| input text 太平記\001_太平記_巻1.txt | 現代日本語 translated text | ||||||||||||||||||
| 太平記 明治四十二年八月一日印刷 明治四十二年八月五日発行 編輯兼発行者 国民文庫刊行会 右代表者 鶴田久作 印刷者 長谷川辰二郎 印刷所 神田印刷所 太平記巻第一 序 蒙窃採古今之変化、察安危之来由、覆而無外天之徳也。明君体之保国家。載而無棄地之道也。良臣則之守社稷。若夫其徳欠則雖有位不持。所謂夏桀走南巣、殷紂敗牧野。其道違則雖有威不久。曾聴趙高刑咸陽、禄山亡鳳翔。是以前聖慎而得垂法於将来也。後昆顧而不取誡於既往乎。 ○後醍醐天皇御治世事付武家繁昌事 爰に本朝人皇の始、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇の御宇に当て、武臣相摸守平高時と云者あり。此時上乖君之徳、下失臣之礼。従之四海大に乱て、一日も未安。狼煙翳天、鯢波動地、至今四十余年。一人而不得富春秋。万民無所措手足。倩尋其濫觴者、匪啻禍一朝一夕之故。元暦年中に鎌倉の右大将頼朝卿、追討平家而有其功之時、後白河院叡感之余に、被補六十六箇国之総追補使。従是武家始て諸国に守護を立、庄園に地頭を置。彼頼朝の長男左衛門督頼家、次男右大臣実朝公、相続で皆征夷将軍の武将に備る。是を号三代将軍。然を頼家卿は為実朝討れ、実朝は頼家の子為悪禅師公暁討れて、父子三代僅に四十二年にして而尽ぬ。 |
『太平記』巻第一 ○後醍醐天皇の治世のことおよび武家の繁栄について 解説本テキストは『太平記』巻頭部分であり、「序」と「後醍醐天皇」以降の本文から構成されています。翻訳では以下の点を重視しました: 本節では王朝の衰退原理や武家台頭の起源が示され、歴史書としての教訓性と南北朝動乱へ至る伏線が特徴です。 | ||||||||||||||||||
| 其後頼朝卿の舅、遠江守平時政子息、前陸奥守義時、自然に執天下権柄勢漸欲覆四海。此時の大上天皇は、後鳥羽院也。武威振下、朝憲廃上事歎思召て、義時を亡さんとし給しに、承久の乱出来て、天下暫も静ならず。遂に旌旗日に掠て、宇治・勢多にして相戦ふ。其戦未終一日、官軍忽に敗北せしかば、後鳥羽院は隠岐国へ遷されさせ給て、義時弥八荒を掌に握る。其より後武蔵守泰時・修理亮時氏・武蔵守経時・相摸守時頼・左馬権頭時宗・相摸守貞時、相続で七代、政武家より出で、徳窮民を撫するに足り、威万人の上に被といへ共、位四品の際を不越、謙に居て仁恩を施し、己を責て礼義を正す。是を以て高しと云ども危からず、盈りと云ども溢れず。承久より以来、儲王摂家の間に、理世安民の器に相当り給へる貴族を一人、鎌倉へ申下奉て、征夷将軍と仰で、武臣皆拝趨の礼を事とす。同三年に、始て洛中に両人の一族を居て、両六波羅と号して、西国の沙汰を執行せ、京都の警衛に備らる。又永仁元年より、鎮西に一人の探題を下し、九州の成敗を司しめ、異賊襲来の守を堅す。されば一天下、普彼下知に不随と云処もなく、四海の外も、均く其権勢に服せずと云者は無りけり。朝陽不犯ども、残星光を奪る、習なれば、必しも、武家より公家を蔑し奉としもは無れども、所には地頭強して、領家は弱、国には守護重して、国司は軽。 |
その後、源頼朝卿の妻の父である遠江守・北条時政の子で前陸奥守・義時(北条義時)が自然と天下の実権を握り、その勢力は次第に全国に広まろうとした。この時の大上天皇(上皇)は後鳥羽院であった。(後鳥羽院は)武家の威勢が下々で振るわれ朝廷の法度が廃れることを嘆きお思いになり、義時を滅ぼそうとなさったところ、承久の乱が起こって天下はしばらくも静まらず。ついに軍旗が日に日に翻り、宇治と勢多(現・滋賀県)で戦いが行われた。その戦いは一日中続かないうちに朝廷軍は突如として敗れ、後鳥羽院は隠岐国へ流されなさったため、義時はいよいよ天下を掌中に収めた。 それ以降、武蔵守・泰時(北条泰時)、修理亮・時氏(北条時氏)、武蔵守・経時(北条経時)、相模守・時頼(北条時頼)、左馬権頭・時宗(北条時宗)、相模守・貞時(北条貞時)が継いで七代にわたり、政治は武家より出て、その徳は民を慈しむのに十分であり、威勢は万人の上にかかると言えども、官位は四位まで越えず謙虚に振る舞って仁恩を施し、自らを律して礼儀を正した。このため「高い」と言っても危うくなく、「満ちている」と言っても溢れることはなかった。 承久の乱以降、(幕府は)皇族や摂関家の中から、世を治め民を安んずる器量にかなった貴族をお一人鎌倉へお招きし征夷大将軍として仰ぎ、武臣たちは皆うやうやしく礼儀をもって仕えた。承久三年(1221年)には初めて京都中に一族の二人を置いて「両六波羅」と称し西国の政務を取り扱わせるとともに京都市中の警備にあたらせた。また永仁元年(1293年)からは九州にも一人の探題を下向させて、九州の裁判・行政を司らせ異国賊襲来への守りを固めさせた。 このため全天下で彼らの命令に従わない所と言うものはなく、四海の外もその権勢に服さぬ者はいなかった。(朝廷と幕府の関係は)朝陽が犯されずとも残る星々(公家勢力)が光を奪われる習いであったので、必ずしも武家が意図的に公家を軽んじたわけではないものの、(現実には)荘園では地頭の力が強く領主は弱体化し、国衙においては守護(幕府役職)の権限が重くなり国司(朝廷役人)の発言力が軽くなる状態となった。 解説本節は前回に続き鎌倉幕府確立期を描きます。翻訳では以下の点に留意しました:
本段落は北条氏による支配機構確立と「公武二元支配」の矛盾点を示し、後の南北朝分裂へ向かう伏線となっています。特に地頭・守護を通じた地方掌握描写は中世社会構造理解に不可欠です。 | ||||||||||||||||||
| 此故に朝廷は年々に衰、武家は日々に盛也。因茲代々の聖主、遠くは承久の宸襟を休めんが為、近くは朝議の陵廃を歎き思食て、東夷を亡さばやと、常に叡慮を回されしかども、或は勢微にして不叶、或は時未到して、黙止給ひける処に、時政九代の後胤、前相摸守平高時入道崇鑒が代に至て、天地命を革むべき危機云顕れたり。倩古を引て今を視に、行跡甚軽して人の嘲を不顧、政道不正して民の弊を不思、唯日夜に逸遊を事として、前烈を地下に羞しめ、朝暮に奇物を翫て、傾廃を生前に致さんとす。衛の懿公が鶴を乗せし楽早尽き、秦の李斯が犬を牽し恨今に来なんとす。見人眉を顰め、聴人唇を翻す。此時の帝後醍醐天王と申せしは、後宇多院の第二の皇子、談天門院の御腹にて御座せしを、相摸守が計として、御年三十一の時、御位に即奉る。御在位之間、内には三綱五常の儀を正して、周公孔子の道に順、外には万機百司の政不怠給、延喜天暦の跡を追れしかば、四海風を望で悦び、万民徳に帰して楽む。凡諸道の廃たるを興し、一事の善をも被賞しかば、寺社禅律の繁昌、爰に時を得、顕密儒道の碩才も、皆望を達せり。誠に天に受たる聖主、地に奉ぜる明君也と、其徳を称じ、其化に誇らぬ者は無りけり。 ○関所停止事 |
このため朝廷は年ごとに衰え、武家勢力は日増しに盛んになった。これにより代々の天皇は、遠く(承久の乱での)後鳥羽院の御心労を鎮めようとされ、近くは朝廷権威の衰退をお嘆きになって、「東国の夷族(鎌倉幕府)を滅ぼしたい」と常にご決意を巡らせられたが、時には勢力微弱で叶わず、あるいは時期到来せぬまま沈黙なさっていたところへ、北条時政から九代目の末裔である前相模守・平高時(入道名:崇鑑)の時代に至り、天地が改まるべき危機が明らかとなった。 よく古を引き合いに出して現代を見ると、(高時の)行いは極めて軽率で人の嘲笑も顧みず、政治は不正ばかりで民衆の疲弊を省みない。ただ日夜遊興にふけることを常とし、先祖(北条泰時ら)を地の下で恥じ入らせ、朝から晩まで珍奇な物を弄んで存命中に国を傾け滅ぼそうとしている。(かつて)衛の懿公が鶴に輿に乗せた楽しみは早く尽き、秦の李斯(刑死前に愛犬との散歩を懐かしんだ故事)のような後悔が今まさに訪れようとしている。これを見る者は眉をひそめ、聞く者も口々に非難する声を上げている。 この時の天皇・後醍醐天皇は、後宇多院の第二皇子で談天門院所生であられた。(高時側が擁立したため)三十一歳で即位された。在位中は内には三綱五常(君臣父子の道徳)を正して周公孔子の教えに従い、外ではあらゆる政務をおろそかにせず延喜・天暦の治(平安黄金期)を追おうとされたので、天下の人々がその風範を慕って喜び、万民は徳化に帰依して安楽を得た。すべて廃れた諸道を復興し、些細な善行でも褒賞を与えられたため寺社や禅律宗派も栄え、顕密仏教や儒教の碩学たちも皆志望を達成した。「まことに天地の理にかなった聖主であり、地が奉ずべき明君である」とその徳を称賛し、その教化を誇らない者はなかった。 ○関所停止のこと 解説本節は北条高時の堕落と後醍醐天皇の理想政治を対比的に描きます:
本段落は鎌倉幕府腐敗(高時)vs 天皇親政復興(後醍醐)という南北朝動乱の核心的対立図式を提示しており、「関所停止事」(次節伏線)への導入となっています。 | ||||||||||||||||||
| 夫四境七道の関所は、国の大禁を知しめ、時の非常を誡んが為也。然に今壟断の利に依て、商売往来の弊、年貢運送の煩ありとて、大津・葛葉の外は、悉く所々の新関を止らる。又元亨元年の夏、大旱地を枯て、田服の外百里の間、空く赤土のみ有て、青苗無し。餓■野に満て、飢人地に倒る。此年銭三百を以て、粟一斗を買。君遥に天下の飢饉を聞召て、朕不徳あらば、天予一人を罪すべし。黎民何の咎有てか、此災に逢ると、自帝徳の天に背ける事を歎き思召て、朝餉の供御を止られて、飢人窮民の施行に引れけるこそ難有けれ。是も猶万民の飢を助くべきに非ずとて、検非違使の別当に仰て、当時富祐の輩が、利倍の為に畜積る米穀を点検して、二条町に仮屋を建られ、検使自断て、直を定て売せらる。されば商買共に利を得て、人皆九年の畜有が如し。訴訟の人出来の時、若下情上に達せざる事もやあらんとて、記録所へ出御成て、直に訴を聞召明め、理非を決断せられしかば、虞■の訴忽に停て、刑鞭も朽はて、諌鼓も撃人無りけり。誠に理世安民の政、若機巧に付て是を見ば、命世亜聖の才とも称じつべし。惟恨らくは斉桓覇を行、楚人弓を遺しに、叡慮少き似たる事を。是則所以草創雖合一天守文不越三載也。 ○立后事付三位殿御局事 |
全国の関所は国家の重大な禁令を示し、緊急事態への備えとして設置されたものです。しかし現在では独占的利益のために商人の往来に障害が生じ年貢運送も煩雑であるため大津(近江国)と葛葉(摂津国)以外の各地に新設したすべての関所を廃止しました。また元亨元年(1321年)夏には大干ばつで大地が枯れ、田畑の外百里四方は赤土だけがあって青々とした苗一つありませんでした。餓死者が野原に満ち飢えた人々が地面に倒れる状況となりこの年は銭三百文で粟一斗を買うほどであったのです。 君主(後醍醐天皇)は遠方から天下の飢饉を知らせ聞き、「朕に不徳があれば天が私一人を罰すべきだ。庶民には何の罪があってこの災難に遭うのか」と自らの帝徳が天意に背いたことを嘆かれました。そして朝食(供御)をお止めになりその分を飢えた者や貧窮者の救済にあてられたのは尊いことでした。しかしこれでも万民の飢えを完全には救えないと考え検非違使別当(警察長官職)に命じ、当時富裕層が暴利目的で蓄積していた米穀を取り調べさせ二条町に仮設店舗を建てられました。検査役自ら公正な価格を定めて販売されたので商人も利益を得人々は9年分の備蓄があるかのように安心しました。 訴訟人が現れた際には「庶民の声が上層部に届かないこともあろうか」と危惧され記録所へ出御されて直接訴えを取り上げ是非曲直をお決めになり裁断なさいましたので無駄な訴訟もたちまち止み刑罰道具は朽ち果て諫言の太鼓を叩く者すらいなくなりました。誠に世を治め民を安んずる政治であり機会があればこれを見た者は「命世亜聖(時代を代表する次世代の賢人)」と称賛したでしょうが惜しむらくは斉桓公の覇道や楚人の弓遺失のように思慮浅い点があったのです。これは創業期こそ天下統一できても守成段階では三年以上持たないという所以を示しています。 ○皇后冊立のことおよび三位殿御局(宮中女官)に関する事柄 解説本節は後醍醐天皇の建武新政における善政と限界を描きます:
歴史的意義として、飢饉対策や訴訟改革は建武政権の「延喜天暦の治再現」を体現しますが、「利倍」「富祐輩」(商人・地頭層)との対立構造が後の瓦解要因となる伏線です。最後に提示される「関所停止事」と「立后事」は次節における朝廷内紛(大覚寺統 vs 持明院統)への過渡を示しています。 | ||||||||||||||||||
| 文保二年八月三日、後西園寺大政大臣実兼公の御女、后妃の位に備て、弘徽殿に入せ給ふ。此家に女御を立られたる事已に五代、是も承久以後、相摸守代々西園寺の家を尊崇せしかば、一家の繁昌恰天下の耳目を驚せり。君も関東の聞へ可然と思食て、取分立后の御沙汰も有けるにや。御齢已に二八にして、金鶏障の下に傅れて、玉楼殿の内に入給へば、夭桃の春を傷る粧ひ、垂柳の風を含る御形、毛■・西施も面を恥、絳樹・青琴も鏡を掩ふ程なれば、君の御覚も定て類あらじと覚へしに、君恩葉よりも薄かりしかば、一生空く玉顔に近かせ給はず。深宮の中に向て、春の日の暮難き事を歎き、秋の夜の長恨に沈ませ給ふ。金屋に人無して、皎々たる残燈の壁に背ける影、薫篭に香消て、蕭々たる暗雨の窓を打声、物毎に皆御泪を添る媒と成れり。「人生勿作婦人身、百年苦楽因他人。」と、白楽天が書たりしも、理也と覚たり。其比安野中将公廉の女に、三位殿の局と申ける女房、中宮の御方に候れけるを、君一度御覧ぜられて、他に異なる御覚あり。三千の寵愛一身に在しかば、六宮の粉黛は、顔色無が如也。都て三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一女御・曁後宮の美人・楽府の妓女と云へども、天子顧眄の御心を付られず。只殊艶尤態の独能是を致のみに非ず、蓋し善巧便佞叡旨に先て、奇を争しかば、花の下の春の遊、月の前の秋の宴、駕すれば輦を共にし、幸すれば席を専にし給ふ。 |
文保二年(1318年)八月三日に西園寺大政大臣実兼公の娘が后妃の位につき弘徽殿に入られました。この家から女御が立てられたのはすでに五代続いており、承久の乱以降北条氏代々が西園寺家を尊崇したため一族の繁栄は天下の注目を集めるほどでした。天皇も関東(鎌倉幕府)の意向を考慮され后位選定をお決めになったのでしょう。 彼女の年齢はすでに十六歳、金鶏障子のもとで導かれて玉楼殿に入られたその姿は、若桃が春を惜しむような装いや柳が風を含んだようなお形で、古代の美女・毛嬙や西施も顔を隠し名妓・絳樹や青琴も鏡を覆うほどでした。天皇のお心も深く惹かれると思われましたが寵愛は木の葉よりも薄く一生玉顔(妃)に近づかせられることはありませんでした。奥深い宮殿で春の日の暮れにくさを嘆き秋の夜長の恨みに沈んでおられ、人のいない金の部屋では明るすぎる残り火が壁に映る影や香炉の香も消えた暗雨が窓を打つ音など全てが涙のもととなりました。 「人生よ女性として生まれずとも 百年の苦楽は他人次第」という白居易の詩も道理だと感じられます。その頃安野中将公廉の娘で三位殿局と呼ばれる女房が中宮付きで伺候していましたが天皇が一度ご覧になると特別な思いを抱かれ三千の寵愛が一身に集まったため後宮の女性たちは色褪せて見え三夫人・九嬪など全ての后妃や楽府の妓女すら天子の顧みを得られませんでした。これは単なる美しさだけでなく巧みな話術で天皇のお心を先取り新奇を競ったためであり花咲く春の遊宴月明かりの秋の宴会では常に輦車(御乗物)や座席を独占されたのです。 解説本節は後醍醐天皇中宮冊立と寵妃問題を描きます:
最終文の「輦を共にし」「席を専にす」は次節「立后事付三位殿御局事」(朝廷内紛)への直接的な接続句となっています。 | ||||||||||||||||||
| 是より君王朝政をし給はず。忽に准后の宣旨を下されしかば、人皆皇后元妃の思をなせり。驚見る、光彩の始て門戸に生ることを。此時天の人、男を生む事を軽じて、女を生む事を重ぜり。されば御前の評定、雑訴の御沙汰までも、准后の御口入とだに云てげれば、上卿も忠なきに賞を与、奉行も理有を非とせり。関雎は楽而不淫、哀而不傷。詩人採て后妃の徳とす。奈何かせん、傾城傾国の乱今に有ぬと覚て、浅増かりし事共也。 ○儲王御事 螽斯の化行れて、皇后元妃の外、君恩に誇る官女、甚多かりければ、宮々次第に御誕生有て、十六人までぞ御座しける。中にも第一宮尊良親王は、御子左大納言為世卿女、贈従三位為子の御腹にて御坐しを、吉田内大臣定房公養君にし奉しかば、志学の歳の始より、六義の道に長じさせ給へり。されば富緒河の清き流を汲、浅香山の故き跡を蹈で、嘯風弄月に御心を傷め給ふ。第二宮も同御腹にてぞ御坐しける。総角の御時より妙法院の門跡に御入室有て、釈氏の教を受させ給ふ。是も瑜伽三密の間には、歌道数奇の御翫有しかば、高祖大師の旧業にも不恥、慈鎮和尚の風雅にも越たり。第三宮は民部卿三位殿の御腹也。御幼稚の時より、利根聡明に御坐せしかば、君御位をば此宮に社と思食したりしかども、御治世は大覚寺殿と持明院殿と、代々持せ給べしと、後嵯峨院の御時より被定しかば、今度の春宮をば持明院殿御方に立進せらる。 |
この頃から天皇は朝廷政治をお取りしまりにならなくなりました。突如として准后(皇后格)の宣旨が下されると人々は皆これを皇后元妃となる前兆かと思いました。「門戸に光彩生ず」と驚き見られるほどのことです。この時世では子供を産むにあたって男児より女児が重んじられました。そのため御前評定や雑訴の裁定さえも「准后の口入り(介入)」と言われてしまう状況で、上卿(議長)は不忠な者に褒賞を与え奉行(執行役)は道理ある主張を退けるありさまです。「関雎(詩経)は楽しみながら淫らではなく哀しみながら傷つけない」と詩人が后妃の徳としたように、どうして国を傾けるほどの乱が今起きぬと言えましょうか。まことに浅ましい事態でした。 ○皇太子ご誕生について 第三皇子(後の光厳天皇)は民部卿三位殿を母とし幼少時より聡明で天皇も皇位継承をご望みでしたが後嵯峨院治世から「大覚寺統と持明院統の交代制」が定められていたため今回の春宮(東宮)は持明院統に決まったのです。 解説本節は建武政権崩壊前夜の危機的状況を描きます:
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| 天下の事小大となく、関東の計として、叡慮にも任られざりしかば、御元服の義を改られ、梨本の門跡に御入室有て、承鎮親王の御門弟と成せ給ひて、一を聞て十を悟る御器量、世に又類も無りしかば、一実円頓の花匂を、荊渓の風に薫じ、三諦即是の月の光を、玉泉の流に浸せり。されば消なんとする法燈を挑げ、絶なんとする恵命を継んこと、只此門主の御時なるべしと、一山掌を合せて悦、九院首を傾て仰奉る。第四の宮も同御腹にてぞをはしける。是は聖護院二品親王の御附弟にてをはせしかば、法水を三井の流に汲、記■を慈尊の暁に期し給ふ。此外儲君儲王の選、竹苑椒庭の備、誠に王業再興の運、福祚長久基、時を得たりとぞ見へたりける。 ○中宮御産御祈之事付俊基偽篭居事 元亨二年の春の比より、中宮懐姙の御祈とて、諸寺・諸山の貴僧・高僧に仰て様々の大法・秘法を行はせらる。中にも法勝寺の円観上人、小野文観僧正二人は、別勅を承て、金闕に壇を構、玉体に近き奉て、肝胆を砕てぞ祈られける。仏眼、金輪、五壇の法・一宿五反孔雀経・七仏薬師熾盛光・烏蒭沙摩、変成男子の法・五大虚空蔵・六観音・六字訶臨、訶利帝母・八字文殊、普賢延命、金剛童子の法、護摩煙は内苑に満、振鈴の声は掖殿に響て、何なる悪魔怨霊なりとも、障碍を難成とぞ見へたりける。 |
天下の事柄大小に関わらず関東(鎌倉幕府)の意向で決定され天皇ご自身もお考えにならなかったため第三皇子元服の儀式は変更され梨本門跡寺院に入室し承鎮親王の弟子となられました。一を聞いて十を悟る御器量は世に類がなく真実円満な教え(天台宗)の花薫りを荊渓大師の風で香らせ三諦即中の月明かりを玉泉寺の流れに浸すほどでした。衰えようとする仏法の灯を掲げ絶えんとする智慧の命脈を受け継ぐのはこの門主(承鎮)の時代であろうと一山万福寺は合掌して喜び九院は首を傾げて崇め奉りました。 第四皇子も同じ母腹でいらっしゃいましたが聖護院二品親王に師事されたため法流を三井寺(円珍系)から汲み悟りの境地を弥勒菩薩出現の暁に見据えられています。この他にも皇太子・諸皇子の人選や後宮整備は誠に王朝再興の運と国家永続の基盤が時を得た様子でした。 ○中宮ご出産祈願のこと及び俊基偽装潜伏事件 解説本節は皇統継承と宗教政治の緊密な関係を浮彫りにします:
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| 加様に功を積、日を重て、御祈の精誠を尽されけれども、三年まで曾て御産の御事は無りけり。後に子細を尋れば、関東調伏の為に、事を中宮の御産に寄て、加様に秘法を修せられけると也。是程の重事を思食立事なれば、諸臣の異見をも窺ひ度思召けれども、事多聞に及ばゝ、武家に漏れ聞る事や有んと、憚り思召れける間、深慮智化の老臣、近侍の人々にも仰合らるゝ事もなし。只日野中納言資朝・蔵人右少弁俊基・四条中納言隆資・尹大納言師賢・平宰相成輔計に、潛に仰合られて、さりぬべき兵を召けるに、錦織の判官代、足助次郎重成、南都北嶺の衆徒、少々勅定に応じてげり。彼俊基は累葉の儒業を継で、才学優長成しかば、顕職に召仕れて、官蘭台に至り、職々事を司れり。然る間出仕事繁して、籌策に隙無りければ、何にもして暫篭居して、謀叛の計畧を回さんと思ける処に、山門横川の衆徒、款状を捧て、禁庭に訴る事あり。俊基彼奏状を披て読申れけるが、読誤りたる体にて、楞厳院を慢厳院とぞ読たりける。座中の諸卿是を聞て目を合て、「相の字をば、篇に付ても作に付ても、もくとこそ読べかりける。」と、掌を拍てぞ笑はれける。俊基大に恥たる気色にて、面を赤て退出す。夫より恥辱に逢て、篭居すと披露して、半年計出仕を止、山臥の形に身を易て、大和・河内に行て、城郭に成ぬべき処々を見置、東国・西国に下て、国の風俗、人の分限をぞ窺見られける。 |
このように功徳を積み日数を重ね、祈願の誠意は尽くされましたが三年経っても全くご懐妊の兆候はありませんでした。後に事情を探ると関東(鎌倉幕府)調伏(呪い殺し)のために中宮様の出産祈祷という名目で密教儀式を行っていたことが判明します。これほど重大な計画を天皇がお立てになったため家臣らの意見も伺いたく思われましたが、もし情報が漏れ武家に知られることを恐れて深謀遠慮の老臣や側近にも相談されませんでした。 ひそかに日野中納言資朝・蔵人右少弁俊基・四条中納言隆資・尹大納言師賢・平宰相成輔らだけと協議し兵力を集めたところ錦織判官代足助次郎重成や南都北嶺の僧兵が少数勅命に応じました。あの俊基は代々続く儒学者家系で才学優れていたため高位に登用され蘭台(記録所)長官として実務を掌握していました。しかし公務多忙で作戦立案の暇もない中、何とか一時的に隠遁して倒幕計画を練ろうと考えた矢先比叡山横川の僧徒が訴状を朝廷に提出します。 俊基はその奏上文を誤読し「楞厳院」を「慢厳院」と読み上げました。列座した公卿たちは顔を見合わせ「相(そう)という字は偏旁どちらでも『もく』と読むはずだ」と手を打って嘲笑しました。俊基は赤面して退席しこの恥辱以来半年ほど出仕せず山伏姿に身をやつし大和・河内で城郭適地を見定め東西諸国へ下向して国情や武士の実力を偵察したのです。 解説本節は建武新政前夜における倒幕工作の危うさを描出します:
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| ○無礼講事付玄恵文談事 爰に美濃国住人、土岐伯耆十郎頼貞・多治見四郎次郎国長と云者あり。共に清和源氏の後胤として、武勇の聞へありければ、資朝卿様々の縁を尋て、眤び近かれ、朋友の交已に浅からざりけれども、是程の一大事を無左右知せん事、如何か有べからんと思はれければ、猶も能々其心を窺見ん為に、無礼講と云事をぞ始られける。其人数には、尹大納言師賢・四条中納言隆資・洞院左衛門督実世・蔵人右少弁俊基・伊達三位房游雅・聖護院庁の法眼玄基・足助次郎重成・多治見四郎次郎国長等也。其交会遊宴の体、見聞耳目を驚せり。献盃の次第、上下を云はず、男は烏帽子を脱で髻を放ち、法師は衣を不着して白衣になり、年十七八なる女の、盻形優に、膚殊に清らかなるをに十余人、褊の単へ計を着せて、酌を取せければ、雪の膚すき通て、大液の芙蓉新に水を出たるに異ならず。山海の珍物を尽し、旨酒泉の如くに湛て、遊戯舞歌ふ。其間には只東夷を可亡企の外は他事なし。其事と無く、常に会交せば、人の思咎むる事もや有んとて、事を文談に寄んが為に、其比才覚無双の聞へありける玄恵法印と云文者を請じて、昌黎文集の談義をぞ行せける。彼法印謀叛の企とは夢にも不知、会合の日毎に、其席に臨で玄を談じ理を折。 |
ここに美濃国住人の土岐伯耆十郎頼貞・多治見四郎次郎国長という者がいた。ともに清和源氏の子孫で武勇の評判があったため資朝卿は様々な縁故を探って親しく交わり、友人としての付き合いも深まっていたがこれほどの重大計画(倒幕)を知らせないのはどうかと思われた。そこでなお一層彼らの本心を見極めるために無礼講ということを始めたのである。 参加者は尹大納言師賢・四条中納言隆資・洞院左衛門督実世・蔵人右少弁俊基・伊達三位房游雅・聖護院庁の法眼玄基・足助次郎重成・多治見四郎次郎国長らであった。その宴会と遊興ぶりは目撃者の耳目を驚かせた。杯のやり取りでは身分上下もなく男性は烏帽子を脱ぎ髷をほどき僧侶は法衣を着けず白装束になり十七、八歳くらいで容姿優れ肌が特に美しい女性十数人に薄い単衣だけを着せて酒をつがせるため雪のような透ける肌は大液池の蓮の花が水から咲いたさまと変わらなかった。山海珍味を尽くし旨酒を泉のように満たして遊び踊り歌うその場ではただ鎌倉幕府(東夷)滅亡計画だけが話題で他事はない。 このように頻繁に会合すれば周囲の疑いも出かねぬため表向き文学談義とする口実を設けた。当時無双の才覚と評判だった玄恵法印という文人学者を招いて韓愈(昌黎)文集の講釈を行わせたのである。しかし彼は謀反企てとは夢にも知らず毎回会合に臨んで奥義を論じ道理を弁明しただけであった。 解説本節は後醍醐天皇側近による「倒幕ネットワーク」の形成手法を描きます:
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| 彼文集の中に、「昌黎赴潮州」と云長篇有り。此処に至て、談義を聞人々、「是皆不吉の書なりけり。呉子・孫子・六韜・三略なんど社、可然当用の文なれ。」とて、昌黎文集の談義を止てげり。此韓昌黎と申は、晩唐の季に出て、文才優長の人なりけり。詩は杜子美・李太白に肩を双べ、文章は漢・魏・晋・宋の間に傑出せり。昌黎が猶子韓湘と云者あり。是は文字をも嗜ず、詩篇にも携らず、只道士の術を学で、無為を業とし、無事を事とす。或時昌黎韓湘に向て申けるは、「汝天地の中に化生して、仁義の外に逍遥す。是君子の恥処、小人の専とする処也。我常に汝が為に是を悲むこと切也。と教訓しければ、韓湘大にあざ笑て、「仁義は大道の廃たる処に出、学教は大偽の起時に盛也。吾無為の境に優遊して、是非の外に自得す。されば真宰の臂を掣て、壷中に天地を蔵し、造化の工を奪て、橘裡に山川を峙つ。却て悲らくは、公の只古人の糟粕を甘て、空く一生を区々の中に誤る事を。」と答ければ、昌黎重曰、「汝が所言我未信、今則造化の工を奪事を得てんや。」と問に、韓湘答事無して、前に置たる瑠璃の盆を打覆て、軈て又引仰向けたるを見れば、忽に碧玉の牡丹の花の嬋娟たる一枝あり。昌黎驚て是を見に、花中に金字に書る一聯の句有り。 |
その文集の中に「昌黎赴潮州」という長編詩があった。ここで講義を聞いていた人々が、「これらはみな不吉な書物だ。呉子・孫子・六韜・三略などこそ、むしろ実用に適う文であろう。」と言って昌黎文集の講釈を中止してしまった。 この韓昌黎(韓愈)という人物は晩唐期に出て優れた文才を持つ人であった。詩では杜甫や李白と肩を並べ文章では漢・魏・晋・宋の時代に傑出していた。昌黎には甥の韓湘という者がいた。彼は文字も好まず詩作にも携わらず、ただ道士の術を学んで無為自然を旨とし平穏な生活を送っていた。 ある時昌黎が韓湘に向かって言った。「お前は天地の中に生まれながら仁義(儒教道徳)から外れて勝手気ままである。これは君子として恥ずべき行いで、小人のすることだ。私は常にお前のためにこれを深く悲しんでいる。」と訓戒すると韓湘は大いに嘲笑してこう答えた。「仁義というものは大道が廃れたところに現れ学問や教えは大きな偽りが起こる時代に栄えるのです。私は無為の境地で悠々自適に過ごし是非を超えて満足している。だからこそ天地創造神(真宰)の腕をつかんで壺の中に宇宙を蔵し、造化の神秘を取り込んで橘の実の中に山河を構えられるのです。むしろ悲しいのはあなたが古人の糟粕ばかり味わい空しく一生を取るに足らないことに費やすことです。」 昌黎は重ねて言った。「お前の言葉は信じ難い。では今すぐ造化の神秘を示せるか」と問うと韓湘は答えず前に置いた瑠璃の鉢をひっくり返し、すぐまた引き上げると美しい碧玉の牡丹が一枝現れた。昌黎が驚いて見れば花の中に金字で書かれた一対の詩句があった。 解説本節は無礼講での「文談事件」核心部分を描き:
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| 「雲横秦嶺家何在、雪擁藍関馬不前。云云。」昌黎不思儀の思を成して、是を読で一唱三嘆するに、句の優美遠長なる体製のみ有て、其趣向落着の所を難知。手に採て是を見んとすれば、忽然として消失ぬ。是よりしてこそ、韓湘仙術の道を得たりとは、天下の人に知られけれ。其後昌黎仏法を破て、儒教を貴べき由、奏状を奉ける咎に依て、潮州へ流さる。日暮馬泥で前途程遠し。遥に故郷の方を顧ば、秦嶺に雲横て、来つらん方も不覚。悼で万仞の嶮に登らんとすれば、藍関に雪満て行べき末の路も無し。進退歩を失て、頭を回す処に、何より来れるともなく、韓湘悖然として傍にあり。昌黎悦で馬より下、韓湘が袖を引て、泪の中に申けるは、「先年碧玉の花の中に見へたりし一聯の句は、汝我に予左遷の愁を告知せるなり。今又汝爰に来れり。料り知ぬ、我遂に謫居に愁死して、帰事を得じと。再会期無して、遠別今にあり。豈悲に堪んや。」とて、前の一聯に句を続で、八句一首と成して、韓湘に与ふ。一封朝奏九重天。夕貶潮陽路八千。欲為聖明除弊事。豈将衰朽惜残年。雲横秦嶺家何在。雪擁藍関馬不前。知汝遠来須有意。好収吾骨瘴江辺。韓湘此詩を袖に入て、泣々東西に別にけり。誠哉、「痴人面前に不説夢」云事を。 |
その詩句には「雲横秦嶺家何在、雪擁藍関馬不前(雲は秦嶺にわたり我が家はいずこ/雪は藍関を埋め馬進まず)」などと書かれていた。昌黎は奇妙に思いながらこれを読み上げて繰り返し嘆いたが句の優美で深遠な形式ばかりが目立ち真意をつかみにくかった。手に取って見ようとした瞬間突然消えてしまった。これによって韓湘が仙術を会得したことが世間に知れ渡った。 その後昌黎は仏教批判と儒教尊重の上奏文を出した咎で潮州へ流罪となった。日暮れ道中に馬が泥沼にはまり前途は遥かだった。遠く故郷を振り返れば秦嶺に雲が立ち込めて来た方角もわからず嘆きながら険しい山登ろうとすれば藍関は雪で埋まり進むべき道もない。途方にくれ周囲を見回すと突然韓湘が現れた。 昌黎は喜んで馬から降り韓湘の袖を引き涙ながらに言った。「以前碧玉の花の中に見えた一対の詩句はお前が私の左遷の悲しみを予告したものだったな。今またここへ来てくれたのは私が流刑地で愁死して帰れないと気づいたからか?再会も叶わず永遠の別れだなんてあまりにも哀しい」そう言って先の詩句に続けて八句一首を完成させ韓湘に贈った。 「朝廷へ奏上朝一番/夕べには潮陽流罪路八千(皇帝への上書は早朝に/日暮れまでに八千里離れた潮州へ追放)/聖世のために弊害除かんと欲せば/朽ちた身惜しまず命を賭さん(明君のため悪習断とうとしたのにどうして老いを惜しもうか)/雲は秦嶺横たわり家はいづこ/雪は藍関に満て馬進まず/汝が遠く来るを知れば必ず意ありとす(お前が遥々来たのは深い意味があるのだろう)/好もしくわが骨を瘴気の川辺に収めよ(どうかこの身を南方の毒霧漂う河岸で葬ってくれ)」韓湘はその詩を袖に入れ泣きながら別れた。まさに「愚者の前では夢のような深い話をするな」という諺通りであった。 解説本節は道教と儒教の対立寓話として『太平記』倒幕叙事へ織り込まれています:
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| 此談義を聞ける人々の忌思けるこそ愚なれ。 ○頼員回忠事 謀反人の与党、土岐左近蔵人頼員は、六波羅の奉行斉藤太郎左衛門尉利行が女と嫁して、最愛したりけるが、世中已に乱て、合戦出来りなば、千に一も討死せずと云事有まじと思ける間、兼て余波や惜かりけん、或夜の寝覚の物語に、「一樹の陰に宿り、同流を汲も、皆是多生の縁不浅、況や相馴奉て已三年に余れり。等閑ならぬ志の程をば、気色に付け、折に触ても思知り給ふらん。去ても定なきは人間の習、相逢中の契なれば、今若我身はかなく成ぬと聞給ふ事有ば、無らん跡までも貞女の心を失はで、我後世を問給へ。人間に帰らば、再び夫婦の契を結び、浄土に生れば、同蓮の台に半座を分て待べし。」と、其事と無くかきくどき、泪を流てぞ申ける。女つく/゛\と聞て、「怪や何事の侍ぞや。明日までの契の程も知らぬ世に、後世までの荒増は、忘んとての情にてこそ侍らめ。さらでは、かゝるべしとも覚ず。」と、泣恨て問ければ、男は心浅して、「さればよ、我不慮の勅命を蒙て、君に憑れ奉る間、辞するに道無して、御謀反に与しぬる間、千に一も命の生んずる事難し。無端存る程に、近づく別の悲さに、兼加様に申也。此事穴賢人に知させ給ふな。」と、能々口をぞ堅めける。 |
その講義を聴いた人々が忌み嫌ったのはまことに愚かであった。 ○頼員の忠節に関する話 妻はじっと聞いて「おかしいことです。明日の約束さえ保証されぬ世の中で来世までの大げさなお話は忘れようとの情けでしょうか?そうでなければこんなことはあり得ません」と泣きながら恨めしそうに尋ねると、頼員は衝動的に打ち明けた「実を言えば予期せぬ勅命を受け天皇についたため辞退できず謀反に関わったので千が一つも生き延びられまい。無事なうちに迫る別れの悲しさからつい話したのだ。決して賢人(義父・利行)には知らせるな」と厳重に口止めをした。 解説本節は『太平記』巻一「無礼講事件」後半部で重要な転換点:
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| 彼女性心の賢き者也ければ、夙にをきて、つく/゛\と此事を思ふに、君の御謀叛事ならずば、憑たる男忽に誅せらるべし。若又武家亡なば、我親類誰かは一人も残るべき。さらば是を父利行に語て、左近蔵人を回忠の者に成し、是をも助け、親類をも扶けばやと思て、急ぎ父が許に行、忍やかに此事を有の侭にぞ語りける。斉藤大に驚き、軈て左近蔵人を呼寄せ、「卦る不思議を承る、誠にて候やらん。今の世に加様の事、思企給はんは、偏に石を抱て淵に入る者にて候べし。若他人の口より漏なば、我等に至まで皆誅せらるべきにて候へば、利行急御辺の告知せたる由を、六波羅殿に申て、共に其咎を遁んと思ふは、何か計給ふぞ。」と、問ければ、是程の一大事を、女性に知らする程の心にて、なじかは仰天せざるべき、「此事は同名頼貞・多治見四郎二郎が勧に依て、同意仕て候。只兎も角も、身の咎を助る様に御計候へ。」とぞ申ける。夜未明に、斉藤急ぎ六波羅へ参て、事の子細を委く告げ申ければ、則時をかへず鎌倉へ早馬を立て、京中・洛外の武士どもを六波羅へ召集て、先着到をぞ付られける。其比摂津国葛葉と云処に、地下人代官を背て合戦に及事あり。彼本所の雑掌を、六波羅の沙汰として、庄家にしすへん為に、四十八箇所の篝、並在京人を催さるゝ由を被披露。 |
その妻は聡明な者だったので、早朝からじっとこのことを考えると、「天皇の謀反が成功しなければ夫(頼員)はすぐ処刑されるだろう。もし幕府側が滅びれば私の親族も誰一人残るまい」と思い至った。「ならば父・利行に話して、左近蔵人を裏切り者から忠節ある者に変えさせて彼をも助け親族も守ろう」と決心し急いで父親のもとへ行き密かに事情を包み隠さず伝えた。斎藤は大いに驚きすぐ頼員を呼び寄せ、「奇妙な話を聞いたが本当か?この世にそんな企てをするのは石を抱えて淵に飛び込むようなものだ。もし他人の口から漏れれば私どもまで皆処刑されるのだから、利行は急いでお前の告白した件を六波羅探題へ報告し共に責任逃れしようと思うがどうするつもりか?」と問うたところ頼員は「これほどの大事を女に話すほど軽率だったのです。驚くのも無理ありません」と言い、「実は同族の頼貞や多治見四郎二郎の勧めで同意しました。何とか私の罪を助けてください」と答えた。夜明け前に斎藤が急ぎ六波羅へ参上し事の詳細を報告すると、即座に鎌倉へ早馬を立て京都内外の武士たちを六波羅へ召集して先陣の配置につけた。ちょうどその頃摂津国葛葉という場所で地侍が代官に背いて戦い始めたため、現地の役人処遇を六波羅の決定として荘園支配を安定させるべく四十八箇所のかがり火を焚き在京者たちも動員する旨が公表された。 解説本節は『太平記』巻一「無礼講事件」クライマックスで歴史的転換点を示す:
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| 是は謀叛の輩を落さじが為の謀也。土岐も多治見も、吾身の上とは思も寄らず、明日は葛葉へ向ふべき用意して、皆己が宿所にぞ居たりける。去程に、明れば元徳元年九月十九日の卯刻に、軍勢雲霞の如に六波羅へ馳参る。小串三郎左衛門尉範行・山本九郎時綱、御紋の旗を給て、打手の大将を承て、六条河原へ打出、三千余騎を二手に分て、多治見が宿所錦小路高倉、土岐十郎が宿所、三条堀河へ寄けるが、時綱かくては如何様大事の敵を打漏ぬと思けるにや、大勢をば態と三条河原に留て、時綱只一騎、中間二人に長刀持せて、忍やかに土岐が宿所へ馳て行き、門前に馬をば乗捨て、小門より内へつと入て、中門の方を見れば、宿直しける者よと覚て、物具・太刀・々、枕に取散し、高鼾かきて寝入たり。廐の後を回て、何にか匿地の有と見れば、後は皆築地にて、門より外は路も無し。さては心安しと思て、客殿の奥なる二間を颯と引あけたれば、土岐十郎只今起あがりたりと覚て、鬢髪を撫揚て結けるが、山本九郎を屹と見て、「心得たり。」と云侭に、立たる大刀を取、傍なる障子を一間蹈破り、六間の客殿へ跳出、天井に大刀を打付じと、払切にぞ切たりける。時綱は態敵を広庭へ帯出し、透間も有らば生虜んと志て、打払ては退、打流しては飛のき、人交もせず戦て、後を屹と見たれば、後陣の大勢二千余騎、二の関よりこみ入て、同音に時を作る。 |
これは謀反人たちをおびき出すための策略であった。土岐も多治見もまさか自分が狙われているとは思わず、翌日に葛葉へ向かう準備をしてそれぞれ宿所にいた。夜が明けて元徳元年(1329年)九月十九日卯の刻(午前6時頃)、軍勢は雲霞のように六波羅へ駆けつけた。小串三郎左衛門尉範行と山本九郎時綱は御紋付きの旗を与えられ、先鋒大将を命じられて六条河原に出陣した。三千余騎を二手に分け、多治見の宿所(錦小路高倉)と土岐十郎頼員の宿所(三条堀河)へ向かう中で時綱は「このままでは主要な敵を取り逃がす」と考えたのか、大軍をわざと三条河原に残し、自らは単騎で従者二人に薙刀を持たせて密かに土岐の宿所へ急行した。門前で馬から降り小門から中へ入ると、警護役が寝ていたのだろうか──武具や太刀を枕元に散らし、大きないびきをかいて熟睡していた。厩舎裏を回って隠れ場所はないか探すと、背後の塀外には道もなかった。「これなら安心だ」と思い客殿奥の二間の扉をさっと開けると、土岐十郎頼員が起き上がったところらしく、乱れた髪を撫でながら結んでいた。時綱を見るなり「覚悟はできている」と言うや否や、立っていた大刀を取り上げ、障子一間を蹴破って六間続きの客殿に飛び出し、天井めがけて刀を振りかざすふりをして横薙ぎに斬りつけた。時綱はわざと敵を広庭におびき出そうと、隙あらば生け捕りにする心づもりで攻撃を受け流しながら戦ったところ、後方から二千余騎の軍勢が二ノ門より押し入り鬨の声をあげた。 解説本節は『太平記』巻一における軍事行動の核心場面:
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| 土岐十郎久く戦ては、中々生捕れんとや思けん、本の寝所へ走帰て、腹十文字にかき切て、北枕にこそ臥たりけれ。中間に寝たりける若党どもゝ、思々に討死して、遁るゝ者一人も無りけり。首を取て鋒に貫て、山本九郎は是より六波羅へ馳参る。多治見が宿所へは、小串三郎左衛門範行を先として、三千余騎にて推寄たり。多治見は終夜の酒に飲酔て、前後も不知臥たりけるが、時の声に驚て、是は何事ぞと周障騒ぐ。傍に臥たる遊君、物馴たる女也ければ、枕なる鎧取て打着せ、上帯強く縮させて、猶寝入たる者どもをぞ起しける。小笠原孫六、傾城に驚されて、太刀計を取て、中門に走出で、目を磨々四方を岐と見ければ、車の輪の旗一流、築地の上より見へたり。孫六内へ入て、「六波羅より打手の向て候ける。此間の御謀反早顕たりと覚候。早面々太刀の目貫の堪ゑん程は切合て、腹を切れ。」と呼て、腹巻取て肩になげかけ、廾四差たる胡■と、繁藤の弓とを提て、門の上なる櫓へ走上り、中差取て打番ひ、狭間の板八文字に排て、「あらこと/゛\しの大勢や。我等が手柄のほどこそ顕たれ。抑討手の大将は誰と申人の向れて候やらん。近付て箭一請て御覧候へ。」と云侭に、十二束三伏、忘るゝ計引しぼりて、切て放つ。 |
土岐十郎頼員は長く戦ううち生け捕りになるのを避けるためか、自室へ駆け戻ると腹を十字に切り裂き北枕で果てた。従者の若党たちもそれぞれ討ち死にし、逃げ延びる者はいなかった。首級を得た山本九郎は槍先に刺して六波羅殿へ急行した。 解説本節は『太平記』巻一における決定的な鎮圧場面で武士道精神が凝縮:
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| 真前に進だる狩野下野前司が若党に、衣摺助房が胄のまつかう、鉢付の板まで、矢先白く射通して、馬より倒に射落す。是を始として、鎧の袖・草摺・胄鉢とも不言、指詰て思様に射けるに、面に立たる兵廾四人、矢の下に射て落す。今一筋胡■に残たる矢を抜て、胡■をば櫓の下へからりと投落し、「此矢一をば冥途の旅の用心に持べし。」と云て腰にさし、「日本一の剛者、謀叛に与し自害する有様見置て人に語れ。」と高声に呼て、太刀の鋒を口に呀て、櫓より倒に飛落て、貫てこそ死にけれ。此間に多治見を始として、一族若党廾余人物具ひし/\と堅め、大庭に跳出で、門の関の木差て待懸たり。寄手雲霞の如しと云へども、思切たる者どもが、死狂をせんと引篭たるがこはさに、内へ切て入んとする者も無りける処に、伊藤彦次郎父子兄弟四人、門の扉の少し破たる処より、這て内へぞ入たりける。志の程は武けれども、待請たる敵の中へ、這て入たる事なれば、敵に打違るまでも無て、皆門の脇にて討れにけり。寄手是を見て、弥近く者も無りける間、内より門の扉を推開て、「討手を承るほどの人達の、きたなうも見へられ候者哉。早是へ御入候へ。我等が頭共引出物に進せん。」と、恥しめてこそ立たりけれ。寄手共敵にあくまで欺れて、先陣五百余人馬を乗放して、歩立に成、喚て庭へこみ入。 |
まっすぐ進んでいた狩野下野前司の若党・衣摺助房がかぶった兜の鉢巻部分から鉢付板まで矢が白く射抜かれ、馬から真っ逆さまに落ちた。これを皮切りに鎧の袖も草摺り(腰甲)も兜も構わず狙い撃ちされると、前面に立っていた兵士二十四人が次々と射倒された。 解説本節は『太平記』巻一クライマックスにおける武士道美学的表現:
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| 楯篭る所の兵ども、とても遁じと思切たる事なれば、何へか一足も引べき。二十余人の者ども、大勢の中へ乱入て、面もふらず切て廻る。先駈の寄手五百余人、散々に切立られて、門より外へ颯と引く。されども寄手は大勢なれば、先陣引けば二陣喚て懸入。々々ば追出、々々せば懸入り、辰刻の始より午刻の終まで、火出る程こそ戦けれ。加様に大手の軍強ければ、佐々木判官が手者千余人、後へ廻て錦小路より、在家を打破て乱入る。多治見今は是までとや思けん、中門に並居て、二十二人の者ども、互に差違々々、算を散せる如く臥たりける。追手の寄手共が、門を破りける其間に、搦手の勢共乱入り、首を取て六波羅へ馳帰る。二時計の合戦に、手負死人を数るに、二百七十三人也。 ○資朝俊基関東下向事付御告文事 土岐・多治見討れて後、君の御謀叛次第に隠れ無りければ、東使長崎四郎左衛門泰光、南条次郎左衛門宗直二人上洛して、五月十日資朝・俊基両人を召取奉る。土岐が討れし時、生虜の者一人も無りしかば、白状はよも有らじ、さりとも我等が事は顕れじと、無墓憑に油断して、曾て其用意も無りければ、妻子東西に逃迷ひて、身を隠さんとするに処なく、財宝は大路に引散されて、馬蹄の塵と成にけり。彼資朝卿は日野の一門にて、職大理を経、官中納言に至りしかば、君の御覚へも他に異して、家の繁昌時を得たりき。 |
盾を並べて立てこもった兵たちは逃げる気など全くなく、どこへも一歩も退かない。二十人余りの者たちが大群の中に突入し、顔も見ずに斬りまわった。先鋒の攻撃側五百余人は散々に切り倒され門外へ敗走した。 ○資朝・俊基の関東下向と御告文事件 解説本節『太平記』巻一結末部における歴史叙述の特徴:
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| 俊基朝臣は身儒雅の下より出で、望勲業の上に達せしかば、同官も肥馬の塵を望み、長者も残盃の冷に随ふ。宜哉「不義而富且貴、於我如浮雲。」と云へる事。是孔子の善言、魯論に記する処なれば、なじかは違べき。夢の中に楽尽て、眼前の悲云に来れり。彼を見是を聞ける人毎に、盛者必衰の理を知らでも、袖をしぼりゑず。同二十七日、東使両人、資朝・俊基を具足し奉て、鎌倉へ下着す。此人々は殊更謀叛の張本なれば、軈て誅せられぬと覚しかども、倶に朝廷の近臣として、才覚優長の人たりしかば、世の譏り君の御憤を憚て、嗷問の沙汰にも不及、只尋常の放召人の如にて、侍所にぞ預置れける。七月七日、今夜は牽牛・織女の二星、烏鵲橋を渡して、一年の懐抱を解夜なれば、宮人の風俗、竹竿に願糸を懸け、庭前に嘉菓を列て、乞巧奠を修る夜なれ共、世上騒しき時節なれば、詩歌を奉る騒人も無く、絃管を調る伶倫もなし。適上臥したる月卿雲客も、何と無く世中の乱、又誰身上にか来んずらんと、魂を消し肝を冷す時分なれば、皆眉を顰め面を低てぞ候ける。夜痛深て、「誰か候。」と召れければ、「吉田中納言冬房候。」とて御前に候す。主上席を近て仰有けるは、「資朝・俊基が囚れし後、東風猶未静、中夏常に危を蹈む。 |
北畠俊基卿は学問的素養から身を起こし、功績によって高位に上り詰めたため、同僚たちもこぞって取り入ろうとし権力者も彼の影響下に従った。まさしく「不正な手段で富や地位を得ることは私にとって浮雲のようなものだ」という言葉通りである。これは孔子の名言『論語』に記されているゆえ、当然のことだった。だが夢のような栄華が尽きて眼前に悲劇が訪れ、この様子を見聞きした人々は盛者必衰の道理を知らぬふりもできず涙を絞った。 解説本節『太平記』における歴史叙述の三大特徴:
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| 此上に又何なる沙汰をか致んずらんと、叡慮更に不穏。如何して先東夷を定べき謀有ん。」と、勅問有ければ、冬房謹で申けるは、「資朝・俊基が白状有りとも承候はねば、武臣此上の沙汰には及ばじと存候へども、近日東夷の行事、楚忽の義多候へば、御油断有まじきにて候。先告文一紙を下されて、相摸入道が忿を静め候ばや。」と申されければ、主上げにもとや思食れけん、「さらば軈て冬房書。」と仰有ければ、則御前にして草案をして、是を奏覧す。君且叡覧有て、御泪の告文にはら/\とかゝりけるを、御袖にて押拭はせ給へば、御前に候ける老臣、皆悲啼を含まぬは無りけり。頓て万里小路大納言宣房卿を勅使として、此告文を関東へ下さる。相摸入道、秋田城介を以て告文を請取て、則披見せんとしけるを、二階堂出羽入道々蘊、堅く諌めて申けるは、「天子武臣に対して直に告文を被下たる事、異国にも我朝にも未其例を承ず。然を等閑に披見せられん事、冥見に付て其恐あり。只文箱を啓ずして、勅使に返進せらるべきか。」と、再往申けるを、相摸入道、「何か苦しかるべき。」とて、斉藤太郎左衛門利行に読進せさせられけるに、「叡心不偽処任天照覧。」被遊たる処を読ける時に、利行俄に眩衄たりければ、読はてずして退出す。 |
「これ以上またどのような処置があるだろうか」という天皇のお考えはますます不安定になった。「まず東国の者たちを鎮めるにはどうすればよい策があろうか」とお尋ねになると、吉田冬房が謹んで申し上げた:「資朝や俊基の自白があったとも承っておりませんので武士どもがこれ以上の処置に及ぶことはあるまいと考えます。しかし近ごろ東国の者たちの動きには突然性が多いため油断はなりませぬ。まず告文一通をお書きになって相模入道(北条高時)の怒りを静めなさってはいかがでしょう」。 解説本節『太平記』における政治的葛藤描写の特徴:
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| 其日より喉下に悪瘡出て、七日が中に血を吐て死にけり。時澆季に及で、道塗炭に落ぬと云ども、君臣上下の礼違則は、さすが仏神の罰も有けりと、是を聞ける人毎に、懼恐ぬは無りけり。「何様資朝・俊基の隠謀、叡慮より出し事なれば、縦告文を下されたりと云ども、其に依るべからず。主上をば遠国へ遷し奉べし。」と、初は評定一決してけれども、勅使宣房卿の被申趣げにもと覚る上、告文読たりし利行、俄に血を吐て死たりけるに、諸人皆舌を巻き、口を閉づ。相摸入道も、さすが天慮其憚有りけるにや、「御治世の御事は朝議に任せ奉る上は、武家綺ひ申べきに非ず。」と、勅答を申て、告文を返進せらる。宣房卿則帰洛して、此由を奏し申れけるにこそ、宸襟始て解て、群臣色をば直されけれ。去程に俊基朝臣は罪の疑しきを軽じて赦免せられ、資朝卿は死罪一等を宥められて、佐渡国へぞ流されける。 |
その日から利行は首筋に腫れ物ができ、七日のうちに吐血して死亡した。世の中が乱れて地獄のような状況になっているとはいえ、君臣の礼を破ったことには仏神の罰があったのだと、この話を聞いた者は皆恐れた。「そもそも資朝・俊基の陰謀は天皇のお考えから出たものだから、例え告文を下されても従うべきではない。主上を遠国へ移すべし」とはじめ評定で決議したが、勅使宣房卿の申し立てに道理があると感じられた上、告文を読んだ利行が突然吐血して死んだことで一同は言葉を失った。相模入道(北条高時)もさすがに天罰を畏れたか、「政治に関する事柄は朝廷の議決にお任せするので武家が口出しすべきではない」と返答し告文をお返しした。宣房卿はすぐ京都へ戻りこの経緯を奏上すると、天皇はようやくお気持ちを和らげられ臣下たちも安堵の表情を見せた。こうして俊基卿は嫌疑が軽いとして赦免され、資朝卿は死罪一等を減じられたうえで佐渡国へ流罪となった。 解説本節における政治的決着描写の三層構造:
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| input text 太平記\002_太平記_巻2.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第二 ○南都北嶺行幸事 元徳二年二月四日、行事の弁別当、万里小路中納言藤房卿を召れて、「来月八日東大寺興福寺行幸有べし、早供奉の輩に触仰すべし。」と仰出されければ、藤房古を尋、例を考て、供奉の行装、路次の行列を定らる。佐々木備中守廷尉に成て橋を渡し、四十八箇所篝、甲胄を帯し、辻々を堅む。三公九卿相従ひ、百司千官列を引、言語道断の厳儀也。東大寺と申は聖武天皇の御願、閻浮第一の盧舎那仏、興福寺と申は淡海公の御願、藤氏尊崇の大伽藍なれば、代々の聖主も、皆結縁の御志は御坐せども、一人出給事容易からざれば、多年臨幸の儀もなし。此御代に至て、絶たるを継、廃たるを興して、鳳輦を廻し給しかば、衆徒歓喜の掌を合せ、霊仏威徳の光をそふ。されば春日山の嵐の音も、今日よりは万歳を呼ふかと怪まれ、北の藤波千代かけて、花咲春の陰深し。又同月二十七日に、比叡山に行幸成て、大講堂供養あり。彼堂と申は、深草天皇の御願、大日遍照の尊像也。中比造営の後、未供養を遂ずして、星霜已積りければ、甍破ては霧不断の香を焼、扉落ては月常住の燈を挑ぐ。されば満山歎て年を経る処に、忽に修造の大功を遂られ、速に供養の儀式を調へ給しかば、一山眉を開き、九院首を傾けり。 |
元徳二年二月四日、行事担当の弁別当である万里小路中納言藤房卿が天皇に呼ばれ、「来月八日に東大寺と興福寺へ行幸があるから早く供奉者たちに知らせよ」とお命じになった。そこで藤房は古い記録を調べ、先例に基づいて供奉者の装束や行列の順序を取り決めた。 佐々木備中守廷尉が警護役となり橋を渡った際には48ヶ所で篝火を焚き、武装兵士が辻々を見張り固めた。三公九卿は従い、多くの官人たちが列を作って進み、言葉では表現できないほど厳かな儀式であった。 東大寺とは聖武天皇の建立した寺院であり、世界第一といわれる盧舎那仏を安置する。興福寺は淡海公(藤原鎌足)の発願によるもので、藤原氏が尊崇する大きな伽藍であるため、歴代天皇も皆縁結びの思いを持たれたものの、一人で行幸することは容易ではなかったので長年臨幸は行われていなかった。この御世に至り途絶えた伝統を再興し、廃れていたものを復活させて鳳輦(天皇の乗り物)をお回しになったため、僧侶たちは喜び手を合わせ霊仏も威徳の光を増した。 それゆえ春日山の風の音さえ今日から万歳を叫んでいるかのようで不思議に思われた。北野藤波(桜花)が千年をかけて咲き誇り、春の木陰は深く茂っていた。 また同月二十七日には比叡山に行幸があり大講堂供養が行われた。このお堂とは深草天皇の発願によるもので、大日如来像を本尊とする。近年再建された後も未だ供養を終えておらず長い年月が過ぎていたため、屋根は破れて絶え間ない香煙に包まれ扉は落ちて月明かりで灯りをともす状態だった。 そこで全山が嘆きつつ歳月を重ねる中突然修造の大業が成し遂げられ急いで供養式典が整えられたので、比叡山全体が喜び顔を見せ九院すべてが感服した。 解説
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| 御導師は妙法院尊澄法親王、咒願は時の座主大塔尊雲法親王にてぞ御座しける。称揚讚仏の砌には、鷲峯の花薫を譲り、歌唄頌徳の所には、魚山の嵐響を添。伶倫遏雲の曲を奏し、舞童回雪の袖を翻せば、百獣も率舞、鳳鳥も来儀する計也。住吉の神主、津守の国夏大皷の役にて登山したりけるが、宿坊の柱に一首の歌をぞ書付たる。契あれば此山もみつ阿耨多羅三藐三菩提の種や植剣是は伝教大師当山草創の古、「我立杣に冥加あらせ給へ。」と、三藐三菩提の仏達に祈給し故事を思て、読る歌なるべし。抑元亨以後、主愁臣辱られて、天下更安時なし。折節こそ多かるに、今南都北嶺の行幸、叡願何事やらんと尋れば、近年相摸入道振舞、日来の不儀に超過せり。蛮夷の輩は、武命に順ふ者なれば、召とも勅に応ずべからず。只山門南都の大衆を語て、東夷を征罰せられん為の御謀叛とぞ聞へし。依之大塔の二品親王は、時の貫主にて御坐せしか共、今は行学共に捨はてさせ給て、朝暮只武勇の御嗜の外は他事なし。御好有故にや依けん、早業は江都が軽捷にも超たれば、七尺の屏風未必しも高しともせず。打物は子房が兵法を得玉へば、一巻の秘書尽されずと云事なし。天台座主始て、義真和尚より以来一百余代、未懸る不思議の門主は御坐さず。 |
儀式の導師役は妙法院尊澄法親王であり、祈願役は当時の天台座主である大塔尊雲法親王が務めた。仏を称揚し賛美する場面では霊鷲山(釈迦説法の地)の芳ばしい香りさえも凌ぎ、歌や詠唱で徳をたたえる折には魚山(中国曹植ゆかりの聖地)の風響きにも勝る調べが添わった。伶人たちは雲すら止めるような妙曲を奏し、舞い手たちが雪のように翻る袖を見せると、あたかも百獣すべてが踊り出し鳳凰までも飛来したかのようであった。 住吉神社の神主である津守国夏が大太鼓役として登山していた折、宿坊の柱に一首の歌を書き付けた。「縁があればこの山にも見られる阿耨多羅三藐三菩提(無上正等覚)の種子よ 植えられたのはこれか」。これは伝教大師最澄が比叡山開創時に「我ら修行者に御加護を」と仏陀たちへ祈った故事を思い、詠まれた歌であったろう。 さて元亨年間(1321-24)以降は君主憂い臣下辱められ天下安穏の時なく問題が絶えなかった。そのような折に南都北嶺への行幸や比叡山供養がなぜ行われたのか尋ねると、近年の鎌倉幕府執権・北条高時の振る舞いが日増しに不法極まったためと判明した。関東の武士たちは武力で従う者ゆえ詔勅にも応じないため、ただ比叡山や南都(奈良)僧兵を頼り東国征伐の計画を企てられたという噂であった。 これにより大塔宮尊雲親王(後の護良親王)は天台座主として在職中だったが今では学問も修行も捨て、朝夕ただ武勇のみに熱心で他事無き状態である。その御嗜好ゆえか早業は江戸太郎重長の俊敏さを超え七尺屏風すら高しとも思わぬほどであり刀剣術は張良(中国兵法家)の奥義を得て一巻の秘伝書も残らず極めたと評された。天台座主は初代・義真和尚以来百余代で未だかってこのような不思議な門主はいなかった。 解説
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| 後に思合するにこそ、東夷征罰の為に、御身を習されける武芸の道とは知られたれ。 ○僧徒六波羅召捕事付為明詠歌事 事の漏安きは、禍を招く媒なれば、大塔宮の御行事、禁裡に調伏の法被行事共、一々に関東へ聞へてけり。相摸入道大に怒て、「いや/\此君御在位の程は天下静まるまじ。所詮君をば承久の例に任て、遠国へ移し奉せ、大塔宮を死罪に所し奉るべき也。先近日殊に竜顔に咫尺奉て、当家を調伏し給ふなる、法勝寺の円観上人・小野の文観僧正・南都の知教・教円・浄土寺の忠円僧正を召取て、子細を相尋べし。」と、已に武命を含で、二階堂下野判官・長井遠江守二人、関東より上洛す。両使已に京着せしかば、「又何なる荒き沙汰をか致さんずらん。」と、主上宸襟を悩されける所に、五月十一日の暁、雑賀隼人佐を使にて、法勝寺の円観上人・小野の文観僧正・浄土寺の忠円僧正、三人を六波羅へ召取奉る。此中に忠円僧正は、顕宗の碩徳也しかば、調伏の法行たりと云、其人数には入らざりしかども、是も此君に近付き奉て、山門の講堂供養以下の事、万直に申沙汰せられしかば、衆徒与力の事、此僧正よも存ぜられぬ事は非じとて、同召取れ給にけり。是のみならず、智教・教円二人も、南都より召出されて、同六波羅へ出給ふ。 |
後に振り返れば、東国征伐のために身を鍛えられた武芸の道であったと理解されることになる。 ○僧侶たちが六波羅へ召し捕らえられる件および詠歌事件について 両使者が京へ着くと「またもやどのような乱暴を働くつもりか」と天皇は深く憂慮されていたところ、五月十一日の明け方、雑賀隼人佐を使者として法勝寺円観上人・小野山文観僧正・浄土寺忠円僧正の三人が六波羅へ召し捕られた。この中で忠円僧正は顕密両宗の高徳な僧であったため調伏を行ったとは考えられず対象外だったが、天皇に近侍して比叡山講堂供養などの万事を直接取り計らっていたことから「僧兵動員に関しこの僧正が知らないはずがない」として同時に召し捕られた。これだけでなく智教と教円の二人も南都(奈良)より呼び出され同様に六波羅へ連行された。 解説
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| 又二条中将為明卿は、歌道の達者にて、月の夜雪の朝、褒貶の歌合の御会に召れて、宴に侍る事隙無りしかば、指たる嫌疑の人にては無りしかども、叡慮の趣を尋問ん為に召取れて、斉藤某に是を預らる。五人の僧達の事は、元来関東へ召下して、沙汰有べき事なれば、六波羅にて尋窮に及ばず。為明卿の事に於ては、先京都にて尋沙汰有て、白状あらば、関東へ註進すべしとて、検断に仰て、已嗷問の沙汰に及んとす。六波羅の北の坪に炭をゝこす事、■湯炉壇の如にして、其上に青竹を破りて敷双べ、少隙をあけゝれば、猛火炎を吐て、烈々たり。朝夕雑色左右に立双で、両方の手を引張て、其上を歩せ奉んと、支度したる有様は、只四重五逆の罪人の、焦熱大焦熱の炎に身を焦し、牛頭馬頭の呵責に逢らんも、角社有らめと覚へて、見にも肝は消ぬべし。為明卿是を見給て、「硯や有。」と尋られければ、白状の為かとて、硯に料紙を取添て奉りければ、白状にはあらで、一首の歌をぞ書れける。 思きや我敷嶋の道ならで浮世の事を問るべしとは常葉駿河守、此歌を見て感歎肝に銘じければ、泪を流して理に伏す。東使両人も是を読て、諸共に袖を浸しければ、為明は水火の責を遁れて、咎なき人に成にけり。詩歌は朝廷の翫処、弓馬は武家の嗜む道なれば、其慣未必しも、六義数奇の道に携らねども、物相感ずる事、皆自然なれば、此歌一首の感に依て、嗷問の責を止めける、東夷の心中こそやさしけれ。 |
さらに二条中将である為明卿は歌道の達人であり、月夜や雪朝に行われる褒貶のある歌合せの会に頻繁に招かれ宴席に出ていたため特定の嫌疑がある人物ではなかったが、天皇の真意を探るために召し捕らえられ斎藤某に預けられた。五人いた僧侶たちの問題は本来関東へ送って処分すべき事案だったので六波羅での取り調べは行われない。為明卿についてはまず京都で尋問を行い自白があれば関東へ報告せよとの命により、検断役が拷問を開始しようとした。 六波羅の北側に炭火をおこした様子は湯炉壇のようにしており、その上には割いた青竹を敷き詰めわずかな隙間から猛炎が噴出し激しく燃え上がっていた。朝晩を通じ雑役人たちが左右に立ち両手を引っ張って火床の上を行かせようと準備する様子は、あたかも極悪罪人が焦熱地獄の炎に焼かれ牛頭馬頭の鬼に責められる光景にも似て見る者すら肝をつぶしそうであった。為明卿がこれを見られ「硯はあるか」と尋ねると自白するのかと思い、役人は硯と料紙を添えて差し出したところ実際には自白せず一首の歌を書いた。 「思いもよらぬことだ 私が日本の正道(和歌道)ではなく世俗的なことで問われるとは」 常葉駿河守はこの歌を見て深く感嘆し心に刻み涙を流して道理に伏した。関東からの使者二人もこれを読み共々袖を濡らすほど泣いたため為明は水火の拷問から逃れ無実の人となった。詩歌(和歌)は朝廷が愛好する芸事であり弓馬は武家が嗜む道であるので、必ずしも六義数奇(風雅な趣向)に親しんでいない者でも物事に感動することは自然の理であってこの一首への共感によって拷問を止めた関東武士たちの心中こそ優しいものであった。 解説
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| 力をも入ずして、天地を動し、目にみへぬ鬼神をも哀と思はせ、男女の中をも和げ、猛き武士の心をも慰るは歌也と、紀貫之が古今の序に書たりしも、理なりと覚たり。 ○三人僧徒関東下向事 同年六月八日、東使三人の僧達を具足し奉て、関東に下向す。彼忠円僧正と申は、浄土寺慈勝僧正の門弟として、十題判断の登科、一山無双の碩学也。文観僧正と申は、元は播磨国法華寺の住侶たりしが、壮年の比より醍醐寺に移住して、真言の大阿闍梨たりしかば、東寺の長者、醍醐の座主に補せられて、四種三密の棟梁たり。円観上人と申は、元は山徒にて御坐けるが、顕密両宗の才、一山に光有かと疑はれ、智行兼備の誉れ、諸寺に人無が如し。然ども久山門澆漓の風に随はゞ、情慢の幢高して、遂に天魔の掌握の中に落ぬべし。不如、公請論場の声誉を捨て、高祖大師の旧規に帰んにはと、一度名利の轡を返して、永く寂寞の苔の扉を閉給ふ。初の程は西塔の黒谷と云所に居を卜て、三衣を荷葉の秋の霜に重ね、一鉢を松華の朝の風に任給ひけるが、徳不孤必有隣、大明光を蔵ざりければ、遂に五代聖主の国師として、三聚浄戒の太祖たり。かゝる有智高行の尊宿たりと云へども、時の横災をば遁給はぬにや、又前世の宿業にや依けん。 |
力を使わずに天地を動かし、目に見えない鬼神をも感動させ、男女の仲も和ませ、猛々しい武士の心さえ慰めるのは歌であると紀貫之が『古今集』序文に書いているのも道理だと理解される。 ○三人の僧侶が関東へ下向する件 解説
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| 遠蛮の囚と成て、逆旅の月にさすらひ給、不思議なりし事ども也。円観上人計こそ、宗印・円照・道勝とて、如影随形の御弟子三人、随逐して輿の前後に供奉しけれ。其外文観僧正・忠円僧正には相随者一人も無て、怪なる店馬に乗せられて、見馴ぬ武士に打囲れ、まだ夜深きに鳥が鳴東の旅に出給ふ、心の中こそ哀なれ。鎌倉までも下し着けず、道にて失ひ奉るべしなんど聞へしかば、彼の宿に着ても今や限り、此の山に休めば是や限りと、露の命のある程も、心は先に消つべし。昨日も過今日も暮ぬと行程に、我とは急がぬ道なれど、日数積れば、六月二十四日に鎌倉にこそ着にけれ。円観上人をば佐介越前守、文観僧正をば佐介遠江守、忠円僧正をば足利讚岐守にぞ預らる。両使帰参して、彼僧達の本尊の形、炉壇の様、画図に写て註進す。俗人の見知るべき事ならねば、佐々目の頼禅僧正を請じ奉て、是を被見せに、「子細なき調伏の法也。」と申されければ、「去ば此僧達を嗷問せよ。」とて、侍所に渡して、水火の責をぞ致しける。文観房暫が程はいかに問れけれ共、落玉はざりけるが、水問重りければ、身も疲心も弱なりけるにや、「勅定に依て、調伏の法行たりし条子細なし。」と、白状せられけり。其後忠円房を嗷問せんとす。 |
遠く蛮族の地での囚人となって、旅先の月明かりのもとで流浪されたのは不思議なことだった。ただ円観上人のみが宗印・円照・道勝という影のように従う三人の弟子を連れ、輿の前後にお供していた。その他の文観僧正や忠円僧正には付き添い者一人もなく、粗末な駅馬に乗せられ見知らぬ武士に囲まれ、まだ夜が深いうちに東へ向かう旅に出発された心中は実に哀れであった。「鎌倉まで生きたまま着けず途中で殺すだろう」と噂されていたため、宿に着く度にもう終わりか、山で休む時もこれが最後かと思い露のように儚い命のある間から心は先立って消えそうだった。昨日も過ぎ今日も暮れるという旅の道中(逃げるわけでもないのに)、日数が重なり6月24日に鎌倉へ到着した。 円観上人は佐介越前守、文観僧正は佐介遠江守、忠円僧正は足利讃岐守にそれぞれ預けられた。関東からの使者たちは帰還後、彼ら僧侶の本尊像や祭壇を絵図に描き報告したが、普通の人には理解できないものだったので佐々目の頼禅僧正を招いて鑑定させると「疑いようもない呪詛(調伏)の法である」と申し立てたため、「ならば尋問せよ」との命で侍所へ引き渡され水責め火責めが行われた。文観房は暫くは何を訊かれても自白しなかったが、水責めが重なるうちに体も疲れ心も弱ったのか「勅命により呪詛の法を行ったことに間違いない」と白状した。その後忠円房にも尋問を始めようとした。 解説
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| 此僧正天性臆病の人にて、未責先に、主上山門を御語ひありし事、大塔の宮の御振舞、俊基の隠謀なんど、有もあらぬ事までも、残所なく白状一巻に載られたり。此上は何の疑か有べきなれ共、同罪の人なれば、閣べきに非ず。円観上人をも明日問奉るべき評定ありける。其夜相摸入道の夢に、比叡山の東坂本より、猿共二三千群来て、此上人を守護し奉る体にて、並居たりと見給ふ。夢の告只事ならずと思はれければ、未明に預人の許へ使者を遣し、「上人嗷問の事暫く閣べし。」と被下知処に、預人遮て相摸入道の方に来て申けるは、「上人嗷問の事、此暁既其沙汰を致候はん為に、上人の御方へ参て候へば、燭を挑て観法定坐せられて候。其御影後の障子に移て、不動明王の貌に見させ給候つる間、驚き存て、先事の子細を申入ん為に、参て候也。」とぞ申ける。夢想と云、示現と云、只人にあらずとて、嗷問の沙汰を止られけり。同七月十三日に、三人の僧達遠流の在所定て、文観僧正をば硫黄が嶋、忠円僧正をば越後国へ流さる。円観上人計をば遠流一等を宥て、結城上野入道に預られければ、奥州へ具足し奉、長途の旅にさすらひ給。左遷遠流と云ぬ計也。遠蛮の外に遷されさせ給へば、是も只同じ旅程の思にて、肇法師が刑戮の中に苦み、一行阿闍梨の火羅国に流されし、水宿山行の悲もかくやと思知れたり。 |
この忠円僧正は生来臆病な人物であったため、拷問を加えられる前に主君(後醍醐天皇)が比叡山へ働きかけたこと・大塔宮護良親王の行動・俊基の密謀などありもしない事柄まですべて残らず自供し一巻の書状に記録された。これ以上疑う余地はなかったが、同罪者であるため見逃すわけにはいかなかった。円観上人も翌日尋問する評定(会議)があったところ、その夜相模入道北条高時の夢に比叡山の東坂本から猿二三千頭が群れをなして現れこの上人を守護している様子が見えた。夢告はただ事ではないと考え未明に預かり役へ使者を遣わし「円観への尋問は暫く差し控えよ」と命令したところ、預かり人が急ぎ北条高時の元へ来て申し上げた――「今朝早々上人へ尋問の通知をするためお住まいへ参りましたが燭灯をかざして観法(瞑想)中でございました。その影が後ろの障子に映って不動明王のお姿に見えたので驚き事の次第をお伝えするために参上しました」。夢想であれ霊験示現であれ常人ではあるまいと判断され尋問は中止された。 同年7月13日、三人の僧侶流刑地が決められ文観僧正は硫黄島・忠円僧正は越後国へ配流となった。ただ円観上人だけ遠流一等を赦免されて結城上野入道に預けられたためお供して奥州への長旅に出たのは左遷も同然である。辺境の地へ移された悲しみは同じく肇法師が処刑苦難にあえいだことや一行阿闍梨が火羅国流罪で水宿山行した悲哀と変わらないと思われた。 解説
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| 名取川を過させ給とて上人一首の歌を読給ふ。陸奥のうき名取川流来て沈やはてん瀬々の埋木時の天災をば、大権の聖者も遁れ給はざるにや。昔天竺の波羅奈国に、戒定慧の三学を兼備し給へる独の沙門をはしけり。一朝の国師として四海の倚頼たりしかば、天下の人帰依偈仰せる事、恰大聖世尊の出世成道の如也。或時其国の大王法会を行ふべき事有て説戒の導師に此沙門をぞ請ぜられける。沙門則勅命に随て鳳闕に参ぜらる。帝折節碁を被遊ける砌へ、伝奏参て、沙門参内の由を奏し申けるを、遊しける碁に御心を入られて、是を聞食れず、碁の手に付て、「截れ。」と仰られけるを、伝奏聞誤りて、此沙門を刎との勅定ぞと心得て、禁門の外に出し、則沙門の首を刎てけり。帝碁をあそばしはてゝ、沙門を御前へ召ければ、典獄の官、「勅定に随て首を刎たり。」と申す。帝大に逆鱗ありて、「「行死定て後三奏す」と云へり。而を一言の下に誤を行て、朕が不徳をかさぬ。罪大逆に同じ。」とて、則伝奏を召出して三族の罪に行れけり。さて此沙門罪なくして死刑に逢ひ給ぬる事只事にあらず、前生の宿業にてをはすらんと思食れければ、帝其故を阿羅漢に問給ふ。阿羅漢七日が間、定に入て宿命通を得て過現を見給ふに、沙門の前生は耕作を業とする田夫也。 |
円観上人が名取川を渡られる際に一首の歌をお詠みになった。「陸奥の憂き名取川よ流れ来て沈むだろうか、浅瀬に漂う埋もれた木のように」と。時の天災は大権現のような聖者さえ逃れることができないのだろうか。 昔インドのバラナシ王国で戒律・禅定・智慧という仏教三学を兼ね備えた高徳な修行者がいた。その国の国師として天下の人々が頼りにし崇め奉る様子はあたかも釈迦如来が世に出て悟りを得られたようであった。ある時国王が法会を行うため説戒の導師としてこの僧侶を招請したところ、彼は勅命に従って宮殿へ参内した。 ちょうど王様が碁を打たれている最中に通奏官が「僧侶が到着しました」と報告すると、碁に夢中の王は聞き入れず盤上の石を示して「切れ(=この石を取り除け)」と言われた。これを誤って聴いた通奏官は「刎ねよとの勅命だ」と思い込み門外へ僧侶を連れ出し首を斬った。 王が碁を終えて召喚しようとしたところ、刑吏が「御命令通り処刑しました」と申した。激怒した王様は「死刑執行前には三度報告すべきだというのに一語の誤解で我が不徳を招くとは大逆罪に等しい」と言い通奏官を呼び出して一族皆殺しにされた。 この僧侶が無実にもかかわらず死んだことは尋常ではなく前世からの宿業によるものと思われたため、王は阿羅漢(聖者)に理由を問うた。七日間瞑想に入って過去を見通した阿羅漢によればその修行者の前世は田畑を耕す農夫であった。 解説
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| 帝の前生は水にすむ蛙にてぞ有ける。此田夫鋤を取て春の山田をかへしける時、誤て鋤のさきにて、蛙の頚をぞ切たりける。此因果に依て、田夫は沙門と生れ、蛙は波羅奈国の大王と生れ、誤て又死罪を行れけるこそ哀なれ。されば此上人も、何なる修因感果の理に依か、卦る不慮の罪に沈給ぬらんと、不思議也し事共也。 ○俊基朝臣再関東下向事 俊基朝臣は、先年土岐十郎頼貞が討れし後、召取れて、鎌倉まで下給しかども、様々に陳じ申されし趣、げにもとて赦免せられたりけるが、又今度の白状共に、専隠謀の企、彼朝臣にありと載たりければ、七月十一日に又六波羅へ召取れて関東へ送られ給ふ。再犯不赦法令の定る所なれば、何と陳る共許されじ、路次にて失るゝか鎌倉にて斬るゝか、二の間をば離れじと、思儲てぞ出られける。落花の雪に蹈迷ふ、片野の春の桜がり、紅葉の錦を衣て帰、嵐の山の秋の暮、一夜を明す程だにも、旅宿となれば懶に、恩愛の契り浅からぬ、我故郷の妻子をば、行末も知ず思置、年久も住馴し、九重の帝都をば、今を限と顧て、思はぬ旅に出玉ふ、心の中ぞ哀なる。憂をば留ぬ相坂の、関の清水に袖濡て、末は山路を打出の浜、沖を遥見渡せば、塩ならぬ海にこがれ行、身を浮舟の浮沈み、駒も轟と踏鳴す、勢多の長橋打渡り、行向人に近江路や、世のうねの野に鳴鶴も、子を思かと哀也。 |
皇帝の前世は水辺に住む蛙であった。この農夫が鋤を持って春の山田を耕していた時、誤って鋤の先で蛙の首を切ったのだ。この因果によって農夫は修行者として生まれ変わり、蛙はバラナシ王国の大王となり、今度もまた死刑に処されたのは悲しいことだ。だからこそ円観上人も何らかの因縁により思いがけぬ罪に陥ったのだろうと不思議なことであった。 ○俊基卿の再度の関東下り 解説
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| 時雨もいたく森山の、木下露に袖ぬれて、風に露散る篠原や、篠分る道を過行ば、鏡の山は有とても、泪に曇て見へ分ず。物を思へば夜間にも、老蘇森の下草に、駒を止て顧る、古郷を雲や隔つらん。番馬、醒井、柏原、不破の関屋は荒果て、猶もる物は秋の雨の、いつか我身の尾張なる、熱田の八剣伏拝み、塩干に今や鳴海潟、傾く月に道見へて、明ぬ暮ぬと行道の、末はいづくと遠江、浜名の橋の夕塩に、引人も無き捨小船、沈みはてぬる身にしあれば、誰か哀と夕暮の、入逢鳴ば今はとて、池田の宿に着給ふ。元暦元年の比かとよ、重衡中将の、東夷の為に囚れて、此宿に付給しに、「東路の丹生の小屋のいぶせきに、古郷いかに恋しかるらん。」と、長者の女が読たりし、其古の哀迄も、思残さぬ泪也。旅館の燈幽にして、鶏鳴暁を催せば、疋馬風に嘶へて、天竜河を打渡り、小夜の中山越行ば、白雲路を埋来て、そことも知ぬ夕暮に、家郷の天を望ても、昔西行法師が、「命也けり。」と詠つゝ、二度越し跡までも、浦山敷ぞ思はれける。隙行駒の足はやみ、日已亭午に昇れば、餉進る程とて、輿を庭前に舁止む。轅を叩て警固の武士を近付け、宿の名を問給ふに、「菊川と申也。」と答へければ、承久の合戦の時、院宣書たりし咎に依て、光親卿関東へ召下されしが、此宿にて誅せられし時、昔南陽懸菊水。 |
時雨が激しく降りしきる森山で、木々から滴る露に袖を濡らしながら進む。風に露が散る篠原では笹の茂みを分ける道を通ると、鏡山という名の場所があっても涙で視界が曇って見えない。物思いにふけり夜通し歩くと老蘇の森の下草辺りで馬を止めて振り返れば故郷は雲に隔てられているようだ。 番場・醒ヶ井・柏原を通り過ぎると、不破関の建物は荒れ果て秋雨だけが降り注ぐ。やがて尾張国へ入る熱田神宮で剣を拝み鳴海潟に差し迫った月明かりを頼り進む。夜も昼も歩き続ける先には遠江国の浜名の橋、夕暮れに引き手もない捨て小舟がある様子は沈んでしまいそうな自身の身と重なる。「誰が哀れと思うだろうか」と思いつつ池田宿へ着いた。 元暦元年(1184年)頃だったろうか。平重衡中将が東国の武士に捕らえられこの宿で詠んだ「丹生の小屋の息苦しさよ 故郷はどうなっているだろう」という歌を、当時の長者の娘が返した古事まで思い出して泣いた。 宿屋の灯りが幽かに揺れ鶏鳴と共に夜明けを迎える。馬がいなないながら天竜川を渡り小夜の中山越えを行くうち白雲が道を埋め、故郷の方角を見上げても西行法師が「命とはこんなものか」と詠み二度も通ったこの地で自らを重ねた。時間は馬足のように早く過ぎ昼時に差し掛かり輿を庭先に止めた時、警護の武士を呼んで宿名を尋ねると「菊川です」との答えが返る——承久の乱(1221年)で藤原光親卿が処刑された地であり彼は最期に「南陽懸菊水」(かつて菊から霊泉湧いた故事)と詠んだことを思い起こした。 解説
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| 汲下流而延齢。今東海道菊河。宿西岸而終命。と書たりし、遠き昔の筆の跡、今は我身の上になり。哀やいとゞ増りけん、一首の歌を詠て、宿の柱にぞ書れける。古もかゝるためしを菊川の同じ流に身をや沈めん大井河を過給へば、都にありし名を聞て、亀山殿の行幸の、嵐の山の花盛り、竜頭鷁首の舟に乗り、詩歌管絃の宴に侍し事も、今は二度見ぬ夜の夢と成ぬと思つゞけ給ふ。嶋田、藤枝に懸りて、岡辺の真葛裡枯て、物かなしき夕暮に、宇都の山辺を越行ば、蔦楓いと茂りて道もなし。昔業平の中将の住所を求とて、東の方に下とて、「夢にも人に逢ぬなりけり。」と読たりしも、かくやと思知れたり。清見潟を過給へば、都に帰る夢をさへ、通さぬ波の関守に、いとゞ涙を催され、向はいづこ三穂が崎・奥津・神原打過て、富士の高峯を見給へば、雪の中より立煙、上なき思に比べつゝ、明る霞に松見へて、浮嶋が原を過行ば、塩干や浅き船浮て、をり立田子の自も、浮世を遶る車返し、竹の下道行なやむ、足柄山の巓より、大磯小磯直下て、袖にも波はこゆるぎの、急としもはなけれども、日数つもれば、七月二十六日の暮程に、鎌倉にこそ着玉けれ。其日軈て、南条左衛門高直請取奉て、諏防左衛門に預らる。一間なる処に蜘手きびしく結て、押篭奉る有様、只地獄の罪人の十王の庁に渡されて、頚械手械を入られ、罪の軽重を糺すらんも、右やと思知れたり。 |
「下流の水を汲んで命を延ばす」という昔光親卿が書き残した句が、今は自分自身に降りかかったと思うと悲しみが一層深まり、一首の歌を詠んで宿の柱に記した。「古(いにしえ)もこういう例がある菊川で 同じ流れに身を沈めるのだろうか」。大井川を渡るときには都での栄華を思い出し、亀山院の行幸で嵐山が花満開だった頃、豪華な船に乗り詩歌や音楽の宴に列席したことも二度と見られない夢となった。 嶋田・藤枝を通り過ぎると岡辺には葛(くず)が枯れ夕暮れは物悲しい。宇都山を越える道では蔦や楓が茂って進みにくい。昔在原業平が東国へ下向した際「夢にも人に会えない」と詠んだ心境も今なら理解できると痛感する。清見潟を通るときは故郷に帰る夢さえ遮られるかのように涙があふれ、三穂ヶ崎・奥津・神原を経て富士の高嶺を見上げれば雪の中から立ち上る煙が自身のはかなく消えゆく思いと重なった。朝もやの中で松が見える浮島ヶ原を通り過ぎると浅瀬に船が浮かび、農夫たちが働く様子を「この世は流転する車輪のようだ」と思いながら竹藪の道を行き足柄山頂から大磯・小磯へ下る。袖にかかる波もさほど急ではないのに日数が経つにつれ、七月二十六日の夕暮れに鎌倉へ到着した。 その日すぐ南条左衛門高直(なんじょうさえもんたかなお)が引き取り諏訪左衛門(すわさえもん)に預けられる。狭い一室には厳重な格子窓があり閉じ込められた様子は、地獄で十王の庁へ連行された罪人が首枷や手枷を嵌(は)められ裁かれる光景そのものだと悟った。 解説
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| ○長崎新左衛門尉意見事付阿新殿事 当今御謀反の事露顕の後御位は軈て持明院殿へぞ進らんずらんと、近習の人々青女房に至まで悦あへる処に、土岐が討れし後も曾て其沙汰もなし。今又俊基召下されぬれ共、御位の事に付ては何なる沙汰あり共聞ざりければ、持明院殿方の人々案に相違して五噫を謳者のみ多かりけり。さればとかく申進る人のありけるにや、持明院殿より内々関東へ御使を下され、「当今御謀反の企近日事已に急なり。武家速に糾明の沙汰なくば天下の乱近に有べし。」と仰られたりければ、相摸入道、「げにも。」と驚て、宗徒の一門・並頭人・評定衆を集て、「此事如何有べき。」と各所存を問る。然ども或は他に譲て口を閉、或は己を顧て言を出さゞる処に、執事長崎入道が子息新左衛門尉高資進出て申けるは、「先年土岐十郎が討れし時、当今の御位を改申さるべかりしを、朝憲に憚て御沙汰緩かりしに依て此事猶未休。乱を撥て治を致は武の一徳也。速に当今を遠国に遷し進せ、大塔宮を不返の遠流に所し奉り、俊基・資朝以下の乱臣を、一々に誅せらるゝより外は、別儀あるべしとも存候はず。」と、憚る処なく申けるを、二階堂出羽入道道蘊暫思案して申けるは、「此儀尤然るべく聞へ候へ共、退て愚案を廻すに、武家権を執て已に百六十余年、威四海に及、運累葉を耀すこと更に他事なし。 |
長崎新左衛門尉の意見と阿新殿について 解説
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| 唯上一人を仰奉て、忠貞に私なく、下百姓を撫て仁政に施ある故也。然に今君の寵臣一両人召置れ、御帰衣の高僧両三人流罪に処せらるゝ事も、武臣悪行の専一と云つべし。此上に又主上を遠所へ遷し進せ、天台座主を流罪に行れん事、天道奢を悪むのみならず、山門争か憤を含まざるべき。神怒人背かば、武運の危に近るべし。「君雖不君、不可臣以不臣」と云へり。御謀反の事君縦思食立とも、武威盛ならん程は与し申者有べからず。是に付ても武家弥よ慎で勅命に応ぜば、君もなどか思食直す事無らん。かくてぞ国家の泰平、武運の長久にて候はんと存るは、面々如何思食候。」と申けるを、長崎新左衛門尉又自余の意見をも不待、以の外に気色を損じて、重て申けるは、「文武揆一也と云へ共、用捨時異るべし。静なる世には文を以て弥治め、乱たる時には武を以急に静む。故戦国の時には孔盂不足用、太平の世には干戈似無用。事已に急に当りたり。武を以て治むべき也。異朝には文王・武王、臣として、無道の君を討し例あり。吾朝には義時・泰時、下として不善の主を流す例あり。世みな是を以て当れりとす。されば古典にも、「君視臣如土芥則臣視君如冦讎。」と云へり。事停滞して武家追罰の宣旨を下されなば、後悔すとも益有べからず。 |
長崎新左衛門尉の意見と阿新殿について(続き) 解説
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| 只速に君を遠国に遷し進せ、大塔の宮を硫黄が嶋へ流奉り、隠謀の逆臣、資朝・俊基を誅せらるゝより外の事有べからず。武家の安泰万世に及べしとこそ存候へ。」と、居長高に成て申ける間、当座の頭人・評定衆、権勢にや阿けん、又愚案にや落けん、皆此義に同じければ、道蘊再往の忠言に及ばず眉を顰て退出す。さる程に、「君の御謀反を申勧けるは、源中納言具行・右少弁俊基・日野中納言資朝也、各死罪に行るべし。」と評定一途に定て、「先去年より佐渡国へ流されてをはする資朝卿を斬奉べし。」と、其国の守護本間山城入道に被下知。此事京都に聞へければ、此資朝の子息国光の中納言、其比は阿新殿とて歳十三にてをはしけ〔る〕が、父の卿召人に成玉しより、仁和寺辺に隠て居られけるが、父誅せられ給べき由を聞て、「今は何事にか命を惜むべき。父と共に斬れて冥途の旅の伴をもし、又最後の御有様をも見奉るべし。」とて母に御暇をぞ乞れける。母御頻に諌て、「佐渡とやらんは、人も通はぬ怖しき嶋とこそ聞れ。日数を経る道なればいかんとしてか下べき。其上汝にさへ離ては、一日片時も命存べしとも覚へず。」と、泣悲て止ければ、「よしや伴ひ行人なくば、何なる淵瀬にも身を投て死なん。」と申ける間、母痛止ば、又目の前に憂別も有ぬべしと思侘て、力なく今迄只一人付副たる中間を相そへられて、遥々と佐渡国へぞ下ける。 |
評定で「ただちに天皇を遠国へ移し、大塔宮(護良親王)を硫黄島へ流罪とし、謀反人である資朝・俊基は処刑する以外ない。これにより武家の安泰が永遠に続くだろう」という長崎高資の発言が圧倒的だったため、出席した重臣や評定衆たちは権力におびえたのか判断を誤ったのか全員賛成し、二階堂道蘊は繰り返し諫める機会もなく眉をひそめて退出した。その後、「天皇の謀反を進めたのは源具行(中納言)・俊基(右少弁)・日野資朝(中納言)であり全員死罪とする」と決定が下り、特に「昨年から佐渡国へ流されていた資朝卿を斬首せよ」と現地の守護である本間山城入道に命令された。この報せが京都に届くと、資朝の息子で当時13歳だった阿新殿(中納言・藤原国光)は——父が捕らえられて以来仁和寺付近に隠れ住んでいたが——父が処刑されると知り、「もはや命を惜しむ理由などない。父と共に斬られ冥土の道連れとなろう、せめて最期の姿を見届けよう」と母に別れを告げた。母が必死に止める「佐渡なんて人が行かない恐ろしい島よ。長旅なのにどうやって行けるというのか。それにお前までいなくなるなら私は一日も生きられない」との涙ながらの言葉に対し、阿新殿は「誰か同行者がいなければどんな淵に身を投げても死ぬだけだ」と返したため、母は無理に止めれば目の前で自害されるかもしれずやむなく承諾。一人きりだった従者にさらに中間(下僕)を添えられて佐渡国へ向かった。 解説
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| 路遠けれども乗べき馬もなければ、はきも習ぬ草鞋に、菅の小笠を傾て、露分わくる越路の旅、思やるこそ哀なれ。都を出て十三日と申に、越前の敦賀の津に着にけり。是より商人船に乗て、程なく佐渡国へぞ着にける。人して右と云べき便もなければ、自本間が館に致て中門の前にぞ立たりける。境節僧の有けるが立出て、「此内への御用にて御立候か。又何なる用にて候ぞ。」と問ければ、阿新殿、「是は日野中納言の一子にて候が、近来切られさせ給べしと承て、其最後の様をも見候はんために都より遥々と尋下て候。」と云もあへず、泪をはら/\と流しければ、此僧心有ける人也ければ、急ぎ此由を本間に語るに、本間も岩木ならねば、さすが哀にや思けん、軈て此僧を以持仏堂へいざなひ入て、蹈皮行纒解せ足洗て、疎ならぬ体にてぞ置たりける。阿新殿是をうれしと思に付ても、同は父の卿を疾見奉ばやと云けれ共、今日明日斬らるべき人に是を見せては、中々よみ路の障とも成ぬべし。又関東の聞へもいかゞ有らんずらんとて、父子の対面を許さず、四五町隔たる処に置たれば、父の卿は是を聞て、行末も知ぬ都にいかゞ有らんと、思やるよりも尚悲し。子は其方を見遣て、浪路遥に隔たりし鄙のすまゐを想像て、心苦く思つる泪は更に数ならずと、袂の乾くひまもなし。 |
道は遠いのに乗る馬もなく、履き慣れない草鞋で菅笠を傾け露の降りる越路(北陸道)を行く姿は見ていて痛ましい。都を出て十三日目に越前国敦賀津へ着いた。ここから商人船に乗って間もなく佐渡島へ到着したが、案内役もいないため自ら本間の館に行き中門前に立った。たまたま居合わせた僧侶が出てきて「ご用件は?」と尋ねると、阿新殿は「日野中納言(資朝)の息子です。父が処刑されると聞き最期を見届けに都から来ました」と言い終わらぬうちに涙を流した。この僧侶は心ある者だったので急ぎ本間に報告すると、本間も無情な岩木ではないため哀れと思ったのか、すぐに阿新殿を持仏堂へ招き草鞋と脚絆を解かせ足を洗わせ、丁重にもてなした。阿新殿は喜んだものの「一刻も早く父にお会いしたい」と言ったが、「今まさに処刑される人と面会させれば冥途の妨げになるかもしれない。幕府の耳に入っても困る」として父子対面を許さず、四~五百メートル離れた場所へ隔離した。これを聞いた父・資朝は「都で無事かどうかもわからぬ子が…」と想像するだけでなおさら悲しく、息子は方角を見て荒波越しの粗末な住まいを思い浮かべ胸が痛み、涙で袖が乾く暇もなかった。 解説
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| 是こそ中納言のをはします楼の中よとて見やれば、竹の一村茂りたる処に、堀ほり廻し屏塗て、行通ふ人も稀也。情なの本間が心や。父は禁篭せられ子は未稚なし。縦ひ一所に置たりとも、何程の怖畏か有べきに、対面をだに許さで、まだ同世の中ながら生を隔たる如にて、なからん後の苔の下、思寝に見ん夢ならでは、相看ん事も有がたしと、互に悲む恩愛の、父子の道こそ哀なれ。五月二十九日の暮程に、資朝卿を篭より出し奉て、「遥に御湯も召れ候はぬに、御行水候へ。」と申せば、早斬らるべき時に成けりと思給て、「嗚呼うたてしき事かな、我最後の様を見ん為に、遥々と尋下たる少者を一目も見ずして、終ぬる事よ。」と計り宣て、其後は曾て諸事に付て言をも出給はず。今朝迄は気色しほれて、常には泪を押拭ひ給けるが、人間の事に於ては頭燃を払ふ如に成ぬと覚て、只綿密の工夫の外は、余念有りとも見へ給はず。夜に入れば輿さし寄て乗せ奉り、爰より十町許ある河原へ出し奉り、輿舁居たれば、少も臆したる気色もなく、敷皮の上に居直て、辞世の頌を書給ふ。五蘊仮成形。四大今帰空。将首当白刃。截断一陣風。年号月日の下に名字を書付て、筆を閣き給へば、切手後へ回るとぞ見へし、御首は敷皮の上に落て質は尚坐せるが如し。 |
そこ(阿新殿の宿所)から中納言(資朝)がいるとされる楼閣を見上げると、竹藪に囲まれ堀と塀で隔てられ人の往来も稀な場所だった。非情な本間の心よ!父は監禁され息子は幼いのに、仮に同室でも何の問題があるというのか。顔を合わせることも許さず生きながら別世界のように扱うとは。亡き後に墓の下で夢に見ること以外では二度と会えぬかと思う親子の情愛が痛ましい。五月二十九日の夕暮れ時、資朝卿は檻から出され「久しく湯も召し上がっていないので行水を」と言われると処刑時と悟り、「ああ無念だ!最期を見ようと遥々来た幼子に一目も会えず終わるとは」とだけ述べ、その後一切言葉を発さなかった。これまでは悲嘆の色が見えたが今は頭髪(煩悩)を振るい落としたかのように平静で、ただ瞑想する姿以外に雑念らしきものも見えぬ。夜に入ると輿で十町ほどの河原へ運ばれても微動だにせず敷皮の上に端座したまま辞世の偈を記す。"五蘊仮成形(肉体は仮の形)、四大今帰空(元素は空虚へ帰る)。将首当白刃(今や白刃に向かう)、截断一陣風(斬られて一陣の風となる)"。年月日と署名し筆を置く。首切り役が後ろに回ると、首は敷皮に落ちたのに胴体はなお坐ったままだった。 解説
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| 此程常に法談なんどし給ひける僧来て、葬礼如形取営み、空き骨を拾て阿新に奉りければ、阿新是を一目見て、取手も撓倒伏、「今生の対面遂に叶ずして、替れる白骨を見る事よ。」と泣悲も理也。阿新未幼稚なれ共、けなげなる所存有ければ、父の遺骨をば只一人召仕ける中間に持せて、「先我よりさきに高野山に参て奥の院とかやに収よ。」とて都へ帰し上せ、我身は労る事有る由にて尚本間が館にぞ留りける。是は本間が情なく、父を今生にて我に見せざりつる鬱憤を散ぜんと思ふ故也。角て四五日経ける程に、阿新昼は病由にて終日に臥し、夜は忍やかにぬけ出て、本間が寝処なんど細々に伺て、隙あらば彼入道父子が間に一人さし殺して、腹切らんずる物をと思定てぞねらいける。或夜雨風烈しく吹て、番する郎等共も皆遠侍に臥たりければ、今こそ待処の幸よと思て、本間が寝処の方を忍て伺に、本間が運やつよかりけん、今夜は常の寝処を替て、何くに有とも見へず。又二間なる処に燈の影の見へけるを、是は若本間入道が子息にてや有らん。其なりとも討て恨を散ぜんと、ぬけ入て是を見るに、其さへ爰には無して、中納言殿を斬奉し本間三郎と云者ぞ只一人臥たりける。よしや是も時に取ては親の敵也。山城入道に劣るまじと思て走りかゝらんとするに、我は元来太刀も刀も持ず、只人の太刀を我物と憑たるに、燈殊に明なれば、立寄ば軈て驚合ふ事もや有んずらんと危で、左右なく寄ゑず。 |
その後も普段から仏教説話などをしていた僧侶が来て葬儀を執り行い遺骨を取り集め阿新殿に渡した。阿新殿はこれを見ると手にする力も抜けて崩れ落ち、「生前にお会いできず代わりに白骨だけ拝むとは」と泣き悲しんだのも当然だった。幼さが残る阿新殿だが気概があったため、父の遺骨をただ一人連れてきた従者に託して「私より先に高野山へ行き奥之院という所に納めてくれ」と言い京へ帰らせた。自身は体調不良と称し本間館にとどまったのは、本間家への憎悪から父の最期すら見せなかった無念を晴らそうとしたためだ。四、五日過ぎるうちに阿新殿は昼は病気と偽って寝込み夜には密かに抜け出て本間親子の寝室を探り回った。「機会があればあの父子どちらかを刺し殺して自害しよう」と狙う中で、ある晩は暴風雨に見張りの従者も離れた場所にいたため「今だ!」と思い潜入するが幸運なのか本間親子は寝室を変えておらず更に別棟の灯りを見て「若年輩かもしれないが討って恨みを晴らそう」と忍び込む。しかしそこにはすらいなく、代わりに資朝卿を斬った本間三郎という者が一人寝ていた。「これも仇だ山城入道(親)にも劣らない憎き相手」と襲いかからんとしたが自身は武器を持たず仮借した刀だけでは不十分で灯りが明るすぎ接近すれば気づかれ騒動になる危険を感じ結局近寄れなかった。 解説
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| 何がせんと案じ煩て立たるに、折節夏なれば灯の影を見て、蛾と云虫のあまた明障子に取付たるを、すはや究竟の事こそ有れと思て障子を少引あけたれば、此虫あまた内へ入て軈て灯を打けしぬ。今は右とうれしくて、本間三郎が枕に立寄て探るに、太刀も刀も枕に有て、主はいたく寝入たり。先刀を取て腰にさし、太刀を抜て心もとに指当て、寝たる者を殺は死人に同じければ、驚さんと思て、先足にて枕をはたとぞ蹴たりける。けられて驚く処を、一の太刀に臍の上を畳までつとつきとをし、返す太刀に喉ぶゑ指切て、心閑に後の竹原の中へぞかくれける。本間三郎が一の太刀に胸を通されてあつと云声に、番衆ども驚騒で、火を燃して是を見るに、血の付たるちいさき足跡あり。「さては阿新殿のしわざ也。堀の水深ければ、木戸より外へはよも出じ。さがし出て打殺せ。」とて、手々松明をとぼし、木の下、草の陰まで残処無ぞさがしける。阿新は竹原の中に隠れながら、今は何くへか遁るべき。人手に懸らんよりは、自害をせばやと思はれけるが、悪しと思親の敵をば討つ、今は何もして命を全して、君の御用にも立、父の素意をも達したらんこそ忠臣孝子の儀にてもあらんずれ、若やと一まど落て見ばやと思返して、堀を飛越んとしけるが、口二丈深さ一丈に余りたる堀なれば、越べき様も無りけり。 |
どうしようかと思い悩んで立っていると、丁度夏の季節だったので明かりを見て多くの蛾が障子に集まっているのに気付き、「これは好機だ」と少し障子を開けると虫たちが室内に入り燈火を消した。これでようやく願い通りとなり本間三郎の枕元へ近づくと太刀も脇差もあるので、まず短刀を腰に刺し長剣を抜いて心臓目掛け構えた。「寝ている者を殺すのは死人と同じだから驚かせてからだ」と考え足で枕を蹴りつける。驚いて起きた瞬間、第一撃でみぞおちから畳まで貫き通し、続く一撃で喉笛を切り裂くと静かに裏庭の竹藪に隠れた。本間三郎が「あっ」と叫んだ声に見張りたちは騒ぎ火をつけると血痕付きの小さな足跡があり、「阿新殿の仕業だ!堀が深いから門外へ出られまい、探し出して殺せ!」と松明を掲げ草木かげまで徹底的に捜索した。竹藪に潜む阿新は「もう逃げ場がないなら捕まるより自害しよう」と思ったが、「よく考えれば親の仇を討てたのだから命を永らえ主君に尽くし父の志も果たすのが忠臣孝子の道だ」と翻意。堀飛び越えを試みるが幅六メートル深さ三メートルの堀では不可能だった。 解説
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| さらば是を橋にして渡んよと思て、堀の上に末なびきたる呉竹の梢へさら/\と登たれば、竹の末堀の向へなびき伏て、やす/\と堀をば越てげり。夜は未深し、湊の方へ行て、舟に乗てこそ陸へは着めと思て、たどるたどる浦の方へ行程に、夜もはや次第に明離て忍べき道もなければ、身を隠さんとて日を暮し、麻や蓬の生茂たる中に隠れ居たれば、追手共と覚しき者共百四五十騎馳散て、「若十二三計なる児や通りつる。」と、道に行合人毎に問音してぞ過行ける。阿新其日は麻の中にて日を暮し、夜になれば湊へと心ざして、そことも知ず行程に、孝行の志を感じて、仏神擁護の眸をや回らされけん、年老たる山臥一人行合たり。此児の有様を見て痛しくや思けん、「是は何くより何をさして御渡り候ぞ。」と問ければ、阿新事の様をありの侭にぞ語りける。山臥是を聞て、我此人を助けずば、只今の程にかはゆき目を見るべしと思ければ、「御心安く思食れ候へ。湊に商人舟共多候へば、乗せ奉て越後・越中の方まで送付まいらすべし。」と云て、足たゆめば、此児を肩に乗せ背に負て、程なく湊にぞ行着ける。夜明て便船やあると尋けるに、折節湊の内に舟一艘も無りけり。如何せんと求る処に、遥の澳に乗うかべたる大船、順風に成ぬと見て檣を立篷をまく。 |
「それならこれを橋にして渡ろう」と思い堀の上で垂れ下がった呉竹の先端にすするすると登ると、竹の梢は堀の向こう側へしなりと曲がり楽々と越えてしまった。夜はまだ深くないため湊を目指して舟で陸地へ着こうと考えたが、よろめきながら浜辺方面へ進むうちに次第に明るくなり隠れる道もなく、身を潜めるために一日中麻や蓬の生い茂った場所に潜伏していると、追手と思われる百四五十騎が駆け回って「十二三歳ほどの子供が通ったらしい」と言いながら道行く人々に尋ねて通り過ぎた。阿新はその日を草むらで暮らし夜になると湊へ向かったが、方角もわからぬ中で孝行心の強さが神仏の加護を得たのか、年老いた山伏一人に出会った。子供の様子を見て不憫に思ったのだろう、「どちらからおいででどこへお出かけですか」と尋ねると阿新は事情をありのまま話した。山伏はこれを聞き「自分が助けなければすぐ捕まるだろう」と考え、「ご安心ください。湊には商人の舟が多いので越後や越中方面まで送り届けましょう」と言い、疲れた足をおして子供を肩車したり背負ったりしつつ間もなく湊に着いた。夜明け後に便船はあるかと探したが折悪く港内に一隻もない。途方に暮れていると遠くの入り江で浮かんでいる大船が順風となったらしく帆柱を立て帆を張り始めた。 解説
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| 山臥手を上て、「其船是へ寄てたび給へ、便船申さん。」と呼りけれ共、曾て耳にも聞入ず、舟人声を帆に上て湊の外に漕出す。山臥大に腹を立て柿の衣の露を結で肩にかけ、澳行舟に立向て、いらたか誦珠をさら/\と押揉て、「一持秘密咒、生々而加護、奉仕修行者、猶如薄伽梵と云へり。況多年の勤行に於てをや。明王の本誓あやまらずば、権現金剛童子・天竜夜叉・八大龍王、其船此方へ漕返てたばせ給へ。」と、跳上々々肝胆を砕てぞ祈りける。行者の祈り神に通じて、明王擁護やしたまひけん、澳の方より俄に悪風吹来て、此舟忽覆らんとしける間、舟人共あはてゝ、「山臥の御房、先我等を御助け候へ。」と手を合膝をかゞめ、手々に舟を漕もどす。汀近く成ければ、船頭舟より飛下て、児を肩にのせ、山臥の手を引て、屋形の内に入たれば、風は又元の如に直りて、舟は湊を出にけり。其後追手共百四五十騎馳来り、遠浅に馬を叩て、「あの舟止れ。」と招共、舟人是を見ぬ由にて、順風に帆を揚たれば、舟は其日の暮程に、越後の府にぞ着にける。阿新山臥に助られて、鰐口の死を遁しも、明王加護の御誓掲焉なりける験也。 ○俊基被誅事並助光事 俊基朝臣は殊更謀叛の張本なれば、遠国に流すまでも有べからず、近日に鎌倉中にて斬奉るべしとぞ被定たる。 |
山伏が手を上げて「そこの船、こちらに寄ってくれませんか?乗せてもらいたいのですが」と呼びかけても、船人は全く耳を貸そうとせず声を帆にかき消すように沖へ漕ぎ出した。山伏は大いに腹を立て、柿色の衣の露を払い肩にかけると入り江に向かい歩み寄り、苛立たしげに数珠をぐるぐると揉みながら唱えた。「一持秘密咒(ひとつのじひみつじゅ)、生々而加護(せいぜいにかご)...修行者を守らんことは薄伽梵(仏陀)の如しと言われている。ましてや長年の修行積んだ身にはなおさらだ。明王の誓いが偽りなければ、権現金剛童子・天竜夜叉・八大龍王よ、その船をここへ戻させてくれ」と跳びはねるほど激しく祈った。行者(山伏)の祈りが神仏に通じたのか明王の加護によるものか、入り江から突然暴風が吹き荒れ舟はまさに転覆しようとしたため、船人たちは慌てて「山伏様!まず我々をお助けください!」と手を合わせ膝を屈め、懸命に舟を戻し始めた。岸近くになると船頭が飛び降り、子供(阿新)を肩車して山伏の手を引き船室へ入れた途端、風は元通り収まり舟は港を出た。その後追っ手百四五十騎が駆けつけ浅瀬まで馬を進め「あの船止まれ!」と叫んだが、船人は見ぬふりで順風に帆を上げると夕暮れには越後の国府へ着いた。阿新が山伏に救われ鰐口(舳先)での死を逃れたのも明王加護の誓いが明らかに現れた証拠である。
○俊基誅殺と助光の件 解説
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| 此人多年の所願有て、法華経を六百部自ら読誦し奉るが、今二百部残りけるを、六百部に満る程の命を被相待候て、其後兎も角も被成候へと、頻に所望有ければ、げにも其程の大願を果させ奉らざらんも罪也とて、今二百部の終る程僅の日数を待暮す、命の程こそ哀なれ。此朝臣の多年召仕ける青侍に後藤左衛門尉助光と云者あり。主の俊基召取られ給し後、北方に付進せ嵯峨の奥に忍て候けるが、俊基関東へ被召下給ふ由を聞給て、北方は堪ぬ思に伏沈て歎悲給けるを見奉に、不堪悲して、北の方の御文を給て、助光忍て鎌倉へぞ下ける。今日明日の程と聞へしかば、今は早斬れもやし給ひつらんと、行逢人に事の由を問々、程なく鎌倉にこそ着にけれ。右少弁俊基のをはする傍に宿を借て、何なる便もがな、事の子細を申入んと伺けれども、不叶して日を過しける処に、今日こそ京都よりの召人は斬れ給べきなれ、あな哀れや、なんど沙汰しければ、助光こは如何がせんと肝を消し、此彼に立て見聞しければ、俊基已に張輿に乗せられて粧坂へ出給ふ。爰にて工藤二郎左衛門尉請取て、葛原岡に大幕引て、敷皮の上に坐し給へり。是を見ける助光が心中譬て云ん方もなし。目くれ足もなへて、絶入る計に有けれども、泣々工藤殿が前に進出て、「是は右少弁殿の伺候の者にて候が、最後の様見奉候はん為に遥々と参候。 |
この人(俊基)には長年の願いがあり、法華経六百部を自ら読誦してきたが二百部残っていたところ、「せめて六百部達成までの命をお与えください。その後はどうなろうとも構いません」と切に懇願したので、「確かにその大願を果たさせないのは罪である」と思われ、僅かな日数を待って過ごしていたのだが(処刑延期となり)、彼の運命ほど哀れなものはなかった。この公家様(俊基)に長年仕えていた若侍で後藤左衛門尉助光という者がいた。主人・俊基が捕らわれた後、正室を伴って嵯峨の奥深く隠れ住んでいたのだが、俊基が関東へ連行されると聞き付け、正室が耐え切れず伏して嘆き悲しむ様子を見て、助光も胸が張り裂ける思いで密かに鎌倉へ下った。「処刑は今日明日のうち」と聞いたため「もう斬られてしまったか」と思いながら行く先々の人に事情を尋ねつつ早々に鎌倉着いた。俊基のいる辺りに宿を取り、何とか接触して詳しい事情を伝えようとしたが叶わず日を過ごしていると、「今日こそ都からの使者による処刑が行われる」という話があり「ああ哀れなことよ」と言う者もいて助光は肝をつぶした。周囲を見渡すと俊基は既に粗末な輿に乗せられて粧坂へ連行されていた。そこでは工藤二郎左衛門尉が引き取り、葛原岡で幕を張り皮敷物の上に座らせている様子だった。これを見た助光の心中は言葉にならないほどで、目眩いし足も動かず気絶しかけたが、泣く泣く工藤殿の前に進み出て「これは俊基様にお仕えしていた者でございます。最期のお姿を拝見しようと遥々参りました」。 解説
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| 可然は御免を蒙て御前に参り、北方の御文をも見参に入候はん。」と申もあへず、泪をはら/\と流ければ、工藤も見るに哀を催されて、不覚の泪せきあへず。「子細候まじ、早幕の内へ御参候へ。」とぞ許しける。助光幕の内に入て御前に跪く。俊基は助光を打見て、「いかにや。」と計宣て、軈て泪に咽び給ふ。助光も、「北方の御文にて候。」とて、御前に差置たる計にて、是も涙にくれて、顔をも持あげず泣居たり。良暫く有て、俊基涙を押拭ひ、文を見給へば、「消懸る露の身の置所なきに付ても、何なる暮にか、無世の別と承り候はんずらんと、心を摧く涙の程、御推量りも尚浅くなん。」と、詞に余て思の色深く、黒み過るまで書れたり。俊基いとゞ涙にくれて、読かね給へる気色、見人袖をぬらさぬは無りけり。「硯やある。」と宣へば、矢立を御前に指置ば、硯の中なる小刀にて鬢の髪を少し押切て、北方の文に巻そへ、引返し一筆書て助光が手に渡し給へば、助光懐に入て泣沈たる有様、理りにも過て哀也。工藤左衛門幕の内に入て、「余りに時の移り候。」と勧れば、俊基畳紙を取出し、頚の回り押拭ひ、其紙を推開て、辞世の頌を書給ふ。古来一句。無死無生。万里雲尽。長江水清。筆を閣て、鬢の髪を摩給ふ程こそあれ、太刀かげ後に光れば、頚は前に落けるを、自ら抱て伏給ふ。 |
助光が「どうかお許しください。主人のもとへ参り、正室(北方)からの手紙も見せていただきたいのです。」と言い終わらないうちに涙をぼろぼろ流したので、工藤もそれを見て哀れに思わず涙があふれた。「遠慮することはない。早く幕の中へ入りなさい」と許可した。助光が幕に入ってひざまずくと俊基は彼を見つめ「どうだったか?」と言うだけで声を詰まらせた。助光も「正室様からの手紙です」と差し出すだけでも泣きじゃくり顔さえ上げられなかった。しばらくして俊基が涙をぬぐい文面を見ると、「露のように儚い身の置き場所がないため、いつか永遠の別れを知る時が来ようとは思っても心は砕け涙が止まない」という言葉に余った深い思いが墨のにじむほど書かれていた。俊基はさらに泣き崩れて読み切れず見ている者全員も袖を濡らした。「硯があるか?」と尋ねると矢立が差し出されたので、中の小刀で自らの鬢の毛を少し切り取り正室の文に巻き付け裏面へ一筆書き添え助光に渡す。彼はそれを懐に入れ泣き崩れる様子は言葉では言い表せないほど哀れだった。工藤左衛門が幕内に入り「あまり時間を過ぎています」と促すので、俊基は畳紙を取り出し首筋をぬぐってその紙に辞世の句を書いた。「無死無生 万里雲尽く長江水清き」。筆を置いて髪をもむ間もなく刀光が後ろで輝くと頭部は前へ落ちた。俊基自らそれを抱えて伏した。 解説
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| 是を見奉る助光が心の中、謦て云ん方もなし。さて泣々死骸を葬し奉り、空き遺骨を頚に懸、形見の御文身に副て、泣々京へぞ上りける。北方は助光を待付て、弁殿の行末を聞ん事の喜しさに、人目も憚ず、簾より外に出迎ひ、「いかにや弁殿は、何比に御上可有との御返事ぞ。」と問給へば、助光はら/\と泪をこぼして、「はや斬れさせ給て候。是こそ今はのきはの御返事にて候へ。」とて、鬢の髪と消息とを差あげて声も惜まず泣ければ、北方は形見の文と白骨を見給て、内へも入給ず、縁に倒伏し、消入給ぬと驚く程に見へ給ふ。理なる哉、一樹の陰に宿り一河の流を汲む程も、知れず知らぬ人にだに、別れとなれば名残を惜習なるに、況や連理の契不浅して、十年余りに成ぬるに夢より外は又も相見ぬ、此世の外の別と聞て、絶入り悲み玉ふぞ理りなる。四十九日と申に形の如の仏事営て、北の方様をかへ、こき墨染に身をやつし、柴の扉の明くれは、亡夫の菩提をぞ訪ひ玉ける。助光も髻切て、永く高野山に閉篭て、偏に亡君の後生菩提をぞ訪奉ける。夫婦の契、君臣の儀、無跡迄も留て哀なりし事共也。 ○天下怪異事 嘉暦二年の春の比南都大乗院禅師房と六方の大衆と、確執の事有て合戦に及ぶ。金堂、講堂、南円堂、西金堂、忽に兵火の余煙に焼失す。 |
これを見た助光は心の中で言葉にならないほどの衝撃を受けた。泣く泣く俊基の遺体を葬り、骨壺(空き遺骨)を首にかけ形見の手紙を持って京へ帰った。正室(北方)は待ちわびており、「弁殿様はいつお戻りになるのですか?」と簾から飛び出して尋ねたところ、助光が涙を流し「もう斬られました」と言い鬢の毛と手紙を差し出す。正室はそれらを見ると縁側に倒れ込み意識不明状態となった。道理であろう——見知らぬ人との別れでさえ名残惜しいのに、まして十年も連理の契り(夫婦関係)を結んだ者同士が永遠の別れを知れば当然悲嘆するものだ。四十九日法要を行い後、正室は髪をおろし墨染めの衣で身をつつみ亡き夫の菩提を祈った。助光も髻(まげ)を切り高野山に籠り主人の冥福をひたすら願う。こうした夫婦と主従の絆が極めて哀れ深く描かれている。 さて天下怪異事として——嘉暦二年春、南都大乗院で禅師房(僧侶集団)と六方衆(寺務担当者)が争い合戦に発展。金堂・講堂・南円堂・西金堂らが炎上した。 解説
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| 又元弘元年、山門東塔の北谷より兵火出来て、四王院、延命院、大講堂、法華堂、常行堂、一時に灰燼と成ぬ。是等をこそ、天下の災難を兼て知する処の前相かと人皆魂を冷しけるに、同年の七月三日大地震有て、紀伊国千里浜の遠干潟、俄に陸地になる事二十余町也。又同七日の酉の刻に地震有て、富士の絶頂崩るゝ事数百丈也と。卜部の宿祢、大亀を焼て占ひ、陰陽の博士、占文を啓て見に、「国王位を易、大臣遭災。」とあり。「勘文の表不穏、尤御慎可有。」と密奏す。寺々の火災所々の地震只事に非ず。今や不思義出来と人々心を驚しける処に、果して其年の八月二十二日、東使両人三千余騎にて上洛すと聞へしかば、何事とは知ず京に又何なる事や有んずらんと、近国の軍勢我も我もと馳集る。京中何となく、以外に騒動す。両使已に京着して未文箱をも開ぬ先に、何とかして聞へけん。「今度東使の上洛は主上を遠国へ遷進せ、大塔宮を死罪に行奉ん為也。」と、山門に披露有ければ、八月二十四日の夜に入て、大塔宮より潛に御使を以て主上へ申させ玉ひけるは、「今度東使上洛の事内々承候へば、皇居を遠国へ遷奉り、尊雲を死罪に行ん為にて候なる。今夜急ぎ南都の方へ御忍び候べし。城郭未調、官軍馳参ぜざる先に、凶徒若皇居に寄来ば、御方防戦に利を失ひ候はんか。 |
さらに元弘元年(1331年)、比叡山東塔北谷から火災が発生し、四王院・延命院・大講堂・法華堂・常行堂が一瞬で灰となった。人々はこれらを天下の異変を知らせる前兆かと肝をつぶしたところに、同年7月3日の大地震で紀伊国千里浜の遠浅干潟が突然陸地化(約20町)。さらに同7日酉刻(午後6時頃)の地震では富士山頂が数百丈崩落。占い師たちは大亀を焼いて占い、陰陽道専門家も占文を開くと「国王位を易え、大臣災いに遭う」と記されていた。「この報告書は不穏当ゆえ、深くご自戒ください」と密かに奏上された。 寺院の火災や各地の地震が尋常でない中、「今や不思議な事態だ」と人々が動揺する矢先、その年8月22日、鎌倉幕府の使者(東使)二人が三千余騎を率いて上洛すると聞こえた。何事かと知らず京へ駆けつける近国の軍勢で都は不気味に騒然となる。両使者が到着し公文書箱すら開封しないうちから噂が流れ、「今回の東使上洛は天皇を遠国へ移し、大塔宮(護良親王)を死刑にするためだ」と比叡山で公表された。 これを受け8月24日夜、大塔宮が密かに使者を後醍醐天皇のもとに遣わして奏上させた。「東使上洛の真意は内々承りましたところ、御所を遠国へ移し、私(尊雲)を死刑にするためとのこと。今夜急ぎ南都(奈良)へお逃れください。防衛準備が整わず官軍も集まらぬうちに敵が皇居に迫れば、防御の利を失いましょう」 解説
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| 且は京都の敵を遮り止んが為、又は衆徒の心を見んが為に、近臣を一人、天子の号を許れて山門へ被上せ、臨幸の由を披露候はゞ、敵軍定て叡山に向て合戦を致し候はん歟。去程ならば衆徒吾山を思故に、防戦に身命を軽じ候べし。凶徒力疲れ合戦数日に及ばゞ、伊賀・伊勢・大和・河内の官軍を以て却て京都を被攻んに、凶徒の誅戮踵を回すべからず。国家の安危只此一挙に可有候也。」と被申たりける間、主上只あきれさせ玉へる計にて何の御沙汰にも及玉はず。尹大納言師賢・万里小路中納言藤房・同舎弟季房三四人上臥したるを御前に召れて、「此事如何可有。」と被仰出ければ、藤房卿進で被申けるは、「逆臣君を犯し奉らんとする時、暫其難を避て還て国家を保は、前蹤皆佳例にて候。所謂重耳は■に奔り、大王■に行く。共に王業をなして子孫無窮に光を栄し候き。兔角の御思案に及候はゞ、夜も深候なん。早御忍候へ。」とて、御車を差寄、三種の神器を乗奉り、下簾より出絹出して女房車の体に見せ、主上を扶乗進て、陽明門より成奉る。御門守護の武士共御車を押へて、「誰にて御渡り候ぞ。」と問申ければ、藤房・季房二人御車に随て供奉したりけるが、「是は中宮の夜に紛て北山殿へ行啓ならせ給ふぞ。」と宣たりければ、「さては子細候はじ。 |
「さらに京都市中にいる敵軍を阻止するため、また比叡山僧兵たち(衆徒)の忠誠心を試すために、側近の中から誰かを選び天皇として名乗らせる許可を与えて比叡山に行かせると宣言すれば、敵軍は必ず比叡山に向かい戦いを挑んでくるでしょう。そうなれば僧兵たちが我が山への思いから命を軽んじて防戦するはずです。悪党(鎌倉幕府側)の力が尽きて数日にわたる合戦となった際に、伊賀・伊勢・大和・河内の官軍を使って逆に京都を攻めれば、敵を討ち滅ぼすのに時間はかかりません。国の存亡はこの行動にかかっています。」と進言されたが、後醍醐天皇(主上)はただ茫然として何もおっしゃれない状態だった。そこで尹大納言師賢・万里小路中納言藤房・その弟季房ら三四人を御前に呼び寄せ、「この件についてどうすべきか」と尋ねられたところ、藤房卿が進み出て申し上げた。「逆臣が君主に危害を加えようとする時は一時的に難を避けて後に国を取り戻すのが歴史上の好例です。いわゆる重耳(中国春秋時代の晋の文公)は■へ逃れ、大王(周王朝の祖・太王亶父)は■に行きましたが、共に天下統一を成し遂げ子孫繁栄させました。あれこれご逡巡なさっていると夜も更けますぞ。早くお忍びでお出ましください。」そう言って御車(牛車)を用意すると、三種の神器を乗せ簾から絹布を垂らして女官用の車に見せかけ、天皇をお支えしながら乗り込ませ陽明門へ向かった。守衛武士たちが車を止め「どちら様で通行されるのか」と問うたところ、供奉していた藤房・季房兄弟は「これは中宮(皇后)が夜陰に紛れて北山殿(離宮)へ行啓なさるのだ」と言ったので、「それなら問題ございません」といった。 解説
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| 」とて御車をぞ通しける。兼て用意やしたりけん、源中納言具行・按察大納言公敏・六条少将忠顕、三条河原にて追付奉る。此より御車をば被止、怪げなる張輿に召替させ進せたれども、俄の事にて駕輿丁も無りければ、大膳大夫重康・楽人豊原兼秋・随身秦久武なんどぞ御輿をば舁奉りける。供奉の諸卿皆衣冠を解で折烏帽子に直垂を着し、七大寺詣する京家の青侍なんどの、女性を具足したる体に見せて、御輿の前後にぞ供奉したりける。古津石地蔵を過させ玉ひける時、夜は早若々と明にけり。此にて朝餉の供御を進め申て、先づ南都の東南院へ入せ玉ふ。彼僧正元より弐ろなき忠義を存ぜしかば、先づ臨幸なりたるをば披露せで衆徒の心を伺聞に、西室顕実僧正は関東の一族にて、権勢の門主たる間、皆其威にや恐れたりけん、与力する衆徒も無りけり。かくては南都の皇居叶まじとて、翌日二十六日、和束の鷲峯山へ入せ玉ふ。此は又余りに山深く里遠して、何事の計畧も叶まじき処なれば、要害に御陣を召るべしとて、同二十七日潛幸の儀式を引つくろひ、南都の衆徒少々召具せられて、笠置の石室へ臨幸なる。 ○師賢登山事付唐崎浜合戦事 尹大納言師賢卿は、主上の内裏を御出有し夜、三条河原迄被供奉たりしを、大塔宮より様々被仰つる子細あれば、臨幸由にて山門へ登り、衆徒の心をも伺ひ、又勢をも付て合戦を致せと被仰ければ、師賢法勝寺の前より、袞竜の御衣を着て、腰輿に乗替て山門の西塔院へ登玉ふ。 |
こうして牛車を通したところ、事前に準備していたのだろう、源具行中納言・按察公敏大納言・六条忠顕少将が三条河原で追いついた。ここから牛車を止めさせて不審な粗末な駕籠(張輿)に乗り換えようとしたが、突然のことで担ぎ手もいなかったため、大膳大夫重康・楽人の豊原兼秋・随身の秦久武らが自ら駕籠を担いだ。供奉する公卿たちは皆、衣冠装束を脱いで折烏帽子に直垂姿となり、「七大寺詣での京家武者集団(青侍)が女性連れに見えるよう」と偽装し、駕籠の前後に付き従った。古津石地蔵を通り過ぎた時には夜もすっかり明けていた。ここで朝食を差し上げてからまず南都(奈良)の東南院に入られた。 そこの僧正は元々揺るぎない忠義心を持っていたため、天皇到着を公表せずに僧兵たち(衆徒)の反応を見ていたところ、西室顕実僧正が関東一族で権力ある門主であったので皆その威勢におびえたのか、協力する者はいなかった。これでは南都での朝廷維持は不可能と判断し翌8月26日、和束(京都府)の鷲峯山へ移動された。しかしここもあまりに山深く人里離れているため作戦行動が困難な場所だったので、「要害の地で陣を張るべきだ」として同27日に密かに行幸準備を整え、南都僧兵数名を伴って笠置山(京都)の石窟へ向かわれた。 (続いて)師賢が山へ登ったことと唐崎浜での戦いについて 解説
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| 四条中納言隆資・二条中将為明・中院左中将貞平、皆衣冠正して、供奉の体に相順ふ。事の儀式誠敷ぞ見へたりける。西塔の釈迦堂を皇居と被成、主上山門を御憑有て臨幸成たる由披露有ければ、山上・坂本は申に及ばず、大津・松本・戸津・比叡辻・仰木・絹河・和仁・堅田の者迄も、我前にと馳参。其勢東西両塔に充満して、雲霞の如にぞ見へたりける。懸りけれども、六波羅には未曾是を知らず。夜明ければ東使両人内裏へ参て、先づ行幸を六波羅へ成奉んとて打立ける処に、浄林房阿闍梨豪誉が許より、六波羅へ使者を立て、「今夜の寅の刻に、主上山門を御憑有て臨幸成りたる間、三千の衆徒悉く馳参り候。近江・越前の御勢を待て、明日は六波羅へ被寄べき由評定あり。事の大に成り候はぬ先に、急ぎ東坂本へ御勢を被向候へ。豪誉後攻仕て、主上をば取奉るべし。」とぞ申たりける。両六波羅大に驚て先内裡へ参て見奉るに、主上は御坐無て、只局町女房達此彼にさしつどひて、鳴声のみぞしたりける。「さては山門へ落させ玉たる事子細なし。勢つかぬ前に山門を攻よ。」とて、四十八箇所の篝に畿内五箇国の勢を差添て、五千余騎追手の寄手として、赤山の麓、下松の辺へ指向らる。搦手へは佐々木三郎判官時信・海東左近将監・長井丹後守宗衡・筑後前司貞知・波多野上野前司宣道・常陸前司時朝に、美濃・尾張・丹波・但馬の勢をさしそへて七千余騎、大津、松本を経て、唐崎の松の辺まで寄懸たり。 |
四条中納言藤原隆資・二条中将源為明・中院左中将平貞平は皆、礼服姿を整えて供奉する態勢に従った。その儀式作法が非常に厳粛に見えた。西塔の釈迦堂を行宮と定め、「天皇が比叡山を頼りに行幸された」と発表すると、山上や坂本だけでなく大津・松本・戸津・比叡辻・仰木・絹河・和仁・堅田の人々までも我先にと駆け付け、その軍勢は東西両塔に充満して雲霞のように見えた。 しかし六波羅側は当初これを知らなかった。夜明けと共に東使二人が御所へ向かったところ、浄林房阿闍梨豪誉から「今夜未明に天皇が比叡山へ行幸され三千の僧兵が集結した。近江・越前勢を待って明日六波羅攻撃を計画中だ」との急報が届く。両六波羅は大慌てで御所確認すると天皇不在で女房達が泣き騒いでいるだけ。「山門(比叡山)へ脱出されたのは間違いない。軍勢揃う前に攻めよ!」と指令し、48箇所の篝火を合図に畿内五カ国から五千余騎を赤山麓・下松方面へ差し向けた。 一方包囲部隊には佐々木時信・海東左近将監らが美濃・尾張など七千余騎を率い、大津~唐崎の松原まで進軍した。 解説
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| 坂本には兼てより相図を指たる事なれば、妙法院・大塔宮両門主、宵より八王子へ御上あて、御旗を被揚たるに、御門徒の護正院の僧都祐全・妙光坊の阿闍梨玄尊を始として、三百騎五百騎此彼より馳参りける程に、一夜の間に御勢六千余騎に成にけり。天台座主を始て解脱同相の御衣を脱給て、堅甲利兵の御貌に替る。垂跡和光の砌り忽に変て、勇士守禦の場と成ぬれば、神慮も何が有らんと計り難ぞ覚たる。去程に、六波羅勢已に戸津の宿辺まで寄たりと坂本の内騒動しければ、南岸円宗院・中坊勝行房・早雄の同宿共、取物も取あへず唐崎の浜へ出合げる。其勢皆かち立にて而も三百人には過ざりけり。海東是を見て、「敵は小勢也けるぞ、後陣の勢の重ならぬ前に懸散さでは叶まじ。つゞけや者共。」と云侭に、三尺四寸の太刀を抜て、鎧の射向の袖をさしかざし、敵のうず巻て扣へたる真中へ懸入、敵三人切ふせ、波打際に扣へて続く御方をぞ待たりける。岡本房の幡磨竪者快実遥に是を見て、前につき双たる持楯一帖岸破と蹈倒し、に尺八寸の小長刀水車に回して躍り懸る。海東是を弓手にうけ、胄の鉢を真二に打破んと、隻手打に打けるが、打外して、袖の冠板より菱縫の板まで、片筋かいに懸ず切て落す。二の太刀を余りに強く切んとて弓手の鐙を踏をり、已に馬より落んとしけるが、乗直りける処を、快実長刀の柄を取延、内甲へ鋒き上に、二つ三つすき間もなく入たりけるに、海東あやまたず喉ぶゑを突れて馬より真倒に落にけり。 |
坂本では事前に合図を決めていたため、妙法院門主と大塔宮(護良親王)が夜明け前に八王子社へ登り御旗を掲げたところ、徒党の護正院僧都祐全や妙光坊阿闍梨玄尊らを先頭に三百騎・五百騎が次々と駆け付け、一夜で六千余騎もの軍勢となった。天台座主はじめ高位僧侶たちは法衣を脱ぎ捨て甲冑姿となり、「神仏降臨の聖地(垂跡和光)が突如として勇士防衛の場に変じた」様子は、神意すら測り難いほどであった。 その頃六波羅勢が戸津宿付近まで迫ったとの報で坂本内が騒然となると、南岸円宗院の中坊勝行房と早雄同宿の者たちが武器も満足に取れぬまま唐崎浜へ飛び出した。彼らは徒歩兵ばかり三百人にも満たない小勢だった。これを見た海東左近将監は「敵は少数だ!本隊到着前に蹴散らせ!」と叫び三尺四寸の大太刀を抜くと、鎧袖で顔を覆いながら敵陣中央へ突入し三人斬り伏せ、波打ち際に構えて味方を待った。 これを見た岡本房配下の幡磨竪者(従卒)快実は遠くから駆け寄り、前方の盾持ち兵を片足で蹴倒すと五尺八寸(約1.75m)の薙刀を風車のように回し飛びかかった。海東が左側面から兜鉢目掛けて一撃を加えたが外れ、袖甲板から菱縫板まで真っ二つに斬り落とされる。追撃しようとして強く鐙を踏み過ぎ馬から転落しかけた瞬間、快実は薙刀の柄を伸ばし喉仏(頸動脈)を正確に突き刺したため、海東は無念にも真っ逆様に落馬して絶命した。 解説
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| 快実軈て海東が上巻に乗懸り、鬢の髪を掴で引懸て、頚かき切て長刀に貫き、武家の太将一人討取りたり、物始よし、と悦で、あざ笑てぞ立たりける。爰に何者とは知ず見物衆の中より、年十五六計なる小児の髪唐輪に上たるが、麹塵の筒丸に、大口のそば高く取り、金作の小太刀を抜て快実に走懸り、甲の鉢をしたゝかに三打四打ぞ打たりける。快実屹と振帰て是を見るに、齢二八計なる小児の、大眉に鉄漿黒也。是程の小児を討留たらんは、法師の身に取ては情無し。打たじとすれば、走懸々々手繁く切回りける間、よし/\さらば長刀の柄にて太刀を打落て、組止めんとしける処を、比叡辻の者共が田の畔に立渡て射ける横矢に、此児胸板をつと被射抜て、矢庭に伏て死にけり。後に誰ぞと尋れば、海東が嫡子幸若丸と云ける小児、父が留置けるに依て軍の伴をばせざりけるが、猶も覚束なくや思けん、見物衆に紛て跡に付て来ける也。幸若稚しと云へ共武士の家に生たる故にや、父が討れけるを見て、同く戦場に打死して名を残けるこそ哀なれ。海東が郎等是を見て、「二人の主を目の前に討せ、剰へ頚を敵に取せて、生て帰る者や可有。」とて、三十六騎の者共轡を双て懸入、主の死骸を枕にして討死せんと相争ふ。快実是を見てから/\と打笑て、「心得ぬ物哉。 |
快実はすぐに海東左近将監の首級へ飛び乗り、もみあげをつかんで引き寄せると喉を掻き切り薙刀に突き刺し、「敵大将一人討ち取った!初戦として上出来だ」と嘲笑いながら立っていた。その時、見物人の中から十五歳ほどの少年が現れた。髪は唐輪(子供の結び)でまとめ、薄緑色の筒袖を着て袴の裾を高く上げ、金装飾の小太刀を抜いて快実に襲いかかり、兜の頂部を激しく三度四度と打ちつけた。 快実が振り返るとそれは十六歳ほどの少年で、眉は濃く鉄漿(お歯黒)をつけていた。「これほど幼い者を殺すのは僧侶として忍びない」と思ったため手出しせずにいたが、少年が執拗に斬りかかるので、「よし、薙刀の柄で太刀を打ち落とし組み伏せよう」とした瞬間、比叡辻(地名)の者たちが田んぼの畦から放った横矢が少年の胸板を貫き、その場に倒れて絶命した。 後で調べるとそれは海東左近将監の嫡子・幸若丸という少年だった。父に戦参加を禁じられていたが心配で見物人に紛れて付いて来たらしい。「幼いとはいえ武士家の生まれだからか、父の討死を見て共に戦場で名を残すのは哀れだ」と記されている。 これを見た海東家臣三十六騎は「二人の主君を眼前で殺させ首まで奪われ生きて帰れるか!」と叫び、手綱を揃えて突入し主人遺骸を枕に討ち死にする覚悟を示す。快実は彼らを見て高笑いしながら「何たる未熟者よ」と言った。 解説
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| 御辺達は敵の首をこそ取らんずるに、御方の首をほしがるは武家自滅の瑞相顕れたり。ほしからば、すは取らせん。」と云侭に、持たる海東が首を敵の中へがはと投懸、坂本様の拝み切、八方を払て火を散す。三十六騎の者共、快実一人に被切立て、馬の足をぞ立かねたる。佐々木三郎判官時信後に引へて、「御方討すな、つゞけや。」と下知しければ、伊庭・目賀多・木村・馬淵、三百余騎呼て懸る。快実既に討れぬと見へける処に、桂林房の悪讚岐・中房の小相摸・勝行房の侍従竪者定快・金蓮房の伯耆直源、四人左右より渡合て、鋒を指合て切て回る。讚岐と直源と同じ処にて打れにければ、後陣の衆徒五十余人連て又討て懸る。唐崎の浜と申は東は湖にて、其汀崩たり。西は深田にて馬の足も立ず、平沙渺々として道せばし。後へ取まはさんとするも叶ず、中に取篭んとするも叶ず。されば衆徒も寄手も互に面に立たる者計戦て、後陣の勢はいたづらに見物してぞ磬へたる。已に唐崎に軍始りたりと聞へければ、御門徒の勢三千余騎、白井の前を今路へ向ふ。本院の衆徒七千余人、三宮林を下降る。和仁・堅田の者共は、小舟三百余艘に取乗て、敵の後を遮んと、大津をさして漕回す。六波羅勢是を見て、叶はじとや思けん、志賀の炎魔堂の前を横切に、今路に懸て引帰す。 |
快実は高笑いしながら続けた。「お前たちは敵の首級ではなく味方(海東)の遺骸ばかり欲しがっている。これは武家自滅の兆候だな!どうしてもほしいならくれてやろう」と言うと、手にしていた海東の首を敵陣めがけて投げつけ、「坂本流拝み斬り」(薙刀術)で八方向へ火炎のような切り払いを見せた。三十六騎は快実一人に次々と斬り倒され、馬も立ちすくむ状態となった。 後方の佐々木三郎判官時信が「味方を討つな!突撃せよ!」と命令すると、伊庭・目賀多・木村・馬淵ら三百騎余りが攻めかかる。快実は窮地に陥ったかに見えたその時、桂林房の悪讃岐・中房の小相模・勝行房配下の侍従竪者定快・金蓮房の伯耆直源という四人が左右から駆けつけ、槍先を揃えて切り込んだ。讃岐と直源が同じ場所で戦死すると、後詰めの僧兵五十余人も突入した。 唐崎浜は東が琵琶湖で岸辺は崩れやすく、西は深田で馬足が立たず、広い砂浜には逃げ場がない。撤退も包囲も不可能な地形ゆえ、両軍とも真正面から相対する者同士だけが戦い、後続部隊は無為に見物している状態だった。 この合戦開始の報を受けた御門徒勢三千騎余りは白井方面へ、本院僧兵七千人は三宮林を下った。和仁・堅田衆は小船三百隻で大津沖に回り込み敵の退路を断とうとする。六波羅軍はこれを察し「もはや無理」と判断、志賀炎魔堂前を横切り京街道へ撤退した。 解説
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| 衆徒は案内者なれば、此彼の逼々に落合て散々に射る。武士は皆無案内なれば、堀峪とも云ず馬を馳倒して引かねける間、後陣に引ける海東が若党八騎・波多野が郎等十三騎・真野入道父子二人・平井九郎主従二騎谷底にして討れにけり。佐々木判官も馬を射させて乗がへを待程に、大敵左右より取巻て既に討れぬとみへけるを、名を惜み命を軽んずる若党共、帰合々々所々にて討死しける其間に、万死を出て一生に合ひ、白昼に京へ引帰す。此比迄は天下久静にして、軍と云事は敢て耳にも触ざりしに、俄なる不思議出来ぬれば、人皆あはて騒で、天地も只今打返す様に、沙汰せぬ処も無りけり。 ○持明院殿御幸六波羅事 世上乱たる時節なれば、野心の者共の取進する事もやとて、昨日二十七日の巳刻に、持明院本院・春宮両御所、六条殿より、六波羅の北方へ御幸なる。供奉の人人には、今出川前右大臣兼季公・三条大納言通顕・西園寺大納言公宗・日野前中納言資名・防城宰相経顕・日野宰相資明、皆衣冠にて御車の前後に相順ふ。其外の北面・諸司・格勤は、大略狩衣の下に腹巻を着映したるもあり。洛中須臾に反化して、六軍翠花を警固し奉る。見聞耳目を驚かせり。 ○主上臨幸依非実事山門変儀事付紀信事 山門の大衆唐崎の合戦に打勝て、事始よしと喜合る事斜ならず。 |
僧兵たちは土地勘があるので至る所で待ち伏せし、激しく矢を射かけた。武士側は地理に不慣れなため、堀や谷とわきまえず馬ごと転倒して撤退できなかった結果、後陣の海東左近将監の若党8騎・波多野氏家臣13騎・真野入道親子2人・平井九郎主従2騎が谷底で討ち死にした。 佐々木三郎判官時信も馬を射抜かれて乗り換えようとした隙に、大軍に包囲され絶体絶命に見えたが、名誉を重んじ生死を軽視する若党たちが各所で戦って犠牲となったおかげで、九死に一生を得て白昼の京都へ帰還した。 これまで天下は平穏で「合戦」という言葉さえ聞かれなかったのに、突然の異変が起きたため人々は慌てふためき、天地がひっくり返ったかのような騒ぎとなった。 ○持明院殿の六波羅行幸について ○天皇行幸問題と山門反乱について 解説
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| 爰に西塔を皇居に被定る条、本院面目無に似り。寿永の古へ、後白川院山門を御憑有し時も、先横川へ御登山有しか共、軈て東塔の南谷、円融坊へこそ御移有しか。且は先蹤也、且は吉例也。早く臨幸を本院へ可成奉と、西塔院へ触送る。西塔の衆徒理にをれて、仙蹕を促ん為に皇居に参列す。折節深山をろし烈して、御簾を吹上たるより、竜顔を拝し奉たれば、主上にてはをわしまさず、尹大納言師賢の、天子の袞衣を着し給へるにてぞ有ける。大衆是を見て、「こは何なる天狗の所行ぞや。」と興をさます。其後よりは、参る大衆一人もなし。角ては山門何なる野心をか存ぜんずらんと学へければ、其夜の夜半計に、尹大納言師賢・四条中納言隆資・二条中将為明、忍で山門を落て笠置の石室へ被参る。去程に上林房阿闍梨豪誉は、元来武家へ心を寄しかば、大塔宮の執事、安居院の中納言法印澄俊を生捕て六波羅へ是を出す。護正院僧都猷全は、御門徒の中の大名にて八王子の一の木戸を堅たりしかば、角ては叶じとや思けん、同宿手の者引つれて、六波羅へ降参す。是を始として、独り落二人落、々行ける間、今は光林房律師源存・妙光房の小相摸・中坊の悪律師、三四人より外は落止る衆徒も無りけり。妙法院と大塔宮とは、其夜迄尚八王子に御坐ありけるが、角ては悪りぬべしと、一まども落延て、君の御行末をも承らばやと思召れければ、二十九日の夜半計に、八王子に篝火をあまた所に焼て、未大勢篭たる由を見せ、戸津浜より小舟に召れ、落止る所の衆徒三百人計を被召具て、先石山へ落させ給ふ。 |
ここで西塔が皇居と定められた件について、本院(持明院派)は面目を失った形となった。(歴史的先例として)寿永年間に後白川上皇が比叡山へ避難された際も最初横川に入られ、すぐ東塔南谷の円融坊へ移られた。これは先例であり吉例でもある。「早急に行幸は本院で行うべきだ」と西塔院へ通告したところ、西塔僧徒は無理を押し通そうとして天子(天皇)に謁見しようとした。 折しも深山から吹き荒れる烈風が御簾を持ち上げたため、龍顔(天皇の顔)を拝すると、本物の主上ではなく尹大納言師賢が天子の礼服「袞衣」を着ているのが判明した。僧兵たちはこれを見て「これは何たる天狗の所業か!」と興ざめし、以降参列する者は一人もいなくなった。 このため山門側に野心ありと推測されるところとなり、その夜半には尹大納言師賢・四条中納言隆資・二条中将為明が密かに比叡山を脱出して笠置の隠れ家へ向かった。一方で上林房阿闍梨豪誉は元々武家(六波羅探題)寄りだったため、大塔宮の執事である安居院中納言法印澄俊を生け捕りにし六波羅へ引き渡した。護正院僧都猷全も八王子城で防衛していたが「もはやかなわぬ」と判断、配下を連れて六波羅へ投降した。 これを皮切りに脱落者が相次ぎ、最終的に光林房律師源存・妙光房の小相模・中坊の悪律師ら三四人以外は残留しなかった。妙法院門主と大塔宮(護良親王)は当夜まで八王子城に滞在していたが「危険と判断」され、君主の行く末を確認しようと考えられたため、二十九日深夜に城内各所で多数の篝火を焚いてまだ大軍が籠城しているように偽装し、戸津浜から小舟で脱出。残留僧兵約三百人を伴いまず石山寺へ向かわれた。 解説
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| 此にて両門主一所へ落させ給はん事は、計略遠からぬに似たる上、妙法院は御行歩もかひ/゛\しからねば、只暫此辺に御座有べしとて、石山より二人引別させ給て、妙法院は笠置へ超させ給へば、大塔宮は十津河の奥へと志て、先南都の方へぞ落させ給ける。さしもやごとなき一山の貫首の位を捨て、未習せ給はぬ万里漂泊の旅に浮れさせ給へば、医王山王の結縁も是や限りと名残惜く、竹園連枝の再会も今は何をか可期と、御心細被思召ければ、互に隔たる御影の隠るゝまでに顧て、泣々東西へ別させ給ふ、御心の中こそ悲けれ。抑今度主上、誠に山門へ臨幸不成に依て、衆徒の意忽に変ずること、一旦事ならずと云へ共、倩事の様を案るに、是叡智の不浅る処に出たり。昔強秦亡て後、楚の項羽と漢高祖と国を争事八箇年、軍を挑事七十余箇度也。其戦の度毎に、項羽常に勝に乗て、高祖甚苦める事多し。或時高祖■陽城に篭る。項羽兵を以て城を囲事数百重也。日を経て城中に粮尽て兵疲れければ、高祖戦んとするに力なく、遁んとするに道なし。此に高祖の臣に紀信と云ける兵、高祖に向て申けるは、「項羽今城を囲ぬる事数百重、漢已に食尽て士卒又疲たり。若兵を出して戦はゞ、漢必楚の為に擒とならん。只敵を欺て潛に城を逃出んにはしかじ。 |
こうして両門主が同じ場所へ落ち延びようとすることは、策略として見透かされやすい上に、妙法院門主は歩行も困難な状態であったため、「まずしばらくこの辺りに留まられるのがよい」ということで石山から二人を別れさせられた。妙法院門主が笠置へ向かわれる一方、大塔宮(護良親王)は十津川の奥地を目指して先に南都(奈良)方面へ移動された。 これほど尊い比叡山の貫首の地位を捨て、未経験の流浪の旅に身を投じられることとなったため、「医王権現や日吉大社との縁もここまでか」と名残惜しく、「竹園(延暦寺)の同門僧たちとの再会も今は期待できない」と思い悩まれた。お互いに姿が見えなくなるまで振り返りながら、涙を流して東西へ別れられた心中は実に悲しいものであった。 さて今回、主上(後醍醐天皇)が比叡山への行幸を果たせなかったために僧兵たちの心変わりが起きたことは一見失敗のように思えるが、よく事態を分析するとこれは深い知恵から出た策であった。昔、強秦が滅びた後、楚の項羽と漢の高祖(劉邦)が天下を争った八年間において戦いは七十回以上に及んだ。その都度、項羽は勝利に乗じて攻め、高祖は苦しい立場に立つことが多かった。ある時高祖が滎陽城に籠城すると、項羽は数百重にも及ぶ兵で包囲した。日が経つうちに城内の食糧は尽き兵士も疲弊し、高祖は戦う力も脱出する道もない状態となった。この時、高祖の臣下である紀信という武将が申し上げたことには、「項羽が今数百重にも城を包囲している中で漢軍は食糧切れで兵士も疲弊しています。もし戦いに出れば必ず楚(項羽)軍の捕虜となるでしょう」と。 解説
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| 願くは臣今漢王の諱を犯して楚の陣に降せん。楚此に囲を解て臣を得ば、漢王速に城を出て重て大軍を起し、却て楚を亡し給へ。」と申ければ、紀信が忽に楚に降て殺れん事悲しけれ共、高祖社稷の為に身を軽くすべきに非ざれば、力無く涙ををさへ、別を慕ながら紀信が謀に随給ふ。紀信大に悦で、自漢王の御衣を着し、黄屋の車に乗り、左纛をつけて、「高祖罪を謝して、楚の大王に降す。」と呼て、城の東門より出たりけり。楚の兵是を聞て、四面の囲を解て一所に集る。軍勢皆万歳を唱。此間に高祖三十余騎を従へて、城の西門より出て成皐へぞ落給ける。夜明て後楚に降る漢王を見れば、高祖には非ず。其臣に紀信と云者なりけり。項羽大に忿て、遂に紀信を指殺す。高祖頓て成皐の兵を率して、却て項羽を攻む。項羽が勢尽て後遂に烏江にして討れしかば、高祖長く漢の王業を起して天下の主と成にけり。今主上も懸し佳例を思召、師賢も加様の忠節を被存けるにや。彼は敵の囲を解せん為に偽り、是は敵の兵を遮らん為に謀れり。和漢時異れども、君臣体を合たる、誠に千載一遇の忠貞、頃刻変化の智謀也。 |
「どうか私(紀信)が今、漢王の名を騙って楚軍に降伏します。もしこれによって敵が包囲を解いて私を得ようとしたら、漢王は速やかに城から脱出し再び大軍を起こして逆に楚を滅ぼしてください」と申し上げた。紀信が突然楚へ下り殺されるのは悲しいことだが、高祖(劉邦)にとって国家のために軽率に命を落としてはいけないため、泣くことも抑えながら別れを惜しんで紀信の策略に従われた。 紀信は大いに喜び、自ら漢王の衣装を着て皇帝専用の黄色い屋根の車(黄屋車)に乗り、左纛をつけて「高祖が罪を謝して楚大王へ降伏する」と叫びながら城の東門から出た。楚兵はこれを聞き包囲網を解いて一箇所に集結し、全軍で万歳を唱えた。その隙に高祖(劉邦)は三十騎余りを従えて西門から抜け出て成皐へ落ち延びられた。 夜明け後、「降伏した漢王」を見るとそれは高祖ではなく臣下の紀信であったため、項羽は激怒して直ちに彼を斬殺した。高祖(劉邦)はすぐさま成皐の兵を率いて逆襲し、項羽が勢い尽きて烏江で討たれたことで漢王朝を興し天下の主となったのである。 現在の天皇陛下もこの好例をお考えになり、師賢(南朝側近臣?)も同様の忠節を持っておられたであろうか。あちらでは敵包囲解除のために偽装降伏し、こちらでは敵兵を遮断するための謀略を用いた。時代背景は異なるが君主と臣下の心が一つとなる点で、まさに千年に一度の忠誠心であり瞬間的な機転を示す知恵である。 解説
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| input text 太平記\003_太平記_巻3.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第三 ○主上御夢事付楠事 元弘元年八月二十七日、主上笠置へ臨幸成て本堂を皇居となさる。始一両日の程は武威に恐れて、参り任る人独も無りけるが、叡山東坂本の合戦に、六波羅勢打負ぬと聞へければ、当寺の衆徒を始て、近国の兵共此彼より馳参る。されども未名ある武士、手勢百騎とも二百騎とも、打せたる大名は一人も不参。此勢許にては、皇居の警固如何有べからんと、主上思食煩はせ給て、少し御まどろみ有ける御夢に、所は紫宸殿の庭前と覚へたる地に、大なる常盤木あり。緑の陰茂て、南へ指たる枝殊に栄へ蔓れり。其下に三公百官位に依て列坐す。南へ向たる上座に御坐の畳を高く敷、未坐したる人はなし。主上御夢心地に、「誰を設けん為の座席やらん。」と怪しく思食て、立せ給ひたる処に、鬟結たる童子二人忽然として来て、主上の御前に跪き、涙を袖に掛て、「一天下の間に、暫も御身を可被隠所なし。但しあの樹の陰に南へ向へる座席あり。是御為に設たる玉■にて候へば、暫く此に御座候へ。」と申て、童子は遥の天に上り去ぬと御覧じて、御夢はやがて覚にけり。主上是は天の朕に告る所の夢也と思食て、文字に付て御料簡あるに、木に南と書たるは楠と云字也。其陰に南に向ふて坐せよと、二人の童子の教へつるは、朕再び南面の徳を治て、天下の士を朝せしめんずる処を、日光月光の被示けるよと、自ら御夢を被合て、憑敷こそ被思食けれ。 |
元弘元年(1331年)8月27日、天皇陛下が笠置山に行幸され本堂を皇居と定められた。当初一両日の間は武力を恐れて参上する者もなかったが、比叡山東坂本の戦いで六波羅勢が敗れたとの報せが届くと、当寺(笠置寺)の僧兵たちから始まり近国の武士たちが続々と馳せ参じた。しかし有名な武士や百騎・二百騎もの手勢を率いた大名は一人も現れなかった。「この兵力では皇居警護に不安がある」と天皇陛下が憂慮されている中、まどろみの夢で紫宸殿の庭前に大きな常緑樹(楠か)があり、南に向けた枝が特に繁茂している光景を見られる。その木陰には公卿百官が列座し、南向きの上座に高く畳が敷かれているが誰も着席していない。「これは誰のために設けた席か」と不思議に思われ立たれると、髷を結った童子二人が突然現れて涙ながらに奏上した:「天下の中には陛下のお隠れになれる場所はありません。ただしあの木陰の南向きの座席(=楠)こそ玉座ですからどうかお座りください」。言い終えると天へ昇っていく夢を見られ目を覚ました。 天皇陛下は「これは天からの啓示だ」と考え文字解釈されると、「木+南=楠」という字に気付かれ、童子の教え(樹陰で南向きに座せよ)は「朕が再び帝位について天下を治めることを日月の神が示したのだ」と深く確信されたのであった。 解説
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| 夜明ければ当寺の衆徒、成就房律師を被召、「若此辺に楠と被云武士や有。」と、御尋有ければ、「近き傍りに、左様の名字付たる者ありとも、未承及候。河内国金剛山の西にこそ、楠多門兵衛正成とて、弓矢取て名を得たる者は候なれ。是は敏達天王四代の孫、井手左大臣橘諸兄公の後胤たりと云へども、民間に下て年久し。其母若かりし時、志貴の毘沙門に百日詣て、夢想を感じて設たる子にて候とて、稚名を多門とは申候也。」とぞ答へ申ける。主上、さては今夜の夢の告是也と思食て、「頓て是を召せ。」と被仰下ければ、藤房卿勅を奉て、急ぎ楠正成をぞ被召ける。勅使宣旨を帯して、楠が館へ行向て、事の子細を演られければ、正成弓矢取る身の面目、何事か是に過んと思ければ、是非の思案にも不及、先忍て笠置へぞ参ける。主上万里小路中納言藤房卿を以て被仰けるは、「東夷征罰の事、正成を被憑思食子細有て、勅使を被立処に、時刻を不移馳参る条、叡感不浅処也。抑天下草創の事、如何なる謀を廻してか、勝事を一時に決して太平を四海に可被致、所存を不残可申。」と勅定有ければ、正成畏て申けるは、「東夷近日の大逆、只天の譴を招候上は、衰乱の弊へに乗て天誅を被致に、何の子細か候べき。但天下草創の功は、武略と智謀とに二にて候。 |
朝になると笠置寺の僧兵たちが成就房律師を呼び出し、天皇陛下から「この辺りに楠という名の武士はいるか」と尋ねられ、「近くにはそのような姓の者は聞いたことがありません。ただ河内国金剛山の西に楠多門兵衛正成(くすのきたもんべえまさしげ)といい、弓術で名声を得た者がおります。彼は敏達天皇から四代目の子孫である井手左大臣・橘諸兄公(たちばなのもろえこう)の末裔と伝わっていますが、民間に下って長く年を経ています。母が若い時に志貴山毘沙門堂へ百日参詣し、夢のお告げを受けて生んだ子で、幼名を多門(毘沙門天の別称)と言います」と答えた。 天皇陛下は「では昨夜の夢のお告げはこれだ」と思われ、「すぐに彼を召せ」と命じられた。藤房卿が勅使として急ぎ楠正成のもとへ赴き、事情を説明すると、正成は武士として面目にかけてもこの上ない名誉と考え、ためらうことなく密かに笠置山へ参上した。 天皇陛下は万里小路中納言・藤房卿を通じて仰せになった:「東国(幕府勢力)征伐の件についてあなたを頼りに思っていたところ、勅使を立てるとすぐに駆けつけたことは誠に霊感あらたかである。そもそも天下創始にあたり、どのような策を用いて勝利を得て四海に太平をもたらすべきか? 遠慮なく意見を述べよ」。これに対し正成は畏まって申し上げた:「東国の者どもの謀反は天罰を招く所業ゆえ、彼らの衰退と混乱の隙をついて討伐するほどのことはありません。ただ天下創始の功績とは武略(軍事力)と智謀(策略)の二つに尽きます」。 解説
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| 若勢を合て戦はゞ、六十余州の兵を集て武蔵相摸の両国に対すとも、勝事を得がたし。若謀を以て争はゞ、東夷の武力只利を摧き、堅を破る内を不出。是欺くに安して、怖るゝに足ぬ所也。合戦の習にて候へば、一旦の勝負をば必しも不可被御覧。正成一人未だ生て有と被聞召候はゞ、聖運遂に可被開と被思食候へ。」と、頼しげに申て、正成は河内へ帰にけり。 ○笠置軍事付陶山小見山夜討事 去程に主上笠置に御坐有て、近国の官軍付随奉る由、京都へ聞へければ、山門の大衆又力を得て、六波羅へ寄る事もや有んずらんとて、佐々木判官時信に、近江一国の勢を相副て大津へ被向。是も猶小勢にて叶ふまじき由を申ければ、重て丹波国の住人、久下・長沢の一族等を差副て八百余騎、大津東西の宿に陣を取る。九月一日六波羅の両■断、糟谷三郎宗秋・隅田次郎左衛門、五百余騎にて宇治の平等院へ打出で、軍勢の着到を着るに、催促をも不待、諸国の軍勢夜昼引も不切馳集て十万余騎に及べり。既に明日二日巳刻に押寄て、矢合可有と定めたりける其前の日、高橋又四郎抜懸して、独り高名に備へんとや思けん、纔に一族の勢三百余騎を率して、笠置の麓へぞ寄たりける。城に篭る所の官軍は、さまで大勢ならずと云へども、勇気未怠、天下の機を呑で、回天の力を出さんと思へる者共なれば、纔の小勢を見て、なじかは打て懸らざらん。 |
もし兵力を集めて正面戦闘を行えば、六十余州の兵を動員して武蔵・相模両国に対抗しても勝利は難しい。しかし策略を用いるならば、東国の勢力(幕府軍)は単に力で敵を押し潰すことしかできず、彼らの弱点を見抜けば騙すのは容易であり恐れる必要はない。合戦の常道として一時的な勝敗こだわらず、私が生きている限り朝廷の命運は必ず開けると信じていただければ」と頼もしく述べ、正成は河内へ帰還した。 さて天皇陛下が笠置山に籠城され近国の官軍が続々集結しているとの報せが京都に届くと、比叡山の僧兵たちが勢いづき六波羅攻撃を企てかねないと危惧された。このため佐々木判官時信(京極道誉)に近江国の兵力をつけて大津へ派遣したものの、なお兵力不足との判断から丹波国住人の久下・長沢一族らを加えた八百余騎が大津東西に布陣した。 9月1日、六波羅探題側は糟谷三郎宗秋と隅田次郎左衛門率いる五百余騎で宇治平等院に出撃。彼らが諸国へ召集令を発すると昼夜兼行で駆けつけた兵は十万余騎に膨れ上がった。すでに翌2日巳刻(午前10時)の総攻撃が決まっていた前日、高橋又四郎が単独功名を狙い一族三百余騎だけを率いて笠置山麓へ突出した。城に籠る官軍は大勢力ではないものの士気旺盛で天下挽回を志す者ばかりであるから、この寡兵を見逃すはずもなかった。 解説
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| 其勢三千余騎、木津河の辺にをり合て、高橋が勢を取篭て、一人も余さじと責戦ふ。高橋始の勢ひにも似ず、敵の大勢を見て、一返も不返捨鞭を打て引ける間、木津河の逆巻水に被追浸、被討者其数若干也。僅に命許を扶る者も、馬物具を捨て赤裸になり、白昼に京都へ逃上る。見苦しかりし有様也。是を悪しと思ふ者やしたりけん。平等院の橋爪に、一首の歌を書てぞたてたりける。木津川の瀬々の岩浪早ければ懸て程なく落る高橋高橋が抜懸を聞て、引ば入替て高名せんと、跡に続きたる小早河も、一度に皆被追立一返も不返、宇治まで引たりと聞へければ、又札を立副て、懸も得ぬ高橋落て行水に憂名を流す小早河哉昨日の合戦に、官軍打勝ぬと聞へしかば、国々の勢馳参りて、難儀なる事もこそあれ、時日を不可移とて、両検断宇治にて四方の手分を定て、九月二日笠置の城へ発向す。南の手には五畿内五箇国の兵を被向。其勢七千六百余騎、光明山の後を廻て搦手に向。東の手には、東海道十五箇国の内、伊賀・伊勢・尾張・三河・遠江の兵を被向。其勢二万五千余騎、伊賀路を経て金剛山越に向ふ。北の手には、山陰道八箇国の兵共一万二千余騎、梨間の宿のはづれより、市野辺山の麓を回て、追手へ向ふ。西の手には、山陽道八箇国の兵を被向。 |
その官軍三千余騎は木津川の岸で待ち伏せし、高橋勢を取り囲んで一人も残すまいと攻め立てた。高橋隊は当初の威勢とは裏腹に敵の大軍を見て一戦も交えず逃げ出したため、追撃されて逆巻く木津川の流れに押し込まれ、溺死・討ち取られた者は数知れない。かろうじて命を長らえた者も馬や武具を捨て丸裸になり、真昼間に京都へ敗走する惨めな有様だった。この醜態を見咎めた者がいたのか、平等院の橋詰に一首の歌が掲げられていた。「木津川の瀬々の岩波は流れ速いので 掛けてもすぐ落ちる高橋よ」。さらに高橋隊の突出を聞き「彼らが退くなら代わりに手柄を」と続いた小早河勢も一斉に追い立てられ、一度も戦わず宇治まで敗走したとの報せを受けて別の歌札が添えられた。「掛けても渡れぬ高橋は落ちて流れる水で憂き名をさらす 情けない小早河よ」。 解説
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| 其勢三万二千余騎、木津河を上りに、岸の上なる岨道を二手に分て推寄る。追手搦手、都合七万五千余騎、笠置の山の四方二三里が間は、尺地も不残充満したり。明れば九月三日の卯刻に、東西南北の寄手、相近て時を作る。其声百千の雷の鳴落が如にして天地も動く許也。時の声三度揚て、矢合の流鏑を射懸たれども、城の中静り還て時の声をも不合、当の矢をも射ざりけり。彼笠置の城と申は、山高して一片の白雲峯を埋み、谷深して万仞の青岩路を遮る。攀折なる道を廻て揚る事十八町、岩を切て堀とし石を畳で屏とせり。されば縦ひ防ぎ戦ふ者無とも、輒く登る事を得難し。されども城中鳴を静めて、人ありとも見へざりければ、敵はや落たりと心得て、四方の寄手七万五千余騎、堀がけとも不謂、葛のかづらに取付て、岩の上を伝て、一の木戸口の辺、二王堂の前までぞ寄たりける。此にて一息休めて城の中を屹と向上ければ、錦の御旗に日月を金銀にて打て着たるが、白日に耀て光り渡りたる其陰に、透間もなく鎧ふたる武者三千余人、甲の星を耀し、鎧の袖を連て、雲霞の如くに並居たり。其外櫓の上、さまの陰には、射手と覚しき者共、弓の弦くひしめし、矢束解て押甘、中差に鼻油引て待懸たり。其勢決然として、敢て可攻様ぞなき。 |
西側部隊三万二千余騎は木津川を遡り、岸辺の険しい山道を二手に分かれて押し寄せた。攻撃軍全体(包囲隊・突入隊)で総勢七万五千余騎となり、笠置山周囲数キロ四方には一尺の空地もなく兵が充満していた。明けて九月三日卯刻(午前6時頃)、東西南北から迫った敵軍は互いに近づき鬨の声を上げた。その轟音は千雷が落ちるようで天地さえ揺れ動くほどだった。鬨の声三度に続いて矢合わせの合図と流鏑馬を射かけたが、城内は静まり返って応戦せず、全く反撃しなかった。 そもそも笠置山という城塞は、峰々に白雲が覆い隠すほどの高さで、深い谷には切り立った青岩の道がある。険しい坂を十八町(約2km)も回って登る道では、岩を削って堀とし石を積んで塀としたため、たとえ防戦者がいなくとも容易に登れない要害である。 しかし城内が静まり返り人影すら見えなかったので、敵軍はもう落城したと思い込み、四方から七万五千余りの兵士たちが壕や崖も構わず蔦の蔓につかまって岩を伝い、一ノ木戸口付近にある二王堂前まで侵入してきた。そこで一時休んで城内を見上げると、錦の御旗に金銀で日月を打ち出したものが白昼に輝き渡り、その陰には鎧兜(よろいかぶと)をまとった武者三千余人が甲冑(かぶと)の星を煌めかせながら袖を連ねて雲霞のように立ち並んでいた。さらに櫓や物影には射手らしき者たちが弓弦を引く音を立て、矢束を解いて押さえ込み鼻油を塗って待ち構えていた。その威勢は決然として攻撃できる様子ではなかった。 解説
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| 寄手一万余騎是を見て、前まんとするも不叶、引んとするも不協して、心ならず支たり。良暫有て、木戸の上なる櫓より、矢間の板を排て名乗けるは、「参河国住人足助次郎重範、忝くも一天の君にたのまれ進らせて、此城の一の木戸を堅めたり。前陣に進んだる旗は、美濃・尾張の人々の旗と見るは僻目か。十善の君の御座す城なれば、六波羅殿や御向ひ有らんずらんと心得て、御儲の為に、大和鍛冶のきたうて打たる鏃を少々用意仕て候。一筋受て御覧じ候へ。」と云侭に、三人張の弓に十三束三伏篦かづきの上まで引かけ、暫堅めて丁と放つ。其矢遥なる谷を阻て、二町余が外に扣へたる荒尾九郎が鎧の千檀の板を、右の小脇まで篦深にぐさと射込む。一箭なりといへども究竟の矢坪なれば、荒尾馬より倒に落て起も直らで死けり。舎弟の弥五郎是を敵に見せじと、矢面に立隠して、楯のはづれより進出て云けるは、「足助殿の御弓勢、日来承候し程は無りけり。此を遊ばし候へ。御矢一筋受て物の具の実の程試候はん。」と欺て、弦走を敲てぞ立たりける。足助是を聞て、「此者の云様は、如何様鎧の下に、腹巻か鎖歟を重て着たれば社、前の矢を見ながら此を射よとは敲くらん。若鎧の上を射ば、篦摧け鏃折て通らぬ事もこそあれ。 |
攻め寄せていた一万余騎はこの光景を見て前進もできず退くこともままならず、思わず足止めされた。しばらくすると木戸の上の櫓から矢狭間の板を押し開いて名乗った者がいた。「三河国住みの足助次郎重範(あすけじろうしげのり)、畏れ多くも天皇陛下のお頼みを受けこの城の第一門を守護しておる。前陣に立つ旗は美濃・尾張勢と見えるが、それはお前たちの誤認か?正しい行いの君主(後醍醐天皇)がおわす城ゆえ、六波羅殿ご自身でも攻め寄せられるのかと思い、陛下のために大和鍛冶が丹精込めて打った矢じりを用意した。一本受け止めてみよ」と言うなり、三人がかりで引く強弓に十三束三伏(約1.5m)の矢をつがえ、ぐっと引き絞ってから「丁!」と放った。その矢は遠い谷間を越えて二町余り(約220m)先に控える荒尾九郎の鎧・千枚張りの鉄板を右脇腹深くまでズブリと貫いた。たかが一矢とはいえ完璧な狙撃だったため、荒尾は馬から真っ逆さまに落ちて起き上がれず絶命した。 これを敵に見せるまいと弟の弥五郎(やごろう)が前面を遮り立ち、「足助殿の弓術、かねてより承っておりましたがこれほどの腕前とは。どうぞお見せくださいませ。御矢一本受け止め甲冑の実力を試してみましょう」と挑発し弦を鳴らして立った。これを聞いた足助は「こやつの言い草から察するに、鎧の下に腹巻か鎖帷子でも重ね着しているのだろう。先ほどの矢を見ながらこんな挑戦をするとは図々しい。もしも鎧の上を射れば矢柄が折れて通らないかもしれないが──」 解説
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| 甲の真向を射たらんに、などか砕て通らざらん。」と思案して、「胡■より金磁頭を一つ抜出し、鼻油引て、「さらば一矢仕り候はん。受て御覧候へ。」と云侭に、且く鎧の高紐をはづして、十三束三伏、前よりも尚引しぼりて、手答へ高くはたと射る。思ふ矢坪を不違、荒尾弥五郎が甲の真向、金物の上二寸計射砕て、眉間の真中をくつまき責て、ぐさと射篭だりければ、二言とも不云、兄弟同枕に倒重て死にけり。是を軍の始として、追手搦手城の内、をめき叫で責戦ふ。箭叫の音時の声且も休時なければ、大山も崩て海に入り、坤軸も折て忽地に沈む歟とぞ覚へし。晩景に成ければ、寄手弥重て持楯をつきよせつきよせ、木戸口の辺まで攻たりける処に、爰に南都の般若寺より巻数持て参りたりける使、本性房と云大力の律僧の有けるが、褊衫の袖を結で引違へ、尋常の人の百人しても動し難き大磐石を、軽々と脇に挟み、鞠の勢に引欠々々、二三十つゞけ打にぞ投たりける。数万の寄手、楯の板を微塵に打砕かるゝのみに非ず、少も此石に当る者、尻居に被打居ければ、東西の坂に人頽を築て、馬人弥が上に落重る。さしも深き谷二、死人にてこそうめたりけれ。されば軍散じて後までも木津河の流血に成て、紅葉の陰を行水の紅深きに不異。 |
「鎧の正面を射れば砕けるはずがない」と考えた足助は、矢筒から特殊な鏃を一本抜き取り油脂を塗って、「では一矢お見舞いしよう。受け止めてみよ」と言うなり一旦鎧の紐を解き、十三束三伏(約1.5m)の矢を前よりも強く引き絞り高々と放った。狙いは寸分違わず荒尾弥五郎の兜正面・金属部分から二寸上を砕いて眉間中央を貫通し、兄弟は言葉もなく重なるように倒れ絶命した。 これを合図に攻撃軍が四方から喚声を上げて城へ殺到。叫び声と鬨の声が途切れることなく響き渡り、あたかも大山が崩れて海没し地軸が折れたかのような轟音だった。夕暮れ時になると敵は盾を押し寄せ門前まで迫ったところで、南都・般若寺から経典を届けに来ていた律僧の本性房(ほんしょうぼう)という大力の男が登場した。法衣の袖をたくし上げ百人がかりでも動かせない大岩を軽々と脇に抱え込み鞠のように何度も投げつけたため、数万の兵士は盾ごと粉砕され圧死する者続出。東西の坂には人馬が積み重なり深い谷が埋まり尽くした。 戦闘後も木津川は流血で紅葉陰を流れる水が真っ赤に染まるほどであった。 解説
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| 是より後は、寄手雲霞の如しといへども、城を攻んと云者一人もなし。只城の四方を囲めて遠攻にこそしたりけれ。かくて日数を経ける処に、同月十一日、河内の国より早馬を立て、「楠兵衛正成と云者、御所方に成て旗を挙る間、近辺の者共、志あるは同心し、志なきは東西に逃隠る。則国中の民屋を追捕して、兵粮の為に運取、己が館の上なる赤坂山に城郭を構へ、其勢五百騎にて楯篭り候。御退治延引せば、事御難儀に及候なん。急ぎ御勢を可被向。」とぞ告申ける。是をこそ珍事なりと騒ぐ処に、又同十三日の晩景に、備後の国より早馬到来して、「桜山四郎入道、同一族等御所方に参て旗を揚、当国の一宮を城郭として楯篭る間、近国の逆徒等少々馳加て、其勢既七百余騎、国中を打靡、剰他国へ打越んと企て候。夜を日に継で討手を不被下候はゞ、御大事出来ぬと覚候。御油断不可有。」とぞ告たりける。前には笠置の城強して、国々の大勢日夜責れども未落、後には又楠・桜山の逆徒大に起て、使者日々に急を告。南蛮西戎は已に乱ぬ。東夷北狄も又如何あらんずらんと、六波羅の北方駿河守、安き心も無りければ、日々に早馬を打せて東国勢をぞ被乞ける。相摸入道大に驚て、「さらばやがて討手を差上せよ。」とて、一門他家宗徒の人々六十三人迄ぞ被催ける。 |
その後も攻撃軍は雲霞のように数多いものの、城に直接攻め込む者は一人も現れなかった。ただ城を四方から包囲して遠巻きにするだけだった。こうした日々が続く中、同月十一日に河内国から早馬で使者が来て報告した。「楠兵衛正成という者が御所方(南朝)に加わり旗揚げしましたため、近隣の者は志ある者たちは協力し、ない者は逃げ惑っています。彼らは国内の民家を略奪して兵糧とし、自らの館がある赤坂山に城郭を構築し五百騎で立て籠もっております。討伐が遅れれば事態が危険になりますので急いで軍勢をお送りください」。これを異常な出来事として騒ぐ最中、さらに同十三日の夕方に備後国から早馬の使者が到来して報告した。「桜山四郎入道と一族らが御所方に加わり旗揚げし、この国の一宮神社を城郭にして立て籠もっています。近隣諸国の反逆者たちが次々合流し勢力は七百騎余りとなり国内を制圧した上で他国へ侵攻しようとしております。昼夜問わず討伐軍が派遣されなければ大事に至ると覚悟しておきますので油断なきよう」。 前方では笠置城の攻略で諸国の大軍が日夜攻めているのに未だ落ちず、後方では楠・桜山という反逆者が大きく立ち上がり使者は日々危機を訴える。外国勢力もすでに乱れており東国や北陸でも同様かと六波羅探題北方の駿河守が不安になり、毎日早馬を使って東国勢へ援軍要請した。相模入道(執権・北条高時)は大いに驚き「それなら直ちに討伐隊を派遣せよ」と言い一族や他家の家臣ら六十三人まで召集させた。 解説
