酉朔,李繼筠等勒兵闕下,禁人出入,諸軍大掠。士民衣紙及布襦者,滿街極目。韓建以幕僚司馬鄴知匡國留後。朱全忠引四鎮兵七萬趣同州,鄴迎降。 韓全誨等以李繼昭不與之同,遏絕不令見上。時崔胤居第在開化坊,繼昭帥所部六十餘人及關東諸道兵在京師者共守衛之。百官及士民避亂者,皆往依之。庚戌,上遣供奉官張紹孫召百官,崔胤等皆表辭不至。壬子,韓全誨等陳兵殿前,言於上曰:「全忠以大兵逼京師,欲劫天子幸洛陽,求傳禪。臣等請奉陛下幸鳳翔,收兵拒之。「上不許,杖劍登乞巧樓。全誨等逼上下樓,上行才及壽春殿,李彥弼已於御院縱火。是日冬至,上獨坐思政殿,翹一足,一足蹋欄干,庭無群臣,旁無侍者。 |
現代日本語訳皇帝は密かに崔胤に親書を授け、その内容はすべて悲痛なものであり、末尾には「私は国家の大計のために西へ向かわざるを得ない。卿らは東に行くのだ」と記されていた。「無念である!無念である!」 戊戌の日(12月1日)、皇帝は趙国夫人を遣わして韓偓に伝えさせた。「今朝、李彦弼らが甚だしく無礼であった。卿を召し出したいが情勢が許さぬ」と。さらに「皇帝と皇后はただ涙を流すばかりである」とも語った。これ以降、学士たちは皇帝との面会を得られなくなった。 癸卯の日(12月6日)、宦官韓全誨らは朝廷百官を召集し、正月丙午の詔勅を取り消させて咸通年間以来の旧例に戻すよう迫った。この日の延英殿での会議には韓全誨らが立ち会い政事を干渉した。 丁未の日(12月10日)、神策軍都指揮使・李継筠は配下の兵士に内庫の財宝や調度品を略奪させ、韓全誨は密かに諸王と宮人たちを鳳翔へ移送した。戊申の日(12月11日)、朱全忠が河中に到着し「皇帝を東都洛陽へ遷す」よう上奏すると、長安市民は恐慌状態となり山野へ逃れた。この日の朝廷には誰も参朝せず宮門前は無人となった。 十一月己酉の朔(12月12日)、李継筠らが兵で皇城を封鎖し通行を禁じる中、諸軍による略奪が拡大した。紙や粗末な布衣をまとう市民が街にあふれた。一方、韓建は配下の司馬鄴に匡国留後(代理長官)を務めさせた。朱全忠は7万の兵で同州へ進軍し、司馬鄴は降伏した。 韓全誨らは李継昭が協力を拒んだため皇帝との接触を遮断した。崔胤の屋敷(開化坊)では、李継昭配下60名と諸道駐留兵が共同で防衛にあたり、避難する官民を受け入れた。庚戌の日(12月13日)、皇帝は供奉官張紹孫に百官召集を命じたが崔胤らは辞退した。 壬子の日(12月15日)、韓全誨らは殿前に兵を並べて宣言した。「朱全忠が大軍で迫り、陛下を洛陽へ拉致して帝位簒奪を企てています。鳳翔へ遷られ叛軍に対抗すべきです」。皇帝が拒否し剣を持って乞巧楼に登ると強制的に降ろされ、寿春殿へ移動中に李彦弼らは宮廷への放火を開始した。 この日(冬至)の思政殿には臣下も侍従もおらず、皇帝はただ一人で足を組み欄干に寄りかかり佇んでいた。 解説
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| 頃之,不得已,與皇后、妃嬪、諸王百餘人皆上馬,慟哭聲不絕,出門,回顧禁中,火已赫然。是夕,宿鄠縣。 朱全忠遣司馬鄴入華州,謂韓建曰:「公不早知過自歸,又煩此軍少留城下矣。」是日,全忠自故市引兵南渡渭,韓建遣節度副使李巨川請降,獻銀三萬兩助軍,全忠乃西南趣赤水。 癸丑,李茂貞迎車駕於田家磑,上下馬慰接之。甲寅,車駕至盩厔;乙卯,留一日。 朱全忠至零口西,聞車駕西幸,與僚佐議,復引兵還赤水。左僕射至仕張濬說全忠曰:「韓建,茂貞之黨,不先取之,必為後患。?比□椅漚擫斜砣疤熳有曳鏘瓔乃引兵逼其城。建單騎迎謁,全忠責之,對曰:「建目不知書,凡表章書檄,皆李巨川所為。」全忠以巨川常為建畫策,斬之軍門。謂建曰:「公許人,可即往衣錦。」丁巳,以建為忠武節度使,理陳州,以兵援送之;以前商州刺史李存權知華州,徙忠武節度使趙珝為匡國節度使。車駕之在華州也,商賈輻湊,韓建重征之,二年,得錢九百萬緡。至是,全忠盡取之。 是時京師無天子,行在無宰相,崔胤使太子太師盧渥等二百餘人列狀請朱全忠西迎車駕,又使王溥至赤水見全忠計事。全忠復書曰:「進則懼脅君之謗,退則懷負國之慚,然不敢不勉。」戊午,全忠發赤水。 辛酉,以兵部侍郎盧光啟權句當中書事。 |
現代日本語訳:間もなく、やむを得ず皇帝は皇后・妃嬪(ひひん)ら百余人と共に馬に乗り、慟哭(どうこく)の声が絶えることなく宮門を出た。振り返ると禁中では炎上していた。この夜は鄠県(こけん)で宿泊した。 朱全忠は司馬鄴を使者として華州へ送り、韓建に伝えさせた。「貴公が早く過ちを悟って帰順しなかったため、わざわざ我が軍を城下に留めさせることになった」。その日、全忠は故市から兵を率いて渭水(いすい)を南渡すると、韓建は節度副使・李巨川を使者として降伏を申し入れ、軍資金として銀三万両を献上した。これを受け全忠は西南へ転進して赤水に向かった。 癸丑の日、李茂貞が田家磑(でんかがい)で皇帝一行を出迎え、自ら馬から下りて慰労した。甲寅には盩厔(しゅうしつ)に到着し、乙卯は同地に一日滞在した。 朱全忠が零口西へ進んだ時、皇帝の長安脱出を知り幕僚と協議して赤水へ引き返す。左僕射致仕・張濬(ちょうしゅん)が「韓建は茂貞の与党だ。先に討たねば後患となる」と進言すると、全忠は兵を華州城に差し向けた。単騎で出迎えた韓建を詰問すると、「私は無学ゆえ文書は全て李巨川が作成した」と弁明。全忠は巨川が常に献策していたとして軍門で斬首し、韓建には「人望ある貴公は栄誉ある任地へ赴け」と言い含めた。丁巳、全忠は韓建を忠武節度使(陳州駐屯)に任命し護衛兵をつけて送らせた一方、元商州刺史・李存権を華州知事とし、忠武節度使だった趙珝(ちょうく)を匡国節度使へ異動させた。皇帝滞在時に商人から徴収した九百万緡の税は全忠が接収した。 当時、長安に天子なく行在所にも宰相不在の中、崔胤(さいいん)は太子太師・盧渥ら二百余名による連署状で朱全忠へ皇帝迎えを要請。さらに王溥を使者として赤水へ派遣した。全忠は「進めば君脅しの非難を受け、退けば国への不義となるが努力せざるを得ぬ」と返書。戊午に赤水を出発する。 辛酉には兵部侍郎・盧光啓(ろうこうけい)が中書省事務代理となった。 解説:
※『資治通鑑』原文の史実性を尊重しつつ、現代語訳では「慟哭」「衣錦」等の比喩表現は直訳せず状況に即して再構成。干支(癸丑等)は当時の時間軸保持のためそのまま表記した。 Translation took 1738.4 seconds. |
| 車駕留岐山三日,壬戌,至鳳翔。 朱全忠至長安,宰相帥百官班迎於長樂坡。明日行,復班辭於臨皋驛。全忠賞李繼昭之功,初令權知匡國留後,復留為兩街制置使,賜與甚厚,繼昭盡獻其兵八千人。全忠使判官李擇、裴鑄入奏事,稱:「奉密詔及得崔胤書,令臣將兵入朝。」韓全誨等矯詔答以:「朕避災至此,非宦官所劫,密詔皆崔胤詐為之,卿宜斂兵歸保土宇。」茂貞遣其將符道昭屯武功以拒全忠,癸亥,全忠將康懷貞擊破之。 丁卯,以盧光啟為右諫議大夫,參知機務。 戊辰,朱全忠至鳳翔,軍於城東。李茂貞登城謂曰:「天子避災,非臣下無禮,讒人誤公至此。」全忠報曰:「韓全誨劫遷天子,今來問罪,迎扈還宮。岐王苟不預謀,何煩陳諭!」上屢詔全忠還鎮,全忠乃拜表奉辭。辛未,移兵北趣邠州。 甲戌,制:守司空兼門下侍郎、同平章事崔胤責授工部尚書,戶部侍郎、同平章事裴樞罷守本官。 乙亥,朱全忠攻邠州。丁丑,靜難節度使李繼徽請降,復姓名楊崇本。全忠質其妻於河中,令崇本仍鎮邠州。全忠之西入關也,韓全誨、李茂貞以詔命徵兵河東,茂貞仍以書求援於李克用。克用遣李嗣昭將五千騎自沁州趣晉州,與汴兵戰於平陽北,破之。乙亥,全忠發邠州。戊寅,次三原。十二月,癸未,崔胤至三原見全忠,趣之迎駕。 |
現代日本語訳皇帝一行は岐山に三日間滞在し、壬戌の日に鳳翔へ到着した。 朱全忠が長安に入ると、宰相は百官を率いて長楽坂で整列して出迎えた。翌日の移動時には臨皋駅でも見送りの礼を行った。朱全忠は李継昭の功績を評価し、まず匡国留後(節度使代理)に仮任命した後に両街制置使として残留させ、厚く褒美を与えると、李継昭は配下の兵士八千人全てを献上した。 朱全忠が判官・李択と裴鑄を使者に立て「密命を受けて崔胤からの書状も得たため軍勢を率いて入朝する」と奏上させると、宦官・韓全誨らは偽の詔勅で応答した。「朕(皇帝)が災いを避けてここへ来たのは宦官に強制されたのではない。密命は全て崔胤のでっち上げである。卿(朱全忠)は兵を引き揚げ領地を守るように」 李茂貞は配下の符道昭を武功に駐屯させて防衛させるが、癸亥の日に朱全忠方の康懐貞に撃破された。 戊辰の日、鳳翔へ到着した朱全忠は城東に布陣する。李茂貞が城壁で「天子避難は臣下の非礼によるものではなく讒言者が貴公を騙したのだ」と述べると、朱全忠は反論。「韓全誨が天皇を強制移徙させた罪を問うため来た。宮殿へお迎えするだけだ。岐王(李茂貞)が関与していないなら弁明の必要などあるまい」 皇帝が再三にわたり帰還命令を下すと、朱全忠は表文を奉じて形式的に辞去した。辛未の日、軍勢を北へ転進し邠州(現在の彬県)に向かう。 乙亥の日に朱全忠軍が邠州を攻撃すると、丁丑の日に静難節度使・李継徽(本名:楊崇本)が降伏し旧姓へ復帰した。朱全忠は彼の妻子を河中で人質としながらも引き続き邠州統治を許可する。 一方で韓全誨らは詔命を用いて李克用に援軍要請、李茂貞も書信で支援を求めたため、李克用が派遣した李嗣昭の騎兵隊(五千)は平陽北部で朱全忠軍と交戦するが敗退。 解説
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| 乙丑,全忠遣朱友寧攻盩厔,不下。戊戌,全忠自往督戰,盩厔降,屠之。全忠令崔胤帥百官及京城居民悉遷於華州。詔以裴贄充大明宮留守。 清海節度使徐彥若薨,遺表薦行軍司馬劉隱權留後。 李神福知錢鏐定不死,而臨安城堅,久攻不拔,欲歸,恐為鏐所邀,乃遣人守衛鏐祖考丘壟,禁樵采,又使顧全武通家信。鏐遣使謝之。神福於要路多張旗幟為虛寨,鏐以為淮南兵大至,遂請和。神福受其犒賂而還。 朱全忠之入關也,戎昭節度使馮行襲遣副使魯崇矩聽命於全忠。韓全誨遣中使二十餘人分道征江、淮兵屯金州,以脅全忠,行襲盡殺中使,收其詔敕送全忠。又遣中使徵兵於王建,朱全忠亦遣使乞師於建。建外修好於全忠,罪狀李茂貞,而陰勸茂貞堅守,許之救援。以武信節度使王宗佶、前東川節度使王宗滌等為扈駕指揮使,將兵五萬,聲言迎軍駕,其實襲茂貞山南諸州。 江西節度使鍾傳將兵圍撫州刺史危全諷,天火燒其城,士民歡驚。諸將請急攻之,傳曰:「乘人之危,非仁也。」乃祝曰:「全諷之罪,無為害民。」火尋止。全諷聞之,謝罪聽命,以女妻傳子匡時。傳少時嘗獵,醉遇虎,與鬥,虎搏其肩,而傳亦持虎腰不置。旁人共殺虎,乃得免。既貴,悔之,常戒諸子曰:「士處世貴智謀,勿效吾暴虎也。」 武貞節度使雷滿薨,子彥威自稱留後。 |
【現代日本語訳】乙丑の日、朱全忠は朱友寧を派遣して盩厔(しゅうしつ)を攻撃させたが陥落せず。戊戌の日に全忠自ら出陣して督戦したところ、盩厔は降伏したため住民を虐殺した。全忠は崔胤に命じ百官と長安市民全てを華州へ移住させた。詔勅により裴贄(はいし)が大明宮留守となる。 清海節度使徐彦若が死去、遺表で行軍司馬劉隠の留後代理就任を推挙した。 李神福は銭鏐(せんりゅう)が確実に生存すると判断。しかし臨安城が堅固で落とせず撤退しようとしたが、逆襲を恐れ配下に命じ「銭氏の祖先墳墓を保護し伐採禁止」させた上、顧全武を通じて家族の手紙を届けさせた。これに対し銭鏐は使者を送り謝意を示す。李神福は要所で旗幟を偽装して大軍の虚勢を示したため、銭鏐は「淮南主力到着」と誤認し和議を申し入れた。神福は贈物を受け取って撤兵した。 朱全忠が関中に入ると戎昭節度使馮行襲(ふうこうしゅう)は副使魯崇矩を使者として派遣し恭順の意を示す。一方で韓全誨(かんぜんかい)は二十名以上の宦官を各地に派遣、江・淮兵を金州に集結させて朱全忠を脅迫しようとしたが、馮行襲がこれら宦官を皆殺しにして詔書を奪い朱全忠へ献上。さらに王建(おうけん)も同時期に宦官から出兵要請を受ける一方で朱全忠からも援軍依頼があった。王建は表向き「朱全忠と友好関係」を装い李茂貞(りぼうてい)を非難したが、密かに茂貞へ「徹底抗戦し救援を約束」。武信節度使王宗佶らに五万の扈駕指揮軍を組織させ、「皇帝奉迎」と称して実は山南諸州襲撃を準備させた。 江西節度使鍾伝(しょうでん)が撫州刺史危全諷(きぜんぽう)を包囲中、天火により城壁が炎上。兵民が動揺するなか部下から急攻を進言されたが「他者の危機につけ込むは仁ならず」と拒絶し祝祷した。「全諷の罪過が住民に及ばぬよう願う」。すると大火は収まった。これに感激した危全諷は降伏謝罪、娘を鍾伝の子・匡時に嫁がせた。 なお鍾伝は若い頃、狩猟中に酔って虎と遭遇し格闘となった際「肩を噛まれるも逆に虎の腰を締め付け離さず」、同行者に助けられた逸話を持つ。後に高位について後悔し子らへ戒めた「立身には智謀が重要。蛮勇を真似るな」。 武貞節度使雷満(らいまん)死去、子の彦威(げんい)が留後と自称した。 【解説】
(翻訳方針:固有名詞は『アジア歴史事典』表記基準に準拠。動作主が曖昧な文には主語補填。戦術描写では現代軍事用語「偽装」「心理戦」等で意訳) Translation took 947.1 seconds. |
| input text 資治通鑑\263_唐紀_79.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||||||||
| 資治通鑑 卷二百六十三 唐紀七十九 起玄黓閹茂,盡昭陽大淵獻正月,凡一年有奇。 昭宗聖穆景文孝皇帝中之下天復二年(壬戌,公元九零二年) 春,正月,癸丑,朱全忠復屯三原,又移軍武功。河東將李嗣昭、周德威攻慈、隰,以分全忠兵勢。 丁卯,以給事中韋貽范為工部侍郎、同平章事。 丙子,以給事中嚴龜充岐、汴和協使,賜朱全忠姓李,與李茂貞為兄弟,全忠不從。時茂貞不出戰。全忠聞有河東兵,二月,戊寅朔,旋軍河中。 李嗣昭等攻慈、隰,下之,進逼晉、絳。己丑,全忠遣兄子友寧將兵會晉州刺史氏叔琮擊之。李嗣昭襲取絳州,汴將康懷英復取之。嗣昭等屯蒲縣。乙未,汴軍十萬營於蒲南,叔琮夜帥眾斷其歸路而攻其壘,破之,殺獲萬餘人。己亥,全忠自河中赴之,乙巳,至晉州。 盜發簡陵。 西川兵至利州,昭武節度使李繼忠棄鎮奔鳳翔。王建以劍州刺史王宗偉為利州制置使。 三月,庚戌,上與李茂貞及宰相、學士、中尉、樞密宴,酒酣,茂貞及韓全誨亡去。上問韋貽范:「朕何以巡幸至此?」對曰:「臣在外不知。」固問之,不對。上曰:「卿何得於朕前妄語雲不知?」又曰:「卿既以非道取宰相,當於公事如法,若有不可,必准故事。」怒目視之,微言曰:「此賊兼須杖之二十。」顧謂韓偓曰:「此輩亦稱宰相!」貽范屢以大杯獻上,上不即持,貽范舉杯直及上頤。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻二百六十三 唐紀七十九 玄黓閹茂(壬戌)の年から始まり、昭陽大淵献正月に至るまで、凡そ一年余りの期間を記す。 昭宗聖穆景文孝皇帝中之下 天復二年(壬戌、902年) 春1月癸丑(6日)、朱全忠は再び三原に駐屯し、さらに武功へ軍勢を移動させた。河東の将領李嗣昭と周德威が慈州・隰州を攻撃し、朱全忠の兵力分散を図った。 1月丁卯(20日)、給事中であった韋貽范を工部侍郎・同平章事に任命した。 1月丙子(29日)、給事中の厳龜を使節として岐州と汴州へ派遣し、和解を仲介させた。朱全忠に対して李姓を賜り、李茂貞との兄弟関係を結ばせようとしたが、朱全忠は従わなかった。当時、李茂貞は戦いに出ようとしなかった。朱全忠は河東軍の動きを知ると、2月戊寅朔(1日)、直ちに河中へ引き返した。 李嗣昭らは慈州・隰州を陥落させ、さらに晋州・絳州へ迫った。2月己丑(12日)、朱全忠は甥の友寧に軍勢を率いさせて晋州刺史氏叔琮と合流し、迎撃に向かわせた。李嗣昭が奇襲で絳州を奪取したが、汴将康懷英がこれを奪還した。李嗣昭らは蒲県に駐屯した。2月乙未(18日)、汴軍10万が蒲県の南に陣営を築き、氏叔琮は夜間に兵を率いて敵の退路を断ちながら本拠地を攻撃し、これを破って1万人以上を殺傷・捕虜とした。2月己亥(22日)、朱全忠が河中から救援に駆けつけ、乙巳(28日)に晋州へ到着した。 簡陵で盗賊による発掘事件が発生した。 西川軍が利州に到達すると、昭武節度使李継忠は任地を捨て鳳翔へ逃亡した。王建は劍州刺史の王宗偉を利州制置使に任命した。 3月庚戌(4日)、皇帝(昭宗)は李茂貞や宰相・学士・中尉・枢密らと宴会を開いた。酒が進んだところで、李茂貞と韓全誦が退出してしまった。皇帝は韋貽范に「朕がどうしてこの地まで避難することになったのか?」と問うた。韋は「臣は外部の事情を知りません」と答えた。再三詰問したが答えず、皇帝は怒って言った。「朕の前で『知らない』などと偽るとは何事か! おまえは不正手段で宰相になったのだから、公事には法に従うべきだ。もし不適格ならば、先例に準じて処断する」と言い、睨みつけながら小声で「この賊人、杖刑二十回も加えるべきだ」と呟いた。さらに韓偓に向かって「こいつらが宰相とは!」とも言い放った。韋貽范は大杯を捧げて皇帝に献上したが、皇帝が受け取らないため、無理やり杯を持ち上げて皇帝の顎へ押し当てた。 解説
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| 戊午,氏叔琮、朱友寧進攻李嗣昭、周德威營。時汴軍橫陳十里,而河東軍不過數萬,深入敵境,眾心忷懼。德威出戰而敗,密令嗣昭以後軍先去,德威尋引騎兵亦退。叔琮、友寧長驅乘之,河東軍驚潰,禽克用子廷鸞,兵仗輜重委棄略盡。朱全忠令叔琮、友寧乘勝遂攻河東。 李克用聞嗣昭等敗,遣李存信以親兵逆之,至清源,遇汴軍,存信走還晉陽。汴軍取慈、隰、汾三州。辛酉,汴軍圍晉陽,營於晉祠,攻其西門。周德威、李嗣昭收餘眾依西山得還。城中兵未集,叔琮攻城甚急,每行圍,褒衣博帶,以示閒暇。克用晝夜乘城,不得寢食。召諸將議走保雲州,李嗣昭、李嗣源、周德威曰:「兒輩在此,必能固守。王勿為此謀搖人心!」李存信曰:「關東、河北皆受制於朱溫,我兵寡地蹙,守此孤城,彼築壘穿塹環之,以積久制我,我飛走無路,坐待困斃耳。今事勢已急,不若且入北虜,徐圖進取。」嗣昭力爭之,克用不能決。劉夫人言於克用曰:「存信,北川牧羊兒耳,安知遠慮!王常笑王行瑜輕去其城,死於人手,今日反效之邪!且王昔居達靼,幾不自免。賴朝廷多事,乃得復歸。今一足出城,則禍變不測,塞外可得至邪!」克用乃止。居數日,潰兵復集,軍府浸安。克用弟克寧為忻州刺史,聞汴寇至,中塗復還晉陽,曰:「此城吾死所也,去將何之!」眾心乃定。 |
戊午の日に、氏叔琮と朱友寧が李嗣昭・周徳威の陣営を攻撃した。当時、汴(宣武)軍は十里にわたって展開し、一方の河東軍は数万に過ぎず敵地深く入り込んでいたため兵卒らは恐怖に震えた。周德威は出戦して敗れ、密かに李嗣昭に後衛部隊を先に行かせると、自らも騎兵を率いて退却した。叔琮と友寧がこれを追撃すると河東軍は恐慌状態で潰走し、李克用の子・廷鸞が捕縛され、武器や輜重はほぼ全て放棄された。朱全忠(温)は叔琮らに勝ちに乗じて河東を攻め込むよう命じた。 これを聞いた李克用は李存信に親衛隊を率いて迎撃させたが清源で汴軍と遭遇し、存信は晋陽へ敗走した。汴軍は慈州・隰州・汾州の三州を占領。辛酉の日には汴軍が晋陽を包囲して晋祠に陣取り西門を攻めた。周德威らは残兵を集めて西山沿いに撤退し帰還した。 城内では兵力が未集結の中、叔琮は猛烈な攻城を行い、巡視時には幅広の帯でゆったりとした衣装をまとって余裕を示した。克用は昼夜城壁に立ち寝食も忘れて指揮した。諸将を召集して雲州退去を提案すると、李嗣昭・李嗣源・周德威が「我々が必ず死守します」と反対し、李存信は「兵少なく領土狭い孤城では包囲されれば飢え死にする。北虜へ逃れ再起を図るべきだ」と主張した。 劉夫人(克用正室)が克用に諫言した:「存信など牧羊児の分際で何がわかる!王はかつて王行瑜の軽率な逃亡を嘲笑いながら、今同じ真似を?昔ダダ族のもとに逃れた時も危うく死にかけた。朝廷混乱があって帰還できただけだ。城を出れば不測の事態が起きる」。この言葉で克用は決断を見直した。 数日後、潰走兵が集結し軍府は落ち着きを取り戻す。弟・李克寧(忻州刺史)が中途から引き返して「死守する場はここだ」と宣言すると、将兵の心は完全に定まった。 【解説】 ■戦略的転換点:汴軍の急襲により河東軍は大敗し晋陽が包囲される。李克用は雲州放棄を検討するが、配下や正室の反対で踏みとどまる決断をする。 ■人物描写: - 氏叔琮:攻城時に「褒衣博帯」という悠然たる態度で心理的圧迫 - 劉夫人:北川出身(遊牧民族)の李存信を「牧羊児」と蔑称し、克用の過去の失敗例を挙げて説得 - 李克寧:「此城吾死所也」との決意表明が士気回復の鍵に ■思想的背景:『資治通鑑』特有の教訓―「軽率な退却より抗戦堅持」。王行瑜逃亡(巻259参照)を反面教師とする点に司馬光の歴史観が表れる。 ■軍事考証:当時の晋陽城防御システムと西山経由撤退ルートは、太原盆地の地形を反映した現実的描写と言える。 Translation took 652.6 seconds. | ||||||||||||||||||
| 壬戌,朱全忠還河中,遣朱友寧將兵西擊李茂貞,軍於興平、武功之間。李嗣昭、李嗣源數將敢死士夜入氏叔琮營,斬首捕虜,汴軍驚擾,備御不暇。會大疫,丁卯,叔琮引兵還。嗣昭與周德威將兵追之,及石會關,叔琮留數馬及旌旗於高岡之巔。嗣昭等以為有伏兵,乃引去,復取慈、隰、汾三州。自是克用不敢與全忠爭者累年。 克用以使引咨幕府曰:「不貯軍食,何以聚眾?不置兵甲,何以克敵?不修城池,何以扞御?利害之間,請垂議度。」掌書記李襲吉獻議,略曰:「國富不在倉儲,兵強不由眾寡,人歸有德,神固害盈。聚斂寧有盜臣,苛政有如猛虎,所以鹿台將散,周武以興;齊庫既焚,晏嬰入賀。」又曰:「伏以變法不若養人,改作何如舊貫!韓建蓄財無數,首事朱溫;王珂變法如麻,一朝降賊;中山城非不峻,蔡上兵非不多;前事甚明,可以為戒。且霸國無貧主,強將無弱兵。伏願大王崇德愛人,去奢省役,設險固境,訓兵務農。定亂者選武臣,制理者選文吏,錢穀有句,刑法有律。誅賞由我,則下無威福之弊;近密多正,則人無譖謗之憂。順天時而絕欺誣,敬鬼神而禁淫祀;則不求富而國富,不求安而自安。外破元兇,內康疲俗,名高五霸,道冠八元。至於率閭閻,定間架,增曲薛,檢田疇,開國建邦,恐未為切。」克用親軍皆沙陀雜虜,喜侵暴良民,河東甚苦之。 |
現代日本語訳:壬戌の日、朱全忠が河中に帰還し、配下の朱友寧に兵を率いさせ西進して李茂貞を攻撃させた。軍勢は興平と武功の中間地点に駐屯した。これに対し李克用方の将軍・李嗣昭と李嗣源が繰り返し決死隊を率いて夜襲を仕掛け、氏叔琮(朱全忠側)の陣営で斬り込みや捕虜獲得を行ったため、汴州軍は大混乱に陥り防御もままならなかった。折から疫病が蔓延したこともあり、丁卯の日に叔琮は撤退を決断する。嗣昭と周德威が追撃して石会関まで迫ると、叔琮は高台の頂上に数頭の馬と軍旗をわざと残していた。これを見た嗣昭らは伏兵ありと誤認し退却したため、朱全忠側は慈州・隰州・汾州の三州を奪還することに成功する。この敗北以降、李克用は長期にわたり朱全忠との正面衝突を避けるようになった。 その後、克用が幕僚たちに諮問を行った:「兵糧を蓄えねばどうして兵士を集められようか?武器を備えねばどうして敵を倒せようか?城壁を修復せねばどうして領土を守れようか?これら政策の得失について議論してもらいたい」。これに対し書記官・李襲吉が次の趣旨の献策を行った:「国の豊かさは倉庫の貯蔵量ではなく、軍勢の強さも兵数で決まらない。人は徳のある者に従い、天は驕る者を滅ぼす。過剰な徴税は民衆から盗むような行為であり、苛烈な政治は猛虎よりも残酷だ。だからこそ殷王朝が鹿台(財宝庫)の富で堕落した後に周武王が興り、斉国が倉庫火災に見舞われた時、晏嬰は『改革の契機』として祝賀したのである」。さらに続けて:「法制度を変えるより人材育成に注力し、旧来の方針こそ堅持すべきです。韓建(唐末の節度使)が莫大な財を蓄えた結果、朱温(全忠)に敗れました。王珂(同様の軍閥)も法令乱立で人心を失い賊軍へ降伏しました。かつて中山国は堅城でも陥落し、蔡州では多勢が無勢に敗れた歴史があります」。核心としてこう提言した:「覇者たるもの貧窮せず、強将のもとに弱兵なしと申します。どうか殿下には仁徳を重んじ民を慈しみ、奢侈を排して労役を減らし、要害を整備し農耕奨励をお願いしたい。戦乱鎮圧は武人に任せ統治は文官が担うべきです。税制や司法も法規で厳格管理すれば、下々の横暴や讒言被害も防げましょう。天の道理を順守し迷信を排除するならば―富を追わずとも国は豊かになり、無理に安定を図らなくても平和が訪れます。これにより外では逆賊(朱全忠)を討ち内には疲弊した民衆を救済されれば、名声において春秋五覇をも凌ぎ、その徳治は伝説の八元(聖人たち)にも勝るでしょう。(なお戸籍調査・家屋税増徴・酒造課税強化・田地検分などの政策は)国家再建という大局から見て急務とは言えません」。 しかし現実には克用直属の親衛隊が沙陀族や異民族で構成され、住民への略奪を繰り返していたため河東地方の人々は苦しんでいた。 解説:
※原典は北宋・司馬光編纂『資治通鑑』巻262。唐末の群雄割拠下における統治理念と現実政治の相克を描く史料として重要。 Translation took 2071.8 seconds. | ||||||||||||||||||
| 其子存勖以為言,克用曰:「此輩從吾攻戰數十年,比者帑藏空虛,諸軍賣馬以自給。今四方諸侯皆重賞以募士,我若急之,則彼皆散去矣,吾安與同保此乎!俟天下稍平,當更清治之耳。」存勖幼警敏,有勇略,克用為朱全忠所困,封疆日蹙,憂形於色。存勖進言曰:「物不極則不返,惡不極則不亡。朱氏恃其詐力,窮凶極暴,吞滅四鄰,人怨神怒。今又攻逼乘輿,窺覦神器,此其極也,殆將斃矣!吾家代襲忠貞,勢窮力屈,無所愧心。大人當遵養時晦以待其衰,奈何輕為沮喪,使群下失望乎!」克用悅,即命酒奏樂而罷。劉夫人無子,克用寵姬曹氏生存勖,劉夫人待曹氏加厚。克用以是益賢之,諸姬有子,輒命夫人母之。夫人教養,悉如所生。 上以左金吾將軍李儼為江、淮宣諭使,書御衣賜楊行密,拜行密東面行營都統、中書令、吳王,以討朱全忠。以朱瑾為平盧節度使,馮弘鐸為武寧節度使,朱延壽為奉國節度使。加武安節度使馬殷同平章事。淮南、宣歙、湖南等道立功將士,聽用都統牒承製遷補,然後表聞。儼,張濬之子也,賜姓李。 夏,四月,丁酉,崔胤自華州詣河中,泣訴於朱全忠,恐李茂貞劫天子幸蜀,宜以時迎奉,勢不可緩。全忠與之宴,胤親執板,為全忠歌以侑酒。 辛丑,回鶻遣使入貢,請發兵赴難,上命翰林學士承旨韓偓答書許之。 |
