| input text 太平記\001_太平記_巻1.txt | 現代日本語 translated text | ||||||||||||||||||
| 太平記 明治四十二年八月一日印刷 明治四十二年八月五日発行 編輯兼発行者 国民文庫刊行会 右代表者 鶴田久作 印刷者 長谷川辰二郎 印刷所 神田印刷所 太平記巻第一 序 蒙窃採古今之変化、察安危之来由、覆而無外天之徳也。明君体之保国家。載而無棄地之道也。良臣則之守社稷。若夫其徳欠則雖有位不持。所謂夏桀走南巣、殷紂敗牧野。其道違則雖有威不久。曾聴趙高刑咸陽、禄山亡鳳翔。是以前聖慎而得垂法於将来也。後昆顧而不取誡於既往乎。 ○後醍醐天皇御治世事付武家繁昌事 爰に本朝人皇の始、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇の御宇に当て、武臣相摸守平高時と云者あり。此時上乖君之徳、下失臣之礼。従之四海大に乱て、一日も未安。狼煙翳天、鯢波動地、至今四十余年。一人而不得富春秋。万民無所措手足。倩尋其濫觴者、匪啻禍一朝一夕之故。元暦年中に鎌倉の右大将頼朝卿、追討平家而有其功之時、後白河院叡感之余に、被補六十六箇国之総追補使。従是武家始て諸国に守護を立、庄園に地頭を置。彼頼朝の長男左衛門督頼家、次男右大臣実朝公、相続で皆征夷将軍の武将に備る。是を号三代将軍。然を頼家卿は為実朝討れ、実朝は頼家の子為悪禅師公暁討れて、父子三代僅に四十二年にして而尽ぬ。 |
『太平記』巻第一 ○後醍醐天皇の治世のことおよび武家の繁栄について 解説本テキストは『太平記』巻頭部分であり、「序」と「後醍醐天皇」以降の本文から構成されています。翻訳では以下の点を重視しました: 本節では王朝の衰退原理や武家台頭の起源が示され、歴史書としての教訓性と南北朝動乱へ至る伏線が特徴です。 | ||||||||||||||||||
| 其後頼朝卿の舅、遠江守平時政子息、前陸奥守義時、自然に執天下権柄勢漸欲覆四海。此時の大上天皇は、後鳥羽院也。武威振下、朝憲廃上事歎思召て、義時を亡さんとし給しに、承久の乱出来て、天下暫も静ならず。遂に旌旗日に掠て、宇治・勢多にして相戦ふ。其戦未終一日、官軍忽に敗北せしかば、後鳥羽院は隠岐国へ遷されさせ給て、義時弥八荒を掌に握る。其より後武蔵守泰時・修理亮時氏・武蔵守経時・相摸守時頼・左馬権頭時宗・相摸守貞時、相続で七代、政武家より出で、徳窮民を撫するに足り、威万人の上に被といへ共、位四品の際を不越、謙に居て仁恩を施し、己を責て礼義を正す。是を以て高しと云ども危からず、盈りと云ども溢れず。承久より以来、儲王摂家の間に、理世安民の器に相当り給へる貴族を一人、鎌倉へ申下奉て、征夷将軍と仰で、武臣皆拝趨の礼を事とす。同三年に、始て洛中に両人の一族を居て、両六波羅と号して、西国の沙汰を執行せ、京都の警衛に備らる。又永仁元年より、鎮西に一人の探題を下し、九州の成敗を司しめ、異賊襲来の守を堅す。されば一天下、普彼下知に不随と云処もなく、四海の外も、均く其権勢に服せずと云者は無りけり。朝陽不犯ども、残星光を奪る、習なれば、必しも、武家より公家を蔑し奉としもは無れども、所には地頭強して、領家は弱、国には守護重して、国司は軽。 |
その後、源頼朝卿の妻の父である遠江守・北条時政の子で前陸奥守・義時(北条義時)が自然と天下の実権を握り、その勢力は次第に全国に広まろうとした。この時の大上天皇(上皇)は後鳥羽院であった。(後鳥羽院は)武家の威勢が下々で振るわれ朝廷の法度が廃れることを嘆きお思いになり、義時を滅ぼそうとなさったところ、承久の乱が起こって天下はしばらくも静まらず。ついに軍旗が日に日に翻り、宇治と勢多(現・滋賀県)で戦いが行われた。その戦いは一日中続かないうちに朝廷軍は突如として敗れ、後鳥羽院は隠岐国へ流されなさったため、義時はいよいよ天下を掌中に収めた。 それ以降、武蔵守・泰時(北条泰時)、修理亮・時氏(北条時氏)、武蔵守・経時(北条経時)、相模守・時頼(北条時頼)、左馬権頭・時宗(北条時宗)、相模守・貞時(北条貞時)が継いで七代にわたり、政治は武家より出て、その徳は民を慈しむのに十分であり、威勢は万人の上にかかると言えども、官位は四位まで越えず謙虚に振る舞って仁恩を施し、自らを律して礼儀を正した。このため「高い」と言っても危うくなく、「満ちている」と言っても溢れることはなかった。 承久の乱以降、(幕府は)皇族や摂関家の中から、世を治め民を安んずる器量にかなった貴族をお一人鎌倉へお招きし征夷大将軍として仰ぎ、武臣たちは皆うやうやしく礼儀をもって仕えた。承久三年(1221年)には初めて京都中に一族の二人を置いて「両六波羅」と称し西国の政務を取り扱わせるとともに京都市中の警備にあたらせた。また永仁元年(1293年)からは九州にも一人の探題を下向させて、九州の裁判・行政を司らせ異国賊襲来への守りを固めさせた。 このため全天下で彼らの命令に従わない所と言うものはなく、四海の外もその権勢に服さぬ者はいなかった。(朝廷と幕府の関係は)朝陽が犯されずとも残る星々(公家勢力)が光を奪われる習いであったので、必ずしも武家が意図的に公家を軽んじたわけではないものの、(現実には)荘園では地頭の力が強く領主は弱体化し、国衙においては守護(幕府役職)の権限が重くなり国司(朝廷役人)の発言力が軽くなる状態となった。 解説本節は前回に続き鎌倉幕府確立期を描きます。翻訳では以下の点に留意しました:
本段落は北条氏による支配機構確立と「公武二元支配」の矛盾点を示し、後の南北朝分裂へ向かう伏線となっています。特に地頭・守護を通じた地方掌握描写は中世社会構造理解に不可欠です。 | ||||||||||||||||||
| 此故に朝廷は年々に衰、武家は日々に盛也。因茲代々の聖主、遠くは承久の宸襟を休めんが為、近くは朝議の陵廃を歎き思食て、東夷を亡さばやと、常に叡慮を回されしかども、或は勢微にして不叶、或は時未到して、黙止給ひける処に、時政九代の後胤、前相摸守平高時入道崇鑒が代に至て、天地命を革むべき危機云顕れたり。倩古を引て今を視に、行跡甚軽して人の嘲を不顧、政道不正して民の弊を不思、唯日夜に逸遊を事として、前烈を地下に羞しめ、朝暮に奇物を翫て、傾廃を生前に致さんとす。衛の懿公が鶴を乗せし楽早尽き、秦の李斯が犬を牽し恨今に来なんとす。見人眉を顰め、聴人唇を翻す。此時の帝後醍醐天王と申せしは、後宇多院の第二の皇子、談天門院の御腹にて御座せしを、相摸守が計として、御年三十一の時、御位に即奉る。御在位之間、内には三綱五常の儀を正して、周公孔子の道に順、外には万機百司の政不怠給、延喜天暦の跡を追れしかば、四海風を望で悦び、万民徳に帰して楽む。凡諸道の廃たるを興し、一事の善をも被賞しかば、寺社禅律の繁昌、爰に時を得、顕密儒道の碩才も、皆望を達せり。誠に天に受たる聖主、地に奉ぜる明君也と、其徳を称じ、其化に誇らぬ者は無りけり。 ○関所停止事 |
このため朝廷は年ごとに衰え、武家勢力は日増しに盛んになった。これにより代々の天皇は、遠く(承久の乱での)後鳥羽院の御心労を鎮めようとされ、近くは朝廷権威の衰退をお嘆きになって、「東国の夷族(鎌倉幕府)を滅ぼしたい」と常にご決意を巡らせられたが、時には勢力微弱で叶わず、あるいは時期到来せぬまま沈黙なさっていたところへ、北条時政から九代目の末裔である前相模守・平高時(入道名:崇鑑)の時代に至り、天地が改まるべき危機が明らかとなった。 よく古を引き合いに出して現代を見ると、(高時の)行いは極めて軽率で人の嘲笑も顧みず、政治は不正ばかりで民衆の疲弊を省みない。ただ日夜遊興にふけることを常とし、先祖(北条泰時ら)を地の下で恥じ入らせ、朝から晩まで珍奇な物を弄んで存命中に国を傾け滅ぼそうとしている。(かつて)衛の懿公が鶴に輿に乗せた楽しみは早く尽き、秦の李斯(刑死前に愛犬との散歩を懐かしんだ故事)のような後悔が今まさに訪れようとしている。これを見る者は眉をひそめ、聞く者も口々に非難する声を上げている。 この時の天皇・後醍醐天皇は、後宇多院の第二皇子で談天門院所生であられた。(高時側が擁立したため)三十一歳で即位された。在位中は内には三綱五常(君臣父子の道徳)を正して周公孔子の教えに従い、外ではあらゆる政務をおろそかにせず延喜・天暦の治(平安黄金期)を追おうとされたので、天下の人々がその風範を慕って喜び、万民は徳化に帰依して安楽を得た。すべて廃れた諸道を復興し、些細な善行でも褒賞を与えられたため寺社や禅律宗派も栄え、顕密仏教や儒教の碩学たちも皆志望を達成した。「まことに天地の理にかなった聖主であり、地が奉ずべき明君である」とその徳を称賛し、その教化を誇らない者はなかった。 ○関所停止のこと 解説本節は北条高時の堕落と後醍醐天皇の理想政治を対比的に描きます:
本段落は鎌倉幕府腐敗(高時)vs 天皇親政復興(後醍醐)という南北朝動乱の核心的対立図式を提示しており、「関所停止事」(次節伏線)への導入となっています。 | ||||||||||||||||||
| 夫四境七道の関所は、国の大禁を知しめ、時の非常を誡んが為也。然に今壟断の利に依て、商売往来の弊、年貢運送の煩ありとて、大津・葛葉の外は、悉く所々の新関を止らる。又元亨元年の夏、大旱地を枯て、田服の外百里の間、空く赤土のみ有て、青苗無し。餓■野に満て、飢人地に倒る。此年銭三百を以て、粟一斗を買。君遥に天下の飢饉を聞召て、朕不徳あらば、天予一人を罪すべし。黎民何の咎有てか、此災に逢ると、自帝徳の天に背ける事を歎き思召て、朝餉の供御を止られて、飢人窮民の施行に引れけるこそ難有けれ。是も猶万民の飢を助くべきに非ずとて、検非違使の別当に仰て、当時富祐の輩が、利倍の為に畜積る米穀を点検して、二条町に仮屋を建られ、検使自断て、直を定て売せらる。されば商買共に利を得て、人皆九年の畜有が如し。訴訟の人出来の時、若下情上に達せざる事もやあらんとて、記録所へ出御成て、直に訴を聞召明め、理非を決断せられしかば、虞■の訴忽に停て、刑鞭も朽はて、諌鼓も撃人無りけり。誠に理世安民の政、若機巧に付て是を見ば、命世亜聖の才とも称じつべし。惟恨らくは斉桓覇を行、楚人弓を遺しに、叡慮少き似たる事を。是則所以草創雖合一天守文不越三載也。 ○立后事付三位殿御局事 |
全国の関所は国家の重大な禁令を示し、緊急事態への備えとして設置されたものです。しかし現在では独占的利益のために商人の往来に障害が生じ年貢運送も煩雑であるため大津(近江国)と葛葉(摂津国)以外の各地に新設したすべての関所を廃止しました。また元亨元年(1321年)夏には大干ばつで大地が枯れ、田畑の外百里四方は赤土だけがあって青々とした苗一つありませんでした。餓死者が野原に満ち飢えた人々が地面に倒れる状況となりこの年は銭三百文で粟一斗を買うほどであったのです。 君主(後醍醐天皇)は遠方から天下の飢饉を知らせ聞き、「朕に不徳があれば天が私一人を罰すべきだ。庶民には何の罪があってこの災難に遭うのか」と自らの帝徳が天意に背いたことを嘆かれました。そして朝食(供御)をお止めになりその分を飢えた者や貧窮者の救済にあてられたのは尊いことでした。しかしこれでも万民の飢えを完全には救えないと考え検非違使別当(警察長官職)に命じ、当時富裕層が暴利目的で蓄積していた米穀を取り調べさせ二条町に仮設店舗を建てられました。検査役自ら公正な価格を定めて販売されたので商人も利益を得人々は9年分の備蓄があるかのように安心しました。 訴訟人が現れた際には「庶民の声が上層部に届かないこともあろうか」と危惧され記録所へ出御されて直接訴えを取り上げ是非曲直をお決めになり裁断なさいましたので無駄な訴訟もたちまち止み刑罰道具は朽ち果て諫言の太鼓を叩く者すらいなくなりました。誠に世を治め民を安んずる政治であり機会があればこれを見た者は「命世亜聖(時代を代表する次世代の賢人)」と称賛したでしょうが惜しむらくは斉桓公の覇道や楚人の弓遺失のように思慮浅い点があったのです。これは創業期こそ天下統一できても守成段階では三年以上持たないという所以を示しています。 ○皇后冊立のことおよび三位殿御局(宮中女官)に関する事柄 解説本節は後醍醐天皇の建武新政における善政と限界を描きます:
歴史的意義として、飢饉対策や訴訟改革は建武政権の「延喜天暦の治再現」を体現しますが、「利倍」「富祐輩」(商人・地頭層)との対立構造が後の瓦解要因となる伏線です。最後に提示される「関所停止事」と「立后事」は次節における朝廷内紛(大覚寺統 vs 持明院統)への過渡を示しています。 | ||||||||||||||||||
| 文保二年八月三日、後西園寺大政大臣実兼公の御女、后妃の位に備て、弘徽殿に入せ給ふ。此家に女御を立られたる事已に五代、是も承久以後、相摸守代々西園寺の家を尊崇せしかば、一家の繁昌恰天下の耳目を驚せり。君も関東の聞へ可然と思食て、取分立后の御沙汰も有けるにや。御齢已に二八にして、金鶏障の下に傅れて、玉楼殿の内に入給へば、夭桃の春を傷る粧ひ、垂柳の風を含る御形、毛■・西施も面を恥、絳樹・青琴も鏡を掩ふ程なれば、君の御覚も定て類あらじと覚へしに、君恩葉よりも薄かりしかば、一生空く玉顔に近かせ給はず。深宮の中に向て、春の日の暮難き事を歎き、秋の夜の長恨に沈ませ給ふ。金屋に人無して、皎々たる残燈の壁に背ける影、薫篭に香消て、蕭々たる暗雨の窓を打声、物毎に皆御泪を添る媒と成れり。「人生勿作婦人身、百年苦楽因他人。」と、白楽天が書たりしも、理也と覚たり。其比安野中将公廉の女に、三位殿の局と申ける女房、中宮の御方に候れけるを、君一度御覧ぜられて、他に異なる御覚あり。三千の寵愛一身に在しかば、六宮の粉黛は、顔色無が如也。都て三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一女御・曁後宮の美人・楽府の妓女と云へども、天子顧眄の御心を付られず。只殊艶尤態の独能是を致のみに非ず、蓋し善巧便佞叡旨に先て、奇を争しかば、花の下の春の遊、月の前の秋の宴、駕すれば輦を共にし、幸すれば席を専にし給ふ。 |
文保二年(1318年)八月三日に西園寺大政大臣実兼公の娘が后妃の位につき弘徽殿に入られました。この家から女御が立てられたのはすでに五代続いており、承久の乱以降北条氏代々が西園寺家を尊崇したため一族の繁栄は天下の注目を集めるほどでした。天皇も関東(鎌倉幕府)の意向を考慮され后位選定をお決めになったのでしょう。 彼女の年齢はすでに十六歳、金鶏障子のもとで導かれて玉楼殿に入られたその姿は、若桃が春を惜しむような装いや柳が風を含んだようなお形で、古代の美女・毛嬙や西施も顔を隠し名妓・絳樹や青琴も鏡を覆うほどでした。天皇のお心も深く惹かれると思われましたが寵愛は木の葉よりも薄く一生玉顔(妃)に近づかせられることはありませんでした。奥深い宮殿で春の日の暮れにくさを嘆き秋の夜長の恨みに沈んでおられ、人のいない金の部屋では明るすぎる残り火が壁に映る影や香炉の香も消えた暗雨が窓を打つ音など全てが涙のもととなりました。 「人生よ女性として生まれずとも 百年の苦楽は他人次第」という白居易の詩も道理だと感じられます。その頃安野中将公廉の娘で三位殿局と呼ばれる女房が中宮付きで伺候していましたが天皇が一度ご覧になると特別な思いを抱かれ三千の寵愛が一身に集まったため後宮の女性たちは色褪せて見え三夫人・九嬪など全ての后妃や楽府の妓女すら天子の顧みを得られませんでした。これは単なる美しさだけでなく巧みな話術で天皇のお心を先取り新奇を競ったためであり花咲く春の遊宴月明かりの秋の宴会では常に輦車(御乗物)や座席を独占されたのです。 解説本節は後醍醐天皇中宮冊立と寵妃問題を描きます:
最終文の「輦を共にし」「席を専にす」は次節「立后事付三位殿御局事」(朝廷内紛)への直接的な接続句となっています。 | ||||||||||||||||||
| 是より君王朝政をし給はず。忽に准后の宣旨を下されしかば、人皆皇后元妃の思をなせり。驚見る、光彩の始て門戸に生ることを。此時天の人、男を生む事を軽じて、女を生む事を重ぜり。されば御前の評定、雑訴の御沙汰までも、准后の御口入とだに云てげれば、上卿も忠なきに賞を与、奉行も理有を非とせり。関雎は楽而不淫、哀而不傷。詩人採て后妃の徳とす。奈何かせん、傾城傾国の乱今に有ぬと覚て、浅増かりし事共也。 ○儲王御事 螽斯の化行れて、皇后元妃の外、君恩に誇る官女、甚多かりければ、宮々次第に御誕生有て、十六人までぞ御座しける。中にも第一宮尊良親王は、御子左大納言為世卿女、贈従三位為子の御腹にて御坐しを、吉田内大臣定房公養君にし奉しかば、志学の歳の始より、六義の道に長じさせ給へり。されば富緒河の清き流を汲、浅香山の故き跡を蹈で、嘯風弄月に御心を傷め給ふ。第二宮も同御腹にてぞ御坐しける。総角の御時より妙法院の門跡に御入室有て、釈氏の教を受させ給ふ。是も瑜伽三密の間には、歌道数奇の御翫有しかば、高祖大師の旧業にも不恥、慈鎮和尚の風雅にも越たり。第三宮は民部卿三位殿の御腹也。御幼稚の時より、利根聡明に御坐せしかば、君御位をば此宮に社と思食したりしかども、御治世は大覚寺殿と持明院殿と、代々持せ給べしと、後嵯峨院の御時より被定しかば、今度の春宮をば持明院殿御方に立進せらる。 |
この頃から天皇は朝廷政治をお取りしまりにならなくなりました。突如として准后(皇后格)の宣旨が下されると人々は皆これを皇后元妃となる前兆かと思いました。「門戸に光彩生ず」と驚き見られるほどのことです。この時世では子供を産むにあたって男児より女児が重んじられました。そのため御前評定や雑訴の裁定さえも「准后の口入り(介入)」と言われてしまう状況で、上卿(議長)は不忠な者に褒賞を与え奉行(執行役)は道理ある主張を退けるありさまです。「関雎(詩経)は楽しみながら淫らではなく哀しみながら傷つけない」と詩人が后妃の徳としたように、どうして国を傾けるほどの乱が今起きぬと言えましょうか。まことに浅ましい事態でした。 ○皇太子ご誕生について 第三皇子(後の光厳天皇)は民部卿三位殿を母とし幼少時より聡明で天皇も皇位継承をご望みでしたが後嵯峨院治世から「大覚寺統と持明院統の交代制」が定められていたため今回の春宮(東宮)は持明院統に決まったのです。 解説本節は建武政権崩壊前夜の危機的状況を描きます:
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| 天下の事小大となく、関東の計として、叡慮にも任られざりしかば、御元服の義を改られ、梨本の門跡に御入室有て、承鎮親王の御門弟と成せ給ひて、一を聞て十を悟る御器量、世に又類も無りしかば、一実円頓の花匂を、荊渓の風に薫じ、三諦即是の月の光を、玉泉の流に浸せり。されば消なんとする法燈を挑げ、絶なんとする恵命を継んこと、只此門主の御時なるべしと、一山掌を合せて悦、九院首を傾て仰奉る。第四の宮も同御腹にてぞをはしける。是は聖護院二品親王の御附弟にてをはせしかば、法水を三井の流に汲、記■を慈尊の暁に期し給ふ。此外儲君儲王の選、竹苑椒庭の備、誠に王業再興の運、福祚長久基、時を得たりとぞ見へたりける。 ○中宮御産御祈之事付俊基偽篭居事 元亨二年の春の比より、中宮懐姙の御祈とて、諸寺・諸山の貴僧・高僧に仰て様々の大法・秘法を行はせらる。中にも法勝寺の円観上人、小野文観僧正二人は、別勅を承て、金闕に壇を構、玉体に近き奉て、肝胆を砕てぞ祈られける。仏眼、金輪、五壇の法・一宿五反孔雀経・七仏薬師熾盛光・烏蒭沙摩、変成男子の法・五大虚空蔵・六観音・六字訶臨、訶利帝母・八字文殊、普賢延命、金剛童子の法、護摩煙は内苑に満、振鈴の声は掖殿に響て、何なる悪魔怨霊なりとも、障碍を難成とぞ見へたりける。 |
天下の事柄大小に関わらず関東(鎌倉幕府)の意向で決定され天皇ご自身もお考えにならなかったため第三皇子元服の儀式は変更され梨本門跡寺院に入室し承鎮親王の弟子となられました。一を聞いて十を悟る御器量は世に類がなく真実円満な教え(天台宗)の花薫りを荊渓大師の風で香らせ三諦即中の月明かりを玉泉寺の流れに浸すほどでした。衰えようとする仏法の灯を掲げ絶えんとする智慧の命脈を受け継ぐのはこの門主(承鎮)の時代であろうと一山万福寺は合掌して喜び九院は首を傾げて崇め奉りました。 第四皇子も同じ母腹でいらっしゃいましたが聖護院二品親王に師事されたため法流を三井寺(円珍系)から汲み悟りの境地を弥勒菩薩出現の暁に見据えられています。この他にも皇太子・諸皇子の人選や後宮整備は誠に王朝再興の運と国家永続の基盤が時を得た様子でした。 ○中宮ご出産祈願のこと及び俊基偽装潜伏事件 解説本節は皇統継承と宗教政治の緊密な関係を浮彫りにします:
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| 加様に功を積、日を重て、御祈の精誠を尽されけれども、三年まで曾て御産の御事は無りけり。後に子細を尋れば、関東調伏の為に、事を中宮の御産に寄て、加様に秘法を修せられけると也。是程の重事を思食立事なれば、諸臣の異見をも窺ひ度思召けれども、事多聞に及ばゝ、武家に漏れ聞る事や有んと、憚り思召れける間、深慮智化の老臣、近侍の人々にも仰合らるゝ事もなし。只日野中納言資朝・蔵人右少弁俊基・四条中納言隆資・尹大納言師賢・平宰相成輔計に、潛に仰合られて、さりぬべき兵を召けるに、錦織の判官代、足助次郎重成、南都北嶺の衆徒、少々勅定に応じてげり。彼俊基は累葉の儒業を継で、才学優長成しかば、顕職に召仕れて、官蘭台に至り、職々事を司れり。然る間出仕事繁して、籌策に隙無りければ、何にもして暫篭居して、謀叛の計畧を回さんと思ける処に、山門横川の衆徒、款状を捧て、禁庭に訴る事あり。俊基彼奏状を披て読申れけるが、読誤りたる体にて、楞厳院を慢厳院とぞ読たりける。座中の諸卿是を聞て目を合て、「相の字をば、篇に付ても作に付ても、もくとこそ読べかりける。」と、掌を拍てぞ笑はれける。俊基大に恥たる気色にて、面を赤て退出す。夫より恥辱に逢て、篭居すと披露して、半年計出仕を止、山臥の形に身を易て、大和・河内に行て、城郭に成ぬべき処々を見置、東国・西国に下て、国の風俗、人の分限をぞ窺見られける。 |
このように功徳を積み日数を重ね、祈願の誠意は尽くされましたが三年経っても全くご懐妊の兆候はありませんでした。後に事情を探ると関東(鎌倉幕府)調伏(呪い殺し)のために中宮様の出産祈祷という名目で密教儀式を行っていたことが判明します。これほど重大な計画を天皇がお立てになったため家臣らの意見も伺いたく思われましたが、もし情報が漏れ武家に知られることを恐れて深謀遠慮の老臣や側近にも相談されませんでした。 ひそかに日野中納言資朝・蔵人右少弁俊基・四条中納言隆資・尹大納言師賢・平宰相成輔らだけと協議し兵力を集めたところ錦織判官代足助次郎重成や南都北嶺の僧兵が少数勅命に応じました。あの俊基は代々続く儒学者家系で才学優れていたため高位に登用され蘭台(記録所)長官として実務を掌握していました。しかし公務多忙で作戦立案の暇もない中、何とか一時的に隠遁して倒幕計画を練ろうと考えた矢先比叡山横川の僧徒が訴状を朝廷に提出します。 俊基はその奏上文を誤読し「楞厳院」を「慢厳院」と読み上げました。列座した公卿たちは顔を見合わせ「相(そう)という字は偏旁どちらでも『もく』と読むはずだ」と手を打って嘲笑しました。俊基は赤面して退席しこの恥辱以来半年ほど出仕せず山伏姿に身をやつし大和・河内で城郭適地を見定め東西諸国へ下向して国情や武士の実力を偵察したのです。 解説本節は建武新政前夜における倒幕工作の危うさを描出します:
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| ○無礼講事付玄恵文談事 爰に美濃国住人、土岐伯耆十郎頼貞・多治見四郎次郎国長と云者あり。共に清和源氏の後胤として、武勇の聞へありければ、資朝卿様々の縁を尋て、眤び近かれ、朋友の交已に浅からざりけれども、是程の一大事を無左右知せん事、如何か有べからんと思はれければ、猶も能々其心を窺見ん為に、無礼講と云事をぞ始られける。其人数には、尹大納言師賢・四条中納言隆資・洞院左衛門督実世・蔵人右少弁俊基・伊達三位房游雅・聖護院庁の法眼玄基・足助次郎重成・多治見四郎次郎国長等也。其交会遊宴の体、見聞耳目を驚せり。献盃の次第、上下を云はず、男は烏帽子を脱で髻を放ち、法師は衣を不着して白衣になり、年十七八なる女の、盻形優に、膚殊に清らかなるをに十余人、褊の単へ計を着せて、酌を取せければ、雪の膚すき通て、大液の芙蓉新に水を出たるに異ならず。山海の珍物を尽し、旨酒泉の如くに湛て、遊戯舞歌ふ。其間には只東夷を可亡企の外は他事なし。其事と無く、常に会交せば、人の思咎むる事もや有んとて、事を文談に寄んが為に、其比才覚無双の聞へありける玄恵法印と云文者を請じて、昌黎文集の談義をぞ行せける。彼法印謀叛の企とは夢にも不知、会合の日毎に、其席に臨で玄を談じ理を折。 |
ここに美濃国住人の土岐伯耆十郎頼貞・多治見四郎次郎国長という者がいた。ともに清和源氏の子孫で武勇の評判があったため資朝卿は様々な縁故を探って親しく交わり、友人としての付き合いも深まっていたがこれほどの重大計画(倒幕)を知らせないのはどうかと思われた。そこでなお一層彼らの本心を見極めるために無礼講ということを始めたのである。 参加者は尹大納言師賢・四条中納言隆資・洞院左衛門督実世・蔵人右少弁俊基・伊達三位房游雅・聖護院庁の法眼玄基・足助次郎重成・多治見四郎次郎国長らであった。その宴会と遊興ぶりは目撃者の耳目を驚かせた。杯のやり取りでは身分上下もなく男性は烏帽子を脱ぎ髷をほどき僧侶は法衣を着けず白装束になり十七、八歳くらいで容姿優れ肌が特に美しい女性十数人に薄い単衣だけを着せて酒をつがせるため雪のような透ける肌は大液池の蓮の花が水から咲いたさまと変わらなかった。山海珍味を尽くし旨酒を泉のように満たして遊び踊り歌うその場ではただ鎌倉幕府(東夷)滅亡計画だけが話題で他事はない。 このように頻繁に会合すれば周囲の疑いも出かねぬため表向き文学談義とする口実を設けた。当時無双の才覚と評判だった玄恵法印という文人学者を招いて韓愈(昌黎)文集の講釈を行わせたのである。しかし彼は謀反企てとは夢にも知らず毎回会合に臨んで奥義を論じ道理を弁明しただけであった。 解説本節は後醍醐天皇側近による「倒幕ネットワーク」の形成手法を描きます:
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| 彼文集の中に、「昌黎赴潮州」と云長篇有り。此処に至て、談義を聞人々、「是皆不吉の書なりけり。呉子・孫子・六韜・三略なんど社、可然当用の文なれ。」とて、昌黎文集の談義を止てげり。此韓昌黎と申は、晩唐の季に出て、文才優長の人なりけり。詩は杜子美・李太白に肩を双べ、文章は漢・魏・晋・宋の間に傑出せり。昌黎が猶子韓湘と云者あり。是は文字をも嗜ず、詩篇にも携らず、只道士の術を学で、無為を業とし、無事を事とす。或時昌黎韓湘に向て申けるは、「汝天地の中に化生して、仁義の外に逍遥す。是君子の恥処、小人の専とする処也。我常に汝が為に是を悲むこと切也。と教訓しければ、韓湘大にあざ笑て、「仁義は大道の廃たる処に出、学教は大偽の起時に盛也。吾無為の境に優遊して、是非の外に自得す。されば真宰の臂を掣て、壷中に天地を蔵し、造化の工を奪て、橘裡に山川を峙つ。却て悲らくは、公の只古人の糟粕を甘て、空く一生を区々の中に誤る事を。」と答ければ、昌黎重曰、「汝が所言我未信、今則造化の工を奪事を得てんや。」と問に、韓湘答事無して、前に置たる瑠璃の盆を打覆て、軈て又引仰向けたるを見れば、忽に碧玉の牡丹の花の嬋娟たる一枝あり。昌黎驚て是を見に、花中に金字に書る一聯の句有り。 |
その文集の中に「昌黎赴潮州」という長編詩があった。ここで講義を聞いていた人々が、「これらはみな不吉な書物だ。呉子・孫子・六韜・三略などこそ、むしろ実用に適う文であろう。」と言って昌黎文集の講釈を中止してしまった。 この韓昌黎(韓愈)という人物は晩唐期に出て優れた文才を持つ人であった。詩では杜甫や李白と肩を並べ文章では漢・魏・晋・宋の時代に傑出していた。昌黎には甥の韓湘という者がいた。彼は文字も好まず詩作にも携わらず、ただ道士の術を学んで無為自然を旨とし平穏な生活を送っていた。 ある時昌黎が韓湘に向かって言った。「お前は天地の中に生まれながら仁義(儒教道徳)から外れて勝手気ままである。これは君子として恥ずべき行いで、小人のすることだ。私は常にお前のためにこれを深く悲しんでいる。」と訓戒すると韓湘は大いに嘲笑してこう答えた。「仁義というものは大道が廃れたところに現れ学問や教えは大きな偽りが起こる時代に栄えるのです。私は無為の境地で悠々自適に過ごし是非を超えて満足している。だからこそ天地創造神(真宰)の腕をつかんで壺の中に宇宙を蔵し、造化の神秘を取り込んで橘の実の中に山河を構えられるのです。むしろ悲しいのはあなたが古人の糟粕ばかり味わい空しく一生を取るに足らないことに費やすことです。」 昌黎は重ねて言った。「お前の言葉は信じ難い。では今すぐ造化の神秘を示せるか」と問うと韓湘は答えず前に置いた瑠璃の鉢をひっくり返し、すぐまた引き上げると美しい碧玉の牡丹が一枝現れた。昌黎が驚いて見れば花の中に金字で書かれた一対の詩句があった。 解説本節は無礼講での「文談事件」核心部分を描き:
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| 「雲横秦嶺家何在、雪擁藍関馬不前。云云。」昌黎不思儀の思を成して、是を読で一唱三嘆するに、句の優美遠長なる体製のみ有て、其趣向落着の所を難知。手に採て是を見んとすれば、忽然として消失ぬ。是よりしてこそ、韓湘仙術の道を得たりとは、天下の人に知られけれ。其後昌黎仏法を破て、儒教を貴べき由、奏状を奉ける咎に依て、潮州へ流さる。日暮馬泥で前途程遠し。遥に故郷の方を顧ば、秦嶺に雲横て、来つらん方も不覚。悼で万仞の嶮に登らんとすれば、藍関に雪満て行べき末の路も無し。進退歩を失て、頭を回す処に、何より来れるともなく、韓湘悖然として傍にあり。昌黎悦で馬より下、韓湘が袖を引て、泪の中に申けるは、「先年碧玉の花の中に見へたりし一聯の句は、汝我に予左遷の愁を告知せるなり。今又汝爰に来れり。料り知ぬ、我遂に謫居に愁死して、帰事を得じと。再会期無して、遠別今にあり。豈悲に堪んや。」とて、前の一聯に句を続で、八句一首と成して、韓湘に与ふ。一封朝奏九重天。夕貶潮陽路八千。欲為聖明除弊事。豈将衰朽惜残年。雲横秦嶺家何在。雪擁藍関馬不前。知汝遠来須有意。好収吾骨瘴江辺。韓湘此詩を袖に入て、泣々東西に別にけり。誠哉、「痴人面前に不説夢」云事を。 |
その詩句には「雲横秦嶺家何在、雪擁藍関馬不前(雲は秦嶺にわたり我が家はいずこ/雪は藍関を埋め馬進まず)」などと書かれていた。昌黎は奇妙に思いながらこれを読み上げて繰り返し嘆いたが句の優美で深遠な形式ばかりが目立ち真意をつかみにくかった。手に取って見ようとした瞬間突然消えてしまった。これによって韓湘が仙術を会得したことが世間に知れ渡った。 その後昌黎は仏教批判と儒教尊重の上奏文を出した咎で潮州へ流罪となった。日暮れ道中に馬が泥沼にはまり前途は遥かだった。遠く故郷を振り返れば秦嶺に雲が立ち込めて来た方角もわからず嘆きながら険しい山登ろうとすれば藍関は雪で埋まり進むべき道もない。途方にくれ周囲を見回すと突然韓湘が現れた。 昌黎は喜んで馬から降り韓湘の袖を引き涙ながらに言った。「以前碧玉の花の中に見えた一対の詩句はお前が私の左遷の悲しみを予告したものだったな。今またここへ来てくれたのは私が流刑地で愁死して帰れないと気づいたからか?再会も叶わず永遠の別れだなんてあまりにも哀しい」そう言って先の詩句に続けて八句一首を完成させ韓湘に贈った。 「朝廷へ奏上朝一番/夕べには潮陽流罪路八千(皇帝への上書は早朝に/日暮れまでに八千里離れた潮州へ追放)/聖世のために弊害除かんと欲せば/朽ちた身惜しまず命を賭さん(明君のため悪習断とうとしたのにどうして老いを惜しもうか)/雲は秦嶺横たわり家はいづこ/雪は藍関に満て馬進まず/汝が遠く来るを知れば必ず意ありとす(お前が遥々来たのは深い意味があるのだろう)/好もしくわが骨を瘴気の川辺に収めよ(どうかこの身を南方の毒霧漂う河岸で葬ってくれ)」韓湘はその詩を袖に入れ泣きながら別れた。まさに「愚者の前では夢のような深い話をするな」という諺通りであった。 解説本節は道教と儒教の対立寓話として『太平記』倒幕叙事へ織り込まれています:
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| 此談義を聞ける人々の忌思けるこそ愚なれ。 ○頼員回忠事 謀反人の与党、土岐左近蔵人頼員は、六波羅の奉行斉藤太郎左衛門尉利行が女と嫁して、最愛したりけるが、世中已に乱て、合戦出来りなば、千に一も討死せずと云事有まじと思ける間、兼て余波や惜かりけん、或夜の寝覚の物語に、「一樹の陰に宿り、同流を汲も、皆是多生の縁不浅、況や相馴奉て已三年に余れり。等閑ならぬ志の程をば、気色に付け、折に触ても思知り給ふらん。去ても定なきは人間の習、相逢中の契なれば、今若我身はかなく成ぬと聞給ふ事有ば、無らん跡までも貞女の心を失はで、我後世を問給へ。人間に帰らば、再び夫婦の契を結び、浄土に生れば、同蓮の台に半座を分て待べし。」と、其事と無くかきくどき、泪を流てぞ申ける。女つく/゛\と聞て、「怪や何事の侍ぞや。明日までの契の程も知らぬ世に、後世までの荒増は、忘んとての情にてこそ侍らめ。さらでは、かゝるべしとも覚ず。」と、泣恨て問ければ、男は心浅して、「さればよ、我不慮の勅命を蒙て、君に憑れ奉る間、辞するに道無して、御謀反に与しぬる間、千に一も命の生んずる事難し。無端存る程に、近づく別の悲さに、兼加様に申也。此事穴賢人に知させ給ふな。」と、能々口をぞ堅めける。 |
その講義を聴いた人々が忌み嫌ったのはまことに愚かであった。 ○頼員の忠節に関する話 妻はじっと聞いて「おかしいことです。明日の約束さえ保証されぬ世の中で来世までの大げさなお話は忘れようとの情けでしょうか?そうでなければこんなことはあり得ません」と泣きながら恨めしそうに尋ねると、頼員は衝動的に打ち明けた「実を言えば予期せぬ勅命を受け天皇についたため辞退できず謀反に関わったので千が一つも生き延びられまい。無事なうちに迫る別れの悲しさからつい話したのだ。決して賢人(義父・利行)には知らせるな」と厳重に口止めをした。 解説本節は『太平記』巻一「無礼講事件」後半部で重要な転換点:
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| 彼女性心の賢き者也ければ、夙にをきて、つく/゛\と此事を思ふに、君の御謀叛事ならずば、憑たる男忽に誅せらるべし。若又武家亡なば、我親類誰かは一人も残るべき。さらば是を父利行に語て、左近蔵人を回忠の者に成し、是をも助け、親類をも扶けばやと思て、急ぎ父が許に行、忍やかに此事を有の侭にぞ語りける。斉藤大に驚き、軈て左近蔵人を呼寄せ、「卦る不思議を承る、誠にて候やらん。今の世に加様の事、思企給はんは、偏に石を抱て淵に入る者にて候べし。若他人の口より漏なば、我等に至まで皆誅せらるべきにて候へば、利行急御辺の告知せたる由を、六波羅殿に申て、共に其咎を遁んと思ふは、何か計給ふぞ。」と、問ければ、是程の一大事を、女性に知らする程の心にて、なじかは仰天せざるべき、「此事は同名頼貞・多治見四郎二郎が勧に依て、同意仕て候。只兎も角も、身の咎を助る様に御計候へ。」とぞ申ける。夜未明に、斉藤急ぎ六波羅へ参て、事の子細を委く告げ申ければ、則時をかへず鎌倉へ早馬を立て、京中・洛外の武士どもを六波羅へ召集て、先着到をぞ付られける。其比摂津国葛葉と云処に、地下人代官を背て合戦に及事あり。彼本所の雑掌を、六波羅の沙汰として、庄家にしすへん為に、四十八箇所の篝、並在京人を催さるゝ由を被披露。 |
その妻は聡明な者だったので、早朝からじっとこのことを考えると、「天皇の謀反が成功しなければ夫(頼員)はすぐ処刑されるだろう。もし幕府側が滅びれば私の親族も誰一人残るまい」と思い至った。「ならば父・利行に話して、左近蔵人を裏切り者から忠節ある者に変えさせて彼をも助け親族も守ろう」と決心し急いで父親のもとへ行き密かに事情を包み隠さず伝えた。斎藤は大いに驚きすぐ頼員を呼び寄せ、「奇妙な話を聞いたが本当か?この世にそんな企てをするのは石を抱えて淵に飛び込むようなものだ。もし他人の口から漏れれば私どもまで皆処刑されるのだから、利行は急いでお前の告白した件を六波羅探題へ報告し共に責任逃れしようと思うがどうするつもりか?」と問うたところ頼員は「これほどの大事を女に話すほど軽率だったのです。驚くのも無理ありません」と言い、「実は同族の頼貞や多治見四郎二郎の勧めで同意しました。何とか私の罪を助けてください」と答えた。夜明け前に斎藤が急ぎ六波羅へ参上し事の詳細を報告すると、即座に鎌倉へ早馬を立て京都内外の武士たちを六波羅へ召集して先陣の配置につけた。ちょうどその頃摂津国葛葉という場所で地侍が代官に背いて戦い始めたため、現地の役人処遇を六波羅の決定として荘園支配を安定させるべく四十八箇所のかがり火を焚き在京者たちも動員する旨が公表された。 解説本節は『太平記』巻一「無礼講事件」クライマックスで歴史的転換点を示す:
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| 是は謀叛の輩を落さじが為の謀也。土岐も多治見も、吾身の上とは思も寄らず、明日は葛葉へ向ふべき用意して、皆己が宿所にぞ居たりける。去程に、明れば元徳元年九月十九日の卯刻に、軍勢雲霞の如に六波羅へ馳参る。小串三郎左衛門尉範行・山本九郎時綱、御紋の旗を給て、打手の大将を承て、六条河原へ打出、三千余騎を二手に分て、多治見が宿所錦小路高倉、土岐十郎が宿所、三条堀河へ寄けるが、時綱かくては如何様大事の敵を打漏ぬと思けるにや、大勢をば態と三条河原に留て、時綱只一騎、中間二人に長刀持せて、忍やかに土岐が宿所へ馳て行き、門前に馬をば乗捨て、小門より内へつと入て、中門の方を見れば、宿直しける者よと覚て、物具・太刀・々、枕に取散し、高鼾かきて寝入たり。廐の後を回て、何にか匿地の有と見れば、後は皆築地にて、門より外は路も無し。さては心安しと思て、客殿の奥なる二間を颯と引あけたれば、土岐十郎只今起あがりたりと覚て、鬢髪を撫揚て結けるが、山本九郎を屹と見て、「心得たり。」と云侭に、立たる大刀を取、傍なる障子を一間蹈破り、六間の客殿へ跳出、天井に大刀を打付じと、払切にぞ切たりける。時綱は態敵を広庭へ帯出し、透間も有らば生虜んと志て、打払ては退、打流しては飛のき、人交もせず戦て、後を屹と見たれば、後陣の大勢二千余騎、二の関よりこみ入て、同音に時を作る。 |
これは謀反人たちをおびき出すための策略であった。土岐も多治見もまさか自分が狙われているとは思わず、翌日に葛葉へ向かう準備をしてそれぞれ宿所にいた。夜が明けて元徳元年(1329年)九月十九日卯の刻(午前6時頃)、軍勢は雲霞のように六波羅へ駆けつけた。小串三郎左衛門尉範行と山本九郎時綱は御紋付きの旗を与えられ、先鋒大将を命じられて六条河原に出陣した。三千余騎を二手に分け、多治見の宿所(錦小路高倉)と土岐十郎頼員の宿所(三条堀河)へ向かう中で時綱は「このままでは主要な敵を取り逃がす」と考えたのか、大軍をわざと三条河原に残し、自らは単騎で従者二人に薙刀を持たせて密かに土岐の宿所へ急行した。門前で馬から降り小門から中へ入ると、警護役が寝ていたのだろうか──武具や太刀を枕元に散らし、大きないびきをかいて熟睡していた。厩舎裏を回って隠れ場所はないか探すと、背後の塀外には道もなかった。「これなら安心だ」と思い客殿奥の二間の扉をさっと開けると、土岐十郎頼員が起き上がったところらしく、乱れた髪を撫でながら結んでいた。時綱を見るなり「覚悟はできている」と言うや否や、立っていた大刀を取り上げ、障子一間を蹴破って六間続きの客殿に飛び出し、天井めがけて刀を振りかざすふりをして横薙ぎに斬りつけた。時綱はわざと敵を広庭におびき出そうと、隙あらば生け捕りにする心づもりで攻撃を受け流しながら戦ったところ、後方から二千余騎の軍勢が二ノ門より押し入り鬨の声をあげた。 解説本節は『太平記』巻一における軍事行動の核心場面:
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| 土岐十郎久く戦ては、中々生捕れんとや思けん、本の寝所へ走帰て、腹十文字にかき切て、北枕にこそ臥たりけれ。中間に寝たりける若党どもゝ、思々に討死して、遁るゝ者一人も無りけり。首を取て鋒に貫て、山本九郎は是より六波羅へ馳参る。多治見が宿所へは、小串三郎左衛門範行を先として、三千余騎にて推寄たり。多治見は終夜の酒に飲酔て、前後も不知臥たりけるが、時の声に驚て、是は何事ぞと周障騒ぐ。傍に臥たる遊君、物馴たる女也ければ、枕なる鎧取て打着せ、上帯強く縮させて、猶寝入たる者どもをぞ起しける。小笠原孫六、傾城に驚されて、太刀計を取て、中門に走出で、目を磨々四方を岐と見ければ、車の輪の旗一流、築地の上より見へたり。孫六内へ入て、「六波羅より打手の向て候ける。此間の御謀反早顕たりと覚候。早面々太刀の目貫の堪ゑん程は切合て、腹を切れ。」と呼て、腹巻取て肩になげかけ、廾四差たる胡■と、繁藤の弓とを提て、門の上なる櫓へ走上り、中差取て打番ひ、狭間の板八文字に排て、「あらこと/゛\しの大勢や。我等が手柄のほどこそ顕たれ。抑討手の大将は誰と申人の向れて候やらん。近付て箭一請て御覧候へ。」と云侭に、十二束三伏、忘るゝ計引しぼりて、切て放つ。 |
土岐十郎頼員は長く戦ううち生け捕りになるのを避けるためか、自室へ駆け戻ると腹を十字に切り裂き北枕で果てた。従者の若党たちもそれぞれ討ち死にし、逃げ延びる者はいなかった。首級を得た山本九郎は槍先に刺して六波羅殿へ急行した。 解説本節は『太平記』巻一における決定的な鎮圧場面で武士道精神が凝縮:
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| 真前に進だる狩野下野前司が若党に、衣摺助房が胄のまつかう、鉢付の板まで、矢先白く射通して、馬より倒に射落す。是を始として、鎧の袖・草摺・胄鉢とも不言、指詰て思様に射けるに、面に立たる兵廾四人、矢の下に射て落す。今一筋胡■に残たる矢を抜て、胡■をば櫓の下へからりと投落し、「此矢一をば冥途の旅の用心に持べし。」と云て腰にさし、「日本一の剛者、謀叛に与し自害する有様見置て人に語れ。」と高声に呼て、太刀の鋒を口に呀て、櫓より倒に飛落て、貫てこそ死にけれ。此間に多治見を始として、一族若党廾余人物具ひし/\と堅め、大庭に跳出で、門の関の木差て待懸たり。寄手雲霞の如しと云へども、思切たる者どもが、死狂をせんと引篭たるがこはさに、内へ切て入んとする者も無りける処に、伊藤彦次郎父子兄弟四人、門の扉の少し破たる処より、這て内へぞ入たりける。志の程は武けれども、待請たる敵の中へ、這て入たる事なれば、敵に打違るまでも無て、皆門の脇にて討れにけり。寄手是を見て、弥近く者も無りける間、内より門の扉を推開て、「討手を承るほどの人達の、きたなうも見へられ候者哉。早是へ御入候へ。我等が頭共引出物に進せん。」と、恥しめてこそ立たりけれ。寄手共敵にあくまで欺れて、先陣五百余人馬を乗放して、歩立に成、喚て庭へこみ入。 |
まっすぐ進んでいた狩野下野前司の若党・衣摺助房がかぶった兜の鉢巻部分から鉢付板まで矢が白く射抜かれ、馬から真っ逆さまに落ちた。これを皮切りに鎧の袖も草摺り(腰甲)も兜も構わず狙い撃ちされると、前面に立っていた兵士二十四人が次々と射倒された。 解説本節は『太平記』巻一クライマックスにおける武士道美学的表現:
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| 楯篭る所の兵ども、とても遁じと思切たる事なれば、何へか一足も引べき。二十余人の者ども、大勢の中へ乱入て、面もふらず切て廻る。先駈の寄手五百余人、散々に切立られて、門より外へ颯と引く。されども寄手は大勢なれば、先陣引けば二陣喚て懸入。々々ば追出、々々せば懸入り、辰刻の始より午刻の終まで、火出る程こそ戦けれ。加様に大手の軍強ければ、佐々木判官が手者千余人、後へ廻て錦小路より、在家を打破て乱入る。多治見今は是までとや思けん、中門に並居て、二十二人の者ども、互に差違々々、算を散せる如く臥たりける。追手の寄手共が、門を破りける其間に、搦手の勢共乱入り、首を取て六波羅へ馳帰る。二時計の合戦に、手負死人を数るに、二百七十三人也。 ○資朝俊基関東下向事付御告文事 土岐・多治見討れて後、君の御謀叛次第に隠れ無りければ、東使長崎四郎左衛門泰光、南条次郎左衛門宗直二人上洛して、五月十日資朝・俊基両人を召取奉る。土岐が討れし時、生虜の者一人も無りしかば、白状はよも有らじ、さりとも我等が事は顕れじと、無墓憑に油断して、曾て其用意も無りければ、妻子東西に逃迷ひて、身を隠さんとするに処なく、財宝は大路に引散されて、馬蹄の塵と成にけり。彼資朝卿は日野の一門にて、職大理を経、官中納言に至りしかば、君の御覚へも他に異して、家の繁昌時を得たりき。 |
盾を並べて立てこもった兵たちは逃げる気など全くなく、どこへも一歩も退かない。二十人余りの者たちが大群の中に突入し、顔も見ずに斬りまわった。先鋒の攻撃側五百余人は散々に切り倒され門外へ敗走した。 ○資朝・俊基の関東下向と御告文事件 解説本節『太平記』巻一結末部における歴史叙述の特徴:
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| 俊基朝臣は身儒雅の下より出で、望勲業の上に達せしかば、同官も肥馬の塵を望み、長者も残盃の冷に随ふ。宜哉「不義而富且貴、於我如浮雲。」と云へる事。是孔子の善言、魯論に記する処なれば、なじかは違べき。夢の中に楽尽て、眼前の悲云に来れり。彼を見是を聞ける人毎に、盛者必衰の理を知らでも、袖をしぼりゑず。同二十七日、東使両人、資朝・俊基を具足し奉て、鎌倉へ下着す。此人々は殊更謀叛の張本なれば、軈て誅せられぬと覚しかども、倶に朝廷の近臣として、才覚優長の人たりしかば、世の譏り君の御憤を憚て、嗷問の沙汰にも不及、只尋常の放召人の如にて、侍所にぞ預置れける。七月七日、今夜は牽牛・織女の二星、烏鵲橋を渡して、一年の懐抱を解夜なれば、宮人の風俗、竹竿に願糸を懸け、庭前に嘉菓を列て、乞巧奠を修る夜なれ共、世上騒しき時節なれば、詩歌を奉る騒人も無く、絃管を調る伶倫もなし。適上臥したる月卿雲客も、何と無く世中の乱、又誰身上にか来んずらんと、魂を消し肝を冷す時分なれば、皆眉を顰め面を低てぞ候ける。夜痛深て、「誰か候。」と召れければ、「吉田中納言冬房候。」とて御前に候す。主上席を近て仰有けるは、「資朝・俊基が囚れし後、東風猶未静、中夏常に危を蹈む。 |
北畠俊基卿は学問的素養から身を起こし、功績によって高位に上り詰めたため、同僚たちもこぞって取り入ろうとし権力者も彼の影響下に従った。まさしく「不正な手段で富や地位を得ることは私にとって浮雲のようなものだ」という言葉通りである。これは孔子の名言『論語』に記されているゆえ、当然のことだった。だが夢のような栄華が尽きて眼前に悲劇が訪れ、この様子を見聞きした人々は盛者必衰の道理を知らぬふりもできず涙を絞った。 解説本節『太平記』における歴史叙述の三大特徴:
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| 此上に又何なる沙汰をか致んずらんと、叡慮更に不穏。如何して先東夷を定べき謀有ん。」と、勅問有ければ、冬房謹で申けるは、「資朝・俊基が白状有りとも承候はねば、武臣此上の沙汰には及ばじと存候へども、近日東夷の行事、楚忽の義多候へば、御油断有まじきにて候。先告文一紙を下されて、相摸入道が忿を静め候ばや。」と申されければ、主上げにもとや思食れけん、「さらば軈て冬房書。」と仰有ければ、則御前にして草案をして、是を奏覧す。君且叡覧有て、御泪の告文にはら/\とかゝりけるを、御袖にて押拭はせ給へば、御前に候ける老臣、皆悲啼を含まぬは無りけり。頓て万里小路大納言宣房卿を勅使として、此告文を関東へ下さる。相摸入道、秋田城介を以て告文を請取て、則披見せんとしけるを、二階堂出羽入道々蘊、堅く諌めて申けるは、「天子武臣に対して直に告文を被下たる事、異国にも我朝にも未其例を承ず。然を等閑に披見せられん事、冥見に付て其恐あり。只文箱を啓ずして、勅使に返進せらるべきか。」と、再往申けるを、相摸入道、「何か苦しかるべき。」とて、斉藤太郎左衛門利行に読進せさせられけるに、「叡心不偽処任天照覧。」被遊たる処を読ける時に、利行俄に眩衄たりければ、読はてずして退出す。 |
「これ以上またどのような処置があるだろうか」という天皇のお考えはますます不安定になった。「まず東国の者たちを鎮めるにはどうすればよい策があろうか」とお尋ねになると、吉田冬房が謹んで申し上げた:「資朝や俊基の自白があったとも承っておりませんので武士どもがこれ以上の処置に及ぶことはあるまいと考えます。しかし近ごろ東国の者たちの動きには突然性が多いため油断はなりませぬ。まず告文一通をお書きになって相模入道(北条高時)の怒りを静めなさってはいかがでしょう」。 解説本節『太平記』における政治的葛藤描写の特徴:
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| 其日より喉下に悪瘡出て、七日が中に血を吐て死にけり。時澆季に及で、道塗炭に落ぬと云ども、君臣上下の礼違則は、さすが仏神の罰も有けりと、是を聞ける人毎に、懼恐ぬは無りけり。「何様資朝・俊基の隠謀、叡慮より出し事なれば、縦告文を下されたりと云ども、其に依るべからず。主上をば遠国へ遷し奉べし。」と、初は評定一決してけれども、勅使宣房卿の被申趣げにもと覚る上、告文読たりし利行、俄に血を吐て死たりけるに、諸人皆舌を巻き、口を閉づ。相摸入道も、さすが天慮其憚有りけるにや、「御治世の御事は朝議に任せ奉る上は、武家綺ひ申べきに非ず。」と、勅答を申て、告文を返進せらる。宣房卿則帰洛して、此由を奏し申れけるにこそ、宸襟始て解て、群臣色をば直されけれ。去程に俊基朝臣は罪の疑しきを軽じて赦免せられ、資朝卿は死罪一等を宥められて、佐渡国へぞ流されける。 |
その日から利行は首筋に腫れ物ができ、七日のうちに吐血して死亡した。世の中が乱れて地獄のような状況になっているとはいえ、君臣の礼を破ったことには仏神の罰があったのだと、この話を聞いた者は皆恐れた。「そもそも資朝・俊基の陰謀は天皇のお考えから出たものだから、例え告文を下されても従うべきではない。主上を遠国へ移すべし」とはじめ評定で決議したが、勅使宣房卿の申し立てに道理があると感じられた上、告文を読んだ利行が突然吐血して死んだことで一同は言葉を失った。相模入道(北条高時)もさすがに天罰を畏れたか、「政治に関する事柄は朝廷の議決にお任せするので武家が口出しすべきではない」と返答し告文をお返しした。宣房卿はすぐ京都へ戻りこの経緯を奏上すると、天皇はようやくお気持ちを和らげられ臣下たちも安堵の表情を見せた。こうして俊基卿は嫌疑が軽いとして赦免され、資朝卿は死罪一等を減じられたうえで佐渡国へ流罪となった。 解説本節における政治的決着描写の三層構造:
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| input text 太平記\002_太平記_巻2.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第二 ○南都北嶺行幸事 元徳二年二月四日、行事の弁別当、万里小路中納言藤房卿を召れて、「来月八日東大寺興福寺行幸有べし、早供奉の輩に触仰すべし。」と仰出されければ、藤房古を尋、例を考て、供奉の行装、路次の行列を定らる。佐々木備中守廷尉に成て橋を渡し、四十八箇所篝、甲胄を帯し、辻々を堅む。三公九卿相従ひ、百司千官列を引、言語道断の厳儀也。東大寺と申は聖武天皇の御願、閻浮第一の盧舎那仏、興福寺と申は淡海公の御願、藤氏尊崇の大伽藍なれば、代々の聖主も、皆結縁の御志は御坐せども、一人出給事容易からざれば、多年臨幸の儀もなし。此御代に至て、絶たるを継、廃たるを興して、鳳輦を廻し給しかば、衆徒歓喜の掌を合せ、霊仏威徳の光をそふ。されば春日山の嵐の音も、今日よりは万歳を呼ふかと怪まれ、北の藤波千代かけて、花咲春の陰深し。又同月二十七日に、比叡山に行幸成て、大講堂供養あり。彼堂と申は、深草天皇の御願、大日遍照の尊像也。中比造営の後、未供養を遂ずして、星霜已積りければ、甍破ては霧不断の香を焼、扉落ては月常住の燈を挑ぐ。されば満山歎て年を経る処に、忽に修造の大功を遂られ、速に供養の儀式を調へ給しかば、一山眉を開き、九院首を傾けり。 |
元徳二年二月四日、行事担当の弁別当である万里小路中納言藤房卿が天皇に呼ばれ、「来月八日に東大寺と興福寺へ行幸があるから早く供奉者たちに知らせよ」とお命じになった。そこで藤房は古い記録を調べ、先例に基づいて供奉者の装束や行列の順序を取り決めた。 佐々木備中守廷尉が警護役となり橋を渡った際には48ヶ所で篝火を焚き、武装兵士が辻々を見張り固めた。三公九卿は従い、多くの官人たちが列を作って進み、言葉では表現できないほど厳かな儀式であった。 東大寺とは聖武天皇の建立した寺院であり、世界第一といわれる盧舎那仏を安置する。興福寺は淡海公(藤原鎌足)の発願によるもので、藤原氏が尊崇する大きな伽藍であるため、歴代天皇も皆縁結びの思いを持たれたものの、一人で行幸することは容易ではなかったので長年臨幸は行われていなかった。この御世に至り途絶えた伝統を再興し、廃れていたものを復活させて鳳輦(天皇の乗り物)をお回しになったため、僧侶たちは喜び手を合わせ霊仏も威徳の光を増した。 それゆえ春日山の風の音さえ今日から万歳を叫んでいるかのようで不思議に思われた。北野藤波(桜花)が千年をかけて咲き誇り、春の木陰は深く茂っていた。 また同月二十七日には比叡山に行幸があり大講堂供養が行われた。このお堂とは深草天皇の発願によるもので、大日如来像を本尊とする。近年再建された後も未だ供養を終えておらず長い年月が過ぎていたため、屋根は破れて絶え間ない香煙に包まれ扉は落ちて月明かりで灯りをともす状態だった。 そこで全山が嘆きつつ歳月を重ねる中突然修造の大業が成し遂げられ急いで供養式典が整えられたので、比叡山全体が喜び顔を見せ九院すべてが感服した。 解説
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| 御導師は妙法院尊澄法親王、咒願は時の座主大塔尊雲法親王にてぞ御座しける。称揚讚仏の砌には、鷲峯の花薫を譲り、歌唄頌徳の所には、魚山の嵐響を添。伶倫遏雲の曲を奏し、舞童回雪の袖を翻せば、百獣も率舞、鳳鳥も来儀する計也。住吉の神主、津守の国夏大皷の役にて登山したりけるが、宿坊の柱に一首の歌をぞ書付たる。契あれば此山もみつ阿耨多羅三藐三菩提の種や植剣是は伝教大師当山草創の古、「我立杣に冥加あらせ給へ。」と、三藐三菩提の仏達に祈給し故事を思て、読る歌なるべし。抑元亨以後、主愁臣辱られて、天下更安時なし。折節こそ多かるに、今南都北嶺の行幸、叡願何事やらんと尋れば、近年相摸入道振舞、日来の不儀に超過せり。蛮夷の輩は、武命に順ふ者なれば、召とも勅に応ずべからず。只山門南都の大衆を語て、東夷を征罰せられん為の御謀叛とぞ聞へし。依之大塔の二品親王は、時の貫主にて御坐せしか共、今は行学共に捨はてさせ給て、朝暮只武勇の御嗜の外は他事なし。御好有故にや依けん、早業は江都が軽捷にも超たれば、七尺の屏風未必しも高しともせず。打物は子房が兵法を得玉へば、一巻の秘書尽されずと云事なし。天台座主始て、義真和尚より以来一百余代、未懸る不思議の門主は御坐さず。 |
儀式の導師役は妙法院尊澄法親王であり、祈願役は当時の天台座主である大塔尊雲法親王が務めた。仏を称揚し賛美する場面では霊鷲山(釈迦説法の地)の芳ばしい香りさえも凌ぎ、歌や詠唱で徳をたたえる折には魚山(中国曹植ゆかりの聖地)の風響きにも勝る調べが添わった。伶人たちは雲すら止めるような妙曲を奏し、舞い手たちが雪のように翻る袖を見せると、あたかも百獣すべてが踊り出し鳳凰までも飛来したかのようであった。 住吉神社の神主である津守国夏が大太鼓役として登山していた折、宿坊の柱に一首の歌を書き付けた。「縁があればこの山にも見られる阿耨多羅三藐三菩提(無上正等覚)の種子よ 植えられたのはこれか」。これは伝教大師最澄が比叡山開創時に「我ら修行者に御加護を」と仏陀たちへ祈った故事を思い、詠まれた歌であったろう。 さて元亨年間(1321-24)以降は君主憂い臣下辱められ天下安穏の時なく問題が絶えなかった。そのような折に南都北嶺への行幸や比叡山供養がなぜ行われたのか尋ねると、近年の鎌倉幕府執権・北条高時の振る舞いが日増しに不法極まったためと判明した。関東の武士たちは武力で従う者ゆえ詔勅にも応じないため、ただ比叡山や南都(奈良)僧兵を頼り東国征伐の計画を企てられたという噂であった。 これにより大塔宮尊雲親王(後の護良親王)は天台座主として在職中だったが今では学問も修行も捨て、朝夕ただ武勇のみに熱心で他事無き状態である。その御嗜好ゆえか早業は江戸太郎重長の俊敏さを超え七尺屏風すら高しとも思わぬほどであり刀剣術は張良(中国兵法家)の奥義を得て一巻の秘伝書も残らず極めたと評された。天台座主は初代・義真和尚以来百余代で未だかってこのような不思議な門主はいなかった。 解説
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| 後に思合するにこそ、東夷征罰の為に、御身を習されける武芸の道とは知られたれ。 ○僧徒六波羅召捕事付為明詠歌事 事の漏安きは、禍を招く媒なれば、大塔宮の御行事、禁裡に調伏の法被行事共、一々に関東へ聞へてけり。相摸入道大に怒て、「いや/\此君御在位の程は天下静まるまじ。所詮君をば承久の例に任て、遠国へ移し奉せ、大塔宮を死罪に所し奉るべき也。先近日殊に竜顔に咫尺奉て、当家を調伏し給ふなる、法勝寺の円観上人・小野の文観僧正・南都の知教・教円・浄土寺の忠円僧正を召取て、子細を相尋べし。」と、已に武命を含で、二階堂下野判官・長井遠江守二人、関東より上洛す。両使已に京着せしかば、「又何なる荒き沙汰をか致さんずらん。」と、主上宸襟を悩されける所に、五月十一日の暁、雑賀隼人佐を使にて、法勝寺の円観上人・小野の文観僧正・浄土寺の忠円僧正、三人を六波羅へ召取奉る。此中に忠円僧正は、顕宗の碩徳也しかば、調伏の法行たりと云、其人数には入らざりしかども、是も此君に近付き奉て、山門の講堂供養以下の事、万直に申沙汰せられしかば、衆徒与力の事、此僧正よも存ぜられぬ事は非じとて、同召取れ給にけり。是のみならず、智教・教円二人も、南都より召出されて、同六波羅へ出給ふ。 |
後に振り返れば、東国征伐のために身を鍛えられた武芸の道であったと理解されることになる。 ○僧侶たちが六波羅へ召し捕らえられる件および詠歌事件について 両使者が京へ着くと「またもやどのような乱暴を働くつもりか」と天皇は深く憂慮されていたところ、五月十一日の明け方、雑賀隼人佐を使者として法勝寺円観上人・小野山文観僧正・浄土寺忠円僧正の三人が六波羅へ召し捕られた。この中で忠円僧正は顕密両宗の高徳な僧であったため調伏を行ったとは考えられず対象外だったが、天皇に近侍して比叡山講堂供養などの万事を直接取り計らっていたことから「僧兵動員に関しこの僧正が知らないはずがない」として同時に召し捕られた。これだけでなく智教と教円の二人も南都(奈良)より呼び出され同様に六波羅へ連行された。 解説
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| 又二条中将為明卿は、歌道の達者にて、月の夜雪の朝、褒貶の歌合の御会に召れて、宴に侍る事隙無りしかば、指たる嫌疑の人にては無りしかども、叡慮の趣を尋問ん為に召取れて、斉藤某に是を預らる。五人の僧達の事は、元来関東へ召下して、沙汰有べき事なれば、六波羅にて尋窮に及ばず。為明卿の事に於ては、先京都にて尋沙汰有て、白状あらば、関東へ註進すべしとて、検断に仰て、已嗷問の沙汰に及んとす。六波羅の北の坪に炭をゝこす事、■湯炉壇の如にして、其上に青竹を破りて敷双べ、少隙をあけゝれば、猛火炎を吐て、烈々たり。朝夕雑色左右に立双で、両方の手を引張て、其上を歩せ奉んと、支度したる有様は、只四重五逆の罪人の、焦熱大焦熱の炎に身を焦し、牛頭馬頭の呵責に逢らんも、角社有らめと覚へて、見にも肝は消ぬべし。為明卿是を見給て、「硯や有。」と尋られければ、白状の為かとて、硯に料紙を取添て奉りければ、白状にはあらで、一首の歌をぞ書れける。 思きや我敷嶋の道ならで浮世の事を問るべしとは常葉駿河守、此歌を見て感歎肝に銘じければ、泪を流して理に伏す。東使両人も是を読て、諸共に袖を浸しければ、為明は水火の責を遁れて、咎なき人に成にけり。詩歌は朝廷の翫処、弓馬は武家の嗜む道なれば、其慣未必しも、六義数奇の道に携らねども、物相感ずる事、皆自然なれば、此歌一首の感に依て、嗷問の責を止めける、東夷の心中こそやさしけれ。 |
さらに二条中将である為明卿は歌道の達人であり、月夜や雪朝に行われる褒貶のある歌合せの会に頻繁に招かれ宴席に出ていたため特定の嫌疑がある人物ではなかったが、天皇の真意を探るために召し捕らえられ斎藤某に預けられた。五人いた僧侶たちの問題は本来関東へ送って処分すべき事案だったので六波羅での取り調べは行われない。為明卿についてはまず京都で尋問を行い自白があれば関東へ報告せよとの命により、検断役が拷問を開始しようとした。 六波羅の北側に炭火をおこした様子は湯炉壇のようにしており、その上には割いた青竹を敷き詰めわずかな隙間から猛炎が噴出し激しく燃え上がっていた。朝晩を通じ雑役人たちが左右に立ち両手を引っ張って火床の上を行かせようと準備する様子は、あたかも極悪罪人が焦熱地獄の炎に焼かれ牛頭馬頭の鬼に責められる光景にも似て見る者すら肝をつぶしそうであった。為明卿がこれを見られ「硯はあるか」と尋ねると自白するのかと思い、役人は硯と料紙を添えて差し出したところ実際には自白せず一首の歌を書いた。 「思いもよらぬことだ 私が日本の正道(和歌道)ではなく世俗的なことで問われるとは」 常葉駿河守はこの歌を見て深く感嘆し心に刻み涙を流して道理に伏した。関東からの使者二人もこれを読み共々袖を濡らすほど泣いたため為明は水火の拷問から逃れ無実の人となった。詩歌(和歌)は朝廷が愛好する芸事であり弓馬は武家が嗜む道であるので、必ずしも六義数奇(風雅な趣向)に親しんでいない者でも物事に感動することは自然の理であってこの一首への共感によって拷問を止めた関東武士たちの心中こそ優しいものであった。 解説
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| 力をも入ずして、天地を動し、目にみへぬ鬼神をも哀と思はせ、男女の中をも和げ、猛き武士の心をも慰るは歌也と、紀貫之が古今の序に書たりしも、理なりと覚たり。 ○三人僧徒関東下向事 同年六月八日、東使三人の僧達を具足し奉て、関東に下向す。彼忠円僧正と申は、浄土寺慈勝僧正の門弟として、十題判断の登科、一山無双の碩学也。文観僧正と申は、元は播磨国法華寺の住侶たりしが、壮年の比より醍醐寺に移住して、真言の大阿闍梨たりしかば、東寺の長者、醍醐の座主に補せられて、四種三密の棟梁たり。円観上人と申は、元は山徒にて御坐けるが、顕密両宗の才、一山に光有かと疑はれ、智行兼備の誉れ、諸寺に人無が如し。然ども久山門澆漓の風に随はゞ、情慢の幢高して、遂に天魔の掌握の中に落ぬべし。不如、公請論場の声誉を捨て、高祖大師の旧規に帰んにはと、一度名利の轡を返して、永く寂寞の苔の扉を閉給ふ。初の程は西塔の黒谷と云所に居を卜て、三衣を荷葉の秋の霜に重ね、一鉢を松華の朝の風に任給ひけるが、徳不孤必有隣、大明光を蔵ざりければ、遂に五代聖主の国師として、三聚浄戒の太祖たり。かゝる有智高行の尊宿たりと云へども、時の横災をば遁給はぬにや、又前世の宿業にや依けん。 |
力を使わずに天地を動かし、目に見えない鬼神をも感動させ、男女の仲も和ませ、猛々しい武士の心さえ慰めるのは歌であると紀貫之が『古今集』序文に書いているのも道理だと理解される。 ○三人の僧侶が関東へ下向する件 解説
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| 遠蛮の囚と成て、逆旅の月にさすらひ給、不思議なりし事ども也。円観上人計こそ、宗印・円照・道勝とて、如影随形の御弟子三人、随逐して輿の前後に供奉しけれ。其外文観僧正・忠円僧正には相随者一人も無て、怪なる店馬に乗せられて、見馴ぬ武士に打囲れ、まだ夜深きに鳥が鳴東の旅に出給ふ、心の中こそ哀なれ。鎌倉までも下し着けず、道にて失ひ奉るべしなんど聞へしかば、彼の宿に着ても今や限り、此の山に休めば是や限りと、露の命のある程も、心は先に消つべし。昨日も過今日も暮ぬと行程に、我とは急がぬ道なれど、日数積れば、六月二十四日に鎌倉にこそ着にけれ。円観上人をば佐介越前守、文観僧正をば佐介遠江守、忠円僧正をば足利讚岐守にぞ預らる。両使帰参して、彼僧達の本尊の形、炉壇の様、画図に写て註進す。俗人の見知るべき事ならねば、佐々目の頼禅僧正を請じ奉て、是を被見せに、「子細なき調伏の法也。」と申されければ、「去ば此僧達を嗷問せよ。」とて、侍所に渡して、水火の責をぞ致しける。文観房暫が程はいかに問れけれ共、落玉はざりけるが、水問重りければ、身も疲心も弱なりけるにや、「勅定に依て、調伏の法行たりし条子細なし。」と、白状せられけり。其後忠円房を嗷問せんとす。 |
遠く蛮族の地での囚人となって、旅先の月明かりのもとで流浪されたのは不思議なことだった。ただ円観上人のみが宗印・円照・道勝という影のように従う三人の弟子を連れ、輿の前後にお供していた。その他の文観僧正や忠円僧正には付き添い者一人もなく、粗末な駅馬に乗せられ見知らぬ武士に囲まれ、まだ夜が深いうちに東へ向かう旅に出発された心中は実に哀れであった。「鎌倉まで生きたまま着けず途中で殺すだろう」と噂されていたため、宿に着く度にもう終わりか、山で休む時もこれが最後かと思い露のように儚い命のある間から心は先立って消えそうだった。昨日も過ぎ今日も暮れるという旅の道中(逃げるわけでもないのに)、日数が重なり6月24日に鎌倉へ到着した。 円観上人は佐介越前守、文観僧正は佐介遠江守、忠円僧正は足利讃岐守にそれぞれ預けられた。関東からの使者たちは帰還後、彼ら僧侶の本尊像や祭壇を絵図に描き報告したが、普通の人には理解できないものだったので佐々目の頼禅僧正を招いて鑑定させると「疑いようもない呪詛(調伏)の法である」と申し立てたため、「ならば尋問せよ」との命で侍所へ引き渡され水責め火責めが行われた。文観房は暫くは何を訊かれても自白しなかったが、水責めが重なるうちに体も疲れ心も弱ったのか「勅命により呪詛の法を行ったことに間違いない」と白状した。その後忠円房にも尋問を始めようとした。 解説
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| 此僧正天性臆病の人にて、未責先に、主上山門を御語ひありし事、大塔の宮の御振舞、俊基の隠謀なんど、有もあらぬ事までも、残所なく白状一巻に載られたり。此上は何の疑か有べきなれ共、同罪の人なれば、閣べきに非ず。円観上人をも明日問奉るべき評定ありける。其夜相摸入道の夢に、比叡山の東坂本より、猿共二三千群来て、此上人を守護し奉る体にて、並居たりと見給ふ。夢の告只事ならずと思はれければ、未明に預人の許へ使者を遣し、「上人嗷問の事暫く閣べし。」と被下知処に、預人遮て相摸入道の方に来て申けるは、「上人嗷問の事、此暁既其沙汰を致候はん為に、上人の御方へ参て候へば、燭を挑て観法定坐せられて候。其御影後の障子に移て、不動明王の貌に見させ給候つる間、驚き存て、先事の子細を申入ん為に、参て候也。」とぞ申ける。夢想と云、示現と云、只人にあらずとて、嗷問の沙汰を止られけり。同七月十三日に、三人の僧達遠流の在所定て、文観僧正をば硫黄が嶋、忠円僧正をば越後国へ流さる。円観上人計をば遠流一等を宥て、結城上野入道に預られければ、奥州へ具足し奉、長途の旅にさすらひ給。左遷遠流と云ぬ計也。遠蛮の外に遷されさせ給へば、是も只同じ旅程の思にて、肇法師が刑戮の中に苦み、一行阿闍梨の火羅国に流されし、水宿山行の悲もかくやと思知れたり。 |
この忠円僧正は生来臆病な人物であったため、拷問を加えられる前に主君(後醍醐天皇)が比叡山へ働きかけたこと・大塔宮護良親王の行動・俊基の密謀などありもしない事柄まですべて残らず自供し一巻の書状に記録された。これ以上疑う余地はなかったが、同罪者であるため見逃すわけにはいかなかった。円観上人も翌日尋問する評定(会議)があったところ、その夜相模入道北条高時の夢に比叡山の東坂本から猿二三千頭が群れをなして現れこの上人を守護している様子が見えた。夢告はただ事ではないと考え未明に預かり役へ使者を遣わし「円観への尋問は暫く差し控えよ」と命令したところ、預かり人が急ぎ北条高時の元へ来て申し上げた――「今朝早々上人へ尋問の通知をするためお住まいへ参りましたが燭灯をかざして観法(瞑想)中でございました。その影が後ろの障子に映って不動明王のお姿に見えたので驚き事の次第をお伝えするために参上しました」。夢想であれ霊験示現であれ常人ではあるまいと判断され尋問は中止された。 同年7月13日、三人の僧侶流刑地が決められ文観僧正は硫黄島・忠円僧正は越後国へ配流となった。ただ円観上人だけ遠流一等を赦免されて結城上野入道に預けられたためお供して奥州への長旅に出たのは左遷も同然である。辺境の地へ移された悲しみは同じく肇法師が処刑苦難にあえいだことや一行阿闍梨が火羅国流罪で水宿山行した悲哀と変わらないと思われた。 解説
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| 名取川を過させ給とて上人一首の歌を読給ふ。陸奥のうき名取川流来て沈やはてん瀬々の埋木時の天災をば、大権の聖者も遁れ給はざるにや。昔天竺の波羅奈国に、戒定慧の三学を兼備し給へる独の沙門をはしけり。一朝の国師として四海の倚頼たりしかば、天下の人帰依偈仰せる事、恰大聖世尊の出世成道の如也。或時其国の大王法会を行ふべき事有て説戒の導師に此沙門をぞ請ぜられける。沙門則勅命に随て鳳闕に参ぜらる。帝折節碁を被遊ける砌へ、伝奏参て、沙門参内の由を奏し申けるを、遊しける碁に御心を入られて、是を聞食れず、碁の手に付て、「截れ。」と仰られけるを、伝奏聞誤りて、此沙門を刎との勅定ぞと心得て、禁門の外に出し、則沙門の首を刎てけり。帝碁をあそばしはてゝ、沙門を御前へ召ければ、典獄の官、「勅定に随て首を刎たり。」と申す。帝大に逆鱗ありて、「「行死定て後三奏す」と云へり。而を一言の下に誤を行て、朕が不徳をかさぬ。罪大逆に同じ。」とて、則伝奏を召出して三族の罪に行れけり。さて此沙門罪なくして死刑に逢ひ給ぬる事只事にあらず、前生の宿業にてをはすらんと思食れければ、帝其故を阿羅漢に問給ふ。阿羅漢七日が間、定に入て宿命通を得て過現を見給ふに、沙門の前生は耕作を業とする田夫也。 |
円観上人が名取川を渡られる際に一首の歌をお詠みになった。「陸奥の憂き名取川よ流れ来て沈むだろうか、浅瀬に漂う埋もれた木のように」と。時の天災は大権現のような聖者さえ逃れることができないのだろうか。 昔インドのバラナシ王国で戒律・禅定・智慧という仏教三学を兼ね備えた高徳な修行者がいた。その国の国師として天下の人々が頼りにし崇め奉る様子はあたかも釈迦如来が世に出て悟りを得られたようであった。ある時国王が法会を行うため説戒の導師としてこの僧侶を招請したところ、彼は勅命に従って宮殿へ参内した。 ちょうど王様が碁を打たれている最中に通奏官が「僧侶が到着しました」と報告すると、碁に夢中の王は聞き入れず盤上の石を示して「切れ(=この石を取り除け)」と言われた。これを誤って聴いた通奏官は「刎ねよとの勅命だ」と思い込み門外へ僧侶を連れ出し首を斬った。 王が碁を終えて召喚しようとしたところ、刑吏が「御命令通り処刑しました」と申した。激怒した王様は「死刑執行前には三度報告すべきだというのに一語の誤解で我が不徳を招くとは大逆罪に等しい」と言い通奏官を呼び出して一族皆殺しにされた。 この僧侶が無実にもかかわらず死んだことは尋常ではなく前世からの宿業によるものと思われたため、王は阿羅漢(聖者)に理由を問うた。七日間瞑想に入って過去を見通した阿羅漢によればその修行者の前世は田畑を耕す農夫であった。 解説
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| 帝の前生は水にすむ蛙にてぞ有ける。此田夫鋤を取て春の山田をかへしける時、誤て鋤のさきにて、蛙の頚をぞ切たりける。此因果に依て、田夫は沙門と生れ、蛙は波羅奈国の大王と生れ、誤て又死罪を行れけるこそ哀なれ。されば此上人も、何なる修因感果の理に依か、卦る不慮の罪に沈給ぬらんと、不思議也し事共也。 ○俊基朝臣再関東下向事 俊基朝臣は、先年土岐十郎頼貞が討れし後、召取れて、鎌倉まで下給しかども、様々に陳じ申されし趣、げにもとて赦免せられたりけるが、又今度の白状共に、専隠謀の企、彼朝臣にありと載たりければ、七月十一日に又六波羅へ召取れて関東へ送られ給ふ。再犯不赦法令の定る所なれば、何と陳る共許されじ、路次にて失るゝか鎌倉にて斬るゝか、二の間をば離れじと、思儲てぞ出られける。落花の雪に蹈迷ふ、片野の春の桜がり、紅葉の錦を衣て帰、嵐の山の秋の暮、一夜を明す程だにも、旅宿となれば懶に、恩愛の契り浅からぬ、我故郷の妻子をば、行末も知ず思置、年久も住馴し、九重の帝都をば、今を限と顧て、思はぬ旅に出玉ふ、心の中ぞ哀なる。憂をば留ぬ相坂の、関の清水に袖濡て、末は山路を打出の浜、沖を遥見渡せば、塩ならぬ海にこがれ行、身を浮舟の浮沈み、駒も轟と踏鳴す、勢多の長橋打渡り、行向人に近江路や、世のうねの野に鳴鶴も、子を思かと哀也。 |
皇帝の前世は水辺に住む蛙であった。この農夫が鋤を持って春の山田を耕していた時、誤って鋤の先で蛙の首を切ったのだ。この因果によって農夫は修行者として生まれ変わり、蛙はバラナシ王国の大王となり、今度もまた死刑に処されたのは悲しいことだ。だからこそ円観上人も何らかの因縁により思いがけぬ罪に陥ったのだろうと不思議なことであった。 ○俊基卿の再度の関東下り 解説
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| 時雨もいたく森山の、木下露に袖ぬれて、風に露散る篠原や、篠分る道を過行ば、鏡の山は有とても、泪に曇て見へ分ず。物を思へば夜間にも、老蘇森の下草に、駒を止て顧る、古郷を雲や隔つらん。番馬、醒井、柏原、不破の関屋は荒果て、猶もる物は秋の雨の、いつか我身の尾張なる、熱田の八剣伏拝み、塩干に今や鳴海潟、傾く月に道見へて、明ぬ暮ぬと行道の、末はいづくと遠江、浜名の橋の夕塩に、引人も無き捨小船、沈みはてぬる身にしあれば、誰か哀と夕暮の、入逢鳴ば今はとて、池田の宿に着給ふ。元暦元年の比かとよ、重衡中将の、東夷の為に囚れて、此宿に付給しに、「東路の丹生の小屋のいぶせきに、古郷いかに恋しかるらん。」と、長者の女が読たりし、其古の哀迄も、思残さぬ泪也。旅館の燈幽にして、鶏鳴暁を催せば、疋馬風に嘶へて、天竜河を打渡り、小夜の中山越行ば、白雲路を埋来て、そことも知ぬ夕暮に、家郷の天を望ても、昔西行法師が、「命也けり。」と詠つゝ、二度越し跡までも、浦山敷ぞ思はれける。隙行駒の足はやみ、日已亭午に昇れば、餉進る程とて、輿を庭前に舁止む。轅を叩て警固の武士を近付け、宿の名を問給ふに、「菊川と申也。」と答へければ、承久の合戦の時、院宣書たりし咎に依て、光親卿関東へ召下されしが、此宿にて誅せられし時、昔南陽懸菊水。 |
時雨が激しく降りしきる森山で、木々から滴る露に袖を濡らしながら進む。風に露が散る篠原では笹の茂みを分ける道を通ると、鏡山という名の場所があっても涙で視界が曇って見えない。物思いにふけり夜通し歩くと老蘇の森の下草辺りで馬を止めて振り返れば故郷は雲に隔てられているようだ。 番場・醒ヶ井・柏原を通り過ぎると、不破関の建物は荒れ果て秋雨だけが降り注ぐ。やがて尾張国へ入る熱田神宮で剣を拝み鳴海潟に差し迫った月明かりを頼り進む。夜も昼も歩き続ける先には遠江国の浜名の橋、夕暮れに引き手もない捨て小舟がある様子は沈んでしまいそうな自身の身と重なる。「誰が哀れと思うだろうか」と思いつつ池田宿へ着いた。 元暦元年(1184年)頃だったろうか。平重衡中将が東国の武士に捕らえられこの宿で詠んだ「丹生の小屋の息苦しさよ 故郷はどうなっているだろう」という歌を、当時の長者の娘が返した古事まで思い出して泣いた。 宿屋の灯りが幽かに揺れ鶏鳴と共に夜明けを迎える。馬がいなないながら天竜川を渡り小夜の中山越えを行くうち白雲が道を埋め、故郷の方角を見上げても西行法師が「命とはこんなものか」と詠み二度も通ったこの地で自らを重ねた。時間は馬足のように早く過ぎ昼時に差し掛かり輿を庭先に止めた時、警護の武士を呼んで宿名を尋ねると「菊川です」との答えが返る——承久の乱(1221年)で藤原光親卿が処刑された地であり彼は最期に「南陽懸菊水」(かつて菊から霊泉湧いた故事)と詠んだことを思い起こした。 解説
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| 汲下流而延齢。今東海道菊河。宿西岸而終命。と書たりし、遠き昔の筆の跡、今は我身の上になり。哀やいとゞ増りけん、一首の歌を詠て、宿の柱にぞ書れける。古もかゝるためしを菊川の同じ流に身をや沈めん大井河を過給へば、都にありし名を聞て、亀山殿の行幸の、嵐の山の花盛り、竜頭鷁首の舟に乗り、詩歌管絃の宴に侍し事も、今は二度見ぬ夜の夢と成ぬと思つゞけ給ふ。嶋田、藤枝に懸りて、岡辺の真葛裡枯て、物かなしき夕暮に、宇都の山辺を越行ば、蔦楓いと茂りて道もなし。昔業平の中将の住所を求とて、東の方に下とて、「夢にも人に逢ぬなりけり。」と読たりしも、かくやと思知れたり。清見潟を過給へば、都に帰る夢をさへ、通さぬ波の関守に、いとゞ涙を催され、向はいづこ三穂が崎・奥津・神原打過て、富士の高峯を見給へば、雪の中より立煙、上なき思に比べつゝ、明る霞に松見へて、浮嶋が原を過行ば、塩干や浅き船浮て、をり立田子の自も、浮世を遶る車返し、竹の下道行なやむ、足柄山の巓より、大磯小磯直下て、袖にも波はこゆるぎの、急としもはなけれども、日数つもれば、七月二十六日の暮程に、鎌倉にこそ着玉けれ。其日軈て、南条左衛門高直請取奉て、諏防左衛門に預らる。一間なる処に蜘手きびしく結て、押篭奉る有様、只地獄の罪人の十王の庁に渡されて、頚械手械を入られ、罪の軽重を糺すらんも、右やと思知れたり。 |
「下流の水を汲んで命を延ばす」という昔光親卿が書き残した句が、今は自分自身に降りかかったと思うと悲しみが一層深まり、一首の歌を詠んで宿の柱に記した。「古(いにしえ)もこういう例がある菊川で 同じ流れに身を沈めるのだろうか」。大井川を渡るときには都での栄華を思い出し、亀山院の行幸で嵐山が花満開だった頃、豪華な船に乗り詩歌や音楽の宴に列席したことも二度と見られない夢となった。 嶋田・藤枝を通り過ぎると岡辺には葛(くず)が枯れ夕暮れは物悲しい。宇都山を越える道では蔦や楓が茂って進みにくい。昔在原業平が東国へ下向した際「夢にも人に会えない」と詠んだ心境も今なら理解できると痛感する。清見潟を通るときは故郷に帰る夢さえ遮られるかのように涙があふれ、三穂ヶ崎・奥津・神原を経て富士の高嶺を見上げれば雪の中から立ち上る煙が自身のはかなく消えゆく思いと重なった。朝もやの中で松が見える浮島ヶ原を通り過ぎると浅瀬に船が浮かび、農夫たちが働く様子を「この世は流転する車輪のようだ」と思いながら竹藪の道を行き足柄山頂から大磯・小磯へ下る。袖にかかる波もさほど急ではないのに日数が経つにつれ、七月二十六日の夕暮れに鎌倉へ到着した。 その日すぐ南条左衛門高直(なんじょうさえもんたかなお)が引き取り諏訪左衛門(すわさえもん)に預けられる。狭い一室には厳重な格子窓があり閉じ込められた様子は、地獄で十王の庁へ連行された罪人が首枷や手枷を嵌(は)められ裁かれる光景そのものだと悟った。 解説
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| ○長崎新左衛門尉意見事付阿新殿事 当今御謀反の事露顕の後御位は軈て持明院殿へぞ進らんずらんと、近習の人々青女房に至まで悦あへる処に、土岐が討れし後も曾て其沙汰もなし。今又俊基召下されぬれ共、御位の事に付ては何なる沙汰あり共聞ざりければ、持明院殿方の人々案に相違して五噫を謳者のみ多かりけり。さればとかく申進る人のありけるにや、持明院殿より内々関東へ御使を下され、「当今御謀反の企近日事已に急なり。武家速に糾明の沙汰なくば天下の乱近に有べし。」と仰られたりければ、相摸入道、「げにも。」と驚て、宗徒の一門・並頭人・評定衆を集て、「此事如何有べき。」と各所存を問る。然ども或は他に譲て口を閉、或は己を顧て言を出さゞる処に、執事長崎入道が子息新左衛門尉高資進出て申けるは、「先年土岐十郎が討れし時、当今の御位を改申さるべかりしを、朝憲に憚て御沙汰緩かりしに依て此事猶未休。乱を撥て治を致は武の一徳也。速に当今を遠国に遷し進せ、大塔宮を不返の遠流に所し奉り、俊基・資朝以下の乱臣を、一々に誅せらるゝより外は、別儀あるべしとも存候はず。」と、憚る処なく申けるを、二階堂出羽入道道蘊暫思案して申けるは、「此儀尤然るべく聞へ候へ共、退て愚案を廻すに、武家権を執て已に百六十余年、威四海に及、運累葉を耀すこと更に他事なし。 |
長崎新左衛門尉の意見と阿新殿について 解説
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| 唯上一人を仰奉て、忠貞に私なく、下百姓を撫て仁政に施ある故也。然に今君の寵臣一両人召置れ、御帰衣の高僧両三人流罪に処せらるゝ事も、武臣悪行の専一と云つべし。此上に又主上を遠所へ遷し進せ、天台座主を流罪に行れん事、天道奢を悪むのみならず、山門争か憤を含まざるべき。神怒人背かば、武運の危に近るべし。「君雖不君、不可臣以不臣」と云へり。御謀反の事君縦思食立とも、武威盛ならん程は与し申者有べからず。是に付ても武家弥よ慎で勅命に応ぜば、君もなどか思食直す事無らん。かくてぞ国家の泰平、武運の長久にて候はんと存るは、面々如何思食候。」と申けるを、長崎新左衛門尉又自余の意見をも不待、以の外に気色を損じて、重て申けるは、「文武揆一也と云へ共、用捨時異るべし。静なる世には文を以て弥治め、乱たる時には武を以急に静む。故戦国の時には孔盂不足用、太平の世には干戈似無用。事已に急に当りたり。武を以て治むべき也。異朝には文王・武王、臣として、無道の君を討し例あり。吾朝には義時・泰時、下として不善の主を流す例あり。世みな是を以て当れりとす。されば古典にも、「君視臣如土芥則臣視君如冦讎。」と云へり。事停滞して武家追罰の宣旨を下されなば、後悔すとも益有べからず。 |
長崎新左衛門尉の意見と阿新殿について(続き) 解説
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| 只速に君を遠国に遷し進せ、大塔の宮を硫黄が嶋へ流奉り、隠謀の逆臣、資朝・俊基を誅せらるゝより外の事有べからず。武家の安泰万世に及べしとこそ存候へ。」と、居長高に成て申ける間、当座の頭人・評定衆、権勢にや阿けん、又愚案にや落けん、皆此義に同じければ、道蘊再往の忠言に及ばず眉を顰て退出す。さる程に、「君の御謀反を申勧けるは、源中納言具行・右少弁俊基・日野中納言資朝也、各死罪に行るべし。」と評定一途に定て、「先去年より佐渡国へ流されてをはする資朝卿を斬奉べし。」と、其国の守護本間山城入道に被下知。此事京都に聞へければ、此資朝の子息国光の中納言、其比は阿新殿とて歳十三にてをはしけ〔る〕が、父の卿召人に成玉しより、仁和寺辺に隠て居られけるが、父誅せられ給べき由を聞て、「今は何事にか命を惜むべき。父と共に斬れて冥途の旅の伴をもし、又最後の御有様をも見奉るべし。」とて母に御暇をぞ乞れける。母御頻に諌て、「佐渡とやらんは、人も通はぬ怖しき嶋とこそ聞れ。日数を経る道なればいかんとしてか下べき。其上汝にさへ離ては、一日片時も命存べしとも覚へず。」と、泣悲て止ければ、「よしや伴ひ行人なくば、何なる淵瀬にも身を投て死なん。」と申ける間、母痛止ば、又目の前に憂別も有ぬべしと思侘て、力なく今迄只一人付副たる中間を相そへられて、遥々と佐渡国へぞ下ける。 |
評定で「ただちに天皇を遠国へ移し、大塔宮(護良親王)を硫黄島へ流罪とし、謀反人である資朝・俊基は処刑する以外ない。これにより武家の安泰が永遠に続くだろう」という長崎高資の発言が圧倒的だったため、出席した重臣や評定衆たちは権力におびえたのか判断を誤ったのか全員賛成し、二階堂道蘊は繰り返し諫める機会もなく眉をひそめて退出した。その後、「天皇の謀反を進めたのは源具行(中納言)・俊基(右少弁)・日野資朝(中納言)であり全員死罪とする」と決定が下り、特に「昨年から佐渡国へ流されていた資朝卿を斬首せよ」と現地の守護である本間山城入道に命令された。この報せが京都に届くと、資朝の息子で当時13歳だった阿新殿(中納言・藤原国光)は——父が捕らえられて以来仁和寺付近に隠れ住んでいたが——父が処刑されると知り、「もはや命を惜しむ理由などない。父と共に斬られ冥土の道連れとなろう、せめて最期の姿を見届けよう」と母に別れを告げた。母が必死に止める「佐渡なんて人が行かない恐ろしい島よ。長旅なのにどうやって行けるというのか。それにお前までいなくなるなら私は一日も生きられない」との涙ながらの言葉に対し、阿新殿は「誰か同行者がいなければどんな淵に身を投げても死ぬだけだ」と返したため、母は無理に止めれば目の前で自害されるかもしれずやむなく承諾。一人きりだった従者にさらに中間(下僕)を添えられて佐渡国へ向かった。 解説
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| 路遠けれども乗べき馬もなければ、はきも習ぬ草鞋に、菅の小笠を傾て、露分わくる越路の旅、思やるこそ哀なれ。都を出て十三日と申に、越前の敦賀の津に着にけり。是より商人船に乗て、程なく佐渡国へぞ着にける。人して右と云べき便もなければ、自本間が館に致て中門の前にぞ立たりける。境節僧の有けるが立出て、「此内への御用にて御立候か。又何なる用にて候ぞ。」と問ければ、阿新殿、「是は日野中納言の一子にて候が、近来切られさせ給べしと承て、其最後の様をも見候はんために都より遥々と尋下て候。」と云もあへず、泪をはら/\と流しければ、此僧心有ける人也ければ、急ぎ此由を本間に語るに、本間も岩木ならねば、さすが哀にや思けん、軈て此僧を以持仏堂へいざなひ入て、蹈皮行纒解せ足洗て、疎ならぬ体にてぞ置たりける。阿新殿是をうれしと思に付ても、同は父の卿を疾見奉ばやと云けれ共、今日明日斬らるべき人に是を見せては、中々よみ路の障とも成ぬべし。又関東の聞へもいかゞ有らんずらんとて、父子の対面を許さず、四五町隔たる処に置たれば、父の卿は是を聞て、行末も知ぬ都にいかゞ有らんと、思やるよりも尚悲し。子は其方を見遣て、浪路遥に隔たりし鄙のすまゐを想像て、心苦く思つる泪は更に数ならずと、袂の乾くひまもなし。 |
道は遠いのに乗る馬もなく、履き慣れない草鞋で菅笠を傾け露の降りる越路(北陸道)を行く姿は見ていて痛ましい。都を出て十三日目に越前国敦賀津へ着いた。ここから商人船に乗って間もなく佐渡島へ到着したが、案内役もいないため自ら本間の館に行き中門前に立った。たまたま居合わせた僧侶が出てきて「ご用件は?」と尋ねると、阿新殿は「日野中納言(資朝)の息子です。父が処刑されると聞き最期を見届けに都から来ました」と言い終わらぬうちに涙を流した。この僧侶は心ある者だったので急ぎ本間に報告すると、本間も無情な岩木ではないため哀れと思ったのか、すぐに阿新殿を持仏堂へ招き草鞋と脚絆を解かせ足を洗わせ、丁重にもてなした。阿新殿は喜んだものの「一刻も早く父にお会いしたい」と言ったが、「今まさに処刑される人と面会させれば冥途の妨げになるかもしれない。幕府の耳に入っても困る」として父子対面を許さず、四~五百メートル離れた場所へ隔離した。これを聞いた父・資朝は「都で無事かどうかもわからぬ子が…」と想像するだけでなおさら悲しく、息子は方角を見て荒波越しの粗末な住まいを思い浮かべ胸が痛み、涙で袖が乾く暇もなかった。 解説
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| 是こそ中納言のをはします楼の中よとて見やれば、竹の一村茂りたる処に、堀ほり廻し屏塗て、行通ふ人も稀也。情なの本間が心や。父は禁篭せられ子は未稚なし。縦ひ一所に置たりとも、何程の怖畏か有べきに、対面をだに許さで、まだ同世の中ながら生を隔たる如にて、なからん後の苔の下、思寝に見ん夢ならでは、相看ん事も有がたしと、互に悲む恩愛の、父子の道こそ哀なれ。五月二十九日の暮程に、資朝卿を篭より出し奉て、「遥に御湯も召れ候はぬに、御行水候へ。」と申せば、早斬らるべき時に成けりと思給て、「嗚呼うたてしき事かな、我最後の様を見ん為に、遥々と尋下たる少者を一目も見ずして、終ぬる事よ。」と計り宣て、其後は曾て諸事に付て言をも出給はず。今朝迄は気色しほれて、常には泪を押拭ひ給けるが、人間の事に於ては頭燃を払ふ如に成ぬと覚て、只綿密の工夫の外は、余念有りとも見へ給はず。夜に入れば輿さし寄て乗せ奉り、爰より十町許ある河原へ出し奉り、輿舁居たれば、少も臆したる気色もなく、敷皮の上に居直て、辞世の頌を書給ふ。五蘊仮成形。四大今帰空。将首当白刃。截断一陣風。年号月日の下に名字を書付て、筆を閣き給へば、切手後へ回るとぞ見へし、御首は敷皮の上に落て質は尚坐せるが如し。 |
そこ(阿新殿の宿所)から中納言(資朝)がいるとされる楼閣を見上げると、竹藪に囲まれ堀と塀で隔てられ人の往来も稀な場所だった。非情な本間の心よ!父は監禁され息子は幼いのに、仮に同室でも何の問題があるというのか。顔を合わせることも許さず生きながら別世界のように扱うとは。亡き後に墓の下で夢に見ること以外では二度と会えぬかと思う親子の情愛が痛ましい。五月二十九日の夕暮れ時、資朝卿は檻から出され「久しく湯も召し上がっていないので行水を」と言われると処刑時と悟り、「ああ無念だ!最期を見ようと遥々来た幼子に一目も会えず終わるとは」とだけ述べ、その後一切言葉を発さなかった。これまでは悲嘆の色が見えたが今は頭髪(煩悩)を振るい落としたかのように平静で、ただ瞑想する姿以外に雑念らしきものも見えぬ。夜に入ると輿で十町ほどの河原へ運ばれても微動だにせず敷皮の上に端座したまま辞世の偈を記す。"五蘊仮成形(肉体は仮の形)、四大今帰空(元素は空虚へ帰る)。将首当白刃(今や白刃に向かう)、截断一陣風(斬られて一陣の風となる)"。年月日と署名し筆を置く。首切り役が後ろに回ると、首は敷皮に落ちたのに胴体はなお坐ったままだった。 解説
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| 此程常に法談なんどし給ひける僧来て、葬礼如形取営み、空き骨を拾て阿新に奉りければ、阿新是を一目見て、取手も撓倒伏、「今生の対面遂に叶ずして、替れる白骨を見る事よ。」と泣悲も理也。阿新未幼稚なれ共、けなげなる所存有ければ、父の遺骨をば只一人召仕ける中間に持せて、「先我よりさきに高野山に参て奥の院とかやに収よ。」とて都へ帰し上せ、我身は労る事有る由にて尚本間が館にぞ留りける。是は本間が情なく、父を今生にて我に見せざりつる鬱憤を散ぜんと思ふ故也。角て四五日経ける程に、阿新昼は病由にて終日に臥し、夜は忍やかにぬけ出て、本間が寝処なんど細々に伺て、隙あらば彼入道父子が間に一人さし殺して、腹切らんずる物をと思定てぞねらいける。或夜雨風烈しく吹て、番する郎等共も皆遠侍に臥たりければ、今こそ待処の幸よと思て、本間が寝処の方を忍て伺に、本間が運やつよかりけん、今夜は常の寝処を替て、何くに有とも見へず。又二間なる処に燈の影の見へけるを、是は若本間入道が子息にてや有らん。其なりとも討て恨を散ぜんと、ぬけ入て是を見るに、其さへ爰には無して、中納言殿を斬奉し本間三郎と云者ぞ只一人臥たりける。よしや是も時に取ては親の敵也。山城入道に劣るまじと思て走りかゝらんとするに、我は元来太刀も刀も持ず、只人の太刀を我物と憑たるに、燈殊に明なれば、立寄ば軈て驚合ふ事もや有んずらんと危で、左右なく寄ゑず。 |
その後も普段から仏教説話などをしていた僧侶が来て葬儀を執り行い遺骨を取り集め阿新殿に渡した。阿新殿はこれを見ると手にする力も抜けて崩れ落ち、「生前にお会いできず代わりに白骨だけ拝むとは」と泣き悲しんだのも当然だった。幼さが残る阿新殿だが気概があったため、父の遺骨をただ一人連れてきた従者に託して「私より先に高野山へ行き奥之院という所に納めてくれ」と言い京へ帰らせた。自身は体調不良と称し本間館にとどまったのは、本間家への憎悪から父の最期すら見せなかった無念を晴らそうとしたためだ。四、五日過ぎるうちに阿新殿は昼は病気と偽って寝込み夜には密かに抜け出て本間親子の寝室を探り回った。「機会があればあの父子どちらかを刺し殺して自害しよう」と狙う中で、ある晩は暴風雨に見張りの従者も離れた場所にいたため「今だ!」と思い潜入するが幸運なのか本間親子は寝室を変えておらず更に別棟の灯りを見て「若年輩かもしれないが討って恨みを晴らそう」と忍び込む。しかしそこにはすらいなく、代わりに資朝卿を斬った本間三郎という者が一人寝ていた。「これも仇だ山城入道(親)にも劣らない憎き相手」と襲いかからんとしたが自身は武器を持たず仮借した刀だけでは不十分で灯りが明るすぎ接近すれば気づかれ騒動になる危険を感じ結局近寄れなかった。 解説
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| 何がせんと案じ煩て立たるに、折節夏なれば灯の影を見て、蛾と云虫のあまた明障子に取付たるを、すはや究竟の事こそ有れと思て障子を少引あけたれば、此虫あまた内へ入て軈て灯を打けしぬ。今は右とうれしくて、本間三郎が枕に立寄て探るに、太刀も刀も枕に有て、主はいたく寝入たり。先刀を取て腰にさし、太刀を抜て心もとに指当て、寝たる者を殺は死人に同じければ、驚さんと思て、先足にて枕をはたとぞ蹴たりける。けられて驚く処を、一の太刀に臍の上を畳までつとつきとをし、返す太刀に喉ぶゑ指切て、心閑に後の竹原の中へぞかくれける。本間三郎が一の太刀に胸を通されてあつと云声に、番衆ども驚騒で、火を燃して是を見るに、血の付たるちいさき足跡あり。「さては阿新殿のしわざ也。堀の水深ければ、木戸より外へはよも出じ。さがし出て打殺せ。」とて、手々松明をとぼし、木の下、草の陰まで残処無ぞさがしける。阿新は竹原の中に隠れながら、今は何くへか遁るべき。人手に懸らんよりは、自害をせばやと思はれけるが、悪しと思親の敵をば討つ、今は何もして命を全して、君の御用にも立、父の素意をも達したらんこそ忠臣孝子の儀にてもあらんずれ、若やと一まど落て見ばやと思返して、堀を飛越んとしけるが、口二丈深さ一丈に余りたる堀なれば、越べき様も無りけり。 |
どうしようかと思い悩んで立っていると、丁度夏の季節だったので明かりを見て多くの蛾が障子に集まっているのに気付き、「これは好機だ」と少し障子を開けると虫たちが室内に入り燈火を消した。これでようやく願い通りとなり本間三郎の枕元へ近づくと太刀も脇差もあるので、まず短刀を腰に刺し長剣を抜いて心臓目掛け構えた。「寝ている者を殺すのは死人と同じだから驚かせてからだ」と考え足で枕を蹴りつける。驚いて起きた瞬間、第一撃でみぞおちから畳まで貫き通し、続く一撃で喉笛を切り裂くと静かに裏庭の竹藪に隠れた。本間三郎が「あっ」と叫んだ声に見張りたちは騒ぎ火をつけると血痕付きの小さな足跡があり、「阿新殿の仕業だ!堀が深いから門外へ出られまい、探し出して殺せ!」と松明を掲げ草木かげまで徹底的に捜索した。竹藪に潜む阿新は「もう逃げ場がないなら捕まるより自害しよう」と思ったが、「よく考えれば親の仇を討てたのだから命を永らえ主君に尽くし父の志も果たすのが忠臣孝子の道だ」と翻意。堀飛び越えを試みるが幅六メートル深さ三メートルの堀では不可能だった。 解説
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| さらば是を橋にして渡んよと思て、堀の上に末なびきたる呉竹の梢へさら/\と登たれば、竹の末堀の向へなびき伏て、やす/\と堀をば越てげり。夜は未深し、湊の方へ行て、舟に乗てこそ陸へは着めと思て、たどるたどる浦の方へ行程に、夜もはや次第に明離て忍べき道もなければ、身を隠さんとて日を暮し、麻や蓬の生茂たる中に隠れ居たれば、追手共と覚しき者共百四五十騎馳散て、「若十二三計なる児や通りつる。」と、道に行合人毎に問音してぞ過行ける。阿新其日は麻の中にて日を暮し、夜になれば湊へと心ざして、そことも知ず行程に、孝行の志を感じて、仏神擁護の眸をや回らされけん、年老たる山臥一人行合たり。此児の有様を見て痛しくや思けん、「是は何くより何をさして御渡り候ぞ。」と問ければ、阿新事の様をありの侭にぞ語りける。山臥是を聞て、我此人を助けずば、只今の程にかはゆき目を見るべしと思ければ、「御心安く思食れ候へ。湊に商人舟共多候へば、乗せ奉て越後・越中の方まで送付まいらすべし。」と云て、足たゆめば、此児を肩に乗せ背に負て、程なく湊にぞ行着ける。夜明て便船やあると尋けるに、折節湊の内に舟一艘も無りけり。如何せんと求る処に、遥の澳に乗うかべたる大船、順風に成ぬと見て檣を立篷をまく。 |
「それならこれを橋にして渡ろう」と思い堀の上で垂れ下がった呉竹の先端にすするすると登ると、竹の梢は堀の向こう側へしなりと曲がり楽々と越えてしまった。夜はまだ深くないため湊を目指して舟で陸地へ着こうと考えたが、よろめきながら浜辺方面へ進むうちに次第に明るくなり隠れる道もなく、身を潜めるために一日中麻や蓬の生い茂った場所に潜伏していると、追手と思われる百四五十騎が駆け回って「十二三歳ほどの子供が通ったらしい」と言いながら道行く人々に尋ねて通り過ぎた。阿新はその日を草むらで暮らし夜になると湊へ向かったが、方角もわからぬ中で孝行心の強さが神仏の加護を得たのか、年老いた山伏一人に出会った。子供の様子を見て不憫に思ったのだろう、「どちらからおいででどこへお出かけですか」と尋ねると阿新は事情をありのまま話した。山伏はこれを聞き「自分が助けなければすぐ捕まるだろう」と考え、「ご安心ください。湊には商人の舟が多いので越後や越中方面まで送り届けましょう」と言い、疲れた足をおして子供を肩車したり背負ったりしつつ間もなく湊に着いた。夜明け後に便船はあるかと探したが折悪く港内に一隻もない。途方に暮れていると遠くの入り江で浮かんでいる大船が順風となったらしく帆柱を立て帆を張り始めた。 解説
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| 山臥手を上て、「其船是へ寄てたび給へ、便船申さん。」と呼りけれ共、曾て耳にも聞入ず、舟人声を帆に上て湊の外に漕出す。山臥大に腹を立て柿の衣の露を結で肩にかけ、澳行舟に立向て、いらたか誦珠をさら/\と押揉て、「一持秘密咒、生々而加護、奉仕修行者、猶如薄伽梵と云へり。況多年の勤行に於てをや。明王の本誓あやまらずば、権現金剛童子・天竜夜叉・八大龍王、其船此方へ漕返てたばせ給へ。」と、跳上々々肝胆を砕てぞ祈りける。行者の祈り神に通じて、明王擁護やしたまひけん、澳の方より俄に悪風吹来て、此舟忽覆らんとしける間、舟人共あはてゝ、「山臥の御房、先我等を御助け候へ。」と手を合膝をかゞめ、手々に舟を漕もどす。汀近く成ければ、船頭舟より飛下て、児を肩にのせ、山臥の手を引て、屋形の内に入たれば、風は又元の如に直りて、舟は湊を出にけり。其後追手共百四五十騎馳来り、遠浅に馬を叩て、「あの舟止れ。」と招共、舟人是を見ぬ由にて、順風に帆を揚たれば、舟は其日の暮程に、越後の府にぞ着にける。阿新山臥に助られて、鰐口の死を遁しも、明王加護の御誓掲焉なりける験也。 ○俊基被誅事並助光事 俊基朝臣は殊更謀叛の張本なれば、遠国に流すまでも有べからず、近日に鎌倉中にて斬奉るべしとぞ被定たる。 |
山伏が手を上げて「そこの船、こちらに寄ってくれませんか?乗せてもらいたいのですが」と呼びかけても、船人は全く耳を貸そうとせず声を帆にかき消すように沖へ漕ぎ出した。山伏は大いに腹を立て、柿色の衣の露を払い肩にかけると入り江に向かい歩み寄り、苛立たしげに数珠をぐるぐると揉みながら唱えた。「一持秘密咒(ひとつのじひみつじゅ)、生々而加護(せいぜいにかご)...修行者を守らんことは薄伽梵(仏陀)の如しと言われている。ましてや長年の修行積んだ身にはなおさらだ。明王の誓いが偽りなければ、権現金剛童子・天竜夜叉・八大龍王よ、その船をここへ戻させてくれ」と跳びはねるほど激しく祈った。行者(山伏)の祈りが神仏に通じたのか明王の加護によるものか、入り江から突然暴風が吹き荒れ舟はまさに転覆しようとしたため、船人たちは慌てて「山伏様!まず我々をお助けください!」と手を合わせ膝を屈め、懸命に舟を戻し始めた。岸近くになると船頭が飛び降り、子供(阿新)を肩車して山伏の手を引き船室へ入れた途端、風は元通り収まり舟は港を出た。その後追っ手百四五十騎が駆けつけ浅瀬まで馬を進め「あの船止まれ!」と叫んだが、船人は見ぬふりで順風に帆を上げると夕暮れには越後の国府へ着いた。阿新が山伏に救われ鰐口(舳先)での死を逃れたのも明王加護の誓いが明らかに現れた証拠である。
○俊基誅殺と助光の件 解説
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| 此人多年の所願有て、法華経を六百部自ら読誦し奉るが、今二百部残りけるを、六百部に満る程の命を被相待候て、其後兎も角も被成候へと、頻に所望有ければ、げにも其程の大願を果させ奉らざらんも罪也とて、今二百部の終る程僅の日数を待暮す、命の程こそ哀なれ。此朝臣の多年召仕ける青侍に後藤左衛門尉助光と云者あり。主の俊基召取られ給し後、北方に付進せ嵯峨の奥に忍て候けるが、俊基関東へ被召下給ふ由を聞給て、北方は堪ぬ思に伏沈て歎悲給けるを見奉に、不堪悲して、北の方の御文を給て、助光忍て鎌倉へぞ下ける。今日明日の程と聞へしかば、今は早斬れもやし給ひつらんと、行逢人に事の由を問々、程なく鎌倉にこそ着にけれ。右少弁俊基のをはする傍に宿を借て、何なる便もがな、事の子細を申入んと伺けれども、不叶して日を過しける処に、今日こそ京都よりの召人は斬れ給べきなれ、あな哀れや、なんど沙汰しければ、助光こは如何がせんと肝を消し、此彼に立て見聞しければ、俊基已に張輿に乗せられて粧坂へ出給ふ。爰にて工藤二郎左衛門尉請取て、葛原岡に大幕引て、敷皮の上に坐し給へり。是を見ける助光が心中譬て云ん方もなし。目くれ足もなへて、絶入る計に有けれども、泣々工藤殿が前に進出て、「是は右少弁殿の伺候の者にて候が、最後の様見奉候はん為に遥々と参候。 |
この人(俊基)には長年の願いがあり、法華経六百部を自ら読誦してきたが二百部残っていたところ、「せめて六百部達成までの命をお与えください。その後はどうなろうとも構いません」と切に懇願したので、「確かにその大願を果たさせないのは罪である」と思われ、僅かな日数を待って過ごしていたのだが(処刑延期となり)、彼の運命ほど哀れなものはなかった。この公家様(俊基)に長年仕えていた若侍で後藤左衛門尉助光という者がいた。主人・俊基が捕らわれた後、正室を伴って嵯峨の奥深く隠れ住んでいたのだが、俊基が関東へ連行されると聞き付け、正室が耐え切れず伏して嘆き悲しむ様子を見て、助光も胸が張り裂ける思いで密かに鎌倉へ下った。「処刑は今日明日のうち」と聞いたため「もう斬られてしまったか」と思いながら行く先々の人に事情を尋ねつつ早々に鎌倉着いた。俊基のいる辺りに宿を取り、何とか接触して詳しい事情を伝えようとしたが叶わず日を過ごしていると、「今日こそ都からの使者による処刑が行われる」という話があり「ああ哀れなことよ」と言う者もいて助光は肝をつぶした。周囲を見渡すと俊基は既に粗末な輿に乗せられて粧坂へ連行されていた。そこでは工藤二郎左衛門尉が引き取り、葛原岡で幕を張り皮敷物の上に座らせている様子だった。これを見た助光の心中は言葉にならないほどで、目眩いし足も動かず気絶しかけたが、泣く泣く工藤殿の前に進み出て「これは俊基様にお仕えしていた者でございます。最期のお姿を拝見しようと遥々参りました」。 解説
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| 可然は御免を蒙て御前に参り、北方の御文をも見参に入候はん。」と申もあへず、泪をはら/\と流ければ、工藤も見るに哀を催されて、不覚の泪せきあへず。「子細候まじ、早幕の内へ御参候へ。」とぞ許しける。助光幕の内に入て御前に跪く。俊基は助光を打見て、「いかにや。」と計宣て、軈て泪に咽び給ふ。助光も、「北方の御文にて候。」とて、御前に差置たる計にて、是も涙にくれて、顔をも持あげず泣居たり。良暫く有て、俊基涙を押拭ひ、文を見給へば、「消懸る露の身の置所なきに付ても、何なる暮にか、無世の別と承り候はんずらんと、心を摧く涙の程、御推量りも尚浅くなん。」と、詞に余て思の色深く、黒み過るまで書れたり。俊基いとゞ涙にくれて、読かね給へる気色、見人袖をぬらさぬは無りけり。「硯やある。」と宣へば、矢立を御前に指置ば、硯の中なる小刀にて鬢の髪を少し押切て、北方の文に巻そへ、引返し一筆書て助光が手に渡し給へば、助光懐に入て泣沈たる有様、理りにも過て哀也。工藤左衛門幕の内に入て、「余りに時の移り候。」と勧れば、俊基畳紙を取出し、頚の回り押拭ひ、其紙を推開て、辞世の頌を書給ふ。古来一句。無死無生。万里雲尽。長江水清。筆を閣て、鬢の髪を摩給ふ程こそあれ、太刀かげ後に光れば、頚は前に落けるを、自ら抱て伏給ふ。 |
助光が「どうかお許しください。主人のもとへ参り、正室(北方)からの手紙も見せていただきたいのです。」と言い終わらないうちに涙をぼろぼろ流したので、工藤もそれを見て哀れに思わず涙があふれた。「遠慮することはない。早く幕の中へ入りなさい」と許可した。助光が幕に入ってひざまずくと俊基は彼を見つめ「どうだったか?」と言うだけで声を詰まらせた。助光も「正室様からの手紙です」と差し出すだけでも泣きじゃくり顔さえ上げられなかった。しばらくして俊基が涙をぬぐい文面を見ると、「露のように儚い身の置き場所がないため、いつか永遠の別れを知る時が来ようとは思っても心は砕け涙が止まない」という言葉に余った深い思いが墨のにじむほど書かれていた。俊基はさらに泣き崩れて読み切れず見ている者全員も袖を濡らした。「硯があるか?」と尋ねると矢立が差し出されたので、中の小刀で自らの鬢の毛を少し切り取り正室の文に巻き付け裏面へ一筆書き添え助光に渡す。彼はそれを懐に入れ泣き崩れる様子は言葉では言い表せないほど哀れだった。工藤左衛門が幕内に入り「あまり時間を過ぎています」と促すので、俊基は畳紙を取り出し首筋をぬぐってその紙に辞世の句を書いた。「無死無生 万里雲尽く長江水清き」。筆を置いて髪をもむ間もなく刀光が後ろで輝くと頭部は前へ落ちた。俊基自らそれを抱えて伏した。 解説
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| 是を見奉る助光が心の中、謦て云ん方もなし。さて泣々死骸を葬し奉り、空き遺骨を頚に懸、形見の御文身に副て、泣々京へぞ上りける。北方は助光を待付て、弁殿の行末を聞ん事の喜しさに、人目も憚ず、簾より外に出迎ひ、「いかにや弁殿は、何比に御上可有との御返事ぞ。」と問給へば、助光はら/\と泪をこぼして、「はや斬れさせ給て候。是こそ今はのきはの御返事にて候へ。」とて、鬢の髪と消息とを差あげて声も惜まず泣ければ、北方は形見の文と白骨を見給て、内へも入給ず、縁に倒伏し、消入給ぬと驚く程に見へ給ふ。理なる哉、一樹の陰に宿り一河の流を汲む程も、知れず知らぬ人にだに、別れとなれば名残を惜習なるに、況や連理の契不浅して、十年余りに成ぬるに夢より外は又も相見ぬ、此世の外の別と聞て、絶入り悲み玉ふぞ理りなる。四十九日と申に形の如の仏事営て、北の方様をかへ、こき墨染に身をやつし、柴の扉の明くれは、亡夫の菩提をぞ訪ひ玉ける。助光も髻切て、永く高野山に閉篭て、偏に亡君の後生菩提をぞ訪奉ける。夫婦の契、君臣の儀、無跡迄も留て哀なりし事共也。 ○天下怪異事 嘉暦二年の春の比南都大乗院禅師房と六方の大衆と、確執の事有て合戦に及ぶ。金堂、講堂、南円堂、西金堂、忽に兵火の余煙に焼失す。 |
これを見た助光は心の中で言葉にならないほどの衝撃を受けた。泣く泣く俊基の遺体を葬り、骨壺(空き遺骨)を首にかけ形見の手紙を持って京へ帰った。正室(北方)は待ちわびており、「弁殿様はいつお戻りになるのですか?」と簾から飛び出して尋ねたところ、助光が涙を流し「もう斬られました」と言い鬢の毛と手紙を差し出す。正室はそれらを見ると縁側に倒れ込み意識不明状態となった。道理であろう——見知らぬ人との別れでさえ名残惜しいのに、まして十年も連理の契り(夫婦関係)を結んだ者同士が永遠の別れを知れば当然悲嘆するものだ。四十九日法要を行い後、正室は髪をおろし墨染めの衣で身をつつみ亡き夫の菩提を祈った。助光も髻(まげ)を切り高野山に籠り主人の冥福をひたすら願う。こうした夫婦と主従の絆が極めて哀れ深く描かれている。 さて天下怪異事として——嘉暦二年春、南都大乗院で禅師房(僧侶集団)と六方衆(寺務担当者)が争い合戦に発展。金堂・講堂・南円堂・西金堂らが炎上した。 解説
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| 又元弘元年、山門東塔の北谷より兵火出来て、四王院、延命院、大講堂、法華堂、常行堂、一時に灰燼と成ぬ。是等をこそ、天下の災難を兼て知する処の前相かと人皆魂を冷しけるに、同年の七月三日大地震有て、紀伊国千里浜の遠干潟、俄に陸地になる事二十余町也。又同七日の酉の刻に地震有て、富士の絶頂崩るゝ事数百丈也と。卜部の宿祢、大亀を焼て占ひ、陰陽の博士、占文を啓て見に、「国王位を易、大臣遭災。」とあり。「勘文の表不穏、尤御慎可有。」と密奏す。寺々の火災所々の地震只事に非ず。今や不思義出来と人々心を驚しける処に、果して其年の八月二十二日、東使両人三千余騎にて上洛すと聞へしかば、何事とは知ず京に又何なる事や有んずらんと、近国の軍勢我も我もと馳集る。京中何となく、以外に騒動す。両使已に京着して未文箱をも開ぬ先に、何とかして聞へけん。「今度東使の上洛は主上を遠国へ遷進せ、大塔宮を死罪に行奉ん為也。」と、山門に披露有ければ、八月二十四日の夜に入て、大塔宮より潛に御使を以て主上へ申させ玉ひけるは、「今度東使上洛の事内々承候へば、皇居を遠国へ遷奉り、尊雲を死罪に行ん為にて候なる。今夜急ぎ南都の方へ御忍び候べし。城郭未調、官軍馳参ぜざる先に、凶徒若皇居に寄来ば、御方防戦に利を失ひ候はんか。 |
さらに元弘元年(1331年)、比叡山東塔北谷から火災が発生し、四王院・延命院・大講堂・法華堂・常行堂が一瞬で灰となった。人々はこれらを天下の異変を知らせる前兆かと肝をつぶしたところに、同年7月3日の大地震で紀伊国千里浜の遠浅干潟が突然陸地化(約20町)。さらに同7日酉刻(午後6時頃)の地震では富士山頂が数百丈崩落。占い師たちは大亀を焼いて占い、陰陽道専門家も占文を開くと「国王位を易え、大臣災いに遭う」と記されていた。「この報告書は不穏当ゆえ、深くご自戒ください」と密かに奏上された。 寺院の火災や各地の地震が尋常でない中、「今や不思議な事態だ」と人々が動揺する矢先、その年8月22日、鎌倉幕府の使者(東使)二人が三千余騎を率いて上洛すると聞こえた。何事かと知らず京へ駆けつける近国の軍勢で都は不気味に騒然となる。両使者が到着し公文書箱すら開封しないうちから噂が流れ、「今回の東使上洛は天皇を遠国へ移し、大塔宮(護良親王)を死刑にするためだ」と比叡山で公表された。 これを受け8月24日夜、大塔宮が密かに使者を後醍醐天皇のもとに遣わして奏上させた。「東使上洛の真意は内々承りましたところ、御所を遠国へ移し、私(尊雲)を死刑にするためとのこと。今夜急ぎ南都(奈良)へお逃れください。防衛準備が整わず官軍も集まらぬうちに敵が皇居に迫れば、防御の利を失いましょう」 解説
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| 且は京都の敵を遮り止んが為、又は衆徒の心を見んが為に、近臣を一人、天子の号を許れて山門へ被上せ、臨幸の由を披露候はゞ、敵軍定て叡山に向て合戦を致し候はん歟。去程ならば衆徒吾山を思故に、防戦に身命を軽じ候べし。凶徒力疲れ合戦数日に及ばゞ、伊賀・伊勢・大和・河内の官軍を以て却て京都を被攻んに、凶徒の誅戮踵を回すべからず。国家の安危只此一挙に可有候也。」と被申たりける間、主上只あきれさせ玉へる計にて何の御沙汰にも及玉はず。尹大納言師賢・万里小路中納言藤房・同舎弟季房三四人上臥したるを御前に召れて、「此事如何可有。」と被仰出ければ、藤房卿進で被申けるは、「逆臣君を犯し奉らんとする時、暫其難を避て還て国家を保は、前蹤皆佳例にて候。所謂重耳は■に奔り、大王■に行く。共に王業をなして子孫無窮に光を栄し候き。兔角の御思案に及候はゞ、夜も深候なん。早御忍候へ。」とて、御車を差寄、三種の神器を乗奉り、下簾より出絹出して女房車の体に見せ、主上を扶乗進て、陽明門より成奉る。御門守護の武士共御車を押へて、「誰にて御渡り候ぞ。」と問申ければ、藤房・季房二人御車に随て供奉したりけるが、「是は中宮の夜に紛て北山殿へ行啓ならせ給ふぞ。」と宣たりければ、「さては子細候はじ。 |
「さらに京都市中にいる敵軍を阻止するため、また比叡山僧兵たち(衆徒)の忠誠心を試すために、側近の中から誰かを選び天皇として名乗らせる許可を与えて比叡山に行かせると宣言すれば、敵軍は必ず比叡山に向かい戦いを挑んでくるでしょう。そうなれば僧兵たちが我が山への思いから命を軽んじて防戦するはずです。悪党(鎌倉幕府側)の力が尽きて数日にわたる合戦となった際に、伊賀・伊勢・大和・河内の官軍を使って逆に京都を攻めれば、敵を討ち滅ぼすのに時間はかかりません。国の存亡はこの行動にかかっています。」と進言されたが、後醍醐天皇(主上)はただ茫然として何もおっしゃれない状態だった。そこで尹大納言師賢・万里小路中納言藤房・その弟季房ら三四人を御前に呼び寄せ、「この件についてどうすべきか」と尋ねられたところ、藤房卿が進み出て申し上げた。「逆臣が君主に危害を加えようとする時は一時的に難を避けて後に国を取り戻すのが歴史上の好例です。いわゆる重耳(中国春秋時代の晋の文公)は■へ逃れ、大王(周王朝の祖・太王亶父)は■に行きましたが、共に天下統一を成し遂げ子孫繁栄させました。あれこれご逡巡なさっていると夜も更けますぞ。早くお忍びでお出ましください。」そう言って御車(牛車)を用意すると、三種の神器を乗せ簾から絹布を垂らして女官用の車に見せかけ、天皇をお支えしながら乗り込ませ陽明門へ向かった。守衛武士たちが車を止め「どちら様で通行されるのか」と問うたところ、供奉していた藤房・季房兄弟は「これは中宮(皇后)が夜陰に紛れて北山殿(離宮)へ行啓なさるのだ」と言ったので、「それなら問題ございません」といった。 解説
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| 」とて御車をぞ通しける。兼て用意やしたりけん、源中納言具行・按察大納言公敏・六条少将忠顕、三条河原にて追付奉る。此より御車をば被止、怪げなる張輿に召替させ進せたれども、俄の事にて駕輿丁も無りければ、大膳大夫重康・楽人豊原兼秋・随身秦久武なんどぞ御輿をば舁奉りける。供奉の諸卿皆衣冠を解で折烏帽子に直垂を着し、七大寺詣する京家の青侍なんどの、女性を具足したる体に見せて、御輿の前後にぞ供奉したりける。古津石地蔵を過させ玉ひける時、夜は早若々と明にけり。此にて朝餉の供御を進め申て、先づ南都の東南院へ入せ玉ふ。彼僧正元より弐ろなき忠義を存ぜしかば、先づ臨幸なりたるをば披露せで衆徒の心を伺聞に、西室顕実僧正は関東の一族にて、権勢の門主たる間、皆其威にや恐れたりけん、与力する衆徒も無りけり。かくては南都の皇居叶まじとて、翌日二十六日、和束の鷲峯山へ入せ玉ふ。此は又余りに山深く里遠して、何事の計畧も叶まじき処なれば、要害に御陣を召るべしとて、同二十七日潛幸の儀式を引つくろひ、南都の衆徒少々召具せられて、笠置の石室へ臨幸なる。 ○師賢登山事付唐崎浜合戦事 尹大納言師賢卿は、主上の内裏を御出有し夜、三条河原迄被供奉たりしを、大塔宮より様々被仰つる子細あれば、臨幸由にて山門へ登り、衆徒の心をも伺ひ、又勢をも付て合戦を致せと被仰ければ、師賢法勝寺の前より、袞竜の御衣を着て、腰輿に乗替て山門の西塔院へ登玉ふ。 |
こうして牛車を通したところ、事前に準備していたのだろう、源具行中納言・按察公敏大納言・六条忠顕少将が三条河原で追いついた。ここから牛車を止めさせて不審な粗末な駕籠(張輿)に乗り換えようとしたが、突然のことで担ぎ手もいなかったため、大膳大夫重康・楽人の豊原兼秋・随身の秦久武らが自ら駕籠を担いだ。供奉する公卿たちは皆、衣冠装束を脱いで折烏帽子に直垂姿となり、「七大寺詣での京家武者集団(青侍)が女性連れに見えるよう」と偽装し、駕籠の前後に付き従った。古津石地蔵を通り過ぎた時には夜もすっかり明けていた。ここで朝食を差し上げてからまず南都(奈良)の東南院に入られた。 そこの僧正は元々揺るぎない忠義心を持っていたため、天皇到着を公表せずに僧兵たち(衆徒)の反応を見ていたところ、西室顕実僧正が関東一族で権力ある門主であったので皆その威勢におびえたのか、協力する者はいなかった。これでは南都での朝廷維持は不可能と判断し翌8月26日、和束(京都府)の鷲峯山へ移動された。しかしここもあまりに山深く人里離れているため作戦行動が困難な場所だったので、「要害の地で陣を張るべきだ」として同27日に密かに行幸準備を整え、南都僧兵数名を伴って笠置山(京都)の石窟へ向かわれた。 (続いて)師賢が山へ登ったことと唐崎浜での戦いについて 解説
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| 四条中納言隆資・二条中将為明・中院左中将貞平、皆衣冠正して、供奉の体に相順ふ。事の儀式誠敷ぞ見へたりける。西塔の釈迦堂を皇居と被成、主上山門を御憑有て臨幸成たる由披露有ければ、山上・坂本は申に及ばず、大津・松本・戸津・比叡辻・仰木・絹河・和仁・堅田の者迄も、我前にと馳参。其勢東西両塔に充満して、雲霞の如にぞ見へたりける。懸りけれども、六波羅には未曾是を知らず。夜明ければ東使両人内裏へ参て、先づ行幸を六波羅へ成奉んとて打立ける処に、浄林房阿闍梨豪誉が許より、六波羅へ使者を立て、「今夜の寅の刻に、主上山門を御憑有て臨幸成りたる間、三千の衆徒悉く馳参り候。近江・越前の御勢を待て、明日は六波羅へ被寄べき由評定あり。事の大に成り候はぬ先に、急ぎ東坂本へ御勢を被向候へ。豪誉後攻仕て、主上をば取奉るべし。」とぞ申たりける。両六波羅大に驚て先内裡へ参て見奉るに、主上は御坐無て、只局町女房達此彼にさしつどひて、鳴声のみぞしたりける。「さては山門へ落させ玉たる事子細なし。勢つかぬ前に山門を攻よ。」とて、四十八箇所の篝に畿内五箇国の勢を差添て、五千余騎追手の寄手として、赤山の麓、下松の辺へ指向らる。搦手へは佐々木三郎判官時信・海東左近将監・長井丹後守宗衡・筑後前司貞知・波多野上野前司宣道・常陸前司時朝に、美濃・尾張・丹波・但馬の勢をさしそへて七千余騎、大津、松本を経て、唐崎の松の辺まで寄懸たり。 |
四条中納言藤原隆資・二条中将源為明・中院左中将平貞平は皆、礼服姿を整えて供奉する態勢に従った。その儀式作法が非常に厳粛に見えた。西塔の釈迦堂を行宮と定め、「天皇が比叡山を頼りに行幸された」と発表すると、山上や坂本だけでなく大津・松本・戸津・比叡辻・仰木・絹河・和仁・堅田の人々までも我先にと駆け付け、その軍勢は東西両塔に充満して雲霞のように見えた。 しかし六波羅側は当初これを知らなかった。夜明けと共に東使二人が御所へ向かったところ、浄林房阿闍梨豪誉から「今夜未明に天皇が比叡山へ行幸され三千の僧兵が集結した。近江・越前勢を待って明日六波羅攻撃を計画中だ」との急報が届く。両六波羅は大慌てで御所確認すると天皇不在で女房達が泣き騒いでいるだけ。「山門(比叡山)へ脱出されたのは間違いない。軍勢揃う前に攻めよ!」と指令し、48箇所の篝火を合図に畿内五カ国から五千余騎を赤山麓・下松方面へ差し向けた。 一方包囲部隊には佐々木時信・海東左近将監らが美濃・尾張など七千余騎を率い、大津~唐崎の松原まで進軍した。 解説
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| 坂本には兼てより相図を指たる事なれば、妙法院・大塔宮両門主、宵より八王子へ御上あて、御旗を被揚たるに、御門徒の護正院の僧都祐全・妙光坊の阿闍梨玄尊を始として、三百騎五百騎此彼より馳参りける程に、一夜の間に御勢六千余騎に成にけり。天台座主を始て解脱同相の御衣を脱給て、堅甲利兵の御貌に替る。垂跡和光の砌り忽に変て、勇士守禦の場と成ぬれば、神慮も何が有らんと計り難ぞ覚たる。去程に、六波羅勢已に戸津の宿辺まで寄たりと坂本の内騒動しければ、南岸円宗院・中坊勝行房・早雄の同宿共、取物も取あへず唐崎の浜へ出合げる。其勢皆かち立にて而も三百人には過ざりけり。海東是を見て、「敵は小勢也けるぞ、後陣の勢の重ならぬ前に懸散さでは叶まじ。つゞけや者共。」と云侭に、三尺四寸の太刀を抜て、鎧の射向の袖をさしかざし、敵のうず巻て扣へたる真中へ懸入、敵三人切ふせ、波打際に扣へて続く御方をぞ待たりける。岡本房の幡磨竪者快実遥に是を見て、前につき双たる持楯一帖岸破と蹈倒し、に尺八寸の小長刀水車に回して躍り懸る。海東是を弓手にうけ、胄の鉢を真二に打破んと、隻手打に打けるが、打外して、袖の冠板より菱縫の板まで、片筋かいに懸ず切て落す。二の太刀を余りに強く切んとて弓手の鐙を踏をり、已に馬より落んとしけるが、乗直りける処を、快実長刀の柄を取延、内甲へ鋒き上に、二つ三つすき間もなく入たりけるに、海東あやまたず喉ぶゑを突れて馬より真倒に落にけり。 |
坂本では事前に合図を決めていたため、妙法院門主と大塔宮(護良親王)が夜明け前に八王子社へ登り御旗を掲げたところ、徒党の護正院僧都祐全や妙光坊阿闍梨玄尊らを先頭に三百騎・五百騎が次々と駆け付け、一夜で六千余騎もの軍勢となった。天台座主はじめ高位僧侶たちは法衣を脱ぎ捨て甲冑姿となり、「神仏降臨の聖地(垂跡和光)が突如として勇士防衛の場に変じた」様子は、神意すら測り難いほどであった。 その頃六波羅勢が戸津宿付近まで迫ったとの報で坂本内が騒然となると、南岸円宗院の中坊勝行房と早雄同宿の者たちが武器も満足に取れぬまま唐崎浜へ飛び出した。彼らは徒歩兵ばかり三百人にも満たない小勢だった。これを見た海東左近将監は「敵は少数だ!本隊到着前に蹴散らせ!」と叫び三尺四寸の大太刀を抜くと、鎧袖で顔を覆いながら敵陣中央へ突入し三人斬り伏せ、波打ち際に構えて味方を待った。 これを見た岡本房配下の幡磨竪者(従卒)快実は遠くから駆け寄り、前方の盾持ち兵を片足で蹴倒すと五尺八寸(約1.75m)の薙刀を風車のように回し飛びかかった。海東が左側面から兜鉢目掛けて一撃を加えたが外れ、袖甲板から菱縫板まで真っ二つに斬り落とされる。追撃しようとして強く鐙を踏み過ぎ馬から転落しかけた瞬間、快実は薙刀の柄を伸ばし喉仏(頸動脈)を正確に突き刺したため、海東は無念にも真っ逆様に落馬して絶命した。 解説
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| 快実軈て海東が上巻に乗懸り、鬢の髪を掴で引懸て、頚かき切て長刀に貫き、武家の太将一人討取りたり、物始よし、と悦で、あざ笑てぞ立たりける。爰に何者とは知ず見物衆の中より、年十五六計なる小児の髪唐輪に上たるが、麹塵の筒丸に、大口のそば高く取り、金作の小太刀を抜て快実に走懸り、甲の鉢をしたゝかに三打四打ぞ打たりける。快実屹と振帰て是を見るに、齢二八計なる小児の、大眉に鉄漿黒也。是程の小児を討留たらんは、法師の身に取ては情無し。打たじとすれば、走懸々々手繁く切回りける間、よし/\さらば長刀の柄にて太刀を打落て、組止めんとしける処を、比叡辻の者共が田の畔に立渡て射ける横矢に、此児胸板をつと被射抜て、矢庭に伏て死にけり。後に誰ぞと尋れば、海東が嫡子幸若丸と云ける小児、父が留置けるに依て軍の伴をばせざりけるが、猶も覚束なくや思けん、見物衆に紛て跡に付て来ける也。幸若稚しと云へ共武士の家に生たる故にや、父が討れけるを見て、同く戦場に打死して名を残けるこそ哀なれ。海東が郎等是を見て、「二人の主を目の前に討せ、剰へ頚を敵に取せて、生て帰る者や可有。」とて、三十六騎の者共轡を双て懸入、主の死骸を枕にして討死せんと相争ふ。快実是を見てから/\と打笑て、「心得ぬ物哉。 |
快実はすぐに海東左近将監の首級へ飛び乗り、もみあげをつかんで引き寄せると喉を掻き切り薙刀に突き刺し、「敵大将一人討ち取った!初戦として上出来だ」と嘲笑いながら立っていた。その時、見物人の中から十五歳ほどの少年が現れた。髪は唐輪(子供の結び)でまとめ、薄緑色の筒袖を着て袴の裾を高く上げ、金装飾の小太刀を抜いて快実に襲いかかり、兜の頂部を激しく三度四度と打ちつけた。 快実が振り返るとそれは十六歳ほどの少年で、眉は濃く鉄漿(お歯黒)をつけていた。「これほど幼い者を殺すのは僧侶として忍びない」と思ったため手出しせずにいたが、少年が執拗に斬りかかるので、「よし、薙刀の柄で太刀を打ち落とし組み伏せよう」とした瞬間、比叡辻(地名)の者たちが田んぼの畦から放った横矢が少年の胸板を貫き、その場に倒れて絶命した。 後で調べるとそれは海東左近将監の嫡子・幸若丸という少年だった。父に戦参加を禁じられていたが心配で見物人に紛れて付いて来たらしい。「幼いとはいえ武士家の生まれだからか、父の討死を見て共に戦場で名を残すのは哀れだ」と記されている。 これを見た海東家臣三十六騎は「二人の主君を眼前で殺させ首まで奪われ生きて帰れるか!」と叫び、手綱を揃えて突入し主人遺骸を枕に討ち死にする覚悟を示す。快実は彼らを見て高笑いしながら「何たる未熟者よ」と言った。 解説
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| 御辺達は敵の首をこそ取らんずるに、御方の首をほしがるは武家自滅の瑞相顕れたり。ほしからば、すは取らせん。」と云侭に、持たる海東が首を敵の中へがはと投懸、坂本様の拝み切、八方を払て火を散す。三十六騎の者共、快実一人に被切立て、馬の足をぞ立かねたる。佐々木三郎判官時信後に引へて、「御方討すな、つゞけや。」と下知しければ、伊庭・目賀多・木村・馬淵、三百余騎呼て懸る。快実既に討れぬと見へける処に、桂林房の悪讚岐・中房の小相摸・勝行房の侍従竪者定快・金蓮房の伯耆直源、四人左右より渡合て、鋒を指合て切て回る。讚岐と直源と同じ処にて打れにければ、後陣の衆徒五十余人連て又討て懸る。唐崎の浜と申は東は湖にて、其汀崩たり。西は深田にて馬の足も立ず、平沙渺々として道せばし。後へ取まはさんとするも叶ず、中に取篭んとするも叶ず。されば衆徒も寄手も互に面に立たる者計戦て、後陣の勢はいたづらに見物してぞ磬へたる。已に唐崎に軍始りたりと聞へければ、御門徒の勢三千余騎、白井の前を今路へ向ふ。本院の衆徒七千余人、三宮林を下降る。和仁・堅田の者共は、小舟三百余艘に取乗て、敵の後を遮んと、大津をさして漕回す。六波羅勢是を見て、叶はじとや思けん、志賀の炎魔堂の前を横切に、今路に懸て引帰す。 |
快実は高笑いしながら続けた。「お前たちは敵の首級ではなく味方(海東)の遺骸ばかり欲しがっている。これは武家自滅の兆候だな!どうしてもほしいならくれてやろう」と言うと、手にしていた海東の首を敵陣めがけて投げつけ、「坂本流拝み斬り」(薙刀術)で八方向へ火炎のような切り払いを見せた。三十六騎は快実一人に次々と斬り倒され、馬も立ちすくむ状態となった。 後方の佐々木三郎判官時信が「味方を討つな!突撃せよ!」と命令すると、伊庭・目賀多・木村・馬淵ら三百騎余りが攻めかかる。快実は窮地に陥ったかに見えたその時、桂林房の悪讃岐・中房の小相模・勝行房配下の侍従竪者定快・金蓮房の伯耆直源という四人が左右から駆けつけ、槍先を揃えて切り込んだ。讃岐と直源が同じ場所で戦死すると、後詰めの僧兵五十余人も突入した。 唐崎浜は東が琵琶湖で岸辺は崩れやすく、西は深田で馬足が立たず、広い砂浜には逃げ場がない。撤退も包囲も不可能な地形ゆえ、両軍とも真正面から相対する者同士だけが戦い、後続部隊は無為に見物している状態だった。 この合戦開始の報を受けた御門徒勢三千騎余りは白井方面へ、本院僧兵七千人は三宮林を下った。和仁・堅田衆は小船三百隻で大津沖に回り込み敵の退路を断とうとする。六波羅軍はこれを察し「もはや無理」と判断、志賀炎魔堂前を横切り京街道へ撤退した。 解説
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| 衆徒は案内者なれば、此彼の逼々に落合て散々に射る。武士は皆無案内なれば、堀峪とも云ず馬を馳倒して引かねける間、後陣に引ける海東が若党八騎・波多野が郎等十三騎・真野入道父子二人・平井九郎主従二騎谷底にして討れにけり。佐々木判官も馬を射させて乗がへを待程に、大敵左右より取巻て既に討れぬとみへけるを、名を惜み命を軽んずる若党共、帰合々々所々にて討死しける其間に、万死を出て一生に合ひ、白昼に京へ引帰す。此比迄は天下久静にして、軍と云事は敢て耳にも触ざりしに、俄なる不思議出来ぬれば、人皆あはて騒で、天地も只今打返す様に、沙汰せぬ処も無りけり。 ○持明院殿御幸六波羅事 世上乱たる時節なれば、野心の者共の取進する事もやとて、昨日二十七日の巳刻に、持明院本院・春宮両御所、六条殿より、六波羅の北方へ御幸なる。供奉の人人には、今出川前右大臣兼季公・三条大納言通顕・西園寺大納言公宗・日野前中納言資名・防城宰相経顕・日野宰相資明、皆衣冠にて御車の前後に相順ふ。其外の北面・諸司・格勤は、大略狩衣の下に腹巻を着映したるもあり。洛中須臾に反化して、六軍翠花を警固し奉る。見聞耳目を驚かせり。 ○主上臨幸依非実事山門変儀事付紀信事 山門の大衆唐崎の合戦に打勝て、事始よしと喜合る事斜ならず。 |
僧兵たちは土地勘があるので至る所で待ち伏せし、激しく矢を射かけた。武士側は地理に不慣れなため、堀や谷とわきまえず馬ごと転倒して撤退できなかった結果、後陣の海東左近将監の若党8騎・波多野氏家臣13騎・真野入道親子2人・平井九郎主従2騎が谷底で討ち死にした。 佐々木三郎判官時信も馬を射抜かれて乗り換えようとした隙に、大軍に包囲され絶体絶命に見えたが、名誉を重んじ生死を軽視する若党たちが各所で戦って犠牲となったおかげで、九死に一生を得て白昼の京都へ帰還した。 これまで天下は平穏で「合戦」という言葉さえ聞かれなかったのに、突然の異変が起きたため人々は慌てふためき、天地がひっくり返ったかのような騒ぎとなった。 ○持明院殿の六波羅行幸について ○天皇行幸問題と山門反乱について 解説
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| 爰に西塔を皇居に被定る条、本院面目無に似り。寿永の古へ、後白川院山門を御憑有し時も、先横川へ御登山有しか共、軈て東塔の南谷、円融坊へこそ御移有しか。且は先蹤也、且は吉例也。早く臨幸を本院へ可成奉と、西塔院へ触送る。西塔の衆徒理にをれて、仙蹕を促ん為に皇居に参列す。折節深山をろし烈して、御簾を吹上たるより、竜顔を拝し奉たれば、主上にてはをわしまさず、尹大納言師賢の、天子の袞衣を着し給へるにてぞ有ける。大衆是を見て、「こは何なる天狗の所行ぞや。」と興をさます。其後よりは、参る大衆一人もなし。角ては山門何なる野心をか存ぜんずらんと学へければ、其夜の夜半計に、尹大納言師賢・四条中納言隆資・二条中将為明、忍で山門を落て笠置の石室へ被参る。去程に上林房阿闍梨豪誉は、元来武家へ心を寄しかば、大塔宮の執事、安居院の中納言法印澄俊を生捕て六波羅へ是を出す。護正院僧都猷全は、御門徒の中の大名にて八王子の一の木戸を堅たりしかば、角ては叶じとや思けん、同宿手の者引つれて、六波羅へ降参す。是を始として、独り落二人落、々行ける間、今は光林房律師源存・妙光房の小相摸・中坊の悪律師、三四人より外は落止る衆徒も無りけり。妙法院と大塔宮とは、其夜迄尚八王子に御坐ありけるが、角ては悪りぬべしと、一まども落延て、君の御行末をも承らばやと思召れければ、二十九日の夜半計に、八王子に篝火をあまた所に焼て、未大勢篭たる由を見せ、戸津浜より小舟に召れ、落止る所の衆徒三百人計を被召具て、先石山へ落させ給ふ。 |
ここで西塔が皇居と定められた件について、本院(持明院派)は面目を失った形となった。(歴史的先例として)寿永年間に後白川上皇が比叡山へ避難された際も最初横川に入られ、すぐ東塔南谷の円融坊へ移られた。これは先例であり吉例でもある。「早急に行幸は本院で行うべきだ」と西塔院へ通告したところ、西塔僧徒は無理を押し通そうとして天子(天皇)に謁見しようとした。 折しも深山から吹き荒れる烈風が御簾を持ち上げたため、龍顔(天皇の顔)を拝すると、本物の主上ではなく尹大納言師賢が天子の礼服「袞衣」を着ているのが判明した。僧兵たちはこれを見て「これは何たる天狗の所業か!」と興ざめし、以降参列する者は一人もいなくなった。 このため山門側に野心ありと推測されるところとなり、その夜半には尹大納言師賢・四条中納言隆資・二条中将為明が密かに比叡山を脱出して笠置の隠れ家へ向かった。一方で上林房阿闍梨豪誉は元々武家(六波羅探題)寄りだったため、大塔宮の執事である安居院中納言法印澄俊を生け捕りにし六波羅へ引き渡した。護正院僧都猷全も八王子城で防衛していたが「もはやかなわぬ」と判断、配下を連れて六波羅へ投降した。 これを皮切りに脱落者が相次ぎ、最終的に光林房律師源存・妙光房の小相模・中坊の悪律師ら三四人以外は残留しなかった。妙法院門主と大塔宮(護良親王)は当夜まで八王子城に滞在していたが「危険と判断」され、君主の行く末を確認しようと考えられたため、二十九日深夜に城内各所で多数の篝火を焚いてまだ大軍が籠城しているように偽装し、戸津浜から小舟で脱出。残留僧兵約三百人を伴いまず石山寺へ向かわれた。 解説
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| 此にて両門主一所へ落させ給はん事は、計略遠からぬに似たる上、妙法院は御行歩もかひ/゛\しからねば、只暫此辺に御座有べしとて、石山より二人引別させ給て、妙法院は笠置へ超させ給へば、大塔宮は十津河の奥へと志て、先南都の方へぞ落させ給ける。さしもやごとなき一山の貫首の位を捨て、未習せ給はぬ万里漂泊の旅に浮れさせ給へば、医王山王の結縁も是や限りと名残惜く、竹園連枝の再会も今は何をか可期と、御心細被思召ければ、互に隔たる御影の隠るゝまでに顧て、泣々東西へ別させ給ふ、御心の中こそ悲けれ。抑今度主上、誠に山門へ臨幸不成に依て、衆徒の意忽に変ずること、一旦事ならずと云へ共、倩事の様を案るに、是叡智の不浅る処に出たり。昔強秦亡て後、楚の項羽と漢高祖と国を争事八箇年、軍を挑事七十余箇度也。其戦の度毎に、項羽常に勝に乗て、高祖甚苦める事多し。或時高祖■陽城に篭る。項羽兵を以て城を囲事数百重也。日を経て城中に粮尽て兵疲れければ、高祖戦んとするに力なく、遁んとするに道なし。此に高祖の臣に紀信と云ける兵、高祖に向て申けるは、「項羽今城を囲ぬる事数百重、漢已に食尽て士卒又疲たり。若兵を出して戦はゞ、漢必楚の為に擒とならん。只敵を欺て潛に城を逃出んにはしかじ。 |
こうして両門主が同じ場所へ落ち延びようとすることは、策略として見透かされやすい上に、妙法院門主は歩行も困難な状態であったため、「まずしばらくこの辺りに留まられるのがよい」ということで石山から二人を別れさせられた。妙法院門主が笠置へ向かわれる一方、大塔宮(護良親王)は十津川の奥地を目指して先に南都(奈良)方面へ移動された。 これほど尊い比叡山の貫首の地位を捨て、未経験の流浪の旅に身を投じられることとなったため、「医王権現や日吉大社との縁もここまでか」と名残惜しく、「竹園(延暦寺)の同門僧たちとの再会も今は期待できない」と思い悩まれた。お互いに姿が見えなくなるまで振り返りながら、涙を流して東西へ別れられた心中は実に悲しいものであった。 さて今回、主上(後醍醐天皇)が比叡山への行幸を果たせなかったために僧兵たちの心変わりが起きたことは一見失敗のように思えるが、よく事態を分析するとこれは深い知恵から出た策であった。昔、強秦が滅びた後、楚の項羽と漢の高祖(劉邦)が天下を争った八年間において戦いは七十回以上に及んだ。その都度、項羽は勝利に乗じて攻め、高祖は苦しい立場に立つことが多かった。ある時高祖が滎陽城に籠城すると、項羽は数百重にも及ぶ兵で包囲した。日が経つうちに城内の食糧は尽き兵士も疲弊し、高祖は戦う力も脱出する道もない状態となった。この時、高祖の臣下である紀信という武将が申し上げたことには、「項羽が今数百重にも城を包囲している中で漢軍は食糧切れで兵士も疲弊しています。もし戦いに出れば必ず楚(項羽)軍の捕虜となるでしょう」と。 解説
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| 願くは臣今漢王の諱を犯して楚の陣に降せん。楚此に囲を解て臣を得ば、漢王速に城を出て重て大軍を起し、却て楚を亡し給へ。」と申ければ、紀信が忽に楚に降て殺れん事悲しけれ共、高祖社稷の為に身を軽くすべきに非ざれば、力無く涙ををさへ、別を慕ながら紀信が謀に随給ふ。紀信大に悦で、自漢王の御衣を着し、黄屋の車に乗り、左纛をつけて、「高祖罪を謝して、楚の大王に降す。」と呼て、城の東門より出たりけり。楚の兵是を聞て、四面の囲を解て一所に集る。軍勢皆万歳を唱。此間に高祖三十余騎を従へて、城の西門より出て成皐へぞ落給ける。夜明て後楚に降る漢王を見れば、高祖には非ず。其臣に紀信と云者なりけり。項羽大に忿て、遂に紀信を指殺す。高祖頓て成皐の兵を率して、却て項羽を攻む。項羽が勢尽て後遂に烏江にして討れしかば、高祖長く漢の王業を起して天下の主と成にけり。今主上も懸し佳例を思召、師賢も加様の忠節を被存けるにや。彼は敵の囲を解せん為に偽り、是は敵の兵を遮らん為に謀れり。和漢時異れども、君臣体を合たる、誠に千載一遇の忠貞、頃刻変化の智謀也。 |
「どうか私(紀信)が今、漢王の名を騙って楚軍に降伏します。もしこれによって敵が包囲を解いて私を得ようとしたら、漢王は速やかに城から脱出し再び大軍を起こして逆に楚を滅ぼしてください」と申し上げた。紀信が突然楚へ下り殺されるのは悲しいことだが、高祖(劉邦)にとって国家のために軽率に命を落としてはいけないため、泣くことも抑えながら別れを惜しんで紀信の策略に従われた。 紀信は大いに喜び、自ら漢王の衣装を着て皇帝専用の黄色い屋根の車(黄屋車)に乗り、左纛をつけて「高祖が罪を謝して楚大王へ降伏する」と叫びながら城の東門から出た。楚兵はこれを聞き包囲網を解いて一箇所に集結し、全軍で万歳を唱えた。その隙に高祖(劉邦)は三十騎余りを従えて西門から抜け出て成皐へ落ち延びられた。 夜明け後、「降伏した漢王」を見るとそれは高祖ではなく臣下の紀信であったため、項羽は激怒して直ちに彼を斬殺した。高祖(劉邦)はすぐさま成皐の兵を率いて逆襲し、項羽が勢い尽きて烏江で討たれたことで漢王朝を興し天下の主となったのである。 現在の天皇陛下もこの好例をお考えになり、師賢(南朝側近臣?)も同様の忠節を持っておられたであろうか。あちらでは敵包囲解除のために偽装降伏し、こちらでは敵兵を遮断するための謀略を用いた。時代背景は異なるが君主と臣下の心が一つとなる点で、まさに千年に一度の忠誠心であり瞬間的な機転を示す知恵である。 解説
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| input text 太平記\003_太平記_巻3.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第三 ○主上御夢事付楠事 元弘元年八月二十七日、主上笠置へ臨幸成て本堂を皇居となさる。始一両日の程は武威に恐れて、参り任る人独も無りけるが、叡山東坂本の合戦に、六波羅勢打負ぬと聞へければ、当寺の衆徒を始て、近国の兵共此彼より馳参る。されども未名ある武士、手勢百騎とも二百騎とも、打せたる大名は一人も不参。此勢許にては、皇居の警固如何有べからんと、主上思食煩はせ給て、少し御まどろみ有ける御夢に、所は紫宸殿の庭前と覚へたる地に、大なる常盤木あり。緑の陰茂て、南へ指たる枝殊に栄へ蔓れり。其下に三公百官位に依て列坐す。南へ向たる上座に御坐の畳を高く敷、未坐したる人はなし。主上御夢心地に、「誰を設けん為の座席やらん。」と怪しく思食て、立せ給ひたる処に、鬟結たる童子二人忽然として来て、主上の御前に跪き、涙を袖に掛て、「一天下の間に、暫も御身を可被隠所なし。但しあの樹の陰に南へ向へる座席あり。是御為に設たる玉■にて候へば、暫く此に御座候へ。」と申て、童子は遥の天に上り去ぬと御覧じて、御夢はやがて覚にけり。主上是は天の朕に告る所の夢也と思食て、文字に付て御料簡あるに、木に南と書たるは楠と云字也。其陰に南に向ふて坐せよと、二人の童子の教へつるは、朕再び南面の徳を治て、天下の士を朝せしめんずる処を、日光月光の被示けるよと、自ら御夢を被合て、憑敷こそ被思食けれ。 |
元弘元年(1331年)8月27日、天皇陛下が笠置山に行幸され本堂を皇居と定められた。当初一両日の間は武力を恐れて参上する者もなかったが、比叡山東坂本の戦いで六波羅勢が敗れたとの報せが届くと、当寺(笠置寺)の僧兵たちから始まり近国の武士たちが続々と馳せ参じた。しかし有名な武士や百騎・二百騎もの手勢を率いた大名は一人も現れなかった。「この兵力では皇居警護に不安がある」と天皇陛下が憂慮されている中、まどろみの夢で紫宸殿の庭前に大きな常緑樹(楠か)があり、南に向けた枝が特に繁茂している光景を見られる。その木陰には公卿百官が列座し、南向きの上座に高く畳が敷かれているが誰も着席していない。「これは誰のために設けた席か」と不思議に思われ立たれると、髷を結った童子二人が突然現れて涙ながらに奏上した:「天下の中には陛下のお隠れになれる場所はありません。ただしあの木陰の南向きの座席(=楠)こそ玉座ですからどうかお座りください」。言い終えると天へ昇っていく夢を見られ目を覚ました。 天皇陛下は「これは天からの啓示だ」と考え文字解釈されると、「木+南=楠」という字に気付かれ、童子の教え(樹陰で南向きに座せよ)は「朕が再び帝位について天下を治めることを日月の神が示したのだ」と深く確信されたのであった。 解説
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| 夜明ければ当寺の衆徒、成就房律師を被召、「若此辺に楠と被云武士や有。」と、御尋有ければ、「近き傍りに、左様の名字付たる者ありとも、未承及候。河内国金剛山の西にこそ、楠多門兵衛正成とて、弓矢取て名を得たる者は候なれ。是は敏達天王四代の孫、井手左大臣橘諸兄公の後胤たりと云へども、民間に下て年久し。其母若かりし時、志貴の毘沙門に百日詣て、夢想を感じて設たる子にて候とて、稚名を多門とは申候也。」とぞ答へ申ける。主上、さては今夜の夢の告是也と思食て、「頓て是を召せ。」と被仰下ければ、藤房卿勅を奉て、急ぎ楠正成をぞ被召ける。勅使宣旨を帯して、楠が館へ行向て、事の子細を演られければ、正成弓矢取る身の面目、何事か是に過んと思ければ、是非の思案にも不及、先忍て笠置へぞ参ける。主上万里小路中納言藤房卿を以て被仰けるは、「東夷征罰の事、正成を被憑思食子細有て、勅使を被立処に、時刻を不移馳参る条、叡感不浅処也。抑天下草創の事、如何なる謀を廻してか、勝事を一時に決して太平を四海に可被致、所存を不残可申。」と勅定有ければ、正成畏て申けるは、「東夷近日の大逆、只天の譴を招候上は、衰乱の弊へに乗て天誅を被致に、何の子細か候べき。但天下草創の功は、武略と智謀とに二にて候。 |
朝になると笠置寺の僧兵たちが成就房律師を呼び出し、天皇陛下から「この辺りに楠という名の武士はいるか」と尋ねられ、「近くにはそのような姓の者は聞いたことがありません。ただ河内国金剛山の西に楠多門兵衛正成(くすのきたもんべえまさしげ)といい、弓術で名声を得た者がおります。彼は敏達天皇から四代目の子孫である井手左大臣・橘諸兄公(たちばなのもろえこう)の末裔と伝わっていますが、民間に下って長く年を経ています。母が若い時に志貴山毘沙門堂へ百日参詣し、夢のお告げを受けて生んだ子で、幼名を多門(毘沙門天の別称)と言います」と答えた。 天皇陛下は「では昨夜の夢のお告げはこれだ」と思われ、「すぐに彼を召せ」と命じられた。藤房卿が勅使として急ぎ楠正成のもとへ赴き、事情を説明すると、正成は武士として面目にかけてもこの上ない名誉と考え、ためらうことなく密かに笠置山へ参上した。 天皇陛下は万里小路中納言・藤房卿を通じて仰せになった:「東国(幕府勢力)征伐の件についてあなたを頼りに思っていたところ、勅使を立てるとすぐに駆けつけたことは誠に霊感あらたかである。そもそも天下創始にあたり、どのような策を用いて勝利を得て四海に太平をもたらすべきか? 遠慮なく意見を述べよ」。これに対し正成は畏まって申し上げた:「東国の者どもの謀反は天罰を招く所業ゆえ、彼らの衰退と混乱の隙をついて討伐するほどのことはありません。ただ天下創始の功績とは武略(軍事力)と智謀(策略)の二つに尽きます」。 解説
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| 若勢を合て戦はゞ、六十余州の兵を集て武蔵相摸の両国に対すとも、勝事を得がたし。若謀を以て争はゞ、東夷の武力只利を摧き、堅を破る内を不出。是欺くに安して、怖るゝに足ぬ所也。合戦の習にて候へば、一旦の勝負をば必しも不可被御覧。正成一人未だ生て有と被聞召候はゞ、聖運遂に可被開と被思食候へ。」と、頼しげに申て、正成は河内へ帰にけり。 ○笠置軍事付陶山小見山夜討事 去程に主上笠置に御坐有て、近国の官軍付随奉る由、京都へ聞へければ、山門の大衆又力を得て、六波羅へ寄る事もや有んずらんとて、佐々木判官時信に、近江一国の勢を相副て大津へ被向。是も猶小勢にて叶ふまじき由を申ければ、重て丹波国の住人、久下・長沢の一族等を差副て八百余騎、大津東西の宿に陣を取る。九月一日六波羅の両■断、糟谷三郎宗秋・隅田次郎左衛門、五百余騎にて宇治の平等院へ打出で、軍勢の着到を着るに、催促をも不待、諸国の軍勢夜昼引も不切馳集て十万余騎に及べり。既に明日二日巳刻に押寄て、矢合可有と定めたりける其前の日、高橋又四郎抜懸して、独り高名に備へんとや思けん、纔に一族の勢三百余騎を率して、笠置の麓へぞ寄たりける。城に篭る所の官軍は、さまで大勢ならずと云へども、勇気未怠、天下の機を呑で、回天の力を出さんと思へる者共なれば、纔の小勢を見て、なじかは打て懸らざらん。 |
もし兵力を集めて正面戦闘を行えば、六十余州の兵を動員して武蔵・相模両国に対抗しても勝利は難しい。しかし策略を用いるならば、東国の勢力(幕府軍)は単に力で敵を押し潰すことしかできず、彼らの弱点を見抜けば騙すのは容易であり恐れる必要はない。合戦の常道として一時的な勝敗こだわらず、私が生きている限り朝廷の命運は必ず開けると信じていただければ」と頼もしく述べ、正成は河内へ帰還した。 さて天皇陛下が笠置山に籠城され近国の官軍が続々集結しているとの報せが京都に届くと、比叡山の僧兵たちが勢いづき六波羅攻撃を企てかねないと危惧された。このため佐々木判官時信(京極道誉)に近江国の兵力をつけて大津へ派遣したものの、なお兵力不足との判断から丹波国住人の久下・長沢一族らを加えた八百余騎が大津東西に布陣した。 9月1日、六波羅探題側は糟谷三郎宗秋と隅田次郎左衛門率いる五百余騎で宇治平等院に出撃。彼らが諸国へ召集令を発すると昼夜兼行で駆けつけた兵は十万余騎に膨れ上がった。すでに翌2日巳刻(午前10時)の総攻撃が決まっていた前日、高橋又四郎が単独功名を狙い一族三百余騎だけを率いて笠置山麓へ突出した。城に籠る官軍は大勢力ではないものの士気旺盛で天下挽回を志す者ばかりであるから、この寡兵を見逃すはずもなかった。 解説
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| 其勢三千余騎、木津河の辺にをり合て、高橋が勢を取篭て、一人も余さじと責戦ふ。高橋始の勢ひにも似ず、敵の大勢を見て、一返も不返捨鞭を打て引ける間、木津河の逆巻水に被追浸、被討者其数若干也。僅に命許を扶る者も、馬物具を捨て赤裸になり、白昼に京都へ逃上る。見苦しかりし有様也。是を悪しと思ふ者やしたりけん。平等院の橋爪に、一首の歌を書てぞたてたりける。木津川の瀬々の岩浪早ければ懸て程なく落る高橋高橋が抜懸を聞て、引ば入替て高名せんと、跡に続きたる小早河も、一度に皆被追立一返も不返、宇治まで引たりと聞へければ、又札を立副て、懸も得ぬ高橋落て行水に憂名を流す小早河哉昨日の合戦に、官軍打勝ぬと聞へしかば、国々の勢馳参りて、難儀なる事もこそあれ、時日を不可移とて、両検断宇治にて四方の手分を定て、九月二日笠置の城へ発向す。南の手には五畿内五箇国の兵を被向。其勢七千六百余騎、光明山の後を廻て搦手に向。東の手には、東海道十五箇国の内、伊賀・伊勢・尾張・三河・遠江の兵を被向。其勢二万五千余騎、伊賀路を経て金剛山越に向ふ。北の手には、山陰道八箇国の兵共一万二千余騎、梨間の宿のはづれより、市野辺山の麓を回て、追手へ向ふ。西の手には、山陽道八箇国の兵を被向。 |
その官軍三千余騎は木津川の岸で待ち伏せし、高橋勢を取り囲んで一人も残すまいと攻め立てた。高橋隊は当初の威勢とは裏腹に敵の大軍を見て一戦も交えず逃げ出したため、追撃されて逆巻く木津川の流れに押し込まれ、溺死・討ち取られた者は数知れない。かろうじて命を長らえた者も馬や武具を捨て丸裸になり、真昼間に京都へ敗走する惨めな有様だった。この醜態を見咎めた者がいたのか、平等院の橋詰に一首の歌が掲げられていた。「木津川の瀬々の岩波は流れ速いので 掛けてもすぐ落ちる高橋よ」。さらに高橋隊の突出を聞き「彼らが退くなら代わりに手柄を」と続いた小早河勢も一斉に追い立てられ、一度も戦わず宇治まで敗走したとの報せを受けて別の歌札が添えられた。「掛けても渡れぬ高橋は落ちて流れる水で憂き名をさらす 情けない小早河よ」。 解説
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| 其勢三万二千余騎、木津河を上りに、岸の上なる岨道を二手に分て推寄る。追手搦手、都合七万五千余騎、笠置の山の四方二三里が間は、尺地も不残充満したり。明れば九月三日の卯刻に、東西南北の寄手、相近て時を作る。其声百千の雷の鳴落が如にして天地も動く許也。時の声三度揚て、矢合の流鏑を射懸たれども、城の中静り還て時の声をも不合、当の矢をも射ざりけり。彼笠置の城と申は、山高して一片の白雲峯を埋み、谷深して万仞の青岩路を遮る。攀折なる道を廻て揚る事十八町、岩を切て堀とし石を畳で屏とせり。されば縦ひ防ぎ戦ふ者無とも、輒く登る事を得難し。されども城中鳴を静めて、人ありとも見へざりければ、敵はや落たりと心得て、四方の寄手七万五千余騎、堀がけとも不謂、葛のかづらに取付て、岩の上を伝て、一の木戸口の辺、二王堂の前までぞ寄たりける。此にて一息休めて城の中を屹と向上ければ、錦の御旗に日月を金銀にて打て着たるが、白日に耀て光り渡りたる其陰に、透間もなく鎧ふたる武者三千余人、甲の星を耀し、鎧の袖を連て、雲霞の如くに並居たり。其外櫓の上、さまの陰には、射手と覚しき者共、弓の弦くひしめし、矢束解て押甘、中差に鼻油引て待懸たり。其勢決然として、敢て可攻様ぞなき。 |
西側部隊三万二千余騎は木津川を遡り、岸辺の険しい山道を二手に分かれて押し寄せた。攻撃軍全体(包囲隊・突入隊)で総勢七万五千余騎となり、笠置山周囲数キロ四方には一尺の空地もなく兵が充満していた。明けて九月三日卯刻(午前6時頃)、東西南北から迫った敵軍は互いに近づき鬨の声を上げた。その轟音は千雷が落ちるようで天地さえ揺れ動くほどだった。鬨の声三度に続いて矢合わせの合図と流鏑馬を射かけたが、城内は静まり返って応戦せず、全く反撃しなかった。 そもそも笠置山という城塞は、峰々に白雲が覆い隠すほどの高さで、深い谷には切り立った青岩の道がある。険しい坂を十八町(約2km)も回って登る道では、岩を削って堀とし石を積んで塀としたため、たとえ防戦者がいなくとも容易に登れない要害である。 しかし城内が静まり返り人影すら見えなかったので、敵軍はもう落城したと思い込み、四方から七万五千余りの兵士たちが壕や崖も構わず蔦の蔓につかまって岩を伝い、一ノ木戸口付近にある二王堂前まで侵入してきた。そこで一時休んで城内を見上げると、錦の御旗に金銀で日月を打ち出したものが白昼に輝き渡り、その陰には鎧兜(よろいかぶと)をまとった武者三千余人が甲冑(かぶと)の星を煌めかせながら袖を連ねて雲霞のように立ち並んでいた。さらに櫓や物影には射手らしき者たちが弓弦を引く音を立て、矢束を解いて押さえ込み鼻油を塗って待ち構えていた。その威勢は決然として攻撃できる様子ではなかった。 解説
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| 寄手一万余騎是を見て、前まんとするも不叶、引んとするも不協して、心ならず支たり。良暫有て、木戸の上なる櫓より、矢間の板を排て名乗けるは、「参河国住人足助次郎重範、忝くも一天の君にたのまれ進らせて、此城の一の木戸を堅めたり。前陣に進んだる旗は、美濃・尾張の人々の旗と見るは僻目か。十善の君の御座す城なれば、六波羅殿や御向ひ有らんずらんと心得て、御儲の為に、大和鍛冶のきたうて打たる鏃を少々用意仕て候。一筋受て御覧じ候へ。」と云侭に、三人張の弓に十三束三伏篦かづきの上まで引かけ、暫堅めて丁と放つ。其矢遥なる谷を阻て、二町余が外に扣へたる荒尾九郎が鎧の千檀の板を、右の小脇まで篦深にぐさと射込む。一箭なりといへども究竟の矢坪なれば、荒尾馬より倒に落て起も直らで死けり。舎弟の弥五郎是を敵に見せじと、矢面に立隠して、楯のはづれより進出て云けるは、「足助殿の御弓勢、日来承候し程は無りけり。此を遊ばし候へ。御矢一筋受て物の具の実の程試候はん。」と欺て、弦走を敲てぞ立たりける。足助是を聞て、「此者の云様は、如何様鎧の下に、腹巻か鎖歟を重て着たれば社、前の矢を見ながら此を射よとは敲くらん。若鎧の上を射ば、篦摧け鏃折て通らぬ事もこそあれ。 |
攻め寄せていた一万余騎はこの光景を見て前進もできず退くこともままならず、思わず足止めされた。しばらくすると木戸の上の櫓から矢狭間の板を押し開いて名乗った者がいた。「三河国住みの足助次郎重範(あすけじろうしげのり)、畏れ多くも天皇陛下のお頼みを受けこの城の第一門を守護しておる。前陣に立つ旗は美濃・尾張勢と見えるが、それはお前たちの誤認か?正しい行いの君主(後醍醐天皇)がおわす城ゆえ、六波羅殿ご自身でも攻め寄せられるのかと思い、陛下のために大和鍛冶が丹精込めて打った矢じりを用意した。一本受け止めてみよ」と言うなり、三人がかりで引く強弓に十三束三伏(約1.5m)の矢をつがえ、ぐっと引き絞ってから「丁!」と放った。その矢は遠い谷間を越えて二町余り(約220m)先に控える荒尾九郎の鎧・千枚張りの鉄板を右脇腹深くまでズブリと貫いた。たかが一矢とはいえ完璧な狙撃だったため、荒尾は馬から真っ逆さまに落ちて起き上がれず絶命した。 これを敵に見せるまいと弟の弥五郎(やごろう)が前面を遮り立ち、「足助殿の弓術、かねてより承っておりましたがこれほどの腕前とは。どうぞお見せくださいませ。御矢一本受け止め甲冑の実力を試してみましょう」と挑発し弦を鳴らして立った。これを聞いた足助は「こやつの言い草から察するに、鎧の下に腹巻か鎖帷子でも重ね着しているのだろう。先ほどの矢を見ながらこんな挑戦をするとは図々しい。もしも鎧の上を射れば矢柄が折れて通らないかもしれないが──」 解説
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| 甲の真向を射たらんに、などか砕て通らざらん。」と思案して、「胡■より金磁頭を一つ抜出し、鼻油引て、「さらば一矢仕り候はん。受て御覧候へ。」と云侭に、且く鎧の高紐をはづして、十三束三伏、前よりも尚引しぼりて、手答へ高くはたと射る。思ふ矢坪を不違、荒尾弥五郎が甲の真向、金物の上二寸計射砕て、眉間の真中をくつまき責て、ぐさと射篭だりければ、二言とも不云、兄弟同枕に倒重て死にけり。是を軍の始として、追手搦手城の内、をめき叫で責戦ふ。箭叫の音時の声且も休時なければ、大山も崩て海に入り、坤軸も折て忽地に沈む歟とぞ覚へし。晩景に成ければ、寄手弥重て持楯をつきよせつきよせ、木戸口の辺まで攻たりける処に、爰に南都の般若寺より巻数持て参りたりける使、本性房と云大力の律僧の有けるが、褊衫の袖を結で引違へ、尋常の人の百人しても動し難き大磐石を、軽々と脇に挟み、鞠の勢に引欠々々、二三十つゞけ打にぞ投たりける。数万の寄手、楯の板を微塵に打砕かるゝのみに非ず、少も此石に当る者、尻居に被打居ければ、東西の坂に人頽を築て、馬人弥が上に落重る。さしも深き谷二、死人にてこそうめたりけれ。されば軍散じて後までも木津河の流血に成て、紅葉の陰を行水の紅深きに不異。 |
「鎧の正面を射れば砕けるはずがない」と考えた足助は、矢筒から特殊な鏃を一本抜き取り油脂を塗って、「では一矢お見舞いしよう。受け止めてみよ」と言うなり一旦鎧の紐を解き、十三束三伏(約1.5m)の矢を前よりも強く引き絞り高々と放った。狙いは寸分違わず荒尾弥五郎の兜正面・金属部分から二寸上を砕いて眉間中央を貫通し、兄弟は言葉もなく重なるように倒れ絶命した。 これを合図に攻撃軍が四方から喚声を上げて城へ殺到。叫び声と鬨の声が途切れることなく響き渡り、あたかも大山が崩れて海没し地軸が折れたかのような轟音だった。夕暮れ時になると敵は盾を押し寄せ門前まで迫ったところで、南都・般若寺から経典を届けに来ていた律僧の本性房(ほんしょうぼう)という大力の男が登場した。法衣の袖をたくし上げ百人がかりでも動かせない大岩を軽々と脇に抱え込み鞠のように何度も投げつけたため、数万の兵士は盾ごと粉砕され圧死する者続出。東西の坂には人馬が積み重なり深い谷が埋まり尽くした。 戦闘後も木津川は流血で紅葉陰を流れる水が真っ赤に染まるほどであった。 解説
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| 是より後は、寄手雲霞の如しといへども、城を攻んと云者一人もなし。只城の四方を囲めて遠攻にこそしたりけれ。かくて日数を経ける処に、同月十一日、河内の国より早馬を立て、「楠兵衛正成と云者、御所方に成て旗を挙る間、近辺の者共、志あるは同心し、志なきは東西に逃隠る。則国中の民屋を追捕して、兵粮の為に運取、己が館の上なる赤坂山に城郭を構へ、其勢五百騎にて楯篭り候。御退治延引せば、事御難儀に及候なん。急ぎ御勢を可被向。」とぞ告申ける。是をこそ珍事なりと騒ぐ処に、又同十三日の晩景に、備後の国より早馬到来して、「桜山四郎入道、同一族等御所方に参て旗を揚、当国の一宮を城郭として楯篭る間、近国の逆徒等少々馳加て、其勢既七百余騎、国中を打靡、剰他国へ打越んと企て候。夜を日に継で討手を不被下候はゞ、御大事出来ぬと覚候。御油断不可有。」とぞ告たりける。前には笠置の城強して、国々の大勢日夜責れども未落、後には又楠・桜山の逆徒大に起て、使者日々に急を告。南蛮西戎は已に乱ぬ。東夷北狄も又如何あらんずらんと、六波羅の北方駿河守、安き心も無りければ、日々に早馬を打せて東国勢をぞ被乞ける。相摸入道大に驚て、「さらばやがて討手を差上せよ。」とて、一門他家宗徒の人々六十三人迄ぞ被催ける。 |
その後も攻撃軍は雲霞のように数多いものの、城に直接攻め込む者は一人も現れなかった。ただ城を四方から包囲して遠巻きにするだけだった。こうした日々が続く中、同月十一日に河内国から早馬で使者が来て報告した。「楠兵衛正成という者が御所方(南朝)に加わり旗揚げしましたため、近隣の者は志ある者たちは協力し、ない者は逃げ惑っています。彼らは国内の民家を略奪して兵糧とし、自らの館がある赤坂山に城郭を構築し五百騎で立て籠もっております。討伐が遅れれば事態が危険になりますので急いで軍勢をお送りください」。これを異常な出来事として騒ぐ最中、さらに同十三日の夕方に備後国から早馬の使者が到来して報告した。「桜山四郎入道と一族らが御所方に加わり旗揚げし、この国の一宮神社を城郭にして立て籠もっています。近隣諸国の反逆者たちが次々合流し勢力は七百騎余りとなり国内を制圧した上で他国へ侵攻しようとしております。昼夜問わず討伐軍が派遣されなければ大事に至ると覚悟しておきますので油断なきよう」。 前方では笠置城の攻略で諸国の大軍が日夜攻めているのに未だ落ちず、後方では楠・桜山という反逆者が大きく立ち上がり使者は日々危機を訴える。外国勢力もすでに乱れており東国や北陸でも同様かと六波羅探題北方の駿河守が不安になり、毎日早馬を使って東国勢へ援軍要請した。相模入道(執権・北条高時)は大いに驚き「それなら直ちに討伐隊を派遣せよ」と言い一族や他家の家臣ら六十三人まで召集させた。 解説
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| 大将軍には大仏陸奥守貞直・同遠江守・普恩寺相摸守・塩田越前守・桜田参河守・赤橋尾張守・江馬越前守・糸田左馬頭・印具兵庫助・佐介上総介・名越右馬助・金沢右馬助・遠江左近大夫将監治時・足利治部大輔高氏、侍大将には、長崎四郎左衛門尉、相従ふ侍には、三浦介入道・武田甲斐次郎左衛門尉・椎名孫八入道・結城上野入道・小山出羽入道・氏家美作守・佐竹上総入道・長沼四郎左衛門入道・土屋安芸権守・那須加賀権守・梶原上野太郎左衛門尉・岩城次郎入道・佐野安房弥太郎・木村次郎左衛門尉・相馬右衛門次郎・南部三郎次郎・毛利丹後前司、那波左近太夫将監・一宮善民部太夫・土肥佐渡前司・宇都宮安芸前司・同肥後権守・葛西三郎兵衛尉・寒河弥四郎・上野七郎三郎・大内山城前司・長井治部少輔・同備前太郎・同因幡民部大輔入道・筑後前司・下総入道・山城左衛門大夫・宇都宮美濃入道・岩崎弾正左衛門尉・高久同孫三郎・同彦三郎・伊達入道・田村形部大輔入道・入江蒲原の一族・横山猪俣の両党、此外、武蔵・相摸・伊豆・駿河・上野、五箇国の軍勢、都合二十万七千六百余騎、九月二十日鎌倉を立て、同晦日、前陣已に美濃・尾張両国に着ば、後陣は猶未高志・二村の峠に支へたり。爰に備中国の住人陶山藤三義高・小見山次郎某、六波羅の催促に随て、笠置の城の寄手に加て、河向に陣を取て居たりけるが、東国の大勢既に近江に着ぬと聞へければ、一族若党共を集て申けるは、「御辺達如何が思ぞや、此間数日の合戦に、石に被打、遠矢に当て死ぬる者、幾千万と云数を不知。 |
大将軍として大仏陸奥守貞直・同遠江守・普恩寺相模守・塩田越前守・桜田三河守・赤橋尾張守・江馬越前守・糸田左馬頭・印具兵庫助・佐々木上総介・名越右馬助・金沢右馬助・遠江左近大夫将監治時・足利治部大輔高氏が任命された。侍大将には長崎四郎左衛門尉、それに従う武将として三浦介入道(出家した者)・武田甲斐次郎左衛門尉・椎名孫八入道・結城上野入道・小山出羽入道・氏家美作守・佐竹上総入道・長沼四郎左衛門入道・土屋安芸権守(代理の国司)・那須加賀権守・梶原上野太郎左衛門尉・岩城次郎入道・佐野安房弥太郎・木村次郎左衛門尉・相馬右衛門次郎・南部三郎次郎・毛利丹後前司(前任国司)がいた。他にも那波左近太夫将監・一宮善民部太夫・土肥佐渡前司・宇都宮安芸前司・同肥後権守・葛西三郎兵衛尉・寒河弥四郎・上野七郎三郎・大内山城前司・長井治部少輔・同備前太郎(同じく)・同因幡民部太輔入道・筑後前司・下総入道・山城左衛門大夫・宇都宮美濃入道・岩崎弾正左衛門尉・高久孫三郎・同彦三郎・伊達入道・田村形部大輔入道、さらに入江蒲原一族と横山猪俣両党が加わった。これに武蔵・相模・伊豆・駿河・上野の五か国から集まった軍勢を合わせると総計20万7600余騎となり、9月20日に鎌倉を出発した。同月末日には先鋒部隊がすでに美濃と尾張両国に到着していたが、後続部隊はまだ越前二村峠(現在の福井県)で足止めされていた。 このとき備中国出身の陶山藤三義高・小見山次郎某らが六波羅探題の命令により笠置城攻撃軍に参加し、対岸に陣を構えていた。東国からの大軍が近江国(現在の滋賀県)に到着したと聞くと、一族や家臣を集めて言った。「皆はどう思うか? ここ数日の戦いで投石を受けたり遠矢に当たって死んだ者は幾千万とも知れないほどだ。」 解説
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| 是皆差て為出したる事も無て死ぬれば、骸骨未だ乾かざるに、名は先立て消去ぬ。同く死ぬる命を、人目に余る程の軍一度して死たらば、名誉は千載に留て、恩賞は子孫の家に栄ん。倩平家の乱より以来、大剛の者とて名を古今に揚たる者共を案ずるに、何れも其程の高名とは不覚。先熊谷・平山が一谷の先懸は、後陣の大勢を憑し故也。梶原平三が二度の懸は、源太を助ん為なり。佐々木三郎が藤戸を渡しゝは、案内者のわざ、同四郎高綱が宇治川の先陣は、いけずき故也。此等をだに今の世迄語伝て、名を天下の人口に残すぞかし。何に況や日本国の武士共が集て、数日攻れども落し得ぬ此城を、我等が勢許にて攻落したらんは、名は古今の間に双なく、忠は万人の上に可立。いざや殿原、今夜の雨風の紛れに、城中へ忍入て、一夜討して天下の人に目を覚させん。」と云ければ、五十余人の一族若党、「最可然。」とぞ同じける。是皆千に一も生て帰る者あらじと思切たる事なれば、兼ての死に出立に、皆曼陀羅を書てぞ付たりける。差縄の十丈許長きを二筋、一尺計置ては結合々々して、其端に熊手を結着て持せたり。是は岩石などの被登ざらん所をば、木の枝岩の廉に打懸て、登らん為の支度也。其夜は九月晦日の事なれば、目指とも不知暗き夜に、雨風烈く吹て面を可向様も無りけるに、五十余人の者ども、太刀を背に負、刀を後に差て、城の北に当たる石壁の数百丈聳て、鳥も翔り難き所よりぞ登りける。 |
彼らは何も成し遂げずに死ぬため、遺骨がまだ乾かないうちに名前だけ先に消えてしまうのだ。(同じく)死ぬ命ならば、人々の目にも余るほどの大軍の中で一度戦って死ねば、名誉は千年後にまで残り、恩賞で子孫の家も栄えるだろう。考えてみると平家討伐以来、剛勇な者として名を古今に上げた連中を見ても(熊谷直実や平山季重など)、どれほどの手柄とは思えない。(まず)熊谷と平山が一ノ谷で先陣を切ったのは後続の大軍を頼りにしたからだ。梶原景時(平三)が二度も突撃したのは源範頼(源太)を助けるためだった。佐々木盛綱(三郎)が藤戸海峡を渡れたのは道案内者の仕業であり、同じく佐々木高綱(四郎)の宇治川先陣は向こう見ずなだけだ。(しかし)これらでさえ今に語り継がれ天下の人々に名が残っている。ましてや日本中の武士たちが集まり数日攻めても落とせないこの城を、我々のような小勢で陥落させたら(その功績は)、名声は古今に類なく忠義の誉れも万人の上に立つだろう。(さあ)皆の者よ!今夜の雨風に紛れて城内へ忍び込み一晩で攻め落とし、天下の人々を目覚めさせよう。」と言うと五十人あまりの一族や家来たちは「まったくもっともだ」と同調した。これは全員が千に一つも生きて帰れまいと決意していたためであり、死出の旅立ちに備えて皆あらかじめマンダラ(護符)を書いて身につけていた。(さらに)長さ約十丈(約30m)の綱を二本用意し一尺(約30cm)ごとに結び目を作り端には熊手(鉤爪)を取り付け持たせた。これは岩場など登れない場所で木の枝や岩角に引っ掛けて上るための準備である。(その夜は九月晦日だったため、指す方向さえ見えない暗闇の中で雨風が激しく吹きつけ顔を上げることさえできない状況であったのに)五十人余りの者たちは太刀を背負い腰に脇差しを帯び城の北側にある高さ数百丈(約900m)、鳥も飛べないほどそびえる石壁から登り始めた。 解説
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| 二町許は兎角して登りつ、其上に一段高き所あり。屏風を立たる如くなる岩石重て、古松枝を垂、蒼苔路滑なり。此に至て人皆如何んともすべき様なくして、遥に向上て立たりける処に、陶山藤三、岩の上をさら/\と走上て、件の差縄を上なる木の枝に打懸て、岩の上よりをろしたるに、跡なる兵共各是に取付て、第一の難所をば安々と皆上りてげり。其より上にはさまでの嶮岨無りければ、或は葛の根に取付、或は苔の上を爪立て、二時計に辛苦して、屏際まで着てけり。此にて一息休て、各屏を上り超、夜廻りの通りける迹に付て、先城の中の案内をぞ見たりける。追手の木戸・西の坂口をば、伊賀・伊勢の兵千余騎にて堅めたり。搦手に対する東の出屏の口をば、大和・河内の勢五百余騎にて堅たり。南の坂、二王堂の前をば、和泉・紀伊国の勢七百余騎にて堅たり。北の口一方は嶮きを被憑けるにや、警固の兵をば一人も不被置、只云甲斐なげなる下部共二三人、櫓の下に薦を張、篝を焼て眠居たり。陶山・小見山城を廻、四方の陣をば早見澄しつ。皇居は何くやらんと伺て、本堂の方へ行処に、或役所の者是を聞付て、「夜中に大勢の足音して、潛に通は怪き物哉、誰人ぞ。」と問ければ、陶山吉次取も敢ず、「是は大和勢にて候が、今夜余に雨風烈しくして、物騒が〔し〕く候間、夜討や忍入候はんずらんと存候て、夜廻仕候也。 |
およそ三百メートルほど苦労して登ると、さらに一段高い場所があった。まるで屏風が立ち並んだように見える岩の塊があり、古い松が枝を垂れ、苔むした道は滑りやすくなっている。ここまで来た兵たちはどうすることもできずに遥か上方を見上げて立っていたところ、陶山藤三郎が岩の上をさらさらと走り上がり、用意していた縄を上の木の枝にかけると、その端を崖下へ垂らした。後ろにいた兵士たちはこれにつかまり、最初の難所を見事なまでやすやすと登り切った。そこから先にはそれほどの険しさもなかったので、葛の根をつかんだ者や苔むした斜面を爪でよじ登る者がおり、およそ四時間苦労して城壁際にたどり着いた。ここで一息休み、それぞれが塀を乗り越えると、夜回りの通った跡について城内の様子を見て偵察した。(敵は)追手門や西坂口には伊賀・伊勢の兵千騎余りで固めていた。搦手に当たる東出丸口は大和・河内の軍勢五百騎あまりで守っている。南坂と二王堂前は和泉・紀伊国の兵七百騎ほどが警備していた。北側だけは険しい地形を頼りとしたのか、見張りの兵さえ一人も配置せず、ただ役に立たない下働きの者たちが二三人、櫓の下で筵(むしろ)を敷いて篝火を囲み眠っているだけであった。陶山と小見山は城を見回って四方の陣形を見定めた。(そして主戦場である)天皇のおわす御所がどこかと探しているうちに本堂の方へ向かったところ、ある役所から誰かがこれを察して「夜中に大勢の足音でこっそり通るとは怪しい。どこの者だ?」と尋ねたので、陶山吉次は全く動揺せず、「われらは大和勢でございます。今夜は特に風雨も激しく物騒がゆえ、夜襲や忍び込みがあるかと思いまして夜廻りを勤めております」と答えた。 解説
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| 」と答ければ、「げに。」と云音して、又問事も無りけり。是より後は中々忍たる体も無して、「面々の御陣に、御用心候へ。」と高らかに呼はて、閑々と本堂へ上て見れば、是ぞ皇居と覚て、蝋燭数多所に被燃て、振鈴の声幽也。衣冠正くしたる人、三四人大床に伺候して、警固の武士に、「誰か候。」と被尋ければ、「其国の某々。」と名乗て廻廊にしかと並居たり。陶山皇居の様まで見澄して、今はかうと思ければ、鎮守の前にて一礼を致し、本堂の上なる峯へ上て、人もなき坊の有けるに火を懸て同音に時の声を挙ぐ。四方の寄手是を聞、「すはや城中に返忠の者出来て、火を懸たるは。時の声を合せよや。」とて追手搦手七万余騎、声々に時を合て喚き叫ぶ。其声天地を響かして、如何なる須弥の八万由旬なりとも崩ぬべくぞ聞へける。陶山が五十余人の兵共、城の案内は只今委く見置たり。此役所に火を懸ては彼こに時の声をあげ、彼こに時を作ては此櫓に火を懸、四角八方に走り廻て、其勢城中に充満たる様に聞へければ、陣々堅めたる官軍共、城内に敵の大勢攻入たりと心得て、物の具を脱捨弓矢をかなぐり棄て、がけ堀とも不謂、倒れ転びてぞ落行ける。錦織判官代是を見て、「膩き人々の振舞哉。十善の君に被憑進せて、武家を敵に受る程の者共が、敵大勢なればとて、戦はで逃る様やある、いつの為に可惜命ぞ。 |