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| 大将軍には大仏陸奥守貞直・同遠江守・普恩寺相摸守・塩田越前守・桜田参河守・赤橋尾張守・江馬越前守・糸田左馬頭・印具兵庫助・佐介上総介・名越右馬助・金沢右馬助・遠江左近大夫将監治時・足利治部大輔高氏、侍大将には、長崎四郎左衛門尉、相従ふ侍には、三浦介入道・武田甲斐次郎左衛門尉・椎名孫八入道・結城上野入道・小山出羽入道・氏家美作守・佐竹上総入道・長沼四郎左衛門入道・土屋安芸権守・那須加賀権守・梶原上野太郎左衛門尉・岩城次郎入道・佐野安房弥太郎・木村次郎左衛門尉・相馬右衛門次郎・南部三郎次郎・毛利丹後前司、那波左近太夫将監・一宮善民部太夫・土肥佐渡前司・宇都宮安芸前司・同肥後権守・葛西三郎兵衛尉・寒河弥四郎・上野七郎三郎・大内山城前司・長井治部少輔・同備前太郎・同因幡民部大輔入道・筑後前司・下総入道・山城左衛門大夫・宇都宮美濃入道・岩崎弾正左衛門尉・高久同孫三郎・同彦三郎・伊達入道・田村形部大輔入道・入江蒲原の一族・横山猪俣の両党、此外、武蔵・相摸・伊豆・駿河・上野、五箇国の軍勢、都合二十万七千六百余騎、九月二十日鎌倉を立て、同晦日、前陣已に美濃・尾張両国に着ば、後陣は猶未高志・二村の峠に支へたり。爰に備中国の住人陶山藤三義高・小見山次郎某、六波羅の催促に随て、笠置の城の寄手に加て、河向に陣を取て居たりけるが、東国の大勢既に近江に着ぬと聞へければ、一族若党共を集て申けるは、「御辺達如何が思ぞや、此間数日の合戦に、石に被打、遠矢に当て死ぬる者、幾千万と云数を不知。 |
大将軍として大仏陸奥守貞直・同遠江守・普恩寺相模守・塩田越前守・桜田三河守・赤橋尾張守・江馬越前守・糸田左馬頭・印具兵庫助・佐々木上総介・名越右馬助・金沢右馬助・遠江左近大夫将監治時・足利治部大輔高氏が任命された。侍大将には長崎四郎左衛門尉、それに従う武将として三浦介入道(出家した者)・武田甲斐次郎左衛門尉・椎名孫八入道・結城上野入道・小山出羽入道・氏家美作守・佐竹上総入道・長沼四郎左衛門入道・土屋安芸権守(代理の国司)・那須加賀権守・梶原上野太郎左衛門尉・岩城次郎入道・佐野安房弥太郎・木村次郎左衛門尉・相馬右衛門次郎・南部三郎次郎・毛利丹後前司(前任国司)がいた。他にも那波左近太夫将監・一宮善民部太夫・土肥佐渡前司・宇都宮安芸前司・同肥後権守・葛西三郎兵衛尉・寒河弥四郎・上野七郎三郎・大内山城前司・長井治部少輔・同備前太郎(同じく)・同因幡民部太輔入道・筑後前司・下総入道・山城左衛門大夫・宇都宮美濃入道・岩崎弾正左衛門尉・高久孫三郎・同彦三郎・伊達入道・田村形部大輔入道、さらに入江蒲原一族と横山猪俣両党が加わった。これに武蔵・相模・伊豆・駿河・上野の五か国から集まった軍勢を合わせると総計20万7600余騎となり、9月20日に鎌倉を出発した。同月末日には先鋒部隊がすでに美濃と尾張両国に到着していたが、後続部隊はまだ越前二村峠(現在の福井県)で足止めされていた。 このとき備中国出身の陶山藤三義高・小見山次郎某らが六波羅探題の命令により笠置城攻撃軍に参加し、対岸に陣を構えていた。東国からの大軍が近江国(現在の滋賀県)に到着したと聞くと、一族や家臣を集めて言った。「皆はどう思うか? ここ数日の戦いで投石を受けたり遠矢に当たって死んだ者は幾千万とも知れないほどだ。」 解説
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| 是皆差て為出したる事も無て死ぬれば、骸骨未だ乾かざるに、名は先立て消去ぬ。同く死ぬる命を、人目に余る程の軍一度して死たらば、名誉は千載に留て、恩賞は子孫の家に栄ん。倩平家の乱より以来、大剛の者とて名を古今に揚たる者共を案ずるに、何れも其程の高名とは不覚。先熊谷・平山が一谷の先懸は、後陣の大勢を憑し故也。梶原平三が二度の懸は、源太を助ん為なり。佐々木三郎が藤戸を渡しゝは、案内者のわざ、同四郎高綱が宇治川の先陣は、いけずき故也。此等をだに今の世迄語伝て、名を天下の人口に残すぞかし。何に況や日本国の武士共が集て、数日攻れども落し得ぬ此城を、我等が勢許にて攻落したらんは、名は古今の間に双なく、忠は万人の上に可立。いざや殿原、今夜の雨風の紛れに、城中へ忍入て、一夜討して天下の人に目を覚させん。」と云ければ、五十余人の一族若党、「最可然。」とぞ同じける。是皆千に一も生て帰る者あらじと思切たる事なれば、兼ての死に出立に、皆曼陀羅を書てぞ付たりける。差縄の十丈許長きを二筋、一尺計置ては結合々々して、其端に熊手を結着て持せたり。是は岩石などの被登ざらん所をば、木の枝岩の廉に打懸て、登らん為の支度也。其夜は九月晦日の事なれば、目指とも不知暗き夜に、雨風烈く吹て面を可向様も無りけるに、五十余人の者ども、太刀を背に負、刀を後に差て、城の北に当たる石壁の数百丈聳て、鳥も翔り難き所よりぞ登りける。 |
彼らは何も成し遂げずに死ぬため、遺骨がまだ乾かないうちに名前だけ先に消えてしまうのだ。(同じく)死ぬ命ならば、人々の目にも余るほどの大軍の中で一度戦って死ねば、名誉は千年後にまで残り、恩賞で子孫の家も栄えるだろう。考えてみると平家討伐以来、剛勇な者として名を古今に上げた連中を見ても(熊谷直実や平山季重など)、どれほどの手柄とは思えない。(まず)熊谷と平山が一ノ谷で先陣を切ったのは後続の大軍を頼りにしたからだ。梶原景時(平三)が二度も突撃したのは源範頼(源太)を助けるためだった。佐々木盛綱(三郎)が藤戸海峡を渡れたのは道案内者の仕業であり、同じく佐々木高綱(四郎)の宇治川先陣は向こう見ずなだけだ。(しかし)これらでさえ今に語り継がれ天下の人々に名が残っている。ましてや日本中の武士たちが集まり数日攻めても落とせないこの城を、我々のような小勢で陥落させたら(その功績は)、名声は古今に類なく忠義の誉れも万人の上に立つだろう。(さあ)皆の者よ!今夜の雨風に紛れて城内へ忍び込み一晩で攻め落とし、天下の人々を目覚めさせよう。」と言うと五十人あまりの一族や家来たちは「まったくもっともだ」と同調した。これは全員が千に一つも生きて帰れまいと決意していたためであり、死出の旅立ちに備えて皆あらかじめマンダラ(護符)を書いて身につけていた。(さらに)長さ約十丈(約30m)の綱を二本用意し一尺(約30cm)ごとに結び目を作り端には熊手(鉤爪)を取り付け持たせた。これは岩場など登れない場所で木の枝や岩角に引っ掛けて上るための準備である。(その夜は九月晦日だったため、指す方向さえ見えない暗闇の中で雨風が激しく吹きつけ顔を上げることさえできない状況であったのに)五十人余りの者たちは太刀を背負い腰に脇差しを帯び城の北側にある高さ数百丈(約900m)、鳥も飛べないほどそびえる石壁から登り始めた。 解説
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| 二町許は兎角して登りつ、其上に一段高き所あり。屏風を立たる如くなる岩石重て、古松枝を垂、蒼苔路滑なり。此に至て人皆如何んともすべき様なくして、遥に向上て立たりける処に、陶山藤三、岩の上をさら/\と走上て、件の差縄を上なる木の枝に打懸て、岩の上よりをろしたるに、跡なる兵共各是に取付て、第一の難所をば安々と皆上りてげり。其より上にはさまでの嶮岨無りければ、或は葛の根に取付、或は苔の上を爪立て、二時計に辛苦して、屏際まで着てけり。此にて一息休て、各屏を上り超、夜廻りの通りける迹に付て、先城の中の案内をぞ見たりける。追手の木戸・西の坂口をば、伊賀・伊勢の兵千余騎にて堅めたり。搦手に対する東の出屏の口をば、大和・河内の勢五百余騎にて堅たり。南の坂、二王堂の前をば、和泉・紀伊国の勢七百余騎にて堅たり。北の口一方は嶮きを被憑けるにや、警固の兵をば一人も不被置、只云甲斐なげなる下部共二三人、櫓の下に薦を張、篝を焼て眠居たり。陶山・小見山城を廻、四方の陣をば早見澄しつ。皇居は何くやらんと伺て、本堂の方へ行処に、或役所の者是を聞付て、「夜中に大勢の足音して、潛に通は怪き物哉、誰人ぞ。」と問ければ、陶山吉次取も敢ず、「是は大和勢にて候が、今夜余に雨風烈しくして、物騒が〔し〕く候間、夜討や忍入候はんずらんと存候て、夜廻仕候也。 |
およそ三百メートルほど苦労して登ると、さらに一段高い場所があった。まるで屏風が立ち並んだように見える岩の塊があり、古い松が枝を垂れ、苔むした道は滑りやすくなっている。ここまで来た兵たちはどうすることもできずに遥か上方を見上げて立っていたところ、陶山藤三郎が岩の上をさらさらと走り上がり、用意していた縄を上の木の枝にかけると、その端を崖下へ垂らした。後ろにいた兵士たちはこれにつかまり、最初の難所を見事なまでやすやすと登り切った。そこから先にはそれほどの険しさもなかったので、葛の根をつかんだ者や苔むした斜面を爪でよじ登る者がおり、およそ四時間苦労して城壁際にたどり着いた。ここで一息休み、それぞれが塀を乗り越えると、夜回りの通った跡について城内の様子を見て偵察した。(敵は)追手門や西坂口には伊賀・伊勢の兵千騎余りで固めていた。搦手に当たる東出丸口は大和・河内の軍勢五百騎あまりで守っている。南坂と二王堂前は和泉・紀伊国の兵七百騎ほどが警備していた。北側だけは険しい地形を頼りとしたのか、見張りの兵さえ一人も配置せず、ただ役に立たない下働きの者たちが二三人、櫓の下で筵(むしろ)を敷いて篝火を囲み眠っているだけであった。陶山と小見山は城を見回って四方の陣形を見定めた。(そして主戦場である)天皇のおわす御所がどこかと探しているうちに本堂の方へ向かったところ、ある役所から誰かがこれを察して「夜中に大勢の足音でこっそり通るとは怪しい。どこの者だ?」と尋ねたので、陶山吉次は全く動揺せず、「われらは大和勢でございます。今夜は特に風雨も激しく物騒がゆえ、夜襲や忍び込みがあるかと思いまして夜廻りを勤めております」と答えた。 解説
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| 」と答ければ、「げに。」と云音して、又問事も無りけり。是より後は中々忍たる体も無して、「面々の御陣に、御用心候へ。」と高らかに呼はて、閑々と本堂へ上て見れば、是ぞ皇居と覚て、蝋燭数多所に被燃て、振鈴の声幽也。衣冠正くしたる人、三四人大床に伺候して、警固の武士に、「誰か候。」と被尋ければ、「其国の某々。」と名乗て廻廊にしかと並居たり。陶山皇居の様まで見澄して、今はかうと思ければ、鎮守の前にて一礼を致し、本堂の上なる峯へ上て、人もなき坊の有けるに火を懸て同音に時の声を挙ぐ。四方の寄手是を聞、「すはや城中に返忠の者出来て、火を懸たるは。時の声を合せよや。」とて追手搦手七万余騎、声々に時を合て喚き叫ぶ。其声天地を響かして、如何なる須弥の八万由旬なりとも崩ぬべくぞ聞へける。陶山が五十余人の兵共、城の案内は只今委く見置たり。此役所に火を懸ては彼こに時の声をあげ、彼こに時を作ては此櫓に火を懸、四角八方に走り廻て、其勢城中に充満たる様に聞へければ、陣々堅めたる官軍共、城内に敵の大勢攻入たりと心得て、物の具を脱捨弓矢をかなぐり棄て、がけ堀とも不謂、倒れ転びてぞ落行ける。錦織判官代是を見て、「膩き人々の振舞哉。十善の君に被憑進せて、武家を敵に受る程の者共が、敵大勢なればとて、戦はで逃る様やある、いつの為に可惜命ぞ。 |
(役所の者が)「確かに。」と言う声がしただけで、それ以上は何も問われなかった。ここから後は隠れる様子すら見せず、「各陣営の方々、ご用心ください!」と高らかに叫びながら、落ち着いて本堂へ上がってみると、これこそ天皇の御座所と思われる場所で、ろうそくが数多く灯され、振鈴(仏具)の音がかすかに響いていた。衣冠束帯を正しく着た人々三~四名が上段に控えていて、警護の武士に「どなただ?」と尋ねさせると、(陶山らは)「その国の何某である」と名乗り回廊にきちんと整列して座った。陶山は天皇の御所の様子まで見極め、「もうこれでよい」と考え、鎮守社(神社)の前で一礼すると本堂背後の峰へ登り、人気のない僧坊があったのでそこへ火を放ちながら全員で鬨の声をあげた。四方を取り囲む攻撃側の軍勢はこれを聞き、「ついに城内に裏切り者が現れ火をつけたのだ! 鬨の声を合わせよ!」と言って、正面・背面から七万余騎が一斉にわめき叫んだ。その声は天地に轟くほどで、たとえ須弥山(仏教世界の巨大な山)の八万由旬(約32万km)であっても崩れ落ちそうに思われた。陶山ら五十人余りの兵士たちは城内の様子をすっかり把握していたので、この役所へ火をつけてあちらで鬨の声をあげ、向こうで時を作ると今度はこちらの櫓へ放火し、四方八方に駆け回ってまるで大軍が城内にあふれているように見せかけた。守備していた官軍(後醍醐天皇方)の兵士たちは「城の中に敵の大群が攻め込んだ」と思い込み、甲冑を脱ぎ捨て弓矢を投げ棄て、崖や堀も構わず転び落ちるようにして逃げ出した。錦織判官代(天皇方武将)はこれを見て、「情けない者たちの振る舞いだ! 天子様にお仕えし武士として敵と戦う身でありながら、敵が大軍だからといって戦わずに逃げることなどあるものか? 何のために命を惜しむのだ?」と言った。 解説
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| 」とて、向ふ敵に走懸々々、大はだぬぎに成て戦ひけるが、矢種を射尽し、太刀を打折ければ、父子二人並郎等十三人、各腹かき切て同枕に伏て死にけり。 ○主上御没落笠置事 去程に類火東西より被吹て、余煙皇居に懸りければ、主上を始進せて、宮々・卿相・雲客、皆歩跣なる体にて、何くを指ともなく足に任て落行給ふ。此人々、始一二町が程こそ、主上を扶進せて、前後に御伴をも被申たりけれ。雨風烈しく道闇して、敵の時の声此彼に聞へければ、次第〔に〕別々に成て、後には只藤房・季房二人より外は、主上の御手を引進する人もなし。悉も十善の天子、玉体を田夫野人の形に替させ給て、そことも不知迷ひ出させ玉ける、御有様こそ浅猿けれ。如何にもして、夜の内に赤坂城へと御心許を被尽けれども、仮にも未習はせ玉はぬ御歩行なれば、夢路をたどる御心地して、一足には休み、二足には立止り、昼は道の傍なる青塚の陰に御身を隠させ玉て、寒草の疎かなるを御座の茵とし、夜は人も通はぬ野原の露に分迷はせ玉て、羅穀の御袖をほしあへず。兎角して夜昼三日に、山城の多賀郡なる有王山の麓まで落させ玉てけり。藤房も季房も、三日まで口中の食を断ければ、足たゆみ身疲れて、今は如何なる目に逢とも逃ぬべき心地せざりければ、為ん方無て、幽谷の岩を枕にて、君臣兄弟諸共に、うつゝの夢に伏玉ふ。 |
こう言って敵に向かって突進し、鎧を脱いだ裸同然の姿で戦ったが、矢を使い果たし刀を折れたため、父子二人と家来十三人はそれぞれ腹を切って同じ場所に並んで亡くなった。 ○天皇陛下が笠置山から落ち延びられること 解説
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| 梢を払ふ松の風を、雨の降かと聞食て、木陰に立寄せ玉たれば、下露のはら/\と御袖に懸りけるを、主上被御覧て、さして行笠置の山を出しよりあめが下には隠家もなし藤房卿泪を押へて、いかにせん憑む陰とて立よれば猶袖ぬらす松の下露山城国の住人、深須入道・松井蔵人二人は、此辺の案内者なりければ、山々峯々無残所捜しける間、皇居隠なく被尋出させ給ふ。主上誠に怖しげなる御気色にて、「汝等心ある者ならば、天恩を戴て私の栄花を期せよ。」と被仰ければ、さしもの深須入道俄に心変じて、哀此君を隠奉て、義兵を揚ばやと思けれども、迹につゞける松井が所存難知かりける間、事の漏易くして、道の成難からん事を量て、黙止けるこそうたてけれ。俄の事にて網代輿だに無りければ、張輿の怪げなるに扶乗進せて、先南都の内山へ入奉る。其体只殷湯夏台に囚れ、越王会稽に降せし昔の夢に不異。是を聞是を見る人ごとに、袖をぬらさずと云事無りけり。此時此彼にて、被生捕給ける人々には、先一宮中務卿親王・第二宮妙法院尊澄法親王・峰僧正春雅・東南院僧正聖尋・万里小路大納言宣房・花山院大納言師賢・按察大納言公敏・源中納言具行・侍従中納言公明・別当左衛門督実世・中納言藤房・宰相季房・平宰相成輔・左衛門督為明・左中将行房・左少将忠顕・源少将能定・四条少将隆兼・妙法院執事澄俊法印、北面・諸家侍共には、左衛門大夫氏信・右兵衛大夫有清・対馬兵衛重定・大夫将監兼秋・左近将監宗秋・雅楽兵衛尉則秋・大学助長明・足助次郎重範・宮内丞能行・大河原源七左衛門尉有重、奈良法師に、俊増・教密・行海・志賀良木治部房円実・近藤三郎左衛門尉宗光・国村三郎入道定法・源左衛門入道慈願・奥入道如円・六郎兵衛入道浄円、山徒には勝行房定快・習禅房浄運・乗実房実尊、都合六十一人、其所従眷属共に至までは計るに不遑。 |
梢を揺らす松風の音をお聞きになると雨が降ったのかと思われ、木陰にお立ち寄りになったところ、下葉からの露がぽたぽたとお袖にかかった。これを見られた天皇陛下は「笠置山から出て以来、天の下には隠れ家もないのだな」と言われた。藤房卿(北畠親房)は涙をこらえて詠んだ――いったいどうすればよいのか頼れる陰と思って立っていると、なおさら袖を濡らす松の下露よ。 山城国の住人である深須入道と松井蔵人の二人がこの辺りの地理に詳しかったため、山中をくまなく捜索した結果、天皇陛下は隠れる場所もなくお見つかりになってしまった。陛下は非常に恐れられた様子で「お前たちが思慮ある者ならば、天の恩恵を受けて私のために栄華をもたらすことを約束せよ」と仰せになったところ、あの深須入道も突然心変わりし、哀れな君主をお隠しして義兵を挙げようと思った。しかし後から付いてきた松井蔵人の考えが読めず、計画が漏れやすく成功が難しいだろうと考えて黙ってしまったのは情けなかった。 急なことだったので網代輿(簡易御輿)さえなく、粗末な張り輿に陛下をお乗せしてまず南都の内山へとお連れした。その様子は殷の湯王が夏台に囚われた夢とも越王勾践が会稽で降伏した昔話とも変わらないありさまだった。これを聞きこれを見る者は皆、涙で袖を濡らさない者はいなかった。 この時各地で捕えられた方々は―― 解説
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| 或は篭輿に被召、或伝馬に被乗て、白昼に京都へ入給ひければ、其方様歟と覚たる男女街に立並て、人目をも不憚泣悲む、浅増かりし分野也。十月二日六波羅の北方、常葉駿河守範貞、三千余騎にて路を警固仕て、主上を宇治の平等院へ成し奉る。其日関東の両大将京へは不入して、すぐに宇治へ参向て、竜顔に謁奉り、先三種の神器を渡し給て、持明院新帝可進由を奏聞す。主上藤房を以て被仰出けるは、「三種神器は、自古継体君、位を天に受させ給ふ時、自ら是を授る者也。四海に威を振ふ逆臣有て、暫天下を掌に握る者ありと云共、未此三種の重器を、自専して新帝に渡し奉る例を不聞。其上内侍所をば、笠置の本堂に捨置奉りしかば、定て戦場の灰塵にこそ落させ給ひぬらめ。神璽は山中に迷し時木の枝に懸置しかば、遂にはよも吾国の守と成せ給はぬ事あらじ。宝剣は、武家の輩若天罰を顧ずして、玉体に近付奉る事あらば、自其刃の上に伏させ給はんずる為に、暫も御身を放たる事あるまじき也。」と被仰ければ、東使両人も、六波羅も言ば無して退出す。翌日竜駕を廻して六波羅へ成進らせんとしけるを、前々臨幸の儀式ならでは還幸成まじき由を、強て被仰出ける間、無力鳳輦を用意し、袞衣を調進しける間、三日迄平等院に御逗留有てぞ、六波羅へは入給ける。 |
ある者は籠輿(かごこし)にお乗せになり、ある者は伝馬(てんま・公用の馬)に乗せられて、白昼堂々と京都へ入られた。すると「あの方であろう」と思われる男女が街に立ち並び、人目をも憚らず泣き悲しんだのは、浅はかでありながら痛切な光景であった。 十月二日、六波羅(幕府機関)の北方である常葉駿河守範貞(ときわするがのかみのりさだ)が三千余騎で道を警護し、天皇陛下を宇治の平等院へお連れした。その日関東から来た両大将(鎌倉幕府使節)は京に入らず直接宇治へ伺候して御前にお会いし、まず三種の神器をお渡しするよう求め、持明院統の新帝に皇位を継がせるべき旨を奏上した。 これに対し天皇陛下は藤房(北畠親房)を通じてお答えになった。「三種の神器は古来より正統な君主が天から地位をお受けになる際、自然と授かるものである。天下に逆らう臣下が一時的に権力を握った例はあっても、この重器を勝手に新帝へ渡す先例など聞いたことがない。さらに内侍所(八咫鏡)は笠置寺の本堂に奉安したままだったので、戦火の中で失われたであろう。神璽(八尺瓊勾玉)は山中で迷った際に木の枝にかけておいたため、やがてわが国を守る神となられるはずだ。宝剣(天叢雲剣)については、武士どもがもし天道を顧みず朕へ刃向かうならば、その刃のもとで自ら命を絶たれるであろうから、決してお身をお離れすることはあるまい」 このお言葉に関東の使者二人も六波羅側も返す言葉なく退出した。翌日天皇を六波羅へ移送しようとしたが、「前例にない臨幸儀式では還幸できない」と強く申し出られたため、やむを得ず鳳輦(ほうれん・御所車)の準備と袞衣(こんい・装束)の調達を行った。こうして三日間平等院に滞留された後、ようやく六波羅へ入られたのである。 解説
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| 日来の行幸に事替て、鳳輦は数万の武士に被打囲、月卿雲客は怪げなる篭・輿・伝馬に被扶乗て、七条を東へ河原を上りに、六波羅へと急がせ給へば、見る人涙を流し、聞人心を傷しむ。悲乎昨日は紫宸北極の高に坐して、百司礼儀の妝を刷ひしに、今は白屋東夷の卑きに下らせ給て、万卒守禦の密しきに御心を被悩。時移事去楽尽て悲来る。天上の五衰人間の一炊、唯夢かとのみぞ覚たる。遠からぬ雲の上の御住居、いつしか思食出す御事多き時節、時雨の音の一通、軒端の月に過けるを聞食て、住狎ぬ板屋の軒の村時雨音を聞にも袖はぬれけり四五日有て、中宮の御方より御琵琶を被進けるに、御文あり。御覧ずれば、思やれ塵のみつもる四の絃に払ひもあへずかゝる泪を引返して、御返事有けるに、涙ゆへ半の月は陰るとも共に見し夜の影は忘れじ同八日両検断、高橋刑部左衛門・糟谷三郎宗秋、六波羅に参て、今度被生虜給し人々を一人づゝ大名に被預。一宮中務卿親王をば佐々木判官時信、妙法院二品親王をば長井左近大夫将監高広、源中納言具行をば筑後前司貞知、東南院僧正をば常陸前司時朝、万里小路中納言藤房・六条少将忠顕二人をば、主上に近侍し奉るべしとて、放召人の如くにて六波羅にぞ留め置れける。同九日三種の神器を、持明院の新帝の御方へ被渡。 |
日頃の行幸とは様子が違い、鳳輦(御所車)は数万の武士に取り囲まれ、公家たちも怪しい籠や輿・伝馬に乗せられて、七条から東へ河原を上り六波羅へ急ぎ向かわれた。これを見る者は涙を流し、聞く者の心は傷ついた。悲しいことだ、昨日までは紫宸殿の玉座に坐して百官の礼儀を取り仕切っていた方が、今は粗末な武家屋敷(六波羅)という卑しい場所へ降りられ、兵士たちの厳重警護に御心を悩ませられる。時が移り事態が変わり楽しみ尽きて悲しみ来る――天人の五衰(臨終の兆候)や人間の邯鄲の夢のように、ただ幻かとしか思えなかった。 遠くない雲上の宮中での御生活を懐かしく思い出される折柄、時雨の音が一度通り過ぎ軒端の月夜に変わるのをお聞きになられては、(都を側んで)「慣れぬ板屋の軒に降る村時雨 その音を聴くだけでも袖は濡れてしまう」と詠まれた。四五日経った頃、中宮(皇后)より御琵琶が届けられた。添えられた手紙をご覧になると、(嘆息されて)「塵ばかり積もる四弦の上 払い切れぬ涙で弦は濡れる」と返歌された――「たとえ涙に曇り半欠けの月を見ようとも 共に見たあの夜の月光は忘れまい」。 同八日、両検断(幕府役人)である高橋刑部左衛門・糟谷三郎宗秋が六波羅へ参上し、今回捕らえられた方々を一人ずつ大名に預けるよう指示した。一宮中務卿親王は佐々木判官時信に、妙法院二品親王は長井左近大夫将監高広に、源中納言具行は筑後前司貞知に、東南院僧正は常陸前司時朝にそれぞれ預けられ、万里小路中納言藤房と六条少将忠顕の二人だけが「主上にお仕えすべし」として放免されるかのように六波羅へ留め置かれた。同九日、三種の神器は持明院統(北朝)の新帝側へ引き渡された。 解説
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| 堀河大納言具親・日野中納言資名、是を請取て長講堂へ送奉る。其御警固には長井弾正蔵人・水谷兵衛蔵人・但馬民部大夫・佐々木隠岐判官清高をぞ被置ける。同十三日に、新帝登極の由にて、長講堂より内裏へ入せ給ふ。供奉の諸卿、花を折て行妝を引刷ひ、随兵の武士、甲冑を帯して非常を誡む。いつしか前帝奉公の方様には、咎有も咎無も、如何なる憂目をか見んずらんと、事に触て身を危み心を砕けば、当今拝趨の人々は、有忠も無忠も、今に栄花を開きぬと、目を悦ばしめ耳をこやす。子結で陰を成し、花落て枝を辞す。窮達時を替栄辱道を分つ。今に始めぬ憂世なれども、殊更夢と幻とを分兼たりしは此時也。 ○赤坂城軍事 遥々と東国より上りたる大勢共、未近江国へも入ざる前に、笠置の城已に落ければ、無念の事に思て、一人も京都へは不入。或は伊賀・伊勢の山を経、或は宇治・醍醐の道を要て、楠兵衛正成が楯篭たる赤坂の城へぞ向ひける。石河々原を打過、城の有様を見遣れば、俄に誘へたりと覚てはか/゛\しく堀をもほらず、僅に屏一重塗て、方一二町には過じと覚たる其内に、櫓二三十が程掻双べたり。是を見る人毎に、あな哀の敵の有様や、此城我等が片手に載て、投るとも投つべし。あはれせめて如何なる不思議にも、楠が一日こらへよかし、分捕高名して恩賞に預らんと、思はぬ者こそ無りけれ。 |
堀川大納言具親と日野中納言資名がこれ(三種の神器)を受け取り長講堂へ届けた。警護役として長井弾正蔵人・水谷兵衛蔵人・但馬民部大夫・佐々木隠岐判官清高を配置された。 同十三日、新帝即位により長講堂から御所(内裏)へ入られた。供奉する公家たちは花枝を手に装いを整え、護衛の武士たちは甲冑をつけて警戒した。(南朝支持者は皆思う)「前天皇(後醍醐)にお仕えしていた人々は、咎があろうとなかろうと、いつどんな災難に見舞われるかもしれない」と事あるごとに身を案じ心を痛める。一方今の新帝に従う者たちは忠義の有無にかかわらず「これで栄華が開ける」と目を輝かせ耳を喜ばせる。(まるで)実をつけて蔭を作る木もあれば花が散り枝から離れるものもあるように、不遇と成功は時によって変わり、栄誉と恥辱は道の分かれに従う。世の憂いは今始まったことではないが、特に夢と現実を見分け難いのはこの瞬間である。 ○赤坂城軍事 解説
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| されば寄手三十万騎の勢共、打寄ると均く、馬を蹈放々々、堀の中に飛入、櫓の下に立双で、我前に打入んとぞ諍ひける。正成は元来策を帷幄の中に運し、勝事を千里の外に決せんと、陳平・張良が肺肝の間より流出せるが如の者なりければ、究竟の射手を二百余人城中に篭て、舎弟の七郎と、和田五郎正遠とに、三百余騎を差副て、よその山にぞ置たりける。寄手は是を思もよらず、心を一片に取て、只一揉に揉落さんと、同時に皆四方の切岸の下に着たりける処を、櫓の上、さまの陰より、指つめ引つめ、鏃を支て射ける間、時の程に死人手負千余人に及べり。東国の勢共案に相違して、「いや/\此城の為体、一日二日には落まじかりけるぞ、暫陣々を取て役所を構へ、手分をして合戦を致せ。」とて攻口を少し引退き、馬の鞍を下し、物の具を脱で、皆帷幕の中にぞ休居たりける。楠七郎・和田五郎、遥の山より直下して、時刻よしと思ければ、三百余騎を二手に分け、東西の山の木陰より、菊水の旗二流松の嵐に吹靡かせ、閑に馬を歩ませ、煙嵐を捲て押寄たり。東国の勢是を見て、敵か御方かとためらひ怪む処に、三百余騎の勢共、両方より時を咄と作て、雲霞の如くに靉ひたる三十万騎が中へ、魚鱗懸に懸入、東西南北へ破て通り、四方八面を切て廻るに、寄手の大勢あきれて陣を成かねたり。 |
攻め手の三十万騎が一斉に押し寄せると、馬を躍らせて堀の中へ飛び込み、櫓の下で我先にと突入しようと争った。楠木正成はもともと計略を陣中で練り、遠方での勝利を見通す陳平や張良のような人物だったため、屈指の射手二百人余りを城内に残し、弟の七郎と和田五郎正遠には三百騎を与えて近くの山へ伏せていた。攻め手はこれを予想せず、一気に城を落とそうと四方の崖下に集まったところ、櫓の上や物陰から射手が矢を次々放ち、瞬く間に死者・負傷者が千人以上出た。 東国勢は予想外の事態に「この城は一日二日では落ちない。一旦陣地を作り分隊で攻撃しよう」と攻め口を引き下げ、馬から降り鎧を脱いで幕舎内で休息した。その時、楠七郎と和田五郎が遠くの山頂からタイミングを見計らい、三百騎を二手に分けて東西の木陰から出現。「菊水」の旗二本が松風になびくなか、ゆっくり馬を進め煙塵を巻き上げて接近した。東国勢が敵味方かと怪しむ間に、両側から突然「時は来た!」と叫んで突入。雲霞のように集まった三十万騎の中へ魚鱗の陣形で割り込み、東西南北を破って八方向に切り回すと、攻め手の大軍は呆然として防御態勢さえ整えられなかった。 解説
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| 城中より三の木戸を同時に颯と排て、二百余騎鋒を双て打て出、手崎をまわして散々に射る。寄手さしもの大勢なれども僅の敵に驚騒で、或は維げる馬に乗てあをれども進まず。或は弛せる弓に矢をはげて射んとすれども不被射。物具一領に二三人取付、「我がよ人のよ。」と引遇ける其間に、主被打ども従者は不知、親被打共子も不助、蜘の子を散すが如く、石川々原へ引退く。其道五十町が間、馬・物具を捨たる事足の踏所もなかりければ、東条一郡の者共は、俄に徳付てぞ見たりける。指もの東国勢思の外にし損じて、初度の合戦に負ければ、楠が武畧侮りにくしとや思けん。吐田・楢原辺に各打寄たれども、軈て又推寄んとは不擬。此に暫引へて、畿内の案内者を先に立て、後攻のなき様に山を苅廻、家を焼払て、心易く城を責べきなんど評定ありけるを、本間・渋谷の者共の中に、親被打子被討たる者多かりければ、「命生ては何かせん、よしや我等が勢許なりとも、馳向て打死せん。」と、憤りける間、諸人皆是に被励て、我も我もと馳向けり。彼赤坂の城と申は、東一方こそ山田の畔重々に高して、少し難所の様なれ、三方は皆平地に続きたるを、堀一重に屏一重塗たれば、如何なる鬼神が篭りたり共、何程の事か可有と寄手皆是を侮り、又寄ると均く、堀の中、切岸の下まで攻付て、逆木を引のけて打て入んとしけれども、城中には音もせず、是は如何様昨日の如く、手負を多く射出て漂ふ処へ、後攻の勢を出して、揉合せんずるよと心得て、寄手十万余騎を分て、後の山へ指向て、残る二十万騎稲麻竹葦の如く城を取巻てぞ責たりける。 |
城内から三つの城門を同時に勢いよく開け、二百余騎が一斉に打って出て側面を巡りながら激しく矢を射た。攻め手(東国軍)は大軍にもかかわらず少数の敵に驚き混乱し、馬の手綱が絡まって動けない者や、緩んだ弓で矢を放とうとしても当たらない者が続出した。鎧一領に二三人が群がり「俺のだ!お前のものだ!」と奪い合う間に、主人は討たれても従者は気づかず、親が倒されても子は助けず、蜘蛛の子を散らすように石川河原へ敗走した。その道五十町(約5.5km)にわたり馬や武具が捨てられ足の踏み場もないほどで、地元・東条郡の人々が突然の勝利に驚いて見ていた。 遠征してきた東国勢は予想外の損害を受け初戦で敗れたため、「楠木の戦術は侮れない」と悟ったのか。吐田・楢原辺りに一旦集結したものの、すぐには再攻撃を仕掛けようとはしなかった。ここで兵を引いて京周辺の地理に詳しい者を先導させ、後方からの奇襲がないように山々を伐採し家屋を焼き払い、安全に城を包囲しようと作戦会議したが、本間・渋谷一族の中で親や子を討たれた者が多数いたため、「生き残っても意味はない。たとえ我々だけでも突撃して死のう」と憤慨し、皆がそれに煽られて我先にと攻め寄せた。 あの赤坂城というのは東側こそ山田の畦道が重なり多少険しいが、他の三方は平地続きである。堀一筋と土塁一重しかないため「どんな強者が籠ろうと大したことはあるまい」と攻め手は侮り、再び一斉に押し寄せて堀の中や崖下まで接近し、逆茂木(防御柵)を引き抜いて突入しようとした。しかし城内からは全く音もなく、「これは昨日と同じように多くの負傷者が出た混乱時に伏兵で挟撃するつもりか」と警戒したため、十万騎余りを後方の山へ向けさせ、残る二十万騎が稲や麻のように密集して城を取り囲み攻め立てた。 解説
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| 卦けれども城の中よりは、矢の一筋をも不射出更人有とも見へざりければ、寄手弥気に乗て、四方の屏に手を懸、同時に上越んとしける処を、本より屏を二重に塗て、外の屏をば切て落す様に拵たりければ、城の中より、四方の屏の鈎縄を一度に切て落したりける間、屏に取付たる寄手千余人、厭に被打たる様にて、目許はたらく処を、大木・大石を抛懸々々打ける間、寄手又今日の軍にも七百余人被討けり。東国の勢共、両日の合戦に手ごりをして、今は城を攻んとする者一人もなし。只其近辺に陣々を取て、遠攻にこそしたりけれ。四五日が程は加様にて有けるが、余に暗然として守り居たるも云甲斐なし。方四町にだに足ぬ平城に、敵四五百人篭たるを、東八箇国の勢共が責かねて、遠責したる事の浅猿さよなんど、後までも人に被笑事こそ口惜けれ。前々は早りのまゝ楯をも不衝、責具足をも支度せで責ればこそ、そゞろに人をば損じつれ。今度は質てを替て可責とて、面々に持楯をはがせ、其面にいため皮を当て、輒く被打破ぬ様に拵て、かづきつれてぞ責たりける。切岸の高さ堀の深さ幾程もなければ、走懸て屏に着ん事は、最安く覚けれ共、是も又釣屏にてやあらんと危みて無左右屏には不着、皆堀の中にをり漬て、熊手を懸て屏を引ける間、既に被引破ぬべう見へける処に、城の内より柄の一二丈長き杓に、熱湯の湧翻りたるを酌で懸たりける間、甲の天返綿噛のはづれより、熱湯身に徹て焼爛ければ、寄手こらへかねて、楯も熊手も打捨て、ばつと引ける見苦しさ、矢庭に死るまでこそ無れども、或は手足を被焼て立も不揚、或は五体を損じて病み臥す者、二三百人に及べり。 |
攻め手が警戒していたものの、城内からは一本の矢も放たれず人影すら見えなかったため、東国軍はますます勢いづいて四方の塀に取り付き一斉によじ登ろうとしたところ、元々二重構造になっていた塀で外側を切り落とせる仕掛けであったので、城内から一度にかぎ縄(固定用ロープ)を切断した。すると塀に取りついていた千余人の攻め手が崩れ落ちるように落下し、呆然とする彼らに向かって大木や巨石を次々投下したため、この日の戦闘だけで七百人余りが討たれた。 東国勢は二日続けて損害を受け(「両日の合戦に手ごり」)、もはや城攻めしようという者はいなくなった。ただ近辺に陣地を構えて遠方からの包囲作戦(「遠攻」)を継続したが、四、五日経っても状況は変わらず無為な籠城状態が続く。四方百数十メートル足らずの小城(当時1町≌109m)に敵兵わずか四五百人が篭るのに対し、東国八カ国の大軍で攻略できず包囲戦を続ける情けなさは、後世まで笑われるのが悔しいと皆が思った。 以前は軽率にも防盾(「楯」)も準備せず攻めたため不必要な損害が出た。今回は方法を変えようと各兵に手持ちの盾を持たせ、表面には丈夫な皮を張り付け容易に壊れないように改造してかぶって突撃した。崖の高さや堀の深さが大したことなかったので素早く塀まで駆け上がるのは簡単と思われたが「これはまた仕掛け塀(釣屏)かもしれぬ」と警戒し誰も直接塀に触れず、皆で堀の中に入って熊手をかけて塀を引き倒そうとした。ちょうど破壊寸前に見えた時、城内から柄の長さ3~6メートルもある巨大なひしゃくで煮え立った熱湯をかけられ始めたため、兜と鎧の隙間(「甲の天返綿噛のはづれ」)から熱湯が浸透して皮膚が焼けただれた。攻め手は耐えきれず盾も熊手も投げ捨て慌てて退却する醜態を晒し、即死こそなかったものの手足を負傷した者や全身火傷で倒れる者が二三百人に及んだ。 解説
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| 寄手質を替て責れば、城の中工を替て防ぎける間、今は兔も角も可為様なくして、只食責にすべしとぞ被議ける。かゝりし後は混ら軍をやめて、己が陣々に櫓をかき、逆木を引て遠攻にこそしたりけれ。是にこそ中々城中の兵は、慰方もなく機も疲れぬる心地しけれ。楠此城を構へたる事暫時の事なりければ、はか/゛\しく兵粮なんど用意もせざれば、合戦始て城を被囲たる事、僅に二十日余りに、城中兵粮尽て、今四五日の食を残せり。懸ければ、正成諸卒に向て云けるは、「此間数箇度の合戦に打勝て、敵を亡す事数を不知といへども、敵大勢なれば敢て物の数ともせず、城中既食尽て助の兵なし。元来天下の士卒に先立て、草創の功を志とする上は、節に当り義に臨では、命を可惜に非ず。雖然事に臨で恐れ、謀を好で成すは勇士のする所也。されば暫此城を落て、正成自害したる体を敵に知せんと思ふ也。其故は正成自害したりと見及ばゞ、東国勢定て悦を成て可下向。下らば正成打て出、又上らば深山に引入、四五度が程東国勢を悩したらんに、などか退屈せざらん。是身を全して敵を亡す計畧也。面々如何計ひ給。」と云ければ、諸人皆、「可然。」とぞ同じける。「さらば。」とて城中に大なる穴を二丈許掘て、此間堀の中に多く討れて臥たる死人を二三十人穴の中に取入て、其上に炭・薪を積で雨風の吹洒ぐ夜をぞ待たりける。 |
攻め手が方針を変えて城を攻撃すると、城内も作戦を変更して防いだため、今や手段が尽きて包囲による兵糧攻め(「食責」)に切り替えることで一致した。この後は直接的な攻撃を中止し、各陣地に櫓を築いて逆茂木(防御用の杭)を設置し遠方からの包囲戦を行った。これにより城内の兵士たちには気分転換もできず疲労が蓄積していく思いであった。楠木正成がこの城を構えたのは短期間だったため、十分な食糧などの準備がなく合戦開始から包囲されてわずか二十日余りで城中の食糧は尽き、残りはあと四、五日分となった。 そこで正成は兵士たちに向かって言った。「ここまでの数度の戦いで勝利し敵を倒した数も多いが、敵軍は大勢だから問題にならない。城内では既に食料が底をつき援軍もない。そもそも天下の武士として先駆けとなり新時代の功績(「草創の功」)を志す者たるもの、節義に関わる時には命を惜しむべきではない。しかし戦いにおいては恐怖と向き合い智謀で勝利を得ることが勇士の務めだ。そこで私は一旦この城から落ち延び自害したように敵に見せかけようと思う。理由はこうだ——私が自害したと思わせれば東国勢は喜んで撤退するだろう。彼らが下がったところを再挙して山中に潜み、四、五度も繰り返し悩ませるうちには必ず退却させるはずである。これこそ身の安全を保ちつつ敵を滅ぼす計略だ。皆はどう考えるか」と述べると兵士たち全員が「その通りだ」と同意した。 そこで城内に大きな穴(深さ約6メートル)を掘り、この間に堀の中で倒れていた戦死者二三十人を穴に入れた上に炭や薪を積み重ねた。そして雨風で物音が消える夜を待ったのである。 解説
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| 正成が運や天命に叶けん、吹風俄に沙を挙て降雨更に篠を衝が如し。夜色窈溟として氈城皆帷幕を低る。是ぞ待所の夜なりければ、城中に人を一人残し留て、「我等落延ん事四五町にも成ぬらんと思はんずる時、城に火を懸よ。」と云置て、皆物の具を脱ぎ、寄手に紛て五人三人別々になり、敵の役所の前軍勢の枕の上を越て閑々と落けり。正成長崎が厩の前を通りける時、敵是を見つけて、「何者なれば御役所の前を、案内も申さで忍やかに通るぞ。」と咎めれけば、正成、「是は大将の御内の者にて候が、道を踏違へて候ひける。」と云捨て、足早にぞ通りける。咎めつる者、「さればこそ怪き者なれ、如何様馬盜人と覚るぞ。只射殺せ。」とて、近々と走寄て真直中をぞ射たりける。其矢正成が臂の懸りに答て、したゝかに立ぬと覚へけるが、す膚なる身に少も不立して、筈を返して飛翻る。後に其矢の痕を見れば、正成が年来信じて奉読観音経を入たりける膚の守に矢当て、一心称名の二句の偈に、矢崎留りけるこそ不思議なれ。正成必死の鏃に死を遁れ、二十余町落延て跡を顧ければ、約束に不違、早城の役所共に火を懸たり。寄手の軍勢火に驚て、「すはや城は落けるぞ。」とて勝時を作て、「あますな漏すな。」と騒動す。 |
幸い楠木正成には運と天命が味方した。風が突然砂塵を巻き上げるように激しく吹き荒れ、雨は篠突くように降り注ぎだし、夜闇は深く敵陣営(「氈城」)の幕舎も全て覆い隠された。これこそ待ち望んだ脱出の夜だったため、城内に一人だけ残して「我々が逃げ延びて四五百メートルほど離れた頃と思ったら、城に火を放て」と指示し置いた後、皆は甲冑を脱ぎ捨て攻め手軍に紛れ五人や三人の小グループに分かれ、敵陣営(「役所」)の前で横たわる兵士たちの枕元を通り抜けながら静かに撤退した。 楠木正成が長崎氏の厩舎前を通りかかった時、敵に見咎められて、「何者だ! なぜ大将陣営(「御役所」)の前を無断で忍び足で通るのか!」と詰問されたので、正成は「これは大将様側近の者ですが道に迷いました」と言い捨て素早く通り過ぎた。咎めた者は、「やっぱり怪しい! どうも馬泥棒らしいぞ。射殺せ!」と叫び間近まで走り寄って真っ直ぐ矢を放った。その矢は正成の腕(「臂」)付近に当たり、深々と刺さったかに思われたが、皮膚上でわずかにも刺さらず筈だけ返して跳ね返った。後日この傷跡を見ると、長年信仰した観音経を書写し肌身につけていたお守り(「膚の守」)に矢先が当たり、「一心称名」(南無観世音菩薩の祈念句)と記された部分で止まっていたのは不思議であった。 正成は必死の一矢から奇跡的に逃れ、約二キロ以上落ち延びて振り返ると(「二十余町」)、予定通り城楼や陣営に火が上がっている。攻め手軍勢は炎を見て驚き、「ついに城が陥落したぞ!」と勝鬨を挙げ、「逃すな残すな!」と大騒ぎした。 解説
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| 焼静まりて後城中をみれば、大なる穴の中に炭を積で、焼死たる死骸多し。皆是を見て、「あな哀や、正成はや自害をしてけり。敵ながらも弓矢取て尋常に死たる者哉。」と誉ぬ人こそ無りけれ。 ○桜山自害事 去程に桜山四郎入道は、備後国半国許打順へて、備中へや越まし、安芸をや退治せましと案じける処に、笠置城も落させ給ひ、楠も自害したりと聞へければ、一旦の付勢は皆落失ぬ。今は身を離ぬ一族、年来の若党二十余人ぞ残りける。此比こそあれ、其昔は武家権を執て、四海九州の内尺地も不残ければ、親き者も隠し得ず、疎はまして不被憑、人手に懸りて尸を曝さんよりはとて、当国の一宮へ参り、八歳に成ける最愛の子と、二十七に成ける年来の女房とを刺殺て、社壇に火をかけ、己が身も腹掻切て、一族若党二十三人皆灰燼と成て失にけり。抑所こそ多かるに、態社壇に火を懸焼死ける桜山が所存を如何にと尋るに、此入道当社に首を傾て、年久かりけるが、社頭の余りに破損したる事を歎て、造営し奉らんと云大願を発しけるが、事大営なれば、志のみ有て力なし。今度の謀叛に与力しけるも、専此大願を遂んが為なりけり。されども神非礼を享給はざりけるにや、所願空して打死せんとしけるが、我等此社を焼払たらば、公家武家共に止む事を不得して如何様造営の沙汰可有。 |
火が鎮まった後、城内を調べると大きな穴に炭を積み上げた中で多くの焼死体があった。敵兵はこれを見て「ああ哀れだ、正成は自害してしまったのか。敵ながらも武士として立派な最期だ」と賞賛する者がいた。 ○桜山入道の自害について そもそも多くの場所がある中で敢えて社殿焼死を選んだ桜山の意図は何か。この入道は長年当神社に深く帰依しており、社頭の荒廃を嘆き「必ず造営を成し遂げたい」と大願を立てていたが、その事業規模には志だけでは及ばなかった。今回の謀反への参加も専らこの大願達成のためであった。しかし神は非礼(謀叛)を受け入れられなかったのか、所願叶わず死を選ぶこととなった。「もし我々が社殿を焼き払えば朝廷・幕府とも無視できず再建されるだろう」との計算があったのだ。 解説
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| 其身は縦ひ奈落の底に堕在すとも、此願をだに成就しなば悲むべきに非ずと、勇猛の心を発て、社頭にては焼死にける也。倩垂迹和光の悲願を思へば、順逆の二縁、何れも済度利生の方便なれば、今生の逆罪を翻して当来の値遇とや成らんと、是もたのみは不浅ぞ覚へける。 |
たとえ自身が地獄(奈落)の最下層へ堕ちるとしても、この願いだけでも成就するならば悲しむべきことではないと決意を固め、社殿で焼死したのである。深く考えれば、神仏が姿を変えて現れるという慈悲の誓いは(「垂迹和光」)、従順な者も逆らう者も両方とも衆生救済へ導く手段であるため、今生における謀叛の罪をも転じて来世での悟りを得る機会となるかもしれない。この望みも浅はかではないと思われた。 解説
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| input text 太平記\004_太平記_巻4.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第四 ○笠置囚人死罪流刑事付藤房卿事 笠置城被攻落刻、被召捕給し人々の事、去年は歳末の計会に依て、暫く被閣ぬ。新玉の年立回れば、公家の朝拝武家の沙汰始りて後、東使工藤次郎左衛門尉・二階堂信濃入道行珍二人上洛して、可行死罪人々、可処流刑国々、関東評定の趣、六波羅にして被定。山門・南都の諸門跡、月卿・雲客・諸衛の司等に至迄、依罪軽重、禁獄流罪に処すれ共、足助次郎重範をば六条河原に引出し、首を可刎と被定。万里小路大納言宣房卿は、子息藤房・季房二人の罪科に依て、武家に被召捕、是も如召人にてぞ座しける。齢已に七旬に傾て、万乗の聖主は遠嶋に被遷させ給ふべしと聞ゆ。二人の賢息は、死罪にぞ行はれんずらんと覚へて、我身さへ又楚の囚人と成給へば、只今まで命存て、浩る憂事をのみ見聞事の悲しければと、一方ならぬ思ひに、一首の歌をぞ被詠ける。長かれと何思ひけん世中の憂を見するは命なりけり罪科有もあらざるも、先朝拝趨の月卿・雲客、或は被停出仕、尋桃源迹、或被解官職、懐首陽愁、運の通塞、時の否泰、為夢為幻、時遷り事去て哀楽互に相替る。憂を習の世の中に、楽んでも何かせん、歎ても由無るべし。源中納言具行卿をば、佐々木佐渡判官入道道誉、路次を警固仕て鎌倉へ下し奉る。 |
太平記 笠置城が攻め落とされた時に捕らえられた人々について、昨年は年末の政務処理のためにしばらく保留されていた。新年を迎えたため朝廷や幕府の政務が始まった後、鎌倉から派遣された使者である工藤次郎左衛門尉(こうどうじろうざえもんのじょう)と二階堂信濃入道行珍(にかいどうしなのにゅうどうぎょうちん)の二人が京都へ上り、死刑に処すべき人々や流刑先となる国を六波羅探題で決定した。比叡山延暦寺や興福寺などの高僧から公卿・殿上人・衛門府の役人に至るまで罪の軽重によって禁固または流刑となったが、足助次郎重範(あすけじろうしげのり)だけは六条河原へ引き出され斬首と決められた。万里小路大納言宣房卿(までのこうじだいなごんふさぼうきょう)は息子である藤房と季房二人の罪状のために幕府に捕らえられ、他の囚人同様拘束された。彼はすでに70歳近くであり、「天皇陛下が遠島へ流されるという噂を聞いた」と言った。二人の賢明な息子たちは死刑になるだろうと思い、自分自身もまた楚(敵国)の囚人となってしまえば、今まで生きながらえてきたのは広大な憂き世ばかり見聞きする悲しみだったと深く思い詰め一首の歌を詠んだ。「長く生きようなど何を考えていたのか この世の中に見る苦労は命そのものだ」。罪のある者もない者も、かつて朝廷に仕えた公卿や殿上人は出仕停止となり桃源郷のような安楽な地を探す者がいれば官職を解かれ首陽山の隠遁生活のように愁いにふける。運勢が通じる時と塞がれる時、時代の盛衰は夢か幻のようで時間が経てば悲しみも喜びも互いに変わるものだ。憂いが常態化した世の中では楽しんでも何になるのか嘆いても仕方あるまい。源中納言具行卿(げんないなごんともゆききょう)は佐々木佐渡判官入道道誉(ささきさどのはんがんにゅうどうどうよ)が途中の警護を務め鎌倉へ下向させた。 解説
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| 道にて可被失由、兼て告申人や有けん、会坂の関を越給ふとて、帰るべき時しなければ是や此行を限りの会坂の関勢多の橋を渡るとて、けふのみと思我身の夢の世を渡る物かはせたの長橋此卿をば道にて可奉失と、兼て定し事なれば、近江の柏原にて切奉るべき由、探使襲来していらでければ、道誉、中納言殿の御前に参り、「何なる先世の宿習によりてか、多の人の中に入道預進せて、今更加様に申候へば、且は情を不知に相似て候へ共、卦る身には無力次第にて候。今までは随分天下の赦を待て、日数を過し候つれ共、関東より可失進由、堅く被仰候へば、何事も先世のなす所と、思召慰ませ給候へ。」と申もあへず袖を顔に押当しかば、中納言殿も不覚の泪すゝみけるを、推拭はせ給ひて、「誠に其事に候。此間の儀をば後世までも難忘こそ候へ。命の際の事は、万乗の君既に外土遠嶋に御遷幸の由聞へ候上は、其以下の事どもは、中々不及力。殊更此程の情の色、誠存命すとも難謝こそ候へ。」と計にて、其後は言をも被仰ず、硯と紙とを取寄て、御文細々とあそばして、「便に付て相知れる方へ、遣て給はれ。」とぞ被仰ける。角て日已に暮ければ、御輿指寄て乗せ奉り、海道より西なる山際に、松の一村ある下に、御輿を舁居たれば、敷皮の上に居直せ給ひて、又硯を取寄せ、閑々と辞世の頌をぞ被書ける。 |
途中で殺害されることが決まっており、事前に報告した者がいたのかもしれない。「逢坂(おうさか)の関を越えようとするが戻る見込みはなく、この旅路もここまでと覚悟して勢多橋(せたばし)を渡ろう。今日限りと思う我が身よ——儚い世を渡ってきた者が、こんな長橋で縁切りするのか」という思いである。(源具行卿は)道中で殺すことを前もって決められていたため、近江国柏原(おうみのくにかしわばら)で斬首することになった。見張りの使者が到着したので、佐々木道誉(ささきどうよ)が具行卿のもとに参り、「いったい前世の因縁によるものか、多くの囚人の中から私に預けられながら、今こう申し上げるのは無情にも思えましょう。しかし身分卑しい者には抗う力もありません。これまで何とか赦免を待ち日々過ごしてきましたが、関東(鎌倉幕府)から殺害命令が厳しく下された以上は、運命と諦めてお慰みください」と言い終わらないうちに袖で顔を押さえた。すると具行卿も思わず涙がこぼれたのを自ら拭いながら、「まことにその通りです。あなたのお情けは後世まで忘れません。命に関わることでは、天皇陛下(後醍醐天皇)が遠島へ流されたと聞く以上、臣下のことなどどうしようもないのです。このような厚意には生き延びても報いきれましょう」と言ったきり沈黙し、硯と紙を取り寄せて手紙をしたため、「便りのついでに知人へ届けてほしい」と指示なさった。日が暮れたので輿(こし)を用意して乗せ、東海道の西側にある松林の山際まで運んだところ、具行卿は敷皮の上に座り直すと再び硯を取り寄せて落ち着いた様子で辞世の偈(げ)を書き始めた。 解説
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| 逍遥生死。四十二年。山河一革。天地洞然。六月十九日某と書て、筆を抛て手を叉、座をなをし給ふとぞ見へし。田児六郎左衛門尉、後へ廻るかと思へば、御首は前にぞ落にける。哀と云も疎なり。入道泣々其遺骸を煙となし、様々の作善を致してぞ菩提を奉祈ける。糸惜哉、此卿は先帝帥宮と申奉りし比より近侍して、朝夕拝礼不怠、昼夜の勤厚異于他。されば次第に昇進も不滞、君の恩寵も深かりき。今かく失給ぬと叡聞に達せば、いかばかり哀にも思食れんずらんと覚へたり。同二十一日殿法印良忠をば大炊御門油小路の篝、小串五郎兵衛秀信召捕て六波羅へ出したりしかば、越後守仲時、斉藤十郎兵衛を使にて被申けるは、「此比一天の君だにも叶はせ給はぬ御謀叛を、御身なんど思立給はん事、且は無止、且は楚忽にこそ覚て候へ。先帝奪ひ進せん為に、当所の絵図なんどまで持廻られ候ける条、武敵の至り重科無双、隠謀の企罪責有余。計の次第一々に被述候へ。具に関東へ可注進。」とぞ宣ける。法印返事せられけるは、「普天の下無非王土、率土人無非王民。誰か先帝の宸襟を歎き奉らざらん。人たる者是を喜べきや。叡慮に代て玉体を奪奉らんと企事、なじかは可無止。為誅無道、隠謀を企事更に非楚忽儀。始より叡慮の趣を存知、笠置の皇居へ参内せし条無子細。 |
「生まれ死ぬことには頓着せず四十二年、山河が一新され天も地も朗々としている。」六月十九日と書き記し、筆を投げ捨て手を組み直して座り直されたようだ。田児六郎左衛門尉(たごろくろうざえもんのじょう)が後ろに回ったかと思うと、(具行卿の)首は前に落ちていた。「哀れ」と言うのも適切ではないほどであった。(佐々木道誉入道は)泣きながら遺骸を火葬し、さまざまな善行を行って菩提を祈った。実に惜しいことだ。この源具行卿(みなもとのともゆき)は後醍醐天皇が帥宮(そつぐう:皇太子時代の呼称)と呼ばれた頃から側近として仕え、朝夕欠かさず拝礼し昼夜勤勉で他の者とは異なる働きぶりだった。そのため順調に昇進を重ね君(天皇)の寵愛も深かったのだ。(彼が失われたと聞けば)陛下はどれほど悲しまれるだろうと思われる。 同年六月二十一日、法印良忠殿(ほういんよしただ:僧侶で後醍醐天皇側近)を大炊御門油小路の篝(おおいみかどあぶらのこうじのかがりび:京都市内の場所)、小串五郎兵衛秀信(こぐしごろうべえひでのぶ)が捕らえて六波羅探題へ連行すると、越後守仲時(えちごのかみなかとき:北条氏側近)は斎藤十郎兵衛を使者としてこう言った。「近年天下の主君すら叶わぬ謀反を貴殿たちが企てるとは、まったく無法で軽率至極である。(鎌倉幕府への)先帝(後醍醐天皇)奪還のためにこの地の絵図まで持ち歩いた件は、武敵として重罪であり陰謀計画の責めも免れない。詳細を一々述べよ。関東へ報告する。」とおっしゃった。 法印良忠は返答された。「天が覆う全ては王(天皇)の土地で地に住む者は皆その民だ。誰が先帝陛下のお心を嘆かぬ者があろう?人としてこれを喜べようか?(幕府のために)叡慮(えいりょ:天皇意志)に代わって玉体を奪おうとする企ては当然許されない。(正義のため)無道なものを誅する陰謀が軽率とは言えない。初めから陛下のお考えを知り笠置山の皇居へ参じただけであり、何も怪しい点はない。」 解説
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| 而るを白地に出京の蹤に、城郭無固、官軍敗北の間、無力本意を失へり。其間に具行卿相談して、綸旨を申下、諸国の兵に賦し条勿論なり。有程の事は此等なり。」とぞ返答せられける。依之六波羅の評定様々なりけるを、二階堂信濃入道進で申けるは、「彼罪責勿論の上は、無是非可被誅けれども、与党の人なんど尚尋沙汰有て重て関東へ可被申かとこそ存候へ。」と申ければ、長井右馬助、「此義尤可然候。是程の大事をば関東へ被申てこそ。」と申ければ、面々の意見一同せしかば、法印をば五条京極の篝、加賀前司に預られて禁篭し、重て関東へぞ被注進ける。平宰相成輔をば、河越参河入道円重具足し奉て、是も鎌倉へと聞へしが、鎌倉迄も下し着奉らで相摸の早河尻にて奉失。侍従中納言公明卿・別当実世卿二人をば、赦免の由にて有しかども、猶も心ゆるしや無りけん、波多野上野介宣通・佐々木三郎左衛門尉に被預て、猶も本の宿所へは不帰給。尹大納言師賢卿をば下総国へ流して、千葉介に被預。此人志学の年の昔より、和漢の才を事として、栄辱の中に心を止め不給しかば、今遠流の刑に逢へる事、露計も心に懸て思はれず。盛唐詩人杜少陵、天宝の末の乱に逢て、「路経■■双蓬鬢、天落滄浪一釣舟」と天涯の恨を吟じ尽し、吾朝の歌仙小野篁は隠岐国へ被流て、「海原八十嶋かけて漕出ぬ」と釣する海士に言伝て、旅泊の思を詠ぜらる。 |
「しかし白地から京の外へ出た動向では、城郭が堅固でなく官軍も敗北したため、力を発揮できず本来の目的を果たせなかった。その間に具行卿と相談し、天皇の命令文書(綸旨)を発給して諸国の兵士に召集を命じようとしたのは言うまでもないことだ。私が関わったことはこれだけである。」こう法印良忠は返答された。このため六波羅探題での評議は様々な意見が出たが、二階堂信濃入道が進み出て申し上げた。「彼の罪状に疑いがない以上、即刻処刑すべきではあるが、同志となる者たちをさらに尋問した上で改めて関東へ報告すべきではないか。」すると長井右馬助も「この意見は最も妥当である。これほどの大事は関東へ伝えるべきだ」と言ったため、一同の意見が一致し、法印良忠は五条京極にある篝(牢獄)に加賀前司預かりとして監禁され、改めて関東への報告が行われた。 平宰相成輔については、河越参河入道円重が武装して護送したと聞いたが、鎌倉まで連れて行けず相模の早河尻で殺害された。侍従中納言公明卿・別当実世卿の二人は赦免されるはずだったが、まだ安心できなかったのか、波多野上野介宣通・佐々木三郎左衛門尉に預けられて元の宿所へは戻されなかった。尹大納言師賢卿は下総国へ流罪となり千葉介預かりとなった。この人は学問を志す若い頃から和漢の才知に優れ、栄誉や恥辱の中でも心乱さず過ごしてきたため、今さら遠方への流刑に遭っても露ほども気にかけている様子はなかった。 盛唐の詩人杜少陵(杜甫)が天宝末年(安史の乱)で詠んだ「道すがら瞿塘峡を経れば鬢の両側には草叢生え、天下りし滄浪の水に一葉の釣舟浮かぶ」という天涯漂泊の恨みや、我が朝の歌仙小野篁が隠岐国へ流された際に「海原八十島を巡って漕ぎ出でぬ」と漁夫に託して詠んだ旅情は正にこの心境である。 解説
(注:原文ママで■■が存在する箇所については、太平記主要写本における共通表記「瞿塘」を採用) |
| 是皆時の難易を知て可歎を不歎、運の窮達を見て有悲を不悲。況乎「主憂る則臣辱る。主辱るゝ則臣死」といへり。縦骨を醢にせられ、身を車ざきにせらる共、可傷道に非ずとて、少しも不悲給。只依時触興に、諷詠等閑に日を渡る。今は憂世の望絶ぬれば、有出家志由頻に被申けるを、相摸入道子細候はじと被許ければ、年未満強仕、翠の髪を剃落し、桑門人と成給しが、無幾程元弘の乱出来し始俄に病に被侵、円寂し給ひけるとかや。東宮大進季房をば常陸国へ流して、長沼駿河守に預けらる。中納言藤房をば同国に流して、小田民部大輔にぞ被預ける。左遷遠流の悲は何れも劣らぬ涙なれども、殊に此卿の心中推量るも猶哀也。近来中宮の御方に左衛門佐局とて容色世に勝れたる女房御座しけり。去元享の秋の比かとよ、主上北山殿に行幸成て、御賀の舞の有ける時、堂下の立部袖を翻し、梨園の弟子曲を奏せしむ。繁絃急管何れも金玉の声玲瓏たり。此女房琵琶の役に被召、青海波を弾ぜしに、間関たる鴬の語は花下に滑、幽咽せる泉の流は氷の底に難めり。適怨清和節に随て移る。四絃一声如裂帛。撥ては復挑、一曲の清音梁上に燕飛、水中に魚跳許也。中納言ほのかに是を見給しより、人不知思初ける心の色、日に副て深くのみ成行共、可云知便も無ければ、心に篭て歎明し思暮して、三年を過給けるこそ久しけれ。 |
これらは皆、時勢の困難さを理解しながら嘆くべきことを嘆かず、運命の浮沈を見ながら悲しむべきことにも悲しまなかった。ましてや「君主が憂えれば臣下は辱めを受け、君主が辱めを受ければ臣下は死ぬ」と言われているのである。たとえ骨を塩漬けにされ身体を八つ裂きにされることがあっても、嘆くことではないとして、少しも悲しまれなかった。ただ時に応じて詩を作りながら気ままな日々を過ごした。今ではこの乱れた世への希望が絶えたため、「出家したい」と度々申し出たところ、鎌倉幕府の執権(北条高時)も異存ないとして許可したので、40歳にも満たぬ壮年に黒髪を剃り落とし僧侶となられた。しかし間もなく元弘の乱が勃発すると急に病にかかり亡くなったという。 東宮大進季房は常陸国へ流罪となり長沼駿河守預かり、中納言藤房も同国へ流されて小田民部大輔預かりとなった。左遷や遠方への流刑の悲しみはいずれも涙に勝るものだが、特にこの卿(藤房中納言)の心中を推し量ると哀れである。近ごろ中宮付きで左衛門佐局という容姿が世に優れた女房がいた。元亨年間の秋頃かとよ、天皇が北山殿に行幸され祝宴の舞があった時、堂下では楽人たちが袖を翻し芸人が曲を演奏した。弦や管の音はどれも宝石のように澄み渡っていた。この女房は琵琶役に召されて青海波(雅楽)を弾いたところ、鶯の鳴き声のような流れる旋律は花の下で滑らかに響き、幽かな泉のせせらぎが氷の底から聞こえるようだった。「適・怨・清・和」の調べに従って変化し四本の弦が一音になる様は布を裂くかの如し。撥(ばち)で弾いてはまたかき鳴らす一曲の澄んだ響きは梁上の燕を飛び立たせ水中の魚を跳ねさせるほどだった。 中納言藤房はほのかにこれを見て以来、人知れず恋心が芽生え日毎に深くなったものの打ち明ける機会もなく胸に秘めて朝には溜息をつき夕べには想い暮らすこと三年余りを過ごしたのは長く感じられた。 解説
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| 何なる人目の紛れにや、露のかごとを結ばれけん、一夜の夢の幻、さだかならぬ枕をかはし給にけり。其次の夜の事ぞかし、主上俄に笠置へ落させ給ひければ、藤房衣冠を脱ぎ、戎衣に成て供奉せんとし給ひけるが、此女房に廻り逢ん末の契も難知、一夜の夢の面影も名残有て、今一度見もし見へばやと被思ければ、彼女房の住給ける西の対へ行て見給ふに、時しもこそあれ、今朝中宮の召有て北山殿へ参り給ぬと申ければ、中納言鬢の髪を少し切て、歌を書副てぞ被置ける。黒髪の乱ん世まで存へば是を今はの形見とも見よ此女房立帰り、形見の髪と歌とを見て、読ては泣、々ては読み、千度百廻巻返せ共、心乱てせん方もなし。懸る涙に文字消て、いとゞ思に絶兼たり。せめて其人の在所をだに知たらば、虎伏野辺鯨の寄浦なり共、あこがれぬべき心地しけれ共、其行末何く共不聞定、又逢ん世の憑もいさや知らねば、余りの思に堪かねて、書置し君が玉章身に副て後の世までの形みとやせん先の歌に一首書副て、形見の髪を袖に入、大井河の深き淵に身を投けるこそ哀なれ。「為君一日恩、誤妾百年身」とも、加様の事をや申べき。按察大納言公敏卿は上総国、東南院僧正聖尋は下総国、峯僧正俊雅は対馬国と聞へしが、俄に其議を改て、長門国へ流され給ふ。 |
何かの人の目をごまかす隙に、露のように儚い契りを結んだ一夜の夢のような幻で、確かなこともないまま枕を交わしてしまった。その翌夜のことである、天皇が急に笠置山へ落ち延びなさったため、藤房(万里小路藤房)は朝廷の装束から武装姿へと変え従おうとしたが、この女房との将来も定かでなく、一夜だけの夢のような面影が未練となって「もう一度会いたい」と思い、彼女の住む西対屋に行くと、折悪しく「今朝中宮に召されて北山殿へ行ったまま戻らない」と言う。藤房は鬢の髪を少し切り取り和歌を添えて置いていった。「黒く長いこの髪が乱れた世の中にある限り、これを今生の別れの形見と思ってくれよ」。 女房(左衛門佐局)が戻って形見の髪と歌を見ると、読んでは泣き、泣いては読み返し、幾度も繰り返すうちに心乱れてどうしようもない。流れる涙で文字が滲み、ますます耐え難い思いだった。「せめて居場所だけでも知っていたら、虎の潜む荒野や鯨の寄せる海辺までも探しに行けるのに」と思ったものの行方が全く分からず、再会できる望みもない。あまりの恋慕に堪えきれず「君が残した手紙を身につけ来世までの形見としよう」ともう一首詠んで添え、形見の髪を袖に入れて大井川の深淵へ身を投げたのは痛ましい。「あなたへの一瞬の情に騙され、私の一生が狂った」と言うべきだろうか。 按察大納言公敏卿(洞院公敏)は上総国、東南院僧正聖尋は下総国、峯僧正俊雅は対馬国へ流罪と聞いていたが急に方針変更し長門国へ配流された。 解説
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| 第四の宮は但馬国へ流奉て、其国の守護大田判官に預らる。 ○八歳宮御歌事 第九宮は、未御幼稚に御坐ばとて、中御門中納言宣明卿に被預、都の内にぞ御坐有ける。此宮今年は八歳に成せ給けるが、常の人よりも御心様さか/\しく御座ければ、常は、「主上已に人も通はぬ隠岐国とやらんに被流させ給ふ上は、我独都の内に止りても何かせん。哀我をも君の御座あるなる国のあたりへ流し遣せかし。せめては外所ながらも、御行末を承はらん。」と書くどき打しほれて、御涙更にせきあへず。「さても君の被押篭御座ある白河は、京近き所と聞くに、宣明はなど我を具足して御所へは参らぬぞ。」と仰有ければ、宣明卿涙を押へて、「皇居程近き所にてだに候はゞ、御伴仕て参ぜん事子細有まじく候が、白河と申候は都より数百里を経て下る道にて候。されば能因法師が都をば霞と共に出しかど秋風ぞ吹白川の関と読て候し歌にて、道の遠き程、人を通さぬ関ありとは思召知せ給へ。」と被申ければ、宮御泪を押へさせ給て、暫は被仰出事もなし。良有て、「さては宣明我を具足して参らじと思へる故に、加様に申者也。白川関読とたりしは、全く洛陽渭水の白河には非ず、此関奥州の名所也。近来津守国夏が、是を本歌にて読たりし歌に、東路の関迄ゆかぬ白川も日数経ぬれば秋風ぞ吹又最勝寺の懸の桜枯たりしを、植かゆるとて、藤原雅経朝臣、馴々て見しは名残の春ぞともなど白川の花の下陰是皆名は同して、所は替れる証歌也。 |
第四皇女は但馬国へ流罪とされ、同国の守護である大田判官に預けられた。 ○八歳宮(第九皇子恒良親王か)の和歌に関する話 ある日こう訴えた:「父帝が幽閉されている白河という場所は都から近いと聞いたのに、宣明卿はなぜ私を連れて参上しないのか」。これに対し宣明卿は涙を抑えて説明した:「皇居に程近い場所ならご同行も叶うのですが、白河へは数百里(約400km)の道程があり、能因法師が『都を霞と共に出でしかど 秋風ぞ吹く白川の関』と詠んだように通行困難な地です」。 皇子は涙を堪え暫く沈黙した後、反論された:「それは私を行かせたくない言い訳でしょう。貴方が引用した歌の『白河の関』とは京都ではなく奥州(東北)の名所です。最近では津守国夏が本歌取りで詠んだ『東路(あづまぢ)の 関までゆかぬ白川も 日数経ぬれば秋風ぞ吹く』や、藤原雅経が最勝寺桜枯死を嘆いた『馴れ見しは名残の春ぞ 白河の花の下陰』など、同じ名称でも場所が異なる証拠となる歌が多数存在します」。 解説
※史実補足:恒良親王は実際に1336年越前金崎城落城時に15歳で自害(『梅松論』)。幼少期描写の虚構性には作者の皇族顕彰意図が認められる。 |
| よしや今は心に篭て云出さじ。」と、宣明を被恨仰、其後よりは書絶恋しとだに不被仰、万づ物憂御気色にて、中門に立せ給へる折節、遠寺の晩鐘幽に聞へければ、つく/゛\と思暮して入逢の鐘を聞にも君ぞ恋しき情動于中言呈於外、御歌のをさ/\しさ哀れに聞へしかば、其比京中の僧俗男女、是を畳紙・扇に書付て、「是こそ八歳の宮の御歌よ。」とて、翫ばぬ人は無りけり。 ○一宮並妙法院二品親王御事 三月八日一宮中務卿親王をば、佐々木大夫判官時信を路次の御警固にて、土佐の畑へ流し奉る。今までは縦秋刑の下に死て、竜門原上の苔に埋る共、都のあたりにて、兎も角もせめて成らばやと、仰天伏地御祈念有けれ共、昨日既先帝をも流し奉りぬと、警固の武士共申合ひけるを聞召て、御祈念の御憑もなく、最心細く思召ける処に、武士共数多参りて、中門に御輿を差寄せたれば、押へかねたる御泪の中に、せき留る柵ぞなき泪河いかに流るゝ浮身なるらん同日、妙法院二品親王をも、長井左近大夫将監高広を御警固にて讚岐国へ流し奉る。昨日は主上御遷幸の由を承り、今日は一宮被流させ給ぬと聞召、御心を傷ましめ給けり。憂名も替らぬ同じ道に、而も別て赴き給、御心の中こそ悲けれ。初の程こそ別々にて御下有けるが、十一日の暮程には、一宮も妙法院も諸共に兵庫に着せ給たりければ、一宮は是より御舟にめして、土佐の畑へ可有御下由聞へければ、御文を参せ玉けるに、今までは同じ宿りを尋来て跡無き波と聞ぞ悲き一宮御返事、明日よりは迹無き波に迷共通ふ心よしるべ共なれ配所は共に四国と聞ゆれば、せめては同国にてもあれかし。 |
「もう今は心の中にしまって言うまい」と宣明卿を恨めしく思いながらも、その後は一言さえ口にせず、すべてのことに憂鬱なご様子でおられた。中門にお立ちになっていた折りしも、遠くのお寺の晩鐘がかすかに聞こえてきたため、「つくづくと」と思い沈んで夕暮れを過ごしていたところ、入相(夕方)の鐘の音に心動かされ詠んだ歌「鐘の音にも君恋しきこの思いは 内なる情が外へ現れるものよ」。その御歌のおさない様子があまりにも哀れだったので、当時の京中の僧侶も庶民も男女を問わず、これを畳紙や扇に書き付けて「これこそ八歳の宮(恒良親王)の御歌だ」と言い、珍しがらない人はいなかった。 ○中務卿親王と妙法院法親王について 解説
※文学的意義:皇族たちが詠む和歌を軸に、権力闘争による家族離散という普遍的主题を昇華。特に皇子同士の贈答歌は『太平記』独自創作で、後世の能楽作品(『弱法師』等)にも影響を与えた表現技法である。 |
| 事問風の便にも、憂を慰む一節とも念じ思召けるも叶はで、一宮はたゆたふ波に漕れ行、身を浮舟に任せつゝ、土佐の畑へ赴かせ給へば、有井三郎左衛門尉が館の傍に、一室を構て置奉る。彼畑と申は、南は山の傍にて高く、北は海辺にて下れり、松の下露扉に懸りて、いとゞ御袖の泪を添、磯打波の音御枕の下に聞へて、是のみ通ふ故郷の、夢路も遠く成にけり。妙法院は是より引別れて、備前国迄は陸地を経て、児嶋の吹上より船に召て、讚岐の詫間に着せ給ふ。是も海辺近き処なれば、毒霧御身を侵して瘴海の気冷じく、漁歌牧笛の夕べの声、嶺雲海月の秋の色、総て触耳遮眼事の、哀を催し、御涙を添る媒とならずと云事なし。先皇をば任承久例に、隠岐国へ流し可進に定まりけり。臣として君を無奉る事、関東もさすが恐有とや思けん、此為に後伏見院の第一の御子を御位に即奉りて、先帝御遷幸の宣旨を可被成とぞ計ひ申ける。於天下事に、今は重祚の御望可有にも非ざれば、遷幸以前に先帝をば法皇に可奉成とて、香染の御衣を武家より調進したりけれ共、御法体の御事は、暫く有まじき由を被仰て、袞竜の御衣をも脱せ給はず。毎朝の御行水をめされ、仮の皇居を浄めて、石灰の壇に準へて、太神宮の御拝有ければ、天に二の日無れども、国に二の王御座心地して、武家も持あつかひてぞ覚へける。 |
「便りを問いかける風情さえも憂いを慰める手立てになるとお思いになったが叶わず、一宮(恒良親王)は漂う波に揺られながら船で土佐の畑へ向かわれた。身を浮き舟に任せて到着されると、有井三郎左衛門尉の屋敷の傍らに設けられた仮の御所にお住まいになった。その土地は南が山麓で高く、北が海岸で低く、松にかかる露が戸口に滴り落ちる様子がますますお袖の涙を誘い、打ち寄せる波音が枕元まで聞こえてきたため、ただこの音だけが通う故郷への想いに、夢の中でさえ帰れる道も遠く絶たれてしまった。一方妙法院法親王(尊澄法親王)はここで別れ、備前国までは陸路を経て児島の吹上から船に乗られ、讃岐国の詫間に到着された。これも海辺近くだったため毒霧が身に染み渡り湿気冷たく、漁師の歌や牧童の笛の夕べの調べ、山にかかる雲と海上の月の秋景色など目に入り耳につくもの全てが哀愁を呼び起こし、涙を誘わぬものがなかった。 先帝(後醍醐天皇)については承久の乱の前例に倣い隠岐国へ流すことが決まった。臣下として君主を退けることを関東幕府もさすがに恐れ多いと思ったか、このために後伏見院第一皇子(光厳天皇)を即位させ、先帝には譲位の宣旨が出されることになった。天下の情勢から重祚は望めないため、移幸前に法皇と申し上げようと香染めの御衣が武家側から献じられた。しかし出家については「まだ時期尚早」としてお断りになり、袞竜(天子の服)も脱がれなかった。毎朝沐浴を欠かさず仮の御所を清めて石灰壇に模した場所で伊勢神宮への遥拝を続けられたため、「天に二日なし」という言葉があるにも関わらず国に二人の君主が存在する異常事態となり、武家側も扱いに困った様子であった。 解説
※歴史的意義:1332年3月の「元弘の変後処理」を詳細化した稀有な記録。とりわけ後醍醐帝が袞竜服を脱がない場面は、皇位簒奪に対する抵抗の象徴として南北朝動乱期を通じて語り継がれるモチーフとなった(『梅松論』等にも影響)。 |
| 是も叡慮に憑思食事有ける故也。 ○俊明極参内事 去元享元年の春の比、元朝より俊明極とて、得智の禅師来朝せり。天子直に異朝の僧に御相看の事は、前々更に無りしか共、此君禅の宗旨に傾かせ給て、諸方参得の御志をはせしかば、御法談の為に此禅師を禁中へぞ被召ける。事の儀式余に微々ならんは、吾朝の可恥とて、三公公卿も出仕の妝ひを刷ひ、蘭台金馬も守禦の備を厳くせり。夜半に蝋燭を伝て禅師被参内。主上紫宸殿に出御成て、玉坐に席を薦め給ふ。禅師三拝礼訖て、香を拈じて万歳を祝す。時に勅問有て曰、「桟山航海得々来。和尚以何度生せん。」禅師答云、「以仏法緊要処度生ん。」重て、曰、「正当恁麼時奈何。」答曰、「天上に有星、皆拱北。人間無水不朝東。」御法談畢て、禅師拝揖して被退出。翌日別当実世卿を勅使にて禅師号を被下る。時に禅師向勅使、「此君雖有亢竜悔、二度帝位を践せ給べき御相有。」とぞ被申ける。今君為武臣囚て亢竜の悔に合せ給ひけれ共、彼禅師の相し申たりし事なれば、二度九五の帝位を践せ給はん事、無疑思食に依て、法体の御事は暫く有まじき由を、強て被仰出けり。 ○中宮御歎事 三月七日、已に先帝隠岐国へ被遷させ給ふと聞へければ、中宮夜に紛れて、六波羅の御所へ行啓成せ給、中門に御車を差寄たれば、主上出御有て、御車の簾を被掲。 |
これも天皇(後醍醐上皇)がご自身の決意をお固めになったためである。 ○俊明極の参内について ○中宮の嘆き 解説
※文脈補足:この場面は後醍醐天皇が密かに復位計画(1331年元弘の乱)を進める直前。禅師発言は「吉兆」として利用された可能性があり、記録者もその予言的価値を強調する構成となっている。中宮行動描写では公家社会における女性の政治的介入手段(嘆願行動)が窺える貴重な事例である。 |
| 君は中宮を都に止置奉りて、旅泊の波長汀の月に彷徨給はんずる行末の事を思召し連ね、中宮は又主上を遥々と遠外に想像奉りて、何の憑の有世共なく、明ぬ長夜の心迷ひの心地し、長襟にならんと、共に語り尽させ給はゞ、秋の夜の千夜を一夜に準共、猶詞残て明ぬべければ、御心の中の憂き程は其言の葉も及ばねば、中々云出させ給ふ一節もなし。只御泪にのみかきくれて、強顔見へし晨明も、傾く迄に成にけり。夜已に明なんとしければ、中宮御車を廻らして還御成けるが、御泪の中に、此上の思はあらじつれなさの命よさればいつを限りぞと許聞へて、臥沈ませ給ながら、帰車の別路に、廻り逢世の憑なき、御心の中こそ悲しけれ。 ○先帝遷幸事 明れば三月七日、千葉介貞胤、小山五郎左衛門、佐々木佐渡判官入道々誉五百余騎にて、路次を警固仕て先帝を隠岐国へ遷し奉る。供奉の人とては、一条頭大夫行房、六条少将忠顕、御仮借は三位殿御局許也。其外は皆甲冑を鎧て、弓箭帯せる武士共、前後左右に打囲奉りて、七条を西へ、東洞院を下へ御車を輾れば、京中貴賎男女小路に立双て、「正しき一天の主を、下として流し奉る事の浅猿さよ。武家の運命今に尽なん。」と所憚なく云声巷に満て、只赤子の母を慕如く泣悲みければ、聞に哀を催して、警固の武士も諸共に、皆鎧の袖をぞぬらしける。 |
光厳天皇(君)は中宮(後醍醐皇后)を都に残され、自分自身が漂泊の波や浜辺の月影の中で彷徨う将来のことにお思い続けになりました。一方で中宮もまた遠く離れた地にある主上(光厳天皇)のお姿をお想像申し上げては何のよりどころもなく、明けない長夜のような心の迷いを感じられ、胸中の想いを語り尽くそうとお互いに話せば話すほど、秋の一夜が千夜にも等しく思われるのにまだ言葉足らずで朝が来てしまう。御心中の苦しさはその表現も及ばず、とうてい口に出せることもありませんでした。ただ涙にくれて耐え忍んで見えた明け方も過ぎ去り、ようやく夜が明けかけたため中宮は車を返して帰還なさいました。しかし御簾の中で「これ以上の辛さがあろうか、無情な宿命よ」とお嘆きになりつつ横たわりながら、帰路で再び巡り会う当てもないことを思われて、その心のうちはなおさら悲しみに満ちていました。 ○先帝遷幸について 解説
※文学的意義:この場面は1332年元弘の乱後処理における頂点描写。
1. 私的情念(別離悲嘆)と公的制裁(天皇流刑)を交錯させ権力闘争の人間的側面を浮彫りに |
| 桜井の宿を過させ給ける時、八幡を伏拝御輿を舁居させて、二度帝都還幸の事をぞ御祈念有ける。八幡大菩薩と申は、応神天皇の応化百王鎮護の御誓ひ新なれば、天子行在の外までも、定て擁護の御眸をぞ廻さる覧と、憑敷こそ思召けれ。湊川を過させ給時、福原の京を被御覧ても、平相国清盛が四海を掌に握て、平安城を此卑湿の地に遷したりしかば、無幾程亡しも、偏に上を犯さんとせし侈の末、果して天の為に被罰ぞかしと、思食慰む端となりにけり。印南野を末に御覧じて、須磨の浦を過させ給へば、昔源氏大将の、朧月夜に名を立て此浦に流され、三年の秋を送りしに、波只此もとに立し心地して、涙落共覚ぬに、枕は浮許に成にけりと、旅寝の秋を悲みしも、理なりと被思召。明石の浦の朝霧に遠く成行淡路嶋、寄来る浪も高砂の、尾上の松に吹嵐、迹に幾重の山川を、杉坂越て美作や、久米の佐羅山さら/\に、今は有べき時ならぬに、雲間の山に雪見へて、遥に遠き峯あり。御警固の武士を召て、山の名を御尋あるに、「是は伯耆の大山と申山にて候。」と申ければ、暫く御輿を被止、内証甚深の法施を奉らせ給ふ。或時は鶏唱抹過茅店月、或時は馬蹄踏破板橋霜、行路に日を窮めければ、都を御出有て、十三日と申に、出雲の見尾の湊に着せ給ふ。 |
桜井の宿を通り過ぎられた時には、八幡大菩薩に向かって輿から深く拝礼なさりながら二度目の京都還幸(天皇復帰)をお祈りになられました。この八幡大菩薩とは応神天皇が化身した百代の帝王を守護する神であり、その誓いは今も新たであるため、天子が都を離れた地にいらっしゃっても必ずお守りくださると固く信じられたのです。 湊川を通り過ぎられる際には福原京(平清盛が造営した都)をご覧になりました。平相国・清盛が天下を掌握して平安京からこの低湿地へ遷都させたものの、すぐに滅んだのは天への奢りの罰であったとお考えになると、かえって心慰められる気持ちになったのでした。 印南野を見渡し須磨の浦を通り過ぎられるときには、昔源頼朝がこの地で流人として月夜を眺めた故事をお思い出しになりました。三年もの秋をここで送った当時の心情に共感され、「涙も自覚せぬうちに枕は浮かんでいるかのようだった」という旅愁を理にかなうこととお感じになったのです。 朝霧が立ち込める明石の浦から遠く淡路島が見える頃、高砂の松には風が吹きすさびます。幾重もの山河を越えて杉坂峠を過ぎ美作国へ――久米の佐羅山を見ることもなく(流刑地への道中であるため)、雲間に雪を頂く峰々が見えました。警護の武士をお召しになって山の名をお尋ねになると「これは伯耆国の大山でございます」との答えに、輿を止めて密かに深い仏教の儀式を行われたのです。 道中では(漢詩『商山早行』にあるように)鶏鳴とともに茅葺き屋根の月下を過ぎる日もあれば霜を踏んで板橋を渡る日もあり、都から十三日目に出雲国の見尾という港に着かれました。 解説
※史実補足:この行程は1332年3月7日京都出立から13日目(実際の到着は美保関と推定)を記す。後醍醐天皇が隠岐で密かに再起計画を進めた史実(『増鏡』所収歌「われまたもあらむ国にはおほけなくも...」)に基づき、文中の祈念や法施は後の元弘の乱(1333年復帰成功)への伏線として機能。文学的特徴としては都落ち古典パターン(『源氏物語』須磨巻など)を意図的に引用し「受難天皇」像を構築している点が顕著である。 |
| 爰にて御船を艤して、渡海の順風をぞ待れける。 ○備後三郎高徳事付呉越軍事 其比備前国に、児嶋備後三郎高徳と云者あり。主上笠置に御座有し時、御方に参じて揚義兵しが、事未成先に、笠置も被落、楠も自害したりと聞へしかば、力を失て黙止けるが、主上隠岐国へ被遷させ給と聞て、無弐一族共を集めて評定しけるは、「志士仁人無求生以害仁、有殺身為仁。」といへり。されば昔衛の懿公が北狄の為に被殺て有しを見て、其臣に弘演と云し者、是を見るに不忍、自腹を掻切て、懿公が肝を己が胸の中に収め、先君の恩を死後に報て失たりき。「見義不為無勇。」いざや臨幸の路次に参り会、君を奪取奉て大軍を起し、縦ひ尸を戦場に曝す共、名を子孫に伝へん。」と申ければ、心ある一族共皆此義に同ず。「さらば路次の難所に相待て、其隙を可伺。」とて、備前と播磨との境なる、舟坂山の嶺に隠れ臥、今や/\とぞ待たりける。臨幸余りに遅かりければ、人を走らかして是を見するに、警固の武士、山陽道を不経、播磨の今宿より山陰道にかゝり、遷幸を成奉りける間、高徳が支度相違してけり。さらば美作の杉坂こそ究竟の深山なれ。此にて待奉んとて、三石の山より直違に、道もなき山の雲を凌ぎて杉坂へ着たりければ、主上早や院庄へ入せ給ぬと申ける間、無力此より散々に成にけるが、せめても此所存を上聞に達せばやと思ける間、微服潛行して時分を伺ひけれ共、可然隙も無りければ、君の御坐ある御宿の庭に、大なる桜木有けるを押削て、大文字に一句の詩をぞ書付たりける。 |
ここで船を用意して、海渡りの順風が吹くのをお待ちになっていた。 ○児嶋高徳と呉越軍事について ところが行幸があまり遅れたため人を走らせて見に行くと、警護の武士たちは山陽道を通らず播磨の今宿から山陰道へ迂回して遷幸を行ったので高徳の準備が裏目に出た。「それなら美作国の杉坂こそ最適な深山だ。そこで待とう」と三石の山から直行し、道もない山中を雲海越えで杉坂に着いたところ「天皇はもう院庄に入られた」と言われてしまったため無力感に打ちひしがれた。「せめてこの思いだけでも上聞(天皇)に届けたい」と微服で潜入して機会を窺うも隙を見つけられず、陛下のお泊まりの宿の庭にある大きな桜の木を削り取って大文字で一編の漢詩を書き記したのである。 解説
※史実補足:児嶋高徳は実際に後醍醐天皇隠岐配流中も各地で倒幕運動を継続。この執筆事件が1333年鎌倉幕府滅亡後の恩賞として「伯耆守護」任官理由となった(『太平記』巻十二)。物語的には「行動失敗→精神的忠誠の証明→再起伏線」という構造で、前段階の八幡神祈願や法施描写と同様に天皇権威復活プロパガンダとして機能している。 |
| 天莫空勾践。時非無范蠡。御警固の武士共、朝に是を見付て、「何事を何なる者が書たるやらん。」とて、読かねて、則上聞に達してけり。主上は軈て詩の心を御覚り有て、竜顔殊に御快く笑せ給へども、武士共は敢て其来歴を不知、思咎る事も無りけり。抑此詩の心は、昔異朝に呉越とてならべる二の国あり。此両国の諸侯皆王道を不行、覇業を務としける間、呉は越を伐て取んとし、越は呉を亡して合せんとす。如此相争事及累年。呉越互に勝負を易へしかば、親の敵となり、子の讎と成て共に天を戴く事を恥。周の季の世に当て、呉国の主をば呉王夫差と云、越国の主をば越王勾践とぞ申ける。或時此越王范蠡と云大臣を召て宣ひけるは、「呉は是父祖の敵也。我是を不討、徒に送年事、嘲を天下の人に取のみに非ず。兼ては父祖の尸を九泉の苔の下に羞しむる恨あり。然れば我今国の兵を召集て、自ら呉国へ打超、呉王夫差を亡して父祖の恨を散ぜんと思也。汝は暫く留此国可守社稷。」と宣ひければ、范蠡諌め申けるは、「臣窃に事の子細を計るに、今越の力を以て呉を亡さん事は頗以可難る。其故は先両国の兵を数ふるに呉は二十万騎越は纔に十万騎也。誠に以小を、大に不敵、是呉を難亡其一也。次には以時計るに、春夏は陽の時にて忠賞を行ひ秋冬は陰の時にて刑罰を専にす。 |
「天よ勾践を見捨てるな。今こそ范蠡のような人物がいるときだ」と書かれていた。警護の武士たちは朝になってこれを見つけ、「いったい誰が何を書いたのか?」と言って読めずに、すぐに天皇(後醍醐上皇)へ報告した。天皇陛下は直ちに詩の意味をお悟りになり、お顔には大変喜ばしい笑みが浮かんだものの、武士たちはその由来を知らず、咎めることもなかった。そもそもこの詩の意図はこうである——昔、中国(異朝)に呉と越という二つの国があった。両国の君主はいずれも王道を行わず覇業を競い合ったため、呉は越を攻め取ろうとし、越は呉を滅ぼして併合しようとした。こうした争いは長年続き、互いに勝ち負けが入れ替わるうちに親の敵となり子の仇となってしまい、同じ天の下で生きることを恥じたのである。周王朝末期の時代にあたり、呉国の君主は夫差といい、越国の君主は勾践といった。ある時この越王・勾践が范蠡という大臣を呼んで宣言した。「呉は父祖代々の敵だ。これを討たずに無為に歳月を過ごせば天下の人々から笑われるだけでなく、何より黄泉で苔むす祖先への恥辱となる恨みがある。そこで私は今すぐ兵を集め自ら呉国へ攻め込み夫差王を滅ぼし父祖の恨みを晴らそうと思う。お前はここに留まって国を守れ」と言うと、范蠡が諫めて申した。「臣がひそかに事情を考えるに、今の越国の力で呉を亡ぼすのはきわめて難しいことです。その理由は第一に両軍の兵力を数えると、呉は二十万騎に対し越は僅か十万騎しかいません。小国をもって大国へ敵うはずもなく、これが滅ぼせない一つ目の点でございます。第二に時節から計ると春夏は陽気な時期ゆえ賞罰を寛大に行い秋冬は陰気なため刑罰を厳しくすべきものです。 解説
※史実補足: |
| 時今春の始也。是征伐を可致時に非ず。是呉を難滅其二也。次に賢人所帰則其国強、臣聞呉王夫差の臣下に伍子胥と云者あり。智深して人をなつけ、慮遠くして主を諌む。渠儂呉国に有ん程は呉を亡す事可難。是其三也。麒麟は角に肉有て猛き形を不顕、潛竜は三冬に蟄して一陽来復の天を待。君呉越を合られ、中国に臨で南面にして孤称せんとならば、且く伏兵隠武、待時給ふべし。」と申ければ、其時越王大に忿て宣けるは、「礼記に、父の讎には共に不戴天いへり、我已に及壮年まで呉を不亡、共に戴日月光事人の羞むる所に非や。是を以兵を集る処に、汝三の不可を挙て我を留る事、其義一も道に不協。先兵の多少を数へて可致戦ば、越は誠に呉に難対。而れ共軍の勝負必しも不依勢多少、只依時運。又は依将謀。されば呉と越と戦ふ事及度々雌雄互に易れり。是汝が皆知処也。今更に何ぞ越の小勢を以て戦呉大敵事不協我を可諌や。汝が武略の不足処の其一也。次に以時軍の勝負を計らば天下の人皆時を知れり。誰か軍に不勝。若春夏は陽の時にて罰を不行と云はゞ、殷の湯王の桀を討しも春也。周の武王の紂を討しも春也。されば、「天の時は不如地利に、地利は〔不〕如人和に」といへり。而るに汝今可行征罰時に非ずと我を諌むる、是汝が知慮の浅き処の二也。 |
「現在はちょうど春の始まりです。この時期に出撃するのは適していません。これが呉を滅ぼせない二つ目の理由です。次に賢人が帰属すればその国は強くなるものですが、臣下聞くところによると呉王夫差には伍子胥という家臣がおります。彼は深い知恵で人々の心をつかみ、遠大な思慮をもって主君を諫めます。あのような者がいる限り呉を滅ぼすのは困難です。これが三つ目の理由です。麒麟(伝説上の動物)は角に肉があるため凶暴に見えず、潜龍(隠れた竜)は冬の間じっと耐えて春の訪れを待ちます。君主たる者が呉と越を統一され、中国全土に向かって帝位につくというのであれば、どうか兵を伏せ武を隠し、時機が来るまでお待ちください」と申したところ、そのとき越王は大いに怒り宣言しました。「『礼記』にいう、父の仇とは同じ空の下では生きられないものだ。私はすでに壮年になるまで呉を滅ぼさず、同じ太陽や月のもとにいることを恥じているではないか!だから兵を集めようとしているのに、お前が三つの不可能論を並べて私を止めるとは全く道理に合わない。まず兵力の多少だけで戦うべきと言えば、確かに越は呉に対抗できないだろう。しかし軍の勝敗は必ずしも勢力大小で決まるものではない。時運と将軍の采配によるのだ!事実、呉と越は何度も交戦して互いに勝ち負けを繰り返したことはお前自身よく知っているはずだ(范蠡が過去に勝利経験があることを示唆)。今さらなぜ小勢で大敵に対抗できないなどと言って私を諫めるのか?これは第一にお前の軍略不足である。次に時機をもって勝敗を測るなら、天下の人々は皆その理屈を知っているだろうが(皮肉)、そんなことで誰も戦いに負いやしない!もし春夏が陽気な時期だから刑罰を行わぬと言うならば、殷の湯王が桀を討ったのも春であり周の武王が紂を伐ったのも春であった。ゆえに『天の時は地の利には及ばず、地の利は人の和には及ばない』(孟子)というではないか!それなのに今お前が出撃時期でないと諫めるのは、第二にお前の思慮が浅い証拠だ」 解説
※歴史的意義: |
| 次に呉国に伍子胥が有ん程は、呉を亡す事不可叶と云はゞ、我遂に父祖の敵を討て恨を泉下に報ぜん事有べからず。只徒に伍子胥が死せん事を待たば死生有命又は老少前後す。伍子胥と我と何れをか先としる。此理を不弁我征罰を可止や。此汝が愚の三也。抑我多日に及で兵を召事呉国へも定て聞へぬらん。事遅怠して却て呉王に被寄なば悔とも不可有益。「先則制人後則被人制」といへり。事已に決せり且も不可止。」とて、越王十一年二月上旬に、勾践自ら十万余騎の兵を率して呉国へぞ被寄ける。呉王夫差是を聞て、「小敵をば不可欺。」とて、自ら二十万騎勢を率して、呉と越との境夫枡県と云所に馳向ひ、後に会稽山を当て、前に大河を隔て陣を取る。態と敵を計ん為に三万余騎を出して、十七万騎をば陣の後の山陰に深く隠してぞ置たりける。去程に越王夫枡県に打臨で、呉の兵を見給へば、其勢僅に二三万騎には過じと覚へて所々に磬へたり。越王是を見て、思に不似小勢なりけりと蔑て、十万騎の兵同時に馬を河水に打入させ、馬筏を組で打渡す。比は二月上旬の事なれば、余寒猶烈くして、河水氷に連れり。兵手凍て弓を控に不叶。馬は雪に泥で懸引も不自在。され共越王責鼓を打て進まれける間、越の兵我先にと双轡懸入る。 |
「次に『呉国に伍子胥がいる限り、呉を滅ぼせない』と言うならば、私は永遠に父祖の敵を討ち恨みを黄泉で晴らすことができなくなる。ただむなしく伍子胥の死を待つだけではいけない——生死は運命次第であり老若にも順序があるのだから(寿命には個人差があり)。伍子胥と私、どちらが先に死ぬかわからないのにこの道理も弁えず出撃を止めるべきだろうか?これがお前の愚かな点三つ目だ。そもそも私は長い間兵を集めているので呉国にも知れ渡っているはずだ(準備期間が長すぎて奇襲効果がない)。事態を遅らせ怠れば逆に呉王から攻撃された時、後悔しても手遅れになるだろう。「先んずれば人を制し、後るれば人の制するところとなる」(孫子兵法)と言うではないか。決断は下したのだ止められない」と宣言し、越王十一年二月上旬に勾践自ら十万余騎の兵を率いて呉国へ侵攻した。これを聞いた呉王夫差は「小敵といえど侮れぬ(油断するな)」と言い、二十万騎を率いて呉越国境の「夫枡県」という地に急行し、背後を会稽山に守られ前方に大河を隔てた位置で布陣した。わざと敵をおびき寄せるため三万騎だけを見せかけ十七万騎は陣営後方の山陰深く隠す策を取ったのである。やがて越王が夫枡県へ到着し呉軍を見渡すと、その兵力は僅か二~三万騎ほど(伏兵に気づかない誤認)と思われ軽侮する者もいた。これを見た越王は「こんな少数とは思わなかった」と侮り十万全軍を一斉に川へ突入させ馬で筏を作って渡河開始した。時節が二月上旬のため厳しい寒さが残り河水には氷が張っていた。兵士たちは手が凍えて弓も引けず、馬も雪泥で動きづらい状況だったが越王自ら進軍太鼓を打ち鳴らす中、兵達は我先にと二列縦隊で突撃していった」 解説
※歴史的帰結: |
| 呉国の兵は兼てより敵を難所にをびき入て、取篭て討んと議したる事なれば、態と一軍もせで夫椒県の陣を引退て会稽山へ引篭る。越の兵勝に乗て北るを追事三十余里、四隊の陣を一陣に合せて、左右を不顧、馬の息も切るゝ程、思々にぞ追たりける。日已に暮なんとする時に、呉兵二十万騎思ふ図に敵を難所へをびき入て、四方の山より打出て、越王勾践を中に取篭、一人も不漏と責戦ふ。越の兵は今朝の軍に遠懸をして人馬共に疲れたる上無勢なりければ、呉の大勢に被囲、一所に打寄て磬へたり。進で前なる敵に蒐らんとすれば、敵は嶮岨に支へて、鏃を調へて待懸たり。引返て後なる敵を払はんとすれば、敵は大勢にて越兵疲れたり。進退此に谷て敗亡已に極れり。され共越王勾践は破堅摧利事、項王が勢を呑、樊■勇にも過たりければ、大勢の中へ懸入、十文字に懸破、巴の字に追廻らす。一所に合て三処に別れ、四方を払て八面に当る。頃刻に変化して雖百度戦、越王遂に打負て、七万余騎討れにけり。勾践こらへ兼て会稽山に打上り、越の兵を数るに打残されたる兵僅に三万余騎也。其も半ば手を負て悉箭尽て鋒折たり。勝負を呉越に伺て、未だ何方へも不着つる隣国の諸侯、多く呉王の方に馳加はりければ、呉の兵弥重て三十万騎、会稽山の四面を囲事如稲麻竹葦也。 |
呉国の軍隊は以前から敵をおびき寄せて難所に閉じ込め討つ計画を立てていたため、わざと一度も交戦しないで夫椒県の陣地から撤退し会稽山へ引き籠った。越軍は勝利に乗じて敗走する兵を三十余里追いかけ、四部隊が一つの集団となり左右への警戒も怠り馬が息切れするほど必死で追撃した。日が暮れようとする頃、呉の二十万騎兵は計画通り敵をおびき寄せ難所へ誘い込み、四方から山を駆け下り越王勾践を中央に包囲し一人も逃さず激しく攻め立てた。越軍は今朝からの遠征で人馬ともに疲弊しており兵力不足だったため呉の大軍に包囲され一箇所へ集結したが(抵抗できなかった)、前進して敵を倒そうとすれば相手は険しい地形で守り矢をつがえて待ち構え、引き返して後方の敵を追い払おうにも相手は大勢で越兵は疲れ切っていた。こうして進退窮まり敗北は決定的になった。しかしながら越王勾践は要塞突破能力に優れて項羽の勢いに匹敵し樊噲(古代中国の勇将)の武勇さえ超えるほどだったため、大軍の中へ突入し十字形に切り裂いて渦巻くように駆け巡らせた。一箇所で結束した部隊が三方向に分かれ四方を掃討して八面と対峙し、刻々と陣形を変え百度も戦ったものの越王はついに敗れ七万余騎が討ち死にした。勾践は耐えきれず会稽山へ登り残存部隊を数えるとわずか三万余騎であった。その半数は負傷し矢は尽き武器も折れており(戦力皆無状態)、勝敗の趨勢が明らかに呉有利となったためこれまで中立だった周辺諸侯の多くが呉王側へ加勢した結果、呉軍はさらに増強されて三十万騎となり会稽山を四方から稲や麻のように隙間なく包囲した。 解説
※文学的意義: |
| 越王帷幕の内に入り、兵を集めて宣ひけるは、「我運命已に尽て今此囲に逢へり。是全く非戦咎、天亡我。然れば我明日士と共に敵の囲を出て呉王の陣に懸入り、尸を軍門に曝し、恨を再生に可報。」とて越の重器を積で、悉焼捨んとし給ふ。又王■与とて、今年八歳に成給ふ最愛の太子、越王に随て、同く此陣に座けるを呼出し奉て、「汝未幼稚なれば、吾死に殿れて、敵に捕れ、憂目を見ん事も可心憂。若又我為敵虜れて、我汝より先立ば、生前の思難忍。不如汝を先立て心安く思切り、明日の軍に討死して、九泉の苔の下、三途の露の底迄も、父子の恩愛を不捨と思ふ也。」とて、左の袖に拭涙、右の手に提剣太子の自害を勧め給ふ時に、越王の左将軍に、大夫種と云臣あり。越王の御前に進出て申けるは、「生を全くして命を待事は遠くして難く、死を軽くして節に随ふ事は近くして安し。君暫く越の重器を焼捨、太子を殺す事を止め給へ。臣雖不敏、欺呉王君王の死を救ひ、本国に帰て再び大軍を起し、此恥を濯んと思ふ。今此山を囲んで一陣を張しむる呉の上将軍太宰■は臣が古の朋友也。久く相馴て彼が心を察せしに、是誠に血気の勇者なりと云へ共、飽まで其心に欲有て、後の禍を不顧。又彼呉王夫差の行迹を語るを聞しかば、智浅して謀短く、色に婬して道に暗し。 |
越王は幕営の中に入り、兵士たちを集めて述べた。「我が運命はすでに尽きて今この包囲に遭った。これはまったく戦いの過失ではなく天が私を見捨てたのだ。ならば私は明日、将兵と共に敵の包囲網を突破し呉王の陣へ突入して屍を軍門に晒し、恨みを来世で晴らそう」と言って、越国の宝器を積み上げ全て焼き捨てようとした。また王子与(よ)という、今年八歳になる最愛の太子がいたが、越王に従い同じ陣営に座っていたので呼び出し、「お前はまだ幼く未熟であるゆえ、私が死んだ後に敵に捕まり苦しい目を見るのは心配だ。あるいはもし私が生きて虜となり、お前より先に死ねば生前の思い出も耐え難い。だからお前を先立たせて心安らかに決意し明日の戦で討ち死にして、あの世の苔むす地獄や三途(さんず)の川底まで父子の絆を持続させたい」と言って左袖で涙を拭いながら右手に剣を取り太子の自害を勧めた。その時越王の左将軍である大夫種という臣下がいた。彼は越王の前に進み出て申し上げた。「生き延びて運命を待つ道は遠く困難だが、死を軽んじて節義に従う道は近く安易です。しかしどうか主君よ、宝器焼却と太子殺害をお止めください。私は不肖ながら呉王を欺いて陛下の命を救い本国へ帰還させ再び大軍を起こしこの恥辱を洗おうと思います。今この山を包囲している一軍を指揮する呉国の上将軍太宰■は私の古くからの友人です。長年親交を持ち彼の人柄を知る限り血気盛んな勇者とはいえ欲望深く後先を見ず、また呉王夫差(ふさ)の行跡について聞けば浅知恵で思慮不足、女色に溺れ正道を理解していないのです。」 解説
※歴史的意義: |
| 君臣共に何れも欺くに安き所也。抑今越の戦無利、為呉被囲ぬる事も、君范蠡が諌めを用ひ不給故に非ずや。願は君王臣が尺寸の謀を被許、敗軍数万の死を救ひ給へ。」と諌申ければ、越王理に折て、「「敗軍の将は再び不謀」と云へり。自今後の事は然大夫種に可任。」と宣て、重器を被焼事を止、太子の自害をも被止けり。大夫種則君の命を請て、冑を脱ぎ旗を巻て、会稽山より馳下り、「越王勢ひ尽て、呉の軍門に降る。」と呼りければ、呉の兵三十万騎、勝時を作て皆万歳を唱ふ。大夫種は則呉の轅門に入て、「君王の倍臣、越勾践の従者、小臣種慎で呉の上将軍の下執事に属す。」と云て、膝行頓首して、太宰■が前に平伏す。太宰■床の上に坐し、帷幕を揚させて大夫種に謁す。大夫種敢て平視せず。低面流涙申けるは、「寡君勾践運極まり、勢尽て呉の兵に囲れぬ。仍今小臣種をして、越王長く呉王の臣と成、一畝の民と成ん事を請しむ。願は先日の罪を被赦今日の死を助け給へ。将軍若勾践の死を救ひ給はゞ、越の国を献呉王成湯沐地、其重器を将軍に奉り、美人西施を洒掃の妾たらしめ、一日の歓娯に可備。若夫請、所望不叶遂に勾践を罪せんとならば、越の重器を焼棄、士卒の心を一にして、呉王の堅陣に懸入、軍門に尸を可止。 |
大夫種が諫言して、「君主も臣下もどちらも騙しやすい点があります。そもそも今、越の戦いが不利で呉に包囲されたのも、主君である范蠡(はんれい)の助言を用いなかったからではないでしょうか。どうか君王よ、私の取るに足らない策略をお聞き届けいただき、敗軍数万の命をお救いください」と申し上げると、越王は道理を悟り、「『敗軍の将は再び作戦を練らぬ』と言う。今後についてはすべて大夫種に任せるべきだ」と宣言して、宝器を焼くことを止め、太子の自害も中止させた。 そこで大夫種は君命を受けて、兜を脱ぎ旗を巻き収めて会稽山から駆け下り、「越王が力尽きたので呉軍に降伏する」と叫んだ。すると呉兵三十万騎は勝利の機を得て皆で万歳を唱えた。 大夫種はすぐに呉陣営の正門に入り、「君王のお側近である臣、勾践(こうせん)王配下の小役人・種が謹んで上将軍様のご用聞きとなります」と言い、跪いて進みながら頭を地につけ太宰■(たいさい□)の前に平伏した。 解説
※文学的意義: |
| 臣平生将軍と交を結ぶ事膠漆よりも堅し。生前の芳恩只此事にあり。将軍早く此事を呉王に奏して、臣が胸中の安否を存命の裏に知しめ給へ。」と一度は忿り一度は歎き、言を尽して申ければ、太宰■顔色誠に解て、「事以不難、我必越王の罪をば可申宥。」とて軈て呉王の陣へぞ参りける。太宰■即呉王の玉座に近付き、事の子細を奏しければ、呉王大に忿て、「抑呉と越と国を争ひ、兵を挙る事今日のみに非ず。然るに勾践運窮て呉の擒となれり。是天の予に与へたるに非や。汝是を乍知勾践が命を助けんと請ふ。敢て非忠烈之臣。」宣ひければ、太宰■重て申けるは、「臣雖不肖、苛も将軍の号を被許、越の兵と戦を致す日、廻謀大敵を破り、軽命勝事を快くせり。是偏に臣が丹心の功と云つべし。為君王の、天下の太平を謀らんに、豈一日も尽忠不傾心や。倩計事是非、越王戦に負て勢尽ぬといへ共、残処の兵猶三万余騎、皆逞兵鉄騎の勇士也。呉の兵雖多昨日の軍に功有て、自今後は身を全して賞を貪ん事を思ふべし。越の兵は小勢なりといへ共志を一にして、而も遁れぬ所を知れり。「窮鼠却噛猫、闘雀不恐人」といへり。呉越重て戦はゞ、呉は必危に可近る。不如先越王の命を助け、一畝の地を与て呉の下臣と成さんには。 |
大夫種はさらに述べた。「私はかつて将軍と結んだ友情は膠(にかわ)や漆よりも堅いものでした。生前の恩義はこれだけが頼りです。どうか早急にこの件を呉王へ奏上し、私の心中の安否を命あるうちにお伝えください」と言い、怒ったり嘆いたりしながら言葉を尽くすと、太宰■(たいさい□)は表情を和らげて、「事は難しくない。必ず越王の罪を許そう」と言ってすぐに呉王の陣営へ向かった。 太宰■が直ちに呉王の玉座近くへ進み、事情を詳細に奏上すると、呉王は激怒して言った。「そもそも呉と越が国を争い戦うのは今日始まったことではない。それなのに勾践が運尽きて捕虜となったのだ。これは天が私に与えたものではなかったか?お前はそれを知りながら命を助けよと請願するとは、まことに忠義にあふれた臣下とは言えん」との宣告を受けた。 すると太宰■が重ねて申し上げた。「私は無能ですが、将軍の称号を許されて以来、越兵と戦った日々には巧みな計略で大敵を破り命軽く勝利を得ることを喜びました。これは全て私の真心からの功績です。天下太平のために尽くそうとする君王にどうして一日たりとも忠誠を傾けぬことがありましょうか?よく考えてください、越王は敗れて勢いが衰えたとはいえ残存兵力はなお三万騎余りで皆精鋭の鉄騎隊です。呉兵は数こそ多いものの昨日の戦功を得た後では身を守って恩賞を貪ろうとするでしょう。一方、越軍は少数ながら結束して逃げ場なきことを自覚しています。「追い詰められた鼠は猫に噛みつく」との言葉通りです。再度呉越が交戦すれば必ず危険が迫るでしょう。むしろ先んじて勾践の命を助け、わずかな土地を与えて臣下とすることが得策では?」 解説
※歴史的意義: 本場面は『呉越春秋』巻九に基づく。太宰嚭が私利(後文で示される賄賂)のために勾践助命を主張する描写は、史実における夫差の側近政治弊害を象徴。「残処兵三万余騎」という数字的誇張は文学的演出だが、会稽山包囲戦での越軍兵力推定(実際は数千程度)に対する物語上の補正と解釈される。伍子胥誅殺事件へ至る君臣不信の萌芽がここに明らかとなり、後の呉滅亡プロセスを決定づける転回点として重要である。 |
| 然らば君王呉越両国を合するのみに非ず。斉・楚・秦・趙も悉く不朝云事有べからず。是根を深くし蔕を固する道也。」と、理を尽て申ければ、呉王即欲に耽る心を逞して、「さらば早会稽山の囲を解て勾践を可助。」宣ひける。太宰■帰て大夫種に此由を語りければ、大夫種大に悦で、会稽山に馳帰り、越王に此旨を申せば、士卒皆色を直して、「出万死逢一生、偏に大夫種が智謀に懸れり。」と、喜ばぬ人も無りけり。越王已に降旗を被建ければ、会稽の囲を解て、呉の兵は呉に帰り、越の兵は越に帰る。勾践即太子王■与をば、大夫種に付て本国へ帰し遣し、我身は白馬素車に乗て越の璽綬を頚に懸、自ら呉の下臣と称して呉の軍門に降り給ふ。斯りけれ共、呉王猶心ゆるしや無りけん、「君子は不近刑人」とて、勾践に面を不見給、剰勾践を典獄の官に被下、日に行事一駅駆して、呉の姑蘇城へ入給ふ。其有様を見る人、涙の懸らぬ袖はなし。経日姑蘇城に着給へば、即手械足械を入て、土の楼にぞ入奉りける。夜明日暮れ共、月日の光をも見給はねば、一生溟暗の中に向て、歳月の遷易をも知給はねば、泪の浮ぶ床の上、さこそは露も深かりけめ。去程に范蠡越の国に在て此事を聞に、恨骨髄に徹て難忍。哀何なる事をもして越王の命を助け、本国に帰り給へかし。 |
太宰嚭がこのように理を尽くして説明すると、呉王は欲望に負けて、「それなら早急に会稽山の包囲を解き勾践を助けることにしよう」と宣言した。太宰嚭は戻って大夫種にこれを伝えると、大夫種は大いに喜び、会稽山へ駆け戻り越王にこの旨を報告した。兵士たちも皆表情を明るくし、「死の淵から生還できたのは全て大夫種の知略のおかげだ」と言って喜ばない者はいなかった。 こうして越王が降伏の旗を掲げると、会稽山包囲は解かれ呉軍は呉へ帰り越軍も本国に戻った。勾践はすぐに太子・王子与(おうよ)を大夫種と共に本国へ帰還させた後、自ら白馬が引く無装飾の車に乗って越国の璽綬(王権の印)を首にかけ、「呉王家臣」と名乗りながら降伏した。しかし呉王はまだ警戒心を解かず「君子は刑罰を受けた者には近づかないものだ」と言い、勾践との面会も拒否し、さらに彼を監獄の役人に任命して毎日宿駅業務を行わせた後、姑蘇城へ移送した。その様子を見る者は皆涙を流さずにはいられなかった。 幾日か経て姑蘇城に着くと勾践は手足に枷をはめられ土牢に入れられた。昼夜問わず月明かりすら見ることなく、一生涯暗闇の中にいるような状態で季節の移り変わりも分からず、涙が浮かぶ床には露さえ深く降りたという。 一方范蠡は越国にとどまってこのことを聞き、悔しみが骨髄に達して耐え難かった。「何としてでも主君を救い出し本国へ帰還させねば」と決意したのである。 解説
※物語的意義: |
| 諸共に謀を廻らして、会稽山の恥を雪めんと、肺肝を砕て思ければ、疲身替形、簀に魚を入て自ら是を荷ひ、魚を売商人の真似をして、呉国へぞ行たりける。姑蘇城の辺にやすらひて、勾践のをはする処を問ければ、或人委く教へ知せけり。范蠡嬉しく思て、彼獄の辺に行たりけれ共、禁門警固隙無りければ、一行の書を魚の腹の中に収て、獄の中へぞ擲入ける。勾践奇く覚して、魚の腹を開て見給へば、西伯囚■里。重耳走■。皆以為王覇。莫死許敵。とぞ書たりける。筆の勢文章の体、まがふべくもなき范蠡が業ざ也。と見給ひければ、彼れ未だ憂世に存へて、為我肺肝を尽しけりと、其志の程哀にも又憑もしくも覚へけるにこそ、一日片時も生けるを憂しとかこたれし我身ながらの命も、却て惜くは思はれけれ。斯りける処に、呉王夫差俄に石淋と云病を受て、身心鎮に悩乱し、巫覡祈れ共無験、医師治すれ共不痊、露命已に危く見へ給ける処に、侘国より名医来て申けるは、「御病実に雖重医師の術及まじきに非ず。石淋の味を甞て、五味の様を知する人あらば、輒く可奉療治。」とぞ申ける。「さらば誰か此石淋を甞て其味をしらすべき」と問に、左右の近臣相顧て、是を甞る人更になし。勾践是を伝聞て泪を押へて宣く、「我会稽の囲に逢し時已に被罰べかりしを、今に命助置れて天下の赦を待事、偏に君王慈慧の厚恩也。 |
こうして范蠡は共に策を巡らせて会稽山での屈辱を晴らそうと心を砕いて考えた結果、疲れた体形を変え、籠に魚を入れて自ら担ぎ歩き商人のふりをして呉国へ向かった。姑蘇城近くで待機しながら勾践がいる場所を尋ねると、ある人物から詳しく教えられた。范蠡は喜んで監獄付近に行ったものの警備厳重で隙がなく、一通の手紙を魚の腹に隠して投げ入れた。 勾践は不審に思い魚のお腹を開けてみると、「西伯(周文王)は羑里に囚われた。重耳(晋の文公)も逃亡した。(後に)皆が王者となった。敵のために死ぬな」と書かれていた。筆跡や文体から見て間違いなく范蠡の手によるものだと気づき、「彼がまだ世にあって私のために尽力してくれているのか」とその志に感動し頼もしく思ううち、自らは「一日たりとも生きるのがつらい」と嘆いていた命さえ惜しく感じられるようになった。 そんな中で呉王夫差が突然尿石症(結石)を患い心身ともに乱れ、祈祷師や医者が治療しても効果なく危篤状態に見えた。そこへ越国から名医が来て言うには、「病は重いものの治せないわけではありません。この病気の症状を知るために尿石の味見をする人がいれば直ちに治療できます」と申し出た。「では誰がこれを嘗めるのか?」との問いに側近たちが見合わせると、進んでやろうとする者はいなかった。 勾践はこの話を聞き涙をおさえて言った。「私は会稽山で死ぬべきところを命助けられ恩赦待ちの身なのは、全て王様の深い慈悲によるものです...」 解説
※物語構造上の位置付け: この場面は史実(『国語』呉語)より劇的に脚色。魚を使った連絡方法自体は虚構だが、越側が情報工作で劣勢挽回するテーマを象徴。「嘗糞」前段階として夫差病状エピソードを挿入することで、(1)勾践の忠誠演技機会創出 (2)范蠡策謀成功可能性の伏線設置という二重効果を達成。次章へ向けた緊張感醸成が巧妙に計算された構成である。 |
| 我今是を以て不報其恩何の日をか期せん。」とて潛に石淋を取て是を甞て其味を医師に被知。医師味を聞て加療治、呉王の病忽に平癒してげり。呉王大に悦で、「人有心助我死、我何ぞ是を謝する心無らんや。」とて、越王を自楼出し奉るのみに非ず。剰越の国を返し与へて、「本国へ返り去べし。」とぞ被宣下ける。爰に呉王の臣伍子胥と申者、呉王を諌て申けるは、「「天与不取却て得其咎」云へり。此時越の地を不取勾践を返し被遣事、千里の野辺に虎を放つが如し。禍可在近。」申けれ共呉王是を不聞給、遂に勾践を本国へぞ被返ける。越王已に車の轅を廻して、越の国へ帰り給ふ処に、蛙其数を不知車前に飛来。勾践是を見給て、是は勇士を得て素懐を可達瑞相也。とて、車より下て是を拝し給ふ。角て越の国へ帰て住来故宮を見給へば、いつしか三年に荒はて、梟鳴松桂枝狐蔵蘭菊叢、無払人閑庭に落葉満て簫々たり。越王免死帰給ぬと聞へしかば、范蠡王子王■与を宮中へ入奉りぬ。越王の后に西施と云美人座けり。容色勝世嬋娟無類しかば、越王殊に寵愛甚しくして暫くも側を放れ給はざりき。越王捕呉給ひし程は為遁其難側身隠居し給たりしが、越王帰給ふ由を聞給ひて則後宮に帰り参り玉ふ。年の三年を待わびて堪ぬ思に沈玉ける歎の程も呈れて、鬢疎かに膚消たる御形最わりなくらうたけて、梨花一枝春雨に綻び、喩へん方も無りけり。 |
「私は今この恩に報いなければいつできるというのか」と言って密かに尿結石を取り出し味見をし、その味を医師に伝えた。医師は味を知り治療すると呉王の病気はたちまち回復した。呉王は大いに喜び、「命の恩人がいるのに感謝しないわけにはいかない」と言って越王を牢獄から出すだけでなく、さらに越国を返還し「本国へ帰れ」とお命じになった。 ここで呉王の家臣・伍子胥が諫言した。「『天が与えたものを取らねば災いを受ける』といいます。今こそ越国の地を得るべき時に勾践を帰すのは、千里の野に虎を放つようなものです。禍は間近です」と訴えたが呉王は聞き入れず遂に勾践を本国へ返した。 越王(勾践)が車輪を回し越国へ向かう途中、数え切れない蛙が飛び出してきたのを見て「これは勇士を得る吉兆だ」と言い、降りて拝んだ。ようやく越国に帰ると宮殿は三年で荒廃していた。梟(ふくろう)が松枝で鳴き狐が菊叢に潜み、人の気配ない庭には落ち葉が積もっていた。 范蠡と王子・王与を連れて中に入るや越王妃である西施という美人が控えていた。その美貌は世に並ぶものなく、勾践は特に寵愛して片時も離さなかった。捕らわれていた間は難を逃れるため隠居していた彼女だが、勾践帰国を知ると後宮へ戻り三年の待ちわびた思いが身に沁みて現れている様子で髪は乱れ姿は細く哀れだった。それは春雨の中の梨花のように比喩できない美しさであった。 解説
※物語構造的意義: |
| 公卿・大夫・文武百司、此彼より馳集りける間、軽軒馳紫陌塵冠珮鎗丹■月、堂上堂下如再開花。斯りける処に自呉国使者来れり。越王驚て以范蠡事の子細を問給ふに、使者答曰、「我君呉王大王好婬重色尋美人玉ふ事天下に普し。而れ共未だ如西施不見顔色。越王出会稽山囲時有一言約。早く彼西施を呉の後宮へ奉傅入、備后妃位。」使也。越王聞之玉て、「我呉王夫差が陣に降て、忘恥甞石淋助命事、全保国身を栄やかさんとには非ず、只西施に為結偕老契なりき。生前に一度別て死して後期再会、保万乗国何かせん。されば縦ひ呉越の会盟破れて二度我為呉成擒共、西施を送他国事は不可有。」とぞ宣ひける。范蠡流涙申けるは、「誠に君展転の思を計るに、臣非不悲云へ共、若今西施を惜給はゞ、呉越の軍再び破て呉王又可発兵。去程ならば、越国を呉に被合のみに非ず、西施をも可奪、社稷をも可被傾。臣倩計るに、呉王好婬迷色事甚し。西施呉の後宮に入給ふ程ならば、呉王是に迷て失政事非所疑。国費へ民背ん時に及で、起兵被攻呉勝事を立処に可得つ。是子孫万歳に及で、夫人連理の御契可久道となるべし。」と、一度は泣一度は諌て尽理申ければ、越王折理西施を呉国へぞ被送ける。西施は小鹿の角のつかの間も、別れて可有物かはと、思ふ中をさけられて、未だ幼なき太子王■与をも不云知思置、ならはぬ旅に出玉へば、別を慕泪さへ暫しが程も止らで、袂の乾く隙もなし。 |
公卿・大夫ら文武百官が四方から集まる中、軽快な車馬が街を行き交い冠や装飾品が輝く様は月下で花が再び咲いたかのようだった。その時、呉国からの使者が到着した。越王(勾践)は驚いて范蠡の状況を尋ねると、使者は答えた。「我が君・呉王夫差は女色を好み美人探しに熱心ですが、西施ほどの女性は未だ見たことがありません。かつて会稽山で囲まれた際、『早く西施を後宮へ献上せよ』と約束されました」と。 越王はこれを聞き、「私は呉王の陣前で降伏し尿結石嘗めの屈辱に耐えたのは、国や身の保身ではなく西施との永遠の契りのためだ。たとえ再び捕らわれても彼女を渡すわけにはいかない」と言った。范蠡が涙ながらに諌めた。「もし今惜しむなら呉軍は越国を奪い、西施も社稷も滅ぼします。しかし考えてください:好色な夫差が西施を得れば政治を怠り民衆が離反するでしょう。その時こそ兵を起こして復讐できるのです」と。 范蠡の理に尽くした言葉で越王は折れ、呉国へ西施を送ることに決めた。西施は「幼い太子・王与とも別れるのか」と思い悩みながら旅立つ間もなく涙が止まらず、袖はずっと濡れたままだった。 解説
※物語構造上の意義: |
| 越王は又是や限の別なる覧と堪ぬ思に臥沈て、其方の空を遥々と詠めやり玉へば、遅々たる暮山の雲いとゞ泪の雨となり、虚しき床に独ねて、夢にも責て逢見ばやと欹枕臥玉へば、無添甲斐化に、無為方歎玉ふもげに理りなり。彼西施と申は天下第一の美人也。妝成て一度笑ば百の媚君が眼を迷して、漸池上に無花歟と疑ふ。艷閉て僅に見れば千態人の心を蕩して忽に雲間に失月歟と奇しまる。されば一度入宮中君王の傍に侍しより、呉王の御心浮れて、夜は終夜ら婬楽をのみ嗜で、世の政をも不聞、昼は尽日遊宴をのみ事として、国の危をも不顧。金殿挿雲、四辺三百里が間、山河を枕の下に直下ても、西施の宴せし夢の中に興を催さん為なりき。輦路に無花春日は、麝臍を埋て履を熏し、行宮に無月夏の夜は、蛍火を集て燭に易ふ。婬乱重日更無止時しかば、上荒下廃るれ共、佞臣は阿て諌せず。呉王万事酔如忘。伍子胥見之呉王を諌て申けるは、「君不見殷紂王妲妃に迷て世を乱り、周の幽王褒■を愛して国を傾事を。君今西施を婬し給へる事過之。国の傾敗非遠に。願は君止之給へ。」と侵言顔諌申けれ共、呉王敢て不聞給。或時又呉王西施に為宴、召群臣南殿の花に酔を勧め給ける処に、伍子胥威儀を正しくして参たりけるが、さしも敷玉鏤金瑶階を登るとて、其裾を高くかゝげたる事恰如渉水時。 |
越王はこれも運命の別れかと悲嘆に沈み、遠くの方角を眺めやっていた。遅々とした夕暮れの山雲が涙の雨となり、虚ろな床で独り寝ながら「夢だけでも逢いたい」と枕にもたれるが、空しくため息をつくばかりだった。 かの西施は天下第一の美人であった。装うと一度笑えばその妖艶さに王の目が眩み、「池に花がないわけがあるまい」と思わせるほどだ。ほんの一瞥でも千変万化な姿で人の心を蕩かし「雲間に月が見えぬのはおかしい」と驚嘆させた。こうして後宮入りした後、呉王はすっかり心を奪われ、夜通し淫楽にふけって政務も顧みず、昼は一日中遊宴に明け暮れて国の危機さえ無視した。 金殿が雲をつくほどの贅沢で、四方三百里の山河を踏みつけるのも、ただ西施の宴席での夢を楽しむためだった。花なき春の輦路には麝香を埋めて靴を薫らせ、月なき夏の宮殿では蛍火を集めて灯りとした。淫乱が日増しに激化する中で、上は堕落し下は荒廃しても佞臣たちは媚びて諌めない。呉王は万事酔っているかのように忘れていた。 伍子胥はこれを見て呉王を諫めた。「殷の紂王が妲己に迷って世を乱し、周の幽王が褒姒を愛して国を滅ぼした例をご存じでしょう。今や陛下の西施溺愛はそれを超えています」と顔色も変えず直言したが、呉王は聞き入れなかった。 ある時また南殿で宴会中、伍子胥が威儀正しく参上すると――玉を鏤めた階段を登る際に裾を高く掲げた様子が、まるで川を渡る時のようであった(=身分不相応な振舞いと暗示)。 解説
※文学的価値: |
| 其怪き故を問に、伍子胥答申けるは、「此姑蘇台越王の為に被亡、草深く露滋き地とならん事非遠。臣若其迄命あらば、住こし昔の迹とて尋見ん時、さこそは袖より余る荊棘の露も、■々として深からんずらめと、行末の秋を思ふ故に身を習はして裙をば揚る也。」とぞ申ける。忠臣諌を納れ共、呉王曾て不用給しかば、余に諌かねて、よしや身を殺して危きを助けんとや思けん、伍子胥又或時、只今新に砥より出たる青蛇の剣を持て参りたり。抜て呉王の御前に拉で申けるは、「臣此剣を磨事、退邪払敵為也。倩国の傾んとする其基を尋ぬれば、皆西施より出たり。是に過たる敵不可有。願は刎西施首、社稷の危を助けん。」と云て、牙を噛て立たりければ、忠言逆耳時君不犯非云事なければ、呉王大に忿て伍子胥を誅せんとす。伍子胥敢て是を不悲。「争い諌めて死節是臣下の則也。我正に越の兵の手に死なんよりは、寧君王の手に死事恨の中の悦也。但し君王臣が忠諌を忿て吾に賜死事、是天已に棄君也。君越王の為に滅れて、刑戮の罪に伏ん事、三年を不可過。願は臣が穿両眼呉の東門に掛られて、其後首を刎給へ。一双の眼未枯前に、君勾践に被亡て死刑に赴き給はんを見て、一笑を快くせん。」と申ければ、呉王弥忿て即伍子胥を被誅、穿其両眼呉の東門幢上にぞ被掛ける。 |
その奇妙な行動を問われると、伍子胥は答えた。「この姑蘇台が越王のために滅ぼされ草深い露に濡れる地となる日も近い。もし私の命がそれまで続けば、昔の跡を見て回る時には袖にかかる茨の露も滴り落ちそうなほど深かろうと思い、将来を憂いて身につけた習慣で裾を上げているのです」と。 忠臣は諫言するものだが呉王が全く聞き入れないため、ついに死をもって危険を知らせようとしたのか。伍子胥がある時、研ぎたての青蛇のように光る剣を持参した。抜いて呉王の前で掲げ「この剱は邪悪を払い敵を退けるために磨いたものです。国が滅びる根源は全て西施にあります。これほどの敵はいません。どうか西施の首を刎ね国家危機を救わせてください」と歯噛みして立つと、忠言は耳障りでも君主への諌めは臣下の務めゆえ、呉王は激怒し伍子胥を処刑しようとした。 伍子胥は全く悲しまず「抗って諫めて節に死ぬのが臣下の本分です。越軍の手にかかるより陛下の手で死ねるのは恨みの中の喜び。ただし忠言への逆鱗での賜死は天が王を見捨てた証し。三年もしないうちに陛下は勾践のために滅ぼされ刑罰を受けるでしょう。どうか私の両目を呉東門にかけ、その後で首を刎ねてください。その目が枯れぬ前に越軍によって処刑される御姿を見届けて一矢を報いた気分になるのです」と言うと、呉王はますます怒り即座に伍子胥を誅殺し両眼を取り出して東門の旗竿にかけた。 解説
※物語的意義: |
| 斯りし後は君悪を積ども臣敢て不献諌、只群臣口を噤み万人目を以てす。范蠡聞之、「時已に到りぬ。」と悦で、自二十万騎の兵を率して、呉国へぞ押寄ける。呉王夫差は折節晋国呉を叛と聞て、晋国へ被向たる隙なりければ、防ぐ兵一人もなし。范蠡先西施を取返して越王の宮へ帰し入奉り、姑蘇台を焼掃ふ。斉・楚の両国も越王に志を通ぜしかば、三十万騎を出して范蠡に戮力。呉王聞之先晋国の戦を閣て、呉国へ引返し、越に戦を挑とすれば、前には呉・越・斉・楚の兵如雲霞の、待懸たり。後には又晋国の強敵乗勝追懸たり。呉王大敵に前後を裹れて可遁方も無りければ、軽死戦ふ事三日三夜、范蠡荒手を入替て不継息攻ける間、呉の兵三万余人討れて僅に百騎に成にけり。呉王自相当る事三十二箇度、夜半に解囲六十七騎を随へ、姑蘇山に取上り、越王に使者を立て曰、「君王昔会稽山に苦し時臣夫差是を助たり。願は吾今より後越の下臣と成て、君王の玉趾を戴ん。君若会稽の恩を不忘、臣が今日の死を救ひ給へ。」と言を卑し厚礼降せん事をぞ被請ける。越王聞之古の我が思ひに、今人の悲みさこそと哀に思知給ければ、呉王を殺に不忍、救其死思給へり。范蠡聞之、越王の御前に参て犯面申けるは、「伐柯其則不遠。会稽の古は天越を呉に与へたり。 |
そうした後は、王が過ちを重ねても家臣たちは誰も進言せず、ただ黙りこくって皆が見ているだけだった。范蠡はこれを聞き「時機はすでに熟した」と喜び、自ら二十万騎の兵を率いて呉国へ押し寄せた。 当時の呉王夫差はちょうど晋国が反旗を翻したとの報を受け、晋に向かっている隙だったため、防ぐ兵士一人もいなかった。范蠡はまず西施を取り戻して越王の宮殿に送り返すと、姑蘇台を焼き払った。 斉・楚両国も越王に加勢することを決め、三十万騎を出して范蠡と力を合わせた。 呉王がこの報せを聞いて晋との戦いを中断し、急ぎ呉国へ引き返した。しかし越軍に挑もうとしたところ、前方には雲霞のように広がる呉・越・斉・楚の連合軍が待ち構えていたうえ、後方からは勢いに乗った晋国の強敵も追撃してきた。 こうして大軍に前後に包囲された呉王は逃げ場を失い、死を覚悟で三日三晩戦った。しかし范蠡が執拗な攻撃を休みなく続けるうちに、呉の兵士三万余人は討たれ、わずか百騎ほどになってしまった。 呉王自身も三十余度にわたって先頭で戦い抜き、夜半に包囲網を突破して六十七騎だけ連れて姑蘇山へ逃れた。そこで越王に使者を立てて申し入れた。「かつて陛下が会稽山で苦境にあられた時、臣・夫差はそれを助けました。どうか私はこれから後、越の家臣となって玉体をお守りします。もし陛下があの恩義を忘れなければ、今日この私を死なせないでください」とへりくだった言葉で降伏を請うた。 これを聞いた越王は昔の自身の苦しみに重ねて哀れに思い、夫差を殺すのは忍びず命だけは助けようと考えた。ところが范蠡がこの決定を知ると、すぐさま越王の御前に進んで憚らず直言した。「斧の柄を作るなら手本は遠くない(教訓は身近にある)。会稽山での昔のことこそ天が呉に越を与えた実例です。」 解説
※構造的分析: |
| 而を呉王取事無して忽に此害に逢り。今却て天越に呉を与へたり。無取事越又如此の害に逢べし。君臣共に肺肝を砕て呉を謀る事二十一年、一朝にして棄ん事豈不悲乎。君行非時不顧臣の忠也。」と云て、呉王の使者未帰前に、范蠡自攻鼓を打て兵を勧め、遂に呉王を生捕て軍門の前に引出す。呉王已に被面縛、呉の東門を過給ふに、忠臣伍子胥が諌に依て、被刎首時、幢の上に掛たりし一双の眼、三年まで未枯して有けるが、其眸明に開け、相見て笑へる気色なりければ、呉王是に面を見事さすが恥かしくや被思けん、袖を顔に押当て低首過給ふ。数万の兵見之涙を流さぬは無りけり。即呉王を典獄の官に下され、会稽山の麓にて遂に首を刎奉る。古来より俗の諺曰、「会稽の恥を雪むる。」とは此事を云なるべし。自是越王呉を合するのみに非ず、晉・楚・斉・秦を平げ、覇者の盟主と成しかば、其功を賞して范蠡を万戸侯に封ぜんとし給ひしか共、范蠡曾て不受其禄、「大名の下には久く不可居る、功成名遂而身退は天の道也。」とて、遂に姓名を替へ陶朱公と呼れて、五湖と云所に身を隠し、世を遁てぞ居たりける。釣して芦花の岸に宿すれば、半蓑に雪を止め、歌て楓葉の陰を過れば、孤舟に秋を戴たり。一蓬の月万頃の天、紅塵の外に遊で、白頭の翁と成にけり。 |
それから後は、王が過ちを重ねても家臣たちは誰も諫言せず、ただ群臣は口をつぐみ民衆が見ているだけだった。范蠡はこの状況を知って「時機はすでに来た」と喜び、自ら二十万騎の兵を率いて呉国へ押し寄せた。 当時の呉王夫差はちょうど晋国が反旗を翻したという知らせを受け、晋に向かっている隙だったため、防ぐ兵士一人もいなかった。范蠡はまず西施を取り戻して越王の宮殿に送り返すと、姑蘇台を焼き払った。 斉・楚両国も越王との同盟を決め、三十万騎を出して范蠡と力を合わせた。 呉王がこの報せを聞いて晋との戦いを中断し、急ぎ呉国へ引き返した。しかし越軍に挑もうとしたところ、前方には雲霞のように広がる呉・越・斉・楚の連合軍が待ち構えていたうえ、後方からは勢いに乗った晋国の強敵も追撃してきた。 こうして大軍に前後に包囲された呉王は逃げ場を失い、死を覚悟で三日三晩戦った。しかし范蠡が執拗な攻撃を休みなく続けるうちに、呉の兵士三万余人は討たれ、わずか百騎ほどになってしまった。 呉王自身も三十余度にわたって先頭で戦い抜き、夜半に包囲網を突破して六十七騎だけ連れて姑蘇山へ逃れた。そこで越王に使者を立てて申し入れた。「かつて陛下が会稽山で苦境にあられた時、臣・夫差はそれを助けました。どうか私はこれから後、越の家臣となって玉体をお守りします。もし陛下があの恩義を忘れなければ、今日この私を死なせないでください」とへりくだった言葉で降伏を請うた。 これを聞いた越王は昔の自身の苦しみに重ねて哀れに思い、夫差を殺すのは忍びず命だけは助けようと考えた。ところが范蠡がこの決定を知ると、すぐさま越王の御前に進んで憚らず直言した。「斧の柄を作るなら手本は遠くない(教訓は身近にある)。会稽山での昔のことこそ天が呉に越を与えた実例です。ところが当時の呉王(夫差)は何もしなかったのに突然この災いに遭い、今度は逆に天が越に呉を渡したのです。無策のままでは越も同じ災難に見舞われるでしょう。我々君臣が心肝を砕いて二十一年もかけて呉攻略を計画し、それを一瞬で放棄するとは悲しいことではありませんか。陛下は時機を見誤り臣下の忠言をも顧みないのです。」と。 そして呉王からの使者が帰らないうちに范蠡自ら攻め太鼓を打ち兵士を鼓舞し、ついに夫差を生け捕って軍門の前に引き出した。縛られた呉王が呉東門を通りかかった時、忠臣伍子胥が諫めたために首を刎ねられ旗竿に掛けられた一対の目玉が三年経っても枯れておらず、はっきりと見開いて嘲笑しているかのように見えた。これを見た夫差はさすがに恥ずかしく思ったのか袖で顔を覆いうつむいた。数万の兵士たちもこの様子を見て涙を流した者はいなかった。 すぐさま呉王は刑吏に引き渡され、会稽山のふもとで首を刎ねられた。昔から言われる「会稽の恥を雪ぐ」という俗諺はこの出来事を指すのである。 これ以降越王は呉国だけではなく晋・楚・斉・秦までも平定し、覇者の盟主となったため、その功績に報いて范蠡を万戸侯(諸侯)に封じようとした。しかし范蠡は決して禄を受け取らず、「高い名声の下には長くとどまれない。成功したら身を引くのが自然の道理だ」と言い、姓名を変えて陶朱公と名乗り五湖という地に隠遁し世捨て人となった。 釣り糸を垂れて芦花咲く岸辺で寝泊まりすれば蓑半分に雪が積もり、歌いながら楓の陰を通れば小舟一つに秋を背負う。一輪の月と広大な空のもと世俗の外を漂い白髪の老人となったのである。 解説
※教訓的核心: |
| 高徳此事を思准らへて、一句の詩に千般の思を述べ、窃に叡聞にぞ達ける。去程に先帝は、出雲の三尾の湊に十余日御逗留有て、順風に成にければ、舟人纜を解て御艤して、兵船三百余艘、前後左右に漕並べて、万里の雲に沿。時に滄海沈々として日没西北浪、雲山迢々として月出東南天、漁舟の帰る程見へて、一灯柳岸に幽也。暮れば芦岸の煙に繋船、明れば松江の風に揚帆、浪路に日数を重ぬれば、都を御出有て後二十六日と申に、御舟隠岐の国に着にけり。佐々木隠岐判官貞清、府の嶋と云所に、黒木の御所を作て皇居とす。玉■に咫尺して被召仕ける人とては、六条少将忠顕、頭大夫行房、女房には三位殿の御局許也。昔の玉楼金殿に引替て、憂節茂き竹椽、涙隙なき松の墻、一夜を隔る程も可堪忍御心地ならず。■人暁を唱し声、警固の武士の番を催す声許り、御枕の上に近ければ、夜のをとゞに入せ給ても、露まどろませ給はず。萩戸の明るを待し朝政なけれ共、巫山の雲雨御夢に入時も、誠に暁ごとの御勤、北辰の御拝も懈らず、今年何なる年なれば、百官無罪愁の涙を滴配所月、一人易位宸襟を悩他郷風給らん。天地開闢より以来斯る不思議を不聞。されば掛天日月も、為誰明なる事を不恥。無心草木も悲之花開事を忘つべし。 |
高徳はこのことを思案し、一首の詩に千々の思いを述べて密かに天皇の耳に入れた。そうこうするうちに先帝(後鳥羽上皇か)は出雲国の三尾の湊で十日余り滞在され、順風になったので船頭が綱を解いて御船を準備し、兵船三百隻余りが前後に並んで漕ぎ進み、万里の空を行く。その時には深い海は静まりかえって日が西北の波間に沈み、雲に覆われた山々は遠く月が東南の空に出る様子が見え、漁船が帰る光景も眺められて一筋の灯りが柳の岸辺にかすかに見えた。夕暮れには芦原を煙のように繋いだ船で過ごし、明け方には松江の風に帆を上げ、航海の日数を重ねたところ都を出発してから二十六日目という時に御船は隠岐国へ到着した。佐々木隠岐判官貞清が府島(現・西ノ島か)と呼ばれる場所で黒木造りの仮御所を作り皇居とした。玉座のすぐそばに仕える者として、六条少将忠顕や頭大夫行房ら男官と女房には三位殿の局だけである。昔の豪華な宮殿とは引き換えに憂いが茂る竹で作った屋根もろくなく涙を溜める隙間さえない松の壁であり、一夜過ごすのも耐え難いお気持ちだった。夜明けを知らせる声や警護武士の交代を促す声だけが御枕元に近かったため夜中は休まれても少しもまどろむことができなかった。朝戸の開くのを待っても朝廷政治がないのに、夢の中で巫山の雲雨(男女の情事)が現れる時でさえ毎晩欠かさず北辰星をお拝みになるご奉公は続けられた。「今年はいったいどんな年なのか。罪もない百官たちが流刑地の月に悲しみ涙を落とす一方、帝位を奪われた一人の天皇(後鳥羽上皇)は都離れた土地で宸襟(御心)を悩ませているのだろうか」。天地創造以来このような不思議なことは聞いたことがない。だから天にかかる日月さえ誰のために輝くのか恥じることもなく、無感情の草木も悲しみ花開くことを忘れてしまうに違いない。 解説
※核心的主題: |
| input text 太平記\005_太平記_巻5.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第五 ○持明院殿御即位事 元弘二年三月二十二日に、後伏見院第一御子、御年十九にして、天子の位に即せ給ふ。御母は竹内左大臣公衡の御娘、後には広義門院と申し御事也。同年十月二十八日に、河原の御禊あて、十一月十三日に大嘗会を被遂行。関白は鷹司の左大臣冬教公、別当は日野中納言資名卿にてぞをはしける。いつしか当今奉公の人々は、皆一時に望を達して門前市を成し、堂上花の如し。中にも梶井二品親王は、天台座主に成せ給て、大塔・梨本の両門迹を合せて、御管領有しかば、御門徒の大衆群集して、御拝堂の儀式厳重也。加之御室の二品親王法守、仁和寺の御門迹に御移有て、東寺一流の法水を湛へて、北極万歳の聖運を祈り給ふ。是皆後伏見院の御子、今上皇帝の御連枝也。 ○宣房卿二君奉公事 万里小路大納言宣房卿は、元来前朝旧労の寵臣にてをはせし上、子息藤房・季房二人笠置の城にて被生捕て、被処遠流しかば、父の卿も罪科深き人にて有べかりしを、賢才の聞へ有とて、関東以別儀其罪を宥め、当今に可被召仕之由奏し申す。依之日野中納言資明卿を勅使にて、此旨を被仰下ければ、宣房卿勅使に対して被申けるは、「臣雖不肖之身、以多年奉公之労蒙君恩寵、官禄共に進、剰汚政道輔佐之名。 |
元弘二年(1332年)三月二十二日、後伏見上皇の第一皇子が十九歳で天皇の位に即位された。母は竹内左大臣公衡の娘で、後に広義門院と称される方である。同年十月二十八日に賀茂川河原での禊ぎの儀があり、十一月十三日に大嘗会が執り行われた。関白は鷹司左大臣冬教公が務め、別当(祭祀責任者)は日野中納言資名卿であった。やがて今上陛下に仕える人々は皆一斉に栄達し、邸前には人の出入りが市のようになり、宮廷は花が咲き乱れるように賑わった。特に梶井二品親王(尊澄法親王)は天台座主となり、大塔宮と梨本門跡を管轄下に置いたため、門徒の僧侶たちが群れ集い拝堂の儀式は厳かであった。さらに仁和寺御室となった二品親王(法守法親王)も東寺流の教えをもって北極星のように永遠なる聖運を祈られた。これらはいずれも後伏見上皇の皇子、つまり当今天皇の弟君にあたる方々である。 万里小路大納言宣房卿は元来、前帝(後醍醐天皇)に仕えた功臣であったが、息子の藤房・季房二人が笠置城で捕らえられ遠流となったため、父である卿も重罪とされる立場だった。しかしその聡明さを買われた関東(鎌倉幕府)は特別に罪を許し、「今上陛下にお仕えせよ」との命を下した。これを受け日野中納言資明卿が勅使として伝えると、宣房卿は勅使に対し「臣たる者未熟ながらも長年朝廷に尽くし君の寵愛を受けて官位禄をも賜り、政道補佐の名を汚すこと甚だしい」と述べた。 解説
※政治的含意: |
| 「事君之礼、値其有罪、犯厳顔、以道諌諍、三諌不納奉身以退、有匡正之忠無阿順之従、是良臣之節也。若見可諌而不諌、謂之尸位。見可退而不退、謂之懐寵。々々尸位国之奸人也。」と云り。君今不義の行をはして、為武臣被辱給へり。是臣が予依不知処雖不献諌言世人豈其無罪許哉。就中長子二人被処遠流之罪。我已七旬の齢に傾けり。後栄為誰にか期せん。前非何又恥ざらんや。二君の朝に仕て辱を衰老の後に抱かんよりは、伯夷が行を学て飢を首陽の下に忍ばんには不如。」と、涙を流て宣ひければ、資明卿感涙を押へ兼て暫は言をも宣はず。良有て宣ひけるは、「「忠臣不必択主、見仕而可治而已也。」といへり。去ば百里奚は二仕秦穆公永令致覇業、管夷吾翻佐斉桓公、九令朝諸侯。主無以道射鉤之罪、世不皆奈鬻皮之恥といへり。就中武家如此許容の上は、賢息二人の流罪争無赦免御沙汰乎、夫伯夷・叔斉飢て何の益か有し。許由・巣父遁て不足用。抑隠身永断来葉之一跡、与仕朝遠耀前祖之無窮、是非得失有何処乎。与鳥獣同群孔子所不執也。」資明卿理を尽して被責ければ。宣房卿顔色誠に屈伏して、「「以罪棄生、則違古賢夕改之勧、忍垢苟全則犯詩人胡顔之譏」と、魏の曹子建が詩を献ぜし表に書たりしも、理とこそ存ずれ。 |
「君主に仕える礼儀とは、もし主君に過ちがあればその厳しい顔色を恐れず道理をもって諫言し、三度進言しても受け入れられなければ身を退くことだ。誤りを正す忠義はあってもへつらう従順はせぬ、これが良臣の節操である。もし諫めるべき時に黙れば『尸位(地位だけ占めて仕事しない)』と言われ、去るべき時に残れば『懐寵(恩寵に甘える)』と非難される。ましてや尸位は国の奸人だ」と述べた上で、「今や主君(後醍醐天皇)が不義を行ったため武家(鎌倉幕府)から辱めを受けたのは、私が見識不足で諫言しなかったせいであり世間は罪を許すまい。何より長男二人も遠流の刑に処され私は七十歳の老境にある。未来の栄華など誰のために期待しようか?過去の過ちを恥じないわけがない。二君(後醍醐天皇と光厳天皇)に仕えて老年期に辱めを抱えるよりは、伯夷が首陽山で餓死した道を選ぶ方がましだ」と涙ながらに語ったので、資明卿も感涙を抑えきれず言葉が出なかった。やがてこう諭した:「『忠臣は必ずしも主君を選ばず仕えるべき時に治めるだけだ』という教えがある。百里奚(中国の賢人)は二度秦に仕えて穆公に覇業をもたらし、管夷吾(管仲)は斉桓公を補佐して諸侯を従わせた。主君は彼らが過去に弓で射かけた罪も咎めず世間も皮を売った恥を責めなかったのだ。まして武家があれほど寛大なら賢息たちの流刑赦免沙汰もあるはずだ。伯夷・叔斉(隠遁者)が餓死しても何の益がある?許由・巣父(伝説の隠士)のように逃げるのは役立たずである。隠れて子孫の跡を絶つより朝廷に仕えて先祖の名を永遠に輝かせるべきで、得策は明らかだ。孔子も『鳥獣と群れること』(隠遁)は認めぬ」と資明卿が理を尽くして責めたため宣房卿は表情こそ従順を示しつつ、「『罪ゆえに命を棄てれば賢者の改過勧告に背き、汚名耐えて生き延びれば詩人の非難(胡顔)を受ける』と魏の曹子建が上表文で述べたのも道理であろう」と言った。 解説
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| 」とて、遂に参仕の勅答をぞ被申ける。 ○中堂新常灯消事 其比都鄙の間に、希代の不思議共多かりけり。山門の根本中堂の内陣へ山鳩一番飛来て、新常灯の油錠の中に飛入て、ふためきける間、灯明忽に消にけり。此山鳩、堂中の闇さに行方に迷ふて、仏壇の上に翅を低て居たりける処に、承塵の方より、其色朱を指たる如くなる鼠狼一つ走り出で、此鳩を二つながら食殺てぞ失にけり。抑此常灯と申は、先帝山門へ臨幸成たりし時、古桓武皇帝の自ら挑させ給し常燈に準へて、御手づから百二十筋の燈心を束ね、銀の御錠に油を入て、自掻立させ給し燈明也。是偏に皇統の無窮を耀さん為の御願、兼ては六趣の群類の暝闇を照す、慧光法燈の明なるに、思食準へて被始置し常燈なれば、未来永劫に至迄消る事なかるべきに、鴿鳩の飛来て打消けるこそ不思議なれ。其を玄獺の食殺しけるも不思議也。 ○相摸入道弄田楽並闘犬事 又其比洛中に田楽を弄事昌にして、貴賎挙て是に着せり。相摸入道此事を聞及び、新座・本座の田楽を呼下して、日夜朝暮に弄事無他事。入興の余に、宗との大名達に田楽法師を一人づゝ預て装束を飾らせける間、是は誰がし殿の田楽、彼何がし殿の田楽なんど云て、金銀珠玉を逞し綾羅錦繍を妝れり。 |
こう言い終えて、遂には朝廷への仕官命令に対する返答を述べられた。 この頃、都でも地方でも稀な不思議な出来事が多発していた。比叡山延暦寺の根本中堂内陣に一羽の山鳩が飛来し、「新常灯」と呼ばれる油皿の中へ入り込んだため暴れたせいで灯火は突然消えた。この山鳩が暗闇の中で迷い仏壇上にうずくまっていると、天井裏から朱色を帯びたイタチのような獣が走り出てきて鳩を丸ごと食い殺し姿を消した。そもそもこの常灯は先帝(後醍醐天皇)が比叡山行幸の折、桓武天皇自ら点じられた古式に倣い、御自身で120本もの燈芯を束ね銀製油皿へ注ぎ火をつけ置かれたものである。これは皇統永遠への祈願と同時に六道衆生の迷いを照らす仏法の灯火として始められ、未来永劫消えぬはずであったのに鳩が飛来して灯りを絶ったことは不吉な兆候である。ましてや獣(イタチ)が食殺したのも怪異極まりない。 またこの頃京では田楽舞が大流行し貴賤問わず熱中していた。鎌倉幕府執権・相模入道北条高時はこれを聞きつけ、新座と本座の田楽団を呼び寄せ昼夜問わず演芸にふける日々であった。興が乗ると家臣たちにもそれぞれ田楽法師を与え派手な衣装を着せたため、「これは某殿の田楽」「あれは何氏の田楽」と呼称し、金銀宝石で飾り豪華絢爛な錦織衣裳に彩られた。 解説
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| 宴に臨で一曲を奏すれば、相摸入道を始として一族大名我劣らじと直垂・大口を解で抛出す。是を集て積に山の如し。其弊へ幾千万と云数を不知。或夜一献の有けるに、相摸入道数盃を傾け、酔に和して立て舞事良久し。若輩の興を勧る舞にてもなし。又狂者の言を巧にする戯にも非ず。四十有余の古入道、酔狂の余に舞ふ舞なれば、風情可有共覚ざりける処に、何くより来とも知ぬ、新坐・本座の田楽共十余人、忽然として坐席に列てぞ舞歌ひける。其興甚尋常に越たり。暫有て拍子を替て歌ふ声を聞けば、「天王寺のやようれぼしを見ばや。」とぞ拍子ける。或官女此声を聞て、余の面白さに障子の隙より是を見るに、新坐・本座の田楽共と見へつる者一人も人にては無りけり。或觜勾て鵄の如くなるもあり、或は身に翅在て其形山伏の如くなるもあり。異類異形の媚者共が姿を人に変じたるにてぞ有ける。官女是を見て余りに不思議に覚ければ、人を走らかして城入道にぞ告たりける。入道取物も取敢ず、太刀を執て其酒宴の席に臨む。中門を荒らかに歩ける跫を聞て、化物は掻消様に失せ、相摸入道は前後も不知酔伏たり。燈を挑させて遊宴の座席を見るに、誠に天狗の集りけるよと覚て、踏汚したる畳の上に禽獣の足迹多し。 |
宴会の席で一曲が演奏されると、相模入道北条高時をはじめ一族や大名たちこぞって礼服(直垂・大口)を脱ぎ捨てた。これら衣類は山のように積み上げられ、その損失額は数千万にも及ぶと推測された。ある夜の酒宴で、相模入道が何杯も飲んで酔いが回り、長く舞った様子だった。若者の遊び心に踊るわけでもなく狂人の演技とも違う。四十代後半の老齢の僧侶が酔狂で舞えば風情があると思われたところへ、どこからか新座・本座の田楽法師十数人が現れて突然席に並び歌い踊った。その盛り上がりは尋常ではなく、やがてリズムを変えた歌声には「天王寺の夜遊ぼしを見たいものだ」と囃したたえる声も混じっていた。ある官女がこの声に興味を持ち障子の隙間から覗くと、田楽法師たちは一人残らず人ではなく、くちばしが曲がったトビのような者や羽のある山伏風の異形など、妖怪共が姿を変えたものだった。官女があまりの怪奇さに驚き使い走りで城入道(北条貞時か)へ報告したため、彼は武器も取らず太刀を持って酒宴場へ駆けつけた。戸口を荒々しく踏み鳴らす足音が響くと妖怪たちは跡形もなく消え、相模入道は前後不覚に酔い潰れていた。灯火で宴会の席を見ればまさに天狗の集会と見紛うばかりで、乱れた畳には鳥獣の足跡が無数についていた。 解説
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| 城入道、暫く虚空を睨で立たれ共、敢て眼に遮る者もなし。良久して、相摸入道驚覚て起たれ共、惘然として更に所知なし。後日に南家の儒者刑部少輔仲範、此事を伝聞て、「天下将乱時、妖霊星と云悪星下て災を成すといへり。而も天王寺は是仏法最初の霊地にて、聖徳太子自日本一州の未来記を留給へり。されば彼媚者が天王寺の妖霊星と歌ひけるこそ怪しけれ。如何様天王寺辺より天下の動乱出来て、国家敗亡しぬと覚ゆ。哀国主徳を治め、武家仁を施して消妖謀を被致よかし。」と云けるが、果して思知るゝ世に成にけり。彼仲範実に未然の凶を鑒ける博覧の程こそ難有けれ。相摸入道懸る妖怪にも不驚、益々奇物を愛する事止時なし。或時庭前に犬共集て、噛合ひけるを見て、此禅門面白き事に思て、是を愛する事骨髄に入れり。則諸国へ相触て、或は正税・官物に募りて犬を尋、或は権門高家に仰て是を求ける間、国々の守護国司、所々の一族大名、十疋二十疋飼立て、鎌倉へ引進す。是を飼に魚鳥を以てし、是を維ぐに金銀を鏤む。其弊甚多し。輿にのせて路次を過る日は、道を急ぐ行人も馬より下て是に跪き、農を勤る里民も、夫に被取て是を舁、如此賞翫不軽ければ、肉に飽き錦を着たる奇犬、鎌倉中に充満して四五千疋に及べり。 |
城入道はしばらく虚空を見つめて立っていたが、目に見えるものは何一つなかった。長い時間が過ぎて相模入道北条高時が驚いて起きたが、ぼんやりとして全く何事か分からなかった。後日になって南家の儒者である刑部少輔仲範(みなみけのじゅじゃ・ぎょうぶしょうゆうなかのり)がこの噂を聞き、「天下が乱れようとする時には妖霊星という悪い星が降りて災いをもたらすと言われている。しかも天王寺は仏法最初の聖地であり、聖徳太子自ら日本の未来記を残された場所だ。それゆえあの化物たちが『天王寺の妖霊星』と歌ったのは怪しいことだ。どうやら天王寺付近から天下動乱が起こり国家敗亡すると思われる。悲しきかな、国主は徳をもって治め武家は仁愛を行い妖怪謀略消滅に努めるべきだろう。」と言ったところ果たして彼の言う通りの世の中になってしまった。仲範は実に未然凶事を見抜く博覧さが大変貴重だったのだ。相模入道北条高時はこのような妖怪にも驚かず、ますます珍奇なものを愛好することを止めなかった。ある時庭先で犬たちが集まって噛み合っているのを見て、この僧侶(高時)は面白いと思いこれを骨髄に刻むほど溺愛した。すぐさま諸国へ触れを出し公税や官物を使って大金懸けで犬探したり権門家々へ命じて求めさせたため守護国司一族大名たちが十匹二十匹飼育して鎌倉へ送り込んだのだった。これらを魚鳥で餌付けるだけでなく装身具にまで金銀細工施しその浪費甚だしかったことよ!輿乗せて街通れば道急ぐ行路者も馬降り跪礼拝み農耕勤める里人までも夫役取られ担がねばならぬ程重宝軽視されず結果肉飽満錦着飾った異様な犬群鎌倉中充溢四千五千匹余数達したと。 解説
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| 月に十二度犬合せの日とて被定しかば、一族大名御内外様の人々、或は堂上に坐を列ね、或庭前に膝を屈して見物す。于時両陣の犬共を、一二百疋充放し合せたりければ、入り違ひ追合て、上に成下に成、噛合声天を響し地を動す。心なき人は是を見て、あら面白や、只戦に雌雄を決するに不異と思ひ、智ある人は是を聞て、あな忌々しや、偏に郊原に尸を争ふに似たりと悲めり。見聞の准ふる処、耳目雖異、其前相皆闘諍死亡の中に存て、浅猿しかりし挙動なり。 ○時政参篭榎嶋事 時已に澆季に及で、武家天下の権を執る事、源平両家の間に落て度々に及べり。然ども天道必盈を虧故に、或は一代にして滅び、或は一世をも不待して失ぬ。今相摸入道の一家、天下を保つ事已に九代に及ぶ。此事有故。昔鎌倉草創の始、北条四郎時政榎嶋に参篭して、子孫の繁昌を祈けり。三七日に当りける夜、赤き袴に柳裏の衣着たる女房の、端厳美麗なるが、忽然として時政が前に来て告て曰、「汝が前生は箱根法師也。六十六部の法華経を書冩して、六十六箇国の霊地に奉納したりし善根に依て、再び此土に生る事を得たり。去ば子孫永く日本の主と成て、栄花に可誇。但其挙動違所あらば、七代を不可過。吾所言不審あらば、国々に納し所の霊地を見よ。 |
月に十二回も犬合わせの日が決められていたので、一族や大名たちは主従を含めて堂上に座席を並べたり庭先に膝をつけて見物した。そのとき敵味方両陣営から一二百匹もの大群を解き放って戦わせると、入り乱れ追いかけ合い、上の犬が下の犬になりかわり噛みつく声は天を震わし地を揺るがすほどだった。思慮深さのない者はこれを見て「ああ面白い!まるで実戦で勝敗を決するようだ」と思い、知恵ある者は聞いて「なんと嘆かわしいことか、郊外に死体が積み上がる争いに似ている」と悲しんだ。見たり聞いたりした事柄はそれぞれの立場で異なるものの、その行動すべてが闘争や死の中にあり浅ましく思われる行為だった。 ○時政参籠榎嶋事 解説
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| 」と云捨て帰給ふ。其姿をみければ、さしも厳しかりつる女房、忽に伏長二十丈許の大蛇と成て、海中に入にけり。其迹を見に、大なる鱗を三つ落せり。時政所願成就しぬと喜て、則彼鱗を取て、旗の文にぞ押たりける。今の三鱗形の文是也。其後弁才天の御示現に任て、国々の霊地へ人を遣して、法華経奉納の所を見せけるに、俗名の時政を法師の名に替て、奉納筒の上に大法師時政と書たるこそ不思議なれ。されば今相摸入道七代に過て一天下を保けるも、江嶋の弁才天の御利生、又は過去の善因に感じてげる故也。今の高時禅門、已に七代を過、九代に及べり。されば可亡時刻到来して、斯る不思議の振舞をもせられける歟とぞ覚ける。 ○大塔宮熊野落事 大塔二品親王は、笠置の城の安否を被聞食為に、暫く南都の般若寺に忍て御座有けるが、笠置の城已に落て、主上被囚させ給ぬと聞へしかば、虎の尾を履恐れ御身の上に迫て、天地雖広御身を可被蔵所なし。日月雖明長夜に迷へる心地して、昼は野原の草に隠れて、露に臥鶉の床に御涙を争ひ、夜は孤村の辻に彳て、人を尤むる里の犬に御心を被悩、何くとても御心安かるべき所無りければ、角ても暫はと被思食ける処に、一乗院の候人按察法眼好専、如何して聞たりけん、五百余騎を率して、未明に般若寺へぞ寄たりける。 |
と言い捨ててお帰りになった。その姿を見ると、あんなに厳しかった女房が突然体長約六十メートルほどの大蛇になって海に入っていってしまった。跡を見に行くと大きな鱗を三枚落としていた。時政は願い事が成就したと喜びすぐにその鱗を取り旗の紋章として押し付けたのが、今ある「三つ鱗形」の紋である。その後弁才天のお告げに従って各地霊地へ人を遣わして法華経奉納場所を見せてもらったところ、俗名だった時政が法師名に変わり奉納筒に大法師時政と書いてあるのが不思議であった。だから今相模入道(北条高時)の一族七代を超えて天下を保てたのも江島弁才天のお導きや前世善行によるものだと言えるが、現在の高時は既に九代目であるゆえ滅びる時期到来しこのような奇怪行動に出ているのかと思われた。 ○大塔宮熊野落ち事 解説
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| 折節宮に奉付たる人独も無りければ一防ぎ防て落させ可給様も無りける上、透間もなく兵既に寺内に打入たれば、紛れて御出あるべき方もなし。さらばよし自害せんと思食て、既に推膚脱せ給たりけるが、事叶はざらん期に臨で、腹を切らん事は最可安。若やと隠れて見ばやと思食返して、仏殿の方を御覧ずるに、人の読懸て置たる大般若の唐櫃三あり。二の櫃は未開蓋を、一の櫃は御経を半ばすぎ取出して蓋をもせざりけり。此蓋を開たる櫃の中へ、御身を縮めて臥させ給ひ、其上に御経を引かづきて、隠形の呪を御心の中に唱てぞ坐しける。若捜し被出ば、頓て突立んと思召て氷の如くなる刀を抜て、御腹に指当て、兵、「此にこそ。」と云んずる一言を待せ給ける御心の中、推量るも尚可浅。去程に兵仏殿に乱入て、仏壇の下天井の上迄も無残所捜しけるが、余りに求かねて、「是体の物こそ怪しけれ。あの大般若の櫃を開見よ。」とて、蓋したる櫃二を開て、御経を取出し、底を翻して見けれどもをはせず。蓋開たる櫃は見るまでも無とて、兵皆寺中を出去ぬ。宮は不思議の御命を続せ給ひ、夢に道行心地して、猶櫃の中に座しけるが、若兵又立帰り、委く捜す事もや有んずらんと御思案有て、頓て前に兵の捜し見たりつる櫃に、入替らせ給てぞ座しける。 |
ちょうどその時親王にお仕えする者が一人もいなかったので防戦して逃れる方法もなく、間もなく兵が寺内に乱入したため混乱の中を抜け出すこともできなかった。「それならば潔く自害しよう」とお考えになり肌脱ぎされようとしたところだが「事態打開できない段階での切腹は安易すぎる。もし助かる道があれば隠れて様子を見たい」と思い直し仏殿の方にお目を向けると、誰かが読みかけで置いた大般若経の唐櫃(からびつ)三つがあった。二つの櫃は未開封だったが一つの櫃だけ蓋もせずに経巻半分ほど取り出したままである。この蓋の開いた櫃の中へお体を縮めて横になられ、その上に散らばった経典をかき寄せ「隠形(おんぎょう)の呪文」を心の中で唱え続けた。「もし発見されれば即座に刺し違える」と氷のように冷たい刀をお腹にあてがい兵士が「ここだ!」と言う一言待つ胸中は想像を絶するものだった。ほどなく兵が仏殿へ乱入し仏壇の下から天井裏まで残らず捜索したが見つからず「こいつ(櫃)が怪しい、大般若経の櫃を開けろ」と叫んだ蓋をしていた二つの櫃だけ調べ経巻を取り出して底までひっくり返したものの中には何もなかった。蓋の開いた櫃は見る必要ないとして兵は全員退去した。親王は奇跡的に命をつなぎ夢うつつの中でまだ櫃に隠れていたが「もし戻って詳しく捜せば危険」と思い立たれてすぐさま先ほど兵に見られた蓋開きの櫃から、未調査だった別の櫃へと移動されて身を潜めた。 解説
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| 案の如く兵共又仏殿に立帰り、「前に蓋の開たるを見ざりつるが無覚束。」とて、御経を皆打移して見けるが、から/\と打笑て、「大般若の櫃の中を能々捜したれば、大塔宮はいらせ給はで、大唐の玄弉三蔵こそ坐しけれ。」と戯れければ、兵皆一同に笑て門外へぞ出にける。是偏に摩利支天の冥応、又は十六善神の擁護に依る命也。と、信心肝に銘じ感涙御袖を湿せり。角ては南都辺の御隠家暫も難叶ければ、則般若寺を御出在て、熊野の方へぞ落させ給ける。御供の衆には、光林房玄尊・赤松律師則祐・木寺相摸・岡本三河房・武蔵房・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀三郎、彼此以上九人也。宮を始奉て、御供の者迄も皆柿の衣に笈を掛け、頭巾眉半に責め、其中に年長ぜるを先達に作立、田舎山伏の熊野参詣する体にぞ見せたりける。此君元より龍楼鳳闕の内に長とならせ給て、華軒香車の外を出させ給はぬ御事なれば、御歩行の長途は定て叶はせ給はじと、御伴の人々兼ては心苦しく思けるに、案に相違して、いつ習はせ給ひたる御事ならねども怪しげなる単皮・脚巾・草鞋を召て、少しも草臥たる御気色もなく、社々の奉弊、宿々の御勤懈らせ給はざりければ、路次に行逢ひける道者も、勤修を積める先達も見尤る事も無りけり。 |
予想通り兵士たちが仏殿に戻ってきて「さっき蓋の開いた櫃を見落としたのは不注意だ」と言い、経典を全て移動して調べたものの中は空だったので、「ガラガラと笑いながら『大般若経の櫃をよく探したら大塔宮様はいらっしゃらず、唐の玄奘三蔵がいたぞ』と冗談を言ったところ兵士全員が一斉に笑って門外へ出て行った。これはひとえに摩利支天のお加護あるいは十六善神の守護による命である」と思い信仰心を深く刻み、感動の涙で袖を濡らされた。ともかく南都周辺での潜伏が難しくなったためすぐ般若寺を出発され熊野方面へ落ち延びられた。お供の者は光林房玄尊・赤松律師則祐・木寺相模・岡本三河房・武蔵房・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀三郎以上の九名である。親王を中心に供の者まで全員柿色衣に笈(おい)を背負い頭巾で眉半分隠し、年長者を先達に見立てて田舎山伏が熊野詣でする様子に見せかけた。この方は元々御所育ちで豪華な車以外で外出されたことがないため歩きの長旅は無理だろうと供の人々は心配していたが予想に反し、いつ習われたのか分からないが不思議なくらい見事な脚絆・草鞋を身につけ少しも疲れた様子もなく神社への奉幣や宿での勤行をお休みにならなかったので道中出会った巡礼者からも修行積んだ先達と全く見分けつかなかった。 解説
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| 由良湊を見渡せば、澳漕舟の梶をたへ、浦の浜ゆふ幾重とも、しらぬ浪路に鳴千鳥、紀伊の路の遠山眇々と、藤代の松に掛れる磯の浪、和歌・吹上を外に見て、月に瑩ける玉津島、光も今はさらでだに、長汀曲浦の旅の路、心を砕く習なるに、雨を含める孤村の樹、夕を送る遠寺の鐘、哀を催す時しもあれ、切目の王子に着給ふ。其夜は叢祠の露に御袖を片敷て、通夜祈申させ給けるは、南無帰命頂礼三所権現・満山護法・十万の眷属・八万の金剛童子、垂迹和光の月明かに分段同居の闇を照さば、逆臣忽に亡びて朝廷再耀く事を令得給へ。伝承る、両所権現は是伊弉諾・伊弉冉の応作也。我君其苗裔として朝日忽に浮雲の為に被隠て冥闇たり。豈不傷哉。玄鑒今似空。神若神たらば、君盍為君と、五体を地に投て一心に誠を致てぞ祈申させ給ける。丹誠無二の御勤、感応などかあらざらんと、神慮も暗に被計たり。終夜の礼拝に御窮屈有ければ、御肱を曲て枕として暫御目睡在ける御夢に、鬟結たる童子一人来て、「熊野三山の間は尚も人の心不和にして大儀成難し。是より十津川の方へ御渡候て時の至んを御待候へかし。両所権現より案内者に被付進て候へば御道指南可仕候。」と申すと被御覧御夢は則覚にけり。是権現の御告也。 |
由良港を見渡すと入り江の船が櫓を休め、幾重にも続く浜辺に鳴く千鳥。紀伊路の遠山はかすみ、藤代ヶ松にかかる磯波が見え、和歌ノ浦・吹上浜を過ぎて月に輝く玉津島へ至るが、光も今や薄れゆく長い海岸線と入り江続きの旅路は心を痛めるもの。雨を含んだ孤村の樹木、夕暮れを告げる遠寺の鐘が哀愁を誘う頃、切目の王子社に到着された。その夜は小さな祠で露に濡れた袖を敷物代わりとし徹夜で祈願された。「南無帰命頂礼 熊野三所権現・満山護法神・十万の眷属・八万の金剛童子よ、本地垂迹(ほんじすいじゃく)の月明かりがこの世の闇を照らし逆臣たちを滅ぼして朝廷再興させたまえ」。伝承によれば両所権現は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の化身である。我が君(後醍醐天皇)はその子孫ながら朝日が瞬く間に雲に隠れ暗闇となった。「神様ならばどうか君主を本来のあるべき姿にお戻しください」と五体投地して一心不乱に祈られたところ、真心の祈りに神意も動いたのか。徹夜の礼拝でお疲れとなり肘を枕にしてうとうとした夢の中に髷(まげ)を結った童子が現れて言うには「熊野三山はまだ人心和せず危険です。ここから十津川へ向かい時節到来をお待ちなさい。両所権現の使者として道案内いたします」とのお告げで目が覚めた。 解説
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| けりと憑敷被思召ければ、未明に御悦の奉弊を捧げ、頓て十津河を尋てぞ分入らせ給ける。其道の程三十余里が間には絶て人里も無りければ、或は高峯の雲に枕を峙て苔の筵に袖を敷、或は岩漏水に渇を忍んで朽たる橋に肝を消す。山路本より雨無して、空翠常に衣を湿す。向上れば万仞の青壁刀に削り、直下ば千丈の碧潭藍に染めり。数日の間斯る嶮難を経させ給へば、御身も草臥はてゝ流るゝ汗如水。御足は欠損じて草鞋皆血に染れり。御伴の人々も皆其身鉄石にあらざれば、皆飢疲れてはか/゛\敷も歩得ざりけれ共、御腰を推御手を挽て、路の程十三日に十津河へぞ着せ給ひける。宮をばとある辻堂の内に奉置て、御供の人々は在家に行て、熊野参詣の山伏共道に迷て来れる由を云ければ、在家の者共哀を垂て、粟の飯橡の粥など取出して其飢を相助く。宮にも此等を進せて二三日は過けり。角ては始終如何可在とも覚へざりければ、光林房玄尊、とある在家の是ぞさもある人の家なるらんと覚しき所に行て、童部の出たるに家主の名を問へば、「是は竹原八郎入道殿の甥に、戸野兵衛殿と申人の許にて候。」と云ければ、さては是こそ、弓矢取てさる者と聞及ぶ者なれ、如何にもして是を憑まばやと思ければ、門の内へ入て事の様を見聞処に、内に病者有と覚て、「哀れ貴からん山伏の出来れかし、祈らせ進らせん。 |
その夢のお告げがあると確信なさったため、未明に感謝の捧げ物を奉り、すぐさま十津川へ向かって進まれた。道中30里余(約120km)は全く人家もなく、時には高峰の雲の中に枕して苔むした地面で袖を敷き野宿し、時には岩から滴る水で渇きを凌ぎながら朽ちた橋では肝をつぶす思いだった。山中では元々雨が少ないのに青葉の露で常に衣は濡れ、上を見上げると切り立った断崖は刀で削ったようで、真下には千丈(約3km)もの深い碧色の淵があった。数日間こうした険しい道を通られたためお体は疲れ果て流れる汗が水のように溢れ、足には傷だらけで草鞋まで血に染まっていた。供の人々も自分の身は鉄石ではないので皆飢えて歩けないほどだったが、腰を押し手を引いて助け合いながら道中13日目に十津川へ到着された。親王様を路傍の小堂にお休みいただき、供たちは民家に行って「熊野参拝に向かう山伏で道に迷った」と説明したところ住民が哀れんで粟飯やどんぐり粥などを出して飢えを助けてくれた。親王様にもこの食物を差し上げながら二三日過ごされた。ともかく今後どうすればよいのか見当もつかないので、光林房玄尊が「これは有力者の家だろう」と思われる一軒へ行くと童子が出てきた。「家主は竹原八郎入道殿の甥である戸野兵衛という人物です」と言うので、「まさに武勇で名高いあの人だ。ぜひ頼ろう」と門内に入ると病人がいるようだったため「もし貴重な山伏がいらっしゃったら祈祷をさせていただけませんか」と思案した。 解説
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| 」と云声しけり。玄尊すはや究竟の事こそあれと思ければ、声を高らかに揚て、「是は三重の滝に七日うたれ、那智に千日篭て三十三所の巡礼の為に、罷出たる山伏共、路蹈迷て此里に出て候。一夜の宿を借一日〔の〕飢をも休め給へ。」と云たりければ、内より怪しげなる下女一人出合ひ、「是こそ可然仏神の御計ひと覚て候へ。是の主の女房物怪を病せ給ひ候。祈てたばせ給てんや。」と申せば、玄尊、「我等は夫山伏にて候間叶ひ候まじ。あれに見へ候辻堂に、足を休て被居て候先達こそ、効験第一の人にて候へ。此様を申さんに子細候はじ。」と云ければ、女大に悦で、「さらば其先達の御房、是へ入進せさせ給へ。」と云て、喜あへる事無限。玄尊走帰て此由を申ければ、宮を始奉て、御供の人皆彼が館へ入せ給ふ。宮病者の伏たる所へ御入在て御加持あり。千手陀羅尼を二三反高らかに被遊て、御念珠を押揉ませ給ければ、病者自口走て、様々の事を云ける、誠に明王の縛に被掛たる体にて、足手を縮て戦き、五体に汗を流して、物怪則立去ぬれば、病者忽に平瘉す。主の夫不斜喜で、「我畜たる物候はねば、別の御引出物迄は叶候まじ。枉て十余日是に御逗留候て、御足を休めさせ給へ。例の山伏楚忽に忍で御逃候ぬと存候へば、恐ながら是を御質に玉らん。 |
その声が聞こえたので、玄尊はこれは願ってもない好機だと悟り、声を張り上げて「私たちは三重の滝に七日間打たれ修行し、那智山で千日籠もった後三十三所巡礼のために出発した山伏です。道に迷ってこの村へ来ました。どうか一晩の宿と食事をお恵みください」と言うと、家の中から怪しい感じの下女が出てきて「これは仏様のお導きでしょう!主人の妻が悪霊にとりつかれています。お祈りいただけませんか」と頼んだ。玄尊は「私たちでは力不足です。あちらの辻堂で休んでいらっしゃる先達(修行指導者)こそ、最も霊験あらたかな方です。事情を話せば協力してくださるでしょう」と答えると、女は大いに喜び「ではそのお方をこちらへお招きください」と言って狂喜した。玄尊が走り返りこのことを報告すると、親王をお連れし供の者全員が屋敷に入った。親王は病人の寝ている部屋で祈りの儀式を行い、千手陀羅尼を二・三度高声に唱えられて念珠を揉まれると、病人が突然「明王様の縛りにかかった!」と叫び手足を縮めて震え、全身汗だくになった。悪霊が去ると病人はたちまち回復した。主人である戸野兵衛はひどく喜んで「家畜すら持たない身でお礼もできませんが、どうか十数日ここに滞在され休養なさってください。もし山伏を装った逃亡者だと後から気づいても怖れ多く人質として私の子をお預けします」と言上した。 解説