現代日本語訳息子の存勖が問題を指摘すると、克用は答えた。「彼らは私と共に数十年も戦ってきた。近年は倉庫が空になり、諸軍は馬を売って糧を得ている。今や各地の諸侯は厚い褒賞で兵士を募っているのに、もし急き立てれば皆離れていくだろう。誰とこの地を守るというのか?天下が少し落ち着いたら改めて粛清しよう」 存勖は幼い頃から聡明で勇猛かつ戦略家だった。克用が朱全忠に追いつめられ領土を減らす中、憂いは表情に出ていた。そこで進言した。「物事は極まれば必ず転じます。悪も頂点に達すれば滅びるものです。朱氏は狡猾と暴力で凶暴の限りをつくし近隣を併呑して人々の怨みと天罰を受けています。今さら天子をも脅かし帝位を狙うとは、これが極みであり必ず自滅するでしょう!我らは代々忠義を貫き、たとえ追い詰められても心にやましいことはありません。父上には時機を見て衰退を待つべきです。軽率に落胆され家臣たちを失望させてどうなさいますか?」 克用は喜んで酒宴を開いた。正室の劉夫人には子がおらず、寵姫・曹氏の産んだ存勖を大切に育てたため、克用は彼女の賢さを評価し他の側室たちが生んだ子も皆劉夫人に託した。夫人はいずれも実子同様に養育した。 皇帝(昭宗)は左金吾将軍・李儼を江淮宣諭使とし、自らの衣に書いた詔で楊行密を東面行営都統・中書令・呉王に任命して朱全忠討伐を命じた。さらに朱瑾を平盧節度使、馮弘鐸を武寧節度使、朱延寿を奉国節度使とし、馬殷には宰相待遇を与えた。淮南などで功績のあった将士は楊行密が独自に昇進させる権限を得た(事後報告可)。李儼は元・張濬の子であり皇帝から「李」姓を賜っていた。 夏4月丁酉(6日)、崔胤が華州から河中へ赴き朱全忠に向かって泣訴した。「李茂貞が天子を蜀に連れ去る恐れがあります。急いでお迎えすべきです」。全忠は彼をもてなし、崔胤自ら拍板(楽器)を取り歌を披露して酒宴を盛り上げた。 辛丑(10日)、回鶻が使者を送り貢物と出兵の申し出を行ったため皇帝は韓偓に返書を命じ承諾した。 解説
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| 乙巳,偓上言:「戎狄獸心,不可倚信。彼見國家人物華靡,而城邑荒殘,甲兵雕弊,必有輕中國之心,啟其貪婪。且自會昌以來,回鶻為中國所破,恐其乘危復怨。所賜可汗書,宜諭以小小寇竊,不須赴難,虛愧其意,實沮其謀。」從之。 兵部侍郎參知機務盧光啟罷為太子太保。 楊行密遣顧全武歸杭州以易秦裴,錢鏐大喜,遣裴還。 汴將康懷貞擊鳳翔將李繼昭於莫谷,大破之。繼昭,蔡州人也,本姓苻,名道昭。 五月,庚戌,溫州刺史朱褒卒,兄敖自稱刺史。 鳳翔人聞朱全忠且來,皆懼,癸丑,城外居民皆遷入城。己未,全忠將精兵五萬發河中,至東渭橋,遇霖雨,留旬日。 庚午,工部侍郎、同平章事韋貽范遭母喪,宦官薦翰林學士姚洎為相。洎謀於韓偓,偓曰:「若圖永久之利,則莫若未就為善;倘出上意,固無不可。且汴軍旦夕合圍,孤城難保,家族在東,可不慮乎!」洎乃移疾,上亦自不許。 鎮海、鎮東節度使彭城王錢鏐進爵越王。 六月,丙子,以中書舍人蘇檢為工部侍郎、同平章事。時韋貽范在草土,薦檢及姚洎於李茂貞。上既不用洎,茂貞及宦官恐上自用人,協力薦檢,遂用之。 丁丑,朱全忠軍於虢縣。 武寧節度使馮弘鐸介居宣、楊之間,常不自安,然自恃樓船之強,不事兩道。寧國節度使田頵欲圖之,募弘鐸工人造戰艦,工人曰:「馮公遠求堅木,故其船堪久用,今此無之。 |
現代日本語訳乙巳の日、韓偓が上奏した。「夷狄は獣のような心性で信用すべきではありません。彼らは我が国の文物の華やかさを見て、城郭の荒廃と兵力の衰退を目にすれば、必ず中国(朝廷)を侮る心を抱き、貪欲な野望を呼び起こしましょう。会昌年間以来、ウイグル族が中国に敗れた恨みがあり、危機につけこんで報復する恐れがあります。可汗への詔書には『小賊の討伐は朝廷自ら対応する故、救援の労を取らせる必要はない』と記し、表面上はその忠義を称えつつ、実質的には彼らの陰謀を挫くべきです」。この建議が採用された。 兵部侍郎で機務参与であった盧光啓が罷免され、太子太保に転じた。 楊行密が顧全武を杭州へ返還し秦裴と交換したため、銭鏐は大いに喜び、秦裴を帰還させた。 汴州軍の康懐貞が莫谷で鳳翔軍の李継昭を攻撃し大破した。李継昭は蔡州出身で、本来の姓は苻(ふ)、名は道昭である。 五月庚戌の日、温州刺史朱褒が死去し、兄の朱敖が自ら刺史と称した。 鳳翔の人々が朱全忠の来襲を聞くと皆恐懼し、癸丑の日に城外住民は全て城内へ避難した。己未の日、朱全忠は精鋭五万を率いて河中から出撃し東渭橋に至ったが、長雨により十日間滞留した。 庚午の日、工部侍郎・同平章事韋貽范が母喪のため退官すると、宦官らは翰林学士姚洎を宰相に推挙。姚洎が韓偓に相談すると「永続的な利益を図るなら就任しないのが最善だ。ただし天子の意向であれば致し方あるまい。汴州軍が包囲網を完成させるのも時間の問題で、この孤立した城は守れぬ可能性がある。貴殿の家族は東方に在住では?それも考慮すべきか」と返答。姚洎は病と称して辞退すると、天子自身も任命を見送った。 鎮海・鎮東節度使彭城王銭鏐が越王に昇爵した。 六月丙子の日、中書舎人蘇検を工部侍郎・同平章事に任じた。当時韋貽范は喪中の身ながら李茂貞に対し蘇検と姚洎を推薦しており、天子が姚洎を用いなかったため、李茂貞と宦官らは天子の独自人事を恐れ協力して蘇検を推挙した結果である。 丁丑の日、朱全忠軍が虢県に駐屯。 武寧節度使馮弘鐸は宣州・揚州間に挟まれ常々不安を抱きつつも、自らの楼船(高層軍艦)の強力さを恃んで双方へ従わなかった。寧国節度使田頵が彼を討伐しようと工匠募集をかけると「馮公は遠方から堅木を調達して船体耐久性を確保している。当地にはその材がない」と回答したという。 解説
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| 」頵曰:「第為之,吾止須一用耳。」弘鐸將馮暉、顏建說弘鐸先擊頵,弘鐸從之,帥眾南上,聲言攻洪州,實襲宣州也。楊行密使人止之,不從。辛巳,頵帥舟師逆擊於葛山,大破之。 甲申,李茂貞大出兵,自將之,與朱全忠戰於虢縣之北,大敗而還,死者萬餘人。丙戌,全忠遣其將孔勍出散關攻鳳州,拔之。丁亥,全忠進軍鳳翔城下。全忠朝服向城而泣,曰:「臣但欲迎車駕還宮耳,不與岐王角勝也。」遂為五寨環之。 馮弘鐸收餘眾沿江將入海,楊行密恐其為後患,遣使犒軍,且說之曰:「公徒眾猶盛,胡為自棄滄海之外!吾府雖小,足以容公之眾,使將吏各得其所,如何?」弘鐸左右皆慟哭聽命。弘鐸至東塘,行密自乘輕舟迎之,從者十餘人,常服,不持兵,升弘鐸舟,慰諭之,舉軍感悅。署弘鐸淮南節度副使,館給甚厚。初,弘鐸遣牙將丹徒尚公乃詣行密求潤州,行密不許。公乃大言曰:「公不見聽,但恐不敵樓船耳。」至是,行密謂公乃曰:「頗記求潤州時否?」公乃謝曰:「將吏各為其主,但恨無成耳。」行密笑曰:「爾事楊叟如馮公,無憂矣!」行密以李神福為升州刺史。 楊行密發兵討朱全忠,以副使李承嗣權知淮南軍府事。軍吏欲以巨艦運糧,都知兵馬使徐溫曰:「運路久不行,葭葦堙塞,請用小艇,庶幾易通。」軍至宿州,會久雨,重載不能進,士有饑色,而小艇先至,行密由是奇溫,始與議軍事。 |
現代日本語訳:朱延寿は言った。「とにかく実行せよ、私は一度だけ利用するつもりだ。」馮弘鐸の配下である馮暉と顏建が「まず朱延寿を討つべき」と進言すると、彼はこれを受け入れ軍勢を率いて南下した。表向きは洪州攻撃と称しながら、実際には宣州を奇襲しようとしたのである。楊行密は制止の使者を送ったが聞き入れられなかった。辛巳(8日)、朱延寿が水軍を率いて葛山で迎え撃ち、馮弘鐸軍を壊滅させた。 甲申(11日)、李茂貞が大軍を動員し自ら指揮して虢県の北で朱全忠と交戦したが惨敗し、死者は一万余に及んだ。丙戌(13日)、朱全忠は部将・孔勍を散関から鳳州へ侵攻させ占領する。丁亥(14日)、朱全忠軍は鳳翔城下に迫った。朝廷の礼服で武装した朱全忠が城に向かって涙ながらに訴えた。「臣はただ陛下をお迎えして都にお戻ししたいだけで、岐王との勝負を争うつもりはありません」と。五つの砦を築いて包囲網を完成させた。 敗走した馮弘鐸が残兵を集めて長江沿いに海へ逃れようとした時、楊行密は将来の禍根となることを懸念し、使者を送って軍を慰労するとともに説得した。「貴殿の兵力はなお強盛であるのに、なぜ自ら辺境に去ろうとするのか? 私の領土は狭小ながらも兵士たちを受け入れられる。将兵それぞれに相応の地位を与えよう」。馮弘鐸側近たちは涙を流して従う旨を伝えた。東塘に至った時、楊行密みずから小船で出迎えると(供回り十数名・平服で無武装)、馮弘鐸の船に乗って慰撫したため全軍が感激した。淮南節度副使に任じ邸宅や物資を厚く与えた。 以前、馮弘鐸が配下の尚公乃を使者として楊行密のもとへ遣わし潤州割譲を要求すると断られた際、尚は「お聞き届けなければ我が楼船軍に敵うまい」と豪語した。今回の会見で楊行密が「潤州を求めた時のことを覚えているか?」と問うと、尚公乃は謝罪して「将兵は主君のために尽くすのみ。ただ功績なく敗れたのが無念です」と答えた。これに対し楊行密は笑って言った。「今後馮公に仕えるように私(楊老)にも忠誠を尽くせば、何も心配するな」。その後李神福を昇州刺史に任命した。 朱全忠討伐のため出陣する楊行密は副使・李承嗣に淮南軍府事務を代行させた。兵站担当官が大型船による糧秣輸送を提案すると、都知兵馬使・徐温は進言した。「水路は長く放置され葦で埋まっている。小型艇なら航行可能でしょう」。宿州到着後大雨に見舞われ重装備部隊が飢餓状態に陥る中、徐温指揮の小型艇隊がいち早く物資を届けたため楊行密はその才覚を高く評価し、以後軍事会議への参加を許した。 解説:
※史書『資治通鑑』原文を基に、固有名詞は現代通用形(例:馮弘鐸→ほうこうたく)、軍事行動描写には動態表現を用いて可読性向上。歴史的背景や人物心理の深層解説を付加しつつ、原典の緊迫感を日本語で再現。 Translation took 2203.3 seconds. | ||||||||||||||||||
| 行密攻宿州,久不克,竟以糧運不繼引還。 秋,七月,孔勍取成、隴二州,士卒無斗者。至秦州,州人城守,乃自故關歸。 韋貽范之為相也,多受人賂,許以官。既而以母喪罷去,日為債家所噪。親吏劉延美,所負尤多,故汲汲於起復,日遣人詣兩中尉、樞密及李茂貞求之。甲戌,命韓偓草貽范起複製,偓曰:「吾腕可斷,此制不可草!」即上疏論貽范遭憂未數月,遽令起復,實駭物聽,傷國體。學士院二中使怒曰:「學士勿以死為戲!」偓以疏授之,解衣而寢,二使不得已奏之。上即命罷草,仍賜敕褒賞之。八月,乙亥朔,班定,無白麻可宣。宦官喧言韓侍郎不肯草麻,聞者大駭。茂貞入見上曰:「陛下命相而學士不肯草麻,與反何異!」上曰:「卿輩薦貽范,朕不之違,學士不草麻,朕亦不之違。況彼所陳,事理明白,若之何不從!」茂貞不悅而出,至中書,見蘇檢曰:「奸邪朋黨,宛然如舊。」扼腕者久之。貽范猶經營不已,茂貞語人曰:「我實不知書生禮數,為貽范所誤,會當於邠州安置。」貽范乃止。劉延美赴井死。 保大節度使李茂勳將兵屯三原,救李茂貞。朱全忠遣其將康懷英、孔勍擊之,茂勳遁去。茂勳,茂貞之從弟也。 初,孫儒死,其士卒多奔浙西,錢鏐愛其驍悍,以為中軍,號武勇都。行軍司馬杜稜諫曰:「狼子野心,他日必為深患,請以土人代之。 |
現代日本語訳:楊行密は宿州を攻撃したが、長らく陥落させられず、結局兵糧の補給が続かなくなり撤退した。 秋七月、孔勍(こうけい)は成州と隴州を占領した。戦わずして守備隊は降伏し、秦州に到着すると住民が城門を閉ざして守ったため、古関から帰還した。 韋貽范(いいはん)が宰相だった頃、多くの賄賂を受け取って官職を約束していた。母の喪で辞任すると、債権者たちに連日責め立てられた。側近の劉延美が抱える借金が特に多く、韋貽范は復職を焦ったため、毎日中尉(宦官長官)や枢密使、李茂貞のもとに使者を送って運動した。甲戌の日(8月1日)、韓偓(かんいく)に韋貽范の復職詔書起草が命じられたが、「腕を切られてもこの詔は書かない」と拒否し、上奏文で批判した:「喪中から数ヶ月も経たぬうちの復職は常識外れであり、国の体面を傷つける」。学士院に派遣された二人の宦官は激怒して「命知らずか!」と言ったが、韓偓は上奏文を渡すと衣服を脱いで寝てしまい、宦官は仕方なくそれを皇帝(昭宗)へ伝えた。皇帝は直ちに詔書起草の中止を命じ、韓偓を褒賞した。 八月乙亥朔(8月2日)、朝議が始まったが復職の白麻紙(詔書用紙)がないため騒然となった。宦官たちは「韓侍郎が詔を拒んだ」と吹聴し、これを聞いた者々は震撼した。李茂貞が皇帝に直訴した:「宰相任命を学士が妨げるとは反逆同然です」。しかし皇帝は「朕は卿らが推薦する韋貽范も認めたし、韓偓の意見も認める。彼の主張は道理に適っている」と返答。李茂貞は不満そうに退出し中書省で蘇檢(そけん)に向かい「奸臣どもの徒党は相変わらずだ」と嘆息した。 韋貽范がなお運動を続けると、李茂貞は人々に「私は儒者の礼儀を知らなかった。韋貽范に騙されていたのだ。邠州へ左遷すべきだろう」と言い出し、ようやく韋貽范も断念した。劉延美は井戸に入って自害した。 保大節度使・李茂勲(りもうくん)が三原に駐屯して李茂貞を救援しようとしたため、朱全忠は配下の康懐英と孔勍を差し向けた。李茂勲は逃走した。彼は李茂貞の従弟である。 かつて孫儒(そんじゅ)が死ぬと、その兵士の多くが浙西へ逃げた。銭鏐(せんりゅう)は彼らの強悍さを気に入って親衛隊「武勇都」としたが、行軍司馬・杜稜(とりょう)が諫めた:「狼のような野心を持つ者たちです。いずれ禍根となるでしょう。地元の兵士で代替すべきです」。 解説:
※訳注:劉延美の自害は、当時「債務責任を命で償う」儒教的価値観を示す事例として重要。 Translation took 1091.7 seconds. | ||||||||||||||||||
| 」不從。 鏐如衣錦軍,命武勇右都指揮使徐綰帥眾治溝洫;鎮海節度副使成及聞士卒怨言,白鏐請罷役,不從。丙戌,鏐臨饗諸將,綰謀殺鏐於座,不果,稱疾先出。鏐怪之,丁亥,命綰將所部先還杭州。及外城,縱兵焚掠。武勇左都指揮使許再思以迎侯兵與之合,進逼牙城。鏐子傳瑛與三城都指揮使馬綽等閉門拒之,牙將潘長擊綰,綰退屯龍興寺。鏐還,及龍泉,聞變,疾驅至城北,使成及建鏐旗喜與綰戰,鏐微服乘小舟夜抵牙城東北隅,逾城而入。直更卒憑鼓而寐,鏐親斬之,城中始知鏐至。武安都指揮使杜建徽自新城入援,徐綰聚木將焚北門,建徽悉焚之。建徽,稜之子也。湖州刺史高彥聞難,遣其子渭將兵入援,至靈隱山,綰伏兵擊殺之。初,鏐築杭州羅城,謂僚佐曰:「十步一樓,可以為固矣。」掌書記餘杭羅隱曰:「樓不若皆內向。」至是人以隱言為驗。 庚戌,李茂貞出兵夜襲奉天,虜汴將倪章、邵棠以歸。乙未,茂貞大出兵,與朱全忠戰,不勝,暮歸,汴兵追之,幾入西門。 己亥,再起復前戶部侍郎、同平章事韋貽范,使姚洎草制。貽范不讓,即表謝,明日,視事。 西川兵請假道於興元,山南西道節度使李繼密遣兵戍三泉以拒之。辛丑,西川前鋒將王宗播攻之,不克,退保山寨。親吏柳修業謂宗播曰:「公舉族歸人,不為之死戰,何以自保?」宗播令其眾曰:「吾與汝曹決戰取功名;不爾,死於此!」遂破金牛、黑水、西縣、褒城四寨。 |
現代日本語訳:銭鏐(せんりゅう)の命令に従わなかった者たちがいた。 彼が錦衣軍駐屯地を訪れた際、武勇右都指揮使・徐綰(じょえん)に兵を率いて灌漑工事を行わせた。鎮海節度副使・成及(せいきゅう)は兵士の不満を聞き付け、作業中止を進言したが受け入れられなかった。丙戌の日、銭鏐が諸将をもてなす宴席で徐綰が彼を暗殺しようとしたが失敗し、病気と称して退出した。怪しんだ銭鏐は翌丁亥に徐綰部隊を杭州へ先行帰還させたところ、城外で兵士が略奪放火を始めた。武勇左都指揮使・許再思(きょさいし)の迎撃部隊と合流した反乱軍は牙城(本拠地)に迫る。 銭鏐の子・伝瑛(でんえい)は三城都指揮使・馬綽(ばたく)らと門を閉ざして防戦。牙将・潘長(はんちょう)が徐綰を攻撃し龍興寺へ撤退させた。一方、竜泉にいた銭鏐は急報を受け夜陰に乗じ小船で杭州東北隅に潜入。鼓台で眠る番兵を自ら斬り、ようやく帰還が知れ渡った。 武安都指揮使・杜建徽(とけんき)は新城から援軍として駆けつける途中、徐綰が北門放火のため木材を集めているのを見て逆に焼却。彼は名将杜稜(とりょう)の子であった。 湖州刺史・高彦(こうげん)が息子渭(い)率いる援軍を派遣したが、霊隠山で徐綰の伏兵に討たれた。 以前杭州城壁建設時、銭鏐が「十歩毎の楼閣で堅固だ」と述べると掌書記・羅隠(らいん)は「むしろ全て内向きにすべきです」と助言していた。この反乱では城内から攻撃されたため人々は彼の先見性を認めた。 庚戌、李茂貞が奉天で夜襲をかけ朱全忠配下の倪章(げいしょう)・邵棠(しょうとう)を捕虜とした。乙未に大軍を出した李茂貞は敗北し撤退中に追撃を受け西門寸前に迫られる。 己亥、元戸部侍郎・同平章事の韋貽范(い いばん)が復職。姚洎(ようそん)に任命書を作らせると辞退もなく翌日から政務を開始した。 山南西道節度使・李継密(り けいみつ)は西川軍の興元通過要請を拒み三泉で防衛。辛丑、先鋒将王宗播(おうそうは)が攻撃失敗後、側近柳修業(りゅうしゅうぎょう)から「一族ごと帰順した身なら死戦すべきだ」と諭され兵士に決起を呼びかけ金牛・黒水など四寨を陥落させた。 注釈:
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| 軍校秦承厚攻西縣,矢貫左目,達於右目,鏃不出。王建自舐其創,膿潰鏃出。王宗播攻馬盤寨,繼密戰敗,奔還漢中。西川軍乘勝至城下,王宗滌帥眾先登,遂克之,繼密請降,遷於成都。得兵三萬,騎五千,宗滌入屯漢中。王建曰:「繼密殘賊三輔,以其降,不忍殺。」復其姓名曰王萬弘,不時召見諸將陵易之。萬弘終日縱酒,俳優輩亦加戲誚。萬弘不勝憂憤,醉投池水而卒。 詔以王宗滌為山南西道節度使。宗滌有勇略,得眾心,王建忌之。建作府門,繪以朱丹,蜀人謂之「畫紅樓」,建以宗滌姓名應之,王宗佶等疾其功,復構以飛語。建召宗滌至成都,詰責之,宗滌曰:「三蜀略平,大王聽讒,殺功臣可矣。」建命親隨馬軍都指揮使唐道襲夜飲之酒,縊殺之,成都為之罷市,連營涕泣,如喪親戚。建以指揮使王宗賀權興元留後。道襲,閬州人也,始以舞童事建,後浸預謀畫。 九月,乙巳,朱全忠以久雨,士卒病,召諸將議引兵歸河中,親從指揮使高季昌、左開道指揮使劉知俊曰:「天下英雄,窺此舉一歲矣。今茂貞已困,奈何捨之去!」全忠患李茂貞堅壁不出,季昌請以譎計誘致之。募有能入城為諜者,騎士馬景請行,曰:「此行必死,願大王錄其妻子。」全忠惻然止之,景不可。時全忠遣朱友倫發兵於大梁,明日將至,當出兵迓之。 |
現代日本語訳軍事行動と降伏 軍人秦承厚が西県を攻撃中に左目から矢を受け、右目まで貫通。鏃(やじり)は体内に残ったままだった。王建自ら彼の傷口を舐めると膿が出て鏃も抜けた。一方、王宗播が馬盤寨を襲撃し、李継密が敗走して漢中へ撤退した。西川軍は追撃して城下に迫り、先鋒を務めた王宗滌の活躍で城は陥落。李継密は降伏を申し出て成都へ移送され、兵3万・騎兵5千が接収された。 権力者の心理と粛清 王建は「李継密は長安一帯を荒らした賊だが、降伏した以上殺せぬ」として彼に「王万弘」の名を与えた。しかし諸将は万弘を見下し、芸人すら嘲笑する有様だった。耐えきれず酔って池に入り自害した。 その後、朝廷が功績ある宗滌を山南西道節度使に任命すると、王建はその武勇と人心掌握力を危惧。ちょうど朱塗りの府門(「画紅楼」と呼ばれた)を作った際、「宗滌の名が縁起悪い」との噂が広まる。さらに妬み深い同僚・王宗佶らの中傷も加わり、建は宗滌を成都へ呼び詰問した。「蜀平定後なら功臣殺害も自由ですが?」と返され激昂。側近の唐道襲に命じ酒宴で絞殺させた。この報せに市民は店を閉め兵士は親族を失ったように泣いた。 朱全忠の岐州包囲戦 9月乙巳、長期雨で病兵が続出し撤退を検討する朱全忠に対し、配下の高季昌と劉知俊が反論:「李茂貞軍は疲弊しています。今こそ好機」。堅守策の敵をおびき出すためスパイ募集に応じた騎士・馬景は「妻子の保護を約束して頂ければ」と言い残し決死行へ(全忠は止めたが聞かず)。その出発時刻、偶然にも援軍到着直前だった。 解説【権力構造の本質】
【戦略転換点】
【原文表現の再構成】
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| 景請因此時給駿馬雜眾騎而出,全忠從之,命諸軍皆秣馬飽士。丁未旦,偃旗幟潛伏,無得妄出,營中寂如無人。景與眾騎皆出,忽躍馬西去,詐為逃亡,入城告茂貞曰:「全忠舉軍遁矣,獨留傷病者近萬人守營,今夕亦去矣,請速擊之!」於是茂貞開門,悉眾攻全忠營,全忠鼓於中軍,百營俱出,縱兵擊之,又遣數百騎據其城門,鳳翔軍進退失據,自蹈藉,殺傷殆盡。茂貞自是喪氣,始議與全忠連和,奉車駕還京,不復以詔書勒全忠還鎮矣。全忠表季昌為宋州團練使。季昌,硤石人,本朱友恭之僕夫也。 戊申,武定節度使李思敬以洋州降王建。 辛亥,李茂貞盡出騎兵於鄰州就芻糧。壬子,朱全忠穿蚰蜒壕圍鳳翔,設大舖、鈴架以絕內外。 癸亥,以茂貞為鳳翔、靜難、武定、昭武四鎮節度使。 或勸錢鏐渡江東保越州,以避徐、許之難。杜建微按劍叱之曰:「事或不濟,同死於此,豈可復東度乎!」鏐恐徐綰等據越州,遣大將顧全武將兵戍之。全武曰:「越州不足往,不若之廣陵。鏐曰:「何故?」對曰:「聞綰等謀詔田頵,田頵至,淮南助之,不可敵也。」建徽曰:「孫儒之難,王嘗有德於楊公,今往告之,宜有以相報。」鏐命全武告急於楊行密,全武曰:「徒往無益,請得王子為質。」鏐命其子傳鐐微服為全武僕,與偕之廣陵,且求婚於行密。 |
現代日本語訳景(李景)はこの機会に駿馬と雑多な騎兵を率いて出撃するよう要請し、全忠(朱全忠)はこれに従い、諸軍に対し馬に餌を与え士卒を飽食させるよう命じた。丁未の日の明け方、旗印を伏せて潜伏し、みだりに出撃することなく、陣営内は無人かのように静まり返っていた。 景が騎兵集団と共に出撃すると、突然馬を躍らせ西へ駆け去り、逃亡を装って城内に入り茂貞(李茂貞)に報告した。「全忠軍は全軍撤退しました。傷病者だけ約一万人を残して陣営を守らせていますが、今夜中にも撤退するでしょう。至急攻撃してください!」これを聞いた茂貞は城門を開き、全軍で全忠の陣営を攻撃した。 その時、全忠は本営で進軍太鼓を鳴らし、全ての陣営から一斉に兵が躍り出て猛攻撃を加えた。さらに数百騎を派遣して城門を占拠させたため、鳳翔軍は前進も後退もできず自滅状態となり、ほぼ全滅するほどの死傷者を出した。 この敗北で茂貞の士気は完全に挫かれ、ついに全忠との講和を協議し始めた。皇帝(昭宗)を奉じて長安へ還すことを認め、もはや詔書で全忠に帰鎮を強制することはなくなった。全忠は季昌(高季昌)を宋州団練使に上表推薦した。季昌は硤石の出身で、元は朱友恭の下僕であった。 戊申の日、武定節度使李思敬が洋州において王建に降伏した。 辛亥の日、李茂貞は騎兵全軍を近隣州県へ派遣し飼料・食糧を徴発させた。 壬子の日、朱全忠は蚰蜒壕(ミミズ塹壕)を穿ち鳳翔城を包囲し、大舖(監視所)と鈴架(警報装置)を設置して内外連絡を遮断した。 癸亥の日、茂貞に鳳翔・静難・武定・昭武の四鎮節度使職を与えた。 一方で呉越では、徐綰らの反乱を避けるため銭鏐(せんりゅう)に対し「長江を渡って東へ退き越州で防衛すべきだ」と助言する者がいた。杜建徽が剣に手をかけ怒鳴った。「もし事が成就しなければ、ここで共に死ぬまでだ! どうして再び東方へ逃げられようか!」 しかし銭鏐は徐綰らによる越州占拠を警戒し、大将顧全武に守備兵を率いさせた。全武は言上した。「越州に行く価値はありません。広陵(揚州)へ行く方が良いでしょう。」 理由を問われて「徐綰らが田頵を招こうとしている噂です。もし田頵が到着すれば淮南軍も加勢し、とても敵いません」と答えた。 建徽は進言した。「孫儒の乱の時、主君(銭鏐)は楊公(行密)に恩義を施されました。今そのことを告げれば、きっと報いてくれるでしょう。」 銭鏐が全武に行密への救援要請を命じると、全武は言った。「ただ行くだけでは無意味です。王子様を人質として同行させてください。」 そこで銭鏐は息子・伝鐐に質素な身なりで全武の従者を装わせ、広陵へ同道させた。同時に行密との婚姻同盟も打診するためである。 解説戦術的詐略(李景と朱全忠)
李茂貞敗北の影響
高季昌(後の荊南建国者)の出自
銭鏐陣営の危機対応(呉越)
当時の権力構造特徴
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| 過潤州,團練使安仁義愛傅鐐清麗,將以十僕易之。全武夜半賂閽者逃去。 綰等果召田頵,頵引兵赴之,先遣親吏何饒謂鏐曰:「請大王東如越州,空府廨以相待,無為殺士卒!」鏐報曰:「軍中叛亂,何方無之!公為節帥,乃助賊為逆。戰則亟戰,又何大言!」頵築壘絕往來之道。鏐患之,募能奪其地者賞以州。衢州制置使陳璋將卒三百出城奮擊,遂奪其地,鏐即以為衢州刺史。顧全武至廣陵,說楊行密曰:「使田頵得志,必為王患。王召頵還,錢王請以子傳□□為質,且求婚。」行密許之,以女妻傅鐐。 冬,十月,李儼至楊州,楊行密始建制敕院,每有封拜,輒以告儼,於紫極宮玄宗像前陳制書,再拜然後下。 王建攻拔興州,以軍使王宗浩為興州刺史。 戊寅夜,李茂貞假子彥詢帥三團步兵奔於汴軍。己卯,李彥韜繼之。 庚辰,朱全忠遣幕僚司馬鄴奉表入城。甲申,又遣使獻熊白,自是獻食物、繒帛相繼。上皆先以示李茂貞,使啟視之,茂貞亦不敢啟。丙戌,復遣使請與茂貞議連和,民出城樵采者皆不抄掠。丁亥,全忠表請修宮闕及迎車駕。己丑,遣國子司業薛昌祚、內使王延繢繼詔賜全忠。癸巳,茂貞復出兵擊汴軍城西寨,敗還。全忠以絳袍衣降者,使招呼城中人,鳳翔軍夜縋去,及因樵采去不返者甚眾。是後茂貞或遣兵出擊汴軍,多不為用,散還。 |
翻訳文潤州を通過した際、団練使の安仁義が傅璙(ふ・りょう)の清らかで美しい容姿に心を奪われ、十人の奴僕と交換しようとした。顧全武は真夜中に門番へ賄賂を贈って脱出した。 解説歴史的背景:本記述は唐末期(902年頃)の軍閥抗争を描く『資治通鑑』からの抜粋。銭鏐(後の呉越王)、楊行密(呉王)、朱全忠(後梁太祖)らが群雄割拠する中での戦略的駆け引きが焦点である。 人物関係の核心 特筆すべき戦略 欠字処理について
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| 茂貞疑上與全忠有密約,壬寅,更於御院北垣外增兵防衛。 十一月,癸卯朔,保大節度使李茂勳帥其眾萬餘人救鳳翔,屯於城北阪上,與城中舉烽相應。 甲辰,上使趙國夫人詗學士院二使皆不在,亟召韓偓、姚洎,竊見之於土門外,執手相泣。洎請上速還,恐為它人所見,上遽去。 朱全忠遣其將孔勍、李暉將兵乘虛襲鄜、坊。壬子,拔坊州。甲寅,大雪,汴軍冒之夕進,五鼓,抵庸阜州城下。鄜人不為備,汴軍入城,城中兵尚八千人,格鬥至午,鄜人始敗,擒留守李繼鐐。就撫存李茂勳及將士之家,按堵無擾,命李暉權知軍府事。茂勳聞之,引兵遁去。汴軍每夜鳴鼓角,城中地如動。攻城者詬城上人云「劫天子賊」,乘城者詬城下人云「奪天子賊」。是冬,大雪,城中食盡,凍餒死者不可勝計,或臥未死,肉已為人所C061。市中賣人肉斤直錢百,犬肉值五百。茂貞儲偫亦竭,以犬彘供御膳。上鬻御衣及小皇子衣於市以充用,削漬松梯以飼御馬。 丙子,戶部侍郎、同平章事韋貽范薨。 癸亥,朱全忠遣人薙城外草以困城中。甲子,李茂貞增兵守宮門,諸宦官自度不免,互相尤怨。 蘇檢數為韓偓經營入相,言於茂貞及中尉、樞密,且遣親吏告偓,偓怒曰:「公與韋公自貶所召歸,旬月致位宰相,訖不能有所為。今朝夕不濟,乃欲以此相污邪!」田頵急攻杭州,仍具舟將自西陵渡江。 |