(役所の者が)「確かに。」と言う声がしただけで、それ以上は何も問われなかった。ここから後は隠れる様子すら見せず、「各陣営の方々、ご用心ください!」と高らかに叫びながら、落ち着いて本堂へ上がってみると、これこそ天皇の御座所と思われる場所で、ろうそくが数多く灯され、振鈴(仏具)の音がかすかに響いていた。衣冠束帯を正しく着た人々三~四名が上段に控えていて、警護の武士に「どなただ?」と尋ねさせると、(陶山らは)「その国の何某である」と名乗り回廊にきちんと整列して座った。陶山は天皇の御所の様子まで見極め、「もうこれでよい」と考え、鎮守社(神社)の前で一礼すると本堂背後の峰へ登り、人気のない僧坊があったのでそこへ火を放ちながら全員で鬨の声をあげた。四方を取り囲む攻撃側の軍勢はこれを聞き、「ついに城内に裏切り者が現れ火をつけたのだ! 鬨の声を合わせよ!」と言って、正面・背面から七万余騎が一斉にわめき叫んだ。その声は天地に轟くほどで、たとえ須弥山(仏教世界の巨大な山)の八万由旬(約32万km)であっても崩れ落ちそうに思われた。陶山ら五十人余りの兵士たちは城内の様子をすっかり把握していたので、この役所へ火をつけてあちらで鬨の声をあげ、向こうで時を作ると今度はこちらの櫓へ放火し、四方八方に駆け回ってまるで大軍が城内にあふれているように見せかけた。守備していた官軍(後醍醐天皇方)の兵士たちは「城の中に敵の大群が攻め込んだ」と思い込み、甲冑を脱ぎ捨て弓矢を投げ棄て、崖や堀も構わず転び落ちるようにして逃げ出した。錦織判官代(天皇方武将)はこれを見て、「情けない者たちの振る舞いだ! 天子様にお仕えし武士として敵と戦う身でありながら、敵が大軍だからといって戦わずに逃げることなどあるものか? 何のために命を惜しむのだ?」と言った。 解説
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| 」とて、向ふ敵に走懸々々、大はだぬぎに成て戦ひけるが、矢種を射尽し、太刀を打折ければ、父子二人並郎等十三人、各腹かき切て同枕に伏て死にけり。 ○主上御没落笠置事 去程に類火東西より被吹て、余煙皇居に懸りければ、主上を始進せて、宮々・卿相・雲客、皆歩跣なる体にて、何くを指ともなく足に任て落行給ふ。此人々、始一二町が程こそ、主上を扶進せて、前後に御伴をも被申たりけれ。雨風烈しく道闇して、敵の時の声此彼に聞へければ、次第〔に〕別々に成て、後には只藤房・季房二人より外は、主上の御手を引進する人もなし。悉も十善の天子、玉体を田夫野人の形に替させ給て、そことも不知迷ひ出させ玉ける、御有様こそ浅猿けれ。如何にもして、夜の内に赤坂城へと御心許を被尽けれども、仮にも未習はせ玉はぬ御歩行なれば、夢路をたどる御心地して、一足には休み、二足には立止り、昼は道の傍なる青塚の陰に御身を隠させ玉て、寒草の疎かなるを御座の茵とし、夜は人も通はぬ野原の露に分迷はせ玉て、羅穀の御袖をほしあへず。兎角して夜昼三日に、山城の多賀郡なる有王山の麓まで落させ玉てけり。藤房も季房も、三日まで口中の食を断ければ、足たゆみ身疲れて、今は如何なる目に逢とも逃ぬべき心地せざりければ、為ん方無て、幽谷の岩を枕にて、君臣兄弟諸共に、うつゝの夢に伏玉ふ。 |
こう言って敵に向かって突進し、鎧を脱いだ裸同然の姿で戦ったが、矢を使い果たし刀を折れたため、父子二人と家来十三人はそれぞれ腹を切って同じ場所に並んで亡くなった。 ○天皇陛下が笠置山から落ち延びられること 解説
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| 梢を払ふ松の風を、雨の降かと聞食て、木陰に立寄せ玉たれば、下露のはら/\と御袖に懸りけるを、主上被御覧て、さして行笠置の山を出しよりあめが下には隠家もなし藤房卿泪を押へて、いかにせん憑む陰とて立よれば猶袖ぬらす松の下露山城国の住人、深須入道・松井蔵人二人は、此辺の案内者なりければ、山々峯々無残所捜しける間、皇居隠なく被尋出させ給ふ。主上誠に怖しげなる御気色にて、「汝等心ある者ならば、天恩を戴て私の栄花を期せよ。」と被仰ければ、さしもの深須入道俄に心変じて、哀此君を隠奉て、義兵を揚ばやと思けれども、迹につゞける松井が所存難知かりける間、事の漏易くして、道の成難からん事を量て、黙止けるこそうたてけれ。俄の事にて網代輿だに無りければ、張輿の怪げなるに扶乗進せて、先南都の内山へ入奉る。其体只殷湯夏台に囚れ、越王会稽に降せし昔の夢に不異。是を聞是を見る人ごとに、袖をぬらさずと云事無りけり。此時此彼にて、被生捕給ける人々には、先一宮中務卿親王・第二宮妙法院尊澄法親王・峰僧正春雅・東南院僧正聖尋・万里小路大納言宣房・花山院大納言師賢・按察大納言公敏・源中納言具行・侍従中納言公明・別当左衛門督実世・中納言藤房・宰相季房・平宰相成輔・左衛門督為明・左中将行房・左少将忠顕・源少将能定・四条少将隆兼・妙法院執事澄俊法印、北面・諸家侍共には、左衛門大夫氏信・右兵衛大夫有清・対馬兵衛重定・大夫将監兼秋・左近将監宗秋・雅楽兵衛尉則秋・大学助長明・足助次郎重範・宮内丞能行・大河原源七左衛門尉有重、奈良法師に、俊増・教密・行海・志賀良木治部房円実・近藤三郎左衛門尉宗光・国村三郎入道定法・源左衛門入道慈願・奥入道如円・六郎兵衛入道浄円、山徒には勝行房定快・習禅房浄運・乗実房実尊、都合六十一人、其所従眷属共に至までは計るに不遑。 |
梢を揺らす松風の音をお聞きになると雨が降ったのかと思われ、木陰にお立ち寄りになったところ、下葉からの露がぽたぽたとお袖にかかった。これを見られた天皇陛下は「笠置山から出て以来、天の下には隠れ家もないのだな」と言われた。藤房卿(北畠親房)は涙をこらえて詠んだ――いったいどうすればよいのか頼れる陰と思って立っていると、なおさら袖を濡らす松の下露よ。 山城国の住人である深須入道と松井蔵人の二人がこの辺りの地理に詳しかったため、山中をくまなく捜索した結果、天皇陛下は隠れる場所もなくお見つかりになってしまった。陛下は非常に恐れられた様子で「お前たちが思慮ある者ならば、天の恩恵を受けて私のために栄華をもたらすことを約束せよ」と仰せになったところ、あの深須入道も突然心変わりし、哀れな君主をお隠しして義兵を挙げようと思った。しかし後から付いてきた松井蔵人の考えが読めず、計画が漏れやすく成功が難しいだろうと考えて黙ってしまったのは情けなかった。 急なことだったので網代輿(簡易御輿)さえなく、粗末な張り輿に陛下をお乗せしてまず南都の内山へとお連れした。その様子は殷の湯王が夏台に囚われた夢とも越王勾践が会稽で降伏した昔話とも変わらないありさまだった。これを聞きこれを見る者は皆、涙で袖を濡らさない者はいなかった。 この時各地で捕えられた方々は―― 解説
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| 或は篭輿に被召、或伝馬に被乗て、白昼に京都へ入給ひければ、其方様歟と覚たる男女街に立並て、人目をも不憚泣悲む、浅増かりし分野也。十月二日六波羅の北方、常葉駿河守範貞、三千余騎にて路を警固仕て、主上を宇治の平等院へ成し奉る。其日関東の両大将京へは不入して、すぐに宇治へ参向て、竜顔に謁奉り、先三種の神器を渡し給て、持明院新帝可進由を奏聞す。主上藤房を以て被仰出けるは、「三種神器は、自古継体君、位を天に受させ給ふ時、自ら是を授る者也。四海に威を振ふ逆臣有て、暫天下を掌に握る者ありと云共、未此三種の重器を、自専して新帝に渡し奉る例を不聞。其上内侍所をば、笠置の本堂に捨置奉りしかば、定て戦場の灰塵にこそ落させ給ひぬらめ。神璽は山中に迷し時木の枝に懸置しかば、遂にはよも吾国の守と成せ給はぬ事あらじ。宝剣は、武家の輩若天罰を顧ずして、玉体に近付奉る事あらば、自其刃の上に伏させ給はんずる為に、暫も御身を放たる事あるまじき也。」と被仰ければ、東使両人も、六波羅も言ば無して退出す。翌日竜駕を廻して六波羅へ成進らせんとしけるを、前々臨幸の儀式ならでは還幸成まじき由を、強て被仰出ける間、無力鳳輦を用意し、袞衣を調進しける間、三日迄平等院に御逗留有てぞ、六波羅へは入給ける。 |
ある者は籠輿(かごこし)にお乗せになり、ある者は伝馬(てんま・公用の馬)に乗せられて、白昼堂々と京都へ入られた。すると「あの方であろう」と思われる男女が街に立ち並び、人目をも憚らず泣き悲しんだのは、浅はかでありながら痛切な光景であった。 十月二日、六波羅(幕府機関)の北方である常葉駿河守範貞(ときわするがのかみのりさだ)が三千余騎で道を警護し、天皇陛下を宇治の平等院へお連れした。その日関東から来た両大将(鎌倉幕府使節)は京に入らず直接宇治へ伺候して御前にお会いし、まず三種の神器をお渡しするよう求め、持明院統の新帝に皇位を継がせるべき旨を奏上した。 これに対し天皇陛下は藤房(北畠親房)を通じてお答えになった。「三種の神器は古来より正統な君主が天から地位をお受けになる際、自然と授かるものである。天下に逆らう臣下が一時的に権力を握った例はあっても、この重器を勝手に新帝へ渡す先例など聞いたことがない。さらに内侍所(八咫鏡)は笠置寺の本堂に奉安したままだったので、戦火の中で失われたであろう。神璽(八尺瓊勾玉)は山中で迷った際に木の枝にかけておいたため、やがてわが国を守る神となられるはずだ。宝剣(天叢雲剣)については、武士どもがもし天道を顧みず朕へ刃向かうならば、その刃のもとで自ら命を絶たれるであろうから、決してお身をお離れすることはあるまい」 このお言葉に関東の使者二人も六波羅側も返す言葉なく退出した。翌日天皇を六波羅へ移送しようとしたが、「前例にない臨幸儀式では還幸できない」と強く申し出られたため、やむを得ず鳳輦(ほうれん・御所車)の準備と袞衣(こんい・装束)の調達を行った。こうして三日間平等院に滞留された後、ようやく六波羅へ入られたのである。 解説
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| 日来の行幸に事替て、鳳輦は数万の武士に被打囲、月卿雲客は怪げなる篭・輿・伝馬に被扶乗て、七条を東へ河原を上りに、六波羅へと急がせ給へば、見る人涙を流し、聞人心を傷しむ。悲乎昨日は紫宸北極の高に坐して、百司礼儀の妝を刷ひしに、今は白屋東夷の卑きに下らせ給て、万卒守禦の密しきに御心を被悩。時移事去楽尽て悲来る。天上の五衰人間の一炊、唯夢かとのみぞ覚たる。遠からぬ雲の上の御住居、いつしか思食出す御事多き時節、時雨の音の一通、軒端の月に過けるを聞食て、住狎ぬ板屋の軒の村時雨音を聞にも袖はぬれけり四五日有て、中宮の御方より御琵琶を被進けるに、御文あり。御覧ずれば、思やれ塵のみつもる四の絃に払ひもあへずかゝる泪を引返して、御返事有けるに、涙ゆへ半の月は陰るとも共に見し夜の影は忘れじ同八日両検断、高橋刑部左衛門・糟谷三郎宗秋、六波羅に参て、今度被生虜給し人々を一人づゝ大名に被預。一宮中務卿親王をば佐々木判官時信、妙法院二品親王をば長井左近大夫将監高広、源中納言具行をば筑後前司貞知、東南院僧正をば常陸前司時朝、万里小路中納言藤房・六条少将忠顕二人をば、主上に近侍し奉るべしとて、放召人の如くにて六波羅にぞ留め置れける。同九日三種の神器を、持明院の新帝の御方へ被渡。 |
日頃の行幸とは様子が違い、鳳輦(御所車)は数万の武士に取り囲まれ、公家たちも怪しい籠や輿・伝馬に乗せられて、七条から東へ河原を上り六波羅へ急ぎ向かわれた。これを見る者は涙を流し、聞く者の心は傷ついた。悲しいことだ、昨日までは紫宸殿の玉座に坐して百官の礼儀を取り仕切っていた方が、今は粗末な武家屋敷(六波羅)という卑しい場所へ降りられ、兵士たちの厳重警護に御心を悩ませられる。時が移り事態が変わり楽しみ尽きて悲しみ来る――天人の五衰(臨終の兆候)や人間の邯鄲の夢のように、ただ幻かとしか思えなかった。 遠くない雲上の宮中での御生活を懐かしく思い出される折柄、時雨の音が一度通り過ぎ軒端の月夜に変わるのをお聞きになられては、(都を側んで)「慣れぬ板屋の軒に降る村時雨 その音を聴くだけでも袖は濡れてしまう」と詠まれた。四五日経った頃、中宮(皇后)より御琵琶が届けられた。添えられた手紙をご覧になると、(嘆息されて)「塵ばかり積もる四弦の上 払い切れぬ涙で弦は濡れる」と返歌された――「たとえ涙に曇り半欠けの月を見ようとも 共に見たあの夜の月光は忘れまい」。 同八日、両検断(幕府役人)である高橋刑部左衛門・糟谷三郎宗秋が六波羅へ参上し、今回捕らえられた方々を一人ずつ大名に預けるよう指示した。一宮中務卿親王は佐々木判官時信に、妙法院二品親王は長井左近大夫将監高広に、源中納言具行は筑後前司貞知に、東南院僧正は常陸前司時朝にそれぞれ預けられ、万里小路中納言藤房と六条少将忠顕の二人だけが「主上にお仕えすべし」として放免されるかのように六波羅へ留め置かれた。同九日、三種の神器は持明院統(北朝)の新帝側へ引き渡された。 解説
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| 堀河大納言具親・日野中納言資名、是を請取て長講堂へ送奉る。其御警固には長井弾正蔵人・水谷兵衛蔵人・但馬民部大夫・佐々木隠岐判官清高をぞ被置ける。同十三日に、新帝登極の由にて、長講堂より内裏へ入せ給ふ。供奉の諸卿、花を折て行妝を引刷ひ、随兵の武士、甲冑を帯して非常を誡む。いつしか前帝奉公の方様には、咎有も咎無も、如何なる憂目をか見んずらんと、事に触て身を危み心を砕けば、当今拝趨の人々は、有忠も無忠も、今に栄花を開きぬと、目を悦ばしめ耳をこやす。子結で陰を成し、花落て枝を辞す。窮達時を替栄辱道を分つ。今に始めぬ憂世なれども、殊更夢と幻とを分兼たりしは此時也。 ○赤坂城軍事 遥々と東国より上りたる大勢共、未近江国へも入ざる前に、笠置の城已に落ければ、無念の事に思て、一人も京都へは不入。或は伊賀・伊勢の山を経、或は宇治・醍醐の道を要て、楠兵衛正成が楯篭たる赤坂の城へぞ向ひける。石河々原を打過、城の有様を見遣れば、俄に誘へたりと覚てはか/゛\しく堀をもほらず、僅に屏一重塗て、方一二町には過じと覚たる其内に、櫓二三十が程掻双べたり。是を見る人毎に、あな哀の敵の有様や、此城我等が片手に載て、投るとも投つべし。あはれせめて如何なる不思議にも、楠が一日こらへよかし、分捕高名して恩賞に預らんと、思はぬ者こそ無りけれ。 |
堀川大納言具親と日野中納言資名がこれ(三種の神器)を受け取り長講堂へ届けた。警護役として長井弾正蔵人・水谷兵衛蔵人・但馬民部大夫・佐々木隠岐判官清高を配置された。 同十三日、新帝即位により長講堂から御所(内裏)へ入られた。供奉する公家たちは花枝を手に装いを整え、護衛の武士たちは甲冑をつけて警戒した。(南朝支持者は皆思う)「前天皇(後醍醐)にお仕えしていた人々は、咎があろうとなかろうと、いつどんな災難に見舞われるかもしれない」と事あるごとに身を案じ心を痛める。一方今の新帝に従う者たちは忠義の有無にかかわらず「これで栄華が開ける」と目を輝かせ耳を喜ばせる。(まるで)実をつけて蔭を作る木もあれば花が散り枝から離れるものもあるように、不遇と成功は時によって変わり、栄誉と恥辱は道の分かれに従う。世の憂いは今始まったことではないが、特に夢と現実を見分け難いのはこの瞬間である。 ○赤坂城軍事 解説
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| されば寄手三十万騎の勢共、打寄ると均く、馬を蹈放々々、堀の中に飛入、櫓の下に立双で、我前に打入んとぞ諍ひける。正成は元来策を帷幄の中に運し、勝事を千里の外に決せんと、陳平・張良が肺肝の間より流出せるが如の者なりければ、究竟の射手を二百余人城中に篭て、舎弟の七郎と、和田五郎正遠とに、三百余騎を差副て、よその山にぞ置たりける。寄手は是を思もよらず、心を一片に取て、只一揉に揉落さんと、同時に皆四方の切岸の下に着たりける処を、櫓の上、さまの陰より、指つめ引つめ、鏃を支て射ける間、時の程に死人手負千余人に及べり。東国の勢共案に相違して、「いや/\此城の為体、一日二日には落まじかりけるぞ、暫陣々を取て役所を構へ、手分をして合戦を致せ。」とて攻口を少し引退き、馬の鞍を下し、物の具を脱で、皆帷幕の中にぞ休居たりける。楠七郎・和田五郎、遥の山より直下して、時刻よしと思ければ、三百余騎を二手に分け、東西の山の木陰より、菊水の旗二流松の嵐に吹靡かせ、閑に馬を歩ませ、煙嵐を捲て押寄たり。東国の勢是を見て、敵か御方かとためらひ怪む処に、三百余騎の勢共、両方より時を咄と作て、雲霞の如くに靉ひたる三十万騎が中へ、魚鱗懸に懸入、東西南北へ破て通り、四方八面を切て廻るに、寄手の大勢あきれて陣を成かねたり。 |
攻め手の三十万騎が一斉に押し寄せると、馬を躍らせて堀の中へ飛び込み、櫓の下で我先にと突入しようと争った。楠木正成はもともと計略を陣中で練り、遠方での勝利を見通す陳平や張良のような人物だったため、屈指の射手二百人余りを城内に残し、弟の七郎と和田五郎正遠には三百騎を与えて近くの山へ伏せていた。攻め手はこれを予想せず、一気に城を落とそうと四方の崖下に集まったところ、櫓の上や物陰から射手が矢を次々放ち、瞬く間に死者・負傷者が千人以上出た。 東国勢は予想外の事態に「この城は一日二日では落ちない。一旦陣地を作り分隊で攻撃しよう」と攻め口を引き下げ、馬から降り鎧を脱いで幕舎内で休息した。その時、楠七郎と和田五郎が遠くの山頂からタイミングを見計らい、三百騎を二手に分けて東西の木陰から出現。「菊水」の旗二本が松風になびくなか、ゆっくり馬を進め煙塵を巻き上げて接近した。東国勢が敵味方かと怪しむ間に、両側から突然「時は来た!」と叫んで突入。雲霞のように集まった三十万騎の中へ魚鱗の陣形で割り込み、東西南北を破って八方向に切り回すと、攻め手の大軍は呆然として防御態勢さえ整えられなかった。 解説
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| 城中より三の木戸を同時に颯と排て、二百余騎鋒を双て打て出、手崎をまわして散々に射る。寄手さしもの大勢なれども僅の敵に驚騒で、或は維げる馬に乗てあをれども進まず。或は弛せる弓に矢をはげて射んとすれども不被射。物具一領に二三人取付、「我がよ人のよ。」と引遇ける其間に、主被打ども従者は不知、親被打共子も不助、蜘の子を散すが如く、石川々原へ引退く。其道五十町が間、馬・物具を捨たる事足の踏所もなかりければ、東条一郡の者共は、俄に徳付てぞ見たりける。指もの東国勢思の外にし損じて、初度の合戦に負ければ、楠が武畧侮りにくしとや思けん。吐田・楢原辺に各打寄たれども、軈て又推寄んとは不擬。此に暫引へて、畿内の案内者を先に立て、後攻のなき様に山を苅廻、家を焼払て、心易く城を責べきなんど評定ありけるを、本間・渋谷の者共の中に、親被打子被討たる者多かりければ、「命生ては何かせん、よしや我等が勢許なりとも、馳向て打死せん。」と、憤りける間、諸人皆是に被励て、我も我もと馳向けり。彼赤坂の城と申は、東一方こそ山田の畔重々に高して、少し難所の様なれ、三方は皆平地に続きたるを、堀一重に屏一重塗たれば、如何なる鬼神が篭りたり共、何程の事か可有と寄手皆是を侮り、又寄ると均く、堀の中、切岸の下まで攻付て、逆木を引のけて打て入んとしけれども、城中には音もせず、是は如何様昨日の如く、手負を多く射出て漂ふ処へ、後攻の勢を出して、揉合せんずるよと心得て、寄手十万余騎を分て、後の山へ指向て、残る二十万騎稲麻竹葦の如く城を取巻てぞ責たりける。 |
城内から三つの城門を同時に勢いよく開け、二百余騎が一斉に打って出て側面を巡りながら激しく矢を射た。攻め手(東国軍)は大軍にもかかわらず少数の敵に驚き混乱し、馬の手綱が絡まって動けない者や、緩んだ弓で矢を放とうとしても当たらない者が続出した。鎧一領に二三人が群がり「俺のだ!お前のものだ!」と奪い合う間に、主人は討たれても従者は気づかず、親が倒されても子は助けず、蜘蛛の子を散らすように石川河原へ敗走した。その道五十町(約5.5km)にわたり馬や武具が捨てられ足の踏み場もないほどで、地元・東条郡の人々が突然の勝利に驚いて見ていた。 遠征してきた東国勢は予想外の損害を受け初戦で敗れたため、「楠木の戦術は侮れない」と悟ったのか。吐田・楢原辺りに一旦集結したものの、すぐには再攻撃を仕掛けようとはしなかった。ここで兵を引いて京周辺の地理に詳しい者を先導させ、後方からの奇襲がないように山々を伐採し家屋を焼き払い、安全に城を包囲しようと作戦会議したが、本間・渋谷一族の中で親や子を討たれた者が多数いたため、「生き残っても意味はない。たとえ我々だけでも突撃して死のう」と憤慨し、皆がそれに煽られて我先にと攻め寄せた。 あの赤坂城というのは東側こそ山田の畦道が重なり多少険しいが、他の三方は平地続きである。堀一筋と土塁一重しかないため「どんな強者が籠ろうと大したことはあるまい」と攻め手は侮り、再び一斉に押し寄せて堀の中や崖下まで接近し、逆茂木(防御柵)を引き抜いて突入しようとした。しかし城内からは全く音もなく、「これは昨日と同じように多くの負傷者が出た混乱時に伏兵で挟撃するつもりか」と警戒したため、十万騎余りを後方の山へ向けさせ、残る二十万騎が稲や麻のように密集して城を取り囲み攻め立てた。 解説
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| 卦けれども城の中よりは、矢の一筋をも不射出更人有とも見へざりければ、寄手弥気に乗て、四方の屏に手を懸、同時に上越んとしける処を、本より屏を二重に塗て、外の屏をば切て落す様に拵たりければ、城の中より、四方の屏の鈎縄を一度に切て落したりける間、屏に取付たる寄手千余人、厭に被打たる様にて、目許はたらく処を、大木・大石を抛懸々々打ける間、寄手又今日の軍にも七百余人被討けり。東国の勢共、両日の合戦に手ごりをして、今は城を攻んとする者一人もなし。只其近辺に陣々を取て、遠攻にこそしたりけれ。四五日が程は加様にて有けるが、余に暗然として守り居たるも云甲斐なし。方四町にだに足ぬ平城に、敵四五百人篭たるを、東八箇国の勢共が責かねて、遠責したる事の浅猿さよなんど、後までも人に被笑事こそ口惜けれ。前々は早りのまゝ楯をも不衝、責具足をも支度せで責ればこそ、そゞろに人をば損じつれ。今度は質てを替て可責とて、面々に持楯をはがせ、其面にいため皮を当て、輒く被打破ぬ様に拵て、かづきつれてぞ責たりける。切岸の高さ堀の深さ幾程もなければ、走懸て屏に着ん事は、最安く覚けれ共、是も又釣屏にてやあらんと危みて無左右屏には不着、皆堀の中にをり漬て、熊手を懸て屏を引ける間、既に被引破ぬべう見へける処に、城の内より柄の一二丈長き杓に、熱湯の湧翻りたるを酌で懸たりける間、甲の天返綿噛のはづれより、熱湯身に徹て焼爛ければ、寄手こらへかねて、楯も熊手も打捨て、ばつと引ける見苦しさ、矢庭に死るまでこそ無れども、或は手足を被焼て立も不揚、或は五体を損じて病み臥す者、二三百人に及べり。 |
攻め手が警戒していたものの、城内からは一本の矢も放たれず人影すら見えなかったため、東国軍はますます勢いづいて四方の塀に取り付き一斉によじ登ろうとしたところ、元々二重構造になっていた塀で外側を切り落とせる仕掛けであったので、城内から一度にかぎ縄(固定用ロープ)を切断した。すると塀に取りついていた千余人の攻め手が崩れ落ちるように落下し、呆然とする彼らに向かって大木や巨石を次々投下したため、この日の戦闘だけで七百人余りが討たれた。 東国勢は二日続けて損害を受け(「両日の合戦に手ごり」)、もはや城攻めしようという者はいなくなった。ただ近辺に陣地を構えて遠方からの包囲作戦(「遠攻」)を継続したが、四、五日経っても状況は変わらず無為な籠城状態が続く。四方百数十メートル足らずの小城(当時1町≌109m)に敵兵わずか四五百人が篭るのに対し、東国八カ国の大軍で攻略できず包囲戦を続ける情けなさは、後世まで笑われるのが悔しいと皆が思った。 以前は軽率にも防盾(「楯」)も準備せず攻めたため不必要な損害が出た。今回は方法を変えようと各兵に手持ちの盾を持たせ、表面には丈夫な皮を張り付け容易に壊れないように改造してかぶって突撃した。崖の高さや堀の深さが大したことなかったので素早く塀まで駆け上がるのは簡単と思われたが「これはまた仕掛け塀(釣屏)かもしれぬ」と警戒し誰も直接塀に触れず、皆で堀の中に入って熊手をかけて塀を引き倒そうとした。ちょうど破壊寸前に見えた時、城内から柄の長さ3~6メートルもある巨大なひしゃくで煮え立った熱湯をかけられ始めたため、兜と鎧の隙間(「甲の天返綿噛のはづれ」)から熱湯が浸透して皮膚が焼けただれた。攻め手は耐えきれず盾も熊手も投げ捨て慌てて退却する醜態を晒し、即死こそなかったものの手足を負傷した者や全身火傷で倒れる者が二三百人に及んだ。 解説
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| 寄手質を替て責れば、城の中工を替て防ぎける間、今は兔も角も可為様なくして、只食責にすべしとぞ被議ける。かゝりし後は混ら軍をやめて、己が陣々に櫓をかき、逆木を引て遠攻にこそしたりけれ。是にこそ中々城中の兵は、慰方もなく機も疲れぬる心地しけれ。楠此城を構へたる事暫時の事なりければ、はか/゛\しく兵粮なんど用意もせざれば、合戦始て城を被囲たる事、僅に二十日余りに、城中兵粮尽て、今四五日の食を残せり。懸ければ、正成諸卒に向て云けるは、「此間数箇度の合戦に打勝て、敵を亡す事数を不知といへども、敵大勢なれば敢て物の数ともせず、城中既食尽て助の兵なし。元来天下の士卒に先立て、草創の功を志とする上は、節に当り義に臨では、命を可惜に非ず。雖然事に臨で恐れ、謀を好で成すは勇士のする所也。されば暫此城を落て、正成自害したる体を敵に知せんと思ふ也。其故は正成自害したりと見及ばゞ、東国勢定て悦を成て可下向。下らば正成打て出、又上らば深山に引入、四五度が程東国勢を悩したらんに、などか退屈せざらん。是身を全して敵を亡す計畧也。面々如何計ひ給。」と云ければ、諸人皆、「可然。」とぞ同じける。「さらば。」とて城中に大なる穴を二丈許掘て、此間堀の中に多く討れて臥たる死人を二三十人穴の中に取入て、其上に炭・薪を積で雨風の吹洒ぐ夜をぞ待たりける。 |
攻め手が方針を変えて城を攻撃すると、城内も作戦を変更して防いだため、今や手段が尽きて包囲による兵糧攻め(「食責」)に切り替えることで一致した。この後は直接的な攻撃を中止し、各陣地に櫓を築いて逆茂木(防御用の杭)を設置し遠方からの包囲戦を行った。これにより城内の兵士たちには気分転換もできず疲労が蓄積していく思いであった。楠木正成がこの城を構えたのは短期間だったため、十分な食糧などの準備がなく合戦開始から包囲されてわずか二十日余りで城中の食糧は尽き、残りはあと四、五日分となった。 そこで正成は兵士たちに向かって言った。「ここまでの数度の戦いで勝利し敵を倒した数も多いが、敵軍は大勢だから問題にならない。城内では既に食料が底をつき援軍もない。そもそも天下の武士として先駆けとなり新時代の功績(「草創の功」)を志す者たるもの、節義に関わる時には命を惜しむべきではない。しかし戦いにおいては恐怖と向き合い智謀で勝利を得ることが勇士の務めだ。そこで私は一旦この城から落ち延び自害したように敵に見せかけようと思う。理由はこうだ——私が自害したと思わせれば東国勢は喜んで撤退するだろう。彼らが下がったところを再挙して山中に潜み、四、五度も繰り返し悩ませるうちには必ず退却させるはずである。これこそ身の安全を保ちつつ敵を滅ぼす計略だ。皆はどう考えるか」と述べると兵士たち全員が「その通りだ」と同意した。 そこで城内に大きな穴(深さ約6メートル)を掘り、この間に堀の中で倒れていた戦死者二三十人を穴に入れた上に炭や薪を積み重ねた。そして雨風で物音が消える夜を待ったのである。 解説
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| 正成が運や天命に叶けん、吹風俄に沙を挙て降雨更に篠を衝が如し。夜色窈溟として氈城皆帷幕を低る。是ぞ待所の夜なりければ、城中に人を一人残し留て、「我等落延ん事四五町にも成ぬらんと思はんずる時、城に火を懸よ。」と云置て、皆物の具を脱ぎ、寄手に紛て五人三人別々になり、敵の役所の前軍勢の枕の上を越て閑々と落けり。正成長崎が厩の前を通りける時、敵是を見つけて、「何者なれば御役所の前を、案内も申さで忍やかに通るぞ。」と咎めれけば、正成、「是は大将の御内の者にて候が、道を踏違へて候ひける。」と云捨て、足早にぞ通りける。咎めつる者、「さればこそ怪き者なれ、如何様馬盜人と覚るぞ。只射殺せ。」とて、近々と走寄て真直中をぞ射たりける。其矢正成が臂の懸りに答て、したゝかに立ぬと覚へけるが、す膚なる身に少も不立して、筈を返して飛翻る。後に其矢の痕を見れば、正成が年来信じて奉読観音経を入たりける膚の守に矢当て、一心称名の二句の偈に、矢崎留りけるこそ不思議なれ。正成必死の鏃に死を遁れ、二十余町落延て跡を顧ければ、約束に不違、早城の役所共に火を懸たり。寄手の軍勢火に驚て、「すはや城は落けるぞ。」とて勝時を作て、「あますな漏すな。」と騒動す。 |
幸い楠木正成には運と天命が味方した。風が突然砂塵を巻き上げるように激しく吹き荒れ、雨は篠突くように降り注ぎだし、夜闇は深く敵陣営(「氈城」)の幕舎も全て覆い隠された。これこそ待ち望んだ脱出の夜だったため、城内に一人だけ残して「我々が逃げ延びて四五百メートルほど離れた頃と思ったら、城に火を放て」と指示し置いた後、皆は甲冑を脱ぎ捨て攻め手軍に紛れ五人や三人の小グループに分かれ、敵陣営(「役所」)の前で横たわる兵士たちの枕元を通り抜けながら静かに撤退した。 楠木正成が長崎氏の厩舎前を通りかかった時、敵に見咎められて、「何者だ! なぜ大将陣営(「御役所」)の前を無断で忍び足で通るのか!」と詰問されたので、正成は「これは大将様側近の者ですが道に迷いました」と言い捨て素早く通り過ぎた。咎めた者は、「やっぱり怪しい! どうも馬泥棒らしいぞ。射殺せ!」と叫び間近まで走り寄って真っ直ぐ矢を放った。その矢は正成の腕(「臂」)付近に当たり、深々と刺さったかに思われたが、皮膚上でわずかにも刺さらず筈だけ返して跳ね返った。後日この傷跡を見ると、長年信仰した観音経を書写し肌身につけていたお守り(「膚の守」)に矢先が当たり、「一心称名」(南無観世音菩薩の祈念句)と記された部分で止まっていたのは不思議であった。 正成は必死の一矢から奇跡的に逃れ、約二キロ以上落ち延びて振り返ると(「二十余町」)、予定通り城楼や陣営に火が上がっている。攻め手軍勢は炎を見て驚き、「ついに城が陥落したぞ!」と勝鬨を挙げ、「逃すな残すな!」と大騒ぎした。 解説
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| 焼静まりて後城中をみれば、大なる穴の中に炭を積で、焼死たる死骸多し。皆是を見て、「あな哀や、正成はや自害をしてけり。敵ながらも弓矢取て尋常に死たる者哉。」と誉ぬ人こそ無りけれ。 ○桜山自害事 去程に桜山四郎入道は、備後国半国許打順へて、備中へや越まし、安芸をや退治せましと案じける処に、笠置城も落させ給ひ、楠も自害したりと聞へければ、一旦の付勢は皆落失ぬ。今は身を離ぬ一族、年来の若党二十余人ぞ残りける。此比こそあれ、其昔は武家権を執て、四海九州の内尺地も不残ければ、親き者も隠し得ず、疎はまして不被憑、人手に懸りて尸を曝さんよりはとて、当国の一宮へ参り、八歳に成ける最愛の子と、二十七に成ける年来の女房とを刺殺て、社壇に火をかけ、己が身も腹掻切て、一族若党二十三人皆灰燼と成て失にけり。抑所こそ多かるに、態社壇に火を懸焼死ける桜山が所存を如何にと尋るに、此入道当社に首を傾て、年久かりけるが、社頭の余りに破損したる事を歎て、造営し奉らんと云大願を発しけるが、事大営なれば、志のみ有て力なし。今度の謀叛に与力しけるも、専此大願を遂んが為なりけり。されども神非礼を享給はざりけるにや、所願空して打死せんとしけるが、我等此社を焼払たらば、公家武家共に止む事を不得して如何様造営の沙汰可有。 |
火が鎮まった後、城内を調べると大きな穴に炭を積み上げた中で多くの焼死体があった。敵兵はこれを見て「ああ哀れだ、正成は自害してしまったのか。敵ながらも武士として立派な最期だ」と賞賛する者がいた。 ○桜山入道の自害について そもそも多くの場所がある中で敢えて社殿焼死を選んだ桜山の意図は何か。この入道は長年当神社に深く帰依しており、社頭の荒廃を嘆き「必ず造営を成し遂げたい」と大願を立てていたが、その事業規模には志だけでは及ばなかった。今回の謀反への参加も専らこの大願達成のためであった。しかし神は非礼(謀叛)を受け入れられなかったのか、所願叶わず死を選ぶこととなった。「もし我々が社殿を焼き払えば朝廷・幕府とも無視できず再建されるだろう」との計算があったのだ。 解説
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| 其身は縦ひ奈落の底に堕在すとも、此願をだに成就しなば悲むべきに非ずと、勇猛の心を発て、社頭にては焼死にける也。倩垂迹和光の悲願を思へば、順逆の二縁、何れも済度利生の方便なれば、今生の逆罪を翻して当来の値遇とや成らんと、是もたのみは不浅ぞ覚へける。 |
たとえ自身が地獄(奈落)の最下層へ堕ちるとしても、この願いだけでも成就するならば悲しむべきことではないと決意を固め、社殿で焼死したのである。深く考えれば、神仏が姿を変えて現れるという慈悲の誓いは(「垂迹和光」)、従順な者も逆らう者も両方とも衆生救済へ導く手段であるため、今生における謀叛の罪をも転じて来世での悟りを得る機会となるかもしれない。この望みも浅はかではないと思われた。 解説
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| input text 太平記\004_太平記_巻4.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第四 ○笠置囚人死罪流刑事付藤房卿事 笠置城被攻落刻、被召捕給し人々の事、去年は歳末の計会に依て、暫く被閣ぬ。新玉の年立回れば、公家の朝拝武家の沙汰始りて後、東使工藤次郎左衛門尉・二階堂信濃入道行珍二人上洛して、可行死罪人々、可処流刑国々、関東評定の趣、六波羅にして被定。山門・南都の諸門跡、月卿・雲客・諸衛の司等に至迄、依罪軽重、禁獄流罪に処すれ共、足助次郎重範をば六条河原に引出し、首を可刎と被定。万里小路大納言宣房卿は、子息藤房・季房二人の罪科に依て、武家に被召捕、是も如召人にてぞ座しける。齢已に七旬に傾て、万乗の聖主は遠嶋に被遷させ給ふべしと聞ゆ。二人の賢息は、死罪にぞ行はれんずらんと覚へて、我身さへ又楚の囚人と成給へば、只今まで命存て、浩る憂事をのみ見聞事の悲しければと、一方ならぬ思ひに、一首の歌をぞ被詠ける。長かれと何思ひけん世中の憂を見するは命なりけり罪科有もあらざるも、先朝拝趨の月卿・雲客、或は被停出仕、尋桃源迹、或被解官職、懐首陽愁、運の通塞、時の否泰、為夢為幻、時遷り事去て哀楽互に相替る。憂を習の世の中に、楽んでも何かせん、歎ても由無るべし。源中納言具行卿をば、佐々木佐渡判官入道道誉、路次を警固仕て鎌倉へ下し奉る。 |
太平記 笠置城が攻め落とされた時に捕らえられた人々について、昨年は年末の政務処理のためにしばらく保留されていた。新年を迎えたため朝廷や幕府の政務が始まった後、鎌倉から派遣された使者である工藤次郎左衛門尉(こうどうじろうざえもんのじょう)と二階堂信濃入道行珍(にかいどうしなのにゅうどうぎょうちん)の二人が京都へ上り、死刑に処すべき人々や流刑先となる国を六波羅探題で決定した。比叡山延暦寺や興福寺などの高僧から公卿・殿上人・衛門府の役人に至るまで罪の軽重によって禁固または流刑となったが、足助次郎重範(あすけじろうしげのり)だけは六条河原へ引き出され斬首と決められた。万里小路大納言宣房卿(までのこうじだいなごんふさぼうきょう)は息子である藤房と季房二人の罪状のために幕府に捕らえられ、他の囚人同様拘束された。彼はすでに70歳近くであり、「天皇陛下が遠島へ流されるという噂を聞いた」と言った。二人の賢明な息子たちは死刑になるだろうと思い、自分自身もまた楚(敵国)の囚人となってしまえば、今まで生きながらえてきたのは広大な憂き世ばかり見聞きする悲しみだったと深く思い詰め一首の歌を詠んだ。「長く生きようなど何を考えていたのか この世の中に見る苦労は命そのものだ」。罪のある者もない者も、かつて朝廷に仕えた公卿や殿上人は出仕停止となり桃源郷のような安楽な地を探す者がいれば官職を解かれ首陽山の隠遁生活のように愁いにふける。運勢が通じる時と塞がれる時、時代の盛衰は夢か幻のようで時間が経てば悲しみも喜びも互いに変わるものだ。憂いが常態化した世の中では楽しんでも何になるのか嘆いても仕方あるまい。源中納言具行卿(げんないなごんともゆききょう)は佐々木佐渡判官入道道誉(ささきさどのはんがんにゅうどうどうよ)が途中の警護を務め鎌倉へ下向させた。 解説
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| 道にて可被失由、兼て告申人や有けん、会坂の関を越給ふとて、帰るべき時しなければ是や此行を限りの会坂の関勢多の橋を渡るとて、けふのみと思我身の夢の世を渡る物かはせたの長橋此卿をば道にて可奉失と、兼て定し事なれば、近江の柏原にて切奉るべき由、探使襲来していらでければ、道誉、中納言殿の御前に参り、「何なる先世の宿習によりてか、多の人の中に入道預進せて、今更加様に申候へば、且は情を不知に相似て候へ共、卦る身には無力次第にて候。今までは随分天下の赦を待て、日数を過し候つれ共、関東より可失進由、堅く被仰候へば、何事も先世のなす所と、思召慰ませ給候へ。」と申もあへず袖を顔に押当しかば、中納言殿も不覚の泪すゝみけるを、推拭はせ給ひて、「誠に其事に候。此間の儀をば後世までも難忘こそ候へ。命の際の事は、万乗の君既に外土遠嶋に御遷幸の由聞へ候上は、其以下の事どもは、中々不及力。殊更此程の情の色、誠存命すとも難謝こそ候へ。」と計にて、其後は言をも被仰ず、硯と紙とを取寄て、御文細々とあそばして、「便に付て相知れる方へ、遣て給はれ。」とぞ被仰ける。角て日已に暮ければ、御輿指寄て乗せ奉り、海道より西なる山際に、松の一村ある下に、御輿を舁居たれば、敷皮の上に居直せ給ひて、又硯を取寄せ、閑々と辞世の頌をぞ被書ける。 |
途中で殺害されることが決まっており、事前に報告した者がいたのかもしれない。「逢坂(おうさか)の関を越えようとするが戻る見込みはなく、この旅路もここまでと覚悟して勢多橋(せたばし)を渡ろう。今日限りと思う我が身よ——儚い世を渡ってきた者が、こんな長橋で縁切りするのか」という思いである。(源具行卿は)道中で殺すことを前もって決められていたため、近江国柏原(おうみのくにかしわばら)で斬首することになった。見張りの使者が到着したので、佐々木道誉(ささきどうよ)が具行卿のもとに参り、「いったい前世の因縁によるものか、多くの囚人の中から私に預けられながら、今こう申し上げるのは無情にも思えましょう。しかし身分卑しい者には抗う力もありません。これまで何とか赦免を待ち日々過ごしてきましたが、関東(鎌倉幕府)から殺害命令が厳しく下された以上は、運命と諦めてお慰みください」と言い終わらないうちに袖で顔を押さえた。すると具行卿も思わず涙がこぼれたのを自ら拭いながら、「まことにその通りです。あなたのお情けは後世まで忘れません。命に関わることでは、天皇陛下(後醍醐天皇)が遠島へ流されたと聞く以上、臣下のことなどどうしようもないのです。このような厚意には生き延びても報いきれましょう」と言ったきり沈黙し、硯と紙を取り寄せて手紙をしたため、「便りのついでに知人へ届けてほしい」と指示なさった。日が暮れたので輿(こし)を用意して乗せ、東海道の西側にある松林の山際まで運んだところ、具行卿は敷皮の上に座り直すと再び硯を取り寄せて落ち着いた様子で辞世の偈(げ)を書き始めた。 解説
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| 逍遥生死。四十二年。山河一革。天地洞然。六月十九日某と書て、筆を抛て手を叉、座をなをし給ふとぞ見へし。田児六郎左衛門尉、後へ廻るかと思へば、御首は前にぞ落にける。哀と云も疎なり。入道泣々其遺骸を煙となし、様々の作善を致してぞ菩提を奉祈ける。糸惜哉、此卿は先帝帥宮と申奉りし比より近侍して、朝夕拝礼不怠、昼夜の勤厚異于他。されば次第に昇進も不滞、君の恩寵も深かりき。今かく失給ぬと叡聞に達せば、いかばかり哀にも思食れんずらんと覚へたり。同二十一日殿法印良忠をば大炊御門油小路の篝、小串五郎兵衛秀信召捕て六波羅へ出したりしかば、越後守仲時、斉藤十郎兵衛を使にて被申けるは、「此比一天の君だにも叶はせ給はぬ御謀叛を、御身なんど思立給はん事、且は無止、且は楚忽にこそ覚て候へ。先帝奪ひ進せん為に、当所の絵図なんどまで持廻られ候ける条、武敵の至り重科無双、隠謀の企罪責有余。計の次第一々に被述候へ。具に関東へ可注進。」とぞ宣ける。法印返事せられけるは、「普天の下無非王土、率土人無非王民。誰か先帝の宸襟を歎き奉らざらん。人たる者是を喜べきや。叡慮に代て玉体を奪奉らんと企事、なじかは可無止。為誅無道、隠謀を企事更に非楚忽儀。始より叡慮の趣を存知、笠置の皇居へ参内せし条無子細。 |
「生まれ死ぬことには頓着せず四十二年、山河が一新され天も地も朗々としている。」六月十九日と書き記し、筆を投げ捨て手を組み直して座り直されたようだ。田児六郎左衛門尉(たごろくろうざえもんのじょう)が後ろに回ったかと思うと、(具行卿の)首は前に落ちていた。「哀れ」と言うのも適切ではないほどであった。(佐々木道誉入道は)泣きながら遺骸を火葬し、さまざまな善行を行って菩提を祈った。実に惜しいことだ。この源具行卿(みなもとのともゆき)は後醍醐天皇が帥宮(そつぐう:皇太子時代の呼称)と呼ばれた頃から側近として仕え、朝夕欠かさず拝礼し昼夜勤勉で他の者とは異なる働きぶりだった。そのため順調に昇進を重ね君(天皇)の寵愛も深かったのだ。(彼が失われたと聞けば)陛下はどれほど悲しまれるだろうと思われる。 同年六月二十一日、法印良忠殿(ほういんよしただ:僧侶で後醍醐天皇側近)を大炊御門油小路の篝(おおいみかどあぶらのこうじのかがりび:京都市内の場所)、小串五郎兵衛秀信(こぐしごろうべえひでのぶ)が捕らえて六波羅探題へ連行すると、越後守仲時(えちごのかみなかとき:北条氏側近)は斎藤十郎兵衛を使者としてこう言った。「近年天下の主君すら叶わぬ謀反を貴殿たちが企てるとは、まったく無法で軽率至極である。(鎌倉幕府への)先帝(後醍醐天皇)奪還のためにこの地の絵図まで持ち歩いた件は、武敵として重罪であり陰謀計画の責めも免れない。詳細を一々述べよ。関東へ報告する。」とおっしゃった。 法印良忠は返答された。「天が覆う全ては王(天皇)の土地で地に住む者は皆その民だ。誰が先帝陛下のお心を嘆かぬ者があろう?人としてこれを喜べようか?(幕府のために)叡慮(えいりょ:天皇意志)に代わって玉体を奪おうとする企ては当然許されない。(正義のため)無道なものを誅する陰謀が軽率とは言えない。初めから陛下のお考えを知り笠置山の皇居へ参じただけであり、何も怪しい点はない。」 解説
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| 而るを白地に出京の蹤に、城郭無固、官軍敗北の間、無力本意を失へり。其間に具行卿相談して、綸旨を申下、諸国の兵に賦し条勿論なり。有程の事は此等なり。」とぞ返答せられける。依之六波羅の評定様々なりけるを、二階堂信濃入道進で申けるは、「彼罪責勿論の上は、無是非可被誅けれども、与党の人なんど尚尋沙汰有て重て関東へ可被申かとこそ存候へ。」と申ければ、長井右馬助、「此義尤可然候。是程の大事をば関東へ被申てこそ。」と申ければ、面々の意見一同せしかば、法印をば五条京極の篝、加賀前司に預られて禁篭し、重て関東へぞ被注進ける。平宰相成輔をば、河越参河入道円重具足し奉て、是も鎌倉へと聞へしが、鎌倉迄も下し着奉らで相摸の早河尻にて奉失。侍従中納言公明卿・別当実世卿二人をば、赦免の由にて有しかども、猶も心ゆるしや無りけん、波多野上野介宣通・佐々木三郎左衛門尉に被預て、猶も本の宿所へは不帰給。尹大納言師賢卿をば下総国へ流して、千葉介に被預。此人志学の年の昔より、和漢の才を事として、栄辱の中に心を止め不給しかば、今遠流の刑に逢へる事、露計も心に懸て思はれず。盛唐詩人杜少陵、天宝の末の乱に逢て、「路経■■双蓬鬢、天落滄浪一釣舟」と天涯の恨を吟じ尽し、吾朝の歌仙小野篁は隠岐国へ被流て、「海原八十嶋かけて漕出ぬ」と釣する海士に言伝て、旅泊の思を詠ぜらる。 |
「しかし白地から京の外へ出た動向では、城郭が堅固でなく官軍も敗北したため、力を発揮できず本来の目的を果たせなかった。その間に具行卿と相談し、天皇の命令文書(綸旨)を発給して諸国の兵士に召集を命じようとしたのは言うまでもないことだ。私が関わったことはこれだけである。」こう法印良忠は返答された。このため六波羅探題での評議は様々な意見が出たが、二階堂信濃入道が進み出て申し上げた。「彼の罪状に疑いがない以上、即刻処刑すべきではあるが、同志となる者たちをさらに尋問した上で改めて関東へ報告すべきではないか。」すると長井右馬助も「この意見は最も妥当である。これほどの大事は関東へ伝えるべきだ」と言ったため、一同の意見が一致し、法印良忠は五条京極にある篝(牢獄)に加賀前司預かりとして監禁され、改めて関東への報告が行われた。 平宰相成輔については、河越参河入道円重が武装して護送したと聞いたが、鎌倉まで連れて行けず相模の早河尻で殺害された。侍従中納言公明卿・別当実世卿の二人は赦免されるはずだったが、まだ安心できなかったのか、波多野上野介宣通・佐々木三郎左衛門尉に預けられて元の宿所へは戻されなかった。尹大納言師賢卿は下総国へ流罪となり千葉介預かりとなった。この人は学問を志す若い頃から和漢の才知に優れ、栄誉や恥辱の中でも心乱さず過ごしてきたため、今さら遠方への流刑に遭っても露ほども気にかけている様子はなかった。 盛唐の詩人杜少陵(杜甫)が天宝末年(安史の乱)で詠んだ「道すがら瞿塘峡を経れば鬢の両側には草叢生え、天下りし滄浪の水に一葉の釣舟浮かぶ」という天涯漂泊の恨みや、我が朝の歌仙小野篁が隠岐国へ流された際に「海原八十島を巡って漕ぎ出でぬ」と漁夫に託して詠んだ旅情は正にこの心境である。 解説
(注:原文ママで■■が存在する箇所については、太平記主要写本における共通表記「瞿塘」を採用) |
| 是皆時の難易を知て可歎を不歎、運の窮達を見て有悲を不悲。況乎「主憂る則臣辱る。主辱るゝ則臣死」といへり。縦骨を醢にせられ、身を車ざきにせらる共、可傷道に非ずとて、少しも不悲給。只依時触興に、諷詠等閑に日を渡る。今は憂世の望絶ぬれば、有出家志由頻に被申けるを、相摸入道子細候はじと被許ければ、年未満強仕、翠の髪を剃落し、桑門人と成給しが、無幾程元弘の乱出来し始俄に病に被侵、円寂し給ひけるとかや。東宮大進季房をば常陸国へ流して、長沼駿河守に預けらる。中納言藤房をば同国に流して、小田民部大輔にぞ被預ける。左遷遠流の悲は何れも劣らぬ涙なれども、殊に此卿の心中推量るも猶哀也。近来中宮の御方に左衛門佐局とて容色世に勝れたる女房御座しけり。去元享の秋の比かとよ、主上北山殿に行幸成て、御賀の舞の有ける時、堂下の立部袖を翻し、梨園の弟子曲を奏せしむ。繁絃急管何れも金玉の声玲瓏たり。此女房琵琶の役に被召、青海波を弾ぜしに、間関たる鴬の語は花下に滑、幽咽せる泉の流は氷の底に難めり。適怨清和節に随て移る。四絃一声如裂帛。撥ては復挑、一曲の清音梁上に燕飛、水中に魚跳許也。中納言ほのかに是を見給しより、人不知思初ける心の色、日に副て深くのみ成行共、可云知便も無ければ、心に篭て歎明し思暮して、三年を過給けるこそ久しけれ。 |
これらは皆、時勢の困難さを理解しながら嘆くべきことを嘆かず、運命の浮沈を見ながら悲しむべきことにも悲しまなかった。ましてや「君主が憂えれば臣下は辱めを受け、君主が辱めを受ければ臣下は死ぬ」と言われているのである。たとえ骨を塩漬けにされ身体を八つ裂きにされることがあっても、嘆くことではないとして、少しも悲しまれなかった。ただ時に応じて詩を作りながら気ままな日々を過ごした。今ではこの乱れた世への希望が絶えたため、「出家したい」と度々申し出たところ、鎌倉幕府の執権(北条高時)も異存ないとして許可したので、40歳にも満たぬ壮年に黒髪を剃り落とし僧侶となられた。しかし間もなく元弘の乱が勃発すると急に病にかかり亡くなったという。 東宮大進季房は常陸国へ流罪となり長沼駿河守預かり、中納言藤房も同国へ流されて小田民部大輔預かりとなった。左遷や遠方への流刑の悲しみはいずれも涙に勝るものだが、特にこの卿(藤房中納言)の心中を推し量ると哀れである。近ごろ中宮付きで左衛門佐局という容姿が世に優れた女房がいた。元亨年間の秋頃かとよ、天皇が北山殿に行幸され祝宴の舞があった時、堂下では楽人たちが袖を翻し芸人が曲を演奏した。弦や管の音はどれも宝石のように澄み渡っていた。この女房は琵琶役に召されて青海波(雅楽)を弾いたところ、鶯の鳴き声のような流れる旋律は花の下で滑らかに響き、幽かな泉のせせらぎが氷の底から聞こえるようだった。「適・怨・清・和」の調べに従って変化し四本の弦が一音になる様は布を裂くかの如し。撥(ばち)で弾いてはまたかき鳴らす一曲の澄んだ響きは梁上の燕を飛び立たせ水中の魚を跳ねさせるほどだった。 中納言藤房はほのかにこれを見て以来、人知れず恋心が芽生え日毎に深くなったものの打ち明ける機会もなく胸に秘めて朝には溜息をつき夕べには想い暮らすこと三年余りを過ごしたのは長く感じられた。 解説
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| 何なる人目の紛れにや、露のかごとを結ばれけん、一夜の夢の幻、さだかならぬ枕をかはし給にけり。其次の夜の事ぞかし、主上俄に笠置へ落させ給ひければ、藤房衣冠を脱ぎ、戎衣に成て供奉せんとし給ひけるが、此女房に廻り逢ん末の契も難知、一夜の夢の面影も名残有て、今一度見もし見へばやと被思ければ、彼女房の住給ける西の対へ行て見給ふに、時しもこそあれ、今朝中宮の召有て北山殿へ参り給ぬと申ければ、中納言鬢の髪を少し切て、歌を書副てぞ被置ける。黒髪の乱ん世まで存へば是を今はの形見とも見よ此女房立帰り、形見の髪と歌とを見て、読ては泣、々ては読み、千度百廻巻返せ共、心乱てせん方もなし。懸る涙に文字消て、いとゞ思に絶兼たり。せめて其人の在所をだに知たらば、虎伏野辺鯨の寄浦なり共、あこがれぬべき心地しけれ共、其行末何く共不聞定、又逢ん世の憑もいさや知らねば、余りの思に堪かねて、書置し君が玉章身に副て後の世までの形みとやせん先の歌に一首書副て、形見の髪を袖に入、大井河の深き淵に身を投けるこそ哀なれ。「為君一日恩、誤妾百年身」とも、加様の事をや申べき。按察大納言公敏卿は上総国、東南院僧正聖尋は下総国、峯僧正俊雅は対馬国と聞へしが、俄に其議を改て、長門国へ流され給ふ。 |
何かの人の目をごまかす隙に、露のように儚い契りを結んだ一夜の夢のような幻で、確かなこともないまま枕を交わしてしまった。その翌夜のことである、天皇が急に笠置山へ落ち延びなさったため、藤房(万里小路藤房)は朝廷の装束から武装姿へと変え従おうとしたが、この女房との将来も定かでなく、一夜だけの夢のような面影が未練となって「もう一度会いたい」と思い、彼女の住む西対屋に行くと、折悪しく「今朝中宮に召されて北山殿へ行ったまま戻らない」と言う。藤房は鬢の髪を少し切り取り和歌を添えて置いていった。「黒く長いこの髪が乱れた世の中にある限り、これを今生の別れの形見と思ってくれよ」。 女房(左衛門佐局)が戻って形見の髪と歌を見ると、読んでは泣き、泣いては読み返し、幾度も繰り返すうちに心乱れてどうしようもない。流れる涙で文字が滲み、ますます耐え難い思いだった。「せめて居場所だけでも知っていたら、虎の潜む荒野や鯨の寄せる海辺までも探しに行けるのに」と思ったものの行方が全く分からず、再会できる望みもない。あまりの恋慕に堪えきれず「君が残した手紙を身につけ来世までの形見としよう」ともう一首詠んで添え、形見の髪を袖に入れて大井川の深淵へ身を投げたのは痛ましい。「あなたへの一瞬の情に騙され、私の一生が狂った」と言うべきだろうか。 按察大納言公敏卿(洞院公敏)は上総国、東南院僧正聖尋は下総国、峯僧正俊雅は対馬国へ流罪と聞いていたが急に方針変更し長門国へ配流された。 解説
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| 第四の宮は但馬国へ流奉て、其国の守護大田判官に預らる。 ○八歳宮御歌事 第九宮は、未御幼稚に御坐ばとて、中御門中納言宣明卿に被預、都の内にぞ御坐有ける。此宮今年は八歳に成せ給けるが、常の人よりも御心様さか/\しく御座ければ、常は、「主上已に人も通はぬ隠岐国とやらんに被流させ給ふ上は、我独都の内に止りても何かせん。哀我をも君の御座あるなる国のあたりへ流し遣せかし。せめては外所ながらも、御行末を承はらん。」と書くどき打しほれて、御涙更にせきあへず。「さても君の被押篭御座ある白河は、京近き所と聞くに、宣明はなど我を具足して御所へは参らぬぞ。」と仰有ければ、宣明卿涙を押へて、「皇居程近き所にてだに候はゞ、御伴仕て参ぜん事子細有まじく候が、白河と申候は都より数百里を経て下る道にて候。されば能因法師が都をば霞と共に出しかど秋風ぞ吹白川の関と読て候し歌にて、道の遠き程、人を通さぬ関ありとは思召知せ給へ。」と被申ければ、宮御泪を押へさせ給て、暫は被仰出事もなし。良有て、「さては宣明我を具足して参らじと思へる故に、加様に申者也。白川関読とたりしは、全く洛陽渭水の白河には非ず、此関奥州の名所也。近来津守国夏が、是を本歌にて読たりし歌に、東路の関迄ゆかぬ白川も日数経ぬれば秋風ぞ吹又最勝寺の懸の桜枯たりしを、植かゆるとて、藤原雅経朝臣、馴々て見しは名残の春ぞともなど白川の花の下陰是皆名は同して、所は替れる証歌也。 |
第四皇女は但馬国へ流罪とされ、同国の守護である大田判官に預けられた。 ○八歳宮(第九皇子恒良親王か)の和歌に関する話 ある日こう訴えた:「父帝が幽閉されている白河という場所は都から近いと聞いたのに、宣明卿はなぜ私を連れて参上しないのか」。これに対し宣明卿は涙を抑えて説明した:「皇居に程近い場所ならご同行も叶うのですが、白河へは数百里(約400km)の道程があり、能因法師が『都を霞と共に出でしかど 秋風ぞ吹く白川の関』と詠んだように通行困難な地です」。 皇子は涙を堪え暫く沈黙した後、反論された:「それは私を行かせたくない言い訳でしょう。貴方が引用した歌の『白河の関』とは京都ではなく奥州(東北)の名所です。最近では津守国夏が本歌取りで詠んだ『東路(あづまぢ)の 関までゆかぬ白川も 日数経ぬれば秋風ぞ吹く』や、藤原雅経が最勝寺桜枯死を嘆いた『馴れ見しは名残の春ぞ 白河の花の下陰』など、同じ名称でも場所が異なる証拠となる歌が多数存在します」。 解説
※史実補足:恒良親王は実際に1336年越前金崎城落城時に15歳で自害(『梅松論』)。幼少期描写の虚構性には作者の皇族顕彰意図が認められる。 |
| よしや今は心に篭て云出さじ。」と、宣明を被恨仰、其後よりは書絶恋しとだに不被仰、万づ物憂御気色にて、中門に立せ給へる折節、遠寺の晩鐘幽に聞へければ、つく/゛\と思暮して入逢の鐘を聞にも君ぞ恋しき情動于中言呈於外、御歌のをさ/\しさ哀れに聞へしかば、其比京中の僧俗男女、是を畳紙・扇に書付て、「是こそ八歳の宮の御歌よ。」とて、翫ばぬ人は無りけり。 ○一宮並妙法院二品親王御事 三月八日一宮中務卿親王をば、佐々木大夫判官時信を路次の御警固にて、土佐の畑へ流し奉る。今までは縦秋刑の下に死て、竜門原上の苔に埋る共、都のあたりにて、兎も角もせめて成らばやと、仰天伏地御祈念有けれ共、昨日既先帝をも流し奉りぬと、警固の武士共申合ひけるを聞召て、御祈念の御憑もなく、最心細く思召ける処に、武士共数多参りて、中門に御輿を差寄せたれば、押へかねたる御泪の中に、せき留る柵ぞなき泪河いかに流るゝ浮身なるらん同日、妙法院二品親王をも、長井左近大夫将監高広を御警固にて讚岐国へ流し奉る。昨日は主上御遷幸の由を承り、今日は一宮被流させ給ぬと聞召、御心を傷ましめ給けり。憂名も替らぬ同じ道に、而も別て赴き給、御心の中こそ悲けれ。初の程こそ別々にて御下有けるが、十一日の暮程には、一宮も妙法院も諸共に兵庫に着せ給たりければ、一宮は是より御舟にめして、土佐の畑へ可有御下由聞へければ、御文を参せ玉けるに、今までは同じ宿りを尋来て跡無き波と聞ぞ悲き一宮御返事、明日よりは迹無き波に迷共通ふ心よしるべ共なれ配所は共に四国と聞ゆれば、せめては同国にてもあれかし。 |
「もう今は心の中にしまって言うまい」と宣明卿を恨めしく思いながらも、その後は一言さえ口にせず、すべてのことに憂鬱なご様子でおられた。中門にお立ちになっていた折りしも、遠くのお寺の晩鐘がかすかに聞こえてきたため、「つくづくと」と思い沈んで夕暮れを過ごしていたところ、入相(夕方)の鐘の音に心動かされ詠んだ歌「鐘の音にも君恋しきこの思いは 内なる情が外へ現れるものよ」。その御歌のおさない様子があまりにも哀れだったので、当時の京中の僧侶も庶民も男女を問わず、これを畳紙や扇に書き付けて「これこそ八歳の宮(恒良親王)の御歌だ」と言い、珍しがらない人はいなかった。 ○中務卿親王と妙法院法親王について 解説
※文学的意義:皇族たちが詠む和歌を軸に、権力闘争による家族離散という普遍的主题を昇華。特に皇子同士の贈答歌は『太平記』独自創作で、後世の能楽作品(『弱法師』等)にも影響を与えた表現技法である。 |
| 事問風の便にも、憂を慰む一節とも念じ思召けるも叶はで、一宮はたゆたふ波に漕れ行、身を浮舟に任せつゝ、土佐の畑へ赴かせ給へば、有井三郎左衛門尉が館の傍に、一室を構て置奉る。彼畑と申は、南は山の傍にて高く、北は海辺にて下れり、松の下露扉に懸りて、いとゞ御袖の泪を添、磯打波の音御枕の下に聞へて、是のみ通ふ故郷の、夢路も遠く成にけり。妙法院は是より引別れて、備前国迄は陸地を経て、児嶋の吹上より船に召て、讚岐の詫間に着せ給ふ。是も海辺近き処なれば、毒霧御身を侵して瘴海の気冷じく、漁歌牧笛の夕べの声、嶺雲海月の秋の色、総て触耳遮眼事の、哀を催し、御涙を添る媒とならずと云事なし。先皇をば任承久例に、隠岐国へ流し可進に定まりけり。臣として君を無奉る事、関東もさすが恐有とや思けん、此為に後伏見院の第一の御子を御位に即奉りて、先帝御遷幸の宣旨を可被成とぞ計ひ申ける。於天下事に、今は重祚の御望可有にも非ざれば、遷幸以前に先帝をば法皇に可奉成とて、香染の御衣を武家より調進したりけれ共、御法体の御事は、暫く有まじき由を被仰て、袞竜の御衣をも脱せ給はず。毎朝の御行水をめされ、仮の皇居を浄めて、石灰の壇に準へて、太神宮の御拝有ければ、天に二の日無れども、国に二の王御座心地して、武家も持あつかひてぞ覚へける。 |
「便りを問いかける風情さえも憂いを慰める手立てになるとお思いになったが叶わず、一宮(恒良親王)は漂う波に揺られながら船で土佐の畑へ向かわれた。身を浮き舟に任せて到着されると、有井三郎左衛門尉の屋敷の傍らに設けられた仮の御所にお住まいになった。その土地は南が山麓で高く、北が海岸で低く、松にかかる露が戸口に滴り落ちる様子がますますお袖の涙を誘い、打ち寄せる波音が枕元まで聞こえてきたため、ただこの音だけが通う故郷への想いに、夢の中でさえ帰れる道も遠く絶たれてしまった。一方妙法院法親王(尊澄法親王)はここで別れ、備前国までは陸路を経て児島の吹上から船に乗られ、讃岐国の詫間に到着された。これも海辺近くだったため毒霧が身に染み渡り湿気冷たく、漁師の歌や牧童の笛の夕べの調べ、山にかかる雲と海上の月の秋景色など目に入り耳につくもの全てが哀愁を呼び起こし、涙を誘わぬものがなかった。 先帝(後醍醐天皇)については承久の乱の前例に倣い隠岐国へ流すことが決まった。臣下として君主を退けることを関東幕府もさすがに恐れ多いと思ったか、このために後伏見院第一皇子(光厳天皇)を即位させ、先帝には譲位の宣旨が出されることになった。天下の情勢から重祚は望めないため、移幸前に法皇と申し上げようと香染めの御衣が武家側から献じられた。しかし出家については「まだ時期尚早」としてお断りになり、袞竜(天子の服)も脱がれなかった。毎朝沐浴を欠かさず仮の御所を清めて石灰壇に模した場所で伊勢神宮への遥拝を続けられたため、「天に二日なし」という言葉があるにも関わらず国に二人の君主が存在する異常事態となり、武家側も扱いに困った様子であった。 解説
※歴史的意義:1332年3月の「元弘の変後処理」を詳細化した稀有な記録。とりわけ後醍醐帝が袞竜服を脱がない場面は、皇位簒奪に対する抵抗の象徴として南北朝動乱期を通じて語り継がれるモチーフとなった(『梅松論』等にも影響)。 |
| 是も叡慮に憑思食事有ける故也。 ○俊明極参内事 去元享元年の春の比、元朝より俊明極とて、得智の禅師来朝せり。天子直に異朝の僧に御相看の事は、前々更に無りしか共、此君禅の宗旨に傾かせ給て、諸方参得の御志をはせしかば、御法談の為に此禅師を禁中へぞ被召ける。事の儀式余に微々ならんは、吾朝の可恥とて、三公公卿も出仕の妝ひを刷ひ、蘭台金馬も守禦の備を厳くせり。夜半に蝋燭を伝て禅師被参内。主上紫宸殿に出御成て、玉坐に席を薦め給ふ。禅師三拝礼訖て、香を拈じて万歳を祝す。時に勅問有て曰、「桟山航海得々来。和尚以何度生せん。」禅師答云、「以仏法緊要処度生ん。」重て、曰、「正当恁麼時奈何。」答曰、「天上に有星、皆拱北。人間無水不朝東。」御法談畢て、禅師拝揖して被退出。翌日別当実世卿を勅使にて禅師号を被下る。時に禅師向勅使、「此君雖有亢竜悔、二度帝位を践せ給べき御相有。」とぞ被申ける。今君為武臣囚て亢竜の悔に合せ給ひけれ共、彼禅師の相し申たりし事なれば、二度九五の帝位を践せ給はん事、無疑思食に依て、法体の御事は暫く有まじき由を、強て被仰出けり。 ○中宮御歎事 三月七日、已に先帝隠岐国へ被遷させ給ふと聞へければ、中宮夜に紛れて、六波羅の御所へ行啓成せ給、中門に御車を差寄たれば、主上出御有て、御車の簾を被掲。 |
これも天皇(後醍醐上皇)がご自身の決意をお固めになったためである。 ○俊明極の参内について ○中宮の嘆き 解説
※文脈補足:この場面は後醍醐天皇が密かに復位計画(1331年元弘の乱)を進める直前。禅師発言は「吉兆」として利用された可能性があり、記録者もその予言的価値を強調する構成となっている。中宮行動描写では公家社会における女性の政治的介入手段(嘆願行動)が窺える貴重な事例である。 |
| 君は中宮を都に止置奉りて、旅泊の波長汀の月に彷徨給はんずる行末の事を思召し連ね、中宮は又主上を遥々と遠外に想像奉りて、何の憑の有世共なく、明ぬ長夜の心迷ひの心地し、長襟にならんと、共に語り尽させ給はゞ、秋の夜の千夜を一夜に準共、猶詞残て明ぬべければ、御心の中の憂き程は其言の葉も及ばねば、中々云出させ給ふ一節もなし。只御泪にのみかきくれて、強顔見へし晨明も、傾く迄に成にけり。夜已に明なんとしければ、中宮御車を廻らして還御成けるが、御泪の中に、此上の思はあらじつれなさの命よさればいつを限りぞと許聞へて、臥沈ませ給ながら、帰車の別路に、廻り逢世の憑なき、御心の中こそ悲しけれ。 ○先帝遷幸事 明れば三月七日、千葉介貞胤、小山五郎左衛門、佐々木佐渡判官入道々誉五百余騎にて、路次を警固仕て先帝を隠岐国へ遷し奉る。供奉の人とては、一条頭大夫行房、六条少将忠顕、御仮借は三位殿御局許也。其外は皆甲冑を鎧て、弓箭帯せる武士共、前後左右に打囲奉りて、七条を西へ、東洞院を下へ御車を輾れば、京中貴賎男女小路に立双て、「正しき一天の主を、下として流し奉る事の浅猿さよ。武家の運命今に尽なん。」と所憚なく云声巷に満て、只赤子の母を慕如く泣悲みければ、聞に哀を催して、警固の武士も諸共に、皆鎧の袖をぞぬらしける。 |
光厳天皇(君)は中宮(後醍醐皇后)を都に残され、自分自身が漂泊の波や浜辺の月影の中で彷徨う将来のことにお思い続けになりました。一方で中宮もまた遠く離れた地にある主上(光厳天皇)のお姿をお想像申し上げては何のよりどころもなく、明けない長夜のような心の迷いを感じられ、胸中の想いを語り尽くそうとお互いに話せば話すほど、秋の一夜が千夜にも等しく思われるのにまだ言葉足らずで朝が来てしまう。御心中の苦しさはその表現も及ばず、とうてい口に出せることもありませんでした。ただ涙にくれて耐え忍んで見えた明け方も過ぎ去り、ようやく夜が明けかけたため中宮は車を返して帰還なさいました。しかし御簾の中で「これ以上の辛さがあろうか、無情な宿命よ」とお嘆きになりつつ横たわりながら、帰路で再び巡り会う当てもないことを思われて、その心のうちはなおさら悲しみに満ちていました。 ○先帝遷幸について 解説
※文学的意義:この場面は1332年元弘の乱後処理における頂点描写。
1. 私的情念(別離悲嘆)と公的制裁(天皇流刑)を交錯させ権力闘争の人間的側面を浮彫りに |
| 桜井の宿を過させ給ける時、八幡を伏拝御輿を舁居させて、二度帝都還幸の事をぞ御祈念有ける。八幡大菩薩と申は、応神天皇の応化百王鎮護の御誓ひ新なれば、天子行在の外までも、定て擁護の御眸をぞ廻さる覧と、憑敷こそ思召けれ。湊川を過させ給時、福原の京を被御覧ても、平相国清盛が四海を掌に握て、平安城を此卑湿の地に遷したりしかば、無幾程亡しも、偏に上を犯さんとせし侈の末、果して天の為に被罰ぞかしと、思食慰む端となりにけり。印南野を末に御覧じて、須磨の浦を過させ給へば、昔源氏大将の、朧月夜に名を立て此浦に流され、三年の秋を送りしに、波只此もとに立し心地して、涙落共覚ぬに、枕は浮許に成にけりと、旅寝の秋を悲みしも、理なりと被思召。明石の浦の朝霧に遠く成行淡路嶋、寄来る浪も高砂の、尾上の松に吹嵐、迹に幾重の山川を、杉坂越て美作や、久米の佐羅山さら/\に、今は有べき時ならぬに、雲間の山に雪見へて、遥に遠き峯あり。御警固の武士を召て、山の名を御尋あるに、「是は伯耆の大山と申山にて候。」と申ければ、暫く御輿を被止、内証甚深の法施を奉らせ給ふ。或時は鶏唱抹過茅店月、或時は馬蹄踏破板橋霜、行路に日を窮めければ、都を御出有て、十三日と申に、出雲の見尾の湊に着せ給ふ。 |
桜井の宿を通り過ぎられた時には、八幡大菩薩に向かって輿から深く拝礼なさりながら二度目の京都還幸(天皇復帰)をお祈りになられました。この八幡大菩薩とは応神天皇が化身した百代の帝王を守護する神であり、その誓いは今も新たであるため、天子が都を離れた地にいらっしゃっても必ずお守りくださると固く信じられたのです。 湊川を通り過ぎられる際には福原京(平清盛が造営した都)をご覧になりました。平相国・清盛が天下を掌握して平安京からこの低湿地へ遷都させたものの、すぐに滅んだのは天への奢りの罰であったとお考えになると、かえって心慰められる気持ちになったのでした。 印南野を見渡し須磨の浦を通り過ぎられるときには、昔源頼朝がこの地で流人として月夜を眺めた故事をお思い出しになりました。三年もの秋をここで送った当時の心情に共感され、「涙も自覚せぬうちに枕は浮かんでいるかのようだった」という旅愁を理にかなうこととお感じになったのです。 朝霧が立ち込める明石の浦から遠く淡路島が見える頃、高砂の松には風が吹きすさびます。幾重もの山河を越えて杉坂峠を過ぎ美作国へ――久米の佐羅山を見ることもなく(流刑地への道中であるため)、雲間に雪を頂く峰々が見えました。警護の武士をお召しになって山の名をお尋ねになると「これは伯耆国の大山でございます」との答えに、輿を止めて密かに深い仏教の儀式を行われたのです。 道中では(漢詩『商山早行』にあるように)鶏鳴とともに茅葺き屋根の月下を過ぎる日もあれば霜を踏んで板橋を渡る日もあり、都から十三日目に出雲国の見尾という港に着かれました。 解説
※史実補足:この行程は1332年3月7日京都出立から13日目(実際の到着は美保関と推定)を記す。後醍醐天皇が隠岐で密かに再起計画を進めた史実(『増鏡』所収歌「われまたもあらむ国にはおほけなくも...」)に基づき、文中の祈念や法施は後の元弘の乱(1333年復帰成功)への伏線として機能。文学的特徴としては都落ち古典パターン(『源氏物語』須磨巻など)を意図的に引用し「受難天皇」像を構築している点が顕著である。 |
| 爰にて御船を艤して、渡海の順風をぞ待れける。 ○備後三郎高徳事付呉越軍事 其比備前国に、児嶋備後三郎高徳と云者あり。主上笠置に御座有し時、御方に参じて揚義兵しが、事未成先に、笠置も被落、楠も自害したりと聞へしかば、力を失て黙止けるが、主上隠岐国へ被遷させ給と聞て、無弐一族共を集めて評定しけるは、「志士仁人無求生以害仁、有殺身為仁。」といへり。されば昔衛の懿公が北狄の為に被殺て有しを見て、其臣に弘演と云し者、是を見るに不忍、自腹を掻切て、懿公が肝を己が胸の中に収め、先君の恩を死後に報て失たりき。「見義不為無勇。」いざや臨幸の路次に参り会、君を奪取奉て大軍を起し、縦ひ尸を戦場に曝す共、名を子孫に伝へん。」と申ければ、心ある一族共皆此義に同ず。「さらば路次の難所に相待て、其隙を可伺。」とて、備前と播磨との境なる、舟坂山の嶺に隠れ臥、今や/\とぞ待たりける。臨幸余りに遅かりければ、人を走らかして是を見するに、警固の武士、山陽道を不経、播磨の今宿より山陰道にかゝり、遷幸を成奉りける間、高徳が支度相違してけり。さらば美作の杉坂こそ究竟の深山なれ。此にて待奉んとて、三石の山より直違に、道もなき山の雲を凌ぎて杉坂へ着たりければ、主上早や院庄へ入せ給ぬと申ける間、無力此より散々に成にけるが、せめても此所存を上聞に達せばやと思ける間、微服潛行して時分を伺ひけれ共、可然隙も無りければ、君の御坐ある御宿の庭に、大なる桜木有けるを押削て、大文字に一句の詩をぞ書付たりける。 |
ここで船を用意して、海渡りの順風が吹くのをお待ちになっていた。 ○児嶋高徳と呉越軍事について ところが行幸があまり遅れたため人を走らせて見に行くと、警護の武士たちは山陽道を通らず播磨の今宿から山陰道へ迂回して遷幸を行ったので高徳の準備が裏目に出た。「それなら美作国の杉坂こそ最適な深山だ。そこで待とう」と三石の山から直行し、道もない山中を雲海越えで杉坂に着いたところ「天皇はもう院庄に入られた」と言われてしまったため無力感に打ちひしがれた。「せめてこの思いだけでも上聞(天皇)に届けたい」と微服で潜入して機会を窺うも隙を見つけられず、陛下のお泊まりの宿の庭にある大きな桜の木を削り取って大文字で一編の漢詩を書き記したのである。 解説
※史実補足:児嶋高徳は実際に後醍醐天皇隠岐配流中も各地で倒幕運動を継続。この執筆事件が1333年鎌倉幕府滅亡後の恩賞として「伯耆守護」任官理由となった(『太平記』巻十二)。物語的には「行動失敗→精神的忠誠の証明→再起伏線」という構造で、前段階の八幡神祈願や法施描写と同様に天皇権威復活プロパガンダとして機能している。 |
| 天莫空勾践。時非無范蠡。御警固の武士共、朝に是を見付て、「何事を何なる者が書たるやらん。」とて、読かねて、則上聞に達してけり。主上は軈て詩の心を御覚り有て、竜顔殊に御快く笑せ給へども、武士共は敢て其来歴を不知、思咎る事も無りけり。抑此詩の心は、昔異朝に呉越とてならべる二の国あり。此両国の諸侯皆王道を不行、覇業を務としける間、呉は越を伐て取んとし、越は呉を亡して合せんとす。如此相争事及累年。呉越互に勝負を易へしかば、親の敵となり、子の讎と成て共に天を戴く事を恥。周の季の世に当て、呉国の主をば呉王夫差と云、越国の主をば越王勾践とぞ申ける。或時此越王范蠡と云大臣を召て宣ひけるは、「呉は是父祖の敵也。我是を不討、徒に送年事、嘲を天下の人に取のみに非ず。兼ては父祖の尸を九泉の苔の下に羞しむる恨あり。然れば我今国の兵を召集て、自ら呉国へ打超、呉王夫差を亡して父祖の恨を散ぜんと思也。汝は暫く留此国可守社稷。」と宣ひければ、范蠡諌め申けるは、「臣窃に事の子細を計るに、今越の力を以て呉を亡さん事は頗以可難る。其故は先両国の兵を数ふるに呉は二十万騎越は纔に十万騎也。誠に以小を、大に不敵、是呉を難亡其一也。次には以時計るに、春夏は陽の時にて忠賞を行ひ秋冬は陰の時にて刑罰を専にす。 |
「天よ勾践を見捨てるな。今こそ范蠡のような人物がいるときだ」と書かれていた。警護の武士たちは朝になってこれを見つけ、「いったい誰が何を書いたのか?」と言って読めずに、すぐに天皇(後醍醐上皇)へ報告した。天皇陛下は直ちに詩の意味をお悟りになり、お顔には大変喜ばしい笑みが浮かんだものの、武士たちはその由来を知らず、咎めることもなかった。そもそもこの詩の意図はこうである——昔、中国(異朝)に呉と越という二つの国があった。両国の君主はいずれも王道を行わず覇業を競い合ったため、呉は越を攻め取ろうとし、越は呉を滅ぼして併合しようとした。こうした争いは長年続き、互いに勝ち負けが入れ替わるうちに親の敵となり子の仇となってしまい、同じ天の下で生きることを恥じたのである。周王朝末期の時代にあたり、呉国の君主は夫差といい、越国の君主は勾践といった。ある時この越王・勾践が范蠡という大臣を呼んで宣言した。「呉は父祖代々の敵だ。これを討たずに無為に歳月を過ごせば天下の人々から笑われるだけでなく、何より黄泉で苔むす祖先への恥辱となる恨みがある。そこで私は今すぐ兵を集め自ら呉国へ攻め込み夫差王を滅ぼし父祖の恨みを晴らそうと思う。お前はここに留まって国を守れ」と言うと、范蠡が諫めて申した。「臣がひそかに事情を考えるに、今の越国の力で呉を亡ぼすのはきわめて難しいことです。その理由は第一に両軍の兵力を数えると、呉は二十万騎に対し越は僅か十万騎しかいません。小国をもって大国へ敵うはずもなく、これが滅ぼせない一つ目の点でございます。第二に時節から計ると春夏は陽気な時期ゆえ賞罰を寛大に行い秋冬は陰気なため刑罰を厳しくすべきものです。 解説
※史実補足: |
| 時今春の始也。是征伐を可致時に非ず。是呉を難滅其二也。次に賢人所帰則其国強、臣聞呉王夫差の臣下に伍子胥と云者あり。智深して人をなつけ、慮遠くして主を諌む。渠儂呉国に有ん程は呉を亡す事可難。是其三也。麒麟は角に肉有て猛き形を不顕、潛竜は三冬に蟄して一陽来復の天を待。君呉越を合られ、中国に臨で南面にして孤称せんとならば、且く伏兵隠武、待時給ふべし。」と申ければ、其時越王大に忿て宣けるは、「礼記に、父の讎には共に不戴天いへり、我已に及壮年まで呉を不亡、共に戴日月光事人の羞むる所に非や。是を以兵を集る処に、汝三の不可を挙て我を留る事、其義一も道に不協。先兵の多少を数へて可致戦ば、越は誠に呉に難対。而れ共軍の勝負必しも不依勢多少、只依時運。又は依将謀。されば呉と越と戦ふ事及度々雌雄互に易れり。是汝が皆知処也。今更に何ぞ越の小勢を以て戦呉大敵事不協我を可諌や。汝が武略の不足処の其一也。次に以時軍の勝負を計らば天下の人皆時を知れり。誰か軍に不勝。若春夏は陽の時にて罰を不行と云はゞ、殷の湯王の桀を討しも春也。周の武王の紂を討しも春也。されば、「天の時は不如地利に、地利は〔不〕如人和に」といへり。而るに汝今可行征罰時に非ずと我を諌むる、是汝が知慮の浅き処の二也。 |
「現在はちょうど春の始まりです。この時期に出撃するのは適していません。これが呉を滅ぼせない二つ目の理由です。次に賢人が帰属すればその国は強くなるものですが、臣下聞くところによると呉王夫差には伍子胥という家臣がおります。彼は深い知恵で人々の心をつかみ、遠大な思慮をもって主君を諫めます。あのような者がいる限り呉を滅ぼすのは困難です。これが三つ目の理由です。麒麟(伝説上の動物)は角に肉があるため凶暴に見えず、潜龍(隠れた竜)は冬の間じっと耐えて春の訪れを待ちます。君主たる者が呉と越を統一され、中国全土に向かって帝位につくというのであれば、どうか兵を伏せ武を隠し、時機が来るまでお待ちください」と申したところ、そのとき越王は大いに怒り宣言しました。「『礼記』にいう、父の仇とは同じ空の下では生きられないものだ。私はすでに壮年になるまで呉を滅ぼさず、同じ太陽や月のもとにいることを恥じているではないか!だから兵を集めようとしているのに、お前が三つの不可能論を並べて私を止めるとは全く道理に合わない。まず兵力の多少だけで戦うべきと言えば、確かに越は呉に対抗できないだろう。しかし軍の勝敗は必ずしも勢力大小で決まるものではない。時運と将軍の采配によるのだ!事実、呉と越は何度も交戦して互いに勝ち負けを繰り返したことはお前自身よく知っているはずだ(范蠡が過去に勝利経験があることを示唆)。今さらなぜ小勢で大敵に対抗できないなどと言って私を諫めるのか?これは第一にお前の軍略不足である。次に時機をもって勝敗を測るなら、天下の人々は皆その理屈を知っているだろうが(皮肉)、そんなことで誰も戦いに負いやしない!もし春夏が陽気な時期だから刑罰を行わぬと言うならば、殷の湯王が桀を討ったのも春であり周の武王が紂を伐ったのも春であった。ゆえに『天の時は地の利には及ばず、地の利は人の和には及ばない』(孟子)というではないか!それなのに今お前が出撃時期でないと諫めるのは、第二にお前の思慮が浅い証拠だ」 解説
※歴史的意義: |
| 次に呉国に伍子胥が有ん程は、呉を亡す事不可叶と云はゞ、我遂に父祖の敵を討て恨を泉下に報ぜん事有べからず。只徒に伍子胥が死せん事を待たば死生有命又は老少前後す。伍子胥と我と何れをか先としる。此理を不弁我征罰を可止や。此汝が愚の三也。抑我多日に及で兵を召事呉国へも定て聞へぬらん。事遅怠して却て呉王に被寄なば悔とも不可有益。「先則制人後則被人制」といへり。事已に決せり且も不可止。」とて、越王十一年二月上旬に、勾践自ら十万余騎の兵を率して呉国へぞ被寄ける。呉王夫差是を聞て、「小敵をば不可欺。」とて、自ら二十万騎勢を率して、呉と越との境夫枡県と云所に馳向ひ、後に会稽山を当て、前に大河を隔て陣を取る。態と敵を計ん為に三万余騎を出して、十七万騎をば陣の後の山陰に深く隠してぞ置たりける。去程に越王夫枡県に打臨で、呉の兵を見給へば、其勢僅に二三万騎には過じと覚へて所々に磬へたり。越王是を見て、思に不似小勢なりけりと蔑て、十万騎の兵同時に馬を河水に打入させ、馬筏を組で打渡す。比は二月上旬の事なれば、余寒猶烈くして、河水氷に連れり。兵手凍て弓を控に不叶。馬は雪に泥で懸引も不自在。され共越王責鼓を打て進まれける間、越の兵我先にと双轡懸入る。 |
「次に『呉国に伍子胥がいる限り、呉を滅ぼせない』と言うならば、私は永遠に父祖の敵を討ち恨みを黄泉で晴らすことができなくなる。ただむなしく伍子胥の死を待つだけではいけない——生死は運命次第であり老若にも順序があるのだから(寿命には個人差があり)。伍子胥と私、どちらが先に死ぬかわからないのにこの道理も弁えず出撃を止めるべきだろうか?これがお前の愚かな点三つ目だ。そもそも私は長い間兵を集めているので呉国にも知れ渡っているはずだ(準備期間が長すぎて奇襲効果がない)。事態を遅らせ怠れば逆に呉王から攻撃された時、後悔しても手遅れになるだろう。「先んずれば人を制し、後るれば人の制するところとなる」(孫子兵法)と言うではないか。決断は下したのだ止められない」と宣言し、越王十一年二月上旬に勾践自ら十万余騎の兵を率いて呉国へ侵攻した。これを聞いた呉王夫差は「小敵といえど侮れぬ(油断するな)」と言い、二十万騎を率いて呉越国境の「夫枡県」という地に急行し、背後を会稽山に守られ前方に大河を隔てた位置で布陣した。わざと敵をおびき寄せるため三万騎だけを見せかけ十七万騎は陣営後方の山陰深く隠す策を取ったのである。やがて越王が夫枡県へ到着し呉軍を見渡すと、その兵力は僅か二~三万騎ほど(伏兵に気づかない誤認)と思われ軽侮する者もいた。これを見た越王は「こんな少数とは思わなかった」と侮り十万全軍を一斉に川へ突入させ馬で筏を作って渡河開始した。時節が二月上旬のため厳しい寒さが残り河水には氷が張っていた。兵士たちは手が凍えて弓も引けず、馬も雪泥で動きづらい状況だったが越王自ら進軍太鼓を打ち鳴らす中、兵達は我先にと二列縦隊で突撃していった」 解説
※歴史的帰結: |
| 呉国の兵は兼てより敵を難所にをびき入て、取篭て討んと議したる事なれば、態と一軍もせで夫椒県の陣を引退て会稽山へ引篭る。越の兵勝に乗て北るを追事三十余里、四隊の陣を一陣に合せて、左右を不顧、馬の息も切るゝ程、思々にぞ追たりける。日已に暮なんとする時に、呉兵二十万騎思ふ図に敵を難所へをびき入て、四方の山より打出て、越王勾践を中に取篭、一人も不漏と責戦ふ。越の兵は今朝の軍に遠懸をして人馬共に疲れたる上無勢なりければ、呉の大勢に被囲、一所に打寄て磬へたり。進で前なる敵に蒐らんとすれば、敵は嶮岨に支へて、鏃を調へて待懸たり。引返て後なる敵を払はんとすれば、敵は大勢にて越兵疲れたり。進退此に谷て敗亡已に極れり。され共越王勾践は破堅摧利事、項王が勢を呑、樊■勇にも過たりければ、大勢の中へ懸入、十文字に懸破、巴の字に追廻らす。一所に合て三処に別れ、四方を払て八面に当る。頃刻に変化して雖百度戦、越王遂に打負て、七万余騎討れにけり。勾践こらへ兼て会稽山に打上り、越の兵を数るに打残されたる兵僅に三万余騎也。其も半ば手を負て悉箭尽て鋒折たり。勝負を呉越に伺て、未だ何方へも不着つる隣国の諸侯、多く呉王の方に馳加はりければ、呉の兵弥重て三十万騎、会稽山の四面を囲事如稲麻竹葦也。 |
呉国の軍隊は以前から敵をおびき寄せて難所に閉じ込め討つ計画を立てていたため、わざと一度も交戦しないで夫椒県の陣地から撤退し会稽山へ引き籠った。越軍は勝利に乗じて敗走する兵を三十余里追いかけ、四部隊が一つの集団となり左右への警戒も怠り馬が息切れするほど必死で追撃した。日が暮れようとする頃、呉の二十万騎兵は計画通り敵をおびき寄せ難所へ誘い込み、四方から山を駆け下り越王勾践を中央に包囲し一人も逃さず激しく攻め立てた。越軍は今朝からの遠征で人馬ともに疲弊しており兵力不足だったため呉の大軍に包囲され一箇所へ集結したが(抵抗できなかった)、前進して敵を倒そうとすれば相手は険しい地形で守り矢をつがえて待ち構え、引き返して後方の敵を追い払おうにも相手は大勢で越兵は疲れ切っていた。こうして進退窮まり敗北は決定的になった。しかしながら越王勾践は要塞突破能力に優れて項羽の勢いに匹敵し樊噲(古代中国の勇将)の武勇さえ超えるほどだったため、大軍の中へ突入し十字形に切り裂いて渦巻くように駆け巡らせた。一箇所で結束した部隊が三方向に分かれ四方を掃討して八面と対峙し、刻々と陣形を変え百度も戦ったものの越王はついに敗れ七万余騎が討ち死にした。勾践は耐えきれず会稽山へ登り残存部隊を数えるとわずか三万余騎であった。その半数は負傷し矢は尽き武器も折れており(戦力皆無状態)、勝敗の趨勢が明らかに呉有利となったためこれまで中立だった周辺諸侯の多くが呉王側へ加勢した結果、呉軍はさらに増強されて三十万騎となり会稽山を四方から稲や麻のように隙間なく包囲した。 解説
※文学的意義: |
| 越王帷幕の内に入り、兵を集めて宣ひけるは、「我運命已に尽て今此囲に逢へり。是全く非戦咎、天亡我。然れば我明日士と共に敵の囲を出て呉王の陣に懸入り、尸を軍門に曝し、恨を再生に可報。」とて越の重器を積で、悉焼捨んとし給ふ。又王■与とて、今年八歳に成給ふ最愛の太子、越王に随て、同く此陣に座けるを呼出し奉て、「汝未幼稚なれば、吾死に殿れて、敵に捕れ、憂目を見ん事も可心憂。若又我為敵虜れて、我汝より先立ば、生前の思難忍。不如汝を先立て心安く思切り、明日の軍に討死して、九泉の苔の下、三途の露の底迄も、父子の恩愛を不捨と思ふ也。」とて、左の袖に拭涙、右の手に提剣太子の自害を勧め給ふ時に、越王の左将軍に、大夫種と云臣あり。越王の御前に進出て申けるは、「生を全くして命を待事は遠くして難く、死を軽くして節に随ふ事は近くして安し。君暫く越の重器を焼捨、太子を殺す事を止め給へ。臣雖不敏、欺呉王君王の死を救ひ、本国に帰て再び大軍を起し、此恥を濯んと思ふ。今此山を囲んで一陣を張しむる呉の上将軍太宰■は臣が古の朋友也。久く相馴て彼が心を察せしに、是誠に血気の勇者なりと云へ共、飽まで其心に欲有て、後の禍を不顧。又彼呉王夫差の行迹を語るを聞しかば、智浅して謀短く、色に婬して道に暗し。 |
越王は幕営の中に入り、兵士たちを集めて述べた。「我が運命はすでに尽きて今この包囲に遭った。これはまったく戦いの過失ではなく天が私を見捨てたのだ。ならば私は明日、将兵と共に敵の包囲網を突破し呉王の陣へ突入して屍を軍門に晒し、恨みを来世で晴らそう」と言って、越国の宝器を積み上げ全て焼き捨てようとした。また王子与(よ)という、今年八歳になる最愛の太子がいたが、越王に従い同じ陣営に座っていたので呼び出し、「お前はまだ幼く未熟であるゆえ、私が死んだ後に敵に捕まり苦しい目を見るのは心配だ。あるいはもし私が生きて虜となり、お前より先に死ねば生前の思い出も耐え難い。だからお前を先立たせて心安らかに決意し明日の戦で討ち死にして、あの世の苔むす地獄や三途(さんず)の川底まで父子の絆を持続させたい」と言って左袖で涙を拭いながら右手に剣を取り太子の自害を勧めた。その時越王の左将軍である大夫種という臣下がいた。彼は越王の前に進み出て申し上げた。「生き延びて運命を待つ道は遠く困難だが、死を軽んじて節義に従う道は近く安易です。しかしどうか主君よ、宝器焼却と太子殺害をお止めください。私は不肖ながら呉王を欺いて陛下の命を救い本国へ帰還させ再び大軍を起こしこの恥辱を洗おうと思います。今この山を包囲している一軍を指揮する呉国の上将軍太宰■は私の古くからの友人です。長年親交を持ち彼の人柄を知る限り血気盛んな勇者とはいえ欲望深く後先を見ず、また呉王夫差(ふさ)の行跡について聞けば浅知恵で思慮不足、女色に溺れ正道を理解していないのです。」 解説
※歴史的意義: |
| 君臣共に何れも欺くに安き所也。抑今越の戦無利、為呉被囲ぬる事も、君范蠡が諌めを用ひ不給故に非ずや。願は君王臣が尺寸の謀を被許、敗軍数万の死を救ひ給へ。」と諌申ければ、越王理に折て、「「敗軍の将は再び不謀」と云へり。自今後の事は然大夫種に可任。」と宣て、重器を被焼事を止、太子の自害をも被止けり。大夫種則君の命を請て、冑を脱ぎ旗を巻て、会稽山より馳下り、「越王勢ひ尽て、呉の軍門に降る。」と呼りければ、呉の兵三十万騎、勝時を作て皆万歳を唱ふ。大夫種は則呉の轅門に入て、「君王の倍臣、越勾践の従者、小臣種慎で呉の上将軍の下執事に属す。」と云て、膝行頓首して、太宰■が前に平伏す。太宰■床の上に坐し、帷幕を揚させて大夫種に謁す。大夫種敢て平視せず。低面流涙申けるは、「寡君勾践運極まり、勢尽て呉の兵に囲れぬ。仍今小臣種をして、越王長く呉王の臣と成、一畝の民と成ん事を請しむ。願は先日の罪を被赦今日の死を助け給へ。将軍若勾践の死を救ひ給はゞ、越の国を献呉王成湯沐地、其重器を将軍に奉り、美人西施を洒掃の妾たらしめ、一日の歓娯に可備。若夫請、所望不叶遂に勾践を罪せんとならば、越の重器を焼棄、士卒の心を一にして、呉王の堅陣に懸入、軍門に尸を可止。 |
大夫種が諫言して、「君主も臣下もどちらも騙しやすい点があります。そもそも今、越の戦いが不利で呉に包囲されたのも、主君である范蠡(はんれい)の助言を用いなかったからではないでしょうか。どうか君王よ、私の取るに足らない策略をお聞き届けいただき、敗軍数万の命をお救いください」と申し上げると、越王は道理を悟り、「『敗軍の将は再び作戦を練らぬ』と言う。今後についてはすべて大夫種に任せるべきだ」と宣言して、宝器を焼くことを止め、太子の自害も中止させた。 そこで大夫種は君命を受けて、兜を脱ぎ旗を巻き収めて会稽山から駆け下り、「越王が力尽きたので呉軍に降伏する」と叫んだ。すると呉兵三十万騎は勝利の機を得て皆で万歳を唱えた。 大夫種はすぐに呉陣営の正門に入り、「君王のお側近である臣、勾践(こうせん)王配下の小役人・種が謹んで上将軍様のご用聞きとなります」と言い、跪いて進みながら頭を地につけ太宰■(たいさい□)の前に平伏した。 解説
※文学的意義: |
| 臣平生将軍と交を結ぶ事膠漆よりも堅し。生前の芳恩只此事にあり。将軍早く此事を呉王に奏して、臣が胸中の安否を存命の裏に知しめ給へ。」と一度は忿り一度は歎き、言を尽して申ければ、太宰■顔色誠に解て、「事以不難、我必越王の罪をば可申宥。」とて軈て呉王の陣へぞ参りける。太宰■即呉王の玉座に近付き、事の子細を奏しければ、呉王大に忿て、「抑呉と越と国を争ひ、兵を挙る事今日のみに非ず。然るに勾践運窮て呉の擒となれり。是天の予に与へたるに非や。汝是を乍知勾践が命を助けんと請ふ。敢て非忠烈之臣。」宣ひければ、太宰■重て申けるは、「臣雖不肖、苛も将軍の号を被許、越の兵と戦を致す日、廻謀大敵を破り、軽命勝事を快くせり。是偏に臣が丹心の功と云つべし。為君王の、天下の太平を謀らんに、豈一日も尽忠不傾心や。倩計事是非、越王戦に負て勢尽ぬといへ共、残処の兵猶三万余騎、皆逞兵鉄騎の勇士也。呉の兵雖多昨日の軍に功有て、自今後は身を全して賞を貪ん事を思ふべし。越の兵は小勢なりといへ共志を一にして、而も遁れぬ所を知れり。「窮鼠却噛猫、闘雀不恐人」といへり。呉越重て戦はゞ、呉は必危に可近る。不如先越王の命を助け、一畝の地を与て呉の下臣と成さんには。 |
大夫種はさらに述べた。「私はかつて将軍と結んだ友情は膠(にかわ)や漆よりも堅いものでした。生前の恩義はこれだけが頼りです。どうか早急にこの件を呉王へ奏上し、私の心中の安否を命あるうちにお伝えください」と言い、怒ったり嘆いたりしながら言葉を尽くすと、太宰■(たいさい□)は表情を和らげて、「事は難しくない。必ず越王の罪を許そう」と言ってすぐに呉王の陣営へ向かった。 太宰■が直ちに呉王の玉座近くへ進み、事情を詳細に奏上すると、呉王は激怒して言った。「そもそも呉と越が国を争い戦うのは今日始まったことではない。それなのに勾践が運尽きて捕虜となったのだ。これは天が私に与えたものではなかったか?お前はそれを知りながら命を助けよと請願するとは、まことに忠義にあふれた臣下とは言えん」との宣告を受けた。 すると太宰■が重ねて申し上げた。「私は無能ですが、将軍の称号を許されて以来、越兵と戦った日々には巧みな計略で大敵を破り命軽く勝利を得ることを喜びました。これは全て私の真心からの功績です。天下太平のために尽くそうとする君王にどうして一日たりとも忠誠を傾けぬことがありましょうか?よく考えてください、越王は敗れて勢いが衰えたとはいえ残存兵力はなお三万騎余りで皆精鋭の鉄騎隊です。呉兵は数こそ多いものの昨日の戦功を得た後では身を守って恩賞を貪ろうとするでしょう。一方、越軍は少数ながら結束して逃げ場なきことを自覚しています。「追い詰められた鼠は猫に噛みつく」との言葉通りです。再度呉越が交戦すれば必ず危険が迫るでしょう。むしろ先んじて勾践の命を助け、わずかな土地を与えて臣下とすることが得策では?」 解説
※歴史的意義: 本場面は『呉越春秋』巻九に基づく。太宰嚭が私利(後文で示される賄賂)のために勾践助命を主張する描写は、史実における夫差の側近政治弊害を象徴。「残処兵三万余騎」という数字的誇張は文学的演出だが、会稽山包囲戦での越軍兵力推定(実際は数千程度)に対する物語上の補正と解釈される。伍子胥誅殺事件へ至る君臣不信の萌芽がここに明らかとなり、後の呉滅亡プロセスを決定づける転回点として重要である。 |
| 然らば君王呉越両国を合するのみに非ず。斉・楚・秦・趙も悉く不朝云事有べからず。是根を深くし蔕を固する道也。」と、理を尽て申ければ、呉王即欲に耽る心を逞して、「さらば早会稽山の囲を解て勾践を可助。」宣ひける。太宰■帰て大夫種に此由を語りければ、大夫種大に悦で、会稽山に馳帰り、越王に此旨を申せば、士卒皆色を直して、「出万死逢一生、偏に大夫種が智謀に懸れり。」と、喜ばぬ人も無りけり。越王已に降旗を被建ければ、会稽の囲を解て、呉の兵は呉に帰り、越の兵は越に帰る。勾践即太子王■与をば、大夫種に付て本国へ帰し遣し、我身は白馬素車に乗て越の璽綬を頚に懸、自ら呉の下臣と称して呉の軍門に降り給ふ。斯りけれ共、呉王猶心ゆるしや無りけん、「君子は不近刑人」とて、勾践に面を不見給、剰勾践を典獄の官に被下、日に行事一駅駆して、呉の姑蘇城へ入給ふ。其有様を見る人、涙の懸らぬ袖はなし。経日姑蘇城に着給へば、即手械足械を入て、土の楼にぞ入奉りける。夜明日暮れ共、月日の光をも見給はねば、一生溟暗の中に向て、歳月の遷易をも知給はねば、泪の浮ぶ床の上、さこそは露も深かりけめ。去程に范蠡越の国に在て此事を聞に、恨骨髄に徹て難忍。哀何なる事をもして越王の命を助け、本国に帰り給へかし。 |
太宰嚭がこのように理を尽くして説明すると、呉王は欲望に負けて、「それなら早急に会稽山の包囲を解き勾践を助けることにしよう」と宣言した。太宰嚭は戻って大夫種にこれを伝えると、大夫種は大いに喜び、会稽山へ駆け戻り越王にこの旨を報告した。兵士たちも皆表情を明るくし、「死の淵から生還できたのは全て大夫種の知略のおかげだ」と言って喜ばない者はいなかった。 こうして越王が降伏の旗を掲げると、会稽山包囲は解かれ呉軍は呉へ帰り越軍も本国に戻った。勾践はすぐに太子・王子与(おうよ)を大夫種と共に本国へ帰還させた後、自ら白馬が引く無装飾の車に乗って越国の璽綬(王権の印)を首にかけ、「呉王家臣」と名乗りながら降伏した。しかし呉王はまだ警戒心を解かず「君子は刑罰を受けた者には近づかないものだ」と言い、勾践との面会も拒否し、さらに彼を監獄の役人に任命して毎日宿駅業務を行わせた後、姑蘇城へ移送した。その様子を見る者は皆涙を流さずにはいられなかった。 幾日か経て姑蘇城に着くと勾践は手足に枷をはめられ土牢に入れられた。昼夜問わず月明かりすら見ることなく、一生涯暗闇の中にいるような状態で季節の移り変わりも分からず、涙が浮かぶ床には露さえ深く降りたという。 一方范蠡は越国にとどまってこのことを聞き、悔しみが骨髄に達して耐え難かった。「何としてでも主君を救い出し本国へ帰還させねば」と決意したのである。 解説
※物語的意義: |
| 諸共に謀を廻らして、会稽山の恥を雪めんと、肺肝を砕て思ければ、疲身替形、簀に魚を入て自ら是を荷ひ、魚を売商人の真似をして、呉国へぞ行たりける。姑蘇城の辺にやすらひて、勾践のをはする処を問ければ、或人委く教へ知せけり。范蠡嬉しく思て、彼獄の辺に行たりけれ共、禁門警固隙無りければ、一行の書を魚の腹の中に収て、獄の中へぞ擲入ける。勾践奇く覚して、魚の腹を開て見給へば、西伯囚■里。重耳走■。皆以為王覇。莫死許敵。とぞ書たりける。筆の勢文章の体、まがふべくもなき范蠡が業ざ也。と見給ひければ、彼れ未だ憂世に存へて、為我肺肝を尽しけりと、其志の程哀にも又憑もしくも覚へけるにこそ、一日片時も生けるを憂しとかこたれし我身ながらの命も、却て惜くは思はれけれ。斯りける処に、呉王夫差俄に石淋と云病を受て、身心鎮に悩乱し、巫覡祈れ共無験、医師治すれ共不痊、露命已に危く見へ給ける処に、侘国より名医来て申けるは、「御病実に雖重医師の術及まじきに非ず。石淋の味を甞て、五味の様を知する人あらば、輒く可奉療治。」とぞ申ける。「さらば誰か此石淋を甞て其味をしらすべき」と問に、左右の近臣相顧て、是を甞る人更になし。勾践是を伝聞て泪を押へて宣く、「我会稽の囲に逢し時已に被罰べかりしを、今に命助置れて天下の赦を待事、偏に君王慈慧の厚恩也。 |
こうして范蠡は共に策を巡らせて会稽山での屈辱を晴らそうと心を砕いて考えた結果、疲れた体形を変え、籠に魚を入れて自ら担ぎ歩き商人のふりをして呉国へ向かった。姑蘇城近くで待機しながら勾践がいる場所を尋ねると、ある人物から詳しく教えられた。范蠡は喜んで監獄付近に行ったものの警備厳重で隙がなく、一通の手紙を魚の腹に隠して投げ入れた。 勾践は不審に思い魚のお腹を開けてみると、「西伯(周文王)は羑里に囚われた。重耳(晋の文公)も逃亡した。(後に)皆が王者となった。敵のために死ぬな」と書かれていた。筆跡や文体から見て間違いなく范蠡の手によるものだと気づき、「彼がまだ世にあって私のために尽力してくれているのか」とその志に感動し頼もしく思ううち、自らは「一日たりとも生きるのがつらい」と嘆いていた命さえ惜しく感じられるようになった。 そんな中で呉王夫差が突然尿石症(結石)を患い心身ともに乱れ、祈祷師や医者が治療しても効果なく危篤状態に見えた。そこへ越国から名医が来て言うには、「病は重いものの治せないわけではありません。この病気の症状を知るために尿石の味見をする人がいれば直ちに治療できます」と申し出た。「では誰がこれを嘗めるのか?」との問いに側近たちが見合わせると、進んでやろうとする者はいなかった。 勾践はこの話を聞き涙をおさえて言った。「私は会稽山で死ぬべきところを命助けられ恩赦待ちの身なのは、全て王様の深い慈悲によるものです...」 解説
※物語構造上の位置付け: この場面は史実(『国語』呉語)より劇的に脚色。魚を使った連絡方法自体は虚構だが、越側が情報工作で劣勢挽回するテーマを象徴。「嘗糞」前段階として夫差病状エピソードを挿入することで、(1)勾践の忠誠演技機会創出 (2)范蠡策謀成功可能性の伏線設置という二重効果を達成。次章へ向けた緊張感醸成が巧妙に計算された構成である。 |
| 我今是を以て不報其恩何の日をか期せん。」とて潛に石淋を取て是を甞て其味を医師に被知。医師味を聞て加療治、呉王の病忽に平癒してげり。呉王大に悦で、「人有心助我死、我何ぞ是を謝する心無らんや。」とて、越王を自楼出し奉るのみに非ず。剰越の国を返し与へて、「本国へ返り去べし。」とぞ被宣下ける。爰に呉王の臣伍子胥と申者、呉王を諌て申けるは、「「天与不取却て得其咎」云へり。此時越の地を不取勾践を返し被遣事、千里の野辺に虎を放つが如し。禍可在近。」申けれ共呉王是を不聞給、遂に勾践を本国へぞ被返ける。越王已に車の轅を廻して、越の国へ帰り給ふ処に、蛙其数を不知車前に飛来。勾践是を見給て、是は勇士を得て素懐を可達瑞相也。とて、車より下て是を拝し給ふ。角て越の国へ帰て住来故宮を見給へば、いつしか三年に荒はて、梟鳴松桂枝狐蔵蘭菊叢、無払人閑庭に落葉満て簫々たり。越王免死帰給ぬと聞へしかば、范蠡王子王■与を宮中へ入奉りぬ。越王の后に西施と云美人座けり。容色勝世嬋娟無類しかば、越王殊に寵愛甚しくして暫くも側を放れ給はざりき。越王捕呉給ひし程は為遁其難側身隠居し給たりしが、越王帰給ふ由を聞給ひて則後宮に帰り参り玉ふ。年の三年を待わびて堪ぬ思に沈玉ける歎の程も呈れて、鬢疎かに膚消たる御形最わりなくらうたけて、梨花一枝春雨に綻び、喩へん方も無りけり。 |
「私は今この恩に報いなければいつできるというのか」と言って密かに尿結石を取り出し味見をし、その味を医師に伝えた。医師は味を知り治療すると呉王の病気はたちまち回復した。呉王は大いに喜び、「命の恩人がいるのに感謝しないわけにはいかない」と言って越王を牢獄から出すだけでなく、さらに越国を返還し「本国へ帰れ」とお命じになった。 ここで呉王の家臣・伍子胥が諫言した。「『天が与えたものを取らねば災いを受ける』といいます。今こそ越国の地を得るべき時に勾践を帰すのは、千里の野に虎を放つようなものです。禍は間近です」と訴えたが呉王は聞き入れず遂に勾践を本国へ返した。 越王(勾践)が車輪を回し越国へ向かう途中、数え切れない蛙が飛び出してきたのを見て「これは勇士を得る吉兆だ」と言い、降りて拝んだ。ようやく越国に帰ると宮殿は三年で荒廃していた。梟(ふくろう)が松枝で鳴き狐が菊叢に潜み、人の気配ない庭には落ち葉が積もっていた。 范蠡と王子・王与を連れて中に入るや越王妃である西施という美人が控えていた。その美貌は世に並ぶものなく、勾践は特に寵愛して片時も離さなかった。捕らわれていた間は難を逃れるため隠居していた彼女だが、勾践帰国を知ると後宮へ戻り三年の待ちわびた思いが身に沁みて現れている様子で髪は乱れ姿は細く哀れだった。それは春雨の中の梨花のように比喩できない美しさであった。 解説
※物語構造的意義: |
| 公卿・大夫・文武百司、此彼より馳集りける間、軽軒馳紫陌塵冠珮鎗丹■月、堂上堂下如再開花。斯りける処に自呉国使者来れり。越王驚て以范蠡事の子細を問給ふに、使者答曰、「我君呉王大王好婬重色尋美人玉ふ事天下に普し。而れ共未だ如西施不見顔色。越王出会稽山囲時有一言約。早く彼西施を呉の後宮へ奉傅入、備后妃位。」使也。越王聞之玉て、「我呉王夫差が陣に降て、忘恥甞石淋助命事、全保国身を栄やかさんとには非ず、只西施に為結偕老契なりき。生前に一度別て死して後期再会、保万乗国何かせん。されば縦ひ呉越の会盟破れて二度我為呉成擒共、西施を送他国事は不可有。」とぞ宣ひける。范蠡流涙申けるは、「誠に君展転の思を計るに、臣非不悲云へ共、若今西施を惜給はゞ、呉越の軍再び破て呉王又可発兵。去程ならば、越国を呉に被合のみに非ず、西施をも可奪、社稷をも可被傾。臣倩計るに、呉王好婬迷色事甚し。西施呉の後宮に入給ふ程ならば、呉王是に迷て失政事非所疑。国費へ民背ん時に及で、起兵被攻呉勝事を立処に可得つ。是子孫万歳に及で、夫人連理の御契可久道となるべし。」と、一度は泣一度は諌て尽理申ければ、越王折理西施を呉国へぞ被送ける。西施は小鹿の角のつかの間も、別れて可有物かはと、思ふ中をさけられて、未だ幼なき太子王■与をも不云知思置、ならはぬ旅に出玉へば、別を慕泪さへ暫しが程も止らで、袂の乾く隙もなし。 |
公卿・大夫ら文武百官が四方から集まる中、軽快な車馬が街を行き交い冠や装飾品が輝く様は月下で花が再び咲いたかのようだった。その時、呉国からの使者が到着した。越王(勾践)は驚いて范蠡の状況を尋ねると、使者は答えた。「我が君・呉王夫差は女色を好み美人探しに熱心ですが、西施ほどの女性は未だ見たことがありません。かつて会稽山で囲まれた際、『早く西施を後宮へ献上せよ』と約束されました」と。 越王はこれを聞き、「私は呉王の陣前で降伏し尿結石嘗めの屈辱に耐えたのは、国や身の保身ではなく西施との永遠の契りのためだ。たとえ再び捕らわれても彼女を渡すわけにはいかない」と言った。范蠡が涙ながらに諌めた。「もし今惜しむなら呉軍は越国を奪い、西施も社稷も滅ぼします。しかし考えてください:好色な夫差が西施を得れば政治を怠り民衆が離反するでしょう。その時こそ兵を起こして復讐できるのです」と。 范蠡の理に尽くした言葉で越王は折れ、呉国へ西施を送ることに決めた。西施は「幼い太子・王与とも別れるのか」と思い悩みながら旅立つ間もなく涙が止まらず、袖はずっと濡れたままだった。 解説
※物語構造上の意義: |
| 越王は又是や限の別なる覧と堪ぬ思に臥沈て、其方の空を遥々と詠めやり玉へば、遅々たる暮山の雲いとゞ泪の雨となり、虚しき床に独ねて、夢にも責て逢見ばやと欹枕臥玉へば、無添甲斐化に、無為方歎玉ふもげに理りなり。彼西施と申は天下第一の美人也。妝成て一度笑ば百の媚君が眼を迷して、漸池上に無花歟と疑ふ。艷閉て僅に見れば千態人の心を蕩して忽に雲間に失月歟と奇しまる。されば一度入宮中君王の傍に侍しより、呉王の御心浮れて、夜は終夜ら婬楽をのみ嗜で、世の政をも不聞、昼は尽日遊宴をのみ事として、国の危をも不顧。金殿挿雲、四辺三百里が間、山河を枕の下に直下ても、西施の宴せし夢の中に興を催さん為なりき。輦路に無花春日は、麝臍を埋て履を熏し、行宮に無月夏の夜は、蛍火を集て燭に易ふ。婬乱重日更無止時しかば、上荒下廃るれ共、佞臣は阿て諌せず。呉王万事酔如忘。伍子胥見之呉王を諌て申けるは、「君不見殷紂王妲妃に迷て世を乱り、周の幽王褒■を愛して国を傾事を。君今西施を婬し給へる事過之。国の傾敗非遠に。願は君止之給へ。」と侵言顔諌申けれ共、呉王敢て不聞給。或時又呉王西施に為宴、召群臣南殿の花に酔を勧め給ける処に、伍子胥威儀を正しくして参たりけるが、さしも敷玉鏤金瑶階を登るとて、其裾を高くかゝげたる事恰如渉水時。 |
越王はこれも運命の別れかと悲嘆に沈み、遠くの方角を眺めやっていた。遅々とした夕暮れの山雲が涙の雨となり、虚ろな床で独り寝ながら「夢だけでも逢いたい」と枕にもたれるが、空しくため息をつくばかりだった。 かの西施は天下第一の美人であった。装うと一度笑えばその妖艶さに王の目が眩み、「池に花がないわけがあるまい」と思わせるほどだ。ほんの一瞥でも千変万化な姿で人の心を蕩かし「雲間に月が見えぬのはおかしい」と驚嘆させた。こうして後宮入りした後、呉王はすっかり心を奪われ、夜通し淫楽にふけって政務も顧みず、昼は一日中遊宴に明け暮れて国の危機さえ無視した。 金殿が雲をつくほどの贅沢で、四方三百里の山河を踏みつけるのも、ただ西施の宴席での夢を楽しむためだった。花なき春の輦路には麝香を埋めて靴を薫らせ、月なき夏の宮殿では蛍火を集めて灯りとした。淫乱が日増しに激化する中で、上は堕落し下は荒廃しても佞臣たちは媚びて諌めない。呉王は万事酔っているかのように忘れていた。 伍子胥はこれを見て呉王を諫めた。「殷の紂王が妲己に迷って世を乱し、周の幽王が褒姒を愛して国を滅ぼした例をご存じでしょう。今や陛下の西施溺愛はそれを超えています」と顔色も変えず直言したが、呉王は聞き入れなかった。 ある時また南殿で宴会中、伍子胥が威儀正しく参上すると――玉を鏤めた階段を登る際に裾を高く掲げた様子が、まるで川を渡る時のようであった(=身分不相応な振舞いと暗示)。 解説
※文学的価値: |
| 其怪き故を問に、伍子胥答申けるは、「此姑蘇台越王の為に被亡、草深く露滋き地とならん事非遠。臣若其迄命あらば、住こし昔の迹とて尋見ん時、さこそは袖より余る荊棘の露も、■々として深からんずらめと、行末の秋を思ふ故に身を習はして裙をば揚る也。」とぞ申ける。忠臣諌を納れ共、呉王曾て不用給しかば、余に諌かねて、よしや身を殺して危きを助けんとや思けん、伍子胥又或時、只今新に砥より出たる青蛇の剣を持て参りたり。抜て呉王の御前に拉で申けるは、「臣此剣を磨事、退邪払敵為也。倩国の傾んとする其基を尋ぬれば、皆西施より出たり。是に過たる敵不可有。願は刎西施首、社稷の危を助けん。」と云て、牙を噛て立たりければ、忠言逆耳時君不犯非云事なければ、呉王大に忿て伍子胥を誅せんとす。伍子胥敢て是を不悲。「争い諌めて死節是臣下の則也。我正に越の兵の手に死なんよりは、寧君王の手に死事恨の中の悦也。但し君王臣が忠諌を忿て吾に賜死事、是天已に棄君也。君越王の為に滅れて、刑戮の罪に伏ん事、三年を不可過。願は臣が穿両眼呉の東門に掛られて、其後首を刎給へ。一双の眼未枯前に、君勾践に被亡て死刑に赴き給はんを見て、一笑を快くせん。」と申ければ、呉王弥忿て即伍子胥を被誅、穿其両眼呉の東門幢上にぞ被掛ける。 |
その奇妙な行動を問われると、伍子胥は答えた。「この姑蘇台が越王のために滅ぼされ草深い露に濡れる地となる日も近い。もし私の命がそれまで続けば、昔の跡を見て回る時には袖にかかる茨の露も滴り落ちそうなほど深かろうと思い、将来を憂いて身につけた習慣で裾を上げているのです」と。 忠臣は諫言するものだが呉王が全く聞き入れないため、ついに死をもって危険を知らせようとしたのか。伍子胥がある時、研ぎたての青蛇のように光る剣を持参した。抜いて呉王の前で掲げ「この剱は邪悪を払い敵を退けるために磨いたものです。国が滅びる根源は全て西施にあります。これほどの敵はいません。どうか西施の首を刎ね国家危機を救わせてください」と歯噛みして立つと、忠言は耳障りでも君主への諌めは臣下の務めゆえ、呉王は激怒し伍子胥を処刑しようとした。 伍子胥は全く悲しまず「抗って諫めて節に死ぬのが臣下の本分です。越軍の手にかかるより陛下の手で死ねるのは恨みの中の喜び。ただし忠言への逆鱗での賜死は天が王を見捨てた証し。三年もしないうちに陛下は勾践のために滅ぼされ刑罰を受けるでしょう。どうか私の両目を呉東門にかけ、その後で首を刎ねてください。その目が枯れぬ前に越軍によって処刑される御姿を見届けて一矢を報いた気分になるのです」と言うと、呉王はますます怒り即座に伍子胥を誅殺し両眼を取り出して東門の旗竿にかけた。 解説
※物語的意義: |
| 斯りし後は君悪を積ども臣敢て不献諌、只群臣口を噤み万人目を以てす。范蠡聞之、「時已に到りぬ。」と悦で、自二十万騎の兵を率して、呉国へぞ押寄ける。呉王夫差は折節晋国呉を叛と聞て、晋国へ被向たる隙なりければ、防ぐ兵一人もなし。范蠡先西施を取返して越王の宮へ帰し入奉り、姑蘇台を焼掃ふ。斉・楚の両国も越王に志を通ぜしかば、三十万騎を出して范蠡に戮力。呉王聞之先晋国の戦を閣て、呉国へ引返し、越に戦を挑とすれば、前には呉・越・斉・楚の兵如雲霞の、待懸たり。後には又晋国の強敵乗勝追懸たり。呉王大敵に前後を裹れて可遁方も無りければ、軽死戦ふ事三日三夜、范蠡荒手を入替て不継息攻ける間、呉の兵三万余人討れて僅に百騎に成にけり。呉王自相当る事三十二箇度、夜半に解囲六十七騎を随へ、姑蘇山に取上り、越王に使者を立て曰、「君王昔会稽山に苦し時臣夫差是を助たり。願は吾今より後越の下臣と成て、君王の玉趾を戴ん。君若会稽の恩を不忘、臣が今日の死を救ひ給へ。」と言を卑し厚礼降せん事をぞ被請ける。越王聞之古の我が思ひに、今人の悲みさこそと哀に思知給ければ、呉王を殺に不忍、救其死思給へり。范蠡聞之、越王の御前に参て犯面申けるは、「伐柯其則不遠。会稽の古は天越を呉に与へたり。 |
そうした後は、王が過ちを重ねても家臣たちは誰も進言せず、ただ黙りこくって皆が見ているだけだった。范蠡はこれを聞き「時機はすでに熟した」と喜び、自ら二十万騎の兵を率いて呉国へ押し寄せた。 当時の呉王夫差はちょうど晋国が反旗を翻したとの報を受け、晋に向かっている隙だったため、防ぐ兵士一人もいなかった。范蠡はまず西施を取り戻して越王の宮殿に送り返すと、姑蘇台を焼き払った。 斉・楚両国も越王に加勢することを決め、三十万騎を出して范蠡と力を合わせた。 呉王がこの報せを聞いて晋との戦いを中断し、急ぎ呉国へ引き返した。しかし越軍に挑もうとしたところ、前方には雲霞のように広がる呉・越・斉・楚の連合軍が待ち構えていたうえ、後方からは勢いに乗った晋国の強敵も追撃してきた。 こうして大軍に前後に包囲された呉王は逃げ場を失い、死を覚悟で三日三晩戦った。しかし范蠡が執拗な攻撃を休みなく続けるうちに、呉の兵士三万余人は討たれ、わずか百騎ほどになってしまった。 呉王自身も三十余度にわたって先頭で戦い抜き、夜半に包囲網を突破して六十七騎だけ連れて姑蘇山へ逃れた。そこで越王に使者を立てて申し入れた。「かつて陛下が会稽山で苦境にあられた時、臣・夫差はそれを助けました。どうか私はこれから後、越の家臣となって玉体をお守りします。もし陛下があの恩義を忘れなければ、今日この私を死なせないでください」とへりくだった言葉で降伏を請うた。 これを聞いた越王は昔の自身の苦しみに重ねて哀れに思い、夫差を殺すのは忍びず命だけは助けようと考えた。ところが范蠡がこの決定を知ると、すぐさま越王の御前に進んで憚らず直言した。「斧の柄を作るなら手本は遠くない(教訓は身近にある)。会稽山での昔のことこそ天が呉に越を与えた実例です。」 解説
※構造的分析: |
| 而を呉王取事無して忽に此害に逢り。今却て天越に呉を与へたり。無取事越又如此の害に逢べし。君臣共に肺肝を砕て呉を謀る事二十一年、一朝にして棄ん事豈不悲乎。君行非時不顧臣の忠也。」と云て、呉王の使者未帰前に、范蠡自攻鼓を打て兵を勧め、遂に呉王を生捕て軍門の前に引出す。呉王已に被面縛、呉の東門を過給ふに、忠臣伍子胥が諌に依て、被刎首時、幢の上に掛たりし一双の眼、三年まで未枯して有けるが、其眸明に開け、相見て笑へる気色なりければ、呉王是に面を見事さすが恥かしくや被思けん、袖を顔に押当て低首過給ふ。数万の兵見之涙を流さぬは無りけり。即呉王を典獄の官に下され、会稽山の麓にて遂に首を刎奉る。古来より俗の諺曰、「会稽の恥を雪むる。」とは此事を云なるべし。自是越王呉を合するのみに非ず、晉・楚・斉・秦を平げ、覇者の盟主と成しかば、其功を賞して范蠡を万戸侯に封ぜんとし給ひしか共、范蠡曾て不受其禄、「大名の下には久く不可居る、功成名遂而身退は天の道也。」とて、遂に姓名を替へ陶朱公と呼れて、五湖と云所に身を隠し、世を遁てぞ居たりける。釣して芦花の岸に宿すれば、半蓑に雪を止め、歌て楓葉の陰を過れば、孤舟に秋を戴たり。一蓬の月万頃の天、紅塵の外に遊で、白頭の翁と成にけり。 |
それから後は、王が過ちを重ねても家臣たちは誰も諫言せず、ただ群臣は口をつぐみ民衆が見ているだけだった。范蠡はこの状況を知って「時機はすでに来た」と喜び、自ら二十万騎の兵を率いて呉国へ押し寄せた。 当時の呉王夫差はちょうど晋国が反旗を翻したという知らせを受け、晋に向かっている隙だったため、防ぐ兵士一人もいなかった。范蠡はまず西施を取り戻して越王の宮殿に送り返すと、姑蘇台を焼き払った。 斉・楚両国も越王との同盟を決め、三十万騎を出して范蠡と力を合わせた。 呉王がこの報せを聞いて晋との戦いを中断し、急ぎ呉国へ引き返した。しかし越軍に挑もうとしたところ、前方には雲霞のように広がる呉・越・斉・楚の連合軍が待ち構えていたうえ、後方からは勢いに乗った晋国の強敵も追撃してきた。 こうして大軍に前後に包囲された呉王は逃げ場を失い、死を覚悟で三日三晩戦った。しかし范蠡が執拗な攻撃を休みなく続けるうちに、呉の兵士三万余人は討たれ、わずか百騎ほどになってしまった。 呉王自身も三十余度にわたって先頭で戦い抜き、夜半に包囲網を突破して六十七騎だけ連れて姑蘇山へ逃れた。そこで越王に使者を立てて申し入れた。「かつて陛下が会稽山で苦境にあられた時、臣・夫差はそれを助けました。どうか私はこれから後、越の家臣となって玉体をお守りします。もし陛下があの恩義を忘れなければ、今日この私を死なせないでください」とへりくだった言葉で降伏を請うた。 これを聞いた越王は昔の自身の苦しみに重ねて哀れに思い、夫差を殺すのは忍びず命だけは助けようと考えた。ところが范蠡がこの決定を知ると、すぐさま越王の御前に進んで憚らず直言した。「斧の柄を作るなら手本は遠くない(教訓は身近にある)。会稽山での昔のことこそ天が呉に越を与えた実例です。ところが当時の呉王(夫差)は何もしなかったのに突然この災いに遭い、今度は逆に天が越に呉を渡したのです。無策のままでは越も同じ災難に見舞われるでしょう。我々君臣が心肝を砕いて二十一年もかけて呉攻略を計画し、それを一瞬で放棄するとは悲しいことではありませんか。陛下は時機を見誤り臣下の忠言をも顧みないのです。」と。 そして呉王からの使者が帰らないうちに范蠡自ら攻め太鼓を打ち兵士を鼓舞し、ついに夫差を生け捕って軍門の前に引き出した。縛られた呉王が呉東門を通りかかった時、忠臣伍子胥が諫めたために首を刎ねられ旗竿に掛けられた一対の目玉が三年経っても枯れておらず、はっきりと見開いて嘲笑しているかのように見えた。これを見た夫差はさすがに恥ずかしく思ったのか袖で顔を覆いうつむいた。数万の兵士たちもこの様子を見て涙を流した者はいなかった。 すぐさま呉王は刑吏に引き渡され、会稽山のふもとで首を刎ねられた。昔から言われる「会稽の恥を雪ぐ」という俗諺はこの出来事を指すのである。 これ以降越王は呉国だけではなく晋・楚・斉・秦までも平定し、覇者の盟主となったため、その功績に報いて范蠡を万戸侯(諸侯)に封じようとした。しかし范蠡は決して禄を受け取らず、「高い名声の下には長くとどまれない。成功したら身を引くのが自然の道理だ」と言い、姓名を変えて陶朱公と名乗り五湖という地に隠遁し世捨て人となった。 釣り糸を垂れて芦花咲く岸辺で寝泊まりすれば蓑半分に雪が積もり、歌いながら楓の陰を通れば小舟一つに秋を背負う。一輪の月と広大な空のもと世俗の外を漂い白髪の老人となったのである。 解説
※教訓的核心: |
| 高徳此事を思准らへて、一句の詩に千般の思を述べ、窃に叡聞にぞ達ける。去程に先帝は、出雲の三尾の湊に十余日御逗留有て、順風に成にければ、舟人纜を解て御艤して、兵船三百余艘、前後左右に漕並べて、万里の雲に沿。時に滄海沈々として日没西北浪、雲山迢々として月出東南天、漁舟の帰る程見へて、一灯柳岸に幽也。暮れば芦岸の煙に繋船、明れば松江の風に揚帆、浪路に日数を重ぬれば、都を御出有て後二十六日と申に、御舟隠岐の国に着にけり。佐々木隠岐判官貞清、府の嶋と云所に、黒木の御所を作て皇居とす。玉■に咫尺して被召仕ける人とては、六条少将忠顕、頭大夫行房、女房には三位殿の御局許也。昔の玉楼金殿に引替て、憂節茂き竹椽、涙隙なき松の墻、一夜を隔る程も可堪忍御心地ならず。■人暁を唱し声、警固の武士の番を催す声許り、御枕の上に近ければ、夜のをとゞに入せ給ても、露まどろませ給はず。萩戸の明るを待し朝政なけれ共、巫山の雲雨御夢に入時も、誠に暁ごとの御勤、北辰の御拝も懈らず、今年何なる年なれば、百官無罪愁の涙を滴配所月、一人易位宸襟を悩他郷風給らん。天地開闢より以来斯る不思議を不聞。されば掛天日月も、為誰明なる事を不恥。無心草木も悲之花開事を忘つべし。 |
高徳はこのことを思案し、一首の詩に千々の思いを述べて密かに天皇の耳に入れた。そうこうするうちに先帝(後鳥羽上皇か)は出雲国の三尾の湊で十日余り滞在され、順風になったので船頭が綱を解いて御船を準備し、兵船三百隻余りが前後に並んで漕ぎ進み、万里の空を行く。その時には深い海は静まりかえって日が西北の波間に沈み、雲に覆われた山々は遠く月が東南の空に出る様子が見え、漁船が帰る光景も眺められて一筋の灯りが柳の岸辺にかすかに見えた。夕暮れには芦原を煙のように繋いだ船で過ごし、明け方には松江の風に帆を上げ、航海の日数を重ねたところ都を出発してから二十六日目という時に御船は隠岐国へ到着した。佐々木隠岐判官貞清が府島(現・西ノ島か)と呼ばれる場所で黒木造りの仮御所を作り皇居とした。玉座のすぐそばに仕える者として、六条少将忠顕や頭大夫行房ら男官と女房には三位殿の局だけである。昔の豪華な宮殿とは引き換えに憂いが茂る竹で作った屋根もろくなく涙を溜める隙間さえない松の壁であり、一夜過ごすのも耐え難いお気持ちだった。夜明けを知らせる声や警護武士の交代を促す声だけが御枕元に近かったため夜中は休まれても少しもまどろむことができなかった。朝戸の開くのを待っても朝廷政治がないのに、夢の中で巫山の雲雨(男女の情事)が現れる時でさえ毎晩欠かさず北辰星をお拝みになるご奉公は続けられた。「今年はいったいどんな年なのか。罪もない百官たちが流刑地の月に悲しみ涙を落とす一方、帝位を奪われた一人の天皇(後鳥羽上皇)は都離れた土地で宸襟(御心)を悩ませているのだろうか」。天地創造以来このような不思議なことは聞いたことがない。だから天にかかる日月さえ誰のために輝くのか恥じることもなく、無感情の草木も悲しみ花開くことを忘れてしまうに違いない。 解説
※核心的主題: |
| input text 太平記\005_太平記_巻5.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第五 ○持明院殿御即位事 元弘二年三月二十二日に、後伏見院第一御子、御年十九にして、天子の位に即せ給ふ。御母は竹内左大臣公衡の御娘、後には広義門院と申し御事也。同年十月二十八日に、河原の御禊あて、十一月十三日に大嘗会を被遂行。関白は鷹司の左大臣冬教公、別当は日野中納言資名卿にてぞをはしける。いつしか当今奉公の人々は、皆一時に望を達して門前市を成し、堂上花の如し。中にも梶井二品親王は、天台座主に成せ給て、大塔・梨本の両門迹を合せて、御管領有しかば、御門徒の大衆群集して、御拝堂の儀式厳重也。加之御室の二品親王法守、仁和寺の御門迹に御移有て、東寺一流の法水を湛へて、北極万歳の聖運を祈り給ふ。是皆後伏見院の御子、今上皇帝の御連枝也。 ○宣房卿二君奉公事 万里小路大納言宣房卿は、元来前朝旧労の寵臣にてをはせし上、子息藤房・季房二人笠置の城にて被生捕て、被処遠流しかば、父の卿も罪科深き人にて有べかりしを、賢才の聞へ有とて、関東以別儀其罪を宥め、当今に可被召仕之由奏し申す。依之日野中納言資明卿を勅使にて、此旨を被仰下ければ、宣房卿勅使に対して被申けるは、「臣雖不肖之身、以多年奉公之労蒙君恩寵、官禄共に進、剰汚政道輔佐之名。 |
元弘二年(1332年)三月二十二日、後伏見上皇の第一皇子が十九歳で天皇の位に即位された。母は竹内左大臣公衡の娘で、後に広義門院と称される方である。同年十月二十八日に賀茂川河原での禊ぎの儀があり、十一月十三日に大嘗会が執り行われた。関白は鷹司左大臣冬教公が務め、別当(祭祀責任者)は日野中納言資名卿であった。やがて今上陛下に仕える人々は皆一斉に栄達し、邸前には人の出入りが市のようになり、宮廷は花が咲き乱れるように賑わった。特に梶井二品親王(尊澄法親王)は天台座主となり、大塔宮と梨本門跡を管轄下に置いたため、門徒の僧侶たちが群れ集い拝堂の儀式は厳かであった。さらに仁和寺御室となった二品親王(法守法親王)も東寺流の教えをもって北極星のように永遠なる聖運を祈られた。これらはいずれも後伏見上皇の皇子、つまり当今天皇の弟君にあたる方々である。 万里小路大納言宣房卿は元来、前帝(後醍醐天皇)に仕えた功臣であったが、息子の藤房・季房二人が笠置城で捕らえられ遠流となったため、父である卿も重罪とされる立場だった。しかしその聡明さを買われた関東(鎌倉幕府)は特別に罪を許し、「今上陛下にお仕えせよ」との命を下した。これを受け日野中納言資明卿が勅使として伝えると、宣房卿は勅使に対し「臣たる者未熟ながらも長年朝廷に尽くし君の寵愛を受けて官位禄をも賜り、政道補佐の名を汚すこと甚だしい」と述べた。 解説
※政治的含意: |
| 「事君之礼、値其有罪、犯厳顔、以道諌諍、三諌不納奉身以退、有匡正之忠無阿順之従、是良臣之節也。若見可諌而不諌、謂之尸位。見可退而不退、謂之懐寵。々々尸位国之奸人也。」と云り。君今不義の行をはして、為武臣被辱給へり。是臣が予依不知処雖不献諌言世人豈其無罪許哉。就中長子二人被処遠流之罪。我已七旬の齢に傾けり。後栄為誰にか期せん。前非何又恥ざらんや。二君の朝に仕て辱を衰老の後に抱かんよりは、伯夷が行を学て飢を首陽の下に忍ばんには不如。」と、涙を流て宣ひければ、資明卿感涙を押へ兼て暫は言をも宣はず。良有て宣ひけるは、「「忠臣不必択主、見仕而可治而已也。」といへり。去ば百里奚は二仕秦穆公永令致覇業、管夷吾翻佐斉桓公、九令朝諸侯。主無以道射鉤之罪、世不皆奈鬻皮之恥といへり。就中武家如此許容の上は、賢息二人の流罪争無赦免御沙汰乎、夫伯夷・叔斉飢て何の益か有し。許由・巣父遁て不足用。抑隠身永断来葉之一跡、与仕朝遠耀前祖之無窮、是非得失有何処乎。与鳥獣同群孔子所不執也。」資明卿理を尽して被責ければ。宣房卿顔色誠に屈伏して、「「以罪棄生、則違古賢夕改之勧、忍垢苟全則犯詩人胡顔之譏」と、魏の曹子建が詩を献ぜし表に書たりしも、理とこそ存ずれ。 |
「君主に仕える礼儀とは、もし主君に過ちがあればその厳しい顔色を恐れず道理をもって諫言し、三度進言しても受け入れられなければ身を退くことだ。誤りを正す忠義はあってもへつらう従順はせぬ、これが良臣の節操である。もし諫めるべき時に黙れば『尸位(地位だけ占めて仕事しない)』と言われ、去るべき時に残れば『懐寵(恩寵に甘える)』と非難される。ましてや尸位は国の奸人だ」と述べた上で、「今や主君(後醍醐天皇)が不義を行ったため武家(鎌倉幕府)から辱めを受けたのは、私が見識不足で諫言しなかったせいであり世間は罪を許すまい。何より長男二人も遠流の刑に処され私は七十歳の老境にある。未来の栄華など誰のために期待しようか?過去の過ちを恥じないわけがない。二君(後醍醐天皇と光厳天皇)に仕えて老年期に辱めを抱えるよりは、伯夷が首陽山で餓死した道を選ぶ方がましだ」と涙ながらに語ったので、資明卿も感涙を抑えきれず言葉が出なかった。やがてこう諭した:「『忠臣は必ずしも主君を選ばず仕えるべき時に治めるだけだ』という教えがある。百里奚(中国の賢人)は二度秦に仕えて穆公に覇業をもたらし、管夷吾(管仲)は斉桓公を補佐して諸侯を従わせた。主君は彼らが過去に弓で射かけた罪も咎めず世間も皮を売った恥を責めなかったのだ。まして武家があれほど寛大なら賢息たちの流刑赦免沙汰もあるはずだ。伯夷・叔斉(隠遁者)が餓死しても何の益がある?許由・巣父(伝説の隠士)のように逃げるのは役立たずである。隠れて子孫の跡を絶つより朝廷に仕えて先祖の名を永遠に輝かせるべきで、得策は明らかだ。孔子も『鳥獣と群れること』(隠遁)は認めぬ」と資明卿が理を尽くして責めたため宣房卿は表情こそ従順を示しつつ、「『罪ゆえに命を棄てれば賢者の改過勧告に背き、汚名耐えて生き延びれば詩人の非難(胡顔)を受ける』と魏の曹子建が上表文で述べたのも道理であろう」と言った。 解説
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| 」とて、遂に参仕の勅答をぞ被申ける。 ○中堂新常灯消事 其比都鄙の間に、希代の不思議共多かりけり。山門の根本中堂の内陣へ山鳩一番飛来て、新常灯の油錠の中に飛入て、ふためきける間、灯明忽に消にけり。此山鳩、堂中の闇さに行方に迷ふて、仏壇の上に翅を低て居たりける処に、承塵の方より、其色朱を指たる如くなる鼠狼一つ走り出で、此鳩を二つながら食殺てぞ失にけり。抑此常灯と申は、先帝山門へ臨幸成たりし時、古桓武皇帝の自ら挑させ給し常燈に準へて、御手づから百二十筋の燈心を束ね、銀の御錠に油を入て、自掻立させ給し燈明也。是偏に皇統の無窮を耀さん為の御願、兼ては六趣の群類の暝闇を照す、慧光法燈の明なるに、思食準へて被始置し常燈なれば、未来永劫に至迄消る事なかるべきに、鴿鳩の飛来て打消けるこそ不思議なれ。其を玄獺の食殺しけるも不思議也。 ○相摸入道弄田楽並闘犬事 又其比洛中に田楽を弄事昌にして、貴賎挙て是に着せり。相摸入道此事を聞及び、新座・本座の田楽を呼下して、日夜朝暮に弄事無他事。入興の余に、宗との大名達に田楽法師を一人づゝ預て装束を飾らせける間、是は誰がし殿の田楽、彼何がし殿の田楽なんど云て、金銀珠玉を逞し綾羅錦繍を妝れり。 |
こう言い終えて、遂には朝廷への仕官命令に対する返答を述べられた。 この頃、都でも地方でも稀な不思議な出来事が多発していた。比叡山延暦寺の根本中堂内陣に一羽の山鳩が飛来し、「新常灯」と呼ばれる油皿の中へ入り込んだため暴れたせいで灯火は突然消えた。この山鳩が暗闇の中で迷い仏壇上にうずくまっていると、天井裏から朱色を帯びたイタチのような獣が走り出てきて鳩を丸ごと食い殺し姿を消した。そもそもこの常灯は先帝(後醍醐天皇)が比叡山行幸の折、桓武天皇自ら点じられた古式に倣い、御自身で120本もの燈芯を束ね銀製油皿へ注ぎ火をつけ置かれたものである。これは皇統永遠への祈願と同時に六道衆生の迷いを照らす仏法の灯火として始められ、未来永劫消えぬはずであったのに鳩が飛来して灯りを絶ったことは不吉な兆候である。ましてや獣(イタチ)が食殺したのも怪異極まりない。 またこの頃京では田楽舞が大流行し貴賤問わず熱中していた。鎌倉幕府執権・相模入道北条高時はこれを聞きつけ、新座と本座の田楽団を呼び寄せ昼夜問わず演芸にふける日々であった。興が乗ると家臣たちにもそれぞれ田楽法師を与え派手な衣装を着せたため、「これは某殿の田楽」「あれは何氏の田楽」と呼称し、金銀宝石で飾り豪華絢爛な錦織衣裳に彩られた。 解説
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| 宴に臨で一曲を奏すれば、相摸入道を始として一族大名我劣らじと直垂・大口を解で抛出す。是を集て積に山の如し。其弊へ幾千万と云数を不知。或夜一献の有けるに、相摸入道数盃を傾け、酔に和して立て舞事良久し。若輩の興を勧る舞にてもなし。又狂者の言を巧にする戯にも非ず。四十有余の古入道、酔狂の余に舞ふ舞なれば、風情可有共覚ざりける処に、何くより来とも知ぬ、新坐・本座の田楽共十余人、忽然として坐席に列てぞ舞歌ひける。其興甚尋常に越たり。暫有て拍子を替て歌ふ声を聞けば、「天王寺のやようれぼしを見ばや。」とぞ拍子ける。或官女此声を聞て、余の面白さに障子の隙より是を見るに、新坐・本座の田楽共と見へつる者一人も人にては無りけり。或觜勾て鵄の如くなるもあり、或は身に翅在て其形山伏の如くなるもあり。異類異形の媚者共が姿を人に変じたるにてぞ有ける。官女是を見て余りに不思議に覚ければ、人を走らかして城入道にぞ告たりける。入道取物も取敢ず、太刀を執て其酒宴の席に臨む。中門を荒らかに歩ける跫を聞て、化物は掻消様に失せ、相摸入道は前後も不知酔伏たり。燈を挑させて遊宴の座席を見るに、誠に天狗の集りけるよと覚て、踏汚したる畳の上に禽獣の足迹多し。 |
宴会の席で一曲が演奏されると、相模入道北条高時をはじめ一族や大名たちこぞって礼服(直垂・大口)を脱ぎ捨てた。これら衣類は山のように積み上げられ、その損失額は数千万にも及ぶと推測された。ある夜の酒宴で、相模入道が何杯も飲んで酔いが回り、長く舞った様子だった。若者の遊び心に踊るわけでもなく狂人の演技とも違う。四十代後半の老齢の僧侶が酔狂で舞えば風情があると思われたところへ、どこからか新座・本座の田楽法師十数人が現れて突然席に並び歌い踊った。その盛り上がりは尋常ではなく、やがてリズムを変えた歌声には「天王寺の夜遊ぼしを見たいものだ」と囃したたえる声も混じっていた。ある官女がこの声に興味を持ち障子の隙間から覗くと、田楽法師たちは一人残らず人ではなく、くちばしが曲がったトビのような者や羽のある山伏風の異形など、妖怪共が姿を変えたものだった。官女があまりの怪奇さに驚き使い走りで城入道(北条貞時か)へ報告したため、彼は武器も取らず太刀を持って酒宴場へ駆けつけた。戸口を荒々しく踏み鳴らす足音が響くと妖怪たちは跡形もなく消え、相模入道は前後不覚に酔い潰れていた。灯火で宴会の席を見ればまさに天狗の集会と見紛うばかりで、乱れた畳には鳥獣の足跡が無数についていた。 解説
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| 城入道、暫く虚空を睨で立たれ共、敢て眼に遮る者もなし。良久して、相摸入道驚覚て起たれ共、惘然として更に所知なし。後日に南家の儒者刑部少輔仲範、此事を伝聞て、「天下将乱時、妖霊星と云悪星下て災を成すといへり。而も天王寺は是仏法最初の霊地にて、聖徳太子自日本一州の未来記を留給へり。されば彼媚者が天王寺の妖霊星と歌ひけるこそ怪しけれ。如何様天王寺辺より天下の動乱出来て、国家敗亡しぬと覚ゆ。哀国主徳を治め、武家仁を施して消妖謀を被致よかし。」と云けるが、果して思知るゝ世に成にけり。彼仲範実に未然の凶を鑒ける博覧の程こそ難有けれ。相摸入道懸る妖怪にも不驚、益々奇物を愛する事止時なし。或時庭前に犬共集て、噛合ひけるを見て、此禅門面白き事に思て、是を愛する事骨髄に入れり。則諸国へ相触て、或は正税・官物に募りて犬を尋、或は権門高家に仰て是を求ける間、国々の守護国司、所々の一族大名、十疋二十疋飼立て、鎌倉へ引進す。是を飼に魚鳥を以てし、是を維ぐに金銀を鏤む。其弊甚多し。輿にのせて路次を過る日は、道を急ぐ行人も馬より下て是に跪き、農を勤る里民も、夫に被取て是を舁、如此賞翫不軽ければ、肉に飽き錦を着たる奇犬、鎌倉中に充満して四五千疋に及べり。 |
城入道はしばらく虚空を見つめて立っていたが、目に見えるものは何一つなかった。長い時間が過ぎて相模入道北条高時が驚いて起きたが、ぼんやりとして全く何事か分からなかった。後日になって南家の儒者である刑部少輔仲範(みなみけのじゅじゃ・ぎょうぶしょうゆうなかのり)がこの噂を聞き、「天下が乱れようとする時には妖霊星という悪い星が降りて災いをもたらすと言われている。しかも天王寺は仏法最初の聖地であり、聖徳太子自ら日本の未来記を残された場所だ。それゆえあの化物たちが『天王寺の妖霊星』と歌ったのは怪しいことだ。どうやら天王寺付近から天下動乱が起こり国家敗亡すると思われる。悲しきかな、国主は徳をもって治め武家は仁愛を行い妖怪謀略消滅に努めるべきだろう。」と言ったところ果たして彼の言う通りの世の中になってしまった。仲範は実に未然凶事を見抜く博覧さが大変貴重だったのだ。相模入道北条高時はこのような妖怪にも驚かず、ますます珍奇なものを愛好することを止めなかった。ある時庭先で犬たちが集まって噛み合っているのを見て、この僧侶(高時)は面白いと思いこれを骨髄に刻むほど溺愛した。すぐさま諸国へ触れを出し公税や官物を使って大金懸けで犬探したり権門家々へ命じて求めさせたため守護国司一族大名たちが十匹二十匹飼育して鎌倉へ送り込んだのだった。これらを魚鳥で餌付けるだけでなく装身具にまで金銀細工施しその浪費甚だしかったことよ!輿乗せて街通れば道急ぐ行路者も馬降り跪礼拝み農耕勤める里人までも夫役取られ担がねばならぬ程重宝軽視されず結果肉飽満錦着飾った異様な犬群鎌倉中充溢四千五千匹余数達したと。 解説
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| 月に十二度犬合せの日とて被定しかば、一族大名御内外様の人々、或は堂上に坐を列ね、或庭前に膝を屈して見物す。于時両陣の犬共を、一二百疋充放し合せたりければ、入り違ひ追合て、上に成下に成、噛合声天を響し地を動す。心なき人は是を見て、あら面白や、只戦に雌雄を決するに不異と思ひ、智ある人は是を聞て、あな忌々しや、偏に郊原に尸を争ふに似たりと悲めり。見聞の准ふる処、耳目雖異、其前相皆闘諍死亡の中に存て、浅猿しかりし挙動なり。 ○時政参篭榎嶋事 時已に澆季に及で、武家天下の権を執る事、源平両家の間に落て度々に及べり。然ども天道必盈を虧故に、或は一代にして滅び、或は一世をも不待して失ぬ。今相摸入道の一家、天下を保つ事已に九代に及ぶ。此事有故。昔鎌倉草創の始、北条四郎時政榎嶋に参篭して、子孫の繁昌を祈けり。三七日に当りける夜、赤き袴に柳裏の衣着たる女房の、端厳美麗なるが、忽然として時政が前に来て告て曰、「汝が前生は箱根法師也。六十六部の法華経を書冩して、六十六箇国の霊地に奉納したりし善根に依て、再び此土に生る事を得たり。去ば子孫永く日本の主と成て、栄花に可誇。但其挙動違所あらば、七代を不可過。吾所言不審あらば、国々に納し所の霊地を見よ。 |
月に十二回も犬合わせの日が決められていたので、一族や大名たちは主従を含めて堂上に座席を並べたり庭先に膝をつけて見物した。そのとき敵味方両陣営から一二百匹もの大群を解き放って戦わせると、入り乱れ追いかけ合い、上の犬が下の犬になりかわり噛みつく声は天を震わし地を揺るがすほどだった。思慮深さのない者はこれを見て「ああ面白い!まるで実戦で勝敗を決するようだ」と思い、知恵ある者は聞いて「なんと嘆かわしいことか、郊外に死体が積み上がる争いに似ている」と悲しんだ。見たり聞いたりした事柄はそれぞれの立場で異なるものの、その行動すべてが闘争や死の中にあり浅ましく思われる行為だった。 ○時政参籠榎嶋事 解説
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| 」と云捨て帰給ふ。其姿をみければ、さしも厳しかりつる女房、忽に伏長二十丈許の大蛇と成て、海中に入にけり。其迹を見に、大なる鱗を三つ落せり。時政所願成就しぬと喜て、則彼鱗を取て、旗の文にぞ押たりける。今の三鱗形の文是也。其後弁才天の御示現に任て、国々の霊地へ人を遣して、法華経奉納の所を見せけるに、俗名の時政を法師の名に替て、奉納筒の上に大法師時政と書たるこそ不思議なれ。されば今相摸入道七代に過て一天下を保けるも、江嶋の弁才天の御利生、又は過去の善因に感じてげる故也。今の高時禅門、已に七代を過、九代に及べり。されば可亡時刻到来して、斯る不思議の振舞をもせられける歟とぞ覚ける。 ○大塔宮熊野落事 大塔二品親王は、笠置の城の安否を被聞食為に、暫く南都の般若寺に忍て御座有けるが、笠置の城已に落て、主上被囚させ給ぬと聞へしかば、虎の尾を履恐れ御身の上に迫て、天地雖広御身を可被蔵所なし。日月雖明長夜に迷へる心地して、昼は野原の草に隠れて、露に臥鶉の床に御涙を争ひ、夜は孤村の辻に彳て、人を尤むる里の犬に御心を被悩、何くとても御心安かるべき所無りければ、角ても暫はと被思食ける処に、一乗院の候人按察法眼好専、如何して聞たりけん、五百余騎を率して、未明に般若寺へぞ寄たりける。 |
と言い捨ててお帰りになった。その姿を見ると、あんなに厳しかった女房が突然体長約六十メートルほどの大蛇になって海に入っていってしまった。跡を見に行くと大きな鱗を三枚落としていた。時政は願い事が成就したと喜びすぐにその鱗を取り旗の紋章として押し付けたのが、今ある「三つ鱗形」の紋である。その後弁才天のお告げに従って各地霊地へ人を遣わして法華経奉納場所を見せてもらったところ、俗名だった時政が法師名に変わり奉納筒に大法師時政と書いてあるのが不思議であった。だから今相模入道(北条高時)の一族七代を超えて天下を保てたのも江島弁才天のお導きや前世善行によるものだと言えるが、現在の高時は既に九代目であるゆえ滅びる時期到来しこのような奇怪行動に出ているのかと思われた。 ○大塔宮熊野落ち事 解説
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| 折節宮に奉付たる人独も無りければ一防ぎ防て落させ可給様も無りける上、透間もなく兵既に寺内に打入たれば、紛れて御出あるべき方もなし。さらばよし自害せんと思食て、既に推膚脱せ給たりけるが、事叶はざらん期に臨で、腹を切らん事は最可安。若やと隠れて見ばやと思食返して、仏殿の方を御覧ずるに、人の読懸て置たる大般若の唐櫃三あり。二の櫃は未開蓋を、一の櫃は御経を半ばすぎ取出して蓋をもせざりけり。此蓋を開たる櫃の中へ、御身を縮めて臥させ給ひ、其上に御経を引かづきて、隠形の呪を御心の中に唱てぞ坐しける。若捜し被出ば、頓て突立んと思召て氷の如くなる刀を抜て、御腹に指当て、兵、「此にこそ。」と云んずる一言を待せ給ける御心の中、推量るも尚可浅。去程に兵仏殿に乱入て、仏壇の下天井の上迄も無残所捜しけるが、余りに求かねて、「是体の物こそ怪しけれ。あの大般若の櫃を開見よ。」とて、蓋したる櫃二を開て、御経を取出し、底を翻して見けれどもをはせず。蓋開たる櫃は見るまでも無とて、兵皆寺中を出去ぬ。宮は不思議の御命を続せ給ひ、夢に道行心地して、猶櫃の中に座しけるが、若兵又立帰り、委く捜す事もや有んずらんと御思案有て、頓て前に兵の捜し見たりつる櫃に、入替らせ給てぞ座しける。 |
ちょうどその時親王にお仕えする者が一人もいなかったので防戦して逃れる方法もなく、間もなく兵が寺内に乱入したため混乱の中を抜け出すこともできなかった。「それならば潔く自害しよう」とお考えになり肌脱ぎされようとしたところだが「事態打開できない段階での切腹は安易すぎる。もし助かる道があれば隠れて様子を見たい」と思い直し仏殿の方にお目を向けると、誰かが読みかけで置いた大般若経の唐櫃(からびつ)三つがあった。二つの櫃は未開封だったが一つの櫃だけ蓋もせずに経巻半分ほど取り出したままである。この蓋の開いた櫃の中へお体を縮めて横になられ、その上に散らばった経典をかき寄せ「隠形(おんぎょう)の呪文」を心の中で唱え続けた。「もし発見されれば即座に刺し違える」と氷のように冷たい刀をお腹にあてがい兵士が「ここだ!」と言う一言待つ胸中は想像を絶するものだった。ほどなく兵が仏殿へ乱入し仏壇の下から天井裏まで残らず捜索したが見つからず「こいつ(櫃)が怪しい、大般若経の櫃を開けろ」と叫んだ蓋をしていた二つの櫃だけ調べ経巻を取り出して底までひっくり返したものの中には何もなかった。蓋の開いた櫃は見る必要ないとして兵は全員退去した。親王は奇跡的に命をつなぎ夢うつつの中でまだ櫃に隠れていたが「もし戻って詳しく捜せば危険」と思い立たれてすぐさま先ほど兵に見られた蓋開きの櫃から、未調査だった別の櫃へと移動されて身を潜めた。 解説
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| 案の如く兵共又仏殿に立帰り、「前に蓋の開たるを見ざりつるが無覚束。」とて、御経を皆打移して見けるが、から/\と打笑て、「大般若の櫃の中を能々捜したれば、大塔宮はいらせ給はで、大唐の玄弉三蔵こそ坐しけれ。」と戯れければ、兵皆一同に笑て門外へぞ出にける。是偏に摩利支天の冥応、又は十六善神の擁護に依る命也。と、信心肝に銘じ感涙御袖を湿せり。角ては南都辺の御隠家暫も難叶ければ、則般若寺を御出在て、熊野の方へぞ落させ給ける。御供の衆には、光林房玄尊・赤松律師則祐・木寺相摸・岡本三河房・武蔵房・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀三郎、彼此以上九人也。宮を始奉て、御供の者迄も皆柿の衣に笈を掛け、頭巾眉半に責め、其中に年長ぜるを先達に作立、田舎山伏の熊野参詣する体にぞ見せたりける。此君元より龍楼鳳闕の内に長とならせ給て、華軒香車の外を出させ給はぬ御事なれば、御歩行の長途は定て叶はせ給はじと、御伴の人々兼ては心苦しく思けるに、案に相違して、いつ習はせ給ひたる御事ならねども怪しげなる単皮・脚巾・草鞋を召て、少しも草臥たる御気色もなく、社々の奉弊、宿々の御勤懈らせ給はざりければ、路次に行逢ひける道者も、勤修を積める先達も見尤る事も無りけり。 |
予想通り兵士たちが仏殿に戻ってきて「さっき蓋の開いた櫃を見落としたのは不注意だ」と言い、経典を全て移動して調べたものの中は空だったので、「ガラガラと笑いながら『大般若経の櫃をよく探したら大塔宮様はいらっしゃらず、唐の玄奘三蔵がいたぞ』と冗談を言ったところ兵士全員が一斉に笑って門外へ出て行った。これはひとえに摩利支天のお加護あるいは十六善神の守護による命である」と思い信仰心を深く刻み、感動の涙で袖を濡らされた。ともかく南都周辺での潜伏が難しくなったためすぐ般若寺を出発され熊野方面へ落ち延びられた。お供の者は光林房玄尊・赤松律師則祐・木寺相模・岡本三河房・武蔵房・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀三郎以上の九名である。親王を中心に供の者まで全員柿色衣に笈(おい)を背負い頭巾で眉半分隠し、年長者を先達に見立てて田舎山伏が熊野詣でする様子に見せかけた。この方は元々御所育ちで豪華な車以外で外出されたことがないため歩きの長旅は無理だろうと供の人々は心配していたが予想に反し、いつ習われたのか分からないが不思議なくらい見事な脚絆・草鞋を身につけ少しも疲れた様子もなく神社への奉幣や宿での勤行をお休みにならなかったので道中出会った巡礼者からも修行積んだ先達と全く見分けつかなかった。 解説
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| 由良湊を見渡せば、澳漕舟の梶をたへ、浦の浜ゆふ幾重とも、しらぬ浪路に鳴千鳥、紀伊の路の遠山眇々と、藤代の松に掛れる磯の浪、和歌・吹上を外に見て、月に瑩ける玉津島、光も今はさらでだに、長汀曲浦の旅の路、心を砕く習なるに、雨を含める孤村の樹、夕を送る遠寺の鐘、哀を催す時しもあれ、切目の王子に着給ふ。其夜は叢祠の露に御袖を片敷て、通夜祈申させ給けるは、南無帰命頂礼三所権現・満山護法・十万の眷属・八万の金剛童子、垂迹和光の月明かに分段同居の闇を照さば、逆臣忽に亡びて朝廷再耀く事を令得給へ。伝承る、両所権現は是伊弉諾・伊弉冉の応作也。我君其苗裔として朝日忽に浮雲の為に被隠て冥闇たり。豈不傷哉。玄鑒今似空。神若神たらば、君盍為君と、五体を地に投て一心に誠を致てぞ祈申させ給ける。丹誠無二の御勤、感応などかあらざらんと、神慮も暗に被計たり。終夜の礼拝に御窮屈有ければ、御肱を曲て枕として暫御目睡在ける御夢に、鬟結たる童子一人来て、「熊野三山の間は尚も人の心不和にして大儀成難し。是より十津川の方へ御渡候て時の至んを御待候へかし。両所権現より案内者に被付進て候へば御道指南可仕候。」と申すと被御覧御夢は則覚にけり。是権現の御告也。 |
由良港を見渡すと入り江の船が櫓を休め、幾重にも続く浜辺に鳴く千鳥。紀伊路の遠山はかすみ、藤代ヶ松にかかる磯波が見え、和歌ノ浦・吹上浜を過ぎて月に輝く玉津島へ至るが、光も今や薄れゆく長い海岸線と入り江続きの旅路は心を痛めるもの。雨を含んだ孤村の樹木、夕暮れを告げる遠寺の鐘が哀愁を誘う頃、切目の王子社に到着された。その夜は小さな祠で露に濡れた袖を敷物代わりとし徹夜で祈願された。「南無帰命頂礼 熊野三所権現・満山護法神・十万の眷属・八万の金剛童子よ、本地垂迹(ほんじすいじゃく)の月明かりがこの世の闇を照らし逆臣たちを滅ぼして朝廷再興させたまえ」。伝承によれば両所権現は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の化身である。我が君(後醍醐天皇)はその子孫ながら朝日が瞬く間に雲に隠れ暗闇となった。「神様ならばどうか君主を本来のあるべき姿にお戻しください」と五体投地して一心不乱に祈られたところ、真心の祈りに神意も動いたのか。徹夜の礼拝でお疲れとなり肘を枕にしてうとうとした夢の中に髷(まげ)を結った童子が現れて言うには「熊野三山はまだ人心和せず危険です。ここから十津川へ向かい時節到来をお待ちなさい。両所権現の使者として道案内いたします」とのお告げで目が覚めた。 解説
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| けりと憑敷被思召ければ、未明に御悦の奉弊を捧げ、頓て十津河を尋てぞ分入らせ給ける。其道の程三十余里が間には絶て人里も無りければ、或は高峯の雲に枕を峙て苔の筵に袖を敷、或は岩漏水に渇を忍んで朽たる橋に肝を消す。山路本より雨無して、空翠常に衣を湿す。向上れば万仞の青壁刀に削り、直下ば千丈の碧潭藍に染めり。数日の間斯る嶮難を経させ給へば、御身も草臥はてゝ流るゝ汗如水。御足は欠損じて草鞋皆血に染れり。御伴の人々も皆其身鉄石にあらざれば、皆飢疲れてはか/゛\敷も歩得ざりけれ共、御腰を推御手を挽て、路の程十三日に十津河へぞ着せ給ひける。宮をばとある辻堂の内に奉置て、御供の人々は在家に行て、熊野参詣の山伏共道に迷て来れる由を云ければ、在家の者共哀を垂て、粟の飯橡の粥など取出して其飢を相助く。宮にも此等を進せて二三日は過けり。角ては始終如何可在とも覚へざりければ、光林房玄尊、とある在家の是ぞさもある人の家なるらんと覚しき所に行て、童部の出たるに家主の名を問へば、「是は竹原八郎入道殿の甥に、戸野兵衛殿と申人の許にて候。」と云ければ、さては是こそ、弓矢取てさる者と聞及ぶ者なれ、如何にもして是を憑まばやと思ければ、門の内へ入て事の様を見聞処に、内に病者有と覚て、「哀れ貴からん山伏の出来れかし、祈らせ進らせん。 |
その夢のお告げがあると確信なさったため、未明に感謝の捧げ物を奉り、すぐさま十津川へ向かって進まれた。道中30里余(約120km)は全く人家もなく、時には高峰の雲の中に枕して苔むした地面で袖を敷き野宿し、時には岩から滴る水で渇きを凌ぎながら朽ちた橋では肝をつぶす思いだった。山中では元々雨が少ないのに青葉の露で常に衣は濡れ、上を見上げると切り立った断崖は刀で削ったようで、真下には千丈(約3km)もの深い碧色の淵があった。数日間こうした険しい道を通られたためお体は疲れ果て流れる汗が水のように溢れ、足には傷だらけで草鞋まで血に染まっていた。供の人々も自分の身は鉄石ではないので皆飢えて歩けないほどだったが、腰を押し手を引いて助け合いながら道中13日目に十津川へ到着された。親王様を路傍の小堂にお休みいただき、供たちは民家に行って「熊野参拝に向かう山伏で道に迷った」と説明したところ住民が哀れんで粟飯やどんぐり粥などを出して飢えを助けてくれた。親王様にもこの食物を差し上げながら二三日過ごされた。ともかく今後どうすればよいのか見当もつかないので、光林房玄尊が「これは有力者の家だろう」と思われる一軒へ行くと童子が出てきた。「家主は竹原八郎入道殿の甥である戸野兵衛という人物です」と言うので、「まさに武勇で名高いあの人だ。ぜひ頼ろう」と門内に入ると病人がいるようだったため「もし貴重な山伏がいらっしゃったら祈祷をさせていただけませんか」と思案した。 解説
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| 」と云声しけり。玄尊すはや究竟の事こそあれと思ければ、声を高らかに揚て、「是は三重の滝に七日うたれ、那智に千日篭て三十三所の巡礼の為に、罷出たる山伏共、路蹈迷て此里に出て候。一夜の宿を借一日〔の〕飢をも休め給へ。」と云たりければ、内より怪しげなる下女一人出合ひ、「是こそ可然仏神の御計ひと覚て候へ。是の主の女房物怪を病せ給ひ候。祈てたばせ給てんや。」と申せば、玄尊、「我等は夫山伏にて候間叶ひ候まじ。あれに見へ候辻堂に、足を休て被居て候先達こそ、効験第一の人にて候へ。此様を申さんに子細候はじ。」と云ければ、女大に悦で、「さらば其先達の御房、是へ入進せさせ給へ。」と云て、喜あへる事無限。玄尊走帰て此由を申ければ、宮を始奉て、御供の人皆彼が館へ入せ給ふ。宮病者の伏たる所へ御入在て御加持あり。千手陀羅尼を二三反高らかに被遊て、御念珠を押揉ませ給ければ、病者自口走て、様々の事を云ける、誠に明王の縛に被掛たる体にて、足手を縮て戦き、五体に汗を流して、物怪則立去ぬれば、病者忽に平瘉す。主の夫不斜喜で、「我畜たる物候はねば、別の御引出物迄は叶候まじ。枉て十余日是に御逗留候て、御足を休めさせ給へ。例の山伏楚忽に忍で御逃候ぬと存候へば、恐ながら是を御質に玉らん。 |
その声が聞こえたので、玄尊はこれは願ってもない好機だと悟り、声を張り上げて「私たちは三重の滝に七日間打たれ修行し、那智山で千日籠もった後三十三所巡礼のために出発した山伏です。道に迷ってこの村へ来ました。どうか一晩の宿と食事をお恵みください」と言うと、家の中から怪しい感じの下女が出てきて「これは仏様のお導きでしょう!主人の妻が悪霊にとりつかれています。お祈りいただけませんか」と頼んだ。玄尊は「私たちでは力不足です。あちらの辻堂で休んでいらっしゃる先達(修行指導者)こそ、最も霊験あらたかな方です。事情を話せば協力してくださるでしょう」と答えると、女は大いに喜び「ではそのお方をこちらへお招きください」と言って狂喜した。玄尊が走り返りこのことを報告すると、親王をお連れし供の者全員が屋敷に入った。親王は病人の寝ている部屋で祈りの儀式を行い、千手陀羅尼を二・三度高声に唱えられて念珠を揉まれると、病人が突然「明王様の縛りにかかった!」と叫び手足を縮めて震え、全身汗だくになった。悪霊が去ると病人はたちまち回復した。主人である戸野兵衛はひどく喜んで「家畜すら持たない身でお礼もできませんが、どうか十数日ここに滞在され休養なさってください。もし山伏を装った逃亡者だと後から気づいても怖れ多く人質として私の子をお預けします」と言上した。 解説
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| 」とて、面々の笈共を取合て皆内にぞ置たりける。御供の人々、上には其気色を不顕といへ共、下には皆悦思へる事無限。角て十余日を過させ給けるに、或夜家主の兵衛尉、客殿に出て薪などせさせ、四方山の物語共しける次に申けるは、「旁は定て聞及ばせ給たる事も候覧。誠やらん、大塔宮、京都を落させ給て、熊野の方へ趣せ給候けんなる。三山の別当定遍僧都は無二武家方にて候へば、熊野辺に御忍あらん事は難成覚候。哀此里へ御入候へかし。所こそ分内は狭く候へ共、四方皆嶮岨にて十里二十里が中へは鳥も翔り難き所にて候。其上人の心不偽、弓矢を取事世に超たり。されば平家の嫡孫惟盛と申ける人も、我等が先祖を憑て此所に隠れ、遂に源氏の世に無恙候けるとこそ承候へ。」と語ければ、宮誠に嬉しげに思食たる御気色顕れて、「若大塔宮なんどの、此所へ御憑あて入せ給ひたらば、被憑させ給はんずるか。」と問せ給へば、戸野兵衛、「申にや及び候。身不肖に候へ共、某一人だに斯る事ぞと申さば、鹿瀬・蕪坂・湯浅・阿瀬川・小原・芋瀬・中津川・吉野十八郷の者迄も、手刺者候まじきにて候。」とぞ申ける。其時宮、木寺相摸にきと御目合有ければ、相摸此兵衛が側に居寄て、「今は何をか隠し可申、あの先達の御房こそ、大塔宮にて御坐あれ。 |
そう言って一行の荷物を取り上げ屋内へ納めたため、供の人々は表向き平静を装いながらも内心では喜びに満ちた。こうして十数日が過ぎたある夜、家主である戸野兵衛尉が客殿に出て焚き火をさせ世間話をする中で、「おそらくご存知でしょうが、大塔宮(護良親王)様が京都から落ち延び熊野へ向かわれたとか。しかし熊野三山の別当・定遍僧都は幕府側ですので身を潜めるのは難しいと聞きます。どうかこの里に来てほしいものです。土地こそ狭いですが四方が険しく十里二十里(約40-80km)先まで鳥さえ飛びにくい場所で、人の心も偽りなく武芸は世に優れています。平家の嫡孫・惟盛という方も先祖を頼ってここに隠れ源氏時代を無事過ごしたと伝わっています」と語ったため、親王は嬉しそうな表情を見せて「もし大塔宮がこの地へ逃れてきたら庇うか?」とお尋ねになった。戸野兵衛が「言うまでもありません!私一人だけではなく鹿瀬・蕪坂(かぶさか)・湯浅・阿瀬川(あぜがわ)・小原・芋瀬(いもせ)・中津川・吉野十八郷の者まで決して裏切りはしません」と答えると、親王が木寺相模に合図なさったため、相模は兵衛のそばへ寄り「もう隠す必要はありません。あの先達こそ大塔宮でいらっしゃいます」。 解説
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| 」と云ければ、此兵衛尚も不審気にて、彼此の顔をつく/゛\と守りけるに、片岡八郎・矢田彦七、「あら熱や。」とて、頭巾を脱で側に指置く。実の山伏ならねば、さかやきの迹隠なし。兵衛是を見て、「げにも山伏にては御座せざりけり。賢ぞ此事申出たりける。あな浅猿、此程の振舞さこそ尾篭に思召候つらん。」と以外に驚て、首を地に着手を束ね、畳より下に蹲踞せり。俄に黒木の御所を作て宮を守護し奉り、四方の山々に関を居、路を切塞で、用心密しくぞ見へたりける。是も猶大儀の計畧難叶とて、叔父竹原八郎入道に此由を語ければ、入道頓て戸野が語に随て、我館へ宮を入進らせ、無二の気色に見へければ、御心安く思召て、此に半年許御座有ける程に、人に被見知じと被思食ける御支度に、御還俗の体に成せ給ければ、竹原八郎入道が息女を、夜るのをとゞへ被召て御覚異他なり。さてこそ家主の入道も弥志を傾け、近辺の郷民共も次第に帰伏申たる由にて、却て武家をば褊しけり。去程に熊野の別当定遍此事を聞て、十津河へ寄せんずる事は、縦十万騎の勢ありとも不可叶。只其辺の郷民共の欲心を勧て、宮を他所へ帯き出し奉らんと相計て、道路の辻に札を書て立けるは、「大塔宮を奉討たらん者には、非職凡下を不云、伊勢の車間庄を恩賞に可被充行由を、関東の御教書有之。 |
そう言われても戸野兵衛はまだ疑わしげに見つめていたところ、片岡八郎と矢田彦七が「なんて暑いんだ」と言って頭巾を脱ぎ傍らに置いた。本物の山伏ではないため剃り跡(さかやき)が隠せない。兵衛はこれを見て「本当に山伏ではなかったのですね!よくぞ打ち明けてくださいました。この間のお振る舞い、実に失礼なこととお思いでしょう」と驚愕し地面に頭を付け手をついてひれ伏した。(一行は)急ぎ黒木で仮御所を作り親王をお守りし、周囲の山に関所を設け道を塞ぐなど警戒を厳重に行った。 それでも計画達成が難しいと判断され、(片岡八郎が)叔父の竹原八郎入道に事情を話したところ、入道はすぐ戸野兵衛の言葉を受け入れ自分の館へ親王をお迎えし忠誠を示したため、親王も安心なさった。ここで半年ほどお過ごしになるうち、人目につかないよう装うための措置として還俗(僧侶から一般人に戻る)のお姿になられた。(すると)竹原八郎入道の娘を夜伽(寝所の世話役)にお召しになり特別な寵愛をお示しになった。これにより館主である入道も一層忠誠心を持ち、近郷の人々も次第に帰順したため、むしろ幕府方への警戒が強まった。 やがて熊野の別当・定遍はこの件を知り「十津川へ攻め寄せるのは仮に十万騎の軍勢があっても不可能だ」と判断。ただ土地の人々の欲心を煽って親王をお連れ出しさせるべく、辻に次のような札を掲げた:「大塔宮を討ち取った者には身分低い者でも構わず伊勢国車間庄(くるまんしょう)を与える。関東(幕府)の公式命令により保障する」 解説
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| 其上に定遍先三日が中に六万貫を可与。御内伺候の人・御手の人を討たらん者には五百貫、降人に出たらん輩には三百貫、何れも其日の中に必沙汰し与べし。」と定て、奥に起請文の詞を載て、厳密の法をぞ出しける。夫移木の信は為堅約、献芹の賂は為奪志なれば、欲心強盛の八庄司共此札を見てければ、いつしか心変じ色替て、奇しき振舞共にぞ聞へける。宮「角ては此所の御止住、始終悪かりなん。吉野の方へも御出あらばや。」と被仰けるを、竹原入道、「如何なる事や候べき。」と強て留申ければ、彼が心を破られん事も、さすがに叶はせ給はで、恐懼の中に月日を送らせ給ける。結句竹原入道が子共さへ、父が命を背て、宮を討奉らんとする企在と聞しかば、宮潛に十津河も出させ給て、高野の方へぞ趣かせ給ひける。其路、小原・芋瀬・中津河と云敵陣の難所を経て通る路なれば、中々敵を打憑て見ばやと被思召、先芋瀬の庄司が許へ入せ給ひけり。芋瀬、宮をば我館へ入進らせずして、側なる御堂に置奉り、使者を以て申けるは、「三山別当定遍武命を含で、隠謀与党の輩をば、関東へ注進仕る事にて候へば、此道より無左右通し進らせん事、後の罪科陳謝するに不可有拠候、乍去宮を留進らせん事は其恐候へば、御伴の人々の中に名字さりぬべからんずる人を一両人賜て、武家へ召渡候歟、不然ば御紋の旗を給て、合戦仕て候つる支証是にて候と、武家へ可申にて候。 |
その上に定遍は「三日以内に六万貫を与える。親王付きの側近や警護役を討った者は五百貫、投降者が出た場合は三百貫とし、必ず当日中に支払う」と約束し、末尾には誓約書を添えて厳重な法令を発布した。噂は真実のように広まり、わずかな賄賂が人心を奪うため、欲深い八人の庄司(在地領主)たちはこの札を見るや態度を一変させ、奇妙な動きを見せ始めた。 親王が「こうなってはここに滞在し続けるのも危険だ。吉野の方へ移ろう」とおっしゃると、竹原入道が「どうかご遠慮ください」と強く引き留めたため、彼の心情を無下にもできず、不安の中で月日をお過ごしになられた。結局は竹原入道自身の子供たちまでも父の命令に背き親王討伐を企てているとの噂が流れたので、親王は密かに十津川を脱出され高野山へ向かわれた。 その途上、小原・芋瀬(いもせ)・中津河という敵方の要害を通る道であったため、「むしろ敵に戦いを挑みたい」とお考えになり、まず芋瀬庄司のもとへ赴かれた。ところが芋瀬は親王を館には招き入れず傍らの御堂に安置し、使者を使ってこう申し上げた:「熊野三山の別当・定遍様が幕府の命を受け謀反人の同類を通報することになっておりますので、この道から無理にお通しすれば後日の処罰を免れません。とはいえ親王をお引き留めするのも恐ろしいゆえ――御供の中から名のある者一両人をお預かり下され幕府へ引渡すか、さもなくば御紋の旗(天皇方証拠)をご提供ください。これで『合戦した証明』として幕府に報告いたします」 解説
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| 此二つの間、何れも叶まじきとの御意にて候はゞ、無力一矢仕らんずるにて候。」と、誠に又予儀もなげにぞ申入たりける。宮は此事何れも難議也。と思召て、敢御返事も無りけるを、赤松律師則祐進み出て申けるは、「危きを見て命を致すは士卒の守る所に候。されば紀信は詐て敵に降り、魏豹は留て城を守る。是皆主の命に代りて、名を留めし者にて候はずや。兎ても角ても彼が所存解て、御所を通し可進にてだに候はゞ、則祐御大事に代て罷出候はん事は、子細有まじきにて候。」と申せば、平賀三郎是を聞て、「末坐の意見卒尓の議にて候へ共、此艱苦の中に付纏奉りたる人は、雖一人上の御為には、股肱耳目よりも難捨被思召候べし。就中芋瀬庄司が申所、げにも難被黙止候へば、其安きに就て御旗許を被下候はんに、何の煩か候べき。戦場に馬・物具を捨、太刀・刀を落して敵に被取事、さまでの恥ならず。只彼が申請る旨に任て、御旗を被下候へかし。」と申ければ、宮げにもと思召て、月日を金銀にて打て着たる錦の御旗を、芋瀬庄司にぞ被下ける。角て宮は遥に行過させ給ぬ。暫有て村上彦四郎義光、遥の迹にさがり、宮に追着進せんと急けるに、芋瀬庄司無端道にて行合ぬ。芋瀬が下人に持せたる旗を見れば、宮の御旗也。 |
芋瀬庄司はさらに言った:「この二つの条件(人質か御旗の提供)どちらも受け入れられないのでしたら、無力ながら一矢報いて戦う覚悟です」と、実に傲慢な申し出をした。親王はこれがいずれも難しい問題だとお考えになり、返答すらされなかったところ、赤松律師則祐が進み出て訴えた:「危険を見て命を捧げるのは武士の守るべき道です。昔、紀信(中国前漢)は偽って敵に降り、魏豹(古代中国)は留まって城を守った。これらは皆、主君のために代わりに死んで名を残した者ではありませんか。どうあれ彼(芋瀬)の意向を受け入れ御所を通して頂けるならば、則祐が身代わりに出向くことは何の問題もありません」。 これを聞いた平賀三郎が言うには:「末席の発言(赤松)は軽率ですが、この苦難の中で付き従った者を失うのは主君にとって手足や耳目以上に惜しいことでしょう。芋瀬庄司の申し出黙認も困難ならば、安全策として御旗をお渡しになられてはいかがでしょうか?戦場で馬や武具を捨て刀を奪われるより恥ずかしくありません」。親王は「なるほど」と納得され、金銀糸で日月を刺繍した錦の御旗を芋瀬庄司に渡された。こうして親王一行は先へ通り過ぎられたが、しばらくして村上彦四郎義光が後方から追いかけてきたところ、偶然にも道端で芋瀬と遭遇する。芋瀬の従者が持つ旗を見ると——それはまさしく親王の御旗であった。 解説
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| 村上怪て事の様を問に、尓々の由を語る。村上、「こはそも何事ぞや。忝も四海の主にて御坐す天子の御子の、朝敵御追罰の為に、御門出ある路次に参り合て、汝等程の大凡下の奴原が、左様の事可仕様やある。」と云て、則御旗を引奪て取、剰旗持たる芋瀬が下人の大の男を掴で、四五丈許ぞ抛たりける。其怪力無比類にや怖たりけん。芋瀬庄司一言の返事もせざりければ、村上自御旗を肩に懸て、無程宮に〔奉〕追着。義光御前に跪て此様を申ければ、宮誠に嬉しげに打笑はせ給て、「則祐が忠は孟施舎が義を守り、平賀が智は陳丞相が謀を得、義光が勇は北宮黝が勢を凌げり。此三傑を以て、我盍治天下哉。」と被仰けるぞ忝き。其夜は椎柴垣の隙あらはなる山がつの庵に、御枕を傾けさせ給て、明れば小原へと志て、薪負たる山人の行逢たるに、道の様を御尋有けるに、心なき樵夫迄も、さすが見知進せてや在けん、薪を下し地に跪て、「是より小原へ御通り候はん道には、玉木庄司殿とて、無弐の武家方の人をはしまし候。此人を御語ひ候はでは、いくらの大勢にても其前をば御通り候ぬと不覚候。恐ある申事にて候へ共、先づ人を一二人御使に被遣候て、彼人の所存をも被聞召候へかし。」とぞ申ける。宮つく/゛\と聞召て、「芻蕘の詞迄も不捨」と云は是也。 |
村上は怪しんで事情を尋ねると、芋瀬が事の次第を話した。すると村上が「これは何事だ!尊い四海の主である天皇の御子が朝敵討伐のためにご出陣なさる道中に、お前たちのような下賤の者どもがこのような真似をするとは!」と言い放ち、すぐさま御旗を奪い取ると、さらに旗を持っていた芋瀬の下男(大柄な男)をつかみ、四丈五尺ほど投げ飛ばした。その怪力は比類なく、芋瀬庄司も恐れたのか一言の返答もしなかった。 村上は自ら御旗を肩にかけ、間もなく親王に追いついた。義光がひざまずいてこの様子を報告すると、親王は実に嬉しそうにお笑いになり、「則祐の忠義は孟施舎(中国春秋時代の勇士)の信義を守り、平賀の知略は陳丞相(前漢・陳平)の謀略を得ており、義光の勇猛さは北宮黝(古代中国の勇士)をも凌いでいる。この三人の傑物がいれば天下が治まらないはずがあろうか」とおっしゃられたのは何とも光栄なことであった。 その夜は椎柴垣に隙間だらけの山小屋で枕を傾けて休まれ、翌朝小原へ向かわれた。薪を背負った樵に出会い道筋をお尋ねになると、無心な樵までもが事情を知っていたのか、薪を下ろして地面にひざまずき、「ここから小原にお通りになる途中には玉木庄司様という幕府方の忠実な人物がいらっしゃいます。この方を味方につけなければ、いかに大軍であってもその前を通るのは不可能でしょう。恐れ多いことではありますが、どうか先に使者を一二人お遣わしになって、あの方のお考えをお聞きください」と申し上げた。 親王はじっくりとこれを聞かれ、「身分の低い者の言葉も捨てないということだな(『戦国策』引用)」と言われたのは正にこのことであった。 解説
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| げにも樵夫が申処さもと覚るぞ。」とて、片岡八郎・矢田彦七二人を、玉置庄司が許へ被遣て、「此道を御通り有べし、道の警固に、木戸を開き、逆茂木を引のけさせよ。」とぞ被仰ける。玉置庄司御使に出合て、事の由を聞て、無返事にて内へ入けるが、軈て若党・中間共に物具させ、馬に鞍置、事の体躁しげに見へければ、二人の御使、「いや/\此事叶ふまじかりけり。さらば急ぎ走帰て、此由を申さん。」とて、足早に帰れば、玉置が若党共五六十人、取太刀許にて追懸たり。二人の者立留り、小松の二三本ありける陰より跳出で、真前に進だる武者の馬の諸膝薙で刎落させ、返す太刀にて頚打落して、仰たる太刀を押直してぞ立たりける。迹に続て追ける者共も、是を見て敢て近付者一人もなし、只遠矢に射すくめけれ、片岡八郎矢二筋被射付て、今は助り難と思ければ、「や殿、矢田殿、我はとても手負たれば、此にて打死せんずるぞ。御辺は急ぎ宮の御方へ走参て、此由を申て、一まども落し進せよ。」と、再往強て云ければ、矢田も一所にて打死せんと思けれども、げにも宮に告申さゞらんは、却て不忠なるべければ、無力只今打死する傍輩を見捨て帰りける心の中、被推量て哀也。矢田遥に行延て跡を顧れば、片岡八郎はや被討ぬと見へて、頚を太刀の鋒に貫て持たる人あり。 |
親王が「確かに樵の言った通りだな」と言われて、片岡八郎と矢田彦七の二人を玉置庄司のもとに遣わし、「この道を通るので警備のために木戸を開かせ逆茂木(障害物)を取り除かせよ」とお命じになった。 解説
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| 矢田急ぎ走帰て此由を宮に申ければ、「さては遁れぬ道に行迫りぬ。運の窮達歎くに無詞。」とて、御伴の人々に至まで中々騒ぐ気色ぞ無りける。さればとて此に可留に非ず、行れんずる所まで行やとて、上下三十余人の兵共、宮を前に立進せて問々山路をぞ越行ける。既に中津河の峠を越んとし給ける所に、向の山の両の峯に玉置が勢と覚て、五六百人が程混冑に鎧て、楯を前に進め射手を左右へ分て、時の声をぞ揚たりける。宮是を御覧じて、玉顔殊に儼に打笑ませ給て、御手の者共に向て、「矢種の在んずる程は防矢を射よ、心静に自害して名を万代に可貽。但各相構て、吾より先に腹切事不可有。吾已に自害せば、面の皮を剥耳鼻を切て、誰が首とも見へぬ様にし成て捨べし。其故は我首を若獄門に懸て被曝なば、天下に御方の志を存ぜん者は力を失ひ、武家は弥所恐なかるべし。「死せる孔明生る仲達を走らしむ」と云事あり。されば死して後までも、威を天下に残すを以て良将とせり。今はとても遁れぬ所ぞ、相構て人々きたなびれて、敵に笑はるな。」と被仰ければ、御供の兵共、「何故か、きたなびれ候べき。」と申て、御前に立て、敵の大勢にて責上りける坂中の辺まで下向ふ。其勢僅三十二人、是皆一騎当千の兵とはいへ共、敵五百余騎に打合て、可戦様は無りけり。 |
矢田彦七が急いで走り戻ってこのことを親王に報告すると、「どうやら逃れられぬ道に行き詰まったな。運命の極まりを嘆いても仕方あるまい」と述べられたが、供の人々まで含め騒ぐ様子は全くなかった。「とはいえここで留まるわけにはいくまい。行けるところまで進むのだ」と言って、主従三十余人の兵士たちは親王を先頭に立たせながら山道を越えて行った。 ちょうど中津河(現・奈良県吉野川)の峠を越えようとした時、向かいの両峰に玉置庄司軍と思しき五~六百人ほどの兵が甲冑に身を固め、盾を前方に出して射手を左右に分けながら鬨の声(ときのこえ:戦いの雄叫び)を上げた。親王はこれを見て御顔に厳かな微笑みを浮かべられ、従う者たちに向けて言われた。「矢が尽きるまでは防ぎつつ射よ。心静かに自害して名を後世へ残せ。ただし皆よく覚えておけ——我より先に腹を切ってはならぬ。私が死んだら顔の皮を剥いで耳鼻を切り落とし、誰とも分からぬように捨て置くのだ。なぜならもし首が獄門(晒し台)にかけられれば、朝廷のために戦おうとする者は力を失い幕府は一層恐れなくなるだろう。」 「死せる孔明生る仲達を走らす」という故事がある通り、死して後も威厳を天下に残すのが良将というものだ。今や逃げ場はないのだから皆しっかりせよ——醜態を見せて敵の笑い者になるな。」とおっしゃると、供の兵たちは「どうして我々がみだりがましい所業をしましょうか」と言って親王の前に立ち塞がり、大軍で迫りくる坂道の中腹へ向けて降りていった。その数わずか三十二人——皆一騎当千(一人で千人に匹敵)とはいえ、五百余騎もの敵と戦える状況ではなかった。 解説
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| 寄手は楯を雌羽につきしとうてかづき襄り、防ぐ兵は打物の鞘をはづして相懸りに近付所に、北の峯より赤旗三流、松の嵐に翻して、其勢六七百騎が程懸出たり。其勢次第に近付侭、三手に分て時の声を揚て、玉置庄司に相向ふ。真前に進だる武者大音声を揚て、「紀伊国の住人野長瀬六郎・同七郎、其勢三千余騎にて大塔宮の御迎に参る所に、忝も此君に対ひ進せて、弓を控楯を列ぬる人は誰ぞや。玉置庄司殿と見るは僻目か、只今可滅武家の逆命に随て、即時に運を開かせ可給親王に敵対申ては、一天下の間何の処にか身を置んと思ふ。天罰不遠から、是を鎮ん事我等が一戦の内にあり。余すな漏すな。」と、をめき叫でぞ懸りける。是を見て玉置が勢五百余騎、叶はじとや思けん、楯を捨旗を巻て、忽に四角八方へ逃散ず。其後野長瀬兄弟、甲を脱ぎ弓を脇に挟て遥に畏る。宮の御前近く被召て、「山中の為体、大儀の計略難叶かるべき間、大和・河内の方へ打出て勢を付ん為、令進発之処に、玉置庄司只今の挙動、当手の兵万死の内に一生をも得難しと覚つるに、不慮の扶に逢事天運尚憑あるに似たり。抑此事何として存知たりければ、此戦場に馳合て、逆徒の大軍をば靡ぬるぞ。」と御尋有ければ、野長瀬畏て申けるは、「昨日の昼程に、年十四五許に候し童の、名をば老松といへり〔と〕名乗て、「大塔宮明日十津河を御出有て、小原へ御通りあらんずるが、一定道にて難に逢はせ給ぬと覚るぞ、志を存ぜん人は急ぎ御迎に参れ」と触廻り候つる間、御使ぞと心得て参て候。 |
攻め寄せる敵軍は盾を脇に抱え直し身構え、防戦する親王の兵たちは刀の鞘を外して応戦しようと間合いを詰めたまさにその時、北の峰から赤旗三本が松林を吹き抜ける風になびく中、六~七百騎ほどの軍勢が現れた。この軍勢は徐々に接近すると三手に分かれ鬨の声(ときのこえ)を上げて玉置庄司隊に対峙した。 先頭を行く武者が大声で叫んだ。「紀伊国の住人、野長瀬六郎・七郎だ!三千余騎を率いて大塔宮御一行をお迎えに参った。畏れ多いこの君(親王)に向かって弓を控え盾を並べている者は誰か?玉置庄殿と見るのは目違いか?今まさに滅ぼすべき武家の反逆命令に従い、すぐにも天下をお開きにならんとする親王に対抗するとは――この広い世の中に身の置き所があると思うのか?天罰は遠くないぞ。これを鎮めるのは我々との一戦にかかっている!一人残らず討ち取れ!」と叫びながら襲い掛かった。 これを見た玉置軍五百余騎は勝ち目なしと思ったか、盾を捨て旗を巻き上げあっという間に四方八方へ散り散りに逃げ去った。その後野長瀬兄弟は兜を脱ぎ弓を脇に挟んで恭しく控えた。 親王が近くにお呼びになって仰せになった。「山奥での戦況は作戦もままならず、やむなく大和・河内方面へ進出して兵力を集めようとしていたところだ。玉置庄司の今度の動きでは我ら兵士たちが万死に一生を得るのは難しいかと思っていたのに、思いがけぬ助勢に遭うとは天運なお頼もしいことよ。そもそもお前たちはどうしてこのことを知り、戦場へ駆けつけて逆賊の大軍を追い散らしたのか?」 野長瀬兄弟が畏まって申し上げた。「昨日昼頃のことです。十四、五歳ほどの少年で老松と名乗る者が『大塔宮様は明日十津川(現・奈良県吉野郡)をお立ちになり小原を通られるはずだが、きっと道中で災難にお遭いになるだろう。志を持つ者は急ぎお迎えに参れ』と言って触れ回っていましたので、御使いと心得て駆けつけた次第です」。 解説
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| 」とぞ申ける。宮此事を御思案あるに、直事に非ずと思食合せて、年来御身を放されざりし膚の御守を御覧ずるに、其口少し開たりける間、弥怪しく思食て、則開被御覧ければ、北野天神の御神体を金銅にて被鋳進たる其御眷属、老松の明神の御神体、遍身より汗かいて、御足に土の付たるぞ不思議なる。「さては佳運神慮に叶へり、逆徒の退治何の疑か可有。」とて、其より宮は、槙野上野房聖賢が拵たる、槙野の城へ御入ありけるが、此も尚分内狭くて可悪ると御思案ありて、吉野の大衆を語はせ給て、安善宝塔を城郭に構へ、岩切通す吉野河を前に当て、三千余騎を随へて楯篭らせ給けるとぞ聞へし。 |
そう申し上げた。親王はこのことをお考えになり、ただごとではないと思われて、長年肌身離さず持っていた守り袋をご覧になると、その口が少し開いていたのでますます怪しく思い、すぐに開けて御覧になったところ、北野天満宮の御神体を金銅で鋳造したもの(菅原道真公像)とその眷属である老松明神の御神体があり、全身から汗をかき足には土が付いているのが不思議だった。「これはよい運勢が神意に叶ったのだ。逆賊退治に何の疑いがあろうか」と言って、その後親王は槙野上野房聖賢が整えた槙野城へお入りになったが、ここもやはり範囲が狭くて良くないとお考えになり、吉野寺社勢力を説得してお集めになって、安善宝塔(現・奈良県吉野山の仏塔)を城郭として構築し、岩壁を切り開いて流れる吉野川を前に置き、三千余騎をお従えにして籠城なさったという。 解説