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| 」とて、面々の笈共を取合て皆内にぞ置たりける。御供の人々、上には其気色を不顕といへ共、下には皆悦思へる事無限。角て十余日を過させ給けるに、或夜家主の兵衛尉、客殿に出て薪などせさせ、四方山の物語共しける次に申けるは、「旁は定て聞及ばせ給たる事も候覧。誠やらん、大塔宮、京都を落させ給て、熊野の方へ趣せ給候けんなる。三山の別当定遍僧都は無二武家方にて候へば、熊野辺に御忍あらん事は難成覚候。哀此里へ御入候へかし。所こそ分内は狭く候へ共、四方皆嶮岨にて十里二十里が中へは鳥も翔り難き所にて候。其上人の心不偽、弓矢を取事世に超たり。されば平家の嫡孫惟盛と申ける人も、我等が先祖を憑て此所に隠れ、遂に源氏の世に無恙候けるとこそ承候へ。」と語ければ、宮誠に嬉しげに思食たる御気色顕れて、「若大塔宮なんどの、此所へ御憑あて入せ給ひたらば、被憑させ給はんずるか。」と問せ給へば、戸野兵衛、「申にや及び候。身不肖に候へ共、某一人だに斯る事ぞと申さば、鹿瀬・蕪坂・湯浅・阿瀬川・小原・芋瀬・中津川・吉野十八郷の者迄も、手刺者候まじきにて候。」とぞ申ける。其時宮、木寺相摸にきと御目合有ければ、相摸此兵衛が側に居寄て、「今は何をか隠し可申、あの先達の御房こそ、大塔宮にて御坐あれ。 |
そう言って一行の荷物を取り上げ屋内へ納めたため、供の人々は表向き平静を装いながらも内心では喜びに満ちた。こうして十数日が過ぎたある夜、家主である戸野兵衛尉が客殿に出て焚き火をさせ世間話をする中で、「おそらくご存知でしょうが、大塔宮(護良親王)様が京都から落ち延び熊野へ向かわれたとか。しかし熊野三山の別当・定遍僧都は幕府側ですので身を潜めるのは難しいと聞きます。どうかこの里に来てほしいものです。土地こそ狭いですが四方が険しく十里二十里(約40-80km)先まで鳥さえ飛びにくい場所で、人の心も偽りなく武芸は世に優れています。平家の嫡孫・惟盛という方も先祖を頼ってここに隠れ源氏時代を無事過ごしたと伝わっています」と語ったため、親王は嬉しそうな表情を見せて「もし大塔宮がこの地へ逃れてきたら庇うか?」とお尋ねになった。戸野兵衛が「言うまでもありません!私一人だけではなく鹿瀬・蕪坂(かぶさか)・湯浅・阿瀬川(あぜがわ)・小原・芋瀬(いもせ)・中津川・吉野十八郷の者まで決して裏切りはしません」と答えると、親王が木寺相模に合図なさったため、相模は兵衛のそばへ寄り「もう隠す必要はありません。あの先達こそ大塔宮でいらっしゃいます」。 解説
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| 」と云ければ、此兵衛尚も不審気にて、彼此の顔をつく/゛\と守りけるに、片岡八郎・矢田彦七、「あら熱や。」とて、頭巾を脱で側に指置く。実の山伏ならねば、さかやきの迹隠なし。兵衛是を見て、「げにも山伏にては御座せざりけり。賢ぞ此事申出たりける。あな浅猿、此程の振舞さこそ尾篭に思召候つらん。」と以外に驚て、首を地に着手を束ね、畳より下に蹲踞せり。俄に黒木の御所を作て宮を守護し奉り、四方の山々に関を居、路を切塞で、用心密しくぞ見へたりける。是も猶大儀の計畧難叶とて、叔父竹原八郎入道に此由を語ければ、入道頓て戸野が語に随て、我館へ宮を入進らせ、無二の気色に見へければ、御心安く思召て、此に半年許御座有ける程に、人に被見知じと被思食ける御支度に、御還俗の体に成せ給ければ、竹原八郎入道が息女を、夜るのをとゞへ被召て御覚異他なり。さてこそ家主の入道も弥志を傾け、近辺の郷民共も次第に帰伏申たる由にて、却て武家をば褊しけり。去程に熊野の別当定遍此事を聞て、十津河へ寄せんずる事は、縦十万騎の勢ありとも不可叶。只其辺の郷民共の欲心を勧て、宮を他所へ帯き出し奉らんと相計て、道路の辻に札を書て立けるは、「大塔宮を奉討たらん者には、非職凡下を不云、伊勢の車間庄を恩賞に可被充行由を、関東の御教書有之。 |
そう言われても戸野兵衛はまだ疑わしげに見つめていたところ、片岡八郎と矢田彦七が「なんて暑いんだ」と言って頭巾を脱ぎ傍らに置いた。本物の山伏ではないため剃り跡(さかやき)が隠せない。兵衛はこれを見て「本当に山伏ではなかったのですね!よくぞ打ち明けてくださいました。この間のお振る舞い、実に失礼なこととお思いでしょう」と驚愕し地面に頭を付け手をついてひれ伏した。(一行は)急ぎ黒木で仮御所を作り親王をお守りし、周囲の山に関所を設け道を塞ぐなど警戒を厳重に行った。 それでも計画達成が難しいと判断され、(片岡八郎が)叔父の竹原八郎入道に事情を話したところ、入道はすぐ戸野兵衛の言葉を受け入れ自分の館へ親王をお迎えし忠誠を示したため、親王も安心なさった。ここで半年ほどお過ごしになるうち、人目につかないよう装うための措置として還俗(僧侶から一般人に戻る)のお姿になられた。(すると)竹原八郎入道の娘を夜伽(寝所の世話役)にお召しになり特別な寵愛をお示しになった。これにより館主である入道も一層忠誠心を持ち、近郷の人々も次第に帰順したため、むしろ幕府方への警戒が強まった。 やがて熊野の別当・定遍はこの件を知り「十津川へ攻め寄せるのは仮に十万騎の軍勢があっても不可能だ」と判断。ただ土地の人々の欲心を煽って親王をお連れ出しさせるべく、辻に次のような札を掲げた:「大塔宮を討ち取った者には身分低い者でも構わず伊勢国車間庄(くるまんしょう)を与える。関東(幕府)の公式命令により保障する」 解説
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| 其上に定遍先三日が中に六万貫を可与。御内伺候の人・御手の人を討たらん者には五百貫、降人に出たらん輩には三百貫、何れも其日の中に必沙汰し与べし。」と定て、奥に起請文の詞を載て、厳密の法をぞ出しける。夫移木の信は為堅約、献芹の賂は為奪志なれば、欲心強盛の八庄司共此札を見てければ、いつしか心変じ色替て、奇しき振舞共にぞ聞へける。宮「角ては此所の御止住、始終悪かりなん。吉野の方へも御出あらばや。」と被仰けるを、竹原入道、「如何なる事や候べき。」と強て留申ければ、彼が心を破られん事も、さすがに叶はせ給はで、恐懼の中に月日を送らせ給ける。結句竹原入道が子共さへ、父が命を背て、宮を討奉らんとする企在と聞しかば、宮潛に十津河も出させ給て、高野の方へぞ趣かせ給ひける。其路、小原・芋瀬・中津河と云敵陣の難所を経て通る路なれば、中々敵を打憑て見ばやと被思召、先芋瀬の庄司が許へ入せ給ひけり。芋瀬、宮をば我館へ入進らせずして、側なる御堂に置奉り、使者を以て申けるは、「三山別当定遍武命を含で、隠謀与党の輩をば、関東へ注進仕る事にて候へば、此道より無左右通し進らせん事、後の罪科陳謝するに不可有拠候、乍去宮を留進らせん事は其恐候へば、御伴の人々の中に名字さりぬべからんずる人を一両人賜て、武家へ召渡候歟、不然ば御紋の旗を給て、合戦仕て候つる支証是にて候と、武家へ可申にて候。 |
その上に定遍は「三日以内に六万貫を与える。親王付きの側近や警護役を討った者は五百貫、投降者が出た場合は三百貫とし、必ず当日中に支払う」と約束し、末尾には誓約書を添えて厳重な法令を発布した。噂は真実のように広まり、わずかな賄賂が人心を奪うため、欲深い八人の庄司(在地領主)たちはこの札を見るや態度を一変させ、奇妙な動きを見せ始めた。 親王が「こうなってはここに滞在し続けるのも危険だ。吉野の方へ移ろう」とおっしゃると、竹原入道が「どうかご遠慮ください」と強く引き留めたため、彼の心情を無下にもできず、不安の中で月日をお過ごしになられた。結局は竹原入道自身の子供たちまでも父の命令に背き親王討伐を企てているとの噂が流れたので、親王は密かに十津川を脱出され高野山へ向かわれた。 その途上、小原・芋瀬(いもせ)・中津河という敵方の要害を通る道であったため、「むしろ敵に戦いを挑みたい」とお考えになり、まず芋瀬庄司のもとへ赴かれた。ところが芋瀬は親王を館には招き入れず傍らの御堂に安置し、使者を使ってこう申し上げた:「熊野三山の別当・定遍様が幕府の命を受け謀反人の同類を通報することになっておりますので、この道から無理にお通しすれば後日の処罰を免れません。とはいえ親王をお引き留めするのも恐ろしいゆえ――御供の中から名のある者一両人をお預かり下され幕府へ引渡すか、さもなくば御紋の旗(天皇方証拠)をご提供ください。これで『合戦した証明』として幕府に報告いたします」 解説
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| 此二つの間、何れも叶まじきとの御意にて候はゞ、無力一矢仕らんずるにて候。」と、誠に又予儀もなげにぞ申入たりける。宮は此事何れも難議也。と思召て、敢御返事も無りけるを、赤松律師則祐進み出て申けるは、「危きを見て命を致すは士卒の守る所に候。されば紀信は詐て敵に降り、魏豹は留て城を守る。是皆主の命に代りて、名を留めし者にて候はずや。兎ても角ても彼が所存解て、御所を通し可進にてだに候はゞ、則祐御大事に代て罷出候はん事は、子細有まじきにて候。」と申せば、平賀三郎是を聞て、「末坐の意見卒尓の議にて候へ共、此艱苦の中に付纏奉りたる人は、雖一人上の御為には、股肱耳目よりも難捨被思召候べし。就中芋瀬庄司が申所、げにも難被黙止候へば、其安きに就て御旗許を被下候はんに、何の煩か候べき。戦場に馬・物具を捨、太刀・刀を落して敵に被取事、さまでの恥ならず。只彼が申請る旨に任て、御旗を被下候へかし。」と申ければ、宮げにもと思召て、月日を金銀にて打て着たる錦の御旗を、芋瀬庄司にぞ被下ける。角て宮は遥に行過させ給ぬ。暫有て村上彦四郎義光、遥の迹にさがり、宮に追着進せんと急けるに、芋瀬庄司無端道にて行合ぬ。芋瀬が下人に持せたる旗を見れば、宮の御旗也。 |
芋瀬庄司はさらに言った:「この二つの条件(人質か御旗の提供)どちらも受け入れられないのでしたら、無力ながら一矢報いて戦う覚悟です」と、実に傲慢な申し出をした。親王はこれがいずれも難しい問題だとお考えになり、返答すらされなかったところ、赤松律師則祐が進み出て訴えた:「危険を見て命を捧げるのは武士の守るべき道です。昔、紀信(中国前漢)は偽って敵に降り、魏豹(古代中国)は留まって城を守った。これらは皆、主君のために代わりに死んで名を残した者ではありませんか。どうあれ彼(芋瀬)の意向を受け入れ御所を通して頂けるならば、則祐が身代わりに出向くことは何の問題もありません」。 これを聞いた平賀三郎が言うには:「末席の発言(赤松)は軽率ですが、この苦難の中で付き従った者を失うのは主君にとって手足や耳目以上に惜しいことでしょう。芋瀬庄司の申し出黙認も困難ならば、安全策として御旗をお渡しになられてはいかがでしょうか?戦場で馬や武具を捨て刀を奪われるより恥ずかしくありません」。親王は「なるほど」と納得され、金銀糸で日月を刺繍した錦の御旗を芋瀬庄司に渡された。こうして親王一行は先へ通り過ぎられたが、しばらくして村上彦四郎義光が後方から追いかけてきたところ、偶然にも道端で芋瀬と遭遇する。芋瀬の従者が持つ旗を見ると——それはまさしく親王の御旗であった。 解説
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| 村上怪て事の様を問に、尓々の由を語る。村上、「こはそも何事ぞや。忝も四海の主にて御坐す天子の御子の、朝敵御追罰の為に、御門出ある路次に参り合て、汝等程の大凡下の奴原が、左様の事可仕様やある。」と云て、則御旗を引奪て取、剰旗持たる芋瀬が下人の大の男を掴で、四五丈許ぞ抛たりける。其怪力無比類にや怖たりけん。芋瀬庄司一言の返事もせざりければ、村上自御旗を肩に懸て、無程宮に〔奉〕追着。義光御前に跪て此様を申ければ、宮誠に嬉しげに打笑はせ給て、「則祐が忠は孟施舎が義を守り、平賀が智は陳丞相が謀を得、義光が勇は北宮黝が勢を凌げり。此三傑を以て、我盍治天下哉。」と被仰けるぞ忝き。其夜は椎柴垣の隙あらはなる山がつの庵に、御枕を傾けさせ給て、明れば小原へと志て、薪負たる山人の行逢たるに、道の様を御尋有けるに、心なき樵夫迄も、さすが見知進せてや在けん、薪を下し地に跪て、「是より小原へ御通り候はん道には、玉木庄司殿とて、無弐の武家方の人をはしまし候。此人を御語ひ候はでは、いくらの大勢にても其前をば御通り候ぬと不覚候。恐ある申事にて候へ共、先づ人を一二人御使に被遣候て、彼人の所存をも被聞召候へかし。」とぞ申ける。宮つく/゛\と聞召て、「芻蕘の詞迄も不捨」と云は是也。 |
村上は怪しんで事情を尋ねると、芋瀬が事の次第を話した。すると村上が「これは何事だ!尊い四海の主である天皇の御子が朝敵討伐のためにご出陣なさる道中に、お前たちのような下賤の者どもがこのような真似をするとは!」と言い放ち、すぐさま御旗を奪い取ると、さらに旗を持っていた芋瀬の下男(大柄な男)をつかみ、四丈五尺ほど投げ飛ばした。その怪力は比類なく、芋瀬庄司も恐れたのか一言の返答もしなかった。 村上は自ら御旗を肩にかけ、間もなく親王に追いついた。義光がひざまずいてこの様子を報告すると、親王は実に嬉しそうにお笑いになり、「則祐の忠義は孟施舎(中国春秋時代の勇士)の信義を守り、平賀の知略は陳丞相(前漢・陳平)の謀略を得ており、義光の勇猛さは北宮黝(古代中国の勇士)をも凌いでいる。この三人の傑物がいれば天下が治まらないはずがあろうか」とおっしゃられたのは何とも光栄なことであった。 その夜は椎柴垣に隙間だらけの山小屋で枕を傾けて休まれ、翌朝小原へ向かわれた。薪を背負った樵に出会い道筋をお尋ねになると、無心な樵までもが事情を知っていたのか、薪を下ろして地面にひざまずき、「ここから小原にお通りになる途中には玉木庄司様という幕府方の忠実な人物がいらっしゃいます。この方を味方につけなければ、いかに大軍であってもその前を通るのは不可能でしょう。恐れ多いことではありますが、どうか先に使者を一二人お遣わしになって、あの方のお考えをお聞きください」と申し上げた。 親王はじっくりとこれを聞かれ、「身分の低い者の言葉も捨てないということだな(『戦国策』引用)」と言われたのは正にこのことであった。 解説
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| げにも樵夫が申処さもと覚るぞ。」とて、片岡八郎・矢田彦七二人を、玉置庄司が許へ被遣て、「此道を御通り有べし、道の警固に、木戸を開き、逆茂木を引のけさせよ。」とぞ被仰ける。玉置庄司御使に出合て、事の由を聞て、無返事にて内へ入けるが、軈て若党・中間共に物具させ、馬に鞍置、事の体躁しげに見へければ、二人の御使、「いや/\此事叶ふまじかりけり。さらば急ぎ走帰て、此由を申さん。」とて、足早に帰れば、玉置が若党共五六十人、取太刀許にて追懸たり。二人の者立留り、小松の二三本ありける陰より跳出で、真前に進だる武者の馬の諸膝薙で刎落させ、返す太刀にて頚打落して、仰たる太刀を押直してぞ立たりける。迹に続て追ける者共も、是を見て敢て近付者一人もなし、只遠矢に射すくめけれ、片岡八郎矢二筋被射付て、今は助り難と思ければ、「や殿、矢田殿、我はとても手負たれば、此にて打死せんずるぞ。御辺は急ぎ宮の御方へ走参て、此由を申て、一まども落し進せよ。」と、再往強て云ければ、矢田も一所にて打死せんと思けれども、げにも宮に告申さゞらんは、却て不忠なるべければ、無力只今打死する傍輩を見捨て帰りける心の中、被推量て哀也。矢田遥に行延て跡を顧れば、片岡八郎はや被討ぬと見へて、頚を太刀の鋒に貫て持たる人あり。 |
親王が「確かに樵の言った通りだな」と言われて、片岡八郎と矢田彦七の二人を玉置庄司のもとに遣わし、「この道を通るので警備のために木戸を開かせ逆茂木(障害物)を取り除かせよ」とお命じになった。 解説
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| 矢田急ぎ走帰て此由を宮に申ければ、「さては遁れぬ道に行迫りぬ。運の窮達歎くに無詞。」とて、御伴の人々に至まで中々騒ぐ気色ぞ無りける。さればとて此に可留に非ず、行れんずる所まで行やとて、上下三十余人の兵共、宮を前に立進せて問々山路をぞ越行ける。既に中津河の峠を越んとし給ける所に、向の山の両の峯に玉置が勢と覚て、五六百人が程混冑に鎧て、楯を前に進め射手を左右へ分て、時の声をぞ揚たりける。宮是を御覧じて、玉顔殊に儼に打笑ませ給て、御手の者共に向て、「矢種の在んずる程は防矢を射よ、心静に自害して名を万代に可貽。但各相構て、吾より先に腹切事不可有。吾已に自害せば、面の皮を剥耳鼻を切て、誰が首とも見へぬ様にし成て捨べし。其故は我首を若獄門に懸て被曝なば、天下に御方の志を存ぜん者は力を失ひ、武家は弥所恐なかるべし。「死せる孔明生る仲達を走らしむ」と云事あり。されば死して後までも、威を天下に残すを以て良将とせり。今はとても遁れぬ所ぞ、相構て人々きたなびれて、敵に笑はるな。」と被仰ければ、御供の兵共、「何故か、きたなびれ候べき。」と申て、御前に立て、敵の大勢にて責上りける坂中の辺まで下向ふ。其勢僅三十二人、是皆一騎当千の兵とはいへ共、敵五百余騎に打合て、可戦様は無りけり。 |
矢田彦七が急いで走り戻ってこのことを親王に報告すると、「どうやら逃れられぬ道に行き詰まったな。運命の極まりを嘆いても仕方あるまい」と述べられたが、供の人々まで含め騒ぐ様子は全くなかった。「とはいえここで留まるわけにはいくまい。行けるところまで進むのだ」と言って、主従三十余人の兵士たちは親王を先頭に立たせながら山道を越えて行った。 ちょうど中津河(現・奈良県吉野川)の峠を越えようとした時、向かいの両峰に玉置庄司軍と思しき五~六百人ほどの兵が甲冑に身を固め、盾を前方に出して射手を左右に分けながら鬨の声(ときのこえ:戦いの雄叫び)を上げた。親王はこれを見て御顔に厳かな微笑みを浮かべられ、従う者たちに向けて言われた。「矢が尽きるまでは防ぎつつ射よ。心静かに自害して名を後世へ残せ。ただし皆よく覚えておけ——我より先に腹を切ってはならぬ。私が死んだら顔の皮を剥いで耳鼻を切り落とし、誰とも分からぬように捨て置くのだ。なぜならもし首が獄門(晒し台)にかけられれば、朝廷のために戦おうとする者は力を失い幕府は一層恐れなくなるだろう。」 「死せる孔明生る仲達を走らす」という故事がある通り、死して後も威厳を天下に残すのが良将というものだ。今や逃げ場はないのだから皆しっかりせよ——醜態を見せて敵の笑い者になるな。」とおっしゃると、供の兵たちは「どうして我々がみだりがましい所業をしましょうか」と言って親王の前に立ち塞がり、大軍で迫りくる坂道の中腹へ向けて降りていった。その数わずか三十二人——皆一騎当千(一人で千人に匹敵)とはいえ、五百余騎もの敵と戦える状況ではなかった。 解説
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| 寄手は楯を雌羽につきしとうてかづき襄り、防ぐ兵は打物の鞘をはづして相懸りに近付所に、北の峯より赤旗三流、松の嵐に翻して、其勢六七百騎が程懸出たり。其勢次第に近付侭、三手に分て時の声を揚て、玉置庄司に相向ふ。真前に進だる武者大音声を揚て、「紀伊国の住人野長瀬六郎・同七郎、其勢三千余騎にて大塔宮の御迎に参る所に、忝も此君に対ひ進せて、弓を控楯を列ぬる人は誰ぞや。玉置庄司殿と見るは僻目か、只今可滅武家の逆命に随て、即時に運を開かせ可給親王に敵対申ては、一天下の間何の処にか身を置んと思ふ。天罰不遠から、是を鎮ん事我等が一戦の内にあり。余すな漏すな。」と、をめき叫でぞ懸りける。是を見て玉置が勢五百余騎、叶はじとや思けん、楯を捨旗を巻て、忽に四角八方へ逃散ず。其後野長瀬兄弟、甲を脱ぎ弓を脇に挟て遥に畏る。宮の御前近く被召て、「山中の為体、大儀の計略難叶かるべき間、大和・河内の方へ打出て勢を付ん為、令進発之処に、玉置庄司只今の挙動、当手の兵万死の内に一生をも得難しと覚つるに、不慮の扶に逢事天運尚憑あるに似たり。抑此事何として存知たりければ、此戦場に馳合て、逆徒の大軍をば靡ぬるぞ。」と御尋有ければ、野長瀬畏て申けるは、「昨日の昼程に、年十四五許に候し童の、名をば老松といへり〔と〕名乗て、「大塔宮明日十津河を御出有て、小原へ御通りあらんずるが、一定道にて難に逢はせ給ぬと覚るぞ、志を存ぜん人は急ぎ御迎に参れ」と触廻り候つる間、御使ぞと心得て参て候。 |
攻め寄せる敵軍は盾を脇に抱え直し身構え、防戦する親王の兵たちは刀の鞘を外して応戦しようと間合いを詰めたまさにその時、北の峰から赤旗三本が松林を吹き抜ける風になびく中、六~七百騎ほどの軍勢が現れた。この軍勢は徐々に接近すると三手に分かれ鬨の声(ときのこえ)を上げて玉置庄司隊に対峙した。 先頭を行く武者が大声で叫んだ。「紀伊国の住人、野長瀬六郎・七郎だ!三千余騎を率いて大塔宮御一行をお迎えに参った。畏れ多いこの君(親王)に向かって弓を控え盾を並べている者は誰か?玉置庄殿と見るのは目違いか?今まさに滅ぼすべき武家の反逆命令に従い、すぐにも天下をお開きにならんとする親王に対抗するとは――この広い世の中に身の置き所があると思うのか?天罰は遠くないぞ。これを鎮めるのは我々との一戦にかかっている!一人残らず討ち取れ!」と叫びながら襲い掛かった。 これを見た玉置軍五百余騎は勝ち目なしと思ったか、盾を捨て旗を巻き上げあっという間に四方八方へ散り散りに逃げ去った。その後野長瀬兄弟は兜を脱ぎ弓を脇に挟んで恭しく控えた。 親王が近くにお呼びになって仰せになった。「山奥での戦況は作戦もままならず、やむなく大和・河内方面へ進出して兵力を集めようとしていたところだ。玉置庄司の今度の動きでは我ら兵士たちが万死に一生を得るのは難しいかと思っていたのに、思いがけぬ助勢に遭うとは天運なお頼もしいことよ。そもそもお前たちはどうしてこのことを知り、戦場へ駆けつけて逆賊の大軍を追い散らしたのか?」 野長瀬兄弟が畏まって申し上げた。「昨日昼頃のことです。十四、五歳ほどの少年で老松と名乗る者が『大塔宮様は明日十津川(現・奈良県吉野郡)をお立ちになり小原を通られるはずだが、きっと道中で災難にお遭いになるだろう。志を持つ者は急ぎお迎えに参れ』と言って触れ回っていましたので、御使いと心得て駆けつけた次第です」。 解説
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| 」とぞ申ける。宮此事を御思案あるに、直事に非ずと思食合せて、年来御身を放されざりし膚の御守を御覧ずるに、其口少し開たりける間、弥怪しく思食て、則開被御覧ければ、北野天神の御神体を金銅にて被鋳進たる其御眷属、老松の明神の御神体、遍身より汗かいて、御足に土の付たるぞ不思議なる。「さては佳運神慮に叶へり、逆徒の退治何の疑か可有。」とて、其より宮は、槙野上野房聖賢が拵たる、槙野の城へ御入ありけるが、此も尚分内狭くて可悪ると御思案ありて、吉野の大衆を語はせ給て、安善宝塔を城郭に構へ、岩切通す吉野河を前に当て、三千余騎を随へて楯篭らせ給けるとぞ聞へし。 |
そう申し上げた。親王はこのことをお考えになり、ただごとではないと思われて、長年肌身離さず持っていた守り袋をご覧になると、その口が少し開いていたのでますます怪しく思い、すぐに開けて御覧になったところ、北野天満宮の御神体を金銅で鋳造したもの(菅原道真公像)とその眷属である老松明神の御神体があり、全身から汗をかき足には土が付いているのが不思議だった。「これはよい運勢が神意に叶ったのだ。逆賊退治に何の疑いがあろうか」と言って、その後親王は槙野上野房聖賢が整えた槙野城へお入りになったが、ここもやはり範囲が狭くて良くないとお考えになり、吉野寺社勢力を説得してお集めになって、安善宝塔(現・奈良県吉野山の仏塔)を城郭として構築し、岩壁を切り開いて流れる吉野川を前に置き、三千余騎をお従えにして籠城なさったという。 解説
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| input text 太平記\006_太平記_巻6.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第六 ○民部卿三位局御夢想事 夫年光不停如奔箭下流水、哀楽互替似紅栄黄落樹。尓れば此世中の有様、只夢とやいはん幻とやいはん。憂喜共に感ずれば、袂の露を催す事雖不始今、去年九月に笠置城破れて、先帝隠岐国へ被遷させ給し後は、百司の旧臣悲を抱て所々に篭居し、三千の宮女涙を流して面々に臥沈給ふ有様、誠に憂世の中の習と云ながら、殊更哀に聞へしは、民部卿三位殿御局にて留たり。其を如何にと申に、先朝の御寵愛不浅上、大塔の宮御母堂にて渡せ給しかば、傍への女御・后は、花の側の深山木の色香も無が如く〔也〕。而るを世間静ならざりし後は、万づ引替たる九重の内の御住居も不定、荒のみ増る浪の上に、舟流したる海士の心地して、寄る方もなき御思の上に打添て、君は西海の帰らぬ波に浮沈み、泪無隙御袖の気色と承りしかば、空傾思於万里之暁月、宮は又南山の道なき雲に踏迷はせ給て、狂浮たる御住居と聞ゆれど、難託書於三春之暮雁。云彼云此一方ならぬ御歎に、青糸の髪疎にして、いつの間に老は来ぬらんと被怪、紅玉膚消て、今日を限の命共がなと思召ける御悲の遣方なさに、年来の御祈の師とて、御誦経・御撫物なんど奉りける、北野の社僧の坊に御坐して、一七日参篭の御志ある由を被仰ければ、此折節武家の聞も無憚には非ねども、日来の御恩も重く、今程の御有様も御痛しければ、無情は如何と思て、拝殿の傍に僅なる一間を拵て、尋常の青女房なんどの参篭したる由にて置奉りけり。 |
太平記巻第六「民部卿三位局御夢想事」 時は止まることなく流れ去り、あたかも飛ぶ矢や下る水のようである。喜びと悲しみは互いに移ろい、紅葉が栄え黄葉が散る木々に似ている。この世の中の様子を夢と言おうか幻と言おうか。嘆きと喜び共に感じると袖に露(涙)を催すことは今に始まったことではないが、去る九月に笠置城が落ちて後醍醐天皇が隠岐国へお移りになられた後は、朝廷の旧臣たちは悲しみを抱えて各地に籠もり、宮中の女官たちは涙を流してそれぞれ床に伏している様子は、まことに憂き世ならではとは言え、特に哀れだったのは民部卿三位殿(大塔宮護良親王生母)が局でお過ごしになっていたことである。 これはなぜかと言えば、先帝(後醍醐天皇)からの御寵愛が深く、また大塔の宮(護良親王)の実母として尊重されていたため、側にいた他の女御や后たちは花のそばにある深山の木のように色香もない存在であった。しかし世情が騒がしくなってからはすべてが一変し、深い宮中での住まいも定まらず荒れる海で小舟を流す漁夫のような心地になっておられた。頼るあてもない御心痛に加えて、天皇は西の海(隠岐)で帰らぬ波にもまれていると聞き涙が絶えないご様子であることを伺ったので、(三位殿は)万里のかなたにある暁月を仰いでは空しく思い嘆かれた。一方宮(護良親王)もまた南山の道なき雲に踏み迷っておられ、定まらぬ御住居と聞くが春の渡り鳥にも便りを託せない。 あれこれと思い悩む両方からの悲嘆で黒髪は乱れて「いつ老いは来たのか」と驚かれ、紅玉のような肌も衰え「今日限りの命か」とお思いになる御悲痛の様子に、長年信仰されてきた祈願の師である北野神社の社僧のもとに参籠し七日間の読経や撫物(護摩祈祷)を捧げたいと申されると、この時期武家(幕府方)の監視が厳しい中ではあったものの、長年の御恩も重く今のお姿を見るに忍びず無情にもできぬと思い、拝殿わきに狭い一室を設けて「普通の高級女官たちの参籠」と偽ってお許し申したのである。 解説
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| 哀古へならば、錦帳に妝を篭、紗窓に艶を閉て、左右の侍女其数を不知、当りを輝て仮傅奉べきに、いつしか引替たる御忍の物篭なれば、都近けれ共事問かわす人もなし。只一夜松の嵐に御夢を被覚、主忘れぬ梅が香に、昔の春を思召出すにも、昌泰の年の末に荒人神と成せ玉ひし、心づくしの御旅宿までも、今は君の御思に擬へ、又は御身の歎に被思召知たる、哀の色の数々に、御念誦を暫被止て、御涙の内にかくばかり、忘ずは神も哀れと思しれ心づくしの古への旅と遊て、少し御目睡有ける其夜の御夢に、衣冠正しくしたる老翁の、年八十有余なるが、左の手に梅の花を一枝持、右の手に鳩の杖をつき、最苦しげなる体にて、御局の臥給たる枕の辺に立給へり。御夢心地に思召けるは、篠の小篠の一節も、可問人も覚ぬ都の外の蓬生に、怪しや誰人の道蹈迷へるやすらひぞやと御尋有ければ、此老翁世に哀なる気色にて、云ひ出せる詞は無て、持たる梅花を御前に指置て立帰けり。不思議やと思召て御覧ずれば、一首の歌を短冊にかけり。廻りきて遂にすむべき月影のしばし陰を何歎くらん御夢覚て歌の心を案じ給に、君遂に還幸成て雲の上に住ませ可給瑞夢也。と、憑敷思召けり。誠に彼聖廟と申奉るは、大慈大悲の本地、天満天神の垂迹にて渡らせ給へば、一度歩を運ぶ人、二世の悉地を成就し、僅に御名を唱る輩、万事の所願を満足す。 |
昔を懐かしく思えば、錦の帳で装いを隠し、紗窓に艶やかさを閉ざして、周囲の侍女も数知れず輝くばかりにお世話申し上げるべき立場であったのに、いつしか様変わりした御身分ゆえ都近くとも尋ね来る者もない。ただ一夜松風が夢を覚まされると主君(後醍醐天皇)忘れぬ梅の香りに昔の春をお思い出しになるにつけても、昌泰年間末(901年菅原道真左遷事件)に荒々しい神となられた天神様の故事さえもが、今は帝への思慕と自身の嘆きに重なってお感じになり、哀れ深い気持ちばかり募り御念誦をしばらく止めて涙にくれる中「これほど懇ろにお祈りすれば神も憐れんでくださるだろう」との思いで古(いにしえ)の天神様の旅路に心遊ばせ、うとうとされたその夜の夢の中に衣冠を正した老翁が現れた。八十歳余りのこの老人は左手に梅の枝を持ち右手には鳩杖をつき、非常に苦しそうな様子で御局(三位殿)のお寝所の枕元に立たれている。 夢心地の中でお思いになられたのは「都から遠く離れた草深い庵にまして怪しいことよ、誰が道に迷ってここへ」と尋ねると老翁は世にも哀れな表情で言葉も発せず持っていた梅の花を御前に差し出して立ち去った。不思議に思われてご覧になれば一首の歌が短冊にかかれていた。「巡り来てやがて晴れるべき月影の 一時(いっとき)の陰を何嘆くらむ」夢から覚めてこの歌の意味をお考えになるうち「帝は必ず還幸なさって皇居にお戻りになられる吉兆だ」と深く確信された。誠に北野聖廟と申し上げるのは大慈大悲(観音菩薩)を本地とする天満天神が顕現したお方ゆえ、一度参詣する者は二世の願い成就しわずかに御名を唱える者さえ万般の望み叶うのである。 解説
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| 況乎千行万行の紅涙を滴尽て、七日七夜の丹誠を致させ給へば、懇誠暗に通じて感応忽に告あり。世既澆季に雖及、信心誠ある時は霊艦新なりと、弥憑敷ぞ思食ける。 ○楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事 元弘二年三月五日、左近将監時益、越後守仲時、両六波羅に被補て、関東より上洛す。此三四年は、常葉駿河守範貞一人として、両六波羅の成敗を司て在しが、堅く辞し申けるに依てとぞ聞へし。楠兵衛正成は、去年赤坂の城にて自害して、焼死たる真似をして落たりしを、実と心得て、武家より、其跡に湯浅孫六入道定仏を地頭に居置たりければ、今は河内国に於ては殊なる事あらじと、心安く思ける処に、同四月三日楠五百余騎を率して、俄に湯浅が城へ押寄て、息をも不継責戦ふ。城中に兵粮の用意乏しかりけるにや、湯浅が所領紀伊国の阿瀬河より、人夫五六百人に兵粮を持せて、夜中に城へ入んとする由を、楠風聞て、兵を道の切所へ差遣、悉是を奪取て其俵に物具を入替て、馬に負せ人夫に持せて、兵を二三百人兵士の様に出立せて、城中へ入んとす。楠が勢是を追散さんとする真似をして、追つ返つ同士軍をぞしたりける。湯浅入道是を見て、我兵粮入るゝ兵共が、楠が勢と戦ふぞと心得て、城中より打て出で、そゞろなる敵の兵共を城中へぞ引入ける。 |
ましてや数え切れないほどの血のような涙を流し尽くし、七日七夜にわたり真心込めてお祈りなさったので、誠意がひそかに通じて神の応答が突然現れた。世の中はすでに末法の時代ではあるけれども信心が真実あれば霊験は新たに示されるのだと、いよいよ深く確信された。 (小見出し)楠木が天王寺に出陣した件、および隅田の高橋と宇都宮のこと 解説
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| 楠が勢共思の侭に城中に入すまして、俵の中より物具共取出し、ひし/\と堅めて、則時の声をぞ揚たりける。城の外の勢、同時に木戸を破り、屏を越て責入ける間、湯浅入道内外の敵に取篭られて、可戦様も無りければ、忽に頚を伸て降人に出づ。楠其勢を合せて、七百余騎にて和泉・河内の両国を靡けて、大勢に成ければ、五月十七日に先住吉・天王寺辺へ打て出で、渡部の橋より南に陣を取る。然間和泉・河内の早馬敷並を打、楠已に京都へ責上る由告ければ、洛中の騒動不斜。武士東西に馳散りて貴賎上下周章事窮りなし。斯りければ両六波羅には畿内近国の勢如雲霞の馳集て、楠今や責上ると待けれ共、敢て其義もなければ、聞にも不似、楠小勢にてぞ有覧、此方より押寄て打散せとて、隅田・高橋を両六波羅の軍奉行として、四十八箇所の篝、並に在京人、畿内近国の勢を合せて、天王寺へ被指向。其勢都合五千余騎、同二十日京都を立て、尼崎・神崎・柱松の辺に陣を取て、遠篝を焼て其夜を遅しと待明す。楠是を聞て、二千余騎を三手に分け、宗との勢をば住吉・天王寺に隠て、僅に三百騎許を渡部の橋の南に磬させ、大篝二三箇所に焼せて相向へり。是は態と敵に橋を渡させて、水の深みに追はめ、雌雄を一時に決せんが為と也。 |
楠木軍は思いのまま城内へ入り込み、俵の中から武具を取り出し次々と身につけ固めると、すぐさま鬨の声を上げた。城外の勢力も同時に城門を破り塀を越えて攻め込んだため、湯浅入道は内外で敵に包囲され戦う余地もなくなり、たちまち降伏して従属する者となった。楠木はこの兵力を合わせ七百余騎となり和泉・河内両国を平定した結果大軍になったので、五月十七日にまず住吉や天王寺付近へ進出し渡部橋の南に陣を構えた。すると和泉と河内から早馬が次々駆けつけ「楠木はすでに京都へ攻め上る」と報告したため都中は大混乱となった。武士たちは東西へ散り散りに走り貴賎上下問わず慌てふためき収拾がつかない状況だった。こうなると両六波羅探題には畿内近国の兵力が雲霞のように集結し「楠木は今にも攻め上るだろう」と警戒したものの実際その動きもなく噂とは食い違っていた(楠木軍は少数勢力であったため)。そこで逆に自ら押し寄せて打ち破ろうとして隅田・高橋を両六波羅の軍事指揮官に任命、四十八箇所のかがり火と在京者及び畿内近国の兵を合わせ天王寺へ向かわせた。その兵力は総勢五千余騎で同月二十日に京都を出発し尼崎・神崎・柱松付近に陣取り遠方にかがり火を焚き夜明けを待った。楠木はこれを聞くと二千余騎を三手に分け主力部隊は住吉と天王寺に潜伏させ、わずか三百騎ほどを渡部橋の南で休ませ大規模な篝火を二、三箇所で焚いて対峙したのである。これは意図的に敵軍に橋を渡らせ水深のある地点へ追い込み一挙に決着をつけるための策であった。 解説
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| 去程に明れば五月二十一日に、六波羅の勢五千余騎、所々の陣を一所に合せ、渡部の橋まで打臨で、河向に引へたる敵の勢を見渡せば、僅に二三百騎には不過、剰痩たる馬に縄手綱懸たる体の武者共也。隅田・高橋是を見て、さればこそ和泉・河内の勢の分際、さこそ有らめと思ふに合せて、はか/゛\しき敵は一人も無りけり。此奴原一々に召捕て六条河原に切懸て、六波羅殿の御感に預らんと云侭に、隅田・高橋人交もせず橋より下を一文字にぞ渡ける。五千余騎の兵共是を見て、我先にと馬を進めて、或は橋の上を歩ませ或は河瀬を渡して、向の岸に懸驤る。楠勢是を見て、遠矢少々射捨て、一戦もせず天王寺の方へ引退く。六波羅の勢是を見て、勝に乗り、人馬の息をも不継せ、天王寺の北の在家まで、揉に揉でぞ追たりける。楠思程敵の人馬を疲らかして、二千騎を三手に分て、一手は天王寺の東より敵を弓手に請て懸出づ。一手は西門の石の鳥居より魚鱗懸に懸出づ。一手は住吉の松陰より懸出で、鶴翼に立て開合す。六波羅の勢を見合すれば、対揚すべき迄もなき大勢なりけれ共、陣の張様しどろにて、却て小勢に囲れぬべくぞ見へたりける。隅田・高橋是を見て、「敵後ろに大勢を陰してたばかりけるぞ。此辺は馬の足立悪して叶はじ。 |
夜が明けると五月二十一日、六波羅勢五千余騎は各陣地の兵を集結させ渡部橋まで進軍し対岸へ退いた敵軍を見渡したところ、わずか二三百騎に満たず、痩せ細った馬に縄で作った手綱をつけたようなみすぼらしい武者たちであった。隅田と高橋はこれを見て「なるほど和泉・河内の勢力などこの程度だろう」と考えていた通り、頼りになる敵兵は一人もいなかった。「こいつらを一匹残らず捕まえ六条河原で晒し首にすれば、六波羅殿から褒賞を受けるぞ」と言うが早いか隅田と高橋は誰にも指示せず真っ直ぐ橋を渡り始めた。五千余騎の兵たちもこれを見て我先にと馬を進め、ある者は橋上を行軍しある者は浅瀬を渡って対岸に殺到した。楠木勢はこれを遠矢で少し射かけ一戦も交えず天王寺方面へ撤退する。六波羅勢はこれを見て勝利に乗じ兵士や馬の休息すら許さず、天王寺北側の民家群まで押し合いながら追撃した。楠木はちょうど敵の人馬を疲弊させた頃合いと見て二千騎を三手に分け一手は天王寺東側から弓攻勢で進撃し、二手は西門の石鳥居付近から魚鱗陣形で押し出し、三手目は住吉松林陰より鶴翼の陣形で展開した。六波羅軍が互いに見渡すと敵兵数は圧倒的に劣っていたものの布陣が乱れており反対に少数兵力に包囲されそうに見えた。隅田と高橋はこれを見て「敵は後方に大軍を潜ませた罠だ!この地形では馬足も立たず不利である」と言った。 解説
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| 広みへ敵を帯き出し、勢の分際を見計ふて、懸合々々勝負を決せよ。」と、下知しければ、五千余騎の兵共、敵に後ろを被切ぬ先にと、渡部の橋を指て引退く。楠が勢是に利を得て、三方より勝時を作て追懸くる。橋近く成ければ、隅田・高橋是を見て、「敵は大勢にては無りけるぞ、此にて不返合大河後ろに在て悪かりぬべし。返せや兵共。」と、馬の足を立直し/\下知しけれども、大勢の引立たる事なれば、一返も不返、只我先にと橋の危をも不云、馳集りける間、人馬共に被推落て、水に溺るゝ者不知数、或淵瀬をも不知渡し懸て死ぬる者も有り、或は岸より馬を馳倒て其侭被討者も有。只馬・物具を脱捨て、逃延んとする者は有れ共、返合せて戦はんとする者は無りけり。而れば五千余騎の兵共、残少なに被打成て這々京へぞ上りける。其翌日に何者か仕たりけん、六条河原に高札を立て一首の歌をぞ書たりける。渡部の水いか許早ければ高橋落て隅田流るらん京童の僻なれば、此落書を歌に作て歌ひ、或は語伝て笑ひける間、隅田・高橋面目を失ひ、且は出仕を逗め、虚病してぞ居たりける。両六波羅是を聞て、安からぬ事に被思ければ、重て寄せんと被議けり。其比京都余に無勢なりとて関東より被上たる宇都宮治部大輔を呼寄評定有けるは、「合戦の習ひ運に依て雌雄替る事古へより無に非ず。 |
「広い場所へ敵をおびき出し兵力を見極めてから戦おう」との命令を受けた五千余騎の兵士たちは、背後を断たれる前にと渡部橋目指して退却した。楠木勢はこの機に乗じ三方から攻勢に出て追撃する。橋が近づくと隅田・高橋は「敵は大軍ではない!ここで反撃せねば背後に大河があるのが災いだ。戻れ兵士たち!」と馬首を立て直そうとしたが、大軍が退却中なため誰も応じず我先にと危険な橋へ殺到した結果、人馬ともに押し落とされ水死する者数知れず、深みに嵌まって溺れる者や岸から転落して討たれる者も続出。装備を捨て逃げ延びる者はいても反撃する者はいなかった。こうして五千余騎はわずかな生き残りが京へ敗走した。翌日誰かが六条河原に立て札を設置し一首の歌を記す:「渡部川の流れよ急ぎたまえ 高橋落ちて隅田も沈む」と。京都の人々はこの皮肉な内容を歌い語り笑ったため、隅田・高橋は面目を失い出仕を止め仮病で引きこもった。両六波羅探題は事態を重く見て再攻撃を協議し、その際関東から上洛していた宇都宮治部大輔(公綱)を招き評定した:「合戦の成り行きが運次第となるのは古来珍しいことではない」と。 解説
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| 然共今度南方の軍負ぬる事、偏に将の計の拙に由れり。又士卒の臆病なるが故也。天下嘲哢口を塞ぐに所なし。就中に仲時罷上し後、重て御上洛の事は、凶徒若蜂起せば、御向ひ有て静謐候との為なり。今の如んば、敗軍の兵を駈集て何度むけて候とも、はか/゛\しき合戦しつ共不覚候。且は天下の一大事、此時にて候へば、御向候て御退治候へかし。」と宣ひければ、宇都宮辞退の気色無して被申けるは、「大軍已に利を失て後、小勢にて罷向候はん事、如何と存候へども、関東を罷出し始より、加様の御大事に逢て命を軽くせん事を存候き。今の時分、必しも合戦の勝負を見所にては候はねば、一人にて候共、先罷向て一合戦仕り、及難儀候はゞ、重御勢をこそ申候はめ。」と、誠に思定たる体に見へてぞ帰りける。宇都宮一人武命を含で大敵に向はん事、命を可惜に非ざりければ、態と宿所へも不帰、六波羅より直に、七月十九日午刻に都を出で、天王寺へぞ下りける。東寺辺までは主従僅に十四五騎が程とみへしが、洛中にあらゆる所の手者共馳加りける間、四塚・作道にては、五百余騎にぞ成にける。路次に行逢者をば、権門勢家を不云、乗馬を奪ひ人夫を駈立て通りける間、行旅の往反路を曲げ、閭里の民屋戸を閉づ。其夜は柱松に陣を取て明るを待つ。 |
「しかしながら今回南軍(楠木勢)に負けたのは、完全に指揮官の策略が拙劣だったためだ。また兵士たちの臆病さも原因である。天下の嘲笑を封じる術はない。特に仲時が上洛した後で改めて出撃するのは、悪党どもが蜂起すれば鎮圧できるという考えによるものだが、今のように敗軍の兵を集め何度向かってもまともな戦いさえ覚束ない状況だ。しかも天下の一大事であるこの時にあたっては、(上様自ら)出撃して討伐されるべきだろう」と言ったところ、宇都宮(公綱)は辞退する素振りもなく申し上げた:「大軍が既に敗れた後に小勢で向かうのはいかがなものかとは思います。しかし関東を発つ時からこのような大事態に命を軽んじる覚悟でした。今の情勢は必ずしも合戦の勝負だけが焦点ではないので、たとえ独りでも先に向かい一戦交え、窮地に陥れば改めて援軍をお願いしましょう」と、確固とした決意を示して帰った。宇都宮一人で武運を託して大敵に挑むことは命惜しみにあらずと考え、わざわざ宿所にも戻らず六波羅から直ちに出発した。七月十九日正午ごろ京を出て天王寺へ下向する途中、東寺あたりまでは主従わずか十四五騎ほどだったが、都中の腕利きたちが馳せ参じたため四塚・作道(現大阪市付近)に着く頃には五百余騎となった。行き会う者があれば身分を問わず馬を奪い人夫を駆り立てて通行したので、旅人の往来路は曲がり民家の戸口は閉ざされた。その夜は柱松(地名)に陣取り夜明けを待った。 解説
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| 其志一人も生て帰らんと思者は無りけり。去程に河内国の住人和田孫三郎此由を聞て、楠が前に来て云けるは、「先日の合戦に負腹を立て京より宇都宮を向候なる。今夜既に柱松に着て候が其勢僅に六七百騎には過じと聞へ候。先に隅田・高橋が五千余騎にて向て候しをだに、我等僅の小勢にて追散して候しぞかし。其上今度は御方勝に乗て大勢也。敵は機を失て小勢也。宇都宮縦ひ武勇の達人なりとも、何程の事か候べき。今夜逆寄にして打散して捨候ばや。」と云けるを、楠暫思案して云けるは、「合戦の勝負必しも大勢小勢に不依、只士卒の志を一にするとせざると也。されば「大敵を見ては欺き、小勢を見ては畏れよ」と申す事是なり。先思案するに、先度の軍に大勢打負て引退く跡へ、宇都宮一人小勢にて相向ふ志、一人も生て帰らんと思者よも候はじ。其上宇都宮は坂東一の弓矢取也。紀清両党の兵、元来戦場に臨で命を棄る事塵芥よりも尚軽くす。其兵七百余騎志を一つにして戦を決せば、当手の兵縦退く心なく共、大半は必可被討。天下の事全今般の戦に不可依。行末遥の合戦に、多からぬ御方初度の軍に被討なば、後日の戦に誰か力を可合。「良将は不戦して勝」と申事候へば、正成に於ては、明日態と此陣を去て引退き、敵に一面目在る様に思はせ、四五日を経て後、方々の峯に篝を焼て、一蒸蒸程ならば、坂東武者の習、無程機疲て、「いや/\長居しては悪かりなん。 |
彼らは一人も生きて帰ろうとは思っていなかった。ところが河内国の住人和田孫三郎がこのことを聞いて楠木正成の前に来て言った。「先日の戦いでの敗北に腹を立て、京から宇都宮(公綱)が攻めてくるそうです。今夜すでに柱松に着陣しましたが、その兵力はわずか六七百騎ほどと伝えられています。以前隅田・高橋の五千余騎でも我々少数部隊で追い散らしたではありませんか。それに今回は味方が勢いに乗って大軍です。敵は機会を失い小勢力です。宇都宮が仮に武勇に優れた達人だとしても、どうということはないでしょう。今夜逆襲して撃ち破りましょう。」と言ったところ、楠木はしばらく考えて言った。「戦の勝敗は必ずしも兵力の多少によるものではなく、兵士たちの志が一つになるか否かだけである。だから『大敵には欺きを仕掛け、小勢には警戒せよ』と言うのだ。まず考えるに、前回の軍で大軍が負けて退却した後に、宇都宮一人が少数兵力で挑む覚悟は、誰一人として生きて帰ろうとは思っていないはずだ。さらに宇都宮は関東随一の武将である。紀清両党(宇都宮配下)の兵たちは本来戦場では命を塵芥より軽くする。その七百余騎が志を一つにして決戦すれば、味方に退却の意思がなくとも大半は討たれるだろう。天下のことは全く今回の戦いに依存できない。将来の長い戦いで数少ない味方が初陣で討死してしまえば、後の合戦で誰が力を合わせるというのか。「良将は戦わずして勝つ」と言うように、正成としては明日わざとこの陣地を離れて退却し、敵に面目を保たせるような印象を与え、四五日経った後、各峰でかがり火を焚けば一呼吸ほどのうちに関東武者の習性としてすぐ士気疲れして『いやいや長居はまずかろう』(と撤退するだろう)」。 解説
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| 一面目有時去来や引返さん。」と云ぬ者は候はじ。されば「懸るも引も折による」とは、加様の事を申也。夜已に暁天に及べり。敵定て今は近付らん。去来させ給へ。」とて、楠天王寺を立ければ、和田・湯浅も諸共に打連てぞ引たりける。夜明ければ、宇都宮七百余騎の勢にて天王寺へ押寄せ、古宇都の在家に火を懸け、時の声を揚たれ共、敵なければ不出合。「たばかりぞすらん。此辺は馬の足立悪して、道狭き間、懸入敵に中を被破な、後ろを被裹な。」と下知して、紀清両党馬の足をそろへて、天王寺の東西の口より懸入て、二三度まで懸入々々しけれ共、敵一人も無して、焼捨たる篝に燈残て、夜はほの/゛\と明にけり。宇都宮不戦先に一勝したる心地して、本堂の前にて馬より下り、上宮太子を伏拝み奉り、是偏に武力の非所致、只然神明仏陀の擁護に懸れりと、信心を傾け歓喜の思を成せり。頓て京都へ早馬を立て、「天王寺の敵をば即時に追落し候ぬ。」と申たりければ、両六波羅を始として、御内外様の諸軍勢に至まで、宇都宮が今度の振舞抜群也。と、誉ぬ人も無りけり。宇都宮、天王寺の敵を輒く追散したる心地にて、一面目は有体なれ共、軈て続て敵の陣へ責入らん事も、無勢なれば不叶、又誠の軍一度も不為して引返さん事もさすがなれば、進退谷たる処に、四五日を経て後、和田・楠、和泉・河内の野伏共を四五千人駈集て、可然兵二三百騎差副、天王寺辺に遠篝火をぞ焼せける。 |
彼ら(宇都宮軍)は一人も生きて帰ろうとは思っていなかった。ところが河内国の住人和田孫三郎がこのことを聞いて楠木正成の前に来て言った。「先日の戦いでの敗北に腹を立て、京から宇都宮(公綱)が攻めてくるそうです。今夜すでに柱松に着陣しましたが、その兵力はわずか六七百騎ほどと伝えられています。以前隅田・高橋の五千余騎でも我々少数部隊で追い散らしたではありませんか。それに今回は味方が勢いに乗って大軍です。敵は機会を失い小勢力です。宇都宮が仮に武勇に優れた達人だとしても、どうということはないでしょう。今夜逆襲して撃ち破りましょう。」と言ったところ、楠木はしばらく考えて言った。「戦の勝敗は必ずしも兵力の多少によるものではなく、兵士たちの志が一つになるか否かだけである。だから『大敵には欺きを仕掛け、小勢には警戒せよ』と言うのだ。まず考えるに、前回の軍で大軍が負けて退却した後に、宇都宮一人が少数兵力で挑む覚悟は、誰一人として生きて帰ろうとは思っていないはずだ。さらに宇都宮は関東随一の武将である。紀清両党(宇都宮配下)の兵たちは本来戦場では命を塵芥より軽くする。その七百余騎が志を一つにして決戦すれば、味方に退却の意思がなくとも大半は討たれるだろう。天下のことは全く今回の戦いに依存できない。将来の長い戦いで数少ない味方が初陣で討死してしまえば、後の合戦で誰が力を合わせるというのか。「良将は戦わずして勝つ」と言うように、正成としては明日わざとこの陣地を離れて退却し、敵に面目を保たせるような印象を与え、四五日経った後、各峰でかがり火を焚けば一呼吸ほどのうちに関東武者の習性としてすぐ士気疲れして『いやいや長居はまずかろう』と言わない者はいるまい。だからこそ『攻めるも退くも時機による』とはこういうことを言うのだ。」夜がすでに明け方になったので、「敵はきっと近づいているだろう。さあ出発しよう」と楠木(正成)が天王寺を立つと、和田や湯浅らも共に連れ立って撤退した。 解説
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| すはや敵こそ打出たれと騒動して、深行侭に是を見れば、秋篠や外山の里、生駒の岳に見ゆる火は、晴たる夜の星よりも数く、藻塩草志城津の浦、住吉・難波の里に焼篝は、漁舟に燃す居去火の、波を焼かと怪しまる。総て大和・河内・紀伊国にありとある所の山々浦々に、篝を焼ぬ所は無りけり。其勢幾万騎あらんと推量してをびたゝし。如此する事両三夜に及び、次第に相近付けば、弥東西南北四維上下に充満して、闇夜に昼を易たり。宇都宮是を見て、敵寄来らば一軍して、雌雄を一時に決せんと志して、馬の鞍をも不息、鎧の上帯をも不解待懸たれ共、軍は無して敵の取廻す勢ひに、勇気疲れ武力怠で、哀れ引退かばやと思ふ心着けり。斯る処に紀清両党の輩も、「我等が僅の小勢にて此大敵に当らん事は、始終如何と覚候。先日当所の敵を無事故追落して候つるを、一面目にして御上洛候へかし。」と申せば、諸人皆此義に同じ、七月二十七日夜半許に宇都宮天王寺を引上洛すれば、翌日早旦に楠頓て入替りたり。誠に宇都宮と楠と相戦て勝負を決せば、両虎二龍の闘として、何れも死を共にすべし。されば互に是を思ひけるにや、一度は楠引て謀を千里の外に運し、一度は宇都宮退て名を一戦の後に不失。是皆智謀深く、慮り遠き良将なりし故也。 |
急に敵が現れたと思い騒ぎ立てたが、よく観察すると、秋篠や外山の里、生駒山に見える火は晴れた夜の星よりも数多く、藻塩草志城津の浦や住吉・難波の里で燃やすかがり火は漁船のともし火のように見え、海を焼くのかと疑われるほどだった。大和・河内・紀伊国の全ての山野や海岸に篝火を焚かない場所はなく、その勢いは幾万騎にも及ぶだろうと推測して恐ろしい思いがした。こうした状況が二晩三晩続き、次第に近づくにつれ四方八方にあふれて闇夜を昼のように明るく変えてしまった。宇都宮はこれを見て「敵が押し寄せたら一気に勝敗を決しよう」と志し、馬の鞍も外さず鎧の紐も解かず待機したものの戦いは起こらず、敵に包囲される勢いに勇気は疲れ武力は衰え、「情けないから撤退したい」と思う心境になっていた。そんな中で紀清両党(宇都宮配下)の者たちが「我々のような小勢力でこの大軍と当たるのはどう考えても無理です。先日ここにいた敵を追い払ったことで面目は立っていますから、京都へ戻りましょう」と言うと皆も賛同し、七月二十七日夜半ごろ宇都宮が天王寺から撤退して京都に向かうと翌朝早く楠木(正成)軍がすぐに入れ替わって陣取った。もし宇都宮と楠木が直接戦って勝敗を決していたら二匹の虎や龍の争いのように双方とも死んでいただろう。おそらく互いにそれを考えたのだろう、一度は楠木が退いて遠方で策略を巡らし、一度は宇都宮が引き下がりながら一戦後の名声を失わなかったのは両者共に知謀深く先見の明のある良将だったからである。 解説
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| と、誉ぬ人も無りけり。去程に楠兵衛正成は、天王寺に打出て、威猛を雖逞、民屋に煩ひをも不為して、士卒に礼を厚くしける間、近国は不及申、遐壌遠境の人牧までも、是を聞伝へて、我も我もと馳加りける程に、其勢ひ漸強大にして、今は京都よりも、討手を無左右被下事は難叶とぞ見へたりける。 ○正成天王寺未来記披見事 元弘二年八月三日、楠兵衛正成住吉に参詣し、神馬三疋献之。翌日天王寺に詣て白鞍置たる馬、白輻輪の太刀、鎧一両副て引進す。是は大般若経転読の御布施なり。啓白事終て、宿老の寺僧巻数を捧て来れり。楠則対面して申けるは、「正成、不肖の身として、此一大事を思立て候事、涯分を不計に似たりといへ共、勅命の不軽礼儀を存ずるに依て、身命の危きを忘たり。然に両度の合戦聊勝に乗て、諸国の兵不招馳加れり。是天の時を与へ、仏神擁護の眸を被回歟と覚候。誠やらん伝承れば、上宮太子の当初、百王治天の安危を勘て、日本一州の未来記を書置せ給て候なる。拝見若不苦候はゞ、今の時に当り候はん巻許、一見仕候ばや。」と云ければ、宿老の寺僧答て云、「太子守屋の逆臣を討て、始て此寺を建て、仏法を被弘候し後、神代より始て、持統天皇の御宇に至までを被記たる書三十巻をば、前代旧事本記とて、卜部の宿祢是を相伝して有職の家を立候。 |
誰一人として褒める者はいなかった。そうこうしているうちに楠兵衛正成が天王寺に出てきて、その威猛さを示しながらも民家には迷惑をかけず、士卒に対して礼儀厚く接したので、近隣の国々は言うまでもなく遠方の人々までこの噂を聞き伝え、「自分も」と我も我もと駆け加わったため、その勢力は次第に強大になり、今では京都から討伐軍が派遣されることは到底難しいと思われた。 解説
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| 其外に又一巻の秘書を被留て候。是は持統天皇以来末世代々の王業、天下の治乱を被記て候。是をば輒く人の披見する事は候はね共、以別儀密に見参に入候べし。」とて、即秘府の銀鑰を開て、金軸の書一巻を取出せり。正成悦て則是を披覧するに、不思議の記文一段あり。其文に云、当人王九十五代。天下一乱而主不安。此時東魚来呑四海。日没西天三百七十余箇日。西鳥来食東魚を。其後海内帰一三年。如■猴者掠天下三十余年。大凶変帰一元。云云。正成不思議に覚へて、能々思案して此文を考るに、先帝既に人王の始より九十五代に当り給へり。「天下一度乱て主不安」とあるは是此時なるべし。「東魚来て呑四海」とは逆臣相摸入道の一類なるべし。「西鳥食東魚を」とあるは関東を滅す人可有。「日没西天に」とは、先帝隠岐国へ被遷させ給ふ事なるべし。「三百七十余箇日」とは、明年の春の比此君隠岐国より還幸成て、再び帝位に即かせ可給事なるべしと、文の心を明に勘に、天下の反覆久しからじと憑敷覚ければ、金作の太刀一振此老僧に与へて、此書をば本の秘府に納させけり。後に思合するに、正成が勘へたる所、更に一事も不違。是誠に大権聖者の末代を鑒て記し置給し事なれ共、文質三統の礼変、少しも違はざりけるは、不思議なりし讖文也。 |
それ以外にもう一巻の秘蔵書がお書き残しになっている。これは持統天皇以来、末世代々の王業や天下の治乱を記したものです。これを軽々しく見せることはできませんが特別な事情により密かにお目にかけましょう。」と言いすぐに宝物庫の銀の鍵を開けて金軸の書一巻を取り出した。正成は喜んでそれを広げてみると、不思議な予言文が一段あった。その文章には「今から数えて人皇九十五代目の時、天下一度乱れて主君安らかならず。この時に東魚(ひがしのうお)来たり四海を飲む。日は西天に没して三百七十余日の間。その後西鳥(にしのとり)来たりて東魚を食らう。それから海内統一後三年、■猴(えんこう・猿のような者)が天下を掠めて三十余年続く。大いなる凶事は元へ戻る」と記されていた。正成は不思議に思い入念に考えた結果、まず先帝(後醍醐天皇)がちょうど人皇九十五代目にあたること、「天下一乱して主不安」とは今の状況を指すこと、「東魚来て四海を呑む」とは逆臣鎌倉幕府北条氏一党のこと、「西鳥食らう東魚を」は関東を滅ぼす者が現れることを示し、「日没西天に」とは先帝が隠岐国へ流されたこと、そして「三百七十余箇日」とは来年春頃この君主が隠岐から帰還され再び即位される時期だと解釈した。文章の意味を明らかに理解して天下の混乱は長く続かないと確信すると金作りの太刀一本を老僧に与え書物は元通り宝物庫へ戻させた。後に振り返ると正成が解読した内容は一つも外れなかった。これは聖徳太子が末代を見通してお書きになったものだが、文様や制度の変化にもかかわらず全く違わない点が不思議な予言だった。 解説
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| ○赤松入道円心賜大塔宮令旨事 其比播磨国の住人、村上天皇第七御子具平親王六代の苗裔、従三位季房が末孫に、赤松次郎入道円心とて弓矢取て無双の勇士有り。元来其心闊如として、人の下風に立ん事を思はざりければ、此時絶たるを継廃たるを興して、名を顕し忠を抽ばやと思けるに、此二三年大塔宮に属纒奉て、吉野十津川の艱難を経ける円心が子息律師則祐、令旨を捧て来れり。披覧するに、「不日に揚義兵率軍勢、可令誅罰朝敵、於有其功者、恩賞宜依請」之由、被戴。委細事書十七箇条の恩裁被添たり。条々何れも家の面目、世の所望する事なれば、円心不斜悦で、先当国佐用庄苔縄の山に城を構て、与力の輩を相招く。其威漸近国に振ひければ、国中の兵共馳集て、無程其勢一千余騎に成にけり。只秦の世已に傾んとせし弊に乗て、楚の陳勝が異蒼頭にして大沢に起りしに異ならず。頓て杉坂・山の里二箇所に関を居、山陽・山陰の両道を差塞ぐ。是より西国の道止て、国々の勢上洛する事を得ざりけり。 ○関東大勢上洛事 去程に畿内西国の凶徒、日を逐て蜂起する由、六波羅より早馬を立て関東へ被注進。相摸入道大に驚て、さらば討手を指遣せとて、相摸守の一族、其外東八箇国の中に、可然大名共を催し立て被差上。 |
○赤松入道円心が大塔宮から令旨を賜ったこと ○関東の大軍が上洛すること 解説
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| 先一族には、阿曾弾正少弼・名越遠江入道・大仏前陸奥守貞直・同武蔵左近将監・伊具右近大夫将監・陸奥右馬助、外様の人々には、千葉大介・宇都宮三河守・小山判官・武田伊豆三郎・小笠原彦五郎・土岐伯耆入道・葦名判官・三浦若狭五郎・千田太郎・城太宰大弐入道・佐々木隠岐前司・同備中守・結城七郎左衛門尉・小田常陸前司・長崎四郎左衛門尉・同九郎左衛門尉・長江弥六左衛門尉・長沼駿河守・渋谷遠江守・河越三河入道・工藤次郎左衛門高景・狩野七郎左衛門尉・伊東常陸前司・同大和入道・安藤藤内左衛門尉・宇佐美摂津前司・二階堂出羽入道・同下野判官・同常陸介・安保左衛門入道・南部次郎・山城四郎左衛門尉、此等を始として、宗との大名百三十二人、都合其勢三十万七千五百余騎、九月二十日鎌倉を立て、十月八日先陣既に京都に着けば後陣は未だ足柄・筥根に支へたり。是のみならず河野九郎四国の勢を率して、大船三百余艘にて尼崎より襄て下京に着。厚東入道・大内介・安芸熊谷、周防・長門の勢を引具して、兵船二百余艘にて、兵庫より襄て西の京に着。甲斐・信濃の源氏七千余騎、中山道を経て東山に着。江馬越前守・淡河右京亮、北陸道七箇国の勢を率して、三万余騎にて東坂本を経て上京に着。 |
関東の大軍が上洛すること 解説
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| 総じて諸国七道の軍勢我も我もと馳上りける間、京白河の家々に居余り、醍醐・小栗栖・日野・勧修寺・嵯峨・仁和寺・太秦の辺・西山・北山・賀茂・北野・革堂・河崎・清水・六角堂の門の下、鐘楼の中迄も、軍勢の宿らぬ所は無りけり。日本雖小国是程に人の多かりけりと始て驚く許也。去程に元弘三年正月晦日、諸国の軍勢八十万騎を三手に分て、吉野・赤坂・金剛山、三の城へぞ被向ける。先吉野へは二階堂出羽入道々蘊を太将として、態と他の勢を交へず、二万七千余騎にて、上道・下道・中道より、三手に成て相向ふ。赤坂へは阿曾弾正少弼を大将として、其勢八万余騎、先天王寺・住吉に陣を張る。金剛山へは陸奥右馬助、搦手の大将として、其勢二十万騎、奈良路よりこそ被向けれ。中にも長崎悪四郎左衛門尉は、別して侍大将を承て、大手へ向ひけるが、態己が勢の程を人に被知とや思けん。一日引さがりてぞ向ひける。其行妝見物の目をぞ驚しける。先旗差、其次に逞しき馬に厚総懸て、一様の鎧着る兵八百余騎、二町計先き立てゝ、馬を静めて打せたり。我身は其次に纐纈の鎧直垂に、精好の大口を張せ、紫下濃の鎧に、白星の五枚甲に八竜を金にて打て付たるを猪頚に着成し、銀の瑩付の脛当に金作の太刀に振帯て、一部黒とて、五尺三寸有ける坂東一の名馬に塩干潟の捨小舟を金貝に磨たる鞍を置て、款冬色の厚総懸て、三十六差たる白磨の銀筈の大中黒の矢に、本滋藤の弓の真中握て、小路を狭しと歩ませたり。 |
総じて全国七道から軍勢が我先にと上洛してきたため、京都市中の白河周辺の家屋はあふれんばかりとなり、醍醐・小栗栖・日野・勧修寺・嵯峨・仁和寺・太秦付近・西山・北山・賀茂神社・北野天満宮・革堂(行願寺)・河崎・清水寺・六角堂の門前から鐘楼の中に至るまで、兵士たちが駐屯しない場所はなかった。日本は小国ながらこれほど人間が多いのかと初めて驚くばかりであった。こうして元弘三年正月三十日、諸国の軍勢八十万騎を三手に分け、吉野城・赤坂城・金剛山城の三つの城に向けて進撃させた。まず吉野へは二階堂出羽入道道蘊(どううん)を大将として、わざと他の勢力を混ぜず二万七千余騎で上つ道・下つ道・中つ道から三方に分かれて攻め向かった。赤坂城へは阿曾弾正少弼を大将とする八万余騎が先陣として天王寺・住吉に布陣した。金剛山城には陸奥右馬助が搦手(側面)の大将として二十万騎で奈良路から進軍した。中でも長崎悪四郎左衛門尉は特に侍大将を任され正面部隊に向かったのだが、意図的に自軍の規模を見せつけようとしたらしい。一日遅れて出発し、その行装は見物人の目を驚かせた。先頭に旗差役、続いて逞しい馬に厚い総覆(全面覆い)をつけた一様の鎧武者八百余騎が二町ほど先行してゆったり進み、自らはその後ろで絞り染め直垂に上質大口袴を穿ち、紫下地濃紺鎧・白星紋五枚甲冑(猪頬兜)を着込み銀燭台型脛当てをつけ金装太刀を佩き、東国一の名馬と呼ばれる五尺三寸の黒毛馬に塩干潟文様の金具鞍と蕗色厚総覆をおいて三十六本白羽銀筈大中黒矢を持ち真ん中握りの紫藤弓を携え、道幅いっぱいにゆったり進んだ。 解説
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| 片小手に腹当して、諸具足したる中間五百余人、二行に列を引き、馬の前後に随て、閑に路次をぞ歩みける。其後四五町引さがりて、思々に鎧たる兵十万余騎、甲の星を輝かし、鎧の袖を重て、沓の子を打たるが如くに道五六里が程支たり。其勢ひ決然として天地を響かし山川を動す許也。此外々様の大名五千騎・三千騎、引分々々昼夜十三日迄、引も切らでぞ向ひける。我朝は不及申、唐土・天竺・太元・南蛮も、未是程の大軍を発す事難有かりし事也。と思はぬ人こそ無りけれ。 ○赤坂合戦事付人見本間抜懸事 去程に赤坂の城へ向ひける大将、阿曾弾正少弼、後陣の勢を待調へんが為に、天王寺に両日逗留有て、同二月二日午刻に、可有矢合、於抜懸之輩者、可為罪科之由をぞ被触ける。爰に武蔵国の住人に人見四郎入道恩阿と云者あり。此恩阿、本間九郎資貞に向て語りけるは、「御方の軍勢雲霞の如くなれば、敵陣を責落さん事疑なし。但事の様を案ずるに、関東天下を治て権を執る事已に七代に余れり。天道欠盈理遁るゝ処なし。其上臣として君を流し奉る積悪、豈果して其身を滅さゞらんや。某不肖の身なりと云へ共、武恩を蒙て齢已に七旬に余れり。今日より後差たる思出もなき身の、そゞろに長生して武運の傾かんを見んも、老後の恨臨終の障共成ぬべければ、明日の合戦に先懸して、一番に討死して、其名を末代に遺さんと存ずる也。 |
片腕だけ腹当てをつけ武具一式を装備した従者五百人余りが二列になって馬の前後に付き添い、ゆっくりと道中を行進した。その後方へ四~五町遅れて、それぞれ鎧に身を固めた兵士十万余騎が甲冑の星(飾り金具)を輝かせ、鎧袖を重ねて沓音(くつおと)のように響かせながら道幅五~六里ほど埋め尽くした。その勢いは決然として天地に轟き山川を揺るがすほどであった。加えて様々な大名の軍勢五千騎・三千騎が分かれ分かれに昼夜兼行で十三日間途切れることなく進撃し続けた。「我が国は言うまでもない、唐(中国)や天竺(インド)、太元(モンゴル?)あるいは南蛮の地ですら未だかつてこれほどの大軍を動員したことはなかった」と感じない者は誰一人いなかった。 解説
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| 」と語りければ、本間九郎心中にはげにもと思ながら、「枝葉の事を宣者哉。是程なる打囲の軍に、そゞろなる先懸して討死したりとも、差て高名とも云れまじ。されば只某は人なみに可振舞也。」と云ければ、人見よにも無興気にて、本堂の方へ行けるを、本間怪み思て、人を付て見せければ、矢立を取出して、石の鳥居に何事とは不知一筆書付て、己が宿へぞ帰りける。本間九郎、さればこそ此者に一定明日先懸せられぬと、心ゆるし無りければ、まだ宵より打立て、唯一騎東条を指て向けり。石川々原にて夜を明すに、朝霞の晴間より、南の方を見ければ、紺唐綾威の鎧に白母衣懸て、鹿毛なる馬に乗たる武者一騎、赤坂の城へぞ向ひける。何者やらんと馬打寄せて是を見れば、人見四郎入道なりけり。人見本間を見付て云けるは、「夜部宣し事を実と思なば、孫程の人に被出抜まし。」と打笑てぞ、頻に馬を早めける。本間跡に付て、「今は互に先を争ひ申に及ず、一所にて尸を曝し、冥途までも同道申さんずるぞよ。」と云ければ、人見、「申にや及ばん。」と返事して、跡になり先になり物語して打けるが、赤坂城の近く成ければ、二人の者共馬の鼻を双て懸驤り、堀の際まで打寄て、鐙踏張弓杖突て、大音声を揚て名乗けるは、「武蔵国の住人に、人見四郎入道恩阿、年積て七十三、相摸国の住人本間九郎資貞、生年三十七、鎌倉を出しより軍の先陣を懸て、尸を戦場に曝さん事を存じて相向へり。 |
人見がそう語ると、本間九郎も内心では「確かにその通りだ」と思いながら、「どうでもいいことを言うものだ。これほど大勢で包囲している戦において、むやみに一番乗りを狙って討ち死にしても手柄とは認められないだろう。だから私は普通の兵として行動しよう。」と言ったのである。すると人見はひどく興ざめした様子で本堂の方へ向かっていくところを見て、本間が不審に思い使いの人をつけて監視させたところ、(人見は)矢立てを取り出して石の鳥居に何やら一言書きつけ自分の宿舎に帰ってしまった。それにより本間九郎は「なるほどこの男はきっと明日一番乗りを狙うだろう」と警戒を怠らず、まだ夜が明けないうちから準備しただ一騎で東条へ向かったのである。石川の河原で夜を明かしていると朝もやが切れた隙間から南の方を見ると紺色の唐綾威しの鎧に白い母衣をつけ鹿毛の馬に乗った武者一人が赤坂城へ向かっているのが見えた。「誰だろう」と思って近づいてみれば人見四郎入道であった。人見は本間を見つけて言うには、「昨夜(私が)言ったことを本当だと思わなければ孫ほどの者にも先を越されるぞな。」と笑いながら勢いよく馬を走らせたのである。本間も後から追って「もうお互いに一番乗りを争う必要はないでしょう。一緒に戦場で屍を晒し死後の世界まで同道しようではないか」と言ったところ、人見は「そうだな」と答えつつ二人のものは前になったり後ろになりながら話しているうちに赤坂城が近づいてきたので互いに馬の鼻を並べて駆け出し堀ぎわへ押しかけた。そして鞍橋から鐙(あぶみ)を踏ん張り弓をつき立てて大声で名乗ったのは:「武蔵国出身の人見四郎入道恩阿、年齢七十三歳!相模国出身の本間九郎資貞生年三十七歳!鎌倉から出陣して以来軍勢の中で一番乗りの功を得て討ち死にすることを誓って参戦した!」 解説
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| 我と思はん人々は、出合て手なみの程を御覧ぜよ。」と声々に呼て城を睨で引へたり。城中の者共是を見て、是ぞとよ、坂東武者の風情とは。只是熊谷・平山が一谷の先懸を伝聞て、羨敷思へる者共也。跡を見るに続く武者もなし。又さまで大名とも見へず。溢れ者の不敵武者に跳り合て、命失て何かせん。只置て事の様を見よ、とて、東西鳴を静めて返事もせず。人見腹を立て、「早旦より向て名乗れ共、城より矢の一をも射出さぬは、臆病の至り歟、敵を侮る歟、いで其義ならば手柄の程を見せん。」とて、馬より飛下て、堀の上なる細橋さら/\と走渡り、二人の者共出し屏の脇に引傍て、木戸を切落さんとしける間、城中是に騒で、土小間・櫓の上より、雨の降が如くに射ける矢、二人の者共が鎧に、蓑毛の如くにぞ立たりける。本間も人見も、元より討死せんと思立たる事なれば、何かは一足も可引。命を限に二人共に一所にて被討けり。是まで付従ふて最後の十念勧めつる聖、二人が首を乞得て、天王寺に持て帰り、本間が子息源内兵衛資忠に始よりの有様を語る。資忠父が首を一目見て、一言をも不出、只涙に咽で居たりけるが、如何思けん、鐙を肩に投懸、馬に鞍置て只一人打出んとす。聖怪み思て、鎧の袖を引留め、「是はそも如何なる事にて候ぞ。 |
「私と志す者たちよ!出会ってこの腕前を見てくれ!」と声高に叫びながら城を睨み引き退いた。城内の兵士たちはこれを見て、「これはまさしく坂東武者の本領だな」と思ったが、一方で「ただ熊谷・平山(一ノ谷の戦いでの武士)の一番乗り伝説を聞いて羨望している連中に過ぎない。後ろに続く兵もおらず大軍とも見えない。無鉄砲な不敵者と軽率に戦って命を落として何になる?放っておいて様子を見よう」と言い、東西の騒がしい声を静めて返事もしなかった。 これに対し人見は腹を立て、「早朝から向かって名乗ったのに城内から一本も矢を射掛けてこないとは臆病の極みか?敵を侮っているのか?ならば手柄を見せてやろう」と言い、馬から飛び降り堀にかかる細い橋をさらさらと走り渡った。二人は城壁の脇に近づいて木戸を切り落とそうとしたため城内が大騒ぎになり土塀の小窓や櫓の上から雨のように矢が射掛けられ、両者の鎧には蓑の毛のような密度で刺さった。本間も人見も元より討死覚悟であったゆえ一歩も退かず命を限りに二人一緒に討たれた。 これまで付き従い最後の念仏(十念)を授けた聖人が、両者の首を得て天王寺へ持ち帰り本間の息子源内兵衛資忠に出陣からの経緯を語った。資忠は父の首を一目見ると一言も発せず涙に咽んでいたが何と思ったか馬鐙(あぶみ)を肩にかけ鞍をつけてたった一人で出撃しようとした。聖人は怪しんで鎧の袖を引っ張り止め「これはいかなることでございますか」と言った。 解説
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| 御親父も此合戦に先懸して、只名を天下の人に被知と許思召さば、父子共に打連てこそ向はせ給ふべけれ共、命をば相摸殿に献り、恩賞をば子孫の栄花に貽さんと思召ける故にこそ、人より先に討死をばし給らめ。而るに思ひ篭給へる所もなく、又敵陣に懸入て、父子共に打死し給ひなば、誰か其跡を継ぎ誰か其恩賞を可蒙。子孫無窮に栄るを以て、父祖の孝行を呈す道とは申也。御悲歎の余りに無是非死を共にせんと思召は理なれ共、暫止らせ給へ。」と堅く制しければ、資忠涙を押へて無力着たる鎧を脱置たり。聖さては制止に拘りぬと喜しく思て、本間が首を小袖に裹み、葬礼の為に、側なる野辺へ越ける其間に、資忠今は可止人なければ、則打出て、先上宮太子の御前に参り、今生の栄耀は、今日を限りの命なれば、祈る所に非ず、唯大悲の弘誓の誠有らば、父にて候者の討死仕候し戦場の同じ苔の下に埋れて、九品安養の同台に生るゝ身と成させ給へと、泣々祈念を凝して泪と共に立出けり。石の鳥居を過るとて見れば我父と共に討死しける人見四郎入道が書付たる歌あり。是ぞ誠に後世までの物語に可留事よと思ければ、右の小指を喰切て、其血を以て一首を側に書添て、赤坂の城へぞ向ひける。城近く成ぬる所にて馬より下り、弓を脇に挟で城戸を叩き、「城中の人々に可申事あり。 |
資忠に押し止めた聖人は言った。「貴殿のお父上もこの合戦で一番乗りを果たし、ただ天下の人々に名を知らせたいとお考えだったのであれば親子そろって出陣なさるべきでした。しかし(本間様は)命を相模守殿(北条氏)に捧げ恩賞を子孫の栄華として遺そうと考えられたゆえ、人より先に討ち死になされたのです。もし敵陣へ突入して親子ともに討たれてしまえば誰が家系をつなぎ、誰が恩賞を受け継ぐというのか? 子孫が末永く繁栄することこそ父祖への孝行の道と言えるでしょう。悲嘆のあまり無理に共に死なんとお思いになるのは心情は理解できますがどうかここはお止めください」と強く諫めたため、資忠は涙を抑え鎧を脱いで置いた。 聖人はようやく制止できたと安堵し本間の首を小袖に包み葬儀のために近くの野辺へ赴いている隙に、資忠は「もはや止める者はいない」と即座に出撃。まず上宮太子(聖徳太子)の御廟前に参拝して祈願した。「今生の栄華など今日限りの命には不要です。ただ大慈大悲のお心があれば父が戦死した同じ地に埋まり、浄土で共に蓮台を並べられるように」と涙ながらに熱祷し立ち去った。 石の鳥居を通り過ぎるとき見上げれば先に討ち死にした人見四郎入道が書き残した歌があった。「これぞ後世まで語り継ぐべきものだ」と思い右小指を噛み切り、自らの血で一首を添え書きすると赤坂城へ向かった。城近くの地点で馬から降り弓を脇に抱えて城戸を叩きながら叫んだ。「城内の方々にお伝えしたいことがある!」 解説
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| 」と呼りけり。良暫く在て、兵二人櫓の小間より顔を指出して、「誰人にて御渡候哉。」と問ければ、「是は今朝此城に向て打死して候つる、本間九郎資貞が嫡子、源内兵衛資忠と申者にて候也。人の親の子を憶ふ哀み、心の闇に迷ふ習にて候間、共に打死せん事を悲て、我に不知して、只一人打死しけるにて候。相伴ふ者無て、中有の途に迷ふ覧。さこそと被思遣候へば、同く打死仕て、無迹まで父に孝道を尽し候ばやと存じて、只一騎相向て候也。城の大将に此由を被申候て、木戸を被開候へ。父が打死の所にて、同く命を止めて、其望を達し候はん。」と、慇懃に事を請ひ泪に咽でぞ立たりける。一の木戸を堅めたる兵五十余人、其志孝行にして、相向ふ処やさしく哀なるを感じて、則木戸を開き、逆茂木を引のけしかば、資忠馬に打乗り、城中へ懸入て、五十余人の敵と火を散てぞ切合ける。遂に父が被討し其迹にて、太刀を口に呀て覆しに倒て、貫かれてこそ失にけれ。惜哉、父の資貞は、無双の弓矢取にて国の為に要須たり。又子息資忠は、ためしなき忠孝の勇士にて家の為に栄名あり。人見は年老齢傾きぬれ共、義を知て命を思ふ事、時と共に消息す。此三人同時に討死しぬと聞へければ、知も知ぬもをしなべて、歎かぬ人は無りけり。 |
そう呼びかけるとしばらくして兵士二人が櫓の小窓から顔を出し、「どなた様でしょうか?」と尋ねた。資忠は答えた。「私は今朝この城に向かい討ち死にした本間九郎資貞の嫡子、源内兵衛資忠です。親が子を思う情けというものは心の闇で迷いやすいもので、父もまた私と共に死ぬことを悲しんで無理やり一人で戦死してしまいました。(あのような状態では)供をする者もなく(死者が通る)中有の道で迷われるでしょう。それを思うにつけ同じ場所で討ち死にして、跡継ぎがいない父へせめて孝行を尽くしたいと願い単騎で参ったのです。どうか城の大将へお伝えください。(私を入れて)木戸をお開きいただけませんか? 父が戦死したその場所で共に命を絶ち、この望みを果たさせてください」と丁寧に懇願し涙に咽んで立っていた。 第一の城門を守る五十人余りの兵士たちは彼の志が孝行心から出ていることや、向かい合う様子があまりにも痛ましいのに感じ入り、すぐさま木戸を開き逆茂木(防御柵)を取り除いた。すると資忠は馬に乗ると城内へ突入し五十人以上の敵と火花を散らして斬り合った。ついに父が討たれたその場所で剣を口にくわえ、ひっくり返るように倒れ貫かれて息絶えたのだった。(後に伝わる話では)ああ惜しいことだ――父である資貞は無双の弓取りとして国にとって重要な人物であり、息子の資忠もまた比類なき忠孝の勇士で家に栄誉をもたらした。人見(四郎入道)は老齢だったが義を知り命を大切にする心は常に変わらなかった。この三人が同時に討ち死にしたと聞くと、詳しい者そうでない者に関わらず嘆かない者は一人もいなかったという。 解説
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| 既に先懸の兵共、ぬけ/\に赤坂の城へ向て、討死する由披露有ければ、大将則天王寺を打立て馳向ひけるが、上宮太子の御前にて馬より下り、石の鳥居を見給へば、左の柱に、花さかぬ老木の桜朽ぬとも其名は苔の下に隠れじと一首の歌を書て、其次に、「武蔵国の住人人見四郎恩阿、生年七十三、正慶二年二月二日、赤坂の城へ向て、武恩を報ぜん為に討死仕畢ぬ。」とぞ書たりける。又右の柱を見れば、まてしばし子を思ふ闇に迷らん六の街の道しるべせんと書て、「相摸国の住人本間九郎資貞嫡子、源内兵衛資忠生年十八歳、正慶二年仲春二日、父が死骸を枕にして、同戦場に命を止め畢ぬ。」とぞ書たりける。父子の恩義君臣の忠貞、此二首の歌に顕れて、骨は化して黄壌一堆の下に朽ぬれど、名は留て青雲九天の上に高し。されば今に至るまで、石碑の上に消残れる三十一字を見る人、感涙を流さぬは無りけり。去程に阿曾弾正少弼、八万余騎の勢を率して、赤坂へ押寄せ、城の四方二十余町、雲霞の如くに取巻て、先時の声をぞ揚たりける。其音山を動し地を震ふに、蒼涯も忽に可裂。此城三方は岸高して、屏風を立たるが如し。南の方許こそ平地に継ひて、堀を広く深く掘切て、岸の額に屏を塗り、其上に櫓を掻双べたれば、如何なる大力早態なりとも、輒く可責様ぞなき。 |
すでに先鋒部隊が次々と赤坂城に向かい討ち死にするという知らせがあったため、大将はすぐさま天王寺を出発して急行した。上宮太子の御廟前に到着し馬から降りて石の鳥居を見ると、左柱には「花咲かぬ老木の桜朽つとも その名は苔の下に隠れじ」という一首が書かれ、続けて「武蔵国の住人・人見四郎恩阿(法名)、生年七十三歳。正慶二年二月二日、赤坂城へ向かい御恩返しのために討ち死にすることを果たす。」と記されていた。 さらに右柱を見ると「待てしばし子を思う闇に迷わん 六道の街の道標せん」と書き添えられ、「相模国の住人・本間九郎資貞の嫡男、源内兵衛資忠。生年十八歳。正慶二年仲春二日、父の遺骸を枕にして同じ戦場で命を終えることを果たす。」と記されていた。 父子の情愛と主君への忠誠はこの二首に表れており、骨は黄泉の土の中で朽ちても名は青空高く永遠に残る。だからこそ今も石碑に刻まれた三十一文字を見る者は誰しも感涙を禁じ得ないのである。 そのうち阿曾弾正少弼(あそだんじょうしょうひつ)が八万余騎の軍勢を率いて赤坂へ押し寄せ、城周囲二十余町を霞のように取り囲み鬨の声を上げた。その響きは山を揺るがし地を震わせて崖さえも裂けんばかりだった。 この城は三方に高く切り立った岸壁があり屏風を立てたようで、南側だけ平地につながっている。そこには広く深い堀を穿ち、土塁の表面に漆喰を塗り固め、その上に対となる櫓を構えているため、どれほどの大力や敏捷さを持った者でも容易に攻め落とせるものではなかった。 解説
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| され共寄手大勢なれば、思侮て楯にはづれ矢面に進で、堀の中へ走り下て、切岸を襄らんとしける処を、屏の中より究竟の射手共、鏃を支て思様に射ける間、軍の度毎に、手負死人五百人六百人、不被射出時はなかりけり。是をも不痛荒手を入替々々、十三日までぞ責たりける。され共城中少も不弱見へけり。爰に播磨国の住人、吉河八郎と云者、大将の前に来て申けるは、「此城の為体、力責にし候はゞ無左右不可落候。楠此一両年が間、和泉・河内を管領して、若干の兵粮を取入て候なれば、兵粮も無左右尽候まじ。倩思案を廻し候に、此城三方は谷深して地に不継、一方は平地にて而も山遠く隔れり。されば何くに水可有とも見へぬに、火矢を射れば水弾にて打消候。近来は雨の降る事も候はぬに、是程まで水の卓散に候は、如何様南の山の奥より、地の底に樋を伏て、城中へ水を懸入るゝ歟と覚候。哀人夫を集めて、山の腰を掘きらせて、御覧候へかし。」と申ければ、大将、「げにも。」とて、人夫を集め、城へ継きたる山の尾を、一文字に掘切て見れば、案の如く、土の底に二丈余りの下に樋を伏せて、側に石を畳み、上に真木の瓦を覆て、水を十町余の外よりぞ懸たりける。此揚水を被止て後、城中に水乏して、軍勢口中の渇難忍ければ、四五日が程は、草葉に置ける朝の露を嘗め、夜気に潤へる地に身を当て、雨を待けれ共雨不降。 |
しかしながら攻め手は大勢であったため油断し盾から離れて先陣に立ち、堀へ駆け下りて崖を登ろうとしたところ、城壁の中から優れた射手たちが狙いを定めて射かけたので、戦闘ごとに負傷者や死者が五百人六百人と出ずにはいられなかった。それでも痛手を顧みず部隊を交代しながら十三日間攻め続けた。しかし城内の勢いはまったく衰えている様子が見られない。 ここで播磨国の住人である吉河八郎という者が大将のもとに来て申し上げた。「この城の状態では力攻めにすればどうしても落ちません。楠木(正成)はこの一、二年和泉・河内を支配して多少の兵糧を蓄えていますから食料もすぐには尽きるまい。よく考えますとこの城は三方に深い谷があり地続きではなく、一方だけ平地ですが山とも遠く離れています。それなのにどこにも水源があるようには見えないのに火矢を射れば水で消されてしまいます。最近雨が降っていないのにかかわらずこれほど水が豊富にあるのは、おそらく南側の山中から地下に樋(とい)を通して城内へ引いているのでしょう。どうか人夫を集めて山腹を掘らせてご覧ください」と申したところ大将は「なるほど」と言い、人夫を集め城につながる尾根筋を一直線に掘り割ってみると予想通り土中二丈(約6メートル)下に樋が敷かれていて側面には石積みし上から木材と瓦で覆われ十町余(約1km強)先から水を引いていた。 この給水路を止めて以降、城内では水不足となり兵士たちの喉の渇きが耐え難くなったため四、五日ほどは草葉に溜まる朝露を舐めたり夜露で濡れた地面に身を寄せて雨待ちしたものの降らなかった。 解説
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| 寄手是に利を得、隙なく火矢を射ける間、大手の櫓二つをば焼落しぬ。城中の兵水を飲まで十二日に成ければ、今は精力尽はてゝ、可防方便も無りけり。死たる者は再び帰る事なし。去来や、とても死なんずる命を、各力の未だ墜ぬ先に打出で、敵に指違へ、思様に打死せんと、城の木戸を開て、同時に打出んとしけるを、城の本人平野将監入道、高櫓より走下り、袖をひかへて云けるは、「暫く楚忽の事な仕給ふそ。今は是程に力尽き喉乾て疲れぬれば、思ふ敵に相逢ん事有難し。名もなき人の中間・下部共に被虜て、恥を曝さん事可心憂。倩事の様を案ずるに、吉野・金剛山の城、未相支て勝負を不決。西国の乱未だ静まらざるに、今降人に成て出たらん者をば、人に見こらせじとて、討事不可有と存ずる也。とても叶はぬ我等なれば、暫事を謀て降人に成、命を全して時至らん事を可待。」といへば、諸卒皆此義に同じて、其日の討死をば止めてけり。去程に次日軍の最中に、平野入道高櫓に上て、「大将の御方へ可申子細候。暫く合戦を止て、聞食候へ。」と云ければ、大将渋谷十郎を以て、事の様を尋るに、平野木戸口に出合て、「楠和泉・河内の両国を平げて威を振ひ候し刻に、一旦の難を遁れん為に、不心御敵に属して候き。 |
しかし攻め手がこの状況を有利と見て絶え間なく火矢を放つうち、大手門付近にある二つの櫓を焼き落とした。城内の兵士たちは水を飲んでいない状態で十二日目に至ったため、今や体力も尽き果て防御する手段もなかった。死んだ者は再び戻らないのだから、「さあ行こうよ!どうせ死ぬ命なら各自が力尽きる前に打って出て敵と対峙し思う存分討ち死しよう」と言い城の門を開け同時に突撃しようとしたところ、城主である平野将監入道(出家した武将)が高櫓から降り立ち袖を抑えて言った。「どうか軽率な行動はお控えください。今やこれほど疲弊し喉も乾いている状態では望む敵と戦うことは難しいのです。名もない中間や下部のような者たちに捕らわれ恥を晒すのは心苦しいことです。よく事態を考えると吉野・金剛山の城塞はまだ抵抗して決着がついておらず、西国の反乱も未だ鎮まっていませんから今投降する者は見せしめとして討たれることもないでしょう。どうしても叶わぬ我々のことですから一時的な策略で降伏者となり命を全うして時機の到来を待ちましょう」と言ったところ兵士たちは皆この意見に賛同してその日の決死突撃を取り止めた。 その後翌日戦いの最中、平野入道が高櫓へ登り「大将様にお伝えしたい事柄があります。どうか一時的に合戦を中止してお聞きください」と言ったため大将は渋谷十郎を使者として事情を尋ねさせたところ、平野は城門付近で対面しこう述べた。「楠木(正成)が和泉・河内の両国を平定して威勢を示していた時に一時的な難を逃れるために不本意ながら御敵側に属したのです」 解説
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| 此子細京都に参じ候て、申入候はんと仕候処に、已に大勢を以て被押懸申候間、弓矢取身の習ひにて候へば、一矢仕りたるにて候。其罪科をだに可有御免にて候はゞ、頚を伸て降人に可参候。若叶ふまじきとの御定にて候はゞ、無力一矢仕て、尸を陣中に曝すべきにて候。此様を具に被申候へ。」と云ければ、大将大に喜て、本領安堵の御教書を成し、殊に功あらん者には、則恩賞を可申沙汰由返答して、合戦をぞ止めける。城中に篭る所の兵二百八十二人、明日死なんずる命をも不知、水に渇せる難堪さに、皆降人に成てぞ出たりける。長崎九郎左衛門尉是を請取て、先降人の法なればとて、物具・太刀・刀を奪取り、高手小手に禁て六波羅へぞ渡しける。降人の輩、如此ならば只討死すべかりける者をと、後悔すれ共無甲斐。日を経て京都に着しかば、六波羅に誡置て、合戦の事始なれば、軍神に祭て人に見懲させよとて、六条河原に引出し、一人も不残首を刎て被懸けり。是を聞てぞ、吉野・金剛山に篭りたる兵共も、弥獅子の歯嚼をして、降人に出んと思ふ者は無りけり。「罪を緩ふするは将の謀也。」と云事を知らざりける六波羅の成敗を、皆人毎押なべて、悪かりけりと申しが、幾程も無して悉亡びけるこそ不思議なれ。情は人の為ならず。 |
この事情を京都へ参上して申し上げようとしたところ、すでに大軍が押し寄せたため武士として当然のことながら矢を放ちました。もしその罪をお許しいただけるなら進んで投降いたします。お許しにならぬとお決めであれば無力ではありますが一矢報いて戦場に屍を晒す所存です。以上の事情をご賢察ください。」と述べたところ、大将は大いに喜び本領安堵の書状を与え「特に功績ある者には恩賞を与える」と返答して攻撃を停止した。 城内に籠る兵士282人は明日にも死ぬかもしれない命よりも喉の渇きに耐えられず全員が降伏した。長崎九郎左衛門尉は投降者を受け入れる際「降人の慣例だから」と鎧や刀剣を没収し両手を縛って六波羅へ送った。降人たちはこの扱いを見て「ならば討ち死にすべきだった」と後悔したが取り返しがつかない。 日を経て京都に到着すると、六波羅当局は彼らを拘束し「合戦の始まりでもあり見せしめとして軍神への捧げ物にしよう」と言い、全員を六条河原へ引き出して一人残らず首を刎ね晒した。この報を聞き吉野・金剛山で籠城する兵士たちはますます奮起し降伏を考える者はなくなった。「罪を許すのは将の計略」という道理も理解せずに処刑した六波羅の裁定を人々は「不当だった」と口々に言うが、ほどなくして彼ら自身が滅亡するとは何と皮肉なことか。情け(慈悲)は人のためならぬ(巡り巡って自分に返るものだ)。 解説
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| 余に驕を極めつゝ、雅意に任て振舞へば、武運も早く尽にけり。因果の道理を知るならば、可有心事共也。 |
度が過ぎて傲慢になりながら、自分勝手に振る舞えば、戦いの幸運もすぐに尽きてしまった。因果応報の道理を知っているならば、心すべき事があるのだ。 解説
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| input text 太平記\007_太平記_巻7.txt | 現代日本語 translated text | ||||||||||||
| 太平記 太平記巻第七 ○吉野城軍事 元弘三年正月十六日、二階堂出羽入道道蘊、六万余騎の勢にて大塔宮の篭らせ給へる吉野の城へ押寄る。菜摘河の川淀より、城の方を向上たれば、嶺には白旗・赤旗・錦の旗、深山下風に吹なびかされて、雲歟花歟と怪まる。麓には数千の官軍、冑の星を耀かし鎧の袖を連ねて、錦繍をしける地の如し。峯高して道細く、山嶮して苔滑なり。されば幾十万騎の勢にて責る共、輒く落すべしとは見へざりけり。同十八日の卯刻より、両陣互に矢合せして、入替々々責戦。官軍は物馴たる案内者共なれば、斯のつまり彼の難所に走散て、攻合せ開合せ散々に射る。寄手は死生不知の坂東武士なれば、親子打るれ共不顧、主従滅れども不屑、乗越々々責近づく。夜昼七日が間息をも不続相戦に、城中の勢三百余人打れければ、寄手も八百余人打れにけり。況乎矢に当り石に被打、生死の際を不知者は幾千万と云数を不知。血は草芥を染、尸は路径に横はれり。され共城の体少もよわらねば、寄手の兵多くは退屈してぞ見へたりける。爰に此山の案内者とて一方へ被向たりける吉野の執行岩菊丸、己が手の者を呼寄て申けるは、「東条の大将金沢右馬助殿は、既に赤坂の城を責落して金剛山へ被向たりと聞ゆ。 |
『太平記』巻第七「吉野城軍事」元弘三年正月十六日、二階堂出羽入道道蘊が六万余騎の軍勢で大塔宮(護良親王)の籠る吉野城に迫ってきた。菜摘川の流れ沿いから城の方を見上げると、峰には白旗・赤旗・錦の旗が山風になびいて雲か花かと不思議に見える。麓には数千の官軍(後醍醐天皇側)が兜の星を輝かせ鎧の袖を連ねており、まるで刺繍を敷き詰めた地のように見えた。 峰は高く道は細く、山は険しく苔で滑りやすい。そのため何十万騎もの軍勢で攻めても簡単に落ちそうにはなかった。同十八日の卯刻(午前6時ごろ)から両陣営が矢を交わし合い、交互に入れ替わりながら攻防戦を繰り返した。官軍は地理に詳しい案内役たちだったので、要所や難所に散らばって自由自在に射かける。攻め手の関東武士たちは生死もかえりみず、親子が離ればなれになっても気にかけず主従が全滅しても意に介さず、次々と乗り越えて迫る。 昼夜を問わず七日間休まず戦った結果、城側は三百余人が討たれた一方で攻め手も八百余人の死者が出た。ましてや矢にあたり石に打たれて生死の境にある者は数えきれないほどだった。血は草や枯れ枝を染め屍は道端に横たわっていた。それでも城の守りは少しも弱らないため、攻撃側の兵士たちは大半が疲弊した様子に見えた。 ここで山の案内役として一方へ向かわせられていた吉野の執行・岩菊丸が配下を集めて言った。「東条(丹波国)の大将である金沢右馬助殿が、既に赤坂城を攻め落とし金剛山に向かったそうだ。」 解説
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| 当山の事我等案内者たるに依て、一方を承て向ひたる甲斐もなく、責落さで数日を送る事こそ遺恨なれ。倩事の様を按ずるに、此城を大手より責ば、人のみ被打て落す事有難し。推量するに、城の後の山金峯山には峻を憑で、敵さまで勢を置たる事あらじと覚るぞ。物馴たらんずる足軽の兵を百五十人すぐつて歩立になし、夜に紛れて金峯山より忍び入、愛染宝塔の上にて、夜のほの/゛\と明はてん時時の声を揚よ。城の兵鬨音に驚て度を失はん時、大手搦手三方より攻上て城を追落し、宮を生捕奉るべし。」とぞ下知しける。さらばとて、案内知たる兵百五十人をすぐて、其日の暮程より、金峯山へ廻て、岩を伝ひ谷を上るに、案の如く山の嶮きを憑けるにや、唯こゝかしこの梢に旗許を結付置て可防兵一人もなし。百余人の兵共、思の侭に忍入て、木の下岩の陰に、弓箭を臥て、冑を枕にして、夜の明るをぞ待たりける。あい図の比にも成にければ、大手五万余騎、三方より押寄て責上る。吉野の大衆五百余人、責口におり合て防戦ふ。寄手も城の内も、互に命を不惜、追上せ追下し、火を散してぞ戦たる。卦る処に金峯山より廻りたる、搦手の兵百五十人、愛染宝塔よりをり降て、在々所々に火を懸て、時の声をぞ揚たりける。 |
この山のことについては我々が案内者なのに、一方向だけを受け持って攻めた成果もなく、城を落とせず数日を過ごすのは実に悔しい。よく状況を見てみると、正面からこの城を攻めれば兵士たちが討たれるだけで陥落させるのは難しいだろう。推測するに城の背後にある金峯山は険しさゆえに敵も兵力を置いていないはずだ。地理に詳しい足軽兵150人を選抜して歩兵隊とし、夜闇に紛れて金峯山から潜入させよ。愛染宝塔の上で夜がほのぼのと明ける頃合いに鬨(とき)の声を上げるのだ。城兵たちはその音に驚いて混乱した瞬間、正面・裏手・側面の三方から攻め上がって城を落とし大塔宮(護良親王)を生け捕り申せ。」そう命じたのである。 そこで地理を知る兵150人を選び出し、その日の夕暮れ頃に金峯山へ回らせると、案の定険しい地形ゆえか木々の梢に旗印が結ばれてはいるものの防衛兵は一人もいない。百余人の兵たちは思うままに潜入し木陰や岩陰で弓矢を伏せ兜を枕にして夜明けを待った。 ちょうどその頃、正面軍五万余騎が三方から押し寄せ攻め上がる。吉野城の僧兵ら五百余人も各攻撃口へ降りて防戦した。攻城側も城内勢も互いに命をも惜しまず追い上げたり引き下がったり火花を散らすような激しい戦闘となった。 その折に金峯山から回り込んだ裏手部隊150人が愛染宝塔から降り立ち、至る所で火をつけ鬨の声をあげたのである。 解説
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| 吉野の大衆前後の敵を防ぎ兼て、或は自腹を掻切て、猛火の中へ走入て死るも有、或は向ふ敵に引組で、指ちがへて共に死るもあり。思々に討死をしける程に、大手の堀一重は、死人に埋りて平地になる。去程に、搦手の兵、思も寄ず勝手の明神の前より押寄て、宮の御坐有ける蔵王堂へ打て懸りける間、大塔宮今は遁れぬ処也。と思食切て、赤地の錦の鎧直垂に、火威の鎧のまだ巳の刻なるを、透間もなくめされ、竜頭の冑の緒をしめ、白檀磨の臑当に、三尺五寸の小長刀を脇に挟み、劣らぬ兵二十余人前後左右に立、敵の靉て引へたる中へ走り懸り、東西を掃ひ、南北へ追廻し、黒煙を立て切て廻らせ給ふに、寄手大勢也。と云へ共、纔の小勢に被切立て、木の葉の風に散が如く、四方の谷へ颯とひく。敵引ば、宮蔵王堂の大庭に並居させ給て、大幕打揚て、最後の御酒宴あり。宮の御鎧に立所の矢七筋、御頬さき二の御うで二箇所つかれさせ給て、血の流るゝ事滝の如し。然れ共立たる矢をも不抜、流るゝ血をも不拭、敷皮の上に立ながら、大盃を三度傾させ給へば、木寺相摸四尺三寸の太刀の鋒に、敵の頚をさし貫て、宮の御前に畏り、「戈■剣戟をふらす事電光の如く也。磐石巌を飛す事春の雨に相同じ。然りとは云へ共、天帝の身には近づかで、修羅かれが為に破らる。 |
吉野城の僧兵たちは前後の敵に対応しきれず、ある者は自ら腹を切り裂いて猛火の中へ飛び込み死ぬ者もあり、また向かってきた敵に組みつき刺し違えて共倒れになる者もいた。各自が思い思いに討ち死にするうちに正面の堀一つは死人で埋まり平地のようになった。 その時、裏手から回り込んだ奇襲部隊150人が予想外に勝手明神前から押し寄せ、護良親王(大塔宮)がいらっしゃった蔵王堂へ攻めかかったため、「もはや逃れられぬ」と覚悟を決めた親王は赤地の錦の鎧直垂をお召しになり、まだ午前10時頃というのに火威の鎧の隙間なく着込み、竜頭の冑の緒を締められた。白檀磨りの脛当てを付け三尺五寸の小長刀を脇に挟み、屈強な兵士二十余人が前後左右に立つ中で敵陣へ突進していく。 東西を掃い払い南北へ追い回すように黒煙を立てながら切り込まれると、攻め手は大軍とはいえわずかな人数に斬り倒され木の葉が風に散るかのごとく四方の谷へ敗走した。敵が退くと親王は蔵王堂の広庭で陣座し幕を張らせ最後の酒宴を開かれた。 親王の鎧には七本もの矢が刺さり、頬先二ヶ所・両腕二ヶ所に傷をお受けになり流れる血は滝のように激しかった。それでも立っている矢も抜かず流れる血も拭わず、敷皮の上に立ちながら大杯を三度傾けられた。 すると木寺相模という者が四尺三寸の太刀の先に敵将の首を貫いて親王の前にひれ伏し言った。「矛や剣戟(武器)をお振るいになる様は電光のようであり、岩をも飛ばす勢いは春の雨と似ています。しかし天帝(貴方)には近づけず修羅がかえって破れるのです。」 解説
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| 」と、はやしを揚て舞たる有様は、漢・楚の鴻門に会せし時、楚の項伯と項荘とが、剣を抜て舞しに、樊■庭に立ながら、帷幕をかゝげて項王を睨し勢も、角やと覚る許也。大手の合戦事急也。と覚て、敵御方の時の声相交りて聞へけるが、げにも其戦に自ら相当る事多かりけりと見へて、村上彦四郎義光鎧に立処の矢十六筋、枯野に残る冬草の、風に臥たる如くに折懸て、宮の御前に参て申けるは、「大手の一の木戸、云甲斐なく責破られつる間、二の木戸に支て数刻相戦ひ候つる処に、御所中の御酒宴の声、冷く聞へ候つるに付て参て候。敵既にかさに取上て、御方気の疲れ候ぬれば、此城にて功を立ん事、今は叶はじと覚へ候。未敵の勢を余所へ回し候はぬ前に、一方より打破て、一歩落て可有御覧と存候。但迹に残り留て戦ふ兵なくば、御所の落させ給ふ者也。と心得て、敵何く迄もつゞきて追懸進せつと覚候へば、恐ある事にて候へ共、めされて候錦の御鎧直垂と、御物具とを下給て、御諱の字を犯して敵を欺き、御命に代り進せ候はん。」と申ければ、宮、「争でかさる事あるべき、死なば一所にてこそ兎も角もならめ。」と仰られけるを、義光言ばを荒らかにして、「かゝる浅猿き御事や候。漢の高祖■陽に囲れし時、紀信高祖の真似をして楚を欺かんと乞しをば、高祖是を許し給ひ候はずや。 |
(木寺相模が)「」と言って囃子を上げて舞った様子は、漢と楚が鴻門で会見した時、楚の項伯と項荘が剣を抜いて舞い、樊噲が庭に立ちながら帷幄(いまく)を押し上げて項王を睨みつけた勢いに似ていると思われた。正面戦闘は緊迫しており、敵味方の鬨(とき)の声が入り混じって聞こえたことからも、実際に多くの激しい交戦があったようだ。村上彦四郎義光の鎧には十六本もの矢が立っていたが、枯れ野に残る冬草のように風でなびき折れたまま親王の御前に進み出て申し上げた。「正面第一門は抗う術もなく突破されましたので、第二門で数時間防戦しておりましたところ、宮中での酒宴のお声が冷たく聞こえ参りました。敵はすでに勢いを得て味方は疲れ切っていますゆえ、この城で功を立てるのはもう不可能でしょう。まだ敵軍の主力が移動しないうちに一方から突破し、一歩退いて情勢をご覧になるべきです。ただし後衛として残って戦う兵がいなければ宮様は落命されましょう。(こう考え)追撃してくる敵には私が代わりにお立ち向かいします。恐れ多いことですが、(親王の)お召しになっている錦の鎧直垂と甲冑をお渡しいただき、御名を騙って敵を欺いてご身命に替わります。」と言うと、親王は「どうしてそんなことがあろうか?死ぬなら同じ場所でこそ本望だ」とおっしゃった。すると義光が言葉を荒らげて「これは浅慮なお振る舞いです!漢の高祖が滎陽(けいよう)に包囲された時、紀信が高祖になりすまして楚軍を欺こうと願い出たことを高祖はお許しになったではありませんか。」 解説
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| 是程に云甲斐なき御所存にて、天下の大事を思食立ける事こそうたてけれ。はや其御物具を脱せ給ひ候へ。」と申て、御鎧の上帯をとき奉れば、宮げにもとや思食けん、御物の具・鎧直垂まで脱替させ給ひて、「我若生たらば、汝が後生を訪べし。共に敵の手にかゝらば、冥途までも同じ岐に伴ふべし。」と被仰て、御涙を流させ給ひながら、勝手の明神の御前を南へ向て落させ給へば、義光は二の木戸の高櫓に上り、遥に見送り奉て、宮の御後影の幽に隔らせ給ぬるを見て、今はかうと思ひければ、櫓のさまの板を切落して、身をあらはにして、大音声を揚て名乗けるは、「天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ。」と云侭に、鎧を脱で櫓より下へ投落し、錦の鎧直垂の袴許に、練貫の二小袖を押膚脱で、白く清げなる膚に刀をつき立て、左の脇より右のそば腹まで一文字に掻切て、腸掴で櫓の板になげつけ、太刀を口にくわへて、うつ伏に成てぞ臥たりける。大手・搦手の寄手是を見て、「すはや大塔宮の御自害あるは。我先に御頚を給らん。」とて、四方の囲を解て一所に集る。 |
親王がこれほど道理に反したお考えで天下の大事をお決めになるとは残念なことです。早くその甲冑をお脱ぎください。」そう言って義光が鎧の上帯を解くと、親王も「確かに」と思われたのか、武具から鎧直垂まですべてお取り替えになり、「もし私が生き延びたら汝(あなた)の菩提を弔うだろう。共に敵の手にかかるならば黄泉路まで同行する。」とおっしゃり涙を流しながら勝手明神前から南へ落ち延びられた。 義光は二ノ門の高櫓に登って遠くを見送り、親王の姿がかすかに見えなくなると覚悟を決め、櫓の羽目板を切り落として身を現し大声で名乗った。「天照大神の御子孫である神武天皇より九十五代目の帝・後醍醐天皇第二皇子、一品兵部卿護良親王(大塔宮)尊仁が逆臣のために亡ぼされようとしている。この恨みを泉下に報いるため今自害する姿を見届けよ。お前たちの武運尽きて腹を切る時の手本とするがよい。」そう言い終えると鎧を脱いで櫓から投げ捨て、錦の直垂袴の裾から練貫(ねりぬき)の小袖二枚をまくり上げると、白く清らかな肌に刀をつきたて左脇腹から右腰まで一直線に切り裂いた。内臓をつかみ取って櫓の板へ投げつけると太刀を口にくわえ、うつ伏せになって倒れた。 大手・搦手(からめて)からの攻め手はこれを見て「大塔宮が自害なされたぞ!我々が先に首を持ち帰れ!」と言い四方の包囲網を解いて一箇所に集まった。 解説
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| 其間に宮は差違へて、天の河へぞ落させ給ける。南より廻りける吉野の執行が勢五百余騎、多年の案内者なれば、道を要りかさに廻りて、打留め奉んと取篭る。村上彦四郎義光が子息兵衛蔵人義隆は、父が自害しつる時、共に腹を切んと、二の木戸の櫓の下まで馳来りたりけるを、父大に諌て、「父子の義はさる事なれ共、且く生て宮の御先途を見はて進せよ。」と、庭訓を残しければ、力なく且くの命を延て、宮の御供にぞ候ける。落行道の軍、事既に急にして、打死せずば、宮落得させ給はじと覚ければ、義隆只一人蹈留りて、追てかゝる敵の馬の諸膝薙では切すへ、平頚切ては刎落させ、九折なる細道に、五百余騎の敵を相受て、半時許ぞ支たる。義隆、節、石の如く也。といへ共、其身金鉄ならざれば、敵の取巻て射ける矢に、義隆既に十余箇所の疵を被てけり。死ぬるまでも猶敵の手にかゝらじとや思けん、小竹の一村有ける中へ走入て、腹掻切て死にけり。村上父子が敵を防ぎ、討死しける其間に、宮は虎口に死を御遁有て、高野山へぞ落させ給ける。出羽入道々蘊は、村上が宮の御学をして、腹を切たりつるを真実と心得て、其頚を取て京都へ上せ、六波羅の実検にさらすに、ありもあらぬ者の頚也。と申ける。獄門にかくるまでもなくて、九原の苔に埋れにけり。 |
その間に親王は巧みに避けて天ノ川へ落ち延びられた。南から回り込んだ吉野執行の軍勢五百余騎は、長年の土地勘があるため道を遮るように迂回し、取り押さえようと包囲した。 村上彦四郎義光の息子・兵衛蔵人義隆は、父が自害する時に共に腹を切ろうと二ノ門の櫓下まで駆けつけたところ、父は強く諌めて「親子の情はわかるが、しばらく生きて親王様の無事を見届けるのだ」と言い残した。そのためやむなく命をつなぎ親王のお供をしていた。 落ち延びる途中で追撃軍の攻勢が激しく、このままでは親王が助からないと悟った義隆はただ一人踏み留まり、迫る敵の馬の脚を薙いで切り倒し、首を平らに刎ね飛ばすなどして、九十九折りの細道で五百余騎の敵を受け止め半時ほど防戦した。義隆の志操は石のように固かったが、彼自身が金鉄ではないため包囲され射かけられた矢により、既に十余箇所も傷を負っていた。「死ぬ最後まで敵に捕まるまい」と思ったか、竹林のある村の中へ走り込み腹を掻き切って果てた。 村上父子が敵を防ぎ戦死している間に親王は危険から逃れ高野山へ落ち延びられた。出羽入道(足利方の武将)は村上が親王に成りすまして自害したことを真実と勘違いし、その首級を持って京都へ上ると六波羅で検分させたが「ありもしない者の首だ」と言われたため獄門にかけることもなく野辺に埋もれてしまった。 解説
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| 道蘊は吉野の城を攻落したるは、専一の忠戦なれ共、大塔宮を打漏し奉りぬれば、猶安からず思て、軈て高野山へ押寄、大塔に陣を取て、宮の御在所を尋求けれ共、一山の衆徒皆心を合て宮を隠し奉りければ、数日の粉骨甲斐もなくて、千剣破の城へぞ向ひける。 ○千剣破城軍事 千剣破城の寄手は、前の勢八十万騎に、又赤坂の勢吉野の勢馳加て、百万騎に余りければ、城の四方二三里が間は、見物相撲の場の如く打囲で、尺寸の地をも余さず充満たり。旌旗の風に翻て靡く気色は、秋の野の尾花が末よりも繁く、剣戟の日に映じて耀ける有様は、暁の霜の枯草に布るが如く也。大軍の近づく処には、山勢是が為に動き、時の声の震ふ中には、坤軸須臾に摧けたり。此勢にも恐ずして、纔に千人に足ぬ小勢にて、誰を憑み何を待共なきに、城中にこらへて防ぎ戦ける楠が心の程こそ不敵なれ。此城東西は谷深く切て人の上るべき様もなし。南北は金剛山につゞきて而も峯絶たり。されども高さ二町許にて、廻り一里に足ぬ小城なれば、何程の事か有べき〔と〕、寄手是を見侮て、初一両日の程は向ひ陣をも取ず、責支度をも用意せず、我先にと城の木戸口の辺までかづきつれてぞ上たりける。城中の者共少しもさはがず、静まり帰て、高櫓の上より大石を投かけ/\、楯の板を微塵に打砕て、漂ふ処を差つめ/\射ける間、四方の坂よりころび落、落重て手を負、死をいたす者、一日が中に五六千人に及べり。 |
道蘊(出羽入道)が吉野城を攻め落としたのは大きな手柄だが、大塔宮(護良親王)を取り逃がしたのでまだ安心できず、すぐに高野山へ押し寄せて大塔寺に陣取り、宮のお隠れ場所を探した。しかし一山の僧侶たち皆が心を一つにして宮をかくまったため数日の苦労もむなしく、千剣破城(ちはやじょう)へ向かった。 ○千剣破城戦記 この大軍にも屈せずわずか千人足らずの小勢で頼る者もない中、城内に踏みとどまって防戦する楠木正成の心胆こそ無敵である。城は東西が深い谷で登れず南北には金剛山へ続く断崖絶壁だが高さ二町(約218m)、周囲一里未満の小城ゆえ「大したことあるまい」と攻め手は侮り、初日は陣形も整えず準備もしないで我先に木戸口付近まで押し寄せ登った。城内の兵たちは微動だにせず静かに高櫓から次々巨石を落とし盾板を粉砕すると散らばる敵めがけて矢を射たため四方坂上では転落者が重なり死傷者は一日で五、六千人にも達した。 解説
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| 長崎四郎左衛門尉、軍奉行にて有ければ、手負死人の実検をしけるに、執筆十二人、夜昼三日が間筆をも置ず注せり。さてこそ、「今より後は、大将の御許なくして、合戦したらんずる輩をば却て罪科に行るべし。」と触られければ、軍勢暫軍を止て、先己が陣々をぞ構へける。爰に赤坂の大将金沢右馬助、大仏奥州に向て宣ひけるは、「前日赤坂を攻落しつる事、全く士卒の高名に非ず。城中の構を推し出して、水を留て候しに依て、敵程なく降参仕候き。是を以て此城を見候に、是程纔なる山の巓に用水有べし共覚候はず。又あげ水なんどをよその山より懸べき便も候はぬに、城中に水卓散に有げに見ゆるは、如何様東の山の麓に流たる渓水を、夜々汲歟と覚て候。あはれ宗徒の人々一両人に仰付られて、此水を汲せぬ様に御計候へかし。」と被申ければ、両大将、「此義可然覚候。」とて、名越越前守を大将として其勢三千余騎を指分て、水の辺に陣を取せ、城より人をり下りぬべき道々に、逆木を引てぞ待懸ける。楠は元来勇気智謀相兼たる者なりければ、此城を拵へける始用水の便をみるに、五所の秘水とて、峯通る山伏の秘して汲水此峯に有て、滴る事一夜に五斛許也。此水いかなる旱にもひる事なければ、如形人の口中を濡さん事相違あるまじけれ共、合戦の最中は或は火矢を消さん為、又喉の乾く事繁ければ、此水許にては不足なるべしとて、大なる木を以て、水舟を二三百打せて、水を湛置たり。 |
長崎四郎左衛門尉が軍奉行であったため、負傷者と死者の確認を行っているうちに記録係十二人が昼夜三日間休まず書き続けた。そこで「今後は大将の許可なく戦う者は逆に罪とする」という命令が出されたので軍勢はいったん攻撃を止め各自陣地を構築した。 この時赤坂方面の大将である金沢右馬助が大仏奥州(足利方総大将)に向かって進言した。「先日赤坂城を落としたのは兵士たちの手柄ではなく、敵方が城外に水路を作り水を溜めていたのが切れたため降伏したのです。この点から見ると今回の城はこんな狭い山頂に水源があるとは思えず他山からの引水管も不可能なのに城内で豊富に水を使っている様子です。おそらく東側山麓の渓流を夜間に汲み上げているのでしょう。どうか僧兵たち数名を派遣しこの水源への接近を阻止してください」と申したところ両大将「その案は妥当だ」として名越越前守を指揮官に三千余騎を分遣させ水辺付近に布陣させ城から降りて来そうな道筋には逆茂木(さかもぎ)という障害物を設置して待ち伏せした。 楠木正成は元々勇気と知略を兼ね備えた人物ゆえこの城を築いた当初から水源対策を見据えており「五所の秘水」と呼ばれる峰で山伏が秘密裏に汲む湧き水があり一晩で約百升(当時の計量単位)溜まる。これはどんな日照りでも枯れないので平時は兵士たちの渇きを癒すのに十分だったが戦闘中は火矢消しや喉の乾燥が多いため不十分と判断し巨大な木を使って貯水槽二百~三百個を作り常に満たしておいた。 解説
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| 又数百箇所作り双べたる役所の軒に継樋を懸て、雨ふれば、霤を少しも余さず、舟にうけ入れ、舟の底に赤土を沈めて、水の性を損ぜぬ様にぞ被拵たりける。此水を以て、縦ひ五六十日雨不降ともこらへつべし。其中に又などかは雨降事無らんと、了簡しける智慮の程こそ浅からね。されば城よりは強に此谷水を汲んともせざりけるを、水ふせぎける兵共、夜毎に機をつめて、今や/\と待懸けるが、始の程こそ有けれ、後には次第々々に心懈り、機緩て、此水をば汲ざりけるぞとて、用心の体少し無沙汰にぞ成にける。楠是を見すまして、究竟の射手をそろへて二三百人夜に紛て城よりをろし、まだ篠目の明けはてぬ霞隠れより押寄せ、水辺に攻て居たる者共、二十余人切伏て、透間もなく切て懸りける間、名越越前守こらへ兼て、本の陣へぞ引れける。寄手数万の軍勢是を見て、渡り合せんとひしめけ共、谷を隔て尾を隔たる道なれば、輒く馳合する兵もなし。兎角しける其間に、捨置たる旗・大幕なんど取持せて、楠が勢、閑に城中へぞ引入ける。其翌日城の大手に三本唐笠の紋書たる旗と、同き文の幕とを引て、「是こそ皆名越殿より給て候つる御旗にて候へ、御文付て候間他人の為には無用に候。御中の人々是へ御入候て、被召候へかし。 |
さらに数百個作った建物の軒にはといをつけ、雨が降れば一滴も無駄にせず貯水槽へ流し込み、桶底には赤土を沈めて水質が悪くならないように工夫していた。この水があれば仮に五六十日雨が降らなくても持ちこたえられるはずだった。「その間にどうして雨が降らないことがあろうか」と計算する知恵の深さは見事である。 だから城内から強引にあの谷川の水を汲みにも行かなかったため、水源封鎖部隊は毎晩警戒し「今こそ来るぞ」と待ち構えていたが、初めのうちだけ続き次第に気が緩んで機敏さを失い、「もう水は汲みに来ないのだろう」と言って警備も形骸化していた。楠木はこの隙を見逃さず精鋭の射手二三百人を選び夜陰紛れて城から降ろし、未明の薄暗がりの中を急襲した。水辺で守っていた兵二十数名を斬り伏せると間髪入れず攻め立てたため名越越前守は耐えきれず本陣へ敗走した。 攻城側数万の軍勢はこれを見て反撃しようと騒いだが、谷や尾根で隔たれた道では簡単に駆けつける兵もなく手をこまねいている間に、放置されていた旗・大幕などを奪い取った楠木勢がゆっくり城内へ引き上げていった。 翌日城の大手門には三本骨唐笠紋入りの旗と同文様の幕を掲げて「これは皆名越殿から頂戴した御旗である。証拠も付いているので他所で使うな」と言い放ち、「味方たちはここへ参上して返還を受けるがよい」と呼びかけた。 解説
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| 」と云て、同音にどつと笑ければ、天下の武士共是を見て、「あはれ名越殿の不覚や。」と、口々に云ぬ者こそ無りけれ。名越一家の人々此事を聞て、安からぬ事に被思ければ、「当手の軍勢共一人も不残、城の木戸を枕にして、討死をせよ。」とぞ被下知ける。依之彼手の兵五千余人、思切て討共射共用ず、乗越々々城の逆木一重引破て、切岸の下迄ぞ攻たりける。され共岸高して切立たれば、矢長に思へ共のぼり得ず、唯徒に城を睨、忿を押へて息つぎ居たり。此時城の中より、切岸の上に横へて置たる大木十計切て落し懸たりける間、将碁倒をする如く、寄手四五百人圧に被討て死にけり。是にちがはんとしどろに成て騒ぐ処を、十方の櫓より指落し、思様に射ける間、五千余人の兵共残すくなに討れて、其日の軍は果にけり。誠志の程は猛けれ共、唯し出したる事もなくて、若干討れにければ、「あはれ恥の上の損哉。」と、諸人の口遊は猶不止。尋常ならぬ合戦の体を見て、寄手も侮りにくゝや思けん、今は始の様に、勇進で攻んとする者も無りけり。長崎四郎左衛門尉此有様を見て、「此城を力責にする事は、人の討るゝ計にて、其功成難し。唯取巻て食責にせよ。」と下知して、軍を被止ければ、徒然に皆堪兼て、花の下の連歌し共を呼下し、一万句の連歌をぞ始たりける。 |
そう言って一斉にドッと笑うと、周囲の武士たちはこれを見て「なんという名越殿の失態だ」と言わない者は一人もいなかった。名越一族の人々がこの件を聞いて落ち着かなく思い悩んだため、「担当部隊の兵士全員は城門に突撃して枕にしてでも戦死しろ」と命令した。それによりその部隊五千人余りは覚悟を決め、攻撃も射撃もしないで、次々に乗り越えて城の逆茂木(障害物)一重を引き破り切り立った崖下まで攻めたてた。 しかし岸が高く垂直なので矢では届かず登ることもできず、ただ無為に城を見つめ怒りを押さえ息をついていた。その時城内から崖上に並べられていた大木十本ほどを切り落としたため、将棋倒しのように攻撃側四五百人が圧死した。「これで反撃だ」と混乱して騒ぐところへ四方の櫓(矢倉)から一斉に狙い射ちされたので五千余人の兵はほとんど討たれその日の戦いは終わった。 誠意や勇気は強かったが成果もなく多数が死んだため「なんという恥の上の損害だ」と人々の噂話はなお止まなかった。尋常ではない戦いぶりを見て攻撃側も侮れないと思ったのか、初期のように勇敢に進んで攻めようとする者は皆無になった。 長崎四郎左衛門尉がこの様子を見て「力攻めでは味方が死ぬだけで成功は難しい。ただ包囲して兵糧攻めにするだけだ」と指示し軍を止めたため、退屈した全員我慢できず連歌師(詠み手)を呼び寄せ一万句の連歌を始めてしまった。 解説
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| 其初日の発句をば長崎九郎左衛門師宗、さき懸てかつ色みせよ山桜としたりけるを、脇の句、工藤二郎右衛門尉嵐や花のかたきなるらんとぞ付たりける。誠に両句ともに、詞の縁巧にして句の体は優なれども、御方をば花になし、敵を嵐に喩へければ、禁忌也。ける表事哉と後にぞ思ひ知れける。大将の下知に随て、軍勢皆軍を止ければ、慰む方や無りけん、或は碁・双六を打て日を過し、或は百服茶・褒貶の歌合なんどを翫で夜を明す。是にこそ城中の兵は中々被悩たる心地して、心を遣方も無りける。少し程経て後、正成、「いでさらば、又寄手たばかりて居眠さまさん。」とて、芥を以て人長に人形を二三十作て、甲冑をきせ兵杖を持せて、夜中に城の麓に立置き、前に畳楯をつき双べ、其後ろにすぐりたる兵五百人を交へて、夜のほの/゛\と明ける霞の下より、同時に時をどつと作る。四方の寄手時の声を聞て、「すはや城の中より打出たるは、是こそ敵の運の尽る処の死狂よ。」とて我先にとぞ攻合せける。城の兵兼て巧たる事なれば、矢軍ちとする様にして大勢相近づけて、人形許を木がくれに残し置て、兵は皆次第々々に城の上へ引上る。寄手人形を実の兵ぞと心得て、是を打んと相集る。正成所存の如く敵をたばかり寄せて、大石を四五十、一度にばつと発す。 |
その初日の連歌の発句は長崎九郎左衛門師宗が「さき懸てかつ色みせよ山桜」と詠んだところ、脇句として工藤二郎右衛門尉が「嵐や花のかたきなるらん」と付け加えた。確かに両方の句は言葉のつながりが巧みで風情も優れているものの、味方を花(弱く儚い存在)に例え敵を嵐(破壊的な力)に見立てていたため不吉だった。「この表現は禁忌だ」と後になって気づいたのである。 大将の命令に従って軍勢が戦闘停止したため暇つぶしもなく、兵士たちは碁や双六で時間を過ごしたり茶会や歌合戦などをもてあそんで夜を明かしていた。これにより城内(楠木側)の兵士らは非常に悩ましい気分になり対処法もなかった。 少し時が経った後、正成は「さあそれでは敵にまた騙されて眠り込ませよう」と言い藁で等身大の人形を二三十体作り甲冑を着せ武器を持たせて夜中に城の麓に立てかけた。その前方には盾を並べ後方には選抜した兵五百人を配備し、夜明け前の薄暗がりの中から一斉に鬨の声を上げた。 四方の攻城側はこの鬨の声を聞いて「ついに城内から打って出てきたか。これこそ敵(楠木)の命運尽きる最後の突撃だ」と言い我先にと攻め寄せ合った。城兵たちは事前に用意していた通り偽装戦闘のように見せかけ大勢が近づくと人形だけを木陰に残し、全員少しずつ城上へ撤退した。 攻城側は人形を本物の兵士と思い込み攻撃しようと集まったところで正成の狙い通り敵をおびき寄せると四五十もの大石を一度にバッと落とした。 解説
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| 一所に集りたる敵三百余人、矢庭に被討殺、半死半生の者五百余人に及り。軍はてゝ是を見れば、哀大剛の者哉と覚て、一足も引ざりつる兵、皆人にはあらで藁にて作れる人形也。是を討んと相集て、石に打れ矢に当て死せるも高名ならず、又是を危て進得ざりつるも臆病の程顕れて云甲斐なし。唯兎にも角にも万人の物笑ひとぞ成にける。是より後は弥合戦を止ける間、諸国の軍勢唯徒に城を守り上て居たる計にて、するわざ一も無りけり。爰に何なる者か読たりけん、一首の古歌を翻案して、大将の陣の前にぞ立たりける。余所にのみ見てやゝみなん葛城のたかまの山の峯の楠軍も無てそゞろに向ひ居たるつれ/゛\に、諸大将の陣々に、江口・神崎の傾城共を呼寄て、様々の遊をぞせられける。名越遠江入道と同兵庫助とは伯叔甥にて御座けるが、共に一方の大将にて、責口近く陣を取り、役所を双てぞ御座ける。或時遊君の前にて双六を打れけるが、賽の目を論じて聊の詞の違ひけるにや、伯叔甥二人突違てぞ死れける。両人の郎従共、何の意趣もなきに、差違へ差違へ、片時が間に死る者二百余人に及べり。城の中より是を見て、「十善の君に敵をし奉る天罰に依て、自滅する人々の有様見よ。」とぞ咲ける。誠に是直事に非ず。 |
一箇所に集まった敵兵三百人余りが即座に殺され、瀕死や重傷の者五百人以上となった。戦闘終了後にこれを見ると「なんというお粗末なことか」と気づくのだが、全く退かなかった兵士は皆人間ではなく藁で作られた人形だったのである。これを討とうと集まって石に潰され矢に当たって死んだ者は手柄にならず、また危険を恐れて進めなかった者も臆病さが露呈し弁解の余地がない。結局あらゆることが皆の笑い種となった。 この後ますます戦闘は停止したため、諸国の軍勢はただ無為に城を見上げて固守るだけで何もしない状態だった。そこである者が一首の古歌を改作し大将陣前へ掲げた:「他所ばかり見て飽きる葛城の高間山か その峰の楠(敵)もなし退屈して向かい合う」。諸大将は各々の陣に江口や神崎の遊女たちを呼び寄せ、様々な遊興にふけった。 名越遠江入道と同兵庫助は伯父甥関係だったが共に一方の大将として攻撃口近くに並んで陣取っていた。ある時遊君(女性)の前で双六を打ち賽の目について些細な言葉の行き違いから伯甥二人突っかかり合って死んだのである。両者の家来たちは理由もないのに斬りあい始め、瞬く間に死者二百人以上に及んだ。 城の中ではこれを見て「十善戒を守る天皇に敵対する天罰によって自滅した者らの様子を見よ」と嘲笑った。誠にこれは尋常な事ではないのである。 解説
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| 天魔波旬の所行歟と覚て、浅猿かりし珍事也。同三月四日関東より飛脚到来して、「軍を止て徒に日を送る事不可然。」と被下知ければ、宗との大将達評定有て、御方の向ひ陣と敵の城との際に、高く切立たる堀に橋を渡して、城へ打て入んとぞ巧まれける。為之京都より番匠を五百余人召下し、五六八九寸の材木を集て、広さ一丈五尺、長さ二十丈余に梯をぞ作らせける。梯既に作り出しければ、大縄を二三千筋付て、車木を以て巻立て、城の切岸の上へぞ倒し懸たりける。魯般が雲の梯も角やと覚て巧也。軈て早りおの兵共五六千人、橋の上を渡り、我先にと前だり。あはや此城只今打落されぬと見へたる処に、楠兼て用意やしたりけん、投松明のさきに火を付て、橋の上に薪を積るが如くに投集て、水弾を以て油を滝の流るゝ様に懸たりける間、火橋桁に燃付て、渓風炎を吹布たり。憖に渡り懸りたる兵共、前へ進んとすれば、猛火盛に燃て身を焦す、帰んとすれば後陣の大勢前の難儀をも不云支たり。そばへ飛をりんとすれば、谷深く巌そびへて肝冷し、如何せんと身を揉で押あふ程に、橋桁中より燃折て、谷底へどうど落ければ、数千の兵同時に猛の中へ落重て、一人も不残焼死にけり。其有様偏に八大地獄の罪人の刀山剣樹につらぬかれ、猛火鉄湯に身を焦す覧も、角やと被思知たり。 |
これはまるで天魔波旬(悪魔)の仕業かと思われるほど不気味で奇妙な事件だった。同じ三月四日、関東から早馬が到着し「戦闘を停止して無駄に時を過ごすことは許されない」と命令があったため、大将たちは評議を開き、自軍の陣地と敵城との境にある深く切り立った堀に橋を架け城内へ突入しようと企んだ。 解説
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| 去程に吉野・戸津河・宇多・内郡の野伏共、大塔宮の命を含で、相集る事七千余人、此の峯彼〔の〕谷に立隠て、千剣破寄手共の往来の路を差塞ぐ。依之諸国の兵の兵粮忽に尽て、人馬共に疲れければ、転漕に怺兼て百騎・二百騎引て帰る処を、案内者の野伏共、所々のつまり/゛\に待受て、討留ける間、日々夜々に討るゝ者数を知ず。希有にして命計を助かる者は、馬・物具を捨、衣裳を剥取れて裸なれば、或は破たる蓑を身に纏て、膚計を隠し、或は草の葉を腰に巻て、恥をあらはせる落人共、毎日に引も切らず十方へ逃散る。前代未聞の恥辱也。されば日本国の武士共の重代したる物具・太刀・刀は、皆此時に至て失にけり。名越遠江入道、同兵庫助二人は、無詮口論して共に死給ぬ。其外の軍勢共、親は討るれば子は髻を切てうせ、主疵を被れば、郎従助て引帰す間、始は八十万騎と聞へしか共、今は纔に十万余騎に成にけり。 ○新田義貞賜綸旨事 上野国住人新田小太郎義貞と申は、八幡太郎義家十七代の後胤、源家嫡流の名家也。然共平氏世を執て四海皆其威に服する時節なれば、無力関東の催促に随て金剛山の搦手にぞ被向ける。爰に如何なる所存歟出来にけん、或時執事船田入道義昌を近づけて宣ひける、「古より源平両家朝家に仕へて、平氏世を乱る時は、源家是を鎮め、源氏上を侵す日は平家是を治む。 |
これより先、吉野・戸津河・宇多・内郡の野伏たちが大塔宮(護良親王)の命令を受け集結し七千余人に達した。彼らはこの峰あの谷に潜み、千早城攻めの幕府軍の補給路を遮断した。そのため諸国の兵士の食糧は尽き、人馬ともに疲弊した。輸送隊が耐えかねて百騎・二百騎単位で帰還する途中を、地形に詳しい野伏たちが各所の要地で待ち伏せ討ち取ったので、日夜問わず倒される者の数は分からないほどだった。 奇跡的に命だけ助かった者は馬や武具を捨て、衣服を剥ぎ取られ裸となる。破れた蓑を身にまとって肌を隠す者もいれば草の葉で腰を覆うなど恥ずかしい姿の敗残兵たちが絶え間なく四方へ逃げ散った。前代未聞の屈辱である。このため日本の武士たちが代々受け継いだ武具・太刀・刀類は全てこの時に失われた。 名越遠江入道と同兵庫助の二人は無意味な争いで共に亡くなり、他の軍勢も親が討たれれば子は髻を切って逃亡し、主君が傷つけば家臣が支えながら退却した。当初八十万騎と言われた兵力は今やわずか十万余騎になっていた。 ○新田義貞綸旨下賜の事 ある時義貞は執事の船田入道義昌を近くに呼びこう語った:「昔から源平両家は朝廷に仕え、平氏が世を乱す時は源家がこれを鎮め、源氏が上(天皇)を侵せば平家が治めてきた。 解説
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| 義貞不肖也。と云へ共、当家の門■として、譜代弓矢の名を汚せり。而に今相摸入道の行迹を見に滅亡遠に非ず。我本国に帰て義兵を挙、先朝の宸襟を休め奉らんと存ずるが、勅命を蒙らでは叶まじ。如何して大塔宮の令旨を給て、此素懐を可達。」と問給ければ、舟田入道畏て、「大塔宮は此辺の山中に忍て御座候なれば、義昌方便を廻して、急で令旨を申出し候べし。」と、事安げに領掌申て、己が役所へぞ帰ける。其翌日舟田己が若党を三十余人、野伏の質に出立せて、夜中に葛城峯へ上せ、我身は落行勢の真似をして、朝まだきの霞隠に、追つ返つ半時計どし軍をぞしたりける、宇多・内郡の野伏共是を見て、御方の野伏ぞと心得、力を合せん為に余所の峯よりおり合て近付たりける処を、舟田が勢の中に取篭て、十一人まで生捕てげり。舟田此生捕どもを解脱して潛に申けるは、「今汝等をたばかり搦取たる事、全誅せん為に非ず。新田殿本国へ帰て、御旗を挙んとし給ふが、令旨なくては叶まじければ、汝等に大塔宮の御坐所を尋問ん為に召取つる也。命惜くば案内者して、此方の使をつれて、宮の御座あんなる所へ参れ。」と申ければ、野伏ども大に悦て、「其御意にて候はゞ、最安かるべき事にて候。此中に一人暫の暇を給候へ、令旨を申出て進せ候はん。 |
新田義貞が言うには:「私は無能ではありますが、源家一門として代々受け継いだ武士の名誉を汚してしまいました。しかし今、相模入道(北条高時)の行いを見れば滅亡は近いと分かります。本国に帰って義兵を挙げ先帝(後醍醐天皇)のご心労をお慰めしたいのですが、勅命がなければ実現できません。どうにか大塔宮から令旨を得てこの願いを果たせないでしょうか」と尋ねると、船田入道は畏まって「大塔宮様はこの辺りの山中に潜んでおられますので、私義昌が策を用いて急ぎ令旨を取り次ぎましょう」と安請け合いし自らの役所へ帰った。 翌日、船田は配下の若党三十余人を野伏への人質として装わせ夜中に葛城峰へ向かわせた。自身は敗走軍のふりをして朝まだきの霞の中「追う」「戻る」と半時ほど偽りの戦闘を行った。宇多・内郡の野伏たちがこれを見て味方と思い込み、協力しようと別の峰から降りて近づいたところを船田勢に包囲され十一人生け捕られた。 船田は捕虜らを解放し密かに言う:「お前たちを騙して捕えたのは皆殺しにするためではない。新田殿が本国帰還後挙兵しようとしているが令旨なしでは叶わぬので、大塔宮様の居場所をお前たちに尋ねるために捉えたのだ。命が惜しいなら案内役となり我々の使者を連れて宮様のもとへ行け」と告げると野伏らは大喜びで「そのお考えでしたら最も安易な方法です。この中から一人だけ暫くの暇を与えてください。令旨を取り次いで参上しましょう」。 解説
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| 」と申て、残り十人をば留置、一人宮の御方へとてぞ参ける。今や/\と相待処に、一日有て令旨を捧て来れり。開て是を見に、令旨にはあらで、綸旨の文章に書れたり。其詞云、被綸言称敷化理万国者明君徳也。撥乱鎮四海者武臣節也。頃年之際、高時法師一類、蔑如朝憲恣振逆威。積悪之至、天誅已顕焉。爰為休累年之宸襟、将起一挙之義兵。叡感尤深、抽賞何浅。早運関東征罰策、可致天下静謐之功。者、綸旨如此。仍執達如件。元弘三年二月十一日左少将新田小太郎殿綸旨の文章、家の眉目に備つべき綸言なれば、義貞不斜悦て、其翌日より虚病して、急ぎ本国へぞ被下ける。宗徒の軍をもしつべき勢共は兎に角に事を寄て国々へ帰ぬ。兵粮運送の道絶て、千剣破の寄手以外に気を失へる由聞へければ、又六波羅より宇都宮をぞ下されける。紀清両党千余騎寄手に加はて、未屈荒手なれば、軈て城の堀の際まで責上て、夜昼少しも不引退、十余日までぞ責たりける。此時にぞ、屏の際なる鹿垣・逆木皆被引破て、城も少し防兼たる体にぞ見へたりける。され共紀清両党の者とても、斑足王の身をもからざれば天をも翔り難し。竜伯公が力を不得ば山をも擘難し。余に為方や無りけん、面なる兵には軍をさせて後なる者は手々に鋤・鍬を以て、山を掘倒さんとぞ企ける。 |
船田入道がこう言い残りの十人は留め置き、一人だけ大塔宮のもとへ向かわせた。「今や!」という気持ちで待っているところに、一日後に令旨を捧げ持って帰ってきた。開封してみると令旨ではなく綸旨の文章が書かれていた。その内容は次の通りである:「国々を治めるのは賢明な君主の徳であり、乱世を鎮めて天下を平定するのは武人の本分である。近年において高時法師(北条高時)一味は朝廷の掟を軽んじ逆賊として勝手気ままに振る舞っている。悪事が積もり天罰がすでに現れているゆえ、長年の天皇陛下のお心労をお慰めするため一挙に義兵を起こそう。そのお志への感動は深く賞賛の念は浅からぬものがある。早急に関東征伐の策を講じ天下太平をもたらす功績を上げよ。」という綸旨であった。 この文章は家門にとって名誉となる勅命であるため、義貞は大いに喜んで翌日から仮病を使い急ぎ本国へ下向した。本来なら宗徒(幕府軍)に加わるべき兵士たちも何かと理由をつけて各々の国へ帰ってしまった。 兵糧輸送路が断たれ千剣破城攻めの幕府軍以外は意気消沈しているとの報せを聞いた六波羅探題(北条方)は宇都宮公綱らを派遣した。紀清両党(武士団)千余騎が加勢し、荒々しい彼らはすぐに城の堀際まで攻め上った。昼夜問わず全く退かず十数日間も猛攻撃を続けた。 この時ついに屏風のように並んだ鹿垣や逆茂木(防御柵)が破られ、城防衛にも支障が出ている様子に見えた。しかし紀清両党の者たちといえど、「斑足王(飛鳥時代の伝説人物)のような神通力がない限り天を翔けられず、竜伯公(中国神話の巨人)ほどの力を得なければ山さえ裂けない」状態でどうしようもなかった。そこで前面の兵に攻撃させながら後方の者はそれぞれ鍬や鋤を持って「山そのものを掘り崩そう」と企て始めた。 解説
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| げにも大手の櫓をば、夜昼三日が間に、念なく掘り崩してけり。諸人是を見て、唯始より軍を止て掘べかりける物を、と後悔して、我も我もと掘けれ共、廻り一里に余れる大山なれば左右なく掘倒さるべしとは見へざりけり。 ○赤松蜂起事 去程に楠が城強くして、京都は無勢也。と聞へしかば、赤松二郎入道円心、播磨国苔縄の城より打て出で、山陽・山陰の両道を差塞ぎ、山里・梨原の間に陣をとる。爰に備前・備中・備後・安芸・周防の勢共、六波羅の催促に依て上洛しけるが、三石の宿に打集て、山里の勢を追払て通んとしけるを、赤松筑前守舟坂山に支て、宗との敵二十余人を生捕てけり。然共赤松是を討せずして、情深く相交りける間、伊東大和二郎其恩を感じて、忽に武家与力の志を変じて、官軍合体の思をなしければ、先己が館の上なる三石山に城郭を構へ、軈て熊山へ取上りて、義兵を揚たるに、備前の守護加治源二郎左衛門一戦に利を失て、児嶋を指て落て行。是より西国の路弥塞て、中国の動乱不斜。西国より上洛する勢をば、伊東に支へさせて、後は思も無りければ、赤松軈て高田兵庫助が城を責落して、片時も足を不休、山陰道を指して責上る。路次の軍勢馳加て、無程七千余騎に成にけり。此勢にて六波羅を責落さん事は案の内なれ共、若戦ひ利を失事あらば、引退て、暫く人馬をも休ん為に、兵庫の北に当て、摩耶と云山寺の有けるに、先城郭を構て、敵を二十里が間に縮めたり。 |
なるほど大手門の櫓については、昼夜わずか三日間で何の問題もなく掘り崩してしまった。兵士たちはこれを見て「最初から戦闘を止めて掘削に専念すべきだった」と後悔し、我先にと掘り始めたものの、周囲一里以上もある大山では到底倒せるとは思えなかった。 ○赤松挙兵の件 まず自らの館の背後にある三石山に城郭を築き、すぐ熊山へ移って挙兵すると、備前守護加治源二郎左衛門は一戦で敗れ児島へ落ち延びた。これより西国街道は完全封鎖され中国地方は大混乱となった。伊東が西国からの上洛軍を阻止してくれたため後顧の憂いなく、赤松は直ちに高田兵庫助(貞経)の城を攻め落とし休む間もなく山陰道へ進攻した。途中で味方が加わり瞬く間に七千余騎となり、この兵力で六波羅攻略は可能と思われたが万が一敗れた際の退路確保のため兵庫北部にある摩耶という山寺に城郭を築き敵軍を二十里手前まで押し戻した。 解説
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| ○河野謀叛事 六波羅には、一方の打手にはと被憑ける宇都宮は千剣破の城へ向ひつ、西国の勢は伊東に被支て不上得、今は四国勢を摩耶の城へは向べしと被評定ける処に、後の二月四日、伊予国より早馬を立て、「土居二郎・得能弥三郎、宮方に成て旗をあげ、当国の勢を相付て土佐国へ打越る処に、去月十二日長門の探題上野介時直、兵船三百余艘にて当国へ推渡り、星岡にして合戦を致す処に、長門・周防の勢一戦に打負て、死人・手負其数を不知。剰時直父子行方を不知云云。其より後四国の勢悉土居・得能に属する間、其勢已に六千余騎、宇多津・今張の湊に舟をそろへ、只今責上んと企候也。御用心有べし。」とぞ告たりける。 ○先帝船上臨幸事 畿内の軍未だ静ならざるに、又四国・西国日を追て乱ければ、人の心皆薄氷を履で国の危き事深淵に臨が如し。抑今如斯天下の乱るゝ事は偏に先帝の宸襟より事興れり。若逆徒差ちがふて奪取奉んとする事もこそあれ、相構て能々警固仕べしと、隠岐判官が方へ被下知ければ、判官近国の地頭・御家人を催して日番・夜廻隙もなく、宮門を閉て警固し奉る。閏二月下旬は、佐々木富士名判官が番にて、中門の警固に候けるが、如何が思けん、哀此君を取奉て、謀叛を起さばやと思心ぞ付にける。 |
○河野謀反の件 ○先帝船上臨幸の件 解説
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| され共可申入便も無て、案じ煩ひける処に、或夜御前より官女を以て御盃を被下たり。判官是を給て、よき便也。と思ければ、潛に彼官女を以て申入けるは、「上様には未だ知し召れ候はずや、楠兵衛正成金剛山に城を構て楯篭候し処に、東国勢百万余騎にて上洛し、去二月の初より責戦候といへ共、城は剛して寄手已に引色に成て候。又備前には伊東大和二郎、三石と申所に城を構て、山陽道を差塞ぎ候。播磨には赤松入道円心、宮の令旨を給て、摂津国まで責上り、兵庫の摩耶と申処に陣を取て候。其勢已に三千余騎、京を縮め地を略して勢近国に振ひ候也。四国には河野の一族に、土居二郎・得能弥三郎、御方に参て旗を挙候処に、長門の探題上野介時直、彼に打負て、行方を不知落行候し後、四国の勢悉く土居・得能に属し候間、既に大船をそろへて、是へ御迎に参るべし共聞へ候。又先京都を責べし共披露す。御聖運開べき時已に至ぬとこそ覚て候へ。義綱が当番の間に忍やかに御出候て、千波の湊より御舟に被召、出雲・伯耆の間、何れの浦へも風に任て御舟を被寄、さりぬべからんずる武士を御憑候て、暫く御待候へ。義綱乍恐責進せん為に罷向体にて、軈て御方に参候べし。」とぞ奏し申ける。官女此由を申入ければ、主上猶も彼偽てや申覧と思食れける間、義綱が志の程を能々伺御覧ぜられん為に、彼官女を義綱にぞ被下ける。 |
○佐々木道誉の密通計画 解説
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| 判官は面目身に余りて覚ける上、最愛又甚しかりければ、弥忠烈の志を顕しける。「さらば汝先出雲国へ越て、同心すべき一族を語て御迎に参れ。」と被仰下ける程に、義綱則出雲へ渡て塩冶判官を語ふに、塩冶如何思けん、義綱をゐこめて置て、隠岐国へ不帰。主上且くは義綱を御待有けるが、余に事滞りければ、唯運に任て御出有んと思食て、或夜の宵の紛に、三位殿の御局の御産の事近付たりとて、御所を御出ある由にて、主上其御輿にめされ、六条少将忠顕朝臣計を召具して、潛に御所をぞ御出有ける。此体にては人の怪め申べき上、駕輿丁も無りければ、御輿をば被停て、悉も十善の天子、自ら玉趾を草鞋の塵に汚して、自ら泥土の地を踏せ給けるこそ浅猿けれ。比は三月二十三日の事なれば、月待程の暗き夜に、そこ共不知遠き野の道を、たどりて歩せ給へば、今は遥に来ぬ覧と被思食たれば、迹なる山は未滝の響の風に聞ゆる程なり。若追懸進する事もやある覧と、恐しく思食ければ、一足も前へと御心許は進め共、いつ習はせ給べき道ならねば、夢路をたどる心地して、唯一所にのみやすらはせ給へば、こは如何せんと思煩ひて、忠顕朝臣、御手を引御腰を推て、今夜いかにもして、湊辺までと心遣給へ共、心身共に疲れ終て、野径の露に徘徊す。 |
○後醍醐天皇隠岐脱出行の経緯 解説
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| 夜いたく深にければ、里遠からぬ鐘の声の、月に和して聞へけるを、道しるべに尋寄て、忠顕朝臣或家の門を扣き、「千波湊へは何方へ行ぞ。」と問ければ、内より怪げなる男一人出向て、主上の御有様を見進せけるが、心なき田夫野人なれ共、何となく痛敷や思進せけん、「千波湊へは是より纔五十町許候へ共、道南北へ分れて如何様御迷候ぬと存候へば、御道しるべ仕候はん。」と申て、主上を軽々と負進せ、程なく千波湊へぞ着にける。爰にて時打鼓の声を聞けば、夜は未だ五更の初也。此道の案内者仕たる男、甲斐々々敷湊中を走廻、伯耆の国へ漕もどる商人舟の有けるを、兎角語ひて、主上を屋形の内に乗せ進せ、其後暇申てぞ止りける。此男誠に唯人に非ざりけるにや、君御一統の御時に、尤忠賞有べしと国中を被尋けるに、我こそ其にて候へと申者遂に無りけり。夜も已に明ければ、舟人纜を解て順風に帆を揚、湊の外に漕出す。船頭主上の御有様を見奉て、唯人にては渡らせ給はじとや思ひけん、屋形の前に畏て申けるは、「加様の時御船を仕て候こそ、我等が生涯の面目にて候へ、何くの浦へ寄よと御定に随て、御舟の梶をば仕候べし。」と申て、実に他事もなげなる気色也。忠顕朝臣是を聞き給て、隠しては中々悪かりぬと思はれければ、此船頭を近く呼寄て、「是程に推し当られぬる上は何をか隠すべき、屋形の中に御座あるこそ、日本国の主、悉も十善の君にていらせ給へ。 |
○後醍鶐天皇の奇跡的脱出成功 解説
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| 汝等も定て聞及ぬらん、去年より隠岐判官が館に被押篭て御座ありつるを、忠顕盜出し進せたる也。出雲・伯耆の間に、何くにてもさりぬべからんずる泊へ、急ぎ御舟を着てをろし進せよ。御運開ば、必汝を侍に申成て、所領一所の主に成べし。」と被仰ければ、船頭実に嬉しげなる気色にて、取梶・面梶取合せて、片帆にかけてぞ馳たりける。今は海上二三十里も過ぬらんと思ふ処に、同じ追風に帆懸たる舟十艘計、出雲・伯耆を指て馳来れり。筑紫舟か商人舟かと見れば、さもあらで、隠岐判官清高、主上を追奉る舟にてぞ有ける。船頭是を見て、「角ては叶候まじ、是に御隠れ候へ。」と申て、主上と忠顕朝臣とを、舟底にやどし進せて、其上に、あひ物とて乾たる魚の入たる俵を取積で、水手・梶取其上に立双で、櫓をぞ押たりける。去程に追手の舟一艘、御座舟に追付て、屋形の中に乗移り、こゝかしこ捜しけれ共、見出し奉らず。「さては此舟には召ざりけり。若あやしき舟や通りつる。」と問ければ、船頭、「今夜の子の刻計に、千波湊を出候つる舟にこそ、京上臈かと覚しくて、冠とやらん着たる人と、立烏帽子着たる人と、二人乗せ給て候つる。其舟は今は五六里も先立候ぬらん。」と申ければ、「さては疑もなき事也。 |
○後醍鶐天皇脱出行の決定的瞬間 解説
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| 早、舟をおせ。」とて、帆を引梶を直せば、此舟は軈て隔ぬ。今はかうと心安く覚て迹の浪路を顧れば、又一里許さがりて、追手の舟百余艘、御坐船を目に懸て、鳥の飛が如くに追懸たり。船頭是を見て帆の下に櫓を立て、万里を一時に渡らんと声を帆に挙て推けれ共、時節風たゆみ、塩向て御舟更に不進。水手・梶取如何せんと、あはて騒ぎける間、主上船底より御出有て、膚の御護より、仏舎利を一粒取出させ給て、御畳紙に乗せて、波の上にぞ浮られける。竜神是に納受やした〔り〕けん、海上俄に風替りて、御坐船をば東へ吹送り、追手の船をば西へ吹もどす。さてこそ主上は虎口の難の御遁有て、御船は時間に、伯耆の国名和湊に着にけり。六条少将忠顕朝臣一人先舟よりおり給て、「此辺には何なる者か、弓矢取て人に被知たる。」と問れければ、道行人立やすらひて、「此辺には名和又太郎長年と申者こそ、其身指て名有武士にては候はね共、家富一族広して、心がさある者にて候へ。」とぞ語りける。忠顕朝臣能々其子細を尋聞て、軈て勅使を立て被仰けるは、「主上隠岐判官が館を御逃有て、今此湊に御坐有。長年が武勇兼て上聞に達せし間、御憑あるべき由を被仰出也。憑まれ進せ候べしや否、速に勅答可申。」とぞ被仰たりける。 |
○後醍鶐天皇奇跡的救出と名和長年登場 解説
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| 名和又太郎は、折節一族共呼集て酒飲で居たりけるが、此由を聞て案じ煩たる気色にて、兎も角も申得ざりけるを、舎弟小太郎左衛門尉長重進出て申けるは、「古より今に至迄、人の望所は名と利との二也。我等悉も十善の君に被憑進て、尸を軍門に曝す共名を後代に残ん事、生前の思出、死後の名誉たるべし。唯一筋に思定させ給ふより外の儀有べしとも存候はず。」と申ければ、又太郎を始として当座に候ける一族共二十余人、皆此儀に同じてけり。「されば頓て合戦の用意候べし。定て追手も迹より懸り候らん。長重は主上の御迎に参て、直に船上山へ入進せん。旁は頓て打立て、船上へ御参候べし。」と云捨て、鎧一縮して走り出ければ、一族五人腹巻取て投懸々々、皆高紐しめて、共に御迎にぞ参じける。俄の事にて御輿なんども無りければ、長重着たる鎧の上に荒薦を巻て、主上を負進せ、鳥の飛が如くして舟上へ入奉る。長年近辺の在家に人を廻し、「思立事有て舟上に兵粮を上る事あり。我倉の内にある所の米穀を、一荷持て運びたらん者には、銭を五百づゝ取らすべし。」と触たりける間、十方より人夫五六千人出来して、我劣らじと持送る。一日が中に兵粮五千余石運びけり。其後家中の財宝悉人民百姓に与て、己が館に火をかけ、其勢百五十騎にて、船上に馳参り、皇居を警固仕る。 |
名和又太郎(長年)はちょうど一族を呼び集めて酒宴中だったが、天皇到着の知らせを聞き悩んだ表情で返答できずにいた。すると弟・小太郎左衛門尉長重が進み出て言った。「古から今まで人が求めるのは名誉と利益だけだ。私たち全員が徳高い君主(後醍鶐天皇)に忠誠を尽くし、戦場で死ぬとしても名を後世に残すことこそ生きている時の誇りであり死後の誉れです。これ以外の選択はありえません」。この言葉により又太郎から始まり同席していた一族二十人余り全員が賛同した。「ならば直ちに戦闘準備だ。追手もすぐ来るだろう。長重は陛下を迎えに行き船上山へ直接お連れする。皆は急いで陣を固めて山上で待て」と言い残すと、鎧を一気につけて走り出たため一族五人も腹巻(簡易甲冑)を取り投げかけ帯を締め直し共に迎えに向かった。 解説
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| 長年が一族名和七郎と云ける者、武勇の謀有ければ、白布五百端有けるを旗にこしらへ、松の葉を焼て煙にふすべ、近国の武士共の家々の文を書て、此の木の本、彼の峯にぞ立置ける。此旗共峯の嵐に吹れて、陣々に翻りたる様、山中に大勢充満したりと見へてをびたゝし。 ○船上合戦事 去程に同二十九日、隠岐判官、佐々木弾正左衛門、其勢三千余騎にて南北より押寄たり。此舟上と申は、北は大山に継き峙ち、三方は地僻に、峯に懸れる白雲腰を廻れり。俄に拵へたる城なれば、未堀の一所をも不掘、屏の一重をも不塗、唯所々に大木少々切倒して、逆木にひき、坊舎の甍を破て、かひ楯にかける計也。寄手三千余騎、坂中まで責上て、城中をきつと向上たれば、松柏生茂ていと深き木陰に、勢の多少は知ね共、家々の旗四五百流、雲に翻り、日に映じて見へたり。さては早、近国の勢共の悉馳参りたりけり。此勢許にては責難しとや思けん、寄手皆心に危て不進得。城中の勢共は、敵に勢の分際を見へじと、木陰にぬはれ伏て、時々射手を出し、遠矢を射させて日を暮す。卦る所に一方の寄手なりける佐々木弾正左衛門尉、遥の麓にひかへて居たりけるが、何方より射る共しらぬ流矢に、右の眼を射ぬかれて、矢庭に伏て死にけり。 |
名和一族の七郎という武勇に優れた者が白布五百端(約500反)を使って旗を作り、松葉を焼いて煙で燻すと共に近国の武士宛ての偽文書を書き、「この山麓やあの峰々」に立てた。これらの旗が峯の強風になびき陣地一面に翻る様は山中に大軍が充満しているように見え、非常に威圧的だった。 ○船上合戦 攻め手三千余騎は坂中まで迫ったが、城中を見上げると松柏が深く生い茂る陰に旗印が四五百流も雲になびき陽に輝いて見えた。「近国の兵が全員駆けつけたのだ」と思わせたためか攻め手は危険を感じて進軍できず、城中の兵士たちは敵に兵力を見せまいと木陰に潜み時折射手を出して遠矢を射かけ時間を稼いだ。 解説
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| 依之其手の兵五百余騎色を失て軍をもせず。佐渡前司は八百余騎にて搦手へ向たりけるが、俄に旗を巻、甲を脱で降参す。隠岐判官は猶加様の事をも不知、搦手の勢は、定て今は責近きぬらんと心得て、一の木戸口に支て、悪手を入替々々、時移るまでぞ責たりける。日已に西山に隠れなんとしける時、俄に天かき曇り、風吹き雨降事車軸の如く、雷の鳴事山を崩すが如し。寄手是におぢわなゝひて、斯彼の木陰に立寄てむらがり居たる所に、名和又太郎長年舎弟太郎左衛門長重、小次郎長生が、射手を左右に進めて散々に射させ、敵の楯の端のゆるぐ所を、得たりや賢しと、ぬきつれて打てかゝる。大手の寄手千余騎、谷底へ皆まくり落されて、己が太刀・長刀に貫れて命を墜す者其数を不知。隠岐判官計辛き命を助りて、小舟一艘に取乗、本国へ逃帰りけるを、国人いつしか心替して、津々浦々を堅めふせぎける間、波に任せ風に随て、越前の敦賀へ漂ひ寄たりけるが、幾程も無して、六波羅没落の時、江州番馬の辻堂にて、腹掻切て失にけり。世澆季に成ぬといへ共、天理未だ有けるにや、余に君を悩し奉りける隠岐判官が、三十余日が間に滅びはてゝ、首を軍門の幢に懸られけるこそ不思儀なれ。主上隠岐国より還幸成て、船上に御座有と聞へしかば、国々の兵共の馳参る事引も不切。 |
そのため佐々木軍の兵500騎以上は血気が引き撤退した。一方、佐渡前司(清高)率いる800余騎は裏手から攻め寄せていたが突然旗を巻き甲冑を脱いで降伏した。隠岐判官(佐々木清高の弟か)はこの状況を知らず「裏手部隊はもうすぐ攻めてくるはずだ」と思い込み、一つの城門に陣取って兵士を次々入れ替えながら時間ばかり浪費していた。 日が西山に沈みかけようとする時、突然空が暗くなり車輪のように激しい雨風が吹き荒れ雷鳴が山崩れのごとく轟いた。攻撃側はこれにおびえて木陰に群がっているところへ名和又太郎長年の弟・太郎左衛門長重や小次郎長生が弓兵を左右から進めさせて一斉射撃を浴びせた。「敵の盾の隙だ!」と叫んで突入し斬り込んだ結果、正面部隊1000余騎は谷底へ転落し自軍の太刀や薙刀に貫かれて死ぬ者が数知れず。ただ隠岐判官だけが辛うじて脱出し小船で本国を目指したが領民たちが離反して港を封鎖していたため、風任せに漂流して越前国敦賀へ流れ着いた。 ほどなく六波羅探題滅亡時(1333年5月)、近江国の番馬辻堂で自害することとなった。「末世とはいえ天の道理はまだ存在するのか」と人々が噂した隠岐判官——天皇を苦しめた彼がわずか30日余りで滅び首級が晒されたのは不思議な巡り合わせだった。後醍院天皇が隠岐国から還幸され船上山に行宮を構えたとの報は全国に広まり、諸国の兵士たちの参集が続くのだった。 解説
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| 先一番に出雲の守護塩谷判官高貞、富士名判官と打連、千余騎にて馳参る。其後浅山二郎八百余騎、金持の一党三百余騎、大山衆徒七百余騎、都て出雲・伯耆・因幡、三箇国の間に、弓矢に携る程の武士共の参らぬ者は無りけり。是のみならず、石見国には沢・三角の一族、安芸国に熊谷・小早河、美作国には菅家の一族・江見・方賀・渋谷・南三郷、備後国に江田・広沢・宮・三吉、備中に新見・成合・那須・三村・小坂・河村・庄・真壁、備前に今木・大富太郎幸範・和田備後二郎範長・知間二郎親経・藤井・射越五郎左衛門範貞・小嶋・中吉・美濃権介・和気弥次郎季経・石生彦三郎、此外四国九州の兵までも聞伝々々、我前にと馳参りける間、其勢舟上山に居余りて、四方の麓二三里は、木の下・草の陰までも、人ならずと云所は無りけり。 |
まず先陣として出雲の守護・塩谷判官高貞が富士名判官と連れ立ち千余騎で参上した。その後、浅山二郎率いる八百余騎、金持一族三百余騎、大山寺衆徒七百余騎などが出雲・伯耆・因幡の三か国から弓を取る武士全員が続々と集結した。 これだけではなく石見国では沢氏や三角氏一族が、安芸国から熊谷氏・小早川氏が、美作国には菅家一門・江見氏・方賀氏・渋谷氏・南三郷衆が続いた。備後国からは江田氏・広沢氏・宮氏・三吉氏が、備中では新見氏・成合氏・那須氏・三村氏・小坂氏・河村氏・庄氏・真壁氏が駆けつけた。 さらに備前勢として今木氏や大富太郎幸範、和田備後二郎範長、知間二郎親経ら二十余名の武将が加わり、四国・九州からの兵も噂を聞き次々と「我先に」と参集した。そのため船上山には軍勢があふれ、四方の麓二三里(約8-12km)は木陰や草むらまで人で埋め尽くされ、人のいない場所など全くなかった。 解説
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| input text 太平記\008_太平記_巻8.txt | 現代日本語 translated text | |||||||||||||||||||||
| 太平記 太平記巻第八 ○摩耶合戦事付酒部瀬河合戦事 先帝已に船上に着御成て、隠岐判官清高合戦に打負し後、近国の武士共皆馳参る由、出雲・伯耆の早馬頻並に打て、六波羅へ告たりければ、事已に珍事に及びぬと聞人色を失へり。是に付ても、京近き所に敵の足をためさせては叶まじ。先摂津国摩耶の城へ押寄て、赤松を可退治とて、佐々木判官時信・常陸前司時知に四十八箇所の篝、在京人並三井寺法師三百余人を相副て、以上五千余騎を摩耶の城へぞ被向ける。其勢閏二月五日京都を立て、同十一日の卯刻に、摩耶の城の南の麓、求塚・八幡林よりぞ寄たりける。赤松入道是を見て、態敵を難所に帯き寄ん為に、足軽の射手一二百人を麓へ下して、遠矢少々射させて、城へ引上りけるを、寄手勝に乗て五千余騎、さしも嶮き南の坂を、人馬に息も継せず揉に々でぞ挙たりける。此山へ上るに、七曲とて岨く細き路あり。此所に至て、寄手少し上りかねて支へたりける所を、赤松律師則祐・飽間九郎左衛門尉光泰二人南の尾崎へ下降て、矢種を不惜散々に射ける間、寄手少し射しらまかされて、互に人を楯に成て其陰にかくれんと色めきける気色を見て、赤松入道子息信濃守範資・筑前守貞範・佐用・上月・小寺・頓宮の一党五百余人、鋒を双て大山の崩が如く、二の尾より打て出たりける間、寄手跡より引立て、「返せ。 |
後醍院天皇が船上山に到着され、隠岐判官清高が合戦で敗れた後に近国の武士たちが続々と参集しているとの報せを、出雲・伯耆からの早馬が相次いで六波羅探題へ伝えたため、「事態はすでに異常事態となった」と聞く者たちは青ざめた。これにより「都に近い場所で敵の足場を固めさせるわけにはいかない」と考え、まず摂津国摩耶城(現・神戸市)へ押し寄せて赤松氏を討伐しようと決断した。 佐々木判官時信と常陸前司時知に指揮させ、四十八箇所の篝火役、在京人衆および三井寺僧兵三百余人を含む総勢五千余騎が摩耶城へ派遣された。この軍勢は閏2月5日に京都を出発し、同11日卯刻(午前6時頃)に摩耶城南麓の求塚・八幡林から攻め寄せた。 これを見た赤松入道円心はわざと敵を険しい場所へ誘い込むため、軽装の弓兵一二百人を山麓へ下ろして少し矢を射かけさせて城へ引き上げる偽装作戦を実行。攻撃側が勢いに乗って五千余騎も狭く急峻な南坂道を一気に駆け上がろうとしたため、人馬ともに息継ぐ間もない混雑状態となった。 この山には「七曲り」と呼ばれる険しい細道がある。ここまで来た攻撃軍が登りきれず足止めされた瞬間、赤松方の律師則祐と飽浦九郎左衛門尉光泰の二人が南尾崎から降りて矢を惜しみなく射かけ始めたため、寄せ手は一時混乱して互いに盾代わりに隠れようともみ合う有様となった。 その隙を見逃さず赤松入道の息子である信濃守範資・筑前守貞範らが佐用氏・上月氏・小寺氏・頓宮党五百余人を率い、双鋒のように大山崩れのごとき勢いで第二尾根から突撃してきたため、攻撃軍は後退を余儀なくされ「引き返せ!」と叫ぶ声があちこちで上がった。 解説
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| 」と云けれ共、耳にも不聞入、我先にと引けり。其道或深田にして馬の蹄膝を過ぎ、或荊棘生繁て行く前き弥狭ければ、返さんとするも不叶、防がんとするも便りなし。されば城の麓より、武庫河の西の縁まで道三里が間、人馬上が上に重り死て行人路を去敢ず。向ふ時七千余騎と聞へし六波羅の勢、僅に千騎にだにも足らで引返しければ、京中・六波羅の周章不斜。雖然、敵近国より起て、属順ひたる勢さまで多しとも聞へねば、縦ひ一度二度勝に乗る事有とも、何程の事か可有と、敵の分限を推量て、引ども機をば不失。斯る所に、備前国の地頭・御家人も大略敵に成ぬと聞へければ、摩耶城へ勢重ならぬ前に討手を下せとて、同二十八日、又一万余騎の勢を被差下。赤松入動是を聞て、「勝軍の利、謀不意に出で大敵の気を凌で、須臾に変化して先ずるには不如。」とて三千余騎を率し、摩耶の城を出て、久々智・酒部に陣を取て待かけたり。三月十日六波羅勢、既に瀬河に着ぬと聞へければ、合戦は明日にてぞ有んずらんとて、赤松すこし油断して、一村雨の過けるほど物具の露をほさんと、僅なる在家にこみ入て、雨の晴間を待ける所に、尼崎より船を留めてあがりける阿波の小笠原、三千余騎にて押寄たり。赤松纔に五十余騎にて大勢の中へかけ入り、面も不振戦ひけるが、大敵凌ぐに叶はねば、四十七騎は被討て、父子六騎にこそ成にけれ。 |
「引き返せ!」と叫んだものの誰も耳を貸さず我先に退却した。道は深田で馬のひざまで沈む場所や、茨が生い茂り進路が狭まる地点ばかりだったため、反転攻勢もままならず防戦すらできない状態となった。その結果、城の麓から武庫川西岸までの三里(約12km)にわたり人馬が折り重なって死んで通行不能となる惨状を呈した。 当初七千余騎と伝えられた六波羅軍はかろうじて千騎足らずで撤退したため、京都全域・六波羅府内では大混乱が発生。それでも「敵の勢力範囲は近国に限られており、味方についた兵力もさほど多くないらしいから、仮に何度か敗れても致命傷にはならないだろう」と楽観視し、撤退したとはいえ態勢を崩すことはなかった。 そこへ備前国の地頭・御家人の大半が敵側に転じたとの報せが入ると、「摩耶城へ援軍が到着する前に討伐隊を差し向けよ」と命じられ、同年閏2月28日に新たな一万余騎が派遣された。これを知った赤松入道円心は「戦勝の利とは謀略で敵の不意をつき大軍の士気を挫くものだ(孫子兵法)。少しでも遅れれば不利になる」と判断し、三千余騎を率いて摩耶城を出撃。久々知・酒部に布陣して待ち構えた。 3月10日になって六波羅勢が瀬川到着との情報を得たため「合戦は明日だろう」と油断した赤松軍は、雨上がりの晴れ間を見て僅かな民家に分散し武具の手入れを始めた。その隙を突いて尼崎から船で上陸した阿波小笠原氏が三千余騎で急襲してきたのだ。 赤松勢はわずか五十騎程で大軍の中へ斬り込んで奮戦したものの、衆寡敵せず四十七騎が討たれ父子六騎のみにまで追い詰められた。 解説
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| 六騎の兵皆揆をかなぐり捨て、大勢の中へ颯と交りて懸まわりける間、敵是を知らでや有けん、又天運の助けにや懸りけん、何れも無恙して、御方の勢の小屋野の宿の西に、三千余騎にて引へたる其中へ馳入て、虎口に死を遁れけり。六波羅勢は昨日の軍に敵の勇鋭を見るに、小勢也。といへども、欺き難しと思ければ、瀬河の宿に引へて進み得ず。赤松は又敗軍の士卒を集め、殿れたる勢を待調ん為に不懸、互に陣を阻て未雌雄を決せず。丁壮そゞろに軍旅につかれなば、敵に気を被奪べしとて、同十一日赤松三千余騎にて、敵の陣へ押寄て、先づ事の体を伺ひ見に、瀬河の宿の東西に、家々の旗二三百流、梢の風に翻して、其勢二三万騎も有んと見へたり。御方を是に合せば、百にして其一二をも可比とは見へねども、戦はで可勝道な〔け〕れば、偏に只討死と志て、筑前守貞範・佐用兵庫助範家・宇野能登守国頼・中山五郎左衛門尉光能・飽間九郎左〔衛〕門尉光泰、郎等共に七騎にて、竹の陰より南の山へ打襄て進み出たり。敵是を見て、楯の端少し動て、かゝるかと見ればさもあらず、色めきたる気色に見へける間、七騎の人々馬より飛下り、竹の一村滋りたるを木楯に取て、差攻引攻散々にぞ射たりける。瀬川の宿の南北三十余町に、沓の子を打たる様に引へたる敵なれば、何かはゝづるべき。 |
六騎の兵士たちは全員鎧を脱ぎ捨て、大軍の中へ風のように突入して混乱させたため、敵がそれに気づかなかったのか、あるいは天運に助けられたからか、皆無事だった。味方勢力が小屋野宿(現・神戸市東灘区)の西に三千余騎で待機している陣営へ駆け込み、危機的状況から死を逃れたのである。 六波羅勢は前日の戦いで敵の勇猛さを見たため、「少数とはいえ侮れない」と警戒し、瀬川宿(現・神戸市東灘区)に留まったまま進軍できなかった。一方赤松円心は敗走した兵士を集結させ、遅れた部隊も待ち受ける構えで対峙が続き決着がつかない状況だった。「壮年の将兵さえ戦いに疲れれば敵の勢いにかき消される」と考えたため、同3月11日、赤松軍三千余騎は敵陣へ押し寄せて様子を偵察した。 瀬川宿の東西には家々に二百から三百本もの旗が立ち並び、梢で風になびく様子を見るとその兵力は二万から三万騎にも見えた。これに対する自軍では百対一かそれ以下の劣勢と思われたが、「戦わねば勝てぬ」と覚悟し、筑前守貞範・佐用兵庫助範家・宇野能登守国頼・中山五郎左衛門尉光能・飽浦九郎左衛門尉光泰ら主従七騎が竹林の陰から南の山へ回り込んで進んだ。 敵はこれを見て盾列を少し揺るがした。「攻撃か?」とも思われたが、慌てふためく様子が見えた瞬間に七人の武将たちは馬から飛び降り、茂った竹林を生きた楯代わりにして突いたり引いたりの自由行動で矢を次々と射かけた。瀬川宿の南北三十余町(約3.3km)に米粒のように密集して陣取っていた敵兵たちは隠れる場所もなく、どう逃れられるだろうか。 解説