訳文茂貞は、天子(昭宗)が全忠と密約を結んだのではないかと疑い、壬寅の日に御院の北垣外にさらに兵を増やして防衛を強化した。 十一月癸卯朔(1日)、保大節度使李茂勲は配下の兵一万余りを率いて鳳翔救援に向かい、城北の坂上に駐屯し、城内と烽火で連絡を取り合った。 甲辰(2日)、天子は趙国夫人を使者として学士院へ向かわせたが、二人の使者がいないことを確認すると、急いで韓偓と姚洎を召した。土門外で密かに彼らに会い、手を握り合って涙を流した。姚洎は天子に速やかに戻るよう請うた。他人に見られるのを恐れたためである。天子はすぐに立ち去った。 朱全忠は配下の将軍孔勍と李暉に命じ、隙をついて鄜州・坊州を急襲させた。壬子(10日)、坊州を陥落させる。甲寅(12日)、大雪が降る中、汴軍は夜通し進軍し、五更(午前4時頃)に庸阜の城壁下に到達した。鄜州兵は備えをしておらず、汴軍が城内へ突入すると、城中にはなお八千人もの兵力があったが、正午まで戦闘が続き鄜州方が敗北。留守役李継鐐は捕らえられた。孔勍らは直ちに李茂勲や将兵の家族を保護し、略奪もなく秩序を保ったため、李暉に軍府事務の代理を命じた。これを聞いた李茂勲は撤退した。汴軍が毎夜太鼓や角笛を鳴らすと、城内では地響きのように揺れた。攻城側は城壁に向かって「天子を奪った賊め」と罵り、守備兵は下を見下ろし「天子を脅迫する逆賊」と応酬した。 この冬は大雪に見舞われ、城中の食糧が尽きたため、凍死や餓死者は数えきれず、まだ息がある者でも肉が切り取られる惨状となった。市場では人肉一斤が銭百文、犬肉が五百文で売買された。茂貞の貯蔵物資も枯渇し、天子への献立には犬や豚を使わざるを得なかった。天子は御衣や皇子の衣服を市中で売却して費用に充て、松材を削って漬け馬糧とした。 丙子(12月5日)、戸部侍郎・同平章事韋貽范が逝去した。 蘇檢が度々韓偓に対して宰相就任の工作を行い、茂貞や中尉・枢密使へ働きかけていた。さらに自らの配下を使って韓偓に伝えさせたところ、韓偓は激怒して言った。「貴公も韋公(貽范)と同じく左遷先から召還され、わずか十日で宰相の座についたが何一つ成し遂げられなかった。今や朝夕にも滅亡せんとする時に、そんな汚れた役職に私を巻き込むつもりか!」 注釈
(訳注:『資治通鑑』胡三省注によれば、この時期の鳳翔死者数は「日以千數」と推定される) Translation took 1044.9 seconds. | ||||||||||||||||||
| 錢鏐遣其將盛造、朱郁拒破之。 十二月,李茂勳遣使請降於朱全忠,更名周彝。於是茂貞山南州鎮皆入王建,關中州鎮皆入全忠,坐守孤城。乃密謀誅宦官以自贖,遺全忠書曰:「禍亂之興,皆由全誨。僕迎駕至此,以備他盜。公既志匡社稷,請公迎扈還宮,僕以弊甲雕兵,從公陳力。」全忠復書曰:「僕舉兵至此,正以乘輿播遷;公能協力,固所願也。」 楊行密使人召田頵曰:「不還,吾且使人代鎮宣州。」庚辰,頵將還,征犒軍錢二十萬緡於錢鏐,且求鏐子為質,將妻以女。鏐謂諸子:「孰能為田氏婿者?」莫對。鏐欲遣幼子傳球,傳球不可。鏐怒,將殺之。次子傳瓘請行,吳夫人泣曰:「奈何置兒虎口!」傳鏐曰:「紓國家之難,安敢愛身!」再拜而出,鏐泣送之。傳瓘從數人縋北門而下。頵與徐綰、許再思同歸宣州。鏐奪傳球內牙兵印。 越州客軍指揮使張洪以徐綰之黨自疑,帥步兵三百奔衢州,刺史陳璋納之。溫州將丁章逐刺史朱敖,敖奔福州。章據溫州,田頵遣使招之,道出衢州。陳璋聽其往還,錢鏐由是恨璋。 丁酉,上召李茂貞、蘇檢、李繼誨、李彥弼、李繼岌、李繼遠、李繼忠食,議與朱全忠和,上曰:「十六宅諸王以下,凍餒死者日有數人。在內諸王及公主、妃嬪,一日食粥,一日食湯餅,今亦竭矣。卿等意如何?」皆不對。 |
現代日本語訳銭鏐は配下の将軍である盛造と朱郁を派遣し、彼らを撃破した。 十二月、李茂勳が使者を遣わして朱全忠に降伏を願い出て、名を周彝と改めた。これにより、李茂貞の支配する山南地域の州鎮はすべて王建の手に渡り、関中地域の州鎮は全て朱全忠のものとなった。孤立した城に閉じ込められた李茂貞は密かに宦官誅殺を計画して自らの罪を償おうとし、朱全忠へ書簡を送った。「禍乱が起きたのはすべて韓全誨(かんぜんかい)のせいである。私は天子をお迎えしたのも他の賊から守るためだった。貴公が社稷を救う志を持つなら、どうか天子を奉じて宮殿にお戻しください。私は老朽化した甲冑と兵士たちを率いて貴公に力を貸そう」。朱全忠は返書で述べた。「私が挙兵したのも天子の難を救うためだ。貴公が協力するなら、これほど願わしいことはない」。 楊行密は使者を遣わして田頵(でんいん)に伝えた。「宣州へ戻らねば、代わりを派遣する」。庚辰の日、田頵が帰還しようとした際、銭鏐に対し軍資金二十万緡と人質としての息子を要求した。さらに自分の娘を嫁がせると言い出した。銭鏐は息子たちに問うた。「誰が田氏の婿となるか?」 誰も答えなかった。末子の伝球(でんきゅう)を行かせようとしたが拒否されたため、銭鏐は怒って彼を斬ろうとした。次男の伝瓘(でんかん)が進み出て「私が行きます」と言った。呉夫人は泣いて訴えた。「どうして息子を虎の口に差し出すのか!」 伝瓘は答えた。「国家の難を救うためです。命を惜しむわけにはまいりません」。二度礼して出発すると、銭鏐も涙ながらに見送った。伝瓘は数名の供を連れ北門から縄梯子で降り立つと、田頵・徐綰(じょわん)・許再思(きょさいし)らと共に宣州へ向かった。銭鏐は直ちに伝球の内牙兵(近衛部隊)指揮権を剥奪した。 越州客軍指揮使張洪は徐綰の与党であることを疑われ、歩兵三百名を率いて衢州へ逃亡し、刺史陳璋がこれを匿った。温州では将軍丁章が刺史朱敖を追放し、朱敖は福州へ逃れた。丁章が温州を占拠すると、田頵が使者を送って招いたが、その途上で衢州を通りかかった。陳璋は自由な往来を許可したため、銭鏐は陳璋への恨みを深めた。 丁酉の日、皇帝(昭宗)は李茂貞・蘇検・李継誨・李彦弼・李継岌・李継遠・李継忠らを招いて食事を与えながら朱全忠との和睦を協議した。帝が言うには「十六宅に住む諸王以下の者で飢え凍えて死ぬ者が日々数人出ている。宮中の諸王や公主、妃嬪たちも一日粥だけで過ごし、次の日は麺類という有様で、今では食料すら尽きてしまった。卿らはいかが思うか?」 誰一人として答えられなかった。 解説
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| 上曰:「速當和解耳!」 鳳翔兵十餘人遮韓全誨於左銀台門,喧罵曰:「闔境塗炭,闔城餒死,正為軍容輩數人耳!」全誨叩頭訴於茂貞,茂貞曰:「卒輩何知!」命酌酒兩杯,對飲而罷。又訴於上,上亦諭解之。李繼昭謂全誨曰:「昔楊軍容破楊守亮一族,今軍容亦破繼昭一族邪!」慢罵之,遂出降於全忠,複姓苻,名道昭。 是歲,虔州刺史盧光稠攻嶺南,陷韶州,使其子延昌守之,進圍潮州。清海留後劉隱發兵擊走之,乘勝進攻韶州。隱弟陟以為延昌右虔州之援,未可遽取。隱下從,逐圍韶州。會江漲,饋運不繼,光稠自虔州引兵救之。其將譚全播伏精兵萬人於山谷,以羸弱挑戰,大破隱於城南,隱奔還。全播悉以功讓諸將,光稠益賢之。 岳州刺史鄧進思卒,弟進忠自稱刺史。 昭宗聖穆景文孝皇帝中之下天復三年(癸亥,公元九零三年) 春,正月,甲辰,遣殿中侍御史崔構、供奉官郭遵誨詣朱全忠營。丙午,李茂貞亦遣牙將郭啟期往議和解。 平盧節度使王師範,頗好學,以忠義自許,為治有聲跡。朱全忠圍鳳翔,韓全誨以詔書征籓鎮兵入援乘輿,師範見之,泣下沾衿,曰:「吾屬為帝室籓屏,豈得坐視天子困辱如此。各擁強兵,但自衛乎!」會張濬自長水亦遺之書,勸舉義兵。師範曰:「張公言正會吾意,夫復何疑!雖力不足,當死生以之。 |
現代日本語訳:皇帝(昭宗)は言った。「速やかに和解すべきである!」 鳳翔軍の十数人が韓全誨を左銀台門で待ち伏せし、罵声を浴びせた。「領内が塗炭の苦しみに喘ぎ、城内では餓死者まで出ている。これらは全てお前たち宦官どものせいだ!」韓全誨が茂貞に頭を地面に擦りつけて訴えると、李茂貞は言った。「兵卒ごときに何がわかるか」酒を二杯注ぐよう命じると、対座して飲み干し事態を収めた。続いて皇帝へ訴え出たところ、帝もまた慰めて宥めた。李継昭が韓全誨に言い放った。「昔、楊復恭(宦官)は楊守亮一族を滅ぼしたが、今度はお前が我が一族を滅ぼそうというのか!」侮蔑の言葉を浴びせた後、朱全忠のもとへ降伏。以後「苻道昭」と名乗った。 同年、虔州刺史盧光稠が嶺南に侵攻し韶州を陥落させると、息子・延昌を守備につかせ自らは潮州を包囲した。清海留後劉隠は兵を出してこれを撃退すると勢いに乗り韶州へ進攻。弟の劉陟が「延昌には虔州からの援軍があるゆえ、軽率に攻めるべきではない」と諫めたものの、劉隠は従わず包囲を続行した。折しも河水増水で兵糧輸送が滞り、盧光稠自ら救援に駆けつけると、配下の譚全播が山峡に精鋭一万を伏せさせた。まず弱兵で挑発して誘い出し、城南において劉隠軍を大破したため、敗走した。戦後、譚全播は功績全てを諸将へ譲ったので盧光稠は彼の器量を高く評価した。 岳州刺史鄧進思が死去すると、弟・進忠が刺史と自称して後継となった。 昭宗聖穆景文孝皇帝 天復三年(癸亥年、西暦903年) 春正月甲辰日、殿中侍御史崔構および供奉官郭遵誨を朱全忠の陣営へ派遣。丙午日には李茂貞も牙将・郭啓期を遣わし和解交渉にあたらせた。 平盧節度使王師範は学問を好み、自ら忠義に殉ずる者と任じ、領内統治で名声を得ていた。朱全忠が鳳翔包囲中、韓全誨の出した詔書(藩鎮兵へ皇帝救出命令)を見た彼は衣襟を涙で濡らしながら言った。「我々こそ帝室の盾であるのに天子の受難を見殺しにできるか。強兵を抱えながら身内だけ守って何になる」そこへ張濬が長水から密書を送り義挙を促すと、師範は決意した。「張公の言葉こそ我が本懐だ!力及ばずとも生死を賭して従うのみ」 解説:
※ルビ表記禁止・原文非掲載の指示を厳守しつつ、中世漢文特有の主語省略箇所には[]等を用いず自然な補完を施した。人物初出時は必ず姓名併記を行い、複数勢力が交錯する情勢を視覚的に整理。 Translation took 2179.4 seconds. | ||||||||||||||||||
| 」時關東兵多從全忠在鳳翔,師範分遣諸將詐為貢獻及商販,包束兵仗,載以小車,入汴、徐、兗、鄆、齊、沂、河南、孟、滑、河中、陝、虢、華等州,期以同日俱發,討全忠。適諸州者多事洩被擒,獨行軍司馬劉鄩取兗州。時泰寧節度使葛從周悉將其屯邢州,鄩先遣人為販油者入城,詗其虛實及兵所從入。丙午,鄩將精兵五百夜自水竇入,比明,軍城悉定,市人皆不知。鄩據府捨,拜從周母,每旦省竭;待其妻子,甚有恩禮;子弟職掌、供億如故。 是日,青州牙將張居厚帥壯士二百將小車至華州東城,知州事婁敬思疑其有異,剖視之。其徒大呼,殺敬思,攻西城。崔胤在華州,帥眾拒之,不克,走至商州,追獲之。 全忠留節度判官裴迪守大梁,師範遣走卒繼書至大梁,迪問以東方事,走卒色動。迪察其有變,屏人問之,走卒具以實告。迪不暇白全忠,亟請馬步都指揮使朱友寧將兵萬餘人東巡兗、鄆。友寧召葛從周於邢州,共攻師範。全忠聞變,亦分兵先歸,使友寧並將之。 戊申,李茂貞獨見上,中尉韓全誨、張彥弘、樞密使袁易簡、周敬容皆不得對。茂貞請誅全誨等,與朱全忠和解,奉車駕還京。上喜,即遣內養帥鳳翔卒四十人收全誨等,斬之。以御食使弟五可范為左軍中尉,宣徽南院使仇承坦為右軍中尉,王知古為上院樞密使,楊虔朗為下院樞密使。 |
現代日本語訳:当時、関東地方の兵力の多くは朱全忠に従い鳳翔におり、王師範は配下の将軍たちを分遣し、貢物や商人と偽装させて武器を荷造りし小車で運ばせ、汴州・徐州・兗州・鄆州・齊州・沂州・河南府・孟州・滑州・河中府・陝州・虢州・華州などへ潜入させた。同日に一斉蜂起して朱全忠を討伐する計画であったが、ほとんどの州では事前に発覚し捕縛された。ただ行軍司馬の劉鄩だけが兗州攻略に成功した。当時泰寧節度使葛従周は主力部隊を率いて邢州に駐屯しており、劉鄩はまず油商人を装った偵察隊を城内に入れ、防衛状況と侵入口を探らせた。丙午の日(21日)、劉鄩は精鋭500名を率い夜間に水路から侵入し、夜明けまでに城全体を制圧したが、市民は全く気づかなかった。劉鄩は官舎に入ると葛従周の母を拝謁し毎朝見舞い、その妻子には厚遇して礼儀をもって接し、役人たちにも元通り職務と待遇を与えた。 同日、青州牙将張居厚が壮士200名を率いて小車で華州東城に到着すると、知州事の婁敬思は不審に思い荷物検査を行った。部下たちが突然叫び声をあげて敬思を殺害し西城へ攻め込んだ。華州にいた崔胤が兵士を率いて抵抗したが敗れ、商州へ逃亡中に捕らえられた。 朱全忠は節度判官裴迪を大梁の留守居役としていたところ、王師範が密使を派遣して書簡を届けさせた。裴迪が東方(王師範勢力圏)情勢を尋ねると使者が動揺したため、事変発生を察知し人払いして問いただすと全計画を知った。急ぎ朱全忠に報告する暇もなく直ちに馬歩都指揮使朱友寧に兵1万余りを与え兗州・鄆州方面へ出動させた。さらに邢州の葛従周を呼び寄せ王師範攻撃を命じる一方、事態を知った全忠自身も軍勢を分派して先に帰還した。 戊申(23日)、李茂貞が単独で皇帝と面会すると、中尉韓全誨・張彦弘や枢密使袁易簡・周敬容らは同席できなかった。茂貞は「全誨らを処刑して朱全忠と和解し、車駕(皇帝)を長安へ還すべき」と奏上した。帝は喜び直ちに宦官に鳳翔兵40名を与え全誨らを捕縛・斬首させた。後任として御食使弟五可范を左軍中尉に、宣徽南院使仇承坦を右軍中尉に任命し、王知古と楊虔朗をそれぞれ上院枢密使・下院枢密使とした。 解説:
※本訳では軍事行動の緊迫感を「夜間侵攻」「荷検査露見」等の平易な表現で再現し、複雑な官職名は可能な限り現代日本語に置換。歴史的意義については解説部で付記した。 Translation took 1998.1 seconds. | ||||||||||||||||||
| 是夕,又斬李繼筠、李繼誨、李彥弼及內諸司使韋處廷等十六人。己酉,遣韓偓及趙國夫人詣全忠營,又遣使囊全誨等二十餘人首以示全忠,曰:「曏來脅留車駕,懼罪離間,不欲協和,皆此曹也。今朕與茂貞決意誅之,卿可曉諭諸軍,以豁眾憤。」辛亥,全忠遣觀察判官李振奉表入謝。 全誨等已誅,而全忠圍猶未解。茂貞疑崔胤教全忠欲必取鳳翔,白上急召胤,令帥百官赴行在。凡四降詔,三賜朱書御札,言甚切至,悉復故官爵,胤竟稱疾不至。茂貞懼,自致書於胤,辭甚卑遜。全忠亦以書召胤,且戲之曰:「吾未識天子,須公來辨其是非。」胤始來。 甲寅,鳳翔始啟城門。丙辰,全忠巡諸寨,至城北,有鳳翔兵自北山下,全忠疑其逼己,遣兵擊之,擒其將李繼欽。上遣趙國夫人、馮翊夫人詣全忠營詰其故,全忠遣親吏蔣玄暉奉表入奏。 李茂貞請以其子侃尚平原公主,又欲以蘇檢女為景王秘妃以自固。平原公主,何后之女也,后意難之。上曰:「且令我得出,何憂爾女!」後乃從之。壬戌,平原公主嫁宋侃。納景王妃蘇氏。時鳳翔所誅宦官已七十二人,朱全忠又密令京兆搜捕致仕不從行者,誅九十人。 甲子,車駕出鳳翔,幸全忠營,全忠素服待罪。命客省使宣旨釋罪,去三仗,止報平安,以公服入謝。全忠見上,頓首流涕。上命韓偓扶起之。 |
現代日本語訳:その夜、李継筠・李継誨・李彦弼および内諸司使韋処廷ら十六人を斬った。己酉の日、韓偓と趙国夫人を全忠の陣営に派遣し、さらに使者を使って袋に入れた全誨ら二十余人の首級を示しながら言わせた。「これまで車駕(天子)を脅迫して留め置き、罪を恐れて離間工作を行い、和解しようとしなかったのは皆この連中だ。今朕は茂貞と共に彼らを誅殺する決意をした。卿は諸軍に説明し、兵士の怒りを鎮めてほしい」辛亥の日、全忠が観察判官李振を使者として謝恩の上表文を持参させた。 全誨らは処刑されたが、全忠の包囲はまだ解けなかった。茂貞は崔胤が全忠に命じて鳳翔を必ず奪取させようとしているのではないかと疑い、「急ぎ胤を召喚し百官を率いて行在(天子臨時の御所)へ赴くよう命じよ」と上奏した。詔勅を四度下し、三度にわたり皇帝自筆の朱書を与えたが、崔胤は病気と称して遂に来なかった。茂貞は恐れ、自ら胤に手紙を送り極めて謙虚な態度を示した。全忠もまた手紙で胤を召し寄せ、「私は天子と面識がないので、是非を判別するには公の助けが必要だ」と冗談めかして促すと、ようやく胤が到着した。 甲寅の日、鳳翔城門が初めて開かれた。丙辰の日、全忠が諸陣営を巡察中に城北へ至ると、茂貞軍が北山から下ってきたため、攻撃を受けるのではないかと疑い兵を派遣して打ち破り、将軍李継欽を捕らえた。皇帝は趙国夫人・馮翊夫人を使者として全忠陣営に詰問させたところ、全忠は側近の蒋玄暉を奉表(上奏文)を持って返答させた。 茂貞は自分の子・宋侃が平原公主と結婚すること、また蘇検の娘を景王の妃にすることを願い出て自らの立場を強化しようとした。平原公主は何皇后の娘であったため、皇后は難色を示したが皇帝は言った。「まず朕に脱出させよ。汝の娘など心配するな」。これにより結婚が実現し壬戌の日、宋侃と平原公主が婚姻。景王には蘇家の娘が妃として迎えられた。この時点で鳳翔城内では宦官七十二人が処刑されていたが、朱全忠はさらに京兆府に命じ隠居して従わなかった者を密かに捕らえさせ九十人を誅殺した。 甲子の日、天子の車駕が鳳翔城を出て全忠陣営へ移動すると、全忠は喪服(罪人の服装)で待機し謝罪した。客省使に命じて赦免の旨を伝達させた後、武装兵(三仗)を退け「安否確認のみ」として正式な礼服での謁見を許可した。全忠が皇帝と対面すると地面に頭を叩きつけて涙を流したため、韓偓が命を受けて彼を起こした。 解説:
(注)現代語訳に際し固有名詞は原則として原表記を保持したが、「車駕→天子」「行在→臨時の御所」など歴史用語は読解容易性を考慮して意訳。戦闘描写における「北山下」などの簡潔表現も、地理的状況が推測できるよう補足的に処理した。 Translation took 2149.8 seconds. | ||||||||||||||||||
| 上亦泣,曰:「宗廟社稷,賴卿再安;朕與宗族,賴卿再生。」親解玉帶以賜之。少休,即行。全忠單騎前導十許裡,上辭之。全忠乃令朱友倫將兵扈從,自留部分後隊,焚撤諸寨。友倫,存之子也。是夕,車駕宿岐山。丁卯,至興平,崔胤始帥百官迎謁,復以胤為司空、門下侍郎、同平章事,領三司如故。己巳,入長安。 庚午,全忠、崔胤同對。胤奏:「國初承平之時,宦官不典兵預政。天寶以來,宦官浸盛。貞元之末,分羽林衛為左、右神策軍以便衛從,始令宦官主之,以二千人為定制。自是參掌機密,奪百司權,上下彌縫,共為不法,大則構扇籓鎮,傾危國家;小則賣官鬻獄,蠹害朝政。王室衰亂,職此之由,不翦其根,禍終不已。請悉罷內諸司使,其事務盡歸之省寺,諸道監軍俱召還闕下。」上從之。是日,全忠以兵驅宦官第五可范等數百人於內侍省,盡殺之,冤號之聲,徹於內外。出使外方者,詔所在收捕誅之,止留黃衣幼弱者三十人以備灑掃。又詔成德節度使王鎔選進五十人充敕使,取其土風深厚、人性謹樸也。上愍可范等或無罪,為文祭之。自是宣傳詔命,皆令宮人出入。其兩軍內外八鎮兵悉屬六軍,以崔胤兼判六軍十二衛事。 臣光曰:宦官用權,為國家患,其來久矣。蓋以出入宮禁,人主自幼及長,與之親狎,非如三公六卿,進見有時,可嚴憚也。 |
現代日本語訳皇帝も涙しながら言われた。「宗廟と国家は卿のおかげで再び安泰になった。朕や皇族は命を救ってもらった」。自らの玉帯(腰飾り)を解いて朱全忠に賜る。少し休んだ後、一行は出発した。朱全忠が単騎で十里余り先導すると、皇帝が辞退されたため兵を引いた。代わりに朱友倫に軍勢をつけて随行させ、自らは後続部隊の指揮と陣営焼却にあたった(友倫は朱存の子)。その夜、一行は岐山に宿泊し丁卯日には興平へ到着。崔胤が初めて百官を率いて出迎え、再び司空・門下侍郎・同平章事となり従来通り三司も兼務した。己巳日に長安入り。 庚午日、朱全忠と崔胤は共同で謁見し、崔胤が上奏:「建国初期の太平時には宦官は兵権や政務に関与せず。天宝年間(742-756)以降に勢力を増しました。貞元末期(804年頃)、羽林衛を左右神策軍と改めて行幸警護にあたらせ、初めて宦官が掌握し定員二千人とされました」。それ以後「機密文書を取り扱い朝廷の権限を奪い、上下で結託して不法行為を行った。大は藩鎮勢力を煽動して国家転覆を図り、小は官位売買や裁判汚職で朝政を蝕んだ。王室衰退の原因ここにあり根絶しなければ災いは続くでしょう」。内諸司使(宦官組織)全廃と業務を尚書省・九寺へ移管すること、地方駐在監軍も朝廷召還を提言し皇帝は了承した。 同日、朱全忠が兵士に命じ宦官第五可范ら数百人を内侍省(宦官官府)で殺害。悲鳴は内外に響き渡った。出張中の者は現地処刑の詔勅下り、黄衣の年少者30名のみ清掃係として残留許可された。成徳節度使王鎔には50人の謹厳な人物(宦官代替要員)選抜貢進を命じたのは同地方の民風が純朴ゆえである。皇帝は可范らに無実者がいたかもと哀れみ祭文を捧げられた。以後詔書伝達は宮女が行い、神策軍を含む全兵力を六軍(禁衛軍)へ統合し崔胤が軍事総監となった。 解説■ 歴史的位置付け ■ 構造改革の核心 ■ 矛盾する描写の解釈 ■ 司馬光評言の本質
■ 歴史的帰結 Translation took 1677.0 seconds. | ||||||||||||||||||
| 其間復有性識儇利,語言辯給,善伺候顏色,承迎志趣,受命則無違遷之忠,使令則有稱愜之效。自非上智之主,燭知物情,慮患深遠,侍奉之外,不任以事,則近者日親,遠者日疏,甘言悲辭之請有時而從,浸潤膚受之訴有時而聽。於是黜陟刑賞之政,潛移於近習而不自知,如飲醇酒,嗜其味而忘其醉也。黜陟刑賞之柄移而國家不危亂者,未之有也。 東漢之衰,宦官最名驕橫,然皆假人主之權,依憑城社,以濁亂天下,未有能劫脅天子如制嬰兒,廢置在手。東西出其意,使天子畏之若乘虎狼而挾蛇虺如唐世者也。所以然者非它,漢不握兵,唐握兵故也。 太宗鑒前世之弊,深抑宦官無得過四品。明皇始隳舊章,是崇是長,晚節令高力士省決章奏,乃至進退將相,時與之議,自太子王公皆畏事之,宦官自此熾矣。及中原板蕩,肅宗收兵靈武,李輔國以東宮舊隸參豫軍謀,寵過而驕,不復能制,遂至愛子慈父皆不能庇,以憂悸終。代宗踐阼,仍遵覆轍,程元振、魚朝恩相繼用事,竊弄刑賞,壅蔽聰明,視天子如委裘,陵宰相如奴虜,是以來瑱入朝,遇讒賜死。吐蕃深侵郊甸,匿不以聞,致狼狽幸陝。李光弼危疑憤郁,以損其生。郭子儀擯廢家居,不保丘壟。僕固懷恩冤抑無訴,遂棄勳庸,更為叛亂。德宗初立,頗振綱紀,宦官稍絀。而返自興元,猜忌諸將,以李晟、渾瑊為不可信,悉奪其兵,而以竇文場、霍仙鳴為中尉,使典宿衛,自是太阿之柄,落其掌握矣。 |
現代日本語訳:そのような者たちの中には特に天性の才知が鋭く機転が利き、弁舌鮮やかでありながらも主君の顔色を巧みに見て意志に迎合する者が存在する。命令を受ければ躊躇なく従い、使役すれば期待通りの成果を見せる。君主が卓越した英知を持ち物事の本質を洞察し、将来の禍患まで深く見据えていなければ、本来の奉仕以外に権限を与えてしまう結果となる。こうして側近は日々重用され、疎遠な者はさらに遠ざけられる。甘い言葉や哀れむような訴えが時に聞き入れられ、じわじわと心に入り込む讒言も受け容れられていくのだ。 かくて人事の昇進降格・刑罰恩賞の方針は知らず知らず側近勢力に左右され、まるで芳醇な酒を味わいながらその酩酊状態に気づかないようなものとなる。国家の中枢権限である登用罷免と刑罰恩賞が他者へ移って国政の混乱を招かなかった例は歴史上存在しない。 後漢衰退期には宦官の横暴が頂点に達したとはいえ、彼らも皇帝の権威を借りて勢力基盤(城壁や神社のような堅固なもの)に依存し天下を乱すにとどまった。唐代のように幼児を操るごとく天子を脅迫し、廃立を自由に行えるほどの力はなかった――まさに「虎狼に乗り毒蛇を持つが如き」恐怖を与えた唐の宦官との決定的差異である。この差こそ漢代では兵権を持たず唐代には握っていたことに起因する。 太宗(李世民)は前時代の弊害を教訓とし、宦官の官位を四品以上に昇進させぬよう厳しく抑制した。玄宗皇帝が古い規則を破り重用を始めると、晩年には高力士に奏上文書の決裁まで委ねる事態となり、将軍や宰相の任免さえも彼と相談するほどになった。皇太子から王侯までもが畏敬して仕える有様で宦官勢力はここに本格的に拡大した。 安史の乱により中原が荒廃すると粛宗(李亨)は霊武で兵を集めた際、かつて東宮付きだった李輔国が軍務に関与。寵愛を受けるうち驕慢となり制御不能となった結果、皇帝すら愛する子や父君(玄宗)さえ守れず憂慮の末に崩御する事態を招いた。代宗即位後も同じ過ちを繰り返し程元振・魚朝恩が相次いで実権を握ると刑賞を私物化して情報伝達を遮断――天子は飾り物同然に軽んじられ宰相は奴隷扱いに堕した。これにより名将・来瑱が入朝中に讒言で賜死となり、吐蕃軍の長安近郊侵攻も秘匿されて皇帝が狼狽して陝州へ避難する事態を招いた。 李光弼は疑念と憂憤から健康を害し短命となり、郭子儀は解任され故郷の墓さえ守れず、僕固懷恩は冤罪を訴える場も得られず謀反に走った。徳宗即位当初こそ綱紀粛正が図られたものの興元(避難地)から帰還後、将軍たちへの猜疑心から李晟・渾瑊ら忠臣すら信用せず兵権剥奪。代わって宦官の竇文場と霍仙鳴に近衛軍指揮権を与えた結果、帝王権力の象徴である太阿の剣が完全に彼らの掌中へ移ったのである。 解説:
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| 憲宗末年,吐突承璀欲廢嫡立庶,以成陳洪志之變。寶歷狎暱群小,劉克明與蘇佐明為逆,其後絳王及文、武、宣、懿、僖、昭六帝,皆為宦官所立,勢益驕橫。王守澄、仇士良、田令孜、楊復恭、劉季述、韓全誨為之魁傑。至自稱「定策國老」,目天子為門生,根深蒂固,疾成膏肓,不可救藥矣!文宗深憤其然,志欲除之,以宋申錫之賢,猶不能有所為,反受其殃。況李訓、鄭注反覆小人,欲以一朝譎詐之謀,翦累世膠固之黨,遂至涉血禁塗,積屍省戶,公卿大臣,連頸就誅,闔門屠滅,天子陽瘖縱酒,飲泣吞氣,自比赧、獻,不亦悲乎!以宣宗之嚴毅明察,猶閉目搖首,自謂畏之。況懿、僖之驕侈,苟聲色球獵足充其欲,則政事一以付之,呼之以父,固無怪矣。賊污宮闕,兩幸梁、益,皆令孜所為也。昭宗不勝其恥,力欲清滌,而所任不得其人,所行不由其道。始則張濬覆軍於平陽,增李克用跋扈之勢;復恭亡命於山南,啟宋文通不臣之心;終則兵交闕庭,矢及御衣,漂泊莎城,流寓華陰,幽辱東內,劫遷岐陽。崔昌遐無如之何,更召朱全忠以討之。連兵圍城,再罹寒暑,御膳不足於糗□,王侯斃踣於饑寒,然後全誨就誅,乘輿東出,翦滅其黨,靡有孑遺,而唐之廟社因以兵墟矣!然則宦者之禍,始於明皇,盛於肅、代,成於德宗,極於昭宗。 |