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| input text 太平記\006_太平記_巻6.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第六 ○民部卿三位局御夢想事 夫年光不停如奔箭下流水、哀楽互替似紅栄黄落樹。尓れば此世中の有様、只夢とやいはん幻とやいはん。憂喜共に感ずれば、袂の露を催す事雖不始今、去年九月に笠置城破れて、先帝隠岐国へ被遷させ給し後は、百司の旧臣悲を抱て所々に篭居し、三千の宮女涙を流して面々に臥沈給ふ有様、誠に憂世の中の習と云ながら、殊更哀に聞へしは、民部卿三位殿御局にて留たり。其を如何にと申に、先朝の御寵愛不浅上、大塔の宮御母堂にて渡せ給しかば、傍への女御・后は、花の側の深山木の色香も無が如く〔也〕。而るを世間静ならざりし後は、万づ引替たる九重の内の御住居も不定、荒のみ増る浪の上に、舟流したる海士の心地して、寄る方もなき御思の上に打添て、君は西海の帰らぬ波に浮沈み、泪無隙御袖の気色と承りしかば、空傾思於万里之暁月、宮は又南山の道なき雲に踏迷はせ給て、狂浮たる御住居と聞ゆれど、難託書於三春之暮雁。云彼云此一方ならぬ御歎に、青糸の髪疎にして、いつの間に老は来ぬらんと被怪、紅玉膚消て、今日を限の命共がなと思召ける御悲の遣方なさに、年来の御祈の師とて、御誦経・御撫物なんど奉りける、北野の社僧の坊に御坐して、一七日参篭の御志ある由を被仰ければ、此折節武家の聞も無憚には非ねども、日来の御恩も重く、今程の御有様も御痛しければ、無情は如何と思て、拝殿の傍に僅なる一間を拵て、尋常の青女房なんどの参篭したる由にて置奉りけり。 |
太平記巻第六「民部卿三位局御夢想事」 時は止まることなく流れ去り、あたかも飛ぶ矢や下る水のようである。喜びと悲しみは互いに移ろい、紅葉が栄え黄葉が散る木々に似ている。この世の中の様子を夢と言おうか幻と言おうか。嘆きと喜び共に感じると袖に露(涙)を催すことは今に始まったことではないが、去る九月に笠置城が落ちて後醍醐天皇が隠岐国へお移りになられた後は、朝廷の旧臣たちは悲しみを抱えて各地に籠もり、宮中の女官たちは涙を流してそれぞれ床に伏している様子は、まことに憂き世ならではとは言え、特に哀れだったのは民部卿三位殿(大塔宮護良親王生母)が局でお過ごしになっていたことである。 これはなぜかと言えば、先帝(後醍醐天皇)からの御寵愛が深く、また大塔の宮(護良親王)の実母として尊重されていたため、側にいた他の女御や后たちは花のそばにある深山の木のように色香もない存在であった。しかし世情が騒がしくなってからはすべてが一変し、深い宮中での住まいも定まらず荒れる海で小舟を流す漁夫のような心地になっておられた。頼るあてもない御心痛に加えて、天皇は西の海(隠岐)で帰らぬ波にもまれていると聞き涙が絶えないご様子であることを伺ったので、(三位殿は)万里のかなたにある暁月を仰いでは空しく思い嘆かれた。一方宮(護良親王)もまた南山の道なき雲に踏み迷っておられ、定まらぬ御住居と聞くが春の渡り鳥にも便りを託せない。 あれこれと思い悩む両方からの悲嘆で黒髪は乱れて「いつ老いは来たのか」と驚かれ、紅玉のような肌も衰え「今日限りの命か」とお思いになる御悲痛の様子に、長年信仰されてきた祈願の師である北野神社の社僧のもとに参籠し七日間の読経や撫物(護摩祈祷)を捧げたいと申されると、この時期武家(幕府方)の監視が厳しい中ではあったものの、長年の御恩も重く今のお姿を見るに忍びず無情にもできぬと思い、拝殿わきに狭い一室を設けて「普通の高級女官たちの参籠」と偽ってお許し申したのである。 解説
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| 哀古へならば、錦帳に妝を篭、紗窓に艶を閉て、左右の侍女其数を不知、当りを輝て仮傅奉べきに、いつしか引替たる御忍の物篭なれば、都近けれ共事問かわす人もなし。只一夜松の嵐に御夢を被覚、主忘れぬ梅が香に、昔の春を思召出すにも、昌泰の年の末に荒人神と成せ玉ひし、心づくしの御旅宿までも、今は君の御思に擬へ、又は御身の歎に被思召知たる、哀の色の数々に、御念誦を暫被止て、御涙の内にかくばかり、忘ずは神も哀れと思しれ心づくしの古への旅と遊て、少し御目睡有ける其夜の御夢に、衣冠正しくしたる老翁の、年八十有余なるが、左の手に梅の花を一枝持、右の手に鳩の杖をつき、最苦しげなる体にて、御局の臥給たる枕の辺に立給へり。御夢心地に思召けるは、篠の小篠の一節も、可問人も覚ぬ都の外の蓬生に、怪しや誰人の道蹈迷へるやすらひぞやと御尋有ければ、此老翁世に哀なる気色にて、云ひ出せる詞は無て、持たる梅花を御前に指置て立帰けり。不思議やと思召て御覧ずれば、一首の歌を短冊にかけり。廻りきて遂にすむべき月影のしばし陰を何歎くらん御夢覚て歌の心を案じ給に、君遂に還幸成て雲の上に住ませ可給瑞夢也。と、憑敷思召けり。誠に彼聖廟と申奉るは、大慈大悲の本地、天満天神の垂迹にて渡らせ給へば、一度歩を運ぶ人、二世の悉地を成就し、僅に御名を唱る輩、万事の所願を満足す。 |
昔を懐かしく思えば、錦の帳で装いを隠し、紗窓に艶やかさを閉ざして、周囲の侍女も数知れず輝くばかりにお世話申し上げるべき立場であったのに、いつしか様変わりした御身分ゆえ都近くとも尋ね来る者もない。ただ一夜松風が夢を覚まされると主君(後醍醐天皇)忘れぬ梅の香りに昔の春をお思い出しになるにつけても、昌泰年間末(901年菅原道真左遷事件)に荒々しい神となられた天神様の故事さえもが、今は帝への思慕と自身の嘆きに重なってお感じになり、哀れ深い気持ちばかり募り御念誦をしばらく止めて涙にくれる中「これほど懇ろにお祈りすれば神も憐れんでくださるだろう」との思いで古(いにしえ)の天神様の旅路に心遊ばせ、うとうとされたその夜の夢の中に衣冠を正した老翁が現れた。八十歳余りのこの老人は左手に梅の枝を持ち右手には鳩杖をつき、非常に苦しそうな様子で御局(三位殿)のお寝所の枕元に立たれている。 夢心地の中でお思いになられたのは「都から遠く離れた草深い庵にまして怪しいことよ、誰が道に迷ってここへ」と尋ねると老翁は世にも哀れな表情で言葉も発せず持っていた梅の花を御前に差し出して立ち去った。不思議に思われてご覧になれば一首の歌が短冊にかかれていた。「巡り来てやがて晴れるべき月影の 一時(いっとき)の陰を何嘆くらむ」夢から覚めてこの歌の意味をお考えになるうち「帝は必ず還幸なさって皇居にお戻りになられる吉兆だ」と深く確信された。誠に北野聖廟と申し上げるのは大慈大悲(観音菩薩)を本地とする天満天神が顕現したお方ゆえ、一度参詣する者は二世の願い成就しわずかに御名を唱える者さえ万般の望み叶うのである。 解説
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| 況乎千行万行の紅涙を滴尽て、七日七夜の丹誠を致させ給へば、懇誠暗に通じて感応忽に告あり。世既澆季に雖及、信心誠ある時は霊艦新なりと、弥憑敷ぞ思食ける。 ○楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事 元弘二年三月五日、左近将監時益、越後守仲時、両六波羅に被補て、関東より上洛す。此三四年は、常葉駿河守範貞一人として、両六波羅の成敗を司て在しが、堅く辞し申けるに依てとぞ聞へし。楠兵衛正成は、去年赤坂の城にて自害して、焼死たる真似をして落たりしを、実と心得て、武家より、其跡に湯浅孫六入道定仏を地頭に居置たりければ、今は河内国に於ては殊なる事あらじと、心安く思ける処に、同四月三日楠五百余騎を率して、俄に湯浅が城へ押寄て、息をも不継責戦ふ。城中に兵粮の用意乏しかりけるにや、湯浅が所領紀伊国の阿瀬河より、人夫五六百人に兵粮を持せて、夜中に城へ入んとする由を、楠風聞て、兵を道の切所へ差遣、悉是を奪取て其俵に物具を入替て、馬に負せ人夫に持せて、兵を二三百人兵士の様に出立せて、城中へ入んとす。楠が勢是を追散さんとする真似をして、追つ返つ同士軍をぞしたりける。湯浅入道是を見て、我兵粮入るゝ兵共が、楠が勢と戦ふぞと心得て、城中より打て出で、そゞろなる敵の兵共を城中へぞ引入ける。 |
ましてや数え切れないほどの血のような涙を流し尽くし、七日七夜にわたり真心込めてお祈りなさったので、誠意がひそかに通じて神の応答が突然現れた。世の中はすでに末法の時代ではあるけれども信心が真実あれば霊験は新たに示されるのだと、いよいよ深く確信された。 (小見出し)楠木が天王寺に出陣した件、および隅田の高橋と宇都宮のこと 解説
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| 楠が勢共思の侭に城中に入すまして、俵の中より物具共取出し、ひし/\と堅めて、則時の声をぞ揚たりける。城の外の勢、同時に木戸を破り、屏を越て責入ける間、湯浅入道内外の敵に取篭られて、可戦様も無りければ、忽に頚を伸て降人に出づ。楠其勢を合せて、七百余騎にて和泉・河内の両国を靡けて、大勢に成ければ、五月十七日に先住吉・天王寺辺へ打て出で、渡部の橋より南に陣を取る。然間和泉・河内の早馬敷並を打、楠已に京都へ責上る由告ければ、洛中の騒動不斜。武士東西に馳散りて貴賎上下周章事窮りなし。斯りければ両六波羅には畿内近国の勢如雲霞の馳集て、楠今や責上ると待けれ共、敢て其義もなければ、聞にも不似、楠小勢にてぞ有覧、此方より押寄て打散せとて、隅田・高橋を両六波羅の軍奉行として、四十八箇所の篝、並に在京人、畿内近国の勢を合せて、天王寺へ被指向。其勢都合五千余騎、同二十日京都を立て、尼崎・神崎・柱松の辺に陣を取て、遠篝を焼て其夜を遅しと待明す。楠是を聞て、二千余騎を三手に分け、宗との勢をば住吉・天王寺に隠て、僅に三百騎許を渡部の橋の南に磬させ、大篝二三箇所に焼せて相向へり。是は態と敵に橋を渡させて、水の深みに追はめ、雌雄を一時に決せんが為と也。 |
楠木軍は思いのまま城内へ入り込み、俵の中から武具を取り出し次々と身につけ固めると、すぐさま鬨の声を上げた。城外の勢力も同時に城門を破り塀を越えて攻め込んだため、湯浅入道は内外で敵に包囲され戦う余地もなくなり、たちまち降伏して従属する者となった。楠木はこの兵力を合わせ七百余騎となり和泉・河内両国を平定した結果大軍になったので、五月十七日にまず住吉や天王寺付近へ進出し渡部橋の南に陣を構えた。すると和泉と河内から早馬が次々駆けつけ「楠木はすでに京都へ攻め上る」と報告したため都中は大混乱となった。武士たちは東西へ散り散りに走り貴賎上下問わず慌てふためき収拾がつかない状況だった。こうなると両六波羅探題には畿内近国の兵力が雲霞のように集結し「楠木は今にも攻め上るだろう」と警戒したものの実際その動きもなく噂とは食い違っていた(楠木軍は少数勢力であったため)。そこで逆に自ら押し寄せて打ち破ろうとして隅田・高橋を両六波羅の軍事指揮官に任命、四十八箇所のかがり火と在京者及び畿内近国の兵を合わせ天王寺へ向かわせた。その兵力は総勢五千余騎で同月二十日に京都を出発し尼崎・神崎・柱松付近に陣取り遠方にかがり火を焚き夜明けを待った。楠木はこれを聞くと二千余騎を三手に分け主力部隊は住吉と天王寺に潜伏させ、わずか三百騎ほどを渡部橋の南で休ませ大規模な篝火を二、三箇所で焚いて対峙したのである。これは意図的に敵軍に橋を渡らせ水深のある地点へ追い込み一挙に決着をつけるための策であった。 解説
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| 去程に明れば五月二十一日に、六波羅の勢五千余騎、所々の陣を一所に合せ、渡部の橋まで打臨で、河向に引へたる敵の勢を見渡せば、僅に二三百騎には不過、剰痩たる馬に縄手綱懸たる体の武者共也。隅田・高橋是を見て、さればこそ和泉・河内の勢の分際、さこそ有らめと思ふに合せて、はか/゛\しき敵は一人も無りけり。此奴原一々に召捕て六条河原に切懸て、六波羅殿の御感に預らんと云侭に、隅田・高橋人交もせず橋より下を一文字にぞ渡ける。五千余騎の兵共是を見て、我先にと馬を進めて、或は橋の上を歩ませ或は河瀬を渡して、向の岸に懸驤る。楠勢是を見て、遠矢少々射捨て、一戦もせず天王寺の方へ引退く。六波羅の勢是を見て、勝に乗り、人馬の息をも不継せ、天王寺の北の在家まで、揉に揉でぞ追たりける。楠思程敵の人馬を疲らかして、二千騎を三手に分て、一手は天王寺の東より敵を弓手に請て懸出づ。一手は西門の石の鳥居より魚鱗懸に懸出づ。一手は住吉の松陰より懸出で、鶴翼に立て開合す。六波羅の勢を見合すれば、対揚すべき迄もなき大勢なりけれ共、陣の張様しどろにて、却て小勢に囲れぬべくぞ見へたりける。隅田・高橋是を見て、「敵後ろに大勢を陰してたばかりけるぞ。此辺は馬の足立悪して叶はじ。 |
夜が明けると五月二十一日、六波羅勢五千余騎は各陣地の兵を集結させ渡部橋まで進軍し対岸へ退いた敵軍を見渡したところ、わずか二三百騎に満たず、痩せ細った馬に縄で作った手綱をつけたようなみすぼらしい武者たちであった。隅田と高橋はこれを見て「なるほど和泉・河内の勢力などこの程度だろう」と考えていた通り、頼りになる敵兵は一人もいなかった。「こいつらを一匹残らず捕まえ六条河原で晒し首にすれば、六波羅殿から褒賞を受けるぞ」と言うが早いか隅田と高橋は誰にも指示せず真っ直ぐ橋を渡り始めた。五千余騎の兵たちもこれを見て我先にと馬を進め、ある者は橋上を行軍しある者は浅瀬を渡って対岸に殺到した。楠木勢はこれを遠矢で少し射かけ一戦も交えず天王寺方面へ撤退する。六波羅勢はこれを見て勝利に乗じ兵士や馬の休息すら許さず、天王寺北側の民家群まで押し合いながら追撃した。楠木はちょうど敵の人馬を疲弊させた頃合いと見て二千騎を三手に分け一手は天王寺東側から弓攻勢で進撃し、二手は西門の石鳥居付近から魚鱗陣形で押し出し、三手目は住吉松林陰より鶴翼の陣形で展開した。六波羅軍が互いに見渡すと敵兵数は圧倒的に劣っていたものの布陣が乱れており反対に少数兵力に包囲されそうに見えた。隅田と高橋はこれを見て「敵は後方に大軍を潜ませた罠だ!この地形では馬足も立たず不利である」と言った。 解説
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| 広みへ敵を帯き出し、勢の分際を見計ふて、懸合々々勝負を決せよ。」と、下知しければ、五千余騎の兵共、敵に後ろを被切ぬ先にと、渡部の橋を指て引退く。楠が勢是に利を得て、三方より勝時を作て追懸くる。橋近く成ければ、隅田・高橋是を見て、「敵は大勢にては無りけるぞ、此にて不返合大河後ろに在て悪かりぬべし。返せや兵共。」と、馬の足を立直し/\下知しけれども、大勢の引立たる事なれば、一返も不返、只我先にと橋の危をも不云、馳集りける間、人馬共に被推落て、水に溺るゝ者不知数、或淵瀬をも不知渡し懸て死ぬる者も有り、或は岸より馬を馳倒て其侭被討者も有。只馬・物具を脱捨て、逃延んとする者は有れ共、返合せて戦はんとする者は無りけり。而れば五千余騎の兵共、残少なに被打成て這々京へぞ上りける。其翌日に何者か仕たりけん、六条河原に高札を立て一首の歌をぞ書たりける。渡部の水いか許早ければ高橋落て隅田流るらん京童の僻なれば、此落書を歌に作て歌ひ、或は語伝て笑ひける間、隅田・高橋面目を失ひ、且は出仕を逗め、虚病してぞ居たりける。両六波羅是を聞て、安からぬ事に被思ければ、重て寄せんと被議けり。其比京都余に無勢なりとて関東より被上たる宇都宮治部大輔を呼寄評定有けるは、「合戦の習ひ運に依て雌雄替る事古へより無に非ず。 |
「広い場所へ敵をおびき出し兵力を見極めてから戦おう」との命令を受けた五千余騎の兵士たちは、背後を断たれる前にと渡部橋目指して退却した。楠木勢はこの機に乗じ三方から攻勢に出て追撃する。橋が近づくと隅田・高橋は「敵は大軍ではない!ここで反撃せねば背後に大河があるのが災いだ。戻れ兵士たち!」と馬首を立て直そうとしたが、大軍が退却中なため誰も応じず我先にと危険な橋へ殺到した結果、人馬ともに押し落とされ水死する者数知れず、深みに嵌まって溺れる者や岸から転落して討たれる者も続出。装備を捨て逃げ延びる者はいても反撃する者はいなかった。こうして五千余騎はわずかな生き残りが京へ敗走した。翌日誰かが六条河原に立て札を設置し一首の歌を記す:「渡部川の流れよ急ぎたまえ 高橋落ちて隅田も沈む」と。京都の人々はこの皮肉な内容を歌い語り笑ったため、隅田・高橋は面目を失い出仕を止め仮病で引きこもった。両六波羅探題は事態を重く見て再攻撃を協議し、その際関東から上洛していた宇都宮治部大輔(公綱)を招き評定した:「合戦の成り行きが運次第となるのは古来珍しいことではない」と。 解説
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| 然共今度南方の軍負ぬる事、偏に将の計の拙に由れり。又士卒の臆病なるが故也。天下嘲哢口を塞ぐに所なし。就中に仲時罷上し後、重て御上洛の事は、凶徒若蜂起せば、御向ひ有て静謐候との為なり。今の如んば、敗軍の兵を駈集て何度むけて候とも、はか/゛\しき合戦しつ共不覚候。且は天下の一大事、此時にて候へば、御向候て御退治候へかし。」と宣ひければ、宇都宮辞退の気色無して被申けるは、「大軍已に利を失て後、小勢にて罷向候はん事、如何と存候へども、関東を罷出し始より、加様の御大事に逢て命を軽くせん事を存候き。今の時分、必しも合戦の勝負を見所にては候はねば、一人にて候共、先罷向て一合戦仕り、及難儀候はゞ、重御勢をこそ申候はめ。」と、誠に思定たる体に見へてぞ帰りける。宇都宮一人武命を含で大敵に向はん事、命を可惜に非ざりければ、態と宿所へも不帰、六波羅より直に、七月十九日午刻に都を出で、天王寺へぞ下りける。東寺辺までは主従僅に十四五騎が程とみへしが、洛中にあらゆる所の手者共馳加りける間、四塚・作道にては、五百余騎にぞ成にける。路次に行逢者をば、権門勢家を不云、乗馬を奪ひ人夫を駈立て通りける間、行旅の往反路を曲げ、閭里の民屋戸を閉づ。其夜は柱松に陣を取て明るを待つ。 |
「しかしながら今回南軍(楠木勢)に負けたのは、完全に指揮官の策略が拙劣だったためだ。また兵士たちの臆病さも原因である。天下の嘲笑を封じる術はない。特に仲時が上洛した後で改めて出撃するのは、悪党どもが蜂起すれば鎮圧できるという考えによるものだが、今のように敗軍の兵を集め何度向かってもまともな戦いさえ覚束ない状況だ。しかも天下の一大事であるこの時にあたっては、(上様自ら)出撃して討伐されるべきだろう」と言ったところ、宇都宮(公綱)は辞退する素振りもなく申し上げた:「大軍が既に敗れた後に小勢で向かうのはいかがなものかとは思います。しかし関東を発つ時からこのような大事態に命を軽んじる覚悟でした。今の情勢は必ずしも合戦の勝負だけが焦点ではないので、たとえ独りでも先に向かい一戦交え、窮地に陥れば改めて援軍をお願いしましょう」と、確固とした決意を示して帰った。宇都宮一人で武運を託して大敵に挑むことは命惜しみにあらずと考え、わざわざ宿所にも戻らず六波羅から直ちに出発した。七月十九日正午ごろ京を出て天王寺へ下向する途中、東寺あたりまでは主従わずか十四五騎ほどだったが、都中の腕利きたちが馳せ参じたため四塚・作道(現大阪市付近)に着く頃には五百余騎となった。行き会う者があれば身分を問わず馬を奪い人夫を駆り立てて通行したので、旅人の往来路は曲がり民家の戸口は閉ざされた。その夜は柱松(地名)に陣取り夜明けを待った。 解説
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| 其志一人も生て帰らんと思者は無りけり。去程に河内国の住人和田孫三郎此由を聞て、楠が前に来て云けるは、「先日の合戦に負腹を立て京より宇都宮を向候なる。今夜既に柱松に着て候が其勢僅に六七百騎には過じと聞へ候。先に隅田・高橋が五千余騎にて向て候しをだに、我等僅の小勢にて追散して候しぞかし。其上今度は御方勝に乗て大勢也。敵は機を失て小勢也。宇都宮縦ひ武勇の達人なりとも、何程の事か候べき。今夜逆寄にして打散して捨候ばや。」と云けるを、楠暫思案して云けるは、「合戦の勝負必しも大勢小勢に不依、只士卒の志を一にするとせざると也。されば「大敵を見ては欺き、小勢を見ては畏れよ」と申す事是なり。先思案するに、先度の軍に大勢打負て引退く跡へ、宇都宮一人小勢にて相向ふ志、一人も生て帰らんと思者よも候はじ。其上宇都宮は坂東一の弓矢取也。紀清両党の兵、元来戦場に臨で命を棄る事塵芥よりも尚軽くす。其兵七百余騎志を一つにして戦を決せば、当手の兵縦退く心なく共、大半は必可被討。天下の事全今般の戦に不可依。行末遥の合戦に、多からぬ御方初度の軍に被討なば、後日の戦に誰か力を可合。「良将は不戦して勝」と申事候へば、正成に於ては、明日態と此陣を去て引退き、敵に一面目在る様に思はせ、四五日を経て後、方々の峯に篝を焼て、一蒸蒸程ならば、坂東武者の習、無程機疲て、「いや/\長居しては悪かりなん。 |
彼らは一人も生きて帰ろうとは思っていなかった。ところが河内国の住人和田孫三郎がこのことを聞いて楠木正成の前に来て言った。「先日の戦いでの敗北に腹を立て、京から宇都宮(公綱)が攻めてくるそうです。今夜すでに柱松に着陣しましたが、その兵力はわずか六七百騎ほどと伝えられています。以前隅田・高橋の五千余騎でも我々少数部隊で追い散らしたではありませんか。それに今回は味方が勢いに乗って大軍です。敵は機会を失い小勢力です。宇都宮が仮に武勇に優れた達人だとしても、どうということはないでしょう。今夜逆襲して撃ち破りましょう。」と言ったところ、楠木はしばらく考えて言った。「戦の勝敗は必ずしも兵力の多少によるものではなく、兵士たちの志が一つになるか否かだけである。だから『大敵には欺きを仕掛け、小勢には警戒せよ』と言うのだ。まず考えるに、前回の軍で大軍が負けて退却した後に、宇都宮一人が少数兵力で挑む覚悟は、誰一人として生きて帰ろうとは思っていないはずだ。さらに宇都宮は関東随一の武将である。紀清両党(宇都宮配下)の兵たちは本来戦場では命を塵芥より軽くする。その七百余騎が志を一つにして決戦すれば、味方に退却の意思がなくとも大半は討たれるだろう。天下のことは全く今回の戦いに依存できない。将来の長い戦いで数少ない味方が初陣で討死してしまえば、後の合戦で誰が力を合わせるというのか。「良将は戦わずして勝つ」と言うように、正成としては明日わざとこの陣地を離れて退却し、敵に面目を保たせるような印象を与え、四五日経った後、各峰でかがり火を焚けば一呼吸ほどのうちに関東武者の習性としてすぐ士気疲れして『いやいや長居はまずかろう』(と撤退するだろう)」。 解説
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| 一面目有時去来や引返さん。」と云ぬ者は候はじ。されば「懸るも引も折による」とは、加様の事を申也。夜已に暁天に及べり。敵定て今は近付らん。去来させ給へ。」とて、楠天王寺を立ければ、和田・湯浅も諸共に打連てぞ引たりける。夜明ければ、宇都宮七百余騎の勢にて天王寺へ押寄せ、古宇都の在家に火を懸け、時の声を揚たれ共、敵なければ不出合。「たばかりぞすらん。此辺は馬の足立悪して、道狭き間、懸入敵に中を被破な、後ろを被裹な。」と下知して、紀清両党馬の足をそろへて、天王寺の東西の口より懸入て、二三度まで懸入々々しけれ共、敵一人も無して、焼捨たる篝に燈残て、夜はほの/゛\と明にけり。宇都宮不戦先に一勝したる心地して、本堂の前にて馬より下り、上宮太子を伏拝み奉り、是偏に武力の非所致、只然神明仏陀の擁護に懸れりと、信心を傾け歓喜の思を成せり。頓て京都へ早馬を立て、「天王寺の敵をば即時に追落し候ぬ。」と申たりければ、両六波羅を始として、御内外様の諸軍勢に至まで、宇都宮が今度の振舞抜群也。と、誉ぬ人も無りけり。宇都宮、天王寺の敵を輒く追散したる心地にて、一面目は有体なれ共、軈て続て敵の陣へ責入らん事も、無勢なれば不叶、又誠の軍一度も不為して引返さん事もさすがなれば、進退谷たる処に、四五日を経て後、和田・楠、和泉・河内の野伏共を四五千人駈集て、可然兵二三百騎差副、天王寺辺に遠篝火をぞ焼せける。 |
彼ら(宇都宮軍)は一人も生きて帰ろうとは思っていなかった。ところが河内国の住人和田孫三郎がこのことを聞いて楠木正成の前に来て言った。「先日の戦いでの敗北に腹を立て、京から宇都宮(公綱)が攻めてくるそうです。今夜すでに柱松に着陣しましたが、その兵力はわずか六七百騎ほどと伝えられています。以前隅田・高橋の五千余騎でも我々少数部隊で追い散らしたではありませんか。それに今回は味方が勢いに乗って大軍です。敵は機会を失い小勢力です。宇都宮が仮に武勇に優れた達人だとしても、どうということはないでしょう。今夜逆襲して撃ち破りましょう。」と言ったところ、楠木はしばらく考えて言った。「戦の勝敗は必ずしも兵力の多少によるものではなく、兵士たちの志が一つになるか否かだけである。だから『大敵には欺きを仕掛け、小勢には警戒せよ』と言うのだ。まず考えるに、前回の軍で大軍が負けて退却した後に、宇都宮一人が少数兵力で挑む覚悟は、誰一人として生きて帰ろうとは思っていないはずだ。さらに宇都宮は関東随一の武将である。紀清両党(宇都宮配下)の兵たちは本来戦場では命を塵芥より軽くする。その七百余騎が志を一つにして決戦すれば、味方に退却の意思がなくとも大半は討たれるだろう。天下のことは全く今回の戦いに依存できない。将来の長い戦いで数少ない味方が初陣で討死してしまえば、後の合戦で誰が力を合わせるというのか。「良将は戦わずして勝つ」と言うように、正成としては明日わざとこの陣地を離れて退却し、敵に面目を保たせるような印象を与え、四五日経った後、各峰でかがり火を焚けば一呼吸ほどのうちに関東武者の習性としてすぐ士気疲れして『いやいや長居はまずかろう』と言わない者はいるまい。だからこそ『攻めるも退くも時機による』とはこういうことを言うのだ。」夜がすでに明け方になったので、「敵はきっと近づいているだろう。さあ出発しよう」と楠木(正成)が天王寺を立つと、和田や湯浅らも共に連れ立って撤退した。 解説
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| すはや敵こそ打出たれと騒動して、深行侭に是を見れば、秋篠や外山の里、生駒の岳に見ゆる火は、晴たる夜の星よりも数く、藻塩草志城津の浦、住吉・難波の里に焼篝は、漁舟に燃す居去火の、波を焼かと怪しまる。総て大和・河内・紀伊国にありとある所の山々浦々に、篝を焼ぬ所は無りけり。其勢幾万騎あらんと推量してをびたゝし。如此する事両三夜に及び、次第に相近付けば、弥東西南北四維上下に充満して、闇夜に昼を易たり。宇都宮是を見て、敵寄来らば一軍して、雌雄を一時に決せんと志して、馬の鞍をも不息、鎧の上帯をも不解待懸たれ共、軍は無して敵の取廻す勢ひに、勇気疲れ武力怠で、哀れ引退かばやと思ふ心着けり。斯る処に紀清両党の輩も、「我等が僅の小勢にて此大敵に当らん事は、始終如何と覚候。先日当所の敵を無事故追落して候つるを、一面目にして御上洛候へかし。」と申せば、諸人皆此義に同じ、七月二十七日夜半許に宇都宮天王寺を引上洛すれば、翌日早旦に楠頓て入替りたり。誠に宇都宮と楠と相戦て勝負を決せば、両虎二龍の闘として、何れも死を共にすべし。されば互に是を思ひけるにや、一度は楠引て謀を千里の外に運し、一度は宇都宮退て名を一戦の後に不失。是皆智謀深く、慮り遠き良将なりし故也。 |
急に敵が現れたと思い騒ぎ立てたが、よく観察すると、秋篠や外山の里、生駒山に見える火は晴れた夜の星よりも数多く、藻塩草志城津の浦や住吉・難波の里で燃やすかがり火は漁船のともし火のように見え、海を焼くのかと疑われるほどだった。大和・河内・紀伊国の全ての山野や海岸に篝火を焚かない場所はなく、その勢いは幾万騎にも及ぶだろうと推測して恐ろしい思いがした。こうした状況が二晩三晩続き、次第に近づくにつれ四方八方にあふれて闇夜を昼のように明るく変えてしまった。宇都宮はこれを見て「敵が押し寄せたら一気に勝敗を決しよう」と志し、馬の鞍も外さず鎧の紐も解かず待機したものの戦いは起こらず、敵に包囲される勢いに勇気は疲れ武力は衰え、「情けないから撤退したい」と思う心境になっていた。そんな中で紀清両党(宇都宮配下)の者たちが「我々のような小勢力でこの大軍と当たるのはどう考えても無理です。先日ここにいた敵を追い払ったことで面目は立っていますから、京都へ戻りましょう」と言うと皆も賛同し、七月二十七日夜半ごろ宇都宮が天王寺から撤退して京都に向かうと翌朝早く楠木(正成)軍がすぐに入れ替わって陣取った。もし宇都宮と楠木が直接戦って勝敗を決していたら二匹の虎や龍の争いのように双方とも死んでいただろう。おそらく互いにそれを考えたのだろう、一度は楠木が退いて遠方で策略を巡らし、一度は宇都宮が引き下がりながら一戦後の名声を失わなかったのは両者共に知謀深く先見の明のある良将だったからである。 解説
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| と、誉ぬ人も無りけり。去程に楠兵衛正成は、天王寺に打出て、威猛を雖逞、民屋に煩ひをも不為して、士卒に礼を厚くしける間、近国は不及申、遐壌遠境の人牧までも、是を聞伝へて、我も我もと馳加りける程に、其勢ひ漸強大にして、今は京都よりも、討手を無左右被下事は難叶とぞ見へたりける。 ○正成天王寺未来記披見事 元弘二年八月三日、楠兵衛正成住吉に参詣し、神馬三疋献之。翌日天王寺に詣て白鞍置たる馬、白輻輪の太刀、鎧一両副て引進す。是は大般若経転読の御布施なり。啓白事終て、宿老の寺僧巻数を捧て来れり。楠則対面して申けるは、「正成、不肖の身として、此一大事を思立て候事、涯分を不計に似たりといへ共、勅命の不軽礼儀を存ずるに依て、身命の危きを忘たり。然に両度の合戦聊勝に乗て、諸国の兵不招馳加れり。是天の時を与へ、仏神擁護の眸を被回歟と覚候。誠やらん伝承れば、上宮太子の当初、百王治天の安危を勘て、日本一州の未来記を書置せ給て候なる。拝見若不苦候はゞ、今の時に当り候はん巻許、一見仕候ばや。」と云ければ、宿老の寺僧答て云、「太子守屋の逆臣を討て、始て此寺を建て、仏法を被弘候し後、神代より始て、持統天皇の御宇に至までを被記たる書三十巻をば、前代旧事本記とて、卜部の宿祢是を相伝して有職の家を立候。 |
誰一人として褒める者はいなかった。そうこうしているうちに楠兵衛正成が天王寺に出てきて、その威猛さを示しながらも民家には迷惑をかけず、士卒に対して礼儀厚く接したので、近隣の国々は言うまでもなく遠方の人々までこの噂を聞き伝え、「自分も」と我も我もと駆け加わったため、その勢力は次第に強大になり、今では京都から討伐軍が派遣されることは到底難しいと思われた。 解説
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| 其外に又一巻の秘書を被留て候。是は持統天皇以来末世代々の王業、天下の治乱を被記て候。是をば輒く人の披見する事は候はね共、以別儀密に見参に入候べし。」とて、即秘府の銀鑰を開て、金軸の書一巻を取出せり。正成悦て則是を披覧するに、不思議の記文一段あり。其文に云、当人王九十五代。天下一乱而主不安。此時東魚来呑四海。日没西天三百七十余箇日。西鳥来食東魚を。其後海内帰一三年。如■猴者掠天下三十余年。大凶変帰一元。云云。正成不思議に覚へて、能々思案して此文を考るに、先帝既に人王の始より九十五代に当り給へり。「天下一度乱て主不安」とあるは是此時なるべし。「東魚来て呑四海」とは逆臣相摸入道の一類なるべし。「西鳥食東魚を」とあるは関東を滅す人可有。「日没西天に」とは、先帝隠岐国へ被遷させ給ふ事なるべし。「三百七十余箇日」とは、明年の春の比此君隠岐国より還幸成て、再び帝位に即かせ可給事なるべしと、文の心を明に勘に、天下の反覆久しからじと憑敷覚ければ、金作の太刀一振此老僧に与へて、此書をば本の秘府に納させけり。後に思合するに、正成が勘へたる所、更に一事も不違。是誠に大権聖者の末代を鑒て記し置給し事なれ共、文質三統の礼変、少しも違はざりけるは、不思議なりし讖文也。 |
それ以外にもう一巻の秘蔵書がお書き残しになっている。これは持統天皇以来、末世代々の王業や天下の治乱を記したものです。これを軽々しく見せることはできませんが特別な事情により密かにお目にかけましょう。」と言いすぐに宝物庫の銀の鍵を開けて金軸の書一巻を取り出した。正成は喜んでそれを広げてみると、不思議な予言文が一段あった。その文章には「今から数えて人皇九十五代目の時、天下一度乱れて主君安らかならず。この時に東魚(ひがしのうお)来たり四海を飲む。日は西天に没して三百七十余日の間。その後西鳥(にしのとり)来たりて東魚を食らう。それから海内統一後三年、■猴(えんこう・猿のような者)が天下を掠めて三十余年続く。大いなる凶事は元へ戻る」と記されていた。正成は不思議に思い入念に考えた結果、まず先帝(後醍醐天皇)がちょうど人皇九十五代目にあたること、「天下一乱して主不安」とは今の状況を指すこと、「東魚来て四海を呑む」とは逆臣鎌倉幕府北条氏一党のこと、「西鳥食らう東魚を」は関東を滅ぼす者が現れることを示し、「日没西天に」とは先帝が隠岐国へ流されたこと、そして「三百七十余箇日」とは来年春頃この君主が隠岐から帰還され再び即位される時期だと解釈した。文章の意味を明らかに理解して天下の混乱は長く続かないと確信すると金作りの太刀一本を老僧に与え書物は元通り宝物庫へ戻させた。後に振り返ると正成が解読した内容は一つも外れなかった。これは聖徳太子が末代を見通してお書きになったものだが、文様や制度の変化にもかかわらず全く違わない点が不思議な予言だった。 解説
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| ○赤松入道円心賜大塔宮令旨事 其比播磨国の住人、村上天皇第七御子具平親王六代の苗裔、従三位季房が末孫に、赤松次郎入道円心とて弓矢取て無双の勇士有り。元来其心闊如として、人の下風に立ん事を思はざりければ、此時絶たるを継廃たるを興して、名を顕し忠を抽ばやと思けるに、此二三年大塔宮に属纒奉て、吉野十津川の艱難を経ける円心が子息律師則祐、令旨を捧て来れり。披覧するに、「不日に揚義兵率軍勢、可令誅罰朝敵、於有其功者、恩賞宜依請」之由、被戴。委細事書十七箇条の恩裁被添たり。条々何れも家の面目、世の所望する事なれば、円心不斜悦で、先当国佐用庄苔縄の山に城を構て、与力の輩を相招く。其威漸近国に振ひければ、国中の兵共馳集て、無程其勢一千余騎に成にけり。只秦の世已に傾んとせし弊に乗て、楚の陳勝が異蒼頭にして大沢に起りしに異ならず。頓て杉坂・山の里二箇所に関を居、山陽・山陰の両道を差塞ぐ。是より西国の道止て、国々の勢上洛する事を得ざりけり。 ○関東大勢上洛事 去程に畿内西国の凶徒、日を逐て蜂起する由、六波羅より早馬を立て関東へ被注進。相摸入道大に驚て、さらば討手を指遣せとて、相摸守の一族、其外東八箇国の中に、可然大名共を催し立て被差上。 |
○赤松入道円心が大塔宮から令旨を賜ったこと ○関東の大軍が上洛すること 解説
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| 先一族には、阿曾弾正少弼・名越遠江入道・大仏前陸奥守貞直・同武蔵左近将監・伊具右近大夫将監・陸奥右馬助、外様の人々には、千葉大介・宇都宮三河守・小山判官・武田伊豆三郎・小笠原彦五郎・土岐伯耆入道・葦名判官・三浦若狭五郎・千田太郎・城太宰大弐入道・佐々木隠岐前司・同備中守・結城七郎左衛門尉・小田常陸前司・長崎四郎左衛門尉・同九郎左衛門尉・長江弥六左衛門尉・長沼駿河守・渋谷遠江守・河越三河入道・工藤次郎左衛門高景・狩野七郎左衛門尉・伊東常陸前司・同大和入道・安藤藤内左衛門尉・宇佐美摂津前司・二階堂出羽入道・同下野判官・同常陸介・安保左衛門入道・南部次郎・山城四郎左衛門尉、此等を始として、宗との大名百三十二人、都合其勢三十万七千五百余騎、九月二十日鎌倉を立て、十月八日先陣既に京都に着けば後陣は未だ足柄・筥根に支へたり。是のみならず河野九郎四国の勢を率して、大船三百余艘にて尼崎より襄て下京に着。厚東入道・大内介・安芸熊谷、周防・長門の勢を引具して、兵船二百余艘にて、兵庫より襄て西の京に着。甲斐・信濃の源氏七千余騎、中山道を経て東山に着。江馬越前守・淡河右京亮、北陸道七箇国の勢を率して、三万余騎にて東坂本を経て上京に着。 |
関東の大軍が上洛すること 解説
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| 総じて諸国七道の軍勢我も我もと馳上りける間、京白河の家々に居余り、醍醐・小栗栖・日野・勧修寺・嵯峨・仁和寺・太秦の辺・西山・北山・賀茂・北野・革堂・河崎・清水・六角堂の門の下、鐘楼の中迄も、軍勢の宿らぬ所は無りけり。日本雖小国是程に人の多かりけりと始て驚く許也。去程に元弘三年正月晦日、諸国の軍勢八十万騎を三手に分て、吉野・赤坂・金剛山、三の城へぞ被向ける。先吉野へは二階堂出羽入道々蘊を太将として、態と他の勢を交へず、二万七千余騎にて、上道・下道・中道より、三手に成て相向ふ。赤坂へは阿曾弾正少弼を大将として、其勢八万余騎、先天王寺・住吉に陣を張る。金剛山へは陸奥右馬助、搦手の大将として、其勢二十万騎、奈良路よりこそ被向けれ。中にも長崎悪四郎左衛門尉は、別して侍大将を承て、大手へ向ひけるが、態己が勢の程を人に被知とや思けん。一日引さがりてぞ向ひける。其行妝見物の目をぞ驚しける。先旗差、其次に逞しき馬に厚総懸て、一様の鎧着る兵八百余騎、二町計先き立てゝ、馬を静めて打せたり。我身は其次に纐纈の鎧直垂に、精好の大口を張せ、紫下濃の鎧に、白星の五枚甲に八竜を金にて打て付たるを猪頚に着成し、銀の瑩付の脛当に金作の太刀に振帯て、一部黒とて、五尺三寸有ける坂東一の名馬に塩干潟の捨小舟を金貝に磨たる鞍を置て、款冬色の厚総懸て、三十六差たる白磨の銀筈の大中黒の矢に、本滋藤の弓の真中握て、小路を狭しと歩ませたり。 |
総じて全国七道から軍勢が我先にと上洛してきたため、京都市中の白河周辺の家屋はあふれんばかりとなり、醍醐・小栗栖・日野・勧修寺・嵯峨・仁和寺・太秦付近・西山・北山・賀茂神社・北野天満宮・革堂(行願寺)・河崎・清水寺・六角堂の門前から鐘楼の中に至るまで、兵士たちが駐屯しない場所はなかった。日本は小国ながらこれほど人間が多いのかと初めて驚くばかりであった。こうして元弘三年正月三十日、諸国の軍勢八十万騎を三手に分け、吉野城・赤坂城・金剛山城の三つの城に向けて進撃させた。まず吉野へは二階堂出羽入道道蘊(どううん)を大将として、わざと他の勢力を混ぜず二万七千余騎で上つ道・下つ道・中つ道から三方に分かれて攻め向かった。赤坂城へは阿曾弾正少弼を大将とする八万余騎が先陣として天王寺・住吉に布陣した。金剛山城には陸奥右馬助が搦手(側面)の大将として二十万騎で奈良路から進軍した。中でも長崎悪四郎左衛門尉は特に侍大将を任され正面部隊に向かったのだが、意図的に自軍の規模を見せつけようとしたらしい。一日遅れて出発し、その行装は見物人の目を驚かせた。先頭に旗差役、続いて逞しい馬に厚い総覆(全面覆い)をつけた一様の鎧武者八百余騎が二町ほど先行してゆったり進み、自らはその後ろで絞り染め直垂に上質大口袴を穿ち、紫下地濃紺鎧・白星紋五枚甲冑(猪頬兜)を着込み銀燭台型脛当てをつけ金装太刀を佩き、東国一の名馬と呼ばれる五尺三寸の黒毛馬に塩干潟文様の金具鞍と蕗色厚総覆をおいて三十六本白羽銀筈大中黒矢を持ち真ん中握りの紫藤弓を携え、道幅いっぱいにゆったり進んだ。 解説
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| 片小手に腹当して、諸具足したる中間五百余人、二行に列を引き、馬の前後に随て、閑に路次をぞ歩みける。其後四五町引さがりて、思々に鎧たる兵十万余騎、甲の星を輝かし、鎧の袖を重て、沓の子を打たるが如くに道五六里が程支たり。其勢ひ決然として天地を響かし山川を動す許也。此外々様の大名五千騎・三千騎、引分々々昼夜十三日迄、引も切らでぞ向ひける。我朝は不及申、唐土・天竺・太元・南蛮も、未是程の大軍を発す事難有かりし事也。と思はぬ人こそ無りけれ。 ○赤坂合戦事付人見本間抜懸事 去程に赤坂の城へ向ひける大将、阿曾弾正少弼、後陣の勢を待調へんが為に、天王寺に両日逗留有て、同二月二日午刻に、可有矢合、於抜懸之輩者、可為罪科之由をぞ被触ける。爰に武蔵国の住人に人見四郎入道恩阿と云者あり。此恩阿、本間九郎資貞に向て語りけるは、「御方の軍勢雲霞の如くなれば、敵陣を責落さん事疑なし。但事の様を案ずるに、関東天下を治て権を執る事已に七代に余れり。天道欠盈理遁るゝ処なし。其上臣として君を流し奉る積悪、豈果して其身を滅さゞらんや。某不肖の身なりと云へ共、武恩を蒙て齢已に七旬に余れり。今日より後差たる思出もなき身の、そゞろに長生して武運の傾かんを見んも、老後の恨臨終の障共成ぬべければ、明日の合戦に先懸して、一番に討死して、其名を末代に遺さんと存ずる也。 |
片腕だけ腹当てをつけ武具一式を装備した従者五百人余りが二列になって馬の前後に付き添い、ゆっくりと道中を行進した。その後方へ四~五町遅れて、それぞれ鎧に身を固めた兵士十万余騎が甲冑の星(飾り金具)を輝かせ、鎧袖を重ねて沓音(くつおと)のように響かせながら道幅五~六里ほど埋め尽くした。その勢いは決然として天地に轟き山川を揺るがすほどであった。加えて様々な大名の軍勢五千騎・三千騎が分かれ分かれに昼夜兼行で十三日間途切れることなく進撃し続けた。「我が国は言うまでもない、唐(中国)や天竺(インド)、太元(モンゴル?)あるいは南蛮の地ですら未だかつてこれほどの大軍を動員したことはなかった」と感じない者は誰一人いなかった。 解説
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| 」と語りければ、本間九郎心中にはげにもと思ながら、「枝葉の事を宣者哉。是程なる打囲の軍に、そゞろなる先懸して討死したりとも、差て高名とも云れまじ。されば只某は人なみに可振舞也。」と云ければ、人見よにも無興気にて、本堂の方へ行けるを、本間怪み思て、人を付て見せければ、矢立を取出して、石の鳥居に何事とは不知一筆書付て、己が宿へぞ帰りける。本間九郎、さればこそ此者に一定明日先懸せられぬと、心ゆるし無りければ、まだ宵より打立て、唯一騎東条を指て向けり。石川々原にて夜を明すに、朝霞の晴間より、南の方を見ければ、紺唐綾威の鎧に白母衣懸て、鹿毛なる馬に乗たる武者一騎、赤坂の城へぞ向ひける。何者やらんと馬打寄せて是を見れば、人見四郎入道なりけり。人見本間を見付て云けるは、「夜部宣し事を実と思なば、孫程の人に被出抜まし。」と打笑てぞ、頻に馬を早めける。本間跡に付て、「今は互に先を争ひ申に及ず、一所にて尸を曝し、冥途までも同道申さんずるぞよ。」と云ければ、人見、「申にや及ばん。」と返事して、跡になり先になり物語して打けるが、赤坂城の近く成ければ、二人の者共馬の鼻を双て懸驤り、堀の際まで打寄て、鐙踏張弓杖突て、大音声を揚て名乗けるは、「武蔵国の住人に、人見四郎入道恩阿、年積て七十三、相摸国の住人本間九郎資貞、生年三十七、鎌倉を出しより軍の先陣を懸て、尸を戦場に曝さん事を存じて相向へり。 |
人見がそう語ると、本間九郎も内心では「確かにその通りだ」と思いながら、「どうでもいいことを言うものだ。これほど大勢で包囲している戦において、むやみに一番乗りを狙って討ち死にしても手柄とは認められないだろう。だから私は普通の兵として行動しよう。」と言ったのである。すると人見はひどく興ざめした様子で本堂の方へ向かっていくところを見て、本間が不審に思い使いの人をつけて監視させたところ、(人見は)矢立てを取り出して石の鳥居に何やら一言書きつけ自分の宿舎に帰ってしまった。それにより本間九郎は「なるほどこの男はきっと明日一番乗りを狙うだろう」と警戒を怠らず、まだ夜が明けないうちから準備しただ一騎で東条へ向かったのである。石川の河原で夜を明かしていると朝もやが切れた隙間から南の方を見ると紺色の唐綾威しの鎧に白い母衣をつけ鹿毛の馬に乗った武者一人が赤坂城へ向かっているのが見えた。「誰だろう」と思って近づいてみれば人見四郎入道であった。人見は本間を見つけて言うには、「昨夜(私が)言ったことを本当だと思わなければ孫ほどの者にも先を越されるぞな。」と笑いながら勢いよく馬を走らせたのである。本間も後から追って「もうお互いに一番乗りを争う必要はないでしょう。一緒に戦場で屍を晒し死後の世界まで同道しようではないか」と言ったところ、人見は「そうだな」と答えつつ二人のものは前になったり後ろになりながら話しているうちに赤坂城が近づいてきたので互いに馬の鼻を並べて駆け出し堀ぎわへ押しかけた。そして鞍橋から鐙(あぶみ)を踏ん張り弓をつき立てて大声で名乗ったのは:「武蔵国出身の人見四郎入道恩阿、年齢七十三歳!相模国出身の本間九郎資貞生年三十七歳!鎌倉から出陣して以来軍勢の中で一番乗りの功を得て討ち死にすることを誓って参戦した!」 解説
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| 我と思はん人々は、出合て手なみの程を御覧ぜよ。」と声々に呼て城を睨で引へたり。城中の者共是を見て、是ぞとよ、坂東武者の風情とは。只是熊谷・平山が一谷の先懸を伝聞て、羨敷思へる者共也。跡を見るに続く武者もなし。又さまで大名とも見へず。溢れ者の不敵武者に跳り合て、命失て何かせん。只置て事の様を見よ、とて、東西鳴を静めて返事もせず。人見腹を立て、「早旦より向て名乗れ共、城より矢の一をも射出さぬは、臆病の至り歟、敵を侮る歟、いで其義ならば手柄の程を見せん。」とて、馬より飛下て、堀の上なる細橋さら/\と走渡り、二人の者共出し屏の脇に引傍て、木戸を切落さんとしける間、城中是に騒で、土小間・櫓の上より、雨の降が如くに射ける矢、二人の者共が鎧に、蓑毛の如くにぞ立たりける。本間も人見も、元より討死せんと思立たる事なれば、何かは一足も可引。命を限に二人共に一所にて被討けり。是まで付従ふて最後の十念勧めつる聖、二人が首を乞得て、天王寺に持て帰り、本間が子息源内兵衛資忠に始よりの有様を語る。資忠父が首を一目見て、一言をも不出、只涙に咽で居たりけるが、如何思けん、鐙を肩に投懸、馬に鞍置て只一人打出んとす。聖怪み思て、鎧の袖を引留め、「是はそも如何なる事にて候ぞ。 |
「私と志す者たちよ!出会ってこの腕前を見てくれ!」と声高に叫びながら城を睨み引き退いた。城内の兵士たちはこれを見て、「これはまさしく坂東武者の本領だな」と思ったが、一方で「ただ熊谷・平山(一ノ谷の戦いでの武士)の一番乗り伝説を聞いて羨望している連中に過ぎない。後ろに続く兵もおらず大軍とも見えない。無鉄砲な不敵者と軽率に戦って命を落として何になる?放っておいて様子を見よう」と言い、東西の騒がしい声を静めて返事もしなかった。 これに対し人見は腹を立て、「早朝から向かって名乗ったのに城内から一本も矢を射掛けてこないとは臆病の極みか?敵を侮っているのか?ならば手柄を見せてやろう」と言い、馬から飛び降り堀にかかる細い橋をさらさらと走り渡った。二人は城壁の脇に近づいて木戸を切り落とそうとしたため城内が大騒ぎになり土塀の小窓や櫓の上から雨のように矢が射掛けられ、両者の鎧には蓑の毛のような密度で刺さった。本間も人見も元より討死覚悟であったゆえ一歩も退かず命を限りに二人一緒に討たれた。 これまで付き従い最後の念仏(十念)を授けた聖人が、両者の首を得て天王寺へ持ち帰り本間の息子源内兵衛資忠に出陣からの経緯を語った。資忠は父の首を一目見ると一言も発せず涙に咽んでいたが何と思ったか馬鐙(あぶみ)を肩にかけ鞍をつけてたった一人で出撃しようとした。聖人は怪しんで鎧の袖を引っ張り止め「これはいかなることでございますか」と言った。 解説
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| 御親父も此合戦に先懸して、只名を天下の人に被知と許思召さば、父子共に打連てこそ向はせ給ふべけれ共、命をば相摸殿に献り、恩賞をば子孫の栄花に貽さんと思召ける故にこそ、人より先に討死をばし給らめ。而るに思ひ篭給へる所もなく、又敵陣に懸入て、父子共に打死し給ひなば、誰か其跡を継ぎ誰か其恩賞を可蒙。子孫無窮に栄るを以て、父祖の孝行を呈す道とは申也。御悲歎の余りに無是非死を共にせんと思召は理なれ共、暫止らせ給へ。」と堅く制しければ、資忠涙を押へて無力着たる鎧を脱置たり。聖さては制止に拘りぬと喜しく思て、本間が首を小袖に裹み、葬礼の為に、側なる野辺へ越ける其間に、資忠今は可止人なければ、則打出て、先上宮太子の御前に参り、今生の栄耀は、今日を限りの命なれば、祈る所に非ず、唯大悲の弘誓の誠有らば、父にて候者の討死仕候し戦場の同じ苔の下に埋れて、九品安養の同台に生るゝ身と成させ給へと、泣々祈念を凝して泪と共に立出けり。石の鳥居を過るとて見れば我父と共に討死しける人見四郎入道が書付たる歌あり。是ぞ誠に後世までの物語に可留事よと思ければ、右の小指を喰切て、其血を以て一首を側に書添て、赤坂の城へぞ向ひける。城近く成ぬる所にて馬より下り、弓を脇に挟で城戸を叩き、「城中の人々に可申事あり。 |
資忠に押し止めた聖人は言った。「貴殿のお父上もこの合戦で一番乗りを果たし、ただ天下の人々に名を知らせたいとお考えだったのであれば親子そろって出陣なさるべきでした。しかし(本間様は)命を相模守殿(北条氏)に捧げ恩賞を子孫の栄華として遺そうと考えられたゆえ、人より先に討ち死になされたのです。もし敵陣へ突入して親子ともに討たれてしまえば誰が家系をつなぎ、誰が恩賞を受け継ぐというのか? 子孫が末永く繁栄することこそ父祖への孝行の道と言えるでしょう。悲嘆のあまり無理に共に死なんとお思いになるのは心情は理解できますがどうかここはお止めください」と強く諫めたため、資忠は涙を抑え鎧を脱いで置いた。 聖人はようやく制止できたと安堵し本間の首を小袖に包み葬儀のために近くの野辺へ赴いている隙に、資忠は「もはや止める者はいない」と即座に出撃。まず上宮太子(聖徳太子)の御廟前に参拝して祈願した。「今生の栄華など今日限りの命には不要です。ただ大慈大悲のお心があれば父が戦死した同じ地に埋まり、浄土で共に蓮台を並べられるように」と涙ながらに熱祷し立ち去った。 石の鳥居を通り過ぎるとき見上げれば先に討ち死にした人見四郎入道が書き残した歌があった。「これぞ後世まで語り継ぐべきものだ」と思い右小指を噛み切り、自らの血で一首を添え書きすると赤坂城へ向かった。城近くの地点で馬から降り弓を脇に抱えて城戸を叩きながら叫んだ。「城内の方々にお伝えしたいことがある!」 解説
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| 」と呼りけり。良暫く在て、兵二人櫓の小間より顔を指出して、「誰人にて御渡候哉。」と問ければ、「是は今朝此城に向て打死して候つる、本間九郎資貞が嫡子、源内兵衛資忠と申者にて候也。人の親の子を憶ふ哀み、心の闇に迷ふ習にて候間、共に打死せん事を悲て、我に不知して、只一人打死しけるにて候。相伴ふ者無て、中有の途に迷ふ覧。さこそと被思遣候へば、同く打死仕て、無迹まで父に孝道を尽し候ばやと存じて、只一騎相向て候也。城の大将に此由を被申候て、木戸を被開候へ。父が打死の所にて、同く命を止めて、其望を達し候はん。」と、慇懃に事を請ひ泪に咽でぞ立たりける。一の木戸を堅めたる兵五十余人、其志孝行にして、相向ふ処やさしく哀なるを感じて、則木戸を開き、逆茂木を引のけしかば、資忠馬に打乗り、城中へ懸入て、五十余人の敵と火を散てぞ切合ける。遂に父が被討し其迹にて、太刀を口に呀て覆しに倒て、貫かれてこそ失にけれ。惜哉、父の資貞は、無双の弓矢取にて国の為に要須たり。又子息資忠は、ためしなき忠孝の勇士にて家の為に栄名あり。人見は年老齢傾きぬれ共、義を知て命を思ふ事、時と共に消息す。此三人同時に討死しぬと聞へければ、知も知ぬもをしなべて、歎かぬ人は無りけり。 |
そう呼びかけるとしばらくして兵士二人が櫓の小窓から顔を出し、「どなた様でしょうか?」と尋ねた。資忠は答えた。「私は今朝この城に向かい討ち死にした本間九郎資貞の嫡子、源内兵衛資忠です。親が子を思う情けというものは心の闇で迷いやすいもので、父もまた私と共に死ぬことを悲しんで無理やり一人で戦死してしまいました。(あのような状態では)供をする者もなく(死者が通る)中有の道で迷われるでしょう。それを思うにつけ同じ場所で討ち死にして、跡継ぎがいない父へせめて孝行を尽くしたいと願い単騎で参ったのです。どうか城の大将へお伝えください。(私を入れて)木戸をお開きいただけませんか? 父が戦死したその場所で共に命を絶ち、この望みを果たさせてください」と丁寧に懇願し涙に咽んで立っていた。 第一の城門を守る五十人余りの兵士たちは彼の志が孝行心から出ていることや、向かい合う様子があまりにも痛ましいのに感じ入り、すぐさま木戸を開き逆茂木(防御柵)を取り除いた。すると資忠は馬に乗ると城内へ突入し五十人以上の敵と火花を散らして斬り合った。ついに父が討たれたその場所で剣を口にくわえ、ひっくり返るように倒れ貫かれて息絶えたのだった。(後に伝わる話では)ああ惜しいことだ――父である資貞は無双の弓取りとして国にとって重要な人物であり、息子の資忠もまた比類なき忠孝の勇士で家に栄誉をもたらした。人見(四郎入道)は老齢だったが義を知り命を大切にする心は常に変わらなかった。この三人が同時に討ち死にしたと聞くと、詳しい者そうでない者に関わらず嘆かない者は一人もいなかったという。 解説
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| 既に先懸の兵共、ぬけ/\に赤坂の城へ向て、討死する由披露有ければ、大将則天王寺を打立て馳向ひけるが、上宮太子の御前にて馬より下り、石の鳥居を見給へば、左の柱に、花さかぬ老木の桜朽ぬとも其名は苔の下に隠れじと一首の歌を書て、其次に、「武蔵国の住人人見四郎恩阿、生年七十三、正慶二年二月二日、赤坂の城へ向て、武恩を報ぜん為に討死仕畢ぬ。」とぞ書たりける。又右の柱を見れば、まてしばし子を思ふ闇に迷らん六の街の道しるべせんと書て、「相摸国の住人本間九郎資貞嫡子、源内兵衛資忠生年十八歳、正慶二年仲春二日、父が死骸を枕にして、同戦場に命を止め畢ぬ。」とぞ書たりける。父子の恩義君臣の忠貞、此二首の歌に顕れて、骨は化して黄壌一堆の下に朽ぬれど、名は留て青雲九天の上に高し。されば今に至るまで、石碑の上に消残れる三十一字を見る人、感涙を流さぬは無りけり。去程に阿曾弾正少弼、八万余騎の勢を率して、赤坂へ押寄せ、城の四方二十余町、雲霞の如くに取巻て、先時の声をぞ揚たりける。其音山を動し地を震ふに、蒼涯も忽に可裂。此城三方は岸高して、屏風を立たるが如し。南の方許こそ平地に継ひて、堀を広く深く掘切て、岸の額に屏を塗り、其上に櫓を掻双べたれば、如何なる大力早態なりとも、輒く可責様ぞなき。 |
すでに先鋒部隊が次々と赤坂城に向かい討ち死にするという知らせがあったため、大将はすぐさま天王寺を出発して急行した。上宮太子の御廟前に到着し馬から降りて石の鳥居を見ると、左柱には「花咲かぬ老木の桜朽つとも その名は苔の下に隠れじ」という一首が書かれ、続けて「武蔵国の住人・人見四郎恩阿(法名)、生年七十三歳。正慶二年二月二日、赤坂城へ向かい御恩返しのために討ち死にすることを果たす。」と記されていた。 さらに右柱を見ると「待てしばし子を思う闇に迷わん 六道の街の道標せん」と書き添えられ、「相模国の住人・本間九郎資貞の嫡男、源内兵衛資忠。生年十八歳。正慶二年仲春二日、父の遺骸を枕にして同じ戦場で命を終えることを果たす。」と記されていた。 父子の情愛と主君への忠誠はこの二首に表れており、骨は黄泉の土の中で朽ちても名は青空高く永遠に残る。だからこそ今も石碑に刻まれた三十一文字を見る者は誰しも感涙を禁じ得ないのである。 そのうち阿曾弾正少弼(あそだんじょうしょうひつ)が八万余騎の軍勢を率いて赤坂へ押し寄せ、城周囲二十余町を霞のように取り囲み鬨の声を上げた。その響きは山を揺るがし地を震わせて崖さえも裂けんばかりだった。 この城は三方に高く切り立った岸壁があり屏風を立てたようで、南側だけ平地につながっている。そこには広く深い堀を穿ち、土塁の表面に漆喰を塗り固め、その上に対となる櫓を構えているため、どれほどの大力や敏捷さを持った者でも容易に攻め落とせるものではなかった。 解説
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| され共寄手大勢なれば、思侮て楯にはづれ矢面に進で、堀の中へ走り下て、切岸を襄らんとしける処を、屏の中より究竟の射手共、鏃を支て思様に射ける間、軍の度毎に、手負死人五百人六百人、不被射出時はなかりけり。是をも不痛荒手を入替々々、十三日までぞ責たりける。され共城中少も不弱見へけり。爰に播磨国の住人、吉河八郎と云者、大将の前に来て申けるは、「此城の為体、力責にし候はゞ無左右不可落候。楠此一両年が間、和泉・河内を管領して、若干の兵粮を取入て候なれば、兵粮も無左右尽候まじ。倩思案を廻し候に、此城三方は谷深して地に不継、一方は平地にて而も山遠く隔れり。されば何くに水可有とも見へぬに、火矢を射れば水弾にて打消候。近来は雨の降る事も候はぬに、是程まで水の卓散に候は、如何様南の山の奥より、地の底に樋を伏て、城中へ水を懸入るゝ歟と覚候。哀人夫を集めて、山の腰を掘きらせて、御覧候へかし。」と申ければ、大将、「げにも。」とて、人夫を集め、城へ継きたる山の尾を、一文字に掘切て見れば、案の如く、土の底に二丈余りの下に樋を伏せて、側に石を畳み、上に真木の瓦を覆て、水を十町余の外よりぞ懸たりける。此揚水を被止て後、城中に水乏して、軍勢口中の渇難忍ければ、四五日が程は、草葉に置ける朝の露を嘗め、夜気に潤へる地に身を当て、雨を待けれ共雨不降。 |
しかしながら攻め手は大勢であったため油断し盾から離れて先陣に立ち、堀へ駆け下りて崖を登ろうとしたところ、城壁の中から優れた射手たちが狙いを定めて射かけたので、戦闘ごとに負傷者や死者が五百人六百人と出ずにはいられなかった。それでも痛手を顧みず部隊を交代しながら十三日間攻め続けた。しかし城内の勢いはまったく衰えている様子が見られない。 ここで播磨国の住人である吉河八郎という者が大将のもとに来て申し上げた。「この城の状態では力攻めにすればどうしても落ちません。楠木(正成)はこの一、二年和泉・河内を支配して多少の兵糧を蓄えていますから食料もすぐには尽きるまい。よく考えますとこの城は三方に深い谷があり地続きではなく、一方だけ平地ですが山とも遠く離れています。それなのにどこにも水源があるようには見えないのに火矢を射れば水で消されてしまいます。最近雨が降っていないのにかかわらずこれほど水が豊富にあるのは、おそらく南側の山中から地下に樋(とい)を通して城内へ引いているのでしょう。どうか人夫を集めて山腹を掘らせてご覧ください」と申したところ大将は「なるほど」と言い、人夫を集め城につながる尾根筋を一直線に掘り割ってみると予想通り土中二丈(約6メートル)下に樋が敷かれていて側面には石積みし上から木材と瓦で覆われ十町余(約1km強)先から水を引いていた。 この給水路を止めて以降、城内では水不足となり兵士たちの喉の渇きが耐え難くなったため四、五日ほどは草葉に溜まる朝露を舐めたり夜露で濡れた地面に身を寄せて雨待ちしたものの降らなかった。 解説
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| 寄手是に利を得、隙なく火矢を射ける間、大手の櫓二つをば焼落しぬ。城中の兵水を飲まで十二日に成ければ、今は精力尽はてゝ、可防方便も無りけり。死たる者は再び帰る事なし。去来や、とても死なんずる命を、各力の未だ墜ぬ先に打出で、敵に指違へ、思様に打死せんと、城の木戸を開て、同時に打出んとしけるを、城の本人平野将監入道、高櫓より走下り、袖をひかへて云けるは、「暫く楚忽の事な仕給ふそ。今は是程に力尽き喉乾て疲れぬれば、思ふ敵に相逢ん事有難し。名もなき人の中間・下部共に被虜て、恥を曝さん事可心憂。倩事の様を案ずるに、吉野・金剛山の城、未相支て勝負を不決。西国の乱未だ静まらざるに、今降人に成て出たらん者をば、人に見こらせじとて、討事不可有と存ずる也。とても叶はぬ我等なれば、暫事を謀て降人に成、命を全して時至らん事を可待。」といへば、諸卒皆此義に同じて、其日の討死をば止めてけり。去程に次日軍の最中に、平野入道高櫓に上て、「大将の御方へ可申子細候。暫く合戦を止て、聞食候へ。」と云ければ、大将渋谷十郎を以て、事の様を尋るに、平野木戸口に出合て、「楠和泉・河内の両国を平げて威を振ひ候し刻に、一旦の難を遁れん為に、不心御敵に属して候き。 |
しかし攻め手がこの状況を有利と見て絶え間なく火矢を放つうち、大手門付近にある二つの櫓を焼き落とした。城内の兵士たちは水を飲んでいない状態で十二日目に至ったため、今や体力も尽き果て防御する手段もなかった。死んだ者は再び戻らないのだから、「さあ行こうよ!どうせ死ぬ命なら各自が力尽きる前に打って出て敵と対峙し思う存分討ち死しよう」と言い城の門を開け同時に突撃しようとしたところ、城主である平野将監入道(出家した武将)が高櫓から降り立ち袖を抑えて言った。「どうか軽率な行動はお控えください。今やこれほど疲弊し喉も乾いている状態では望む敵と戦うことは難しいのです。名もない中間や下部のような者たちに捕らわれ恥を晒すのは心苦しいことです。よく事態を考えると吉野・金剛山の城塞はまだ抵抗して決着がついておらず、西国の反乱も未だ鎮まっていませんから今投降する者は見せしめとして討たれることもないでしょう。どうしても叶わぬ我々のことですから一時的な策略で降伏者となり命を全うして時機の到来を待ちましょう」と言ったところ兵士たちは皆この意見に賛同してその日の決死突撃を取り止めた。 その後翌日戦いの最中、平野入道が高櫓へ登り「大将様にお伝えしたい事柄があります。どうか一時的に合戦を中止してお聞きください」と言ったため大将は渋谷十郎を使者として事情を尋ねさせたところ、平野は城門付近で対面しこう述べた。「楠木(正成)が和泉・河内の両国を平定して威勢を示していた時に一時的な難を逃れるために不本意ながら御敵側に属したのです」 解説
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| 此子細京都に参じ候て、申入候はんと仕候処に、已に大勢を以て被押懸申候間、弓矢取身の習ひにて候へば、一矢仕りたるにて候。其罪科をだに可有御免にて候はゞ、頚を伸て降人に可参候。若叶ふまじきとの御定にて候はゞ、無力一矢仕て、尸を陣中に曝すべきにて候。此様を具に被申候へ。」と云ければ、大将大に喜て、本領安堵の御教書を成し、殊に功あらん者には、則恩賞を可申沙汰由返答して、合戦をぞ止めける。城中に篭る所の兵二百八十二人、明日死なんずる命をも不知、水に渇せる難堪さに、皆降人に成てぞ出たりける。長崎九郎左衛門尉是を請取て、先降人の法なればとて、物具・太刀・刀を奪取り、高手小手に禁て六波羅へぞ渡しける。降人の輩、如此ならば只討死すべかりける者をと、後悔すれ共無甲斐。日を経て京都に着しかば、六波羅に誡置て、合戦の事始なれば、軍神に祭て人に見懲させよとて、六条河原に引出し、一人も不残首を刎て被懸けり。是を聞てぞ、吉野・金剛山に篭りたる兵共も、弥獅子の歯嚼をして、降人に出んと思ふ者は無りけり。「罪を緩ふするは将の謀也。」と云事を知らざりける六波羅の成敗を、皆人毎押なべて、悪かりけりと申しが、幾程も無して悉亡びけるこそ不思議なれ。情は人の為ならず。 |
この事情を京都へ参上して申し上げようとしたところ、すでに大軍が押し寄せたため武士として当然のことながら矢を放ちました。もしその罪をお許しいただけるなら進んで投降いたします。お許しにならぬとお決めであれば無力ではありますが一矢報いて戦場に屍を晒す所存です。以上の事情をご賢察ください。」と述べたところ、大将は大いに喜び本領安堵の書状を与え「特に功績ある者には恩賞を与える」と返答して攻撃を停止した。 城内に籠る兵士282人は明日にも死ぬかもしれない命よりも喉の渇きに耐えられず全員が降伏した。長崎九郎左衛門尉は投降者を受け入れる際「降人の慣例だから」と鎧や刀剣を没収し両手を縛って六波羅へ送った。降人たちはこの扱いを見て「ならば討ち死にすべきだった」と後悔したが取り返しがつかない。 日を経て京都に到着すると、六波羅当局は彼らを拘束し「合戦の始まりでもあり見せしめとして軍神への捧げ物にしよう」と言い、全員を六条河原へ引き出して一人残らず首を刎ね晒した。この報を聞き吉野・金剛山で籠城する兵士たちはますます奮起し降伏を考える者はなくなった。「罪を許すのは将の計略」という道理も理解せずに処刑した六波羅の裁定を人々は「不当だった」と口々に言うが、ほどなくして彼ら自身が滅亡するとは何と皮肉なことか。情け(慈悲)は人のためならぬ(巡り巡って自分に返るものだ)。 解説
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| 余に驕を極めつゝ、雅意に任て振舞へば、武運も早く尽にけり。因果の道理を知るならば、可有心事共也。 |
度が過ぎて傲慢になりながら、自分勝手に振る舞えば、戦いの幸運もすぐに尽きてしまった。因果応報の道理を知っているならば、心すべき事があるのだ。 解説
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| input text 太平記\007_太平記_巻7.txt | 現代日本語 translated text | ||||||||||||
| 太平記 太平記巻第七 ○吉野城軍事 元弘三年正月十六日、二階堂出羽入道道蘊、六万余騎の勢にて大塔宮の篭らせ給へる吉野の城へ押寄る。菜摘河の川淀より、城の方を向上たれば、嶺には白旗・赤旗・錦の旗、深山下風に吹なびかされて、雲歟花歟と怪まる。麓には数千の官軍、冑の星を耀かし鎧の袖を連ねて、錦繍をしける地の如し。峯高して道細く、山嶮して苔滑なり。されば幾十万騎の勢にて責る共、輒く落すべしとは見へざりけり。同十八日の卯刻より、両陣互に矢合せして、入替々々責戦。官軍は物馴たる案内者共なれば、斯のつまり彼の難所に走散て、攻合せ開合せ散々に射る。寄手は死生不知の坂東武士なれば、親子打るれ共不顧、主従滅れども不屑、乗越々々責近づく。夜昼七日が間息をも不続相戦に、城中の勢三百余人打れければ、寄手も八百余人打れにけり。況乎矢に当り石に被打、生死の際を不知者は幾千万と云数を不知。血は草芥を染、尸は路径に横はれり。され共城の体少もよわらねば、寄手の兵多くは退屈してぞ見へたりける。爰に此山の案内者とて一方へ被向たりける吉野の執行岩菊丸、己が手の者を呼寄て申けるは、「東条の大将金沢右馬助殿は、既に赤坂の城を責落して金剛山へ被向たりと聞ゆ。 |
『太平記』巻第七「吉野城軍事」元弘三年正月十六日、二階堂出羽入道道蘊が六万余騎の軍勢で大塔宮(護良親王)の籠る吉野城に迫ってきた。菜摘川の流れ沿いから城の方を見上げると、峰には白旗・赤旗・錦の旗が山風になびいて雲か花かと不思議に見える。麓には数千の官軍(後醍醐天皇側)が兜の星を輝かせ鎧の袖を連ねており、まるで刺繍を敷き詰めた地のように見えた。 峰は高く道は細く、山は険しく苔で滑りやすい。そのため何十万騎もの軍勢で攻めても簡単に落ちそうにはなかった。同十八日の卯刻(午前6時ごろ)から両陣営が矢を交わし合い、交互に入れ替わりながら攻防戦を繰り返した。官軍は地理に詳しい案内役たちだったので、要所や難所に散らばって自由自在に射かける。攻め手の関東武士たちは生死もかえりみず、親子が離ればなれになっても気にかけず主従が全滅しても意に介さず、次々と乗り越えて迫る。 昼夜を問わず七日間休まず戦った結果、城側は三百余人が討たれた一方で攻め手も八百余人の死者が出た。ましてや矢にあたり石に打たれて生死の境にある者は数えきれないほどだった。血は草や枯れ枝を染め屍は道端に横たわっていた。それでも城の守りは少しも弱らないため、攻撃側の兵士たちは大半が疲弊した様子に見えた。 ここで山の案内役として一方へ向かわせられていた吉野の執行・岩菊丸が配下を集めて言った。「東条(丹波国)の大将である金沢右馬助殿が、既に赤坂城を攻め落とし金剛山に向かったそうだ。」 解説
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| 当山の事我等案内者たるに依て、一方を承て向ひたる甲斐もなく、責落さで数日を送る事こそ遺恨なれ。倩事の様を按ずるに、此城を大手より責ば、人のみ被打て落す事有難し。推量するに、城の後の山金峯山には峻を憑で、敵さまで勢を置たる事あらじと覚るぞ。物馴たらんずる足軽の兵を百五十人すぐつて歩立になし、夜に紛れて金峯山より忍び入、愛染宝塔の上にて、夜のほの/゛\と明はてん時時の声を揚よ。城の兵鬨音に驚て度を失はん時、大手搦手三方より攻上て城を追落し、宮を生捕奉るべし。」とぞ下知しける。さらばとて、案内知たる兵百五十人をすぐて、其日の暮程より、金峯山へ廻て、岩を伝ひ谷を上るに、案の如く山の嶮きを憑けるにや、唯こゝかしこの梢に旗許を結付置て可防兵一人もなし。百余人の兵共、思の侭に忍入て、木の下岩の陰に、弓箭を臥て、冑を枕にして、夜の明るをぞ待たりける。あい図の比にも成にければ、大手五万余騎、三方より押寄て責上る。吉野の大衆五百余人、責口におり合て防戦ふ。寄手も城の内も、互に命を不惜、追上せ追下し、火を散してぞ戦たる。卦る処に金峯山より廻りたる、搦手の兵百五十人、愛染宝塔よりをり降て、在々所々に火を懸て、時の声をぞ揚たりける。 |
この山のことについては我々が案内者なのに、一方向だけを受け持って攻めた成果もなく、城を落とせず数日を過ごすのは実に悔しい。よく状況を見てみると、正面からこの城を攻めれば兵士たちが討たれるだけで陥落させるのは難しいだろう。推測するに城の背後にある金峯山は険しさゆえに敵も兵力を置いていないはずだ。地理に詳しい足軽兵150人を選抜して歩兵隊とし、夜闇に紛れて金峯山から潜入させよ。愛染宝塔の上で夜がほのぼのと明ける頃合いに鬨(とき)の声を上げるのだ。城兵たちはその音に驚いて混乱した瞬間、正面・裏手・側面の三方から攻め上がって城を落とし大塔宮(護良親王)を生け捕り申せ。」そう命じたのである。 そこで地理を知る兵150人を選び出し、その日の夕暮れ頃に金峯山へ回らせると、案の定険しい地形ゆえか木々の梢に旗印が結ばれてはいるものの防衛兵は一人もいない。百余人の兵たちは思うままに潜入し木陰や岩陰で弓矢を伏せ兜を枕にして夜明けを待った。 ちょうどその頃、正面軍五万余騎が三方から押し寄せ攻め上がる。吉野城の僧兵ら五百余人も各攻撃口へ降りて防戦した。攻城側も城内勢も互いに命をも惜しまず追い上げたり引き下がったり火花を散らすような激しい戦闘となった。 その折に金峯山から回り込んだ裏手部隊150人が愛染宝塔から降り立ち、至る所で火をつけ鬨の声をあげたのである。 解説
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| 吉野の大衆前後の敵を防ぎ兼て、或は自腹を掻切て、猛火の中へ走入て死るも有、或は向ふ敵に引組で、指ちがへて共に死るもあり。思々に討死をしける程に、大手の堀一重は、死人に埋りて平地になる。去程に、搦手の兵、思も寄ず勝手の明神の前より押寄て、宮の御坐有ける蔵王堂へ打て懸りける間、大塔宮今は遁れぬ処也。と思食切て、赤地の錦の鎧直垂に、火威の鎧のまだ巳の刻なるを、透間もなくめされ、竜頭の冑の緒をしめ、白檀磨の臑当に、三尺五寸の小長刀を脇に挟み、劣らぬ兵二十余人前後左右に立、敵の靉て引へたる中へ走り懸り、東西を掃ひ、南北へ追廻し、黒煙を立て切て廻らせ給ふに、寄手大勢也。と云へ共、纔の小勢に被切立て、木の葉の風に散が如く、四方の谷へ颯とひく。敵引ば、宮蔵王堂の大庭に並居させ給て、大幕打揚て、最後の御酒宴あり。宮の御鎧に立所の矢七筋、御頬さき二の御うで二箇所つかれさせ給て、血の流るゝ事滝の如し。然れ共立たる矢をも不抜、流るゝ血をも不拭、敷皮の上に立ながら、大盃を三度傾させ給へば、木寺相摸四尺三寸の太刀の鋒に、敵の頚をさし貫て、宮の御前に畏り、「戈■剣戟をふらす事電光の如く也。磐石巌を飛す事春の雨に相同じ。然りとは云へ共、天帝の身には近づかで、修羅かれが為に破らる。 |
吉野城の僧兵たちは前後の敵に対応しきれず、ある者は自ら腹を切り裂いて猛火の中へ飛び込み死ぬ者もあり、また向かってきた敵に組みつき刺し違えて共倒れになる者もいた。各自が思い思いに討ち死にするうちに正面の堀一つは死人で埋まり平地のようになった。 その時、裏手から回り込んだ奇襲部隊150人が予想外に勝手明神前から押し寄せ、護良親王(大塔宮)がいらっしゃった蔵王堂へ攻めかかったため、「もはや逃れられぬ」と覚悟を決めた親王は赤地の錦の鎧直垂をお召しになり、まだ午前10時頃というのに火威の鎧の隙間なく着込み、竜頭の冑の緒を締められた。白檀磨りの脛当てを付け三尺五寸の小長刀を脇に挟み、屈強な兵士二十余人が前後左右に立つ中で敵陣へ突進していく。 東西を掃い払い南北へ追い回すように黒煙を立てながら切り込まれると、攻め手は大軍とはいえわずかな人数に斬り倒され木の葉が風に散るかのごとく四方の谷へ敗走した。敵が退くと親王は蔵王堂の広庭で陣座し幕を張らせ最後の酒宴を開かれた。 親王の鎧には七本もの矢が刺さり、頬先二ヶ所・両腕二ヶ所に傷をお受けになり流れる血は滝のように激しかった。それでも立っている矢も抜かず流れる血も拭わず、敷皮の上に立ちながら大杯を三度傾けられた。 すると木寺相模という者が四尺三寸の太刀の先に敵将の首を貫いて親王の前にひれ伏し言った。「矛や剣戟(武器)をお振るいになる様は電光のようであり、岩をも飛ばす勢いは春の雨と似ています。しかし天帝(貴方)には近づけず修羅がかえって破れるのです。」 解説
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| 」と、はやしを揚て舞たる有様は、漢・楚の鴻門に会せし時、楚の項伯と項荘とが、剣を抜て舞しに、樊■庭に立ながら、帷幕をかゝげて項王を睨し勢も、角やと覚る許也。大手の合戦事急也。と覚て、敵御方の時の声相交りて聞へけるが、げにも其戦に自ら相当る事多かりけりと見へて、村上彦四郎義光鎧に立処の矢十六筋、枯野に残る冬草の、風に臥たる如くに折懸て、宮の御前に参て申けるは、「大手の一の木戸、云甲斐なく責破られつる間、二の木戸に支て数刻相戦ひ候つる処に、御所中の御酒宴の声、冷く聞へ候つるに付て参て候。敵既にかさに取上て、御方気の疲れ候ぬれば、此城にて功を立ん事、今は叶はじと覚へ候。未敵の勢を余所へ回し候はぬ前に、一方より打破て、一歩落て可有御覧と存候。但迹に残り留て戦ふ兵なくば、御所の落させ給ふ者也。と心得て、敵何く迄もつゞきて追懸進せつと覚候へば、恐ある事にて候へ共、めされて候錦の御鎧直垂と、御物具とを下給て、御諱の字を犯して敵を欺き、御命に代り進せ候はん。」と申ければ、宮、「争でかさる事あるべき、死なば一所にてこそ兎も角もならめ。」と仰られけるを、義光言ばを荒らかにして、「かゝる浅猿き御事や候。漢の高祖■陽に囲れし時、紀信高祖の真似をして楚を欺かんと乞しをば、高祖是を許し給ひ候はずや。 |
(木寺相模が)「」と言って囃子を上げて舞った様子は、漢と楚が鴻門で会見した時、楚の項伯と項荘が剣を抜いて舞い、樊噲が庭に立ちながら帷幄(いまく)を押し上げて項王を睨みつけた勢いに似ていると思われた。正面戦闘は緊迫しており、敵味方の鬨(とき)の声が入り混じって聞こえたことからも、実際に多くの激しい交戦があったようだ。村上彦四郎義光の鎧には十六本もの矢が立っていたが、枯れ野に残る冬草のように風でなびき折れたまま親王の御前に進み出て申し上げた。「正面第一門は抗う術もなく突破されましたので、第二門で数時間防戦しておりましたところ、宮中での酒宴のお声が冷たく聞こえ参りました。敵はすでに勢いを得て味方は疲れ切っていますゆえ、この城で功を立てるのはもう不可能でしょう。まだ敵軍の主力が移動しないうちに一方から突破し、一歩退いて情勢をご覧になるべきです。ただし後衛として残って戦う兵がいなければ宮様は落命されましょう。(こう考え)追撃してくる敵には私が代わりにお立ち向かいします。恐れ多いことですが、(親王の)お召しになっている錦の鎧直垂と甲冑をお渡しいただき、御名を騙って敵を欺いてご身命に替わります。」と言うと、親王は「どうしてそんなことがあろうか?死ぬなら同じ場所でこそ本望だ」とおっしゃった。すると義光が言葉を荒らげて「これは浅慮なお振る舞いです!漢の高祖が滎陽(けいよう)に包囲された時、紀信が高祖になりすまして楚軍を欺こうと願い出たことを高祖はお許しになったではありませんか。」 解説
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| 是程に云甲斐なき御所存にて、天下の大事を思食立ける事こそうたてけれ。はや其御物具を脱せ給ひ候へ。」と申て、御鎧の上帯をとき奉れば、宮げにもとや思食けん、御物の具・鎧直垂まで脱替させ給ひて、「我若生たらば、汝が後生を訪べし。共に敵の手にかゝらば、冥途までも同じ岐に伴ふべし。」と被仰て、御涙を流させ給ひながら、勝手の明神の御前を南へ向て落させ給へば、義光は二の木戸の高櫓に上り、遥に見送り奉て、宮の御後影の幽に隔らせ給ぬるを見て、今はかうと思ひければ、櫓のさまの板を切落して、身をあらはにして、大音声を揚て名乗けるは、「天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ。」と云侭に、鎧を脱で櫓より下へ投落し、錦の鎧直垂の袴許に、練貫の二小袖を押膚脱で、白く清げなる膚に刀をつき立て、左の脇より右のそば腹まで一文字に掻切て、腸掴で櫓の板になげつけ、太刀を口にくわへて、うつ伏に成てぞ臥たりける。大手・搦手の寄手是を見て、「すはや大塔宮の御自害あるは。我先に御頚を給らん。」とて、四方の囲を解て一所に集る。 |
親王がこれほど道理に反したお考えで天下の大事をお決めになるとは残念なことです。早くその甲冑をお脱ぎください。」そう言って義光が鎧の上帯を解くと、親王も「確かに」と思われたのか、武具から鎧直垂まですべてお取り替えになり、「もし私が生き延びたら汝(あなた)の菩提を弔うだろう。共に敵の手にかかるならば黄泉路まで同行する。」とおっしゃり涙を流しながら勝手明神前から南へ落ち延びられた。 義光は二ノ門の高櫓に登って遠くを見送り、親王の姿がかすかに見えなくなると覚悟を決め、櫓の羽目板を切り落として身を現し大声で名乗った。「天照大神の御子孫である神武天皇より九十五代目の帝・後醍醐天皇第二皇子、一品兵部卿護良親王(大塔宮)尊仁が逆臣のために亡ぼされようとしている。この恨みを泉下に報いるため今自害する姿を見届けよ。お前たちの武運尽きて腹を切る時の手本とするがよい。」そう言い終えると鎧を脱いで櫓から投げ捨て、錦の直垂袴の裾から練貫(ねりぬき)の小袖二枚をまくり上げると、白く清らかな肌に刀をつきたて左脇腹から右腰まで一直線に切り裂いた。内臓をつかみ取って櫓の板へ投げつけると太刀を口にくわえ、うつ伏せになって倒れた。 大手・搦手(からめて)からの攻め手はこれを見て「大塔宮が自害なされたぞ!我々が先に首を持ち帰れ!」と言い四方の包囲網を解いて一箇所に集まった。 解説
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| 其間に宮は差違へて、天の河へぞ落させ給ける。南より廻りける吉野の執行が勢五百余騎、多年の案内者なれば、道を要りかさに廻りて、打留め奉んと取篭る。村上彦四郎義光が子息兵衛蔵人義隆は、父が自害しつる時、共に腹を切んと、二の木戸の櫓の下まで馳来りたりけるを、父大に諌て、「父子の義はさる事なれ共、且く生て宮の御先途を見はて進せよ。」と、庭訓を残しければ、力なく且くの命を延て、宮の御供にぞ候ける。落行道の軍、事既に急にして、打死せずば、宮落得させ給はじと覚ければ、義隆只一人蹈留りて、追てかゝる敵の馬の諸膝薙では切すへ、平頚切ては刎落させ、九折なる細道に、五百余騎の敵を相受て、半時許ぞ支たる。義隆、節、石の如く也。といへ共、其身金鉄ならざれば、敵の取巻て射ける矢に、義隆既に十余箇所の疵を被てけり。死ぬるまでも猶敵の手にかゝらじとや思けん、小竹の一村有ける中へ走入て、腹掻切て死にけり。村上父子が敵を防ぎ、討死しける其間に、宮は虎口に死を御遁有て、高野山へぞ落させ給ける。出羽入道々蘊は、村上が宮の御学をして、腹を切たりつるを真実と心得て、其頚を取て京都へ上せ、六波羅の実検にさらすに、ありもあらぬ者の頚也。と申ける。獄門にかくるまでもなくて、九原の苔に埋れにけり。 |
その間に親王は巧みに避けて天ノ川へ落ち延びられた。南から回り込んだ吉野執行の軍勢五百余騎は、長年の土地勘があるため道を遮るように迂回し、取り押さえようと包囲した。 村上彦四郎義光の息子・兵衛蔵人義隆は、父が自害する時に共に腹を切ろうと二ノ門の櫓下まで駆けつけたところ、父は強く諌めて「親子の情はわかるが、しばらく生きて親王様の無事を見届けるのだ」と言い残した。そのためやむなく命をつなぎ親王のお供をしていた。 落ち延びる途中で追撃軍の攻勢が激しく、このままでは親王が助からないと悟った義隆はただ一人踏み留まり、迫る敵の馬の脚を薙いで切り倒し、首を平らに刎ね飛ばすなどして、九十九折りの細道で五百余騎の敵を受け止め半時ほど防戦した。義隆の志操は石のように固かったが、彼自身が金鉄ではないため包囲され射かけられた矢により、既に十余箇所も傷を負っていた。「死ぬ最後まで敵に捕まるまい」と思ったか、竹林のある村の中へ走り込み腹を掻き切って果てた。 村上父子が敵を防ぎ戦死している間に親王は危険から逃れ高野山へ落ち延びられた。出羽入道(足利方の武将)は村上が親王に成りすまして自害したことを真実と勘違いし、その首級を持って京都へ上ると六波羅で検分させたが「ありもしない者の首だ」と言われたため獄門にかけることもなく野辺に埋もれてしまった。 解説
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| 道蘊は吉野の城を攻落したるは、専一の忠戦なれ共、大塔宮を打漏し奉りぬれば、猶安からず思て、軈て高野山へ押寄、大塔に陣を取て、宮の御在所を尋求けれ共、一山の衆徒皆心を合て宮を隠し奉りければ、数日の粉骨甲斐もなくて、千剣破の城へぞ向ひける。 ○千剣破城軍事 千剣破城の寄手は、前の勢八十万騎に、又赤坂の勢吉野の勢馳加て、百万騎に余りければ、城の四方二三里が間は、見物相撲の場の如く打囲で、尺寸の地をも余さず充満たり。旌旗の風に翻て靡く気色は、秋の野の尾花が末よりも繁く、剣戟の日に映じて耀ける有様は、暁の霜の枯草に布るが如く也。大軍の近づく処には、山勢是が為に動き、時の声の震ふ中には、坤軸須臾に摧けたり。此勢にも恐ずして、纔に千人に足ぬ小勢にて、誰を憑み何を待共なきに、城中にこらへて防ぎ戦ける楠が心の程こそ不敵なれ。此城東西は谷深く切て人の上るべき様もなし。南北は金剛山につゞきて而も峯絶たり。されども高さ二町許にて、廻り一里に足ぬ小城なれば、何程の事か有べき〔と〕、寄手是を見侮て、初一両日の程は向ひ陣をも取ず、責支度をも用意せず、我先にと城の木戸口の辺までかづきつれてぞ上たりける。城中の者共少しもさはがず、静まり帰て、高櫓の上より大石を投かけ/\、楯の板を微塵に打砕て、漂ふ処を差つめ/\射ける間、四方の坂よりころび落、落重て手を負、死をいたす者、一日が中に五六千人に及べり。 |
道蘊(出羽入道)が吉野城を攻め落としたのは大きな手柄だが、大塔宮(護良親王)を取り逃がしたのでまだ安心できず、すぐに高野山へ押し寄せて大塔寺に陣取り、宮のお隠れ場所を探した。しかし一山の僧侶たち皆が心を一つにして宮をかくまったため数日の苦労もむなしく、千剣破城(ちはやじょう)へ向かった。 ○千剣破城戦記 この大軍にも屈せずわずか千人足らずの小勢で頼る者もない中、城内に踏みとどまって防戦する楠木正成の心胆こそ無敵である。城は東西が深い谷で登れず南北には金剛山へ続く断崖絶壁だが高さ二町(約218m)、周囲一里未満の小城ゆえ「大したことあるまい」と攻め手は侮り、初日は陣形も整えず準備もしないで我先に木戸口付近まで押し寄せ登った。城内の兵たちは微動だにせず静かに高櫓から次々巨石を落とし盾板を粉砕すると散らばる敵めがけて矢を射たため四方坂上では転落者が重なり死傷者は一日で五、六千人にも達した。 解説
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| 長崎四郎左衛門尉、軍奉行にて有ければ、手負死人の実検をしけるに、執筆十二人、夜昼三日が間筆をも置ず注せり。さてこそ、「今より後は、大将の御許なくして、合戦したらんずる輩をば却て罪科に行るべし。」と触られければ、軍勢暫軍を止て、先己が陣々をぞ構へける。爰に赤坂の大将金沢右馬助、大仏奥州に向て宣ひけるは、「前日赤坂を攻落しつる事、全く士卒の高名に非ず。城中の構を推し出して、水を留て候しに依て、敵程なく降参仕候き。是を以て此城を見候に、是程纔なる山の巓に用水有べし共覚候はず。又あげ水なんどをよその山より懸べき便も候はぬに、城中に水卓散に有げに見ゆるは、如何様東の山の麓に流たる渓水を、夜々汲歟と覚て候。あはれ宗徒の人々一両人に仰付られて、此水を汲せぬ様に御計候へかし。」と被申ければ、両大将、「此義可然覚候。」とて、名越越前守を大将として其勢三千余騎を指分て、水の辺に陣を取せ、城より人をり下りぬべき道々に、逆木を引てぞ待懸ける。楠は元来勇気智謀相兼たる者なりければ、此城を拵へける始用水の便をみるに、五所の秘水とて、峯通る山伏の秘して汲水此峯に有て、滴る事一夜に五斛許也。此水いかなる旱にもひる事なければ、如形人の口中を濡さん事相違あるまじけれ共、合戦の最中は或は火矢を消さん為、又喉の乾く事繁ければ、此水許にては不足なるべしとて、大なる木を以て、水舟を二三百打せて、水を湛置たり。 |
長崎四郎左衛門尉が軍奉行であったため、負傷者と死者の確認を行っているうちに記録係十二人が昼夜三日間休まず書き続けた。そこで「今後は大将の許可なく戦う者は逆に罪とする」という命令が出されたので軍勢はいったん攻撃を止め各自陣地を構築した。 この時赤坂方面の大将である金沢右馬助が大仏奥州(足利方総大将)に向かって進言した。「先日赤坂城を落としたのは兵士たちの手柄ではなく、敵方が城外に水路を作り水を溜めていたのが切れたため降伏したのです。この点から見ると今回の城はこんな狭い山頂に水源があるとは思えず他山からの引水管も不可能なのに城内で豊富に水を使っている様子です。おそらく東側山麓の渓流を夜間に汲み上げているのでしょう。どうか僧兵たち数名を派遣しこの水源への接近を阻止してください」と申したところ両大将「その案は妥当だ」として名越越前守を指揮官に三千余騎を分遣させ水辺付近に布陣させ城から降りて来そうな道筋には逆茂木(さかもぎ)という障害物を設置して待ち伏せした。 楠木正成は元々勇気と知略を兼ね備えた人物ゆえこの城を築いた当初から水源対策を見据えており「五所の秘水」と呼ばれる峰で山伏が秘密裏に汲む湧き水があり一晩で約百升(当時の計量単位)溜まる。これはどんな日照りでも枯れないので平時は兵士たちの渇きを癒すのに十分だったが戦闘中は火矢消しや喉の乾燥が多いため不十分と判断し巨大な木を使って貯水槽二百~三百個を作り常に満たしておいた。 解説
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| 又数百箇所作り双べたる役所の軒に継樋を懸て、雨ふれば、霤を少しも余さず、舟にうけ入れ、舟の底に赤土を沈めて、水の性を損ぜぬ様にぞ被拵たりける。此水を以て、縦ひ五六十日雨不降ともこらへつべし。其中に又などかは雨降事無らんと、了簡しける智慮の程こそ浅からね。されば城よりは強に此谷水を汲んともせざりけるを、水ふせぎける兵共、夜毎に機をつめて、今や/\と待懸けるが、始の程こそ有けれ、後には次第々々に心懈り、機緩て、此水をば汲ざりけるぞとて、用心の体少し無沙汰にぞ成にける。楠是を見すまして、究竟の射手をそろへて二三百人夜に紛て城よりをろし、まだ篠目の明けはてぬ霞隠れより押寄せ、水辺に攻て居たる者共、二十余人切伏て、透間もなく切て懸りける間、名越越前守こらへ兼て、本の陣へぞ引れける。寄手数万の軍勢是を見て、渡り合せんとひしめけ共、谷を隔て尾を隔たる道なれば、輒く馳合する兵もなし。兎角しける其間に、捨置たる旗・大幕なんど取持せて、楠が勢、閑に城中へぞ引入ける。其翌日城の大手に三本唐笠の紋書たる旗と、同き文の幕とを引て、「是こそ皆名越殿より給て候つる御旗にて候へ、御文付て候間他人の為には無用に候。御中の人々是へ御入候て、被召候へかし。 |
さらに数百個作った建物の軒にはといをつけ、雨が降れば一滴も無駄にせず貯水槽へ流し込み、桶底には赤土を沈めて水質が悪くならないように工夫していた。この水があれば仮に五六十日雨が降らなくても持ちこたえられるはずだった。「その間にどうして雨が降らないことがあろうか」と計算する知恵の深さは見事である。 だから城内から強引にあの谷川の水を汲みにも行かなかったため、水源封鎖部隊は毎晩警戒し「今こそ来るぞ」と待ち構えていたが、初めのうちだけ続き次第に気が緩んで機敏さを失い、「もう水は汲みに来ないのだろう」と言って警備も形骸化していた。楠木はこの隙を見逃さず精鋭の射手二三百人を選び夜陰紛れて城から降ろし、未明の薄暗がりの中を急襲した。水辺で守っていた兵二十数名を斬り伏せると間髪入れず攻め立てたため名越越前守は耐えきれず本陣へ敗走した。 攻城側数万の軍勢はこれを見て反撃しようと騒いだが、谷や尾根で隔たれた道では簡単に駆けつける兵もなく手をこまねいている間に、放置されていた旗・大幕などを奪い取った楠木勢がゆっくり城内へ引き上げていった。 翌日城の大手門には三本骨唐笠紋入りの旗と同文様の幕を掲げて「これは皆名越殿から頂戴した御旗である。証拠も付いているので他所で使うな」と言い放ち、「味方たちはここへ参上して返還を受けるがよい」と呼びかけた。 解説
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| 」と云て、同音にどつと笑ければ、天下の武士共是を見て、「あはれ名越殿の不覚や。」と、口々に云ぬ者こそ無りけれ。名越一家の人々此事を聞て、安からぬ事に被思ければ、「当手の軍勢共一人も不残、城の木戸を枕にして、討死をせよ。」とぞ被下知ける。依之彼手の兵五千余人、思切て討共射共用ず、乗越々々城の逆木一重引破て、切岸の下迄ぞ攻たりける。され共岸高して切立たれば、矢長に思へ共のぼり得ず、唯徒に城を睨、忿を押へて息つぎ居たり。此時城の中より、切岸の上に横へて置たる大木十計切て落し懸たりける間、将碁倒をする如く、寄手四五百人圧に被討て死にけり。是にちがはんとしどろに成て騒ぐ処を、十方の櫓より指落し、思様に射ける間、五千余人の兵共残すくなに討れて、其日の軍は果にけり。誠志の程は猛けれ共、唯し出したる事もなくて、若干討れにければ、「あはれ恥の上の損哉。」と、諸人の口遊は猶不止。尋常ならぬ合戦の体を見て、寄手も侮りにくゝや思けん、今は始の様に、勇進で攻んとする者も無りけり。長崎四郎左衛門尉此有様を見て、「此城を力責にする事は、人の討るゝ計にて、其功成難し。唯取巻て食責にせよ。」と下知して、軍を被止ければ、徒然に皆堪兼て、花の下の連歌し共を呼下し、一万句の連歌をぞ始たりける。 |
そう言って一斉にドッと笑うと、周囲の武士たちはこれを見て「なんという名越殿の失態だ」と言わない者は一人もいなかった。名越一族の人々がこの件を聞いて落ち着かなく思い悩んだため、「担当部隊の兵士全員は城門に突撃して枕にしてでも戦死しろ」と命令した。それによりその部隊五千人余りは覚悟を決め、攻撃も射撃もしないで、次々に乗り越えて城の逆茂木(障害物)一重を引き破り切り立った崖下まで攻めたてた。 しかし岸が高く垂直なので矢では届かず登ることもできず、ただ無為に城を見つめ怒りを押さえ息をついていた。その時城内から崖上に並べられていた大木十本ほどを切り落としたため、将棋倒しのように攻撃側四五百人が圧死した。「これで反撃だ」と混乱して騒ぐところへ四方の櫓(矢倉)から一斉に狙い射ちされたので五千余人の兵はほとんど討たれその日の戦いは終わった。 誠意や勇気は強かったが成果もなく多数が死んだため「なんという恥の上の損害だ」と人々の噂話はなお止まなかった。尋常ではない戦いぶりを見て攻撃側も侮れないと思ったのか、初期のように勇敢に進んで攻めようとする者は皆無になった。 長崎四郎左衛門尉がこの様子を見て「力攻めでは味方が死ぬだけで成功は難しい。ただ包囲して兵糧攻めにするだけだ」と指示し軍を止めたため、退屈した全員我慢できず連歌師(詠み手)を呼び寄せ一万句の連歌を始めてしまった。 解説
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| 其初日の発句をば長崎九郎左衛門師宗、さき懸てかつ色みせよ山桜としたりけるを、脇の句、工藤二郎右衛門尉嵐や花のかたきなるらんとぞ付たりける。誠に両句ともに、詞の縁巧にして句の体は優なれども、御方をば花になし、敵を嵐に喩へければ、禁忌也。ける表事哉と後にぞ思ひ知れける。大将の下知に随て、軍勢皆軍を止ければ、慰む方や無りけん、或は碁・双六を打て日を過し、或は百服茶・褒貶の歌合なんどを翫で夜を明す。是にこそ城中の兵は中々被悩たる心地して、心を遣方も無りける。少し程経て後、正成、「いでさらば、又寄手たばかりて居眠さまさん。」とて、芥を以て人長に人形を二三十作て、甲冑をきせ兵杖を持せて、夜中に城の麓に立置き、前に畳楯をつき双べ、其後ろにすぐりたる兵五百人を交へて、夜のほの/゛\と明ける霞の下より、同時に時をどつと作る。四方の寄手時の声を聞て、「すはや城の中より打出たるは、是こそ敵の運の尽る処の死狂よ。」とて我先にとぞ攻合せける。城の兵兼て巧たる事なれば、矢軍ちとする様にして大勢相近づけて、人形許を木がくれに残し置て、兵は皆次第々々に城の上へ引上る。寄手人形を実の兵ぞと心得て、是を打んと相集る。正成所存の如く敵をたばかり寄せて、大石を四五十、一度にばつと発す。 |
その初日の連歌の発句は長崎九郎左衛門師宗が「さき懸てかつ色みせよ山桜」と詠んだところ、脇句として工藤二郎右衛門尉が「嵐や花のかたきなるらん」と付け加えた。確かに両方の句は言葉のつながりが巧みで風情も優れているものの、味方を花(弱く儚い存在)に例え敵を嵐(破壊的な力)に見立てていたため不吉だった。「この表現は禁忌だ」と後になって気づいたのである。 大将の命令に従って軍勢が戦闘停止したため暇つぶしもなく、兵士たちは碁や双六で時間を過ごしたり茶会や歌合戦などをもてあそんで夜を明かしていた。これにより城内(楠木側)の兵士らは非常に悩ましい気分になり対処法もなかった。 少し時が経った後、正成は「さあそれでは敵にまた騙されて眠り込ませよう」と言い藁で等身大の人形を二三十体作り甲冑を着せ武器を持たせて夜中に城の麓に立てかけた。その前方には盾を並べ後方には選抜した兵五百人を配備し、夜明け前の薄暗がりの中から一斉に鬨の声を上げた。 四方の攻城側はこの鬨の声を聞いて「ついに城内から打って出てきたか。これこそ敵(楠木)の命運尽きる最後の突撃だ」と言い我先にと攻め寄せ合った。城兵たちは事前に用意していた通り偽装戦闘のように見せかけ大勢が近づくと人形だけを木陰に残し、全員少しずつ城上へ撤退した。 攻城側は人形を本物の兵士と思い込み攻撃しようと集まったところで正成の狙い通り敵をおびき寄せると四五十もの大石を一度にバッと落とした。 解説
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| 一所に集りたる敵三百余人、矢庭に被討殺、半死半生の者五百余人に及り。軍はてゝ是を見れば、哀大剛の者哉と覚て、一足も引ざりつる兵、皆人にはあらで藁にて作れる人形也。是を討んと相集て、石に打れ矢に当て死せるも高名ならず、又是を危て進得ざりつるも臆病の程顕れて云甲斐なし。唯兎にも角にも万人の物笑ひとぞ成にける。是より後は弥合戦を止ける間、諸国の軍勢唯徒に城を守り上て居たる計にて、するわざ一も無りけり。爰に何なる者か読たりけん、一首の古歌を翻案して、大将の陣の前にぞ立たりける。余所にのみ見てやゝみなん葛城のたかまの山の峯の楠軍も無てそゞろに向ひ居たるつれ/゛\に、諸大将の陣々に、江口・神崎の傾城共を呼寄て、様々の遊をぞせられける。名越遠江入道と同兵庫助とは伯叔甥にて御座けるが、共に一方の大将にて、責口近く陣を取り、役所を双てぞ御座ける。或時遊君の前にて双六を打れけるが、賽の目を論じて聊の詞の違ひけるにや、伯叔甥二人突違てぞ死れける。両人の郎従共、何の意趣もなきに、差違へ差違へ、片時が間に死る者二百余人に及べり。城の中より是を見て、「十善の君に敵をし奉る天罰に依て、自滅する人々の有様見よ。」とぞ咲ける。誠に是直事に非ず。 |
一箇所に集まった敵兵三百人余りが即座に殺され、瀕死や重傷の者五百人以上となった。戦闘終了後にこれを見ると「なんというお粗末なことか」と気づくのだが、全く退かなかった兵士は皆人間ではなく藁で作られた人形だったのである。これを討とうと集まって石に潰され矢に当たって死んだ者は手柄にならず、また危険を恐れて進めなかった者も臆病さが露呈し弁解の余地がない。結局あらゆることが皆の笑い種となった。 この後ますます戦闘は停止したため、諸国の軍勢はただ無為に城を見上げて固守るだけで何もしない状態だった。そこである者が一首の古歌を改作し大将陣前へ掲げた:「他所ばかり見て飽きる葛城の高間山か その峰の楠(敵)もなし退屈して向かい合う」。諸大将は各々の陣に江口や神崎の遊女たちを呼び寄せ、様々な遊興にふけった。 名越遠江入道と同兵庫助は伯父甥関係だったが共に一方の大将として攻撃口近くに並んで陣取っていた。ある時遊君(女性)の前で双六を打ち賽の目について些細な言葉の行き違いから伯甥二人突っかかり合って死んだのである。両者の家来たちは理由もないのに斬りあい始め、瞬く間に死者二百人以上に及んだ。 城の中ではこれを見て「十善戒を守る天皇に敵対する天罰によって自滅した者らの様子を見よ」と嘲笑った。誠にこれは尋常な事ではないのである。 解説
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| 天魔波旬の所行歟と覚て、浅猿かりし珍事也。同三月四日関東より飛脚到来して、「軍を止て徒に日を送る事不可然。」と被下知ければ、宗との大将達評定有て、御方の向ひ陣と敵の城との際に、高く切立たる堀に橋を渡して、城へ打て入んとぞ巧まれける。為之京都より番匠を五百余人召下し、五六八九寸の材木を集て、広さ一丈五尺、長さ二十丈余に梯をぞ作らせける。梯既に作り出しければ、大縄を二三千筋付て、車木を以て巻立て、城の切岸の上へぞ倒し懸たりける。魯般が雲の梯も角やと覚て巧也。軈て早りおの兵共五六千人、橋の上を渡り、我先にと前だり。あはや此城只今打落されぬと見へたる処に、楠兼て用意やしたりけん、投松明のさきに火を付て、橋の上に薪を積るが如くに投集て、水弾を以て油を滝の流るゝ様に懸たりける間、火橋桁に燃付て、渓風炎を吹布たり。憖に渡り懸りたる兵共、前へ進んとすれば、猛火盛に燃て身を焦す、帰んとすれば後陣の大勢前の難儀をも不云支たり。そばへ飛をりんとすれば、谷深く巌そびへて肝冷し、如何せんと身を揉で押あふ程に、橋桁中より燃折て、谷底へどうど落ければ、数千の兵同時に猛の中へ落重て、一人も不残焼死にけり。其有様偏に八大地獄の罪人の刀山剣樹につらぬかれ、猛火鉄湯に身を焦す覧も、角やと被思知たり。 |
これはまるで天魔波旬(悪魔)の仕業かと思われるほど不気味で奇妙な事件だった。同じ三月四日、関東から早馬が到着し「戦闘を停止して無駄に時を過ごすことは許されない」と命令があったため、大将たちは評議を開き、自軍の陣地と敵城との境にある深く切り立った堀に橋を架け城内へ突入しようと企んだ。 解説
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| 去程に吉野・戸津河・宇多・内郡の野伏共、大塔宮の命を含で、相集る事七千余人、此の峯彼〔の〕谷に立隠て、千剣破寄手共の往来の路を差塞ぐ。依之諸国の兵の兵粮忽に尽て、人馬共に疲れければ、転漕に怺兼て百騎・二百騎引て帰る処を、案内者の野伏共、所々のつまり/゛\に待受て、討留ける間、日々夜々に討るゝ者数を知ず。希有にして命計を助かる者は、馬・物具を捨、衣裳を剥取れて裸なれば、或は破たる蓑を身に纏て、膚計を隠し、或は草の葉を腰に巻て、恥をあらはせる落人共、毎日に引も切らず十方へ逃散る。前代未聞の恥辱也。されば日本国の武士共の重代したる物具・太刀・刀は、皆此時に至て失にけり。名越遠江入道、同兵庫助二人は、無詮口論して共に死給ぬ。其外の軍勢共、親は討るれば子は髻を切てうせ、主疵を被れば、郎従助て引帰す間、始は八十万騎と聞へしか共、今は纔に十万余騎に成にけり。 ○新田義貞賜綸旨事 上野国住人新田小太郎義貞と申は、八幡太郎義家十七代の後胤、源家嫡流の名家也。然共平氏世を執て四海皆其威に服する時節なれば、無力関東の催促に随て金剛山の搦手にぞ被向ける。爰に如何なる所存歟出来にけん、或時執事船田入道義昌を近づけて宣ひける、「古より源平両家朝家に仕へて、平氏世を乱る時は、源家是を鎮め、源氏上を侵す日は平家是を治む。 |
これより先、吉野・戸津河・宇多・内郡の野伏たちが大塔宮(護良親王)の命令を受け集結し七千余人に達した。彼らはこの峰あの谷に潜み、千早城攻めの幕府軍の補給路を遮断した。そのため諸国の兵士の食糧は尽き、人馬ともに疲弊した。輸送隊が耐えかねて百騎・二百騎単位で帰還する途中を、地形に詳しい野伏たちが各所の要地で待ち伏せ討ち取ったので、日夜問わず倒される者の数は分からないほどだった。 奇跡的に命だけ助かった者は馬や武具を捨て、衣服を剥ぎ取られ裸となる。破れた蓑を身にまとって肌を隠す者もいれば草の葉で腰を覆うなど恥ずかしい姿の敗残兵たちが絶え間なく四方へ逃げ散った。前代未聞の屈辱である。このため日本の武士たちが代々受け継いだ武具・太刀・刀類は全てこの時に失われた。 名越遠江入道と同兵庫助の二人は無意味な争いで共に亡くなり、他の軍勢も親が討たれれば子は髻を切って逃亡し、主君が傷つけば家臣が支えながら退却した。当初八十万騎と言われた兵力は今やわずか十万余騎になっていた。 ○新田義貞綸旨下賜の事 ある時義貞は執事の船田入道義昌を近くに呼びこう語った:「昔から源平両家は朝廷に仕え、平氏が世を乱す時は源家がこれを鎮め、源氏が上(天皇)を侵せば平家が治めてきた。 解説
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| 義貞不肖也。と云へ共、当家の門■として、譜代弓矢の名を汚せり。而に今相摸入道の行迹を見に滅亡遠に非ず。我本国に帰て義兵を挙、先朝の宸襟を休め奉らんと存ずるが、勅命を蒙らでは叶まじ。如何して大塔宮の令旨を給て、此素懐を可達。」と問給ければ、舟田入道畏て、「大塔宮は此辺の山中に忍て御座候なれば、義昌方便を廻して、急で令旨を申出し候べし。」と、事安げに領掌申て、己が役所へぞ帰ける。其翌日舟田己が若党を三十余人、野伏の質に出立せて、夜中に葛城峯へ上せ、我身は落行勢の真似をして、朝まだきの霞隠に、追つ返つ半時計どし軍をぞしたりける、宇多・内郡の野伏共是を見て、御方の野伏ぞと心得、力を合せん為に余所の峯よりおり合て近付たりける処を、舟田が勢の中に取篭て、十一人まで生捕てげり。舟田此生捕どもを解脱して潛に申けるは、「今汝等をたばかり搦取たる事、全誅せん為に非ず。新田殿本国へ帰て、御旗を挙んとし給ふが、令旨なくては叶まじければ、汝等に大塔宮の御坐所を尋問ん為に召取つる也。命惜くば案内者して、此方の使をつれて、宮の御座あんなる所へ参れ。」と申ければ、野伏ども大に悦て、「其御意にて候はゞ、最安かるべき事にて候。此中に一人暫の暇を給候へ、令旨を申出て進せ候はん。 |
新田義貞が言うには:「私は無能ではありますが、源家一門として代々受け継いだ武士の名誉を汚してしまいました。しかし今、相模入道(北条高時)の行いを見れば滅亡は近いと分かります。本国に帰って義兵を挙げ先帝(後醍醐天皇)のご心労をお慰めしたいのですが、勅命がなければ実現できません。どうにか大塔宮から令旨を得てこの願いを果たせないでしょうか」と尋ねると、船田入道は畏まって「大塔宮様はこの辺りの山中に潜んでおられますので、私義昌が策を用いて急ぎ令旨を取り次ぎましょう」と安請け合いし自らの役所へ帰った。 翌日、船田は配下の若党三十余人を野伏への人質として装わせ夜中に葛城峰へ向かわせた。自身は敗走軍のふりをして朝まだきの霞の中「追う」「戻る」と半時ほど偽りの戦闘を行った。宇多・内郡の野伏たちがこれを見て味方と思い込み、協力しようと別の峰から降りて近づいたところを船田勢に包囲され十一人生け捕られた。 船田は捕虜らを解放し密かに言う:「お前たちを騙して捕えたのは皆殺しにするためではない。新田殿が本国帰還後挙兵しようとしているが令旨なしでは叶わぬので、大塔宮様の居場所をお前たちに尋ねるために捉えたのだ。命が惜しいなら案内役となり我々の使者を連れて宮様のもとへ行け」と告げると野伏らは大喜びで「そのお考えでしたら最も安易な方法です。この中から一人だけ暫くの暇を与えてください。令旨を取り次いで参上しましょう」。 解説
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| 」と申て、残り十人をば留置、一人宮の御方へとてぞ参ける。今や/\と相待処に、一日有て令旨を捧て来れり。開て是を見に、令旨にはあらで、綸旨の文章に書れたり。其詞云、被綸言称敷化理万国者明君徳也。撥乱鎮四海者武臣節也。頃年之際、高時法師一類、蔑如朝憲恣振逆威。積悪之至、天誅已顕焉。爰為休累年之宸襟、将起一挙之義兵。叡感尤深、抽賞何浅。早運関東征罰策、可致天下静謐之功。者、綸旨如此。仍執達如件。元弘三年二月十一日左少将新田小太郎殿綸旨の文章、家の眉目に備つべき綸言なれば、義貞不斜悦て、其翌日より虚病して、急ぎ本国へぞ被下ける。宗徒の軍をもしつべき勢共は兎に角に事を寄て国々へ帰ぬ。兵粮運送の道絶て、千剣破の寄手以外に気を失へる由聞へければ、又六波羅より宇都宮をぞ下されける。紀清両党千余騎寄手に加はて、未屈荒手なれば、軈て城の堀の際まで責上て、夜昼少しも不引退、十余日までぞ責たりける。此時にぞ、屏の際なる鹿垣・逆木皆被引破て、城も少し防兼たる体にぞ見へたりける。され共紀清両党の者とても、斑足王の身をもからざれば天をも翔り難し。竜伯公が力を不得ば山をも擘難し。余に為方や無りけん、面なる兵には軍をさせて後なる者は手々に鋤・鍬を以て、山を掘倒さんとぞ企ける。 |
船田入道がこう言い残りの十人は留め置き、一人だけ大塔宮のもとへ向かわせた。「今や!」という気持ちで待っているところに、一日後に令旨を捧げ持って帰ってきた。開封してみると令旨ではなく綸旨の文章が書かれていた。その内容は次の通りである:「国々を治めるのは賢明な君主の徳であり、乱世を鎮めて天下を平定するのは武人の本分である。近年において高時法師(北条高時)一味は朝廷の掟を軽んじ逆賊として勝手気ままに振る舞っている。悪事が積もり天罰がすでに現れているゆえ、長年の天皇陛下のお心労をお慰めするため一挙に義兵を起こそう。そのお志への感動は深く賞賛の念は浅からぬものがある。早急に関東征伐の策を講じ天下太平をもたらす功績を上げよ。」という綸旨であった。 この文章は家門にとって名誉となる勅命であるため、義貞は大いに喜んで翌日から仮病を使い急ぎ本国へ下向した。本来なら宗徒(幕府軍)に加わるべき兵士たちも何かと理由をつけて各々の国へ帰ってしまった。 兵糧輸送路が断たれ千剣破城攻めの幕府軍以外は意気消沈しているとの報せを聞いた六波羅探題(北条方)は宇都宮公綱らを派遣した。紀清両党(武士団)千余騎が加勢し、荒々しい彼らはすぐに城の堀際まで攻め上った。昼夜問わず全く退かず十数日間も猛攻撃を続けた。 この時ついに屏風のように並んだ鹿垣や逆茂木(防御柵)が破られ、城防衛にも支障が出ている様子に見えた。しかし紀清両党の者たちといえど、「斑足王(飛鳥時代の伝説人物)のような神通力がない限り天を翔けられず、竜伯公(中国神話の巨人)ほどの力を得なければ山さえ裂けない」状態でどうしようもなかった。そこで前面の兵に攻撃させながら後方の者はそれぞれ鍬や鋤を持って「山そのものを掘り崩そう」と企て始めた。 解説
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| げにも大手の櫓をば、夜昼三日が間に、念なく掘り崩してけり。諸人是を見て、唯始より軍を止て掘べかりける物を、と後悔して、我も我もと掘けれ共、廻り一里に余れる大山なれば左右なく掘倒さるべしとは見へざりけり。 ○赤松蜂起事 去程に楠が城強くして、京都は無勢也。と聞へしかば、赤松二郎入道円心、播磨国苔縄の城より打て出で、山陽・山陰の両道を差塞ぎ、山里・梨原の間に陣をとる。爰に備前・備中・備後・安芸・周防の勢共、六波羅の催促に依て上洛しけるが、三石の宿に打集て、山里の勢を追払て通んとしけるを、赤松筑前守舟坂山に支て、宗との敵二十余人を生捕てけり。然共赤松是を討せずして、情深く相交りける間、伊東大和二郎其恩を感じて、忽に武家与力の志を変じて、官軍合体の思をなしければ、先己が館の上なる三石山に城郭を構へ、軈て熊山へ取上りて、義兵を揚たるに、備前の守護加治源二郎左衛門一戦に利を失て、児嶋を指て落て行。是より西国の路弥塞て、中国の動乱不斜。西国より上洛する勢をば、伊東に支へさせて、後は思も無りければ、赤松軈て高田兵庫助が城を責落して、片時も足を不休、山陰道を指して責上る。路次の軍勢馳加て、無程七千余騎に成にけり。此勢にて六波羅を責落さん事は案の内なれ共、若戦ひ利を失事あらば、引退て、暫く人馬をも休ん為に、兵庫の北に当て、摩耶と云山寺の有けるに、先城郭を構て、敵を二十里が間に縮めたり。 |
なるほど大手門の櫓については、昼夜わずか三日間で何の問題もなく掘り崩してしまった。兵士たちはこれを見て「最初から戦闘を止めて掘削に専念すべきだった」と後悔し、我先にと掘り始めたものの、周囲一里以上もある大山では到底倒せるとは思えなかった。 ○赤松挙兵の件 まず自らの館の背後にある三石山に城郭を築き、すぐ熊山へ移って挙兵すると、備前守護加治源二郎左衛門は一戦で敗れ児島へ落ち延びた。これより西国街道は完全封鎖され中国地方は大混乱となった。伊東が西国からの上洛軍を阻止してくれたため後顧の憂いなく、赤松は直ちに高田兵庫助(貞経)の城を攻め落とし休む間もなく山陰道へ進攻した。途中で味方が加わり瞬く間に七千余騎となり、この兵力で六波羅攻略は可能と思われたが万が一敗れた際の退路確保のため兵庫北部にある摩耶という山寺に城郭を築き敵軍を二十里手前まで押し戻した。 解説
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| ○河野謀叛事 六波羅には、一方の打手にはと被憑ける宇都宮は千剣破の城へ向ひつ、西国の勢は伊東に被支て不上得、今は四国勢を摩耶の城へは向べしと被評定ける処に、後の二月四日、伊予国より早馬を立て、「土居二郎・得能弥三郎、宮方に成て旗をあげ、当国の勢を相付て土佐国へ打越る処に、去月十二日長門の探題上野介時直、兵船三百余艘にて当国へ推渡り、星岡にして合戦を致す処に、長門・周防の勢一戦に打負て、死人・手負其数を不知。剰時直父子行方を不知云云。其より後四国の勢悉土居・得能に属する間、其勢已に六千余騎、宇多津・今張の湊に舟をそろへ、只今責上んと企候也。御用心有べし。」とぞ告たりける。 ○先帝船上臨幸事 畿内の軍未だ静ならざるに、又四国・西国日を追て乱ければ、人の心皆薄氷を履で国の危き事深淵に臨が如し。抑今如斯天下の乱るゝ事は偏に先帝の宸襟より事興れり。若逆徒差ちがふて奪取奉んとする事もこそあれ、相構て能々警固仕べしと、隠岐判官が方へ被下知ければ、判官近国の地頭・御家人を催して日番・夜廻隙もなく、宮門を閉て警固し奉る。閏二月下旬は、佐々木富士名判官が番にて、中門の警固に候けるが、如何が思けん、哀此君を取奉て、謀叛を起さばやと思心ぞ付にける。 |
○河野謀反の件 ○先帝船上臨幸の件 解説
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| され共可申入便も無て、案じ煩ひける処に、或夜御前より官女を以て御盃を被下たり。判官是を給て、よき便也。と思ければ、潛に彼官女を以て申入けるは、「上様には未だ知し召れ候はずや、楠兵衛正成金剛山に城を構て楯篭候し処に、東国勢百万余騎にて上洛し、去二月の初より責戦候といへ共、城は剛して寄手已に引色に成て候。又備前には伊東大和二郎、三石と申所に城を構て、山陽道を差塞ぎ候。播磨には赤松入道円心、宮の令旨を給て、摂津国まで責上り、兵庫の摩耶と申処に陣を取て候。其勢已に三千余騎、京を縮め地を略して勢近国に振ひ候也。四国には河野の一族に、土居二郎・得能弥三郎、御方に参て旗を挙候処に、長門の探題上野介時直、彼に打負て、行方を不知落行候し後、四国の勢悉く土居・得能に属し候間、既に大船をそろへて、是へ御迎に参るべし共聞へ候。又先京都を責べし共披露す。御聖運開べき時已に至ぬとこそ覚て候へ。義綱が当番の間に忍やかに御出候て、千波の湊より御舟に被召、出雲・伯耆の間、何れの浦へも風に任て御舟を被寄、さりぬべからんずる武士を御憑候て、暫く御待候へ。義綱乍恐責進せん為に罷向体にて、軈て御方に参候べし。」とぞ奏し申ける。官女此由を申入ければ、主上猶も彼偽てや申覧と思食れける間、義綱が志の程を能々伺御覧ぜられん為に、彼官女を義綱にぞ被下ける。 |
○佐々木道誉の密通計画 解説
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| 判官は面目身に余りて覚ける上、最愛又甚しかりければ、弥忠烈の志を顕しける。「さらば汝先出雲国へ越て、同心すべき一族を語て御迎に参れ。」と被仰下ける程に、義綱則出雲へ渡て塩冶判官を語ふに、塩冶如何思けん、義綱をゐこめて置て、隠岐国へ不帰。主上且くは義綱を御待有けるが、余に事滞りければ、唯運に任て御出有んと思食て、或夜の宵の紛に、三位殿の御局の御産の事近付たりとて、御所を御出ある由にて、主上其御輿にめされ、六条少将忠顕朝臣計を召具して、潛に御所をぞ御出有ける。此体にては人の怪め申べき上、駕輿丁も無りければ、御輿をば被停て、悉も十善の天子、自ら玉趾を草鞋の塵に汚して、自ら泥土の地を踏せ給けるこそ浅猿けれ。比は三月二十三日の事なれば、月待程の暗き夜に、そこ共不知遠き野の道を、たどりて歩せ給へば、今は遥に来ぬ覧と被思食たれば、迹なる山は未滝の響の風に聞ゆる程なり。若追懸進する事もやある覧と、恐しく思食ければ、一足も前へと御心許は進め共、いつ習はせ給べき道ならねば、夢路をたどる心地して、唯一所にのみやすらはせ給へば、こは如何せんと思煩ひて、忠顕朝臣、御手を引御腰を推て、今夜いかにもして、湊辺までと心遣給へ共、心身共に疲れ終て、野径の露に徘徊す。 |
○後醍醐天皇隠岐脱出行の経緯 解説
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| 夜いたく深にければ、里遠からぬ鐘の声の、月に和して聞へけるを、道しるべに尋寄て、忠顕朝臣或家の門を扣き、「千波湊へは何方へ行ぞ。」と問ければ、内より怪げなる男一人出向て、主上の御有様を見進せけるが、心なき田夫野人なれ共、何となく痛敷や思進せけん、「千波湊へは是より纔五十町許候へ共、道南北へ分れて如何様御迷候ぬと存候へば、御道しるべ仕候はん。」と申て、主上を軽々と負進せ、程なく千波湊へぞ着にける。爰にて時打鼓の声を聞けば、夜は未だ五更の初也。此道の案内者仕たる男、甲斐々々敷湊中を走廻、伯耆の国へ漕もどる商人舟の有けるを、兎角語ひて、主上を屋形の内に乗せ進せ、其後暇申てぞ止りける。此男誠に唯人に非ざりけるにや、君御一統の御時に、尤忠賞有べしと国中を被尋けるに、我こそ其にて候へと申者遂に無りけり。夜も已に明ければ、舟人纜を解て順風に帆を揚、湊の外に漕出す。船頭主上の御有様を見奉て、唯人にては渡らせ給はじとや思ひけん、屋形の前に畏て申けるは、「加様の時御船を仕て候こそ、我等が生涯の面目にて候へ、何くの浦へ寄よと御定に随て、御舟の梶をば仕候べし。」と申て、実に他事もなげなる気色也。忠顕朝臣是を聞き給て、隠しては中々悪かりぬと思はれければ、此船頭を近く呼寄て、「是程に推し当られぬる上は何をか隠すべき、屋形の中に御座あるこそ、日本国の主、悉も十善の君にていらせ給へ。 |
○後醍鶐天皇の奇跡的脱出成功 解説
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| 汝等も定て聞及ぬらん、去年より隠岐判官が館に被押篭て御座ありつるを、忠顕盜出し進せたる也。出雲・伯耆の間に、何くにてもさりぬべからんずる泊へ、急ぎ御舟を着てをろし進せよ。御運開ば、必汝を侍に申成て、所領一所の主に成べし。」と被仰ければ、船頭実に嬉しげなる気色にて、取梶・面梶取合せて、片帆にかけてぞ馳たりける。今は海上二三十里も過ぬらんと思ふ処に、同じ追風に帆懸たる舟十艘計、出雲・伯耆を指て馳来れり。筑紫舟か商人舟かと見れば、さもあらで、隠岐判官清高、主上を追奉る舟にてぞ有ける。船頭是を見て、「角ては叶候まじ、是に御隠れ候へ。」と申て、主上と忠顕朝臣とを、舟底にやどし進せて、其上に、あひ物とて乾たる魚の入たる俵を取積で、水手・梶取其上に立双で、櫓をぞ押たりける。去程に追手の舟一艘、御座舟に追付て、屋形の中に乗移り、こゝかしこ捜しけれ共、見出し奉らず。「さては此舟には召ざりけり。若あやしき舟や通りつる。」と問ければ、船頭、「今夜の子の刻計に、千波湊を出候つる舟にこそ、京上臈かと覚しくて、冠とやらん着たる人と、立烏帽子着たる人と、二人乗せ給て候つる。其舟は今は五六里も先立候ぬらん。」と申ければ、「さては疑もなき事也。 |
○後醍鶐天皇脱出行の決定的瞬間 解説
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| 早、舟をおせ。」とて、帆を引梶を直せば、此舟は軈て隔ぬ。今はかうと心安く覚て迹の浪路を顧れば、又一里許さがりて、追手の舟百余艘、御坐船を目に懸て、鳥の飛が如くに追懸たり。船頭是を見て帆の下に櫓を立て、万里を一時に渡らんと声を帆に挙て推けれ共、時節風たゆみ、塩向て御舟更に不進。水手・梶取如何せんと、あはて騒ぎける間、主上船底より御出有て、膚の御護より、仏舎利を一粒取出させ給て、御畳紙に乗せて、波の上にぞ浮られける。竜神是に納受やした〔り〕けん、海上俄に風替りて、御坐船をば東へ吹送り、追手の船をば西へ吹もどす。さてこそ主上は虎口の難の御遁有て、御船は時間に、伯耆の国名和湊に着にけり。六条少将忠顕朝臣一人先舟よりおり給て、「此辺には何なる者か、弓矢取て人に被知たる。」と問れければ、道行人立やすらひて、「此辺には名和又太郎長年と申者こそ、其身指て名有武士にては候はね共、家富一族広して、心がさある者にて候へ。」とぞ語りける。忠顕朝臣能々其子細を尋聞て、軈て勅使を立て被仰けるは、「主上隠岐判官が館を御逃有て、今此湊に御坐有。長年が武勇兼て上聞に達せし間、御憑あるべき由を被仰出也。憑まれ進せ候べしや否、速に勅答可申。」とぞ被仰たりける。 |
○後醍鶐天皇奇跡的救出と名和長年登場 解説
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| 名和又太郎は、折節一族共呼集て酒飲で居たりけるが、此由を聞て案じ煩たる気色にて、兎も角も申得ざりけるを、舎弟小太郎左衛門尉長重進出て申けるは、「古より今に至迄、人の望所は名と利との二也。我等悉も十善の君に被憑進て、尸を軍門に曝す共名を後代に残ん事、生前の思出、死後の名誉たるべし。唯一筋に思定させ給ふより外の儀有べしとも存候はず。」と申ければ、又太郎を始として当座に候ける一族共二十余人、皆此儀に同じてけり。「されば頓て合戦の用意候べし。定て追手も迹より懸り候らん。長重は主上の御迎に参て、直に船上山へ入進せん。旁は頓て打立て、船上へ御参候べし。」と云捨て、鎧一縮して走り出ければ、一族五人腹巻取て投懸々々、皆高紐しめて、共に御迎にぞ参じける。俄の事にて御輿なんども無りければ、長重着たる鎧の上に荒薦を巻て、主上を負進せ、鳥の飛が如くして舟上へ入奉る。長年近辺の在家に人を廻し、「思立事有て舟上に兵粮を上る事あり。我倉の内にある所の米穀を、一荷持て運びたらん者には、銭を五百づゝ取らすべし。」と触たりける間、十方より人夫五六千人出来して、我劣らじと持送る。一日が中に兵粮五千余石運びけり。其後家中の財宝悉人民百姓に与て、己が館に火をかけ、其勢百五十騎にて、船上に馳参り、皇居を警固仕る。 |
名和又太郎(長年)はちょうど一族を呼び集めて酒宴中だったが、天皇到着の知らせを聞き悩んだ表情で返答できずにいた。すると弟・小太郎左衛門尉長重が進み出て言った。「古から今まで人が求めるのは名誉と利益だけだ。私たち全員が徳高い君主(後醍鶐天皇)に忠誠を尽くし、戦場で死ぬとしても名を後世に残すことこそ生きている時の誇りであり死後の誉れです。これ以外の選択はありえません」。この言葉により又太郎から始まり同席していた一族二十人余り全員が賛同した。「ならば直ちに戦闘準備だ。追手もすぐ来るだろう。長重は陛下を迎えに行き船上山へ直接お連れする。皆は急いで陣を固めて山上で待て」と言い残すと、鎧を一気につけて走り出たため一族五人も腹巻(簡易甲冑)を取り投げかけ帯を締め直し共に迎えに向かった。 解説
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| 長年が一族名和七郎と云ける者、武勇の謀有ければ、白布五百端有けるを旗にこしらへ、松の葉を焼て煙にふすべ、近国の武士共の家々の文を書て、此の木の本、彼の峯にぞ立置ける。此旗共峯の嵐に吹れて、陣々に翻りたる様、山中に大勢充満したりと見へてをびたゝし。 ○船上合戦事 去程に同二十九日、隠岐判官、佐々木弾正左衛門、其勢三千余騎にて南北より押寄たり。此舟上と申は、北は大山に継き峙ち、三方は地僻に、峯に懸れる白雲腰を廻れり。俄に拵へたる城なれば、未堀の一所をも不掘、屏の一重をも不塗、唯所々に大木少々切倒して、逆木にひき、坊舎の甍を破て、かひ楯にかける計也。寄手三千余騎、坂中まで責上て、城中をきつと向上たれば、松柏生茂ていと深き木陰に、勢の多少は知ね共、家々の旗四五百流、雲に翻り、日に映じて見へたり。さては早、近国の勢共の悉馳参りたりけり。此勢許にては責難しとや思けん、寄手皆心に危て不進得。城中の勢共は、敵に勢の分際を見へじと、木陰にぬはれ伏て、時々射手を出し、遠矢を射させて日を暮す。卦る所に一方の寄手なりける佐々木弾正左衛門尉、遥の麓にひかへて居たりけるが、何方より射る共しらぬ流矢に、右の眼を射ぬかれて、矢庭に伏て死にけり。 |
名和一族の七郎という武勇に優れた者が白布五百端(約500反)を使って旗を作り、松葉を焼いて煙で燻すと共に近国の武士宛ての偽文書を書き、「この山麓やあの峰々」に立てた。これらの旗が峯の強風になびき陣地一面に翻る様は山中に大軍が充満しているように見え、非常に威圧的だった。 ○船上合戦 攻め手三千余騎は坂中まで迫ったが、城中を見上げると松柏が深く生い茂る陰に旗印が四五百流も雲になびき陽に輝いて見えた。「近国の兵が全員駆けつけたのだ」と思わせたためか攻め手は危険を感じて進軍できず、城中の兵士たちは敵に兵力を見せまいと木陰に潜み時折射手を出して遠矢を射かけ時間を稼いだ。 解説
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| 依之其手の兵五百余騎色を失て軍をもせず。佐渡前司は八百余騎にて搦手へ向たりけるが、俄に旗を巻、甲を脱で降参す。隠岐判官は猶加様の事をも不知、搦手の勢は、定て今は責近きぬらんと心得て、一の木戸口に支て、悪手を入替々々、時移るまでぞ責たりける。日已に西山に隠れなんとしける時、俄に天かき曇り、風吹き雨降事車軸の如く、雷の鳴事山を崩すが如し。寄手是におぢわなゝひて、斯彼の木陰に立寄てむらがり居たる所に、名和又太郎長年舎弟太郎左衛門長重、小次郎長生が、射手を左右に進めて散々に射させ、敵の楯の端のゆるぐ所を、得たりや賢しと、ぬきつれて打てかゝる。大手の寄手千余騎、谷底へ皆まくり落されて、己が太刀・長刀に貫れて命を墜す者其数を不知。隠岐判官計辛き命を助りて、小舟一艘に取乗、本国へ逃帰りけるを、国人いつしか心替して、津々浦々を堅めふせぎける間、波に任せ風に随て、越前の敦賀へ漂ひ寄たりけるが、幾程も無して、六波羅没落の時、江州番馬の辻堂にて、腹掻切て失にけり。世澆季に成ぬといへ共、天理未だ有けるにや、余に君を悩し奉りける隠岐判官が、三十余日が間に滅びはてゝ、首を軍門の幢に懸られけるこそ不思儀なれ。主上隠岐国より還幸成て、船上に御座有と聞へしかば、国々の兵共の馳参る事引も不切。 |
そのため佐々木軍の兵500騎以上は血気が引き撤退した。一方、佐渡前司(清高)率いる800余騎は裏手から攻め寄せていたが突然旗を巻き甲冑を脱いで降伏した。隠岐判官(佐々木清高の弟か)はこの状況を知らず「裏手部隊はもうすぐ攻めてくるはずだ」と思い込み、一つの城門に陣取って兵士を次々入れ替えながら時間ばかり浪費していた。 日が西山に沈みかけようとする時、突然空が暗くなり車輪のように激しい雨風が吹き荒れ雷鳴が山崩れのごとく轟いた。攻撃側はこれにおびえて木陰に群がっているところへ名和又太郎長年の弟・太郎左衛門長重や小次郎長生が弓兵を左右から進めさせて一斉射撃を浴びせた。「敵の盾の隙だ!」と叫んで突入し斬り込んだ結果、正面部隊1000余騎は谷底へ転落し自軍の太刀や薙刀に貫かれて死ぬ者が数知れず。ただ隠岐判官だけが辛うじて脱出し小船で本国を目指したが領民たちが離反して港を封鎖していたため、風任せに漂流して越前国敦賀へ流れ着いた。 ほどなく六波羅探題滅亡時(1333年5月)、近江国の番馬辻堂で自害することとなった。「末世とはいえ天の道理はまだ存在するのか」と人々が噂した隠岐判官——天皇を苦しめた彼がわずか30日余りで滅び首級が晒されたのは不思議な巡り合わせだった。後醍院天皇が隠岐国から還幸され船上山に行宮を構えたとの報は全国に広まり、諸国の兵士たちの参集が続くのだった。 解説
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| 先一番に出雲の守護塩谷判官高貞、富士名判官と打連、千余騎にて馳参る。其後浅山二郎八百余騎、金持の一党三百余騎、大山衆徒七百余騎、都て出雲・伯耆・因幡、三箇国の間に、弓矢に携る程の武士共の参らぬ者は無りけり。是のみならず、石見国には沢・三角の一族、安芸国に熊谷・小早河、美作国には菅家の一族・江見・方賀・渋谷・南三郷、備後国に江田・広沢・宮・三吉、備中に新見・成合・那須・三村・小坂・河村・庄・真壁、備前に今木・大富太郎幸範・和田備後二郎範長・知間二郎親経・藤井・射越五郎左衛門範貞・小嶋・中吉・美濃権介・和気弥次郎季経・石生彦三郎、此外四国九州の兵までも聞伝々々、我前にと馳参りける間、其勢舟上山に居余りて、四方の麓二三里は、木の下・草の陰までも、人ならずと云所は無りけり。 |
まず先陣として出雲の守護・塩谷判官高貞が富士名判官と連れ立ち千余騎で参上した。その後、浅山二郎率いる八百余騎、金持一族三百余騎、大山寺衆徒七百余騎などが出雲・伯耆・因幡の三か国から弓を取る武士全員が続々と集結した。 これだけではなく石見国では沢氏や三角氏一族が、安芸国から熊谷氏・小早川氏が、美作国には菅家一門・江見氏・方賀氏・渋谷氏・南三郷衆が続いた。備後国からは江田氏・広沢氏・宮氏・三吉氏が、備中では新見氏・成合氏・那須氏・三村氏・小坂氏・河村氏・庄氏・真壁氏が駆けつけた。 さらに備前勢として今木氏や大富太郎幸範、和田備後二郎範長、知間二郎親経ら二十余名の武将が加わり、四国・九州からの兵も噂を聞き次々と「我先に」と参集した。そのため船上山には軍勢があふれ、四方の麓二三里(約8-12km)は木陰や草むらまで人で埋め尽くされ、人のいない場所など全くなかった。 解説
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| input text 太平記\008_太平記_巻8.txt | 現代日本語 translated text | |||||||||||||||||||||
| 太平記 太平記巻第八 ○摩耶合戦事付酒部瀬河合戦事 先帝已に船上に着御成て、隠岐判官清高合戦に打負し後、近国の武士共皆馳参る由、出雲・伯耆の早馬頻並に打て、六波羅へ告たりければ、事已に珍事に及びぬと聞人色を失へり。是に付ても、京近き所に敵の足をためさせては叶まじ。先摂津国摩耶の城へ押寄て、赤松を可退治とて、佐々木判官時信・常陸前司時知に四十八箇所の篝、在京人並三井寺法師三百余人を相副て、以上五千余騎を摩耶の城へぞ被向ける。其勢閏二月五日京都を立て、同十一日の卯刻に、摩耶の城の南の麓、求塚・八幡林よりぞ寄たりける。赤松入道是を見て、態敵を難所に帯き寄ん為に、足軽の射手一二百人を麓へ下して、遠矢少々射させて、城へ引上りけるを、寄手勝に乗て五千余騎、さしも嶮き南の坂を、人馬に息も継せず揉に々でぞ挙たりける。此山へ上るに、七曲とて岨く細き路あり。此所に至て、寄手少し上りかねて支へたりける所を、赤松律師則祐・飽間九郎左衛門尉光泰二人南の尾崎へ下降て、矢種を不惜散々に射ける間、寄手少し射しらまかされて、互に人を楯に成て其陰にかくれんと色めきける気色を見て、赤松入道子息信濃守範資・筑前守貞範・佐用・上月・小寺・頓宮の一党五百余人、鋒を双て大山の崩が如く、二の尾より打て出たりける間、寄手跡より引立て、「返せ。 |
後醍院天皇が船上山に到着され、隠岐判官清高が合戦で敗れた後に近国の武士たちが続々と参集しているとの報せを、出雲・伯耆からの早馬が相次いで六波羅探題へ伝えたため、「事態はすでに異常事態となった」と聞く者たちは青ざめた。これにより「都に近い場所で敵の足場を固めさせるわけにはいかない」と考え、まず摂津国摩耶城(現・神戸市)へ押し寄せて赤松氏を討伐しようと決断した。 佐々木判官時信と常陸前司時知に指揮させ、四十八箇所の篝火役、在京人衆および三井寺僧兵三百余人を含む総勢五千余騎が摩耶城へ派遣された。この軍勢は閏2月5日に京都を出発し、同11日卯刻(午前6時頃)に摩耶城南麓の求塚・八幡林から攻め寄せた。 これを見た赤松入道円心はわざと敵を険しい場所へ誘い込むため、軽装の弓兵一二百人を山麓へ下ろして少し矢を射かけさせて城へ引き上げる偽装作戦を実行。攻撃側が勢いに乗って五千余騎も狭く急峻な南坂道を一気に駆け上がろうとしたため、人馬ともに息継ぐ間もない混雑状態となった。 この山には「七曲り」と呼ばれる険しい細道がある。ここまで来た攻撃軍が登りきれず足止めされた瞬間、赤松方の律師則祐と飽浦九郎左衛門尉光泰の二人が南尾崎から降りて矢を惜しみなく射かけ始めたため、寄せ手は一時混乱して互いに盾代わりに隠れようともみ合う有様となった。 その隙を見逃さず赤松入道の息子である信濃守範資・筑前守貞範らが佐用氏・上月氏・小寺氏・頓宮党五百余人を率い、双鋒のように大山崩れのごとき勢いで第二尾根から突撃してきたため、攻撃軍は後退を余儀なくされ「引き返せ!」と叫ぶ声があちこちで上がった。 解説
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| 」と云けれ共、耳にも不聞入、我先にと引けり。其道或深田にして馬の蹄膝を過ぎ、或荊棘生繁て行く前き弥狭ければ、返さんとするも不叶、防がんとするも便りなし。されば城の麓より、武庫河の西の縁まで道三里が間、人馬上が上に重り死て行人路を去敢ず。向ふ時七千余騎と聞へし六波羅の勢、僅に千騎にだにも足らで引返しければ、京中・六波羅の周章不斜。雖然、敵近国より起て、属順ひたる勢さまで多しとも聞へねば、縦ひ一度二度勝に乗る事有とも、何程の事か可有と、敵の分限を推量て、引ども機をば不失。斯る所に、備前国の地頭・御家人も大略敵に成ぬと聞へければ、摩耶城へ勢重ならぬ前に討手を下せとて、同二十八日、又一万余騎の勢を被差下。赤松入動是を聞て、「勝軍の利、謀不意に出で大敵の気を凌で、須臾に変化して先ずるには不如。」とて三千余騎を率し、摩耶の城を出て、久々智・酒部に陣を取て待かけたり。三月十日六波羅勢、既に瀬河に着ぬと聞へければ、合戦は明日にてぞ有んずらんとて、赤松すこし油断して、一村雨の過けるほど物具の露をほさんと、僅なる在家にこみ入て、雨の晴間を待ける所に、尼崎より船を留めてあがりける阿波の小笠原、三千余騎にて押寄たり。赤松纔に五十余騎にて大勢の中へかけ入り、面も不振戦ひけるが、大敵凌ぐに叶はねば、四十七騎は被討て、父子六騎にこそ成にけれ。 |
「引き返せ!」と叫んだものの誰も耳を貸さず我先に退却した。道は深田で馬のひざまで沈む場所や、茨が生い茂り進路が狭まる地点ばかりだったため、反転攻勢もままならず防戦すらできない状態となった。その結果、城の麓から武庫川西岸までの三里(約12km)にわたり人馬が折り重なって死んで通行不能となる惨状を呈した。 当初七千余騎と伝えられた六波羅軍はかろうじて千騎足らずで撤退したため、京都全域・六波羅府内では大混乱が発生。それでも「敵の勢力範囲は近国に限られており、味方についた兵力もさほど多くないらしいから、仮に何度か敗れても致命傷にはならないだろう」と楽観視し、撤退したとはいえ態勢を崩すことはなかった。 そこへ備前国の地頭・御家人の大半が敵側に転じたとの報せが入ると、「摩耶城へ援軍が到着する前に討伐隊を差し向けよ」と命じられ、同年閏2月28日に新たな一万余騎が派遣された。これを知った赤松入道円心は「戦勝の利とは謀略で敵の不意をつき大軍の士気を挫くものだ(孫子兵法)。少しでも遅れれば不利になる」と判断し、三千余騎を率いて摩耶城を出撃。久々知・酒部に布陣して待ち構えた。 3月10日になって六波羅勢が瀬川到着との情報を得たため「合戦は明日だろう」と油断した赤松軍は、雨上がりの晴れ間を見て僅かな民家に分散し武具の手入れを始めた。その隙を突いて尼崎から船で上陸した阿波小笠原氏が三千余騎で急襲してきたのだ。 赤松勢はわずか五十騎程で大軍の中へ斬り込んで奮戦したものの、衆寡敵せず四十七騎が討たれ父子六騎のみにまで追い詰められた。 解説
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| 六騎の兵皆揆をかなぐり捨て、大勢の中へ颯と交りて懸まわりける間、敵是を知らでや有けん、又天運の助けにや懸りけん、何れも無恙して、御方の勢の小屋野の宿の西に、三千余騎にて引へたる其中へ馳入て、虎口に死を遁れけり。六波羅勢は昨日の軍に敵の勇鋭を見るに、小勢也。といへども、欺き難しと思ければ、瀬河の宿に引へて進み得ず。赤松は又敗軍の士卒を集め、殿れたる勢を待調ん為に不懸、互に陣を阻て未雌雄を決せず。丁壮そゞろに軍旅につかれなば、敵に気を被奪べしとて、同十一日赤松三千余騎にて、敵の陣へ押寄て、先づ事の体を伺ひ見に、瀬河の宿の東西に、家々の旗二三百流、梢の風に翻して、其勢二三万騎も有んと見へたり。御方を是に合せば、百にして其一二をも可比とは見へねども、戦はで可勝道な〔け〕れば、偏に只討死と志て、筑前守貞範・佐用兵庫助範家・宇野能登守国頼・中山五郎左衛門尉光能・飽間九郎左〔衛〕門尉光泰、郎等共に七騎にて、竹の陰より南の山へ打襄て進み出たり。敵是を見て、楯の端少し動て、かゝるかと見ればさもあらず、色めきたる気色に見へける間、七騎の人々馬より飛下り、竹の一村滋りたるを木楯に取て、差攻引攻散々にぞ射たりける。瀬川の宿の南北三十余町に、沓の子を打たる様に引へたる敵なれば、何かはゝづるべき。 |
六騎の兵士たちは全員鎧を脱ぎ捨て、大軍の中へ風のように突入して混乱させたため、敵がそれに気づかなかったのか、あるいは天運に助けられたからか、皆無事だった。味方勢力が小屋野宿(現・神戸市東灘区)の西に三千余騎で待機している陣営へ駆け込み、危機的状況から死を逃れたのである。 六波羅勢は前日の戦いで敵の勇猛さを見たため、「少数とはいえ侮れない」と警戒し、瀬川宿(現・神戸市東灘区)に留まったまま進軍できなかった。一方赤松円心は敗走した兵士を集結させ、遅れた部隊も待ち受ける構えで対峙が続き決着がつかない状況だった。「壮年の将兵さえ戦いに疲れれば敵の勢いにかき消される」と考えたため、同3月11日、赤松軍三千余騎は敵陣へ押し寄せて様子を偵察した。 瀬川宿の東西には家々に二百から三百本もの旗が立ち並び、梢で風になびく様子を見るとその兵力は二万から三万騎にも見えた。これに対する自軍では百対一かそれ以下の劣勢と思われたが、「戦わねば勝てぬ」と覚悟し、筑前守貞範・佐用兵庫助範家・宇野能登守国頼・中山五郎左衛門尉光能・飽浦九郎左衛門尉光泰ら主従七騎が竹林の陰から南の山へ回り込んで進んだ。 敵はこれを見て盾列を少し揺るがした。「攻撃か?」とも思われたが、慌てふためく様子が見えた瞬間に七人の武将たちは馬から飛び降り、茂った竹林を生きた楯代わりにして突いたり引いたりの自由行動で矢を次々と射かけた。瀬川宿の南北三十余町(約3.3km)に米粒のように密集して陣取っていた敵兵たちは隠れる場所もなく、どう逃れられるだろうか。 解説
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| 矢比近き敵二十五騎、真逆に被打落ければ、矢面なる人を楯にして、馬を射させじと立てかねたり。平野伊勢前司・佐用・上月・田中・小寺・八木・衣笠の若者共、「すはや敵は色めきたるは。」と、箙を叩き、勝時を作て、七百余騎轡を双べてぞ懸たりける。大軍の靡く僻なれば、六波羅勢前陣返せども後陣不続、行前は狭し、「閑に引け。」といへども耳にも不聞入、子は親を捨て郎等は主を知らで、我前にと落行ける程に、其勢大半討れて纔に京へぞ帰りける。赤松は手負・生捕の頚三百余、宿河原に切懸させて、又摩耶の城へ引返さんとしけるを、円心が子息帥律師則祐、進み出て申けるは、「軍の利は勝に乗て北るを追に不如。今度寄手の名字を聞に、京都の勢数を尽して向て候なる。此勢共今四五日は、長途の負軍にくたびれて、人馬ともに物の用に不可立。臆病神の覚ぬ前に続ひて責る物ならば、などか六波羅を一戦の中に責落さでは候べき。是太公が兵書に出て、子房が心底に秘せし所にて候はずや。」と云ければ、諸人皆此義に同じて、其夜軈て宿川原を立て、路次の在家に火をかけ、其光を手松にして、逃る敵に追すがうて責上りけり。 ○三月十二日合戦事 六波羅には斯る事とは夢にも知ず。摩耶の城へは大勢下しつれば、敵を責落さん事、日を過さじと心安く思ける。 |
矢が間近に飛んで敵二十五騎が真っ向から射落とされると、先陣の兵士たちは自分たちを盾代わりにして馬への攻撃を防ごうとした。平野伊勢前司・佐用・上月・田中・小寺・八木・衣笠の若武者たちが「敵はすでに動揺している!」と叫び、弓弦を鳴らして勝鬨を上げると七百余騎が一斉に出撃した。 大軍が崩れたため六波羅勢は前衛部隊が反転しようとしても後続が追従せず、進路は狭まるばかり。「落ち着いて退け」との命令も誰も聞かず、子は親を捨て郎党は主君を見失って我先に敗走した結果、大半の兵力が討たれ辛うじて京都へ逃げ帰ったのである。 赤松軍は負傷者と捕虜から三百余りの首級を取り宿河原(現・神戸市灘区)に晒そうとした時、円心の息子である帥律師則祐が進み出て提言した。「戦勝の機は勢いに乗じて敗走兵を追撃するのが最良です。今回攻めてきた敵将の名を見ると京都在住の有力武将総動員と判明しましたが、彼らは長途撤退で人馬ともに疲弊し役に立ちません。恐怖心が高まる前に追い討ちすれば六波羅軍を一挙に殲滅できるでしょう──これはまさしく呂尚(太公望)の兵法書に記され張良が実践した戦略です」 一同この意見に賛同し、その夜すぐ宿河原を発って道筋の民家へ放火。炎明りを頼りに逃亡する敵を追撃しながら進軍した。 (三月十二日の合戦について) 解説
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| 其左右を今や/\と待ける所に、寄手打負て逃上る由披露有て、実説は未聞。何とある事やらん、不審端多き所に、三月十二日申刻計に、淀・赤井・山崎・西岡辺三十余箇所に火を懸たり。「こは何事ぞ。」と問に、「西国の勢已に三方より寄たり。」とて、京中上を下へ返して騒動す。両六波羅驚ひて、地蔵堂の鐘を鳴し洛中の勢を被集けれども、宗徒の勢は摩耶の城より被追立、右往左往に逃隠れぬ。其外は奉行・頭人なんど被云て、肥脹れたる者共が馬に被舁乗て、四五百騎馳集りたれ共、皆只あきれ迷へる計にて、差たる義勢も無りけり。六波羅の北方、左近将監仲時、「事の体を見るに、何様坐ながら敵を京都にて相待ん事は、武略の足ざるに似〔た〕り。洛外に馳向て可防。」とて両検断隅田・高橋に、在京の武士二万余騎を相副て、今在家・作道・西の朱雀・西八条辺へ被差向。是は此比南風に雪とけて河水岸に余る時なれば、桂河を阻て戦を致せとの謀也。去程に赤松入道円心、三千余騎を二に分て、久我縄手・西の七条より押寄たり。大手の勢桂川の西の岸に打莅で、川向なる六波羅勢を見渡せば、鳥羽の秋山風に、家家の旗翩翻として、城南の離宮の西門より、作道・四塚・羅城門の東西、々の七条口まで支へて、雲霞の如に充満したり。 |
両軍はまさに激突しようと待ち構えている中で、「攻め手(六波羅勢)が敗退した」との報せがあったものの詳細不明。不審な点が多い状況下、3月12日夕刻頃に淀・赤井・山崎・西岡周辺三十ヶ所以上で火災発生。「これは何事か?」と問うと「西国(赤松)軍が三方から迫っている」との情報で京都は大混乱。両六波羅探題は驚き地蔵堂の鐘を鳴らして京中の兵力召集を図ったが、主力部隊は摩耶城攻略中に追い払われ散り散り。残る奉行・指揮官級の肥満した者たちが馬で担がれ集結しても呆然自失状態で戦力にならない。 六波羅北方(探題役)左近将監仲時は事態を見て「座して京都防衛は無策」と判断。隅田・高橋両検断に在京武士二万余騎を付けて今在家・作道・西朱雀・西八条方面へ派遣した。当時は南風で雪解け桂川が増水していたため、これを天然の堀として防衛線とする戦略である。 その間に赤松入道円心は三千余騎を二手に分け久我縄手と西七条から進軍。主力部隊が桂川西岸に着陣し対岸を見渡すと、鳥羽周辺では家々の旗が秋風になびき、城南離宮西門から作道・四塚・羅城門東西にかけ七条口まで敵兵が雲霞のように充満していた。 解説
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| されども此勢は、桂川を前にして防げと被下知つる其趣を守て、川をば誰も越ざりけり。寄手は又、思の外敵大勢なるよと思惟して、無左右打て懸らんともせず。只両陣互に川を隔て、矢軍に時をぞ移しける。中にも帥律師則祐、馬を踏放て歩立になり、矢たばね解て押くつろげ、一枚楯の陰より、引攻々々散々に射けるが、「矢軍許にては勝負を決すまじかり。」と独言して、脱置たる鎧を肩にかけ、胄の緒を縮、馬の腹帯を堅めて、只一騎岸より下に打下し、手縄かいくり渡さんとす。父の入道遥に見て馬を打寄せ、面に塞て制しけるは、「昔佐々木三郎が藤戸を渡し、足利又太郎が宇治川を渡たるは、兼てみほじるしを立て、案内を見置き、敵の無勢を目に懸て先をば懸し者也。河上の雪消水増りて、淵瀬も見へぬ大河を、曾て案内も知ずして渡さば可被渡歟。縦馬強くして渡る事を得たりとも、あの大勢の中へ只一騎懸入たらんは、不被討と云事可不有。天下の安危必しも此一戦に不可限。暫命を全して君の御代を待んと思ふ心のなきか。」と、再三強て止ければ、則祐馬を立直し、抜たる太刀を収て申けるは、「御方と敵と可対揚程の勢にてだに候はゞ、我と手を不砕とも、運を合戦の勝負に任て見候べきを、御方は僅に三千余騎、敵は是に百倍せり。 |
しかしこの軍勢(六波羅方)は、桂川の前で防げとの命令内容を守り、誰一人として川を渡ろうとしなかった。攻め手(赤松軍)もまた「予想外に敵が大軍だ」と考えて安易には攻撃せず、両陣営とも川を隔てた弓矢の応酬で時間を過ごした。 中でも帥律師則祐は馬から降り歩兵となり、背負った矢束を解いて自由に射かけていた。が、「矢戦だけでは決着つかない」と独り言し、脱いだ鎧を肩にかけ兜の紐を締め直し、単騎で岸から川へ乗り入れようとした。 父である入道(円心)は遠くから見て馬を走らせ遮り諫めた:「昔、佐々木三郎が藤戸を渡り足利又太郎が宇治川を渡ったのは事前に目印をつけ地形を見極め敵の少なさを知っての行動だ。雪解けで増水し水深も見えない大河を何の準備もなく渡れるはずがない。仮に強引に渡れたとしても、あの大軍の中へ単騎で突っ込めば確実に討ち死にする。天下の命運がこの戦いだけで決まるわけでもない。どうか命を大切にして朝廷再興(後醍醐天皇)をお待ち申すべきではあるまいか」 再三止められた則祐は馬を立て直し、抜いた太刀を収めて言った:「味方と敵が互角の兵力なら運を戦いに任せてみる所ですが、こちらはわずか三千騎なのに敵はその百倍もおります…(続く)」 解説
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| 急に戦を不決して、敵に無勢の程を被見透なば、雖戦不可有利。されば太公が兵道の詞に、「兵勝之術密察敵人之機、而速乗其利疾撃其不意」と云へり、是以吾困兵敗敵強陣謀にて候はぬや。」と云捨て、駿馬に鞭を進め、漲て流るゝ瀬枕に、逆波を立てぞ游がせける。見之飽間九郎左衛門尉・伊東大輔・川原林二郎・木寺相摸・宇野能登守国頼、五騎続ひて颯と打入たり。宇野と伊東は馬強して、一文字に流を截て渡る。木寺相摸は、逆巻水に馬を被放て、胄の手反許僅に浮で見へけるが、波の上をや游ぎけん、水底をや潛りけん、人より前に渡付て、川の向の流州に、鎧の水瀝てぞ立たりける。彼等五人が振舞を見て尋常の者ならずとや思けん、六波羅の二万余騎、人馬東西に僻易して敢て懸合せんとする者なし。剰楯の端しどろに成て色めき渡る所を見て、「前懸の御方打すな。続けや。」とて、信濃守範資・筑前守貞範真前に進めば、佐用・上月の兵三千余騎、一度に颯と打入て、馬筏に流をせきあげたれば、逆水岸に余り、流れ十方に分て元の淵瀬は、中々に陸地を行がご〔と〕く也。三千余騎の兵共、向の岸に打上り、死を一挙の中に軽せんと、進み勇める勢を見て、六波羅勢叶はじとや思けん、未戦前に、楯を捨て旗を引て、作道を北へ東寺を指て引も有、竹田川原を上りに、法性寺大路へ落もあり。 |
しかし則祐は「急いで戦わなければ敵に我々の少なさを見透かされ不利になる。太公望が兵法で『密かに敵情を察し速やかに不意を突け』と言う通りだ」と叫び、駿馬に鞭打って増水した流れへ飛び込み、逆巻く波を立てて泳ぎ始めた。これを見た飽間九郎左衛門尉・伊東大輔・川原林二郎・木寺相摸・宇野能登守国頼の五騎が続いて一気に突入した。 特に宇野と伊東は馬ごと真っ直ぐ流れを横切り、木寺相摸は逆流で馬から放り出されながらも、かろうじて頭だけ浮かべて泳ぎ渡り、対岸の砂州に鎧を滴らせて立った。この五騎の奮戦を見た六波羅勢二万余騎は動揺し、誰一人として立ち向かおうとしない。盾が乱れ騒ぐ様子を見た則祐が「前進する味方を止めるな!続け!」と呼ぶと、信濃守範資・筑前守貞範が先頭に立ったため佐用・上月の兵三千余騎も一斉に突入。 馬の集団(馬筏)で流れを遮った結果、逆流した水は岸を越え、川底があらわになるほど水量が分散した。こうして渡河した三千余騎の兵士たちが死をも軽んじて攻め寄せる勢いを見て六波羅勢は戦意喪失し、戦う前から盾を捨て旗を引き、作道方面へ逃げる者や竹田川原から法性寺大路へ敗走する者が続出した。 解説
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| 其道二三十町が間には、捨たる物具地に満て、馬蹄の塵に埋没す。去程に西七条の手、高倉少将の子息左衛門佐、小寺・衣笠の兵共、早京中へ責入たりと見へて、大宮・猪熊・堀川・油小路の辺、五十余箇所に火をかけたり。又八条、九条の間にも、戦有と覚へて、汗馬東西に馳違、時の声天地を響せり。唯大三災一時に起て、世界悉却火の為に焼失るかと疑はる。京中の合戦は、夜半許の事なれば、目ざすとも知らぬ暗き夜に、時声此彼に聞へて、勢の多少も軍立の様も見分ざれば、何くへ何と向て軍を可為とも不覚。京中の勢は、先只六条川原に馳集て、あきれたる体にて扣へたり。 ○持明院殿行幸六波羅事 日野中納言資名・同左大弁宰相資明二人同車して、内裏へ参り給たれば、四門徒に開、警固の武士は一人もなし。主上南殿に出御成て、「誰か候。」と御尋あれども、衛府諸司の官、蘭台金馬の司も何地へか行たりけん、勾当の内侍・上童二人より外は御前に候する者無りけり。資名・資明二人御前に参じて、「官軍戦ひ弱くして、逆徒不期洛中に襲来候。加様にて御坐候はゞ、賊徒差違て御所中へも乱入仕候ぬと覚へ候。急ぎ三種の神器を先立て六波羅へ行幸成候へ。」と被申ければ、主上軈て腰輿に被召、二条川原より六波羅へ臨幸成る。 |
その道筋(六波羅勢の敗走路)二三十町(約2.2-3.3km)にわたっては、捨てられた武具で地面が埋まり、馬蹄の砂塵に覆われた。ほどなく西七条方面では、高倉少将の子である左衛門佐と小寺・衣笠の兵たちが早くも京中へ攻め入ったらしく、大宮・猪熊・堀川・油小路周辺で五十カ所以上に火を放っていた。また八条から九条にかけても戦闘があるようで、汗まみれの馬が東西に行き交い、「えいやっ」という鬨の声が天地に響いた。まるで大火災・大風害・大水害(大三災)が同時に起きたかのように、世界全体が炎に包まれ消滅するかと疑われるほどの光景だった。 京中の戦いは夜半ごろのことなので、見通しの利かない暗闇の中で鬨の声があちこちから聞こえても、兵力や陣形も判別できず、どこへどう軍を進めるべきかわからない。六波羅勢はまずただ六条川原に駆け集まり、呆然とした様子で立ち尽くしていた。 ○持明院殿(光厳天皇)が六波羅に行幸されたこと 解説
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| 其後堀河大納言・三条源大納言・鷲尾中納言・坊城宰相以下、月卿雲客二十余人、路次に参着して供奉し奉りけり。是を聞食及で、院・法皇・東宮・皇后・梶井の二品親王まで皆六波羅へと御幸成る間、供奉の卿相雲客軍勢の中に交て警蹕の声頻也ければ、是さへ六波羅の仰天一方ならず。俄に六波羅の北方をあけて、仙院・皇居となす。事の体騒しかりし有様也。軈て両六波羅は七条河原に打立て、近付く敵を相待つ。此大勢を見て敵もさすがにあぐんでや思ひけん、只此彼に走散て、火を懸時の声を作る計にて、同じ陣に扣へたり。両六波羅是を見て、「如何様敵は小勢也。と覚るぞ、向て追散せ。」とて、隅田・高橋に三千余騎を相副て八条口へ被差向。河野九郎左衛門尉・陶山次郎に二千余騎をさし副て、蓮華王院へ被向けり。陶山川野に向て云けるは、「何ともなき取集め勢に交て軍をせば、憖に足纏に成て懸引も自在なるまじ。いざや六波羅殿より被差副たる勢をば、八条河原に引へさせて時の声を挙げさせ、我等は手勢を引勝て、蓮華王院の東より敵の中へ駈入り、蜘手十文字に懸破り、弓手妻手にて相付て、追物射に射てくれ候はん。」と云ければ、河野、「尤可然。」と同じて、外様の勢二千余騎をば、塩小路の道場の前へ差遣し、川野が勢三百余騎、陶山が勢百五十余騎は引分て、蓮華王院の東へぞ廻りける。 |
その後、堀河大納言・三条源大納言・鷲尾中納言・坊城宰相以下、公家や殿上人二十余人が途中で合流し供奉した。これを聞かれた院(上皇)・法皇・東宮(皇太子)・皇后・梶井門跡親王まですべて六波羅へ行幸されるため、供奉する貴族たちの行列が軍勢の中に混じり警蹕(けいひつ=天皇通行時の警戒呼称)の声が頻繁に響いたので、これさえも六波羅側は並々ならず動揺した。急遽六波羅北館を空けて仙洞御所・皇居にあてたのは、騒然とした状況であった。 すぐに両六波羅(探題)軍は七条河原に出撃し、迫る敵を待ち構えた。この大軍を見て敵方もさすがに躊躇したらしく、あちらこちらへ散りながら火を放つ鬨の声だけあげて同陣地で膠着していた。両六波羅はこれを見て「どうやら敵は小勢だと思われる。追い払え」と命じ: - 隅田・高橋に三千余騎を与えて八条口へ派遣 - 河野九郎左衛門尉・陶山次郎には二千余騎を付けて蓮華王院(三十三間堂)方面へ向かわせた この時、陶山が川野(河野?)に提案した:「寄せ集め勢と正面から戦えば足止めされ自由が利かない。六波羅殿から預かった兵は八条河原で鬨の声をあげさせよう。我々は手勢だけ率いて蓮華王院東側から敵中へ突入し、十字形に突破して左右から追撃射撃をかけよう」。これに川野も同意したため: - 外部勢力二千余騎は塩小路道場前に配置 - 川野隊三百余騎と陶山隊百五十余騎は分かれて蓮華王院東へ回り込んだ。 解説
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| 合図の程にも成ければ、八条川原の勢、鬨声を揚たるに、敵是に立合せんと馬を西頭に立て相待処に、陶山・川野四百余騎、思も寄らぬ後より、時を咄と作て、大勢の中へ懸入、東西南北に懸破て、敵を一所に不打寄、追立々々責戦。川野と陶山と、一所に合ては両所に分れ、両所に分ては又一所に合、七八度が程ぞ揉だりける。長途に疲たる歩立の武者、駿馬の兵に被懸悩て、討るゝ者其数を不知。手負を捨て道を要て、散々に成て引返す。陶山・川野逃る敵には目をも不懸、「西七条辺の合戦何と有らん、無心元。」とて、又七条川原を直違に西へ打て七条大宮に扣へ、朱雀の方を見遣ければ、隅田・高橋が三千余騎、高倉左衛門佐・小寺・衣笠が二千余騎に被懸立て、馬の足をぞ立兼たる。川野是を見て、「角ては御方被打ぬと覚るぞ。いざや打て懸らん。」と云けるを、陶山、「暫。」と制しけり。「其故は此陣の軍未雌雄決前に、力を合て御方を助たりとも、隅田・高橋が口の悪さは、我高名にぞ云はんずらん。暫く置て事の様を御覧ぜよ。敵縦ひ勝に乗とも何程の事か可有。」とて、見物してぞ居たりける。去程に隅田・高橋が大勢、小寺・衣笠が小勢に被追立、返さんとすれ共不叶、朱雀を上りに内野を指て引もあり、七条を東へ向て逃るもあり、馬に離たる者は心ならず返合て死もあり。 |
合図のタイミングが来たため、八条河原の軍勢が鬨声をあげると、敵はこれに対抗しようと西側に馬を並べて待ち構えていたところへ、陶山・川野率いる四百騎以上が全く予想外の後方から突然鬨の声をあげて大群の中へ突入し、東西南北に突破して回りながら敵を一箇所に集めず、追い立て続けて攻撃した。川野と陶山は合流したり二方向に分かれたりを七八度も繰り返す激戦となった。 長距離移動で疲れ切っていた歩兵の武者たちは機動力のある騎馬兵に翻弄され、討たれる者は数知れず。負傷者を見捨てて進路を確保しながら散々な状態で退却した。陶山と川野は逃げる敵には目もくれず、「西七条方面の戦況が気になる」と言って、そのまま七条河原から真っ直ぐ西へ向かい七条大宮に布陣し朱雀大路の方を見渡すと、隅田・高橋率いる三千余騎が高倉左衛門佐・小寺・衣笠の二千余騎に攻め立てられ、窮地に陥っていた。 川野はこれを見て「どうやら味方が劣勢だ。すぐに救援に向かおう」と言ったが、陶山は「待て」と制止した。「理由はこの戦いの決着前に関与すれば例え勝利を助けても隅田・高橋が『我々のお陰』と手柄話にするだろう。少し様子を見よう。仮に敵が優勢でも大勢に影響しない」と言って傍観していたところ、やがて隅田・高橋の大軍は小寺・衣笠の少数部隊に追い立てられ反撃もできず、朱雀大路を北へ内野方面に向かって退く者や七条から東へ逃げる者が現れ、馬を失った兵士は意に反して踏みとどまり討ち死にするものもいた。 解説
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| 陶山是を見て、「余にながめ居て、御方の弱り為出したらんも由なし、いざや今は懸合せん。」といへば、河野、「子細にや及ぶ。」と云侭に、両勢を一手に成て大勢の中へ懸入り、時移るまでぞ戦ひたる。四武の衝陣堅を砕て、百戦の勇力変に応ぜしかば、寄手又此陣の軍にも打負て、寺戸を西へ引返しけり。筑前守貞範・律師則祐兄弟は、最初に桂河を渡しつる時の合戦に、逃る敵を追立て、跡に続く御方の無をも不知、只主従六騎にて、竹田を上りに、法性寺大路へ懸通、六条河原へ打出て、六波羅の館へ懸入んとぞ待たりける。東寺より寄つる御方、早打負て引返しけりと覚て、東西南北に敵より外はなし。さらば且く敵に紛てや御方を待つと、六騎の人々皆笠符をかなぐり捨て、一所に扣へたる処に、隅田・高橋打廻て、「如何様赤松が勢共、尚御方に紛て此中に在と覚るぞ。河を渡しつる敵なれば、馬物具のぬれぬは不可有。其を験しにして組討に打て。」と呼りける間、貞範も則祐も中々敵に紛れんとせば悪かりぬべしとて、兄弟・郎等僅六騎轡を双べわつと呼て敵二千騎が中へ懸入り、此に名乗彼に紛て相戦けり。敵是程に小勢なるべしとは可思寄事ならねば、東西南北に入乱て、同士打をする事数刻也。大敵を謀るに勢ひ久からざれば、郎等四騎皆所々にて被討ぬ。 |
陶山がこの状況を見て、「じっと見ていて味方が弱っているのに何もしないわけにはいかない。さあ、今こそ戦いに加わろう。」と言うと、河野は「言うまでもない」と応じたまま、両軍を一つにして大勢の敵の中へ突入し、時間が経過するまで激しく戦った。(陶山・河野率いる)四人の武将(四武)は敵陣を突破して堅固な守りを打ち破り、百戦錬磨の勇気で変化に対応したため、攻め寄せてきた敵軍もこの陣営の戦いで敗北し、寺戸方面へ西に引き返していった。 一方、(赤松氏の)筑前守貞範と律師則祐兄弟は、最初に桂川を渡河した時の合戦で逃げる敵を追撃していたが、後続する味方が全くいないことに気づかず、主従わずか六騎だけで竹田から上って法性寺大路へ通り抜け、六条河原に出て六波羅の館へ突入しようと待機していた。東寺からの味方は早々に敗退したと思われたため、周囲は敵ばかりで一歩も動けない状態だった。「ならばしばらく敵に紛れて味方を待とう」と考えた六騎の人々は皆、識別用の笠印を投げ捨て、一箇所に陣取っていたところへ隅田・高橋が駆け回りながら「どうやら赤松軍がまだ味方に化けて潜んでいるようだ。川を渡った敵だから馬具が濡れていないはずだ。それを確かめて組み討ちせよ」と叫んだため、貞範も則祐も(これ以上紛れるのは不可能だと悟り)、兄弟や家臣合わせてわずか六騎で手綱を揃え「われ!」と叫んで敵二千騎の中へ突入し、ここでは名乗りあって戦い、あそこでは紛れながら攻防した。 解説
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| 筑前守は被押隔ぬ。則祐は只一騎に成て、七条を西へ大宮を下りに落行ける所に、印具尾張守が郎従八騎追懸て、「敵ながらも優く覚へ候者哉。誰人にてをはするぞ。御名乗候へ。」と云ければ、則祐馬を閑に打て、「身不肖に候へば、名乗申とも不可有御存知候。只頚を取て人に被見候へ。」と云侭に、敵近付ば返合、敵引ば馬を歩せ、二十余町が間、敵八騎と打連て心閑にぞ落行ける。西八条の寺の前を南へ打出ければ、信濃守貞範三百余騎、羅城門の前なる水の潺きに、馬の足を冷して、敗軍の兵を集んと、旗打立て引へたり。則祐是を見付て、諸鐙を合て馳入ければ、追懸つる八騎の敵共、「善き敵と見つる物を、遂に打漏しぬる事の不安さよ。」と云声聞へて、馬の鼻を引返しける。暫く有れば、七条河原・西朱雀にて被懸散たる兵共、此彼より馳集て、又千余騎に成にけり。赤松其兵を東西の小路より進ませ、七条辺にて、又時の声を揚げたりければ、六波羅勢七千余騎、六条院を後に当て、追つ返つ二時許ぞ責合たる。角ては軍の勝負いつ有べしとも覚へざりける処に、河野と陶山とが勢五百余騎、大宮を下りに打て出、後を裹んと廻りける勢に、後陣を被破て、寄手若干討れにければ、赤松わづかの勢に成て、山崎を指て引返しけり。 |
筑前守貞範は敵陣から切り離されて孤立していた。則祐はわずか一騎となり、七条通を西へ大宮方面に向かって退却している途中で、印具尾張守の家臣八騎が追いかけてきて、「敵ながらも立派な武者だ。どなたですか?名乗りなさい」と呼びかけた。すると則祐は手綱を緩め「無名の身なので名乗ってもご存じないでしょう。ただ首を取って人に見せてください」と言うと同時に、敵が近づけば反撃し、距離があれば馬を進ませるという戦術で約二キロ(二十余町)の間、追手八騎とともに悠然かつ警戒しながら退却した。 西八条にある寺の前から南へ出たところ、信濃守貞範率いる三百余騎が羅城門付近の流れる水辺で馬を休めつつ、敗走する兵を集めるため陣営を構えていた。則祐はこれを見つけると鐙を鳴らして駆け込んだので、追っていた八騎の敵たちは「よい獲物と思ったのに逃がした悔しさよ」と言いながら引き返していった。ほどなくすると七条河原や西朱雀で散り散りになっていた兵士たちがあちこちから集結し、再び千余騎となった。 赤松軍はこの兵力を東西の小路に分けて進めさせ、七条付近で再び鬨の声を上げると、六波羅勢七千余騎が六条院(冷泉院)跡地を背にして反撃し、追ったり追われたり約四時間(二時許)も激戦が続いた。勝敗がつかない膠着状態の中、河野と陶山率いる五百余騎が大宮通沿いに南下して背後から襲いかかり、六波羅軍の後衛部隊を突破したため攻撃側は多数討たれ、赤松勢も損耗し僅かな兵力で山崎方面へ撤退していった。 解説
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| 河野・陶山勝に乗て、作道の辺まで追駈けるが、赤松動すれば、取て返さんとする勢を見て、「軍は是までぞ、さのみ長追なせそ。」とて、鳥羽殿の前より引返し、虜二十余人、首七十三取て、鋒に貫て、朱に成て六波羅へ馳参る。主上は御簾を捲せて叡覧あり。両六波羅は敷皮に坐して、是を検知す。「両人の振舞いつもの事なれ共、殊更今夜の合戦に、旁手を下し命を捨給はずば、叶まじとこそ見へて候つれ。」と、再三感じて被賞翫。其夜軈て臨時の宣下有て、河野九郎をば対馬守に被成て御剣を被下、陶山二郎をば備中守に被成て、寮の御馬を被下ければ、是を見聞武士、「あはれ弓矢の面目や。」と、或は羨み或は猜で、其名天下に被知たり。軍散じて翌日に、隅田・高橋京中を馳廻て、此彼の堀・溝に倒れ居たる手負死人の頚共を取集て、六条川原に懸並たるに、其数八百七十三あり。敵是まで多く被討ざれども、軍もせぬ六波羅勢ども、「我れ高名したり。」と云んとて、洛中・辺土の在家人なんどの頚仮首にして、様々の名を書付て出したりける頚共也。其中に赤松入道円心と、札を付たる首五あり。何れも見知たる人無れば、同じやうにぞ懸たりける。京童部是を見て、「頚を借たる人、利子を付て可返。赤松入道分身して、敵の尽ぬ相なるべし。 |
河野と陶山は勝利に乗じて作道付近まで追撃したところ、赤松軍が反転して逆襲しようとする動きを見て、「戦いはここまでだ。これ以上深追いするな」と言い鳥羽殿の前から引き返し、捕らえた敵兵20人余りと73個の首を槍先に刺し通し(血で赤く染まったまま)六波羅へ急行した。天皇は御簾を上げてこれをご覧になった。両六波羅探題(北条仲時・北条時益)は敷皮に座り戦果を検分しながら、「お二人の働きは常々素晴らしいが、特に今夜の合戦では自らの命を顧みず奮闘しなければ成功しなかっただろう」と繰り返し感嘆して賞賛した。その夜すぐに臨時の宣旨が下り、河野九郎を対馬守に任命して御剣を賜わり、陶山二郎は備中守に任じられて朝廷の馬を与えられたため、これを見聞きした武士たちは「ああ、武門の面目よ」とある者は羨み、ある者や嫉妬しつつ彼らの名声が天下に知れ渡った。 戦いが終わり翌日、隅田と高橋が京中を駆け回り、各所の堀や溝に倒れていた負傷者や死体から首を取り集めて六条河原に掲げ並べたところ、その数は873個あった。実際にはこれほど多くの敵兵が討たれたわけではないのに、戦闘にも参加しなかった六波羅勢の兵士たちが「自分が手柄を立てた」と言いたくて、京都市中や周辺地域の民間人などの首を偽物として様々な名札をつけて提出したものだった。その中には「赤松入道円心」と書かれた札付きの首が五つあったが、誰も本人を知る者がいなかったため同じように掲示されただけだった。都の人々はこれを見て「首を借りた者は利子をつけて返すべきだ(偽りの報告への皮肉)。赤松入道が分身して敵を全滅させたようだ」と噂した。 解説
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| 」と、口々にこそ笑ひけれ。 ○禁裡仙洞御修法事付山崎合戦事 此比四海大に乱て、兵火天を掠めり。聖主■を負て、春秋無安時、武臣矛を建て、旌旗無閑日。是以法威逆臣を不鎮ば、静謐其期不可有とて、諸寺諸社に課て、大法秘法をぞ被修ける。梶井宮は、聖主の連枝、山門の座主にて御坐しければ、禁裏に壇を立て、仏眼の法を行せ給ふ。裏辻の慈什僧正は、仙洞にて薬師の法を行はる。武家又山門・南都・園城寺の衆徒の心を取、霊鑑の加護を仰がん為に、所々の庄園を寄進し、種々の神宝を献て、祈祷を被致しか共、公家の政道不正、武家の積悪禍を招きしかば、祈共神不享非礼、語へども人不耽利欲にや、只日を逐て、国々より急を告る事隙無りけり。去三月十二日の合戦に赤松打負て、山崎を指て落行しを、頓て追懸て討手をだに下したらば、敵足をたむまじかりしを、今は何事か可有とて被油断しに依て、敗軍の兵此彼より馳集て、無程大勢に成ければ、赤松、中院の中将貞能を取立て聖護院の宮と号し、山崎・八幡に陣を取、河尻を差塞ぎ西国往反の道を打止む。依之洛中の商買止て士卒皆転漕の助に苦めり。両六波羅聞之、「赤松一人に洛中を被悩て、今士卒を苦る事こそ安からね。去十二日の合戦の体を見るに、敵さまで大勢にても無りける物を、無云甲斐聞懼して敵を辺境の間に閣こそ、武家後代の恥辱なれ、所詮於今度は官軍遮て敵陣に押寄、八幡・山崎の両陣を責落し、賊徒を河に追はめ、其首を取て六条河原に可曝。 |
世間の人々は口々に嘲笑した。 ○禁裏と仙洞御所での祈祷、および山崎の戦いに関する事柄 先の3月12日の合戦で赤松勢が敗れて山崎へ落ち延びた際、すぐ追撃して討伐隊さえ送っていれば敵は足場を固められなかったはずだが、「今さら何があろうか」と油断したため、散り散りになった敗軍の兵士たちが各地から集結し、瞬く間に大勢力となった。赤松勢は中院中将貞能(聖護院宮尊澄親王)を擁立して山崎・八幡に陣取り、河尻を押さえて西国への往来路を封鎖した。これにより京中の商取引が止まり兵士ら全員が物資輸送の苦労に喘いだ。両六波羅探題(北条仲時・時益)はこの状況を聞き「赤松一人のために都が悩まされ、今や兵卒まで苦しむとは許せぬ。先月12日の合戦の様子を見る限り敵は大軍でもなかったのに、言い訳ばかりで恐れおののき遠方に放置したのは武門末代の恥だ」と批判し、「この度こそ官軍を率いて直接敵陣へ押し寄せ八幡・山崎両陣を攻め落とし賊徒を淀川へ追い込み、その首を六条河原で晒すべきだ」と決意した。 解説
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| 」と被下知ければ、四十八箇所の篝、並在京人、其勢五千余騎、五条河原に勢揃して、三月十五日の卯刻に、山崎へとぞ向ひける。此勢始は二手に分けたりけるを、久我縄手は、路細く深田なれば馬の懸引も自在なるまじとて、八条より一手に成、桂河を渡り、河嶋の南を経て、物集女・大原野の前よりぞ寄たりける。赤松是を聞て、三千余騎を三手に分つ。一手には足軽の射手を勝て五百余人小塩山へ廻す。一手をば野伏に騎馬の兵を少々交て千余人、狐河の辺に引へさす。一手をば混すら打物の衆八百余騎を汰て、向日明神の後なる松原の陰に隠置く。六波羅勢、敵此まで可出合とは不思寄、そゞろに深入して、寺戸の在家に火を懸て、先懸既に向日明神の前を打過ける処に、善峯・岩蔵の上より、足軽の射手一枚楯手々に提て麓にをり下て散々に射る。寄手の兵共是を見て、馬の鼻を双て懸散さんとすれば、山嶮して不上得、広みに帯き出して打んとすれば、敵是を心得て不懸。「よしや人々、はか/゛\しからぬ野伏共に目を懸て、骨を折ては何かせん。此をば打捨て山崎へ打通れ。」と議して、西岡を南へ打過る処に、坊城左衛門五十余騎にて、思もよらぬ向日明神の小松原より懸出て、大勢の中へ切て入。敵を小勢と侮て、真中に取篭て、余さじと戦ふ処に、田中・小寺・八木・神沢此彼より百騎二百騎、思々に懸出て、魚鱗に進み鶴翼に囲んとす。 |
この命令が下ると、48ヶ所にかがり火が上がり在京の武士たちを含め総勢5,000余騎は五条河原に集結し、3月15日の卯刻(午前6時頃)に山崎へ向かった。当初は二手に分かれていた軍勢だが、久我縄手(現在の京都市伏見区)が道幅が狭く深田だったため騎馬での機動が難しいと判断し、八条から一手となり桂川を渡河。河島(現・長岡京市)南側を通り物集女(もずめ/長岡京市)・大原野(京都市西京区)の前方から攻め寄せた。 これを見た赤松軍は3,000余騎を三手に分ける。第一陣は軽装の弓兵500人余りを小塩山(現・大山崎町)へ回らせ、第二陣には伏兵として騎馬隊も交えた1,000人余りを狐川付近(乙訓郡)に潜ませた。第三陣は混成武器部隊800騎余りを選抜し向日明神(長岡京市)の背後の松林に隠した。 六波羅軍が敵が出撃するとは思わず不用意に深く侵入し、寺戸(現・長岡京市)の民家に火を放ちながら進んだところ善峯寺と岩蔵山(ともに西京区)から伏せていた弓兵たちが盾を持って一斉に駆け下り散々に射かけた。攻撃側は馬首を並べて突撃しようとしたものの、険しい地形で前進できず平地へ誘い出そうとする敵の意図を見抜いて動かない。「この程度の伏兵相手に時間を割く必要はない」と判断し部隊を通過させ山崎突破を目指すが、坊城左衛門率いる50騎余りが不意に松林から突出して大軍の中へ斬り込み、小勢と侮った六波羅兵たちが包囲殲滅しようとした瞬間、田中・小寺ら赤松方の百~二百騎部隊があちこちから現れ魚鱗陣で前進し鶴翼の陣形で取り囲んだ。 解説
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| 是を見て狐河に引へたる勢五百余騎、六波羅勢の跡を切らんと、縄手を伝ひ道を要て打廻るを見て、京勢叶はじとや思けん、捨鞭を打て引返す。片時の戦也ければ、京勢多く被打たる事は無けれ共、堀・溝・深田に落入て、馬物具皆取所もなく膩たれば、白昼に京中を打通るに、見物しける人毎に、「哀れ、さりとも陶山・河野を被向たらば、是程にきたなき負はせじ物を。」と、笑はぬ人もなかりけり。去ば京勢此度打負て、向はで京に被残たる河野と陶山が手柄の程、いとゞ名高く成にけり。 ○山徒寄京都事 京都に合戦始りて、官軍動すれば利を失ふ由、其聞へ有しかば、大塔宮より牒使を被立て、山門の衆徒をぞ被語ける。依之三月二十六日一山の衆徒大講堂の庭に会合して、「夫吾山者為七社応化之霊地、作百王鎮護之藩籬。高祖大師占開基之始、止観窓前雖弄天真独朗之夜月、慈恵僧正為貫頂之後、忍辱衣上忽帯魔障降伏之秋霜。尓来妖■見天、則振法威而攘退之。逆暴乱国、則借神力而退之。肆神号山王。須有非三非一之深理矣。山言比叡。所以仏法王法之相比焉。而今四海方乱、一人不安。武臣積悪之余、果天将下誅。其先兆非無賢愚。共所世知也。王事毋■。釈門仮使雖為出塵之徒、此時奈何無尽報国之忠。早翻武家合体之前非宜専朝廷扶危之忠胆矣。 |
この様子を見て狐川周辺に潜んでいた500騎余りの部隊が六波羅軍の退路を断とうと、細道(久我縄手)を通り回り込んだため、京方(六波羅勢)は戦況不利と判断し鞭を捨てて撤退した。戦いは短時間だったので大損害こそなかったものの、堀や溝・深田に落ち込み馬具も泥まみれになり動けなくなった兵士たちが白昼堂々京都市中へ逃げ戻る姿を見た見物人たちは、「哀れだ。せめて陶山(すえやま)と河野を戦わせておけば、これほど惨めな敗北は避けられたのに」と嘲笑し、笑わぬ者はいなかった。こうして京方はこの度の戦いに敗れたため、出撃させず残留していた河野・陶山部隊の武勇が一層評判となった。 ○比叡山僧兵の京都進出事 解説
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| 」と僉議しければ、三千一同に尤々と同じて院々谷々へ帰り、則武家追討の企の外無他事。山門、已に来二十八日六波羅へ可寄と定ければ、末寺・末社の輩は不及申、所縁に随て近国の兵馳集る事雲霞の如く也。二十七日大宮の前にて着到を付けるに、十万六千余騎と注せり。大衆の習、大早無極所存なれば、此勢京へ寄たらんに、六波羅よも一たまりもたまらじ、聞落にぞせんずらんと思侮て、八幡・山崎の御方にも不牒合して、二十八日の卯刻に、法勝寺にて勢撰へ可有と触たりければ、物具をもせず、兵粮をも未だつかはで、或今路より向ひ、或は西坂よりぞをり下る。両六波羅是を聞て、思に、山徒縦雖大勢、騎馬の兵一人も不可有。此方には馬上の射手を撰へて、三条河原に待受けさせて、懸開懸合せ、弓手・妻手に着て追物射に射たらんずるに、山徒心は雖武、歩立に力疲れ、重鎧に肩を被引、片時が間に疲るべし。是以小砕大、以弱拉剛行也。とて、七千余騎を七手に分て、三条河原の東西に陣を取てぞ待懸たる。大衆斯るべしとは思もよらず、我前に京へ入てよからんずる宿をも取、財宝をも管領せんと志て、宿札共を面々に二三十づゝ持せて、先法勝寺へぞ集りける。其勢を見渡せば、今路・西坂・古塔下・八瀬・薮里・下松・赤山口に支て、前陣已に法勝寺・真如堂に付ば後陣は未山上・坂本に充満たり。 |