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| 矢比近き敵二十五騎、真逆に被打落ければ、矢面なる人を楯にして、馬を射させじと立てかねたり。平野伊勢前司・佐用・上月・田中・小寺・八木・衣笠の若者共、「すはや敵は色めきたるは。」と、箙を叩き、勝時を作て、七百余騎轡を双べてぞ懸たりける。大軍の靡く僻なれば、六波羅勢前陣返せども後陣不続、行前は狭し、「閑に引け。」といへども耳にも不聞入、子は親を捨て郎等は主を知らで、我前にと落行ける程に、其勢大半討れて纔に京へぞ帰りける。赤松は手負・生捕の頚三百余、宿河原に切懸させて、又摩耶の城へ引返さんとしけるを、円心が子息帥律師則祐、進み出て申けるは、「軍の利は勝に乗て北るを追に不如。今度寄手の名字を聞に、京都の勢数を尽して向て候なる。此勢共今四五日は、長途の負軍にくたびれて、人馬ともに物の用に不可立。臆病神の覚ぬ前に続ひて責る物ならば、などか六波羅を一戦の中に責落さでは候べき。是太公が兵書に出て、子房が心底に秘せし所にて候はずや。」と云ければ、諸人皆此義に同じて、其夜軈て宿川原を立て、路次の在家に火をかけ、其光を手松にして、逃る敵に追すがうて責上りけり。 ○三月十二日合戦事 六波羅には斯る事とは夢にも知ず。摩耶の城へは大勢下しつれば、敵を責落さん事、日を過さじと心安く思ける。 |
矢が間近に飛んで敵二十五騎が真っ向から射落とされると、先陣の兵士たちは自分たちを盾代わりにして馬への攻撃を防ごうとした。平野伊勢前司・佐用・上月・田中・小寺・八木・衣笠の若武者たちが「敵はすでに動揺している!」と叫び、弓弦を鳴らして勝鬨を上げると七百余騎が一斉に出撃した。 大軍が崩れたため六波羅勢は前衛部隊が反転しようとしても後続が追従せず、進路は狭まるばかり。「落ち着いて退け」との命令も誰も聞かず、子は親を捨て郎党は主君を見失って我先に敗走した結果、大半の兵力が討たれ辛うじて京都へ逃げ帰ったのである。 赤松軍は負傷者と捕虜から三百余りの首級を取り宿河原(現・神戸市灘区)に晒そうとした時、円心の息子である帥律師則祐が進み出て提言した。「戦勝の機は勢いに乗じて敗走兵を追撃するのが最良です。今回攻めてきた敵将の名を見ると京都在住の有力武将総動員と判明しましたが、彼らは長途撤退で人馬ともに疲弊し役に立ちません。恐怖心が高まる前に追い討ちすれば六波羅軍を一挙に殲滅できるでしょう──これはまさしく呂尚(太公望)の兵法書に記され張良が実践した戦略です」 一同この意見に賛同し、その夜すぐ宿河原を発って道筋の民家へ放火。炎明りを頼りに逃亡する敵を追撃しながら進軍した。 (三月十二日の合戦について) 解説
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| 其左右を今や/\と待ける所に、寄手打負て逃上る由披露有て、実説は未聞。何とある事やらん、不審端多き所に、三月十二日申刻計に、淀・赤井・山崎・西岡辺三十余箇所に火を懸たり。「こは何事ぞ。」と問に、「西国の勢已に三方より寄たり。」とて、京中上を下へ返して騒動す。両六波羅驚ひて、地蔵堂の鐘を鳴し洛中の勢を被集けれども、宗徒の勢は摩耶の城より被追立、右往左往に逃隠れぬ。其外は奉行・頭人なんど被云て、肥脹れたる者共が馬に被舁乗て、四五百騎馳集りたれ共、皆只あきれ迷へる計にて、差たる義勢も無りけり。六波羅の北方、左近将監仲時、「事の体を見るに、何様坐ながら敵を京都にて相待ん事は、武略の足ざるに似〔た〕り。洛外に馳向て可防。」とて両検断隅田・高橋に、在京の武士二万余騎を相副て、今在家・作道・西の朱雀・西八条辺へ被差向。是は此比南風に雪とけて河水岸に余る時なれば、桂河を阻て戦を致せとの謀也。去程に赤松入道円心、三千余騎を二に分て、久我縄手・西の七条より押寄たり。大手の勢桂川の西の岸に打莅で、川向なる六波羅勢を見渡せば、鳥羽の秋山風に、家家の旗翩翻として、城南の離宮の西門より、作道・四塚・羅城門の東西、々の七条口まで支へて、雲霞の如に充満したり。 |
両軍はまさに激突しようと待ち構えている中で、「攻め手(六波羅勢)が敗退した」との報せがあったものの詳細不明。不審な点が多い状況下、3月12日夕刻頃に淀・赤井・山崎・西岡周辺三十ヶ所以上で火災発生。「これは何事か?」と問うと「西国(赤松)軍が三方から迫っている」との情報で京都は大混乱。両六波羅探題は驚き地蔵堂の鐘を鳴らして京中の兵力召集を図ったが、主力部隊は摩耶城攻略中に追い払われ散り散り。残る奉行・指揮官級の肥満した者たちが馬で担がれ集結しても呆然自失状態で戦力にならない。 六波羅北方(探題役)左近将監仲時は事態を見て「座して京都防衛は無策」と判断。隅田・高橋両検断に在京武士二万余騎を付けて今在家・作道・西朱雀・西八条方面へ派遣した。当時は南風で雪解け桂川が増水していたため、これを天然の堀として防衛線とする戦略である。 その間に赤松入道円心は三千余騎を二手に分け久我縄手と西七条から進軍。主力部隊が桂川西岸に着陣し対岸を見渡すと、鳥羽周辺では家々の旗が秋風になびき、城南離宮西門から作道・四塚・羅城門東西にかけ七条口まで敵兵が雲霞のように充満していた。 解説
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| されども此勢は、桂川を前にして防げと被下知つる其趣を守て、川をば誰も越ざりけり。寄手は又、思の外敵大勢なるよと思惟して、無左右打て懸らんともせず。只両陣互に川を隔て、矢軍に時をぞ移しける。中にも帥律師則祐、馬を踏放て歩立になり、矢たばね解て押くつろげ、一枚楯の陰より、引攻々々散々に射けるが、「矢軍許にては勝負を決すまじかり。」と独言して、脱置たる鎧を肩にかけ、胄の緒を縮、馬の腹帯を堅めて、只一騎岸より下に打下し、手縄かいくり渡さんとす。父の入道遥に見て馬を打寄せ、面に塞て制しけるは、「昔佐々木三郎が藤戸を渡し、足利又太郎が宇治川を渡たるは、兼てみほじるしを立て、案内を見置き、敵の無勢を目に懸て先をば懸し者也。河上の雪消水増りて、淵瀬も見へぬ大河を、曾て案内も知ずして渡さば可被渡歟。縦馬強くして渡る事を得たりとも、あの大勢の中へ只一騎懸入たらんは、不被討と云事可不有。天下の安危必しも此一戦に不可限。暫命を全して君の御代を待んと思ふ心のなきか。」と、再三強て止ければ、則祐馬を立直し、抜たる太刀を収て申けるは、「御方と敵と可対揚程の勢にてだに候はゞ、我と手を不砕とも、運を合戦の勝負に任て見候べきを、御方は僅に三千余騎、敵は是に百倍せり。 |
しかしこの軍勢(六波羅方)は、桂川の前で防げとの命令内容を守り、誰一人として川を渡ろうとしなかった。攻め手(赤松軍)もまた「予想外に敵が大軍だ」と考えて安易には攻撃せず、両陣営とも川を隔てた弓矢の応酬で時間を過ごした。 中でも帥律師則祐は馬から降り歩兵となり、背負った矢束を解いて自由に射かけていた。が、「矢戦だけでは決着つかない」と独り言し、脱いだ鎧を肩にかけ兜の紐を締め直し、単騎で岸から川へ乗り入れようとした。 父である入道(円心)は遠くから見て馬を走らせ遮り諫めた:「昔、佐々木三郎が藤戸を渡り足利又太郎が宇治川を渡ったのは事前に目印をつけ地形を見極め敵の少なさを知っての行動だ。雪解けで増水し水深も見えない大河を何の準備もなく渡れるはずがない。仮に強引に渡れたとしても、あの大軍の中へ単騎で突っ込めば確実に討ち死にする。天下の命運がこの戦いだけで決まるわけでもない。どうか命を大切にして朝廷再興(後醍醐天皇)をお待ち申すべきではあるまいか」 再三止められた則祐は馬を立て直し、抜いた太刀を収めて言った:「味方と敵が互角の兵力なら運を戦いに任せてみる所ですが、こちらはわずか三千騎なのに敵はその百倍もおります…(続く)」 解説
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| 急に戦を不決して、敵に無勢の程を被見透なば、雖戦不可有利。されば太公が兵道の詞に、「兵勝之術密察敵人之機、而速乗其利疾撃其不意」と云へり、是以吾困兵敗敵強陣謀にて候はぬや。」と云捨て、駿馬に鞭を進め、漲て流るゝ瀬枕に、逆波を立てぞ游がせける。見之飽間九郎左衛門尉・伊東大輔・川原林二郎・木寺相摸・宇野能登守国頼、五騎続ひて颯と打入たり。宇野と伊東は馬強して、一文字に流を截て渡る。木寺相摸は、逆巻水に馬を被放て、胄の手反許僅に浮で見へけるが、波の上をや游ぎけん、水底をや潛りけん、人より前に渡付て、川の向の流州に、鎧の水瀝てぞ立たりける。彼等五人が振舞を見て尋常の者ならずとや思けん、六波羅の二万余騎、人馬東西に僻易して敢て懸合せんとする者なし。剰楯の端しどろに成て色めき渡る所を見て、「前懸の御方打すな。続けや。」とて、信濃守範資・筑前守貞範真前に進めば、佐用・上月の兵三千余騎、一度に颯と打入て、馬筏に流をせきあげたれば、逆水岸に余り、流れ十方に分て元の淵瀬は、中々に陸地を行がご〔と〕く也。三千余騎の兵共、向の岸に打上り、死を一挙の中に軽せんと、進み勇める勢を見て、六波羅勢叶はじとや思けん、未戦前に、楯を捨て旗を引て、作道を北へ東寺を指て引も有、竹田川原を上りに、法性寺大路へ落もあり。 |
しかし則祐は「急いで戦わなければ敵に我々の少なさを見透かされ不利になる。太公望が兵法で『密かに敵情を察し速やかに不意を突け』と言う通りだ」と叫び、駿馬に鞭打って増水した流れへ飛び込み、逆巻く波を立てて泳ぎ始めた。これを見た飽間九郎左衛門尉・伊東大輔・川原林二郎・木寺相摸・宇野能登守国頼の五騎が続いて一気に突入した。 特に宇野と伊東は馬ごと真っ直ぐ流れを横切り、木寺相摸は逆流で馬から放り出されながらも、かろうじて頭だけ浮かべて泳ぎ渡り、対岸の砂州に鎧を滴らせて立った。この五騎の奮戦を見た六波羅勢二万余騎は動揺し、誰一人として立ち向かおうとしない。盾が乱れ騒ぐ様子を見た則祐が「前進する味方を止めるな!続け!」と呼ぶと、信濃守範資・筑前守貞範が先頭に立ったため佐用・上月の兵三千余騎も一斉に突入。 馬の集団(馬筏)で流れを遮った結果、逆流した水は岸を越え、川底があらわになるほど水量が分散した。こうして渡河した三千余騎の兵士たちが死をも軽んじて攻め寄せる勢いを見て六波羅勢は戦意喪失し、戦う前から盾を捨て旗を引き、作道方面へ逃げる者や竹田川原から法性寺大路へ敗走する者が続出した。 解説
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| 其道二三十町が間には、捨たる物具地に満て、馬蹄の塵に埋没す。去程に西七条の手、高倉少将の子息左衛門佐、小寺・衣笠の兵共、早京中へ責入たりと見へて、大宮・猪熊・堀川・油小路の辺、五十余箇所に火をかけたり。又八条、九条の間にも、戦有と覚へて、汗馬東西に馳違、時の声天地を響せり。唯大三災一時に起て、世界悉却火の為に焼失るかと疑はる。京中の合戦は、夜半許の事なれば、目ざすとも知らぬ暗き夜に、時声此彼に聞へて、勢の多少も軍立の様も見分ざれば、何くへ何と向て軍を可為とも不覚。京中の勢は、先只六条川原に馳集て、あきれたる体にて扣へたり。 ○持明院殿行幸六波羅事 日野中納言資名・同左大弁宰相資明二人同車して、内裏へ参り給たれば、四門徒に開、警固の武士は一人もなし。主上南殿に出御成て、「誰か候。」と御尋あれども、衛府諸司の官、蘭台金馬の司も何地へか行たりけん、勾当の内侍・上童二人より外は御前に候する者無りけり。資名・資明二人御前に参じて、「官軍戦ひ弱くして、逆徒不期洛中に襲来候。加様にて御坐候はゞ、賊徒差違て御所中へも乱入仕候ぬと覚へ候。急ぎ三種の神器を先立て六波羅へ行幸成候へ。」と被申ければ、主上軈て腰輿に被召、二条川原より六波羅へ臨幸成る。 |
その道筋(六波羅勢の敗走路)二三十町(約2.2-3.3km)にわたっては、捨てられた武具で地面が埋まり、馬蹄の砂塵に覆われた。ほどなく西七条方面では、高倉少将の子である左衛門佐と小寺・衣笠の兵たちが早くも京中へ攻め入ったらしく、大宮・猪熊・堀川・油小路周辺で五十カ所以上に火を放っていた。また八条から九条にかけても戦闘があるようで、汗まみれの馬が東西に行き交い、「えいやっ」という鬨の声が天地に響いた。まるで大火災・大風害・大水害(大三災)が同時に起きたかのように、世界全体が炎に包まれ消滅するかと疑われるほどの光景だった。 京中の戦いは夜半ごろのことなので、見通しの利かない暗闇の中で鬨の声があちこちから聞こえても、兵力や陣形も判別できず、どこへどう軍を進めるべきかわからない。六波羅勢はまずただ六条川原に駆け集まり、呆然とした様子で立ち尽くしていた。 ○持明院殿(光厳天皇)が六波羅に行幸されたこと 解説
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| 其後堀河大納言・三条源大納言・鷲尾中納言・坊城宰相以下、月卿雲客二十余人、路次に参着して供奉し奉りけり。是を聞食及で、院・法皇・東宮・皇后・梶井の二品親王まで皆六波羅へと御幸成る間、供奉の卿相雲客軍勢の中に交て警蹕の声頻也ければ、是さへ六波羅の仰天一方ならず。俄に六波羅の北方をあけて、仙院・皇居となす。事の体騒しかりし有様也。軈て両六波羅は七条河原に打立て、近付く敵を相待つ。此大勢を見て敵もさすがにあぐんでや思ひけん、只此彼に走散て、火を懸時の声を作る計にて、同じ陣に扣へたり。両六波羅是を見て、「如何様敵は小勢也。と覚るぞ、向て追散せ。」とて、隅田・高橋に三千余騎を相副て八条口へ被差向。河野九郎左衛門尉・陶山次郎に二千余騎をさし副て、蓮華王院へ被向けり。陶山川野に向て云けるは、「何ともなき取集め勢に交て軍をせば、憖に足纏に成て懸引も自在なるまじ。いざや六波羅殿より被差副たる勢をば、八条河原に引へさせて時の声を挙げさせ、我等は手勢を引勝て、蓮華王院の東より敵の中へ駈入り、蜘手十文字に懸破り、弓手妻手にて相付て、追物射に射てくれ候はん。」と云ければ、河野、「尤可然。」と同じて、外様の勢二千余騎をば、塩小路の道場の前へ差遣し、川野が勢三百余騎、陶山が勢百五十余騎は引分て、蓮華王院の東へぞ廻りける。 |
その後、堀河大納言・三条源大納言・鷲尾中納言・坊城宰相以下、公家や殿上人二十余人が途中で合流し供奉した。これを聞かれた院(上皇)・法皇・東宮(皇太子)・皇后・梶井門跡親王まですべて六波羅へ行幸されるため、供奉する貴族たちの行列が軍勢の中に混じり警蹕(けいひつ=天皇通行時の警戒呼称)の声が頻繁に響いたので、これさえも六波羅側は並々ならず動揺した。急遽六波羅北館を空けて仙洞御所・皇居にあてたのは、騒然とした状況であった。 すぐに両六波羅(探題)軍は七条河原に出撃し、迫る敵を待ち構えた。この大軍を見て敵方もさすがに躊躇したらしく、あちらこちらへ散りながら火を放つ鬨の声だけあげて同陣地で膠着していた。両六波羅はこれを見て「どうやら敵は小勢だと思われる。追い払え」と命じ: - 隅田・高橋に三千余騎を与えて八条口へ派遣 - 河野九郎左衛門尉・陶山次郎には二千余騎を付けて蓮華王院(三十三間堂)方面へ向かわせた この時、陶山が川野(河野?)に提案した:「寄せ集め勢と正面から戦えば足止めされ自由が利かない。六波羅殿から預かった兵は八条河原で鬨の声をあげさせよう。我々は手勢だけ率いて蓮華王院東側から敵中へ突入し、十字形に突破して左右から追撃射撃をかけよう」。これに川野も同意したため: - 外部勢力二千余騎は塩小路道場前に配置 - 川野隊三百余騎と陶山隊百五十余騎は分かれて蓮華王院東へ回り込んだ。 解説
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| 合図の程にも成ければ、八条川原の勢、鬨声を揚たるに、敵是に立合せんと馬を西頭に立て相待処に、陶山・川野四百余騎、思も寄らぬ後より、時を咄と作て、大勢の中へ懸入、東西南北に懸破て、敵を一所に不打寄、追立々々責戦。川野と陶山と、一所に合ては両所に分れ、両所に分ては又一所に合、七八度が程ぞ揉だりける。長途に疲たる歩立の武者、駿馬の兵に被懸悩て、討るゝ者其数を不知。手負を捨て道を要て、散々に成て引返す。陶山・川野逃る敵には目をも不懸、「西七条辺の合戦何と有らん、無心元。」とて、又七条川原を直違に西へ打て七条大宮に扣へ、朱雀の方を見遣ければ、隅田・高橋が三千余騎、高倉左衛門佐・小寺・衣笠が二千余騎に被懸立て、馬の足をぞ立兼たる。川野是を見て、「角ては御方被打ぬと覚るぞ。いざや打て懸らん。」と云けるを、陶山、「暫。」と制しけり。「其故は此陣の軍未雌雄決前に、力を合て御方を助たりとも、隅田・高橋が口の悪さは、我高名にぞ云はんずらん。暫く置て事の様を御覧ぜよ。敵縦ひ勝に乗とも何程の事か可有。」とて、見物してぞ居たりける。去程に隅田・高橋が大勢、小寺・衣笠が小勢に被追立、返さんとすれ共不叶、朱雀を上りに内野を指て引もあり、七条を東へ向て逃るもあり、馬に離たる者は心ならず返合て死もあり。 |
合図のタイミングが来たため、八条河原の軍勢が鬨声をあげると、敵はこれに対抗しようと西側に馬を並べて待ち構えていたところへ、陶山・川野率いる四百騎以上が全く予想外の後方から突然鬨の声をあげて大群の中へ突入し、東西南北に突破して回りながら敵を一箇所に集めず、追い立て続けて攻撃した。川野と陶山は合流したり二方向に分かれたりを七八度も繰り返す激戦となった。 長距離移動で疲れ切っていた歩兵の武者たちは機動力のある騎馬兵に翻弄され、討たれる者は数知れず。負傷者を見捨てて進路を確保しながら散々な状態で退却した。陶山と川野は逃げる敵には目もくれず、「西七条方面の戦況が気になる」と言って、そのまま七条河原から真っ直ぐ西へ向かい七条大宮に布陣し朱雀大路の方を見渡すと、隅田・高橋率いる三千余騎が高倉左衛門佐・小寺・衣笠の二千余騎に攻め立てられ、窮地に陥っていた。 川野はこれを見て「どうやら味方が劣勢だ。すぐに救援に向かおう」と言ったが、陶山は「待て」と制止した。「理由はこの戦いの決着前に関与すれば例え勝利を助けても隅田・高橋が『我々のお陰』と手柄話にするだろう。少し様子を見よう。仮に敵が優勢でも大勢に影響しない」と言って傍観していたところ、やがて隅田・高橋の大軍は小寺・衣笠の少数部隊に追い立てられ反撃もできず、朱雀大路を北へ内野方面に向かって退く者や七条から東へ逃げる者が現れ、馬を失った兵士は意に反して踏みとどまり討ち死にするものもいた。 解説
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| 陶山是を見て、「余にながめ居て、御方の弱り為出したらんも由なし、いざや今は懸合せん。」といへば、河野、「子細にや及ぶ。」と云侭に、両勢を一手に成て大勢の中へ懸入り、時移るまでぞ戦ひたる。四武の衝陣堅を砕て、百戦の勇力変に応ぜしかば、寄手又此陣の軍にも打負て、寺戸を西へ引返しけり。筑前守貞範・律師則祐兄弟は、最初に桂河を渡しつる時の合戦に、逃る敵を追立て、跡に続く御方の無をも不知、只主従六騎にて、竹田を上りに、法性寺大路へ懸通、六条河原へ打出て、六波羅の館へ懸入んとぞ待たりける。東寺より寄つる御方、早打負て引返しけりと覚て、東西南北に敵より外はなし。さらば且く敵に紛てや御方を待つと、六騎の人々皆笠符をかなぐり捨て、一所に扣へたる処に、隅田・高橋打廻て、「如何様赤松が勢共、尚御方に紛て此中に在と覚るぞ。河を渡しつる敵なれば、馬物具のぬれぬは不可有。其を験しにして組討に打て。」と呼りける間、貞範も則祐も中々敵に紛れんとせば悪かりぬべしとて、兄弟・郎等僅六騎轡を双べわつと呼て敵二千騎が中へ懸入り、此に名乗彼に紛て相戦けり。敵是程に小勢なるべしとは可思寄事ならねば、東西南北に入乱て、同士打をする事数刻也。大敵を謀るに勢ひ久からざれば、郎等四騎皆所々にて被討ぬ。 |
陶山がこの状況を見て、「じっと見ていて味方が弱っているのに何もしないわけにはいかない。さあ、今こそ戦いに加わろう。」と言うと、河野は「言うまでもない」と応じたまま、両軍を一つにして大勢の敵の中へ突入し、時間が経過するまで激しく戦った。(陶山・河野率いる)四人の武将(四武)は敵陣を突破して堅固な守りを打ち破り、百戦錬磨の勇気で変化に対応したため、攻め寄せてきた敵軍もこの陣営の戦いで敗北し、寺戸方面へ西に引き返していった。 一方、(赤松氏の)筑前守貞範と律師則祐兄弟は、最初に桂川を渡河した時の合戦で逃げる敵を追撃していたが、後続する味方が全くいないことに気づかず、主従わずか六騎だけで竹田から上って法性寺大路へ通り抜け、六条河原に出て六波羅の館へ突入しようと待機していた。東寺からの味方は早々に敗退したと思われたため、周囲は敵ばかりで一歩も動けない状態だった。「ならばしばらく敵に紛れて味方を待とう」と考えた六騎の人々は皆、識別用の笠印を投げ捨て、一箇所に陣取っていたところへ隅田・高橋が駆け回りながら「どうやら赤松軍がまだ味方に化けて潜んでいるようだ。川を渡った敵だから馬具が濡れていないはずだ。それを確かめて組み討ちせよ」と叫んだため、貞範も則祐も(これ以上紛れるのは不可能だと悟り)、兄弟や家臣合わせてわずか六騎で手綱を揃え「われ!」と叫んで敵二千騎の中へ突入し、ここでは名乗りあって戦い、あそこでは紛れながら攻防した。 解説
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| 筑前守は被押隔ぬ。則祐は只一騎に成て、七条を西へ大宮を下りに落行ける所に、印具尾張守が郎従八騎追懸て、「敵ながらも優く覚へ候者哉。誰人にてをはするぞ。御名乗候へ。」と云ければ、則祐馬を閑に打て、「身不肖に候へば、名乗申とも不可有御存知候。只頚を取て人に被見候へ。」と云侭に、敵近付ば返合、敵引ば馬を歩せ、二十余町が間、敵八騎と打連て心閑にぞ落行ける。西八条の寺の前を南へ打出ければ、信濃守貞範三百余騎、羅城門の前なる水の潺きに、馬の足を冷して、敗軍の兵を集んと、旗打立て引へたり。則祐是を見付て、諸鐙を合て馳入ければ、追懸つる八騎の敵共、「善き敵と見つる物を、遂に打漏しぬる事の不安さよ。」と云声聞へて、馬の鼻を引返しける。暫く有れば、七条河原・西朱雀にて被懸散たる兵共、此彼より馳集て、又千余騎に成にけり。赤松其兵を東西の小路より進ませ、七条辺にて、又時の声を揚げたりければ、六波羅勢七千余騎、六条院を後に当て、追つ返つ二時許ぞ責合たる。角ては軍の勝負いつ有べしとも覚へざりける処に、河野と陶山とが勢五百余騎、大宮を下りに打て出、後を裹んと廻りける勢に、後陣を被破て、寄手若干討れにければ、赤松わづかの勢に成て、山崎を指て引返しけり。 |
筑前守貞範は敵陣から切り離されて孤立していた。則祐はわずか一騎となり、七条通を西へ大宮方面に向かって退却している途中で、印具尾張守の家臣八騎が追いかけてきて、「敵ながらも立派な武者だ。どなたですか?名乗りなさい」と呼びかけた。すると則祐は手綱を緩め「無名の身なので名乗ってもご存じないでしょう。ただ首を取って人に見せてください」と言うと同時に、敵が近づけば反撃し、距離があれば馬を進ませるという戦術で約二キロ(二十余町)の間、追手八騎とともに悠然かつ警戒しながら退却した。 西八条にある寺の前から南へ出たところ、信濃守貞範率いる三百余騎が羅城門付近の流れる水辺で馬を休めつつ、敗走する兵を集めるため陣営を構えていた。則祐はこれを見つけると鐙を鳴らして駆け込んだので、追っていた八騎の敵たちは「よい獲物と思ったのに逃がした悔しさよ」と言いながら引き返していった。ほどなくすると七条河原や西朱雀で散り散りになっていた兵士たちがあちこちから集結し、再び千余騎となった。 赤松軍はこの兵力を東西の小路に分けて進めさせ、七条付近で再び鬨の声を上げると、六波羅勢七千余騎が六条院(冷泉院)跡地を背にして反撃し、追ったり追われたり約四時間(二時許)も激戦が続いた。勝敗がつかない膠着状態の中、河野と陶山率いる五百余騎が大宮通沿いに南下して背後から襲いかかり、六波羅軍の後衛部隊を突破したため攻撃側は多数討たれ、赤松勢も損耗し僅かな兵力で山崎方面へ撤退していった。 解説
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| 河野・陶山勝に乗て、作道の辺まで追駈けるが、赤松動すれば、取て返さんとする勢を見て、「軍は是までぞ、さのみ長追なせそ。」とて、鳥羽殿の前より引返し、虜二十余人、首七十三取て、鋒に貫て、朱に成て六波羅へ馳参る。主上は御簾を捲せて叡覧あり。両六波羅は敷皮に坐して、是を検知す。「両人の振舞いつもの事なれ共、殊更今夜の合戦に、旁手を下し命を捨給はずば、叶まじとこそ見へて候つれ。」と、再三感じて被賞翫。其夜軈て臨時の宣下有て、河野九郎をば対馬守に被成て御剣を被下、陶山二郎をば備中守に被成て、寮の御馬を被下ければ、是を見聞武士、「あはれ弓矢の面目や。」と、或は羨み或は猜で、其名天下に被知たり。軍散じて翌日に、隅田・高橋京中を馳廻て、此彼の堀・溝に倒れ居たる手負死人の頚共を取集て、六条川原に懸並たるに、其数八百七十三あり。敵是まで多く被討ざれども、軍もせぬ六波羅勢ども、「我れ高名したり。」と云んとて、洛中・辺土の在家人なんどの頚仮首にして、様々の名を書付て出したりける頚共也。其中に赤松入道円心と、札を付たる首五あり。何れも見知たる人無れば、同じやうにぞ懸たりける。京童部是を見て、「頚を借たる人、利子を付て可返。赤松入道分身して、敵の尽ぬ相なるべし。 |
河野と陶山は勝利に乗じて作道付近まで追撃したところ、赤松軍が反転して逆襲しようとする動きを見て、「戦いはここまでだ。これ以上深追いするな」と言い鳥羽殿の前から引き返し、捕らえた敵兵20人余りと73個の首を槍先に刺し通し(血で赤く染まったまま)六波羅へ急行した。天皇は御簾を上げてこれをご覧になった。両六波羅探題(北条仲時・北条時益)は敷皮に座り戦果を検分しながら、「お二人の働きは常々素晴らしいが、特に今夜の合戦では自らの命を顧みず奮闘しなければ成功しなかっただろう」と繰り返し感嘆して賞賛した。その夜すぐに臨時の宣旨が下り、河野九郎を対馬守に任命して御剣を賜わり、陶山二郎は備中守に任じられて朝廷の馬を与えられたため、これを見聞きした武士たちは「ああ、武門の面目よ」とある者は羨み、ある者や嫉妬しつつ彼らの名声が天下に知れ渡った。 戦いが終わり翌日、隅田と高橋が京中を駆け回り、各所の堀や溝に倒れていた負傷者や死体から首を取り集めて六条河原に掲げ並べたところ、その数は873個あった。実際にはこれほど多くの敵兵が討たれたわけではないのに、戦闘にも参加しなかった六波羅勢の兵士たちが「自分が手柄を立てた」と言いたくて、京都市中や周辺地域の民間人などの首を偽物として様々な名札をつけて提出したものだった。その中には「赤松入道円心」と書かれた札付きの首が五つあったが、誰も本人を知る者がいなかったため同じように掲示されただけだった。都の人々はこれを見て「首を借りた者は利子をつけて返すべきだ(偽りの報告への皮肉)。赤松入道が分身して敵を全滅させたようだ」と噂した。 解説
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| 」と、口々にこそ笑ひけれ。 ○禁裡仙洞御修法事付山崎合戦事 此比四海大に乱て、兵火天を掠めり。聖主■を負て、春秋無安時、武臣矛を建て、旌旗無閑日。是以法威逆臣を不鎮ば、静謐其期不可有とて、諸寺諸社に課て、大法秘法をぞ被修ける。梶井宮は、聖主の連枝、山門の座主にて御坐しければ、禁裏に壇を立て、仏眼の法を行せ給ふ。裏辻の慈什僧正は、仙洞にて薬師の法を行はる。武家又山門・南都・園城寺の衆徒の心を取、霊鑑の加護を仰がん為に、所々の庄園を寄進し、種々の神宝を献て、祈祷を被致しか共、公家の政道不正、武家の積悪禍を招きしかば、祈共神不享非礼、語へども人不耽利欲にや、只日を逐て、国々より急を告る事隙無りけり。去三月十二日の合戦に赤松打負て、山崎を指て落行しを、頓て追懸て討手をだに下したらば、敵足をたむまじかりしを、今は何事か可有とて被油断しに依て、敗軍の兵此彼より馳集て、無程大勢に成ければ、赤松、中院の中将貞能を取立て聖護院の宮と号し、山崎・八幡に陣を取、河尻を差塞ぎ西国往反の道を打止む。依之洛中の商買止て士卒皆転漕の助に苦めり。両六波羅聞之、「赤松一人に洛中を被悩て、今士卒を苦る事こそ安からね。去十二日の合戦の体を見るに、敵さまで大勢にても無りける物を、無云甲斐聞懼して敵を辺境の間に閣こそ、武家後代の恥辱なれ、所詮於今度は官軍遮て敵陣に押寄、八幡・山崎の両陣を責落し、賊徒を河に追はめ、其首を取て六条河原に可曝。 |
世間の人々は口々に嘲笑した。 ○禁裏と仙洞御所での祈祷、および山崎の戦いに関する事柄 先の3月12日の合戦で赤松勢が敗れて山崎へ落ち延びた際、すぐ追撃して討伐隊さえ送っていれば敵は足場を固められなかったはずだが、「今さら何があろうか」と油断したため、散り散りになった敗軍の兵士たちが各地から集結し、瞬く間に大勢力となった。赤松勢は中院中将貞能(聖護院宮尊澄親王)を擁立して山崎・八幡に陣取り、河尻を押さえて西国への往来路を封鎖した。これにより京中の商取引が止まり兵士ら全員が物資輸送の苦労に喘いだ。両六波羅探題(北条仲時・時益)はこの状況を聞き「赤松一人のために都が悩まされ、今や兵卒まで苦しむとは許せぬ。先月12日の合戦の様子を見る限り敵は大軍でもなかったのに、言い訳ばかりで恐れおののき遠方に放置したのは武門末代の恥だ」と批判し、「この度こそ官軍を率いて直接敵陣へ押し寄せ八幡・山崎両陣を攻め落とし賊徒を淀川へ追い込み、その首を六条河原で晒すべきだ」と決意した。 解説
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| 」と被下知ければ、四十八箇所の篝、並在京人、其勢五千余騎、五条河原に勢揃して、三月十五日の卯刻に、山崎へとぞ向ひける。此勢始は二手に分けたりけるを、久我縄手は、路細く深田なれば馬の懸引も自在なるまじとて、八条より一手に成、桂河を渡り、河嶋の南を経て、物集女・大原野の前よりぞ寄たりける。赤松是を聞て、三千余騎を三手に分つ。一手には足軽の射手を勝て五百余人小塩山へ廻す。一手をば野伏に騎馬の兵を少々交て千余人、狐河の辺に引へさす。一手をば混すら打物の衆八百余騎を汰て、向日明神の後なる松原の陰に隠置く。六波羅勢、敵此まで可出合とは不思寄、そゞろに深入して、寺戸の在家に火を懸て、先懸既に向日明神の前を打過ける処に、善峯・岩蔵の上より、足軽の射手一枚楯手々に提て麓にをり下て散々に射る。寄手の兵共是を見て、馬の鼻を双て懸散さんとすれば、山嶮して不上得、広みに帯き出して打んとすれば、敵是を心得て不懸。「よしや人々、はか/゛\しからぬ野伏共に目を懸て、骨を折ては何かせん。此をば打捨て山崎へ打通れ。」と議して、西岡を南へ打過る処に、坊城左衛門五十余騎にて、思もよらぬ向日明神の小松原より懸出て、大勢の中へ切て入。敵を小勢と侮て、真中に取篭て、余さじと戦ふ処に、田中・小寺・八木・神沢此彼より百騎二百騎、思々に懸出て、魚鱗に進み鶴翼に囲んとす。 |
この命令が下ると、48ヶ所にかがり火が上がり在京の武士たちを含め総勢5,000余騎は五条河原に集結し、3月15日の卯刻(午前6時頃)に山崎へ向かった。当初は二手に分かれていた軍勢だが、久我縄手(現在の京都市伏見区)が道幅が狭く深田だったため騎馬での機動が難しいと判断し、八条から一手となり桂川を渡河。河島(現・長岡京市)南側を通り物集女(もずめ/長岡京市)・大原野(京都市西京区)の前方から攻め寄せた。 これを見た赤松軍は3,000余騎を三手に分ける。第一陣は軽装の弓兵500人余りを小塩山(現・大山崎町)へ回らせ、第二陣には伏兵として騎馬隊も交えた1,000人余りを狐川付近(乙訓郡)に潜ませた。第三陣は混成武器部隊800騎余りを選抜し向日明神(長岡京市)の背後の松林に隠した。 六波羅軍が敵が出撃するとは思わず不用意に深く侵入し、寺戸(現・長岡京市)の民家に火を放ちながら進んだところ善峯寺と岩蔵山(ともに西京区)から伏せていた弓兵たちが盾を持って一斉に駆け下り散々に射かけた。攻撃側は馬首を並べて突撃しようとしたものの、険しい地形で前進できず平地へ誘い出そうとする敵の意図を見抜いて動かない。「この程度の伏兵相手に時間を割く必要はない」と判断し部隊を通過させ山崎突破を目指すが、坊城左衛門率いる50騎余りが不意に松林から突出して大軍の中へ斬り込み、小勢と侮った六波羅兵たちが包囲殲滅しようとした瞬間、田中・小寺ら赤松方の百~二百騎部隊があちこちから現れ魚鱗陣で前進し鶴翼の陣形で取り囲んだ。 解説
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| 是を見て狐河に引へたる勢五百余騎、六波羅勢の跡を切らんと、縄手を伝ひ道を要て打廻るを見て、京勢叶はじとや思けん、捨鞭を打て引返す。片時の戦也ければ、京勢多く被打たる事は無けれ共、堀・溝・深田に落入て、馬物具皆取所もなく膩たれば、白昼に京中を打通るに、見物しける人毎に、「哀れ、さりとも陶山・河野を被向たらば、是程にきたなき負はせじ物を。」と、笑はぬ人もなかりけり。去ば京勢此度打負て、向はで京に被残たる河野と陶山が手柄の程、いとゞ名高く成にけり。 ○山徒寄京都事 京都に合戦始りて、官軍動すれば利を失ふ由、其聞へ有しかば、大塔宮より牒使を被立て、山門の衆徒をぞ被語ける。依之三月二十六日一山の衆徒大講堂の庭に会合して、「夫吾山者為七社応化之霊地、作百王鎮護之藩籬。高祖大師占開基之始、止観窓前雖弄天真独朗之夜月、慈恵僧正為貫頂之後、忍辱衣上忽帯魔障降伏之秋霜。尓来妖■見天、則振法威而攘退之。逆暴乱国、則借神力而退之。肆神号山王。須有非三非一之深理矣。山言比叡。所以仏法王法之相比焉。而今四海方乱、一人不安。武臣積悪之余、果天将下誅。其先兆非無賢愚。共所世知也。王事毋■。釈門仮使雖為出塵之徒、此時奈何無尽報国之忠。早翻武家合体之前非宜専朝廷扶危之忠胆矣。 |
この様子を見て狐川周辺に潜んでいた500騎余りの部隊が六波羅軍の退路を断とうと、細道(久我縄手)を通り回り込んだため、京方(六波羅勢)は戦況不利と判断し鞭を捨てて撤退した。戦いは短時間だったので大損害こそなかったものの、堀や溝・深田に落ち込み馬具も泥まみれになり動けなくなった兵士たちが白昼堂々京都市中へ逃げ戻る姿を見た見物人たちは、「哀れだ。せめて陶山(すえやま)と河野を戦わせておけば、これほど惨めな敗北は避けられたのに」と嘲笑し、笑わぬ者はいなかった。こうして京方はこの度の戦いに敗れたため、出撃させず残留していた河野・陶山部隊の武勇が一層評判となった。 ○比叡山僧兵の京都進出事 解説
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| 」と僉議しければ、三千一同に尤々と同じて院々谷々へ帰り、則武家追討の企の外無他事。山門、已に来二十八日六波羅へ可寄と定ければ、末寺・末社の輩は不及申、所縁に随て近国の兵馳集る事雲霞の如く也。二十七日大宮の前にて着到を付けるに、十万六千余騎と注せり。大衆の習、大早無極所存なれば、此勢京へ寄たらんに、六波羅よも一たまりもたまらじ、聞落にぞせんずらんと思侮て、八幡・山崎の御方にも不牒合して、二十八日の卯刻に、法勝寺にて勢撰へ可有と触たりければ、物具をもせず、兵粮をも未だつかはで、或今路より向ひ、或は西坂よりぞをり下る。両六波羅是を聞て、思に、山徒縦雖大勢、騎馬の兵一人も不可有。此方には馬上の射手を撰へて、三条河原に待受けさせて、懸開懸合せ、弓手・妻手に着て追物射に射たらんずるに、山徒心は雖武、歩立に力疲れ、重鎧に肩を被引、片時が間に疲るべし。是以小砕大、以弱拉剛行也。とて、七千余騎を七手に分て、三条河原の東西に陣を取てぞ待懸たる。大衆斯るべしとは思もよらず、我前に京へ入てよからんずる宿をも取、財宝をも管領せんと志て、宿札共を面々に二三十づゝ持せて、先法勝寺へぞ集りける。其勢を見渡せば、今路・西坂・古塔下・八瀬・薮里・下松・赤山口に支て、前陣已に法勝寺・真如堂に付ば後陣は未山上・坂本に充満たり。 |
この評議に対し三千人の僧兵全員が賛同して各谷へ戻り、ただ武家追討の準備のみを進めた。比叡山は3月28日の六波羅攻撃を決めると、末寺・末社の者は言うまでもなく近国の武士たちも雲霞のように集結した。27日大宮前で兵数を確認すると十万六千余騎と記された。僧兵特有の性急さから「この大軍が京に迫れば六波羅は一瞬も持たず逃げ出すだろう」と過信し、八幡や山崎方面への連絡もせず28日卯刻(午前6時頃)法勝寺で陣形整備の触れを出した。しかし装備も兵糧も未準備なまま、ある者は今路から、ある者は西坂から下山開始する。 これを知った六波羅側は「山徒が大軍でも騎馬兵はいない。我らは精鋭弓騎兵を三条河原で待ち伏せし、左右から追い射ちにすれば重装備の歩兵は疲れ果てる」と判断し七千余騎を七手に分け三条河原東西に布陣した。僧兵たちは想定外の事態にも気づかず「先着して宿舎や財宝を押さえよう」と各人が二三十枚の宿札(占領証)を持ち、前衛が法勝寺・真如堂に達する頃には後続部隊が比叡山上から坂本まで埋め尽くしていた。 解説
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| 甲冑に映ぜる朝日は、電光の激するに不異。旌旗を靡かす山風は、竜蛇の動くに相似たり。山上と洛中との勢の多少を見合するに、武家の勢は十にして其一にも不及。「げにも此勢にては輒くこそ。」と、六波羅を直下ける山法師の心の程を思へば、大様ながらも理也。去程に前陣の大衆且く法勝寺に付て後陣の勢を待ける処へ、六波羅勢七千余騎三方より押寄て時をどつと作る。大衆時の声に驚て、物具太刀よ長刀よとひしめいて取物も不取敢、僅に千人許にて法勝寺の西門の前に出合、近付く敵に抜て懸る。武士は兼てより巧みたる事なれば、敵の懸る時は馬を引返てばつと引き、敵留れば開合せて後へ懸廻る。如此六七度が程懸悩ましける間、山徒は皆歩立の上、重鎧に肩を被推て、次第に疲たる体にぞ見へける。武士は是に利を得て、射手を撰て散々に射る。大衆是に射立られて、平場の合戦叶はじとや思けん、又法勝寺の中へ引篭らんとしける処を、丹波国の住人佐治孫五郎と云ける兵、西門の前に馬を横たへ、其比会てなかりし五尺三寸の太刀を以て、敵三人不懸筒切て、太刀の少仰たるを門の扉に当て推直し、猶も敵を相待て、西頭に馬をぞ扣たる。山徒是を見て、其勢にや辟易しけん。又法勝寺にも敵有とや思けん。法勝寺へ不入得、西門の前を北へ向て、真如堂の前神楽岡の後を二に分れて、只山上へとのみ引返しける。 |
鎧に反射する朝日は稲妻のように激しく輝き、旗がなびく山風は龍蛇のうごめく様にも似ていた。比叡山側(僧兵)と京方(六波羅勢)の兵力を比較すると武士方は十分の一以下であった。「確かにこの大軍なら簡単に勝てるだろう」と僧兵たちが考えたのも無理はないことであった。その時、先鋒部隊が法勝寺で後続を待っている間に六波羅勢七千余騎が三方向から攻めかかり鬨の声をあげた。僧兵たちはこの叫びに驚き武器を取り乱し準備も整わぬまま僅かに千人ほどで西門前に出て応戦したところ、武士方は古来からの巧みな戦術を用い敵が攻めてくると馬を引いて退き相手の動きが止まれば左右から包囲するといったことを六七度繰り返し重装備の歩兵である僧兵たちは次第に疲弊していった。武士方がこの優位を活かして弓射手で散々射かけたため、平地での戦いが不利と悟ったのか僧兵らは法勝寺内へ逃げ込もうとしたところ丹波国の住人佐治孫五郎という兵士が西門前に馬をつけて立ち塞がり長大な太刀で三人の敵を一気に切り倒した上、扉に寄りかかりながらなおも待ち構えていた。僧兵らはこれを見て恐れおののき法勝寺内にも敵がいると勘違いして同寺院へ入ることなく北方向へ逃げ真如堂前や神楽岡後ろを通ってただ比叡山目指し撤退していった。 解説
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| 爰に東塔の南谷善智房の同宿に豪鑒・豪仙とて、三塔名誉の悪僧あり。御方の大勢に被引立て、不心北白河を指て引けるが、豪鑒豪仙を呼留て、「軍の習として、勝時もあり負時もあり、時の運による事なれば恥にて不恥。雖然今日の合戦の体、山門の恥辱天下の嘲哢たるべし。いざや御辺、相共に返し合て打死し、二人が命を捨て三塔の恥を雪めん。」と云ければ、豪仙、「云にや及ぶ、尤も庶幾する所也。」と云て、二人蹈留て法勝寺の北の門の前に立並び、大音声を揚て名乗けるは、「是程に引立たる大勢の中より、只二人返し合するを以て三塔一の剛の者とは可知。其名をば定めて聞及ぬらん、東塔の南谷善智坊の同宿に、豪鑒・豪仙とて一山に名を知られたる者共也。我と思はん武士共、よれや、打物して、自余の輩に見物せさせん。」と云侭に、四尺余の大長刀水車に廻して、跳懸々々火を散してぞ切たりける。是を打取らんと相近付ける武士共、多く馬の足を被薙、冑の鉢を被破て被討にけり。彼等二人、此に半時許支へて戦けれ共、続く大衆一人もなし。敵雨の降る如くに射ける矢に、二人ながら十余箇所疵を蒙りければ、「今は所存是までぞ。いざや冥途まで同道せん。」と契て、鎧脱捨押裸脱、腹十文字に掻切て、同じ枕にこそ伏たりけれ。 |
この時、東塔南谷善智房の同宿であった豪鑒と豪仙という三塔で名高い僧兵がいた。味方の大軍が敗走する中で北白河方面へ退こうとしたところを二人は呼び止め、「戦いには勝ち負けがあり運次第だから恥ではない。しかし今日の合戦ぶりは比叡山全体の不名誉となり天下の笑い者となるだろう。さあ共に引き返して討死し、この身を捨てて三塔(延暦寺)の汚名をそそごう」と提案した。豪仙も「言わずともそれが本望だ」と応じ、法勝寺北門前で並び立ち大声で名乗った。「これほど退く大軍の中でただ二人戻ってくる者こそ三塔随一の勇士と言えよう。我らは東塔南谷善智房同宿・豪鑒と豪仙という山内に知られたる者だ。志ある武士ども、来い!戦って他の連中に見せびらかしてやろう」。こう叫ぶと四尺余りの大長刀を水車のように回し跳びかけ火花を散らしながら斬りまくった。彼らを討とうと近づいた武士たちは馬の脚を切られ兜を割られるなどして多くが倒れた。二人は半刻(約1時間)も防戦したが援軍は来ず、雨のように降る矢を受けて十余カ所傷つき「これで本望果たした。冥土まで共に行こう」と誓い鎧を脱ぎ捨て裸となり腹に十文字にかっ切り並んで息絶えた。 解説
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| 是を見る武士共、「あはれ日本一の剛の者共哉。」と、惜まぬ人も無りけり。前陣の軍破れて引返しければ、後陣の大勢は軍場をだに不見して、道より山門へ引返す。只豪鑒・豪仙二人が振舞にこそ、山門の名をば揚たりけれ。 ○四月三日合戦事付妻鹿孫三郎勇力事 去月十二日赤松合戦無利して引退し後は、武家常に勝に乗て、敵を討事数千人也。といへども、四海未静、剰山門又武家に敵して、大岳に篝火を焼き、坂本に勢を集めて、尚も六波羅へ可寄と聞へければ、衆徒の心を取らん為に、武家より大庄十三箇所、山門へ寄進す。其外宗徒の衆徒に、便宜の地を一二箇所充祈祷の為とて恩賞を被行ける。さてこそ山門の衆議心心に成て武家に心を寄する衆徒も多く出来にければ、八幡・山崎の官軍は、先度京都の合戦に、或被討、或疵を蒙る者多かりければ、其勢太半減じて今は僅に、一万騎に足らざりけり。去ども武家の軍立、京都の形勢恐るゝに不足と見透してげれば、七千余騎を二手に分て、四月三日の卯刻に、又京都へ押寄せたり。其一方には、殿法印良忠・中院定平を両大将として、伊東・松田・頓宮・富田判官が一党、並真木・葛葉の溢れ者共を加へて其勢都合三千余騎、伏見・木幡に火を懸て、鳥羽・竹田より推寄する。 |
これを見た武士たちは「ああ、日本一の勇士たちよ」と誰一人惜しまない者はいなかった。先鋒部隊が敗れて引き返したため、後陣の大軍は戦場すら見ずに街道から比叡山へ退却した。(この戦いで)豪鑒・豪仙二人の行動こそが延暦寺(山門)の名声を高めたのである。 ○4月3日の合戦に関する記述および妻鹿孫三郎の武勇談について 解説
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| 又一方には、赤松入道円心を始として、宇野・柏原・佐用・真嶋・得平・衣笠、菅家の一党都合其勢三千五百余騎、河嶋・桂の里に火を懸て、西の七条よりぞ寄たりける。両六波羅は、度々の合戦に打勝て兵皆気を挙ける上、其勢を算ふるに、三万騎に余りける間、敵已に近付ぬと告けれ共、仰天の気色もなし。六条河原に勢汰して閑に手分をぞせられける。山門今は武家に志を通ずといへども、又如何なる野心をか存ずらん。非可油断とて、佐々木判官時信・常陸前司時朝・長井縫殿秀正に三千余騎を差副て、糾河原へ被向。去月十二日の合戦も、其方より勝たりしかば吉例也。とて、河野と陶山とに五千騎を相副て法性寺大路へ被差向。富樫・林が一族・島津・小早河が両勢に、国々の兵六千余騎を相副て、八条東寺辺へ被指向。厚東加賀守・加治源太左衛門尉・隅田・高橋・糟谷・土屋・小笠原に七千余騎を相副て、西七条口へ被向。自余の兵千余騎をば悪手の為に残して、未六波羅に並居たり。其日の巳刻より、三方ながら同時に軍始て、入替々々責戦ふ。寄手は騎馬の兵少して、歩立射手多ければ、小路々々を塞ぎ、鏃を調て散々に射る。六波羅勢は歩立は少して、騎馬の兵多ければ、懸違々々敵を中に篭めんとす。孫子が千反の謀、呉氏が八陣の法、互に知たる道なれば、共に不被破不被囲、只命を際の戦にて更に勝負も無りけり。 |
もう一方では赤松入道円心(則村)を中心に宇野・柏原・佐用・真嶋・得平・衣笠、菅家一族ら計3,500余騎が河島と桂の里に火を放ち西七条から攻め寄せた。両六波羅勢はこれまでの戦いに連勝して士気も高く兵力は3万騎以上あったため敵襲を知っても慌てる様子もなく、六条河原で軍容を整え余裕をもって部隊編成を行った。「比叡山が今は味方と言っても何か企みがあるかもしれない」と警戒し佐々木判官時信・常陸前司時朝・長井縫殿秀正に3,000騎を与えて糾河原へ派遣。さらに「先月12日の戦いも彼らが勝利したから吉例だ」として河野氏と陶山氏に5,000騎を付けて法性寺大路へ、富樫・林一族や島津・小早川両軍に諸国兵6,000余騎を添えて八条東寺方面へ向かわせた。厚東加賀守ら七将には7,000余騎を与え西七条口へ進ませ、残り千余騎は予備として六波羅に待機させた。巳刻(午前10時頃)から三方で同時に戦闘が始まり互いに攻めかかった。攻撃側は歩兵射手が多く小路を封鎖して矢を集中射撃する一方、防衛側の六波羅勢は騎馬兵力優位で敵部隊を包囲しようとした。(両軍とも)孫子や呉起の戦術に精通していたため突破も包囲も成功せず、決着つかぬ消耗戦となった。 解説
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| 終日戦て已に夕陽に及びける時、河野と陶山と一手に成て、三百余騎轡を双べて懸たりけるに、木幡の寄手足をもためず被懸立て、宇治路を指て引退く。陶山・河野、逃る敵をば打捨て、竹田河原を直違に、鳥羽殿の北の門を打廻り、作道へ懸出て、東寺の前なる寄手を取篭めんとす。作道十八町に充満したる寄手是を見て、叶はじとや思けん、羅城門の西を横切に、寺戸を指て引返す。小早河は島津安芸前司とは東寺の敵に向て、追つ返つ戦けるが、己が陣の敵を河野と陶山とに被払て、身方の負をしつる事よと無念に思ひければ、「西の七条へ寄せつる敵に逢て、花やかなる一軍せん。」と云て、西八条を上りに、西朱雀へぞ出たりける。此に赤松入道、究竟の兵を勝て、三千余騎にて引へたりければ、無左右可破様も無りなり。されども嶋津・小早河が横合に懸るを見て、戦ひ疲れたる六波羅勢力を得て三方より攻合せける間、赤松が勢、忽に開靡て三所に引へたり。爰に赤松が勢の中より兵四人進み出て、数千騎引へたる敵の中へ無是非打懸りけり。其勢決然として恰樊噌・項羽が忿れる形にも過たり。近付に随て是を見れば長七尺許なる男の、髭両方へ生ひ分て、眥逆に裂たるが、鎖の上に鎧を重て着、大立挙の臑当に膝鎧懸て、竜頭の冑猪頚に着成し、五尺余りの太刀を帯き、八尺余のかなさい棒の八角なるを、手本二尺許円めて、誠に軽げに提げたり。 |
もう一方では赤松入道円心を中心に宇野・柏原・佐用・真嶋・得平・衣笠、菅家一族ら計3,500余騎が河島と桂の里に火を放ち西七条から攻め寄せた。両六波羅勢はこれまでの戦いに連勝して士気も高く兵力は3万騎以上あったため敵襲を知っても慌てる様子もなく、六条河原で軍容を整え余裕をもって部隊編成を行った。「比叡山が今は味方と言っても何か企みがあるかもしれない」と警戒し佐々木判官時信・常陸前司時朝・長井縫殿秀正に3,000騎を与えて糾河原へ派遣。さらに「先月12日の戦いも彼らが勝利したから吉例だ」として河野氏と陶山氏に5,000騎を付けて法性寺大路へ、富樫・林一族や島津・小早川両軍に諸国兵6,000余騎を添えて八条東寺方面へ向かわせた。厚東加賀守ら七将には7,000余騎を与え西七条口へ進ませ、残り千余騎は予備として六波羅に待機させた。巳刻(午前10時頃)から三方で同時に戦闘が始まり互いに攻めかかった。攻撃側は歩兵射手が多く小路を封鎖して矢を集中射撃する一方、防衛側の六波羅勢は騎馬兵力優位で敵部隊を包囲しようとした。(両軍とも)孫子や呉起の戦術に精通していたため突破も包囲も成功せず、決着つかぬ消耗戦となった。 解説
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| 数千騎扣へたる六波羅勢、彼等四人が有様を見て、未戦先に三方へ分れて引退く。敵を招て彼等四人、大音声を揚て名乗けるは、「備中国の住人頓宮又次郎入道・子息孫三郎・田中藤九郎盛兼・同舎弟弥九郎盛泰と云者也。我等父子兄弟、少年の昔より勅勘武敵の身と成りし間、山賊を業として一生を楽めり。然に今幸に此乱出来して、忝くも万乗の君の御方に参ず。然を先度の合戦、指たる軍もせで御方の負したりし事、我等が恥と存ずる間、今日に於ては縦御方負て引とも引まじ、敵強くとも其にもよるまじ、敵の中を破て通り六波羅殿に直に対面申さんと存ずるなり。」と、広言吐て二王立にぞ立たりける。島津安芸前司是を聞て、子息二人手の者共に向て云けるは、「日比聞及し西国一の大力とは是なり。彼等を討たん事大勢にては叶まじ。御辺達は且く外に引へて自余の敵に可戦。我等父子三人相近付て、進づ退つ且く悩したらんに、などか是を討たざらん。縦力こそ強くとも、身に矢の立ぬ事不可有。縦走る事早くとも、馬にはよも追つかじ。多年稽古の犬笠懸、今の用に不立ばいつをか可期。いで/\不思議の一軍して人に見せん。」と云侭に、唯三騎打ぬけて四人の敵に相近付く。田中藤九郎是を見て、「其名はいまだ知らねども、猛くも思へる志かな、同は御辺を生虜て、御方に成て軍せさせん。 |
数千騎もの六波羅勢は彼ら四人(頓宮又次郎入道・孫三郎・田中藤九郎盛兼・弥九郎盛泰)の姿を見て、戦いもせず三方に分かれて撤退し始めた。敵を挑発するかのように四人は大声で名乗りをあげた。「備中国出身の頓宮又次郎入道とその息子孫三郎、田中藤九郎盛兼と弟弥九郎盛泰である!我ら父子兄弟は若い頃から朝廷に追われ山賊として生きてきたが、幸いこの乱で天子様方へ加わった。前回の戦では貢献できず味方が敗れたのが恥だ。今日たとえ味方が劣勢でも退かぬ!敵が強くとも構わん。敵陣を突破し六波羅殿に直接相まみえる覚悟である!」と豪語して仁王像のように立ちふるまった。これを聞いた島津安芸前司(貞久)は二人の息子らに向かい言った。「噂の西国一の大力とはこの者たちか?多数で討つのは無理だ。お前たちは他の敵と戦え。我々父子三人が近づき進退を操って疲れさせれば必ず倒せる。たとえ力強くとも矢を受けぬはずがない。逃げ足が速くても馬には追いつかれまい。長年鍛えた鷹狩りの技が今こそ役立つ時だ。さあ、驚くべき一戦を披露しよう」と言うや三騎だけで抜け出し四人に接近した。田中藤九郎はこれを見て「名は知らぬが勇猛な志よ!お前を生け捕りにして味方として戦わせてやる!」と応じた。 解説
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| 」とあざ笑て、件の金棒を打振て、閑に歩み近付く。島津も馬を静々と歩ませ寄て、矢比に成ければ、先安芸前司、三人張に十二束三伏、且し堅めて丁と放つ。其矢あやまたず、田中が石の頬前を冑の菱縫の板へ懸て、篦中許射通したりける間、急所の痛手に弱りて、さしもの大力なれども、目くれて更に進み不得。舎弟弥九郎走寄り、其矢を抜て打捨、「君の御敵は六波羅也。兄の敵は御辺也。余すまじ。」と云侭に、兄が金棒をゝつ取振て懸れば、頓宮父子各五尺二寸の太刀を引側めて、小躍して続ひたり。嶋津元より物馴たる馬上の達者矢継早の手きゝなれば、少も不騒、田中進で懸れば、あいの鞭を打て、押もぢりにはたと射。田中妻手へ廻ば、弓手を越て丁と射る。西国名誉の打物の上手と、北国無双の馬上の達者と、追つ返つ懸違へ、人交もせず戦ひける。前代未聞の見物也。去程に嶋津が矢種も尽て、打物に成らんとしけるを見て、角ては叶はじとや思けん、朱雀の地蔵堂より北に引へたる小早河、二百騎にてをめいて懸りけるに、田中が後なる勢、ばつと引退ければ、田中兄弟、頓宮父子、彼此四人の鎧の透間内冑に、各矢二三十筋被射立て、太刀を逆につきて、皆立ずくみにぞ死たりける。見る人聞く人、後までも惜まぬ者は無りけり。 |
数千騎もの六波羅軍が彼ら四人(頓宮又次郎入道・孫三郎・田中藤九郎盛兼・弥九郎盛泰)の姿を見て戦わず三方に撤退し始めた。敵を挑発するように四人は大声で名乗り上げた。「備中国出身の頓宮又次郎入道と息子孫三郎、田中藤九郎盛兼と弟弥九郎盛泰だ!我ら父子兄弟は若い頃から朝廷に追われ山賊として生きてきたが、幸運にもこの乱で天子様方へ加わった。前回の戦では貢献できず味方が敗れたのが恥だ。たとえ今日味方が劣勢でも退かない!敵が強くとも構わん。敵陣を突破し六波羅殿に直接対面する覚悟である!」と豪語し仁王像のように立ちはだかった。これを聞いた島津安芸前司(貞久)は二人の息子らに向かって言った。「噂の西国一の大力とはこの者たちか?大軍で討つのは無理だ。お前たちは他の敵と戦え。我々父子三人が近づいて進退を操り疲れさせれば必ず倒せる。たとえ力強くとも矢を受けぬはずがない。逃げ足が速くても馬には追いつかれまい。長年鍛えた鷹狩りの技が今こそ役立つ時だ。さあ、驚くべき一戦を披露しよう」と言うや三騎だけで抜け出し四人に接近した。田中藤九郎はこれを見て「名は知らぬが勇猛な志よ!お前を生け捕りにして味方として戦わせてやる!」と嘲笑しながら金棒を振りかざしゆっくり近づいた。島津も馬を静かに進め矢の射程距離になると、貞久自ら十二束三伏(約1.5m)の大弓でしっかり構え「丁」と放った。その矢は外れず田中が石のように硬い頬当ての冑菱縫板に深く突き刺さり急所を傷つけたため、あれほどの大力も目眩いて前進できなくなった。弟の弥九郎が駆け寄り矢を抜き捨て「天子様の敵は六波羅だ!兄の敵はお前だ!逃すわけにはいかぬ」と言うと兄の金棒を取り上げ襲い掛かった。頓宮父子も五尺二寸(約1.6m)の太刀を構え小躍りして応戦した。島津は元来弓馬に慣れた達人で矢継ぎ早の名手ゆえ少しも慌てず、田中が迫れば鞭打って距離を取り押し引きしながら射る。田中の妻(左側)へ回れば逆方向から「丁」と狙い撃ちした。西国一の白兵戦の名人と北国無双の騎馬弓術の達人が追いつ戻つ交錯し、他の者を介さずに戦う様は前代未聞の見物だった。やがて島津の矢が尽き刀での決着となろうとした時、「このままでは不利」と判断したのか朱雀地蔵堂北に控えていた小早川勢二百騎が鬨の声を上げて突撃した。田中の後方部隊が慌てて退却する中、田中兄弟と頓宮父子は四人とも鎧の隙間から頭部まで矢二三十本射込まれ、刀を逆さに突き立て直立ったまま絶命した。これを見聞きした者で後世まで惜しまぬ者はなかった。 解説
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| 美作国の住人菅家の一族は、三百余騎にて四条猪熊まで責入、武田兵庫助・糟谷・高橋が一千余騎の勢と懸合て、時移るまで戦けるが、跡なる御方の引退きぬる体を見て、元来引かじとや思けん。又向ふ敵に後を見せじとや恥たりけん。有元菅四郎佐弘・同五郎佐光・同又三郎佐吉兄弟三騎、近付く敵に馳双べ引組で臥したり。佐弘は今朝の軍に膝口を被切て、力弱りたりけるにや、武田七郎に押へられて頚を被掻、佐光は武田二郎が頚を取る。佐吉は武田が郎等と差違て共に死にけり。敵二人も共に兄弟、御方二人も兄弟なれば、死残ては何かせん。いざや共に勝負せんとて、佐光と武田七郎と、持たる頚を両方へ投捨て、又引組で指違ふ。是を見て福光彦二郎佐長・殖月彦五郎重佐・原田彦三郎佐秀・鷹取彦二郎種佐同時に馬を引退し、むずと組ではどうど落、引組では指違へ、二十七人の者共一所にて皆討れければ、其陣の軍は破にけり。播磨国の住人妻鹿孫三郎長宗と申すは、薩摩氏長が末にて、力人に勝れ器量世に超たり。生年十二の春の比より好で相撲を取けるに、日本六十余州の中には、遂に片手にも懸る者無りけり。人は類を以て聚る習ひなれば、相伴ふ一族十七人、皆是尋常の人には越たり。されば他人の手を不交して一陣に進み、六条坊門大宮まで責入たりけるが、東寺・竹田より勝軍して帰りける六波羅勢三千余騎に被取巻、十七人は被打て、孫三郎一人ぞ残たりける。 |
美作国(現・岡山県)出身の菅家一門は三百余騎で四条猪熊まで攻め込んだ。武田兵庫助、糟谷、高橋ら一千余騎の軍勢と激突し時間が経つにつれて死闘を繰り広げたが、後方の味方が撤退していく状況を見て、「元より退くな」と思ったのかもしれない。あるいは敵に背を見せることを恥としたのだろう。有元菅四郎佐弘・同五郎佐光・同又三郎佐吉兄弟三人は接近する敵に向かい馬を並べて突進し組み伏せて斬り合い倒れた。佐弘は今朝の戦いで膝を切られ力尽きていたため武田七郎に押さえ込まれ首を刎ねられたが、佐光は逆に武田二郎の首を取った。佐吉は武田家臣と刺し違えて共に斃れた。「敵二人も兄弟であり味方二人も兄弟だ。生き残って何をするか」と言わんばかりに、佐光と武田七郎は持っていた首を両側へ投げ捨て再び組み合い相討ちとなった。これを見た福光彦二郎佐長・殖月彦五郎重佐・原田彦三郎佐秀・鷹取彦二郎種佐らが同時に馬から飛び降り、むずと組みついてどしんと倒れ込み引き分けようとも相討ちとなった。二十七人の兵士全てが一か所で戦死したためこの陣は崩壊してしまった。 一方播磨国(現・兵庫県)出身の妻鹿孫三郎長宗という武将は薩摩氏長の末裔で、怪力無双の器量者として世に知られていた。十二歳の春頃から好んで相撲を取り日本六十余州で片手でも敵う者は遂に出なかった。類を以て集まる習いゆえ従った一族十七人も皆尋常ならざる強者ばかりであったため、他人に手出しされぬまま軍勢の中を突破して六条坊門大宮まで攻め込んだが、東寺・竹田方面から凱旋してきた六波羅勢三千余騎に包囲された。十七人は討たれ孫三郎ただ一人残される結果となった。 解説
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| 「生て無甲斐命なれども、君の御大事是に限るまじ。一人なりとも生残て、後の御用にこそ立め。」と独りごとして、只一騎西朱雀を指て引けるを、印具駿河守の勢五十余騎にて追懸たり。其中に、年の程二十許なる若武者、只一騎馳寄せて、引て帰りける妻鹿孫三郎に組んと近付て、鎧の袖に取着ける処を、孫三郎是を物ともせず、長肘を指延て、鎧総角を掴で中に提げ、馬の上三町許ぞ行たりける。此武者可然者のにてや有けん、「あれ討すな。」とて、五十余騎の兵迹に付て追けるを、孫三郎尻目にはつたと睨で、「敵も敵によるぞ。一騎なればとて我に近付てあやまちすな。ほしがらばすは是取らせん。請取れ。」と云て、左の手に提げたる鎧武者を、右の手〔に〕取渡して、ゑいと抛たりければ、跡なる馬武者六騎が上を投越して、深田の泥の中へ見へぬ程こそ打こうだれ。是を見て、五十余騎の者共、同時に馬を引返し、逸足を出してぞ逃たりける。赤松入道は、殊更今日の軍に、憑切たる一族の兵共も、所々にて八百余騎被打ければ、気疲力落はてゝ、八幡・山崎へ又引返しけり。 ○主上自令修金輪法給事付千種殿京合戦事 京都数箇度の合戦に、官軍毎度打負て、八幡・山崎の陣も既に小勢に成りぬと聞へければ、主上天下の安危如何有らんと宸襟を被悩、船上の皇居に壇を被立、天子自金輪の法を行はせ給ふ。 |
「生きているだけでは役立たない身だが、主君のご大事がこれで終わるわけではない。一人でも生き残り、後のために尽くそう。」と独り言をしながら、ただ一騎で西朱雀方面へ向かって退却していたところを、印具駿河守率いる軍勢五十余騎に追いかけられた。その中に年齢二十歳ほどの若武者が単騎で近づき、退却する妻鹿孫三郎に組みつこうと鎧の袖をつかんだ瞬間、孫三郎は全く意に介さず長い肘を伸ばして鎧の総角(そうかく)を掴み、馬上で約三百メートルも引きずりながら進んでいた。この若武者が由緒ある者だったのだろう、「おい、討つな!」と叫ぶ五十余騎の兵士たちが後ろから追ってきたので、孫三郎は横眼できっととにらみ「敵にも違いがあるぞ。単騎だからといって俺に軽々しく近づく失態をするな。欲しければこれをやろう。受け取れ」と言い、左手で提げていた鎧武者を右手に持ち替えて、「えいっ」と投げ飛ばしたところ、後ろの馬上の兵士六騎の頭上を越えて深田の泥の中へ見えなくなるほど沈んでしまった。これを見た五十余騎の者たちは同時に馬首を返し、全力で逃げ出してしまった。一方赤松入道(円心)は、この日の戦いで特に頼りにしていた一族の兵士たちも各地で八百余騎討たれたため、意気消沈して八幡・山崎方面へ再び撤退した。 ○主上自ら金輪法を修し給う事 千種殿京合戦付記 解説
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| 其七箇日に当りける夜、三光天子光を並て壇上に現じ給ければ、御願忽に成就しぬと、憑敷被思召ける。さらばやがて大将を差上せて赤松入道に力を合せ、六波羅を可攻とて、六条少将忠顕朝臣を頭中将に成し、山陽・山陰両道の兵の大将として、京都へ被指向。其勢伯耆国を立しまで、僅に千余騎と聞へしが、因幡・伯耆・出雲・美作・但馬・丹後・丹波・若狭の勢共馳加はて、程なく二十万七千余騎に成にけり。又第六の若宮は、元弘の乱の始、武家に被囚させ給て、但馬国へ被流させ給ひたりしを、其国の守護大田三郎左衛門尉取立奉て、近国の勢を相催し、則丹波の篠村へ参会す。大将頭中将不斜悦で、即錦の御旗を立て、此宮を上将軍と仰ぎ奉て、軍勢催促の令旨を被成下けり。四月二日、宮、篠村を御立有て、西山の峯堂を御陣に被召、相従ふ軍勢二十万騎、谷堂・葉室・衣笠・万石大路・松尾・桂里に居余て、半は野宿に充満たり。殿法印良忠は、八幡に陣を取。赤松入道円心は山崎に屯を張れり。彼陣と千種殿の陣と相去事僅に五十余町が程なれば、方々牒じ合せてこそ京都へは可被寄かりしを、千種頭中将我勢の多をや被憑けん。又独高名にせんとや被思けん、潛に日を定て四月八日の卯刻に六波羅へぞ被寄ける。あら不思議、今日は仏生日とて心あるも心なきも潅仏の水に心を澄し、供花焼香に経を翻して捨悪修善を事とする習ひなるに、時日こそ多かるに、斎日にして合戦を始て、天魔波旬の道を学ばる条難心得と人々舌を翻せり。 |
その七日目の夜に三光の天子が光り輝いて壇上にお現れになったため、「御願いがあっという間に成就したのだな」と確信された。そこで早速大将軍を任命して赤松入道(円心)と力を合わせ、六波羅を攻めようとして、六条少将忠顕朝臣を頭中将に昇格させた。山陽・山陰両道の兵の総大将として京都へ派遣したところ、その兵力は伯耆国を出発する時点ではわずか千余騎と伝えられたが、因幡・伯耆・出雲・美作・但馬・丹後・丹波・若狭の軍勢が次々に加わり、間もなく二十万七千余騎もの大軍になった。また第六皇子(尊良親王)は元弘の乱の発端で幕府に捕らえられて但馬国へ流されていたのだが、その国の守護である大田三郎左衛門尉が擁立し近隣諸国の兵を集めるとすぐ丹波篠村へ参陣した。大将軍頭中将(千種忠顕)は喜びもせず即座に錦の御旗を掲げ、この皇子を上将軍として仰ぎ奉り、軍勢招集の令旨を発布された。四月二日には皇子が篠村から出立され西山峯堂へ本陣を置かれ、従う二十万騎もの兵は谷堂・葉室・衣笠・万石大路・松尾・桂里に溢れかえり半分以上が野宿で埋め尽くされた。殿法印良忠は八幡に布陣し赤松入道円心は山崎に駐屯した。その陣と千種中将の陣との距離わずか五キロメートルほどだったため互いに連絡を取り合って京都へ進軍すべきところだが、千種頭中将は味方兵力が多勢なことを頼りにしてしまったのかもしれない。あるいは独りで手柄を立てようと考えたのだろうか、密かに日時を定め四月八日の卯刻(午前6時)に六波羅へ攻撃したのだった。ああ不思議だ――この日は仏生会(釈迦誕生日)であり心ある者もない者も灌仏水で心清め供花焼香して経典を唱え、悪事を捨て善行をするのが習いであるのに数多くある候補日のなかから斎日に合戦を始めるとは天魔波旬(悪魔の王)のような道を行くものだと人々が口々に非難した。 解説
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| さて敵御方の士卒源平互に交れり。無笠符ては同士打も有ぬべしとて、白絹を一尺づゝ切て風と云文字を書て、鎧の袖にぞ付させられける。是は孔子の言に、「君子の徳は風也。小人の徳は草也。草に風を加ふる時は不偃と云事なし。」と云心なるべし。六波羅には敵を西に待ける故に、三条より九条まで大宮面に屏を塗り、櫓を掻て射手を上て、小路々々に兵を千騎二千騎扣へさせて、魚鱗に進み、鶴翼に囲まん様をぞ謀りける。「寄手の大将は誰そ。」と問に、「前帝第六の若宮、副将軍は千種頭中将忠顕の朝臣。」と聞へければ、「さては軍の成敗心にくからず。源は同流也。といへども、「江南の橘、江北に被移て枳と成」習也。弓馬の道を守る武家の輩と、風月の才を事とする朝廷の臣と闘を決せんに、武家不勝と云事不可有。」と、各勇み進で、七千余騎大宮面に打寄て、寄手遅しとぞ待懸たる。去程に忠顕朝臣、神祇官の前に扣へて勢を分て、上は大舎人より下は七条まで、小路ごとに千余騎づゝ指向て責させらる。武士は要害を拵て射打を面に立て、馬武者を後に置たれば、敵の疼む所を見て懸出々々追立けり。官軍は二重三重に荒手を立たれば、一陣引けば二陣入替り、二陣打負れば三陣入替て、人馬に息を継せ、煙塵天を掠て責戦ふ。 |
さて敵味方の兵士たちが源氏平氏入り混じっているため、「識別がないと味方同士で討ち合うこともあるだろう」と考え、(南朝軍は)白絹を一尺ずつ切って「風」という文字を書き、鎧の袖に付けさせた。これは孔子の言葉にある「君子の徳は風のようなものだ。小人の徳は草のようなものだ。草に風が吹けば必ずなびく(抵抗できない)」という意味であるはずだ。六波羅側は敵を西から来ると予想していたため、三条通りから九条通りまで大宮通沿いに塀を塗り固め櫓を作って弓兵を配置し、小道ごとに千騎二千騎の兵を待機させて「魚鱗(ぎょりん)の陣」で進み、「鶴翼(かくよく)の陣」で包囲しようと計画していた。「攻撃側の大将は誰だ?」との問いに「先帝第六皇子、副将軍は千種頭中将忠顕朝臣」と聞くと、「なるほど戦略が憎らしいほど巧妙だ。源氏とは同族だが『江南のみかんを江北に移せば枳(からたち)になる』という例えの通り、(宮廷育ちでは武士として劣る)。弓馬の道を守る武家と、風流を愛好する朝廷の臣下が戦えば武家が負けるはずがない」と言い合い各々奮い立って七千余騎が大宮通に押し寄せ攻撃側を待ち構えた。そのとき忠顕朝臣は神祇官前で軍勢を分け、上は大舎人町から下は七条通りまで小道ごとに千騎ずつ進ませて攻めさせた。(六波羅の)武士たちは要害を作って弓矢での防御を前面に置き騎馬武者を後方に配置したため敵が弱った隙を見て突撃し追い立てた。官軍(南朝軍)は二重三重に予備兵力を用意していたので一隊が退けば次隊と交代、二隊が敗れれば三隊が交替で攻め込み人馬の息継ぎも許さず、砂塵が天を覆うほどの激戦となった。 解説
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| 官軍も武士も諸共に、義に依て命を軽じ、名を惜で死を争ひしかば、御方を助て進むは有れども、敵に遇て退くは無りけり。角ては何可有勝負とも見へざりける処に、但馬・丹波の勢共の中より、兼て京中に忍て人を入置たりける間、此彼に火を懸たり。時節辻風烈く吹て、猛煙後に立覆ひければ、一陣に支へたる武士共、大宮面を引退て尚京中に扣へたり。六波羅是を聞て、弱からん方へ向けんとて用意を残し留たる、佐々木判官時信・隅田・高橋・南部・下山・河野・陶山・富樫・小早河等、五千余騎を差副て、一条・二条の口へ被向。此荒手に懸合て、但馬の守護大田三郎左衛門被打にけり。丹波国の住人荻野彦六と足立三郎は、五百余騎にて四条油小路まで責入たりけるを、備前国の住人、薬師寺八郎・中吉十郎・丹・児玉が勢共、七百余騎相支て戦けるが、二条の手被破ぬと見へければ、荻野・足立も諸共に御方の負して引返す。金持三郎は七百余騎にて、七条東洞院まで責入たりけるが、深手を負て引かねけるを、播磨国の住人肥塚が一族、三百余騎が中に取篭て、出抜て虜てげり。丹波国神池の衆徒は、八十余騎にて、五条西洞院まで責入、御方の引をも知らで戦けるを、備中国の住人、庄三郎・真壁四郎、三百余騎にて取篭、一人も不余打てげり。 |
敵味方の兵士たちが源氏平氏入り混じっているため、「識別がないと味方同士で討ち合うこともあるだろう」と考え、(南朝軍は)白絹を一尺ずつ切って「風」という文字を書き、鎧の袖に付けさせた。これは孔子の言葉にある「君子の徳は風のようなものだ。小人の徳は草のようなものだ。草に風が吹けば必ずなびく(抵抗できない)」という意味であるはずだ。六波羅側は敵を西から来ると予想していたため、三条通りから九条通りまで大宮通沿いに塀を塗り固め櫓を作って弓兵を配置し、小道ごとに千騎二千騎の兵を待機させて「魚鱗(ぎょりん)の陣」で進み、「鶴翼(かくよく)の陣」で包囲しようと計画していた。「攻撃側の大将は誰だ?」との問いに「先帝第六皇子、副将軍は千種頭中将忠顕朝臣」と聞くと、「なるほど戦略が憎らしいほど巧妙だ。源氏とは同族だが『江南のみかんを江北に移せば枳(からたち)になる』という例えの通り、(宮廷育ちでは武士として劣る)。弓馬の道を守る武家と、風流を愛好する朝廷の臣下が戦えば武家が負けるはずがない」と言い合い各々奮い立って七千余騎が大宮通に押し寄せ攻撃側を待ち構えた。そのとき忠顕朝臣は神祇官前で軍勢を分け、上は大舎人町から下は七条通りまで小道ごとに千騎ずつ進ませて攻めさせた。(六波羅の)武士たちは要害を作って弓矢での防御を前面に置き騎馬武者を後方に配置したため敵が弱った隙を見て突撃し追い立てた。官軍(南朝軍)は二重三重に予備兵力を用意していたので一隊が退けば次隊と交代、二隊が敗れれば三隊が交替で攻め込み人馬の息継ぎも許さず、砂塵が天を覆うほどの激戦となった。 解説
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| 方々の寄手、或は被打或は被破て、皆桂河の辺まで引たれども、名和小次郎と小嶋備後三郎とが向ひたりける一条の寄手は、未引、懸つ返つ時移るまで戦たり。防は陶山と河野にて、責は名和と小嶋と也。小島と河野とは一族にて、名和と陶山とは知人也。日比の詞をや恥たりけん、後日の難をや思けん、死ては尸を曝すとも、逃て名をば失じと、互に命を不惜、をめき叫でぞ戦ひける。大将頭中将は、内野まで被引たりけるが、一条の手尚相支て戦半也。と聞へしかば、又神祇官の前へ引返して、使を立て小島と名和とを被喚返けり。彼等二人、陶山と河野とに向て、「今日已に日暮候ぬ。後日にこそ又見参に入らめ。」と色代して、両軍ともに引分、各東西へ去にけり。夕陽に及で軍散じければ、千種殿は本陣峯の堂に帰て、御方の手負打死を被註に、七千人に余れり。其内に、宗と憑たる大田・金持の一族以下、数百人被打畢。仍一方の侍大将とも可成者とや被思けん、小嶋備後三郎高徳を呼寄て、「敗軍の士力疲て再び難戦。都近き陣は悪かりぬと覚れば、少し堺を阻て陣を取り、重て近国の勢を集て、又京都を責ばやと思ふは、如何に計ふぞ。」と宣へば、小嶋三郎不聞敢、「軍の勝負は時の運による事にて候へば、負るも必しも不恥、只引まじき処を引かせ、可懸所を不懸を、大将の不覚とは申也。 |
各地からの攻撃部隊は打ち負かされたり敗れたりして桂川の岸辺まで撤退したが、名和小次郎と小嶋備後三郎が向かった一条通りの攻撃隊だけはまだ退かず、攻めたり返したりしながら時間が過ぎるまで戦い続けた。防衛側は陶山と河野で、攻撃側は名和と小嶋である。小島(小嶋)と河野は一族同士であり、名和と陶山は旧知の間柄だった。「普段の言葉を恥じたのか」「将来の災いを恐れたか」、互いに「死んで屍をさらしても逃げて名声を失うことはない」と命を惜しまず喚き叫びながら戦った。大将である頭中将(千種忠顕)は内野まで撤退していたが、「一条通りの部隊がまだ持ちこたえて戦っている最中だ」との報告を聞くと、神祇官の前へ引き返して使者を立て小嶋と名和を呼び戻した。彼ら二人は陶山と河野に向かって「今日はすでに日が暮れた。後日に改めて参上しよう」と言い訳し、両軍ともに引き分け各々東西へ去った。夕陽のころに戦闘が終わると千種殿(忠顕)は本陣の峯の堂に戻り、味方の負傷者と死者を数えると七千人以上いた。その中で主力だった大田・金持一族以下数百人は全滅していた。そこで「一軍の侍大将としてふさわしい人物」と思われたか、小嶋備後三郎高徳を呼び寄せて言った。「敗れた兵は力尽き再戦困難だ。都に近い陣所は不利と感じるので少し境界を隔てて陣を取り直し、改めて近国の勢力を集め京都を攻撃したいと思うがどうか」。すると小嶋三郎は遠慮なく答えた。「戦の勝敗は時の運によることで負けても必ずしも恥ではない。ただ退くべきでない所から退き、攻めるべき場所を攻めぬことを大将の失敗というのです」。 解説
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| 如何なれば赤松入道は、僅に千余騎の勢を以て、三箇度まで京都へ責入、叶はねば引退て、遂に八幡・山崎の陣をば去らで候ぞ。御勢縦ひ過半被打て候共、残所の兵尚六波羅の勢よりは多かるべし。此御陣後は深山にて前は大河也。敵若寄来らば、好む所の取手なるべし。穴賢、此御陣を引かんと思食す事不可然候。但御方の疲れたる弊に乗て、敵夜討に寄する事もや候はんずらんと存候へば、高徳は七条の橋爪に陣を取て相待候べし。御心安からんずる兵共を、四五百騎が程、梅津・法輪の渡へ差向て、警固をさせられ候へ。」と申置て、則小嶋三郎高徳は、三百余騎にて、七条の橋より西にぞ陣を堅めたる。千種殿は小嶋に云恥しめられて、暫は峯の堂におはしけるが、「敵若夜討にや寄せんずらん。」と云つる言に被驚て、弥臆病心や付給ひけん、夜半過る程に、宮を御馬に乗せ奉て、葉室の前を直違に、八幡を指てぞ被落ける。備後三郎、かかる事とは思ひもよらず、夜深方に峯の堂を見遣ば、星の如に耀き見へつる篝火次第に数消て、所々に焼すさめり。是はあはれ大将の落給ひぬるやらんと怪て、事の様を見ん為に、葉室大路より峯の堂へ上る処に、荻野彦六朝忠浄住寺の前に行合て、「大将已に夜部子刻に落させ給て候間、無力我等も丹後の方へと志て、罷下候也。 |
「なぜなら赤松入道(則村)はわずか千騎余りの兵で三度も京都へ攻め込み、成功しなければ撤退したが最終的に八幡や山崎の陣地を放棄しなかったのです。味方軍勢はたとえ半分以上倒されても残存兵力はまだ六波羅側より多いはずです。この本陣(峯の堂)は後方が深山で前方は大河であり、敵が攻めて来れば迎撃に最適な場所です。どうかここから撤退しようなどと考えられるのは良くありません。ただし味方兵士の疲弊に乗じ夜討ちを仕掛ける可能性もあるため、高徳(小嶋三郎)自ら七条大橋付近で陣を取り防備します。信頼できる兵士四五百騎ほどを梅津や法輪寺渡しへ派遣し警戒させてください」と進言して置き、小嶋三郎高徳は三百騎余りで七条大橋より西に布陣した。千種殿(忠顕)は小嶋の言葉に辱められ峯の堂に留まっていたが、「敵が夜襲するかもしれない」という発言に恐怖を募らせ、真夜中過ぎに宮(護良親王?)を馬に乗せ葉室通を通り八幡へ落ち延びた。小嶋備後三郎はこの事態も予想せず深夜に峯の堂を見ると星のように輝いていた篝火が次々消え、所々で燃え残っていた。「大将軍が逃亡したのか」と不審に思い状況確認のため葉室通から峯の堂へ向かう途中、浄住寺前で荻野彦六朝忠に出会い「大将は真夜中に落ち延びられたので力尽きた我々も丹後方面へ退きます」と告げられた。 解説
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| いざゝせ給へ、打連れ申さん。」と云ければ備後三郎大に怒て、「かゝる臆病の人を大将と憑みけるこそ越度なれ。さりながらも、直に事の様を見ざらんは後難も有ぬべし。早御通り候へ。高徳は何様峯の堂へ上て、宮の御跡を奉見て追付可申。」と云て、手の者兵をば麓に留て只一人、落行勢の中を押分々々、峯の堂へぞ上りける。大将のおはしつる本堂へ入て見れば、能遽て被落けりと覚へて、錦の御旗、鎧直垂まで被捨たり。備後三郎腹を立てゝ、「あはれ此大将、如何なる堀がけへも落入て死に給へかし。」と独り言して、しばらくは尚堂の縁に歯嚼をして立たりけるが、「今はさこそ手の者共も待かねたるらめ。」と思ひければ、錦の御旗許を巻て、下人に持せ、急ぎ浄住寺の前へ走り下り、手の者打連て馬を早めければ、追分の宿の辺にて、荻野彦六にぞ追付ける。荻野は、丹波・丹後・出雲・伯耆へ落ける勢の、篠村・稗田辺に打集まて、三千余騎有けるを相伴、路次の野伏を追払て、丹波国高山寺の城にぞ楯篭りける。 ○谷堂炎上事 千種頭中将は西山の陣を落給ひぬと聞へしかば、翌日四月九日、京中の軍勢、谷の堂・峰の堂已下浄住寺・松の尾・万石大路・葉室・衣笠に乱入て、仏閣神殿を打破り、僧坊民屋を追捕し、財宝を悉く運取て後、在家に火を懸たれば、時節魔風烈く吹て、浄住寺・最福寺・葉室・衣笠・三尊院、総じて堂舎三百余箇所、在家五千余宇、一時に灰燼と成て、仏像・神体・経論・聖教、忽に寂滅の煙と立上る。 |
「お供しましょう」と言う荻野に対し小嶋備後三郎(高徳)は激怒して、「こんな臆病者を大将と信じたのが過ちだった。しかし事態確認せず撤退すれば後で問題が起きるだろう。貴方は先に行け。私は峯の堂へ上り宮様(護良親王?)の行方を確かめて追いつく」と言い、配下を麓に残し単身逃亡兵の中を分け入って峯の堂へ登った。大将がいた本堂に入ると急ぎ逃げたと見え、錦の御旗から鎧直垂まで捨てられていた。小嶋は腹を立て「この大将ども、どこか堀や崖に落ちて死んでしまえ」と独り言し、しばらく堂の縁で歯軋りしていたが、「部下たちが待っているだろう」と思い立ち、錦の御旗だけ巻き取って従者に持たせ急ぎ浄住寺前へ駆け下り配下と合流した。道中「追分宿」付近で荻野彦六に追いつくと、丹波・丹後方面へ逃げる兵三千騎余が篠村・稗田周辺に集結していたので同行し、途中の野伏を撃退しながら丹波国高山寺城に立て籠もった。 ○谷堂炎上について 解説
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| 彼谷堂と申は八幡殿の嫡男対馬守義親が嫡孫、延朗上人造立の霊地也。此上人幼稚の昔より、武略累代の家を離れ、偏に寂寞無人の室をと給し後、戒定慧の三学を兼備して、六根清浄の功徳を得給ひしかば、法華読誦の窓の前には、松尾の明神坐列して耳を傾け、真言秘密の扉の中には、総角の護法手を束て奉仕し給ふ。かゝる有智高行の上人、草創せられし砌なれば、五百余歳の星霜を経て、末世澆漓の今に至るまで、智水流清く、法燈光明也。三間四面の輪蔵には、転法輪の相を表して、七千余巻の経論を納め奉られけり。奇樹怪石の池上には、都卒の内院を移して、四十九院の楼閣を並ぶ。十二の欄干珠玉天に捧げ、五重の塔婆金銀月を引く。恰も極楽浄土の七宝荘厳の有様も、角やと覚る許也。又浄住寺と申は、戒法流布の地、律宗作業の砌也。釈尊御入滅の刻、金棺未閉時、捷疾鬼と云鬼神、潛に双林の下に近付て、御牙を一引■て是を取る。四衆の仏弟子驚見て、是を留めんとし給ひけるに、片時が間に四万由旬を飛越て、須弥の半四天王へ逃上る。韋駄天追攻奪取、是を得て其後漢土の道宣律師に被与。自尓以来相承して我朝に渡しを、嵯峨天皇御宇に始て此寺に被奉安置。偉哉大聖世尊滅後二千三百余年の已後、仏肉猶留て広く天下に流布する事普し。 |
その谷堂とは八幡殿(源義家)の嫡男・対馬守義親の子孫である延朗上人が建立した霊地である。この上人は幼い頃から武門の家系を離れ、ひたすら静かな修行場を求められた後、戒律・禅定・智慧の三学を備えられ感覚が清浄となる境地を得られたため、法華経を読誦する窓辺には松尾明神が列座して耳を傾け、密教の扉の中では童子姿の護法神が謹んで仕えた。このように知恵と高潔な行いを持つ上人が創建された霊地ゆえに五百余年の歳月を経て末世といわれる現代まで、智慧の流れは清く仏法の灯りは輝いている。三間四方の輪蔵には教えが広まる様を示し七千巻以上の経典を納めている。珍しい樹木や奇岩のある池辺には浄土世界を移したように四十九院もの楼閣が並び、欄干の装飾は天に向かい五重塔は月影を受けて金銀に輝く。まさに極楽浄土の宝で飾られた様子もこれほどのものかと感じさせるほどである。また浄住寺とは戒律を広める地であり律宗修行の道場である。釈尊が入滅された際、棺が閉じられる前に捷疾鬼という鬼神がこっそり忍び寄って御歯(仏歯)一本を奪い取った。弟子たちが見つけて阻止しようとしたが瞬く間に四万由旬も飛んで須弥山の頂上へ逃げたところを韋駄天が追跡し取り返した後、中国の道宣律師に渡され日本へ伝わり嵯峨天皇治世下でこの寺に安置された。尊いことだ釈迦入滅から二千三百年以上経った今も仏身(歯)が残り広く天下に信仰されているのだ。 解説
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| かゝる異瑞奇特の大加藍を無咎して被滅けるは、偏に武運の可尽前表哉と、人皆唇を翻けるが、果して幾程も非ざるに、六波羅皆番馬にて亡び、一類悉く鎌倉にて失せける事こそ不思議なれ。「積悪の家には必有余殃」とは、加様の事をぞ可申と、思はぬ人も無りけり。 |
このような霊験あらたかな大伽藍が罪もなく焼け落ちたのは、まさに六波羅(北条氏)の武運が尽きた前兆だろうと人々皆が噂したところ、果たして間もなく六波羅方は騎馬隊もろとも滅亡し一族全て鎌倉で失せてしまったことは実に不思議である。「悪を積んだ家には必ず余殃(災いの残り)がある」という言葉は、まさにこのようなことを指すのだろうと、そう思わない者はいなかった。 解説
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| input text 太平記\009_太平記_巻9.txt | 現代日本語 translated text | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 太平記 太平記巻第九 ○足利殿御上洛事 先朝船上に御坐有て、討手を被差上、京都を被責由、六波羅の早馬頻に打て、事既に難儀に及由、関東に聞へければ、相摸入道大に驚て、さらば重て大勢を指上せて半は京都を警固し、宗徒は舟上を可責と評定有て、名越尾張守を大将として、外様の大名二十人を被催。其中に足利治部大輔高氏は、所労の事有て、起居未快けるを、又上洛の其数に入て、催促度々に及べり。足利殿此事に依て、心中に被憤思けるは、「我父の喪に居て三月を過ざれば、非歎の涙未乾、又病気身を侵して負薪の憂未休処に、征罰の役に随へて、被相催事こそ遺恨なれ。時移り事変じて貴賎雖易位、彼は北条四郎時政が末孫也。人臣に下て年久し。我は源家累葉の族也。王氏を出て不遠。此理を知ならば、一度は君臣の儀をも可存に、是までの沙汰に及事、偏に身の不肖による故也。所詮重て尚上洛の催促を加る程ならば、一家を尽して上洛し、先帝の御方に参て六波羅を責落して、家の安否を可定者を。」と心中に被思立けるをば、人更に知事無りけり。相摸入道は、可斯事とは不思寄、工藤左衛門尉を使にて、「御上洛延引不被心得。」一日の中両度までこそ被責けれ。足利殿は反逆の企、已に心中に被思定てげれば、中々異儀に不及、「不日に上洛可仕。 |
太平記巻第九「足利殿御上洛事」について。先帝(後醍醐天皇)が船上におわして討伐軍を差し向け京都を包囲したとの報せが、六波羅からの早馬によって頻繁にもたらされ、事態は危機に及んだと関東へ伝えられた。鎌倉幕府執権の北条高時(相模入道)は大いに驚き、「それならば改めて大軍を上洛させて半分で京都の警護にあたり、残りで船上の帝を攻めよう」と評定し、名越尾張守を大将として外様大名二十人を召集した。その中に足利高氏(治部大輔)は病気療養中で回復していなかったが、上洛軍への参加を命じられ再三の催促を受けた。 解説
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| 」とぞ被返答ける。則夜を日に継で被打立けるに、御一族・郎従は不及申、女性幼稚の君達迄も、不残皆可有上洛と聞へければ、長崎入道円喜怪み思て、急ぎ相摸入道の方に参て申けるは、「誠にて候哉覧。足利殿こそ、御台・君達まで皆引具し進せて、御上洛候なれ。事の体怪く存候。加様の時は、御一門の疎かならぬ人にだに、御心被置候べし。況乎源家の貴族として、天下の権柄を捨給へる事年久しければ、思召立事もや候覧。異国より吾朝に至まで、世の乱たる時は、覇王諸候を集て牲を殺し血を啜て弐ろ無らん事を盟ふ。今の世の起請文是也。或は又其子を質に出して、野心の疑を散ず。木曾殿の御子、清水冠者を大将殿の方へ被出き。加様の例を存候にも、如何様足利殿の御子息と御台とをば、鎌倉に被留申て、一紙の起請文を書せ可被進とこそ存候へ。」と申ければ、相摸入道げにもとや被思けん。頓て使者を以て被申遣けるは、「東国は未だ世閑にて、御心安かるべきにて候。幼稚の御子息をば、皆鎌倉に留置進せられ候べし。次に両家の体を一にして、水魚の思を被成候上、赤橋相州御縁に成候、彼此何の不審か候べきなれ共、諸人の疑を散ぜん為にて候へば、乍恐一紙の誓言を被留置候はん事、公私に付て可然こそ存候へ。 |
「そうお答えになった。」直ちに昼夜を問わずに出発したところ、一族や家臣は言うまでもなく女性や幼い子供たちまで全員が上洛すると聞こえてきたので、長崎円喜(入道)は怪しんで思い、急いで北条高時(相模入道)のもとに参じて申し上げた。「これは本当でしょうか?足利殿が奥方やお子様までも皆連れて行かれるとは。事の成り行きが不審に思われます。このような時は、身内の中でも信頼できる者だけを呼んで警戒すべきです。まして源氏という名門貴族として天下の権力を捨てたのは昔のことゆえ、何かを企んでいるのではないでしょうか?外国から我が国まで世が乱れる時には、覇王は諸侯らと集まり犠牲(牛馬)を殺し血を啜って二心ないことを誓います。現代の起請文もこれです。あるいはまた子息を人質に出して野心への疑いを晴らします。(例として)木曾殿の御子・清水冠者を大将軍のもとへ差し出しました。こうした先例から考え、足利殿にはご子息や奥方を鎌倉に留め置かせて起請文を書かせるべきでしょう。」と言うと、北条高時は確かにそうだと思ったのか、すぐ使者を通じて伝えさせた。「東国(鎌倉)はまだ平穏でご安心いただけます。幼いお子様方は皆ここに留め置くのがよいでしょう。また両家の関係を一つにして深い信頼をお示しになった上、(足利と縁戚である)赤橋氏のことでは何も疑いはありませんが、人々の疑念を晴らすためにも恐れながら一筆の誓約書をご提出いただけますなら公私共に適切かと思います。」 解説
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| 」と、被仰たりければ、足利殿、欝胸弥深かりけれ共、憤を押へて気色にも不被出、「是より御返事を可申。」とて、使者をば被返てげり。其後舎弟兵部大輔殿を被呼進て、「此事可有如何。」と意見を被訪に、且く案じて被申けるは、「今此一大事を思食立事、全く御身の為に非ず、只天に代て無道を誅し、君は御為に不義を退んと也。其上誓言は神も不受とこそ申習はして候へ。設ひ偽て起請の詞被載候共、仏神などか忠烈の志を守らせ給はで候べき。就中御子息と御台とは、鎌倉に留置進せられん事、大儀の前の少事にて候へば、強に御心を可被煩に非ず。公達未だ御幼稚に候へば、自然の事もあらん時は、其為に少々被残置郎従共、何方へも抱拘へて隠し奉り候なん。御台の御事は、又赤橋殿とても御坐候はん程は、何の御痛敷事か候べき。「大行は不顧細謹」とこそ申候へ。此等程の少事に可有猶予あらず。兎も角も相摸入道の申さん侭に随て其不審を令散、御上洛候て後、大儀の御計略を可被回とこそ存候へ。」と被申ければ、足利殿此道理に服して、御子息千寿王殿と、御台赤橋相州の御妹とをば、鎌倉に留置奉りて、一紙の起請文を書て相摸入道の方へ被遣。相摸入道是に不審を散じて喜悦の思を成し、高氏を招請有て、様々賞翫共有しに、「御先祖累代の白旌あり、是は八幡殿より代々の家督に伝て被執重宝にて候けるを、故頼朝卿の後室、二位の禅尼相伝して、当家に今まで所持候也。 |
そう言われたので足利尊氏は鬱屈した気持ちがいっそう強くなったものの、怒りを抑えて表情にも表さず、「後ほど改めて返答いたします」と言い使者を帰らせた。その後弟(直義)兵部大輔を呼び寄せて「この件についてどうすべきか」と意見を求めると、しばらく考えて弟はこう申し上げた。「今ご決意なさった大事業は全く私利のためではなく、天に代わって無道(北条氏)を討ち、君(天皇)のために不義を退けようとされるからです。そもそも偽りの誓いは神仏もお受け入れにならないと言われています。たとえ起請文に嘘の文言を記しても、忠誠心が本物なら仏神は必ず守ってくださるでしょう。特にご子息と奥方を鎌倉に留め置かれる件など大事業前の些細な問題ですから、深く悩むには及びません。お子様方はまだ幼いので万一の場合にも備え、残しておいた家臣たちがどこかに匿いますし、奥方については(北条方である)赤橋殿もいらっしゃる間は何の心配もないでしょう。「大事を成す者は細事にこだわらない」と言われます。これほど小さなことに躊躇している場合ではありません。とにかく高時が望むままに疑念を晴らして上洛され、その後で大計略をお進めになるべきです。」これを聞いた足利尊氏はこの道理を受け入れ、息子の千寿王殿と正室(赤橋守時の妹)を鎌倉に留めて起請文一通を書き高時に送った。これにより疑念が消えた北条高時は喜び色を見せて尊氏を招き称賛し合いながら、「ご先祖代々伝わる白旌があります。これは八幡殿(源義家)から源家の当主へ継承された重宝でしたが、故頼朝卿未亡人二位尼より北条家に相伝され今も所持しています。」と語った。 解説
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| 希代の重宝と申ながら、於他家に、無其詮候歟。是を今度の餞送に進じ候也。此旌をさゝせて、凶徒を急ぎ御退治候へ。」とて、錦の袋に入ながら、自ら是をまいらせらる。其外乗替の御為にとて、飼たる馬に白鞍置て十疋、白幅輪の鎧十領、金作の太刀一副て被引たりけり。足利殿御兄弟・吉良・上杉・仁木・細川・今河・荒河・以下の御一族三十二人、高家の一類四十三人、都合其勢三千余騎、元弘三年三月二十七日に鎌倉を立、大手の大将と被定、名越尾張守高家に三日先立て、四月十六日に京都に着給ふ。 ○山崎攻事付久我畷合戦事 両六波羅は、度々の合戦に打勝ければ、西国の敵恐るに不足と欺きながら、宗徒の勇士と被憑たりける結城九郎左衛門尉は、敵に成て山崎の勢に加りぬ。其外、国々の勢共五騎十騎、或は転漕に疲て国々に帰り、或は時の運を謀て敵に属しける間、宮方は負れ共勢弥重り、武家は勝共兵日々に減ぜり。角ては如何可有と、世を危む人多かりける処に、足利・名越の両勢叉雲霞の如く上洛したりければ、いつしか人の心替て今は何事か可有と、色を直して勇合へり。かゝる処に、足利殿は京着の翌日より、伯耆の船上へ潛に使を進せて、御方に可参由を被申たりければ、君殊に叡感有て、諸国の官軍を相催し朝敵を可御追罰由の綸旨をぞ被成下ける。 |
そう言われたので足利尊氏は鬱屈した気持ちがいっそう深まったものの、怒りを抑えて表情にも出さず、「後ほど改めて返答いたします」と言い使者を帰らせた。その後弟(直義)兵部大輔を呼び寄せて「この件についてどうすべきか」と意見を求めると、しばらく考えて弟はこう申し上げた。「今ご決意なさった大事業は全く私利のためではなく、天に代わって無道(北条氏)を討ち、君(天皇)のために不義を退けようとされるからです。そもそも偽りの誓いは神仏もお受け入れにならないと言われています。たとえ起請文に嘘の文言を記しても忠誠心が本物なら仏神は必ず守ってくださるでしょう。特にご子息と奥方を鎌倉に留め置かれる件など大事業前の些細な問題ですから、深く悩むには及びません。お子様方はまだ幼いので万一の場合にも備え残しておいた家臣たちがどこかに匿いますし、奥方については(北条方である)赤橋殿もいらっしゃる間は何の心配もないでしょう。「大事を成す者は細事にこだわらない」と言われます。これほど小さなことに躊躇している場合ではありません。とにかく高時が望むままに疑念を晴らして上洛されその後で大計略をお進めになるべきです。」これを聞いた足利尊氏はこの道理を受け入れ息子の千寿王殿と正室(赤橋守時の妹)を鎌倉に留めて起請文一通を書き高時に送った。これにより疑念が消えた北条高時は喜び色を見せて尊氏を招き称賛し合いながら「ご先祖代々伝わる白旌があります。これは八幡殿(源義家)から源家の当主へ継承された重宝でしたが故頼朝卿未亡人二位尼より北条家に相伝され今も所持しています。希代の重宝とはいえ他氏が所有するのはふさわしくないでしょう。今回の餞別として差し上げます。この旗を掲げて早急に凶徒(天皇方)をお討ちください」と言って錦袋に入れて自ら献上した。そのほか乗り換え用にと飼い慣らした馬に白鞍をつけた十頭、白縁の鎧十領、金装飾太刀一振りを贈った。足利尊氏兄弟・吉良・上杉・仁木・細川・今河・荒河以下の一族三十二人と高家(名越高家)一派四十三人が揃い総勢三千余騎は元弘三年三月二十七日に鎌倉を出発し大手軍の大将として任命され、名越尾張守高家に三日先立たせ四月十六日に京都へ到着した。 解説
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| 両六波羅も名越尾張守も、足利殿にかゝる企有とは思も可寄事ならねば、日々に参会して八幡・山崎を可被責内談評定、一々に心底を不残被尽さけるこそはかなけれ。「大行之路能摧車、若比人心夷途。巫峡之水能覆舟、若比人心是安流也。人心好悪苦不常。」とは云ながら、足利殿は代々相州の恩を戴き徳を荷て、一家の繁昌恐くは天下の肩を可並も無りけり。其上赤橋前相摸守の縁に成て、公達数た出来給ぬれば、此人よも弐はおはせじと相摸入道混に被憑けるも理也。四月二十七日には八幡・山崎の合戦と、兼てより被定ければ、名越尾張守大手の大将として七千六百余騎、鳥羽の作道より被向。足利治部大輔高氏は、搦手の大将として五千余騎、西岡よりぞ被向ける。八幡・山崎の官軍是を聞て、さらば難所に出合て不慮に戦を決せしめよとて、千種頭中将忠顕朝臣は、五百余騎にて大渡の橋を打渡り、赤井河原に被扣。結城九郎左衛門尉親光は、三百余騎にて狐河の辺に向ふ。赤松入道円心は、三千余騎にて淀・古河・久我畷の南北三箇所に陣を張。是皆強敵を拉気、天を廻し地を傾と云共、機を解き勢を被呑とも、今上の東国勢一万余騎に対して可戦とはみへざりけり。足利殿は、兼て内通の子細有けれ共、若恃やし給ふ覧とて、坊門少将雅忠朝臣は、寺戸と西岡の野伏共五六百人駆催して、岩蔵辺に被向。 |
両六波羅(北条仲時・北条時益)と名越尾張守高家は、足利尊氏にそのような企てがあるとは思いもしなかったので、毎日会合して八幡や山崎を攻撃すべきだと評議し、あらゆる心の内を見抜こうとしたが愚かなことであった。「広い道でさえ車を壊すのに人の心と比べれば平坦だと言える。巫峡(長江)の急流も船を転覆させるが人心に比べれば安全な川である。人の好悪は常ならず苦しいものだ」という言葉があるように、足利尊氏は代々相模入道時頼(北条家)から恩恵と徳を受け一族繁栄し天下に並ぶ者はいなかった。さらに赤橋前相模守守時の縁で子供も生まれているので「この人は裏切らないだろう」と相模入道高時に信じられたのも当然だった。四月二十七日は八幡・山崎の合戦が予定されていたため、名越尾張守高家は大手(主力軍)大将として七千六百余騎を率い鳥羽の作道から進撃した。足利治部大輔尊氏は搦手(側面部隊)大将として五千余騎で西岡より向かった。八幡・山崎にいる天皇方官軍がこれを聞き「ならば要害地で奇襲をかけ一気に決着をつけよう」と、千種頭中将忠顕朝臣は五百余騎で大渡橋を渡り赤井河原で待機した。結城九郎左衛門尉親光は三百余騎で狐川の辺へ向かい、赤松入道円心は三千余騎で淀・古河・久我畷の南北三箇所に陣を布いた。彼らはいずれも強敵を押し潰す豪気を見せたが「天を回し地を傾ける」と謳われても、時勢を読み取って味方に引き込めなければ天皇軍は東国から来る一万余騎の大軍には戦えないと思われた。足利尊氏は事前に内通の事情があったとはいえ「もし疑いを持ったら危ない」と考え坊門少将雅忠朝臣を送り、寺戸と西岡の野伏五六百人を駆り立てて岩蔵辺へ向かわせた。 解説
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| 去程に搦手の大将足利殿は、未明に京都を立給ぬと披露有ければ、大手の大将名越尾張守、「さては早人に先を被懸ぬ。」と、不安思ひて、さしも深き久我畷の、馬の足もたゝぬ泥土の中へ馬を打入れ、我先にとぞ進みける。尾張守は、元より気早の若武者なれば、今度の合戦、人の耳目を驚す様にして、名を揚んずる者をと、兼て有増の事なれば、其日の馬物の具・笠符に至まで、当りを耀かして被出立たり。花段子の濃紅に染たる鎧直垂に、紫糸の鎧金物重く打たるを、透間もなく着下して、白星の五枚甲の吹返に、日光・月光の二天子を金と銀とにて堀透して打たるを猪頚に着成し、当家累代重宝に、鬼丸と云ける金作の円鞘の太刀に、三尺六寸の太刀を帯き添、たかうすべ尾の矢三十六指たるを、筈高に負成、黄瓦毛の馬の太く逞きに、三本唐笠を金具に磨たる鞍を置き、厚総の鞦の燃立許なるを懸け、朝日の陰に耀して、光渡てみへたるが、動ば軍勢より先に進出て、当りを払て被懸ければ、馬物具の体、軍立の様、今日の大手の大将は是なめりと、知ぬ敵は無りけり。されば敵も自余の葉武者共には目を不懸、此に開き合せ彼に攻合て、是一人を打んとしけれども、鎧よければ裏かゝする矢もなし。打物達者なれば、近付敵を切て落す。 |
その途中で側面部隊の大将である足利尊氏が夜明け前に京を出発したという報告があったため、主力部隊の大将・名越高家(尾張守)は、「なんと早くも先陣を奪われたか」と焦り不安に思い、深い泥沼で馬の足も立たない久我畷へ真っ先に馬を突き入れ我先にと進んだ。高家は元来せっかちな若武者である上に、この合戦では人々を驚かせるような活躍で名声を上げようと以前から決めていたため、その日の馬具や笠印に至るまで目立つように装備して出陣した。花模様の濃い紅色に染めた鎧直垂に紫糸で重厚な金物を隙間なく縫いつけ、白星が付いた五枚甲の吹返しには日光・月光の二天子像を金銀で透かし彫りにして猪頚形兜として被り、代々伝わる家宝「鬼丸」と呼ばれる金色円鞘太刀に三尺六寸の大太刀を添え帯び、高鶻尾矢三十六本背負い筈高く構えた。たくましい黄瓦毛馬には金具磨き上げた三本唐笠鞍を置き、厚手総絎けの鞦が燃えるように鮮やかに見えるよう装備し朝日の中に輝いて光り渡っていた。彼は動くと軍勢より先へ進み出て道を開けて駆けたので馬具の様子・陣立ても含め「今日の主力大将はこの者だ」と知らぬ敵はいなかった。そのため敵兵も他の雑兵には目もかけず、ここに展開しあちらで攻撃しながら高家一人を討とうとするが鎧優れているので貫通する矢もなく、刀剣術達者なので近づく敵は切り落とされた。 解説
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| 其勢ひ参然たるに辟易して、官軍数万の士卒、已に開き靡きぬとぞ見へたりける。爰に赤松の一族に佐用佐衛門三郎範家とて、強弓の矢継早、野伏戦に心きゝて、卓宣公が秘せし所を、我物に得たる兵あり。態物具を解で、歩立の射手に成、畔を伝ひ、薮を潛て、とある畔の陰にぬはれ臥、大将に近付て、一矢ねらはんとぞ待たりける。尾張守は、三方の敵を追まくり、鬼丸に着たる血を笠符にて推拭ひ、扇開仕ふて、思ふ事もなげに扣へたる処を、範家近々とねらひ寄て引つめて丁と射る。其矢思ふ矢坪を不違、尾張守が冑の真甲のはづれ、眉間の真中に当て、脳を砕骨を破て、頚の骨のはづれへ、矢さき白く射出たりける間、さしもの猛将なれ共、此矢一隻に弱て、馬より真倒にどうど落、範家箙を叩て矢呼を成し、「寄手の大将名越尾張守をば、範家が只一矢に射殺したるぞ、続けや人々。」と呼りければ、引色に成つる官軍共、是に機を直し、三方より勝時を作て攻合す。尾張守の郎従七千余騎、しどろに成て引けるが、或は大将を打せて何くへか可帰とて、引返て討死するもあり。或は深田に馬を馳こうで、叶はで自害するもあり。されば狐河の端より鳥羽の今在家まで、其道五十余町が間には、死人尺地もなく伏にけり。 |
その威圧的な勢いに恐れをなした天皇方(官軍)数万の兵士たちは、すでに崩れて敗走し始めているように見えた。ここで赤松一族の中に佐用佐衛門三郎範家という者がいた。彼は強力な弓を使い矢継ぎ早に射ることが得意でゲリラ戦術に長けており、過去の名将が秘伝とした戦法を身につけた武将であった。わざと重装備を外して歩く射手となり、あぜ道を伝い薮の中に潜みながら進んでいくうちにある畦の陰にじっと伏せ込み、大将(高家)に近づいて一本の矢で狙おうと待機したのであった。 解説
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| ○足利殿打越大江山事 追手の合戦は、今朝辰刻より始まて、馬煙東西に靡き、時の声天地を響かして攻合けれ共、搦手の大将足利殿は、桂河の西の端に下り居て、酒盛してぞおはしける。角て数刻を経て後、大手の合戦に寄手打負て、大将已に被討ぬと告たりければ、足利殿、「さらばいざや山を越ん。」とて、各馬に打乗て、山崎の方を遥の余所に見捨て、丹波路を西へ、篠村を指て馬を早められけり。爰に備前国の住人中吉十郎と、摂津国の住人に奴可四郎とは、両陣の手合に依て搦手の勢の中に在けるが、中吉十郎大江山の麓にて、道より上手に馬を打挙て、奴可四郎を呼のけて云けるは、「心得ぬ様哉、大手の合戦は火を散て、今朝の辰刻より始りたれば、搦手は芝居の長酒盛にてさて休ぬ。結句名越殿被討給ぬと聞へぬれば、丹波路を指して馬を早め給ふは、此人如何様野心を挿給歟と覚るぞ。さらんに於ては、我等何くまでか可相従。いざや是より引返て、六波羅殿に此由を申ん。」と云ければ、奴可四郎、「いしくも宣ひたり。我も事の体怪しくは存じながら、是も又如何なる配立かある覧と、兎角案じける間に、早今日の合戦には迦れぬる事こそ安からね。但此人敵に成給ぬと見ながら、只引返したらんは、余に云甲斐なく覚ゆれば、いざ一矢射て帰らん。 |
○足利尊氏が大江山を越えること 解説
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| 」と云侭に、中差取て打番、轟懸てかさへ打て廻さんとしけるを、中吉、「如何なる事ぞ。御辺は物に狂ふか。我等僅に二三十騎にて、あの大勢に懸合て、犬死したらんは本意歟。嗚呼の高名はせぬに不如、唯無事故引返て、後の合戦の為に命を全したらんこそ、忠義を存たる者也けりと、後までの名も留まらんずれ。」と、再往制止ければ、げにもとや思けん、奴可四郎も中吉も、大江山より馬を引返して、六波羅へこそ打帰りけれ。彼等二人馳参て事の由を申ければ、両六波羅は、楯鉾とも被憑たりける名越尾張守は被討ぬ。是ぞ骨肉の如くなれば、さりとも弐はおはせじと、水魚の思を被成つる足利殿さへ、敵に成給ぬれば、憑む木下に雨のたまらぬ心地して、心細きに就ても、今まで着纒ひたる兵共も、又さこそはあらめと、心の被置ぬ人もなし。 ○足利殿着御篠村則国人馳参事 去程に、足利殿篠村に陣を取て、近国の勢を被催けるに、当国の住人に久下弥三郎時重と云者、二百五十騎にて最前に馳参る。其旗の文、笠符に皆一番と云文字を書たりける。足利殿是を御覧じて、怪しく覚しければ、高右衛門尉師直を被召て、「久下の者共が、笠璽に一番と云を書たるは、元来の家の文歟、又是へ一番に参りたりと云符歟。」と尋給ければ、師直畏て、「由緒ある文にて候。 |
中吉十郎がそう言うや否や、奴可四郎は刀を抜き振りかざして突撃しようとしたところを、中吉が「何をするのか?お前は正気か?我々わずか二三十騎であの大軍に挑んで無駄死にするのが本望なのか?むやみに手柄を狙うより無事引き返し今後の戦いのために命をつないだ方が、真の忠義というものだろう。そうすれば後世まで名が残るはずだ」と再度制止したので、奴可四郎も「確かにその通りだ」と思ったのか、二人は大江山から馬首をめぐらし六波羅へ引き返していった。 ○足利尊氏が篠村へ到着し国人勢が参集すること 解説
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| 彼が先祖、武蔵国の住人久下二郎重光、頼朝大将殿、土肥の杉山にて御旗を被揚て候ける時、一番に馳参じて候けるを、大将殿御感候て、「若我天下を持たば、一番に恩賞を可行。」と被仰て、自一番と云文字を書てたび候けるを、頓其家の文と成て候。」と答申ければ、「さては是が最初に参りたるこそ、当家の吉例なれ。」とて、御賞翫殊に甚しかりけり。元来高山寺に楯篭りたる足立・荻野・小島・和田・位田・本庄・平庄の者共許こそ、今更人の下風に可立に非ずとて、丹波より若狭へ打越て、北陸道より責上らんとは企けれ。其外久下・長沢・志宇知・山内・葦田・余田・酒井・波賀野・小山・波々伯部、其外近国の者共、一人も不残馳参りける。篠村の勢無程集て、其数既に二万三千余騎に成にけり。六波羅には是を聞て、「さては今度の合戦天下の安否たるべし。若自然に打負る事あらば、主上・々皇を取奉て、関東へ下向し、鎌倉に都を立て、重て大軍を揚、凶徒を可追討。」と評定有て、去る三月より北方の館を御所にしつらひ、院内を行幸成奉らる。梶井二品親王は天台座主にて坐ば、縦転反すとも、御身に於ては何の御怖畏か可有なれ共、当今の御連枝にて坐ば、且は玉体に近付進せて、宝祚の長久をも祈申さんとにや、是も同く六波羅へ入せ給ふ。 |
先祖である武蔵国の住人・久下二郎重光が、源頼朝将軍殿が土肥杉山に旗を掲げられた際、真っ先に駆けつけたことに対し、将軍殿は「もし私が天下を得たら、お前を一番に恩賞を与えよう」と述べられ、「一」の文字を自ら書いて与えた。これが久下家の正式な家紋となったのです。」と説明すると、尊氏は「ならば彼が最初に参じたのは我が軍にとって吉兆だ」と言って大いに喜んだ。 解説
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| 加之国母・皇后・女院・北政所・三台・九卿・槐棘・三家の臣・文武百司の官・並竹園門徒の大衆・北面以下諸家の侍・児、女房達に至まで我も々もと参集ける間、京中は忽にさびかへり、嵐の後の木葉の如く、己が様々散行ば、白河はいつしか昌て、花一時の盛を成せり。是も幾程の夢ならん、移り変る世の在様、今更被驚も理也。「夫天子は四海を以て為家」といへり。其上六波羅とても都近き所なれば、東洛渭川の行宮、さまで御心を可被令傷には非ざれども、此君御治天の後天下遂に不穏、剰百寮忽に外都の塵に交りぬれば、是偏に帝徳の天に背きぬる故也。と、罪一人に帰して主上殊に歎被思召ければ、常は五更の天に至まで、夜のをとゞにも入せ給はず、元老智化の賢臣共を被召て、只■舜湯武の旧き迹をのみ御尋有て、会て怪力乱神の徒なる事をば不被聞食。卯月十六日は、中の申なりしか共、日吉の祭礼もなければ、国津御神も浦さびて、御贄の錦鱗徒に湖水の浪に撥辣たり。十七日は中の酉なれども、賀茂の御生所もなければ、一条大路人すみて、車を争ふ所もなし。銀面空しく塵積て、雲珠光を失へり。「祭は豊年にも不勝、凶年にも不減」とこそいへるに、開闢以来無闕如両社の祭礼も、此時に始て絶ぬれば、神慮も如何と測難く、恐有べき事共也。 |
さらに国母(天皇の生母)・皇后・女院・北政所を始め、三台(三位以上の高官)・九卿(高位貴族)・槐棘(公卿と武官)・三家の家臣・文武百官、そして比叡山延暦寺の僧侶たちや北面の武士以下の諸家侍従、子供から女房に至るまでが我先にと六波羅へ集まったため、京都市中は突然さびれ返り、嵐で散った木々のように人々があちこち離れ去ってしまった。一方白河(六波羅周辺)はいつしか賑わい始め、花が一気に咲き誇るような繁栄ぶりとなった。これも束の間の夢であろうか――世の中の移ろいは激しく、驚くのも当然だ。「そもそも天子たるもの四海を家とする」と言うように、六波羅は都近くだから仮住まいといえど心配するほどのことではないはずだが、この天皇(後醍醐)が統治し始めて以来天下は不安定になり、朝廷百官も突然「外都」(六波羅)の騒乱に巻き込まれたのは、まったく帝徳が天意に背いたためである。こうした罪を一身に負い主上(後醍醐天皇)は特に嘆いておられ、常には夜明けまで眠らず元老や賢臣たちを召して「舜・湯王・武王の古代聖天子の治世」のみ尋ね求め、「怪力乱神」(迷信的要素)については一切耳に入れようとされなかった。 解説
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| さて官軍は五月七日京中に寄て、合戦可有と被定ければ、篠村・八幡・山崎の先陣の勢、宵より陣を取寄て、西は梅津・桂里、南は竹田・伏見に篝を焼、山陽・山陰の両道は已に如此。又若狭路を経て、高山寺の勢共鞍馬路・高雄より寄るとも聞也。今は僅に東山道許こそ開たれども、山門猶野心を含める最中なれば、勢多をも指塞ぎぬらん。篭の中の鳥、網代の魚の如くにて、可漏方もなければ、六波羅の兵共、上には勇める気色なれ共、心は下に仰天せり。彼雲南万里の軍、「戸に有三丁抽一丁」といへり。況や又千葉屋程の小城一を責んとて、諸国の勢数を尽して被向たれ共、其城未落先に禍既に蕭牆の中より出て、義旗忽に長安の西に近付ぬ。防がんとするに勢少なく救はんとするに道塞れり。哀れ兼てよりかゝるべしとだに知たらば、京中の勢をばさのみすかすまじかりし物をと、両六波羅を始として後悔すれ共甲斐ぞなき。兼々六波羅に議しけるは、「今度諸方の敵牒合て、大勢にて寄るなれば、平場の合戦許にては叶まじ。要害を構て時々馬の足を休め、兵の機を扶て、敵近付ば、懸出々々可戦。」とて、六波羅の館を中に篭て、河原面七八町に堀を深く掘て鴨川を懸入たれば、昆明池の春の水西日を沈て、■淪たるに不異。 |
官軍が5月7日に京都市中へ迫り、合戦を開始すると決めたため、篠村・八幡・山崎の先陣部隊は前夜から布陣し始め、西側では梅津や桂里で、南側では竹田や伏見にかがり火を焚いた。山陽道と山陰道もすでに同様であった。また若狭路経由で高山寺勢が鞍馬路・高雄方面から迫っているとの情報もある。今はわずかに東山道だけが開いているものの、比叡山(山門)がいまだ敵意を抱えている最中なので、勢多関も塞いでしまうだろう。(六波羅側は)籠の中の鳥や網にかかった魚のように逃げ場がなくなり、兵士たちは表面では勇ましい様子を見せながらも内心は驚き慌てていた。かの中国雲南地方での遠征軍(故事を指す)で「一戸に三男あれば一人徴発する」と言うように、ましてや千葉家の屋敷ほどの小さな城一つを攻めるのに全国から大軍が派遣されたが、その城が落ちる前に内部から災いが生じ(蕭牆=内輪もめ)、官軍旗は突然京都西郊に接近した。防ごうにも兵力不足で救おうにも道が塞がれている。哀れなことに初めからこうなることを知っていたなら、京中の兵士をこれほど軽んじることもなかっただろうと両六波羅探題が後悔しても無駄である。以前に六波羅側は協議し「今回は四方の敵が連携して大軍で迫ってくるので平地での戦いは不可能だ。要害を構築し随時馬を休め、兵士の機動性を生かして敵接近時に出撃せよ」と決めたため、六波羅館を中心に籠城態勢を取り、河原付近約800mに深い堀を掘って鴨川から水を引き込んだ。その様子はまるで昆明池(古代中国の貯水池)の春の水面が夕日を沈めるように渦巻き波紋が広がっていた。 解説
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| 残三方には芝築地を高く築て、櫓をかき双べ、逆木を重く引たれば、城塩州受降城も角やと覚へてをびたゝし。誠に城の構は、謀あるに似たれ共智は長ぜるに非ず。「剣閣雖高憑之者蹶。非所以深根固蔕也。洞庭雖浚負之者北。非所以愛人治国也。」とかや。今已に天下二つに分れて、安危此一挙に懸たる合戦なれば、粮を捨て舟を沈る謀をこそ致さるべきに、今日より軈て後足を蹈で纔の小城に楯篭らんと、兼て心をつかはれける、武略の程こそ悲しけれ。 ○高氏被篭願書於篠村八幡宮事 去程に、明れば五月七日の寅刻に、足利治部大輔高氏朝臣、二万五千余騎を率して、篠村の宿を立給ふ。夜未だ深かりければ、閑に馬を打て、東西を見給ふ処に、篠村の宿の南に当て、陰森たる故柳疎槐の下に社壇有と覚て、焼荒たる燎の影の風なるに、宜祢が袖振鈴の音幽に聞へて神さびたり。何なる社とは知ねども、戦場に赴く門出なればとて、馬より下て甲を脱て、叢祠の前に跪き、「今日の合戦無事故、朝敵を退治する擁護の力を加へ給へ。」と祈誓を凝してぞ坐ける。時に賽しける巫に、「此社如何なる神を崇奉りたるぞ。」と問ひ給ければ、「是は中比八幡を遷し進らせてより以来、篠村の新八幡と申候也。」とぞ答申ける。足利殿、「さては当家尊崇の霊神にて御坐しけり。 |
残りの三方には芝生の土塁を高く築き、櫓を幾重にも並べ、逆茂木を何重も設置したため、城塞として有名な塩州受降城(中国唐代の要塞)さながらに見えた。確かにこの防御構えは策略があるように見えるが長期的知恵ではない。「剣閣は高しといえどそれに頼る者は必ず敗れる――根を深く固める策にあらず。洞庭湖は深しといえど背負う者は北走す――民を愛し国を治むる道にあらず」(『貞観政要』引用)と言われるように、今や天下が二分され存亡がこの一戦にかかっている状況で、退路を断つ決死の策(糧捨て舟沈め)を用いるべきなのに、今日以降もなお足踏みし小城に籠ろうとする消極的な姿勢は武略として悲しい限りだ。 ○高氏が篠村八幡宮へ願文を奉納したこと 解説
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| 機感最も相応せり。宜きに随て一紙の願書を献ばや。」と宣ひければ、疋壇妙玄、鎧の引合より矢立の硯を取出して、筆を引へて是を書。其詞に曰敬白祈願事夫以八幡大菩薩者、聖代前列之宗廟、源家中興之霊神也。本地内証之月、高懸于十万億土之天、垂迹外融之光、明冠於七千余座之上。触縁雖分化、聿未享非礼之奠、垂慈雖利生、偏期宿正直之頭。偉哉為其徳矣。挙世所以尽誠也。爰承久以来、当棘累祖之家臣、平氏末裔之辺鄙、恣執四海之権柄、横振九代之猛威。剰今遷聖主於西海之浪、困貫頂於南山之雲。悪逆之甚前代未聞。是為朝敵之最。為臣之道不致命乎。又為神敵之先。為天之理不下誅乎。高氏苟見彼積悪、未遑顧匪躬、将以魚肉菲、偏当刀俎之利、義卒勠力、張旅於西南之日、上将軍鳩嶺、下臣軍篠村。共在于瑞籬之影、同出乎擁護之懐。函蓋相応。誅戮何疑。所仰百王鎮護之神約也。懸勇於石馬之汗。所憑累代帰依之家運也。寄奇於金鼠之咀。神将与義戦耀霊威。徳風加草而靡敵於千里之外、神光代剣而得勝於一戦之中。丹精有誠、玄鑒莫誤矣。敬白元弘三年五月七日源朝臣高氏敬白とぞ読上たりける。文章玉を綴て、詞明かに理濃なれば、神も定て納受し御坐す覧と、聞人皆信を凝し、士卒悉憑を懸奉けり。足利殿自筆を執て判を居給ひ、上差の鏑一筋副て、宝殿に被納ければ、舎弟直義朝臣を始として、吉良・石塔・仁木・細川・今河・荒川・高・上杉、以下相順ふ人々、我も々もと上矢一づゝ献りける間、其箭社壇に充満て、塚の如くに積挙たり。 |
「まさに好機である。この場で願文を奉納しよう」とおっしゃったため、疋壇妙玄が鎧の間から矢立硯を取り出して筆記した。その文章にはこうあった。「謹んで申し上げます。八幡大菩薩は朝廷歴代の守護神であり源氏再興の霊威です。本地(仏身)は月のように遠く十万億土を照らし、垂迹(化身)として七千余社の中で最も輝かれる。縁あって現れた御神に対して礼を欠いた祭りをする者がいようとも、慈悲をもって衆生を救い正しい心を持つ者にご加護を与えられる。その威徳は偉大で世の全てが誠を尽くします。承久以来、北条氏(平家末裔)が勝手に国政を掌握し九代も猛威を振るった上、今や天皇(後醍醐帝)を隠岐へ流し皇太子(尊良親王)を土牢に幽閉する。この悪逆は前代未聞の朝敵第一であり神への冒涜です。臣下として命をかけねばならぬ道理、天が誅罰を与えざるを得ない道理があります。高氏はその悪行を見過ごせず身分など顧みず決起し、劣勢ながらも義兵が結束して西南で挙兵しました(注:足利軍の進撃経路)。上杉将軍鳩嶺に布陣し下僕たる私(尊氏)は篠村にいます。共に朝廷守護のもと行動する者同士、逆賊討伐に疑いなし。百王を守る神との誓いに勇気を得て石馬の汗をかけ(注:迅速さを示す故事)、代々信仰してきた家運に奇跡を託し金鼠が噛む如く城壁崩せますか(注:攻城戦術)。御神よ義軍と共に霊威を発揮してください。徳風は草を靡かせ千里の敵を倒し、神光は剣となり一戦で勝利を得させてください。誠心込めた願いがどうか届きますように。」元弘三年五月七日 源朝臣高氏と署名した。文章は珠玉をつなぎ論旨明快だったため「御神も必ず受け入れられる」と見聞きした者は皆信心を固め、兵士全員が祈りを捧げた。足利殿自ら筆を取り花押を記し鏑矢一本添えて本殿に納めたところ弟の直義朝臣をはじめ吉良・石塔・仁木・細川・今河・荒川・高・上杉以下家臣たちが次々と誓いの矢を奉納したため、社壇には塚のように矢が積み上がった。 解説
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| 夜既に明ければ前陣進で後陣を待。大将大江山の峠を打越給ける時、山鳩一番飛来て白旗の上に翩翻す。「是八幡大菩薩の立翔て護らせ給ふ験也。此鳩の飛行んずるに任て可向。」と、被下知ければ、旗差馬を早めて、鳩の迹に付て行程に、此鳩閑に飛で、大内の旧迹、神祇官の前なる樗木にぞ留りける。官軍此奇瑞に勇で、内野を指て馳向ける道すがら、敵五騎十騎旗を巻き甲を脱で降参す。足利殿篠村を出給し時は、僅に二万余騎有しが、右近馬場を過給へば、其勢五万余騎に及べり。 ○六波羅攻事 去程に六波羅には、六万余騎を三手に分て、一手をば神祇官の前に引へさせて、足利殿を防がせらる。一手をば東寺へ差向て、赤松を防がせらる。一手をば伏見の上へ向て、千種殿の被寄竹田・伏見を被支。巳の刻の始より、大手搦手同時に軍始まて、馬煙南北に靡き時の声天地を響かす。内野へは陶山と河野とに宗徒の勇士二万余騎を副て被向たれば、官軍も無左右不懸入、敵も輒不懸出両陣互に支て、只矢軍に時をぞ移しける。爰に官軍の中より、櫨匂の鎧に、薄紫の母衣懸たる武者只一騎、敵の前に馬を懸居て、高声に名乗けるは、「其身人数ならねば、名を知人よもあらじ。是は足利殿の御内に、設楽五郎左衛門尉と申者也。 |
夜が完全に明けたため先頭部隊は進みながら後続を待ち、大将(足利尊氏)が大江山の峠を越えた時、一羽の山鳩が白旗の上へひらりと舞い降りた。「これは八幡大菩薩が飛来して守護なさる証だ。この鳩の飛ぶままに進め」という命令が下ると、旗差し役は馬を急がせて鳩の後を追ったところ、その鳩はゆったりと飛んで神祇官(京都御所内)前にある樗木にとどまった。官軍(足利軍)はこの奇跡に勇気づけられ内野へ向かう途中で敵兵が五騎十騎と旗を巻き甲冑を脱いで投降した。足利殿が篠村を出発した時点ではわずかに二万余騎だったのが、右近馬場(京都御所周辺)を通ると兵力は五万余騎に達していた。 ○六波羅攻撃の件 解説
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| 六波羅殿の御内に、我と思はん人あらば、懸合て手柄の程をも御覧ぜよ。」と云侭に、三尺五寸の太刀を抜、甲の真向に差簪し、誠に矢所少く馬を立て引へたり。其勢ひ一騎当千とみへたれば、敵御方互に軍を止めて見物す。爰に六波羅の勢の中より年の程五十計なる老武者の、黒糸の鎧に、五枚甲の緒を縮て、白栗毛の馬に青総懸て乗たるが、馬をしづ/゛\と歩ませて、高声に名乗けるは、「其身雖愚蒙、多年奉行の数に加はて、末席を汚す家なれば、人は定て筆とりなんど侮て、あはぬ敵とぞ思ひ給ふ覧。雖然我等が先祖をいへば、利仁将軍の氏族として、武略累葉の家業也。今某十七代の末孫に、斎藤伊予房玄基と云者也。今日の合戦敵御方の安否なれば、命を何の為に可惜。死残る人あらば、我忠戦を語て子孫に留むべし。」と云捨て、互に馬を懸合せ、鎧の袖と々とを引違へて、むずと組でどうど落つ。設楽は力勝りなれば、上に成て斎藤が頚を掻く。斎藤は心早者なりければ、挙様に設楽を三刀刺す。何れも剛の者なりければ、死して後までも、互に引組たる手を不放、共に刀を突立て、同じ枕にこそ臥たりけれ。又源氏の陣より、紺の唐綾威の鎧に、鍬形打たる甲の緒を縮め、¥¥¥五尺余の太刀を抜て肩に懸、敵の前半町計に馬を駈寄て、高声に名乗けるは、「八幡殿より以来、源氏代々の侍として、流石に名は隠なけれ共、時に取て名を被知ねば、然べき敵に逢難し。 |
「六波羅方(北条軍)の中で私と対決しようと思う者がいるならば、かかってきて実力を見せてもらいたい」と言うなり三尺五寸の長大な太刀を抜き、兜の正面に差し込んで固定すると、矢が飛び交わない位置で馬を止め待機した。その姿はまさに一騎当千に見えたため敵味方ともに戦闘を中断して見物していた。そこへ六波羅勢の中から五十歳ほどの老武者が現れた。黒糸威しの鎧に五枚甲冑の緒を締め直し、白い馬体に青総覆いをかけた駿馬に乗り、ゆっくりと馬歩みながら大声で名乗った。「私は愚かな身分だが長年奉行職を務める家柄なので人々は文官扱いして相手にするまでもないと思っているだろう。しかし私の先祖を言えば利仁将軍(藤原利仁)の末裔として武勇伝統を受け継ぐ一族だ。今ここに十七代目の子孫である斎藤伊予房玄基と名乗る。今日の合戦は敵味方存亡がかかるゆえ、命を惜しむ理由などない。生き残った者が私の奮戦を語り伝えてくれればよい」と言い放つや両者は馬で激突し鎧袖をつかみ合って組み敷きあうと地面に倒れ込んだ。設楽は力が勝っていたため上から斎藤の首を斬ろうとしたが、斎藤も素早く三度太刀で相手を突いた。互いに剛勇だったため死後まで絡みあった腕を離さず両者刃を立てたまま同じ方向に倒れ伏した。さらに源氏方(足利軍)の陣から紺色唐綾威し鎧を着け鍬形前立付き兜の緒を固く締めた武者が五尺余りの太刀を抜いて肩にかつぎ、敵の二百メートル手前に馬を進めて大声で名乗った。「八幡殿(源義家)以来代々源氏に仕える侍として名声は隠れないものの時流で名を知られぬままでは良き相手にも巡り会えまい。」 解説
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| 是は足利殿の御内に大高二郎重成と云者也。先日度々の合戦に高名したりと聞ゆる陶山備中守・河野対馬守はおはせぬか、出合給へ。打物して人に見物せさせん。」と云侭に、手縄かいくり、馬に白沫嚼せて引へたり。陶山は東寺の軍強しとて、俄に八条へ向ひたりければ此陣にはなし。河野対馬守許一陣に進で有けるが、大高に詞を被懸て、元来たまらぬ懸武者なれば、なじかは少しもためらうべき、「通治是に有。」と云侭に、大高に組んと相近付く。是を見て河野対馬守が猶子に、七郎通遠とて今年十六に成ける若武者、父を討せじとや思けん、真前に馳塞て、大高に押双てむずと組。大高・河野七郎が総角を掴で中に提げ、「己れ程の小者と組で勝負はすまじきぞ。」とて、差のけて鎧の笠符をみるに、其文、傍折敷に三文字を書て着たりけり。さては是も河野が子か甥歟にてぞ有らんと打見て、片手打の下切に諸膝不懸切て落し、弓だけ三杖許投たりける。対馬守最愛の猶子を目の前に討せて、なじかは命を可惜、大高に組んと諸鐙を合て馳懸る処に、河野が郎等共是を見て、主を討せじと三百余騎にてをめゐて懸る。源氏又大高を討せじと、一千余騎にて喚て懸る。源平互に入乱て黒煙を立て責戦ふ。官軍多討れて内野へはつと引。 |
「これは足利殿(尊氏)配下である大高二郎重成と申す者だ。先日の合戦で度々武功を上げたという陶山備中守や河野対馬守はいないか?出てきて勝負せよ。一騎打ちを見物させよう」と言うなり手綱を引いて馬に泡を吹かせながら待機した。陶山は東寺方面の戦況が激しいため急ぎ八条へ向かい陣にはいなかった。河野対馬守(通治)だけが一隊を率いており、大高から挑発されて元来血気盛んな性格ゆえ躊躇する様子もなく「通治ここにあり」と叫ぶや組み討ち態勢で接近した。これを見た河野対馬守の養子・七郎通遠(当時16歳)が父を助けようとしたのか、前方へ駆け出し大高を押さえ込んで組みついた。大高は彼の髷をつかみ持ち上げ「お前ごとき小兵と勝負する気はない」と言い放ち鎧を見ると紋所に傍折敷三文字が描かれていた(河野氏家紋)。ならばこれも対馬守の縁者だろうと思い片手で振り下ろした太刀を膝へ当て切り落とし、弓矢ごと数メートル投げ飛ばした。最愛の養子を目の前で討たれた対馬守は命など惜しまず鐙を鳴らして突進するが、河野家臣三百騎も主君を救おうと押しかける。源氏方(足利軍)も大高を守るべく千余騎が叫びながら突入し、両軍入り乱れて黒煙上がる激戦となった結果官軍は多数の死者を出して内野へ撤退した。 解説
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| 源氏荒手を入替て戦ふに、六波羅勢若干討れて河原へさつと引ば、平氏荒手を入替て、此を先途と戦ふ。一条・二条を東西へ、追つ返つ七八度が程ぞ揉合ひたる。源平両陣諸共に、互に命を惜まねば、剛臆何れとは見へざりけれ共、源氏は大勢なれば、平氏遂に打負て、六波羅を指て引退く。東寺へは、赤松入道円心、三千余騎にて寄懸たり。楼門近く成ければ、信濃守範資、鐙踏張左右を顧て、「誰かある、あの木戸、逆木、引破て捨よ。」と下知しければ、宇野・柏原・佐用・真島の早り雄の若者共三百余騎、馬を乗捨て走り寄り、城の構を見渡せば、西は羅城門の礎より、東は八条河原辺まで、五六八九寸の琵琶の甲、安郡なんどを鐫貫て、したゝかに屏を塗、前には乱杭・逆木を引懸て、広さ三丈余に堀をほり、流水をせき入たり。飛漬らんとすれば、水の深さの程を不知。渡らんとすれば橋を引たり。如何せんと案煩ひたる処に、播磨の国の住人妻鹿孫三郎長宗馬より飛で下、弓を差をろして、水の深さを探るに、末弭僅に残りたり。さては我長は立んずる物を、と思ひければ、五尺三寸の太刀を抜て肩に掛、貫脱で抛すて、かつはと飛漬りたれば、水は胸板の上へも不揚、跡に続ひたる武部七郎是を見て、「堀は浅かりけるぞ。 |
源氏が先鋒部隊を入れ替えて戦う中、六波羅勢は何人か討たれて鴨川河原へ撤退したため平氏軍も新たな先鋒で代わり、「ここで決着をつけろ」と激しく攻めた。一条通りから二条通りの東西にわたって追ったり追い返されたり七、八度も入り乱れた戦闘となった。源平両陣営とも命を惜しまないため勇猛さでは優劣つかなかったが、源氏方が大軍だったので平氏は遂に敗れ六波羅へ向けて退却した。一方東寺には赤松円心入道が三千余騎で攻め寄せていた。楼門まで近づいた際、信濃守範資が鐙を踏みしめて左右を見渡し「誰かいるか?あの城門や逆茂木(防御柵)を破壊して捨てよ」と命令したので、宇野・柏原・佐用・真島ら若武者三百余騎が馬から飛び降り走って近づき、城砦を見渡すと西は羅城門の礎石から東は八条河原辺まで幅五六尺~八九寸(約180cm~270cm)の琵琶甲板や安郡材を鋲で打ち固めた頑丈な壁があり、前面には乱杭・逆茂木が組まれ、さらに三丈余り(約9m)の堀が掘られ水を引き込んでいた。飛び込もうにも水深は不明で渡ろうにも橋がないため困惑していたところ、播磨国の住人である妻鹿孫三郎長宗が馬上から跳躍し弓筈を使って深さを測ると矢先端だけかすかに残った。「ならば私の身長なら立てるはずだ」と考えた彼は五尺三寸(約160cm)の太刀を抜いて肩に担ぎ、鎧も脱いで投げ捨て「えいやっ」と飛び込んだ。水は胸甲上部まで届かず後続した武部七郎がこれを見て「堀は浅かったのだな!」 解説
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| 」とて、長五尺許なる小男が、無是非飛入たれば、水は甲をぞ越たりける。長宗きつと見返て、「我総角に取着てあがれ。」と云ければ、武部七郎、妻鹿が鎧の上帯を蹈で肩に乗揚り、一刎刎て向の岸にぞ着ける。妻鹿から/\と笑て、「御辺は我を橋にして渡たるや。いで其屏引破て捨ん。」と云侭に、岸より上へづんど刎揚り、屏柱の四五寸余て見へたるに手を懸、ゑいや/\と引に一二丈掘挙げて、山の如くなる揚土、壁と共に崩れて、堀は平地に成にけり。是を見て、築垣の上に三百余箇所掻双べたる櫓より、指攻引攻射ける矢、雨の降よりも猶滋し。長宗が鎧の菱縫、甲の吹返に立所の矢、少々折懸て、高櫓の下へつ走入り、両金剛の前に太刀を倒につき、上咀して立たるは、何れを二王、何れを孫三郎とも分兼たり。東寺・西八条・針・唐橋に引へたる、六波羅の兵一万余騎、木戸口の合戦強しと騒で、皆一手に成、東寺の東門の脇より、湿雲の雨を帯て、暮山を出たるが如、ましくらに打て出たり。妻鹿も武部もすはや被討ぬと見へければ、佐用兵庫助・得平源太・別所六郎左衛門・同五郎左衛門相懸りに懸て面も不振戦ふたり。「あれ討すな殿原。」とて、赤松入道円心、嫡子信濃守範資・次男筑前守貞範・三男律師則祐・真島・上月・菅家・衣笠の兵三千余騎抜連てぞ懸りける。 |
源氏軍が新鋭部隊で戦うと、六波羅勢の何人かが討たれて鴨川河原へ撤退したため平家軍も新手を投入し「ここで決着だ」と攻めた。一条通りから二条通りの東西一帯で追撃と反撃が七、八度繰り返される混戦となった。源氏・平家双方の兵士は命を惜しまないので勇猛さでは差が見えなかったものの、源氏方が大軍であったため平家はついに敗れて六波羅へ退却した。 一方東寺には赤松円心入道が三千余騎で攻め寄せていた。楼門近くまで迫った時、信濃守範資(円心嫡子)が鐙を踏みしめて左右を見渡し「誰かあの城門と逆茂木を破壊せよ」と命じたので宇野・柏原ら若武者三百余騎が馬から飛び降り突撃した。砦の構造を見ると西は羅城門礎石から東は八条河原まで琵琶甲板や安郡材で固めた頑丈な壁があり、前面には逆茂木が組まれ、幅三丈(約9m)の堀に水を引き込んでいた。飛び込むにも水深がわからず渡る橋もないため悩んでいる中、播磨国の武士・妻鹿孫三郎長宗が馬から跳躍し弓末で水深を測ると矢先端だけかすかに残った。「ならば私の背丈では立てるはずだ」と判断した彼は五尺三寸(約160cm)の太刀を肩にかけ鎧まで脱ぎ捨て飛び込んだ。水は胸当て上部にも届かなかったので後続の武部七郎が「堀は浅い!」と言って入ると、長宗より背丈のある彼では水面が兜頂上を超えた。 長宗が振り返り「私の髷につかまって登れ」と言うと武部七郎は妻鹿の鎧帯を踏み肩に乗り一気に対岸へ跳んだ。これを見た妻鹿は笑いながら「お前は俺を橋代わりにして渡ったな?ならばこの壁も破壊してやろう」と言って堀から飛び上がると、地中深く埋まった屏柱の一部に掴まり「えいやっ!」と引き抜いた。これにより数丈(約3-6m)も土砂が噴き上げ山のように積もり壁は崩れて堀全体が平地になった。 これを目撃した城壁上の櫓から三百余箇所の銃眼を塞ぐ勢いで矢が降り注ぎ始めた。雨よりも激しい射撃の中、長宗の鎧菱縫や兜吹返(頬当て)に次々と矢が刺さったため高櫓下へ走り込み両金剛像前に太刀を突き詰めて仁王立ちした姿は、仏像か武将かの見分けもつかないほどであった。 東寺・西八条周辺に布陣する六波羅軍一万余騎が「城門攻防戦が激しい」と騒ぎ一手となって反撃。東門横から夕暮れの山を覆う湿った雨雲のように暗く密集して押し寄せてきた。妻鹿も武部も討たれたかと思われた瞬間、佐用兵庫助ら味方が次々に突入して奮戦する。「あの者たちを見捨てるな!」と赤松円心自身が嫡子範資・次男貞範・三男則祐律師(当時は軍僧)と真島・上月ら三千余騎を率いて突撃した。 解説
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| 六波羅の勢一万余騎、七縦八横に被破て、七条河原へ被追出。一陣破て残党全からざれば、六波羅の勢竹田の合戦にも打負、木幡・伏見の軍にも負て、落行勢散々に、六波羅の城へ逃篭る。勝に乗て逃を追ふ四方の寄手五万余騎、皆一所に寄て、五条の橋爪より七条河原まで、六波羅を囲ぬる事幾千万と云数を不知。されども東一方をば態被開たり。是は敵の心を一になさで、輒く責落さん為の謀也。千種頭中将忠顕朝臣、士卒に向て被下知けるは、「此城尋常の思を成て延々に責ば、千葉屋の寄手彼を捨て、此後攻を仕つと覚るぞ。諸卒心を一にして一時が間に可責落。」と被下知ければ、出雲・伯耆の兵共、雑車二三百両取集て、轅と々とを結合せ、其上に家を壊て山の如くに積挙て、櫓の下へ指寄、一方の木戸を焼破けり。爰に梶井宮の御門徒、上林房・勝行房の同宿共、混甲にて三百余人、地蔵堂の北の門より、五条の橋爪へ打て出たりける間、坊門少将、殿法印の兵共三千余騎、僅の勢にまくり立られて、河原三町を追越る。されども山徒さすがに小勢なれば、長追しては悪かりなんとて、又城の中へ引篭る。六波羅に楯篭る所の軍勢雖少と、其数五万騎に余れり。此時若志を一にして、同時に懸出たらましかば、引立たる寄手共、足をためじとみへしか共、武家可亡運の極めにや有けん、日来名を顕せし剛の者といへ共不勇、無双強弓精兵と被云者も弓を不引して、只あきれたる許にて、此彼に村立て、落支度の外は儀勢もなし。 |
六波羅勢一万余騎があちこちで敗れて混乱し、七条河原へ追い詰められた。一度の戦闘では全滅せず残党がいたため、彼らは竹田での合戦でも負け、木幡・伏見方面の軍にも敗れ、散り散りになって六波羅城に逃げ込んだ。勝利に乗じた四方からの攻撃側五万余騎は一か所に集結し、五条橋の手前から七条河原までを包囲した兵数は幾千万とも知れなかったが、東側だけはわざと開けておいた。これは敵軍の結束を乱して容易に落城させるための策略である。 千種頭中将忠顕朝臣が兵士たちに命じた言葉は、「この城を普通の考えで長引かせて攻めれば、別方面(千葉屋)への援軍を見捨ねることになり、後から反撃されるだろう。全員一致団結して一気に落とせ」というものだった。これを受け出雲・伯耆の兵士らは雑車二三百台を集めて前後の轅をつなぎ合わせ、その上に壊した家屋を山のように積み上げて櫓の下へ押し寄せ、一方の城門を焼き破った。 六波羅城内の防衛兵力は少ないとはいえ五万騎以上いた。もしこの時全軍が一致して同時に出撃していれば、攻め手たちは足止まりされたはずだが、武家(平氏)滅亡の運命かどうか、日ごろ名高い剛勇者も臆病にふるまい、「無双」と呼ばれる弓の名手すら矢を放たず呆然と立ち尽くし、あちこちで小集団を作って落城準備以外何もしなかった。 解説
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| 名を惜み家を重ずる武士共だにも如此。何況主上・々皇を始進らせて、女院・皇后・北政所・月卿・雲客・児・女童・女房達に至るまで、軍と云事は未だ目にも見玉はぬ事なれば、時の声矢叫の音に懼をのゝかせ給ひて、「こは如何すべき。」と、消入計の御気色なれば、げにも理也。と御痛敷様を見進らするに就ても、両六波羅弥気を失て、惘然の体也。今まで無弐者とみへつる兵なれども、加様に城中の色めきたる様を見て、叶はじとや思ひけん、夜に入ければ、木戸を開逆木を越て、我れ先にと落行けり。義を知命を軽じて残留る兵、僅に千騎にも不足見へにけり。 ○主上・々皇御沈落事 爰に糟谷三郎宗秋、六波羅殿の前に参て申けるは、「御方の御勢次第に落て、今は千騎にたらぬ程に成て候。此御勢にて大敵を防がん事は叶はじとこそ覚へ候へ。東一方をば敵未だ取まはし候はねば、主上・々皇を奉取て、関東へ御下候て後、重て大勢を以て、京都を被責候へかし。佐々木判官時信、勢多の橋を警固して候を被召具ば、御勢も不足候まじ。時信御伴仕る程ならば、近江国に於ては手差者は候まじ。美濃・尾張・三河・遠江には御敵有とも承らねば、路次は定て無為にぞ候はんずらん。鎌倉に御着候なば、逆徒の退治踵を不可回、先思召立候へかし。 |
名声と家柄を重んじる武士たちさえこの有様である。ましてや天皇・皇子をはじめ、女院(皇太后)・皇后・北政所(高位貴族夫人)・公卿殿上人・高僧から子供・稚児・侍女に至るまで、戦争というものを全く経験したことがなかったため、鬨の声と矢が飛び交う音におののき、「これはどうすればよいのか」と消え入りそうな様子であった。道理も当然である。その心痛む姿を拝見するにつけても、六波羅探題(平氏側指揮官)はすっかり意気消沈し茫然自失の状態だった。 これまで忠誠心が厚いと思われていた兵士たちも、城内がこのように動揺している様子を見て勝ち目がないと考えたのだろう。夜になると城門を開け逆茂木(防御柵)を越え我先にと逃亡した。義理を知り命をも軽んじて残留する兵はわずか千騎にも満たないほどであった。 ○天皇・皇子の脱出行 解説
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| 是程にあさまなる平城に、主上・々皇を篭進らせて、名将匹夫の鋒に名を失はせ給はん事、口惜かるべき事に候はずや。」と、再三強て申ければ、両六波羅げにもとや被思けん、「さらば先、女院・皇后・北政所を始進せて、面々の女性少き人々を、忍びやかに落して後、心閑に一方を打破て落べし。」と評定有て、小串五郎兵衛尉を以て、此由院・内へ被申たりければ、国母・皇后・女院・北政所・内侍・上童・上臈女房達に至まで、城中に篭りたるが恐さに、思はぬ別の悲しさも、後何に成行んずる様をも不知。歩跣にて我先にと迷出給ふ。只金谷園裡の春の花、一朝の嵐に被誘て、四方の霞に散行し、昔の夢に不異。越後守仲時北の方に向て宣ひけるは、「日来の間は、縦思の外に都を去事有共、何くまでも伴ひ申さんとこそ思ひつれ共、敵東西に満て、道を塞ぎぬと聞ゆれば、心安く関東まで落延ぬとも不覚。御事は女性の身なれば苦しかるまじ。松寿は未幼稚なれば、敵設見付たりとも誰が子共よもしらじ。只今の程に、夜に紛れて何方へも忍出給て、片辺土の方にも身を隠し、暫く世の静まらん程を待給ふべし。道の程事故なく関東に着なば、頓て御迎に人を可進す。若又我等道にて被討ぬと聞給はゞ、如何なる人にも相馴て、松寿を人と成し、心付なば僧に成して、我後世を問せ給へ。 |
「このような見苦しい城の中に天皇・皇子をお閉じ込めにして、名もない兵士たちのために御名誉が傷つくことは、はなはだ遺憾ではありませんか」と糟谷三郎宗秋が繰り返し強く主張したため、六波羅探題(平氏側指揮官)はもっともと思ったようで、「それなら先に女院・皇后・北政所を始めとして、身分の高い女性や子供たちを密かに脱出させた後、落ち着いて一方向から突破しよう」と決議した。小串五郎兵衛尉を使ってこの旨を皇族方へ伝えたところ、国母(天皇生母)・皇后・女院・北政所・内侍・稚児・上級女房に至るまで皆、城の中で恐怖におののき、予想外の別れの悲しみと将来どうなるかもわからぬ中で、裸足であちこちへ我先にとさまよい出た。それはまるで金谷園(豪華な庭園)の春の花が突然の嵐に散らされ四囲にかき消えるようであり、昔の栄華が夢だったかのように見えた。 越後守仲時(北条仲時)は妻に対してこう言った。「これまではたとえ思いもよらず都を離れることがあってもどこへでもお伴しようと思っていた。しかし敵軍が東西を埋めて道を塞いだと聞けば、安心して関東まで逃げ延びるのは困難だ。あなたは女性だから捕らえられても苦しまないだろう。松寿(子供の名)はまだ幼く、たとえ敵に見つかっても誰の子かわかるまい。今すぐ夜に紛れてどこへでも密かに抜け出し、片田舎で身を隠して世の中が静まるまで待っていてほしい。もし無事に関東へ着いたら直ちにお迎えを出す。万が一私が途中で討たれたと聞いたならば、どんな人にでも頼って松寿を成人させよ。成長したら出家させて私の来世の安楽を祈ってもらいたい。」 解説
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| 」と心細げに云置て、泪を流て立給ふ。北の方、越後守の鎧の袖を引へて、「などや角うたてしき言葉に聞へ侍るぞや。此折節少き者なんど引具して、しらぬ傍にやすらはゞ、誰か落人の其方様と思はざらん。又日比より知たる人の傍に立宿らば、敵に捜し被出て、我身の恥を見のみにあらず、少き者の命をさへ失はん事こそ悲しけれ。道にて思の外の事あらば、そこにてこそ共に兎も角も成はてめ。憑む陰なき木の下に、世を秋風の露の間も、被棄置進らせては、ながらうべき心地もせず。」と、泣悲み給ければ、越後守も心は猛しといへども、流石に岩木の身ならねば、慕ふ別を捨兼て、遥に時をぞ移されける。昔漢の高祖と楚の項羽と戦ふ事七十余度也。しに、項羽遂に高祖に被囲て、夜明ば討死せんとせし時に、漢の兵四面にして皆楚歌するを聞て、項羽則帳中に入り、其婦人虞氏に向て、別を慕ひ悲みを含んで、自歌作て云、力抜山兮気蓋世。時不利兮騅不逝。々々々可奈何。虞氏兮々々々奈若何。と悲歌慷慨して、項羽泪を流し給しかば、虞氏悲みに堪兼て、則自剣の上に伏し、項羽に先立て死にけり。項羽明る日の戦に、二十八騎を伴て、漢の軍四十万騎を懸破り、自漢の将軍三人が首を取て、被討残たる兵に向て、「我遂に漢の高祖が為に被亡ぬる事戦の罪に非ず、天我を亡せり。 |
「このようなみっともない城に天皇・皇子をお閉じ込めにして、名もない兵士のために御名誉を失われることは、実に残念なことではありませんか。」と糟谷が繰り返し主張したため、六波羅探題(平氏側指揮官)は確かにそうだと思ったようで、「それではまず女院・皇后・北政所を始めとして女性や子供たちをひそかに脱出させてから落ち着いて一方向から突破しよう」と評議した。小串五郎兵衛尉を使ってこの旨を皇族方に伝えたところ、国母(天皇生母)・皇后・女院・北政所・内侍・稚児・上級女房たちまで皆、城の中での恐怖や予期せぬ別れの悲しみに将来も見通せず、裸足であちこちへ我先にと逃げ出した。それはまるで豪華な庭園の春の花が突然の嵐に散り四方にかき消えるようであり、昔の栄華は夢だったかのように思われた。 越後守仲時(北条仲時)は妻に向かって言った。「これまでは思いもよらず都を離れることがあってもどこへでもお伴しようと思っていたが、敵軍が東西に満ちて道を塞いだと聞けば安心して関東まで逃げ延びるのは難しい。あなたは女性だから捕らわれても苦しまないだろう。松寿(子供の名前)はまだ幼く仮に敵に見つかっても誰の子かわかるまい。今すぐ夜に紛れてどこへでも密かに抜け出し田舎で身を隠して世の中が静まるまで待ってほしい。無事に関東に着いたら直ちにお迎えの人を出すから。もし私たちが途中で討たれたと聞いたならどんな人にも頼り松寿を成人させよ。成長したら出家させ私の来世のために祈ってもらいたい。」と言葉少なげに告げ涙を流して立ち去った。 妻は越後守の鎧の袖をつかんで言う。「なぜそんな冷たいお言葉をおっしゃるのですか?こんな時に子供たちを連れて見知らぬ場所へ行けば逃れているとは思われまい。また知人に頼れば敵に見つかり私が恥をさらすだけでなく子供の命さえ失うことこそ悲しい。もし途中で不慮のことがあればその場で共に死んでしまおう。頼る木陰もない野原へ置き去りになどできません。」と泣き叫ぶので、越後守は心が強いといっても人間だから別れを惜しみ長い時間立ち尽くしていた。 昔漢の高祖(劉邦)と楚の項羽が七十度以上戦った。最後に項羽が包囲され夜明け前に討死しようとした時、周囲から敵軍(漢兵)による故郷の歌を聞き帳中に入り愛妾・虞氏に向かい別れを悲しんで自ら作詩した。「力を山抜くほどに世を覆い尽くすも 時に利あらずして駿馬進まず/やむなきかな虞よお前はどうするのか」と慷慨しながら涙を流されたので、虞氏は耐えかねて剣の上に伏せ項羽より先立って死んだ。翌日項羽は二十八騎で漢軍四十万騎を突破し敵将三人の首を取りながら残った兵に向かい言う。「私が敗れたのは戦い方の誤りではなく天が滅ぼしたのだ。」 解説
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| 」と、自運を計て遂に烏江の辺にして自害したりしも、角やと被思知て泪を落さぬ武士はなし。南方左近将監時益は、行幸の御前を仕て打けるが、馬に乍乗北方越後守の中門際まで打寄せて、「主上早寮の御馬に被召て候に、などや長々敷打立せ給はぬぞ。」と云捨て打出ければ、仲時無力鎧の袖に取着たる北の方少き人を引放して、縁より馬に打乗り、北の門を東へ打出給へば、被捨置人々、泣々左右へ別て、東の門より迷出給ふ。行々泣悲む声遥に耳に留て、離れもやらぬ悲さに、落行前の路暮て、馬に任て歩せ行。是を限の別とは互に知ぬぞ哀なる。十四五町打延て跡を顧れば、早両六波羅の館に火懸て、一片の煙と焼揚たり。五月闇の比なれば、前後も不見暗きに、苦集滅道の辺に野伏充満て、十方より射ける矢に、左近将監時益は、頚の骨を被射て、馬より倒に落ぬ。糟谷七郎馬より下て、其矢を抜ば、忽に息止にけり。敵何くに有とも知ねば、馳合て敵を可討様もなし。又忍て落る道なれば、傍輩に知せて可返合にてもなし。只同じ枕に自害して、後世までも主従の義を重ずるより外の事はあらじと思ければ、糟谷泣々主の頚を取て錦の直垂の袖に裹み、道の傍の田の中に深く隠して則腹掻切て主の死骸の上に重て、抱着てぞ伏たりける。 |
「こうした末路だと思い知り涙を流さない武士はいなかった。」南方左近将監時益(糟谷三郎宗秋)は天皇のお供をしながら進んでいたが、馬に乗って越後守仲時のいる中門のそばまで来て、「主上(後醍醐天皇)は早く逃げるための馬にお召しになっているのにどうして長々と立ち止まっていらっしゃるのですか」と言い捨てて先へ進んだ。すると仲時は無力に鎧の袖につかまる妻や子供を引き離し、縁から馬に乗って北門から東へ駆け出したので、残された人々は泣きながら左右に別れ東門からさまよい出た。進む途中で遠くまで聞こえる悲嘆の声が耳につまり離れるのがつらい悲しみの中、逃げる道も暗くなり馬を流すままに行くのはこれが永遠の別れと互いに知っている哀れさだった。十四、五町ほど進んだ後で振り返るともう両六波羅(北条氏の拠点)に火が放たれて一筋の煙となって燃え上がっていた。五月闇(暗い夜)なので前も見えない漆黒の中、「苦集滅道」(京都市内の地名か仏教用語由来地)付近に野伏りが充満し四方から射る矢によって左近将監時益は首の骨を射られ馬から倒れ落ちた。糟谷七郎(宗秋の一族?)が馬から降りその矢を抜くとたちまち息絶えた。敵がどこにいるかもわからないので戦うこともできず密かに逃げる道なので仲間にも知らせられない。ただ同じ場所で自害して後世まで主従の義を重んじること以外はあるはずがないと思い糟谷は泣きながら主君(時益)の首を取り錦の直垂(衣)の袖に包み込み道端の田の中深く隠した後に腹を切って主の死骸の上に覆いかぶさり抱いて伏していた。 解説
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| 竜駕遥に四宮河原を過させ給ふ処に、「落人の通るぞ、打留て物具剥。」と呼声前後に聞へて、矢を射る事雨の降が如し。角ては行末とても如何有べきとて、東宮を始進らせて供奉の卿相雲客、方々へ落散給ける程に、今は僅に日野大納言資名・勧修寺中納言経顕・綾小路中納言重資・禅林寺宰相有光許ぞ竜駕の前後には被供奉ける。都を一片の暁の雲に阻て、思を万里の東の道に傾させ給へば、剣閣の遠き昔も被思召合、寿水の乱れたりし世も、角こそと叡襟を悩し玉ひ、主上・々皇も御涙更にせきあへず。五月の短夜明やらで、関の此方も闇ければ、杉の木陰に駒を駐て、暫やすらはせ給ふ処に、何くより射る共知らぬ流矢、主上の左の御肱に立にけり。陶山備中守急ぎ馬より飛下て、矢を抜て御疵を吸に、流るゝ血雪の御膚を染て、見進らするに目もあてられず。忝も万乗の主、卑匹夫の矢前に被傷て、神竜忽に釣者の網にかゝれる事、浅猿かりし世中也。去程に篠目漸明初て、朝霧僅に残れるに、北なる山を見渡せば、野伏共と覚て、五六百人が程、楯をつき鏃を支て待懸たり。是を見て面々度を失てあきれたり。爰に備前国の住人中吉弥八、行幸の御前に候けるが、敵近く馬を懸寄て、「忝も一天の君、関東へ臨幸成処に、何者なれば加様の狼籍をば仕るぞ。 |
天皇一行は遠く四宮河原を通り過ぎようとしたところ、「落ち武者が通るぞ、止めろ!鎧を奪え!」という叫び声が前後に聞こえ、矢が雨のように降り注いだ。このままでは先もどうなるかわからないと判断し、皇太子(東宮)をはじめ供奉する公卿や臣下たちは四方へ散らばってしまった。今となっては日野大納言資名・勧修寺中納言経顕・綾小路中納言重資・禅林寺宰相有光といったわずかな者だけが天皇の前後に付き従っている状態だった。 都を去るという夜明け前の暗さに阻まれ、万里も離れた東国(鎌倉)への道行きに心を砕かれる様子は、昔の中国皇帝が剣閣で苦難に遭った故事や乱世の唐玄宗帝の逃亡をも思い起こさせた。天皇と皇太子は涙を抑え切れない。五月の短い夜も明けきらないうちに関所(逢坂関か)を越えたため周囲が暗く、杉木陰で馬を止めて一休みしていたところへ、どこからともなく流れ矢が飛んできて天皇の左腕に突き刺さった。陶山備中守は急いで馬から飛び降り、矢を抜いて傷口の血を吸うと、溢れる鮮血が雪のように白い肌を染め、見ているのもつらかった。 尊い万乗(天皇)の君主が卑しい敵兵の流れ矢に当たるとは、まるで神竜が突然釣り人の網にかかるようであり、実に嘆かわしい時代であった。やがて薄明かりが差し始め朝霧が残っている中で北側の山を見渡すと、野伏(雑兵)と思われる者たち五、六百人が盾を並べ矢を構えて待ち受けていた。これを見た一同は呆然として度肝を抜かれた。 その時備前国住人中吉弥八が天皇御前に進み出て言う。「ありがたいことに天子様が関東へ行幸されるというのに、何者だ!このような無法な真似をするとは!」 解説
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| 心ある者ならば、弓を伏せ甲を脱で、可奉通。礼儀を知ぬ奴原ならば、一々に召捕て、頚切懸て可通。」と云ければ、野伏共から/\と笑て、「如何なる一天の君にても渡らせ給へ、御運已に尽て、落させ給はんずるを、通し進らせんとは申まじ。輒く通り度思食さば、御伴の武士の馬物具を皆捨させて、御心安く落させ給へ。」と云もはてず、同音に時をどつど作る。中吉弥八是を聞て、「悪ひ奴原が振舞哉。いでほしがる物具とらせん。」と云侭に、若党六騎馬の鼻を双べて懸たりけるに、慾心熾盛の野伏共、六騎の兵に被懸立て、蛛の子を散す如く、四角八方へぞ逃散ける。六騎の兵、六方へ分て、逃るを追事各数十町也。弥八余に長追したりける程に、野伏二十余人返合て、是を中に取篭る。然共弥八少もひるまず、其中の棟梁と見へたる敵に、馳並べてむずと組、馬二疋が間へどうど落て、四五丈許高き片岸の上より、上に成下に成ころびけるが、共に組も放れずして深田の中へころび落にけり。中吉下に成てければ、挙様に一刀さゝんとて、腰刀を捜りけるにころぶ時抜てや失たりけん、鞘許有て刀はなし。上なる敵、中吉が胸板の上に乗懸て、鬢の髪を掴で、頚を掻んとしける処に、中吉刀加へに、敵の小腕を丁と掬りすくめて、「暫く聞給へ、可申事あり。 |
天皇一行が遠く四宮河原を通り過ぎようとしたところ、「落ち武者が通るぞ!止めて鎧を奪え!」という叫び声が前後に響き、矢が雨のように降り注いだ。このままでは先もどうなるかわからないと判断し、皇太子(東宮)をはじめ供奉する公卿や臣下たちは四方へ散らばってしまった状況の中で、今となっては日野大納言資名・勧修寺中納言経顕・綾小路中納言重資・禅林寺宰相有光といったわずかな者だけが天皇の前後に付き従っていた。都を離れる夜明け前の暗雲に阻まれ、万里も離れた東国(鎌倉)への道行きに心を砕かれる様子は、昔の剣閣での苦難や乱世の玄宗皇帝逃亡をも思い起こさせた。天皇と皇太子は涙を抑え切れない。五月の短い夜も明けきらないうちに関所(逢坂関)付近が暗かったため杉木陰で馬を止めて一休みしていたところ、どこからともなく流れ矢が飛んできて天皇の左腕に突き刺さった。陶山備中守は急いで馬から飛び降り矢を抜いて傷口の血を吸うと、溢れる鮮血が雪のように白い肌を染め上げる様子は見ているのもつらかった。 尊い天皇陛下(万乗の主)が卑しい敵兵の流れ矢に当たるとは、神竜が突然釣り人の網にかかるようであり実に嘆かわしい時代であった。やがて薄明かりが差し始め朝霧が残っている中で北側の山を見渡すと、野伏(雑兵)と思われる五、六百人が盾を並べ矢を構えて待ち受けていた。これを見た一同は呆然とした。 そこへ備前国住人中吉弥八が天皇御前に進み出て言う。「ありがたいことに天子様が関東へ行幸されるというのに何者だ!このような無法な真似をするとは!礼儀を知る者なら弓を伏せ甲冑を脱いで通すべきである。無作法な奴らであれば一人残らず捕らえて首を刎ねて通ろう。」と語ると、野伏どもは「どんな天子でも運が尽き落ち延びようとする者を通すわけにはいくまい。どうしても通りたいなら供の武士たちに馬具鎧甲を全て捨てさせろ」と言い終わらないうちに一斉に鬨の声を上げた。 中吉弥八はこれを聞いて「憎むべき奴らの振る舞いよ!欲しがる武具を与えてやろう。」と言うと、若党六騎で馬を並べて突撃した。すると欲望に駆られた野伏どもはわずか六騎の兵に追われて蜘蛛の子を散らすように四方八方へ逃げ出した。六人の兵が各方向へ数十町(約4km)も追いかける中、弥八だけが深く追撃しすぎたため二十人余りの野伏に反転されて包囲された。 しかし弥八は少しもひるまず、敵の棟梁らしき者と馬を並べて組み合いながら二頭の馬の間からどさりと落ちた。四丈(約12m)ほどの高い岸壁の上で揉み合ううちに二人とも離れず深田へ転がり落ち、弥八は下敷きになった状態だった。何とか一刀を加えようと腰刀を探ると落下時に抜け落ちたらしく鞘だけ残っていた。その時上の敵が胸当ての上に乗りかかり鬢髪をつかんで首を斬ろうとしたところ、弥八は代わりに相手の小腕をぐっと掴み「少し待ってくれ!言うことがある」と叫んだ。 解説
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| 御辺今は我をな恐給ふそ、刀があらばこそ、刎返して勝負をもせめ。又続く御方なければ、落重て我を助る人もあらじ。されば御辺の手に懸て、頚を取て被出さたりとも、曾実検にも及まじ、高名にも成まじ。我は六波羅殿の御雑色に、六郎太郎と云者にて候へば、見知ぬ人は候まじ。無用の下部の頚取て罪を作り給はんよりは、我命を助てたび候へ、其悦には六波羅殿の銭を隠くして、六千貫被埋たる所を知て候へば、手引申て御辺に所得せさせ奉ん。」と云ければ、誠とや思けん、抜たる刀を鞘にさし、下なる中吉を引起して、命を助るのみならず様々の引出物をし、酒なんどを勧て、京へ連て上りたれば、弥八六波羅の焼跡へ行、「正しく此に被埋たりし物を、早人が掘て取たりけるぞや。徳着け奉んと思たれば、耳のびくが薄く坐しけり。」と欺て、空笑してこそ返しけれ。中吉が謀に道開けて、主上其日は篠原の宿に着せ給ふ。此にて怪しげなる網代輿を尋出て、歩立なる武者共俄に駕輿丁の如くに成て、御輿の前後をぞ仕りける。天台座主梶井二品親王は、是まで御供申させ給ひたりけるが、行末とても道の程心安く可過共覚させ給はねば、何くにも暫し立忍ばゞやと思召て、「御門徒に誰か候。」と御尋有けれ共、「去ぬる夜の路次の合戦に、或は疵を蒙て留り、或は心替して落けるにや。 |
中吉弥八(なかよしやはち)が野伏に言う。「あなたは今、私を恐れる必要はありません。刀があればこそ首を刎ね返して勝負もしたでしょう。また後続の味方もいないので、深田に落ちた私を助ける者もいません。だからあなたが手にかけて首を取り出したとしても、それは実戦での手柄にもならず、名誉にもならないのです。私は六波羅探題(ろくはらたんだい)の雑用係で六郎太郎(ろくろうたろう)という者ですから、知らない人はいないでしょう。役に立たない下僕の首を取って罪を作るより、私の命を助けてください。そのお礼として、六波羅探題が隠した六千貫文のお金が埋められている場所を知っていますので、手を引いてあなたに差し上げましょう。」と言うと、野伏は真実と思ったのか抜いた刀を鞘に収め、下敷きになっていた中吉を引き起こして命を助けただけでなく、様々な贈り物までし、酒などを勧めて京都へ連れて上った。しかし弥八が六波羅の焼け跡に行って「確かにここに埋まっていたものが誰か早くも掘り取っていましたね。恩返ししようと思いましたが期待外れです」と騙してからかうと、空笑いしながら帰ってしまった。 中吉の策略で道が開かれ、天皇(主上)はその日に篠原(しのはら)の宿に到着なさった。ここで怪しい網代輿(あじろごし)を見つけ出し、徒歩の武士たちが急遽駕輿丁(かよちょう・輿担ぎ役)のように変身して御輿の前後を仕えた。 天台座主である梶井門跡(かじいもんぜき)の二品親王(にほんしんのう)はこれまでお供していたが、この先も道中が安全とは思えなかったため、「どこかに身を隠そう」と考えて「私の弟子で誰かいませんか?」と尋ねられた。しかし「昨夜の途中の戦いで傷ついて留まった者や心変わりして逃げた者がいるようだ。」(後略) 解説
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| 中納言僧都経超、二位寺主浄勝二人より外は供奉仕りたる出世・坊官一人も候はず。」と申ければ、さては殊更長途の逆旅叶ふまじとて、是より引別て、伊勢の方へぞ赴かせ給ける。さらでだに山立多き鈴鹿山を、飼たる馬に白鞍置て被召たらんは、中々道の可為讎とて、御馬を皆宿の主じに賜て、門主は長々と蹴垂たる長絹の御衣に、檳榔の裏無を被召、経超僧都は、袙重ねたる黒衣に、水精の念珠手に持て、歩兼たる有様、如何なる人も是を見て、すはや是こそ落人よと、思はぬ者は不可有。され共山王大師の御加護にや依けん、道に行逢奉る山路の樵、野径の蘇、御手を引御腰を推て、鈴鹿山を越奉る。さて伊勢の神官なる人を、平に御憑有て御坐しけるに、神官心有て身の難に可遇をも不顧、兎角隠置進せければ、是に三十余日御忍有て、京都少し静りしかば還御成て、三四年が間は、白毫院と云処に、御遁世の体にてぞ御坐有ける。 ○越後守仲時已下自害事 去程に、両六波羅京都の合戦に打負て、関東へ被落由披露有ければ、安宅・篠原・日夏・老曾・愛智川・小野・四十九院・摺針・番場・醒井・柏原、其外伊吹山の麓、鈴鹿河の辺の山立・強盜・溢者共二三千人、一夜の程に馳集て、先帝第五の宮御遁世の体にて、伊吹の麓に忍で御坐有けるを、大将に取奉て、錦の御旗を差挙げ、東山道第一の難所、番馬の宿の東なる、小山の峯に取上り、岸の下なる細道を中に夾みて待懸たり。 |
中納言僧都の経超と二位寺主である浄勝の二人以外には、お供していた出世者や坊官は一人もいませんでした。」と申し上げると、親王はそれではわざわざ長旅を続けるのは難しいと思われて、ここで別れ、伊勢の方へ向かわれた。そもそも山賊が多い鈴鹿山なのに、飼い慣らした馬に白鞍をつけてお乗りになることは、却って道中での敵対行為を招くと考えられ、御馬はすべて宿の主人に与えられた。門主(親王)は長々と裾を引きずった絹の御衣に檳榔毛の裏地なしの服をお召しになり、経超僧都は袙を重ねた黒衣で水晶の念珠を手に持ち、歩き疲れた様子であった。どんな人でもこれを見て、「これは逃亡者だ」と思わない者はなかっただろう。しかし山王大師(比叡山守護神)のご加護によるものか、道中に出会った山中の木こりや野原の草刈りが御手を引き御腰を支えて鈴鹿山をお越し申し上げた。 その後伊勢の神官にひそかに身柄をご託けになったところ、その神官は忠誠心から自身が危難に遭うのも顧みず、何とか隠してお世話したため、ここで三十余日間潜伏されていた。京都が少し静まったのでお戻りになり、三四年の間は白毫院という場所で遁世者のような生活を送られていた。 ○ 越後守仲時以下の自害について 解説
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| 夜明ければ越後守仲時、篠原の宿を立て、仙蹕を重山の深きに促し奉る。都を出し昨日までは、供奉の兵二千騎に余りしかども、次第に落散けるにや、今は僅に七百騎にも足ざりけり。「若跡より追懸奉る事もあらば、防矢仕れ。」とて、佐々木判官時信をば後陣に打せられ、「賊徒道を塞ぐ事あらば、打散して道を開よ。」とて、糟谷三郎に先陣を被打せ、鸞輿迹に連て、番馬の峠を越んとする処に、数千の敵道を中に夾み、楯を一面に双て、矢前をそろへて待懸たり。糟谷遥に是を見て、「思ふに当国・他国の悪党共が、落人の物具剥がんとてぞ集りたるらん。手痛く当て捨る程ならば、命を惜まで戦ふ程の事はよも非じ。只一懸に駈散して捨よ。」と云侭に、三十六騎の兵共馬の鼻を並てぞ掛たりける。一陣を堅めたる野伏五百余人、遥の峯へまくり揚られて、二陣の勢に逃加る。糟谷は一陣の軍には打勝つ、今はよも手に碍る者非じと、心安く思て、朝霧の晴行侭に、可越末の山路を遥に見渡したれば、錦の旗一流、峯の嵐に翻して、兵五六千人が程要害を前に当て待掛たり。糟谷二陣の敵大勢を見て、退屈してぞ引へたる。重て懸破んとすれば、人馬共に疲れて、敵嶮岨に支へたり。相近付て矢軍をせんとすれば、矢種皆射尽して、敵若干の大勢也。 |