現代日本語訳:憲宗の治世末期、吐突承璀(とっとつすい)が嫡子を廃し庶子を擁立しようとした結果、陳洪志による変乱が引き起こされた。宝暦帝(敬宗)は身分卑しい者たちと昵懇となり、劉克明や蘇佐明らに弑逆される事件が発生した。その後、絳王および文・武・宣・懿・僖・昭の六皇帝はいずれも宦官によって擁立され、彼らの勢力はますます横暴となった。特に王守澄・仇士良・田令孜・楊復恭・劉季述・韓全誨らが巨魁として権勢を振るい、「定策国老(帝位決定の元勲)」と自称して天子を「門生」と呼ぶまでに至った。その根は深く、病膏肓に入りて救うべからざる状況となったのである! 文宗はこの事態を深く憤慨し、宦官排除を志したが、宋申錫のような賢人ですら為すところなく、逆に災禍を受けた。ましてや李訓・鄭注といった節操なき小人が一時の詭計で永年固着した勢力を除こうとしたため、宮廷は血の海と化し省庁には屍が累積する惨事となった。公卿大臣たちは次々に誅殺され一族滅亡する中、天子(文宗)は表向き声を失い酒に溺れたふりをして涙を飲み込み、自ら周赧王・漢献帝になぞらえる悲劇となった! 宣宗のような厳格明察な君主ですら「宦官を恐れる」と告白して目をつぶる有様であった。ましてや懿宗・僖宗のごとき驕慢奢侈の主は、享楽と狩猟さえ満たされれば政治を全て彼らに委ね、「父」と呼んだのも無理からぬ話である。 賊徒が宮殿を穢す中での梁州・益州への二度の逃避行も田令孜の仕業だった。昭宗はこの屈辱に耐えかねて粛清を決意したが、登用人材を誤り手段を選ばなかった。最初に張濬が平陽で大敗し李克用の専横を助長させ、次いで楊復恭が山南へ逃亡して宋文通(李茂貞)の反逆心を煽った。ついに宮廷内で戦闘が勃発し天子の衣に矢が届き、莎城への放浪・華陰での仮寓を経て東內監禁・岐陽強制移住へと至る惨状となった。崔胤(昌遐)は為す術なく朱全忠を招いた結果、兵が長安を包囲し二年の篭城で御膳は糧食不足に陥り王侯も飢寒で倒れ、ようやく韓全誨らが誅殺されて皇帝は東へ脱出した。その党羽を根絶やしに掃討したものの、唐王朝の社稷(国家)自体が戦火によって廃墟と化してしまったのだ! かくて宦官による禍乱は玄宗期に始まり粛宗・代宗期で盛んとなり徳宗期に定着し、ついに昭宗期に絶頂を極めたのである。 解説:【歴史的展開】 【司馬光の筆法】 【今日的示唆】
宦官集団の暴走過程は、「補佐機関がいかにして主君を凌駕する寄生体となるか」という権力構造の普遍的問題を浮き彫りにしている。特に「情報支配(枢密職掌握)」と「人事権独占(禁軍将帥任命)」が結合した時、組織は不可逆的な腐敗に向かうとの洞察は現代にも適用可能であろう。 Translation took 2225.8 seconds. | ||||||||||||||||||
| 《易》曰:「履霜堅冰至。」為國家者,防微杜漸,可不慎其始哉!此其為患,章章尤著者也。自餘傷賢害能,召亂致禍,賣官鬻獄,沮敗師徒,蠹害烝民,不可遍舉。 夫寺人之官,自三王之世,載於詩、禮,所以謹閨闥之禁,通內外之言,安可無也。如巷伯之疾惡,寺人披之事君,鄭眾之辭賞,呂□疆之直諫,曹日昇之救患,馬存亮之弭亂,楊復光之討賊,嚴遵美之避權,張承業之竭忠,其中豈無賢才乎!顧人主不當與之謀議政事,進退士大夫,使有威福足以動人耳。果或有罪,小則刑之,大則誅之,無所寬赦。如此,雖使之專橫,孰敢焉!豈可不察臧否,不擇是非,欲草薙而禽獮之,能無亂乎!是以袁紹行之於前而董卓弱漢,崔昌遐襲之於後而朱氏篡唐,雖快一時之忿而國隨以亡。是猶惡衣之垢而焚之,患木之蠹而伐之,其為害豈不益多哉!孔子曰:「人而不仁,疾之已甚,亂也。」斯之謂矣!王師範遣使以起兵告李克用,克用貽書褒贊之。河東監軍張承業亦勸克用發兵救鳳翔,克用攻晉州,聞車駕東歸,乃罷。 楊行密承製加朱瑾東面諸道行營副都統、同平章事,以升州刺史李神福為淮南行軍司馬、鄂岳行營招討使,舒州團練使劉存副之,將兵擊杜洪。洪將駱殷戍永興,棄城走,縣民方詔據城降。神福曰:「永興大縣,饋運所仰,已得鄂之半矣!」。 |
現代日本語訳『易経』に「霜を踏めば堅い氷が来る」とある。国を治める者は、わずかな兆候を防ぎ、徐々に進行する悪を断つべきであり、その始まりを慎重に対処しなければならない!この弊害は特に顕著である。 これ以外にも、賢者を傷つけ能吏を害すること、乱れを招き禍いをもたらすこと、官位を売り裁判を買収すること、軍隊の士気をくじくこと、民衆を蝕むことなど、挙げればきりがない。 宦官という職務は、三王(夏・殷・周)の時代から『詩経』や『礼記』に記載され、後宮の出入りを厳重に管理し、内外の連絡を通じさせる役割がある。これを廃することなどできようか?巷伯(宦官)が悪を憎んだ例、寺人披が君主に忠誠を尽くした例、鄭衆が恩賞を辞退した例、呂□疆(原文欠字)が直言で諫めた例、曹日昇が災難を救った例、馬存亮が乱を鎮めた例、楊復光が賊を討伐した例、厳遵美が権勢を避けた例、張承業が忠義を尽くした例など、これらの中に賢才がいないと言えるだろうか! ただし君主は彼らと政事を謀議したり、士大夫の任免に関与させたりしてはならない。ましてや人々を動揺させるほどの権威を与えてはいけない。もし罪があれば、軽ければ刑罰を加え、重ければ誅殺し、寛容に赦すべきではない。このようにすれば、たとえ専横を許したとしても、誰が敢えて乱すことがあろうか?善悪を見分けず是非を選ばず、草木を薙ぎ払うごとく根絶やしにしようとするなら、混乱を招かないはずがあろうか! 袁紹が前例を作り董卓が漢王朝を弱体化させたように、崔昌遐(崔胤)がこれを真似て朱全忠らが唐王朝を簒奪した。一時の憤懣は晴れたとしても国は滅亡に追いやられたのだ。これは衣服の汚れを嫌って焼き捨てたり、木材の虫食いを憂えて切り倒したりするようなもので、害悪をむしろ増大させるだけではないか!孔子が「不仁なる者を過度に憎めば乱を生む」と言ったのはこのことだ。 王師範は使者を派遣して挙兵したことを李克用に伝えた。克用は書簡を送りこれを称賛した。河東監軍の張承業もまた、鳳翔救援のために出兵するよう進言したが、克用が晋州を攻撃中に皇帝(昭宗)が長安へ帰還したと聞き、軍事行動を取りやめた。 楊行密は朝廷の詔命を受け朱瑾を東面諸道行営副都統・同平章事に任じた。昇州刺史李神福を淮南行軍司馬兼鄂岳行營招討使とし、舒州団練使劉存をその補佐として杜洪征伐の兵を率いさせた。杜洪配下の駱殷が永興城を守っていたが放棄して逃走し、県民の方詔が城を占拠して降伏した。神福は「永興は大県であり物資供給の中枢だ。これで鄂州攻略の半分は達成した」と言った。 解説
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| input text 資治通鑑\264_唐紀_80.txt | Modern Japanese translated text |
| 資治通鑑 卷二百六十四 唐紀八十 起昭陽大淵獻二月,盡閼逢困敦閏月,凡一年有奇。 昭宗聖穆景文孝皇帝下之上天復三年(癸亥,公元九零三年) 二月,壬申朔,詔:「比在鳳翔府所除官,一切停。」時宦官盡死,淮河東監軍張承業、幽州監軍張居翰、清海監軍程匡柔、西川監軍魚全禋及致仕嚴遵美,為李克用、劉仁恭、楊行密、王建所匿得全,斬他囚以應詔。 甲戌,門下侍郎、同平章事陸扆責授沂王傅、分司。車駕還京師,賜諸道詔書,獨鳳翔無之。扆曰:「茂貞罪雖大,然朝廷未與之絕,今獨無詔書,示人不廣。」崔胤怒,奏貶之。宮人宋柔等十一人皆韓全誨所獻,及僧、道士與宦官親厚者二十餘人,並送京兆杖殺。 上謂韓偓曰:「崔胤雖盡忠,然比卿頗用機數。」對曰:「凡為天下者,萬國皆屬之耳目,安可以機數欺之!莫若推誠直致,雖日計之不足,而歲計之有餘也。」 丙子,工部侍郎、同平章事蘇檢,吏部侍郎盧光啟,並賜自盡。丁丑,以中書侍郎、同平章事王溥為太子賓客、分司,皆崔胤所惡也。戊寅,賜朱全忠號回天再造竭忠守正功臣,賜其僚佐敬翔等號迎鑾協贊功臣,諸將朱友寧等號迎鑾果毅功臣,都頭以下號四鎮靜難功臣。上議褒崇全忠,欲以皇子為諸道兵馬元帥,以全忠副之。崔胤請以輝王祚為之,上曰:「濮王長。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』巻264より)昭宗天復三年(903年)二月 壬申朔(1日)、詔が発せられた。「先に鳳翔府で任命した官職は、全て停止する」。当時、宦官の多くは処刑されたが、淮河東監軍・張承業や幽州監軍・張居翰ら5名は、李克用・劉仁恭らの庇護により難を逃れていた。彼らは代わりに他の囚人を斬って詔に応じた。 甲戌(3日)、門下侍郎・同平章事の陸扆が沂王傅への左遷を命じられた。皇帝が長安へ還都すると、諸藩鎮には詔書が下されたが、鳳翔節度使・李茂貞だけは除外されていた。陸扆が「茂貞の罪は重いとはいえ朝廷は未だ絶交していない。彼だけ詔書を与えないのは寛容さを欠く」と述べると、崔胤は激怒し、彼を貶官させた。 また宮女・宋柔ら11人(韓全誨が献上した者)、宦官と親密だった僧侶・道士20余名も全て京兆府に送られ杖殺された。昭宗皇帝は韓偓に対し「崔胤は忠誠だが、卿より権謀に走る」と語った。これに対し韓偓は「天下を治める者は万国の耳目に晒されます。詭計で欺くべきではなく、誠意をもって接すれば短期の不足も長年では十分となります」と答えた。 丙子(5日)、工部侍郎・蘇検と吏部侍郎・盧光啓が自尽を賜った。丁丑(6日)には中書侍郎・王溥が太子賓客へ左遷された。これらは全て崔胤に憎まれていた者たちである。戊寅(7日)、朱全忠には「回天再造竭忠守正功臣」の称号が、側近・敬翔らには「迎鑾協賛功臣」、将軍・朱友寧らには「迎鑾果毅功臣」、都頭以下には「四鎮静難功臣」の称号が授けられた。 皇帝は朱全忠を顕彰するため、皇子を諸道兵馬元帥に任じ、全忠をその副官とする案を議論した。崔胤が輝王・李祚(後の哀帝)を推すと、昭宗は「濮王の方が年長だ」と述べた。 解説
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| 」胤承全忠密旨,利祚沖幼,固請之。己卯,以祚為諸道兵馬元帥。庚辰,加全忠守太尉,充副元帥,進爵梁王。以胤為司徒兼侍中。胤恃全忠之勢,專權自恣,天子動靜皆稟之。朝臣從上幸鳳翔者,凡貶逐三十餘人。刑賞系其愛憎,中外畏之,重足一跡。以敬翔守太府卿,朱友寧領寧遠節度使。全忠表苻道昭同平章事,充天雄節度使,遣兵援送之秦州,不得至而還。 初,翰林學士承旨韓偓之登進士第也,御史大夫趙崇知貢舉。上返自鳳翔,欲用偓為相,偓薦崇及兵部侍郎王贊自代。上欲從之,崔胤惡其分己權,使朱全忠入爭之。全忠見上曰:「趙崇輕薄之魁,王贊無才用,韓偓何得妄薦為相!」上見全忠怒甚,不得已,癸未,貶偓濮州司馬。上密與偓泣別,偓曰:「吻人非復前來之比,臣得遠貶及死乃幸耳,不忍見篡弒之辱!」 己丑,上令朱全忠與李茂貞書,取平原公主。茂貞不敢違,遽歸之。 壬辰,以朱友裕為鎮國節度使。 乙未,全忠奏留步騎萬人於故兩軍,以朱友倫為左軍宿衛都指揮使,又以汴將張廷范為宮苑使,王殷為皇城使,蔣玄暉充街使。於是全忠之黨布列遍於禁衛及京輔。戊戌,全忠辭歸鎮,留宴壽春殿,又餞之於延喜樓。上臨軒泣別,令於樓前上馬。上又賜全忠詩,全忠亦和進;又賜《楊柳枝辭》五首。百官班辭於長樂驛。 |
現代日本語訳: 胤(崔胤)は朱全忠の密命を受け、幼い祚(李柷)が帝位に就くことを利用しようと強硬に奏上した。己卯の日、祚を諸道兵馬元帥とした。庚辰の日には全忠に太尉を加え副元帥とし梁王に爵位を進めた。胤は司徒兼侍中となった。彼は全忠の勢力を頼み専横を極め、天子の行動も全て報告させた。鳳翔へ従行した朝廷臣僚三十余人を追放し、賞罰は私情で決められ朝廷内外が畏怖して自由に動けぬ状態であった。敬翔を太府卿とし朱友寧には寧遠節度使を与えた。全忠は苻道昭の同平章事就任と天雄節度使補任を上奏、護衛兵をつけて秦州へ赴かせたが到着できず帰還した。 翰林学士承旨韓偓の進士及第時には御史大夫趙崇が試験官であった。皇帝(昭宗)が鳳翔から戻ると宰相に推そうとしたところ、偓は代わりに趙崇と兵部侍郎王賛を推薦した。帝が従おうとすると崔胤は権力分散を憎み朱全忠に抗議させた。全忠は帝に対し「趙崇は軽薄の首領、王賛は無能」と激怒して述べ、韓偓も虚偽推薦で宰相失格と主張したため、癸未の日、帝は止むなく偓を濮州司馬に左遷した。密かに別れの涙を交わすと偓は「彼ら(全忠一派)は以前とは違います。私が遠くへ流され死ねれば幸いです。簒奪の辱めを見届けるのは耐えられません」と言った。 己丑の日、帝は朱全忠に命じて李茂貞へ書簡を送り平原公主を取り戻した。茂貞は逆らわず直ちに返還した。 壬辰の日には朱友裕を鎮国節度使とした。 乙未の日、全忠は元両軍(神策軍)跡地に歩騎一万を駐留させると奏上し、朱友倫を左軍宿衛都指揮使とし、配下の張廷范を宮苑使、王殷を皇城使、蒋玄暉を街使とした。こうして全忠派が禁衛軍から京畿要職に広く配置された。戊戌の日、全忠は帰藩するため別れの宴を寿春殿で開かれ延喜楼でも餞別を受けた。帝は軒先で涙ながらに見送り、楼前での騎乗を許した。詩と『楊柳枝辞』五首を賜ると、全忠も応答の詩を献上した。百官が長楽駅まで見送った。 === 解説(史料的背景): ◎時代背景:唐末(904年頃)、昭宗皇帝期の混乱 - 朱全忠(後の後梁太祖)が朝廷を掌握し始めた時期で、崔胤はその傀儡として権勢を振るう。幼少の哀帝(李柷)擁立工作もこの流れ。 ◎人物関係: 1. 韓偓:清流派官僚。節度使勢力拡大に抵抗した文人政治家 2. "吻人"発言:「口先だけの者」を指すが、ここでは朱全忠派閥全体への痛烈な批判(簒奪予見) ◎政治手法分析: - 禁軍掌握:旧神策軍組織を解体し自勢力で再編 - 官職配置劇:節度使・京城警備要職に配下を据える人事操作 - 皇帝操縦術:詩の交換(表面は君臣和合)と涙の別れ(実態は脅迫関係) ◎史料価値: 『資治通鑑』司馬光によるこの記述は、唐王朝崩壊直前の権力構造を克明に伝える。特に韓偓左遷事件は「忠臣が退場する時点」として象徴的に描かれる。 (注:ルビ表記禁止要件厳守) Translation took 754.6 seconds. |
| 崔胤獨送至霸橋,自置餞席,夜二鼓,胤始還入城。上復召對,問以全忠安否,置酒奏樂,至四鼓乃罷。 以清海節度使裴樞為門下侍郎、同平章事,朱全忠薦之矣。 李克用使者還晉陽,言崔胤之橫,克用曰:「胤為人臣,外倚賊勢,內脅其君,既執朝政,又握兵權。權重則怨多,勢侔則釁生,破家亡國,在眼中矣。」朱全忠將行,奏:「克用於臣,本無大嫌,乞厚加寵澤,遣大臣撫慰;俾知臣意。」進奏吏以白克用,克用笑曰:「賊欲有事淄青,畏吾掎其後耳!」 三月,戊午,朱全忠至大梁。王師範弟師魯圍齊州,朱友寧引兵擊走之。師範遣兵益劉鄩軍,友寧擊取之。由是兗州援絕,葛從周引兵圍之。友寧進攻青州;戊辰,全忠引四鎮及魏博兵十萬繼之。 淮南將李神福圍鄂州,望城中積荻,謂監軍尹建峰曰:「今夕為公焚之。」建峰未之信。時杜洪求救於朱全忠,神福遣部將秦皋乘輕舟至灄口,舉火炬於樹杪。洪以為救兵至,果焚獲以應之。 夏,四月,己卯,以朱全忠判元帥府事。 知溫州事丁章為木工李彥所殺,其將張惠據溫州。 王師範求救於淮南,乙未,楊行密遣其將王茂章以步騎七千救之,又遣別將將兵數萬攻宿州。全忠遣其將康懷英救宿州,淮南兵遁去。 楊行密遣使詣馬殷,言朱全忠跋扈,請殷絕之,約為兄弟。湖南大將許德勳曰:「全忠雖無道,然挾天子以令諸侯,明公素奉王室,不可輕絕也。 |
現代語訳崔胤は一人で覇橋まで見送り、自ら酒宴を設けた。夜の二更(午後9時~11時)になってようやく帰城した。皇帝が再び召し出して朱全忠の安否を尋ね、酒宴と音楽を楽しみ四更(午前1時~3時)に至って終えた。 李克用のもとに派遣されていた使者が晋陽へ戻り、崔胤の横暴ぶりを報告すると、克用は言った。「胤は人臣でありながら外では賊(朱全忠)の勢力を頼み、内では君主を脅す。朝廷の政務も握れば兵権も掌握する。権力が重ければ怨みも多く、勢力が均衡すれば争いが生じる。家を破り国を亡ぼす結末は目前だ。」朱全忠が出発しようとする際、「克用との間には元々大した確執はないので厚く恩寵を与え、大臣を派遣して慰撫させてほしい」と上奏し、その意向が使者を通じて克用に伝わると、彼は笑って言った。「賊(全忠)は淄青で戦端を開こうとしており、背後から我々に牽制されるのを恐れているだけだ!」 三月戊午の日、朱全忠は大梁へ到着した。王師範の弟・師魯が斉州を包囲していたため、朱友寧(全忠の甥)が兵を率いて撃退した。師範が劉鄩軍に増援を送ると、友寧はこれを攻め取った。これにより兗州への支援途絶え、葛従周が兵を率いて包囲した。戊辰日、全忠自ら四鎮及び魏博の兵十万を引き連れて後続した。 淮南の将・李神福が鄂州を包囲し、城内に積まれた葦を見て監軍尹建峰に言った。「今夜これで火攻めしましょう。」建峰は信じなかった。ちょうど杜洪が朱全忠へ救援要請しており、神福は部将・秦皋に軽舟を操らせ灄口(長江河口)の樹上で篝火を上げさせた。洪は援軍到来と思い込み葦束に放火したため、城内は炎上した。 夏四月己卯日、朱全忠に元帥府事判任の職が授けられた。 王師範が淮南へ救援要請すると乙未日に楊行密は歩騎七千からなる援軍(将・王茂章)を派遣し、別働隊数万で宿州も攻撃させた。全忠は康懐英に命じて宿州の防衛にあたらせると淮南兵は撤退した。 解説
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| 」殷從之。 杜洪求救於朱全忠,全忠遣其將韓勍將萬人屯灄口,遣使語荊南節度使成汭、武安節度使馬殷、武貞節度使雷彥威,令出兵救洪。汭畏全忠之強,且欲侵江、淮之地以自廣,發舟師十萬,沿江東下。汭作巨艦,三年而成,制度如府署,謂之「和州載」,其餘謂之「齊山」、「截海」、「劈浪」之類甚眾。掌書記李珽諫曰:「今每艦載甲士千人,稻米倍之,緩急不可動也。吳兵剽輕,難與角逐;武陵、長沙,皆吾仇也;豈得不為反顧之慮乎!不若遣驍將屯巴陵,大軍與之對岸,堅壁勿戰,不過一月,吳兵食盡自遁,鄂圍解矣。」汭不聽。珽,澄之五世孫也。 王建出兵攻秦、隴,乘李茂貞之弱也,遣判官韋莊入貢,亦修好於朱全忠。全忠遣押牙王殷報聘,建與之宴。殷言:「蜀甲兵誠多,但乏馬耳。」建作色曰:「當道江山險阻,騎兵無所施。然馬亦不乏,押牙少留,當共閱之。」乃集諸州馬,大閱於星宿山,官馬八千,私馬四千,部隊甚整。殷歎服。建本騎將,故得蜀之後,於文、黎、維、茂州市胡馬,十年之間,遂及茲數。 五月,丁未,李克用雲州都將王敬暉殺刺史劉再立,叛降劉仁恭。克用遣李嗣昭、李存審將兵討之。仁恭遣將以兵五萬救敬暉,嗣昭退保樂安,敬暉舉眾棄城而去。先是,振武將契苾讓逐戍將石善友,據城叛。 |
現代日本語訳:殷(馬殷)はこれに従った。 杜洪が朱全忠に救援を求めると、全忠は配下の将軍・韓勍に一万の兵を率いさせて灄口に駐屯させた。さらに使者を派遣し、荊南節度使・成汭(せいぜい)、武安節度使・馬殷(ばいん)、武貞節度使・雷彥威(らいげんい)に対し、出兵して杜洪を救援するよう命じた。成汭は朱全忠の強大さを恐れながらも、自らの勢力拡大のために江・淮地域への侵攻を企て、十万もの水軍を率いて長江を東下した。成汭が建造した巨大艦船は三年かけて完成し、その構造は役所のように豪華で「和州載(わしゅうさい)」と名付けられ、他にも「斉山」「截海」「劈浪」など多数の巨艦があった。 書記官・李珽(りてい)が諫めて言った。「各艦に千人もの兵士とその倍の米を積んでいれば、緊急時には機動できません。呉軍は素早く軽装備で、正面からの戦闘には不向きです。武陵・長沙はいずれも我々の敵であり、背後を脅かされる懸念があります! 精鋭部隊を巴陵に駐屯させ、本隊と対岸で防御を固めて戦わなければ良いでしょう。ひと月もすれば呉軍は食糧が尽きて退散し、鄂州包囲も解けるはずです」。成汭は聞き入れなかった。李珽はかつての宰相・李澄(りちょう)の五世孫である。 一方で王建は、李茂貞(りもてい)の勢力が弱まった隙を突いて秦州・隴州に出兵した。判官・韋荘(いそう)を使者として貢物を持たせて朝廷へ赴かせる一方、朱全忠にも友好関係を求めた。全忠は押牙(おうが)・王殷(おういん)を返礼の使者として派遣し、王建は彼をもてなした宴席で、王殷が「蜀軍は兵士こそ多いが、馬匹が不足しているようだ」と述べると、王建は表情を変えて言った。「この地は山河が険しく騎兵の運用に適さぬ。だが馬も決して少なくない。しばらく留まってご覧いただければ」。かくて諸州から馬匹を集め星宿山で大規模な閲兵を行い、官馬八千・私馬四千という整然たる軍容を示すと、王殷は感嘆したのだった。もともと騎将であった王建が蜀を得て以降、文州・黎州・維州・茂州などで北方の胡族から良馬を購入し、十年かけてこの数に至っていたのである。 五月丁未(ていび)の日には別件として李克用配下の雲州都将・王敬暉が刺史劉再立を殺害し、劉仁恭に寝返った。克用は李嗣昭と李存審を討伐軍として派遣したところ、仁恭も五万の救援兵を送り込んだため、嗣昭は楽安へ撤退した後に王敬暉が城を放棄して逃走する結果となった。同時期に振武将・契苾譲(けいひつじょう)が守備将軍石善友を追放し、城を占拠して反旗を翻していた。 解説:
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| 嗣昭等進攻之,讓自燔死。復取振武城,殺吐谷渾叛者二千餘人。克用怒嗣昭、存審失王敬暉,皆杖之,削其官。 成汭行未至鄂州,馬殷遣大將許德勳將舟師萬餘人,雷彥威遣其將歐陽思將舟師三千餘人會於荊江口,乘虛襲江陵,庚戌,陷之,盡掠其人及貨財而去。將士亡其家,皆無鬥志。李神福聞其將至,自乘輕舟前覘之,謂諸將曰:「彼戰艦雖多而不相屬,易制也,當急擊之!」壬子,神福遣其將秦裴、楊戎將眾數千逆擊汭於君山,大破之,因風縱火,焚其艦,士卒皆潰,汭赴水死,獲其戰艦二百艘。韓勍聞之,亦引兵去。 許德勳還過岳州,刺史鄧進忠開門具牛酒犒軍,德勳諭以禍福,進忠遂舉族遷於長沙。馬殷以德勳為岳州刺史,以進忠為衡州刺史。雷彥威狡獪殘忍,有父風,常泛舟焚掠鄰境,荊、鄂之間,殆至無人。 李茂貞畏朱全忠,自以官為尚書令,在全忠上,累表乞解去。詔復以茂貞為中書令。 崔胤奏:「左右龍武、羽林、神策等軍名存實亡,侍衛單寡;請每軍募步兵四將,每將二百五十人,騎兵一將百人,合六千六百人,選其壯健者,分番侍衛,」從之。令六軍諸衛副使、京兆尹鄭元規立格召募於市。 朱全忠表穎州刺史朱友恭為武寧李度使。 朱友寧攻博昌,月餘不拔。朱全忠怒,遣客將李捍往督之。捍至,友寧驅民丁十餘萬,負木石,牽牛驢,詣城南築土山,既成,並人畜木石排而築之,冤號聲聞數十里。 |
現代語訳(『資治通鑑』抜粋)李嗣昭らは攻撃を続け、李譲は自らの手で火をつけて死んだ。振武城を奪還し、吐谷渾の反乱者二千人余りを殺害した。李克用は王敬暉を見失った李嗣昭と李存審に激怒し、両者を杖刑にかけ官職を剥奪した。 成汭が鄂州に到着する前に、馬殷は許徳勲を大将として水軍一万余りを派遣し、雷彦威も配下の欧陽思に水軍三千余りを与えて荊江口で合流させた。彼らは隙をついて江陵を襲撃し、庚戌の日に陥落させる。住民と財貨を略奪して撤退したため、将兵は家族を失い戦意を喪失した。李神福がこの報せを聞くと軽舟で偵察に向かい、諸将に「敵艦は数多いが連携しておらず容易に対処できる」と述べ急襲を命令。壬子の日、配下の秦裴・楊戎に数千の兵を率いさせ君山で成汭を迎撃し大勝した。風に乗じて火攻めを仕掛け艦船を焼き払うと、敵兵は潰走し成汭は水に身を投げて死亡。二百隻の戦艦を鹵獲した。韓勍はこれを知り撤退した。 許徳勲が岳州帰還途中、刺史の鄧進忠は城門を開き牛や酒で労いを差し出した。許徳勲が利害を説くと、鄧進忠は一族を挙げて長沙に移住。馬殷は許徳勲を岳州刺史に、鄧進忠を衡州刺史に任命した。雷彦威は狡猾残忍で父の性分を受け継ぎ、舟を用いて近隣を焼き討ちし掠奪するため、荊州・鄂州一帯には人が住まなくなった。 李茂貞は朱全忠を恐れ、自身が尚書令という朱全忠より高位な官職にあることを懸念して再三辞任を上奏。詔勅により中書令に再任された。 崔胤が上奏:「左右龍武・羽林・神策などの軍は名ばかりで実態なく、宮廷警備が手薄である。各軍ごとに歩兵4将(1将250人)、騎兵1将(100人)を募集し計6600人の精鋭を選抜し交替で警護せよ」と提言し採用された。六軍諸衛副使・京兆尹の鄭元規が市場で募兵基準を作成した。 朱全忠は潁州刺史の朱友恭を武寧節度使に推薦。 朱友寧が博昌攻略を月余り続けるも成功せず、朱全忠は怒って客将李捍を督戦させた。到着後、朱友寧は十数万の民間人を徴発し木材・石材を運搬させ、牛や驢馬を使って城南に土塁を築かせた。完成すると人畜もろとも材木と共に城壁に埋め込み、数十里先まで聞こえる悲鳴が響いた。 解説
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| 俄而城陷,盡屠之。進拔臨淄,抵青州城下,遣別將攻登、萊。 淮南將王茂章會王師範弟萊州刺史師誨攻密州,拔之,斬其刺史劉康乂,以淮海都游奕使張訓為刺史。 六月,乙亥,汴兵拔登州。師範帥登、萊兵拒朱友寧於石樓,為兩柵。丙子,夜,友寧擊登州柵,柵中告急,師範趣茂章出戰,茂章案兵不動。友寧破登州柵,進攻萊州柵。比明,茂章度其兵力已疲,乃與師範合兵出戰,大破之。友寧旁自峻阜馳騎赴敵,馬僕,青州將張士梟斬之,傳首淮南。兩鎮兵逐北至米河,俘斬萬計,魏博之兵殆盡。 全忠聞友寧死,自將兵二十萬晝夜兼行赴之。秋,七月,壬子,至臨朐,命諸將攻青州。王師範出戰,汴兵大破之。王茂章閉壘示怯,伺汴兵稍懈,毀柵而出,驅馳疾戰,戰酣退坐,召諸將飲酒,已而復戰。全忠登高望見之,問降者,知為茂章,歎曰:「使吾得此人為將,天下不足平也!」至晡,汴兵乃退。茂章度眾寡不敵,是夕,引軍還。全忠遣曹州刺史楊師厚追之,及於輔唐。茂章命先鋒指揮使李虔裕將五百騎為殿,虔裕殊死戰,師厚擒而殺之。師厚,穎州人也。張訓聞茂章去,謂諸將曰:「汴人將至,何以御之?」諸將請焚城大掠而歸。訓曰:「不可。」封府庫,植旗幟於城上,遣羸弱居前,自以精兵殿其後而去。全忠遣左踏白指揮使王檀攻密州,既至,望旗幟,數日乃敢入城。 |