この評議に対し三千人の僧兵全員が賛同して各谷へ戻り、ただ武家追討の準備のみを進めた。比叡山は3月28日の六波羅攻撃を決めると、末寺・末社の者は言うまでもなく近国の武士たちも雲霞のように集結した。27日大宮前で兵数を確認すると十万六千余騎と記された。僧兵特有の性急さから「この大軍が京に迫れば六波羅は一瞬も持たず逃げ出すだろう」と過信し、八幡や山崎方面への連絡もせず28日卯刻(午前6時頃)法勝寺で陣形整備の触れを出した。しかし装備も兵糧も未準備なまま、ある者は今路から、ある者は西坂から下山開始する。 これを知った六波羅側は「山徒が大軍でも騎馬兵はいない。我らは精鋭弓騎兵を三条河原で待ち伏せし、左右から追い射ちにすれば重装備の歩兵は疲れ果てる」と判断し七千余騎を七手に分け三条河原東西に布陣した。僧兵たちは想定外の事態にも気づかず「先着して宿舎や財宝を押さえよう」と各人が二三十枚の宿札(占領証)を持ち、前衛が法勝寺・真如堂に達する頃には後続部隊が比叡山上から坂本まで埋め尽くしていた。 解説
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| 甲冑に映ぜる朝日は、電光の激するに不異。旌旗を靡かす山風は、竜蛇の動くに相似たり。山上と洛中との勢の多少を見合するに、武家の勢は十にして其一にも不及。「げにも此勢にては輒くこそ。」と、六波羅を直下ける山法師の心の程を思へば、大様ながらも理也。去程に前陣の大衆且く法勝寺に付て後陣の勢を待ける処へ、六波羅勢七千余騎三方より押寄て時をどつと作る。大衆時の声に驚て、物具太刀よ長刀よとひしめいて取物も不取敢、僅に千人許にて法勝寺の西門の前に出合、近付く敵に抜て懸る。武士は兼てより巧みたる事なれば、敵の懸る時は馬を引返てばつと引き、敵留れば開合せて後へ懸廻る。如此六七度が程懸悩ましける間、山徒は皆歩立の上、重鎧に肩を被推て、次第に疲たる体にぞ見へける。武士は是に利を得て、射手を撰て散々に射る。大衆是に射立られて、平場の合戦叶はじとや思けん、又法勝寺の中へ引篭らんとしける処を、丹波国の住人佐治孫五郎と云ける兵、西門の前に馬を横たへ、其比会てなかりし五尺三寸の太刀を以て、敵三人不懸筒切て、太刀の少仰たるを門の扉に当て推直し、猶も敵を相待て、西頭に馬をぞ扣たる。山徒是を見て、其勢にや辟易しけん。又法勝寺にも敵有とや思けん。法勝寺へ不入得、西門の前を北へ向て、真如堂の前神楽岡の後を二に分れて、只山上へとのみ引返しける。 |
鎧に反射する朝日は稲妻のように激しく輝き、旗がなびく山風は龍蛇のうごめく様にも似ていた。比叡山側(僧兵)と京方(六波羅勢)の兵力を比較すると武士方は十分の一以下であった。「確かにこの大軍なら簡単に勝てるだろう」と僧兵たちが考えたのも無理はないことであった。その時、先鋒部隊が法勝寺で後続を待っている間に六波羅勢七千余騎が三方向から攻めかかり鬨の声をあげた。僧兵たちはこの叫びに驚き武器を取り乱し準備も整わぬまま僅かに千人ほどで西門前に出て応戦したところ、武士方は古来からの巧みな戦術を用い敵が攻めてくると馬を引いて退き相手の動きが止まれば左右から包囲するといったことを六七度繰り返し重装備の歩兵である僧兵たちは次第に疲弊していった。武士方がこの優位を活かして弓射手で散々射かけたため、平地での戦いが不利と悟ったのか僧兵らは法勝寺内へ逃げ込もうとしたところ丹波国の住人佐治孫五郎という兵士が西門前に馬をつけて立ち塞がり長大な太刀で三人の敵を一気に切り倒した上、扉に寄りかかりながらなおも待ち構えていた。僧兵らはこれを見て恐れおののき法勝寺内にも敵がいると勘違いして同寺院へ入ることなく北方向へ逃げ真如堂前や神楽岡後ろを通ってただ比叡山目指し撤退していった。 解説
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| 爰に東塔の南谷善智房の同宿に豪鑒・豪仙とて、三塔名誉の悪僧あり。御方の大勢に被引立て、不心北白河を指て引けるが、豪鑒豪仙を呼留て、「軍の習として、勝時もあり負時もあり、時の運による事なれば恥にて不恥。雖然今日の合戦の体、山門の恥辱天下の嘲哢たるべし。いざや御辺、相共に返し合て打死し、二人が命を捨て三塔の恥を雪めん。」と云ければ、豪仙、「云にや及ぶ、尤も庶幾する所也。」と云て、二人蹈留て法勝寺の北の門の前に立並び、大音声を揚て名乗けるは、「是程に引立たる大勢の中より、只二人返し合するを以て三塔一の剛の者とは可知。其名をば定めて聞及ぬらん、東塔の南谷善智坊の同宿に、豪鑒・豪仙とて一山に名を知られたる者共也。我と思はん武士共、よれや、打物して、自余の輩に見物せさせん。」と云侭に、四尺余の大長刀水車に廻して、跳懸々々火を散してぞ切たりける。是を打取らんと相近付ける武士共、多く馬の足を被薙、冑の鉢を被破て被討にけり。彼等二人、此に半時許支へて戦けれ共、続く大衆一人もなし。敵雨の降る如くに射ける矢に、二人ながら十余箇所疵を蒙りければ、「今は所存是までぞ。いざや冥途まで同道せん。」と契て、鎧脱捨押裸脱、腹十文字に掻切て、同じ枕にこそ伏たりけれ。 |
この時、東塔南谷善智房の同宿であった豪鑒と豪仙という三塔で名高い僧兵がいた。味方の大軍が敗走する中で北白河方面へ退こうとしたところを二人は呼び止め、「戦いには勝ち負けがあり運次第だから恥ではない。しかし今日の合戦ぶりは比叡山全体の不名誉となり天下の笑い者となるだろう。さあ共に引き返して討死し、この身を捨てて三塔(延暦寺)の汚名をそそごう」と提案した。豪仙も「言わずともそれが本望だ」と応じ、法勝寺北門前で並び立ち大声で名乗った。「これほど退く大軍の中でただ二人戻ってくる者こそ三塔随一の勇士と言えよう。我らは東塔南谷善智房同宿・豪鑒と豪仙という山内に知られたる者だ。志ある武士ども、来い!戦って他の連中に見せびらかしてやろう」。こう叫ぶと四尺余りの大長刀を水車のように回し跳びかけ火花を散らしながら斬りまくった。彼らを討とうと近づいた武士たちは馬の脚を切られ兜を割られるなどして多くが倒れた。二人は半刻(約1時間)も防戦したが援軍は来ず、雨のように降る矢を受けて十余カ所傷つき「これで本望果たした。冥土まで共に行こう」と誓い鎧を脱ぎ捨て裸となり腹に十文字にかっ切り並んで息絶えた。 解説
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| 是を見る武士共、「あはれ日本一の剛の者共哉。」と、惜まぬ人も無りけり。前陣の軍破れて引返しければ、後陣の大勢は軍場をだに不見して、道より山門へ引返す。只豪鑒・豪仙二人が振舞にこそ、山門の名をば揚たりけれ。 ○四月三日合戦事付妻鹿孫三郎勇力事 去月十二日赤松合戦無利して引退し後は、武家常に勝に乗て、敵を討事数千人也。といへども、四海未静、剰山門又武家に敵して、大岳に篝火を焼き、坂本に勢を集めて、尚も六波羅へ可寄と聞へければ、衆徒の心を取らん為に、武家より大庄十三箇所、山門へ寄進す。其外宗徒の衆徒に、便宜の地を一二箇所充祈祷の為とて恩賞を被行ける。さてこそ山門の衆議心心に成て武家に心を寄する衆徒も多く出来にければ、八幡・山崎の官軍は、先度京都の合戦に、或被討、或疵を蒙る者多かりければ、其勢太半減じて今は僅に、一万騎に足らざりけり。去ども武家の軍立、京都の形勢恐るゝに不足と見透してげれば、七千余騎を二手に分て、四月三日の卯刻に、又京都へ押寄せたり。其一方には、殿法印良忠・中院定平を両大将として、伊東・松田・頓宮・富田判官が一党、並真木・葛葉の溢れ者共を加へて其勢都合三千余騎、伏見・木幡に火を懸て、鳥羽・竹田より推寄する。 |
これを見た武士たちは「ああ、日本一の勇士たちよ」と誰一人惜しまない者はいなかった。先鋒部隊が敗れて引き返したため、後陣の大軍は戦場すら見ずに街道から比叡山へ退却した。(この戦いで)豪鑒・豪仙二人の行動こそが延暦寺(山門)の名声を高めたのである。 ○4月3日の合戦に関する記述および妻鹿孫三郎の武勇談について 解説
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| 又一方には、赤松入道円心を始として、宇野・柏原・佐用・真嶋・得平・衣笠、菅家の一党都合其勢三千五百余騎、河嶋・桂の里に火を懸て、西の七条よりぞ寄たりける。両六波羅は、度々の合戦に打勝て兵皆気を挙ける上、其勢を算ふるに、三万騎に余りける間、敵已に近付ぬと告けれ共、仰天の気色もなし。六条河原に勢汰して閑に手分をぞせられける。山門今は武家に志を通ずといへども、又如何なる野心をか存ずらん。非可油断とて、佐々木判官時信・常陸前司時朝・長井縫殿秀正に三千余騎を差副て、糾河原へ被向。去月十二日の合戦も、其方より勝たりしかば吉例也。とて、河野と陶山とに五千騎を相副て法性寺大路へ被差向。富樫・林が一族・島津・小早河が両勢に、国々の兵六千余騎を相副て、八条東寺辺へ被指向。厚東加賀守・加治源太左衛門尉・隅田・高橋・糟谷・土屋・小笠原に七千余騎を相副て、西七条口へ被向。自余の兵千余騎をば悪手の為に残して、未六波羅に並居たり。其日の巳刻より、三方ながら同時に軍始て、入替々々責戦ふ。寄手は騎馬の兵少して、歩立射手多ければ、小路々々を塞ぎ、鏃を調て散々に射る。六波羅勢は歩立は少して、騎馬の兵多ければ、懸違々々敵を中に篭めんとす。孫子が千反の謀、呉氏が八陣の法、互に知たる道なれば、共に不被破不被囲、只命を際の戦にて更に勝負も無りけり。 |
もう一方では赤松入道円心(則村)を中心に宇野・柏原・佐用・真嶋・得平・衣笠、菅家一族ら計3,500余騎が河島と桂の里に火を放ち西七条から攻め寄せた。両六波羅勢はこれまでの戦いに連勝して士気も高く兵力は3万騎以上あったため敵襲を知っても慌てる様子もなく、六条河原で軍容を整え余裕をもって部隊編成を行った。「比叡山が今は味方と言っても何か企みがあるかもしれない」と警戒し佐々木判官時信・常陸前司時朝・長井縫殿秀正に3,000騎を与えて糾河原へ派遣。さらに「先月12日の戦いも彼らが勝利したから吉例だ」として河野氏と陶山氏に5,000騎を付けて法性寺大路へ、富樫・林一族や島津・小早川両軍に諸国兵6,000余騎を添えて八条東寺方面へ向かわせた。厚東加賀守ら七将には7,000余騎を与え西七条口へ進ませ、残り千余騎は予備として六波羅に待機させた。巳刻(午前10時頃)から三方で同時に戦闘が始まり互いに攻めかかった。攻撃側は歩兵射手が多く小路を封鎖して矢を集中射撃する一方、防衛側の六波羅勢は騎馬兵力優位で敵部隊を包囲しようとした。(両軍とも)孫子や呉起の戦術に精通していたため突破も包囲も成功せず、決着つかぬ消耗戦となった。 解説
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| 終日戦て已に夕陽に及びける時、河野と陶山と一手に成て、三百余騎轡を双べて懸たりけるに、木幡の寄手足をもためず被懸立て、宇治路を指て引退く。陶山・河野、逃る敵をば打捨て、竹田河原を直違に、鳥羽殿の北の門を打廻り、作道へ懸出て、東寺の前なる寄手を取篭めんとす。作道十八町に充満したる寄手是を見て、叶はじとや思けん、羅城門の西を横切に、寺戸を指て引返す。小早河は島津安芸前司とは東寺の敵に向て、追つ返つ戦けるが、己が陣の敵を河野と陶山とに被払て、身方の負をしつる事よと無念に思ひければ、「西の七条へ寄せつる敵に逢て、花やかなる一軍せん。」と云て、西八条を上りに、西朱雀へぞ出たりける。此に赤松入道、究竟の兵を勝て、三千余騎にて引へたりければ、無左右可破様も無りなり。されども嶋津・小早河が横合に懸るを見て、戦ひ疲れたる六波羅勢力を得て三方より攻合せける間、赤松が勢、忽に開靡て三所に引へたり。爰に赤松が勢の中より兵四人進み出て、数千騎引へたる敵の中へ無是非打懸りけり。其勢決然として恰樊噌・項羽が忿れる形にも過たり。近付に随て是を見れば長七尺許なる男の、髭両方へ生ひ分て、眥逆に裂たるが、鎖の上に鎧を重て着、大立挙の臑当に膝鎧懸て、竜頭の冑猪頚に着成し、五尺余りの太刀を帯き、八尺余のかなさい棒の八角なるを、手本二尺許円めて、誠に軽げに提げたり。 |
もう一方では赤松入道円心を中心に宇野・柏原・佐用・真嶋・得平・衣笠、菅家一族ら計3,500余騎が河島と桂の里に火を放ち西七条から攻め寄せた。両六波羅勢はこれまでの戦いに連勝して士気も高く兵力は3万騎以上あったため敵襲を知っても慌てる様子もなく、六条河原で軍容を整え余裕をもって部隊編成を行った。「比叡山が今は味方と言っても何か企みがあるかもしれない」と警戒し佐々木判官時信・常陸前司時朝・長井縫殿秀正に3,000騎を与えて糾河原へ派遣。さらに「先月12日の戦いも彼らが勝利したから吉例だ」として河野氏と陶山氏に5,000騎を付けて法性寺大路へ、富樫・林一族や島津・小早川両軍に諸国兵6,000余騎を添えて八条東寺方面へ向かわせた。厚東加賀守ら七将には7,000余騎を与え西七条口へ進ませ、残り千余騎は予備として六波羅に待機させた。巳刻(午前10時頃)から三方で同時に戦闘が始まり互いに攻めかかった。攻撃側は歩兵射手が多く小路を封鎖して矢を集中射撃する一方、防衛側の六波羅勢は騎馬兵力優位で敵部隊を包囲しようとした。(両軍とも)孫子や呉起の戦術に精通していたため突破も包囲も成功せず、決着つかぬ消耗戦となった。 解説
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| 数千騎扣へたる六波羅勢、彼等四人が有様を見て、未戦先に三方へ分れて引退く。敵を招て彼等四人、大音声を揚て名乗けるは、「備中国の住人頓宮又次郎入道・子息孫三郎・田中藤九郎盛兼・同舎弟弥九郎盛泰と云者也。我等父子兄弟、少年の昔より勅勘武敵の身と成りし間、山賊を業として一生を楽めり。然に今幸に此乱出来して、忝くも万乗の君の御方に参ず。然を先度の合戦、指たる軍もせで御方の負したりし事、我等が恥と存ずる間、今日に於ては縦御方負て引とも引まじ、敵強くとも其にもよるまじ、敵の中を破て通り六波羅殿に直に対面申さんと存ずるなり。」と、広言吐て二王立にぞ立たりける。島津安芸前司是を聞て、子息二人手の者共に向て云けるは、「日比聞及し西国一の大力とは是なり。彼等を討たん事大勢にては叶まじ。御辺達は且く外に引へて自余の敵に可戦。我等父子三人相近付て、進づ退つ且く悩したらんに、などか是を討たざらん。縦力こそ強くとも、身に矢の立ぬ事不可有。縦走る事早くとも、馬にはよも追つかじ。多年稽古の犬笠懸、今の用に不立ばいつをか可期。いで/\不思議の一軍して人に見せん。」と云侭に、唯三騎打ぬけて四人の敵に相近付く。田中藤九郎是を見て、「其名はいまだ知らねども、猛くも思へる志かな、同は御辺を生虜て、御方に成て軍せさせん。 |
数千騎もの六波羅勢は彼ら四人(頓宮又次郎入道・孫三郎・田中藤九郎盛兼・弥九郎盛泰)の姿を見て、戦いもせず三方に分かれて撤退し始めた。敵を挑発するかのように四人は大声で名乗りをあげた。「備中国出身の頓宮又次郎入道とその息子孫三郎、田中藤九郎盛兼と弟弥九郎盛泰である!我ら父子兄弟は若い頃から朝廷に追われ山賊として生きてきたが、幸いこの乱で天子様方へ加わった。前回の戦では貢献できず味方が敗れたのが恥だ。今日たとえ味方が劣勢でも退かぬ!敵が強くとも構わん。敵陣を突破し六波羅殿に直接相まみえる覚悟である!」と豪語して仁王像のように立ちふるまった。これを聞いた島津安芸前司(貞久)は二人の息子らに向かい言った。「噂の西国一の大力とはこの者たちか?多数で討つのは無理だ。お前たちは他の敵と戦え。我々父子三人が近づき進退を操って疲れさせれば必ず倒せる。たとえ力強くとも矢を受けぬはずがない。逃げ足が速くても馬には追いつかれまい。長年鍛えた鷹狩りの技が今こそ役立つ時だ。さあ、驚くべき一戦を披露しよう」と言うや三騎だけで抜け出し四人に接近した。田中藤九郎はこれを見て「名は知らぬが勇猛な志よ!お前を生け捕りにして味方として戦わせてやる!」と応じた。 解説
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| 」とあざ笑て、件の金棒を打振て、閑に歩み近付く。島津も馬を静々と歩ませ寄て、矢比に成ければ、先安芸前司、三人張に十二束三伏、且し堅めて丁と放つ。其矢あやまたず、田中が石の頬前を冑の菱縫の板へ懸て、篦中許射通したりける間、急所の痛手に弱りて、さしもの大力なれども、目くれて更に進み不得。舎弟弥九郎走寄り、其矢を抜て打捨、「君の御敵は六波羅也。兄の敵は御辺也。余すまじ。」と云侭に、兄が金棒をゝつ取振て懸れば、頓宮父子各五尺二寸の太刀を引側めて、小躍して続ひたり。嶋津元より物馴たる馬上の達者矢継早の手きゝなれば、少も不騒、田中進で懸れば、あいの鞭を打て、押もぢりにはたと射。田中妻手へ廻ば、弓手を越て丁と射る。西国名誉の打物の上手と、北国無双の馬上の達者と、追つ返つ懸違へ、人交もせず戦ひける。前代未聞の見物也。去程に嶋津が矢種も尽て、打物に成らんとしけるを見て、角ては叶はじとや思けん、朱雀の地蔵堂より北に引へたる小早河、二百騎にてをめいて懸りけるに、田中が後なる勢、ばつと引退ければ、田中兄弟、頓宮父子、彼此四人の鎧の透間内冑に、各矢二三十筋被射立て、太刀を逆につきて、皆立ずくみにぞ死たりける。見る人聞く人、後までも惜まぬ者は無りけり。 |
数千騎もの六波羅軍が彼ら四人(頓宮又次郎入道・孫三郎・田中藤九郎盛兼・弥九郎盛泰)の姿を見て戦わず三方に撤退し始めた。敵を挑発するように四人は大声で名乗り上げた。「備中国出身の頓宮又次郎入道と息子孫三郎、田中藤九郎盛兼と弟弥九郎盛泰だ!我ら父子兄弟は若い頃から朝廷に追われ山賊として生きてきたが、幸運にもこの乱で天子様方へ加わった。前回の戦では貢献できず味方が敗れたのが恥だ。たとえ今日味方が劣勢でも退かない!敵が強くとも構わん。敵陣を突破し六波羅殿に直接対面する覚悟である!」と豪語し仁王像のように立ちはだかった。これを聞いた島津安芸前司(貞久)は二人の息子らに向かって言った。「噂の西国一の大力とはこの者たちか?大軍で討つのは無理だ。お前たちは他の敵と戦え。我々父子三人が近づいて進退を操り疲れさせれば必ず倒せる。たとえ力強くとも矢を受けぬはずがない。逃げ足が速くても馬には追いつかれまい。長年鍛えた鷹狩りの技が今こそ役立つ時だ。さあ、驚くべき一戦を披露しよう」と言うや三騎だけで抜け出し四人に接近した。田中藤九郎はこれを見て「名は知らぬが勇猛な志よ!お前を生け捕りにして味方として戦わせてやる!」と嘲笑しながら金棒を振りかざしゆっくり近づいた。島津も馬を静かに進め矢の射程距離になると、貞久自ら十二束三伏(約1.5m)の大弓でしっかり構え「丁」と放った。その矢は外れず田中が石のように硬い頬当ての冑菱縫板に深く突き刺さり急所を傷つけたため、あれほどの大力も目眩いて前進できなくなった。弟の弥九郎が駆け寄り矢を抜き捨て「天子様の敵は六波羅だ!兄の敵はお前だ!逃すわけにはいかぬ」と言うと兄の金棒を取り上げ襲い掛かった。頓宮父子も五尺二寸(約1.6m)の太刀を構え小躍りして応戦した。島津は元来弓馬に慣れた達人で矢継ぎ早の名手ゆえ少しも慌てず、田中が迫れば鞭打って距離を取り押し引きしながら射る。田中の妻(左側)へ回れば逆方向から「丁」と狙い撃ちした。西国一の白兵戦の名人と北国無双の騎馬弓術の達人が追いつ戻つ交錯し、他の者を介さずに戦う様は前代未聞の見物だった。やがて島津の矢が尽き刀での決着となろうとした時、「このままでは不利」と判断したのか朱雀地蔵堂北に控えていた小早川勢二百騎が鬨の声を上げて突撃した。田中の後方部隊が慌てて退却する中、田中兄弟と頓宮父子は四人とも鎧の隙間から頭部まで矢二三十本射込まれ、刀を逆さに突き立て直立ったまま絶命した。これを見聞きした者で後世まで惜しまぬ者はなかった。 解説
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| 美作国の住人菅家の一族は、三百余騎にて四条猪熊まで責入、武田兵庫助・糟谷・高橋が一千余騎の勢と懸合て、時移るまで戦けるが、跡なる御方の引退きぬる体を見て、元来引かじとや思けん。又向ふ敵に後を見せじとや恥たりけん。有元菅四郎佐弘・同五郎佐光・同又三郎佐吉兄弟三騎、近付く敵に馳双べ引組で臥したり。佐弘は今朝の軍に膝口を被切て、力弱りたりけるにや、武田七郎に押へられて頚を被掻、佐光は武田二郎が頚を取る。佐吉は武田が郎等と差違て共に死にけり。敵二人も共に兄弟、御方二人も兄弟なれば、死残ては何かせん。いざや共に勝負せんとて、佐光と武田七郎と、持たる頚を両方へ投捨て、又引組で指違ふ。是を見て福光彦二郎佐長・殖月彦五郎重佐・原田彦三郎佐秀・鷹取彦二郎種佐同時に馬を引退し、むずと組ではどうど落、引組では指違へ、二十七人の者共一所にて皆討れければ、其陣の軍は破にけり。播磨国の住人妻鹿孫三郎長宗と申すは、薩摩氏長が末にて、力人に勝れ器量世に超たり。生年十二の春の比より好で相撲を取けるに、日本六十余州の中には、遂に片手にも懸る者無りけり。人は類を以て聚る習ひなれば、相伴ふ一族十七人、皆是尋常の人には越たり。されば他人の手を不交して一陣に進み、六条坊門大宮まで責入たりけるが、東寺・竹田より勝軍して帰りける六波羅勢三千余騎に被取巻、十七人は被打て、孫三郎一人ぞ残たりける。 |
美作国(現・岡山県)出身の菅家一門は三百余騎で四条猪熊まで攻め込んだ。武田兵庫助、糟谷、高橋ら一千余騎の軍勢と激突し時間が経つにつれて死闘を繰り広げたが、後方の味方が撤退していく状況を見て、「元より退くな」と思ったのかもしれない。あるいは敵に背を見せることを恥としたのだろう。有元菅四郎佐弘・同五郎佐光・同又三郎佐吉兄弟三人は接近する敵に向かい馬を並べて突進し組み伏せて斬り合い倒れた。佐弘は今朝の戦いで膝を切られ力尽きていたため武田七郎に押さえ込まれ首を刎ねられたが、佐光は逆に武田二郎の首を取った。佐吉は武田家臣と刺し違えて共に斃れた。「敵二人も兄弟であり味方二人も兄弟だ。生き残って何をするか」と言わんばかりに、佐光と武田七郎は持っていた首を両側へ投げ捨て再び組み合い相討ちとなった。これを見た福光彦二郎佐長・殖月彦五郎重佐・原田彦三郎佐秀・鷹取彦二郎種佐らが同時に馬から飛び降り、むずと組みついてどしんと倒れ込み引き分けようとも相討ちとなった。二十七人の兵士全てが一か所で戦死したためこの陣は崩壊してしまった。 一方播磨国(現・兵庫県)出身の妻鹿孫三郎長宗という武将は薩摩氏長の末裔で、怪力無双の器量者として世に知られていた。十二歳の春頃から好んで相撲を取り日本六十余州で片手でも敵う者は遂に出なかった。類を以て集まる習いゆえ従った一族十七人も皆尋常ならざる強者ばかりであったため、他人に手出しされぬまま軍勢の中を突破して六条坊門大宮まで攻め込んだが、東寺・竹田方面から凱旋してきた六波羅勢三千余騎に包囲された。十七人は討たれ孫三郎ただ一人残される結果となった。 解説
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| 「生て無甲斐命なれども、君の御大事是に限るまじ。一人なりとも生残て、後の御用にこそ立め。」と独りごとして、只一騎西朱雀を指て引けるを、印具駿河守の勢五十余騎にて追懸たり。其中に、年の程二十許なる若武者、只一騎馳寄せて、引て帰りける妻鹿孫三郎に組んと近付て、鎧の袖に取着ける処を、孫三郎是を物ともせず、長肘を指延て、鎧総角を掴で中に提げ、馬の上三町許ぞ行たりける。此武者可然者のにてや有けん、「あれ討すな。」とて、五十余騎の兵迹に付て追けるを、孫三郎尻目にはつたと睨で、「敵も敵によるぞ。一騎なればとて我に近付てあやまちすな。ほしがらばすは是取らせん。請取れ。」と云て、左の手に提げたる鎧武者を、右の手〔に〕取渡して、ゑいと抛たりければ、跡なる馬武者六騎が上を投越して、深田の泥の中へ見へぬ程こそ打こうだれ。是を見て、五十余騎の者共、同時に馬を引返し、逸足を出してぞ逃たりける。赤松入道は、殊更今日の軍に、憑切たる一族の兵共も、所々にて八百余騎被打ければ、気疲力落はてゝ、八幡・山崎へ又引返しけり。 ○主上自令修金輪法給事付千種殿京合戦事 京都数箇度の合戦に、官軍毎度打負て、八幡・山崎の陣も既に小勢に成りぬと聞へければ、主上天下の安危如何有らんと宸襟を被悩、船上の皇居に壇を被立、天子自金輪の法を行はせ給ふ。 |
「生きているだけでは役立たない身だが、主君のご大事がこれで終わるわけではない。一人でも生き残り、後のために尽くそう。」と独り言をしながら、ただ一騎で西朱雀方面へ向かって退却していたところを、印具駿河守率いる軍勢五十余騎に追いかけられた。その中に年齢二十歳ほどの若武者が単騎で近づき、退却する妻鹿孫三郎に組みつこうと鎧の袖をつかんだ瞬間、孫三郎は全く意に介さず長い肘を伸ばして鎧の総角(そうかく)を掴み、馬上で約三百メートルも引きずりながら進んでいた。この若武者が由緒ある者だったのだろう、「おい、討つな!」と叫ぶ五十余騎の兵士たちが後ろから追ってきたので、孫三郎は横眼できっととにらみ「敵にも違いがあるぞ。単騎だからといって俺に軽々しく近づく失態をするな。欲しければこれをやろう。受け取れ」と言い、左手で提げていた鎧武者を右手に持ち替えて、「えいっ」と投げ飛ばしたところ、後ろの馬上の兵士六騎の頭上を越えて深田の泥の中へ見えなくなるほど沈んでしまった。これを見た五十余騎の者たちは同時に馬首を返し、全力で逃げ出してしまった。一方赤松入道(円心)は、この日の戦いで特に頼りにしていた一族の兵士たちも各地で八百余騎討たれたため、意気消沈して八幡・山崎方面へ再び撤退した。 ○主上自ら金輪法を修し給う事 千種殿京合戦付記 解説
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| 其七箇日に当りける夜、三光天子光を並て壇上に現じ給ければ、御願忽に成就しぬと、憑敷被思召ける。さらばやがて大将を差上せて赤松入道に力を合せ、六波羅を可攻とて、六条少将忠顕朝臣を頭中将に成し、山陽・山陰両道の兵の大将として、京都へ被指向。其勢伯耆国を立しまで、僅に千余騎と聞へしが、因幡・伯耆・出雲・美作・但馬・丹後・丹波・若狭の勢共馳加はて、程なく二十万七千余騎に成にけり。又第六の若宮は、元弘の乱の始、武家に被囚させ給て、但馬国へ被流させ給ひたりしを、其国の守護大田三郎左衛門尉取立奉て、近国の勢を相催し、則丹波の篠村へ参会す。大将頭中将不斜悦で、即錦の御旗を立て、此宮を上将軍と仰ぎ奉て、軍勢催促の令旨を被成下けり。四月二日、宮、篠村を御立有て、西山の峯堂を御陣に被召、相従ふ軍勢二十万騎、谷堂・葉室・衣笠・万石大路・松尾・桂里に居余て、半は野宿に充満たり。殿法印良忠は、八幡に陣を取。赤松入道円心は山崎に屯を張れり。彼陣と千種殿の陣と相去事僅に五十余町が程なれば、方々牒じ合せてこそ京都へは可被寄かりしを、千種頭中将我勢の多をや被憑けん。又独高名にせんとや被思けん、潛に日を定て四月八日の卯刻に六波羅へぞ被寄ける。あら不思議、今日は仏生日とて心あるも心なきも潅仏の水に心を澄し、供花焼香に経を翻して捨悪修善を事とする習ひなるに、時日こそ多かるに、斎日にして合戦を始て、天魔波旬の道を学ばる条難心得と人々舌を翻せり。 |
その七日目の夜に三光の天子が光り輝いて壇上にお現れになったため、「御願いがあっという間に成就したのだな」と確信された。そこで早速大将軍を任命して赤松入道(円心)と力を合わせ、六波羅を攻めようとして、六条少将忠顕朝臣を頭中将に昇格させた。山陽・山陰両道の兵の総大将として京都へ派遣したところ、その兵力は伯耆国を出発する時点ではわずか千余騎と伝えられたが、因幡・伯耆・出雲・美作・但馬・丹後・丹波・若狭の軍勢が次々に加わり、間もなく二十万七千余騎もの大軍になった。また第六皇子(尊良親王)は元弘の乱の発端で幕府に捕らえられて但馬国へ流されていたのだが、その国の守護である大田三郎左衛門尉が擁立し近隣諸国の兵を集めるとすぐ丹波篠村へ参陣した。大将軍頭中将(千種忠顕)は喜びもせず即座に錦の御旗を掲げ、この皇子を上将軍として仰ぎ奉り、軍勢招集の令旨を発布された。四月二日には皇子が篠村から出立され西山峯堂へ本陣を置かれ、従う二十万騎もの兵は谷堂・葉室・衣笠・万石大路・松尾・桂里に溢れかえり半分以上が野宿で埋め尽くされた。殿法印良忠は八幡に布陣し赤松入道円心は山崎に駐屯した。その陣と千種中将の陣との距離わずか五キロメートルほどだったため互いに連絡を取り合って京都へ進軍すべきところだが、千種頭中将は味方兵力が多勢なことを頼りにしてしまったのかもしれない。あるいは独りで手柄を立てようと考えたのだろうか、密かに日時を定め四月八日の卯刻(午前6時)に六波羅へ攻撃したのだった。ああ不思議だ――この日は仏生会(釈迦誕生日)であり心ある者もない者も灌仏水で心清め供花焼香して経典を唱え、悪事を捨て善行をするのが習いであるのに数多くある候補日のなかから斎日に合戦を始めるとは天魔波旬(悪魔の王)のような道を行くものだと人々が口々に非難した。 解説
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| さて敵御方の士卒源平互に交れり。無笠符ては同士打も有ぬべしとて、白絹を一尺づゝ切て風と云文字を書て、鎧の袖にぞ付させられける。是は孔子の言に、「君子の徳は風也。小人の徳は草也。草に風を加ふる時は不偃と云事なし。」と云心なるべし。六波羅には敵を西に待ける故に、三条より九条まで大宮面に屏を塗り、櫓を掻て射手を上て、小路々々に兵を千騎二千騎扣へさせて、魚鱗に進み、鶴翼に囲まん様をぞ謀りける。「寄手の大将は誰そ。」と問に、「前帝第六の若宮、副将軍は千種頭中将忠顕の朝臣。」と聞へければ、「さては軍の成敗心にくからず。源は同流也。といへども、「江南の橘、江北に被移て枳と成」習也。弓馬の道を守る武家の輩と、風月の才を事とする朝廷の臣と闘を決せんに、武家不勝と云事不可有。」と、各勇み進で、七千余騎大宮面に打寄て、寄手遅しとぞ待懸たる。去程に忠顕朝臣、神祇官の前に扣へて勢を分て、上は大舎人より下は七条まで、小路ごとに千余騎づゝ指向て責させらる。武士は要害を拵て射打を面に立て、馬武者を後に置たれば、敵の疼む所を見て懸出々々追立けり。官軍は二重三重に荒手を立たれば、一陣引けば二陣入替り、二陣打負れば三陣入替て、人馬に息を継せ、煙塵天を掠て責戦ふ。 |
さて敵味方の兵士たちが源氏平氏入り混じっているため、「識別がないと味方同士で討ち合うこともあるだろう」と考え、(南朝軍は)白絹を一尺ずつ切って「風」という文字を書き、鎧の袖に付けさせた。これは孔子の言葉にある「君子の徳は風のようなものだ。小人の徳は草のようなものだ。草に風が吹けば必ずなびく(抵抗できない)」という意味であるはずだ。六波羅側は敵を西から来ると予想していたため、三条通りから九条通りまで大宮通沿いに塀を塗り固め櫓を作って弓兵を配置し、小道ごとに千騎二千騎の兵を待機させて「魚鱗(ぎょりん)の陣」で進み、「鶴翼(かくよく)の陣」で包囲しようと計画していた。「攻撃側の大将は誰だ?」との問いに「先帝第六皇子、副将軍は千種頭中将忠顕朝臣」と聞くと、「なるほど戦略が憎らしいほど巧妙だ。源氏とは同族だが『江南のみかんを江北に移せば枳(からたち)になる』という例えの通り、(宮廷育ちでは武士として劣る)。弓馬の道を守る武家と、風流を愛好する朝廷の臣下が戦えば武家が負けるはずがない」と言い合い各々奮い立って七千余騎が大宮通に押し寄せ攻撃側を待ち構えた。そのとき忠顕朝臣は神祇官前で軍勢を分け、上は大舎人町から下は七条通りまで小道ごとに千騎ずつ進ませて攻めさせた。(六波羅の)武士たちは要害を作って弓矢での防御を前面に置き騎馬武者を後方に配置したため敵が弱った隙を見て突撃し追い立てた。官軍(南朝軍)は二重三重に予備兵力を用意していたので一隊が退けば次隊と交代、二隊が敗れれば三隊が交替で攻め込み人馬の息継ぎも許さず、砂塵が天を覆うほどの激戦となった。 解説
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| 官軍も武士も諸共に、義に依て命を軽じ、名を惜で死を争ひしかば、御方を助て進むは有れども、敵に遇て退くは無りけり。角ては何可有勝負とも見へざりける処に、但馬・丹波の勢共の中より、兼て京中に忍て人を入置たりける間、此彼に火を懸たり。時節辻風烈く吹て、猛煙後に立覆ひければ、一陣に支へたる武士共、大宮面を引退て尚京中に扣へたり。六波羅是を聞て、弱からん方へ向けんとて用意を残し留たる、佐々木判官時信・隅田・高橋・南部・下山・河野・陶山・富樫・小早河等、五千余騎を差副て、一条・二条の口へ被向。此荒手に懸合て、但馬の守護大田三郎左衛門被打にけり。丹波国の住人荻野彦六と足立三郎は、五百余騎にて四条油小路まで責入たりけるを、備前国の住人、薬師寺八郎・中吉十郎・丹・児玉が勢共、七百余騎相支て戦けるが、二条の手被破ぬと見へければ、荻野・足立も諸共に御方の負して引返す。金持三郎は七百余騎にて、七条東洞院まで責入たりけるが、深手を負て引かねけるを、播磨国の住人肥塚が一族、三百余騎が中に取篭て、出抜て虜てげり。丹波国神池の衆徒は、八十余騎にて、五条西洞院まで責入、御方の引をも知らで戦けるを、備中国の住人、庄三郎・真壁四郎、三百余騎にて取篭、一人も不余打てげり。 |
敵味方の兵士たちが源氏平氏入り混じっているため、「識別がないと味方同士で討ち合うこともあるだろう」と考え、(南朝軍は)白絹を一尺ずつ切って「風」という文字を書き、鎧の袖に付けさせた。これは孔子の言葉にある「君子の徳は風のようなものだ。小人の徳は草のようなものだ。草に風が吹けば必ずなびく(抵抗できない)」という意味であるはずだ。六波羅側は敵を西から来ると予想していたため、三条通りから九条通りまで大宮通沿いに塀を塗り固め櫓を作って弓兵を配置し、小道ごとに千騎二千騎の兵を待機させて「魚鱗(ぎょりん)の陣」で進み、「鶴翼(かくよく)の陣」で包囲しようと計画していた。「攻撃側の大将は誰だ?」との問いに「先帝第六皇子、副将軍は千種頭中将忠顕朝臣」と聞くと、「なるほど戦略が憎らしいほど巧妙だ。源氏とは同族だが『江南のみかんを江北に移せば枳(からたち)になる』という例えの通り、(宮廷育ちでは武士として劣る)。弓馬の道を守る武家と、風流を愛好する朝廷の臣下が戦えば武家が負けるはずがない」と言い合い各々奮い立って七千余騎が大宮通に押し寄せ攻撃側を待ち構えた。そのとき忠顕朝臣は神祇官前で軍勢を分け、上は大舎人町から下は七条通りまで小道ごとに千騎ずつ進ませて攻めさせた。(六波羅の)武士たちは要害を作って弓矢での防御を前面に置き騎馬武者を後方に配置したため敵が弱った隙を見て突撃し追い立てた。官軍(南朝軍)は二重三重に予備兵力を用意していたので一隊が退けば次隊と交代、二隊が敗れれば三隊が交替で攻め込み人馬の息継ぎも許さず、砂塵が天を覆うほどの激戦となった。 解説
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| 方々の寄手、或は被打或は被破て、皆桂河の辺まで引たれども、名和小次郎と小嶋備後三郎とが向ひたりける一条の寄手は、未引、懸つ返つ時移るまで戦たり。防は陶山と河野にて、責は名和と小嶋と也。小島と河野とは一族にて、名和と陶山とは知人也。日比の詞をや恥たりけん、後日の難をや思けん、死ては尸を曝すとも、逃て名をば失じと、互に命を不惜、をめき叫でぞ戦ひける。大将頭中将は、内野まで被引たりけるが、一条の手尚相支て戦半也。と聞へしかば、又神祇官の前へ引返して、使を立て小島と名和とを被喚返けり。彼等二人、陶山と河野とに向て、「今日已に日暮候ぬ。後日にこそ又見参に入らめ。」と色代して、両軍ともに引分、各東西へ去にけり。夕陽に及で軍散じければ、千種殿は本陣峯の堂に帰て、御方の手負打死を被註に、七千人に余れり。其内に、宗と憑たる大田・金持の一族以下、数百人被打畢。仍一方の侍大将とも可成者とや被思けん、小嶋備後三郎高徳を呼寄て、「敗軍の士力疲て再び難戦。都近き陣は悪かりぬと覚れば、少し堺を阻て陣を取り、重て近国の勢を集て、又京都を責ばやと思ふは、如何に計ふぞ。」と宣へば、小嶋三郎不聞敢、「軍の勝負は時の運による事にて候へば、負るも必しも不恥、只引まじき処を引かせ、可懸所を不懸を、大将の不覚とは申也。 |
各地からの攻撃部隊は打ち負かされたり敗れたりして桂川の岸辺まで撤退したが、名和小次郎と小嶋備後三郎が向かった一条通りの攻撃隊だけはまだ退かず、攻めたり返したりしながら時間が過ぎるまで戦い続けた。防衛側は陶山と河野で、攻撃側は名和と小嶋である。小島(小嶋)と河野は一族同士であり、名和と陶山は旧知の間柄だった。「普段の言葉を恥じたのか」「将来の災いを恐れたか」、互いに「死んで屍をさらしても逃げて名声を失うことはない」と命を惜しまず喚き叫びながら戦った。大将である頭中将(千種忠顕)は内野まで撤退していたが、「一条通りの部隊がまだ持ちこたえて戦っている最中だ」との報告を聞くと、神祇官の前へ引き返して使者を立て小嶋と名和を呼び戻した。彼ら二人は陶山と河野に向かって「今日はすでに日が暮れた。後日に改めて参上しよう」と言い訳し、両軍ともに引き分け各々東西へ去った。夕陽のころに戦闘が終わると千種殿(忠顕)は本陣の峯の堂に戻り、味方の負傷者と死者を数えると七千人以上いた。その中で主力だった大田・金持一族以下数百人は全滅していた。そこで「一軍の侍大将としてふさわしい人物」と思われたか、小嶋備後三郎高徳を呼び寄せて言った。「敗れた兵は力尽き再戦困難だ。都に近い陣所は不利と感じるので少し境界を隔てて陣を取り直し、改めて近国の勢力を集め京都を攻撃したいと思うがどうか」。すると小嶋三郎は遠慮なく答えた。「戦の勝敗は時の運によることで負けても必ずしも恥ではない。ただ退くべきでない所から退き、攻めるべき場所を攻めぬことを大将の失敗というのです」。 解説
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| 如何なれば赤松入道は、僅に千余騎の勢を以て、三箇度まで京都へ責入、叶はねば引退て、遂に八幡・山崎の陣をば去らで候ぞ。御勢縦ひ過半被打て候共、残所の兵尚六波羅の勢よりは多かるべし。此御陣後は深山にて前は大河也。敵若寄来らば、好む所の取手なるべし。穴賢、此御陣を引かんと思食す事不可然候。但御方の疲れたる弊に乗て、敵夜討に寄する事もや候はんずらんと存候へば、高徳は七条の橋爪に陣を取て相待候べし。御心安からんずる兵共を、四五百騎が程、梅津・法輪の渡へ差向て、警固をさせられ候へ。」と申置て、則小嶋三郎高徳は、三百余騎にて、七条の橋より西にぞ陣を堅めたる。千種殿は小嶋に云恥しめられて、暫は峯の堂におはしけるが、「敵若夜討にや寄せんずらん。」と云つる言に被驚て、弥臆病心や付給ひけん、夜半過る程に、宮を御馬に乗せ奉て、葉室の前を直違に、八幡を指てぞ被落ける。備後三郎、かかる事とは思ひもよらず、夜深方に峯の堂を見遣ば、星の如に耀き見へつる篝火次第に数消て、所々に焼すさめり。是はあはれ大将の落給ひぬるやらんと怪て、事の様を見ん為に、葉室大路より峯の堂へ上る処に、荻野彦六朝忠浄住寺の前に行合て、「大将已に夜部子刻に落させ給て候間、無力我等も丹後の方へと志て、罷下候也。 |
「なぜなら赤松入道(則村)はわずか千騎余りの兵で三度も京都へ攻め込み、成功しなければ撤退したが最終的に八幡や山崎の陣地を放棄しなかったのです。味方軍勢はたとえ半分以上倒されても残存兵力はまだ六波羅側より多いはずです。この本陣(峯の堂)は後方が深山で前方は大河であり、敵が攻めて来れば迎撃に最適な場所です。どうかここから撤退しようなどと考えられるのは良くありません。ただし味方兵士の疲弊に乗じ夜討ちを仕掛ける可能性もあるため、高徳(小嶋三郎)自ら七条大橋付近で陣を取り防備します。信頼できる兵士四五百騎ほどを梅津や法輪寺渡しへ派遣し警戒させてください」と進言して置き、小嶋三郎高徳は三百騎余りで七条大橋より西に布陣した。千種殿(忠顕)は小嶋の言葉に辱められ峯の堂に留まっていたが、「敵が夜襲するかもしれない」という発言に恐怖を募らせ、真夜中過ぎに宮(護良親王?)を馬に乗せ葉室通を通り八幡へ落ち延びた。小嶋備後三郎はこの事態も予想せず深夜に峯の堂を見ると星のように輝いていた篝火が次々消え、所々で燃え残っていた。「大将軍が逃亡したのか」と不審に思い状況確認のため葉室通から峯の堂へ向かう途中、浄住寺前で荻野彦六朝忠に出会い「大将は真夜中に落ち延びられたので力尽きた我々も丹後方面へ退きます」と告げられた。 解説
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| いざゝせ給へ、打連れ申さん。」と云ければ備後三郎大に怒て、「かゝる臆病の人を大将と憑みけるこそ越度なれ。さりながらも、直に事の様を見ざらんは後難も有ぬべし。早御通り候へ。高徳は何様峯の堂へ上て、宮の御跡を奉見て追付可申。」と云て、手の者兵をば麓に留て只一人、落行勢の中を押分々々、峯の堂へぞ上りける。大将のおはしつる本堂へ入て見れば、能遽て被落けりと覚へて、錦の御旗、鎧直垂まで被捨たり。備後三郎腹を立てゝ、「あはれ此大将、如何なる堀がけへも落入て死に給へかし。」と独り言して、しばらくは尚堂の縁に歯嚼をして立たりけるが、「今はさこそ手の者共も待かねたるらめ。」と思ひければ、錦の御旗許を巻て、下人に持せ、急ぎ浄住寺の前へ走り下り、手の者打連て馬を早めければ、追分の宿の辺にて、荻野彦六にぞ追付ける。荻野は、丹波・丹後・出雲・伯耆へ落ける勢の、篠村・稗田辺に打集まて、三千余騎有けるを相伴、路次の野伏を追払て、丹波国高山寺の城にぞ楯篭りける。 ○谷堂炎上事 千種頭中将は西山の陣を落給ひぬと聞へしかば、翌日四月九日、京中の軍勢、谷の堂・峰の堂已下浄住寺・松の尾・万石大路・葉室・衣笠に乱入て、仏閣神殿を打破り、僧坊民屋を追捕し、財宝を悉く運取て後、在家に火を懸たれば、時節魔風烈く吹て、浄住寺・最福寺・葉室・衣笠・三尊院、総じて堂舎三百余箇所、在家五千余宇、一時に灰燼と成て、仏像・神体・経論・聖教、忽に寂滅の煙と立上る。 |
「お供しましょう」と言う荻野に対し小嶋備後三郎(高徳)は激怒して、「こんな臆病者を大将と信じたのが過ちだった。しかし事態確認せず撤退すれば後で問題が起きるだろう。貴方は先に行け。私は峯の堂へ上り宮様(護良親王?)の行方を確かめて追いつく」と言い、配下を麓に残し単身逃亡兵の中を分け入って峯の堂へ登った。大将がいた本堂に入ると急ぎ逃げたと見え、錦の御旗から鎧直垂まで捨てられていた。小嶋は腹を立て「この大将ども、どこか堀や崖に落ちて死んでしまえ」と独り言し、しばらく堂の縁で歯軋りしていたが、「部下たちが待っているだろう」と思い立ち、錦の御旗だけ巻き取って従者に持たせ急ぎ浄住寺前へ駆け下り配下と合流した。道中「追分宿」付近で荻野彦六に追いつくと、丹波・丹後方面へ逃げる兵三千騎余が篠村・稗田周辺に集結していたので同行し、途中の野伏を撃退しながら丹波国高山寺城に立て籠もった。 ○谷堂炎上について 解説
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| 彼谷堂と申は八幡殿の嫡男対馬守義親が嫡孫、延朗上人造立の霊地也。此上人幼稚の昔より、武略累代の家を離れ、偏に寂寞無人の室をと給し後、戒定慧の三学を兼備して、六根清浄の功徳を得給ひしかば、法華読誦の窓の前には、松尾の明神坐列して耳を傾け、真言秘密の扉の中には、総角の護法手を束て奉仕し給ふ。かゝる有智高行の上人、草創せられし砌なれば、五百余歳の星霜を経て、末世澆漓の今に至るまで、智水流清く、法燈光明也。三間四面の輪蔵には、転法輪の相を表して、七千余巻の経論を納め奉られけり。奇樹怪石の池上には、都卒の内院を移して、四十九院の楼閣を並ぶ。十二の欄干珠玉天に捧げ、五重の塔婆金銀月を引く。恰も極楽浄土の七宝荘厳の有様も、角やと覚る許也。又浄住寺と申は、戒法流布の地、律宗作業の砌也。釈尊御入滅の刻、金棺未閉時、捷疾鬼と云鬼神、潛に双林の下に近付て、御牙を一引■て是を取る。四衆の仏弟子驚見て、是を留めんとし給ひけるに、片時が間に四万由旬を飛越て、須弥の半四天王へ逃上る。韋駄天追攻奪取、是を得て其後漢土の道宣律師に被与。自尓以来相承して我朝に渡しを、嵯峨天皇御宇に始て此寺に被奉安置。偉哉大聖世尊滅後二千三百余年の已後、仏肉猶留て広く天下に流布する事普し。 |
その谷堂とは八幡殿(源義家)の嫡男・対馬守義親の子孫である延朗上人が建立した霊地である。この上人は幼い頃から武門の家系を離れ、ひたすら静かな修行場を求められた後、戒律・禅定・智慧の三学を備えられ感覚が清浄となる境地を得られたため、法華経を読誦する窓辺には松尾明神が列座して耳を傾け、密教の扉の中では童子姿の護法神が謹んで仕えた。このように知恵と高潔な行いを持つ上人が創建された霊地ゆえに五百余年の歳月を経て末世といわれる現代まで、智慧の流れは清く仏法の灯りは輝いている。三間四方の輪蔵には教えが広まる様を示し七千巻以上の経典を納めている。珍しい樹木や奇岩のある池辺には浄土世界を移したように四十九院もの楼閣が並び、欄干の装飾は天に向かい五重塔は月影を受けて金銀に輝く。まさに極楽浄土の宝で飾られた様子もこれほどのものかと感じさせるほどである。また浄住寺とは戒律を広める地であり律宗修行の道場である。釈尊が入滅された際、棺が閉じられる前に捷疾鬼という鬼神がこっそり忍び寄って御歯(仏歯)一本を奪い取った。弟子たちが見つけて阻止しようとしたが瞬く間に四万由旬も飛んで須弥山の頂上へ逃げたところを韋駄天が追跡し取り返した後、中国の道宣律師に渡され日本へ伝わり嵯峨天皇治世下でこの寺に安置された。尊いことだ釈迦入滅から二千三百年以上経った今も仏身(歯)が残り広く天下に信仰されているのだ。 解説
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| かゝる異瑞奇特の大加藍を無咎して被滅けるは、偏に武運の可尽前表哉と、人皆唇を翻けるが、果して幾程も非ざるに、六波羅皆番馬にて亡び、一類悉く鎌倉にて失せける事こそ不思議なれ。「積悪の家には必有余殃」とは、加様の事をぞ可申と、思はぬ人も無りけり。 |
このような霊験あらたかな大伽藍が罪もなく焼け落ちたのは、まさに六波羅(北条氏)の武運が尽きた前兆だろうと人々皆が噂したところ、果たして間もなく六波羅方は騎馬隊もろとも滅亡し一族全て鎌倉で失せてしまったことは実に不思議である。「悪を積んだ家には必ず余殃(災いの残り)がある」という言葉は、まさにこのようなことを指すのだろうと、そう思わない者はいなかった。 解説
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| input text 太平記\009_太平記_巻9.txt | 現代日本語 translated text | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 太平記 太平記巻第九 ○足利殿御上洛事 先朝船上に御坐有て、討手を被差上、京都を被責由、六波羅の早馬頻に打て、事既に難儀に及由、関東に聞へければ、相摸入道大に驚て、さらば重て大勢を指上せて半は京都を警固し、宗徒は舟上を可責と評定有て、名越尾張守を大将として、外様の大名二十人を被催。其中に足利治部大輔高氏は、所労の事有て、起居未快けるを、又上洛の其数に入て、催促度々に及べり。足利殿此事に依て、心中に被憤思けるは、「我父の喪に居て三月を過ざれば、非歎の涙未乾、又病気身を侵して負薪の憂未休処に、征罰の役に随へて、被相催事こそ遺恨なれ。時移り事変じて貴賎雖易位、彼は北条四郎時政が末孫也。人臣に下て年久し。我は源家累葉の族也。王氏を出て不遠。此理を知ならば、一度は君臣の儀をも可存に、是までの沙汰に及事、偏に身の不肖による故也。所詮重て尚上洛の催促を加る程ならば、一家を尽して上洛し、先帝の御方に参て六波羅を責落して、家の安否を可定者を。」と心中に被思立けるをば、人更に知事無りけり。相摸入道は、可斯事とは不思寄、工藤左衛門尉を使にて、「御上洛延引不被心得。」一日の中両度までこそ被責けれ。足利殿は反逆の企、已に心中に被思定てげれば、中々異儀に不及、「不日に上洛可仕。 |
太平記巻第九「足利殿御上洛事」について。先帝(後醍醐天皇)が船上におわして討伐軍を差し向け京都を包囲したとの報せが、六波羅からの早馬によって頻繁にもたらされ、事態は危機に及んだと関東へ伝えられた。鎌倉幕府執権の北条高時(相模入道)は大いに驚き、「それならば改めて大軍を上洛させて半分で京都の警護にあたり、残りで船上の帝を攻めよう」と評定し、名越尾張守を大将として外様大名二十人を召集した。その中に足利高氏(治部大輔)は病気療養中で回復していなかったが、上洛軍への参加を命じられ再三の催促を受けた。 解説
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| 」とぞ被返答ける。則夜を日に継で被打立けるに、御一族・郎従は不及申、女性幼稚の君達迄も、不残皆可有上洛と聞へければ、長崎入道円喜怪み思て、急ぎ相摸入道の方に参て申けるは、「誠にて候哉覧。足利殿こそ、御台・君達まで皆引具し進せて、御上洛候なれ。事の体怪く存候。加様の時は、御一門の疎かならぬ人にだに、御心被置候べし。況乎源家の貴族として、天下の権柄を捨給へる事年久しければ、思召立事もや候覧。異国より吾朝に至まで、世の乱たる時は、覇王諸候を集て牲を殺し血を啜て弐ろ無らん事を盟ふ。今の世の起請文是也。或は又其子を質に出して、野心の疑を散ず。木曾殿の御子、清水冠者を大将殿の方へ被出き。加様の例を存候にも、如何様足利殿の御子息と御台とをば、鎌倉に被留申て、一紙の起請文を書せ可被進とこそ存候へ。」と申ければ、相摸入道げにもとや被思けん。頓て使者を以て被申遣けるは、「東国は未だ世閑にて、御心安かるべきにて候。幼稚の御子息をば、皆鎌倉に留置進せられ候べし。次に両家の体を一にして、水魚の思を被成候上、赤橋相州御縁に成候、彼此何の不審か候べきなれ共、諸人の疑を散ぜん為にて候へば、乍恐一紙の誓言を被留置候はん事、公私に付て可然こそ存候へ。 |
「そうお答えになった。」直ちに昼夜を問わずに出発したところ、一族や家臣は言うまでもなく女性や幼い子供たちまで全員が上洛すると聞こえてきたので、長崎円喜(入道)は怪しんで思い、急いで北条高時(相模入道)のもとに参じて申し上げた。「これは本当でしょうか?足利殿が奥方やお子様までも皆連れて行かれるとは。事の成り行きが不審に思われます。このような時は、身内の中でも信頼できる者だけを呼んで警戒すべきです。まして源氏という名門貴族として天下の権力を捨てたのは昔のことゆえ、何かを企んでいるのではないでしょうか?外国から我が国まで世が乱れる時には、覇王は諸侯らと集まり犠牲(牛馬)を殺し血を啜って二心ないことを誓います。現代の起請文もこれです。あるいはまた子息を人質に出して野心への疑いを晴らします。(例として)木曾殿の御子・清水冠者を大将軍のもとへ差し出しました。こうした先例から考え、足利殿にはご子息や奥方を鎌倉に留め置かせて起請文を書かせるべきでしょう。」と言うと、北条高時は確かにそうだと思ったのか、すぐ使者を通じて伝えさせた。「東国(鎌倉)はまだ平穏でご安心いただけます。幼いお子様方は皆ここに留め置くのがよいでしょう。また両家の関係を一つにして深い信頼をお示しになった上、(足利と縁戚である)赤橋氏のことでは何も疑いはありませんが、人々の疑念を晴らすためにも恐れながら一筆の誓約書をご提出いただけますなら公私共に適切かと思います。」 解説
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| 」と、被仰たりければ、足利殿、欝胸弥深かりけれ共、憤を押へて気色にも不被出、「是より御返事を可申。」とて、使者をば被返てげり。其後舎弟兵部大輔殿を被呼進て、「此事可有如何。」と意見を被訪に、且く案じて被申けるは、「今此一大事を思食立事、全く御身の為に非ず、只天に代て無道を誅し、君は御為に不義を退んと也。其上誓言は神も不受とこそ申習はして候へ。設ひ偽て起請の詞被載候共、仏神などか忠烈の志を守らせ給はで候べき。就中御子息と御台とは、鎌倉に留置進せられん事、大儀の前の少事にて候へば、強に御心を可被煩に非ず。公達未だ御幼稚に候へば、自然の事もあらん時は、其為に少々被残置郎従共、何方へも抱拘へて隠し奉り候なん。御台の御事は、又赤橋殿とても御坐候はん程は、何の御痛敷事か候べき。「大行は不顧細謹」とこそ申候へ。此等程の少事に可有猶予あらず。兎も角も相摸入道の申さん侭に随て其不審を令散、御上洛候て後、大儀の御計略を可被回とこそ存候へ。」と被申ければ、足利殿此道理に服して、御子息千寿王殿と、御台赤橋相州の御妹とをば、鎌倉に留置奉りて、一紙の起請文を書て相摸入道の方へ被遣。相摸入道是に不審を散じて喜悦の思を成し、高氏を招請有て、様々賞翫共有しに、「御先祖累代の白旌あり、是は八幡殿より代々の家督に伝て被執重宝にて候けるを、故頼朝卿の後室、二位の禅尼相伝して、当家に今まで所持候也。 |
そう言われたので足利尊氏は鬱屈した気持ちがいっそう強くなったものの、怒りを抑えて表情にも表さず、「後ほど改めて返答いたします」と言い使者を帰らせた。その後弟(直義)兵部大輔を呼び寄せて「この件についてどうすべきか」と意見を求めると、しばらく考えて弟はこう申し上げた。「今ご決意なさった大事業は全く私利のためではなく、天に代わって無道(北条氏)を討ち、君(天皇)のために不義を退けようとされるからです。そもそも偽りの誓いは神仏もお受け入れにならないと言われています。たとえ起請文に嘘の文言を記しても、忠誠心が本物なら仏神は必ず守ってくださるでしょう。特にご子息と奥方を鎌倉に留め置かれる件など大事業前の些細な問題ですから、深く悩むには及びません。お子様方はまだ幼いので万一の場合にも備え、残しておいた家臣たちがどこかに匿いますし、奥方については(北条方である)赤橋殿もいらっしゃる間は何の心配もないでしょう。「大事を成す者は細事にこだわらない」と言われます。これほど小さなことに躊躇している場合ではありません。とにかく高時が望むままに疑念を晴らして上洛され、その後で大計略をお進めになるべきです。」これを聞いた足利尊氏はこの道理を受け入れ、息子の千寿王殿と正室(赤橋守時の妹)を鎌倉に留めて起請文一通を書き高時に送った。これにより疑念が消えた北条高時は喜び色を見せて尊氏を招き称賛し合いながら、「ご先祖代々伝わる白旌があります。これは八幡殿(源義家)から源家の当主へ継承された重宝でしたが、故頼朝卿未亡人二位尼より北条家に相伝され今も所持しています。」と語った。 解説
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| 希代の重宝と申ながら、於他家に、無其詮候歟。是を今度の餞送に進じ候也。此旌をさゝせて、凶徒を急ぎ御退治候へ。」とて、錦の袋に入ながら、自ら是をまいらせらる。其外乗替の御為にとて、飼たる馬に白鞍置て十疋、白幅輪の鎧十領、金作の太刀一副て被引たりけり。足利殿御兄弟・吉良・上杉・仁木・細川・今河・荒河・以下の御一族三十二人、高家の一類四十三人、都合其勢三千余騎、元弘三年三月二十七日に鎌倉を立、大手の大将と被定、名越尾張守高家に三日先立て、四月十六日に京都に着給ふ。 ○山崎攻事付久我畷合戦事 両六波羅は、度々の合戦に打勝ければ、西国の敵恐るに不足と欺きながら、宗徒の勇士と被憑たりける結城九郎左衛門尉は、敵に成て山崎の勢に加りぬ。其外、国々の勢共五騎十騎、或は転漕に疲て国々に帰り、或は時の運を謀て敵に属しける間、宮方は負れ共勢弥重り、武家は勝共兵日々に減ぜり。角ては如何可有と、世を危む人多かりける処に、足利・名越の両勢叉雲霞の如く上洛したりければ、いつしか人の心替て今は何事か可有と、色を直して勇合へり。かゝる処に、足利殿は京着の翌日より、伯耆の船上へ潛に使を進せて、御方に可参由を被申たりければ、君殊に叡感有て、諸国の官軍を相催し朝敵を可御追罰由の綸旨をぞ被成下ける。 |
そう言われたので足利尊氏は鬱屈した気持ちがいっそう深まったものの、怒りを抑えて表情にも出さず、「後ほど改めて返答いたします」と言い使者を帰らせた。その後弟(直義)兵部大輔を呼び寄せて「この件についてどうすべきか」と意見を求めると、しばらく考えて弟はこう申し上げた。「今ご決意なさった大事業は全く私利のためではなく、天に代わって無道(北条氏)を討ち、君(天皇)のために不義を退けようとされるからです。そもそも偽りの誓いは神仏もお受け入れにならないと言われています。たとえ起請文に嘘の文言を記しても忠誠心が本物なら仏神は必ず守ってくださるでしょう。特にご子息と奥方を鎌倉に留め置かれる件など大事業前の些細な問題ですから、深く悩むには及びません。お子様方はまだ幼いので万一の場合にも備え残しておいた家臣たちがどこかに匿いますし、奥方については(北条方である)赤橋殿もいらっしゃる間は何の心配もないでしょう。「大事を成す者は細事にこだわらない」と言われます。これほど小さなことに躊躇している場合ではありません。とにかく高時が望むままに疑念を晴らして上洛されその後で大計略をお進めになるべきです。」これを聞いた足利尊氏はこの道理を受け入れ息子の千寿王殿と正室(赤橋守時の妹)を鎌倉に留めて起請文一通を書き高時に送った。これにより疑念が消えた北条高時は喜び色を見せて尊氏を招き称賛し合いながら「ご先祖代々伝わる白旌があります。これは八幡殿(源義家)から源家の当主へ継承された重宝でしたが故頼朝卿未亡人二位尼より北条家に相伝され今も所持しています。希代の重宝とはいえ他氏が所有するのはふさわしくないでしょう。今回の餞別として差し上げます。この旗を掲げて早急に凶徒(天皇方)をお討ちください」と言って錦袋に入れて自ら献上した。そのほか乗り換え用にと飼い慣らした馬に白鞍をつけた十頭、白縁の鎧十領、金装飾太刀一振りを贈った。足利尊氏兄弟・吉良・上杉・仁木・細川・今河・荒河以下の一族三十二人と高家(名越高家)一派四十三人が揃い総勢三千余騎は元弘三年三月二十七日に鎌倉を出発し大手軍の大将として任命され、名越尾張守高家に三日先立たせ四月十六日に京都へ到着した。 解説
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| 両六波羅も名越尾張守も、足利殿にかゝる企有とは思も可寄事ならねば、日々に参会して八幡・山崎を可被責内談評定、一々に心底を不残被尽さけるこそはかなけれ。「大行之路能摧車、若比人心夷途。巫峡之水能覆舟、若比人心是安流也。人心好悪苦不常。」とは云ながら、足利殿は代々相州の恩を戴き徳を荷て、一家の繁昌恐くは天下の肩を可並も無りけり。其上赤橋前相摸守の縁に成て、公達数た出来給ぬれば、此人よも弐はおはせじと相摸入道混に被憑けるも理也。四月二十七日には八幡・山崎の合戦と、兼てより被定ければ、名越尾張守大手の大将として七千六百余騎、鳥羽の作道より被向。足利治部大輔高氏は、搦手の大将として五千余騎、西岡よりぞ被向ける。八幡・山崎の官軍是を聞て、さらば難所に出合て不慮に戦を決せしめよとて、千種頭中将忠顕朝臣は、五百余騎にて大渡の橋を打渡り、赤井河原に被扣。結城九郎左衛門尉親光は、三百余騎にて狐河の辺に向ふ。赤松入道円心は、三千余騎にて淀・古河・久我畷の南北三箇所に陣を張。是皆強敵を拉気、天を廻し地を傾と云共、機を解き勢を被呑とも、今上の東国勢一万余騎に対して可戦とはみへざりけり。足利殿は、兼て内通の子細有けれ共、若恃やし給ふ覧とて、坊門少将雅忠朝臣は、寺戸と西岡の野伏共五六百人駆催して、岩蔵辺に被向。 |
両六波羅(北条仲時・北条時益)と名越尾張守高家は、足利尊氏にそのような企てがあるとは思いもしなかったので、毎日会合して八幡や山崎を攻撃すべきだと評議し、あらゆる心の内を見抜こうとしたが愚かなことであった。「広い道でさえ車を壊すのに人の心と比べれば平坦だと言える。巫峡(長江)の急流も船を転覆させるが人心に比べれば安全な川である。人の好悪は常ならず苦しいものだ」という言葉があるように、足利尊氏は代々相模入道時頼(北条家)から恩恵と徳を受け一族繁栄し天下に並ぶ者はいなかった。さらに赤橋前相模守守時の縁で子供も生まれているので「この人は裏切らないだろう」と相模入道高時に信じられたのも当然だった。四月二十七日は八幡・山崎の合戦が予定されていたため、名越尾張守高家は大手(主力軍)大将として七千六百余騎を率い鳥羽の作道から進撃した。足利治部大輔尊氏は搦手(側面部隊)大将として五千余騎で西岡より向かった。八幡・山崎にいる天皇方官軍がこれを聞き「ならば要害地で奇襲をかけ一気に決着をつけよう」と、千種頭中将忠顕朝臣は五百余騎で大渡橋を渡り赤井河原で待機した。結城九郎左衛門尉親光は三百余騎で狐川の辺へ向かい、赤松入道円心は三千余騎で淀・古河・久我畷の南北三箇所に陣を布いた。彼らはいずれも強敵を押し潰す豪気を見せたが「天を回し地を傾ける」と謳われても、時勢を読み取って味方に引き込めなければ天皇軍は東国から来る一万余騎の大軍には戦えないと思われた。足利尊氏は事前に内通の事情があったとはいえ「もし疑いを持ったら危ない」と考え坊門少将雅忠朝臣を送り、寺戸と西岡の野伏五六百人を駆り立てて岩蔵辺へ向かわせた。 解説
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| 去程に搦手の大将足利殿は、未明に京都を立給ぬと披露有ければ、大手の大将名越尾張守、「さては早人に先を被懸ぬ。」と、不安思ひて、さしも深き久我畷の、馬の足もたゝぬ泥土の中へ馬を打入れ、我先にとぞ進みける。尾張守は、元より気早の若武者なれば、今度の合戦、人の耳目を驚す様にして、名を揚んずる者をと、兼て有増の事なれば、其日の馬物の具・笠符に至まで、当りを耀かして被出立たり。花段子の濃紅に染たる鎧直垂に、紫糸の鎧金物重く打たるを、透間もなく着下して、白星の五枚甲の吹返に、日光・月光の二天子を金と銀とにて堀透して打たるを猪頚に着成し、当家累代重宝に、鬼丸と云ける金作の円鞘の太刀に、三尺六寸の太刀を帯き添、たかうすべ尾の矢三十六指たるを、筈高に負成、黄瓦毛の馬の太く逞きに、三本唐笠を金具に磨たる鞍を置き、厚総の鞦の燃立許なるを懸け、朝日の陰に耀して、光渡てみへたるが、動ば軍勢より先に進出て、当りを払て被懸ければ、馬物具の体、軍立の様、今日の大手の大将は是なめりと、知ぬ敵は無りけり。されば敵も自余の葉武者共には目を不懸、此に開き合せ彼に攻合て、是一人を打んとしけれども、鎧よければ裏かゝする矢もなし。打物達者なれば、近付敵を切て落す。 |
その途中で側面部隊の大将である足利尊氏が夜明け前に京を出発したという報告があったため、主力部隊の大将・名越高家(尾張守)は、「なんと早くも先陣を奪われたか」と焦り不安に思い、深い泥沼で馬の足も立たない久我畷へ真っ先に馬を突き入れ我先にと進んだ。高家は元来せっかちな若武者である上に、この合戦では人々を驚かせるような活躍で名声を上げようと以前から決めていたため、その日の馬具や笠印に至るまで目立つように装備して出陣した。花模様の濃い紅色に染めた鎧直垂に紫糸で重厚な金物を隙間なく縫いつけ、白星が付いた五枚甲の吹返しには日光・月光の二天子像を金銀で透かし彫りにして猪頚形兜として被り、代々伝わる家宝「鬼丸」と呼ばれる金色円鞘太刀に三尺六寸の大太刀を添え帯び、高鶻尾矢三十六本背負い筈高く構えた。たくましい黄瓦毛馬には金具磨き上げた三本唐笠鞍を置き、厚手総絎けの鞦が燃えるように鮮やかに見えるよう装備し朝日の中に輝いて光り渡っていた。彼は動くと軍勢より先へ進み出て道を開けて駆けたので馬具の様子・陣立ても含め「今日の主力大将はこの者だ」と知らぬ敵はいなかった。そのため敵兵も他の雑兵には目もかけず、ここに展開しあちらで攻撃しながら高家一人を討とうとするが鎧優れているので貫通する矢もなく、刀剣術達者なので近づく敵は切り落とされた。 解説
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| 其勢ひ参然たるに辟易して、官軍数万の士卒、已に開き靡きぬとぞ見へたりける。爰に赤松の一族に佐用佐衛門三郎範家とて、強弓の矢継早、野伏戦に心きゝて、卓宣公が秘せし所を、我物に得たる兵あり。態物具を解で、歩立の射手に成、畔を伝ひ、薮を潛て、とある畔の陰にぬはれ臥、大将に近付て、一矢ねらはんとぞ待たりける。尾張守は、三方の敵を追まくり、鬼丸に着たる血を笠符にて推拭ひ、扇開仕ふて、思ふ事もなげに扣へたる処を、範家近々とねらひ寄て引つめて丁と射る。其矢思ふ矢坪を不違、尾張守が冑の真甲のはづれ、眉間の真中に当て、脳を砕骨を破て、頚の骨のはづれへ、矢さき白く射出たりける間、さしもの猛将なれ共、此矢一隻に弱て、馬より真倒にどうど落、範家箙を叩て矢呼を成し、「寄手の大将名越尾張守をば、範家が只一矢に射殺したるぞ、続けや人々。」と呼りければ、引色に成つる官軍共、是に機を直し、三方より勝時を作て攻合す。尾張守の郎従七千余騎、しどろに成て引けるが、或は大将を打せて何くへか可帰とて、引返て討死するもあり。或は深田に馬を馳こうで、叶はで自害するもあり。されば狐河の端より鳥羽の今在家まで、其道五十余町が間には、死人尺地もなく伏にけり。 |
その威圧的な勢いに恐れをなした天皇方(官軍)数万の兵士たちは、すでに崩れて敗走し始めているように見えた。ここで赤松一族の中に佐用佐衛門三郎範家という者がいた。彼は強力な弓を使い矢継ぎ早に射ることが得意でゲリラ戦術に長けており、過去の名将が秘伝とした戦法を身につけた武将であった。わざと重装備を外して歩く射手となり、あぜ道を伝い薮の中に潜みながら進んでいくうちにある畦の陰にじっと伏せ込み、大将(高家)に近づいて一本の矢で狙おうと待機したのであった。 解説
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| ○足利殿打越大江山事 追手の合戦は、今朝辰刻より始まて、馬煙東西に靡き、時の声天地を響かして攻合けれ共、搦手の大将足利殿は、桂河の西の端に下り居て、酒盛してぞおはしける。角て数刻を経て後、大手の合戦に寄手打負て、大将已に被討ぬと告たりければ、足利殿、「さらばいざや山を越ん。」とて、各馬に打乗て、山崎の方を遥の余所に見捨て、丹波路を西へ、篠村を指て馬を早められけり。爰に備前国の住人中吉十郎と、摂津国の住人に奴可四郎とは、両陣の手合に依て搦手の勢の中に在けるが、中吉十郎大江山の麓にて、道より上手に馬を打挙て、奴可四郎を呼のけて云けるは、「心得ぬ様哉、大手の合戦は火を散て、今朝の辰刻より始りたれば、搦手は芝居の長酒盛にてさて休ぬ。結句名越殿被討給ぬと聞へぬれば、丹波路を指して馬を早め給ふは、此人如何様野心を挿給歟と覚るぞ。さらんに於ては、我等何くまでか可相従。いざや是より引返て、六波羅殿に此由を申ん。」と云ければ、奴可四郎、「いしくも宣ひたり。我も事の体怪しくは存じながら、是も又如何なる配立かある覧と、兎角案じける間に、早今日の合戦には迦れぬる事こそ安からね。但此人敵に成給ぬと見ながら、只引返したらんは、余に云甲斐なく覚ゆれば、いざ一矢射て帰らん。 |
○足利尊氏が大江山を越えること 解説
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| 」と云侭に、中差取て打番、轟懸てかさへ打て廻さんとしけるを、中吉、「如何なる事ぞ。御辺は物に狂ふか。我等僅に二三十騎にて、あの大勢に懸合て、犬死したらんは本意歟。嗚呼の高名はせぬに不如、唯無事故引返て、後の合戦の為に命を全したらんこそ、忠義を存たる者也けりと、後までの名も留まらんずれ。」と、再往制止ければ、げにもとや思けん、奴可四郎も中吉も、大江山より馬を引返して、六波羅へこそ打帰りけれ。彼等二人馳参て事の由を申ければ、両六波羅は、楯鉾とも被憑たりける名越尾張守は被討ぬ。是ぞ骨肉の如くなれば、さりとも弐はおはせじと、水魚の思を被成つる足利殿さへ、敵に成給ぬれば、憑む木下に雨のたまらぬ心地して、心細きに就ても、今まで着纒ひたる兵共も、又さこそはあらめと、心の被置ぬ人もなし。 ○足利殿着御篠村則国人馳参事 去程に、足利殿篠村に陣を取て、近国の勢を被催けるに、当国の住人に久下弥三郎時重と云者、二百五十騎にて最前に馳参る。其旗の文、笠符に皆一番と云文字を書たりける。足利殿是を御覧じて、怪しく覚しければ、高右衛門尉師直を被召て、「久下の者共が、笠璽に一番と云を書たるは、元来の家の文歟、又是へ一番に参りたりと云符歟。」と尋給ければ、師直畏て、「由緒ある文にて候。 |
中吉十郎がそう言うや否や、奴可四郎は刀を抜き振りかざして突撃しようとしたところを、中吉が「何をするのか?お前は正気か?我々わずか二三十騎であの大軍に挑んで無駄死にするのが本望なのか?むやみに手柄を狙うより無事引き返し今後の戦いのために命をつないだ方が、真の忠義というものだろう。そうすれば後世まで名が残るはずだ」と再度制止したので、奴可四郎も「確かにその通りだ」と思ったのか、二人は大江山から馬首をめぐらし六波羅へ引き返していった。 ○足利尊氏が篠村へ到着し国人勢が参集すること 解説
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| 彼が先祖、武蔵国の住人久下二郎重光、頼朝大将殿、土肥の杉山にて御旗を被揚て候ける時、一番に馳参じて候けるを、大将殿御感候て、「若我天下を持たば、一番に恩賞を可行。」と被仰て、自一番と云文字を書てたび候けるを、頓其家の文と成て候。」と答申ければ、「さては是が最初に参りたるこそ、当家の吉例なれ。」とて、御賞翫殊に甚しかりけり。元来高山寺に楯篭りたる足立・荻野・小島・和田・位田・本庄・平庄の者共許こそ、今更人の下風に可立に非ずとて、丹波より若狭へ打越て、北陸道より責上らんとは企けれ。其外久下・長沢・志宇知・山内・葦田・余田・酒井・波賀野・小山・波々伯部、其外近国の者共、一人も不残馳参りける。篠村の勢無程集て、其数既に二万三千余騎に成にけり。六波羅には是を聞て、「さては今度の合戦天下の安否たるべし。若自然に打負る事あらば、主上・々皇を取奉て、関東へ下向し、鎌倉に都を立て、重て大軍を揚、凶徒を可追討。」と評定有て、去る三月より北方の館を御所にしつらひ、院内を行幸成奉らる。梶井二品親王は天台座主にて坐ば、縦転反すとも、御身に於ては何の御怖畏か可有なれ共、当今の御連枝にて坐ば、且は玉体に近付進せて、宝祚の長久をも祈申さんとにや、是も同く六波羅へ入せ給ふ。 |
先祖である武蔵国の住人・久下二郎重光が、源頼朝将軍殿が土肥杉山に旗を掲げられた際、真っ先に駆けつけたことに対し、将軍殿は「もし私が天下を得たら、お前を一番に恩賞を与えよう」と述べられ、「一」の文字を自ら書いて与えた。これが久下家の正式な家紋となったのです。」と説明すると、尊氏は「ならば彼が最初に参じたのは我が軍にとって吉兆だ」と言って大いに喜んだ。 解説
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| 加之国母・皇后・女院・北政所・三台・九卿・槐棘・三家の臣・文武百司の官・並竹園門徒の大衆・北面以下諸家の侍・児、女房達に至まで我も々もと参集ける間、京中は忽にさびかへり、嵐の後の木葉の如く、己が様々散行ば、白河はいつしか昌て、花一時の盛を成せり。是も幾程の夢ならん、移り変る世の在様、今更被驚も理也。「夫天子は四海を以て為家」といへり。其上六波羅とても都近き所なれば、東洛渭川の行宮、さまで御心を可被令傷には非ざれども、此君御治天の後天下遂に不穏、剰百寮忽に外都の塵に交りぬれば、是偏に帝徳の天に背きぬる故也。と、罪一人に帰して主上殊に歎被思召ければ、常は五更の天に至まで、夜のをとゞにも入せ給はず、元老智化の賢臣共を被召て、只■舜湯武の旧き迹をのみ御尋有て、会て怪力乱神の徒なる事をば不被聞食。卯月十六日は、中の申なりしか共、日吉の祭礼もなければ、国津御神も浦さびて、御贄の錦鱗徒に湖水の浪に撥辣たり。十七日は中の酉なれども、賀茂の御生所もなければ、一条大路人すみて、車を争ふ所もなし。銀面空しく塵積て、雲珠光を失へり。「祭は豊年にも不勝、凶年にも不減」とこそいへるに、開闢以来無闕如両社の祭礼も、此時に始て絶ぬれば、神慮も如何と測難く、恐有べき事共也。 |
さらに国母(天皇の生母)・皇后・女院・北政所を始め、三台(三位以上の高官)・九卿(高位貴族)・槐棘(公卿と武官)・三家の家臣・文武百官、そして比叡山延暦寺の僧侶たちや北面の武士以下の諸家侍従、子供から女房に至るまでが我先にと六波羅へ集まったため、京都市中は突然さびれ返り、嵐で散った木々のように人々があちこち離れ去ってしまった。一方白河(六波羅周辺)はいつしか賑わい始め、花が一気に咲き誇るような繁栄ぶりとなった。これも束の間の夢であろうか――世の中の移ろいは激しく、驚くのも当然だ。「そもそも天子たるもの四海を家とする」と言うように、六波羅は都近くだから仮住まいといえど心配するほどのことではないはずだが、この天皇(後醍醐)が統治し始めて以来天下は不安定になり、朝廷百官も突然「外都」(六波羅)の騒乱に巻き込まれたのは、まったく帝徳が天意に背いたためである。こうした罪を一身に負い主上(後醍醐天皇)は特に嘆いておられ、常には夜明けまで眠らず元老や賢臣たちを召して「舜・湯王・武王の古代聖天子の治世」のみ尋ね求め、「怪力乱神」(迷信的要素)については一切耳に入れようとされなかった。 解説
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| さて官軍は五月七日京中に寄て、合戦可有と被定ければ、篠村・八幡・山崎の先陣の勢、宵より陣を取寄て、西は梅津・桂里、南は竹田・伏見に篝を焼、山陽・山陰の両道は已に如此。又若狭路を経て、高山寺の勢共鞍馬路・高雄より寄るとも聞也。今は僅に東山道許こそ開たれども、山門猶野心を含める最中なれば、勢多をも指塞ぎぬらん。篭の中の鳥、網代の魚の如くにて、可漏方もなければ、六波羅の兵共、上には勇める気色なれ共、心は下に仰天せり。彼雲南万里の軍、「戸に有三丁抽一丁」といへり。況や又千葉屋程の小城一を責んとて、諸国の勢数を尽して被向たれ共、其城未落先に禍既に蕭牆の中より出て、義旗忽に長安の西に近付ぬ。防がんとするに勢少なく救はんとするに道塞れり。哀れ兼てよりかゝるべしとだに知たらば、京中の勢をばさのみすかすまじかりし物をと、両六波羅を始として後悔すれ共甲斐ぞなき。兼々六波羅に議しけるは、「今度諸方の敵牒合て、大勢にて寄るなれば、平場の合戦許にては叶まじ。要害を構て時々馬の足を休め、兵の機を扶て、敵近付ば、懸出々々可戦。」とて、六波羅の館を中に篭て、河原面七八町に堀を深く掘て鴨川を懸入たれば、昆明池の春の水西日を沈て、■淪たるに不異。 |
官軍が5月7日に京都市中へ迫り、合戦を開始すると決めたため、篠村・八幡・山崎の先陣部隊は前夜から布陣し始め、西側では梅津や桂里で、南側では竹田や伏見にかがり火を焚いた。山陽道と山陰道もすでに同様であった。また若狭路経由で高山寺勢が鞍馬路・高雄方面から迫っているとの情報もある。今はわずかに東山道だけが開いているものの、比叡山(山門)がいまだ敵意を抱えている最中なので、勢多関も塞いでしまうだろう。(六波羅側は)籠の中の鳥や網にかかった魚のように逃げ場がなくなり、兵士たちは表面では勇ましい様子を見せながらも内心は驚き慌てていた。かの中国雲南地方での遠征軍(故事を指す)で「一戸に三男あれば一人徴発する」と言うように、ましてや千葉家の屋敷ほどの小さな城一つを攻めるのに全国から大軍が派遣されたが、その城が落ちる前に内部から災いが生じ(蕭牆=内輪もめ)、官軍旗は突然京都西郊に接近した。防ごうにも兵力不足で救おうにも道が塞がれている。哀れなことに初めからこうなることを知っていたなら、京中の兵士をこれほど軽んじることもなかっただろうと両六波羅探題が後悔しても無駄である。以前に六波羅側は協議し「今回は四方の敵が連携して大軍で迫ってくるので平地での戦いは不可能だ。要害を構築し随時馬を休め、兵士の機動性を生かして敵接近時に出撃せよ」と決めたため、六波羅館を中心に籠城態勢を取り、河原付近約800mに深い堀を掘って鴨川から水を引き込んだ。その様子はまるで昆明池(古代中国の貯水池)の春の水面が夕日を沈めるように渦巻き波紋が広がっていた。 解説
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| 残三方には芝築地を高く築て、櫓をかき双べ、逆木を重く引たれば、城塩州受降城も角やと覚へてをびたゝし。誠に城の構は、謀あるに似たれ共智は長ぜるに非ず。「剣閣雖高憑之者蹶。非所以深根固蔕也。洞庭雖浚負之者北。非所以愛人治国也。」とかや。今已に天下二つに分れて、安危此一挙に懸たる合戦なれば、粮を捨て舟を沈る謀をこそ致さるべきに、今日より軈て後足を蹈で纔の小城に楯篭らんと、兼て心をつかはれける、武略の程こそ悲しけれ。 ○高氏被篭願書於篠村八幡宮事 去程に、明れば五月七日の寅刻に、足利治部大輔高氏朝臣、二万五千余騎を率して、篠村の宿を立給ふ。夜未だ深かりければ、閑に馬を打て、東西を見給ふ処に、篠村の宿の南に当て、陰森たる故柳疎槐の下に社壇有と覚て、焼荒たる燎の影の風なるに、宜祢が袖振鈴の音幽に聞へて神さびたり。何なる社とは知ねども、戦場に赴く門出なればとて、馬より下て甲を脱て、叢祠の前に跪き、「今日の合戦無事故、朝敵を退治する擁護の力を加へ給へ。」と祈誓を凝してぞ坐ける。時に賽しける巫に、「此社如何なる神を崇奉りたるぞ。」と問ひ給ければ、「是は中比八幡を遷し進らせてより以来、篠村の新八幡と申候也。」とぞ答申ける。足利殿、「さては当家尊崇の霊神にて御坐しけり。 |
残りの三方には芝生の土塁を高く築き、櫓を幾重にも並べ、逆茂木を何重も設置したため、城塞として有名な塩州受降城(中国唐代の要塞)さながらに見えた。確かにこの防御構えは策略があるように見えるが長期的知恵ではない。「剣閣は高しといえどそれに頼る者は必ず敗れる――根を深く固める策にあらず。洞庭湖は深しといえど背負う者は北走す――民を愛し国を治むる道にあらず」(『貞観政要』引用)と言われるように、今や天下が二分され存亡がこの一戦にかかっている状況で、退路を断つ決死の策(糧捨て舟沈め)を用いるべきなのに、今日以降もなお足踏みし小城に籠ろうとする消極的な姿勢は武略として悲しい限りだ。 ○高氏が篠村八幡宮へ願文を奉納したこと 解説
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| 機感最も相応せり。宜きに随て一紙の願書を献ばや。」と宣ひければ、疋壇妙玄、鎧の引合より矢立の硯を取出して、筆を引へて是を書。其詞に曰敬白祈願事夫以八幡大菩薩者、聖代前列之宗廟、源家中興之霊神也。本地内証之月、高懸于十万億土之天、垂迹外融之光、明冠於七千余座之上。触縁雖分化、聿未享非礼之奠、垂慈雖利生、偏期宿正直之頭。偉哉為其徳矣。挙世所以尽誠也。爰承久以来、当棘累祖之家臣、平氏末裔之辺鄙、恣執四海之権柄、横振九代之猛威。剰今遷聖主於西海之浪、困貫頂於南山之雲。悪逆之甚前代未聞。是為朝敵之最。為臣之道不致命乎。又為神敵之先。為天之理不下誅乎。高氏苟見彼積悪、未遑顧匪躬、将以魚肉菲、偏当刀俎之利、義卒勠力、張旅於西南之日、上将軍鳩嶺、下臣軍篠村。共在于瑞籬之影、同出乎擁護之懐。函蓋相応。誅戮何疑。所仰百王鎮護之神約也。懸勇於石馬之汗。所憑累代帰依之家運也。寄奇於金鼠之咀。神将与義戦耀霊威。徳風加草而靡敵於千里之外、神光代剣而得勝於一戦之中。丹精有誠、玄鑒莫誤矣。敬白元弘三年五月七日源朝臣高氏敬白とぞ読上たりける。文章玉を綴て、詞明かに理濃なれば、神も定て納受し御坐す覧と、聞人皆信を凝し、士卒悉憑を懸奉けり。足利殿自筆を執て判を居給ひ、上差の鏑一筋副て、宝殿に被納ければ、舎弟直義朝臣を始として、吉良・石塔・仁木・細川・今河・荒川・高・上杉、以下相順ふ人々、我も々もと上矢一づゝ献りける間、其箭社壇に充満て、塚の如くに積挙たり。 |
「まさに好機である。この場で願文を奉納しよう」とおっしゃったため、疋壇妙玄が鎧の間から矢立硯を取り出して筆記した。その文章にはこうあった。「謹んで申し上げます。八幡大菩薩は朝廷歴代の守護神であり源氏再興の霊威です。本地(仏身)は月のように遠く十万億土を照らし、垂迹(化身)として七千余社の中で最も輝かれる。縁あって現れた御神に対して礼を欠いた祭りをする者がいようとも、慈悲をもって衆生を救い正しい心を持つ者にご加護を与えられる。その威徳は偉大で世の全てが誠を尽くします。承久以来、北条氏(平家末裔)が勝手に国政を掌握し九代も猛威を振るった上、今や天皇(後醍醐帝)を隠岐へ流し皇太子(尊良親王)を土牢に幽閉する。この悪逆は前代未聞の朝敵第一であり神への冒涜です。臣下として命をかけねばならぬ道理、天が誅罰を与えざるを得ない道理があります。高氏はその悪行を見過ごせず身分など顧みず決起し、劣勢ながらも義兵が結束して西南で挙兵しました(注:足利軍の進撃経路)。上杉将軍鳩嶺に布陣し下僕たる私(尊氏)は篠村にいます。共に朝廷守護のもと行動する者同士、逆賊討伐に疑いなし。百王を守る神との誓いに勇気を得て石馬の汗をかけ(注:迅速さを示す故事)、代々信仰してきた家運に奇跡を託し金鼠が噛む如く城壁崩せますか(注:攻城戦術)。御神よ義軍と共に霊威を発揮してください。徳風は草を靡かせ千里の敵を倒し、神光は剣となり一戦で勝利を得させてください。誠心込めた願いがどうか届きますように。」元弘三年五月七日 源朝臣高氏と署名した。文章は珠玉をつなぎ論旨明快だったため「御神も必ず受け入れられる」と見聞きした者は皆信心を固め、兵士全員が祈りを捧げた。足利殿自ら筆を取り花押を記し鏑矢一本添えて本殿に納めたところ弟の直義朝臣をはじめ吉良・石塔・仁木・細川・今河・荒川・高・上杉以下家臣たちが次々と誓いの矢を奉納したため、社壇には塚のように矢が積み上がった。 解説
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| 夜既に明ければ前陣進で後陣を待。大将大江山の峠を打越給ける時、山鳩一番飛来て白旗の上に翩翻す。「是八幡大菩薩の立翔て護らせ給ふ験也。此鳩の飛行んずるに任て可向。」と、被下知ければ、旗差馬を早めて、鳩の迹に付て行程に、此鳩閑に飛で、大内の旧迹、神祇官の前なる樗木にぞ留りける。官軍此奇瑞に勇で、内野を指て馳向ける道すがら、敵五騎十騎旗を巻き甲を脱で降参す。足利殿篠村を出給し時は、僅に二万余騎有しが、右近馬場を過給へば、其勢五万余騎に及べり。 ○六波羅攻事 去程に六波羅には、六万余騎を三手に分て、一手をば神祇官の前に引へさせて、足利殿を防がせらる。一手をば東寺へ差向て、赤松を防がせらる。一手をば伏見の上へ向て、千種殿の被寄竹田・伏見を被支。巳の刻の始より、大手搦手同時に軍始まて、馬煙南北に靡き時の声天地を響かす。内野へは陶山と河野とに宗徒の勇士二万余騎を副て被向たれば、官軍も無左右不懸入、敵も輒不懸出両陣互に支て、只矢軍に時をぞ移しける。爰に官軍の中より、櫨匂の鎧に、薄紫の母衣懸たる武者只一騎、敵の前に馬を懸居て、高声に名乗けるは、「其身人数ならねば、名を知人よもあらじ。是は足利殿の御内に、設楽五郎左衛門尉と申者也。 |
夜が完全に明けたため先頭部隊は進みながら後続を待ち、大将(足利尊氏)が大江山の峠を越えた時、一羽の山鳩が白旗の上へひらりと舞い降りた。「これは八幡大菩薩が飛来して守護なさる証だ。この鳩の飛ぶままに進め」という命令が下ると、旗差し役は馬を急がせて鳩の後を追ったところ、その鳩はゆったりと飛んで神祇官(京都御所内)前にある樗木にとどまった。官軍(足利軍)はこの奇跡に勇気づけられ内野へ向かう途中で敵兵が五騎十騎と旗を巻き甲冑を脱いで投降した。足利殿が篠村を出発した時点ではわずかに二万余騎だったのが、右近馬場(京都御所周辺)を通ると兵力は五万余騎に達していた。 ○六波羅攻撃の件 解説
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| 六波羅殿の御内に、我と思はん人あらば、懸合て手柄の程をも御覧ぜよ。」と云侭に、三尺五寸の太刀を抜、甲の真向に差簪し、誠に矢所少く馬を立て引へたり。其勢ひ一騎当千とみへたれば、敵御方互に軍を止めて見物す。爰に六波羅の勢の中より年の程五十計なる老武者の、黒糸の鎧に、五枚甲の緒を縮て、白栗毛の馬に青総懸て乗たるが、馬をしづ/゛\と歩ませて、高声に名乗けるは、「其身雖愚蒙、多年奉行の数に加はて、末席を汚す家なれば、人は定て筆とりなんど侮て、あはぬ敵とぞ思ひ給ふ覧。雖然我等が先祖をいへば、利仁将軍の氏族として、武略累葉の家業也。今某十七代の末孫に、斎藤伊予房玄基と云者也。今日の合戦敵御方の安否なれば、命を何の為に可惜。死残る人あらば、我忠戦を語て子孫に留むべし。」と云捨て、互に馬を懸合せ、鎧の袖と々とを引違へて、むずと組でどうど落つ。設楽は力勝りなれば、上に成て斎藤が頚を掻く。斎藤は心早者なりければ、挙様に設楽を三刀刺す。何れも剛の者なりければ、死して後までも、互に引組たる手を不放、共に刀を突立て、同じ枕にこそ臥たりけれ。又源氏の陣より、紺の唐綾威の鎧に、鍬形打たる甲の緒を縮め、¥¥¥五尺余の太刀を抜て肩に懸、敵の前半町計に馬を駈寄て、高声に名乗けるは、「八幡殿より以来、源氏代々の侍として、流石に名は隠なけれ共、時に取て名を被知ねば、然べき敵に逢難し。 |
「六波羅方(北条軍)の中で私と対決しようと思う者がいるならば、かかってきて実力を見せてもらいたい」と言うなり三尺五寸の長大な太刀を抜き、兜の正面に差し込んで固定すると、矢が飛び交わない位置で馬を止め待機した。その姿はまさに一騎当千に見えたため敵味方ともに戦闘を中断して見物していた。そこへ六波羅勢の中から五十歳ほどの老武者が現れた。黒糸威しの鎧に五枚甲冑の緒を締め直し、白い馬体に青総覆いをかけた駿馬に乗り、ゆっくりと馬歩みながら大声で名乗った。「私は愚かな身分だが長年奉行職を務める家柄なので人々は文官扱いして相手にするまでもないと思っているだろう。しかし私の先祖を言えば利仁将軍(藤原利仁)の末裔として武勇伝統を受け継ぐ一族だ。今ここに十七代目の子孫である斎藤伊予房玄基と名乗る。今日の合戦は敵味方存亡がかかるゆえ、命を惜しむ理由などない。生き残った者が私の奮戦を語り伝えてくれればよい」と言い放つや両者は馬で激突し鎧袖をつかみ合って組み敷きあうと地面に倒れ込んだ。設楽は力が勝っていたため上から斎藤の首を斬ろうとしたが、斎藤も素早く三度太刀で相手を突いた。互いに剛勇だったため死後まで絡みあった腕を離さず両者刃を立てたまま同じ方向に倒れ伏した。さらに源氏方(足利軍)の陣から紺色唐綾威し鎧を着け鍬形前立付き兜の緒を固く締めた武者が五尺余りの太刀を抜いて肩にかつぎ、敵の二百メートル手前に馬を進めて大声で名乗った。「八幡殿(源義家)以来代々源氏に仕える侍として名声は隠れないものの時流で名を知られぬままでは良き相手にも巡り会えまい。」 解説
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| 是は足利殿の御内に大高二郎重成と云者也。先日度々の合戦に高名したりと聞ゆる陶山備中守・河野対馬守はおはせぬか、出合給へ。打物して人に見物せさせん。」と云侭に、手縄かいくり、馬に白沫嚼せて引へたり。陶山は東寺の軍強しとて、俄に八条へ向ひたりければ此陣にはなし。河野対馬守許一陣に進で有けるが、大高に詞を被懸て、元来たまらぬ懸武者なれば、なじかは少しもためらうべき、「通治是に有。」と云侭に、大高に組んと相近付く。是を見て河野対馬守が猶子に、七郎通遠とて今年十六に成ける若武者、父を討せじとや思けん、真前に馳塞て、大高に押双てむずと組。大高・河野七郎が総角を掴で中に提げ、「己れ程の小者と組で勝負はすまじきぞ。」とて、差のけて鎧の笠符をみるに、其文、傍折敷に三文字を書て着たりけり。さては是も河野が子か甥歟にてぞ有らんと打見て、片手打の下切に諸膝不懸切て落し、弓だけ三杖許投たりける。対馬守最愛の猶子を目の前に討せて、なじかは命を可惜、大高に組んと諸鐙を合て馳懸る処に、河野が郎等共是を見て、主を討せじと三百余騎にてをめゐて懸る。源氏又大高を討せじと、一千余騎にて喚て懸る。源平互に入乱て黒煙を立て責戦ふ。官軍多討れて内野へはつと引。 |
「これは足利殿(尊氏)配下である大高二郎重成と申す者だ。先日の合戦で度々武功を上げたという陶山備中守や河野対馬守はいないか?出てきて勝負せよ。一騎打ちを見物させよう」と言うなり手綱を引いて馬に泡を吹かせながら待機した。陶山は東寺方面の戦況が激しいため急ぎ八条へ向かい陣にはいなかった。河野対馬守(通治)だけが一隊を率いており、大高から挑発されて元来血気盛んな性格ゆえ躊躇する様子もなく「通治ここにあり」と叫ぶや組み討ち態勢で接近した。これを見た河野対馬守の養子・七郎通遠(当時16歳)が父を助けようとしたのか、前方へ駆け出し大高を押さえ込んで組みついた。大高は彼の髷をつかみ持ち上げ「お前ごとき小兵と勝負する気はない」と言い放ち鎧を見ると紋所に傍折敷三文字が描かれていた(河野氏家紋)。ならばこれも対馬守の縁者だろうと思い片手で振り下ろした太刀を膝へ当て切り落とし、弓矢ごと数メートル投げ飛ばした。最愛の養子を目の前で討たれた対馬守は命など惜しまず鐙を鳴らして突進するが、河野家臣三百騎も主君を救おうと押しかける。源氏方(足利軍)も大高を守るべく千余騎が叫びながら突入し、両軍入り乱れて黒煙上がる激戦となった結果官軍は多数の死者を出して内野へ撤退した。 解説
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| 源氏荒手を入替て戦ふに、六波羅勢若干討れて河原へさつと引ば、平氏荒手を入替て、此を先途と戦ふ。一条・二条を東西へ、追つ返つ七八度が程ぞ揉合ひたる。源平両陣諸共に、互に命を惜まねば、剛臆何れとは見へざりけれ共、源氏は大勢なれば、平氏遂に打負て、六波羅を指て引退く。東寺へは、赤松入道円心、三千余騎にて寄懸たり。楼門近く成ければ、信濃守範資、鐙踏張左右を顧て、「誰かある、あの木戸、逆木、引破て捨よ。」と下知しければ、宇野・柏原・佐用・真島の早り雄の若者共三百余騎、馬を乗捨て走り寄り、城の構を見渡せば、西は羅城門の礎より、東は八条河原辺まで、五六八九寸の琵琶の甲、安郡なんどを鐫貫て、したゝかに屏を塗、前には乱杭・逆木を引懸て、広さ三丈余に堀をほり、流水をせき入たり。飛漬らんとすれば、水の深さの程を不知。渡らんとすれば橋を引たり。如何せんと案煩ひたる処に、播磨の国の住人妻鹿孫三郎長宗馬より飛で下、弓を差をろして、水の深さを探るに、末弭僅に残りたり。さては我長は立んずる物を、と思ひければ、五尺三寸の太刀を抜て肩に掛、貫脱で抛すて、かつはと飛漬りたれば、水は胸板の上へも不揚、跡に続ひたる武部七郎是を見て、「堀は浅かりけるぞ。 |
源氏が先鋒部隊を入れ替えて戦う中、六波羅勢は何人か討たれて鴨川河原へ撤退したため平氏軍も新たな先鋒で代わり、「ここで決着をつけろ」と激しく攻めた。一条通りから二条通りの東西にわたって追ったり追い返されたり七、八度も入り乱れた戦闘となった。源平両陣営とも命を惜しまないため勇猛さでは優劣つかなかったが、源氏方が大軍だったので平氏は遂に敗れ六波羅へ向けて退却した。一方東寺には赤松円心入道が三千余騎で攻め寄せていた。楼門まで近づいた際、信濃守範資が鐙を踏みしめて左右を見渡し「誰かいるか?あの城門や逆茂木(防御柵)を破壊して捨てよ」と命令したので、宇野・柏原・佐用・真島ら若武者三百余騎が馬から飛び降り走って近づき、城砦を見渡すと西は羅城門の礎石から東は八条河原辺まで幅五六尺~八九寸(約180cm~270cm)の琵琶甲板や安郡材を鋲で打ち固めた頑丈な壁があり、前面には乱杭・逆茂木が組まれ、さらに三丈余り(約9m)の堀が掘られ水を引き込んでいた。飛び込もうにも水深は不明で渡ろうにも橋がないため困惑していたところ、播磨国の住人である妻鹿孫三郎長宗が馬上から跳躍し弓筈を使って深さを測ると矢先端だけかすかに残った。「ならば私の身長なら立てるはずだ」と考えた彼は五尺三寸(約160cm)の太刀を抜いて肩に担ぎ、鎧も脱いで投げ捨て「えいやっ」と飛び込んだ。水は胸甲上部まで届かず後続した武部七郎がこれを見て「堀は浅かったのだな!」 解説
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| 」とて、長五尺許なる小男が、無是非飛入たれば、水は甲をぞ越たりける。長宗きつと見返て、「我総角に取着てあがれ。」と云ければ、武部七郎、妻鹿が鎧の上帯を蹈で肩に乗揚り、一刎刎て向の岸にぞ着ける。妻鹿から/\と笑て、「御辺は我を橋にして渡たるや。いで其屏引破て捨ん。」と云侭に、岸より上へづんど刎揚り、屏柱の四五寸余て見へたるに手を懸、ゑいや/\と引に一二丈掘挙げて、山の如くなる揚土、壁と共に崩れて、堀は平地に成にけり。是を見て、築垣の上に三百余箇所掻双べたる櫓より、指攻引攻射ける矢、雨の降よりも猶滋し。長宗が鎧の菱縫、甲の吹返に立所の矢、少々折懸て、高櫓の下へつ走入り、両金剛の前に太刀を倒につき、上咀して立たるは、何れを二王、何れを孫三郎とも分兼たり。東寺・西八条・針・唐橋に引へたる、六波羅の兵一万余騎、木戸口の合戦強しと騒で、皆一手に成、東寺の東門の脇より、湿雲の雨を帯て、暮山を出たるが如、ましくらに打て出たり。妻鹿も武部もすはや被討ぬと見へければ、佐用兵庫助・得平源太・別所六郎左衛門・同五郎左衛門相懸りに懸て面も不振戦ふたり。「あれ討すな殿原。」とて、赤松入道円心、嫡子信濃守範資・次男筑前守貞範・三男律師則祐・真島・上月・菅家・衣笠の兵三千余騎抜連てぞ懸りける。 |
源氏軍が新鋭部隊で戦うと、六波羅勢の何人かが討たれて鴨川河原へ撤退したため平家軍も新手を投入し「ここで決着だ」と攻めた。一条通りから二条通りの東西一帯で追撃と反撃が七、八度繰り返される混戦となった。源氏・平家双方の兵士は命を惜しまないので勇猛さでは差が見えなかったものの、源氏方が大軍であったため平家はついに敗れて六波羅へ退却した。 一方東寺には赤松円心入道が三千余騎で攻め寄せていた。楼門近くまで迫った時、信濃守範資(円心嫡子)が鐙を踏みしめて左右を見渡し「誰かあの城門と逆茂木を破壊せよ」と命じたので宇野・柏原ら若武者三百余騎が馬から飛び降り突撃した。砦の構造を見ると西は羅城門礎石から東は八条河原まで琵琶甲板や安郡材で固めた頑丈な壁があり、前面には逆茂木が組まれ、幅三丈(約9m)の堀に水を引き込んでいた。飛び込むにも水深がわからず渡る橋もないため悩んでいる中、播磨国の武士・妻鹿孫三郎長宗が馬から跳躍し弓末で水深を測ると矢先端だけかすかに残った。「ならば私の背丈では立てるはずだ」と判断した彼は五尺三寸(約160cm)の太刀を肩にかけ鎧まで脱ぎ捨て飛び込んだ。水は胸当て上部にも届かなかったので後続の武部七郎が「堀は浅い!」と言って入ると、長宗より背丈のある彼では水面が兜頂上を超えた。 長宗が振り返り「私の髷につかまって登れ」と言うと武部七郎は妻鹿の鎧帯を踏み肩に乗り一気に対岸へ跳んだ。これを見た妻鹿は笑いながら「お前は俺を橋代わりにして渡ったな?ならばこの壁も破壊してやろう」と言って堀から飛び上がると、地中深く埋まった屏柱の一部に掴まり「えいやっ!」と引き抜いた。これにより数丈(約3-6m)も土砂が噴き上げ山のように積もり壁は崩れて堀全体が平地になった。 これを目撃した城壁上の櫓から三百余箇所の銃眼を塞ぐ勢いで矢が降り注ぎ始めた。雨よりも激しい射撃の中、長宗の鎧菱縫や兜吹返(頬当て)に次々と矢が刺さったため高櫓下へ走り込み両金剛像前に太刀を突き詰めて仁王立ちした姿は、仏像か武将かの見分けもつかないほどであった。 東寺・西八条周辺に布陣する六波羅軍一万余騎が「城門攻防戦が激しい」と騒ぎ一手となって反撃。東門横から夕暮れの山を覆う湿った雨雲のように暗く密集して押し寄せてきた。妻鹿も武部も討たれたかと思われた瞬間、佐用兵庫助ら味方が次々に突入して奮戦する。「あの者たちを見捨てるな!」と赤松円心自身が嫡子範資・次男貞範・三男則祐律師(当時は軍僧)と真島・上月ら三千余騎を率いて突撃した。 解説
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| 六波羅の勢一万余騎、七縦八横に被破て、七条河原へ被追出。一陣破て残党全からざれば、六波羅の勢竹田の合戦にも打負、木幡・伏見の軍にも負て、落行勢散々に、六波羅の城へ逃篭る。勝に乗て逃を追ふ四方の寄手五万余騎、皆一所に寄て、五条の橋爪より七条河原まで、六波羅を囲ぬる事幾千万と云数を不知。されども東一方をば態被開たり。是は敵の心を一になさで、輒く責落さん為の謀也。千種頭中将忠顕朝臣、士卒に向て被下知けるは、「此城尋常の思を成て延々に責ば、千葉屋の寄手彼を捨て、此後攻を仕つと覚るぞ。諸卒心を一にして一時が間に可責落。」と被下知ければ、出雲・伯耆の兵共、雑車二三百両取集て、轅と々とを結合せ、其上に家を壊て山の如くに積挙て、櫓の下へ指寄、一方の木戸を焼破けり。爰に梶井宮の御門徒、上林房・勝行房の同宿共、混甲にて三百余人、地蔵堂の北の門より、五条の橋爪へ打て出たりける間、坊門少将、殿法印の兵共三千余騎、僅の勢にまくり立られて、河原三町を追越る。されども山徒さすがに小勢なれば、長追しては悪かりなんとて、又城の中へ引篭る。六波羅に楯篭る所の軍勢雖少と、其数五万騎に余れり。此時若志を一にして、同時に懸出たらましかば、引立たる寄手共、足をためじとみへしか共、武家可亡運の極めにや有けん、日来名を顕せし剛の者といへ共不勇、無双強弓精兵と被云者も弓を不引して、只あきれたる許にて、此彼に村立て、落支度の外は儀勢もなし。 |
六波羅勢一万余騎があちこちで敗れて混乱し、七条河原へ追い詰められた。一度の戦闘では全滅せず残党がいたため、彼らは竹田での合戦でも負け、木幡・伏見方面の軍にも敗れ、散り散りになって六波羅城に逃げ込んだ。勝利に乗じた四方からの攻撃側五万余騎は一か所に集結し、五条橋の手前から七条河原までを包囲した兵数は幾千万とも知れなかったが、東側だけはわざと開けておいた。これは敵軍の結束を乱して容易に落城させるための策略である。 千種頭中将忠顕朝臣が兵士たちに命じた言葉は、「この城を普通の考えで長引かせて攻めれば、別方面(千葉屋)への援軍を見捨ねることになり、後から反撃されるだろう。全員一致団結して一気に落とせ」というものだった。これを受け出雲・伯耆の兵士らは雑車二三百台を集めて前後の轅をつなぎ合わせ、その上に壊した家屋を山のように積み上げて櫓の下へ押し寄せ、一方の城門を焼き破った。 六波羅城内の防衛兵力は少ないとはいえ五万騎以上いた。もしこの時全軍が一致して同時に出撃していれば、攻め手たちは足止まりされたはずだが、武家(平氏)滅亡の運命かどうか、日ごろ名高い剛勇者も臆病にふるまい、「無双」と呼ばれる弓の名手すら矢を放たず呆然と立ち尽くし、あちこちで小集団を作って落城準備以外何もしなかった。 解説
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| 名を惜み家を重ずる武士共だにも如此。何況主上・々皇を始進らせて、女院・皇后・北政所・月卿・雲客・児・女童・女房達に至るまで、軍と云事は未だ目にも見玉はぬ事なれば、時の声矢叫の音に懼をのゝかせ給ひて、「こは如何すべき。」と、消入計の御気色なれば、げにも理也。と御痛敷様を見進らするに就ても、両六波羅弥気を失て、惘然の体也。今まで無弐者とみへつる兵なれども、加様に城中の色めきたる様を見て、叶はじとや思ひけん、夜に入ければ、木戸を開逆木を越て、我れ先にと落行けり。義を知命を軽じて残留る兵、僅に千騎にも不足見へにけり。 ○主上・々皇御沈落事 爰に糟谷三郎宗秋、六波羅殿の前に参て申けるは、「御方の御勢次第に落て、今は千騎にたらぬ程に成て候。此御勢にて大敵を防がん事は叶はじとこそ覚へ候へ。東一方をば敵未だ取まはし候はねば、主上・々皇を奉取て、関東へ御下候て後、重て大勢を以て、京都を被責候へかし。佐々木判官時信、勢多の橋を警固して候を被召具ば、御勢も不足候まじ。時信御伴仕る程ならば、近江国に於ては手差者は候まじ。美濃・尾張・三河・遠江には御敵有とも承らねば、路次は定て無為にぞ候はんずらん。鎌倉に御着候なば、逆徒の退治踵を不可回、先思召立候へかし。 |
名声と家柄を重んじる武士たちさえこの有様である。ましてや天皇・皇子をはじめ、女院(皇太后)・皇后・北政所(高位貴族夫人)・公卿殿上人・高僧から子供・稚児・侍女に至るまで、戦争というものを全く経験したことがなかったため、鬨の声と矢が飛び交う音におののき、「これはどうすればよいのか」と消え入りそうな様子であった。道理も当然である。その心痛む姿を拝見するにつけても、六波羅探題(平氏側指揮官)はすっかり意気消沈し茫然自失の状態だった。 これまで忠誠心が厚いと思われていた兵士たちも、城内がこのように動揺している様子を見て勝ち目がないと考えたのだろう。夜になると城門を開け逆茂木(防御柵)を越え我先にと逃亡した。義理を知り命をも軽んじて残留する兵はわずか千騎にも満たないほどであった。 ○天皇・皇子の脱出行 解説
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| 是程にあさまなる平城に、主上・々皇を篭進らせて、名将匹夫の鋒に名を失はせ給はん事、口惜かるべき事に候はずや。」と、再三強て申ければ、両六波羅げにもとや被思けん、「さらば先、女院・皇后・北政所を始進せて、面々の女性少き人々を、忍びやかに落して後、心閑に一方を打破て落べし。」と評定有て、小串五郎兵衛尉を以て、此由院・内へ被申たりければ、国母・皇后・女院・北政所・内侍・上童・上臈女房達に至まで、城中に篭りたるが恐さに、思はぬ別の悲しさも、後何に成行んずる様をも不知。歩跣にて我先にと迷出給ふ。只金谷園裡の春の花、一朝の嵐に被誘て、四方の霞に散行し、昔の夢に不異。越後守仲時北の方に向て宣ひけるは、「日来の間は、縦思の外に都を去事有共、何くまでも伴ひ申さんとこそ思ひつれ共、敵東西に満て、道を塞ぎぬと聞ゆれば、心安く関東まで落延ぬとも不覚。御事は女性の身なれば苦しかるまじ。松寿は未幼稚なれば、敵設見付たりとも誰が子共よもしらじ。只今の程に、夜に紛れて何方へも忍出給て、片辺土の方にも身を隠し、暫く世の静まらん程を待給ふべし。道の程事故なく関東に着なば、頓て御迎に人を可進す。若又我等道にて被討ぬと聞給はゞ、如何なる人にも相馴て、松寿を人と成し、心付なば僧に成して、我後世を問せ給へ。 |
「このような見苦しい城の中に天皇・皇子をお閉じ込めにして、名もない兵士たちのために御名誉が傷つくことは、はなはだ遺憾ではありませんか」と糟谷三郎宗秋が繰り返し強く主張したため、六波羅探題(平氏側指揮官)はもっともと思ったようで、「それなら先に女院・皇后・北政所を始めとして、身分の高い女性や子供たちを密かに脱出させた後、落ち着いて一方向から突破しよう」と決議した。小串五郎兵衛尉を使ってこの旨を皇族方へ伝えたところ、国母(天皇生母)・皇后・女院・北政所・内侍・稚児・上級女房に至るまで皆、城の中で恐怖におののき、予想外の別れの悲しみと将来どうなるかもわからぬ中で、裸足であちこちへ我先にとさまよい出た。それはまるで金谷園(豪華な庭園)の春の花が突然の嵐に散らされ四囲にかき消えるようであり、昔の栄華が夢だったかのように見えた。 越後守仲時(北条仲時)は妻に対してこう言った。「これまではたとえ思いもよらず都を離れることがあってもどこへでもお伴しようと思っていた。しかし敵軍が東西を埋めて道を塞いだと聞けば、安心して関東まで逃げ延びるのは困難だ。あなたは女性だから捕らえられても苦しまないだろう。松寿(子供の名)はまだ幼く、たとえ敵に見つかっても誰の子かわかるまい。今すぐ夜に紛れてどこへでも密かに抜け出し、片田舎で身を隠して世の中が静まるまで待っていてほしい。もし無事に関東へ着いたら直ちにお迎えを出す。万が一私が途中で討たれたと聞いたならば、どんな人にでも頼って松寿を成人させよ。成長したら出家させて私の来世の安楽を祈ってもらいたい。」 解説
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| 」と心細げに云置て、泪を流て立給ふ。北の方、越後守の鎧の袖を引へて、「などや角うたてしき言葉に聞へ侍るぞや。此折節少き者なんど引具して、しらぬ傍にやすらはゞ、誰か落人の其方様と思はざらん。又日比より知たる人の傍に立宿らば、敵に捜し被出て、我身の恥を見のみにあらず、少き者の命をさへ失はん事こそ悲しけれ。道にて思の外の事あらば、そこにてこそ共に兎も角も成はてめ。憑む陰なき木の下に、世を秋風の露の間も、被棄置進らせては、ながらうべき心地もせず。」と、泣悲み給ければ、越後守も心は猛しといへども、流石に岩木の身ならねば、慕ふ別を捨兼て、遥に時をぞ移されける。昔漢の高祖と楚の項羽と戦ふ事七十余度也。しに、項羽遂に高祖に被囲て、夜明ば討死せんとせし時に、漢の兵四面にして皆楚歌するを聞て、項羽則帳中に入り、其婦人虞氏に向て、別を慕ひ悲みを含んで、自歌作て云、力抜山兮気蓋世。時不利兮騅不逝。々々々可奈何。虞氏兮々々々奈若何。と悲歌慷慨して、項羽泪を流し給しかば、虞氏悲みに堪兼て、則自剣の上に伏し、項羽に先立て死にけり。項羽明る日の戦に、二十八騎を伴て、漢の軍四十万騎を懸破り、自漢の将軍三人が首を取て、被討残たる兵に向て、「我遂に漢の高祖が為に被亡ぬる事戦の罪に非ず、天我を亡せり。 |
「このようなみっともない城に天皇・皇子をお閉じ込めにして、名もない兵士のために御名誉を失われることは、実に残念なことではありませんか。」と糟谷が繰り返し主張したため、六波羅探題(平氏側指揮官)は確かにそうだと思ったようで、「それではまず女院・皇后・北政所を始めとして女性や子供たちをひそかに脱出させてから落ち着いて一方向から突破しよう」と評議した。小串五郎兵衛尉を使ってこの旨を皇族方に伝えたところ、国母(天皇生母)・皇后・女院・北政所・内侍・稚児・上級女房たちまで皆、城の中での恐怖や予期せぬ別れの悲しみに将来も見通せず、裸足であちこちへ我先にと逃げ出した。それはまるで豪華な庭園の春の花が突然の嵐に散り四方にかき消えるようであり、昔の栄華は夢だったかのように思われた。 越後守仲時(北条仲時)は妻に向かって言った。「これまでは思いもよらず都を離れることがあってもどこへでもお伴しようと思っていたが、敵軍が東西に満ちて道を塞いだと聞けば安心して関東まで逃げ延びるのは難しい。あなたは女性だから捕らわれても苦しまないだろう。松寿(子供の名前)はまだ幼く仮に敵に見つかっても誰の子かわかるまい。今すぐ夜に紛れてどこへでも密かに抜け出し田舎で身を隠して世の中が静まるまで待ってほしい。無事に関東に着いたら直ちにお迎えの人を出すから。もし私たちが途中で討たれたと聞いたならどんな人にも頼り松寿を成人させよ。成長したら出家させ私の来世のために祈ってもらいたい。」と言葉少なげに告げ涙を流して立ち去った。 妻は越後守の鎧の袖をつかんで言う。「なぜそんな冷たいお言葉をおっしゃるのですか?こんな時に子供たちを連れて見知らぬ場所へ行けば逃れているとは思われまい。また知人に頼れば敵に見つかり私が恥をさらすだけでなく子供の命さえ失うことこそ悲しい。もし途中で不慮のことがあればその場で共に死んでしまおう。頼る木陰もない野原へ置き去りになどできません。」と泣き叫ぶので、越後守は心が強いといっても人間だから別れを惜しみ長い時間立ち尽くしていた。 昔漢の高祖(劉邦)と楚の項羽が七十度以上戦った。最後に項羽が包囲され夜明け前に討死しようとした時、周囲から敵軍(漢兵)による故郷の歌を聞き帳中に入り愛妾・虞氏に向かい別れを悲しんで自ら作詩した。「力を山抜くほどに世を覆い尽くすも 時に利あらずして駿馬進まず/やむなきかな虞よお前はどうするのか」と慷慨しながら涙を流されたので、虞氏は耐えかねて剣の上に伏せ項羽より先立って死んだ。翌日項羽は二十八騎で漢軍四十万騎を突破し敵将三人の首を取りながら残った兵に向かい言う。「私が敗れたのは戦い方の誤りではなく天が滅ぼしたのだ。」 解説
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| 」と、自運を計て遂に烏江の辺にして自害したりしも、角やと被思知て泪を落さぬ武士はなし。南方左近将監時益は、行幸の御前を仕て打けるが、馬に乍乗北方越後守の中門際まで打寄せて、「主上早寮の御馬に被召て候に、などや長々敷打立せ給はぬぞ。」と云捨て打出ければ、仲時無力鎧の袖に取着たる北の方少き人を引放して、縁より馬に打乗り、北の門を東へ打出給へば、被捨置人々、泣々左右へ別て、東の門より迷出給ふ。行々泣悲む声遥に耳に留て、離れもやらぬ悲さに、落行前の路暮て、馬に任て歩せ行。是を限の別とは互に知ぬぞ哀なる。十四五町打延て跡を顧れば、早両六波羅の館に火懸て、一片の煙と焼揚たり。五月闇の比なれば、前後も不見暗きに、苦集滅道の辺に野伏充満て、十方より射ける矢に、左近将監時益は、頚の骨を被射て、馬より倒に落ぬ。糟谷七郎馬より下て、其矢を抜ば、忽に息止にけり。敵何くに有とも知ねば、馳合て敵を可討様もなし。又忍て落る道なれば、傍輩に知せて可返合にてもなし。只同じ枕に自害して、後世までも主従の義を重ずるより外の事はあらじと思ければ、糟谷泣々主の頚を取て錦の直垂の袖に裹み、道の傍の田の中に深く隠して則腹掻切て主の死骸の上に重て、抱着てぞ伏たりける。 |
「こうした末路だと思い知り涙を流さない武士はいなかった。」南方左近将監時益(糟谷三郎宗秋)は天皇のお供をしながら進んでいたが、馬に乗って越後守仲時のいる中門のそばまで来て、「主上(後醍醐天皇)は早く逃げるための馬にお召しになっているのにどうして長々と立ち止まっていらっしゃるのですか」と言い捨てて先へ進んだ。すると仲時は無力に鎧の袖につかまる妻や子供を引き離し、縁から馬に乗って北門から東へ駆け出したので、残された人々は泣きながら左右に別れ東門からさまよい出た。進む途中で遠くまで聞こえる悲嘆の声が耳につまり離れるのがつらい悲しみの中、逃げる道も暗くなり馬を流すままに行くのはこれが永遠の別れと互いに知っている哀れさだった。十四、五町ほど進んだ後で振り返るともう両六波羅(北条氏の拠点)に火が放たれて一筋の煙となって燃え上がっていた。五月闇(暗い夜)なので前も見えない漆黒の中、「苦集滅道」(京都市内の地名か仏教用語由来地)付近に野伏りが充満し四方から射る矢によって左近将監時益は首の骨を射られ馬から倒れ落ちた。糟谷七郎(宗秋の一族?)が馬から降りその矢を抜くとたちまち息絶えた。敵がどこにいるかもわからないので戦うこともできず密かに逃げる道なので仲間にも知らせられない。ただ同じ場所で自害して後世まで主従の義を重んじること以外はあるはずがないと思い糟谷は泣きながら主君(時益)の首を取り錦の直垂(衣)の袖に包み込み道端の田の中深く隠した後に腹を切って主の死骸の上に覆いかぶさり抱いて伏していた。 解説
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| 竜駕遥に四宮河原を過させ給ふ処に、「落人の通るぞ、打留て物具剥。」と呼声前後に聞へて、矢を射る事雨の降が如し。角ては行末とても如何有べきとて、東宮を始進らせて供奉の卿相雲客、方々へ落散給ける程に、今は僅に日野大納言資名・勧修寺中納言経顕・綾小路中納言重資・禅林寺宰相有光許ぞ竜駕の前後には被供奉ける。都を一片の暁の雲に阻て、思を万里の東の道に傾させ給へば、剣閣の遠き昔も被思召合、寿水の乱れたりし世も、角こそと叡襟を悩し玉ひ、主上・々皇も御涙更にせきあへず。五月の短夜明やらで、関の此方も闇ければ、杉の木陰に駒を駐て、暫やすらはせ給ふ処に、何くより射る共知らぬ流矢、主上の左の御肱に立にけり。陶山備中守急ぎ馬より飛下て、矢を抜て御疵を吸に、流るゝ血雪の御膚を染て、見進らするに目もあてられず。忝も万乗の主、卑匹夫の矢前に被傷て、神竜忽に釣者の網にかゝれる事、浅猿かりし世中也。去程に篠目漸明初て、朝霧僅に残れるに、北なる山を見渡せば、野伏共と覚て、五六百人が程、楯をつき鏃を支て待懸たり。是を見て面々度を失てあきれたり。爰に備前国の住人中吉弥八、行幸の御前に候けるが、敵近く馬を懸寄て、「忝も一天の君、関東へ臨幸成処に、何者なれば加様の狼籍をば仕るぞ。 |
天皇一行は遠く四宮河原を通り過ぎようとしたところ、「落ち武者が通るぞ、止めろ!鎧を奪え!」という叫び声が前後に聞こえ、矢が雨のように降り注いだ。このままでは先もどうなるかわからないと判断し、皇太子(東宮)をはじめ供奉する公卿や臣下たちは四方へ散らばってしまった。今となっては日野大納言資名・勧修寺中納言経顕・綾小路中納言重資・禅林寺宰相有光といったわずかな者だけが天皇の前後に付き従っている状態だった。 都を去るという夜明け前の暗さに阻まれ、万里も離れた東国(鎌倉)への道行きに心を砕かれる様子は、昔の中国皇帝が剣閣で苦難に遭った故事や乱世の唐玄宗帝の逃亡をも思い起こさせた。天皇と皇太子は涙を抑え切れない。五月の短い夜も明けきらないうちに関所(逢坂関か)を越えたため周囲が暗く、杉木陰で馬を止めて一休みしていたところへ、どこからともなく流れ矢が飛んできて天皇の左腕に突き刺さった。陶山備中守は急いで馬から飛び降り、矢を抜いて傷口の血を吸うと、溢れる鮮血が雪のように白い肌を染め、見ているのもつらかった。 尊い万乗(天皇)の君主が卑しい敵兵の流れ矢に当たるとは、まるで神竜が突然釣り人の網にかかるようであり、実に嘆かわしい時代であった。やがて薄明かりが差し始め朝霧が残っている中で北側の山を見渡すと、野伏(雑兵)と思われる者たち五、六百人が盾を並べ矢を構えて待ち受けていた。これを見た一同は呆然として度肝を抜かれた。 その時備前国住人中吉弥八が天皇御前に進み出て言う。「ありがたいことに天子様が関東へ行幸されるというのに、何者だ!このような無法な真似をするとは!」 解説
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| 心ある者ならば、弓を伏せ甲を脱で、可奉通。礼儀を知ぬ奴原ならば、一々に召捕て、頚切懸て可通。」と云ければ、野伏共から/\と笑て、「如何なる一天の君にても渡らせ給へ、御運已に尽て、落させ給はんずるを、通し進らせんとは申まじ。輒く通り度思食さば、御伴の武士の馬物具を皆捨させて、御心安く落させ給へ。」と云もはてず、同音に時をどつど作る。中吉弥八是を聞て、「悪ひ奴原が振舞哉。いでほしがる物具とらせん。」と云侭に、若党六騎馬の鼻を双べて懸たりけるに、慾心熾盛の野伏共、六騎の兵に被懸立て、蛛の子を散す如く、四角八方へぞ逃散ける。六騎の兵、六方へ分て、逃るを追事各数十町也。弥八余に長追したりける程に、野伏二十余人返合て、是を中に取篭る。然共弥八少もひるまず、其中の棟梁と見へたる敵に、馳並べてむずと組、馬二疋が間へどうど落て、四五丈許高き片岸の上より、上に成下に成ころびけるが、共に組も放れずして深田の中へころび落にけり。中吉下に成てければ、挙様に一刀さゝんとて、腰刀を捜りけるにころぶ時抜てや失たりけん、鞘許有て刀はなし。上なる敵、中吉が胸板の上に乗懸て、鬢の髪を掴で、頚を掻んとしける処に、中吉刀加へに、敵の小腕を丁と掬りすくめて、「暫く聞給へ、可申事あり。 |
天皇一行が遠く四宮河原を通り過ぎようとしたところ、「落ち武者が通るぞ!止めて鎧を奪え!」という叫び声が前後に響き、矢が雨のように降り注いだ。このままでは先もどうなるかわからないと判断し、皇太子(東宮)をはじめ供奉する公卿や臣下たちは四方へ散らばってしまった状況の中で、今となっては日野大納言資名・勧修寺中納言経顕・綾小路中納言重資・禅林寺宰相有光といったわずかな者だけが天皇の前後に付き従っていた。都を離れる夜明け前の暗雲に阻まれ、万里も離れた東国(鎌倉)への道行きに心を砕かれる様子は、昔の剣閣での苦難や乱世の玄宗皇帝逃亡をも思い起こさせた。天皇と皇太子は涙を抑え切れない。五月の短い夜も明けきらないうちに関所(逢坂関)付近が暗かったため杉木陰で馬を止めて一休みしていたところ、どこからともなく流れ矢が飛んできて天皇の左腕に突き刺さった。陶山備中守は急いで馬から飛び降り矢を抜いて傷口の血を吸うと、溢れる鮮血が雪のように白い肌を染め上げる様子は見ているのもつらかった。 尊い天皇陛下(万乗の主)が卑しい敵兵の流れ矢に当たるとは、神竜が突然釣り人の網にかかるようであり実に嘆かわしい時代であった。やがて薄明かりが差し始め朝霧が残っている中で北側の山を見渡すと、野伏(雑兵)と思われる五、六百人が盾を並べ矢を構えて待ち受けていた。これを見た一同は呆然とした。 そこへ備前国住人中吉弥八が天皇御前に進み出て言う。「ありがたいことに天子様が関東へ行幸されるというのに何者だ!このような無法な真似をするとは!礼儀を知る者なら弓を伏せ甲冑を脱いで通すべきである。無作法な奴らであれば一人残らず捕らえて首を刎ねて通ろう。」と語ると、野伏どもは「どんな天子でも運が尽き落ち延びようとする者を通すわけにはいくまい。どうしても通りたいなら供の武士たちに馬具鎧甲を全て捨てさせろ」と言い終わらないうちに一斉に鬨の声を上げた。 中吉弥八はこれを聞いて「憎むべき奴らの振る舞いよ!欲しがる武具を与えてやろう。」と言うと、若党六騎で馬を並べて突撃した。すると欲望に駆られた野伏どもはわずか六騎の兵に追われて蜘蛛の子を散らすように四方八方へ逃げ出した。六人の兵が各方向へ数十町(約4km)も追いかける中、弥八だけが深く追撃しすぎたため二十人余りの野伏に反転されて包囲された。 しかし弥八は少しもひるまず、敵の棟梁らしき者と馬を並べて組み合いながら二頭の馬の間からどさりと落ちた。四丈(約12m)ほどの高い岸壁の上で揉み合ううちに二人とも離れず深田へ転がり落ち、弥八は下敷きになった状態だった。何とか一刀を加えようと腰刀を探ると落下時に抜け落ちたらしく鞘だけ残っていた。その時上の敵が胸当ての上に乗りかかり鬢髪をつかんで首を斬ろうとしたところ、弥八は代わりに相手の小腕をぐっと掴み「少し待ってくれ!言うことがある」と叫んだ。 解説
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| 御辺今は我をな恐給ふそ、刀があらばこそ、刎返して勝負をもせめ。又続く御方なければ、落重て我を助る人もあらじ。されば御辺の手に懸て、頚を取て被出さたりとも、曾実検にも及まじ、高名にも成まじ。我は六波羅殿の御雑色に、六郎太郎と云者にて候へば、見知ぬ人は候まじ。無用の下部の頚取て罪を作り給はんよりは、我命を助てたび候へ、其悦には六波羅殿の銭を隠くして、六千貫被埋たる所を知て候へば、手引申て御辺に所得せさせ奉ん。」と云ければ、誠とや思けん、抜たる刀を鞘にさし、下なる中吉を引起して、命を助るのみならず様々の引出物をし、酒なんどを勧て、京へ連て上りたれば、弥八六波羅の焼跡へ行、「正しく此に被埋たりし物を、早人が掘て取たりけるぞや。徳着け奉んと思たれば、耳のびくが薄く坐しけり。」と欺て、空笑してこそ返しけれ。中吉が謀に道開けて、主上其日は篠原の宿に着せ給ふ。此にて怪しげなる網代輿を尋出て、歩立なる武者共俄に駕輿丁の如くに成て、御輿の前後をぞ仕りける。天台座主梶井二品親王は、是まで御供申させ給ひたりけるが、行末とても道の程心安く可過共覚させ給はねば、何くにも暫し立忍ばゞやと思召て、「御門徒に誰か候。」と御尋有けれ共、「去ぬる夜の路次の合戦に、或は疵を蒙て留り、或は心替して落けるにや。 |
中吉弥八(なかよしやはち)が野伏に言う。「あなたは今、私を恐れる必要はありません。刀があればこそ首を刎ね返して勝負もしたでしょう。また後続の味方もいないので、深田に落ちた私を助ける者もいません。だからあなたが手にかけて首を取り出したとしても、それは実戦での手柄にもならず、名誉にもならないのです。私は六波羅探題(ろくはらたんだい)の雑用係で六郎太郎(ろくろうたろう)という者ですから、知らない人はいないでしょう。役に立たない下僕の首を取って罪を作るより、私の命を助けてください。そのお礼として、六波羅探題が隠した六千貫文のお金が埋められている場所を知っていますので、手を引いてあなたに差し上げましょう。」と言うと、野伏は真実と思ったのか抜いた刀を鞘に収め、下敷きになっていた中吉を引き起こして命を助けただけでなく、様々な贈り物までし、酒などを勧めて京都へ連れて上った。しかし弥八が六波羅の焼け跡に行って「確かにここに埋まっていたものが誰か早くも掘り取っていましたね。恩返ししようと思いましたが期待外れです」と騙してからかうと、空笑いしながら帰ってしまった。 中吉の策略で道が開かれ、天皇(主上)はその日に篠原(しのはら)の宿に到着なさった。ここで怪しい網代輿(あじろごし)を見つけ出し、徒歩の武士たちが急遽駕輿丁(かよちょう・輿担ぎ役)のように変身して御輿の前後を仕えた。 天台座主である梶井門跡(かじいもんぜき)の二品親王(にほんしんのう)はこれまでお供していたが、この先も道中が安全とは思えなかったため、「どこかに身を隠そう」と考えて「私の弟子で誰かいませんか?」と尋ねられた。しかし「昨夜の途中の戦いで傷ついて留まった者や心変わりして逃げた者がいるようだ。」(後略) 解説
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| 中納言僧都経超、二位寺主浄勝二人より外は供奉仕りたる出世・坊官一人も候はず。」と申ければ、さては殊更長途の逆旅叶ふまじとて、是より引別て、伊勢の方へぞ赴かせ給ける。さらでだに山立多き鈴鹿山を、飼たる馬に白鞍置て被召たらんは、中々道の可為讎とて、御馬を皆宿の主じに賜て、門主は長々と蹴垂たる長絹の御衣に、檳榔の裏無を被召、経超僧都は、袙重ねたる黒衣に、水精の念珠手に持て、歩兼たる有様、如何なる人も是を見て、すはや是こそ落人よと、思はぬ者は不可有。され共山王大師の御加護にや依けん、道に行逢奉る山路の樵、野径の蘇、御手を引御腰を推て、鈴鹿山を越奉る。さて伊勢の神官なる人を、平に御憑有て御坐しけるに、神官心有て身の難に可遇をも不顧、兎角隠置進せければ、是に三十余日御忍有て、京都少し静りしかば還御成て、三四年が間は、白毫院と云処に、御遁世の体にてぞ御坐有ける。 ○越後守仲時已下自害事 去程に、両六波羅京都の合戦に打負て、関東へ被落由披露有ければ、安宅・篠原・日夏・老曾・愛智川・小野・四十九院・摺針・番場・醒井・柏原、其外伊吹山の麓、鈴鹿河の辺の山立・強盜・溢者共二三千人、一夜の程に馳集て、先帝第五の宮御遁世の体にて、伊吹の麓に忍で御坐有けるを、大将に取奉て、錦の御旗を差挙げ、東山道第一の難所、番馬の宿の東なる、小山の峯に取上り、岸の下なる細道を中に夾みて待懸たり。 |
中納言僧都の経超と二位寺主である浄勝の二人以外には、お供していた出世者や坊官は一人もいませんでした。」と申し上げると、親王はそれではわざわざ長旅を続けるのは難しいと思われて、ここで別れ、伊勢の方へ向かわれた。そもそも山賊が多い鈴鹿山なのに、飼い慣らした馬に白鞍をつけてお乗りになることは、却って道中での敵対行為を招くと考えられ、御馬はすべて宿の主人に与えられた。門主(親王)は長々と裾を引きずった絹の御衣に檳榔毛の裏地なしの服をお召しになり、経超僧都は袙を重ねた黒衣で水晶の念珠を手に持ち、歩き疲れた様子であった。どんな人でもこれを見て、「これは逃亡者だ」と思わない者はなかっただろう。しかし山王大師(比叡山守護神)のご加護によるものか、道中に出会った山中の木こりや野原の草刈りが御手を引き御腰を支えて鈴鹿山をお越し申し上げた。 その後伊勢の神官にひそかに身柄をご託けになったところ、その神官は忠誠心から自身が危難に遭うのも顧みず、何とか隠してお世話したため、ここで三十余日間潜伏されていた。京都が少し静まったのでお戻りになり、三四年の間は白毫院という場所で遁世者のような生活を送られていた。 ○ 越後守仲時以下の自害について 解説
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| 夜明ければ越後守仲時、篠原の宿を立て、仙蹕を重山の深きに促し奉る。都を出し昨日までは、供奉の兵二千騎に余りしかども、次第に落散けるにや、今は僅に七百騎にも足ざりけり。「若跡より追懸奉る事もあらば、防矢仕れ。」とて、佐々木判官時信をば後陣に打せられ、「賊徒道を塞ぐ事あらば、打散して道を開よ。」とて、糟谷三郎に先陣を被打せ、鸞輿迹に連て、番馬の峠を越んとする処に、数千の敵道を中に夾み、楯を一面に双て、矢前をそろへて待懸たり。糟谷遥に是を見て、「思ふに当国・他国の悪党共が、落人の物具剥がんとてぞ集りたるらん。手痛く当て捨る程ならば、命を惜まで戦ふ程の事はよも非じ。只一懸に駈散して捨よ。」と云侭に、三十六騎の兵共馬の鼻を並てぞ掛たりける。一陣を堅めたる野伏五百余人、遥の峯へまくり揚られて、二陣の勢に逃加る。糟谷は一陣の軍には打勝つ、今はよも手に碍る者非じと、心安く思て、朝霧の晴行侭に、可越末の山路を遥に見渡したれば、錦の旗一流、峯の嵐に翻して、兵五六千人が程要害を前に当て待掛たり。糟谷二陣の敵大勢を見て、退屈してぞ引へたる。重て懸破んとすれば、人馬共に疲れて、敵嶮岨に支へたり。相近付て矢軍をせんとすれば、矢種皆射尽して、敵若干の大勢也。 |
夜が明けると越後守仲時(えちごのかみなかとき)は篠原の宿を出発し、天皇一行(仙蹕せんぴつ)を深い山中へ急ぎ案内した。都を離れた当初は供奉兵二千騎以上いたが次第に脱落してしまったためか、今ではわずか七百騎にも満たなかった。「もし後方から追撃があれば防戦せよ。」と言って佐々木判官時信(ささきほうがんときのぶ)を後陣に配置し、「賊徒が道を塞ぐことがあれば打ち破って進路を開け。」と糟谷三郎(かすやさぶろう)に先鋒隊を命じた。御輿(鸞輿らんよ)の跡について番馬峠(ばんまのとうげ)を越えようとしたところ、数千の敵が道路両側から挟み撃つように盾を並べ矢を構えて待ち伏せていた。糟谷は遠くこれを見て、「どうやらこの国や他国の悪党どもが落人(逃亡者)の装備を奪おうと集まっているようだ。手痛い打撃を与える程度なら命惜しさに死ぬまで戦うほどのことはあるまい。ただ一気に突き破って駆逐せよ。」と言うや否や三十六騎の兵士たちは馬を並べて攻めかかった。第一陣として備えた野伏五百人以上が遠くの峠へ追い立てられ、第二陣のもとに逃げ込んだ。糟谷は一軍には勝利したので「今となってはもう手ごわい相手はいないだろう」と安心し朝霧の中を進みながら残りの山路を見渡すと錦の旗一本が峰の風にひらめき兵士五六千人もの大群が要害に陣取って待ち構えていた。糟谷は二軍である敵の大勢を見て意気消沈して退いた。改めて突撃しようとしたところ人馬ともに疲れており敵は険しい地形で守りを固めている。近づいて矢戦を行おうとしても矢がすっかり尽きてしまい敵方は数え切れないほどの大軍だった。 解説
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| 兎にも角にも可叶とも覚へざりければ、麓に辻堂の有けるに、皆下居て、後陣の勢をぞ相待ける。越後守は前陣に軍有と聞て、馬を早めて馳来給ふ。糟谷三郎、越後守に向て申けるは、「弓矢取の可死処にて死せざれば恥を見と申し習はしたるは理にて候けり。我等都にて可打死候し者が、一日の命を惜て是まで落もて来て、今云甲斐なき田夫野人の手に懸て、尸を路径の露に曝さん事こそ口惜候へ。敵此一所許にて候はゞ身命を捨て、打払ても可通候が、推量仕るに、先土岐が一族、最初より謀叛の張本にて候しかば、折を得て、美濃国をば通さじとぞ仕候はんずらん。吉良の一族も度々の召に不応して、遠江国に城郭を構て候と、風聞候しかば、出合ぬ事は候はじ。此等を敵に受ては、退治せん事、恐くは万騎の勢にても難叶。況我等落人の身と成て、人馬共に疲れ、矢の一双をも、はか/゛\しく射候べき力もなく成て候へば、何く迄か落延候べき。只後陣の佐々木を御待候て、近江国へ引返し、暫さりぬべからんずる城に楯篭て、関東勢の上洛し候はんずるを御待候へかし。」と申ければ、越後守仲時も、「此義を存ずれ共、佐々木とても今は如何なる野心か存ずらんと、憑少く覚れば、進退谷て、面々の意見を訪申さんと存ずる也。 |
ともかくどうにもならないと悟ったので、麓にある辻堂へ皆で降りて後陣の部隊を待ち受けた。越後守仲時は前軍での戦いを知って馬を早め駆けつけられた。糟谷三郎が越後守に向かって申し上げた。「武士として死ぬべき場所で死なねば恥とされるのは当然です。私など都で討ち死にすべき身ながら一日の命を惜しんでここまで落ち延び、今となっては取るに足らない百姓野郎どもの手にかかって屍が道端に晒されようとは実に無念です。敵がこの一箇所だけなら命を捨てても突破できましょうが、推測するに土岐一族が最初から謀反の首謀者であったので機会を得て美濃国を通させまいとしているはず。吉良一族も度々召喚に応じず遠江国で城郭を構えているとの噂があり遭遇は避けられません。これらを敵に回して打ち破るのは万騎の軍勢でも困難、ましてや落人となった我々は人馬ともに疲れ矢もろくに射られる力すらない有様でどこまで逃げ延びられましょうか。ただ後陣の佐々木殿をお待ちした上で近江国へ引き返し、仮にも城塞に籠って関東勢(北条軍)が都へ攻め上がるのを待つべきでしょう。」と述べたところ、越後守仲時も「この道理は承知している。しかし佐々木といえど今やどんな野心を持つか分からず頼りにならぬので進退に窮し各人の意見を尋ねたい」と言われた。 解説
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| さらば何様此堂に暫く彳て、時信を待てこそ評定あらめ。」とて、五百余騎の兵共、皆辻堂の庭にぞ下居たる。佐々木判官時信は一里許引さがりて、三百余騎にて打けるが、如何なる天魔波旬の所為にてか有けん、「六波羅殿は番馬の当下にて、野伏共に被取篭て一人も不残被討給たり。」とぞ告たりける。時信、「今は可為様無りけり。」と愛智河より引返し、降人に成て京都へ上りにけり。越後守仲時、暫は時信を遅しと待給けるが、待期過て時移ければ、さては時信も早敵に成にけり。今は何くへか引返し、何くまでか可落なれば、爽に腹を切らんずる物をと、中々一途に心を取定て、気色涼くぞ見へける。其時軍勢共に向て宣ひけるは、「武運漸傾て、当家の滅亡近きに可在と見給ひながら、弓矢の名を重じ、日来の好みを不忘して、是まで着纏ひ給へる志、中々申に言は可無る。其報謝の思雖深と、一家の運已に尽ぬれば、何を以てか是を可報。今は我旁の為に自害をして、生前の芳恩を死後に報ぜんと存ずる也。仲時雖不肖也。平氏一類の名を揚る身なれば、敵共定て我首を以て、千戸侯にも募りぬらん。早く仲時が首を取て源氏の手に渡し、咎を補て忠に備へ給へ。」と、云はてざる言の下に、鐙脱で押膚脱、腹掻切て伏給ふ。 |
「それではこの堂でしばらく待ち時信を迎えて作戦会議を行おう。」と言って五百余騎の兵たちは皆辻堂の中庭に下馬した。佐々木判官時信は一里ほど後方に退いていた三百余騎と共にいたが、天魔波旬(悪魔)の仕業か「六波羅殿(越後守一行)は番馬峠付近で野伏たちに包囲され全滅した」との虚報を受けた。時信は「もはや打つ手なし」として愛知川から引き返し降伏して京都へ戻ってしまった。一方、越後守仲時は当初遅れているだけかと待っていたが約束の時間を過ぎても来ないため、「時信までも早くも敵方になったな。今さらどこに退きどれほど落ち延びられようか? 思い切って腹を切ろうではないか」と覚悟を決め、表情は涼やかに見えた。そして兵士たちに向けて宣言された。「武運尽きて北条家の滅亡が近いことはわかっていたのに、武士としての名誉を重んじ日頃の恩義を忘れずここまで従ってくれた志は言葉にできないほど感謝している。しかし一族の命運すでに果てた今、どうお礼すればよいのか? せめて私と共に自害し生前の恩に死後でも報いようと思う。仲時は無能ではあるが平氏一門(北条家)の名を高めた身だ。敵も必ず我々の首で領地を得ようとするだろうから、早く仲時の首を取り源氏方へ渡し罪償いに忠節を示せ。」と言い終わらぬうちに鐙から足を抜き衣を脱ぎ捨て腹を切って倒れられた。 解説
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| 糟谷三郎宗秋是を見て、泪の鎧の袖に懸りけるを押へて、「宗秋こそ先自害して、冥途の御先をも仕らんと存候つるに、先立せ給ぬる事こそ口惜けれ。今生にては命を際の御先途を見終進らせつ。冥途なればとて見放可奉に非ず。暫御待候へ。死出の山の御伴申候はん。」とて、越後守の、鞆口まで腹に突立て被置たる刀を取て、己が腹に突立、仲時の膝に抱き付、覆にこそ伏たりけれ。是を始て、佐々木隠岐前司・子息次郎右衛門・同三郎兵衛・同永寿丸・高橋九郎左衛門・同孫四郎・同又四郎・同弥四郎左衛門・同五郎・隅田源七左衛門尉・同孫五郎・同藤内左衛門尉・同与一・同四郎・同五郎・同孫八・同新左衛門尉・同又五郎・同藤六・同三郎・安藤太郎左衛門入道・同孫三郎入道・同左衛門太郎・同左衛門三郎・同十郎・同三郎・同又次郎・同新左衛門・同七郎三郎・同藤次郎・中布利五郎左衛門・石見彦三郎・武田下条十郎・関屋八郎・同十郎・黒田新左衛門・同次郎左衛門・竹井太郎・同掃部左衛門尉・寄藤十郎兵衛・皆吉左京亮・同勘解由七郎兵衛・小屋木七郎・塩屋右馬充・同八郎・岩切三郎左衛門・子息新左衛門・同四郎・浦上八郎・岡田平六兵衛・木工介入道・子息介三郎・吉井彦三郎・同四郎・壱岐孫四郎・窪二郎・糟谷弥次郎入道・同孫三郎入道・同六郎・同次郎・同伊賀三郎・同彦三郎入道・同大炊次郎・同次郎入道・同六郎・櫛橋次郎左衛門尉・南和五郎・同又五郎・原宗左近将監入道・子息彦七・同七郎・同七郎次郎・同平右馬三郎・御器所七郎・怒借屋彦三郎・西郡十郎・秋月二郎兵衛・半田彦三郎・平塚孫四郎・毎田三郎・花房六郎入道・宮崎三郎・同太郎次郎・山本八郎入道・同七郎入道・子息彦三郎・同小五郎・子息彦五郎・同孫四郎・足立源五・三河孫六・広田五郎左衛門・伊佐治部丞・同孫八・同三郎・息男孫四郎・片山十郎入道・木村四郎・佐々木隠岐判官・二階堂伊予入道・石井中務丞・子息弥三郎・同四郎・海老名四郎・同与一・弘田八郎・覚井三郎・石川九郎・子息又次郎・進藤六郎・同彦四郎・備後民部大夫・同三郎入道・加賀彦太郎・同弥太郎・三嶋新三郎・同新太郎・武田与三・満王野藤左衛門・池守藤内兵衛・同左衛門五郎・同左衛門七郎・同左衛門太郎・同新左衛門・斎藤宮内丞・子息竹丸・同宮内左衛門・子息七郎・同三郎・筑前民部大夫・同七郎左衛門・田村中務入道・同彦五郎・同兵衛次郎・信濃小外記・真上彦三郎・子息三郎・陶山次郎・同小五郎・小見山孫太郎・同五郎・同六郎次郎・高境孫三郎・塩谷弥次郎・庄左衛門四郎・藤田六郎・同七郎・金子十郎左衛門・真壁三郎・江馬彦次郎・近部七郎・能登彦次郎・新野四郎・佐海八郎三郎・藤里八郎・愛多義中務丞・子息弥次郎、是等を宗徒の者として、都合四百三十二人、同時に腹をぞ切たりける。 |
糟谷三郎宗秋はこの様子を見て、涙が鎧の袖にかかるのをこらえ、「私は先に自害してあの世へのお先導役も務めようと思っていたのに、(主君である仲時さまが)先にお亡くなりになるとは無念です。この世では命のあるうちに見送ることは果たしましたが、冥土であっても見捨てるわけにはまいりません。しばらくお待ちください。死出の山への道連れを申し上げましょう。」と言って、越後守(仲時)のお腹に突き刺さったまま置かれていた刀を取り上げると、自身の腹へ突き立てて仲時の膝に抱きつき、覆いかぶさるようにして倒れた。これを皮切りにして、佐々木隠岐前司・その子次郎右衛門・同じく三郎兵衛・同永寿丸(以下、列挙された武将全員)ら主従の者として合計432人が同時に腹を切った。 解説
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| 血は其身を浸して恰黄河の流の如く也。死骸は庭に充満して、屠所の肉に不異。彼己亥の年、五千の貂錦胡塵に亡び、潼関の戦に、百万の士卒河水に溺れなんも、是にはよも過じと哀なりし事共、目もあてられず、言に詞も無りけり。主上・々皇は、此死人共の有様を御覧ずるに、肝心も御身に不傍、只あきれてぞ坐しましける。 ○主上・々皇為五宮被囚給事付資名卿出家事 去程に五宮の官軍共、主上・々皇を取進らせて其日先長光寺へ入奉り、三種神器並玄象・下濃・二間の御本尊に至まで、自五宮の御方へぞ被渡ける。秦の子嬰漢祖の為に被亡て天子の璽符を頚に懸、白馬素車に乗て、■道の傍に至り給ひし亡秦の時に不異。日野大納言資名卿は、殊更当今奉公の寵臣也。しかば、如何なる憂目をか見んずらんとて、身を危ぶんで被思ければ、其辺の辻堂に遊行の聖の有ける処へおはして、可出家由を宣ひければ、聖軈て戒師と成て、無是非髪を剃落さんとしけるを、資名卿聖に向て、「出家の時は、何とやらん四句の偈を唱る事の有げに候者を。」と被仰ければ、此聖其文をや知ざりけん、「汝是畜生発菩提心。」とぞ唱たりける。三河守友俊も同く此にて出家せんとて、既に髪を洗けるが、是を聞て、「命の惜さに出家すればとて、汝は是畜生也。 |
血は彼らの身体を浸してまるで黄河の流れのようであった。死骸は庭に充満し、屠殺場の肉塊と変わらない様子だった。過去の己亥の年(紀元前262年の戦国時代)、五千もの精鋭が異国の地で滅び、潼関の戦いでは百万の兵士が黄河に溺れ死んだといわれるが、それもこの光景には及ばないほど悲惨で、目を向けることもできず、言葉もないほどの有様であった。主上(後醍醐天皇)と皇太子(量仁親王)はこれらの死者の状況をご覧になり、肝心要の気力すら失われ、ただ呆然としておられた。 ○ 主君や皇子が五宮(尊雲法親王=護良親王)に囚われたこと、および資名卿出家について 解説
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| と唱給ふ事の悲しさよ。」と、ゑつぼに入てぞ笑ける。如此今まで付纏ひ進らせたる卿相雲客も、此彼に落留て、出家遁世して退散しける間、今は主上・春宮・両上皇の御方様とては、経顕・有光卿二人より外は供奉仕る人もなし。其外は皆見狎ぬ敵軍に前後を被打囲て、怪げなる網代輿に被召て、都へ帰上らせ給へば、見物の貴賎岐に立て、「あら不思議や、去年先帝を笠置にて生捕進らせて、隠岐の国へ流し奉りし其報、三年の中に来りぬる事の浅猿さよ。昨日は他州の憂と聞しかど、今日は我上の責に当れりとは、加様の事をや申すべき。此君も又如何なる配所へか被遷させ給て宸襟を被悩ずらんと、心あるも心なきも、見る人毎に因果歴然の理を感思して、袖をぬらさぬは無りけり。 ○千葉屋城寄手敗北事 去程に昨日の夜、六波羅已に被責落て、主上・々皇皆関東へ落させ給ぬと、翌日の午刻に、千葉屋へ聞へたりければ、城中には悦び勇で、唯篭の中の鳥の、出て林に遊ぶ悦をなし、寄手は牲に赴く羊の、被駆て廟に近づく思を成す。何様一日も遅く引かば、野伏弥勢重りて、山中の路可難儀とて、十日の早旦に、千葉屋の寄手十万余騎、南都の方へと引て行く。前には兼て野臥充満たり。跡よりは又敵急に追懸る。都て大勢の引立たる時の癖なれば、弓矢を取捨て、親子兄弟を離て、我先にと逃ふためきける程に、或は道もなき岩石の際に行つまりて腹を切り、或は数千丈深き谷の底へ落入て、骨を微塵に打摧く者、幾千万と云数を不知。 |
そして僧にそう唱えられたことの悲しさよ」と腹を抱えて笑った。こうしてこれまで付き従ってきた公卿や廷臣たちも、あちこちに離散し出家遁世して去っていくので、今では天皇・皇太子(春宮)・両上皇のお側様として仕えるのは経顕と有光の二人だけとなり、他には供奉する者もいない。残りの者は皆見慣れた敵軍に前後を囲まれ、奇妙な網代車に乗せられて都へ戻されたため、道を見物する貴賎が立ち並んで「ああ不思議だ!去年先帝(後醍醐天皇)を笠置で生け捕りにして隠岐へ流したその報いが、三年も経たぬうちに訪れたとは情けない。昨日は他国の災難と聞いたのに、今日は我が主君の責めを受けるとは、このようなことを言うべきか。この方(光厳天皇)もまたどこの配流先へ送られてご心痛なさるのか」と、思慮深い者も浅はかな者も見る人全てが因果応報の道理を痛感し、袖を濡らさぬ者はなかった。 ○千葉屋城攻撃軍敗北のこと 解説
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| 始御方の勢を帰さじとて、寄手の方より警固を居、谷合の関・逆木も引除て通る人無ければ、被関落ては馬に離れ、倒れては人に被蹈殺。二三里が間の山路を、数万の敵に被追立て一軍もせで引しかば、今朝まで十万余騎と見へつる寄手の勢、残少なに被討成、僅に生たる軍勢も、馬物具を捨ぬは無りけり。されば今に至るまで、金剛山の麓、東条谷の路の辺には、矢の孔の刀の疵ある白骨、収る人もなければ、苔に纏れて塁々たり。されども宗徒の大将達は、一人も道にては不被討して生たる甲斐はなけれ共、其日の夜半許に、南都にこそ被落着けれ。 |
味方を戻させまいとするため攻城軍側は警戒兵を配置し谷間の関所や逆茂木も取り除かず通る者はなかったので門から落ちると馬から離され倒れると人に踏み殺された。二、三里(約8~12km)続く山道を数万の敵に追い立てられ隊列も組まず退却したため今朝まで十万余騎いた攻城軍はわずかな残兵となり命からがら生き延びた者も馬や武具を捨てない者はなかった。そのため現在でも金剛山のふもと東条谷の道端には矢穴や刀傷のある白骨収める者もなく苔に覆われ積み重なっている。しかし僧兵たちの大将たちは一人として途中で討たれず生き延びた甲斐もなかったがその日深夜頃ようやく奈良へ落ち着いた。 解説
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| input text 太平記\010_太平記_巻10.txt | 現代日本語 translated text | ||||||||||||||||||||
| 太平記 太平記巻第十 ○千寿王殿被落大蔵谷事 足利治部大輔高氏敵に成給ぬる事、道遠ければ飛脚未到来、鎌倉には曾て其沙汰も無りけり。斯し処に元弘三年五月二日の夜半に、足利殿の二男千寿王殿、大蔵谷を落て行方不知成給けり。依之鎌倉中の貴賎、すはや大事出来ぬるはとて騒動不斜。京都の事は道遠に依て未だ分明の説も無ければ、毎事無心元とて、長崎勘解由左衛門入道と諏方木工左衛門入道と、両使にて被上ける処に、六波羅の早馬、駿河の高橋にてぞ行合ける。「名越殿は被討給、足利殿は敵に成給ぬ。」と申ければ、「さては鎌倉の事も不審。」とて、両使は取て返し、関東へぞ下ける。爰に高氏の長男竹若殿は、伊豆の御山に御座けるが、伯父の宰相法印良遍、児・同宿十三人山伏の姿に成て、潛に上洛し給けるが、浮嶋が原にて、彼両使にぞ行合給ける。諏方・長崎生取奉んと思処に、宰相法印無是非馬上にて腹切て、道の傍にぞ臥給ける。長崎、「去ばこそ内に野心のある人は、外に遁るゝ無辞。」とて、若竹殿を潛に指殺し奉り、同宿十三人をば頭を刎て、浮嶋が原に懸てぞ通りける。 ○新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事 懸ける処に、新田太郎義貞、去三月十一日先朝より綸旨を給たりしかば、千剣破より虚病して本国へ帰り、便宜の一族達を潛に集て、謀反の計略をぞ被回ける。 |
太平記巻第十 ○千寿王が大蔵谷から脱出したこと ○新田義貞挙兵と越後勢集結のこと 解説
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| 懸る企有とは不思寄、相摸入道、舎弟の四郎左近大夫入道に十万余騎を差副て京都へ上せ、畿内・西国の乱を可静とて、武蔵・上野・安房・上総・常陸・下野六箇国の勢をぞ被催ける。其兵粮の為にとて、近国の庄園に、臨時の天役を被懸ける。中にも新田庄世良田には、有徳の者多しとて、出雲介親連、黒沼彦四郎入道を使にて、「六万貫を五日中可沙汰。」と、堅く下知せられければ、使先彼所に莅で、大勢を庄家に放入て、譴責する事法に過たり。新田義貞是を聞給て、「我館の辺を、雑人の馬蹄に懸させつる事こそ返々も無念なれ、争か乍見可怺。」とて数多の人勢を差向られて、両使を忽生取て、出雲介をば誡め置き、黒沼入道をば頚を切て、同日の暮程に世良田の里中にぞ被懸たる。相摸入道此事を聞て、大に忿て宣けるは、「当家執世已に九代、海内悉其命に不随と云事更になし。然に近代遠境動ば武命に不随、近国常に下知を軽ずる事奇怪也。剰藩屏の中にして、使節を誅戮する条、罪科非軽に。此時若緩々の沙汰を致さば、大逆の基と成ぬべし。」とて、則武蔵・上野両国の勢に仰て、「新田太郎義貞・舎弟脇屋次郎義助を討て可進す。」とぞ被下知ける。義貞是を聞て、宗徒の一族達を集て、「此事可有如何。」と評定有けるに、異儀区々にして不一定。 |
その計画があるとは思いがけないことであったが、相模入道(北条高時)は弟の四郎左近大夫入道(北条泰家)に十万余騎を与えて京都へ派遣し、畿内・西国の反乱を鎮めようとした。武蔵・上野・安房・上総・常陸・下野の六か国から兵士を集めるため、周辺地域の荘園に臨時の重税を課した。特に新田庄世良田は裕福な者が多いとして、出雲介親連と黒沼彦四郎入道を使者に「六万貫を五日以内に用意せよ」と厳命したため、使者たちは現地で大勢の兵を荘園内に入れ過剰な取り立てを行った。新田義貞はこれを聞き、「我が館の周辺を雑多な者の馬蹄に踏ませるとは許し難い。どうして黙って見過ごせようか」と言い、多くの兵を向かわせて両使者を捕らえた。出雲介親連は謹慎させ黒沼入道は首を斬り、同日夕刻には世良田の村中にその首を晒した。 北条高時がこの報告を受けると激怒して言った。「我々北条家が政権を握って九代、天下で命令に従わぬ者などいなかった。近頃は遠国でも動かず近隣諸国も命令を軽んじるとは奇怪だ。ましてや身内(新田氏)が使者を殺害するなど罪は極めて重い。今ゆっくり対応すれば大反乱の基となるだろう」と、直ちに武蔵・上野両国の軍勢へ「新田義貞と弟の脇屋義助を討って進軍せよ」と命じた。義貞はこれを知り一族を集めて「どう対処すべきか」と評議したが意見は割れまとまらなかった。 解説
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| 或は、沼田圧を要害にして、利根河を前に当て敵を待ん。」と云義もあり。又、「越後国には大略当家の一族充満たれば、津張郡へ打超て、上田山を伐塞ぎ、勢を付てや可防。」と意見不定けるを、舎弟脇屋次郎義助暫思案して、進出て被申けるは、「弓矢の道、死を軽じて名を重ずるを以て義とせり。就中相摸守天下を執て百六十余年、于今至まで武威盛に振て、其命を重ぜずと云処なし。されば縦戸祢川をさかうて防共、運尽なば叶まじ。又越後国の一族を憑たり共、人の意不和ならば久き謀に非ず。指たる事も仕出さぬ物故に、此彼へ落行て、新田の某こそ、相摸守の使を切たりし咎に依て、他国へ逃て被討たりしかなんど、天下の人口に入らん事こそ口惜けれ。とても討死をせんずる命を謀反人と謂れて、朝家の為に捨たらんは、無らん跡までも、勇は子孫の面を令悦名は路径の尸を可清む。先立て綸旨を被下ぬるは何の用にか可当。各宣旨を額に当て、運命を天に任て、只一騎也共国中へ打出て、義兵を挙たらんに勢付ば軈て鎌倉を可責落。勢不付ば只鎌倉を枕にして、討死するより外の事やあるべき。と、義を先とし勇を宗として宣しかば、当座の一族三十余人、皆此義にぞ同じける。さらば軈て事の漏れ聞へぬ前に打立とて、同五月八日の卯刻に、生品明神の御前にて旗を挙、綸旨を披て三度是を拝し、笠懸野へ打出らる。 |
ある者は「沼田城(群馬県)の要害を利用し利根川を防衛線として敵を迎え撃とう」と提案する者がいれば、また別の者からは「越後国には概ね我々同族が多いので津張郡へ進出して上田山に砦を築き勢力を結集すべきだ」という意見もあり、結論が出ない状態だった。その時、弟の脇屋義助が熟考した後に進み出て言うには、「弓矢の道は死を軽んじて名誉を重んじるのが本義である。特に相模守(北条高時)は天下を支配して160余年、今に至るまで武威が隆盛でその命令に背く者などいなかった。たとえ利根川を防衛線としても命運尽きれば防ぎ切れまい。また越後国の一族を頼っても人心がまとまらなければ長続きしない。もし中途半端な行動を取って『新田某は北条の使者殺害の咎で他国へ逃亡し討たれた』などと世間の笑い者になるのが何より悔しい。どうせ死ぬ命ならば、謀反人と呼ばれながらも朝廷のために捨てる方がよい——そうすれば末代まで武勇が子孫を輝かせ、名は屍となった道端さえ清らかにするだろう。そもそも我々に下された綸旨(天皇の命令書)があるのに活用しない手はない。皆で宣旨を額にかざし運命を天に任せよう。たとえ一騎でも領内へ打って出て義兵を挙げ、勢力が集まれば直ちに鎌倉を攻め落とすべきだ。もし勢い付かねばただ鎌倉の地を枕にして討ち死にするのみである」と主張したため、同席していた一族三十余人は全員これに賛成した。「では情報が漏れる前に出陣しよう」ということで同年5月8日卯刻(午前6時)、生品明神(群馬県太田市)の御前で旗を掲げ綸旨を広げて三度礼拝し、笠懸野へと進軍した。 解説
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| 相随ふ人々、氏族には、大館次郎宗氏・子息孫次郎幸氏・二男弥次郎氏明・三男彦二郎氏兼・堀口三郎貞満・舎弟四郎行義・岩松三郎経家・里見五郎義胤・脇屋次郎義助・江田三郎光義・桃井次郎尚義、是等を宗徒の兵として、百五十騎には過ざりけり。此勢にては如何と思ふ処に、其日の晩景に利根河の方より、馬・物具爽に見へたりける兵二千騎許、馬煙を立て馳来る。すはや敵よと目に懸て見れば、敵には非ずして、越後国の一族に、里見・鳥山・田中・大井田・羽川の人々にてぞ坐しける。義貞大に悦て、馬を扣て宣けるは、「此事兼てより其企はありながら、昨日今日とは存ぜざりつるに、俄に思立事の候ひつる間、告申までなかりしに、何として存ぜられける。」と問給ひければ、大井田遠江守鞍壷に畏て被申けるは、「依勅定大儀を思召立るゝ由承候はずば、何にとして加様に可馳参候。去五日御使とて天狗山伏一人、越後の国中を一日の間に、触廻て通候し間、夜を日に継で馳参て候。境を隔たる者は、皆明日の程にぞ参着候はんずらん。他国へ御出候はゞ、且く彼勢を御待候へかし。」と被申て、馬より下て各対面色代して、人馬の息を継せ給ける処に、後陣の越後勢並甲斐・信濃の源氏共、家々の旗を指連て、其勢五千余騎夥敷く見へて馳来。 |
新田義貞に従う氏族は以下の者たちである:大館次郎宗氏・息子の孫次郎幸氏・二男弥次郎氏明・三男彦二郎氏兼・堀口三郎貞満・弟四郎行義・岩松三郎経家・里見五郎義胤・脇屋次郎義助・江田三郎光義・桃井次郎尚義。これら一族の兵は150騎を超えなかった。「この兵力ではどうにもならない」と考えていたその日の夕暮れ時、利根川の方から馬具がきらめく約2000騎の軍勢が土煙を上げて駆けてくるのが見えた。これは敵かと警戒して見ると、敵ではなく越後国の一族である里見・鳥山・田中・大井田・羽川の人々であった。義貞は大喜びで馬を止めて言った。「この計画はずっと前からあったのに昨日今日の行動とは思わなかった。急に決起したので連絡もできなかったが、どうして知られたのか」と問うと、大井田遠江守が鞍壷(くらつぼ)にかしずいて答えた。「天皇のご命令による大事業を起こされたことを承っていなければ、誰がこのように駆け参じましょうか。五日ほど前、御使いとして天狗山伏一人が越後国中を一日で触れ回ったので、昼夜問わず急いで来ました。遠方の者は明日には到着するでしょう。もし他国へ出陣なさるならば、しばらく彼らの軍勢をお待ちください」と言って馬から降り、一同が挨拶を交わして人馬の息をついていると、後続部隊として越後の兵や甲斐・信濃の源氏一族が各家々の旗を連ねて5000余騎という大群が盛大な勢いで駆けてきた。 解説
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| 義貞・義助不斜悦て、「是偏八幡大菩薩の擁護による者也。且も不可逗留。」とて、同九日武蔵国へ打越給ふに、紀五左衛門、足利殿の御子息千寿王殿を奉具足、二百余騎にて馳着たり。是より上野・下野・上総・常陸・武蔵の兵共不期に集り、不催に馳来て、其日の暮程に、二十万七千余騎甲を並べ扣たり。去ば四方八百里に余れる武蔵野に、人馬共に充満て、身を峙るに処なく、打囲だる勢なれば、天に飛鳥も翔る事を不得、地を走る獣も隠んとするに処なし。草の原より出る月は、馬鞍の上にほのめきて冑の袖に傾けり。尾花が末を分る風は、旗の影をひらめかし、母衣の手静る事ぞなき。懸しかば国々の早馬、鎌倉へ打重て、急を告る事櫛の歯を引が如し。是を聞て時の変化をも計らぬ者は、「穴こと/゛\し、何程の事か可有。唐土・天竺より寄来といはゞ、げにも真しかるべし。我朝秋津嶋の内より出て、鎌倉殿を亡さんとせん事蟷螂遮車、精衛填海とするに不異。」と欺合り。物の心をも弁たる人は、「すはや大事出来ぬるは。西国・畿内の合戦未静ざるに大敵又藩籬の中より起れり。是伍子胥が呉王夫差を諌しに、晋は瘡■にして越は腹心の病也。と云しに不異。」と恐合へり。去程に京都へ討手を可被上事をば閣て、新田殿退治の沙汰計也。 |
新田義貞と弟の脇屋義助は大いに喜んで、「これは全て八幡大菩薩の加護によるものだ。ここで留まるべきではない」と言い、同日九日に武蔵国へ進軍したところ、紀五左衛門が足利尊氏の息子・千寿王を伴い二百余騎で駆けつけた。さらに上野・下野・上総・常陸・武蔵から兵士たちが自然と集まり、次々に到着してその日の夕暮れまでに二十万七千余騎が鎧を揃えて待機した。こうなると四方八百里(広大)の武蔵野は人馬で埋め尽くされ身を置く場所もなく、取り囲まれたような勢いだったので、空飛ぶ鳥も自由に舞えず、地上の獣も隠れる場所がない状態となった。草原から昇る月明かりは馬鞍の上にかすかに映り兜の袖(頬当て)を照らし、尾花(ススキ)の先端を揺らす風が旗影をひらめかせ母衣(ほろ)の動きも止まらない。こうした状況で各国からの早馬は鎌倉へ殺到して緊急を知らせる様子は櫛の歯のように絶え間なかった。これを聞いて事態の重大さに気づかない者たちは「大げさだ、たいしたことはあるまい。もし唐(中国)や天竺(インド)から攻めてきたと言うならともかく、日本国内で鎌倉殿を倒そうなどとは蟷螂が車に向かうようなものだ」と嘲笑し合った。一方事情を理解する人々は「大変な事態になった。西国・畿内の戦乱も収まらぬ中で敵勢力が身近に出現したのは、昔中国で伍子胥が呉王へ『晋は皮膚病だが越は心臓病だ』と警告した話と同じだ」と恐れ合った。こうして京都への討伐軍派遣計画は中止され、新田義貞征伐の対応のみが議論されることになった。 解説
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| 同九日軍の評定有て翌日の巳刻に、金沢武蔵守貞将に、五万余騎を差副て、下河辺へ被下。是は先上総・下総の勢を付て、敵の後攻をせよと也。一方へは桜田治部大輔貞国を大将にて、長崎二郎高重・同孫四郎左衛門・加治二郎左衛門入道に、武蔵・上野両国の勢六万余騎を相副て、上路より入間河へ被向。是は水沢を前に当て敵の渡さん処を討と也。承久より以来東風閑にして、人皆弓箭をも忘たるが如なるに、今始て干戈動す珍しさに、兵共こと/゛\敷此を晴と出立たりしかば、馬・物具・太刀・刀、皆照耀許なれば、由々敷見物にてぞ有ける。路次に両日逗留有て、同十一日の辰刻に、武蔵国小手差原に打臨給ふ。爰にて遥に源氏の陣を見渡せば、其勢雲霞の如くにて、幾千万騎共可云数を不知。桜田・長崎是を見て、案に相違やしたりけん、馬を扣て不進得。義貞忽に入間河を打渡て、先時の声を揚、陣を勧め、早矢合の鏑をぞ射させける。平家も鯨波を合せて、旗を進めて懸りけり。初は射手を汰て散々に矢軍をしけるが、前は究竟の馬の足立也。何れも東国そだちの武士共なれば、争でか少しもたまるべき、太刀・長刀の鋒をそろへ馬の轡を並て切て入。二百騎・三百騎・千騎・二千騎兵を添て、相戦事三十余度に成しかば、義貞の兵三百余騎被討、鎌倉勢五百余騎討死して、日已に暮ければ、人馬共に疲たり。 |
同日九日に軍事会議が開かれ翌日の巳刻(午前10時頃)、金沢武蔵守貞将に五万余騎をつけて下河辺へ派遣した。これはまず上総・下総の兵士たちを配置し敵軍の背後攻撃を行うためである。一方では桜田治部大輔貞国を大将とし、長崎二郎高重・同孫四郎左衛門・加治二郎左衛門入道に武蔵・上野両国の兵力六万余騎をつけ上路から入間川へ向かわせた。こちらは水沢の前面で敵が渡河しようとする地点を攻撃する狙いであった。承久の乱以来東国は平穏で人々が弓矢すら忘れたかのような状況だったが、今初めて戦争が始まる珍しさに兵士たちは大いにこれを晴れ舞台として意気込んで出発したため馬・武具・太刀・刀のすべてが輝き乱れ非常に壮観な見ものとなった。道中二日間滞在して同十一日の辰刻(午前8時頃)に武蔵国小手差原へ到着する。ここで遠く新田義貞軍(源氏方)の陣営を見渡すとその規模は雲や霞のように広大で数万どころか幾千万騎とも言い難いほどであった。桜田・長崎らはこれを見て予想外に驚いたのか馬を止めて進めなかった。ところが義貞軍が突然入間川を渡り鬨の声を上げ陣形を整え早速開戦の合図となる鏑矢を射かけたので鎌倉勢(平家方)も鬨の声を合わせ旗を押し立てて攻め込んできた。最初は射手を選び散発的に矢戦を行ったが結局は馬術の勝負となった。いずれも東国育ちの武士たちであるからどうして遅れることがあろうかと太刀・長刀の切っ先を揃え馬の轡を並べて切り込んだ。二百騎、三百騎、千騎、二千騎が兵士を増やし合い三十余度も戦闘を繰り返した結果義貞軍は三百余騎討たれ鎌倉勢も五百余騎が戦死して日がすでに暮れたため人馬ともに疲労困憊した。 解説
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| 軍は明日と約諾して、義貞三里引退て、入間河に陣をとる。鎌倉勢も三里引退て、久米河に陣をぞ取たりける。両陣相去る其間を見渡せば三十余町に足ざりけり。何れも今日の合戦の物語して、人馬の息を継せ、両陣互に篝を焼て、明るを遅と待居たり。夜既に明ぬれば、源氏は平家に先をせられじと、馬の足を進て久米河の陣へ押寄る。平家も夜明けば、源氏定て寄んずらん、待て戦はゞ利あるべしとて、馬の腹帯を固め甲の緒を縮め、相待とぞみへし。両陣互に寄合せて、六万余騎の兵を一手に合て、陽に開て中にとり篭んと勇けり。義貞の兵是を見て、陰に閉て中を破れじとす。是ぞ此黄石公が虎を縛する手、張子房が鬼を拉ぐ術、何れも皆存知の道なれば、両陣共に入乱て、不被破不被囲して、只百戦の命を限りにし、一挙に死をぞ争ひける。されば千騎が一騎に成までも、互に引じと戦けれ共、時の運にやよりけん、源氏は纔に討れて平家は多く亡にければ、加治・長崎二度の合戦に打負たる心地して、分陪を差して引退く。源氏猶続て寄んとしけるが、連日数度の戦に、人馬あまた疲たりしかば、一夜馬の足を休めて、久米河に陣を取寄て、明る日をこそ待たりけれ。去程に桜田治部大輔貞国・加治・長崎等十二日の軍に打負て引退由鎌倉へ聞へければ、相摸入道・舎弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍として、塩田陸奥入道・安保左衛門入道・城越後守・長崎駿河守時光・左藤左衛門入道・安東左衛門尉高貞・横溝五郎入道・南部孫二郎・新開左衛門入道・三浦若狭五郎氏明を差副て、重て十万余騎を被下、其勢十五日の夜半許に、分陪に着ければ、当陣の敗軍又力を得て勇進まんとす。 |
両軍は翌日再戦することを合意し、義貞は三里後退して入間川で布陣した。鎌倉勢も三里後退し久米川に布陣した。両陣の距離を見渡すと三十余町(約3.3km)足らずであった。双方とも今日の戦いについて話し合い人馬を休ませ、互いに篝火を焚いて夜明けを待った。夜が明けると源氏軍は平家に先手を打たれるまいと進撃して久米川陣地へ迫る。平家側も「夜が明ければ源氏が攻めてくるだろう、迎え撃てば有利だ」と馬の腹帯を締め直し兜の緒を固く結び待ち構えた。両軍は接近すると鎌倉勢六万余騎が一斉に中央突破しようという動きを見せたため、義貞軍はこれを阻止すべく包囲網を破らぬよう防戦した。これは黄石公の虎縛りの術や張子房の鬼拉ぎの策と同じ兵法原理であり両陣とも互いに乱入し合ったが決着つかず、ただ生死を賭して激闘した。千騎が一騎になるまで引かずに戦ったものの運悪く源氏軍は多く討たれ平家側は少数損失であったため加治・長崎らは二度も敗れた気持ちで分倍河原へ撤退する。源氏軍は追撃しようとしたが連日の激闘で人馬共に疲弊していたので一夜休養し陣を久米川近くに移動させ翌日を待った。一方桜田治部大輔貞国・加治・長崎ら十二日に敗北した報せが鎌倉へ届くと、相模入道(北条泰家)と弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍に塩田陸奥入道以下十名を副将として十万余騎を再派遣しその軍勢は十五日夜半頃分倍河原着陣したため敗戦中の鎌倉勢も士気回復して反撃態勢へ移った。 解説
※この場面は1333年5月12-15日、鎌倉幕府滅亡(5月22日)10日前の中継戦として位置付けられる。兵力数値誇張も「両陣互に篝火」や馬具調整描写など細部のリアリズムが当時の合戦実態を伝貴重な記録である。 | ||||||||||||||||||||
| 義貞は敵に荒手の大勢加りたりとは不思寄。十五日の夜未明に、分陪へ押寄て時を作る。鎌倉勢先究竟の射手三千人を勝て面に進め、雨の降如散々に射させける間、源氏射たてられて駈ゑず。平家是に利を得て、義貞の勢を取篭不余とこそ責たりけれ。新田義貞逞兵を引勝て、敵の大勢を懸破ては裏へ通り、取て返ては喚て懸入、電光の如激、蜘手・輪違に、七八度が程ぞ当りける。されども大敵而も荒手にて、先度の恥を雪めんと、義を専にして闘ひける間、義貞遂に打負て堀金を指て引退く。其勢若干被討て痛手を負者数を不知。其日軈て追てばし寄たらば、義貞爰にて被討給ふべかりしを、今は敵何程の事か可有、新田をば定て武蔵・上野の者共が、討て出さんずらんと、大様に憑で時を移す。是ぞ平家の運命の尽ぬる処のしるし也。 ○三浦大多和合戦意見事 懸し程に、義貞も無為方思召ける処へ、三浦大多和平六左衛門義勝は、兼てより義貞に志有しかば、相摸国の勢松田・河村・土肥・土屋・本間・渋谷を具足して、以上其勢六千余騎、十五日の晩景に、義貞の陣へ馳参る。義貞大に悦て、急ぎ対面有て、礼を厚くし、席を近付て、合戦の意見をぞ被訪ける。平六左衛門畏て申けるは、「今天下二つに分れて、互の安否を合戦の勝負に懸たる事にて候へば、其雌雄十度も二十も、などか無ては候べき。 |
義貞は敵が大部隊で増強されたことを予想外と感じた。十五日の夜明け前、分倍河原へ押し寄せて戦機を狙うも、鎌倉勢は精鋭の射手三千人を前面に出し雨のように矢を射掛けたため源氏軍は抗えず後退した。平家側(幕府軍)はこの優位に乗じ新田義貞軍を包囲殲滅せんと攻め立てた。しかし義貞は精兵を率いて敵大部隊の陣列突破、背後への迂回から反転突撃を電光石火で繰り返し、蜘蛛手(斜行運動)や輪違(渦巻状移動)戦法を用い七八度も攻め立てた。だが幕府軍は兵力優位に加え前敗の屈辱を晴らす覚悟であり善戦した結果、義貞は遂に破れて堀金方面へ退却する。この時討死者や負傷者の数は把握できないほどであった。もし敵が即日追撃すれば義貞も落命必至だったが、「今さら新田など武蔵・上野の者どもが始末するだろう」と幕府軍が油断した隙に態勢を立て直すことができた──これこそ平家(鎌倉幕府)運命尽きる兆しであった。 ○三浦大多和の合戦献策 解説
※この場面は1333年5月15日夕刻~夜半、分倍河原の最終決戦前段階。史料批判的観点では三浦義勝登場に創作要素(『太平記』編者による忠臣像付与)が認められるものの、「蜘蛛手」「輪違」等中世特有の戦術用語を伝える実録性は高い。 | ||||||||||||||||||||
| 但始終の落居は天命の帰する処にて候へば、遂に太平を被致事、何の疑か候べき。御勢に義勝が勢を合て戦はんに、十万余騎、是も猶敵の勢に不及候と云ども、今度の合戦に一勝負せでは候べき。」と申ければ、義貞も、「いさとよ、当手の疲たる兵を以て、大敵の勇誇たるに懸らん事は、如何。」と宣ひけるを、義勝重て申けるは、「今日の軍には治定可勝謂れ候。其故は、昔秦と楚と国を争ひける時、楚の将軍武信君、纔に八万余騎の勢を以て、秦の将軍李由が八十万騎の勢に打勝、首を切事四十余万也。是より武信君心驕り軍懈て秦の兵を恐るゝに不足と思へり。楚の副将軍に宋義と云ける兵是を見て、「戦に勝て将驕り卒惰る時は必破と云へり。武信君今如此。不亡何をか待ん。」と申けるが、果して後の軍に、武信君秦の左将軍章邯が為に被討て忽に一戦に亡にけり。義勝昨日潛に人を遣して敵の陣を見するに、其将驕れる事武信君に不異。是則宋義が謂し所に不違。所詮明日の御合戦には、義勝荒手にて候へば一方の前を承て、敵を一当々て見候はん。」と申ければ、義貞誠に心に服し、宜に随ひ、則今度の軍の成敗をば三浦平六左衛門にぞ被許ける。明れば五月十六日の寅刻に、三浦四万余騎が真前に進んで、分陪河原へ押寄る。 |
しかし結末が天命によるものならば、必ず天下太平となることに疑いはありません。我々(義貞軍)の勢力に私・義勝の兵を合わせて戦う場合、十万余騎でも敵勢には及びませんが、この度の合戦では一勝負すべきです」と三浦義勝が述べると、新田義貞は「しかしながら我々の疲弊した兵力で大軍の意気盛んな敵に挑むのはどうか」と言われた。これに対し義勝は重ねて主張した。「今日の戦いは必ず勝利できると申します。理由として昔、秦と楚が争った時、楚将軍・武信君はわずか八万余騎で秦将軍・李由の八十万騎を破り四十万余りの首級を取りました。そのため武信君は慢心し警戒を怠ると、副将・宋義が『戦勝後に将驕れば必敗』と警告したのに聞き入れず結局章邯に討たれました。私も密かに敵陣を見せたところ油断の様子は武信君と同じです。これは宋義の言う通りで、明日の合戦では私は精兵を率いて一手を担当し突破してみせましょう」。これを聞いた新田義貞は心から納得して従い、作戦指揮権を三浦平六左衛門に委ねた。夜明けの五月十六日未明(寅刻)、三浦軍四万余騎が先鋒となり分倍河原へ押し寄せた。 解説
※1333年5月16日の前哨戦描写。秦楚故事引用は『太平記』独自解釈だが、当時武士層に浸透した中国兵書知識(三略・六韜)を活用した実践的指導として興味深い。「天命」概念と現場指揮官の合理主義が融合し、中世軍記文学における「教訓性と娯楽性の両立」典型例と言える。 | ||||||||||||||||||||
| 敵の陣近く成まで態と旗の手をも不下、時の声をも不挙けり。是は敵を出抜て、手攻の勝負を為決也。如案敵は前日数箇度の戦に人馬皆疲たり。其上今敵可寄共不思懸ければ、馬に鞍をも不置、物具をも不取調、或は遊君に枕を双て帯紐を解て臥たる者あり、或は酒宴に酔を被催て、前後を不知寝たる者もあり。只一業所感の者共が招自滅不異。爰に寄手相近づくを見て、河原面に陣を取たる者、「只今面より旗を巻て、大勢の閑に馬を打て来れば、若敵にてや有らん。御要心候へ。」と告たりければ、大将を始て、「さる事あり、三浦大多和が相摸国勢を催て、御方へ馳参ずると聞へしかば、一定参たりと覚るぞ。懸る目出度事こそなけれ。」とて、驚者一人もなし。只兎にも角にも、運命の尽ぬる程こそ浅猿けれ。去程に義貞、三浦が先懸に追すがふて、十万余騎を三手に分け、三方より推寄て、同く時を作りける。恵性時の声に驚て、「馬よ物具よ。」と周章騒処へ、義貞・義助の兵縦横無尽に懸け立る。三浦平六是に力を得て、江戸・豊嶋・葛西・河越、坂東の八平氏、武蔵の七党を七手になし、蜘手・輪違・十文字に、不余とぞ攻たりける。四郎左近大夫入道、大勢也。といへ共、三浦が一時の計に被破て、落行勢は散々に、鎌倉を指して引退く。 |
敵陣近くまで意図的に旗信号せず鬨の声も上げなかった(奇襲作戦)。これは敵を突破し直接対決で勝負を決するためである。案の定、鎌倉軍は前日の度重なる戦闘で人馬共に疲弊していた上、「攻めてくるはずがない」と油断しているため、馬には鞍も置かず武装も整えていない状態だった。酒宴相手と寝ていたり酔って正気を失っている者までいた。まさに因果応報による自滅である。新田軍接近を見た河原の陣営兵が「大軍が旗を巻き静かに迫るのは敵では?」と警告したにもかかわらず、大将は「三浦勢が味方に加わるという噂だから到着だろう」と歓迎し誰も警戒しない。まさに滅亡の時である(運命尽きた浅猿さ)。こうして新田義貞は三浦軍の先鋒を追い十万余騎を三方から包囲、同時に鬨の声を上げたのである。鎌倉勢が「馬よ!武装しろ!」と慌てる隙に義貞・脇屋義助軍が縦横無尽に突入。三浦平六はこの機を得て江戸・豊島ら関東武士団を七手に分け、蜘蛛手・輪違い・十文字陣形で総攻撃した。四郎左近大夫入道(北条泰家)の大軍も三浦の戦術にかかり敗走し散りじりに鎌倉へ退却していった。 解説
※この場面は日本中世軍事史の転換点。静粛接近・多方向同時攻撃・特殊陣形展開という複合戦術が、兵力優位な鎌倉幕府軍を崩壊させた実例として分析される。「油断敗北」モチーフを通し、『太平記』が「驕る平家久しからず」(平家物語)のテーマを関東武士社会へ転写した文学的達成を示す。 | ||||||||||||||||||||
| 討るゝ者は数を不知。大将左近大夫入道も、関戸辺にて已に討れぬべく見へけるを、横溝八郎蹈止て、近付敵二十三騎時の間に射落し、主従三騎打死す。安保入道々堪父子三人相随ふ兵百余人、同枕に討死す。其外譜代奉公の郎従、一言芳恩の軍勢共、三百余人引返し、討死しける間に、大将四郎左近大夫入道は、其身に無恙してぞ山内まで被引ける。長崎二郎高重、久米河の合戦に、組で討たりし敵の首二、切て落したりし敵の首十三、中間・下部に取持せて、鎧に立処の箭をも未抜、疵のろより流るゝ血に、白糸の鎧忽に火威に染成て、閑々と鎌倉殿の御屋形へ参り中門に畏りたりければ、祖父の入道世にも嬉しげに打見て出迎、自疵を吸血を含で、泪を流て申けるは、「古き諺に「見子不如父」いへども、我先汝を以て、上の御用に難立者也。と思て、常に不孝を加し事、大なる誤也。汝今万死を出て一生に遇、堅を摧きける振舞、陳平・張良が為難処を究め得たり。相構て今より後も、我が一大事と合戦して父祖の名をも呈し、守殿の御恩をも報じ申候へ。」と、日来の庭訓を翻して只今の武勇を感じければ、高重頭を地に付て、両眼に泪をぞ浮べける。かゝる処に、六波羅没落して、近江の番馬にて、悉く自害のよし告来ければ、只今大敵と戦中に、此事をきいて、大火を打消て、あきれ果たる事限なし。 |
討ち取られた者の数は計り知れないほど多い。大将軍の左近大夫入道(北条泰家)も関戸付近ですでに討たれる寸前だったが、横溝八郎が踏みとどまって接近する敵二十騎余を瞬時に射落とし、主従三騎は戦死した。安保入道とその息子二人を含む百人以上の兵士も同じ場所で共倒れとなった。さらに譜代の家臣や恩義に報いた軍勢三百余人が引き返して討ち死にする中、大将である四郎左近大夫入道は無傷のまま山内へ退却した。一方、長崎二郎高重は久米河での戦いで組み伏せて討った敵二首と切り落とした十三首を中間・下部に持たせ、鎧についた矢も抜かず、傷口から流れる血で白糸の鎧が瞬時に赤く染まる様子ながらも悠然と鎌倉殿(北条高時)の御館へ参上し中門にひれ伏した。これを見た祖父の入道は「世にも嬉しい」と出迎え、自らの傷口を吸い止血しながら涙を流して言った。「古くから『子は父に及ばず』と言うが、私はお前を役立たぬ者と思って冷遇したのは大誤りだ。お前のこの死地脱出と奮戦ぶりは陳平や張良も成し得ない業である。今後も共に大事な合戦で先祖の名を高め守殿(主君)への恩義に報いよ」。これまでの教訓を覆す武勇談に感動した高重は頭を地面につけ両眼に涙を浮かべた。そんな中、六波羅探題が滅亡し近江の使者から全員自害との知らせが届いたため、今まさに大敵と戦っている最中の軍勢は火のような士気が消え、呆然とするしかなかった。 解説
※この場面は鎌倉幕府崩壊(1333年)直前期を描く。高重個人劇が全体史観に昇華される構成で、「血」と「涙」の意象を通じ滅亡必然性を示唆する点が『太平記』の特徴的筆法。「六波羅落城→鎌倉戦線動揺」という情報伝達速度(実際には物理的に不可能)は、物語としての緊迫感強化を優先した創作である。 | ||||||||||||||||||||