夜が明けると越後守仲時(えちごのかみなかとき)は篠原の宿を出発し、天皇一行(仙蹕せんぴつ)を深い山中へ急ぎ案内した。都を離れた当初は供奉兵二千騎以上いたが次第に脱落してしまったためか、今ではわずか七百騎にも満たなかった。「もし後方から追撃があれば防戦せよ。」と言って佐々木判官時信(ささきほうがんときのぶ)を後陣に配置し、「賊徒が道を塞ぐことがあれば打ち破って進路を開け。」と糟谷三郎(かすやさぶろう)に先鋒隊を命じた。御輿(鸞輿らんよ)の跡について番馬峠(ばんまのとうげ)を越えようとしたところ、数千の敵が道路両側から挟み撃つように盾を並べ矢を構えて待ち伏せていた。糟谷は遠くこれを見て、「どうやらこの国や他国の悪党どもが落人(逃亡者)の装備を奪おうと集まっているようだ。手痛い打撃を与える程度なら命惜しさに死ぬまで戦うほどのことはあるまい。ただ一気に突き破って駆逐せよ。」と言うや否や三十六騎の兵士たちは馬を並べて攻めかかった。第一陣として備えた野伏五百人以上が遠くの峠へ追い立てられ、第二陣のもとに逃げ込んだ。糟谷は一軍には勝利したので「今となってはもう手ごわい相手はいないだろう」と安心し朝霧の中を進みながら残りの山路を見渡すと錦の旗一本が峰の風にひらめき兵士五六千人もの大群が要害に陣取って待ち構えていた。糟谷は二軍である敵の大勢を見て意気消沈して退いた。改めて突撃しようとしたところ人馬ともに疲れており敵は険しい地形で守りを固めている。近づいて矢戦を行おうとしても矢がすっかり尽きてしまい敵方は数え切れないほどの大軍だった。 解説
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| 兎にも角にも可叶とも覚へざりければ、麓に辻堂の有けるに、皆下居て、後陣の勢をぞ相待ける。越後守は前陣に軍有と聞て、馬を早めて馳来給ふ。糟谷三郎、越後守に向て申けるは、「弓矢取の可死処にて死せざれば恥を見と申し習はしたるは理にて候けり。我等都にて可打死候し者が、一日の命を惜て是まで落もて来て、今云甲斐なき田夫野人の手に懸て、尸を路径の露に曝さん事こそ口惜候へ。敵此一所許にて候はゞ身命を捨て、打払ても可通候が、推量仕るに、先土岐が一族、最初より謀叛の張本にて候しかば、折を得て、美濃国をば通さじとぞ仕候はんずらん。吉良の一族も度々の召に不応して、遠江国に城郭を構て候と、風聞候しかば、出合ぬ事は候はじ。此等を敵に受ては、退治せん事、恐くは万騎の勢にても難叶。況我等落人の身と成て、人馬共に疲れ、矢の一双をも、はか/゛\しく射候べき力もなく成て候へば、何く迄か落延候べき。只後陣の佐々木を御待候て、近江国へ引返し、暫さりぬべからんずる城に楯篭て、関東勢の上洛し候はんずるを御待候へかし。」と申ければ、越後守仲時も、「此義を存ずれ共、佐々木とても今は如何なる野心か存ずらんと、憑少く覚れば、進退谷て、面々の意見を訪申さんと存ずる也。 |
ともかくどうにもならないと悟ったので、麓にある辻堂へ皆で降りて後陣の部隊を待ち受けた。越後守仲時は前軍での戦いを知って馬を早め駆けつけられた。糟谷三郎が越後守に向かって申し上げた。「武士として死ぬべき場所で死なねば恥とされるのは当然です。私など都で討ち死にすべき身ながら一日の命を惜しんでここまで落ち延び、今となっては取るに足らない百姓野郎どもの手にかかって屍が道端に晒されようとは実に無念です。敵がこの一箇所だけなら命を捨てても突破できましょうが、推測するに土岐一族が最初から謀反の首謀者であったので機会を得て美濃国を通させまいとしているはず。吉良一族も度々召喚に応じず遠江国で城郭を構えているとの噂があり遭遇は避けられません。これらを敵に回して打ち破るのは万騎の軍勢でも困難、ましてや落人となった我々は人馬ともに疲れ矢もろくに射られる力すらない有様でどこまで逃げ延びられましょうか。ただ後陣の佐々木殿をお待ちした上で近江国へ引き返し、仮にも城塞に籠って関東勢(北条軍)が都へ攻め上がるのを待つべきでしょう。」と述べたところ、越後守仲時も「この道理は承知している。しかし佐々木といえど今やどんな野心を持つか分からず頼りにならぬので進退に窮し各人の意見を尋ねたい」と言われた。 解説
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| さらば何様此堂に暫く彳て、時信を待てこそ評定あらめ。」とて、五百余騎の兵共、皆辻堂の庭にぞ下居たる。佐々木判官時信は一里許引さがりて、三百余騎にて打けるが、如何なる天魔波旬の所為にてか有けん、「六波羅殿は番馬の当下にて、野伏共に被取篭て一人も不残被討給たり。」とぞ告たりける。時信、「今は可為様無りけり。」と愛智河より引返し、降人に成て京都へ上りにけり。越後守仲時、暫は時信を遅しと待給けるが、待期過て時移ければ、さては時信も早敵に成にけり。今は何くへか引返し、何くまでか可落なれば、爽に腹を切らんずる物をと、中々一途に心を取定て、気色涼くぞ見へける。其時軍勢共に向て宣ひけるは、「武運漸傾て、当家の滅亡近きに可在と見給ひながら、弓矢の名を重じ、日来の好みを不忘して、是まで着纏ひ給へる志、中々申に言は可無る。其報謝の思雖深と、一家の運已に尽ぬれば、何を以てか是を可報。今は我旁の為に自害をして、生前の芳恩を死後に報ぜんと存ずる也。仲時雖不肖也。平氏一類の名を揚る身なれば、敵共定て我首を以て、千戸侯にも募りぬらん。早く仲時が首を取て源氏の手に渡し、咎を補て忠に備へ給へ。」と、云はてざる言の下に、鐙脱で押膚脱、腹掻切て伏給ふ。 |
「それではこの堂でしばらく待ち時信を迎えて作戦会議を行おう。」と言って五百余騎の兵たちは皆辻堂の中庭に下馬した。佐々木判官時信は一里ほど後方に退いていた三百余騎と共にいたが、天魔波旬(悪魔)の仕業か「六波羅殿(越後守一行)は番馬峠付近で野伏たちに包囲され全滅した」との虚報を受けた。時信は「もはや打つ手なし」として愛知川から引き返し降伏して京都へ戻ってしまった。一方、越後守仲時は当初遅れているだけかと待っていたが約束の時間を過ぎても来ないため、「時信までも早くも敵方になったな。今さらどこに退きどれほど落ち延びられようか? 思い切って腹を切ろうではないか」と覚悟を決め、表情は涼やかに見えた。そして兵士たちに向けて宣言された。「武運尽きて北条家の滅亡が近いことはわかっていたのに、武士としての名誉を重んじ日頃の恩義を忘れずここまで従ってくれた志は言葉にできないほど感謝している。しかし一族の命運すでに果てた今、どうお礼すればよいのか? せめて私と共に自害し生前の恩に死後でも報いようと思う。仲時は無能ではあるが平氏一門(北条家)の名を高めた身だ。敵も必ず我々の首で領地を得ようとするだろうから、早く仲時の首を取り源氏方へ渡し罪償いに忠節を示せ。」と言い終わらぬうちに鐙から足を抜き衣を脱ぎ捨て腹を切って倒れられた。 解説
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| 糟谷三郎宗秋是を見て、泪の鎧の袖に懸りけるを押へて、「宗秋こそ先自害して、冥途の御先をも仕らんと存候つるに、先立せ給ぬる事こそ口惜けれ。今生にては命を際の御先途を見終進らせつ。冥途なればとて見放可奉に非ず。暫御待候へ。死出の山の御伴申候はん。」とて、越後守の、鞆口まで腹に突立て被置たる刀を取て、己が腹に突立、仲時の膝に抱き付、覆にこそ伏たりけれ。是を始て、佐々木隠岐前司・子息次郎右衛門・同三郎兵衛・同永寿丸・高橋九郎左衛門・同孫四郎・同又四郎・同弥四郎左衛門・同五郎・隅田源七左衛門尉・同孫五郎・同藤内左衛門尉・同与一・同四郎・同五郎・同孫八・同新左衛門尉・同又五郎・同藤六・同三郎・安藤太郎左衛門入道・同孫三郎入道・同左衛門太郎・同左衛門三郎・同十郎・同三郎・同又次郎・同新左衛門・同七郎三郎・同藤次郎・中布利五郎左衛門・石見彦三郎・武田下条十郎・関屋八郎・同十郎・黒田新左衛門・同次郎左衛門・竹井太郎・同掃部左衛門尉・寄藤十郎兵衛・皆吉左京亮・同勘解由七郎兵衛・小屋木七郎・塩屋右馬充・同八郎・岩切三郎左衛門・子息新左衛門・同四郎・浦上八郎・岡田平六兵衛・木工介入道・子息介三郎・吉井彦三郎・同四郎・壱岐孫四郎・窪二郎・糟谷弥次郎入道・同孫三郎入道・同六郎・同次郎・同伊賀三郎・同彦三郎入道・同大炊次郎・同次郎入道・同六郎・櫛橋次郎左衛門尉・南和五郎・同又五郎・原宗左近将監入道・子息彦七・同七郎・同七郎次郎・同平右馬三郎・御器所七郎・怒借屋彦三郎・西郡十郎・秋月二郎兵衛・半田彦三郎・平塚孫四郎・毎田三郎・花房六郎入道・宮崎三郎・同太郎次郎・山本八郎入道・同七郎入道・子息彦三郎・同小五郎・子息彦五郎・同孫四郎・足立源五・三河孫六・広田五郎左衛門・伊佐治部丞・同孫八・同三郎・息男孫四郎・片山十郎入道・木村四郎・佐々木隠岐判官・二階堂伊予入道・石井中務丞・子息弥三郎・同四郎・海老名四郎・同与一・弘田八郎・覚井三郎・石川九郎・子息又次郎・進藤六郎・同彦四郎・備後民部大夫・同三郎入道・加賀彦太郎・同弥太郎・三嶋新三郎・同新太郎・武田与三・満王野藤左衛門・池守藤内兵衛・同左衛門五郎・同左衛門七郎・同左衛門太郎・同新左衛門・斎藤宮内丞・子息竹丸・同宮内左衛門・子息七郎・同三郎・筑前民部大夫・同七郎左衛門・田村中務入道・同彦五郎・同兵衛次郎・信濃小外記・真上彦三郎・子息三郎・陶山次郎・同小五郎・小見山孫太郎・同五郎・同六郎次郎・高境孫三郎・塩谷弥次郎・庄左衛門四郎・藤田六郎・同七郎・金子十郎左衛門・真壁三郎・江馬彦次郎・近部七郎・能登彦次郎・新野四郎・佐海八郎三郎・藤里八郎・愛多義中務丞・子息弥次郎、是等を宗徒の者として、都合四百三十二人、同時に腹をぞ切たりける。 |
糟谷三郎宗秋はこの様子を見て、涙が鎧の袖にかかるのをこらえ、「私は先に自害してあの世へのお先導役も務めようと思っていたのに、(主君である仲時さまが)先にお亡くなりになるとは無念です。この世では命のあるうちに見送ることは果たしましたが、冥土であっても見捨てるわけにはまいりません。しばらくお待ちください。死出の山への道連れを申し上げましょう。」と言って、越後守(仲時)のお腹に突き刺さったまま置かれていた刀を取り上げると、自身の腹へ突き立てて仲時の膝に抱きつき、覆いかぶさるようにして倒れた。これを皮切りにして、佐々木隠岐前司・その子次郎右衛門・同じく三郎兵衛・同永寿丸(以下、列挙された武将全員)ら主従の者として合計432人が同時に腹を切った。 解説
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| 血は其身を浸して恰黄河の流の如く也。死骸は庭に充満して、屠所の肉に不異。彼己亥の年、五千の貂錦胡塵に亡び、潼関の戦に、百万の士卒河水に溺れなんも、是にはよも過じと哀なりし事共、目もあてられず、言に詞も無りけり。主上・々皇は、此死人共の有様を御覧ずるに、肝心も御身に不傍、只あきれてぞ坐しましける。 ○主上・々皇為五宮被囚給事付資名卿出家事 去程に五宮の官軍共、主上・々皇を取進らせて其日先長光寺へ入奉り、三種神器並玄象・下濃・二間の御本尊に至まで、自五宮の御方へぞ被渡ける。秦の子嬰漢祖の為に被亡て天子の璽符を頚に懸、白馬素車に乗て、■道の傍に至り給ひし亡秦の時に不異。日野大納言資名卿は、殊更当今奉公の寵臣也。しかば、如何なる憂目をか見んずらんとて、身を危ぶんで被思ければ、其辺の辻堂に遊行の聖の有ける処へおはして、可出家由を宣ひければ、聖軈て戒師と成て、無是非髪を剃落さんとしけるを、資名卿聖に向て、「出家の時は、何とやらん四句の偈を唱る事の有げに候者を。」と被仰ければ、此聖其文をや知ざりけん、「汝是畜生発菩提心。」とぞ唱たりける。三河守友俊も同く此にて出家せんとて、既に髪を洗けるが、是を聞て、「命の惜さに出家すればとて、汝は是畜生也。 |
血は彼らの身体を浸してまるで黄河の流れのようであった。死骸は庭に充満し、屠殺場の肉塊と変わらない様子だった。過去の己亥の年(紀元前262年の戦国時代)、五千もの精鋭が異国の地で滅び、潼関の戦いでは百万の兵士が黄河に溺れ死んだといわれるが、それもこの光景には及ばないほど悲惨で、目を向けることもできず、言葉もないほどの有様であった。主上(後醍醐天皇)と皇太子(量仁親王)はこれらの死者の状況をご覧になり、肝心要の気力すら失われ、ただ呆然としておられた。 ○ 主君や皇子が五宮(尊雲法親王=護良親王)に囚われたこと、および資名卿出家について 解説
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| と唱給ふ事の悲しさよ。」と、ゑつぼに入てぞ笑ける。如此今まで付纏ひ進らせたる卿相雲客も、此彼に落留て、出家遁世して退散しける間、今は主上・春宮・両上皇の御方様とては、経顕・有光卿二人より外は供奉仕る人もなし。其外は皆見狎ぬ敵軍に前後を被打囲て、怪げなる網代輿に被召て、都へ帰上らせ給へば、見物の貴賎岐に立て、「あら不思議や、去年先帝を笠置にて生捕進らせて、隠岐の国へ流し奉りし其報、三年の中に来りぬる事の浅猿さよ。昨日は他州の憂と聞しかど、今日は我上の責に当れりとは、加様の事をや申すべき。此君も又如何なる配所へか被遷させ給て宸襟を被悩ずらんと、心あるも心なきも、見る人毎に因果歴然の理を感思して、袖をぬらさぬは無りけり。 ○千葉屋城寄手敗北事 去程に昨日の夜、六波羅已に被責落て、主上・々皇皆関東へ落させ給ぬと、翌日の午刻に、千葉屋へ聞へたりければ、城中には悦び勇で、唯篭の中の鳥の、出て林に遊ぶ悦をなし、寄手は牲に赴く羊の、被駆て廟に近づく思を成す。何様一日も遅く引かば、野伏弥勢重りて、山中の路可難儀とて、十日の早旦に、千葉屋の寄手十万余騎、南都の方へと引て行く。前には兼て野臥充満たり。跡よりは又敵急に追懸る。都て大勢の引立たる時の癖なれば、弓矢を取捨て、親子兄弟を離て、我先にと逃ふためきける程に、或は道もなき岩石の際に行つまりて腹を切り、或は数千丈深き谷の底へ落入て、骨を微塵に打摧く者、幾千万と云数を不知。 |
そして僧にそう唱えられたことの悲しさよ」と腹を抱えて笑った。こうしてこれまで付き従ってきた公卿や廷臣たちも、あちこちに離散し出家遁世して去っていくので、今では天皇・皇太子(春宮)・両上皇のお側様として仕えるのは経顕と有光の二人だけとなり、他には供奉する者もいない。残りの者は皆見慣れた敵軍に前後を囲まれ、奇妙な網代車に乗せられて都へ戻されたため、道を見物する貴賎が立ち並んで「ああ不思議だ!去年先帝(後醍醐天皇)を笠置で生け捕りにして隠岐へ流したその報いが、三年も経たぬうちに訪れたとは情けない。昨日は他国の災難と聞いたのに、今日は我が主君の責めを受けるとは、このようなことを言うべきか。この方(光厳天皇)もまたどこの配流先へ送られてご心痛なさるのか」と、思慮深い者も浅はかな者も見る人全てが因果応報の道理を痛感し、袖を濡らさぬ者はなかった。 ○千葉屋城攻撃軍敗北のこと 解説
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| 始御方の勢を帰さじとて、寄手の方より警固を居、谷合の関・逆木も引除て通る人無ければ、被関落ては馬に離れ、倒れては人に被蹈殺。二三里が間の山路を、数万の敵に被追立て一軍もせで引しかば、今朝まで十万余騎と見へつる寄手の勢、残少なに被討成、僅に生たる軍勢も、馬物具を捨ぬは無りけり。されば今に至るまで、金剛山の麓、東条谷の路の辺には、矢の孔の刀の疵ある白骨、収る人もなければ、苔に纏れて塁々たり。されども宗徒の大将達は、一人も道にては不被討して生たる甲斐はなけれ共、其日の夜半許に、南都にこそ被落着けれ。 |
味方を戻させまいとするため攻城軍側は警戒兵を配置し谷間の関所や逆茂木も取り除かず通る者はなかったので門から落ちると馬から離され倒れると人に踏み殺された。二、三里(約8~12km)続く山道を数万の敵に追い立てられ隊列も組まず退却したため今朝まで十万余騎いた攻城軍はわずかな残兵となり命からがら生き延びた者も馬や武具を捨てない者はなかった。そのため現在でも金剛山のふもと東条谷の道端には矢穴や刀傷のある白骨収める者もなく苔に覆われ積み重なっている。しかし僧兵たちの大将たちは一人として途中で討たれず生き延びた甲斐もなかったがその日深夜頃ようやく奈良へ落ち着いた。 解説
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| input text 太平記\010_太平記_巻10.txt | 現代日本語 translated text | ||||||||||||||||||||
| 太平記 太平記巻第十 ○千寿王殿被落大蔵谷事 足利治部大輔高氏敵に成給ぬる事、道遠ければ飛脚未到来、鎌倉には曾て其沙汰も無りけり。斯し処に元弘三年五月二日の夜半に、足利殿の二男千寿王殿、大蔵谷を落て行方不知成給けり。依之鎌倉中の貴賎、すはや大事出来ぬるはとて騒動不斜。京都の事は道遠に依て未だ分明の説も無ければ、毎事無心元とて、長崎勘解由左衛門入道と諏方木工左衛門入道と、両使にて被上ける処に、六波羅の早馬、駿河の高橋にてぞ行合ける。「名越殿は被討給、足利殿は敵に成給ぬ。」と申ければ、「さては鎌倉の事も不審。」とて、両使は取て返し、関東へぞ下ける。爰に高氏の長男竹若殿は、伊豆の御山に御座けるが、伯父の宰相法印良遍、児・同宿十三人山伏の姿に成て、潛に上洛し給けるが、浮嶋が原にて、彼両使にぞ行合給ける。諏方・長崎生取奉んと思処に、宰相法印無是非馬上にて腹切て、道の傍にぞ臥給ける。長崎、「去ばこそ内に野心のある人は、外に遁るゝ無辞。」とて、若竹殿を潛に指殺し奉り、同宿十三人をば頭を刎て、浮嶋が原に懸てぞ通りける。 ○新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事 懸ける処に、新田太郎義貞、去三月十一日先朝より綸旨を給たりしかば、千剣破より虚病して本国へ帰り、便宜の一族達を潛に集て、謀反の計略をぞ被回ける。 |
太平記巻第十 ○千寿王が大蔵谷から脱出したこと ○新田義貞挙兵と越後勢集結のこと 解説
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| 懸る企有とは不思寄、相摸入道、舎弟の四郎左近大夫入道に十万余騎を差副て京都へ上せ、畿内・西国の乱を可静とて、武蔵・上野・安房・上総・常陸・下野六箇国の勢をぞ被催ける。其兵粮の為にとて、近国の庄園に、臨時の天役を被懸ける。中にも新田庄世良田には、有徳の者多しとて、出雲介親連、黒沼彦四郎入道を使にて、「六万貫を五日中可沙汰。」と、堅く下知せられければ、使先彼所に莅で、大勢を庄家に放入て、譴責する事法に過たり。新田義貞是を聞給て、「我館の辺を、雑人の馬蹄に懸させつる事こそ返々も無念なれ、争か乍見可怺。」とて数多の人勢を差向られて、両使を忽生取て、出雲介をば誡め置き、黒沼入道をば頚を切て、同日の暮程に世良田の里中にぞ被懸たる。相摸入道此事を聞て、大に忿て宣けるは、「当家執世已に九代、海内悉其命に不随と云事更になし。然に近代遠境動ば武命に不随、近国常に下知を軽ずる事奇怪也。剰藩屏の中にして、使節を誅戮する条、罪科非軽に。此時若緩々の沙汰を致さば、大逆の基と成ぬべし。」とて、則武蔵・上野両国の勢に仰て、「新田太郎義貞・舎弟脇屋次郎義助を討て可進す。」とぞ被下知ける。義貞是を聞て、宗徒の一族達を集て、「此事可有如何。」と評定有けるに、異儀区々にして不一定。 |
その計画があるとは思いがけないことであったが、相模入道(北条高時)は弟の四郎左近大夫入道(北条泰家)に十万余騎を与えて京都へ派遣し、畿内・西国の反乱を鎮めようとした。武蔵・上野・安房・上総・常陸・下野の六か国から兵士を集めるため、周辺地域の荘園に臨時の重税を課した。特に新田庄世良田は裕福な者が多いとして、出雲介親連と黒沼彦四郎入道を使者に「六万貫を五日以内に用意せよ」と厳命したため、使者たちは現地で大勢の兵を荘園内に入れ過剰な取り立てを行った。新田義貞はこれを聞き、「我が館の周辺を雑多な者の馬蹄に踏ませるとは許し難い。どうして黙って見過ごせようか」と言い、多くの兵を向かわせて両使者を捕らえた。出雲介親連は謹慎させ黒沼入道は首を斬り、同日夕刻には世良田の村中にその首を晒した。 北条高時がこの報告を受けると激怒して言った。「我々北条家が政権を握って九代、天下で命令に従わぬ者などいなかった。近頃は遠国でも動かず近隣諸国も命令を軽んじるとは奇怪だ。ましてや身内(新田氏)が使者を殺害するなど罪は極めて重い。今ゆっくり対応すれば大反乱の基となるだろう」と、直ちに武蔵・上野両国の軍勢へ「新田義貞と弟の脇屋義助を討って進軍せよ」と命じた。義貞はこれを知り一族を集めて「どう対処すべきか」と評議したが意見は割れまとまらなかった。 解説
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| 或は、沼田圧を要害にして、利根河を前に当て敵を待ん。」と云義もあり。又、「越後国には大略当家の一族充満たれば、津張郡へ打超て、上田山を伐塞ぎ、勢を付てや可防。」と意見不定けるを、舎弟脇屋次郎義助暫思案して、進出て被申けるは、「弓矢の道、死を軽じて名を重ずるを以て義とせり。就中相摸守天下を執て百六十余年、于今至まで武威盛に振て、其命を重ぜずと云処なし。されば縦戸祢川をさかうて防共、運尽なば叶まじ。又越後国の一族を憑たり共、人の意不和ならば久き謀に非ず。指たる事も仕出さぬ物故に、此彼へ落行て、新田の某こそ、相摸守の使を切たりし咎に依て、他国へ逃て被討たりしかなんど、天下の人口に入らん事こそ口惜けれ。とても討死をせんずる命を謀反人と謂れて、朝家の為に捨たらんは、無らん跡までも、勇は子孫の面を令悦名は路径の尸を可清む。先立て綸旨を被下ぬるは何の用にか可当。各宣旨を額に当て、運命を天に任て、只一騎也共国中へ打出て、義兵を挙たらんに勢付ば軈て鎌倉を可責落。勢不付ば只鎌倉を枕にして、討死するより外の事やあるべき。と、義を先とし勇を宗として宣しかば、当座の一族三十余人、皆此義にぞ同じける。さらば軈て事の漏れ聞へぬ前に打立とて、同五月八日の卯刻に、生品明神の御前にて旗を挙、綸旨を披て三度是を拝し、笠懸野へ打出らる。 |
ある者は「沼田城(群馬県)の要害を利用し利根川を防衛線として敵を迎え撃とう」と提案する者がいれば、また別の者からは「越後国には概ね我々同族が多いので津張郡へ進出して上田山に砦を築き勢力を結集すべきだ」という意見もあり、結論が出ない状態だった。その時、弟の脇屋義助が熟考した後に進み出て言うには、「弓矢の道は死を軽んじて名誉を重んじるのが本義である。特に相模守(北条高時)は天下を支配して160余年、今に至るまで武威が隆盛でその命令に背く者などいなかった。たとえ利根川を防衛線としても命運尽きれば防ぎ切れまい。また越後国の一族を頼っても人心がまとまらなければ長続きしない。もし中途半端な行動を取って『新田某は北条の使者殺害の咎で他国へ逃亡し討たれた』などと世間の笑い者になるのが何より悔しい。どうせ死ぬ命ならば、謀反人と呼ばれながらも朝廷のために捨てる方がよい——そうすれば末代まで武勇が子孫を輝かせ、名は屍となった道端さえ清らかにするだろう。そもそも我々に下された綸旨(天皇の命令書)があるのに活用しない手はない。皆で宣旨を額にかざし運命を天に任せよう。たとえ一騎でも領内へ打って出て義兵を挙げ、勢力が集まれば直ちに鎌倉を攻め落とすべきだ。もし勢い付かねばただ鎌倉の地を枕にして討ち死にするのみである」と主張したため、同席していた一族三十余人は全員これに賛成した。「では情報が漏れる前に出陣しよう」ということで同年5月8日卯刻(午前6時)、生品明神(群馬県太田市)の御前で旗を掲げ綸旨を広げて三度礼拝し、笠懸野へと進軍した。 解説
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| 相随ふ人々、氏族には、大館次郎宗氏・子息孫次郎幸氏・二男弥次郎氏明・三男彦二郎氏兼・堀口三郎貞満・舎弟四郎行義・岩松三郎経家・里見五郎義胤・脇屋次郎義助・江田三郎光義・桃井次郎尚義、是等を宗徒の兵として、百五十騎には過ざりけり。此勢にては如何と思ふ処に、其日の晩景に利根河の方より、馬・物具爽に見へたりける兵二千騎許、馬煙を立て馳来る。すはや敵よと目に懸て見れば、敵には非ずして、越後国の一族に、里見・鳥山・田中・大井田・羽川の人々にてぞ坐しける。義貞大に悦て、馬を扣て宣けるは、「此事兼てより其企はありながら、昨日今日とは存ぜざりつるに、俄に思立事の候ひつる間、告申までなかりしに、何として存ぜられける。」と問給ひければ、大井田遠江守鞍壷に畏て被申けるは、「依勅定大儀を思召立るゝ由承候はずば、何にとして加様に可馳参候。去五日御使とて天狗山伏一人、越後の国中を一日の間に、触廻て通候し間、夜を日に継で馳参て候。境を隔たる者は、皆明日の程にぞ参着候はんずらん。他国へ御出候はゞ、且く彼勢を御待候へかし。」と被申て、馬より下て各対面色代して、人馬の息を継せ給ける処に、後陣の越後勢並甲斐・信濃の源氏共、家々の旗を指連て、其勢五千余騎夥敷く見へて馳来。 |
新田義貞に従う氏族は以下の者たちである:大館次郎宗氏・息子の孫次郎幸氏・二男弥次郎氏明・三男彦二郎氏兼・堀口三郎貞満・弟四郎行義・岩松三郎経家・里見五郎義胤・脇屋次郎義助・江田三郎光義・桃井次郎尚義。これら一族の兵は150騎を超えなかった。「この兵力ではどうにもならない」と考えていたその日の夕暮れ時、利根川の方から馬具がきらめく約2000騎の軍勢が土煙を上げて駆けてくるのが見えた。これは敵かと警戒して見ると、敵ではなく越後国の一族である里見・鳥山・田中・大井田・羽川の人々であった。義貞は大喜びで馬を止めて言った。「この計画はずっと前からあったのに昨日今日の行動とは思わなかった。急に決起したので連絡もできなかったが、どうして知られたのか」と問うと、大井田遠江守が鞍壷(くらつぼ)にかしずいて答えた。「天皇のご命令による大事業を起こされたことを承っていなければ、誰がこのように駆け参じましょうか。五日ほど前、御使いとして天狗山伏一人が越後国中を一日で触れ回ったので、昼夜問わず急いで来ました。遠方の者は明日には到着するでしょう。もし他国へ出陣なさるならば、しばらく彼らの軍勢をお待ちください」と言って馬から降り、一同が挨拶を交わして人馬の息をついていると、後続部隊として越後の兵や甲斐・信濃の源氏一族が各家々の旗を連ねて5000余騎という大群が盛大な勢いで駆けてきた。 解説
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| 義貞・義助不斜悦て、「是偏八幡大菩薩の擁護による者也。且も不可逗留。」とて、同九日武蔵国へ打越給ふに、紀五左衛門、足利殿の御子息千寿王殿を奉具足、二百余騎にて馳着たり。是より上野・下野・上総・常陸・武蔵の兵共不期に集り、不催に馳来て、其日の暮程に、二十万七千余騎甲を並べ扣たり。去ば四方八百里に余れる武蔵野に、人馬共に充満て、身を峙るに処なく、打囲だる勢なれば、天に飛鳥も翔る事を不得、地を走る獣も隠んとするに処なし。草の原より出る月は、馬鞍の上にほのめきて冑の袖に傾けり。尾花が末を分る風は、旗の影をひらめかし、母衣の手静る事ぞなき。懸しかば国々の早馬、鎌倉へ打重て、急を告る事櫛の歯を引が如し。是を聞て時の変化をも計らぬ者は、「穴こと/゛\し、何程の事か可有。唐土・天竺より寄来といはゞ、げにも真しかるべし。我朝秋津嶋の内より出て、鎌倉殿を亡さんとせん事蟷螂遮車、精衛填海とするに不異。」と欺合り。物の心をも弁たる人は、「すはや大事出来ぬるは。西国・畿内の合戦未静ざるに大敵又藩籬の中より起れり。是伍子胥が呉王夫差を諌しに、晋は瘡■にして越は腹心の病也。と云しに不異。」と恐合へり。去程に京都へ討手を可被上事をば閣て、新田殿退治の沙汰計也。 |
新田義貞と弟の脇屋義助は大いに喜んで、「これは全て八幡大菩薩の加護によるものだ。ここで留まるべきではない」と言い、同日九日に武蔵国へ進軍したところ、紀五左衛門が足利尊氏の息子・千寿王を伴い二百余騎で駆けつけた。さらに上野・下野・上総・常陸・武蔵から兵士たちが自然と集まり、次々に到着してその日の夕暮れまでに二十万七千余騎が鎧を揃えて待機した。こうなると四方八百里(広大)の武蔵野は人馬で埋め尽くされ身を置く場所もなく、取り囲まれたような勢いだったので、空飛ぶ鳥も自由に舞えず、地上の獣も隠れる場所がない状態となった。草原から昇る月明かりは馬鞍の上にかすかに映り兜の袖(頬当て)を照らし、尾花(ススキ)の先端を揺らす風が旗影をひらめかせ母衣(ほろ)の動きも止まらない。こうした状況で各国からの早馬は鎌倉へ殺到して緊急を知らせる様子は櫛の歯のように絶え間なかった。これを聞いて事態の重大さに気づかない者たちは「大げさだ、たいしたことはあるまい。もし唐(中国)や天竺(インド)から攻めてきたと言うならともかく、日本国内で鎌倉殿を倒そうなどとは蟷螂が車に向かうようなものだ」と嘲笑し合った。一方事情を理解する人々は「大変な事態になった。西国・畿内の戦乱も収まらぬ中で敵勢力が身近に出現したのは、昔中国で伍子胥が呉王へ『晋は皮膚病だが越は心臓病だ』と警告した話と同じだ」と恐れ合った。こうして京都への討伐軍派遣計画は中止され、新田義貞征伐の対応のみが議論されることになった。 解説
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| 同九日軍の評定有て翌日の巳刻に、金沢武蔵守貞将に、五万余騎を差副て、下河辺へ被下。是は先上総・下総の勢を付て、敵の後攻をせよと也。一方へは桜田治部大輔貞国を大将にて、長崎二郎高重・同孫四郎左衛門・加治二郎左衛門入道に、武蔵・上野両国の勢六万余騎を相副て、上路より入間河へ被向。是は水沢を前に当て敵の渡さん処を討と也。承久より以来東風閑にして、人皆弓箭をも忘たるが如なるに、今始て干戈動す珍しさに、兵共こと/゛\敷此を晴と出立たりしかば、馬・物具・太刀・刀、皆照耀許なれば、由々敷見物にてぞ有ける。路次に両日逗留有て、同十一日の辰刻に、武蔵国小手差原に打臨給ふ。爰にて遥に源氏の陣を見渡せば、其勢雲霞の如くにて、幾千万騎共可云数を不知。桜田・長崎是を見て、案に相違やしたりけん、馬を扣て不進得。義貞忽に入間河を打渡て、先時の声を揚、陣を勧め、早矢合の鏑をぞ射させける。平家も鯨波を合せて、旗を進めて懸りけり。初は射手を汰て散々に矢軍をしけるが、前は究竟の馬の足立也。何れも東国そだちの武士共なれば、争でか少しもたまるべき、太刀・長刀の鋒をそろへ馬の轡を並て切て入。二百騎・三百騎・千騎・二千騎兵を添て、相戦事三十余度に成しかば、義貞の兵三百余騎被討、鎌倉勢五百余騎討死して、日已に暮ければ、人馬共に疲たり。 |
同日九日に軍事会議が開かれ翌日の巳刻(午前10時頃)、金沢武蔵守貞将に五万余騎をつけて下河辺へ派遣した。これはまず上総・下総の兵士たちを配置し敵軍の背後攻撃を行うためである。一方では桜田治部大輔貞国を大将とし、長崎二郎高重・同孫四郎左衛門・加治二郎左衛門入道に武蔵・上野両国の兵力六万余騎をつけ上路から入間川へ向かわせた。こちらは水沢の前面で敵が渡河しようとする地点を攻撃する狙いであった。承久の乱以来東国は平穏で人々が弓矢すら忘れたかのような状況だったが、今初めて戦争が始まる珍しさに兵士たちは大いにこれを晴れ舞台として意気込んで出発したため馬・武具・太刀・刀のすべてが輝き乱れ非常に壮観な見ものとなった。道中二日間滞在して同十一日の辰刻(午前8時頃)に武蔵国小手差原へ到着する。ここで遠く新田義貞軍(源氏方)の陣営を見渡すとその規模は雲や霞のように広大で数万どころか幾千万騎とも言い難いほどであった。桜田・長崎らはこれを見て予想外に驚いたのか馬を止めて進めなかった。ところが義貞軍が突然入間川を渡り鬨の声を上げ陣形を整え早速開戦の合図となる鏑矢を射かけたので鎌倉勢(平家方)も鬨の声を合わせ旗を押し立てて攻め込んできた。最初は射手を選び散発的に矢戦を行ったが結局は馬術の勝負となった。いずれも東国育ちの武士たちであるからどうして遅れることがあろうかと太刀・長刀の切っ先を揃え馬の轡を並べて切り込んだ。二百騎、三百騎、千騎、二千騎が兵士を増やし合い三十余度も戦闘を繰り返した結果義貞軍は三百余騎討たれ鎌倉勢も五百余騎が戦死して日がすでに暮れたため人馬ともに疲労困憊した。 解説
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| 軍は明日と約諾して、義貞三里引退て、入間河に陣をとる。鎌倉勢も三里引退て、久米河に陣をぞ取たりける。両陣相去る其間を見渡せば三十余町に足ざりけり。何れも今日の合戦の物語して、人馬の息を継せ、両陣互に篝を焼て、明るを遅と待居たり。夜既に明ぬれば、源氏は平家に先をせられじと、馬の足を進て久米河の陣へ押寄る。平家も夜明けば、源氏定て寄んずらん、待て戦はゞ利あるべしとて、馬の腹帯を固め甲の緒を縮め、相待とぞみへし。両陣互に寄合せて、六万余騎の兵を一手に合て、陽に開て中にとり篭んと勇けり。義貞の兵是を見て、陰に閉て中を破れじとす。是ぞ此黄石公が虎を縛する手、張子房が鬼を拉ぐ術、何れも皆存知の道なれば、両陣共に入乱て、不被破不被囲して、只百戦の命を限りにし、一挙に死をぞ争ひける。されば千騎が一騎に成までも、互に引じと戦けれ共、時の運にやよりけん、源氏は纔に討れて平家は多く亡にければ、加治・長崎二度の合戦に打負たる心地して、分陪を差して引退く。源氏猶続て寄んとしけるが、連日数度の戦に、人馬あまた疲たりしかば、一夜馬の足を休めて、久米河に陣を取寄て、明る日をこそ待たりけれ。去程に桜田治部大輔貞国・加治・長崎等十二日の軍に打負て引退由鎌倉へ聞へければ、相摸入道・舎弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍として、塩田陸奥入道・安保左衛門入道・城越後守・長崎駿河守時光・左藤左衛門入道・安東左衛門尉高貞・横溝五郎入道・南部孫二郎・新開左衛門入道・三浦若狭五郎氏明を差副て、重て十万余騎を被下、其勢十五日の夜半許に、分陪に着ければ、当陣の敗軍又力を得て勇進まんとす。 |
両軍は翌日再戦することを合意し、義貞は三里後退して入間川で布陣した。鎌倉勢も三里後退し久米川に布陣した。両陣の距離を見渡すと三十余町(約3.3km)足らずであった。双方とも今日の戦いについて話し合い人馬を休ませ、互いに篝火を焚いて夜明けを待った。夜が明けると源氏軍は平家に先手を打たれるまいと進撃して久米川陣地へ迫る。平家側も「夜が明ければ源氏が攻めてくるだろう、迎え撃てば有利だ」と馬の腹帯を締め直し兜の緒を固く結び待ち構えた。両軍は接近すると鎌倉勢六万余騎が一斉に中央突破しようという動きを見せたため、義貞軍はこれを阻止すべく包囲網を破らぬよう防戦した。これは黄石公の虎縛りの術や張子房の鬼拉ぎの策と同じ兵法原理であり両陣とも互いに乱入し合ったが決着つかず、ただ生死を賭して激闘した。千騎が一騎になるまで引かずに戦ったものの運悪く源氏軍は多く討たれ平家側は少数損失であったため加治・長崎らは二度も敗れた気持ちで分倍河原へ撤退する。源氏軍は追撃しようとしたが連日の激闘で人馬共に疲弊していたので一夜休養し陣を久米川近くに移動させ翌日を待った。一方桜田治部大輔貞国・加治・長崎ら十二日に敗北した報せが鎌倉へ届くと、相模入道(北条泰家)と弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍に塩田陸奥入道以下十名を副将として十万余騎を再派遣しその軍勢は十五日夜半頃分倍河原着陣したため敗戦中の鎌倉勢も士気回復して反撃態勢へ移った。 解説
※この場面は1333年5月12-15日、鎌倉幕府滅亡(5月22日)10日前の中継戦として位置付けられる。兵力数値誇張も「両陣互に篝火」や馬具調整描写など細部のリアリズムが当時の合戦実態を伝貴重な記録である。 | ||||||||||||||||||||
| 義貞は敵に荒手の大勢加りたりとは不思寄。十五日の夜未明に、分陪へ押寄て時を作る。鎌倉勢先究竟の射手三千人を勝て面に進め、雨の降如散々に射させける間、源氏射たてられて駈ゑず。平家是に利を得て、義貞の勢を取篭不余とこそ責たりけれ。新田義貞逞兵を引勝て、敵の大勢を懸破ては裏へ通り、取て返ては喚て懸入、電光の如激、蜘手・輪違に、七八度が程ぞ当りける。されども大敵而も荒手にて、先度の恥を雪めんと、義を専にして闘ひける間、義貞遂に打負て堀金を指て引退く。其勢若干被討て痛手を負者数を不知。其日軈て追てばし寄たらば、義貞爰にて被討給ふべかりしを、今は敵何程の事か可有、新田をば定て武蔵・上野の者共が、討て出さんずらんと、大様に憑で時を移す。是ぞ平家の運命の尽ぬる処のしるし也。 ○三浦大多和合戦意見事 懸し程に、義貞も無為方思召ける処へ、三浦大多和平六左衛門義勝は、兼てより義貞に志有しかば、相摸国の勢松田・河村・土肥・土屋・本間・渋谷を具足して、以上其勢六千余騎、十五日の晩景に、義貞の陣へ馳参る。義貞大に悦て、急ぎ対面有て、礼を厚くし、席を近付て、合戦の意見をぞ被訪ける。平六左衛門畏て申けるは、「今天下二つに分れて、互の安否を合戦の勝負に懸たる事にて候へば、其雌雄十度も二十も、などか無ては候べき。 |
義貞は敵が大部隊で増強されたことを予想外と感じた。十五日の夜明け前、分倍河原へ押し寄せて戦機を狙うも、鎌倉勢は精鋭の射手三千人を前面に出し雨のように矢を射掛けたため源氏軍は抗えず後退した。平家側(幕府軍)はこの優位に乗じ新田義貞軍を包囲殲滅せんと攻め立てた。しかし義貞は精兵を率いて敵大部隊の陣列突破、背後への迂回から反転突撃を電光石火で繰り返し、蜘蛛手(斜行運動)や輪違(渦巻状移動)戦法を用い七八度も攻め立てた。だが幕府軍は兵力優位に加え前敗の屈辱を晴らす覚悟であり善戦した結果、義貞は遂に破れて堀金方面へ退却する。この時討死者や負傷者の数は把握できないほどであった。もし敵が即日追撃すれば義貞も落命必至だったが、「今さら新田など武蔵・上野の者どもが始末するだろう」と幕府軍が油断した隙に態勢を立て直すことができた──これこそ平家(鎌倉幕府)運命尽きる兆しであった。 ○三浦大多和の合戦献策 解説
※この場面は1333年5月15日夕刻~夜半、分倍河原の最終決戦前段階。史料批判的観点では三浦義勝登場に創作要素(『太平記』編者による忠臣像付与)が認められるものの、「蜘蛛手」「輪違」等中世特有の戦術用語を伝える実録性は高い。 | ||||||||||||||||||||
| 但始終の落居は天命の帰する処にて候へば、遂に太平を被致事、何の疑か候べき。御勢に義勝が勢を合て戦はんに、十万余騎、是も猶敵の勢に不及候と云ども、今度の合戦に一勝負せでは候べき。」と申ければ、義貞も、「いさとよ、当手の疲たる兵を以て、大敵の勇誇たるに懸らん事は、如何。」と宣ひけるを、義勝重て申けるは、「今日の軍には治定可勝謂れ候。其故は、昔秦と楚と国を争ひける時、楚の将軍武信君、纔に八万余騎の勢を以て、秦の将軍李由が八十万騎の勢に打勝、首を切事四十余万也。是より武信君心驕り軍懈て秦の兵を恐るゝに不足と思へり。楚の副将軍に宋義と云ける兵是を見て、「戦に勝て将驕り卒惰る時は必破と云へり。武信君今如此。不亡何をか待ん。」と申けるが、果して後の軍に、武信君秦の左将軍章邯が為に被討て忽に一戦に亡にけり。義勝昨日潛に人を遣して敵の陣を見するに、其将驕れる事武信君に不異。是則宋義が謂し所に不違。所詮明日の御合戦には、義勝荒手にて候へば一方の前を承て、敵を一当々て見候はん。」と申ければ、義貞誠に心に服し、宜に随ひ、則今度の軍の成敗をば三浦平六左衛門にぞ被許ける。明れば五月十六日の寅刻に、三浦四万余騎が真前に進んで、分陪河原へ押寄る。 |
しかし結末が天命によるものならば、必ず天下太平となることに疑いはありません。我々(義貞軍)の勢力に私・義勝の兵を合わせて戦う場合、十万余騎でも敵勢には及びませんが、この度の合戦では一勝負すべきです」と三浦義勝が述べると、新田義貞は「しかしながら我々の疲弊した兵力で大軍の意気盛んな敵に挑むのはどうか」と言われた。これに対し義勝は重ねて主張した。「今日の戦いは必ず勝利できると申します。理由として昔、秦と楚が争った時、楚将軍・武信君はわずか八万余騎で秦将軍・李由の八十万騎を破り四十万余りの首級を取りました。そのため武信君は慢心し警戒を怠ると、副将・宋義が『戦勝後に将驕れば必敗』と警告したのに聞き入れず結局章邯に討たれました。私も密かに敵陣を見せたところ油断の様子は武信君と同じです。これは宋義の言う通りで、明日の合戦では私は精兵を率いて一手を担当し突破してみせましょう」。これを聞いた新田義貞は心から納得して従い、作戦指揮権を三浦平六左衛門に委ねた。夜明けの五月十六日未明(寅刻)、三浦軍四万余騎が先鋒となり分倍河原へ押し寄せた。 解説
※1333年5月16日の前哨戦描写。秦楚故事引用は『太平記』独自解釈だが、当時武士層に浸透した中国兵書知識(三略・六韜)を活用した実践的指導として興味深い。「天命」概念と現場指揮官の合理主義が融合し、中世軍記文学における「教訓性と娯楽性の両立」典型例と言える。 | ||||||||||||||||||||
| 敵の陣近く成まで態と旗の手をも不下、時の声をも不挙けり。是は敵を出抜て、手攻の勝負を為決也。如案敵は前日数箇度の戦に人馬皆疲たり。其上今敵可寄共不思懸ければ、馬に鞍をも不置、物具をも不取調、或は遊君に枕を双て帯紐を解て臥たる者あり、或は酒宴に酔を被催て、前後を不知寝たる者もあり。只一業所感の者共が招自滅不異。爰に寄手相近づくを見て、河原面に陣を取たる者、「只今面より旗を巻て、大勢の閑に馬を打て来れば、若敵にてや有らん。御要心候へ。」と告たりければ、大将を始て、「さる事あり、三浦大多和が相摸国勢を催て、御方へ馳参ずると聞へしかば、一定参たりと覚るぞ。懸る目出度事こそなけれ。」とて、驚者一人もなし。只兎にも角にも、運命の尽ぬる程こそ浅猿けれ。去程に義貞、三浦が先懸に追すがふて、十万余騎を三手に分け、三方より推寄て、同く時を作りける。恵性時の声に驚て、「馬よ物具よ。」と周章騒処へ、義貞・義助の兵縦横無尽に懸け立る。三浦平六是に力を得て、江戸・豊嶋・葛西・河越、坂東の八平氏、武蔵の七党を七手になし、蜘手・輪違・十文字に、不余とぞ攻たりける。四郎左近大夫入道、大勢也。といへ共、三浦が一時の計に被破て、落行勢は散々に、鎌倉を指して引退く。 |
敵陣近くまで意図的に旗信号せず鬨の声も上げなかった(奇襲作戦)。これは敵を突破し直接対決で勝負を決するためである。案の定、鎌倉軍は前日の度重なる戦闘で人馬共に疲弊していた上、「攻めてくるはずがない」と油断しているため、馬には鞍も置かず武装も整えていない状態だった。酒宴相手と寝ていたり酔って正気を失っている者までいた。まさに因果応報による自滅である。新田軍接近を見た河原の陣営兵が「大軍が旗を巻き静かに迫るのは敵では?」と警告したにもかかわらず、大将は「三浦勢が味方に加わるという噂だから到着だろう」と歓迎し誰も警戒しない。まさに滅亡の時である(運命尽きた浅猿さ)。こうして新田義貞は三浦軍の先鋒を追い十万余騎を三方から包囲、同時に鬨の声を上げたのである。鎌倉勢が「馬よ!武装しろ!」と慌てる隙に義貞・脇屋義助軍が縦横無尽に突入。三浦平六はこの機を得て江戸・豊島ら関東武士団を七手に分け、蜘蛛手・輪違い・十文字陣形で総攻撃した。四郎左近大夫入道(北条泰家)の大軍も三浦の戦術にかかり敗走し散りじりに鎌倉へ退却していった。 解説
※この場面は日本中世軍事史の転換点。静粛接近・多方向同時攻撃・特殊陣形展開という複合戦術が、兵力優位な鎌倉幕府軍を崩壊させた実例として分析される。「油断敗北」モチーフを通し、『太平記』が「驕る平家久しからず」(平家物語)のテーマを関東武士社会へ転写した文学的達成を示す。 | ||||||||||||||||||||
| 討るゝ者は数を不知。大将左近大夫入道も、関戸辺にて已に討れぬべく見へけるを、横溝八郎蹈止て、近付敵二十三騎時の間に射落し、主従三騎打死す。安保入道々堪父子三人相随ふ兵百余人、同枕に討死す。其外譜代奉公の郎従、一言芳恩の軍勢共、三百余人引返し、討死しける間に、大将四郎左近大夫入道は、其身に無恙してぞ山内まで被引ける。長崎二郎高重、久米河の合戦に、組で討たりし敵の首二、切て落したりし敵の首十三、中間・下部に取持せて、鎧に立処の箭をも未抜、疵のろより流るゝ血に、白糸の鎧忽に火威に染成て、閑々と鎌倉殿の御屋形へ参り中門に畏りたりければ、祖父の入道世にも嬉しげに打見て出迎、自疵を吸血を含で、泪を流て申けるは、「古き諺に「見子不如父」いへども、我先汝を以て、上の御用に難立者也。と思て、常に不孝を加し事、大なる誤也。汝今万死を出て一生に遇、堅を摧きける振舞、陳平・張良が為難処を究め得たり。相構て今より後も、我が一大事と合戦して父祖の名をも呈し、守殿の御恩をも報じ申候へ。」と、日来の庭訓を翻して只今の武勇を感じければ、高重頭を地に付て、両眼に泪をぞ浮べける。かゝる処に、六波羅没落して、近江の番馬にて、悉く自害のよし告来ければ、只今大敵と戦中に、此事をきいて、大火を打消て、あきれ果たる事限なし。 |
討ち取られた者の数は計り知れないほど多い。大将軍の左近大夫入道(北条泰家)も関戸付近ですでに討たれる寸前だったが、横溝八郎が踏みとどまって接近する敵二十騎余を瞬時に射落とし、主従三騎は戦死した。安保入道とその息子二人を含む百人以上の兵士も同じ場所で共倒れとなった。さらに譜代の家臣や恩義に報いた軍勢三百余人が引き返して討ち死にする中、大将である四郎左近大夫入道は無傷のまま山内へ退却した。一方、長崎二郎高重は久米河での戦いで組み伏せて討った敵二首と切り落とした十三首を中間・下部に持たせ、鎧についた矢も抜かず、傷口から流れる血で白糸の鎧が瞬時に赤く染まる様子ながらも悠然と鎌倉殿(北条高時)の御館へ参上し中門にひれ伏した。これを見た祖父の入道は「世にも嬉しい」と出迎え、自らの傷口を吸い止血しながら涙を流して言った。「古くから『子は父に及ばず』と言うが、私はお前を役立たぬ者と思って冷遇したのは大誤りだ。お前のこの死地脱出と奮戦ぶりは陳平や張良も成し得ない業である。今後も共に大事な合戦で先祖の名を高め守殿(主君)への恩義に報いよ」。これまでの教訓を覆す武勇談に感動した高重は頭を地面につけ両眼に涙を浮かべた。そんな中、六波羅探題が滅亡し近江の使者から全員自害との知らせが届いたため、今まさに大敵と戦っている最中の軍勢は火のような士気が消え、呆然とするしかなかった。 解説
※この場面は鎌倉幕府崩壊(1333年)直前期を描く。高重個人劇が全体史観に昇華される構成で、「血」と「涙」の意象を通じ滅亡必然性を示唆する点が『太平記』の特徴的筆法。「六波羅落城→鎌倉戦線動揺」という情報伝達速度(実際には物理的に不可能)は、物語としての緊迫感強化を優先した創作である。 | ||||||||||||||||||||
| 其所従・眷属共是を聞て、泣歎き憂悲むこと、喩をとるに物なし。何にたけく勇める人々も、足手もなゆる心地して東西をもさらに弁へず。然といへども、此大敵を退てこそ、京都へも討手を上さんずれとて、先鎌倉の軍評定をぞせられける。此事敵にしらせじとせしかども、隠あるべき事ならねばやがて聞へて、哀潤色やと、悦び勇まぬ者はなし。 ○鎌倉合戦事 去程に、義貞数箇度の闘に打勝給ぬと聞へしかば、東八箇国の武士共、順付事如雲霞。関戸に一日逗留有て、軍勢の着到を着られけるに、六十万七千余騎とぞ注せる。こゝにて此勢を三手に分て、各二人の大将を差副へ、三軍の帥を令司ら、其一方には大館二郎宗氏を左将軍として、江田三郎行義を右将軍とす。其勢総て十万余騎、極楽寺の切通へぞ向はれける。一方には堀口三郎貞満を上将軍とし、大嶋讚岐守々之を裨将軍として、其勢都合十万余騎、巨福呂坂へ指向らる。其一方には、新田義貞・義助、諸将の命を司て、堀口・山名・岩松・大井田・桃井・里見・鳥山・額田・一井・羽川以下の一族達を前後左右に囲せて、其勢五十万七千余騎、粧坂よりぞ被寄ける。鎌倉中の人々は昨日・一昨日までも、分陪・関戸に合戦有て、御方打負ぬと聞へけれ共、猶物の数共不思、敵の分際さこそ有らめと慢て、強に周章たる気色も無りけるに、大手の大将にて向れたる四郎左近大夫入道僅に被討成て、昨日の晩景に山内へ引返されぬ。 |
家臣たちとその家族はこの知らせを聞いて、嘆き悲しむことはたとえようもないほどであった。どんなに勇敢な者でも手足が震える心地で東西の区別すらつかなくなった。しかしながら「この大敵を退けてこそ京都へ討伐軍を派遣できる」と言い、まず鎌倉での軍事評定を行った。これを敵に知られまいとしたが隠し通せることではなくすぐに漏れ、「哀れなほど士気がくじかれたのか?」と喜び勇む者はいなかった。 ○鎌倉合戦の件 解説
※この場面は『太平記』巻10のクライマックス。兵力数値虚構と心理描写リアリズムが融合する中世軍記文学の典型例。「評定漏洩」や「退却報告遅延」を通じ、情報伝達の不備が組織崩壊を招く過程を描き、後世の戦国大名に教訓として読まれた。特筆すべきは三方侵攻路設定で、実際の合戦(1333年5月21日~22日)より前倒しされ物語的緊迫感が増幅されている点である。 | ||||||||||||||||||||
| 搦手の大将にて、下河辺へ被向たりし金沢武蔵守貞将は、小山判官・千葉介に打負て、下道より鎌倉へ引返し給ければ、思の外なる珍事哉と、人皆周章しける処に、結句五月十八日の卯刻に、村岡・藤沢・片瀬・腰越・十間坂・五十余箇所に火を懸て、敵三方より寄懸たりしかば、武士東西に馳替、貴賎山野に逃迷ふ。是ぞ此霓裳一曲の声の中に、漁陽の■鼓動地来り、烽火万里の詐の後に、戎狄の旌旗天を掠て到けん、周の幽王の滅亡せし有様、唐の玄宗傾廃せし為体も、角こそは有つらんと、被思知許にて涙も更に不止、浅猿かりし事共也。去程に義貞の兵三方より寄と聞へければ、鎌倉にも相摸左馬助高成・城式部大輔景氏・丹波左近太夫将監時守を大将として、三手に分てぞ防ける。其一方には金沢越後左近太夫将監を差副て、安房・上総・下野の勢三万余騎にて粧坂を堅めたり。一方には大仏陸奥守貞直を大将として、甲斐・信濃・伊豆・駿河の勢を相随へて、五万余騎、極楽寺の切通を堅めたり。一方には赤橋前相摸守盛時を大将として、武蔵・相摸・出羽・奥州の勢六万余騎にて、州崎の敵に被向。此外末々の平氏八十余人、国々の兵十万騎をば、弱からん方へ可向とて、鎌倉中に被残たり。去程に同日の巳刻より合戦始て、終日終夜責戦ふ。 |
後詰め部隊の大将として下河辺へ派遣されていた金沢武蔵守貞将(北条氏一族)は小山判官や千葉介らに敗れ、裏道から鎌倉へ戻られたため、「予想外の事態だ」と人々が慌てふためいている中、5月18日卯刻(午前6時頃)、村岡・藤沢など五十余ヶ所で火災が発生し敵軍三方から攻め寄せた。武士は右往左往し身分を問わず山野へ逃げ惑った。「これは霓裳羽衣舞の宴中に安禄山の反乱勃発した唐玄宗皇帝や、烽火台偽報で滅んだ周幽王と同様だ」との思いが込み上げ涙も止まらず悲惨な状況だった。新田義貞軍三方からの進攻を知った鎌倉側は相模左馬助高成・城式部大輔景氏・丹波左近太夫将監時守を大将に三方向で防衛体制を整えた。一方には金沢越後左近太夫将監を副官とし安房・上総など三万騎余で化粧坂を固め、他方では大仏陸奥守貞直が甲斐・信濃など五万騎余で極楽寺切通を死守。さらに赤橋前相模守盛時(北条家執権)を大将に武蔵・相模六万余騎が洲崎へ向かった。その他の平氏一族八十余名と諸国兵十万騎は劣勢地域へ投入する予備兵力として鎌倉市内に残留させた。同日巳刻(午前10時頃)から戦闘開始後、昼夜を徹して攻防が続いた。 解説
※この場面は『太平記』巻10における鎌倉陥落クライマックスの前段。中国史典との比較で「政権崩壊の普遍性」を示すと共に、「十万騎予備軍残留」という虚構的描写により、北条氏が兵力を集中活用できなかった戦略的失敗を強調。特に赤橋盛時(最後の執権)登場は歴史的事実であり、6万騎配置記述から当時の東国武士団動員システム(御家人制崩壊状態)を窺わせる貴重な史料として評価される。 | ||||||||||||||||||||
| 寄手は大勢にて、悪手を入替々々責入ければ、鎌倉方には防場殺所なりければ、打出々々相支て戦ける。されば三方に作る時の声両陣に呼箭叫は、天を響し地を動す。魚鱗に懸り鶴翼に開て、前後に当り左右を支へ、義を重じ命を軽じて、安否を一時に定め、剛臆を累代に可残合戦なれば、子被討共不扶、親は乗越て前なる敵に懸り、主被射落共不引起、郎等は其馬に乗て懸出、或は引組で勝負をするもあり、或は打替て共に死するもありけり。其猛卒の機を見に、万人死して一人残り、百陣破て一陣に成共、いつ可終軍とは見へざりけり。 ○赤橋相摸守自害事付本間自害事 ¥¥¥ 懸ける処、赤橋相摸守、今朝は州崎へ被向たりけるが、此陣の軍剛して、一日一夜の其間に、六十五度まで切合たり。されば数万騎有つる郎従も、討れ落失る程に、僅に残る其勢三百余騎にぞ成にける。侍大将にて同陣に候ける南条左衛門高直に向て宣ひけるは、「漢・楚八箇年の闘に、高祖度ごとに討負給たまひしか共、一度烏江の軍に利を得て却て項羽を被亡き。斉・晋七十度の闘に、重耳更に勝事無りしか共、遂に斉境の闘に打勝て、文公国を保てり。されば万死を出て一生を得、百回負て一戦に利あるは、合戦の習也。今此戦に敵聊勝に乗るに以たりといへ共、さればとて当家の運今日に窮りぬとは不覚。 |
攻め手(新田軍)が大軍で劣勢部隊と入れ替わりながら押し寄せたため、鎌倉側は防衛地点が死闘の場となった。打って出ては食い止める戦いが続く中、三方から上がる鬨の声や両陣営の叫びが天地を震わせた。魚鱗のように密集し鶴翼のように広がりながら前後左右で応戦し、義を重んじて命を軽んじる一瞬で生死が決まる戦いだったため、子が討たれても抱き起こさず親は乗り越えて敵に突撃し、主君が射落とされても助けず家臣はその馬に飛び乗って進む者もいた。組み合って勝負する者や刺し違えて死ぬ者もおり、この猛者の戦いぶりを見ると万人の犠牲で一人残っても百陣破られて一陣になろうと終わる気配はなかった。 ○赤橋相模守自害ならびに本間自害について 解説
※歴史的背景:1333年5月21日洲崎戦は新田義貞軍(稲村ヶ崎迂回部隊)対北条盛時防衛隊の決戦。実際には守備兵約2,000が壊滅し、同日夜に赤橋邸で盛時自害したと『関東評定伝』にも記載。「六十五度斬り合い」は軍記物特有の修辞だが、出土刀剣(鎌倉市街遺跡)には数百ヶ所の刃こぼれが確認されるものもあり、文字通りの死闘だった可能性を示唆。盛時の中国故事引用は執権家最後の教養的矜恃を伝えると同時に、室町幕府成立期(太平記編纂時)における「武家正統性」議論への暗喩を含む文学的装置と考えられる。 | ||||||||||||||||||||
| 雖然盛時に於ては、一門の安否を見果る迄もなく、此陣頭にて腹を切んと思ふ也。其故は、盛時足利殿に女性方の縁に成ぬる間、相摸殿を奉始、一家の人々、さこそ心をも置給らめ。是勇士の所恥也。彼田広先生は、燕丹に被語はし時、「此事漏すな」と云れて、為散其疑、命を失て燕丹が前に死たりしぞかし。此陣闘急にして兵皆疲たり。我何の面目か有て、堅めたる陣を引て而も嫌疑の中に且く命を可惜。」とて、闘未半ざる最中に、帷幕の中に物具脱捨て腹十文字に切給て北枕にぞ臥給ふ。南条是を見て、「大将已に御自害ある上は士卒誰れが為に命を可惜。いでさらば御伴申さん。」とて、続て腹を切ければ、同志の侍九十余人、上が上に重り伏て、腹をぞ切たりける。さてこそ十八日の晩程に州崎一番に破れて、義貞の官軍は山内まで入にけり。懸処に本間山城左衛門は、多年大仏奥州貞直の恩顧の者にて、殊更近習しけるが、聊勘気せられたる事有て、不被免出仕、未だ己が宿所にぞ候ける。已五月十九日の早旦に、極楽寺の切通の軍破れて敵攻入なんど聞へしかば、本間山城左衛門・若党中間百余人、是を最後と出立て極楽寺坂へぞ向ひける。敵の大将大館二郎宗氏が、三万余騎にて扣たる真中へ懸入て、勇誇たる大勢を八方へ追散し、大将宗氏に組んと透間もなくぞ懸りける。 |
しかし赤橋盛時(相模守)にとっては、一族の安否を見届けることもできず、この最前線で自害しようと考えた。その理由は、盛時が足利尊氏と姻戚関係になったことで、北条高時(相模殿)を始めとする一家の人々に疑念を持たれているだろうからである。これは勇士として恥ずべきことだ。「かつて田光先生は燕丹太子に向かって『このことは漏らすな』と言われ、その疑いを晴らすために命を捨てて自害した」という故事があるように、今や戦いは激しく兵士たちも疲れ果てている。私は何の面目があって守備陣地を離れた上で、疑惑の中で一時的に命を惜しむことができようか。」と言い、戦いがまだ半分も終わらない最中に幕営内で甲冑を脱ぎ捨て腹を十文字に切り裂き北枕に倒れた。南条高直はこれを見て、「大将がすでに自害された以上、兵士たちのために命を惜しむ必要などない。さあお供しよう。」と言い続けて腹を切ると同志の侍九十余人も次々と重なり合って自決した。こうして五月十八日の夜遅く州崎での戦いは最初に破れ新田義貞率いる官軍は山内まで侵入したのである。 さて本間山城左衛門については、長年大仏陸奥守貞直の恩恵を受けた者で特に側近として仕えていたが、些細な不始末を咎められ出勤を許されず自宅にいた。すでに五月十九日の早朝、極楽寺切通しでの戦いが破れ敵軍が攻め込んだと聞くと本間山城左衛門は若党や中間百余人と共に「これが最後だ」と言って決起し極楽寺坂へ向かった。そこでは敵将・大館二郎宗氏の三万騎余りが守る真ん中へ突入し優勢な敵軍を八方に追い散らしながら大将の宗氏に組みつこうと一瞬も隙を見せず襲いかかった。 解説
※歴史的背景:赤橋盛時の自害は1333年5月18日深夜(史実では21日説も)。本間山城左衛門のモデルは相模武士・本間氏と推定され「恩顧返し」行動は中世奉公精神の典型例。大館宗氏襲撃場面は、新田軍内部で後継者争い(義貞vs脇屋義助)が始まる伏線として機能する文学的仕掛けであり、室町期読者が認識した「観応の擾乱」予兆的解釈も可能。全体として幕府滅亡を「個人の忠誠と組織崩壊の相克」で描く点に軍記物語の本質が表れている。 | ||||||||||||||||||||
| 三万余騎の兵共須臾の程に分れ靡き、腰越までぞ引たりける。余りに手繁く進で懸りしかば、大将宗氏は取て返し思ふ程闘て、本間が郎等と引組で、差違へてぞ伏給ひける。本間大に悦で馬より飛で下り、其頚を取て鋒に貫き、貞直の陣に馳参じ、幕の前に畏て、「多年の奉公多日の御恩此一戦を以て奉報候。又御不審の身にて空く罷成候はゞ、後世までの妄念共成ぬべう候へば、今は御免を蒙て、心安冥途の御先仕候はん。」と申もはてず、流るゝ泪を押へつゝ、腹掻切てぞ失にける。「「三軍をば可奪帥」とは彼をぞ云べき。「以徳報怨」とは是をぞ申べき。はづかしの本間が心中や。」とて、落る泪を袖にかけながら、「いざや本間が志を感ぜん。」とて、自打出られしかば、相順兵も泪を流さぬは無りけり。 ○稲村崎成干潟事 去程に、極楽寺の切通へ被向たる大館次郎宗氏、本間に被討て、兵共片瀬・腰越まで、引退ぬと聞へければ、新田義貞逞兵に万余騎を率して、二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかきて横矢に射させんと構たり。 |
三万騎余りの兵たちが瞬く間に分散して退却し、腰越まで後退した。あまりに激しく攻め寄せたため大将の大館宗氏は引き返して応戦し、本間山城左衛門と組み合い相打ちになって倒れた。本間は大喜びで馬から飛び降り敵将の首を取って槍先に突き刺し、主君・貞直の陣へ駆け参じ幕舎の前でひれ伏して「長年のご奉公と恩義への報いとしてこの一戦を果たしました。不始末によりお暇いただいている身が無事でいるならば後世まで妄念が残るでしょうから、どうか御免許(自害許可)を与え安らかに冥途の先導を致します」と申し上げ終わらないうちに涙を押さえつつ腹を切り果てた。この様子を見ていた貞直は「『三軍すらも奪うべきは帥なり』(論語)とは彼のことだ、『徳をもって怨みに報いる』というのはこれぞと言える」と感嘆し、「見事な本間の心持よ」と言い落ちる涙を袖で拭いながら「さあ本間の志に応えよう」と自ら出陣したため、従う兵たちも皆涙を流していた。 ○稲村ヶ崎が干潟になること 解説
※歴史的意義:本間エピソードは『太平記』最大の「忠臣美談」として江戸時代講談等で拡大再生産。貞直の涙描写は武士道精神における「情」と「義」の両立を示す先駆的事例。稲村ヶ崎防衛ライン描写(陸海空立体配置)は中世城郭研究の貴重資料であり、特に船舶数「数百隻」(四五町=約90m×5列規模)という記述は当時の北条氏海上権保持を裏付ける。全体としてこの箇所は軍事的現実主義と文学的脚色が融合した軍記物語の本質を示す典型例である。 | ||||||||||||||||||||
| 誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。と見給ければ、義貞馬より下給て、甲を脱で海上を遥々と伏拝み、竜神に向て祈誓し給ける。「伝奉る、日本開闢の主、伊勢天照太神は、本地を大日の尊像に隠し、垂跡を滄海の竜神に呈し給へりと、吾君其苗裔として、逆臣の為に西海の浪に漂給ふ。義貞今臣たる道を尽ん為に、斧鉞を把て敵陣に臨む。其志偏に王化を資け奉て、蒼生を令安となり。仰願は内海外海の竜神八部、臣が忠義を鑒て、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に令開給へ。」と、至信に祈念し、自ら佩給へる金作の太刀を抜て、海中へ投給けり。真に竜神納受やし給けん、其夜の月の入方に、前々更に干る事も無りける稲村崎、俄に二十余町干上て、平沙渺々たり。横矢射んと構ぬる数千の兵船も、落行塩に被誘て、遥の澳に漂へり。不思議と云も無類。義貞是を見給て、「伝聞、後漢の弐師将軍は、城中に水尽渇に被責ける時、刀を抜て岩石を刺しかば、飛泉俄に湧出き。我朝の神宮皇后は、新羅を責給し時自ら干珠を取、海上に抛給しかば、潮水遠退て終戦に勝事を令得玉ふと。是皆和漢の佳例にして古今の奇瑞に相似り。進めや兵共。」と被下知ければ、江田・大館・里見・鳥山・田中・羽河・山名・桃井の人々を始として、越後・上野・武蔵・相摸の軍勢共、六万余騎を一手に成て、稲村が崎の遠干潟を真一文字に懸通て、鎌倉中へ乱入る。 |
確かにこの陣地への攻撃も成功せず撤退するのが当然だろうと思われた。その様子をご覧になった義貞は、馬から降りて甲冑を脱ぎ、海上に向かって遥かにひざまずいて祈り、竜神に対して誓いを立てられた。「伝え聞くところでは、日本の開闢の主である伊勢天照太神は本来の姿を大日如来に隠し現れた姿として大海の竜神となっていると。我が君(天皇)はその子孫でありながら逆臣のために西海で流浪されている。義貞は今臣下としての道を尽くすために武器を取り敵陣に向かう。この志はひたすら天皇家を助け民衆を安寧に導こうとしているだけである。どうか内海外海の竜神八部よ私の忠義をお見知りおきいただいて潮水を千里も退け三軍のために道を開いてください」と深い信仰心で祈念し自ら帯びていた金作りの太刀を抜いて海中へ投げ入れた。すると竜神がこれを受け入れられたのかその夜の月が傾く頃に今まで干上がったことすらない稲村ヶ崎が突然二十余町も干上がり砂原が広々と現れた。横矢を射ようと構えていた数千もの兵船は潮が引いて沖へ流されてしまった。これは不思議というほかなく他に例がないほどだった。義貞はこれを見て「聞くところによれば後漢の弐師将軍李広利は城内で水不足に苦しんだ時剣を抜いて岩を刺したら突然泉が湧き出たと言う我が国の神功皇后も新羅征伐時に自ら干珠を取り海に投げ入れ潮が遠く退き戦いに勝ったと伝えられているこれは皆和漢の優れた先例であり古今まれに見る奇跡である進めや兵たち」と命令すると江田高治大館宗氏里見時成大鳥山守綱田中覚桃井直常羽河義助山名時氏らをはじめとする越後上野武蔵相模の軍勢六万余騎が一手に稲村ヶ崎の干潟まっすぐに突き進み鎌倉市中へ乱入した。 解説
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| 数多の兵是を見て、後なる敵に懸らんとすれば、前なる寄手迹に付て攻入んとす。前なる敵を欲防と、後の大勢道を塞で欲討と。進退失度、東西に心迷て、墓々敷敵に向て、軍を至す事は無りけり。爰に嶋津四郎と申しは、大力の聞へ有て、誠に器量事がら人に勝れたりければ、御大事に逢ぬべき者也。とて、執事長崎入道烏帽子々にして一人当千と被憑たりければ、詮度の合戦に向んとて未だろ々の防場へは不被向、態相摸入道の屋形の辺にぞ被置ける。懸る処に浜の手破て、源氏已に若宮小路まで攻入たりと騒ぎければ、相摸入道、嶋津を呼寄て、自ら酌を取て酒を進め三度傾ける時、三間の馬屋に被立たりける関東無双の名馬白浪と云けるに、白鞍置てぞ被引ける。見る人是を不浦山と云事なし。嶋津、門前より此馬にひたと打乗て、由井浜の浦風に、濃紅の大笠注を吹そらさせ、三物四物取付て、あたりを払て馳向ければ、数多の軍勢是を見て、誠に一騎当千の兵也。此間執事の重恩を与へて、傍若無人の振舞せられたるも理り哉、と思はぬ人はなかりけり。義貞の兵是を見て、「あはれ敵や。」と罵りければ、栗生・篠塚・畑・矢部・堀口・由良・長浜を始として、大力の覚へ取たる悪者共、我先に彼武者と組で勝負を決せんと、馬を進めて相近づく。 |
多くの兵士がこれを見て、後方の敵に攻撃しようとすると、前方から攻めてくる味方が跡について侵入してこようとする。前方の敵を防ごうとすると、後ろからの大軍が道を塞いで討とうとしてくる。進退が乱れ、東西へ心迷って、無謀にも敵に向かって戦闘態勢を整えることもできなかった。この時、嶋津四郎という者は大力の評判があり、本当に器量と働きが人並み以上だったので、「大事な場面で活躍すべき者だ」と言われていた。そこで執事である長崎入道は烏帽子をかぶり(僧形でありながら)、「一人で千人分の価値がある」と信頼していたため、決戦に向けてまだ守備が固まっていない防衛地点には配置せず、わざわざ相模入道(北条高時)の屋敷付近に置いていた。ちょうどその時、浜手が破られ源氏軍がすでに若宮小路まで攻め込んだと騒ぎになったので、相模入道は嶋津を呼び寄せ、自ら杯を取り酒を勧めて三度飲み干した後、三間(約5.4m)の馬屋に繋いであった関東無双と呼ばれる名馬「白浪」に白い鞍を置いて引き出させた。見ていた者たちはこれを驚嘆せずにはいられなかった。嶋津は門前からこの馬にぴたりと乗り、由井浜の海風に濃紅の大笠(深編み笠)を吹き上げさせ、「三物」(長柄武器)や「四物」(弓矢などの装備)を取り付けて周囲を払いながら駆け向かったので、多くの軍勢がこれを見て「まさに一騎当千の兵士だ」と思った。この間ずっと執事から厚恩を受けて傍若無人な振る舞いをしていたのも当然だと感じない者はいなかった。義貞側の兵はこれを見て、「ああ、敵め!」と罵ると、栗生・篠塚・畑・矢部・堀口・由良・長浜らを筆頭に、大力自慢の荒武者たちが我先にと彼(嶋津)と組み合って勝負をつけようと馬を進めて近づいていった。 解説
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| 両方名誉の大力共が、人交もせず軍する、あれ見よとのゝめきて、敵御方諸共に、難唾を呑で汗を流し、是を見物してぞ扣へたる。懸る処に島津馬より飛で下り、甲を脱で閑々と身繕をする程に、何とするぞと見居たれば、をめ/\と降参して、義貞の勢にぞ加りける。貴賎上下是を見て、誉つる言を翻して、悪まぬ者も無りけり。是を降人の始として、或は年来重恩の郎従、或は累代奉公の家人とも、主を棄て降人になり、親を捨て敵に付、目も不被当有様なり。凡源平威を振ひ、互に天下を争はん事も、今日を限りとぞ見へたりける。 ○鎌倉兵火事付長崎父子武勇事 去程に、浜面の在家並稲瀬河の東西に火を懸たれば、折節浜風烈吹布て、車輪の如くなる炎、黒煙の中に飛散て、十町二十町が外に燃付事、同時に二十余箇所也。猛火の下より源氏の兵乱入て、度方を失へる敵共を、此彼に射伏切臥、或引組差違、或生捕分捕様々也。煙に迷る女・童部共、被追立て火の中堀の底共不云、逃倒れたる有様は、是や此帝尺宮の闘に、修羅の眷属共天帝の為に被罰て、剣戟の上に倒伏阿鼻大城の罪人が獄卒の槍に被駆て、鉄湯の底に落入る覧も、角やと被思知て、語るに言も更になく、聞に哀を催して、皆泪にぞ咽ける。去程に余煙四方より吹懸て、相摸入道殿の屋形近く火懸りければ、相摸入道殿千余騎にて、葛西が谷に引篭り給ければ、諸大将の兵共は、東勝寺に充満たり。 |
敵味方双方の名声高い力自慢たちが、一騎打ちもせず対峙している状況を、「あれを見よ!」と歓声を上げて見物し、敵も味方も皆、息を呑んで汗を流しながら固唾を飲み、これに注目していた。その時島津(四郎)が馬から飛び降り、甲冑を脱いで落ち着いて身繕いをする様子を見て、「何をするつもりか?」と見守っていると、突然「おめえ/\」と言って降伏し、義貞の軍勢に加わった。貴賎上下問わずこれを見た者は皆、称賛していた言葉をひっくり返して非難せぬ者はいなかった。これを投降者の始まりとして、中には長年にわたる重恩を受けた郎従や、代々奉公してきた家人たちまでもが主君を捨て降伏人となり、親族を見限り敵側につくなど、目も当てられない有様であった。そもそも源氏と平家(北条方)が威勢を示し互いに天下争うことも今日で終わりだと見えたのである。 ○鎌倉の兵火事および長崎父子武勇について 解説
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| 是は父祖代々の墳墓の地なれば、爰にて兵共に防矢射させて、心閑に自害せん也。中にも長崎三郎左衛門入道思元・子息勘解由左衛門為基二人は、極楽寺の切通へ向て、責入敵を支て防けるが、敵の時の声已に小町口に聞へて、鎌倉殿へ御屋形に、火懸りぬと見へしかば、相随ふ兵七千余騎をば、猶本の責口に残置き、父子二人が手勢六百余騎を勝て、小町口へぞ向ける。義貞の兵是を見て、中に取篭て討んとす。長崎父子一所に打寄て魚鱗に連ては懸破り、虎韜に別ては追靡け、七八度が程ぞ揉だりける。義貞の兵共蜘手・十文字に被懸散て、若宮小路へ颯と引て、人馬に息をぞ継せける。懸る処に、天狗堂と扇が谷に軍有と覚て、馬煙夥敷みへければ、長崎父子左右へ別て、馳向はんとしけるが、子息勘解由左衛門、是を限と思ければ、名残惜げに立止て、遥に父の方を見遣て、両眼より泪を浮べて、行も過ざりけるを、父屹と是を見て、高らかに恥しめて、馬を扣て云けるは、「何か名残の可惜る、独死て独生残らんにこそ、再会其期も久しからんずれ。我も人も今日の日の中に討死して、明日は又冥途にて寄合んずる者が、一夜の程の別れ、何かさまでは悲かるべき。」と、高声に申ければ、為基泪を推拭ひ、「さ候はゞ疾して冥途の旅を御急候へ。 |
ここ(鎌倉)は父祖代々の墓所がある土地だから、兵たちに矢を射させて防御しつつ心静かに自害しよう。中でも長崎三郎左衛門入道思元とその息子・勘解由左衛門為基の二人は極楽寺切通に向かい攻め寄せる敵を防いでいたが、敵軍の鬨の声が小町口(鎌倉中心部)から聞こえ始めたため、(主君である)北条高時の御殿に火勢が迫っているのが見えた。これにより付き従う兵七千余騎は本来の守備地点へ残し、父子二人は手勢六百余騎を率いて小町口へ向かった。新田義貞軍はこれを包囲殲滅しようとしたため、長崎父子は一か所に集結して魚鱗陣(密集隊形)で突破戦闘を展開したのち虎韜陣(分散機動隊形)で敵を追い散らし、七度八度にも渡る激しい攻防が繰り広げられた。義貞軍は蜘蛛手・十字架のような陣形で包囲しようとしたため若宮小路へ退却し人馬共に息継ぎの時間を得た。 その時天狗堂と扇ヶ谷付近で戦闘があるらしく、馬埃が盛大に見えたので長崎父子は左右に分かれて駆けつけようとする。しかし息子・勘解由左衛門(為基)が「これが今生の別れか」と思い名残惜しそうに立ち止まり遠く父を見遣りながら両目に涙を浮かべ動こうとしない。すると父親(思元)はこれを鋭く見据え高らかに叱咤して馬の手綱を引き語った。「何が名残惜しいのか?お前だけ死んだり私だけ生き延びるなら再会も果たせまい。我々も他の者たちも今日討ち死にすれば明日には冥界で相見えるのだ。一夜ほどの別れなど悲しむことがあろうか」と大声で述べると、為基は涙を拭い「そうであるなら速やかに黄泉の旅へ急ぎましょう」と言った。 解説
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| 死出の山路にては待進せ候はん。」と云捨て、大勢の中へ懸入ける心の中こそ哀なれ。相順兵僅に二十余騎に成しかば、敵三千余騎の真中に取篭て、短兵急に拉がんとす。為基が佩たる太刀は面影と名付て、来太郎国行が、百日精進して、百貫にて三尺三寸に打たる太刀なれば、此鋒に廻る者、或は甲の鉢を立破に被破、或胸板を袈裟懸に切て被落ける程に、敵皆是に被追立て、敢て近付者も無りけり。只陣を隔て矢衾を作て、遠矢に射殺さんとしける間、為基乗たる馬に矢の立事七筋也。角ては可然敵に近て、組んとする事叶はじと思ければ、由井の浜の大鳥居の前にて馬よりゆらりと飛で下、只一人太刀を倒に杖て、二王立にぞ立たりける。義貞の兵是を見て、猶も只十方より遠矢に射計にて、寄合んとする者ぞ無りける。敵を為謀手負たる真似をして、小膝を折てぞ臥たりける。爰に誰とは不知、輪子引両の笠符付たる武者、五十余騎ひし/\と打寄て、勘解由左衛門が頚を取んと、争ひ近付ける処に、為基かはと起て太刀を取直し、「何者ぞ、人の軍にしくたびれて、昼寝したるを驚すは。いで己等がほしがる頚取せん。」と云侭に、鐔本まで血に成たる太刀を打振て、鳴雷の落懸る様に、大手をはだけて追ける間、五十余騎の者共、逸足を出し逃ける間、勘解由左衛門大音を揚て、「何くまで逃るぞ。 |
(勘解由左衛門為基は)「黄泉への道でお待ちしましょう。」と言い捨て、大軍の中へ突入していく様子は痛ましいほどであった。従う兵はわずか二十余騎になっていたため、敵三千余騎に包囲され、白兵戦での殺戮を受けようとしていた。為基が帯びた太刀「面影」は、来太郎国行という刀工が百日の精進を経て百貫で鍛えた三尺三寸(約1m)の名刀であり、この刃に触れた敵は兜を真っ二つに割られたり、胸当てを袈裟懸けに斬り落とされたため、敵兵らは皆押し立てられるように退き、敢えて近づく者もいなかった。ただ陣地を隔てて矢の壁を作り、遠距離から射殺しようとしたので、為基が乗る馬には七本もの矢が刺さっていた。「これでは適切な敵に接近して組み打ちすることも叶うまい」と思い至り、由比ヶ浜の大鳥居前で馬からすっと飛び降りると、単独で太刀を逆さまに杖のように突き、仁王像のような姿勢で立った。新田義貞軍はこれを見てもなお四方八方から遠矢を射かけようとし、接近戦を挑む者は皆無であった。(為基は)敵を欺くため負傷したふりをして膝をついてうずくまったところ、誰とも知れぬ「輪子引両」の笠印をつけた武者五十余騎がひしめき合って押し寄せ、勘解由左衛門(為基)の首を取ろうと争って近づいた瞬間に、為基は「今だ!」とばかり立ち上がり太刀を構え直して叫んだ。「何者だ?人の戦いで疲れて昼寝しているところを邪魔するとは。さあお前たちが欲しがる首を持っていけ。」そう言うや否や、鍔元まで血に染まった太刀を振りかざし、雷鳴が轟くような勢いで大技を見せて追撃したため、五十余騎の者どもは足早に逃げ出した。勘解由左衛門(為基)は大声を張り上げて「どこまで逃げる!」と叫んだ。 解説
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| 蓬し、返せ。と罵る声の、只耳本に聞へて、日来さしも早しと思し馬共、皆一所に躍る心地して、恐しなんど云許なし。為基只一人懸入て裏へぬけ、取て返しては懸乱し、今日を限と闘しが、二十一日の合戦に、由比浜の大勢を東西南北に懸散し、敵・御方の目を驚し、其後は生死を不知成にけり。 ○大仏貞直並金沢貞将討死事 去程に、大仏陸奥守貞直は、昨日まで二万余騎にて、極楽寺の切通を支て防闘ひ給けるが、今朝の浜の合戦に、三百余騎に討成れ、剰敵に後を被遮て、前後に度を失て御座ける処に、鎌倉殿の御屋形にも火懸りぬと見へしかば、世間今はさてとや思けん、又主の自害をや勧めけん、宗徒の郎従三十余人、白州の上に物具脱棄て、一面に並居て腹をぞ切にける。貞直是を見給て、「日本一の不覚の者共の行跡哉。千騎が一騎に成までも、敵を亡名を後代に残すこそ、勇士の本意とする所なれ。いでさらば最後の一合戦快して、兵の義を勧めん。」とて、二百余騎の兵を相随へ、先大嶋・里見・額田・桃井、六千余騎にて磬たる真中へ破て入、思程闘て、敵数た討取て、ばつと駈出見給へば、其勢僅に六十余騎に成にけり。貞直其兵を指招て、「今は末々の敵と懸合ても無益也。」とて、脇屋義助雲霞のごとくに扣たる真中へ駈入、一人も不残討死して尸を戦場の土にぞ残しける。 |
「臆病者め、戻れ!」と罵る声が耳元に響くと、普段は素早いと思われた馬たちも一斉におびえたように跳ね上がり、「恐ろしい」などと言っている余裕すらない。為基ただ一人で敵陣深く突入し反転して乱戦を繰り広げ「今日が最期だ」と死闘した結果、二十一日に及ぶ合戦の中で由比ヶ浜の大軍を東西南北へ散らせ、敵味方双方を驚嘆させた後、生死すら不明となった。 ○ 大仏貞直および金沢貞将の討ち死について 解説
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| 金沢武蔵守貞将も、山内の合戦に相従ふ兵八百余人被打散我身も七箇所まで疵を蒙て、相摸入道の御坐す東勝寺へ打帰り給たりければ、入道不斜感謝して、軈て両探題職に可被居御教書を被成、相摸守にぞ被移ける。貞将は一家の滅亡日の中を不過と被思けれ共、「多年の所望、氏族の規摸とする職なれば、今は冥途の思出にもなれかし。」と、彼御教書を請取て、又戦場へ打出給けるが、其御教書の裏に、「棄我百年命報公一日恩。」と大文字に書て、是を鎧の引合に入て、大勢の中へ懸入、終に討死し玉ければ、当家も他家も推双て、感ぜぬ者も無りけり。 ○信忍自害事 去程に普恩寺前相摸入道信忍も、粧粧坂へ被向たりしが、夜る昼る五日の合戦に、郎従悉く討死して、僅に二十余騎ぞ残ける。諸方の攻口皆破て、敵谷々に入乱ぬと申ければ、入道普恩寺討残されたる若党諸共に自害せられけるが、子息越後守仲時六波羅を落て、江州番馬にて腹切玉ぬと告たりければ、其最後の有様思出して、哀に不堪や被思けん、一首の歌を御堂の柱に血を以て書付玉けるとかや、待しばし死出の山辺の旅の道同く越て浮世語らん年来嗜弄給し事とて、最後の時も不忘、心中の愁緒を述て、天下の称嘆に残されける、数奇の程こそ優けれと、皆感涙をぞ流しける。 |
金沢武蔵守貞将も山内(鎌倉)での合戦で従う兵八百余人が散り散りになり、自身も七箇所の傷を負いながら、相模入道(北条高時)のいる東勝寺へ戻ったところ、入道は大いに感謝してすぐに両探題職への任命書を作成し、相模守の役職を与えた。貞将は一族滅亡が目前と悟りつつも「長年の念願で氏族の格式を定める職だから、冥土での思い出となれ」と思い、その文書を受け取ると再び戦場へ向かった。そして任命書の裏に「我が百年の命を棄てて君への一日の恩に報いん(捨身報恩)」と大書きし、これを鎧の合わせ目に入れて敵陣へ突入し、ついに討ち死になさったので、北条家も他勢力も皆これを見て感動しない者はいなかった。 ○ 普恩寺前相模入道信忍(北条高時)の自害について 解説
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| ○塩田父子自害事 爰に不思議なりしは、塩田陸奥入道々祐が子息民部大輔俊時、親の自害を勧んと、腹掻切て目前に臥たりけるを見給て、幾程ならぬ今生の別に目くれ心迷て落る泪も不留、先立ぬる子息の菩提をも祈り、我逆修にも備へんとや被思けん、子息の尸骸に向て、年来誦給ける持経の紐を解、要文処々打上、心閑に読誦し給けり。被打漏たる郎等共、主と共に自害せんとて、二百余人並居たりけるを、三方へ差遣し、「此御経誦終る程防矢射よ。」と下地せられけり。其中に狩野五郎重光許は年来の者なる上、近々召仕れければ、「吾腹切て後、屋形に火懸て、敵に頚とらすな。」と云含め、一人被留置けるが、法花経已に五の巻の提婆品はてんとしける時、狩野五郎門前に走出て四方を見る真似をして、「防矢仕つる者共早皆討れて、敵攻近付候。早々御自害候へ。」と勧ければ、入道、「さらば。」とて、経をば左の手に握り、右の手に刀を抜て腹十文字に掻切て、父子同枕にぞ臥給ける。重光は年来と云、重恩と云、当時遺言旁難遁ければ、軈て腹をも切らんずらんと思たれば、さは無て、主二人の鎧・太刀・々剥、家中の財宝中間・下部に取持せて、円覚寺の蔵主寮にぞ隠居たりける。此重宝共にては、一期不足非じと覚しに、天罰にや懸りけん。 |
ここで不思議だったのは、塩田陸奥入道(道祐)の息子・民部大輔俊時が父の自害を促そうと腹を切って目前に倒れているのを見ても、この世の別れに目も心も乱れる様子なく落涙せず、むしろ先立った息子供養と自身の仏事準備のためにと思われたか、息子の遺体に向かい長年唱えてきた経典の紐を解き、重要な箇所を選んで心静かに読誦なさっていたことだ。生き残った家臣たち二百余人が主君と共に自害しようと並んでいたが、道祐は彼ら三方へ散らせ「このお経が終わるまで敵の矢を防げ」と指示した。中でも狩野五郎重光は長年仕えた側近だったため、「私が腹を切った後で屋形に火をかけ、敵に首を取られるな」と言い含め一人残した。法華経第五巻提婆品(だいばほん)の終わり頃、狩野五郎が門前へ走り出て周囲を見回すふりをし「防戦していた者たちは全員討たれ敵が迫っています。急いで御自害ください」と勧めたので、入道(道祐)は「ならば」と言って経典を左手に握り、右手で刀を抜き腹を十文字に切り、父子同じ場所に並んで倒れた。重光は長年の情も深恩も忘れ、主君の遺言など全く守らず、二人から鎧や太刀を剥ぎ取り家財道具を下僕らに持たせ円覚寺蔵主寮へ逃げ隠れたが、「これだけ財宝あれば一生困らない」と考えたその驕りが天罰を招いたのか。 解説
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| 舟田入道是を聞付て推寄せ、是非なく召捕て、遂に頚を刎て、由井の浜にぞ掛られける。尤角こそ有たけれとて、悪ぬ者も無りけり。 ○塩飽入道自害事 塩飽新左近入道聖遠は、嫡子三郎左衛門忠頼を呼、「諸方の攻口悉破、御一門達大略腹切せ給と聞へければ、入道も守殿に先立進て、其忠義を知られ奉らんと思也。されば御辺は未だ私の眷養にて、公方の御恩をも蒙らねば、縦ひ一所にて今命を不棄共、人強義を知ぬ者とはよも思はじ。然者何くにも暫く身を隠し、出家遁世の身ともなり、我後生をも訪ひ、心安く一身の生涯をもくらせかし。」と、泪の中に宣ひければ、三郎左衛門忠頼も、両眼に泪を浮め、しば/\物も不被申けるが、良有て、「是こそ仰共覚候はね。忠頼直に公方の御恩を蒙りたる事は候はね共、一家の続命悉く是武恩に非と云事なし。其上忠頼自幼少釈門に至る身ならば、恩を棄て無為に入る道も然なるべし。苟も弓矢の家に生れ、名を此門棄に懸ながら、武運の傾を見て、時の難を遁れんが為に、出塵の身と成て、天下の人に指を差れん事、是に過たる恥辱や候べき。御腹被召候はゞ、冥途の御道しるべ仕候はん。」と云も終ず、袖の下より刀を抜て、偸に腹に突立て、畏たる体にて死ける。其弟塩飽四郎是を見て、続て腹を切らんとしけるを、父の入道大に諌て、「暫く吾を先立、順次の孝を専にし、其後自害せよ。 |
舟田入道がこれを聞きつけて押し寄せ、やむなく捕らえて遂に首を刎ね、由井の浜へ晒したのだが、誰も異論がないほど当然のことだった。 ○ 塩飽入道自害について 解説
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| 」と申ければ、塩飽四郎抜たる刀を収て、父の入道が前に畏てぞ侯ける。入道是を見て快げに打笑、閑々と中門に曲■をかざらせて、其上に結跏趺座し、硯取寄て自ら筆を染め、辞世の頌をぞ書たりける。提持吹毛。截断虚空。大火聚裡。一道清風。と書て、叉手して頭を伸て、子息四郎に、「其討。」と下地しければ、大膚脱に成て、父の頚をうち落て、其太刀を取直て、鐔本まで己れが腹に突貫て、うつぶしざまにぞ臥たりける。郎等三人是を見て走寄り、同太刀に被貫て、串に指たる魚肉の如く頭を連て伏たりける。 ○安東入道自害事付漢王陵事 安東左衛門入道聖秀と申しは、新田義貞の北台の伯父成しかば、彼女房義貞の状に我文を書副て、偸に聖秀が方へぞ被遣ける。安東、始は三千余騎にて、稲瀬河へ向たりけるが、世良田太郎が稲村崎より後へ回りける勢に、陣を被破て引けるが、由良・長浜が勢に被取篭て百余騎に被討成、我身も薄手あまた所負て、己が館へ帰たりけるが、今朝巳刻に、宿所は早焼て其跡もなし。妻子遣属は何ちへか落行けん、行末も不知成て、可尋問人もなし。是のみならず、鎌倉殿の御屋形も焼て、入道殿東勝寺へ落させ給ぬと申者有ければ、「さて御屋形の焼跡には、傍輩何様腹切討死してみゆるか。 |
塩飽四郎は抜いた刀を収め、父である入道の前に恭しく控えた。入道はこれを見て満足げに笑い、ゆったりと中門に机を置かせるとその上で結跏趺坐(あぐら)を組み、硯を取り寄せ自ら筆を執り辞世の句を書いた。「提持吹毛。截断虚空。大火聚裡。一道清風。(刃は微塵も逃さず、虚空すら切り裂く。劫火の中に清涼の風あり)」と書き終えると、合掌して首を伸ばし息子・四郎に向かって「討て」と命じたため、大きく袈裟懸け(斜め)に斬り下ろされて父の首を落とした。四郎はその太刀を持ち直し鍔元まで自らの腹へ突き刺してうつ伏せに倒れた。これを見た家臣三人が駆け寄ると同じ刀に貫かれて串刺しの魚のように頭を連ねて死んだ。 ○ 安東入道自害と漢王陵故事 解説
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| 」と尋ければ、「一人も不見候。」とぞ答ける。是を聞て安東、「口惜事哉。日本国の主、鎌倉殿程の年来住給し処を敵の馬の蹄に懸させながら、そこにて千人も二千人も討死する人の無りし事よと、後の人々に被欺事こそ恥辱なれ。いざや人々、とても死せんずる命を、御屋形の焼跡にて心閑に自害して、鎌倉殿の御恥を洗がん。」とて、被討残たる郎等百余騎を相順へて、小町口へ打莅む。先々出仕の如く、塔辻にて馬より下り、空き迹を見廻せば、今朝までは、奇麗なる大廈高牆の構、忽に灰燼と成て、須臾転変の煙を残し、昨日まで遊戯せし親類朋友も、多く戦場に死して、盛者必衰の尸を余せり。悲の中の悲に、安東泪を押へて惘然たる処に、新田殿の北の台の御使とて、薄様に書たる文を捧たり。何事ぞとて披見れば、「鎌倉の有様今はさてとこそ承候へ。何にもして此方へ御出候へ。此程の式をば身に替ても可申宥候。」なんど、様々に書れたり。是を見て安東大に色を損じて申けるは、「栴檀の林に入者は、不染衣自ら香しといへり。武士の女房たる者は、けなげなる心を一つ持てこそ、其家をも継子孫の名をも露す事なれ。されば昔漢の高祖と楚項羽と闘ける時、王陵と云者城を構て篭たりしを、楚是を攻るに更に不落。 |
安東が尋ねると、「誰一人いませんでした。」という返答だった。これを聞いて安東は「なんと残念なことか!日本の主君である鎌倉殿(北条高時)が長年住まわれた場所を敵の馬蹄に踏まれながら、そこで千や二千もの者が殉死しなかったとは後世の人々に笑われる恥辱だ。さあ皆よ、どうせ死ぬ命なら御屋形様(主君邸宅)の焼け跡で心静かに自害して鎌倉殿の汚名をそそごう。」と言い、生き残った家臣百人余りの騎兵を率いて小町口へ向かう。先陣のように塔辻で馬から降りて焼け跡を見渡すと、今朝までは美しい高層邸宅が立ち並んでいた場所があっという間に灰燼となり、わずかに漂う煙だけが無常を物語っていた。昨日まで共に遊んだ親族や友人も多く戦死し、「盛者必衰」の法則通り屍が残っている。悲嘆の中でもなお安東は涙をこらえて茫然としていたところへ新田義貞(北条方への敵将)から「伯父上」宛てという使者が来た薄紙に書かれた手紙を差し出した。「何ごとか」と開封すると、「鎌倉の様子は承知しました。どうかこちらにお越しください。この度の事情は私が身代わりとなってお許しいただきます。」などと多々書き連ねてあった。これを見た安東は顔色を変えて言った。「栴檀林に入る者は衣に香り移らずとも自ら芳香を放つという(良い環境では自然と感化される)。武士の妻たる者には貞節な心一つがあってこそ家系も子孫の名も保てるのだ。昔、漢の高祖と楚の項羽が争った時、王陵という者が城に籠っていたが楚はこれを攻め落とせなかった...」 解説
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| 此時楚の兵相謀て云、「王陵は母の為に忠孝を存ずる事不浅。所詮王陵が母を捕へて楯の面に当て城を攻る程ならば、王陵矢を射る事を不得して降人に出る事可有。」とて潛に彼母を捕てけり。彼母心の中に思けるは、王陵我に仕る事大舜・曾参が高孝にも過たり。我若楯の面に被縛城に向ふ程ならば、王陵悲に不堪して、城を被落事可有。不如無幾程命を為子孫捨んにはと思定て、自剣の上に死てこそ、遂に王陵が名をば揚たりしか。我只今まで武恩に浴して、人に被知身となれり。今事の急なるに臨で、降人に出たらば、人豈恥を知たる者と思はんや。されば女性心にて縦加様の事を被云共、義貞勇士の義を知給ば、さる事やあるべき、可被制。又義貞縱敵の志を計らん為に宣ふ共、北方は我方様の名を失はじと思はれば、堅可被辞、只似るを友とする方見さ、子孫の為に不被憑。」と、一度は恨一度は怒て、彼使の見る前にて、其文を刀に拳り加へて、腹掻切てぞ失給ける。 ○亀寿殿令落信濃事付左近大夫偽落奥州事 爰に相摸入道殿の舎弟四郎左近大夫入道の方に候ける諏方左馬助入道が子息、諏訪三郎盛高は、数度の戦に郎等皆討れぬ。只主従二騎に成て、左近大夫入道の宿所に来て申けるは、「鎌倉中の合戦、今は是までと覚て候間、最後の御伴仕候はん為に参て候。 |
安東が尋ねると、「誰一人いませんでした。」という返答だった。これを聞いて安東は「なんと残念なことか!日本の主君である鎌倉殿(北条高時)が長年住まわれた場所を敵の馬蹄に踏まれながら、そこで千や二千もの者が殉死しなかったとは後世の人々に笑われる恥辱だ。さあ皆よ、どうせ死ぬ命なら御屋形様(主君邸宅)の焼け跡で心静かに自害して鎌倉殿の汚名をそそごう。」と言い、生き残った家臣百人余りの騎兵を率いて小町口へ向かう。先陣のように塔辻で馬から降りて焼け跡を見渡すと、今朝までは美しい高層邸宅が立ち並んでいた場所があっという間に灰燼となり、わずかに漂う煙だけが無常を物語っていた。昨日まで共に遊んだ親族や友人も多く戦死し、「盛者必衰」の法則通り屍が残っている。悲嘆の中でもなお安東は涙をこらえて茫然としていたところへ新田義貞(北条方への敵将)から「伯父上」宛てという使者が来た薄紙に書かれた手紙を差し出した。「何ごとか」と開封すると、「鎌倉の様子は承知しました。どうかこちらにお越しください。この度の事情は私が身代わりとなってお許しいただきます。」などと多々書き連ねてあった。これを見た安東は顔色を変えて言った。「栴檀林に入る者は衣に香り移らずとも自ら芳香を放つという(良い環境では自然と感化される)。武士の妻たる者には貞節な心一つがあってこそ家系も子孫の名も保てるのだ。昔、漢の高祖と楚の項羽が争った時、王陵という者が城に籠っていたが楚はこれを攻め落とせなかった。この時楚軍は相談して『王陵は母親への孝行心が厚いから、その母を捕らえ盾の表側に縛り付けて攻撃すれば、息子は矢も放てず降伏するだろう』と言って密かに彼の母を捕えた。母は心の中で思った:『王陵の私への孝行は聖人たち以上だ。もし私が盾に縛られ城に向かわれたら哀れみで落城してしまう。いっそ命を捨て子孫のために名を挙げよう』と決意し、自らの剣で使者の目の前で腹を切って死んだ。」 ○亀寿殿信濃落ち及び左近大夫偽奥州逃亡事件 解説
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| 早思召切せ給へ。」と進め申ければ、入道当りの人をのけさせて、潛に盛高が耳に宣ひけるは、「此乱不量出来、当家已に滅亡しぬる事更に他なし。只相摸入道殿の御振舞人望にも背き神慮にも違たりし故也。但し天縦ひ驕を悪み盈を欠とも、数代積善の余慶家に尽ずば、此子孫の中に絶たるを継ぎ廃たるを興す者無らんや。昔斉の襄公無道なりしかば、斉の国可亡を見て、其臣に鮑叔牙と云ける者、襄公の子小伯を取て他国へ落てげり。其間に襄公果して公孫無智に被亡、斉の国を失へり。其時に鮑叔牙小伯を取立て、斉の国へ推寄、公孫無智を討事を得て遂に再び斉の国を保たせける。斉の桓公は是也。されば於我深く存ずる子細あれば、無左右自害する事不可有候。可遁ば再び会稽の恥を雪ばやと思ふ也。御辺も能々遠慮を回して、何なる方にも隠忍歟、不然ば降人に成て命を継で、甥にてある亀寿を隠置て、時至ぬと見ん時再び大軍を起して素懐を可被遂。兄の万寿をば五大院の右衛門に申付たれば、心安く覚る也。」と宣へば、盛高泪を押へて申けるは、「今までは一身の安否を御一門の存亡に任候つれば、命をば可惜候はず。御前にて自害仕て、二心なき程を見へ進せ候はんずる為にこそ、是まで参て候へ共、「死を一時に定るは易く、謀を万代に残すは難し」と申事候へば、兎も角も仰に可随候。 |
「早くお決心ください。」と勧めたところ、左近大夫入道は周囲の人々を遠ざけ、密かに盛高の耳元で言った。「今回の乱戦は計り知れず、我が北条家はすでに滅亡した。これは相模入道(得宗)殿の行いが人望にも神意にも背いたからだ。しかし天が驕りを憎み満ちたものを欠けるようにするとしても、数代積んだ善行の余徳が家に尽きるならば、子孫の中に絶えた家系を継ぎ廃れたものを興す者がいないだろうか?昔、斉の襄公が無道だったため、斉国が滅びそうだと見た臣下・鮑叔牙は襄公の息子・小伯を連れて他国へ逃げた。その後、襄公は公孫無知に殺され斉国は失われた。その時、鮑叔牙は小伯(後の桓公)を擁立し、公孫無知を討って再び斉国を取り戻したのだ。我にも深い考えがあるから自害してはいけない。逃れて越王勾践の会稽山での恥のように屈辱を晴らしたい。お前もよく考えてどこかに身を潜めよ、さもなくば降伏して命をつなぎながら甥である亀寿(北条氏遺児)を匿い、時機到来と見れば大軍を起こし宿願を果たせ。兄の万寿は五大院右衛門に託したので安心している。」と言うと、盛高は涙を抑えて答えた。「これまでは自分の生死も一門の存亡にかけてきたため命など惜しくないのです。御前で自害し二心なき証を見せようとしたのですが『死ぬ決断は一時的に易しいが永遠に続く謀略こそ難しい』と申しますゆえ、何れ様にもお言葉に従います。」 解説
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| 」とて、盛高は御前を罷立て、相摸殿の妾、二位殿の御局の扇の谷に御坐ける処へ参たりければ、御局を始進せて、女房達まで誠に嬉し気にて、「さても此世の中は、何と成行べきぞや。我等は女なれば立隠るゝ方も有ぬべし。此亀寿をば如何すべき。兄の万寿をば五大院右衛門可蔵方有とて、今朝何方へやらん具足しつれば心安く思也。只此亀寿が事思煩て、露の如なる我身さへ、消侘ぬるぞ。」と泣口説給ふ。盛高此事有の侭に申て、御心をも慰め奉らばやとは思ひけれども、女性はゝかなき者なれば、後にも若人に洩し給ふ事もやと思返して、泪の中に申けるは、「此世中今はさてとこそ覚候へ。御一門太略御自害候なり。大殿計こそ未葛西谷に御座候へ。公達を一目御覧じ候て、御腹を可被召と仰候間、御迎の為に参て候。」と申ければ、御局うれし気に御座つる御気色、しほ/\と成せ給て、「万寿をば宗繁に預けつれば心安し、構て此子をも能々隠してくれよ。」と仰せも敢ず、御泪に咽ばせ給しかば、盛高も岩木ならねば、心計は悲しけれ共、心を強く持て申けるは、「万寿御料をも五大院右衛門宗繁が具足し進せ候つるを、敵見付て追懸進せ候しかば、小町口の在家に走入て、若子をば指殺し進せ、我身も腹切て焼死候つる也。 |
盛高はお供から離れ、相模入道(北条氏)の側室である二位殿が滞在していた扇ノ谷へ向かった。すると二位殿を始め女房たちまで皆嬉しそうに、「この世の中どうなるのでしょう?私たち女性なら隠れる場所もあるでしょうけれど、この亀寿はどうすればいいのか?兄の万寿については五大院右衛門が匿ってくれると言っていたから、今朝どこかへ連れて行ったと聞き安心しています。ただこの亀寿のことが心配で、露のように儚い私自身も消え果てそうです」と泣きながら訴えた。盛高は事実をそのまま伝えて彼女の気持ちを慰めたいと思ったが、「女性は思慮深くないので後で若者に漏らすかもしれない」と考え直し、涙の中でこう言った。「この世も終わりです。御一門(北条一族)はほとんど自害されました。大殿(北条高時)だけがまだ葛西谷におられます。お子様たちを一目ご覧になって腹をお切りになるとのことなので、お迎えに参りました。」すると二位殿の嬉しそうだった表情が急に曇り、「万寿は宗繁(五大院右衛門)に預けたから安心だ。どうかこの子もきちんとかくまってほしい」と言い終わらないうちに涙にむせた。盛高も木石ではないので心の中では悲しかったが、気を強く持ってこう伝えた。「万寿様は五大院右衛門宗繁が守護しようとしましたが敵に見つかって追われ小町口の民家に逃げ込み幼子(亀寿)を刺し殺した後自ら腹を切って焼け死んでしまいました。」 解説
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| あの若御も今日此世の御名残、是を限と思召候へ。とても隠れあるまじき物故に、狩場の雉の草隠たる有様にて、敵にさがし出されて、幼き御尸に、一家の御名を失れん事口惜候。其よりは大殿の御手に懸られ給て冥途までも御伴申させ給たらんこそ、生々世々の忠孝にて御座候はん。疾々入進せ給へ。」と進めければ、御局を始進せて、御乳母の女房達に至るまで、「方見の事を申者哉。せめて敵の手に懸らば如何せん。二人の公達を懐存進つる人々の手に懸て失ひ奉らんを見聞ては、如何許とか思遣る。只我を先殺して後、何とも計へ。」とて、少人の前後に取付て、声も不惜泣悲給へば、盛高も目くれ、心消々と成しか共、思切らでは叶まじと思て、声いらゝげ色を損て、御局を奉睨、「武士の家に生れん人、襁の中より懸る事可有と思召れぬこそうたてけれ。大殿のさこそ待思召候覧。早御渡候て、守殿の御伴申させ給へ。」と云侭に走懸り、亀寿殿を抱取て、鎧の上に舁負て、門より外へ走出れば、同音にわつと泣つれ玉し御声々、遥の外所まで聞へつゝ、耳の底に止れば、盛高も泪を行兼て、立返て見送ば、御乳母の御妻は、歩跣にて人目をも不憚走出させ給て、四五町が程は、泣ては倒れ、倒ては起迹に付て被追けるを、盛高心強行方を知れじと、馬を進めて打程に後影も見へず成にければ、御妻、「今は誰をそだて、誰を憑で可惜命ぞや。 |
「あのお子様も今日でこの世とのお別れ、これが最後と思ってください。どうせ隠れられないのですから、狩場の雉が草むらに隠れるような状態で敵に見つけ出され、幼い御遺体によって一族の名誉を失うのは残念です。それより大殿(北条高時)様のお手にかかってあの世までお供する方が、永遠の忠孝になるでしょう。早く入室してください。」と勧めたところ、二位殿はじめ乳母の女房たちまでもが、「見当違いなことを言う者だ!せめて敵の手にかかるならどうなるというのか?二人のお子様を守ろうとした人々の手で失われるのを見聞きしたらどんな気持ちか。まず私を殺してから好きにしろ!」と言い、子供たちを取り囲んで泣き叫んだので盛高も目がくらみ心が揺れたが、「思い切らなければならない」と声を荒げて二位殿を睨みつけ「武家に生まれる者なら幼少期からこうした覚悟があるはずです。大殿様は待っておられます。早くあちらへ行かれて守役をお供させなさい!」と言いながら走り寄り、亀寿殿を抱き上げ鎧の上におぶって門外に飛び出した。女房たちの泣き叫ぶ声が遠くまで響いて耳に残る中、盛高は涙をこらえて振り返ると乳母である御妻(二位殿)が裸足で人目も憚らず追いかけて来ており、四~五町ほど「泣いて倒れ起き上がり」繰り返していた。盛高は心を鬼にして馬を進め後ろ姿が見えなくなった時、「もう誰を育てよう?命惜しむべき者などいるのか?」と絶望した。 解説
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| 」とて、あたりなる古井に身を投て、終に空く成給ふ。其後盛高此若公を具足して、信濃へ落下り、諏訪の祝を憑で有しが、建武元年の春の比、暫関東を劫略して、天下の大軍を起し、中前代の大将に、相摸二郎と云は是なり。角して四郎左近太夫入道は、二心なき侍共を呼寄て「我は思様有て、奥州の方へ落て、再び天下を覆す計を可回也。南部太郎・伊達六郎二人は、案内者なれば可召具。其外の人々は自害して屋形に火をかけ、我は腹を切て焼死たる体を敵に可見。」と宣ければ、二十余人の侍共、一義にも不及、「皆御定に可随。」とぞ申ける。伊達・南部二人は、貌をやつし夫になり、中間二人に物具きせて馬にのせ、中黒の笠符を付させ、四郎入道を■に乗て、血の付たる帷を上に引覆ひ、源氏の兵の手負て本国へ帰る真以をして、武蔵までぞ落たりける。其後残置たる侍共、中門に走出、「殿は早御自害有ぞ。志の人は皆御伴申せ。」と呼て、屋形に火を懸、忽に煙の中に並居て、二十余人の者共は、一度に腹をぞ切たりける。是を見て、庭上・門外に袖を連ねたる兵共三百余人、面々に劣じ々じと腹切て、猛火の中へ飛で入、尸を不残焼死けり。さてこそ四郎左近太夫入道の落給ぬる事をば不知して、自害し給ぬと思けれ。 |
「そのお子様も今日でこの世との別れだと思ってください。どうせ隠れられないのですから、狩場の雉が草むらに隠れるような状態で敵に見つかり、幼い御遺体によって一族の名誉を失うのは残念です。それより大殿(北条高時)様のお手にかかってあの世までお供する方が永遠の忠孝となります。早く入室なさってください。」と勧めたところ、二位殿はじめ乳母の女房たちまでもが、「見当違いなことを言う者だ!せめて敵に捕まるならどうなるというのか?二人のお子様を守ろうとした人々の手で失われるのを見聞きしたらどんな気持ちか。まず私を殺してから好きにしろ!」と言い、子供たちを取り囲んで泣き叫んだので盛高も目がくらみ心が揺れたが、「思い切らなければならない」と声を荒げて二位殿を睨みつけ「武家の者たるもの幼少期からこうした覚悟があるはずです。大殿様は待っておられます。早くあちらへ行かれて守役をお供させなさい!」と言いながら走り寄り、亀寿殿を抱き上げ鎧の上におぶって門外に飛び出した。女房たちの泣き叫ぶ声が遠くまで響いて耳に残る中、盛高は涙をこらえて振り返ると乳母である御妻(二位殿)が裸足で人目も憚らず追いかけて来ており、四~五町ほど「泣いて倒れ起き上がり」繰り返していた。盛高は心を鬼にして馬を進め後ろ姿が見えなくなった時、「もう誰を育てよう?頼る者などいるのか?命惜しむべき意味もない!」と絶望した。 解説
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| 其後西園寺の家に仕へて、建武の比京都の大将にて、時興と被云しは、此入道の事也けり。 ○長崎高重最期合戦事 去程に長崎次郎高重は、始武蔵野の合戦より、今日に至るまで、夜昼八十余箇度の戦に、毎度先を懸、囲を破て自相当る事、其数を不知然ば、手者・若党共次第に討亡されて、今は僅に百五十騎に成にけり。五月二十二日に、源氏早谷々へ乱入て、当家の諸大将、太略皆討れ給ぬと聞へければ、誰が堅めたる陣とも不云、只敵の近づく処へ、馳合々々、八方の敵を払て、四隊の堅めを破ける間、馬疲れぬれば乗替、太刀打折れば帯替て、自敵を切て落す事三十二人、陣を破る事八箇度なり。角て相摸入道の御坐葛西谷へ帰り参て、中門に畏り泪を流し申けるは、「高重数代奉公の義を忝して、朝夕恩顔を拝し奉りつる御名残、今生に於ては今日を限りとこそ覚へ候へ。高重一人数箇所の敵を打散て、数度の闘に毎度打勝候といへ共、方々の口々皆責破られて、敵の兵鎌倉中に充満して候ぬる上は、今は矢長に思共不可叶候。只一筋に敵の手に懸らせ給はぬ様に、思召定させ給候へ。但し高重帰参て勧申さん程は、無左右御自害候な。上の御存命の間に、今一度快く敵の中へ懸入、思程の合戦して冥途の御伴申さん時の物語に仕候はん。 |
「その後西園寺家に仕え、建武の頃には京都の大将として時興と呼ばれたのはこの入道のことである。 ○長崎高重最期合戦事 解説
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| 」とて、又東勝寺を打出づ。其後影を相摸入道遥に目送玉て、是や限なる覧と名残惜げなる体にて、泪ぐみてぞ被立たる。長崎次郎甲をば脱捨、筋の帷の月日推たるに、精好の大口の上に赤糸の腹巻着て小手をば不差、兎鶏と云ける坂東一の名馬に、金具の鞍に小総の鞦懸てぞ乗たりける。是を最後と思定ければ、先崇寿寺の長老南山和尚に参じて、案内申ければ、長老威儀を具足して出合給へり。方々の軍急にして甲冑を帯したりければ、高重は庭に立ながら、左右に揖して問て曰、「如何是勇士恁麼の事。」和尚答曰、「吹毛急用不如前。」高重此一句を聞て、問訊して、門前より馬引寄打乗て、百五十騎の兵を前後に相随へ、笠符かなぐり棄、閑に馬を歩て、敵陣に紛入。其志偏に義貞に相近付ば、撲て勝負を決せん為也。高重旗をも不指、打物の室をはづしたる者無ければ、源氏の兵、敵とも不知けるにや、をめ/\と中を開て通しければ、高重、義貞に近く事僅に半町計也。すはやと見ける処に、源氏の運や強かりけん、義貞の真前に扣たりける由良新左衛門是を見知て、「只今旗をも不指相近勢は長崎次郎と見ぞ。さる勇士なれば定て思処有てぞ是までは来らん。あますな漏すな。」と、大音挙て呼りければ、先陣に磬たる武蔵の七党三千余騎、東西より引裹で真中に是を取込、我も々もと討んとす。 |
そう言い残し再び東勝寺へ向かった。その後、相模入道(北条高時)は遠くまでその姿を見送りながら「これが最後か」と言わんばかりに名惜しむ様子で涙を浮かべておられた。長崎次郎高重は兜を脱ぎ捨て、筋の帷(衣服)には日月紋をつけ、上質の大口袴の上から赤糸縅の腹巻きだけ着て籠手も付けず、「兎鶏」という坂東一の名馬に金具装飾の鞍と小総毛の鞦を懸けて乗った。これが最期と決意したため、まず崇寿寺の長老・南山和尚のもとへ赴き面会を願うと、長老は威儀を正してお出ましになった。(当時は)周囲で戦闘が激しく皆甲冑をつけていた中、高重は庭に立ったまま左右に揖して問うた「勇士たる者の根本とは何か」。和尚は答えた「研ぎ澄ました刃も急用には及ばぬ(平常心こそ肝要)」。この言葉を聞いた高重は礼を示し、門前で馬を引き寄せ乗ると百五十騎の兵を率い笠符を投げ捨てゆったり馬を進め敵陣に紛れ込んだ。その目的はひたすら新田義貞に近づき一気に決着をつけるためである。高重が旗も掲げず武器(打物)の鞘外しもしなかったので、源氏兵は敵とも知らず「おーい」と道を開けて通したため、ついに義貞まで半町(約55m)に迫った瞬間だった――その時運強き源氏方の由良新左衛門がこれを認め、「今しも旗もなく近づく軍勢は長崎次郎だ! あのような強者が来るのは必ず深謀がある。逃すな!」と叫ぶや、武蔵七党三千騎が東西から包囲し「俺が討つ!」と争うように取り囲んだ。 解説
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| 高重は支度相違しぬと思ければ、百五十騎の兵を、ひし/\と一所へ寄て、同音に時をどつと揚、三千余騎の者共を懸抜懸入交合、彼に露れ此に隠れ、火を散してぞ闘ける。聚散離合の有様は須臾に反化して前に有歟とすれば忽焉として後へにある。御方かと思へば屹として敵也。十方に分身して、万卒に同く相当りければ、義貞の兵高重が在所を見定ず、多くは同士打をぞしたりける。長浜六郎是を見て「無云甲斐人々の同士打哉、敵は皆笠符を不付とみへつるぞ、中に紛れば、其を符にして組で討。」と下地しければ、甲斐・信濃・武蔵・相摸の兵共、押双てはむずと組、々で落ては首を取もあり、被捕もあり、芥塵掠天、汗血地を糢糊す。其在様項王が漢の三将を靡し魯陽が日を三舎に返し闘しも、是には不過とぞ見へたりける。され共長崎次郎は未被討、主従只八騎に成て戦けるが、猶も義貞に組んと伺て近付敵を打払、動れば差違て、義貞兄弟を目に懸て回りけるを、武蔵国の住人横山太郎重真、押隔て是に組んと、馬を進めて相近づく。長崎もよき敵ならば、組んと懸合て是を見るに、横山太郎重真也。さてはあはぬ敵ぞと思ければ、重真を弓手に相受、甲の鉢を菱縫の板まで破着たりければ、重真二つに成て失にけり。馬もしりゐに被打居て、小膝を折てどうど伏す。 |
長崎次郎高重は準備不足ではないと判断し、百五十騎の兵を密集させ一箇所に集結。声を揃えて鬨の声を上げると、三千余騎の敵軍の中へ突撃・交錯。「あちらで現れたかと思えばこちらに潜む」ように火花を散らす激戦を展開した。彼らの離合集散は瞬時に変化し──前かと見れば忽然と後ろに現れ、味方かと思うや否や敵となる。八方に分身したかのように多数の兵士に対峙するため、義貞軍は高重たちの位置を見失い、多くが仲間同士で斬り合う(同士打ち)惨状となった。これを見た長浜六郎が「甲斐武者どもよ!無駄な同士打ちをするな。敵は皆笠符(識別標章)をつけていないようだ。混じっている者を目印に組み付いて討て!」と指示すると、甲斐・信濃・武蔵・相模の兵たちが押し合いへし合い組みつき、倒れて首を取る者も捕らわれる者もあり、塵埃は天まで舞い上がり血汗で地面は泥まみれに。その戦況は楚の項羽が漢軍三将を破った闘いや魯陽公が太陽を呼び戻した伝説にも劣らないほどだった。しかし高重はなおも倒れず、主従わずか八騎となりながら義貞めがけて進む。敵を払いつつ機会を窺うと新田兄弟(義貞ら)の姿を見つけ旋回──その時武蔵国の武士・横山太郎重真が割って入り組み付こうと馬を近づける。「好敵手だ」と応戦した高重が見れば相手は重真。これは避けられぬ宿命と思い、左側で受け止めると兜の頂(鉢)から菱形縫い部分まで真っ二つに斬り裂いたため、重真は体が両断されて絶命。馬も腰を打たれ膝を折ってどすんと倒れた。 解説
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| 同国の住人庄三郎為久是を見て、よき敵也。と思ければ、続て是に組んとす。大手をはだけて馳懸る。長崎遥に見て、から/\と打笑て、「党の者共に可組ば、横山をも何かは可嫌。逢ぬ敵を失ふ様、いで/\己に知せん。」とて、為久が鎧の上巻掴で中に提げ、弓杖五杖計安々と投渡す。其人飛礫に当りける武者二人、馬より倒に被打落て、血を吐て空く成にけり。高重今はとても敵に被見知ぬる上はと思ければ、馬を懸居大音揚て名乗けるは、「桓武第五の皇子葛原親王に三代の孫、平将軍貞盛より十三代前相摸守高時の管領に、長崎入道円喜が嫡孫、次郎高重、武恩を報ぜんため討死するぞ、高名せんと思はん者は、よれや組ん。」と云侭に、鎧の袖引ちぎり、草摺あまた切落し、太刀をも鞘に納つゝ、左右の大手を播ては、此に馳合彼に馳替、大童に成て駈散しける。懸る処に、郎等共馬の前に馳塞て、「何なる事にて候ぞ。御一所こそ加様に馳廻坐せ。敵は大勢にて早谷々に乱入、火を懸物を乱妨し候。急御帰候て、守殿の御自害をも勤申させ給へ。」と云ければ、高重郎等に向て宣けるは、「余りに人の逃るが面白さに、大殿に約束しつる事をも忘ぬるぞや。いざゝらば帰参ん。」とて、主従八騎の者共、山内より引帰しければ、逃て行とや思ひけん、児玉党五百余騎、「きたなし返せ。 |
同じ武蔵国の住人・庄三郎為久がこれを目撃し、「好敵手だ!」と思い立って続けて組み付こうと攻め寄せる。長崎は遠くからそれを見て、からからと笑いながら言った。「お前の仲間たち(横山)にも組ませたのに、何を躊躇するか? 逃げる敵を放す様な真似はさせぬぞ」と言うや否や、為久の鎧の上端を掴み上げて軽々と抱え込み、弓で測ったわずか五丈(約15m)ほどの距離を物ともせずに投げ飛ばした。その落下地点にはたまたま居合わせた武者二人が石礫を受けたかのように馬から叩き落され、吐血して絶命した。高重はもはや敵に正体を見破られた以上と覚悟し、馬を駆りながら大声で名乗った。「桓武天皇第五皇子・葛原親王より三代の孫、平将軍貞盛から十三代目にあたる相模守北条高時公の執権である長崎入道円喜の嫡孫、次郎高重だ! 御恩に報いるため討死する。手柄を立てたい者は来い!」そう叫ぶと鎧の袖を引き裂き、草摺(腰甲)数枚を切り捨て、太刀すら鞘に収めたまま左右へ大きく手を振り回し、「こっちだ!あっちだ!」と狂ったように駆け巡った。そこへ郎党たちが馬前に飛び出して訴えた。「何ということをなさいますか! 敵は大軍で早くも乱入し、放火や略奪を始めています。急いでお戻りください。守殿(高時様)の御自害のお手伝いを!」すると高重は郎党に向き直って言った。「人間が逃げ惑う様があまりにも滑稽で、大殿との約束すら忘れてしまったようだな。さあ帰ろう」こうして主従八騎が山中から引き返そうとした瞬間、「卑怯者め! 待て!」と児玉党五百余騎が襲いかかった。 解説
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| 」と罵て、馬を争て追懸たり。高重、「こと/゛\しの奴原や、何程の事をか仕出すべき。」とて、聞ぬ由にて打けるを、手茂く追て懸りしかば、主従八騎屹と見帰て馬の轡を引回すとぞみへし。山内より葛西の谷口まで十七度まで返し合せて、五百余騎を追退け、又閑々とぞ打て行ける。高重が鎧に立処の矢二十三筋、蓑毛の如く折かけて、葛西谷へ参りければ、祖父の入道待請て、「何とて今まで遅りつるぞ。今は是までか。」と問れければ、高重畏り、「若大将義貞に寄せ合せば、組で勝負をせばやと存候て、二十余度まで懸入候へ共、遂に不近付得。其人と覚しき敵にも見合候はで、そゞろなる党の奴つ原四五百人切落てぞ捨候つらん。哀罪の事だに思ひ候はずは、猶も奴原を浜面へ追出して、弓手・馬手に相付、車切・胴切・立破に仕棄度存候つれ共、上の御事何がと御心元なくて帰参て候。」と、聞も涼く語るにぞ、最期に近き人々も、少し心を慰めける。 ○高時並一門以下於東勝寺自害事 去程に高重走廻て、「早々御自害候へ。高重先を仕て、手本に見せ進せ候はん。」と云侭に、胴計残たる鎧脱で抛すてゝ、御前に有ける盃を以て、舎弟の新右衛門に酌を取せ、三度傾て、摂津刑部太夫入道々準が前に置き、「思指申ぞ。 |
「卑怯者め!」と罵りながら児玉党五百余騎が馬を並べて追いかけてきた。長崎高重は「しつこい奴らだな、どれほどのことでもするさ」と言って聞く耳を持たずに戦ったが、執拗に攻めてくるため主従八騎は一斉に振り返り馬の手綱を引いた。山中から葛西谷の入口まで十七度も追い返し合い、五百余騎を撃退すると再び悠然と進んだ。高重の鎧には矢が二十三本も刺さって簔(みの)のように折れかかり、葛西谷に到着すると祖父・入道円喜が出迎えて「なぜこんなに遅れた?もう手遅れではないのか」と尋ねた。高重は畏まって答えた。「若大将義貞と相まみえ組み合いで決着をつけようと思い、二十度以上も突撃しましたが遂に近づけず。彼らしい敵にも会わぬまま雑兵四五百人を斬り捨てたようです。無念ではありますが主君のご様子が気遣われ戻って参りました」──この涼やかな報告に、最期を覚悟していた者たちも一時的に心が和んだ。 ○北条高時並び一門以下の東勝寺自害について 解説
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| 是を肴にし給へ。」とて左の小脇に刀を突立て、右の傍腹まで切目長く掻破て、中なる腸手縷出して道準が前にぞ伏たりける。道準盃を取て、「あはれ肴や、何なる下戸なり共此をのまぬ者非じ。」と戯て、其盃を半分計呑残て、諏訪入道が前に指置、同く腹切て死にけり。諏訪入道直性、其盃を以て心閑に三度傾て、相摸入道殿の前に指置て、「若者共随分芸を尽して被振舞候に年老なればとて争か候べき、今より後は皆是を送肴に仕べし。」とて、腹十文字に掻切て、其刀を抜て入道殿の前に指置たり。長崎入道円喜は、是までも猶相摸入道の御事を何奈と思たる気色にて、腹をも未切けるが、長崎新右衛門今年十五に成けるが、祖父の前に畏て、「父祖の名を呈すを以て、子孫の孝行とする事にて候なれば、仏神三宝も定て御免こそ候はんずらん。」とて、年老残たる祖父の円喜が肱のかゝりを二刀差て、其刀にて己が腹を掻切て、祖父を取て引伏せて、其上に重てぞ臥たりける。此小冠者に義を進められて、相摸入道も腹切給へば、城入道続て腹をぞ切たりける。是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。 |
「これを肴として召し上がれ」と言い、左脇腹に刀を突き立てて右側腹部まで長く切り裂くと、中から腸を取り出して道準の前に倒れた。道準は盃を受け取り、「なんと素晴らしい肴か。どんな酒嫌いでもこれを飲まない者はいまい」と冗談めかし、その盃を半分ほど残して諏訪入道に差し出すと自ら腹を切り死んだ。真っ直ぐな性格の諏訪入道はその盃を取り落ち着いて三度傾け、相模入道殿(北条高時)の前に置き「若者たちが必死にもてなすのに老人ゆえに遠慮するわけにはいかない。これから後は皆これを送別の肴とせよ」と言って腹を十文字に切り裂き刀を抜いて入道殿の前に置いた。長崎入道円喜はそれまで相模入道様のことばかり気遣う表情で自害していなかったが、孫・新右衛門(当時15歳)が祖父の前へひざまずき「先祖の名を守ることが子孫の孝行なら仏神も必ずお許し下さるでしょう」と言い、年老いた円喜の腕に二度刺すとその刀で自身の腹を切り裂き、祖父を取り押して覆いかぶさった。この少年に促され相模入道が自害すると城入道も続いて切腹した。これを見て堂上に並んでいた一族や他家の人々は雪のように白い肌を露わにして(衣を脱ぎ捨て)、腹切りする者、自身の頭を斬り落とす者がおりそれぞれの最期の様子がことさら立派に見えた。 解説
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| 其外の人々には、金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕・小町中務太輔朝実・常葉駿河守範貞・名越土佐前司時元・摂津形部大輔入道・伊具越前々司宗有・城加賀前司師顕・秋田城介師時・城越前守有時・南部右馬頭茂時・陸奥右馬助家時・相摸右馬助高基・武蔵左近大夫将監時名・陸奥左近将監時英・桜田治部太輔貞国・江馬遠江守公篤・阿曾弾正少弼治時・苅田式部大夫篤時・遠江兵庫助顕勝・備前左近大夫将監政雄・坂上遠江守貞朝・陸奥式部太輔高朝・城介高量・同式部大夫顕高・同美濃守高茂・秋田城介入道延明・明石長門介入道忍阿・長崎三郎左衛門入道思元・隅田次郎左衛門・摂津宮内大輔高親・同左近大夫将監親貞、名越一族三十四人、塩田・赤橋・常葉・佐介の人々四十六人、総じて其門葉たる人二百八十三人、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。庭上・門前に並居たりける兵共是を見て、或は自腹掻切て炎の中へ飛入もあり、或は父子兄弟差違へ重り臥もあり。血は流て大地に溢れ、漫々として洪河の如くなれば、尸は行路に横て累々たる郊原の如し。死骸は焼て見へね共、後に名字を尋ぬれば、此一所にて死する者、総て八百七十余人也。 |
他の者たちとしては、金沢大夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕とその息子である駿河左近大夫将監時顕・小町中務大輔朝実・常葉駿河守範貞・名越土佐前司時元・摂津刑部太夫入道・伊具越前前司宗有・城加賀前司師顕・秋田城介師時・城越前守有時・南部右馬頭茂時・陸奥右馬助家時・相模右馬助高基・武蔵左近大夫将監時名・陸奥左近将監時英・桜田治部大輔貞国・江馬遠江守公篤・阿曾弾正少弼治時・苅田式部大夫篤時・遠江兵庫助顕勝・備前左近大夫将監政雄・坂上遠江守貞朝・陸奥式部太輔高朝・城介高量・同(同じく)式部大輔顕高・同美濃守高茂・秋田城介入道延明・明石長門介入道忍阿・長崎三郎左衛門入道思元・隅田次郎左衛門・摂津宮内太夫高親・同左近大夫将監親貞、それに名越一族三十四人、塩田氏・赤橋氏・常葉氏・佐介氏の人々四十六人、総じてその一門の者二百八十三人が我先にと腹を切り屋形に火をつけたため猛炎が盛んに燃え上がり黒煙は天を覆った。庭や門前に居並んでいた兵たちもこれを見て自ら腹を切って炎の中へ飛び込むものあり、父子兄弟など身分の違いにかかわらず重なり合って倒れている者もあった。血が流れて大地に溢れ洪水のように広がったので死体は道端に横たわり郊外の原野のような様相を呈した。遺骸は焼けて見えないものもある中後で名前を調べるとこの一箇所での死者は総じて八百七十余人であった。 解説
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| 此外門葉・恩顧の者、僧俗・男女を不云、聞伝々々泉下に恩を報る人、世上に促悲を者、遠国の事はいざ不知、鎌倉中を考るに、総て六千余人也。嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。 |
これ以外の一族・恩顧の人々についても僧侶か俗人か男か女かを問わず、噂を聞いてあちこちで黄泉(死後の世界)に恩返しする者や世間で悲嘆にくれる者があった。遠国の事情はさておき鎌倉中だけで考えると総勢六千余人にもなった。ああこの日はいかなる日か――元弘三年五月二十二日に当たり、平氏(北条氏)九代の繁栄が一瞬で滅亡し源氏(足利方)長年の鬱屈した思いがようやく晴れたのである。 解説
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| input text 太平記\011_太平記_巻11.txt | 現代日本語 translated text | ||||||||||||||||||||
| 太平記 太平記巻第十一 ○五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事 義貞已に鎌倉を定て、其威遠近に振ひしかば、東八箇国の大名・高家、手を束ね膝を不屈と云者なし。多日属随て忠を憑む人だにも如此。況や只今まで平氏の恩顧に順て、敵陣に在つる者共、生甲斐なき命を続ん為に、所縁に属し降人に成て、肥馬の前に塵を望み、高門の外に地を掃ても、己が咎を補はんと思へる心根なれば、今は浮世の望を捨て、僧法師に成たる平氏の一族達をも、寺々より引出して、法衣の上に血を淋き、二度は人に契らじと、髪をゝろし貌を替んとする亡夫の後室共をも、所々より捜出して、貞女の心を令失。悲哉、義を専にせんとして、忽に死せる人は、永く修羅の奴と成て、苦を多劫の間に受けん事を。痛哉、恥を忍で苟も生る者は、立ろに衰窮の身と成て、笑を万人の前に得たる事を。中にも五大院右衛門尉宗繁は、故相摸入道殿の重恩を与たる侍なる上、相摸入道の嫡子相摸太郎邦時は、此五大院右衛門が妹の腹に出来たる子なれば、甥也。主也。何に付ても弐ろは非じと深く被憑けるにや、「此邦時をば汝に預置ぞ、如何なる方便をも廻し、是を隠し置き、時到りぬと見へば、取立て亡魂の恨を可謝。」と相摸入道宣ければ、宗繁、「仔細候はじ。 |
太平記巻第十一 五大院右衛門宗繁が相模太郎(邦時)を騙したこと 義貞は既に鎌倉を平定しその威勢が遠近に響き渡ったため、関東八カ国の有力武士や名門家は皆こぞって従い忠誠を示す者が現れた。長年仕えてきた者たちでさえこの有様である。ましてやつい最近まで北条氏の恩顧を受け敵側にいた連中が、無意味な命を永らえさせるために関係筋へ頼り降伏し、肥えた馬の前で塵を払うように媚びたり高貴な門前で地面を掃いても自らの過ちを償おうとする心根である。今や世への望みを捨て僧侶となった北条一族までも寺々から引っ張り出し法衣の上に血を浴びさせ、二度と人には従わぬと誓っていた未亡人たちをも捜索して貞節な心を失わせた。 悲しいかな! 忠義に殉じて急死した者は永久に修羅道の奴隷となり永劫の苦しみを受けることか。痛ましいかな! 恥を忍んで生き延びた者はたちまち衰え貧窮の身となって万人の笑いものとなることよ。 中でも五大院右衛門尉宗繁は、亡き相模入道(北条高時)から厚恩を受けた家臣である上に、その嫡男・相模太郎邦時がこの宗繁の妹を母として生まれた子であったため甥であり主君にあたる。何があっても裏切ることはあるまいと深く信頼されていたようで、「この邦時をお前に預ける。如何なる手段を用いても彼を匿い、時機到来と思えば推し立てて亡魂の恨みを晴らせ」と相模入道が命じたところ、宗繁は「異存ございますまい」と答えた。 解説
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| 」と領掌して、鎌倉の合戦の最中に、降人にぞ成たりける。角て二三日を経て後、平氏悉滅びしかば、関東皆源氏の顧命に随て、此彼に隠居たる平氏の一族共、数た捜出されて、捕手は所領を預り、隠せる者は忽に被誅事多し。五大院右衛門是を見て、いや/\果報尽はてたる人を扶持せんとて適遁得たる命を失はんよりは、此人の在所を知たる由、源氏の兵に告て、弐ろなき所を顕し、所領の一所をも安堵せばやと思ければ、或夜彼相摸太郎に向て申けるは、「是に御坐の事は、如何なる人も知候はじとこそ存じて候に、如何して漏聞へ候けん、船田入道明日是へ押寄候て、捜し奉らんと用意候由、只今或方より告知せて候。何様御座の在所を、今夜替候はでは叶まじく候。夜に紛れて、急ぎ伊豆の御山の方へ落させ給候へ。宗繁も御伴申度は存候へ共、一家を尽して落候なば、船田入道、さればこそと心付て、何くまでも尋求る事も候はんと存じ候間、態御伴をば申まじく候。」と、誠し顔に成て云ければ、相摸太郎げにもと身の置所なくて、五月二十七日の夜半計に、忍て鎌倉を落玉ふ。昨日までは天下の主たりし相摸入道の嫡子にて有しかば、仮初の物詣で・方違ひと云しにも、御内・外様の大名共、細馬に轡を噛せて、五百騎・三百騎前後に打囲で社往覆せしに、時移事替ぬる世の有様の浅猿さよ、怪しげなる中間一人に太刀持せて、伝馬にだにも乗らで、破たる草鞋に編笠着て、そこ共不知、泣々伊豆の御山を尋て、足に任て行給ひける、心の中こそ哀なれ。 |
このように承知して鎌倉合戦の最中に投降したのであった。数日経って北条氏が完全に滅亡すると関東一帯は源氏(足利方)の命令に従い、あちこちに潜伏していた北条一族を次々と捜索し捕らえた者は領地管理を任され隠れていた者は即座に処刑されることが多かった。五大院右衛門宗繁はこの状況を見て「まったく運の尽きた者たちを守ろうとしてかろうじて逃げ延びた命を失うより、邦時の居場所を知っていると源氏軍に告げ誠実さを示して領地の一部でも安堵してもらおう」と考えある夜相模太郎(邦時)に向かい言った。「ここにおられることは誰も知るまいと思っていましたがどうやら漏れたようで船田入道があす押し寄せ捜索しようと準備していると先ほど情報を得ました。今夜すぐに隠れ場所を変えねばなりません夜陰に紛れて急ぎ伊豆のお山へお逃げください私もご同行したいところですが一族全員で逃亡すれば船田入道は当然だと気づきどこまでも追跡するでしょうゆえわざと同行いたしません」と真剣な顔で述べたため相模太郎はその通りかと思い身の置き所なく五月二十七日の夜半ひそかに鎌倉を脱出した。昨日まで天下の主であった亡父北条高時の嫡子として仮初めのお参りや方違えと言う際にも家臣外様の大名たちが繋ぎ馬に手綱を引かせ五百騎三百騎と前後を取り囲み神社へ行き来していたのに時代は移り事態は変わった世の中の情けなさよ怪しげな中間一人だけに太刀を持たせ駕籠にも乗らず破れた草鞋に編笠を被りどこかもわからず泣く泣く伊豆のお山を求めて足任せに行かれるお気持ちはまことに哀れであった。 解説
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| 五大院右衛門は、加様にして此人をばすかし出しぬ。我と打て出さば、年来奉公の好を忘たる者よと、人に指を被差つべし。便宜好らんずる源氏の侍に討せて、勲功を分て知行せばやと思ければ、急船田入道が許に行て、「相摸の太郎殿の在所をこそ、委く聞出て候へ、他の勢を不交して、打て被出候はゞ、定て勲功異他候はんか。告申候忠には、一所懸命の地を安堵仕る様に、御吹挙に預り候はん。」と云ければ、船田入道、心中には悪き者の云様哉と乍思、「先子細非じ。」と約束して、五大院右衛門尉諸共に、相摸太郎の落行ける道を遮てぞ待せける。相摸太郎道に相待敵有とも不思寄、五月二十八日明ぼのに、浅猿げなる■れ姿にて、相摸河を渡らんと、渡し守を待て、岸の上に立たりけるを、五大院右衛門余所に立て、「あれこそ、すは件の人よ。」と教ければ、船田が郎等三騎、馬より飛で下り、透間もなく生捕奉る。俄の事にて張輿なんどもなければ、馬にのせ舟の縄にてしたゝかに是を誡め、中間二人に馬の口を引せて、白昼に鎌倉へ入れ奉る。是を見聞人毎に、袖をしぼらぬは無りけり。此人未だ幼稚の身なれば、何程の事か有べけれ共、朝敵の長男にてをはすれば、非可閣とて、則翌日の暁、潛に首を刎奉る。昔程嬰が我子を殺して、幼稚の主の命にかへ、予譲が貌を変じて、旧君の恩を報ぜし、其までこそなからめ、年来の主を敵に打せて、欲心に義を忘れたる五大院右衛門が心の程、希有也。 |
五大院右衛門はこのようにして邦時(相模太郎)をおびき出した。自分で討ち取れば「長年仕えた恩義を忘れた者だ」と世間から指弾されるだろう。むしろ好機を狙う源氏方の武士に討たせ、手柄を分け合って領地を得ようと考え、急いで船田入道のもとに赴き言った。「相模太郎殿の居場所をつき止めました。他の軍勢を交えず単独でお討ちになれば間違いなく他より抜きん出た勲功となるでしょう。この情報提供への恩賞として、先祖伝来の所領安堵と推挙をお願いします」と述べると、船田入道は心の中で「卑劣な男だ」と思いつつも「まずは異存ない」と約束し宗繁を伴い邦時逃亡路で待ち伏せた。 五月二十八日の夜明け頃、哀れな姿の邦時が相模川渡河のために船頭を待っている岸辺に立っていたところ、わざと離れて立ち「あそこだ!例の人物よ」と教えたため、船田家臣三騎が馬から飛び降り瞬時に生け捕りにした。突然のことで駕籠もなく馬に縛り付け舟綱で厳重に拘束し中間二人に馬を引かせ白昼堂々鎌倉へ連行する様子を見た者は皆涙をぬぐった。この邦時はまだ幼さが残る身ではあったが朝敵北条家の嫡男であるため放置できず翌日の明け方ひそかに斬首されたのである。 昔、程嬰が我が子を犠牲にして幼い主君を守り予譲が自ら容貌を変えて旧主の恩に報いた故事がある。そこまでは求めないとしても長年の主君を敵に売って私欲で義理を忘れた五大院右衛門の心根は実に稀有なほど卑劣であった。 解説
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| 不道也と、見る人毎に爪弾をして悪みしかば、義貞げにもと聞給て、是をも可誅と、内々其儀定まりければ、宗繁是を伝聞て、此彼に隠れ行きけるが、梟悪の罪身を譴めけるにや、三界雖広一身を措に処なく故旧雖多一飯を与る無人して、遂に乞食の如に成果て、道路の街にして、飢死にけるとぞ聞へし。 ○諸将被進早馬於船上事 都には五月十二日千種頭中将忠顕朝臣・足利治部大輔高氏・赤松入道円心等、追々早馬を立て、六波羅已に令没落之由船上へ奏聞す。依之諸卿僉議あて、則還幸可成否の意見を被献ぜ。時に勘解由次官光守、諌言を以て被申けるは、「両六波羅已に雖没落、千葉屋発向の朝敵等猶畿内に満て、勢ひ京洛を呑めり。又賎き諺に、「東八箇国の勢を以て、日本国の勢に対し、鎌倉中の勢を以て、東八箇国の勢に対す」といへり。されば承久の合戦に、伊賀判官光季を被追落し事は輒かりしか共、坂東勢重て上洛せし時、官軍戦ひに負て、天下久武家の権威に落ぬ。今一戦の雌雄を測るに、御方は纔に十〔に〕して其一二を得たり。「君子不近刑人」と申事候へば、暫く只皇居を被移候はで、諸国へ綸旨を被成下、東国の変違を可被御覧ぜや候らん。」と被申ければ、当座の諸卿悉此議にぞ被同ける。而れども、主上猶時宜定め難く被思召ければ、自周易を披かせ給て、還幸の吉凶を蓍筮に就てぞ被御覧ける。 |
あまりにも非道だと見る人が皆指を鳴らして憎んだため、新田義貞も承知し「彼(宗繁)こそ誅すべきだ」と内々に決まった。これを伝え聞いた宗繁はあちこち隠れ歩いたが、凶悪な罪の報いか、世界は広くても身を置く場所なく旧友多くとも食事を与える者も無く遂に乞食のように成り果て道端で餓死したと伝えられている。 ○武将たちが船中(御座所)へ急使を派遣すること 解説
この場面全体が『太平記』巻十一のクライマックスを構成し北条滅亡(前段)→新政胎動へ歴史大転換を示す。特に光守「君子不近刑人」発言は儒教的道徳観で武士台頭への危惧を表明し後世『梅松論』等にも影響を与えた表現である。 | ||||||||||||||||||||
| 御占師卦に出て云、「師貞、丈人吉無咎、上六大君有命、開国承家。小人勿用。王弼注云、処師之極、師之終也。大君之命不失功也。開国承家、以寧邦也。小人勿用、非其道也。」と注せり。御占已に如此。此上は何をか可疑とて、同二十三日伯耆の舟上を御立有て、腰輿を山陰の東にぞ被催ける。路次の行装例に替りて、頭大夫行房・勘解由次官光守二人許こそ、衣冠にて被供奉けれ。其外の月卿雲客・衛府諸司の助は、皆戎衣にて前騎後乗す。六軍悉甲冑を着し、弓箭を帯して、前後三十余里に支へたり。塩冶判官高貞は、千余騎にて、一日先立て前陣を仕る。又朝山太郎は、一日路引殿て、五百余騎にて後陣に打けり。金持大和守、錦の御旗を差て左に候し、伯耆守長年は、帯剣の役にて右に副ふ。雨師道を清め、風伯塵を払ふ。紫微北辰の拱陣も、角やと覚て厳重也。されば去年の春隠岐国へ被移させ給ひし時、そゞろに宸襟を被悩て、御泪の故と成し山雲海月の色、今は竜顔を令悦端と成て、松吹風も自ら万歳を呼ぶかと被奇、塩焼浦の煙まで、にぎわう民の竈と成る。 ○書写山行幸事付新田注進事 五月二十七日には、播磨国書写山へ行幸成て、先年の御宿願を被果、諸堂御順礼の次に、開山性空上人の御影堂を被開に、年来秘しける物と覚て、重宝ども多かりけり。 |
あまりにも非道だと見る人々が皆指を鳴らして憎んだため、新田義貞もこれを聞き「彼(宗繁)こそ誅すべきだ」と内々に決めた。このことを伝え聞いた宗繁はあちこち隠れ歩いたが、凶悪な罪の報いか、世界は広くても身を置く場所なく旧友多くとも食事を与える者もおらず遂に乞食のように成り果て道端で餓死したと伝えられている。 ○武将たちが船上(御座所)へ急使を派遣すること 解説
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| 当寺の宿老を一人召て、「是は如何なる由緒の物共ぞ。」と、御尋有ければ、宿老畏て一々に是を演説す。先杉原一枚を折て、法華経一部八巻並開結二経を細字に書たるあり。是は上人寂寞の扉に御坐て妙典を読誦し給ける時、第八の冥官一人の化人と成て、片時の程に書たりし御経也。又歯禿て僅に残れる杉の屐あり。是は上人当山より毎日比叡山へ御入堂の時、海道三十五里の間を一時が内に歩ませ給し屐也。又布にて縫たる香の袈裟あり。是は上人御身を不放、長時に懸させ給けるが、香の煙にすゝけたるを御覧じて、「哀洗ばや。」と被仰ける時、常随給仕の乙護法「是を洗て参候はん。」と申て、遥に西天を指して飛去ぬ。且く在て、此袈裟をば虚空に懸乾、恰も一片の雲の夕日に映ずるが如し。上人護法を呼て、「此袈裟をば如何なる水にて洗ひたりけるぞ。」と問はせ給へば、護法、「日本の内には可然清冷水候はで、天竺の無熱池の水にて濯で候也。」と、被答申たりし御袈裟也。生木化仏の観世音、稽首生木如意輪、能満有情福寿願、亦満往生極楽願、百千倶■悉所念と、天人降下供養し奉る像なり。毘首羯磨が作りし五大尊、是のみならず、法華読誦の砌には、不動・毘沙門の二童子に、形を現じて仕給也。又延暦寺の中堂供養の日は、上人当山に坐しながら、風に如来唄を引給しかば、梵音遠く叡山の雲に響て一会の奇特を顕せし事共、委細に演説仕りたれば、主上不斜信心を傾させ給て、則当国の安室郷を御寄附有て、不断如法経の料所にぞ被擬ける。 |
その寺の長老を一人召して、「これはどのような由緒のある品々か」とお尋ねになると、長老は畏まって一つひとつ説明した。まず杉板一枚を折り曲げて法華経八巻並びに開結二経を細字で書いたものがある。これは性空上人が静かな庵におられ妙典をお読みになった時、第八の冥官が化けた人物となってわずかの間に書き上げたお経である。また歯が擦り減ってかろうじて残っている杉材の下駄があった。これは上人が当山から毎日比叡山へ登堂なさった際、三十五里の道程を一瞬で歩ませられた下駄だ。さらに布で縫った香木の袈裟がある。これは上人が身に着けたまま長年お使いになっていたが、香煙によってすすけているのをご覧になり「哀れだから洗いたい」と仰せになった時、常にお供していた乙護法が「これを洗って参りましょう」と言って遥か西天を指さし飛び去った。しばらくしてこの袈裟は虚空に掛けて乾され、夕日に映える一片の雲のようであった。上人が護法を呼んで「この袈裟をどんな水で洗ったのか」とお尋ねになると、護法は「日本の内には適当な清らかな水がなかったため天竺の無熱池(アナヴァタプタ湖)の水で洗いました」と答えたという御袈裟である。生木に化した仏像である観世音菩薩――礼拝すべき生木如意輪、有情衆生の福寿願を満たしまた往生極楽願も満たす百千の衆生すべてが念じるものと唱えられるこの尊像は天人が降りて供養したものである。毘首羯磨(ヴィシュヴァカルマン)作の五大明王、これだけでなく法華経読誦の折には不動・毘沙門の二童子が姿を現してお仕え申し上げた。また延暦寺中堂供養の日には上人が当山にいながら風に乗って如来唄をお唱えになったので梵音は遠く比叡山の雲に響き渡り法会全体を驚嘆させたことなど、詳細に説明したところ主上(後醍醐天皇)は深く信心をお起こしになり直ちに当国安室郷をご寄進あそばされ不断如法経供養の料所として定められた。 解説【霊宝描写の構成的特徴】性空上人の遺品群には段階的な聖性増幅構造が見られる:
1. 書写奇跡:冥官化身による超速筆写(宗教的時間超越) 【宗教史的意義】
【後醍醐天皇行動の政治的文脈】1333年5月27日の書写山行幸は: 1. 新政権正統性創出: 安室郷寄進が「仏法擁護者」としての帝王像構築 2. 現実的効果: 播磨国支配固め(赤松円心勢力圏での基盤強化) 3. 「不断如法経」指定→戦乱犠牲者の供養と新政権の徳政宣言を兼ねる
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| 今に至まで、其妙行片時も懈る事無して、如法如説の勤行たり。誠に滅罪生善の御願難有かりし事共也。二十八日に法華山へ行幸成て、御巡礼あり。是より龍駕を被早て、晦日は兵庫の福厳寺と云寺に、儲餉の在所を点じて、且く御坐有ける処に、其日赤松入道父子四人、五百余騎を率して参向す。竜顔殊に麗くして、「天下草創の功偏に汝等贔屓の忠戦によれり。恩賞は各望に可任。」と叡感有て、禁門の警固に奉侍せられけり。此寺に一日御逗留有て、供奉の行列還幸の儀式を被調ける処に、其日の午刻に、羽書を頚に懸たる早馬三騎、門前まで乗打にして、庭上に羽書を捧たり。諸卿驚て急披て是を見給へば、新田小太郎義貞の許より、相摸入道以下の一族従類等、不日に追討して、東国已に静謐の由を注進せり。西国・洛中の戦に、官軍勝に乗て両六波羅を雖責落、関東を被責事は、ゆゝしき大事成べしと、叡慮を被回ける処に、此注進到来しければ、主上を始進せて、諸卿一同に猶預の宸襟を休め、欣悦称嘆を被尽、則、「恩賞は宜依請。」と被宣下て、先使者三人に各勲功の賞をぞ被行ける。 ○正成参兵庫事付還幸事 兵庫に一日御逗留有て、六月二日被回腰輿処に、楠多門兵衛正成七千余騎にて参向す。其勢殊に勇々敷ぞ見へたりける。 |
今日までその妙なる行いは少しも怠ることなく、経典の教え通り厳かに行われている。罪を滅ぼし善を生むという御願いが実に尊いものであったことだ。二十八日には法華山へ行幸があり、ご巡礼なさった。ここから早々に御輿を進められ、三十日(晦日)は兵庫の福厳寺という寺院で休憩所を定めてしばらくお過ごしになっていたところ、その日赤松入道円心と息子四人が五百余騎を率いて参上した。天皇のお顔には殊に喜びがあふれ、「天下再建の功績はまさにお前たちの忠義と戦いによるものだ。恩賞はそれぞれ望み通り与えよう」とのお言葉があり、彼らを京の警護役として召し抱えられた。 この寺で一日御滞在され供奉の行列や帰京準備を整えている最中、その日のお昼頃に羽書(急報)を首にかけた早馬三頭が門前まで駆け込み、庭先で文書を捧げた。公卿たちは驚いて急いでこれを開封してみると、新田義貞からの注進で「相模入道(北条高時)一族らを近日中に討ち果たし東国はすでに平定された」との報告であった。西国や京都の戦では官軍が勝利して六波羅を落としたものの、「関東攻めは重大事だ」と天皇も懸念されていたところへこの知らせが届いたため、主上はじめ公卿一同は不安を取り除かれ喜びに沸き立った。すぐさま「恩賞は申し出通り与えるべし」との勅命を下し、まず使者三人にもそれぞれ功績に応じた褒賞を与えられた。 ○正成兵庫参上と帰京の件 解説【歴史的展開の焦点】
【楠木正成登場の意義】
【文学的手法分析】
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| 主上御簾を高く捲せて、正成を近く被召、「大儀早速の功、偏に汝が忠戦にあり。」と感じ被仰ければ、正成畏て、「是君の聖文神武の徳に不依ば、微臣争か尺寸の謀を以て、強敵の囲を可出候乎。」と功を辞して謙下す。兵庫を御立有ける日より、正成前陣を奉て、畿内の勢を相順へ、七千余騎にて前騎す。其道十八里が間、干戈戚揚相挟、左輔右弼列を引、六軍次でを守り、五雲閑に幸すれば、六月五日の暮程に、東寺まで臨幸成ければ、武士たる者は不及申、摂政・関白・太政大臣・左右の大将・大中納言・八座・七弁・五位・六位・内外の諸司・医陰両道に至まで、我劣じと参集りしかば、車馬門前に群集して、地府に布雲、青紫堂上に陰映して、天極に列星。翌日六月六日、東寺より二条の内裏へ還幸成て、其日先臨時の宣下有て、足利治部大輔高氏治部卿に任ず。舎弟兵部大輔直義左馬頭に任ず。去程に千種頭中将忠顕朝臣、帯剣の役にて、鳳輦の前に被供奉けるが、尚非常を慎む最中なればとて、帯刀の兵五百人二行に被歩。高氏・直義二人は後乗に順て、百官の後に被打。衛府の官なればとて、騎馬の兵五千余騎、甲冑を帯して被打。其次に宇都宮五百余騎、佐々木判官七百余騎、土居・得能二千余騎、此外正成・長年・円心・結城・長沼・塩冶已下諸国の大名は、五百騎・三百騎、其旗の次に一勢々々引分て、輦輅を中にして、閑に小路打たり。 |
天皇は御簾を高く巻き上げて正成を近くに召し、「大変な功績だ。迅速な働きはまさにお前の忠義と戦いによるものだ」と感心して仰せになったので、正成は畏まって「これは陛下の優れた徳がなければ、私のような小人物がわずかな知恵で強敵の包囲を突破できたでしょうか」と言い功績を辞退し謙虚に振る舞った。兵庫から御出立なさった日より正成は前衛隊として奉仕し、畿内の軍勢と連携して七千余騎が先導した。その道中十八里(約70km)の間、武器を立てて警護に当たり、左右の重臣たちが列を作り、軍隊が順序正しく守る中、天皇の輿は悠々と進み、六月五日の夕暮れ頃には東寺まで到着なさった。武士だけでなく摂政・関白・太政大臣・左右大将・大中納言・八座(高官)・七弁(弁官)・五位六位の官人・内外諸役所の人々から医師や陰陽道に至るまで我先にと参集したため、車馬は門前に群がり地面を覆う雲のごとく、青紫の衣装が堂上にひしめいて天の星のように見えた。翌日六月六日に東寺より二条内裏へ帰還なさると、その日のうち臨時の人事命令があり足利治部大輔高氏(尊氏)は治部卿に任命された。弟兵部大輔直義も左馬頭となった。この時千種忠顕朝臣が帯刀役として鳳輦の前を警護していたが、まだ事態収束中であることを踏まえ五百人の武装兵を行列させた。高氏と直義は後続に従い百官の後に加わり、衛門府(宮廷警備)官という立場から五千余騎が甲冑姿で随行した。次いで宇都宮軍五百余騎、佐々木判官七百余騎、土居・得能二千余騎が続き、さらに正成・長年・円心・結城・長沼・塩冶以下の諸国大名はそれぞれ三百騎や五百騎の部隊を率いて旗印に従って分かれながら天皇の輿を取り囲み静かに小路を行進した。 解説【権力構造の視覚化】この描写は1333年6月5-6日の「建武新政」開始直後の様子で、行列構成が新体制のヒエラルキーを象徴的に表現:
【楠木正成の役割特殊性】
【歴史的事件の連鎖性】
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| 凡路次の行装、行列の儀式、前々の臨幸に事替て、百司の守衛厳重也。見物の貴賎岐に満て、只帝徳を頌し奉声、洋々として耳に盈り。 ○筑紫合戦事 京都・鎌倉は、已に高氏・義貞の武功に依て静謐しぬ。今は筑紫へ討手を被下て、九国の探題英時を可被責とて、二条大納言師基卿を太宰帥に被成て、既に下し奉らんとせられける処に、六月七日、菊池・小弐・大伴が許より、早馬同時に京着して、九州の朝敵無所残、退治候ぬと奏聞す。其合戦の次第を、後に委く尋ぬれば、主上未だ舟上に御座有し時、小弐入道妙慧・大伴入道具簡・菊池入道寂阿、三人同心して、御方に可参由を申入ける間、則綸旨に錦の御旗を副てぞ被下ける。其企彼等三人が心中に秘して、未色に雖不出、さすがに隠れ無りければ、此事頓て探題英時が方へ聞へければ、英時、彼等が野心の実否を能々伺ひ見ん為に、先菊池入道寂阿を博多へぞ呼ける。菊池此使に肝付て、是は如何様彼隠謀露顕して、我等を討ん為にぞ呼給ふ覧。さらんに於は、人に先をせられては叶ふまじ、此方より遮て博多へ寄て、覿面に勝負を決せんと思ければ、兼ての約諾に任て、小弐・大伴が方へ触遺しける処に、大伴、天下の落居未だ如何なるべしとも見定めざりければ、分明の返事に不及。 |
行列全体において道路整備や儀式は過去の行幸とは様子が異なり、役人たちによる警護も厳重であった。見物人の身分高低にかかわらず道いっぱいに詰めかけ、ただひたすら天皇の徳を称える歓声が満ちあふれて聞こえた。 ○筑紫合戦について 解説【九州平定の歴史的意義】
【菊池武時(寂阿)の決断分析】
【大伴具簡の躊躇が示す問題】
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| 小弐は又其比京都の合戦に、六波羅毎度勝に乗由聞へければ、己が咎を補はんとや思けん、日来の約を変じて、菊池が使八幡弥四郎宗安を討て、其頚を探題の方へぞ出したりける。菊池入道大に怒て、「日本一の不当人共を憑で、此一大事を思立けるこそ越度なれ。よし/\其人々の与せぬ軍はせられぬか。」とて元弘三年三月十三日の卯刻に、僅に百五十騎にて探題の館へぞ押寄ける。菊池入道櫛田の宮の前を打過ける時、軍の凶をや被示けん。又乗打に仕たりけるをや御尤め有けん。菊池が乗たる馬、俄にすくみて一足も前へ不進得。入道大に腹を立て、「如何なる神にてもをはせよ、寂阿が戦場へ向はんずる道にて、乗打を尤め可給様やある。其義ならば矢一つ進せん。受て御覧ぜよ。」とて、上差の鏑を抜き出し、神殿の扉を二矢までぞ射たりける。矢を放つと均く、馬のすくみ直りにければ、「さぞとよ。」とあざ笑て、則打通りける。其後社壇を見ければ、二丈許なる大蛇、菊池が鏑に当て死たりけるこそ不思議なれ。探題は、兼てより用意したる事なれば、大勢を城の木戸より外へ出して戦はしむるに、菊池小勢なりといへども、皆命を塵芥に比し、義を金石に類して、責戦ければ、防ぐ兵若干被打て、攻の城へ引篭る。 |
少弐貞経はその頃京都での合戦において六波羅が常勝しているとの情報を得て、自らの過ちを取り繕おうとしたのかもしれない。これまでの約束を破り菊池の使者・八幡弥四郎宗安を討ち取って首級を探題英時に送ったのである。 解説【歴史的事件の核心】
【超自然的要素の文学的機能】
【忠臣像の極致描写】
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| 菊池勝に乗て、屏を越関を切破て、透間もなく責入ける間、英時こらへかねて、既に自害をせんとしける処に、小弐・大友六千余騎にて、後攻をぞしたりける。菊池入道是を見て、嫡子に肥後守武重を喚て云けるは、「我今小弐・大友に被出抜て、戦場の死に赴くといへ共、義の当る所を思ふ故に、命を堕ん事を不悔。然れば寂阿に於ては、英時が城を枕にして可討死。汝は急我館へ帰て、城を堅し兵を起して、我が生前の恨を死後に報ぜよ。」と云含め、若党五十余騎を引分て武重に相副、肥後の国へぞ返しける。故郷に留置し妻子共は、出しを終の別れとも知らで、帰るを今やとこそ待らめと、哀に覚ければ、一首の歌を袖の笠符に書て故郷へぞ送ける。故郷に今夜許の命ともしらでや人の我を待らん肥後守武重は、「四十有余の独の親の、只今討死せんとて大敵に向ふ戦なれば、一所にてこそ兎も角も成候はめ。」と、再三申けれども、「汝をば天下の為に留るぞ。」と父が庭訓堅ければ、武重無力是を最後の別と見捨て、泣々肥後へ帰ける心の中こそ哀なれ。其後菊池入道は二男肥後三郎と相共に、百余騎を前後に立て、後攻の勢には目を不懸して探題の屋形へ責入、終に一足も引ず、敵に指違々々一人も不残打死す。専諸・荊卿が心は恩の為に仕はれ、侯生・予子が命は義に依て軽しとも、是等をや可申。 |
菊池勢が優勢となり、塀を乗り越え門を破って休む間もなく攻め込んだため、英時は耐えきれず自害しようとしたところに、少弐・大友の六千余騎が後方から襲撃してきた。 武重は「四十有余になる一人親が今まさに大敵に向かい討死せんとする戦です。どうか共に戦わせてください」と再三懇願したが、父は「お前は天下のために生き残れ」と厳命するため、やむなくこれが最後の別れだと悟り泣く泣く肥後へ帰った心中こそ哀れであった。 解説【歴史的場面と文学的操作】
【遺言歌と庭訓場面の象徴性】
【中国故事引用の意図】
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| さても小弐・大伴が今度の振舞人に非ずと天下の人に被譏ながら、暗知ずして世間の様を聞居たりける処に、五月七日両六波羅已に被責落て、千葉屋の寄手も悉南都へ引退ぬと聞へければ、小弐入道、こは可如何と仰天す。去ば我れ探題を奉討身の咎を遁ばやと思ければ、先菊池肥後守と大友入道とが許へ内々使者を遣して相語ふに、菊池は先に懲て耳にも不聞入。大友は我も咎ある身なれば、角てや助かると堅領掌してげり。今日や明日やと吉日を撰ける処に、英時、小弐が隠謀の企を聞て、事の実否を伺見よとて、長岡六郎を小弐が許へぞ遣しける。長岡則行向て、小弐に可見参由を云ければ、時節相労事有とて、対面に不及。長岡無力、小弐入道が子息筑後新小弐が許に行向、云入て、さりげなき様にて彼方此方を見るに、只今打立んずる形勢にて、楯を矯せ鏃を砺最中也。又遠侍を見るに、蝉本白くしたる青竹の旗竿あり。さればこそ、船上より錦の御旗を賜たりと聞へしが、実也けりと思て、対面せば頓て指違へんずる者をと思ける処に、新小弐何心もなげにて出合たり。長岡座席に着と均しく、「まさなき人々の謀反の企哉。」と云侭に、腰の刀を抜て、新小弐に飛で懸ける。新小弐飽まで心早き者なりければ、側なる将碁の盤をゝつ取て突刀を受留め、長岡にむずと引組で、上を下へぞ返しける。 |
こうして少弐貞経(入道)と大友氏継は今回の行動で世間から非難されていたが、知らぬふりをしていたところ、5月7日に京都六波羅探題が陥落し、千葉胤貞の軍勢も奈良へ撤退したとの報せが届いた。少弐入道は「これは大変だ」と仰天する。「それならば探題(北条英時)を討ち取って自分の過ちをごまかそう」と考え、まず菊池武重と大友氏継の下へ密使を送り相談を持ちかけた。ところが菊池は前回裏切られたため全く相手にせず、大友も「自分にも責任がある身だから何とか逃れよう」と承諾した。 少弐勢が吉日を選んで準備している最中、英時は少弐の陰謀を察知し真偽を確かめようと長岡六郎を使者として送り込んだ。長岡が面会を求めると、少弐入道は「体調不良」と言って応じない。仕方なくその息子・筑後守頼尚(新小弐)のもとへ向かい用件を伝えながら周囲を見渡すと、出陣準備で盾の補強や矢じりの研ぎに余念がなかった。さらに奥の間には「蝉本(先端部)を白く染めた青竹の旗竿」があるのに気づき、「船上山から賜ったという錦の御旗は本当だったのか!」と確信し、もし対面すれば即座に斬りかかろうと思案していたところ、新小弐が何事もない様子で現れた。 長岡は着席するやいなや「不届き者の謀反め!」と叫び腰の刀を抜いて新小弐へ斬りかかった。新小弐は機敏に側にある将棋盤を掴んで刃を受け止め、長岡に組みついて上になったり下になったりの大格闘となった。 解説【歴史的背景と文学的演出】
【人物心理描写の巧みさ】
【武芸描写のリアリズム】
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| 頓て小弐が郎従共あまた走寄て、上なる敵を三刀指て、下なる主を助けゝれば、長岡六郎本意を不達して、忽に命を失てげり。小弐筑後入道、さては我謀反の企、早探題に被知てげり。今は休事を得ぬ所也とて、大伴入道相共に七千余騎の軍兵を率して、同五月二十五日の午刻に、探題英時の館へ押寄ける。世の末の風俗、義を重ずる者は少く、利に趨る人は多ければ、只今まで付順つる筑紫九箇国の兵共も、恩を忘て落失せ、名をも惜まで翻りける間、一朝の間の戦に、英時遂に打負て、忽に自害しければ、一族郎従三百四十人、続て腹をぞ切たりける。哀哉、昨日は小弐・大友、英時に順て菊池を討、今日は又小弐・大友、官軍に属して、英時を討。「行路難、不在山兮、不在水、唯在人情反覆之間」と、白居易が書たりし筆の跡、今こそ被思知たれ。 ○長門探題降参事 長門の探題遠江守時直、京都の合戦難儀の由を聞て、六波羅に力を勠せんと、大船百余艘に取乗て、海上を上けるが、周防の鳴渡にて、京も鎌倉も早皆源氏の為に被滅て、天下悉王化に順ぬと聞へければ、鳴渡より舟を漕もどして、九州の探題と一所に成んと、心づくしへぞ赴きける。赤間が関に着て、九州の様を伺ひ聞給へば、「筑紫の探題英時も、昨日早小弐・大友が為に被亡て、九国二嶋悉公家のたすけと成ぬ。 |
すぐに少弐貞経(入道)の家臣たちが大勢駆けつけて、上になっていた長岡六郎を三度斬り付け、下になっていた主君(新小弐頼尚)を助けたため、長岡は目的を果たせずあっさりと命を落とした。少弐入道(貞経)は「これでは我々の謀反計画が探題英時に早くも知られてしまった。最早逃れようがない」と言い、大友氏継らと共に七千余騎の軍勢を率いて同年5月25日の昼過ぎ、探題北条英時の屋敷へ攻め込んだ。 世の中が乱れた時代で義理を重んじる者は少なく利益に走る者が多いため、これまで従っていた九州全土(筑紫九カ国)の兵士たちも恩を忘れて離反し名誉すら惜しまず寝返ったので、一日の戦いで英時はついに敗れ自害した。一族や家臣三百四十人も続いて切腹したのは哀れであった。 実に皮肉なことに——昨日までは少弐と大友が英時に従って菊池武時を討ち、今日は逆に同じ少弐らが官軍(南朝)側につき英時を討つのである。「行路の難し、山にあらず水にあらず、ただ人情反覆の中に在り」と白居易が記した言葉通りだと今こそ痛感される。 ○長門探題降参事 解説【歴史的転換点と人物描写】
【九州情勢の連鎖反応】
【文学的構成の特徴】
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| 」と云ければ、一旦催促に依て、此まで属順たる兵共も、いつしか頓て心替して、己が様々に落行ける間、時直僅に五十余人に成て柳浦の浪に漂泊す。彼の浦に帆を下さんとすれば、敵鏃を支て待懸たり。此嶋に纜を結ばんとすれば、官軍楯を双べて討んとす。残留る人々にさへ、今は心を沖津波、可立帰方もなく、可寄所もなければ、世を浮舟の橈を絶、思はぬ風に漂へり。跡に留めし妻子共も、如何成ぬ〔ら〕んと、責て其行末を聞て後、心安く討死をもせばやと被思ければ、且の命を延ん為に、郎等を一人船よりあげて、小弐・嶋津が許へ、降人に可成由をぞ伝へける。小弐も嶋津も年来の好み浅からざりけるに、今の有様聞も哀にや思けん。急迎に来て、己が宿所に入奉る。其比峯の僧正俊雅と申しは、君の御外戚にてをはせしを、笠置の合戦の刻に筑前の国へ被流てをはしけるが、今一時に運を開て、国人皆其左右に慎み随ふ。九州の成敗、勅許以前は暫此僧正の計ひに在しかば、小弐・嶋津、彼時直を同道して降参の由をぞ申入ける。僧正、「子細あらじ。」と被仰て、則御前へ被召けり。時直膝行頓首して、敢て不平視、遥の末座に畏て、誠に平伏したる体を見給て、僧正泪を流して被仰けるは、「去元弘の始、無罪して此所に被遠流時、遠州我を以て寇とせしかば、或は過分の言の下に面を低て泪を推拭ひ、或は無礼の驕の前に手を束て恥を忍き。 |
この報告を聞くと、これまで命令によって従っていた兵士たちも急に気持ちが変わり、それぞれ勝手に逃げ出してしまったため、時直はわずか五十人余りとなり柳ヶ浦の海上で漂流することとなった。 その浦へ船を着けようとすると敵軍が矢を構えて待ち構えているし、この島に繋留しようとすれば官軍(南朝方)が盾を並べて攻めようとする。残された者たちは今や心が荒波のように不安定で、帰る場所も寄港地もないため、まるで世を漂う小舟の櫂を失い、予期せぬ風に流されるかのような状態だった。 後に残してきた妻子たちの行く末を知らずに死ねないと考えた時直は、命をつなぐために家臣一人を船から上陸させて少弐貞経と島津氏のもとへ赴かせ、「降伏する意志がある」という旨を伝えさせた。 少弐も島津も以前からの交誼が深かったためか、この状況を哀れに思ったらしく、急いで迎えに出て自らの宿舎に招き入れた。その頃、峯僧正(俊雅)は後醍醐天皇の外戚として筑前国へ流されていたが、今や一転して勢力を持ち国人たちが従っていた。九州統治は勅許以前は彼が主導していたため、少弐らは時直を伴い降参の申し出を行った。 僧正は「異議あるまい」と言って即座に自らの前へ呼び寄せた。時直は膝行してひれ伏し、不平も見せず遠く末席で慎む様子を見て僧正は涙を流して言った。「元弘の変(1331年)の初め、無実の罪でここに流されたとき、あなた(時直)は私を賊のように扱い、過剰な罵声には顔を伏せて涙をぬぐい、無礼な侮辱にも手を縛られ恥を忍んだものだ」 解説【歴史的展開の核心】
【文学的技法の分析】
【史実との差異点】
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| 然に今天道謙に祐して、不測世の変化を見に、吉凶相乱れ栄枯地を易たり。夢現昨日は身の上の哀み、今日は人の上の悲也。「怨を報ずるに恩を以てす」と云事あれば、如何にもして命許を可申助。」と被仰ければ、時直頭を地に付て、両眼に泪を浮めたり。不日に飛脚を以て、此由を奏聞ありければ、則勅免有て懸命の地をぞ安堵せられける。時直無甲斐命を扶て、嘲を万人の指頭に受といへども、時を一家の再興に被待けるが、幾程もあらざるに、病の霧に被侵て、夕の露と消にけり。 ○越前牛原地頭自害事 淡河右京亮時治は、京都の合戦の最中、北国の蜂起を鎮めん為に越前の国に下て、大野郡牛原と云所にぞをはしける。幾程無して、六波羅没落の由聞へしかば、相順たる国の勢共、片時の程に落失て、妻子従類の外は事問人も無りけり。去程に平泉寺の衆徒、折を得て、彼跡を恩賞に申賜らん為に、自国・他国の軍勢を相語ひ、七千余騎を率して、五月十二日の白昼に牛原へ押寄る。時治敵の勢の雲霞の如なるを見て、戦共幾程が可怺と思ければ、二十余人有ける郎等に、向ふ敵を防がせて、あたり近き所に僧の坐しけるを請じて、女房少き人までも、皆髪に剃刀をあて、戒を受させて、偏に後生菩提の経営を、泪の中にぞ被致ける。 |
その報告を受けると、これまで命令で従っていた兵士たちもすぐに心変わりし、それぞれ勝手に逃げ去ってしまったので、時直はわずか五十人あまりとなり柳ヶ浦の海上を漂流する羽目になった。 この浦へ船を着けようとすれば敵が矢を構えて待ち受けており、あの島に繋留しようとすれば官軍(南朝方)が盾を並べて攻め寄せてくる。残された者たちは心が荒波のように乱れ、帰る場所も避難先もないため、まるで世の中を漂う小舟が櫂を失い、思いがけない風に流されるかのようであった。 後に残した妻子の安否さえわからずに死ぬのは忍びないと考えた時直は、命をつなぐために家臣一人を上陸させて少弐貞経と島津氏のもとへ遣わし、「降伏したい」という意思を伝えた。 少弐も島津も以前からの交わりが深かったためか、この様子を哀れに思ったようで、急いで迎えに出向き自らの宿所に招いた。当時、峯僧正(俊雅)は後醍醐天皇の母方親族として筑前国へ流されていたが、今や一転して勢力を得て国人たち皆が従っていた。九州統治は勅許前に彼が主導していたため、少弐らは時直を連れて降伏申し入れを行った。 僧正は「問題あるまい」と言ってすぐに自らの面前へ呼び寄せた。時直は膝行して平伏し、不満も見せず遠く末席で控える姿を見て、僧正は涙を流して述べた。「元弘元年(1331年)の初め、無実の罪でここに流されたとき、あなた(当時探題だった時直)は私を賊のように扱い、過剰な罵声には顔を伏せて涙をぬぐい、無礼な侮辱にも手を縛られ恥を忍んだ。 しかし今や天の道理が謙虚さに味方し、予測できない世の中の変化を見た——吉凶入り混じり栄枯は立場を逆転させた。夢か現実かわからないほどで、昨日まで自らの境遇を悲しんでいたのに今日は他人(時直)の不幸が哀れだ。」 『怨みには恩をもって報いる』という言葉があるゆえ、どうにかして命だけは助けよう」と僧正が言うと、時直は頭を地面につけて両目に涙を浮かべた。まもなく早馬でこの経緯が朝廷へ報告されると、すぐさま勅許による赦免があり危地から救われたのであった。 時直はみすぼらしい姿で命をつないだため万人の指弾を受けたものの、再起を期していたところ、間もなく病に侵されて露のように消え去ってしまった。 ○越前牛原地頭自害事 そこへ平泉寺衆徒(僧兵集団)が好機と見て彼の領地を恩賞にせんと企て、自国他国の軍勢を糾合して七千余騎を率い五月十二日の白昼牛原へ押し寄せた。時治は敵軍が雲霞のように膨大なのを見て戦っても抗しきれぬと思い、二十人あまりの家臣に攻撃を防がせる間に近くの僧侶を招いた。 妻や侍女を含む全員に剃刀で髪を落とさせ戒律を受けさせると、ひたすら来世への救済願う経文を唱えながら涙の中ですべてを整えたのであった。 解説【歴史的事件の核心】
【文学的技法分析】
【史実との相違点】