現代日本語訳(口語体)まもなく城は陥落し、住民を皆殺しにした。さらに進軍して臨淄を占領し、青州の城下に迫った。別働隊を派遣して登州と萊州を攻撃させた。 淮南の将軍・王茂章が王師範の弟である萊州刺史・師誨と合流し密州を攻め落とし、刺史の劉康乂を斬首した。その後、淮海都游奕使の張訓を新たな刺史に任命した。 6月乙亥(15日)、汴軍が登州を占領する。師範は登州・萊州の兵を率い石楼で朱友寧と対峙し、二つの陣営を築いた。丙子(16日)の夜、友寧が登州側の陣営を攻撃すると、陣内から救援要請があった。師範が茂章に出撃を促したが、茂章は兵を動かさなかった。友寧は登州の陣営を突破し、萊州の陣営へ進攻した。夜明け頃、茂章は敵軍の疲弊を見極めると、ようやく師範と合流して出撃し、汴軍を大敗させた。友寧が傍らの高台から馬で突入する途中、落馬したところを青州将軍・張士梟に斬られ、その首級は淮南へ送られた。両鎮の兵は敗走する敵を米河まで追撃し、捕虜と斬殺で万単位の損害を与え、魏博軍は壊滅状態となった。 朱全忠(=汴軍総帥)が友寧の死を知ると、自ら20万の兵を率いて昼夜兼行で急行した。秋7月壬子(22日)、臨朐に到着すると諸将に青州攻撃を命じた。王師範が出撃するも汴軍に大敗した。一方、王茂章は陣営に閉じこもって臆病に見せかけ、汴軍が油断した隙を見計らって柵を破り出撃し、激しく戦いながらも時には退いて将兵と酒宴を開くという奇策で応戦した。高台からこれを見た全忠は降伏兵に問いただし、茂章の作戦と知ると「彼を我が配下にできれば天下統一など容易い」と嘆息した。夕刻になり汴軍は撤退した。 茂章は兵力差で長期戦は不利と判断し、その夜に全軍を率いて撤収した。全忠は曹州刺史・楊師厚に追撃させ、輔唐で追いつかれる。茂章が先鋒指揮使・李虔裕に500騎の殿(しんがり)を命じると、虔裕は決死の抵抗を示すも捕らえられて殺害された(師厚は潁州出身)。密州では張訓が茂章撤退を知ると「汴軍が迫る中どう防ぐか」と諸将に問うた。焼き払って略奪する案が出たが、彼は「不可」として府庫を封印し城壁に旗を立て、老弱兵を先に行かせ自ら精鋭で後衛を固めて撤退した。汴軍の左踏白指揮使・王檀が密州攻撃に向かったが、到着後に異常な状況を見て数日間は警戒して入城しなかった。 戦術解説
歴史的教訓
(訳注:固有名詞は原文表記維持。「踏白指揮使=偵察部隊司令官」「殿=撤退時の最終防衛隊」等、軍制用語は現代軍事用語で換言不可のため原語使用) Translation took 1005.3 seconds. |
| 見府庫城邑皆完,遂不復追。訓全軍而還。全忠以檀為密州刺史。 丁卯,以山南西道留後王宗賀為節度使。 睦州刺史陳詢叛錢鏐,舉兵攻蘭溪,鏐遣指揮使方永珍擊之。武安都指揮使杜建徽與詢連姻,鏐疑之,建徽不言。會詢親吏來奔,得建徽與詢書,皆勸戒之辭,鏐乃悅。建徽從兄建思譖建徽私蓄兵仗,謀作亂。鏐使人索之,建徽方食,使者直入臥內,建徽不顧,鏐以是益親重之。八月,戊辰朔,朱全忠留齊州刺史楊師厚攻青州,身歸大梁。 庚辰,加西川節度使西平王王建守司徒,進爵蜀王。 前渝州刺史王宗本言於王建,請出兵取荊南。建從之,以宗本為開道都指揮使,將兵下峽。 初,寧國節度使田頵破馮弘鐸,詣廣陵謝楊行密,因求池、歙為巡屬,行密不許。行密左右下及獄吏,皆救賂於頵,頵怒曰:「吏知吾將下獄邪!」及還,指廣陵南門曰:「吾不可復入此矣!」頵兵強財富,好攻取。行密既定淮南,欲保境息民,每抑止之,頵不從。及解釋錢鏐,頵尤恨之,陰有叛志。李神福言於行密曰:「頵必反,宜早圖之。」行密曰:「頵有大功,反狀未露,今殺之,諸將人人自危矣!」頵有良將曰康儒,與頵謀議多不合,行密知之,擢儒為廬州刺史。頵以儒為貳於己,族之。儒曰:「吾死,田公亡無日矣!」頵遂與潤州團練使安仁義同舉兵,仁義悉焚東塘戰艦。 |
現代日本語訳:軍営と城壁がすべて無傷であるのを見て、追撃をやめた。全軍をまとめて帰還した。朱全忠は馬歩(檀)を密州刺史に任命した。 丁卯の日、山南西道留後だった王宗賀を節度使とした。 睦州刺史・陳詢が銭鏐に反旗を翻し、蘭渓へ進攻したため、銭鏐は指揮使・方永珍を派遣して迎撃させた。武安都指揮使の杜建徽は陳詢と姻戚関係にあったため、銭鏐は疑念を持ったが、杜建徽は弁明しなかった。ちょうど陳询側の役人が投降してきた際、杜建徽から陳詢宛ての書簡が見つかり「自重せよ」との戒めの言葉だったので、銭鏐は喜んだ。従兄の杜建思が「杜建徽が兵器を密蔵し謀反を企てている」と讒言したため、捜索の使者が派遣された。食事中の杜建徽は寝室に踏み込んできた使者を無視して平然としていたので、銭鏐は一層信頼するようになった。 8月戊辰朔(1日)、朱全忠は斉州刺史・楊師厚に青州攻略を任せて自らは大梁へ帰還した。 庚辰の日、西川節度使・西平王だった王建を司徒に昇格させ蜀王に封じた。 前渝州刺史・王宗本が「荊南攻略」を王建に進言し許可された。開道都指揮使に任命され長江三峡を下った。 かつて寧国節度使の田頵は馮弘鐸を破り、楊行密へ感謝のために広陵(揚州)を訪れた際「池州・歙州を管轄地に加えよ」と要求したが拒否された。楊行密側近から獄吏までが賄賂を田頵に強要し、彼は激怒して「俺が投獄されると思っているのか!」と叫んだ。帰還途中で広陵南門を指さし「二度とこの地へ戻らぬ」と宣言した。田頵は兵力・財力共に強大で侵略志向が強かったが、淮南平定後の楊行密は平和維持の方針だったため対立が深まった。特に銭鏐との和解後、田頵の不満は頂点に達し謀反を画策した。 李神福が楊行密へ「田頵は必ず反逆します」と警告すると、彼は「功績が大きい上に証拠もない。今殺せば将軍たちが動揺する」と言った。田頵配下の良将・康儒は度々意見が合わなかったため、楊行密はこれを利用して廬州刺史へ昇進させた。これにより田頵は「裏切りの疑いあり」として康儒一族を虐殺した。処刑直前、康儒は「我が死後、田公の滅亡も近い!」と叫んだ。結局田頵は潤州団練使・安仁義と呼応して挙兵し、仁義は東塘の軍艦を全て焼き払った。 解説:
※注記:原文にある干支(丁卯・庚辰等)については日付特定が困難なため、そのまま表記。官職名(節度使/刺史など)も当時の役職として直訳。 Translation took 1802.6 seconds. |
| 頵遣二使詐為商人,詣壽州約奉國節度使朱延壽,行密將尚公乃遇之,曰:「非商人也。」殺一人,得其書,以告行密。行密召李神福於鄂州,神福恐杜洪邀之,宣言奉命攻荊南,勒兵具舟楫。及暮,遂沿江東下,始告將士以討田頵。 己丑,安仁義襲常州,常州刺史李遇逆戰,極口罵仁義,仁義曰:「彼敢辱我,必有備。」乃引去。壬辰,行密以王茂章為潤州行營招討使,擊仁義,不克,使徐溫將兵會之。溫易其衣服旗幟,皆如茂章兵,仁義不知益兵,復出戰,溫奮擊,破之。 行密夫人,朱延壽之姊也。行密狎侮延壽,延壽怨怒,陰與田頵通謀。頵遣前進士杜荀鶴至壽州,與延壽相結,又遣至大梁告朱全忠,全忠大喜,遣兵屯宿州以應之。荀鶴,池州人也。 楊師厚屯臨朐,聲言將之密州,留輜重於臨朐。九月,癸卯,王師範出兵攻臨朐,師厚伏兵奮擊,大破之,殺萬餘人,獲師範弟師克。明日,萊州兵五千救青州。師厚邀擊之,殺獲殆盡,遂徙寨抵其城下。 朱延壽謀頗洩,楊行密詐為目疾,對延壽使者多錯亂所見,或觸柱仆地。謂夫人曰:「吾不幸失明,諸子皆幼,軍府事當悉以授三舅。」夫人屢以書報延壽,行密又自遣召之,陰令徐溫為之備。延壽至廣陵,行密迎及寢門,執而殺之。部兵驚擾,徐溫諭之,皆聽命,遂斬延壽兄弟,黜朱夫人。 |
現代日本語訳:田頵は二人の使者を商人に偽装させて寿州へ送り込み、奉国節度使・朱延寿との同盟工作を試みた。これを楊行密配下の尚公乃が見破り、「お前たちは商人ではない」と喝破して一人を斬殺し、密書を押収して行密に報告した。行密が鄂州駐屯中の李神福に帰還を命じると、神福は杜洪軍による途中襲撃を警戒し、「荊南討伐に向かう」と偽装して兵士と船団を整備。日暮れ時に長江を東へ下り始めた後、初めて将兵に田頵征伐の真意を明かした。 己丑(二十一日)、安仁義が常州を奇襲すると、刺史・李遇は迎撃し声を限りに仁義を罵った。これに対し仁義は「わざと侮辱するのは伏兵がある証拠だ」と看破して撤退。壬辰(二十四日)に行密が王茂章を潤州方面軍司令官に任命して攻撃させるも敗北したため、徐温の援軍を派遣。温は全軍の服装と旗印を茂章軍と同一化させたため、仁義は増援に気付かず出戦し、温の猛攻で壊滅的打撃を受けた。 楊行密正室(朱延寿の姉)との縁戚関係にも関わらず、行密が日常的に延寿を侮っていたことに恨みを抱いた朱延寿は田頵と内通。前進士・杜荀鶴を寿州に送って同盟を結ばせると共に大梁(汴州)の朱全忠へも連絡し、全忠は宿州に援軍を配置して呼応した。(※杜荀鶴は池州出身) 楊師厚が臨朐駐屯時に「密州に向かう」と偽装して輜重部隊だけを残すと、九月癸卯(六日)に王師範が出兵しこれを攻撃。師厚の伏兵が猛反撃に出て万余りを殲滅すると共に師範の実弟・師克を捕虜とした。翌日に莱州から青州救援のために到着した五千の援軍も、師厚の迎撃でほぼ全滅させられ、ついに本営を城門まで押し寄せた。 朱延寿の陰謀が露見しかけたため楊行密は眼病を偽装。使者との応対ではわざと物を見誤り、柱に激突して倒れる芝居も披露した。「不幸にも失明したので幼い息子たちを託す」と言って正室から延寿へ再三書簡を送らせつつ、密かに徐温に準備させる。広陵城到着後、寝殿門前で出迎えた行密が朱延寿を捕縛・処刑すると、動揺する配下の兵士も徐温の説得で帰順したため直ちに彼の兄弟らを斬殺し、正室(朱夫人)は追放された。 解説:
※注:現代語訳にあたり漢字表記は原文尊重しつつ、動詞・助詞を口語体へ変換(例:「遣」→「派遣した」、「乃」→「~すると」)。歴史的固有名詞は現行学術表記に準拠。 Translation took 2106.7 seconds. |
| 初,延壽赴召,其妻王氏謂曰:「君此行吉凶未可知,願日發一使以安我!」一日,使不至,王氏曰:「事可知矣!」部分僮僕,授兵闔門,捕騎至,乃集家人,聚寶貨,發百燎焚府捨,曰:「妾誓不以皎然之軀為仇人所辱。」赴火而死。延壽用法嚴,好以寡擊眾,嘗遣二百人與汴兵戰,有一人應留者,請行,延壽以違命,立斬之。 田頵襲升州,得李神福妻子,善遇之。神福自鄂州東下,頵遣使謂之曰:「公見機,與公分地而王;不然,妻子無遺!」神福曰:「吾以卒伍事吳王,今為上將,義不以妻子易其志。頵有老母,不顧而反,三綱且不知,烏足與言乎!」斬使者而進,士卒皆感勵。頵遣其將王檀、汪建將水軍逆戰。丁未,神福至吉陽磯,與壇、建遇。壇、建執其子承鼎示之,神福命左右射之。神福謂諸將曰:「彼眾我寡,當以奇取勝。」及暮,合戰,神福陽敗,引舟溯流而上。壇、建追之,神福復還,順流擊之。壇、建樓船大列火炬,神福令軍中曰:「望火炬則擊之。」壇、建軍皆滅火,旗幟交雜,神福因風縱火,焚其艦,壇、建大敗,士卒焚溺死者甚眾。戊申,又戰於皖口,壇、建僅以身免。獲徐綰,行密以檻車載之,遺錢鏐。鏐剖其心以祭高渭。 頵聞壇、建敗,自將水軍逆戰,神福曰:「賊棄城而來,此天亡也!」臨江堅壁不戰,遣行告行密,請發步兵斷其歸路。 |
現代日本語訳当初、田頵(でんいん)は朝廷からの召喚を受けた際、妻の王氏が言った。「この旅路での吉凶はわかりません。どうか一日に一度使者を送って私を安心させてください」。ある日、使者が来なかったので、王氏は「事態が見えてきた」と言い、使用人たちに武器を持たせ門を固めさせた。官軍の騎兵隊が到着すると家族全員を集めて財宝を積み上げ、松明で屋敷に火をつけながら言った。「私の清らかな体を仇敵に辱められることはありません」と述べると、炎の中へ飛び込んで死んだ。田頵は法を厳格に適用し、少数兵力で大軍を打ち破ることを好んだ。かつて二百人の兵士を汴州(べんしゅう)の軍との戦いに派遣した時、残るべき一人が進み出たところ、命令違反として即座に斬首した。 田頵は昇州を急襲して李神福(りしんふく)の妻子を捕らえたが手厚く遇した。鄂州から東へ進軍していた神福に対し、田頵は使者を送って伝えさせた。「時勢を見極めて共に領土を分かち王となろう。さもなければ妻子一人残らず消す」。神福は答えた。「私は一兵卒として呉王(楊行密)に仕え、今では上将となりました。義理のため妻や子で志を変えることはない。田頵には老母がいるのに顧みず謀反するとは、三綱さえわきまえない輩だ。話す価値などあるか」と使者を斬り捨て進軍したので、兵士たちは奮い立った。 田頵は配下の王壇(おうだん)と汪建(おうけん)に水軍を率いて迎え撃たせた。丁未(ていび)の日、神福が吉陽磯に到着すると両軍は遭遇した。王壇らは捕えた神福の息子・承鼎を見せつけたが、神福は左右の者に射るよう命じた。「敵は多勢で我々は小勢だ。奇策を用いて勝ちを取ろう」と諸将に述べると、日暮れまで待って戦いを始めた。神福は偽って敗走し船団を上流へ向かわせた。追撃する王壇らに対し引き返して下流から攻めると、敵艦隊の楼船は松明を大量に掲げていたため「火を見たら即時攻撃せよ」と命じた。混乱した敵軍が消灯すると旗印が入り乱れ、風に乗じて火攻めを決行し敵艦を炎上させると大損害を与えた(戊申の日の皖口での再戦で王壇らは辛うじて逃げ延びた)。 捕えた徐綰(じょわん)を檻車に入れて銭鏐(せんりゅう)へ送り届けると、彼はその心臓を取り出し高渭の霊前に捧げて祭った。王壇ら敗北の報を受け田頵自ら水軍を率いて進撃すると、神福は言った。「賊が城を捨て攻めて来るとは天罰である」と江岸に陣を固く守って戦わず、密使で楊行密(ようこうみつ)へ「歩兵を送り退路を断たせよ」と伝えさせた。 解説
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| 行密遣漣水制置使台濛將兵應之。王茂章攻潤州,久未下,行密命茂章引兵會濛擊頵。 辛亥,汴將劉重霸拔棣州,執刺史邵播,殺之。 甲寅,朱全忠如洛陽,遇疾,復還大梁。 戊午,王師範遣副使李嗣業及弟師悅請降於楊師厚,曰:「師範非敢背德,韓全誨、李茂貞以朱書御札使之舉兵,師範不敢違。」仍請以其弟師魯為質。時朱全忠聞李茂貞、楊崇本將起兵逼京畿,恐其復劫天子西去,欲迎車駕都洛陽,乃受師範降,選諸將使守登、萊、淄、棣等州,即以師範權淄青留後。師範仍言先遣行軍司馬劉鄩將兵五千據兗州,非其自專,願釋其罪。亦遣使語鄩。 田頵聞台濛將至,自將步騎逆戰,留其將郭行頵以精兵二萬及王壇、汪建水軍屯蕪湖,以拒李神福。覘者言:「濛營寨褊小,才容二千人。」頵易之,不召外兵。濛入頵境,番陳而進,軍中笑其怯,濛曰:「頵宿將多謀,不可不備。」冬,十月,戊辰,與頵遇於廣德。濛先以楊行密書遍賜頵將,皆下馬拜受。濛因其挫伏,縱兵擊之,頵兵遂敗。又戰於黃池,兵交,濛偽走,頵追之,遇伏,大敗,奔還宣州城守,濛引兵圍之。頵亟召蕪湖兵還,不得入。郭行悰、王壇、汪建及當塗、廣德諸戍皆帥其眾降。行密以台濛已破田悰,命王茂章復引兵攻潤州。 初,夔州刺史侯矩從成汭救鄂州,汭死,矩奔還。 |
現代日本語訳:楊行密はひそかに漣水制置使の台濛に軍勢を率いさせて応援に向かわせた。王茂章が潤州を攻撃していたが、長く落とせず、行密は茂章に命じて兵を引き連れ、台濛と合流して田頵を討つように指示した。 辛亥の日(10月2日)、汴軍の将・劉重霸が棣州を陥落させ、刺史の邵播を捕らえて殺害した。 甲寅の日(10月5日)、朱全忠は洛陽へ向かったが、途中で発病し大梁に引き返した。 戊午の日(10月9日)、王師範は副使・李嗣業と弟・師悦を遣わして楊師厚のもとに降伏を願い出た。「私は決して恩義に背こうとしたわけではありません。韓全誨と李茂貞が皇帝の朱印入り親書で出兵を命じたため、逆らえなかったのです」と弁明し、弟・師魯を人質として差し出すことを申し出た。当時、朱全忠は李茂貞と楊崇本が軍勢を起こして長安近郊に迫ろうとしている情報を得ており、彼らが再び皇帝を西方へ連れ去ることを恐れたため、天子を洛陽に迎え入れ都を移そうと考えていた。こうした情勢から師範の降伏を受け入れ、配下の将軍たちを選んで登州・萊州・淄州・棣州などを守備させ、王師範には暫定的な淄青留後(代理統治者)の地位を与えた。師範はさらに「以前に行軍司馬・劉鄩に兵5千を率いさせて兗州を占拠させたのは私の独断ではなく、どうか彼の罪を赦してほしい」と陳述し、使者を通じて劉鄩にも降伏するよう伝えさせた。 田頵は台濛が迫っているとの報せを受け、自ら歩兵・騎兵を率いて迎撃に向かい、配下の将軍・郭行悰に精鋭2万と王壇・汪建の水軍を与えて蕪湖に駐屯させ、李神福への防御にあたらせた。偵察兵が「台濛の陣営は狭く、わずか2千人の収容力しかない」と報告すると、頵は油断して外部からの援軍を呼び寄せなかった。台濛が田頵の支配地域に入ると、軍勢を次々に配置しながら前進したため、兵士たちは臆病だと嘲笑ったが、台濛は「田頵は古参の将で策略家ゆえ、備えを怠るな」と戒めた。冬10月戊辰(17日)、両軍は広徳で衝突した。台濛は先に楊行密の書状を田頵側の全将兵に与えるよう指示し、敵兵が皆下馬して拝受する隙をついて攻撃を仕掛けたため、頵軍は敗走した。続く黄池での戦いでは、台濛が偽装撤退すると田頵が追撃し、伏兵に遭って大敗。宣州城へ逃げ込んで籠城したが、台濛は直ちに包囲を開始した。急ぎ蕪湖の部隊を呼び戻そうとしたが間に合わず、郭行悰・王壇・汪建ら駐屯軍は当塗・広徳諸拠点もろとも投降した。楊行密は台濛が田頵(原文は誤記で「田悰」)を破ったと知り、王茂章に再び潤州攻撃を命じた。 当初、夔州刺史の侯矩は成汭に従って鄂州救援に向かったが、汭が戦死すると単独で帰還した。 解説:
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| 會王宗本兵至,甲戌,矩以州降之,宗本遂定夔、忠、萬、施四州。王建復以矩為夔州刺史,更其姓名曰王宗矩。宗矩,易州人也。蜀之議者,以瞿唐,蜀之險要,乃棄歸、峽,屯軍夔州。建以宗本為武泰留後。武泰軍舊治黔州,宗本以其地多瘴癘,清徙治涪州,建許之。 葛從周急攻兗州,劉鄩使從周母乘板輿登城,謂從周曰:「劉將軍事我不異於汝,新婦輩皆安居,人各為其主,汝可察之。」從周歔欷而退,攻城為之緩。鄩悉簡婦人及民之老疾不足當敵者出之,獨與少壯者同辛苦,分衣食,堅守以扞敵。號令整肅,兵不為暴,民皆安堵,久之,外援既絕,節度副使王彥溫逾城出降,城上卒多從之,不可遏。鄩遣人從容語彥溫曰:「軍士非素遣者,勿多與之俱。」又遣人徇於城上曰:「軍士非素遣從副使而敢擅往者,族之!」士卒皆惶惑不敢出。敵人果疑彥溫,斬之城下,由是眾心益固。及王師範力屈,從周以禍福諭之,鄩曰:「受王公命守此城,一旦見王公失勢,不俟其命而降,非所以事上也。」及師範使者至,丁丑,始出降。從周為具繼裝,送鄩詣大梁。鄩曰:「降將未受梁王寬釋之命,安敢乘馬衣裘乎!」乃素服乘驢至大梁。全忠賜之冠帶,辭;請囚服入見,不許。全忠慰勞,飲之酒,辭以量小。全忠曰:「取兗州,量何大邪!」以為元從都押牙。 |
現代日本語訳:王宗本率いる軍勢が到着すると、甲戌(かのえいぬ)の日に高矩は城門を開いて降伏した。これにより宗本は夔州・忠州・万州・施州の四州を平定し制圧した。王建は再び高矩を夔州刺史に任命し、その姓名を王宗矩と改めさせた。宗矩の出身地は易州(現在の河北省)であった。 蜀(前蜀政権)の参議たちは瞿唐峡が軍事上の要衝であることを論じ、帰州・峡州を見捨てて軍勢を夔州に集結させる方針を決定した。王建は宗本を武泰留後(節度使代理)に任命する。従来の武泰軍本部所在地であった黔州は瘴気(伝染病)が蔓延していたため、宗本は治所を涪州へ移すよう要請し、王建はこれを認可した。 一方で葛從周による兗州への猛攻に対し、守将・劉鄩は敵将の母親を板輿(簡易駕籠)に乗せて城壁に登らせ「劉将軍は私をお前と変わらぬほど大切にしてくれた。お前の妻子も平穏だ。人はそれぞれ主君のために尽くすものだと理解してほしい」と言わせた。葛從周は涙を流し兵を退き、攻撃ペースを緩めた。 劉鄩は城内で戦力にならない女性や老弱者を選別して城外へ出した後、壮年男子と共に衣食を分かち合いながら防衛を堅持した。命令系統は厳格で兵士による略奪もなく、住民生活は平穏であった。しかし長期化する包囲で援軍が途絶えると、副使・王彦溫が城壁から脱出して投降し、多くの守備兵がこれに続こうとした。劉鄩は慌てず使者を送り「事前の命令なく副使に従う者は同行禁止」と彦溫へ伝達させると同時に、城壁上で布告した。「副使随行を正式命じられた者以外が無断脱出すれば一族皆殺しにする!」兵士たちは疑念を抱き逃亡を止めた。 敵軍はこの状況を見て王彦溫への不信感を強め、遂に彼を斬首。これにより城内の結束はいっそう固まった。主君・王師範が劣勢となった後も劉鄩は「城主から守城を託された身として、形勢不利だからといって待命せず降るのは不義である」と抵抗を続けた。丁丑(ひのとうし)の日になって師範からの正式な降伏命令が届き、ようやく開城した。 葛從周は旅装を整え大梁への護送を準備したが、劉鄩は「赦免されていない降将が馬に乗り皮衣を着るとは何事か」と拒否し、粗末な服を着て驢馬(ロバ)に乗って朱全忠のもとへ向かった。全忠が礼服の着用を命じると辞退して「囚人としてお目通りしたい」と申し出たものの許されず、宴席で酒量を断ると「兗州攻略時の度量はどこへ消えた?」と揶揄された。最終的に劉鄩は元従都押牙(近衛隊長)に任じられた。 歴史的考察:
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| 是時四鎮將吏皆功臣、舊人,鄩一旦以降將居其上,諸將具軍禮拜於廷,鄩坐受自如,全忠益奇之。未幾,表為保大留後。葛從周久病,全忠以康懷英為泰寧節度使代之。 辛巳,宿衛都指揮使朱友倫與客擊球於左軍,墜馬而卒。全忠悲怒,疑崔胤故為之,凡與同戲者十餘人盡殺之,遣其兄子友諒代典宿衛。 山南東道節度使趙匡凝遣兵襲荊南,朗人棄城走,匡凝表其弟匡明為荊南留後。時天子微弱,諸道財賦多不上供,惟匡凝兄弟委輸不絕。 楊行密求兵於錢鏐,鏐遣方永珍屯潤州,從弟鎰屯宣州。又遣指揮使楊習攻睦州。 鳳翔、邠州屢出兵近京畿,朱全忠疑其復有劫遷之謀,十一月,發騎兵屯河中。 十二月,乙亥,田頵帥死士數百出戰,台濛陽退以示弱。頵兵逾濠而鬥,濛急擊之。頵不勝,還走城,橋陷墜馬,斬之,其眾猶戰,以頵首示之,乃潰,濛遂克宣州。初,行密與頵閭裡,少相善,約為兄弟,及頵首至廣陵,行密視之泣下,赦其母殷氏,行密與諸子皆以子孫禮事之。行密以李神福為寧國節度使,神福以杜洪未平,固讓不拜。宣州長史合肥駱知祥善治金谷,觀察牙推沈文昌為文精敏,嘗為頵草檄罵行密,行密以知祥為淮南支計官,文昌為節度分推。文昌湖州人也。 初,頵每戰不勝,輒欲殺錢傳瓘,其母及宣州都虞候郭師從常保護之。 |
現代日本語訳:この時期、四鎮の将吏たちはいずれも功臣や古参だったが、王師範(鄩)は降伏した武将として突然彼らの上位に立った。諸将が廷で軍礼をもって拝謁すると、師範は座ったまま平然と受け答えし、朱全忠はますます彼を異才と認めた。ほどなく保大留後(留守長官)に任命されている。 葛従周が長期の病床につくと、全忠は康懐英を泰寧節度使として後任とした。 辛巳の日、宿衛都指揮使・朱友倫が左軍営で客人と馬鞠(ポロ)を行い落馬して急死した。全忠は悲しみ怒り、崔胤による故意の仕業ではないかと疑念を抱き、同席していた十数人全てを処刑すると甥の朱友諒を派遣し宿衛職務を代行させた。 山南東道節度使・趙匡凝が兵を差し向け荊南を急襲したため朗州軍民は城から退去。匡凝は弟の匡明を荊南留後として朝廷に推挙した。当時皇帝(昭宗)の権威は衰えており、諸道からの税収もほとんど上納されない中で、匡凝兄弟のみが継続的に物資輸送を行った。 楊行密が銭鏐に援軍を要請すると、鏐は方永珍を潤州駐屯させ従弟の銭鎰を宣州へ派遣。さらに指揮使・楊習に睦州攻撃を命じた。 鳳翔(李茂貞)と邠州(王行瑜)が繰り返し京畿近郊に出兵すると、朱全忠は再び皇帝拉致計画があるのではないかと警戒し11月に騎兵部隊を河中へ駐屯させた。 12月乙亥の日、田頵が決死隊数百名を率いて出撃。台濛(行密配下)は偽装撤退で弱みを見せると、田頵軍が壕を越えた瞬間に急襲し敗走させる。帰城途中に落馬した田頵は斬首され、残兵も奮戦したが彼の首級を示すと潰走。こうして台濛は宣州を陥落させた。 当初楊行密と田頵は同郷で若い頃から親交があり兄弟分だったため、広陵に届いたその首を見て涙した。母・殷氏には恩赦を与え自ら子孫礼をもって遇し配下にも命じた。 行密が李神福を寧国節度使に任命しようとしたところ杜洪討伐未了を理由に固辞されたため留保。宣州長史の駱知祥(合肥出身)は物資管理に卓越し、観察牙推の沈文昌(湖州出身)は文書作成能力が秀でていた。かつて田頵側で行密を罵倒する檄文を作成した経歴のある文昌も登用されそれぞれ淮南支計官・節度分推となった。 なお田頵は敗戦のたび銭伝瓘(鏐の子)殺害を企てていたが、母君や宣州都虞候・郭師従が常に庇護していたという経緯がある。 解説:
※注釈:『資治通鑑』原文からの厳密訳出を基本としつつ、現代日本語としての可読性確保のため適宜補足説明を付加。固有名詞・官職名は原典表記を保持することで歴史的厳粛性を維持した。 Translation took 2055.1 seconds. |
| 師從,合肥人,頵之婦弟也。頵敗,傳瓘歸杭州,錢鏐以師從為鎮東都虞候。 辛巳,以禮部尚書獨孤損為兵部侍郎、同平章事。損,及之從曾孫也。中書侍郎兼戶部尚書、同平章事裴贄罷為左僕射。左僕射致仕張濬居長水,王師範之舉兵,濬豫其謀。朱全忠將謀篡奪,恐濬扇動籓鎮,諷張全義使圖之。丙申,全義遣牙將楊麟將兵詐為劫盜,圍其墅而殺之。永寧縣吏葉彥素為濬所厚,知麟將至,密告濬子格曰:「相公禍不可免,郎君宜自為謀。」謂格曰:「汝留則俱死,去則遺種。」格哭拜而去,葉彥帥義士三十人送之渡漢而還,格遂自荊南入蜀。 盧龍節度使劉仁恭習知契丹情偽,常選將練兵,乘秋深入,逾摘星嶺擊之,契丹畏之。每霜降,仁恭輒遣人焚塞下野草,契丹馬多饑死,常以良馬賂仁恭買牧地。契丹王邪律阿保機遣其妻兄述律阿缽將萬騎寇渝關,仁恭遣其子守光戍平州,守光偽與之和,設幄犒饗於城外,酒酣,伏兵執之以入。虜眾大哭,契丹以重賂請於仁恭,然後歸之。 初,崔胤假朱全忠兵力以誅宦官,全忠既破李茂貞,併吞關中,威震天下,遂有篡奪之志。胤懼,與全忠外雖親厚,私心漸異,乃謂全忠曰:「長安密邇茂貞,不可不為守禦之備。六軍十二衛,但有空名,請召募以實之,使公無西顧之憂。」全忠知其意,曲從之,陰使麾下壯士應募以察其變。 |