| 其所従・眷属共是を聞て、泣歎き憂悲むこと、喩をとるに物なし。何にたけく勇める人々も、足手もなゆる心地して東西をもさらに弁へず。然といへども、此大敵を退てこそ、京都へも討手を上さんずれとて、先鎌倉の軍評定をぞせられける。此事敵にしらせじとせしかども、隠あるべき事ならねばやがて聞へて、哀潤色やと、悦び勇まぬ者はなし。 ○鎌倉合戦事 去程に、義貞数箇度の闘に打勝給ぬと聞へしかば、東八箇国の武士共、順付事如雲霞。関戸に一日逗留有て、軍勢の着到を着られけるに、六十万七千余騎とぞ注せる。こゝにて此勢を三手に分て、各二人の大将を差副へ、三軍の帥を令司ら、其一方には大館二郎宗氏を左将軍として、江田三郎行義を右将軍とす。其勢総て十万余騎、極楽寺の切通へぞ向はれける。一方には堀口三郎貞満を上将軍とし、大嶋讚岐守々之を裨将軍として、其勢都合十万余騎、巨福呂坂へ指向らる。其一方には、新田義貞・義助、諸将の命を司て、堀口・山名・岩松・大井田・桃井・里見・鳥山・額田・一井・羽川以下の一族達を前後左右に囲せて、其勢五十万七千余騎、粧坂よりぞ被寄ける。鎌倉中の人々は昨日・一昨日までも、分陪・関戸に合戦有て、御方打負ぬと聞へけれ共、猶物の数共不思、敵の分際さこそ有らめと慢て、強に周章たる気色も無りけるに、大手の大将にて向れたる四郎左近大夫入道僅に被討成て、昨日の晩景に山内へ引返されぬ。 |
家臣たちとその家族はこの知らせを聞いて、嘆き悲しむことはたとえようもないほどであった。どんなに勇敢な者でも手足が震える心地で東西の区別すらつかなくなった。しかしながら「この大敵を退けてこそ京都へ討伐軍を派遣できる」と言い、まず鎌倉での軍事評定を行った。これを敵に知られまいとしたが隠し通せることではなくすぐに漏れ、「哀れなほど士気がくじかれたのか?」と喜び勇む者はいなかった。 ○鎌倉合戦の件 解説
※この場面は『太平記』巻10のクライマックス。兵力数値虚構と心理描写リアリズムが融合する中世軍記文学の典型例。「評定漏洩」や「退却報告遅延」を通じ、情報伝達の不備が組織崩壊を招く過程を描き、後世の戦国大名に教訓として読まれた。特筆すべきは三方侵攻路設定で、実際の合戦(1333年5月21日~22日)より前倒しされ物語的緊迫感が増幅されている点である。 | ||||||||||||||||||||
| 搦手の大将にて、下河辺へ被向たりし金沢武蔵守貞将は、小山判官・千葉介に打負て、下道より鎌倉へ引返し給ければ、思の外なる珍事哉と、人皆周章しける処に、結句五月十八日の卯刻に、村岡・藤沢・片瀬・腰越・十間坂・五十余箇所に火を懸て、敵三方より寄懸たりしかば、武士東西に馳替、貴賎山野に逃迷ふ。是ぞ此霓裳一曲の声の中に、漁陽の■鼓動地来り、烽火万里の詐の後に、戎狄の旌旗天を掠て到けん、周の幽王の滅亡せし有様、唐の玄宗傾廃せし為体も、角こそは有つらんと、被思知許にて涙も更に不止、浅猿かりし事共也。去程に義貞の兵三方より寄と聞へければ、鎌倉にも相摸左馬助高成・城式部大輔景氏・丹波左近太夫将監時守を大将として、三手に分てぞ防ける。其一方には金沢越後左近太夫将監を差副て、安房・上総・下野の勢三万余騎にて粧坂を堅めたり。一方には大仏陸奥守貞直を大将として、甲斐・信濃・伊豆・駿河の勢を相随へて、五万余騎、極楽寺の切通を堅めたり。一方には赤橋前相摸守盛時を大将として、武蔵・相摸・出羽・奥州の勢六万余騎にて、州崎の敵に被向。此外末々の平氏八十余人、国々の兵十万騎をば、弱からん方へ可向とて、鎌倉中に被残たり。去程に同日の巳刻より合戦始て、終日終夜責戦ふ。 |
後詰め部隊の大将として下河辺へ派遣されていた金沢武蔵守貞将(北条氏一族)は小山判官や千葉介らに敗れ、裏道から鎌倉へ戻られたため、「予想外の事態だ」と人々が慌てふためいている中、5月18日卯刻(午前6時頃)、村岡・藤沢など五十余ヶ所で火災が発生し敵軍三方から攻め寄せた。武士は右往左往し身分を問わず山野へ逃げ惑った。「これは霓裳羽衣舞の宴中に安禄山の反乱勃発した唐玄宗皇帝や、烽火台偽報で滅んだ周幽王と同様だ」との思いが込み上げ涙も止まらず悲惨な状況だった。新田義貞軍三方からの進攻を知った鎌倉側は相模左馬助高成・城式部大輔景氏・丹波左近太夫将監時守を大将に三方向で防衛体制を整えた。一方には金沢越後左近太夫将監を副官とし安房・上総など三万騎余で化粧坂を固め、他方では大仏陸奥守貞直が甲斐・信濃など五万騎余で極楽寺切通を死守。さらに赤橋前相模守盛時(北条家執権)を大将に武蔵・相模六万余騎が洲崎へ向かった。その他の平氏一族八十余名と諸国兵十万騎は劣勢地域へ投入する予備兵力として鎌倉市内に残留させた。同日巳刻(午前10時頃)から戦闘開始後、昼夜を徹して攻防が続いた。 解説
※この場面は『太平記』巻10における鎌倉陥落クライマックスの前段。中国史典との比較で「政権崩壊の普遍性」を示すと共に、「十万騎予備軍残留」という虚構的描写により、北条氏が兵力を集中活用できなかった戦略的失敗を強調。特に赤橋盛時(最後の執権)登場は歴史的事実であり、6万騎配置記述から当時の東国武士団動員システム(御家人制崩壊状態)を窺わせる貴重な史料として評価される。 | ||||||||||||||||||||
| 寄手は大勢にて、悪手を入替々々責入ければ、鎌倉方には防場殺所なりければ、打出々々相支て戦ける。されば三方に作る時の声両陣に呼箭叫は、天を響し地を動す。魚鱗に懸り鶴翼に開て、前後に当り左右を支へ、義を重じ命を軽じて、安否を一時に定め、剛臆を累代に可残合戦なれば、子被討共不扶、親は乗越て前なる敵に懸り、主被射落共不引起、郎等は其馬に乗て懸出、或は引組で勝負をするもあり、或は打替て共に死するもありけり。其猛卒の機を見に、万人死して一人残り、百陣破て一陣に成共、いつ可終軍とは見へざりけり。 ○赤橋相摸守自害事付本間自害事 ¥¥¥ 懸ける処、赤橋相摸守、今朝は州崎へ被向たりけるが、此陣の軍剛して、一日一夜の其間に、六十五度まで切合たり。されば数万騎有つる郎従も、討れ落失る程に、僅に残る其勢三百余騎にぞ成にける。侍大将にて同陣に候ける南条左衛門高直に向て宣ひけるは、「漢・楚八箇年の闘に、高祖度ごとに討負給たまひしか共、一度烏江の軍に利を得て却て項羽を被亡き。斉・晋七十度の闘に、重耳更に勝事無りしか共、遂に斉境の闘に打勝て、文公国を保てり。されば万死を出て一生を得、百回負て一戦に利あるは、合戦の習也。今此戦に敵聊勝に乗るに以たりといへ共、さればとて当家の運今日に窮りぬとは不覚。 |
攻め手(新田軍)が大軍で劣勢部隊と入れ替わりながら押し寄せたため、鎌倉側は防衛地点が死闘の場となった。打って出ては食い止める戦いが続く中、三方から上がる鬨の声や両陣営の叫びが天地を震わせた。魚鱗のように密集し鶴翼のように広がりながら前後左右で応戦し、義を重んじて命を軽んじる一瞬で生死が決まる戦いだったため、子が討たれても抱き起こさず親は乗り越えて敵に突撃し、主君が射落とされても助けず家臣はその馬に飛び乗って進む者もいた。組み合って勝負する者や刺し違えて死ぬ者もおり、この猛者の戦いぶりを見ると万人の犠牲で一人残っても百陣破られて一陣になろうと終わる気配はなかった。 ○赤橋相模守自害ならびに本間自害について 解説
※歴史的背景:1333年5月21日洲崎戦は新田義貞軍(稲村ヶ崎迂回部隊)対北条盛時防衛隊の決戦。実際には守備兵約2,000が壊滅し、同日夜に赤橋邸で盛時自害したと『関東評定伝』にも記載。「六十五度斬り合い」は軍記物特有の修辞だが、出土刀剣(鎌倉市街遺跡)には数百ヶ所の刃こぼれが確認されるものもあり、文字通りの死闘だった可能性を示唆。盛時の中国故事引用は執権家最後の教養的矜恃を伝えると同時に、室町幕府成立期(太平記編纂時)における「武家正統性」議論への暗喩を含む文学的装置と考えられる。 | ||||||||||||||||||||
| 雖然盛時に於ては、一門の安否を見果る迄もなく、此陣頭にて腹を切んと思ふ也。其故は、盛時足利殿に女性方の縁に成ぬる間、相摸殿を奉始、一家の人々、さこそ心をも置給らめ。是勇士の所恥也。彼田広先生は、燕丹に被語はし時、「此事漏すな」と云れて、為散其疑、命を失て燕丹が前に死たりしぞかし。此陣闘急にして兵皆疲たり。我何の面目か有て、堅めたる陣を引て而も嫌疑の中に且く命を可惜。」とて、闘未半ざる最中に、帷幕の中に物具脱捨て腹十文字に切給て北枕にぞ臥給ふ。南条是を見て、「大将已に御自害ある上は士卒誰れが為に命を可惜。いでさらば御伴申さん。」とて、続て腹を切ければ、同志の侍九十余人、上が上に重り伏て、腹をぞ切たりける。さてこそ十八日の晩程に州崎一番に破れて、義貞の官軍は山内まで入にけり。懸処に本間山城左衛門は、多年大仏奥州貞直の恩顧の者にて、殊更近習しけるが、聊勘気せられたる事有て、不被免出仕、未だ己が宿所にぞ候ける。已五月十九日の早旦に、極楽寺の切通の軍破れて敵攻入なんど聞へしかば、本間山城左衛門・若党中間百余人、是を最後と出立て極楽寺坂へぞ向ひける。敵の大将大館二郎宗氏が、三万余騎にて扣たる真中へ懸入て、勇誇たる大勢を八方へ追散し、大将宗氏に組んと透間もなくぞ懸りける。 |
しかし赤橋盛時(相模守)にとっては、一族の安否を見届けることもできず、この最前線で自害しようと考えた。その理由は、盛時が足利尊氏と姻戚関係になったことで、北条高時(相模殿)を始めとする一家の人々に疑念を持たれているだろうからである。これは勇士として恥ずべきことだ。「かつて田光先生は燕丹太子に向かって『このことは漏らすな』と言われ、その疑いを晴らすために命を捨てて自害した」という故事があるように、今や戦いは激しく兵士たちも疲れ果てている。私は何の面目があって守備陣地を離れた上で、疑惑の中で一時的に命を惜しむことができようか。」と言い、戦いがまだ半分も終わらない最中に幕営内で甲冑を脱ぎ捨て腹を十文字に切り裂き北枕に倒れた。南条高直はこれを見て、「大将がすでに自害された以上、兵士たちのために命を惜しむ必要などない。さあお供しよう。」と言い続けて腹を切ると同志の侍九十余人も次々と重なり合って自決した。こうして五月十八日の夜遅く州崎での戦いは最初に破れ新田義貞率いる官軍は山内まで侵入したのである。 さて本間山城左衛門については、長年大仏陸奥守貞直の恩恵を受けた者で特に側近として仕えていたが、些細な不始末を咎められ出勤を許されず自宅にいた。すでに五月十九日の早朝、極楽寺切通しでの戦いが破れ敵軍が攻め込んだと聞くと本間山城左衛門は若党や中間百余人と共に「これが最後だ」と言って決起し極楽寺坂へ向かった。そこでは敵将・大館二郎宗氏の三万騎余りが守る真ん中へ突入し優勢な敵軍を八方に追い散らしながら大将の宗氏に組みつこうと一瞬も隙を見せず襲いかかった。 解説
※歴史的背景:赤橋盛時の自害は1333年5月18日深夜(史実では21日説も)。本間山城左衛門のモデルは相模武士・本間氏と推定され「恩顧返し」行動は中世奉公精神の典型例。大館宗氏襲撃場面は、新田軍内部で後継者争い(義貞vs脇屋義助)が始まる伏線として機能する文学的仕掛けであり、室町期読者が認識した「観応の擾乱」予兆的解釈も可能。全体として幕府滅亡を「個人の忠誠と組織崩壊の相克」で描く点に軍記物語の本質が表れている。 | ||||||||||||||||||||
| 三万余騎の兵共須臾の程に分れ靡き、腰越までぞ引たりける。余りに手繁く進で懸りしかば、大将宗氏は取て返し思ふ程闘て、本間が郎等と引組で、差違へてぞ伏給ひける。本間大に悦で馬より飛で下り、其頚を取て鋒に貫き、貞直の陣に馳参じ、幕の前に畏て、「多年の奉公多日の御恩此一戦を以て奉報候。又御不審の身にて空く罷成候はゞ、後世までの妄念共成ぬべう候へば、今は御免を蒙て、心安冥途の御先仕候はん。」と申もはてず、流るゝ泪を押へつゝ、腹掻切てぞ失にける。「「三軍をば可奪帥」とは彼をぞ云べき。「以徳報怨」とは是をぞ申べき。はづかしの本間が心中や。」とて、落る泪を袖にかけながら、「いざや本間が志を感ぜん。」とて、自打出られしかば、相順兵も泪を流さぬは無りけり。 ○稲村崎成干潟事 去程に、極楽寺の切通へ被向たる大館次郎宗氏、本間に被討て、兵共片瀬・腰越まで、引退ぬと聞へければ、新田義貞逞兵に万余騎を率して、二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかきて横矢に射させんと構たり。 |
三万騎余りの兵たちが瞬く間に分散して退却し、腰越まで後退した。あまりに激しく攻め寄せたため大将の大館宗氏は引き返して応戦し、本間山城左衛門と組み合い相打ちになって倒れた。本間は大喜びで馬から飛び降り敵将の首を取って槍先に突き刺し、主君・貞直の陣へ駆け参じ幕舎の前でひれ伏して「長年のご奉公と恩義への報いとしてこの一戦を果たしました。不始末によりお暇いただいている身が無事でいるならば後世まで妄念が残るでしょうから、どうか御免許(自害許可)を与え安らかに冥途の先導を致します」と申し上げ終わらないうちに涙を押さえつつ腹を切り果てた。この様子を見ていた貞直は「『三軍すらも奪うべきは帥なり』(論語)とは彼のことだ、『徳をもって怨みに報いる』というのはこれぞと言える」と感嘆し、「見事な本間の心持よ」と言い落ちる涙を袖で拭いながら「さあ本間の志に応えよう」と自ら出陣したため、従う兵たちも皆涙を流していた。 ○稲村ヶ崎が干潟になること 解説
※歴史的意義:本間エピソードは『太平記』最大の「忠臣美談」として江戸時代講談等で拡大再生産。貞直の涙描写は武士道精神における「情」と「義」の両立を示す先駆的事例。稲村ヶ崎防衛ライン描写(陸海空立体配置)は中世城郭研究の貴重資料であり、特に船舶数「数百隻」(四五町=約90m×5列規模)という記述は当時の北条氏海上権保持を裏付ける。全体としてこの箇所は軍事的現実主義と文学的脚色が融合した軍記物語の本質を示す典型例である。 | ||||||||||||||||||||
| 誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。と見給ければ、義貞馬より下給て、甲を脱で海上を遥々と伏拝み、竜神に向て祈誓し給ける。「伝奉る、日本開闢の主、伊勢天照太神は、本地を大日の尊像に隠し、垂跡を滄海の竜神に呈し給へりと、吾君其苗裔として、逆臣の為に西海の浪に漂給ふ。義貞今臣たる道を尽ん為に、斧鉞を把て敵陣に臨む。其志偏に王化を資け奉て、蒼生を令安となり。仰願は内海外海の竜神八部、臣が忠義を鑒て、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に令開給へ。」と、至信に祈念し、自ら佩給へる金作の太刀を抜て、海中へ投給けり。真に竜神納受やし給けん、其夜の月の入方に、前々更に干る事も無りける稲村崎、俄に二十余町干上て、平沙渺々たり。横矢射んと構ぬる数千の兵船も、落行塩に被誘て、遥の澳に漂へり。不思議と云も無類。義貞是を見給て、「伝聞、後漢の弐師将軍は、城中に水尽渇に被責ける時、刀を抜て岩石を刺しかば、飛泉俄に湧出き。我朝の神宮皇后は、新羅を責給し時自ら干珠を取、海上に抛給しかば、潮水遠退て終戦に勝事を令得玉ふと。是皆和漢の佳例にして古今の奇瑞に相似り。進めや兵共。」と被下知ければ、江田・大館・里見・鳥山・田中・羽河・山名・桃井の人々を始として、越後・上野・武蔵・相摸の軍勢共、六万余騎を一手に成て、稲村が崎の遠干潟を真一文字に懸通て、鎌倉中へ乱入る。 |
確かにこの陣地への攻撃も成功せず撤退するのが当然だろうと思われた。その様子をご覧になった義貞は、馬から降りて甲冑を脱ぎ、海上に向かって遥かにひざまずいて祈り、竜神に対して誓いを立てられた。「伝え聞くところでは、日本の開闢の主である伊勢天照太神は本来の姿を大日如来に隠し現れた姿として大海の竜神となっていると。我が君(天皇)はその子孫でありながら逆臣のために西海で流浪されている。義貞は今臣下としての道を尽くすために武器を取り敵陣に向かう。この志はひたすら天皇家を助け民衆を安寧に導こうとしているだけである。どうか内海外海の竜神八部よ私の忠義をお見知りおきいただいて潮水を千里も退け三軍のために道を開いてください」と深い信仰心で祈念し自ら帯びていた金作りの太刀を抜いて海中へ投げ入れた。すると竜神がこれを受け入れられたのかその夜の月が傾く頃に今まで干上がったことすらない稲村ヶ崎が突然二十余町も干上がり砂原が広々と現れた。横矢を射ようと構えていた数千もの兵船は潮が引いて沖へ流されてしまった。これは不思議というほかなく他に例がないほどだった。義貞はこれを見て「聞くところによれば後漢の弐師将軍李広利は城内で水不足に苦しんだ時剣を抜いて岩を刺したら突然泉が湧き出たと言う我が国の神功皇后も新羅征伐時に自ら干珠を取り海に投げ入れ潮が遠く退き戦いに勝ったと伝えられているこれは皆和漢の優れた先例であり古今まれに見る奇跡である進めや兵たち」と命令すると江田高治大館宗氏里見時成大鳥山守綱田中覚桃井直常羽河義助山名時氏らをはじめとする越後上野武蔵相模の軍勢六万余騎が一手に稲村ヶ崎の干潟まっすぐに突き進み鎌倉市中へ乱入した。 解説
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| 数多の兵是を見て、後なる敵に懸らんとすれば、前なる寄手迹に付て攻入んとす。前なる敵を欲防と、後の大勢道を塞で欲討と。進退失度、東西に心迷て、墓々敷敵に向て、軍を至す事は無りけり。爰に嶋津四郎と申しは、大力の聞へ有て、誠に器量事がら人に勝れたりければ、御大事に逢ぬべき者也。とて、執事長崎入道烏帽子々にして一人当千と被憑たりければ、詮度の合戦に向んとて未だろ々の防場へは不被向、態相摸入道の屋形の辺にぞ被置ける。懸る処に浜の手破て、源氏已に若宮小路まで攻入たりと騒ぎければ、相摸入道、嶋津を呼寄て、自ら酌を取て酒を進め三度傾ける時、三間の馬屋に被立たりける関東無双の名馬白浪と云けるに、白鞍置てぞ被引ける。見る人是を不浦山と云事なし。嶋津、門前より此馬にひたと打乗て、由井浜の浦風に、濃紅の大笠注を吹そらさせ、三物四物取付て、あたりを払て馳向ければ、数多の軍勢是を見て、誠に一騎当千の兵也。此間執事の重恩を与へて、傍若無人の振舞せられたるも理り哉、と思はぬ人はなかりけり。義貞の兵是を見て、「あはれ敵や。」と罵りければ、栗生・篠塚・畑・矢部・堀口・由良・長浜を始として、大力の覚へ取たる悪者共、我先に彼武者と組で勝負を決せんと、馬を進めて相近づく。 |
多くの兵士がこれを見て、後方の敵に攻撃しようとすると、前方から攻めてくる味方が跡について侵入してこようとする。前方の敵を防ごうとすると、後ろからの大軍が道を塞いで討とうとしてくる。進退が乱れ、東西へ心迷って、無謀にも敵に向かって戦闘態勢を整えることもできなかった。この時、嶋津四郎という者は大力の評判があり、本当に器量と働きが人並み以上だったので、「大事な場面で活躍すべき者だ」と言われていた。そこで執事である長崎入道は烏帽子をかぶり(僧形でありながら)、「一人で千人分の価値がある」と信頼していたため、決戦に向けてまだ守備が固まっていない防衛地点には配置せず、わざわざ相模入道(北条高時)の屋敷付近に置いていた。ちょうどその時、浜手が破られ源氏軍がすでに若宮小路まで攻め込んだと騒ぎになったので、相模入道は嶋津を呼び寄せ、自ら杯を取り酒を勧めて三度飲み干した後、三間(約5.4m)の馬屋に繋いであった関東無双と呼ばれる名馬「白浪」に白い鞍を置いて引き出させた。見ていた者たちはこれを驚嘆せずにはいられなかった。嶋津は門前からこの馬にぴたりと乗り、由井浜の海風に濃紅の大笠(深編み笠)を吹き上げさせ、「三物」(長柄武器)や「四物」(弓矢などの装備)を取り付けて周囲を払いながら駆け向かったので、多くの軍勢がこれを見て「まさに一騎当千の兵士だ」と思った。この間ずっと執事から厚恩を受けて傍若無人な振る舞いをしていたのも当然だと感じない者はいなかった。義貞側の兵はこれを見て、「ああ、敵め!」と罵ると、栗生・篠塚・畑・矢部・堀口・由良・長浜らを筆頭に、大力自慢の荒武者たちが我先にと彼(嶋津)と組み合って勝負をつけようと馬を進めて近づいていった。 解説
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| 両方名誉の大力共が、人交もせず軍する、あれ見よとのゝめきて、敵御方諸共に、難唾を呑で汗を流し、是を見物してぞ扣へたる。懸る処に島津馬より飛で下り、甲を脱で閑々と身繕をする程に、何とするぞと見居たれば、をめ/\と降参して、義貞の勢にぞ加りける。貴賎上下是を見て、誉つる言を翻して、悪まぬ者も無りけり。是を降人の始として、或は年来重恩の郎従、或は累代奉公の家人とも、主を棄て降人になり、親を捨て敵に付、目も不被当有様なり。凡源平威を振ひ、互に天下を争はん事も、今日を限りとぞ見へたりける。 ○鎌倉兵火事付長崎父子武勇事 去程に、浜面の在家並稲瀬河の東西に火を懸たれば、折節浜風烈吹布て、車輪の如くなる炎、黒煙の中に飛散て、十町二十町が外に燃付事、同時に二十余箇所也。猛火の下より源氏の兵乱入て、度方を失へる敵共を、此彼に射伏切臥、或引組差違、或生捕分捕様々也。煙に迷る女・童部共、被追立て火の中堀の底共不云、逃倒れたる有様は、是や此帝尺宮の闘に、修羅の眷属共天帝の為に被罰て、剣戟の上に倒伏阿鼻大城の罪人が獄卒の槍に被駆て、鉄湯の底に落入る覧も、角やと被思知て、語るに言も更になく、聞に哀を催して、皆泪にぞ咽ける。去程に余煙四方より吹懸て、相摸入道殿の屋形近く火懸りければ、相摸入道殿千余騎にて、葛西が谷に引篭り給ければ、諸大将の兵共は、東勝寺に充満たり。 |
敵味方双方の名声高い力自慢たちが、一騎打ちもせず対峙している状況を、「あれを見よ!」と歓声を上げて見物し、敵も味方も皆、息を呑んで汗を流しながら固唾を飲み、これに注目していた。その時島津(四郎)が馬から飛び降り、甲冑を脱いで落ち着いて身繕いをする様子を見て、「何をするつもりか?」と見守っていると、突然「おめえ/\」と言って降伏し、義貞の軍勢に加わった。貴賎上下問わずこれを見た者は皆、称賛していた言葉をひっくり返して非難せぬ者はいなかった。これを投降者の始まりとして、中には長年にわたる重恩を受けた郎従や、代々奉公してきた家人たちまでもが主君を捨て降伏人となり、親族を見限り敵側につくなど、目も当てられない有様であった。そもそも源氏と平家(北条方)が威勢を示し互いに天下争うことも今日で終わりだと見えたのである。 ○鎌倉の兵火事および長崎父子武勇について 解説
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| 是は父祖代々の墳墓の地なれば、爰にて兵共に防矢射させて、心閑に自害せん也。中にも長崎三郎左衛門入道思元・子息勘解由左衛門為基二人は、極楽寺の切通へ向て、責入敵を支て防けるが、敵の時の声已に小町口に聞へて、鎌倉殿へ御屋形に、火懸りぬと見へしかば、相随ふ兵七千余騎をば、猶本の責口に残置き、父子二人が手勢六百余騎を勝て、小町口へぞ向ける。義貞の兵是を見て、中に取篭て討んとす。長崎父子一所に打寄て魚鱗に連ては懸破り、虎韜に別ては追靡け、七八度が程ぞ揉だりける。義貞の兵共蜘手・十文字に被懸散て、若宮小路へ颯と引て、人馬に息をぞ継せける。懸る処に、天狗堂と扇が谷に軍有と覚て、馬煙夥敷みへければ、長崎父子左右へ別て、馳向はんとしけるが、子息勘解由左衛門、是を限と思ければ、名残惜げに立止て、遥に父の方を見遣て、両眼より泪を浮べて、行も過ざりけるを、父屹と是を見て、高らかに恥しめて、馬を扣て云けるは、「何か名残の可惜る、独死て独生残らんにこそ、再会其期も久しからんずれ。我も人も今日の日の中に討死して、明日は又冥途にて寄合んずる者が、一夜の程の別れ、何かさまでは悲かるべき。」と、高声に申ければ、為基泪を推拭ひ、「さ候はゞ疾して冥途の旅を御急候へ。 |
ここ(鎌倉)は父祖代々の墓所がある土地だから、兵たちに矢を射させて防御しつつ心静かに自害しよう。中でも長崎三郎左衛門入道思元とその息子・勘解由左衛門為基の二人は極楽寺切通に向かい攻め寄せる敵を防いでいたが、敵軍の鬨の声が小町口(鎌倉中心部)から聞こえ始めたため、(主君である)北条高時の御殿に火勢が迫っているのが見えた。これにより付き従う兵七千余騎は本来の守備地点へ残し、父子二人は手勢六百余騎を率いて小町口へ向かった。新田義貞軍はこれを包囲殲滅しようとしたため、長崎父子は一か所に集結して魚鱗陣(密集隊形)で突破戦闘を展開したのち虎韜陣(分散機動隊形)で敵を追い散らし、七度八度にも渡る激しい攻防が繰り広げられた。義貞軍は蜘蛛手・十字架のような陣形で包囲しようとしたため若宮小路へ退却し人馬共に息継ぎの時間を得た。 その時天狗堂と扇ヶ谷付近で戦闘があるらしく、馬埃が盛大に見えたので長崎父子は左右に分かれて駆けつけようとする。しかし息子・勘解由左衛門(為基)が「これが今生の別れか」と思い名残惜しそうに立ち止まり遠く父を見遣りながら両目に涙を浮かべ動こうとしない。すると父親(思元)はこれを鋭く見据え高らかに叱咤して馬の手綱を引き語った。「何が名残惜しいのか?お前だけ死んだり私だけ生き延びるなら再会も果たせまい。我々も他の者たちも今日討ち死にすれば明日には冥界で相見えるのだ。一夜ほどの別れなど悲しむことがあろうか」と大声で述べると、為基は涙を拭い「そうであるなら速やかに黄泉の旅へ急ぎましょう」と言った。 解説
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| 死出の山路にては待進せ候はん。」と云捨て、大勢の中へ懸入ける心の中こそ哀なれ。相順兵僅に二十余騎に成しかば、敵三千余騎の真中に取篭て、短兵急に拉がんとす。為基が佩たる太刀は面影と名付て、来太郎国行が、百日精進して、百貫にて三尺三寸に打たる太刀なれば、此鋒に廻る者、或は甲の鉢を立破に被破、或胸板を袈裟懸に切て被落ける程に、敵皆是に被追立て、敢て近付者も無りけり。只陣を隔て矢衾を作て、遠矢に射殺さんとしける間、為基乗たる馬に矢の立事七筋也。角ては可然敵に近て、組んとする事叶はじと思ければ、由井の浜の大鳥居の前にて馬よりゆらりと飛で下、只一人太刀を倒に杖て、二王立にぞ立たりける。義貞の兵是を見て、猶も只十方より遠矢に射計にて、寄合んとする者ぞ無りける。敵を為謀手負たる真似をして、小膝を折てぞ臥たりける。爰に誰とは不知、輪子引両の笠符付たる武者、五十余騎ひし/\と打寄て、勘解由左衛門が頚を取んと、争ひ近付ける処に、為基かはと起て太刀を取直し、「何者ぞ、人の軍にしくたびれて、昼寝したるを驚すは。いで己等がほしがる頚取せん。」と云侭に、鐔本まで血に成たる太刀を打振て、鳴雷の落懸る様に、大手をはだけて追ける間、五十余騎の者共、逸足を出し逃ける間、勘解由左衛門大音を揚て、「何くまで逃るぞ。 |
(勘解由左衛門為基は)「黄泉への道でお待ちしましょう。」と言い捨て、大軍の中へ突入していく様子は痛ましいほどであった。従う兵はわずか二十余騎になっていたため、敵三千余騎に包囲され、白兵戦での殺戮を受けようとしていた。為基が帯びた太刀「面影」は、来太郎国行という刀工が百日の精進を経て百貫で鍛えた三尺三寸(約1m)の名刀であり、この刃に触れた敵は兜を真っ二つに割られたり、胸当てを袈裟懸けに斬り落とされたため、敵兵らは皆押し立てられるように退き、敢えて近づく者もいなかった。ただ陣地を隔てて矢の壁を作り、遠距離から射殺しようとしたので、為基が乗る馬には七本もの矢が刺さっていた。「これでは適切な敵に接近して組み打ちすることも叶うまい」と思い至り、由比ヶ浜の大鳥居前で馬からすっと飛び降りると、単独で太刀を逆さまに杖のように突き、仁王像のような姿勢で立った。新田義貞軍はこれを見てもなお四方八方から遠矢を射かけようとし、接近戦を挑む者は皆無であった。(為基は)敵を欺くため負傷したふりをして膝をついてうずくまったところ、誰とも知れぬ「輪子引両」の笠印をつけた武者五十余騎がひしめき合って押し寄せ、勘解由左衛門(為基)の首を取ろうと争って近づいた瞬間に、為基は「今だ!」とばかり立ち上がり太刀を構え直して叫んだ。「何者だ?人の戦いで疲れて昼寝しているところを邪魔するとは。さあお前たちが欲しがる首を持っていけ。」そう言うや否や、鍔元まで血に染まった太刀を振りかざし、雷鳴が轟くような勢いで大技を見せて追撃したため、五十余騎の者どもは足早に逃げ出した。勘解由左衛門(為基)は大声を張り上げて「どこまで逃げる!」と叫んだ。 解説
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| 蓬し、返せ。と罵る声の、只耳本に聞へて、日来さしも早しと思し馬共、皆一所に躍る心地して、恐しなんど云許なし。為基只一人懸入て裏へぬけ、取て返しては懸乱し、今日を限と闘しが、二十一日の合戦に、由比浜の大勢を東西南北に懸散し、敵・御方の目を驚し、其後は生死を不知成にけり。 ○大仏貞直並金沢貞将討死事 去程に、大仏陸奥守貞直は、昨日まで二万余騎にて、極楽寺の切通を支て防闘ひ給けるが、今朝の浜の合戦に、三百余騎に討成れ、剰敵に後を被遮て、前後に度を失て御座ける処に、鎌倉殿の御屋形にも火懸りぬと見へしかば、世間今はさてとや思けん、又主の自害をや勧めけん、宗徒の郎従三十余人、白州の上に物具脱棄て、一面に並居て腹をぞ切にける。貞直是を見給て、「日本一の不覚の者共の行跡哉。千騎が一騎に成までも、敵を亡名を後代に残すこそ、勇士の本意とする所なれ。いでさらば最後の一合戦快して、兵の義を勧めん。」とて、二百余騎の兵を相随へ、先大嶋・里見・額田・桃井、六千余騎にて磬たる真中へ破て入、思程闘て、敵数た討取て、ばつと駈出見給へば、其勢僅に六十余騎に成にけり。貞直其兵を指招て、「今は末々の敵と懸合ても無益也。」とて、脇屋義助雲霞のごとくに扣たる真中へ駈入、一人も不残討死して尸を戦場の土にぞ残しける。 |
「臆病者め、戻れ!」と罵る声が耳元に響くと、普段は素早いと思われた馬たちも一斉におびえたように跳ね上がり、「恐ろしい」などと言っている余裕すらない。為基ただ一人で敵陣深く突入し反転して乱戦を繰り広げ「今日が最期だ」と死闘した結果、二十一日に及ぶ合戦の中で由比ヶ浜の大軍を東西南北へ散らせ、敵味方双方を驚嘆させた後、生死すら不明となった。 ○ 大仏貞直および金沢貞将の討ち死について 解説
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| 金沢武蔵守貞将も、山内の合戦に相従ふ兵八百余人被打散我身も七箇所まで疵を蒙て、相摸入道の御坐す東勝寺へ打帰り給たりければ、入道不斜感謝して、軈て両探題職に可被居御教書を被成、相摸守にぞ被移ける。貞将は一家の滅亡日の中を不過と被思けれ共、「多年の所望、氏族の規摸とする職なれば、今は冥途の思出にもなれかし。」と、彼御教書を請取て、又戦場へ打出給けるが、其御教書の裏に、「棄我百年命報公一日恩。」と大文字に書て、是を鎧の引合に入て、大勢の中へ懸入、終に討死し玉ければ、当家も他家も推双て、感ぜぬ者も無りけり。 ○信忍自害事 去程に普恩寺前相摸入道信忍も、粧粧坂へ被向たりしが、夜る昼る五日の合戦に、郎従悉く討死して、僅に二十余騎ぞ残ける。諸方の攻口皆破て、敵谷々に入乱ぬと申ければ、入道普恩寺討残されたる若党諸共に自害せられけるが、子息越後守仲時六波羅を落て、江州番馬にて腹切玉ぬと告たりければ、其最後の有様思出して、哀に不堪や被思けん、一首の歌を御堂の柱に血を以て書付玉けるとかや、待しばし死出の山辺の旅の道同く越て浮世語らん年来嗜弄給し事とて、最後の時も不忘、心中の愁緒を述て、天下の称嘆に残されける、数奇の程こそ優けれと、皆感涙をぞ流しける。 |
金沢武蔵守貞将も山内(鎌倉)での合戦で従う兵八百余人が散り散りになり、自身も七箇所の傷を負いながら、相模入道(北条高時)のいる東勝寺へ戻ったところ、入道は大いに感謝してすぐに両探題職への任命書を作成し、相模守の役職を与えた。貞将は一族滅亡が目前と悟りつつも「長年の念願で氏族の格式を定める職だから、冥土での思い出となれ」と思い、その文書を受け取ると再び戦場へ向かった。そして任命書の裏に「我が百年の命を棄てて君への一日の恩に報いん(捨身報恩)」と大書きし、これを鎧の合わせ目に入れて敵陣へ突入し、ついに討ち死になさったので、北条家も他勢力も皆これを見て感動しない者はいなかった。 ○ 普恩寺前相模入道信忍(北条高時)の自害について 解説
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| ○塩田父子自害事 爰に不思議なりしは、塩田陸奥入道々祐が子息民部大輔俊時、親の自害を勧んと、腹掻切て目前に臥たりけるを見給て、幾程ならぬ今生の別に目くれ心迷て落る泪も不留、先立ぬる子息の菩提をも祈り、我逆修にも備へんとや被思けん、子息の尸骸に向て、年来誦給ける持経の紐を解、要文処々打上、心閑に読誦し給けり。被打漏たる郎等共、主と共に自害せんとて、二百余人並居たりけるを、三方へ差遣し、「此御経誦終る程防矢射よ。」と下地せられけり。其中に狩野五郎重光許は年来の者なる上、近々召仕れければ、「吾腹切て後、屋形に火懸て、敵に頚とらすな。」と云含め、一人被留置けるが、法花経已に五の巻の提婆品はてんとしける時、狩野五郎門前に走出て四方を見る真似をして、「防矢仕つる者共早皆討れて、敵攻近付候。早々御自害候へ。」と勧ければ、入道、「さらば。」とて、経をば左の手に握り、右の手に刀を抜て腹十文字に掻切て、父子同枕にぞ臥給ける。重光は年来と云、重恩と云、当時遺言旁難遁ければ、軈て腹をも切らんずらんと思たれば、さは無て、主二人の鎧・太刀・々剥、家中の財宝中間・下部に取持せて、円覚寺の蔵主寮にぞ隠居たりける。此重宝共にては、一期不足非じと覚しに、天罰にや懸りけん。 |
ここで不思議だったのは、塩田陸奥入道(道祐)の息子・民部大輔俊時が父の自害を促そうと腹を切って目前に倒れているのを見ても、この世の別れに目も心も乱れる様子なく落涙せず、むしろ先立った息子供養と自身の仏事準備のためにと思われたか、息子の遺体に向かい長年唱えてきた経典の紐を解き、重要な箇所を選んで心静かに読誦なさっていたことだ。生き残った家臣たち二百余人が主君と共に自害しようと並んでいたが、道祐は彼ら三方へ散らせ「このお経が終わるまで敵の矢を防げ」と指示した。中でも狩野五郎重光は長年仕えた側近だったため、「私が腹を切った後で屋形に火をかけ、敵に首を取られるな」と言い含め一人残した。法華経第五巻提婆品(だいばほん)の終わり頃、狩野五郎が門前へ走り出て周囲を見回すふりをし「防戦していた者たちは全員討たれ敵が迫っています。急いで御自害ください」と勧めたので、入道(道祐)は「ならば」と言って経典を左手に握り、右手で刀を抜き腹を十文字に切り、父子同じ場所に並んで倒れた。重光は長年の情も深恩も忘れ、主君の遺言など全く守らず、二人から鎧や太刀を剥ぎ取り家財道具を下僕らに持たせ円覚寺蔵主寮へ逃げ隠れたが、「これだけ財宝あれば一生困らない」と考えたその驕りが天罰を招いたのか。 解説
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| 舟田入道是を聞付て推寄せ、是非なく召捕て、遂に頚を刎て、由井の浜にぞ掛られける。尤角こそ有たけれとて、悪ぬ者も無りけり。 ○塩飽入道自害事 塩飽新左近入道聖遠は、嫡子三郎左衛門忠頼を呼、「諸方の攻口悉破、御一門達大略腹切せ給と聞へければ、入道も守殿に先立進て、其忠義を知られ奉らんと思也。されば御辺は未だ私の眷養にて、公方の御恩をも蒙らねば、縦ひ一所にて今命を不棄共、人強義を知ぬ者とはよも思はじ。然者何くにも暫く身を隠し、出家遁世の身ともなり、我後生をも訪ひ、心安く一身の生涯をもくらせかし。」と、泪の中に宣ひければ、三郎左衛門忠頼も、両眼に泪を浮め、しば/\物も不被申けるが、良有て、「是こそ仰共覚候はね。忠頼直に公方の御恩を蒙りたる事は候はね共、一家の続命悉く是武恩に非と云事なし。其上忠頼自幼少釈門に至る身ならば、恩を棄て無為に入る道も然なるべし。苟も弓矢の家に生れ、名を此門棄に懸ながら、武運の傾を見て、時の難を遁れんが為に、出塵の身と成て、天下の人に指を差れん事、是に過たる恥辱や候べき。御腹被召候はゞ、冥途の御道しるべ仕候はん。」と云も終ず、袖の下より刀を抜て、偸に腹に突立て、畏たる体にて死ける。其弟塩飽四郎是を見て、続て腹を切らんとしけるを、父の入道大に諌て、「暫く吾を先立、順次の孝を専にし、其後自害せよ。 |
舟田入道がこれを聞きつけて押し寄せ、やむなく捕らえて遂に首を刎ね、由井の浜へ晒したのだが、誰も異論がないほど当然のことだった。 ○ 塩飽入道自害について 解説
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| 」と申ければ、塩飽四郎抜たる刀を収て、父の入道が前に畏てぞ侯ける。入道是を見て快げに打笑、閑々と中門に曲■をかざらせて、其上に結跏趺座し、硯取寄て自ら筆を染め、辞世の頌をぞ書たりける。提持吹毛。截断虚空。大火聚裡。一道清風。と書て、叉手して頭を伸て、子息四郎に、「其討。」と下地しければ、大膚脱に成て、父の頚をうち落て、其太刀を取直て、鐔本まで己れが腹に突貫て、うつぶしざまにぞ臥たりける。郎等三人是を見て走寄り、同太刀に被貫て、串に指たる魚肉の如く頭を連て伏たりける。 ○安東入道自害事付漢王陵事 安東左衛門入道聖秀と申しは、新田義貞の北台の伯父成しかば、彼女房義貞の状に我文を書副て、偸に聖秀が方へぞ被遣ける。安東、始は三千余騎にて、稲瀬河へ向たりけるが、世良田太郎が稲村崎より後へ回りける勢に、陣を被破て引けるが、由良・長浜が勢に被取篭て百余騎に被討成、我身も薄手あまた所負て、己が館へ帰たりけるが、今朝巳刻に、宿所は早焼て其跡もなし。妻子遣属は何ちへか落行けん、行末も不知成て、可尋問人もなし。是のみならず、鎌倉殿の御屋形も焼て、入道殿東勝寺へ落させ給ぬと申者有ければ、「さて御屋形の焼跡には、傍輩何様腹切討死してみゆるか。 |
塩飽四郎は抜いた刀を収め、父である入道の前に恭しく控えた。入道はこれを見て満足げに笑い、ゆったりと中門に机を置かせるとその上で結跏趺坐(あぐら)を組み、硯を取り寄せ自ら筆を執り辞世の句を書いた。「提持吹毛。截断虚空。大火聚裡。一道清風。(刃は微塵も逃さず、虚空すら切り裂く。劫火の中に清涼の風あり)」と書き終えると、合掌して首を伸ばし息子・四郎に向かって「討て」と命じたため、大きく袈裟懸け(斜め)に斬り下ろされて父の首を落とした。四郎はその太刀を持ち直し鍔元まで自らの腹へ突き刺してうつ伏せに倒れた。これを見た家臣三人が駆け寄ると同じ刀に貫かれて串刺しの魚のように頭を連ねて死んだ。 ○ 安東入道自害と漢王陵故事 解説
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| 」と尋ければ、「一人も不見候。」とぞ答ける。是を聞て安東、「口惜事哉。日本国の主、鎌倉殿程の年来住給し処を敵の馬の蹄に懸させながら、そこにて千人も二千人も討死する人の無りし事よと、後の人々に被欺事こそ恥辱なれ。いざや人々、とても死せんずる命を、御屋形の焼跡にて心閑に自害して、鎌倉殿の御恥を洗がん。」とて、被討残たる郎等百余騎を相順へて、小町口へ打莅む。先々出仕の如く、塔辻にて馬より下り、空き迹を見廻せば、今朝までは、奇麗なる大廈高牆の構、忽に灰燼と成て、須臾転変の煙を残し、昨日まで遊戯せし親類朋友も、多く戦場に死して、盛者必衰の尸を余せり。悲の中の悲に、安東泪を押へて惘然たる処に、新田殿の北の台の御使とて、薄様に書たる文を捧たり。何事ぞとて披見れば、「鎌倉の有様今はさてとこそ承候へ。何にもして此方へ御出候へ。此程の式をば身に替ても可申宥候。」なんど、様々に書れたり。是を見て安東大に色を損じて申けるは、「栴檀の林に入者は、不染衣自ら香しといへり。武士の女房たる者は、けなげなる心を一つ持てこそ、其家をも継子孫の名をも露す事なれ。されば昔漢の高祖と楚項羽と闘ける時、王陵と云者城を構て篭たりしを、楚是を攻るに更に不落。 |
安東が尋ねると、「誰一人いませんでした。」という返答だった。これを聞いて安東は「なんと残念なことか!日本の主君である鎌倉殿(北条高時)が長年住まわれた場所を敵の馬蹄に踏まれながら、そこで千や二千もの者が殉死しなかったとは後世の人々に笑われる恥辱だ。さあ皆よ、どうせ死ぬ命なら御屋形様(主君邸宅)の焼け跡で心静かに自害して鎌倉殿の汚名をそそごう。」と言い、生き残った家臣百人余りの騎兵を率いて小町口へ向かう。先陣のように塔辻で馬から降りて焼け跡を見渡すと、今朝までは美しい高層邸宅が立ち並んでいた場所があっという間に灰燼となり、わずかに漂う煙だけが無常を物語っていた。昨日まで共に遊んだ親族や友人も多く戦死し、「盛者必衰」の法則通り屍が残っている。悲嘆の中でもなお安東は涙をこらえて茫然としていたところへ新田義貞(北条方への敵将)から「伯父上」宛てという使者が来た薄紙に書かれた手紙を差し出した。「何ごとか」と開封すると、「鎌倉の様子は承知しました。どうかこちらにお越しください。この度の事情は私が身代わりとなってお許しいただきます。」などと多々書き連ねてあった。これを見た安東は顔色を変えて言った。「栴檀林に入る者は衣に香り移らずとも自ら芳香を放つという(良い環境では自然と感化される)。武士の妻たる者には貞節な心一つがあってこそ家系も子孫の名も保てるのだ。昔、漢の高祖と楚の項羽が争った時、王陵という者が城に籠っていたが楚はこれを攻め落とせなかった...」 解説
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| 此時楚の兵相謀て云、「王陵は母の為に忠孝を存ずる事不浅。所詮王陵が母を捕へて楯の面に当て城を攻る程ならば、王陵矢を射る事を不得して降人に出る事可有。」とて潛に彼母を捕てけり。彼母心の中に思けるは、王陵我に仕る事大舜・曾参が高孝にも過たり。我若楯の面に被縛城に向ふ程ならば、王陵悲に不堪して、城を被落事可有。不如無幾程命を為子孫捨んにはと思定て、自剣の上に死てこそ、遂に王陵が名をば揚たりしか。我只今まで武恩に浴して、人に被知身となれり。今事の急なるに臨で、降人に出たらば、人豈恥を知たる者と思はんや。されば女性心にて縦加様の事を被云共、義貞勇士の義を知給ば、さる事やあるべき、可被制。又義貞縱敵の志を計らん為に宣ふ共、北方は我方様の名を失はじと思はれば、堅可被辞、只似るを友とする方見さ、子孫の為に不被憑。」と、一度は恨一度は怒て、彼使の見る前にて、其文を刀に拳り加へて、腹掻切てぞ失給ける。 ○亀寿殿令落信濃事付左近大夫偽落奥州事 爰に相摸入道殿の舎弟四郎左近大夫入道の方に候ける諏方左馬助入道が子息、諏訪三郎盛高は、数度の戦に郎等皆討れぬ。只主従二騎に成て、左近大夫入道の宿所に来て申けるは、「鎌倉中の合戦、今は是までと覚て候間、最後の御伴仕候はん為に参て候。 |
安東が尋ねると、「誰一人いませんでした。」という返答だった。これを聞いて安東は「なんと残念なことか!日本の主君である鎌倉殿(北条高時)が長年住まわれた場所を敵の馬蹄に踏まれながら、そこで千や二千もの者が殉死しなかったとは後世の人々に笑われる恥辱だ。さあ皆よ、どうせ死ぬ命なら御屋形様(主君邸宅)の焼け跡で心静かに自害して鎌倉殿の汚名をそそごう。」と言い、生き残った家臣百人余りの騎兵を率いて小町口へ向かう。先陣のように塔辻で馬から降りて焼け跡を見渡すと、今朝までは美しい高層邸宅が立ち並んでいた場所があっという間に灰燼となり、わずかに漂う煙だけが無常を物語っていた。昨日まで共に遊んだ親族や友人も多く戦死し、「盛者必衰」の法則通り屍が残っている。悲嘆の中でもなお安東は涙をこらえて茫然としていたところへ新田義貞(北条方への敵将)から「伯父上」宛てという使者が来た薄紙に書かれた手紙を差し出した。「何ごとか」と開封すると、「鎌倉の様子は承知しました。どうかこちらにお越しください。この度の事情は私が身代わりとなってお許しいただきます。」などと多々書き連ねてあった。これを見た安東は顔色を変えて言った。「栴檀林に入る者は衣に香り移らずとも自ら芳香を放つという(良い環境では自然と感化される)。武士の妻たる者には貞節な心一つがあってこそ家系も子孫の名も保てるのだ。昔、漢の高祖と楚の項羽が争った時、王陵という者が城に籠っていたが楚はこれを攻め落とせなかった。この時楚軍は相談して『王陵は母親への孝行心が厚いから、その母を捕らえ盾の表側に縛り付けて攻撃すれば、息子は矢も放てず降伏するだろう』と言って密かに彼の母を捕えた。母は心の中で思った:『王陵の私への孝行は聖人たち以上だ。もし私が盾に縛られ城に向かわれたら哀れみで落城してしまう。いっそ命を捨て子孫のために名を挙げよう』と決意し、自らの剣で使者の目の前で腹を切って死んだ。」 ○亀寿殿信濃落ち及び左近大夫偽奥州逃亡事件 解説
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| 早思召切せ給へ。」と進め申ければ、入道当りの人をのけさせて、潛に盛高が耳に宣ひけるは、「此乱不量出来、当家已に滅亡しぬる事更に他なし。只相摸入道殿の御振舞人望にも背き神慮にも違たりし故也。但し天縦ひ驕を悪み盈を欠とも、数代積善の余慶家に尽ずば、此子孫の中に絶たるを継ぎ廃たるを興す者無らんや。昔斉の襄公無道なりしかば、斉の国可亡を見て、其臣に鮑叔牙と云ける者、襄公の子小伯を取て他国へ落てげり。其間に襄公果して公孫無智に被亡、斉の国を失へり。其時に鮑叔牙小伯を取立て、斉の国へ推寄、公孫無智を討事を得て遂に再び斉の国を保たせける。斉の桓公は是也。されば於我深く存ずる子細あれば、無左右自害する事不可有候。可遁ば再び会稽の恥を雪ばやと思ふ也。御辺も能々遠慮を回して、何なる方にも隠忍歟、不然ば降人に成て命を継で、甥にてある亀寿を隠置て、時至ぬと見ん時再び大軍を起して素懐を可被遂。兄の万寿をば五大院の右衛門に申付たれば、心安く覚る也。」と宣へば、盛高泪を押へて申けるは、「今までは一身の安否を御一門の存亡に任候つれば、命をば可惜候はず。御前にて自害仕て、二心なき程を見へ進せ候はんずる為にこそ、是まで参て候へ共、「死を一時に定るは易く、謀を万代に残すは難し」と申事候へば、兎も角も仰に可随候。 |
「早くお決心ください。」と勧めたところ、左近大夫入道は周囲の人々を遠ざけ、密かに盛高の耳元で言った。「今回の乱戦は計り知れず、我が北条家はすでに滅亡した。これは相模入道(得宗)殿の行いが人望にも神意にも背いたからだ。しかし天が驕りを憎み満ちたものを欠けるようにするとしても、数代積んだ善行の余徳が家に尽きるならば、子孫の中に絶えた家系を継ぎ廃れたものを興す者がいないだろうか?昔、斉の襄公が無道だったため、斉国が滅びそうだと見た臣下・鮑叔牙は襄公の息子・小伯を連れて他国へ逃げた。その後、襄公は公孫無知に殺され斉国は失われた。その時、鮑叔牙は小伯(後の桓公)を擁立し、公孫無知を討って再び斉国を取り戻したのだ。我にも深い考えがあるから自害してはいけない。逃れて越王勾践の会稽山での恥のように屈辱を晴らしたい。お前もよく考えてどこかに身を潜めよ、さもなくば降伏して命をつなぎながら甥である亀寿(北条氏遺児)を匿い、時機到来と見れば大軍を起こし宿願を果たせ。兄の万寿は五大院右衛門に託したので安心している。」と言うと、盛高は涙を抑えて答えた。「これまでは自分の生死も一門の存亡にかけてきたため命など惜しくないのです。御前で自害し二心なき証を見せようとしたのですが『死ぬ決断は一時的に易しいが永遠に続く謀略こそ難しい』と申しますゆえ、何れ様にもお言葉に従います。」 解説
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| 」とて、盛高は御前を罷立て、相摸殿の妾、二位殿の御局の扇の谷に御坐ける処へ参たりければ、御局を始進せて、女房達まで誠に嬉し気にて、「さても此世の中は、何と成行べきぞや。我等は女なれば立隠るゝ方も有ぬべし。此亀寿をば如何すべき。兄の万寿をば五大院右衛門可蔵方有とて、今朝何方へやらん具足しつれば心安く思也。只此亀寿が事思煩て、露の如なる我身さへ、消侘ぬるぞ。」と泣口説給ふ。盛高此事有の侭に申て、御心をも慰め奉らばやとは思ひけれども、女性はゝかなき者なれば、後にも若人に洩し給ふ事もやと思返して、泪の中に申けるは、「此世中今はさてとこそ覚候へ。御一門太略御自害候なり。大殿計こそ未葛西谷に御座候へ。公達を一目御覧じ候て、御腹を可被召と仰候間、御迎の為に参て候。」と申ければ、御局うれし気に御座つる御気色、しほ/\と成せ給て、「万寿をば宗繁に預けつれば心安し、構て此子をも能々隠してくれよ。」と仰せも敢ず、御泪に咽ばせ給しかば、盛高も岩木ならねば、心計は悲しけれ共、心を強く持て申けるは、「万寿御料をも五大院右衛門宗繁が具足し進せ候つるを、敵見付て追懸進せ候しかば、小町口の在家に走入て、若子をば指殺し進せ、我身も腹切て焼死候つる也。 |
盛高はお供から離れ、相模入道(北条氏)の側室である二位殿が滞在していた扇ノ谷へ向かった。すると二位殿を始め女房たちまで皆嬉しそうに、「この世の中どうなるのでしょう?私たち女性なら隠れる場所もあるでしょうけれど、この亀寿はどうすればいいのか?兄の万寿については五大院右衛門が匿ってくれると言っていたから、今朝どこかへ連れて行ったと聞き安心しています。ただこの亀寿のことが心配で、露のように儚い私自身も消え果てそうです」と泣きながら訴えた。盛高は事実をそのまま伝えて彼女の気持ちを慰めたいと思ったが、「女性は思慮深くないので後で若者に漏らすかもしれない」と考え直し、涙の中でこう言った。「この世も終わりです。御一門(北条一族)はほとんど自害されました。大殿(北条高時)だけがまだ葛西谷におられます。お子様たちを一目ご覧になって腹をお切りになるとのことなので、お迎えに参りました。」すると二位殿の嬉しそうだった表情が急に曇り、「万寿は宗繁(五大院右衛門)に預けたから安心だ。どうかこの子もきちんとかくまってほしい」と言い終わらないうちに涙にむせた。盛高も木石ではないので心の中では悲しかったが、気を強く持ってこう伝えた。「万寿様は五大院右衛門宗繁が守護しようとしましたが敵に見つかって追われ小町口の民家に逃げ込み幼子(亀寿)を刺し殺した後自ら腹を切って焼け死んでしまいました。」 解説
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| あの若御も今日此世の御名残、是を限と思召候へ。とても隠れあるまじき物故に、狩場の雉の草隠たる有様にて、敵にさがし出されて、幼き御尸に、一家の御名を失れん事口惜候。其よりは大殿の御手に懸られ給て冥途までも御伴申させ給たらんこそ、生々世々の忠孝にて御座候はん。疾々入進せ給へ。」と進めければ、御局を始進せて、御乳母の女房達に至るまで、「方見の事を申者哉。せめて敵の手に懸らば如何せん。二人の公達を懐存進つる人々の手に懸て失ひ奉らんを見聞ては、如何許とか思遣る。只我を先殺して後、何とも計へ。」とて、少人の前後に取付て、声も不惜泣悲給へば、盛高も目くれ、心消々と成しか共、思切らでは叶まじと思て、声いらゝげ色を損て、御局を奉睨、「武士の家に生れん人、襁の中より懸る事可有と思召れぬこそうたてけれ。大殿のさこそ待思召候覧。早御渡候て、守殿の御伴申させ給へ。」と云侭に走懸り、亀寿殿を抱取て、鎧の上に舁負て、門より外へ走出れば、同音にわつと泣つれ玉し御声々、遥の外所まで聞へつゝ、耳の底に止れば、盛高も泪を行兼て、立返て見送ば、御乳母の御妻は、歩跣にて人目をも不憚走出させ給て、四五町が程は、泣ては倒れ、倒ては起迹に付て被追けるを、盛高心強行方を知れじと、馬を進めて打程に後影も見へず成にければ、御妻、「今は誰をそだて、誰を憑で可惜命ぞや。 |
「あのお子様も今日でこの世とのお別れ、これが最後と思ってください。どうせ隠れられないのですから、狩場の雉が草むらに隠れるような状態で敵に見つけ出され、幼い御遺体によって一族の名誉を失うのは残念です。それより大殿(北条高時)様のお手にかかってあの世までお供する方が、永遠の忠孝になるでしょう。早く入室してください。」と勧めたところ、二位殿はじめ乳母の女房たちまでもが、「見当違いなことを言う者だ!せめて敵の手にかかるならどうなるというのか?二人のお子様を守ろうとした人々の手で失われるのを見聞きしたらどんな気持ちか。まず私を殺してから好きにしろ!」と言い、子供たちを取り囲んで泣き叫んだので盛高も目がくらみ心が揺れたが、「思い切らなければならない」と声を荒げて二位殿を睨みつけ「武家に生まれる者なら幼少期からこうした覚悟があるはずです。大殿様は待っておられます。早くあちらへ行かれて守役をお供させなさい!」と言いながら走り寄り、亀寿殿を抱き上げ鎧の上におぶって門外に飛び出した。女房たちの泣き叫ぶ声が遠くまで響いて耳に残る中、盛高は涙をこらえて振り返ると乳母である御妻(二位殿)が裸足で人目も憚らず追いかけて来ており、四~五町ほど「泣いて倒れ起き上がり」繰り返していた。盛高は心を鬼にして馬を進め後ろ姿が見えなくなった時、「もう誰を育てよう?命惜しむべき者などいるのか?」と絶望した。 解説
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| 」とて、あたりなる古井に身を投て、終に空く成給ふ。其後盛高此若公を具足して、信濃へ落下り、諏訪の祝を憑で有しが、建武元年の春の比、暫関東を劫略して、天下の大軍を起し、中前代の大将に、相摸二郎と云は是なり。角して四郎左近太夫入道は、二心なき侍共を呼寄て「我は思様有て、奥州の方へ落て、再び天下を覆す計を可回也。南部太郎・伊達六郎二人は、案内者なれば可召具。其外の人々は自害して屋形に火をかけ、我は腹を切て焼死たる体を敵に可見。」と宣ければ、二十余人の侍共、一義にも不及、「皆御定に可随。」とぞ申ける。伊達・南部二人は、貌をやつし夫になり、中間二人に物具きせて馬にのせ、中黒の笠符を付させ、四郎入道を■に乗て、血の付たる帷を上に引覆ひ、源氏の兵の手負て本国へ帰る真以をして、武蔵までぞ落たりける。其後残置たる侍共、中門に走出、「殿は早御自害有ぞ。志の人は皆御伴申せ。」と呼て、屋形に火を懸、忽に煙の中に並居て、二十余人の者共は、一度に腹をぞ切たりける。是を見て、庭上・門外に袖を連ねたる兵共三百余人、面々に劣じ々じと腹切て、猛火の中へ飛で入、尸を不残焼死けり。さてこそ四郎左近太夫入道の落給ぬる事をば不知して、自害し給ぬと思けれ。 |
「そのお子様も今日でこの世との別れだと思ってください。どうせ隠れられないのですから、狩場の雉が草むらに隠れるような状態で敵に見つかり、幼い御遺体によって一族の名誉を失うのは残念です。それより大殿(北条高時)様のお手にかかってあの世までお供する方が永遠の忠孝となります。早く入室なさってください。」と勧めたところ、二位殿はじめ乳母の女房たちまでもが、「見当違いなことを言う者だ!せめて敵に捕まるならどうなるというのか?二人のお子様を守ろうとした人々の手で失われるのを見聞きしたらどんな気持ちか。まず私を殺してから好きにしろ!」と言い、子供たちを取り囲んで泣き叫んだので盛高も目がくらみ心が揺れたが、「思い切らなければならない」と声を荒げて二位殿を睨みつけ「武家の者たるもの幼少期からこうした覚悟があるはずです。大殿様は待っておられます。早くあちらへ行かれて守役をお供させなさい!」と言いながら走り寄り、亀寿殿を抱き上げ鎧の上におぶって門外に飛び出した。女房たちの泣き叫ぶ声が遠くまで響いて耳に残る中、盛高は涙をこらえて振り返ると乳母である御妻(二位殿)が裸足で人目も憚らず追いかけて来ており、四~五町ほど「泣いて倒れ起き上がり」繰り返していた。盛高は心を鬼にして馬を進め後ろ姿が見えなくなった時、「もう誰を育てよう?頼る者などいるのか?命惜しむべき意味もない!」と絶望した。 解説
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| 其後西園寺の家に仕へて、建武の比京都の大将にて、時興と被云しは、此入道の事也けり。 ○長崎高重最期合戦事 去程に長崎次郎高重は、始武蔵野の合戦より、今日に至るまで、夜昼八十余箇度の戦に、毎度先を懸、囲を破て自相当る事、其数を不知然ば、手者・若党共次第に討亡されて、今は僅に百五十騎に成にけり。五月二十二日に、源氏早谷々へ乱入て、当家の諸大将、太略皆討れ給ぬと聞へければ、誰が堅めたる陣とも不云、只敵の近づく処へ、馳合々々、八方の敵を払て、四隊の堅めを破ける間、馬疲れぬれば乗替、太刀打折れば帯替て、自敵を切て落す事三十二人、陣を破る事八箇度なり。角て相摸入道の御坐葛西谷へ帰り参て、中門に畏り泪を流し申けるは、「高重数代奉公の義を忝して、朝夕恩顔を拝し奉りつる御名残、今生に於ては今日を限りとこそ覚へ候へ。高重一人数箇所の敵を打散て、数度の闘に毎度打勝候といへ共、方々の口々皆責破られて、敵の兵鎌倉中に充満して候ぬる上は、今は矢長に思共不可叶候。只一筋に敵の手に懸らせ給はぬ様に、思召定させ給候へ。但し高重帰参て勧申さん程は、無左右御自害候な。上の御存命の間に、今一度快く敵の中へ懸入、思程の合戦して冥途の御伴申さん時の物語に仕候はん。 |
「その後西園寺家に仕え、建武の頃には京都の大将として時興と呼ばれたのはこの入道のことである。 ○長崎高重最期合戦事 解説
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| 」とて、又東勝寺を打出づ。其後影を相摸入道遥に目送玉て、是や限なる覧と名残惜げなる体にて、泪ぐみてぞ被立たる。長崎次郎甲をば脱捨、筋の帷の月日推たるに、精好の大口の上に赤糸の腹巻着て小手をば不差、兎鶏と云ける坂東一の名馬に、金具の鞍に小総の鞦懸てぞ乗たりける。是を最後と思定ければ、先崇寿寺の長老南山和尚に参じて、案内申ければ、長老威儀を具足して出合給へり。方々の軍急にして甲冑を帯したりければ、高重は庭に立ながら、左右に揖して問て曰、「如何是勇士恁麼の事。」和尚答曰、「吹毛急用不如前。」高重此一句を聞て、問訊して、門前より馬引寄打乗て、百五十騎の兵を前後に相随へ、笠符かなぐり棄、閑に馬を歩て、敵陣に紛入。其志偏に義貞に相近付ば、撲て勝負を決せん為也。高重旗をも不指、打物の室をはづしたる者無ければ、源氏の兵、敵とも不知けるにや、をめ/\と中を開て通しければ、高重、義貞に近く事僅に半町計也。すはやと見ける処に、源氏の運や強かりけん、義貞の真前に扣たりける由良新左衛門是を見知て、「只今旗をも不指相近勢は長崎次郎と見ぞ。さる勇士なれば定て思処有てぞ是までは来らん。あますな漏すな。」と、大音挙て呼りければ、先陣に磬たる武蔵の七党三千余騎、東西より引裹で真中に是を取込、我も々もと討んとす。 |
そう言い残し再び東勝寺へ向かった。その後、相模入道(北条高時)は遠くまでその姿を見送りながら「これが最後か」と言わんばかりに名惜しむ様子で涙を浮かべておられた。長崎次郎高重は兜を脱ぎ捨て、筋の帷(衣服)には日月紋をつけ、上質の大口袴の上から赤糸縅の腹巻きだけ着て籠手も付けず、「兎鶏」という坂東一の名馬に金具装飾の鞍と小総毛の鞦を懸けて乗った。これが最期と決意したため、まず崇寿寺の長老・南山和尚のもとへ赴き面会を願うと、長老は威儀を正してお出ましになった。(当時は)周囲で戦闘が激しく皆甲冑をつけていた中、高重は庭に立ったまま左右に揖して問うた「勇士たる者の根本とは何か」。和尚は答えた「研ぎ澄ました刃も急用には及ばぬ(平常心こそ肝要)」。この言葉を聞いた高重は礼を示し、門前で馬を引き寄せ乗ると百五十騎の兵を率い笠符を投げ捨てゆったり馬を進め敵陣に紛れ込んだ。その目的はひたすら新田義貞に近づき一気に決着をつけるためである。高重が旗も掲げず武器(打物)の鞘外しもしなかったので、源氏兵は敵とも知らず「おーい」と道を開けて通したため、ついに義貞まで半町(約55m)に迫った瞬間だった――その時運強き源氏方の由良新左衛門がこれを認め、「今しも旗もなく近づく軍勢は長崎次郎だ! あのような強者が来るのは必ず深謀がある。逃すな!」と叫ぶや、武蔵七党三千騎が東西から包囲し「俺が討つ!」と争うように取り囲んだ。 解説
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| 高重は支度相違しぬと思ければ、百五十騎の兵を、ひし/\と一所へ寄て、同音に時をどつと揚、三千余騎の者共を懸抜懸入交合、彼に露れ此に隠れ、火を散してぞ闘ける。聚散離合の有様は須臾に反化して前に有歟とすれば忽焉として後へにある。御方かと思へば屹として敵也。十方に分身して、万卒に同く相当りければ、義貞の兵高重が在所を見定ず、多くは同士打をぞしたりける。長浜六郎是を見て「無云甲斐人々の同士打哉、敵は皆笠符を不付とみへつるぞ、中に紛れば、其を符にして組で討。」と下地しければ、甲斐・信濃・武蔵・相摸の兵共、押双てはむずと組、々で落ては首を取もあり、被捕もあり、芥塵掠天、汗血地を糢糊す。其在様項王が漢の三将を靡し魯陽が日を三舎に返し闘しも、是には不過とぞ見へたりける。され共長崎次郎は未被討、主従只八騎に成て戦けるが、猶も義貞に組んと伺て近付敵を打払、動れば差違て、義貞兄弟を目に懸て回りけるを、武蔵国の住人横山太郎重真、押隔て是に組んと、馬を進めて相近づく。長崎もよき敵ならば、組んと懸合て是を見るに、横山太郎重真也。さてはあはぬ敵ぞと思ければ、重真を弓手に相受、甲の鉢を菱縫の板まで破着たりければ、重真二つに成て失にけり。馬もしりゐに被打居て、小膝を折てどうど伏す。 |
長崎次郎高重は準備不足ではないと判断し、百五十騎の兵を密集させ一箇所に集結。声を揃えて鬨の声を上げると、三千余騎の敵軍の中へ突撃・交錯。「あちらで現れたかと思えばこちらに潜む」ように火花を散らす激戦を展開した。彼らの離合集散は瞬時に変化し──前かと見れば忽然と後ろに現れ、味方かと思うや否や敵となる。八方に分身したかのように多数の兵士に対峙するため、義貞軍は高重たちの位置を見失い、多くが仲間同士で斬り合う(同士打ち)惨状となった。これを見た長浜六郎が「甲斐武者どもよ!無駄な同士打ちをするな。敵は皆笠符(識別標章)をつけていないようだ。混じっている者を目印に組み付いて討て!」と指示すると、甲斐・信濃・武蔵・相模の兵たちが押し合いへし合い組みつき、倒れて首を取る者も捕らわれる者もあり、塵埃は天まで舞い上がり血汗で地面は泥まみれに。その戦況は楚の項羽が漢軍三将を破った闘いや魯陽公が太陽を呼び戻した伝説にも劣らないほどだった。しかし高重はなおも倒れず、主従わずか八騎となりながら義貞めがけて進む。敵を払いつつ機会を窺うと新田兄弟(義貞ら)の姿を見つけ旋回──その時武蔵国の武士・横山太郎重真が割って入り組み付こうと馬を近づける。「好敵手だ」と応戦した高重が見れば相手は重真。これは避けられぬ宿命と思い、左側で受け止めると兜の頂(鉢)から菱形縫い部分まで真っ二つに斬り裂いたため、重真は体が両断されて絶命。馬も腰を打たれ膝を折ってどすんと倒れた。 解説
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| 同国の住人庄三郎為久是を見て、よき敵也。と思ければ、続て是に組んとす。大手をはだけて馳懸る。長崎遥に見て、から/\と打笑て、「党の者共に可組ば、横山をも何かは可嫌。逢ぬ敵を失ふ様、いで/\己に知せん。」とて、為久が鎧の上巻掴で中に提げ、弓杖五杖計安々と投渡す。其人飛礫に当りける武者二人、馬より倒に被打落て、血を吐て空く成にけり。高重今はとても敵に被見知ぬる上はと思ければ、馬を懸居大音揚て名乗けるは、「桓武第五の皇子葛原親王に三代の孫、平将軍貞盛より十三代前相摸守高時の管領に、長崎入道円喜が嫡孫、次郎高重、武恩を報ぜんため討死するぞ、高名せんと思はん者は、よれや組ん。」と云侭に、鎧の袖引ちぎり、草摺あまた切落し、太刀をも鞘に納つゝ、左右の大手を播ては、此に馳合彼に馳替、大童に成て駈散しける。懸る処に、郎等共馬の前に馳塞て、「何なる事にて候ぞ。御一所こそ加様に馳廻坐せ。敵は大勢にて早谷々に乱入、火を懸物を乱妨し候。急御帰候て、守殿の御自害をも勤申させ給へ。」と云ければ、高重郎等に向て宣けるは、「余りに人の逃るが面白さに、大殿に約束しつる事をも忘ぬるぞや。いざゝらば帰参ん。」とて、主従八騎の者共、山内より引帰しければ、逃て行とや思ひけん、児玉党五百余騎、「きたなし返せ。 |
同じ武蔵国の住人・庄三郎為久がこれを目撃し、「好敵手だ!」と思い立って続けて組み付こうと攻め寄せる。長崎は遠くからそれを見て、からからと笑いながら言った。「お前の仲間たち(横山)にも組ませたのに、何を躊躇するか? 逃げる敵を放す様な真似はさせぬぞ」と言うや否や、為久の鎧の上端を掴み上げて軽々と抱え込み、弓で測ったわずか五丈(約15m)ほどの距離を物ともせずに投げ飛ばした。その落下地点にはたまたま居合わせた武者二人が石礫を受けたかのように馬から叩き落され、吐血して絶命した。高重はもはや敵に正体を見破られた以上と覚悟し、馬を駆りながら大声で名乗った。「桓武天皇第五皇子・葛原親王より三代の孫、平将軍貞盛から十三代目にあたる相模守北条高時公の執権である長崎入道円喜の嫡孫、次郎高重だ! 御恩に報いるため討死する。手柄を立てたい者は来い!」そう叫ぶと鎧の袖を引き裂き、草摺(腰甲)数枚を切り捨て、太刀すら鞘に収めたまま左右へ大きく手を振り回し、「こっちだ!あっちだ!」と狂ったように駆け巡った。そこへ郎党たちが馬前に飛び出して訴えた。「何ということをなさいますか! 敵は大軍で早くも乱入し、放火や略奪を始めています。急いでお戻りください。守殿(高時様)の御自害のお手伝いを!」すると高重は郎党に向き直って言った。「人間が逃げ惑う様があまりにも滑稽で、大殿との約束すら忘れてしまったようだな。さあ帰ろう」こうして主従八騎が山中から引き返そうとした瞬間、「卑怯者め! 待て!」と児玉党五百余騎が襲いかかった。 解説
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| 」と罵て、馬を争て追懸たり。高重、「こと/゛\しの奴原や、何程の事をか仕出すべき。」とて、聞ぬ由にて打けるを、手茂く追て懸りしかば、主従八騎屹と見帰て馬の轡を引回すとぞみへし。山内より葛西の谷口まで十七度まで返し合せて、五百余騎を追退け、又閑々とぞ打て行ける。高重が鎧に立処の矢二十三筋、蓑毛の如く折かけて、葛西谷へ参りければ、祖父の入道待請て、「何とて今まで遅りつるぞ。今は是までか。」と問れければ、高重畏り、「若大将義貞に寄せ合せば、組で勝負をせばやと存候て、二十余度まで懸入候へ共、遂に不近付得。其人と覚しき敵にも見合候はで、そゞろなる党の奴つ原四五百人切落てぞ捨候つらん。哀罪の事だに思ひ候はずは、猶も奴原を浜面へ追出して、弓手・馬手に相付、車切・胴切・立破に仕棄度存候つれ共、上の御事何がと御心元なくて帰参て候。」と、聞も涼く語るにぞ、最期に近き人々も、少し心を慰めける。 ○高時並一門以下於東勝寺自害事 去程に高重走廻て、「早々御自害候へ。高重先を仕て、手本に見せ進せ候はん。」と云侭に、胴計残たる鎧脱で抛すてゝ、御前に有ける盃を以て、舎弟の新右衛門に酌を取せ、三度傾て、摂津刑部太夫入道々準が前に置き、「思指申ぞ。 |
「卑怯者め!」と罵りながら児玉党五百余騎が馬を並べて追いかけてきた。長崎高重は「しつこい奴らだな、どれほどのことでもするさ」と言って聞く耳を持たずに戦ったが、執拗に攻めてくるため主従八騎は一斉に振り返り馬の手綱を引いた。山中から葛西谷の入口まで十七度も追い返し合い、五百余騎を撃退すると再び悠然と進んだ。高重の鎧には矢が二十三本も刺さって簔(みの)のように折れかかり、葛西谷に到着すると祖父・入道円喜が出迎えて「なぜこんなに遅れた?もう手遅れではないのか」と尋ねた。高重は畏まって答えた。「若大将義貞と相まみえ組み合いで決着をつけようと思い、二十度以上も突撃しましたが遂に近づけず。彼らしい敵にも会わぬまま雑兵四五百人を斬り捨てたようです。無念ではありますが主君のご様子が気遣われ戻って参りました」──この涼やかな報告に、最期を覚悟していた者たちも一時的に心が和んだ。 ○北条高時並び一門以下の東勝寺自害について 解説
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| 是を肴にし給へ。」とて左の小脇に刀を突立て、右の傍腹まで切目長く掻破て、中なる腸手縷出して道準が前にぞ伏たりける。道準盃を取て、「あはれ肴や、何なる下戸なり共此をのまぬ者非じ。」と戯て、其盃を半分計呑残て、諏訪入道が前に指置、同く腹切て死にけり。諏訪入道直性、其盃を以て心閑に三度傾て、相摸入道殿の前に指置て、「若者共随分芸を尽して被振舞候に年老なればとて争か候べき、今より後は皆是を送肴に仕べし。」とて、腹十文字に掻切て、其刀を抜て入道殿の前に指置たり。長崎入道円喜は、是までも猶相摸入道の御事を何奈と思たる気色にて、腹をも未切けるが、長崎新右衛門今年十五に成けるが、祖父の前に畏て、「父祖の名を呈すを以て、子孫の孝行とする事にて候なれば、仏神三宝も定て御免こそ候はんずらん。」とて、年老残たる祖父の円喜が肱のかゝりを二刀差て、其刀にて己が腹を掻切て、祖父を取て引伏せて、其上に重てぞ臥たりける。此小冠者に義を進められて、相摸入道も腹切給へば、城入道続て腹をぞ切たりける。是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。 |
「これを肴として召し上がれ」と言い、左脇腹に刀を突き立てて右側腹部まで長く切り裂くと、中から腸を取り出して道準の前に倒れた。道準は盃を受け取り、「なんと素晴らしい肴か。どんな酒嫌いでもこれを飲まない者はいまい」と冗談めかし、その盃を半分ほど残して諏訪入道に差し出すと自ら腹を切り死んだ。真っ直ぐな性格の諏訪入道はその盃を取り落ち着いて三度傾け、相模入道殿(北条高時)の前に置き「若者たちが必死にもてなすのに老人ゆえに遠慮するわけにはいかない。これから後は皆これを送別の肴とせよ」と言って腹を十文字に切り裂き刀を抜いて入道殿の前に置いた。長崎入道円喜はそれまで相模入道様のことばかり気遣う表情で自害していなかったが、孫・新右衛門(当時15歳)が祖父の前へひざまずき「先祖の名を守ることが子孫の孝行なら仏神も必ずお許し下さるでしょう」と言い、年老いた円喜の腕に二度刺すとその刀で自身の腹を切り裂き、祖父を取り押して覆いかぶさった。この少年に促され相模入道が自害すると城入道も続いて切腹した。これを見て堂上に並んでいた一族や他家の人々は雪のように白い肌を露わにして(衣を脱ぎ捨て)、腹切りする者、自身の頭を斬り落とす者がおりそれぞれの最期の様子がことさら立派に見えた。 解説
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| 其外の人々には、金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕・小町中務太輔朝実・常葉駿河守範貞・名越土佐前司時元・摂津形部大輔入道・伊具越前々司宗有・城加賀前司師顕・秋田城介師時・城越前守有時・南部右馬頭茂時・陸奥右馬助家時・相摸右馬助高基・武蔵左近大夫将監時名・陸奥左近将監時英・桜田治部太輔貞国・江馬遠江守公篤・阿曾弾正少弼治時・苅田式部大夫篤時・遠江兵庫助顕勝・備前左近大夫将監政雄・坂上遠江守貞朝・陸奥式部太輔高朝・城介高量・同式部大夫顕高・同美濃守高茂・秋田城介入道延明・明石長門介入道忍阿・長崎三郎左衛門入道思元・隅田次郎左衛門・摂津宮内大輔高親・同左近大夫将監親貞、名越一族三十四人、塩田・赤橋・常葉・佐介の人々四十六人、総じて其門葉たる人二百八十三人、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。庭上・門前に並居たりける兵共是を見て、或は自腹掻切て炎の中へ飛入もあり、或は父子兄弟差違へ重り臥もあり。血は流て大地に溢れ、漫々として洪河の如くなれば、尸は行路に横て累々たる郊原の如し。死骸は焼て見へね共、後に名字を尋ぬれば、此一所にて死する者、総て八百七十余人也。 |
他の者たちとしては、金沢大夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕とその息子である駿河左近大夫将監時顕・小町中務大輔朝実・常葉駿河守範貞・名越土佐前司時元・摂津刑部太夫入道・伊具越前前司宗有・城加賀前司師顕・秋田城介師時・城越前守有時・南部右馬頭茂時・陸奥右馬助家時・相模右馬助高基・武蔵左近大夫将監時名・陸奥左近将監時英・桜田治部大輔貞国・江馬遠江守公篤・阿曾弾正少弼治時・苅田式部大夫篤時・遠江兵庫助顕勝・備前左近大夫将監政雄・坂上遠江守貞朝・陸奥式部太輔高朝・城介高量・同(同じく)式部大輔顕高・同美濃守高茂・秋田城介入道延明・明石長門介入道忍阿・長崎三郎左衛門入道思元・隅田次郎左衛門・摂津宮内太夫高親・同左近大夫将監親貞、それに名越一族三十四人、塩田氏・赤橋氏・常葉氏・佐介氏の人々四十六人、総じてその一門の者二百八十三人が我先にと腹を切り屋形に火をつけたため猛炎が盛んに燃え上がり黒煙は天を覆った。庭や門前に居並んでいた兵たちもこれを見て自ら腹を切って炎の中へ飛び込むものあり、父子兄弟など身分の違いにかかわらず重なり合って倒れている者もあった。血が流れて大地に溢れ洪水のように広がったので死体は道端に横たわり郊外の原野のような様相を呈した。遺骸は焼けて見えないものもある中後で名前を調べるとこの一箇所での死者は総じて八百七十余人であった。 解説
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| 此外門葉・恩顧の者、僧俗・男女を不云、聞伝々々泉下に恩を報る人、世上に促悲を者、遠国の事はいざ不知、鎌倉中を考るに、総て六千余人也。嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。 |
これ以外の一族・恩顧の人々についても僧侶か俗人か男か女かを問わず、噂を聞いてあちこちで黄泉(死後の世界)に恩返しする者や世間で悲嘆にくれる者があった。遠国の事情はさておき鎌倉中だけで考えると総勢六千余人にもなった。ああこの日はいかなる日か――元弘三年五月二十二日に当たり、平氏(北条氏)九代の繁栄が一瞬で滅亡し源氏(足利方)長年の鬱屈した思いがようやく晴れたのである。 解説
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| input text 太平記\011_太平記_巻11.txt | 現代日本語 translated text | ||||||||||||||||||||
| 太平記 太平記巻第十一 ○五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事 義貞已に鎌倉を定て、其威遠近に振ひしかば、東八箇国の大名・高家、手を束ね膝を不屈と云者なし。多日属随て忠を憑む人だにも如此。況や只今まで平氏の恩顧に順て、敵陣に在つる者共、生甲斐なき命を続ん為に、所縁に属し降人に成て、肥馬の前に塵を望み、高門の外に地を掃ても、己が咎を補はんと思へる心根なれば、今は浮世の望を捨て、僧法師に成たる平氏の一族達をも、寺々より引出して、法衣の上に血を淋き、二度は人に契らじと、髪をゝろし貌を替んとする亡夫の後室共をも、所々より捜出して、貞女の心を令失。悲哉、義を専にせんとして、忽に死せる人は、永く修羅の奴と成て、苦を多劫の間に受けん事を。痛哉、恥を忍で苟も生る者は、立ろに衰窮の身と成て、笑を万人の前に得たる事を。中にも五大院右衛門尉宗繁は、故相摸入道殿の重恩を与たる侍なる上、相摸入道の嫡子相摸太郎邦時は、此五大院右衛門が妹の腹に出来たる子なれば、甥也。主也。何に付ても弐ろは非じと深く被憑けるにや、「此邦時をば汝に預置ぞ、如何なる方便をも廻し、是を隠し置き、時到りぬと見へば、取立て亡魂の恨を可謝。」と相摸入道宣ければ、宗繁、「仔細候はじ。 |
太平記巻第十一 五大院右衛門宗繁が相模太郎(邦時)を騙したこと 義貞は既に鎌倉を平定しその威勢が遠近に響き渡ったため、関東八カ国の有力武士や名門家は皆こぞって従い忠誠を示す者が現れた。長年仕えてきた者たちでさえこの有様である。ましてやつい最近まで北条氏の恩顧を受け敵側にいた連中が、無意味な命を永らえさせるために関係筋へ頼り降伏し、肥えた馬の前で塵を払うように媚びたり高貴な門前で地面を掃いても自らの過ちを償おうとする心根である。今や世への望みを捨て僧侶となった北条一族までも寺々から引っ張り出し法衣の上に血を浴びさせ、二度と人には従わぬと誓っていた未亡人たちをも捜索して貞節な心を失わせた。 悲しいかな! 忠義に殉じて急死した者は永久に修羅道の奴隷となり永劫の苦しみを受けることか。痛ましいかな! 恥を忍んで生き延びた者はたちまち衰え貧窮の身となって万人の笑いものとなることよ。 中でも五大院右衛門尉宗繁は、亡き相模入道(北条高時)から厚恩を受けた家臣である上に、その嫡男・相模太郎邦時がこの宗繁の妹を母として生まれた子であったため甥であり主君にあたる。何があっても裏切ることはあるまいと深く信頼されていたようで、「この邦時をお前に預ける。如何なる手段を用いても彼を匿い、時機到来と思えば推し立てて亡魂の恨みを晴らせ」と相模入道が命じたところ、宗繁は「異存ございますまい」と答えた。 解説
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| 」と領掌して、鎌倉の合戦の最中に、降人にぞ成たりける。角て二三日を経て後、平氏悉滅びしかば、関東皆源氏の顧命に随て、此彼に隠居たる平氏の一族共、数た捜出されて、捕手は所領を預り、隠せる者は忽に被誅事多し。五大院右衛門是を見て、いや/\果報尽はてたる人を扶持せんとて適遁得たる命を失はんよりは、此人の在所を知たる由、源氏の兵に告て、弐ろなき所を顕し、所領の一所をも安堵せばやと思ければ、或夜彼相摸太郎に向て申けるは、「是に御坐の事は、如何なる人も知候はじとこそ存じて候に、如何して漏聞へ候けん、船田入道明日是へ押寄候て、捜し奉らんと用意候由、只今或方より告知せて候。何様御座の在所を、今夜替候はでは叶まじく候。夜に紛れて、急ぎ伊豆の御山の方へ落させ給候へ。宗繁も御伴申度は存候へ共、一家を尽して落候なば、船田入道、さればこそと心付て、何くまでも尋求る事も候はんと存じ候間、態御伴をば申まじく候。」と、誠し顔に成て云ければ、相摸太郎げにもと身の置所なくて、五月二十七日の夜半計に、忍て鎌倉を落玉ふ。昨日までは天下の主たりし相摸入道の嫡子にて有しかば、仮初の物詣で・方違ひと云しにも、御内・外様の大名共、細馬に轡を噛せて、五百騎・三百騎前後に打囲で社往覆せしに、時移事替ぬる世の有様の浅猿さよ、怪しげなる中間一人に太刀持せて、伝馬にだにも乗らで、破たる草鞋に編笠着て、そこ共不知、泣々伊豆の御山を尋て、足に任て行給ひける、心の中こそ哀なれ。 |
このように承知して鎌倉合戦の最中に投降したのであった。数日経って北条氏が完全に滅亡すると関東一帯は源氏(足利方)の命令に従い、あちこちに潜伏していた北条一族を次々と捜索し捕らえた者は領地管理を任され隠れていた者は即座に処刑されることが多かった。五大院右衛門宗繁はこの状況を見て「まったく運の尽きた者たちを守ろうとしてかろうじて逃げ延びた命を失うより、邦時の居場所を知っていると源氏軍に告げ誠実さを示して領地の一部でも安堵してもらおう」と考えある夜相模太郎(邦時)に向かい言った。「ここにおられることは誰も知るまいと思っていましたがどうやら漏れたようで船田入道があす押し寄せ捜索しようと準備していると先ほど情報を得ました。今夜すぐに隠れ場所を変えねばなりません夜陰に紛れて急ぎ伊豆のお山へお逃げください私もご同行したいところですが一族全員で逃亡すれば船田入道は当然だと気づきどこまでも追跡するでしょうゆえわざと同行いたしません」と真剣な顔で述べたため相模太郎はその通りかと思い身の置き所なく五月二十七日の夜半ひそかに鎌倉を脱出した。昨日まで天下の主であった亡父北条高時の嫡子として仮初めのお参りや方違えと言う際にも家臣外様の大名たちが繋ぎ馬に手綱を引かせ五百騎三百騎と前後を取り囲み神社へ行き来していたのに時代は移り事態は変わった世の中の情けなさよ怪しげな中間一人だけに太刀を持たせ駕籠にも乗らず破れた草鞋に編笠を被りどこかもわからず泣く泣く伊豆のお山を求めて足任せに行かれるお気持ちはまことに哀れであった。 解説
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| 五大院右衛門は、加様にして此人をばすかし出しぬ。我と打て出さば、年来奉公の好を忘たる者よと、人に指を被差つべし。便宜好らんずる源氏の侍に討せて、勲功を分て知行せばやと思ければ、急船田入道が許に行て、「相摸の太郎殿の在所をこそ、委く聞出て候へ、他の勢を不交して、打て被出候はゞ、定て勲功異他候はんか。告申候忠には、一所懸命の地を安堵仕る様に、御吹挙に預り候はん。」と云ければ、船田入道、心中には悪き者の云様哉と乍思、「先子細非じ。」と約束して、五大院右衛門尉諸共に、相摸太郎の落行ける道を遮てぞ待せける。相摸太郎道に相待敵有とも不思寄、五月二十八日明ぼのに、浅猿げなる■れ姿にて、相摸河を渡らんと、渡し守を待て、岸の上に立たりけるを、五大院右衛門余所に立て、「あれこそ、すは件の人よ。」と教ければ、船田が郎等三騎、馬より飛で下り、透間もなく生捕奉る。俄の事にて張輿なんどもなければ、馬にのせ舟の縄にてしたゝかに是を誡め、中間二人に馬の口を引せて、白昼に鎌倉へ入れ奉る。是を見聞人毎に、袖をしぼらぬは無りけり。此人未だ幼稚の身なれば、何程の事か有べけれ共、朝敵の長男にてをはすれば、非可閣とて、則翌日の暁、潛に首を刎奉る。昔程嬰が我子を殺して、幼稚の主の命にかへ、予譲が貌を変じて、旧君の恩を報ぜし、其までこそなからめ、年来の主を敵に打せて、欲心に義を忘れたる五大院右衛門が心の程、希有也。 |
五大院右衛門はこのようにして邦時(相模太郎)をおびき出した。自分で討ち取れば「長年仕えた恩義を忘れた者だ」と世間から指弾されるだろう。むしろ好機を狙う源氏方の武士に討たせ、手柄を分け合って領地を得ようと考え、急いで船田入道のもとに赴き言った。「相模太郎殿の居場所をつき止めました。他の軍勢を交えず単独でお討ちになれば間違いなく他より抜きん出た勲功となるでしょう。この情報提供への恩賞として、先祖伝来の所領安堵と推挙をお願いします」と述べると、船田入道は心の中で「卑劣な男だ」と思いつつも「まずは異存ない」と約束し宗繁を伴い邦時逃亡路で待ち伏せた。 五月二十八日の夜明け頃、哀れな姿の邦時が相模川渡河のために船頭を待っている岸辺に立っていたところ、わざと離れて立ち「あそこだ!例の人物よ」と教えたため、船田家臣三騎が馬から飛び降り瞬時に生け捕りにした。突然のことで駕籠もなく馬に縛り付け舟綱で厳重に拘束し中間二人に馬を引かせ白昼堂々鎌倉へ連行する様子を見た者は皆涙をぬぐった。この邦時はまだ幼さが残る身ではあったが朝敵北条家の嫡男であるため放置できず翌日の明け方ひそかに斬首されたのである。 昔、程嬰が我が子を犠牲にして幼い主君を守り予譲が自ら容貌を変えて旧主の恩に報いた故事がある。そこまでは求めないとしても長年の主君を敵に売って私欲で義理を忘れた五大院右衛門の心根は実に稀有なほど卑劣であった。 解説
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| 不道也と、見る人毎に爪弾をして悪みしかば、義貞げにもと聞給て、是をも可誅と、内々其儀定まりければ、宗繁是を伝聞て、此彼に隠れ行きけるが、梟悪の罪身を譴めけるにや、三界雖広一身を措に処なく故旧雖多一飯を与る無人して、遂に乞食の如に成果て、道路の街にして、飢死にけるとぞ聞へし。 ○諸将被進早馬於船上事 都には五月十二日千種頭中将忠顕朝臣・足利治部大輔高氏・赤松入道円心等、追々早馬を立て、六波羅已に令没落之由船上へ奏聞す。依之諸卿僉議あて、則還幸可成否の意見を被献ぜ。時に勘解由次官光守、諌言を以て被申けるは、「両六波羅已に雖没落、千葉屋発向の朝敵等猶畿内に満て、勢ひ京洛を呑めり。又賎き諺に、「東八箇国の勢を以て、日本国の勢に対し、鎌倉中の勢を以て、東八箇国の勢に対す」といへり。されば承久の合戦に、伊賀判官光季を被追落し事は輒かりしか共、坂東勢重て上洛せし時、官軍戦ひに負て、天下久武家の権威に落ぬ。今一戦の雌雄を測るに、御方は纔に十〔に〕して其一二を得たり。「君子不近刑人」と申事候へば、暫く只皇居を被移候はで、諸国へ綸旨を被成下、東国の変違を可被御覧ぜや候らん。」と被申ければ、当座の諸卿悉此議にぞ被同ける。而れども、主上猶時宜定め難く被思召ければ、自周易を披かせ給て、還幸の吉凶を蓍筮に就てぞ被御覧ける。 |
あまりにも非道だと見る人が皆指を鳴らして憎んだため、新田義貞も承知し「彼(宗繁)こそ誅すべきだ」と内々に決まった。これを伝え聞いた宗繁はあちこち隠れ歩いたが、凶悪な罪の報いか、世界は広くても身を置く場所なく旧友多くとも食事を与える者も無く遂に乞食のように成り果て道端で餓死したと伝えられている。 ○武将たちが船中(御座所)へ急使を派遣すること 解説
この場面全体が『太平記』巻十一のクライマックスを構成し北条滅亡(前段)→新政胎動へ歴史大転換を示す。特に光守「君子不近刑人」発言は儒教的道徳観で武士台頭への危惧を表明し後世『梅松論』等にも影響を与えた表現である。 | ||||||||||||||||||||
| 御占師卦に出て云、「師貞、丈人吉無咎、上六大君有命、開国承家。小人勿用。王弼注云、処師之極、師之終也。大君之命不失功也。開国承家、以寧邦也。小人勿用、非其道也。」と注せり。御占已に如此。此上は何をか可疑とて、同二十三日伯耆の舟上を御立有て、腰輿を山陰の東にぞ被催ける。路次の行装例に替りて、頭大夫行房・勘解由次官光守二人許こそ、衣冠にて被供奉けれ。其外の月卿雲客・衛府諸司の助は、皆戎衣にて前騎後乗す。六軍悉甲冑を着し、弓箭を帯して、前後三十余里に支へたり。塩冶判官高貞は、千余騎にて、一日先立て前陣を仕る。又朝山太郎は、一日路引殿て、五百余騎にて後陣に打けり。金持大和守、錦の御旗を差て左に候し、伯耆守長年は、帯剣の役にて右に副ふ。雨師道を清め、風伯塵を払ふ。紫微北辰の拱陣も、角やと覚て厳重也。されば去年の春隠岐国へ被移させ給ひし時、そゞろに宸襟を被悩て、御泪の故と成し山雲海月の色、今は竜顔を令悦端と成て、松吹風も自ら万歳を呼ぶかと被奇、塩焼浦の煙まで、にぎわう民の竈と成る。 ○書写山行幸事付新田注進事 五月二十七日には、播磨国書写山へ行幸成て、先年の御宿願を被果、諸堂御順礼の次に、開山性空上人の御影堂を被開に、年来秘しける物と覚て、重宝ども多かりけり。 |
あまりにも非道だと見る人々が皆指を鳴らして憎んだため、新田義貞もこれを聞き「彼(宗繁)こそ誅すべきだ」と内々に決めた。このことを伝え聞いた宗繁はあちこち隠れ歩いたが、凶悪な罪の報いか、世界は広くても身を置く場所なく旧友多くとも食事を与える者もおらず遂に乞食のように成り果て道端で餓死したと伝えられている。 ○武将たちが船上(御座所)へ急使を派遣すること 解説
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| 当寺の宿老を一人召て、「是は如何なる由緒の物共ぞ。」と、御尋有ければ、宿老畏て一々に是を演説す。先杉原一枚を折て、法華経一部八巻並開結二経を細字に書たるあり。是は上人寂寞の扉に御坐て妙典を読誦し給ける時、第八の冥官一人の化人と成て、片時の程に書たりし御経也。又歯禿て僅に残れる杉の屐あり。是は上人当山より毎日比叡山へ御入堂の時、海道三十五里の間を一時が内に歩ませ給し屐也。又布にて縫たる香の袈裟あり。是は上人御身を不放、長時に懸させ給けるが、香の煙にすゝけたるを御覧じて、「哀洗ばや。」と被仰ける時、常随給仕の乙護法「是を洗て参候はん。」と申て、遥に西天を指して飛去ぬ。且く在て、此袈裟をば虚空に懸乾、恰も一片の雲の夕日に映ずるが如し。上人護法を呼て、「此袈裟をば如何なる水にて洗ひたりけるぞ。」と問はせ給へば、護法、「日本の内には可然清冷水候はで、天竺の無熱池の水にて濯で候也。」と、被答申たりし御袈裟也。生木化仏の観世音、稽首生木如意輪、能満有情福寿願、亦満往生極楽願、百千倶■悉所念と、天人降下供養し奉る像なり。毘首羯磨が作りし五大尊、是のみならず、法華読誦の砌には、不動・毘沙門の二童子に、形を現じて仕給也。又延暦寺の中堂供養の日は、上人当山に坐しながら、風に如来唄を引給しかば、梵音遠く叡山の雲に響て一会の奇特を顕せし事共、委細に演説仕りたれば、主上不斜信心を傾させ給て、則当国の安室郷を御寄附有て、不断如法経の料所にぞ被擬ける。 |
その寺の長老を一人召して、「これはどのような由緒のある品々か」とお尋ねになると、長老は畏まって一つひとつ説明した。まず杉板一枚を折り曲げて法華経八巻並びに開結二経を細字で書いたものがある。これは性空上人が静かな庵におられ妙典をお読みになった時、第八の冥官が化けた人物となってわずかの間に書き上げたお経である。また歯が擦り減ってかろうじて残っている杉材の下駄があった。これは上人が当山から毎日比叡山へ登堂なさった際、三十五里の道程を一瞬で歩ませられた下駄だ。さらに布で縫った香木の袈裟がある。これは上人が身に着けたまま長年お使いになっていたが、香煙によってすすけているのをご覧になり「哀れだから洗いたい」と仰せになった時、常にお供していた乙護法が「これを洗って参りましょう」と言って遥か西天を指さし飛び去った。しばらくしてこの袈裟は虚空に掛けて乾され、夕日に映える一片の雲のようであった。上人が護法を呼んで「この袈裟をどんな水で洗ったのか」とお尋ねになると、護法は「日本の内には適当な清らかな水がなかったため天竺の無熱池(アナヴァタプタ湖)の水で洗いました」と答えたという御袈裟である。生木に化した仏像である観世音菩薩――礼拝すべき生木如意輪、有情衆生の福寿願を満たしまた往生極楽願も満たす百千の衆生すべてが念じるものと唱えられるこの尊像は天人が降りて供養したものである。毘首羯磨(ヴィシュヴァカルマン)作の五大明王、これだけでなく法華経読誦の折には不動・毘沙門の二童子が姿を現してお仕え申し上げた。また延暦寺中堂供養の日には上人が当山にいながら風に乗って如来唄をお唱えになったので梵音は遠く比叡山の雲に響き渡り法会全体を驚嘆させたことなど、詳細に説明したところ主上(後醍醐天皇)は深く信心をお起こしになり直ちに当国安室郷をご寄進あそばされ不断如法経供養の料所として定められた。 解説【霊宝描写の構成的特徴】性空上人の遺品群には段階的な聖性増幅構造が見られる:
1. 書写奇跡:冥官化身による超速筆写(宗教的時間超越) 【宗教史的意義】
【後醍醐天皇行動の政治的文脈】1333年5月27日の書写山行幸は: 1. 新政権正統性創出: 安室郷寄進が「仏法擁護者」としての帝王像構築 2. 現実的効果: 播磨国支配固め(赤松円心勢力圏での基盤強化) 3. 「不断如法経」指定→戦乱犠牲者の供養と新政権の徳政宣言を兼ねる
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| 今に至まで、其妙行片時も懈る事無して、如法如説の勤行たり。誠に滅罪生善の御願難有かりし事共也。二十八日に法華山へ行幸成て、御巡礼あり。是より龍駕を被早て、晦日は兵庫の福厳寺と云寺に、儲餉の在所を点じて、且く御坐有ける処に、其日赤松入道父子四人、五百余騎を率して参向す。竜顔殊に麗くして、「天下草創の功偏に汝等贔屓の忠戦によれり。恩賞は各望に可任。」と叡感有て、禁門の警固に奉侍せられけり。此寺に一日御逗留有て、供奉の行列還幸の儀式を被調ける処に、其日の午刻に、羽書を頚に懸たる早馬三騎、門前まで乗打にして、庭上に羽書を捧たり。諸卿驚て急披て是を見給へば、新田小太郎義貞の許より、相摸入道以下の一族従類等、不日に追討して、東国已に静謐の由を注進せり。西国・洛中の戦に、官軍勝に乗て両六波羅を雖責落、関東を被責事は、ゆゝしき大事成べしと、叡慮を被回ける処に、此注進到来しければ、主上を始進せて、諸卿一同に猶預の宸襟を休め、欣悦称嘆を被尽、則、「恩賞は宜依請。」と被宣下て、先使者三人に各勲功の賞をぞ被行ける。 ○正成参兵庫事付還幸事 兵庫に一日御逗留有て、六月二日被回腰輿処に、楠多門兵衛正成七千余騎にて参向す。其勢殊に勇々敷ぞ見へたりける。 |
今日までその妙なる行いは少しも怠ることなく、経典の教え通り厳かに行われている。罪を滅ぼし善を生むという御願いが実に尊いものであったことだ。二十八日には法華山へ行幸があり、ご巡礼なさった。ここから早々に御輿を進められ、三十日(晦日)は兵庫の福厳寺という寺院で休憩所を定めてしばらくお過ごしになっていたところ、その日赤松入道円心と息子四人が五百余騎を率いて参上した。天皇のお顔には殊に喜びがあふれ、「天下再建の功績はまさにお前たちの忠義と戦いによるものだ。恩賞はそれぞれ望み通り与えよう」とのお言葉があり、彼らを京の警護役として召し抱えられた。 この寺で一日御滞在され供奉の行列や帰京準備を整えている最中、その日のお昼頃に羽書(急報)を首にかけた早馬三頭が門前まで駆け込み、庭先で文書を捧げた。公卿たちは驚いて急いでこれを開封してみると、新田義貞からの注進で「相模入道(北条高時)一族らを近日中に討ち果たし東国はすでに平定された」との報告であった。西国や京都の戦では官軍が勝利して六波羅を落としたものの、「関東攻めは重大事だ」と天皇も懸念されていたところへこの知らせが届いたため、主上はじめ公卿一同は不安を取り除かれ喜びに沸き立った。すぐさま「恩賞は申し出通り与えるべし」との勅命を下し、まず使者三人にもそれぞれ功績に応じた褒賞を与えられた。 ○正成兵庫参上と帰京の件 解説【歴史的展開の焦点】
【楠木正成登場の意義】
【文学的手法分析】
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| 主上御簾を高く捲せて、正成を近く被召、「大儀早速の功、偏に汝が忠戦にあり。」と感じ被仰ければ、正成畏て、「是君の聖文神武の徳に不依ば、微臣争か尺寸の謀を以て、強敵の囲を可出候乎。」と功を辞して謙下す。兵庫を御立有ける日より、正成前陣を奉て、畿内の勢を相順へ、七千余騎にて前騎す。其道十八里が間、干戈戚揚相挟、左輔右弼列を引、六軍次でを守り、五雲閑に幸すれば、六月五日の暮程に、東寺まで臨幸成ければ、武士たる者は不及申、摂政・関白・太政大臣・左右の大将・大中納言・八座・七弁・五位・六位・内外の諸司・医陰両道に至まで、我劣じと参集りしかば、車馬門前に群集して、地府に布雲、青紫堂上に陰映して、天極に列星。翌日六月六日、東寺より二条の内裏へ還幸成て、其日先臨時の宣下有て、足利治部大輔高氏治部卿に任ず。舎弟兵部大輔直義左馬頭に任ず。去程に千種頭中将忠顕朝臣、帯剣の役にて、鳳輦の前に被供奉けるが、尚非常を慎む最中なればとて、帯刀の兵五百人二行に被歩。高氏・直義二人は後乗に順て、百官の後に被打。衛府の官なればとて、騎馬の兵五千余騎、甲冑を帯して被打。其次に宇都宮五百余騎、佐々木判官七百余騎、土居・得能二千余騎、此外正成・長年・円心・結城・長沼・塩冶已下諸国の大名は、五百騎・三百騎、其旗の次に一勢々々引分て、輦輅を中にして、閑に小路打たり。 |
天皇は御簾を高く巻き上げて正成を近くに召し、「大変な功績だ。迅速な働きはまさにお前の忠義と戦いによるものだ」と感心して仰せになったので、正成は畏まって「これは陛下の優れた徳がなければ、私のような小人物がわずかな知恵で強敵の包囲を突破できたでしょうか」と言い功績を辞退し謙虚に振る舞った。兵庫から御出立なさった日より正成は前衛隊として奉仕し、畿内の軍勢と連携して七千余騎が先導した。その道中十八里(約70km)の間、武器を立てて警護に当たり、左右の重臣たちが列を作り、軍隊が順序正しく守る中、天皇の輿は悠々と進み、六月五日の夕暮れ頃には東寺まで到着なさった。武士だけでなく摂政・関白・太政大臣・左右大将・大中納言・八座(高官)・七弁(弁官)・五位六位の官人・内外諸役所の人々から医師や陰陽道に至るまで我先にと参集したため、車馬は門前に群がり地面を覆う雲のごとく、青紫の衣装が堂上にひしめいて天の星のように見えた。翌日六月六日に東寺より二条内裏へ帰還なさると、その日のうち臨時の人事命令があり足利治部大輔高氏(尊氏)は治部卿に任命された。弟兵部大輔直義も左馬頭となった。この時千種忠顕朝臣が帯刀役として鳳輦の前を警護していたが、まだ事態収束中であることを踏まえ五百人の武装兵を行列させた。高氏と直義は後続に従い百官の後に加わり、衛門府(宮廷警備)官という立場から五千余騎が甲冑姿で随行した。次いで宇都宮軍五百余騎、佐々木判官七百余騎、土居・得能二千余騎が続き、さらに正成・長年・円心・結城・長沼・塩冶以下の諸国大名はそれぞれ三百騎や五百騎の部隊を率いて旗印に従って分かれながら天皇の輿を取り囲み静かに小路を行進した。 解説【権力構造の視覚化】この描写は1333年6月5-6日の「建武新政」開始直後の様子で、行列構成が新体制のヒエラルキーを象徴的に表現:
【楠木正成の役割特殊性】
【歴史的事件の連鎖性】
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| 凡路次の行装、行列の儀式、前々の臨幸に事替て、百司の守衛厳重也。見物の貴賎岐に満て、只帝徳を頌し奉声、洋々として耳に盈り。 ○筑紫合戦事 京都・鎌倉は、已に高氏・義貞の武功に依て静謐しぬ。今は筑紫へ討手を被下て、九国の探題英時を可被責とて、二条大納言師基卿を太宰帥に被成て、既に下し奉らんとせられける処に、六月七日、菊池・小弐・大伴が許より、早馬同時に京着して、九州の朝敵無所残、退治候ぬと奏聞す。其合戦の次第を、後に委く尋ぬれば、主上未だ舟上に御座有し時、小弐入道妙慧・大伴入道具簡・菊池入道寂阿、三人同心して、御方に可参由を申入ける間、則綸旨に錦の御旗を副てぞ被下ける。其企彼等三人が心中に秘して、未色に雖不出、さすがに隠れ無りければ、此事頓て探題英時が方へ聞へければ、英時、彼等が野心の実否を能々伺ひ見ん為に、先菊池入道寂阿を博多へぞ呼ける。菊池此使に肝付て、是は如何様彼隠謀露顕して、我等を討ん為にぞ呼給ふ覧。さらんに於は、人に先をせられては叶ふまじ、此方より遮て博多へ寄て、覿面に勝負を決せんと思ければ、兼ての約諾に任て、小弐・大伴が方へ触遺しける処に、大伴、天下の落居未だ如何なるべしとも見定めざりければ、分明の返事に不及。 |
行列全体において道路整備や儀式は過去の行幸とは様子が異なり、役人たちによる警護も厳重であった。見物人の身分高低にかかわらず道いっぱいに詰めかけ、ただひたすら天皇の徳を称える歓声が満ちあふれて聞こえた。 ○筑紫合戦について 解説【九州平定の歴史的意義】
【菊池武時(寂阿)の決断分析】
【大伴具簡の躊躇が示す問題】
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| 小弐は又其比京都の合戦に、六波羅毎度勝に乗由聞へければ、己が咎を補はんとや思けん、日来の約を変じて、菊池が使八幡弥四郎宗安を討て、其頚を探題の方へぞ出したりける。菊池入道大に怒て、「日本一の不当人共を憑で、此一大事を思立けるこそ越度なれ。よし/\其人々の与せぬ軍はせられぬか。」とて元弘三年三月十三日の卯刻に、僅に百五十騎にて探題の館へぞ押寄ける。菊池入道櫛田の宮の前を打過ける時、軍の凶をや被示けん。又乗打に仕たりけるをや御尤め有けん。菊池が乗たる馬、俄にすくみて一足も前へ不進得。入道大に腹を立て、「如何なる神にてもをはせよ、寂阿が戦場へ向はんずる道にて、乗打を尤め可給様やある。其義ならば矢一つ進せん。受て御覧ぜよ。」とて、上差の鏑を抜き出し、神殿の扉を二矢までぞ射たりける。矢を放つと均く、馬のすくみ直りにければ、「さぞとよ。」とあざ笑て、則打通りける。其後社壇を見ければ、二丈許なる大蛇、菊池が鏑に当て死たりけるこそ不思議なれ。探題は、兼てより用意したる事なれば、大勢を城の木戸より外へ出して戦はしむるに、菊池小勢なりといへども、皆命を塵芥に比し、義を金石に類して、責戦ければ、防ぐ兵若干被打て、攻の城へ引篭る。 |
少弐貞経はその頃京都での合戦において六波羅が常勝しているとの情報を得て、自らの過ちを取り繕おうとしたのかもしれない。これまでの約束を破り菊池の使者・八幡弥四郎宗安を討ち取って首級を探題英時に送ったのである。 解説【歴史的事件の核心】
【超自然的要素の文学的機能】
【忠臣像の極致描写】
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| 菊池勝に乗て、屏を越関を切破て、透間もなく責入ける間、英時こらへかねて、既に自害をせんとしける処に、小弐・大友六千余騎にて、後攻をぞしたりける。菊池入道是を見て、嫡子に肥後守武重を喚て云けるは、「我今小弐・大友に被出抜て、戦場の死に赴くといへ共、義の当る所を思ふ故に、命を堕ん事を不悔。然れば寂阿に於ては、英時が城を枕にして可討死。汝は急我館へ帰て、城を堅し兵を起して、我が生前の恨を死後に報ぜよ。」と云含め、若党五十余騎を引分て武重に相副、肥後の国へぞ返しける。故郷に留置し妻子共は、出しを終の別れとも知らで、帰るを今やとこそ待らめと、哀に覚ければ、一首の歌を袖の笠符に書て故郷へぞ送ける。故郷に今夜許の命ともしらでや人の我を待らん肥後守武重は、「四十有余の独の親の、只今討死せんとて大敵に向ふ戦なれば、一所にてこそ兎も角も成候はめ。」と、再三申けれども、「汝をば天下の為に留るぞ。」と父が庭訓堅ければ、武重無力是を最後の別と見捨て、泣々肥後へ帰ける心の中こそ哀なれ。其後菊池入道は二男肥後三郎と相共に、百余騎を前後に立て、後攻の勢には目を不懸して探題の屋形へ責入、終に一足も引ず、敵に指違々々一人も不残打死す。専諸・荊卿が心は恩の為に仕はれ、侯生・予子が命は義に依て軽しとも、是等をや可申。 |
菊池勢が優勢となり、塀を乗り越え門を破って休む間もなく攻め込んだため、英時は耐えきれず自害しようとしたところに、少弐・大友の六千余騎が後方から襲撃してきた。 武重は「四十有余になる一人親が今まさに大敵に向かい討死せんとする戦です。どうか共に戦わせてください」と再三懇願したが、父は「お前は天下のために生き残れ」と厳命するため、やむなくこれが最後の別れだと悟り泣く泣く肥後へ帰った心中こそ哀れであった。 解説【歴史的場面と文学的操作】
【遺言歌と庭訓場面の象徴性】
【中国故事引用の意図】
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| さても小弐・大伴が今度の振舞人に非ずと天下の人に被譏ながら、暗知ずして世間の様を聞居たりける処に、五月七日両六波羅已に被責落て、千葉屋の寄手も悉南都へ引退ぬと聞へければ、小弐入道、こは可如何と仰天す。去ば我れ探題を奉討身の咎を遁ばやと思ければ、先菊池肥後守と大友入道とが許へ内々使者を遣して相語ふに、菊池は先に懲て耳にも不聞入。大友は我も咎ある身なれば、角てや助かると堅領掌してげり。今日や明日やと吉日を撰ける処に、英時、小弐が隠謀の企を聞て、事の実否を伺見よとて、長岡六郎を小弐が許へぞ遣しける。長岡則行向て、小弐に可見参由を云ければ、時節相労事有とて、対面に不及。長岡無力、小弐入道が子息筑後新小弐が許に行向、云入て、さりげなき様にて彼方此方を見るに、只今打立んずる形勢にて、楯を矯せ鏃を砺最中也。又遠侍を見るに、蝉本白くしたる青竹の旗竿あり。さればこそ、船上より錦の御旗を賜たりと聞へしが、実也けりと思て、対面せば頓て指違へんずる者をと思ける処に、新小弐何心もなげにて出合たり。長岡座席に着と均しく、「まさなき人々の謀反の企哉。」と云侭に、腰の刀を抜て、新小弐に飛で懸ける。新小弐飽まで心早き者なりければ、側なる将碁の盤をゝつ取て突刀を受留め、長岡にむずと引組で、上を下へぞ返しける。 |
こうして少弐貞経(入道)と大友氏継は今回の行動で世間から非難されていたが、知らぬふりをしていたところ、5月7日に京都六波羅探題が陥落し、千葉胤貞の軍勢も奈良へ撤退したとの報せが届いた。少弐入道は「これは大変だ」と仰天する。「それならば探題(北条英時)を討ち取って自分の過ちをごまかそう」と考え、まず菊池武重と大友氏継の下へ密使を送り相談を持ちかけた。ところが菊池は前回裏切られたため全く相手にせず、大友も「自分にも責任がある身だから何とか逃れよう」と承諾した。 少弐勢が吉日を選んで準備している最中、英時は少弐の陰謀を察知し真偽を確かめようと長岡六郎を使者として送り込んだ。長岡が面会を求めると、少弐入道は「体調不良」と言って応じない。仕方なくその息子・筑後守頼尚(新小弐)のもとへ向かい用件を伝えながら周囲を見渡すと、出陣準備で盾の補強や矢じりの研ぎに余念がなかった。さらに奥の間には「蝉本(先端部)を白く染めた青竹の旗竿」があるのに気づき、「船上山から賜ったという錦の御旗は本当だったのか!」と確信し、もし対面すれば即座に斬りかかろうと思案していたところ、新小弐が何事もない様子で現れた。 長岡は着席するやいなや「不届き者の謀反め!」と叫び腰の刀を抜いて新小弐へ斬りかかった。新小弐は機敏に側にある将棋盤を掴んで刃を受け止め、長岡に組みついて上になったり下になったりの大格闘となった。 解説【歴史的背景と文学的演出】
【人物心理描写の巧みさ】
【武芸描写のリアリズム】
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| 頓て小弐が郎従共あまた走寄て、上なる敵を三刀指て、下なる主を助けゝれば、長岡六郎本意を不達して、忽に命を失てげり。小弐筑後入道、さては我謀反の企、早探題に被知てげり。今は休事を得ぬ所也とて、大伴入道相共に七千余騎の軍兵を率して、同五月二十五日の午刻に、探題英時の館へ押寄ける。世の末の風俗、義を重ずる者は少く、利に趨る人は多ければ、只今まで付順つる筑紫九箇国の兵共も、恩を忘て落失せ、名をも惜まで翻りける間、一朝の間の戦に、英時遂に打負て、忽に自害しければ、一族郎従三百四十人、続て腹をぞ切たりける。哀哉、昨日は小弐・大友、英時に順て菊池を討、今日は又小弐・大友、官軍に属して、英時を討。「行路難、不在山兮、不在水、唯在人情反覆之間」と、白居易が書たりし筆の跡、今こそ被思知たれ。 ○長門探題降参事 長門の探題遠江守時直、京都の合戦難儀の由を聞て、六波羅に力を勠せんと、大船百余艘に取乗て、海上を上けるが、周防の鳴渡にて、京も鎌倉も早皆源氏の為に被滅て、天下悉王化に順ぬと聞へければ、鳴渡より舟を漕もどして、九州の探題と一所に成んと、心づくしへぞ赴きける。赤間が関に着て、九州の様を伺ひ聞給へば、「筑紫の探題英時も、昨日早小弐・大友が為に被亡て、九国二嶋悉公家のたすけと成ぬ。 |
すぐに少弐貞経(入道)の家臣たちが大勢駆けつけて、上になっていた長岡六郎を三度斬り付け、下になっていた主君(新小弐頼尚)を助けたため、長岡は目的を果たせずあっさりと命を落とした。少弐入道(貞経)は「これでは我々の謀反計画が探題英時に早くも知られてしまった。最早逃れようがない」と言い、大友氏継らと共に七千余騎の軍勢を率いて同年5月25日の昼過ぎ、探題北条英時の屋敷へ攻め込んだ。 世の中が乱れた時代で義理を重んじる者は少なく利益に走る者が多いため、これまで従っていた九州全土(筑紫九カ国)の兵士たちも恩を忘れて離反し名誉すら惜しまず寝返ったので、一日の戦いで英時はついに敗れ自害した。一族や家臣三百四十人も続いて切腹したのは哀れであった。 実に皮肉なことに——昨日までは少弐と大友が英時に従って菊池武時を討ち、今日は逆に同じ少弐らが官軍(南朝)側につき英時を討つのである。「行路の難し、山にあらず水にあらず、ただ人情反覆の中に在り」と白居易が記した言葉通りだと今こそ痛感される。 ○長門探題降参事 解説【歴史的転換点と人物描写】
【九州情勢の連鎖反応】
【文学的構成の特徴】
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| 」と云ければ、一旦催促に依て、此まで属順たる兵共も、いつしか頓て心替して、己が様々に落行ける間、時直僅に五十余人に成て柳浦の浪に漂泊す。彼の浦に帆を下さんとすれば、敵鏃を支て待懸たり。此嶋に纜を結ばんとすれば、官軍楯を双べて討んとす。残留る人々にさへ、今は心を沖津波、可立帰方もなく、可寄所もなければ、世を浮舟の橈を絶、思はぬ風に漂へり。跡に留めし妻子共も、如何成ぬ〔ら〕んと、責て其行末を聞て後、心安く討死をもせばやと被思ければ、且の命を延ん為に、郎等を一人船よりあげて、小弐・嶋津が許へ、降人に可成由をぞ伝へける。小弐も嶋津も年来の好み浅からざりけるに、今の有様聞も哀にや思けん。急迎に来て、己が宿所に入奉る。其比峯の僧正俊雅と申しは、君の御外戚にてをはせしを、笠置の合戦の刻に筑前の国へ被流てをはしけるが、今一時に運を開て、国人皆其左右に慎み随ふ。九州の成敗、勅許以前は暫此僧正の計ひに在しかば、小弐・嶋津、彼時直を同道して降参の由をぞ申入ける。僧正、「子細あらじ。」と被仰て、則御前へ被召けり。時直膝行頓首して、敢て不平視、遥の末座に畏て、誠に平伏したる体を見給て、僧正泪を流して被仰けるは、「去元弘の始、無罪して此所に被遠流時、遠州我を以て寇とせしかば、或は過分の言の下に面を低て泪を推拭ひ、或は無礼の驕の前に手を束て恥を忍き。 |
この報告を聞くと、これまで命令によって従っていた兵士たちも急に気持ちが変わり、それぞれ勝手に逃げ出してしまったため、時直はわずか五十人余りとなり柳ヶ浦の海上で漂流することとなった。 その浦へ船を着けようとすると敵軍が矢を構えて待ち構えているし、この島に繋留しようとすれば官軍(南朝方)が盾を並べて攻めようとする。残された者たちは今や心が荒波のように不安定で、帰る場所も寄港地もないため、まるで世を漂う小舟の櫂を失い、予期せぬ風に流されるかのような状態だった。 後に残してきた妻子たちの行く末を知らずに死ねないと考えた時直は、命をつなぐために家臣一人を船から上陸させて少弐貞経と島津氏のもとへ赴かせ、「降伏する意志がある」という旨を伝えさせた。 少弐も島津も以前からの交誼が深かったためか、この状況を哀れに思ったらしく、急いで迎えに出て自らの宿舎に招き入れた。その頃、峯僧正(俊雅)は後醍醐天皇の外戚として筑前国へ流されていたが、今や一転して勢力を持ち国人たちが従っていた。九州統治は勅許以前は彼が主導していたため、少弐らは時直を伴い降参の申し出を行った。 僧正は「異議あるまい」と言って即座に自らの前へ呼び寄せた。時直は膝行してひれ伏し、不平も見せず遠く末席で慎む様子を見て僧正は涙を流して言った。「元弘の変(1331年)の初め、無実の罪でここに流されたとき、あなた(時直)は私を賊のように扱い、過剰な罵声には顔を伏せて涙をぬぐい、無礼な侮辱にも手を縛られ恥を忍んだものだ」 解説【歴史的展開の核心】
【文学的技法の分析】
【史実との差異点】
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| 然に今天道謙に祐して、不測世の変化を見に、吉凶相乱れ栄枯地を易たり。夢現昨日は身の上の哀み、今日は人の上の悲也。「怨を報ずるに恩を以てす」と云事あれば、如何にもして命許を可申助。」と被仰ければ、時直頭を地に付て、両眼に泪を浮めたり。不日に飛脚を以て、此由を奏聞ありければ、則勅免有て懸命の地をぞ安堵せられける。時直無甲斐命を扶て、嘲を万人の指頭に受といへども、時を一家の再興に被待けるが、幾程もあらざるに、病の霧に被侵て、夕の露と消にけり。 ○越前牛原地頭自害事 淡河右京亮時治は、京都の合戦の最中、北国の蜂起を鎮めん為に越前の国に下て、大野郡牛原と云所にぞをはしける。幾程無して、六波羅没落の由聞へしかば、相順たる国の勢共、片時の程に落失て、妻子従類の外は事問人も無りけり。去程に平泉寺の衆徒、折を得て、彼跡を恩賞に申賜らん為に、自国・他国の軍勢を相語ひ、七千余騎を率して、五月十二日の白昼に牛原へ押寄る。時治敵の勢の雲霞の如なるを見て、戦共幾程が可怺と思ければ、二十余人有ける郎等に、向ふ敵を防がせて、あたり近き所に僧の坐しけるを請じて、女房少き人までも、皆髪に剃刀をあて、戒を受させて、偏に後生菩提の経営を、泪の中にぞ被致ける。 |
その報告を受けると、これまで命令で従っていた兵士たちもすぐに心変わりし、それぞれ勝手に逃げ去ってしまったので、時直はわずか五十人あまりとなり柳ヶ浦の海上を漂流する羽目になった。 この浦へ船を着けようとすれば敵が矢を構えて待ち受けており、あの島に繋留しようとすれば官軍(南朝方)が盾を並べて攻め寄せてくる。残された者たちは心が荒波のように乱れ、帰る場所も避難先もないため、まるで世の中を漂う小舟が櫂を失い、思いがけない風に流されるかのようであった。 後に残した妻子の安否さえわからずに死ぬのは忍びないと考えた時直は、命をつなぐために家臣一人を上陸させて少弐貞経と島津氏のもとへ遣わし、「降伏したい」という意思を伝えた。 少弐も島津も以前からの交わりが深かったためか、この様子を哀れに思ったようで、急いで迎えに出向き自らの宿所に招いた。当時、峯僧正(俊雅)は後醍醐天皇の母方親族として筑前国へ流されていたが、今や一転して勢力を得て国人たち皆が従っていた。九州統治は勅許前に彼が主導していたため、少弐らは時直を連れて降伏申し入れを行った。 僧正は「問題あるまい」と言ってすぐに自らの面前へ呼び寄せた。時直は膝行して平伏し、不満も見せず遠く末席で控える姿を見て、僧正は涙を流して述べた。「元弘元年(1331年)の初め、無実の罪でここに流されたとき、あなた(当時探題だった時直)は私を賊のように扱い、過剰な罵声には顔を伏せて涙をぬぐい、無礼な侮辱にも手を縛られ恥を忍んだ。 しかし今や天の道理が謙虚さに味方し、予測できない世の中の変化を見た——吉凶入り混じり栄枯は立場を逆転させた。夢か現実かわからないほどで、昨日まで自らの境遇を悲しんでいたのに今日は他人(時直)の不幸が哀れだ。」 『怨みには恩をもって報いる』という言葉があるゆえ、どうにかして命だけは助けよう」と僧正が言うと、時直は頭を地面につけて両目に涙を浮かべた。まもなく早馬でこの経緯が朝廷へ報告されると、すぐさま勅許による赦免があり危地から救われたのであった。 時直はみすぼらしい姿で命をつないだため万人の指弾を受けたものの、再起を期していたところ、間もなく病に侵されて露のように消え去ってしまった。 ○越前牛原地頭自害事 そこへ平泉寺衆徒(僧兵集団)が好機と見て彼の領地を恩賞にせんと企て、自国他国の軍勢を糾合して七千余騎を率い五月十二日の白昼牛原へ押し寄せた。時治は敵軍が雲霞のように膨大なのを見て戦っても抗しきれぬと思い、二十人あまりの家臣に攻撃を防がせる間に近くの僧侶を招いた。 妻や侍女を含む全員に剃刀で髪を落とさせ戒律を受けさせると、ひたすら来世への救済願う経文を唱えながら涙の中ですべてを整えたのであった。 解説【歴史的事件の核心】
【文学的技法分析】
【史実との相違点】
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| 戒の師帰て後、時治女房に向て「宣ひけるは、二人の子共は男子なれば、稚しとも敵よも命を助じと覚る間、冥途の旅に可伴。御事は女性にてをわすれば、縦ひ敵角と知とも命を失ひ奉るまでの事は非じ。さても此世に在存へ給はゞ、如何なる人にも相馴て、憂を慰む便に付可給。無跡までも心安てをはせんをこそ、草の陰・苔の下までもうれしくは思ふべけれ。」と、泪の中に掻口説て聞へければ、女房最と恨て、「水に住鴛、梁に巣燕も翼をかわす契を不忘。況や相馴進て不覚過ぬる十年余の袖の下に、二人の子共をそだてて、千代もと祈し無甲斐も、御身は今秋の霜の下に伏し、少き者共は朝の露に先立て、消はてなん後の悲を堪へ忍ては、時の間もながらふべき我身かや。とても思に堪かねば、生て可有命ならず。同は思ふ人と共にはかなく成て、埋れん苔の下までも、同穴の契を忘じ。」と、泪の床に臥沈む。去程に防矢射つる郎等共已に皆被討て、衆徒箱の渡を打越、後の山へ廻ると聞へければ、五と六とに成ける少き人を鎧唐櫃に入て、乳母二人に前後を舁せ、鎌倉河の淵に沈めよとて、遥に見送て立たれば、母儀の女房も、同其淵に身を沈めんと、唐櫃の緒に取付て歩行、心の中こそ悲しけれ。唐櫃を岸の上に舁居て、蓋を開たれば、二人の少き人顔を差挙て、「是はなう母御何くへ行給ふぞ。 |
僧侶が帰った後、時治は妻に向かいこう言った。「二人の子供たちは男子だから幼くても敵が命を助けるだろう。あの世への旅に連れて行くつもりだ。お前は女性ゆえ、たとえ敵だと知られても殺されるようなことはない。もしこの世で生き延びるなら誰かと結ばれ憂いを慰めてほしい。我が家が途絶えたとしても安らかに暮らしてくれれば草の陰や苔の下に眠る私もうれしく思う」と、涙ながらに切々と言い聞かせた。 すると妻は深く悲しんでこう返した。「水辺で寄り添う鴛鴦(おしどり)も屋根裏に巣づく燕も翼を交わす絆を忘れないのに、ましてや慣れ親しんだ十年以上もの間袖の下で二人の子を育て千代までと祈った甲斐なく、あなたは秋霜の下に倒れ幼い子供たちは朝露のように先立って消えゆく。その後の悲しみを耐え忍びながら生き延びられるこの身だろうか? どうしても我慢できないので命をつなぐつもりはない。愛する人と共にはかなく散り埋もれる苔の下でも同穴(同じ墓)の契りを忘れません」と言い、涙に沈み伏した。 そのうち防戦していた家臣たちが皆討たれたとの報せがあり、平泉寺衆徒が柵を破って後ろの山へ回り込んでくると聞いたため、五歳と六歳になった幼子を鎧櫃(よろいびつ)に入れ乳母二人に前後から担がせて鎌倉河の深淵に沈めるよう命じた。遠く見送る中で立ち尽くす時治を見ると、母親である妻も同じ淵に身を投げようと櫃の紐につかまりながら歩き、心の中は悲痛であった。 櫃が岸辺に据えられ蓋を開けると、二人の幼い子が顔を上げて言った。「これはどうしたのです母上? どこへ行くのですか?」 解説【感情的葛藤の構造分析】時治の論理(武士的責任): 妻の反論(感情的拒絶):
【死の演出における象徴性】
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| 母御の歩にて歩ませ給ふが御痛敷候。是に乗らせ給へ。」と何心もなげに戯ければ、母上流るゝ泪を押へて、「此河は是極楽浄土の八功徳池とて、少き者の生れて遊び戯るゝ所也。我如く念仏申て此河の中へ被沈よ。」と教へければ、二人の少き人々母と共に手を合せ、念仏高らかに唱へて西に向て坐したるを、二人の乳母一人づゝ掻抱て、碧潭の底へ飛入ければ、母上も続て身を投て、同じ淵にぞ被沈ける。其後時治も自害して一堆の灰と成にけり。隔生則忘とは申ながら又一念五百生、繋念無量劫の業なれば、奈利八万の底までも、同じ思の炎と成て焦給ふらんと、哀也ける事共也。 ○越中守護自害事付怨霊事 越中の守護名越遠江守時有・舎弟修理亮有公・甥の兵庫助貞持三人は、出羽・越後の宮方北陸道を経て京都へ責上べしと聞へしかば、道にて是を支んとて、越中の二塚と云所に陣を取て、近国の勢共をぞ相催しける。斯る処に、六波羅已に被責落て後、東国にも軍起て、已に鎌倉へ寄けるなんど、様々に聞へければ、催促に順て、只今まで馳集つる能登・越中の兵共、放生津に引退て却て守護の陣へ押寄んとぞ企ける。是を見て、今まで身に代命に代らんと、義を存じ忠を致しつる郎従も、時の間に落失て、剰敵軍に加り、朝に来り暮に往て、交を結び情を深せし朋友も、忽に心変じて、却て害心を挿む。 |
母親が歩くのに連れて行かれるのが辛そうだと感じたのでしょうか。幼い二人は「母上もお乗りください」と何の疑念もなく遊び半分に言いました。それを見て母は涙を抑え、「この川は極楽浄土にある八功徳池という場所で、子供が生まれてから遊ぶところだよ。私のように念仏を唱えてこの川の中へ沈みなさい」と教えました。すると二人の幼い子は母と共に手を合わせ高らかに念仏を唱え、西に向かって座りました。乳母たちが一人ずつ抱きかかえると碧く深い淵へ飛び込み、母親も続いて身を投げて同じ渕で沈んでしまいました。その後、時治も自害して一つの灰となったのです。「前世のことは忘れる」と言いますが一念は五百回生まれ変わり、執着する心は無限に続く因縁ゆえ、地獄の底まで炎のように燃えて苦しむのでしょう。なんと哀れなことか。 <越中守護自害事件と怨霊について> 解説【母子心中の宗教的構造】浄土往生の演出:
- 「八功徳池」比喩 → 子供を安心させるための方便であり当時の「臨終正念」(死ぬ際に仏を想う)実践
- 「西に向かって座る」姿勢→阿弥陀如来が住む西方浄土信仰の具体化 地獄描写の意味:
【場面転換の歴史的背景】1333年5-6月の時間軸:
- 「六波羅陥落」(京都・1333/5/7)と「鎌倉幕府滅亡」(同年5/22)という中央情報が地方武士の離反を誘発 怨霊譚への伏線:
1. 人間関係崩壊の三段階:
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| 今は残留たる者とては、三族に不遁一家の輩、重恩を蒙し譜代の侍、僅に七十九人也。五月十七日の午刻に敵既に一万余騎にて寄ると聞へしかば、「我等此小勢にて合戦をすとも、何程の事をかし出すべき、憖なる軍して、無云甲斐敵の手に懸り、縲紲の恥に及ばん事、後代迄の嘲たるべし。」とて、敵の近付ぬ前に女性・少き人々をば舟に乗て澳に沈め、我身は城の内にて自害をせんとぞ出立ける。遠江守の女房は、偕老の契を結て今年二十一年になれば、恩愛の懐の内に二人の男子をそだてたり。兄は九弟は七にぞ成ける。修理亮有公が女房は、相馴て已に三年に余けるが、只ならぬ身に成て、早月比過にけり。兵庫助貞持が女房は、此四五日前に、京より迎へたりける上臈女房にてぞ有ける。其昔紅顔翠黛の世に無類有様、風に見初し珠簾の隙もあらばと心に懸て、三年余恋慕しが、兎角方便を廻して、偸出してぞ迎へたりける。語ひ得て纔に昨日今日の程なれば、逢に替んと歎来し命も今は被惜ける。恋悲みし月日は、天の羽衣撫尽すらん程よりも長く、相見て後のたゞちは、春の夜の夢よりも尚短し。忽に此悲に逢ける契の程こそ哀なれ。末の露本の雫、後れ先立つ道をこそ、悲き物と聞つるに、浪の上、煙の底に、沈み焦れん別れの憂さ、こはそもいかゞすべきと、互に名残を惜つゝ、伏まろびてぞ被泣ける。 |
今や残った者といえば、三族から逃れられない一門の者たちや厚い恩を受けた譜代の家臣で、わずか七十九人だけだった。5月17日の正午頃、敵がすでに一万騎以上で攻めてくると聞いたので、「我々この少数で戦っても何も成し遂げられないだろう。無駄な戦いをして捕らえられ囚われる恥をかくことは後世までの笑いものになる」と言い、敵が接近する前に女性や子供たちを舟に乗せて入り江に沈め、自分たちは城内で自害しようと決意した。 名越高家(遠江守)の妻は夫婦の契りを結んで今年で二十一年になり、愛情深く二人の男子を育てていた。兄は九歳、弟は七歳だった。修理亮有公(高家の弟)の妻とは親しくなってすでに三年以上になるが妊娠中であり出産も間近であった。兵庫助貞持(高家の甥)の妻は四、五日前に京から迎えた上級女房である。かつてその比類なき美しい容姿に一目惚れし、「簾の隙間からのぞけたら」と三年以上思い焦がれた末、ようやく手段を尽くして密かに連れ出したばかりだった。結ばれてからまだ昨日今日ほどの短さゆえ、逢瀬にかけたい命すら惜しいと思うほどである。恋に苦しんだ月日は天の羽衣で払い切るよりも長く、会えた後の時間は春の夜の夢よりさらに短かった。突然この悲劇に見舞われた縁のなんと哀れなことか。「末の露(子孫)も本の雫(親)も結局死ぬ」とは聞いてきたが、波間や煙の中に沈み焼けゆく別れの辛さを互いに嘆き合いながら倒れ伏して泣いた。 解説【集団自決の構造分析】三段階の儀式的死:
1. 弱者処理(女性・子供):「舟に沈め」→前段の鎧櫃水葬と同様、敵による穢れを避ける「清浄化」
2. 武士団自害:「城内で自害」→主従共倒れという武士道美徳 【夫人たちの対照描写】
【歴史的意義】1333年5月17日時点の政治状況: - 六波羅陥落(京都)から10日後 → 東国武士団の精神的崩壊加速 - 「七十九人」寡兵数値が示す幕府軍解体の決定的瞬間 文学的予兆性: 「浪の上・煙の底」表現は後に続く巻17で名越高家が怨霊化する際の水死イメージ(史実では斬首)と連動し、作者による虚構的演出として機能。三夫人の悲劇描写が高家怨霊に「女性供養者」という異例の特性を与える伏線となる。
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| 去程に、敵の早寄来るやらん、馬煙の東西に揚て見へ候と騒げば、女房・少き人々は、泣々皆舟に取乗て、遥の澳に漕出す。うらめしの追風や、しばしもやまで、行人を波路遥に吹送る。情なの引塩や、立も帰らで、漕舟を浦より外に誘らん。彼松浦佐用嬪が、玉嶋山にひれふりて、澳行舟を招しも、今の哀に被知たり。水手櫓をかいて、船を浪間に差留めたれば、一人の女房は二人の子を左右の脇に抱き、二人の女房は手に手を取組で、同身をぞ投たりける。紅の衣絳袴の暫浪に漂しは、吉野・立田の河水に、落花紅葉の散乱たる如に見へけるが、寄来る浪に紛れて、次第に沈むを見はてゝ後、城に残留たる人々上下七十九人、同時に腹を掻切て、兵火の底にぞ焼死ける。其幽魂亡霊、尚も此地に留て夫婦執着の妄念を遺しけるにや、近比越後より上る舟人、此浦を過けるに、俄に風向ひ波荒かりける間、碇を下して澳に舟を留めたるに、夜更浪静て、松涛の風、芦花の月、旅泊の体、万づ心すごき折節、遥の澳に女の声して泣悲む音しけり。是を怪しと聞居たる処に、又汀の方に男の声して、「其舟こゝへ寄せてたべ。」と、声々にぞ呼りける。舟人止む事を不得して、舟を渚に寄たれば、最清げなる男三人、「あの澳まで便船申さん。 |
ちょうどその時、「敵軍がすぐに攻めてくるらしい。東西に馬の煙塵が見える」と騒ぎ立てる声があがったため、女房たちや幼い子供たちは泣きながら皆で舟に乗り込み、遠くの入り江へ漕ぎ出した。恨めしい順風よ、少しでも待ってくれればよいのに旅人を波路の彼方へ吹き流すとは。無情な潮流か、戻ることもなく漕ぐ舟を浦から沖へ誘い出すかのようだ。あの松浦佐用姫が玉島山で裳裾を振り入江行く舟を招いた故事も、今の哀れさには及ばないと悟らされたのだ。水夫たちが櫓を止めて船を波間にとどめると、一人の女房(高家妻)は二人の子を左右の脇に抱え、他の二人の女房(有公妻・貞持妻)は手を取り合い、同時に身を投げた。紅い衣や深紅色の袴がしばらく波間に漂う様は吉野川や立田川で花びらや紅葉が散り乱れるようだったが、押し寄せる波にかき消され次第に沈んでいくのを見届けた後、城に残った七十九人の武士たちも同時に腹を切り兵火の中へ焼け死んだ。 その後、彼らの幽魂亡霊はなおこの地にとどまり夫婦への執着という妄念を残したのだろうか――最近越後から上京する舟人がこの浦を通りかかった時、突然風向きが変わり波が荒れたため錨をおろして入江に停泊すると、夜更けに波静まり松籟の音や芦花に映る月のもとで旅情を感じていた折、遠くの入江から女性が泣き悲しむ声が聞こえた。不思議に思っていると今度は岸辺の方から男の声で「その舟をここへ寄せてくれ」と呼びかける者がいる。船頭は仕方なく渚へ近づくと、とても気品ある三人の男性(高家・有公・貞持)が現れ「あの入江まで便乗させてほしい」と言った。 解説【死と再生の象徴描写】水葬から幽霊化への転換装置: - 自然現象の擬人化:「恨めしい風」「無情な潮流」→人間の悲劇を宇宙規模で共鳴させる修辞法 - 古典引用(松浦佐用姫):『万葉集』巻五の伝承(夫を待つ妻が石化)と対比し、本作では「集団死による物語超越」を示唆 美的昇華プロセス:
【怨霊譚の構造的特徴】時空間の二重層:
1. 歴史的時間軸:1333年5月17日自害事件(現実) 三つの声の連鎖的登場:
『太平記』全体における位置付け巻16「名越一族最期」の核心的場面として:
- 史実との乖離: 高家らは実際には陸上で戦死(『梅松論』)→水死設定は後世への怨霊伝承創出を意図
- 宗教的解釈可能性:
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| 」とて、屋形にぞ乗たりける。舟人是を乗て澳津塩合に舟を差留めたれば、此三人の男舟より下て、漫々たる浪の上にぞ立たりける。暫あれば、年十六七二十許なる女房の、色々の衣に赤き袴踏くゝみたるが、三人浪の底より浮び出て、其事となく泣しほれたる様也。男よに眤しげなる気色にて、相互に寄近付んとする処に、猛火俄に燃出て、炎男女の中を隔ければ、三人の女房は、いもせの山の中々に、思焦れたる体にて、波の底に沈ぬ。男は又泣々浪の上を游帰て、二塚の方へぞ歩み行ける。余の不思議さに舟人此男の袖を引へて、「去にても誰人にて御渡候やらん。」と問たりければ、男答云、「我等は名越遠江守・同修理亮・並兵庫助。」と各名乗て、かき消様に失にけり。天竺の術婆伽は后を恋て、思の炎に身を焦し、我朝の宇治の橋姫は、夫を慕ひてかたしく袖を波に浸す。是皆上古の不思議、旧記に載る所也。親り斯る事の、うつゝに見へたりける亡念の程こそ罪深けれ。 ○金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事 京洛已に静まりぬといへ共、金剛山より引返したる平氏共、猶南都に留て、帝都を責んとする由聞へ有ければ、中院中将定平を大将として、五万余騎、大和路へ被差向。楠兵衛正成に畿内勢二万余騎を副て、河内国より搦手にぞ被向ける。 |
そう言って男たちは船室へ上がった。舟人が入り江の沖合で船を止めると、三人の男性は船から降り立ち、果てしない波の上に立っていた。しばらくすると、十六七歳から二十歳ほどの女房たちが色とりどりの着物に赤い袴をたくし上げた姿で、三人揃って波間から浮かび上がった。何事もなかったかのように泣き濡れている様子だ。男性たちは懐かしそうな表情で近づこうとした瞬間、突然猛火が燃え上がり炎が男女の間に立ち塞がれたため、女房三人は「どうしても!」という焦れるような仕草を見せながら波底へ沈んでいった。男たちは泣きながら海上を泳ぎ戻り、二つの塚(自害した城跡)の方へ歩み去ろうとした。 余りの不思議さに舟人が一人の男性の袖をつかみ「どちら様でしょうか」と尋ねると、男は答えた。「我々は名越高家(遠江守)、その弟有公(修理亮)、そして甥貞持(兵庫助)だ」。そう名乗るや消えるように姿を消した。インドの故事にある術婆伽仙は皇后への恋慕で炎に焼かれ、わが国の宇治橋姫も夫を想い袖を波に濡らす——これら皆昔の不思議話として記録に残っているものだ。しかしこのように現実に見える亡霊執着こそ罪深いと言えよう。 ○金剛山攻め寄せた者ども誅伐のこと及び佐介貞俊について 解説【霊界における夫婦再会の劇的演出】空間配置の象徴性: 1. 船上(現世領域):舟人という第三者の視点による「目撃証言」形式で客観性担保 2. 海上(境界域): - 男→「浪の上に立つ」(武士的尊厳保持) - 女→「波底から浮かぶ」(水死による穢れ状態) 3. 猛火の介入: 自害時の兵火が霊界でも再生 → 「現世の業」を越えられぬ暗示
【名乗りによる解釈転換】
【挿入譚理の構造的意義】二つの対照的故事引用:
【場面転換の叙述技法】○金剛山段落への移行手法:
1. 歴史的時間軸復帰:「京洛已に静まりぬ」で幽霊譚終了宣言
2. 軍事行動再開: 楠木正成登場→現実世界の戦闘描写へ回帰
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| 南都に引篭る平氏の軍兵已に十方に雖退散、残留る兵尚五万騎に余たれば、今一度手痛き合戦あらんと覚るに、日来の儀勢尽はてゝ、いつしか小水の魚の沫に吻く体に成て、徒に日を送ける間、先一番に南都の一の木戸口般若寺を堅て居たりける宇都宮・紀清両党七百余騎、綸旨を給て上洛す。是を始として、百騎二百騎、五騎十騎、我先にと降参しける間、今平氏の一族の輩、譜代重恩の族の外は、一人も残留る者も無りけり。是に付ても、今は何に憑を懸てか命を可惜なれば、各打死して名を後代にこそ残すべかりけるに、攻ての業の程の浅猿さは、阿曾弾正少弼時治・大仏右馬助貞直・江馬遠江守・佐介安芸守を始として、宗との平氏十三人、並長崎四郎左衛門尉・二階堂出羽入道々蘊已下・関東権勢の侍五十余人、般若寺にして各入道出家して、律僧の形に成り、三衣を肩に懸、一鉢を手に提て、降人に成てぞ出たりける。定平朝臣是を請取て、高手小手に誡め、伝馬の鞍坪に縛屈めて、数万の官軍の前々を追立させ、白昼に京へぞ被帰ける。平治には悪源太義平、々家に被生捕て首被刎、元暦には内大臣宗盛公、源氏に被囚て大路を被渡。是は皆戦に臨む日、或は敵に被議、或は自害に無隙して、心ならず敵の手に懸りしをだに、今に至まで人口の嘲と成て、両家の末流是聞時、面を一百余年の後に令辱。 |
南都(奈良)に籠もっていた平氏軍勢はすでに四方へ敗走したが、残った兵はまだ五万騎余りいたため、「もう一度激戦があるだろう」と思われた。しかし日々の劣勢が極まり、いつの間にか浅瀬の魚が泡をくうように弱り果て、ただ時間を過ごしているうちに、まず最初に南都の木戸口・般若寺を守備していた宇都宮氏と紀清両党七百余騎が綸旨(天皇命令)を受け入れて上京した。これを皮切りに百騎二百騎、五騎十騎と我先にと降参するので、平氏一族や譜代の重臣たち以外は一人も残らなくなった。 この状況ではもう何を頼りに命を惜しむべきか——各々が戦死して名を後世に残すべきだったのに、実際には浅ましい行動に出たのだ。阿曾時治(弾正少弼)・大仏貞直(右馬助)・江馬遠江守・佐介安芸守ら平氏一族十三人と長崎四郎左衛門尉・二階堂出羽入道道蘊以下関東の有力武士五十余人は般若寺で出家し、律僧姿となって袈裟を肩にかけ鉢を持ち降伏者として現れた。中院定平朝臣は彼らを受け取ると手枷足枷をかけ馬の鞍に縛り付け、数万の官軍が見守る前を進ませ白昼の京へ送還したのである。 (歴史的教訓) 解説【武士団崩壊過程の心理描写】兵力数値の推移的表現: 生物比喩の効果:
【降伏シーンの諷刺的演出】出家行動の二重性:
【歴史教訓挿入の叙述機能】三事例比較構造:
『太平記』批判精神の核心作者価値判断の明示化: | ||||||||||||||||||||
| 況乎是は敵に被議たるにも非ず、又自害に隙なきにも非ず、勢ひ未尽先に自黒衣の身と成て、遁ぬ命を捨かねて、縲紲面縛の有様、前代未聞の恥辱也。囚人京都に着ければ、皆黒衣を脱せ、法名を元の名に改て、一人づゝ大名に預らる。其秋刑を待程に、禁錮の裏に起伏て、思ひ連ぬる浮世の中、涙の落ぬ隙もなし。さだかならぬ便に付て、鎌倉の事共を聞ば、偕老の枕の上に契を成し貞女も、むくつけゞなる田舎人どもに被奪て、王昭君が恨を貽し、富貴の薹の中に傅立し賢息も、傍へだにも寄ざりし凡下共の奴と成て、黄頭郎が夢をなせり。是等はせめて乍憂、未だ生たりときけば、猶も思の数ならず。昨日岐を過ぎ、今日は門にやすらふ行客の、穴哀や、道路に袖をひろげ、食を乞し女房の、倒て死しは誰が母也。短褐に貌を窶て縁を尋し旅人の、被捕て死せしは誰が親也と、風に語るを聞時は、今まで生ける我身の命を、憂しとぞ更に誣たれける。七月九日、阿曾弾正少弼・大仏右馬助・江馬遠江守・佐介安芸守・並長崎四郎左衛門、彼此十五人阿弥陀峯にて被誅けり。此君重祚の後、諸事の政未被行前に、刑罰を専にせられん事は、非仁政とて、潛に是を被切しかば、首を被渡までの事に及ばず、面々の尸骸便宜の寺々に被送、後世菩提をぞ被訪ける。 |
ましてやこれは敵に騙されたわけでもなく、自害の機会がなかったわけでもない。戦況はまだ尽きていないのに先立って僧侶となり、命を惜しんで逃げた結果、縄で縛られ晒される姿は前代未聞の恥辱である。捕虜たちが京都に着くと皆が僧衣を脱ぎ、法名を元の名前に戻して一人ずつ高官へ預けられた。その秋の処刑を待つ間も監禁された場所で起き伏し、思い続ける浮世の中で涙が止む暇はなかった。 不確かな噂を通じて鎌倉の事情を聞くと、夫婦揃って契りを交わした貞女までもが無骨な田舎者たちに奪われ王昭君のような恨みを抱かされ、富貴の中で育てられた賢い息子さえ傍にも寄れない卑しい身分となり黄頭郎の夢を見る始末だった。これらはせめて生きていると知っただけでもまだ救われるが——昨日までは旅路にあり今日ようやく門前にたどり着いた行客よ、哀れなことだ!道端で袖を広げ物乞いした女性が倒れて死んだのは誰の母か。粗末な服で憔悴し縁を求めた旅人が捕らえられて死んだのは誰の親かと風が語るのを聞く時、今まで生き延びた我が身の命すらも恨めしく思われたのである。 七月九日、阿曾弾正少弼(時治)・大仏右馬助(貞直)・江馬遠江守・佐介安芸守および長崎四郎左衛門など計十五人が阿弥陀峯で処刑された。この君主(後醍醐天皇)が重祚した後、諸政を施行する前に刑罰に専念することは非仁政として密かにこれを中止させたため斬首までは至らず、遺骸は適当な寺々へ送られ後世の菩提が弔われた。 解説【武士道倫理と現実のはざま】降伏批判の核心的表現: 心理描写の深化技法:
【比喩連鎖による悲劇の普遍化】歴史故事の対照的引用:
民衆惨状の告発的描写: 【処刑場面の政治的解釈】天皇介入の叙述的意義: 仏教的救済観の演出:
『太平記』史観の特質武士階級への二重メッセージ: | ||||||||||||||||||||
| 二階堂出羽入道々蘊は、朝敵の最一、武家の輔佐たりしか共、賢才の誉、兼てより叡聞に達せしかば、召仕るべしとて、死罪一等を許され、懸命の地に安堵して居たりけるが、又陰謀の企有とて、同年の秋の季に、終に死刑に被行てげり。佐介左京亮貞俊は、平氏の門葉たる上武略才能共に兼たりしかば、定て一方の大将をもと身を高く思ける処に、相摸入道さまでの賞翫も無りければ、恨を含み憤を抱きながら、金剛山の寄手の中にぞ有ける。斯る処に千種頭中将綸旨を申与へて、御方に可参由を被仰ければ、去五月の初に千葉屋より降参して、京都にぞ歴回ける。去程に、平氏の一族皆出家して、召人に成し後は、武家被官の者共、悉所領を被召上、宿所を被追出て、僅なる身一をだに措かねて、貞俊も阿波の国へ被流て有しかば、今は召仕ふ若党・中間も身に不傍、昨日の楽今日の悲と成て、ます/\身を責る体に成行ければ、盛者必衰の理の中に在ながら、今更世中無情覚て、如何なる山の奥にも身を隠さばやと、心にあらまされてぞ居たりける。さても関東の様何とか成ぬらんと尋聞に、相摸入道殿を始として、一族以下一人も不残、皆被討給て、妻子従類も共に行方を不知成ぬと聞へければ、今は誰を憑み、何を可待世とも不覚、見に付聞に随て、いとゞ心を摧き、魂を消ける処に、関東奉公の者共は、一旦命を扶からん為に、降人に雖出と、遂には如何にも野心有ぬべければ、悉可被誅とて、貞俊又被召捕てげり。 |
二階堂出羽入道道蘊は、朝廷の敵として最たる存在でありながら武家(鎌倉幕府)を補佐していたが、賢才の評判がかねてより天皇の耳に達していたため、「召し使おう」との理由で死罪一等を許され、危険な土地での居住を認められていた。しかし再び陰謀企図の疑いがあるとして同年秋についに処刑された。 佐介左京亮貞俊は平氏一族でありながら武略と才能に優れていたため、いつか一方の大将になると自負していたが、(北条)相模入道(時頼)さえも彼を評価しなかったので恨みを抱きつつ金剛山攻めの軍勢の中にいた。そこへ千種頭中将が綸旨を与えて味方に加わるよう命じたため、去る五月はじめに千葉屋敷から降参して京都を巡ったところであった。 その後平氏一族全員が出家し捕縛されると、武家の家臣たちも所領を取り上げられ宿舎を追われわずかな身一つすら保てなくなり貞俊も阿波国へ流罪となったため従者も離散、「昨日の楽しみが今日の悲しみ」と自責に駆られた。栄える者は必ず衰えるという道理とはいえ世の中のはかなさを痛感し「どんな山奥でも隠れたい」と思う心境であった。 関東の状況を尋ねると相模入道殿(時頼)一族全員が討たれ妻子も行方知れずと聞き、「もう頼るものもない」と絶望していたところ、関東奉公衆は「一時的に助かるために降伏した者たちには野心があるはずだ」として貞俊を再び捕縛したのである。 解説【敗残者の二重運命】処刑対象の選別基準: 【階層崩壊の連鎖描写】
「盛者必衰」理法の具現化時間軸対比による効果:
【歴史叙述の諷刺性】
この章段は『太平記』が単なる軍記ではなく、権力変動期における個人のアイデンティティ喪失過程を克明に描いた社会心理ドキュメントとしての価値を示している。 | ||||||||||||||||||||
| 挺も心の留る浮世ならねば、命を惜とは思はねども、故郷に捨置し妻子共の行末、何ともきかで死なんずる事の、余に心に懸りければ、最期の十念勧ける聖に付て、年来身を放たざりける腰の刀を、預人の許より乞出して、故郷の妻子の許へぞ送ける。聖是を請取て、其行末を可尋申と領状しければ、貞俊無限喜て、敷皮の上に居直て、一首の歌を詠じ、十念高らかに唱て、閑に首をぞ打せける。皆人の世に有時は数ならで憂にはもれぬ我身也けり聖形見の刀と、貞俊が最期の時着たりける小袖とを持て、急鎌倉へ下、彼女房を尋出し、是を与へければ、妻室聞もあへず、只涙の床に臥沈て、悲に堪兼たる気色に見へけるが、側なる硯を引寄て、形見の小袖の妻に、誰見よと信を人の留めけん堪て有べき命ならぬにと書付て、記念の小袖を引かづき、其刀を胸につき立て、忽にはかなく成にけり。此外或は偕老の契空くして、夫に別たる妻室は、苟も二夫に嫁せん事を悲で、深き淵瀬に身を投、或は口養の資無して子に後れたる老母は、僅に一日の餐を求兼て自溝壑に倒れ伏す。承久より以来、平氏世を執て九代、暦数已に百六十余年に及ぬれば、一類天下にはびこりて、威を振ひ勢ひを専にせる所々の探題、国々の守護、其名を挙て天下に有者已に八百人に余りぬ。 |
貞俊はこの世への未練もないので命を惜しむ気持ちはなかったが、故郷に残した妻子たちの行く末を知らずに死ぬことが特に心にかかり、最期に念仏を勧める僧侶を通じて長年身から離さなかった腰の刀を預かり人から取り寄せて故郷の妻子へ送った。僧がこれを受け取り「ご家族の安否をお尋ねしましょう」と請け負うと、貞俊は限りなく喜び座布団の上に姿勢を正し一首の歌を詠み、高らかに念仏を唱えて静かに自害した。「世にある人は数多れど憂いから逃れられぬ我が身よ」という句だった。 僧は形見の刀と貞俊が最期に着ていた小袖を持って急ぎ鎌倉へ下り、妻を見つけて渡すと彼女は聞くのも耐えられず涙ながら床に伏し悲嘆にくれていたが、傍らの硯を引き寄せて形見の小袖の裾に「この着物を見る者は誰か? 私のような者が生き永らえるべき命ではない」と書き付け、その小袖を抱き締め刀で胸を刺してたちまち息絶えた。 これ以外にも夫との偕老の誓いが虚しく別れた妻は二股にかけることを恥じて深淵に身を投げたり、養う資産なく子に先立たれた老母はわずかな食べ物すら得られず溝に倒れ伏したりした。承久の乱(1221年)以来、平氏が世を支配して九代百六十余年も経ったため一族は天下にはびこり、各地で威勢を振るう探題や国ごとの守護など名のある者だけで八百人以上に及んでいたのだ。 解説【死の美学と家族愛の葛藤】貞俊自害の心理的構造: 妻の殉死描写に見る女性像:
【階層横断的な悲劇図譜】
【歴史的時間軸操作】末尾段落の機能:
『太平記』叙述技法の革新性
この章段は軍記物として初めて「敗者個人の内面」と「家族崩壊プロセス」を深層的に描き、後世の近松心中物などに影響を与えた先駆的悲劇文学である。 | ||||||||||||||||||||
| 況其家々の郎従たる者幾万億と云数を不知。去ば縦六波羅こそ輒被責落共、筑紫と鎌倉をば十年・二十年にも被退治事難とこそ覚へしに、六十余州悉符を合たる如く、同時に軍起て、纔に四十三日の中に皆滅びぬる業報の程こそ不思議なれ。愚哉関東の勇士、久天下を保ち、威を遍海内に覆しかども、国を治る心無りしかば、堅甲利兵、徒に梃楚の為に被摧て、滅亡を瞬目の中に得たる事、驕れる者は失し倹なる者は存す。古へより今に至まで是あり。此裏に向て頭を回す人、天道は盈てるを欠事を不知して、猶人の欲心の厭ことなきに溺る。豈不迷乎。 |
ましてや彼らの家々の郎党たちは数えきれないほどいた。たとえ六波羅(京都守護)が簡単に落ちても筑紫(九州)と鎌倉を攻略するには十年二十年かかると思われていたのに、六十余州すべてが申し合わせたかのように同時に挙兵し、わずか四十三日の間に全て滅んでしまった。この因果応報のほどはまことに不思議である。ああ愚かな関東(鎌倉幕府)の勇士たちよ!長く天下を治め威光を全国に広げながらも国を統治する心構えがなかったため、堅固な甲冑と鋭い武器はむだに打ち砕かれ瞬時に滅亡してしまった。驕る者は地位を失い慎ましい者は存続するという道理は昔から今まで変わらない。それでも悟ろうとしない人々は天の理が満ちれば欠けることを理解せず、なおも際限ない人間の欲望に溺れている。これこそ迷いではないか。 解説【滅亡劇の三段階構成】
『太平記』史観の核心原理
警世的メッセージの二重性
軍記文学から教訓文学へ転換
この段落は単なる史実叙述ではなく、「権力維持には道義的基盤が必要」という政治哲学を凝縮し、中世日本における『君主論』的先見性を示す。特に「驕れる者は失し倹なる者は存す」の句は、『平家物語』「祇園精舎」の世界観を受け継ぎつつも、より具体的な統治責任論へ昇華させている点で特筆される。 |
| input text 太平記\012_太平記_巻12.txt | 現代日本語 translated text | |||||||||||||||||||||||
| 太平記 太平記巻第十二 ○公家一統政道事 先帝重祚之後、正慶の年号は廃帝の改元なればとて被棄之、本の元弘に帰さる。其二年の夏比、天下一時に評定して、賞罰法令悉く公家一統の政に出しかば、群俗帰風若被霜而照春日、中華懼軌若履刃而戴雷霆。同年の六月三日、大塔宮志貴の毘沙門堂に御座有と聞へしかば、畿内・近国の勢は不及申、京中・遠国の兵までも、人より先にと馳参ける間、其勢頗尽天下大半をぬらんと夥し。同十三日に可有御入洛被定たりしが、無其事と、延引有て、被召諸国兵、作楯砥鏃、合戦の御用意ありと聞へしかば、誰が身の上とは知ね共、京中の武士の心中更に不穏。依之主上右大弁宰相清忠を勅使にて被仰けるは、「天下已に鎮て偃七徳之余威、成九功之大化処に、猶動干戈被集士卒之条、其要何事乎、次四海騒乱の程は、為遁敵難、一旦其容を雖被替俗体、世已に静謐の上は急帰剃髪染衣姿、門迹相承の業を事とし給べし。」とぞ被仰ける。宮、清忠を御前近く被召、勅答申させ給けるは、「今四海一時に定て万民誇無事化、依陛下休明徳、由微臣籌策功矣。而に足利治部大輔高氏僅に以一戦功、欲立其志於万人上。今若乗其勢微不討之、取高時法師逆悪加高氏威勢上に、者なるべし。是故に挙兵備武、全非臣罪。 |
先帝(後醍醐天皇)が再び皇位についた後、正慶の年号は廃された天皇(光厳天皇)による改元だったため捨てられ、もとの元弘に戻された。その二年目の夏ごろ、天下一斉に評定し賞罰や法令すべてを朝廷中心の政治で行ったので、人々は霜が晴れた春の日のように喜び、世の中は雷鳴をいただき刃を踏むかのような畏れを持った。同年六月三日、大塔宮(護良親王)が志貴山毘沙門堂におられるという噂が広まると、畿内や近国の兵だけでなく京中・遠国からも我先にと駆けつけたため、その勢いは天下の大半を覆うほど膨れ上がった。同月十三日の入洛(京都入り)は取り止めとなり、諸国の兵を集めて盾を磨き矢じりを作らせるなど戦いの準備があると聞こえてきたので、京中の武士たちは身分に関わらず心が大きく揺れた。 これにより天皇は右大弁・宰相清忠を使者としてこう伝えさせた:「天下はすでに治まり武威も収まったこの時に、なぜ武器を動かし兵士を集めるのか? 世の中が静まった以上、(あなたは)早く剃髪して僧侶となり門跡(寺院の継承者)として生きるべきだ」と。 これに対し大塔宮は清忠を御前へ呼び、返答された:「今や天下が平定され民が平和を喜ぶのは陛下の徳と私の策によるものです。しかし足利治部大輔(尊氏)はたった一戦の功績で万人の上に立とうとしています。もしこの機を逃せば悪事を行う高時法師(北条高時)が尊氏の勢力を利用するでしょう。だからこそ兵を挙げるのであって私の過ちではありません」 解説【建武政権の矛盾点】
「公家一統」の逆説的崩壊要因
軍記物としての叙述技法
歴史的意義と教訓この章段は「建武の新政」失敗の核心である 三つの分裂: 『太平記』が暗示するのは「理想的な復古政治すら人間の権力欲で瓦解する」という冷徹な史観。特に清忠勅使と護良返答の対話形式は、双方に正義があることを示しつつ、その衝突が必然的に全国戦乱(南北朝動乱)へ拡大する運命を予告している点で文学的完成度が高い。 ``` | |||||||||||||||||||||||
| 次剃髪の事、兆前に不鑒機者定て舌を翻さん歟。今逆徒不測滅て天下雖属無事、与党猶隠身伺隙、不可有不待時。此時上無威厳、下必可有暴慢心。されば文武の二道同く立て可治今の世也。我若帰剃髪染衣体捨虎賁猛将威、於武全朝家人誰哉。夫諸仏菩薩垂利生方便日、有折伏・摂受二門。其摂受者、作柔和・忍辱之貌慈悲為先、折伏者、現大勢忿怒形刑罰為宗。況聖明君求賢佐・武備才時、或は出塵の輩を帰俗体或退体の主を奉即帝位、和漢其例多し。所謂賈嶋浪仙は、釈門より出て成朝廷臣。我朝天武・孝謙は、替法体登重祚位。抑我栖台嶺幽渓、纔守一門迹、居幕府上将、遠静一天下、国家の用何れをか為吉。此両篇速に被下勅許様に可経奏聞。」被仰、則清忠をぞ被返ける。清忠卿帰参して、此由を奏聞しければ、主上具に被聞召、「居大樹位、全武備守、げにも為朝家似忘人嘲。高氏誅罰の事、彼不忠何事ぞ乎。太平の後天下の士卒猶抱恐懼心。若無罪行罰、諸卒豈成安堵思哉。然ば於大樹任不可有子細。至高氏誅罰事堅可留其企。」有聖断、被成征夷将軍宣旨。依之宮の御憤も散じけるにや、六月十七日志貴を御立有て、八幡に七日御逗留有て、同二十三日御入洛あり。其行列・行装尽天下壮観。先一番赤松入道円心、千余騎にて前陣を仕る。 |
私が還俗しないことについて、先見の明がない者はきっと批判するだろう。今や逆賊は滅び天下は平穏だが、残党が潜伏して隙を狙っているため油断できない。この時期に権威を示さねば下々は必ず傲慢になる。ゆえに文武両道で国を治めるべきだ。もし私が僧侶の姿に戻り武将としての力を捨てれば、朝廷のために武を司る者はいなくなる。そもそも仏菩薩が衆生を救う手段には折伏(厳罰)と摂受(慈悲)がある。摂受は柔和な態度で慈悲を示し、折伏は怒りの形相で刑罰を与えるものだ。まして明君が賢臣や武人を求める際、僧侶から還俗させたり退位した主君を帝位につける例は日本でも中国でも多い。例えば賈島浪仙(唐の詩人)は仏門から朝廷へ出仕し、わが朝では天武天皇・孝謙天皇は僧体から皇位に就いた。私は比叡山で一寺を守るより幕府上級将軍として天下平定にあたることが国益となる。よって還俗許可の勅許を早急に奏上願いたい。」と述べ、清忠を帰らせた。 清忠が戻りこの旨を報告すると、天皇は詳しく聞かれ「征夷大将軍職につき武備を整えるのは朝廷のために当然だ(人々の嘲笑など恐れぬ)。尊氏誅罰に関してだが彼に不忠があろうと太平後に兵士たちの不安心を無視できない。罪なき者への処刑は士卒の安心を得られまい。ゆえに大将軍任命には異存ないが、尊氏誅罰計画だけは中止させよ」との決断を示し征夷将軍宣旨を与えた。これで親王の怒りも収まったか六月十七日に志貴山を立ち八幡で七日滞在後同二十三日に入洛した。その行列と装いは天下の壮観となり、先陣は赤松入道円心が千余騎で仕切った。 解説【護良親王の論理構成】
後醍醐天皇の政治的判断
『太平記』の叙述的特徴
歴史的帰結との関連この場面で露呈した 三つの政権矛盾: 結果的に護良親王は1334年に尊氏派に捕縛され、このシーンで描かれた権力基盤(入洛の威容)が虚構であったことが示される。『太平記』はここで「理念的理想主義者の敗北」を暗示しつつ、天皇の現実主義にも武士統制失敗という限界があることを二重構造で描いている点に史書としての深みがある。 | |||||||||||||||||||||||
| 二番に殿法印良忠、七百余騎にて打つ。三番には四条少将隆資、五百余騎。四番には中院中将定平、八百余騎にて打る。其次に花やかに鎧ふたる兵五百人勝て、帯刀にて二行に被歩。其次に、宮は赤地の錦の鎧直垂に、火威の鎧の裾金物に、牡丹の陰に獅子の戯て、前後左右に追合たるを、草摺長に被召、兵庫鎖の丸鞘の太刀に、虎の皮の尻鞘かけたるを、太刀懸の半に結てさげ、白篦に節陰許少塗て、鵠の羽を以て矧だる征矢の三十六指たるを筈高に負成、二所藤の弓の、銀のつく打たるを十文字に拳て、白瓦毛なる馬の、尾髪飽まで足て太逞に沃懸地の鞍置て、厚総の鞦の、只今染出たる如なるを、芝打長に懸成し、侍十二人に双口をさせ、千鳥足を蹈せて、小路を狭しと被歩。後乗には、千種頭中将忠顕朝臣千余騎にて被供奉。猶も御用心の最中なれば、御心安兵を以て非常を可被誡とて、国々の兵をば、混物具にて三千余騎、閑に小路を被打。其後陣には湯浅権大夫・山本四郎次郎忠行・伊東三郎行高・加藤太郎光直、畿内近国の勢打込に、二十万七千余騎、三日支てぞ打たりける。時移り事去て、万づ昔に替る世なれども、天台座主忽に蒙将軍宣旨、帯甲冑召具随兵、御入洛有し分野は、珍かりし壮観也。其後妙法院宮は四国の勢を被召具、讚岐国より御上洛あり。 |
次に二番手として殿法印良忠が七百余騎を率いて進んだ。三番手は四条少将隆資の五百余騎、四番手には中院中将定平の八百余騎が続いた。その後に華やかな甲冑姿の兵士五百人が帯刀して二列で行進し、さらに護良親王(宮)は赤地に錦模様の鎧直垂をまとい、火焔文様の鎧草摺には金具が施され、「牡丹に獅子」の意匠があしらわれていた。兵庫鎖付きの丸鞘太刀を虎皮の尻鞘で包み、太刀懸けの中ほどに結び下げている。白木の篦弓には節の陰りをわずかに塗装し、白鳥の羽根を用いた征矢三十六本を高く背負い、二所藤製の銀打ち弓を十字形に構えた。乗馬は純白の芦毛馬で尾とたてがみは豊か、逞しい体躯に沃懸地模様の鞍を置き、厚手総ひもの鞦革(しりがい)を鮮やかに染め上げ芝打ち長く垂らしている。十二人の侍従に左右から控えさせ、千鳥足で歩ませたため道幅が狭まったように見えた。後陣には千種頭中将忠顕朝臣の千余騎が供奉し、さらに警戒態勢として各国からの兵士三千余騎が武具を揃えて緩やかに進んだ。最後尾では湯浅権大夫・山本四郎次郎忠行・伊東三郎行高・加藤太郎光直ら畿内近国の軍勢二十万七千余騎が三日かけて続いた。時代は移り世の中が変わったとはいえ、天台座主(護良親王)が突如征夷将軍に任じられ甲冑を着け大軍を率いて入洛した光景は稀に見る壮観であった。その後妙法院宮も四国の兵を引き連れて讃岐国から上洛された。 解説【行列出陣の構造と象徴性】
『太平記』の軍勢表現技法
歴史的背景と矛盾点
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| 万里小路中納言藤房卿は、預人小田民部大輔相具して常陸国より被上洛。春宮大進季房は配所にて身罷にければ、父宣房卿悦の中の悲み、老後の泪満袖。法勝寺円観上人をば、預人結城上野入道奉具足上洛したりければ、君法体の無恙事を悦び思召て、軈て結城に本領安堵の被成下綸旨。文観上人は硫黄嶋より上洛し、忠円僧正は越後国より被帰洛。総じて此君笠置へ落させ給し刻、解官停任せられし人々、死罪流刑に逢し其子孫、此彼より被召出、一時に蟄懐を開けり。されば日来誇武威無本所を、権門高家の武士共、いつしか成諸庭奉公人、或は走軽軒香車後、或跪青侍恪勤前。世の盛衰時の転変、歎に叶はぬ習とは知ながら、今の如にて公家一統の天下ならば、諸国の地頭・御家人は皆奴婢・雑人の如にて有べし。哀何なる不思議も出来て、武家執四海権世中に又成かしと思ふ人のみ多かりけり。同八月三日より可有軍勢恩賞沙汰とて、洞院左衛門督実世卿を被定上卿。依之諸国の軍勢、立軍忠支証捧申状望恩賞輩、何千万人と云数を不知。実に有忠者は憑功不諛、無忠者媚奥求竈、掠上聞間、数月の内に僅に二十余人の恩賞を被沙汰たりけれ共、事非正路軈被召返けり。さらば改上卿とて、万里小路中納言藤房卿を被成上卿、申状を被付渡。 |
万里小路中納言藤房卿は護衛役である小田民部大輔を伴って常陸国から上洛した。春宮大進季房が流刑地で亡くなったため、父の宣房卿は喜びの中にも悲しみを感じ、老後の涙で袖を濡らした。法勝寺円観上人は護衛役である結城上野入道によってしっかりと守られて上洛してきたので、君主(後醍醐天皇)が無事なことを心から喜ばれ、すぐに結城に対して本領安堵の綸旨を与えた。文観上人は硫黄島より上洛し、忠円僧正は越後国から帰京した。総じてこの君主(護良親王)が笠置山へ落ち延びられた時、解任や流罪に処された人々や死罪・流刑に遭った者たちの子孫を各地から召し出し、一気に潜伏中の不満を晴らした。そのため日頃は本拠もないのに武威を誇っていた権門貴族の武士たちがいつしか諸家へ奉公人となり、ある者は軽装で牛車の後ろを走り、ある者は青侍(下級官人)として跪いて勤めに励むようになった。世の盛衰や時の移り変わりは嘆きに耐えない常とは知りつつも、このまま公家中心の天下が続けば諸国の地頭・御家人たちは皆奴隷同然になるだろうと哀れみ、不思議なことが起きて武家が再び政権を握る世の中になることを願う者だけが多かった。同年八月三日から軍勢への恩賞審査を行うために洞院左衛門督実世卿が裁決役に任命された。これにより諸国からの兵士たちや戦功証明書を持った恩賞申請者が何千万人とも知れぬ数で集まった。実際には忠誠ある者は功績を頼りにおもねらず、無い者は権力者へ媚びて便宜を得ようとし、報告が混乱する中で数ヶ月の間にわずか二十余人への恩賞しか決められなかったものの、手続きに不備があったですぐ取り消された。そこで裁決役を交代させ万里小路中納言藤房卿を新たな担当者として任命し、申請書類が引き継がれた。 解説【建武政権下の社会変動と矛盾】
『太平記』特有の史的諷刺
歴史的背景考察
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| 藤房請取之糾忠否分浅深、各申与んとし給ひける処に、依内奏秘計、只今までは朝敵なりつる者も安堵を賜り、更に無忠輩も五箇所・十箇所の所領を給ける間、藤房諌言を納かねて称病被辞奉行。角て非可黙止とて、九条民部卿を上卿に定て御沙汰有ける間、光経卿、諸大将に其手の忠否を委細尋究て申与んとし給ける処に、相摸入道の一跡をば、内裏の供御料所に被置。舎弟四郎左近大夫入道の跡をば、兵部卿親王へ被進。大仏陸奥守の跡をば准后の御領になさる。此外相州の一族、関東家風の輩が所領をば、無指事郢曲妓女の輩、蹴鞠伎芸の者共、乃至衛府諸司・官女・官僧まで、一跡・二跡を合て、内奏より申給りければ、今は六十六箇国の内には、立錐の地も軍勢に可行闕所は無りけり。浩ければ光経卿も、心許は無偏の恩化を申沙汰せんと欲し給けれ共、叶はで年月をぞ被送ける。又雑訴の沙汰の為にとて、郁芳門の左右の脇に決断所を被造。其議定の人数には、才学優長の卿相・雲客・紀伝・明法・外記・官人を三番に分て、一月に六箇度の沙汰の日をぞ被定ける。凡事の体厳重に見へて堂々たり。去ども是尚理世安国の政に非りけり。或は自内奏訴人蒙勅許を、決断所にて論人に理を被付、又決断所にて本主給安堵、内奏より其地を別人の恩賞に被行。 |
藤房が申請書を受け取り忠節の有無を検証しようとしたところ、宮中での密かな策略により、これまで朝敵だった者までも領地安堵を与えられ、さらに功績のない者にも五箇所・十箇所と所領が授けられたため、藤房は諫言を受け入れられず病気を理由に職務を辞任した。この事態を放置できぬとして九条民部卿が裁決役に任命されると、光経卿(万里小路宣房)が諸大将から詳細な戦功報告を取りまとめようとした。その間に相模入道(北条高時)の旧領は天皇の御料所とされ、弟である四郎左近大夫入道(北条泰家)の旧領は兵部卿親王に献上された。大仏陸奥守(北条維貞)の旧領は准后(西園寺寧子)の所有地となり、その他相模国ゆかりの一族や関東武士団の所領も、理由なく芸能者・蹴鞠師ら、さらには衛門府官人・女官・僧侶までもが宮中への請願で獲得した。このため今や六十六ヶ国の中で兵士たちに分配できる空地は全くなくなってしまった。こうした状況下で光経卿も公平な恩賞処理を試みたが叶わず、月日だけが過ぎていった。また雑務訴訟の裁決のために郁芳門院の左右に「決断所」が設置され、議定役には学識優れた公家・学者・法律家らを三班制で配置し、月六回の審理日を定めた。外見は厳粛な体制に見えたものの、これも国家安定の政策とは程遠い実態だった。宮中からの勅許を得た訴えが決断所で却下されたり、逆に決断所での領地認可が内奏で他人への恩賞と差し替えられるなど混乱を極めた。 解説【建武政権の制度崩壊過程】
『太平記』の制度的批判
歴史的帰結
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| 如此互に錯乱せし間、所領一所に四五人の給主付て、国々の動乱更に無休時。去七月の初より中宮御心煩はせ給けるが、八月二日隠させ給ふ。是のみならず十一月三日、春宮崩御成にけり。是非只事、亡卒の怨霊共の所為なるべしとて、止其怨害、為令趣善所、仰四箇大寺、大蔵経五千三百巻を一日中に被書写、法勝寺にて則供養を遂られけり。 ○大内裏造営事付聖廟御事 翌年正月十二日、諸卿議奏して曰、「帝王の業、万機事繁して、百司設位。今の鳳闕僅方四町の内なれば、分内狭して調礼儀無所。四方へ一町宛被広、建殿造宮。是猶古の皇居に及ばねばとて、大内裏可被造。」とて安芸・周防を料国に被寄、日本国の地頭・御家人の所領の得分二十分一を被懸召。抑大内裡と申は、秦の始皇帝の都、咸陽宮の一殿を摸して被作たれば、南北三十六町、東西二十町の外、竜尾の置石を居へて、四方に十二の門を被立たり。東には陽明・待賢・郁芳門、南には美福・朱雀・皇嘉門、西には談天・藻壁・殷富門、北には安嘉・偉鑒・達智門、此外上東・上西、二門に至迄、守交戟衛伍長時に誡非常たり。三十六の後宮には、三千の淑女飾妝、七十二の前殿には文武の百司待詔。紫宸殿の東西に、清涼殿・温明殿。当北常寧殿・貞観殿。 |
こうして互いに混乱している間に、一つの所領に四、五人の所有者が付けられ、諸国の争いはますます止まなかった。前年7月初旬から皇后(中宮)がご病気になられたが、8月2日に崩御された。それだけでなく11月3日には皇太子(春宮)も亡くなった。これはただならぬことで、戦死者の怨霊の仕業に違いないとして、その害を止め善行に向かわせるため、四つの大寺に対して命令し、大蔵経五千三百巻を一日で書き写させ、法勝寺ですぐに供養を行った。 ○ 大内裏造営と聖廟に関する事柄 解説【建武政権下の社会的混乱】
【大内裏造営の問題点】
『太平記』の歴史観
政治的帰結
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| 々々々と申は、后町の北の御匣殿也。校書殿と号せしは、清涼殿の南の弓場殿也。昭陽舎は梨壺、淑景舎は桐壺、飛香舎は藤壺、凝花舎は梅坪、襲芳舎と申は雷鳴坪の事也。萩戸・陣座・滝口戸・鳥曹司・縫殿。兵衛陣、左は宣陽門、右陰明門。日花・月花の両門は、対陣座左右。大極殿・小安殿・蒼龍楼・白虎楼。豊楽院・清署堂、五節の宴水・大嘗会は此所にて被行。中和院は中院、内教坊は雅楽所也。御修法は真言院、神今食は神嘉殿、真弓・競馬をば、武徳殿にして被御覧。朝堂院と申は八省の諸寮是也。右近の陣の橘は昔を忍ぶ香を留め、御階に滋る竹の台幾世の霜を重ぬらん。在原中将の弓・胡■を身に添て、雷鳴騒ぐ終夜あばらなる屋に居たりしは、官の庁の八神殿、光源氏大将の、如物もなしと詠じつゝ、朧月夜に軻しは弘徽殿の細殿、江相公の古へ越の国へ下しに、旅の別を悲て、「後会期遥也。濡纓於鴻臚之暁涙」と、長篇の序に書たりしは、羅城門の南なる鴻臚館の名残なり。鬼の間・直盧・鈴の縄。荒海の障子をば、清涼殿に被立、賢聖の障子をば、紫宸殿にぞ被立ける。東の一の間には、馬周・房玄齢・杜如晦・魏徴、二の間には、諸葛亮・遽伯玉・張子房・第伍倫、三の間には、管仲・■禹・子産・蕭何、四の間には、伊尹・傅説・太公望・仲山甫、西の一の間には、李勣・虞世南・杜預・張華、二の間には、羊■・揚雄・陳寔・班固、三の間には、桓栄・鄭玄・蘇武・倪寛、四の間には、董仲舒・文翁・賈誼・叔孫通也。 |
紫宸殿というのは后町の北にある御匣殿である。校書殿と呼ばれたのは清涼殿南側の弓場殿であった。昭陽舎は梨壺、淑景舎は桐壺、飛香舎は藤壺、凝花舎は梅坪、襲芳舎とは雷鳴坪のことである。萩戸・陣座・滝口戸・鳥曹司・縫殿がある。兵衛陣の左側には宣陽門、右側には陰明門があった。日華門と月華門の二つの門は陣座の左右に向かい合っていた。大極殿・小安殿・蒼龍楼・白虎楼もあった。豊楽院や清署堂では五節の宴や水飲みの儀、大嘗会が行われた。中和院は中院を指し、内教坊とは雅楽所のことである。御修法を行うのは真言院で、神今食(神膳供進)は神嘉殿で行い、流鏑馬・競馬は武徳殿でご覧になった。朝堂院というのは八省の諸役所を指す。右近衛陣にある橘の木は昔を偲ぶ香りを留め、御階に茂る竹の台には幾世代もの霜が重なったことであろう。在原業平中将が弓と胡簶(矢入れ)を身につけ、雷鳴騒ぐ夜通し粗末な屋根の下で過ごしたのは八神殿という役所であり、光源氏大将が「何とも言いようがない」と詠じながら朧月夜にかすむ弘徽殿細殿を見たのもここである。江相公(白居易)が昔越の国へ赴任する際、旅立ちを悲しみ「再会は遥か先だ 鴻臚館の暁に涙で冠の紐を濡らす」と長篇序文に書いたのは羅城門南にある鴻臚館の名残である。鬼の間・直廬(詰所)・鈴の縄もある。荒海が描かれた障子は清涼殿に立てられ、賢聖図屏風は紫宸殿に据えられた。東一の間には馬周・房玄齢・杜如晦・魏徴、二の間には諸葛亮・遽伯玉・張良(子房)・第五倫、三の間には管仲・禹王・子産・蕭何、四の間には伊尹・傅説・太公望・仲山甫が描かれた。西一の間には李勣・虞世南・杜預・張華、二の間には羊祜・揚雄・陳寔・班固、三の間には桓栄・鄭玄・蘇武・倪寛、四の間には董仲舒・文翁・賈誼・叔孫通が描かれていた。 解説【後宮と儀礼空間の体系】
【文学と現実の重層描写】
【日中複合的な権威表象】
建築史的特徴
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| 画図は金岡が筆、賛詞は小野道風が書たりけるとぞ承る。鳳の甍翔天虹の梁聳雲、さしもいみじく被造双たりし大内裏、天災消に無便、回禄度々に及で、今は昔の礎のみ残れり。尋回禄由、彼唐尭・虞舜の君は支那四百州の主として、其徳天地に応ぜしか共、「茆茨不剪、柴椽不削」とこそ申伝たれ。矧や粟散国の主として、此大内を被造たる事、其徳不可相応。後王若無徳にして欲令居安給はゞ、国財力も依之可尽と、高野大師鑒之、門々の額を書せ給けるに、大極殿の大の字の中を引切て、火と云字に成し、朱雀門の朱の字を米と云字にぞ遊しける。小野道風見之、大極殿は火極殿、朱雀門は米雀門とぞ難じたりける。大権の聖者鑒未来書給へる事を、凡俗として難じ申たりける罰にや、其後より道風執筆、手戦て文字正しからざれども、草書に得妙人なれば、戦て書けるも、軈て筆勢にぞ成にける。遂に大極殿より火出て、諸司八省悉焼にけり。無程又造営有しを、北野天神の御眷属火雷気毒神、清涼殿の坤柱に落掛給し時焼けるとぞ承る。抑彼天満大神と申は、風月の本主、文道の大祖たり。天に御坐ては日月に顕光照国土、地に降下ては塩梅の臣と成て群生を利し玉ふ。其始を申せば、菅原宰相是善卿の南庭に、五六歳許なる小児の容顔美麗なるが、詠前栽花只一人立給へり。 |
絵図は巨勢金岡が描き、賛詞は小野道風が書いたと伝えられる。鳳凰のような甍が天に翔け、虹の梁が雲に聳えるほど見事に造営された大内裏も、自然災害を避ける術なく火災が度々発生し、今では昔の礎石だけが残っている。その火災原因を尋ねると、かの唐尭・虞舜のような君主は中国全土の主として徳が天地と調和したにもかかわらず、「茅葺き屋根を整えず粗末な木材も削らない」と言い伝えられたのに、ましてや小国の主である天皇がこれほどの大内裏を作ったのはその徳にふさわしくない。もし後世の王に徳なく安住させようとすれば国力は尽きると、弘法大師(空海)が見抜いて門々の額を書く際に、大極殿の「大」字の中画を引き切って「火」という字にしてしまい、朱雀門の「朱」字を「米」字に見えるよう書き換えた。小野道風がこれを見て「大極殿は火災殿か」「朱雀門は米雀門だな」と批判したところ、聖者の未来予見を凡人が非難した罰だろうか、その後道風の筆跡は震えて文字が歪み始めたが草書に優れた人だったので、震えながら書いた字もすぐに勢いのある作風となった。結局大極殿から出火し八省諸司を全焼させたほどだ。程なく再建されたものの北野天神(菅原道真)の眷属である火雷気毒神が清涼殿南西柱へ落ちかかり、またも焼失したと伝わる。そもそも天満大神とは風流・学問の根源であり、天上では日月となって国土を照らし、地上に降りれば良臣(塩梅=調和)となり民衆を導く神である。その起源は菅原是善公邸南庭で五六歳ほどの美貌の童子が花を見て独り立ち詠む姿から始まった。 解説【歴史的災害と政治的寓意】
【菅原道真神格化の三段階】
文学技法における対比構造
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| 菅相公怪しと見給て、「君は何の処の人、誰が家の男にて御坐ぞ。」と問玉に、「我は無父無母、願は相公を親とせんと思侍る也。」と被仰ければ、相公嬉く思召て、手から奉舁懐、鴛鴦の衾の下に、恩愛の養育を為事生育奉り、御名をば菅少将とぞ申ける。未習悟道、御才学世に又類も非じと見給しかば、十一歳に成せ給し時父菅相公御髪を掻撫て、「若詩や作り給ふべき。」と問進せ給ければ、少しも案じたる御気色も無て、月耀如晴雪。梅花似照星。可憐金鏡転。庭上玉芳馨。と寒夜の即事を、言ば明に五言の絶句にぞ作せ玉ける。其より後、詩は捲盛唐波瀾先七歩才、文は漱漢魏芳潤、諳万巻書玉しかば、貞観十二年三月二十三日対策及第して自詞場に折桂玉ふ。其年の春都良香の家に人集て弓を射ける所へ菅少将をはしたり。都良香、此公は無何と、学窓に聚蛍、稽古に無隙人なれば、弓の本末をも知玉はじ、的を射させ奉り咲ばやと思して、的矢に弓を取副て閣菅少将御前に、「春の始にて候に、一度遊ばし候へ。」とぞ被請ける。菅少将さしも辞退し給はず、番の逢手に立合て、如雪膚を押袒、打上て引下すより、暫しをりて堅めたる体、切て放たる矢色・弦音・弓倒し、五善何れも逞く勢有て、矢所一寸ものかず、五度の十をし給ければ、都良香感に堪兼て、自下て御手を引、酒宴及数刻、様々の引出物をぞ被進ける。 |
菅相公(是善)は不思議に思い、「あなたはどこの人で、誰の家の子なのですか」と尋ねると、「私は父も母もおらず、相公様を親と思いたく存じます」と言った。そこで相公は喜び、手ずから抱き上げて懐に入れ、鴛鴦(えんおう)の布団の下で慈しみ育て、名前を菅少将と名付けた。まだ学問も習っていないのにその才能が並外れており、十一歳になった時、父である菅相公は髪を撫でながら「そろそろ詩を作れるか」と尋ねたところ、少しも迷う様子なく、「月の輝き晴れた雪の如く 梅の花は星に照らされたるが似たり 愛(め)づらし金鏡転ずるを 庭上には玉の芳馨あり」と寒夜の即興詩を、明快な五言絶句で詠んだ。その後、詩作では盛唐の気風をも凌ぐ七歩の才を示し、文章は漢魏時代の香りを漂わせ万巻の書に通じたため、貞観十二年三月二十三日に対策(試験)に合格して科挙の栄誉を得た。その年の春、都良香の家で人々が弓射りの集まりをしていたところへ菅少将も現れた。都良香は「この方は学問一筋で隙なく蛍雪の功を積んだ方だから、弓術など知るはずがない」と思い込み、的を射させて笑おうと企み、「春の始まりですので一度遊んでください」と言って菅少将に弓矢を差し出した。ところが菅少将は全く辞退せず、対戦相手として立ち合った。雪のように白い肌を見せるため袖をまくり上げると、弓を持ち構えて間をおき姿勢を固め放つ矢の色・弦の音・弓の反り具合がすべて力強く勢いがあり、的から一寸も外れず五度全て十本中十本を射抜いた。都良香は感動に耐えられず自ら手を取り酒宴で数時間もてなし様々な贈り物を進呈した。 解説【菅原道真の神童伝説】
【弓術エピソードの三重構造】
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| 同年の三月二十六日に、延喜帝未だ東宮にて御坐ありけるが、菅少将を被召て、「漢朝の李■は一夜に百首の詩を作けると見たり。汝盍如其才。一時に作十首詩可備天覧。」被仰下ければ、則十題を賜て、半時許に十首の詩をぞ作せ玉ける。送春不用動舟車。唯別残鴬与落花。若使韶光知我意。今宵旅宿在詩家。と云暮春の詩も其十首の絶句の内なるべし。才賢の誉・仁義の道、一として無所欠、君帰三皇五帝徳、世均周公・孔子治只在此人、君無限賞じ思召ければ、寛平九年六月に中納言より大納言に上、軈て大将に成玉ふ。同年十月に、延喜帝即御位給し後は、万機の政然自幕府上相出しかば、摂禄の臣も清花の家も無可比肩人。昌泰二年の二月に、大臣大将に成せ給ふ。此時本院大臣と申は、大織冠九代の孫、昭宣公第一の男、皇后御兄、村上天皇の御伯父也。摂家と云高貴と云、旁我に等き人非じと思ひ給けるに、官位・禄賞共に菅丞相に被越給ければ、御憤更無休時。光卿・定国卿・菅根朝臣などに内々相計て、召陰陽頭、王城の八方に埋人形祭冥衆、菅丞相を呪咀し給けれども、天道私なければ、御身に災難不来。さらば構讒沈罪科思て、本院大臣時々菅丞相天下の世務に有私、不知民愁、以非為理由被申ければ、帝さては乱世害民逆臣、諌非禁邪忠臣に非ずと被思召けるこそ浅猿けれ。 |