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| 戒の師帰て後、時治女房に向て「宣ひけるは、二人の子共は男子なれば、稚しとも敵よも命を助じと覚る間、冥途の旅に可伴。御事は女性にてをわすれば、縦ひ敵角と知とも命を失ひ奉るまでの事は非じ。さても此世に在存へ給はゞ、如何なる人にも相馴て、憂を慰む便に付可給。無跡までも心安てをはせんをこそ、草の陰・苔の下までもうれしくは思ふべけれ。」と、泪の中に掻口説て聞へければ、女房最と恨て、「水に住鴛、梁に巣燕も翼をかわす契を不忘。況や相馴進て不覚過ぬる十年余の袖の下に、二人の子共をそだてて、千代もと祈し無甲斐も、御身は今秋の霜の下に伏し、少き者共は朝の露に先立て、消はてなん後の悲を堪へ忍ては、時の間もながらふべき我身かや。とても思に堪かねば、生て可有命ならず。同は思ふ人と共にはかなく成て、埋れん苔の下までも、同穴の契を忘じ。」と、泪の床に臥沈む。去程に防矢射つる郎等共已に皆被討て、衆徒箱の渡を打越、後の山へ廻ると聞へければ、五と六とに成ける少き人を鎧唐櫃に入て、乳母二人に前後を舁せ、鎌倉河の淵に沈めよとて、遥に見送て立たれば、母儀の女房も、同其淵に身を沈めんと、唐櫃の緒に取付て歩行、心の中こそ悲しけれ。唐櫃を岸の上に舁居て、蓋を開たれば、二人の少き人顔を差挙て、「是はなう母御何くへ行給ふぞ。 |
僧侶が帰った後、時治は妻に向かいこう言った。「二人の子供たちは男子だから幼くても敵が命を助けるだろう。あの世への旅に連れて行くつもりだ。お前は女性ゆえ、たとえ敵だと知られても殺されるようなことはない。もしこの世で生き延びるなら誰かと結ばれ憂いを慰めてほしい。我が家が途絶えたとしても安らかに暮らしてくれれば草の陰や苔の下に眠る私もうれしく思う」と、涙ながらに切々と言い聞かせた。 すると妻は深く悲しんでこう返した。「水辺で寄り添う鴛鴦(おしどり)も屋根裏に巣づく燕も翼を交わす絆を忘れないのに、ましてや慣れ親しんだ十年以上もの間袖の下で二人の子を育て千代までと祈った甲斐なく、あなたは秋霜の下に倒れ幼い子供たちは朝露のように先立って消えゆく。その後の悲しみを耐え忍びながら生き延びられるこの身だろうか? どうしても我慢できないので命をつなぐつもりはない。愛する人と共にはかなく散り埋もれる苔の下でも同穴(同じ墓)の契りを忘れません」と言い、涙に沈み伏した。 そのうち防戦していた家臣たちが皆討たれたとの報せがあり、平泉寺衆徒が柵を破って後ろの山へ回り込んでくると聞いたため、五歳と六歳になった幼子を鎧櫃(よろいびつ)に入れ乳母二人に前後から担がせて鎌倉河の深淵に沈めるよう命じた。遠く見送る中で立ち尽くす時治を見ると、母親である妻も同じ淵に身を投げようと櫃の紐につかまりながら歩き、心の中は悲痛であった。 櫃が岸辺に据えられ蓋を開けると、二人の幼い子が顔を上げて言った。「これはどうしたのです母上? どこへ行くのですか?」 解説【感情的葛藤の構造分析】時治の論理(武士的責任): 妻の反論(感情的拒絶):
【死の演出における象徴性】
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| 母御の歩にて歩ませ給ふが御痛敷候。是に乗らせ給へ。」と何心もなげに戯ければ、母上流るゝ泪を押へて、「此河は是極楽浄土の八功徳池とて、少き者の生れて遊び戯るゝ所也。我如く念仏申て此河の中へ被沈よ。」と教へければ、二人の少き人々母と共に手を合せ、念仏高らかに唱へて西に向て坐したるを、二人の乳母一人づゝ掻抱て、碧潭の底へ飛入ければ、母上も続て身を投て、同じ淵にぞ被沈ける。其後時治も自害して一堆の灰と成にけり。隔生則忘とは申ながら又一念五百生、繋念無量劫の業なれば、奈利八万の底までも、同じ思の炎と成て焦給ふらんと、哀也ける事共也。 ○越中守護自害事付怨霊事 越中の守護名越遠江守時有・舎弟修理亮有公・甥の兵庫助貞持三人は、出羽・越後の宮方北陸道を経て京都へ責上べしと聞へしかば、道にて是を支んとて、越中の二塚と云所に陣を取て、近国の勢共をぞ相催しける。斯る処に、六波羅已に被責落て後、東国にも軍起て、已に鎌倉へ寄けるなんど、様々に聞へければ、催促に順て、只今まで馳集つる能登・越中の兵共、放生津に引退て却て守護の陣へ押寄んとぞ企ける。是を見て、今まで身に代命に代らんと、義を存じ忠を致しつる郎従も、時の間に落失て、剰敵軍に加り、朝に来り暮に往て、交を結び情を深せし朋友も、忽に心変じて、却て害心を挿む。 |
母親が歩くのに連れて行かれるのが辛そうだと感じたのでしょうか。幼い二人は「母上もお乗りください」と何の疑念もなく遊び半分に言いました。それを見て母は涙を抑え、「この川は極楽浄土にある八功徳池という場所で、子供が生まれてから遊ぶところだよ。私のように念仏を唱えてこの川の中へ沈みなさい」と教えました。すると二人の幼い子は母と共に手を合わせ高らかに念仏を唱え、西に向かって座りました。乳母たちが一人ずつ抱きかかえると碧く深い淵へ飛び込み、母親も続いて身を投げて同じ渕で沈んでしまいました。その後、時治も自害して一つの灰となったのです。「前世のことは忘れる」と言いますが一念は五百回生まれ変わり、執着する心は無限に続く因縁ゆえ、地獄の底まで炎のように燃えて苦しむのでしょう。なんと哀れなことか。 <越中守護自害事件と怨霊について> 解説【母子心中の宗教的構造】浄土往生の演出:
- 「八功徳池」比喩 → 子供を安心させるための方便であり当時の「臨終正念」(死ぬ際に仏を想う)実践
- 「西に向かって座る」姿勢→阿弥陀如来が住む西方浄土信仰の具体化 地獄描写の意味:
【場面転換の歴史的背景】1333年5-6月の時間軸:
- 「六波羅陥落」(京都・1333/5/7)と「鎌倉幕府滅亡」(同年5/22)という中央情報が地方武士の離反を誘発 怨霊譚への伏線:
1. 人間関係崩壊の三段階:
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| 今は残留たる者とては、三族に不遁一家の輩、重恩を蒙し譜代の侍、僅に七十九人也。五月十七日の午刻に敵既に一万余騎にて寄ると聞へしかば、「我等此小勢にて合戦をすとも、何程の事をかし出すべき、憖なる軍して、無云甲斐敵の手に懸り、縲紲の恥に及ばん事、後代迄の嘲たるべし。」とて、敵の近付ぬ前に女性・少き人々をば舟に乗て澳に沈め、我身は城の内にて自害をせんとぞ出立ける。遠江守の女房は、偕老の契を結て今年二十一年になれば、恩愛の懐の内に二人の男子をそだてたり。兄は九弟は七にぞ成ける。修理亮有公が女房は、相馴て已に三年に余けるが、只ならぬ身に成て、早月比過にけり。兵庫助貞持が女房は、此四五日前に、京より迎へたりける上臈女房にてぞ有ける。其昔紅顔翠黛の世に無類有様、風に見初し珠簾の隙もあらばと心に懸て、三年余恋慕しが、兎角方便を廻して、偸出してぞ迎へたりける。語ひ得て纔に昨日今日の程なれば、逢に替んと歎来し命も今は被惜ける。恋悲みし月日は、天の羽衣撫尽すらん程よりも長く、相見て後のたゞちは、春の夜の夢よりも尚短し。忽に此悲に逢ける契の程こそ哀なれ。末の露本の雫、後れ先立つ道をこそ、悲き物と聞つるに、浪の上、煙の底に、沈み焦れん別れの憂さ、こはそもいかゞすべきと、互に名残を惜つゝ、伏まろびてぞ被泣ける。 |
今や残った者といえば、三族から逃れられない一門の者たちや厚い恩を受けた譜代の家臣で、わずか七十九人だけだった。5月17日の正午頃、敵がすでに一万騎以上で攻めてくると聞いたので、「我々この少数で戦っても何も成し遂げられないだろう。無駄な戦いをして捕らえられ囚われる恥をかくことは後世までの笑いものになる」と言い、敵が接近する前に女性や子供たちを舟に乗せて入り江に沈め、自分たちは城内で自害しようと決意した。 名越高家(遠江守)の妻は夫婦の契りを結んで今年で二十一年になり、愛情深く二人の男子を育てていた。兄は九歳、弟は七歳だった。修理亮有公(高家の弟)の妻とは親しくなってすでに三年以上になるが妊娠中であり出産も間近であった。兵庫助貞持(高家の甥)の妻は四、五日前に京から迎えた上級女房である。かつてその比類なき美しい容姿に一目惚れし、「簾の隙間からのぞけたら」と三年以上思い焦がれた末、ようやく手段を尽くして密かに連れ出したばかりだった。結ばれてからまだ昨日今日ほどの短さゆえ、逢瀬にかけたい命すら惜しいと思うほどである。恋に苦しんだ月日は天の羽衣で払い切るよりも長く、会えた後の時間は春の夜の夢よりさらに短かった。突然この悲劇に見舞われた縁のなんと哀れなことか。「末の露(子孫)も本の雫(親)も結局死ぬ」とは聞いてきたが、波間や煙の中に沈み焼けゆく別れの辛さを互いに嘆き合いながら倒れ伏して泣いた。 解説【集団自決の構造分析】三段階の儀式的死:
1. 弱者処理(女性・子供):「舟に沈め」→前段の鎧櫃水葬と同様、敵による穢れを避ける「清浄化」
2. 武士団自害:「城内で自害」→主従共倒れという武士道美徳 【夫人たちの対照描写】
【歴史的意義】1333年5月17日時点の政治状況: - 六波羅陥落(京都)から10日後 → 東国武士団の精神的崩壊加速 - 「七十九人」寡兵数値が示す幕府軍解体の決定的瞬間 文学的予兆性: 「浪の上・煙の底」表現は後に続く巻17で名越高家が怨霊化する際の水死イメージ(史実では斬首)と連動し、作者による虚構的演出として機能。三夫人の悲劇描写が高家怨霊に「女性供養者」という異例の特性を与える伏線となる。
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| 去程に、敵の早寄来るやらん、馬煙の東西に揚て見へ候と騒げば、女房・少き人々は、泣々皆舟に取乗て、遥の澳に漕出す。うらめしの追風や、しばしもやまで、行人を波路遥に吹送る。情なの引塩や、立も帰らで、漕舟を浦より外に誘らん。彼松浦佐用嬪が、玉嶋山にひれふりて、澳行舟を招しも、今の哀に被知たり。水手櫓をかいて、船を浪間に差留めたれば、一人の女房は二人の子を左右の脇に抱き、二人の女房は手に手を取組で、同身をぞ投たりける。紅の衣絳袴の暫浪に漂しは、吉野・立田の河水に、落花紅葉の散乱たる如に見へけるが、寄来る浪に紛れて、次第に沈むを見はてゝ後、城に残留たる人々上下七十九人、同時に腹を掻切て、兵火の底にぞ焼死ける。其幽魂亡霊、尚も此地に留て夫婦執着の妄念を遺しけるにや、近比越後より上る舟人、此浦を過けるに、俄に風向ひ波荒かりける間、碇を下して澳に舟を留めたるに、夜更浪静て、松涛の風、芦花の月、旅泊の体、万づ心すごき折節、遥の澳に女の声して泣悲む音しけり。是を怪しと聞居たる処に、又汀の方に男の声して、「其舟こゝへ寄せてたべ。」と、声々にぞ呼りける。舟人止む事を不得して、舟を渚に寄たれば、最清げなる男三人、「あの澳まで便船申さん。 |
ちょうどその時、「敵軍がすぐに攻めてくるらしい。東西に馬の煙塵が見える」と騒ぎ立てる声があがったため、女房たちや幼い子供たちは泣きながら皆で舟に乗り込み、遠くの入り江へ漕ぎ出した。恨めしい順風よ、少しでも待ってくれればよいのに旅人を波路の彼方へ吹き流すとは。無情な潮流か、戻ることもなく漕ぐ舟を浦から沖へ誘い出すかのようだ。あの松浦佐用姫が玉島山で裳裾を振り入江行く舟を招いた故事も、今の哀れさには及ばないと悟らされたのだ。水夫たちが櫓を止めて船を波間にとどめると、一人の女房(高家妻)は二人の子を左右の脇に抱え、他の二人の女房(有公妻・貞持妻)は手を取り合い、同時に身を投げた。紅い衣や深紅色の袴がしばらく波間に漂う様は吉野川や立田川で花びらや紅葉が散り乱れるようだったが、押し寄せる波にかき消され次第に沈んでいくのを見届けた後、城に残った七十九人の武士たちも同時に腹を切り兵火の中へ焼け死んだ。 その後、彼らの幽魂亡霊はなおこの地にとどまり夫婦への執着という妄念を残したのだろうか――最近越後から上京する舟人がこの浦を通りかかった時、突然風向きが変わり波が荒れたため錨をおろして入江に停泊すると、夜更けに波静まり松籟の音や芦花に映る月のもとで旅情を感じていた折、遠くの入江から女性が泣き悲しむ声が聞こえた。不思議に思っていると今度は岸辺の方から男の声で「その舟をここへ寄せてくれ」と呼びかける者がいる。船頭は仕方なく渚へ近づくと、とても気品ある三人の男性(高家・有公・貞持)が現れ「あの入江まで便乗させてほしい」と言った。 解説【死と再生の象徴描写】水葬から幽霊化への転換装置: - 自然現象の擬人化:「恨めしい風」「無情な潮流」→人間の悲劇を宇宙規模で共鳴させる修辞法 - 古典引用(松浦佐用姫):『万葉集』巻五の伝承(夫を待つ妻が石化)と対比し、本作では「集団死による物語超越」を示唆 美的昇華プロセス:
【怨霊譚の構造的特徴】時空間の二重層:
1. 歴史的時間軸:1333年5月17日自害事件(現実) 三つの声の連鎖的登場:
『太平記』全体における位置付け巻16「名越一族最期」の核心的場面として:
- 史実との乖離: 高家らは実際には陸上で戦死(『梅松論』)→水死設定は後世への怨霊伝承創出を意図
- 宗教的解釈可能性:
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| 」とて、屋形にぞ乗たりける。舟人是を乗て澳津塩合に舟を差留めたれば、此三人の男舟より下て、漫々たる浪の上にぞ立たりける。暫あれば、年十六七二十許なる女房の、色々の衣に赤き袴踏くゝみたるが、三人浪の底より浮び出て、其事となく泣しほれたる様也。男よに眤しげなる気色にて、相互に寄近付んとする処に、猛火俄に燃出て、炎男女の中を隔ければ、三人の女房は、いもせの山の中々に、思焦れたる体にて、波の底に沈ぬ。男は又泣々浪の上を游帰て、二塚の方へぞ歩み行ける。余の不思議さに舟人此男の袖を引へて、「去にても誰人にて御渡候やらん。」と問たりければ、男答云、「我等は名越遠江守・同修理亮・並兵庫助。」と各名乗て、かき消様に失にけり。天竺の術婆伽は后を恋て、思の炎に身を焦し、我朝の宇治の橋姫は、夫を慕ひてかたしく袖を波に浸す。是皆上古の不思議、旧記に載る所也。親り斯る事の、うつゝに見へたりける亡念の程こそ罪深けれ。 ○金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事 京洛已に静まりぬといへ共、金剛山より引返したる平氏共、猶南都に留て、帝都を責んとする由聞へ有ければ、中院中将定平を大将として、五万余騎、大和路へ被差向。楠兵衛正成に畿内勢二万余騎を副て、河内国より搦手にぞ被向ける。 |
そう言って男たちは船室へ上がった。舟人が入り江の沖合で船を止めると、三人の男性は船から降り立ち、果てしない波の上に立っていた。しばらくすると、十六七歳から二十歳ほどの女房たちが色とりどりの着物に赤い袴をたくし上げた姿で、三人揃って波間から浮かび上がった。何事もなかったかのように泣き濡れている様子だ。男性たちは懐かしそうな表情で近づこうとした瞬間、突然猛火が燃え上がり炎が男女の間に立ち塞がれたため、女房三人は「どうしても!」という焦れるような仕草を見せながら波底へ沈んでいった。男たちは泣きながら海上を泳ぎ戻り、二つの塚(自害した城跡)の方へ歩み去ろうとした。 余りの不思議さに舟人が一人の男性の袖をつかみ「どちら様でしょうか」と尋ねると、男は答えた。「我々は名越高家(遠江守)、その弟有公(修理亮)、そして甥貞持(兵庫助)だ」。そう名乗るや消えるように姿を消した。インドの故事にある術婆伽仙は皇后への恋慕で炎に焼かれ、わが国の宇治橋姫も夫を想い袖を波に濡らす——これら皆昔の不思議話として記録に残っているものだ。しかしこのように現実に見える亡霊執着こそ罪深いと言えよう。 ○金剛山攻め寄せた者ども誅伐のこと及び佐介貞俊について 解説【霊界における夫婦再会の劇的演出】空間配置の象徴性: 1. 船上(現世領域):舟人という第三者の視点による「目撃証言」形式で客観性担保 2. 海上(境界域): - 男→「浪の上に立つ」(武士的尊厳保持) - 女→「波底から浮かぶ」(水死による穢れ状態) 3. 猛火の介入: 自害時の兵火が霊界でも再生 → 「現世の業」を越えられぬ暗示
【名乗りによる解釈転換】
【挿入譚理の構造的意義】二つの対照的故事引用:
【場面転換の叙述技法】○金剛山段落への移行手法:
1. 歴史的時間軸復帰:「京洛已に静まりぬ」で幽霊譚終了宣言
2. 軍事行動再開: 楠木正成登場→現実世界の戦闘描写へ回帰
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| 南都に引篭る平氏の軍兵已に十方に雖退散、残留る兵尚五万騎に余たれば、今一度手痛き合戦あらんと覚るに、日来の儀勢尽はてゝ、いつしか小水の魚の沫に吻く体に成て、徒に日を送ける間、先一番に南都の一の木戸口般若寺を堅て居たりける宇都宮・紀清両党七百余騎、綸旨を給て上洛す。是を始として、百騎二百騎、五騎十騎、我先にと降参しける間、今平氏の一族の輩、譜代重恩の族の外は、一人も残留る者も無りけり。是に付ても、今は何に憑を懸てか命を可惜なれば、各打死して名を後代にこそ残すべかりけるに、攻ての業の程の浅猿さは、阿曾弾正少弼時治・大仏右馬助貞直・江馬遠江守・佐介安芸守を始として、宗との平氏十三人、並長崎四郎左衛門尉・二階堂出羽入道々蘊已下・関東権勢の侍五十余人、般若寺にして各入道出家して、律僧の形に成り、三衣を肩に懸、一鉢を手に提て、降人に成てぞ出たりける。定平朝臣是を請取て、高手小手に誡め、伝馬の鞍坪に縛屈めて、数万の官軍の前々を追立させ、白昼に京へぞ被帰ける。平治には悪源太義平、々家に被生捕て首被刎、元暦には内大臣宗盛公、源氏に被囚て大路を被渡。是は皆戦に臨む日、或は敵に被議、或は自害に無隙して、心ならず敵の手に懸りしをだに、今に至まで人口の嘲と成て、両家の末流是聞時、面を一百余年の後に令辱。 |
南都(奈良)に籠もっていた平氏軍勢はすでに四方へ敗走したが、残った兵はまだ五万騎余りいたため、「もう一度激戦があるだろう」と思われた。しかし日々の劣勢が極まり、いつの間にか浅瀬の魚が泡をくうように弱り果て、ただ時間を過ごしているうちに、まず最初に南都の木戸口・般若寺を守備していた宇都宮氏と紀清両党七百余騎が綸旨(天皇命令)を受け入れて上京した。これを皮切りに百騎二百騎、五騎十騎と我先にと降参するので、平氏一族や譜代の重臣たち以外は一人も残らなくなった。 この状況ではもう何を頼りに命を惜しむべきか——各々が戦死して名を後世に残すべきだったのに、実際には浅ましい行動に出たのだ。阿曾時治(弾正少弼)・大仏貞直(右馬助)・江馬遠江守・佐介安芸守ら平氏一族十三人と長崎四郎左衛門尉・二階堂出羽入道道蘊以下関東の有力武士五十余人は般若寺で出家し、律僧姿となって袈裟を肩にかけ鉢を持ち降伏者として現れた。中院定平朝臣は彼らを受け取ると手枷足枷をかけ馬の鞍に縛り付け、数万の官軍が見守る前を進ませ白昼の京へ送還したのである。 (歴史的教訓) 解説【武士団崩壊過程の心理描写】兵力数値の推移的表現: 生物比喩の効果:
【降伏シーンの諷刺的演出】出家行動の二重性:
【歴史教訓挿入の叙述機能】三事例比較構造:
『太平記』批判精神の核心作者価値判断の明示化: | ||||||||||||||||||||
| 況乎是は敵に被議たるにも非ず、又自害に隙なきにも非ず、勢ひ未尽先に自黒衣の身と成て、遁ぬ命を捨かねて、縲紲面縛の有様、前代未聞の恥辱也。囚人京都に着ければ、皆黒衣を脱せ、法名を元の名に改て、一人づゝ大名に預らる。其秋刑を待程に、禁錮の裏に起伏て、思ひ連ぬる浮世の中、涙の落ぬ隙もなし。さだかならぬ便に付て、鎌倉の事共を聞ば、偕老の枕の上に契を成し貞女も、むくつけゞなる田舎人どもに被奪て、王昭君が恨を貽し、富貴の薹の中に傅立し賢息も、傍へだにも寄ざりし凡下共の奴と成て、黄頭郎が夢をなせり。是等はせめて乍憂、未だ生たりときけば、猶も思の数ならず。昨日岐を過ぎ、今日は門にやすらふ行客の、穴哀や、道路に袖をひろげ、食を乞し女房の、倒て死しは誰が母也。短褐に貌を窶て縁を尋し旅人の、被捕て死せしは誰が親也と、風に語るを聞時は、今まで生ける我身の命を、憂しとぞ更に誣たれける。七月九日、阿曾弾正少弼・大仏右馬助・江馬遠江守・佐介安芸守・並長崎四郎左衛門、彼此十五人阿弥陀峯にて被誅けり。此君重祚の後、諸事の政未被行前に、刑罰を専にせられん事は、非仁政とて、潛に是を被切しかば、首を被渡までの事に及ばず、面々の尸骸便宜の寺々に被送、後世菩提をぞ被訪ける。 |
ましてやこれは敵に騙されたわけでもなく、自害の機会がなかったわけでもない。戦況はまだ尽きていないのに先立って僧侶となり、命を惜しんで逃げた結果、縄で縛られ晒される姿は前代未聞の恥辱である。捕虜たちが京都に着くと皆が僧衣を脱ぎ、法名を元の名前に戻して一人ずつ高官へ預けられた。その秋の処刑を待つ間も監禁された場所で起き伏し、思い続ける浮世の中で涙が止む暇はなかった。 不確かな噂を通じて鎌倉の事情を聞くと、夫婦揃って契りを交わした貞女までもが無骨な田舎者たちに奪われ王昭君のような恨みを抱かされ、富貴の中で育てられた賢い息子さえ傍にも寄れない卑しい身分となり黄頭郎の夢を見る始末だった。これらはせめて生きていると知っただけでもまだ救われるが——昨日までは旅路にあり今日ようやく門前にたどり着いた行客よ、哀れなことだ!道端で袖を広げ物乞いした女性が倒れて死んだのは誰の母か。粗末な服で憔悴し縁を求めた旅人が捕らえられて死んだのは誰の親かと風が語るのを聞く時、今まで生き延びた我が身の命すらも恨めしく思われたのである。 七月九日、阿曾弾正少弼(時治)・大仏右馬助(貞直)・江馬遠江守・佐介安芸守および長崎四郎左衛門など計十五人が阿弥陀峯で処刑された。この君主(後醍醐天皇)が重祚した後、諸政を施行する前に刑罰に専念することは非仁政として密かにこれを中止させたため斬首までは至らず、遺骸は適当な寺々へ送られ後世の菩提が弔われた。 解説【武士道倫理と現実のはざま】降伏批判の核心的表現: 心理描写の深化技法:
【比喩連鎖による悲劇の普遍化】歴史故事の対照的引用:
民衆惨状の告発的描写: 【処刑場面の政治的解釈】天皇介入の叙述的意義: 仏教的救済観の演出:
『太平記』史観の特質武士階級への二重メッセージ: | ||||||||||||||||||||
| 二階堂出羽入道々蘊は、朝敵の最一、武家の輔佐たりしか共、賢才の誉、兼てより叡聞に達せしかば、召仕るべしとて、死罪一等を許され、懸命の地に安堵して居たりけるが、又陰謀の企有とて、同年の秋の季に、終に死刑に被行てげり。佐介左京亮貞俊は、平氏の門葉たる上武略才能共に兼たりしかば、定て一方の大将をもと身を高く思ける処に、相摸入道さまでの賞翫も無りければ、恨を含み憤を抱きながら、金剛山の寄手の中にぞ有ける。斯る処に千種頭中将綸旨を申与へて、御方に可参由を被仰ければ、去五月の初に千葉屋より降参して、京都にぞ歴回ける。去程に、平氏の一族皆出家して、召人に成し後は、武家被官の者共、悉所領を被召上、宿所を被追出て、僅なる身一をだに措かねて、貞俊も阿波の国へ被流て有しかば、今は召仕ふ若党・中間も身に不傍、昨日の楽今日の悲と成て、ます/\身を責る体に成行ければ、盛者必衰の理の中に在ながら、今更世中無情覚て、如何なる山の奥にも身を隠さばやと、心にあらまされてぞ居たりける。さても関東の様何とか成ぬらんと尋聞に、相摸入道殿を始として、一族以下一人も不残、皆被討給て、妻子従類も共に行方を不知成ぬと聞へければ、今は誰を憑み、何を可待世とも不覚、見に付聞に随て、いとゞ心を摧き、魂を消ける処に、関東奉公の者共は、一旦命を扶からん為に、降人に雖出と、遂には如何にも野心有ぬべければ、悉可被誅とて、貞俊又被召捕てげり。 |
二階堂出羽入道道蘊は、朝廷の敵として最たる存在でありながら武家(鎌倉幕府)を補佐していたが、賢才の評判がかねてより天皇の耳に達していたため、「召し使おう」との理由で死罪一等を許され、危険な土地での居住を認められていた。しかし再び陰謀企図の疑いがあるとして同年秋についに処刑された。 佐介左京亮貞俊は平氏一族でありながら武略と才能に優れていたため、いつか一方の大将になると自負していたが、(北条)相模入道(時頼)さえも彼を評価しなかったので恨みを抱きつつ金剛山攻めの軍勢の中にいた。そこへ千種頭中将が綸旨を与えて味方に加わるよう命じたため、去る五月はじめに千葉屋敷から降参して京都を巡ったところであった。 その後平氏一族全員が出家し捕縛されると、武家の家臣たちも所領を取り上げられ宿舎を追われわずかな身一つすら保てなくなり貞俊も阿波国へ流罪となったため従者も離散、「昨日の楽しみが今日の悲しみ」と自責に駆られた。栄える者は必ず衰えるという道理とはいえ世の中のはかなさを痛感し「どんな山奥でも隠れたい」と思う心境であった。 関東の状況を尋ねると相模入道殿(時頼)一族全員が討たれ妻子も行方知れずと聞き、「もう頼るものもない」と絶望していたところ、関東奉公衆は「一時的に助かるために降伏した者たちには野心があるはずだ」として貞俊を再び捕縛したのである。 解説【敗残者の二重運命】処刑対象の選別基準: 【階層崩壊の連鎖描写】
「盛者必衰」理法の具現化時間軸対比による効果:
【歴史叙述の諷刺性】
この章段は『太平記』が単なる軍記ではなく、権力変動期における個人のアイデンティティ喪失過程を克明に描いた社会心理ドキュメントとしての価値を示している。 | ||||||||||||||||||||
| 挺も心の留る浮世ならねば、命を惜とは思はねども、故郷に捨置し妻子共の行末、何ともきかで死なんずる事の、余に心に懸りければ、最期の十念勧ける聖に付て、年来身を放たざりける腰の刀を、預人の許より乞出して、故郷の妻子の許へぞ送ける。聖是を請取て、其行末を可尋申と領状しければ、貞俊無限喜て、敷皮の上に居直て、一首の歌を詠じ、十念高らかに唱て、閑に首をぞ打せける。皆人の世に有時は数ならで憂にはもれぬ我身也けり聖形見の刀と、貞俊が最期の時着たりける小袖とを持て、急鎌倉へ下、彼女房を尋出し、是を与へければ、妻室聞もあへず、只涙の床に臥沈て、悲に堪兼たる気色に見へけるが、側なる硯を引寄て、形見の小袖の妻に、誰見よと信を人の留めけん堪て有べき命ならぬにと書付て、記念の小袖を引かづき、其刀を胸につき立て、忽にはかなく成にけり。此外或は偕老の契空くして、夫に別たる妻室は、苟も二夫に嫁せん事を悲で、深き淵瀬に身を投、或は口養の資無して子に後れたる老母は、僅に一日の餐を求兼て自溝壑に倒れ伏す。承久より以来、平氏世を執て九代、暦数已に百六十余年に及ぬれば、一類天下にはびこりて、威を振ひ勢ひを専にせる所々の探題、国々の守護、其名を挙て天下に有者已に八百人に余りぬ。 |
貞俊はこの世への未練もないので命を惜しむ気持ちはなかったが、故郷に残した妻子たちの行く末を知らずに死ぬことが特に心にかかり、最期に念仏を勧める僧侶を通じて長年身から離さなかった腰の刀を預かり人から取り寄せて故郷の妻子へ送った。僧がこれを受け取り「ご家族の安否をお尋ねしましょう」と請け負うと、貞俊は限りなく喜び座布団の上に姿勢を正し一首の歌を詠み、高らかに念仏を唱えて静かに自害した。「世にある人は数多れど憂いから逃れられぬ我が身よ」という句だった。 僧は形見の刀と貞俊が最期に着ていた小袖を持って急ぎ鎌倉へ下り、妻を見つけて渡すと彼女は聞くのも耐えられず涙ながら床に伏し悲嘆にくれていたが、傍らの硯を引き寄せて形見の小袖の裾に「この着物を見る者は誰か? 私のような者が生き永らえるべき命ではない」と書き付け、その小袖を抱き締め刀で胸を刺してたちまち息絶えた。 これ以外にも夫との偕老の誓いが虚しく別れた妻は二股にかけることを恥じて深淵に身を投げたり、養う資産なく子に先立たれた老母はわずかな食べ物すら得られず溝に倒れ伏したりした。承久の乱(1221年)以来、平氏が世を支配して九代百六十余年も経ったため一族は天下にはびこり、各地で威勢を振るう探題や国ごとの守護など名のある者だけで八百人以上に及んでいたのだ。 解説【死の美学と家族愛の葛藤】貞俊自害の心理的構造: 妻の殉死描写に見る女性像:
【階層横断的な悲劇図譜】
【歴史的時間軸操作】末尾段落の機能:
『太平記』叙述技法の革新性
この章段は軍記物として初めて「敗者個人の内面」と「家族崩壊プロセス」を深層的に描き、後世の近松心中物などに影響を与えた先駆的悲劇文学である。 | ||||||||||||||||||||
| 況其家々の郎従たる者幾万億と云数を不知。去ば縦六波羅こそ輒被責落共、筑紫と鎌倉をば十年・二十年にも被退治事難とこそ覚へしに、六十余州悉符を合たる如く、同時に軍起て、纔に四十三日の中に皆滅びぬる業報の程こそ不思議なれ。愚哉関東の勇士、久天下を保ち、威を遍海内に覆しかども、国を治る心無りしかば、堅甲利兵、徒に梃楚の為に被摧て、滅亡を瞬目の中に得たる事、驕れる者は失し倹なる者は存す。古へより今に至まで是あり。此裏に向て頭を回す人、天道は盈てるを欠事を不知して、猶人の欲心の厭ことなきに溺る。豈不迷乎。 |
ましてや彼らの家々の郎党たちは数えきれないほどいた。たとえ六波羅(京都守護)が簡単に落ちても筑紫(九州)と鎌倉を攻略するには十年二十年かかると思われていたのに、六十余州すべてが申し合わせたかのように同時に挙兵し、わずか四十三日の間に全て滅んでしまった。この因果応報のほどはまことに不思議である。ああ愚かな関東(鎌倉幕府)の勇士たちよ!長く天下を治め威光を全国に広げながらも国を統治する心構えがなかったため、堅固な甲冑と鋭い武器はむだに打ち砕かれ瞬時に滅亡してしまった。驕る者は地位を失い慎ましい者は存続するという道理は昔から今まで変わらない。それでも悟ろうとしない人々は天の理が満ちれば欠けることを理解せず、なおも際限ない人間の欲望に溺れている。これこそ迷いではないか。 解説【滅亡劇の三段階構成】
『太平記』史観の核心原理
警世的メッセージの二重性
軍記文学から教訓文学へ転換
この段落は単なる史実叙述ではなく、「権力維持には道義的基盤が必要」という政治哲学を凝縮し、中世日本における『君主論』的先見性を示す。特に「驕れる者は失し倹なる者は存す」の句は、『平家物語』「祇園精舎」の世界観を受け継ぎつつも、より具体的な統治責任論へ昇華させている点で特筆される。 |
| input text 太平記\012_太平記_巻12.txt | 現代日本語 translated text | |||||||||||||||||||||||
| 太平記 太平記巻第十二 ○公家一統政道事 先帝重祚之後、正慶の年号は廃帝の改元なればとて被棄之、本の元弘に帰さる。其二年の夏比、天下一時に評定して、賞罰法令悉く公家一統の政に出しかば、群俗帰風若被霜而照春日、中華懼軌若履刃而戴雷霆。同年の六月三日、大塔宮志貴の毘沙門堂に御座有と聞へしかば、畿内・近国の勢は不及申、京中・遠国の兵までも、人より先にと馳参ける間、其勢頗尽天下大半をぬらんと夥し。同十三日に可有御入洛被定たりしが、無其事と、延引有て、被召諸国兵、作楯砥鏃、合戦の御用意ありと聞へしかば、誰が身の上とは知ね共、京中の武士の心中更に不穏。依之主上右大弁宰相清忠を勅使にて被仰けるは、「天下已に鎮て偃七徳之余威、成九功之大化処に、猶動干戈被集士卒之条、其要何事乎、次四海騒乱の程は、為遁敵難、一旦其容を雖被替俗体、世已に静謐の上は急帰剃髪染衣姿、門迹相承の業を事とし給べし。」とぞ被仰ける。宮、清忠を御前近く被召、勅答申させ給けるは、「今四海一時に定て万民誇無事化、依陛下休明徳、由微臣籌策功矣。而に足利治部大輔高氏僅に以一戦功、欲立其志於万人上。今若乗其勢微不討之、取高時法師逆悪加高氏威勢上に、者なるべし。是故に挙兵備武、全非臣罪。 |
先帝(後醍醐天皇)が再び皇位についた後、正慶の年号は廃された天皇(光厳天皇)による改元だったため捨てられ、もとの元弘に戻された。その二年目の夏ごろ、天下一斉に評定し賞罰や法令すべてを朝廷中心の政治で行ったので、人々は霜が晴れた春の日のように喜び、世の中は雷鳴をいただき刃を踏むかのような畏れを持った。同年六月三日、大塔宮(護良親王)が志貴山毘沙門堂におられるという噂が広まると、畿内や近国の兵だけでなく京中・遠国からも我先にと駆けつけたため、その勢いは天下の大半を覆うほど膨れ上がった。同月十三日の入洛(京都入り)は取り止めとなり、諸国の兵を集めて盾を磨き矢じりを作らせるなど戦いの準備があると聞こえてきたので、京中の武士たちは身分に関わらず心が大きく揺れた。 これにより天皇は右大弁・宰相清忠を使者としてこう伝えさせた:「天下はすでに治まり武威も収まったこの時に、なぜ武器を動かし兵士を集めるのか? 世の中が静まった以上、(あなたは)早く剃髪して僧侶となり門跡(寺院の継承者)として生きるべきだ」と。 これに対し大塔宮は清忠を御前へ呼び、返答された:「今や天下が平定され民が平和を喜ぶのは陛下の徳と私の策によるものです。しかし足利治部大輔(尊氏)はたった一戦の功績で万人の上に立とうとしています。もしこの機を逃せば悪事を行う高時法師(北条高時)が尊氏の勢力を利用するでしょう。だからこそ兵を挙げるのであって私の過ちではありません」 解説【建武政権の矛盾点】
「公家一統」の逆説的崩壊要因
軍記物としての叙述技法
歴史的意義と教訓この章段は「建武の新政」失敗の核心である 三つの分裂: 『太平記』が暗示するのは「理想的な復古政治すら人間の権力欲で瓦解する」という冷徹な史観。特に清忠勅使と護良返答の対話形式は、双方に正義があることを示しつつ、その衝突が必然的に全国戦乱(南北朝動乱)へ拡大する運命を予告している点で文学的完成度が高い。 | |||||||||||||||||||||||
| 次剃髪の事、兆前に不鑒機者定て舌を翻さん歟。今逆徒不測滅て天下雖属無事、与党猶隠身伺隙、不可有不待時。此時上無威厳、下必可有暴慢心。されば文武の二道同く立て可治今の世也。我若帰剃髪染衣体捨虎賁猛将威、於武全朝家人誰哉。夫諸仏菩薩垂利生方便日、有折伏・摂受二門。其摂受者、作柔和・忍辱之貌慈悲為先、折伏者、現大勢忿怒形刑罰為宗。況聖明君求賢佐・武備才時、或は出塵の輩を帰俗体或退体の主を奉即帝位、和漢其例多し。所謂賈嶋浪仙は、釈門より出て成朝廷臣。我朝天武・孝謙は、替法体登重祚位。抑我栖台嶺幽渓、纔守一門迹、居幕府上将、遠静一天下、国家の用何れをか為吉。此両篇速に被下勅許様に可経奏聞。」被仰、則清忠をぞ被返ける。清忠卿帰参して、此由を奏聞しければ、主上具に被聞召、「居大樹位、全武備守、げにも為朝家似忘人嘲。高氏誅罰の事、彼不忠何事ぞ乎。太平の後天下の士卒猶抱恐懼心。若無罪行罰、諸卒豈成安堵思哉。然ば於大樹任不可有子細。至高氏誅罰事堅可留其企。」有聖断、被成征夷将軍宣旨。依之宮の御憤も散じけるにや、六月十七日志貴を御立有て、八幡に七日御逗留有て、同二十三日御入洛あり。其行列・行装尽天下壮観。先一番赤松入道円心、千余騎にて前陣を仕る。 |
私が還俗しないことについて、先見の明がない者はきっと批判するだろう。今や逆賊は滅び天下は平穏だが、残党が潜伏して隙を狙っているため油断できない。この時期に権威を示さねば下々は必ず傲慢になる。ゆえに文武両道で国を治めるべきだ。もし私が僧侶の姿に戻り武将としての力を捨てれば、朝廷のために武を司る者はいなくなる。そもそも仏菩薩が衆生を救う手段には折伏(厳罰)と摂受(慈悲)がある。摂受は柔和な態度で慈悲を示し、折伏は怒りの形相で刑罰を与えるものだ。まして明君が賢臣や武人を求める際、僧侶から還俗させたり退位した主君を帝位につける例は日本でも中国でも多い。例えば賈島浪仙(唐の詩人)は仏門から朝廷へ出仕し、わが朝では天武天皇・孝謙天皇は僧体から皇位に就いた。私は比叡山で一寺を守るより幕府上級将軍として天下平定にあたることが国益となる。よって還俗許可の勅許を早急に奏上願いたい。」と述べ、清忠を帰らせた。 清忠が戻りこの旨を報告すると、天皇は詳しく聞かれ「征夷大将軍職につき武備を整えるのは朝廷のために当然だ(人々の嘲笑など恐れぬ)。尊氏誅罰に関してだが彼に不忠があろうと太平後に兵士たちの不安心を無視できない。罪なき者への処刑は士卒の安心を得られまい。ゆえに大将軍任命には異存ないが、尊氏誅罰計画だけは中止させよ」との決断を示し征夷将軍宣旨を与えた。これで親王の怒りも収まったか六月十七日に志貴山を立ち八幡で七日滞在後同二十三日に入洛した。その行列と装いは天下の壮観となり、先陣は赤松入道円心が千余騎で仕切った。 解説【護良親王の論理構成】
後醍醐天皇の政治的判断
『太平記』の叙述的特徴
歴史的帰結との関連この場面で露呈した 三つの政権矛盾: 結果的に護良親王は1334年に尊氏派に捕縛され、このシーンで描かれた権力基盤(入洛の威容)が虚構であったことが示される。『太平記』はここで「理念的理想主義者の敗北」を暗示しつつ、天皇の現実主義にも武士統制失敗という限界があることを二重構造で描いている点に史書としての深みがある。 | |||||||||||||||||||||||
| 二番に殿法印良忠、七百余騎にて打つ。三番には四条少将隆資、五百余騎。四番には中院中将定平、八百余騎にて打る。其次に花やかに鎧ふたる兵五百人勝て、帯刀にて二行に被歩。其次に、宮は赤地の錦の鎧直垂に、火威の鎧の裾金物に、牡丹の陰に獅子の戯て、前後左右に追合たるを、草摺長に被召、兵庫鎖の丸鞘の太刀に、虎の皮の尻鞘かけたるを、太刀懸の半に結てさげ、白篦に節陰許少塗て、鵠の羽を以て矧だる征矢の三十六指たるを筈高に負成、二所藤の弓の、銀のつく打たるを十文字に拳て、白瓦毛なる馬の、尾髪飽まで足て太逞に沃懸地の鞍置て、厚総の鞦の、只今染出たる如なるを、芝打長に懸成し、侍十二人に双口をさせ、千鳥足を蹈せて、小路を狭しと被歩。後乗には、千種頭中将忠顕朝臣千余騎にて被供奉。猶も御用心の最中なれば、御心安兵を以て非常を可被誡とて、国々の兵をば、混物具にて三千余騎、閑に小路を被打。其後陣には湯浅権大夫・山本四郎次郎忠行・伊東三郎行高・加藤太郎光直、畿内近国の勢打込に、二十万七千余騎、三日支てぞ打たりける。時移り事去て、万づ昔に替る世なれども、天台座主忽に蒙将軍宣旨、帯甲冑召具随兵、御入洛有し分野は、珍かりし壮観也。其後妙法院宮は四国の勢を被召具、讚岐国より御上洛あり。 |
次に二番手として殿法印良忠が七百余騎を率いて進んだ。三番手は四条少将隆資の五百余騎、四番手には中院中将定平の八百余騎が続いた。その後に華やかな甲冑姿の兵士五百人が帯刀して二列で行進し、さらに護良親王(宮)は赤地に錦模様の鎧直垂をまとい、火焔文様の鎧草摺には金具が施され、「牡丹に獅子」の意匠があしらわれていた。兵庫鎖付きの丸鞘太刀を虎皮の尻鞘で包み、太刀懸けの中ほどに結び下げている。白木の篦弓には節の陰りをわずかに塗装し、白鳥の羽根を用いた征矢三十六本を高く背負い、二所藤製の銀打ち弓を十字形に構えた。乗馬は純白の芦毛馬で尾とたてがみは豊か、逞しい体躯に沃懸地模様の鞍を置き、厚手総ひもの鞦革(しりがい)を鮮やかに染め上げ芝打ち長く垂らしている。十二人の侍従に左右から控えさせ、千鳥足で歩ませたため道幅が狭まったように見えた。後陣には千種頭中将忠顕朝臣の千余騎が供奉し、さらに警戒態勢として各国からの兵士三千余騎が武具を揃えて緩やかに進んだ。最後尾では湯浅権大夫・山本四郎次郎忠行・伊東三郎行高・加藤太郎光直ら畿内近国の軍勢二十万七千余騎が三日かけて続いた。時代は移り世の中が変わったとはいえ、天台座主(護良親王)が突如征夷将軍に任じられ甲冑を着け大軍を率いて入洛した光景は稀に見る壮観であった。その後妙法院宮も四国の兵を引き連れて讃岐国から上洛された。 解説【行列出陣の構造と象徴性】
『太平記』の軍勢表現技法
歴史的背景と矛盾点
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| 万里小路中納言藤房卿は、預人小田民部大輔相具して常陸国より被上洛。春宮大進季房は配所にて身罷にければ、父宣房卿悦の中の悲み、老後の泪満袖。法勝寺円観上人をば、預人結城上野入道奉具足上洛したりければ、君法体の無恙事を悦び思召て、軈て結城に本領安堵の被成下綸旨。文観上人は硫黄嶋より上洛し、忠円僧正は越後国より被帰洛。総じて此君笠置へ落させ給し刻、解官停任せられし人々、死罪流刑に逢し其子孫、此彼より被召出、一時に蟄懐を開けり。されば日来誇武威無本所を、権門高家の武士共、いつしか成諸庭奉公人、或は走軽軒香車後、或跪青侍恪勤前。世の盛衰時の転変、歎に叶はぬ習とは知ながら、今の如にて公家一統の天下ならば、諸国の地頭・御家人は皆奴婢・雑人の如にて有べし。哀何なる不思議も出来て、武家執四海権世中に又成かしと思ふ人のみ多かりけり。同八月三日より可有軍勢恩賞沙汰とて、洞院左衛門督実世卿を被定上卿。依之諸国の軍勢、立軍忠支証捧申状望恩賞輩、何千万人と云数を不知。実に有忠者は憑功不諛、無忠者媚奥求竈、掠上聞間、数月の内に僅に二十余人の恩賞を被沙汰たりけれ共、事非正路軈被召返けり。さらば改上卿とて、万里小路中納言藤房卿を被成上卿、申状を被付渡。 |
万里小路中納言藤房卿は護衛役である小田民部大輔を伴って常陸国から上洛した。春宮大進季房が流刑地で亡くなったため、父の宣房卿は喜びの中にも悲しみを感じ、老後の涙で袖を濡らした。法勝寺円観上人は護衛役である結城上野入道によってしっかりと守られて上洛してきたので、君主(後醍醐天皇)が無事なことを心から喜ばれ、すぐに結城に対して本領安堵の綸旨を与えた。文観上人は硫黄島より上洛し、忠円僧正は越後国から帰京した。総じてこの君主(護良親王)が笠置山へ落ち延びられた時、解任や流罪に処された人々や死罪・流刑に遭った者たちの子孫を各地から召し出し、一気に潜伏中の不満を晴らした。そのため日頃は本拠もないのに武威を誇っていた権門貴族の武士たちがいつしか諸家へ奉公人となり、ある者は軽装で牛車の後ろを走り、ある者は青侍(下級官人)として跪いて勤めに励むようになった。世の盛衰や時の移り変わりは嘆きに耐えない常とは知りつつも、このまま公家中心の天下が続けば諸国の地頭・御家人たちは皆奴隷同然になるだろうと哀れみ、不思議なことが起きて武家が再び政権を握る世の中になることを願う者だけが多かった。同年八月三日から軍勢への恩賞審査を行うために洞院左衛門督実世卿が裁決役に任命された。これにより諸国からの兵士たちや戦功証明書を持った恩賞申請者が何千万人とも知れぬ数で集まった。実際には忠誠ある者は功績を頼りにおもねらず、無い者は権力者へ媚びて便宜を得ようとし、報告が混乱する中で数ヶ月の間にわずか二十余人への恩賞しか決められなかったものの、手続きに不備があったですぐ取り消された。そこで裁決役を交代させ万里小路中納言藤房卿を新たな担当者として任命し、申請書類が引き継がれた。 解説【建武政権下の社会変動と矛盾】
『太平記』特有の史的諷刺
歴史的背景考察
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| 藤房請取之糾忠否分浅深、各申与んとし給ひける処に、依内奏秘計、只今までは朝敵なりつる者も安堵を賜り、更に無忠輩も五箇所・十箇所の所領を給ける間、藤房諌言を納かねて称病被辞奉行。角て非可黙止とて、九条民部卿を上卿に定て御沙汰有ける間、光経卿、諸大将に其手の忠否を委細尋究て申与んとし給ける処に、相摸入道の一跡をば、内裏の供御料所に被置。舎弟四郎左近大夫入道の跡をば、兵部卿親王へ被進。大仏陸奥守の跡をば准后の御領になさる。此外相州の一族、関東家風の輩が所領をば、無指事郢曲妓女の輩、蹴鞠伎芸の者共、乃至衛府諸司・官女・官僧まで、一跡・二跡を合て、内奏より申給りければ、今は六十六箇国の内には、立錐の地も軍勢に可行闕所は無りけり。浩ければ光経卿も、心許は無偏の恩化を申沙汰せんと欲し給けれ共、叶はで年月をぞ被送ける。又雑訴の沙汰の為にとて、郁芳門の左右の脇に決断所を被造。其議定の人数には、才学優長の卿相・雲客・紀伝・明法・外記・官人を三番に分て、一月に六箇度の沙汰の日をぞ被定ける。凡事の体厳重に見へて堂々たり。去ども是尚理世安国の政に非りけり。或は自内奏訴人蒙勅許を、決断所にて論人に理を被付、又決断所にて本主給安堵、内奏より其地を別人の恩賞に被行。 |
藤房が申請書を受け取り忠節の有無を検証しようとしたところ、宮中での密かな策略により、これまで朝敵だった者までも領地安堵を与えられ、さらに功績のない者にも五箇所・十箇所と所領が授けられたため、藤房は諫言を受け入れられず病気を理由に職務を辞任した。この事態を放置できぬとして九条民部卿が裁決役に任命されると、光経卿(万里小路宣房)が諸大将から詳細な戦功報告を取りまとめようとした。その間に相模入道(北条高時)の旧領は天皇の御料所とされ、弟である四郎左近大夫入道(北条泰家)の旧領は兵部卿親王に献上された。大仏陸奥守(北条維貞)の旧領は准后(西園寺寧子)の所有地となり、その他相模国ゆかりの一族や関東武士団の所領も、理由なく芸能者・蹴鞠師ら、さらには衛門府官人・女官・僧侶までもが宮中への請願で獲得した。このため今や六十六ヶ国の中で兵士たちに分配できる空地は全くなくなってしまった。こうした状況下で光経卿も公平な恩賞処理を試みたが叶わず、月日だけが過ぎていった。また雑務訴訟の裁決のために郁芳門院の左右に「決断所」が設置され、議定役には学識優れた公家・学者・法律家らを三班制で配置し、月六回の審理日を定めた。外見は厳粛な体制に見えたものの、これも国家安定の政策とは程遠い実態だった。宮中からの勅許を得た訴えが決断所で却下されたり、逆に決断所での領地認可が内奏で他人への恩賞と差し替えられるなど混乱を極めた。 解説【建武政権の制度崩壊過程】
『太平記』の制度的批判
歴史的帰結
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| 如此互に錯乱せし間、所領一所に四五人の給主付て、国々の動乱更に無休時。去七月の初より中宮御心煩はせ給けるが、八月二日隠させ給ふ。是のみならず十一月三日、春宮崩御成にけり。是非只事、亡卒の怨霊共の所為なるべしとて、止其怨害、為令趣善所、仰四箇大寺、大蔵経五千三百巻を一日中に被書写、法勝寺にて則供養を遂られけり。 ○大内裏造営事付聖廟御事 翌年正月十二日、諸卿議奏して曰、「帝王の業、万機事繁して、百司設位。今の鳳闕僅方四町の内なれば、分内狭して調礼儀無所。四方へ一町宛被広、建殿造宮。是猶古の皇居に及ばねばとて、大内裏可被造。」とて安芸・周防を料国に被寄、日本国の地頭・御家人の所領の得分二十分一を被懸召。抑大内裡と申は、秦の始皇帝の都、咸陽宮の一殿を摸して被作たれば、南北三十六町、東西二十町の外、竜尾の置石を居へて、四方に十二の門を被立たり。東には陽明・待賢・郁芳門、南には美福・朱雀・皇嘉門、西には談天・藻壁・殷富門、北には安嘉・偉鑒・達智門、此外上東・上西、二門に至迄、守交戟衛伍長時に誡非常たり。三十六の後宮には、三千の淑女飾妝、七十二の前殿には文武の百司待詔。紫宸殿の東西に、清涼殿・温明殿。当北常寧殿・貞観殿。 |
こうして互いに混乱している間に、一つの所領に四、五人の所有者が付けられ、諸国の争いはますます止まなかった。前年7月初旬から皇后(中宮)がご病気になられたが、8月2日に崩御された。それだけでなく11月3日には皇太子(春宮)も亡くなった。これはただならぬことで、戦死者の怨霊の仕業に違いないとして、その害を止め善行に向かわせるため、四つの大寺に対して命令し、大蔵経五千三百巻を一日で書き写させ、法勝寺ですぐに供養を行った。 ○ 大内裏造営と聖廟に関する事柄 解説【建武政権下の社会的混乱】
【大内裏造営の問題点】
『太平記』の歴史観
政治的帰結
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| 々々々と申は、后町の北の御匣殿也。校書殿と号せしは、清涼殿の南の弓場殿也。昭陽舎は梨壺、淑景舎は桐壺、飛香舎は藤壺、凝花舎は梅坪、襲芳舎と申は雷鳴坪の事也。萩戸・陣座・滝口戸・鳥曹司・縫殿。兵衛陣、左は宣陽門、右陰明門。日花・月花の両門は、対陣座左右。大極殿・小安殿・蒼龍楼・白虎楼。豊楽院・清署堂、五節の宴水・大嘗会は此所にて被行。中和院は中院、内教坊は雅楽所也。御修法は真言院、神今食は神嘉殿、真弓・競馬をば、武徳殿にして被御覧。朝堂院と申は八省の諸寮是也。右近の陣の橘は昔を忍ぶ香を留め、御階に滋る竹の台幾世の霜を重ぬらん。在原中将の弓・胡■を身に添て、雷鳴騒ぐ終夜あばらなる屋に居たりしは、官の庁の八神殿、光源氏大将の、如物もなしと詠じつゝ、朧月夜に軻しは弘徽殿の細殿、江相公の古へ越の国へ下しに、旅の別を悲て、「後会期遥也。濡纓於鴻臚之暁涙」と、長篇の序に書たりしは、羅城門の南なる鴻臚館の名残なり。鬼の間・直盧・鈴の縄。荒海の障子をば、清涼殿に被立、賢聖の障子をば、紫宸殿にぞ被立ける。東の一の間には、馬周・房玄齢・杜如晦・魏徴、二の間には、諸葛亮・遽伯玉・張子房・第伍倫、三の間には、管仲・■禹・子産・蕭何、四の間には、伊尹・傅説・太公望・仲山甫、西の一の間には、李勣・虞世南・杜預・張華、二の間には、羊■・揚雄・陳寔・班固、三の間には、桓栄・鄭玄・蘇武・倪寛、四の間には、董仲舒・文翁・賈誼・叔孫通也。 |
紫宸殿というのは后町の北にある御匣殿である。校書殿と呼ばれたのは清涼殿南側の弓場殿であった。昭陽舎は梨壺、淑景舎は桐壺、飛香舎は藤壺、凝花舎は梅坪、襲芳舎とは雷鳴坪のことである。萩戸・陣座・滝口戸・鳥曹司・縫殿がある。兵衛陣の左側には宣陽門、右側には陰明門があった。日華門と月華門の二つの門は陣座の左右に向かい合っていた。大極殿・小安殿・蒼龍楼・白虎楼もあった。豊楽院や清署堂では五節の宴や水飲みの儀、大嘗会が行われた。中和院は中院を指し、内教坊とは雅楽所のことである。御修法を行うのは真言院で、神今食(神膳供進)は神嘉殿で行い、流鏑馬・競馬は武徳殿でご覧になった。朝堂院というのは八省の諸役所を指す。右近衛陣にある橘の木は昔を偲ぶ香りを留め、御階に茂る竹の台には幾世代もの霜が重なったことであろう。在原業平中将が弓と胡簶(矢入れ)を身につけ、雷鳴騒ぐ夜通し粗末な屋根の下で過ごしたのは八神殿という役所であり、光源氏大将が「何とも言いようがない」と詠じながら朧月夜にかすむ弘徽殿細殿を見たのもここである。江相公(白居易)が昔越の国へ赴任する際、旅立ちを悲しみ「再会は遥か先だ 鴻臚館の暁に涙で冠の紐を濡らす」と長篇序文に書いたのは羅城門南にある鴻臚館の名残である。鬼の間・直廬(詰所)・鈴の縄もある。荒海が描かれた障子は清涼殿に立てられ、賢聖図屏風は紫宸殿に据えられた。東一の間には馬周・房玄齢・杜如晦・魏徴、二の間には諸葛亮・遽伯玉・張良(子房)・第五倫、三の間には管仲・禹王・子産・蕭何、四の間には伊尹・傅説・太公望・仲山甫が描かれた。西一の間には李勣・虞世南・杜預・張華、二の間には羊祜・揚雄・陳寔・班固、三の間には桓栄・鄭玄・蘇武・倪寛、四の間には董仲舒・文翁・賈誼・叔孫通が描かれていた。 解説【後宮と儀礼空間の体系】
【文学と現実の重層描写】
【日中複合的な権威表象】
建築史的特徴
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| 画図は金岡が筆、賛詞は小野道風が書たりけるとぞ承る。鳳の甍翔天虹の梁聳雲、さしもいみじく被造双たりし大内裏、天災消に無便、回禄度々に及で、今は昔の礎のみ残れり。尋回禄由、彼唐尭・虞舜の君は支那四百州の主として、其徳天地に応ぜしか共、「茆茨不剪、柴椽不削」とこそ申伝たれ。矧や粟散国の主として、此大内を被造たる事、其徳不可相応。後王若無徳にして欲令居安給はゞ、国財力も依之可尽と、高野大師鑒之、門々の額を書せ給けるに、大極殿の大の字の中を引切て、火と云字に成し、朱雀門の朱の字を米と云字にぞ遊しける。小野道風見之、大極殿は火極殿、朱雀門は米雀門とぞ難じたりける。大権の聖者鑒未来書給へる事を、凡俗として難じ申たりける罰にや、其後より道風執筆、手戦て文字正しからざれども、草書に得妙人なれば、戦て書けるも、軈て筆勢にぞ成にける。遂に大極殿より火出て、諸司八省悉焼にけり。無程又造営有しを、北野天神の御眷属火雷気毒神、清涼殿の坤柱に落掛給し時焼けるとぞ承る。抑彼天満大神と申は、風月の本主、文道の大祖たり。天に御坐ては日月に顕光照国土、地に降下ては塩梅の臣と成て群生を利し玉ふ。其始を申せば、菅原宰相是善卿の南庭に、五六歳許なる小児の容顔美麗なるが、詠前栽花只一人立給へり。 |
絵図は巨勢金岡が描き、賛詞は小野道風が書いたと伝えられる。鳳凰のような甍が天に翔け、虹の梁が雲に聳えるほど見事に造営された大内裏も、自然災害を避ける術なく火災が度々発生し、今では昔の礎石だけが残っている。その火災原因を尋ねると、かの唐尭・虞舜のような君主は中国全土の主として徳が天地と調和したにもかかわらず、「茅葺き屋根を整えず粗末な木材も削らない」と言い伝えられたのに、ましてや小国の主である天皇がこれほどの大内裏を作ったのはその徳にふさわしくない。もし後世の王に徳なく安住させようとすれば国力は尽きると、弘法大師(空海)が見抜いて門々の額を書く際に、大極殿の「大」字の中画を引き切って「火」という字にしてしまい、朱雀門の「朱」字を「米」字に見えるよう書き換えた。小野道風がこれを見て「大極殿は火災殿か」「朱雀門は米雀門だな」と批判したところ、聖者の未来予見を凡人が非難した罰だろうか、その後道風の筆跡は震えて文字が歪み始めたが草書に優れた人だったので、震えながら書いた字もすぐに勢いのある作風となった。結局大極殿から出火し八省諸司を全焼させたほどだ。程なく再建されたものの北野天神(菅原道真)の眷属である火雷気毒神が清涼殿南西柱へ落ちかかり、またも焼失したと伝わる。そもそも天満大神とは風流・学問の根源であり、天上では日月となって国土を照らし、地上に降りれば良臣(塩梅=調和)となり民衆を導く神である。その起源は菅原是善公邸南庭で五六歳ほどの美貌の童子が花を見て独り立ち詠む姿から始まった。 解説【歴史的災害と政治的寓意】
【菅原道真神格化の三段階】
文学技法における対比構造
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| 菅相公怪しと見給て、「君は何の処の人、誰が家の男にて御坐ぞ。」と問玉に、「我は無父無母、願は相公を親とせんと思侍る也。」と被仰ければ、相公嬉く思召て、手から奉舁懐、鴛鴦の衾の下に、恩愛の養育を為事生育奉り、御名をば菅少将とぞ申ける。未習悟道、御才学世に又類も非じと見給しかば、十一歳に成せ給し時父菅相公御髪を掻撫て、「若詩や作り給ふべき。」と問進せ給ければ、少しも案じたる御気色も無て、月耀如晴雪。梅花似照星。可憐金鏡転。庭上玉芳馨。と寒夜の即事を、言ば明に五言の絶句にぞ作せ玉ける。其より後、詩は捲盛唐波瀾先七歩才、文は漱漢魏芳潤、諳万巻書玉しかば、貞観十二年三月二十三日対策及第して自詞場に折桂玉ふ。其年の春都良香の家に人集て弓を射ける所へ菅少将をはしたり。都良香、此公は無何と、学窓に聚蛍、稽古に無隙人なれば、弓の本末をも知玉はじ、的を射させ奉り咲ばやと思して、的矢に弓を取副て閣菅少将御前に、「春の始にて候に、一度遊ばし候へ。」とぞ被請ける。菅少将さしも辞退し給はず、番の逢手に立合て、如雪膚を押袒、打上て引下すより、暫しをりて堅めたる体、切て放たる矢色・弦音・弓倒し、五善何れも逞く勢有て、矢所一寸ものかず、五度の十をし給ければ、都良香感に堪兼て、自下て御手を引、酒宴及数刻、様々の引出物をぞ被進ける。 |
菅相公(是善)は不思議に思い、「あなたはどこの人で、誰の家の子なのですか」と尋ねると、「私は父も母もおらず、相公様を親と思いたく存じます」と言った。そこで相公は喜び、手ずから抱き上げて懐に入れ、鴛鴦(えんおう)の布団の下で慈しみ育て、名前を菅少将と名付けた。まだ学問も習っていないのにその才能が並外れており、十一歳になった時、父である菅相公は髪を撫でながら「そろそろ詩を作れるか」と尋ねたところ、少しも迷う様子なく、「月の輝き晴れた雪の如く 梅の花は星に照らされたるが似たり 愛(め)づらし金鏡転ずるを 庭上には玉の芳馨あり」と寒夜の即興詩を、明快な五言絶句で詠んだ。その後、詩作では盛唐の気風をも凌ぐ七歩の才を示し、文章は漢魏時代の香りを漂わせ万巻の書に通じたため、貞観十二年三月二十三日に対策(試験)に合格して科挙の栄誉を得た。その年の春、都良香の家で人々が弓射りの集まりをしていたところへ菅少将も現れた。都良香は「この方は学問一筋で隙なく蛍雪の功を積んだ方だから、弓術など知るはずがない」と思い込み、的を射させて笑おうと企み、「春の始まりですので一度遊んでください」と言って菅少将に弓矢を差し出した。ところが菅少将は全く辞退せず、対戦相手として立ち合った。雪のように白い肌を見せるため袖をまくり上げると、弓を持ち構えて間をおき姿勢を固め放つ矢の色・弦の音・弓の反り具合がすべて力強く勢いがあり、的から一寸も外れず五度全て十本中十本を射抜いた。都良香は感動に耐えられず自ら手を取り酒宴で数時間もてなし様々な贈り物を進呈した。 解説【菅原道真の神童伝説】
【弓術エピソードの三重構造】
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| 同年の三月二十六日に、延喜帝未だ東宮にて御坐ありけるが、菅少将を被召て、「漢朝の李■は一夜に百首の詩を作けると見たり。汝盍如其才。一時に作十首詩可備天覧。」被仰下ければ、則十題を賜て、半時許に十首の詩をぞ作せ玉ける。送春不用動舟車。唯別残鴬与落花。若使韶光知我意。今宵旅宿在詩家。と云暮春の詩も其十首の絶句の内なるべし。才賢の誉・仁義の道、一として無所欠、君帰三皇五帝徳、世均周公・孔子治只在此人、君無限賞じ思召ければ、寛平九年六月に中納言より大納言に上、軈て大将に成玉ふ。同年十月に、延喜帝即御位給し後は、万機の政然自幕府上相出しかば、摂禄の臣も清花の家も無可比肩人。昌泰二年の二月に、大臣大将に成せ給ふ。此時本院大臣と申は、大織冠九代の孫、昭宣公第一の男、皇后御兄、村上天皇の御伯父也。摂家と云高貴と云、旁我に等き人非じと思ひ給けるに、官位・禄賞共に菅丞相に被越給ければ、御憤更無休時。光卿・定国卿・菅根朝臣などに内々相計て、召陰陽頭、王城の八方に埋人形祭冥衆、菅丞相を呪咀し給けれども、天道私なければ、御身に災難不来。さらば構讒沈罪科思て、本院大臣時々菅丞相天下の世務に有私、不知民愁、以非為理由被申ければ、帝さては乱世害民逆臣、諌非禁邪忠臣に非ずと被思召けるこそ浅猿けれ。 |
同年三月二十六日、延喜帝(醍醐天皇)がまだ皇太子であった時に菅少将(道真)をお召しになり、「中国の李白は一晩で百首の詩を作ったと伝わる。お前もその才能を持っているか?今すぐ十首の詩を献上せよ」と命じたところ、即座に十題を与えられ半時ほどで十首の詩をお作りになった。「舟車を動かさず春を見送る ただ残る鶯と散り花との別れのみ もし光陰が我が心を知らば 今宵は詩人の家に宿を取らん」という『暮春』の詩もその十首の中の一首である。才能・賢明さの誉れや仁義の道において欠けるところなく、「君主には三皇五帝の徳、世には周公や孔子の治世がこの人物に集約されている」と限りなく称賛されたため、寛平九年(897年)六月に中納言から大納言へ昇進し、すぐに右大将となられた。同年十月、延喜帝が即位されると政治の実権はすべて彼の手に渡ったため、摂関家も他の貴族たちも比肩できる者はいなかった。昌泰二年(899年)二月には大臣兼大将に任じられる。この時の本院大臣(藤原時平)とは大織冠(藤原鎌足)から九代目の子孫で昭宣公(基経)の長男、皇后の兄であり村上天皇の伯父にあたる人物であった。「摂関家という高貴な身分にふさわしい者はいない」と思っていたのに官位も禄も菅丞相(道真)に越えられたため激怒が収まらず、源光・藤原定国・紀菅根らと密謀して陰陽頭を呼び、都の八方に人形を埋めて冥界の衆生を祭り呪いをかけた。しかし天道は私情を持たないので道真には災難が降りかからなかった。そこで偽りの罪状で陥れようと画策し、本院大臣は度々「菅丞相は政務に私利私欲あり民の苦しみを知らず」と讒言したため、帝も「乱世を招く逆臣か」と思い込まれるという浅はかな事態となった。 解説【道真昇進史実との対応】
詩才エピソードの虚実
藤原時平側近団の構成
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| 「誰知、偽言巧似簧。勧君掩鼻君莫掩。使君夫婦為参商。請君捕峰君莫捕。使君母子成豺狼。」さしも可眤夫婦・父子の中をだに遠くるは讒者の偽也。況於君臣間乎。遂昌泰四年正月二十日菅丞相被遷太宰権帥、筑紫へ被流給べきに定りにければ、不堪左遷御悲、一首の歌に千般の恨を述て亭子院へ奉り給ふ。流行我はみくづとなりぬとも君しがらみと成てとゞめよ法皇此歌を御覧じて御泪御衣を濡しければ、左遷の罪を申宥させ給はんとて、御参内有けれ共、帝遂に出御無りければ、法皇御憤を含で空く還御成にけり。其後流刑定て、菅丞相忽に太宰府へ被流させ玉ふ。御子二十三人の中に、四人は男子にてをわせしかば、皆引分て四方の国々へ奉流。第一の姫君一人をば都に留め進せ、残君達十八人は、泣々都を立離れ、心つくしに赴せ玉ふ御有様こそ悲しけれ。年久く住馴給し、紅梅殿を立出させ玉へば、明方の月幽なるに、をり忘たる梅が香の御袖に余りたるも、今は是や古郷の春の形見と思食に、御涙さへ留らねば、東風吹ば匂をこせよ梅の花主なしとて春な忘れそと打詠給て、今夜淀の渡までと、追立の官人共に道を被急、御車にぞ被召ける。心なき草木までも馴し別を悲けるにや、東風吹風の便を得て、此梅飛去て配所の庭にぞ生たりける。 |
「誰が知ろうか、偽りの言葉は笙のように巧みだと。君に鼻を覆うなと勧めるのは、夫婦の仲を引き裂くためだ。蜂を捕まえるなと言うのは、母子を豺狼のような敵にする策略である」これほど愛しい夫婦や親子ですら讒言者の嘘で離間されるのだから、君臣の関係はなおさらであった。こうして昌泰四年(901年)正月二十日、菅丞相は太宰権帥に左遷され筑紫へ流罪と決まったため、その悲しみを一首の歌に込めて亭子院(宇多法皇)へ奉った。「たとえ朽ち果てようとも 君が堰となって留め給え」。この歌を見た法皇は涙で衣を濡らされ、左遷を取り消そうと内裏へ参上した。しかし帝(醍醐天皇)は遂に対面せず、法皇は怒りを抱いて空しく帰られた。その後流刑が確定し菅丞相は急ぎ太宰府へ送られる。二十三人いた子供のうち四人の男子は各地に分散配流され、第一王女だけが都に残された。残る十八人の子女は泣きながら都を立ち、心を引き裂かれる思いで旅立つ様は痛ましかった。長年住み慣れた紅梅殿から出発した時、明け方の月が幽かに輝く中、忘れられない梅の香りが袖に残っているのも、今となっては故郷の春の形見と思い召され、涙が止まらない。そこで「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠みながら淀川まで急ぎ進んだ。無情のはずの草木さえ別れを悲しんだのか、この梅は東風に乗って飛び立ち流刑先の庭に根づいたという。 解説【道真左遷事件の史実構造】
歌謡の象徴性
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| されば夢の告有て、折人つらしと惜まれし、宰府の飛梅是也。去仁和の比、讚州の任に下給しには、解甘寧錦纜、蘭橈桂梶、敲舷於南海月、昌泰の今配所の道へ赴せ玉ふには、恩賜の御衣の袖を片敷て、浪の上篷の底、傷思於西府雲、都に留置進せし北御方・姫君の御事も、今は昨日を限の別と悲く、知ぬ国々へ被流遣十八人の君達も、さこそ思はぬ旅に趣て、苦身悩心らめと、一方ならず思食遣に、御泪更に乾間も無れば、旅泊の思を述させ給ける詩にも、自従勅使駈将去。父子一時五処離。口不能言眼中血。俯仰天神与地祇。北御方より被副ける御使の道より帰けるに御文あり。君が住宿の梢を行々も隠るゝまでにかへり見しはや心筑紫に生の松、待とはなしに明暮て、配所の西府に着せ玉へば、埴生の小屋のいぶせきに、奉送置、都の官人も帰りぬ。都府楼の瓦の色、観音寺の鐘の声、聞に随ひ見に付ての御悲、此秋は独我身の秋となれり。起臥露のとことはに、古郷を忍ぶ御涙、毎言葉繁ければ、さらでも重濡衣の、袖乾く間も無りけり、さても無実の讒によりて、被遷配所恨入骨髄、難忍思召ければ、七日、間御身を清め一巻の告文を遊して高山に登り、竿の前に着て差挙、七日御足を翹させ給たるに、梵天・帝釈も其無実をや憐給けん。 |
そうして夢のお告げがあり、人々が「切ない」と惜しんだのが太宰府の飛び梅である。かつて仁和年間(885-889年)に讃岐守として赴任した時は、「甘寧の錦纜を解き蘭橈桂梶を用い南海の月下で船べりを叩く」といった栄華だったが、昌泰の今、配流先へ向かう道中では恩賜の御衣の袖を敷物代わりにし、「西府(太宰府)の雲を見て傷心する」有様であった。都に残された北御方(正室)や姫君との別れは「昨日限りの決別」と悲しく、各地へ流罪となった十八人の子供たちも「思いがけぬ旅で苦しんでいるだろう」と思い遣ると、涙が全く乾かなかった。その心情を詠んだ詩には「勅使に追われてより父子は五ヶ所に離散す口に言えず眼の中血あり仰ぎ見れば天神と地祇(ちぎ)のみ」とある。北御方からの使者が帰る際に託された文もあった。「貴方が宿の梢を行く姿が見えなくなるまで振り返ったことよ」。筑紫で待つ日々、ようやく配所・太宰府西府に着くと粗末な小屋の息苦しさの中、護送役人たちも都へ帰ってしまい「都府楼の瓦色観音寺の鐘声見るにつけ聞くにつけこの秋は我が身だけが悲しい」と嘆かれた。起居する露の宿では故郷を忍ぶ涙が絶えず、重ね着した衣も袖が乾く暇がないほどだった。無実の讒言による配流への恨みは骨髄に徹し耐え難い思いから七日間身を清め告文(天奏文)一巻を書き上げ山頂で捧げ祈り続けたところ梵天・帝釈もその冤罪を哀れんだという。 解説【道真配流の現実と詩的描写】
信仰形成への転換点
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| 黒雲一群天より下さがりて、此告文を把て遥の天にぞ揚りける。其後延喜三年二月二十五日遂に沈左遷恨薨逝し給ぬ。今の安楽寺を御墓所と定て奉送置。惜哉北闕春花、随流不帰水、奈何西府夜月、入不晴虚命雲、されば貴賎滴涙、慕世誇淳素化、遠近呑声悲道蹈澆漓俗。同年夏の末に、延暦寺第十三の座主、法性坊尊意贈僧正、四明山の上、十乗の床前に照観月、清心水御坐けるに、持仏堂の妻戸を、ほと/\と敲音しければ、押開て見玉ふに、過ぬる春筑紫にて正しく薨逝し給ぬと聞へし菅丞相にてぞ御坐ける。僧正奇思して、「先此方へ御入候へ。」と奉誘引、「さても御事は過にし二月二十五日に、筑紫にて御隠候ぬと、慥に承しかば、悲歎の涙を袖にかけて、後生菩提の御追善をのみ申居候に、少も不替元の御形にて入御候へば、夢幻の間難弁こそ覚て候へ。」と被申ければ、菅丞相御顔にはら/\とこぼれ懸りける御泪を押拭はせ給て、「我成朝廷臣、為令安天下、暫下生人間処に、君時平公が讒を御許容有て、終に無実の罪に被沈ぬる事、瞋恚の焔従劫火盛也。依之五蘊の形は雖壊、一霊の神は明にして在天。今得大小神祇・梵天・帝釈・四王許、為報其恨九重の帝闕に近づき、我につらかりし佞臣・讒者を一々に蹴殺さんと存ずる也。 |
黒い雲の一群が天から降りてきて、この告文を掴むと遥か天上へ昇っていった。その後延喜三年(903年)二月二十五日、ついに左遷への恨みを抱えたまま亡くなられた。現在の安楽寺をお墓所として葬る。「惜しいことだ 宮中の春の花は流れ去る水のように帰らず、嘆かわしい西府の夜月も晴れぬ雲に隠れる」。このため身分の上下を問わず人々は涙し「世の中が素朴だった時代を懐かしんだ」と言われた。遠近で声を押し殺して悲しみ、乱れた俗世を嘆いた。同年夏の末、延暦寺十三代座主・法性坊尊意僧正(贈位)が比叡山四明峰で読経中に持仏堂の戸を叩く音がしたので開けてみると、この春筑紫で亡くなったはずの菅丞相その人であった。僧正は驚き「まずこちらへお入りください」と招いた上、「確かに二月二十五日に太宰府で逝去されたとの報を受け、涙して追善供養を続けてまいりましたのに、生前と変わらぬ姿で現れられて夢か現かわからなくなってしまいました」と言う。すると菅丞相は顔に溢れる涙を拭われながら「私は朝廷の臣下として天下安寧のために生まれましたが、時平公による讒言が許され無実の罪に沈められた怨みは劫火のように燃え盛っている。肉体は滅んでも霊魂は天に在り、今や神々仏尊たちと共にこの恨みを晴らすため宮中へ赴き、私を陥れた奸臣・讒言者を一人残らず蹴殺そうと思う」と言われた。 解説【道真怨霊説話の形成過程】
怨霊宣言の歴史的意義
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| 其時定て仰山門可被致総持法験。縦雖有勅定、相構不可有参内。」と被仰ければ、僧正曰、「貴方与愚僧師資之儀雖不浅、君与臣上下之礼尚深。勅請の旨一往雖辞申、及度々争か参内仕らで候べき。」と被申けるに、菅丞相御気色俄に損じて御肴に有ける柘榴を取てかみ摧き、持仏堂の妻戸に颯と吹懸させ給ければ、柘榴の核猛火と成て妻戸に燃付けるを、僧正少も不騒、向燃火灑水の印を結ばれければ、猛火忽に消て妻戸は半焦たる許也。此妻戸今に伝て在山門とぞ承る。其後菅丞相座席を立て天に昇らせ玉ふと見へければ、軈雷内裡の上に鳴落鳴騰、高天も落地大地も如裂。一人・百官縮身消魂給ふ。七日七夜が間雨暴風烈して世界如闇、洪水家々を漂はしければ、京白河の貴賎男女、喚き叫ぶ声叫喚・大叫喚の苦の如し。遂に雷電大内の清涼殿に落て、大納言清貫卿の表の衣に火燃付て伏転べども不消。右大弁希世朝臣は、心剛なる人なりければ、「縦何なる天雷也とも、王威に不威哉。」とて、弓に矢を取副て向給へば、五体すくみて覆倒にけり。近衛忠包鬢髪に火付焼死ぬ。紀蔭連は煙に咽で絶入にけり。本院大臣あはや我身に懸る神罰よと被思ければ、玉体に立副進せ太刀を抜懸て、「朝に仕へ給し時も我に礼を乱玉はず、縦ひ神と成玉ふとも、君臣上下の義を失玉はんや。 |
その時道真は「必ず比叡山門で総持(怨霊鎮魂)の法験を施してもらうようにせよ。たとえ勅命があっても決して宮中へ入ってはならない」と言われたので、尊意僧正が「私ども師弟の縁は深いものですが、君主への礼儀こそ重んずべきです。一度ならぬ再三のご命令あれば参内せざるを得ません」と答えると、菅丞相は表情を一変させ、膳にあった石榴を取り上げて噛み砕き仏堂の扉へ吹きかけた。すると石榴の種が猛火となって燃え上がったため、僧正が騒がず洒水印(防火の印)を結ぶと炎は消え、扉は半分焦げただけだった。(この扉は今も延暦寺に伝わるとされる。)その後道真は席を立ち天へ昇り、たちまち雷鳴が宮中で轟き天地が裂けるようになった。人々は魂消えて震え上がる中、七日七夜の暴風雨により京・白河一帯が洪水に見舞われた。ついに落雷が清涼殿を直撃し、大納言藤原清貫の衣に火が付いて悶絶するも炎は消えず、右大弁平希世が「いかなる天罰か!」と弓矢で応戦しようとしたところ全身硬直して倒れた。近衛忠包は頭髪から燃えて焼死し、紀蔭連は煙に巻かれ息絶えた。(醍醐天皇の父)宇多法皇が「我が身にも神罰が」と覚悟した太刀を抜いて叫んだ。「生前も君臣礼儀を守られた貴方がたとえ神となられても上下秩序をお忘れになるとは!」 解説【清涼殿落雷事件の伝承化】
宗教的意味付けの深化
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| 金輪位高して擁護の神未捨玉、暫く静りて穏かに其徳を施し玉へ。」と理に当て宣ひければ、理にやしづまり玉けん、時平大臣も蹴殺され給はず、玉体も無恙、雷神天に上り玉ぬ。去ども雨風の降続事は尚不休。角ては世界国土皆流失ぬと見へければ、以法威神忿を宥申さるべしとて、法性坊の贈僧正を被召。一両度までは辞退申されけるが、勅宣及三度ければ、無力下洛し給けるに、鴨川をびたゝしく水増て、船ならでは道有まじかりけるを、僧正、「只其車水の中を遣れ。」と下知し給ふ。牛飼随命、漲たる河の中へ車を颯と遣懸たれば、洪水左右へ分、却て車は陸地を通りけり。僧正参内し給ふより、雨止風静て、神忿も忽に宥り給ぬと見へければ、僧正預叡感登山し玉ふ。山門の効験天下の称讚在之とぞ聞へし。其後本院大臣受病身心鎮に苦み給ふ。浄蔵貴所を奉請被加持けるに、大臣の左右の耳より、小青蛇頭を差出して、「良浄蔵貴所、我無実の讒に沈し恨を為散、此大臣を取殺んと思也。されば祈療共に以て不可有験。加様に云者をば誰とかしる。是こそ菅丞相の変化の神、天満大自在天神よ。」とぞ示給ける。浄蔵貴所示現の不思議に驚て、暫く罷加持出玉ければ、本院大臣忽に薨じ給ぬ。御息女の女御、御孫の東宮も軈て隠れさせ玉ぬ。 |
その時(宇多法皇は)「高貴な身分にあり守護神に見放されぬ私が説得を試みよう」と言い静められたので、道理で鎮まったのか藤原時平も殺されず天皇にも無事だった。雷神(道真)は天へ去ったものの暴風雨は止まず国土全体が流されるかと思われたため、朝廷は法性坊尊意僧正を召喚した。二度断られたが三度目の勅命で下山すると鴨川が増水し船しか通れない中「車で水中を行け」と指示。従者牛飼が命令通り進むと洪水が分かれ陸地を通れた。(この奇跡は)僧正入内後、雨風が止み神怒りも治まったため法皇の感謝を受け比叡山へ戻った。世間では「延暦寺の法力こそ第一」と称賛されたという。その後宇多法皇が病床に伏すと祈祷師浄蔵貴所を呼んだが、加持中に法皇両耳から小青蛇が現れ「私は無実で陥れられた菅原道真=天満大自在天神だ!恨み晴らすためこの男(法皇)を殺そう」と宣言。驚いた浄蔵貴所の祈祷も虚しく法皇は死去、娘や孫皇子も相次いで亡くなった。 解説【物語構造の三重転換】
宗教史的重要性
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| 二男八条大将保忠同重病に沈給けるが、験者薬師経を読む時、宮毘羅大将と打挙て読けるを、我が頚切らんと云声に聞成て、則絶入給けり。三男敦忠中納言も早世しぬ。其人こそあらめ、子孫まで一時に亡玉ける神罰の程こそをそろしけれ。其比延喜帝の御従兄弟に右大弁公忠と申人、悩事も無て頓死しけり。経三日蘇生給けるが、大息突出て、「可奏聞事あり、我を扶起て内裏へ参れ。」と宣ければ、子息信明・信孝二人左右の手を扶て参内し玉ふ。「事の故何ぞ。」と御尋有ければ、公忠わな/\と振て、「臣冥官の庁とてをそろしき所に至り候つるが、長一丈余なる人の衣冠正しきが、金軸の申文を捧て、「粟散辺地の主、延喜帝王、時平大臣が信讒無罪臣を被流候き。其誤尤重し、早被記庁御札、阿鼻地獄へ可被落。」と申しかば、三十余人並居玉へる冥官大に忿て、「不移時刻可及其責。」と同じ給しを、座中第二の冥官、「若年号を改て過を謝する道あらば、如何し候べき。」と宣しに、座中皆案じ煩たる体に見へて、其後、公忠蘇生仕候。」とぞ被奏ける。君大に驚思召て、軈て延喜の年号を延長に改て、菅丞相流罪の宣旨を焼捨て、官位を元の大臣に帰し、正二位の一階を被贈けり。其後天慶九年近江国比良の社の袮宜、神の良種に託して、大内の北野に千本の松一夜に生たりしかば、此に建社壇、奉崇天満大自在天神けり。 |
次男の八条大将保忠も重い病気にかかり、祈祷師が薬師経を唱える中「宮毘羅大将」と読み上げた瞬間、「私の首を切るのか!」という声に聞こえて息絶えた。三男敦忠中納言も早世し、子孫までも同時期に亡くなった神罰は恐ろしいほどだった。当時醍醐天皇の従兄弟である右大弁藤原公忠が突然死したが、三日後に蘇生し「奏上すべきことがある」と言い息子たちに支えられ参内。「冥界で身長三丈余りの者(道真霊)が金軸の文書を捧げ『天皇は讒言を信じ無実の臣下を流罪にした。阿鼻地獄へ落とせ』と訴えたところ、冥官たちが激怒して即時処罰を決めようとしたが、第二の冥官(閻魔大王か)が『年号改元で過ちを謝すればどうか』と提案し議論中に蘇生した」と奏上。天皇は驚いて直ちに「延喜」から「延長」へ改元し道真流罪の宣旨を焼却、官位復帰させ正二位追贈した。その後天慶九年(946年)、近江国比良神社の神主が神託を受け大内裏北野に一夜で千本松が生えたため社壇を築き「天満大自在天神」として祀った。 解説【政治的妥協と怨霊鎮魂メカニズム】
歴史的意義
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| 御眷属十六万八千之神尚も静り玉ざりけるにや、天徳二年より天元五年に至迄二十五年の間に、諸司八省三度迄焼にけり。角て有べきにあらねば、内裏造営あるべしとて、運魯般斧新に造立たりける柱に一首の蝕の歌あり。造とも又も焼なん菅原や棟の板間の合ん限りは此歌に神慮尚も御納受なかりけりと驚思食て、一条院より正一位太政大臣の官位を賜らせ玉ふ。勅使安楽寺に下て詔書を読上ける時天に声有て一首の詩聞へたり。昨為北闕蒙悲士。今作西都雪恥尸。生恨死歓其我奈。今須望足護天皇基。其後よりは、神の嗔も静り国土も穏也。偉矣、尋本地、大慈大悲の観世音、弘誓の海深して、群生済度の船無不到彼岸。垂跡を申せば天満大自在天神の応化の身、利物日新にして、一来結縁の人所願任心成就す。是を以て上自一人、下至万民、渇仰の首を不傾云人はなし。誠奇特無双の霊社也。去程に、治暦四年八月十四日、内裏造営の事始有て、後三条院の御宇、延久四年四月十五日遷幸あり。文人献詩伶倫奏楽。目出かりしに、無幾程、又安元二年に日吉山王の依御祟、大内の諸寮一宇も不残焼にし後は、国の力衰て代々の聖主も今に至まで造営の御沙汰も無りつるに、今兵革の後、世未安、国費へ民苦て、不帰馬于花山陽不放牛于桃林野、大内裏可被作とて自昔至今、我朝には未用作紙銭、諸国の地頭・御家人の所領に被懸課役条、神慮にも違ひ驕誇の端とも成ぬと、顰眉智臣も多かりけり。 |
天神(菅原道真)の配下である十六万八千の神々はまだ鎮まらなかったようで、天徳二年(958年)から天元五年(982年)までの25年間に朝廷各庁舎が三度も焼失した。仕方なく内裏を再建することになり、工匠たちが新たに立てた柱に一首の歌が刻まれていた。「造ってもまた焼けるだろうよ菅原や 棟木と板の合う限りは」。この歌から神慮(道真の怒り)がまだ収まっていないと天皇(一条院)は驚き、正一位太政大臣の位を追贈した。勅使が安楽寺で詔書を読み上げると天から声が響き一詩が聞こえた。「かつて北闘で悲運を負った身 今は西都(冥界)に恥を雪ぐ屍となれども 生きる恨み死ぬ歓びや如何せん ただ天皇の基盤守らんことを」。その後から神の怒りは静まり国土も平穏になった。壮麗なことよ、その本質(本地)を尋ねれば大慈大悲の観世音菩薩であり広大なる誓いの海深く衆生救済の船は彼岸へ至らぬことはない。垂迹として見れば天満大自在天神(道真)の化身で利他行いは日々新たに参詣者すべての願いを成就させる。これにより天皇から庶民まで崇敬しない者はおらず誠に比類なき霊社である。こうした中、治暦四年(1068年)八月十四日に内裏造営が始まり後三条天皇時代の延久四年(1072年)四月十五日遷幸式があった。文人は詩を献じ楽人が奏で華々しかったが間もなく安元二年(1176年)、日吉山王神の祟りにより大内すべて焼失し国の力衰え歴代天皇も再建せぬまま現代に至る。今や戦乱後の世情不安、国費不足と民苦の中「花咲く山陽で馬を休めず桃林野で牛を放たず」の如く大内裏造営計画が浮上したため昔から紙幣を用いぬわが朝廷は諸国の地頭・御家人領に課役を懸けようとした。これは神意にも背き驕慢と批判され眉をひそめる賢臣も多かった。 解説【天神信仰の変遷と政治矛盾】
社会構造的透視
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| ○安鎮国家法事付諸大将恩賞事 元弘三年春の比、筑紫には規矩掃部助高政・糸田左近大夫将監貞義と云平氏の一族出来て、前亡の余類を集め、所々の逆党を招て国を乱らんとす。又河内国の賊徒等、佐々目憲法僧正と云ける者を取立て、飯盛山に城郭をぞ構ける。是のみならず、伊与国には赤橋駿河守が子息、駿河太郎重時と云者有て、立烏帽子峯に城を拵、四辺の庄園を掠領す。此等の凶徒、加法威於武力不退治者、早速に可難静謐とて、俄に紫宸殿の皇居に構壇、竹内慈厳僧正を被召て、天下安鎮の法をぞ被行ける。此法を行時、甲冑の武士四門を堅て、内弁・外弁、近衛、階下に陣を張り、伶人楽を奏する始、武家の輩南庭の左右に立双で、抜剣四方を鎮る事あり。四門の警固には、結城七郎左衛門親光・楠河内守正成・塩冶判官高貞・名和伯耆守長年也。南庭の陣には右は三浦介、左は千葉大介貞胤をぞ被召ける。此両人兼ては可随其役由を領状申たりけるが、臨其期千葉は三浦が相手に成ん事を嫌ひ、三浦は千葉が右に立ん事を忿て、共に出仕を留ければ、天魔の障礙、法会の違乱とぞ成にける。後に思合するに天下久無為なるまじき表示也けり。されども此法の効験にや、飯盛丸城は正成に被攻落、立烏帽子城は、土居・得能に被責破、筑紫は大友・小弐に打負て、朝敵の首京都に上しかば、共に被渡大路、軈て被懸獄門けり。 |
元弘三年(1333年)春頃、筑紫では平氏一族の規矩掃部助高政と糸田左近大夫将監貞義が勢力を持ち、没落した仲間を集め各地の反逆者を招いて国を乱そうとした。また河内国の賊徒は佐々目憲法僧正という人物を担ぎ上げ飯盛山に城郭を構築し、伊予国では赤橋駿河守(北条氏)の子である駿河太郎重時が立烏帽子峰に城を作り周辺荘園を略奪した。朝廷は「これら凶徒を武力で鎮圧しない限り天下泰平は難しい」と判断し、急遽紫宸殿に壇を設け竹内慈厳僧正を招いて国家安穏の秘法(安鎮国家法)を行わせた。 この儀式では甲冑姿の武士が四方の門を固め、宮中では近衛兵らが階下に陣を張り楽人が演奏するなか、武家衆は南庭左右で剣を抜き四方を鎮める役目を担った。四門警護には結城親光・楠正成・塩冶高貞・名和長年が就き、南庭配置では右陣に三浦介(氏)、左陣に千葉大介貞胤が任命された。ところが両者は事前の役割承諾にも関わらず、当日になって千葉は「三浦と並ぶのが不愉快」と言い出し、三浦も「千葉より格下扱いは許せない」として共に欠席したため、天魔(悪魔)の妨害により法会が混乱してしまった。後に人々はこの出来事を「天下太平が続かない前兆だろう」と噂した。 しかし秘法の効験か、飯盛山城は楠正成に攻め落とされ、立烏帽子城も土居・得能勢によって陥落し、筑紫では大友氏・少弐氏が反乱軍を破った。賊徒たちの首級は京都へ送られ市中引き回しの後獄門にかけられたのである。 解説【政教儀礼と武士団の葛藤構造】
歴史的背景分析
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| 東国・西国已静謐しければ、自筑紫小弐・大友・菊池・松浦の者共、大船七百余艘にて参洛す。新田左馬助・舎弟兵庫助七千余騎にて被上洛。此外国々の武士共、一人も不残上り集ける間、京白河に充満して、王城の富貴日来に百倍せり。諸軍勢の恩賞は暫く延引すとも、先大功の輩の抽賞を可被行とて、足利治部大輔高氏に、武蔵・常陸・下総三箇国、舎弟左馬頭直義に遠江国、新田左馬助義貞に上野・播磨両国、子息義顕に越後国、舎弟兵部少輔義助に駿河国、楠判官正成に摂津国・河内、名和伯耆守長年に因幡・伯耆両国をぞ被行ける。其外公家・武家の輩、二箇国・三箇国を給りけるに、さしもの軍忠有し赤松入道円心に、佐用庄一所許を被行。播磨国の守護職をば無程被召返けり。されば建武の乱に円心俄に心替して、朝敵と成しも、此恨とぞ聞へし。其外五十余箇国の守護・国司・国々の闕所大庄をば悉公家被官の人々拝領しける間、誇陶朱之富貴飽鄭白之衣食矣。 ○千種殿並文観僧正奢侈事付解脱上人事 中にも千種頭中将忠顕朝臣は、故六条内府有房公の孫にて御坐しかば文字の道をこそ、家業とも嗜まるべかりしに、弱冠の比より我道にもあらぬ笠懸・犬追物を好み、博奕・婬乱を事とせられける間、父有忠卿離父子義、不幸の由にてぞ被置ける。 |
東国と西国の反乱が鎮まったため、筑紫から小弐氏・大友氏・菊池氏・松浦氏らが700隻以上の船で上洛した。新田義貞(左馬助)と弟の兵庫助も7,000騎を率いて入京し、他国の武士たちも一人残らず集まったため、京都の白河一帯は人々で溢れ、都の繁栄は日ごとに百倍した。すべての軍勢への恩賞実施は一旦延期されたものの、まず大功績者へ特別に領地が与えられた――足利高氏(治部大輔)には武蔵・常陸・下総の三ヶ国、弟直義(左馬頭)には遠江国、新田義貞には上野と播磨両国、息子義顕には越後国、弟義助(兵部少輔)には駿河国、楠正成(判官)には摂津・河内、名和長年(伯耆守)には因幡・伯耆両国が下賜された。その他の公家や武士にも二ヶ国から三ヶ国の領地が与えられる中で、多大な戦功を立てた赤松円心入道には佐用庄一か所のみしか支給されず、播磨守護職もすぐに剥奪された。このため建武の乱で円心が急に朝廷側を裏切ったのは「この恨み」からだと伝えられた。さらに五十余ヶ国の守護職・国司職や没収領地は全て公家の側近たちに分配され、彼らは陶朱公(金持ち)のような富貴を誇り鄭白(美食家)のように飽きるほど贅沢した。 つづいて千種殿と文観僧正の浪費に関する話および解脱上人のこと:特に千種忠顕(頭中将・朝臣)は、故六条有房公(内大臣)の孫であったため学問を家業とするべき立場だったが、若い頃から家風に反する笠懸や犬追物などの武芸を好み、賭博や淫乱な行いにふける日々を送った。その結果父・千種有忠卿は「不肖の子」として義絶し勘当したのである。 解説【建武新政権の論功行賞と矛盾】
政治力学の核心
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| され共此朝臣、一時の栄花を可開過去の因縁にや有けん、主上隠岐国へ御遷幸の時供奉仕て、六波羅の討手に上りたりし忠功に依て、大国三箇国、闕所数十箇所被拝領たりしかば、朝恩身に余り、其侈り目を驚せり。其重恩を与へたる家人共に、毎日の巡酒を振舞せけるに、堂上に袖を連ぬる諸大夫・侍三百人に余れり。其酒肉珍膳の費へ、一度に万銭も尚不可足。又数十間の厩を作双べて、肉に余れる馬を五六十疋被立たり。宴罷で和興に時は、数百騎を相随へて内野・北山辺に打出て追出犬、小鷹狩に日を暮し給ふ。其衣裳は豹・虎皮を行縢に裁ち、金襴纐纈を直垂に縫へり。賎服貴服謂之僭上。々々無礼国凶賊也と、孔安国が誡を不恥ける社うたてけれ。是はせめて俗人なれば不足言。彼文観僧正の振舞を伝聞こそ不思議なれ。適一旦名利の境界を離れ、既に三密瑜伽の道場に入給し無益、只利欲・名聞にのみ■て、更に観念定坐の勤を忘たるに似り。何の用ともなきに財宝を積倉不扶貧窮、傍に集武具士卒を逞す。成媚結交輩には、無忠賞を被申与ける間、文観僧正の手の者と号して、建党張臂者、洛中に充満して、及五六百人。されば程遠からぬ参内の時も、輿の前後に数百騎の兵打囲で、路次を横行しければ、法衣忽汚馬蹄塵、律儀空落人口譏。 |
しかしこの公卿(千種忠顕)が一時の栄華を享受できたのは過去の因縁によるものだろう。主君である後醍醐天皇が隠岐国へ流された際に供奉し、六波羅探題討伐で功績があったため大国三ヶ国と没収地数十箇所を与えられたのである。朝廷からの恩恵は身に余るほどであり、その贅沢ぶりは目を見張るものがあった。 彼が重ねての恩賞を受けた家臣たちへ毎日酒宴を振る舞うと、堂上には諸大夫や侍三百人以上が集まった。一回の宴会での酒肉珍味の費用は万銭(莫大な金)でも足りないほどだった。また数十間もの厩舎を作って五六十頭の馬を飼育し、宴後は数百騎を従えて内野や北山付近に出かけ犬追物や小鷹狩で日を暮らした。 その服装は豹皮・虎皮を行縢(乗馬用袴)に仕立て、金襴纐纈(高級絹織物)を直垂(武士の正装)に縫い付けるなどしていた。身分不相応な豪奢であるため「無礼国凶賊也」と孔子注釈者・孔安国の戒めも恥じない様子は嘆かわしい。 これが俗人であればまだしも、文観僧正の振る舞いは聞くに不思議だ。本来なら名利から離れ三密瑜伽(真言密教修行)に励むべき立場でありながら、ただ利欲や名声に溺れて座禅修行を忘れたかのようである。無駄な財宝を蓄え貧者を助けず、傍らで武具と兵士を集めて威勢を示す。媚びへつらう仲間には功績なく恩賞を与えたため、「文観僧正の手の者」と称する者が洛中に溢れ五六百人にもなった。 その結果、参内時ですら輿を数百騎の兵士が囲んで道を行く様子は横行し、法衣(僧侶服)が馬蹄の塵で汚れる一方で戒律遵守は空しく人の嘲笑となっていたのである。 解説【建武新政権批判としての人物描写】
社会的批判構造
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| 彼廬山慧遠法師は一度辞風塵境、寂寞の室に坐し給しより、仮にも此山を不出と誓て、十八賢聖を結で、長日に六時礼讚を勤き。大梅常和尚は強不被世人知住処更に茅舎を移して入深居、詠山居風味得已熟印可給へり。有心人は、皆古〔も〕今も韜光消跡、暮山の雲に伴一池の蓮を衣として、行道清心こそ生涯を尽す事なるに、此僧正は如此名利の絆に羈れけるも非直事、何様天魔外道の其心に依託して、挙動せけるかと覚たり。以何云之ならば、文治の比洛陽に有一沙門。其名を解脱上人とぞ申ける。其母七歳の時、夢中に鈴を呑と見て設たりける子なりければ、非直人とて、三に成ける時より、其身を入釈門、遂に貴き聖とは成しける也。されば慈悲深重にして、三衣の破たる事を不悲、行業不退にして、一鉢の空き事を不愁。大隠は必しも市朝の内を不辞。身は雖交五濁塵、心は不犯三毒霧。任縁歳月を渡り、利生山川を抖薮し給けるが、或時伊勢太神宮に参て、内外宮を巡礼して、潛に自受法楽の法施をぞ被奉ける。大方自余の社には様替て、千木不曲形祖木不剃、是正直捨方便の形を顕せるかと見へ、古松垂枝老樹敷葉、皆下化衆生の相を表すと覚たり。垂迹の方便をきけば、仮に雖似忌三宝名、内証深心を思へば、其も尚有化俗結縁理覚て、そゞろに感涙袖を濡しければ、日暮けれ共在家なんどに可立宿心地もし給はず、外宮の御前に通夜念誦して、神路山の松風に眠をさまし、御裳濯川の月に心を清して御坐ける処に、俄に空掻曇雨風烈吹て、雲の上に車を轟、馬を馳る音して東西より来れり。 |
あの廬山慧遠法師は俗世間から離れ静寂な庵に坐して以来、決してこの山を出ないと誓い、十八高賢を集めて終日六時にわたり礼拝誦経を続けられた。大梅法常和尚も「強いて人に住処を知らせず」としてさらに奥深く移り住み、「山居の風味を得ることすでに熟した」と師から認められた。真の求道者は古今を通じて名声を隠し、夕暮れの山雲を友とし池の蓮を衣として修行に専心するのが本分であるのに、この僧正(文観)はかくも名利の束縛にとらわれているばかりか、まるで悪魔が彼の心に入り込んで行動させているように思われる。 なぜそう言えるのかというと――文治年間(1185-1190)、都に一人の僧侶がいた。名を解脱上人といった。母は七歳の時に鈴を飲む夢を見て妊娠した子ゆえ、並みならぬ人物として三歳で出家し、ついに高徳な聖者となったのである。慈悲深く粗末な衣も悲しまず、修行を怠らず托鉢が空でも嘆かない。「大隠は必ずしも俗世を避けねばならないわけではない」と、五濁悪世に身をおきながら心は煩悩に染まらなかった。縁に任せて歳月を過ごし人々の救済のために各地を巡ったが、ある時伊勢神宮へ参詣して内外両宮を巡礼し、ひそかに自受法楽(密教修行)による法施を行じた。 他の神社とは様子が異なり、千木は曲げず棟木の端も切らない――これは方便を捨て真理に直入する姿を示しているようで、老松の垂れた枝や茂る葉すら全て衆生救済の相を表していると感じられた。神々が仏として現れる(神仏習合)意義を知れば、表面上は三宝(仏法僧)を避けているように見えても内面に深い信仰があれば俗世との縁結びになると悟り、思わず涙で袖を濡らした。日が暮れても在家の者たちのもとに宿ろうとはせず、外宮の前で徹夜して念誦し続けた。神路山の松風に眠りを覚まされ御裳濯川の月影で心を清めておられた時、突然空は暗く暴風雨が吹き荒れ、雲上で車馬が轟音と共に東西から現れたのである。 解説【聖俗二元論的構図】
核心的宗教観
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| 「あな恐しや、此何物やらん。」と上人消肝見給へば、忽然として虚空に瑩玉鏤金たる宮殿楼閣出来て、庭上に引幔門前に張幕。爰に十方より所来の車馬の客、二三千も有らんと覚たるが左右に居流て、上座に一人の大人あり。其容甚非尋常、長二三十丈も有らんと見揚たるに、頭は如夜叉十二の面上に双べり。四十二の手有て左右に相連る。或は握日月、或は提剣戟八竜にぞ乗たりける。相順処の眷属共、皆非常人、八臂六足にして鉄の楯を挟み、三面一体にして金の鎧着せり。座定て後、上坐に居たる大人左右に向て申けるは、「此比帝釈の軍に打勝て手に握日月、身居須弥頂、一足に雖蹈大海、其眷属毎日数万人亡、故何事ぞと見れば、南胆部州扶桑国洛陽辺に解脱房と云一人の聖出来て、化導利生する間、法威盛にして天帝得力、魔障弱して修羅失勢。所詮彼が角て有ん程は、我等向天帝合戦する事叶ふまじ。何にもして彼が醒道心、可着■慢懈怠心。」申ければ、甲の真向に、第六天の魔王と金字に銘を打たる者座中に進出で、「彼醒道心候はん事は、可輒るにて候。先後鳥羽院に滅武家思召心を奉着、被攻六波羅、左京権大夫義時定て向官軍可致合戦。其時加力義時ば官軍敗北して、後鳥羽院遠国へ被流給はゞ、義時司天下成敗治天を計申さんに、必広瀬院第二の宮を可奉即位。 |
「これは恐ろしい!一体何者か」と上人が肝をつぶしてご覧になると、突然虚空に宝玉や金細工が輝く宮殿の楼閣が現れ、庭には幕が張られ門前にも天蓋が設けられた。そこに四方から集まった車馬の客人が二三千人もいたかと思われる者が左右に並び、上座には一人の大人物がいる。その姿は全く尋常ではなく、身長二十丈(約60m)ほどもあるように見え上げると、頭部は夜叉のように十二面が重なり合い、四十二本の手を持って両側につらなっていた。ある手で日月を握り、別の手では剣戟を提げ、八匹の竜に乗っている。お供の眷属たちも皆常人ではなく、八本腕六脚で鉄盾を抱え、三つの顔を持つ体に金の鎧を着ていた。 着席した後、上座の大人物が左右に向かって述べた。「近頃帝釈天軍に勝利して日月を掌握し須弥山頂に君臨している我らだが、毎日数万人もの眷属が失われる。その理由を見れば、南瞻部洲(人間界)扶桑国洛陽辺りに解脱房という聖者が現れ教化利生したため、仏法の威光が盛んとなり天帝は力を得て魔障が弱まり阿修羅が劣勢となったのだ。このままだと我らは帝釈天との合戦すらできなくなる。何とかして彼(解脱上人)に慢心や怠惰の心を抱かせねばならぬ」 すると正面で「第六天魔魔王」という金字銘を持つ者が進み出て申した。「彼が悟りへの道心を持ち続けることは容易ではありませんぞ。まず後鳥羽院に武家討滅をお仕えさせ、六波羅攻撃を促しましょう。左京権大夫(北条)義時は必ず官軍との合戦に向かうでしょう。その際もし我らが義時に加勢すれば官軍は敗れ、後鳥羽院は遠流に処せられますれば、義時が天下の政務と治天を掌握するよう画策し、広瀬院第二皇子(仲恭天皇)を即位させましょう」 解説【仏教神話と歴史事件の融合構造】
核心的歴史観
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| さる程ならば、此解脱房彼宮の有御帰依聖なれば、被召官僧奉近竜顔、可刷出仕儀則。自是行業は日々に怠、■慢は時々に増て、破戒無慚の比丘と成んずる条、不可有子細、角てぞ我等も若干の眷属を可設候。」と申ければ、二行に並居たる悪魔外道共、「此儀尤可然覚候。」と同じて各東西に飛去にけり。上人聞此事給て、「是ぞ神明の我に道心を勧させ給ふ御利生よ。」と歓喜の泪を流し、其より軈京へは帰給はで、山城国笠置と云深山に卜一巌屋、攅落葉為身上衣、拾菓為口食、長発厭離穢土心鎮専欣求浄土勤し給ひける。角て三四年を過給ひける処に承久の合戦出来て、義時執天下権しかば、後鳥羽院被流させ給て、広瀬宮即天子位給ける。其時解脱上人在笠置窟聞召て、為官僧度々被下勅使被召けれ共、是こそ第六天の魔王共が云し事よと被思ければ、遂に不随勅定弥行澄してぞ御坐しける。智行徳開しかば、軈て成此寺開山、今に残仏法弘通紹隆給へり。以彼思此、うたてかりける文観上人の行儀哉と、迷愚蒙眼。遂無幾程建武の乱出来しかば、無法流相続門弟一人成孤独衰窮身、吉野の辺に漂泊して、終給けるとぞ聞へし。 ○広有射怪鳥事 元弘三年七月に改元有て建武に被移。是は後漢光武、治王莽之乱再続漢世佳例也とて、漢朝の年号を被摸けるとかや。 |
「それならばこの解脱房(げだつぼう)はあの皇子様が深く帰依される聖者であるから、朝廷に召されて僧官となり御前近侍するようになるであろう。そうなれば修行は日々怠け、傲慢さは次第に増し、破戒無慚の僧侶となるのは疑いない。ともかく我らも多少の眷属を配置しよう」と申すと、両列に並んだ悪魔外道どもが「この計画はまことに妥当です」と同調して各々東西へ飛び去った。 上人はこれを聞かれ、「これは神仏が私に求道心を奮い立たせて下さる御利益だ」と歓喜の涙を流し、その後すぐ京には戻らず山城国笠置という深山で岩屋を見つけ、落ち葉を集めて衣とし、木の実を拾って食料として、ひたすら穢れた現世への嫌悪心を固め浄土往生を願い修行に励まれた。こうして三四年過ごされた頃承久の乱が起こり義時が天下の権力を掌握したため、後鳥羽院は流罪となり広瀬宮(仲恭天皇)が即位なさった。 その時解脱上人は笠置山の洞窟でこの知らせを聞かれ、「これは第六天魔王どもの言っていた通りだ」と思われたので、朝廷からの度重なる勅使による召喚にも応じず修行に専念された。智慧と実践徳が開花したため程なくして寺(笠置寺)の開山となり現在まで仏法を広く伝え継承なさっている。 この事態をもって考えれば、まことに嘆かわしい文観上人の行状であったよと、迷い愚かな者どもは気づかない。ほどなく建武の乱が起こると無法者の弟子ばかりが相続し一人孤独に衰え貧窮した身となり吉野付近をさすらいながら亡くなったという。 ○広有(こうゆう)怪鳥射落としの事 元弘三年七月に改元があって建武へ移行した。これは後漢光武帝が王莽の乱を治め漢王朝再興の良例にならって中国王朝の年号を模倣されたという。 解説【解脱上人と文観上人の運命対比】
核心的主題
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| 今年天下に疫癘有て、病死する者甚多し。是のみならず、其秋の比より紫宸殿の上に怪鳥出来て、「いつまで/\。」とぞ鳴ける。其声響雲驚眠。聞人皆無不忌恐。即諸卿相議して曰、「異国の昔、尭の代に九の日出たりしを、■と云ける者承て、八の日を射落せり。我朝の古、堀川院の御在位時、有反化物、奉悩君しをば、前陸奥守義家承て、殿上の下口に候、三度弦音を鳴して鎮之。又近衛院の御在位の時、鵺と云鳥の雲中に翔て鳴しをば、源三位頼政卿蒙勅、射落したりし例あれば、源氏の中に誰か可射候者有。」と被尋けれ共、射はづしたらば生涯の恥辱と思けるにや、我承らんと申者無りけり。「さらば上北面・諸庭の侍共中に誰かさりぬべき者有。」と御尋有けるに、「二条関白左大臣殿の被召仕候、隠岐次郎左衛門広有と申者こそ、其器に堪たる者にて候へ。」と被申ければ、軈召之とて広有をぞ被召ける。広有承勅定鈴間辺に候けるが、げにも此鳥蚊の睫に巣くうなる■螟の如く少て不及矢も、虚空の外に翔飛ばゞ叶まじ。目に見ゆる程の鳥にて、矢懸りならんずるに、何事ありとも射はづすまじき物をと思ければ、一義も不申畏て領掌す。則下人に持せたる弓与矢を執寄て、孫廂の陰に立隠て、此鳥の有様を伺見るに、八月十七夜の月殊に晴渡て、虚空清明たるに、大内山の上に黒雲一群懸て、鳥啼こと荐也。 |
今年、天下に疫病が流行し病死する者が非常に多かった。それだけでなく、その秋ごろから紫宸殿の上に怪鳥が出没して「いつまで、いつまで」と鳴いた。その声は雲を震わせ眠りも覚ますほどで聞く人は皆恐れおののかずにはいられなかった。すぐに公卿たちが相談し言うには、「異国の昔尭(ぎょう)の時代に九つの太陽が出た時、羿(げい)という者が承って八つを射落とした。我が国でも古く堀川院御在位時に妖怪が現れて帝をお悩ませになったものを前陸奥守義家が承り殿上の下口で三度弓の弦音を鳴らして鎮めた。また近衛院御在位時には鵺(ぬえ)という鳥が雲中に飛び回って鳴いたのを源三位頼政卿が勅命を受けて射落とした例があるので、源氏の中に誰かこれを射る者がいるだろうか」と尋ねたところもし外したら生涯の恥辱と思ったためか承諾する者は一人もいなかった。 「それならば上北面(じょうほくめん)や諸庭の侍たちの中で適任者はいないか」とお尋ねがあったところ、「二条関白左大臣殿が召し仕えている隠岐次郎左衛門広有という者がその器にかなう者です」と申したので、すぐに呼び寄せて広有を召された。広有は勅命を受けて鈴間(すずのま)辺りに控えていたが確かにこの鳥は蚊の睫毛に巣くう螟虫のように小さく矢も届かないかもしれず空高く飛べば射当てられない。しかし目に見えるほどの鳥で矢を放つなら何があっても外すことはあるまいと思ったので一言異議も申さず承諾した。すぐに下人から弓と矢を受け取り孫廂(ひざし)の陰に隠れて様子を見ていると八月十七夜の月が殊更明るく照らし空は澄み渡っていたのに大内山の上には黒雲一群がかかり鳥は盛んに鳴いていた。 解説【怪異現象への対応構造】
前文脈との連続性と主題展開
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| 鳴時口より火炎を吐歟と覚て、声の内より電して、其光御簾の内へ散徹す。広有此鳥の在所を能々見課て、弓押張り弦くひしめして、流鏑矢を差番て立向へば、主上は南殿に出御成て叡覧あり。関白殿下・左右の大将・大中納言・八座・七弁・八省輔・諸家の侍、堂上堂下に連袖、文武百官見之、如何が有んずらんとかたづを呑で拳手。広有已に立向て、欲引弓けるが、聊思案する様有げにて、流鏑にすげたる狩俣を抜て打捨、二人張に十二束二伏、きり/\と引しぼりて無左右不放之、待鳥啼声たりける。此鳥例より飛下、紫宸殿の上に二十丈許が程に鳴ける処を聞清して、弦音高く兵と放つ。鏑紫宸殿の上を鳴り響し、雲の間に手答して、何とは不知、大盤石の如落懸聞へて、仁寿殿の軒の上より、ふたへに竹台の前へぞ落たりける。堂上堂下一同に、「あ射たり/\。」と感ずる声、半時許のゝめいて、且は不云休けり。衛士の司に松明を高く捕せて是を御覧ずるに、頭は如人して、身は蛇の形也。嘴の前曲て歯如鋸生違。両の足に長距有て、利如剣。羽崎を延て見之、長一丈六尺也。「さても広有射ける時、俄に雁俣を抜て捨つるは何ぞ。」と御尋有ければ、広有畏て、「此鳥当御殿上鳴候つる間、仕て候はんずる矢の落候はん時、宮殿の上に立候はんずるが禁忌しさに、雁俣をば抜て捨つるにて候。 |
その怪鳥は鳴く時に口から炎を吐いているように見え、声の中から稲妻のような光が放たれ御簾の内側まで散らばった。広有はこの鳥の居場所をしっかりと見定め、弓を押し張って弦を引き絞り、流鏑矢をつがえて立ち向かうと、主上(天皇)は南殿に出御されてご覧になっていた。関白殿下や左右大将・大中納言・八座の公卿・七弁の蔵人頭・八省輔などの高官から諸家に仕える侍まで、堂上の貴族も堂下の役人も連なり固唾を飲みながら見守る中で、広有はすでに立ち向かい弓を引こうとしたが一瞬考え込む様子があり、流鏑矢につけていた狩猟用の鏃(かぶらやじり)を抜き捨てた。二人張りの強さを持つ十二束二伏の大弓をぎいっと引きしぼって確実に放つため、鳥が鳴く時機を待っていた。この鳥はいつものように飛び降り紫宸殿の上約二十丈(約60m)で鳴いている場所を見極めると、弦音高く「ひょうっ」と矢を放った。鏑矢は紫宸殿の屋根に響き渡る音を立て雲間へ突き抜け、何か巨大なものが落ちる轟音がして仁寿殿軒上から二つ折れになって竹製の壇前へ落下した。 堂上の貴族も堂下の役人も一斉に「射たぞ!」と叫ぶ感嘆の声はしばらくやまず止む気配すらない。衛士司(警護官)が松明を高々とかざして見せると、頭部は人間のようで胴体は蛇形だった。嘴は前方に曲がり鋸のような歯が生え違っており、両足には剣のように鋭い長大な爪があった。翼を広げて測ると全長一丈六尺(約4.8m)もあった。「しかし広有よ、お前が射る時に急に狩猟鏃を取り外したのはなぜか」と天皇から尋ねられると、広有は畏まって「この鳥が御殿上で鳴いていたため、もし矢を放ち落とした際に宮殿屋根に立つことは禁忌と思い鏃のみ抜き捨てた次第です」と答えた。 解説【場面構成の特徴】
前文脈との連続性と発展
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| 」と申ければ、主上弥叡感有て、其夜軈て広有を被成五位、次の日因幡国に大庄二箇所賜てけり。弓矢取の面目、後代までの名誉也。 ○神泉苑事 兵革の後、妖気猶示禍。銷其殃無如真言秘密効験とて、俄に神泉苑をぞ被修造ける。彼神泉園と申は、大内始て成し時、准周文王霊囿、方八町に被築たりし園囿也。其後桓武の御世に、始て朱雀門の東西に被建二寺。左をば名東寺右をば号西寺。東寺には高野大師安胎蔵界七百余尊守金輪宝祚。西寺には南都の周敏僧都金剛界五百余尊を顕して、被祈玉体長久。斯りし処に、桓武御宇延暦二十三年春比、弘法大師為求法御渡唐有けり。其間周敏僧都一人奉近竜顔被致朝夕加持ける。或時御門御手水を被召けるが、水氷て余につめたかりける程に、暫とて閣き給ひたりけるを、周敏向御手水結火印を給ける間、氷水忽に解て如沸湯也。御門被御覧て、余に不思議に被思召ければ、態火鉢に炭を多くをこさせて、障子を立廻し、火気を内に被篭たれば、臘裏風光宛如春三月也。帝御顔の汗を押拭はせ給て、「此火滅ばや。」と被仰ければ、守敏又向火水の印をぞ結び給ひける。依之炉火忽に消て空く冷灰に成にければ、寒気侵膚五体に如灑水。自此後、守敏加様の顕奇特不思議事如得神変。斯しかば帝是を帰依渇仰し給へる事不尋常。 |
広有がそう申し上げると、天皇はますます感心され、その夜すぐさま彼を五位の位にお授けになり、翌日には因幡国に二箇所の大荘園を与えられた。弓術家としての面目を施し、後世まで残る名誉となった。 ○神泉苑に関する事 その間、守敏僧都だけが一人で帝の側近くに仕え朝夕加持祈祷を行った。ある時帝が手洗いの水をお召しになったところ、水面が凍って非常に冷たかったため、一旦中止なさろうとした瞬間、守敏が御用水に向かって火印を結んだ途端、氷水はたちまち解けて沸騰する湯のように熱くなった。帝がご覧になって大変不思議に思われたので、わざと火鉢に炭を大量にくべさせて障子で周囲を囲み内部の温度を上げられたところ、真冬であるのに気候はまるで三月の春のようになった。 帝は額の汗をお拭きになりながら「この炎も消してみよ」と仰せになると、守敏は再び火に向かって水印を結ばれた。すると炉火はたちまち消え去り空っぽの灰が冷たくなったため、寒気が肌に染み入るように五体全体に冷水を浴びせられたかのようだった。この出来事以来、守敏はこうした類いまれな奇跡を示す不思議な力を神変を得たかの如く発揮するようになった。そのため帝の彼への帰依と崇敬ぶりは尋常一様ではなかった。 解説【構造的意義】
前文脈との思想的発展
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| 懸りける処に弘法大師有御帰朝。即参内し給ふ。帝異朝の事共有御尋後、守敏僧都の此間様々なりつる奇特共をぞ御物語有ける。大師聞召之、「馬鳴■帷、鬼神去閉口、栴檀礼塔支提破顕尸と申事候へば、空海が有んずる処にて、守敏よもさやうの奇特をば現し候はじ。」とぞ被欺ける。帝さらば両人の効験を施させて威徳の勝劣を被御覧思召て、或時大師御参内有けるを、傍に奉隠置、守敏応勅御前に候す。時に帝湯薬を進りけるが、建盞を閣せ給て、「余に此水つめたく覚る。例の様に加持して被暖候へかし。」とぞ被仰ける。守敏仔細候はじとて、向建盞結火印被加持けれども、水敢て不成湯。帝「こは何なる不思議ぞや。」と被仰、左右に目くわし有ければ、内侍の典主なる者、態熱く沸返たる湯をついで参たり。帝又湯を立させて進らんとし給ひけるが、又建盞を閣せ給ふ。「是は余に熱て、手にも不被捕。」と被仰ければ、守敏先にもこりず、又向建盞結水印たりけれ共、湯敢不醒、尚建盞の内にて沸返る。守敏前後の不覚に失色、損気給へる処に、大師傍なる障子の内より御出有て、「何に守敏、空海是に有とは被存知候はざりける歟。星光は消朝日蛍火は隠暁月。」とぞ咲れける。守敏大に恥之挿欝陶於心中、隠嗔恚於気上被退出けり。 |
そうした折に弘法大師(空海)が唐から帰国された。すぐに宮中にお参りになった。帝は外国での出来事などについて尋ねられた後、守敏僧都のこの間の様々な奇跡についてお話しになられた。大師はこれを聞かれ、「仏典には『馬鳴(めみょう)が帷(とばり)を■れば鬼神さえ口をつぐむ』とも『栴檀(せんだん)が礼拝すれば塔や支提(しだい)も壊れ、尸(しかばね)すら顕れる』とも申しますゆえ、空海のいる場所では守敏はそのような奇跡など決して示せまい」とおっしゃった。 帝が「それなら両者の効験を示させて威徳の優劣を確かめよう」と思われたある時、大師が参内された際にわざと隠れさせ、守敏だけを御前へ伺候させられた。時に帝が湯薬をお召し上がりになろうとして杯を置かれ、「この水はひどく冷たく感じる。いつものように加持して温めてほしい」と命じられた。守敏は「問題ございますまい」と言って杯に向かい火印を結び加持したが、水は全く温かくならなかった。 帝が「これはどういう不思議だ?」とおっしゃり周囲を見回されると、内侍の典司役がわざと熱く沸き立たせた湯を持って参上した。帝が再び湯を注いで進めようとなさったところ、また杯をお置きになり「今度は熱すぎて手にも持てない」と言われた。守敏は先の失敗も省みず杯に向かって水印を結んだが、湯の沸騰は全く収まらず、まだ杯の中で煮え立っていた。 守敏は面目を失い青ざめているところへ、大師が傍らの障子裏からお出ましになり「どうした守敏よ、空海ここにいるとは思わなかったか? 星光(ほしのひかり)は朝日に消え蛍火(けいか)は暁月にかくれるものだ」と笑われた。守敏は大いに恥じ入り、心の中で無念を抱きつつ怒りを押し隠して退出したのであった。 解説【対決構造の深化】
宗教的権威の転換点
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| 自其守敏君を恨申す憤入骨髄深かりければ、天下に大旱魃をやりて、四海の民を無一人飢渇に合せんと思て、一大三千界の中にある所の竜神共を捕へて、僅なる水瓶の内に押篭てぞ置たりける。依之孟夏三月の間、雨降事無して、農民不勤耕作。天下の愁一人の罪にぞ帰しける。君遥に天災の民に害ある事を愁へ思召て、弘法大師を召請じて、雨の祈をぞ被仰付ける。大師承勅、先一七日の間入定、明に三千界の中を御覧ずるに、内海・外海の竜神共、悉守敏の以呪力、水瓶の中に駆篭て可降雨竜神無りけり。但北天竺の境大雪山の北に無熱池と云池の善女竜王、独守敏より上位の薩■にて御坐ける。大師定より出て、此由を奏聞有ければ、俄に大内の前に池を掘せ、清涼の水を湛て竜王をぞ勧請し給ける。于時彼善女龍王金色の八寸の竜に現じて、長九尺許の蛇の頂に乗て此池に来給ふ。則此由を奏す。公家殊に敬嘆せさせ給て、和気真綱を勅使として、以御幣種々物供龍王を祭せらる。其後湿雲油然として降雨事国土に普し。三日の間をやみ無して、災旱の憂永消ぬ。真言の道を被崇事自是弥盛也。守敏尚腹を立て、さらば弘法大師を奉調伏思て、西寺に引篭り、三角の壇を構へ本尊を北向に立て、軍荼利夜叉の法をぞ被行ける。大師此由を聞給て、則東寺に炉壇を構へ大威徳明王の法を修し給ふ。 |
それ以来、守敏は憎しみと怒りが骨の髄まで深く染み込んでいたため、天下に大干ばつをもたらして四海の人々を一人も飢えや渇きから免れさせようと思い、三千世界全体にいる竜神たちを捕らえて小さな水瓶の中に閉じ込めてしまったのであった。このため初夏の三ヶ月もの間雨が降らず農民は耕作できなくなった。天下の人々の悲しみと苦しみは守敏一人の罪に帰せられたのだった。天皇は遠くから天災で人々が被害を受けることを深く憂い、弘法大師(空海)を召して雨乞いの祈りをお命じになった。 大師は勅命を受け入れまず七日間瞑想に入った。その中で三千世界を見渡すと内海や外海の竜神たちがすべて守敏の呪力によって水瓶に閉じ込められており雨を降らせるべき竜神がいなかった。しかし北インド国境地帯にある無熱池という池の善女龍王だけは守敏よりも上位の菩薩として存在していた。大師は瞑想から出てこのことを奏上すると急いで宮中の中庭に池が掘られ清涼な水を湛えて竜王をお招きしたところ彼の善女龍王は金色の八寸(約24cm)ほどの竜となって現れ長さ九尺余りの蛇の頭上に乗りこの池へとやって来たので報告があった。公家たちは特に感嘆され和気真綱を勅使として幣帛や様々な供物で龍王をお祀りした。その後厚い雲が湧き起こって雨が国中に降り注ぎ三日間止むことなく旱魃の心配は永遠になくなった。真言密教への崇敬もこれによってますます盛んになったのである。 しかし守敏はなお怒りに燃え「それなら弘法大師を調伏しよう」と思い西寺へ籠って三角壇を作り本尊を北向きに祀り軍荼利夜叉の修法を行った。このことを聞いた空海はすぐ東寺で火炉と祭壇を築き大威徳明王の修法をおこなわれた。 解説【宗教的対決の深化】
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| 両人何れも徳行薫修の尊宿也しかば、二尊の射給ける流鏑矢空中に合て中に落る事、鳴休隙も無りけり。爰に大師、守敏を油断させんと思召て、俄に御入滅の由を被披露ければ、緇素流悲歎泪、貴賎呑哀慟声。守敏聞之、「法威成就しぬ。」と成悦則被破壇けり。此時守敏俄に目くれ鼻血垂て、心身被悩乱けるが、仏壇の前に倒伏て遂に無墓成にけり。「呪咀諸毒薬還着於本人」と説給ふ金言、誠に験有て、不思議なりし効験也。自是して東寺は繁昌し西寺滅亡す。大師茅と云草を結で、竜の形に作て壇上に立て行はせ給ける。法成就の後、聖衆を奉送給けるに、真の善女龍王をば、軈神泉園に留奉て、「竜華下生三会の暁まで、守此国治我法給へ。」と、御契約有ければ、今まで迹を留て彼池に住給ふ。彼茅の竜王は大龍に成て、無熱池へ飛帰玉ふとも云、或云聖衆と共に空に昇て、指東を、飛去、尾張国熱田の宮に留り玉ふ共云説あり。仏法東漸の先兆、東海鎮護の奇瑞なるにや。大師言、「若此竜王他界に移らば池浅く水少して国荒れ世乏らん。其時は我門徒加祈請、竜王を奉請留可助国。」宣へり。今は水浅く池あせたり。恐は竜王移他界玉へる歟。然共請雨経の法被行ごとに掲焉の霊験猶不絶、未国捨玉似たり、風雨叶時感応奇特の霊池也。 |
二人とも高徳で修行を積んだ立派な僧侶だったため、空海(弘法大師)と守敏が放った神聖な矢は空中で衝突し真ん中へ落ちる様子が見事に繰り返され、全く隙もなかった。ここで空海は守敏を油断させようと考え、突然ご自身が亡くなられたという知らせを流したところ、僧侶も俗人も涙を流して悲しみ嘆き、身分の上下なく悲痛な声をあげた。守敏はこれを聞いて「術法が成就した」と喜び祭壇を壊したが、その瞬間突然目が見えなくなり鼻血が出て、心身ともに混乱状態に陥った末、仏壇の前で倒れ伏し亡くなってしまい墓も残らなかった。「呪いや毒は自身にはね返る」という教えがあまりにも確かな効果を示した不思議な結果であった。これ以降東寺は繁栄する一方、西寺は滅び去った。空海が茅(かや)の草を束ねて龍の形に作り祭壇で儀式を行うと、法術完成後に善女竜王ら神々を見送る際、本物の善女竜王だけをすぐ神泉苑にとどめるよう「弥勒菩薩が降臨する第三回目の集会までの間、この国をお守りください」という契約を結んだため、今でもその池に住み続けている。一方茅で作った龍は巨大な龍となって無熱池へ戻ったとも言われるし、あるいは神々と共に空へ昇り東方へ飛び去り尾張国(現・愛知県)の熱田神宮にとどまったという説もある。これは仏教が東へ広まる兆しか、または東海地方を守る奇跡であろうか。また空海は「もし竜王が他の世界に行けば池の水が減り国は荒れ世も困窮するだろう」と予言し、「その時は私の弟子たちに祈願させて竜神をお呼び戻すことで国家を救いなさい」と言われた。実際今では水位が下がって浅くなっていることから、おそらく竜王が移動されたのかもしれない。それでも雨乞い儀式を行う度にはっきりと霊験は続いており、この世を見捨てていないようで風や雨を調和させる不思議な力を持つ霊池として存在している。 解説【呪術対決の結末と後日談】
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| 代々の御門崇之家々の賢臣敬之。若旱魃起る時は先池を浄む。然を後鳥羽法皇をり居させ玉ひて後、建保の比より此所廃れ、荊棘路を閉るのみならず、猪鹿の害蛇放たれ、流鏑の音驚護法聴、飛蹄の響騒冥衆心。有心人不恐歎云事なし。承久の乱の後、故武州禅門潛に悲此事、高築垣堅門被止雑穢。其後涼燠数改て門牆漸不全。不浄汚穢之男女出入無制止、牛馬水草を求る往来無憚。定知竜神不快歟。早加修理可崇重給。崇此所国土可治也。 ○兵部卿親王流刑事付驪姫事 兵部卿親王天下の乱に向ふ程は、無力為遁其身難雖被替御法体、四海已に静謐せば、如元復三千貫長位、致仏法・王法紹隆給んこそ、仏意にも叶ひ叡慮にも違はせ給ふまじかりしを、備征夷将軍位可守天下武道とて、則勅許を被申しかば、聖慮不隠しか共、任御望遂に被下征夷将軍宣旨。斯りしかば、四海の倚頼として慎身可被重位御事なるに、御心の侭に極侈、世の譏を忘て婬楽をのみ事とし給しかば、天下の人皆再び世の危からん事を思へり。大乱の後は弓矢を裹て干戈袋にすとこそ申すに、何の用ともなきに、強弓射る者、大太刀仕ふ者とだに申せば、無忠被下厚恩、左右前後に仕承す。剰加様のそらがらくる者共、毎夜京白河を廻て、辻切をしける程に、路次に行合ふ児法師・女童部、此彼に被切倒、逢横死者無休時。 |
歴代の天皇や貴族たちはこの場所を尊び、賢明な家臣も敬った。旱魃が起きた時にはまず池を清めたものだ。しかし後鳥羽法皇が退位された後の建保年間(1213-1219年)頃から廃れ始め、茨や草で道が塞がれただけでなく猪鹿の害も広まり蛇が出没したため、流鏑馬の音は護法神を驚かせ、駿馬の蹄の響きは冥界の衆生の心を騒がす。物事をわきまえた人々が恐れ嘆かないことはなかった。承久の乱(1221年)後、故・武州禅門(北条時頼と推定)がひそかにこれを悲しみ高く壁を築いて頑丈な門を作り穢れを止めたのだが、その後年月を経て寒暖変化により門や塀は次第に壊れた。不浄で汚らわしい男女の出入りも制止されず牛馬が水草を求めて往来することを誰も恐れない。きっと竜神は不快であろう。早く修理して重んじ崇めるべきだ。この場所を尊べば国土は治まるはずである。 ○兵部卿親王の事跡と驪姫事件 解説【歴史的経緯と社会的批判】
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| 是も只足利治部卿を討んと被思召ける故に、集兵被習武ける御挙動也。抑高氏卿今までは随分有忠仁にて、有過僻不聞、依何事兵部卿親王は、是程に御憤は深かりけるぞと、根元を尋ぬれば、去年の五月に官軍六波羅を責落したりし刻、殿法印の手の者共、京中の土蔵共を打破て、財宝共を運び取ける間、為鎮狼籍、足利殿の方より是を召捕て、二十余人六条河原に切ぞ被懸ける。其高札に、「大塔宮の候人、殿法印良忠が手の者共、於在々所々、昼強盜を致す間、所誅也。」とぞ被書たりける。殿法印此事を聞て不安事に被思ければ、様々の讒を構へ方便を廻して、兵部卿親王にぞ被訴申ける。加様の事共重畳して達上聞ければ、宮も憤り思召して、志貴に御座有し時より、高氏卿を討ばやと、連々に思召立けれ共、勅許無りしかば無力黙止給けるが、尚讒口不止けるにや、内々以隠密儀を、諸国へ被成令旨を、兵をぞ被召ける。高氏卿此事を聞て、内々奉属継母准后被奏聞けるは、「兵部卿親王為奉奪帝位、諸国の兵を召候也。其証拠分明に候。」とて、国々へ被成下処の令旨を取て、被備上覧けり。君大に逆鱗有て、「此宮を可処流罪。」とて、中殿の御会に寄事兵部卿親王をぞ被召ける。宮懸る事とは更に不思召寄、前駈二人・侍十余人召具して、忍やかに御参内有けるを、結城判官・伯耆守二人、兼てより承勅用意したりければ、鈴の間の辺に待受て奉捕之、則馬場殿に奉押篭。 |
これもただ足利治部卿(高師直か)を討伐しようと考えられたために、兵士を集め武術の訓練をする行動であった。そもそも尊氏はこれまで非常に忠義仁愛があり過ちや偏りが聞かれなかったのに、なぜ兵部卿親王(護良親王)がそれほど深く憤慨されたのか根源を探ると、去年五月に官軍が六波羅を攻め落とした時、殿法印の配下たちが京中の土蔵を破壊して財宝を持ち去る騒動があったため、鎮圧のために尊氏側が彼らを捕らえ二十余人を六条河原で斬首した。その立て札には「大塔宮(護良親王)の家来である殿法印良忠配下たちがあちこちで白昼強盗を行ったので処刑する」と書かれていた。殿法印はこのことを聞いて不安に思い、様々な讒言を企て策謀を用いて兵部卿親王に訴え出た。こうした事態が重なり天皇の耳にも達すると宮(護良親王)も激しく怒り志貴山におられた時から尊氏を討ちたいと繰り返し思われたが勅許がないためやむなく沈黙しておられたのに、なお讒言が止まないので内密に隠密の方法で諸国へ令旨(命令書)を発行して兵士を召し集められた。尊氏はこのことを聞きひそかに継母を通じて天皇に奏上したのは「兵部卿親王が帝位奪取のために諸国の兵を召集しています。証拠も明白です」と言い、国々へ出された令旨を取り上げて天皇にお見せした。天皇は大いに怒り(逆鱗)、「この宮(護良親王)を流罪にすべきだ」として朝廷会議で事を理由に兵部卿親王をお召しになった。宮は何の用か全く予想できず先払い二人と侍十余人を伴ってひそかに参内したところ結城判官(高貞)と伯耆守(名和長年?)の両者が前もって勅命を受けて準備していたため鈴の間付近で待ち伏せし捕らえ、直ちに馬場殿に監禁した。 解説【権力闘争の構造と歴史的展開】
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| 宮は一間なる所の蜘手結たる中に、参通ふ人独も無して、泪の床に起伏せ給ふにも、こは何なる我身なれば、弘元の始は武家のために隠身、木の下岩のはざまに露敷袖をほしかね、帰洛の今は一生の楽未一日終、為讒臣被罪、刑戮の中には苦むらんと、知ぬ前世の報までも思召残す方もなし。「虚名不久立」云事あれば、さり共君も可被聞召直思召ける処に、公儀已に遠流に定りぬと聞へければ、不堪御悲、内々御心よせの女房して、委細の御書を遊し、付伝奏急可経奏聞由を被仰遣。其消息云先以勅勘之身欲奏無罪之由、涙落心暗、愁結言短。唯以一令察万、加詞被恤悲者、臣愚生前之望云足而已。夫承久以来、武家把権朝廷棄政年尚矣。臣苟不忍看之、一解慈悲忍辱法衣、忽被怨敵降伏之堅甲。内恐破戒之罪、外受無慙之譏。雖然為君依忘身、為敵不顧死。当斯時忠臣孝子雖多朝、或不励志、或徒待運。臣独無尺鉄之資、揺義兵隠嶮隘之中窺敵軍。肆逆徒専以我為根元之間、四海下法、万戸以贖。誠是命雖在天奈何身無措処。昼終日臥深山幽谷、石岩敷苔。夜通宵出荒村遠里跣足蹈霜。撫龍鬚消魂、践虎尾冷胸幾千万矣。遂運策於帷幄之中、亡敵於斧鉞之下。竜駕方還都、鳳暦永則天、恐非微臣之忠功、其為誰乎。而今戦功未立、罪責忽来。 |
宮は蜘蛛の巣が張ったような狭い一室に閉じ込められ、訪れる人もなく涙の中で寝起きする日々であった。「これは一体何という身の上か。動乱の初めには武士勢力に対抗すべく潜伏生活を送り、木陰や岩穴で露に濡れた袖を乾かせず苦労したが、都へ戻った今は一生分の楽しみも一日として味わえぬうちに讒言によって罪を得て、処刑される中で苦しむのだろう」と前世からの報いさえ考えざるを得なかった。「浮世の栄華は久しく続かない」という言葉があるが、それでも天皇陛下にも思い直して頂けるかと思っていたところ、「朝廷では既に遠流(辺地への島流し)と決まった」との知らせを聞き、悲嘆のあまり密かに心許せる女房を通じて詳しい手紙をしたためさせ「伝奏(上奏係)へ急いで取り次げるように」と命じた。その消息にはまず「勅勘(天皇の怒り)を受けた身でありながら無実であることを申し上げたく、涙が落ち心は暗く愁いは深まり言葉も短くなります。ただこの一言をもって万をお察しいただき慈悲を垂れて頂ければ生前の望み足れりとします」と記されていた。「そもそも承久以来武家が権力を握り朝廷が政治放棄して長い年月経ちました。臣はこれを見るに忍びず、僧侶としての戒律衣を脱ぎ捨て一瞬で怨敵を討つ甲冑へ変えました。内面では破戒への罪悪感に慄き、外見的には厚顔無恥と嘲笑されようとも陛下のために身も顧みず敵に対しては死をも恐れませんでした。当時忠臣孝子と呼ばれる者たちにも意欲なき者や運任せの者が多かった中で、臣一人武器さえ持たぬまま義兵を率い険しい山間に潜んで敵軍をうかがい続けました。逆賊どもが専ら私を禍根とみなしたため天下は乱れ万民代償に苦しんだのです。(この忠誠心は)天命によるとは言え身の置き場なく、昼は深山幽谷で岩苔の上に臥し夜は裸足で霜踏む荒村遠里を巡りました。竜鬚(危険)を撫で魂消える思いや虎尾を踏み胸凍る感覚幾度と味わいましたが遂には陣中の策謀により斧鉞(刑罰)のもと逆徒滅亡させ車駕(天皇)還都実現したのは臣の忠功あってこそです。それなのに戦功未だ報われぬうち罪責突然降りかかるとは」。 解説【護良親王の抗議状と歴史的意義】
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| 風聞其科条、一事非吾所犯、虚説所起惟悲不被尋究。仰而将訴天、日月不照不孝者、俯而将哭地、山川無載無礼臣。父子義絶、乾坤共棄。何愁如之乎。自今以後勲業為孰策。行蔵於世軽、綸宣儻被優死刑、永削竹園之名、速為桑門之客。君不見乎、申生死而晋国乱、扶蘇刑而秦世傾。浸潤之譖、膚受之愬、事起于小、禍皆逮大。乾臨何延古不鑒今。不堪懇歎之至、伏仰奏達。誠惶、誠恐謹言。三月五日護良前左大臣殿とぞ被遊ける。此御文、若達叡聞、宥免の御沙汰も有べかりしを、伝奏諸の憤を恐て、終に不奏聞ければ、上天隔听中心の訴へ不啓。此二三年宮に奉付副、致忠待賞御内の候人三十余人、潛に被誅之上は不及兎角申、遂に五月三日、宮を直義朝臣の方へ被渡ければ、以数百騎軍勢路次を警固し、鎌倉へ下し奉て、二階堂の谷に土篭を塗てぞ置進せける。南の御方と申ける上臈女房一人より外は、着副進する人もなく、月日の光も見へぬ闇室の内に向て、よこぎる雨に御袖濡し、岩の滴に御枕を干わびて、年の半を過し給ける御心の内こそ悲しけれ。君一旦の逆鱗に鎌倉へ下し進せられしかども是までの沙汰あれとは叡慮も不赴けるを、直義朝臣日来の宿意を以て、奉禁篭けるこそ浅猿けれ。孝子其父に雖有誠、継母其子を讒する時は傾国失家事古より其類多し。 |
その罪状の風聞について一言申し上げるならば、私が犯したものではない虚偽の訴えであることが悲しくも追及されない。天を見上げて訴えようにも太陽と月は不孝者を照らさず、地に伏して泣こうにも山川は無礼な臣を支えてくれぬ。父子の情義は断たれ天地に見捨てられた身となった。これ以上の悲しみがあろうか。今後も功績など誰のために立てればよいのか。世の中での行いは軽んじられ、もし死刑判決が下されれば永遠に皇族としての名を奪われ、速やかに僧籍に入れられることになろう。ご存知のように申生が死んで晋国は乱れ扶蘇が処刑されて秦王朝は滅んだ。少しずつ浸透する中傷と身近な者による訴えは小さく始まっても災いは必ず大きくなるのだ。天の御心よどうか古を鑑みて今を見極めてほしい。嘆き切れぬ思いでひれ伏して奏上いたします。畏れ多くも謹んで申し上げます。(文書末尾に)三月五日 護良前左大臣殿と記されていた。この手紙がもし天皇の耳に届いていれば赦免があったかもしれないのに、伝奏(上奏係)は周囲の怒りを恐れて結局奏上せず、天との通路も閉ざされて訴えは聞き入れられなかった。その後二三年宮にお仕えし忠誠を尽くした家臣三十余人が密かに殺害されると最早どうしようもなくなり、ついに五月三日に護良親王を直義(足利直義)の陣営へ引き渡したのである。数百騎の軍勢が沿道警護する中鎌倉へ送られ二階堂谷の土牢に閉じ込められた。「南の方」と呼ばれる上級女房一人以外は付き添う者もおらず、月明かりさえ届かぬ暗室の中で横殴りの雨で御衣を濡らし岩清水で枕を乾かすことしかできず半年以上過ごされた心中の悲しみはいかばかりであったろう。天皇が一時的な怒りで鎌倉送りにされてもこのような仕打ちがあるとは思っておられまい。直義朝臣は宿年の恨みから監禁したのだ浅ましい限りだ。孝子が父へ真心を尽くしても継母がその子を中傷すれば国滅び家亡ぶことは古来幾度もあったことではないか。 解説【冤罪抗弁と政治的寓意】
歴史的帰結の伏線:
文学的評価:
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| 昔異国に晋の献公と云人坐しけり。其后斉姜三人の子を生給ふ。嫡子を申生と云、次男を重耳、三男を夷吾とぞ申ける。三人の子已に長成て後、母の斉姜病に侵されて、忽に無墓成にけり。献公歎之不浅しかども、別の日数漸遠く成しかば、移れば替る心の花に、昔の契を忘て、驪姫と云ける美人をぞ被迎ける。此驪姫只紅顔翠黛迷眼のみに非ず、又巧言令色君の心を令悦しかば、献公寵愛甚して、別し人の化は夢にも不見成にけり。角て経年月程に、驪姫又子を生り。是を奚齊とぞ名付る。奚齊未幼といへ共、母の寵愛に依て、父のをぼへ三人の太子に超たりしかば、献公常に前の后斉姜の子三人を捨て、今の驪姫が腹の子奚齊に、晋の国を譲んと思へり。驪姫心には嬉く乍思、上に偽て申けるは、「奚齊未だ幼くして不弁善悪を、賢愚更に不見前に、太子三人を超て、継此国事、是天下の人の可悪処。」と、時々に諌め申ければ、献公弥驪姫が心に無私、世の譏を恥、国の安からん事を思へる処を感じて、只万事を被任之しかば、其威倍々重く成て天下皆是に帰伏せり。或時嫡子の申生、母の追孝の為に、三牲の備を調へて、斉姜の死して埋れし曲沃の墳墓をぞ被祭ける。其胙の余を、父の献公の方へ奉給ふ。献公折節狩場に出給ひければ、此ひもろぎを裹で置たるに、驪姫潛に鴆と云恐毒を被入たり。 |
昔、晋という国に献公という人物がいた。彼の后である斉姜は三人の子(申生・重耳・夷吾)をもうけた。しかし斉姜は病を得て急逝してしまう。献公は深く悲しんだものの時が経つにつれ、人の心は変わりやすいもので昔の情愛を忘れて驪姫という美人をお迎えした。この驪姫は容姿端麗なだけでなく巧みな言葉で王の心を喜ばせたため献公の寵愛は極まり他の女性への関心は全くなくなった。やがて驪姫も子(奚斉)を産むと、幼いながら母の寵愛ゆえに父の目には先の三人の王子より勝って見えたので、献公は前妻の息子たちを退け驪姫の子に国を継がせたいと思うようになった。内心喜びつつも驪姫は偽って「奚斉は未だ幼く善悪を見分けられません」と諌めると、献公は彼女の私心なき態度に感銘し全てを任せるうちにその権威は増大した。ある時申生が母・斉姜追悼のために祭壇を整え曲沃の墓で供養を行い、残った供物を父王へ献上した。たまたま狩りに出ていた献公のもとに届けられた供物に、驪姫は密かに鴆(チン)と呼ばれる猛毒を仕込んでおいた。 解説【歴史的背景と文学的構成】
前文との連関性:
史実的意義:
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| 献公狩場より帰て、軈此ひもろぎを食んとし給ひけるを、驪姫申されけるは、「外より贈れる物をば、先づ人に食せて後に、大人には進らする事ぞ。」とて御前なりける人に食られたるに、其人忽に血を吐て死にけり。こは何かなる事ぞとて、庭前なる鶏・犬に食せて見給へば、鶏・犬共に斃て死ぬ。献公大に驚て其余を土に捨給へば、捨たる処の土穿て、あたりの草木皆枯萎む。驪姫偽て泪を流し申けるは、「吾太子申生を思ふ事奚齊に不劣。されば奚齊を太子に立んとし給しをも、我こそ諌申て止つるに、さればよ此毒を以て、我と父とを殺して、早晋の国を捕んと被巧けるこそうたてけれ。是を以て思ふに、献公何にも成給なん後は、申生よも我と奚齊とをば、一日片時も生て置給はじ。願は君我を捨、奚齊を失て、申生の御心を休給へ。」と泣々献公にぞ申されける。献公元来智浅して讒を信ずる人なりければ、大に忿て太子申生を可討由、典獄の官に被仰付。諸群臣皆、申生の無罪して死に赴んずる事を悲て、「急他国へ落させ給ふべし。」とぞ告たりける。申生是を聞給て、「我少年の昔は母を失て、長年の今継母に逢へり。是不幸の上に妖命備れり。抑天地間何の所にか父子のなき国あらん、今為遁其死他国へ行て、是こそ父を殺んとて鴆毒を与へたりし大逆不幸の者よと、見る人ごとに悪れて、生ては何の顔かあらん。 |
献公が狩猟場から帰り、すぐにその供物を食べようとしたところ、驪姫が申し上げた。「外部から贈られたものはまず人に試食させてから、主君にお召し上がりいただくものです」と。御前の者に食べさせると、その者は突然血を吐いて死んだ。「これは何事か」と言い庭先の鶏や犬にも与えてみたところ、共に倒れて死んだ。献公は大いに驚き残りを地面に捨てると、捨てられた場所が陥没し周囲の草木は全て枯れた。驪姫は偽って涙を流して言った。「私は太子申生のことを奚斉と同じく思っています。それなのに主君が奚斉を太子になさろうとした時も、私こそ諌めて止めたのです。そんな中でこの毒を使って父と私を殺し早く晋国を奪おうとするとは許せません。これから考えるに献公様が何かあられた後は申生が私や奚斉を一日たりとも生かしておかないでしょう。どうか私を見捨て、奚斉を失っても申生の心を鎮めてください」と泣きながら訴えた。もともと知恵浅く讒言を信じやすい献公は激怒し典獄の役人に命じて太子申生を討たせようとした。家臣たち皆が申生が無実で死ぬことを悲しみ「急いで外国へお逃げください」と告げると、申生はこれを聞いて言った。「私は幼くして母を失い長じた今も継母に阻まれた。この不幸の上に不運まで重なったのだが、天地の間に父子関係のない国などあろうか?死を逃れるため外国へ行けば『父殺しのために毒を与えた大逆者』と誰からも憎まれ生きていても顔向けできまい」 解説【史実的展開と心理描写】
前文との連関性:護良親王書状(初回)→申生毒殺未遂(前翻訳)の延長線上で、史話引用による諫止構造が明示化。特に家臣「他国落去」勧告と申生拒絶は『太平記』巻十六の護良親王逃亡シーンとの類似性顕著。 文学的意義:
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| 我不誤処をば天知之。只虚名の下に死を賜て、父の忿を休んには不如。」とて、討手の未来前に自剣に貫て、遂に空成にけり。其弟重耳・夷吾此事を聞て、驪姫が讒の又我身の上に成ん事を恐て、二人共に他国へぞ逃給ける。角て奚齊に晋国を譲得たりけるが、天命に背しかば、無幾程献公・奚齊父子共に、其臣里剋と云ける者に討れて、晋の国忽に滅びけり。抑今兵革一時に定て、廃帝重祚を践せ給ふ御事、偏に此宮の依武功に事なれば、縦雖有小過誡而可被宥かりしを、無是非被渡敵人手、被処遠流事は、朝廷再傾て武家又可蔓延瑞相にやと、人々申合けるが、果して大塔宮被失させ給し後、忽に天下皆将軍の代と成てけり。牝鶏晨するは家の尽る相なりと、古賢の云し言の末、げにもと被思知たり。 |
「私に非がないことは天が知っている。ただ虚名のもとに死を賜り、父の怒りを鎮めるのが最善だ」と言い、討手が来る前に自ら剣で胸を突いて果てた。弟の重耳と夷吾はこのことを聞き、驪姫の讒言が次に自分たちに向かうのを恐れ二人とも他国へ逃亡した。こうして奚斉が晋国を受け継いだが天命に背いたため、間もなく献公・奚斉父子共に家臣の里克という者に討たれ、晋国は忽ち滅亡した。そもそも今(当時)、戦乱を一時的に収め廃帝(後醍醐天皇)が重祚されたのは、この宮(大塔宮護良親王)が武功によるものであったのだから、仮に小過があっても戒めた上で許すべきであったのに、是非もわきまえず敵の手に渡し遠流させたことは朝廷再び傾き武家勢力拡大の兆候ではと人々が語り合った。果たして大塔宮(護良親王)を失って後、天下は忽ち将軍(足利尊氏)の世となった。「牝鶏が時をつくるのは家(国)滅亡の前兆」という古人の言葉の真実を痛感したのである。 解説【史話完結と歴史教訓】
前文との連関性:護良親王書状(初回翻訳)における「申生死而晋国乱」引用が、ここで完結史話→現実政治批判へ昇華。特に「大塔宮被失させ給し後忽天下将軍代成てけり」は『太平記』巻十九の南北朝分裂描写と直接対応。 思想的意義:
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| input text 太平記\013_太平記_巻13.txt | 現代日本語 translated text | ||||||||||||||||||||||||
| 太平記 太平記巻第十三 ○龍馬進奏事 鳳闕の西二条高倉に、馬場殿とて、俄に離宮を被立たり。天子常に幸成て、歌舞・蹴鞠の隙には、弓馬の達者を被召、競馬を番はせ、笠懸を射させ、御遊の興をぞ被添ける。其比佐々木塩冶判官高貞が許より、竜馬也とて月毛なる馬の三寸計なるを引進す。其相形げにも尋常の馬に異也。骨挙り筋太くして脂肉短し。頚は鶏の如にして、須弥の髪膝を過ぎ、背は竜の如にして、四十二の辻毛を巻て背筋に連れり。両の耳は竹を剥で直に天を指し、双の眼は鈴を懸て、地に向ふ如し。今朝の卯刻に出雲の富田を立て、酉剋の始に京著す。其道已に七十六里、鞍の上閑にして、徒に坐せるが如し。然共、旋風面を撲に不堪とぞ奏しける。則左馬寮に被預、朝には禁池に水飼、夕には花廏に秣飼。其比天下一の馬乗と聞へし本間孫四郎を被召て被乗、半漢雕梁甚不尋常。四蹄を縮むれば双六盤の上にも立ち、一鞭を当つれば十丈の堀をも越つべし。誠に天馬に非ずば斯る駿足は難有とて、叡慮更に類無りけり。或時主上馬場殿に幸成て、又此馬を叡覧有けるに、諸卿皆左右に候す。時に主上洞院の相国に向て被仰けるは、「古へ、屈産の乗、項羽が騅、一日に千里を翔る馬有といへども、我朝に天馬の来る事を未だ聞ず。 |
皇居の西にある二条高倉に、「馬場殿」と呼ばれる離宮が突然建てられた。天皇は頻繁に行幸され、歌舞や蹴鞠の合間には弓術・馬術の名人を召し出して競馬を行わせたり笠懸(騎射競技)を射させたりと、御遊興に趣向を加えられていた。その頃佐々木塩冶判官高貞のもとから「竜馬である」という月毛(灰色がかった白)の小さな馬が献上された。この馬は見た目も尋常とは異なり、骨格がしっかりして筋肉質で脂身が少ない。首筋は鶏のように細くて鬣(たてがみ)が膝まで届き、背中は龍のように盛り上がって四十二の螺旋状の毛渦を連ねていた。両耳は竹割りのように真っ直ぐ天を指し、双眼は鈴をつるしたようで地面を見据えているかの様子だった。ある朝卯刻(午前6時頃)に出雲国富田を出発すると酉剋の始め(午後5時過ぎ)に京都へ到着。その道程76里にもかかわらず馬鞍の上は平穏で、乗り手がただ座っているだけのような状態だったという。しかし旋風すら顔面を打つことも耐えられぬと奏上されたため、すぐさま左馬寮(皇宮の厩舎)に預けられ、朝には禁苑の池水を与えられ、夕べには華やかな厩で飼料が与えられた。当時天下一と言われた騎手の本間孫四郎を召し出して乗せてみると、その技量は驚異的であった——蹄を縮めれば双六盤上に立つほど小回りが利き、一鞭入れれば十丈(約30m)の堀も飛び越えそうだった。天皇は「天馬でなければこんな駿足はありえない」と類例なきお褒め言葉を賜った。ある時主上(後醍醐天皇)が馬場殿に行幸され再びこの馬をご覧になった際、公卿たちが左右に控えている中、洞院相国(西園寺公賢)に向かってこう仰せられた。「古くは屈産の名馬や項羽の愛馬騅のように一日千里を駆けるという話があるが、我が朝で天馬到来など聞いたことがない。」 解説【史実的描写と象徴性】
文学的技法:
前文との連関性:申生事件→晋滅亡教訓に続き、本段は「名材軽視による国家衰亡」主題を具現化。「天下一の騎手」(人材)と「竜馬」(宝物)が共に天皇側近(護良親王比定)隠喩となり、「驪姫讒言で申生失い晋滅ぶ」「大塔宮遠流後武家世となる」構造を鏡像化。最終文「古へ...未聞」は前段解説の儒家思想引用と連環し、歴史教訓性強化。
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| 然に朕が代に当て此馬不求出来る。吉凶如何。」と御尋ありけるに、相国被申けるは、「是聖明の徳に不因ば、天豈此嘉瑞を降候はんや。虞舜の代には鳳凰来、孔子の時は麒麟出といへり。就中天馬の聖代に来る事第一の嘉祥也。其故は昔周の穆王の時、驥・■・驪・■・■・■・■・駟とて八疋の天馬来れり。穆王是に乗て、四荒八極不至云所無りけり。或時西天十万里の山川を一時に越て、中天竺の舎衛国に至り給ふ。時に釈尊霊鷲山にして法華を説給ふ。穆王馬より下て会座に臨で、則仏を礼し奉て、退て一面に坐し給へり。如来問て宣く、「汝は何の国の人ぞ。」穆王答曰、「吾は是震旦国の王也。」仏重て宣く、「善哉今来此会場。我有治国法、汝欲受持否。」穆王曰、「願は信受奉行して理民安国の施功徳。」爾時、仏以漢語、四要品の中の八句の偈を穆王に授給ふ。今の法華の中の経律の法門有と云ふ深秘の文是也。穆王震旦に帰て後深心底に秘して世に不被伝。此時慈童と云ける童子を、穆王寵愛し給ふに依て、恒に帝の傍に侍けり。或時彼慈童君の空位を過けるが、誤て帝の御枕の上をぞ越ける。群臣議して曰、「其例を考るに罪科非浅に。雖然事誤より出たれば、死罪一等を宥て遠流に可被処。」とぞ奏しける。群議止事を不得して、慈童を■県と云深山へぞ被流ける。 |
「しかし私の治世において、求めもしないのにこの馬が現れた。これは吉か凶か。」と天皇がお尋ねになると、相国(西園寺公賢)は申し上げた。「これこそ聖明なる陛下のお徳によるものでなければ、天がどうしてこんなめでたい兆候を授けましょうか。虞舜の時代には鳳凰が現れ、孔子の時には麒麟が出ましたと言われています。中でも天馬が聖代に到来することは第一級の吉兆です。」 解説【政治神話の構築構造】
前文との対照的展開:
宗教的寓意:
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| 彼■県と云所は帝城を去事三百里、山深して鳥だにも不鳴、雲暝して虎狼充満せり。されば仮にも此山へ入人の、生て帰ると云事なし。穆王猶慈童を哀み思召ければ、彼八句の内を分たれて、普門品にある二句の偈を、潛に慈童に授させ給て、「毎朝に十方を一礼して、此文を可唱。」と被仰ける。慈童遂に■県に被流、深山幽谷の底に被棄けり。爰に慈童君の恩命に任て、毎朝に一反此文を唱けるが、若忘もやせんずらんと思ければ、側なる菊の下葉に此文を書付けり。其より此菊の葉にをける下露、僅に落て流るゝ谷の水に滴りけるが、其水皆天の霊薬と成る。慈童渇に臨で是を飲に、水の味天の甘露の如にして、恰百味の珍に勝れり。加之天人花を捧て来り、鬼神手を束て奉仕しける間、敢て虎狼悪獣の恐無して、却て換骨羽化の仙人と成る。是のみならず、此谷の流の末を汲で飲ける民三百余家、皆病即消滅して不老不死の上寿を保てり。其後時代推移て、八百余年まで慈童猶少年の貌有て、更に衰老の姿なし。魏の文帝の時、彭祖と名を替て、此術を文帝に授奉る。文帝是を受て菊花の盃を伝へて、万年の寿を被成。今の重陽の宴是也。其より後、皇太子位を天に受させ給ふ時、必先此文を受持し給ふ。依之普門品を当途王経とは申なるべし。 |
その○県という場所は都から三百里離れ、山深くて鳥さえ鳴かず、暗い雲の中に虎や狼が満ちていた。だから仮にこの山に入った者で生きて帰った者はない。穆王(ぼくおう)はなおも慈童を哀れに思い、「八句の偈」から分けて普門品にある二句の詩文を密かに授け、「毎朝十方に向かって一礼し、この経文を唱えよ」と命じた。 慈童が○県へ流され深山の谷底に捨てられた後、彼は命令通り毎朝一度この経文を唱えた。「もし忘れたら大変だ」と思い、そばの菊の葉裏にその文字を書き記した。するとこの菊の葉についた露が落ちて流れる谷水に混ざると、全て天界の霊薬へと変わった。慈童が渇きでこれを飲むと甘露のように甘く、あらゆる珍味より勝っていた。 さらに天人(神々)は花を捧げ、鬼神は慎んで仕えたため虎狼も恐れず、仙人となって骨を換え羽を得た。この谷の水を汲んだ三百戸余りの民衆も病が消え不老不死の長寿を保った。八百年後も慈童は少年の容姿で老いを見せなかった。魏(ぎ)の文帝時代に彭祖と名乗り、その術を伝授すると文帝は菊花杯を用いた宴「重陽節」を作り万年の寿命を得た。 その後皇太子が位を受ける際には必ずこの経文を受け継ぐようになった。ゆえに普門品こそ王道(政治)を行う者の経典と呼ばれる所以である。 解説【神話的構造と政治的寓意】
前文との対照分析:
宗教史的意義:
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| 此文我朝に伝はり、代々の聖主御即位の日必ず是を受持し給ふ。若幼主の君践祚ある時は、摂政先是を受て、御治世の始に必君に授奉る。此八句の偈の文、三国伝来して、理世安民の治略、除災与楽の要術と成る。是偏に穆王天馬の徳也。されば此龍馬の来れる事、併仏法・王法の繁昌宝祚長久の奇瑞に候べし。」と被申たりければ、主上を始進せて、当座の諸卿悉心に服し旨を承て、賀し申さぬ人は無りけり。暫有て万里小路の中納言藤房卿被参。座定まて後、主上又藤房卿に向て、「天馬の遠より来れる事、吉凶の間、諸臣の勘例、已に皆先畢ぬ。藤房は如何思へるぞ。」と勅問有ければ、藤房卿被申けるは、「天馬の本朝に来れる事、古今未だ其例を承候はねば、善悪・吉凶勘へ申難しといへども退て愚案を回すに、是不可有吉事に。其故は昔漢の文帝の時、一日に千里を行馬を献ずる者あり。公卿・大臣皆相見て是を賀す。文帝笑て曰、「吾吉に行日は三十里凶に行日は十里、鸞輿在前、属車在後、吾独乗千里駿馬将安之乎。」とて乃償其道費而遂被返之。又後漢の光武時、千里の馬と宝剣とを献ずる者あり。光武是を珍とせずして、馬をば鼓車に駕し、剣をば騎士に賜ふ。又周の代已に衰なんとせし時、房星降て八匹の馬と成れり。 |
この経文(八句の偈)がわが国へ伝わり、歴代の天皇は即位の日に必ずこれを受け継ぎます。もし幼い君主が践祚される時には摂政がまず受け取り、治世開始時に確かに授け奉ります。この八句の経文は三国(インド・中国など)から伝承され、国家安泰と民心安定の方策、災害除去と幸福授与の要術となりました。これは全て穆王が天馬を得た徳によるものです。したがって龍馬到来は仏法と政治の繁栄、皇室長久の吉兆である。」と奏上されたところ、天皇を始めその場の公卿たちも心から同意し祝賀しない者はありませんでした。 間もなく万里小路の中納言藤房卿(までのこうじ ちゅうなごんふじさき)が参内。座席に着いて後、主上は再び藤房卿に向かい「天馬の遠来について諸臣の見解は出揃った。お前はどう思うか」と下問されました。藤房卿が答えて申しました。「本朝への天馬到来は古今未聞で吉凶判断困難ですが、退いて愚考するにこれは良からぬことです。理由として昔漢の文帝時代、一日千里を走る馬を献じる者がおり公卿大臣全員祝賀しましたが、文帝は笑い『私は吉事には一日三十里、凶事には十里行く。御車列従う中独りで駿馬に乗れまい』と言い費用返却後送り返させました。また後漢の光武帝時には千里馬と宝剣が献上されましたが光武は珍重せず、馬を儀式用鼓車(こぐるま)へ使い剣は騎士へ与えました。さらに周代衰退期には房星降臨し八匹の馬となりました。」 解説【政治的寓意と批判的視座】
前段との思想的対立:
歴史的意義:
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| 穆王是を愛して造父をして御たらしめて、四荒八極の外瑶池に遊び碧台に宴し給ひしかば、七廟の祭年を逐て衰へ、明堂の礼日に随て廃れしかば、周の宝祚傾けり。文帝・光武の代には是を棄て福祚久く栄へ、周穆の時には是を愛して王業始て衰ふ。拾捨の間、一凶一吉的然として在耳。臣愚窃に是を案ずるに、「由来尤物是非天、只蕩君心則為害。」といへり。去ば今政道正からざるに依て、房星の精、化して此馬と成て、人の心を蕩かさんとする者也。其故は大乱の後民弊へ人苦で、天下未安れば、執政吐哺を、人の愁を聞、諌臣上表を、主の誤を可正時なるに、百辟は楽に婬して世の治否を不見、群臣は旨に阿て国の安危を不申。依之記録所・決断所に群集せし訴人日々に減じて訴陳徒に閣けり。諸卿是を見て、虞■の訴止て諌鼓撃人なし。無為の徳天下に及で、民皆堂々の化に誇れりと思へり。悲乎其迷へる事。元弘大乱の始、天下の士卒挙て官軍に属せし事更に無他。只一戦の利を以て勲功の賞に預らんと思へる故也。されば世静謐の後、忠を立賞を望む輩、幾千万と云数を知ず。然共公家被官の外は、未恩賞を給たる者あらざるに、申状を捨て訟を止たるは、忠功の不立を恨み、政道の不正を褊して、皆己が本国に帰る者也。 |
穆王(ぼくおう)はこれを寵愛し造父(ぞうほ)に御車を操らせて四方の果てまで遊び回り、瑶池や碧台で宴を催したため、先祖祭祀が年ごとに衰退し朝廷儀礼も日々廃れていった。その結果周王朝は滅亡寸前に傾いた。一方文帝・光武帝時代にはこれを拒否して国運長く栄えていたのに比べると、穆王の寵愛こそ衰亡原因である。この選択差が吉凶を明確に分けたのだ。臣下として思うに、「珍品とは元々天災ではないが君主心を乱せば害となる」という諺通りだ。 今や政治が混乱しているため房星(ほうせい)の精霊が化け馬となり人心惑わそうとしている。大乱後の民疲弊で天下不安定な時こそ、政治家は食事も忘れて民苦を聞き諌臣は上奏すべきだ。しかし百官は享楽に溺れ政情を見ず、群臣はおべっかばかりで国難を論じない。そのため訴訟機関への訴え人が減り記録所の書類が積む一方なのに、公卿たちは「訴訟止み諌鼓(かんこ)も鳴らず無為政治完成」と錯覚しているのは嘆かわしい。 そもそも元弘の乱当初、兵士全員官軍に加担した理由は戦功で恩賞を得たいからだ。世平穏後にも勲功主張者が多数いるのに公家側近以外には未交付状態である。訴状を捨て帰郷する者たちは皆、忠義不認と政治不正への憤慨が動機なのだ。 解説【歴史批判の核心構造】
前段との思想的発展:
文学史的意義:
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| 諌臣是に驚て、雍歯が功を先として、諸卒の恨を散ずべきに、先大内裏造営可有とて、諸国の地頭に二十分一の得分を割分て被召れば、兵革の弊の上に此功課を悲めり。又国々には守護威を失ひ国司権を重くす。依之非職凡卑の目代等、貞応以後の新立の庄園を没倒して、在庁官人・検非違使・健児所等過分の勢ひを高せり。加之諸国の御家人の称号は、頼朝卿の時より有て已に年久しき武名なるを、此御代に始て其号を被止ぬれば、大名・高家いつしか凡民の類に同じ。其憤幾千万とか知らん。次には天運図に膺て朝敵自亡ぬといへども、今度天下を定て、君の宸襟を休め奉たる者は、高氏・義貞・正成・円心・長年なり。彼等が忠を取て漢の功臣に比せば、韓信・彭越・張良・蕭何・曹参也。又唐の賢佐に譬ば、魏徴・玄齢・世南・如晦・李勣なるべし。其志節に当り義に向て忠を立所、何れをか前とし何れをか後とせん。其賞皆均其爵是同かるべき処に、円心一人僅に本領一所の安堵を全して、守護恩補の国を被召返事、其咎そも何事ぞや。「賞中其功則有忠之者進、罰当其罪則有咎之者退。」と云へり。痛哉今の政道、只抽賞の功に不当譏のみに非ず。兼ては綸言の掌を翻す憚あり。今若武家の棟梁と成ぬべき器用の仁出来て、朝家を褊し申事あらば、恨を含み政道を猜む天下の士、糧を荷て招ざるに集らん事不可有疑。 |
忠告する家臣たちはこれを見て驚いた。「雍歯(ようし)の功績を優先させ兵士達の恨みを解消すべきだ」と言うのに、まず大内裏造営が決まり諸国の地頭から二十分の一の税収を取り立てたため戦乱疲弊の上に重税で苦しんだ。また各国では守護が威厳を失い国司の権限が強まった。その結果無能な目代(地方代理官)らが貞応期以降に設立された荘園を横領し、在庁官人・検非違使・健児所などが過剰な勢力を持った。 加えて諸国の御家人称号は頼朝公以来の由緒ある武門名だったのにこの治世で廃止され大名や高家も庶民同然となった。その怒りは計り知れない。次に運命図が成就し敵は自滅したと言っても、天下を平定して天皇陛下を安堵させたのは高氏・義貞・正成・円心・長年である。彼らの忠義を漢の功臣(韓信・彭越・張良・蕭何・曹参)や唐の賢臣(魏徴・房玄齢・虞世南・杜如晦・李勣)に比べれば、功績順位など付けられないはずだ。それなのに円心だけが本領安堵のみで守護職を剥奪されたのは不当極まりない。「賞罰公正なら忠臣は進み悪者は退く」という道理がある。痛ましいことに今の政治は恩賞不適切だけでなく勅命軽視も甚だしい。もし武家棟梁となる器量者が現れ朝廷を批判すれば、恨みを抱いた者たちが集結するのは疑いない。 解説【建武新政権への総合批判】
革命的警告の含意:
後世の受容:
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| 抑天馬の用所を案ずるに、徳の流行する事は郵を置て命を伝るよりも早ければ、此馬必しも不足用。只大逆不慮に出来る日、急を遠国に告る時、聊用に得あらんか。是静謐の朝に出で、兼て大乱の備を設く。豈不吉の表事に候はずや。只奇物の翫を止て、仁政の化を致れんには不如。」と、誠を至し言を不残被申しに、竜顔少し逆鱗の気色有て、諸臣皆色を変じければ、旨酒高会も無興して、其日の御遊はさて止にけりとぞ聞へし。 ○藤房卿遁世事 其後藤房卿連続して諌言を上りけれども、君遂に御許容無りしかば、大内裏造営の事をも不被止、蘭籍桂筵の御遊猶頻なりければ、藤房是を諌兼て、「臣たる道我に於て至せり。よしや今は身を退には不如。」と、思定てぞ坐しける。三月十一日は、八幡の行幸にて、諸卿皆路次の行装を事とし給けり。藤房も時の大理にて坐する上、今は是を限の供奉と被思ければ、御供の官人、悉目を驚す程に出立れたり。看督長十六人、冠の老懸に、袖単白くしたる薄紅の袍に白袴を著し、いちひはばきに乱れ緒をはいて列をひく。次に走り下部八人、細烏帽子に上下、一色の家の紋の水干著て、二行に歩つゞきたり。其後大理は、巻纓の老懸に、赤裏の表の袴、靴の沓はいて、蒔絵の平鞘太刀を佩、あまの面の羽付たる平胡■の箙を負、甲斐の大黒とて、五尺三寸有ける名馬の太く逞に、いかけ地の鞍置て、水色の厚総の鞦に、唐糸の手縄ゆるらかに結でかけ、鞍の上閑に乗うけて、町に三処手縄入させ小路に余て歩せ出たれば、馬副四人、か千冠に猪の皮の尻鞘の太刀佩て、左右にそひ、かい副の侍二人をば、烏帽子に花田のうち絹を重て、袖単を出したる水干著たる舎人の雑色四人、次に白張に香の衣重たる童一人、次に細烏帽子に袖単白して、海松色の水干著たる調度懸六人、次に細烏帽子に香の水干著たる舎人八人、其次に直垂著の雑人等百余人、警蹕の声高らかに、傍を払て被供奉たり。 |
そもそも天馬の用途を考えると、徳が広まる速さは駅伝制度よりも早いためこの馬は不要である。ただ謀反など不測の事態が起きた時、遠国へ急報するのに多少役立つかもしれない。これは平穏な世に現れ乱れへの備えとなるのだから吉兆と言えるだろう。だが珍奇な物で遊ぶことを止め仁政を行う方が良い。」と藤房卿は誠意を込めて残らず述べたが、帝の表情には怒りの色があり臣下も青ざめたため酒宴は興醒めしその日の催しは中止されたという。 ○藤原藤房卿遁世のこと 解説【諫言拒絶と遁世決意の構造】
前段との連続性:
後代への影響:
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| 伏拝に馬を留て、男山を登給ふにも、栄行時も有こし物也と、明日は被謂ぬべき身の程も哀に、石清水を見給にも、可澄末の久しさを、君が御影に寄て祝し、其言葉の引替て、今よりは心の垢を雪、憂世の耳を可洗便りに成ぬと思給ひ、大菩薩の御前にして、潛に自受法楽の法施を献ても、道心堅固速証菩提と祈給へば、和光同塵の月明かに心の闇をや照すらんと、神慮も暗に被量たり。御神拝一日有て還幸事散じければ、藤房致仕の為に被参内、竜顔に近付進せん事、今ならでは何事にかと被思ければ、其事となく御前に祗候して、竜逢・比干が諌に死せし恨、伯夷・叔斉が潔きを蹈にし跡、終夜申出て、未明に退出し給へば、大内山の月影も涙に陰りて幽なり。陣頭より車をば宿所へ返し遣し、侍一人召具して、北山の岩蔵と云所へ趣かれける。此にて不二房と云僧を戒師に請じて、遂に多年拝趨の儒冠を解で、十戒持律の法体に成給けり。家貧く年老ぬる人だにも、難離難捨恩愛の旧き栖也。況乎官禄共に卑からで、齢未四十に不足人の、妻子を離れ父母を捨て、山川抖薮の身と成りしは、ためしすくなき発心也。此事叡聞に達しければ、君無限驚き思召て、「其在所を急ぎ尋出し、再び政道輔佐の臣と可成。」と、父宣房卿に被仰下ければ、宣房卿泣々車を飛して、岩蔵へ尋行給けるに、中納言入道は、其朝まで岩蔵の坊にをはしけるが、是も尚都近き傍りなれば、浮世の人の事問ひかはす事もこそあれと厭はしくて、何地と云方もなく足に信て出給ひけり。 |
馬を伏拝で止めて男山へ登られる途中、栄華も過ぎ去ったものだと明日には他人に言われる身分が哀れに思われた。石清水を見ても澄んだ水の永遠さと対比しつつ「君のお姿にかけてお祈り申す」という言葉を反転させ、「今こそ心の穢れを清め、憂き世への執着から離れる契機となろう」と覚悟され、大菩薩の御前で密かに自受法楽(じじゅほうらく=真言宗修行)の祈りを捧げ「道心堅固に速やかに菩提を得させたまえ」と願う。その姿は俗世と調和する月明かりのように心の闇を照らしているようで、神慮もひそかに推し量られたという。 一日かけての行幸が終わると藤房は辞職のために参内した。「これまで以上に帝の側近くへ進むことは今後あるまい」と思われ、特に用件なく御前に伺候しては、竜逢(りゅうほう)と比干(ひかん)(諫言で死んだ忠臣)の無念さや伯夷・叔斉(ぎせい=世俗を嫌った高士)の清らかな足跡について終夜語り明かし、未明に退出された。大内山の月影も涙に曇って幽かに見えたという。車は宿所へ返させ侍一人だけ連れ、北山の岩蔵(いわくら)と言う場所へ向かわれた。ここで不二房(ふじぼう)と称する僧を戒師として迎え遂に長年身につけた儒冠を脱ぎ捨て十戒を持つ律法体(出家姿)となられたのである。 貧しく老いた者ですら愛着深い住まいに未練があるのに、官位も俸禄も高く四十歳にも満たぬ者が妻子を離れ父母を捨て山川に隠れる身となるのは稀な決意であった。この事が帝の耳に入ると天皇は大変驚かれ「急ぎ居場所を探し出して再び政道補佐させよ」と父・宣房卿(のぶふさきょう)へ下命された。宣房卿は泣く泣く車を飛ばして岩蔵へ向かわれたが、藤房(中納言入道となっていた)はその朝まで居たものの「都に近いと俗世の人とかかわるのもあろう」と嫌気が差し行方も定めず足の赴くままに出てしまわれていた。 解説【遁世決行の精神史】
前段との連続的展開:
後世文学への影響:
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| 宣房卿彼坊に行給て、「左様の人やある。」と被尋ければ、主の僧、「さる人は今朝まで是に御坐候つるが、行脚の御志候とて、何地へやらん御出候つる也。」とぞ答へける。宣房卿悲歎の泪を掩て其住捨たる菴室を見給へば、誰れ見よとてか書置ける、破たる障子の上に、一首の歌を被残たり。住捨る山を浮世の人とはゞ嵐や庭の松にこたへん棄恩入無為、真実報恩者と云文の下に、白頭望断万重山。曠劫恩波尽底乾。不是胸中蔵五逆。出家端的報親難。と、黄蘗の大義渡を題せし古き頌を被書たり。さてこそ此人設ひ何くの山にありとも、命の中の再会は叶ふまじかりけるよと、宣房卿恋慕の泪に咽んで、空く帰り給ひけり。抑彼宣房卿と申は、吉田大弐資経の孫、藤三位資通の子也。此人閑官の昔、五部の大乗経を一字三礼に書供養して、子孫の繁昌を祈らん為に、春日の社にぞ被奉納ける。其夜の夢想に、黄衣著たる神人、榊の枝に立文を著て、宣房卿の前に差置たり。何なる文やらんと怪て、急是を披て見給へば、上書に万里小路一位殿へと書て、中には、速証無上大菩提と、金字にぞ書たりける。夢覚て後静に是を案ずるに、我朝廷に仕へて、位一品に至らんずる条無疑。中に見へつる金字の文は、我則此作善を以て、後生善処の望を可達者也と、二世の悉地共に成就したる心地して、憑もしく思給けるが、果して元弘の末に、父祖代々絶て久き従一位に成給けり。 |
宣房卿がその庵に行かれて、「そういう人はいらっしゃいますか」とお尋ねになると、主の僧は「その方は今朝までこちらにおられましたが、行脚をお志しあってどこへやら出て行かれました」と答えた。宣房卿は悲嘆の涙をぬぐいながら捨てられた庵を見れば、「誰に見せようとして書いたのか」と、破れた障子の上に一首の歌が残されていた。「住み捨てる山を浮世の人とはば(知られまいと思っても)嵐よ庭の松に答えろか。恩を棄て無為に入ろう」。さらに「真実報恩者」との文の下には、「白頭望断万重山 曠劫恩波尽底乾 不是胸中蔵五逆 出家端的報親難(老いてなお幾重もの山を見渡し、永劫の親恩は枯れ果てた。心中に背く思いがあるわけではなく、出家こそがまさしく親への報いを困難とする)」とあり、黄檗宗の大義に関する古い頌文が書かれていた。「これではこの人がどこの山におろうとも命あるうちの再会は叶うまい」と宣房卿は恋慕の涙にむせびながら空しく帰って行かれた。 そもそもその宣房卿という人は、吉田大弐資経の孫で藤三位資通の子である。この人が閑職だった昔、五部の大乗経典を一字ごとに三礼して書写供養し、子孫繁栄を祈るため春日神社に奉納したことがあった。その夜の夢に見たのは黄衣を着た神人で、榊の枝に文をつけて宣房卿の前に置いていった。「何という文だろう」と怪しんで急いで開いて見ると、「万里小路一位殿へ」との表書きがあり中には「速証無上大菩提(早く至高の悟りを得よ)」と金字で書かれていた。夢から覚めた後静かに考えてみると「私が朝廷に仕えて従一位になることは間違いないだろう。中の金文字はこの善行によって来世での幸福も約束されるのだ」と二世の成就を確信し頼もしく思われたが、果たして元弘末年(鎌倉末期)には父祖代々絶えていた従一位に昇られたのである。 解説【遺された詩歌の核心的意味】
【宣房卿逸話の歴史的意義】
【前段との連続性と作品構造】