現代日本語訳師従は合肥の人で、朱頔の妻の弟である。朱頔が敗れると、伝瓘を連れて杭州に帰還したため、銭鏐は師従を鎮東都虞候に任命した。 辛巳(二十八日)、礼部尚書・独孤損を兵部侍郎・同平章事とした。損は独孤及の従曾孫である。中書侍郎兼戸部尚書・同平章事であった裴贄は左僕射に降格された。致仕していた元左僕射・張濬が長水に居住していると、王師範が兵を挙げた際、濬はその計画に関与した。朱全忠が簒奪を企てると、濬が藩鎮勢力を煽動するのを恐れ、密かに張全義に命じて始末させた。丙申(十五日)、全義は牙将・楊麟に兵を率いさせ、強盗と偽って張濬の別荘を包囲し殺害した。永寧県吏の葉彦はかねてより濬に重用されていたため、楊麟が来襲することを知ると密かに濬の子・格に警告した:「相公(父上)の災いは避けられない。若殿はご自身で策を講じるべきです」と述べ、「留まれば共に死し、去れば子孫を残せる」とも助言した。格が涙ながらに拝礼して立ち去ると、葉彦は義士三十人を率いて漢水渡河まで護衛し帰還した。その後、格は荊南経由で蜀へ入った。 盧龍節度使・劉仁恭は契丹の内情に精通し、常に将兵を訓練して秋になると深く侵入し、摘星嶺を越えて攻撃したため、契丹は恐れていた。霜が降りるたびに仁恭は塞外(辺境)の野草を焼かせ、契丹の軍馬を餓死させたので、契丹側は常に良馬を贈って牧草地購入を懇願した。契丹王・耶律阿保機が妻の兄・述律阿缽に騎兵一万を与え渝関(山海関)へ侵攻させると、仁恭は息子・守光を平州に駐屯させた。守光は偽って和睦し城外で酒宴を開き、酔わせて伏兵に捕らえさせた。契丹軍が号泣すると重い賄賂を捧げ、ようやく解放された。 当初、崔胤は朱全忠の兵力を借りて宦官を誅殺したが、全忠が李茂貞を破って関中を併合し天下に威勢を振るうと、帝位簒奪の意志を見せ始めた。これに恐れた崔胤は表向き親密さを保ちながらも次第に対立し、全忠へ進言した:「長安は茂貞勢力圏に近接しているため防備が必要です。六軍十二衛(朝廷直轄軍)は名目だけなので実戦兵力として再編しましょう」と提案し、「これで西方の憂いがなくなります」と言上した。全忠はその意図を見抜き表向き同意すると同時に、配下の兵士を偽装応募させて崔胤の動静を探らせた。 解説
(史料出典:『資治通鑑』巻二百六十四・唐紀八十/天祐元年~二年条) Translation took 920.9 seconds. |
| 胤不之知,與鄭元規等繕治兵仗,日夜不息。及朱友倫死,全忠益疑胤,且欲遷天子都洛,恐胤立異。 昭宗聖穆景文孝皇帝下之上天祐元年(甲子,公元九零四年) 春,正月,全忠密表司徒兼侍中、判六軍十二衛事、充鹽鐵轉運使、判度支崔胤專權亂國,離間君臣,並其黨刑部尚書兼京兆尹、六軍諸衛副使鄭元規、威遠軍使陳班等,皆請誅之。乙巳,詔責授胤太子少傅、分司,貶元規循州司戶,班湊州司戶。丙午,下詔罪狀胤等。以裴樞判左三軍事、充鹽鐵運使,獨孤損判右三軍事、兼判度支。胤所募兵並縱遣之。以兵部尚書崔遠為中書侍郎,翰林學士、左拾遺柳璨為右諫議大夫,並同平章事。璨,公綽之從孫也。戊申,朱全忠密令宿衛都指揮使朱友諒以兵圍崔胤第,殺胤及鄭元規、陳班並胤所親厚者數人。 初,上在華州,朱全忠屢表請上遷都洛陽,上雖不許,全忠常令東都留守佑國軍節度使張全義繕修宮室。全忠之克邠州也,質靜難軍節度使楊崇本妻子於河中。崇本妻美,全忠私焉,既而歸之。崇本怒,使謂李茂貞曰:「唐室將滅,父何忍坐視之乎!」遂相與連兵侵逼京畿,複姓名為李繼徽。己酉,全忠引兵屯河中。丁巳,上御延喜樓,朱全忠遣牙將寇彥卿奉表,稱邠、歧兵逼畿甸,請上遷都洛陽。及下樓,裴樞已得全忠移書,促百官東行。 |
現代日本語訳胤(崔胤)はこの動きに気づかず、鄭元規らと共に兵器の整備に日夜励んでいた。朱友倫が死ぬと、全忠(朱全忠)はいよいよ胤を疑うようになり、さらに天子(昭宗皇帝)を洛陽へ遷都させようと考えたものの、胤が異論を唱えることを恐れていた。 天祐元年(甲子の年、904年)、春正月 戊申(10日)、朱全忠は密命を下し宿衛都指揮使朱友諒に兵を率いさせ崔胤邸を包囲、胤と鄭元規・陳班ら及び胤側近数名を殺害した。 当初、皇帝が華州におられた頃から全忠は度々遷都洛陽の上奏を行っていた。帝は許可しなかったものの、全忠は東都留守(代理)で佑国軍節度使張全義に命じ宮殿修繕を続けさせていた。邠州攻略後、全忠が静難軍節度使楊崇本の妻子を人質として河中に置いた際のことである。崇本の妻は美しく、全忠は密かに関係を持った後に送り返した。これに激怒した崇本は李茂貞へ伝えた。「唐王朝が滅びようとしているのに父上(茂貞)は黙って見ているのか」と。両者は連合して京畿を脅かし、崇本は名を李継徽に改めた。己酉(11日)、全忠は軍を率いて河中へ駐屯した。 丁巳(19日)、帝が延喜楼に出御すると、朱全忠配下の牙将寇彦卿が上表文を持参し「邠州・岐州の兵が京畿に迫っているため遷都洛陽をお願いする」と奏上。楼閣を降りた時には既に裴樞が全忠からの移牒(命令書)を受け取っており、百官は急ぎ東行させられた。 解説【権力闘争の本質】
【遷都強行の戦略】
【歴史的転換点】この事件は唐王朝終焉プロセスの決定的段階である: - 904年6月:実際の遷都実施(長安→洛陽) - 同年8月:昭宗皇帝暗殺 - 907年:朱全忠による後梁建国=唐朝滅亡
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| 戊午,驅徙士民,號哭滿路,罵曰:「賊臣崔胤召朱溫來傾覆社稷,使我曹流離至此!」老幼繈屬,月餘不絕。壬戌,車駕發長安,全忠以其將張廷范為御營使,毀長安宮室百司及民間廬舍,取其材,浮渭河而下,長安自此遂丘墟矣。全忠發河南、北諸鎮丁匠數萬,令張全義治東都宮室,江、浙、湖、嶺諸鎮附全忠者,皆輸貨財以助之。甲子,車駕至華州,民夾道呼萬歲,上泣謂曰:「勿呼萬歲,朕不復為汝主矣!」館於興德宮,謂侍臣曰:「鄙語云:『紇干山頭凍殺雀,何不飛去生處樂。」朕今漂泊,不知竟落何所!」因泣下沾襟,左右莫能仰視,二月,乙亥,車駕至陝,以東都宮室未成,駐留於陝。丙子,全忠自河中來朝,上延全忠入寢室見何后,后泣曰:「自今大家夫婦委身全忠矣!」 甲申,立皇子禎為端王,祁為豐王,福為和王,禧為登王,祐為嘉王。 上遣間使以御札告難於王建,建以邛州剌史王宗祐為北路行營指揮使,將兵會鳳翔兵迎車駕,至興平,遇汴兵,不得進而還。建始自用墨制除官,云「俟車駕還長安表聞。」 三月,丁未,以朱全忠兼判左、右神策及六軍諸衛事。癸丑,全忠置酒私第,邀上臨幸。乙卯,全忠辭上,先赴洛陽督修宮室。上與之宴群臣,既罷,上獨留全忠及忠武節度使韓建飲,皇后出,自捧玉卮以飲全忠,晉國夫人可證附上耳語。 |
現代日本語訳戊午の日[904年1月21日]、兵士や民衆が強制的に移住させられた。道いっぱいに号泣や罵声があふれ、「逆賊・崔胤(さいいん)が朱全忠を呼び寄せて国家を滅ぼし、われらを流浪の身に追い込んだ!」と叫ぶ者もいた。老人から幼子まで列をつなぎ、一ヶ月以上途絶えることがなかった。 壬戌の日[1月25日]、皇帝一行は長安を出発した。朱全忠(しゅぜんちゅう)は配下の張廷范(ちょうていはん)を行営使に任命し、長安の宮殿・官庁や民家を取り壊して材木を得て渭河へ流すと、都は廃墟となった。さらに朱全忠は河南・河北諸鎮から数万人の人夫を徴発し、張全義(ちょうぜんぎ)に洛陽の宮殿建設を指揮させた。江浙・湖嶺地方で彼に従う藩鎮も資金や物資を献上した。 甲子の日[1月27日]、皇帝が華州に到着すると民衆は道端で万歳を叫んだ。帝は涙ながらに「万歳と呼ぶな。朕(ちん)はもうお前たちの主ではない」と述べ、興徳宮では近臣に向かい、「俗謡にある『紇干山頭(ごっかんさんとう)で雀が凍え死ぬのは、なぜ飛び去って楽しい場所に行かないのか』というように、朕は流浪し行く先もわからぬ」と語り、涙で衣を濡らした。側近たちは俯いて見上げられなかった。 二月乙亥の日[2月7日]、皇帝が陝州(せんしゅう)に到着するも洛陽宮殿未完成のため同地に滞在。丙子の日[2月8日]には朱全忠が河中から謁見した。帝は寝室へ招いて何皇后と対面させると、后は涙を流して「これより陛下夫妻の身柄は全忠様にお任せします」と言上した。 甲申の日[2月16日]、皇子たちに王位を与えた(禎:端王、祁:豊王、福:和王、禧:登王、祐:嘉王)。 帝が密使で救援を要請すると西川の王建は軍勢を派遣したが興平付近で朱全忠軍に阻まれ撤退。王建は独自に官吏任命権を行使し「皇帝長安帰還後に正式報告する」とした。 三月丁未[3月9日]、朱全忠が左右神策軍及び六軍諸衛の総指揮権を得る。癸丑[3月15日]には私邸で酒宴を開き帝を招待し、乙卯[3月17日]に洛陽へ発つ際、皇帝主催の宴会後も忠武節度使・韓建と共に残された。皇后自ら玉杯を持って朱全忠に献酒すると、晋国夫人が密かに皇帝に耳打ちする一幕があった。 解説【歴史的背景】
【政治力学】
【筆法分析】
【歴史的意義】この事件は: 1. 唐王朝実質終焉(907年正式滅亡)への決定的段階 2. 「武力優位」原理による君臣関係再定義の典型例 3. 五代十国時代開幕を告げる転換点
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| 建躡全忠足,全忠以為圖己,不飲,陽醉而出。全忠奏以長安為佑國軍,以韓建為佑國節度使,以鄭州刺史劉知俊為匡國節度使。丁巳,上復遣間使以絹詔告急於王建、楊行密、李克用等,令糾帥籓鎮以圖匡復,曰:「朕至洛陽,則為所幽閉,詔敕皆出其手,朕意不復得通矣!」 楊行密遣錢傳撩及其婦並顧全武歸錢塘。以淮南行軍司馬李神福為鄂岳招討使,復將兵擊杜洪。朱全忠遣使詣行密,請捨鄂岳,復修舊好。行密報曰:「俟天子還長安,然後罷兵修好。」 夏,四月,辛巳,朱全忠奏洛陽宮室已成,請車駕早發,表章相繼。上屢遣宮人諭以皇后新產,未任就路,請俟十月東行。全忠疑上徘徊俟變,怒甚,謂牙將寇彥卿曰:「汝速至陝,即日促官家發來。」閏月,丁酉,車駕發陝。壬寅,全忠逆於新安。上之在陝也,司天監奏:「星氣有變,期在今秋,不利東行。」故上欲以十月幸洛。至是,全忠令醫官許昭遠告醫官使閻祐之、司天監王墀、內都知韋周、晉國夫人可證等謀害元帥,悉收殺之。 癸卯,上憩於谷水。自崔胤之死,六軍散亡俱盡,所餘擊球供奉、內園小兒共二百餘人,從上而東。全忠猶忌之,為設食於幄,盡縊殺之。豫選二百餘人大小相類者,衣其衣服,代之侍衛。上初不覺,累日乃寤。自是上之左右職掌使令皆全忠之人矣。 |
現代日本語訳朱建が朱全忠の足を踏んだところ、全忠は自分を狙っていると思い込み、酒を飲まずに仮装して酔ったふりをして退出した。その後、全忠は長安を佑国軍と改め、韓建を佑国節度使に任命し、鄭州刺史の劉知俊を匡国節度使とした。 丁巳(ていみ)の日、皇帝(昭宗)は再び密使を通じて絹布に書いた詔勅で王建・楊行密・李克用らに緊急事態を知らせ、「藩鎮軍団を糾合して帝位回復を図れ」と命じた。その中には「朕が洛陽に行けば幽閉され、全ての命令は彼らの手から出るため、朕の真意は決して届かなくなるだろう!」との記述があった。 楊行密は銭伝璙(銭鏐の子)とその妻、および顧全武を銭塘へ帰還させた。さらに淮南行軍司馬である李神福を鄂岳招討使に任命し、再び兵を率いて杜洪を攻撃させることにした。朱全忠は使者を楊行密のもとに派遣して「鄂岳攻略を中止し旧交回復を」と求めたが、行密は「天子が長安へ還幸された後に停戦し和議しよう」と返答した。 夏四月辛巳(かのとうみ)の日、朱全忠は洛陽宮殿が完成したことを上奏し、早期移転を促す文書を相次いで送った。皇帝は宦官を繰り返し遣わして「皇后が産後間もなく長旅に耐えられないため十月まで待ってほしい」と伝えたが、全忠は「帝が遅延策で事変を待っている」との疑念を深め激怒した。牙将の寇彦卿に対し「即刻陝州へ行き今日中に出発させろ」と命じる。 閏月丁酉(かんげつていゆう)の日、皇帝車駕は陝州を出発する。壬寅(みずのえとら)には新安で朱全忠が迎えた。実は皇帝が陝州に滞在していた時、司天監が「星象異変あり秋期危険につき東行不吉」と奏上したため十月移転を望んでいたのである。 この機会を捉え朱全忠は医官の許昭遠を使い、「医官使閻祐之・司天監王墀・内都知韋周・晋国夫人可証らが元帥(全忠)暗殺計画」と偽装告発し、彼らを捕えて皆殺しにした。 癸卯(みずのとう)の日、皇帝は谷水で休息。崔胤処刑以降に散亡していた天子親衛隊の残党――撃球供奉・内園小児など二百余名が従駕していた。全忠はこれを危険視し陣幕内での食事接待と偽り彼らを絞殺した後、事前選抜した体格類似者200名に元侍従たちの衣服を着せて護衛任務につかせた。皇帝は当初気づかなかったが数日後に悟った。以後、天子側近から雑役まで全員が朱全忠配下となったのである。 解説【歴史的背景】
【核心的な動き】
【特筆事項】
【歴史的意義】この事件は: 1. 唐王朝実質滅亡決定段階(904年殺害前哨) 2. 五代十国時代開幕を告げる「傀儡皇帝プロトタイプ」事例 3. 「禁軍解体→親衛隊再編による簒奪」の古典的手法完成形
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| 甲辰,車駕發谷水,入宮,御正殿,受朝賀。乙巳,御光政門,赦天下,改元。更命陝州曰興唐府。詔討李茂貞、楊崇本。 戊申,敕內諸司惟留宣徽等九使外,餘皆停廢,仍不以內夫人充使。以蔣玄暉為宣徽南院使兼樞密使,王殷為宣徽北院使兼皇城使,張廷范為金吾將軍、充街使,以韋震為河南尹兼六軍諸衛副使,又征武寧留後朱友恭為左龍武統軍,保大節度使氏叔琮為右龍武統軍,典宿衛,皆全忠之腹心也。癸丑,以張全義為天平節度使。乙卯,以全忠為護國、宣武,宣義、忠武四鎮節度使 鎮海、鎮東節度使越王錢鏐求封吳越王,朝廷不許。朱全忠為之言於執政,乃更封吳王。 更命魏博曰天雄軍。癸亥,進天雄節度使長沙郡王羅紹威爵鄴王。 |
現代日本語訳甲辰の日、皇帝の車駕は谷水を出発し宮中に入り、正殿にて朝賀を受けた。乙巳の日に光政門において大赦令を発布し元号を改めた。陝州の名称を興唐府と変更することを命じた。詔書により李茂貞・楊崇本の討伐が布告された。 戊申の日、宮中の諸官庁について宣徽院など九つの部署のみを残し他は全て廃止すると勅令が出され、引き続き内夫人(女官)を使職に充てることは禁じた。蔣玄暉を宣徽南院使兼枢密使とし、王殷を宣徽北院使兼皇城使とした。張廷范は金吾将軍・街使を命ぜられ、韋震は河南尹兼六軍諸衛副使となった。さらに武寧留後朱友恭を召還して左龍武統軍とし、保大節度使氏叔琮を右龍武統軍として禁中の警備を司らせた。これら全員が朱全忠の腹心である。癸丑には張全義を天平節度使に任命した。乙卯には朱全忠を護国・宣武・宣義・忠武四鎮節度使とした。 鎮海・鎮東節度使越王銭鏐は呉越王への冊封を求めたが朝廷は許さなかった。しかし朱全忠が執政者に働きかけたため、代わりに呉王の称号を与えた。 解説
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| input text 資治通鑑\265_唐紀_81.txt | Modern Japanese translated text | ||||||||||||
| 資治通鑑 卷二百六十五 唐紀八十一 起閼逢困敦五月,盡柔兆攝提格,凡二年有奇。 昭宗聖穆景文孝皇帝下之下天祐元年(甲子,公元九零四年) 五月,丙寅,加河陽節度使張漢瑜同平章事。 帝宴朱全忠及百官於崇勳殿,既罷,復召全忠宴於內殿。全忠疑,不入。帝曰:「全忠不欲來,可令敬翔來。」全忠擿翔使去,曰:「翔亦醉矣。」辛未,全忠東還,乙亥,至大梁。 忠義節度使趙匡凝遣水軍上峽攻王建夔州,知渝州王宗阮等擊敗之。萬州刺史張武作鐵絲亙絕江中流,立柵於兩端,謂之「鎖峽」。 六月,李茂貞、王建、李繼徽傳檄合兵以討朱全忠。全忠以鎮國節度使朱友裕為行營都統,將步騎數萬擊之;命保大節度使劉鄩棄鄜州,引兵屯同州。癸丑,全忠引兵自大梁西討茂貞等。秋,七月,甲子,過東都入見。壬申,至河中。 西川諸將勸王建乘李茂貞之衰,攻取鳳翔。建以問節度判官馮涓,涓曰:「兵者凶器,殘民耗財,不可窮也。今梁、晉虎爭,勢不兩立,若並而為一,舉兵向蜀,雖諸葛亮復生,不能敵矣。鳳翔,蜀之籓蔽,不若與之和親,結為婚姻,無事則務農訓兵,保固疆場,有事則覘其機事,觀釁而動,可以萬全。」建曰:「善!茂貞雖庸才,然有強悍之名,遠近畏之,與全忠力爭則不足,自守則有餘,使為吾籓蔽,所利多矣。 |
現代日本語訳資治通鑑 巻二百六十五 唐紀八十一 昭宗聖穆景文孝皇帝下之下 天祐元年(甲子、904年) 六月:李茂貞・王建・李継徽が連合で朱全忠討伐の檄文を発する。全忠は鎮国節度使・朱友裕を行営都統(総司令官)に任命し、数万の歩騎を率いて迎撃させた。保大節度使・劉鄩には鄜州から同州へ移駐を命じる。癸丑の日、全忠は大梁より西進して茂貞らを討つ。秋七月甲子に東都(洛陽)で謁見し、壬申に河中(蒲州)に到着した。 同時期の動き: 解説
※現代語訳では以下の方針で処理: Translation took 836.7 seconds. | ||||||||||||
| 」乃與茂貞修好。丙子,茂貞遣判官趙鍠如西川,為其侄天雄節度使繼崇求婚,建以女妻之。茂貞數求貨及甲兵於建,建皆與之。王建賦斂重,人莫敢言。馮涓因建生日獻頌,先美功德,後言生民之苦。建愧謝曰:「如君忠諫,功業何憂!」賜之金帛。自是賦斂稍損。 初,朱全忠自鳳翔迎車駕還,見德王裕眉目疏秀,且年齒已壯,惡之,私謂崔胤曰:「德王嘗奸帝位,豈可復留!公何不言之!」胤言於帝。帝問全忠,全忠曰:「陛下父子之間,臣安敢竊議,此崔胤賣臣耳。」帝自離長安,日憂不測,與皇后終日沉飲,或相對涕泣。全忠使樞密使蔣玄暉伺察帝,動靜皆知之。帝從容謂玄暉曰:「德王,朕之愛子,全忠何故堅欲殺之?」因泣下,嚙中指血流。玄暉具以語全忠,全忠愈不自安。 時李茂貞、楊崇本、李克用、劉仁恭、王建、楊行密、趙匡凝移檄往來,皆以興復為辭。全忠方引兵討,以帝有英氣,恐變生於中,欲立幼君,易謀禪代。乃遣判官李振至洛陽,與玄暉及左龍武統軍朱友恭、右龍武統軍氏叔琮等圖之。 八月,壬寅,帝在椒殿,玄暉選龍武牙官史太等百人夜叩宮門,言軍前有急奏,欲面見帝。夫人裴貞一開門見兵,曰:「急奏何以兵為?」史太殺之。玄暉問:「至尊安在?」昭儀李漸榮臨軒呼曰:「寧殺我曹,勿傷大家!」帝方醉,遽起,單衣繞柱走,史太追而弒之。 |
現代日本語訳茂貞と和解した上で、丙子(ひのえね)の日に茂貞は判官・趙鍠を西川へ派遣し、甥である天雄節度使・李継崇のために縁談を取り結ぼうとした。王建は娘を継崇に嫁がせた。その後も茂貞が繰り返し物資や武器の供給を求めたため、王建はいずれも応じた。しかし王建自身は重税を課しており、民衆は恐れて諫言できなかった。馮涓が王建の誕生日に頌詩を献上した際、まず功績を称賛し、その後で民衆の苦しみを訴えた。王建は恥じて「あなたのような忠告があれば、我が事業は安泰だ」と感謝し、金品を与えた。これ以降、税制は幾分軽減された。 一方、朱全忠が鳳翔から昭宗皇帝を長安に戻した時、徳王・李裕の眉目秀麗で既に成人している様子を見て不快感を抱いた。密かに崔胤に「徳王は帝位を狙ったことがあるのに、どうして生かしておけるのか? なぜ奏上しない?」と告げる。崔胤が皇帝に伝えると、昭宗が全忠に問い詰めたところ、「陛下のご父子関係について臣下が口出しできるはずがない。これは崔胤が私を売ったのです」と言い逃れた。長安から連れ出されて以来、昭宗は常に危険を案じ、皇后と共に酒宴で憂さを晴らすか、相対して涙する日々だった。全忠は枢密使・蔣玄暉に監視させており、皇帝の一挙手一投足を把握していた。 ある時昭宗がふと玄暉に漏らした。「徳王は朕の愛子だ。なぜ全忠は執拗に殺そうとするのか?」と中指を噛んで血が出るほど泣いた。この話を聞き、全忠はいよいよ不安を深めた。当時、李茂貞・楊崇本・李克用・劉仁恭・王建・楊行密・趙匡凝らが互いに檄文を飛ばし「唐朝再興」を掲げていたため、全忠は討伐軍を率いようとしていた。しかし昭宗の気概を見て宮中での変事を警戒し、「幼君擁立→禅譲強要」による簒奪計画へ方針転換する。 八月壬寅(みずのえとら)の夜、玄暉は龍武牙官・史太ら百名を選び宮殿に乱入。「軍中から緊急上奏あり」と偽って面会を求めさせた。女官・裴貞一が扉を開け兵士を見て「急報ならなぜ武装している?」と言うや、史太は彼女を斬殺した。玄暉が「天子の居場所は?」と問うと、昭儀(后妃)李漸栄が窓辺で叫んだ。「私どもを殺せ! 天子には手を出すな!」酔っていた昭宗は慌てて立ち上がり、薄着のまま柱の周囲を逃げ回った。史太が追いかけて弑逆(臣下による君主殺害)を遂げた。 解説
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| 漸榮以身蔽帝,太亦殺之。又欲殺何后,后求哀於玄暉,乃釋之。 癸卯,蔣玄暉矯詔稱李漸榮、裴貞一弒逆,宜立輝王祚為皇太子,更名柷,監軍國事。又矯皇后令,太子於柩前即位。宮中恐懼,不敢出聲哭。丙午,昭宣帝即位,時年十三。 李克用復以張承業為監軍。 淮南將李神福攻鄂州未下,會疾病,還廣陵,楊行密以舒州團練使泌陽劉存代為招討使。神福尋卒。宣州觀察使台濛卒,楊行密以其子牙內諸軍使渥為宣州觀察使,右牙都指揮使徐溫謂渥曰:「王寢疾而嫡嗣出籓,此必奸臣之謀。他日相召,非溫使者及王令書,慎無亟來!」渥泣謝而行。 九月,己巳,尊皇后為皇太后。 朱全忠引兵北屯永壽,南至駱谷,鳳翔、邠寧兵竟不出。辛未,東還。冬,十月,辛卯朔,日有食之。 朱全忠聞朱友恭等弒昭宗,陽驚,號哭自投於地,曰:「奴輩負我,令我受惡名於萬代!」癸巳,至東都,伏梓宮慟哭流悌,又見帝,自陳非己志,請討賊。先是,護駕軍士有掠米於市者,甲午,全忠奏朱友恭、氏叔琮不戢士卒,侵擾市肆,友恭貶崖州司戶,複姓名李彥威,叔琮貶白州司戶,尋皆賜自盡。彥威臨刑大呼曰:「賣我以塞天下之謗,如鬼神何!行事如此,望有後乎!」 丙申,天平節度使,張全義來朝。丁酉,復以全忠為宣武、護國、宣義、天平節度使,以全義為河南尹兼忠武節度使、判六軍諸衛事。 |
現代日本語訳:漸榮が身を挺して皇帝(昭宗)をかばったため、太(蔣玄暉配下の兵士)も彼を殺害した。さらに何后をも殺そうとしたが、皇后は蔣玄暉に哀願し、ようやく解放された。 癸卯(二十日)、蔣玄暉は偽詔を発し「李漸榮と裴貞一が皇帝を弑逆した」と宣言。輝王祚(李柷)を皇太子とすることを定め、「柷」に改名させて軍国事を監理させることにした。さらに皇后の令旨を偽造して、太子に殯宮の前で即位させた。宮中は恐怖に包まれ、声を出して泣く者さえいなかった。丙午(二十三日)、昭宣帝が即位し、当時十三歳であった。 李克用は再び張承業を監軍に任命した。 淮南の将・李神福が鄂州を攻めたが陥落させられないうちに病にかかり、広陵へ撤退。楊行密は舒州団練使・泌陽出身の劉存を招討使として代行させた。まもなく李神福は死去。宣州観察使・台濛が没すると、楊行密は自分の子で牙内諸軍使の渥(楊渥)を後任とした。右牙都指揮使・徐温は渥に警告した:「王(楊行密)が病臥する中、嫡嗣たる貴公が出征されるのは奸臣の策謀である。いずれ呼び戻されても、私の使者か王自筆の令書がない限り決して急ぎ帰還するな」。渥は涙ながらに礼を述べて赴任した。 九月己巳(十七日)、皇后を皇太后と尊称した。 朱全忠が軍勢を率いて北へ永寿まで進み、さらに南下して駱谷に至ったが、鳳翔・邠寧の兵はついに迎撃しなかった。辛未(十九日)に東帰。冬十月辛卯朔(一日)、日食が発生した。 朱全忠は配下の朱友恭らが昭宗を弑逆したと聞くと、驚いたふりをして地に倒れ号泣し「奴輩どもが私を裏切り、末代までの悪名を着せた!」と叫んだ。癸巳(三日)に東都洛陽へ到着すると、梓宮(皇帝の棺)に伏して慟哭し涙を流した。帝(哀帝)への拝謁では「これは私の意図ではない」と弁明し逆賊討伐を奏請した。このとき護駕軍兵が市場で米を略奪する事件があり、甲午(四日)、朱全忠は朱友恭・氏叔琮が士卒を統制せず市民を侵害したと弾劾。朱友恭を崖州司戸に左遷し元の姓名「李彦威」に戻させ、氏叔琜を白州司戸とした後、まもなく両者に自尽を命じた。李彦威は刑場で叫んだ:「天下の非難を封じるために私を売ったのか! 鬼神が許すはずがない。このような所業では末代まで続くと思うか!」 丙申(六日)、天平節度使・張全義が入朝。丁酉(七日)に朱全忠を再び宣武・護国・宣義・天平の四鎮節度使とし、張全義は河南尹兼忠武節度使として六軍諸衛事を管轄させた。 解説:
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| 乙巳,全忠辭赴鎮,良戌,至大梁。 鎮國節度使朱友裕薨於梨園。 光州叛楊行密,降朱全忠,行密遣兵圍之,與鄂州皆告急於全忠。十一月,戊辰,全忠自將兵五萬自穎州濟淮,軍於霍丘,分兵救鄂州。?茨媳澼凸庵□冓霮構懍戡按兵不出戰,全忠分命諸將大掠淮南以困之。 錢鏐潛遣衢州羅城使葉讓殺刺史陳璋,事洩。十二月,璋斬讓而叛,降於楊行密。 初,馬殷弟賨,性沉重,事孫儒,為百勝指揮使。儒死,事楊行密,屢有功,遷黑雲指揮使。行密嘗從容問其兄弟,乃知為殷之弟,大驚曰:「吾常怪汝器度瑰偉,果非常人,當遣汝歸。」賨泣辭曰:「賨西殘兵,大王不殺而寵任之,湖南地近,嘗得兄聲問,賨事大王久,不願歸也。」行密固遣之。是歲,賨歸長沙,行密親餞之郊。 賨至長沙,殷表賨為節度副使。它日,殷議入貢天子,賨曰:「楊王地廣兵強,與吾鄰接,不若與之結好,大可以為緩急之授,小可通商旅之利。」殷作色曰:「楊王不事天子,一旦朝廷致討,罪將及吾。汝置此論,勿為吾禍!」 初,清海節度使徐彥若遺表薦副使劉隱權留後,朝廷以兵部尚書崔遠為清海節度使。遠至江陵,聞嶺南多盜,且畏隱不受代,不敢前,朝廷召遠還。隱遣使以重賂結朱全忠,乃奏以隱為清海節度使。 昭宣光烈孝皇帝 昭宗聖穆景文孝皇帝下之下天祐二年(乙丑,公元九零五年) 春,正月,朱全忠遣諸將進兵逼壽州。 |
現代日本語訳乙巳の日、朱全忠は辞去して任地へ向かい、良戌の日に大梁に到着した。 鎮国節度使・朱友裕が梨園で逝去した。 光州が楊行密に反旗を翻し、朱全忠に降伏。これに対し楊行密は軍勢を派遣して包囲し、鄂州と共に全忠へ救援要請を行った。十一月戊辰の日、全忠みずから五万の兵を率いて潁州より淮河を渡り霍丘に駐屯し、別働隊を分遣して鄂州を救援させた。(※原文欠落部)楊行密配下の将軍は守備を固めて出撃せず、全忠は諸将に命じて淮南各地で略奪を行わせ、敵兵を疲弊させる策に出た。 銭鏐が密かに衢州羅城使・葉譲を使嗾して刺史陳璋を暗殺させようとしたが露見。十二月、陳璋は葉譲を斬首した上で反乱を起こし、楊行密に降伏した。 かつて馬殷の弟・賨(ぞう)は沈着な性格で、孫儒に仕えて百勝指揮使となった。孫儒死後は楊行密に従い数々の戦功を立て黒雲指揮使へ昇進。ある時、行密が何気なく兄弟について尋ねたところ馬殷の弟であることを知り驚嘆して言うには「かねてより汝の度量が並外れていると感じていたが、果たして非凡な人物であったのか。今すぐにも帰郷させよう」。賨は涙を流し辞退した。「私は西方(湖南)で敗残兵となりましたのに大王は殺さず重用されました。(故郷の)湖南は近く兄の消息も時折聞こえますが、長年仕えた恩義ゆえ帰りたくありません」。行密は強いて彼を送り出した。同年、賨は長沙へ戻ったため、行密みずから郊外で餞別を与えた。 賨が長沙に到着すると、兄・馬殷は上奏して節度副使に任命させた。ある日、天子(唐朝廷)への貢物について議論した際、賨が「楊王(行密)は領土広く兵力も強盛で我々と隣接しています。(朝廷より先に)彼と友好を結ぶべきでしょう。大義には危急の援軍となり、小利には通商の便益をもたらします」と述べると、馬殷は色をなして反論した「楊王は天子へ臣礼を尽くさぬ叛逆者だ!いずれ朝廷が征伐に来れば我々も連座する。この意見は捨てよ。禍根となるものを!」 かつて清海節度使・徐彦若の遺表により副使劉隠が権留後(臨時代理)を推挙された。朝廷では兵部尚書崔遠を清海節度使に任命したものの、彼は江陵到着後に嶺南地域での賊徒横行と劉隠の交替拒否を恐れ進軍できず、結局召還された。そこで劉隠が使者を使わし朱全忠へ多額の賄賂を贈ると、全忠は朝廷に奏上して劉隠を正式な清海節度使とした。 (年号記載)昭宣光烈孝皇帝/天祐二年(乙丑・905年) 春正月、朱全忠が諸将に命じて寿州へ進軍・包囲させた。 解説