同年三月二十六日、延喜帝(醍醐天皇)がまだ皇太子であった時に菅少将(道真)をお召しになり、「中国の李白は一晩で百首の詩を作ったと伝わる。お前もその才能を持っているか?今すぐ十首の詩を献上せよ」と命じたところ、即座に十題を与えられ半時ほどで十首の詩をお作りになった。「舟車を動かさず春を見送る ただ残る鶯と散り花との別れのみ もし光陰が我が心を知らば 今宵は詩人の家に宿を取らん」という『暮春』の詩もその十首の中の一首である。才能・賢明さの誉れや仁義の道において欠けるところなく、「君主には三皇五帝の徳、世には周公や孔子の治世がこの人物に集約されている」と限りなく称賛されたため、寛平九年(897年)六月に中納言から大納言へ昇進し、すぐに右大将となられた。同年十月、延喜帝が即位されると政治の実権はすべて彼の手に渡ったため、摂関家も他の貴族たちも比肩できる者はいなかった。昌泰二年(899年)二月には大臣兼大将に任じられる。この時の本院大臣(藤原時平)とは大織冠(藤原鎌足)から九代目の子孫で昭宣公(基経)の長男、皇后の兄であり村上天皇の伯父にあたる人物であった。「摂関家という高貴な身分にふさわしい者はいない」と思っていたのに官位も禄も菅丞相(道真)に越えられたため激怒が収まらず、源光・藤原定国・紀菅根らと密謀して陰陽頭を呼び、都の八方に人形を埋めて冥界の衆生を祭り呪いをかけた。しかし天道は私情を持たないので道真には災難が降りかからなかった。そこで偽りの罪状で陥れようと画策し、本院大臣は度々「菅丞相は政務に私利私欲あり民の苦しみを知らず」と讒言したため、帝も「乱世を招く逆臣か」と思い込まれるという浅はかな事態となった。 解説【道真昇進史実との対応】
詩才エピソードの虚実
藤原時平側近団の構成
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| 「誰知、偽言巧似簧。勧君掩鼻君莫掩。使君夫婦為参商。請君捕峰君莫捕。使君母子成豺狼。」さしも可眤夫婦・父子の中をだに遠くるは讒者の偽也。況於君臣間乎。遂昌泰四年正月二十日菅丞相被遷太宰権帥、筑紫へ被流給べきに定りにければ、不堪左遷御悲、一首の歌に千般の恨を述て亭子院へ奉り給ふ。流行我はみくづとなりぬとも君しがらみと成てとゞめよ法皇此歌を御覧じて御泪御衣を濡しければ、左遷の罪を申宥させ給はんとて、御参内有けれ共、帝遂に出御無りければ、法皇御憤を含で空く還御成にけり。其後流刑定て、菅丞相忽に太宰府へ被流させ玉ふ。御子二十三人の中に、四人は男子にてをわせしかば、皆引分て四方の国々へ奉流。第一の姫君一人をば都に留め進せ、残君達十八人は、泣々都を立離れ、心つくしに赴せ玉ふ御有様こそ悲しけれ。年久く住馴給し、紅梅殿を立出させ玉へば、明方の月幽なるに、をり忘たる梅が香の御袖に余りたるも、今は是や古郷の春の形見と思食に、御涙さへ留らねば、東風吹ば匂をこせよ梅の花主なしとて春な忘れそと打詠給て、今夜淀の渡までと、追立の官人共に道を被急、御車にぞ被召ける。心なき草木までも馴し別を悲けるにや、東風吹風の便を得て、此梅飛去て配所の庭にぞ生たりける。 |
「誰が知ろうか、偽りの言葉は笙のように巧みだと。君に鼻を覆うなと勧めるのは、夫婦の仲を引き裂くためだ。蜂を捕まえるなと言うのは、母子を豺狼のような敵にする策略である」これほど愛しい夫婦や親子ですら讒言者の嘘で離間されるのだから、君臣の関係はなおさらであった。こうして昌泰四年(901年)正月二十日、菅丞相は太宰権帥に左遷され筑紫へ流罪と決まったため、その悲しみを一首の歌に込めて亭子院(宇多法皇)へ奉った。「たとえ朽ち果てようとも 君が堰となって留め給え」。この歌を見た法皇は涙で衣を濡らされ、左遷を取り消そうと内裏へ参上した。しかし帝(醍醐天皇)は遂に対面せず、法皇は怒りを抱いて空しく帰られた。その後流刑が確定し菅丞相は急ぎ太宰府へ送られる。二十三人いた子供のうち四人の男子は各地に分散配流され、第一王女だけが都に残された。残る十八人の子女は泣きながら都を立ち、心を引き裂かれる思いで旅立つ様は痛ましかった。長年住み慣れた紅梅殿から出発した時、明け方の月が幽かに輝く中、忘れられない梅の香りが袖に残っているのも、今となっては故郷の春の形見と思い召され、涙が止まらない。そこで「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠みながら淀川まで急ぎ進んだ。無情のはずの草木さえ別れを悲しんだのか、この梅は東風に乗って飛び立ち流刑先の庭に根づいたという。 解説【道真左遷事件の史実構造】
歌謡の象徴性
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| されば夢の告有て、折人つらしと惜まれし、宰府の飛梅是也。去仁和の比、讚州の任に下給しには、解甘寧錦纜、蘭橈桂梶、敲舷於南海月、昌泰の今配所の道へ赴せ玉ふには、恩賜の御衣の袖を片敷て、浪の上篷の底、傷思於西府雲、都に留置進せし北御方・姫君の御事も、今は昨日を限の別と悲く、知ぬ国々へ被流遣十八人の君達も、さこそ思はぬ旅に趣て、苦身悩心らめと、一方ならず思食遣に、御泪更に乾間も無れば、旅泊の思を述させ給ける詩にも、自従勅使駈将去。父子一時五処離。口不能言眼中血。俯仰天神与地祇。北御方より被副ける御使の道より帰けるに御文あり。君が住宿の梢を行々も隠るゝまでにかへり見しはや心筑紫に生の松、待とはなしに明暮て、配所の西府に着せ玉へば、埴生の小屋のいぶせきに、奉送置、都の官人も帰りぬ。都府楼の瓦の色、観音寺の鐘の声、聞に随ひ見に付ての御悲、此秋は独我身の秋となれり。起臥露のとことはに、古郷を忍ぶ御涙、毎言葉繁ければ、さらでも重濡衣の、袖乾く間も無りけり、さても無実の讒によりて、被遷配所恨入骨髄、難忍思召ければ、七日、間御身を清め一巻の告文を遊して高山に登り、竿の前に着て差挙、七日御足を翹させ給たるに、梵天・帝釈も其無実をや憐給けん。 |
そうして夢のお告げがあり、人々が「切ない」と惜しんだのが太宰府の飛び梅である。かつて仁和年間(885-889年)に讃岐守として赴任した時は、「甘寧の錦纜を解き蘭橈桂梶を用い南海の月下で船べりを叩く」といった栄華だったが、昌泰の今、配流先へ向かう道中では恩賜の御衣の袖を敷物代わりにし、「西府(太宰府)の雲を見て傷心する」有様であった。都に残された北御方(正室)や姫君との別れは「昨日限りの決別」と悲しく、各地へ流罪となった十八人の子供たちも「思いがけぬ旅で苦しんでいるだろう」と思い遣ると、涙が全く乾かなかった。その心情を詠んだ詩には「勅使に追われてより父子は五ヶ所に離散す口に言えず眼の中血あり仰ぎ見れば天神と地祇(ちぎ)のみ」とある。北御方からの使者が帰る際に託された文もあった。「貴方が宿の梢を行く姿が見えなくなるまで振り返ったことよ」。筑紫で待つ日々、ようやく配所・太宰府西府に着くと粗末な小屋の息苦しさの中、護送役人たちも都へ帰ってしまい「都府楼の瓦色観音寺の鐘声見るにつけ聞くにつけこの秋は我が身だけが悲しい」と嘆かれた。起居する露の宿では故郷を忍ぶ涙が絶えず、重ね着した衣も袖が乾く暇がないほどだった。無実の讒言による配流への恨みは骨髄に徹し耐え難い思いから七日間身を清め告文(天奏文)一巻を書き上げ山頂で捧げ祈り続けたところ梵天・帝釈もその冤罪を哀れんだという。 解説【道真配流の現実と詩的描写】
信仰形成への転換点
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| 黒雲一群天より下さがりて、此告文を把て遥の天にぞ揚りける。其後延喜三年二月二十五日遂に沈左遷恨薨逝し給ぬ。今の安楽寺を御墓所と定て奉送置。惜哉北闕春花、随流不帰水、奈何西府夜月、入不晴虚命雲、されば貴賎滴涙、慕世誇淳素化、遠近呑声悲道蹈澆漓俗。同年夏の末に、延暦寺第十三の座主、法性坊尊意贈僧正、四明山の上、十乗の床前に照観月、清心水御坐けるに、持仏堂の妻戸を、ほと/\と敲音しければ、押開て見玉ふに、過ぬる春筑紫にて正しく薨逝し給ぬと聞へし菅丞相にてぞ御坐ける。僧正奇思して、「先此方へ御入候へ。」と奉誘引、「さても御事は過にし二月二十五日に、筑紫にて御隠候ぬと、慥に承しかば、悲歎の涙を袖にかけて、後生菩提の御追善をのみ申居候に、少も不替元の御形にて入御候へば、夢幻の間難弁こそ覚て候へ。」と被申ければ、菅丞相御顔にはら/\とこぼれ懸りける御泪を押拭はせ給て、「我成朝廷臣、為令安天下、暫下生人間処に、君時平公が讒を御許容有て、終に無実の罪に被沈ぬる事、瞋恚の焔従劫火盛也。依之五蘊の形は雖壊、一霊の神は明にして在天。今得大小神祇・梵天・帝釈・四王許、為報其恨九重の帝闕に近づき、我につらかりし佞臣・讒者を一々に蹴殺さんと存ずる也。 |
黒い雲の一群が天から降りてきて、この告文を掴むと遥か天上へ昇っていった。その後延喜三年(903年)二月二十五日、ついに左遷への恨みを抱えたまま亡くなられた。現在の安楽寺をお墓所として葬る。「惜しいことだ 宮中の春の花は流れ去る水のように帰らず、嘆かわしい西府の夜月も晴れぬ雲に隠れる」。このため身分の上下を問わず人々は涙し「世の中が素朴だった時代を懐かしんだ」と言われた。遠近で声を押し殺して悲しみ、乱れた俗世を嘆いた。同年夏の末、延暦寺十三代座主・法性坊尊意僧正(贈位)が比叡山四明峰で読経中に持仏堂の戸を叩く音がしたので開けてみると、この春筑紫で亡くなったはずの菅丞相その人であった。僧正は驚き「まずこちらへお入りください」と招いた上、「確かに二月二十五日に太宰府で逝去されたとの報を受け、涙して追善供養を続けてまいりましたのに、生前と変わらぬ姿で現れられて夢か現かわからなくなってしまいました」と言う。すると菅丞相は顔に溢れる涙を拭われながら「私は朝廷の臣下として天下安寧のために生まれましたが、時平公による讒言が許され無実の罪に沈められた怨みは劫火のように燃え盛っている。肉体は滅んでも霊魂は天に在り、今や神々仏尊たちと共にこの恨みを晴らすため宮中へ赴き、私を陥れた奸臣・讒言者を一人残らず蹴殺そうと思う」と言われた。 解説【道真怨霊説話の形成過程】
怨霊宣言の歴史的意義
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| 其時定て仰山門可被致総持法験。縦雖有勅定、相構不可有参内。」と被仰ければ、僧正曰、「貴方与愚僧師資之儀雖不浅、君与臣上下之礼尚深。勅請の旨一往雖辞申、及度々争か参内仕らで候べき。」と被申けるに、菅丞相御気色俄に損じて御肴に有ける柘榴を取てかみ摧き、持仏堂の妻戸に颯と吹懸させ給ければ、柘榴の核猛火と成て妻戸に燃付けるを、僧正少も不騒、向燃火灑水の印を結ばれければ、猛火忽に消て妻戸は半焦たる許也。此妻戸今に伝て在山門とぞ承る。其後菅丞相座席を立て天に昇らせ玉ふと見へければ、軈雷内裡の上に鳴落鳴騰、高天も落地大地も如裂。一人・百官縮身消魂給ふ。七日七夜が間雨暴風烈して世界如闇、洪水家々を漂はしければ、京白河の貴賎男女、喚き叫ぶ声叫喚・大叫喚の苦の如し。遂に雷電大内の清涼殿に落て、大納言清貫卿の表の衣に火燃付て伏転べども不消。右大弁希世朝臣は、心剛なる人なりければ、「縦何なる天雷也とも、王威に不威哉。」とて、弓に矢を取副て向給へば、五体すくみて覆倒にけり。近衛忠包鬢髪に火付焼死ぬ。紀蔭連は煙に咽で絶入にけり。本院大臣あはや我身に懸る神罰よと被思ければ、玉体に立副進せ太刀を抜懸て、「朝に仕へ給し時も我に礼を乱玉はず、縦ひ神と成玉ふとも、君臣上下の義を失玉はんや。 |
その時道真は「必ず比叡山門で総持(怨霊鎮魂)の法験を施してもらうようにせよ。たとえ勅命があっても決して宮中へ入ってはならない」と言われたので、尊意僧正が「私ども師弟の縁は深いものですが、君主への礼儀こそ重んずべきです。一度ならぬ再三のご命令あれば参内せざるを得ません」と答えると、菅丞相は表情を一変させ、膳にあった石榴を取り上げて噛み砕き仏堂の扉へ吹きかけた。すると石榴の種が猛火となって燃え上がったため、僧正が騒がず洒水印(防火の印)を結ぶと炎は消え、扉は半分焦げただけだった。(この扉は今も延暦寺に伝わるとされる。)その後道真は席を立ち天へ昇り、たちまち雷鳴が宮中で轟き天地が裂けるようになった。人々は魂消えて震え上がる中、七日七夜の暴風雨により京・白河一帯が洪水に見舞われた。ついに落雷が清涼殿を直撃し、大納言藤原清貫の衣に火が付いて悶絶するも炎は消えず、右大弁平希世が「いかなる天罰か!」と弓矢で応戦しようとしたところ全身硬直して倒れた。近衛忠包は頭髪から燃えて焼死し、紀蔭連は煙に巻かれ息絶えた。(醍醐天皇の父)宇多法皇が「我が身にも神罰が」と覚悟した太刀を抜いて叫んだ。「生前も君臣礼儀を守られた貴方がたとえ神となられても上下秩序をお忘れになるとは!」 解説【清涼殿落雷事件の伝承化】
宗教的意味付けの深化
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| 金輪位高して擁護の神未捨玉、暫く静りて穏かに其徳を施し玉へ。」と理に当て宣ひければ、理にやしづまり玉けん、時平大臣も蹴殺され給はず、玉体も無恙、雷神天に上り玉ぬ。去ども雨風の降続事は尚不休。角ては世界国土皆流失ぬと見へければ、以法威神忿を宥申さるべしとて、法性坊の贈僧正を被召。一両度までは辞退申されけるが、勅宣及三度ければ、無力下洛し給けるに、鴨川をびたゝしく水増て、船ならでは道有まじかりけるを、僧正、「只其車水の中を遣れ。」と下知し給ふ。牛飼随命、漲たる河の中へ車を颯と遣懸たれば、洪水左右へ分、却て車は陸地を通りけり。僧正参内し給ふより、雨止風静て、神忿も忽に宥り給ぬと見へければ、僧正預叡感登山し玉ふ。山門の効験天下の称讚在之とぞ聞へし。其後本院大臣受病身心鎮に苦み給ふ。浄蔵貴所を奉請被加持けるに、大臣の左右の耳より、小青蛇頭を差出して、「良浄蔵貴所、我無実の讒に沈し恨を為散、此大臣を取殺んと思也。されば祈療共に以て不可有験。加様に云者をば誰とかしる。是こそ菅丞相の変化の神、天満大自在天神よ。」とぞ示給ける。浄蔵貴所示現の不思議に驚て、暫く罷加持出玉ければ、本院大臣忽に薨じ給ぬ。御息女の女御、御孫の東宮も軈て隠れさせ玉ぬ。 |
その時(宇多法皇は)「高貴な身分にあり守護神に見放されぬ私が説得を試みよう」と言い静められたので、道理で鎮まったのか藤原時平も殺されず天皇にも無事だった。雷神(道真)は天へ去ったものの暴風雨は止まず国土全体が流されるかと思われたため、朝廷は法性坊尊意僧正を召喚した。二度断られたが三度目の勅命で下山すると鴨川が増水し船しか通れない中「車で水中を行け」と指示。従者牛飼が命令通り進むと洪水が分かれ陸地を通れた。(この奇跡は)僧正入内後、雨風が止み神怒りも治まったため法皇の感謝を受け比叡山へ戻った。世間では「延暦寺の法力こそ第一」と称賛されたという。その後宇多法皇が病床に伏すと祈祷師浄蔵貴所を呼んだが、加持中に法皇両耳から小青蛇が現れ「私は無実で陥れられた菅原道真=天満大自在天神だ!恨み晴らすためこの男(法皇)を殺そう」と宣言。驚いた浄蔵貴所の祈祷も虚しく法皇は死去、娘や孫皇子も相次いで亡くなった。 解説【物語構造の三重転換】
宗教史的重要性
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| 二男八条大将保忠同重病に沈給けるが、験者薬師経を読む時、宮毘羅大将と打挙て読けるを、我が頚切らんと云声に聞成て、則絶入給けり。三男敦忠中納言も早世しぬ。其人こそあらめ、子孫まで一時に亡玉ける神罰の程こそをそろしけれ。其比延喜帝の御従兄弟に右大弁公忠と申人、悩事も無て頓死しけり。経三日蘇生給けるが、大息突出て、「可奏聞事あり、我を扶起て内裏へ参れ。」と宣ければ、子息信明・信孝二人左右の手を扶て参内し玉ふ。「事の故何ぞ。」と御尋有ければ、公忠わな/\と振て、「臣冥官の庁とてをそろしき所に至り候つるが、長一丈余なる人の衣冠正しきが、金軸の申文を捧て、「粟散辺地の主、延喜帝王、時平大臣が信讒無罪臣を被流候き。其誤尤重し、早被記庁御札、阿鼻地獄へ可被落。」と申しかば、三十余人並居玉へる冥官大に忿て、「不移時刻可及其責。」と同じ給しを、座中第二の冥官、「若年号を改て過を謝する道あらば、如何し候べき。」と宣しに、座中皆案じ煩たる体に見へて、其後、公忠蘇生仕候。」とぞ被奏ける。君大に驚思召て、軈て延喜の年号を延長に改て、菅丞相流罪の宣旨を焼捨て、官位を元の大臣に帰し、正二位の一階を被贈けり。其後天慶九年近江国比良の社の袮宜、神の良種に託して、大内の北野に千本の松一夜に生たりしかば、此に建社壇、奉崇天満大自在天神けり。 |
次男の八条大将保忠も重い病気にかかり、祈祷師が薬師経を唱える中「宮毘羅大将」と読み上げた瞬間、「私の首を切るのか!」という声に聞こえて息絶えた。三男敦忠中納言も早世し、子孫までも同時期に亡くなった神罰は恐ろしいほどだった。当時醍醐天皇の従兄弟である右大弁藤原公忠が突然死したが、三日後に蘇生し「奏上すべきことがある」と言い息子たちに支えられ参内。「冥界で身長三丈余りの者(道真霊)が金軸の文書を捧げ『天皇は讒言を信じ無実の臣下を流罪にした。阿鼻地獄へ落とせ』と訴えたところ、冥官たちが激怒して即時処罰を決めようとしたが、第二の冥官(閻魔大王か)が『年号改元で過ちを謝すればどうか』と提案し議論中に蘇生した」と奏上。天皇は驚いて直ちに「延喜」から「延長」へ改元し道真流罪の宣旨を焼却、官位復帰させ正二位追贈した。その後天慶九年(946年)、近江国比良神社の神主が神託を受け大内裏北野に一夜で千本松が生えたため社壇を築き「天満大自在天神」として祀った。 解説【政治的妥協と怨霊鎮魂メカニズム】
歴史的意義
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| 御眷属十六万八千之神尚も静り玉ざりけるにや、天徳二年より天元五年に至迄二十五年の間に、諸司八省三度迄焼にけり。角て有べきにあらねば、内裏造営あるべしとて、運魯般斧新に造立たりける柱に一首の蝕の歌あり。造とも又も焼なん菅原や棟の板間の合ん限りは此歌に神慮尚も御納受なかりけりと驚思食て、一条院より正一位太政大臣の官位を賜らせ玉ふ。勅使安楽寺に下て詔書を読上ける時天に声有て一首の詩聞へたり。昨為北闕蒙悲士。今作西都雪恥尸。生恨死歓其我奈。今須望足護天皇基。其後よりは、神の嗔も静り国土も穏也。偉矣、尋本地、大慈大悲の観世音、弘誓の海深して、群生済度の船無不到彼岸。垂跡を申せば天満大自在天神の応化の身、利物日新にして、一来結縁の人所願任心成就す。是を以て上自一人、下至万民、渇仰の首を不傾云人はなし。誠奇特無双の霊社也。去程に、治暦四年八月十四日、内裏造営の事始有て、後三条院の御宇、延久四年四月十五日遷幸あり。文人献詩伶倫奏楽。目出かりしに、無幾程、又安元二年に日吉山王の依御祟、大内の諸寮一宇も不残焼にし後は、国の力衰て代々の聖主も今に至まで造営の御沙汰も無りつるに、今兵革の後、世未安、国費へ民苦て、不帰馬于花山陽不放牛于桃林野、大内裏可被作とて自昔至今、我朝には未用作紙銭、諸国の地頭・御家人の所領に被懸課役条、神慮にも違ひ驕誇の端とも成ぬと、顰眉智臣も多かりけり。 |
天神(菅原道真)の配下である十六万八千の神々はまだ鎮まらなかったようで、天徳二年(958年)から天元五年(982年)までの25年間に朝廷各庁舎が三度も焼失した。仕方なく内裏を再建することになり、工匠たちが新たに立てた柱に一首の歌が刻まれていた。「造ってもまた焼けるだろうよ菅原や 棟木と板の合う限りは」。この歌から神慮(道真の怒り)がまだ収まっていないと天皇(一条院)は驚き、正一位太政大臣の位を追贈した。勅使が安楽寺で詔書を読み上げると天から声が響き一詩が聞こえた。「かつて北闘で悲運を負った身 今は西都(冥界)に恥を雪ぐ屍となれども 生きる恨み死ぬ歓びや如何せん ただ天皇の基盤守らんことを」。その後から神の怒りは静まり国土も平穏になった。壮麗なことよ、その本質(本地)を尋ねれば大慈大悲の観世音菩薩であり広大なる誓いの海深く衆生救済の船は彼岸へ至らぬことはない。垂迹として見れば天満大自在天神(道真)の化身で利他行いは日々新たに参詣者すべての願いを成就させる。これにより天皇から庶民まで崇敬しない者はおらず誠に比類なき霊社である。こうした中、治暦四年(1068年)八月十四日に内裏造営が始まり後三条天皇時代の延久四年(1072年)四月十五日遷幸式があった。文人は詩を献じ楽人が奏で華々しかったが間もなく安元二年(1176年)、日吉山王神の祟りにより大内すべて焼失し国の力衰え歴代天皇も再建せぬまま現代に至る。今や戦乱後の世情不安、国費不足と民苦の中「花咲く山陽で馬を休めず桃林野で牛を放たず」の如く大内裏造営計画が浮上したため昔から紙幣を用いぬわが朝廷は諸国の地頭・御家人領に課役を懸けようとした。これは神意にも背き驕慢と批判され眉をひそめる賢臣も多かった。 解説【天神信仰の変遷と政治矛盾】
社会構造的透視
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| ○安鎮国家法事付諸大将恩賞事 元弘三年春の比、筑紫には規矩掃部助高政・糸田左近大夫将監貞義と云平氏の一族出来て、前亡の余類を集め、所々の逆党を招て国を乱らんとす。又河内国の賊徒等、佐々目憲法僧正と云ける者を取立て、飯盛山に城郭をぞ構ける。是のみならず、伊与国には赤橋駿河守が子息、駿河太郎重時と云者有て、立烏帽子峯に城を拵、四辺の庄園を掠領す。此等の凶徒、加法威於武力不退治者、早速に可難静謐とて、俄に紫宸殿の皇居に構壇、竹内慈厳僧正を被召て、天下安鎮の法をぞ被行ける。此法を行時、甲冑の武士四門を堅て、内弁・外弁、近衛、階下に陣を張り、伶人楽を奏する始、武家の輩南庭の左右に立双で、抜剣四方を鎮る事あり。四門の警固には、結城七郎左衛門親光・楠河内守正成・塩冶判官高貞・名和伯耆守長年也。南庭の陣には右は三浦介、左は千葉大介貞胤をぞ被召ける。此両人兼ては可随其役由を領状申たりけるが、臨其期千葉は三浦が相手に成ん事を嫌ひ、三浦は千葉が右に立ん事を忿て、共に出仕を留ければ、天魔の障礙、法会の違乱とぞ成にける。後に思合するに天下久無為なるまじき表示也けり。されども此法の効験にや、飯盛丸城は正成に被攻落、立烏帽子城は、土居・得能に被責破、筑紫は大友・小弐に打負て、朝敵の首京都に上しかば、共に被渡大路、軈て被懸獄門けり。 |
元弘三年(1333年)春頃、筑紫では平氏一族の規矩掃部助高政と糸田左近大夫将監貞義が勢力を持ち、没落した仲間を集め各地の反逆者を招いて国を乱そうとした。また河内国の賊徒は佐々目憲法僧正という人物を担ぎ上げ飯盛山に城郭を構築し、伊予国では赤橋駿河守(北条氏)の子である駿河太郎重時が立烏帽子峰に城を作り周辺荘園を略奪した。朝廷は「これら凶徒を武力で鎮圧しない限り天下泰平は難しい」と判断し、急遽紫宸殿に壇を設け竹内慈厳僧正を招いて国家安穏の秘法(安鎮国家法)を行わせた。 この儀式では甲冑姿の武士が四方の門を固め、宮中では近衛兵らが階下に陣を張り楽人が演奏するなか、武家衆は南庭左右で剣を抜き四方を鎮める役目を担った。四門警護には結城親光・楠正成・塩冶高貞・名和長年が就き、南庭配置では右陣に三浦介(氏)、左陣に千葉大介貞胤が任命された。ところが両者は事前の役割承諾にも関わらず、当日になって千葉は「三浦と並ぶのが不愉快」と言い出し、三浦も「千葉より格下扱いは許せない」として共に欠席したため、天魔(悪魔)の妨害により法会が混乱してしまった。後に人々はこの出来事を「天下太平が続かない前兆だろう」と噂した。 しかし秘法の効験か、飯盛山城は楠正成に攻め落とされ、立烏帽子城も土居・得能勢によって陥落し、筑紫では大友氏・少弐氏が反乱軍を破った。賊徒たちの首級は京都へ送られ市中引き回しの後獄門にかけられたのである。 解説【政教儀礼と武士団の葛藤構造】
歴史的背景分析
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| 東国・西国已静謐しければ、自筑紫小弐・大友・菊池・松浦の者共、大船七百余艘にて参洛す。新田左馬助・舎弟兵庫助七千余騎にて被上洛。此外国々の武士共、一人も不残上り集ける間、京白河に充満して、王城の富貴日来に百倍せり。諸軍勢の恩賞は暫く延引すとも、先大功の輩の抽賞を可被行とて、足利治部大輔高氏に、武蔵・常陸・下総三箇国、舎弟左馬頭直義に遠江国、新田左馬助義貞に上野・播磨両国、子息義顕に越後国、舎弟兵部少輔義助に駿河国、楠判官正成に摂津国・河内、名和伯耆守長年に因幡・伯耆両国をぞ被行ける。其外公家・武家の輩、二箇国・三箇国を給りけるに、さしもの軍忠有し赤松入道円心に、佐用庄一所許を被行。播磨国の守護職をば無程被召返けり。されば建武の乱に円心俄に心替して、朝敵と成しも、此恨とぞ聞へし。其外五十余箇国の守護・国司・国々の闕所大庄をば悉公家被官の人々拝領しける間、誇陶朱之富貴飽鄭白之衣食矣。 ○千種殿並文観僧正奢侈事付解脱上人事 中にも千種頭中将忠顕朝臣は、故六条内府有房公の孫にて御坐しかば文字の道をこそ、家業とも嗜まるべかりしに、弱冠の比より我道にもあらぬ笠懸・犬追物を好み、博奕・婬乱を事とせられける間、父有忠卿離父子義、不幸の由にてぞ被置ける。 |
東国と西国の反乱が鎮まったため、筑紫から小弐氏・大友氏・菊池氏・松浦氏らが700隻以上の船で上洛した。新田義貞(左馬助)と弟の兵庫助も7,000騎を率いて入京し、他国の武士たちも一人残らず集まったため、京都の白河一帯は人々で溢れ、都の繁栄は日ごとに百倍した。すべての軍勢への恩賞実施は一旦延期されたものの、まず大功績者へ特別に領地が与えられた――足利高氏(治部大輔)には武蔵・常陸・下総の三ヶ国、弟直義(左馬頭)には遠江国、新田義貞には上野と播磨両国、息子義顕には越後国、弟義助(兵部少輔)には駿河国、楠正成(判官)には摂津・河内、名和長年(伯耆守)には因幡・伯耆両国が下賜された。その他の公家や武士にも二ヶ国から三ヶ国の領地が与えられる中で、多大な戦功を立てた赤松円心入道には佐用庄一か所のみしか支給されず、播磨守護職もすぐに剥奪された。このため建武の乱で円心が急に朝廷側を裏切ったのは「この恨み」からだと伝えられた。さらに五十余ヶ国の守護職・国司職や没収領地は全て公家の側近たちに分配され、彼らは陶朱公(金持ち)のような富貴を誇り鄭白(美食家)のように飽きるほど贅沢した。 つづいて千種殿と文観僧正の浪費に関する話および解脱上人のこと:特に千種忠顕(頭中将・朝臣)は、故六条有房公(内大臣)の孫であったため学問を家業とするべき立場だったが、若い頃から家風に反する笠懸や犬追物などの武芸を好み、賭博や淫乱な行いにふける日々を送った。その結果父・千種有忠卿は「不肖の子」として義絶し勘当したのである。 解説【建武新政権の論功行賞と矛盾】
政治力学の核心
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| され共此朝臣、一時の栄花を可開過去の因縁にや有けん、主上隠岐国へ御遷幸の時供奉仕て、六波羅の討手に上りたりし忠功に依て、大国三箇国、闕所数十箇所被拝領たりしかば、朝恩身に余り、其侈り目を驚せり。其重恩を与へたる家人共に、毎日の巡酒を振舞せけるに、堂上に袖を連ぬる諸大夫・侍三百人に余れり。其酒肉珍膳の費へ、一度に万銭も尚不可足。又数十間の厩を作双べて、肉に余れる馬を五六十疋被立たり。宴罷で和興に時は、数百騎を相随へて内野・北山辺に打出て追出犬、小鷹狩に日を暮し給ふ。其衣裳は豹・虎皮を行縢に裁ち、金襴纐纈を直垂に縫へり。賎服貴服謂之僭上。々々無礼国凶賊也と、孔安国が誡を不恥ける社うたてけれ。是はせめて俗人なれば不足言。彼文観僧正の振舞を伝聞こそ不思議なれ。適一旦名利の境界を離れ、既に三密瑜伽の道場に入給し無益、只利欲・名聞にのみ■て、更に観念定坐の勤を忘たるに似り。何の用ともなきに財宝を積倉不扶貧窮、傍に集武具士卒を逞す。成媚結交輩には、無忠賞を被申与ける間、文観僧正の手の者と号して、建党張臂者、洛中に充満して、及五六百人。されば程遠からぬ参内の時も、輿の前後に数百騎の兵打囲で、路次を横行しければ、法衣忽汚馬蹄塵、律儀空落人口譏。 |
しかしこの公卿(千種忠顕)が一時の栄華を享受できたのは過去の因縁によるものだろう。主君である後醍醐天皇が隠岐国へ流された際に供奉し、六波羅探題討伐で功績があったため大国三ヶ国と没収地数十箇所を与えられたのである。朝廷からの恩恵は身に余るほどであり、その贅沢ぶりは目を見張るものがあった。 彼が重ねての恩賞を受けた家臣たちへ毎日酒宴を振る舞うと、堂上には諸大夫や侍三百人以上が集まった。一回の宴会での酒肉珍味の費用は万銭(莫大な金)でも足りないほどだった。また数十間もの厩舎を作って五六十頭の馬を飼育し、宴後は数百騎を従えて内野や北山付近に出かけ犬追物や小鷹狩で日を暮らした。 その服装は豹皮・虎皮を行縢(乗馬用袴)に仕立て、金襴纐纈(高級絹織物)を直垂(武士の正装)に縫い付けるなどしていた。身分不相応な豪奢であるため「無礼国凶賊也」と孔子注釈者・孔安国の戒めも恥じない様子は嘆かわしい。 これが俗人であればまだしも、文観僧正の振る舞いは聞くに不思議だ。本来なら名利から離れ三密瑜伽(真言密教修行)に励むべき立場でありながら、ただ利欲や名声に溺れて座禅修行を忘れたかのようである。無駄な財宝を蓄え貧者を助けず、傍らで武具と兵士を集めて威勢を示す。媚びへつらう仲間には功績なく恩賞を与えたため、「文観僧正の手の者」と称する者が洛中に溢れ五六百人にもなった。 その結果、参内時ですら輿を数百騎の兵士が囲んで道を行く様子は横行し、法衣(僧侶服)が馬蹄の塵で汚れる一方で戒律遵守は空しく人の嘲笑となっていたのである。 解説【建武新政権批判としての人物描写】
社会的批判構造
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| 彼廬山慧遠法師は一度辞風塵境、寂寞の室に坐し給しより、仮にも此山を不出と誓て、十八賢聖を結で、長日に六時礼讚を勤き。大梅常和尚は強不被世人知住処更に茅舎を移して入深居、詠山居風味得已熟印可給へり。有心人は、皆古〔も〕今も韜光消跡、暮山の雲に伴一池の蓮を衣として、行道清心こそ生涯を尽す事なるに、此僧正は如此名利の絆に羈れけるも非直事、何様天魔外道の其心に依託して、挙動せけるかと覚たり。以何云之ならば、文治の比洛陽に有一沙門。其名を解脱上人とぞ申ける。其母七歳の時、夢中に鈴を呑と見て設たりける子なりければ、非直人とて、三に成ける時より、其身を入釈門、遂に貴き聖とは成しける也。されば慈悲深重にして、三衣の破たる事を不悲、行業不退にして、一鉢の空き事を不愁。大隠は必しも市朝の内を不辞。身は雖交五濁塵、心は不犯三毒霧。任縁歳月を渡り、利生山川を抖薮し給けるが、或時伊勢太神宮に参て、内外宮を巡礼して、潛に自受法楽の法施をぞ被奉ける。大方自余の社には様替て、千木不曲形祖木不剃、是正直捨方便の形を顕せるかと見へ、古松垂枝老樹敷葉、皆下化衆生の相を表すと覚たり。垂迹の方便をきけば、仮に雖似忌三宝名、内証深心を思へば、其も尚有化俗結縁理覚て、そゞろに感涙袖を濡しければ、日暮けれ共在家なんどに可立宿心地もし給はず、外宮の御前に通夜念誦して、神路山の松風に眠をさまし、御裳濯川の月に心を清して御坐ける処に、俄に空掻曇雨風烈吹て、雲の上に車を轟、馬を馳る音して東西より来れり。 |
あの廬山慧遠法師は俗世間から離れ静寂な庵に坐して以来、決してこの山を出ないと誓い、十八高賢を集めて終日六時にわたり礼拝誦経を続けられた。大梅法常和尚も「強いて人に住処を知らせず」としてさらに奥深く移り住み、「山居の風味を得ることすでに熟した」と師から認められた。真の求道者は古今を通じて名声を隠し、夕暮れの山雲を友とし池の蓮を衣として修行に専心するのが本分であるのに、この僧正(文観)はかくも名利の束縛にとらわれているばかりか、まるで悪魔が彼の心に入り込んで行動させているように思われる。 なぜそう言えるのかというと――文治年間(1185-1190)、都に一人の僧侶がいた。名を解脱上人といった。母は七歳の時に鈴を飲む夢を見て妊娠した子ゆえ、並みならぬ人物として三歳で出家し、ついに高徳な聖者となったのである。慈悲深く粗末な衣も悲しまず、修行を怠らず托鉢が空でも嘆かない。「大隠は必ずしも俗世を避けねばならないわけではない」と、五濁悪世に身をおきながら心は煩悩に染まらなかった。縁に任せて歳月を過ごし人々の救済のために各地を巡ったが、ある時伊勢神宮へ参詣して内外両宮を巡礼し、ひそかに自受法楽(密教修行)による法施を行じた。 他の神社とは様子が異なり、千木は曲げず棟木の端も切らない――これは方便を捨て真理に直入する姿を示しているようで、老松の垂れた枝や茂る葉すら全て衆生救済の相を表していると感じられた。神々が仏として現れる(神仏習合)意義を知れば、表面上は三宝(仏法僧)を避けているように見えても内面に深い信仰があれば俗世との縁結びになると悟り、思わず涙で袖を濡らした。日が暮れても在家の者たちのもとに宿ろうとはせず、外宮の前で徹夜して念誦し続けた。神路山の松風に眠りを覚まされ御裳濯川の月影で心を清めておられた時、突然空は暗く暴風雨が吹き荒れ、雲上で車馬が轟音と共に東西から現れたのである。 解説【聖俗二元論的構図】
核心的宗教観
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| 「あな恐しや、此何物やらん。」と上人消肝見給へば、忽然として虚空に瑩玉鏤金たる宮殿楼閣出来て、庭上に引幔門前に張幕。爰に十方より所来の車馬の客、二三千も有らんと覚たるが左右に居流て、上座に一人の大人あり。其容甚非尋常、長二三十丈も有らんと見揚たるに、頭は如夜叉十二の面上に双べり。四十二の手有て左右に相連る。或は握日月、或は提剣戟八竜にぞ乗たりける。相順処の眷属共、皆非常人、八臂六足にして鉄の楯を挟み、三面一体にして金の鎧着せり。座定て後、上坐に居たる大人左右に向て申けるは、「此比帝釈の軍に打勝て手に握日月、身居須弥頂、一足に雖蹈大海、其眷属毎日数万人亡、故何事ぞと見れば、南胆部州扶桑国洛陽辺に解脱房と云一人の聖出来て、化導利生する間、法威盛にして天帝得力、魔障弱して修羅失勢。所詮彼が角て有ん程は、我等向天帝合戦する事叶ふまじ。何にもして彼が醒道心、可着■慢懈怠心。」申ければ、甲の真向に、第六天の魔王と金字に銘を打たる者座中に進出で、「彼醒道心候はん事は、可輒るにて候。先後鳥羽院に滅武家思召心を奉着、被攻六波羅、左京権大夫義時定て向官軍可致合戦。其時加力義時ば官軍敗北して、後鳥羽院遠国へ被流給はゞ、義時司天下成敗治天を計申さんに、必広瀬院第二の宮を可奉即位。 |
「これは恐ろしい!一体何者か」と上人が肝をつぶしてご覧になると、突然虚空に宝玉や金細工が輝く宮殿の楼閣が現れ、庭には幕が張られ門前にも天蓋が設けられた。そこに四方から集まった車馬の客人が二三千人もいたかと思われる者が左右に並び、上座には一人の大人物がいる。その姿は全く尋常ではなく、身長二十丈(約60m)ほどもあるように見え上げると、頭部は夜叉のように十二面が重なり合い、四十二本の手を持って両側につらなっていた。ある手で日月を握り、別の手では剣戟を提げ、八匹の竜に乗っている。お供の眷属たちも皆常人ではなく、八本腕六脚で鉄盾を抱え、三つの顔を持つ体に金の鎧を着ていた。 着席した後、上座の大人物が左右に向かって述べた。「近頃帝釈天軍に勝利して日月を掌握し須弥山頂に君臨している我らだが、毎日数万人もの眷属が失われる。その理由を見れば、南瞻部洲(人間界)扶桑国洛陽辺りに解脱房という聖者が現れ教化利生したため、仏法の威光が盛んとなり天帝は力を得て魔障が弱まり阿修羅が劣勢となったのだ。このままだと我らは帝釈天との合戦すらできなくなる。何とかして彼(解脱上人)に慢心や怠惰の心を抱かせねばならぬ」 すると正面で「第六天魔魔王」という金字銘を持つ者が進み出て申した。「彼が悟りへの道心を持ち続けることは容易ではありませんぞ。まず後鳥羽院に武家討滅をお仕えさせ、六波羅攻撃を促しましょう。左京権大夫(北条)義時は必ず官軍との合戦に向かうでしょう。その際もし我らが義時に加勢すれば官軍は敗れ、後鳥羽院は遠流に処せられますれば、義時が天下の政務と治天を掌握するよう画策し、広瀬院第二皇子(仲恭天皇)を即位させましょう」 解説【仏教神話と歴史事件の融合構造】
核心的歴史観
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| さる程ならば、此解脱房彼宮の有御帰依聖なれば、被召官僧奉近竜顔、可刷出仕儀則。自是行業は日々に怠、■慢は時々に増て、破戒無慚の比丘と成んずる条、不可有子細、角てぞ我等も若干の眷属を可設候。」と申ければ、二行に並居たる悪魔外道共、「此儀尤可然覚候。」と同じて各東西に飛去にけり。上人聞此事給て、「是ぞ神明の我に道心を勧させ給ふ御利生よ。」と歓喜の泪を流し、其より軈京へは帰給はで、山城国笠置と云深山に卜一巌屋、攅落葉為身上衣、拾菓為口食、長発厭離穢土心鎮専欣求浄土勤し給ひける。角て三四年を過給ひける処に承久の合戦出来て、義時執天下権しかば、後鳥羽院被流させ給て、広瀬宮即天子位給ける。其時解脱上人在笠置窟聞召て、為官僧度々被下勅使被召けれ共、是こそ第六天の魔王共が云し事よと被思ければ、遂に不随勅定弥行澄してぞ御坐しける。智行徳開しかば、軈て成此寺開山、今に残仏法弘通紹隆給へり。以彼思此、うたてかりける文観上人の行儀哉と、迷愚蒙眼。遂無幾程建武の乱出来しかば、無法流相続門弟一人成孤独衰窮身、吉野の辺に漂泊して、終給けるとぞ聞へし。 ○広有射怪鳥事 元弘三年七月に改元有て建武に被移。是は後漢光武、治王莽之乱再続漢世佳例也とて、漢朝の年号を被摸けるとかや。 |
「それならばこの解脱房(げだつぼう)はあの皇子様が深く帰依される聖者であるから、朝廷に召されて僧官となり御前近侍するようになるであろう。そうなれば修行は日々怠け、傲慢さは次第に増し、破戒無慚の僧侶となるのは疑いない。ともかく我らも多少の眷属を配置しよう」と申すと、両列に並んだ悪魔外道どもが「この計画はまことに妥当です」と同調して各々東西へ飛び去った。 上人はこれを聞かれ、「これは神仏が私に求道心を奮い立たせて下さる御利益だ」と歓喜の涙を流し、その後すぐ京には戻らず山城国笠置という深山で岩屋を見つけ、落ち葉を集めて衣とし、木の実を拾って食料として、ひたすら穢れた現世への嫌悪心を固め浄土往生を願い修行に励まれた。こうして三四年過ごされた頃承久の乱が起こり義時が天下の権力を掌握したため、後鳥羽院は流罪となり広瀬宮(仲恭天皇)が即位なさった。 その時解脱上人は笠置山の洞窟でこの知らせを聞かれ、「これは第六天魔王どもの言っていた通りだ」と思われたので、朝廷からの度重なる勅使による召喚にも応じず修行に専念された。智慧と実践徳が開花したため程なくして寺(笠置寺)の開山となり現在まで仏法を広く伝え継承なさっている。 この事態をもって考えれば、まことに嘆かわしい文観上人の行状であったよと、迷い愚かな者どもは気づかない。ほどなく建武の乱が起こると無法者の弟子ばかりが相続し一人孤独に衰え貧窮した身となり吉野付近をさすらいながら亡くなったという。 ○広有(こうゆう)怪鳥射落としの事 元弘三年七月に改元があって建武へ移行した。これは後漢光武帝が王莽の乱を治め漢王朝再興の良例にならって中国王朝の年号を模倣されたという。 解説【解脱上人と文観上人の運命対比】
核心的主題
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| 今年天下に疫癘有て、病死する者甚多し。是のみならず、其秋の比より紫宸殿の上に怪鳥出来て、「いつまで/\。」とぞ鳴ける。其声響雲驚眠。聞人皆無不忌恐。即諸卿相議して曰、「異国の昔、尭の代に九の日出たりしを、■と云ける者承て、八の日を射落せり。我朝の古、堀川院の御在位時、有反化物、奉悩君しをば、前陸奥守義家承て、殿上の下口に候、三度弦音を鳴して鎮之。又近衛院の御在位の時、鵺と云鳥の雲中に翔て鳴しをば、源三位頼政卿蒙勅、射落したりし例あれば、源氏の中に誰か可射候者有。」と被尋けれ共、射はづしたらば生涯の恥辱と思けるにや、我承らんと申者無りけり。「さらば上北面・諸庭の侍共中に誰かさりぬべき者有。」と御尋有けるに、「二条関白左大臣殿の被召仕候、隠岐次郎左衛門広有と申者こそ、其器に堪たる者にて候へ。」と被申ければ、軈召之とて広有をぞ被召ける。広有承勅定鈴間辺に候けるが、げにも此鳥蚊の睫に巣くうなる■螟の如く少て不及矢も、虚空の外に翔飛ばゞ叶まじ。目に見ゆる程の鳥にて、矢懸りならんずるに、何事ありとも射はづすまじき物をと思ければ、一義も不申畏て領掌す。則下人に持せたる弓与矢を執寄て、孫廂の陰に立隠て、此鳥の有様を伺見るに、八月十七夜の月殊に晴渡て、虚空清明たるに、大内山の上に黒雲一群懸て、鳥啼こと荐也。 |
今年、天下に疫病が流行し病死する者が非常に多かった。それだけでなく、その秋ごろから紫宸殿の上に怪鳥が出没して「いつまで、いつまで」と鳴いた。その声は雲を震わせ眠りも覚ますほどで聞く人は皆恐れおののかずにはいられなかった。すぐに公卿たちが相談し言うには、「異国の昔尭(ぎょう)の時代に九つの太陽が出た時、羿(げい)という者が承って八つを射落とした。我が国でも古く堀川院御在位時に妖怪が現れて帝をお悩ませになったものを前陸奥守義家が承り殿上の下口で三度弓の弦音を鳴らして鎮めた。また近衛院御在位時には鵺(ぬえ)という鳥が雲中に飛び回って鳴いたのを源三位頼政卿が勅命を受けて射落とした例があるので、源氏の中に誰かこれを射る者がいるだろうか」と尋ねたところもし外したら生涯の恥辱と思ったためか承諾する者は一人もいなかった。 「それならば上北面(じょうほくめん)や諸庭の侍たちの中で適任者はいないか」とお尋ねがあったところ、「二条関白左大臣殿が召し仕えている隠岐次郎左衛門広有という者がその器にかなう者です」と申したので、すぐに呼び寄せて広有を召された。広有は勅命を受けて鈴間(すずのま)辺りに控えていたが確かにこの鳥は蚊の睫毛に巣くう螟虫のように小さく矢も届かないかもしれず空高く飛べば射当てられない。しかし目に見えるほどの鳥で矢を放つなら何があっても外すことはあるまいと思ったので一言異議も申さず承諾した。すぐに下人から弓と矢を受け取り孫廂(ひざし)の陰に隠れて様子を見ていると八月十七夜の月が殊更明るく照らし空は澄み渡っていたのに大内山の上には黒雲一群がかかり鳥は盛んに鳴いていた。 解説【怪異現象への対応構造】
前文脈との連続性と主題展開
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| 鳴時口より火炎を吐歟と覚て、声の内より電して、其光御簾の内へ散徹す。広有此鳥の在所を能々見課て、弓押張り弦くひしめして、流鏑矢を差番て立向へば、主上は南殿に出御成て叡覧あり。関白殿下・左右の大将・大中納言・八座・七弁・八省輔・諸家の侍、堂上堂下に連袖、文武百官見之、如何が有んずらんとかたづを呑で拳手。広有已に立向て、欲引弓けるが、聊思案する様有げにて、流鏑にすげたる狩俣を抜て打捨、二人張に十二束二伏、きり/\と引しぼりて無左右不放之、待鳥啼声たりける。此鳥例より飛下、紫宸殿の上に二十丈許が程に鳴ける処を聞清して、弦音高く兵と放つ。鏑紫宸殿の上を鳴り響し、雲の間に手答して、何とは不知、大盤石の如落懸聞へて、仁寿殿の軒の上より、ふたへに竹台の前へぞ落たりける。堂上堂下一同に、「あ射たり/\。」と感ずる声、半時許のゝめいて、且は不云休けり。衛士の司に松明を高く捕せて是を御覧ずるに、頭は如人して、身は蛇の形也。嘴の前曲て歯如鋸生違。両の足に長距有て、利如剣。羽崎を延て見之、長一丈六尺也。「さても広有射ける時、俄に雁俣を抜て捨つるは何ぞ。」と御尋有ければ、広有畏て、「此鳥当御殿上鳴候つる間、仕て候はんずる矢の落候はん時、宮殿の上に立候はんずるが禁忌しさに、雁俣をば抜て捨つるにて候。 |
その怪鳥は鳴く時に口から炎を吐いているように見え、声の中から稲妻のような光が放たれ御簾の内側まで散らばった。広有はこの鳥の居場所をしっかりと見定め、弓を押し張って弦を引き絞り、流鏑矢をつがえて立ち向かうと、主上(天皇)は南殿に出御されてご覧になっていた。関白殿下や左右大将・大中納言・八座の公卿・七弁の蔵人頭・八省輔などの高官から諸家に仕える侍まで、堂上の貴族も堂下の役人も連なり固唾を飲みながら見守る中で、広有はすでに立ち向かい弓を引こうとしたが一瞬考え込む様子があり、流鏑矢につけていた狩猟用の鏃(かぶらやじり)を抜き捨てた。二人張りの強さを持つ十二束二伏の大弓をぎいっと引きしぼって確実に放つため、鳥が鳴く時機を待っていた。この鳥はいつものように飛び降り紫宸殿の上約二十丈(約60m)で鳴いている場所を見極めると、弦音高く「ひょうっ」と矢を放った。鏑矢は紫宸殿の屋根に響き渡る音を立て雲間へ突き抜け、何か巨大なものが落ちる轟音がして仁寿殿軒上から二つ折れになって竹製の壇前へ落下した。 堂上の貴族も堂下の役人も一斉に「射たぞ!」と叫ぶ感嘆の声はしばらくやまず止む気配すらない。衛士司(警護官)が松明を高々とかざして見せると、頭部は人間のようで胴体は蛇形だった。嘴は前方に曲がり鋸のような歯が生え違っており、両足には剣のように鋭い長大な爪があった。翼を広げて測ると全長一丈六尺(約4.8m)もあった。「しかし広有よ、お前が射る時に急に狩猟鏃を取り外したのはなぜか」と天皇から尋ねられると、広有は畏まって「この鳥が御殿上で鳴いていたため、もし矢を放ち落とした際に宮殿屋根に立つことは禁忌と思い鏃のみ抜き捨てた次第です」と答えた。 解説【場面構成の特徴】
前文脈との連続性と発展
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| 」と申ければ、主上弥叡感有て、其夜軈て広有を被成五位、次の日因幡国に大庄二箇所賜てけり。弓矢取の面目、後代までの名誉也。 ○神泉苑事 兵革の後、妖気猶示禍。銷其殃無如真言秘密効験とて、俄に神泉苑をぞ被修造ける。彼神泉園と申は、大内始て成し時、准周文王霊囿、方八町に被築たりし園囿也。其後桓武の御世に、始て朱雀門の東西に被建二寺。左をば名東寺右をば号西寺。東寺には高野大師安胎蔵界七百余尊守金輪宝祚。西寺には南都の周敏僧都金剛界五百余尊を顕して、被祈玉体長久。斯りし処に、桓武御宇延暦二十三年春比、弘法大師為求法御渡唐有けり。其間周敏僧都一人奉近竜顔被致朝夕加持ける。或時御門御手水を被召けるが、水氷て余につめたかりける程に、暫とて閣き給ひたりけるを、周敏向御手水結火印を給ける間、氷水忽に解て如沸湯也。御門被御覧て、余に不思議に被思召ければ、態火鉢に炭を多くをこさせて、障子を立廻し、火気を内に被篭たれば、臘裏風光宛如春三月也。帝御顔の汗を押拭はせ給て、「此火滅ばや。」と被仰ければ、守敏又向火水の印をぞ結び給ひける。依之炉火忽に消て空く冷灰に成にければ、寒気侵膚五体に如灑水。自此後、守敏加様の顕奇特不思議事如得神変。斯しかば帝是を帰依渇仰し給へる事不尋常。 |
広有がそう申し上げると、天皇はますます感心され、その夜すぐさま彼を五位の位にお授けになり、翌日には因幡国に二箇所の大荘園を与えられた。弓術家としての面目を施し、後世まで残る名誉となった。 ○神泉苑に関する事 その間、守敏僧都だけが一人で帝の側近くに仕え朝夕加持祈祷を行った。ある時帝が手洗いの水をお召しになったところ、水面が凍って非常に冷たかったため、一旦中止なさろうとした瞬間、守敏が御用水に向かって火印を結んだ途端、氷水はたちまち解けて沸騰する湯のように熱くなった。帝がご覧になって大変不思議に思われたので、わざと火鉢に炭を大量にくべさせて障子で周囲を囲み内部の温度を上げられたところ、真冬であるのに気候はまるで三月の春のようになった。 帝は額の汗をお拭きになりながら「この炎も消してみよ」と仰せになると、守敏は再び火に向かって水印を結ばれた。すると炉火はたちまち消え去り空っぽの灰が冷たくなったため、寒気が肌に染み入るように五体全体に冷水を浴びせられたかのようだった。この出来事以来、守敏はこうした類いまれな奇跡を示す不思議な力を神変を得たかの如く発揮するようになった。そのため帝の彼への帰依と崇敬ぶりは尋常一様ではなかった。 解説【構造的意義】
前文脈との思想的発展
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| 懸りける処に弘法大師有御帰朝。即参内し給ふ。帝異朝の事共有御尋後、守敏僧都の此間様々なりつる奇特共をぞ御物語有ける。大師聞召之、「馬鳴■帷、鬼神去閉口、栴檀礼塔支提破顕尸と申事候へば、空海が有んずる処にて、守敏よもさやうの奇特をば現し候はじ。」とぞ被欺ける。帝さらば両人の効験を施させて威徳の勝劣を被御覧思召て、或時大師御参内有けるを、傍に奉隠置、守敏応勅御前に候す。時に帝湯薬を進りけるが、建盞を閣せ給て、「余に此水つめたく覚る。例の様に加持して被暖候へかし。」とぞ被仰ける。守敏仔細候はじとて、向建盞結火印被加持けれども、水敢て不成湯。帝「こは何なる不思議ぞや。」と被仰、左右に目くわし有ければ、内侍の典主なる者、態熱く沸返たる湯をついで参たり。帝又湯を立させて進らんとし給ひけるが、又建盞を閣せ給ふ。「是は余に熱て、手にも不被捕。」と被仰ければ、守敏先にもこりず、又向建盞結水印たりけれ共、湯敢不醒、尚建盞の内にて沸返る。守敏前後の不覚に失色、損気給へる処に、大師傍なる障子の内より御出有て、「何に守敏、空海是に有とは被存知候はざりける歟。星光は消朝日蛍火は隠暁月。」とぞ咲れける。守敏大に恥之挿欝陶於心中、隠嗔恚於気上被退出けり。 |
そうした折に弘法大師(空海)が唐から帰国された。すぐに宮中にお参りになった。帝は外国での出来事などについて尋ねられた後、守敏僧都のこの間の様々な奇跡についてお話しになられた。大師はこれを聞かれ、「仏典には『馬鳴(めみょう)が帷(とばり)を■れば鬼神さえ口をつぐむ』とも『栴檀(せんだん)が礼拝すれば塔や支提(しだい)も壊れ、尸(しかばね)すら顕れる』とも申しますゆえ、空海のいる場所では守敏はそのような奇跡など決して示せまい」とおっしゃった。 帝が「それなら両者の効験を示させて威徳の優劣を確かめよう」と思われたある時、大師が参内された際にわざと隠れさせ、守敏だけを御前へ伺候させられた。時に帝が湯薬をお召し上がりになろうとして杯を置かれ、「この水はひどく冷たく感じる。いつものように加持して温めてほしい」と命じられた。守敏は「問題ございますまい」と言って杯に向かい火印を結び加持したが、水は全く温かくならなかった。 帝が「これはどういう不思議だ?」とおっしゃり周囲を見回されると、内侍の典司役がわざと熱く沸き立たせた湯を持って参上した。帝が再び湯を注いで進めようとなさったところ、また杯をお置きになり「今度は熱すぎて手にも持てない」と言われた。守敏は先の失敗も省みず杯に向かって水印を結んだが、湯の沸騰は全く収まらず、まだ杯の中で煮え立っていた。 守敏は面目を失い青ざめているところへ、大師が傍らの障子裏からお出ましになり「どうした守敏よ、空海ここにいるとは思わなかったか? 星光(ほしのひかり)は朝日に消え蛍火(けいか)は暁月にかくれるものだ」と笑われた。守敏は大いに恥じ入り、心の中で無念を抱きつつ怒りを押し隠して退出したのであった。 解説【対決構造の深化】
宗教的権威の転換点
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| 自其守敏君を恨申す憤入骨髄深かりければ、天下に大旱魃をやりて、四海の民を無一人飢渇に合せんと思て、一大三千界の中にある所の竜神共を捕へて、僅なる水瓶の内に押篭てぞ置たりける。依之孟夏三月の間、雨降事無して、農民不勤耕作。天下の愁一人の罪にぞ帰しける。君遥に天災の民に害ある事を愁へ思召て、弘法大師を召請じて、雨の祈をぞ被仰付ける。大師承勅、先一七日の間入定、明に三千界の中を御覧ずるに、内海・外海の竜神共、悉守敏の以呪力、水瓶の中に駆篭て可降雨竜神無りけり。但北天竺の境大雪山の北に無熱池と云池の善女竜王、独守敏より上位の薩■にて御坐ける。大師定より出て、此由を奏聞有ければ、俄に大内の前に池を掘せ、清涼の水を湛て竜王をぞ勧請し給ける。于時彼善女龍王金色の八寸の竜に現じて、長九尺許の蛇の頂に乗て此池に来給ふ。則此由を奏す。公家殊に敬嘆せさせ給て、和気真綱を勅使として、以御幣種々物供龍王を祭せらる。其後湿雲油然として降雨事国土に普し。三日の間をやみ無して、災旱の憂永消ぬ。真言の道を被崇事自是弥盛也。守敏尚腹を立て、さらば弘法大師を奉調伏思て、西寺に引篭り、三角の壇を構へ本尊を北向に立て、軍荼利夜叉の法をぞ被行ける。大師此由を聞給て、則東寺に炉壇を構へ大威徳明王の法を修し給ふ。 |
それ以来、守敏は憎しみと怒りが骨の髄まで深く染み込んでいたため、天下に大干ばつをもたらして四海の人々を一人も飢えや渇きから免れさせようと思い、三千世界全体にいる竜神たちを捕らえて小さな水瓶の中に閉じ込めてしまったのであった。このため初夏の三ヶ月もの間雨が降らず農民は耕作できなくなった。天下の人々の悲しみと苦しみは守敏一人の罪に帰せられたのだった。天皇は遠くから天災で人々が被害を受けることを深く憂い、弘法大師(空海)を召して雨乞いの祈りをお命じになった。 大師は勅命を受け入れまず七日間瞑想に入った。その中で三千世界を見渡すと内海や外海の竜神たちがすべて守敏の呪力によって水瓶に閉じ込められており雨を降らせるべき竜神がいなかった。しかし北インド国境地帯にある無熱池という池の善女龍王だけは守敏よりも上位の菩薩として存在していた。大師は瞑想から出てこのことを奏上すると急いで宮中の中庭に池が掘られ清涼な水を湛えて竜王をお招きしたところ彼の善女龍王は金色の八寸(約24cm)ほどの竜となって現れ長さ九尺余りの蛇の頭上に乗りこの池へとやって来たので報告があった。公家たちは特に感嘆され和気真綱を勅使として幣帛や様々な供物で龍王をお祀りした。その後厚い雲が湧き起こって雨が国中に降り注ぎ三日間止むことなく旱魃の心配は永遠になくなった。真言密教への崇敬もこれによってますます盛んになったのである。 しかし守敏はなお怒りに燃え「それなら弘法大師を調伏しよう」と思い西寺へ籠って三角壇を作り本尊を北向きに祀り軍荼利夜叉の修法を行った。このことを聞いた空海はすぐ東寺で火炉と祭壇を築き大威徳明王の修法をおこなわれた。 解説【宗教的対決の深化】
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| 両人何れも徳行薫修の尊宿也しかば、二尊の射給ける流鏑矢空中に合て中に落る事、鳴休隙も無りけり。爰に大師、守敏を油断させんと思召て、俄に御入滅の由を被披露ければ、緇素流悲歎泪、貴賎呑哀慟声。守敏聞之、「法威成就しぬ。」と成悦則被破壇けり。此時守敏俄に目くれ鼻血垂て、心身被悩乱けるが、仏壇の前に倒伏て遂に無墓成にけり。「呪咀諸毒薬還着於本人」と説給ふ金言、誠に験有て、不思議なりし効験也。自是して東寺は繁昌し西寺滅亡す。大師茅と云草を結で、竜の形に作て壇上に立て行はせ給ける。法成就の後、聖衆を奉送給けるに、真の善女龍王をば、軈神泉園に留奉て、「竜華下生三会の暁まで、守此国治我法給へ。」と、御契約有ければ、今まで迹を留て彼池に住給ふ。彼茅の竜王は大龍に成て、無熱池へ飛帰玉ふとも云、或云聖衆と共に空に昇て、指東を、飛去、尾張国熱田の宮に留り玉ふ共云説あり。仏法東漸の先兆、東海鎮護の奇瑞なるにや。大師言、「若此竜王他界に移らば池浅く水少して国荒れ世乏らん。其時は我門徒加祈請、竜王を奉請留可助国。」宣へり。今は水浅く池あせたり。恐は竜王移他界玉へる歟。然共請雨経の法被行ごとに掲焉の霊験猶不絶、未国捨玉似たり、風雨叶時感応奇特の霊池也。 |
二人とも高徳で修行を積んだ立派な僧侶だったため、空海(弘法大師)と守敏が放った神聖な矢は空中で衝突し真ん中へ落ちる様子が見事に繰り返され、全く隙もなかった。ここで空海は守敏を油断させようと考え、突然ご自身が亡くなられたという知らせを流したところ、僧侶も俗人も涙を流して悲しみ嘆き、身分の上下なく悲痛な声をあげた。守敏はこれを聞いて「術法が成就した」と喜び祭壇を壊したが、その瞬間突然目が見えなくなり鼻血が出て、心身ともに混乱状態に陥った末、仏壇の前で倒れ伏し亡くなってしまい墓も残らなかった。「呪いや毒は自身にはね返る」という教えがあまりにも確かな効果を示した不思議な結果であった。これ以降東寺は繁栄する一方、西寺は滅び去った。空海が茅(かや)の草を束ねて龍の形に作り祭壇で儀式を行うと、法術完成後に善女竜王ら神々を見送る際、本物の善女竜王だけをすぐ神泉苑にとどめるよう「弥勒菩薩が降臨する第三回目の集会までの間、この国をお守りください」という契約を結んだため、今でもその池に住み続けている。一方茅で作った龍は巨大な龍となって無熱池へ戻ったとも言われるし、あるいは神々と共に空へ昇り東方へ飛び去り尾張国(現・愛知県)の熱田神宮にとどまったという説もある。これは仏教が東へ広まる兆しか、または東海地方を守る奇跡であろうか。また空海は「もし竜王が他の世界に行けば池の水が減り国は荒れ世も困窮するだろう」と予言し、「その時は私の弟子たちに祈願させて竜神をお呼び戻すことで国家を救いなさい」と言われた。実際今では水位が下がって浅くなっていることから、おそらく竜王が移動されたのかもしれない。それでも雨乞い儀式を行う度にはっきりと霊験は続いており、この世を見捨てていないようで風や雨を調和させる不思議な力を持つ霊池として存在している。 解説【呪術対決の結末と後日談】
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| 代々の御門崇之家々の賢臣敬之。若旱魃起る時は先池を浄む。然を後鳥羽法皇をり居させ玉ひて後、建保の比より此所廃れ、荊棘路を閉るのみならず、猪鹿の害蛇放たれ、流鏑の音驚護法聴、飛蹄の響騒冥衆心。有心人不恐歎云事なし。承久の乱の後、故武州禅門潛に悲此事、高築垣堅門被止雑穢。其後涼燠数改て門牆漸不全。不浄汚穢之男女出入無制止、牛馬水草を求る往来無憚。定知竜神不快歟。早加修理可崇重給。崇此所国土可治也。 ○兵部卿親王流刑事付驪姫事 兵部卿親王天下の乱に向ふ程は、無力為遁其身難雖被替御法体、四海已に静謐せば、如元復三千貫長位、致仏法・王法紹隆給んこそ、仏意にも叶ひ叡慮にも違はせ給ふまじかりしを、備征夷将軍位可守天下武道とて、則勅許を被申しかば、聖慮不隠しか共、任御望遂に被下征夷将軍宣旨。斯りしかば、四海の倚頼として慎身可被重位御事なるに、御心の侭に極侈、世の譏を忘て婬楽をのみ事とし給しかば、天下の人皆再び世の危からん事を思へり。大乱の後は弓矢を裹て干戈袋にすとこそ申すに、何の用ともなきに、強弓射る者、大太刀仕ふ者とだに申せば、無忠被下厚恩、左右前後に仕承す。剰加様のそらがらくる者共、毎夜京白河を廻て、辻切をしける程に、路次に行合ふ児法師・女童部、此彼に被切倒、逢横死者無休時。 |
歴代の天皇や貴族たちはこの場所を尊び、賢明な家臣も敬った。旱魃が起きた時にはまず池を清めたものだ。しかし後鳥羽法皇が退位された後の建保年間(1213-1219年)頃から廃れ始め、茨や草で道が塞がれただけでなく猪鹿の害も広まり蛇が出没したため、流鏑馬の音は護法神を驚かせ、駿馬の蹄の響きは冥界の衆生の心を騒がす。物事をわきまえた人々が恐れ嘆かないことはなかった。承久の乱(1221年)後、故・武州禅門(北条時頼と推定)がひそかにこれを悲しみ高く壁を築いて頑丈な門を作り穢れを止めたのだが、その後年月を経て寒暖変化により門や塀は次第に壊れた。不浄で汚らわしい男女の出入りも制止されず牛馬が水草を求めて往来することを誰も恐れない。きっと竜神は不快であろう。早く修理して重んじ崇めるべきだ。この場所を尊べば国土は治まるはずである。 ○兵部卿親王の事跡と驪姫事件 解説【歴史的経緯と社会的批判】
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| 是も只足利治部卿を討んと被思召ける故に、集兵被習武ける御挙動也。抑高氏卿今までは随分有忠仁にて、有過僻不聞、依何事兵部卿親王は、是程に御憤は深かりけるぞと、根元を尋ぬれば、去年の五月に官軍六波羅を責落したりし刻、殿法印の手の者共、京中の土蔵共を打破て、財宝共を運び取ける間、為鎮狼籍、足利殿の方より是を召捕て、二十余人六条河原に切ぞ被懸ける。其高札に、「大塔宮の候人、殿法印良忠が手の者共、於在々所々、昼強盜を致す間、所誅也。」とぞ被書たりける。殿法印此事を聞て不安事に被思ければ、様々の讒を構へ方便を廻して、兵部卿親王にぞ被訴申ける。加様の事共重畳して達上聞ければ、宮も憤り思召して、志貴に御座有し時より、高氏卿を討ばやと、連々に思召立けれ共、勅許無りしかば無力黙止給けるが、尚讒口不止けるにや、内々以隠密儀を、諸国へ被成令旨を、兵をぞ被召ける。高氏卿此事を聞て、内々奉属継母准后被奏聞けるは、「兵部卿親王為奉奪帝位、諸国の兵を召候也。其証拠分明に候。」とて、国々へ被成下処の令旨を取て、被備上覧けり。君大に逆鱗有て、「此宮を可処流罪。」とて、中殿の御会に寄事兵部卿親王をぞ被召ける。宮懸る事とは更に不思召寄、前駈二人・侍十余人召具して、忍やかに御参内有けるを、結城判官・伯耆守二人、兼てより承勅用意したりければ、鈴の間の辺に待受て奉捕之、則馬場殿に奉押篭。 |
これもただ足利治部卿(高師直か)を討伐しようと考えられたために、兵士を集め武術の訓練をする行動であった。そもそも尊氏はこれまで非常に忠義仁愛があり過ちや偏りが聞かれなかったのに、なぜ兵部卿親王(護良親王)がそれほど深く憤慨されたのか根源を探ると、去年五月に官軍が六波羅を攻め落とした時、殿法印の配下たちが京中の土蔵を破壊して財宝を持ち去る騒動があったため、鎮圧のために尊氏側が彼らを捕らえ二十余人を六条河原で斬首した。その立て札には「大塔宮(護良親王)の家来である殿法印良忠配下たちがあちこちで白昼強盗を行ったので処刑する」と書かれていた。殿法印はこのことを聞いて不安に思い、様々な讒言を企て策謀を用いて兵部卿親王に訴え出た。こうした事態が重なり天皇の耳にも達すると宮(護良親王)も激しく怒り志貴山におられた時から尊氏を討ちたいと繰り返し思われたが勅許がないためやむなく沈黙しておられたのに、なお讒言が止まないので内密に隠密の方法で諸国へ令旨(命令書)を発行して兵士を召し集められた。尊氏はこのことを聞きひそかに継母を通じて天皇に奏上したのは「兵部卿親王が帝位奪取のために諸国の兵を召集しています。証拠も明白です」と言い、国々へ出された令旨を取り上げて天皇にお見せした。天皇は大いに怒り(逆鱗)、「この宮(護良親王)を流罪にすべきだ」として朝廷会議で事を理由に兵部卿親王をお召しになった。宮は何の用か全く予想できず先払い二人と侍十余人を伴ってひそかに参内したところ結城判官(高貞)と伯耆守(名和長年?)の両者が前もって勅命を受けて準備していたため鈴の間付近で待ち伏せし捕らえ、直ちに馬場殿に監禁した。 解説【権力闘争の構造と歴史的展開】
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| 宮は一間なる所の蜘手結たる中に、参通ふ人独も無して、泪の床に起伏せ給ふにも、こは何なる我身なれば、弘元の始は武家のために隠身、木の下岩のはざまに露敷袖をほしかね、帰洛の今は一生の楽未一日終、為讒臣被罪、刑戮の中には苦むらんと、知ぬ前世の報までも思召残す方もなし。「虚名不久立」云事あれば、さり共君も可被聞召直思召ける処に、公儀已に遠流に定りぬと聞へければ、不堪御悲、内々御心よせの女房して、委細の御書を遊し、付伝奏急可経奏聞由を被仰遣。其消息云先以勅勘之身欲奏無罪之由、涙落心暗、愁結言短。唯以一令察万、加詞被恤悲者、臣愚生前之望云足而已。夫承久以来、武家把権朝廷棄政年尚矣。臣苟不忍看之、一解慈悲忍辱法衣、忽被怨敵降伏之堅甲。内恐破戒之罪、外受無慙之譏。雖然為君依忘身、為敵不顧死。当斯時忠臣孝子雖多朝、或不励志、或徒待運。臣独無尺鉄之資、揺義兵隠嶮隘之中窺敵軍。肆逆徒専以我為根元之間、四海下法、万戸以贖。誠是命雖在天奈何身無措処。昼終日臥深山幽谷、石岩敷苔。夜通宵出荒村遠里跣足蹈霜。撫龍鬚消魂、践虎尾冷胸幾千万矣。遂運策於帷幄之中、亡敵於斧鉞之下。竜駕方還都、鳳暦永則天、恐非微臣之忠功、其為誰乎。而今戦功未立、罪責忽来。 |
宮は蜘蛛の巣が張ったような狭い一室に閉じ込められ、訪れる人もなく涙の中で寝起きする日々であった。「これは一体何という身の上か。動乱の初めには武士勢力に対抗すべく潜伏生活を送り、木陰や岩穴で露に濡れた袖を乾かせず苦労したが、都へ戻った今は一生分の楽しみも一日として味わえぬうちに讒言によって罪を得て、処刑される中で苦しむのだろう」と前世からの報いさえ考えざるを得なかった。「浮世の栄華は久しく続かない」という言葉があるが、それでも天皇陛下にも思い直して頂けるかと思っていたところ、「朝廷では既に遠流(辺地への島流し)と決まった」との知らせを聞き、悲嘆のあまり密かに心許せる女房を通じて詳しい手紙をしたためさせ「伝奏(上奏係)へ急いで取り次げるように」と命じた。その消息にはまず「勅勘(天皇の怒り)を受けた身でありながら無実であることを申し上げたく、涙が落ち心は暗く愁いは深まり言葉も短くなります。ただこの一言をもって万をお察しいただき慈悲を垂れて頂ければ生前の望み足れりとします」と記されていた。「そもそも承久以来武家が権力を握り朝廷が政治放棄して長い年月経ちました。臣はこれを見るに忍びず、僧侶としての戒律衣を脱ぎ捨て一瞬で怨敵を討つ甲冑へ変えました。内面では破戒への罪悪感に慄き、外見的には厚顔無恥と嘲笑されようとも陛下のために身も顧みず敵に対しては死をも恐れませんでした。当時忠臣孝子と呼ばれる者たちにも意欲なき者や運任せの者が多かった中で、臣一人武器さえ持たぬまま義兵を率い険しい山間に潜んで敵軍をうかがい続けました。逆賊どもが専ら私を禍根とみなしたため天下は乱れ万民代償に苦しんだのです。(この忠誠心は)天命によるとは言え身の置き場なく、昼は深山幽谷で岩苔の上に臥し夜は裸足で霜踏む荒村遠里を巡りました。竜鬚(危険)を撫で魂消える思いや虎尾を踏み胸凍る感覚幾度と味わいましたが遂には陣中の策謀により斧鉞(刑罰)のもと逆徒滅亡させ車駕(天皇)還都実現したのは臣の忠功あってこそです。それなのに戦功未だ報われぬうち罪責突然降りかかるとは」。 解説【護良親王の抗議状と歴史的意義】
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| 風聞其科条、一事非吾所犯、虚説所起惟悲不被尋究。仰而将訴天、日月不照不孝者、俯而将哭地、山川無載無礼臣。父子義絶、乾坤共棄。何愁如之乎。自今以後勲業為孰策。行蔵於世軽、綸宣儻被優死刑、永削竹園之名、速為桑門之客。君不見乎、申生死而晋国乱、扶蘇刑而秦世傾。浸潤之譖、膚受之愬、事起于小、禍皆逮大。乾臨何延古不鑒今。不堪懇歎之至、伏仰奏達。誠惶、誠恐謹言。三月五日護良前左大臣殿とぞ被遊ける。此御文、若達叡聞、宥免の御沙汰も有べかりしを、伝奏諸の憤を恐て、終に不奏聞ければ、上天隔听中心の訴へ不啓。此二三年宮に奉付副、致忠待賞御内の候人三十余人、潛に被誅之上は不及兎角申、遂に五月三日、宮を直義朝臣の方へ被渡ければ、以数百騎軍勢路次を警固し、鎌倉へ下し奉て、二階堂の谷に土篭を塗てぞ置進せける。南の御方と申ける上臈女房一人より外は、着副進する人もなく、月日の光も見へぬ闇室の内に向て、よこぎる雨に御袖濡し、岩の滴に御枕を干わびて、年の半を過し給ける御心の内こそ悲しけれ。君一旦の逆鱗に鎌倉へ下し進せられしかども是までの沙汰あれとは叡慮も不赴けるを、直義朝臣日来の宿意を以て、奉禁篭けるこそ浅猿けれ。孝子其父に雖有誠、継母其子を讒する時は傾国失家事古より其類多し。 |
その罪状の風聞について一言申し上げるならば、私が犯したものではない虚偽の訴えであることが悲しくも追及されない。天を見上げて訴えようにも太陽と月は不孝者を照らさず、地に伏して泣こうにも山川は無礼な臣を支えてくれぬ。父子の情義は断たれ天地に見捨てられた身となった。これ以上の悲しみがあろうか。今後も功績など誰のために立てればよいのか。世の中での行いは軽んじられ、もし死刑判決が下されれば永遠に皇族としての名を奪われ、速やかに僧籍に入れられることになろう。ご存知のように申生が死んで晋国は乱れ扶蘇が処刑されて秦王朝は滅んだ。少しずつ浸透する中傷と身近な者による訴えは小さく始まっても災いは必ず大きくなるのだ。天の御心よどうか古を鑑みて今を見極めてほしい。嘆き切れぬ思いでひれ伏して奏上いたします。畏れ多くも謹んで申し上げます。(文書末尾に)三月五日 護良前左大臣殿と記されていた。この手紙がもし天皇の耳に届いていれば赦免があったかもしれないのに、伝奏(上奏係)は周囲の怒りを恐れて結局奏上せず、天との通路も閉ざされて訴えは聞き入れられなかった。その後二三年宮にお仕えし忠誠を尽くした家臣三十余人が密かに殺害されると最早どうしようもなくなり、ついに五月三日に護良親王を直義(足利直義)の陣営へ引き渡したのである。数百騎の軍勢が沿道警護する中鎌倉へ送られ二階堂谷の土牢に閉じ込められた。「南の方」と呼ばれる上級女房一人以外は付き添う者もおらず、月明かりさえ届かぬ暗室の中で横殴りの雨で御衣を濡らし岩清水で枕を乾かすことしかできず半年以上過ごされた心中の悲しみはいかばかりであったろう。天皇が一時的な怒りで鎌倉送りにされてもこのような仕打ちがあるとは思っておられまい。直義朝臣は宿年の恨みから監禁したのだ浅ましい限りだ。孝子が父へ真心を尽くしても継母がその子を中傷すれば国滅び家亡ぶことは古来幾度もあったことではないか。 解説【冤罪抗弁と政治的寓意】
歴史的帰結の伏線:
文学的評価:
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| 昔異国に晋の献公と云人坐しけり。其后斉姜三人の子を生給ふ。嫡子を申生と云、次男を重耳、三男を夷吾とぞ申ける。三人の子已に長成て後、母の斉姜病に侵されて、忽に無墓成にけり。献公歎之不浅しかども、別の日数漸遠く成しかば、移れば替る心の花に、昔の契を忘て、驪姫と云ける美人をぞ被迎ける。此驪姫只紅顔翠黛迷眼のみに非ず、又巧言令色君の心を令悦しかば、献公寵愛甚して、別し人の化は夢にも不見成にけり。角て経年月程に、驪姫又子を生り。是を奚齊とぞ名付る。奚齊未幼といへ共、母の寵愛に依て、父のをぼへ三人の太子に超たりしかば、献公常に前の后斉姜の子三人を捨て、今の驪姫が腹の子奚齊に、晋の国を譲んと思へり。驪姫心には嬉く乍思、上に偽て申けるは、「奚齊未だ幼くして不弁善悪を、賢愚更に不見前に、太子三人を超て、継此国事、是天下の人の可悪処。」と、時々に諌め申ければ、献公弥驪姫が心に無私、世の譏を恥、国の安からん事を思へる処を感じて、只万事を被任之しかば、其威倍々重く成て天下皆是に帰伏せり。或時嫡子の申生、母の追孝の為に、三牲の備を調へて、斉姜の死して埋れし曲沃の墳墓をぞ被祭ける。其胙の余を、父の献公の方へ奉給ふ。献公折節狩場に出給ひければ、此ひもろぎを裹で置たるに、驪姫潛に鴆と云恐毒を被入たり。 |
昔、晋という国に献公という人物がいた。彼の后である斉姜は三人の子(申生・重耳・夷吾)をもうけた。しかし斉姜は病を得て急逝してしまう。献公は深く悲しんだものの時が経つにつれ、人の心は変わりやすいもので昔の情愛を忘れて驪姫という美人をお迎えした。この驪姫は容姿端麗なだけでなく巧みな言葉で王の心を喜ばせたため献公の寵愛は極まり他の女性への関心は全くなくなった。やがて驪姫も子(奚斉)を産むと、幼いながら母の寵愛ゆえに父の目には先の三人の王子より勝って見えたので、献公は前妻の息子たちを退け驪姫の子に国を継がせたいと思うようになった。内心喜びつつも驪姫は偽って「奚斉は未だ幼く善悪を見分けられません」と諌めると、献公は彼女の私心なき態度に感銘し全てを任せるうちにその権威は増大した。ある時申生が母・斉姜追悼のために祭壇を整え曲沃の墓で供養を行い、残った供物を父王へ献上した。たまたま狩りに出ていた献公のもとに届けられた供物に、驪姫は密かに鴆(チン)と呼ばれる猛毒を仕込んでおいた。 解説【歴史的背景と文学的構成】
前文との連関性:
史実的意義:
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| 献公狩場より帰て、軈此ひもろぎを食んとし給ひけるを、驪姫申されけるは、「外より贈れる物をば、先づ人に食せて後に、大人には進らする事ぞ。」とて御前なりける人に食られたるに、其人忽に血を吐て死にけり。こは何かなる事ぞとて、庭前なる鶏・犬に食せて見給へば、鶏・犬共に斃て死ぬ。献公大に驚て其余を土に捨給へば、捨たる処の土穿て、あたりの草木皆枯萎む。驪姫偽て泪を流し申けるは、「吾太子申生を思ふ事奚齊に不劣。されば奚齊を太子に立んとし給しをも、我こそ諌申て止つるに、さればよ此毒を以て、我と父とを殺して、早晋の国を捕んと被巧けるこそうたてけれ。是を以て思ふに、献公何にも成給なん後は、申生よも我と奚齊とをば、一日片時も生て置給はじ。願は君我を捨、奚齊を失て、申生の御心を休給へ。」と泣々献公にぞ申されける。献公元来智浅して讒を信ずる人なりければ、大に忿て太子申生を可討由、典獄の官に被仰付。諸群臣皆、申生の無罪して死に赴んずる事を悲て、「急他国へ落させ給ふべし。」とぞ告たりける。申生是を聞給て、「我少年の昔は母を失て、長年の今継母に逢へり。是不幸の上に妖命備れり。抑天地間何の所にか父子のなき国あらん、今為遁其死他国へ行て、是こそ父を殺んとて鴆毒を与へたりし大逆不幸の者よと、見る人ごとに悪れて、生ては何の顔かあらん。 |
献公が狩猟場から帰り、すぐにその供物を食べようとしたところ、驪姫が申し上げた。「外部から贈られたものはまず人に試食させてから、主君にお召し上がりいただくものです」と。御前の者に食べさせると、その者は突然血を吐いて死んだ。「これは何事か」と言い庭先の鶏や犬にも与えてみたところ、共に倒れて死んだ。献公は大いに驚き残りを地面に捨てると、捨てられた場所が陥没し周囲の草木は全て枯れた。驪姫は偽って涙を流して言った。「私は太子申生のことを奚斉と同じく思っています。それなのに主君が奚斉を太子になさろうとした時も、私こそ諌めて止めたのです。そんな中でこの毒を使って父と私を殺し早く晋国を奪おうとするとは許せません。これから考えるに献公様が何かあられた後は申生が私や奚斉を一日たりとも生かしておかないでしょう。どうか私を見捨て、奚斉を失っても申生の心を鎮めてください」と泣きながら訴えた。もともと知恵浅く讒言を信じやすい献公は激怒し典獄の役人に命じて太子申生を討たせようとした。家臣たち皆が申生が無実で死ぬことを悲しみ「急いで外国へお逃げください」と告げると、申生はこれを聞いて言った。「私は幼くして母を失い長じた今も継母に阻まれた。この不幸の上に不運まで重なったのだが、天地の間に父子関係のない国などあろうか?死を逃れるため外国へ行けば『父殺しのために毒を与えた大逆者』と誰からも憎まれ生きていても顔向けできまい」 解説【史実的展開と心理描写】
前文との連関性:護良親王書状(初回)→申生毒殺未遂(前翻訳)の延長線上で、史話引用による諫止構造が明示化。特に家臣「他国落去」勧告と申生拒絶は『太平記』巻十六の護良親王逃亡シーンとの類似性顕著。 文学的意義:
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| 我不誤処をば天知之。只虚名の下に死を賜て、父の忿を休んには不如。」とて、討手の未来前に自剣に貫て、遂に空成にけり。其弟重耳・夷吾此事を聞て、驪姫が讒の又我身の上に成ん事を恐て、二人共に他国へぞ逃給ける。角て奚齊に晋国を譲得たりけるが、天命に背しかば、無幾程献公・奚齊父子共に、其臣里剋と云ける者に討れて、晋の国忽に滅びけり。抑今兵革一時に定て、廃帝重祚を践せ給ふ御事、偏に此宮の依武功に事なれば、縦雖有小過誡而可被宥かりしを、無是非被渡敵人手、被処遠流事は、朝廷再傾て武家又可蔓延瑞相にやと、人々申合けるが、果して大塔宮被失させ給し後、忽に天下皆将軍の代と成てけり。牝鶏晨するは家の尽る相なりと、古賢の云し言の末、げにもと被思知たり。 |
「私に非がないことは天が知っている。ただ虚名のもとに死を賜り、父の怒りを鎮めるのが最善だ」と言い、討手が来る前に自ら剣で胸を突いて果てた。弟の重耳と夷吾はこのことを聞き、驪姫の讒言が次に自分たちに向かうのを恐れ二人とも他国へ逃亡した。こうして奚斉が晋国を受け継いだが天命に背いたため、間もなく献公・奚斉父子共に家臣の里克という者に討たれ、晋国は忽ち滅亡した。そもそも今(当時)、戦乱を一時的に収め廃帝(後醍醐天皇)が重祚されたのは、この宮(大塔宮護良親王)が武功によるものであったのだから、仮に小過があっても戒めた上で許すべきであったのに、是非もわきまえず敵の手に渡し遠流させたことは朝廷再び傾き武家勢力拡大の兆候ではと人々が語り合った。果たして大塔宮(護良親王)を失って後、天下は忽ち将軍(足利尊氏)の世となった。「牝鶏が時をつくるのは家(国)滅亡の前兆」という古人の言葉の真実を痛感したのである。 解説【史話完結と歴史教訓】
前文との連関性:護良親王書状(初回翻訳)における「申生死而晋国乱」引用が、ここで完結史話→現実政治批判へ昇華。特に「大塔宮被失させ給し後忽天下将軍代成てけり」は『太平記』巻十九の南北朝分裂描写と直接対応。 思想的意義:
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| input text 太平記\013_太平記_巻13.txt | 現代日本語 translated text | ||||||||||||||||||||||||
| 太平記 太平記巻第十三 ○龍馬進奏事 鳳闕の西二条高倉に、馬場殿とて、俄に離宮を被立たり。天子常に幸成て、歌舞・蹴鞠の隙には、弓馬の達者を被召、競馬を番はせ、笠懸を射させ、御遊の興をぞ被添ける。其比佐々木塩冶判官高貞が許より、竜馬也とて月毛なる馬の三寸計なるを引進す。其相形げにも尋常の馬に異也。骨挙り筋太くして脂肉短し。頚は鶏の如にして、須弥の髪膝を過ぎ、背は竜の如にして、四十二の辻毛を巻て背筋に連れり。両の耳は竹を剥で直に天を指し、双の眼は鈴を懸て、地に向ふ如し。今朝の卯刻に出雲の富田を立て、酉剋の始に京著す。其道已に七十六里、鞍の上閑にして、徒に坐せるが如し。然共、旋風面を撲に不堪とぞ奏しける。則左馬寮に被預、朝には禁池に水飼、夕には花廏に秣飼。其比天下一の馬乗と聞へし本間孫四郎を被召て被乗、半漢雕梁甚不尋常。四蹄を縮むれば双六盤の上にも立ち、一鞭を当つれば十丈の堀をも越つべし。誠に天馬に非ずば斯る駿足は難有とて、叡慮更に類無りけり。或時主上馬場殿に幸成て、又此馬を叡覧有けるに、諸卿皆左右に候す。時に主上洞院の相国に向て被仰けるは、「古へ、屈産の乗、項羽が騅、一日に千里を翔る馬有といへども、我朝に天馬の来る事を未だ聞ず。 |
皇居の西にある二条高倉に、「馬場殿」と呼ばれる離宮が突然建てられた。天皇は頻繁に行幸され、歌舞や蹴鞠の合間には弓術・馬術の名人を召し出して競馬を行わせたり笠懸(騎射競技)を射させたりと、御遊興に趣向を加えられていた。その頃佐々木塩冶判官高貞のもとから「竜馬である」という月毛(灰色がかった白)の小さな馬が献上された。この馬は見た目も尋常とは異なり、骨格がしっかりして筋肉質で脂身が少ない。首筋は鶏のように細くて鬣(たてがみ)が膝まで届き、背中は龍のように盛り上がって四十二の螺旋状の毛渦を連ねていた。両耳は竹割りのように真っ直ぐ天を指し、双眼は鈴をつるしたようで地面を見据えているかの様子だった。ある朝卯刻(午前6時頃)に出雲国富田を出発すると酉剋の始め(午後5時過ぎ)に京都へ到着。その道程76里にもかかわらず馬鞍の上は平穏で、乗り手がただ座っているだけのような状態だったという。しかし旋風すら顔面を打つことも耐えられぬと奏上されたため、すぐさま左馬寮(皇宮の厩舎)に預けられ、朝には禁苑の池水を与えられ、夕べには華やかな厩で飼料が与えられた。当時天下一と言われた騎手の本間孫四郎を召し出して乗せてみると、その技量は驚異的であった——蹄を縮めれば双六盤上に立つほど小回りが利き、一鞭入れれば十丈(約30m)の堀も飛び越えそうだった。天皇は「天馬でなければこんな駿足はありえない」と類例なきお褒め言葉を賜った。ある時主上(後醍醐天皇)が馬場殿に行幸され再びこの馬をご覧になった際、公卿たちが左右に控えている中、洞院相国(西園寺公賢)に向かってこう仰せられた。「古くは屈産の名馬や項羽の愛馬騅のように一日千里を駆けるという話があるが、我が朝で天馬到来など聞いたことがない。」 解説【史実的描写と象徴性】
文学的技法:
前文との連関性:申生事件→晋滅亡教訓に続き、本段は「名材軽視による国家衰亡」主題を具現化。「天下一の騎手」(人材)と「竜馬」(宝物)が共に天皇側近(護良親王比定)隠喩となり、「驪姫讒言で申生失い晋滅ぶ」「大塔宮遠流後武家世となる」構造を鏡像化。最終文「古へ...未聞」は前段解説の儒家思想引用と連環し、歴史教訓性強化。
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| 然に朕が代に当て此馬不求出来る。吉凶如何。」と御尋ありけるに、相国被申けるは、「是聖明の徳に不因ば、天豈此嘉瑞を降候はんや。虞舜の代には鳳凰来、孔子の時は麒麟出といへり。就中天馬の聖代に来る事第一の嘉祥也。其故は昔周の穆王の時、驥・■・驪・■・■・■・■・駟とて八疋の天馬来れり。穆王是に乗て、四荒八極不至云所無りけり。或時西天十万里の山川を一時に越て、中天竺の舎衛国に至り給ふ。時に釈尊霊鷲山にして法華を説給ふ。穆王馬より下て会座に臨で、則仏を礼し奉て、退て一面に坐し給へり。如来問て宣く、「汝は何の国の人ぞ。」穆王答曰、「吾は是震旦国の王也。」仏重て宣く、「善哉今来此会場。我有治国法、汝欲受持否。」穆王曰、「願は信受奉行して理民安国の施功徳。」爾時、仏以漢語、四要品の中の八句の偈を穆王に授給ふ。今の法華の中の経律の法門有と云ふ深秘の文是也。穆王震旦に帰て後深心底に秘して世に不被伝。此時慈童と云ける童子を、穆王寵愛し給ふに依て、恒に帝の傍に侍けり。或時彼慈童君の空位を過けるが、誤て帝の御枕の上をぞ越ける。群臣議して曰、「其例を考るに罪科非浅に。雖然事誤より出たれば、死罪一等を宥て遠流に可被処。」とぞ奏しける。群議止事を不得して、慈童を■県と云深山へぞ被流ける。 |
「しかし私の治世において、求めもしないのにこの馬が現れた。これは吉か凶か。」と天皇がお尋ねになると、相国(西園寺公賢)は申し上げた。「これこそ聖明なる陛下のお徳によるものでなければ、天がどうしてこんなめでたい兆候を授けましょうか。虞舜の時代には鳳凰が現れ、孔子の時には麒麟が出ましたと言われています。中でも天馬が聖代に到来することは第一級の吉兆です。」 解説【政治神話の構築構造】
前文との対照的展開:
宗教的寓意:
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| 彼■県と云所は帝城を去事三百里、山深して鳥だにも不鳴、雲暝して虎狼充満せり。されば仮にも此山へ入人の、生て帰ると云事なし。穆王猶慈童を哀み思召ければ、彼八句の内を分たれて、普門品にある二句の偈を、潛に慈童に授させ給て、「毎朝に十方を一礼して、此文を可唱。」と被仰ける。慈童遂に■県に被流、深山幽谷の底に被棄けり。爰に慈童君の恩命に任て、毎朝に一反此文を唱けるが、若忘もやせんずらんと思ければ、側なる菊の下葉に此文を書付けり。其より此菊の葉にをける下露、僅に落て流るゝ谷の水に滴りけるが、其水皆天の霊薬と成る。慈童渇に臨で是を飲に、水の味天の甘露の如にして、恰百味の珍に勝れり。加之天人花を捧て来り、鬼神手を束て奉仕しける間、敢て虎狼悪獣の恐無して、却て換骨羽化の仙人と成る。是のみならず、此谷の流の末を汲で飲ける民三百余家、皆病即消滅して不老不死の上寿を保てり。其後時代推移て、八百余年まで慈童猶少年の貌有て、更に衰老の姿なし。魏の文帝の時、彭祖と名を替て、此術を文帝に授奉る。文帝是を受て菊花の盃を伝へて、万年の寿を被成。今の重陽の宴是也。其より後、皇太子位を天に受させ給ふ時、必先此文を受持し給ふ。依之普門品を当途王経とは申なるべし。 |
その○県という場所は都から三百里離れ、山深くて鳥さえ鳴かず、暗い雲の中に虎や狼が満ちていた。だから仮にこの山に入った者で生きて帰った者はない。穆王(ぼくおう)はなおも慈童を哀れに思い、「八句の偈」から分けて普門品にある二句の詩文を密かに授け、「毎朝十方に向かって一礼し、この経文を唱えよ」と命じた。 慈童が○県へ流され深山の谷底に捨てられた後、彼は命令通り毎朝一度この経文を唱えた。「もし忘れたら大変だ」と思い、そばの菊の葉裏にその文字を書き記した。するとこの菊の葉についた露が落ちて流れる谷水に混ざると、全て天界の霊薬へと変わった。慈童が渇きでこれを飲むと甘露のように甘く、あらゆる珍味より勝っていた。 さらに天人(神々)は花を捧げ、鬼神は慎んで仕えたため虎狼も恐れず、仙人となって骨を換え羽を得た。この谷の水を汲んだ三百戸余りの民衆も病が消え不老不死の長寿を保った。八百年後も慈童は少年の容姿で老いを見せなかった。魏(ぎ)の文帝時代に彭祖と名乗り、その術を伝授すると文帝は菊花杯を用いた宴「重陽節」を作り万年の寿命を得た。 その後皇太子が位を受ける際には必ずこの経文を受け継ぐようになった。ゆえに普門品こそ王道(政治)を行う者の経典と呼ばれる所以である。 解説【神話的構造と政治的寓意】
前文との対照分析:
宗教史的意義:
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| 此文我朝に伝はり、代々の聖主御即位の日必ず是を受持し給ふ。若幼主の君践祚ある時は、摂政先是を受て、御治世の始に必君に授奉る。此八句の偈の文、三国伝来して、理世安民の治略、除災与楽の要術と成る。是偏に穆王天馬の徳也。されば此龍馬の来れる事、併仏法・王法の繁昌宝祚長久の奇瑞に候べし。」と被申たりければ、主上を始進せて、当座の諸卿悉心に服し旨を承て、賀し申さぬ人は無りけり。暫有て万里小路の中納言藤房卿被参。座定まて後、主上又藤房卿に向て、「天馬の遠より来れる事、吉凶の間、諸臣の勘例、已に皆先畢ぬ。藤房は如何思へるぞ。」と勅問有ければ、藤房卿被申けるは、「天馬の本朝に来れる事、古今未だ其例を承候はねば、善悪・吉凶勘へ申難しといへども退て愚案を回すに、是不可有吉事に。其故は昔漢の文帝の時、一日に千里を行馬を献ずる者あり。公卿・大臣皆相見て是を賀す。文帝笑て曰、「吾吉に行日は三十里凶に行日は十里、鸞輿在前、属車在後、吾独乗千里駿馬将安之乎。」とて乃償其道費而遂被返之。又後漢の光武時、千里の馬と宝剣とを献ずる者あり。光武是を珍とせずして、馬をば鼓車に駕し、剣をば騎士に賜ふ。又周の代已に衰なんとせし時、房星降て八匹の馬と成れり。 |
この経文(八句の偈)がわが国へ伝わり、歴代の天皇は即位の日に必ずこれを受け継ぎます。もし幼い君主が践祚される時には摂政がまず受け取り、治世開始時に確かに授け奉ります。この八句の経文は三国(インド・中国など)から伝承され、国家安泰と民心安定の方策、災害除去と幸福授与の要術となりました。これは全て穆王が天馬を得た徳によるものです。したがって龍馬到来は仏法と政治の繁栄、皇室長久の吉兆である。」と奏上されたところ、天皇を始めその場の公卿たちも心から同意し祝賀しない者はありませんでした。 間もなく万里小路の中納言藤房卿(までのこうじ ちゅうなごんふじさき)が参内。座席に着いて後、主上は再び藤房卿に向かい「天馬の遠来について諸臣の見解は出揃った。お前はどう思うか」と下問されました。藤房卿が答えて申しました。「本朝への天馬到来は古今未聞で吉凶判断困難ですが、退いて愚考するにこれは良からぬことです。理由として昔漢の文帝時代、一日千里を走る馬を献じる者がおり公卿大臣全員祝賀しましたが、文帝は笑い『私は吉事には一日三十里、凶事には十里行く。御車列従う中独りで駿馬に乗れまい』と言い費用返却後送り返させました。また後漢の光武帝時には千里馬と宝剣が献上されましたが光武は珍重せず、馬を儀式用鼓車(こぐるま)へ使い剣は騎士へ与えました。さらに周代衰退期には房星降臨し八匹の馬となりました。」 解説【政治的寓意と批判的視座】
前段との思想的対立:
歴史的意義:
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| 穆王是を愛して造父をして御たらしめて、四荒八極の外瑶池に遊び碧台に宴し給ひしかば、七廟の祭年を逐て衰へ、明堂の礼日に随て廃れしかば、周の宝祚傾けり。文帝・光武の代には是を棄て福祚久く栄へ、周穆の時には是を愛して王業始て衰ふ。拾捨の間、一凶一吉的然として在耳。臣愚窃に是を案ずるに、「由来尤物是非天、只蕩君心則為害。」といへり。去ば今政道正からざるに依て、房星の精、化して此馬と成て、人の心を蕩かさんとする者也。其故は大乱の後民弊へ人苦で、天下未安れば、執政吐哺を、人の愁を聞、諌臣上表を、主の誤を可正時なるに、百辟は楽に婬して世の治否を不見、群臣は旨に阿て国の安危を不申。依之記録所・決断所に群集せし訴人日々に減じて訴陳徒に閣けり。諸卿是を見て、虞■の訴止て諌鼓撃人なし。無為の徳天下に及で、民皆堂々の化に誇れりと思へり。悲乎其迷へる事。元弘大乱の始、天下の士卒挙て官軍に属せし事更に無他。只一戦の利を以て勲功の賞に預らんと思へる故也。されば世静謐の後、忠を立賞を望む輩、幾千万と云数を知ず。然共公家被官の外は、未恩賞を給たる者あらざるに、申状を捨て訟を止たるは、忠功の不立を恨み、政道の不正を褊して、皆己が本国に帰る者也。 |
穆王(ぼくおう)はこれを寵愛し造父(ぞうほ)に御車を操らせて四方の果てまで遊び回り、瑶池や碧台で宴を催したため、先祖祭祀が年ごとに衰退し朝廷儀礼も日々廃れていった。その結果周王朝は滅亡寸前に傾いた。一方文帝・光武帝時代にはこれを拒否して国運長く栄えていたのに比べると、穆王の寵愛こそ衰亡原因である。この選択差が吉凶を明確に分けたのだ。臣下として思うに、「珍品とは元々天災ではないが君主心を乱せば害となる」という諺通りだ。 今や政治が混乱しているため房星(ほうせい)の精霊が化け馬となり人心惑わそうとしている。大乱後の民疲弊で天下不安定な時こそ、政治家は食事も忘れて民苦を聞き諌臣は上奏すべきだ。しかし百官は享楽に溺れ政情を見ず、群臣はおべっかばかりで国難を論じない。そのため訴訟機関への訴え人が減り記録所の書類が積む一方なのに、公卿たちは「訴訟止み諌鼓(かんこ)も鳴らず無為政治完成」と錯覚しているのは嘆かわしい。 そもそも元弘の乱当初、兵士全員官軍に加担した理由は戦功で恩賞を得たいからだ。世平穏後にも勲功主張者が多数いるのに公家側近以外には未交付状態である。訴状を捨て帰郷する者たちは皆、忠義不認と政治不正への憤慨が動機なのだ。 解説【歴史批判の核心構造】
前段との思想的発展:
文学史的意義:
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| 諌臣是に驚て、雍歯が功を先として、諸卒の恨を散ずべきに、先大内裏造営可有とて、諸国の地頭に二十分一の得分を割分て被召れば、兵革の弊の上に此功課を悲めり。又国々には守護威を失ひ国司権を重くす。依之非職凡卑の目代等、貞応以後の新立の庄園を没倒して、在庁官人・検非違使・健児所等過分の勢ひを高せり。加之諸国の御家人の称号は、頼朝卿の時より有て已に年久しき武名なるを、此御代に始て其号を被止ぬれば、大名・高家いつしか凡民の類に同じ。其憤幾千万とか知らん。次には天運図に膺て朝敵自亡ぬといへども、今度天下を定て、君の宸襟を休め奉たる者は、高氏・義貞・正成・円心・長年なり。彼等が忠を取て漢の功臣に比せば、韓信・彭越・張良・蕭何・曹参也。又唐の賢佐に譬ば、魏徴・玄齢・世南・如晦・李勣なるべし。其志節に当り義に向て忠を立所、何れをか前とし何れをか後とせん。其賞皆均其爵是同かるべき処に、円心一人僅に本領一所の安堵を全して、守護恩補の国を被召返事、其咎そも何事ぞや。「賞中其功則有忠之者進、罰当其罪則有咎之者退。」と云へり。痛哉今の政道、只抽賞の功に不当譏のみに非ず。兼ては綸言の掌を翻す憚あり。今若武家の棟梁と成ぬべき器用の仁出来て、朝家を褊し申事あらば、恨を含み政道を猜む天下の士、糧を荷て招ざるに集らん事不可有疑。 |
忠告する家臣たちはこれを見て驚いた。「雍歯(ようし)の功績を優先させ兵士達の恨みを解消すべきだ」と言うのに、まず大内裏造営が決まり諸国の地頭から二十分の一の税収を取り立てたため戦乱疲弊の上に重税で苦しんだ。また各国では守護が威厳を失い国司の権限が強まった。その結果無能な目代(地方代理官)らが貞応期以降に設立された荘園を横領し、在庁官人・検非違使・健児所などが過剰な勢力を持った。 加えて諸国の御家人称号は頼朝公以来の由緒ある武門名だったのにこの治世で廃止され大名や高家も庶民同然となった。その怒りは計り知れない。次に運命図が成就し敵は自滅したと言っても、天下を平定して天皇陛下を安堵させたのは高氏・義貞・正成・円心・長年である。彼らの忠義を漢の功臣(韓信・彭越・張良・蕭何・曹参)や唐の賢臣(魏徴・房玄齢・虞世南・杜如晦・李勣)に比べれば、功績順位など付けられないはずだ。それなのに円心だけが本領安堵のみで守護職を剥奪されたのは不当極まりない。「賞罰公正なら忠臣は進み悪者は退く」という道理がある。痛ましいことに今の政治は恩賞不適切だけでなく勅命軽視も甚だしい。もし武家棟梁となる器量者が現れ朝廷を批判すれば、恨みを抱いた者たちが集結するのは疑いない。 解説【建武新政権への総合批判】
革命的警告の含意:
後世の受容:
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| 抑天馬の用所を案ずるに、徳の流行する事は郵を置て命を伝るよりも早ければ、此馬必しも不足用。只大逆不慮に出来る日、急を遠国に告る時、聊用に得あらんか。是静謐の朝に出で、兼て大乱の備を設く。豈不吉の表事に候はずや。只奇物の翫を止て、仁政の化を致れんには不如。」と、誠を至し言を不残被申しに、竜顔少し逆鱗の気色有て、諸臣皆色を変じければ、旨酒高会も無興して、其日の御遊はさて止にけりとぞ聞へし。 ○藤房卿遁世事 其後藤房卿連続して諌言を上りけれども、君遂に御許容無りしかば、大内裏造営の事をも不被止、蘭籍桂筵の御遊猶頻なりければ、藤房是を諌兼て、「臣たる道我に於て至せり。よしや今は身を退には不如。」と、思定てぞ坐しける。三月十一日は、八幡の行幸にて、諸卿皆路次の行装を事とし給けり。藤房も時の大理にて坐する上、今は是を限の供奉と被思ければ、御供の官人、悉目を驚す程に出立れたり。看督長十六人、冠の老懸に、袖単白くしたる薄紅の袍に白袴を著し、いちひはばきに乱れ緒をはいて列をひく。次に走り下部八人、細烏帽子に上下、一色の家の紋の水干著て、二行に歩つゞきたり。其後大理は、巻纓の老懸に、赤裏の表の袴、靴の沓はいて、蒔絵の平鞘太刀を佩、あまの面の羽付たる平胡■の箙を負、甲斐の大黒とて、五尺三寸有ける名馬の太く逞に、いかけ地の鞍置て、水色の厚総の鞦に、唐糸の手縄ゆるらかに結でかけ、鞍の上閑に乗うけて、町に三処手縄入させ小路に余て歩せ出たれば、馬副四人、か千冠に猪の皮の尻鞘の太刀佩て、左右にそひ、かい副の侍二人をば、烏帽子に花田のうち絹を重て、袖単を出したる水干著たる舎人の雑色四人、次に白張に香の衣重たる童一人、次に細烏帽子に袖単白して、海松色の水干著たる調度懸六人、次に細烏帽子に香の水干著たる舎人八人、其次に直垂著の雑人等百余人、警蹕の声高らかに、傍を払て被供奉たり。 |
そもそも天馬の用途を考えると、徳が広まる速さは駅伝制度よりも早いためこの馬は不要である。ただ謀反など不測の事態が起きた時、遠国へ急報するのに多少役立つかもしれない。これは平穏な世に現れ乱れへの備えとなるのだから吉兆と言えるだろう。だが珍奇な物で遊ぶことを止め仁政を行う方が良い。」と藤房卿は誠意を込めて残らず述べたが、帝の表情には怒りの色があり臣下も青ざめたため酒宴は興醒めしその日の催しは中止されたという。 ○藤原藤房卿遁世のこと 解説【諫言拒絶と遁世決意の構造】
前段との連続性:
後代への影響:
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| 伏拝に馬を留て、男山を登給ふにも、栄行時も有こし物也と、明日は被謂ぬべき身の程も哀に、石清水を見給にも、可澄末の久しさを、君が御影に寄て祝し、其言葉の引替て、今よりは心の垢を雪、憂世の耳を可洗便りに成ぬと思給ひ、大菩薩の御前にして、潛に自受法楽の法施を献ても、道心堅固速証菩提と祈給へば、和光同塵の月明かに心の闇をや照すらんと、神慮も暗に被量たり。御神拝一日有て還幸事散じければ、藤房致仕の為に被参内、竜顔に近付進せん事、今ならでは何事にかと被思ければ、其事となく御前に祗候して、竜逢・比干が諌に死せし恨、伯夷・叔斉が潔きを蹈にし跡、終夜申出て、未明に退出し給へば、大内山の月影も涙に陰りて幽なり。陣頭より車をば宿所へ返し遣し、侍一人召具して、北山の岩蔵と云所へ趣かれける。此にて不二房と云僧を戒師に請じて、遂に多年拝趨の儒冠を解で、十戒持律の法体に成給けり。家貧く年老ぬる人だにも、難離難捨恩愛の旧き栖也。況乎官禄共に卑からで、齢未四十に不足人の、妻子を離れ父母を捨て、山川抖薮の身と成りしは、ためしすくなき発心也。此事叡聞に達しければ、君無限驚き思召て、「其在所を急ぎ尋出し、再び政道輔佐の臣と可成。」と、父宣房卿に被仰下ければ、宣房卿泣々車を飛して、岩蔵へ尋行給けるに、中納言入道は、其朝まで岩蔵の坊にをはしけるが、是も尚都近き傍りなれば、浮世の人の事問ひかはす事もこそあれと厭はしくて、何地と云方もなく足に信て出給ひけり。 |
馬を伏拝で止めて男山へ登られる途中、栄華も過ぎ去ったものだと明日には他人に言われる身分が哀れに思われた。石清水を見ても澄んだ水の永遠さと対比しつつ「君のお姿にかけてお祈り申す」という言葉を反転させ、「今こそ心の穢れを清め、憂き世への執着から離れる契機となろう」と覚悟され、大菩薩の御前で密かに自受法楽(じじゅほうらく=真言宗修行)の祈りを捧げ「道心堅固に速やかに菩提を得させたまえ」と願う。その姿は俗世と調和する月明かりのように心の闇を照らしているようで、神慮もひそかに推し量られたという。 一日かけての行幸が終わると藤房は辞職のために参内した。「これまで以上に帝の側近くへ進むことは今後あるまい」と思われ、特に用件なく御前に伺候しては、竜逢(りゅうほう)と比干(ひかん)(諫言で死んだ忠臣)の無念さや伯夷・叔斉(ぎせい=世俗を嫌った高士)の清らかな足跡について終夜語り明かし、未明に退出された。大内山の月影も涙に曇って幽かに見えたという。車は宿所へ返させ侍一人だけ連れ、北山の岩蔵(いわくら)と言う場所へ向かわれた。ここで不二房(ふじぼう)と称する僧を戒師として迎え遂に長年身につけた儒冠を脱ぎ捨て十戒を持つ律法体(出家姿)となられたのである。 貧しく老いた者ですら愛着深い住まいに未練があるのに、官位も俸禄も高く四十歳にも満たぬ者が妻子を離れ父母を捨て山川に隠れる身となるのは稀な決意であった。この事が帝の耳に入ると天皇は大変驚かれ「急ぎ居場所を探し出して再び政道補佐させよ」と父・宣房卿(のぶふさきょう)へ下命された。宣房卿は泣く泣く車を飛ばして岩蔵へ向かわれたが、藤房(中納言入道となっていた)はその朝まで居たものの「都に近いと俗世の人とかかわるのもあろう」と嫌気が差し行方も定めず足の赴くままに出てしまわれていた。 解説【遁世決行の精神史】
前段との連続的展開:
後世文学への影響:
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| 宣房卿彼坊に行給て、「左様の人やある。」と被尋ければ、主の僧、「さる人は今朝まで是に御坐候つるが、行脚の御志候とて、何地へやらん御出候つる也。」とぞ答へける。宣房卿悲歎の泪を掩て其住捨たる菴室を見給へば、誰れ見よとてか書置ける、破たる障子の上に、一首の歌を被残たり。住捨る山を浮世の人とはゞ嵐や庭の松にこたへん棄恩入無為、真実報恩者と云文の下に、白頭望断万重山。曠劫恩波尽底乾。不是胸中蔵五逆。出家端的報親難。と、黄蘗の大義渡を題せし古き頌を被書たり。さてこそ此人設ひ何くの山にありとも、命の中の再会は叶ふまじかりけるよと、宣房卿恋慕の泪に咽んで、空く帰り給ひけり。抑彼宣房卿と申は、吉田大弐資経の孫、藤三位資通の子也。此人閑官の昔、五部の大乗経を一字三礼に書供養して、子孫の繁昌を祈らん為に、春日の社にぞ被奉納ける。其夜の夢想に、黄衣著たる神人、榊の枝に立文を著て、宣房卿の前に差置たり。何なる文やらんと怪て、急是を披て見給へば、上書に万里小路一位殿へと書て、中には、速証無上大菩提と、金字にぞ書たりける。夢覚て後静に是を案ずるに、我朝廷に仕へて、位一品に至らんずる条無疑。中に見へつる金字の文は、我則此作善を以て、後生善処の望を可達者也と、二世の悉地共に成就したる心地して、憑もしく思給けるが、果して元弘の末に、父祖代々絶て久き従一位に成給けり。 |
宣房卿がその庵に行かれて、「そういう人はいらっしゃいますか」とお尋ねになると、主の僧は「その方は今朝までこちらにおられましたが、行脚をお志しあってどこへやら出て行かれました」と答えた。宣房卿は悲嘆の涙をぬぐいながら捨てられた庵を見れば、「誰に見せようとして書いたのか」と、破れた障子の上に一首の歌が残されていた。「住み捨てる山を浮世の人とはば(知られまいと思っても)嵐よ庭の松に答えろか。恩を棄て無為に入ろう」。さらに「真実報恩者」との文の下には、「白頭望断万重山 曠劫恩波尽底乾 不是胸中蔵五逆 出家端的報親難(老いてなお幾重もの山を見渡し、永劫の親恩は枯れ果てた。心中に背く思いがあるわけではなく、出家こそがまさしく親への報いを困難とする)」とあり、黄檗宗の大義に関する古い頌文が書かれていた。「これではこの人がどこの山におろうとも命あるうちの再会は叶うまい」と宣房卿は恋慕の涙にむせびながら空しく帰って行かれた。 そもそもその宣房卿という人は、吉田大弐資経の孫で藤三位資通の子である。この人が閑職だった昔、五部の大乗経典を一字ごとに三礼して書写供養し、子孫繁栄を祈るため春日神社に奉納したことがあった。その夜の夢に見たのは黄衣を着た神人で、榊の枝に文をつけて宣房卿の前に置いていった。「何という文だろう」と怪しんで急いで開いて見ると、「万里小路一位殿へ」との表書きがあり中には「速証無上大菩提(早く至高の悟りを得よ)」と金字で書かれていた。夢から覚めた後静かに考えてみると「私が朝廷に仕えて従一位になることは間違いないだろう。中の金文字はこの善行によって来世での幸福も約束されるのだ」と二世の成就を確信し頼もしく思われたが、果たして元弘末年(鎌倉末期)には父祖代々絶えていた従一位に昇られたのである。 解説【遺された詩歌の核心的意味】
【宣房卿逸話の歴史的意義】
【前段との連続性と作品構造】
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| 中に見へし金字の文は、子息藤房卿出家得道し給べき、其善縁有と被示ける明神の御告なるべし。誠に百年の栄耀は風前の塵、一念の発心は命後の灯也。一子出家すれば、七世の父母皆仏道を成すと、如来の所説明なれば、此人一人の発心に依て、七世の父母諸共に、成仏得道せん事、歎の中の悦なるべければ、是を誠に第一の利生預りたる人よと、智ある人は聞て感歎せり。 ○北山殿謀叛事 故相摸入道の舎弟、四郎左近大夫入道は、元弘の鎌倉合戦の時、自害したる真似をして、潛に鎌倉を落て、暫は奥州に在けるが、人に見知れじが為に、還俗して京都に上、西園寺殿を憑奉て、田舎侍の始て召仕はるゝ体にてぞ居たりける。是も承久の合戦の時、西園寺の太政大臣公経公、関東へ内通の旨有しに依て、義時其日の合戦に利を得たりし間、子孫七代迄、西園寺殿を可憑申と云置たりしかば、今に至迄武家異他思を成せり。依之代々の立后も、多は此家より出て、国々の拝任も半は其族にあり。然れば官太政大臣に至り、位一品の極位を不極と云事なし。偏に是関東贔屓の厚恩也と被思けるにや、如何にもして故相摸入道が一族を取立て、再び天下の権を取せ、我身公家の執政として、四海を掌に握らばやと被思ければ、此四郎左近大夫入道を還俗せさせ、刑部少輔時興と名を替て、明暮は只謀叛の計略をぞ被回ける。 |
その中に見えた金文字の文章は、息子藤房卿が出家して悟りを得られるであろうという善縁を示された明神のお告げなのであろう。確かに百年続く栄華も風に舞う塵のように儚いが、一瞬の悟りの心こそ死後の灯火となるのだ。「一人の子供が出家すれば七代の父母までも皆仏道を成就する」とは如来の明白な教えであるから、この人物(藤房卿)の発心によって祖先七世代も共に成仏できることは悲しみの中にある喜びと言える。これを真に最高の功徳を得た人だと聡明な者は聞いて感嘆した。 ○北山殿謀叛事 解説【仏教思想と血縁観念】
【歴史的背景と政治力学】
【前文との連関性】
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| 或夜政所の入道、大納言殿の前に来て申けるは、「国の興亡を見には、政の善悪を見に不如、政の善悪を見には、賢臣の用捨を見に不如、されば微子去て殷の代傾き、范増被罪楚王滅たり。今の朝家には只藤房一人のみにて候つるが、未然に凶を鑑て、隠遁の身と成候事、朝廷の大凶、当家の御運とこそ覚て候へ。急思召立せ給候はゞ、前代の余類十方より馳参て、天下を覆さん事、一日を不可出。」とぞ勧め申ける。公宗卿げにもと被思ければ、時興を京都の大将として、畿内近国の勢を被催。其甥相摸次郎時行をば関東の大将として、甲斐・信濃・武蔵・相摸の勢を付らる。名越太郎時兼をば北国の大将として、越中・能登・加賀の勢をぞ被集ける。如此諸方の相図を同時に定て後、西の京より番匠数た召寄て、俄に温殿をぞ被作ける。其襄場に板を一間蹈めば落る様に構へて、其下に刀の簇を被殖たり。是は主上御遊の為に臨幸成たらんずる時、華清宮の温泉に准へて、浴室の宴を勧め申て、君を此下へ陥入奉らん為の企也。加様に様々の謀を定め兵を調て、「北山の紅葉御覧の為に臨幸成候へ。」と被申ければ、則日を被定、行幸の儀則をぞ被調ける。已に明日午刻に可有臨幸由、被相触たりける其夜、主上且く御目睡有ける御夢に、赤袴に鈍色の二つ衣著たる女一人来て、「前には虎狼の怒るあり。 |
ある夜、政所入道(高師直か)が大納言殿のもとに来て申した。「国の興亡を知るには政治の善悪を見るよりも、賢臣を登用するか否かを見よ。微子が去って殷は滅び、范増が罰せられて楚王も敗れた。今の朝廷で頼れるのは藤房卿ただ一人だが、彼が危機を察して隠遁したことは朝廷にとって凶兆であり御家(幕府)の衰退を示す。急いで対策を立てねば、旧勢力が集結し瞬く間に天下を奪うだろう」と進言した。公宗卿もその通りと思ったため、時興を京都大将軍として畿内近国の兵を集めさせた。甥・相模次郎時行は関東大将に甲斐・信濃などの兵を付け、名越太郎時兼には北陸の兵を任せた。こうして各方面への指令を整えた後、西京から工匠を呼び寄せ温泉殿を急造した。床板一歩踏めば落ちるように仕掛け、下に刀剣を植えつけたのは——天皇が行幸され湯浴みの宴でこの罠に陥れるためである(唐の玄宗皇帝と楊貴妃の故事「華清宮」になぞらえた)。様々な策を練り兵を整えて「北山殿で紅葉御覧あれ」と奏上すると、行幸が決まり準備が進められた。 翌日正午に行幸との触れが出た夜、天皇はうとうとした夢の中で鈍色の二重衣に赤袴の女性が現れて言った。「前(温泉殿)には虎狼(謀反人)の怒りあり...」 解説【歴史的・文学的意義】
【謀略装置と前文との連関】
【政治的背景】
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| 後ろには熊羆の猛きあり、明日の行幸をば思召留らせ給ふべし。」とぞ申ける。主上御夢の中に、「汝は何くより来れる者ぞ。」と御尋有ければ、「神泉園の辺に多年住侍る者也。」と、答申て立帰ぬと被御覧、御夢は無程覚にけり。主上怪き夢の告也と被思召ながら、是まで事定まりぬる臨幸、期に臨では如何可被停と被思食ければ、遂に鳳輦を被促。乍去夢の告怪しければとて、先神泉苑に幸成て、竜神の御手向有けるに、池水俄に変じて、風不吹白浪岸を打事頻也。主上是を被御覧弥夢の告怪く被思召ければ、且く鳳輦を留て御思案有ける処に、竹林院の中納言公重卿馳参じて被申けるは、「西園寺大納言公宗、隠媒の企有て臨幸を勧め申由、只今或方より告示候。是より急還幸成て、橋本中将俊季、並春衡・文衡入道を被召て、子細を御尋候べし。」と被申ければ、君去夜の夢告の、今日の池水の変ずる態、げにも様ありと思召合て、軈て還幸成にけり。則中院の中将定平に結城判官親光・伯耆守長年を差副て、「西園寺の大納言公宗卿・橋本中将俊季・並文衡入道を召取て参れ。」とぞ被仰下ける。勅宣の御使、其勢二千余騎、追手搦手より押寄て、北山殿の四方を七重八重にぞ取巻ける。大納言殿、早此間の隠謀顕れけりと思給ふ。 |
天皇がうとうとした夢の中で、赤袴に鈍色の二重衣を着た女性一人が現れて言った。「前方には虎狼(凶暴者)が怒り、後方には熊羆(猛者)が控えている。明日の行幸はお取り止めになるべきです。」と申した。天皇が夢の中で「お前はどこから来たのか」と尋ねると、「神泉園の辺りに長年住んでいるものです」と答え、立ち去るのが見えたところで目を覚ました。 この奇妙な夢のお告げと思いながらも、すでに決まった行幸を取り止めるのは時期が迫って難しいと考えたため、結局鳳輦(御所車)を進めさせようとした。しかし夢の警告が怪しいのでまず神泉苑に行き竜神への供養を行うと、池水が突然変化し風もないのに白波が頻繁に岸を打った。天皇はこれを見て一層夢のお告げを疑わしく思い鳳輦を止めて考え込んでいたところへ竹林院の中納言公重卿が駆けつけて申した。「西園寺大納言公宗が陰謀をもって行幸をお勧めしているとの情報がありました。すぐに還御なさり橋本中将俊季と春衡・文衡入道を召喚して詳細をお尋ねください。」 これを聞いた天皇は昨夜の夢告や池水異変にも納得し、ただちに帰途につかれた。続いて中院の中将定平に結城判官親光・伯耆守長年をつけて「西園寺大納言公宗卿と橋本中将俊季及び文衡入道を捕らえて参れ」と命じた。勅宣を受けた二千余騎が追手と搦手から押し寄せ北山殿の四方を幾重にも包囲したので、大納言(公宗)は陰謀が露見したと思った。 解説【物語構造と前文との連関】
【象徴的描写の意義】
【政治的背景と作者意図】
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| されば中々騒たる気色もなし。事の様をも知ぬ北御方・女房達・侍共はこは如何なる事ぞやと、周章ふためき逃倒る。御弟俊季朝臣は、官軍の向けるを見て、心早人なりければ、只一人抽て、後の山より何地ともなく落給にけり。定平朝臣先大納言殿に対面有て、穏に事の子細を被演ければ、大納言殿涙を押へて宣けるは、「公宗不肖の身なりといへども、故中宮の御好に依て、官禄共に人に不下、是偏に明王慈恵の恩幸なれば、争か居陰折枝、汲流濁源志可存候。倩事の様を案ずるに、当家数代の間官爵人に超へ、恩禄身に余れる間、或は清花の家是を妬み、或は名家の輩是を猜で、如何様種々の讒言を構へ、様々の虚説を成て、当家を失はんと仕る歟とこそ覚て候へ。乍去天鑑真、虚名いつまでか可掠上聞候なれば、先召に随て陣下に参じ、犯否の御糺明を仰ぎ候べし。但俊季に於は、今朝已に逐電候ぬる間召具するに不及。」とぞ宣ける。官軍共是を聞て、「さては橋本中将殿を隠し被申にてこそあれ。御所中を能々見奉れ。」とて数千の兵共殿中に乱入て、天井塗篭打破、翠簾几帳を引落して、無残処捜けり。依之只今まで可有紅葉の御賀とて楽絃を調べつる伶人、装束をも不脱、東西に逃迷ひ、見物の為とて群をなせる僧俗男女、怪き者歟とて、多く被召捕不慮に刑戮に逢けり。 |
それでも公宗卿自身は全く動揺した様子もなかった。しかし事情を知らない北御方(家族)や女房たち、侍従らは「これは何事だ」と慌てふためいて転びながら逃げた。弟の俊季朝臣は官軍が迫るのを見ると機敏な人物だったので、ただ一人抜け出し後ろの山からどこへともなく落ち延びてしまった。 定平卿がまず公宗大納言殿と対面して穏やかに事情を説明すると、大納言は涙をこらえてこう述べた。「私は不肖の身ながらも亡き中宮(皇后)様のご寵愛により官位俸禄に恵まれ、これらは全て天皇陛下の慈愛あふれる恩寵です。どうして陰で謀反など企てましょうか? 考えてみれば我が家は数代にわたり高位を独占し過ぎたため、清華家(名家)から嫉妬され、他の名族から疑われているのでしょう。様々な讒言や虚偽の告げ口で我家を失脚させようとしているのです。とはいえ天皇陛下は明鏡のように真実をお見通しです。いつまでも冤罪が覆うはずもありません。ただちに召喚命令に従って出頭し、潔白をご審議いただきます。ただし俊季については今朝すでに逃亡しておりますので連行できません。」 これを聞いた官軍たちは「ならば橋本中将(俊季)を隠しているのだろう」と叫び数千の兵が殿中へ乱入した。天井裏や塗籠め部屋を破壊し、翠簾や几帳を引き倒して残らず捜索するうちに――紅葉御覧の宴のために楽器を調えていた伶人たちは衣装も脱げず逃げ惑い、見物に来た僧侶・庶民らまで「怪しい者か」と捕縛され不意の処刑に遭ってしまった。 解説【心理描写と歴史的リアリティ】
【暴動描写の文学的効果】
【前文との連関と物語構造】
【作者の批判的視点】
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| 其辺の山の奥、岩のはざま迄、若やと猶捜けれども、俊季朝臣遂に見へ給はざりければ、官軍無力、公宗卿と文衡入道とを召捕奉て、夜中に京へぞ帰ける。大納言殿をば定平朝臣の宿所に、一間なる所を攻篭の如に拵て、押篭奉る。文衡入道をば結城判官に被預、夜昼三日まで、上つ下つ被拷問けるに、無所残白状しければ、則六条河原へ引出して、首を被刎けり。公宗をば伯耆守長年に被仰付、出雲国へ可被流と、公儀已に定りにけり。明日必配所へ赴き給べしと、治定有ける其夜、中院より北の御方へ被告申ければ、北の方忍たる体にて泣々彼こへ坐したり。暫く警固の武士をのけさせて、篭の傍りを見給へば、一間なる所の蜘手密く結たる中に身を縮めて、起伏もなく泣沈み給ければ、流るゝ泪袖に余りて、身も浮く許に成にけり。大納言殿北の方を一目見給て、いとゞ泪に咽び、云出し給へる言葉もなし。北の方も、「こは如何に成ぬる御有様ぞや。」と許涙の中に聞へて、引かづき泣伏給ふ。良暫有て、大納言殿泪を押へて宣けるは、「我身かく引人もなき捨小舟の如く、深罪に沈みぬるに付ても、たゞならぬ御事とやらん承りしかば、我故の物思ひに、如何なる煩はしき御心地かあらんずらんと、それさへ後の闇路の迷と成ぬべう覚てこそ候へ。 |
それでも公宗卿自身は全く騒ぎ立てる様子もなかった。事情を知らない家族や女房たち、侍従らは「これは何事だ」と慌てふためいて転びながら逃げた。弟の橋本中将俊季朝臣は官軍が迫ってくるのを見ると機敏な人物だったので、ただ一人抜け出して後ろの山からどこへともなく逃亡した。 中院中将定平卿が公宗大納言殿と対面し穏やかに事情を説明すると、大納言は涙をこらえてこう述べた。「私は不肖の身ながらも亡き中宮様ご寵愛のおかげで官位俸禄に恵まれ、これは全て天皇陛下の慈愛深い恩寵です。どうして陰で謀反など企てましょうか?振り返ってみれば我が家は数代にもわたり官爵を独占し過ぎたため清華家から妬まれ名家連中から疑われているのでしょう。様々な讒言や虚偽の告げ口で我家をつぶそうとしているのです。とはいえ天皇陛下のお心は鏡のように澄んでおられますいつまでも冤罪が通じるはずもありませんただちに召喚命令に従って出頭し嫌疑をご審議いただきますただし俊季については今朝すでに逃亡しておりますので連行できません」 これを聞いた官軍たちは「ならば橋本中将殿を隠しているのだろう御所内を徹底的に捜せ」と叫び数千の兵が屋敷へ乱入した天井裏や塗籠め部屋を破壊し翠帳や屏風を引き倒して残らず探しまわった結果―紅葉観賞宴準備のために楽器調整していた伶人たちは衣装も脱げず右往左往し見物に集まった僧侶庶民男女まで「怪しい者か」と捕縛され不意の処刑にあってしまった 解説【心理描写の歴史的意義】
【暴動描写の文学的効果】
【人物行動と前文連関】
【作者批判的視点】
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| 若それ男子にても候はゞ、行末の事思捨給はで、哀みの懐の中に人となし給べし。我家に伝る所の物なれば、見ざりし親の忘形見ともなし給へ。」とて、上原・石上・流泉・啄木の秘曲を被書たる琵琶の譜を一帖、膚の護より取出し玉て、北の方に手から被渡けるが、側なる硯を引寄て、上巻の紙に一首の歌を書給ふ。哀なり日影待間の露の身に思をかるゝ石竹の花硯の水に泪落て、薄墨の文字さだかならず、見る心地さへ消ぬべきに、是を今はの形見とも、泪と共に留玉へば、北の御方はいとゞ悲みを被副て中々言葉もなければ、只顔をも不擡泣給ふ。去程に追立の官人来て、「今夜先伯耆守長年が方へ渡し奉て暁配所へ可奉下。」と申ければ、頓て物騒しく成て、北方も傍へ立隠給ぬ。さても猶今より後の御有様如何と心苦覚て、透垣の中に立紛て見玉へば、大納言殿を請取進んとて、長年物具したる者共二三百人召具して、庭上に並居たり。余りに夜の深候ぬると急ければ、大納言殿縄取に引へられて中門へ出玉ふ。其有様を見給ける北の御方の心の中、譬へて云はん方もなし。既に庭上に舁居たる輿の簾を掲て乗らんとし給ける時、定平朝臣長年に向て、「早。」と被云けるを、「殺し奉れ。」との詞ぞと心得て、長年、大納言に走懸て鬢髪を掴で覆に引伏せ、腰刀を抜て御頚を掻落しけり。 |
「もしそれが男の子であれば将来までお見捨てにならず慈しみの中で育ててください。これは我が家伝来の品ですので会えなかった親(公宗自身)からの形代として受け取ってほしい」と言い、『上原』『石上』『流泉』『啄木』という秘曲を記した琵琶譜一巻を懐から取り出し北御方へ手渡すと、傍らの硯を引き寄せて表紙に一首の歌をお書きになった。 そこへ追手の官人が来て「今夜まず伯耆守長年邸へお渡し申し明け方には流刑地(出雲)へ送ります」と告げたため急に騒然となり北御方は傍から身を隠された。それでも今後の行く末がいかに気遣わしく透垣の隙間に立ってこっそり見ていると、大納言殿を受け取ろうと長年が武装兵二三百人を率いて庭にずらりと並んでいた。夜も深まり急かされたため公宗大納言は縄で引かれ中門へ出される様子を見た北御方の心中は譬えようもなかった。 ちょうど庭先に据えた駕籠の簾を上げてお乗りになろうとした時、定平朝臣が長年に向かって「早く」と言った言葉を「殺せ」と聞き違えたため長年はいきなり大納言へ飛び掛かり鬢髪をつかんで地面に押し倒すや腰刀を抜いて首をお刎ねにしてしまった。 解説【悲劇的クライマックスの構成】
【前文との連関性】
【作者の史的視点】
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| 下として上を犯んと企る罰の程こそ恐しけれ。北の方は是を見給て、不覚あつとをめいて、透垣の中に倒れ伏給ふ。此侭頓て絶入り給ぬと見へければ、女房達車に扶乗奉て、泣々又北山殿へ帰し入れ奉る。さしも堂上堂下雲の如なりし青侍官女、何地へか落行けん。人一人も不見成て、翠簾几帳皆被引落たり。常の御方を見給へば、月の夜・雪の朝、興に触て読棄給へる短冊共の、此彼に散乱たるも、今はなき人の忘形見と成て、そゞろに泪を被催給ふ。又夜の御方を見給へば、旧き衾は留て、枕ならべし人はなし。其面影はそれながら、語て慰む方もなし。庭には紅葉散敷て、風の気色も冷きに、古き梢の梟声、けうとげに啼たる暁の物さびしさ、堪ては如何と住はび給へる処に、西園寺の一跡をば、竹林院中納言公重卿賜らせ給たりとて、青侍共数た来て取貸へば、是さへ別の憂数に成て、北の御方は仁和寺なる傍に、幽なる住所尋出して移玉ふ。時しもこそあれ、故大納言殿の百箇日に当りける日、御産事故無して、若君生れさせ玉へり。あはれ其昔ならば、御祈の貴僧高僧歓喜の眉を開き、弄璋の御慶天下に聞へて門前の車馬群を可成に、桑の弓引人もなく、蓬の矢射る所もなきあばら屋に、透間の風冷じけれども、防ぎし陰もかれはてぬれば、御乳母なんど被付までも不叶、只母上自懐きそだて給へば、漸く故大納言殿に似給へる御顔つきを見玉ふにも、「形見こそ今はあたなれ是なくば忘るゝ時もあらまし物を。 |
「下位者が上位者へ謀反する罪の報いほど恐ろしいものはない」と悟った北御方はこの光景を見て思わず「あっ!」と声をあげ、透垣の中で倒れ伏してしまった。そのまま気絶したかと思われたため女房たちが車に担ぎ込み泣きながら再び北山殿へ連れ戻すこととなった。かつて堂上から庭先まで侍や官女で雲のように賑わっていた屋敷も今では誰一人おらず翠簾や几帳はすべて引きずり落とされていた。 普段過ごしていた部屋を見れば月明かりの夜や雪の朝、興に乗じて書き散らした短冊がそこかしこに乱れていてこれも亡き人の形見としてただ涙を誘うばかりであった。寝室では古い布団だけが残り共に枕を並べた人はもうおらず面影はあっても語らい慰めることもできなかった。庭には紅葉が散り敷いて風の冷たい気配の中、枯れ枝で梟が不吉な声で鳴く夜明けの寂しさは耐え難いほどだった。 そんな折西園寺邸跡を竹林院中納言公重卿に賜ると決まり青侍たちが数多く来て引き渡せと迫ったためこれも別の苦労となり北御方は仁和寺近くにひっそりとした住まいを見つけて移られた。ちょうどその時期故大納言殿(西園寺公宗)の百箇日にあたる日、無事に出産があり若君が誕生したのだ。ああこのようなことも昔なら祈祷僧たちは喜びに満ち男児誕生の祝いとして天下に知れ渡り門前には車馬が群がったであろうに今は桑で作った儀式用の弓を引く者もなく蓬草の矢を射る場所すらない粗末な家である。 隙間風が冷たく吹き込み防ぎようもないため乳母をつけることさえ叶わずただ母親自ら抱いて育てていたところ幼子の中に徐々に故大納言殿に似た面影を見つけた瞬間「形見こそ今はこの子であるもしこれがいなければ忘れる時もあるだろうものを」と涙した。 解説【悲劇後の象徴的描写構造】
【作者の史的視座】
【前文との連続性】
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| 」と古人の読たりしも、泪の故と成にけり。悲歎の思胸に満て、生産の筵未乾、中院中将定平の許より、以使、「御産の事に付て、内裡より被尋仰事候。もし若君にても御渡候はゞ、御乳母に懐かせて、是へ先入進られ候へ。」と被仰ければ、母上、「あな心憂や、故大納言の公達をば、腹の中までも開て可被御覧聞へしかば、若君出来させ給ぬと漏聞へけるにこそ有けれ。歎の中にも此子をそだてゝこそ、故大納言殿の忘形見とも見、若人とならば僧にもなして、無跡をも問せんと思つるに、未だ乳房も離ぬみどり子を、武士の手に懸て被失ぬと聞て、有し別の今の歎に、消はびん露の命を何に懸てか可堪忍。あるを限の命だに、心に叶ふ者ならで、斯る憂事をのみ見聞く身こそ悲しけれ。」と泣沈み給ければ、春日の局泣々内より御使に出合給て、「故大納言殿の忘形見の出来させ給て候しが、母上のたゞならざりし時節限なき物思に沈給ふ故にや、生れ落玉ひし後、無幾程はかなく成給候。是も咎有し人の行ゑなれば、如何なる御沙汰にか逢候はんずらんと、上の御尤を怖て、隠し侍るにこそと被思召事も候ぬべければ、偽ならぬしるしの一言を、仏神に懸て申入候べし。」とて、泣々消息を書給ひ、其奥に、 偽を糺の森に置露の消しにつけて濡るゝ袖哉 |
「昔の人が詠んだのも涙のためにこそあったのだ」と深い悲しみが胸に満ちていた。出産後の敷物もまだ乾かないうちに、中院中将定平のもとから使いが来てこう伝えた。「お産のことについて朝廷からのお尋ねがありました。もし男児がいらっしゃるなら乳母にお抱かせしてまずこちらへ連れてきなさい」。 解説【悲劇の深化構造】
【女性たちの抵抗的戦略】
【前文との心理的連続性】
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| 使此御文を持て帰り参れば、定平泪を押へて奏覧し給ふ。此一言に、君も哀とや思召れけん、其後は御尋もなかりければ、うれしき中に思ひ有て、焼野の雉の残る叢を命にて、雛を育らむ風情にて、泣声をだに人に聞せじと、口を押へ乳を含て、同枕の忍びねに、泣明し泣暮して、三年を過し給し心の中こそ悲しけれ。其後建武の乱出来て、天下将軍の代と成しかば、此人朝に仕へて、西園寺の跡を継給し、北山の右大将実俊卿是也。さても故大納言殿滅び給ふべき前表のありけるを、木工頭孝重が兼て聞たりけるこそ不思議なれ。彼卿謀叛の最初、祈祷の為に一七日北野に参篭して、毎夜琵琶の秘曲を弾じ給けるが、七日に満じける其夜は、殊更聖廟の法楽に備べき為とや被思けん。月冷く風秋なる小夜深方に、翠簾を高く捲上させて、玉樹三女の序を弾じ給ふ。「第一・第二絃索々秋風払松疎韻落。第三・第四絃冷々夜鶴憶子篭中鳴、絃々掩抑只拍子に移る。六反の後の一曲、誠に嬰児も起て舞許也。時節木工頭孝重社頭に通夜して、心を澄し耳を側て聞けるが、曲終て後に、人に向て語りけるは、「今夜の御琵琶祈願の御事有て遊ばさるゝならば、御願不可成就。其故は此玉樹と申曲は、昔晉の平公濮水の辺を過給けるに、流るゝ水の声に絃管の響あり。 |
使者がこの手紙を持ち帰ると、中院中将定平は涙を抑えて朝廷へ報告した。「亡くなった」という一言で君主も哀れに思われたのかその後尋問はなかったため、ほっとする一方で母上(北御方)は焼け野原の雉が残された茂みを命綱にしてひな鳥を育てる心境のように人に泣き声さえ聞かせまいと口を押さえて乳を含ませながら同じ枕でこっそり夜通し泣く日々を送った。こうして三年過ごした胸中は悲しいものだった。 その後建武の乱が起こり天下が将軍(足利尊氏)支配に変わるとこの子(若君)は朝廷に出仕し西園寺家の後継者となられた。これが北山右大将実俊卿である。ところで故大納言殿滅亡前兆があったことを木工頭孝重が事前に聞いていたのは不思議だ。あの方謀反計画初期、祈願のために七昼夜北野社へ参籠し毎夜琵琶秘曲を弾かれたが七日目の深夜は特に聖廟の法楽として月冷たく風秋深まる真夜中翠簾高く巻き上げ「玉樹三女序」演奏された。 第一第二弦は索々と松風掃う音に似て韻落ち第三第四弦は冷冷たる鶴が籠中の子を思う鳴き声のようで絃音抑揚ただ拍子移り変わる六反目後の一曲は嬰児すら起ち舞わんばかりだった。当時木工頭孝重社殿通夜し心澄ませ聴いていた曲終後人に語った「今夜琵琶祈願事あられるなら成就しないはず何故かこの玉樹という曲昔晋平公濮水の辺りで流れる水音管絃響きを聞いた時——(以下続く) 解説【悲劇から再生への物語構造】
【作品全体テーマとの統合】
【前文との連鎖的展開】
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| 平公則師涓と云楽人を召て、琴の曲に移さしむ。其曲殺声にして、聞人泪を不流云事なし。然共平公是を愛して、専楽絃に用給ひしを、師曠と云ける伶倫、此曲を聴て難じて奏しけるは、「君是を弄び玉はゞ、天下一たび乱て、宗廟全からじ。如何となれば、古へ殷の紂王彼婬声の楽を作て弄び給しが、無程周の武王に被滅給き。其魂魄猶濮水の底に留て、此曲を奏するを、君今新楽に写して、是を翫び給ふ。鄭声雅を乱る故に一唱三歎の曲に非ず。」と申けるが、果して平公滅びにけり。其後此楽猶止ずして、陳の代に至る。陳の後主是を弄で、隋の為に被滅ぬ。隋の煬帝又是を翫ぶ事甚して唐の太宗に被滅ぬ。唐の末の代に当て、我朝の楽人掃部頭貞敏、遣唐使にて渡たりしが、大唐の琵琶の博士廉承夫に逢て、此曲を我朝に伝来せり。然ども此曲に不吉の声有とて、一手を略せる所あり。然を其夜の御法楽に、宗と此手を引給ひしに、然も殊に殺発の声の聞へつるこそ、浅増く覚へ侍りけれ、八音与政通ずといへり。大納言殿の御身に当て、いかなる煩か出来らん。」と、孝重歎て申けるが、無幾程して、大納言殿此死刑に逢給ふ。不思議也ける前相也。 ○中前代蜂起事 今天下一統に帰して、寰中雖無事、朝敵の余党猶東国に在ぬべければ、鎌倉に探題を一人をかでは悪かりぬべしとて、当今第八の宮を、征夷将軍になし奉て、鎌倉にぞ置進せられける。 |
使者がこの手紙を持ち帰ると、中院中将定平は涙を抑えて朝廷へ報告した。「亡くなった」という一言で君主も哀れに思われたのかその後尋問はなかったため、ほっとする一方で母上(北御方)は焼け野原の雉が残された茂みを命綱にしてひな鳥を育てる心境のように人に泣き声さえ聞かせまいと口を押さえて乳を含ませながら同じ枕でこっそり夜通し泣く日々を送った。こうして三年過ごした胸中は悲しいものだった。 その後建武の乱が起こり天下が将軍(足利尊氏)支配に変わるとこの子(若君)は朝廷に出仕し西園寺家の後継者となられた。これが北山右大将実俊卿である。ところで故大納言殿滅亡前兆があったことを木工頭孝重が事前に聞いていたのは不思議だ。あの方謀反計画初期、祈願のために七昼夜北野社へ参籠し毎夜琵琶秘曲を弾かれたが七日目の深夜は特に聖廟の法楽として月冷たく風秋深まる真夜中翠簾高く巻き上げ「玉樹三女序」演奏された。 第一第二弦は索々と松風掃う音に似て韻落ち第三第四弦は冷冷たる鶴が籠中の子を思う鳴き声のようで絃音抑揚ただ拍子移り変わる六反目後の一曲は嬰児すら起ち舞わんばかりだった。当時木工頭孝重社殿通夜し心澄ませ聴いていた曲終後人に語った「今夜琵琶祈願事あられるなら成就しないはず何故かこの玉樹という曲昔晋平公濮水の辺りで流れる水音管絃響きを聞いた時、平公は師涓という楽人を召し琴の曲に移させた。その曲は殺伐な調べで聴く者涙せずといえなかったが平公これを愛好したところ伶倫(音楽家)の師曠『この曲弄ばれれば天下乱れて宗廟滅びましょう殷紂王淫楽を奏し武王に滅ぼされ魂魄は今も濮水底にとどまり主君新たな楽しみとしておられますが鄭声(俗謡)雅楽乱す不吉の曲』と諫めた。果たして平公滅亡した後この音楽続き陳代には陳後主弄んで隋に滅ぼされ隋煬帝も唐太宗に滅ぼされた。わが朝では遣唐使掃部頭貞敏大唐琵琶博士廉承夫から伝えた際不吉ゆえ一部省略しているのに今夜宗殿はその略さぬ部分を弾かれた殺伐な音色顕著であった『八音(音楽)政事通ず』という大納言様に何か禍あるだろう」と孝重嘆いたが間もなく大納言死刑となった。不思議な前兆だったのだ。 ○中先代蜂起の件 解説【歴史予言構造の文学的完成】
【作品全体テーマへの収斂】
【歴史叙述技法の革新性】
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| 足利左馬頭直義其執権として、東国の成敗を司れども、法令皆旧を不改。斯る処に、西園寺大納言公宗卿隠謀露顕して被誅給し時、京都にて旗を挙んと企つる平家の余類共、皆東国・北国に逃下て、猶其素懐を達せん事を謀る。名越太郎時兼には、野尻・井口・長沢・倉満の者共、馳著ける間、越中・能登・加賀の勢共、多く与力して、無程六千余騎に成にけり。相摸次郎時行には、諏訪三河守・三浦介入道・同若狭五郎・葦名判官入道・那和左近大夫・清久山城守・塩谷民部大夫・工藤四郎左衛門已下宗との大名五十余人与してげれば、伊豆・駿河・武蔵・相摸・甲斐・信濃の勢共不相付云事なし。時行其勢を率して、五万余騎、俄に信濃国に打越て、時日を不替則鎌倉へ責上りける。渋河刑部大夫・小山判官秀朝武蔵国に出合ひ、是を支んとしけるが、共に、戦利無して、両人所々にて自害しければ、其郎従三百余人、皆両所にて被討にけり。又新田四郎上野国利根川に支て、是を防がんとしけるも、敵目に余る程の大勢なれば、一戦に勢力を被砕、二百余人被討にけり。懸りし後は、時行弥大勢に成て、既に三方より鎌倉へ押寄ると告ければ、直義朝臣は事の急なる時節、用意の兵少かりければ、角ては中々敵に利を付つべしとて、将軍の宮を具足し奉て、七月十六日の暁に、鎌倉を落給けり。 |
足利左馬頭直義が執権として東国の政務を担当していたが、法令のすべては旧来のまま変更しなかった。そのような状況の中、西園寺大納言公宗卿の陰謀が露見して処刑された時、京都で挙兵を企てていた平家の残党たちは皆、東国や北国へ逃れ下ってなお本来の目的を達成しようと画策した。名越太郎時兼には野尻・井口・長沢・倉満らの者が集結し、さらに越中・能登・加賀の勢力が多く味方についたため、ほどなく六千余騎に膨れ上がった。相模次郎時行には諏訪三河守・三浦介入道・同若狭五郎・葦名判官入道・那和左近大夫・清久山城守・塩谷民部大夫・工藤四郎左衛門以下、味方の大名五十余名が付き従ったため、伊豆・駿河・武蔵・相模・甲斐・信濃の勢力も加わらない者はいなかった。時行はその軍勢を率いて五万余騎で突然信濃国へ進撃し、日を置かず即座に鎌倉へ攻め上った。渋川刑部大夫と小山判官秀朝が武蔵国で迎え撃とうとしたが共に戦いに利なく、両名はそれぞれの場所で自害したため、その家臣三百余人も全員討ち取られた。また新田四郎が上野国の利根川で防ごうとしたのも、敵があまりにも大軍だったために一戦で兵力を粉砕され、二百余人が討たれた。この後は時行の勢力がさらに増し、すでに三方から鎌倉へ迫っているとの報せがあったため、直義朝臣は事態が急な上に準備した兵が少なかったので、これではかえって敵に有利になるとして、将軍宮(成良親王)を伴い奉じて七月十六日の明け方に鎌倉から撤退した。 解説【歴史的展開の必然性】
【文学的手法と史実の融合】
【全体構成上の意義】
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| ○兵部卿宮薨御事付干将莫耶事 左馬頭既に山の内を打過給ける時、淵辺伊賀守を近付て宣けるは、「御方依無勢、一旦鎌倉を雖引退、美濃・尾張・三河・遠江の勢を催して、頓て又鎌倉へ寄んずれば、相摸次郎時行を滅さん事は、不可回踵。猶も只当家の為に、始終可被成讎は、兵部卿親王也。此御事死刑に行ひ奉れと云勅許はなけれ共、此次に只失奉らばやと思ふ也。御辺は急薬師堂の谷へ馳帰て、宮を刺殺し進らせよ。」と被下知ければ、淵辺畏て、「承候。」とて、山の内より主従七騎引返して宮の坐ける篭の御所へ参たれば、宮はいつとなく闇の夜の如なる土篭の中に、朝に成ぬるをも知せ給はず、猶灯を挑て御経あそばして御坐有けるが、淵辺が御迎に参て候由を申て、御輿を庭に舁居へたりけるを御覧じて、「汝は我を失んとの使にてぞ有らん。心得たり。」と被仰て、淵辺が太刀を奪はんと、走り懸らせ給けるを、淵辺持たる太刀を取直し、御膝の辺をしたゝかに奉打。宮は半年許篭の中に居屈らせ給たりければ、御足も快立ざりけるにや、御心は八十梟に思召けれ共、覆に被打倒、起挙らんとし給ひける処を、淵辺御胸の上に乗懸り、腰の刀を抜て御頚を掻んとしければ、宮御頚を縮て、刀のさきをしかと呀させ給ふ。 |
既に山の中を通り過ぎた足利直義は淵辺伊賀守を呼び寄せて言った。「我々は兵力不足で一旦鎌倉から退いたが、美濃・尾張・三河・遠江の勢力を集めてすぐに鎌倉へ戻れば相模次郎時行を滅ぼすのは容易い。ただ、わが家(足利氏)にとって常に敵となるべき存在は兵部卿親王である。この方に対する死刑執行の勅許こそないものの、今ここで亡きさせたいと思う。お前は急いで薬師堂の谷へ戻り、宮を刺し殺して参上せよ。」と命じたので淵辺は「承知しました」と言い山の中から主従七騎で引き返し宮が籠もる御所に到着したところ、宮(兵部卿親王)はいつとはなく闇夜のような土牢の中で朝になったことも気づかず灯りをともして経文を唱えていた。淵辺が「お迎えに参上しました」と言い輿を庭へ運んだのを見て、「汝は私を亡きすべき使者であろう、理解した。」と述べ淵辺の太刀を奪おうと走りかかったところを淵辺は持ち直し膝付近を強く打ちつけた。宮は半年ほど土牢に屈んでいたため足も自由に動かなかったのか心では猛々しく思ったものの倒れ伏せ起き上がろうとした瞬間、淵辺が胸の上へ乗り腰の刀を抜いて首を斬ろうとするので、宮は首をすくめて刃先をしっかりと歯で食いしばられた。 解説【歴史的意義と文学的表現】
【描写手法の分析】
【全体文脈での役割】
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| 淵辺したゝかなる者なりければ、刀を奪はれ進らせじと、引合ひける間、刀の鋒一寸余り折て失にけり。淵辺其刀を投捨、脇差の刀を抜て、先御心もとの辺を二刀刺す。被刺て宮少し弱らせ給ふ体に見へける処を、御髪を掴で引挙げ、則御頚を掻落す。篭の前に走出て、明き所にて御頚を奉見、噬切らせ給ひたりつる刀の鋒、未だ御口の中に留て、御眼猶生たる人の如し。淵辺是を見て、「さる事あり。加様の頚をば、主には見せぬ事ぞ。」とて、側なる薮の中へ投捨てぞ帰りける。去程に御かいしやくの為、御前に候はれける南の御方、此有様を見奉て、余の恐しさと悲しさに、御身もすくみ、手足もたゝで坐しけるが、暫肝を静めて、人心付ければ、薮に捨たる御頚を取挙たるに、御膚へも猶不冷、御目も塞せ給はず、只元の気色に見へさせ給へば、こは若夢にてや有らん、夢ならばさむるうつゝのあれかしと泣悲み給ひけり。遥に有て理致光院の長老、「斯る御事と承及候。」とて葬礼の御事取営み給へり。南の御方は、軈て御髪被落ろて泣々京へ上り給ひけり。抑淵辺が宮の御頚を取ながら左馬頭殿に見せ奉らで、薮の傍に捨ける事聊思へる所あり。昔周の末の代に、楚王と云ける王、武を以て天下を取らん為に、戦を習はし剣を好む事年久し。 |
淵辺は力強い者だったため刀を奪われまいと引き合ったところ、刃先が一寸ほど折れてしまった。淵辺はその刀を投げ捨て脇差の小刀を抜き、まず心臓付近に二度突き刺した。親王(宮)が弱っている様子に見えたので髪をつかんで引き上げ即座に首を斬り落とした。牢獄の前に出て明るい場所で首を見ると、噛み切られた刃先がまだ口の中に残っており目は生きているようだった。淵辺はこれを見て「これはまずい。こんな首を主君に見せるわけにはいかない」と言い近くの藪へ投げ捨て帰った。その間御膳係として控えていた南の方(侍女)がこの様子を見て恐怖と悲しみで身体が硬直し動けなかったが、やがて正気を取り戻すと薮に捨てられた首を拾い上げたところ肌はまだ温かく目も閉じられず元のままだったため「これは夢ではないか。もし夢なら早く覚めてほしい」と泣き悲しんだ。遠方から聞きつけた理致光院の長老が葬儀を取り仕切り、南の方(侍女)はすぐに髪をおろして泣きながら京へ上っていった。ところで淵辺が親王の首を持ち帰らず藪に捨てたことには深い意味がある。昔中国周王朝末期に楚王という君主が武力で天下を取ろうと長年剣術を磨いた故事に関連している。 解説【歴史事件と文学的象徴性】
【物語構造と伏線】
【全体文脈での役割】
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| 或時楚王の夫人、鉄の柱に倚傍てすゞみ給けるが、心地只ならず覚て忽懐姙し玉けり。十月を過て後、生産の席に苦で一の鉄丸を産給ふ。楚王是を怪しとし玉はず、「如何様是金鉄の精霊なるべし。」とて、干将と云ける鍛冶を被召、此鉄にて宝剣を作て進すべき由を被仰。干将此鉄を賜て、其妻の莫耶と共に呉山の中に行て、竜泉の水に淬て、三年が内に雌雄の二剣を打出せり。剣成て未奏前に、莫耶、干将に向て云けるは、「此二の剣精霊暗に通じて坐ながら怨敵を可滅剣也。我今懐姙せり。産子は必猛く勇める男なるべし。然れば一の剣をば楚王に献るとも今一の剣をば隠して我子に可与玉。」云ければ、干将、莫耶が申に付て、其雄剣一を楚王に献じて、一の雌剣をば、未だ胎内にある子の為に深く隠してぞ置ける。楚王雄剣を開て見給ふに、誠に精霊有と見へければ、箱の中に収て被置たるに、此剣箱の中にして常に悲泣の声あり。楚王怪て群臣に其泣故を問給ふに、臣皆申さく、「此剣必雄と雌と二つ可有。其雌雄一所に不在間、是を悲で泣者也。」とぞ奏しける。楚王大に忿て、則干将を被召出、典獄の官に仰て首を被刎けり。其後莫耶子を生り。面貌尋常の人に替て長の高事一丈五尺、力は五百人が力を合せたり。面三尺有て眉間一尺有ければ、世の人其名を眉間尺とぞ名付ける。 |
ある時楚王の夫人が鉄の柱にもたれて涼んでいると、気分がすぐれず突然妊娠された。十月過ぎて出産の際苦しんだ末に一つの鉄の塊を生み落とされた。楚王はこれを不思議に思わず「これはきっと金属の精霊だろう」と言って干将という鍛冶職人を呼び寄せ、この鉄で宝剣を作り献上するよう命じた。干将はこの鉄を受け取り妻である莫耶と共に呉山の中へ行き龍泉と呼ばれる湧き水で焼入れし三年かけて男女一対の二振りの剣を打ち出した。剣が完成してまだ報告前に、莫耶が干将に向かいこう言った。「この二振りの剣は霊力が秘められ座ったまま敵を滅ぼすことができるだろう。私は今妊娠している。生まれる子は必ず勇猛な男児となるはずだ。だから一振りは楚王に献上してもう一振りは隠してわが子に与えてほしい」と述べたので干将は莫耶の言葉に従い、雄剣一方を楚王へ献じ雌剣もう一方はまだ胎内にいる子のために深く隠しておいた。楚王が雄剣を受け取り見ると確かに霊力があるように思えたため箱の中に収めていたところこの剣は箱の中でいつも悲しげな泣き声を立てた。楚王は怪しんで家臣たちにその理由を尋ねると全員「この剣には必ず雄と雌の二振りが存在するはずです。両方が同じ場所になければそれを嘆いて泣くのです」と答えたのである。楚王は大いに怒って直ちに干将を呼び出し刑吏に命じて首を斬らせた。その後莫耶は子を生んだ。見た目が普通の人とは異なり身長一丈五尺(約4.5メートル)、力は五百人分にも匹敵した。顔の幅が三尺で眉間が一尺もあったため世間ではその名を「眉間尺」と呼んだのである。 解説【歴史的・文学的背景】
【描写手法と構造的役割】
これにより『太平記』は「権力による殺人は必ず報いを受ける」という因果応報観念を読者に印象付ける。
【全体文脈での意義】
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| 年十五に成ける時、父が書置ける詞を見るに、日出北戸。南山其松。松生於石。剣在其中。と書り。さては此剣北戸の柱の中に在と心得て、柱を破て見るに、果して一の雌剣あり。眉間尺是を得て、哀楚王を奉討父の仇を報ぜばやと思ふ事骨髄に徹れり。楚王も眉間尺が憤を聞給て、彼れ世にあらん程は、不心安被思ければ、数万の官軍を差遣して、是を被責けるに、眉間尺一人が勇力に被摧、又其雌剣の刃に触れて、死傷する者幾千万と云数を不知。斯る処に、父干将が古への知音なりける甑山人来て、眉間尺に向て云けるは、「我れ汝が父干将と交りを結ぶ事年久かりき。然れば、其朋友の恩を謝せん為、汝と共に楚王を可奉討事を可謀。汝若父の仇を報ぜんとならば、持所の剣の鋒を三寸嚼切て口の中に含で可死。我汝が頭を取て楚王に献ぜば、楚王悦で必汝が頭を見給はん時、口に含める剣のさきを楚王に吹懸て、共可死。」と云ければ、眉間尺大に悦で、則雌剣の鋒三寸喫切て、口の内に含み、自己が頭をかき切て、客の前にぞ指置ける。客眉間尺が首を取て、則楚王に献る。楚王大に喜て是を獄門に被懸たるに、三月まで其頭不爛、■目を、切歯を、常に歯喫をしける間、楚王是を恐て敢て不近給。是を鼎の中に入れ、七日七夜までぞ被煮ける。 |
眉間尺が15歳になった時、父(干将)が残した書状を見ると「日出北戸。南山其松。松生於石。剣在其中。」と記されていた。そこで彼はこの剣が北側の入り口の柱の中にあると思い立ち、柱を壊して見たところ、確かに一振りの雌剣があった。眉間尺はこれを手に入れ、「あぁ楚王を討ち倒し父の仇を打ちたい」という思いが骨髄に染み渡った。一方で楚王も眉間尺の怒りを知ると「彼が生きている限り安心できない」と考え、何万もの官軍を派遣して攻めさせた。しかし眉間尺一人の勇猛な力と雌剣の刃によって打ち倒され、死傷者は数えきれないほどになった。そのような時、かつて干将と親交があった甑山人が現れて眉間尺に言った。「私はお前の父・干将との付き合いは長かった。だから友情への恩返しとして共に楚王を討つ計画を立てよう。もし本当に父の仇を打ちたいなら、持っている剣の刃先を三寸(約9cm)かみ切り口にくわえたまま自害せよ。私がお前の首を持って楚王に献上すれば彼は喜んで必ず見るだろうから、その時くわえていた剣の先端を吹きかけて共に死ぬのだ」と告げた。眉間尺は大いに喜び、すぐに雌剣の刃を三寸かみ切り口にくわえると自ら首を掻っ切って客人の前に差し出した。客(甑山人)はその首を持ち楚王のもとに献上すると、楚王は大喜びで獄門(さらし首台)にかけたところ、三ヶ月経っても眉間尺の首が腐らずに睨みをきかせ歯ぎしりしながら噛むような動作を見せるので恐ろしくて近づけなかった。そこでその首を大鍋(鼎)に入れ七日七晩煮続けることとなった。 解説【物語構造と倫理的主題】
【超自然的描写の意味】
【全体文脈での意義】
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| 余につよく被煮て、此頭少し爛て目を塞ぎたりけるを、今は子細非じとて、楚王自鼎の蓋を開せて、是を見給ける時、此頭、口に含だる剣の鋒を楚王にはつと奉吹懸。剣の鋒不誤、楚王の頚の骨を切ければ、楚王の頭忽に落て、鼎の中へ入にけり。楚王の頭と眉間尺が首と、煎揚る湯の中にして、上になり下に成り、喫相けるが、動ば眉間尺が頭は下に成て、喫負ぬべく見へける間、客自己が首を掻落て鼎の中へ投入、則眉間尺が頭と相共に、楚王の頭を喫破て、眉間尺が頭は、「死して後父の怨を報じぬ。」と呼り、客の頭は、「泉下に朋友の恩を謝しぬ。」と悦ぶ声して、共に皆煮爛れて失にけり。此口の中に含だりし三寸の剣、燕の国に留て太子丹が剣となる。太子丹、荊軻・秦舞陽をして秦始皇を伐んとせし時、自差図の箱の中より飛出て、始皇帝を追奉りしが、薬の袋を被投懸ながら、口六尺の銅の柱の半ばを切て、遂に三に折て失たりし匕首の剣是也。其雌雄二の剣は干将莫耶の剣と被云て、代々の天子の宝たりしが、陳代に至て俄に失にけり。或時天に一の悪星出て天下の妖を示す事あり。張華・雷煥と云ける二人の臣、楼台に上て此星を見るに、旧獄門の辺より剣の光天に上て悪星と闘ふ気あり。張華怪しで光の指す所を掘せて見るに、件の干将莫耶の剣土五尺が下に埋れてぞ残りける。 |
さらに強く煮られて眉間尺の首が少し腐り目をつぶしていたところを見て、「もう問題ないだろう」と考えた楚王自ら鼎(かなえ)の蓋を開けて中を見ようとした時、その首は口にくわえた剣の刃先を素早く楚王に吹きかけた。剣の刃は外れず楚王の首の骨を切り裂いたため、楚王の頭が突然落ちて鼎の中へ入ってしまった。すると楚王の頭と眉間尺(びけんしゃく)の首は沸騰する湯の中で上になったり下になったりしながら噛み合い始めた。しかし動き出すと眉間尺の首が下になって負けそうに見えたため、客人(甑山人)は自らの首をかき切って鼎の中へ投げ入れた。すると彼らは協力して楚王の頭にかぶりつき破壊したのである。眉間尺の首は「死んでから後に父の恨みを晴らせた」と叫び、客人の首は「黄泉で友人の恩に報われた」と喜ぶ声を上げて、両方とも煮え爛れて消えてしまった。この口にくわえた三寸(約9cm)の剣は後に燕の国へ伝わり太子丹(たいしたん)の所有する剣となった。太子丹が荊軻(けいか)と秦舞陽(しんぶよう)に命じて秦始皇を暗殺しようとした時、この剣は図面箱から飛び出して始皇帝を追いかけ回したものの、薬袋を投げつけられながら六尺(約180cm)の銅柱の中ほどを切って結局三つに折れてしまった。これが匕首(あいくち)と呼ばれた剣である。一方で雌雄一対の干将莫耶(かんしょうばくや)の剣は歴代天子の宝物として伝わっていたが、陳王朝の時代になって突然行方不明になった。ある時天に悪星が現れ天下に不吉な兆しを示したところ、張華と雷煥という二人の家臣が楼閣の上から観察すると、かつて獄門があった場所付近で剣の光が天へ昇り悪星と戦う気配を放っていた。張華は怪しんで光の指す地点を掘らせてみると、干将莫耶の剣が土中五尺(約150cm)下に埋まって残されていたのである。 解説【復讐劇の完結と象徴性】
【剣伝承の歴史的拡張】
全体文脈での重要性
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| 張華・雷煥是を取て天子に献らん為に、自是を帯し、延平津と云沢の辺を通ける時、剣自抜て水の中に入けるが、雌雄二の竜と成て遥の浪にぞ沈みける。淵辺加様の前蹤を思ければ、兵部卿親王の刀の鋒を喫切らせ給て、御口の中に被含たりけるを見て、左馬頭に近付奉らじと、其御頚をば薮の傍に棄けるとなり。 ○足利殿東国下向事付時行滅亡事 直義朝臣は鎌倉を落て被上洛けるが、其路次に於て、駿河国入江庄は、海道第一の難所也。相摸次郎が与力の者共、若道をや塞んずらんと、士卒皆是危思へり。依之其所の地頭入江左衛門尉春倫が許へ使を被遣て、可憑由を被仰たりければ、春倫が一族共、関東再興の時到りぬと、料簡しける者共は、左馬頭を奉打、相摸次郎殿に馳参らんと云けるを、春倫つく/゛\思案して、「天下の落居は、愚蒙の我等が可知処に非ず。只義の向ふ所を思ふに、入江庄と云は、本徳宗領にて有しを、朝恩に下し賜り、此二三年が間、一家を顧る事日来に勝れり。是天恩の上に猶義を重ねたり。此時争か傾敗の弊に乗て、不義の振舞を致さん。」とて、春倫則御迎に参じければ、直義朝臣不斜喜て、頓て彼等を召具し、矢矯の宿に陣を取て、是に暫汗馬の足を休め、京都へ早馬をぞ被立ける。依之諸卿議奏有て、急足利宰相高氏卿を討手に可被下に定りけり。 |
張華(ちょうか)と雷煥(らいかん)はこれ(干将莫耶の剣)を取り、天子へ献上しようとして帯びていた。延平津という沼沢地を通りかかった時、突然剣が自ら鞘を抜けて水中に飛び込んだところ、雌雄二頭の龍となって遥か遠くの波間に沈んでいった。(この話は)淵辺加様(ふちべのかよう)という人物が過去にも同様の出来事を知っていたため、兵部卿親王(ひょうぶきょうしんのう)の刀を斬り損じたことや、(刃先を)口に含んでいた様子を見て警戒した。結果として左馬頭(さまのかみ=足利直義)には近づけず、その首は藪の中へ捨てられたという。 ○足利殿東国下向事付時行滅亡事 解説【剣伝承と歴史的連鎖】
歴史文脈での重要性
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| 則勅使を以て、此由を被仰下ければ、相公勅使に対して被申けるは、「去ぬる元弘の乱の始、高氏御方に参ぜしに依て、天下の士卒皆官軍に属して、勝事を一時に決候き。然ば今一統の御代、偏に高氏が武功と可云。抑征夷将軍の任は、代々源平の輩功に依て、其位に居する例不可勝計。此一事殊に為朝為家、望み深き所也。次には乱を鎮め治を致す以謀、士卒有功時節に、賞を行にしくはなし。若註進を経て、軍勢の忠否を奏聞せば、挙達道遠して、忠戦の輩勇を不可成。然れば暫東八箇国の官領を被許、直に軍勢の恩賞を執行ふ様に、勅裁を被成下、夜を日に継で罷下て、朝敵を退治仕るべきにて候。若此両条勅許を蒙ずんば、関東征罰の事、可被仰付他人候。」とぞ被申ける。此両条は天下治乱の端なれば、君も能々御思案あるべかりけるを、申請る旨に任て、無左右勅許有けるこそ、始終如何とは覚へけれ。但征夷将軍の事は関東静謐の忠に可依。東八箇国の官領の事は先不可有子細とて、則綸旨を被成下ける。是のみならず、忝も天子の御諱の字を被下て、高氏と名のられける高の字を改めて、尊の字にぞ被成ける。尊氏卿東八箇国を官領の所望、輒く道行て、征夷将軍の事は今度の忠節に可依と勅約有ければ、時日を不回関東へ被下向けり。 |
勅使を通じてこの旨(追討命令)が伝えられると、足利尊氏(高氏)は勅使に対しこう申し上げた。「かつて元弘の乱が勃発した際、私・高氏が朝廷側に加わったことで天下の兵士たちも官軍に従い、勝利を一挙に決することができました。このことから現在の治世はまさしく高氏の武功によるものと言えるでしょう。そもそも征夷大将軍の職は代々、源平の武士が功績によって就く慣例であり、その事例は数えきれません。特にこの地位は源為朝や北条為家らが深く望んできたものです。次に戦乱を鎮め秩序を保つには策謀が必要ですが、兵士たちへの恩賞を与えるのにこれ以上適した機会はありません。もし(功績の)報告を経て軍勢の忠誠心を朝廷が判断しようとすれば手続きが長引き、忠義に戦う者たちの意欲が削がれます。そこで暫定的に関東八カ国の統治権をお許しいただき、直接兵士へ恩賞を与えられるよう勅裁(天皇の許可)を下された上で、昼夜を問わず関東に赴いて朝敵を討伐いたします。もしこの二条件が勅許されないならば、関東征伐は他の者にお任せください」と述べた。 この二つの要求(征夷大将軍任命・八カ国管領)は天下の治乱を左右する重大事であったため、君主も慎重に考慮すべきだった。しかし申請通り即座に勅許が下されたのはいささか軽率にも思われた。ただし征夷大将軍職については関東平定後の功績による任命とし、八カ国統治権には問題なしとして綸旨(天皇命令書)が発布されたのみならず、尊氏はさらに光栄にも天皇の御名「尊」の字を賜り、「高氏」から「尊氏」に改称した。こうして尊氏卿は八カ国統治権を得た上で、征夷大将軍職は今回の忠節次第との勅約(朝廷との約束)が交わされたため、時を移さず関東へ下向した。 解説【室町幕府成立への政治的駆け引き】
歴史的文脈における核心性
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| 吉良兵衛佐を先立て、我身は五日引さがりて進発し給けり。都を被立ける日は其勢僅に五百余騎有しか共、近江・美濃・尾張・三河・遠江の勢馳加て、駿河国に著給ける時は三万余騎に成にけり。左馬頭直義、尊氏卿の勢を合て五万余騎、矢矯の宿より取て返して又鎌倉へ発向す。相摸次郎時行是を聞て、「源氏は若干の大勢と聞ゆれば、待軍して敵に気を呑れては不叶。先ずる時は人を制するに利有。」とて、我身は鎌倉に在ながら、名越式部大輔を大将として、東海・東山両道を押て責上る。其勢三万余騎、八月三日鎌倉を立んとしける夜、俄に大風吹て、家々を吹破ける間、天災を遁れんとて大仏殿の中へ逃入り、各身を縮て居たりけるに、大仏殿の棟梁、微塵に折れて倒れける間、其内にあつまり居たる軍兵共五百余人、一人も不残圧にうてゝ死にけり。戦場に趣く門出にかゝる天災に逢ふ。此軍はか/゛\しからじと、さゝやきけれ共、さて有べき事ならねば、重て日を取り、名越式部大輔鎌倉を立て、夜を日に継で路を急ける間、八月七日前陣已に遠江佐夜の中山を越けり。足利相公此由を聞給て、「六韜の十四変に、敵経長途来急可撃と云へり。是太公武王に教る所の兵法也。」とて、同八日の卯刻に平家の陣へ押寄て、終日闘くらされけり。 |
吉良兵衛佐(上杉憲顕)を先遣隊として送り出し、尊氏自身は5日遅れて進発した。京都を出立した日の軍勢はわずか500余騎だったが、近江・美濃・尾張・三河・遠江の兵士たちが次々に合流し、駿河国(静岡県中部)へ到着する頃には3万余騎に膨れ上がっていた。足利直義(尊氏弟)軍と合流すると総勢5万余騎となり、矢矯宿で方向を転じ再び鎌倉へ向けて出陣した。 これに対し北条時行は「源氏(尊氏軍)が大軍と聞けば待ち構えていては士気を削がれる。先手を打つのが有利だ」と判断、自身は鎌倉に残留する一方で名越式部大将(北条一族の将)を総大将として東海道・中山道両ルートから進攻させた。その軍勢3万余騎は8月3日の鎌倉出陣予定だったが、夜中に突風が発生し家屋が倒壊。兵士たちが天災避難のため大仏殿へ逃げ込んだところ、棟木が粉々に折れ落ち、内部にいた500人以上の将兵全員が圧死する惨事となった。 「戦いに出陣する矢先にこんな凶兆があってはこの軍勢は危ない」と噂されたものの、出撃を中止できる状況ではなく改めて日程調整。名越式部大将率いる軍は鎌倉を発ち昼夜兼行で進軍し、8月7日には前鋒が遠江国(静岡県西部)佐夜ノ中山を越えた。 この報を受けた尊氏は「『六韜』兵法の十四変に『敵が長旅で疲れた直後は急襲せよ』とある。太公望が武王に教えた戦略だ」と言い、8月8日卯刻(午前6時頃)に北条軍陣地へ攻めかかった。両軍は終日激闘を繰り広げた。 解説【軍事行動のダイナミズムと不吉な予兆】
戦術的焦点
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| 平家も此を前途と心を一にして相当る事三十余箇度、入替々々戦ひけるが、野心の兵後に在て、跡より引けるに力を失て、橋本の陣を引退き、佐夜の中山にて支へたり。源氏の真前には、仁木・細河の人々、命を義に軽じて進みたり。平家の後陣には、諏方の祝部身を恩に報じて、防戦ひけり。両陣牙に勇気を励して、終日相戦けるが、平家此をも被破て、箱根の水飲の峠へ引退く。此山は海道第一の難所なれば、源氏無左右懸り得じと思ける処に、赤松筑前守貞範、さしも嶮き山路を、短兵直に進んで、敵の中へ懸入て、前後に当り、左右に激しける勇力に被払て、平家又此山をも支へず、大崩まで引退く。清久山城守返し合せて、一足も不引闘けるが、源氏の兵に被組て、腹切る間もや無りけん、其身は忽に被虜、郎従は皆被討にけり。路次数箇度の合戦に打負て、平家やたけに思へ共不叶。相摸河を引越て、水を阻て支へたり。時節秋の急雨一通りして、河水岸を浸しければ、源氏よも渡しては懸らじと、平家少し由断して、手負を扶け馬を休めて、敗軍の士を集めんとしける処に、夜に入て、高越後守二千余騎にて上の瀬を渡し、赤松筑前守貞範は中の瀬を渡し、佐々木佐渡判官入道々誉と、長井治部少輔は、下の瀬を渡して、平家の陣の後ろへ回り、東西に分れて、同時に時をどつと作る。 |
北条軍もこれに応じ、全軍が一丸となって三十度以上も激しく戦った。しかし後方部隊が退却を始めたため劣勢となり、橋本陣地から佐夜ノ中山へ撤退して防衛線を張る。源氏(尊氏)軍の正面では仁木義長や細川顕氏らが命を賭けて突撃し、北条後方には諏訪神官団が主君への恩に報いて奮戦した。 両軍は終日激闘を繰り広げたものの、北条側は敗れて箱根・水飲峠へ退いた。「この難所なら攻め落とせまい」と源氏が思う中、赤松貞範が険しい山道を軽装で突進。敵陣に切り込み前後左右を蹂躙する猛攻の前に北条軍は崩れ、大敗走となった。 清久入道(時行側近)は踏みとどまり孤軍奮闘したが源氏兵に捕らえられ、自害しようとする間もなく生け捕りとなり、配下は全員討ち取られた。数度の戦いで敗北を重ねた北条勢は相模川まで後退し、増水した河を防衛線とした。 折から秋の豪雨で河が氾濫。「渡河攻撃は不可能」と油断した北条側が傷兵の手当てや馬休めを始めた時、夜陰に乗じて高師直(2000騎)が上流、赤松貞範が中流、佐々木道誉らが下流から同時渡河。三方で陣地背後を取り囲み鬨の声を上げた。 解説【戦術的転換点と自然条件の利用】
【人物描写に見る価値観】
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| 平家の兵、前後の敵に被囲て、叶はじとや思けん、一戦にも不及、皆鎌倉を指て引けるが、又腰越にて返し合せて葦名判官も被討にけり。始遠江の橋本より、佐夜の中山・江尻・高橋・箱根山・相摸河・片瀬・腰越・十間坂、此等十七箇度の戦ひに、平家二万余騎の兵共、或は討れ或は疵を蒙りて、今僅に三百余騎に成ければ、諏方三河守を始として宗との大名四十三人、大御堂の内に走入り、同く皆自害して名を滅亡の跡にぞ留めける。其死骸を見るに、皆面の皮を剥で何れをそれとも見分ざれば、相摸次郎時行も、定て此内にぞ在らんと、聞人哀れを催しけり。三浦介入道一人は、如何して遁れたりけん、尾張国へ落て、舟より挙りける所を、熱田の大宮司是を生捕て京都へ上せければ、則六条河原にて首を被刎けり。是のみならず、平家再興の計略、時や未だ至らざりけん、又天命にや違ひけん。名越太郎時兼が、北陸道を打順へて、三万余騎にて京都へ責上けるも、越前と加賀との堺、大聖寺と云所にて、敷地・上木・山岸・瓜生・深町の者共が僅の勢に打負て、骨を白刃の下に砕き、恩を黄泉の底に報ぜり。時行は已に関東にして滅び、時兼は又北国にて被討し後は、末々の平氏共、少々身を隠し貌を替て、此の山の奥、彼の浦の辺にありといへ共、今は平家の立直る事難有とや思けん、其昔を忍びし人も皆怨敵の心を改て、足利相公に属し奉らずと云者無りけり。 |
平家(北条氏)の兵士たちは前後から敵に包囲され、抵抗できないと思ったのか、一戦も交えず全員が鎌倉へ向かって退却した。しかし腰越で反撃を試みた際には葦名判官も討ち取られた。遠江の橋本での戦いから始まり、佐夜ノ中山・江尻・高橋・箱根山・相模川・片瀬・腰越・十間坂まで計17度にわたる合戦で、平家側は2万騎以上いた兵士たちが討たれたり傷を負ったりし、今やわずか300余騎になっていた。そこで諏方三河守を筆頭とする主だった大名43名が大御堂(寺院)内に逃げ込み、全員自害して滅亡の道筋に名を刻んだ。 その遺体を見ると皆顔の皮を剥がされていたため誰が誰か判別できず、「相模次郎時行もきっとこの中にいるだろう」と聞く者は哀れみを感じた。ただ一人、三浦介入道だけはどうにか逃げ延び尾張国へ落ち延びようとしたところを舟から上がった所で熱田の大宮司に生け捕られ京都へ送られたため、六条河原で首を斬られた。 これだけでなく平家再興の計画も時機が未熟だったのか天命に背いたのか失敗した。名越太郎時兼が北陸道から3万騎超で京都へ攻め上ろうとした際にも、越前と加賀の境にある大聖寺という場所で敷地・上木・山岸・瓜生・深町ら率いる少数勢力に敗れ、白刃のもとに骨を砕き黄泉の底で主君への恩に報いた。こうして時行は関東で滅び、時兼が北国で討たれた後には平氏の末裔たちもわずかに身を隠し姿を変えて山奥や浦辺に潜んだものの、「最早平家再興は困難だ」と思ったのか、過去を懐かしんでいた者たちまで皆敵意を改め足利尊氏(相公)へ従属しない者は一人もいなくなった。 解説【戦局終結と歴史的帰結】
【文学的技法と歴史観】
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| さてこそ、尊氏卿の威勢自然に重く成て、武運忽に開けゝれば、天下又武家の世とは成にけり。 |
こうして尊氏卿(足利尊氏)の勢威は自然と強まり、武運が急に開けたため、天下は再び武士による支配の時代となった。 解説【歴史的転換点の表現】
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| input text 太平記\014_太平記_巻14.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第十四 ○新田足利確執奏状事 去程に足利宰相尊氏卿は、相摸次郎時行を退治して、東国軈て静謐しぬれば、勅約の上は何の子細か可有とて、未だ宣旨をも不被下、押て足利征夷将軍とぞ申ける。東八箇国の官領の事は、勅許有し事なればとて、今度箱根・相摸河にて合戦の時、有忠輩に被行恩賞。先立新田の一族共拝領したる東国の所領共を、悉く闕所に成して、給人をぞ被付ける。義貞朝臣是を聞て安からぬ事に被思ければ、其替りに我分国、越後・上野・駿河・播磨などに足利の一族共の知行の庄園を押へて、家人共にぞ被行ける。依之新田・足利中悪成て、国々の確執無休時。其根元を尋ぬれば、去ぬる元弘の初義貞鎌倉を責亡して、功諸人に勝れたりしかば、東国の武士共は皆我下より可立と被思ける処に、尊氏卿の二男千寿王殿三歳に成給しが、軍散じて六月三日下野国より立帰て、大蔵の谷に御坐しける。又尊氏卿都にて抽賞異他なりと聞へて、是を輒く上聞にも達し、恩賞にも預らんと思ければ、東八箇国の兵共、心替りして、太半は千寿王殿の手にぞ付たりける。加之義貞若宮の拝殿に坐して、頚共実検し、御池にて太刀・長刀を洗ひ、結句神殿を打破て、重宝共を被見し給に、錦の袋に入たる二引両の旗あり。 |
こうして足利宰相尊氏卿は相模次郎時行を討伐し、東国がすぐに平定されたので、「勅命の約束通り何の問題があるだろうか」と言って、まだ正式な宣旨も下されていないのに無理やり「足利征夷将軍」と呼んだ。また東八箇国の領地管理に関しては天皇の許可があったとして、今回箱根・相模川での戦いで忠実に働いた者たちへ恩賞を与えたが、その際先立って新田一族が拝領していた東国所領をすべて没収し替わりの受領者を取り立てた。義貞朝臣はこれを聞いて不満に思い、代わりに自分の分国である越後・上野・駿河・播磨などにある足利一族の支配地や荘園を押さえ込み家来たちへ与えた。これにより新田と足利の仲が悪化し各地で争いが絶えない状態となった。 この確執の根源を尋ねると、かつて元弘元年に義貞が鎌倉攻め滅ぼして功績が群を抜いたため東国の武士たちは皆「自分より下位と見なしていた」ところへ尊氏卿次男千寿王殿(三歳)が軍解散後の6月3日下野国から帰還し大蔵谷に滞在した。さらに尊氏卿が都で並外れた恩賞を得たという噂を聞き「これを軽率にも天皇へ奏上して自分も恩賞にあずかろう」と思った東八箇国の兵たちは心変わりし大半が千寿王殿側についた。 加えて義貞若宮(御所)の拝殿に座り首実検を行い、池で太刀や長刀を洗い結局神殿を破壊して宝物を見た際錦袋に入った二引両紋旗があったという事情もあったのである。 解説【新田義貞と足利尊氏の対立構造】
【歴史的伏線:鎌倉陥落後の人心掌握】**
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| 「是は曩祖八幡殿、後三年の軍の時、願書を添て被篭し御旌也。奇特の重宝と云ながら、中黒の旌にあらざれば、当家の用に無詮。」と宣けるを、足利殿方の人是を聞て彼旌を奉乞。義貞此旌不出しかば、両家確執合戦に及ばんとしけるを、上聞を恐憚て黙止けり。加様の事共重畳有しかば、果して今、新田・足利一家の好みを忘れ怨讎の思をなし、互に亡さんと牙を砥の志顕れて、早天下の乱と成にけるこそ浅猿けれ。依之讒口傍らに有て、乱真事多かりける中に、今度尊氏卿、相摸次郎時行が討手を承て平関東後、今隠謀の企ある由叡聞に達しければ、主上逆鱗有て、「縦其忠功莫太なりとも、不義を重ば可為逆臣条勿論也。則追伐の宣旨を可被下。」と御憤有けるを、諸卿僉議有て、「尊氏が不義雖達叡聞未知其実罪の疑しきを以て、功の誠あるを被棄事は非仁政。」親房・公明、頻に諌言を被上しかば、さらば法勝寺の慧鎮上人を鎌倉へ奉下、事の様を可尋窮定まりにけり。慧鎮上人奉勅関東へ下らんと欲給ける其日、尊氏卿細河阿波守和氏を使にて、一紙の奏状を被捧たり。其状曰、参議従三位兼武蔵守源朝臣尊氏誠恐誠惶謹言。請早誅罰義貞朝臣一類致天下泰平状右謹考往代列聖徳四海、無不賞顕其忠罰当其罪。若其道違則讒雖建草創遂不得守文。 |
「これは遠い祖先である八幡大菩薩が後三年の役の際に願文を添えて納めた御旗です。珍しい重宝とは言え中黒(二引両)紋ではないため我々新田家では使い道がない」と義貞が述べたところ、足利方の人々はこれを聞きその旗の献上を求めた。しかし義貞が出さなかったため両家の確執が合戦に発展しかけたものの天皇への報告を恐れて沈静化した。このような出来事が重なった結果ついに新田・足利両家は親睦を忘れ互いを憎み滅ぼそうとする意志を示し早くも天下大乱となってしまったのは嘆かわしい。 こうして讒言が飛び交う中で偽りの噂が多い状況下、今回尊氏卿が相模次郎時行討伐を受け東国平定後に陰謀を企てているとの情報が天皇(後醍醐)の耳に入ると主上は激怒し「いかに功績大なりとも不義重ねれば逆臣である。即刻追討宣旨を下すべし」と宣言された。 これに対し廷臣協議で北畠親房・万里小路公明らが「尊氏の不正事実未確認なのに功労者排除は非仁政だ」と強く諌めたため代わりに法勝寺慧鎮上人を鎌倉へ派遣調査する方針となった。ところが慧鎮勅使が関東下向しようとした当日尊氏卿は細川和氏を使者として一通の奏状を提出した。 その文面には「参議従三位兼武蔵守源朝臣尊氏誠惶謹言(恐れ多いことです)。義貞一族早く誅罰し天下太平致す請願。右に記しますが歴代聖帝は四海で忠勲必ず顕彰し罪過厳正処罰された。(中略)もしその道外れれば讒言横行建国も永続せぬ」とあった。 解説【旗争いの象徴性】**
【朝廷対応の深層】**
【尊氏奏状の画期性】**
歴史的意義:1335年11月提出と推定される本奏状は、室町幕府創始者が朝廷に「武士統率権」を初めて公式主張した文書として重要。後醍醐天皇の返答内容(次段へ続く)が南北朝分裂決定的要因となる。 |
| 肆君子所慎、庸愚所軽也。去元弘之初、東藩武臣恣振逆頻無朝憲。禍乱起于茲国家不獲安。爰尊氏以不肖之身麾同志之師。自是定死於一途士、運倒戈之志、卜勝於両端輩、有与議之誠。聿振臂致一戦之日、得勝於瞬目之中、攘敵於京畿之外。此時義貞朝臣有忿鶏肋之貪心戮鳥使之急課。其罪大而無拠逋身。不獲止軍起不慮。尊氏已於洛陽聞退逆徒之者、履虎尾就魚麗。義貞始以誅朝敵為名。而其実在窮鼠却噛猫闘雀不辞人。斯日義貞三戦不得勝、屈而欲守城深壁之処、尊氏長男義詮為三歳幼稚大将、起下野国。其威動遠、義卒不招馳加。義貞嚢沙背水之謀一成而大得破敵。是則戦雖在他功隠在我。而義貞掠上聞貪抽賞、忘下愚望大官、世残賊国蠹害也。不可不誡之。今尊氏再為鎮先亡之余殃、久苦東征之間。佞臣在朝讒口乱真。是偏生於義貞阿党裏。豈非趙高謀内章邯降楚之謂乎。大逆之基可莫甚於是焉。兆前撥乱武将所全備也。乾臨早被下勅許、誅伐彼逆類、将致海内之安静、不堪懇歎之至。尊氏誠惶誠恐謹言。建武二年十月日とぞ被書たりける。此奏状未だ内覧にも不被下ければ、遍く知人も無処に、義貞朝臣是を伝聞て、同奏状をぞ上ける。其詞曰、従四位上行左兵衛督兼播磨守源朝臣義貞誠惶誠恐謹言。請早誅伐逆臣尊氏直義等徇天下状右謹案当今聖主経緯天地、徳光古今、化蓋三五。 |
賢者が慎重にすることを凡人は軽視するものである。元弘元年のはじめ頃から東国の武士たちが勝手に反逆を繰り返し朝廷の規律はなかった。禍乱がここから起こり国家は安寧を得られず、そのような中で尊氏(私)は取るに足らない身ながら同志と軍隊を率いた。当時、死を覚悟した者は倒戈する決意を持ち、勝敗を見極めようとする者たちも協力の誠を示した。ついに戦いが始まり瞬く間に勝利を得て敵を京から追放した。 この時義貞朝臣は鶏肋(取るに足らないもの)への欲深さで怒り、急な命令により使者を殺害するという罪を犯し逃亡したためやむなく軍を起こすことになった。尊氏が都で反逆者の追放を知った際には虎の尾を踏むような危険な状況だったのに、義貞は朝敵討伐と称して攻めてきた。その実態は窮鼠猫を噛み雀も人に立ち向かう状態であり、この日義貞は三度戦って勝てず城に籠ろうとしたところで尊氏の長男・幼い大将(3歳)が下野国から出陣した。その威勢に触発された兵士たちが駆けつけて袋砂背水の計を成功させ敵を大破したのだ。 この戦いは表面上は他の武将の功績だが実質的な手柄は尊氏にある。それにもかかわらず義貞は天皇へ虚偽報告し恩賞を独占、下位者の期待も顧みず高位官職に固執する国の害虫と言える。彼こそ誅罰すべきである。 今また東国鎮定のため長く遠征している間に朝廷では奸臣が讒言して真実を見えなくさせているがこれは全て義貞一派による陰謀だ(趙高と章邯に例えた楚漢戦争のような事態)。大逆不道はこれ以上ない。天下平定を目指す武将として早期の勅許を得て彼ら反逆者を討伐し国内安定をもたらしたい切なる願いである。(尊氏誠惶謹言)建武二年十月に書かれたという。 この奏状が未だ天皇にも届かないうちに義貞朝臣は内容を知り、すぐさま自らの奏状を提出した。その文言には「従四位上行左兵衛督兼播磨守源朝臣義貞誠惶謹言。早急に逆賊尊氏・直義ら討伐の勅許下さるよう請願」とあり、「当今聖主は天地経緯し、古今を照らす徳化三五(三皇五帝)をも超える」と続く。 解説【奏状戦争の核心的特徴】
【歴史的虚実の交錯】**
政治的帰結の重大性: 双方が「逆臣」認定要求したこの応酬により後醍醐天皇は尊氏追討令発布(1335年12月)→南北朝分裂決定的起点となった。実際に次段で義貞奏状全文と朝廷裁定が続く構成となる。 |
| 所以神武揺鋒端聖文定宇宙也。爰有源家末流之昆弟尊氏直義、不恥散木之陋質、並蹈青雲之高官。聴其所功、堪拍掌一咲。太平初山川震動、略地拉敵。南有正成、西有円心。加之四夷蜂起、六軍虎窺。此時尊氏随東夷命尽族上洛。潛看官軍乗勝、有意免死。然猶不決心於一偏、相窺運於両端之処、名越尾張守高家、於戦場墜命之後、始与義卒軍丹州。天誅革命之日、忽乗鷸蚌之弊快為狼狽之行。若夫非義旗約京高家致死者、尊氏独把斧鉞当強敵乎。退而憶之、渠儂忠非彼、須羞愧亡卒之遺骸。今以功微爵多、頻猜義貞忠義。剰暢讒口之舌、巧吐浸潤之譖。其愬無不一入邪路。義貞賜朝敵御追罰倫旨初起于上野者五月八日也。尊氏付官軍殿攻六波羅同月七日也。都鄙相去八百余里、豈一日中得伝言哉。而義貞京洛听敵軍破挙旌之由載于上奏、謀言乱真、豈禁乎。其罪一。尊氏長男義詮才率百余騎勢還入鎌倉者、六月三日也。義貞随百万騎士、立亡凶党者、五月二十二日也。而義詮為三歳幼稚之大将致合戦之由、掠上聞之条、雲泥万里之差違、何足言。其罪二。仲時・時益等敗北之後、尊氏未被勅許、自専京都之法禁誅親王之卒伍、非司行法之咎、太以不残。其罪三。兵革後蛮夷未心服、本枝猶不堅根之間、奉下竹苑於東国、已令苦柳営于塞外之処、尊氏誇超涯皇沢、欲与立。 |
(これは新田義貞による尊氏批判奏状である)そもそも神武天皇が剣で天下を平定し、聖なる文徳によって宇宙を治めたように。ところが源家の末裔たる兄弟・尊氏と直義は、役立たずの木のような卑しい本性を恥とも思わず、共に高い官位を得ている。彼らの功績など聞けば笑いが出るほどだ。 太平(建武政権)が始まった頃には山川も震動するほどの戦乱で各地に敵がいた。南に楠木正成が立ち、西に赤松円心がいる上、四方の夷族が蜂起し朝廷軍は虎視眈々と狙っていた。この時尊氏は東国の武士たちを率いて上洛したものの、官軍優勢を見て密かに保身を図った。決断できず傍観していた折り、名越高家(足利側武将)が戦死すると初めて丹波で挙兵し「天誅」と称して革命に乗じたのだ──まさに漁夫の利を得る狡い行いである。 もし高家が京都防衛のために命を落としていなければ、尊氏一人では強敵に対抗できなかっただろう。退いて考えれば彼らは忠義などなく、戦死者たちの遺骸こそ恥ずべきだ。ところが功績少ないのに高位を得て、今や新田義貞の忠義さえ疑い讒言を撒き散らしている。その訴えの全てが邪道に外れている。 第一の罪:後醍醐天皇から朝敵追討令が出たのは5月8日だが、尊氏が官軍として六波羅攻めしたと称するのは同7日だ。都鄙(京都-上野)800里を一日で連絡可能か?虚偽報告である。 第二の罪:義詮(尊氏長男)が百騎余り引き連れて鎌倉に戻ったのは6月3日だが、新田軍百万騎(大部隊)が北条残党を討ったのは5月22日だ。この幼児大将伝説は事実と雲泥の差がある。 第三の罪:仲時ら六波羅勢敗退後も勅許なく京都で法禁を独断し親王兵士すら処刑した──越権行為甚だしい! 戦乱終結直後に蛮夷が未服従の中、朝廷は東国に竹御所(皇子)を下賜し塞外の幕府開設準備まで進めているのに、尊氏は皇恩を超えんと企てる始末である。 解説【義貞奏状の反駁戦略】