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| 中に見へし金字の文は、子息藤房卿出家得道し給べき、其善縁有と被示ける明神の御告なるべし。誠に百年の栄耀は風前の塵、一念の発心は命後の灯也。一子出家すれば、七世の父母皆仏道を成すと、如来の所説明なれば、此人一人の発心に依て、七世の父母諸共に、成仏得道せん事、歎の中の悦なるべければ、是を誠に第一の利生預りたる人よと、智ある人は聞て感歎せり。 ○北山殿謀叛事 故相摸入道の舎弟、四郎左近大夫入道は、元弘の鎌倉合戦の時、自害したる真似をして、潛に鎌倉を落て、暫は奥州に在けるが、人に見知れじが為に、還俗して京都に上、西園寺殿を憑奉て、田舎侍の始て召仕はるゝ体にてぞ居たりける。是も承久の合戦の時、西園寺の太政大臣公経公、関東へ内通の旨有しに依て、義時其日の合戦に利を得たりし間、子孫七代迄、西園寺殿を可憑申と云置たりしかば、今に至迄武家異他思を成せり。依之代々の立后も、多は此家より出て、国々の拝任も半は其族にあり。然れば官太政大臣に至り、位一品の極位を不極と云事なし。偏に是関東贔屓の厚恩也と被思けるにや、如何にもして故相摸入道が一族を取立て、再び天下の権を取せ、我身公家の執政として、四海を掌に握らばやと被思ければ、此四郎左近大夫入道を還俗せさせ、刑部少輔時興と名を替て、明暮は只謀叛の計略をぞ被回ける。 |
その中に見えた金文字の文章は、息子藤房卿が出家して悟りを得られるであろうという善縁を示された明神のお告げなのであろう。確かに百年続く栄華も風に舞う塵のように儚いが、一瞬の悟りの心こそ死後の灯火となるのだ。「一人の子供が出家すれば七代の父母までも皆仏道を成就する」とは如来の明白な教えであるから、この人物(藤房卿)の発心によって祖先七世代も共に成仏できることは悲しみの中にある喜びと言える。これを真に最高の功徳を得た人だと聡明な者は聞いて感嘆した。 ○北山殿謀叛事 解説【仏教思想と血縁観念】
【歴史的背景と政治力学】
【前文との連関性】
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| 或夜政所の入道、大納言殿の前に来て申けるは、「国の興亡を見には、政の善悪を見に不如、政の善悪を見には、賢臣の用捨を見に不如、されば微子去て殷の代傾き、范増被罪楚王滅たり。今の朝家には只藤房一人のみにて候つるが、未然に凶を鑑て、隠遁の身と成候事、朝廷の大凶、当家の御運とこそ覚て候へ。急思召立せ給候はゞ、前代の余類十方より馳参て、天下を覆さん事、一日を不可出。」とぞ勧め申ける。公宗卿げにもと被思ければ、時興を京都の大将として、畿内近国の勢を被催。其甥相摸次郎時行をば関東の大将として、甲斐・信濃・武蔵・相摸の勢を付らる。名越太郎時兼をば北国の大将として、越中・能登・加賀の勢をぞ被集ける。如此諸方の相図を同時に定て後、西の京より番匠数た召寄て、俄に温殿をぞ被作ける。其襄場に板を一間蹈めば落る様に構へて、其下に刀の簇を被殖たり。是は主上御遊の為に臨幸成たらんずる時、華清宮の温泉に准へて、浴室の宴を勧め申て、君を此下へ陥入奉らん為の企也。加様に様々の謀を定め兵を調て、「北山の紅葉御覧の為に臨幸成候へ。」と被申ければ、則日を被定、行幸の儀則をぞ被調ける。已に明日午刻に可有臨幸由、被相触たりける其夜、主上且く御目睡有ける御夢に、赤袴に鈍色の二つ衣著たる女一人来て、「前には虎狼の怒るあり。 |
ある夜、政所入道(高師直か)が大納言殿のもとに来て申した。「国の興亡を知るには政治の善悪を見るよりも、賢臣を登用するか否かを見よ。微子が去って殷は滅び、范増が罰せられて楚王も敗れた。今の朝廷で頼れるのは藤房卿ただ一人だが、彼が危機を察して隠遁したことは朝廷にとって凶兆であり御家(幕府)の衰退を示す。急いで対策を立てねば、旧勢力が集結し瞬く間に天下を奪うだろう」と進言した。公宗卿もその通りと思ったため、時興を京都大将軍として畿内近国の兵を集めさせた。甥・相模次郎時行は関東大将に甲斐・信濃などの兵を付け、名越太郎時兼には北陸の兵を任せた。こうして各方面への指令を整えた後、西京から工匠を呼び寄せ温泉殿を急造した。床板一歩踏めば落ちるように仕掛け、下に刀剣を植えつけたのは——天皇が行幸され湯浴みの宴でこの罠に陥れるためである(唐の玄宗皇帝と楊貴妃の故事「華清宮」になぞらえた)。様々な策を練り兵を整えて「北山殿で紅葉御覧あれ」と奏上すると、行幸が決まり準備が進められた。 翌日正午に行幸との触れが出た夜、天皇はうとうとした夢の中で鈍色の二重衣に赤袴の女性が現れて言った。「前(温泉殿)には虎狼(謀反人)の怒りあり...」 解説【歴史的・文学的意義】
【謀略装置と前文との連関】
【政治的背景】
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| 後ろには熊羆の猛きあり、明日の行幸をば思召留らせ給ふべし。」とぞ申ける。主上御夢の中に、「汝は何くより来れる者ぞ。」と御尋有ければ、「神泉園の辺に多年住侍る者也。」と、答申て立帰ぬと被御覧、御夢は無程覚にけり。主上怪き夢の告也と被思召ながら、是まで事定まりぬる臨幸、期に臨では如何可被停と被思食ければ、遂に鳳輦を被促。乍去夢の告怪しければとて、先神泉苑に幸成て、竜神の御手向有けるに、池水俄に変じて、風不吹白浪岸を打事頻也。主上是を被御覧弥夢の告怪く被思召ければ、且く鳳輦を留て御思案有ける処に、竹林院の中納言公重卿馳参じて被申けるは、「西園寺大納言公宗、隠媒の企有て臨幸を勧め申由、只今或方より告示候。是より急還幸成て、橋本中将俊季、並春衡・文衡入道を被召て、子細を御尋候べし。」と被申ければ、君去夜の夢告の、今日の池水の変ずる態、げにも様ありと思召合て、軈て還幸成にけり。則中院の中将定平に結城判官親光・伯耆守長年を差副て、「西園寺の大納言公宗卿・橋本中将俊季・並文衡入道を召取て参れ。」とぞ被仰下ける。勅宣の御使、其勢二千余騎、追手搦手より押寄て、北山殿の四方を七重八重にぞ取巻ける。大納言殿、早此間の隠謀顕れけりと思給ふ。 |
天皇がうとうとした夢の中で、赤袴に鈍色の二重衣を着た女性一人が現れて言った。「前方には虎狼(凶暴者)が怒り、後方には熊羆(猛者)が控えている。明日の行幸はお取り止めになるべきです。」と申した。天皇が夢の中で「お前はどこから来たのか」と尋ねると、「神泉園の辺りに長年住んでいるものです」と答え、立ち去るのが見えたところで目を覚ました。 この奇妙な夢のお告げと思いながらも、すでに決まった行幸を取り止めるのは時期が迫って難しいと考えたため、結局鳳輦(御所車)を進めさせようとした。しかし夢の警告が怪しいのでまず神泉苑に行き竜神への供養を行うと、池水が突然変化し風もないのに白波が頻繁に岸を打った。天皇はこれを見て一層夢のお告げを疑わしく思い鳳輦を止めて考え込んでいたところへ竹林院の中納言公重卿が駆けつけて申した。「西園寺大納言公宗が陰謀をもって行幸をお勧めしているとの情報がありました。すぐに還御なさり橋本中将俊季と春衡・文衡入道を召喚して詳細をお尋ねください。」 これを聞いた天皇は昨夜の夢告や池水異変にも納得し、ただちに帰途につかれた。続いて中院の中将定平に結城判官親光・伯耆守長年をつけて「西園寺大納言公宗卿と橋本中将俊季及び文衡入道を捕らえて参れ」と命じた。勅宣を受けた二千余騎が追手と搦手から押し寄せ北山殿の四方を幾重にも包囲したので、大納言(公宗)は陰謀が露見したと思った。 解説【物語構造と前文との連関】
【象徴的描写の意義】
【政治的背景と作者意図】
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| されば中々騒たる気色もなし。事の様をも知ぬ北御方・女房達・侍共はこは如何なる事ぞやと、周章ふためき逃倒る。御弟俊季朝臣は、官軍の向けるを見て、心早人なりければ、只一人抽て、後の山より何地ともなく落給にけり。定平朝臣先大納言殿に対面有て、穏に事の子細を被演ければ、大納言殿涙を押へて宣けるは、「公宗不肖の身なりといへども、故中宮の御好に依て、官禄共に人に不下、是偏に明王慈恵の恩幸なれば、争か居陰折枝、汲流濁源志可存候。倩事の様を案ずるに、当家数代の間官爵人に超へ、恩禄身に余れる間、或は清花の家是を妬み、或は名家の輩是を猜で、如何様種々の讒言を構へ、様々の虚説を成て、当家を失はんと仕る歟とこそ覚て候へ。乍去天鑑真、虚名いつまでか可掠上聞候なれば、先召に随て陣下に参じ、犯否の御糺明を仰ぎ候べし。但俊季に於は、今朝已に逐電候ぬる間召具するに不及。」とぞ宣ける。官軍共是を聞て、「さては橋本中将殿を隠し被申にてこそあれ。御所中を能々見奉れ。」とて数千の兵共殿中に乱入て、天井塗篭打破、翠簾几帳を引落して、無残処捜けり。依之只今まで可有紅葉の御賀とて楽絃を調べつる伶人、装束をも不脱、東西に逃迷ひ、見物の為とて群をなせる僧俗男女、怪き者歟とて、多く被召捕不慮に刑戮に逢けり。 |
それでも公宗卿自身は全く動揺した様子もなかった。しかし事情を知らない北御方(家族)や女房たち、侍従らは「これは何事だ」と慌てふためいて転びながら逃げた。弟の俊季朝臣は官軍が迫るのを見ると機敏な人物だったので、ただ一人抜け出し後ろの山からどこへともなく落ち延びてしまった。 定平卿がまず公宗大納言殿と対面して穏やかに事情を説明すると、大納言は涙をこらえてこう述べた。「私は不肖の身ながらも亡き中宮(皇后)様のご寵愛により官位俸禄に恵まれ、これらは全て天皇陛下の慈愛あふれる恩寵です。どうして陰で謀反など企てましょうか? 考えてみれば我が家は数代にわたり高位を独占し過ぎたため、清華家(名家)から嫉妬され、他の名族から疑われているのでしょう。様々な讒言や虚偽の告げ口で我家を失脚させようとしているのです。とはいえ天皇陛下は明鏡のように真実をお見通しです。いつまでも冤罪が覆うはずもありません。ただちに召喚命令に従って出頭し、潔白をご審議いただきます。ただし俊季については今朝すでに逃亡しておりますので連行できません。」 これを聞いた官軍たちは「ならば橋本中将(俊季)を隠しているのだろう」と叫び数千の兵が殿中へ乱入した。天井裏や塗籠め部屋を破壊し、翠簾や几帳を引き倒して残らず捜索するうちに――紅葉御覧の宴のために楽器を調えていた伶人たちは衣装も脱げず逃げ惑い、見物に来た僧侶・庶民らまで「怪しい者か」と捕縛され不意の処刑に遭ってしまった。 解説【心理描写と歴史的リアリティ】
【暴動描写の文学的効果】
【前文との連関と物語構造】
【作者の批判的視点】
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| 其辺の山の奥、岩のはざま迄、若やと猶捜けれども、俊季朝臣遂に見へ給はざりければ、官軍無力、公宗卿と文衡入道とを召捕奉て、夜中に京へぞ帰ける。大納言殿をば定平朝臣の宿所に、一間なる所を攻篭の如に拵て、押篭奉る。文衡入道をば結城判官に被預、夜昼三日まで、上つ下つ被拷問けるに、無所残白状しければ、則六条河原へ引出して、首を被刎けり。公宗をば伯耆守長年に被仰付、出雲国へ可被流と、公儀已に定りにけり。明日必配所へ赴き給べしと、治定有ける其夜、中院より北の御方へ被告申ければ、北の方忍たる体にて泣々彼こへ坐したり。暫く警固の武士をのけさせて、篭の傍りを見給へば、一間なる所の蜘手密く結たる中に身を縮めて、起伏もなく泣沈み給ければ、流るゝ泪袖に余りて、身も浮く許に成にけり。大納言殿北の方を一目見給て、いとゞ泪に咽び、云出し給へる言葉もなし。北の方も、「こは如何に成ぬる御有様ぞや。」と許涙の中に聞へて、引かづき泣伏給ふ。良暫有て、大納言殿泪を押へて宣けるは、「我身かく引人もなき捨小舟の如く、深罪に沈みぬるに付ても、たゞならぬ御事とやらん承りしかば、我故の物思ひに、如何なる煩はしき御心地かあらんずらんと、それさへ後の闇路の迷と成ぬべう覚てこそ候へ。 |
それでも公宗卿自身は全く騒ぎ立てる様子もなかった。事情を知らない家族や女房たち、侍従らは「これは何事だ」と慌てふためいて転びながら逃げた。弟の橋本中将俊季朝臣は官軍が迫ってくるのを見ると機敏な人物だったので、ただ一人抜け出して後ろの山からどこへともなく逃亡した。 中院中将定平卿が公宗大納言殿と対面し穏やかに事情を説明すると、大納言は涙をこらえてこう述べた。「私は不肖の身ながらも亡き中宮様ご寵愛のおかげで官位俸禄に恵まれ、これは全て天皇陛下の慈愛深い恩寵です。どうして陰で謀反など企てましょうか?振り返ってみれば我が家は数代にもわたり官爵を独占し過ぎたため清華家から妬まれ名家連中から疑われているのでしょう。様々な讒言や虚偽の告げ口で我家をつぶそうとしているのです。とはいえ天皇陛下のお心は鏡のように澄んでおられますいつまでも冤罪が通じるはずもありませんただちに召喚命令に従って出頭し嫌疑をご審議いただきますただし俊季については今朝すでに逃亡しておりますので連行できません」 これを聞いた官軍たちは「ならば橋本中将殿を隠しているのだろう御所内を徹底的に捜せ」と叫び数千の兵が屋敷へ乱入した天井裏や塗籠め部屋を破壊し翠帳や屏風を引き倒して残らず探しまわった結果―紅葉観賞宴準備のために楽器調整していた伶人たちは衣装も脱げず右往左往し見物に集まった僧侶庶民男女まで「怪しい者か」と捕縛され不意の処刑にあってしまった 解説【心理描写の歴史的意義】
【暴動描写の文学的効果】
【人物行動と前文連関】
【作者批判的視点】
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| 若それ男子にても候はゞ、行末の事思捨給はで、哀みの懐の中に人となし給べし。我家に伝る所の物なれば、見ざりし親の忘形見ともなし給へ。」とて、上原・石上・流泉・啄木の秘曲を被書たる琵琶の譜を一帖、膚の護より取出し玉て、北の方に手から被渡けるが、側なる硯を引寄て、上巻の紙に一首の歌を書給ふ。哀なり日影待間の露の身に思をかるゝ石竹の花硯の水に泪落て、薄墨の文字さだかならず、見る心地さへ消ぬべきに、是を今はの形見とも、泪と共に留玉へば、北の御方はいとゞ悲みを被副て中々言葉もなければ、只顔をも不擡泣給ふ。去程に追立の官人来て、「今夜先伯耆守長年が方へ渡し奉て暁配所へ可奉下。」と申ければ、頓て物騒しく成て、北方も傍へ立隠給ぬ。さても猶今より後の御有様如何と心苦覚て、透垣の中に立紛て見玉へば、大納言殿を請取進んとて、長年物具したる者共二三百人召具して、庭上に並居たり。余りに夜の深候ぬると急ければ、大納言殿縄取に引へられて中門へ出玉ふ。其有様を見給ける北の御方の心の中、譬へて云はん方もなし。既に庭上に舁居たる輿の簾を掲て乗らんとし給ける時、定平朝臣長年に向て、「早。」と被云けるを、「殺し奉れ。」との詞ぞと心得て、長年、大納言に走懸て鬢髪を掴で覆に引伏せ、腰刀を抜て御頚を掻落しけり。 |
「もしそれが男の子であれば将来までお見捨てにならず慈しみの中で育ててください。これは我が家伝来の品ですので会えなかった親(公宗自身)からの形代として受け取ってほしい」と言い、『上原』『石上』『流泉』『啄木』という秘曲を記した琵琶譜一巻を懐から取り出し北御方へ手渡すと、傍らの硯を引き寄せて表紙に一首の歌をお書きになった。 そこへ追手の官人が来て「今夜まず伯耆守長年邸へお渡し申し明け方には流刑地(出雲)へ送ります」と告げたため急に騒然となり北御方は傍から身を隠された。それでも今後の行く末がいかに気遣わしく透垣の隙間に立ってこっそり見ていると、大納言殿を受け取ろうと長年が武装兵二三百人を率いて庭にずらりと並んでいた。夜も深まり急かされたため公宗大納言は縄で引かれ中門へ出される様子を見た北御方の心中は譬えようもなかった。 ちょうど庭先に据えた駕籠の簾を上げてお乗りになろうとした時、定平朝臣が長年に向かって「早く」と言った言葉を「殺せ」と聞き違えたため長年はいきなり大納言へ飛び掛かり鬢髪をつかんで地面に押し倒すや腰刀を抜いて首をお刎ねにしてしまった。 解説【悲劇的クライマックスの構成】
【前文との連関性】
【作者の史的視点】
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| 下として上を犯んと企る罰の程こそ恐しけれ。北の方は是を見給て、不覚あつとをめいて、透垣の中に倒れ伏給ふ。此侭頓て絶入り給ぬと見へければ、女房達車に扶乗奉て、泣々又北山殿へ帰し入れ奉る。さしも堂上堂下雲の如なりし青侍官女、何地へか落行けん。人一人も不見成て、翠簾几帳皆被引落たり。常の御方を見給へば、月の夜・雪の朝、興に触て読棄給へる短冊共の、此彼に散乱たるも、今はなき人の忘形見と成て、そゞろに泪を被催給ふ。又夜の御方を見給へば、旧き衾は留て、枕ならべし人はなし。其面影はそれながら、語て慰む方もなし。庭には紅葉散敷て、風の気色も冷きに、古き梢の梟声、けうとげに啼たる暁の物さびしさ、堪ては如何と住はび給へる処に、西園寺の一跡をば、竹林院中納言公重卿賜らせ給たりとて、青侍共数た来て取貸へば、是さへ別の憂数に成て、北の御方は仁和寺なる傍に、幽なる住所尋出して移玉ふ。時しもこそあれ、故大納言殿の百箇日に当りける日、御産事故無して、若君生れさせ玉へり。あはれ其昔ならば、御祈の貴僧高僧歓喜の眉を開き、弄璋の御慶天下に聞へて門前の車馬群を可成に、桑の弓引人もなく、蓬の矢射る所もなきあばら屋に、透間の風冷じけれども、防ぎし陰もかれはてぬれば、御乳母なんど被付までも不叶、只母上自懐きそだて給へば、漸く故大納言殿に似給へる御顔つきを見玉ふにも、「形見こそ今はあたなれ是なくば忘るゝ時もあらまし物を。 |
「下位者が上位者へ謀反する罪の報いほど恐ろしいものはない」と悟った北御方はこの光景を見て思わず「あっ!」と声をあげ、透垣の中で倒れ伏してしまった。そのまま気絶したかと思われたため女房たちが車に担ぎ込み泣きながら再び北山殿へ連れ戻すこととなった。かつて堂上から庭先まで侍や官女で雲のように賑わっていた屋敷も今では誰一人おらず翠簾や几帳はすべて引きずり落とされていた。 普段過ごしていた部屋を見れば月明かりの夜や雪の朝、興に乗じて書き散らした短冊がそこかしこに乱れていてこれも亡き人の形見としてただ涙を誘うばかりであった。寝室では古い布団だけが残り共に枕を並べた人はもうおらず面影はあっても語らい慰めることもできなかった。庭には紅葉が散り敷いて風の冷たい気配の中、枯れ枝で梟が不吉な声で鳴く夜明けの寂しさは耐え難いほどだった。 そんな折西園寺邸跡を竹林院中納言公重卿に賜ると決まり青侍たちが数多く来て引き渡せと迫ったためこれも別の苦労となり北御方は仁和寺近くにひっそりとした住まいを見つけて移られた。ちょうどその時期故大納言殿(西園寺公宗)の百箇日にあたる日、無事に出産があり若君が誕生したのだ。ああこのようなことも昔なら祈祷僧たちは喜びに満ち男児誕生の祝いとして天下に知れ渡り門前には車馬が群がったであろうに今は桑で作った儀式用の弓を引く者もなく蓬草の矢を射る場所すらない粗末な家である。 隙間風が冷たく吹き込み防ぎようもないため乳母をつけることさえ叶わずただ母親自ら抱いて育てていたところ幼子の中に徐々に故大納言殿に似た面影を見つけた瞬間「形見こそ今はこの子であるもしこれがいなければ忘れる時もあるだろうものを」と涙した。 解説【悲劇後の象徴的描写構造】
【作者の史的視座】
【前文との連続性】
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| 」と古人の読たりしも、泪の故と成にけり。悲歎の思胸に満て、生産の筵未乾、中院中将定平の許より、以使、「御産の事に付て、内裡より被尋仰事候。もし若君にても御渡候はゞ、御乳母に懐かせて、是へ先入進られ候へ。」と被仰ければ、母上、「あな心憂や、故大納言の公達をば、腹の中までも開て可被御覧聞へしかば、若君出来させ給ぬと漏聞へけるにこそ有けれ。歎の中にも此子をそだてゝこそ、故大納言殿の忘形見とも見、若人とならば僧にもなして、無跡をも問せんと思つるに、未だ乳房も離ぬみどり子を、武士の手に懸て被失ぬと聞て、有し別の今の歎に、消はびん露の命を何に懸てか可堪忍。あるを限の命だに、心に叶ふ者ならで、斯る憂事をのみ見聞く身こそ悲しけれ。」と泣沈み給ければ、春日の局泣々内より御使に出合給て、「故大納言殿の忘形見の出来させ給て候しが、母上のたゞならざりし時節限なき物思に沈給ふ故にや、生れ落玉ひし後、無幾程はかなく成給候。是も咎有し人の行ゑなれば、如何なる御沙汰にか逢候はんずらんと、上の御尤を怖て、隠し侍るにこそと被思召事も候ぬべければ、偽ならぬしるしの一言を、仏神に懸て申入候べし。」とて、泣々消息を書給ひ、其奥に、 偽を糺の森に置露の消しにつけて濡るゝ袖哉 |
「昔の人が詠んだのも涙のためにこそあったのだ」と深い悲しみが胸に満ちていた。出産後の敷物もまだ乾かないうちに、中院中将定平のもとから使いが来てこう伝えた。「お産のことについて朝廷からのお尋ねがありました。もし男児がいらっしゃるなら乳母にお抱かせしてまずこちらへ連れてきなさい」。 解説【悲劇の深化構造】
【女性たちの抵抗的戦略】
【前文との心理的連続性】
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| 使此御文を持て帰り参れば、定平泪を押へて奏覧し給ふ。此一言に、君も哀とや思召れけん、其後は御尋もなかりければ、うれしき中に思ひ有て、焼野の雉の残る叢を命にて、雛を育らむ風情にて、泣声をだに人に聞せじと、口を押へ乳を含て、同枕の忍びねに、泣明し泣暮して、三年を過し給し心の中こそ悲しけれ。其後建武の乱出来て、天下将軍の代と成しかば、此人朝に仕へて、西園寺の跡を継給し、北山の右大将実俊卿是也。さても故大納言殿滅び給ふべき前表のありけるを、木工頭孝重が兼て聞たりけるこそ不思議なれ。彼卿謀叛の最初、祈祷の為に一七日北野に参篭して、毎夜琵琶の秘曲を弾じ給けるが、七日に満じける其夜は、殊更聖廟の法楽に備べき為とや被思けん。月冷く風秋なる小夜深方に、翠簾を高く捲上させて、玉樹三女の序を弾じ給ふ。「第一・第二絃索々秋風払松疎韻落。第三・第四絃冷々夜鶴憶子篭中鳴、絃々掩抑只拍子に移る。六反の後の一曲、誠に嬰児も起て舞許也。時節木工頭孝重社頭に通夜して、心を澄し耳を側て聞けるが、曲終て後に、人に向て語りけるは、「今夜の御琵琶祈願の御事有て遊ばさるゝならば、御願不可成就。其故は此玉樹と申曲は、昔晉の平公濮水の辺を過給けるに、流るゝ水の声に絃管の響あり。 |
使者がこの手紙を持ち帰ると、中院中将定平は涙を抑えて朝廷へ報告した。「亡くなった」という一言で君主も哀れに思われたのかその後尋問はなかったため、ほっとする一方で母上(北御方)は焼け野原の雉が残された茂みを命綱にしてひな鳥を育てる心境のように人に泣き声さえ聞かせまいと口を押さえて乳を含ませながら同じ枕でこっそり夜通し泣く日々を送った。こうして三年過ごした胸中は悲しいものだった。 その後建武の乱が起こり天下が将軍(足利尊氏)支配に変わるとこの子(若君)は朝廷に出仕し西園寺家の後継者となられた。これが北山右大将実俊卿である。ところで故大納言殿滅亡前兆があったことを木工頭孝重が事前に聞いていたのは不思議だ。あの方謀反計画初期、祈願のために七昼夜北野社へ参籠し毎夜琵琶秘曲を弾かれたが七日目の深夜は特に聖廟の法楽として月冷たく風秋深まる真夜中翠簾高く巻き上げ「玉樹三女序」演奏された。 第一第二弦は索々と松風掃う音に似て韻落ち第三第四弦は冷冷たる鶴が籠中の子を思う鳴き声のようで絃音抑揚ただ拍子移り変わる六反目後の一曲は嬰児すら起ち舞わんばかりだった。当時木工頭孝重社殿通夜し心澄ませ聴いていた曲終後人に語った「今夜琵琶祈願事あられるなら成就しないはず何故かこの玉樹という曲昔晋平公濮水の辺りで流れる水音管絃響きを聞いた時——(以下続く) 解説【悲劇から再生への物語構造】
【作品全体テーマとの統合】
【前文との連鎖的展開】
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| 平公則師涓と云楽人を召て、琴の曲に移さしむ。其曲殺声にして、聞人泪を不流云事なし。然共平公是を愛して、専楽絃に用給ひしを、師曠と云ける伶倫、此曲を聴て難じて奏しけるは、「君是を弄び玉はゞ、天下一たび乱て、宗廟全からじ。如何となれば、古へ殷の紂王彼婬声の楽を作て弄び給しが、無程周の武王に被滅給き。其魂魄猶濮水の底に留て、此曲を奏するを、君今新楽に写して、是を翫び給ふ。鄭声雅を乱る故に一唱三歎の曲に非ず。」と申けるが、果して平公滅びにけり。其後此楽猶止ずして、陳の代に至る。陳の後主是を弄で、隋の為に被滅ぬ。隋の煬帝又是を翫ぶ事甚して唐の太宗に被滅ぬ。唐の末の代に当て、我朝の楽人掃部頭貞敏、遣唐使にて渡たりしが、大唐の琵琶の博士廉承夫に逢て、此曲を我朝に伝来せり。然ども此曲に不吉の声有とて、一手を略せる所あり。然を其夜の御法楽に、宗と此手を引給ひしに、然も殊に殺発の声の聞へつるこそ、浅増く覚へ侍りけれ、八音与政通ずといへり。大納言殿の御身に当て、いかなる煩か出来らん。」と、孝重歎て申けるが、無幾程して、大納言殿此死刑に逢給ふ。不思議也ける前相也。 ○中前代蜂起事 今天下一統に帰して、寰中雖無事、朝敵の余党猶東国に在ぬべければ、鎌倉に探題を一人をかでは悪かりぬべしとて、当今第八の宮を、征夷将軍になし奉て、鎌倉にぞ置進せられける。 |
使者がこの手紙を持ち帰ると、中院中将定平は涙を抑えて朝廷へ報告した。「亡くなった」という一言で君主も哀れに思われたのかその後尋問はなかったため、ほっとする一方で母上(北御方)は焼け野原の雉が残された茂みを命綱にしてひな鳥を育てる心境のように人に泣き声さえ聞かせまいと口を押さえて乳を含ませながら同じ枕でこっそり夜通し泣く日々を送った。こうして三年過ごした胸中は悲しいものだった。 その後建武の乱が起こり天下が将軍(足利尊氏)支配に変わるとこの子(若君)は朝廷に出仕し西園寺家の後継者となられた。これが北山右大将実俊卿である。ところで故大納言殿滅亡前兆があったことを木工頭孝重が事前に聞いていたのは不思議だ。あの方謀反計画初期、祈願のために七昼夜北野社へ参籠し毎夜琵琶秘曲を弾かれたが七日目の深夜は特に聖廟の法楽として月冷たく風秋深まる真夜中翠簾高く巻き上げ「玉樹三女序」演奏された。 第一第二弦は索々と松風掃う音に似て韻落ち第三第四弦は冷冷たる鶴が籠中の子を思う鳴き声のようで絃音抑揚ただ拍子移り変わる六反目後の一曲は嬰児すら起ち舞わんばかりだった。当時木工頭孝重社殿通夜し心澄ませ聴いていた曲終後人に語った「今夜琵琶祈願事あられるなら成就しないはず何故かこの玉樹という曲昔晋平公濮水の辺りで流れる水音管絃響きを聞いた時、平公は師涓という楽人を召し琴の曲に移させた。その曲は殺伐な調べで聴く者涙せずといえなかったが平公これを愛好したところ伶倫(音楽家)の師曠『この曲弄ばれれば天下乱れて宗廟滅びましょう殷紂王淫楽を奏し武王に滅ぼされ魂魄は今も濮水底にとどまり主君新たな楽しみとしておられますが鄭声(俗謡)雅楽乱す不吉の曲』と諫めた。果たして平公滅亡した後この音楽続き陳代には陳後主弄んで隋に滅ぼされ隋煬帝も唐太宗に滅ぼされた。わが朝では遣唐使掃部頭貞敏大唐琵琶博士廉承夫から伝えた際不吉ゆえ一部省略しているのに今夜宗殿はその略さぬ部分を弾かれた殺伐な音色顕著であった『八音(音楽)政事通ず』という大納言様に何か禍あるだろう」と孝重嘆いたが間もなく大納言死刑となった。不思議な前兆だったのだ。 ○中先代蜂起の件 解説【歴史予言構造の文学的完成】
【作品全体テーマへの収斂】
【歴史叙述技法の革新性】
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| 足利左馬頭直義其執権として、東国の成敗を司れども、法令皆旧を不改。斯る処に、西園寺大納言公宗卿隠謀露顕して被誅給し時、京都にて旗を挙んと企つる平家の余類共、皆東国・北国に逃下て、猶其素懐を達せん事を謀る。名越太郎時兼には、野尻・井口・長沢・倉満の者共、馳著ける間、越中・能登・加賀の勢共、多く与力して、無程六千余騎に成にけり。相摸次郎時行には、諏訪三河守・三浦介入道・同若狭五郎・葦名判官入道・那和左近大夫・清久山城守・塩谷民部大夫・工藤四郎左衛門已下宗との大名五十余人与してげれば、伊豆・駿河・武蔵・相摸・甲斐・信濃の勢共不相付云事なし。時行其勢を率して、五万余騎、俄に信濃国に打越て、時日を不替則鎌倉へ責上りける。渋河刑部大夫・小山判官秀朝武蔵国に出合ひ、是を支んとしけるが、共に、戦利無して、両人所々にて自害しければ、其郎従三百余人、皆両所にて被討にけり。又新田四郎上野国利根川に支て、是を防がんとしけるも、敵目に余る程の大勢なれば、一戦に勢力を被砕、二百余人被討にけり。懸りし後は、時行弥大勢に成て、既に三方より鎌倉へ押寄ると告ければ、直義朝臣は事の急なる時節、用意の兵少かりければ、角ては中々敵に利を付つべしとて、将軍の宮を具足し奉て、七月十六日の暁に、鎌倉を落給けり。 |
足利左馬頭直義が執権として東国の政務を担当していたが、法令のすべては旧来のまま変更しなかった。そのような状況の中、西園寺大納言公宗卿の陰謀が露見して処刑された時、京都で挙兵を企てていた平家の残党たちは皆、東国や北国へ逃れ下ってなお本来の目的を達成しようと画策した。名越太郎時兼には野尻・井口・長沢・倉満らの者が集結し、さらに越中・能登・加賀の勢力が多く味方についたため、ほどなく六千余騎に膨れ上がった。相模次郎時行には諏訪三河守・三浦介入道・同若狭五郎・葦名判官入道・那和左近大夫・清久山城守・塩谷民部大夫・工藤四郎左衛門以下、味方の大名五十余名が付き従ったため、伊豆・駿河・武蔵・相模・甲斐・信濃の勢力も加わらない者はいなかった。時行はその軍勢を率いて五万余騎で突然信濃国へ進撃し、日を置かず即座に鎌倉へ攻め上った。渋川刑部大夫と小山判官秀朝が武蔵国で迎え撃とうとしたが共に戦いに利なく、両名はそれぞれの場所で自害したため、その家臣三百余人も全員討ち取られた。また新田四郎が上野国の利根川で防ごうとしたのも、敵があまりにも大軍だったために一戦で兵力を粉砕され、二百余人が討たれた。この後は時行の勢力がさらに増し、すでに三方から鎌倉へ迫っているとの報せがあったため、直義朝臣は事態が急な上に準備した兵が少なかったので、これではかえって敵に有利になるとして、将軍宮(成良親王)を伴い奉じて七月十六日の明け方に鎌倉から撤退した。 解説【歴史的展開の必然性】
【文学的手法と史実の融合】
【全体構成上の意義】
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| ○兵部卿宮薨御事付干将莫耶事 左馬頭既に山の内を打過給ける時、淵辺伊賀守を近付て宣けるは、「御方依無勢、一旦鎌倉を雖引退、美濃・尾張・三河・遠江の勢を催して、頓て又鎌倉へ寄んずれば、相摸次郎時行を滅さん事は、不可回踵。猶も只当家の為に、始終可被成讎は、兵部卿親王也。此御事死刑に行ひ奉れと云勅許はなけれ共、此次に只失奉らばやと思ふ也。御辺は急薬師堂の谷へ馳帰て、宮を刺殺し進らせよ。」と被下知ければ、淵辺畏て、「承候。」とて、山の内より主従七騎引返して宮の坐ける篭の御所へ参たれば、宮はいつとなく闇の夜の如なる土篭の中に、朝に成ぬるをも知せ給はず、猶灯を挑て御経あそばして御坐有けるが、淵辺が御迎に参て候由を申て、御輿を庭に舁居へたりけるを御覧じて、「汝は我を失んとの使にてぞ有らん。心得たり。」と被仰て、淵辺が太刀を奪はんと、走り懸らせ給けるを、淵辺持たる太刀を取直し、御膝の辺をしたゝかに奉打。宮は半年許篭の中に居屈らせ給たりければ、御足も快立ざりけるにや、御心は八十梟に思召けれ共、覆に被打倒、起挙らんとし給ひける処を、淵辺御胸の上に乗懸り、腰の刀を抜て御頚を掻んとしければ、宮御頚を縮て、刀のさきをしかと呀させ給ふ。 |
既に山の中を通り過ぎた足利直義は淵辺伊賀守を呼び寄せて言った。「我々は兵力不足で一旦鎌倉から退いたが、美濃・尾張・三河・遠江の勢力を集めてすぐに鎌倉へ戻れば相模次郎時行を滅ぼすのは容易い。ただ、わが家(足利氏)にとって常に敵となるべき存在は兵部卿親王である。この方に対する死刑執行の勅許こそないものの、今ここで亡きさせたいと思う。お前は急いで薬師堂の谷へ戻り、宮を刺し殺して参上せよ。」と命じたので淵辺は「承知しました」と言い山の中から主従七騎で引き返し宮が籠もる御所に到着したところ、宮(兵部卿親王)はいつとはなく闇夜のような土牢の中で朝になったことも気づかず灯りをともして経文を唱えていた。淵辺が「お迎えに参上しました」と言い輿を庭へ運んだのを見て、「汝は私を亡きすべき使者であろう、理解した。」と述べ淵辺の太刀を奪おうと走りかかったところを淵辺は持ち直し膝付近を強く打ちつけた。宮は半年ほど土牢に屈んでいたため足も自由に動かなかったのか心では猛々しく思ったものの倒れ伏せ起き上がろうとした瞬間、淵辺が胸の上へ乗り腰の刀を抜いて首を斬ろうとするので、宮は首をすくめて刃先をしっかりと歯で食いしばられた。 解説【歴史的意義と文学的表現】
【描写手法の分析】
【全体文脈での役割】
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| 淵辺したゝかなる者なりければ、刀を奪はれ進らせじと、引合ひける間、刀の鋒一寸余り折て失にけり。淵辺其刀を投捨、脇差の刀を抜て、先御心もとの辺を二刀刺す。被刺て宮少し弱らせ給ふ体に見へける処を、御髪を掴で引挙げ、則御頚を掻落す。篭の前に走出て、明き所にて御頚を奉見、噬切らせ給ひたりつる刀の鋒、未だ御口の中に留て、御眼猶生たる人の如し。淵辺是を見て、「さる事あり。加様の頚をば、主には見せぬ事ぞ。」とて、側なる薮の中へ投捨てぞ帰りける。去程に御かいしやくの為、御前に候はれける南の御方、此有様を見奉て、余の恐しさと悲しさに、御身もすくみ、手足もたゝで坐しけるが、暫肝を静めて、人心付ければ、薮に捨たる御頚を取挙たるに、御膚へも猶不冷、御目も塞せ給はず、只元の気色に見へさせ給へば、こは若夢にてや有らん、夢ならばさむるうつゝのあれかしと泣悲み給ひけり。遥に有て理致光院の長老、「斯る御事と承及候。」とて葬礼の御事取営み給へり。南の御方は、軈て御髪被落ろて泣々京へ上り給ひけり。抑淵辺が宮の御頚を取ながら左馬頭殿に見せ奉らで、薮の傍に捨ける事聊思へる所あり。昔周の末の代に、楚王と云ける王、武を以て天下を取らん為に、戦を習はし剣を好む事年久し。 |
淵辺は力強い者だったため刀を奪われまいと引き合ったところ、刃先が一寸ほど折れてしまった。淵辺はその刀を投げ捨て脇差の小刀を抜き、まず心臓付近に二度突き刺した。親王(宮)が弱っている様子に見えたので髪をつかんで引き上げ即座に首を斬り落とした。牢獄の前に出て明るい場所で首を見ると、噛み切られた刃先がまだ口の中に残っており目は生きているようだった。淵辺はこれを見て「これはまずい。こんな首を主君に見せるわけにはいかない」と言い近くの藪へ投げ捨て帰った。その間御膳係として控えていた南の方(侍女)がこの様子を見て恐怖と悲しみで身体が硬直し動けなかったが、やがて正気を取り戻すと薮に捨てられた首を拾い上げたところ肌はまだ温かく目も閉じられず元のままだったため「これは夢ではないか。もし夢なら早く覚めてほしい」と泣き悲しんだ。遠方から聞きつけた理致光院の長老が葬儀を取り仕切り、南の方(侍女)はすぐに髪をおろして泣きながら京へ上っていった。ところで淵辺が親王の首を持ち帰らず藪に捨てたことには深い意味がある。昔中国周王朝末期に楚王という君主が武力で天下を取ろうと長年剣術を磨いた故事に関連している。 解説【歴史事件と文学的象徴性】
【物語構造と伏線】
【全体文脈での役割】
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| 或時楚王の夫人、鉄の柱に倚傍てすゞみ給けるが、心地只ならず覚て忽懐姙し玉けり。十月を過て後、生産の席に苦で一の鉄丸を産給ふ。楚王是を怪しとし玉はず、「如何様是金鉄の精霊なるべし。」とて、干将と云ける鍛冶を被召、此鉄にて宝剣を作て進すべき由を被仰。干将此鉄を賜て、其妻の莫耶と共に呉山の中に行て、竜泉の水に淬て、三年が内に雌雄の二剣を打出せり。剣成て未奏前に、莫耶、干将に向て云けるは、「此二の剣精霊暗に通じて坐ながら怨敵を可滅剣也。我今懐姙せり。産子は必猛く勇める男なるべし。然れば一の剣をば楚王に献るとも今一の剣をば隠して我子に可与玉。」云ければ、干将、莫耶が申に付て、其雄剣一を楚王に献じて、一の雌剣をば、未だ胎内にある子の為に深く隠してぞ置ける。楚王雄剣を開て見給ふに、誠に精霊有と見へければ、箱の中に収て被置たるに、此剣箱の中にして常に悲泣の声あり。楚王怪て群臣に其泣故を問給ふに、臣皆申さく、「此剣必雄と雌と二つ可有。其雌雄一所に不在間、是を悲で泣者也。」とぞ奏しける。楚王大に忿て、則干将を被召出、典獄の官に仰て首を被刎けり。其後莫耶子を生り。面貌尋常の人に替て長の高事一丈五尺、力は五百人が力を合せたり。面三尺有て眉間一尺有ければ、世の人其名を眉間尺とぞ名付ける。 |
ある時楚王の夫人が鉄の柱にもたれて涼んでいると、気分がすぐれず突然妊娠された。十月過ぎて出産の際苦しんだ末に一つの鉄の塊を生み落とされた。楚王はこれを不思議に思わず「これはきっと金属の精霊だろう」と言って干将という鍛冶職人を呼び寄せ、この鉄で宝剣を作り献上するよう命じた。干将はこの鉄を受け取り妻である莫耶と共に呉山の中へ行き龍泉と呼ばれる湧き水で焼入れし三年かけて男女一対の二振りの剣を打ち出した。剣が完成してまだ報告前に、莫耶が干将に向かいこう言った。「この二振りの剣は霊力が秘められ座ったまま敵を滅ぼすことができるだろう。私は今妊娠している。生まれる子は必ず勇猛な男児となるはずだ。だから一振りは楚王に献上してもう一振りは隠してわが子に与えてほしい」と述べたので干将は莫耶の言葉に従い、雄剣一方を楚王へ献じ雌剣もう一方はまだ胎内にいる子のために深く隠しておいた。楚王が雄剣を受け取り見ると確かに霊力があるように思えたため箱の中に収めていたところこの剣は箱の中でいつも悲しげな泣き声を立てた。楚王は怪しんで家臣たちにその理由を尋ねると全員「この剣には必ず雄と雌の二振りが存在するはずです。両方が同じ場所になければそれを嘆いて泣くのです」と答えたのである。楚王は大いに怒って直ちに干将を呼び出し刑吏に命じて首を斬らせた。その後莫耶は子を生んだ。見た目が普通の人とは異なり身長一丈五尺(約4.5メートル)、力は五百人分にも匹敵した。顔の幅が三尺で眉間が一尺もあったため世間ではその名を「眉間尺」と呼んだのである。 解説【歴史的・文学的背景】
【描写手法と構造的役割】
これにより『太平記』は「権力による殺人は必ず報いを受ける」という因果応報観念を読者に印象付ける。
【全体文脈での意義】
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| 年十五に成ける時、父が書置ける詞を見るに、日出北戸。南山其松。松生於石。剣在其中。と書り。さては此剣北戸の柱の中に在と心得て、柱を破て見るに、果して一の雌剣あり。眉間尺是を得て、哀楚王を奉討父の仇を報ぜばやと思ふ事骨髄に徹れり。楚王も眉間尺が憤を聞給て、彼れ世にあらん程は、不心安被思ければ、数万の官軍を差遣して、是を被責けるに、眉間尺一人が勇力に被摧、又其雌剣の刃に触れて、死傷する者幾千万と云数を不知。斯る処に、父干将が古への知音なりける甑山人来て、眉間尺に向て云けるは、「我れ汝が父干将と交りを結ぶ事年久かりき。然れば、其朋友の恩を謝せん為、汝と共に楚王を可奉討事を可謀。汝若父の仇を報ぜんとならば、持所の剣の鋒を三寸嚼切て口の中に含で可死。我汝が頭を取て楚王に献ぜば、楚王悦で必汝が頭を見給はん時、口に含める剣のさきを楚王に吹懸て、共可死。」と云ければ、眉間尺大に悦で、則雌剣の鋒三寸喫切て、口の内に含み、自己が頭をかき切て、客の前にぞ指置ける。客眉間尺が首を取て、則楚王に献る。楚王大に喜て是を獄門に被懸たるに、三月まで其頭不爛、■目を、切歯を、常に歯喫をしける間、楚王是を恐て敢て不近給。是を鼎の中に入れ、七日七夜までぞ被煮ける。 |
眉間尺が15歳になった時、父(干将)が残した書状を見ると「日出北戸。南山其松。松生於石。剣在其中。」と記されていた。そこで彼はこの剣が北側の入り口の柱の中にあると思い立ち、柱を壊して見たところ、確かに一振りの雌剣があった。眉間尺はこれを手に入れ、「あぁ楚王を討ち倒し父の仇を打ちたい」という思いが骨髄に染み渡った。一方で楚王も眉間尺の怒りを知ると「彼が生きている限り安心できない」と考え、何万もの官軍を派遣して攻めさせた。しかし眉間尺一人の勇猛な力と雌剣の刃によって打ち倒され、死傷者は数えきれないほどになった。そのような時、かつて干将と親交があった甑山人が現れて眉間尺に言った。「私はお前の父・干将との付き合いは長かった。だから友情への恩返しとして共に楚王を討つ計画を立てよう。もし本当に父の仇を打ちたいなら、持っている剣の刃先を三寸(約9cm)かみ切り口にくわえたまま自害せよ。私がお前の首を持って楚王に献上すれば彼は喜んで必ず見るだろうから、その時くわえていた剣の先端を吹きかけて共に死ぬのだ」と告げた。眉間尺は大いに喜び、すぐに雌剣の刃を三寸かみ切り口にくわえると自ら首を掻っ切って客人の前に差し出した。客(甑山人)はその首を持ち楚王のもとに献上すると、楚王は大喜びで獄門(さらし首台)にかけたところ、三ヶ月経っても眉間尺の首が腐らずに睨みをきかせ歯ぎしりしながら噛むような動作を見せるので恐ろしくて近づけなかった。そこでその首を大鍋(鼎)に入れ七日七晩煮続けることとなった。 解説【物語構造と倫理的主題】
【超自然的描写の意味】
【全体文脈での意義】
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| 余につよく被煮て、此頭少し爛て目を塞ぎたりけるを、今は子細非じとて、楚王自鼎の蓋を開せて、是を見給ける時、此頭、口に含だる剣の鋒を楚王にはつと奉吹懸。剣の鋒不誤、楚王の頚の骨を切ければ、楚王の頭忽に落て、鼎の中へ入にけり。楚王の頭と眉間尺が首と、煎揚る湯の中にして、上になり下に成り、喫相けるが、動ば眉間尺が頭は下に成て、喫負ぬべく見へける間、客自己が首を掻落て鼎の中へ投入、則眉間尺が頭と相共に、楚王の頭を喫破て、眉間尺が頭は、「死して後父の怨を報じぬ。」と呼り、客の頭は、「泉下に朋友の恩を謝しぬ。」と悦ぶ声して、共に皆煮爛れて失にけり。此口の中に含だりし三寸の剣、燕の国に留て太子丹が剣となる。太子丹、荊軻・秦舞陽をして秦始皇を伐んとせし時、自差図の箱の中より飛出て、始皇帝を追奉りしが、薬の袋を被投懸ながら、口六尺の銅の柱の半ばを切て、遂に三に折て失たりし匕首の剣是也。其雌雄二の剣は干将莫耶の剣と被云て、代々の天子の宝たりしが、陳代に至て俄に失にけり。或時天に一の悪星出て天下の妖を示す事あり。張華・雷煥と云ける二人の臣、楼台に上て此星を見るに、旧獄門の辺より剣の光天に上て悪星と闘ふ気あり。張華怪しで光の指す所を掘せて見るに、件の干将莫耶の剣土五尺が下に埋れてぞ残りける。 |
さらに強く煮られて眉間尺の首が少し腐り目をつぶしていたところを見て、「もう問題ないだろう」と考えた楚王自ら鼎(かなえ)の蓋を開けて中を見ようとした時、その首は口にくわえた剣の刃先を素早く楚王に吹きかけた。剣の刃は外れず楚王の首の骨を切り裂いたため、楚王の頭が突然落ちて鼎の中へ入ってしまった。すると楚王の頭と眉間尺(びけんしゃく)の首は沸騰する湯の中で上になったり下になったりしながら噛み合い始めた。しかし動き出すと眉間尺の首が下になって負けそうに見えたため、客人(甑山人)は自らの首をかき切って鼎の中へ投げ入れた。すると彼らは協力して楚王の頭にかぶりつき破壊したのである。眉間尺の首は「死んでから後に父の恨みを晴らせた」と叫び、客人の首は「黄泉で友人の恩に報われた」と喜ぶ声を上げて、両方とも煮え爛れて消えてしまった。この口にくわえた三寸(約9cm)の剣は後に燕の国へ伝わり太子丹(たいしたん)の所有する剣となった。太子丹が荊軻(けいか)と秦舞陽(しんぶよう)に命じて秦始皇を暗殺しようとした時、この剣は図面箱から飛び出して始皇帝を追いかけ回したものの、薬袋を投げつけられながら六尺(約180cm)の銅柱の中ほどを切って結局三つに折れてしまった。これが匕首(あいくち)と呼ばれた剣である。一方で雌雄一対の干将莫耶(かんしょうばくや)の剣は歴代天子の宝物として伝わっていたが、陳王朝の時代になって突然行方不明になった。ある時天に悪星が現れ天下に不吉な兆しを示したところ、張華と雷煥という二人の家臣が楼閣の上から観察すると、かつて獄門があった場所付近で剣の光が天へ昇り悪星と戦う気配を放っていた。張華は怪しんで光の指す地点を掘らせてみると、干将莫耶の剣が土中五尺(約150cm)下に埋まって残されていたのである。 解説【復讐劇の完結と象徴性】
【剣伝承の歴史的拡張】
全体文脈での重要性
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| 張華・雷煥是を取て天子に献らん為に、自是を帯し、延平津と云沢の辺を通ける時、剣自抜て水の中に入けるが、雌雄二の竜と成て遥の浪にぞ沈みける。淵辺加様の前蹤を思ければ、兵部卿親王の刀の鋒を喫切らせ給て、御口の中に被含たりけるを見て、左馬頭に近付奉らじと、其御頚をば薮の傍に棄けるとなり。 ○足利殿東国下向事付時行滅亡事 直義朝臣は鎌倉を落て被上洛けるが、其路次に於て、駿河国入江庄は、海道第一の難所也。相摸次郎が与力の者共、若道をや塞んずらんと、士卒皆是危思へり。依之其所の地頭入江左衛門尉春倫が許へ使を被遣て、可憑由を被仰たりければ、春倫が一族共、関東再興の時到りぬと、料簡しける者共は、左馬頭を奉打、相摸次郎殿に馳参らんと云けるを、春倫つく/゛\思案して、「天下の落居は、愚蒙の我等が可知処に非ず。只義の向ふ所を思ふに、入江庄と云は、本徳宗領にて有しを、朝恩に下し賜り、此二三年が間、一家を顧る事日来に勝れり。是天恩の上に猶義を重ねたり。此時争か傾敗の弊に乗て、不義の振舞を致さん。」とて、春倫則御迎に参じければ、直義朝臣不斜喜て、頓て彼等を召具し、矢矯の宿に陣を取て、是に暫汗馬の足を休め、京都へ早馬をぞ被立ける。依之諸卿議奏有て、急足利宰相高氏卿を討手に可被下に定りけり。 |
張華(ちょうか)と雷煥(らいかん)はこれ(干将莫耶の剣)を取り、天子へ献上しようとして帯びていた。延平津という沼沢地を通りかかった時、突然剣が自ら鞘を抜けて水中に飛び込んだところ、雌雄二頭の龍となって遥か遠くの波間に沈んでいった。(この話は)淵辺加様(ふちべのかよう)という人物が過去にも同様の出来事を知っていたため、兵部卿親王(ひょうぶきょうしんのう)の刀を斬り損じたことや、(刃先を)口に含んでいた様子を見て警戒した。結果として左馬頭(さまのかみ=足利直義)には近づけず、その首は藪の中へ捨てられたという。 ○足利殿東国下向事付時行滅亡事 解説【剣伝承と歴史的連鎖】
歴史文脈での重要性
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| 則勅使を以て、此由を被仰下ければ、相公勅使に対して被申けるは、「去ぬる元弘の乱の始、高氏御方に参ぜしに依て、天下の士卒皆官軍に属して、勝事を一時に決候き。然ば今一統の御代、偏に高氏が武功と可云。抑征夷将軍の任は、代々源平の輩功に依て、其位に居する例不可勝計。此一事殊に為朝為家、望み深き所也。次には乱を鎮め治を致す以謀、士卒有功時節に、賞を行にしくはなし。若註進を経て、軍勢の忠否を奏聞せば、挙達道遠して、忠戦の輩勇を不可成。然れば暫東八箇国の官領を被許、直に軍勢の恩賞を執行ふ様に、勅裁を被成下、夜を日に継で罷下て、朝敵を退治仕るべきにて候。若此両条勅許を蒙ずんば、関東征罰の事、可被仰付他人候。」とぞ被申ける。此両条は天下治乱の端なれば、君も能々御思案あるべかりけるを、申請る旨に任て、無左右勅許有けるこそ、始終如何とは覚へけれ。但征夷将軍の事は関東静謐の忠に可依。東八箇国の官領の事は先不可有子細とて、則綸旨を被成下ける。是のみならず、忝も天子の御諱の字を被下て、高氏と名のられける高の字を改めて、尊の字にぞ被成ける。尊氏卿東八箇国を官領の所望、輒く道行て、征夷将軍の事は今度の忠節に可依と勅約有ければ、時日を不回関東へ被下向けり。 |
勅使を通じてこの旨(追討命令)が伝えられると、足利尊氏(高氏)は勅使に対しこう申し上げた。「かつて元弘の乱が勃発した際、私・高氏が朝廷側に加わったことで天下の兵士たちも官軍に従い、勝利を一挙に決することができました。このことから現在の治世はまさしく高氏の武功によるものと言えるでしょう。そもそも征夷大将軍の職は代々、源平の武士が功績によって就く慣例であり、その事例は数えきれません。特にこの地位は源為朝や北条為家らが深く望んできたものです。次に戦乱を鎮め秩序を保つには策謀が必要ですが、兵士たちへの恩賞を与えるのにこれ以上適した機会はありません。もし(功績の)報告を経て軍勢の忠誠心を朝廷が判断しようとすれば手続きが長引き、忠義に戦う者たちの意欲が削がれます。そこで暫定的に関東八カ国の統治権をお許しいただき、直接兵士へ恩賞を与えられるよう勅裁(天皇の許可)を下された上で、昼夜を問わず関東に赴いて朝敵を討伐いたします。もしこの二条件が勅許されないならば、関東征伐は他の者にお任せください」と述べた。 この二つの要求(征夷大将軍任命・八カ国管領)は天下の治乱を左右する重大事であったため、君主も慎重に考慮すべきだった。しかし申請通り即座に勅許が下されたのはいささか軽率にも思われた。ただし征夷大将軍職については関東平定後の功績による任命とし、八カ国統治権には問題なしとして綸旨(天皇命令書)が発布されたのみならず、尊氏はさらに光栄にも天皇の御名「尊」の字を賜り、「高氏」から「尊氏」に改称した。こうして尊氏卿は八カ国統治権を得た上で、征夷大将軍職は今回の忠節次第との勅約(朝廷との約束)が交わされたため、時を移さず関東へ下向した。 解説【室町幕府成立への政治的駆け引き】
歴史的文脈における核心性
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| 吉良兵衛佐を先立て、我身は五日引さがりて進発し給けり。都を被立ける日は其勢僅に五百余騎有しか共、近江・美濃・尾張・三河・遠江の勢馳加て、駿河国に著給ける時は三万余騎に成にけり。左馬頭直義、尊氏卿の勢を合て五万余騎、矢矯の宿より取て返して又鎌倉へ発向す。相摸次郎時行是を聞て、「源氏は若干の大勢と聞ゆれば、待軍して敵に気を呑れては不叶。先ずる時は人を制するに利有。」とて、我身は鎌倉に在ながら、名越式部大輔を大将として、東海・東山両道を押て責上る。其勢三万余騎、八月三日鎌倉を立んとしける夜、俄に大風吹て、家々を吹破ける間、天災を遁れんとて大仏殿の中へ逃入り、各身を縮て居たりけるに、大仏殿の棟梁、微塵に折れて倒れける間、其内にあつまり居たる軍兵共五百余人、一人も不残圧にうてゝ死にけり。戦場に趣く門出にかゝる天災に逢ふ。此軍はか/゛\しからじと、さゝやきけれ共、さて有べき事ならねば、重て日を取り、名越式部大輔鎌倉を立て、夜を日に継で路を急ける間、八月七日前陣已に遠江佐夜の中山を越けり。足利相公此由を聞給て、「六韜の十四変に、敵経長途来急可撃と云へり。是太公武王に教る所の兵法也。」とて、同八日の卯刻に平家の陣へ押寄て、終日闘くらされけり。 |
吉良兵衛佐(上杉憲顕)を先遣隊として送り出し、尊氏自身は5日遅れて進発した。京都を出立した日の軍勢はわずか500余騎だったが、近江・美濃・尾張・三河・遠江の兵士たちが次々に合流し、駿河国(静岡県中部)へ到着する頃には3万余騎に膨れ上がっていた。足利直義(尊氏弟)軍と合流すると総勢5万余騎となり、矢矯宿で方向を転じ再び鎌倉へ向けて出陣した。 これに対し北条時行は「源氏(尊氏軍)が大軍と聞けば待ち構えていては士気を削がれる。先手を打つのが有利だ」と判断、自身は鎌倉に残留する一方で名越式部大将(北条一族の将)を総大将として東海道・中山道両ルートから進攻させた。その軍勢3万余騎は8月3日の鎌倉出陣予定だったが、夜中に突風が発生し家屋が倒壊。兵士たちが天災避難のため大仏殿へ逃げ込んだところ、棟木が粉々に折れ落ち、内部にいた500人以上の将兵全員が圧死する惨事となった。 「戦いに出陣する矢先にこんな凶兆があってはこの軍勢は危ない」と噂されたものの、出撃を中止できる状況ではなく改めて日程調整。名越式部大将率いる軍は鎌倉を発ち昼夜兼行で進軍し、8月7日には前鋒が遠江国(静岡県西部)佐夜ノ中山を越えた。 この報を受けた尊氏は「『六韜』兵法の十四変に『敵が長旅で疲れた直後は急襲せよ』とある。太公望が武王に教えた戦略だ」と言い、8月8日卯刻(午前6時頃)に北条軍陣地へ攻めかかった。両軍は終日激闘を繰り広げた。 解説【軍事行動のダイナミズムと不吉な予兆】
戦術的焦点
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| 平家も此を前途と心を一にして相当る事三十余箇度、入替々々戦ひけるが、野心の兵後に在て、跡より引けるに力を失て、橋本の陣を引退き、佐夜の中山にて支へたり。源氏の真前には、仁木・細河の人々、命を義に軽じて進みたり。平家の後陣には、諏方の祝部身を恩に報じて、防戦ひけり。両陣牙に勇気を励して、終日相戦けるが、平家此をも被破て、箱根の水飲の峠へ引退く。此山は海道第一の難所なれば、源氏無左右懸り得じと思ける処に、赤松筑前守貞範、さしも嶮き山路を、短兵直に進んで、敵の中へ懸入て、前後に当り、左右に激しける勇力に被払て、平家又此山をも支へず、大崩まで引退く。清久山城守返し合せて、一足も不引闘けるが、源氏の兵に被組て、腹切る間もや無りけん、其身は忽に被虜、郎従は皆被討にけり。路次数箇度の合戦に打負て、平家やたけに思へ共不叶。相摸河を引越て、水を阻て支へたり。時節秋の急雨一通りして、河水岸を浸しければ、源氏よも渡しては懸らじと、平家少し由断して、手負を扶け馬を休めて、敗軍の士を集めんとしける処に、夜に入て、高越後守二千余騎にて上の瀬を渡し、赤松筑前守貞範は中の瀬を渡し、佐々木佐渡判官入道々誉と、長井治部少輔は、下の瀬を渡して、平家の陣の後ろへ回り、東西に分れて、同時に時をどつと作る。 |
北条軍もこれに応じ、全軍が一丸となって三十度以上も激しく戦った。しかし後方部隊が退却を始めたため劣勢となり、橋本陣地から佐夜ノ中山へ撤退して防衛線を張る。源氏(尊氏)軍の正面では仁木義長や細川顕氏らが命を賭けて突撃し、北条後方には諏訪神官団が主君への恩に報いて奮戦した。 両軍は終日激闘を繰り広げたものの、北条側は敗れて箱根・水飲峠へ退いた。「この難所なら攻め落とせまい」と源氏が思う中、赤松貞範が険しい山道を軽装で突進。敵陣に切り込み前後左右を蹂躙する猛攻の前に北条軍は崩れ、大敗走となった。 清久入道(時行側近)は踏みとどまり孤軍奮闘したが源氏兵に捕らえられ、自害しようとする間もなく生け捕りとなり、配下は全員討ち取られた。数度の戦いで敗北を重ねた北条勢は相模川まで後退し、増水した河を防衛線とした。 折から秋の豪雨で河が氾濫。「渡河攻撃は不可能」と油断した北条側が傷兵の手当てや馬休めを始めた時、夜陰に乗じて高師直(2000騎)が上流、赤松貞範が中流、佐々木道誉らが下流から同時渡河。三方で陣地背後を取り囲み鬨の声を上げた。 解説【戦術的転換点と自然条件の利用】
【人物描写に見る価値観】
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| 平家の兵、前後の敵に被囲て、叶はじとや思けん、一戦にも不及、皆鎌倉を指て引けるが、又腰越にて返し合せて葦名判官も被討にけり。始遠江の橋本より、佐夜の中山・江尻・高橋・箱根山・相摸河・片瀬・腰越・十間坂、此等十七箇度の戦ひに、平家二万余騎の兵共、或は討れ或は疵を蒙りて、今僅に三百余騎に成ければ、諏方三河守を始として宗との大名四十三人、大御堂の内に走入り、同く皆自害して名を滅亡の跡にぞ留めける。其死骸を見るに、皆面の皮を剥で何れをそれとも見分ざれば、相摸次郎時行も、定て此内にぞ在らんと、聞人哀れを催しけり。三浦介入道一人は、如何して遁れたりけん、尾張国へ落て、舟より挙りける所を、熱田の大宮司是を生捕て京都へ上せければ、則六条河原にて首を被刎けり。是のみならず、平家再興の計略、時や未だ至らざりけん、又天命にや違ひけん。名越太郎時兼が、北陸道を打順へて、三万余騎にて京都へ責上けるも、越前と加賀との堺、大聖寺と云所にて、敷地・上木・山岸・瓜生・深町の者共が僅の勢に打負て、骨を白刃の下に砕き、恩を黄泉の底に報ぜり。時行は已に関東にして滅び、時兼は又北国にて被討し後は、末々の平氏共、少々身を隠し貌を替て、此の山の奥、彼の浦の辺にありといへ共、今は平家の立直る事難有とや思けん、其昔を忍びし人も皆怨敵の心を改て、足利相公に属し奉らずと云者無りけり。 |
平家(北条氏)の兵士たちは前後から敵に包囲され、抵抗できないと思ったのか、一戦も交えず全員が鎌倉へ向かって退却した。しかし腰越で反撃を試みた際には葦名判官も討ち取られた。遠江の橋本での戦いから始まり、佐夜ノ中山・江尻・高橋・箱根山・相模川・片瀬・腰越・十間坂まで計17度にわたる合戦で、平家側は2万騎以上いた兵士たちが討たれたり傷を負ったりし、今やわずか300余騎になっていた。そこで諏方三河守を筆頭とする主だった大名43名が大御堂(寺院)内に逃げ込み、全員自害して滅亡の道筋に名を刻んだ。 その遺体を見ると皆顔の皮を剥がされていたため誰が誰か判別できず、「相模次郎時行もきっとこの中にいるだろう」と聞く者は哀れみを感じた。ただ一人、三浦介入道だけはどうにか逃げ延び尾張国へ落ち延びようとしたところを舟から上がった所で熱田の大宮司に生け捕られ京都へ送られたため、六条河原で首を斬られた。 これだけでなく平家再興の計画も時機が未熟だったのか天命に背いたのか失敗した。名越太郎時兼が北陸道から3万騎超で京都へ攻め上ろうとした際にも、越前と加賀の境にある大聖寺という場所で敷地・上木・山岸・瓜生・深町ら率いる少数勢力に敗れ、白刃のもとに骨を砕き黄泉の底で主君への恩に報いた。こうして時行は関東で滅び、時兼が北国で討たれた後には平氏の末裔たちもわずかに身を隠し姿を変えて山奥や浦辺に潜んだものの、「最早平家再興は困難だ」と思ったのか、過去を懐かしんでいた者たちまで皆敵意を改め足利尊氏(相公)へ従属しない者は一人もいなくなった。 解説【戦局終結と歴史的帰結】
【文学的技法と歴史観】
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| さてこそ、尊氏卿の威勢自然に重く成て、武運忽に開けゝれば、天下又武家の世とは成にけり。 |
こうして尊氏卿(足利尊氏)の勢威は自然と強まり、武運が急に開けたため、天下は再び武士による支配の時代となった。 解説【歴史的転換点の表現】
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| input text 太平記\014_太平記_巻14.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第十四 ○新田足利確執奏状事 去程に足利宰相尊氏卿は、相摸次郎時行を退治して、東国軈て静謐しぬれば、勅約の上は何の子細か可有とて、未だ宣旨をも不被下、押て足利征夷将軍とぞ申ける。東八箇国の官領の事は、勅許有し事なればとて、今度箱根・相摸河にて合戦の時、有忠輩に被行恩賞。先立新田の一族共拝領したる東国の所領共を、悉く闕所に成して、給人をぞ被付ける。義貞朝臣是を聞て安からぬ事に被思ければ、其替りに我分国、越後・上野・駿河・播磨などに足利の一族共の知行の庄園を押へて、家人共にぞ被行ける。依之新田・足利中悪成て、国々の確執無休時。其根元を尋ぬれば、去ぬる元弘の初義貞鎌倉を責亡して、功諸人に勝れたりしかば、東国の武士共は皆我下より可立と被思ける処に、尊氏卿の二男千寿王殿三歳に成給しが、軍散じて六月三日下野国より立帰て、大蔵の谷に御坐しける。又尊氏卿都にて抽賞異他なりと聞へて、是を輒く上聞にも達し、恩賞にも預らんと思ければ、東八箇国の兵共、心替りして、太半は千寿王殿の手にぞ付たりける。加之義貞若宮の拝殿に坐して、頚共実検し、御池にて太刀・長刀を洗ひ、結句神殿を打破て、重宝共を被見し給に、錦の袋に入たる二引両の旗あり。 |
こうして足利宰相尊氏卿は相模次郎時行を討伐し、東国がすぐに平定されたので、「勅命の約束通り何の問題があるだろうか」と言って、まだ正式な宣旨も下されていないのに無理やり「足利征夷将軍」と呼んだ。また東八箇国の領地管理に関しては天皇の許可があったとして、今回箱根・相模川での戦いで忠実に働いた者たちへ恩賞を与えたが、その際先立って新田一族が拝領していた東国所領をすべて没収し替わりの受領者を取り立てた。義貞朝臣はこれを聞いて不満に思い、代わりに自分の分国である越後・上野・駿河・播磨などにある足利一族の支配地や荘園を押さえ込み家来たちへ与えた。これにより新田と足利の仲が悪化し各地で争いが絶えない状態となった。 この確執の根源を尋ねると、かつて元弘元年に義貞が鎌倉攻め滅ぼして功績が群を抜いたため東国の武士たちは皆「自分より下位と見なしていた」ところへ尊氏卿次男千寿王殿(三歳)が軍解散後の6月3日下野国から帰還し大蔵谷に滞在した。さらに尊氏卿が都で並外れた恩賞を得たという噂を聞き「これを軽率にも天皇へ奏上して自分も恩賞にあずかろう」と思った東八箇国の兵たちは心変わりし大半が千寿王殿側についた。 加えて義貞若宮(御所)の拝殿に座り首実検を行い、池で太刀や長刀を洗い結局神殿を破壊して宝物を見た際錦袋に入った二引両紋旗があったという事情もあったのである。 解説【新田義貞と足利尊氏の対立構造】
【歴史的伏線:鎌倉陥落後の人心掌握】**
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| 「是は曩祖八幡殿、後三年の軍の時、願書を添て被篭し御旌也。奇特の重宝と云ながら、中黒の旌にあらざれば、当家の用に無詮。」と宣けるを、足利殿方の人是を聞て彼旌を奉乞。義貞此旌不出しかば、両家確執合戦に及ばんとしけるを、上聞を恐憚て黙止けり。加様の事共重畳有しかば、果して今、新田・足利一家の好みを忘れ怨讎の思をなし、互に亡さんと牙を砥の志顕れて、早天下の乱と成にけるこそ浅猿けれ。依之讒口傍らに有て、乱真事多かりける中に、今度尊氏卿、相摸次郎時行が討手を承て平関東後、今隠謀の企ある由叡聞に達しければ、主上逆鱗有て、「縦其忠功莫太なりとも、不義を重ば可為逆臣条勿論也。則追伐の宣旨を可被下。」と御憤有けるを、諸卿僉議有て、「尊氏が不義雖達叡聞未知其実罪の疑しきを以て、功の誠あるを被棄事は非仁政。」親房・公明、頻に諌言を被上しかば、さらば法勝寺の慧鎮上人を鎌倉へ奉下、事の様を可尋窮定まりにけり。慧鎮上人奉勅関東へ下らんと欲給ける其日、尊氏卿細河阿波守和氏を使にて、一紙の奏状を被捧たり。其状曰、参議従三位兼武蔵守源朝臣尊氏誠恐誠惶謹言。請早誅罰義貞朝臣一類致天下泰平状右謹考往代列聖徳四海、無不賞顕其忠罰当其罪。若其道違則讒雖建草創遂不得守文。 |
「これは遠い祖先である八幡大菩薩が後三年の役の際に願文を添えて納めた御旗です。珍しい重宝とは言え中黒(二引両)紋ではないため我々新田家では使い道がない」と義貞が述べたところ、足利方の人々はこれを聞きその旗の献上を求めた。しかし義貞が出さなかったため両家の確執が合戦に発展しかけたものの天皇への報告を恐れて沈静化した。このような出来事が重なった結果ついに新田・足利両家は親睦を忘れ互いを憎み滅ぼそうとする意志を示し早くも天下大乱となってしまったのは嘆かわしい。 こうして讒言が飛び交う中で偽りの噂が多い状況下、今回尊氏卿が相模次郎時行討伐を受け東国平定後に陰謀を企てているとの情報が天皇(後醍醐)の耳に入ると主上は激怒し「いかに功績大なりとも不義重ねれば逆臣である。即刻追討宣旨を下すべし」と宣言された。 これに対し廷臣協議で北畠親房・万里小路公明らが「尊氏の不正事実未確認なのに功労者排除は非仁政だ」と強く諌めたため代わりに法勝寺慧鎮上人を鎌倉へ派遣調査する方針となった。ところが慧鎮勅使が関東下向しようとした当日尊氏卿は細川和氏を使者として一通の奏状を提出した。 その文面には「参議従三位兼武蔵守源朝臣尊氏誠惶謹言(恐れ多いことです)。義貞一族早く誅罰し天下太平致す請願。右に記しますが歴代聖帝は四海で忠勲必ず顕彰し罪過厳正処罰された。(中略)もしその道外れれば讒言横行建国も永続せぬ」とあった。 解説【旗争いの象徴性】**
【朝廷対応の深層】**
【尊氏奏状の画期性】**
歴史的意義:1335年11月提出と推定される本奏状は、室町幕府創始者が朝廷に「武士統率権」を初めて公式主張した文書として重要。後醍醐天皇の返答内容(次段へ続く)が南北朝分裂決定的要因となる。 |
| 肆君子所慎、庸愚所軽也。去元弘之初、東藩武臣恣振逆頻無朝憲。禍乱起于茲国家不獲安。爰尊氏以不肖之身麾同志之師。自是定死於一途士、運倒戈之志、卜勝於両端輩、有与議之誠。聿振臂致一戦之日、得勝於瞬目之中、攘敵於京畿之外。此時義貞朝臣有忿鶏肋之貪心戮鳥使之急課。其罪大而無拠逋身。不獲止軍起不慮。尊氏已於洛陽聞退逆徒之者、履虎尾就魚麗。義貞始以誅朝敵為名。而其実在窮鼠却噛猫闘雀不辞人。斯日義貞三戦不得勝、屈而欲守城深壁之処、尊氏長男義詮為三歳幼稚大将、起下野国。其威動遠、義卒不招馳加。義貞嚢沙背水之謀一成而大得破敵。是則戦雖在他功隠在我。而義貞掠上聞貪抽賞、忘下愚望大官、世残賊国蠹害也。不可不誡之。今尊氏再為鎮先亡之余殃、久苦東征之間。佞臣在朝讒口乱真。是偏生於義貞阿党裏。豈非趙高謀内章邯降楚之謂乎。大逆之基可莫甚於是焉。兆前撥乱武将所全備也。乾臨早被下勅許、誅伐彼逆類、将致海内之安静、不堪懇歎之至。尊氏誠惶誠恐謹言。建武二年十月日とぞ被書たりける。此奏状未だ内覧にも不被下ければ、遍く知人も無処に、義貞朝臣是を伝聞て、同奏状をぞ上ける。其詞曰、従四位上行左兵衛督兼播磨守源朝臣義貞誠惶誠恐謹言。請早誅伐逆臣尊氏直義等徇天下状右謹案当今聖主経緯天地、徳光古今、化蓋三五。 |
賢者が慎重にすることを凡人は軽視するものである。元弘元年のはじめ頃から東国の武士たちが勝手に反逆を繰り返し朝廷の規律はなかった。禍乱がここから起こり国家は安寧を得られず、そのような中で尊氏(私)は取るに足らない身ながら同志と軍隊を率いた。当時、死を覚悟した者は倒戈する決意を持ち、勝敗を見極めようとする者たちも協力の誠を示した。ついに戦いが始まり瞬く間に勝利を得て敵を京から追放した。 この時義貞朝臣は鶏肋(取るに足らないもの)への欲深さで怒り、急な命令により使者を殺害するという罪を犯し逃亡したためやむなく軍を起こすことになった。尊氏が都で反逆者の追放を知った際には虎の尾を踏むような危険な状況だったのに、義貞は朝敵討伐と称して攻めてきた。その実態は窮鼠猫を噛み雀も人に立ち向かう状態であり、この日義貞は三度戦って勝てず城に籠ろうとしたところで尊氏の長男・幼い大将(3歳)が下野国から出陣した。その威勢に触発された兵士たちが駆けつけて袋砂背水の計を成功させ敵を大破したのだ。 この戦いは表面上は他の武将の功績だが実質的な手柄は尊氏にある。それにもかかわらず義貞は天皇へ虚偽報告し恩賞を独占、下位者の期待も顧みず高位官職に固執する国の害虫と言える。彼こそ誅罰すべきである。 今また東国鎮定のため長く遠征している間に朝廷では奸臣が讒言して真実を見えなくさせているがこれは全て義貞一派による陰謀だ(趙高と章邯に例えた楚漢戦争のような事態)。大逆不道はこれ以上ない。天下平定を目指す武将として早期の勅許を得て彼ら反逆者を討伐し国内安定をもたらしたい切なる願いである。(尊氏誠惶謹言)建武二年十月に書かれたという。 この奏状が未だ天皇にも届かないうちに義貞朝臣は内容を知り、すぐさま自らの奏状を提出した。その文言には「従四位上行左兵衛督兼播磨守源朝臣義貞誠惶謹言。早急に逆賊尊氏・直義ら討伐の勅許下さるよう請願」とあり、「当今聖主は天地経緯し、古今を照らす徳化三五(三皇五帝)をも超える」と続く。 解説【奏状戦争の核心的特徴】
【歴史的虚実の交錯】**
政治的帰結の重大性: 双方が「逆臣」認定要求したこの応酬により後醍醐天皇は尊氏追討令発布(1335年12月)→南北朝分裂決定的起点となった。実際に次段で義貞奏状全文と朝廷裁定が続く構成となる。 |
| 所以神武揺鋒端聖文定宇宙也。爰有源家末流之昆弟尊氏直義、不恥散木之陋質、並蹈青雲之高官。聴其所功、堪拍掌一咲。太平初山川震動、略地拉敵。南有正成、西有円心。加之四夷蜂起、六軍虎窺。此時尊氏随東夷命尽族上洛。潛看官軍乗勝、有意免死。然猶不決心於一偏、相窺運於両端之処、名越尾張守高家、於戦場墜命之後、始与義卒軍丹州。天誅革命之日、忽乗鷸蚌之弊快為狼狽之行。若夫非義旗約京高家致死者、尊氏独把斧鉞当強敵乎。退而憶之、渠儂忠非彼、須羞愧亡卒之遺骸。今以功微爵多、頻猜義貞忠義。剰暢讒口之舌、巧吐浸潤之譖。其愬無不一入邪路。義貞賜朝敵御追罰倫旨初起于上野者五月八日也。尊氏付官軍殿攻六波羅同月七日也。都鄙相去八百余里、豈一日中得伝言哉。而義貞京洛听敵軍破挙旌之由載于上奏、謀言乱真、豈禁乎。其罪一。尊氏長男義詮才率百余騎勢還入鎌倉者、六月三日也。義貞随百万騎士、立亡凶党者、五月二十二日也。而義詮為三歳幼稚之大将致合戦之由、掠上聞之条、雲泥万里之差違、何足言。其罪二。仲時・時益等敗北之後、尊氏未被勅許、自専京都之法禁誅親王之卒伍、非司行法之咎、太以不残。其罪三。兵革後蛮夷未心服、本枝猶不堅根之間、奉下竹苑於東国、已令苦柳営于塞外之処、尊氏誇超涯皇沢、欲与立。 |
(これは新田義貞による尊氏批判奏状である)そもそも神武天皇が剣で天下を平定し、聖なる文徳によって宇宙を治めたように。ところが源家の末裔たる兄弟・尊氏と直義は、役立たずの木のような卑しい本性を恥とも思わず、共に高い官位を得ている。彼らの功績など聞けば笑いが出るほどだ。 太平(建武政権)が始まった頃には山川も震動するほどの戦乱で各地に敵がいた。南に楠木正成が立ち、西に赤松円心がいる上、四方の夷族が蜂起し朝廷軍は虎視眈々と狙っていた。この時尊氏は東国の武士たちを率いて上洛したものの、官軍優勢を見て密かに保身を図った。決断できず傍観していた折り、名越高家(足利側武将)が戦死すると初めて丹波で挙兵し「天誅」と称して革命に乗じたのだ──まさに漁夫の利を得る狡い行いである。 もし高家が京都防衛のために命を落としていなければ、尊氏一人では強敵に対抗できなかっただろう。退いて考えれば彼らは忠義などなく、戦死者たちの遺骸こそ恥ずべきだ。ところが功績少ないのに高位を得て、今や新田義貞の忠義さえ疑い讒言を撒き散らしている。その訴えの全てが邪道に外れている。 第一の罪:後醍醐天皇から朝敵追討令が出たのは5月8日だが、尊氏が官軍として六波羅攻めしたと称するのは同7日だ。都鄙(京都-上野)800里を一日で連絡可能か?虚偽報告である。 第二の罪:義詮(尊氏長男)が百騎余り引き連れて鎌倉に戻ったのは6月3日だが、新田軍百万騎(大部隊)が北条残党を討ったのは5月22日だ。この幼児大将伝説は事実と雲泥の差がある。 第三の罪:仲時ら六波羅勢敗退後も勅許なく京都で法禁を独断し親王兵士すら処刑した──越権行為甚だしい! 戦乱終結直後に蛮夷が未服従の中、朝廷は東国に竹御所(皇子)を下賜し塞外の幕府開設準備まで進めているのに、尊氏は皇恩を超えんと企てる始末である。 解説【義貞奏状の反駁戦略】
【修辞技術の特徴】**
【背景にある歴史的真実】**
文書の帰結: この奏状提出直後に両派は完全決裂し1335年11月尊氏追討令発布→延元の乱(南北朝戦争)勃発へと至る。次期史料では後醍醐天皇が双方を「朝敵」認定する裁定文書が続く構造となる。 |
| 僭上無礼之過無拠遁。其罪四。前亡余党纔存揚蟷螂忿之日、尊氏申賜東八箇国管領不叙用以往勅裁、養寇堅恩沢、害民事利欲。違勅悖政之逆行、無甚於是。其罪五。天運循環雖無不往而還、成敗帰一統、大化伝万葉、偏出于兵部卿親王智謀。而尊氏構種々讒、遂奉陥流刑訖。讒臣乱国、暴逆誰不悪之。其罪六。親王贖刑事、為l押侈帰正而已。古武丁放桐宮、豈非此謂乎。而尊氏■仮宿意於公議外、奉苦尊体於囹圄中、人面獣心之積悪、是可忍也。孰不可忍乎。其罪七。直義朝臣劫相摸次郎時行軍旅、不戦而退鎌倉之時、窃遣使者奉誅兵部卿親王、其意偏在将傾国家之端。此事隠雖未達叡聞、世之所知遍界何蔵。大逆無道之甚千古未聞此類。其罪八。斯八逆者、乾坤且所不容其身也。若刑措不用者、四維方絶八柱再傾可無益噬臍。抑義貞一挙大軍百戦破堅、万卒死而不顧、退逆徒於干戈下、得静謐於尺寸中。与尊氏附驥尾超険雲、控弾丸殺篭鳥、大功所建、孰与綸言所最矣。尊氏漸為奪天威、憂義士在朝請誅義貞。与義貞傾忠心尽正義、為朝家軽命、先勾萌奏罰尊氏。国家用捨、孰与理世安民之政矣。望請乾臨明照中正、加断割於昆吾利、可令討罰尊氏・直義以下逆党等之由、下賜宣旨、忽払浮雲擁弊将輝白日之余光。義貞誠惶誠恐謹言。 |
(尊氏八つの大罪と義貞の決意) 第四の罪:身分を超えた無礼な過ちは言い逃れできない。 第五の罪:敗残勢力がかすかに抵抗する中、尊氏は東国八カ国の支配権を勅許なく独占し、敵を温存して私利を得た──民を害し欲望に走る勅令違反の暴挙である。 第六の罪:天運は巡り国家統一が成ったのは兵部卿親王(護良親王)の智謀によるのに、尊氏は讒言を重ねて流刑に追い込んだ。国を乱す奸臣の所業こそ憎むべきだ。 第七の罪:親王赦免事件では形式的な帰順工作を行ったが、古代・武丁王(殷)が賢臣を召還した故事とは全く異なる。尊氏は公議を無視し親王を獄中で苦しめた──人面獣心の所業は許されぬ極悪である。 第八の罪:直義が相模次郎時行と対峙中、密かに使者を遣り兵部卿親王を誅殺させた(1335年)。国家転覆を企てる前代未聞の大逆だ──この事実は世に広く知られている。 これら八つの大罪は天地も許さぬ。処罰しなければ国基が崩壊しよう。かたや我々義貞軍団は命を賭して戦い、逆賊を駆逐し寸土の平和を取り戻した。尊氏のような(弾丸で籠の鳥を撃つような)卑劣な功績とは比べものにならぬ。 今、尊氏が朝廷の威光を奪おうと画策し義貞誅殺を求めている中、我々こそ国命を軽んじる賊徒・尊氏直義一派の追討宣旨を請願する。これこそ真の治世安民である。どうか陛下の明断をもって逆党を罰し、浮雲を払い太陽の光を再び輝かせ給え。 解説【八罪告発の核心構造】
【歴史的意義】
【修辞技法の特徴】
【背景にある真実】
文書の帰結: この告発後まもなく義貞が鎌倉へ進軍(1335年12月)。箱根・竹ノ下の戦いで尊氏に敗れるものの、奏状内容は南朝(後醍醐天皇吉野遷幸後)の正当性根拠として永く引用され続けた。次段階では北畠顕家ら反足利勢力が同様の弾劾文書を連鎖発給することとなる。 |
| 建武二年十月日とぞ被書たりける。則諸卿参列して、此事如何可有と僉議有けれ共、大臣は重禄閉口、小臣は憚聞不出言処に、坊門宰相清忠進出て、被申けるは、「今両方の表奏を披て倩案一致之道理、義貞が差申処之尊氏が八逆、一々に其罪不軽。就中兵部卿親王を奉禁殺由初て達上聞。此一事申処実ならば尊氏・直義等罪責難遁。但以片言獄訟事、卒爾に出て制すとも不可止。暫待東説実否尊氏が罪科を可被定歟。」と被申ければ、諸卿皆此儀に被同、其日の議定は終にけり。懸る処に大塔宮の御介妁に付進せ給し南の御方と申女房、鎌倉より帰り上て、事の様有の侭に奏し申させ給ければ、「さては尊氏・直義が反逆無子細けり。」とて、叡慮更に不穏。是をこそ不思議の事と思食す処に、又四国・西国より、足利殿の成るゝ軍勢催促の御教書とて数十通進覧す。就之諸卿重て僉議有て、「此上は非疑処。急に討手を可被下。」とて、一宮中務卿親王を東国の御管領に成し奉り、新田左兵衛督義貞を大将軍に定て国々の大名共をぞ被添ける。元弘の兵乱の後、天下一統に帰して万民無事に誇といへども、其弊猶残て四海未だ安堵の思を不成処に、此事出来て諸国の軍勢共催促に随へば、こは如何なる世中ぞやとて、安き意も無りけり。 |
建武二年十月のことである。(新田義貞の奏状を受けて)すぐに多くの公家たちが参集し、この件をどう扱うべきか議論したものの、高位の大臣たちは俸禄を重んじて黙り込み、下位の役人たちは遠慮して発言せずにいた。その時、坊門宰相清忠が進み出て申し上げた。「今、双方(義貞と尊氏)からの上奏文を見比べて考えたところ、義貞が指摘する足利尊氏の八つの大逆罪は一つひとつ重いものです。特に兵部卿親王を監禁・殺害した件については初めて朝廷に伝えられました。この一件だけでも事実ならば、尊氏や直義らの罪責は逃れられません。ただし証言のみで刑罰を即座に決めるのは適切ではありません。しばらく待って東国からの報告の真偽を確かめ、それから尊氏の罪状を定めるべきでしょう。」と述べたところ、公家たちは皆この意見に賛同し、その日の議論は終了した。 すると間もなく、大塔宮(護良親王)のお世話役であった南の方という女房が鎌倉から帰京し、事実経過をありのまま奏上したので、(後醍醐天皇は)「やはり尊氏と直義の反逆に疑いなし」と述べてご機嫌がさらに険悪になった。この不思議な出来事(女房の報告タイミング)をご不審に思われているところへ、四国・西国から数十通もの足利殿名義による軍勢催促の命令書が届いたため、公家たちは再び協議し、「もはや疑いの余地なし。急ぎ討伐軍を派遣すべきだ」と決定した。こうして一宮(成良親王)を東国管領に任命し、新田左兵衛督義貞を大将軍として各国の大名たちを配下につけた。(建武政権成立後の)元弘の乱後、天下は統一され民衆が平和を喜んだと言えども、その弊害は残り全国で安定感がなかったところへ今回の騒動が起きたため、諸国の軍勢が召集に応じて集まってくる様子を見て、「これは一体どういう世の中か」と人々は安堵する気持ちすら失った。 解説【歴史的転換点】この場面(1335年11月)は前回の新田義貞による「尊氏八罪告発状」を受け、建武政権中枢が初めて足利尊氏追討を正式決定した瞬間である。核心となる展開は: 【政治力学の透視】
【社会影響の描写】
史実的帰結: この決定直後に始まった尊氏追討戦(1335年12月)は箱根・竹ノ下の戦いで義貞軍が敗北し、翌1336年に足利幕府(室町幕府)成立へ繋がる。しかし「八逆罪」告発と本場面での朝廷決断は、南朝(後醍醐天皇系)が自己正当性を主張する根拠として南北朝時代を通じて引用され続けた。 |
| ○節度使下向事 懸ける程に、十一月八日新田左兵衛督義貞朝臣、朝敵追罰の宣旨を下し給て、兵を召具し参内せらる。馬・物具誠に爽に勢ひ有て被出立たり。内弁・外弁・八座・八省、階下に陣を張り、中議の節会被行て、節度を被下。治承四年に、権亮三位中将惟盛を、頼朝進罰の為に被下時、鈴許給りたりしは不吉の例なればとて、今度は天慶・承平の例をぞ被追ける。義貞節度を給て、二条河原へ打出て、先尊氏卿の宿所二条高倉へ舟田入道を指向て、時の声を三度挙させ、流鏑三矢射させて、中門の柱を切落す。是は嘉承三年讚岐守正盛が、義親進討の為に出羽国へ下し時の例也とぞ聞へし。其後一宮中務卿親王、五百余騎にて三条河原へ打出させ給たるに、内裏より被下たる錦の御旌を指上たるに、俄に風烈く吹て、金銀にて打て著たる月日の御紋きれて、地に落たりけるこそ不思議なれ。是を見る者、あな浅猿や、今度御合戦はか/゛\しからじと、忌思はぬ者は無りけり。去程に同日の午刻に、大将新田左兵衛督義貞都を立給ふ。元弘の初に、此人さしもの大敵を亡して忠功人に超たりしかども、尊氏卿君に咫尺し給に依て抽賞さまでも無りしが、陰徳遂に露て、今天下の武将に備り給ければ、当家も他家も推並て偏執の心を失ひつゝ、付不随云者無りけり。 |
続けて11月8日、新田左兵衛督(さひょうえのかみ)義貞が朝廷から朝敵征伐の命令を受け取り、軍勢を率いて宮中に参上した。馬や武具は見事な威勢で整い出発した。朝廷高官たちが階下に陣を取り儀式を行い、任命状を与えた。かつて治承4年(1180年)に源頼朝征伐のために派遣された惟盛へ鈴を渡した前例が不吉だったため、今回は天慶・承平の時代の先例を参考としたのである。義貞は任命状を受け取ると二条河原に出向き、まず足利尊氏の宿所である二条高倉に向けて舟田入道に命じ、鬨(とき)の声を三度あげさせ流鏑馬で矢を三本射させて門柱を切り落とした。これは嘉承3年(1108年)、源義親征伐のために出羽国へ向かった平正盛にならったものと伝えられる。その後、一宮中務卿親王が500騎余りで三条河原に出陣した際に内裏から授かった錦の旗を掲げると、突然激しい風が吹きつけ金銀で打ち付けた月日の紋章が切り落ちて地面へ転がった。これは不思議なことであり、目撃者は皆「なんと不吉だ」「今回の戦はうまくいかないだろう」と縁起を気にした。そうしているうちに同日正午過ぎ、大将軍である新田左兵衛督義貞は京の都を出発した。元弘元年(1331年)当初この人物は大敵を倒し忠功が群を抜いていたのに尊氏卿と親しかったため評価されなかったものの、その実力がついに表に出て今や天下に認められた武将となったので、味方も他者も心から推戴して従わない者は誰一人いなくなった。 解説【儀式の歴史的意義】この場面(1335年11月)は新田義貞が正式な「節度使」(征討軍司令官)に任命され、足利尊氏追討を開始する決定的瞬間である: 【不吉な兆候と人心】
軍事的帰結: 本場面から数日後に始まった東国進軍は、義貞が兵10万を率いたと伝えられる大規模作戦であった。しかし鎌倉奪還直後の体制不安定さ(「当家も他家も推並て」の描写通り諸勢力統制不十分)や物資不足により組織的弱点を露呈し、そのわずか1ヶ月後には足利軍に惨敗する結果となった。 |
| 先当家の一族には、舎弟脇屋右衛門佐義助・式部大夫義治・堀口美濃守貞満・錦折刑部少輔・里見伊賀守・同大膳亮・桃井遠江守・鳥山修理亮・細屋右馬助・大井田式部大輔・大嶋讚岐守・岩松民部大輔・篭沢入道・額田掃部助・金谷治部少輔・世良田兵庫助・羽川備中守・一井兵部大輔・堤宮内卿律師・田井蔵人大夫、是等を宗との一族として末々の源氏三十余人其勢都合七千余騎、大将之前後に打囲たり。他家の大名には、千葉介貞胤・宇都宮治部大輔公綱・菊池肥後守武重・大友左近将監・厚東駿河守・大内新介・佐々木塩冶判官高貞・同加治源太左衛門・熱田摂津大宮司・愛曾伊勢三郎・遠山加藤五郎・武田甲斐守・小笠原信濃守・高山遠江守・河越三河守・皃玉庄左衛門・杉原下総守・高田薩摩守義遠・藤田三郎左衛門・難波備前守・田中三郎衛門・舟田入道・同長門守・由良三郎左衛門・同美作守・長浜六郎左衛門・山上六郎左衛門・波多野三郎・高梨・小国・河内・池・風間、山徒には道場坊、是等を宗との兵として諸国の大名三百二十余人、其勢都合六万七千余騎、前陣已に尾張の熱田に著ければ後陣は未だ相坂の関、四宮河原に支たり。東山道の勢は搦手なれば、大将に三日引下て都を立けり。其大将には、先大智院宮・弾正尹宮・洞院左衛門督実世・持明院兵衛督入道々応・園中将基隆・二条中将為冬、侍大将には、江田修理亮行義・大館左京大夫氏義・嶋津上総入道・同筑後前司・饗庭・石谷・猿子・落合・仁科・伊木・津志・中村・々上・纐纈・高梨・志賀・真壁十郎・美濃権介助重、是等を宗との侍として其勢都合五千余騎、黒田の宿より東山道を経て信濃国へ入ければ、当国の国司堀河中納言二千余騎にて馳加る。 |
先代(新田家)一族として弟・脇屋義助(右衛門佐)、式部大夫義治、堀口貞満(美濃守)、錦折刑部少輔、里見伊賀守とその兄弟大膳亮、桃井遠江守、鳥山修理亮、細屋右馬助、大井田式部大輔、大嶋讚岐守、岩松民部大輔、篭沢入道、額田掃部助、金谷治部少輔、世良田兵庫助、羽川備中守、一井兵部大輔、堤宮内卿律師、田井蔵人大夫らがおり、これら宗家親族と末裔の源氏三十余名で総勢七千余騎を大将軍の前後に取り囲んだ。他家の大名としては千葉貞胤(介)、宇都宮公綱(治部大輔)、菊池武重(肥後守)、大友左近将監、厚東駿河守、大内新介、佐々木高貞(塩冶判官)と同族加治源太左衛門、熱田摂津大宮司、愛曾伊勢三郎、遠山加藤五郎、武田甲斐守、小笠原信濃守、高山遠江守、河越三河守、皃玉庄左衛門、杉原下総守、高田義遠(薩摩守)、藤田三郎左衛门、難波備前守、田中三郎衛門、舟田入道と同族長門守、由良三郎左衛門と同族美作守、長浜六郎左衛門、山上六郎左衛門、波多野三郎ら高梨・小国・河内・池・風間各家、山岳勢力からは道場坊などが参集し、これら諸国の大名三百二十余名で総勢六万七千余騎に達した。先陣が尾張熱田に着いた時点で後陣はまだ相坂の関(関ヶ原)と四宮河原にかかっていた。東山道方面軍は別働隊として大将軍より三日遅れで京を出発し、指揮官には大智院宮・弾正尹宮・洞院実世(左衛門督)・持明院入道道応(兵衛督)・園基隆(中将)・二条為冬(中将)、侍大将として江田行義(修理亮)・大館氏義(左京大夫)・嶋津上総入道と同族筑後前司、饗庭・石谷・猿子・落合・仁科・伊木・津志・中村・々上・纐纈・高梨・志賀・真壁十郎・美濃権介助重らが率いる五千余騎であった。黒田宿より東山道を経て信濃国に入ると、当地の国司である堀河中納言(基具)二千余騎が加勢した。 解説【軍団構成の特徴】
【進軍規模と戦略的課題】
【歴史的資料価値】
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| 其勢を合せて一万余騎、大井の城を責落して同時に鎌倉へ寄んと、大手の相図をぞ待たりける。討手の大勢已に京を立ぬと鎌倉へ告ける人多ければ、左馬頭直義・仁木・細河・高・上杉の人々、将軍の御前へ参じて、「已に御一家傾申されん為に、義貞を大将にて、東海・東山の両道より攻下候なる。敵に難所を被超なば、防戦共甲斐有まじ。急矢矯・薩■山の辺に馳向て、御支候へかし。」と被申ければ、尊氏卿黙然として暫は物も不宣。良有て、「我譜代弓箭の家に生れ、僅に源氏の名を残すといへ共、承久以来相摸守が顧命に随て汚家羞名恨を積だりしを、今度継絶職達征夷将軍望、興廃位極従上三品。是臣が依微功いへども、豈非君厚恩哉。戴恩忘恩事は為人者所不為也。抑今君の有逆鱗処は、兵部卿親王を奉失たると、諸国へ軍勢催促の御教書を下したると云両条の御咎め也。是一も尊氏が所為に非ず。此条々謹で事の子細を陳申さば、虚名遂に消て逆鱗などか静かならざらん。旁は兎も角も身の進退を計ひ給へ。於尊氏向君奉て引弓放矢事不可有。さても猶罪科無所遁、剃髪染衣の貌にも成て、君の御為に不忠を不存処を、子孫の為に可残。」と気色を損じて宣もはてず、後の障子を引立て、内へぞ入給ける。懸りしかば、甲冑を帯して参集たる人々、皆興を醒して退出し、思の外なる事哉と私語かぬ者ぞ無りける。 |
合流した軍勢一万余騎が大井城(信濃国)を攻め落とした後、同時に鎌倉へ進撃しようと主力部隊からの合図を待っていた。ところで追討軍の大軍が京都を発ったとの情報が早くも鎌倉に伝わってきたため、左馬頭足利直義や仁木頼章・細川定禅・高師直・上杉憲顥らは将軍(足利尊氏)のもとに参じ、「すでに御家門が滅ぼされようとしているので新田義貞を大将として東海道と東山道の両方から攻め下ってくるようです。敵に要害を突破されたら防戦も無意味です。急いで矢矯(やはぎ)・薩■山(さつきやま、鎌倉近郊)付近に向かい迎撃なさるべきでしょう」と進言した。すると尊氏卿は黙り込みしばらく何も語らず、ようやく「私は代々弓矢の家に生まれ辛うじて源氏の名を残してきたが、承久の乱以来(北条)相模守への服従により汚名と恨みを積んできた。今回、滅びかけた家門を継ぎ征夷大将軍として出世したのは天皇陛下の厚恩によるものだ。恩を受けて忘れることは人の道に反する。そもそも陛下がお怒りになる点は兵部卿宮(護良親王)殺害と諸国へ軍事動員令状を発したことだが、これらは私の意思ではない。この事情を謹んで説明すれば虚偽の噂も消え御不興も収まるだろう。いずれにせよ我が身の進退については熟慮するつもりだ。尊氏が天子に対して弓矢を引くことはありえない。それでもなお罪から逃れられぬなら剃髪して僧となり、陛下への忠誠心と子孫のために汚名を残さぬ覚悟である」と言葉の途中で表情を曇らせ奥座敷へ引き上げた。このため甲冑姿で集まった将兵たちは意気消沈し退去するとともに「予想外のことだ」と囁き合わない者はいなかった。 解説【場面の歴史的背景】
【発言の政治的意図】
【史料価値と人物描写】
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| 角て一両日を過ける処に、討手の大将一宮を始め進せて、新田の人々三河・遠江まで進ぬと騒ぎければ、上杉兵庫入道々勤・細河阿波守和氏・佐々木佐渡判官入道々誉、左馬頭殿の御方へ参て、「此事如何可有。」と評定しけるに、「将軍の仰もさる事なれども、如今公家一統の御代とならんには、天下の武士は、指たる事もなき京家の人々に付順て、唯奴婢僕従の如なるべし。是諸国の地頭・御家人の心に憤り、望を失といへども、今までは武家棟梁と成ぬべき人なきに依て、心ならず公家に相順者也。されば此時御一家の中に思召し立御事ありと聞たらんに、誰か馳参で候べき。是こそ当家の御運の可開初にて候へ。将軍も一往の理の推処を以加様に仰候とも、実に御身の上に禍来らばよもさては御座候はじ。兎やせまし角や可有と長僉議して、敵に難所を越されなば後悔すとも益あるまじ。将軍をば鎌倉に残し留め奉て左馬頭殿御向候へ。我等面々に御供仕て、伊豆・駿河辺に相支へ、合戦仕て運の程を見候はん。」と被申ければ、左馬頭直義朝臣不斜喜で、軈て鎌倉を打立て、夜を日に継で被急けり。相随ふ人々には、吉良左兵衛督・同三河守・子息三河三郎・石堂入道・其子中務大輔・同右馬頭・桃井修理亮、上杉伊豆守・同民部大輔・細河陸奥守顕氏・同形部大輔頼春・同式部大夫繁氏・畠山左京大夫国清・同宮内少輔・足利尾張右馬頭高経・舎弟式部大夫時家・仁木太郎頼章・舎弟二郎義長・今河修理亮・岩松禅師頼有・高武蔵守師直・越後守師泰・同豊前守・南部遠江守・同備前守・同駿河守・大高伊予守、外様の大名には、小山判官・佐々木佐渡判官入道々誉・舎弟五郎左衛門尉・三浦因幡守・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・宇都宮遠江守・佐竹左馬頭義敦・舎弟常陸守義春・小田中務大輔・武田甲斐守・河超三河守・狩野新介・高坂七郎・松田・河村・土肥・土屋、坂東の八平氏、武蔵七党を始として、其勢二十万七千余騎、十一月二十日鎌倉を打立て、同二十四日三河国矢矯の東宿に著にけり。 |
さて一両日過ぎたところで、追討軍の大将である新田義貞(一宮)率いる主力部隊が進み始め、新田一族らは三河・遠江まで侵攻したとの騒ぎがあったため、上杉兵庫入道道勤・細川阿波守和氏・佐々木佐渡判官入道道誉の三人が左馬頭(足利直義)のもとへ参じ、「この事態をどうすべきか」と評定した。その席で言われたことには「将軍(尊氏)のお考えもごもっともだが、もし朝廷中心の世の中になれば天下の武士は取るに足らない公家たちの下につき奴婢や僕従のような扱いを受けるだろう。これは各地の地頭・御家人が憤慨し不満を抱く原因であるとは言え、これまでは武家の棟梁となる人物がいなかったため仕方なく朝廷に従ってきたのだ。だからこそ今この時、我ら足利一門の中から立派な方が立ち上がると聞けば誰もが馳せ参じるであろう。これはまさに我が家の運勢を開く初めとなるはずだ。将軍は一時的な道理でそのようにおっしゃっているものの、実際に御身に災いが及ぶとなればそうはいかないだろう。あれこれ議論している間に敵に要害を越されれば後悔しても遅い。将軍は鎌倉にお残し申し上げて左馬頭殿自ら出陣なさいませ。我々もお供して伊豆・駿河付近で防戦し合戦の結果を見極めましょう」と進言したので、足利直義卿は大いに喜びすぐに鎌倉を発ち夜を日についで急行された。これに従った者たちには吉良左兵衛督・同三河守・その子息三河三郎・石堂入道・その子中務大輔・同右馬頭・桃井修理亮、上杉伊豆守・同民部大輔・細川陸奥守顕氏・同形部大輔頼春・同式部大夫繁氏・畠山左京大夫国清・同宮内少輔・足利尾張右馬頭高経・その弟式部大夫時家・仁木太郎頼章・その弟二郎義長・今河修理亮・岩松禅師頼有・高武蔵守師直・越後守師泰・同豊前守・南部遠江守・同備前守・同駿河守・大高伊予守がおり、外様の大名では小山判官・佐々木佐渡判官入道道誉・その弟五郎左衛門尉・三浦因幡守・土岐弾正少弼頼遠・その弟道謙・宇都宮遠江守・佐竹左馬頭義敦・その弟常陸守義春・小田中務大輔・武田甲斐守・河超三河守・狩野新介・高坂七郎・松田氏・河村氏・土肥氏・土屋氏、さらに坂東八平氏や武蔵七党を始めとして総勢二十万七千余騎に上り、十一月二十日に鎌倉を出発し同月二十四日には三河国矢矯(現愛知県岡崎市付近)の東宿へ到着した。 解説【政治決断と軍事行動】
【参陣武将の歴史的位置付け】
【文脈的展開との整合性】
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| ○矢矧、鷺坂、手超河原闘事 去程に十一月二十五日の卯刻に、新田左兵衛督義貞・脇屋右衛門佐義助、六万余騎にて矢矧河に推寄、敵の陣を見渡せば、其勢二三十万騎もあるらんと覚敷て、自河東、橋の上下三十余町に打囲で、雲霞の如に充満たり。左兵衛督義貞、長浜六郎左衛門尉を呼て、「此河何くか渡つべき処ある、委く見て参れ。」と宣ければ、長浜六郎左衛門只一騎河の上下を打廻り、軈て馳帰て申けるは、「此河の様を見候に、渡つべき所は三箇所候へ共、向の岸高して屏風を立たるが如くなるに、敵鏃を汰て支て候。されば此方より渡ては、中々敵に利を被得存候。只且河原面に御磬候て敵を被欺ば、定て河を渡てぞ懸り候はんずらん。其時相懸りに懸て、河中へ敵を追て手痛くあつる程ならば、などか勝事を一戦に得では候べき。」と申ければ、諸卒皆此義に同じて、態敵に河を渡させんと河原面に馬の懸場を残し、西の宿の端に南北二十余町に磬て、射手を河中の州崎へ出し、遠矢を射させてぞ帯きける。案に不違吉良左兵衛佐・土岐弾正少弼頼遠・佐々木佐渡判官入道、彼此其勢六千余騎、上の瀬を打渡て、義貞の左将軍、堀口・桃井・山名、里見の人々に打て懸る。官軍五千余騎相懸りに懸て、互に命を不惜火を散て責戦ふ。 |
さて11月25日早朝、新田義貞(左兵衛督)と脇屋義助(右衛門佐)が6万余騎の軍勢で矢矧川に迫り敵陣を見渡したところ、その兵力は20万から30万にも及ぶと思われた。彼らは川東の橋周辺約2kmを包囲し雲霞のように密集していた。義貞は長浜六郎左衛門尉を呼び「この川で渡河可能な場所があるか詳しく偵察せよ」と命じると、同氏が単騎で川上から下まで巡視してすぐに戻り報告した。「観察しましたところ渡れる地点は三箇所あります。しかし対岸の地勢が高く屏風を立てたような地形で敵軍が矢を構えて待ち構えています。こちら側からの強行渡河ではかえって敵に有利となりますでしょう。むしろ我々はあえて河原に陣形を示して偽装し、敵をおびき出させておいてから一気に川を渡り攻撃するのがよろしいかと存じます。その時こそ必死の突撃で敵を河中へ追い落とせば、たった一度の合戦で勝利を得られるはずです」。この進言に全軍が賛同し、わざと川渡りさせるべく河原には馬場を残して西側宿営地の端から南北約2kmに陣形を張り巡らせ、射手たちは中州へ配置され遠矢を放ち始めた。案の定吉良左兵衛佐・土岐頼遠(弾正少弼)・佐々木道誉(佐渡判官入道)らの軍勢6,000余騎が上流から渡河し、義貞方の堀口氏・桃井氏・山名氏・里見氏ら左翼部隊に襲いかかった。朝廷側5,000余騎は命を惜しまず突撃し合い火の粉が散るような激しい戦闘となった。 解説【作戦と地理的特性】
【戦術的実態の推察】
【登場武将群の役割】
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| 吉良左兵衛佐の兵三百余騎被討て、本陣へ引退けば、官軍も二百余騎ぞ被討ける。二番には高武蔵守師直・越後守師泰、二万余騎にて橋より下の瀬を渡して、義貞の右将軍、大嶋・額田・篭沢・岩松が勢に打懸る。官軍七千余騎、喚いて真中に懸入て、東西南北へ懸散し、半時許ぞ揉合ひける。高家の兵又五百余騎被討て、又本陣へ引退く。三番に仁木・細川・今河・石塔一万余騎下の瀬を渡て、官軍の総大将新田義貞に打て懸りたり。義貞は兼てより馬廻に勝れたる兵を七千余騎囲ませて、栗生・篠塚・名張八郎とて、天下に名を得たる大力を真先に進ませ、八尺余の金棒に、畳楯の広厚きを突双べ、「縦ひ敵懸るとも謾に不可懸、敵引とも、四度路に不可追。懸寄せては切て落せ。中を破んとせば、馬を透間もなく打寄せて轡を双べよ。一足も敵には進むとも退く心不可有。」と、諸軍を諌て被下知ける。敵一万余騎、陰に閉て囲まんとすれども不囲、陽に開て懸乱さんとすれども敢て不乱、懸入ては討れ、破て通ば切て被落さ、少しも不漂戦ける間、人馬共に気疲れて、左右に分て磬たる処に、総大将義貞・副将軍義助七千余騎にて、香象の浪を蹈で大海を渡らん勢ひの如く、閑に馬を歩ませ、鋒を双て進みける間、敵一万余騎、其勢ひに辟易して河より向へ引退き、其勢若干被討にけり。 |
さて吉良左兵衛佐(貞家)の軍勢300余騎が討たれて本陣へ退却すると、官軍(新田方)も200余騎が犠牲となった。第二波として高師直(武蔵守)と高師泰(越後守)は2万余騎で橋より下流を渡り、義貞の右翼部隊である大嶋・額田・篭沢・岩松らの軍勢に攻めかかった。官軍7,000余騎が叫びながら中央へ突入し四方へ散開して約1時間もみ合った後、高家(師直ら)の兵はまた500余騎討たれて本陣へ引き下がる。第三波として仁木・細川・今河・石塔らの軍勢10,000余騎が渡り、官軍総大将新田義貞に襲いかかった。これに対し義貞は、あらかじめ精鋭を7,000余騎選抜して包囲態勢を取り、「栗生」「篠塚」の名張八郎という天下に名高い大力士を先頭に立てた。彼は8尺(約2.4m)以上の金棒で畳のように分厚い盾を突き破りながら進む。「たとえ敵が攻めて来ても軽率に対応するな、退いても深追いして四辻まで行くな。接近したら斬って落とせ。突破しようとするなら馬の隙間なく押し寄せ手綱を揃えて突け。一歩でも前に進むことはあっても後退は決して考えるな」と言葉で全軍に諭し指示を与えたのである。敵10,000余騎が陰険に包囲しようとしても新田軍は乱れず、陽気に見せかけて混乱を誘おうとも敢然と耐え続けたため、攻めれば撃破され通り抜ければ斬り落されるうちに人馬ともに疲労し左右へ分かれて陣取った。その時総大将義貞・副将の脇屋義助率いる7,000余騎が巨像(香象)が波を踏んで大海原を行くかの如き威風で悠然と進み、先鋒を揃えて押し寄せると敵10,000余騎はその勢いに恐れ河向こうへ退却し若干数の犠牲が出た。 解説【戦術的推移の特徴】
【指揮官の采配】
【兵力数値の信憑性】
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| 日已に暮ければ、合戦は明日にてぞ有んずらんと、鎌倉勢皆河より東に陣を取て居けるが、如何思けん、爰にては不叶とて其夜矢矯を引退、鷺坂に陣をぞ取たりける。懸処に宇都宮・仁科・愛曾伊勢守・熱田摂津大宮司、後れ馳にて三千余騎、義貞の陣に著たりけるが、矢矧の合戦に不合事を無念に思て、打寄と等しく鷺坂へ推寄せて、矢一をも不射、抜連て責たりける。引立たる鎌倉勢、鷺坂をも又被破て、立足もなく引けるが、左馬頭直義朝臣兵二万余騎荒手にて馳著たり。敗軍是に力を得て手超に陣をぞ取たりける。同十二月五日、新田義貞、矢矧・鷺坂にて降人に出たりける勢を合て八万余騎、手越河原に打莅で敵の勢を見給へば、荒手加はりたりと覚へて見しより大勢也。「縦何百万騎の勢加はりたりとも、気疲れたる敗軍の士卒半ば交はて、跡より引かば、敵立直す事不可有、只懸て見よ。」とて、脇屋右衛門佐義助・千葉介・宇都宮六千余騎にて、手超河原に推寄て、東西へ渡つ渡されつ、午刻の始より、酉の下まで、十七度までぞ戦たる。夜に入けるば、両方人馬を休めて、河を隔て篝を焼、初は月雲に隠れて、夜已に深にければ、義貞の方より、究竟の射手を勝て、薮の陰より敵の陣近く忍び寄り、後陣に磬たる勢の中へ、雨の降如く込矢をぞ射たりける。 |
日がすっかり暮れたため、「決着は明日になろう」と考え、鎌倉軍(足利方)全員が川東側に布陣していた。ところが何を思ったか「ここでは勝機がない」と判断し、その夜のうちに矢矧から撤退して鷺坂へ移って陣取ったのである。ちょうどその時、宇都宮・仁科・愛曾伊勢守(あいそいせのかみ)・熱田摂津大宮司らが遅れて駆けつけた3,000余騎の軍勢が義貞本隊に到着した。彼らは矢矧合戦に間に合わなかったことを悔やみ、全軍一致して鷺坂へ押し寄せたのだが、一本も矢を射ることなく一気に刀を抜いて突撃したのである。撤退中だった鎌倉軍は鷺坂でも打ち破られ、足場を失うまま敗走する中、左馬頭(さまのかみ)直義朝臣の主力20,000余騎が慌ただしく到着した。これで退却部隊は勢いを取り戻し、手超河原に陣を構えたのであった。同年12月5日、新田義貞は矢矧・鷺坂での降伏兵も吸収して総勢80,000余騎となり、手越河原へ進軍したところ敵情を見渡すと、援軍が加わったためか以前より大兵力になっていた。「たとえ何百万の増援があろうとも、疲れ切った敗残兵を半数も混ぜておき、後退すれば立て直せまい。まずは攻めてみよ」と言って、脇屋義助(右衛門佐)・千葉介・宇都宮ら6,000余騎に命じ手越河原へ進撃させた。彼らは東西を行き来しながら午前11時頃から夕方5時過ぎまで、実に17度も激突を繰り返したのである。夜になると両軍とも人馬を休め、川を挟んでかがり火を焚いた。初めのうち月は雲に隠れていたが、夜が更けると義貞側から選抜した熟練射手たちが藪陰から敵陣へ忍び寄り、後方部隊に向けて雨のように矢を射込んだ。 解説【戦況転換のポイント】
【12月5日決戦の特徴】
【夜襲の新機軸】
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| 数万の敵是に周章騒で跡より引ける間、荒手の兵共、命を軽ずる勇士共、「是は如何なる事ぞ、返せ/\。」と云ながら、落行勢に被引立て鎌倉までぞ落たりける。されば新田義貞度々の軍に打勝て、伊豆の府に著給へば、落行勢共巻弦脱冑降人に出る者数を不知。宇都宮遠江入道、元来総領宇都宮京方に有しかば、縁にふれて馳著たり。佐々木佐渡判官入道、太刀打して痛手数た所に負ふ。舎弟五郎左衛門は手超にて討れしかば、世の中さてとや思けん。降参して義貞の前陳に打けるが、後の筥根の合戦の時又将軍へは参ける。官軍此時若足をもためず、追懸たらましかば、敵鎌倉にも怺ふまじかりけるを、今は何と無くとも、東国の者共御方へぞ参らんずらん、其上東山道より下りし搦手の勢をも可待とて、伊豆の府に被逗留けるこそ、天運とは云ながら、薄情かりし事共なり。猿程に足利左馬頭直義朝臣は、鎌倉に打帰て、合戦の様を申さん為に、将軍の御屋形へ被参たれば、四門空く閉て人もなし。あらゝかに門を敲て、「誰か有。」と問給へば、須賀左衛門出合て、「将軍は矢矧の合戦の事を聞召候しより、建長寺へ御入候て、已に御出家候はんと仰候しを、面々様々申留めて置進せて候。御本結は切せ給て候へども、未だ御法体には成せ給はず。 |
何万もの敵兵がこれを見て慌てふためいて敗走し始めると、新参の兵や死を恐れぬ勇士たちは「これは何事だ!引き返せ!」と叫びながらも退却する軍勢に巻き込まれ鎌倉まで落ち延びた。こうして新田義貞が連戦で勝利し伊豆国府(現・三島市)へ到着すると、敗残兵たちは弓を納め甲冑を脱いで投降者が数知れず現れた。宇都宮遠江入道(出家名)は元々一族の棟梁である宇都宮氏が朝廷側だった縁から駆けつけた。佐々木佐渡判官入道は斬り合いで重傷を負い、弟の五郎左衛門が手越河原で討たれたため「もはやこれまでか」と悟ったのだろう。降伏して義貞に面会したものの、後に箱根の戦いでは再び足利方へ寝返ることになる。(中略)朝廷軍(新田勢)がこの時躊躇せず追撃していれば敵は鎌倉すら守れなかったのに、「今さら問題ない。関東武士も味方に付くだろうし、何より東山道から回る別働隊を待つべきだ」と伊豆国府で停滞したのは運命とはいえ浅慮な判断だった。一方その間に足利直義(左馬頭)は鎌倉へ戻り戦況報告のため尊氏邸へ向かうが、門は固く閉ざされ人影もない。激しく扉を叩き「誰かいないのか?」と叫ぶと須賀左衛門が出て来て言った:「将軍(尊氏)様は矢矧の敗戦を知り建長寺に入られ出家なさろうとしたのですが、一同が必死に引き止めています。髻(もとどり)を切られたものの未だ正式な僧侶にはなっていません」。 解説【戦局転換の心理描写】
【義貞の決断批判】
【尊氏出家未遂の象徴性】
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| 」とぞ申ける。左馬頭・高・上杉の人々是を聞て、「角ては弥軍勢共憑みを失ふべし。如何せん。」と仰天せられけるを、上杉伊豆守重能且思案して、「将軍縦ひ御出家有て法体に成せ給候共、勅勘遁るまじき様をだに聞召候はゞ、思召直す事などか無て候べき。謀に綸旨を二三通書て、将軍に見せ進せ候はゞや。」と被申ければ、左馬頭、「兎も角も事のよからん様に計ひ沙汰候へ。」とぞ被任たりける。伊豆守、「さらば。」とて、宿紙を俄に染出し、能書を尋て、職事の手に少しも不違是を書。其詞に云、足利宰相尊氏、左馬頭直義以下一類等、誇武威軽朝憲之間、所被征罰也。彼輩縦雖為隠遁身、不可寛刑伐。深尋彼在所、不日可令誅戮。於有戦功者可被抽賞、者綸旨如此。悉之以状。建武二年十一月二十三日右中弁光守武田一族中小笠原一族中へと、同文章に名字を替て、十余通書てぞ出したりける。左馬頭直義朝臣是を持て急建長寺へ参り給て、将軍に対面有て泪を押へて宣ひけるは、「当家勅勘の事、義貞朝臣が申勧るに依て、則新田を討手に被下候間、此一門に於ては、縦遁世降参の者なり共、求尋て可誅と議し候なる。叡慮の趣も、又同く遁るゝ所候はざりける。先日矢矧・手超の合戦に討れて候し敵の膚の守りに入て候し綸旨共、是御覧候へ。 |
須賀左衛門はそう報告した。これを聞いた足利直義(左馬頭)、高師直、上杉氏の人々は「これではますます軍勢が頼りを失うだろう。どうすればよいか」と仰天したところ、上杉重能(伊豆守)は考え込んで言った。「将軍様(尊氏)が仮に出家して僧になられても、『勅勘(天皇の咎め)から逃れられない』とご理解いただければお気持ちも変わるでしょう。策略として偽の綸旨を二、三通書き、それを差し上げてはどうか」。すると直義が「ともあれ事態が好転するように取り計らえ」と命じたので、重能は承諾して急いで書類用紙を取り出し、筆跡の巧みな者を探し書記官に少しも違和感ないよう偽造させた。その文面には「足利尊氏(宰相)・直義以下一族らが武力を誇り朝廷を軽んじたため征伐するものなり。彼らは仮に隠遁しても処罰を免れず、居場所を探し出して速やかに誅殺せよ。戦功ある者には褒賞を与える」と記されていた。(末尾に)「綸旨これの如し 以上 建武二年十一月二十三日 右中弁光守(花押)」として、同じ文面で名字を武田一族・小笠原一族など十数通分書き換え配布した。直義はこれを手に急ぎ建長寺へ赴き尊氏と対面し、涙を抑えて訴えた。「我が家への勅罰問題は新田義貞の進言によるもので、彼らは『足利一門は出家や降伏者も探し出して殺せ』と決めています。天皇のお気持ちも全く逃れ道がないのです(証拠として)先日矢矧・手越河原の戦いで討たれた敵兵の懐から見つかった綸旨をご覧ください」。 解説【偽綸旨工作の意図と心理】
【偽造技術と歴史的背景】
【尊氏復帰劇への伏線】
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| 加様に候上は、とても遁ぬ一家の勅勘にて候へば、御出家の儀を思召翻されて、氏族の陸沈を御助候へかし。」と被申ければ、将軍此綸旨を御覧じて、謀書とは思も寄り給はず。「誠さては一門の浮沈此時にて候ける。さらば無力。尊氏も旁と共に弓矢の義を専にして、義貞と死を共にすべし。」とて、忽に脱道服給て、錦の直垂をぞ被召ける。されば其比鎌倉中の軍勢共が、一束切とて髻を短くしけるは、将軍の髪を紛かさんが為也けり。さてこそ事叶はじとて京方へ降参せんとしける大名共も、右往左往に落行んとしける軍勢も、俄に気を直して馳参ければ、一日も過ざるに、将軍の御勢は三十万騎に成にけり。 ○箱根竹下合戦事 去程に同十二月十一日両陣の手分有て、左馬頭直義箱根路を支へ、将軍は竹下へ向べしと被定にけり。此間度々の合戦に打負たる兵共、未気を直さで不勇、昨日今日馳集たる勢は、大将を待て猶予しける間、敵已に伊豆の府を打立て、今夜野七里山七里を超ると聞しかば、足利尾張右馬頭高経・舎弟式部大夫・三浦因幡守・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・佐々木佐渡判官・赤松雅楽助貞則、「加様に目くらべして、鎌倉に集り居ては叶まじ、人の事はよし兎も角もあれ、いざや先竹下へ馳向て、後陣の勢の著ぬ先に、敵寄せば一合戦して討死せん。 |
尊氏がこの言葉を聞くと、「まさに一族の命運は今ここにかかっているのだな。ならば仕方ない。尊氏、改めて弓矢を執って義貞と生死を共にするまでだ」と言い、たちまち道服(僧衣)を脱ぎ捨て錦の直垂(上着)を召した。こうして鎌倉中の兵士たちが「一束切り」(髻を短く切る風習)で髪型を変えたのは、将軍の断髪を隠すためだった。もはやこれまでと朝廷側へ降伏しようとした大名たちも、右往左往しながら敗走していた兵士たちも、急に意気込み直して駆けつけたため、一日もしないうちに尊氏軍は三十万騎に膨れ上がった。 (箱根竹ノ下の戦い) 解説【尊氏復帰劇の心理的効果】
【合戦前夜の士気描写】
【歴史的事件の位置付け】
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| 」とて、十一日まだ宵に竹下へ馳向ふ。其勢僅なりしかば、物冷しくぞ見へたりける。されども義を守る勇士共なれば、族に多少不可依とて、竹下へ打襄て敵の陣を遥に直下たれば、西は伊豆の府、東は野七里山七里に焼双べたる篝火の数幾千万とも不知けり。只晴天の星の影、滄海に移る如く也。さらば御方にも篝火を焼せんとて、雪の下草打払ひ、処々刈集めて幽に火を吹著たれば、夏山の茂みが下に夜を明す、照射の影に不異。されども武運強ければにや、敵今夜は寄来らず。夜已に明なんとしける時、将軍鎌倉を打立せ給へば、仁木・細河・高・上杉、是等を宗との兵として都合其勢十八万騎竹下へ著給へば、左馬頭直義六万余騎にて箱根峠へ著給ふ。去程に、明れば十二日辰刻に、京勢共伊豆の府にて手分して、竹下へは中務卿親王に卿相雲客十六人、副将軍には脇屋治部大輔義助・細屋右馬助・堤卿律師・大友左近将監・佐々木塩冶判官高貞を相副て、已上其勢七千余騎、搦手にて被向けり。箱根路へは又新田義貞宗徒の一族二十余人、千葉・宇都宮・大友千代松丸・菊池肥後守武重・松浦党を始として、国々の大名三十余人、都合其勢七万余騎、大手にてぞ被向ける。同日午刻に軍始まりしかば、大手搦手敵御方、互に時を作りつゝ、山川を傾け天地を動し、叫喚で責戦ふ。 |
このような状況である以上、もはや逃れようのない一族への朝廷からの咎めです。どうかご出家の考えを改めて、一門の滅亡をお救いください。」と直義が申し上げると、尊氏将軍はその綸旨をご覧になり偽物とは全く思わず、「確かに我々一門の命運は今この時に懸かっている。それなら仕方ない。私も改めて弓矢を執り、新田義貞と生死を共にしよう。」と言い、すぐに道服(僧衣)を脱ぎ捨て錦の直垂(武家正装)をお召しになった。そのため当時鎌倉中の兵士たちが「一束切り」として髷を短く切ったのは、将軍の断髪をごまかすためだった。もはやこれまでと朝廷側へ降伏しようとした大名たちも、右往左往しながら敗走していた軍隊も急に意気込み直して駆け参じたので、一日もしないうちに尊氏軍勢は三十万騎に膨れ上がった。 (箱根竹ノ下の戦い) 竹ノ下に陣取り敵軍を見下ろすと、西は伊豆国府から東は野道7里・山道7里にかけて無数の篝火が燃え上がり晴天の星影が海面に映るようだった。そこで味方も篝火を焚こうと雪の積もった草を払い、付近で刈り集めてひそかに点火したところ夏山の茂み下での夜明けのように照らし出された。幸運にも敵はこの夜には押し寄せず、翌12日が明けかけた頃に尊氏将軍が鎌倉を発たれた。仁木・細川・高師直・上杉らの主力部隊合わせ十八万騎が竹ノ下へ到着すると、左馬頭直義も六万余騎で箱根峠へ進んだ。 明けて12日辰刻(午前8時頃)、朝廷軍は伊豆国府で二手に分かれ竹ノ下方面には中務卿親王を中心に公家や僧侶十六人、副将として脇屋義助(治部大輔)・細屋右馬助らが加わり総勢七千余騎が裏手から進撃した。箱根路方面は新田義貞率いる一族二十余人と千葉氏・宇都宮氏らの大名三十余人、計七万余騎が正面攻撃隊として向かった。同日午刻(正午頃)に戦闘が始まると表裏の敵味方が鬨の声を上げ山々を揺るがし天地を震わす勢いで激突した。 解説【軍記物語としての演出効果】
【合戦配置の歴史的意義】
【心理描写の戦略的機能】
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| 去程に、菊池肥後守武重、箱根軍の先懸して、敵三千余騎を遥の峯へ巻上げ、坂中に楯を突双て、一息継て怺へたり。是を見て、千葉・宇都宮・河越・高坂・愛曾・熱田の大宮司、一勢々々陣を取て曳声を出して責上々々、叫喚で戦たり。中にも道場坊助注記祐覚は、児十人同宿三十余人、紅下濃の鎧を一様に著て、児は紅梅の作り花を一枝づゝ甲の真額に挿たりけるが、楯に外れて一陣に進みけるを、武蔵・相摸の荒夷共、「児とも云はず只射よ。」とて、散々に指攻て射ける間、面に進みたる児八人矢庭に倒れて小篠の上にぞ臥たりける。党の者共是を見て、頚を取らんと抜連て打て下けるを、道場坊が同宿共児を討せて何か可怺。三十余人太刀・長刀の鋒を双べて手負の上を飛超々々、「坂本様の袈裟切に成仏せよ。」と云侭に、追攻々々切て廻りける間、武士散々に被切立て、北なる峯へ颯と引と、且し息をぞ継だりける。此隙に祐覚が同宿共、面々の手負を肩に引懸て、麓の陣へぞ下りける。義貞の兵の中に、杉原下総守・高田薩摩守義遠・葦堀七郎・藤田六郎左衛門・川波新左衛門・藤田三郎左衛門・同四郎左衛門・栗生左衛門・篠塚伊賀守・難波備前守・川越参河守・長浜六郎左衛門・高山遠江守・園田四郎左衛門・青木五郎左衛門・同七郎左衛門・山上六郎左衛門とて、党を結だる精兵の射手十六人あり。 |
その時、菊池肥後守武重が箱根路軍の先鋒として敵三千余騎を遥か遠くの峰へ追い上げ、坂道の中ほどに盾を並べて立てると一息ついて踏みとどまった。これを見た千葉・宇都宮・河越・高坂・愛曾(えぞ)・熱田大宮司らが各々陣を取りながら鬨の声をあげて攻め登り、激しく戦った。中でも道場坊覺祐(かくゆう)は童子十人と同宿僧三十余人と共に一様な紅下濃(ひれげぬ)の鎧を着け、童子らには甲冑の前立てに紅梅の造花を一本ずつ挿していたが、盾列から離れて進撃したところ、武蔵・相模の荒武者たちは「子供だからといって容赦するな!皆射ろ!」と言い散々に矢を浴びせかけた。そのため最前線に出た童子八人が即座に倒れ笹原の上に横たわった。仲間の僧兵たちがこれを目撃し首を取ろうと斬り込んで来ると、覺祐ら同宿は「童子を討たれてどうして引き下がれようか」と三十余人が太刀や長刀の刃を揃え、負傷者の上を飛び越えながら追撃。「坂本様(最澄)の袈裟切りで成仏させよ!」と言い放ち斬りまくったため武士たちは散々に切られて北側の峰へ引き上げ、ようやく息をついた。この隙に覺祐ら同宿僧は各自負傷者を肩にかつぎ麓の陣へ下がって行った。 一方、新田義貞軍の中には杉原下総守・高田薩摩守義遠(よしとお)・葦堀七郎・藤田六郎左衛門・川波新左衛門・藤田三郎左衛門・同四郎左衛門・栗生左衛門・篠塚伊賀守・難波備前守・川越参河守(かわごえみかわのかみ)・長浜六郎左衛門・高山遠江守・園田四郎左衛門・青木五郎左衛門・同七郎左衛門・山上六郎左衛門ら、徒党を組んだ精鋭の射手十六人がいた。 解説【戦闘描写の特性】
【人物描写の史的意義】
【兵力構成の現実性】
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| 一様に笠験を付て、進にも同く進み、又引時も共に引ける間、世の人此を十六騎が党とぞ申ける。彼等が射ける矢には、楯も物具もたまらざりければ、向ふ方の敵を射すかさずと云事なし。執事舟田入道は、馳廻て士卒を諌め、大将軍義貞は、一段高き処に諸卒の振舞を被実検ける間、名を重じ命を軽ずる千葉・宇都宮・菊池・松浦の者共、勇進で戦ける間、鎌倉勢馬の足を立兼て、引退者数を不知けり。懸る処に竹下へ被向たる中書王の御勢・諸庭の侍・北面の輩五百余騎、憖武士に先を不被懸とや思けん。錦の御旌を先に進め竹下へ押寄て、敵未一矢も不射先に、「一天君に向奉て曳弓放矢者不蒙天罰哉。命惜くば脱甲降人に参れ。」と声々にぞ呼りける。是を見て尾張右馬頭・舎弟式部大夫・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・三浦因幡守・佐々木佐渡判官入道・赤松筑前守貞則、自宵一陣に有けるが、「敵の馬の立様、旌の紋、京家の人と覚るぞ、矢だうなに遠矢な射そ。只抜連れて懸れ。」とて三百余騎双轡、「弓馬の家に生れたる者は名をこそ惜め、命をば惜まぬ者を。云処虚事か実事か、戦て手並の程を見給へ。」とて一同に時を咄と挙げ、喚てこそ懸たりけれ。官軍は敵をかさに受て麓に引へたる勢なれば、何かは一怺も可怺、一戦にも不及して、捨鞭を打てぞ引たりける。 |
彼らは全員同じ笠印をつけ、進むときも一斉に進み、退く時も共に退いたため、世間ではこれを「十六騎党」と呼んだ。この者たちが放つ矢には盾や鎧すら防ぎきれず、向かう敵を射損じることなどなかった。執事の舟田入道は馬を走らせて兵士を励まし、大将軍・新田義貞は高台から全軍の戦いぶりを見渡していた。その中で名誉を重んじて命を惜しまない千葉氏・宇都宮氏・菊池氏・松浦氏の者たちが勇んで突撃したため、鎌倉勢は馬も満足に動かせず敗走する者が数知れなかった。 ちょうどその時、竹下方面へ向かった中書王(護良親王)の軍勢―諸庭の侍や北面武士ら五百余騎が、「我々だけが武士として先陣を譲るわけにはいかない」と考えたのか。錦の御旗を先頭に押し寄せ、敵が一矢も放つ間もなく「朝廷に弓引く者は天罰を免れぬ!命惜しけらば鎧を脱ぎ降伏せよ!」と声を揃えて叫んだ。 これを見た尾張右馬頭(斯波高経)・弟の式部大夫・土岐弾正少弼頼遠・その弟道謙・三浦因幡守・佐々木佐渡判官入道・赤松筑前守貞則らは、夜通し同じ陣にいた三百余騎で一斉に馬轡を並べ、「敵の旗印は公家方と見える。遠矢など射ずに抜刀突撃だ!弓馬の家に生まれた者は名誉こそ惜しむが命は惜しまぬ者よ。我々の言うことが嘘か真実か、戦って腕前を見せてやれ!」と鬨の声を上げて襲い掛かった。 官軍(新田勢)は敵を盾に引き下がっていたため防ぐ余力もなく、一戦交える間もなく鞭を捨てて敗走したのである。 解説【武士団編成の特質】
【合戦心理描写の技巧】
【戦術描写の史実性】
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| 是を見て土岐・佐々木一陣に進て、「言ばにも似ぬ人々哉、蓬し返せ。」と恥しめて、追立々々責ける間、後れて引兵五百余騎、或は生捕れ或被討、残少に成にけり。手合せの合戦をしちがへて官軍漂て見へければ、仁木・細河・高・上杉の人々勇進で、中書王の御 陣へ会尺もなく打て懸る。されば引漂たる京勢にて、可叶様無りけるを、中書王の副将軍脇屋右衛門佐、「云甲斐なき者共が憖に一陣に進て御方の力を失こそ遺恨なれ。こゝを散さでは叶まじ。」とて、七千余騎を一手になして、馬の頭を雁行に連ねて、旌の足を龍装に進めて、横合に閑々と懸られける。勝誇たる敵なれば何かは少しも疼むべき。十字に合て八字に破る。大中黒と二つ引両と二の旌を入替々々、東西に靡き南北に分れ、万卒に面を進め一挙に死をぞ争ひける。誠に両方名を被知たる兵共なれば誰かは独も可遁。互に討つ討れつ、馬の蹄を浸す血は混々として洪河の流るゝが如く也。死骸を積める地は、累々として屠所の肉の如く也。無慙と云も疎也。爰に脇屋右衛門佐子息式部大夫とて、今年十三に成けるが、敵御方引分れける時、如何して紛れたりけん、郎等三騎相共に敵の中にぞ残りける。此人幼稚なれども心早き人にて、笠符引切て投捨、髪を乱し顔に振懸て、敵に不被見知とさはがぬ体にてぞ御坐ける。 |
これを見た土岐頼遠と佐々木勢は一斉に進み出て、「口先ばかりで実力のない連中め、恥を知れ!」と嘲りながら追撃した。取り残された敗走兵五百余騎は捕らえられるか討たれるかの末、ほとんど全滅してしまった。一方、戦線が混乱し官軍(新田勢)が浮足立っているのを見て仁木氏・細川氏・高氏・上杉氏らの武士たちは猛然と突撃し、中書王(護良親王)の本陣へ瞬く間に迫った。浮き足立つ京方には抗する術もなく、副将軍の脇屋義助(右衛門佐)が「無謀にも前線に出て味方を弱らせるとは!ここで踏みとどまらねばならぬ」と言い放ち七千余騎を一手にまとめた。馬列を雁行形に整え、旗指物を竜のように翻しながら横合から悠然と攻め込んだ。勝利に驕った敵軍は微動だにせず十字陣が八つ裂きにされる勢いで崩壊し、「大中黒」と「二つ引両」の旗印が入り乱れる中、兵士たちは東西南北へ分散しながら一斉に死闘を繰り広げた。双方とも名だたる精鋭ばかりで逃げ出す者などおらず、斬り合う血溜まりには馬蹄すら浸かるほどの流血が河のように渦巻き、積み重なる屍は屠殺場の肉塊さながらだった。その惨状は「無慙」という言葉も及ばないほどである。 この時、脇屋義助の子・式部大夫(当時十三歳)が敵味方入り乱れる戦渦に供回り三騎と共に取り残されていた。幼いながら機転の利く少年は笠印を切り捨て髪を顔にかき乱し、「敵に見破られぬように」と平然を装っていたのである。 解説【戦術的転換の描写】
【死闘描写の歴史性】
【人物描写の心理的深層】
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| 父義助是をば不知、「義治が見へぬは誅れぬるか、又生捕れぬるか、二の間をば離れじ。彼死生を見ずば、片時の命生ても何かはすべき。勇士の戦場に命を捨る事只是子孫の後栄を思ふ故也。されば未幼なき身なれども、片時の別を悲んで此戦場にも伴ひつる也。其死生を知らでは、如何さて有べき。」とて、鎧の袖に泪をかけ、大勢の中へ懸入り給けるが、「誠に父の子を思ふ志、今に初ぬ事なれども、哀なる御事哉。いざや御伴仕らん。」とて義助の兵共轡を双べ三百余騎、主を討せじと懸入ける。義助の二度の懸に、指もの大勢戦疲れて、一度にばつとぞ引たりける。是に理を得て、義助尚追北進まれける処に、式部大夫義治、我が父と見成して馬を引返し、主従四騎にて脇屋殿に馳加はらんと馬を進められけるを、誰とは不知、片引両の笠符著たる兵二騎、御方が返すぞと心得て、「やさしくこそ見へさせ給候へ。御供申て討死し候。」とて、連て是も返しけり。式部大夫義治は父の義助の勢の中へつと懸入り様に、若党にきつと目くはせゝられければ義治の郎従よせ合せて、つゞいて返しつる二騎の兵を切落し、頚を取てぞ指挙たる。義助是を見給て死たる人の蘇生したる様に悦て、今一涯の勇みを成し、「且く人馬を休めよ。 |
これを見た土岐頼遠らは一団となって進み、「口先だけの人間め、恥を知れ!」と辱めて追い立て攻めたため、遅れて撤退していた兵士五百余騎は捕まるか討たれるかの末にわずかな数になってしまった。戦況が混乱して官軍(新田勢)が浮き足立っているのを見て仁木氏・細川氏・高氏・上杉氏らは猛然と突撃し、中書王(護良親王)の本陣へ間髪入れず攻め寄せた。動揺する京方には抗すべくもなく、副将軍の脇屋義助(右衛門佐)が「無駄死にした者たちのためにここで踏みとどまれ!」と言い放ち七千余騎を統率して横から攻め込んだ。勝利におごった敵は抵抗できず陣形は崩れ、両軍の旗印が入り乱れる中で兵士らは激しい死闘を繰り広げた。流血は川のように流れ積み重なる屍は屠殺場さながらであり、その惨状は言葉も及ばなかった。 この時、脇屋義助の子・式部大夫(義治)が十三歳だったにもかかわらず敵中に取り残されていた。幼い彼は機転を利かせ笠印を捨て髪を乱して「目立たぬように」と振る舞っていた。 父の義助はこれを知らず、「息子が見えないのは殺されたのか捕まったのか?生死がわからぬまま生きていても意味がない。武士が戦場で死ねば子孫のためにこそだ!幼い彼を連れてきたのもそのためよ」と言って鎧の袖に涙を拭いながら敵陣へ突入した。これを見た兵士三百余騎も「主君をお守りせん!」と従った。義助隊の二度目の突撃で疲弊していた敵軍はついに敗走し、追撃する途中で息子・義治が供回りの三騎と合流しようとした瞬間、「味方だ」と思い込んだ敵兵二人に「ご一緒に討死しましょう!」と言われて引き返される。しかし義治の郎党たちが素早くその両名を斬り捨て首を掲げたため、父は「死者が蘇ったか!」と狂喜し最後の力を振り絞って戦い続けたのである。 解説【武士道精神の矛盾点】
【合戦描写の文学的技法】
【歴史的背景】
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| 」とて、又元の陣へは引返されける。一陣余に闘ひくたびれしかば、荒手を入替て戦しめんとしける処に、大友左近将監・佐々木塩冶判官が、千余騎にて後に引へたるが、如何思けん一矢射て後、旗を巻て将軍方に馳加り、却て官軍を散々に射る。中書王の御勢は、初度の合戦に若干討れて、又も戦はず。右衛門佐の兵は両度の懸合に人馬疲れて無勢也。是ぞ荒手にて一軍もしつべき者と憑れつる大友・塩冶は、忽に翻て、親王に向奉て弓を引、右衛門佐に懸合せて戦しかば、官軍争か堪ふべき。「敵の後ろを遮らぬ前に、大手の勢と成合ん。」とて、佐野原へ引退く。仁木・細川・今川・荒川・高・上杉・武蔵・相摸の兵共、三万余騎にて追懸たり。是にて中書王の股肱の臣下と憑み思食たりける二条中将為冬討れ給ければ、右衛門佐の兵共返合々々、三百騎所々にて討死す。是をも顧ず引立たる官軍共、我先にと落行ける程に、佐野原にもたまり得ず、伊豆の府にも支へずして、搦手の寄手三百余騎は、海道を西へ落て行く。 ○官軍引退箱根事 追手箱根路の合戦は官軍戦ふ毎に利を得しかば、僅に引へて支たる足利左馬頭を追落て、鎌倉へ入らんずる事掌の内に有と、寄手皆勇に々で明るを遅しと待ける処に、搦手より軍破れて、寄手皆追散されぬと聞へければ、諸国の催し勢、路次の軍に降人に出たりつる坂東勢、幕を捨旗を側めて、我先にと落行ける間、さしも広き箱根山に、すきまも無く充満したりつる陣に、人あり共見へず成にけり。 |
父・脇屋義助は息子が無事だと知り、「ひとまず人馬を休めよ」と言って元の陣地へ戻った。彼らは長時間戦い疲れていたので、予備兵力と交代しようとしたその時、大友左近将監と佐々木塩冶判官率いる千余騎が突然裏切り矢を射かけ、旗印を足利軍に翻して逆に攻撃してきた。護良親王(中書王)の主力部隊は初戦で損害を受けていた上、脇屋義助(右衛門佐)隊も二度の突撃で疲弊し兵力不足だった。官軍が最後の頼みとしていた大友・塩冶両名があっさり離反したため、「大手の主力部隊と合流する前に退却せよ」と判断し佐野原へ撤退を開始。しかし仁木氏・細川氏・今川氏・荒川氏・高氏・上杉氏ら足利方三万騎が追撃し、親王の側近である二条中将為冬が討死する惨状となった。脇屋義助隊も三百騎を失いながら応戦したが、官軍は統制を失って我先に敗走。佐野原にも留まれず伊豆府中も守れぬまま、別働隊三百騎は海岸沿いに西へ逃れた。 ○箱根方面の官軍撤退 解説【戦術的敗因の分析】
【歴史的事件の意義】
『太平記』特有の描写技法
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| 執事舟田入道は、一の責口に敵を攻て居たりけるが、敵陣に、「竹下の合戦は将軍打勝せ給て、敵を皆追散して候也。」と、早馬の参て罵る声を聞て、誠とやらん不審なく思ければ、只一騎御方の陣々を打廻て見るに、幕計残て、人のある陣は無りけり。さては竹下の合戦に、御方早打負てけり。かくては叶まじと思て、急大将の陣へ参て、事の子細を申ければ、義貞且く思案し給ひけるが、「何様陣を少し引退て、落行勢を留てこそ合戦をもせめ。」とて、舟田入道に打つれて、箱根山を引て下給ふ。其勢僅に百騎には過ざりけり。且く馬を扣へて後を見給へば、例の十六騎の党馳参たり。又北なる山に添て、三つ葉柏の旗の見へたるは、「敵か御方歟。」と問給へば、熱田の大宮司百騎計にて待奉る。其勢を合て野七里に打出給ひたれば、鷹の羽の旗一流指し揚て、菊池肥後守武重、三百余騎にて馳参る。爰に散所法師一人西の方より来りけるが、舟田が馬の前に畏て、「是はいづくへとて御通り候やらん。昨日の暮程に脇屋殿、竹下の合戦に討負て落させ給候し後、将軍の御勢八十万騎、伊豆の府に居余て、木の下岩の陰、人ならずと云所候はず。今此御勢計にて御通り候はん事、努々叶まじき事にて候。」とぞ申ける。是を聞て栗生と篠塚と打双べて候けるが、鐙蹈張り、つとのびあがり、御方の勢を打見て、「哀れ兵共や。 |
執事の舟田入道は一つの攻め口で敵と戦っていたが、敵陣から「竹ノ下合戦では将軍(足利尊氏)が勝利し、敵を全滅させました!」という早馬の叫び声を聞きつけた。疑うことなく真実と思い込み、単騎で味方の陣営を見回ると幕だけが残り兵士は誰もいなかった。「竹ノ下合戦で我々は敗れたのだ」と悟った舟田は「このままでは持たない」と急ぎ大将・新田義貞のもとに駆けつけて状況を報告した。すると義貞は一考の後、「まず陣を少し退き、逃げる兵士たちを集めてから戦いを挑もう」と言い、舟田入道とともに箱根山から下り始めたが兵力はわずか百騎にも満たなかった。しばらく馬を止め振り返ると、常に従う十六騎の家臣団が駆けつけてきた。さらに北側の山沿いに三つ葉柏の旗が見えたため「敵か味方か?」と問うと熱田大宮司(南朝方神官)率いる百騎余りが待機していたのである。合流して野原へ進むと、鷹の羽紋の旗を掲げた菊池肥後守武重が三百余騎で加勢した。その時、一人の漂泊僧が西から現れ舟田入道の馬前にひざまずいて言った。「どちらへお向かいですか?昨夕に脇屋殿(新田側武将)が竹ノ下合戦で敗走された後、将軍軍八十万騎が伊豆府中を埋め尽くし木陰や岩場まで兵であふれています。この寡兵では到底通れません」。これを聞いた栗生と篠塚(義貞配下の武将)は鐙に立ち上がり味方を見回しながら「哀れな兵たちよ」と言った。 解説【情報戦の心理的影響】
【南朝勢力再編の試み】
『太平記』特有の演出技法
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| 一騎当千の武者とは、此人々をぞ申べき。敵八十万騎に、御方五百余騎、吉程の合ひ手也。いで/\懸破て道開て参せん。継けや人々。」と勇めて、数万騎打集たる敵の中へ懸て入。府中にて一条次郎三千余騎にて戦ひけるが、新田左兵衛督を見てよき敵と思ひけるにや、馳双で組んとしけるを、篠塚中に隔て、打ける太刀を弓手の袖に受留、大の武者をかい掴で弓杖二丈計ぞ投たりける。一条も大力の早業成ければ、抛られたれ共倒れず。漂ふ足を践直して、猶義貞に走懸らんとしけるを、篠塚馬より飛でおり両膝合て倒に蹴倒す。倒るゝと均く、一条を起しも立ず、推へて頚かき切てぞ指揚ける。一条が郎等共、目の前にて主を討せて心うき事に思ければ、篠塚を討んと、馬より飛下々々打て懸れば、篠塚かい違ては蹴倒、々々しては首を取、足をもためず一所にて九人迄こそ討たりけれ。是を見て、敵数十万騎有と云ども、敢て懸合せん共せざりければ、義貞閑々と伊豆の府を打て通り給ふに、宵より落て其辺にまぎれ居たる官軍共、此彼より馳付ける程に、義貞の勢二千騎計に成にけり。「此勢にては縦ひ百重千重に取篭たり共、などか懸破て通らざるべき。」と、悦て行処に、木瀬川に旗一流打立て、勢の程二千騎計見へたり。 |
「一人で千人もの敵に対抗できるような武士とは、まさにこの者たちのことだ!八十万騎という大軍に対して味方わずか五百余騎だが、これこそ願ってもない好機だ。さあ突撃して道を切り開き進もうぞ!皆続け!」と勇気づけて数万の敵兵の中へ突入した。伊豆府中で一条次郎が三千余騎を率いて戦っていたところ、新田義貞(左兵衛督)を見て格好の獲物と思ったのか、駆け寄って組みつこうとした。それを篠塚が遮り、斬りかかる太刀を左手の袖で受け止めると、大柄な武者をつかみ取って弓杖ごと約二丈(6メートル)も投げ飛ばした。一条は怪力の持ち主だったため倒れずに踏ん張ったが、篠塚は馬から飛び降り両膝で蹴り倒すと即座に首を刎ねて掲げた。これを見た一条の家臣たちが「主君を目の前で討たれた」と憤慨し、馬上から襲いかかるも篠塚は素早く避けては蹴り倒し、次々と首を取り、一箇所で九人まで仕留めた。この様子に敵数十万騎といえど誰一人挑んでくる者なく、義貞が悠然と伊豆府中を通過すると昨夜から敗走して潜伏していた官軍兵士たちがあちこちから合流し二千騎ほどになった。「これだけの兵力なら百重千重に囲まれても突破できる」と喜び進む途中、木瀬川付近で一本の旗が立ち約二千騎ほどの軍勢が見えた。 解説【戦闘描写の文学的効果】
【敗走から再編への劇的転換】
【歴史的背景と虚構性】
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| 近々と打寄て、旗の文を見れば、二巴を旗にも笠璽にも書たり。「さては小山判官にてぞ有らん、一騎も余さず打取。」とて、山名・里見の人々馬の鼻を双べておめいて懸りける程に、小山が勢四角八方に懸散されて、百騎計は討れにけり。かくて浮嶋が原を打過れば、松原の陰に旗三流差て、勢の程五百騎計扣たり。「是は敵か御方歟。」と在家の者に問給へば、「是は昨日の竹下より、一宮を追進せて、所々にて合戦し候し甲斐の源氏にて候。」とぞ答申ける。「さてはよき敵ぞ、取篭て討。」とて、二千余騎の勢を二手に分て北南より押寄れば、叶はじとや思けん、一矢をも射ずして、降人に成てぞ出たりける。此勢を先に打せて遥に行けば、中黒の旗を見付て、落隠居たる官軍共、彼方此方より馳付て、七千余騎に成にけり。今はかうと勇て、今井・見付を過る処に、又旗五流差揚て、小山の上に敵二千騎計扣たり。降人に出たりつる甲斐源氏に、「此敵は誰そ。」と問給へば、「是は武田・小笠原の者共にて候也。」と答ふ。「さらば責よ。」とて四方より攻上りけるを、高山薩摩守義遠、「此敵を余さず討んとせば、御方も若干亡ぶべし。大敵をば開ひて責るにこそ利は候へ。」と申ければ、由良・舟田げにもとて、東一方をば開けて三方より責上りければ、此敵共遠矢少々射捨て、東を指てぞ落行ける。 |
近づいて旗印を見ると、二つの巴紋が旗や笠印に描かれていた。「これは小山判官(秀朝)の軍だ!一騎残らず討ち取れ!」と叫びながら山名・里見らの兵士たちが馬を揃えて攻めかかったため、小山勢は四方八方から包囲され百騎ほどが討たれた。こうして浮島ヶ原を通り過ぎると松林の陰に三本の旗が立ち兵力約五百騎が待機していた。「これは敵か味方か?」と現地住民に尋ねると「昨日竹下合戦で一宮(新田義貞)を追撃し各地で戦った甲斐源氏です」との答え。そこで「好敵だ!包囲して討て!」と二千余騎の軍勢を二手に分け南北から押し寄せたところ、抵抗は無理と思ったのか一矢も放たず降伏者が現れた。この部隊を先頭にして進むと中黒旗(新田氏紋)を見つけ敗走していた官軍兵士があちこちから合流して七千余騎になった。「これで十分だ」と勇んで今井・見付を通り過ぎた所、再び五本の旗が小山に立ち敵二千騎ほどが見えた。降伏した甲斐源氏に「この敵は誰か?」と問うと「武田・小笠原連合軍です」との返答。「ならば攻めろ!」と四方から攻め上がろうとしたところ、高山薩摩守義遠が進言した:「全滅させようとすれば味方も損害が出る。大敵には一方を開けて追い込むのが得策だ」。由良・舟田らは「その通り」として東側だけ空け三方から攻めたため敵兵たちは矢を数本射捨てると東へ逃げていった。 解説【戦術的リアリズムの深化】
【兵力変動の象徴的構造】
歴史的検証
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| 是より後は敢て遮る敵もなかりければ、手負を相助、さがる勢を待連て、十二月十四日の暮程に、天竜川の東の宿に著給にけり。時節川上に雨降て、河の水岸を浸せり。長途に疲れたる人馬なれば、渡す事叶まじとて、俄に在家をこぼちて浮橋をぞ渡されける。此時もし将軍の大勢、後より追懸てばし寄たりしかば、京勢は一人もなく亡ぶべかりしを、吉良・上杉の人々、長僉議に三四日逗留有ければ、川の浮橋程なく渡しすまし、数万騎の軍勢残所なく一日が中に渡てけり。諸卒を皆渡しはてゝ後、舟田入道と大将義貞朝臣と二人、橋を渡り給ひけるに、如何なる野心の者かしたりけん、浮橋を一間はりづなを切てぞ捨たりける。舎人馬を引て渡りけるが、馬と共に倒に落入て、浮ぬ沈ぬ流けるを、舟田入道、「誰かある、あの御馬引上げよ。」と申ければ、後に渡ける栗生左衛門、鎧著ながら川中へ飛つかり、二町計游付て、馬と舎人とを左右の手に差揚て、肩を超ける水の底を閑に歩で向の岸へぞ著たりける。此馬の落入ける時、橋二間計落て、渡るべき様もなかりけるを、舟田入道と大将と二人手に手を取組で、ゆらりと飛渡り給ふ。其跡に候ける兵二十余人、飛かねて且し徘徊しけるを、伊賀国住人に名張八郎とて、名誉の大力の有けるが、「いで渡して取せん。 |
これ以降は阻む敵も全くいなかったので、傷ついた兵士たちを助け合いながら遅れた部隊を待ち連れて進み、12月14日の夕方頃に天竜川の東岸にある宿場へ到着した。その時季には上流で雨が降っていたため河の水は堤防まで溢れていた。長旅で疲労困憊している人馬たちなので通常渡渉など不可能と思われたが、急遽付近の民家を解体して浮橋を作り渡らせようとした。もしこの時敵将率いる大軍が追撃していれば京勢(新田軍)は全滅していただろうが、(足利方で指揮権争い中の)吉良・上杉らが長々と協議し三日も逗留したおかげで、浮橋の設置を迅速に終え数万騎もの兵士たちを一日であますところなく渡すことに成功した。全ての士卒を渡してしまった後、舟田入道(由良氏)と大将新田義貞公が二人だけ残り橋を渡ろうとした時、何者か悪意のある者が浮橋の綱を一間分ほど切って放棄する事件が起きた。(先に川へ落ちたと思われる描写はないが続く文脈から)従者の引いていた馬ごとどさっと川中へ転落し沈みかけ流される様子を見て舟田入道が「誰か助ける者はいないのか!あの御馬を引き上げろ!」と呼びかけると、後方から来た栗生左衛門(久里氏)が甲冑をつけたまま川へ飛び込み約二百メートルも泳ぎ進みながら馬と従者の両方を腕で抱え掲げ、水深肩越えの激流の中を悠然と歩いて対岸に着いた。この落馬事故時には橋は二間分ほど崩れて渡る手段がなくなってしまったところへ舟田入道と大将義貞公二人は互いに手を取り合い軽々と飛び移り通過なさった。彼らの後ろで待機していた兵士二十人余りは跳躍できずに躊躇しているのを見て伊賀国出身者である名張八郎という評判高い怪力者が「よし私が渡してやろう」と(言って行動した)。 解説【危機管理と集団心理の描写】
【超人的行動の象徴性】
歴史的背景
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| 」とて鎧武者の上巻を取て中に提げ、二十人までこそ投越けれ。今二人残て有けるを左右の脇に軽々と挟で、一丈余り落たる橋をゆらりと飛で向の橋桁を蹈けるに、蹈所少も動かず、誠に軽げに見へければ、諸軍勢遥に是を見て、「あないかめし、何れも凡夫の態に非ず。大将と云手の者共と云、何れを捨べし共覚ね共、時の運に引れて、此軍に打負給ひぬるうたてさよ。」と、云はぬは人こそなかりけれ。其後浮橋を切て、つき流されたれば、敵縦ひ寄来る共、左右なく渡すべき様もなかりけるに、引立たる勢の習なれば、大将と同心に成て、今一軍せん太平記と思ふ者無りけるにや。矢矯に一日逗留し給ひければ、昨日まで二万余騎有つる勢、十方へ落失て十分が一もなかりけり。早旦に宇都宮治部太輔、大将の前に来て申されけるは、「今夜官軍共、夜もすがら落候ひけると承が、げにも陣々まばらに成て、いづくに人あり共見へ候はず。爰にてもし数日を送らば、後ろに敵出来て、路を塞ぐ事有ぬと覚候。哀れ今少し引退て、あじか・州俣を前に当てゝ、京近き国々に、御陣を召され候へかし。」と申されければ、諸大将、「げにも皇居の事おぼつかなく候へば、さのみ都遠き所の長居は然るべし共存候はず。」とぞ同じける。 |
名張八郎は鎧武者(兵士)の胴丸部分を掴んで抱え込み、二十人まで投げ飛ばして対岸へ送った。残る二人も左右の脇に軽々と挟み持ち、約3.6メートル崩れた橋から悠然と跳び移り向こう側の橋脚に着地したが、踏んだ場所は全く揺れず見事な身軽さだったので、遠巻きに見ていた兵士たち皆が「あぁ驚いた!誰も凡人の技ではない。大将や精鋭達と言えど、この軍勢に敗れたのは運命の皮肉だ」と口々に嘆くほどであった。その後浮橋を切断して流したため、敵が追撃しても渡河手段は完全になくなった。しかし撤退中の軍隊には大勢についてくる習性があり、「大将(新田義貞)と運命を共にして最後まで戦おう」と思う者など誰もいなかったのだろうか。(だが実際にそういう者はなく)矢傷の手当てで一日滞在した結果、昨日までは二万余騎いた勢力が四方へ離散し十分の一以下になってしまった。翌早朝、宇都宮治部太輔(公綱)が大将の前に来て進言した:「昨夜官軍兵士たちは夜通し敗走したと聞きました。確かに陣営も疎らで人影が見えません。ここに数日留まれば追撃部隊に退路を塞がれましょう。哀れですので少し後退し、安城(現愛知県)や洲俣(静岡県磐田市付近)を前衛として京に近い地域で陣営をお構えになられたら」。諸大将も「御所の状況も気掛かりなので遠隔地での長期滞留は良策ではありません」と同調した。 解説【集団心理描写のリアリズム】
【英雄像と現実の対比】
歴史的検証
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| 義貞、「さらば兎も角も面々の御意見にこそ順ひ候はめ。」とて、其日天竜川を立てこそ、尾張国までは引かれけれ。 ○諸国朝敵蜂起事 かゝる処に、十二月十日、讚岐より高松三郎頼重早馬を立て京都へ申けるは、「足利の一族細川卿律師定禅、去月二十六日当国鷺田庄に於て旗を揚る処に、詫間・香西これに与して、則三百余騎に及ぶ。是に依て、頼重時剋を廻らさず、退治せしめん為に、先づ矢嶋の麓に打寄て国中の勢を催す処に、定禅遮て夜討を致せし間、頼重等身命を捨て防戦ふと雖も、属する所の国勢忽に翻て剰へ御方を射る間、頼重が老父、並に一族十四人・郎等三十余人、其場に於て討死仕畢。一陣遂に彼が為に破られし後、藤橘両家・坂東・坂西の者共残る所なく定禅に属する間、其勢已及三千余騎に、近日宇多津に於て兵船を点じ、備前の児嶋に上て已に京都に責上んと仕候。御用心有べし。」とぞ告申ける。かゝりけれ共、京都には新田越後守義顕を大将として、結城・名和・楠木以下宗との大名共大勢にて有しかば、四国の朝敵共縦ひ数を尽して責上る共、何程の事か有るべきと、さまでの仰天もなかりけるに、同十一日、備前国住人児嶋三郎高徳が許より、早馬を立て申けるは、「去月二十六日、当国の住人佐々木三郎左衛門尉信胤・同田井新左衛門尉信高等、細川卿律師定禅が語いを得て備中国に打越、福山の城に楯篭る間、彼国の目代先手勢計を以て合戦を致と雖も、国中の勢催促に随はず。 |
新田義貞は、「それでは皆様のご意見にお従いしましょう。」と言って、その日に天竜川を離れ尾張国まで撤退した。 ○諸国の朝敵蜂起について 解説【情報伝達と緊迫感演出】
史実的検証
地理・軍事考証
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| 無勢なるに依て引退く刻、朝敵勝に乗し間、目代が勢数百人討死し畢。其翌日に小坂・川村・庄・真壁・陶山・成合・那須・市川以下、悉く朝敵に馳加る間、程なく其勢三千余騎に及べり。爰に備前国の地頭・御家人等、吉備津宮に馳集て、朝敵を相待処に、浅山備後守、備後の国の守護職を賜て下向する間、其勢を合て、同二十八日、福山に押寄責戦〔し〕日、高徳が一族等大手を責破て、已に城中に打入る刻、野心の国人等、忽に翻て御方を射る間、目代浄智が子息七条弁房・小周防の大弐房・藤井六郎・佐井七郎以下三十余人、搦手に於て討れ候畢。官軍遂に戦ひ負て備前国に引退、三石の城に楯篭る処に、当国の守護松田十郎盛朝・大田判官全職・高津入道浄源当国に下著して、已御方に加る間、又三石より国中へ引返、和気の宿に於て、合戦を致す刻、松田十郎敵に属する間、官軍数十人討れて、熊山の城に引篭る。其夜、当国の住人内藤弥二郎、御方の陣に有ながら、潛に敵を城中へ引入責劫間、諸卒悉行方を知らず没落候畢。高徳一族等此時纔に死を免る者身を山林に隠し、討手の下向を相待候。若早速に御勢を下されずば、西国の乱、御大事に及ぶべし。」とぞ申たりける。両日の早馬天聴を驚しければ、「こは如何すべき。 |
(兵力不足により撤退した際、朝敵に追撃され目代側数百人が討死しました。その翌日には小坂・川村・庄・真壁・陶山・成合・那須・市川以下の武士が皆朝敵側についたため、ほどなく勢力は三千余騎にも達しました。ここで備前国の地頭や御家人らが吉備津宮に集結し反撃を待ち構えていましたが、浅山備後守(北条方)が備後の国守護職を与えられ下向してきたため合流し、同月28日に福山城へ攻め寄せたところ、高徳の一族らが大手門を突破して城内に突入した瞬間、野心ある国人たちが突然裏切り味方を射始めたので、目代浄智の子息七条弁房・小周防大弐房・藤井六郎・佐井七郎以下三十余人が搦手口で討死しました。官軍はついに敗れて備前国へ退き三石城に籠城したところ、当国の守護松田十郎盛朝・大田判官全職・高津入道浄源らが下向して敵側についたため、再び三石から撤退し和気宿で合戦となった際、松田十郎も寝返ったので官軍数十人が討たれ熊山城へ退却しました。その夜、当国の住人内藤弥二郎が味方陣営に潜伏していたのに密かに敵を城内へ導き奇襲させたため兵士全員が離散し逃亡してしまいました。高徳一族でかろうじて生き残った者は山林に身を潜め救援軍の到着を待っています。もし早急に援軍を派遣されなければ西国の反乱は重大な事態となります。)と報告がありました。二日連続の緊急報が朝廷を震撼させたので、「これはどうすべきか?」 解説【戦略的瓦解の構造分析】
歴史的検証矛盾点
軍事戦術考察
(注:続く「こは如何すべき。」は次章冒頭の朝議シーンへ接続する吊り文) |
| 」と周章ありける処に、又翌日の午剋に、丹波国より碓井丹波守盛景、早馬を立て申けるは、「去十二月十九日の夜、当国の住人久下弥三郎時重、波々伯部次郎左衛門尉・中沢三郎入道等を相語て守護の館へ押寄る間、防戦と雖も、劫戦不慮に起に依て、御方戦破れて、遂に摂州へ引退く。雖然と猶他の力を合て其恥を雪ん為に、使者を赤松入道に通じて、合力を請る処に、円心野心を挟む歟、返答にも及ばず。剰へ将軍の御教書と号し、国中の勢を相催由、風聞在人口に。加之但馬・丹後・丹波の朝敵等、備前・備中の勢を待、同時に山陰・山陽の両道より責上るべき由承及候、御用心有るべし。」とぞ告たりける。又其日の酉剋に、能登国石動山の衆徒の中より、使者を立てゝ申けるは、「去月二十七日越中に守護、普門蔵人利清・並に井上・野尻・長沢・波多野の者共、将軍の御教書を以て、両国の勢を集め、叛逆を企る間、国司中院少将定清、就用害に被楯篭当山処、今月十二日彼逆徒等、以雲霞勢押寄間、衆徒等与義卒に、雖軽身命を、一陣全事を得ずして、遂に定清於戦場に被墜命、寺院悉兵火の為に回禄せしめ畢。是より逆徒弥猛威を振て、近日已に京都に責上らんと仕候。急ぎ可被下御勢を。」とぞ申ける。是のみならず、加賀の富樫介、越前に尾張守高経の家人、伊予に川野対馬入道、長門に厚東の一族、安芸に熊谷、周防に大内介が一類、備後に江田・弘沢・宮・三善、出雲に富田、伯耆に波多野、因幡に矢部・小幡、此外五畿・七道・四国・九州、残所なく起ると聞へしかば、主上を始めまいらせて、公家被官の人々、独として肝を消さずと云事なし。 |
「これはどうすべきか?」と朝廷が慌てているところに、翌日の昼過ぎには丹波国から碓井丹波守盛景が早馬で次のように報告した:「先月19日夜、当地の住人久下弥三郎時重らが結託して守護館を襲撃し防戦しましたが不意打ちだったため敗れ摂津へ撤退しました。この恥をそそぐべく赤松入道に協力を求めましたが彼(円心)は野心を持つのか無返答です。それどころか将軍の命令書と偽り国中の武士を集めているとの噂があります。さらに但馬・丹後・丹波の朝敵らは備前・備中の勢力を待ち、山陰道と山陽道から同時に攻め上る計画です。警戒してください。」と伝えた。同じ日の夕方には能登国石動山の僧侶たちが使者を通じ:「先月27日越中国守護普門蔵人利清らが将軍命令書で両国の兵を集めて謀反し、国司中院少将定清公は当山に籠城されました。今月12日に逆徒たちが大軍で攻め寄せたため僧兵も防戦しましたが全く及ばず定清公は戦死し寺院は焼け落ちました。逆徒の勢いは増して近日中に京都へ迫るでしょう。急ぎ援軍を派遣ください。」と報告した。これだけでなく、加賀富樫介・越前尾張守高経家臣・伊予川野対馬入道・長門厚東一族・安芸熊谷氏・周防大内介一族・備後江田ら・出雲富田氏・伯耆波多野氏・因幡矢部らの蜂起が伝わり、五畿七道から四国九州に至るまで全ての地域で反乱が起こったと聞こえたため、天皇をはじめ公家や役人たちで肝をつぶさぬ者はいなかった。 解説【全国叛乱描写の構成技法】
歴史的背景検証
文学的心理描写効果
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| 其比何かなる嗚呼の者かしたりけん。内裏の陽明門の扉に、一首の狂歌をぞ書たりける。賢王の横言に成る世中は上を下へぞ帰したりける四夷八蛮起り合て、急を告る事隙なかりければ、引他の九郎を勅使にして、新田義貞猶道にて敵を支へんとて、尾張国に居られたりけるを、急ぎ先上洛すべしとぞ召れける。引他九郎竜馬を給て、早馬に打けるが、此馬にては、四五日の道をも、一日には輒く打帰んずらんと思けるに合せて、げにも十二月十九日の辰刻に、京を立て、其日の午刻に近江国愛智川の宿にぞ著たりける。彼竜馬俄に病出して、軈て死にけるこそ不思議なれ。引佗乗替に乗替々々、日を経て尾張国に下著し、此子細を左兵衛督に申ければ、「先京都へ引返して宇治・勢多を支てこそ、合戦を致さめ。」とて、勅使に打つれてぞ上られける。 ○将軍御進発大渡・山崎等合戦事 去程に改年立帰れ共、内裏には朝拝もなし。節会も行れず。京白川には、家をこぼちて堀に入れ、財宝を積で持運ぶ。只何にと云沙汰もなく、物騒く見へたりける。懸る程に、将軍已に、八十万騎にて、美濃・尾張へ著給ぬと云程こそあれ、四国の御敵も近付ぬ、山陰道の朝敵も、只今大江山へ取あがるなんど聞へしかば、此間召に応じて上り集たる国々の軍勢共十方へ落行ける程に、洛中には残り止る勢一万騎までもあらじとぞ見へたりける。 |
その頃か陽明門に誰かが狂歌を書き残した:「賢王のわき言が世の中を支配し、上下関係はすっかりひっくり返った」。四方の敵が一斉に蜂起して緊急報告が絶えなかったため、引他九郎を使者として新田義貞(尾張国で防戦中)へ「すぐ上洛せよ」と命じた。引他九郎は朝廷から授かった龍馬を駆り早馬となったが、この馬なら4~5日の行程も1日で戻れると思いきや不思議なことに近江愛智川宿で突然倒れ死んだ。別の馬に乗り継ぎようやく尾張へ着くと事情を伝えたところ、新田は「まず宇治・勢多で防衛戦を」と言い使者と共に急行した。 ○将軍出陣と大渡・山崎合戦 解説【政治的風刺と伝奇的要素】
軍事展開の現実描写
物語構成上の意義
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| 其も皆勇る気色もなくて、何方へ向へと下知せられけれ共、耳にも聞入ざりければ、軍勢の心を勇ません為に、「今度の合戦に於て忠あらん者には、不日に恩賞行はるべし。」とし壁書を、決断所に押されたり。是を見て、其事書の奥に例の落書をぞしたりける。かく計たらさせ給ふ綸言の汗の如くになどなかるらん去程に正月七日に、義貞内裏より退出して軍勢の手分あり。勢多へは伯耆守長年に、出雲・伯耆・因幡三箇国の勢二千騎を副て向けらる。供御の瀬・ぜゞが瀬二箇所に大木を数千本流し懸て、大綱をはり乱ぐひを打て、引懸々々つなぎたれば、何なる河伯水神なり共、上をも游がたく下をも潛難し。宇治へは楠木判官正成に、大和・河内・和泉・紀伊国の勢五千余騎を副て向らる。橋板四五間はね迦して河中に大石を畳あげ、逆茂木を繁くゑり立て、東の岸を高く屏風の如くに切立たれば、河水二にはかれて、白浪漲り落たる事、恰か竜門三級の如也。敵に心安く陣を取せじとて、橘の小嶋・槙嶋・平等院のあたりを、一宇も残さず焼払ける程に、魔風大廈に吹懸て、宇治の平等院の仏閣宝蔵、忽に焼けゝる事こそ浅猿けれ。山崎へは脇屋右衛門佐を大将として、洞院の按察大納言・文観僧正・大友千代松丸・宇都宮美濃将監泰藤・海老名五郎左衛門尉・長九郎左衛門以下七千余騎の勢を向らる。 |
兵士たちは皆勇ましい気配もなく、命令にも耳を貸さないため、軍勢を奮い立たせようと「この戦いで忠節を尽くす者には速やかに恩賞を与える」との張り紙を決断所に掲示した。これを見て誰かがその文書の端に落書きした:「こうも約束なさる勅命は汗のように無価値になるものだ」。
解説【防衛戦略の現代的解釈】
歴史的検証
軍記物としての描写技法
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| 宝寺より川端まで屏を塗り堀をほりて、高櫓・出櫓三百余箇所にかき双たり。陣の構へなにとなくゆゝしげには見へたれ共、俄に拵たる事なれば屏の土も未干、堀も浅し。又防ぐべき兵も、京家の人、僧正の御房の手の者などゝ号る者共多ければ、此陣の軍はか/゛\しからじとぞ見へたりける。大渡には、新田左兵衛督義貞を惣大将として、里見・鳥山・々名・桃井・額田・々中・篭沢・千葉・宇都宮・菊池・結城・池・風間・小国・河内の兵共一万余騎にて堅めたり。是も橋板三間まばらに引落して、半より東にかい楯をかき、櫓をかきて、川を渡す敵あらば、横矢に射、橋桁を渡る者あらば、走りを以て推落す様にぞ構へたる。馬の懸上りへ逆茂木ひしと引懸て、後に究竟の兵共、馬を引立々々並居たれば、如何なるいけずき・する墨に乗る共、こゝを渡すべしとは見へざりけり。去程に将軍は八十万騎の勢を率し、正月七日近江国伊岐州の社に、山法師成願坊が三百余騎にて楯篭たりける城を、一日一夜に責落して、八日に八幡の山下に陣を取る。細川卿律師定禅は、四国・中国の勢を率して正月七日播磨の大蔵谷に著たりけるに、赤松信濃守範資我国に下て旗を挙ん為に、京より逃下けるに行逢て、互に悦思ふ事限なし。且は元弘の佳例也とて、信濃守を先陣にて、其勢都合二万三千余騎、正月八日の午剋に芥川の宿に陣を取る。 |
宝寺から川端にかけて屏を築き堀を掘り、高櫓や出櫓三百余箇所を密集させた。陣の構えは一見威圧的に見えたものの、急造だったため屏の土も乾かず、堀も浅かった。防衛兵士には京都貴族出身者や文観僧正配下といった非戦闘員が多く、この陣地は頼りないと評されていた。 大渡橋では新田義貞(左兵衛督)を総大将に里見・鳥山ら一万余騎が守備。三間分の橋板を撤去し東側に盾壁や櫓を設置。敵が川を渡れば横矢で射込み、橋桁伝いに来る者には走り寄って突き落とす態勢だった。馬乗り入れ口に逆茂木を隙間なく配置し、後方の精鋭たちが馬を連ねて待機していたため、いかに強力な武将でも突破は不可能に見えた。 一方将軍(足利尊氏)率いる八十万騎は正月七日、近江国伊岐州社で成願坊率いる三百余騎の篭る城を一日一夜で攻略。八日には八幡山下に布陣した。細川定禅(卿律師)が四国・中国勢を率いて播磨大蔵谷に着陣すると、赤松範資(信濃守)と合流。「元弘の乱再現だ」と言わんばかりに喜び、範資を先鋒とする二万三千余騎は八日正午に芥川宿で陣を構えた。 解説【防衛戦略の矛盾点】
足利軍側の描写的意図
軍記物語の構成技法
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| 久下弥三郎時重・波々伯部二郎左衛門為光・酒井六郎貞信、但馬・丹後の勢と引合て六千余騎、二条大納言殿の西山の峯の堂に陣を取ておはしけるを追落して、正月八日の夜半より、大江山の峠に篝をぞ焼ける。京中には時に取て弱からん方へ向べしとて、新田の一族三十余人、国々の勢五千余騎を貽れたりければ、大江山の敵を追払ふべしとて、江田兵部大輔行義を大将として、三千余騎を丹波路へ差向らる。此勢正月八日の暁、桂川を打渡て、朝霞の紛れに、大江山へ推寄せ、一矢射違る程こそ有けれ、抜連れて責上りける間、一陣に進で戦ひける久下弥三郎が舎弟五郎長重、痛手を負て討れにけり。是を見て後陣の勢一戦も戦ずして、捨鞭を打て引きける間、敵さまでは追ざりけれ共、十里二十里の外まで、引かぬ兵はなかりけり。明れば正月九日の辰剋に、将軍八十万騎の勢にて、大渡の西の橋爪に推寄、橋桁をや渡らまし、川をや渡さましと見給に、橋の上も川の中も、敵の構へきびしければ、如何すべしと思案して時移るまでぞ引へたる。時に官軍の陣よりはやりをの者共と見へたる兵百騎計、川端へ進出て、「足利殿の搦手には憑思食て候つる丹波路の御敵どもをこそ、昨日追散して、一人も不残討取て候へ。御旗の文を見候に、宗との人々は、大略此陣へ御向有と覚て候。 |
久下弥三郎時重・波々伯部二郎左衛門為光・酒井六郎貞信らが但馬・丹後の兵と合流した六千余騎は、二条大納言(道平)の西山峯堂に布陣していた敵を追い払い、正月八日夜半から大江山の峠にかがり火を焚いた。京都では「弱体化している方面へ向かうべきだ」と判断し、新田一族三十余人と各地からの兵五千余騎が控えていたため、「大江山の敵を排除せよ」との命で江田兵部大輔行義を大将とする三千余騎を丹波路に差し向けた。 この軍勢は正月八日明け方、桂川を渡り朝霧に紛れて大江山へ迫り矢戦となったが、一気に攻め上られたため第一陣の久下弥三郎の弟・五郎長重が重傷を負って討たれた。これを見て後続部隊は一戦も交えず鞭を捨てて退却し、敵こそ追撃しなかったものの、十里二十里(約40~80km)先まで逃げない兵士は一人もいなかった。 明けて正月九日辰刻(午前8時頃)、将軍(足利尊氏)率いる八十万騎が大渡橋西岸に迫り「橋を渡るか川を渡るか」と偵察したが、敵の防御が厳重だったため作戦会議中であった。その時、官軍側から挑発する兵百騎ほどが河原に出て叫んだ:「足利殿への援軍と期待していた丹波路の部隊は昨日全滅させたぞ! 御旗(尊氏)の書状を拝見したところ味方らしき者は皆この陣にいるようだな」 解説【戦術的失敗の要因】
挑発行動の歴史的背景
『太平記』の文学的手法
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| 治承には足利又太郎、元暦には佐々木四郎高綱、宇治川を渡して名を後代に挙候き。此川は宇治川よりも浅して而も早からず。爰を渡され候へ。」と声々に欺て、箙を敲て咄と笑。武蔵・相摸の兵共、「敵に招れて、何なる早き淵川なり共渡さずと云事やあるべき。仮令川深して、馬人共に沈みなば、後陣の勢其を橋に蹈で渡れかし。」とて、二千余騎一度に馬を打入んとしけるを、執事武蔵守師直馳廻て、「是はそも物に狂ひ給ふか。馬の足もたゝぬ大河の、底は早して上は閑なるを、渡さば渡されんずるか。暫閑まり給へ。在家をこぼちて、筏に組で渡らんずるぞ。」と下知せられければ、さしも進みける兵、げにもとや思けん、軈て近辺の在家数百家を壊ち連て、面二三町なる筏をぞ組だりける。武蔵・相摸の兵共五百余人こみ乗て、橋より下を渡けるが、河中に打たる乱杭に懸て、棹を指せ共行やらず。敵は雨の降る如く散々に射る。筏はちともはたらかず。兎角しける程に、流れ淀たる浪に筏の舫を押切られて、竿にも留らず流けるが、組み重ねたる材木共、次第に別々に成ければ、五百余人乗たる兵皆水に溺れて失にけり。敵は楯を敲て、「あれ見よ。」と咲ふ。御方は手をあがいて、如何かせんと騒き悲め共叶はず。又此軍散じて後、橋の上なる櫓より、武者一人矢間の板を推開て、「治承に高倉の宮の御合戦の時、宇治橋を三間引落して、橋桁計残て候しをだに、筒井浄妙・矢切但馬なんどは、一条・二条の大路よりも広げに、走渡てこそ合戦仕て候ひけるなれ。 |
「治承の戦いでは足利又太郎が、元暦の合戦では佐々木高綱(四郎)が宇治川を渡って後世に名を残しました。この川は宇治川より浅く流れも緩やかです。どうぞこちらへお越しください」と敵軍は声を揃えて挑発し、えびら(矢筒)を叩きながら哄笑した。武蔵・相模の兵たちは「敵に煽られて渡れない川などあるものか! たとえ深く人馬もろとも沈んだとしても、後続部隊が我々を橋代わりにして渡ればよい」と言い、二千余騎がいっせいに川へ突入しようとした。 これを見た執事の高師直(武蔵守)は駆け回り「皆さん正気か? 馬の足も届かない大河で水深く水面が穏やかな場合、無理に渡れるはずがない。一旦落ち着かれよ。民家を壊して筏を作って渡ろう」と指示したため、突進しようとした兵たちも納得し付近の民家数百軒を破壊。幅二三町(約200-300m)もある筏を組んだ。 武蔵・相模の兵五百余人が筏に乗り橋より下流で渡河開始するが、川中にある杭に引っかかり竿でも動かない。敵軍は雨のように矢を浴びせ、筏は微動だにしない。もがくうちに淀んだ水流で繋ぎ綱が切れ、五百余人の兵士全員が溺れて消えた。敵は盾を叩き「見たか!」と嘲笑う。味方は手を上げて悲嘆したが挽回できず。 この部隊壊滅後、橋上の櫓から一人の武者が矢狭間の戸を開け叫んだ:「治承年間の高倉宮合戦時、宇治橋は三間(約5.4m)分撤去され桁だけ残っていた状況でさえ、筒井浄妙や矢切但馬らは一条・二条大路より広い幅を走り渡って戦ったというのに!」 解説【戦術的愚行の構造】
文学的対比技法
当時の軍事技術的背景
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| 況や此橋は、かい楯の料に所々板を弛て候へ共、人の渡り得ぬ程の事はあるまじきにて候。坂東より上て京を責られんに、川を阻たる合戦のあらんずるとは、思ひ設られてこそ候つらめ。舟も筏も事の煩計にてよも叶候はじ。只橋の上を渡て手攻の軍に我等が手なみの程を御覧じ候へ。」と、敵を欺き恥しめてあざ咲てぞ立たりける。是を聞て武蔵守師直が内に、野木与一兵衛入道頼玄とて、大力の早業、打物取て世に名を知られたる兵有けるが、同丸の上にふしなはめの大鎧すき間もなく著なし、獅子頭の冑に、目の下の頬当して、四尺三寸のいか物作の太刀をはき、大たて揚の膸当脇楯の下へ引こうて、柄も五尺身も五尺の備前長刀、右の小脇にかいこみて、「治承の合戦は、音に聞て目に見たる人なし。浄妙にや劣と我を見よ。敵を目に懸る程ならば、天竺の石橋、蜀川の縄の橋也とも、渡得ずと云事やあるべき。」と高声に広言吐て、橋桁の上にぞ進だる。櫓の上の掻楯の陰なる官軍共、是を射て落さんと、差攻引攻散々に射る。面僅に一尺計ある橋桁の上を、歩ば矢に違ふ様もなかりけるに、上る矢には指覆、下る矢をば跳越へ、弓手の矢には右の橋桁に飛移り、馬手の矢には左の橋桁へ飛移り、真中を指て射る矢をば、矢切の但馬にはあらねども、切て落さぬ矢はなかりけり。 |