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| 潤州團練安仁義勇決得士心,故淮南將王茂章攻之,逾年不克。楊行密使謂之曰:「汝之功,吾不忘也,能束身自歸,當以汝為行軍副使,但不掌兵耳。」仁義不從。茂章為地道入城,遂克之。仁義舉族登樓,眾不敢逼。先是,攻城諸將見仁義輒罵之,惟李德誠不然,至是仁義召德誠登樓,謂曰:「汝有禮,吾今以為汝功。」且以愛妾贈之。乃擲弓於地,德誠掖之而下,並其子斬於廣陵市。 兩浙兵圍陳詢於睦州,楊行密遣西南招討使陶雅將兵救之。軍中夜驚,士卒多逾壘亡去,左右及裨將韓球奔告之,雅安臥不應,須臾自定,亡者皆還。錢鏐遣其從弟鎰及指揮使顧全武、王球御之,為雅所敗,虜鎰及球以歸。 庚午,朱全忠命李振知青州事,代王師範。 全忠圍壽州,州人閉壁不出。全忠乃自霍丘引歸,二月,辛卯,至大梁。 李振至青州,王師範舉族西遷,至濮陽,素服乘驢而進。至大梁,全忠客之。表李振為青州留後。 戊戌,以安南節度使、同平章事朱全昱為太師,致仕。全昱,全忠之兄也,戇樸無能,先領安南,全忠自請罷之。 是日社,全忠使蔣玄暉邀昭宗諸子:德王裕、棣王祤、虔王禊、沂王禋、遂王禕、景王祕、祁王祺、雅王禛、瓊王祥,置酒九曲池,酒酣,悉縊殺之,投屍池中。 朱全忠遣其將曹延祚將兵與杜洪共守鄂州,庚子,淮南將劉存攻拔之,執洪、延祚及汴兵千餘人送廣陵,悉誅之。 |
現代日本語訳:潤州団練使の安仁義は勇猛果断で兵士の人望を集めていたため、淮南軍の将・王茂章が攻撃したが一年以上陥落させられなかった。楊行密は使者を通じて伝えた。「お前の功績は忘れない。自ら降伏するなら行軍副使に任じよう。ただし兵権は持たせぬ」と。仁義は従わず、茂章が地下道で城内へ侵入し遂に陥落した。仁義は一族を連れて楼閣に籠り、兵士たちは手出しできなかった。以前より攻城将軍らは仁義を見る度に罵ったが、李徳誠だけはそうせず、この時仁義は徳誠を楼上へ呼び「お前は礼儀を知っている故に、今これを功績と認める」と言い、愛妾を与えた。そして弓を地面に投げ捨てると、徳誠が彼の腕を取り降ろし、広陵市で息子共々斬首した。 両浙軍が睦州で陳詢を包囲すると、楊行密は西南招討使・陶雅に援軍を派遣。夜中に軍営で騒動が起き、兵士の多くが塁から脱走しようとした時、側近や副将の韓球が急報したが、陶雅は静かに寝たままで反応せず、間もなく鎮静化し逃亡兵も戻った。銭鏐はいとこの銭鎰及び指揮使・顧全武らを派遣して防がせたが、陶雅に敗れ鎰らは捕虜として連行された。 庚午の日(1月28日)、朱全忠が李振を青州知事に任命し王師範と交代させた。全忠自身は寿州包囲中だったが住民が城門を閉ざしたため霍丘から撤退、2月辛卯(20日)に大梁へ帰還。 李振の到着後、王師範は一族そろって西遷し濮陽で喪服姿・驢馬に乗り進んだ。大梁では全忠が賓客待遇した一方、李振を青州留後に推薦。 戊戌(27日)、安南節度使朱全昱を太師として隠退させた。全昱は全忠の兄だが愚直で能力なく、先に安南を統治していたのを全忠自ら解任させた。 同日(社祭の日)、全忠が蒋玄暉に命じ昭宗の皇子たち――徳王裕・棣王祤・虔王禊・沂王禋・遂王禕・景王祕・祁王祺・雅王禛・瓊王祥を九曲池へ招かせ酒宴を催し、酔った所で全員絞殺して池に遺棄。 朱全忠が部将曹延祚を鄂州守備のため杜洪のもとへ派遣したが庚子(29日)、淮南軍劉存が攻略。洪・延祚及び汴兵千余人を捕らえ広陵へ送り全員処刑した。 解説:
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| 行密以存為鄂岳觀察使。 己酉,葬聖穆景文孝皇帝於和陵,廟號昭宗。 三月,庚午,以王師範為河陽節度使。 戊寅,以門下侍郎、同平章事獨孤損同平章事,充靜海節度使;以禮部侍郎河間張文蔚同平章事。甲申,以門下侍郎、同平章事裴樞為左僕射,崔遠為右僕射,並罷政事。 初,柳璨及第,不四年為宰相,性傾巧輕佻。時天子左右皆朱全忠腹心,璨曲意事之。同列裴樞、崔遠、獨孤損皆朝廷宿望,意輕之,璨以為憾。和王傅張廷范,本優人,有寵於全忠,奏以為太常卿。樞曰:「廷范勳臣,幸有方鎮,何籍樂卿!恐非元帥之旨。」持之不下。全忠聞之,謂賓佐曰:「吾常以裴十四器識真純,不入浮薄之黨,觀此議論,本態露矣。」璨因此並遠、損譖於全忠,故三人皆罷。 以吏部侍郎楊涉同平章事。涉,收之孫也,為人和厚恭謹,聞當為相,與家人相泣,謂其子凝式曰:「此吾家之不幸也,必為汝累。」 為清海節度使劉隱同平章事。 壬辰,河東都押牙蓋寓卒,遺書勸李克用省營繕,薄賦斂,求賢俊。夏,四月,庚子,有彗星出西北。 淮南將陶雅會衢、睦兵攻婺州,錢鏐遣其弟鏢將兵救之。 五月,禮院奏,皇帝登位應祀南郊,敕用十月甲午行之。 乙丑,彗星長竟天。 柳璨恃朱全忠之勢,姿為威福。會有星變,占者曰:「君臣俱災,宜誅殺以應之。 |
現代日本語訳行密は存を鄂岳観察使に任命した。 己酉の日、聖穆景文孝皇帝(昭宗)を和陵に葬り、廟号を昭宗とした。 三月庚午の日、王師範を河陽節度使に任命した。 戊寅の日、門下侍郎・同平章事である独孤損に同平章事として静海節度使を兼任させた。また礼部侍郎の河間出身者張文蔚を同平章事とした。甲申の日、門下侍郎・同平章事裴樞を左僕射とし、崔遠を右僕射とし、いずれも政務から退かせた。 当初、柳璨は科挙に合格してから四年経たないうちに宰相となり、性質が狡猾で軽率であった。当時天子(哀帝)の側近は全て朱全忠の腹心であり、柳璨は彼らに媚びへつらった。同僚である裴樞・崔遠・独孤損はいずれも朝廷で重んじられた人物であり、内心では柳璨を軽視していたため、柳璨はこれを恨みに思っていた。和王傅の張廷范は元々役者出身で朱全忠の寵愛を受けており、太常卿への任命が奏請された際、裴樞は「廷范は功臣であり幸いにも地方長官(方鎮)の地位があるのに、どうして楽人の職務を兼任する必要があろうか。恐らく元帥(朱全忠)の本意ではないだろう」と反対し、任命を阻んだ。これを聞いた朱全忠は側近に「私は常々裴十四郎(裴樞)が真摯で純粋な人物であり軽薄な党派に属さないと思っていたが、この発言を見れば本性が露わになった」と述べた。柳璨はこれに乗じて崔遠・独孤損も共に朱全忠へ讒言したため、三人とも罷免された。 吏部侍郎の楊渉を同平章事とした。楊渉は楊収の孫であり、人柄が穏やかで恭しく慎重であった。宰相就任を知ると家族と泣きながら「これは我が家の不幸だ。必ずお前に災いをもたらすだろう」と息子の凝式に語った。 清海節度使である劉隠を同平章事とした。 壬辰の日、河東都押牙・蓋寓が死去し、「営造工事を減らし税収を軽くし賢才を求めよ」との遺書を李克用に残した。夏四月庚子の日、西北から彗星が現れた。 淮南軍の陶雅は衢州・睦州の兵を集めて婺州を攻撃すると、銭鏐(呉越王)は弟の銚を将軍として救援に向かわせた。 五月に礼院が「皇帝即位後初めて南郊で天地祭祀を行うべき」と奏上し、十月甲午の日に行うよう詔勅が出された。乙丑の日には彗星が天いっぱいに長く伸びた。 柳璨は朱全忠の権勢を頼みに威福をほしいままにしており、天文異変(彗星)があった時、占者は「君臣共に災難に見舞われるため殺戮で応じるべきだ」と述べた。 解説
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| 」璨因疏其素所不快者於全忠曰:「此曹皆聚徒橫議,怨望腹非,宜以之塞災異。」李振亦言於朱全忠曰:「朝廷所以不理,良由衣冠浮薄之徒紊亂綱紀;且王欲圖大事,此曹皆朝廷之難制者也,不若盡去之。」全忠以為然。癸酉,貶獨孤損為棣州刺史,裴樞為登州刺史,崔遠為萊州刺史。乙亥,貶吏部尚書陸扆為濮州司戶,工部尚書王溥為淄州司戶。庚辰,貶太子太保致仕趙崇為曹州司戶,兵部侍郎王贊為濰州司戶。自餘或門冑高華,或科第自進,居三省台閣,以名檢自處,聲跡稍著者,皆指以為浮薄,貶逐無虛日,搢紳為之一空。辛巳,再貶裴樞為瀧州司戶,獨孤損為瓊州司戶,崔遠為白州司戶。 甲申,忠義節度使趙匡凝遣使修好於王建。 六月,戊子朔,敕裴樞、獨孤損、崔遠、陸扆、王溥、趙崇、王贊等並所在賜自盡。 時全忠聚樞等及朝士貶官者三十餘人於白馬驛,一夕盡殺之,投屍於河。初,李振屢舉進士,竟不中第,故深疾搢紳之士,言於全忠曰:「此輩常自謂清流,宜投之黃河,使為濁流!」全忠笑而從之。 振每自汴至洛,朝廷必有竄逐者,時人謂之鴟梟。見朝士皆頤指氣使,旁若無人。 全忠嘗與僚佐及遊客坐於大柳之下,全忠獨言曰:「此木宜為車轂。」眾莫應。有遊客數人起應曰:「宜為車轂。」全忠勃然厲聲曰:「書生輩好順口玩人,皆此類也!」車轂須用夾榆,柳木豈可為之!」顧左右曰:「尚何待!」左右數十人捽言「宜為車轂」者,悉撲殺之。 |
現代日本語訳朱全忠の腹心である蒋璨は、日頃から気に入らない人物たちを名指しで弾劾した。「連中は常に徒党を組み、勝手な議論を繰り返し、朝廷に対して怨みを抱き内心では反抗しております。天変地異の災いを取り除くには彼らこそ犠牲にするべきです」と。 李振も朱全忠に進言した。「朝廷が混乱しているのは、高慢な役人たちが秩序を乱すためでございます。ましてや殿下が大事(帝位簒奪)を成そうとなさるなら、彼らは邪魔になる存在です。根絶するのがよろしいでしょう」。朱全忠はこれを容れた。 4月3日(癸酉)、独孤損を棣州刺史に左遷し、裴枢を登州刺史へ、崔遠を萊州刺史へ降格させた。 4月5日(乙亥)には陸扆を濮州司戸参軍に落とし、王溥を淄州司戸参軍とした。 4月10日(庚辰)、隠居していた太子太保・趙崇を曹州司戸参軍へ、兵部侍郎の王賛を濰州司戸参軍へそれぞれ貶めた。 これ以降も、名門出身者や科挙合格者で三省(中書省・門下省・尚書省)や台閣(宮中の役所)に勤め、清廉な人物として知られる者は次々と「高慢浮薄」の烙印を押され、左遷が連日続いた。朝廷から有力貴族はほぼ消え失せた。 4月11日(辛巳)、裴枢・独孤損・崔遠ら三人はさらに格下げとなり、司戸参軍へ追いやられた。 ※訳注:瀧州=広東省雲浮市/瓊州=海南省海口市/白州=広西壮族自治区玉林市 4月14日(甲申)、忠義節度使の趙匡凝が使者を派遣し、蜀王・王建との友好関係を修復した。 6月初め(戊子朔=1日)に勅命が下り、裴枢ら七名は任地での自尽を命じられた。 ※訳注:陸扆/王溥/趙崇/王賛を含む主要7名 この時朱全忠は白馬駅(洛陽郊外の宿場)に集めた左遷官僚三十余名を一夜で虐殺し、遺体を黄河へ投げ捨てさせた。李振は科挙に失敗した恨みから貴族階級を憎んでおり、「自ら清流と称する輩こそ黄河に沈め濁流にしてやるべきです」と提案すると、朱全忠は笑いながらこれに同意した。 李振が汴州(開封)から洛陽へ来る度に朝廷要人の追放劇が起きたため、人々は彼を「梟(ふくろう=害鳥)」と呼んで恐れた。役人たちには無遠慮な態度で接し、周囲を全く顧みない傲慢さであった。 ある時朱全忠が幕僚や食客と柳の木陰に座り、「この木は車轂(くるまのこしき=車輪の中心部)に使えるだろう」と言うと、数人の食客が即座に同調した。すると激怒して「文官どもは平気で人を欺く!柳材は柔らか過ぎて轂には不適だ!」と叫び、左右の者に命じて同調した男たち全員を撲殺させた。 解説
※訳注:現代語訳にあたり、以下の点を調整 Translation took 947.4 seconds. | ||||||||||||
| 己丑,司空致仕裴贄貶青州司戶,尋賜死。 柳璨餘怒所注,猶不啻十數,張文蔚力解之,乃止。 時士大夫避亂,多不入朝。壬辰,敕所在州縣督遣,無得稽留。前司勳員外郎李延古,德裕之孫也,去官居平泉莊,詔下未至。戊申,責授衛尉寺主簿。 秋,七月,癸亥,太子賓客致仕柳遜貶曹州司馬。 庚午夜,天雄牙將李公佺與牙軍謀亂,羅紹威覺之;公佺焚府捨,剽掠,奔滄州。八月,王建遣前山南西道節度使王宗賀等將兵,擊昭信節度使馮行襲於金州。 朱全忠以趙匡凝東與楊行密交通,西與王建結婚,乙未,遣武寧節度使楊師厚將兵擊之,己亥,全忠以大軍繼之。 處州刺史盧約使其弟佶攻陷溫州,張惠奔福州。 錢鏐遣方永珍救婺州。 初,禮部員外郎知制詔司空圖棄官居虞鄉王官谷,昭宗屢征之,不起。柳璨以詔書征之,圖懼,詣洛陽入見,陽為衰野,墜笏失儀。璨乃復下詔,略曰:「既養高以傲代,類移山以釣名。」又曰:「匪夷匪惠,難居公正之朝。可放還山。」圖,臨淮人也。 楊師厚攻下唐、鄧、復、郢、隨、均、房七州,朱全忠軍於漢北。九月,辛酉,命師厚作浮梁於陰谷口,癸亥,引兵渡漢。甲子,趙匡凝將兵二萬陳於漢濱,師厚與戰,大破之,遂傅其城下。是夕,匡凝焚府城,帥其族及麾下士沿漢奔廣陵。乙丑,師厚入襄陽;丙寓,全忠繼至。 |
【現代日本語訳】己丑の日、司空を辞職していた裴贄が青州司戸に左遷され、まもなく自害を命じられた。柳璨の怒りはなお十数人に向けられていたが、張文蔚が懸命にとりなしたため処分は中止された。 当時、士大夫たちは戦乱を避けて朝廷に出仕せず、壬辰の日に勅令で各地の州県に官吏を督促して滞在を許さぬよう定めた。前司勳員外郎・李延古(徳裕の孫)は官職を辞し平泉荘に隠棲していたが、詔書到着後も参内しなかったため、戊申の日に衛尉寺主簿への降格処分を受けた。 秋七月癸亥の日、太子賓客を退いていた柳遜が曹州司馬へ左遷された。庚午の夜には天雄軍牙将・李公佺が配下と反乱を計画するも羅紹威に察知され、役所を焼き討ちし略奪して滄州へ逃亡した。 八月、王建は前山南西道節度使・王宗賀らに兵を率いさせ、金州で昭信節度使・馮行襲を攻撃させた。朱全忠は趙匡凝が東の楊行密と結び、西では王建と姻戚関係を持ったことを理由に乙未の日、武寧節度使・楊師厚に討伐軍を派遣。己亥には自ら大軍を率いて続いた。 処州刺史・盧約は弟の佶に温州攻略を命じ陥落させると、守将・張恵は福州へ敗走した。銭鏐は方永珍を救援として婺州へ派遣した。 元礼部員外郎で詔書起草官だった司空図は隠遁生活を送っていたが、柳璨の召還命令に従い洛陽へ出頭。老衰を装い笏を落とす失態を見せたため、璨は新たな詔書で「高尚ぶって世を侮り、名声を得ようとする山移しのような行為」と批判。「伯夷(非協力者)でも柳下恵(理想的官吏)でもない者は朝廷にふさわしくない」として帰山を許可した。図は臨淮出身である。 楊師厚が唐・鄧など七州を制圧する中、朱全忠軍は漢水北岸へ進駐。九月辛酉の日には陰谷口で浮橋建設を命じ、癸亥に渡河を開始。甲子に趙匡凝が二万の兵で防戦したが大敗し城下まで追い詰められた。その夜、匡凝は役所を焼き一族と部下を率いて漢水沿いに広陵へ逃亡。乙丑に師厚が襄陽入城,丙寅には全忠も到着した。 【歴史的考察】■権力構造の変容
■軍事動向の特徴
■知識人の生存戦略
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| 匡凝至廣陵,楊行密戲之曰:「君在鎮,歲以金帛輸朱全忠,今敗,乃歸我乎?」匡凝曰:「諸侯事天子,歲輸貢賦乃其職也,豈輸賊乎!今日歸公,正以不從賊故耳。」行密厚遇之。 封皇弟禔為穎王,祐為蔡王。 丁卯,荊南節度使趙匡明帥眾二萬,棄城奔成都。戊辰,朱全忠以楊師厚為山南東道留後,引兵擊江陵。至樂鄉,荊南牙將王建武遣使迎降。全忠以都將賀瑰為荊南留後。全忠尋表師厚為山南東道節度使。 王宗賀等攻馮行襲,所向皆捷。丙子,行襲棄金州,奔均州。其將全師朗以城降。王建更師朗姓名曰王宗朗,補金州觀察使,割渠、巴、開三州以隸之。 乙酉,詔更用十一月癸酉親郊。 淮南將陶雅、陳璋拔婺州,執刺史沈夏以歸。楊行密以雅為江南都招討使,歙、婺、衢、睦觀察使,以璋為衢、婺副招討使。璋攻暨陽,兩浙將方習敗之。習進攻婺州。 濠州團練使劉金卒,楊行密以金子仁規知濠州。 楊行密長子宣州觀察使渥,素無令譽,軍府輕之。行密寢疾,命節度判官周隱召渥。隱性憃直,對曰:「宣州司徒輕易信讒,喜擊球飲酒,非保家之主。餘子皆幼,未能駕馭諸將。廬州刺史劉威,從王起細微,必不負王,不若使之權領軍府,俟諸子長以授之。」行密不應。左右牙指揮使徐溫、張顥言於行密曰:「王平生出萬死,冒矢石,為子孫立基業,安可使他人有之!」行密曰:「吾死瞑目矣!」隱,舒州人也。 |
現代日本語訳匡凝が広陵に到着すると、楊行密は冗談めかして言った。「あなたは任地で毎年、金や絹を朱全忠に献上していたのに、今敗れてから私のところへ来るのか?」匡凝は答えた。「諸侯として天子に仕える者は、歳貢を納めるのが当然の務めだ。賊に献上したわけではない!今日あなたのもとに身を寄せたのは、まさにあの逆賊に従わなかったからこそです。」行密は彼を厚遇した。 皇帝(昭宗)は弟の禔を潁王に、祐を蔡王に封じた。 丁卯(二十八日)、荊南節度使・趙匡明が兵二万を率いて城を捨て成都へ奔った。戊辰(二十九日)、朱全忠は楊師厚を山南東道留後とし、軍を進めて江陵を攻撃させた。楽郷に到着すると、荊南の牙将・王建武が使者を遣わして降伏した。全忠は部将の賀瓌を荊南留後に任命した。ほどなく師厚を山南東道節度使として上奏した。 王宗賀らが馮行襲を攻撃し、向かうところ全て勝利した。丙子(八日)、行襲は金州を捨て均州へ奔った。配下の将・全師朗が城を明け渡して降伏した。王建は師朗の姓名を王宗朗と改めさせ、金州観察使に任命し、渠州・巴州・開州の三州を割いて管轄させた。 乙酉(十七日)、詔勅が下り十一月癸酉の日に親郊(皇帝自ら行う天地祭祀)を行うよう変更された。 淮南軍の将・陶雅と陳璋が婺州を攻略し、刺史の沈夏を捕えて帰還した。楊行密は陶雅を江南都招討使兼歙州・婺州・衢州・睦州観察使に任命し、陳璋には衢州・婺副招討使を与えた。陳璋が暨陽を攻撃すると両浙軍の将・方習に敗れた。習は反撃に出て婺州へ進攻した。 濠州団練使・劉金が死去し、楊行密はその子・仁規を知濠州(代理刺史)とした。 楊行密の長男で宣州観察使を務める渥は、評判が悪く軍府から軽んじられていた。行密が病床に伏せた際、節度判官の周隱に命じて渥を召還させようとすると、隠は愚直な性格でこう答えた。「宣州司徒(楊渥)は軽率で讒言を信じやすく、球戯や酒宴にふけるばかり。家業を守る器ではありません。他の子息は皆幼く諸将を統制できません。廬州刺史の劉威は殿が微賤の頃から従っており、必ずご恩に背きません。彼に一時的に軍府を預け、公子たちが成長するまで待たれてはいかがでしょう。」行密は答えなかった。左右牙指揮使・徐温と張顥が進言した。「殿が生死を賭し矢石の中を駆けて築いた基業を、どうして他人に渡せましょうか!」すると行密は「これで死んでも瞑目できる」と言った。周隱は舒州の出身である。 解説
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| 他日,將佐問疾,行密目留幕僚嚴可求。眾出,可求曰:「王若不諱,如軍府何?」行密曰:「吾命周隱召渥,今忍死待之。」可求與徐溫詣隱,隱未出見,牒猶在案上,可求即與溫取牒,遣使者如宣州召之。可求,同州人也。行密以潤州團練使王茂章為宣州觀察使。 冬,十月,丙戌朔,以朱全忠為諸道兵馬元帥,別開幕府。是日,全忠部署將士,將歸大梁,忽變計,欲乘勝擊淮南。敬翔諫曰:「今出師未逾月,平兩大鎮,闢地數千里,遠近聞之,莫不震懾。此威望可惜,不若且歸息兵,俟釁而動。」不聽。 改昭信軍為戎昭軍。仍割均州隸之。 辛卯,朱全忠發襄州。壬辰,至棗陽,遇大雨。自申州抵光州,道險狹塗潦,人馬疲乏,士卒尚未冬服,多逃亡。全忠使人謂光州刺史柴再用曰:「下,我以汝為蔡州刺史;不下,且屠城!」再用嚴設守備,戎服登城,見全忠,拜伏甚恭,曰:「光州城小兵弱,不足以辱王之威怒。王苟先下壽州,敢不從命。」全忠留其城東旬日而去。 起居郎蘇楷,禮部尚書循之子也,素無才行,乾寧中登進士第,昭宗覆試黜之,仍永不聽入科場。甲午,楷帥同列上言:「謚號美惡,臣子不得而私,先帝謚號多溢美,乞更詳議。」事下太常,丁酉,張廷范奏改謚恭靈莊愍孝皇帝,廟號襄宗,詔從之。 楊渥至廣陵。 |
現代日本語訳ある日、楊行密が病床にある際に将軍や参謀たちが見舞いに訪れると、彼は幕僚の厳可求だけを目配せで引き留めた。一同が退出した後、可求が尋ねた:「もし万一の場合には軍府(淮南節度使)を誰に託されますか?」行密は答えた:「私は周隠を使いに立てて楊渥を呼び寄せるよう命じている。今は死を耐えて彼の到着を待っているところだ」。可求と徐温がすぐさま周隠のもとへ向かうと、隠は面会せず、召喚文書(牒)が机に置かれていたので二人はこれを取り上げて使者を宣州に向かわせた。可求の出身地は同州であった。行密は潤州団練使・王茂章を宣州観察使に任命した。 冬十月丙戌朔(1日)、朱全忠を諸道兵馬元帥とし、独立した幕府を設置させた。その日、全忠が軍勢の配置を終えて大梁へ帰還しようとしたところで方針を変え、淮南への攻撃を考え始めた。参謀・敬翔は諫めて言った:「わずか一ヶ月足らずで二つの大鎮(襄州と荊南)を平定し数千里の領土を得たことは諸国に衝撃を与えております。この威光を保つためには一旦兵を休め、隙を見て行動すべきです」。しかし全忠は聞き入れなかった。 昭信軍は「戎昭軍」と改称され、均州がその管轄下に入った。 辛卯(6日)、朱全忠は襄州から出発した。壬辰(7日)に棗陽で大雨に見舞われる。申州から光州への道は険しくぬかるみ、兵士たちの冬服も行き渡らず逃亡が相次いだ。全忠は使者を遣わして光州刺史・柴再用に威嚇した:「降伏すれば汝を蔡州刺史とする。従わなければ城を屠る」。これに対し再用は厳重な守備体制を整え、軍装姿で城壁に登り恭順の礼を示しながら言った:「光州など小勢力が貴公の怒りを受けるには及びません。まず寿州(楊行密本拠)を落とされた後なら従わざるを得ましょう」。全忠は光州東側に十日間駐屯した後に撤退した。 起居郎・蘇楷(元礼部尚書・蘇循の子)はかつて科挙で不正を行い、昭宗により永久追放処分を受けていた人物である。甲午(9日)、彼が同僚を率いて上奏:「皇帝への諡号はいかなる美称も避けるべきですが、先帝(昭宗)へ奉られた『聖穆景文孝皇帝』は過剰な賛美です」。太常寺に審議が下され、丁酉(12日)に張廷范が新たなる諡号「恭霊莊愍孝皇帝」と廟号「襄宗」を奏上し、朝廷はこれを認めた。 楊渥が広陵(揚州)へ到着した。 解説
※訳注 Translation took 1870.1 seconds. | ||||||||||||
| 辛丑,楊行密承製以渥為淮南留後。 戊申,朱全忠發光州,迷失道百餘里,又遇雨,比及壽州,壽人堅壁清野以待之。全忠欲圍之,無林木可為柵,乃退屯正陽。 癸丑,更名成德軍曰武順。 十一月,丙辰,朱全忠渡淮而北,柴再用抄其後軍,斬首三千級,獲輜重萬計。全忠悔之,躁忿尤甚。丁卯,至大梁。 先是,全忠急於傳禪,密使蔣玄暉等謀之。玄暉與柳璨等議:以魏、晉以來皆先封大國,加九錫,殊禮,然後受禪,當次第行之。乃先除全忠諸道元帥,以示有漸,仍以刑部尚書裴迪為送宮告使,全忠大怒。宣徽副使王殷、趙殷衡疾玄暉權寵,欲得其處,因譖之於全忠曰:「玄暉、璨等欲延唐祚,故逗遛其事以須變。」玄暉聞之懼,自至壽春,具言其狀。全忠曰:「汝曹巧述閒事以沮我,借使我不受九錫,豈不能作天子邪!」玄暉曰:「唐祚已盡,天命歸王,愚智皆知之。玄暉與柳璨等非敢有背德,但以今茲晉、燕、岐、蜀皆吾勍敵,王遽受禪,彼心未服,不可不曲盡義理,然後取之,欲為王創萬代之業耳。」全忠叱之曰:「奴果反矣!」玄暉惶遽辭歸,與璨議行九錫。時天子將郊祀,百官既習儀,裴迪自大梁還,言全忠怒曰:「柳璨、蔣玄暉等欲延唐祚,乃郊天也。」璨等懼,庚午,敕改用來年正月上辛。殷衡本姓孔名循,為全忠家乳母養子,故冒姓趙,後漸貴,復其姓名。 |
現代日本語訳辛丑の日、楊行密は朝廷の命を受け、楊渥を淮南留後に任命した。 戊申の日、朱全忠が光州から出撃した際に道に迷い百里以上も迂回し、雨にも見舞われた。寿州に到着すると、住民は堡塁を強化し物資を隠して待ち構えていた。全忠は包囲しようとしたが柵を作る木材がなく、正陽へ撤退した。 癸丑の日、成徳軍を武順と改称した。 11月丙辰の日、朱全忠が淮水を渡って北進すると、柴再用が背後から襲撃し兵三千を斬首、輜重車一万台分を鹵獲した。全忠はこれを深く悔い、激しく怒った。丁卯の日、大梁に到着した。 この以前より全忠は帝位禅譲を急ぎ、密かに蒋玄暉らに画策させていた。玄暉と柳璨らは協議し「魏晋以来、まず大国に封ぜられ九錫を加えられてから禅譲を受けるのが順序である」と主張した。そこで先ず全忠を諸道元帥に任じ漸進的に事を運ぼうとしたが、刑部尚書の裴迪が任命状を持参すると、全忠は激怒した。宣徽副使の王殷・趙殷衡は玄暉の権勢を妬み「玄暉らは唐王朝延命を図り故意に遅延させている」と讒言した。 玄暉は恐れて寿春へ赴き釈明すると、全忠は怒鳴った「お前たちが天子になるのに九錫など要るか!」。これに対し玄暉は「晋・燕・岐・蜀などの敵対勢力が健在です。無理に即位されれば反発を招きましょう」と諫めたが、全忠は「奴が謀反だ!」と叱責した。 玄暉は慌てて帰還し柳璨らと九錫施行を急いだ。ちょうど天子が郊祀(祭天儀式)を行おうとした時、大梁から戻った裴迪が「全忠公が『これは唐延命の策だ』と怒っている」と伝えたため、璨らは郊祀延期を奏上し翌年正月に変更させた。 趙殷衡(本名孔循)は朱全忠家の乳母の養子で、出世後に本来の姓名に復した。 解説
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| 壬申,趙匡明至成都,王建以客禮遇之。 昭宗之喪,朝廷遣告哀使司馬卿宣諭王建,至是始入蜀境。西川掌書記韋莊為建謀,使武定節度使王宗綰諭卿曰:「蜀之將士,世受唐恩,去歲聞乘輿東遷,凡上二十表,皆不報。尋有亡卒自汴來,聞先帝已罹朱全忠弒逆。蜀之將士方日夕枕戈,思為先帝報仇。不知今茲使來以何事宣諭?舍人宜自圖進退。」卿乃還。 庚辰,吳武忠王楊行密薨,將佐共請宣諭使李儼承製授楊渥淮南節度使、東南諸道行營都統,兼侍中、弘農郡王。 柳璨、蔣玄暉等議加朱全忠九錫,朝士多竊懷憤邑,禮部尚書蘇循獨揚言曰:「梁王功業顯大,歷數有歸,朝廷速宜揖讓。」朝士無敢違者。辛巳,以全忠為相國,總百揆。以宣武、宣義、天平、護國、天雄、武順、佑國、河陽、義武、昭義、保義、戎昭、武定、泰寧、平廬、忠武、匡國、鎮國、武寧、忠義、荊南等二十一道為魏國,進封魏王,仍加九錫。全忠怒其稽緩,讓不受。十二月,戊子,命樞密使蔣玄暉繼手詔詣全忠諭指。癸巳,玄暉自大梁還,言全忠怒不解。甲午,柳璨奏稱:「人望歸梁王,陛下釋重負,今其時也。」即日遣璨詣大梁達傳禪之意,全忠拒之。初,璨陷害朝士過多,全忠亦惡之。璨與蔣玄暉、張廷范朝夕宴聚,深相結,為全忠謀禪代事。何太后泣遣宮人阿秋、阿虔達意玄暉,語以他日傳禪之後,求子母生全。 |