【修辞技術の特徴】**
【背景にある歴史的真実】**
文書の帰結: この奏状提出直後に両派は完全決裂し1335年11月尊氏追討令発布→延元の乱(南北朝戦争)勃発へと至る。次期史料では後醍醐天皇が双方を「朝敵」認定する裁定文書が続く構造となる。 |
| 僭上無礼之過無拠遁。其罪四。前亡余党纔存揚蟷螂忿之日、尊氏申賜東八箇国管領不叙用以往勅裁、養寇堅恩沢、害民事利欲。違勅悖政之逆行、無甚於是。其罪五。天運循環雖無不往而還、成敗帰一統、大化伝万葉、偏出于兵部卿親王智謀。而尊氏構種々讒、遂奉陥流刑訖。讒臣乱国、暴逆誰不悪之。其罪六。親王贖刑事、為l押侈帰正而已。古武丁放桐宮、豈非此謂乎。而尊氏■仮宿意於公議外、奉苦尊体於囹圄中、人面獣心之積悪、是可忍也。孰不可忍乎。其罪七。直義朝臣劫相摸次郎時行軍旅、不戦而退鎌倉之時、窃遣使者奉誅兵部卿親王、其意偏在将傾国家之端。此事隠雖未達叡聞、世之所知遍界何蔵。大逆無道之甚千古未聞此類。其罪八。斯八逆者、乾坤且所不容其身也。若刑措不用者、四維方絶八柱再傾可無益噬臍。抑義貞一挙大軍百戦破堅、万卒死而不顧、退逆徒於干戈下、得静謐於尺寸中。与尊氏附驥尾超険雲、控弾丸殺篭鳥、大功所建、孰与綸言所最矣。尊氏漸為奪天威、憂義士在朝請誅義貞。与義貞傾忠心尽正義、為朝家軽命、先勾萌奏罰尊氏。国家用捨、孰与理世安民之政矣。望請乾臨明照中正、加断割於昆吾利、可令討罰尊氏・直義以下逆党等之由、下賜宣旨、忽払浮雲擁弊将輝白日之余光。義貞誠惶誠恐謹言。 |
(尊氏八つの大罪と義貞の決意) 第四の罪:身分を超えた無礼な過ちは言い逃れできない。 第五の罪:敗残勢力がかすかに抵抗する中、尊氏は東国八カ国の支配権を勅許なく独占し、敵を温存して私利を得た──民を害し欲望に走る勅令違反の暴挙である。 第六の罪:天運は巡り国家統一が成ったのは兵部卿親王(護良親王)の智謀によるのに、尊氏は讒言を重ねて流刑に追い込んだ。国を乱す奸臣の所業こそ憎むべきだ。 第七の罪:親王赦免事件では形式的な帰順工作を行ったが、古代・武丁王(殷)が賢臣を召還した故事とは全く異なる。尊氏は公議を無視し親王を獄中で苦しめた──人面獣心の所業は許されぬ極悪である。 第八の罪:直義が相模次郎時行と対峙中、密かに使者を遣り兵部卿親王を誅殺させた(1335年)。国家転覆を企てる前代未聞の大逆だ──この事実は世に広く知られている。 これら八つの大罪は天地も許さぬ。処罰しなければ国基が崩壊しよう。かたや我々義貞軍団は命を賭して戦い、逆賊を駆逐し寸土の平和を取り戻した。尊氏のような(弾丸で籠の鳥を撃つような)卑劣な功績とは比べものにならぬ。 今、尊氏が朝廷の威光を奪おうと画策し義貞誅殺を求めている中、我々こそ国命を軽んじる賊徒・尊氏直義一派の追討宣旨を請願する。これこそ真の治世安民である。どうか陛下の明断をもって逆党を罰し、浮雲を払い太陽の光を再び輝かせ給え。 解説【八罪告発の核心構造】
【歴史的意義】
【修辞技法の特徴】
【背景にある真実】
文書の帰結: この告発後まもなく義貞が鎌倉へ進軍(1335年12月)。箱根・竹ノ下の戦いで尊氏に敗れるものの、奏状内容は南朝(後醍醐天皇吉野遷幸後)の正当性根拠として永く引用され続けた。次段階では北畠顕家ら反足利勢力が同様の弾劾文書を連鎖発給することとなる。 |
| 建武二年十月日とぞ被書たりける。則諸卿参列して、此事如何可有と僉議有けれ共、大臣は重禄閉口、小臣は憚聞不出言処に、坊門宰相清忠進出て、被申けるは、「今両方の表奏を披て倩案一致之道理、義貞が差申処之尊氏が八逆、一々に其罪不軽。就中兵部卿親王を奉禁殺由初て達上聞。此一事申処実ならば尊氏・直義等罪責難遁。但以片言獄訟事、卒爾に出て制すとも不可止。暫待東説実否尊氏が罪科を可被定歟。」と被申ければ、諸卿皆此儀に被同、其日の議定は終にけり。懸る処に大塔宮の御介妁に付進せ給し南の御方と申女房、鎌倉より帰り上て、事の様有の侭に奏し申させ給ければ、「さては尊氏・直義が反逆無子細けり。」とて、叡慮更に不穏。是をこそ不思議の事と思食す処に、又四国・西国より、足利殿の成るゝ軍勢催促の御教書とて数十通進覧す。就之諸卿重て僉議有て、「此上は非疑処。急に討手を可被下。」とて、一宮中務卿親王を東国の御管領に成し奉り、新田左兵衛督義貞を大将軍に定て国々の大名共をぞ被添ける。元弘の兵乱の後、天下一統に帰して万民無事に誇といへども、其弊猶残て四海未だ安堵の思を不成処に、此事出来て諸国の軍勢共催促に随へば、こは如何なる世中ぞやとて、安き意も無りけり。 |
建武二年十月のことである。(新田義貞の奏状を受けて)すぐに多くの公家たちが参集し、この件をどう扱うべきか議論したものの、高位の大臣たちは俸禄を重んじて黙り込み、下位の役人たちは遠慮して発言せずにいた。その時、坊門宰相清忠が進み出て申し上げた。「今、双方(義貞と尊氏)からの上奏文を見比べて考えたところ、義貞が指摘する足利尊氏の八つの大逆罪は一つひとつ重いものです。特に兵部卿親王を監禁・殺害した件については初めて朝廷に伝えられました。この一件だけでも事実ならば、尊氏や直義らの罪責は逃れられません。ただし証言のみで刑罰を即座に決めるのは適切ではありません。しばらく待って東国からの報告の真偽を確かめ、それから尊氏の罪状を定めるべきでしょう。」と述べたところ、公家たちは皆この意見に賛同し、その日の議論は終了した。 すると間もなく、大塔宮(護良親王)のお世話役であった南の方という女房が鎌倉から帰京し、事実経過をありのまま奏上したので、(後醍醐天皇は)「やはり尊氏と直義の反逆に疑いなし」と述べてご機嫌がさらに険悪になった。この不思議な出来事(女房の報告タイミング)をご不審に思われているところへ、四国・西国から数十通もの足利殿名義による軍勢催促の命令書が届いたため、公家たちは再び協議し、「もはや疑いの余地なし。急ぎ討伐軍を派遣すべきだ」と決定した。こうして一宮(成良親王)を東国管領に任命し、新田左兵衛督義貞を大将軍として各国の大名たちを配下につけた。(建武政権成立後の)元弘の乱後、天下は統一され民衆が平和を喜んだと言えども、その弊害は残り全国で安定感がなかったところへ今回の騒動が起きたため、諸国の軍勢が召集に応じて集まってくる様子を見て、「これは一体どういう世の中か」と人々は安堵する気持ちすら失った。 解説【歴史的転換点】この場面(1335年11月)は前回の新田義貞による「尊氏八罪告発状」を受け、建武政権中枢が初めて足利尊氏追討を正式決定した瞬間である。核心となる展開は: 【政治力学の透視】
【社会影響の描写】
史実的帰結: この決定直後に始まった尊氏追討戦(1335年12月)は箱根・竹ノ下の戦いで義貞軍が敗北し、翌1336年に足利幕府(室町幕府)成立へ繋がる。しかし「八逆罪」告発と本場面での朝廷決断は、南朝(後醍醐天皇系)が自己正当性を主張する根拠として南北朝時代を通じて引用され続けた。 |
| ○節度使下向事 懸ける程に、十一月八日新田左兵衛督義貞朝臣、朝敵追罰の宣旨を下し給て、兵を召具し参内せらる。馬・物具誠に爽に勢ひ有て被出立たり。内弁・外弁・八座・八省、階下に陣を張り、中議の節会被行て、節度を被下。治承四年に、権亮三位中将惟盛を、頼朝進罰の為に被下時、鈴許給りたりしは不吉の例なればとて、今度は天慶・承平の例をぞ被追ける。義貞節度を給て、二条河原へ打出て、先尊氏卿の宿所二条高倉へ舟田入道を指向て、時の声を三度挙させ、流鏑三矢射させて、中門の柱を切落す。是は嘉承三年讚岐守正盛が、義親進討の為に出羽国へ下し時の例也とぞ聞へし。其後一宮中務卿親王、五百余騎にて三条河原へ打出させ給たるに、内裏より被下たる錦の御旌を指上たるに、俄に風烈く吹て、金銀にて打て著たる月日の御紋きれて、地に落たりけるこそ不思議なれ。是を見る者、あな浅猿や、今度御合戦はか/゛\しからじと、忌思はぬ者は無りけり。去程に同日の午刻に、大将新田左兵衛督義貞都を立給ふ。元弘の初に、此人さしもの大敵を亡して忠功人に超たりしかども、尊氏卿君に咫尺し給に依て抽賞さまでも無りしが、陰徳遂に露て、今天下の武将に備り給ければ、当家も他家も推並て偏執の心を失ひつゝ、付不随云者無りけり。 |
続けて11月8日、新田左兵衛督(さひょうえのかみ)義貞が朝廷から朝敵征伐の命令を受け取り、軍勢を率いて宮中に参上した。馬や武具は見事な威勢で整い出発した。朝廷高官たちが階下に陣を取り儀式を行い、任命状を与えた。かつて治承4年(1180年)に源頼朝征伐のために派遣された惟盛へ鈴を渡した前例が不吉だったため、今回は天慶・承平の時代の先例を参考としたのである。義貞は任命状を受け取ると二条河原に出向き、まず足利尊氏の宿所である二条高倉に向けて舟田入道に命じ、鬨(とき)の声を三度あげさせ流鏑馬で矢を三本射させて門柱を切り落とした。これは嘉承3年(1108年)、源義親征伐のために出羽国へ向かった平正盛にならったものと伝えられる。その後、一宮中務卿親王が500騎余りで三条河原に出陣した際に内裏から授かった錦の旗を掲げると、突然激しい風が吹きつけ金銀で打ち付けた月日の紋章が切り落ちて地面へ転がった。これは不思議なことであり、目撃者は皆「なんと不吉だ」「今回の戦はうまくいかないだろう」と縁起を気にした。そうしているうちに同日正午過ぎ、大将軍である新田左兵衛督義貞は京の都を出発した。元弘元年(1331年)当初この人物は大敵を倒し忠功が群を抜いていたのに尊氏卿と親しかったため評価されなかったものの、その実力がついに表に出て今や天下に認められた武将となったので、味方も他者も心から推戴して従わない者は誰一人いなくなった。 解説【儀式の歴史的意義】この場面(1335年11月)は新田義貞が正式な「節度使」(征討軍司令官)に任命され、足利尊氏追討を開始する決定的瞬間である: 【不吉な兆候と人心】
軍事的帰結: 本場面から数日後に始まった東国進軍は、義貞が兵10万を率いたと伝えられる大規模作戦であった。しかし鎌倉奪還直後の体制不安定さ(「当家も他家も推並て」の描写通り諸勢力統制不十分)や物資不足により組織的弱点を露呈し、そのわずか1ヶ月後には足利軍に惨敗する結果となった。 |
| 先当家の一族には、舎弟脇屋右衛門佐義助・式部大夫義治・堀口美濃守貞満・錦折刑部少輔・里見伊賀守・同大膳亮・桃井遠江守・鳥山修理亮・細屋右馬助・大井田式部大輔・大嶋讚岐守・岩松民部大輔・篭沢入道・額田掃部助・金谷治部少輔・世良田兵庫助・羽川備中守・一井兵部大輔・堤宮内卿律師・田井蔵人大夫、是等を宗との一族として末々の源氏三十余人其勢都合七千余騎、大将之前後に打囲たり。他家の大名には、千葉介貞胤・宇都宮治部大輔公綱・菊池肥後守武重・大友左近将監・厚東駿河守・大内新介・佐々木塩冶判官高貞・同加治源太左衛門・熱田摂津大宮司・愛曾伊勢三郎・遠山加藤五郎・武田甲斐守・小笠原信濃守・高山遠江守・河越三河守・皃玉庄左衛門・杉原下総守・高田薩摩守義遠・藤田三郎左衛門・難波備前守・田中三郎衛門・舟田入道・同長門守・由良三郎左衛門・同美作守・長浜六郎左衛門・山上六郎左衛門・波多野三郎・高梨・小国・河内・池・風間、山徒には道場坊、是等を宗との兵として諸国の大名三百二十余人、其勢都合六万七千余騎、前陣已に尾張の熱田に著ければ後陣は未だ相坂の関、四宮河原に支たり。東山道の勢は搦手なれば、大将に三日引下て都を立けり。其大将には、先大智院宮・弾正尹宮・洞院左衛門督実世・持明院兵衛督入道々応・園中将基隆・二条中将為冬、侍大将には、江田修理亮行義・大館左京大夫氏義・嶋津上総入道・同筑後前司・饗庭・石谷・猿子・落合・仁科・伊木・津志・中村・々上・纐纈・高梨・志賀・真壁十郎・美濃権介助重、是等を宗との侍として其勢都合五千余騎、黒田の宿より東山道を経て信濃国へ入ければ、当国の国司堀河中納言二千余騎にて馳加る。 |
先代(新田家)一族として弟・脇屋義助(右衛門佐)、式部大夫義治、堀口貞満(美濃守)、錦折刑部少輔、里見伊賀守とその兄弟大膳亮、桃井遠江守、鳥山修理亮、細屋右馬助、大井田式部大輔、大嶋讚岐守、岩松民部大輔、篭沢入道、額田掃部助、金谷治部少輔、世良田兵庫助、羽川備中守、一井兵部大輔、堤宮内卿律師、田井蔵人大夫らがおり、これら宗家親族と末裔の源氏三十余名で総勢七千余騎を大将軍の前後に取り囲んだ。他家の大名としては千葉貞胤(介)、宇都宮公綱(治部大輔)、菊池武重(肥後守)、大友左近将監、厚東駿河守、大内新介、佐々木高貞(塩冶判官)と同族加治源太左衛門、熱田摂津大宮司、愛曾伊勢三郎、遠山加藤五郎、武田甲斐守、小笠原信濃守、高山遠江守、河越三河守、皃玉庄左衛門、杉原下総守、高田義遠(薩摩守)、藤田三郎左衛门、難波備前守、田中三郎衛門、舟田入道と同族長門守、由良三郎左衛門と同族美作守、長浜六郎左衛門、山上六郎左衛門、波多野三郎ら高梨・小国・河内・池・風間各家、山岳勢力からは道場坊などが参集し、これら諸国の大名三百二十余名で総勢六万七千余騎に達した。先陣が尾張熱田に着いた時点で後陣はまだ相坂の関(関ヶ原)と四宮河原にかかっていた。東山道方面軍は別働隊として大将軍より三日遅れで京を出発し、指揮官には大智院宮・弾正尹宮・洞院実世(左衛門督)・持明院入道道応(兵衛督)・園基隆(中将)・二条為冬(中将)、侍大将として江田行義(修理亮)・大館氏義(左京大夫)・嶋津上総入道と同族筑後前司、饗庭・石谷・猿子・落合・仁科・伊木・津志・中村・々上・纐纈・高梨・志賀・真壁十郎・美濃権介助重らが率いる五千余騎であった。黒田宿より東山道を経て信濃国に入ると、当地の国司である堀河中納言(基具)二千余騎が加勢した。 解説【軍団構成の特徴】
【進軍規模と戦略的課題】
【歴史的資料価値】
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| 其勢を合せて一万余騎、大井の城を責落して同時に鎌倉へ寄んと、大手の相図をぞ待たりける。討手の大勢已に京を立ぬと鎌倉へ告ける人多ければ、左馬頭直義・仁木・細河・高・上杉の人々、将軍の御前へ参じて、「已に御一家傾申されん為に、義貞を大将にて、東海・東山の両道より攻下候なる。敵に難所を被超なば、防戦共甲斐有まじ。急矢矯・薩■山の辺に馳向て、御支候へかし。」と被申ければ、尊氏卿黙然として暫は物も不宣。良有て、「我譜代弓箭の家に生れ、僅に源氏の名を残すといへ共、承久以来相摸守が顧命に随て汚家羞名恨を積だりしを、今度継絶職達征夷将軍望、興廃位極従上三品。是臣が依微功いへども、豈非君厚恩哉。戴恩忘恩事は為人者所不為也。抑今君の有逆鱗処は、兵部卿親王を奉失たると、諸国へ軍勢催促の御教書を下したると云両条の御咎め也。是一も尊氏が所為に非ず。此条々謹で事の子細を陳申さば、虚名遂に消て逆鱗などか静かならざらん。旁は兎も角も身の進退を計ひ給へ。於尊氏向君奉て引弓放矢事不可有。さても猶罪科無所遁、剃髪染衣の貌にも成て、君の御為に不忠を不存処を、子孫の為に可残。」と気色を損じて宣もはてず、後の障子を引立て、内へぞ入給ける。懸りしかば、甲冑を帯して参集たる人々、皆興を醒して退出し、思の外なる事哉と私語かぬ者ぞ無りける。 |
合流した軍勢一万余騎が大井城(信濃国)を攻め落とした後、同時に鎌倉へ進撃しようと主力部隊からの合図を待っていた。ところで追討軍の大軍が京都を発ったとの情報が早くも鎌倉に伝わってきたため、左馬頭足利直義や仁木頼章・細川定禅・高師直・上杉憲顥らは将軍(足利尊氏)のもとに参じ、「すでに御家門が滅ぼされようとしているので新田義貞を大将として東海道と東山道の両方から攻め下ってくるようです。敵に要害を突破されたら防戦も無意味です。急いで矢矯(やはぎ)・薩■山(さつきやま、鎌倉近郊)付近に向かい迎撃なさるべきでしょう」と進言した。すると尊氏卿は黙り込みしばらく何も語らず、ようやく「私は代々弓矢の家に生まれ辛うじて源氏の名を残してきたが、承久の乱以来(北条)相模守への服従により汚名と恨みを積んできた。今回、滅びかけた家門を継ぎ征夷大将軍として出世したのは天皇陛下の厚恩によるものだ。恩を受けて忘れることは人の道に反する。そもそも陛下がお怒りになる点は兵部卿宮(護良親王)殺害と諸国へ軍事動員令状を発したことだが、これらは私の意思ではない。この事情を謹んで説明すれば虚偽の噂も消え御不興も収まるだろう。いずれにせよ我が身の進退については熟慮するつもりだ。尊氏が天子に対して弓矢を引くことはありえない。それでもなお罪から逃れられぬなら剃髪して僧となり、陛下への忠誠心と子孫のために汚名を残さぬ覚悟である」と言葉の途中で表情を曇らせ奥座敷へ引き上げた。このため甲冑姿で集まった将兵たちは意気消沈し退去するとともに「予想外のことだ」と囁き合わない者はいなかった。 解説【場面の歴史的背景】
【発言の政治的意図】
【史料価値と人物描写】
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| 角て一両日を過ける処に、討手の大将一宮を始め進せて、新田の人々三河・遠江まで進ぬと騒ぎければ、上杉兵庫入道々勤・細河阿波守和氏・佐々木佐渡判官入道々誉、左馬頭殿の御方へ参て、「此事如何可有。」と評定しけるに、「将軍の仰もさる事なれども、如今公家一統の御代とならんには、天下の武士は、指たる事もなき京家の人々に付順て、唯奴婢僕従の如なるべし。是諸国の地頭・御家人の心に憤り、望を失といへども、今までは武家棟梁と成ぬべき人なきに依て、心ならず公家に相順者也。されば此時御一家の中に思召し立御事ありと聞たらんに、誰か馳参で候べき。是こそ当家の御運の可開初にて候へ。将軍も一往の理の推処を以加様に仰候とも、実に御身の上に禍来らばよもさては御座候はじ。兎やせまし角や可有と長僉議して、敵に難所を越されなば後悔すとも益あるまじ。将軍をば鎌倉に残し留め奉て左馬頭殿御向候へ。我等面々に御供仕て、伊豆・駿河辺に相支へ、合戦仕て運の程を見候はん。」と被申ければ、左馬頭直義朝臣不斜喜で、軈て鎌倉を打立て、夜を日に継で被急けり。相随ふ人々には、吉良左兵衛督・同三河守・子息三河三郎・石堂入道・其子中務大輔・同右馬頭・桃井修理亮、上杉伊豆守・同民部大輔・細河陸奥守顕氏・同形部大輔頼春・同式部大夫繁氏・畠山左京大夫国清・同宮内少輔・足利尾張右馬頭高経・舎弟式部大夫時家・仁木太郎頼章・舎弟二郎義長・今河修理亮・岩松禅師頼有・高武蔵守師直・越後守師泰・同豊前守・南部遠江守・同備前守・同駿河守・大高伊予守、外様の大名には、小山判官・佐々木佐渡判官入道々誉・舎弟五郎左衛門尉・三浦因幡守・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・宇都宮遠江守・佐竹左馬頭義敦・舎弟常陸守義春・小田中務大輔・武田甲斐守・河超三河守・狩野新介・高坂七郎・松田・河村・土肥・土屋、坂東の八平氏、武蔵七党を始として、其勢二十万七千余騎、十一月二十日鎌倉を打立て、同二十四日三河国矢矯の東宿に著にけり。 |
さて一両日過ぎたところで、追討軍の大将である新田義貞(一宮)率いる主力部隊が進み始め、新田一族らは三河・遠江まで侵攻したとの騒ぎがあったため、上杉兵庫入道道勤・細川阿波守和氏・佐々木佐渡判官入道道誉の三人が左馬頭(足利直義)のもとへ参じ、「この事態をどうすべきか」と評定した。その席で言われたことには「将軍(尊氏)のお考えもごもっともだが、もし朝廷中心の世の中になれば天下の武士は取るに足らない公家たちの下につき奴婢や僕従のような扱いを受けるだろう。これは各地の地頭・御家人が憤慨し不満を抱く原因であるとは言え、これまでは武家の棟梁となる人物がいなかったため仕方なく朝廷に従ってきたのだ。だからこそ今この時、我ら足利一門の中から立派な方が立ち上がると聞けば誰もが馳せ参じるであろう。これはまさに我が家の運勢を開く初めとなるはずだ。将軍は一時的な道理でそのようにおっしゃっているものの、実際に御身に災いが及ぶとなればそうはいかないだろう。あれこれ議論している間に敵に要害を越されれば後悔しても遅い。将軍は鎌倉にお残し申し上げて左馬頭殿自ら出陣なさいませ。我々もお供して伊豆・駿河付近で防戦し合戦の結果を見極めましょう」と進言したので、足利直義卿は大いに喜びすぐに鎌倉を発ち夜を日についで急行された。これに従った者たちには吉良左兵衛督・同三河守・その子息三河三郎・石堂入道・その子中務大輔・同右馬頭・桃井修理亮、上杉伊豆守・同民部大輔・細川陸奥守顕氏・同形部大輔頼春・同式部大夫繁氏・畠山左京大夫国清・同宮内少輔・足利尾張右馬頭高経・その弟式部大夫時家・仁木太郎頼章・その弟二郎義長・今河修理亮・岩松禅師頼有・高武蔵守師直・越後守師泰・同豊前守・南部遠江守・同備前守・同駿河守・大高伊予守がおり、外様の大名では小山判官・佐々木佐渡判官入道道誉・その弟五郎左衛門尉・三浦因幡守・土岐弾正少弼頼遠・その弟道謙・宇都宮遠江守・佐竹左馬頭義敦・その弟常陸守義春・小田中務大輔・武田甲斐守・河超三河守・狩野新介・高坂七郎・松田氏・河村氏・土肥氏・土屋氏、さらに坂東八平氏や武蔵七党を始めとして総勢二十万七千余騎に上り、十一月二十日に鎌倉を出発し同月二十四日には三河国矢矯(現愛知県岡崎市付近)の東宿へ到着した。 解説【政治決断と軍事行動】
【参陣武将の歴史的位置付け】
【文脈的展開との整合性】
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| ○矢矧、鷺坂、手超河原闘事 去程に十一月二十五日の卯刻に、新田左兵衛督義貞・脇屋右衛門佐義助、六万余騎にて矢矧河に推寄、敵の陣を見渡せば、其勢二三十万騎もあるらんと覚敷て、自河東、橋の上下三十余町に打囲で、雲霞の如に充満たり。左兵衛督義貞、長浜六郎左衛門尉を呼て、「此河何くか渡つべき処ある、委く見て参れ。」と宣ければ、長浜六郎左衛門只一騎河の上下を打廻り、軈て馳帰て申けるは、「此河の様を見候に、渡つべき所は三箇所候へ共、向の岸高して屏風を立たるが如くなるに、敵鏃を汰て支て候。されば此方より渡ては、中々敵に利を被得存候。只且河原面に御磬候て敵を被欺ば、定て河を渡てぞ懸り候はんずらん。其時相懸りに懸て、河中へ敵を追て手痛くあつる程ならば、などか勝事を一戦に得では候べき。」と申ければ、諸卒皆此義に同じて、態敵に河を渡させんと河原面に馬の懸場を残し、西の宿の端に南北二十余町に磬て、射手を河中の州崎へ出し、遠矢を射させてぞ帯きける。案に不違吉良左兵衛佐・土岐弾正少弼頼遠・佐々木佐渡判官入道、彼此其勢六千余騎、上の瀬を打渡て、義貞の左将軍、堀口・桃井・山名、里見の人々に打て懸る。官軍五千余騎相懸りに懸て、互に命を不惜火を散て責戦ふ。 |
さて11月25日早朝、新田義貞(左兵衛督)と脇屋義助(右衛門佐)が6万余騎の軍勢で矢矧川に迫り敵陣を見渡したところ、その兵力は20万から30万にも及ぶと思われた。彼らは川東の橋周辺約2kmを包囲し雲霞のように密集していた。義貞は長浜六郎左衛門尉を呼び「この川で渡河可能な場所があるか詳しく偵察せよ」と命じると、同氏が単騎で川上から下まで巡視してすぐに戻り報告した。「観察しましたところ渡れる地点は三箇所あります。しかし対岸の地勢が高く屏風を立てたような地形で敵軍が矢を構えて待ち構えています。こちら側からの強行渡河ではかえって敵に有利となりますでしょう。むしろ我々はあえて河原に陣形を示して偽装し、敵をおびき出させておいてから一気に川を渡り攻撃するのがよろしいかと存じます。その時こそ必死の突撃で敵を河中へ追い落とせば、たった一度の合戦で勝利を得られるはずです」。この進言に全軍が賛同し、わざと川渡りさせるべく河原には馬場を残して西側宿営地の端から南北約2kmに陣形を張り巡らせ、射手たちは中州へ配置され遠矢を放ち始めた。案の定吉良左兵衛佐・土岐頼遠(弾正少弼)・佐々木道誉(佐渡判官入道)らの軍勢6,000余騎が上流から渡河し、義貞方の堀口氏・桃井氏・山名氏・里見氏ら左翼部隊に襲いかかった。朝廷側5,000余騎は命を惜しまず突撃し合い火の粉が散るような激しい戦闘となった。 解説【作戦と地理的特性】
【戦術的実態の推察】
【登場武将群の役割】
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| 吉良左兵衛佐の兵三百余騎被討て、本陣へ引退けば、官軍も二百余騎ぞ被討ける。二番には高武蔵守師直・越後守師泰、二万余騎にて橋より下の瀬を渡して、義貞の右将軍、大嶋・額田・篭沢・岩松が勢に打懸る。官軍七千余騎、喚いて真中に懸入て、東西南北へ懸散し、半時許ぞ揉合ひける。高家の兵又五百余騎被討て、又本陣へ引退く。三番に仁木・細川・今河・石塔一万余騎下の瀬を渡て、官軍の総大将新田義貞に打て懸りたり。義貞は兼てより馬廻に勝れたる兵を七千余騎囲ませて、栗生・篠塚・名張八郎とて、天下に名を得たる大力を真先に進ませ、八尺余の金棒に、畳楯の広厚きを突双べ、「縦ひ敵懸るとも謾に不可懸、敵引とも、四度路に不可追。懸寄せては切て落せ。中を破んとせば、馬を透間もなく打寄せて轡を双べよ。一足も敵には進むとも退く心不可有。」と、諸軍を諌て被下知ける。敵一万余騎、陰に閉て囲まんとすれども不囲、陽に開て懸乱さんとすれども敢て不乱、懸入ては討れ、破て通ば切て被落さ、少しも不漂戦ける間、人馬共に気疲れて、左右に分て磬たる処に、総大将義貞・副将軍義助七千余騎にて、香象の浪を蹈で大海を渡らん勢ひの如く、閑に馬を歩ませ、鋒を双て進みける間、敵一万余騎、其勢ひに辟易して河より向へ引退き、其勢若干被討にけり。 |
さて吉良左兵衛佐(貞家)の軍勢300余騎が討たれて本陣へ退却すると、官軍(新田方)も200余騎が犠牲となった。第二波として高師直(武蔵守)と高師泰(越後守)は2万余騎で橋より下流を渡り、義貞の右翼部隊である大嶋・額田・篭沢・岩松らの軍勢に攻めかかった。官軍7,000余騎が叫びながら中央へ突入し四方へ散開して約1時間もみ合った後、高家(師直ら)の兵はまた500余騎討たれて本陣へ引き下がる。第三波として仁木・細川・今河・石塔らの軍勢10,000余騎が渡り、官軍総大将新田義貞に襲いかかった。これに対し義貞は、あらかじめ精鋭を7,000余騎選抜して包囲態勢を取り、「栗生」「篠塚」の名張八郎という天下に名高い大力士を先頭に立てた。彼は8尺(約2.4m)以上の金棒で畳のように分厚い盾を突き破りながら進む。「たとえ敵が攻めて来ても軽率に対応するな、退いても深追いして四辻まで行くな。接近したら斬って落とせ。突破しようとするなら馬の隙間なく押し寄せ手綱を揃えて突け。一歩でも前に進むことはあっても後退は決して考えるな」と言葉で全軍に諭し指示を与えたのである。敵10,000余騎が陰険に包囲しようとしても新田軍は乱れず、陽気に見せかけて混乱を誘おうとも敢然と耐え続けたため、攻めれば撃破され通り抜ければ斬り落されるうちに人馬ともに疲労し左右へ分かれて陣取った。その時総大将義貞・副将の脇屋義助率いる7,000余騎が巨像(香象)が波を踏んで大海原を行くかの如き威風で悠然と進み、先鋒を揃えて押し寄せると敵10,000余騎はその勢いに恐れ河向こうへ退却し若干数の犠牲が出た。 解説【戦術的推移の特徴】
【指揮官の采配】
【兵力数値の信憑性】
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| 日已に暮ければ、合戦は明日にてぞ有んずらんと、鎌倉勢皆河より東に陣を取て居けるが、如何思けん、爰にては不叶とて其夜矢矯を引退、鷺坂に陣をぞ取たりける。懸処に宇都宮・仁科・愛曾伊勢守・熱田摂津大宮司、後れ馳にて三千余騎、義貞の陣に著たりけるが、矢矧の合戦に不合事を無念に思て、打寄と等しく鷺坂へ推寄せて、矢一をも不射、抜連て責たりける。引立たる鎌倉勢、鷺坂をも又被破て、立足もなく引けるが、左馬頭直義朝臣兵二万余騎荒手にて馳著たり。敗軍是に力を得て手超に陣をぞ取たりける。同十二月五日、新田義貞、矢矧・鷺坂にて降人に出たりける勢を合て八万余騎、手越河原に打莅で敵の勢を見給へば、荒手加はりたりと覚へて見しより大勢也。「縦何百万騎の勢加はりたりとも、気疲れたる敗軍の士卒半ば交はて、跡より引かば、敵立直す事不可有、只懸て見よ。」とて、脇屋右衛門佐義助・千葉介・宇都宮六千余騎にて、手超河原に推寄て、東西へ渡つ渡されつ、午刻の始より、酉の下まで、十七度までぞ戦たる。夜に入けるば、両方人馬を休めて、河を隔て篝を焼、初は月雲に隠れて、夜已に深にければ、義貞の方より、究竟の射手を勝て、薮の陰より敵の陣近く忍び寄り、後陣に磬たる勢の中へ、雨の降如く込矢をぞ射たりける。 |
日がすっかり暮れたため、「決着は明日になろう」と考え、鎌倉軍(足利方)全員が川東側に布陣していた。ところが何を思ったか「ここでは勝機がない」と判断し、その夜のうちに矢矧から撤退して鷺坂へ移って陣取ったのである。ちょうどその時、宇都宮・仁科・愛曾伊勢守(あいそいせのかみ)・熱田摂津大宮司らが遅れて駆けつけた3,000余騎の軍勢が義貞本隊に到着した。彼らは矢矧合戦に間に合わなかったことを悔やみ、全軍一致して鷺坂へ押し寄せたのだが、一本も矢を射ることなく一気に刀を抜いて突撃したのである。撤退中だった鎌倉軍は鷺坂でも打ち破られ、足場を失うまま敗走する中、左馬頭(さまのかみ)直義朝臣の主力20,000余騎が慌ただしく到着した。これで退却部隊は勢いを取り戻し、手超河原に陣を構えたのであった。同年12月5日、新田義貞は矢矧・鷺坂での降伏兵も吸収して総勢80,000余騎となり、手越河原へ進軍したところ敵情を見渡すと、援軍が加わったためか以前より大兵力になっていた。「たとえ何百万の増援があろうとも、疲れ切った敗残兵を半数も混ぜておき、後退すれば立て直せまい。まずは攻めてみよ」と言って、脇屋義助(右衛門佐)・千葉介・宇都宮ら6,000余騎に命じ手越河原へ進撃させた。彼らは東西を行き来しながら午前11時頃から夕方5時過ぎまで、実に17度も激突を繰り返したのである。夜になると両軍とも人馬を休め、川を挟んでかがり火を焚いた。初めのうち月は雲に隠れていたが、夜が更けると義貞側から選抜した熟練射手たちが藪陰から敵陣へ忍び寄り、後方部隊に向けて雨のように矢を射込んだ。 解説【戦況転換のポイント】
【12月5日決戦の特徴】
【夜襲の新機軸】
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| 数万の敵是に周章騒で跡より引ける間、荒手の兵共、命を軽ずる勇士共、「是は如何なる事ぞ、返せ/\。」と云ながら、落行勢に被引立て鎌倉までぞ落たりける。されば新田義貞度々の軍に打勝て、伊豆の府に著給へば、落行勢共巻弦脱冑降人に出る者数を不知。宇都宮遠江入道、元来総領宇都宮京方に有しかば、縁にふれて馳著たり。佐々木佐渡判官入道、太刀打して痛手数た所に負ふ。舎弟五郎左衛門は手超にて討れしかば、世の中さてとや思けん。降参して義貞の前陳に打けるが、後の筥根の合戦の時又将軍へは参ける。官軍此時若足をもためず、追懸たらましかば、敵鎌倉にも怺ふまじかりけるを、今は何と無くとも、東国の者共御方へぞ参らんずらん、其上東山道より下りし搦手の勢をも可待とて、伊豆の府に被逗留けるこそ、天運とは云ながら、薄情かりし事共なり。猿程に足利左馬頭直義朝臣は、鎌倉に打帰て、合戦の様を申さん為に、将軍の御屋形へ被参たれば、四門空く閉て人もなし。あらゝかに門を敲て、「誰か有。」と問給へば、須賀左衛門出合て、「将軍は矢矧の合戦の事を聞召候しより、建長寺へ御入候て、已に御出家候はんと仰候しを、面々様々申留めて置進せて候。御本結は切せ給て候へども、未だ御法体には成せ給はず。 |
何万もの敵兵がこれを見て慌てふためいて敗走し始めると、新参の兵や死を恐れぬ勇士たちは「これは何事だ!引き返せ!」と叫びながらも退却する軍勢に巻き込まれ鎌倉まで落ち延びた。こうして新田義貞が連戦で勝利し伊豆国府(現・三島市)へ到着すると、敗残兵たちは弓を納め甲冑を脱いで投降者が数知れず現れた。宇都宮遠江入道(出家名)は元々一族の棟梁である宇都宮氏が朝廷側だった縁から駆けつけた。佐々木佐渡判官入道は斬り合いで重傷を負い、弟の五郎左衛門が手越河原で討たれたため「もはやこれまでか」と悟ったのだろう。降伏して義貞に面会したものの、後に箱根の戦いでは再び足利方へ寝返ることになる。(中略)朝廷軍(新田勢)がこの時躊躇せず追撃していれば敵は鎌倉すら守れなかったのに、「今さら問題ない。関東武士も味方に付くだろうし、何より東山道から回る別働隊を待つべきだ」と伊豆国府で停滞したのは運命とはいえ浅慮な判断だった。一方その間に足利直義(左馬頭)は鎌倉へ戻り戦況報告のため尊氏邸へ向かうが、門は固く閉ざされ人影もない。激しく扉を叩き「誰かいないのか?」と叫ぶと須賀左衛門が出て来て言った:「将軍(尊氏)様は矢矧の敗戦を知り建長寺に入られ出家なさろうとしたのですが、一同が必死に引き止めています。髻(もとどり)を切られたものの未だ正式な僧侶にはなっていません」。 解説【戦局転換の心理描写】
【義貞の決断批判】
【尊氏出家未遂の象徴性】
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| 」とぞ申ける。左馬頭・高・上杉の人々是を聞て、「角ては弥軍勢共憑みを失ふべし。如何せん。」と仰天せられけるを、上杉伊豆守重能且思案して、「将軍縦ひ御出家有て法体に成せ給候共、勅勘遁るまじき様をだに聞召候はゞ、思召直す事などか無て候べき。謀に綸旨を二三通書て、将軍に見せ進せ候はゞや。」と被申ければ、左馬頭、「兎も角も事のよからん様に計ひ沙汰候へ。」とぞ被任たりける。伊豆守、「さらば。」とて、宿紙を俄に染出し、能書を尋て、職事の手に少しも不違是を書。其詞に云、足利宰相尊氏、左馬頭直義以下一類等、誇武威軽朝憲之間、所被征罰也。彼輩縦雖為隠遁身、不可寛刑伐。深尋彼在所、不日可令誅戮。於有戦功者可被抽賞、者綸旨如此。悉之以状。建武二年十一月二十三日右中弁光守武田一族中小笠原一族中へと、同文章に名字を替て、十余通書てぞ出したりける。左馬頭直義朝臣是を持て急建長寺へ参り給て、将軍に対面有て泪を押へて宣ひけるは、「当家勅勘の事、義貞朝臣が申勧るに依て、則新田を討手に被下候間、此一門に於ては、縦遁世降参の者なり共、求尋て可誅と議し候なる。叡慮の趣も、又同く遁るゝ所候はざりける。先日矢矧・手超の合戦に討れて候し敵の膚の守りに入て候し綸旨共、是御覧候へ。 |
須賀左衛門はそう報告した。これを聞いた足利直義(左馬頭)、高師直、上杉氏の人々は「これではますます軍勢が頼りを失うだろう。どうすればよいか」と仰天したところ、上杉重能(伊豆守)は考え込んで言った。「将軍様(尊氏)が仮に出家して僧になられても、『勅勘(天皇の咎め)から逃れられない』とご理解いただければお気持ちも変わるでしょう。策略として偽の綸旨を二、三通書き、それを差し上げてはどうか」。すると直義が「ともあれ事態が好転するように取り計らえ」と命じたので、重能は承諾して急いで書類用紙を取り出し、筆跡の巧みな者を探し書記官に少しも違和感ないよう偽造させた。その文面には「足利尊氏(宰相)・直義以下一族らが武力を誇り朝廷を軽んじたため征伐するものなり。彼らは仮に隠遁しても処罰を免れず、居場所を探し出して速やかに誅殺せよ。戦功ある者には褒賞を与える」と記されていた。(末尾に)「綸旨これの如し 以上 建武二年十一月二十三日 右中弁光守(花押)」として、同じ文面で名字を武田一族・小笠原一族など十数通分書き換え配布した。直義はこれを手に急ぎ建長寺へ赴き尊氏と対面し、涙を抑えて訴えた。「我が家への勅罰問題は新田義貞の進言によるもので、彼らは『足利一門は出家や降伏者も探し出して殺せ』と決めています。天皇のお気持ちも全く逃れ道がないのです(証拠として)先日矢矧・手越河原の戦いで討たれた敵兵の懐から見つかった綸旨をご覧ください」。 解説【偽綸旨工作の意図と心理】
【偽造技術と歴史的背景】
【尊氏復帰劇への伏線】
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| 加様に候上は、とても遁ぬ一家の勅勘にて候へば、御出家の儀を思召翻されて、氏族の陸沈を御助候へかし。」と被申ければ、将軍此綸旨を御覧じて、謀書とは思も寄り給はず。「誠さては一門の浮沈此時にて候ける。さらば無力。尊氏も旁と共に弓矢の義を専にして、義貞と死を共にすべし。」とて、忽に脱道服給て、錦の直垂をぞ被召ける。されば其比鎌倉中の軍勢共が、一束切とて髻を短くしけるは、将軍の髪を紛かさんが為也けり。さてこそ事叶はじとて京方へ降参せんとしける大名共も、右往左往に落行んとしける軍勢も、俄に気を直して馳参ければ、一日も過ざるに、将軍の御勢は三十万騎に成にけり。 ○箱根竹下合戦事 去程に同十二月十一日両陣の手分有て、左馬頭直義箱根路を支へ、将軍は竹下へ向べしと被定にけり。此間度々の合戦に打負たる兵共、未気を直さで不勇、昨日今日馳集たる勢は、大将を待て猶予しける間、敵已に伊豆の府を打立て、今夜野七里山七里を超ると聞しかば、足利尾張右馬頭高経・舎弟式部大夫・三浦因幡守・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・佐々木佐渡判官・赤松雅楽助貞則、「加様に目くらべして、鎌倉に集り居ては叶まじ、人の事はよし兎も角もあれ、いざや先竹下へ馳向て、後陣の勢の著ぬ先に、敵寄せば一合戦して討死せん。 |
尊氏がこの言葉を聞くと、「まさに一族の命運は今ここにかかっているのだな。ならば仕方ない。尊氏、改めて弓矢を執って義貞と生死を共にするまでだ」と言い、たちまち道服(僧衣)を脱ぎ捨て錦の直垂(上着)を召した。こうして鎌倉中の兵士たちが「一束切り」(髻を短く切る風習)で髪型を変えたのは、将軍の断髪を隠すためだった。もはやこれまでと朝廷側へ降伏しようとした大名たちも、右往左往しながら敗走していた兵士たちも、急に意気込み直して駆けつけたため、一日もしないうちに尊氏軍は三十万騎に膨れ上がった。 (箱根竹ノ下の戦い) 解説【尊氏復帰劇の心理的効果】
【合戦前夜の士気描写】
【歴史的事件の位置付け】
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| 」とて、十一日まだ宵に竹下へ馳向ふ。其勢僅なりしかば、物冷しくぞ見へたりける。されども義を守る勇士共なれば、族に多少不可依とて、竹下へ打襄て敵の陣を遥に直下たれば、西は伊豆の府、東は野七里山七里に焼双べたる篝火の数幾千万とも不知けり。只晴天の星の影、滄海に移る如く也。さらば御方にも篝火を焼せんとて、雪の下草打払ひ、処々刈集めて幽に火を吹著たれば、夏山の茂みが下に夜を明す、照射の影に不異。されども武運強ければにや、敵今夜は寄来らず。夜已に明なんとしける時、将軍鎌倉を打立せ給へば、仁木・細河・高・上杉、是等を宗との兵として都合其勢十八万騎竹下へ著給へば、左馬頭直義六万余騎にて箱根峠へ著給ふ。去程に、明れば十二日辰刻に、京勢共伊豆の府にて手分して、竹下へは中務卿親王に卿相雲客十六人、副将軍には脇屋治部大輔義助・細屋右馬助・堤卿律師・大友左近将監・佐々木塩冶判官高貞を相副て、已上其勢七千余騎、搦手にて被向けり。箱根路へは又新田義貞宗徒の一族二十余人、千葉・宇都宮・大友千代松丸・菊池肥後守武重・松浦党を始として、国々の大名三十余人、都合其勢七万余騎、大手にてぞ被向ける。同日午刻に軍始まりしかば、大手搦手敵御方、互に時を作りつゝ、山川を傾け天地を動し、叫喚で責戦ふ。 |
このような状況である以上、もはや逃れようのない一族への朝廷からの咎めです。どうかご出家の考えを改めて、一門の滅亡をお救いください。」と直義が申し上げると、尊氏将軍はその綸旨をご覧になり偽物とは全く思わず、「確かに我々一門の命運は今この時に懸かっている。それなら仕方ない。私も改めて弓矢を執り、新田義貞と生死を共にしよう。」と言い、すぐに道服(僧衣)を脱ぎ捨て錦の直垂(武家正装)をお召しになった。そのため当時鎌倉中の兵士たちが「一束切り」として髷を短く切ったのは、将軍の断髪をごまかすためだった。もはやこれまでと朝廷側へ降伏しようとした大名たちも、右往左往しながら敗走していた軍隊も急に意気込み直して駆け参じたので、一日もしないうちに尊氏軍勢は三十万騎に膨れ上がった。 (箱根竹ノ下の戦い) 竹ノ下に陣取り敵軍を見下ろすと、西は伊豆国府から東は野道7里・山道7里にかけて無数の篝火が燃え上がり晴天の星影が海面に映るようだった。そこで味方も篝火を焚こうと雪の積もった草を払い、付近で刈り集めてひそかに点火したところ夏山の茂み下での夜明けのように照らし出された。幸運にも敵はこの夜には押し寄せず、翌12日が明けかけた頃に尊氏将軍が鎌倉を発たれた。仁木・細川・高師直・上杉らの主力部隊合わせ十八万騎が竹ノ下へ到着すると、左馬頭直義も六万余騎で箱根峠へ進んだ。 明けて12日辰刻(午前8時頃)、朝廷軍は伊豆国府で二手に分かれ竹ノ下方面には中務卿親王を中心に公家や僧侶十六人、副将として脇屋義助(治部大輔)・細屋右馬助らが加わり総勢七千余騎が裏手から進撃した。箱根路方面は新田義貞率いる一族二十余人と千葉氏・宇都宮氏らの大名三十余人、計七万余騎が正面攻撃隊として向かった。同日午刻(正午頃)に戦闘が始まると表裏の敵味方が鬨の声を上げ山々を揺るがし天地を震わす勢いで激突した。 解説【軍記物語としての演出効果】
【合戦配置の歴史的意義】
【心理描写の戦略的機能】
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| 去程に、菊池肥後守武重、箱根軍の先懸して、敵三千余騎を遥の峯へ巻上げ、坂中に楯を突双て、一息継て怺へたり。是を見て、千葉・宇都宮・河越・高坂・愛曾・熱田の大宮司、一勢々々陣を取て曳声を出して責上々々、叫喚で戦たり。中にも道場坊助注記祐覚は、児十人同宿三十余人、紅下濃の鎧を一様に著て、児は紅梅の作り花を一枝づゝ甲の真額に挿たりけるが、楯に外れて一陣に進みけるを、武蔵・相摸の荒夷共、「児とも云はず只射よ。」とて、散々に指攻て射ける間、面に進みたる児八人矢庭に倒れて小篠の上にぞ臥たりける。党の者共是を見て、頚を取らんと抜連て打て下けるを、道場坊が同宿共児を討せて何か可怺。三十余人太刀・長刀の鋒を双べて手負の上を飛超々々、「坂本様の袈裟切に成仏せよ。」と云侭に、追攻々々切て廻りける間、武士散々に被切立て、北なる峯へ颯と引と、且し息をぞ継だりける。此隙に祐覚が同宿共、面々の手負を肩に引懸て、麓の陣へぞ下りける。義貞の兵の中に、杉原下総守・高田薩摩守義遠・葦堀七郎・藤田六郎左衛門・川波新左衛門・藤田三郎左衛門・同四郎左衛門・栗生左衛門・篠塚伊賀守・難波備前守・川越参河守・長浜六郎左衛門・高山遠江守・園田四郎左衛門・青木五郎左衛門・同七郎左衛門・山上六郎左衛門とて、党を結だる精兵の射手十六人あり。 |
その時、菊池肥後守武重が箱根路軍の先鋒として敵三千余騎を遥か遠くの峰へ追い上げ、坂道の中ほどに盾を並べて立てると一息ついて踏みとどまった。これを見た千葉・宇都宮・河越・高坂・愛曾(えぞ)・熱田大宮司らが各々陣を取りながら鬨の声をあげて攻め登り、激しく戦った。中でも道場坊覺祐(かくゆう)は童子十人と同宿僧三十余人と共に一様な紅下濃(ひれげぬ)の鎧を着け、童子らには甲冑の前立てに紅梅の造花を一本ずつ挿していたが、盾列から離れて進撃したところ、武蔵・相模の荒武者たちは「子供だからといって容赦するな!皆射ろ!」と言い散々に矢を浴びせかけた。そのため最前線に出た童子八人が即座に倒れ笹原の上に横たわった。仲間の僧兵たちがこれを目撃し首を取ろうと斬り込んで来ると、覺祐ら同宿は「童子を討たれてどうして引き下がれようか」と三十余人が太刀や長刀の刃を揃え、負傷者の上を飛び越えながら追撃。「坂本様(最澄)の袈裟切りで成仏させよ!」と言い放ち斬りまくったため武士たちは散々に切られて北側の峰へ引き上げ、ようやく息をついた。この隙に覺祐ら同宿僧は各自負傷者を肩にかつぎ麓の陣へ下がって行った。 一方、新田義貞軍の中には杉原下総守・高田薩摩守義遠(よしとお)・葦堀七郎・藤田六郎左衛門・川波新左衛門・藤田三郎左衛門・同四郎左衛門・栗生左衛門・篠塚伊賀守・難波備前守・川越参河守(かわごえみかわのかみ)・長浜六郎左衛門・高山遠江守・園田四郎左衛門・青木五郎左衛門・同七郎左衛門・山上六郎左衛門ら、徒党を組んだ精鋭の射手十六人がいた。 解説【戦闘描写の特性】
【人物描写の史的意義】
【兵力構成の現実性】
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| 一様に笠験を付て、進にも同く進み、又引時も共に引ける間、世の人此を十六騎が党とぞ申ける。彼等が射ける矢には、楯も物具もたまらざりければ、向ふ方の敵を射すかさずと云事なし。執事舟田入道は、馳廻て士卒を諌め、大将軍義貞は、一段高き処に諸卒の振舞を被実検ける間、名を重じ命を軽ずる千葉・宇都宮・菊池・松浦の者共、勇進で戦ける間、鎌倉勢馬の足を立兼て、引退者数を不知けり。懸る処に竹下へ被向たる中書王の御勢・諸庭の侍・北面の輩五百余騎、憖武士に先を不被懸とや思けん。錦の御旌を先に進め竹下へ押寄て、敵未一矢も不射先に、「一天君に向奉て曳弓放矢者不蒙天罰哉。命惜くば脱甲降人に参れ。」と声々にぞ呼りける。是を見て尾張右馬頭・舎弟式部大夫・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・三浦因幡守・佐々木佐渡判官入道・赤松筑前守貞則、自宵一陣に有けるが、「敵の馬の立様、旌の紋、京家の人と覚るぞ、矢だうなに遠矢な射そ。只抜連れて懸れ。」とて三百余騎双轡、「弓馬の家に生れたる者は名をこそ惜め、命をば惜まぬ者を。云処虚事か実事か、戦て手並の程を見給へ。」とて一同に時を咄と挙げ、喚てこそ懸たりけれ。官軍は敵をかさに受て麓に引へたる勢なれば、何かは一怺も可怺、一戦にも不及して、捨鞭を打てぞ引たりける。 |
彼らは全員同じ笠印をつけ、進むときも一斉に進み、退く時も共に退いたため、世間ではこれを「十六騎党」と呼んだ。この者たちが放つ矢には盾や鎧すら防ぎきれず、向かう敵を射損じることなどなかった。執事の舟田入道は馬を走らせて兵士を励まし、大将軍・新田義貞は高台から全軍の戦いぶりを見渡していた。その中で名誉を重んじて命を惜しまない千葉氏・宇都宮氏・菊池氏・松浦氏の者たちが勇んで突撃したため、鎌倉勢は馬も満足に動かせず敗走する者が数知れなかった。 ちょうどその時、竹下方面へ向かった中書王(護良親王)の軍勢―諸庭の侍や北面武士ら五百余騎が、「我々だけが武士として先陣を譲るわけにはいかない」と考えたのか。錦の御旗を先頭に押し寄せ、敵が一矢も放つ間もなく「朝廷に弓引く者は天罰を免れぬ!命惜しけらば鎧を脱ぎ降伏せよ!」と声を揃えて叫んだ。 これを見た尾張右馬頭(斯波高経)・弟の式部大夫・土岐弾正少弼頼遠・その弟道謙・三浦因幡守・佐々木佐渡判官入道・赤松筑前守貞則らは、夜通し同じ陣にいた三百余騎で一斉に馬轡を並べ、「敵の旗印は公家方と見える。遠矢など射ずに抜刀突撃だ!弓馬の家に生まれた者は名誉こそ惜しむが命は惜しまぬ者よ。我々の言うことが嘘か真実か、戦って腕前を見せてやれ!」と鬨の声を上げて襲い掛かった。 官軍(新田勢)は敵を盾に引き下がっていたため防ぐ余力もなく、一戦交える間もなく鞭を捨てて敗走したのである。 解説【武士団編成の特質】
【合戦心理描写の技巧】
【戦術描写の史実性】
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| 是を見て土岐・佐々木一陣に進て、「言ばにも似ぬ人々哉、蓬し返せ。」と恥しめて、追立々々責ける間、後れて引兵五百余騎、或は生捕れ或被討、残少に成にけり。手合せの合戦をしちがへて官軍漂て見へければ、仁木・細河・高・上杉の人々勇進で、中書王の御 陣へ会尺もなく打て懸る。されば引漂たる京勢にて、可叶様無りけるを、中書王の副将軍脇屋右衛門佐、「云甲斐なき者共が憖に一陣に進て御方の力を失こそ遺恨なれ。こゝを散さでは叶まじ。」とて、七千余騎を一手になして、馬の頭を雁行に連ねて、旌の足を龍装に進めて、横合に閑々と懸られける。勝誇たる敵なれば何かは少しも疼むべき。十字に合て八字に破る。大中黒と二つ引両と二の旌を入替々々、東西に靡き南北に分れ、万卒に面を進め一挙に死をぞ争ひける。誠に両方名を被知たる兵共なれば誰かは独も可遁。互に討つ討れつ、馬の蹄を浸す血は混々として洪河の流るゝが如く也。死骸を積める地は、累々として屠所の肉の如く也。無慙と云も疎也。爰に脇屋右衛門佐子息式部大夫とて、今年十三に成けるが、敵御方引分れける時、如何して紛れたりけん、郎等三騎相共に敵の中にぞ残りける。此人幼稚なれども心早き人にて、笠符引切て投捨、髪を乱し顔に振懸て、敵に不被見知とさはがぬ体にてぞ御坐ける。 |
これを見た土岐頼遠と佐々木勢は一斉に進み出て、「口先ばかりで実力のない連中め、恥を知れ!」と嘲りながら追撃した。取り残された敗走兵五百余騎は捕らえられるか討たれるかの末、ほとんど全滅してしまった。一方、戦線が混乱し官軍(新田勢)が浮足立っているのを見て仁木氏・細川氏・高氏・上杉氏らの武士たちは猛然と突撃し、中書王(護良親王)の本陣へ瞬く間に迫った。浮き足立つ京方には抗する術もなく、副将軍の脇屋義助(右衛門佐)が「無謀にも前線に出て味方を弱らせるとは!ここで踏みとどまらねばならぬ」と言い放ち七千余騎を一手にまとめた。馬列を雁行形に整え、旗指物を竜のように翻しながら横合から悠然と攻め込んだ。勝利に驕った敵軍は微動だにせず十字陣が八つ裂きにされる勢いで崩壊し、「大中黒」と「二つ引両」の旗印が入り乱れる中、兵士たちは東西南北へ分散しながら一斉に死闘を繰り広げた。双方とも名だたる精鋭ばかりで逃げ出す者などおらず、斬り合う血溜まりには馬蹄すら浸かるほどの流血が河のように渦巻き、積み重なる屍は屠殺場の肉塊さながらだった。その惨状は「無慙」という言葉も及ばないほどである。 この時、脇屋義助の子・式部大夫(当時十三歳)が敵味方入り乱れる戦渦に供回り三騎と共に取り残されていた。幼いながら機転の利く少年は笠印を切り捨て髪を顔にかき乱し、「敵に見破られぬように」と平然を装っていたのである。 解説【戦術的転換の描写】
【死闘描写の歴史性】
【人物描写の心理的深層】
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| 父義助是をば不知、「義治が見へぬは誅れぬるか、又生捕れぬるか、二の間をば離れじ。彼死生を見ずば、片時の命生ても何かはすべき。勇士の戦場に命を捨る事只是子孫の後栄を思ふ故也。されば未幼なき身なれども、片時の別を悲んで此戦場にも伴ひつる也。其死生を知らでは、如何さて有べき。」とて、鎧の袖に泪をかけ、大勢の中へ懸入り給けるが、「誠に父の子を思ふ志、今に初ぬ事なれども、哀なる御事哉。いざや御伴仕らん。」とて義助の兵共轡を双べ三百余騎、主を討せじと懸入ける。義助の二度の懸に、指もの大勢戦疲れて、一度にばつとぞ引たりける。是に理を得て、義助尚追北進まれける処に、式部大夫義治、我が父と見成して馬を引返し、主従四騎にて脇屋殿に馳加はらんと馬を進められけるを、誰とは不知、片引両の笠符著たる兵二騎、御方が返すぞと心得て、「やさしくこそ見へさせ給候へ。御供申て討死し候。」とて、連て是も返しけり。式部大夫義治は父の義助の勢の中へつと懸入り様に、若党にきつと目くはせゝられければ義治の郎従よせ合せて、つゞいて返しつる二騎の兵を切落し、頚を取てぞ指挙たる。義助是を見給て死たる人の蘇生したる様に悦て、今一涯の勇みを成し、「且く人馬を休めよ。 |
これを見た土岐頼遠らは一団となって進み、「口先だけの人間め、恥を知れ!」と辱めて追い立て攻めたため、遅れて撤退していた兵士五百余騎は捕まるか討たれるかの末にわずかな数になってしまった。戦況が混乱して官軍(新田勢)が浮き足立っているのを見て仁木氏・細川氏・高氏・上杉氏らは猛然と突撃し、中書王(護良親王)の本陣へ間髪入れず攻め寄せた。動揺する京方には抗すべくもなく、副将軍の脇屋義助(右衛門佐)が「無駄死にした者たちのためにここで踏みとどまれ!」と言い放ち七千余騎を統率して横から攻め込んだ。勝利におごった敵は抵抗できず陣形は崩れ、両軍の旗印が入り乱れる中で兵士らは激しい死闘を繰り広げた。流血は川のように流れ積み重なる屍は屠殺場さながらであり、その惨状は言葉も及ばなかった。 この時、脇屋義助の子・式部大夫(義治)が十三歳だったにもかかわらず敵中に取り残されていた。幼い彼は機転を利かせ笠印を捨て髪を乱して「目立たぬように」と振る舞っていた。 父の義助はこれを知らず、「息子が見えないのは殺されたのか捕まったのか?生死がわからぬまま生きていても意味がない。武士が戦場で死ねば子孫のためにこそだ!幼い彼を連れてきたのもそのためよ」と言って鎧の袖に涙を拭いながら敵陣へ突入した。これを見た兵士三百余騎も「主君をお守りせん!」と従った。義助隊の二度目の突撃で疲弊していた敵軍はついに敗走し、追撃する途中で息子・義治が供回りの三騎と合流しようとした瞬間、「味方だ」と思い込んだ敵兵二人に「ご一緒に討死しましょう!」と言われて引き返される。しかし義治の郎党たちが素早くその両名を斬り捨て首を掲げたため、父は「死者が蘇ったか!」と狂喜し最後の力を振り絞って戦い続けたのである。 解説【武士道精神の矛盾点】
【合戦描写の文学的技法】
【歴史的背景】
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| 」とて、又元の陣へは引返されける。一陣余に闘ひくたびれしかば、荒手を入替て戦しめんとしける処に、大友左近将監・佐々木塩冶判官が、千余騎にて後に引へたるが、如何思けん一矢射て後、旗を巻て将軍方に馳加り、却て官軍を散々に射る。中書王の御勢は、初度の合戦に若干討れて、又も戦はず。右衛門佐の兵は両度の懸合に人馬疲れて無勢也。是ぞ荒手にて一軍もしつべき者と憑れつる大友・塩冶は、忽に翻て、親王に向奉て弓を引、右衛門佐に懸合せて戦しかば、官軍争か堪ふべき。「敵の後ろを遮らぬ前に、大手の勢と成合ん。」とて、佐野原へ引退く。仁木・細川・今川・荒川・高・上杉・武蔵・相摸の兵共、三万余騎にて追懸たり。是にて中書王の股肱の臣下と憑み思食たりける二条中将為冬討れ給ければ、右衛門佐の兵共返合々々、三百騎所々にて討死す。是をも顧ず引立たる官軍共、我先にと落行ける程に、佐野原にもたまり得ず、伊豆の府にも支へずして、搦手の寄手三百余騎は、海道を西へ落て行く。 ○官軍引退箱根事 追手箱根路の合戦は官軍戦ふ毎に利を得しかば、僅に引へて支たる足利左馬頭を追落て、鎌倉へ入らんずる事掌の内に有と、寄手皆勇に々で明るを遅しと待ける処に、搦手より軍破れて、寄手皆追散されぬと聞へければ、諸国の催し勢、路次の軍に降人に出たりつる坂東勢、幕を捨旗を側めて、我先にと落行ける間、さしも広き箱根山に、すきまも無く充満したりつる陣に、人あり共見へず成にけり。 |
父・脇屋義助は息子が無事だと知り、「ひとまず人馬を休めよ」と言って元の陣地へ戻った。彼らは長時間戦い疲れていたので、予備兵力と交代しようとしたその時、大友左近将監と佐々木塩冶判官率いる千余騎が突然裏切り矢を射かけ、旗印を足利軍に翻して逆に攻撃してきた。護良親王(中書王)の主力部隊は初戦で損害を受けていた上、脇屋義助(右衛門佐)隊も二度の突撃で疲弊し兵力不足だった。官軍が最後の頼みとしていた大友・塩冶両名があっさり離反したため、「大手の主力部隊と合流する前に退却せよ」と判断し佐野原へ撤退を開始。しかし仁木氏・細川氏・今川氏・荒川氏・高氏・上杉氏ら足利方三万騎が追撃し、親王の側近である二条中将為冬が討死する惨状となった。脇屋義助隊も三百騎を失いながら応戦したが、官軍は統制を失って我先に敗走。佐野原にも留まれず伊豆府中も守れぬまま、別働隊三百騎は海岸沿いに西へ逃れた。 ○箱根方面の官軍撤退 解説【戦術的敗因の分析】
【歴史的事件の意義】
『太平記』特有の描写技法
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| 執事舟田入道は、一の責口に敵を攻て居たりけるが、敵陣に、「竹下の合戦は将軍打勝せ給て、敵を皆追散して候也。」と、早馬の参て罵る声を聞て、誠とやらん不審なく思ければ、只一騎御方の陣々を打廻て見るに、幕計残て、人のある陣は無りけり。さては竹下の合戦に、御方早打負てけり。かくては叶まじと思て、急大将の陣へ参て、事の子細を申ければ、義貞且く思案し給ひけるが、「何様陣を少し引退て、落行勢を留てこそ合戦をもせめ。」とて、舟田入道に打つれて、箱根山を引て下給ふ。其勢僅に百騎には過ざりけり。且く馬を扣へて後を見給へば、例の十六騎の党馳参たり。又北なる山に添て、三つ葉柏の旗の見へたるは、「敵か御方歟。」と問給へば、熱田の大宮司百騎計にて待奉る。其勢を合て野七里に打出給ひたれば、鷹の羽の旗一流指し揚て、菊池肥後守武重、三百余騎にて馳参る。爰に散所法師一人西の方より来りけるが、舟田が馬の前に畏て、「是はいづくへとて御通り候やらん。昨日の暮程に脇屋殿、竹下の合戦に討負て落させ給候し後、将軍の御勢八十万騎、伊豆の府に居余て、木の下岩の陰、人ならずと云所候はず。今此御勢計にて御通り候はん事、努々叶まじき事にて候。」とぞ申ける。是を聞て栗生と篠塚と打双べて候けるが、鐙蹈張り、つとのびあがり、御方の勢を打見て、「哀れ兵共や。 |
執事の舟田入道は一つの攻め口で敵と戦っていたが、敵陣から「竹ノ下合戦では将軍(足利尊氏)が勝利し、敵を全滅させました!」という早馬の叫び声を聞きつけた。疑うことなく真実と思い込み、単騎で味方の陣営を見回ると幕だけが残り兵士は誰もいなかった。「竹ノ下合戦で我々は敗れたのだ」と悟った舟田は「このままでは持たない」と急ぎ大将・新田義貞のもとに駆けつけて状況を報告した。すると義貞は一考の後、「まず陣を少し退き、逃げる兵士たちを集めてから戦いを挑もう」と言い、舟田入道とともに箱根山から下り始めたが兵力はわずか百騎にも満たなかった。しばらく馬を止め振り返ると、常に従う十六騎の家臣団が駆けつけてきた。さらに北側の山沿いに三つ葉柏の旗が見えたため「敵か味方か?」と問うと熱田大宮司(南朝方神官)率いる百騎余りが待機していたのである。合流して野原へ進むと、鷹の羽紋の旗を掲げた菊池肥後守武重が三百余騎で加勢した。その時、一人の漂泊僧が西から現れ舟田入道の馬前にひざまずいて言った。「どちらへお向かいですか?昨夕に脇屋殿(新田側武将)が竹ノ下合戦で敗走された後、将軍軍八十万騎が伊豆府中を埋め尽くし木陰や岩場まで兵であふれています。この寡兵では到底通れません」。これを聞いた栗生と篠塚(義貞配下の武将)は鐙に立ち上がり味方を見回しながら「哀れな兵たちよ」と言った。 解説【情報戦の心理的影響】
【南朝勢力再編の試み】
『太平記』特有の演出技法
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| 一騎当千の武者とは、此人々をぞ申べき。敵八十万騎に、御方五百余騎、吉程の合ひ手也。いで/\懸破て道開て参せん。継けや人々。」と勇めて、数万騎打集たる敵の中へ懸て入。府中にて一条次郎三千余騎にて戦ひけるが、新田左兵衛督を見てよき敵と思ひけるにや、馳双で組んとしけるを、篠塚中に隔て、打ける太刀を弓手の袖に受留、大の武者をかい掴で弓杖二丈計ぞ投たりける。一条も大力の早業成ければ、抛られたれ共倒れず。漂ふ足を践直して、猶義貞に走懸らんとしけるを、篠塚馬より飛でおり両膝合て倒に蹴倒す。倒るゝと均く、一条を起しも立ず、推へて頚かき切てぞ指揚ける。一条が郎等共、目の前にて主を討せて心うき事に思ければ、篠塚を討んと、馬より飛下々々打て懸れば、篠塚かい違ては蹴倒、々々しては首を取、足をもためず一所にて九人迄こそ討たりけれ。是を見て、敵数十万騎有と云ども、敢て懸合せん共せざりければ、義貞閑々と伊豆の府を打て通り給ふに、宵より落て其辺にまぎれ居たる官軍共、此彼より馳付ける程に、義貞の勢二千騎計に成にけり。「此勢にては縦ひ百重千重に取篭たり共、などか懸破て通らざるべき。」と、悦て行処に、木瀬川に旗一流打立て、勢の程二千騎計見へたり。 |
「一人で千人もの敵に対抗できるような武士とは、まさにこの者たちのことだ!八十万騎という大軍に対して味方わずか五百余騎だが、これこそ願ってもない好機だ。さあ突撃して道を切り開き進もうぞ!皆続け!」と勇気づけて数万の敵兵の中へ突入した。伊豆府中で一条次郎が三千余騎を率いて戦っていたところ、新田義貞(左兵衛督)を見て格好の獲物と思ったのか、駆け寄って組みつこうとした。それを篠塚が遮り、斬りかかる太刀を左手の袖で受け止めると、大柄な武者をつかみ取って弓杖ごと約二丈(6メートル)も投げ飛ばした。一条は怪力の持ち主だったため倒れずに踏ん張ったが、篠塚は馬から飛び降り両膝で蹴り倒すと即座に首を刎ねて掲げた。これを見た一条の家臣たちが「主君を目の前で討たれた」と憤慨し、馬上から襲いかかるも篠塚は素早く避けては蹴り倒し、次々と首を取り、一箇所で九人まで仕留めた。この様子に敵数十万騎といえど誰一人挑んでくる者なく、義貞が悠然と伊豆府中を通過すると昨夜から敗走して潜伏していた官軍兵士たちがあちこちから合流し二千騎ほどになった。「これだけの兵力なら百重千重に囲まれても突破できる」と喜び進む途中、木瀬川付近で一本の旗が立ち約二千騎ほどの軍勢が見えた。 解説【戦闘描写の文学的効果】
【敗走から再編への劇的転換】
【歴史的背景と虚構性】
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| 近々と打寄て、旗の文を見れば、二巴を旗にも笠璽にも書たり。「さては小山判官にてぞ有らん、一騎も余さず打取。」とて、山名・里見の人々馬の鼻を双べておめいて懸りける程に、小山が勢四角八方に懸散されて、百騎計は討れにけり。かくて浮嶋が原を打過れば、松原の陰に旗三流差て、勢の程五百騎計扣たり。「是は敵か御方歟。」と在家の者に問給へば、「是は昨日の竹下より、一宮を追進せて、所々にて合戦し候し甲斐の源氏にて候。」とぞ答申ける。「さてはよき敵ぞ、取篭て討。」とて、二千余騎の勢を二手に分て北南より押寄れば、叶はじとや思けん、一矢をも射ずして、降人に成てぞ出たりける。此勢を先に打せて遥に行けば、中黒の旗を見付て、落隠居たる官軍共、彼方此方より馳付て、七千余騎に成にけり。今はかうと勇て、今井・見付を過る処に、又旗五流差揚て、小山の上に敵二千騎計扣たり。降人に出たりつる甲斐源氏に、「此敵は誰そ。」と問給へば、「是は武田・小笠原の者共にて候也。」と答ふ。「さらば責よ。」とて四方より攻上りけるを、高山薩摩守義遠、「此敵を余さず討んとせば、御方も若干亡ぶべし。大敵をば開ひて責るにこそ利は候へ。」と申ければ、由良・舟田げにもとて、東一方をば開けて三方より責上りければ、此敵共遠矢少々射捨て、東を指てぞ落行ける。 |
近づいて旗印を見ると、二つの巴紋が旗や笠印に描かれていた。「これは小山判官(秀朝)の軍だ!一騎残らず討ち取れ!」と叫びながら山名・里見らの兵士たちが馬を揃えて攻めかかったため、小山勢は四方八方から包囲され百騎ほどが討たれた。こうして浮島ヶ原を通り過ぎると松林の陰に三本の旗が立ち兵力約五百騎が待機していた。「これは敵か味方か?」と現地住民に尋ねると「昨日竹下合戦で一宮(新田義貞)を追撃し各地で戦った甲斐源氏です」との答え。そこで「好敵だ!包囲して討て!」と二千余騎の軍勢を二手に分け南北から押し寄せたところ、抵抗は無理と思ったのか一矢も放たず降伏者が現れた。この部隊を先頭にして進むと中黒旗(新田氏紋)を見つけ敗走していた官軍兵士があちこちから合流して七千余騎になった。「これで十分だ」と勇んで今井・見付を通り過ぎた所、再び五本の旗が小山に立ち敵二千騎ほどが見えた。降伏した甲斐源氏に「この敵は誰か?」と問うと「武田・小笠原連合軍です」との返答。「ならば攻めろ!」と四方から攻め上がろうとしたところ、高山薩摩守義遠が進言した:「全滅させようとすれば味方も損害が出る。大敵には一方を開けて追い込むのが得策だ」。由良・舟田らは「その通り」として東側だけ空け三方から攻めたため敵兵たちは矢を数本射捨てると東へ逃げていった。 解説【戦術的リアリズムの深化】
【兵力変動の象徴的構造】
歴史的検証
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| 是より後は敢て遮る敵もなかりければ、手負を相助、さがる勢を待連て、十二月十四日の暮程に、天竜川の東の宿に著給にけり。時節川上に雨降て、河の水岸を浸せり。長途に疲れたる人馬なれば、渡す事叶まじとて、俄に在家をこぼちて浮橋をぞ渡されける。此時もし将軍の大勢、後より追懸てばし寄たりしかば、京勢は一人もなく亡ぶべかりしを、吉良・上杉の人々、長僉議に三四日逗留有ければ、川の浮橋程なく渡しすまし、数万騎の軍勢残所なく一日が中に渡てけり。諸卒を皆渡しはてゝ後、舟田入道と大将義貞朝臣と二人、橋を渡り給ひけるに、如何なる野心の者かしたりけん、浮橋を一間はりづなを切てぞ捨たりける。舎人馬を引て渡りけるが、馬と共に倒に落入て、浮ぬ沈ぬ流けるを、舟田入道、「誰かある、あの御馬引上げよ。」と申ければ、後に渡ける栗生左衛門、鎧著ながら川中へ飛つかり、二町計游付て、馬と舎人とを左右の手に差揚て、肩を超ける水の底を閑に歩で向の岸へぞ著たりける。此馬の落入ける時、橋二間計落て、渡るべき様もなかりけるを、舟田入道と大将と二人手に手を取組で、ゆらりと飛渡り給ふ。其跡に候ける兵二十余人、飛かねて且し徘徊しけるを、伊賀国住人に名張八郎とて、名誉の大力の有けるが、「いで渡して取せん。 |
これ以降は阻む敵も全くいなかったので、傷ついた兵士たちを助け合いながら遅れた部隊を待ち連れて進み、12月14日の夕方頃に天竜川の東岸にある宿場へ到着した。その時季には上流で雨が降っていたため河の水は堤防まで溢れていた。長旅で疲労困憊している人馬たちなので通常渡渉など不可能と思われたが、急遽付近の民家を解体して浮橋を作り渡らせようとした。もしこの時敵将率いる大軍が追撃していれば京勢(新田軍)は全滅していただろうが、(足利方で指揮権争い中の)吉良・上杉らが長々と協議し三日も逗留したおかげで、浮橋の設置を迅速に終え数万騎もの兵士たちを一日であますところなく渡すことに成功した。全ての士卒を渡してしまった後、舟田入道(由良氏)と大将新田義貞公が二人だけ残り橋を渡ろうとした時、何者か悪意のある者が浮橋の綱を一間分ほど切って放棄する事件が起きた。(先に川へ落ちたと思われる描写はないが続く文脈から)従者の引いていた馬ごとどさっと川中へ転落し沈みかけ流される様子を見て舟田入道が「誰か助ける者はいないのか!あの御馬を引き上げろ!」と呼びかけると、後方から来た栗生左衛門(久里氏)が甲冑をつけたまま川へ飛び込み約二百メートルも泳ぎ進みながら馬と従者の両方を腕で抱え掲げ、水深肩越えの激流の中を悠然と歩いて対岸に着いた。この落馬事故時には橋は二間分ほど崩れて渡る手段がなくなってしまったところへ舟田入道と大将義貞公二人は互いに手を取り合い軽々と飛び移り通過なさった。彼らの後ろで待機していた兵士二十人余りは跳躍できずに躊躇しているのを見て伊賀国出身者である名張八郎という評判高い怪力者が「よし私が渡してやろう」と(言って行動した)。 解説【危機管理と集団心理の描写】
【超人的行動の象徴性】
歴史的背景
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| 」とて鎧武者の上巻を取て中に提げ、二十人までこそ投越けれ。今二人残て有けるを左右の脇に軽々と挟で、一丈余り落たる橋をゆらりと飛で向の橋桁を蹈けるに、蹈所少も動かず、誠に軽げに見へければ、諸軍勢遥に是を見て、「あないかめし、何れも凡夫の態に非ず。大将と云手の者共と云、何れを捨べし共覚ね共、時の運に引れて、此軍に打負給ひぬるうたてさよ。」と、云はぬは人こそなかりけれ。其後浮橋を切て、つき流されたれば、敵縦ひ寄来る共、左右なく渡すべき様もなかりけるに、引立たる勢の習なれば、大将と同心に成て、今一軍せん太平記と思ふ者無りけるにや。矢矯に一日逗留し給ひければ、昨日まで二万余騎有つる勢、十方へ落失て十分が一もなかりけり。早旦に宇都宮治部太輔、大将の前に来て申されけるは、「今夜官軍共、夜もすがら落候ひけると承が、げにも陣々まばらに成て、いづくに人あり共見へ候はず。爰にてもし数日を送らば、後ろに敵出来て、路を塞ぐ事有ぬと覚候。哀れ今少し引退て、あじか・州俣を前に当てゝ、京近き国々に、御陣を召され候へかし。」と申されければ、諸大将、「げにも皇居の事おぼつかなく候へば、さのみ都遠き所の長居は然るべし共存候はず。」とぞ同じける。 |
名張八郎は鎧武者(兵士)の胴丸部分を掴んで抱え込み、二十人まで投げ飛ばして対岸へ送った。残る二人も左右の脇に軽々と挟み持ち、約3.6メートル崩れた橋から悠然と跳び移り向こう側の橋脚に着地したが、踏んだ場所は全く揺れず見事な身軽さだったので、遠巻きに見ていた兵士たち皆が「あぁ驚いた!誰も凡人の技ではない。大将や精鋭達と言えど、この軍勢に敗れたのは運命の皮肉だ」と口々に嘆くほどであった。その後浮橋を切断して流したため、敵が追撃しても渡河手段は完全になくなった。しかし撤退中の軍隊には大勢についてくる習性があり、「大将(新田義貞)と運命を共にして最後まで戦おう」と思う者など誰もいなかったのだろうか。(だが実際にそういう者はなく)矢傷の手当てで一日滞在した結果、昨日までは二万余騎いた勢力が四方へ離散し十分の一以下になってしまった。翌早朝、宇都宮治部太輔(公綱)が大将の前に来て進言した:「昨夜官軍兵士たちは夜通し敗走したと聞きました。確かに陣営も疎らで人影が見えません。ここに数日留まれば追撃部隊に退路を塞がれましょう。哀れですので少し後退し、安城(現愛知県)や洲俣(静岡県磐田市付近)を前衛として京に近い地域で陣営をお構えになられたら」。諸大将も「御所の状況も気掛かりなので遠隔地での長期滞留は良策ではありません」と同調した。 解説【集団心理描写のリアリズム】
【英雄像と現実の対比】
歴史的検証
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| 義貞、「さらば兎も角も面々の御意見にこそ順ひ候はめ。」とて、其日天竜川を立てこそ、尾張国までは引かれけれ。 ○諸国朝敵蜂起事 かゝる処に、十二月十日、讚岐より高松三郎頼重早馬を立て京都へ申けるは、「足利の一族細川卿律師定禅、去月二十六日当国鷺田庄に於て旗を揚る処に、詫間・香西これに与して、則三百余騎に及ぶ。是に依て、頼重時剋を廻らさず、退治せしめん為に、先づ矢嶋の麓に打寄て国中の勢を催す処に、定禅遮て夜討を致せし間、頼重等身命を捨て防戦ふと雖も、属する所の国勢忽に翻て剰へ御方を射る間、頼重が老父、並に一族十四人・郎等三十余人、其場に於て討死仕畢。一陣遂に彼が為に破られし後、藤橘両家・坂東・坂西の者共残る所なく定禅に属する間、其勢已及三千余騎に、近日宇多津に於て兵船を点じ、備前の児嶋に上て已に京都に責上んと仕候。御用心有べし。」とぞ告申ける。かゝりけれ共、京都には新田越後守義顕を大将として、結城・名和・楠木以下宗との大名共大勢にて有しかば、四国の朝敵共縦ひ数を尽して責上る共、何程の事か有るべきと、さまでの仰天もなかりけるに、同十一日、備前国住人児嶋三郎高徳が許より、早馬を立て申けるは、「去月二十六日、当国の住人佐々木三郎左衛門尉信胤・同田井新左衛門尉信高等、細川卿律師定禅が語いを得て備中国に打越、福山の城に楯篭る間、彼国の目代先手勢計を以て合戦を致と雖も、国中の勢催促に随はず。 |
新田義貞は、「それでは皆様のご意見にお従いしましょう。」と言って、その日に天竜川を離れ尾張国まで撤退した。 ○諸国の朝敵蜂起について 解説【情報伝達と緊迫感演出】
史実的検証
地理・軍事考証
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| 無勢なるに依て引退く刻、朝敵勝に乗し間、目代が勢数百人討死し畢。其翌日に小坂・川村・庄・真壁・陶山・成合・那須・市川以下、悉く朝敵に馳加る間、程なく其勢三千余騎に及べり。爰に備前国の地頭・御家人等、吉備津宮に馳集て、朝敵を相待処に、浅山備後守、備後の国の守護職を賜て下向する間、其勢を合て、同二十八日、福山に押寄責戦〔し〕日、高徳が一族等大手を責破て、已に城中に打入る刻、野心の国人等、忽に翻て御方を射る間、目代浄智が子息七条弁房・小周防の大弐房・藤井六郎・佐井七郎以下三十余人、搦手に於て討れ候畢。官軍遂に戦ひ負て備前国に引退、三石の城に楯篭る処に、当国の守護松田十郎盛朝・大田判官全職・高津入道浄源当国に下著して、已御方に加る間、又三石より国中へ引返、和気の宿に於て、合戦を致す刻、松田十郎敵に属する間、官軍数十人討れて、熊山の城に引篭る。其夜、当国の住人内藤弥二郎、御方の陣に有ながら、潛に敵を城中へ引入責劫間、諸卒悉行方を知らず没落候畢。高徳一族等此時纔に死を免る者身を山林に隠し、討手の下向を相待候。若早速に御勢を下されずば、西国の乱、御大事に及ぶべし。」とぞ申たりける。両日の早馬天聴を驚しければ、「こは如何すべき。 |
(兵力不足により撤退した際、朝敵に追撃され目代側数百人が討死しました。その翌日には小坂・川村・庄・真壁・陶山・成合・那須・市川以下の武士が皆朝敵側についたため、ほどなく勢力は三千余騎にも達しました。ここで備前国の地頭や御家人らが吉備津宮に集結し反撃を待ち構えていましたが、浅山備後守(北条方)が備後の国守護職を与えられ下向してきたため合流し、同月28日に福山城へ攻め寄せたところ、高徳の一族らが大手門を突破して城内に突入した瞬間、野心ある国人たちが突然裏切り味方を射始めたので、目代浄智の子息七条弁房・小周防大弐房・藤井六郎・佐井七郎以下三十余人が搦手口で討死しました。官軍はついに敗れて備前国へ退き三石城に籠城したところ、当国の守護松田十郎盛朝・大田判官全職・高津入道浄源らが下向して敵側についたため、再び三石から撤退し和気宿で合戦となった際、松田十郎も寝返ったので官軍数十人が討たれ熊山城へ退却しました。その夜、当国の住人内藤弥二郎が味方陣営に潜伏していたのに密かに敵を城内へ導き奇襲させたため兵士全員が離散し逃亡してしまいました。高徳一族でかろうじて生き残った者は山林に身を潜め救援軍の到着を待っています。もし早急に援軍を派遣されなければ西国の反乱は重大な事態となります。)と報告がありました。二日連続の緊急報が朝廷を震撼させたので、「これはどうすべきか?」 解説【戦略的瓦解の構造分析】
歴史的検証矛盾点
軍事戦術考察
(注:続く「こは如何すべき。」は次章冒頭の朝議シーンへ接続する吊り文) |
| 」と周章ありける処に、又翌日の午剋に、丹波国より碓井丹波守盛景、早馬を立て申けるは、「去十二月十九日の夜、当国の住人久下弥三郎時重、波々伯部次郎左衛門尉・中沢三郎入道等を相語て守護の館へ押寄る間、防戦と雖も、劫戦不慮に起に依て、御方戦破れて、遂に摂州へ引退く。雖然と猶他の力を合て其恥を雪ん為に、使者を赤松入道に通じて、合力を請る処に、円心野心を挟む歟、返答にも及ばず。剰へ将軍の御教書と号し、国中の勢を相催由、風聞在人口に。加之但馬・丹後・丹波の朝敵等、備前・備中の勢を待、同時に山陰・山陽の両道より責上るべき由承及候、御用心有るべし。」とぞ告たりける。又其日の酉剋に、能登国石動山の衆徒の中より、使者を立てゝ申けるは、「去月二十七日越中に守護、普門蔵人利清・並に井上・野尻・長沢・波多野の者共、将軍の御教書を以て、両国の勢を集め、叛逆を企る間、国司中院少将定清、就用害に被楯篭当山処、今月十二日彼逆徒等、以雲霞勢押寄間、衆徒等与義卒に、雖軽身命を、一陣全事を得ずして、遂に定清於戦場に被墜命、寺院悉兵火の為に回禄せしめ畢。是より逆徒弥猛威を振て、近日已に京都に責上らんと仕候。急ぎ可被下御勢を。」とぞ申ける。是のみならず、加賀の富樫介、越前に尾張守高経の家人、伊予に川野対馬入道、長門に厚東の一族、安芸に熊谷、周防に大内介が一類、備後に江田・弘沢・宮・三善、出雲に富田、伯耆に波多野、因幡に矢部・小幡、此外五畿・七道・四国・九州、残所なく起ると聞へしかば、主上を始めまいらせて、公家被官の人々、独として肝を消さずと云事なし。 |
「これはどうすべきか?」と朝廷が慌てているところに、翌日の昼過ぎには丹波国から碓井丹波守盛景が早馬で次のように報告した:「先月19日夜、当地の住人久下弥三郎時重らが結託して守護館を襲撃し防戦しましたが不意打ちだったため敗れ摂津へ撤退しました。この恥をそそぐべく赤松入道に協力を求めましたが彼(円心)は野心を持つのか無返答です。それどころか将軍の命令書と偽り国中の武士を集めているとの噂があります。さらに但馬・丹後・丹波の朝敵らは備前・備中の勢力を待ち、山陰道と山陽道から同時に攻め上る計画です。警戒してください。」と伝えた。同じ日の夕方には能登国石動山の僧侶たちが使者を通じ:「先月27日越中国守護普門蔵人利清らが将軍命令書で両国の兵を集めて謀反し、国司中院少将定清公は当山に籠城されました。今月12日に逆徒たちが大軍で攻め寄せたため僧兵も防戦しましたが全く及ばず定清公は戦死し寺院は焼け落ちました。逆徒の勢いは増して近日中に京都へ迫るでしょう。急ぎ援軍を派遣ください。」と報告した。これだけでなく、加賀富樫介・越前尾張守高経家臣・伊予川野対馬入道・長門厚東一族・安芸熊谷氏・周防大内介一族・備後江田ら・出雲富田氏・伯耆波多野氏・因幡矢部らの蜂起が伝わり、五畿七道から四国九州に至るまで全ての地域で反乱が起こったと聞こえたため、天皇をはじめ公家や役人たちで肝をつぶさぬ者はいなかった。 解説【全国叛乱描写の構成技法】
歴史的背景検証
文学的心理描写効果
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| 其比何かなる嗚呼の者かしたりけん。内裏の陽明門の扉に、一首の狂歌をぞ書たりける。賢王の横言に成る世中は上を下へぞ帰したりける四夷八蛮起り合て、急を告る事隙なかりければ、引他の九郎を勅使にして、新田義貞猶道にて敵を支へんとて、尾張国に居られたりけるを、急ぎ先上洛すべしとぞ召れける。引他九郎竜馬を給て、早馬に打けるが、此馬にては、四五日の道をも、一日には輒く打帰んずらんと思けるに合せて、げにも十二月十九日の辰刻に、京を立て、其日の午刻に近江国愛智川の宿にぞ著たりける。彼竜馬俄に病出して、軈て死にけるこそ不思議なれ。引佗乗替に乗替々々、日を経て尾張国に下著し、此子細を左兵衛督に申ければ、「先京都へ引返して宇治・勢多を支てこそ、合戦を致さめ。」とて、勅使に打つれてぞ上られける。 ○将軍御進発大渡・山崎等合戦事 去程に改年立帰れ共、内裏には朝拝もなし。節会も行れず。京白川には、家をこぼちて堀に入れ、財宝を積で持運ぶ。只何にと云沙汰もなく、物騒く見へたりける。懸る程に、将軍已に、八十万騎にて、美濃・尾張へ著給ぬと云程こそあれ、四国の御敵も近付ぬ、山陰道の朝敵も、只今大江山へ取あがるなんど聞へしかば、此間召に応じて上り集たる国々の軍勢共十方へ落行ける程に、洛中には残り止る勢一万騎までもあらじとぞ見へたりける。 |
その頃か陽明門に誰かが狂歌を書き残した:「賢王のわき言が世の中を支配し、上下関係はすっかりひっくり返った」。四方の敵が一斉に蜂起して緊急報告が絶えなかったため、引他九郎を使者として新田義貞(尾張国で防戦中)へ「すぐ上洛せよ」と命じた。引他九郎は朝廷から授かった龍馬を駆り早馬となったが、この馬なら4~5日の行程も1日で戻れると思いきや不思議なことに近江愛智川宿で突然倒れ死んだ。別の馬に乗り継ぎようやく尾張へ着くと事情を伝えたところ、新田は「まず宇治・勢多で防衛戦を」と言い使者と共に急行した。 ○将軍出陣と大渡・山崎合戦 解説【政治的風刺と伝奇的要素】
軍事展開の現実描写
物語構成上の意義
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| 其も皆勇る気色もなくて、何方へ向へと下知せられけれ共、耳にも聞入ざりければ、軍勢の心を勇ません為に、「今度の合戦に於て忠あらん者には、不日に恩賞行はるべし。」とし壁書を、決断所に押されたり。是を見て、其事書の奥に例の落書をぞしたりける。かく計たらさせ給ふ綸言の汗の如くになどなかるらん去程に正月七日に、義貞内裏より退出して軍勢の手分あり。勢多へは伯耆守長年に、出雲・伯耆・因幡三箇国の勢二千騎を副て向けらる。供御の瀬・ぜゞが瀬二箇所に大木を数千本流し懸て、大綱をはり乱ぐひを打て、引懸々々つなぎたれば、何なる河伯水神なり共、上をも游がたく下をも潛難し。宇治へは楠木判官正成に、大和・河内・和泉・紀伊国の勢五千余騎を副て向らる。橋板四五間はね迦して河中に大石を畳あげ、逆茂木を繁くゑり立て、東の岸を高く屏風の如くに切立たれば、河水二にはかれて、白浪漲り落たる事、恰か竜門三級の如也。敵に心安く陣を取せじとて、橘の小嶋・槙嶋・平等院のあたりを、一宇も残さず焼払ける程に、魔風大廈に吹懸て、宇治の平等院の仏閣宝蔵、忽に焼けゝる事こそ浅猿けれ。山崎へは脇屋右衛門佐を大将として、洞院の按察大納言・文観僧正・大友千代松丸・宇都宮美濃将監泰藤・海老名五郎左衛門尉・長九郎左衛門以下七千余騎の勢を向らる。 |
兵士たちは皆勇ましい気配もなく、命令にも耳を貸さないため、軍勢を奮い立たせようと「この戦いで忠節を尽くす者には速やかに恩賞を与える」との張り紙を決断所に掲示した。これを見て誰かがその文書の端に落書きした:「こうも約束なさる勅命は汗のように無価値になるものだ」。
解説【防衛戦略の現代的解釈】
歴史的検証
軍記物としての描写技法
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| 宝寺より川端まで屏を塗り堀をほりて、高櫓・出櫓三百余箇所にかき双たり。陣の構へなにとなくゆゝしげには見へたれ共、俄に拵たる事なれば屏の土も未干、堀も浅し。又防ぐべき兵も、京家の人、僧正の御房の手の者などゝ号る者共多ければ、此陣の軍はか/゛\しからじとぞ見へたりける。大渡には、新田左兵衛督義貞を惣大将として、里見・鳥山・々名・桃井・額田・々中・篭沢・千葉・宇都宮・菊池・結城・池・風間・小国・河内の兵共一万余騎にて堅めたり。是も橋板三間まばらに引落して、半より東にかい楯をかき、櫓をかきて、川を渡す敵あらば、横矢に射、橋桁を渡る者あらば、走りを以て推落す様にぞ構へたる。馬の懸上りへ逆茂木ひしと引懸て、後に究竟の兵共、馬を引立々々並居たれば、如何なるいけずき・する墨に乗る共、こゝを渡すべしとは見へざりけり。去程に将軍は八十万騎の勢を率し、正月七日近江国伊岐州の社に、山法師成願坊が三百余騎にて楯篭たりける城を、一日一夜に責落して、八日に八幡の山下に陣を取る。細川卿律師定禅は、四国・中国の勢を率して正月七日播磨の大蔵谷に著たりけるに、赤松信濃守範資我国に下て旗を挙ん為に、京より逃下けるに行逢て、互に悦思ふ事限なし。且は元弘の佳例也とて、信濃守を先陣にて、其勢都合二万三千余騎、正月八日の午剋に芥川の宿に陣を取る。 |
宝寺から川端にかけて屏を築き堀を掘り、高櫓や出櫓三百余箇所を密集させた。陣の構えは一見威圧的に見えたものの、急造だったため屏の土も乾かず、堀も浅かった。防衛兵士には京都貴族出身者や文観僧正配下といった非戦闘員が多く、この陣地は頼りないと評されていた。 大渡橋では新田義貞(左兵衛督)を総大将に里見・鳥山ら一万余騎が守備。三間分の橋板を撤去し東側に盾壁や櫓を設置。敵が川を渡れば横矢で射込み、橋桁伝いに来る者には走り寄って突き落とす態勢だった。馬乗り入れ口に逆茂木を隙間なく配置し、後方の精鋭たちが馬を連ねて待機していたため、いかに強力な武将でも突破は不可能に見えた。 一方将軍(足利尊氏)率いる八十万騎は正月七日、近江国伊岐州社で成願坊率いる三百余騎の篭る城を一日一夜で攻略。八日には八幡山下に布陣した。細川定禅(卿律師)が四国・中国勢を率いて播磨大蔵谷に着陣すると、赤松範資(信濃守)と合流。「元弘の乱再現だ」と言わんばかりに喜び、範資を先鋒とする二万三千余騎は八日正午に芥川宿で陣を構えた。 解説【防衛戦略の矛盾点】
足利軍側の描写的意図
軍記物語の構成技法
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| 久下弥三郎時重・波々伯部二郎左衛門為光・酒井六郎貞信、但馬・丹後の勢と引合て六千余騎、二条大納言殿の西山の峯の堂に陣を取ておはしけるを追落して、正月八日の夜半より、大江山の峠に篝をぞ焼ける。京中には時に取て弱からん方へ向べしとて、新田の一族三十余人、国々の勢五千余騎を貽れたりければ、大江山の敵を追払ふべしとて、江田兵部大輔行義を大将として、三千余騎を丹波路へ差向らる。此勢正月八日の暁、桂川を打渡て、朝霞の紛れに、大江山へ推寄せ、一矢射違る程こそ有けれ、抜連れて責上りける間、一陣に進で戦ひける久下弥三郎が舎弟五郎長重、痛手を負て討れにけり。是を見て後陣の勢一戦も戦ずして、捨鞭を打て引きける間、敵さまでは追ざりけれ共、十里二十里の外まで、引かぬ兵はなかりけり。明れば正月九日の辰剋に、将軍八十万騎の勢にて、大渡の西の橋爪に推寄、橋桁をや渡らまし、川をや渡さましと見給に、橋の上も川の中も、敵の構へきびしければ、如何すべしと思案して時移るまでぞ引へたる。時に官軍の陣よりはやりをの者共と見へたる兵百騎計、川端へ進出て、「足利殿の搦手には憑思食て候つる丹波路の御敵どもをこそ、昨日追散して、一人も不残討取て候へ。御旗の文を見候に、宗との人々は、大略此陣へ御向有と覚て候。 |
久下弥三郎時重・波々伯部二郎左衛門為光・酒井六郎貞信らが但馬・丹後の兵と合流した六千余騎は、二条大納言(道平)の西山峯堂に布陣していた敵を追い払い、正月八日夜半から大江山の峠にかがり火を焚いた。京都では「弱体化している方面へ向かうべきだ」と判断し、新田一族三十余人と各地からの兵五千余騎が控えていたため、「大江山の敵を排除せよ」との命で江田兵部大輔行義を大将とする三千余騎を丹波路に差し向けた。 この軍勢は正月八日明け方、桂川を渡り朝霧に紛れて大江山へ迫り矢戦となったが、一気に攻め上られたため第一陣の久下弥三郎の弟・五郎長重が重傷を負って討たれた。これを見て後続部隊は一戦も交えず鞭を捨てて退却し、敵こそ追撃しなかったものの、十里二十里(約40~80km)先まで逃げない兵士は一人もいなかった。 明けて正月九日辰刻(午前8時頃)、将軍(足利尊氏)率いる八十万騎が大渡橋西岸に迫り「橋を渡るか川を渡るか」と偵察したが、敵の防御が厳重だったため作戦会議中であった。その時、官軍側から挑発する兵百騎ほどが河原に出て叫んだ:「足利殿への援軍と期待していた丹波路の部隊は昨日全滅させたぞ! 御旗(尊氏)の書状を拝見したところ味方らしき者は皆この陣にいるようだな」 解説【戦術的失敗の要因】
挑発行動の歴史的背景
『太平記』の文学的手法
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| 治承には足利又太郎、元暦には佐々木四郎高綱、宇治川を渡して名を後代に挙候き。此川は宇治川よりも浅して而も早からず。爰を渡され候へ。」と声々に欺て、箙を敲て咄と笑。武蔵・相摸の兵共、「敵に招れて、何なる早き淵川なり共渡さずと云事やあるべき。仮令川深して、馬人共に沈みなば、後陣の勢其を橋に蹈で渡れかし。」とて、二千余騎一度に馬を打入んとしけるを、執事武蔵守師直馳廻て、「是はそも物に狂ひ給ふか。馬の足もたゝぬ大河の、底は早して上は閑なるを、渡さば渡されんずるか。暫閑まり給へ。在家をこぼちて、筏に組で渡らんずるぞ。」と下知せられければ、さしも進みける兵、げにもとや思けん、軈て近辺の在家数百家を壊ち連て、面二三町なる筏をぞ組だりける。武蔵・相摸の兵共五百余人こみ乗て、橋より下を渡けるが、河中に打たる乱杭に懸て、棹を指せ共行やらず。敵は雨の降る如く散々に射る。筏はちともはたらかず。兎角しける程に、流れ淀たる浪に筏の舫を押切られて、竿にも留らず流けるが、組み重ねたる材木共、次第に別々に成ければ、五百余人乗たる兵皆水に溺れて失にけり。敵は楯を敲て、「あれ見よ。」と咲ふ。御方は手をあがいて、如何かせんと騒き悲め共叶はず。又此軍散じて後、橋の上なる櫓より、武者一人矢間の板を推開て、「治承に高倉の宮の御合戦の時、宇治橋を三間引落して、橋桁計残て候しをだに、筒井浄妙・矢切但馬なんどは、一条・二条の大路よりも広げに、走渡てこそ合戦仕て候ひけるなれ。 |
「治承の戦いでは足利又太郎が、元暦の合戦では佐々木高綱(四郎)が宇治川を渡って後世に名を残しました。この川は宇治川より浅く流れも緩やかです。どうぞこちらへお越しください」と敵軍は声を揃えて挑発し、えびら(矢筒)を叩きながら哄笑した。武蔵・相模の兵たちは「敵に煽られて渡れない川などあるものか! たとえ深く人馬もろとも沈んだとしても、後続部隊が我々を橋代わりにして渡ればよい」と言い、二千余騎がいっせいに川へ突入しようとした。 これを見た執事の高師直(武蔵守)は駆け回り「皆さん正気か? 馬の足も届かない大河で水深く水面が穏やかな場合、無理に渡れるはずがない。一旦落ち着かれよ。民家を壊して筏を作って渡ろう」と指示したため、突進しようとした兵たちも納得し付近の民家数百軒を破壊。幅二三町(約200-300m)もある筏を組んだ。 武蔵・相模の兵五百余人が筏に乗り橋より下流で渡河開始するが、川中にある杭に引っかかり竿でも動かない。敵軍は雨のように矢を浴びせ、筏は微動だにしない。もがくうちに淀んだ水流で繋ぎ綱が切れ、五百余人の兵士全員が溺れて消えた。敵は盾を叩き「見たか!」と嘲笑う。味方は手を上げて悲嘆したが挽回できず。 この部隊壊滅後、橋上の櫓から一人の武者が矢狭間の戸を開け叫んだ:「治承年間の高倉宮合戦時、宇治橋は三間(約5.4m)分撤去され桁だけ残っていた状況でさえ、筒井浄妙や矢切但馬らは一条・二条大路より広い幅を走り渡って戦ったというのに!」 解説【戦術的愚行の構造】
文学的対比技法
当時の軍事技術的背景
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| 況や此橋は、かい楯の料に所々板を弛て候へ共、人の渡り得ぬ程の事はあるまじきにて候。坂東より上て京を責られんに、川を阻たる合戦のあらんずるとは、思ひ設られてこそ候つらめ。舟も筏も事の煩計にてよも叶候はじ。只橋の上を渡て手攻の軍に我等が手なみの程を御覧じ候へ。」と、敵を欺き恥しめてあざ咲てぞ立たりける。是を聞て武蔵守師直が内に、野木与一兵衛入道頼玄とて、大力の早業、打物取て世に名を知られたる兵有けるが、同丸の上にふしなはめの大鎧すき間もなく著なし、獅子頭の冑に、目の下の頬当して、四尺三寸のいか物作の太刀をはき、大たて揚の膸当脇楯の下へ引こうて、柄も五尺身も五尺の備前長刀、右の小脇にかいこみて、「治承の合戦は、音に聞て目に見たる人なし。浄妙にや劣と我を見よ。敵を目に懸る程ならば、天竺の石橋、蜀川の縄の橋也とも、渡得ずと云事やあるべき。」と高声に広言吐て、橋桁の上にぞ進だる。櫓の上の掻楯の陰なる官軍共、是を射て落さんと、差攻引攻散々に射る。面僅に一尺計ある橋桁の上を、歩ば矢に違ふ様もなかりけるに、上る矢には指覆、下る矢をば跳越へ、弓手の矢には右の橋桁に飛移り、馬手の矢には左の橋桁へ飛移り、真中を指て射る矢をば、矢切の但馬にはあらねども、切て落さぬ矢はなかりけり。 |
「ましてこの橋は防御のために所々板が外されているとはいえ、人が渡れないほどではないのです。坂東から攻め上って京都を攻略しようとするのに、川に阻まれて戦闘になるなどと予想しておられたでしょう。舟も筏も手間ばかりかかって到底成功できません。どうか橋の上を渡り、直接対決で我々の実力をご覧ください」と言い放ち、敵は挑発して侮辱し嘲笑しながら立っていた。 これを聞いた武蔵守師直配下に野木与一兵衛入道頼玄という者がいた。怪力と素早さを兼ね備え武器使いで有名な武士であり、同僚たちの上着も見えないほど隙間なく大鎧をまとい、獅子頭の冑には目の下まで覆う頬当てをつけていた。四尺三寸(約130cm)もある巨大刀を帯び、大型楯と脇盾で胸甲を隠し、柄も刃身も五尺ずつある備前長刀を右わきに抱えて「治承の合戦は噂だけで目撃者はいない。私は浄妙(筒井)より劣るか?敵が眼前なら天竺の石橋や蜀川の縄橋でも渡れぬ道理があるものか!」と大声で叫び、橋桁へ進み出たのである。 櫓上の盾陰に隠れた官軍は彼を射落とそうと矢を放つも、幅わずか一尺(約30cm)の橋桁上では歩くだけで当たりそうな状況だったにも関わらず、頼玄は上方からの矢には手で防ぎ、下方からのは跳び越え、左側の矢には右橋桁へ飛び移り、右側のものには左橋桁へ移動した。真っ直ぐ放たれる矢を「矢切但馬」ほどの名手ではないが切断し落とさぬものがなかった。 解説【英雄的行動の心理的効果】
身体描写の象徴的意味
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| 数万騎の敵御方立合て見ける処に、又山川判官が郎等二人、橋桁を渡て継たり。頼玄弥力を得て、櫓の下へかづき、堀立たる柱を、ゑいや/\と引くに、橋の上にかいたる櫓なれば、橋共にゆるぎ渡て、すはやゆり倒しぬとぞ見へたりける。櫓の上なる射手共四五十人叶はじとや思けん、飛下々々倒れふためいて二の木戸の内へ逃入ければ、寄手数十万騎同音に箙を敲てぞ笑ける。「すはや敵は引ぞ。」と云程こそ有けれ、参河・遠江・美濃・尾張のはやり雄の兵共千余人、馬を乗放々々、我前にとせき合て渡るに、射落されせき落されて、水に溺るゝ者数を知ず。其をも不顧、幾程もなき橋の上に、沓の子を打たるが如く立双で、重々に構たる櫓かい楯を引破らんと引ける程に、敵や兼てをしたりけん、橋桁四五間中より折れて、落入る兵千余人、浮ぬ沈ぬ流行。数万の官軍同音に楯を敲てどつと咲。され共野木与一兵衛入道計は、水練さへ達者也ければ、橋の板一枚に乗り、長刀を棹に指て、本の陣へぞ帰りける。是より後は橋桁もつゞかず、筏も叶ず。右てはいつまでか向居べきと、責あぐんで思ける処に、さも小賢げなる力者一人立封したる文を持て、「赤松筑前殿の御陣はいづくにて候ぞ。」と、問々走て出来る。筑前守は八日の宵より、桃井修理亮・土屋三川守・安保丹後守と陣を双て、橋の下に居たりけるが、此使を見付て、急文を披て見れば、舎兄信濃守範資の自筆にて、「義貞以下の逆徒等退治の事、将軍家の御教書到来の間、為挙義兵播州に罷下る処に、細川卿律師定禅、京都に責上らるゝ間、路次に於て参会す。 |
数万騎の敵味方が対峙して見守る中、次に山川判官(山名時氏)の家臣二人も橋桁を渡って続いた。頼玄はさらに力を込め櫓へ突進し、地中深く立てられた柱を「えいやっ!」と引っぱると、橋上に建てた櫓だったため基礎ごと揺らぎ始め、今にも倒れそうに見えた。 櫓上の射手たち四五十人は対抗できまいと思ったのか、飛び降りながら転げ回って二の木戸内へ逃げ込んだため、攻撃側数十万騎が一斉に矢筒を叩き笑い声を上げた。「ほら敵は退却したぞ」という間もなく、三河・遠江・美濃・尾張の精鋭たち千余人が我先にと馬を乗り放し橋へ殺到。しかし射落とされ押し流されて溺れる者数知れず。 それでも構わず、狭い橋上に靴の釘を打ちつけたように密集して立ち並び、幾重にも組まれた櫓や盾を破壊しようとした瞬間、敵は予め仕掛けていたのか、橋桁が四五間(約7-9m)分中央から折れ落ちた。落下した兵千余人が浮き沈み漂流する様に数万の官軍は一斉に盾を叩いて哄笑した。 だが野木与一兵衛入道頼玄だけは水泳にも達者だったため、流れた橋板一枚へ乗り長刀を竿代わりにして本陣へ生還したのである。 これ以降は橋桁も繋がず筏も作れない状態で、「いつまで対峙していられるか」と攻めあぐねている時、小賢しげな屈強の男一人が封印された文書を持って現れた。「赤松筑前守(則祐)様の陣はどこですか?」と問いながら走る使者を見つけた筑前守は急ぎ開封すると、実兄・信濃守範資直筆の文章だった——「新田義貞ら逆賊討伐について将軍家(足利尊氏)御教書が届いたため挙兵し播磨へ下向中。細川定禅律師が京から攻め上る途中で合流する予定」。 解説【戦局転換の象徴的描写】
歴史的展開への転換点
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| 且く元弘の佳例に任て、範資可打先陣由一諾事訖、今日已芥河の宿に著候也。明日十日辰剋には、山崎の陣へ推寄て、合戦を致すべきにて候。此由を又将軍へ申さしめ給ふべし。」とぞ書たりける。筑前守此状を持参して読上たりければ、将軍を始奉て、吉良・石堂・高・上杉・畠山の人々、「今はかうぞ。」と悦合る事不斜。此使立帰て後、相図の程にも成ければ、細川卿律師定禅二万余騎にて、桜井の宿の東へ打出、赤松信濃守範資二千余騎にて、川に副て押寄る。筑前守貞範、川向より旗の文を見て、小舟三艘に取乗押渡りて兄弟一所になる。此間東西数百里を隔て、安否更に知らざりしかば、いづくの陣にか討れぬらんと安き心もなかりつるに、互に恙無りける天運の程の不思議さよと、手に手を取組み、額を合せて、先づ悦び泣にぞ泣たりける。山崎の合戦は、元弘の吉例に任せて、赤松先矢合をすべしと、兼て定められたりけるを、播磨の紀氏の者共、三百余騎抜懸して一番に押寄せたり。官軍敵を小勢と見て、木戸を開き、逆茂木を引除て、五百余騎抜連て懸出たるに、寄手一積もたまらず追立られて、四方に逃散る。二番に坂東・坂西の兵共二千余騎、桜井の宿の北より、山に副て推寄たり。城中の大将脇屋右衛門佐義助の兵、並宇都宮美濃将監泰藤が紀清両党二千余騎、二の木戸より同時に打出て、東西に開きあひ、南北へ追つ返つ、半時計相戦ふ。 |
さらに元弘の先例(楠木正成湊川勝利)にならい、範資が一番乗りを務める件で合意を得ましたため、本日すでに芥河宿へ到着しております。明日10日の明け方には山崎陣地へ進軍し決戦を行う所存です。この旨も将軍(足利尊氏)へお伝えください。」と記されていた。 筑前守貞範が持参した書状を朗読すると、尊氏をはじめ吉良・石堂・高・上杉・畠山ら諸将は「これで決着だ」と一様に喜び合った。使者が帰った後、間もなく合図の時となり、細川定禅律師率いる二万余騎が桜井宿東側から進出し、赤松信濃守範資二千余騎が川沿いに押し寄せた。筑前守貞範は対岸で旗印を認めると小舟三艘に乗り込み兄弟合流した。 これまで東西数百里離れ生死も知れぬ中、「どこかで討死しているのでは」と心配していた互いが無事であった奇跡に、二人は手を取り合い額を寄せてまずは歓喜の涙にむせんだのである。山崎決戦では元弘の吉例(楠木軍先陣)にならい赤松勢の一番乗りと予定されていたが、播磨紀氏配下三百余騎が抜け駆けで先行突撃した。官軍は敵を少数と侮って城門を開き逆茂木を撤去し五百余騎で迎え撃ったため攻め手は即座に敗走四方散りとなった。 続いて関東勢二千余騎が桜井宿北側から山沿いに進軍すると、城内の大将・脇屋義助配下と宇都宮泰藤率いる紀清党二千余騎が二ノ門より同時に出撃し東西に展開した。両軍は南北へ追いつ追われつ約一時間(半時計)激しく戦った。 解説【歴史的場面の再現技法】
時間描写の特殊性
戦記文学的特徴
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| 汗馬の馳違音、鬨作る声、山に響き地を動して、雌雄未決、戦半なる時、四国の大将細川卿律師定禅、六万余騎、赤松信濃守範資二千余騎、二手に分て押寄たり。官軍敵の大勢を見て、叶はじとや思ひけん、引返して城の中に引篭る。寄手弥機に乗て、堀に飛漬り、逆茂木引のけて、射れ共痛まず、打て共漂はず、乗越々々責入ける程に、堀は死人に埋て平地になり、矢間は皆射とぢられて開きゑず。城中早色めき立て見へけるが、一番に但馬国の住人、長九郎左衛門、同意の兵三百余騎、旗を巻て降人に出づ。是を見て、洞院按察大納言殿の御勢、文観僧正の手の者なんど云て、此間畠水練しつる者共、弓を弛し冑を脱で我先にと降人に出ける間、城中の官軍力を失て防得ず。さらば淀・鳥羽の辺へ引退て、大渡の勢と一に成て戦へとて、討残されたる官軍三千余騎、赤井を差て落行ば、山崎の陣は破にけり。「右ては敵皇居に乱入りぬと覚るぞ。主上を先山門へ行幸成奉てこそ、心安合戦をもせめ。」とて、新田左兵衛督、大渡を捨てゝ都へ帰給へば、大友千代松丸・宇都宮治部大輔降人に成て、将軍の御方に馳加る。義貞・義助一手に成て淀の大明神の前を引時、細川卿律師定禅六万余騎にて追懸たり。新田越後守義顕後陣に引けるが、三千余騎にて返合せ、相撲が辻を陣に取て、旗を颯と指揚たりけれ共、跡に合戦有とは義貞には告られず。 |
さらに元弘の吉例(楠木正成湊川勝利)に倣い、「範資が一番乗りをする」ことで合意が成立したため、本日すでに芥河宿へ到着しました。明日10日の明け方には山崎陣地へ進軍し決戦を行います。この旨を将軍(足利尊氏)にもお伝えください。」と記されていた。 赤松筑前守貞範が書状を持参して読み上げると、尊氏をはじめ吉良・石堂・高・上杉・畠山らの諸将が「これで決着だ」と一様に喜び合った。使者が帰った後、まもなく合図の時となり、細川定禅律師率いる二万余騎が桜井宿東側から進出し、赤松信濃守範資二千余騎が川沿いに押し寄せた。貞範は対岸で旗印を認めると小舟三艘に乗り込み兄弟と合流した。 これまで東西数百里離れ生死も分からず「どこかで戦死しているのでは」と心配していた互いが無事であった奇跡に、二人は手を取り合い額を寄せて歓喜の涙にくれたのである。山崎決戦では元弘の吉例にならい赤松勢の先陣突撃と予定されていたが、播磨紀氏配下三百余騎が命令無視で勝手に突出した。官軍は敵を少数と侮り城門を開き逆茂木(防御柵)を撤去し五百余騎で迎え撃ったため攻め手は即座に敗走して四散した。 続いて関東勢二千余騎が桜井宿北側から山沿いに進軍すると、城内の大将・脇屋義助配下と宇都宮泰藤率いる紀清両党(赤松被官勢力)二千余騎が二ノ門より同時に出撃し東西に展開した。両軍は南北へ追いつ追われつ約一時間激しく戦った。 解説【歴史的場面の構成技法】
名称解釈の問題点
軍記文学的特徴
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| 先山門へ行幸を成奉らん為也。越後守義顕、矢軍にて且く時を移し、義貞今は内裏へ参られぬらんと覚る程に成て、三千余騎を二手に分て、東西よりどつとをめいて懸入、大勢に颯と乱合ひ火を散してぞ闘たる。只今まで御方に有て、敵になりぬる大友・宇都宮が兵共なれば、越後守を見知て、自余の勢には目を懸ず、此に取篭め彼によせ合せて、打留めんとしけるを、義顕打破ては囲を出、取て返ては追退け、七八度まで自戦れけるに、鎧の袖も冑のしころも、皆切落されて、深手あまた所負ひければ、半死半生に切成されて、僅に都へ帰り給ふ。 ○主上都落事付勅使河原自害事 山崎・大渡の陣破れぬと聞へければ、京中の貴賎上下、俄に出来たる事の様に、周章ふためき倒れ迷て、車馬東西に馳違ふ。蔵物・財宝を上下へ持運ぶ。義貞・義助未馳参らざる前に、主上は山門へ落させ給はんとて、三種の神器を玉体にそへて、鳳輦に召されたれ共、駕輿丁一人もなかりければ、四門を堅て候武士共、鎧著ながら徒立に成て、御輿の前後をぞ仕りける。吉田内大臣定房公、車を飛ばせて参ぜられたりけるが、御所中を走廻て見給ふに、よく近侍の人々も周章たりけりと覚て、明星・日の札、二間の御本尊まで、皆捨置かれたり。内府心閑に青侍共に執持せて参ぜられけるが、如何かして見落し給ひけん、玄象・牧馬・達磨の御袈裟・毘須羯摩が作し五大尊、取落されけるこそ浅猿しけれ。 |
馬の蹄音が響き渡り兵士たちの喚声は山にこだまし大地を揺るがせた。勝敗未定で戦い半ばという時、四国の大将・細川定禅律師率いる六万余騎と赤松信濃守範資二千余騎が二手に分かれて押し寄せた。官軍(新田義貞方)は敵の大軍を見て勝ち目なしと思ったのか、引き返して城内へ籠城した。攻め手は勢いに乗じ堀へ飛び込み逆茂木を撤去すると、矢が刺さっても痛まず打撃も効かずに突破していくうち、堀は死体で埋まり平地となり射孔(狭間)は全て塞がれて開けられなくなった。城の中では動揺しきっている様子が見えたが、最初に但馬国住人の長九郎左衛門と配下三百余騎が旗を巻いて投降した。これを見て洞院按察大納言(藤原公敏)の軍勢や文観僧正配下など「畠水練」と呼ばれた者たちも弓を緩め兜を脱いで我先にと降伏したため、城中の官軍は防戦力を失った。 そこで淀・鳥羽付近へ撤退し大渡(桂川流域)の部隊と合流して再戦しようと、生き残りの官軍三千余騎が赤井(地名)を目指すうち山崎陣地は陥落した。「このままでは敵が皇居に乱入するであろう。まず主上(後醍醐天皇)を比叡山へ行幸させて安心して戦おう」と言い、新田左兵衛督義貞が大渡を捨て都へ戻ると、大友千代松丸と宇都宮治部大輔は敵方に投降し足利将軍陣営へ加わった。 義貞と弟・脇屋義助の部隊が合流して淀大明神前を通り過ぎようとした時、細川定禅律師六万余騎が追撃してきた。新田越後守義顕(義貞長男)は後衛を引き受け三千余騎で反転し相撲辻に陣取って旗を掲げたが、「後方で戦闘中」との報告は父・義貞には届かなかった。 解説【軍記文学の表現技法】
歴史的背景の要点
心理描写の特徴
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| 公卿・殿上人三四人こそ、衣冠正くして供奉せられたりけれ、其外の衛府の官は、皆甲冑を著し、弓箭を帯して、翠花の前後に打囲む。此二三年の間天下僅に一統にして、朝恩に誇りし月卿雲客、指たる事もなきに、武具を嗜み弓馬を好みて、朝義道に違ひ、礼法則に背しも、早かゝる不思議出来るべき前表也と、今こそ思ひ知られたれ。新田左兵衛督・脇屋右衛門佐・並に江田・大館・堀口美濃守・里見・大井田・々中・篭沢以下の一族三十余人・千葉介・宇都宮美濃将監・仁科・高梨・菊池以下の外様の大名八十余人、其勢僅に二万余騎、鳳輦の跡を守禦して、皆東坂本へと馬を早む。事の騒しかりし有様たゞ安禄山が潼関の軍に、官軍忽に打負て、玄宗皇帝自ら蜀の国へ落させ給しに、六軍翠花に随て、剣閣の雲に迷しに異ならず。爰に信濃国の住人に勅使川原丹三郎は、大渡の手に向たりけるが、宇治も山崎も破れて、主上早何地共なく東を差て落させ給ひぬと披露有ければ、「見危致命臣の義也。我何の顔有てか、亡朝の臣として、不義の逆臣に順はんや。」と云て、三条川原より父子三騎引返して、鳥羽の造路・羅精門の辺にて、腹かき切て死けり。 ○長年帰洛事付内裏炎上事 那和伯耆守長年は、勢多を堅めて居たりけるが、山崎の陣破れて、主上早東坂本へ落させ給ぬと聞へければ、是より直に坂本へ馳参らんずる事は安けれ共、今一度内裏へ馳まいらで直に落行んずる事は、後難あるべしとて、其勢三百余騎にて、十日の暮程に又京都へぞ帰ける。 |
公卿や殿上人のうち三、四人だけは正式な衣冠姿でお供しましたが、それ以外の衛士たちは皆、甲冑を着て弓矢を持ち、天皇の御輿(鳳輦)の前後を取り囲みました。「ここ二三年、天下がようやく統一され朝廷の恩恵に驕っていた高官貴族たちには何の問題もなかったのに、武具を好んで弓馬に親しむうち朝廷の道理から外れ礼儀作法にも背き始めた。こうした不思議な事態(天皇逃避)の前兆だったのだ」と今になって理解されました。新田左兵衛督義貞・脇屋右衛門佐義助、そして江田氏・大館氏・堀口美濃守ら一族三十余人、千葉介・宇都宮美濃将監・仁科氏・高梨氏・菊池氏など外部の大名八十余人がわずか二万余騎で御輿を護衛し、全員東坂本へ馬を急ぎました。この騒然たる様子はまさに安禄山の乱(唐時代)で官軍が潼関で敗れ玄宗皇帝自ら蜀国へ逃れた時、近衛兵たちが御輿について剣閣山中で途方に暮れた光景と変わりありません。ここで信濃国の住人・勅使川原丹三郎は大渡方面に向かっていましたが、「宇治も山崎も陥落し天皇陛下は既にお逃げになった」との報せを受けると「危難を見て命を捧げるのが臣下の道だ。私は亡朝の臣として不義の逆賊に従う顔があろうか」と言い、三条川原から父子三騎で引き返し鳥羽造路・羅城門付近で腹を切って死にました。 天皇帰還と内裏炎上について 解説【歴史的意義】
【文学的手法】
【戦記文学的特徴】
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| 今日は悪日とて将軍未都へは入給はざりけれ共、四国・西国の兵共、数万騎打入て、京白川に充満たれば、帆掛舟の笠符を見て、此に要彼に遮て、打留んとしけれ共、長年懸散ては通り、打破ては囲を出、十七度まで戦けるに、三百余騎の勢次第々々に討れて、百騎計に成にけり。され共長年遂に討れざれば、内裏の置石の辺にて、馬よりをり冑を脱ぎ、南庭に跪く。主上東坂本へ臨幸成て、数剋の事なれば、四門悉閇て、宮殿正に寂寞たり。然ば早甲乙人共、乱入けりと覚て、百官礼儀を調し紫宸殿の上には賢聖の障子引破られて、雲台の画図此こ彼こに乱たり。佳人晨装を餝りし弘徽殿の前には、翡翠の御簾半より絶て、微月の銀鉤虚く懸れり。長年つく/゛\と是を見て、さしも勇める夷心にも哀れの色や勝りけん、泪を両眼に余て鎧の袖をぞぬらしける。良且く徘徊て居たりけるが、敵の時の声ま近く聞へければ、陽明門の前より馬に打乗て、北白川を東へ今路越に懸て、東坂本へぞ参ける。其後四国・西国の兵共、洛中に乱入て、行幸供奉の人々の家に、屋形屋形に火を懸たれば、時節辻風はげしく吹布て、竜楼竹苑准后の御所・式部卿親王常盤井殿・聖主御遊の馬場の御所、煙同時に立登りて炎四方に充満たれば、猛火内裏に懸て、前殿后宮・諸司八省・三十六殿十二門、大廈の構へ、徒に一時の灰燼と成にけり。 |
今日は凶日であるため将軍(足利尊氏)は都に入らなかったが、四国・西国の兵数万騎が攻め入り京都白川一帯に充満した。まるで帆を張った船のように密集する敵の笠印を見て、あちこちから遮ろうとする中、名和長年は散開して突破し囲みを破って十七度も戦い続け、三百余騎だった勢力が次第に討たれて百騎ほどになった。しかし長年自身はついに倒されず、内裏の置石付近で馬から降り冑を脱ぎ南庭に向かって跪いた。天皇陛下が東坂本に行幸されて間もないため四門全て閉ざされ宮殿はひっそりと静まり返っていた。その結果早々に乱入者が現れたと思われ、百官の礼儀正しい紫宸殿では賢聖障子が引き裂かれ雲台画図があちこち散らばる。弘徽殿前には佳人たちが朝化粧を施した翡翠御簾が途中で切れ微かな月光に銀鉤だけが虚しく掛かっていた。長年はじっとこれを見て、さすがの勇猛な武士心にも哀れみの色が勝ったのか涙があふれて鎧袖を濡らした。しばらく彷徨っていると敵軍の鬨の声が近づいてきたため陽明門前から馬に乗り北白川を東へ今路峠にかけて東坂本へ向かった。 その後四国・西国の兵たちは洛中に乱入し行幸供奉者らの屋敷一つ一つに火をつけた。折からの強風が吹き荒れ竜楼竹苑(准后御所)式部卿親王常盤井殿聖主遊覧の馬場御所など煙同時に立ち上り炎四方充満すると猛火は内裏にも燃え移り前殿後宮・諸司八省・三十六殿十二門ら壮麗な建造物が一瞬で灰燼となった。 解説【歴史的背景と描写意図】
【文学的手法の特徴】
【軍記物語としての特質】
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| 越王呉を亡して姑蘇城一片の煙となり、項羽秦を傾て、咸陽宮三月の火を盛にせし、呉越・秦楚の古も、是にはよも過じと、浅猿かりし世間なり。 ○将軍入洛事付親光討死事 明れば正月十一日、将軍八十万騎にて都へ入給ふ。兼ては合戦事故なくして入洛せば、持明院殿の御方の院・宮々の御中に一人御位に即奉て、天下の政道をば武家より計ひ申べしと、議定せられたりけるが、持明院の法皇・儲王・儲君一人も残らせ給はず、皆山門へ御幸成たりける間、将軍自ら万機の政をし給はん事も叶ふまじ、天下の事如何すべきと案じ煩ふてぞおはしける。結城大田判官親光は、此君に弐ろなき者也と深く憑まれ進せて、朝恩に誇る事傍に人なきが如也ければ、鳳輦に供奉せんとしけるが、此世の中、とても今は墓々しからじと思ひければ、いかにもして将軍をねらい奉らん為に、態と都に落止てぞ居たりける。或禅僧を縁に執て、降参仕るべき由を将軍へ申入たりければ、「親光が所存よも誠の降参にてはあらじ、只尊氏をたばからん為にてぞあるらん。乍去事の様を聞かん。」とて、大友左近将監をぞ遣されける。去程に大友と太田判官と、楊梅東洞院にて行合たり。大友は元来少し思慮なき者也ければ、結城に向て、「御降参の由を申され候つるに依て、某を御使にて事の由を能々尋ねよと仰せらるゝにて候。 |
越王(勾践)が呉を滅ぼして姑蘇城は煙となり、項羽が秦を倒した際には咸陽宮で三ヶ月も炎上したという。しかしこれらの古代中国の戦乱さえ、今起きている事態に比べれば及ばないだろう──実に不気味な世の中となった。 将軍入洛と親光討死について 解説【歴史的意味合い】
【文学的技法】
【叙述構造の妙】
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| 何様降人の法にて候へば、御物具を解せ給ひ候べし。」と、あらゝかに言をぞ懸たりける。親光是を聞て、さては将軍はや我心中を推量有て、打手の使に大友を出されたりと心得て、「物具を解せよとの御使にて候はゞ進候はん。」と云侭に、三尺八寸の太刀を抜て、大友に馳懸り、冑のしころより本頚まで、鋒五寸計ぞ打こみたる。大友も太刀を抜んとしけるが、目やくれけん、一尺計抜懸て馬より倒に落て死にけり。是を見て大友が若党三百余騎、結城が手の者十七騎を中に取篭て、余さず是を討んとす。結城が郎等共は、元来主と共に討死せんと、思切たる者共なれば、中々戦てはなにかせんとて、引組では差違差違、一足も引かず、一所にて十四人まで打れにけり。敵も御方も是を聞て、「あたら兵を、時の間に失つる事の方見しさよ。」と、惜まぬ人こそなかりけれ。 ○坂本御皇居並御願書事 主上已に東坂本に臨幸成て、大宮の彼岸所に御座あれ共、未参ずる大衆一人もなし。さては衆徒の心も変じぬるにやと叡慮を悩されける処に、藤本房英憲僧都参て、申出たる言もなく泪を流して大床の上に畏てぞ候ける。主上御簾の内より叡覧あて名字を委く尋仰らる。さて其後、「硯やある。」と仰られければ、英憲急ぎ硯を召寄て御前に閣く。 |
「降伏者としての作法でございますから武装解除してください。」と大友左近将監は高圧的に命じた。親光(結城大田判官)はこれを聞き、「どうやら尊氏様が私の意図を見抜いて刺客を差し向けたな」と悟り、「武装解除せよとの命令なら従いましょう」と言うなり三尺八寸の太刀を抜き、大友に襲いかかった。冑の錣(しころ)から首元まで深さ五寸ほど斬り込むと、大友も刀を抜こうとしたが目眩したのか、一尺ほど引き出したところで馬から真っ逆さまに落ちて死んだ。これを見た大友配下三百余騎は親光の家臣十七騎を取り囲み殲滅しようとする。しかし親光家臣たちは最初から主君と共に討ち死にする覚悟でいたため、組んでは刺し違え引くことなく戦い続け十四人まで倒れた。敵味方ともにこれを見て「貴重な兵を瞬時に失うとは」と惜しまぬ者などなかった。 坂本御皇居並びに御願書について 解説【歴史的意義】
【文学的技法】
【叙述構造の転換効果】
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| 自宸筆を染られて御願書をあそばされ、「是を大宮の神殿に篭よ。」と仰せ下されければ、英憲畏て右方権禰宜行親を以て是を納め奉る。暫くあて円宗院法印定宗、同宿五百余人召具して参りたり。君大に叡感有て、大床へ召る。定宗御前に跪て申けるは、「桓武皇帝の御宇に、高祖大師当山を開基して、百王鎮護の伽藍を立られ候しより以来、朝家に悦び有る時は、九院挙て掌を合せ、山門に愁へある日は、百司均く心を傾られずと申す事候はず。誠に仏法と王法と相比する故、人として知ずと云者候べからず。されば今逆臣朝廷を危めんとするに依て、忝も万乗の聖主、吾山を御憑あて、臨幸成て候はんずるを、褊し申す衆徒は、一人もあるまじきにて候。身不肖に候へ共、定宗一人忠貞を存ずる程ならば、三千の宗徒、弐ろはあらじと思食し候べし。供奉の官軍さこそ窮屈に候らめ。先御宿を点じて進せ候べし。」とて、二十一箇所の彼岸所、其外坂本・戸津・比叡辻の坊々・家々に札を打て、諸軍勢をぞやどしける。其後又南岸坊の僧都・道場坊祐覚、同宿千余人召具して、先内裏に参じ、やがて十禅師に立登て大衆を起し、僉議の趣を院々・谷々へぞ触送りける間、三千の衆徒悉く甲冑を帯して馳参。先官軍の兵粮とて、銭貨六万貫・米穀七千石・波止土濃の前に積だりければ、祐覚是を奉行して、諸軍勢に配分す。 |
天皇が直々にお書きになった願書について「これを大宮神殿に奉納せよ」とお命じになると、英憲は畏まって右方権禰宜・行親を使って奉納した。しばらくすると円宗院法印の定宗が同宿五百余人を引き連れて参上したので、天皇は深く感動され御前へ召された。定宗は跪いて申し上げた。「桓武天皇治世下に伝教大師が比叡山を開基されて以来、朝廷に慶事あれば全寺院で祝福し、比叡山に困難あれば役人総出で支援するとの誓いがあります。これは仏法と王法が依存し合う証拠であり周知の事実です。今逆臣(足利尊氏)が皇室を脅かす中、畏れ多くも天子様が当山をお頼りになられたのに裏切る僧など一人もおりません。私・定宗は不肖ながら忠誠心だけは持ち合わせております。もし私に真心があれば三千の僧侶全てが二心を抱かぬとご理解ください。供奉の官軍(天皇警護兵)が困窮しておられるなら、まず宿舎を手配いたします」こうして二十一箇所の彼岸所以外にも坂本・戸津・比叡辻の僧坊や民家に札を掲げ諸軍勢を収容した。その後さらに南岸坊僧都と道場坊祐覚が千余人余りを率い内裏へ参上し、十禅師堂で集会を開いて各院谷へ決議内容を通達すると三千の衆徒全員が甲冑着用して駆けつけた。官軍への兵糧として銭貨六万貫・米穀七千石が波止土濃(坂本港)前に積み上げられ、祐覚がこれを奉行し各部隊に分配した。 解説【歴史的意義】
【文学的技法】
【叙述構造の戦略】
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| さてこそ未医王山王も、我君を捨させ給はざりけりと、敗軍の士卒悉く憑もしき事には思ひけれ。 |
まことに医王山(比叡山)の山王権現さえも我らの君主をお見捨てにならなかったのだなあと、敗れた軍隊の兵士たち全員が頼もしく感じた。 解説【歴史的意義】
【文学的技法】
【叙述構造上の役割】
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| input text 太平記\015_太平記_巻15.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第十五 ○園城寺戒壇事 山門二心なく君を擁護し奉て、北国・奥州の勢を相待由聞へければ、義貞に勢の著ぬ前に、東坂本を急可被責とて、細川卿律師定禅・同刑部少輔・並陸奥守を大将として、六万余騎を三井寺へ被差遣。是は何も山門に敵する寺なれば、衆徒の所存よも二心非じと被憑ける故也。随而衆徒被致忠節者、戒壇造営の事、武家殊に加力可成其功之由、被成御教書。抑園城寺の三摩耶戒壇の事は、前々已に公家尊崇の儀を以て、勅裁を被成、又関東贔負の威を添て取立しか共、山門嗷訴を恣にして猛威を振ふ間、干戈是より動き、回禄度々に及べり。其故を如何と尋るに、彼寺の開山高祖智証大師と申奉るは、最初叡山伝教大師の御弟子にて、顕密両宗の碩徳、智行兼備の権者にてぞ御坐しける。而るに伝教大師御入滅の後、智証大師の御弟子と、慈覚大師の御弟子と、聊法論の事有て、忽に確執に及ける間、智証大師の門徒修禅三百房引て、三井寺に移る。于時教待和尚百六十年行て祈出し給し生身の弥勒菩薩を智証大師に付属し給へり。大師是を受て、三密瑜伽の道場を構へ、一代説教の法席を展給けり。其後仁寿三年に、智証大師求法の為に御渡唐有けるに、悪風俄に吹来て、海上の御船忽にくつがへらんとせし時、大師舷に立出て、十方を一礼して誠礼を致させ給ひしかば、仏法護持の不動明王、金色の身相を現じて、船の舳に立給ふ。 |
山門(比叡山延暦寺)が二心なく天皇をお守りし、北国・奥州の勢力を待つと聞いたので、新田義貞が兵力を集める前に東坂本を急いで攻撃すべく、細川卿律師定禅・同刑部少輔・並び陸奥守を大将として六万余騎を三井寺(園城寺)へ差し向けた。これは比叡山と敵対する寺であるため、衆徒の考えにも二心はないだろうとの判断によるものであった。これに従い忠節を尽くした者には戒壇造営について武家が特に助力するとの教書が出された。そもそも園城寺三摩耶戒壇の問題では以前から朝廷尊崇の儀礼により勅裁も下り、また関東武士の威光も加わって建立されかけたのだが、比叡山が抗議を恣にし猛威を振るったため戦乱が起こり火災もしばしば発生した。その原因は開祖智証大師(円珍)が最初は延暦寺伝教大師(最澄)の弟子であり顕密両宗の高僧で知徳兼備の方であったことにある。しかし伝教大師入滅後、智証大師派と慈覚大師(円仁)派との間でわずかな法論争が確執に発展し、智証大師門徒三百人が移住して三井寺を興した。当時教待和尚百六十年の修行によって出現させた生身弥勒菩薩像は智証大師へ託され、大師はこれを受け密教瑜伽の道場と法華経講義の場を作った。その後仁寿三年(853年)に渡唐中暴風で船が転覆しそうになった時、大師が舷に出て十方礼拝したところ護法不動明王が金色姿を現じて船首に立たれた。 解説【歴史的意義】
【文学的技法】
【叙述構造上の戦略】
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| 又新羅大明神親りに船の艫に化現して、自橈を取給ふ。依之御舟無恙明州津に著にけり。角て御在唐七箇年の間、寝食を忘て顕密の奥義を究め給ひて、天安三年に御帰朝あり。其後法流弥盛にして、一朝の綱領、四海の倚頼たりしかば、此寺四箇の大寺の其一つとして、論場の公請に随ひ、宝祚の護持を致事諸寺に卓犖せり。抑山門已に菩薩の大乗戒を建、南都は又声聞の小乗戒を立つ。園城寺何ぞ真言の三摩耶戒を建ざらんやとて、後朱雀院の御宇長暦年中に、三井寺の明尊僧正、頻りに勅許を蒙らんと奏聞しけるを、山門堅く支申ければ、彼寺の本主太政大臣大友皇子の後胤、大友夜須磨呂の氏族連署して、官府を申す。貞観六年十二月五日の状に曰、「望請長為延暦寺別院、以件円珍作主持之人、早垂恩恤、以園城寺、如解状可為延暦寺別院之由、被下寺牒。将俾慰夜須磨呂並氏人愁吟。弥為天台別院専祈天長地久之御願、可致四海八■之泰平云云。仍貞観八年五月十四日、官符被成下曰、以園城寺可為天台別院云云。如之貞観九年十月三日智証大師記文云、円珍之門弟不可受南都小乗劣戒、必於大乗戒壇院、可受菩薩別解脱戒云云。然ば本末の号歴然たり。師弟の義何ぞ同からん。」証を引き理を立て支申ける間、君思食煩せ給て、「許否共に凡慮の及処に非れば、只可任冥慮。 |
また新羅大明神みずから船尾に姿を現し自ら櫂をとられた。これによって御船は無事明州港へ到着した。こうして唐での七年間、寝食を忘れて顕密両教の深い意味を極められ天安三年(859年)に帰国された。その後仏法の流れがますます盛んになり朝廷での指導者となり全国の人々から頼られるようになったため園城寺は四大寺院の一つとして論議の場へ公的に招かれ皇室守護において諸寺より優れた役割を果たした。そもそも延暦寺(山門)は既に菩薩大乗戒を設立し南都(奈良仏教界)は声聞小乗戒を立てているなら園城寺がどうして真言三摩耶戒を設けないでいられようかと長暦年間(1037-1040年)後朱雀天皇の御世に明尊僧正が度々勅許を得ようとしたところ延暦寺は強硬に反対したため当寺創建者大友皇子の子孫である大友夜須磨呂一族が連署して官府へ訴えた。貞観六年(864年)十二月五日の文書には「園城寺を永遠に延暦寺別院とし円珍を主管者として朝廷の恩恵を受けられるよう命じてほしい」と記載され慰めることで夜須磨呂一族の嘆きも消え天台宗別院として国家安泰を祈願できるとした。これにより貞観八年五月十四日官符が下り園城寺は延暦寺別院となることが決まった。しかし貞観九年十月三日智証大師(円珍)自身の記録には「私の弟子は南都小乗戒を受けるべきでなく必ず大乗戒壇院で菩薩戒を受けよ」とあり本来主従関係が明らかであるのに師弟同等扱いは矛盾すると延暦寺側が証拠を示し理屈を立てて反論する中天皇も悩まれて「この件は凡人の判断では決められぬ神仏の意志に委ねるほかない」と述べられた。 解説【歴史的意義】
【文学的技法】
【叙述構造上の機能】
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| 」とて、自告文を被遊て叡山根本中堂に被篭けり。其詞云、「戒壇立、而可無国家之危者、悟其旨帰、戒壇立而可有王者之懼者、施其示現云云。」此告文を被篭て、七日に当りける夜、主上不思議の御夢想ありけり。無動寺の慶命僧正、一紙の消息を進て云、「自胎内之昔、至治天之今、忝雖奉祈請宝祚長久、三井寺戒壇院若被宣下者、可失本懐云云。」又其翌夜の御夢に彼慶命僧正参内して紫宸殿に被立たりけるが、大きに忿れる気色にて、「昨日一紙の状を雖進覧、叡慮更に不驚給、所詮三井寺の戒壇有勅許者、変年来之御祈、忽に可成怨心。」と宣ふ。又其翌の夜の御夢に、一人の老翁弓箭を帯して殿上に候す。主上、「汝は何者ぞ。」と御尋有ければ、「円宗擁護の赤山大明神にて候。三井寺の戒壇院執奏の人に向て、矢一つ仕ん為に参内して候也。」とぞ申れける。夜々の御夢想に、君も臣も恐て被成ければ、遂に寺門の所望被黙止、山門に道理をぞ被付ける。角て遥に程経て、白河院の御宇に、江帥匡房の兄に、三井寺の頼豪僧都とて、貴き人有けるを被召、皇子御誕生の御祈をぞ被仰付ける。頼豪勅を奉て肝胆を砕て祈請しけるに、陰徳忽に顕れて承保元年十二月十六日に皇子御誕生有てけり。帝叡感の余に、「御祷の観賞宜依請。 |
「これは凡人の判断では決められない」と言って天皇自らお告げの文章を作り、比叡山根本中堂にお籠もりになった。その文には「戒壇設立が国家危機をもたらさぬなら仏意を悟れと示し、逆に君主への脅威となるなら霊験を示せ」と記されていた。このお告げをご奉納して七日目の夜、天皇は不思議な夢を見られた。無動寺の慶命僧正が一通の書状を捧げて「胎内におられる時から今日まで皇室安泰を祈ってきたのに、三井寺戒壇院が許可されれば本望を失う」と訴える夢であった。さらに翌夜の御夢ではその慶命僧正が参内し紫宸殿に立って激怒した様子で「昨日書状を差し上げたにも関わらず陛下はお動きにならない。もし三井寺戒壇勅許があれば長年のお祈りが突如怨念と化す」と宣告した。そしてその次の夜の御夢には一人の老翁が弓矢を帯びて殿上に控えていた。天皇が「そなたは何者か」とお尋ねになると、「比叡山守護の赤山大明神でございます。三井寺戒壇院推進派へ一矢報いるため参内しました」と答えたという。毎夜続く不思議な夢に朝廷上下が恐れをなしたため、遂に園城寺側の願いは却下され延暦寺側の主張が認められた。こうして時は流れ白河天皇御代、大江匡房卿の兄である三井寺の頼豪僧都という高徳の人物をお召しになり皇子誕生の祈願を命じられた。頼豪は勅命を受け肝胆砕いて祈り続けたところ陰功が顕れ承保元年(1074年)十二月十六日に皇子ご誕生があった。天皇は深く感動され「祈祷の褒賞として望み通りにせよ」と述べられた。 解説【政治的帰結】
【霊夢描写の機能】
【時間軸操作の意義】
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| 」と被宣下。頼豪年来の所望也ければ、他の官禄一向是を閣て、園城寺の三摩耶戒壇造立の勅許をぞ申賜ける。山門又是を聴て款状を捧て禁庭に訴へ、先例を引て停廃せられんと奏しけれども、「綸言再び不複」とて勅許無りしかば、三塔嗷儀を以て谷々の講演を打止め、社々の門戸を閉て御願を止ける間、朝儀難黙止して無力三摩耶戒壇造立の勅裁をぞ被召返ける。頼豪是を忿て、百日の間髪をも不剃爪をも不切、炉壇の烟にふすぼり、嗔恚の炎に骨を焦て、我願は即身に大魔縁と成て、玉体を悩し奉り、山門の仏法を滅ぼさんと云ふ悪念を発して、遂に三七日が中に壇上にして死にけり。其怨霊果して邪毒を成ければ、頼豪が祈出し奉りし皇子、未母后の御膝の上を離させ給はで、忽に御隠有けり。叡襟是に依て不堪、山門の嗷訴、園城の効験、得失甚き事隠無りければ、且は山門の恥を洗ぎ、又は継体の儲を全せん為に、延暦寺座主良信大僧正を申請て、皇子御誕生の御祈をぞ被致ける。先御修法の間種々の奇瑞有て、承暦三年七月九日皇子御誕生あり。山門の護持隙無りければ、頼豪が怨霊も近付奉らざりけるにや、此宮遂に玉体無恙して、天子の位を践せ給ふ。御在位の後院号有て、堀河院と申しは、則此第二の宮の御事也。 |
頼豪が長年の念願だったため、他の官位や禄を全て退けて園城寺(三井寺)の三摩耶戒壇設立勅許を申請し認められた。しかし延暦寺はこれを知ると訴状を捧げて朝廷に抗議し、「先例がある」と中止を奏上したものの「天皇のお言葉は二度と変わらない」として却下されたため、三塔全体で騒動を起こし谷々での講演を止め神社の門戸を閉ざして祈願放棄する事態となった。朝廷も黙視できずやむなく戒壇設立勅許を取り消した。頼豪はこれに激怒し百日間髪も爪も切らず、護摩壇の煙の中でうずくまり憤怒の炎で骨を焦がすうち、「私の願いは自身を大魔縁と化して天皇をお苦しめ延暦寺仏法を滅ぼそう」という悪念を抱き遂に二十一日目に壇上で絶命した。その怨霊は実際に邪毒を成したため、頼豪が祈祷によって誕生させた皇子はまだ母后の膝から離れないうちに急逝された。天皇はこの事態に耐えられず延暦寺の抗議と園城寺の効験(霊力)いずれも無視できなくなったため、一方で延暦寺の汚名をそぎ他方で皇統継承を守るべく座主良信大僧正に新たな皇子誕生祈祷を命じられた。前回の祈願中には様々な奇跡が起こり承暦三年(1079年)七月九日に皇子は無事誕生した。延暦寺の護持に隙がなかったため頼豪の怨霊も近づけず、この皇子は成長後健康のまま天皇位につかれた。在位後の院号「堀河院」というのはまさにこの第二皇子のことである。 解説【宗教権力と政治的妥協】
【歴史的帰結の構造】
【時間軸操作の意図】承保元年(1074)皇子誕生→同夭折→承暦三年(1079)新皇子誕生と5年間を圧縮する構成は: - 現実の皇統断絶危機(白河天皇男子不在期間)を「延暦寺祈祷成功」物語で埋め合わせ - 「此第二宮」強調により堀河天皇治世を「正統継承」と位置付ける目的が透けて見え、院政期歴史書の政治的バイアスを示唆 |
| 其後頼豪が亡霊忽に鉄の牙、石の身なる八万四千の鼠と成て、比叡山に登り、仏像・経巻を噛破ける間、是を防に無術して、頼豪を一社の神に崇めて其怨念を鎮む。鼠の禿倉是也。懸し後は、三井寺も弥意趣深して、動ば戒壇の事を申達せんとし、山門も又以前の嗷儀を例として、理不尽に是を欲徹却と。去ば始天歴年中より、去文保元年に至迄、此戒壇故に園城寺の焼る事已に七箇度也。近年は是に依て、其企も無りつれば、中々寺門繁昌して三宝の住持も全かりつるに、今将軍妄に衆徒の心を取ん為に、山門の忿をも不顧、楚忽に被成御教書ければ、却て天魔の所行、法滅の因縁哉と、聞人毎に脣を翻しけり。 ○奥州勢著坂本事 去年十一月に、義貞朝臣打手の大将を承て、関東へ被下向時、奥州の国司北畠中納言顕家卿の方へ、合図の時をたがへず可攻合由綸旨を被下たりけるが、大軍を起す事不容易間、兎角延引す。剰路すがらの軍に日数を送りける間、心許は被急けれども、此彼の逗留に依て、箱根の合戦には迦れ給ひにけり。されども幾程もなく、鎌倉に打入給ひたれば、将軍は早箱根竹下の戦に打勝て、軈て上洛し給ひぬと申ければ、さらば迹より追てこそ上らめとて、夜を日に継でぞ被上洛ける。去程に越後・上野・常陸・下野に残りたる新田の一族、並千葉・宇都宮が手勢共、是を聞伝て此彼より馳加りける間、其勢無程五万余騎に成にけり。 |
その後、頼豪の亡霊が突然鉄のような牙と石のように硬い体を持つ八万四千匹の鼠となり比叡山へ登り仏像や経典を噛み破ったため防ぎようもなくなり、彼を一つの神社に祀って怨念を鎮めた。これが「鼠ノ禿倉(ネズミノソウ)」である。以降は三井寺もいっそう遺恨深く常に戒壇問題を訴え出る一方で延暦寺は過去の抗議行動を先例として理不尽にもこれを拒み続けた。そのため天暦年間(947-957年)から文保元年(1317年)までこの戒壇が原因で園城寺が焼失したことは既に七度に及ぶ。近年は問題も沈静化していたのでかえって寺院繁栄し仏法も守られていたのに、今回の将軍様(足利尊氏と推定)が軽率にも僧兵たちの人気を得ようとして延暦寺の怒りを顧みず唐突に教書をお出しになったため「天魔の仕業か? 仏法滅亡の前兆ではないか」と言う者が続出した。 ○奥州勢参陣本記 解説【怨霊伝承の展開】
【政局批判の背景】
【軍事記録の矛盾点】奥州勢参戦部分は史実と異なる虚構性に注目: - 時間軸錯誤: 「去年十一月」(1332年?)という表現だが北畠顕家陸奥出兵は実際には1333年5月(元弘3/正慶2) - 兵力誇張: 五万騎は当時東国全武士動員数に匹敵する非現実的規模で、後醍醐天皇方の正当性強調が目的 - 顕家遅参の真因: 「箱根合戦」(1333年5月11日)参加失敗を「道中ノ軍」と説明するが実際は奥州集兵に要した期間(2ヶ月以上)が主因で、『梅松論』にもこの誤報批判あり 【物語全体の構成意図】怨霊譚から急転して軍事記録へ移行する不自然な接続は: - 宗教的対立(園城寺vs延暦寺)と政治的対立(南朝vs北朝)を「仏法滅亡」テーマで連結 - 「鼠害→七度炎上→軽率ナ御教書」の流れが、最終段落「天魔ノ所行」批判へ収斂する警告的構造 |
| 鎌倉より西には手さす者も無りければ、夜昼馬を早めて、正月十二日近江の愛智河の宿に被著けり。其日大館中務大輔、佐々木判官氏頼其比未幼稚にて楯篭りたる観音寺の城郭を責落て、敵を討事都て五百余人、翌日早馬を先立て事の由を坂本へ被申たりければ、主上を始進せて、敗軍の士卒悉悦をなし、志を不令蘇と云者なし。則道場坊の助註記祐覚に被仰付、湖上の船七百余艘を点じて志那浜より一日が中にぞ被渡ける。爰に宇都宮紀清両党、主の催促に依て五百余騎にて打連たりけるが、宇都宮は将軍方に在と聞へければ、面々に暇を請、色代して志那浜より引分れ、芋洗を廻て、京都へこそ上りけれ。 ○三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事 東国の勢既[に]坂本に著ければ、顕家卿・義貞朝臣、其外宗との人々、聖女の彼岸所に会合して、合戦の評定あり。「何様一両日は馬の足を休てこそ、京都へは寄候はめ。」と、顕家卿宣けるを、大館左馬助被申けるは、「長途に疲れたる馬を一日も休候はゞ中々血下て四五日は物の用に不可立。其上此勢坂本へ著たりと、敵縦聞及共、頓て可寄とはよも思寄候はじ。軍は起不意必敵を拉習也。只今夜の中に志賀・唐崎の辺迄打寄て、未明に三井寺へ押寄せ、四方より時を作て責入程ならば、御方治定の勝軍とこそ存候へ。 |
鎌倉より西には味方もいなかったため昼夜馬を駆って正月十二日(1333年1月27日頃)、近江国愛智川宿へ到着した。同日、大館中務大輔氏明と佐々木判官氏頼が攻め落とした観音寺城(守護六角氏居城)では敵兵五百人余を討ち取ったという報告が翌日坂本に届くと、後醍醐天皇をはじめ敗走中の将兵全員が喜び「希望が蘇った」と歓声があがった。直ちに道場坊祐覚の指揮で琵琶湖上の船七百余艘を集め志賀浜から一日で渡湖した。ここで宇都宮公綱の軍勢五百騎ほどが合流していたが、「宇都宮氏は尊氏方についた」と聞き顔色を変えて離脱し芋洗(大津市南部)経由で京都へ向かった。 ○三井寺合戦ならびに同寺鐘撞事件および俵藤太について 解説【軍事行動のリアリズム】
【合戦計画の歴史的意義】
【物語構造の隠喩】
【時間軸の矛盾点】
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| 」と被申ければ、義貞朝臣も楠判官正成も、「此義誠に可然候。」と被同て、頓て諸大将へぞ被触ける。今上りの千葉勢是を聞て、まだ宵より千余騎にて志賀の里に陣取る。大館左馬助・額田・羽川六千余騎にて、夜半に坂本を立て、唐崎の浜に陣を取る。戸津・比叡辻・和爾・堅田の者共は、小船七百余艘に取乗て、澳に浮て明るを待。山門の大衆は、二万余人、大略徒立なりければ、如意越を搦手に廻り、時の声を揚げば同時に落し合んと、鳴を静めて待明す。去程に坂本に大勢の著たる形勢、船の往反に見へて震しかりければ、三井寺の大将細川卿律師定禅、高大和守が方より、京都へ使を馳て、「東国の大勢坂本に著て、明日可寄由其聞へ候。急御勢を被添候へ。」と、三度迄被申たりけれ共、「関東より何勢が其程迄多は上るべきぞ。勢は大略宇都宮紀清の両党の者とこそ聞ゆれ。其勢縦誤て坂本へ著たりとも、宇都宮京に在と聞へなば、頓て主の許へこそ馳来んずらん。」とて、将軍事ともし給はざりければ、三井寺へは勢の一騎をも不被添。夜既に明方に成しかば源中納言顕家卿二万余騎、新田左兵衛督義貞三万余騎、脇屋・堀口・額田・鳥山の勢一万五千余騎、志賀・唐崎の浜路に駒を進て押寄て、後陣遅しとぞ待ける。 |
大館左馬助の発言に対し、新田義貞朝臣と楠木正成判官も「この作戦はまことに適切だ」と同意してすぐに諸将へ指令を伝えた。これを受けて先陣の千葉勢はまだ宵のうちから千余騎で志賀の里(現・滋賀県大津市)に布陣した。大館左馬助、額田氏、羽川氏ら六千余騎は夜半に坂本を発ち唐崎浜へ着陣。戸津・比叡辻・和爾・堅田の武士たちは小船七百余隻に分乗して入江に浮かび夜明けを待った。 一方、比叡山衆徒二万余人(主に歩兵)は如意越を搦手(裏側の進路)に回り、「鬨の声」を上げる合図と同時に攻め落とすべく息を潜めて夜明けを待っていた。この時、坂本へ大軍が到着した様子や湖上を行き交う船影を見た三井寺側は動揺し、同寺の大将である細川定禅律師から六波羅探題(高大和守ら京都政権)のもとへ「東国大軍が坂本に集結し明日にも攻め寄せると見えます。至急援軍を」と三度まで使者を送った。 しかし京都側は「関東からそれほどの大軍が来るはずがない。宇都宮紀清両党の手勢程度だろう。仮に坂本へ着いたとしても、宇都宮氏が京にいる噂ならすぐ主君のもとへ戻る」と判断し将軍(北条氏か)すら動こうとせず、三井寺には一騎の援兵も送らなかった。 やがて夜明け頃となると、源顕家中納言二万余騎・新田義貞左兵衛督三万有余騎・脇屋堀口額田鳥山勢一万五千余騎が志賀と唐崎浜沿いへ進軍し、後陣の到着を待ち構えた。 解説
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| 前陣の勢先大津の西の浦、松本の宿に火をかけて時の声を揚ぐ。三井寺の勢共、兼てより用意したる事なれば、南院の坂口に下り合て、散々に射る。一番に千葉介千余騎にて推寄せ、一二の木戸打破り、城の中へ切て入り、三方に敵を受て、半時許闘ふたり。細川卿律師定禅が横合に懸りける四国の勢六千余騎に被取篭て、千葉新介矢庭に被打にければ、其手の兵百余騎に、当の敵を討んと懸入々々戦て、百五十騎被討にければ、後陣に譲て引退く。二番に顕家卿二万余騎にて、入替へ乱合て責戦ふ。其勢一軍して馬の足を休れば、三番に結城上野入道・伊達・信夫の者共五千余騎入替て面も不振責戦ふ。其勢三百余騎被討て引退ければ、敵勝に乗て、六万余騎を二手に分て、浜面へぞ打て出たりける。新田左衛門督是を見て、三万余騎を一手に合せて、利兵堅を破て被進たり。細川雖大勢と、北は大津の在家まで焼る最中なれば通り不得。東は湖海なれば、水深して廻んとするに便りなし。僅に半町にもたらぬ細道を只一順に前まんとすれば、和爾・堅田の者共が渚に舟を漕並て射ける横矢に被防て、懸引自在にも無りけり。官軍是に力を得て、透間もなく懸りける間、細川が六万余騎の勢五百余騎被打て、三井寺へぞ引返しける。額田・堀口・江田・大館七百余騎にて、逃る敵に追すがふて、城の中へ入んとしける処を、三井寺衆徒五百余人関の口に下り塞て、命を捨闘ける間、寄手の勢百余人堀の際にて被討ければ、後陣を待て不進得。 |
先鋒部隊がまず大津西浦と松本宿に放火し鬨の声を上げた。三井寺側は事前に準備していたため南院坂口から降りて集結し、矢を乱射した。一番手として千葉介率いる千余騎が押し寄せ一、二の門を打ち破って城内へ斬り込み三方からの敵を受け半時(約1時間)戦ったが、細川定禅律師側面から襲いかかった四国勢六千余騎に包囲され、千葉新介が即座に討たれたため、配下の兵百余騎は仇を討とうと突入し激闘した。しかし百五十騎が討死したので後陣へ退いた。 二番手として顕家卿率いる二万余騎が交代で乱戦状態で攻め立てた。その部隊が一息ついて馬を休ませると、三番手に結城上野入道・伊達・信夫勢五千余騎が代わりに容赦なく攻撃した。この部隊三百余騎が討死して退くと敵は勝ちに乗り六万余騎を二手に分け浜辺へ打って出た。 新田義貞左兵衛督(当時官職)はこれを見て三万有余騎を一手にまとめ鋭く突き進んだ。細川勢が大軍とはいえ、北側は大津の民家まで燃える最中で通行不能だった。東側は琵琶湖で水深があり迂回も不可能。幅半町(約55m)にも満たぬ細道を一列になって前進しようとしたところ、和爾・堅田勢が渚に船を並べて射かける横矢に妨げられ自由な動きができなかった。 官軍(後醍醐天皇側)はこの状況で力を得て隙もなく攻め立てたため、細川の六万余騎は五百余騎討たれ三井寺へ引き返した。額田・堀口・江田・大館ら七百余騎が逃げる敵を追撃し城内へ入ろうとしたところ、三井寺僧兵五百余人が関ノ口に降りて道を塞ぎ命懸けで戦ったため攻め手百余騎が堀際で討死した。後陣の到着待たず進軍できなくなった。 解説
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| 其間に城中より木戸を下して堀の橋を引けり。義助是を見て、「無云甲斐者共の作法哉。僅の木戸一に被支て是程の小城を責落さずと云事やある。栗生・篠塚はなきか。あの木戸取て引破れ。畑・亘理はなきか。切て入れ。」とぞ被下知ける。栗生・篠塚是を聞て馬より飛で下り、木戸を引破らんと走寄て見れば、屏の前に深さ二丈余りの堀をほりて、両方の岸屏風を立たるが如くなるに、橋の板をば皆刎迦して、橋桁許ぞ立たりける。二人の者共如何して可渡と左右をきつと見処に、傍なる塚の上に、面三丈許有て、長さ五六丈もあるらんと覚へたりける大率都婆二本あり。爰にこそ究竟の橋板は有けれ。率都婆を立るも、橋を渡すも、功徳は同じ事なるべし。いざや是を取て渡さんと云侭に、二人の者共走寄て、小脇に挟てゑいやつと抜く。土の底五六尺掘入たる大木なれば、傍りの土一二尺が程くわつと崩て、率都婆は無念抜にけり。彼等二人、二本の率都婆を軽々と打かたげ、堀のはたに突立て、先自歎をこそしたりけれ。「異国には烏獲・樊■、吾朝には和泉小次郎・浅井那三郎、是皆世に双びなき大力と聞ゆれども、我等が力に幾程かまさるべき。云所傍若無人也と思ん人は、寄合て力根の程を御覧ぜよ。」と云侭に、二本の率都婆を同じ様に、向の岸へぞ倒し懸たりける。 |
その間に城内から木戸が降ろされ堀の橋が引き上げられた。新田義助(義貞弟)はこれを見て「何たる無様な者どもだ。わずかな木戸一つに阻まれて、この程度の小城を落とせないとは何事か!栗生・篠塚はいないのか?あの木戸を引き破れ!畑・亘理はどうした?斬り込め!」と命じた。 栗生と篠塚がこれを聞くと馬から飛び降り、木戸を引き破ろうと走り寄った。見ると防御壁前に深さ二丈余(約6m)の堀が掘られており、両岸は屏風のように垂直で、橋板は全て外され桁だけが残っていた。二人がどう渡るか周囲を見回すと、傍らの塚に高さ三丈(約9m)、長さ五六丈(15-18m)程と思われる巨大な石塔二本があった。「こここそ最適な橋板だ」と悟り、「石塔を立てれば架橋と同じ功徳だろう」と言うなり走り寄って小脇に挟み「えいやっ!」と引き抜こうとした。だが土中五尺(約1.5m)埋まった巨木のため、周囲の土が崩れて無念にも失敗した。 二人は二本の石塔を軽々と担ぎ上げ堀端へ運び、「異国には烏獲・樊■(古代中国の大力士)、我が朝では和泉小次郎・浅井那三郎こそ世に並ぶなき力士というが、彼らも我等の力を超えまい。傍若無人と思う者は来て腕試しせよ」と言うなり、二本を対岸へ倒しかけた。 解説
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| 率都婆の面平にして、二本相並たれば宛四条・五条の橋の如し。爰に畑六郎左衛門・亘理新左衛門二人橋の爪に有けるが、「御辺達は橋渡しの判官に成り給へ。我等は合戦をせん。」と戯れて、二人共橋の上をさら/゛\と走渡り、堀の上なる逆木共取て引除、各木戸の脇にぞ著たりける。是を防ぎける兵共、三方の土矢間より鑓・長刀を差出して散々に突けるを、亘理新左衛門、十六迄奪てぞ捨たりける。畑六郎左衛門是を見て、「のけや亘理殿、其屏引破て心安く人々に合戦せさせん。」と云侭に、走懸り、右の足を揚て、木戸の関の木の辺を、二蹈三蹈ぞ蹈だりける。余に強く被蹈て、二筋渡せる八九寸の貫の木、中より折て、木戸の扉も屏柱も、同くどうど倒れければ、防がんとする兵五百余人、四方に散て颯とひく。一の木戸已に破ければ、新田の三万余騎の勢、城の中へ懸入て、先合図の火をぞ揚たりける。是を見て山門の大衆二万余人、如意越より落合て、則院々谷々へ乱入り、堂舎・仏閣に火を懸て呼き叫でぞ責たりける。猛火東西より吹懸て、敵南北に充満たれば、今は叶じとや思けん、三井寺の衆徒共、或は金堂に走入て猛火の中に腹を切て臥、或は聖教を抱て幽谷に倒れ転ぶ。多年止住の案内者だにも、時に取ては行方を失ふ。 |
石塔の表面が平らで二本並んだ様子は、まるで京都の四条大橋や五条大橋のようだった。ここで畑六郎左衛門と亘理新左衛門の二人が堀際に立って、「お前たちは渡し守の役目を果たせ!我々こそ戦うのだ」と冗談めかして言い、二本の石塔橋をすらりと駆け抜けた。そして塀上の逆茂木(防御用の枝)を取り除きながら、それぞれ城門の脇へ到達した。 これを防ごうとする敵兵たちが三方の狭間から槍や薙刀を突き出して激しく攻撃する中で、亘理新左衛門は十六本もの武器を奪い捨てた。畑六郎左衛門はこれを見ると「退け!亘理殿よ。この城壁を破って皆が戦いやすいようにしよう」と言うなり走り寄り、右足を高く上げて門の閂部分へ二度三度と蹴り込んだ。あまりに強烈な蹴りのため、八九寸(約27cm)ある貫通材は真っ二つに折れ、扉も柱もどっと崩れ落ちた。 防ごうとした五百余人の兵士たちは四方へ散って逃げ去った。第一城門が破られたので新田軍三万有余騎が城内へ突入し、合図の烽火を上げた。これを見て比叡山(山門)から僧侶二万余人が如意ヶ岳方面よりなだれ込み、寺院や谷間めがけて乱入した。堂塔仏閣に次々と放火しながら叫び声をあげて攻めたため、炎は東西から吹き荒れ敵兵は南北へ充満した。 もはやこれまでと思ったのか、三井寺の僧たちは金堂に駆け込んで猛火の中で切腹したり、経典を抱えたまま谷底へ転落していった。長年住み慣れた場所さえ、この時ばかりは方向感覚を見失うほどだった。 解説
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| 況乎四国・西国の兵共、方角もしらぬ烟の中に、目をも不見上迷ひければ、只此彼この木の下岩の陰に疲れて、自害をするより外の事は無りけり。されば半日許の合戦に、大津・松本・三井寺内に被討たる敵を数るに七千三百余人也。抑金堂の本尊は、生身の弥勒にて渡せ給へば、角ては如何とて或衆徒御首許を取て、薮の中に隠し置たりけるが、多被討たる兵の首共の中に交りて、切目に血の付たりけるを見て、山法師や仕たりけん、大札を立て、一首の歌に事書を書副たりける。「建武二年の春の比、何とやらん、事の騒しき様に聞へ侍りしかば、早三会の暁に成ぬるやらん。いでさらば八相成道して、説法利生せんと思ひて、金堂の方へ立出たれば、業火盛に燃て修羅の闘諍四方に聞ゆ。こは何事かと思ひ分く方も無て居たるに、仏地坊の某とやらん、堂内に走入り、所以もなく、鋸を以て我が首を切し間、阿逸多といへ共不叶、堪兼たりし悲みの中に思ひつゞけて侍りし。山を我敵とはいかで思ひけん寺法師にぞ頚を切るゝ。」前々炎上の時は、寺門の衆徒是を一大事にして隠しける九乳の鳧鐘も取人なければ、空く焼て地に落たり。此鐘と申は、昔竜宮城より伝りたる鐘也。其故は承平の比俵藤太秀郷と云者有けり。或時此秀郷只一人勢多の橋を渡けるに、長二十丈許なる大蛇、橋の上に横て伏たり。 |
ましてや四国や西国の兵士たちは、方角も分からない煙の中にあって目がくらむほど混乱し、ただあちこちの木陰や岩かげで疲れ果て自害するよりほかなかった。こうした半日足らずの戦いで大津・松本・三井寺内において討たれた敵は七千三百人余りに上った。 そもそも金堂の本尊(弥勒菩薩像)は現身の仏として安置されていたが、ある僧侶が事態を憂いてその首だけを持ち去り藪の中へ隠した。しかし数多くの討たれた兵士たちの首と混ざって切り口に血がついているのが見つかり、山法師(比叡山僧)と思しき者が立て札を作り一首の歌を添えて書き記していた:「建武二年春頃のことか、世情騒然として三会説法(仏教終末思想)の時が来たようだ。ならば弥勒菩薩は八相成道して衆生救済に乗り出そうと金堂へ向かったところ業火燃え盛り修羅の争い声が響く。何かと思案していると『仏地坊』なる者が堂内へ乱入し理由もなく鋸でわが首を斬った。阿逸多(弥勒)といえど耐え難き悲しみよ、山寺を敵と思うとは何事か」 さらに以前の火災時には三井寺衆徒が秘蔵した九乳の鳧鐘だが誰にも守られず空しく焼け落ちた。この鐘は昔竜宮城から伝わったものとされる由来がある:承平年間に俵藤太秀郷という者がいた時、彼が勢多橋を一人で渡ろうとしたところ長さ二十丈(約60m)もある大蛇が橋上に横たわっていた。 解説
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| 両の眼は耀て、天に二の日を卦たるが如、双べる角尖にして、冬枯の森の梢に不異。鉄の牙上下に生ちがふて、紅の舌炎を吐かと怪まる。若尋常の人是を見ば、目もくれ魂消て則地にも倒つべし。されども秀郷天下第一の大剛の者也ければ更に一念も不動ぜして、彼大蛇の背の上を荒かに蹈で閑に上をぞ越たりける。然れ共大蛇も敢て不驚、秀郷も後ろを不顧して遥に行隔たりける処に、怪げなる小男一人忽然として秀郷が前に来て云けるは、「我此橋の下に住事已に二千余年也。貴賎往来の人を量り見るに、今御辺程に剛なる人を未見ず。我に年来地を争ふ敵有て、動ば彼が為に被悩。可然は御辺我敵を討てたび候へ。」と、懇にこそ語ひけれ。秀郷一義も不謂、「子細有まじ。」と領状して、則此男を前に立てゝ又勢多の方へぞ帰ける。二人共に湖水の波を分て、水中に入事五十余町有て一の楼門あり。開て内へ入るに、瑠璃の沙厚く玉の甃暖にして、落花自繽紛たり。朱楼紫殿玉欄干、金を鐺にし銀を柱とせり。其壮観奇麗、未曾て目にも不見耳にも聞ざりし所也。此怪しげなりつる男、先内へ入て、須臾の間に衣冠を正しくして、秀郷を客位に請ず。左右侍衛官前後花の装善尽し美尽せり。酒宴数刻に及で夜既に深ければ、敵の可寄程に成ぬと周章騒ぐ。 |
両眼は輝き、まるで空に二つの太陽がかかったかのようであり、並んだ角の鋭さは冬枯れの森の梢と変わらなかった。鉄のような牙が上下に生え違い、炎を吐くような赤い舌を見せて不気味である。もし普通の者がこれを見れば目も眩み魂消えてその場で倒れただろう。しかし秀郷は天下第一の剛勇者ゆえ少しも動じることなく、大蛇の背中を荒々しく踏みつけ平然と通り過ぎた。 ところが大蛇も全く驚かず、秀郷も振り返らずに遠く離れた時、奇妙な小男一人が忽然と現れて言った:「私はこの橋の下に住むこと既に二千余年になる。貴賎様々な往来者を見てきたが、あなたほど勇ましい人物は未だ見たことがない。長年土地を争う敵がいて動けば悩まされる。どうか私のためにその敵を討ってください」と懇願した。 秀郷は一も二もなく承諾し、「構わない」と言い含めてこの男を先導に再び勢多の方へ戻った。二人で湖水の波を分け水中に入ること五十余町(約5.4km)、そこには楼門があった。開けて中へ入ると瑠璃色の砂が厚く敷かれ玉石は温か、花々が自然と舞い散っている。朱塗りの楼閣に紫の殿舎、欄干は玉で飾られ柱は金銀製であった。その壮観な美しさはこれまで見たことも聞いたこともない場所だった。 先ほどまでの怪しい男は奥へ入り、やがて衣冠を整えて秀郷を客席に招じた。侍衛官たちの装束は前後とも花のように華麗で優雅であった。酒宴が数刻続き夜も更けた頃、「敵が攻めてくる時だ」と周囲が慌ただしくなった。 解説
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| 秀郷は一生涯が間身を放たで持たりける五人張にせき弦懸て噛ひ湿し、三年竹の節近なるを十五束二伏に拵へて、鏃の中子を筈本迄打どほしにしたる矢、只三筋を手挟て、今や/\とぞ待たりける。夜半過る程に雨風一通り過て、電火の激する事隙なし。暫有て比良の高峯の方より、焼松二三千がほど二行に燃て、中に嶋の如なる物、此龍宮城を指てぞ近付ける。事の体を能々見に、二行にとぼせる焼松は皆己が左右の手にともしたりと見へたり。あはれ是は百足蜈蚣の化たるよと心得て、矢比近く成ければ、件の五人張に十五束三伏忘るゝ許引しぼりて、眉間の真中をぞ射たりける。其手答鉄を射る様に聞へて、筈を返してぞ不立ける。秀郷一の矢を射損て、不安思ひければ、二の矢を番て、一分も不違態前の矢所をぞ射たりける。此矢も又前の如くに躍り返て、是も身に不立けり。秀郷二つの矢をば皆射損じつ、憑所は矢一筋也。如何せんと思けるが、屹と案じ出したる事有て、此度射んとしける矢さきに、唾を吐懸て、又同矢所をぞ射たりける。此矢に毒を塗たる故にや依けん、又同矢坪を三度迄射たる故にや依けん、此矢眉間のたゞ中を徹りて喉の下迄羽ぶくら責てぞ立たりける。二三千見へつる焼松も、光忽に消て、島の如に有つる物、倒るゝ音大地を響かせり。 |
秀郷は生涯肌身離さず携えてきた五人張りの強弓を取り出し弦をかけ唾液で湿らせ、三年物の竹で節が詰まったものを十五束二伏に仕込み鏃から筈まで貫通した特別な矢三本だけを手に挟み、今か今かと待ち構えていた。真夜中過ぎ雨風が一通り収まり雷光が絶え間なく走る中、しばらくして比良山の高峰の方角から二列になって燃える松明二千三千ほどが見え、その中心に島のようなものが龍宮城へ向かって近づいてきた。状況をよく観察すると二列の松明は全て自身が左右の手で掲げているように見えた。「ああこれは巨大な百足蜈蚣(ムカデ)の化け物だ」と悟り、射程距離に入ったので五人張りの弓に十五束三伏分の力を込めて引き絞り眉間の真ん中を射た。すると鉄板に当てたような反響音がして矢は跳ね返された。 秀郷は一発目を外し不安になり二本目の矢を取り出すと寸分違わず同じ箇所へ放ったが前回同様にはじかれた。二本とも失敗した今、頼みの綱は残り一本だけだ。「どうすれば」と思案する中ひらめきを得て、次に射ろうとした矢先につばを吐きかけ再び全く同じ場所を狙い撃った。この矢が毒塗られていたためか三度も同一点を攻めた効果か眉間の中心を貫通し喉元まで深々と突き刺さった。二千三千もの松明は光を瞬時に消し島のような物体は倒れ落ちる轟音で大地を震わせた。 解説
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| 立寄て是を見るに、果して百足の蜈蚣也。竜神は是を悦て、秀郷を様々にもてなしけるに、太刀一振・巻絹一・鎧一領・頚結たる俵一・赤銅の撞鐘一口を与て、「御辺の門葉に、必将軍になる人多かるべし。」とぞ示しける。秀郷都に帰て後此絹を切てつかふに、更に尽事なし。俵は中なる納物を、取ども/\尽ざりける間、財宝倉に満て衣裳身に余れり。故に其名を俵藤太とは云ける也。是は産業の財らなればとて是を倉廩に収む。鐘は梵砌の物なればとて三井寺へ是をたてまつる。文保二年三井寺炎上の時、此鐘を山門へ取寄て、朝夕是を撞けるに、敢てすこしも鳴ざりける間、山法師共、「悪し、其義ならば鳴様に撞。」とて、鐘木を大きに拵へて、二三十人立懸りて、破よとぞ撞たりける。其時此鐘海鯨の吼る声を出して、「三井寺へゆかふ。」とぞ鳴たりける。山徒弥是を悪みて、無動寺の上よりして数千丈高き岩の上をころばかしたりける間、此鐘微塵に砕にけり。今は何の用にか可立とて、其われを取集て本寺へぞ送りける。或時一尺許なる小蛇来て、此鐘を尾を以[て]扣きたりけるが、一夜の内に又本の鐘に成て、疵つける所一も無りけり。されば今に至るまで、三井寺に有て此鐘の声を聞人、無明長夜の夢を驚かして慈尊出世の暁を待。 |
秀郷が近寄って見ると、確かに百足(ムカデ)であった。竜神はこれを喜び様々にもてなした後、太刀一振り・絹の巻物一つ・鎧一式・紐で縛った米俵一つ・赤銅製の鐘ひとつを与え、「あなたの子孫には必ず大将軍になる者が多く現れるだろう」と告げた。秀郷が都に帰ってからこの絹を使おうとしたが、決して尽きることがなかった。米俵は中身を取り出しても減らず、財宝で倉庫がいっぱいになり衣服も余るほどだったため、彼を「俵藤太」と呼ぶようになった。これらの財産となる品々は倉に収められ、仏具である鐘は三井寺へ奉納した。 文保二年(1318年)に三井寺が火災で焼けた際、比叡山延暦寺の僧侶たちがこの鐘を奪い朝夕撞いてみたが全く音が出ない。そこで「どうせ鳴らないなら」と巨大な撞木を作り二三十人かかりで無理に打ち壊そうとしたところ、鐘は鯨の唸るような声で「三井寺へ戻れ」と響いた。山徒(延暦寺僧)がさらに憎んで無動寺谷から数千丈の岩山へ転げ落としたため、粉々に砕けてしまった。 その後「もう用はない」と破片を集めて本寺(三井寺)へ送り返したところ、ある時一尺ほどの小蛇が現れ尾で鐘のかけらを叩いた。すると一夜にして元の姿に復り傷一つなかった。それゆえ今も三井寺にあるこの鐘の音色は、人々から迷いの夢を覚まし弥勒菩薩(慈尊)出現の夜明けを待たせるものとして知られている。 解説
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| 末代の不思議、奇特の事共也。 ○建武二年正月十六日合戦事 三井寺の敵無事故責落たりければ、長途に疲たる人馬、一両日機を扶てこそ又合戦をも致さめとて、顕家卿坂本へ被引返ければ、其勢二万余騎は、彼趣に相順ふ。新田左兵衛督も、同坂本へ帰らんとし給ひけるを、舟田長門守経政、馬を叩て申けるは、「軍の利、勝に乗る時、北るを追より外の質は非じと存候。此合戦に被打漏て、馬を棄物具を脱で、命許を助からんと落行候敵を追懸て、京中へ押寄る程ならば、臆病神の付たる大勢に被引立、自余の敵も定て機を失はん歟。さる程ならば、官軍敵の中へ紛れ入て、勢の分際を敵に不見せしとて、此に火をかけ、彼に時を作り、縦横無碍に懸立る者ならば、などか足利殿御兄弟の間に近付奉て、勝負を仕らでは候べき。落候つる敵、よも幾程も阻り候はじ。何様一追々懸て見候はゞや。」と申ければ、義貞、「我も此義を思ひつる処に、いしくも申たり。さらば頓て追懸よ。」とて、又旗の手を下して馬を進め給へば、新田の一族五千余人、其勢三万余騎、走る馬に鞭を進めて、落行敵をぞ追懸たる。敵今は遥に阻たりぬらんと覚る程なれば、逃るは大勢にて遅く、追は小勢にて早かりければ、山階辺にて漸敵にぞ追付ける。 |
末代(後世)に残る不思議で驚くべき事柄である。 ○建武二年正月十六日の合戦について 敵はすでに遠くへ逃げたかと思われたが、逃げる大軍は遅く、追う小勢は迅速だったため、山階(京都市山科区)付近でようやく敵に追いついたのである。 解説
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| 由良・長浜・吉江・高橋、真前に進で追けるが、大敵をば不可欺とて、広みにて敵の返し合つべき所迄はさまで不追、遠矢射懸々々、時を作る許にて、静々と是を追ひ、道迫りて、而も敵の行前難所なる山路にては、かさより落し懸て、透間もなく射落し切臥せける間、敵一度も返し不得、只我先にとぞ落行ける。されば手を負たる者は其侭馬人に被蹈殺、馬離たる者は引かねて無力腹を切けり。其死骸谷をうめ溝を埋みければ、追手の為には道平に成て、弥輪宝の山谷を平らぐるに不異、将軍三井寺に軍始たりと聞へて後、黒烟天に覆を見へければ、「御方如何様負軍したりと覚るぞ。急ぎ勢を遣せ。」とて、三条河原に打出、先勢揃をぞし給ひける。斯処に粟田口より馬烟を立て、其勢四五万騎が程引て出来たり。誰やらんと見給へば、三井寺へ向し四国・西国の勢共也。誠に皆軍手痛くしたりと見へて、薄手少々負はぬ者もなく、鎧の袖冑の吹返に、矢三筋四筋折懸ぬ人も無りけり。さる程に新田左兵衛督、二万三千余騎を三手に分て、一手をば将軍塚の上へ挙、一手をば真如堂の前より出し、一手をば法勝寺を後に当て、二条河原へ出して、則相図の烟をぞ被挙ける。自らは花頂山に打上て、敵の陣を見渡し給へば、上は河合森より、下は七条河原まで、馬の三頭に馬を打懸け、鎧の袖に袖を重て、東西南北四十余町が間、錐を立る許の地も不見、身を峙て打囲たり。 |
由良や長浜らが最前線に進んで追撃したが、強大な敵を侮れないと考えて、広い場所で反撃される恐れのある範囲までは深追いせず、遠くから矢を放ち続けながら機会を見る程度に静かに追跡し、道幅が狭くなったところで逃げる敵の行き先が険しい山路になると、上から襲いかかるように間断なく射倒して伏せたため、敵は一度も反撃できず「我先にと」敗走した。 解説
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| 義貞朝臣弓杖にすがり被下知けるは、「敵の勢に御方を合れば、大海の一滴、九牛が一毛也。只尋常の如くに軍をせば、勝事を得難し。相互に面をしり被知たらんずる侍共、五十騎づゝ手を分て、笠符を取捨、幡を巻て、敵の中に紛れ入り、此彼に叩々、暫可相待。将軍塚へ上せつる勢、既に軍を始むと見ば、此陣より兵を進めて可令闘。其時に至て、御辺達敵の前後左右に旗を差挙て、馬の足を不静め、前に在歟とせば後へぬけ、左に在かとせば右へ廻て、七縦八横に乱て敵に見する程ならば、敵の大勢は、還て御方の勢に見へて、同士打をする歟、引て退く歟、尊氏此二つの中を不可出。」韓信が謀を被出しかば、諸大将の中より、逞兵五十騎づゝ勝り出して、二千余騎各一様に、中黒の旗を巻て、文を隠し、笠符を取て袖の下に収め、三井寺より引をくれたる勢の真似をして、京勢の中へぞ馳加りける。敵斯る謀ありとは、将軍不思寄給、宗との侍共に向ふて被下知けるは、「新田はいつも平場の懸をこそ好と聞しに、山を後ろに当てゝ、頓ても懸出ぬは、如何様小勢の程を敵に見せじと思へる者也。将軍塚の上に取あがりたる敵を置てはいつまでか可守挙。師泰彼に馳向て追散せ。」と宣ければ、越後守畏て、「承候。」と申て、武蔵・相摸の勢二万余騎を率して、双林寺と中霊山とより、二手に成てぞ挙たりける。 |
新田左兵衛督(義貞)が弓の柄にもたれかかり指示したのは、「敵軍と味方の兵力を比べれば大海の中の一滴や九頭の牛から一本抜いた毛のようなもので圧倒的に劣っている。通常通りの戦い方をしていては勝利を得られないだろう。互いに顔を知り合っている武士たちよ、五十騎ずつに分かれて笠印を取り外し旗を巻き収め敵陣へ紛れ込みあちこちで襲撃しながら機会を待ってほしい。将軍塚へ登らせた部隊が戦闘を始めたと見えたなら主力はここから攻勢に出るように。その時にはお前たちは敵の前後左右に旗を掲げ馬を騒がせて、前にいるかと思えば後ろへ抜け左にいると見せれば右へ回り縦横無尽に混乱させるのだ。そうすれば大軍である敵兵は味方同士に見え始め仲間討ちをするか退却するかの二択を迫られ尊氏もこの窮地から逃れられないだろう」と述べた。かつて漢の武将韓信が用いた奇策にならったため、諸将の中から精鋭五十騎ずつが進み出て総勢二千余騎は一様に中黒紋の旗を巻いて文字部分を隠し笠印を袖の下へ収め三井寺方面から敗走した部隊のように装って京方(足利軍)の中へ突入していった。敵側にはこの謀略が全く予想外だったため将軍(尊氏)は家臣たちに向かって「新田といえば平地での戦いを好むと聞いていたのに山を背にしてすぐに出撃しないのは小勢であることを悟られまいとする策だろう。しかし将軍塚に登った敵を放置していつまで守り続けられるものか?師泰よ急ぎ向かって追い散らせ」と命じたので越後守(高師泰)は畏まって「承知いたしました」と言い武蔵・相模の軍勢二万余騎を率いて双林寺と中霊山から二手に分かれ進撃した。 解説
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| 此には脇屋右衛門佐・堀口美濃守・大館左馬助・結城上野入道以下三千余騎にて向たりけるが、其中より逸物の射手六百余人を勝て、馬より下し、小松の陰を木楯に取て、指攻引攻散々にぞ射させたりける。嶮き山を挙かねたりける武蔵・相摸の勢共、物具を被徹て矢場に伏、馬を被射てはね落されける間、少猶予して見へける処を、「得たり賢し。」と、三千余騎の兵共抜連て、大山の崩るが如く、真倒に落し懸たりける間、師泰が兵二万余騎、一足をもためず、五条河原へ颯と引退。此にて、杉本判官・曾我二郎左衛門も被討にけり。官軍態長追をばせで、猶東山を後に当て勢の程をぞ見せざりける。搦手より軍始まりければ、大手音を受て時を作る。官軍の二万余騎と将軍の八十万騎と、入替入替天地を響して戦たる。漢楚八箇年の戦を一時に集め、呉越三十度の軍を百倍になす共、猶是には不可過。寄手は小勢なれども皆心を一にして、懸時は一度に颯と懸て敵を追まくり、引時は手負を中に立て静に引く。京勢は大勢なりけれ共人の心不調して、懸時も不揃、引時も助けず、思々心々に闘ける間、午の剋より酉の終まで六十余度の懸合に、寄手の官軍度毎に勝に不乗と云事なし。されども将軍方大勢なれば、被討共勢もすかず、逃れども遠引せず、只一所にのみこらへ居たりける処に、最初に紛れて敵に交りたる一揆の勢共、将軍の前後左右に中黒の旗を差揚て、乱合てぞ戦ける。 |
ここでは脇屋右衛門佐(義助)・堀口美濃守・大館左馬助・結城上野入道以下三千余騎が対応していた。彼らはその中から特に優れた射手六百人以上を選抜し、馬から降りて小松の陰や木製の盾で身を隠しながら前進と後退を繰り返して矢を浴びせかけた。険しい山を登ってきた武蔵・相模(足利方)の兵士たちは鎧をつけて伏せていたが、馬を射落とされるなどしてもたついている様子を見て、「好機だ!」と叫んだ三千余騎全軍が大山が崩れるように一気に攻め下ったため、師泰(高師泰)率いる二万余騎は瞬時に五条河原へ撤退した。この際、杉本判官・曾我二郎左衛門も討たれた。官軍(新田方)態勢を整え深追いせず、依然として東山を背にして兵力を見せなかったが、搦手側から戦闘が始まったため大手の部隊はそれに呼応する形となった。官軍二万余騎と将軍(尊氏)方八十万騎とは入り乱れて天地を揺るがすほど激しく交戦した。漢楚八年間の抗争を一瞬で集めたようであり、呉越三十度の合戦の百倍に相当しようともこの戦いは比類ないほどの規模であった。攻め手(官軍)は小勢ながら全員心を一つにしており、攻撃時には一斉に襲いかかり敵を蹴散らし、退却時には負傷者を中央に配置して静かに引き揚げた。京方の兵士たちは大軍だったものの人々がまとまらず、攻め上がるタイミングもそろわず撤退時にも助け合わないまま各自思い思いに戦ったため、正午から夕刻までの間に六十回以上繰り返された交戦で官軍は毎度確実に勝利を収めた。しかし将軍方は大勢であったので討たれる者がいても兵力が減らず逃げる者も遠くへ退かずただ一箇所で踏みとどまっていたところ、最初に紛れ込んでいた偽装部隊の兵たちが尊氏の前後左右に中黒旗を掲げて乱戦状態となり激しく争い始めた。 解説
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| 何れを敵何を御方共弁へ難ければ、東西南北呼叫で、只同士打をするより外の事ぞ無りける。将軍を始奉りて、吉良・石堂・高・上杉の人々是を見て、御方の者共が敵と作合て後矢を射よと被思ければ、心を置合て、高・上杉の人々は、山崎を指して引退き、将軍・吉良・石堂・仁木・細川の人々は、丹波路へ向て落給ふ。官軍弥勝に乗て短兵急に拉。将軍今は遁る所なしと思食けるにや、梅津、桂河辺にては、鎧の草摺畳み揚て腰の刀を抜んとし給ふ事、三箇度に及けり。されども将軍の御運や強かりけん、日既に暮けるを見て、追手桂河より引返ければ、将軍も且く松尾・葉室の間に引へて、梅酸の渇をぞ休められける。爰に細川卿律師定禅、四国の勢共に向て宣けるは、「軍の勝負は時の運に依事なれば、強に恥ならねども、今日の負は三井寺の合戦より事始りつる間、我等が瑕瑾、人の嘲を不遁。されば態他の勢を不交して、花やかなる軍一軍して、天下の人口を塞がばやと思也。推量するに、新田が勢は、終日の合戦に草伏て、敵に当り変に応ずる事自在なるまじ。其外の敵共は、京白河の財宝に目をかけて一所に不可在。其上赤松筑前守僅の勢にて下松に引へて有つるを、無代に討せたらんも可口惜。いざや殿原、蓮台野より北白河へ打廻て、赤松が勢と成合、新田が勢を一あて/\て見ん。 |
混乱が激しく敵味方の区別もつかなくなったため、兵士たちは東西南北に向けて叫び声を上げながら、ただ仲間同士で戦い合うほかなかった。将軍(足利尊氏)や吉良・石堂・高・上杉の人々がこれを見て、「味方が敵と組んで背後から矢を射ているのではないか」と疑念を持ったため、互いに警戒しつつ行動した結果、高・上杉の部隊は山崎方面へ撤退し、将軍や吉良・石堂・仁木・細川の人々は丹波路に向けて逃げ落ちた。官軍(新田方)が勢いを増して追撃すると、将軍はもはや逃げ場がないと覚悟したのか、桂川の梅津付近で鎧の裾を巻き上げて腰刀を抜こうとする行動を三度繰り返した。しかし幸運にも日没となり、追手が引き返したため、将軍は松尾から葉室あたりに一時的に落ち着いて喉の渇きを癒すことができた。そこで細川卿律師定禅が四国の部隊に向けて宣言した:「戦いの勝敗は時の運次第だから無理もないとはいえ、今日の負け戦は三井寺での合戦から始まっているため、我々の汚名や人からの嘲笑を免れられまい。ならば敢えて他の軍と連携せずに派手な戦い一発で世間の口封じをしようと思う。推測すると新田勢は一日中戦って伏せているので機動的に応戦できないはずだし、その他の敵部隊(京や白河の兵)は財宝目当てで集まっていないだろう。加えて赤松筑前守がわずかな手勢で下松にいるのは格好の獲物である。さあ諸君よ、蓮台野から北白河へ回り込み赤松軍と合流し新田勢を一気呵成に叩いてみよう。」 解説
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| 」と宣へば、藤・橘・伴の者共、「子細候まじ。」とぞ同じける。定禅不斜喜で、態将軍にも知らせ不奉、伊予・讚岐の勢の中より三百余騎を勝て、北野の後ろより上賀茂を経て、潛に北白河へぞ廻りける。糾の前にて三百余騎の勢十方に分て、下松・薮里・静原・松崎・中賀茂、三十余箇所に火をかけて、此をば打捨て、一条・二条の間にて、三所に鬨をぞ挙たりける。げにも定禅律師推量の如く、敵京白河に分散して、一所へ寄る勢少なかりければ、義貞・義助一戦に利を失て、坂本を指して引返しけり。所々に打散たる兵共、俄に周章て引ける間、北白河・粟田口の辺にて、舟田入道・大館左近蔵人・由良三郎左衛門尉・高田七郎左衛門以下宗との官軍数百騎被討けり。卿律師、頓て早馬を立て、此由を将軍へ被申たりければ、山陽・山陰両道へ落行ける兵共、皆又京へぞ立帰る。義貞朝臣は、僅に二万騎勢を以て将軍の八十万騎を懸散し、定禅律師は、亦三百余騎の勢を以て、官軍の二万余騎を追落す。彼は項王が勇を心とし、是は張良が謀を宗とす。智謀勇力いづれも取々なりし人傑也。 ○正月二十七日合戦事 斯る処に去年十二月に、一宮関東へ御下有し時、搦手にて東山道より鎌倉へ御下有し大智院宮・弾正尹宮、竹下・箱根の合戦には、相図相違して逢せ給はざりしかども、甲斐・信濃・上野・下野勢共馳参しかば、御勢雲霞の如に成て、鎌倉へ入せ給ふ。 |
これを聞いた藤氏・橘氏・伴氏などの家臣たちは「異存ありません」と同調した。定禅は大いに喜び、わざわざ将軍に知らせず伊予・讃岐の兵から三百余騎を選抜し、北野裏手から上賀茂を通り密かに北白河へ回り込んだ。部隊を十方に分け下松・藪里・静原・松崎・中賀茂など三十箇所以上に火を放った後これを放置し、一条と二条の間で三か所から鬨の声を上げた。確かに定禅律師の予想通り敵軍(新田方)は京都や白河周辺に分散しており集結兵力が少なかったため、義貞・義助兄弟は戦機を失い坂本へ撤退した。各地で散在していた兵士たちも慌てて退却する中、北白河と粟田口付近では舟田入道・大館左近蔵人・由良三郎左衛門尉・高田七郎左衛門以下官軍の主力数百騎が討たれた。定禅律師は早馬でこの報を将軍に伝えると、山陽道や山陰道へ逃げていた兵士たちも皆京都へ戻ってきた。こうして新田義貞公はわずか二万騎で八十万の大軍(足利方)を蹴散らし、定禅律師は三百余騎で官軍二万余騎を退却させた―前者は項羽のような武勇を本質とし後者は張良流の謀略を旨とする。知謀と武力どちらも卓越した人傑であった。 ○正月二十七日の合戦について 解説
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| 此にて事の様を問へば、「新田、竹下・箱根の合戦に打負て引返す。尊氏朝臣北を追て被上洛ぬ。其後奥州国司顕家卿、又尊氏朝臣の跡を追て、被責上候ぬ。」とぞ申ける。「さらば何様道にても新田蹈留らば合戦有ぬべし。鎌倉に可逗留様なし。」とて、公家には洞院左衛門督実世・持明院右衛門督入道・信濃国司堀河中納言・園中将基隆・二条少将為次、武士には、嶋津上野入道・同筑後前司・大伴・猿子の一党・落合の一族・相場・石谷・纐纈・伊木・津子・中村・々上・源氏・仁科・高梨・志賀・真壁、是等を宗との者として都合其勢二万余騎、正月二十日の晩景に東坂本にぞ著にける。官軍弥勢ひを得て翌日にも頓て京都へ寄んと議しけるが、打続き悪日也ける上、余に強く乗たる馬共なれば、皆竦て更はたらき得ざりける間、兎に角に延引して、今度の合戦は、二十七日にぞ被定ける。既其日に成ぬれば、人馬を休ん為に、宵より楠木・結城・伯耆、三千余騎にて、西坂を下々て、下松に陣を取る。顕家卿は三万余騎にて、大津を経て山科に陣を取る。洞院左衛門督二万余騎にて赤山に陣を取。山徒は一万余騎にて竜花越を廻て鹿谷に陣を取。新田左兵衛督兄弟は二万余騎の勢を率し、今道より向て、北白河に陣を取る。大手・搦手都合十万三千余騎、皆宵より陣を取寄たれども、敵に知せじと態篝火をば焼ざりけり。 |
そこで情報を尋ねると、「新田軍は竹ノ下・箱根の戦いで敗れて撤退した。足利尊氏公が北から追撃して上洛し、その後奥州国司(北畠顕家卿)も尊氏公を追って攻め上っている」との報告があった。「ならばどの道でも新田軍が留まれば戦いがあるだろう。鎌倉に滞在するわけにはいかぬ」と判断し、公家側からは洞院左衛門督実世・持明院右衛門督入道(北条氏)・信濃国司堀河中納言・園中将基隆・二条少将為次が、武士側からは嶋津上野入道・同筑後前司・大伴・猿子一党・落合一族・相場・石谷・纐纈・伊木・津子・中村・々上・源氏・仁科・高梨・志賀・真壁らを主力として総勢二万余騎が集結し、正月二十日の夕暮れに東坂本へ到着した。官軍(新田方)はさらに勢力を得て翌日にもすぐ京都へ迫ろうと協議したが、続く不吉な日に加え馬も疲弊していたため兵士たちの動きが鈍り、結局延期されて今回の合戦は二十七日に決定された。その当日になると休息のために夕方から楠木・結城・伯耆ら三千余騎が西坂を下って下松に陣取り、顕家卿は三万余騎で大津経由山科に布陣した。洞院左衛門督の二万余騎は赤山へ、比叡山僧兵(山徒)一万余騎は竜花越から鹿谷へ回って配置し、新田義貞兄弟は二万余騎を率いて今道経由で北白河に陣取った。大手軍と搦手軍合わせて十万三千余騎が全軍夕方までに布陣を完了したものの、敵(足利方)に察知されぬよう敢えてかがり火は焚かなかった。 解説
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| 合戦は明日辰刻と被定けるを、機早なる若大衆共、武士に先をせられじとや思けん、まだ卯刻の始に神楽岡へぞ寄たりける。此岡には宇都宮・紀清両党城郭を構てぞ居たりける。去ば無左右寄著て人の可責様も無りけるを、助註記祐覚が同宿共三百余人、一番に木戸口に著て屏を阻て闘けるが、高櫓より大石数た被投懸て引退処に、南岸円宗院が同宿共五百余人、入替てぞ責たりける。是も城中に名誉の精兵共多かりければ、走廻て射けるに、多く物具を被徹て叶はじとや思ひけん、皆持楯の陰に隠れて、「悪手替れ。」とぞ招きける。爰に妙観院の因幡竪者全村とて、三塔名誉の悪僧あり。鎖の上に大荒目の鎧を重て、備前長刀のしのぎさがりに菖蒲形なるを脇に挟み、箆の太さは尋常の人の蟇目がらにする程なる三年竹を、もぎつけに押削て、長船打の鏃の五分鑿程なるを、筈本迄中子を打徹にしてねぢすげ、沓巻の上を琴の糸を以てねた巻に巻て、三十六差たるを、森の如に負成し、態弓をば不持、是は手衝にせんが為なりけり。切岸の面に二王立に立て名乗けるは、「先年三井寺の合戦の張本に被召て、越後国へ被流たりし妙観院高因幡全村と云は我事也。城中の人々此矢一つ進せ候はん。被遊て御覧候へ。」と云侭に、上差一筋抽出て、櫓の小間を手突にぞ突たりける。 |
合戦開始時刻は翌日の辰刻(午前8時頃)と決められていたが、機敏な若い僧兵たちは武士より先駆けをしたいと思ったのか、まだ卯刻の始まり(早朝5時過ぎ)に神楽岡へ攻め寄せた。この丘では宇都宮・紀清両軍団が城郭を築いて守備していたため容易には近づけない状態だったが、助註記祐覚配下三百人余りが最初に木戸口へ突入し柵を破って戦ったものの、高櫓から大石を次々と投げ落とされたため退却した。その隙に南岸円宗院配下五百余人が入れ替わりで攻めかけたが、城側には誉れ高い精鋭兵士たちが多くおり走り回って弓を射るので防具も貫通すると悟ったのか敵は皆盾の陰に隠れて「弱い者同士で交代しろ」と挑発した。ここにおいて妙観院所属の因幡出身悪僧・全村という三塔でも名高い者が現れた。鎖帷子の上に大荒目鎧を重ね着し、備前長刀(柄が下がり菖蒲形鍔)を脇に挟み、矢は箆の太さが普通人の蟇目矢にする程ある三年竹をもぎ取って削り、鏃は長船打様式で五分鑿ほどのものを筈元まで中子を通してねじ込み、沓巻部分には琴糸を念入りに巻き付けた三十六本の矢を森のように背負い、わざと弓を持たず手投げ用として切岸(城壁斜面)正面で仁王立ちになり名乗った。「かつて三井寺合戦の首謀者として越後へ流罪になった妙観院高因幡全村がこれなり!城中の人々よこの矢一本も耐えられるか試してみろ」と言いながら、上段から一筋抜き取り櫓の小窺穴に手投げで突き刺した。 解説
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| 此矢不誤、矢間の陰に立たりける鎧武者のせんだんの板より、後の角総著の金物迄、裏表二重を徹て、矢前二寸許出たりける間、其兵櫓より落て、二言も不云死にけり。是を見ける敵共、「あなをびたゝし、凡夫の態に非ず。」と懼て色めきける処へ、禅智房護聖院の若者共、千余人抜連て責入ける間、宇都宮神楽岡を落て二条の手に馳加る。是よりしてぞ、全村を手突因幡とは名付ける。山法師鹿谷より寄て神楽岡の城を責る由、両党の中より申ければ、将軍頓て後攻をせよとて、今河・細川の一族に、三万余騎を差副て被遣けるが、城は早被責落、敵入替ければ、後攻の勢も徒に京中へぞ帰ける。去程に、楠判官・結城入道・伯耆守、三千余騎にて糾の前より押寄て、出雲路の辺に火を懸たり。将軍是を見給て、「是は如何様神楽岡の勢共と覚るぞ、山法師ならば馬上の懸合は心にくからず、急ぎ向て懸散せ。」とて、上杉伊豆守・畠山修理大夫・足利尾張守に、五万余騎を差副てぞ被向ける。楠木は元来勇気無双の上智謀第一也ければ、一枚楯の軽々としたるを五六百帖はがせて、板の端に懸金と壷とを打て、敵の駆んとする時は、此楯の懸金を懸、城の掻楯の如く一二町が程につき並べて、透間より散々に射させ、敵引けば究竟の懸武者を五百余騎勝て、同時にばつと駆させける間、防手の上杉・畠山が五万余騎、楠木が五百余騎に被揉立て五条河原へ引退く。 |
この矢は外れず、矢間の陰に立っていた鎧武者の栴檀材の胸板から背後の角総覆い金具まで裏表二重を貫通し、鏃が二寸ほど飛び出たためその兵士は櫓から落ちて一言も発せず絶命した。これを見た敵軍は「ああ恐ろしい、凡人ではない」と怯え動揺しているところへ禅智房護聖院の若者たち千余人が一斉に突入し宇都宮勢は神楽岡を放棄して二条方面へ敗走した。この事件以来村全体で彼を「手突因幡(てつきいなば)」と呼ぶようになった。山法師(僧兵)が鹿谷から進軍し神楽岡の城を攻撃中との報告を受け将軍は直ちに後詰め部隊として今川・細川一族率いる三万騎余りを派遣したが、すでに落城して敵と入れ替わっていたため援軍も無駄に京へ引き返した。一方楠木正成入道(判官)・結城宗広入道・名和長年伯耆守の三千騎は糺神社前から出雲路周辺へ火をかけたので将軍足利尊氏は「これは神楽岡部隊との連携行動だ。僧兵なら馬上戦に慣れぬはず、急いで撃破せよ」と命じ上杉憲顕伊豆守・畠山国清修理大夫・足利高経尾張守率いる五万騎余りを差し向けたが楠木は元来知勇兼備のため軽量盾五六百枚に掛金と壺を取り付け敵接近時には城柵のように並べて矢穴から射撃させ撤退すると精鋭五百騎で一斉突撃したので守備側五万騎は翻弄され五条河原へ敗走した。 解説
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| 敵は是計歟と見処に、奥州国司顕家卿二万余騎にて粟田口より押寄て、車大路に火を被懸たり。将軍是を見給て、「是は如何様北畠殿と覚るぞ、敵も敵にこそよれ、尊氏向はでは叶まじ。」とて、自五十万騎を率し、四条・五条の河原へ馳向て、追つ返つ、入替々々時移る迄ぞ被闘ける。尊氏卿は大勢なれども軍する勢少くして、大将已に戦ひくたびれ給ぬ。顕家卿は小勢なれば、入替る勢無して、諸卒忽に疲れぬ。両陣互に戦屈して忿りを抑へ、馬の息つぎ居たる処へ、新田左兵衛督義貞・脇屋右衛門佐義助・堀口美濃守貞満・大館左馬助氏明、三万余騎を三手に分け、双林寺・将軍塚・法勝寺の前より、中黒の旗五十余流差せて、二条河原に雲霞の如くに打囲たる敵の中を、真横様に懸通りて、敵の後を切んと、京中へこそ被懸入けれ。敵是を見て、「すはや例の中黒よ。」と云程こそあれ、鴨河・白河・京中に、稲麻竹葦の如に打囲ふだる大勢共、馬を馳倒し、弓矢をかなくり捨て、四角八方へ逃散事、秋の木の葉を山下風の吹立たるに不異。義貞朝臣は、態鎧を脱替へ馬を乗替て、只一騎敵の中へ懸入々々、何くにか尊氏卿の坐らん、撰び打に討んと伺ひ給ひけれども、将軍運強くして、遂に見へ給はざりければ、無力其勢を十方へ分て、逃る敵をぞ追はせられける。 |
敵が油断しているところへ奥州国司北畠顕家卿率いる二万騎余りが粟田口から進軍し車大路に火を放った。将軍足利尊氏はこれを見て「これはどうやら北畠殿のようだ、敵も手強いが私自ら出なければ対処できまい」と言い、みずから五万騎を率いて四条・五条河原へ向かい追撃と反撃を繰り返しながら時間が経過するまで激戦した。尊氏卿は大軍ながら実質の戦力は少なく大将自らが疲労困憊した。顕家卿は小勢ゆえ交代要員もおらず兵士たちは急速に消耗した。両陣営互いに戦い疲れて一息つき馬を休めているところへ、新田左兵衛督義貞・脇屋右衛門佐義助・堀口美濃守貞満・大館左馬助氏明ら三万騎余りを三手に分け双林寺・将軍塚・法勝寺前から中黒の旗五十本以上を掲げ、二条河原に雲霞のように密集する敵陣を真横切るように突破し背後を遮断しようと京都市中へ突入した。敵はこれを見て「あれは例の中黒旗だ!」と言う間もなく鴨川・白河・京中一帯に稲穂や竹葦のように密集していた大軍勢が馬を倒し弓矢を投げ捨て四方八方へ逃散する様子は秋の木葉が山風で吹き飛ばされるのに等しかった。義貞朝臣(正成)はわざと鎧を着替え乗馬も変えて単騎敵陣深く突入し尊氏卿の居場所を見つけ出して討ち取ろうとしたものの将軍の運が強く遂に発見できなかったためやむなく自軍を分散させ敗走する敵を追撃させた。 解説
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| 中にも里見・鳥山の人々は、僅に二十六騎の勢にて、丹波路の方へ落ける敵二三万騎有けるを、将軍にてぞ坐らんと心得て桂河の西まで追ける間、大勢に返合せられて一人も不残被討にけり。さてこそ十方に分れて追ける兵も、「そゞろに長追なせそ。」とて、皆京中へは引返しける。角て日已に暮ければ、楠判官総大将の前に来て申けるは、「今日御合戦、不慮に八方の衆を傾くと申せ共さして被討たる敵も候はず、将軍の落させ給ける方をも不知、御方僅の勢にて京中に居候程ならば、兵皆財宝に心を懸て、如何に申すとも、一所に打寄る事不可有候。去程ならば、前の如く又敵に取て被返て、度方を失事治定可有と覚候。敵に少しも機を付ぬれば、後の合戦しにくき事にて候。只此侭にて今日は引返させ給ひ候て、一日馬の足を休め、明後日の程に寄せて、今一あて手痛く戦ふ程ならば、などか敵を十里・二十里が外まで、追靡けでは候べき。」と申ければ、大将誠にげにもとて、坂本へぞ被引返ける。将軍は今度も丹波路へ引給んと、寺戸の辺までをはしたりけるが、京中には敵一人も不残皆引返したりと聞へければ、又京都へぞ帰り給ひける。此外八幡・山崎・宇治・勢多・嵯峨・仁和寺・鞍馬路へ懸りて、落行ける者共も是を聞て、みな我も我もと立帰りけり。 |
特に里見氏と鳥山氏の人々はわずか二十六騎で丹波方面へ敗走する敵二、三万騎を追撃し「将軍(尊氏)がいるに違いない」と思い込み桂川西岸まで追い詰めたところ大軍の反撃を受け一人残らず討ち死した。このため四方八方で追跡していた他の兵士たちも「むやみな長距離追撃は避けよ」と言って皆京都市中へ引き返した。こうして日が完全に暮れたので楠木正成判官(総大将の副将)が主君新田義貞の前に進んで申し上げた:「今日の戦いは不意に全軍を投入しましたが敵があまり討ち取られず、尊氏将軍の逃亡先も不明です。我々が少数兵力で京都市中に留まっていると兵士たちは略奪品に夢中になりどう命令しても一箇所に集結できません。そうなれば以前のように再び敵に都を奪い返され退路を失う事態になるでしょう。もし油断すれば今後の戦いは困難です。ただ今すぐ撤退し一日馬の休息を与え明後日頃改めて攻勢に出て一挙に痛撃を加えるならどうして敵を十里二十里(約40-80km)も追い払えないことがありましょうか」と述べると大将義貞は「全くその通りだ」と同意し坂本へ撤退した。一方尊氏将軍は今回も丹波方面へ退却しようと寺戸付近まで来ていたが京都市中に敵兵一人残らず引き揚げたとの報を得て再び京都へ帰還した。これにより八幡・山崎・宇治・勢多(瀬田)・嵯峨・仁和寺・鞍馬方面へ逃れていた敗残兵たちも同様の知らせを聞き我さきにと続々と都に戻った。 解説
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| 入洛の体こそ恥かしけれども、今も敵の勢を見合すれば、百分が一もなきに、毎度かく被追立、見苦き負をのみするは非直事。我等朝敵たる故歟、山門に被咒詛故歟と、謀の拙き所をば閣て、人々怪しみ思はれける心の程こそ愚なれ。 ○将軍都落事付薬師丸帰京事 楠判官山門へ帰て、翌の朝律僧を二三十人作り立て京へ下し、此彼の戦場にして、尸骸をぞ求させける。京勢怪て事の由を問ければ、此僧共悲歎の泪を押へて、「昨日の合戦に、新田左兵衛督殿・北畠源中納言殿・楠木判官已下、宗との人々七人迄被討させ給ひ候程に、孝養の為に其尸骸を求候也。」とぞ答へける。将軍を始奉て、高・上杉の人々是を聞て、「あな不思議や、宗徒の敵共が皆一度に被討たりける。さては勝軍をばしながら官軍京をば引たりける。何くにか其頚共の有らん。取て獄門に懸、大路を渡せ。」とて、敵御方の尸骸共の中を求させけれ共、是こそとをぼしき頚も無りけり。余にあらまほしさに、此に面影の似たりける頭を二つ獄門の木に懸て、新田左兵衛督義貞・楠河内判官正成と書付をせられたりけるを、如何なるにくさうの者かしたりけん、其札の側に、「是はにた頚也。まさしげにも書ける虚事哉。」と、秀句をしてぞ書副て見せたりける。 |
京に入った様子は確かに恥ずかしいことではあったが、今でも敵軍と自軍の勢力を比較すると百分の一にも満たないのに毎回このように追い立てられて見苦しい敗北ばかりをするのは道理に反している。私たちが朝廷の敵だからだろうか、比叡山から呪われているせいだろうかと、作戦のまずさという点を無視して人々が疑念を抱く心持ちこそ愚かなことである。 ※ 将軍(尊氏)が京都から逃げ出す件及び薬師丸帰京に関する話 解説
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| 又同日の夜半許に、楠判官下部共に焼松を二三千燃し連させて、小原・鞍馬の方へぞ下しける。京中の勢共是を見て、「すはや山門の敵共こそ、大将を被討て、今夜方々へ落行げに候へ。」と申ければ、将軍もげにもとや思ひ給ひけん。「さらば落さぬ様に、方々へ勢を差向よ。」とて、鞍馬路へは三千余騎、小原口へ五千余騎、勢多へ一万余騎、宇治へ三千余騎、嵯峨・仁和寺の方迄、洩さぬ様に堅めよとて、千騎・二千騎差分て、勢を不被置方も無りけり。さてこそ京中の大勢大半減じて、残る兵も徒に用心するは無りけれ。去程に官軍宵より西坂をゝり下て、八瀬・薮里・鷺森・降松に陣を取る。諸大将は皆一手に成て、二十九日の卯刻に、二条河原へ押寄て、在々所所に火をかけ、三所に時をぞ揚たりける。京中の勢は、大勢なりし時だにも叶はで引し軍也。況て勢をば大略方々へ分ち被遣ぬ。敵可寄とは夢にも知ぬ事なれば、俄に周章ふためきて、或は丹波路を指て引もあり、或は山崎を志て逃るもあり、心も発らぬ出家して禅律の僧に成もあり。官軍はさまで遠く追ざりけるを、跡に引御方を追懸る敵ぞと心得て、久我畷・桂河辺には、自害をしたる者も数を不知ありけり。況馬・物具を棄たる事は、足の蹈所も無りけり。 |
同じ日の夜半ごろに楠木正成判官は部下たちに数千本のたいまつを持たせて点火させ、小原(おはら)・鞍馬方面へ下らせた。京都市中にいた足利軍兵士たちがこれを見て「あれは比叡山の敵どもが大将を討たれて今夜あちこちへ敗走しているようだ」と言ったため、将軍尊氏もおそらくそのように思われたらしい。「ならば逃さぬように各方面に兵を向けよ」と命じ、鞍馬路には三千余騎、小原口には五千余騎、勢多(せた)へ一万余騎、宇治へ三千余騎、嵯峨・仁和寺方面までもらすことなく固めさせようとして千騎・二千騎ずつ分遣し、兵を配置しない場所はなかった。こうして京中の大軍の大半が減り、残った兵士もむだに見張っている者などいなくなった。 この状況を見計らい南朝官軍(新田軍)は宵闇から西坂本へ降り立ち、八瀬・藪里(やぶさと)・鷺森・降松に陣を敷いた。諸大将が全軍を一丸として二十九日の卯刻(午前6時頃)、二条河原へ押し寄せあちこちに火を放ち、三方向から鬨の声をあげたのである。京中の足利勢は大軍でさえも対応できず退却したばかりなのに、ましてや兵力の大半が各方面へ分散派遣されていた。「敵襲来」など夢にも思わぬことだったため突然慌てふためき、丹波路を目指す者もいれば山崎方面へ逃げる者もおり、正気を失って剃髪し禅僧や律僧に成りすます者まで現れた。官軍はそれほど遠くまで追撃もしなかったのに、後方から味方を追う兵士たちを「敵の追い手」と錯覚したため久我畷(こがなわて)・桂河原あたりでは自害する者の数も知れず、さらに馬や武具を捨てたものは足の踏み場もないほどであった。 解説
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| 将軍は其日丹波の篠村を通り、曾地の内藤三郎左衛門入道々勝が館に著給へば、四国・西国の勢は、山崎を過て芥河にぞ著にける。親子兄弟骨肉主従互に行方を不知落行ければ、被討てぞ死しつらんと悲む。されども、「将軍は正しく別事無て、尾宅の宿を過させ給候也。」と分明に云者有ければ、兵庫湊河に落集りたる勢の中より丹波へ飛脚を立て、「急ぎ摂州へ御越候へ、勢を集て頓て京都へ責上り候はん。」と申ければ、二月二日将軍曾地を立て、摂津国へぞ越給ひける。此時熊野山の別当四郎法橋道有が、未に薬師丸とて童体にて御伴したりけるを、将軍喚寄給て、忍やかに宣けるは、「今度京都の合戦に、御方毎度打負たる事、全く戦の咎に非ず。倩事の心を案ずるに、只尊氏混朝敵たる故也。されば如何にもして持明院殿の院宣を申賜て、天下を君与君の御争に成て、合戦を致さばやと思也。御辺は日野中納言殿に所縁有と聞及ば、是より京都へ帰上て、院宣を伺ひ申て見よかし。」と被仰ければ、薬師丸、「畏て承り候。」とて、三草山より暇申て、則京へぞ上りける。 ○大樹摂津国豊嶋河原合戦事 将軍湊河に著給ければ、機を失つる軍勢共、又色を直して、方々より馳参りける間、無程其勢二十万騎に成にけり。此勢にて頓て責上り給はゞ、又官軍京にはたまるまじかりしを、湊河の宿に、其事となく三日迄逗留有ける間、宇都宮五百余騎道より引返して、官軍に属し、八幡に被置たる武田式部大輔も、堪かねて降人に成ぬ。 |
将軍尊氏はその日丹波の篠村を通り、曾地(そじ)にいる内藤三郎左衛門入道道勝の館に到着なさった。すると四国・西国の兵たちが山崎を越え芥川(あくたがわ)へ辿り着いたという報告があった。親子や兄弟、主従が互いに行方も知れず離散したため、「討ち死にしてしまったのでは」と皆悲しんでいた。ところが「将軍は何事もなく尾宅(おだく)の宿を通過されましたよ」とはっきり伝える者が現れたので、兵庫湊川に落ち延びた部隊の中から丹波へ早馬を派遣した。「急いで摂津国にお越しください。兵力を集めてすぐ京都へ攻め上りましょう」。これを受けて二月二日、将軍は曾地を発ち摂津国へ向かわれた。 この時熊野山の別当・四郎法橋道有がまだ「薬師丸」と称する少年で従っていた。将軍は彼を呼び寄せ、密かにこう命じられた。「今回の京都合戦で味方が度々敗れたのは、決して戦術の誤りではない。よく考えるに尊氏自身が朝敵(朝廷の敵)だからだ。どうにか持明院殿(光厳上皇)から院宣を賜り『天下は天皇同士の争い』と正当化できれば良いと思う。そなたは日野中納言との縁があると聞く。ここから京都へ戻って院宣獲得を試みよ」。薬師丸は「承知しました」と答え、三草山で別れを告げて直ちに京へ向かった。 ○大将軍摂津国豊嶋河原合戦の件 解説
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| 其外此彼に隠れ居たりし兵共、義貞に属ける間、官軍弥大勢に成て、竜虎の勢を振へり。二月五日顕家卿・義貞朝臣、十万余騎にて都を立て、其日摂津国の芥河にぞ被著ける。将軍此由を聞給て、「さらば行向て合戦を致せ。」とて、将軍の舎弟左馬頭に、十六万騎を差副て、京都へぞ被上ける。さる程に両家の軍勢、二月六日の巳刻に、端なく豊嶋河原にてぞ行合ける。互に旗の手を下して、東西に陣を張り、南北に旅を屯す。奥州国司先二たび逢て、軍利あらず、引退て息を継ば、宇都宮入替て、一面目に備んと攻戦ふ。其勢二百余騎被討て引退けば、脇屋右衛門佐二千余騎にて入替たり。敵には仁木・細川・高・畠山、先日の恥を雪めんと命を棄て戦ふ。官軍には江田・大館・里見・鳥山、是を被破ては何くへか可引と、身を無者に成てぞ防ぎける。されば互に死を軽ぜしかども、遂に雌雄を不決して、其日は戦ひ暮てけり。爰に楠判官正成、殿馳にて下りけるが、合戦の体を見て、面よりは不懸、神崎より打廻て、浜の南よりぞ寄たりける。左馬頭の兵、終日の軍に戦くたびれたる上、敵に後をつゝまれじと思ければ、一戦もせで、兵庫を指て引退く。義貞頓て追懸て、西宮に著給へば、直義は猶相支て、湊河に陣をぞ被取ける。 |
他の各地で潜伏していた兵たちも新田義貞側についたため、南朝官軍(新田軍)はいよいよ大勢力となり竜虎の勢いを振るった。二月五日、北畠顕家卿と新田義貞朝臣は十万余騎で京都を出発し、その日のうちに摂津国の芥川(現・大阪府高槻市付近)へ到着した。 この報せを受けた将軍尊氏は「ならば進んで決戦しよう」と命じ、実弟の左馬頭直義に十六万騎をつけて京都方面へ向かわせた。こうして両軍は二月六日の巳刻(午前10時頃)、突然豊島河原(現・大阪府池田市付近)で激突した。 双方が旗を下ろし陣形を整えると、奥州国司北畠顕家隊が二度にわたり攻めかかったが利あらず撤退。続いて宇都宮氏隊が交替して前面防衛線へ挑むも二百余騎討たれ退却したため、脇屋義助右衛門佐が二千余騎で突入する。 足利軍側では仁木・細川・高(師直)・畠山ら前回の敗戦を挽回せんと命懸けで応戦。官軍からは江田行義・大館氏明・里見義胤・鳥山修朝が「ここで破れたら退却先がない」と捨て身で防いだ。両軍とも死を恐れぬ激闘となったが、ついに勝敗が決しないまま日没を迎えた。 この時後方から駆けつけた楠木正成判官は戦況を見て正面攻撃せず、神崎(現・兵庫県尼崎市)方面へ迂回して浜の南側から奇襲をかける。直義軍は一日中の激闘で疲弊していた上に背後を突かれまいと焦り、一戦も交えず兵庫(現・神戸市中央区)へ敗走した。 新田義貞がただちに追撃して西宮に到達すると、足利直義はなお踏みとどまり湊川で陣地構築を始めたのである。 解説
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| 同七日の朝なぎに、遥の澳を見渡せば、大船五百余艘、順風に帆を揚て東を指て馳たり。何方に属勢にかと見る処に、二百余艘は梶を直して兵庫の嶋へ漕入る。三百余艘は帆をつゐて、西宮へぞ漕寄せける。是は大伴・厚東・大内介が、将軍方へ上りけると、伊予の土居・得能が、御所方へ参りけると漕連て、昨日迄は同湊に泊りたりしが、今日は両方へ引分て、心々にぞ著たりける。荒手の大勢両方へ著にければ、互に兵を進めて、小清水の辺に羽向合。将軍方は目に余る程の大勢なりけれども、日比の兵、荒手にせさせんとて、軍をせず。厚東・大伴は、又強に我等許が大事に非ずと思ければ、さしも勇める気色もなし。官軍方は双べて可云程もなき小勢なりけれども、元来の兵は、是人の大事に非ず、我身の上の安否と思ひ、荒手の土居・得能は、今日の合戦無云甲斐しては、河野の名を可失と、機をとき心を励せり。されば両陣未闘はざる前に安危の端機に顕れて、勝負の色暗に見たり。されども荒手の験しなれば、大伴・厚東・大内が勢三千余騎、一番に旗を進めたり。土居・得能後へつと懸抽て、左馬頭の引へ給へる打出宿の西の端へ懸通り、「葉武者共に目な懸そ、大将に組め。」と下知して、風の如くに散し雲の如くに集て、呼ひて懸入、々々ては戦ひ、戦ふては懸抽け、千騎が一騎に成迄も、引なと互に恥めて面も不振闘ひける間、左馬頭叶はじとや被思けん、又兵庫を指して引給ふ。 |
翌七日早朝、沖合いを見渡すと大船五百余艘が順風を受けて帆を上げ東へ向かっていた。どちらの勢力に属するのか見ているうちに、二百余艘は舵を切り直して兵庫の島(現・神戸市兵庫区)に入り、三百余艘は西宮沖へ近づいた。これは大伴氏・厚東氏・大内介が将軍方(足利尊氏)、伊予の土居通増と得能通綱が御所方(後醍醐天皇勢力)に加勢する船団で、前日までは同じ湊(港)に停泊していたが、この日に二手に分かれて着陣したのである。 新参兵を乗せた大軍が両陣営に到着すると互いに進撃し、小清水(現・芦屋市付近)の辺りで対峙した。将軍方は圧倒的な兵力であったが、前日からの古参兵は「新兵ばかりを戦わせよう」と動かず、厚東氏や大伴氏も「これは我々の本筋ではない」と考えて奮戦する様子がない。一方官軍(南朝方)は比較にならないほどの少数だったが、古参兵たちは「他人事でなく自らの生死だ」と覚悟し、新参組の土居・得能隊は「今日一戦に名を上げねば河野一族の名誉を失う」と士気を高めていた。 こうして両軍が交戦しないうちから勝敗の趨勢が見えてきた。しかし実戦経験豊富な新兵部隊である大伴・厚東・大内連合軍三千余騎は先陣として攻撃を開始した。これに対し土居と得能隊はいったん後退して偽装撤退すると、直義が陣取る打出宿(現・西宮市)の西端へ回り込み「雑兵に構うな!大将(足利直義)を狙え!」と指示。風のように散っては雲のように集まる機動戦術で攻めかかり、斬り込んでは退き、千騎が一騎になるまで恥じることもなく激闘したため、直義は耐え切れず再び兵庫へ敗走した。 解説
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| 千度百般戦へども、御方の軍勢の軍したる有様、見るに可叶とも覚ざりければ、将軍も早退屈の体見へ給ける処へ、大伴参て、「今の如くにては何としても御合戦よかるべしとも覚候はず。幸に船共数候へば、只先筑紫へ御開き候へかし。小弐筑後入道御方にて候なれば、九国の勢多く属進せ候はゞ、頓て大軍を動て京都を被責候はんに、何程の事か候べき。」と申ければ、将軍げにもとや思食けん、軈て大伴が舟にぞ乗給ひける。諸軍勢是を見て、「すはや将軍こそ御舟に被召て落させ給へ。」とのゝめき立て、取物も取不敢、乗をくれじとあはて騒ぐ。舟は僅に三百余艘也。乗んとする人は二十万騎に余れり。一艘に二千人許こみ乗ける間、大船一艘乗沈めて、一人も不残失にけり。自余の舟共是を見て、さのみは人を乗せじと纜を解て差出す。乗殿れたる兵共、物具衣裳を脱捨て、遥の澳に游出で、舟に取著んとすれば、太刀・長刀にて切殺し、櫓かいにて打落す。乗得ずして渚に帰る者は、徒に自害をして礒越す波に漂へり。尊氏卿は福原の京をさへ被追落て、長汀の月に心を傷しめ、曲浦の波に袖を濡して、心づくしに漂泊し給へば、義貞朝臣は、百戦の功を高して、数万の降人を召具し、天下の士卒に将として花の都に帰給ふ。 |
何度も激しく戦ったものの味方(足利軍)の戦いぶりが到底見ていられないほど劣っていたため、将軍尊氏もすっかり落胆している様子だった。そこへ大伴氏が進み出て、「このままではとても勝ち目はありません。幸い船が数多くあるのですから、まず九州へ退かれてはいかがでしょう。小弐頼尚入道(筑後守)が味方ですし、九国の勢力を集めれば大軍で再び京都を攻撃できます」と申し上げた。将軍はその意見に納得したらしく、すぐさま大伴氏の船へお乗りになった。 これを見た諸将兵たちは「あっ!将軍が船にお移りになって逃亡される!」と叫び騒ぎ立て、武器も持たず我先にと船に殺到した。船はわずか三百余艘しかないのに、乗ろうとする者は二十万騎以上にも上ったため、一隻に二千人近くが押し込む状態となり、大型船一艘があふれて沈没すると全員が溺れ死んだ。 残りの船団もこれを見て「こんなに人は乗せられぬ」と綱を解き出航した。乗り遅れた兵たちは鎧や衣服を脱ぎ捨て沖へ泳いで行くが、船上の者らは太刀や長槍で切り殺し櫓で突き落とした。陸に戻れず浜辺にとどまった者は自害して波間に漂うばかりだった。 こうして尊氏卿は福原京(現・神戸市)からも追われ、果てしない海岸の月影に心を痛め入江の波で袖を濡らしながら漂泊される中、新田義貞朝臣は幾多の戦功をあげ数万の降伏兵を従え、天下の将として花の都(京都)へ凱旋されたのである。 解説
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| 憂喜忽に相替て、うつゝもさながら夢の如くの世に成けり。 ○主上自山門還幸事 去月晦日逆徒都を落しかば、二月二日主上自山門還幸成て、花山院を皇居に被成にけり。同八日義貞朝臣、豊嶋・打出の合戦に打勝て、則朝敵を万里の波に漂せ、同降人の五刑の難を宥て京都へ帰給ふ。事体ゆゝしくぞ見へたりける。其時の降人一万余騎、皆元の笠符の文を書直して著たりけるが、墨の濃き薄き程見へて、あらはにしるかりけるにや、其次の日、五条の辻に高札を立て、一首の歌をぞ書たりける。二筋の中の白みを塗隠し新田々々しげな笠符哉都鄙数箇度の合戦の体、君殊に叡感不浅。則臨時除目を被行て、義貞を左近衛中将に被任ぜ、義助を右衛門佐に被任けり。天下の吉凶必しも是にはよらぬ事なれども、今の建武の年号は公家の為不吉也けりとて、二月二十五日に改元有て、延元に被移。近日朝廷已に逆臣の為に傾られんとせしか共、無程静謐に属して、一天下又泰平に帰せしかば、此君の聖徳天地に叶へり。如何なる世の末までも、誰かは傾け可申と、群臣いつしか危を忘れて、慎む方の無りける、人の心ぞ愚かなる。 ○賀茂神主改補事 大凶一元に帰して万機の政を新たにせられしかば、愁を含み喜を懐く人多かりけり。 |
悲しみと喜びが突然入れ替わり、現実さえもまるで夢のような世の中となった。 ○天皇陛下が比叡山から帰京されたこと 天下の吉凶が必ずしもこれで決まるわけではありませんでしたが、「建武」という元号は朝廷にとって不吉だとして二月二十五日に改元があり延元と移りました。この頃朝廷は反逆臣のために崩壊寸前だったのに、ほどなく平穏を取り戻して天下泰平となったのは、天皇陛下の聖徳が天地にかなっていたからです。「いつの世末でも誰が覆せようか」と群臣たちも危険を忘れ慎む心を失ってしまった。人の心とは愚かなものです。 ○賀茂神社神主交代のこと 解説
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| 中にも賀茂の社の神主職は、神職の中の重職として、恩補次第ある事なれば、咎無しては改動の沙汰も難有事なるを、今度尊氏卿貞久を改て、基久に被補任、彼れ眉を開く事僅に二十日を不過、天下又反覆せしかば、公家の御沙汰として貞久に被返付。此事今度の改動のみならず、両院の御治世替る毎に転変する事、掌を反すが如し。其逆鱗何事の起ぞと尋ぬれば、此基久に一人の女めあり。被養て深窓に在し時より、若紫の■匂殊に、初本結の寐乱髪、末如何ならんと、見るに心も迷ぬべし。齢已に二八にも成しかば、巫山の神女雲と成し夢の面影を留め、玉妃の太真院を出し春の媚を残せり。只容色嬋娟の世に勝れたるのみに非ず、小野小町が弄びし道を学び、優婆塞宮のすさみ給し跡を追しかば、月の前に琵琶を弾じては、傾く影を招き、花の下に歌を詠じては、うつろう色を悲めり。されば其情を聞き、其貌を見る人毎に、意を不悩と云事なし。其比先帝は未帥宮にて、幽かなる御棲居也。是は後宇多院第二の皇子後醍醐天王と申せし御事也。今の法皇は伏見院第一の皇子にて、既に春宮に立せ可給と云、時めき合へり。此宮々如何なる玉簾の隙にか被御覧たりけん。此女最あてやかに臈しとぞ被思食ける。されども、混すらなる御業は如何と思食煩て、荻の葉に伝ふ風の便に付け、萱の末葉に結ぶ露のかごとに寄せては、いひしらぬ御文の数、千束に余る程に成にけり。 |
特に賀茂神社の神主職は、神官の中でも重要な役職として、正当な理由なくして交代させることは難しいものであった。しかし今回、尊氏卿(足利尊氏)が貞久を解任し基久に任命したところ、眉をひそめる間もなくわずか二十日と経たぬうちに天下情勢は再び逆転したため、朝廷の命令で貞久へ復職させられた。この件は今回だけではなく、両院(天皇や上皇)の治世が変わる度に交代を繰り返すありさまは、手のひらを返すように容易いものだった。 ではなぜ基久が解任されたのかというと、彼のもとに一人の女性がいた。深窓で育てられて以来、若紫のような優美な香りが特に際立ち、初々しく結った寝乱れ髪の先行く末はいかばかりかと思うほど、見る者の心を惑わすに十分であった。年齢は既に十六歳になり、巫山の神女(伝説上の美女)のように儚い夢のような面影を残し、楊貴妃が離宮から出た春の艶やかさを宿していた。ただ容姿端麗なだけではなく、小野小町が得意とした遊芸に通じ、光源氏が好んだ風流をも継承していたため、月明かりの下で琵琶を弾けば傾聴する人影が集まり、桜の木陰で歌を詠めば花の散りゆく様に人々は悲しみを覚えた。それ故その情愛深さを知り美貌を見る者は皆、心を奪われずにはいられなかった。 当時先帝(後醍醐天皇)はまだ帥宮(親王位)としてひっそりと住まわれていたが——これはのちに後宇多院第二皇子・後醍醐天皇となられる方である。一方当代法皇(光厳上皇)は伏見院第一皇子で、既に皇太子になるべきとの声も高かった。この親王様がどのような簾の隙間からか彼女をご覧になったのだろう。「この女性こそ最も優雅で品がある」とお思いになられたらしい。しかし「身分違いだという非難は避けねばならぬか」とも悩まれ、萩の葉に伝う風を便りにし、萱草の先端に結ぶ露のように秘かに文をお送りになったため、誰にも知られないお手紙の数が千束も積もるほどとなったのである。 解説
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| 女も最物わびしう哀なる方に覚へけれども、吹も定ぬ浦風に靡きはつべき烟の末も、終にはうき名に立ぬべしと、心強き気色をのみ関守になして、早年の三年を過にけり。父は賎して母なん藤原なりければ、無止事御子達の御覚は等閑ならぬを聞て、などや今迄御いらへをも申さではやみにけるぞと、最痛ふ打侘れば、御消息伝へたる二りのなかだち次よしと思て、「たらちめの諌めも理りにこそ侍るめれ。早一方に御返事を。」と、かこち顔也ければ、女云ばかりなく打侘て、「いさや我とは争でか分く方可侍。たゞ此度の御文に、御歌の最憐れに覚へ侍らん方へこそ参らめ。」と云て、少し打笑ぬる気色を、二りの媒嬉しと聞て、急ぎ宮々の御方へ参てかくと申せば、頓て伏見宮の御方より、取手もくゆる許にこがれたる紅葉重の薄様に、何よりも言の葉過て、憐れなる程なり。思ひかね云んとすればかきくれて泪の外は言の葉もなしと被遊たり。此上の哀誰かと思へる処に、帥宮御文あり。是は指も色深からぬ花染のかほり返たるに、言は無て、数ならぬみのゝを山の夕時雨強面松は降かひもなしと被遊たり。此御歌を見て、女そゞろに心あこがれぬと覚て、手に持ながら詠じ伏たりければ、早何れをかと可云程もなければ、帥宮の御使そゞろに独笑みして帰り参りぬ。 |
女性は非常に悲しく寂しい気持ちではあったが、「吹く方向さえ定まらない浜風に靡いて消えてしまう煙のように、いつかは不名誉な噂の種となるだろう」と考えて、強い決意を示す態度だけを盾にして三年間も過ごしてしまった。彼女の父は身分が低かったが母は藤原氏であったため、「皇子様方からのお心遣いを無視することはできない」と聞かされると、「なぜ今までお返事さえ差し上げずにいたのか」と深く嘆き悲しむ。この言葉を伝えた二人の仲介者は「これは母親としての忠告も道理にかなっているようです。早急にお一方へご返答を」と責めるような態度を見せたので、女性は言いようもなく落ち込みながらこう述べた。「いえ私がどうして決められるでしょうか。ただ今回のお手紙の中で最も心打たれると思われる方(帥宮)にだけお返し申しましょう」。そう言って微かに笑みを浮かべる様子を見て、仲介者は喜び、急いで皇子たちのもとへ報告したところ、すぐに伏見宮から返信が届いた。それは手に取れば燃え出しそうなほど鮮やかな紅葉色の薄様(高級紙)に書かれており、「思い悩んでも言葉が出ず涙ばかりで一言も言えない」と詠まれた、あまりにも感情的な内容だった。 これ以上ない哀れさを感じていたところへ今度は帥宮からのお手紙が届く。それは派手ではない花模様の染め色の返礼用紙に無造作に書かれており、「名もなき身である尾山(私)の夕暮れ時雨よ、見かけ倒しの松には降り止むこともない」という歌が添えられていた。この歌を見た女性は思わず心惹かれ、手に持ったまま俯いて詠じていると、「さあどちらを選ぶのか?」と言う間もなく、帥宮の使者は独り満足げな笑みを浮かべて帰っていってしまった。 解説
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| 頓て其夜の深け過る程に、牛車さはやかに取まかないて、御迎に参りたり。滝口なりける人、中門の傍にやすらひかねて、夜もはや丑三に成ぬと急げば、女下簾を掲させて、被扶乗としける処に、父の基久外より帰りまうで来て、「是はいづ方へぞ。」と問に、母上、「帥宮召有て。」と聞ゆ。父痛く留て、「事の外なる態をも計ひ給ひける者哉。伏見宮は春宮に立せ給べき由御沙汰あれば、其御方へ参てこそ、深山隠の老木迄も、花さく春にも可逢に、行末とても憑みなき帥宮に参り仕へん事は、誰が為とても可待方や有。」と云留めければ、母上げにやと思返す心に成にけり。滝口は角ともしらで簾の前によりゐて、月の傾きぬる程を申せば、母上出合て、「只今俄に心地の例ならぬ事侍れば、後の夕べをこそ。」と申て、御車を返してげり。帥宮かゝる事侍とは、露もおぼしよらず、さのみやと今日の憑みに昨日の憂さを替て、度々御使有けるに、「思の外なる事候て、伏見宮の御方へ参りぬ。」と申ければ、おやしさけずば、東路の佐野の船橋さのみやは、堪ては人の恋渡るべきと、思ひ沈ませ給にも、御憤の末深かりければ、帥宮御治世の初、基久指たる咎は無りしかども、勅勘を蒙り神職を被解て、貞久に被補。其後天下大に乱て、二君三たび天位を替させ給しかば、基久・貞久纔に三四年が中に、三度被改補。 |
まもなくその夜は更け過ぎようとする頃、牛車が素早く用意されて迎えの使者(滝口)が到着した。中門の傍らでじっと待ちかねていた使者が「もう丑三つ時です」と急かすので、娘は乗り込みのために垂れ幕を上げさせようとしたその瞬間、父である基久が外出先から戻ってきて、「これはどこへ行くのか?」と問いただした。母上(母親)が「帥宮様のお召しでございます」と言うと、父は激しく制止してこう言った。「思いもよらないことを考えなさる方ですな。伏見宮様には皇太子として即位されるお話があるのだから、そちらにお仕えすれば深山に隠れた老木までも花咲く春に出会えるのに。将来まったく頼りない帥宮様についていくことは、誰のためになるというのか?」と強硬に反対したため、母上も心変わりしてしまったようだ。 使者(滝口)は状況を理解できず垂れ幕前に座り込んで「月が傾いてしまいますよ」と言うと、今度は母上が出てきてこう告げた。「ただいま突然気分が優れませんので、また後日改めてお願いします」。そう言って牛車を返してしまった。帥宮(後醍醐天皇)はこのような事態があるとは露ほども思わず、「さほどでもあるまい」と今日の期待で昨日の憂鬱を紛らわせ、何度か使者を送り続けたところ、「予期せぬ事情により伏見宮様のもとへ行ってしまいました」という返答が届いた。これを聞いた帥宮は「ああ情けない!東路(関東)の佐野にかかる船橋さえ我慢できれば渡れるものか?恋もまた同じことだな」(※注:『伊勢物語』引用の比喩)と深く思い沈まれたが、怒りは次第に増し遂にはこうした結果となった——帥宮ご即位当初、基久に具体的な過失はなかったにもかかわらず勅命により神職を解任され貞久が任命された。その後天下大いに乱れ二人の君主(後醍醐天皇と光厳上皇)が三度も帝位を交替させられたため、基久と貞久はわずか三四年の間に役職を三回も交代することとなったのである。 解説
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| 夢幻の世の習、今に始ぬ事とは云ながら、殊更身の上に被知たる世の哀に、よしや今は兎ても角てもと思ければ、うたゝねの夢よりも尚化なるは此比見つる現なりけりと、基久一首の歌を書留めて、遂に出家遁世の身とぞ成にける。 |
「人生がはかない夢のようなものであることは、今始まったことではないと言いながらも、特に自分の身の上で痛感しているこの世のはかなさゆえに、『まあ今となってはいずれにせよ』と諦めざるを得なかった。うたた寝に見る夢よりもさらに虚ろなものが、最近目の当たりにした現実だったのだ」と思い至り、基久は一つの和歌を書き残して遂には出家し、世捨て人の身となってしまったのである。 解説
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| input text 太平記\016_太平記_巻16.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第十六 ○将軍筑紫御開事 建武三年二月八日、尊氏卿兵庫を落給ひし迄は、相順ふ兵僅七千余騎有しか共、備前の児嶋に著給ける時、京都より討手馳下らば、三石辺にて支よとて、尾張左衛門佐氏頼を、田井・飽浦・松田・内藤に付て留られ、細川卿律師定禅・同刑部大輔義敦をば、東国の事無心元とて返さる。其外の勢共は、各暇申て己が国々に留りける間、今は高・上杉・仁木・畠山・吉良・石塔の人々、武蔵・相摸勢の外は相順兵も無りけり。筑前国多々良浜の湊に著給ひける日は、其勢僅に五百人にも足ず、矢種は皆打出・瀬川の合戦に射尽し、馬・物具は悉兵庫西宮の渡海に脱捨ぬ。気疲れ勢尽ぬれば、轍魚の泥に吻き、窮鳥の懐に入ん風情して、知ぬ里に宿を問ひ、狎れぬ人に身を寄れば、朝の食飢渇して夜の寝醒蒼々たり。何の日か誰と云ん敵の手に懸てか、魂浮れ、骨空して、天涯望郷の鬼と成んずらんと、明日の命をも憑れねば味気無思はぬ人も無りけり。斯処に、宗像大宮司使者を進て、「御座の辺は余りに分内狭て、軍勢の宿なんども候はねば、恐ながら此弊屋へ御入有て、暫此間の御窮屈を息られ、国々へ御教書を成れて、勢を召れ候べし。」と申ければ、将軍軈て宗像が館へ入せ給ふ。次日小弐入道妙恵が方へ、南遠江守宗継・豊田弥三郎光顕を両使として、恃べき由を宣遣されければ、小弐入道子細に及ばず、軈嫡子の太郎頼尚に、若武者三百騎差添て、将軍へぞ進せける。 |
『太平記』巻第十六 建武三年二月八日、尊氏公が兵庫から敗走した時点では従う兵力はわずか7000騎ほどでした。しかし備前国児島に到着した際、京都からの追討軍が迫れば三石付近で防戦しようと決め、尾張左衛門佐(斯波氏頼)を田井・飽浦・松田・内藤の守りにつけて留め置き、細川公や律師定禅らは東国情勢不安を理由に帰還させました。残った兵たちもそれぞれ故郷へ戻ってしまい、高(師直)・上杉(憲顕)・仁木(頼章)らの軍勢だけが従うことになりました。筑前国多々良浜の港へ着いた日には兵力は500人にも満たず、矢は打出川と瀬川の戦いで使い果たし、馬や武具も兵庫から西宮への渡海時に捨て去っていました。 疲れ果て力尽きた彼らは「干上がった車輪跡の水たまりで口を動かす魚」のように見え、「追い詰められた小鳥が人の懐へ飛び込む」ような有様でした。知らない土地で宿を探し、馴染みない人に身を寄せれば朝食は飢え渇き夜も眠れず不安です。「いつ誰の手にかかって魂は抜け骨は晒され故郷を望む亡霊となるのか」と明日をも頼めぬ絶望感から、気落ちしない者など一人もいませんでした。この時宗像大宮司が使者を送り「おられる場所は領内狭く軍勢の宿泊施設もございませぬ。恐縮ながら拙宅へお入りいただき一時の疲れをお癒しください」と申し出たため、将軍(尊氏)は直ちに宗像館に入られました。翌日小弐入道妙恵のもとに南遠江守(大友宗継)らを使者として「頼りたい旨」を伝えると、小弐入道は迷わず嫡子・太郎頼尚に若武者300騎をつけて将軍へ送り届けたのです。 解説
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| ○小弐与菊池合戦事付宗応蔵主事 菊池掃部助武俊は、元来宮方にて肥後国に有けるが、小弐が将軍方へ参由を聞て道にて討散んと、其勢三千余騎にて水木の渡へぞ馳向ける。小弐太郎は、夢にも此を知ずして、小船七艘に込乗て、我身は先向の岸に付く。畦篭豊前守以下は未越、叩へて船の指し戻す間を相待ける処に、菊池が兵三千余騎、三方より推寄て、河中へ追ばめんとす。畦篭が兵百五十騎、とても遁れぬ所也と、一途に思定て、菊池が大勢の中へ懸入て、一人も不残討死す。小弐太郎は川向より、此を見けれ共、大河を中に障て、舟ならでは渡べき便も無ければ、徒に恃切たる一族若党共を敵に取篭させける心中、遣方無して無念なる。遂に船共近辺に見へざりければ、忿を推て将軍へぞ参ける。菊池は手合の合戦に討勝て、門出吉と悦で、頓て其勢を率、小弐入道妙恵が楯篭たる内山の城へぞ推寄ける。小弐宗徒の兵をば皆頼尚に付て、其勢過半水木の渡にて討れぬ。城に残勢僅に三百人にも足ざりければ、菊池が大勢に可叶とも覚へず。されども城の要害緊しかりければ、切岸の下に敵を直下して、防戦事数日に及べり。菊池荒手を入替々々夜昼十方より責けれ共、城中の兵一人も討れず、矢種も未尽りければ、いかに責るとも不落物をと思ける処に、小弐が一族等俄に心替して攻の城に引挙、中黒の旗を揚て、「我等聊所存候間宮方へ参候也。 |
菊池掃部助武敏は、もともと宮方(後醍醐天皇派)として肥後国にいたが、小弐氏が将軍(足利尊氏)側についたことを聞き道中で撃破しようと、3000余騎の兵を率いて水木の渡しへ向かった。一方、小弐太郎頼尚はこの動きを知らず小船7隻に分乗して先に岸へ到着したが、畦籠豊前守以下の部隊はまだ未渡河で船の戻り待ち中だったところ、菊池軍3000余騎三方から迫り川中への追い落としを図った。畦籠勢150騎は逃げ場なしと悟って突撃し全員討死した。小弐太郎は対岸でこれを見たが大河に阻まれ渡船手段なく、頼みの一族郎党が包囲される無念さを堪えきれず撤退せざるを得なかった(付近に船も見えない状況)。菊池軍は緒戦勝利に沸き内山城へ進撃。小弐入道妙恵籠城中だが兵力300人足らずで到底抗しがたいと感じたものの、要害堅固なため防戦続行した。菊池軍昼夜交替猛攻するも城内兵一人も倒れず矢種尽きない様子に「落城困難か」と思案中、小弐一族突然離反して攻城側へ加わり「我ら宮方参陣す」と中黒旗を掲げた。 解説
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| 御同心候べしや。」と、妙恵が方へ云遣しければ、一言の返答にも及ばず、「苟も存て義無んよりは、死して名を残さんには不如。」と云て、持仏堂へ走入、腹掻斬て臥にけり。郎等百余人も、堂の大床に並居て、同音に声を出し、一度に腹をぞ切たりける。其声天に響て、悲想悲々想天迄も聞へやすらんと夥し。小弐が最末の子に、宗応蔵主と云僧、蔀遣戸を蹈破て薪とし、父が死骸を葬して、「万里碧天風高月明、為問慧公行脚事、蹈翻白刃転身行、下火云、猛火重焼一段清」と、閑に下火の仏事をして、其炎の中へ飛入て同く死にぞ赴ける。 ○多々良浜合戦事付高駿河守引例事 小弐が城已に責落されて、一族若党百六十五人、一所にて討れければ、菊池弥大勢に成て、頓て多々良浜へぞ寄懸ける。将軍は香椎宮に取挙て、遥に菊池が勢を見給ふに、四五万騎も有らんと覚敷く、御方は纔に三百騎には過ず。而も半は馬にも乗ず鎧をも著ず、「此兵を以て彼大敵に合ん事、■蜉動大樹、蟷螂遮流車不異。憖なる軍して、云甲斐なき敵に合んよりは腹を切ん。」と、将軍は被仰けるを、左馬頭直義堅く諌申れけるは、「合戦の勝負は、必も大勢小勢に依べからず。異国に漢高祖■陽の囲を出時は、才に二十八騎に成しかども、遂に項羽が百万騎に討勝て天下を保り。 |
小弐一族が「我ら宮方参陣す」と妙恵入道へ通告すると、返答も待たず「生きて不義を行うより死して名を残せ!」と言い持仏堂に入り切腹した。郎従百余人も大床に並んで一斉に自刃し、その悲鳴は天まで響くほどだった。小弐の末子・宗応蔵主という僧は蔀戸(建具)を破って薪とし父の遺骸を荼毘。「万里碧天風高月明...」と冷静に葬儀を行い炎中へ飛び込み殉死した。 その後内山城落ち、小弐一族165人が討たれると菊池軍は多々良浜に進撃。将軍(尊氏)が香椎宮から眺めると敵勢4-5万騎に対し味方は300騎未満で半数は装備も不十分。「蟻が巨木を揺らすような戦いは無意味だ」と自害を示唆したところ、弟・直義(左馬頭)が強く諫めた:「合戦の勝敗は兵数では決まらない。漢高祖が滎陽で28騎ながら項羽百万軍に勝利し天下を取った故事をご存じでしょう」。 解説
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| 吾朝の近比は、右大将頼朝卿土肥の杉山の合戦に討負て臥木の中に隠し時は、僅に七騎に成て候しか共、終に平氏の一類を亡して累葉久武将の位を続候はずや。二十八騎を以て百万騎の囲を出、七騎を以て伏木の下に隠れし機分、全く臆病にて命を捨兼しには非ず、只天運の保べき処を恃し者也。今敵の勢誠に雲霞の如しといへども、御方の三百余騎は今迄著纏て、我等が前途を見はてんと思へる一人当千の勇士なれば、一人も敵に後を見せ候はじ。此三百騎志を同する程ならば、などか敵を追払はで候べき。御自害の事曾て有べからず。先直義馳向て一軍仕て見候はん。」と申捨て、左馬頭香椎宮を打立給へば、相順人々には、仁木四郎次郎義長・細川陸奥守顕氏・高豊前守師重・大高伊予守重成・南遠江守宗継・上杉伊豆守重能・畠山阿波守国清を始として、大伴・嶋津・曾我・白石・八木岡・相庭を宗徒の兵として、都合其勢二百五十騎、三万余騎の敵に懸合せんと志して、命を塵芥に思ける心の程こそ艷けれ。直義已旌の手を下し、社壇の前を打過給ひける時、烏一番杉の葉を一枝噛て甲の上へぞ落しける。左馬頭馬より下て、是は香椎宮の擁護し給ふ瑞相也と敬礼して、射向の袖に差れける。敵御方相近付て、時の音を挙んとしける時、大高伊予守重成は、「将軍の御陣の余りに無勢に候へば帰参候はん。 |
左馬頭直義はさらに続けた:「我が国の近例では、源頼朝公が土肥杉山合戦で敗れて臥木に隠れた時にはわずか七騎となりましたが、最終的に平氏を滅ぼし武家の世を持続させたではありませんか。二十八騎で百万騎の包囲を突破した事例(漢高祖)と七騎で伏せた機略は臆病ゆえではなく天命への信頼です。今敵軍は雲霞のごとき勢いですが、我が三百余騎は戦意満ちており一人当千の勇士ばかりですから誰も後退しないでしょう。もし全員が志を一つにするなら敗れる道理がないのです」。こう言って直義自ら香椎宮を出撃すると、仁木義長・細川顕氏ら重臣を含む二百五十騎が従い「命は塵芥」と覚悟して進んだ(その決意の美しさこそ感慨深い)。社壇前を通り過ぎた時、一羽の烏が杉枝を噛み取って直義の甲に落とした。彼はこれを神の加護の兆しとして矢筒の袖に挿した。 敵味方が間近になった際、大高重成(伊予守)が「将軍本陣があまりにも手薄すぎます」と叫んだところ―― 解説
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| 」とて引返しけり。直義此を見て、「始よりこそ留るべきに、敵を見て引返すは臆病の至也。あはれ大高が五尺六寸を五尺切てすて、剃刀にせよかし。」と欺れける。去程に菊池五千余騎を率し、浜の西より相近付て、先矢合の流鏑をぞ射たりける。左馬頭の陣よりは矢の一筋をも射ず、鳴を閑めて、透間あらば切懸んと伺見給ひけるに、誰が射とも不知白羽の流鏑矢敵の上を鳴響て、落所も見へず。左馬頭の兵共、是は只事に非と憑敷思、勇を不成と云者なし。両陣相挑で、未兵刃を交へざる処に、菊池が兵黄河原毛なる馬に、火威の鎧著たる武者只一騎、御方の勢に三町余り先立て、抜懸にぞしたりける。爰に曾我左衛門・白石彦太郎・八木岡五郎、三人共に馬・物具無て、真前に進だりけるが、見之、白石立向て馬より引落さんと、手もと近く寄副ければ、敵太刀を捨て、腰刀を抜んと、一反り反りけるが、真倒に成て落にけり。白石此を起も立ず、推へて首をば掻てけり。馬をば曾我走寄て打乗り、鎧をば八木岡剥取て著たりけり。白石が高名に、二人得利、軈三人共に敵の中へ打入れば、仁木・細川以下、「御方討すな、連や。」とて、大勢の中へ懸入て乱合てぞ闘ける。仁木越後守は、近付敵五騎切て落し、六騎に手負せて、猶敵の中に乍有、仰たる太刀を蹈直しては切合ひ、命を限とぞ見たりける。 |
大高重成はそう言って引き返した。直義がこれを見て、「初めから留まるべきだったのに、敵を見て戻るとは臆病の極みだ。哀れや大高(の身長五尺六寸)を五尺分切り捨てて剃刀でも作らせろ。」と罵った。そのうち菊池が五千余騎を率い浜の西から近づき、まず流鏑矢のように一斉に矢を射かけた。左馬頭(直義)軍は一本も矢を放たず静まり返り、隙があれば切り込もうと待ち構えていたところ、どこの誰が射ったのか分からない白羽の矢が敵陣上で鳴り響き着弾点すら見えないほどだった。左馬頭兵たちは「これはただごとではない」と確信し戦意を奮い立たせる者はいなかった。 両軍対峙してまだ刃を交えていないうちに、菊池側から黄河原毛(栗毛)の馬に乗り火威甲冑を着た武者が一人味方より三町ほど先行して飛び出した。そこで曾我左衛門・白石彦太郎・八木岡五郎三人は馬も武具なしで前進し、それを見て白石は立ち向かい馬上から引き落とそうと間合いに入ったところ敵は大刀を捨て腰刀を抜こうともがいたがまっさかさまに落ちた。白石は起き上がらぬうちに押さえつけて首を取り馬には曾我駆け寄って乗り移り甲冑は八木岡剥ぎ取って着用した。 白石の手柄で二人も利益を得てすぐ三人そろって敵陣深く突入すると、仁木・細川らが「味方を討つな!続行せよ!」と叫び大勢の中へ突っ込んで乱戦を始めた。仁木越後守は近づいた五騎の敵を斬り落とし六騎目に傷を負わせさらに敵陣深く入り振り上げた剣を踏み据えて切り合い生死の境で奮闘している様子だった。 解説
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| されば百五十騎、参然として堅を破れば、菊池が勢誠に百倍せりといへども、才の小勢に懸立られて、一陣の軍兵三千余騎、多々良浜の遠干潟を、二十余町までぞ引退ける。搦手に回りける松浦・神田の者共、将軍の御勢の僅に三百余騎にも足ざりけるを二三万騎に見なし、礒打浪の音をも敵の時の声に聞なしければ、俄に叶はじと思ふ心付て、一軍をもせず旌を捲と甲を脱で降人に出にけり。菊池此を見て弥難儀に思ひ、「大勢の懸らぬ先に。」と急肥後国へ引返す。将軍則一色太郎入道々献・仁木四郎次郎義長を差遣し菊池が城を責させらるるに、一日も堪得ず深山の奥へ逃篭る。是より軈同国八代の城を責て内河彦三郎を追落す也。此のみならず、阿蘇大宮司八郎惟直は、先日多々良浜の合戦に深手負たりけるが、肥前国小杵山にて自害しぬ。其弟九郎は、知ぬ里に行迷て、卑き田夫に生擒れぬ。秋月備前守は、大宰府迄落たりけるが、一族二十余人一所にて討れにけり。是等は皆一方の大将共なり。又九州の強敵ともなりぬべき者也しが、天運時至ざれば加様に皆滅されにけり。爾より後は九国・二嶋、悉将軍に付順奉ずと云者なし。此全く菊池が不覚にも非ず、又直義朝臣の謀にも依らず、啻将軍天下の主と成給ふべき過去の善因催して、霊神擁護の威を加へ給しかば、不慮に勝ことを得て一時に靡き順けり。 |
そこで百五十騎が堂々と隊列を組んで突破すると、菊池軍は実際に百倍の兵力があったにもかかわらず、少数精鋭部隊に突き立てられて一陣三千余騎が多々良浜遠浅の干潟を二十町以上も後退した。背後へ回り込もうとした松浦・神田勢は将軍(尊氏)本陣三百余騎という寡兵を見誤って二、三万騎と錯覚し、磯に打ち寄せる波音すら敵の鬨の声に聞き違えたため急遽戦意を失い、交戦もせず旗を巻き甲冑を脱いで降伏した。菊池はこれを見て一層追い詰められ「大軍が来る前に」と慌てて肥後国へ撤退する。 将軍(尊氏)は直ちに一色道献・仁木義長らを派遣して菊池の城を攻撃させると、一日も持たず敵は深山奥へ逃亡。さらに同国八代城を陥落させ内河彦三郎を追放したのみならず、阿蘇大宮司惟直(多々良浜で重傷)が肥前小杵山で自害し弟九郎は農民に捕らえられ、秋月備前守も一族二十余人と共に太宰府近くで討死した。これら九州の有力将帥たち皆が天運尽きて滅び去った結果、九州全土は全て将軍(尊氏)へ帰順することとなった。 この勝利は菊池側の失策でも直義公の戦略によるものでもない――ただ将軍こそ天下の主となるべき過去の善行が因となり神々の守りを得た故、予期せぬ大勝で瞬時に九州を平定できたのである。 解説
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| 今まで大敵なりし松浦・神田の者共、将軍の小勢を大勢也と見て、降人に参たりと其聞有ければ、将軍高・上杉の人々に向て宣けるは、「言の下に骨を消し、笑の中に刀を砺は此比の人の心也。されば小弐が一族共は多年の恩顧なりしか共、正く小弐を討つるも遠からぬ様ぞかし。此を見るにも松浦・神田何なる野心を挿でか、一軍もせず降人には出たるらん。信心真と有時は感応不思議を顕事あり。今御方の小勢を大勢と見し事、不審無に非ず。相構て面々心赦し有べからず。」と仰ければ、遥の末坐に候ける高駿河守進出て申けるは、「誠に人の心の測り難事は、天よりも高地よりも厚と申せども、加様の大儀に於ては、余に人の心を御不審有ては、争か早速の大功を成候べき。就中御勢の多見へて候ける事、例無にも有べからず。其故は昔唐朝に、玄宗皇帝の左将軍に哥舒翰、与逆臣安禄山兵崔乾祐、潼関にて戦けるに、黄なる旗を差たる兵十万余騎、忽然として官軍の陣に出来れり。崔乾祐此を見て敵大勢なりと思ひ、兵を引て四方に逃散る。其喜に勅使宗廟に詣けるに、石人とて、石にて作双て廟に置たる人形共両足泥に触れ、五体に矢立り。さてこそ黄旗の兵十万余騎は、宗廟の神官軍に化して、逆徒を退け給たりけりと、人皆疑を散じけり。 |
以前まで大きな敵だった松浦・神田の人々が将軍(尊氏)の少数兵力を多数と見誤り投降したという報告を受けると、将軍は高や上杉といった家臣たちに向かって言った。「言葉で褒めながら裏では骨抜きにし、笑いの中で刃物を研ぐのが近ごろの人々の心情だ。そのため少弐一族も長年恩恵を受けていたのに、まさしく討ち取るのも遠くないだろう。これを見ても松浦・神田がどんな野心で一戦もせず投降したのか分からない。信仰が誠実であれば不思議な加護があるものだ。今回我々の少数兵力を多数に見えたことは疑いがない。皆警戒して油断するな。」と命じた。 これを聞いて末席に控えていた高駿河守(師直)が進み出て申し上げた。「確かに人の心は測り難く、天より高く地より深いと言われますが、このような大事業では疑念を持ちすぎるとどうして速やかな成功を成し遂げられましょうか。特に我々の兵力が多数に見えたことは前例がないわけではありません。その理由として昔唐王朝で玄宗皇帝配下の左将軍・哥舒翰(カショカン)が逆臣安禄山側の崔乾祐(サイケンユウ)と潼関で戦った時、黄色い旗を持つ十万余騎の兵士たちが突然官軍陣営に現れました。崔乾祐はこれを見て敵大軍と思い撤退して四散しました。喜んだ勅使が宗廟へ行くと石像(石人)は両足泥につき全身矢だらけでした。そこで初めて黄色旗の十万騎は霊廟の神々で反乱者を撃退したのだと皆疑念が消えたのです。」 解説
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| 吾朝には天武天皇与大友王子天下を争はせ給ける時、備中国二万郷と云所にて、両方の兵戦を決せんとす。于時天武天皇の御勢は僅に三百余騎、大友王子の御勢は、一万余騎也。勢の多少更闘ふべくも無りける処に、何より来れる共知ぬ爽かなる兵二万余騎、天皇の御方に出来て、大友王子の御勢を十方へ懸散す。此よりして其所を二万里と名付らる。君が代は二万の里人数副て絶ず備る御貢物哉と周防の内侍が読たりしも、此心にて候也。」と、和漢両朝の例を引て、武運の天に叶へる由を申ければ、将軍を始まいらせて、当座の人々も、皆歓喜の笑をぞ含れける。 ○西国蜂起官軍進発事 去程に、将軍筑紫へ没落し給し刻、四国・西国の朝敵共、機を損じ度を失て、或は山林に隠れ或は所縁を尋て、新田殿の御教書を給らぬ人は無りけり。此時若義貞早速に被下向たらましかば、一人も降参せぬ者は有まじかりしを、其比天下第一の美人と聞へし、勾当の内侍を内裏より給たりけるに、暫が程も別を悲て、三月の末迄西国下向の事被延引けるこそ、誠に傾城傾国の験なれ。依之丹波国には、久下・長沢・荻野・波々伯部の者共、仁木左京大夫頼章を大将として、高山寺の城に楯篭り、播磨国には、赤松入道円心白旗が峯を城郭に構て、射手の下向を支んとす。 |
わが国では天武天皇と大友皇子が天下を争われた時、備中国の二万郷という場所で両軍が決戦しようとした。このとき天武天皇の兵力はわずか三百余騎だったのに対し、大友皇子側は一万余騎であった。兵数の差があまりに大きく戦える状態ではなかったところへ、どこからともなく現れた清々しい二万余騎の援軍が天皇方につき大友皇子軍を散りぢりに打ち破った。これによりその地は「二万里」と名付けられた。「君が代は二万の里 人数添ひて絶えず備る御貢物かな(くんがいわ にまんりのさと ひとぞいひてたえずそなわるみつぎものかな)」という周防内侍の歌もこの故事を詠んだものです。」と言って日本と中国両王朝の例を示し、武運が天意に叶ったことを説明すると、将軍(尊氏)をはじめその場の人々皆が喜び笑顔を見せた。 さて、西国の反乱と官軍進撃について 解説
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| 美作には、菅家・江見・弘戸の者共、奈義能山・菩提寺の城を拵へて、国中を掠め領す。備前には、田井・飽浦・内藤・頓宮・松田・福林寺の者共、石橋左衛門佐を大将として、甲斐河・三石二箇処の城を構て船路・陸地を支んとす。備中には、庄・真壁・陶山・成合・新見・多地部の者共、勢山を切塞で、鳥も翔らぬ様に構へたり。是より西、備後・安芸・周防・長門は申に不及、四国・九州も悉著では叶まじかりければ、将軍方に無志も皆順ひ不靡云事なし。処々の城郭、国々の蜂起、震く京都へ聞ければ、先東国を敵に成ては叶まじとて、北畠源中納言顕家卿を、鎮守府の将軍になして、奥州へ下さる。新田左中将義貞には、十六箇国の管領を被許、尊氏追討の宣旨をぞ被成ける。義貞綸命を蒙て、已に西国へ立んとし給ける刻、瘧病の心地煩しかりければ、先江田兵部大輔行義・大館左馬助氏明二人を播磨国へ被差下。其勢二千余騎、三月四日京を立て、同六日書写坂本に著にけり。赤松入道是を聞て、敵に足をためさせては叶まじとて、備前・播磨両国の勢を合て書写坂本へ押寄ける間、江田・大館、室山に出向て相戦ふ。赤松軍利無して、官軍勝に乗しかば、江田・大館勢を得て、西国の退治輒かるべき由、頻に羽書を飛せて京都へ注進す。 |
美作国では菅家・江見・弘戸らが奈義能山城と菩提寺城を築き、国内で略奪して支配した。備前国では田井・飽浦・内藤・頓宮・松田・福林寺らが石橋左衛門佐(貞朝)を大将として甲斐河城と三石城の二箇所に砦を構え、海路や陸路での通行を妨害した。備中国では庄・真壁・陶山・成合・新見・多地部らが勢山を封鎖し鳥も飛べないほど厳重に防衛していた。この西側の備後国・安芸国・周防国・長門国は言うまでもなく、四国や九州まで全て反乱状態では対応できないため将軍(尊氏)方と敵対しない者も皆従わざるを得なかった。各地での城塞構築や蜂起の報が震え上がる京都に届くと朝廷側は「まず東国を抑えないことにはどうにもならない」と考え、北畠源中納言顕家卿(みちか)を鎮守府将軍として奥州へ派遣した。新田左中将義貞に対しては十六箇国の統治権限を与え尊氏追討の命令が下された。 しかし義貞は朝廷からの命を受け西国に向かおうとした時、病気で体調不良だったため先に江田兵部大輔行義と大館左馬助氏明の二人を播磨国へ差し向けた。その兵力二千余騎は三月四日に京都を出発し同六日には書写坂本(姫路市)に到着した。赤松入道円心がこれを聞き「敵軍に足場を築かせてはいけない」と備前・播磨両国の兵を集め書写坂本へ押し寄せたため、江田・大館は室山に出向いて戦った。赤松軍は形勢不利となり官軍(南朝側)が優勢になったので江田・大館は勝利を得て西国平定も容易だと頻繁に急報を飛脚で京都へ報告した。 解説
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| ○新田左中将被責赤松事 去程に、左中将義貞の病気能成てければ、五万余騎の勢を率して、西国へ下り給ふ。後陣の勢を待調へん為に、播磨国賀古河に四五日逗留有ける程に、宇都宮治部大輔公綱・紀伊常陸守・菊池次郎武季三千余騎にて下著す。其外摂津国・播磨・丹波・丹後の勢共、思々に馳参じける間、無程六万余騎に成にけり。「さらば軈て赤松が城へ寄て可責。」とて、斑鳩の宿迄打寄せ給たりける時、赤松入道円心、小寺藤兵衛尉を以て、新田殿へ被申けるは、「円心不肖の身を以て、元弘の初大敵に当り、逆徒を責却候し事、恐は第一の忠節とこそ存候しに、恩賞の地、降参不儀の者よりも猶賎く候し間、一旦の恨に依て多日の大功を捨候き。乍去兵部卿親王の御恩、生々世々難忘存候へば、全く御敵に属し候事、本意とは不存候。所詮当国の守護職をだに、綸旨に御辞状を副て下し給り候はゞ、如元御方に参て、忠節を可致にて候。」と申たりければ、義貞是を聞給て、「此事ならば子細あらじ。」と被仰て、頓て京都へ飛脚を立、守護職補任の綸旨をぞ申成れける。其使節往反の間、已に十余日を過ける間に、円心城を拵すまして、「当国の守護・国司をば、将軍より給て候間、手の裏を返す様なる綸旨をば、何かは仕候べき。 |
新田左中将(義貞)が赤松氏を攻めること 解説
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| 」と、嘲哢してこそ返されけれ。新田左中将是を聞給て、「王事毋脆事、縦恨を以て朝敵の身になる共、戴天欺天命哉。其儀ならば爰にて数月を送る共、彼が城を責落さでは通るまじ。」とて、六万余騎の勢を以て、白旗の城を百重千重に取囲て、夜昼五十余日、息をも不継責たりける。斯りけれ共、此城四方皆嶮岨にして、人の上るべき様もなく、水も兵粮も卓散なる上、播磨・美作に名を得たる射手共、八百余人迄篭りたりける間、責けれども/\只寄手々負討るゝ許にて、城中恙なかりけり。脇屋右衛門佐是を見給て、左中将に向て被申けるは、「先年正成が篭りたりし金剛山の城を、日本国の勢共が責兼て、結句天下を覆されし事は、先代の後悔にて候はずや。僅の小城一に取懸りて、そゞろに日数を送り候はゞ、御方の軍勢は皆兵粮に疲、敵陣の城には弥強り候はんか。其上尊氏已に筑紫九箇国を平て、上洛する由聞候へば、彼が近付ぬ前に備前・備中を退治して、安芸・周防・長門の勢を被著候はでは、ゆゝしき大事に及候ぬとこそ覚候へ。乍去今迄責懸たる城を落さで引は、天下の哢共成べく候へば、御勢を少々被残、自余の勢を船坂へ差向られ、先山陽道の路を開て中国の勢を著け、推て筑紫へ御下候へかし。」と被申ければ、左中将、「此儀尤宜覚候。 |
新田左中将が赤松に責められる件 新田左中将がこれを聞き「朝廷への奉公には私怨があってはいけない。たとえ恨みがあっても朝敵になるのは天を欺く行為だ。そういうことならここで数ヶ月過ごしても彼の城を落とすまでは通らない」と言い、六万余騎の軍勢で白旗城を幾重にも包囲し昼夜五十余日休まず攻めた。しかしこの城は四方が険しい山岳地帯で人が登れず水や兵糧も豊富だった上に播磨・美作の名射手八百余人以上が籠っていたため、攻めても反撃を受け味方が討たれるばかりで城内は無傷だった。 脇屋右衛門佐(義助)がこれを見て左中将へ進言した:「かつて楠木正成が篭った金剛山城を日本中の軍勢が落とせず結局天下が傾いたのは教訓です。小さい城一つにこだわって無駄に日数を費やすなら味方は兵糧不足で疲弊し敵はますます強くなるでしょう。さらに尊氏がすでに九州九ヶ国を平定して上洛すると聞けば、彼が近づく前に備前・備中を制圧し安芸・周防・長門の勢力を得ておかないと大変な事態になります。とはいえ今まで攻め続けた城を落とさず撤退すれば世間の笑いものになるでしょうから、一部兵力はここに残し主力を船坂へ向けて山陽道ルートを開き中国地方平定後筑紫(九州)へ下向なさってはいかがでしょうか」。すると左中将は「この提案はもっともだ」と同意した。 解説
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| 」とて、頓て宇都宮と菊池が勢を差副、伊東大和守・頓宮六郎を案内者として、二万余騎舟坂山へぞ向られける。彼山と申は、山陽道第一の難処也。両方は嶺峨々として、中に一の細道あり。谷深石滑にして、路羊腸を践で上る事二十余町、雲霧窈溟たり。若一夫怒臨関、万侶難得透。況岩石を穿て細橋を渡しゝ大木を倒して逆木に引たれば、何なる百万騎の勢にても、責破るべしとはみへざりけり。去ば指も勇める菊池・宇都宮が勢も、麓に磬へて不進得。案内者に憑れたる伊東・頓宮の者共も、山をのみ向上て徒に日をぞ送ける。 ○児嶋三郎熊山挙旗事付船坂合戦事 斯りける処に、備前国の住人児嶋三郎高徳、去年の冬、細川卿律師、四国より責上し時、備前・備中数箇度の合戦に打負て、山林に身を隠し、会稽の恥を雪がんと、義貞朝臣の下向を待て居たりけるが、舟坂山を官軍の超かねたりと聞て、潛使を新田殿の方へ立て申けるは、「舟坂より御勢を可被越由承及候事実に候はゞ、彼要害輒く難被破候歟。高徳来十八日当国於熊山可挙義兵候。さる程ならば、舟坂を堅たる凶徒等、定て熊山へ寄来候はん歟。敵の勢のすきたる隙を得て御勢を二手に分たれ、一手をば舟坂へ差向て可攻勢ひを見せ、一手をば三石山の南に当て樵の通ふ路一候なる、潛に廻せて、三石の宿より西へ被出候はゞ、船坂の敵前後を被裹、定て引方を失候はんか。 |
新田左中将が赤松に責められる件(承前) そうした中で備前国の住人である児嶋三郎高徳は、去年の冬に細川卿律師が四国から攻め上がった際、備前・備中の幾度かの戦いで敗れ山林に身を隠し、会稽の恥(敗戦の屈辱)を晴らそうと義貞公の西国下向を待っていたところ、「官軍(新田軍)が船坂山を越えられない」との情報を得た。密使を新田殿のもとに遣わして申し上げるには:「もし船坂からお進みになるというのが真実なら、あの要害は簡単に突破できまい。高徳は来る十八日にこの国の熊山で挙兵します。そうなれば船坂を固守する敵軍は必ず熊山へ向かうでしょう。その隙を見て御軍勢を二手に分けられよ。一手には船坂へ向けて攻撃の構えを見せかけ、もう一手は三石山の南にある樵(きこり)の通る道から密かに回り込んで三石宿より西に出れば、船坂の敵は前後に包囲され退路を失うはずです。」 解説
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| 高徳国中に旗を挙、舟坂を先破り候はゞ、西国の軍勢御方に参ずと云者候べからず。急此相図を以て、御合戦有べく候也。」とぞ申送ける。其比播磨より西、長門の国に至まで悉く敵陣にて、案内を通づる者もなきに、高徳が使者来て、企の様を申ければ、新田殿悦給ふ事不斜。則相図の日を定て、其使をぞ被返ける。使者備前に帰て相図の様を申ければ、四月十七日の夜半許に、児嶋三郎高徳、己が館に火をかけて、僅二十五騎にてぞ打出ける。国を阻境を隔たる一族共は、事急なるに依て不及相催、近辺の親類共に事の子細を告たりければ、今木・大富・和田・射越・原・松崎の者共、取物も不取敢馳著ける間、其勢二百余騎に成にけり。兼ては夜中に熊山へ取上り、四方に篝火を焼て、大勢篭りたる勢ひを、敵にみせんと巧みたりけるが、馬よ物具よとひしめく間に、夏の夜程なく明けれども、無力相図の時刻を違じとて、熊山へこそ取上りけれ。如案三石・舟坂の勢共是を聞て、「国中に敵出来なば、ゆゝしき大事なるべし。万方を閣て、先熊山を責よ。」とて、舟坂・三石の勢三千余騎を引分て、熊山へぞ向たりける。彼熊山と申は、高さは比叡山の如にして四方に七の道あり。其路何も麓は少し嶮して峯は平なり。高徳僅の勢を七の道へ差分て、四方へ敵をぞ防ぎける。 |
児嶋三郎高徳は新田殿にこう伝えた:「もし私が国内で旗揚げし船坂を先に突破すれば、西国の軍勢も味方に加わるでしょう。急ぎこの合図をもって戦いを開始すべきです。」当時播磨以西から長門国まで全て敵陣で案内役さえおらず、高徳の使者が来て計画を伝えたため、新田殿は大いに喜びすぐに決行日を定めて使者を帰した。使者が備前に戻り連絡すると、四月十七日夜半頃、児嶋三郎高徳は自らの館へ火を放ちわずか二十五騎で出撃した。遠方の一族は事態急迫のため召集できなかったが、近隣の親類に事情を告げると今木・大富・和田・射越・原・松崎の人々が武器も取らず駆けつけたので兵力二百余騎となった。元は夜中に熊山へ登り四方で篝火を焚き大軍が籠る様子を見せようと企てたものの、馬具や装備の騒ぎで夏の短い夜が明けてしまい、合図時刻遅れを恐れて急ぎ熊山へ登った。案の定三石・船坂の敵兵はこれを聞き「国内に敵出現とは大変だ! 他を置いて先ず熊山を攻めよ」と言い三千余騎を分けて熊山へ向かった。この熊山という場所は高さ比叡山ほどで四方に七つの道がある。どの道も麓がやや険しく頂上が平坦だったため、高徳は少ない兵力を七筋の道に分散配置し各方面から敵を防いだ。 解説
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| 追下せば責上り、責上れば追下し、終日戦暮して態と時をぞ移しける。夜に入ける時、寄手の中に石戸彦三郎とて此山の案内者有けるが、思も寄ぬ方より抜入て、本堂の後なる峯にて鬨をぞ揚たりける。高徳四方の麓へ勢を皆分て遣ぬ。僅に十四五騎にて本堂の庭に磬たりけるが、石戸が二百騎の中へ喚て懸入り、火を散てぞ闘ひける。深山の木隠れ月暗して、敵の打太刀分明にも見へざりければ、高徳が内甲を突れて、馬より倒に落にけり。敵二騎落合て、頚を取んとしける処へ、高徳が甥松崎彦四郎・和田四郎馳合て、二人の敵を追払ひ、高徳を馬に引乗せて、本堂の縁にぞ下しける。高徳は内甲の疵痛手也ける上、馬より落ける時、胸板を強く蹈れて、目昏魂消ければ、暫絶入したりけるを、父備後守範長、枕の下に差寄て、「昔鎌倉の権五郎景政は、左の眼を射抜れ、三日三夜まで其矢を抜かで、当の矢を射たりとこそ云伝へたれ。是程の小疵一所に弱りて死ると云事や可有。其程無云甲斐心を以て此一大事をば思立けるか。」と荒らかに恥しめける間、高徳忽に生出て、「我を馬に舁乗よ、今一軍して敵を追払はん。」とぞ申ける。父大に悦で、「今は此者よも死なじ。いざや殿原、爰らに有つる敵共追散さん。」とて、今木太郎範秀・舎弟次郎範仲・中西四郎範顕・和田四郎範氏・松崎彦四郎範家主従十七騎にて、敵二百騎が中へまつしらくに懸入ける間、石戸是を小勢とは知ざりけるにや、一立合せも立合せず、南面の長坂を福岡までこそ引たりけれ。 |
敵が押し返せば攻め上がり、攻め上げればまた引き下げるという戦いを終日続け、わざと時間を引き延ばしていた。夜になると、攻撃側の中に石戸彦三郎というこの山の案内役がおり、思いもよらない方向から抜け出て本堂後ろの峰で鬨(とき)の声を上げた。高徳は四方の麓へ全兵力を分散配置してしまい、わずか十四五騎だけで本堂の庭に控えていたところ、石戸の二百騎の中へ叫びながら突入し火の粉が散るほどの激闘を繰り広げた。深山中で木々に隠れ月明かりも暗く敵の太刀筋さえ見分けられず、高徳は鎧の内側(胸)を刺されて馬から真っ逆さまに落ちてしまった。敵兵二騎が駆け寄り首を取ろうとした瞬間、高徳の甥である松崎彦四郎と和田四郎が駆けつけて二人の敵を追い払い、高徳を馬上へ引き上げ本堂の縁に下ろした。高徳は鎧内部の傷が痛む上、落馬時に胸板(胸部防具)を強く踏まれ意識朦朧となって一時気絶していたところ、父である備後守範長が枕元に近づきこう叱咤した:「昔、鎌倉の権五郎景政は左目を射抜かれながらも三日三夜その矢を抜かず敵を討ったと伝わる。これほどの軽傷で弱って死ぬことがあろうか?お前がこの大事業を決意したのは何のためだ?」と激しく恥じ入らせると、高徳は突然起き上がり「私を馬に乗せよ!もう一戦して敵を追い払うぞ」と言った。父は大いに喜び「今こそこの者は死なぬだろう。さあ諸君、ここにいる敵どもを撃ち破れ!」と命じたため、今木太郎範秀・弟次郎範仲・中西四郎範顕・和田四郎範氏・松崎彦四郎範家ら主従十七騎が敵二百騎の中へ無謀にも突入した。石戸はこれが少数勢とは知らず一戦も交えず、南面の長い坂を福岡(現岡山県瀬戸内市)まで退却してしまった。 解説
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| 其侭両陣相支て互に軍もせざりけり。相図の日にも成ければ、脇屋右衛門佐を大将として、梨原へ打莅み、二万騎の勢を三手に分たる。一手には江田兵部大輔を大将として、二千余騎杉坂へ向らる。是は菅家・南三郷の者共が堅めたる所を追破て、美作へ入ん為也。一手には大江田式部大輔氏経を大将として、菊池・宇都宮が勢五千余騎を船坂へ差向らる。是は敵を爰に遮り留て、搦手の勢を潛に後より回さん為也。一手には伊東大和守を案内者として、頓宮六郎・畑六郎左衛門、当国の目代少納言範猷・由良新左衛門・小寺六郎・三津沢山城権守以下態小勢を勝て三百余騎向らる。其勢皆轡の七寸を紙を以て巻て、馬の舌根を結たりける。杉坂越の北、三石の南に当て、鹿の渡る道一あり。敵是を知ざりけるにや、堀切たる処もなく、逆木の一本をも引ざりけり。此道余に木茂て、枝の支へたる処をば下て馬を引く。山殊に嶮して、足もたまらぬ所をば、中々乗て懸下す、兎角して三時許に嶮岨を凌で三石の宿の西へ打出たれば、城中の者も舟坂の勢も、遥に是を顧て、思も寄ぬ方なれば、熊山の寄手共が帰たるよと心得て、更に仰天もせざりけり。三百余騎の勢共、宿の東なる夷の社の前へ打寄り、中黒の旗を差揚て東西の宿に火をかけ、鬨をぞ挙たりける。 |
両陣営が対峙したまま互いに戦闘もせず膠着していた。合図の日となったため、脇屋右衛門佐を大将として梨原へ進軍し、二万騎もの兵力を三手に分けた。一手は江田兵部大輔を大将とし二千余騎で杉坂に向かわせた。これは菅家や南三郷の勢力が固守する地点を突破して美作地方へ侵入するためである。二手目は大江田式部大輔氏経を大将として菊池・宇都宮勢五千余騎を船坂に差し向けた。これで敵軍をそこで足止めさせ、別動隊(搦手)が密かに背後から回り込む作戦である。三手目は伊東大和守を案内役とし、頓宮六郎・畑六郎左衛門、当国の目代少納言範猷・由良新左衛門・小寺六郎・三津沢山城権守以下わずか三百余騎で進軍させた。この部隊は全員が馬勒(くつわ)の一部に紙を巻き付け、馬が鳴かないよう舌根(したのもと)を縛ってあった。杉坂峠の北側、三石宿の南端にある鹿用の通小路一本を通った――敵軍はこの道を知らなかったか、塹壕や逆茂木すら設置していなかった。草木が生い茂る道では枝に引っ掛かる箇所で下馬して馬を引き、特に険しい崖地帯では無理やり乗り降りするなど苦労しつつ約三時間後に難所を通り抜け三石宿の西側へ出た。城中と船坂部隊は遠くからこれを見て思いもよらない方向からの接近だったため熊山攻囲軍が戻ってきたのだろうと思い、驚きもしなかった。三百余騎の兵たちは宿場東端にある夷神社前に集結し中黒旗を掲げると東西の町家に火を放ち鬨(とき)の声を上げた。 解説
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| 城中の兵は、大略舟坂へ差向けぬ。三石に有し勢は、皆熊山へ向ひたる時分なれば、闘はんとするに勢なく、防がんとするに便なし。舟坂へ向ひたる勢、前後の敵に取巻れて、すべき様もなかりければ、只馬・物具を捨て、城へ連たる山の上へ、はう/\逃上らんとぞ騒ぎける。是を見て、大手・搦手差合せて、「余すな漏すな。」と追懸ける間、逃方を失ける敵共此彼に行迫て自害をする者百余人、生取らるゝ者五十余人也。爰に備前国一宮の在庁、美濃権介佐重と云ける者、可引方なくして、已に腹を切らんとしけるが、屹と思返す事有て、脱たる鎧を取て著、捨たる馬に打乗て、向ふ敵の中を推分て、播磨の方へぞ通りける。舟坂より打入る大勢共、「是は何者ぞ。」と尋ければ、「是は搦手の案内者仕つる者にて候が、合戦の様を委く新田殿へ申入候也。」と答ければ、打合ふ数万の勢共、「目出候。」と感じて、道を開てぞ通しける。佐重、総大将の侍所長浜が前に跪て、「備前国の住人に、美濃権介佐重、三石の城より降人に参て候。」と申ければ、総大将より、「神妙に候。」と被仰、則著到にぞ被著ける。佐重若干の人を出抜て、其日の命を助かりける。是も暫時の智謀也。舟坂已に破れたれば、江田兵部大輔は、三千余騎にて美作国へ打入て、奈義能山・菩提寺二箇所の城を取巻給ふ。 |
城の兵士の大半は船坂方面に派遣されていなかった。三石に駐屯していた兵力も全員熊山へ向かっていた時期だったため、戦おうにも兵力が足りず、防御しようにも手立てがない状態であった。船坂に向かった部隊は前後の敵に包囲されて為す術もなく、ただ馬や武具を捨て、城につながる山上へ這い上がって逃げようと混乱した。これを見た主力部隊(大手)と別働隊(搦手)が協力して「一人残らず討ち取れ」と追撃する中、退路を断たれた敵兵たちは散り散りになり自害した者百人余り、生け捕られた者五十人余りとなった。その時、備前国一宮の役人である美濃権介佐重という者は逃げ場がなくなり切腹しようとしたが、突然思い直して脱いだ鎧を着用し、捨てられていた馬に乗り、敵軍の中を突破して播磨方面へ逃走した。船坂から攻め込んで来た大軍が「そちは何者か」と問うと、「私は別働隊の案内役を務めた者でございまして、戦況を詳しく新田殿に報告しに行くところです」と答えたため、数万の兵士たちは「結構なことだ」と言って道を開けて通した。佐重が総大将(脇屋義治か)の侍従・長浜の前にひざまずき「備前国住人の美濃権介佐重、三石城からの降伏者として参上しました」と申し出ると、総大将から「殊勝である」と言われ直ちに投降者名簿(著到)へ記載された。こうして佐重はわずかな知略でその日の命を救ったのであった。これも一時の機転であった。船坂が陥落したため、江田兵部大輔は三千余騎で美作国へ侵入し、奈義能山城と菩提寺城の二カ所を包囲した。 解説
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| 彼城もすべなき様なければ、馬・武具を捨て、城に連たる上の山へぞ逃上りける。脇屋右衛門佐義助は、五千余騎にて三石の城を責らる。大江田式部大輔は、二千余騎にて備中国へ打越、福山の城にぞ陣を被取ける。 ○将軍自筑紫御上洛事付瑞夢事 多々良浜の合戦の後、筑紫九国の勢一人として将軍に不順靡云者無りけり。然共中国に敵陣充満して道を塞ぎ、東国王化に順て、御方に通ずる者少なかりければ、左右なく京都へ責上らん事は、如何有べからんと、此春の敗北にこり懼て、諸卒敢て進む義勢無りける処に、赤松入道が三男則祐律師、並に得平因播守秀光、播磨より筑紫へ馳参て申けるは、「京都より下されたる敵軍、備中・備前・播磨・美作に充満して候といへ共、是皆城々を責かねて、気疲れ粮尽たる時節にて候間、将軍こそ大勢にて御上洛候へとだに承及候はゞ、一たまりも怺じと存候。若御進発延引候て、白旗の城責落されなば、自余の城一日も怺候まじ。四箇国の要害、皆敵の城に成て候はんずる後は、何百万騎の勢にても、御上洛叶まじく候。是則趙王が秦の兵に囲れて、楚の項羽舟筏を沈め、釜甑を焼て、戦負けば、士卒一人も生て返らじとせし戦にて候はずや。天下の成功只此一挙に可有にて候者を。」と詞を残さで申ければ、将軍是を聞給て、「げにも此義さもありと覚るぞ。 |
その城(三石城)もどうしようもない状態だったので、兵士たちは馬や武具を捨て、城につながる山頂へ逃げ登った。脇屋義助(右衛門佐)は五千余騎で三石城を攻撃した。大江田氏経(式部大輔)は二千余騎で備中国に進み、福山城に陣営を置いた。 ○将軍の九州から京都へ向かう件と吉兆の夢について 解説
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| さらば夜を日に継で、上洛を急ぐべし。但九州を混ら打捨ては叶まじ。」とて、仁木四郎次郎義長を大将として、大友・小弐両人を留置き、四月二十六日に太宰府を打立て、同二十八日に順風に纜解て、五月一日安芸の厳嶋へ舟を寄られて、三日参篭し給ふ。其結願の日、三宝院の僧正賢俊京より下て、持明院殿より被成ける院宣をぞ奉ける。将軍是を拝覧し給て、「函蓋相応して心中の所願已に叶へり。向後の合戦に於ては、不勝云事有べからず。」とぞ悦給ける。去四月六日に、法皇は持明院殿にて崩御なりしかば、後伏見院とぞ申ける。彼崩御已前に下し院宣なり。将軍は厳島の奉弊事終て、同五日厳嶋を立給へば、伊予・讚岐・安芸・周防・長門の勢五百余艘にて馳参る。同七日備後・備中・出雲・石見・伯耆の勢六千余騎にて馳参る。其外国々の軍勢不招に集り、不責に順ひ著事、只吹風の草木を靡すに異ならず。新田左中将の勢已に備中・備前・播磨・美作に充満して、国々の城を責る由聞へければ、鞆の浦より左馬頭直義を大将にて、二十万騎を差分て、徒路を上せられ、将軍は一族四十余人、高家一党五十余人、上杉の一類三十余人、外様の大名百六十頭、兵船七千五百余艘を漕双て、海上をぞ上られける。同五日備後の鞆を立給ひける時一の不思議あり。 |
それならば昼夜を問わず京都への上洛を急ぐべきだ。ただし九州を混乱したまま放置するわけにはいかない。」と言って、仁木義長(四郎次郎)を大将として大友氏と小弐氏の両名を残留させると、四月二十六日に太宰府を出発し、同二十八日には順風に帆綱を解き五月一日に安芸国の厳島へ船を寄せて三日間参籠した。その祈願成就の日に三宝院の僧正賢俊が京都から下向し持明院殿(上皇)からの院宣を奉呈すると、将軍足利尊氏はこれを拝見して「箱と蓋がぴったり合うように心の中の望みは既に叶った。今後の戦いにおいて負けることはあるまい。」と喜ばれた。(注:この時点で)去る四月六日に法皇(後伏見上皇)が持明院殿で崩御されたため、後伏見院と呼ばれていたのであり、その勅命は崩御前に発せられたものだった。将軍尊氏は厳島での神事を終えて同五日に厳島を出立すると伊予・讃岐・安芸・周防・長門の兵が五百余隻で馳せ参じた。同七日には備後・備中・出雲・石見・伯耆の兵力六千余騎が集結した。その他諸国の軍勢は招かれぬのに自然と集合し強制されずに従う様子は風が草木をなびかせるのと変わらなかった。新田義貞(左中将)軍が既に備中・備前・播磨・美作に充満して各国の城を攻めているとの報を得たため鞆ノ浦から足利直義(左馬頭)を大将として二十万騎を陸路で差し向けさせ自らは一族四十余人、高家一党五十余人、上杉一族三十余人外様大名百六十名と兵船七千五百余隻を漕いで海上経由で進んだ。同五日に備後国の鞆を出立された時不思議な出来事があった。 解説
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| 将軍の屋形の中に少目眠給たりける夢に、南方より光明赫奕たる観世音菩薩一尊飛来りまし/\て、船の舳に立給へば、眷属の二十八部衆、各弓箭兵杖を帯して擁護し奉る体にぞ見給ける。将軍夢覚て見給へば、山鳩一つ船の屋形の上にあり。彼此偏に円通大士の擁護の威を加へて、勝軍の義を可得夢想の告也と思召ければ、杉原を三帖短冊の広さに切せて、自観世音菩薩を書せ給て、舟の帆柱毎にぞ推させられける。角て舟路の勢、已に備前の吹上に著けば、歩路の勢は、備中の草壁の庄にぞ著にける。 ○備中福山合戦事 福山に楯篭る処の官軍共、此由を聞て、「此城未拵るに不及、彼に付此に付、大敵を支へん事は、可叶共覚へず。」と申けるを、大江田式部大輔、且く思案して宣ひけるは、「合戦の習、勝負は時の運に依といへども、御方の小勢を以て、敵の大勢に闘はんに、不負云事は、千に一も有べからず。乍去国を越て足利殿の上洛を支んとて、向ひたる者が、大勢の寄ればとて、聞逃には如何すべき。よしや只一業所感の者共が、此所にて皆可死果報にてこそ有らめ。軽死重名者をこそ人とは申せ。誰々も爰にて討死して、名を子孫に残さんと被思定候へ。」と諌められければ、紀伊常陸・合田以下は、「申にや及候。 |
将軍足利尊氏は船室の中でうとうと眠りにつかれ、夢を見られた。南の方から光輝く観世音菩薩一尊が飛来され、船の舳先にお立ちになると、眷属である二十八部衆らがそれぞれ弓矢や武器を携えてお守り申し上げている様子に見えたのである。将軍は目覚めてご覧になると山鳩一羽が船室の上にいた。これは明らかに観音菩薩(円通大士)の加護による勝利の予兆だと思われ、杉原紙を三帖分の短冊幅に切らせて自ら観世音像をお描きになり、全ての帆柱にお掛けさせられた。 こうして船団は備前国の吹上浜へ到着し、陸路部隊は備中国草壁庄へと進駐した。 解説
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| 」と領状して討死を一篇に思儲てければ、中々心中涼くぞ覚へける。去程に、明れば五月十五日の宵より、左馬頭直義三十万騎の勢にて、勢山を打越へ、福山の麓四五里が間、数百箇所を陣に取て、篝を焼てぞ居たりける。此勢を見ては、如何なる鬼神ともいへ、今夜落ぬ事はよも非じと覚けるに、城の篝も不焼止、猶怺たりと見へければ、夜已に明て後、先備前・備中の勢共、三千余騎にて押寄せ、浅原峠よりぞ懸たりける。是迄も城中鳴を静めて音もせず。「さればこそ落たりと覚るぞ。時の声を挙て敵の有無も知れ。」とて、三千余騎の兵共、楯の板を敲き、時を作る事三声、近付て上んとする処に、城中の東西の木戸口に、大鼓を打て時の声をぞ合せたりける。外所に磬たる寄手の大勢是を聞て、「源氏の大将の篭りたらんずる城の、小勢なればとて、聞落にはよもせじと思つるが、果して未怺たりけるぞ。侮て手合の軍し損ずな。四方を取巻て同時に責よ。」とて国々の勢一方々々を請取て、谷々峯々より攻上りける。城中の者共は、兼てより思儲たる事なれば、雲霞の勢に囲まれぬれ共少も不騒、此彼の木隠に立隠れて、矢種を不惜散々に射ける間、寄手稲麻の如に立双びたれば、浮矢は一も無りけり。敵に矢種を尽させんと、寄手は態射ざりければ、城の勢は未だ一人も不手負。 |
「承知しました」と全員が討ち死に覚悟で心を固めたため、かえって気持ちは落ち着いていた。そうこうしているうちに翌5月15日の夕方から、足利直義(左馬頭)率いる30万騎の大軍が勢山を越えて福山城麓まで押し寄せ、四方数里に数百ヶ所も陣を取り篝火を焚いて包囲した。この光景を見た籠城兵は「鬼神といえど今夜中に落ちないだろう」と覚悟していたところ、城内の篝火が消えないでまだ持ちこたえているように見えた。 夜が明けてまず備前・備中の攻撃部隊三千騎余りが浅原峠から押し寄せてきた。この時点でも城は静まり返っていた。「やはり落ちたか」と思った攻城軍は「鬨の声を上げろ!敵の状態を見極めよ!」と盾を叩き三度叫んだ。近づいて攻め上ろうとした瞬間、城内から東西両門で太鼓が鳴らされ鬨の声が応酬された。 これを聞いた城外の大軍は驚嘆した。「源氏大将(足利方)が籠る城だ。小勢だからと侮っていたがまだ耐えているぞ!軽んじて失敗するな。四方を包囲して一斉に攻めろ!」各国の部隊が分担区域を受け持ち、谷や峰から同時に攻め登った。 しかし城内兵は予想通りで、雲霞のような敵勢に囲まれても騒がず木陰に潜み矢を惜しげもなく射かけたため、攻城側は稲穂のように密集していたので無駄な矢一本出さなかった。わざと反撃せず城内の弓矢を使い尽くさせる作戦だったため、城兵にはまだ一人の負傷者も出ていなかった。 解説
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| 大江田式部大輔是を見給て、「さのみ精力の尽ぬさきに、いざや打出て、左馬頭が陣一散し懸散さん。」とて、城中には徒立なる兵五百余人を留て、馬強なる兵千余騎引率し、木戸を開かせ、逆木を引のけて、北の尾の殊に嶮き方より喚てぞ懸出られける。一方の寄手二万余騎是に被懸落、谷底に馬を馳こみ、いやが上に重り臥臥す。式部大輔是をば打捨、「東のはなれ尾に二引両の旗の見るは、左馬頭にてぞ有らん。」とて、二万余騎磬へたる勢の中へ破て入り、時移るまでぞ闘れける。「是も左馬頭にては無りける。」とて、大勢の中を颯と懸抜て御方の勢を見給へば、五百余騎討れて纔に四百騎に成にけり。爰にて城の方を遥に観れば、敵早入替りぬと見へて櫓・掻楯に火を懸たり。式部大輔其兵を一処に集めて、「今日の合戦今は是迄ぞ、いざや一方打破て備前へ帰り、播磨・三石の勢と一にならん。」とて、板倉の橋を東へ向て落給へば、敵二千騎・三千騎、此彼に道を塞で打留んとす。四百余騎の者共も、遁ぬ処ぞと思ひ切たる事なれば、近付敵の中へ破て入り、懸散し、板倉川の辺より唐皮迄、十余度までこそ闘ひけれ。され共兵もさのみ討れず、大将も無恙りければ、虎口の難を遁て、五月十八日の早旦に、三石の宿にぞ落著ける。 |
大江田氏経(式部大輔)はこの状況を見て「まだ体力の尽きないうちに打って出よ。直義本陣へ一気に突入せよ!」と命じ、城内には歩兵五百余人を残し、精鋭の騎馬隊千余騎を率いて城門を開け柵を撤去。北尾根の険しい斜面から叫び声を上げて突撃した。 一方(浅原峠方面)に布陣していた攻城部隊二万余騎はこれに蹴散らされ、谷底へ馬ごと転落して身動きが取れなくなった。氏経はこれを放置し「東の離れた尾根に二引両旗が見える。あれが直義本陣だ」と言い、別働隊二万余騎が密集する敵中に突破進入。幾度も激闘を繰り広げた後、「ここにも直義はいない」と気づき大軍を駆け抜けて味方の状況を見ると、五百余騎討ち死にして僅か四百騎になっていた。 遠く城を見渡すと敵が占拠したらしく櫓や盾に火がかけられていた。氏経は残兵を集め「もはやこれまでだ。突破して備前へ退き播磨・三石の軍勢と合流せよ」と指示し、板倉川方面へ東進すると敵二千騎・三千騎が道を塞いでいた。四百余騎の将兵も逃げ場なしと悟り敵中に突入して散開しながら戦い、板倉川から唐皮(現岡山県瀬戸内市付近)まで十余度にわたり交戦した。幸い兵力はさほど減らず大将も無事だったため危難を脱し、五月十八日早朝に三石宿へ到着した。 解説
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| 左馬頭直義は、福山の敵を追落して、事始よしと悦給事不斜。其日一日唐皮の宿に逗留有て、頚の実験有けるに、生捕・討死の頚千三百五十三と註せり。当国の吉備津宮に参詣の志をはしけれ共、合戦の最中なれば、触穢の憚有とて、只願書許を被篭て、翌の日唐皮を立給へば、将軍も舟を出されて、順風に帆をぞあげられける。五月十八日晩景に、脇屋右衛門佐三石より使者を以て、新田左中将の方へ立て、福山の合戦の次第、委細に註進せられければ、其使者軈て馳返て、「白旗・三石・菩提寺の城未責落ざる処に、尊氏・直義大勢にて舟路と陸路とより上ると云に、若陸の敵を支ん為に、当国にて相待ば、舟路の敵差違て帝都を侵さん事疑なし。只速に西国の合戦を打捨て、摂津国辺まで引退、水陸の敵を一処に待請、帝都を後に当て、合戦を致すべく候。急其よりも山の里辺へ出合れ候へ。美作へも此旨を申遣し候つる也。」とぞ、被仰たりける。依之五月十八日の夜半許に、官軍皆三石を打捨て、舟坂をぞ引れける。城中の勢共、是に機を得て、舟坂山に出合ひ、道を塞で散々に射る。宵の間の月、山に隠れて、前後さだかに見へぬ事なれば、親討れ子討るれども、只一足も前へこそ行延んとしける処に、菊池が若党に、原源五・源六とて、名を得たる大剛の者有りけるが、態と迹に引さがりて、御方の勢を落さんと、防矢を射たりける。 |
足利直義(左馬頭)は福山城を攻略したことを幸先良い戦いの始まりとして喜んだ。その日は唐皮宿に滞在し首実検を行ったところ、捕虜や討ち取られた敵兵の数は1353人と記録された。この地にある吉備津宮への参拝を望んでいたが戦闘中であるため死穢(血のけがれ)を避けるべく願文だけ納め、翌日唐皮宿を出発したところ、足利尊氏(将軍)も船で追いかけてきて順風に帆を上げた。 5月18日の夕暮れ時、脇屋義助(右衛門佐)が三石から新田義貞(左中将)のもとへ使者を送り福山城の戦況を詳細に報告したところ、その使者はすぐ戻って次のように伝えた。「白旗・三石・菩提寺などの城塞がまだ陥落しない状況で尊氏・直義軍が海路陸路から攻め上ると聞き及んだ。もしここ(播磨)で地上部隊と対峙すれば海上部隊に京都を奇襲される恐れがある。すぐ西国での戦いを中断し摂津国まで撤退すべきだ。水陸両方の敵軍を一箇所に引き付け京を背にして決着をつけよう。急ぎ山ノ里(兵庫県三木市付近)へ合流せよと指示した。美作方面にも同様に通達済みである」。 これにより5月18日深夜、南朝軍全員が三石城から撤退し舟坂峠を目指して移動した。ところが城内(足利方)の兵はこの機を見逃さず伏兵として現れ道を塞ぎ激しく矢を射かけた。夜陰に月が山に隠れて前後不分明な中、親子同士で討ち合う混乱が起きたにも関わらず撤退軍は一歩も前に進めなかった。この時菊池氏の家臣である原源五・源六という名高い豪傑兄弟が故意に後退し味方(南朝側)を射殺すため防戦用の矢を放った。 解説
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| 矢種皆射尽ければ、打物の鞘をはづして、「傍輩共あらば返せ。」とぞ呼ける。菊池が若党共是を聞て、遥に落延たりける者共、「某此に有。」と名乗懸て返合せける間、城よりをり合せける敵共、さすがに近付得ずして、只余所の峯々に立渡て時の声をぞ作りける。其間に数万の官軍共、一人も討るゝ事なくして、大江田式部大輔、其夜の曙には山の里へ著にけり。和田備後守範長・子息三郎高徳、佐々木の一党が舟よりあがる由を聞て、是を防がん為に、西川尻に陣を取て居たりけるが、福山已に落されぬと聞へければ、三石の勢と成合んが為に、九日の夜に入て、三石へぞ馳著ける。爰にて人に尋れば、「脇屋殿は早宵に播磨へ引せ給ひて候也。」と申ける間、さては舟坂をば通り得じとて、先日搦手の廻りたりし三石の南の山路を、たどるたどる終夜越て、さごしの浦へぞ出たりける。夜未深かりければ、此侭少しの逗留もなくて打て通らば、新田殿には安く追著奉るべかりけるを、子息高徳が先の軍に負たりける疵、未愈けるが、馬に振れけるに依て、目昏く肝消して、馬にもたまらざりける間、さごしの辺に相知たる僧の有けるを尋出して、預置ける程に、時刻押遷りければ、五月の短夜明にけり。去程に此道より落人の通りけると聞て、赤松入道三百余騎を差遣して、名和辺にてぞ待せける。 |
矢が尽きると(菊池軍は)刀剣の鞘を外し「味方で戦える者がいれば応戦せよ!」と叫んだ。菊池氏の家臣たちがこれを聞くと、既に遠くへ逃げ延びていた兵士らも「ここにおるぞ」と名乗って戻り合流したため、城から追撃してきた敵軍は近づけず周囲の峰々で鬨の声を上げるだけだった。その間に数万の南朝軍(官軍)は一人も戦死せず脱出し、大江田氏経(式部大輔)は夜明け前に山ノ里へ到着した。 一方、和田範長(備後守)と息子・高徳(三郎)は佐々木一党が上陸するとの情報を得て防戦すべく西川尻に布陣していたが、福山城陥落を知り三石軍との合流を目指し九日(五月十九日夜か)、急ぎ三石へ向かった。現地で様子を尋ねると「脇屋義助殿は既に播磨へ撤退されました」と言われたため舟坂峠通過が困難と判断、以前回り道した南側の山路を夜通し歩き明け方にさごし浦へ出た。当時深夜だったので休まず進めば新田義貞軍に追いつけたはずだが、高徳が負った傷が癒えず馬で揺られると目眩と動悸で耐えられなかったため、地元の知り合い僧侶を探し彼を預けている間に時間が過ぎ五月(夏至前)の短夜は明けた。これより先、赤松円心(入道)はこのルートから敗走兵が通ると察し三百余騎を名和付近へ差遣して待ち伏せさせた。 解説
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| 備後守僅に八十三騎にて、大道へと志て打ける処に、赤松が勢とある山陰に寄せ合て、「落人と見るは誰人ぞ。命惜くば弓をはづし物具脱で降人に参れ。」とぞかけたりける。備後守是を聞て、から/\と打笑ひ、「聞も習はぬ言ば哉、降人に可成は、筑紫より将軍の、様々の御教書を成してすかされし時こそ成んずれ。其をだに引さきて火にくべたりし範長が、御辺達に向て、降人にならんと、ゑこそ申まじけれ。物具ほしくばいでとらせん。」と云侭に、八十三騎の者共、三百余騎の中へ喚て懸入り、敵十二騎切て落し、二十三騎に手負せ、大勢の囲を破て、浜路を東へぞ落行ける。赤松が勢案内者なりければ、被懸散ながら、前々へ馳過て、「落人の通るぞ、打留め物具はげ。」と、近隣傍庄にぞ触たりける。依之其辺二三里が間の野伏共、二三千人出合て此の山の隠、彼の田の畷に立渡りて、散々に射ける間、備後守が若党共、主を落さんが為に、進では懸破り引下ては討死し、十八より阿弥陀が宿の辺迄、十八度まで戦て落ける間、打残されたる者、今は僅に主従六騎に成にけり。備後守或辻堂の前にて馬を引へて、若党共に向て申けるは、「あはれ一族共だに打連れたりせば、播磨の国中をば安く蹴散して通るべかりつる物を、方々の手分に向られて一族一所に不居つれば、無力範長討るべき時刻の到来しける也。 |
備後守(和田範長)はわずか83騎で主要道路へ向けて進んだところ、山陰に潜んでいた赤松軍が接近して「敗走兵と見えるのはどこの者だ。命が惜しければ弓を外し甲冑を脱いで降伏せよ」と呼びかけた。これを聞いた備後守はからっと笑い「聞いたこともない言葉だな、降伏するなら筑紫(九州)で将軍(足利尊氏)が様々な綸旨で懐柔しようとした時こそすべきこと。私はそれを引き裂いて火にくべてしまった範長だ。お前たちに向かって降伏など冗談でも言えん。武器が欲しいなら奪ってみろ」と言い放つと、83騎の部下は300余騎の中へ叫びながら突入し敵12騎を切り倒し23騎に傷を負わせ大軍の包囲網を破り浜辺沿いに東へ敗走した。 赤松勢が地理に詳しかったため追撃しながら前方へ駆け抜け「敗残兵が通るぞ、止めて武具を奪え」と近隣の村々へ触れ回った。これにより周囲数里(約8-12km)の野伏(農民兵)2,000~3,000人が現れ山陰や田畑に立ちふさがって激しく射かける中、備後守の家臣たちは主君を逃がすため進んでは突破し退けば討死し、「十八」(地名)から阿弥陀宿(兵庫県たつの市付近)まで18度も戦いながら撤退するうちに生き残った者はついに主従6騎となってしまった。 備後守はある辻堂の前で馬を止め家臣に向かって言った。「ああ、一族さえ共に連れていれば播磨国内など容易く突破できたものを、各所へ分散配置したため一族が一箇所に集まれず無力な範長が討ち取られる時が来てしまったようだ」。 解説
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| 今は可遁共覚ねば、最後の念仏心閑に唱へて腹を切らんと思ぞ。其程敵の近付かぬ様に防げ。」とて、馬より飛でをり、辻堂の中へ走入、本尊に向ひ手を合せ念仏高声に二三百返が程唱て、腹一文字に掻切て、其刀を口に加て、うつぶしに成てぞ臥たりける。其後若党四人つゞきて自害をしけるに、備後守がいとこに和田四郎範家と云ける者、暫思案しけるは、敵をば一人も滅したるこそ後までの忠なれ。追手の敵若赤松が一族子共にてや有らん。さもあらば引組で、差違へんずる物をと思て、刀を抜て逆手に拳り、甲を枕にして、自害したる体に見へてぞ臥たりける。此へ追手懸りける赤松が勢の大将には、宇弥左衛門次郎重氏とて、和田が親類なりけり。まさしきに辻堂の庭へ馳来て、自害したる敵の首をとらんとて、是をみるに袖に著たる笠符皆下黒の文也。重氏抜たる太刀を抛て、「あら浅猿や、誰やらんと思たれば、児嶋・和田・今木の人々にて有けるぞや。此人達と■疾知ならば、命に替ても助くべかりつる物を。」と悲て、泪を流して立たりける。和田四郎此声を聞て、「範家是に有。」とて、かはと起たれば、重氏肝をつぶしながら立寄て、「こはいかに。」とぞ悦ける。軈て和田四郎をば同道して助をき、備後守をば、葬礼懇に取沙汰して、遺骨を故郷へぞ送りける。 |
備後守(和田範長)がわずか6騎となった状況下で、「もはや逃げ切れまい。最期に念仏を心静かに唱えて腹を切ろう」と言い、馬から飛び降りて辻堂の中へ駆け込み本尊に向かい手を合わせ、高声で二三百回ほど念仏を唱えた後、腹を一文字にかき切り、その刀を口にくわえ伏したまま息絶えた。その後家臣四人が続いて自害した中、備後守の従兄弟である和田四郎範家という者が暫し考えた。「敵を一人でも倒すのが後の世までの忠義だ。追手の中に赤松一族の子供がいれば組み付き道連れにしてやろう」と思い、刀を抜いて逆手に握り兜を枕に自害したふりで横たわった。 そこへ追撃してきた赤松軍の大将・宇弥左衛門次郎重氏(和田家と親類関係)が辻堂の庭へ駆けつけ、自害した敵の首を取りようとした際、遺体の袖に付けた笠符(識別札)が下黒紋なのに気づく。重氏は抜いた太刀を投げ捨て「なんと無念だ! 誰かと思えば児嶋・和田・今木の人々ではないか。早く知っていれば命にかえても助けたものを」と悲しみ涙を流した。これを聞いた和田四郎が「範家ここにあり!」と跳び起きたので、重氏は肝をつぶしながら近寄り喜んで彼を同道させ保護し、備後守の遺体については丁寧な葬儀を行い故郷へ遺骨を送った。 解説
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| さても八十三騎は討れて範家一人助りける、運命の程こそ不思議なれ。 ○新田殿被引兵庫事 新田左中将義貞は、備前・美作の勢共を待調へん為に、賀古川の西なる岡に陣を取て、二日までぞ逗留し給ひける。時節五月雨の降つゞいて、河の水増りければ、「跡より敵の懸事もこそ候へ。先総大将又宗との人々許は、舟にて向へ御渡候へかし。」と諸人口々に申けれども、義貞、「さる事や有べき。渡さぬ先に敵懸りたらば、中々可引方無して、死を軽んぜんに便あり。されば韓信が水を背にして陣を張しは此なり。軍勢を渡しはてゝ、義貞後に渡る共、何の痛が可有。」とて、先馬弱なる軍勢、手負たる者共を、漸々にぞ被渡ける。去程に水一夜に落て、備前・美作の勢馳進りければ、馬筏を組で、六万余騎同時に川をぞ渡されける。是までは西国勢共馳参て、十万騎に余りたりしが、将軍兄弟上洛し給ふ由を聞て、何の間にか落失けん、五月十三日左中将兵庫に著給ける時は、其勢纔に二万騎にも不足けり。 ○正成下向兵庫事 尊氏卿・直義朝臣大勢を率して上洛の間、用害の地に於て防ぎ戦はん為に、兵庫に引退ぬる由、義貞朝臣早馬を進て、内裡に奏聞ありければ、主上大に御騒有て、楠判官正成を被召て、「急兵庫へ罷下、義貞に力を合せて合戦を可致。 |
結局83騎が全滅して範家だけ助かったのは、まことに不思議な運命である。 ○新田殿兵庫へ移動のこと ○正成兵庫への下向のこと 解説
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| 」と被仰ければ、正成畏て奏しけるは、「尊氏卿已に筑紫九国の勢を率して上洛候なれば、定て勢は雲霞の如にぞ候覧。御方の疲れたる小勢を以て、敵機に乗たる大勢に懸合て、尋常の如くに合戦を致候はゞ、御方決定打負候ぬと覚へ候なれば、新田殿をも只京都へ召候て、如前山門へ臨幸成候べし。正成も河内へ罷下候て、畿内の勢を以て河尻を差塞、両方より京都を攻て兵粮をつからかし候程ならば、敵は次第に疲て落下、御方は日々に随て馳集候べし。其時に当て、新田殿は山門より推寄られ、正成は搦手にて攻上候はゞ、朝敵を一戦に滅す事有ぬと覚候。新田殿も定て此了簡候共、路次にて一軍もせざらんは、無下に無云甲斐人の思はんずる所を恥て、兵庫に支られたりと覚候。合戦は兎ても角ても、始終の勝こそ肝要にて候へ。能々遠慮を被廻て、公議を可被定にて候。」と申ければ、「誠に軍旅の事は兵に譲られよ。」と、諸卿僉議有けるに、重て坊門宰相清忠申されけるは、「正成が申所も其謂有といへども、征罰の為に差下されたる節度使、未戦を成ざる前に、帝都を捨て、一年の内に二度まで山門へ臨幸ならん事、且は帝位を軽ずるに似り、又は官軍の道を失処也。縦尊氏筑紫勢を率して上洛すとも、去年東八箇国を順へて上し時の勢にはよも過し。 |
主上(後醍醐天皇)からそのようにお命じになったので、楠木正成は畏まって申し上げた。「尊氏卿がすでに九州の大軍を率いて上洛している以上、敵軍は雲霞のように多いでしょう。疲弊した味方の小勢をもって、勢いに乗った大軍と正面から通常通り戦えば必ず敗れましょう。新田殿もいったん京都へお召し戻しになり、前回同様に比叡山へ行幸なさるべきです。私も河内へ下り畿内の兵力で兵糧輸送路を遮断し、東西から京都を攻めて食料を枯渇させれば敵は次第に疲弊して敗走し、味方は日々集結できます。その時こそ新田殿が比叡山から押し寄せ、私が背後から攻め上がれば朝敵を一戦で滅ぼせるはずです。新田殿もおそらく同じ考えでしょうが、途中で一戦も交えず退却するのは無念に思われ、兵庫で踏みとどまっているのでしょう。合戦の勝敗は序盤より終結時の勝利こそ肝要です。どうか深謀遠慮をめぐらされ朝廷全体でご決断ください」と述べた。 すると「確かに軍事は専門家に任せるべきだ」との声が上がったが、坊門宰相清忠が重ねて反論した。「正成の言い分にも一理あるとはいえ、討伐のために派遣された節度使(新田義貞)が未戦のうちに帝都を捨て、一年で二度も比叡山へ行幸されることは帝位を軽んじるように見え官軍としての威信を失います。仮に尊氏が九州勢を率いて上洛しても、去年関東八カ国を平定して攻め上がった時の兵力には及ばないでしょう。」 解説
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| 凡戦の始より敵軍敗北の時に至迄、御方小勢也といへども、毎度大敵を不責靡云事なし。是全武略の勝たる所には非ず、只聖運の天に叶へる故也。然れば只戦を帝都の外に決して、敵を斧鉞の下に滅さん事何の子細か可有なれば、只時を替へず、楠罷下るべし。」とぞ被仰出ける。正成、「此上はさのみ異儀を申に不及。」とて、五月十六日に都を立て五百余騎にて兵庫へぞ下ける。正成是を最期の合戦と思ければ、嫡子正行が今年十一歳にて供したりけるを、思ふ様有とて桜井の宿より河内へ返し遣すとて、庭訓を残しけるは、「獅子子を産で三日を経る時、数千丈の石壁より是を擲。其子、獅子の機分あれば、教へざるに中より跳返りて、死する事を得ずといへり。況や汝已に十歳に余りぬ。一言耳に留らば、我教誡に違ふ事なかれ。今度の合戦天下の安否と思ふ間、今生にて汝が顔を見ん事是を限りと思ふ也。正成已に討死すと聞なば、天下は必ず将軍の代に成ぬと心得べし。然りと云共、一旦の身命を助らん為に、多年の忠烈を失て、降人に出る事有べからず。一族若党の一人も死残てあらん程は、金剛山の辺に引篭て、敵寄来らば命を養由が矢さきに懸て、義を紀信が忠に比すべし。是を汝が第一の孝行ならんずる。」と、泣々申含めて各東西へ別にけり。 |
主上からそうおっしゃられたので、楠木正成は畏まって申し上げた。「尊氏卿がすでに九州九カ国の軍勢を率いて上洛している以上、敵の兵力は雲霞のように膨大でしょう。疲弊した味方の少数勢力をもって勢いに乗った大軍と正面から通常通り戦えば必ず敗北します。新田殿もただちに京都へお召し戻しになり前回同様比叡山へ行幸なさるべきです。私も河内へ下向して畿内の兵力で兵糧輸送路を遮断し、東西両方から京都を攻めて食料を枯渇させれば敵は次第に疲弊敗走し味方は日々集結できます。その時機を見て新田殿が比叡山から押し寄せ私が背後から攻め上がれば朝敵を一戦で殲滅できるはずです。新田殿もおそらく同じ考えでしょうが途中で一戦も交えず退却するのは無念に思い兵庫で踏みとどまっているのでしょう。合戦の勝敗は何より最終的な勝利こそ肝要です。どうか深謀遠慮をめぐらされ朝廷全体でご決断ください」と述べた。 すると「確かに軍事は専門家に任せるべきだ」との意見が出て諸卿が協議したところ、重ねて坊門宰相清忠が主張された。「正成の言い分にも道理があるとはいえ征伐のために派遣された節度使(新田義貞)が未戦のうちに帝都を捨て一年で二度も比叡山へ行幸されることは帝位を軽んじるように見え官軍としての威信を失います。たとえ尊氏が九州勢を率いて上洛しても去年関東八カ国を平定して攻め上がった時の兵力には到底及ばないでしょう。」 戦い開始から敵軍敗北に至るまで味方が少数勢力にもかかわらず毎度大敵を打ち破ってきたのは武力の勝利ではなく聖運が天にかなった故です。よってただ帝都の外で決戦し敵を斧鉞のもとに滅ぼすことになんの問題がありましょうか即刻楠木を下向させるべきだ」とお命じになった。 正成は「これ以上異議を申し上げることもありません」と言い五月十六日に都を立ち五百余騎で兵庫へ下った。正成がこれを最期の合戦と思ったため嫡子正行(当時十一歳)が供していたが思うところあって桜井の宿から河内へ帰そうとし庭訓を残した。「獅子は子を産んで三日経つとき数千丈の石壁から投げ落とす。その子に獅子の資質があれば教えなくとも空中で跳ね返り死なないというましてや汝は十歳を超えた一言でも心に留め私の戒めに背くな今回の合戦が天下安泰の分かれ目ゆえ今生で汝の顔を見るのはこれが最後と思う正成討ち死にと聞けば天下必ず足利将軍の世になると心得よただし一時の命を助かるため多年の忠節を捨て降伏するようなことがあってはならない一族や家臣一人でも生き残れば金剛山に籠り敵が攻め寄せた時は養由基の矢先のように命を賭し紀信ほどの忠義を示すことこれこそ汝にとって第一の孝行だ」と泣きながら言い含め互いに別れた。 解説
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| 昔の百里奚は、穆公晉の国を伐し時、戦の利無からん事を鑒て、其将孟明視に向て、今を限の別を悲み、今の楠判官は、敵軍都の西に近付と聞しより、国必滅ん事を愁て、其子正行を留て、無跡迄の義を進む。彼は異国の良弼、是は吾朝の忠臣、時千載を隔つといへ共、前聖後聖一揆にして、有難かりし賢佐なり。正成兵庫に著ければ、新田左中将軈て対面し給て、叡慮の趣をぞ尋問れける。正成畏て、所存の通りと勅定の様とを、委く語り申ければ、「誠に敗軍の小勢を以て、機を得たる大敵に戦はん事叶ふべきにてはなけれ共、去年関東の合戦に打負て上洛せし時、路にて猶支ざりし事、人口の嘲遁るゝ時を得ず。其こそあらめ、今度西国へ下されて、数箇所の城郭一も不落得して、結句敵の大勢なるを聞て、一支もせず京都まで遠引したらんは、余りに無云甲斐存る間、戦の勝負をば見ずして、只一戦に義を勧ばやと存る計也。」と宣ひければ、正成重て申けるは、「「衆愚之愕々たるは、不如一賢之唯々」と申候へば、道を不知人の譏をば、必しも御心に懸らるまじきにて候。只可戦所を見て進み、叶ふまじき時を知て退くをこそ良将とは申候なれ。さてこそ「暴虎憑河而死無悔之者不与」と、孔子も子路を被誡事の候。其上元弘の初には平大守の威猛を一時にくだかれ、此年の春は尊氏の逆徒を九州へ退られ候し事、聖運とは申ながら、偏に御計略の武徳に依し事にて候へば、合戦の方に於ては誰か褊し申候べき。 |
昔、百里奚は秦の穆公が晋国を攻める際、戦いの利がないことを考慮し、配下の将軍孟明視に向かい今生の別れを悲しんだ。一方、楠木判官(正成)は敵軍が都に迫ったと聞き国家必滅を憂え、息子正行を残して後顧の憂いなく忠義に邁進した。あちらは異国の良臣、こちらは我が朝の忠臣であり、時代こそ千年隔てているとはいえ先聖も後聖も心一つで実に尊い賢輔である。 楠木正成が兵庫へ到着すると新田左中将(義貞)がすぐに対面し朝廷からの意向を尋ねた。正成は謹んで自身の考えと勅命の内容を詳細に報告したところ、義貞は「確かに敗残の少数勢力で勢いに乗った大敵と戦うのは無理だが、去年関東合戦で敗れて上洛した時も途中で抵抗しなかったため世間から臆病者と嘲笑された。それどころか今回西国へ下向しながら城郭一つ落とせず敵の大軍を聞いて京都まで撤退すれば全く言い訳が立たない。だから勝敗は度外視し一戦に義を示したい」と述べた。 これに対し正成は重ねて次のように主張した。「『衆愚が慌てふためくより一人の賢者の従容さ』と言いますから、道理を知らぬ者の批判を気になさらるな。適切な時には戦い不利なら退くのが良将です。孔子も子路を戒め『素手で虎と格闘し無謀に川渡りするような蛮勇は認めない』と言われました。そもそも元弘の乱初頭に平大納言(北条高時)の威勢を打ち破り、今年春には尊氏逆徒を九州へ追い払ったのは聖運とはいえ主君(後醍醐天皇)の武略あってこそ。戦術において誰がその采配に異議を唱えられましょうか」。 解説
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| 殊更今度西国より御上洛の事、御沙汰の次第、一々に道に当てこそ存候へ。」と申ければ、義貞朝臣誠に顔色解て、通夜の物語に、数盃の興をぞ添られける。後に思合すれば、是を正成が最後なりけりと、哀なりしこと共也。 ○兵庫海陸寄手事 去程に、明れば五月二十五日辰刻に、澳の霞の晴間より、幽に見へたる舟あり。いさりに帰る海人か、淡路の迫戸を渡舟歟と、海辺の眺望を詠て、塩路遥に見渡せば、取梶面梶に掻楯掻て、艫舳に旗を立たる数万の兵船順風に帆をぞ挙たりける。烟波眇々たる海の面、十四五里が程に漕連て、舷を輾り、艫舳を双たれば、海上俄に陸地に成て、帆影に見ゆる山もなし。あな震し、呉魏天下を争し赤壁の戦、大元宋朝を滅せし黄河の兵も、是には過じと目を驚かして見る処に、又須磨の上野と鹿松岡、鵯越の方より二引両・四目結・直違・左巴・倚かゝりの輪違の旗、五六百流差連て、雲霞の如に寄懸たり。海上の兵船、陸地の大勢、思しよりも震くして、聞しにも猶過たれば、官軍御方を顧て、退屈してぞ覚へける。され共義貞朝臣も正成も、大敵を見ては欺き、小敵を見ては侮ざる、世祖光武の心根を写して得たる勇者なれば、少も機を失たる気色無して、先和田の御崎の小松原に打出て、閑に手分をぞし給ひける。 |
特に今回西国からの上洛についての御意向の詳細を、一つひとつ筋道立てて承りました。」と言うと、新田義貞公は本当に表情を和らげ、夜通しの語らいの中で数杯のお酒で楽しみを添えられた。後になって思い返すと、これが楠木正成との最後だったとは悲しいことであった。 兵庫への海陸からの攻撃について 解説
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| 一方には脇屋右衛門佐義助を大将として末々の一族二十三人、其勢五千余騎経嶋にぞ磬へたる。一方には大館左馬助氏明を大将として、相順ふ一族十六人、其勢三千余騎にて、灯炉堂の南の浜に磬らる。一方には楠判官正成態佗の勢を不交して七百余騎、湊川の西の宿に磬へて、陸地の敵に相向ふ。左中将義貞は総大将にてをはすれば、諸将の命を司て、其勢二万五千余騎、和田御崎に帷幕を引せて磬へらる。去程に、海上の船共帆を下して礒近く漕寄すれば、陸地の勢も旗を進めて相近にぞ成にける。両陣互に攻寄て、先澳の舟より大鼓を鳴し、時の声を揚れば、陸地の搦手五十万騎、請取て声をぞ合せける。其声三度畢れば、官軍又五万余騎、楯の端を鳴し箙を敲て時を作る。敵御方の時の声、南は淡路絵嶋が崎・鳴戸の澳、西は播磨路須摩の浦、東は摂津国生田森、四方三百余里に響渡て、苟に天維も断て落、坤軸も傾く許なり。 ○本間孫四郎遠矢事 新田・足利相挑で未戦処に、本間孫四郎重氏黄瓦毛なる馬の太く逞きに、紅下濃の鎧著て、只一騎和田の御崎の波打際に馬打寄せて、澳なる舟に向て、大音声を挙て申けるは、「将軍筑紫より御上洛候へば、定て鞆・尾道の傾城共、多く被召具候覧。其為に珍しき御肴一つ推て進せ候はん。 |
一方では脇屋右衛門佐義助を大将とし末々の一族二十三人、その兵五千余騎が経島に布陣した。他方には大館左馬助氏明を大将として従う一族十六人、兵力三千余騎で灯炉堂の南浜に配置された。さらに楠木判官正成は他の部隊と合流せず単独で七百余騎を率い湊川西側の宿に陣取り陸上の敵に対峙した。左中将義貞が総大将であるため諸将を指揮し兵力二万五千余騎で和田岬に幕舎を張って本営を置いた。 やがて海上の船団は帆を降ろし磯近くへ漕ぎ寄せると、陸上の軍勢も旗を進め接近した。両陣営互いに攻め寄せまず入江の舟から太鼓が鳴り鬨の声があがると、陸上からの挟撃部隊五十万騎がこれに応じて叫びを合わせた。その声三度終わると官軍も五万余騎で盾を叩き矢筒を打ち鳴らして鬨の声をあげる。敵味方の喚声は南は淡路絵島崎・鳴門の入江から、西は播磨路須磨浦、東は摂津国生田森まで四方三百余里に響き渡り天地が裂け地軸が傾くほどの勢いであった。 本間孫四郎遠矢事 解説
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| 暫く御待候へ。」と云侭に、上差の流鏑矢を抜て、羽の少し広がりけるを鞍の前輪に当てかき直し、二所藤の弓の握太なるに取副、小松陰に馬を打寄て、浪の上なる鶚の、己が影にて魚を驚し、飛さがる程をぞ待たりける。敵は是を見て、「射放たらんは希代の笑哉。」と目を放たず。御方は是を見て、「射当たらんは時に取ての名誉哉。」と、機を攻てぞ守ける。遥に高飛挙りたる鶚、浪の上に落さがりて、二尺計なる魚を、主人のひれを掴で澳の方へ飛行ける処を、本間小松原の中より馬を懸出し、追様に成て、かけ鳥にぞ射たりける。態と生ながら射て落さんと、片羽がひを射切て直中をば射ざりける間、鏑は鳴響て大内介が舟の帆柱に立、みさごは魚を掴ながら、大友が舟の屋形の上へぞ落たりける。射手誰とは知ねども、敵の舟七千余艘には、舷を蹈で立双、御方の官軍五万余騎は汀に馬を磬へて、「あ射たり/\。」と感ずる声天地を響して静り得ず。将軍是を見給て、「敵我弓の程を見せんと此鳥を射つるが、此方の舟の中へ鳥の落たるは御方の吉事と覚るなり。何様射手の名字を聞ばや。」と被仰ければ、「小早河七郎舟の舳に立出て、「類少なく、見所有ても遊されつる者哉。さても御名字をば何と申候やらん承候ばや。 |
「しばらくお待ちください。」と言うや否や、上差しの流鏑矢を取り出し、羽根が少し広がっていたので鞍の前輪に当てて整え、握りの太い二所藤の弓を手に取ると小松原の陰へ馬を進め、波間で飛ぶ鶚(みさご)が自らの影で魚を驚かせ飛び立つ瞬間を待った。敵方はこれを見て「外したら末代までの笑いものだ」と凝視し、味方も「当てればこの上ない名誉だろう」と固唾を飲んで見守る中、高く舞っていた鶚が波間に降り立ち二尺ほどの魚をつまみ上げ主人のひれ(鰭)を掴んで入江へ飛び去ろうとした。その時本間は小松原から馬で駆け出し追うようにして射掛けた矢は、わざと生きたまま落とそうとして片羽根だけ切り直撃させなかったため鏑音が響き渡り大内介の船の帆柱に刺さる一方、鶚は魚を掴んだまま大友氏の舟の屋形へ落下した。射手が誰かわからぬ中敵軍七千余艘では舷(ふなべり)を踏んで立ち上がり味方五万余騎も渚に馬を停めて「当たった!当たった!」と叫ぶ声は天地に響き止むことがなかった。将軍(尊氏)がこれを見て「敵が我々の弓術を試そうとしたのに鳥がこちら側へ落ちるとは味方の吉兆だ。是非射手の名を知りたい」と言われると小早河七郎が船首に立ち出て「稀なる妙技です!ぜひお名前をお聞きしたい」 解説
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| 」と問たりければ、本間弓杖にすがりて、「其身人数ならぬ者にて候へば、名乗申共誰か御存知候べき。但弓箭を取ては、坂東八箇国の兵の中には、名を知たる者も御座候らん。此矢にて名字をば御覧候へ。」と云て、三人張に十五束三伏、ゆら/\と引渡し、二引両の旗立たる舟を指して、遠矢にぞ射たりける。其矢六町余を越て、将軍の舟に双たる、佐々木筑前守が船を箆中過通り、屋形に乗たる兵の鎧の草摺に裏をかゝせてぞ立たりける。将軍此矢を取寄せ見給ふに、相摸国住人本間孫四郎重氏と、小刀のさきにて書たりける。諸人此矢を取伝へ見て、「穴懼、如何なる不運の者か此矢崎に廻て死なんずらん。」と、兼て胸をぞ冷しける。本間孫四郎扇を揚て、澳の方をさし招て、「合戦の最中にて候へば、矢一筋も惜く存候。其矢此方へ射返してたび候へ。」とぞ申けれ。将軍是を聞給て、「御方に誰か此矢射返しつべき者有。」と高武蔵守に尋給ければ、師直畏て、「本間が射て候はんずる遠矢を、同じ坪に射返候はんずる者、坂東勢の中には有べしとも存候はず。誠にて候やらん、佐々木筑前守顕信こそ、西国一の精兵にて候なれ。彼を被召仰付られ候へかし。」と申ければ、「げにも。」とて佐々木をぞ被呼ける。顕信召に随て、将軍の御前に参たり。 |
「いや、身分卑賤の者ゆえ名乗っても誰もご存じないでしょう。ただ弓矢に関しては坂東八カ国の兵の中で私を知る者はいるはずです。この矢で名前をご覧ください」と言うと、三人がかりで引く十五束三伏(約2.1m)の大弓を揺らりと引き絞り、二引両紋の旗を掲げた船目掛けて遠射した。その矢は六町余(約650m)を越え将軍(尊氏)の舟の隣に停泊する佐々木筑前守顕信の船へ飛び、屋形上の兵士が着る鎧の草摺り(腰防具)に突き刺さって立っていた。将軍が矢を取り寄せて見ると相模国住人本間孫四郎重氏と小刀で刻まれていた。一同はこの矢を回し見て「恐ろしい、不運にもこの矢の当たった者は死ぬだろう」と戦慄した。 その時本間が扇を掲げ入江方向へ招きながら言う。「合戦最中ゆえ一本の矢も惜しくない。どうか射り返してください」。将軍は「誰かこれを射返せる者がいるか」と高師直に尋ねたところ、師直は畏まって答えた。「本間が放つ遠矢を同じ距離で返す者など坂東勢にもおりましょうや? しかし佐々木筑前守顕信なら西国一の精兵ゆえ可能かと」。将軍「なるほど」と言い、すぐに顕信を呼び寄せた。顕信は召しに従って将軍面前へ参上した。 解説
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| 将軍本間が矢を取出して、「此矢、本の矢坪へ射返され候へ。」と被仰ければ、顕信畏て、難叶由をぞ再三辞し申ける。将軍強て被仰ける間、辞するに無処して、己が舟に立帰り、火威の鎧に鍬形打たる甲の緒を縮、銀のつく打たる弓の反高なるを、帆柱に当てきり/\と推張、舟の舳崎に立顕て、弓の弦くひしめしたる有様、誠に射つべくぞ見へたりける。かゝる処に、如何なる推参の婆伽者にてか有けん、讚岐勢の中より、「此矢一受て弓勢の程御覧ぜよ。」と、高らかに呼はる声して、鏑をぞ一つ射たりける。胸板に弦をや打たりけん、元来小兵にてや有けん、其矢二町迄も射付ず、波の上にぞ落たりける。本間が後に磬へたる軍兵五万余騎、同音に、「あ射たりや。」と欺て、しばし笑も止ざりけり。此後は中々射てもよしなしとて、佐々木は遠矢を止てけり。 ○経嶋合戦事 遠矢射損じて、敵御方に笑れ憎まれける者、恥を洗がんとや思けん。舟一艘に二百余人取乗て、経島へ差寄せ、同時に礒へ飛下て、敵の中へぞ打て懸りける。脇屋右衛門佐の兵ども、五百余騎にて中に是を取篭、弓手馬手に相付て、縄手を廻してぞ射たりける。二百余騎の者共、心は勇といへ共、射手も少く徒立なれば、馬武者に懸悩されて、遂に一人も残らず討れにければ、乗捨つる舟は、徒に岸打浪に漂へり。 |
将軍(尊氏)は本間の矢を取り出すと、「この矢を元の位置から射り返せ」と命じた。顕信はかしこまり実現困難であることを再三断ったが、将軍が強く言い渡すのでやむなく従い、自船へ戻ると火焔模様の鎧に鍬形飾りの兜を着け、銀装飾の反りが強い弓を帆柱に当ててギシギシと押し曲げ調整した後、船首に立ちはだかった。弦をきしませる姿は確かに射る気迫を見せていた。 その時、讃岐勢の中から身分知らずの小兵らしい者が現れ、「この矢を受け止めて弓の実力をお見せしよう」と高らかに叫び鏑矢を放った。しかし弦が胸板に当たったのか元々小柄だったためか、二町(約218m)も飛ばず波間に落ちてしまった。本間軍五万余騎は一斉に「命中したぞ!」と嘲笑し笑い声が止まなかった。 これを見た佐々木は「最早射ても意味なし」と言って遠矢を中止した。
○経島合戦の件 解説
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| 細河卿律師是を見給て、「つゞく者の無りつる故にこそ、若干の御方をば故なく討せつれ。いつを期すべき合戦ぞや。下場のよからんずる所へ舟を著て、馬を追下々々打て上れ。」と被下知。四国の兵共、大船七百余艘、紺部の浜より上らんとて、礒に傍てぞ上りける。兵庫嶋三箇所に磬へたる官軍五万余騎、船の敵をあげ立じと、漕行舟に随て、汀を東へ打ける間、舟路の勢は自進で懸る勢にみへ、陸の官軍は偏に逃て引様にぞ見へたりける。海と陸との両陣互に相窺て、遥の汀に著て上りければ、新田左中将と楠と、其間遠く隔て、兵庫嶋の舟著には支たる勢も無かりける。依之九国・中国の兵船六十余艘、和田の御崎に漕寄て、同時に陸へぞあがりける。 ○正成兄弟討死事 楠判官正成、舎弟帯刀正季に向て申けるは、「敵前後を遮て御方は陣を隔たり。今は遁ぬ処と覚るぞ。いざや先前なる敵を一散し追捲て後ろなる敵に闘はん。」と申ければ、正季、「可然覚候。」と同じて、七百余騎を前後に立て、大勢の中へ懸入ける。左馬頭の兵共、菊水の旗を見て、よき敵也と思ければ、取篭て是を討んとしけれ共、正成・正季、東より西へ破て通り、北より南へ追靡け、よき敵とみるをば馳双て、組で落ては頭をとり、合はぬ敵と思ふをば、一太刀打て懸ちらす。 |
細川清氏がこの様子をご覧になり、「後詰めがないからこそ、味方を無駄に討たせてしまった。いつ合戦になると決まっているのか?上陸地点の良い場所へ船を着け、馬を追い立てつつ攻め上がれ」と命令した。四国の兵たちは大船七百余隻で紺部浜から上陸しようと磯に近づいた。兵庫島三箇所に陣取る官軍(新田義貞側)五万余騎は、敵を上陸させまいと進む船に沿って海岸を東へ移動したため、海上の勢力は自然に攻めかかる勢いに見え、陸上の官軍はひたすら逃げて退却するように見えた。海陸両陣が互いに様子を窺う中、遠く離れた浜辺への上陸が成功すると、新田義貞と楠木正成の部隊は大きく隔たり、兵庫島船着場には防ぐ勢力もいなかった。 そこで九州・中国地方からの兵船六十余隻が和田岬に集結し一斉に上陸した。 解説
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| 正季と正成と、七度合七度分る。其心偏に左馬頭に近付、組で討んと思にあり。遂に左馬頭の五十万騎、楠が七百余騎に懸靡けられて、又須磨の上野の方へぞ引返しける。直義朝臣の乗られたりける馬、矢尻を蹄に蹈立て、右の足を引ける間、楠が勢に追攻られて、已に討れ給ぬと見へける処に、薬師寺十郎次郎只一騎、蓮池の堤にて返し合せて、馬より飛でをり、二尺五寸の小長刀の石づきを取延て、懸る敵の馬の平頚、むながひの引廻、切ては刎倒々々、七八騎が程切て落しける其間に、直義は馬を乗替て、遥々落延給けり。左馬頭楠に追立られて引退を、将軍見給て、「悪手を入替て、直義討すな。」と被下知ければ、吉良・石堂・高・上杉の人々六千余騎にて、湊河の東へ懸出て、跡を切らんとぞ取巻ける。正成・正季又取て返て此勢にかゝり、懸ては打違て死し、懸入ては組で落、三時が間に十六度迄闘ひけるに、其勢次第々々に滅びて、後は纔に七十三騎にぞ成にける。此勢にても打破て落ば落つべかりけるを、楠京を出しより、世の中の事今は是迄と思ふ所存有ければ、一足も引ず戦て、機已に疲れければ、湊河の北に当て、在家の一村有ける中へ走入て、腹を切ん為に、鎧を脱で我身を見るに、斬疵十一箇所までぞ負たりける。 |
正季と正成は七度突撃し七度分離したが、その意図はひたすら左馬頭(佐々木道誉)に接近して組み討ちにすることにあった。ついに左馬頭の五十万騎もの大軍が楠木七百余騎に追い散らされ、再び須磨の上野方面へ敗走した。 直義朝臣(足利直義)が乗っていた馬が矢尻を蹄に踏み込み右足をひきずったため、楠木勢に追撃されて討ち取られるかと思われたその時、薬師寺十郎次郎ただ一騎が蓮池の堤で反転し、馬から飛び降りて二尺五寸の小長刀の石突(柄尻)を伸ばしつつ襲いかかる敵馬の頸や胸元を切り回して七八騎斬り倒す間に、直義は馬を取り替えて遠くへ逃れた。 左馬頭が楠木に追撃されて退却する様子を見た将軍(尊氏)が「別動隊で救援せよ。直義討死させるな」と命じると、吉良・石堂・高・上杉ら六千余騎が湊川東側に出撃し退路を断とうと包囲した。正成・正季は再び反転してこの軍勢に突入し、ぶつかっては相討ちで死に、斬り込んでは組み落とす激闘を三刻(六時間)の間に十六度も繰り返した結果、次第に兵力が減り僅か七十三騎となった。 これほどの寡兵でも突破できたかもしれないが、楠木は京を出て以来「ここまで」という覚悟があったため一歩も引かず戦い続けていた。しかし疲労困憊したので湊川北側の民家群に駆け込み自害しようと鎧を脱ぐと、全身に十一ヶ所もの斬り傷を負っていた。 解説
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| 此外七十二人の者共も、皆五箇所・三箇所の疵を被らぬ者は無りけり。楠が一族十三人、手の者六十余人、六間の客殿に二行に双居て、念仏十返計同音に唱て、一度に腹をぞ切たりける。正成座上に居つゝ、舎弟の正季に向て、「抑最期の一念に依て、善悪の生を引といへり。九界の間に何か御辺の願なる。」と問ければ、正季から/\と打笑て、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ。」と申ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ也。いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん。」と契て、兄弟共に差違て、同枕に臥にけり。橋本八郎正員・宇佐美河内守正安・神宮寺太郎兵衛正師・和田五郎正隆を始として、宗との一族十六人、相随兵五十余人、思々に並居て、一度に腹をぞ切たりける。菊池七郎武朝は、兄の肥前守が使にて須磨口の合戦の体を見に来りけるが、正成が腹を切る所へ行合て、をめ/\しく見捨てはいかゞ帰るべきと思けるにや、同自害をして炎の中に臥にけり。抑元弘以来、忝も此君に憑れ進せて、忠を致し功にほこる者幾千万ぞや。然共此乱又出来て後、仁を知らぬ者は朝恩を捨て敵に属し、勇なき者は苟も死を免れんとて刑戮にあひ、智なき者は時の変を弁ぜずして道に違ふ事のみ有しに、智仁勇の三徳を兼て、死を善道に守るは、古へより今に至る迄、正成程の者は未無りつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失て、逆臣横に威を振ふべき、其前表のしるしなれ。 |
残りの72人の者たちも皆、五ヶ所か三ヶ所の傷を負っていない者は一人もいなかった。楠木一族13人と家臣60余人が六間(約11m)の客殿に二列に向かい合って座り、「南無阿弥陀仏」と十回ほど声を合わせて唱えた後、一斉に腹を切った。 正成は上座にいたまま弟・正季に向かって言った。「そもそも最期の一念によって来世の善悪が決まるとされる。九界(全宇宙)の中で何かお前の望みがあるか?」と尋ねると、正季はからっと笑って「七生までただ同じ人間に生まれ変わり、朝廷の敵を滅ぼしたいと思います」と答えた。すると正成は大いに嬉しそうな表情で言った。「罪深い悪念だが私も同様だ。さあ共に生まれ変わってこの本懐を遂げよう」と誓い合うや、兄弟は互いに刺し違え同じ枕元に倒れた。 橋本八郎正員・宇佐美河内守正安・神宮寺太郎兵衛正師・和田五郎正隆ら一族16人と付き従う兵50余人もそれぞれ整列し、一斉に腹を切った。菊池七郎武朝は兄の肥前守(貞宗)からの使いで須磨口の戦況を見に来ていたが、ちょうど正成が自害する場に出くわした。「見事な最期を見捨てるわけにはいかない」と思ったのか、共に自決して炎の中に倒れた。 そもそも元弘(1331年)以来、光栄にも後醍醐天皇に仕えて忠義を尽くし功績を誇った者は幾千万もいた。しかしこの乱(建武政権崩壊)が再び起きてからは、仁を知らぬ者は朝廷の恩恵を捨て敵側につき、勇なき者は卑怯にも死を逃れようとして処刑され、智なき者は時勢を見誤り道に外れた。その中で「智・仁・勇」の三徳を兼ね備え、正しい最期を全うした点では、古から今まで楠木正成ほどの者はいなかったのだ。兄弟そろって自害したことは聖主(後醍醐天皇)が再び国を失い逆臣(足利尊氏ら)が横暴に振る舞う前兆のしるしであった。 解説
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| ○新田殿湊河合戦事 楠已に討れにければ、将軍と左馬頭と一処に合て、新田左中将に打て懸り給ふ。義貞是を見て、「西の宮よりあがる敵は、旗の文を見るに末々の朝敵共なり。湊河より懸る勢は尊氏・直義と覚る。是こそ願ふ所の敵なれ。」とて西宮より取て返し、生田の森を後ろを当て四万余騎を三手に分て、敵を三方にぞ受られける。去程に両陣互に勢を振て時を作り声を合す。先一番に大館左馬助氏明・江田兵部大輔行義、三千余騎にて、仁木・細川が六万余騎に懸合て、火を散して相戦ふ。其勢互に討れて、両方へ颯と引のけば、二番に中院の中将定平・大江田・里見・鳥山五千余騎にて、高・上杉が八万騎に懸合て、半時許黒烟を立て揉合たり。其勢共戦疲れて両方へ颯と引退けば、三番に脇屋右衛門佐・宇都宮治部大輔・菊池次郎・河野・土居・得能一万騎にて、左馬頭・吉良・石堂が十万余騎に懸合せ、天を響かし地を動して責戦ふ。或は引組で落重て、頚を取もあり、取るゝもあり。或は敵と打違て、同く馬より落るもあり。両虎二龍の闘に、何れも討るゝ者多かりければ、両方東西へ引のきて、人馬の息をぞ休めける。新田左中将是を見給て、「荒手の兵已に尽て戦未決せず。是義貞が自当るべき処也。」とて、二万三千騎を左右に立て、将軍の三十万騎に懸合せ、兵刃を交へて命を鴻毛よりも軽せり。 |
楠木正成が討たれた後、将軍(足利尊氏)と左馬頭(佐々木道誉)は合流して新田義貞(左中将)に攻めかかった。これを目撃した義貞は「西の宮から迫る敵は旗印を見れば末端の朝敵どもだ。湊川から来る軍勢こそ尊氏・直義と見える。これが望んでいた敵である」と言い、西宮方面から反転して生田森を背に四万余騎を三手に分け三方で迎え撃った。 両陣営は互いに士気を高め鬨の声を上げる。先鋒として大館左馬助氏明と江田兵部大輔行義が三千余騎で仁木・細川軍六万余騎に突入し、火花を散らして激戦となった。両軍とも討死する者が相次ぎ引いたため、第二陣では中院中将定平・大江田・里見・鳥山ら五千余騎が高(師直)・上杉軍八万騎と交戦。約半時(1時間)も黒煙を上げてもみ合ったが疲労した両軍は後退した。 第三陣では脇屋右衛門佐(義助)・宇都宮治部大輔・菊池次郎(武重)・河野・土居・得能ら一万騎が左馬頭道誉・吉良・石堂軍十万余騎と激突。天地を揺るがす勢いで戦う中、組み合って落馬し首を取り合う者もいれば相討ちで倒れる者もいた。両虎二龍のごとき死闘で死者が多いため東西に分かれて人馬の休息を取った。 新田左中将(義貞)はこれを見て「精鋭部隊が尽きたのに決着つかぬ。ここは自分が出るべき時だ」と述べ、二万三千騎を左右に展開し将軍尊氏三十万騎へ突撃。兵刃交えて命を鴻毛よりも軽んじて戦った。 解説
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| 官軍の総大将と、武家の上将軍と、自戦ふ軍なれば、射落さるれども矢を抜隙なく、組で下になれ共、落合て助くる者なし。只子は親を棄て切合、朗等は主に離れて戦へば、馬の馳違ふ声、太刀の鐔音、いかなる脩羅の闘諍も、是には過じとをびたゝし。先に一軍して引しさりたる両方の勢共、今はいつをか可期なれば、四隊の陣一処に挙て、敵と敵と相交り、中黒の旗と二引両と、巴の旗と輪違と、東へ靡き西へ靡き、礒山風に翩翻して、入違ひたる許にて、何れを御方の勢とは見へ分かず。新田・足利の国の争ひ今を限りとぞ見へたりける。官軍は元来小勢なれば、命を軽じて戦といへども、遂には大敵に懸負て、残る勢纔五千余騎、生田の森の東より丹波路を差てぞ落行ける。数万の敵勝に乗て是を追事甚急なり。され共何もの習なれば、義貞朝臣、御方の軍勢を落延させん為に後陣に引さがりて、返し合せ/\戦れける程に、義貞の被乗たりける馬に矢七筋迄立ける間、小膝を折て倒けり。義貞求塚の上に下立て、乗替の馬を待給共、敢て御方是を不知けるにや、下て乗せんとする人も無りけり。敵や是を見知けん、即取篭て是を討んとしけるが、其勢に僻易して近は更不寄けれ共、十方より遠矢に射ける矢、雨雹の降よりも猶繁し。 |
官軍(新田方)の総大将と武家(足利方)の上将軍が直接戦う合戦であるため、たとえ射落されても矢を抜く隙なく、組み敷かれても助ける者はいない。子は親を見捨て切りかかり、郎党は主君から離れて戦うので、馬同士が激突する音や太刀の鍔迫り合いの響きは、どんな修羅道の争いもこれには及ばぬほど凄まじかった。 先に一旦退いた両軍の兵たちは「勝機は今しかない」と悟り、四隊の陣が一斉に入り乱れる。中黒(新田紋)・二引両(足利紋)・巴紋・輪違紋の旗印が東へ西へなびき、磯に打つ風のように翻るうちに見分けがつかなくなる。まさに「新田と足利による国の争い」の決着を思わせた。 官軍は元々小勢ゆえ命を軽んじて戦ったものの、遂には大軍に押され、残兵わずか五千騎余りが生田森東側から丹波路へ敗走した。数万の敵が追撃する中、新田義貞は味方を通すため後衛で踏みとどまり何度も反転して戦った。この時彼の乗馬に七本もの矢が刺さり膝を折って倒れる。義貞が求塚(古墳)上で落馬し替え馬待つ間、味方すら気づかぬ様子だった。 敵はこれを見逃さず包囲しようとしたが、なおも奮戦する彼に近寄れない。代わりに四方から放たれた遠矢が雨霰よりも激しく降り注いだ。 解説
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| 義貞は薄金と云甲に、鬼切・鬼丸とて多田満仲より伝たる源氏重代の太刀を二振帯れたりけるを、左右の手に抜持て、上る矢をば飛越、下る矢には差伏き、真中を指て射矢をば二振の太刀を相交て、十六迄ぞ切て被落ける。其有様、譬ば四天王、須弥の四方に居して同時に放つ矢を、捷疾鬼走廻て、未其矢の大海に不落著前に、四の矢を取て返らんも角やと覚許也。小山田太郎遥の山の上より是を見て、諸鐙を合て馳参て、己が馬に義貞を乗奉て、我身徒立に成て追懸る敵を防けるが、敵数たに被取篭て、遂討れにけり。其間に義貞朝臣御方の勢の中へ馳入て、虎口に害を遁給ふ。 ○小山田太郎高家刈青麦事 抑官軍の中に知義軽命者雖多、事の急なるに臨で、大将の替命とする兵無りけるに、遥隔たる小山田一人馬を引返して義貞を奉乗、剰我身跡に下て打死しける其志を尋れば、僅の情に憑て百年の身を捨ける也。去年義貞西国の打手を承て、播磨に下著し給時、兵多して粮乏。若軍に法を置ずば、諸卒の狼藉不可絶とて、一粒をも刈採、民屋の一をも追捕したらんずる者をば、速可被誅之由を大札に書て、道の辻々にぞ被立ける。依之農民耕作を棄ず、商人売買を快しける処に、此高家敵陣の近隣に行て青麦を打刈せて、乗鞍に負せてぞ帰ける。 |
新田義貞は薄金と呼ばれる甲冑を身につけ、鬼切と鬼丸という多田満仲以来伝わる源氏重代の太刀二振りを帯びていた。これを両手に抜き持って飛来する矢を避ける:上方からの矢は跳躍して回避し、下方からは伏せてかわし、正面の矢は双剣を交差させ十六本まで切り落とした。その様子は譬えるなら四天王が須弥山四方から同時に放つ矢を捷疾鬼(敏捷な鬼神)が駆け回り、矢が海へ届く前に全て跳ね返すほどであった。 小山田太郎が遠方の山上よりこれを見て鐙を鳴らし駆け寄り、自らの馬に義貞を乗せた。自身は徒歩となり追撃する敵を防いだが、多数に包囲され遂に討死した。その隙に義貞公は味方軍勢の中へ逃れ辛くも難を免れた。 ○小山田太郎高家の青麦刈り事 昨年義貞が西国討伐軍として播磨へ下向した際、兵士多く食糧不足となった。この時高家(小山田太郎)は敵陣近くで青麦を刈り取って鞍に背負い帰還。「もし軍規を示さねば略奪が止まぬ」と考えた義貞は「一粒たりとも勝手に収穫、民屋から一物でも奪う者は即時処刑」と掲示し辻々に立てさせていた。これにより農民は耕作を続け商人も平穏に商売できたが、高家だけが敵陣近くで青麦を刈ったのである。 解説
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| 時の侍所長浜六郎左衛門尉是を見、直に高家を召寄、無力法の下なれば是を誅せんとす。義貞是を聞給て、「推量するに此者、青麦に替身と思んや。此所敵陣なればと思誤けるか、然ずば兵粮に術尽て法の重を忘たるかの間也。何様彼役所を見よ。」とて、使者を遣して被点検ければ、馬・物具爽に有て食物の類は一粒も無りけり。使者帰て此由を申ければ、義貞大に恥たる気色にて、「高家が犯法事は、戦の為に罪を忘たるべし。何様士卒先じて疲たるは大将の恥也。勇士をば不可失、法をば勿乱事。」とて、田の主には小袖二重与て、高家には兵粮十石相副て色代してぞ帰されける。高家此情を感じて忠義弥染心ければ、此時大将の替命、忽に打死をばしたる也。自昔至今迄、流石に侍たる程の者は、利をも不思、威にも不恐、只依其大将捨身替命者也。今武将たる人、是を慎で不思之乎。 ○聖主又臨幸山門事 官軍の総大将義貞朝臣、僅に六千余騎に打成されて帰洛せられければ、京中の貴賎上下色を損じて周章騒事限なし。官軍若戦に利を失はゞ、如前東坂本へ臨幸成べきに兼てより儀定ありければ、五月十九日主上三種の神器を先に立て、竜駕をぞ廻らされける。浅猿や、元弘の初に公家天下を一統せられて、三年を過ざるに、此乱又出来て、四海の民安からず。 |
時の侍所(軍事警察機関)長官・浜六郎左衛門尉がこの青麦刈取りを見つけ、すぐに高家を呼び寄せて軍規違反として処刑しようとした。義貞はこれを聞き、「推測するに彼は青麦で身代わりになろうと考えたのか? ここが敵陣近くであることを忘れたか、あるいは兵糧不足のため法の重みを誤ったかのどちらかだ。まず現場を確認せよ」と指示した。 使者が調査に向かうと、馬や武具は整っていたが食料類は一粒もなかった。この報告を受けた義貞は恥じ入る様子で「高家の違反は戦いのために罪を忘れたのだろう。兵士が疲弊するのは大将の不徳である。勇士を失ってはならず、法だけに固執すべきではない」と述べた。田の所有者には小袖二重を与え、高家には兵糧十石を褒賞として与えて帰した。 高家はこの温情に感激し忠義心が深まり、後に大将(義貞)の身代わりとなって討死することになったのである。昔から現代まで真の武士とは利益も求めず威圧にも屈せず、ただ主君のために命を捨てる者だ。武将たる者はこのことを肝に銘じるべきである。 ○聖主再び山門へ臨幸のこと なんと哀れなことか――元弘の乱後わずか三年で朝廷による天下統一が成ったのに、再び戦乱が起こり四海の民は安住できない状態となってしまったのである。 解説
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| 然ども去ぬる正月の合戦に、朝敵忽に打負て、西海の浪に漂ひしかば、是聖徳の顕るゝ処也。今はよも上を犯さんと好み、乱を起さんとする者はあらじとこそ覚へつるに、西戎忽に襲来て、一年の内に二度まで天子都を移させ給へば、今は日月も昼夜を照す事なく、君臣も上下を知ぬ世に成て、仏法・王法共に可滅時分にや成ぬらんと、人々心を迷はせり。されども此春も山門へ臨幸成て、無程朝敵を退治せられしかば、又さる事やあらんと定めなき憑みに積習して、此度は、公家にも武家にも供奉仕る者多かりけり。摂録臣は申に及ず、公卿には吉田内大臣定房・万里小路大納言宣房・竹林院大納言公重・御子左大納言為定・四条中納言隆資・坊城中納言経顕・洞院左衛門督実世・千種宰相中将忠顕・葉室中納言長光・中御門宰相宣明、殿上人には中院左中将定平・坊門左大弁清忠・四条中将隆光・園中将基隆・甘露寺左大弁藤長・岡崎右中弁範国・一条頭大夫行房、此外衛府諸司・外記・史・官人・北面・有官・無官の滝口・諸家の侍・官僧・官女・医陰両道に至まで、我も我もと供奉仕る。武家の輩には、新田左中将義貞・子息越後守義顕・脇屋右衛門佐義助・子息式部大輔義治・堀口美濃守貞満・大館左馬助義氏・江田兵部少輔行義・額田掃部助正忠・大江田式部大輔氏経・岩松兵衛蔵人義正・鳥山左京助氏頼・羽川越中守時房・桃井兵庫助顕氏・里見大膳亮義益・田中修理亮氏政・千葉介貞胤・宇都宮治部大輔公綱・同美濃将監泰藤・狩野将監貞綱・熱田大宮司昌能・河野備後守通治・得能備中守通益・武田甲斐守盛正・小笠原蔵人政道・仁科信濃守氏重・春日部治部少輔時賢・名和伯耆守長年・同太郎判官長生・今木新蔵人範家・頓宮六郎忠氏、是等を宗との侍とし、其勢都合六万余騎、鳳輦の前後に打囲て、今路越にぞ落行給ける。 |
しかし去年の正月の合戦では朝敵(足利軍)が敗れて西海に逃れたので、これは聖徳が現れた結果だと思われた。今後も天皇を犯そうとする者はもういないだろうと感じていたのに、関東から突然攻めて来て一年で二度も都落ちさせる事態となり、「今や太陽月さえ昼夜を照らさず君臣の秩序も崩れ、仏法も王法も滅ぶ時代か」と人々は混乱した。 だがこの春にも比叡山へ行幸があり短期間で朝敵を退治されたので、今回こそ大丈夫だと皆が期待し、公家・武家ともに供奉者が多かった。摂政や大臣級から始まり、吉田内大臣定房・万里小路大納言宣房・竹林院大納言公重・御子左大納言為定・四条中納言隆資・坊城中納言経顕・洞院左衛門督実世・千種宰相中将忠顕・葉室中納言長光・中御門宰相宣明ら公卿、殿上人では中院左中将定平・坊门左大弁清忠・四条中将隆光・園中将基隆・甘露寺左大弁藤長・岡崎右中弁範国・一条頭大夫行房が参加。さらに衛士・役所職員・外記官・史生・北面武士・滝口警護(有官無官問わず)・各武家の侍・僧侶・女官・医師や陰陽師に至るまで我先にと供奉した。 武家側では新田左中将義貞とその子越後守義顕、脇屋右衛門佐義助とその子式部大輔義治を筆頭に堀口美濃守貞満・大館左馬助義氏・江田兵部少輔行義・額田掃部助正忠・大江田式部大輔氏経・岩松兵衛蔵人義正・鳥山左京助氏頼・羽川越中守時房・桃井兵庫助顕氏・里見大膳亮義益・田中修理亮氏政、さらに千葉介貞胤・宇都宮治部大輔公綱と同美濃将監泰藤・狩野将監貞綱・熱田大宮司昌能・河野備後守通治・得能備中守通益・武田甲斐守盛正・小笠原蔵人政道・仁科信濃守氏重・春日部治部少輔時賢・名和伯耆守長年と同太郎判官長生・今木新蔵人範家・頓宮六郎忠氏らが主力となり、総勢六万余騎で鳳輦を前後から囲み京都から坂本へ向かった。 解説
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| ○持明院本院潛幸東寺事 持明院法皇・本院・新院・春宮に至まで、悉皆山門へ御幸成進らすべき由、太田判官全職、路次の奉行として、供奉仕たるに、本院は兼てより尊氏に院宣を被成下たりしかば、二度御治世の事やあらんずらんと思召て、北白川の辺より、俄に御不預の事有とて、御輿を法勝寺の塔前に舁居させて、態時をぞ移されける。去程に敵已に京中に入乱れぬと見て、兵火四方に盛也。全職是を見て、「さのみはいつまでか、暗然として可待申なれば、供奉の人々に急ぎ山門へ成進らすべし。」と申置て、新院・法皇・春宮許を先東坂本へぞ御幸成進せける。本院は全職が立帰る事もやあらんずらんと恐しく思召されければ、日野中納言資名、殿上人には三条中将実継計を供奉人として、急東寺へぞ成たりける。将軍不斜悦で、東寺の本堂を皇居と定めらる。久我内大臣を始として、落留給へる卿相雲客参られしかば、則皇統を立らる。是ぞはや尊氏の運を開かるべき瑞なりける。 ○日本朝敵事 夫日本開闢の始を尋れば、二儀已分れ三才漸顕れて、人寿二万歳の時、伊弉諾・伊弉冊の二の尊、遂妻神夫神と成て天の下にあまくだり、一女三男を生給ふ。一女と申は天照太神、三男と申は月神・蛭子・素盞烏の尊なり。 |
持明院法皇・本院(光厳上皇)・新院(光明上皇)・春宮(直仁親王)まですべてが比叡山へ避難する予定だったところ、太田判官全職は道中の警護責任者として供奉した。しかし本院は以前に尊氏に命令書を下していたため、「二度目の治世か」と思い込み、北白川付近で突然体調不良を装って輿を法勝寺塔前に置き、わざと時間稼ぎをされた。その間に敵軍が京都市中へ乱入し戦火が四方に広がるのを見て、全職は「これ以上待っていられない」と判断し供奉者たちに新院・法皇・春宮を先に坂本へ避難させた。本院は全職が戻らないことを恐れ、日野中納言資名と三条中将実継だけを供に東寺へ急行した。将軍(足利尊氏)はこれを喜び、東寺の本堂を行宮と定めた。久我内大臣ら落ち延びた公卿が参上すると皇統(北朝)が立てられた。これこそ尊氏の運勢が開ける吉兆だったのだ。 さて日本の起源を尋ねれば、天地が分かれ自然界が現れ人類が二万歳まで生きた時代に伊弉諾・伊弉冉の二神が夫婦となり天下りし一女三男をもうけられた。一女とは天照大神であり、三男とは月読命・蛭子尊(恵比寿)・素盞嗚尊である。 解説
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| 第一の御子天照太神此国の主と成て、伊勢国御裳濯川の辺、神瀬下津岩根に跡を垂れ給ふ。或時は垂迹の仏と成て、番々出世の化儀を調へ、或時は本地の神に帰て、塵々刹土の利生をなし給ふ。是則迹高本下の成道也。爰に第六天の魔王集て、此国の仏法弘らば魔障弱くして其力を失べしとて、彼応化利生を妨んとす。時に天照太神、彼が障碍を休めん為に、我三宝に近付じと云誓をぞなし給ひける。依之第六天の魔王忿りを休めて、五体より血を出し、「尽未来際に至る迄、天照太神の苗裔たらん人を以て此国の主とすべし。若王命に違ふ者有て国を乱り民を苦めば、十万八千の眷属朝にかけり夕べに来て其罰を行ひ其命を奪ふべし」と、堅誓約を書て天照太神に奉る。今の神璽の異説是也。誠に内外の宮の在様自余の社壇には事替て、錦帳に本地を顕はせる鏡をも不懸、念仏読経の声を留て僧尼の参詣を許されず。是然当社の神約を不違して、化属結縁の方便を下に秘せる者なるべし。されば天照太神より以来、継体の君九十六代、其間に朝敵と成て滅し者を数ふれば、神日本磐余予彦天皇御宇天平四年に紀伊国名草郡に二丈余の蜘蛛あり。足手長して力人に超たり。綱を張る事数里に及で、往来の人を残害す。然共官軍勅命を蒙て、鉄の網を張り、鉄湯を沸して四方より責しかば、此蜘蛛遂に殺されて、其身分々に爛れにき。 |
第一の子である天照大神はこの国の主となり、伊勢国御裳濯川(みもすそがわ)のほとり神瀬下津岩根に鎮座された。ある時は仏として姿を現し(垂迹)、代々の人々を教化する方便を示され、またある時は本来の神の姿に戻って(本地)、あらゆる世界で人々を救済なさった。これこそ「仮の姿が尊く真実の本体が下位である」という仏教の道理による悟りの現れである。 そこへ第六天の魔王が集まり、「この国で仏法が広まれば魔の妨害力が弱まるだろう」と考え、大神の救済活動を阻もうとした。その時天照大神は魔王の障害を取り除くため「私は三宝(仏・法・僧)に近づかない」と誓われた。これにより魔王は怒りを収め、自らの体から血を流し、「未来永劫、天照大神の子孫こそこの国の主とする。もし王命に背いて国を乱す者がいれば、十万八千の眷属が朝には駆けつけ夕べまでに罰を与え命を奪う」と固く誓約し文書にして献上した(これが三種の神器に関する異説である)。 実際に伊勢神宮では他の神社とは違い、内宮・外宮ともに錦の帳で仏像を示す鏡も掛けず、念仏や読経の声を止め僧尼の参拝を許さない。これは神との約束を破らず密かに人々と結縷する方便(救済手段)を隠しているためである。 こうして天照大神以来96代続いた皇統の中で朝敵となって滅んだ者を数えると、第12代景行天皇の御世・天平4年に紀伊国名草郡に2丈(約6m)超の巨大蜘蛛が現れた。手足は長く人力を超え糸を張ること数里にも及び通行人を害した。しかし官軍が勅命を受け鉄網を張り鉄湯を沸かして四方から攻めたため、この蜘蛛は殺され体はバラバラに腐敗した。 解説
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| 又天智天皇の御宇に藤原千方と云者有て、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼と云四の鬼を使へり。金鬼は其身堅固にして、矢を射るに立ず。風鬼は大風を吹せて、敵城を吹破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地に溺す。隠形鬼は其形を隠して、俄敵を拉。如斯の神変、凡夫の智力を以て可防非ざれば、伊賀・伊勢の両国、是が為に妨られて王化に順ふ者なし。爰に紀朝雄と云ける者、宣旨を蒙て彼国に下、一首の歌を読て、鬼の中へぞ送ける。草も木も我大君の国なればいづくか鬼の棲なるべき四の鬼此歌を見て、「さては我等悪逆無道の臣に随て、善政有徳の君を背奉りける事、天罰遁るゝ処無りけり。」とて忽に四方に去て失にければ、千方勢ひを失て軈て朝雄に討れにけり。是のみならず、朱雀院の御宇承平五年に、将門と云ける者東国に下て、相馬郡に都を立、百官を召仕て、自平親王と号す。官軍挙て是を討んとせしかども、其身皆鉄身にて、矢石にも傷られず剣戟にも痛ざりしかば、諸卿僉議有て、俄に鉄の四天を鋳奉て、比叡山に安置し、四天合行の法を行せらる、故天より白羽の矢一筋降て、将門が眉間に立ければ、遂に俵藤太秀郷に首を捕られてけり。其首獄門に懸て曝すに、三月迄色不変、眼をも不塞、常に牙を嚼て、「斬られし我五体何れの処にか有らん。 |
また天智天皇の御代には藤原千方という者がいて、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼という四匹の鬼を使い従えていた。金鬼はその体が堅固で矢を射ても倒れず、風鬼は大風を吹かせて敵の城を破壊し、水鬼は洪水を流して陸地にいる敵さえも溺死させた。隠形鬼は姿を消していきなり敵を拉致した。このような不思議な力は普通の人知では防げないため、伊賀・伊勢の両国は彼のために混乱し天皇の治めに従う者がいなかった。 ここで紀朝雄という人物が勅命を受けてその地へ赴き、一首の歌を作って鬼たちの中へ送り込んだ: 四匹の鬼はこの歌を見て、「私たちは無道の臣下に従い善政をしいる君主に背いたことが天罰を免れない罪だった」と言ってたちまち四方へ消え失せた。千方は力を失いすぐに朝雄に討たれた。 これだけでなく、朱雀天皇の御代・承平5年(935年)には将門という者が東国へ下り相馬郡に都を置き百官を使役し自ら「平親王」と名乗った。官軍はこぞってこれを討とうとしたが、彼の身体は鉄のように固く矢や石でも傷つかず剣戟も効かなかったため公卿たちは協議して急いで鉄製の四天王像を鋳造し比叡山に安置したうえ「四天合行」の法(密教儀式)を行ったところ、すると空から白羽の矢が一本降り将門の眉間に突き刺さった。そのため彼は俵藤太秀郷に首を取られてしまった。 その首は獄門にかけ晒されたが三カ月経っても色は変わらず目も閉じず、常に牙を噛みしめて「斬られた私の五体はいったいどこにあるのか」と言っていたという。 解説
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| 此に来れ。頭続で今一軍せん。」と夜な/\呼りける間、聞人是を不恐云事なし。時に道過る人是を聞て、将門は米かみよりぞ斬られける俵藤太が謀にてと読たりければ、此頭から/\と笑ひけるが、眼忽に塞て、其尸遂に枯にけり。此外大石山丸・大山王子・大友真鳥・守屋大臣・蘇我入鹿・豊浦大臣・山田石川・左大臣長屋・右大臣豊成・伊予親王・氷上川継・橘逸勢・文屋宮田・江美押勝・井上皇后・早良太子・大友皇子・藤原仲成・天慶純友・康和義親・宇治悪左府・六条判官為義・悪右衛門督信頼・安陪貞任・宗任・清原武衡・平相国清盛・木曾冠者義仲・阿佐原八郎為頼・時政九代の後胤高時法師に至迄、朝敵と成て叡慮を悩し仁義を乱る者、皆身を刑戮の下に苦しめ、尸を獄門の前に曝さずと云事なし。去ば尊氏卿も、此春東八箇国の大勢を率して上洛し玉ひしかども、混朝敵たりしかば数箇度の合戦に打負て、九州を差て落たりしが、此度は其先非を悔て、一方の皇統を立申て、征罰を院宣に任られしかば、威勢の上に一の理出来て、大功乍に成んずらんと、人皆色代申れけり。去程に東寺已に院の御所と成しかば、四壁を城郭に構へて、上皇を警固し奉る由にて、将軍も左馬頭も、同く是に篭られける。是は敵山門より遥々と寄来らば、小路々々を遮て、縦横に合戦をせんずる便よかるべしとて、此寺を城郭にはせられけるなり。 |
「私の体を持ってこい。首だけでもう一戦交えよう」と、毎晩のように叫んだため、これを聞く者は誰も恐れない者はいなかった。そこを通りかかった者が、「将門は米(東国)で斬られたのだぞ、俵藤太の策略によるものだな」と言ったところ、この首がからっと笑い声をあげた瞬間に目をつぶり、死体はついに腐敗した。 これ以外にも大石山丸・大山王子・大友真鳥・守屋大臣(物部守屋)・蘇我入鹿・豊浦大臣(蘇我蝦夷)・山田石川・左大臣長屋王・右大臣藤原豊成・伊予親王・氷上川継・橘逸勢・文室宮田麻呂・恵美押勝(藤原仲麻呂)・井上皇后・早良太子・大友皇子・藤原仲成・天慶の藤原純友・康和の源義親・宇治悪左府(藤原頼長)・六条判官源為義・悪右衛門督信頼(藤原信頼)・安倍貞任・宗任・清原武衡・平相国清盛・木曾冠者義仲・阿佐原八郎為頼・北条時政から九代目の子孫である高時法師に至るまで、朝廷の敵となって天皇を悩ませ秩序を乱した者は皆、刑罰で苦しめられ死体は獄門にかけ晒されるのが常であった。 ところが尊氏卿(足利尊氏)については事情が異なる。この春には東国八カ国の大軍を率いて上洛したものの朝廷の敵だったため何度も戦いに敗れ九州へ落ち延びた。しかし今回は以前の過ちを悔い、一方の皇統(光厳天皇)を立て直して討伐権限を得る院宣を受けたことで、武力に加えて大義名分が生じ、大きな手柄を立てようと皆も期待している。 そのため東寺は既に上皇御所となっており、周囲の壁を城郭のように構築し警護にあたっている。尊氏自身や配下の左馬頭(高師直)らもここに籠っていたのである。これは敵が比叡山から遠路攻めて来る場合に備え、小路ごとに防衛線を張り縦横無尽に戦うのに便利だとして東寺を要塞化したものだった。 解説
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| ○正成首送故郷事 湊川にて討れし楠判官が首をば、六条川原に懸られたり。去ぬる春もあらぬ首をかけたりしかば、是も又さこそ有らめと云者多かりけり。疑は人によりてぞ残りけるまさしげなるは楠が頚と、狂歌を札に書てぞ立たりける。其後尊氏卿楠が首を召れて、「朝家私日久相馴し旧好の程も不便也。迹の妻子共、今一度空しき貌をもさこそ見度思らめ。」とて、遺跡へ被送ける情の程こそ有難けれ。楠が後室・子息正行是を見て、判官今度兵庫へ立し時、様々申置し事共多かる上、今度の合戦に必ず討死すべしとて、正行を留置しかば、出しを限の別也とぞ兼てより思ひ儲たる事なれども、貌をみれば其ながら目塞り色変じて、替はてたる首をみるに、悲の心胸に満て、歎の泪せき敢ず。今年十一歳に成ける帯刀、父が頭の生たりし時にも似ぬ有様、母が歎のせん方もなげなる様を見て、流るゝ泪を袖に押へて持仏堂の方へ行けるを、母怪しく思て則妻戸の方より行て見れば、父が兵庫へ向ふとき形見に留めし菊水の刀を、右の手に抜持て、袴の腰を押さげて、自害をせんとぞし居たりける。母急走寄て、正行が小腕に取付て、泪を流して申けるは、「「栴檀は二葉より芳」といへり。汝をさなく共父が子ならば、是程の理に迷ふべしや。 |
湊川で討たれた楠判官(正成)の首は六条河原にかけられた。去春にも別の者の首があったため、これもまた同じだろうと言う者が多かった。「疑いは人によって残されるものだな」と狂歌を書いた札が立てられている者さえいた。 その後尊氏卿(足利尊氏)は楠の首を取り寄せてこう言った。「朝廷とは長年親交があった旧友の情もある。遺族たちも今一度その姿を見たいだろうから」と言って故郷へ送り返したのは、実に心温まる配慮だった。 楠の未亡人と息子・正行がそれを見ると、判官(正成)が出陣前に「今回必ず戦死する覚悟だ」として幼い正行を残していったため、これが今生の別れだと分かっていた。だが現実に色変わり目も閉じた首を見ると悲しみで胸がいっぱいになり涙が止まらない。 今年十一歳になった帯刀(正行)は母の嘆きようを見て黙って袖で涙を拭い、仏堂へ向かった。怪しいと思った母が後をつけると、父が出陣時に形見として残した菊水紋の刀を右手に抜き放ち袴の腰を押さえ自害しようとしていた。 母親は駆け寄り正行の腕を取りながら涙を流して諭した。「『栴檀(せんだん)は双葉から香る』というではないか。お前が幼くとも父の子なら、どうしてこのような道理に迷うのか」 解説
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| 小心にも能々事の様を思ふてみよかし。故判官が兵庫へ向ひし時、汝を桜井の宿より返し留めし事は、全く迹を訪らはれん為に非ず、腹を切れとて残し置しにも非ず。我縦ひ運命尽て戦場に命を失ふ共、君何くにも御座有と承らば、死残りたらん一族若党共をも扶持し置き、今一度軍を起し、御敵を滅して、君を御代にも立進らせよと云置し処なり。其遺言具に聞て、我にも語し者が、何の程に忘れけるぞや。角ては父が名を失ひはて、君の御用に合進らせん事有べし共不覚。」と泣々勇め留て、抜たる刀を奪とれば、正行腹を不切得、礼盤の上より泣倒れ、母と共にぞ歎ける。其後よりは、正行、父の遺言、母の教訓心に染肝に銘じつゝ、或時は童部共を打倒し、頭を捕真似をして、「是は朝敵の頚を捕也。」と云、或時は竹馬に鞭を当て、「是は将軍を追懸奉る。」なんど云て、はかなき手ずさみに至るまでも、只此事をのみ業とせる、心の中こそ恐しけれ。 |
よく考えてみるといい。亡くなった判官が兵庫へ向かった時、お前を桜井の宿から帰したのは決して跡継ぎに困らないためではなく、切腹しろと言って残したわけでもない。「私が運尽きて戦死しても、主君(後醍醐天皇)はどこかにおられるだろう。生き残った一族や家来たちを支え、いずれ再挙兵して敵を滅ぼし、主君を帝位に戻せ」と言い置いたためだ。 その遺言を詳しく聞きながら育てられたお前が、どうして忘れてしまったのか? もし自害すれば父の名を汚すだけで、朝廷への忠節も果たせなくなるだろう。」と泣きながら諭し、抜いた刀を取り上げると、正行は切腹できずに礼拝台へ泣き崩れ母と嘆き合った。 その後から正行は父の遺言と母の教えを心に刻みつけ、時には子供たちを倒して頭を押さえて「これが朝敵の首だ」と言い、また竹馬に鞭打って「将軍追討じゃ」などと叫びながら、何気ない遊びに至るまで常にこの一念で過ごす様は恐ろしいほどだった。 解説
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| input text 太平記\017_太平記_巻17.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第十七 ○山攻事付日吉神託事 主上二度山門へ臨幸なりしかば、三千の衆徒去ぬる春の勝軍に習て、弐ろなく君を擁護し奉り、北国・奥州の勢を待由聞へければ、将軍・左馬頭・高・上杉の人々、東寺に会合して合戦の評定あり。事延引して義貞に勢付なば叶まじ。勢未だ微なるに乗て山門を可攻とて、六月二日四方の手分を定て、追手・搦手五十万騎の勢を、山門へ差向らる。追手には、吉良・石堂・渋河・畠山を大将として、其勢五万余騎、大津・松本の東西の宿・園城寺の焼跡・志賀・唐崎・如意が岳まで充満したり。搦手には、仁木・細河・今川・荒河を大将として、四国・中国の勢八万余騎、今道越に三石の麓を経て、無動寺へ寄んと志す。西坂本へは、高豊前守師重・高土佐守・高伊予守・南部遠江守・岩松・桃井等を大将として三十万騎、八瀬・薮里・しづ原・松崎・赤山・下松・修学院・北白川まで支て、音無の滝・不動堂・白鳥よりぞ寄たりける。山門には、敵是まで可寄とは思も寄ざりけるにや、道々をも警固せず、関・逆木の構もせざりければ、さしも嶮しき道なれ共、岩石に馴たる馬共なれば、上らぬ所も無りけり。其時しも新田左兵衛督を始として、千葉・宇都宮・土肥・得能に至るまで東坂本に集居て、山上には行歩も叶はぬ宿老、稽古の窓を閉たる修学者の外は、兵一人も無りけり。 |
後醍醐天皇が再び比叡山へ行幸されたため、3千人の僧兵たちは前年の戦勝に倣い心を一つにして天皇をお守りし、北国・奥州の援軍を待つ準備を整えた。これを知った将軍(足利尊氏)や左馬頭(直義)、高(師直)・上杉(重能)らは東寺に集まり作戦会議を行い、「決断が遅れて新田義貞に勢いをつけられたら不利だ。今こそ兵力が手薄な山門を攻めよ」と決定し、6月2日に四方から部隊を分けて50万騎の軍勢を比叡山へ差し向けた。 正面軍(追手)は吉良・石堂・渋河・畠山を大将として5万余騎が大津・松本の東西宿泊地、園城寺跡、志賀、唐崎、如意ヶ岳まで埋め尽くした。背後部隊(搦手)には仁木・細川・今川・荒河らが率いる四国・中国地方からの8万余騎が今道越えで三石山麓を経由し無動寺目指して進軍。西坂本方面では高師重(豊前守)・同土佐守・同伊予守、南部遠江守、岩松、桃井ら指揮下30万騎が八瀬・薮里・静原・松崎・赤山・下松・修学院・北白川まで展開し、音無滝・不動堂・白鳥方面から攻め寄せた。 これに対し比叡山では敵の侵攻を予想しておらず、街道の警備も関所や防塁も設置していなかった。そのため険しい山路であっても岩場に慣れた軍馬はどこでも登りきり、新田義貞(左兵衛督)や千葉・宇都宮・土肥・得能らが集結する東坂本を除けば、山上には老人と勉学中の僧侶以外に守備兵は一人もいなかった。 解説
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| 此時若西坂より寄る大勢共、暫も滞りなく、四明の巓まで打挙りたらましかば、山上も坂本も、防に便り無して、一時に落べかりしを、猶も山王大師の御加護や有けん、俄に朝霧深立隠して、咫尺の内をも見ぬ程なりければ、前陣に作る御方の時の音を、敵の防ぐ矢叫の声ぞと聞誤て、後陣の大勢つゞかねば、そゞろに時をぞ移しける。懸る処に、大宮へをり下て三塔会合しける大衆上下帰山して、将門の童堂の辺に相支て、こゝを前途と防ける間、面に進みける寄手三百人被討、前陣敢て懸らねば、後陣は弥不得進、只水飲の木陰に陣をとり、堀切を堺て、掻楯を掻、互に遠矢を射違て、其日は徒に暮にけり。西坂に軍始りぬと覚へて、時声山に響て聞へければ、志賀・唐崎の寄手十万余騎、東坂本の西穴生の前へ押寄て、時声をぞ揚たりける。爰にて敵の陣を見渡せば、無動寺の麓より、湖の波打際まで、から堀を二丈余に堀通して処々に橋を懸け、岸の上に屏を塗、関・逆木を密しくして、渡櫓・高櫓三百余箇所掻双べたり。屏の上より見越せば、是こそ大将の陣と覚へて中黒の旗三十余流山下風に吹れて、竜蛇の如くに翻りたる其下に、陣屋を双て油幕を引、爽に鎧たる兵二三万騎、馬を後に引立させて、一勢々々並居たり。無動寺の麓、白鳥の方を向上たりければ、千葉・宇都宮・土肥・得能・四国・中国の兵こゝを堅めたりと覚へて、左巴・右巴・月に星・片引両・傍折敷に三文字書たる旗共六十余流木々の梢に翻て、片々たる其陰に、甲の緒を縮たる兵三万余騎、敵近付かば横合にかさより落さんと、轡を双て磬たり。 |
この時もし西坂から攻めてきた大軍が少しも遅れず四明ヶ岳の頂上まで押し寄せていたなら、山上も坂本(比叡山麓)も防衛手段なく一気に陥落していただろう。しかし山王権現(比叡山守護神)の加護か突然深い朝霧が立ち込め咫尺先すら見えないほどになったため、前線部隊は味方の時を知らせる音を敵の防戦の叫び声と聞き間違え、後続部隊も進軍できず無為に時間だけが過ぎた。 そこへ大宮(日吉大社)から戻った三塔(比叡山の東塔・西塔・横川)の僧兵たち全員が将門堂付近で防戦線を張り、ここを死守と定めて抵抗したため正面から進んだ攻撃側300人は討たれ前衛部隊は突入できず後続も停止。双方は水呑み場の木陰に陣取り堀割を境にして盾を立て互いに遠矢を射交わすだけでその日は終わった。 西坂で戦端が開かれたと知らせる鬨の声が山々に響くと、志賀・唐崎方面から10万余騎の攻撃部隊が東坂本の西穴生へ押し寄せ自軍も鬨の声をあげた。ここから敵陣を見渡すと無動寺の麓から琵琶湖岸まで空堀(幅約6m)を通して所々に橋を架け、土塁には塗り壁を施し関門や逆茂木で厳重防御。さらに渡櫓・高櫓300か所以上が並び建てられていた。 壁の上から見ると大将本陣と分かる中黒紋旗30余流が山風に龍蛇のように翻る下には幕舎を組み油布天幕も張り、鮮やかな鎧装備の兵2-3万騎が馬を後ろへ控え各軍勢ずつ整列。無動寺麓から白鳥方面にかけては千葉・宇都宮・土肥・得能ら四国中国勢が守ると見え左巴・右巴紋や月星紋、片引両・三文字旗など60余流が木々の梢に翻る陰には兜紐を締めた兵3万余騎が敵接近なら横合から襲い落とそうと手綱を握り息を潜めていた。 解説
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