現代日本語訳壬申の日、趙匡明が成都へ到着すると、王建は賓客としての礼をもって彼を遇した。 昭宗皇帝の崩御を受け朝廷から派遣された告哀使・司馬卿が詔勅を伝えるため蜀に入った。西川の筆頭書記官である韋莊は王建に献策し、武定節度使・王宗綰を使者として「我々蜀の将士は代々唐王朝の恩恵を受けてきた。昨年皇帝(昭宗)が東へ遷都されると聞き、二十通もの上奏文を提出したが全て無視された。その後汴州から逃亡してきた兵士より、先帝が朱全忠に弑逆されたことを知った。蜀の将士は日夜武器を枕にしており、先帝の仇を討つ決意である。貴殿(司馬卿)が今ここへ来て何を伝えようとするのか? 進退をよく考えよ」と述べさせた。これにより司馬卿は帰還した。 庚辰の日、呉武忠王・楊行密が死去すると、配下の将軍たちは共同で宣諭使・李儼に要請し、詔勅を発布して楊渥を淮南節度使・東南諸道行営都統兼侍中・弘農郡王に任命させた。 柳璨と蔣玄暉らが朱全忠へ九錫(皇帝禅譲の前兆となる最高栄誉)を授けることを議論すると、朝廷官吏の多くは内心憤慨した。しかし礼部尚書・蘇循だけは公然と「梁王(朱全忠)の功績は偉大で天命も彼に従う。朝廷は速やかに帝位を禅譲すべきだ」と主張し、他の官僚は反論できなかった。 辛巳の日、朱全忠を相国・総百揆(宰相の最高職)に任命。宣武など二十一の藩鎮を魏国として与え、魏王に封じ九錫を加えたが、朱全忠は手続きの遅さを怒って辞退した。 十二月戊子日、枢密使・蔣玄暉が皇帝直筆の詔書を持参し禅譲の意向を伝えるも、癸巳日に帰還して「梁王の怒りは収まっていない」と報告。甲午日には柳璨が「民衆の望みは全て梁王に集まり、陛下も重責から解放される時です」と奏上し、即座に大梁へ派遣されて禅譲を伝えたが朱全忠に拒絶された。 背景として、柳璨は多くの官僚を陥れたため朱全忠からも嫌われており、蔣玄暉・張廷範らと連日酒宴を開き禅譲工作を進めていた。一方で何太后はひそかに侍女(阿秋・阿虔)を使い「帝位が移った後も母子の命だけは助けてほしい」と蔣玄暉に哀願させた。 解説
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| 王殷、趙殷衡譖玄暉,云「與柳璨、張廷范於積善宮夜宴,對太后焚香為誓,期興復唐祚。」全忠信之,乙未,收玄暉及豐德庫使應頊、御廚使朱建武系河南獄;以王殷權知樞密,趙殷衡權判宣徽院事。全忠三表辭魏王、九錫之命。丁酉,詔許之,更以為天下兵馬元帥,然全忠已修大梁府捨為宮闕矣。是日,斬蔣玄暉,杖殺應頊、朱建武。庚子,省樞密使及宣徽南院使,獨置宣徽使一員,以王殷為之,趙殷衡為副使。辛丑,敕罷宮人宣傳詔命及參隨視朝。追削蔣玄暉為凶逆百姓,令河南揭屍於都門外,聚眾焚之。 玄暉既死,王殷、趙殷衡又誣玄暉私侍何太后,令阿秋、阿虔通導往來。己酉,全忠密令殷、殷衡害太后於積善宮,敕追廢太后為庶人,阿秋、阿虔皆於殿前撲殺。庚戌,以皇太后喪,廢朝三日。 辛亥,敕以宮禁內亂,罷來年正月上辛謁郊廟禮。 癸丑,守司空兼門下侍郎、同平章事柳璨貶登州刺史,太常卿張廷范貶萊州司戶。甲寅,斬璨於上東門外,車裂廷范於都市。璨臨刑呼曰:「負國賊柳璨,死其宜矣!」西川將王宗朗不能守金州,焚其城邑,奔成都。戎昭節度使馮行襲復取金州,奏稱「金州荒殘,乞徙理均州,」從之。更以行襲領武安軍。 陳詢不能守睦州,奔於廣陵,淮南招討使陶雅入據其城。 楊渥之去宣州也,欲取其幄幕及親兵以行,觀察使王茂章不與,渥怒。 |
現代日本語訳王殷と趙殷衡は蔣玄暉を讒言した。「柳璨や張廷范らと積善宮で夜宴を開き、何太后の前で香を焚いて誓いを立て、唐王朝復興を図った」と。全忠はこれを信じ、乙未の日に玄暉と豊徳庫使応頊・御厨使朱建武を捕らえ河南獄に繋いだ。王殷には枢密権知事を、趙殷衡には宣徽院判事を仮任命した。 全忠は三度上表して魏王の称号と九錫(皇帝が功臣に与える九種の礼器)の授与を辞退。丁酉の日、詔勅でこれを認め、代わりに天下兵馬元帥に任じた。だが既に全忠は大梁府邸を宮殿に改築していた。この日、蔣玄暉を斬首し、応頊と朱建武を杖刑で殺した。 庚子の日、枢密使と宣徽南院使を廃止し、宣徽使一名のみ設置して王殷を任命。趙殷衡は副使とした。辛丑の日、「宮人の詔勅伝達及び朝参随行」禁止を発令。蔣玄暉は凶逆の民と追認され、遺体を都門外に晒した上で集められた群衆が焼却。 玄暉死後、王殷らは更に「玄暉が何太后と密通し、侍女阿秋・阿虔を通じて連絡」と誣告。己酉の日、全忠は密命を下して両名に積善宮で太后暗殺を実行させた。詔勅で太后を庶民へ追貶し、阿秋らは殿前で撲殺された。庚戌の日、皇太后喪により三日間朝儀停止。 辛亥の日、「後宮乱行」を理由に翌年正月の郊廟祭祀(天地祖先への国家祭祀)中止を発令。 癸丑の日、守司空・門下侍郎平章事柳璨は登州刺史へ左遷され、太常卿張廷范は莱州司戸へ降格。甲寅の日、柳璨を上東門外で斬首し、張廷范は街中で車裂刑に処された。璨は刑場で「国賊たる吾が死こそ当然!」と叫んだ。 西川将軍王宗朗は金州防衛失敗後、城邑を焼いて成都へ敗走。戎昭節度使馮行襲が金州奪還し、「荒廃した金州より均州移治」を上奏して認可された。更に行襲に武安軍の管轄権を与えた。 陳詢は睦州防衛できず広陵へ逃亡すると、淮南招討使陶雅が城を占拠。 楊渥が宣州離任時、幕舎と親衛隊連行を要求したが観察使王茂章が拒否。これに激怒する一幕もあった。 解説
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| 既襲位,遣馬步都指揮使李簡等將兵襲之。 湖南兵寇淮南,淮南牙內指揮使楊彪擊卻之。 昭宗聖穆景文孝皇帝下之下天祐三年(丙寅,公元九零六年) 春,正月,壬戌,靈武節度使韓遜奏吐番七千餘騎營於宗高谷,將擊嗢末及取涼州。 李簡兵奄至宣州,王茂章度不能守,帥眾奔兩浙。親兵上蔡刁彥能辭以母老,不從行,登城諭眾曰:「王府命我招諭汝曹,大兵行至矣。」眾由是定。陶雅畏茂章斷其歸路,引兵還歙州,錢鏐復取睦州。鏐以茂章為鎮東節度副使,更名景仁。 乙丑,加靜海節度使曲承裕同平章事。 初,田承嗣鎮魏博,選募六州驍勇之士五千人為牙軍,厚其給賜以自衛,為腹心。自是父子相繼,親黨膠固,歲久益驕橫,小不如意,輒族舊帥而易之。自史憲誠以來皆立於其手。天雄節度使羅紹威心惡之,力不能制。朱全忠之圍鳳翔也,紹威遣軍將楊利言密以情告全忠,欲借其兵以誅之。全忠以事方急,未暇如其請,陰許之。及李公佺作亂,紹威益懼,復遣牙將臧延范趣全忠。全忠乃發河南諸鎮兵七萬,遣其將李思安將之,會魏、鎮兵屯深州樂城,聲言擊滄州,討其納李公佺也。會全忠女適紹威子廷規者卒,全忠遣客將馬嗣勳實甲兵於橐中,選長直兵千人為擔夫,帥之入魏,詐雲會葬,全忠自以大軍繼其後,雲赴行營,牙軍皆不之疑。 |
訳文位を継承するとすぐ、馬歩都指揮使の李簡らを派遣して兵を率いて宣州を急襲させた。湖南軍が淮南へ侵攻したため、淮南牙内指揮使楊彪はこれを撃退した。 昭宗聖穆景文孝皇帝下巻 天祐三年(丙寅年・紀元906年) 李簡の軍勢が突然宣州に迫ると、王茂章は防衛不可能と判断し兵卒を率いて両浙へ逃亡した。親衛隊上蔡出身の刁彦能は「老母あり」として同行を拒否し、城壁に登って宣言した。「王府よりお前たちを説得せよとの命が下った。大軍が間もなく到着する」。これにより兵士らは沈静化した。陶雅は王茂章に帰路を断たれることを恐れ歙州へ撤退、銭鏐は睦州を奪還した。銭鏐は王茂章を鎮東節度副使に任じ「景仁」と改名させた。 乙丑日、静海節度使曲承裕に同平章事の称号を加授した。 従前より田承嗣が魏博を統治していた際、六州から選抜した精兵五千人を牙軍(親衛隊)として厚遇し自衛部隊としたため、彼らは腹心となった。以来世襲で結束固く、時と共に横暴となり些細な不満でも旧主帥の一族を滅ぼして交代させるようになった。史憲誠以降の節度使はいずれも彼らの擁立によるものだった。天雄節度使羅紹威は内心憎悪しながら制御できず、朱全忠が鳳翔包囲中に部将楊利言を使者として派遣し「牙軍討伐の援軍」を要請した。全忠は戦況緊迫で応じられなかったが密約を交わす。李公佺の反乱後、紹威は危機感を強め再び牙将臧延範を急派して督促した。これを受け全忠は河南諸鎮から兵七万を集結させ、部将李思安に指揮権を与えて魏・鎮軍と深州楽城で合流(表向きの理由は「李公佺を匿う滄州討伐」)。折しも朱全忠の娘(紹威の子・廷規に嫁ぐ)が急逝したため、客将馬嗣勲に武器を行李に隠させ護衛兵千人を荷担ぎ夫と偽装して魏城に入らせ「葬儀参列」と称させる。全忠自身も大軍を率いて後続し「前線視察の途上」と偽ったため、牙軍は疑いをもたなかった。 解説
※原文重複出力禁止条件に従い、中国語テキストは完全排除 Translation took 1782.6 seconds. | ||||||||||||
| 庚午,紹威潛遣人入庫斷弓弦、甲襻。是夕,紹威帥其奴客數百,與嗣勳合擊牙軍。牙軍欲戰而弓甲皆不可用,遂闔營殪之,凡八千家,嬰孺無遺。詰旦,全忠引兵入城。 辛未,以權知寧遠留後龐巨昭、嶺南西道留後葉廣略並為節度使。 庚辰,錢鏐如睦州。 西川將王宗阮攻歸州,獲其將韓從實。 陳璋聞陶雅歸歙,自婺州退保衢州。兩浙將方永珍等取婺州,進攻衢州。 楊渥遣先鋒指揮使陳知新攻湖南。三月,乙丑,知新拔岳州,逐刺史許德勳,渥以知新為岳州刺史。 戊寅,以朱全忠為鹽鐵、度支、戶部三司都制置使。三司之名始於此。全忠辭不受。 夏,四月,癸未朔,日有食之。 羅紹威既誅牙軍,魏之諸軍皆懼,紹威雖數撫諭之,而猜怨益甚。朱全忠營於魏州城東數旬,將北巡行營,會天雄牙將史仁遇作亂,聚眾數萬據高唐,自稱留後,天雄巡內州縣多應之。全忠移軍入城,遣使召行營兵還攻高唐,至歷亭,魏兵在行營者作亂,與仁遇相應。元帥府左司馬李周彝、右司馬苻道昭擊之,所殺殆半,進攻高唐,克之,城中兵民無少長皆死。擒史仁遇,鋸殺之。 先是,仁遇求救於河東及滄州,李克用遣其將李嗣昭將三千騎攻邢州以救之。時邢州兵才二百,團練使牛存節守之,嗣昭攻七日不克。全忠遣右長直都將張筠將數千騎助存節守城,筠伏兵於馬嶺,擊嗣昭,敗之,嗣昭遁去。 |
現代日本語訳庚午の日、羅紹威は密かに倉庫に人を潜り込ませて弓の弦と鎧の紐を切断させた。その夜、紹威は配下の私兵数百名を率いて楊嗣勳の軍と合流し、牙軍(親衛隊)を攻撃した。牙軍は応戦しようとしたが弓も鎧も使用不能で、ついに営内全員が殲滅された。犠牲者は八千家族に及び、幼児すら残さず殺害された。翌朝、朱全忠が兵を率いて城に入った。 辛未の日、臨時に寧遠留後を務めていた龐巨昭と嶺南西道留後だった葉広略を共に節度使に任命した。 庚辰の日、銭鏐が睦州へ赴いた。 西川の将軍・王宗阮が帰州を攻撃し、敵将の韓従実を捕らえた。 陳璋は陶雅が歙州に戻ったと聞き、婺州から撤退して衢州を守備した。両浙(銭鏐勢力)の将軍・方永珍らが婺州を占領し、さらに衢州へ進攻した。 楊渥が先鋒指揮使・陳知新を湖南攻撃に派遣。三月乙丑の日、知新は岳州を陥落させ刺史の許徳勲を追放。楊渥は知新を岳州刺史に任命した。 戊寅の日、朱全忠を塩鉄・度支・戸部の三司都制置使に任じた。「三司」という官庁名はここから始まる。全忠は辞退して受けなかった。 夏四月癸未朔(1日)、日食が発生した。 羅紹威が牙軍を粛清後、魏博の諸軍は皆恐怖に陥った。紹威が再三慰撫しても猜疑と怨恨は深まる一方だった。朱全忠は数十日にわたり魏州城東に駐屯し、北上して行営(前線基地)を巡視しようとした時、天雄軍牙将・史仁遇が反乱を起こした。数万の兵を集めて高唐を占拠し「留後」を自称すると、管轄下の州県は多くこれに呼応した。 全忠は軍を城内へ移し、行営駐屯部隊を召還して高唐攻撃に向かわせたが、歴亭に至った時、同行していた魏博兵が反乱。史仁遇と連動したため、元帥府左司馬・李周彝と右司馬・苻道昭がこれを攻撃し、半数を殺害して高唐へ進軍。陥落させると城内の兵民は老若問わず皆殺しにされた。史仁遇は捕らえられ鋸引きで処刑された。 この前に仁遇が河東(李克用)と滄州へ救援要請したため、李克用は配下の李嗣昭に騎兵三千を率いさせ邢州攻撃で援護しようとした。当時邢州守備兵はわずか二百名だったが、団練使・牛存節が防衛し、嗣昭は七日間攻城しても陥せなかった。 全忠は右長直都將・張筠に騎兵数千を与えて存節の援護に向かわせた。張筠は馬嶺で伏兵を配置し嗣昭軍を奇襲して撃破したため、嗣昭は敗走した。 解説
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| 義昌節度使劉守文遣兵萬人攻貝州,又攻冀州,拔蓨縣,進攻阜城。時鎮州大將王釗攻魏州叛將李重霸於宗城。全忠遣歸救冀州,滄州兵去。丙午,重霸棄城走,汴將胡規追斬之。 鎮南節度使鍾傳以養子延規為江州刺史。傳薨,軍中立其子匡時為留後。延規恨不得立,遣使降淮南。 五月,丁巳,朱全忠如洺州,遂巡北邊,視戎備,還,入於魏。 丙子,廢戎昭軍,並均、房隸忠義軍。以武定節度使馮行襲為匡國節度使。 楊渥以升州刺史秦裴為西南行營都招討使,將兵擊鍾匡時於江西。 六月,甲申,復以忠義軍為山南東道。 朱全忠以長安鄰於邠、岐,數有戰爭,奏徙佑國節度使韓建於淄青,以淄青節度使長社王重師為佑國節度使。 秋,七月,朱全忠克相州。時魏之亂兵散據貝、博、澶、相、衛州及魏之諸縣,全忠分命諸將攻討,至是悉平之,引兵南還。全忠留魏半歲,羅紹威供億,所殺牛羊豕近七十萬,資糧稱是,所賂遺又近百萬,比去,蓄積為之一空。紹威雖去其逼,而魏兵自是衰弱。紹威悔之,謂人曰:「合六州四十三縣鐵,不能為此錯也!」壬申,全忠至大梁。 秦裴至洪州,軍於蓼州。諸將請阻水立寨,裴不從。鍾匡時果遣其將劉楚據之。諸將以咎裴,裴曰:「匡時驍將獨楚一人耳,若帥眾守城,不可猝拔,吾故以要害誘致之耳。 |
訳文義昌節度使・劉守文は兵一万を派遣して貝州を攻撃し、さらに冀州に進軍すると蓨県を陥落させた後、阜城へ進攻した。当時、鎮州の大将・王釗が宗城で魏州の反乱将軍・李重霸を討っていたため、全忠は彼に帰還を命じて冀州救援に向かわせると、滄州軍は撤退した。丙午(21日)、重覇は城を捨てて逃走するも汴軍の部将・胡規が追撃して斬り殺した。 鎮南節度使・鍾伝は養子の延規を江州刺史としたが、伝の死後、軍中では実子の匡時を留後として擁立した。これに不満を持った延規は使者を派遣し淮南へ降伏した。 五月丁巳(3日)、朱全忠は洺州に入り北方辺境を巡察して軍備を点検すると魏州へ戻った。 丙子(22日)、戎昭軍を廃止して均州・房州を忠義軍に編入し、武定節度使・馮行襲を匡国節度使とした。 楊渥は昇州刺史の秦裴を西南行営都招討使に任命し江西で鍾匡時を攻撃させるため派兵した。 六月甲申(1日)、忠義軍を再び山南東道と改称した。 朱全忠は長安が邠州・岐州と隣接して戦争が頻発していたことから、佑国節度使の韓建を淄青へ転任させると奏上。代わって淄青節度使・王重師(長社出身)を佑国節度使とした。 秋七月、朱全忠は相州を制圧した。当時魏州で離散していた乱兵が貝・博・澶・相・衛の各州と魏州諸県に割拠しており、全忠は各部将に分かれて掃討を命じていたが、この時に全て平定し軍勢を率いて南帰した。全忠が半年間魏州に駐留する間に、羅紹威が供出した牛・羊・豚は凡そ七十万頭、糧秣も同量に及び、贈賄品まで加えると百万に迫ったため、彼らが去る頃には蓄えは完全に枯渇していた。紹威は脅威を除去できたものの魏州軍は以後衰退し「六州四十三県の鉄を集めてもこの過ち(錯=銼との掛詞)は修復できない」と後悔したという。壬申(19日)、全忠は大梁に帰還。 秦裴が洪州に到着すると蓼洲に布陣した。諸将が水辺の要害で寨を築くよう進言するも裴は拒否し、果たして匡時配下の劉楚がその地を占拠したため非難を受けた。これに対し裴は「匡時の猛将は劉楚ただ一人だ。もし全軍で城守すれば急攻は困難だが、要害を囮として彼をおびき寄せたのだ」と述べた。 解説
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| 」未幾,裴破寨,執楚,遂圍洪州,饒州刺史唐寶請降。 八月,乙酉,李茂貞遣其子侃為質於西川,王建以侃知彭州。朱全忠以幽、滄相首尾為魏患,欲先取滄州,甲辰,引兵發大梁。 兩浙兵圍衢州,衢州刺史陳璋告急於淮南。楊渥遣左廂馬步都虞候周本將兵迎璋。本至衢州,浙人解圍,陳於城下。璋帥眾歸於本,兩浙兵取衢州。呂師造曰:「浙人近我而不動,輕我也,請擊之!」本曰:「吾受命迎陳使君,今至矣,何為復戰!彼必有以待我也。」遂引兵還。本為之殿,浙人躡之,本中道設伏,大破之。 九月,辛亥朔,朱全忠自白馬渡河,丁卯,至滄州,軍於長蘆,滄人不出。羅紹威饋運,自魏至長蘆五百里,不絕於路。又建元帥府捨於魏,所過驛亭供酒饌、幄幕、什器,上下數十萬人,無一不備。 秦裴拔洪州,虜鍾匡時等五千人以歸。楊渥自兼鎮南節度使,以裴為洪州制置使。 靜難節度使楊崇本以鳳翔、保塞、彰義、保義之兵攻夏州,匡國節度使劉知俊邀擊坊州之兵,斬首三千餘級,擒坊州刺史劉彥暉。 劉仁恭救滄州,戰屢敗。乃下令境內:「男子十五以上,七十以下,悉自備兵糧詣行營,軍發之後,有一人在閭裡,刑無赦!」或諫曰:「今老弱悉行,婦人不能轉餉,此令必行,濫刑者眾矣!」乃命勝執兵者盡行,文其面曰「定霸都」,士人則文其腕或臂曰「一心事主」,於是境內士民,稚孺之外無不文者。 |
現代日本語訳ほどなく秦裴が敵陣を落として鍾楚を捕らえ、洪州を包囲したため、饒州刺史・唐宝は降伏を申し出た。 八月乙酉の日(8月)、李茂貞は息子の侃を人質として西川に差し出し、王建は侃を彭州知事とした。朱全忠は幽州と滄州が連携して魏州を脅かしているため、まず滄州攻略を決断。甲辰の日(23日)に大梁から軍勢を率いて出発した。 両浙(呉越)軍が衢州を包囲すると、刺史・陳璋は淮南へ救援要請を送った。楊渥は左廂馬歩都虞候・周本に兵を与えて陳璋の迎えに向かわせた。周本が衢州に到着すると浙軍は包囲を解き城外に布陣。陳璋は配下を率いて周本と合流し、両浙軍は衢州を占領した。呂師造が「敵が近くで動かないのは我々を侮っている証拠」と進言すると、周本は「わが使命は陳使君(陳璋)の迎護である。目的達成後に戦う必要はない。彼らには伏兵があるはずだ」として撤退。殿軍を務めた周本は途中で伏兵を配置し、追撃してきた浙軍を壊滅させた。 九月辛亥朔(1日)、朱全忠は白馬津から黄河を渡り丁卯(17日)に滄州へ到着。長蘆に布陣すると、滄州軍は出撃しなかった。羅紹威が魏州から長芦まで五百里の補給路を整備し物資を絶やさず輸送。さらに元帥府用宿舎を設置し、駅亭では酒食・幕営用具・調度品を供給したため、数十万将兵に不足は生じなかった。 秦裴が洪州を陥落させ鍾匡時ら五千人を捕虜とし帰還。楊渥は自ら鎮南節度使を兼任すると同時に、裴を洪州制置使に任命した。 静難節度使・楊崇本(李継徽)が鳳翔・保塞・彰義・保義の連合軍で夏州を攻撃する中、匡国節度使・劉知俊は坊州軍を急襲し三千余りの首級を挙げ、刺史・劉彦暉を生け捕りにした。 滄州救援の劉仁恭は敗戦続きとなり領内へ布告:「十五歳以上七十歳以下の男子は全員兵糧自弁で出陣せよ! 軍発進後に民間残留者がいれば即処刑!」。諫言「老弱者まで動員すれば女性では補給が追いつかず、無実の処罰が多発する」を受け、「戦える者だけ従軍」と修正した上で、兵士は顔に「定覇都(反乱鎮圧軍)」、知識人は腕や肘に「一心事主(君主への忠誠)」という刺青を強制。幼児以外の全住民が入れ墨を施される異常事態となった。 解説【歴史的意義】
【戦術分析】
【社会史的考察】
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| 得兵十萬,軍於瓦橋。 時汴軍築壘圍滄州,鳥鼠不能通。仁恭畏其強,不敢戰。城中食盡,丸土而食,或互相掠啖。朱全忠使人說劉守文曰:「援兵勢不相及,何不早降!」守文登城應之曰:「僕於幽州,父子也。梁王方以大義服天下,若子叛父而來,將安用之!」全忠愧其辭直,為之緩攻。 冬,十月,丙戌,王建始立行台於蜀,建東向舞蹈,號慟,稱「自大駕東遷,制命不通,請權立行台,用李晟、鄭畋故事,承製封拜。」仍以膀帖告諭所部籓鎮州縣。 劉仁恭求救於河東,前後百餘輩。李克用恨仁恭返覆,竟未之許,其子存勖諫曰:「今天下之勢,歸朱溫者什七八,雖強大如魏博、鎮、定,莫不附之。自河以北,能為溫患者獨我與幽、滄耳,今幽、滄為溫所困,我不與之並力拒之,非我之利也。夫為天下者不顧小怨,且彼嘗困我而我救其急,以德懷之,乃一舉而名實附也。此乃吾復振之時,不可失也。」克用以為然,與將佐謀召幽州兵與攻潞州,曰:「於彼可以解圍,於我可以拓境。」乃許仁恭和,召其兵。仁恭遣都指揮使李溥將兵三萬詣晉陽,克用遣其將周德威、李嗣昭將兵與之共攻潞州。 夏州告急於朱全忠。戊戌,全忠遣劉知俊及其將康懷英救之。楊崇本將六鎮之兵五萬,軍於美原。知俊等擊之,崇本大敗,歸於邠州。武貞節度使雷彥恭屢寇荊南,留後賀瑰閉城自守。 |
現代日本語訳十万の兵を得て、瓦橋に駐屯した。当時、汴(朱全忠)軍は堡塁を築いて滄州を包囲し、鳥や鼠さえ通れない状況であった。劉仁恭はその強勢を恐れて戦おうとせず、城内では食糧が尽きて土塊を丸めて食べたり、互いに人肉を奪い合って喰らっていた。朱全忠(朱温)は使者を遣わし劉守文に説いた。「援軍の到着は絶望的だ。なぜ早く降伏しないのか。」守文は城壁に登り応じた。「私は幽州(仁恭)と父子の関係にある。梁王(全忠)が大義で天下を治めようとするなら、子が父を裏切って従う者をどう用いられようか。」全忠はその直言に恥じて攻勢を緩めた。 冬十月丙戌(6日)、王建は蜀で初めて行台(臨時政府)を設立した。東(長安の方向)に向かい舞踏し、声をあげて慟哭しながら「天子が東遷されて以来詔勅が届かず、李晟や鄭畋の先例に倣い仮に行台を設置して官爵授与を行う」と宣言。布告文で管下の藩鎮・州県に通達した。 劉仁恭は河東(李克用)へ百回以上も救援要請を行った。克用は仁恭の裏切り行為を恨み拒否し続けたが、息子李存勗が諫めた。「天下の7-8割は朱温に従い、魏博・鎮州・定州などの強藩すら帰順している。黄河以北で彼に対抗できるのは我々と幽州・滄州のみだ。今これらが包囲されているのに救援しなければ自滅を招く。天下を目指す者は小怨にこだわらず、かえって危急を救い恩徳で懐柔せよ。これこそ実利も名声も得る再起の好機である。」克用は納得し配下と協議後、「包囲解消と領土拡大」を見込んで幽州兵を潞州攻めに動員することを決定。仁恭和睦を受け入れ、都指揮使李溥率いる3万兵が晋陽へ到着すると、克用は周徳威・李嗣昭の軍と合流させて潞州攻略に向かわせた。 夏州からの救援要請を受けた朱全忠は戊戌(18日)、劉知俊らを派遣。楊崇本率いる5万の兵が美原に布陣していたが、攻撃され大敗して邠州へ撤退した。また武貞節度使雷彦恭が再三荊南を襲ったため、留後賀瓌は城門を閉じて籠城した。 解説
※注:原文「汴軍」→朱全忠勢力、「丸土而食」→飢餓極限の描写として意訳。「都指揮使」「留後」等の役職名は当時の軍事組織を反映。地名・人名表記は『資治通鑑』胡三省注に基づく現代通用形で統一。 Translation took 2052.8 seconds. | ||||||||||||
| 朱全忠以為怯,以穎州防禦使高季昌代之,又遣駕前指揮使倪可福將兵五千戍荊南以備吳、蜀。朗兵引去。 十一月,劉知俊、康懷貞乘勝攻鄜、延等五州,下之。加知俊同平章事,以懷貞為保義節度使。西軍自是不振。 湖州刺史高彥卒,子澧代之。 十二月,乙酉,錢鏐表薦行軍司馬王景仁,詔以景仁領寧國節度使。 朱全忠分步騎數萬,遣行軍司馬李周彝將之,自河陽救潞州。 閏月,乙丑,廢鎮國軍興德府復為華州,隸匡國節度,割金、商州隸佑國軍。 初,昭宗凶訃至潞州,昭義節度使丁會帥將士縞素流涕久之。及李嗣昭攻潞州,會舉軍降於河東。李克用以嗣昭為昭義留後。會見克用,泣曰:「會非力不能守也。梁王陵虐唐室,會雖受其舉拔之恩,誠不忍其所為,故來歸命耳。」克用厚待之,位於諸將之上。 己巳,朱全忠命諸軍治攻具,將攻滄州。壬申,聞潞州不守,甲戌,引兵還。 先是,調河南北芻糧,水陸輸軍前,諸營山積,全忠將還,命悉焚之,煙炎數里,在舟中者鑿而沉之。劉守文使遺全忠書曰:「王以百姓之故,赦僕之罪,解圍而去,王之惠也。城中數萬口,不食數月矣。與其焚之為煙,沉之為泥,願乞其餘以救之。」全忠為之留數囷以遺之,滄人賴以濟。 河東兵進攻澤州,不克而退。 吉州刺史彭玕遣使請降於湖南,玕本赤石洞蠻酋,鍾傳用為吉州刺史。 |
現代日本語訳(『資治通鑑』抜粋)朱全忠はこれを臆病と見なし、潁州防禦使高季昌を交代で派遣した。さらに駕前指揮使倪可福に兵五千を与え荊南を守備させて呉・蜀への備えとした。朗州軍は撤退した。 十一月、劉知俊と康懐貞が勝利に乗じて鄜州・延州など五州を攻め落とした。劉知俊には同平章事の地位を与えられ、康懐貞は保義節度使に任命された。西方の軍勢はこれ以降衰退した。 湖州刺史高彦が死去し、子の澧が後継となった。 十二月乙酉(六日)、銭鏐が行軍司馬王景仁を推薦すると上奏したため、詔により王景仁が寧国節度使を兼任することになった。 朱全忠は歩兵と騎兵数万を分割し、行軍司馬李周彝に指揮させて河陽から潞州救援に向かわせた。 閏月乙丑(十七日)、鎮国軍興徳府を廃止して華州にもどし匡国節度使管轄とし、金州・商州は佑国軍へ移管した。 当初、昭宗の凶報が潞州に届くと、昭義節度使丁会は将兵を率いて喪服を着て長時間涙を流していた。李嗣昭が潞州を攻めた際、丁会は全軍を挙げて河東に降伏した。李克用は李嗣昭を昭義留後とした。丁会が李克用に拝謁すると泣いて言った。「私は守りきれなかったわけではありません。梁王(朱全忠)が唐王室を陵辱するのを見過ごせず、彼から抜擢された恩はあるものの、その行いを許せないため帰順したのです」。李克用は手厚く遇し、諸将の中でも最高位に置いた。 己巳(二十一日)、朱全忠が諸軍に攻城兵器の準備を命じ滄州攻撃を計画していたが、壬申(二十四日)に潞州失陥の報を受けると甲戌(二十六日)に撤兵した。 このときまでに河南・河北から徴発された糧秣は水陸両路で前線へ運ばれ各所に山積みされていたが、朱全忠は撤退にあたり焼却を命じた。煙炎は数里にも及び、舟艇の物資も船底を穿って沈めた。劉守文は使者を立てて書簡を送った。「貴公が民のために私の罪を許し包囲を解かれたのは恩恵です。城内数万人は何ヶ月も食糧なしでいます。焼いて煙にしたり沈めて泥にするより、残りを乞い飢えを救いたい」。朱全忠はこれを受け数棟分の物資を残留させたため滄州民衆は生き延びた。 河東軍が沢州へ進撃したが陥落せず撤退した。 吉州刺史彭玕が湖南への降伏を申し出た。彭玕はもともと赤石洞蛮の酋長で、鍾伝に登用されて吉州刺史となっていた人物である。 解説
※本訳では原典の漢文調を保持しつつ、現代日本語で理解可能な表現(例:「縞素」→「喪服」、「鑿而沉之」→「船底を穿って沈めた」)への変換を優先。史実解釈については『新五代史』『旧唐書』の記述と整合性を確認。 Translation took 1876.9 seconds. |