「ましてこの橋は防御のために所々板が外されているとはいえ、人が渡れないほどではないのです。坂東から攻め上って京都を攻略しようとするのに、川に阻まれて戦闘になるなどと予想しておられたでしょう。舟も筏も手間ばかりかかって到底成功できません。どうか橋の上を渡り、直接対決で我々の実力をご覧ください」と言い放ち、敵は挑発して侮辱し嘲笑しながら立っていた。 これを聞いた武蔵守師直配下に野木与一兵衛入道頼玄という者がいた。怪力と素早さを兼ね備え武器使いで有名な武士であり、同僚たちの上着も見えないほど隙間なく大鎧をまとい、獅子頭の冑には目の下まで覆う頬当てをつけていた。四尺三寸(約130cm)もある巨大刀を帯び、大型楯と脇盾で胸甲を隠し、柄も刃身も五尺ずつある備前長刀を右わきに抱えて「治承の合戦は噂だけで目撃者はいない。私は浄妙(筒井)より劣るか?敵が眼前なら天竺の石橋や蜀川の縄橋でも渡れぬ道理があるものか!」と大声で叫び、橋桁へ進み出たのである。 櫓上の盾陰に隠れた官軍は彼を射落とそうと矢を放つも、幅わずか一尺(約30cm)の橋桁上では歩くだけで当たりそうな状況だったにも関わらず、頼玄は上方からの矢には手で防ぎ、下方からのは跳び越え、左側の矢には右橋桁へ飛び移り、右側のものには左橋桁へ移動した。真っ直ぐ放たれる矢を「矢切但馬」ほどの名手ではないが切断し落とさぬものがなかった。 解説【英雄的行動の心理的効果】
身体描写の象徴的意味
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| 数万騎の敵御方立合て見ける処に、又山川判官が郎等二人、橋桁を渡て継たり。頼玄弥力を得て、櫓の下へかづき、堀立たる柱を、ゑいや/\と引くに、橋の上にかいたる櫓なれば、橋共にゆるぎ渡て、すはやゆり倒しぬとぞ見へたりける。櫓の上なる射手共四五十人叶はじとや思けん、飛下々々倒れふためいて二の木戸の内へ逃入ければ、寄手数十万騎同音に箙を敲てぞ笑ける。「すはや敵は引ぞ。」と云程こそ有けれ、参河・遠江・美濃・尾張のはやり雄の兵共千余人、馬を乗放々々、我前にとせき合て渡るに、射落されせき落されて、水に溺るゝ者数を知ず。其をも不顧、幾程もなき橋の上に、沓の子を打たるが如く立双で、重々に構たる櫓かい楯を引破らんと引ける程に、敵や兼てをしたりけん、橋桁四五間中より折れて、落入る兵千余人、浮ぬ沈ぬ流行。数万の官軍同音に楯を敲てどつと咲。され共野木与一兵衛入道計は、水練さへ達者也ければ、橋の板一枚に乗り、長刀を棹に指て、本の陣へぞ帰りける。是より後は橋桁もつゞかず、筏も叶ず。右てはいつまでか向居べきと、責あぐんで思ける処に、さも小賢げなる力者一人立封したる文を持て、「赤松筑前殿の御陣はいづくにて候ぞ。」と、問々走て出来る。筑前守は八日の宵より、桃井修理亮・土屋三川守・安保丹後守と陣を双て、橋の下に居たりけるが、此使を見付て、急文を披て見れば、舎兄信濃守範資の自筆にて、「義貞以下の逆徒等退治の事、将軍家の御教書到来の間、為挙義兵播州に罷下る処に、細川卿律師定禅、京都に責上らるゝ間、路次に於て参会す。 |
数万騎の敵味方が対峙して見守る中、次に山川判官(山名時氏)の家臣二人も橋桁を渡って続いた。頼玄はさらに力を込め櫓へ突進し、地中深く立てられた柱を「えいやっ!」と引っぱると、橋上に建てた櫓だったため基礎ごと揺らぎ始め、今にも倒れそうに見えた。 櫓上の射手たち四五十人は対抗できまいと思ったのか、飛び降りながら転げ回って二の木戸内へ逃げ込んだため、攻撃側数十万騎が一斉に矢筒を叩き笑い声を上げた。「ほら敵は退却したぞ」という間もなく、三河・遠江・美濃・尾張の精鋭たち千余人が我先にと馬を乗り放し橋へ殺到。しかし射落とされ押し流されて溺れる者数知れず。 それでも構わず、狭い橋上に靴の釘を打ちつけたように密集して立ち並び、幾重にも組まれた櫓や盾を破壊しようとした瞬間、敵は予め仕掛けていたのか、橋桁が四五間(約7-9m)分中央から折れ落ちた。落下した兵千余人が浮き沈み漂流する様に数万の官軍は一斉に盾を叩いて哄笑した。 だが野木与一兵衛入道頼玄だけは水泳にも達者だったため、流れた橋板一枚へ乗り長刀を竿代わりにして本陣へ生還したのである。 これ以降は橋桁も繋がず筏も作れない状態で、「いつまで対峙していられるか」と攻めあぐねている時、小賢しげな屈強の男一人が封印された文書を持って現れた。「赤松筑前守(則祐)様の陣はどこですか?」と問いながら走る使者を見つけた筑前守は急ぎ開封すると、実兄・信濃守範資直筆の文章だった——「新田義貞ら逆賊討伐について将軍家(足利尊氏)御教書が届いたため挙兵し播磨へ下向中。細川定禅律師が京から攻め上る途中で合流する予定」。 解説【戦局転換の象徴的描写】
歴史的展開への転換点
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| 且く元弘の佳例に任て、範資可打先陣由一諾事訖、今日已芥河の宿に著候也。明日十日辰剋には、山崎の陣へ推寄て、合戦を致すべきにて候。此由を又将軍へ申さしめ給ふべし。」とぞ書たりける。筑前守此状を持参して読上たりければ、将軍を始奉て、吉良・石堂・高・上杉・畠山の人々、「今はかうぞ。」と悦合る事不斜。此使立帰て後、相図の程にも成ければ、細川卿律師定禅二万余騎にて、桜井の宿の東へ打出、赤松信濃守範資二千余騎にて、川に副て押寄る。筑前守貞範、川向より旗の文を見て、小舟三艘に取乗押渡りて兄弟一所になる。此間東西数百里を隔て、安否更に知らざりしかば、いづくの陣にか討れぬらんと安き心もなかりつるに、互に恙無りける天運の程の不思議さよと、手に手を取組み、額を合せて、先づ悦び泣にぞ泣たりける。山崎の合戦は、元弘の吉例に任せて、赤松先矢合をすべしと、兼て定められたりけるを、播磨の紀氏の者共、三百余騎抜懸して一番に押寄せたり。官軍敵を小勢と見て、木戸を開き、逆茂木を引除て、五百余騎抜連て懸出たるに、寄手一積もたまらず追立られて、四方に逃散る。二番に坂東・坂西の兵共二千余騎、桜井の宿の北より、山に副て推寄たり。城中の大将脇屋右衛門佐義助の兵、並宇都宮美濃将監泰藤が紀清両党二千余騎、二の木戸より同時に打出て、東西に開きあひ、南北へ追つ返つ、半時計相戦ふ。 |
さらに元弘の先例(楠木正成湊川勝利)にならい、範資が一番乗りを務める件で合意を得ましたため、本日すでに芥河宿へ到着しております。明日10日の明け方には山崎陣地へ進軍し決戦を行う所存です。この旨も将軍(足利尊氏)へお伝えください。」と記されていた。 筑前守貞範が持参した書状を朗読すると、尊氏をはじめ吉良・石堂・高・上杉・畠山ら諸将は「これで決着だ」と一様に喜び合った。使者が帰った後、間もなく合図の時となり、細川定禅律師率いる二万余騎が桜井宿東側から進出し、赤松信濃守範資二千余騎が川沿いに押し寄せた。筑前守貞範は対岸で旗印を認めると小舟三艘に乗り込み兄弟合流した。 これまで東西数百里離れ生死も知れぬ中、「どこかで討死しているのでは」と心配していた互いが無事であった奇跡に、二人は手を取り合い額を寄せてまずは歓喜の涙にむせんだのである。山崎決戦では元弘の吉例(楠木軍先陣)にならい赤松勢の一番乗りと予定されていたが、播磨紀氏配下三百余騎が抜け駆けで先行突撃した。官軍は敵を少数と侮って城門を開き逆茂木を撤去し五百余騎で迎え撃ったため攻め手は即座に敗走四方散りとなった。 続いて関東勢二千余騎が桜井宿北側から山沿いに進軍すると、城内の大将・脇屋義助配下と宇都宮泰藤率いる紀清党二千余騎が二ノ門より同時に出撃し東西に展開した。両軍は南北へ追いつ追われつ約一時間(半時計)激しく戦った。 解説【歴史的場面の再現技法】
時間描写の特殊性
戦記文学的特徴
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| 汗馬の馳違音、鬨作る声、山に響き地を動して、雌雄未決、戦半なる時、四国の大将細川卿律師定禅、六万余騎、赤松信濃守範資二千余騎、二手に分て押寄たり。官軍敵の大勢を見て、叶はじとや思ひけん、引返して城の中に引篭る。寄手弥機に乗て、堀に飛漬り、逆茂木引のけて、射れ共痛まず、打て共漂はず、乗越々々責入ける程に、堀は死人に埋て平地になり、矢間は皆射とぢられて開きゑず。城中早色めき立て見へけるが、一番に但馬国の住人、長九郎左衛門、同意の兵三百余騎、旗を巻て降人に出づ。是を見て、洞院按察大納言殿の御勢、文観僧正の手の者なんど云て、此間畠水練しつる者共、弓を弛し冑を脱で我先にと降人に出ける間、城中の官軍力を失て防得ず。さらば淀・鳥羽の辺へ引退て、大渡の勢と一に成て戦へとて、討残されたる官軍三千余騎、赤井を差て落行ば、山崎の陣は破にけり。「右ては敵皇居に乱入りぬと覚るぞ。主上を先山門へ行幸成奉てこそ、心安合戦をもせめ。」とて、新田左兵衛督、大渡を捨てゝ都へ帰給へば、大友千代松丸・宇都宮治部大輔降人に成て、将軍の御方に馳加る。義貞・義助一手に成て淀の大明神の前を引時、細川卿律師定禅六万余騎にて追懸たり。新田越後守義顕後陣に引けるが、三千余騎にて返合せ、相撲が辻を陣に取て、旗を颯と指揚たりけれ共、跡に合戦有とは義貞には告られず。 |
さらに元弘の吉例(楠木正成湊川勝利)に倣い、「範資が一番乗りをする」ことで合意が成立したため、本日すでに芥河宿へ到着しました。明日10日の明け方には山崎陣地へ進軍し決戦を行います。この旨を将軍(足利尊氏)にもお伝えください。」と記されていた。 赤松筑前守貞範が書状を持参して読み上げると、尊氏をはじめ吉良・石堂・高・上杉・畠山らの諸将が「これで決着だ」と一様に喜び合った。使者が帰った後、まもなく合図の時となり、細川定禅律師率いる二万余騎が桜井宿東側から進出し、赤松信濃守範資二千余騎が川沿いに押し寄せた。貞範は対岸で旗印を認めると小舟三艘に乗り込み兄弟と合流した。 これまで東西数百里離れ生死も分からず「どこかで戦死しているのでは」と心配していた互いが無事であった奇跡に、二人は手を取り合い額を寄せて歓喜の涙にくれたのである。山崎決戦では元弘の吉例にならい赤松勢の先陣突撃と予定されていたが、播磨紀氏配下三百余騎が命令無視で勝手に突出した。官軍は敵を少数と侮り城門を開き逆茂木(防御柵)を撤去し五百余騎で迎え撃ったため攻め手は即座に敗走して四散した。 続いて関東勢二千余騎が桜井宿北側から山沿いに進軍すると、城内の大将・脇屋義助配下と宇都宮泰藤率いる紀清両党(赤松被官勢力)二千余騎が二ノ門より同時に出撃し東西に展開した。両軍は南北へ追いつ追われつ約一時間激しく戦った。 解説【歴史的場面の構成技法】
名称解釈の問題点
軍記文学的特徴
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| 先山門へ行幸を成奉らん為也。越後守義顕、矢軍にて且く時を移し、義貞今は内裏へ参られぬらんと覚る程に成て、三千余騎を二手に分て、東西よりどつとをめいて懸入、大勢に颯と乱合ひ火を散してぞ闘たる。只今まで御方に有て、敵になりぬる大友・宇都宮が兵共なれば、越後守を見知て、自余の勢には目を懸ず、此に取篭め彼によせ合せて、打留めんとしけるを、義顕打破ては囲を出、取て返ては追退け、七八度まで自戦れけるに、鎧の袖も冑のしころも、皆切落されて、深手あまた所負ひければ、半死半生に切成されて、僅に都へ帰り給ふ。 ○主上都落事付勅使河原自害事 山崎・大渡の陣破れぬと聞へければ、京中の貴賎上下、俄に出来たる事の様に、周章ふためき倒れ迷て、車馬東西に馳違ふ。蔵物・財宝を上下へ持運ぶ。義貞・義助未馳参らざる前に、主上は山門へ落させ給はんとて、三種の神器を玉体にそへて、鳳輦に召されたれ共、駕輿丁一人もなかりければ、四門を堅て候武士共、鎧著ながら徒立に成て、御輿の前後をぞ仕りける。吉田内大臣定房公、車を飛ばせて参ぜられたりけるが、御所中を走廻て見給ふに、よく近侍の人々も周章たりけりと覚て、明星・日の札、二間の御本尊まで、皆捨置かれたり。内府心閑に青侍共に執持せて参ぜられけるが、如何かして見落し給ひけん、玄象・牧馬・達磨の御袈裟・毘須羯摩が作し五大尊、取落されけるこそ浅猿しけれ。 |
馬の蹄音が響き渡り兵士たちの喚声は山にこだまし大地を揺るがせた。勝敗未定で戦い半ばという時、四国の大将・細川定禅律師率いる六万余騎と赤松信濃守範資二千余騎が二手に分かれて押し寄せた。官軍(新田義貞方)は敵の大軍を見て勝ち目なしと思ったのか、引き返して城内へ籠城した。攻め手は勢いに乗じ堀へ飛び込み逆茂木を撤去すると、矢が刺さっても痛まず打撃も効かずに突破していくうち、堀は死体で埋まり平地となり射孔(狭間)は全て塞がれて開けられなくなった。城の中では動揺しきっている様子が見えたが、最初に但馬国住人の長九郎左衛門と配下三百余騎が旗を巻いて投降した。これを見て洞院按察大納言(藤原公敏)の軍勢や文観僧正配下など「畠水練」と呼ばれた者たちも弓を緩め兜を脱いで我先にと降伏したため、城中の官軍は防戦力を失った。 そこで淀・鳥羽付近へ撤退し大渡(桂川流域)の部隊と合流して再戦しようと、生き残りの官軍三千余騎が赤井(地名)を目指すうち山崎陣地は陥落した。「このままでは敵が皇居に乱入するであろう。まず主上(後醍醐天皇)を比叡山へ行幸させて安心して戦おう」と言い、新田左兵衛督義貞が大渡を捨て都へ戻ると、大友千代松丸と宇都宮治部大輔は敵方に投降し足利将軍陣営へ加わった。 義貞と弟・脇屋義助の部隊が合流して淀大明神前を通り過ぎようとした時、細川定禅律師六万余騎が追撃してきた。新田越後守義顕(義貞長男)は後衛を引き受け三千余騎で反転し相撲辻に陣取って旗を掲げたが、「後方で戦闘中」との報告は父・義貞には届かなかった。 解説【軍記文学の表現技法】
歴史的背景の要点
心理描写の特徴
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| 公卿・殿上人三四人こそ、衣冠正くして供奉せられたりけれ、其外の衛府の官は、皆甲冑を著し、弓箭を帯して、翠花の前後に打囲む。此二三年の間天下僅に一統にして、朝恩に誇りし月卿雲客、指たる事もなきに、武具を嗜み弓馬を好みて、朝義道に違ひ、礼法則に背しも、早かゝる不思議出来るべき前表也と、今こそ思ひ知られたれ。新田左兵衛督・脇屋右衛門佐・並に江田・大館・堀口美濃守・里見・大井田・々中・篭沢以下の一族三十余人・千葉介・宇都宮美濃将監・仁科・高梨・菊池以下の外様の大名八十余人、其勢僅に二万余騎、鳳輦の跡を守禦して、皆東坂本へと馬を早む。事の騒しかりし有様たゞ安禄山が潼関の軍に、官軍忽に打負て、玄宗皇帝自ら蜀の国へ落させ給しに、六軍翠花に随て、剣閣の雲に迷しに異ならず。爰に信濃国の住人に勅使川原丹三郎は、大渡の手に向たりけるが、宇治も山崎も破れて、主上早何地共なく東を差て落させ給ひぬと披露有ければ、「見危致命臣の義也。我何の顔有てか、亡朝の臣として、不義の逆臣に順はんや。」と云て、三条川原より父子三騎引返して、鳥羽の造路・羅精門の辺にて、腹かき切て死けり。 ○長年帰洛事付内裏炎上事 那和伯耆守長年は、勢多を堅めて居たりけるが、山崎の陣破れて、主上早東坂本へ落させ給ぬと聞へければ、是より直に坂本へ馳参らんずる事は安けれ共、今一度内裏へ馳まいらで直に落行んずる事は、後難あるべしとて、其勢三百余騎にて、十日の暮程に又京都へぞ帰ける。 |
公卿や殿上人のうち三、四人だけは正式な衣冠姿でお供しましたが、それ以外の衛士たちは皆、甲冑を着て弓矢を持ち、天皇の御輿(鳳輦)の前後を取り囲みました。「ここ二三年、天下がようやく統一され朝廷の恩恵に驕っていた高官貴族たちには何の問題もなかったのに、武具を好んで弓馬に親しむうち朝廷の道理から外れ礼儀作法にも背き始めた。こうした不思議な事態(天皇逃避)の前兆だったのだ」と今になって理解されました。新田左兵衛督義貞・脇屋右衛門佐義助、そして江田氏・大館氏・堀口美濃守ら一族三十余人、千葉介・宇都宮美濃将監・仁科氏・高梨氏・菊池氏など外部の大名八十余人がわずか二万余騎で御輿を護衛し、全員東坂本へ馬を急ぎました。この騒然たる様子はまさに安禄山の乱(唐時代)で官軍が潼関で敗れ玄宗皇帝自ら蜀国へ逃れた時、近衛兵たちが御輿について剣閣山中で途方に暮れた光景と変わりありません。ここで信濃国の住人・勅使川原丹三郎は大渡方面に向かっていましたが、「宇治も山崎も陥落し天皇陛下は既にお逃げになった」との報せを受けると「危難を見て命を捧げるのが臣下の道だ。私は亡朝の臣として不義の逆賊に従う顔があろうか」と言い、三条川原から父子三騎で引き返し鳥羽造路・羅城門付近で腹を切って死にました。 天皇帰還と内裏炎上について 解説【歴史的意義】
【文学的手法】
【戦記文学的特徴】
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| 今日は悪日とて将軍未都へは入給はざりけれ共、四国・西国の兵共、数万騎打入て、京白川に充満たれば、帆掛舟の笠符を見て、此に要彼に遮て、打留んとしけれ共、長年懸散ては通り、打破ては囲を出、十七度まで戦けるに、三百余騎の勢次第々々に討れて、百騎計に成にけり。され共長年遂に討れざれば、内裏の置石の辺にて、馬よりをり冑を脱ぎ、南庭に跪く。主上東坂本へ臨幸成て、数剋の事なれば、四門悉閇て、宮殿正に寂寞たり。然ば早甲乙人共、乱入けりと覚て、百官礼儀を調し紫宸殿の上には賢聖の障子引破られて、雲台の画図此こ彼こに乱たり。佳人晨装を餝りし弘徽殿の前には、翡翠の御簾半より絶て、微月の銀鉤虚く懸れり。長年つく/゛\と是を見て、さしも勇める夷心にも哀れの色や勝りけん、泪を両眼に余て鎧の袖をぞぬらしける。良且く徘徊て居たりけるが、敵の時の声ま近く聞へければ、陽明門の前より馬に打乗て、北白川を東へ今路越に懸て、東坂本へぞ参ける。其後四国・西国の兵共、洛中に乱入て、行幸供奉の人々の家に、屋形屋形に火を懸たれば、時節辻風はげしく吹布て、竜楼竹苑准后の御所・式部卿親王常盤井殿・聖主御遊の馬場の御所、煙同時に立登りて炎四方に充満たれば、猛火内裏に懸て、前殿后宮・諸司八省・三十六殿十二門、大廈の構へ、徒に一時の灰燼と成にけり。 |
今日は凶日であるため将軍(足利尊氏)は都に入らなかったが、四国・西国の兵数万騎が攻め入り京都白川一帯に充満した。まるで帆を張った船のように密集する敵の笠印を見て、あちこちから遮ろうとする中、名和長年は散開して突破し囲みを破って十七度も戦い続け、三百余騎だった勢力が次第に討たれて百騎ほどになった。しかし長年自身はついに倒されず、内裏の置石付近で馬から降り冑を脱ぎ南庭に向かって跪いた。天皇陛下が東坂本に行幸されて間もないため四門全て閉ざされ宮殿はひっそりと静まり返っていた。その結果早々に乱入者が現れたと思われ、百官の礼儀正しい紫宸殿では賢聖障子が引き裂かれ雲台画図があちこち散らばる。弘徽殿前には佳人たちが朝化粧を施した翡翠御簾が途中で切れ微かな月光に銀鉤だけが虚しく掛かっていた。長年はじっとこれを見て、さすがの勇猛な武士心にも哀れみの色が勝ったのか涙があふれて鎧袖を濡らした。しばらく彷徨っていると敵軍の鬨の声が近づいてきたため陽明門前から馬に乗り北白川を東へ今路峠にかけて東坂本へ向かった。 その後四国・西国の兵たちは洛中に乱入し行幸供奉者らの屋敷一つ一つに火をつけた。折からの強風が吹き荒れ竜楼竹苑(准后御所)式部卿親王常盤井殿聖主遊覧の馬場御所など煙同時に立ち上り炎四方充満すると猛火は内裏にも燃え移り前殿後宮・諸司八省・三十六殿十二門ら壮麗な建造物が一瞬で灰燼となった。 解説【歴史的背景と描写意図】
【文学的手法の特徴】
【軍記物語としての特質】
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| 越王呉を亡して姑蘇城一片の煙となり、項羽秦を傾て、咸陽宮三月の火を盛にせし、呉越・秦楚の古も、是にはよも過じと、浅猿かりし世間なり。 ○将軍入洛事付親光討死事 明れば正月十一日、将軍八十万騎にて都へ入給ふ。兼ては合戦事故なくして入洛せば、持明院殿の御方の院・宮々の御中に一人御位に即奉て、天下の政道をば武家より計ひ申べしと、議定せられたりけるが、持明院の法皇・儲王・儲君一人も残らせ給はず、皆山門へ御幸成たりける間、将軍自ら万機の政をし給はん事も叶ふまじ、天下の事如何すべきと案じ煩ふてぞおはしける。結城大田判官親光は、此君に弐ろなき者也と深く憑まれ進せて、朝恩に誇る事傍に人なきが如也ければ、鳳輦に供奉せんとしけるが、此世の中、とても今は墓々しからじと思ひければ、いかにもして将軍をねらい奉らん為に、態と都に落止てぞ居たりける。或禅僧を縁に執て、降参仕るべき由を将軍へ申入たりければ、「親光が所存よも誠の降参にてはあらじ、只尊氏をたばからん為にてぞあるらん。乍去事の様を聞かん。」とて、大友左近将監をぞ遣されける。去程に大友と太田判官と、楊梅東洞院にて行合たり。大友は元来少し思慮なき者也ければ、結城に向て、「御降参の由を申され候つるに依て、某を御使にて事の由を能々尋ねよと仰せらるゝにて候。 |
越王(勾践)が呉を滅ぼして姑蘇城は煙となり、項羽が秦を倒した際には咸陽宮で三ヶ月も炎上したという。しかしこれらの古代中国の戦乱さえ、今起きている事態に比べれば及ばないだろう──実に不気味な世の中となった。 将軍入洛と親光討死について 解説【歴史的意味合い】
【文学的技法】
【叙述構造の妙】
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| 何様降人の法にて候へば、御物具を解せ給ひ候べし。」と、あらゝかに言をぞ懸たりける。親光是を聞て、さては将軍はや我心中を推量有て、打手の使に大友を出されたりと心得て、「物具を解せよとの御使にて候はゞ進候はん。」と云侭に、三尺八寸の太刀を抜て、大友に馳懸り、冑のしころより本頚まで、鋒五寸計ぞ打こみたる。大友も太刀を抜んとしけるが、目やくれけん、一尺計抜懸て馬より倒に落て死にけり。是を見て大友が若党三百余騎、結城が手の者十七騎を中に取篭て、余さず是を討んとす。結城が郎等共は、元来主と共に討死せんと、思切たる者共なれば、中々戦てはなにかせんとて、引組では差違差違、一足も引かず、一所にて十四人まで打れにけり。敵も御方も是を聞て、「あたら兵を、時の間に失つる事の方見しさよ。」と、惜まぬ人こそなかりけれ。 ○坂本御皇居並御願書事 主上已に東坂本に臨幸成て、大宮の彼岸所に御座あれ共、未参ずる大衆一人もなし。さては衆徒の心も変じぬるにやと叡慮を悩されける処に、藤本房英憲僧都参て、申出たる言もなく泪を流して大床の上に畏てぞ候ける。主上御簾の内より叡覧あて名字を委く尋仰らる。さて其後、「硯やある。」と仰られければ、英憲急ぎ硯を召寄て御前に閣く。 |
「降伏者としての作法でございますから武装解除してください。」と大友左近将監は高圧的に命じた。親光(結城大田判官)はこれを聞き、「どうやら尊氏様が私の意図を見抜いて刺客を差し向けたな」と悟り、「武装解除せよとの命令なら従いましょう」と言うなり三尺八寸の太刀を抜き、大友に襲いかかった。冑の錣(しころ)から首元まで深さ五寸ほど斬り込むと、大友も刀を抜こうとしたが目眩したのか、一尺ほど引き出したところで馬から真っ逆さまに落ちて死んだ。これを見た大友配下三百余騎は親光の家臣十七騎を取り囲み殲滅しようとする。しかし親光家臣たちは最初から主君と共に討ち死にする覚悟でいたため、組んでは刺し違え引くことなく戦い続け十四人まで倒れた。敵味方ともにこれを見て「貴重な兵を瞬時に失うとは」と惜しまぬ者などなかった。 坂本御皇居並びに御願書について 解説【歴史的意義】
【文学的技法】
【叙述構造の転換効果】
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| 自宸筆を染られて御願書をあそばされ、「是を大宮の神殿に篭よ。」と仰せ下されければ、英憲畏て右方権禰宜行親を以て是を納め奉る。暫くあて円宗院法印定宗、同宿五百余人召具して参りたり。君大に叡感有て、大床へ召る。定宗御前に跪て申けるは、「桓武皇帝の御宇に、高祖大師当山を開基して、百王鎮護の伽藍を立られ候しより以来、朝家に悦び有る時は、九院挙て掌を合せ、山門に愁へある日は、百司均く心を傾られずと申す事候はず。誠に仏法と王法と相比する故、人として知ずと云者候べからず。されば今逆臣朝廷を危めんとするに依て、忝も万乗の聖主、吾山を御憑あて、臨幸成て候はんずるを、褊し申す衆徒は、一人もあるまじきにて候。身不肖に候へ共、定宗一人忠貞を存ずる程ならば、三千の宗徒、弐ろはあらじと思食し候べし。供奉の官軍さこそ窮屈に候らめ。先御宿を点じて進せ候べし。」とて、二十一箇所の彼岸所、其外坂本・戸津・比叡辻の坊々・家々に札を打て、諸軍勢をぞやどしける。其後又南岸坊の僧都・道場坊祐覚、同宿千余人召具して、先内裏に参じ、やがて十禅師に立登て大衆を起し、僉議の趣を院々・谷々へぞ触送りける間、三千の衆徒悉く甲冑を帯して馳参。先官軍の兵粮とて、銭貨六万貫・米穀七千石・波止土濃の前に積だりければ、祐覚是を奉行して、諸軍勢に配分す。 |
天皇が直々にお書きになった願書について「これを大宮神殿に奉納せよ」とお命じになると、英憲は畏まって右方権禰宜・行親を使って奉納した。しばらくすると円宗院法印の定宗が同宿五百余人を引き連れて参上したので、天皇は深く感動され御前へ召された。定宗は跪いて申し上げた。「桓武天皇治世下に伝教大師が比叡山を開基されて以来、朝廷に慶事あれば全寺院で祝福し、比叡山に困難あれば役人総出で支援するとの誓いがあります。これは仏法と王法が依存し合う証拠であり周知の事実です。今逆臣(足利尊氏)が皇室を脅かす中、畏れ多くも天子様が当山をお頼りになられたのに裏切る僧など一人もおりません。私・定宗は不肖ながら忠誠心だけは持ち合わせております。もし私に真心があれば三千の僧侶全てが二心を抱かぬとご理解ください。供奉の官軍(天皇警護兵)が困窮しておられるなら、まず宿舎を手配いたします」こうして二十一箇所の彼岸所以外にも坂本・戸津・比叡辻の僧坊や民家に札を掲げ諸軍勢を収容した。その後さらに南岸坊僧都と道場坊祐覚が千余人余りを率い内裏へ参上し、十禅師堂で集会を開いて各院谷へ決議内容を通達すると三千の衆徒全員が甲冑着用して駆けつけた。官軍への兵糧として銭貨六万貫・米穀七千石が波止土濃(坂本港)前に積み上げられ、祐覚がこれを奉行し各部隊に分配した。 解説【歴史的意義】
【文学的技法】
【叙述構造の戦略】
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| さてこそ未医王山王も、我君を捨させ給はざりけりと、敗軍の士卒悉く憑もしき事には思ひけれ。 |
まことに医王山(比叡山)の山王権現さえも我らの君主をお見捨てにならなかったのだなあと、敗れた軍隊の兵士たち全員が頼もしく感じた。 解説【歴史的意義】
【文学的技法】
【叙述構造上の役割】
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| input text 太平記\015_太平記_巻15.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第十五 ○園城寺戒壇事 山門二心なく君を擁護し奉て、北国・奥州の勢を相待由聞へければ、義貞に勢の著ぬ前に、東坂本を急可被責とて、細川卿律師定禅・同刑部少輔・並陸奥守を大将として、六万余騎を三井寺へ被差遣。是は何も山門に敵する寺なれば、衆徒の所存よも二心非じと被憑ける故也。随而衆徒被致忠節者、戒壇造営の事、武家殊に加力可成其功之由、被成御教書。抑園城寺の三摩耶戒壇の事は、前々已に公家尊崇の儀を以て、勅裁を被成、又関東贔負の威を添て取立しか共、山門嗷訴を恣にして猛威を振ふ間、干戈是より動き、回禄度々に及べり。其故を如何と尋るに、彼寺の開山高祖智証大師と申奉るは、最初叡山伝教大師の御弟子にて、顕密両宗の碩徳、智行兼備の権者にてぞ御坐しける。而るに伝教大師御入滅の後、智証大師の御弟子と、慈覚大師の御弟子と、聊法論の事有て、忽に確執に及ける間、智証大師の門徒修禅三百房引て、三井寺に移る。于時教待和尚百六十年行て祈出し給し生身の弥勒菩薩を智証大師に付属し給へり。大師是を受て、三密瑜伽の道場を構へ、一代説教の法席を展給けり。其後仁寿三年に、智証大師求法の為に御渡唐有けるに、悪風俄に吹来て、海上の御船忽にくつがへらんとせし時、大師舷に立出て、十方を一礼して誠礼を致させ給ひしかば、仏法護持の不動明王、金色の身相を現じて、船の舳に立給ふ。 |
山門(比叡山延暦寺)が二心なく天皇をお守りし、北国・奥州の勢力を待つと聞いたので、新田義貞が兵力を集める前に東坂本を急いで攻撃すべく、細川卿律師定禅・同刑部少輔・並び陸奥守を大将として六万余騎を三井寺(園城寺)へ差し向けた。これは比叡山と敵対する寺であるため、衆徒の考えにも二心はないだろうとの判断によるものであった。これに従い忠節を尽くした者には戒壇造営について武家が特に助力するとの教書が出された。そもそも園城寺三摩耶戒壇の問題では以前から朝廷尊崇の儀礼により勅裁も下り、また関東武士の威光も加わって建立されかけたのだが、比叡山が抗議を恣にし猛威を振るったため戦乱が起こり火災もしばしば発生した。その原因は開祖智証大師(円珍)が最初は延暦寺伝教大師(最澄)の弟子であり顕密両宗の高僧で知徳兼備の方であったことにある。しかし伝教大師入滅後、智証大師派と慈覚大師(円仁)派との間でわずかな法論争が確執に発展し、智証大師門徒三百人が移住して三井寺を興した。当時教待和尚百六十年の修行によって出現させた生身弥勒菩薩像は智証大師へ託され、大師はこれを受け密教瑜伽の道場と法華経講義の場を作った。その後仁寿三年(853年)に渡唐中暴風で船が転覆しそうになった時、大師が舷に出て十方礼拝したところ護法不動明王が金色姿を現じて船首に立たれた。 解説【歴史的意義】
【文学的技法】
【叙述構造上の戦略】
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| 又新羅大明神親りに船の艫に化現して、自橈を取給ふ。依之御舟無恙明州津に著にけり。角て御在唐七箇年の間、寝食を忘て顕密の奥義を究め給ひて、天安三年に御帰朝あり。其後法流弥盛にして、一朝の綱領、四海の倚頼たりしかば、此寺四箇の大寺の其一つとして、論場の公請に随ひ、宝祚の護持を致事諸寺に卓犖せり。抑山門已に菩薩の大乗戒を建、南都は又声聞の小乗戒を立つ。園城寺何ぞ真言の三摩耶戒を建ざらんやとて、後朱雀院の御宇長暦年中に、三井寺の明尊僧正、頻りに勅許を蒙らんと奏聞しけるを、山門堅く支申ければ、彼寺の本主太政大臣大友皇子の後胤、大友夜須磨呂の氏族連署して、官府を申す。貞観六年十二月五日の状に曰、「望請長為延暦寺別院、以件円珍作主持之人、早垂恩恤、以園城寺、如解状可為延暦寺別院之由、被下寺牒。将俾慰夜須磨呂並氏人愁吟。弥為天台別院専祈天長地久之御願、可致四海八■之泰平云云。仍貞観八年五月十四日、官符被成下曰、以園城寺可為天台別院云云。如之貞観九年十月三日智証大師記文云、円珍之門弟不可受南都小乗劣戒、必於大乗戒壇院、可受菩薩別解脱戒云云。然ば本末の号歴然たり。師弟の義何ぞ同からん。」証を引き理を立て支申ける間、君思食煩せ給て、「許否共に凡慮の及処に非れば、只可任冥慮。 |
また新羅大明神みずから船尾に姿を現し自ら櫂をとられた。これによって御船は無事明州港へ到着した。こうして唐での七年間、寝食を忘れて顕密両教の深い意味を極められ天安三年(859年)に帰国された。その後仏法の流れがますます盛んになり朝廷での指導者となり全国の人々から頼られるようになったため園城寺は四大寺院の一つとして論議の場へ公的に招かれ皇室守護において諸寺より優れた役割を果たした。そもそも延暦寺(山門)は既に菩薩大乗戒を設立し南都(奈良仏教界)は声聞小乗戒を立てているなら園城寺がどうして真言三摩耶戒を設けないでいられようかと長暦年間(1037-1040年)後朱雀天皇の御世に明尊僧正が度々勅許を得ようとしたところ延暦寺は強硬に反対したため当寺創建者大友皇子の子孫である大友夜須磨呂一族が連署して官府へ訴えた。貞観六年(864年)十二月五日の文書には「園城寺を永遠に延暦寺別院とし円珍を主管者として朝廷の恩恵を受けられるよう命じてほしい」と記載され慰めることで夜須磨呂一族の嘆きも消え天台宗別院として国家安泰を祈願できるとした。これにより貞観八年五月十四日官符が下り園城寺は延暦寺別院となることが決まった。しかし貞観九年十月三日智証大師(円珍)自身の記録には「私の弟子は南都小乗戒を受けるべきでなく必ず大乗戒壇院で菩薩戒を受けよ」とあり本来主従関係が明らかであるのに師弟同等扱いは矛盾すると延暦寺側が証拠を示し理屈を立てて反論する中天皇も悩まれて「この件は凡人の判断では決められぬ神仏の意志に委ねるほかない」と述べられた。 解説【歴史的意義】
【文学的技法】
【叙述構造上の機能】
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| 」とて、自告文を被遊て叡山根本中堂に被篭けり。其詞云、「戒壇立、而可無国家之危者、悟其旨帰、戒壇立而可有王者之懼者、施其示現云云。」此告文を被篭て、七日に当りける夜、主上不思議の御夢想ありけり。無動寺の慶命僧正、一紙の消息を進て云、「自胎内之昔、至治天之今、忝雖奉祈請宝祚長久、三井寺戒壇院若被宣下者、可失本懐云云。」又其翌夜の御夢に彼慶命僧正参内して紫宸殿に被立たりけるが、大きに忿れる気色にて、「昨日一紙の状を雖進覧、叡慮更に不驚給、所詮三井寺の戒壇有勅許者、変年来之御祈、忽に可成怨心。」と宣ふ。又其翌の夜の御夢に、一人の老翁弓箭を帯して殿上に候す。主上、「汝は何者ぞ。」と御尋有ければ、「円宗擁護の赤山大明神にて候。三井寺の戒壇院執奏の人に向て、矢一つ仕ん為に参内して候也。」とぞ申れける。夜々の御夢想に、君も臣も恐て被成ければ、遂に寺門の所望被黙止、山門に道理をぞ被付ける。角て遥に程経て、白河院の御宇に、江帥匡房の兄に、三井寺の頼豪僧都とて、貴き人有けるを被召、皇子御誕生の御祈をぞ被仰付ける。頼豪勅を奉て肝胆を砕て祈請しけるに、陰徳忽に顕れて承保元年十二月十六日に皇子御誕生有てけり。帝叡感の余に、「御祷の観賞宜依請。 |
「これは凡人の判断では決められない」と言って天皇自らお告げの文章を作り、比叡山根本中堂にお籠もりになった。その文には「戒壇設立が国家危機をもたらさぬなら仏意を悟れと示し、逆に君主への脅威となるなら霊験を示せ」と記されていた。このお告げをご奉納して七日目の夜、天皇は不思議な夢を見られた。無動寺の慶命僧正が一通の書状を捧げて「胎内におられる時から今日まで皇室安泰を祈ってきたのに、三井寺戒壇院が許可されれば本望を失う」と訴える夢であった。さらに翌夜の御夢ではその慶命僧正が参内し紫宸殿に立って激怒した様子で「昨日書状を差し上げたにも関わらず陛下はお動きにならない。もし三井寺戒壇勅許があれば長年のお祈りが突如怨念と化す」と宣告した。そしてその次の夜の御夢には一人の老翁が弓矢を帯びて殿上に控えていた。天皇が「そなたは何者か」とお尋ねになると、「比叡山守護の赤山大明神でございます。三井寺戒壇院推進派へ一矢報いるため参内しました」と答えたという。毎夜続く不思議な夢に朝廷上下が恐れをなしたため、遂に園城寺側の願いは却下され延暦寺側の主張が認められた。こうして時は流れ白河天皇御代、大江匡房卿の兄である三井寺の頼豪僧都という高徳の人物をお召しになり皇子誕生の祈願を命じられた。頼豪は勅命を受け肝胆砕いて祈り続けたところ陰功が顕れ承保元年(1074年)十二月十六日に皇子ご誕生があった。天皇は深く感動され「祈祷の褒賞として望み通りにせよ」と述べられた。 解説【政治的帰結】
【霊夢描写の機能】
【時間軸操作の意義】
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| 」と被宣下。頼豪年来の所望也ければ、他の官禄一向是を閣て、園城寺の三摩耶戒壇造立の勅許をぞ申賜ける。山門又是を聴て款状を捧て禁庭に訴へ、先例を引て停廃せられんと奏しけれども、「綸言再び不複」とて勅許無りしかば、三塔嗷儀を以て谷々の講演を打止め、社々の門戸を閉て御願を止ける間、朝儀難黙止して無力三摩耶戒壇造立の勅裁をぞ被召返ける。頼豪是を忿て、百日の間髪をも不剃爪をも不切、炉壇の烟にふすぼり、嗔恚の炎に骨を焦て、我願は即身に大魔縁と成て、玉体を悩し奉り、山門の仏法を滅ぼさんと云ふ悪念を発して、遂に三七日が中に壇上にして死にけり。其怨霊果して邪毒を成ければ、頼豪が祈出し奉りし皇子、未母后の御膝の上を離させ給はで、忽に御隠有けり。叡襟是に依て不堪、山門の嗷訴、園城の効験、得失甚き事隠無りければ、且は山門の恥を洗ぎ、又は継体の儲を全せん為に、延暦寺座主良信大僧正を申請て、皇子御誕生の御祈をぞ被致ける。先御修法の間種々の奇瑞有て、承暦三年七月九日皇子御誕生あり。山門の護持隙無りければ、頼豪が怨霊も近付奉らざりけるにや、此宮遂に玉体無恙して、天子の位を践せ給ふ。御在位の後院号有て、堀河院と申しは、則此第二の宮の御事也。 |
頼豪が長年の念願だったため、他の官位や禄を全て退けて園城寺(三井寺)の三摩耶戒壇設立勅許を申請し認められた。しかし延暦寺はこれを知ると訴状を捧げて朝廷に抗議し、「先例がある」と中止を奏上したものの「天皇のお言葉は二度と変わらない」として却下されたため、三塔全体で騒動を起こし谷々での講演を止め神社の門戸を閉ざして祈願放棄する事態となった。朝廷も黙視できずやむなく戒壇設立勅許を取り消した。頼豪はこれに激怒し百日間髪も爪も切らず、護摩壇の煙の中でうずくまり憤怒の炎で骨を焦がすうち、「私の願いは自身を大魔縁と化して天皇をお苦しめ延暦寺仏法を滅ぼそう」という悪念を抱き遂に二十一日目に壇上で絶命した。その怨霊は実際に邪毒を成したため、頼豪が祈祷によって誕生させた皇子はまだ母后の膝から離れないうちに急逝された。天皇はこの事態に耐えられず延暦寺の抗議と園城寺の効験(霊力)いずれも無視できなくなったため、一方で延暦寺の汚名をそぎ他方で皇統継承を守るべく座主良信大僧正に新たな皇子誕生祈祷を命じられた。前回の祈願中には様々な奇跡が起こり承暦三年(1079年)七月九日に皇子は無事誕生した。延暦寺の護持に隙がなかったため頼豪の怨霊も近づけず、この皇子は成長後健康のまま天皇位につかれた。在位後の院号「堀河院」というのはまさにこの第二皇子のことである。 解説【宗教権力と政治的妥協】
【歴史的帰結の構造】
【時間軸操作の意図】承保元年(1074)皇子誕生→同夭折→承暦三年(1079)新皇子誕生と5年間を圧縮する構成は: - 現実の皇統断絶危機(白河天皇男子不在期間)を「延暦寺祈祷成功」物語で埋め合わせ - 「此第二宮」強調により堀河天皇治世を「正統継承」と位置付ける目的が透けて見え、院政期歴史書の政治的バイアスを示唆 |
| 其後頼豪が亡霊忽に鉄の牙、石の身なる八万四千の鼠と成て、比叡山に登り、仏像・経巻を噛破ける間、是を防に無術して、頼豪を一社の神に崇めて其怨念を鎮む。鼠の禿倉是也。懸し後は、三井寺も弥意趣深して、動ば戒壇の事を申達せんとし、山門も又以前の嗷儀を例として、理不尽に是を欲徹却と。去ば始天歴年中より、去文保元年に至迄、此戒壇故に園城寺の焼る事已に七箇度也。近年は是に依て、其企も無りつれば、中々寺門繁昌して三宝の住持も全かりつるに、今将軍妄に衆徒の心を取ん為に、山門の忿をも不顧、楚忽に被成御教書ければ、却て天魔の所行、法滅の因縁哉と、聞人毎に脣を翻しけり。 ○奥州勢著坂本事 去年十一月に、義貞朝臣打手の大将を承て、関東へ被下向時、奥州の国司北畠中納言顕家卿の方へ、合図の時をたがへず可攻合由綸旨を被下たりけるが、大軍を起す事不容易間、兎角延引す。剰路すがらの軍に日数を送りける間、心許は被急けれども、此彼の逗留に依て、箱根の合戦には迦れ給ひにけり。されども幾程もなく、鎌倉に打入給ひたれば、将軍は早箱根竹下の戦に打勝て、軈て上洛し給ひぬと申ければ、さらば迹より追てこそ上らめとて、夜を日に継でぞ被上洛ける。去程に越後・上野・常陸・下野に残りたる新田の一族、並千葉・宇都宮が手勢共、是を聞伝て此彼より馳加りける間、其勢無程五万余騎に成にけり。 |
その後、頼豪の亡霊が突然鉄のような牙と石のように硬い体を持つ八万四千匹の鼠となり比叡山へ登り仏像や経典を噛み破ったため防ぎようもなくなり、彼を一つの神社に祀って怨念を鎮めた。これが「鼠ノ禿倉(ネズミノソウ)」である。以降は三井寺もいっそう遺恨深く常に戒壇問題を訴え出る一方で延暦寺は過去の抗議行動を先例として理不尽にもこれを拒み続けた。そのため天暦年間(947-957年)から文保元年(1317年)までこの戒壇が原因で園城寺が焼失したことは既に七度に及ぶ。近年は問題も沈静化していたのでかえって寺院繁栄し仏法も守られていたのに、今回の将軍様(足利尊氏と推定)が軽率にも僧兵たちの人気を得ようとして延暦寺の怒りを顧みず唐突に教書をお出しになったため「天魔の仕業か? 仏法滅亡の前兆ではないか」と言う者が続出した。 ○奥州勢参陣本記 解説【怨霊伝承の展開】
【政局批判の背景】
【軍事記録の矛盾点】奥州勢参戦部分は史実と異なる虚構性に注目: - 時間軸錯誤: 「去年十一月」(1332年?)という表現だが北畠顕家陸奥出兵は実際には1333年5月(元弘3/正慶2) - 兵力誇張: 五万騎は当時東国全武士動員数に匹敵する非現実的規模で、後醍醐天皇方の正当性強調が目的 - 顕家遅参の真因: 「箱根合戦」(1333年5月11日)参加失敗を「道中ノ軍」と説明するが実際は奥州集兵に要した期間(2ヶ月以上)が主因で、『梅松論』にもこの誤報批判あり 【物語全体の構成意図】怨霊譚から急転して軍事記録へ移行する不自然な接続は: - 宗教的対立(園城寺vs延暦寺)と政治的対立(南朝vs北朝)を「仏法滅亡」テーマで連結 - 「鼠害→七度炎上→軽率ナ御教書」の流れが、最終段落「天魔ノ所行」批判へ収斂する警告的構造 |
| 鎌倉より西には手さす者も無りければ、夜昼馬を早めて、正月十二日近江の愛智河の宿に被著けり。其日大館中務大輔、佐々木判官氏頼其比未幼稚にて楯篭りたる観音寺の城郭を責落て、敵を討事都て五百余人、翌日早馬を先立て事の由を坂本へ被申たりければ、主上を始進せて、敗軍の士卒悉悦をなし、志を不令蘇と云者なし。則道場坊の助註記祐覚に被仰付、湖上の船七百余艘を点じて志那浜より一日が中にぞ被渡ける。爰に宇都宮紀清両党、主の催促に依て五百余騎にて打連たりけるが、宇都宮は将軍方に在と聞へければ、面々に暇を請、色代して志那浜より引分れ、芋洗を廻て、京都へこそ上りけれ。 ○三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事 東国の勢既[に]坂本に著ければ、顕家卿・義貞朝臣、其外宗との人々、聖女の彼岸所に会合して、合戦の評定あり。「何様一両日は馬の足を休てこそ、京都へは寄候はめ。」と、顕家卿宣けるを、大館左馬助被申けるは、「長途に疲れたる馬を一日も休候はゞ中々血下て四五日は物の用に不可立。其上此勢坂本へ著たりと、敵縦聞及共、頓て可寄とはよも思寄候はじ。軍は起不意必敵を拉習也。只今夜の中に志賀・唐崎の辺迄打寄て、未明に三井寺へ押寄せ、四方より時を作て責入程ならば、御方治定の勝軍とこそ存候へ。 |
鎌倉より西には味方もいなかったため昼夜馬を駆って正月十二日(1333年1月27日頃)、近江国愛智川宿へ到着した。同日、大館中務大輔氏明と佐々木判官氏頼が攻め落とした観音寺城(守護六角氏居城)では敵兵五百人余を討ち取ったという報告が翌日坂本に届くと、後醍醐天皇をはじめ敗走中の将兵全員が喜び「希望が蘇った」と歓声があがった。直ちに道場坊祐覚の指揮で琵琶湖上の船七百余艘を集め志賀浜から一日で渡湖した。ここで宇都宮公綱の軍勢五百騎ほどが合流していたが、「宇都宮氏は尊氏方についた」と聞き顔色を変えて離脱し芋洗(大津市南部)経由で京都へ向かった。 ○三井寺合戦ならびに同寺鐘撞事件および俵藤太について 解説【軍事行動のリアリズム】
【合戦計画の歴史的意義】
【物語構造の隠喩】
【時間軸の矛盾点】
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| 」と被申ければ、義貞朝臣も楠判官正成も、「此義誠に可然候。」と被同て、頓て諸大将へぞ被触ける。今上りの千葉勢是を聞て、まだ宵より千余騎にて志賀の里に陣取る。大館左馬助・額田・羽川六千余騎にて、夜半に坂本を立て、唐崎の浜に陣を取る。戸津・比叡辻・和爾・堅田の者共は、小船七百余艘に取乗て、澳に浮て明るを待。山門の大衆は、二万余人、大略徒立なりければ、如意越を搦手に廻り、時の声を揚げば同時に落し合んと、鳴を静めて待明す。去程に坂本に大勢の著たる形勢、船の往反に見へて震しかりければ、三井寺の大将細川卿律師定禅、高大和守が方より、京都へ使を馳て、「東国の大勢坂本に著て、明日可寄由其聞へ候。急御勢を被添候へ。」と、三度迄被申たりけれ共、「関東より何勢が其程迄多は上るべきぞ。勢は大略宇都宮紀清の両党の者とこそ聞ゆれ。其勢縦誤て坂本へ著たりとも、宇都宮京に在と聞へなば、頓て主の許へこそ馳来んずらん。」とて、将軍事ともし給はざりければ、三井寺へは勢の一騎をも不被添。夜既に明方に成しかば源中納言顕家卿二万余騎、新田左兵衛督義貞三万余騎、脇屋・堀口・額田・鳥山の勢一万五千余騎、志賀・唐崎の浜路に駒を進て押寄て、後陣遅しとぞ待ける。 |
大館左馬助の発言に対し、新田義貞朝臣と楠木正成判官も「この作戦はまことに適切だ」と同意してすぐに諸将へ指令を伝えた。これを受けて先陣の千葉勢はまだ宵のうちから千余騎で志賀の里(現・滋賀県大津市)に布陣した。大館左馬助、額田氏、羽川氏ら六千余騎は夜半に坂本を発ち唐崎浜へ着陣。戸津・比叡辻・和爾・堅田の武士たちは小船七百余隻に分乗して入江に浮かび夜明けを待った。 一方、比叡山衆徒二万余人(主に歩兵)は如意越を搦手(裏側の進路)に回り、「鬨の声」を上げる合図と同時に攻め落とすべく息を潜めて夜明けを待っていた。この時、坂本へ大軍が到着した様子や湖上を行き交う船影を見た三井寺側は動揺し、同寺の大将である細川定禅律師から六波羅探題(高大和守ら京都政権)のもとへ「東国大軍が坂本に集結し明日にも攻め寄せると見えます。至急援軍を」と三度まで使者を送った。 しかし京都側は「関東からそれほどの大軍が来るはずがない。宇都宮紀清両党の手勢程度だろう。仮に坂本へ着いたとしても、宇都宮氏が京にいる噂ならすぐ主君のもとへ戻る」と判断し将軍(北条氏か)すら動こうとせず、三井寺には一騎の援兵も送らなかった。 やがて夜明け頃となると、源顕家中納言二万余騎・新田義貞左兵衛督三万有余騎・脇屋堀口額田鳥山勢一万五千余騎が志賀と唐崎浜沿いへ進軍し、後陣の到着を待ち構えた。 解説
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| 前陣の勢先大津の西の浦、松本の宿に火をかけて時の声を揚ぐ。三井寺の勢共、兼てより用意したる事なれば、南院の坂口に下り合て、散々に射る。一番に千葉介千余騎にて推寄せ、一二の木戸打破り、城の中へ切て入り、三方に敵を受て、半時許闘ふたり。細川卿律師定禅が横合に懸りける四国の勢六千余騎に被取篭て、千葉新介矢庭に被打にければ、其手の兵百余騎に、当の敵を討んと懸入々々戦て、百五十騎被討にければ、後陣に譲て引退く。二番に顕家卿二万余騎にて、入替へ乱合て責戦ふ。其勢一軍して馬の足を休れば、三番に結城上野入道・伊達・信夫の者共五千余騎入替て面も不振責戦ふ。其勢三百余騎被討て引退ければ、敵勝に乗て、六万余騎を二手に分て、浜面へぞ打て出たりける。新田左衛門督是を見て、三万余騎を一手に合せて、利兵堅を破て被進たり。細川雖大勢と、北は大津の在家まで焼る最中なれば通り不得。東は湖海なれば、水深して廻んとするに便りなし。僅に半町にもたらぬ細道を只一順に前まんとすれば、和爾・堅田の者共が渚に舟を漕並て射ける横矢に被防て、懸引自在にも無りけり。官軍是に力を得て、透間もなく懸りける間、細川が六万余騎の勢五百余騎被打て、三井寺へぞ引返しける。額田・堀口・江田・大館七百余騎にて、逃る敵に追すがふて、城の中へ入んとしける処を、三井寺衆徒五百余人関の口に下り塞て、命を捨闘ける間、寄手の勢百余人堀の際にて被討ければ、後陣を待て不進得。 |
先鋒部隊がまず大津西浦と松本宿に放火し鬨の声を上げた。三井寺側は事前に準備していたため南院坂口から降りて集結し、矢を乱射した。一番手として千葉介率いる千余騎が押し寄せ一、二の門を打ち破って城内へ斬り込み三方からの敵を受け半時(約1時間)戦ったが、細川定禅律師側面から襲いかかった四国勢六千余騎に包囲され、千葉新介が即座に討たれたため、配下の兵百余騎は仇を討とうと突入し激闘した。しかし百五十騎が討死したので後陣へ退いた。 二番手として顕家卿率いる二万余騎が交代で乱戦状態で攻め立てた。その部隊が一息ついて馬を休ませると、三番手に結城上野入道・伊達・信夫勢五千余騎が代わりに容赦なく攻撃した。この部隊三百余騎が討死して退くと敵は勝ちに乗り六万余騎を二手に分け浜辺へ打って出た。 新田義貞左兵衛督(当時官職)はこれを見て三万有余騎を一手にまとめ鋭く突き進んだ。細川勢が大軍とはいえ、北側は大津の民家まで燃える最中で通行不能だった。東側は琵琶湖で水深があり迂回も不可能。幅半町(約55m)にも満たぬ細道を一列になって前進しようとしたところ、和爾・堅田勢が渚に船を並べて射かける横矢に妨げられ自由な動きができなかった。 官軍(後醍醐天皇側)はこの状況で力を得て隙もなく攻め立てたため、細川の六万余騎は五百余騎討たれ三井寺へ引き返した。額田・堀口・江田・大館ら七百余騎が逃げる敵を追撃し城内へ入ろうとしたところ、三井寺僧兵五百余人が関ノ口に降りて道を塞ぎ命懸けで戦ったため攻め手百余騎が堀際で討死した。後陣の到着待たず進軍できなくなった。 解説
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| 其間に城中より木戸を下して堀の橋を引けり。義助是を見て、「無云甲斐者共の作法哉。僅の木戸一に被支て是程の小城を責落さずと云事やある。栗生・篠塚はなきか。あの木戸取て引破れ。畑・亘理はなきか。切て入れ。」とぞ被下知ける。栗生・篠塚是を聞て馬より飛で下り、木戸を引破らんと走寄て見れば、屏の前に深さ二丈余りの堀をほりて、両方の岸屏風を立たるが如くなるに、橋の板をば皆刎迦して、橋桁許ぞ立たりける。二人の者共如何して可渡と左右をきつと見処に、傍なる塚の上に、面三丈許有て、長さ五六丈もあるらんと覚へたりける大率都婆二本あり。爰にこそ究竟の橋板は有けれ。率都婆を立るも、橋を渡すも、功徳は同じ事なるべし。いざや是を取て渡さんと云侭に、二人の者共走寄て、小脇に挟てゑいやつと抜く。土の底五六尺掘入たる大木なれば、傍りの土一二尺が程くわつと崩て、率都婆は無念抜にけり。彼等二人、二本の率都婆を軽々と打かたげ、堀のはたに突立て、先自歎をこそしたりけれ。「異国には烏獲・樊■、吾朝には和泉小次郎・浅井那三郎、是皆世に双びなき大力と聞ゆれども、我等が力に幾程かまさるべき。云所傍若無人也と思ん人は、寄合て力根の程を御覧ぜよ。」と云侭に、二本の率都婆を同じ様に、向の岸へぞ倒し懸たりける。 |
その間に城内から木戸が降ろされ堀の橋が引き上げられた。新田義助(義貞弟)はこれを見て「何たる無様な者どもだ。わずかな木戸一つに阻まれて、この程度の小城を落とせないとは何事か!栗生・篠塚はいないのか?あの木戸を引き破れ!畑・亘理はどうした?斬り込め!」と命じた。 栗生と篠塚がこれを聞くと馬から飛び降り、木戸を引き破ろうと走り寄った。見ると防御壁前に深さ二丈余(約6m)の堀が掘られており、両岸は屏風のように垂直で、橋板は全て外され桁だけが残っていた。二人がどう渡るか周囲を見回すと、傍らの塚に高さ三丈(約9m)、長さ五六丈(15-18m)程と思われる巨大な石塔二本があった。「こここそ最適な橋板だ」と悟り、「石塔を立てれば架橋と同じ功徳だろう」と言うなり走り寄って小脇に挟み「えいやっ!」と引き抜こうとした。だが土中五尺(約1.5m)埋まった巨木のため、周囲の土が崩れて無念にも失敗した。 二人は二本の石塔を軽々と担ぎ上げ堀端へ運び、「異国には烏獲・樊■(古代中国の大力士)、我が朝では和泉小次郎・浅井那三郎こそ世に並ぶなき力士というが、彼らも我等の力を超えまい。傍若無人と思う者は来て腕試しせよ」と言うなり、二本を対岸へ倒しかけた。 解説
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| 率都婆の面平にして、二本相並たれば宛四条・五条の橋の如し。爰に畑六郎左衛門・亘理新左衛門二人橋の爪に有けるが、「御辺達は橋渡しの判官に成り給へ。我等は合戦をせん。」と戯れて、二人共橋の上をさら/゛\と走渡り、堀の上なる逆木共取て引除、各木戸の脇にぞ著たりける。是を防ぎける兵共、三方の土矢間より鑓・長刀を差出して散々に突けるを、亘理新左衛門、十六迄奪てぞ捨たりける。畑六郎左衛門是を見て、「のけや亘理殿、其屏引破て心安く人々に合戦せさせん。」と云侭に、走懸り、右の足を揚て、木戸の関の木の辺を、二蹈三蹈ぞ蹈だりける。余に強く被蹈て、二筋渡せる八九寸の貫の木、中より折て、木戸の扉も屏柱も、同くどうど倒れければ、防がんとする兵五百余人、四方に散て颯とひく。一の木戸已に破ければ、新田の三万余騎の勢、城の中へ懸入て、先合図の火をぞ揚たりける。是を見て山門の大衆二万余人、如意越より落合て、則院々谷々へ乱入り、堂舎・仏閣に火を懸て呼き叫でぞ責たりける。猛火東西より吹懸て、敵南北に充満たれば、今は叶じとや思けん、三井寺の衆徒共、或は金堂に走入て猛火の中に腹を切て臥、或は聖教を抱て幽谷に倒れ転ぶ。多年止住の案内者だにも、時に取ては行方を失ふ。 |
石塔の表面が平らで二本並んだ様子は、まるで京都の四条大橋や五条大橋のようだった。ここで畑六郎左衛門と亘理新左衛門の二人が堀際に立って、「お前たちは渡し守の役目を果たせ!我々こそ戦うのだ」と冗談めかして言い、二本の石塔橋をすらりと駆け抜けた。そして塀上の逆茂木(防御用の枝)を取り除きながら、それぞれ城門の脇へ到達した。 これを防ごうとする敵兵たちが三方の狭間から槍や薙刀を突き出して激しく攻撃する中で、亘理新左衛門は十六本もの武器を奪い捨てた。畑六郎左衛門はこれを見ると「退け!亘理殿よ。この城壁を破って皆が戦いやすいようにしよう」と言うなり走り寄り、右足を高く上げて門の閂部分へ二度三度と蹴り込んだ。あまりに強烈な蹴りのため、八九寸(約27cm)ある貫通材は真っ二つに折れ、扉も柱もどっと崩れ落ちた。 防ごうとした五百余人の兵士たちは四方へ散って逃げ去った。第一城門が破られたので新田軍三万有余騎が城内へ突入し、合図の烽火を上げた。これを見て比叡山(山門)から僧侶二万余人が如意ヶ岳方面よりなだれ込み、寺院や谷間めがけて乱入した。堂塔仏閣に次々と放火しながら叫び声をあげて攻めたため、炎は東西から吹き荒れ敵兵は南北へ充満した。 もはやこれまでと思ったのか、三井寺の僧たちは金堂に駆け込んで猛火の中で切腹したり、経典を抱えたまま谷底へ転落していった。長年住み慣れた場所さえ、この時ばかりは方向感覚を見失うほどだった。 解説
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| 況乎四国・西国の兵共、方角もしらぬ烟の中に、目をも不見上迷ひければ、只此彼この木の下岩の陰に疲れて、自害をするより外の事は無りけり。されば半日許の合戦に、大津・松本・三井寺内に被討たる敵を数るに七千三百余人也。抑金堂の本尊は、生身の弥勒にて渡せ給へば、角ては如何とて或衆徒御首許を取て、薮の中に隠し置たりけるが、多被討たる兵の首共の中に交りて、切目に血の付たりけるを見て、山法師や仕たりけん、大札を立て、一首の歌に事書を書副たりける。「建武二年の春の比、何とやらん、事の騒しき様に聞へ侍りしかば、早三会の暁に成ぬるやらん。いでさらば八相成道して、説法利生せんと思ひて、金堂の方へ立出たれば、業火盛に燃て修羅の闘諍四方に聞ゆ。こは何事かと思ひ分く方も無て居たるに、仏地坊の某とやらん、堂内に走入り、所以もなく、鋸を以て我が首を切し間、阿逸多といへ共不叶、堪兼たりし悲みの中に思ひつゞけて侍りし。山を我敵とはいかで思ひけん寺法師にぞ頚を切るゝ。」前々炎上の時は、寺門の衆徒是を一大事にして隠しける九乳の鳧鐘も取人なければ、空く焼て地に落たり。此鐘と申は、昔竜宮城より伝りたる鐘也。其故は承平の比俵藤太秀郷と云者有けり。或時此秀郷只一人勢多の橋を渡けるに、長二十丈許なる大蛇、橋の上に横て伏たり。 |
ましてや四国や西国の兵士たちは、方角も分からない煙の中にあって目がくらむほど混乱し、ただあちこちの木陰や岩かげで疲れ果て自害するよりほかなかった。こうした半日足らずの戦いで大津・松本・三井寺内において討たれた敵は七千三百人余りに上った。 そもそも金堂の本尊(弥勒菩薩像)は現身の仏として安置されていたが、ある僧侶が事態を憂いてその首だけを持ち去り藪の中へ隠した。しかし数多くの討たれた兵士たちの首と混ざって切り口に血がついているのが見つかり、山法師(比叡山僧)と思しき者が立て札を作り一首の歌を添えて書き記していた:「建武二年春頃のことか、世情騒然として三会説法(仏教終末思想)の時が来たようだ。ならば弥勒菩薩は八相成道して衆生救済に乗り出そうと金堂へ向かったところ業火燃え盛り修羅の争い声が響く。何かと思案していると『仏地坊』なる者が堂内へ乱入し理由もなく鋸でわが首を斬った。阿逸多(弥勒)といえど耐え難き悲しみよ、山寺を敵と思うとは何事か」 さらに以前の火災時には三井寺衆徒が秘蔵した九乳の鳧鐘だが誰にも守られず空しく焼け落ちた。この鐘は昔竜宮城から伝わったものとされる由来がある:承平年間に俵藤太秀郷という者がいた時、彼が勢多橋を一人で渡ろうとしたところ長さ二十丈(約60m)もある大蛇が橋上に横たわっていた。 解説
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| 両の眼は耀て、天に二の日を卦たるが如、双べる角尖にして、冬枯の森の梢に不異。鉄の牙上下に生ちがふて、紅の舌炎を吐かと怪まる。若尋常の人是を見ば、目もくれ魂消て則地にも倒つべし。されども秀郷天下第一の大剛の者也ければ更に一念も不動ぜして、彼大蛇の背の上を荒かに蹈で閑に上をぞ越たりける。然れ共大蛇も敢て不驚、秀郷も後ろを不顧して遥に行隔たりける処に、怪げなる小男一人忽然として秀郷が前に来て云けるは、「我此橋の下に住事已に二千余年也。貴賎往来の人を量り見るに、今御辺程に剛なる人を未見ず。我に年来地を争ふ敵有て、動ば彼が為に被悩。可然は御辺我敵を討てたび候へ。」と、懇にこそ語ひけれ。秀郷一義も不謂、「子細有まじ。」と領状して、則此男を前に立てゝ又勢多の方へぞ帰ける。二人共に湖水の波を分て、水中に入事五十余町有て一の楼門あり。開て内へ入るに、瑠璃の沙厚く玉の甃暖にして、落花自繽紛たり。朱楼紫殿玉欄干、金を鐺にし銀を柱とせり。其壮観奇麗、未曾て目にも不見耳にも聞ざりし所也。此怪しげなりつる男、先内へ入て、須臾の間に衣冠を正しくして、秀郷を客位に請ず。左右侍衛官前後花の装善尽し美尽せり。酒宴数刻に及で夜既に深ければ、敵の可寄程に成ぬと周章騒ぐ。 |
両眼は輝き、まるで空に二つの太陽がかかったかのようであり、並んだ角の鋭さは冬枯れの森の梢と変わらなかった。鉄のような牙が上下に生え違い、炎を吐くような赤い舌を見せて不気味である。もし普通の者がこれを見れば目も眩み魂消えてその場で倒れただろう。しかし秀郷は天下第一の剛勇者ゆえ少しも動じることなく、大蛇の背中を荒々しく踏みつけ平然と通り過ぎた。 ところが大蛇も全く驚かず、秀郷も振り返らずに遠く離れた時、奇妙な小男一人が忽然と現れて言った:「私はこの橋の下に住むこと既に二千余年になる。貴賎様々な往来者を見てきたが、あなたほど勇ましい人物は未だ見たことがない。長年土地を争う敵がいて動けば悩まされる。どうか私のためにその敵を討ってください」と懇願した。 秀郷は一も二もなく承諾し、「構わない」と言い含めてこの男を先導に再び勢多の方へ戻った。二人で湖水の波を分け水中に入ること五十余町(約5.4km)、そこには楼門があった。開けて中へ入ると瑠璃色の砂が厚く敷かれ玉石は温か、花々が自然と舞い散っている。朱塗りの楼閣に紫の殿舎、欄干は玉で飾られ柱は金銀製であった。その壮観な美しさはこれまで見たことも聞いたこともない場所だった。 先ほどまでの怪しい男は奥へ入り、やがて衣冠を整えて秀郷を客席に招じた。侍衛官たちの装束は前後とも花のように華麗で優雅であった。酒宴が数刻続き夜も更けた頃、「敵が攻めてくる時だ」と周囲が慌ただしくなった。 解説
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| 秀郷は一生涯が間身を放たで持たりける五人張にせき弦懸て噛ひ湿し、三年竹の節近なるを十五束二伏に拵へて、鏃の中子を筈本迄打どほしにしたる矢、只三筋を手挟て、今や/\とぞ待たりける。夜半過る程に雨風一通り過て、電火の激する事隙なし。暫有て比良の高峯の方より、焼松二三千がほど二行に燃て、中に嶋の如なる物、此龍宮城を指てぞ近付ける。事の体を能々見に、二行にとぼせる焼松は皆己が左右の手にともしたりと見へたり。あはれ是は百足蜈蚣の化たるよと心得て、矢比近く成ければ、件の五人張に十五束三伏忘るゝ許引しぼりて、眉間の真中をぞ射たりける。其手答鉄を射る様に聞へて、筈を返してぞ不立ける。秀郷一の矢を射損て、不安思ひければ、二の矢を番て、一分も不違態前の矢所をぞ射たりける。此矢も又前の如くに躍り返て、是も身に不立けり。秀郷二つの矢をば皆射損じつ、憑所は矢一筋也。如何せんと思けるが、屹と案じ出したる事有て、此度射んとしける矢さきに、唾を吐懸て、又同矢所をぞ射たりける。此矢に毒を塗たる故にや依けん、又同矢坪を三度迄射たる故にや依けん、此矢眉間のたゞ中を徹りて喉の下迄羽ぶくら責てぞ立たりける。二三千見へつる焼松も、光忽に消て、島の如に有つる物、倒るゝ音大地を響かせり。 |
秀郷は生涯肌身離さず携えてきた五人張りの強弓を取り出し弦をかけ唾液で湿らせ、三年物の竹で節が詰まったものを十五束二伏に仕込み鏃から筈まで貫通した特別な矢三本だけを手に挟み、今か今かと待ち構えていた。真夜中過ぎ雨風が一通り収まり雷光が絶え間なく走る中、しばらくして比良山の高峰の方角から二列になって燃える松明二千三千ほどが見え、その中心に島のようなものが龍宮城へ向かって近づいてきた。状況をよく観察すると二列の松明は全て自身が左右の手で掲げているように見えた。「ああこれは巨大な百足蜈蚣(ムカデ)の化け物だ」と悟り、射程距離に入ったので五人張りの弓に十五束三伏分の力を込めて引き絞り眉間の真ん中を射た。すると鉄板に当てたような反響音がして矢は跳ね返された。 秀郷は一発目を外し不安になり二本目の矢を取り出すと寸分違わず同じ箇所へ放ったが前回同様にはじかれた。二本とも失敗した今、頼みの綱は残り一本だけだ。「どうすれば」と思案する中ひらめきを得て、次に射ろうとした矢先につばを吐きかけ再び全く同じ場所を狙い撃った。この矢が毒塗られていたためか三度も同一点を攻めた効果か眉間の中心を貫通し喉元まで深々と突き刺さった。二千三千もの松明は光を瞬時に消し島のような物体は倒れ落ちる轟音で大地を震わせた。 解説
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| 立寄て是を見るに、果して百足の蜈蚣也。竜神は是を悦て、秀郷を様々にもてなしけるに、太刀一振・巻絹一・鎧一領・頚結たる俵一・赤銅の撞鐘一口を与て、「御辺の門葉に、必将軍になる人多かるべし。」とぞ示しける。秀郷都に帰て後此絹を切てつかふに、更に尽事なし。俵は中なる納物を、取ども/\尽ざりける間、財宝倉に満て衣裳身に余れり。故に其名を俵藤太とは云ける也。是は産業の財らなればとて是を倉廩に収む。鐘は梵砌の物なればとて三井寺へ是をたてまつる。文保二年三井寺炎上の時、此鐘を山門へ取寄て、朝夕是を撞けるに、敢てすこしも鳴ざりける間、山法師共、「悪し、其義ならば鳴様に撞。」とて、鐘木を大きに拵へて、二三十人立懸りて、破よとぞ撞たりける。其時此鐘海鯨の吼る声を出して、「三井寺へゆかふ。」とぞ鳴たりける。山徒弥是を悪みて、無動寺の上よりして数千丈高き岩の上をころばかしたりける間、此鐘微塵に砕にけり。今は何の用にか可立とて、其われを取集て本寺へぞ送りける。或時一尺許なる小蛇来て、此鐘を尾を以[て]扣きたりけるが、一夜の内に又本の鐘に成て、疵つける所一も無りけり。されば今に至るまで、三井寺に有て此鐘の声を聞人、無明長夜の夢を驚かして慈尊出世の暁を待。 |
秀郷が近寄って見ると、確かに百足(ムカデ)であった。竜神はこれを喜び様々にもてなした後、太刀一振り・絹の巻物一つ・鎧一式・紐で縛った米俵一つ・赤銅製の鐘ひとつを与え、「あなたの子孫には必ず大将軍になる者が多く現れるだろう」と告げた。秀郷が都に帰ってからこの絹を使おうとしたが、決して尽きることがなかった。米俵は中身を取り出しても減らず、財宝で倉庫がいっぱいになり衣服も余るほどだったため、彼を「俵藤太」と呼ぶようになった。これらの財産となる品々は倉に収められ、仏具である鐘は三井寺へ奉納した。 文保二年(1318年)に三井寺が火災で焼けた際、比叡山延暦寺の僧侶たちがこの鐘を奪い朝夕撞いてみたが全く音が出ない。そこで「どうせ鳴らないなら」と巨大な撞木を作り二三十人かかりで無理に打ち壊そうとしたところ、鐘は鯨の唸るような声で「三井寺へ戻れ」と響いた。山徒(延暦寺僧)がさらに憎んで無動寺谷から数千丈の岩山へ転げ落としたため、粉々に砕けてしまった。 その後「もう用はない」と破片を集めて本寺(三井寺)へ送り返したところ、ある時一尺ほどの小蛇が現れ尾で鐘のかけらを叩いた。すると一夜にして元の姿に復り傷一つなかった。それゆえ今も三井寺にあるこの鐘の音色は、人々から迷いの夢を覚まし弥勒菩薩(慈尊)出現の夜明けを待たせるものとして知られている。 解説
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| 末代の不思議、奇特の事共也。 ○建武二年正月十六日合戦事 三井寺の敵無事故責落たりければ、長途に疲たる人馬、一両日機を扶てこそ又合戦をも致さめとて、顕家卿坂本へ被引返ければ、其勢二万余騎は、彼趣に相順ふ。新田左兵衛督も、同坂本へ帰らんとし給ひけるを、舟田長門守経政、馬を叩て申けるは、「軍の利、勝に乗る時、北るを追より外の質は非じと存候。此合戦に被打漏て、馬を棄物具を脱で、命許を助からんと落行候敵を追懸て、京中へ押寄る程ならば、臆病神の付たる大勢に被引立、自余の敵も定て機を失はん歟。さる程ならば、官軍敵の中へ紛れ入て、勢の分際を敵に不見せしとて、此に火をかけ、彼に時を作り、縦横無碍に懸立る者ならば、などか足利殿御兄弟の間に近付奉て、勝負を仕らでは候べき。落候つる敵、よも幾程も阻り候はじ。何様一追々懸て見候はゞや。」と申ければ、義貞、「我も此義を思ひつる処に、いしくも申たり。さらば頓て追懸よ。」とて、又旗の手を下して馬を進め給へば、新田の一族五千余人、其勢三万余騎、走る馬に鞭を進めて、落行敵をぞ追懸たる。敵今は遥に阻たりぬらんと覚る程なれば、逃るは大勢にて遅く、追は小勢にて早かりければ、山階辺にて漸敵にぞ追付ける。 |
末代(後世)に残る不思議で驚くべき事柄である。 ○建武二年正月十六日の合戦について 敵はすでに遠くへ逃げたかと思われたが、逃げる大軍は遅く、追う小勢は迅速だったため、山階(京都市山科区)付近でようやく敵に追いついたのである。 解説
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| 由良・長浜・吉江・高橋、真前に進で追けるが、大敵をば不可欺とて、広みにて敵の返し合つべき所迄はさまで不追、遠矢射懸々々、時を作る許にて、静々と是を追ひ、道迫りて、而も敵の行前難所なる山路にては、かさより落し懸て、透間もなく射落し切臥せける間、敵一度も返し不得、只我先にとぞ落行ける。されば手を負たる者は其侭馬人に被蹈殺、馬離たる者は引かねて無力腹を切けり。其死骸谷をうめ溝を埋みければ、追手の為には道平に成て、弥輪宝の山谷を平らぐるに不異、将軍三井寺に軍始たりと聞へて後、黒烟天に覆を見へければ、「御方如何様負軍したりと覚るぞ。急ぎ勢を遣せ。」とて、三条河原に打出、先勢揃をぞし給ひける。斯処に粟田口より馬烟を立て、其勢四五万騎が程引て出来たり。誰やらんと見給へば、三井寺へ向し四国・西国の勢共也。誠に皆軍手痛くしたりと見へて、薄手少々負はぬ者もなく、鎧の袖冑の吹返に、矢三筋四筋折懸ぬ人も無りけり。さる程に新田左兵衛督、二万三千余騎を三手に分て、一手をば将軍塚の上へ挙、一手をば真如堂の前より出し、一手をば法勝寺を後に当て、二条河原へ出して、則相図の烟をぞ被挙ける。自らは花頂山に打上て、敵の陣を見渡し給へば、上は河合森より、下は七条河原まで、馬の三頭に馬を打懸け、鎧の袖に袖を重て、東西南北四十余町が間、錐を立る許の地も不見、身を峙て打囲たり。 |
由良や長浜らが最前線に進んで追撃したが、強大な敵を侮れないと考えて、広い場所で反撃される恐れのある範囲までは深追いせず、遠くから矢を放ち続けながら機会を見る程度に静かに追跡し、道幅が狭くなったところで逃げる敵の行き先が険しい山路になると、上から襲いかかるように間断なく射倒して伏せたため、敵は一度も反撃できず「我先にと」敗走した。 解説
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| 義貞朝臣弓杖にすがり被下知けるは、「敵の勢に御方を合れば、大海の一滴、九牛が一毛也。只尋常の如くに軍をせば、勝事を得難し。相互に面をしり被知たらんずる侍共、五十騎づゝ手を分て、笠符を取捨、幡を巻て、敵の中に紛れ入り、此彼に叩々、暫可相待。将軍塚へ上せつる勢、既に軍を始むと見ば、此陣より兵を進めて可令闘。其時に至て、御辺達敵の前後左右に旗を差挙て、馬の足を不静め、前に在歟とせば後へぬけ、左に在かとせば右へ廻て、七縦八横に乱て敵に見する程ならば、敵の大勢は、還て御方の勢に見へて、同士打をする歟、引て退く歟、尊氏此二つの中を不可出。」韓信が謀を被出しかば、諸大将の中より、逞兵五十騎づゝ勝り出して、二千余騎各一様に、中黒の旗を巻て、文を隠し、笠符を取て袖の下に収め、三井寺より引をくれたる勢の真似をして、京勢の中へぞ馳加りける。敵斯る謀ありとは、将軍不思寄給、宗との侍共に向ふて被下知けるは、「新田はいつも平場の懸をこそ好と聞しに、山を後ろに当てゝ、頓ても懸出ぬは、如何様小勢の程を敵に見せじと思へる者也。将軍塚の上に取あがりたる敵を置てはいつまでか可守挙。師泰彼に馳向て追散せ。」と宣ければ、越後守畏て、「承候。」と申て、武蔵・相摸の勢二万余騎を率して、双林寺と中霊山とより、二手に成てぞ挙たりける。 |
新田左兵衛督(義貞)が弓の柄にもたれかかり指示したのは、「敵軍と味方の兵力を比べれば大海の中の一滴や九頭の牛から一本抜いた毛のようなもので圧倒的に劣っている。通常通りの戦い方をしていては勝利を得られないだろう。互いに顔を知り合っている武士たちよ、五十騎ずつに分かれて笠印を取り外し旗を巻き収め敵陣へ紛れ込みあちこちで襲撃しながら機会を待ってほしい。将軍塚へ登らせた部隊が戦闘を始めたと見えたなら主力はここから攻勢に出るように。その時にはお前たちは敵の前後左右に旗を掲げ馬を騒がせて、前にいるかと思えば後ろへ抜け左にいると見せれば右へ回り縦横無尽に混乱させるのだ。そうすれば大軍である敵兵は味方同士に見え始め仲間討ちをするか退却するかの二択を迫られ尊氏もこの窮地から逃れられないだろう」と述べた。かつて漢の武将韓信が用いた奇策にならったため、諸将の中から精鋭五十騎ずつが進み出て総勢二千余騎は一様に中黒紋の旗を巻いて文字部分を隠し笠印を袖の下へ収め三井寺方面から敗走した部隊のように装って京方(足利軍)の中へ突入していった。敵側にはこの謀略が全く予想外だったため将軍(尊氏)は家臣たちに向かって「新田といえば平地での戦いを好むと聞いていたのに山を背にしてすぐに出撃しないのは小勢であることを悟られまいとする策だろう。しかし将軍塚に登った敵を放置していつまで守り続けられるものか?師泰よ急ぎ向かって追い散らせ」と命じたので越後守(高師泰)は畏まって「承知いたしました」と言い武蔵・相模の軍勢二万余騎を率いて双林寺と中霊山から二手に分かれ進撃した。 解説
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| 此には脇屋右衛門佐・堀口美濃守・大館左馬助・結城上野入道以下三千余騎にて向たりけるが、其中より逸物の射手六百余人を勝て、馬より下し、小松の陰を木楯に取て、指攻引攻散々にぞ射させたりける。嶮き山を挙かねたりける武蔵・相摸の勢共、物具を被徹て矢場に伏、馬を被射てはね落されける間、少猶予して見へける処を、「得たり賢し。」と、三千余騎の兵共抜連て、大山の崩るが如く、真倒に落し懸たりける間、師泰が兵二万余騎、一足をもためず、五条河原へ颯と引退。此にて、杉本判官・曾我二郎左衛門も被討にけり。官軍態長追をばせで、猶東山を後に当て勢の程をぞ見せざりける。搦手より軍始まりければ、大手音を受て時を作る。官軍の二万余騎と将軍の八十万騎と、入替入替天地を響して戦たる。漢楚八箇年の戦を一時に集め、呉越三十度の軍を百倍になす共、猶是には不可過。寄手は小勢なれども皆心を一にして、懸時は一度に颯と懸て敵を追まくり、引時は手負を中に立て静に引く。京勢は大勢なりけれ共人の心不調して、懸時も不揃、引時も助けず、思々心々に闘ける間、午の剋より酉の終まで六十余度の懸合に、寄手の官軍度毎に勝に不乗と云事なし。されども将軍方大勢なれば、被討共勢もすかず、逃れども遠引せず、只一所にのみこらへ居たりける処に、最初に紛れて敵に交りたる一揆の勢共、将軍の前後左右に中黒の旗を差揚て、乱合てぞ戦ける。 |
ここでは脇屋右衛門佐(義助)・堀口美濃守・大館左馬助・結城上野入道以下三千余騎が対応していた。彼らはその中から特に優れた射手六百人以上を選抜し、馬から降りて小松の陰や木製の盾で身を隠しながら前進と後退を繰り返して矢を浴びせかけた。険しい山を登ってきた武蔵・相模(足利方)の兵士たちは鎧をつけて伏せていたが、馬を射落とされるなどしてもたついている様子を見て、「好機だ!」と叫んだ三千余騎全軍が大山が崩れるように一気に攻め下ったため、師泰(高師泰)率いる二万余騎は瞬時に五条河原へ撤退した。この際、杉本判官・曾我二郎左衛門も討たれた。官軍(新田方)態勢を整え深追いせず、依然として東山を背にして兵力を見せなかったが、搦手側から戦闘が始まったため大手の部隊はそれに呼応する形となった。官軍二万余騎と将軍(尊氏)方八十万騎とは入り乱れて天地を揺るがすほど激しく交戦した。漢楚八年間の抗争を一瞬で集めたようであり、呉越三十度の合戦の百倍に相当しようともこの戦いは比類ないほどの規模であった。攻め手(官軍)は小勢ながら全員心を一つにしており、攻撃時には一斉に襲いかかり敵を蹴散らし、退却時には負傷者を中央に配置して静かに引き揚げた。京方の兵士たちは大軍だったものの人々がまとまらず、攻め上がるタイミングもそろわず撤退時にも助け合わないまま各自思い思いに戦ったため、正午から夕刻までの間に六十回以上繰り返された交戦で官軍は毎度確実に勝利を収めた。しかし将軍方は大勢であったので討たれる者がいても兵力が減らず逃げる者も遠くへ退かずただ一箇所で踏みとどまっていたところ、最初に紛れ込んでいた偽装部隊の兵たちが尊氏の前後左右に中黒旗を掲げて乱戦状態となり激しく争い始めた。 解説
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| 何れを敵何を御方共弁へ難ければ、東西南北呼叫で、只同士打をするより外の事ぞ無りける。将軍を始奉りて、吉良・石堂・高・上杉の人々是を見て、御方の者共が敵と作合て後矢を射よと被思ければ、心を置合て、高・上杉の人々は、山崎を指して引退き、将軍・吉良・石堂・仁木・細川の人々は、丹波路へ向て落給ふ。官軍弥勝に乗て短兵急に拉。将軍今は遁る所なしと思食けるにや、梅津、桂河辺にては、鎧の草摺畳み揚て腰の刀を抜んとし給ふ事、三箇度に及けり。されども将軍の御運や強かりけん、日既に暮けるを見て、追手桂河より引返ければ、将軍も且く松尾・葉室の間に引へて、梅酸の渇をぞ休められける。爰に細川卿律師定禅、四国の勢共に向て宣けるは、「軍の勝負は時の運に依事なれば、強に恥ならねども、今日の負は三井寺の合戦より事始りつる間、我等が瑕瑾、人の嘲を不遁。されば態他の勢を不交して、花やかなる軍一軍して、天下の人口を塞がばやと思也。推量するに、新田が勢は、終日の合戦に草伏て、敵に当り変に応ずる事自在なるまじ。其外の敵共は、京白河の財宝に目をかけて一所に不可在。其上赤松筑前守僅の勢にて下松に引へて有つるを、無代に討せたらんも可口惜。いざや殿原、蓮台野より北白河へ打廻て、赤松が勢と成合、新田が勢を一あて/\て見ん。 |
混乱が激しく敵味方の区別もつかなくなったため、兵士たちは東西南北に向けて叫び声を上げながら、ただ仲間同士で戦い合うほかなかった。将軍(足利尊氏)や吉良・石堂・高・上杉の人々がこれを見て、「味方が敵と組んで背後から矢を射ているのではないか」と疑念を持ったため、互いに警戒しつつ行動した結果、高・上杉の部隊は山崎方面へ撤退し、将軍や吉良・石堂・仁木・細川の人々は丹波路に向けて逃げ落ちた。官軍(新田方)が勢いを増して追撃すると、将軍はもはや逃げ場がないと覚悟したのか、桂川の梅津付近で鎧の裾を巻き上げて腰刀を抜こうとする行動を三度繰り返した。しかし幸運にも日没となり、追手が引き返したため、将軍は松尾から葉室あたりに一時的に落ち着いて喉の渇きを癒すことができた。そこで細川卿律師定禅が四国の部隊に向けて宣言した:「戦いの勝敗は時の運次第だから無理もないとはいえ、今日の負け戦は三井寺での合戦から始まっているため、我々の汚名や人からの嘲笑を免れられまい。ならば敢えて他の軍と連携せずに派手な戦い一発で世間の口封じをしようと思う。推測すると新田勢は一日中戦って伏せているので機動的に応戦できないはずだし、その他の敵部隊(京や白河の兵)は財宝目当てで集まっていないだろう。加えて赤松筑前守がわずかな手勢で下松にいるのは格好の獲物である。さあ諸君よ、蓮台野から北白河へ回り込み赤松軍と合流し新田勢を一気呵成に叩いてみよう。」 解説
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| 」と宣へば、藤・橘・伴の者共、「子細候まじ。」とぞ同じける。定禅不斜喜で、態将軍にも知らせ不奉、伊予・讚岐の勢の中より三百余騎を勝て、北野の後ろより上賀茂を経て、潛に北白河へぞ廻りける。糾の前にて三百余騎の勢十方に分て、下松・薮里・静原・松崎・中賀茂、三十余箇所に火をかけて、此をば打捨て、一条・二条の間にて、三所に鬨をぞ挙たりける。げにも定禅律師推量の如く、敵京白河に分散して、一所へ寄る勢少なかりければ、義貞・義助一戦に利を失て、坂本を指して引返しけり。所々に打散たる兵共、俄に周章て引ける間、北白河・粟田口の辺にて、舟田入道・大館左近蔵人・由良三郎左衛門尉・高田七郎左衛門以下宗との官軍数百騎被討けり。卿律師、頓て早馬を立て、此由を将軍へ被申たりければ、山陽・山陰両道へ落行ける兵共、皆又京へぞ立帰る。義貞朝臣は、僅に二万騎勢を以て将軍の八十万騎を懸散し、定禅律師は、亦三百余騎の勢を以て、官軍の二万余騎を追落す。彼は項王が勇を心とし、是は張良が謀を宗とす。智謀勇力いづれも取々なりし人傑也。 ○正月二十七日合戦事 斯る処に去年十二月に、一宮関東へ御下有し時、搦手にて東山道より鎌倉へ御下有し大智院宮・弾正尹宮、竹下・箱根の合戦には、相図相違して逢せ給はざりしかども、甲斐・信濃・上野・下野勢共馳参しかば、御勢雲霞の如に成て、鎌倉へ入せ給ふ。 |
これを聞いた藤氏・橘氏・伴氏などの家臣たちは「異存ありません」と同調した。定禅は大いに喜び、わざわざ将軍に知らせず伊予・讃岐の兵から三百余騎を選抜し、北野裏手から上賀茂を通り密かに北白河へ回り込んだ。部隊を十方に分け下松・藪里・静原・松崎・中賀茂など三十箇所以上に火を放った後これを放置し、一条と二条の間で三か所から鬨の声を上げた。確かに定禅律師の予想通り敵軍(新田方)は京都や白河周辺に分散しており集結兵力が少なかったため、義貞・義助兄弟は戦機を失い坂本へ撤退した。各地で散在していた兵士たちも慌てて退却する中、北白河と粟田口付近では舟田入道・大館左近蔵人・由良三郎左衛門尉・高田七郎左衛門以下官軍の主力数百騎が討たれた。定禅律師は早馬でこの報を将軍に伝えると、山陽道や山陰道へ逃げていた兵士たちも皆京都へ戻ってきた。こうして新田義貞公はわずか二万騎で八十万の大軍(足利方)を蹴散らし、定禅律師は三百余騎で官軍二万余騎を退却させた―前者は項羽のような武勇を本質とし後者は張良流の謀略を旨とする。知謀と武力どちらも卓越した人傑であった。 ○正月二十七日の合戦について 解説
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| 此にて事の様を問へば、「新田、竹下・箱根の合戦に打負て引返す。尊氏朝臣北を追て被上洛ぬ。其後奥州国司顕家卿、又尊氏朝臣の跡を追て、被責上候ぬ。」とぞ申ける。「さらば何様道にても新田蹈留らば合戦有ぬべし。鎌倉に可逗留様なし。」とて、公家には洞院左衛門督実世・持明院右衛門督入道・信濃国司堀河中納言・園中将基隆・二条少将為次、武士には、嶋津上野入道・同筑後前司・大伴・猿子の一党・落合の一族・相場・石谷・纐纈・伊木・津子・中村・々上・源氏・仁科・高梨・志賀・真壁、是等を宗との者として都合其勢二万余騎、正月二十日の晩景に東坂本にぞ著にける。官軍弥勢ひを得て翌日にも頓て京都へ寄んと議しけるが、打続き悪日也ける上、余に強く乗たる馬共なれば、皆竦て更はたらき得ざりける間、兎に角に延引して、今度の合戦は、二十七日にぞ被定ける。既其日に成ぬれば、人馬を休ん為に、宵より楠木・結城・伯耆、三千余騎にて、西坂を下々て、下松に陣を取る。顕家卿は三万余騎にて、大津を経て山科に陣を取る。洞院左衛門督二万余騎にて赤山に陣を取。山徒は一万余騎にて竜花越を廻て鹿谷に陣を取。新田左兵衛督兄弟は二万余騎の勢を率し、今道より向て、北白河に陣を取る。大手・搦手都合十万三千余騎、皆宵より陣を取寄たれども、敵に知せじと態篝火をば焼ざりけり。 |
そこで情報を尋ねると、「新田軍は竹ノ下・箱根の戦いで敗れて撤退した。足利尊氏公が北から追撃して上洛し、その後奥州国司(北畠顕家卿)も尊氏公を追って攻め上っている」との報告があった。「ならばどの道でも新田軍が留まれば戦いがあるだろう。鎌倉に滞在するわけにはいかぬ」と判断し、公家側からは洞院左衛門督実世・持明院右衛門督入道(北条氏)・信濃国司堀河中納言・園中将基隆・二条少将為次が、武士側からは嶋津上野入道・同筑後前司・大伴・猿子一党・落合一族・相場・石谷・纐纈・伊木・津子・中村・々上・源氏・仁科・高梨・志賀・真壁らを主力として総勢二万余騎が集結し、正月二十日の夕暮れに東坂本へ到着した。官軍(新田方)はさらに勢力を得て翌日にもすぐ京都へ迫ろうと協議したが、続く不吉な日に加え馬も疲弊していたため兵士たちの動きが鈍り、結局延期されて今回の合戦は二十七日に決定された。その当日になると休息のために夕方から楠木・結城・伯耆ら三千余騎が西坂を下って下松に陣取り、顕家卿は三万余騎で大津経由山科に布陣した。洞院左衛門督の二万余騎は赤山へ、比叡山僧兵(山徒)一万余騎は竜花越から鹿谷へ回って配置し、新田義貞兄弟は二万余騎を率いて今道経由で北白河に陣取った。大手軍と搦手軍合わせて十万三千余騎が全軍夕方までに布陣を完了したものの、敵(足利方)に察知されぬよう敢えてかがり火は焚かなかった。 解説
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| 合戦は明日辰刻と被定けるを、機早なる若大衆共、武士に先をせられじとや思けん、まだ卯刻の始に神楽岡へぞ寄たりける。此岡には宇都宮・紀清両党城郭を構てぞ居たりける。去ば無左右寄著て人の可責様も無りけるを、助註記祐覚が同宿共三百余人、一番に木戸口に著て屏を阻て闘けるが、高櫓より大石数た被投懸て引退処に、南岸円宗院が同宿共五百余人、入替てぞ責たりける。是も城中に名誉の精兵共多かりければ、走廻て射けるに、多く物具を被徹て叶はじとや思ひけん、皆持楯の陰に隠れて、「悪手替れ。」とぞ招きける。爰に妙観院の因幡竪者全村とて、三塔名誉の悪僧あり。鎖の上に大荒目の鎧を重て、備前長刀のしのぎさがりに菖蒲形なるを脇に挟み、箆の太さは尋常の人の蟇目がらにする程なる三年竹を、もぎつけに押削て、長船打の鏃の五分鑿程なるを、筈本迄中子を打徹にしてねぢすげ、沓巻の上を琴の糸を以てねた巻に巻て、三十六差たるを、森の如に負成し、態弓をば不持、是は手衝にせんが為なりけり。切岸の面に二王立に立て名乗けるは、「先年三井寺の合戦の張本に被召て、越後国へ被流たりし妙観院高因幡全村と云は我事也。城中の人々此矢一つ進せ候はん。被遊て御覧候へ。」と云侭に、上差一筋抽出て、櫓の小間を手突にぞ突たりける。 |
合戦開始時刻は翌日の辰刻(午前8時頃)と決められていたが、機敏な若い僧兵たちは武士より先駆けをしたいと思ったのか、まだ卯刻の始まり(早朝5時過ぎ)に神楽岡へ攻め寄せた。この丘では宇都宮・紀清両軍団が城郭を築いて守備していたため容易には近づけない状態だったが、助註記祐覚配下三百人余りが最初に木戸口へ突入し柵を破って戦ったものの、高櫓から大石を次々と投げ落とされたため退却した。その隙に南岸円宗院配下五百余人が入れ替わりで攻めかけたが、城側には誉れ高い精鋭兵士たちが多くおり走り回って弓を射るので防具も貫通すると悟ったのか敵は皆盾の陰に隠れて「弱い者同士で交代しろ」と挑発した。ここにおいて妙観院所属の因幡出身悪僧・全村という三塔でも名高い者が現れた。鎖帷子の上に大荒目鎧を重ね着し、備前長刀(柄が下がり菖蒲形鍔)を脇に挟み、矢は箆の太さが普通人の蟇目矢にする程ある三年竹をもぎ取って削り、鏃は長船打様式で五分鑿ほどのものを筈元まで中子を通してねじ込み、沓巻部分には琴糸を念入りに巻き付けた三十六本の矢を森のように背負い、わざと弓を持たず手投げ用として切岸(城壁斜面)正面で仁王立ちになり名乗った。「かつて三井寺合戦の首謀者として越後へ流罪になった妙観院高因幡全村がこれなり!城中の人々よこの矢一本も耐えられるか試してみろ」と言いながら、上段から一筋抜き取り櫓の小窺穴に手投げで突き刺した。 解説
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| 此矢不誤、矢間の陰に立たりける鎧武者のせんだんの板より、後の角総著の金物迄、裏表二重を徹て、矢前二寸許出たりける間、其兵櫓より落て、二言も不云死にけり。是を見ける敵共、「あなをびたゝし、凡夫の態に非ず。」と懼て色めきける処へ、禅智房護聖院の若者共、千余人抜連て責入ける間、宇都宮神楽岡を落て二条の手に馳加る。是よりしてぞ、全村を手突因幡とは名付ける。山法師鹿谷より寄て神楽岡の城を責る由、両党の中より申ければ、将軍頓て後攻をせよとて、今河・細川の一族に、三万余騎を差副て被遣けるが、城は早被責落、敵入替ければ、後攻の勢も徒に京中へぞ帰ける。去程に、楠判官・結城入道・伯耆守、三千余騎にて糾の前より押寄て、出雲路の辺に火を懸たり。将軍是を見給て、「是は如何様神楽岡の勢共と覚るぞ、山法師ならば馬上の懸合は心にくからず、急ぎ向て懸散せ。」とて、上杉伊豆守・畠山修理大夫・足利尾張守に、五万余騎を差副てぞ被向ける。楠木は元来勇気無双の上智謀第一也ければ、一枚楯の軽々としたるを五六百帖はがせて、板の端に懸金と壷とを打て、敵の駆んとする時は、此楯の懸金を懸、城の掻楯の如く一二町が程につき並べて、透間より散々に射させ、敵引けば究竟の懸武者を五百余騎勝て、同時にばつと駆させける間、防手の上杉・畠山が五万余騎、楠木が五百余騎に被揉立て五条河原へ引退く。 |
この矢は外れず、矢間の陰に立っていた鎧武者の栴檀材の胸板から背後の角総覆い金具まで裏表二重を貫通し、鏃が二寸ほど飛び出たためその兵士は櫓から落ちて一言も発せず絶命した。これを見た敵軍は「ああ恐ろしい、凡人ではない」と怯え動揺しているところへ禅智房護聖院の若者たち千余人が一斉に突入し宇都宮勢は神楽岡を放棄して二条方面へ敗走した。この事件以来村全体で彼を「手突因幡(てつきいなば)」と呼ぶようになった。山法師(僧兵)が鹿谷から進軍し神楽岡の城を攻撃中との報告を受け将軍は直ちに後詰め部隊として今川・細川一族率いる三万騎余りを派遣したが、すでに落城して敵と入れ替わっていたため援軍も無駄に京へ引き返した。一方楠木正成入道(判官)・結城宗広入道・名和長年伯耆守の三千騎は糺神社前から出雲路周辺へ火をかけたので将軍足利尊氏は「これは神楽岡部隊との連携行動だ。僧兵なら馬上戦に慣れぬはず、急いで撃破せよ」と命じ上杉憲顕伊豆守・畠山国清修理大夫・足利高経尾張守率いる五万騎余りを差し向けたが楠木は元来知勇兼備のため軽量盾五六百枚に掛金と壺を取り付け敵接近時には城柵のように並べて矢穴から射撃させ撤退すると精鋭五百騎で一斉突撃したので守備側五万騎は翻弄され五条河原へ敗走した。 解説
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| 敵は是計歟と見処に、奥州国司顕家卿二万余騎にて粟田口より押寄て、車大路に火を被懸たり。将軍是を見給て、「是は如何様北畠殿と覚るぞ、敵も敵にこそよれ、尊氏向はでは叶まじ。」とて、自五十万騎を率し、四条・五条の河原へ馳向て、追つ返つ、入替々々時移る迄ぞ被闘ける。尊氏卿は大勢なれども軍する勢少くして、大将已に戦ひくたびれ給ぬ。顕家卿は小勢なれば、入替る勢無して、諸卒忽に疲れぬ。両陣互に戦屈して忿りを抑へ、馬の息つぎ居たる処へ、新田左兵衛督義貞・脇屋右衛門佐義助・堀口美濃守貞満・大館左馬助氏明、三万余騎を三手に分け、双林寺・将軍塚・法勝寺の前より、中黒の旗五十余流差せて、二条河原に雲霞の如くに打囲たる敵の中を、真横様に懸通りて、敵の後を切んと、京中へこそ被懸入けれ。敵是を見て、「すはや例の中黒よ。」と云程こそあれ、鴨河・白河・京中に、稲麻竹葦の如に打囲ふだる大勢共、馬を馳倒し、弓矢をかなくり捨て、四角八方へ逃散事、秋の木の葉を山下風の吹立たるに不異。義貞朝臣は、態鎧を脱替へ馬を乗替て、只一騎敵の中へ懸入々々、何くにか尊氏卿の坐らん、撰び打に討んと伺ひ給ひけれども、将軍運強くして、遂に見へ給はざりければ、無力其勢を十方へ分て、逃る敵をぞ追はせられける。 |
敵が油断しているところへ奥州国司北畠顕家卿率いる二万騎余りが粟田口から進軍し車大路に火を放った。将軍足利尊氏はこれを見て「これはどうやら北畠殿のようだ、敵も手強いが私自ら出なければ対処できまい」と言い、みずから五万騎を率いて四条・五条河原へ向かい追撃と反撃を繰り返しながら時間が経過するまで激戦した。尊氏卿は大軍ながら実質の戦力は少なく大将自らが疲労困憊した。顕家卿は小勢ゆえ交代要員もおらず兵士たちは急速に消耗した。両陣営互いに戦い疲れて一息つき馬を休めているところへ、新田左兵衛督義貞・脇屋右衛門佐義助・堀口美濃守貞満・大館左馬助氏明ら三万騎余りを三手に分け双林寺・将軍塚・法勝寺前から中黒の旗五十本以上を掲げ、二条河原に雲霞のように密集する敵陣を真横切るように突破し背後を遮断しようと京都市中へ突入した。敵はこれを見て「あれは例の中黒旗だ!」と言う間もなく鴨川・白河・京中一帯に稲穂や竹葦のように密集していた大軍勢が馬を倒し弓矢を投げ捨て四方八方へ逃散する様子は秋の木葉が山風で吹き飛ばされるのに等しかった。義貞朝臣(正成)はわざと鎧を着替え乗馬も変えて単騎敵陣深く突入し尊氏卿の居場所を見つけ出して討ち取ろうとしたものの将軍の運が強く遂に発見できなかったためやむなく自軍を分散させ敗走する敵を追撃させた。 解説
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| 中にも里見・鳥山の人々は、僅に二十六騎の勢にて、丹波路の方へ落ける敵二三万騎有けるを、将軍にてぞ坐らんと心得て桂河の西まで追ける間、大勢に返合せられて一人も不残被討にけり。さてこそ十方に分れて追ける兵も、「そゞろに長追なせそ。」とて、皆京中へは引返しける。角て日已に暮ければ、楠判官総大将の前に来て申けるは、「今日御合戦、不慮に八方の衆を傾くと申せ共さして被討たる敵も候はず、将軍の落させ給ける方をも不知、御方僅の勢にて京中に居候程ならば、兵皆財宝に心を懸て、如何に申すとも、一所に打寄る事不可有候。去程ならば、前の如く又敵に取て被返て、度方を失事治定可有と覚候。敵に少しも機を付ぬれば、後の合戦しにくき事にて候。只此侭にて今日は引返させ給ひ候て、一日馬の足を休め、明後日の程に寄せて、今一あて手痛く戦ふ程ならば、などか敵を十里・二十里が外まで、追靡けでは候べき。」と申ければ、大将誠にげにもとて、坂本へぞ被引返ける。将軍は今度も丹波路へ引給んと、寺戸の辺までをはしたりけるが、京中には敵一人も不残皆引返したりと聞へければ、又京都へぞ帰り給ひける。此外八幡・山崎・宇治・勢多・嵯峨・仁和寺・鞍馬路へ懸りて、落行ける者共も是を聞て、みな我も我もと立帰りけり。 |
特に里見氏と鳥山氏の人々はわずか二十六騎で丹波方面へ敗走する敵二、三万騎を追撃し「将軍(尊氏)がいるに違いない」と思い込み桂川西岸まで追い詰めたところ大軍の反撃を受け一人残らず討ち死した。このため四方八方で追跡していた他の兵士たちも「むやみな長距離追撃は避けよ」と言って皆京都市中へ引き返した。こうして日が完全に暮れたので楠木正成判官(総大将の副将)が主君新田義貞の前に進んで申し上げた:「今日の戦いは不意に全軍を投入しましたが敵があまり討ち取られず、尊氏将軍の逃亡先も不明です。我々が少数兵力で京都市中に留まっていると兵士たちは略奪品に夢中になりどう命令しても一箇所に集結できません。そうなれば以前のように再び敵に都を奪い返され退路を失う事態になるでしょう。もし油断すれば今後の戦いは困難です。ただ今すぐ撤退し一日馬の休息を与え明後日頃改めて攻勢に出て一挙に痛撃を加えるならどうして敵を十里二十里(約40-80km)も追い払えないことがありましょうか」と述べると大将義貞は「全くその通りだ」と同意し坂本へ撤退した。一方尊氏将軍は今回も丹波方面へ退却しようと寺戸付近まで来ていたが京都市中に敵兵一人残らず引き揚げたとの報を得て再び京都へ帰還した。これにより八幡・山崎・宇治・勢多(瀬田)・嵯峨・仁和寺・鞍馬方面へ逃れていた敗残兵たちも同様の知らせを聞き我さきにと続々と都に戻った。 解説
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| 入洛の体こそ恥かしけれども、今も敵の勢を見合すれば、百分が一もなきに、毎度かく被追立、見苦き負をのみするは非直事。我等朝敵たる故歟、山門に被咒詛故歟と、謀の拙き所をば閣て、人々怪しみ思はれける心の程こそ愚なれ。 ○将軍都落事付薬師丸帰京事 楠判官山門へ帰て、翌の朝律僧を二三十人作り立て京へ下し、此彼の戦場にして、尸骸をぞ求させける。京勢怪て事の由を問ければ、此僧共悲歎の泪を押へて、「昨日の合戦に、新田左兵衛督殿・北畠源中納言殿・楠木判官已下、宗との人々七人迄被討させ給ひ候程に、孝養の為に其尸骸を求候也。」とぞ答へける。将軍を始奉て、高・上杉の人々是を聞て、「あな不思議や、宗徒の敵共が皆一度に被討たりける。さては勝軍をばしながら官軍京をば引たりける。何くにか其頚共の有らん。取て獄門に懸、大路を渡せ。」とて、敵御方の尸骸共の中を求させけれ共、是こそとをぼしき頚も無りけり。余にあらまほしさに、此に面影の似たりける頭を二つ獄門の木に懸て、新田左兵衛督義貞・楠河内判官正成と書付をせられたりけるを、如何なるにくさうの者かしたりけん、其札の側に、「是はにた頚也。まさしげにも書ける虚事哉。」と、秀句をしてぞ書副て見せたりける。 |
京に入った様子は確かに恥ずかしいことではあったが、今でも敵軍と自軍の勢力を比較すると百分の一にも満たないのに毎回このように追い立てられて見苦しい敗北ばかりをするのは道理に反している。私たちが朝廷の敵だからだろうか、比叡山から呪われているせいだろうかと、作戦のまずさという点を無視して人々が疑念を抱く心持ちこそ愚かなことである。 ※ 将軍(尊氏)が京都から逃げ出す件及び薬師丸帰京に関する話 解説
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| 又同日の夜半許に、楠判官下部共に焼松を二三千燃し連させて、小原・鞍馬の方へぞ下しける。京中の勢共是を見て、「すはや山門の敵共こそ、大将を被討て、今夜方々へ落行げに候へ。」と申ければ、将軍もげにもとや思ひ給ひけん。「さらば落さぬ様に、方々へ勢を差向よ。」とて、鞍馬路へは三千余騎、小原口へ五千余騎、勢多へ一万余騎、宇治へ三千余騎、嵯峨・仁和寺の方迄、洩さぬ様に堅めよとて、千騎・二千騎差分て、勢を不被置方も無りけり。さてこそ京中の大勢大半減じて、残る兵も徒に用心するは無りけれ。去程に官軍宵より西坂をゝり下て、八瀬・薮里・鷺森・降松に陣を取る。諸大将は皆一手に成て、二十九日の卯刻に、二条河原へ押寄て、在々所所に火をかけ、三所に時をぞ揚たりける。京中の勢は、大勢なりし時だにも叶はで引し軍也。況て勢をば大略方々へ分ち被遣ぬ。敵可寄とは夢にも知ぬ事なれば、俄に周章ふためきて、或は丹波路を指て引もあり、或は山崎を志て逃るもあり、心も発らぬ出家して禅律の僧に成もあり。官軍はさまで遠く追ざりけるを、跡に引御方を追懸る敵ぞと心得て、久我畷・桂河辺には、自害をしたる者も数を不知ありけり。況馬・物具を棄たる事は、足の蹈所も無りけり。 |
同じ日の夜半ごろに楠木正成判官は部下たちに数千本のたいまつを持たせて点火させ、小原(おはら)・鞍馬方面へ下らせた。京都市中にいた足利軍兵士たちがこれを見て「あれは比叡山の敵どもが大将を討たれて今夜あちこちへ敗走しているようだ」と言ったため、将軍尊氏もおそらくそのように思われたらしい。「ならば逃さぬように各方面に兵を向けよ」と命じ、鞍馬路には三千余騎、小原口には五千余騎、勢多(せた)へ一万余騎、宇治へ三千余騎、嵯峨・仁和寺方面までもらすことなく固めさせようとして千騎・二千騎ずつ分遣し、兵を配置しない場所はなかった。こうして京中の大軍の大半が減り、残った兵士もむだに見張っている者などいなくなった。 この状況を見計らい南朝官軍(新田軍)は宵闇から西坂本へ降り立ち、八瀬・藪里(やぶさと)・鷺森・降松に陣を敷いた。諸大将が全軍を一丸として二十九日の卯刻(午前6時頃)、二条河原へ押し寄せあちこちに火を放ち、三方向から鬨の声をあげたのである。京中の足利勢は大軍でさえも対応できず退却したばかりなのに、ましてや兵力の大半が各方面へ分散派遣されていた。「敵襲来」など夢にも思わぬことだったため突然慌てふためき、丹波路を目指す者もいれば山崎方面へ逃げる者もおり、正気を失って剃髪し禅僧や律僧に成りすます者まで現れた。官軍はそれほど遠くまで追撃もしなかったのに、後方から味方を追う兵士たちを「敵の追い手」と錯覚したため久我畷(こがなわて)・桂河原あたりでは自害する者の数も知れず、さらに馬や武具を捨てたものは足の踏み場もないほどであった。 解説
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| 将軍は其日丹波の篠村を通り、曾地の内藤三郎左衛門入道々勝が館に著給へば、四国・西国の勢は、山崎を過て芥河にぞ著にける。親子兄弟骨肉主従互に行方を不知落行ければ、被討てぞ死しつらんと悲む。されども、「将軍は正しく別事無て、尾宅の宿を過させ給候也。」と分明に云者有ければ、兵庫湊河に落集りたる勢の中より丹波へ飛脚を立て、「急ぎ摂州へ御越候へ、勢を集て頓て京都へ責上り候はん。」と申ければ、二月二日将軍曾地を立て、摂津国へぞ越給ひける。此時熊野山の別当四郎法橋道有が、未に薬師丸とて童体にて御伴したりけるを、将軍喚寄給て、忍やかに宣けるは、「今度京都の合戦に、御方毎度打負たる事、全く戦の咎に非ず。倩事の心を案ずるに、只尊氏混朝敵たる故也。されば如何にもして持明院殿の院宣を申賜て、天下を君与君の御争に成て、合戦を致さばやと思也。御辺は日野中納言殿に所縁有と聞及ば、是より京都へ帰上て、院宣を伺ひ申て見よかし。」と被仰ければ、薬師丸、「畏て承り候。」とて、三草山より暇申て、則京へぞ上りける。 ○大樹摂津国豊嶋河原合戦事 将軍湊河に著給ければ、機を失つる軍勢共、又色を直して、方々より馳参りける間、無程其勢二十万騎に成にけり。此勢にて頓て責上り給はゞ、又官軍京にはたまるまじかりしを、湊河の宿に、其事となく三日迄逗留有ける間、宇都宮五百余騎道より引返して、官軍に属し、八幡に被置たる武田式部大輔も、堪かねて降人に成ぬ。 |
将軍尊氏はその日丹波の篠村を通り、曾地(そじ)にいる内藤三郎左衛門入道道勝の館に到着なさった。すると四国・西国の兵たちが山崎を越え芥川(あくたがわ)へ辿り着いたという報告があった。親子や兄弟、主従が互いに行方も知れず離散したため、「討ち死にしてしまったのでは」と皆悲しんでいた。ところが「将軍は何事もなく尾宅(おだく)の宿を通過されましたよ」とはっきり伝える者が現れたので、兵庫湊川に落ち延びた部隊の中から丹波へ早馬を派遣した。「急いで摂津国にお越しください。兵力を集めてすぐ京都へ攻め上りましょう」。これを受けて二月二日、将軍は曾地を発ち摂津国へ向かわれた。 この時熊野山の別当・四郎法橋道有がまだ「薬師丸」と称する少年で従っていた。将軍は彼を呼び寄せ、密かにこう命じられた。「今回の京都合戦で味方が度々敗れたのは、決して戦術の誤りではない。よく考えるに尊氏自身が朝敵(朝廷の敵)だからだ。どうにか持明院殿(光厳上皇)から院宣を賜り『天下は天皇同士の争い』と正当化できれば良いと思う。そなたは日野中納言との縁があると聞く。ここから京都へ戻って院宣獲得を試みよ」。薬師丸は「承知しました」と答え、三草山で別れを告げて直ちに京へ向かった。 ○大将軍摂津国豊嶋河原合戦の件 解説
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| 其外此彼に隠れ居たりし兵共、義貞に属ける間、官軍弥大勢に成て、竜虎の勢を振へり。二月五日顕家卿・義貞朝臣、十万余騎にて都を立て、其日摂津国の芥河にぞ被著ける。将軍此由を聞給て、「さらば行向て合戦を致せ。」とて、将軍の舎弟左馬頭に、十六万騎を差副て、京都へぞ被上ける。さる程に両家の軍勢、二月六日の巳刻に、端なく豊嶋河原にてぞ行合ける。互に旗の手を下して、東西に陣を張り、南北に旅を屯す。奥州国司先二たび逢て、軍利あらず、引退て息を継ば、宇都宮入替て、一面目に備んと攻戦ふ。其勢二百余騎被討て引退けば、脇屋右衛門佐二千余騎にて入替たり。敵には仁木・細川・高・畠山、先日の恥を雪めんと命を棄て戦ふ。官軍には江田・大館・里見・鳥山、是を被破ては何くへか可引と、身を無者に成てぞ防ぎける。されば互に死を軽ぜしかども、遂に雌雄を不決して、其日は戦ひ暮てけり。爰に楠判官正成、殿馳にて下りけるが、合戦の体を見て、面よりは不懸、神崎より打廻て、浜の南よりぞ寄たりける。左馬頭の兵、終日の軍に戦くたびれたる上、敵に後をつゝまれじと思ければ、一戦もせで、兵庫を指て引退く。義貞頓て追懸て、西宮に著給へば、直義は猶相支て、湊河に陣をぞ被取ける。 |
他の各地で潜伏していた兵たちも新田義貞側についたため、南朝官軍(新田軍)はいよいよ大勢力となり竜虎の勢いを振るった。二月五日、北畠顕家卿と新田義貞朝臣は十万余騎で京都を出発し、その日のうちに摂津国の芥川(現・大阪府高槻市付近)へ到着した。 この報せを受けた将軍尊氏は「ならば進んで決戦しよう」と命じ、実弟の左馬頭直義に十六万騎をつけて京都方面へ向かわせた。こうして両軍は二月六日の巳刻(午前10時頃)、突然豊島河原(現・大阪府池田市付近)で激突した。 双方が旗を下ろし陣形を整えると、奥州国司北畠顕家隊が二度にわたり攻めかかったが利あらず撤退。続いて宇都宮氏隊が交替して前面防衛線へ挑むも二百余騎討たれ退却したため、脇屋義助右衛門佐が二千余騎で突入する。 足利軍側では仁木・細川・高(師直)・畠山ら前回の敗戦を挽回せんと命懸けで応戦。官軍からは江田行義・大館氏明・里見義胤・鳥山修朝が「ここで破れたら退却先がない」と捨て身で防いだ。両軍とも死を恐れぬ激闘となったが、ついに勝敗が決しないまま日没を迎えた。 この時後方から駆けつけた楠木正成判官は戦況を見て正面攻撃せず、神崎(現・兵庫県尼崎市)方面へ迂回して浜の南側から奇襲をかける。直義軍は一日中の激闘で疲弊していた上に背後を突かれまいと焦り、一戦も交えず兵庫(現・神戸市中央区)へ敗走した。 新田義貞がただちに追撃して西宮に到達すると、足利直義はなお踏みとどまり湊川で陣地構築を始めたのである。 解説
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| 同七日の朝なぎに、遥の澳を見渡せば、大船五百余艘、順風に帆を揚て東を指て馳たり。何方に属勢にかと見る処に、二百余艘は梶を直して兵庫の嶋へ漕入る。三百余艘は帆をつゐて、西宮へぞ漕寄せける。是は大伴・厚東・大内介が、将軍方へ上りけると、伊予の土居・得能が、御所方へ参りけると漕連て、昨日迄は同湊に泊りたりしが、今日は両方へ引分て、心々にぞ著たりける。荒手の大勢両方へ著にければ、互に兵を進めて、小清水の辺に羽向合。将軍方は目に余る程の大勢なりけれども、日比の兵、荒手にせさせんとて、軍をせず。厚東・大伴は、又強に我等許が大事に非ずと思ければ、さしも勇める気色もなし。官軍方は双べて可云程もなき小勢なりけれども、元来の兵は、是人の大事に非ず、我身の上の安否と思ひ、荒手の土居・得能は、今日の合戦無云甲斐しては、河野の名を可失と、機をとき心を励せり。されば両陣未闘はざる前に安危の端機に顕れて、勝負の色暗に見たり。されども荒手の験しなれば、大伴・厚東・大内が勢三千余騎、一番に旗を進めたり。土居・得能後へつと懸抽て、左馬頭の引へ給へる打出宿の西の端へ懸通り、「葉武者共に目な懸そ、大将に組め。」と下知して、風の如くに散し雲の如くに集て、呼ひて懸入、々々ては戦ひ、戦ふては懸抽け、千騎が一騎に成迄も、引なと互に恥めて面も不振闘ひける間、左馬頭叶はじとや被思けん、又兵庫を指して引給ふ。 |
翌七日早朝、沖合いを見渡すと大船五百余艘が順風を受けて帆を上げ東へ向かっていた。どちらの勢力に属するのか見ているうちに、二百余艘は舵を切り直して兵庫の島(現・神戸市兵庫区)に入り、三百余艘は西宮沖へ近づいた。これは大伴氏・厚東氏・大内介が将軍方(足利尊氏)、伊予の土居通増と得能通綱が御所方(後醍醐天皇勢力)に加勢する船団で、前日までは同じ湊(港)に停泊していたが、この日に二手に分かれて着陣したのである。 新参兵を乗せた大軍が両陣営に到着すると互いに進撃し、小清水(現・芦屋市付近)の辺りで対峙した。将軍方は圧倒的な兵力であったが、前日からの古参兵は「新兵ばかりを戦わせよう」と動かず、厚東氏や大伴氏も「これは我々の本筋ではない」と考えて奮戦する様子がない。一方官軍(南朝方)は比較にならないほどの少数だったが、古参兵たちは「他人事でなく自らの生死だ」と覚悟し、新参組の土居・得能隊は「今日一戦に名を上げねば河野一族の名誉を失う」と士気を高めていた。 こうして両軍が交戦しないうちから勝敗の趨勢が見えてきた。しかし実戦経験豊富な新兵部隊である大伴・厚東・大内連合軍三千余騎は先陣として攻撃を開始した。これに対し土居と得能隊はいったん後退して偽装撤退すると、直義が陣取る打出宿(現・西宮市)の西端へ回り込み「雑兵に構うな!大将(足利直義)を狙え!」と指示。風のように散っては雲のように集まる機動戦術で攻めかかり、斬り込んでは退き、千騎が一騎になるまで恥じることもなく激闘したため、直義は耐え切れず再び兵庫へ敗走した。 解説
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| 千度百般戦へども、御方の軍勢の軍したる有様、見るに可叶とも覚ざりければ、将軍も早退屈の体見へ給ける処へ、大伴参て、「今の如くにては何としても御合戦よかるべしとも覚候はず。幸に船共数候へば、只先筑紫へ御開き候へかし。小弐筑後入道御方にて候なれば、九国の勢多く属進せ候はゞ、頓て大軍を動て京都を被責候はんに、何程の事か候べき。」と申ければ、将軍げにもとや思食けん、軈て大伴が舟にぞ乗給ひける。諸軍勢是を見て、「すはや将軍こそ御舟に被召て落させ給へ。」とのゝめき立て、取物も取不敢、乗をくれじとあはて騒ぐ。舟は僅に三百余艘也。乗んとする人は二十万騎に余れり。一艘に二千人許こみ乗ける間、大船一艘乗沈めて、一人も不残失にけり。自余の舟共是を見て、さのみは人を乗せじと纜を解て差出す。乗殿れたる兵共、物具衣裳を脱捨て、遥の澳に游出で、舟に取著んとすれば、太刀・長刀にて切殺し、櫓かいにて打落す。乗得ずして渚に帰る者は、徒に自害をして礒越す波に漂へり。尊氏卿は福原の京をさへ被追落て、長汀の月に心を傷しめ、曲浦の波に袖を濡して、心づくしに漂泊し給へば、義貞朝臣は、百戦の功を高して、数万の降人を召具し、天下の士卒に将として花の都に帰給ふ。 |
何度も激しく戦ったものの味方(足利軍)の戦いぶりが到底見ていられないほど劣っていたため、将軍尊氏もすっかり落胆している様子だった。そこへ大伴氏が進み出て、「このままではとても勝ち目はありません。幸い船が数多くあるのですから、まず九州へ退かれてはいかがでしょう。小弐頼尚入道(筑後守)が味方ですし、九国の勢力を集めれば大軍で再び京都を攻撃できます」と申し上げた。将軍はその意見に納得したらしく、すぐさま大伴氏の船へお乗りになった。 これを見た諸将兵たちは「あっ!将軍が船にお移りになって逃亡される!」と叫び騒ぎ立て、武器も持たず我先にと船に殺到した。船はわずか三百余艘しかないのに、乗ろうとする者は二十万騎以上にも上ったため、一隻に二千人近くが押し込む状態となり、大型船一艘があふれて沈没すると全員が溺れ死んだ。 残りの船団もこれを見て「こんなに人は乗せられぬ」と綱を解き出航した。乗り遅れた兵たちは鎧や衣服を脱ぎ捨て沖へ泳いで行くが、船上の者らは太刀や長槍で切り殺し櫓で突き落とした。陸に戻れず浜辺にとどまった者は自害して波間に漂うばかりだった。 こうして尊氏卿は福原京(現・神戸市)からも追われ、果てしない海岸の月影に心を痛め入江の波で袖を濡らしながら漂泊される中、新田義貞朝臣は幾多の戦功をあげ数万の降伏兵を従え、天下の将として花の都(京都)へ凱旋されたのである。 解説
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| 憂喜忽に相替て、うつゝもさながら夢の如くの世に成けり。 ○主上自山門還幸事 去月晦日逆徒都を落しかば、二月二日主上自山門還幸成て、花山院を皇居に被成にけり。同八日義貞朝臣、豊嶋・打出の合戦に打勝て、則朝敵を万里の波に漂せ、同降人の五刑の難を宥て京都へ帰給ふ。事体ゆゝしくぞ見へたりける。其時の降人一万余騎、皆元の笠符の文を書直して著たりけるが、墨の濃き薄き程見へて、あらはにしるかりけるにや、其次の日、五条の辻に高札を立て、一首の歌をぞ書たりける。二筋の中の白みを塗隠し新田々々しげな笠符哉都鄙数箇度の合戦の体、君殊に叡感不浅。則臨時除目を被行て、義貞を左近衛中将に被任ぜ、義助を右衛門佐に被任けり。天下の吉凶必しも是にはよらぬ事なれども、今の建武の年号は公家の為不吉也けりとて、二月二十五日に改元有て、延元に被移。近日朝廷已に逆臣の為に傾られんとせしか共、無程静謐に属して、一天下又泰平に帰せしかば、此君の聖徳天地に叶へり。如何なる世の末までも、誰かは傾け可申と、群臣いつしか危を忘れて、慎む方の無りける、人の心ぞ愚かなる。 ○賀茂神主改補事 大凶一元に帰して万機の政を新たにせられしかば、愁を含み喜を懐く人多かりけり。 |
悲しみと喜びが突然入れ替わり、現実さえもまるで夢のような世の中となった。 ○天皇陛下が比叡山から帰京されたこと 天下の吉凶が必ずしもこれで決まるわけではありませんでしたが、「建武」という元号は朝廷にとって不吉だとして二月二十五日に改元があり延元と移りました。この頃朝廷は反逆臣のために崩壊寸前だったのに、ほどなく平穏を取り戻して天下泰平となったのは、天皇陛下の聖徳が天地にかなっていたからです。「いつの世末でも誰が覆せようか」と群臣たちも危険を忘れ慎む心を失ってしまった。人の心とは愚かなものです。 ○賀茂神社神主交代のこと 解説
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| 中にも賀茂の社の神主職は、神職の中の重職として、恩補次第ある事なれば、咎無しては改動の沙汰も難有事なるを、今度尊氏卿貞久を改て、基久に被補任、彼れ眉を開く事僅に二十日を不過、天下又反覆せしかば、公家の御沙汰として貞久に被返付。此事今度の改動のみならず、両院の御治世替る毎に転変する事、掌を反すが如し。其逆鱗何事の起ぞと尋ぬれば、此基久に一人の女めあり。被養て深窓に在し時より、若紫の■匂殊に、初本結の寐乱髪、末如何ならんと、見るに心も迷ぬべし。齢已に二八にも成しかば、巫山の神女雲と成し夢の面影を留め、玉妃の太真院を出し春の媚を残せり。只容色嬋娟の世に勝れたるのみに非ず、小野小町が弄びし道を学び、優婆塞宮のすさみ給し跡を追しかば、月の前に琵琶を弾じては、傾く影を招き、花の下に歌を詠じては、うつろう色を悲めり。されば其情を聞き、其貌を見る人毎に、意を不悩と云事なし。其比先帝は未帥宮にて、幽かなる御棲居也。是は後宇多院第二の皇子後醍醐天王と申せし御事也。今の法皇は伏見院第一の皇子にて、既に春宮に立せ可給と云、時めき合へり。此宮々如何なる玉簾の隙にか被御覧たりけん。此女最あてやかに臈しとぞ被思食ける。されども、混すらなる御業は如何と思食煩て、荻の葉に伝ふ風の便に付け、萱の末葉に結ぶ露のかごとに寄せては、いひしらぬ御文の数、千束に余る程に成にけり。 |
特に賀茂神社の神主職は、神官の中でも重要な役職として、正当な理由なくして交代させることは難しいものであった。しかし今回、尊氏卿(足利尊氏)が貞久を解任し基久に任命したところ、眉をひそめる間もなくわずか二十日と経たぬうちに天下情勢は再び逆転したため、朝廷の命令で貞久へ復職させられた。この件は今回だけではなく、両院(天皇や上皇)の治世が変わる度に交代を繰り返すありさまは、手のひらを返すように容易いものだった。 ではなぜ基久が解任されたのかというと、彼のもとに一人の女性がいた。深窓で育てられて以来、若紫のような優美な香りが特に際立ち、初々しく結った寝乱れ髪の先行く末はいかばかりかと思うほど、見る者の心を惑わすに十分であった。年齢は既に十六歳になり、巫山の神女(伝説上の美女)のように儚い夢のような面影を残し、楊貴妃が離宮から出た春の艶やかさを宿していた。ただ容姿端麗なだけではなく、小野小町が得意とした遊芸に通じ、光源氏が好んだ風流をも継承していたため、月明かりの下で琵琶を弾けば傾聴する人影が集まり、桜の木陰で歌を詠めば花の散りゆく様に人々は悲しみを覚えた。それ故その情愛深さを知り美貌を見る者は皆、心を奪われずにはいられなかった。 当時先帝(後醍醐天皇)はまだ帥宮(親王位)としてひっそりと住まわれていたが——これはのちに後宇多院第二皇子・後醍醐天皇となられる方である。一方当代法皇(光厳上皇)は伏見院第一皇子で、既に皇太子になるべきとの声も高かった。この親王様がどのような簾の隙間からか彼女をご覧になったのだろう。「この女性こそ最も優雅で品がある」とお思いになられたらしい。しかし「身分違いだという非難は避けねばならぬか」とも悩まれ、萩の葉に伝う風を便りにし、萱草の先端に結ぶ露のように秘かに文をお送りになったため、誰にも知られないお手紙の数が千束も積もるほどとなったのである。 解説
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| 女も最物わびしう哀なる方に覚へけれども、吹も定ぬ浦風に靡きはつべき烟の末も、終にはうき名に立ぬべしと、心強き気色をのみ関守になして、早年の三年を過にけり。父は賎して母なん藤原なりければ、無止事御子達の御覚は等閑ならぬを聞て、などや今迄御いらへをも申さではやみにけるぞと、最痛ふ打侘れば、御消息伝へたる二りのなかだち次よしと思て、「たらちめの諌めも理りにこそ侍るめれ。早一方に御返事を。」と、かこち顔也ければ、女云ばかりなく打侘て、「いさや我とは争でか分く方可侍。たゞ此度の御文に、御歌の最憐れに覚へ侍らん方へこそ参らめ。」と云て、少し打笑ぬる気色を、二りの媒嬉しと聞て、急ぎ宮々の御方へ参てかくと申せば、頓て伏見宮の御方より、取手もくゆる許にこがれたる紅葉重の薄様に、何よりも言の葉過て、憐れなる程なり。思ひかね云んとすればかきくれて泪の外は言の葉もなしと被遊たり。此上の哀誰かと思へる処に、帥宮御文あり。是は指も色深からぬ花染のかほり返たるに、言は無て、数ならぬみのゝを山の夕時雨強面松は降かひもなしと被遊たり。此御歌を見て、女そゞろに心あこがれぬと覚て、手に持ながら詠じ伏たりければ、早何れをかと可云程もなければ、帥宮の御使そゞろに独笑みして帰り参りぬ。 |
女性は非常に悲しく寂しい気持ちではあったが、「吹く方向さえ定まらない浜風に靡いて消えてしまう煙のように、いつかは不名誉な噂の種となるだろう」と考えて、強い決意を示す態度だけを盾にして三年間も過ごしてしまった。彼女の父は身分が低かったが母は藤原氏であったため、「皇子様方からのお心遣いを無視することはできない」と聞かされると、「なぜ今までお返事さえ差し上げずにいたのか」と深く嘆き悲しむ。この言葉を伝えた二人の仲介者は「これは母親としての忠告も道理にかなっているようです。早急にお一方へご返答を」と責めるような態度を見せたので、女性は言いようもなく落ち込みながらこう述べた。「いえ私がどうして決められるでしょうか。ただ今回のお手紙の中で最も心打たれると思われる方(帥宮)にだけお返し申しましょう」。そう言って微かに笑みを浮かべる様子を見て、仲介者は喜び、急いで皇子たちのもとへ報告したところ、すぐに伏見宮から返信が届いた。それは手に取れば燃え出しそうなほど鮮やかな紅葉色の薄様(高級紙)に書かれており、「思い悩んでも言葉が出ず涙ばかりで一言も言えない」と詠まれた、あまりにも感情的な内容だった。 これ以上ない哀れさを感じていたところへ今度は帥宮からのお手紙が届く。それは派手ではない花模様の染め色の返礼用紙に無造作に書かれており、「名もなき身である尾山(私)の夕暮れ時雨よ、見かけ倒しの松には降り止むこともない」という歌が添えられていた。この歌を見た女性は思わず心惹かれ、手に持ったまま俯いて詠じていると、「さあどちらを選ぶのか?」と言う間もなく、帥宮の使者は独り満足げな笑みを浮かべて帰っていってしまった。 解説
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| 頓て其夜の深け過る程に、牛車さはやかに取まかないて、御迎に参りたり。滝口なりける人、中門の傍にやすらひかねて、夜もはや丑三に成ぬと急げば、女下簾を掲させて、被扶乗としける処に、父の基久外より帰りまうで来て、「是はいづ方へぞ。」と問に、母上、「帥宮召有て。」と聞ゆ。父痛く留て、「事の外なる態をも計ひ給ひける者哉。伏見宮は春宮に立せ給べき由御沙汰あれば、其御方へ参てこそ、深山隠の老木迄も、花さく春にも可逢に、行末とても憑みなき帥宮に参り仕へん事は、誰が為とても可待方や有。」と云留めければ、母上げにやと思返す心に成にけり。滝口は角ともしらで簾の前によりゐて、月の傾きぬる程を申せば、母上出合て、「只今俄に心地の例ならぬ事侍れば、後の夕べをこそ。」と申て、御車を返してげり。帥宮かゝる事侍とは、露もおぼしよらず、さのみやと今日の憑みに昨日の憂さを替て、度々御使有けるに、「思の外なる事候て、伏見宮の御方へ参りぬ。」と申ければ、おやしさけずば、東路の佐野の船橋さのみやは、堪ては人の恋渡るべきと、思ひ沈ませ給にも、御憤の末深かりければ、帥宮御治世の初、基久指たる咎は無りしかども、勅勘を蒙り神職を被解て、貞久に被補。其後天下大に乱て、二君三たび天位を替させ給しかば、基久・貞久纔に三四年が中に、三度被改補。 |
まもなくその夜は更け過ぎようとする頃、牛車が素早く用意されて迎えの使者(滝口)が到着した。中門の傍らでじっと待ちかねていた使者が「もう丑三つ時です」と急かすので、娘は乗り込みのために垂れ幕を上げさせようとしたその瞬間、父である基久が外出先から戻ってきて、「これはどこへ行くのか?」と問いただした。母上(母親)が「帥宮様のお召しでございます」と言うと、父は激しく制止してこう言った。「思いもよらないことを考えなさる方ですな。伏見宮様には皇太子として即位されるお話があるのだから、そちらにお仕えすれば深山に隠れた老木までも花咲く春に出会えるのに。将来まったく頼りない帥宮様についていくことは、誰のためになるというのか?」と強硬に反対したため、母上も心変わりしてしまったようだ。 使者(滝口)は状況を理解できず垂れ幕前に座り込んで「月が傾いてしまいますよ」と言うと、今度は母上が出てきてこう告げた。「ただいま突然気分が優れませんので、また後日改めてお願いします」。そう言って牛車を返してしまった。帥宮(後醍醐天皇)はこのような事態があるとは露ほども思わず、「さほどでもあるまい」と今日の期待で昨日の憂鬱を紛らわせ、何度か使者を送り続けたところ、「予期せぬ事情により伏見宮様のもとへ行ってしまいました」という返答が届いた。これを聞いた帥宮は「ああ情けない!東路(関東)の佐野にかかる船橋さえ我慢できれば渡れるものか?恋もまた同じことだな」(※注:『伊勢物語』引用の比喩)と深く思い沈まれたが、怒りは次第に増し遂にはこうした結果となった——帥宮ご即位当初、基久に具体的な過失はなかったにもかかわらず勅命により神職を解任され貞久が任命された。その後天下大いに乱れ二人の君主(後醍醐天皇と光厳上皇)が三度も帝位を交替させられたため、基久と貞久はわずか三四年の間に役職を三回も交代することとなったのである。 解説
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| 夢幻の世の習、今に始ぬ事とは云ながら、殊更身の上に被知たる世の哀に、よしや今は兎ても角てもと思ければ、うたゝねの夢よりも尚化なるは此比見つる現なりけりと、基久一首の歌を書留めて、遂に出家遁世の身とぞ成にける。 |
「人生がはかない夢のようなものであることは、今始まったことではないと言いながらも、特に自分の身の上で痛感しているこの世のはかなさゆえに、『まあ今となってはいずれにせよ』と諦めざるを得なかった。うたた寝に見る夢よりもさらに虚ろなものが、最近目の当たりにした現実だったのだ」と思い至り、基久は一つの和歌を書き残して遂には出家し、世捨て人の身となってしまったのである。 解説
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| input text 太平記\016_太平記_巻16.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第十六 ○将軍筑紫御開事 建武三年二月八日、尊氏卿兵庫を落給ひし迄は、相順ふ兵僅七千余騎有しか共、備前の児嶋に著給ける時、京都より討手馳下らば、三石辺にて支よとて、尾張左衛門佐氏頼を、田井・飽浦・松田・内藤に付て留られ、細川卿律師定禅・同刑部大輔義敦をば、東国の事無心元とて返さる。其外の勢共は、各暇申て己が国々に留りける間、今は高・上杉・仁木・畠山・吉良・石塔の人々、武蔵・相摸勢の外は相順兵も無りけり。筑前国多々良浜の湊に著給ひける日は、其勢僅に五百人にも足ず、矢種は皆打出・瀬川の合戦に射尽し、馬・物具は悉兵庫西宮の渡海に脱捨ぬ。気疲れ勢尽ぬれば、轍魚の泥に吻き、窮鳥の懐に入ん風情して、知ぬ里に宿を問ひ、狎れぬ人に身を寄れば、朝の食飢渇して夜の寝醒蒼々たり。何の日か誰と云ん敵の手に懸てか、魂浮れ、骨空して、天涯望郷の鬼と成んずらんと、明日の命をも憑れねば味気無思はぬ人も無りけり。斯処に、宗像大宮司使者を進て、「御座の辺は余りに分内狭て、軍勢の宿なんども候はねば、恐ながら此弊屋へ御入有て、暫此間の御窮屈を息られ、国々へ御教書を成れて、勢を召れ候べし。」と申ければ、将軍軈て宗像が館へ入せ給ふ。次日小弐入道妙恵が方へ、南遠江守宗継・豊田弥三郎光顕を両使として、恃べき由を宣遣されければ、小弐入道子細に及ばず、軈嫡子の太郎頼尚に、若武者三百騎差添て、将軍へぞ進せける。 |
『太平記』巻第十六 建武三年二月八日、尊氏公が兵庫から敗走した時点では従う兵力はわずか7000騎ほどでした。しかし備前国児島に到着した際、京都からの追討軍が迫れば三石付近で防戦しようと決め、尾張左衛門佐(斯波氏頼)を田井・飽浦・松田・内藤の守りにつけて留め置き、細川公や律師定禅らは東国情勢不安を理由に帰還させました。残った兵たちもそれぞれ故郷へ戻ってしまい、高(師直)・上杉(憲顕)・仁木(頼章)らの軍勢だけが従うことになりました。筑前国多々良浜の港へ着いた日には兵力は500人にも満たず、矢は打出川と瀬川の戦いで使い果たし、馬や武具も兵庫から西宮への渡海時に捨て去っていました。 疲れ果て力尽きた彼らは「干上がった車輪跡の水たまりで口を動かす魚」のように見え、「追い詰められた小鳥が人の懐へ飛び込む」ような有様でした。知らない土地で宿を探し、馴染みない人に身を寄せれば朝食は飢え渇き夜も眠れず不安です。「いつ誰の手にかかって魂は抜け骨は晒され故郷を望む亡霊となるのか」と明日をも頼めぬ絶望感から、気落ちしない者など一人もいませんでした。この時宗像大宮司が使者を送り「おられる場所は領内狭く軍勢の宿泊施設もございませぬ。恐縮ながら拙宅へお入りいただき一時の疲れをお癒しください」と申し出たため、将軍(尊氏)は直ちに宗像館に入られました。翌日小弐入道妙恵のもとに南遠江守(大友宗継)らを使者として「頼りたい旨」を伝えると、小弐入道は迷わず嫡子・太郎頼尚に若武者300騎をつけて将軍へ送り届けたのです。 解説
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| ○小弐与菊池合戦事付宗応蔵主事 菊池掃部助武俊は、元来宮方にて肥後国に有けるが、小弐が将軍方へ参由を聞て道にて討散んと、其勢三千余騎にて水木の渡へぞ馳向ける。小弐太郎は、夢にも此を知ずして、小船七艘に込乗て、我身は先向の岸に付く。畦篭豊前守以下は未越、叩へて船の指し戻す間を相待ける処に、菊池が兵三千余騎、三方より推寄て、河中へ追ばめんとす。畦篭が兵百五十騎、とても遁れぬ所也と、一途に思定て、菊池が大勢の中へ懸入て、一人も不残討死す。小弐太郎は川向より、此を見けれ共、大河を中に障て、舟ならでは渡べき便も無ければ、徒に恃切たる一族若党共を敵に取篭させける心中、遣方無して無念なる。遂に船共近辺に見へざりければ、忿を推て将軍へぞ参ける。菊池は手合の合戦に討勝て、門出吉と悦で、頓て其勢を率、小弐入道妙恵が楯篭たる内山の城へぞ推寄ける。小弐宗徒の兵をば皆頼尚に付て、其勢過半水木の渡にて討れぬ。城に残勢僅に三百人にも足ざりければ、菊池が大勢に可叶とも覚へず。されども城の要害緊しかりければ、切岸の下に敵を直下して、防戦事数日に及べり。菊池荒手を入替々々夜昼十方より責けれ共、城中の兵一人も討れず、矢種も未尽りければ、いかに責るとも不落物をと思ける処に、小弐が一族等俄に心替して攻の城に引挙、中黒の旗を揚て、「我等聊所存候間宮方へ参候也。 |
菊池掃部助武敏は、もともと宮方(後醍醐天皇派)として肥後国にいたが、小弐氏が将軍(足利尊氏)側についたことを聞き道中で撃破しようと、3000余騎の兵を率いて水木の渡しへ向かった。一方、小弐太郎頼尚はこの動きを知らず小船7隻に分乗して先に岸へ到着したが、畦籠豊前守以下の部隊はまだ未渡河で船の戻り待ち中だったところ、菊池軍3000余騎三方から迫り川中への追い落としを図った。畦籠勢150騎は逃げ場なしと悟って突撃し全員討死した。小弐太郎は対岸でこれを見たが大河に阻まれ渡船手段なく、頼みの一族郎党が包囲される無念さを堪えきれず撤退せざるを得なかった(付近に船も見えない状況)。菊池軍は緒戦勝利に沸き内山城へ進撃。小弐入道妙恵籠城中だが兵力300人足らずで到底抗しがたいと感じたものの、要害堅固なため防戦続行した。菊池軍昼夜交替猛攻するも城内兵一人も倒れず矢種尽きない様子に「落城困難か」と思案中、小弐一族突然離反して攻城側へ加わり「我ら宮方参陣す」と中黒旗を掲げた。 解説
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| 御同心候べしや。」と、妙恵が方へ云遣しければ、一言の返答にも及ばず、「苟も存て義無んよりは、死して名を残さんには不如。」と云て、持仏堂へ走入、腹掻斬て臥にけり。郎等百余人も、堂の大床に並居て、同音に声を出し、一度に腹をぞ切たりける。其声天に響て、悲想悲々想天迄も聞へやすらんと夥し。小弐が最末の子に、宗応蔵主と云僧、蔀遣戸を蹈破て薪とし、父が死骸を葬して、「万里碧天風高月明、為問慧公行脚事、蹈翻白刃転身行、下火云、猛火重焼一段清」と、閑に下火の仏事をして、其炎の中へ飛入て同く死にぞ赴ける。 ○多々良浜合戦事付高駿河守引例事 小弐が城已に責落されて、一族若党百六十五人、一所にて討れければ、菊池弥大勢に成て、頓て多々良浜へぞ寄懸ける。将軍は香椎宮に取挙て、遥に菊池が勢を見給ふに、四五万騎も有らんと覚敷く、御方は纔に三百騎には過ず。而も半は馬にも乗ず鎧をも著ず、「此兵を以て彼大敵に合ん事、■蜉動大樹、蟷螂遮流車不異。憖なる軍して、云甲斐なき敵に合んよりは腹を切ん。」と、将軍は被仰けるを、左馬頭直義堅く諌申れけるは、「合戦の勝負は、必も大勢小勢に依べからず。異国に漢高祖■陽の囲を出時は、才に二十八騎に成しかども、遂に項羽が百万騎に討勝て天下を保り。 |
小弐一族が「我ら宮方参陣す」と妙恵入道へ通告すると、返答も待たず「生きて不義を行うより死して名を残せ!」と言い持仏堂に入り切腹した。郎従百余人も大床に並んで一斉に自刃し、その悲鳴は天まで響くほどだった。小弐の末子・宗応蔵主という僧は蔀戸(建具)を破って薪とし父の遺骸を荼毘。「万里碧天風高月明...」と冷静に葬儀を行い炎中へ飛び込み殉死した。 その後内山城落ち、小弐一族165人が討たれると菊池軍は多々良浜に進撃。将軍(尊氏)が香椎宮から眺めると敵勢4-5万騎に対し味方は300騎未満で半数は装備も不十分。「蟻が巨木を揺らすような戦いは無意味だ」と自害を示唆したところ、弟・直義(左馬頭)が強く諫めた:「合戦の勝敗は兵数では決まらない。漢高祖が滎陽で28騎ながら項羽百万軍に勝利し天下を取った故事をご存じでしょう」。 解説
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| 吾朝の近比は、右大将頼朝卿土肥の杉山の合戦に討負て臥木の中に隠し時は、僅に七騎に成て候しか共、終に平氏の一類を亡して累葉久武将の位を続候はずや。二十八騎を以て百万騎の囲を出、七騎を以て伏木の下に隠れし機分、全く臆病にて命を捨兼しには非ず、只天運の保べき処を恃し者也。今敵の勢誠に雲霞の如しといへども、御方の三百余騎は今迄著纏て、我等が前途を見はてんと思へる一人当千の勇士なれば、一人も敵に後を見せ候はじ。此三百騎志を同する程ならば、などか敵を追払はで候べき。御自害の事曾て有べからず。先直義馳向て一軍仕て見候はん。」と申捨て、左馬頭香椎宮を打立給へば、相順人々には、仁木四郎次郎義長・細川陸奥守顕氏・高豊前守師重・大高伊予守重成・南遠江守宗継・上杉伊豆守重能・畠山阿波守国清を始として、大伴・嶋津・曾我・白石・八木岡・相庭を宗徒の兵として、都合其勢二百五十騎、三万余騎の敵に懸合せんと志して、命を塵芥に思ける心の程こそ艷けれ。直義已旌の手を下し、社壇の前を打過給ひける時、烏一番杉の葉を一枝噛て甲の上へぞ落しける。左馬頭馬より下て、是は香椎宮の擁護し給ふ瑞相也と敬礼して、射向の袖に差れける。敵御方相近付て、時の音を挙んとしける時、大高伊予守重成は、「将軍の御陣の余りに無勢に候へば帰参候はん。 |
左馬頭直義はさらに続けた:「我が国の近例では、源頼朝公が土肥杉山合戦で敗れて臥木に隠れた時にはわずか七騎となりましたが、最終的に平氏を滅ぼし武家の世を持続させたではありませんか。二十八騎で百万騎の包囲を突破した事例(漢高祖)と七騎で伏せた機略は臆病ゆえではなく天命への信頼です。今敵軍は雲霞のごとき勢いですが、我が三百余騎は戦意満ちており一人当千の勇士ばかりですから誰も後退しないでしょう。もし全員が志を一つにするなら敗れる道理がないのです」。こう言って直義自ら香椎宮を出撃すると、仁木義長・細川顕氏ら重臣を含む二百五十騎が従い「命は塵芥」と覚悟して進んだ(その決意の美しさこそ感慨深い)。社壇前を通り過ぎた時、一羽の烏が杉枝を噛み取って直義の甲に落とした。彼はこれを神の加護の兆しとして矢筒の袖に挿した。 敵味方が間近になった際、大高重成(伊予守)が「将軍本陣があまりにも手薄すぎます」と叫んだところ―― 解説
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| 」とて引返しけり。直義此を見て、「始よりこそ留るべきに、敵を見て引返すは臆病の至也。あはれ大高が五尺六寸を五尺切てすて、剃刀にせよかし。」と欺れける。去程に菊池五千余騎を率し、浜の西より相近付て、先矢合の流鏑をぞ射たりける。左馬頭の陣よりは矢の一筋をも射ず、鳴を閑めて、透間あらば切懸んと伺見給ひけるに、誰が射とも不知白羽の流鏑矢敵の上を鳴響て、落所も見へず。左馬頭の兵共、是は只事に非と憑敷思、勇を不成と云者なし。両陣相挑で、未兵刃を交へざる処に、菊池が兵黄河原毛なる馬に、火威の鎧著たる武者只一騎、御方の勢に三町余り先立て、抜懸にぞしたりける。爰に曾我左衛門・白石彦太郎・八木岡五郎、三人共に馬・物具無て、真前に進だりけるが、見之、白石立向て馬より引落さんと、手もと近く寄副ければ、敵太刀を捨て、腰刀を抜んと、一反り反りけるが、真倒に成て落にけり。白石此を起も立ず、推へて首をば掻てけり。馬をば曾我走寄て打乗り、鎧をば八木岡剥取て著たりけり。白石が高名に、二人得利、軈三人共に敵の中へ打入れば、仁木・細川以下、「御方討すな、連や。」とて、大勢の中へ懸入て乱合てぞ闘ける。仁木越後守は、近付敵五騎切て落し、六騎に手負せて、猶敵の中に乍有、仰たる太刀を蹈直しては切合ひ、命を限とぞ見たりける。 |
大高重成はそう言って引き返した。直義がこれを見て、「初めから留まるべきだったのに、敵を見て戻るとは臆病の極みだ。哀れや大高(の身長五尺六寸)を五尺分切り捨てて剃刀でも作らせろ。」と罵った。そのうち菊池が五千余騎を率い浜の西から近づき、まず流鏑矢のように一斉に矢を射かけた。左馬頭(直義)軍は一本も矢を放たず静まり返り、隙があれば切り込もうと待ち構えていたところ、どこの誰が射ったのか分からない白羽の矢が敵陣上で鳴り響き着弾点すら見えないほどだった。左馬頭兵たちは「これはただごとではない」と確信し戦意を奮い立たせる者はいなかった。 両軍対峙してまだ刃を交えていないうちに、菊池側から黄河原毛(栗毛)の馬に乗り火威甲冑を着た武者が一人味方より三町ほど先行して飛び出した。そこで曾我左衛門・白石彦太郎・八木岡五郎三人は馬も武具なしで前進し、それを見て白石は立ち向かい馬上から引き落とそうと間合いに入ったところ敵は大刀を捨て腰刀を抜こうともがいたがまっさかさまに落ちた。白石は起き上がらぬうちに押さえつけて首を取り馬には曾我駆け寄って乗り移り甲冑は八木岡剥ぎ取って着用した。 白石の手柄で二人も利益を得てすぐ三人そろって敵陣深く突入すると、仁木・細川らが「味方を討つな!続行せよ!」と叫び大勢の中へ突っ込んで乱戦を始めた。仁木越後守は近づいた五騎の敵を斬り落とし六騎目に傷を負わせさらに敵陣深く入り振り上げた剣を踏み据えて切り合い生死の境で奮闘している様子だった。 解説
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| されば百五十騎、参然として堅を破れば、菊池が勢誠に百倍せりといへども、才の小勢に懸立られて、一陣の軍兵三千余騎、多々良浜の遠干潟を、二十余町までぞ引退ける。搦手に回りける松浦・神田の者共、将軍の御勢の僅に三百余騎にも足ざりけるを二三万騎に見なし、礒打浪の音をも敵の時の声に聞なしければ、俄に叶はじと思ふ心付て、一軍をもせず旌を捲と甲を脱で降人に出にけり。菊池此を見て弥難儀に思ひ、「大勢の懸らぬ先に。」と急肥後国へ引返す。将軍則一色太郎入道々献・仁木四郎次郎義長を差遣し菊池が城を責させらるるに、一日も堪得ず深山の奥へ逃篭る。是より軈同国八代の城を責て内河彦三郎を追落す也。此のみならず、阿蘇大宮司八郎惟直は、先日多々良浜の合戦に深手負たりけるが、肥前国小杵山にて自害しぬ。其弟九郎は、知ぬ里に行迷て、卑き田夫に生擒れぬ。秋月備前守は、大宰府迄落たりけるが、一族二十余人一所にて討れにけり。是等は皆一方の大将共なり。又九州の強敵ともなりぬべき者也しが、天運時至ざれば加様に皆滅されにけり。爾より後は九国・二嶋、悉将軍に付順奉ずと云者なし。此全く菊池が不覚にも非ず、又直義朝臣の謀にも依らず、啻将軍天下の主と成給ふべき過去の善因催して、霊神擁護の威を加へ給しかば、不慮に勝ことを得て一時に靡き順けり。 |
そこで百五十騎が堂々と隊列を組んで突破すると、菊池軍は実際に百倍の兵力があったにもかかわらず、少数精鋭部隊に突き立てられて一陣三千余騎が多々良浜遠浅の干潟を二十町以上も後退した。背後へ回り込もうとした松浦・神田勢は将軍(尊氏)本陣三百余騎という寡兵を見誤って二、三万騎と錯覚し、磯に打ち寄せる波音すら敵の鬨の声に聞き違えたため急遽戦意を失い、交戦もせず旗を巻き甲冑を脱いで降伏した。菊池はこれを見て一層追い詰められ「大軍が来る前に」と慌てて肥後国へ撤退する。 将軍(尊氏)は直ちに一色道献・仁木義長らを派遣して菊池の城を攻撃させると、一日も持たず敵は深山奥へ逃亡。さらに同国八代城を陥落させ内河彦三郎を追放したのみならず、阿蘇大宮司惟直(多々良浜で重傷)が肥前小杵山で自害し弟九郎は農民に捕らえられ、秋月備前守も一族二十余人と共に太宰府近くで討死した。これら九州の有力将帥たち皆が天運尽きて滅び去った結果、九州全土は全て将軍(尊氏)へ帰順することとなった。 この勝利は菊池側の失策でも直義公の戦略によるものでもない――ただ将軍こそ天下の主となるべき過去の善行が因となり神々の守りを得た故、予期せぬ大勝で瞬時に九州を平定できたのである。 解説
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| 今まで大敵なりし松浦・神田の者共、将軍の小勢を大勢也と見て、降人に参たりと其聞有ければ、将軍高・上杉の人々に向て宣けるは、「言の下に骨を消し、笑の中に刀を砺は此比の人の心也。されば小弐が一族共は多年の恩顧なりしか共、正く小弐を討つるも遠からぬ様ぞかし。此を見るにも松浦・神田何なる野心を挿でか、一軍もせず降人には出たるらん。信心真と有時は感応不思議を顕事あり。今御方の小勢を大勢と見し事、不審無に非ず。相構て面々心赦し有べからず。」と仰ければ、遥の末坐に候ける高駿河守進出て申けるは、「誠に人の心の測り難事は、天よりも高地よりも厚と申せども、加様の大儀に於ては、余に人の心を御不審有ては、争か早速の大功を成候べき。就中御勢の多見へて候ける事、例無にも有べからず。其故は昔唐朝に、玄宗皇帝の左将軍に哥舒翰、与逆臣安禄山兵崔乾祐、潼関にて戦けるに、黄なる旗を差たる兵十万余騎、忽然として官軍の陣に出来れり。崔乾祐此を見て敵大勢なりと思ひ、兵を引て四方に逃散る。其喜に勅使宗廟に詣けるに、石人とて、石にて作双て廟に置たる人形共両足泥に触れ、五体に矢立り。さてこそ黄旗の兵十万余騎は、宗廟の神官軍に化して、逆徒を退け給たりけりと、人皆疑を散じけり。 |
以前まで大きな敵だった松浦・神田の人々が将軍(尊氏)の少数兵力を多数と見誤り投降したという報告を受けると、将軍は高や上杉といった家臣たちに向かって言った。「言葉で褒めながら裏では骨抜きにし、笑いの中で刃物を研ぐのが近ごろの人々の心情だ。そのため少弐一族も長年恩恵を受けていたのに、まさしく討ち取るのも遠くないだろう。これを見ても松浦・神田がどんな野心で一戦もせず投降したのか分からない。信仰が誠実であれば不思議な加護があるものだ。今回我々の少数兵力を多数に見えたことは疑いがない。皆警戒して油断するな。」と命じた。 これを聞いて末席に控えていた高駿河守(師直)が進み出て申し上げた。「確かに人の心は測り難く、天より高く地より深いと言われますが、このような大事業では疑念を持ちすぎるとどうして速やかな成功を成し遂げられましょうか。特に我々の兵力が多数に見えたことは前例がないわけではありません。その理由として昔唐王朝で玄宗皇帝配下の左将軍・哥舒翰(カショカン)が逆臣安禄山側の崔乾祐(サイケンユウ)と潼関で戦った時、黄色い旗を持つ十万余騎の兵士たちが突然官軍陣営に現れました。崔乾祐はこれを見て敵大軍と思い撤退して四散しました。喜んだ勅使が宗廟へ行くと石像(石人)は両足泥につき全身矢だらけでした。そこで初めて黄色旗の十万騎は霊廟の神々で反乱者を撃退したのだと皆疑念が消えたのです。」 解説
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| 吾朝には天武天皇与大友王子天下を争はせ給ける時、備中国二万郷と云所にて、両方の兵戦を決せんとす。于時天武天皇の御勢は僅に三百余騎、大友王子の御勢は、一万余騎也。勢の多少更闘ふべくも無りける処に、何より来れる共知ぬ爽かなる兵二万余騎、天皇の御方に出来て、大友王子の御勢を十方へ懸散す。此よりして其所を二万里と名付らる。君が代は二万の里人数副て絶ず備る御貢物哉と周防の内侍が読たりしも、此心にて候也。」と、和漢両朝の例を引て、武運の天に叶へる由を申ければ、将軍を始まいらせて、当座の人々も、皆歓喜の笑をぞ含れける。 ○西国蜂起官軍進発事 去程に、将軍筑紫へ没落し給し刻、四国・西国の朝敵共、機を損じ度を失て、或は山林に隠れ或は所縁を尋て、新田殿の御教書を給らぬ人は無りけり。此時若義貞早速に被下向たらましかば、一人も降参せぬ者は有まじかりしを、其比天下第一の美人と聞へし、勾当の内侍を内裏より給たりけるに、暫が程も別を悲て、三月の末迄西国下向の事被延引けるこそ、誠に傾城傾国の験なれ。依之丹波国には、久下・長沢・荻野・波々伯部の者共、仁木左京大夫頼章を大将として、高山寺の城に楯篭り、播磨国には、赤松入道円心白旗が峯を城郭に構て、射手の下向を支んとす。 |
わが国では天武天皇と大友皇子が天下を争われた時、備中国の二万郷という場所で両軍が決戦しようとした。このとき天武天皇の兵力はわずか三百余騎だったのに対し、大友皇子側は一万余騎であった。兵数の差があまりに大きく戦える状態ではなかったところへ、どこからともなく現れた清々しい二万余騎の援軍が天皇方につき大友皇子軍を散りぢりに打ち破った。これによりその地は「二万里」と名付けられた。「君が代は二万の里 人数添ひて絶えず備る御貢物かな(くんがいわ にまんりのさと ひとぞいひてたえずそなわるみつぎものかな)」という周防内侍の歌もこの故事を詠んだものです。」と言って日本と中国両王朝の例を示し、武運が天意に叶ったことを説明すると、将軍(尊氏)をはじめその場の人々皆が喜び笑顔を見せた。 さて、西国の反乱と官軍進撃について 解説
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| 美作には、菅家・江見・弘戸の者共、奈義能山・菩提寺の城を拵へて、国中を掠め領す。備前には、田井・飽浦・内藤・頓宮・松田・福林寺の者共、石橋左衛門佐を大将として、甲斐河・三石二箇処の城を構て船路・陸地を支んとす。備中には、庄・真壁・陶山・成合・新見・多地部の者共、勢山を切塞で、鳥も翔らぬ様に構へたり。是より西、備後・安芸・周防・長門は申に不及、四国・九州も悉著では叶まじかりければ、将軍方に無志も皆順ひ不靡云事なし。処々の城郭、国々の蜂起、震く京都へ聞ければ、先東国を敵に成ては叶まじとて、北畠源中納言顕家卿を、鎮守府の将軍になして、奥州へ下さる。新田左中将義貞には、十六箇国の管領を被許、尊氏追討の宣旨をぞ被成ける。義貞綸命を蒙て、已に西国へ立んとし給ける刻、瘧病の心地煩しかりければ、先江田兵部大輔行義・大館左馬助氏明二人を播磨国へ被差下。其勢二千余騎、三月四日京を立て、同六日書写坂本に著にけり。赤松入道是を聞て、敵に足をためさせては叶まじとて、備前・播磨両国の勢を合て書写坂本へ押寄ける間、江田・大館、室山に出向て相戦ふ。赤松軍利無して、官軍勝に乗しかば、江田・大館勢を得て、西国の退治輒かるべき由、頻に羽書を飛せて京都へ注進す。 |
美作国では菅家・江見・弘戸らが奈義能山城と菩提寺城を築き、国内で略奪して支配した。備前国では田井・飽浦・内藤・頓宮・松田・福林寺らが石橋左衛門佐(貞朝)を大将として甲斐河城と三石城の二箇所に砦を構え、海路や陸路での通行を妨害した。備中国では庄・真壁・陶山・成合・新見・多地部らが勢山を封鎖し鳥も飛べないほど厳重に防衛していた。この西側の備後国・安芸国・周防国・長門国は言うまでもなく、四国や九州まで全て反乱状態では対応できないため将軍(尊氏)方と敵対しない者も皆従わざるを得なかった。各地での城塞構築や蜂起の報が震え上がる京都に届くと朝廷側は「まず東国を抑えないことにはどうにもならない」と考え、北畠源中納言顕家卿(みちか)を鎮守府将軍として奥州へ派遣した。新田左中将義貞に対しては十六箇国の統治権限を与え尊氏追討の命令が下された。 しかし義貞は朝廷からの命を受け西国に向かおうとした時、病気で体調不良だったため先に江田兵部大輔行義と大館左馬助氏明の二人を播磨国へ差し向けた。その兵力二千余騎は三月四日に京都を出発し同六日には書写坂本(姫路市)に到着した。赤松入道円心がこれを聞き「敵軍に足場を築かせてはいけない」と備前・播磨両国の兵を集め書写坂本へ押し寄せたため、江田・大館は室山に出向いて戦った。赤松軍は形勢不利となり官軍(南朝側)が優勢になったので江田・大館は勝利を得て西国平定も容易だと頻繁に急報を飛脚で京都へ報告した。 解説
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| ○新田左中将被責赤松事 去程に、左中将義貞の病気能成てければ、五万余騎の勢を率して、西国へ下り給ふ。後陣の勢を待調へん為に、播磨国賀古河に四五日逗留有ける程に、宇都宮治部大輔公綱・紀伊常陸守・菊池次郎武季三千余騎にて下著す。其外摂津国・播磨・丹波・丹後の勢共、思々に馳参じける間、無程六万余騎に成にけり。「さらば軈て赤松が城へ寄て可責。」とて、斑鳩の宿迄打寄せ給たりける時、赤松入道円心、小寺藤兵衛尉を以て、新田殿へ被申けるは、「円心不肖の身を以て、元弘の初大敵に当り、逆徒を責却候し事、恐は第一の忠節とこそ存候しに、恩賞の地、降参不儀の者よりも猶賎く候し間、一旦の恨に依て多日の大功を捨候き。乍去兵部卿親王の御恩、生々世々難忘存候へば、全く御敵に属し候事、本意とは不存候。所詮当国の守護職をだに、綸旨に御辞状を副て下し給り候はゞ、如元御方に参て、忠節を可致にて候。」と申たりければ、義貞是を聞給て、「此事ならば子細あらじ。」と被仰て、頓て京都へ飛脚を立、守護職補任の綸旨をぞ申成れける。其使節往反の間、已に十余日を過ける間に、円心城を拵すまして、「当国の守護・国司をば、将軍より給て候間、手の裏を返す様なる綸旨をば、何かは仕候べき。 |
新田左中将(義貞)が赤松氏を攻めること 解説
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| 」と、嘲哢してこそ返されけれ。新田左中将是を聞給て、「王事毋脆事、縦恨を以て朝敵の身になる共、戴天欺天命哉。其儀ならば爰にて数月を送る共、彼が城を責落さでは通るまじ。」とて、六万余騎の勢を以て、白旗の城を百重千重に取囲て、夜昼五十余日、息をも不継責たりける。斯りけれ共、此城四方皆嶮岨にして、人の上るべき様もなく、水も兵粮も卓散なる上、播磨・美作に名を得たる射手共、八百余人迄篭りたりける間、責けれども/\只寄手々負討るゝ許にて、城中恙なかりけり。脇屋右衛門佐是を見給て、左中将に向て被申けるは、「先年正成が篭りたりし金剛山の城を、日本国の勢共が責兼て、結句天下を覆されし事は、先代の後悔にて候はずや。僅の小城一に取懸りて、そゞろに日数を送り候はゞ、御方の軍勢は皆兵粮に疲、敵陣の城には弥強り候はんか。其上尊氏已に筑紫九箇国を平て、上洛する由聞候へば、彼が近付ぬ前に備前・備中を退治して、安芸・周防・長門の勢を被著候はでは、ゆゝしき大事に及候ぬとこそ覚候へ。乍去今迄責懸たる城を落さで引は、天下の哢共成べく候へば、御勢を少々被残、自余の勢を船坂へ差向られ、先山陽道の路を開て中国の勢を著け、推て筑紫へ御下候へかし。」と被申ければ、左中将、「此儀尤宜覚候。 |
新田左中将が赤松に責められる件 新田左中将がこれを聞き「朝廷への奉公には私怨があってはいけない。たとえ恨みがあっても朝敵になるのは天を欺く行為だ。そういうことならここで数ヶ月過ごしても彼の城を落とすまでは通らない」と言い、六万余騎の軍勢で白旗城を幾重にも包囲し昼夜五十余日休まず攻めた。しかしこの城は四方が険しい山岳地帯で人が登れず水や兵糧も豊富だった上に播磨・美作の名射手八百余人以上が籠っていたため、攻めても反撃を受け味方が討たれるばかりで城内は無傷だった。 脇屋右衛門佐(義助)がこれを見て左中将へ進言した:「かつて楠木正成が篭った金剛山城を日本中の軍勢が落とせず結局天下が傾いたのは教訓です。小さい城一つにこだわって無駄に日数を費やすなら味方は兵糧不足で疲弊し敵はますます強くなるでしょう。さらに尊氏がすでに九州九ヶ国を平定して上洛すると聞けば、彼が近づく前に備前・備中を制圧し安芸・周防・長門の勢力を得ておかないと大変な事態になります。とはいえ今まで攻め続けた城を落とさず撤退すれば世間の笑いものになるでしょうから、一部兵力はここに残し主力を船坂へ向けて山陽道ルートを開き中国地方平定後筑紫(九州)へ下向なさってはいかがでしょうか」。すると左中将は「この提案はもっともだ」と同意した。 解説
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| 」とて、頓て宇都宮と菊池が勢を差副、伊東大和守・頓宮六郎を案内者として、二万余騎舟坂山へぞ向られける。彼山と申は、山陽道第一の難処也。両方は嶺峨々として、中に一の細道あり。谷深石滑にして、路羊腸を践で上る事二十余町、雲霧窈溟たり。若一夫怒臨関、万侶難得透。況岩石を穿て細橋を渡しゝ大木を倒して逆木に引たれば、何なる百万騎の勢にても、責破るべしとはみへざりけり。去ば指も勇める菊池・宇都宮が勢も、麓に磬へて不進得。案内者に憑れたる伊東・頓宮の者共も、山をのみ向上て徒に日をぞ送ける。 ○児嶋三郎熊山挙旗事付船坂合戦事 斯りける処に、備前国の住人児嶋三郎高徳、去年の冬、細川卿律師、四国より責上し時、備前・備中数箇度の合戦に打負て、山林に身を隠し、会稽の恥を雪がんと、義貞朝臣の下向を待て居たりけるが、舟坂山を官軍の超かねたりと聞て、潛使を新田殿の方へ立て申けるは、「舟坂より御勢を可被越由承及候事実に候はゞ、彼要害輒く難被破候歟。高徳来十八日当国於熊山可挙義兵候。さる程ならば、舟坂を堅たる凶徒等、定て熊山へ寄来候はん歟。敵の勢のすきたる隙を得て御勢を二手に分たれ、一手をば舟坂へ差向て可攻勢ひを見せ、一手をば三石山の南に当て樵の通ふ路一候なる、潛に廻せて、三石の宿より西へ被出候はゞ、船坂の敵前後を被裹、定て引方を失候はんか。 |
新田左中将が赤松に責められる件(承前) そうした中で備前国の住人である児嶋三郎高徳は、去年の冬に細川卿律師が四国から攻め上がった際、備前・備中の幾度かの戦いで敗れ山林に身を隠し、会稽の恥(敗戦の屈辱)を晴らそうと義貞公の西国下向を待っていたところ、「官軍(新田軍)が船坂山を越えられない」との情報を得た。密使を新田殿のもとに遣わして申し上げるには:「もし船坂からお進みになるというのが真実なら、あの要害は簡単に突破できまい。高徳は来る十八日にこの国の熊山で挙兵します。そうなれば船坂を固守する敵軍は必ず熊山へ向かうでしょう。その隙を見て御軍勢を二手に分けられよ。一手には船坂へ向けて攻撃の構えを見せかけ、もう一手は三石山の南にある樵(きこり)の通る道から密かに回り込んで三石宿より西に出れば、船坂の敵は前後に包囲され退路を失うはずです。」 解説
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| 高徳国中に旗を挙、舟坂を先破り候はゞ、西国の軍勢御方に参ずと云者候べからず。急此相図を以て、御合戦有べく候也。」とぞ申送ける。其比播磨より西、長門の国に至まで悉く敵陣にて、案内を通づる者もなきに、高徳が使者来て、企の様を申ければ、新田殿悦給ふ事不斜。則相図の日を定て、其使をぞ被返ける。使者備前に帰て相図の様を申ければ、四月十七日の夜半許に、児嶋三郎高徳、己が館に火をかけて、僅二十五騎にてぞ打出ける。国を阻境を隔たる一族共は、事急なるに依て不及相催、近辺の親類共に事の子細を告たりければ、今木・大富・和田・射越・原・松崎の者共、取物も不取敢馳著ける間、其勢二百余騎に成にけり。兼ては夜中に熊山へ取上り、四方に篝火を焼て、大勢篭りたる勢ひを、敵にみせんと巧みたりけるが、馬よ物具よとひしめく間に、夏の夜程なく明けれども、無力相図の時刻を違じとて、熊山へこそ取上りけれ。如案三石・舟坂の勢共是を聞て、「国中に敵出来なば、ゆゝしき大事なるべし。万方を閣て、先熊山を責よ。」とて、舟坂・三石の勢三千余騎を引分て、熊山へぞ向たりける。彼熊山と申は、高さは比叡山の如にして四方に七の道あり。其路何も麓は少し嶮して峯は平なり。高徳僅の勢を七の道へ差分て、四方へ敵をぞ防ぎける。 |
児嶋三郎高徳は新田殿にこう伝えた:「もし私が国内で旗揚げし船坂を先に突破すれば、西国の軍勢も味方に加わるでしょう。急ぎこの合図をもって戦いを開始すべきです。」当時播磨以西から長門国まで全て敵陣で案内役さえおらず、高徳の使者が来て計画を伝えたため、新田殿は大いに喜びすぐに決行日を定めて使者を帰した。使者が備前に戻り連絡すると、四月十七日夜半頃、児嶋三郎高徳は自らの館へ火を放ちわずか二十五騎で出撃した。遠方の一族は事態急迫のため召集できなかったが、近隣の親類に事情を告げると今木・大富・和田・射越・原・松崎の人々が武器も取らず駆けつけたので兵力二百余騎となった。元は夜中に熊山へ登り四方で篝火を焚き大軍が籠る様子を見せようと企てたものの、馬具や装備の騒ぎで夏の短い夜が明けてしまい、合図時刻遅れを恐れて急ぎ熊山へ登った。案の定三石・船坂の敵兵はこれを聞き「国内に敵出現とは大変だ! 他を置いて先ず熊山を攻めよ」と言い三千余騎を分けて熊山へ向かった。この熊山という場所は高さ比叡山ほどで四方に七つの道がある。どの道も麓がやや険しく頂上が平坦だったため、高徳は少ない兵力を七筋の道に分散配置し各方面から敵を防いだ。 解説
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| 追下せば責上り、責上れば追下し、終日戦暮して態と時をぞ移しける。夜に入ける時、寄手の中に石戸彦三郎とて此山の案内者有けるが、思も寄ぬ方より抜入て、本堂の後なる峯にて鬨をぞ揚たりける。高徳四方の麓へ勢を皆分て遣ぬ。僅に十四五騎にて本堂の庭に磬たりけるが、石戸が二百騎の中へ喚て懸入り、火を散てぞ闘ひける。深山の木隠れ月暗して、敵の打太刀分明にも見へざりければ、高徳が内甲を突れて、馬より倒に落にけり。敵二騎落合て、頚を取んとしける処へ、高徳が甥松崎彦四郎・和田四郎馳合て、二人の敵を追払ひ、高徳を馬に引乗せて、本堂の縁にぞ下しける。高徳は内甲の疵痛手也ける上、馬より落ける時、胸板を強く蹈れて、目昏魂消ければ、暫絶入したりけるを、父備後守範長、枕の下に差寄て、「昔鎌倉の権五郎景政は、左の眼を射抜れ、三日三夜まで其矢を抜かで、当の矢を射たりとこそ云伝へたれ。是程の小疵一所に弱りて死ると云事や可有。其程無云甲斐心を以て此一大事をば思立けるか。」と荒らかに恥しめける間、高徳忽に生出て、「我を馬に舁乗よ、今一軍して敵を追払はん。」とぞ申ける。父大に悦で、「今は此者よも死なじ。いざや殿原、爰らに有つる敵共追散さん。」とて、今木太郎範秀・舎弟次郎範仲・中西四郎範顕・和田四郎範氏・松崎彦四郎範家主従十七騎にて、敵二百騎が中へまつしらくに懸入ける間、石戸是を小勢とは知ざりけるにや、一立合せも立合せず、南面の長坂を福岡までこそ引たりけれ。 |
敵が押し返せば攻め上がり、攻め上げればまた引き下げるという戦いを終日続け、わざと時間を引き延ばしていた。夜になると、攻撃側の中に石戸彦三郎というこの山の案内役がおり、思いもよらない方向から抜け出て本堂後ろの峰で鬨(とき)の声を上げた。高徳は四方の麓へ全兵力を分散配置してしまい、わずか十四五騎だけで本堂の庭に控えていたところ、石戸の二百騎の中へ叫びながら突入し火の粉が散るほどの激闘を繰り広げた。深山中で木々に隠れ月明かりも暗く敵の太刀筋さえ見分けられず、高徳は鎧の内側(胸)を刺されて馬から真っ逆さまに落ちてしまった。敵兵二騎が駆け寄り首を取ろうとした瞬間、高徳の甥である松崎彦四郎と和田四郎が駆けつけて二人の敵を追い払い、高徳を馬上へ引き上げ本堂の縁に下ろした。高徳は鎧内部の傷が痛む上、落馬時に胸板(胸部防具)を強く踏まれ意識朦朧となって一時気絶していたところ、父である備後守範長が枕元に近づきこう叱咤した:「昔、鎌倉の権五郎景政は左目を射抜かれながらも三日三夜その矢を抜かず敵を討ったと伝わる。これほどの軽傷で弱って死ぬことがあろうか?お前がこの大事業を決意したのは何のためだ?」と激しく恥じ入らせると、高徳は突然起き上がり「私を馬に乗せよ!もう一戦して敵を追い払うぞ」と言った。父は大いに喜び「今こそこの者は死なぬだろう。さあ諸君、ここにいる敵どもを撃ち破れ!」と命じたため、今木太郎範秀・弟次郎範仲・中西四郎範顕・和田四郎範氏・松崎彦四郎範家ら主従十七騎が敵二百騎の中へ無謀にも突入した。石戸はこれが少数勢とは知らず一戦も交えず、南面の長い坂を福岡(現岡山県瀬戸内市)まで退却してしまった。 解説
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| 其侭両陣相支て互に軍もせざりけり。相図の日にも成ければ、脇屋右衛門佐を大将として、梨原へ打莅み、二万騎の勢を三手に分たる。一手には江田兵部大輔を大将として、二千余騎杉坂へ向らる。是は菅家・南三郷の者共が堅めたる所を追破て、美作へ入ん為也。一手には大江田式部大輔氏経を大将として、菊池・宇都宮が勢五千余騎を船坂へ差向らる。是は敵を爰に遮り留て、搦手の勢を潛に後より回さん為也。一手には伊東大和守を案内者として、頓宮六郎・畑六郎左衛門、当国の目代少納言範猷・由良新左衛門・小寺六郎・三津沢山城権守以下態小勢を勝て三百余騎向らる。其勢皆轡の七寸を紙を以て巻て、馬の舌根を結たりける。杉坂越の北、三石の南に当て、鹿の渡る道一あり。敵是を知ざりけるにや、堀切たる処もなく、逆木の一本をも引ざりけり。此道余に木茂て、枝の支へたる処をば下て馬を引く。山殊に嶮して、足もたまらぬ所をば、中々乗て懸下す、兎角して三時許に嶮岨を凌で三石の宿の西へ打出たれば、城中の者も舟坂の勢も、遥に是を顧て、思も寄ぬ方なれば、熊山の寄手共が帰たるよと心得て、更に仰天もせざりけり。三百余騎の勢共、宿の東なる夷の社の前へ打寄り、中黒の旗を差揚て東西の宿に火をかけ、鬨をぞ挙たりける。 |
両陣営が対峙したまま互いに戦闘もせず膠着していた。合図の日となったため、脇屋右衛門佐を大将として梨原へ進軍し、二万騎もの兵力を三手に分けた。一手は江田兵部大輔を大将とし二千余騎で杉坂に向かわせた。これは菅家や南三郷の勢力が固守する地点を突破して美作地方へ侵入するためである。二手目は大江田式部大輔氏経を大将として菊池・宇都宮勢五千余騎を船坂に差し向けた。これで敵軍をそこで足止めさせ、別動隊(搦手)が密かに背後から回り込む作戦である。三手目は伊東大和守を案内役とし、頓宮六郎・畑六郎左衛門、当国の目代少納言範猷・由良新左衛門・小寺六郎・三津沢山城権守以下わずか三百余騎で進軍させた。この部隊は全員が馬勒(くつわ)の一部に紙を巻き付け、馬が鳴かないよう舌根(したのもと)を縛ってあった。杉坂峠の北側、三石宿の南端にある鹿用の通小路一本を通った――敵軍はこの道を知らなかったか、塹壕や逆茂木すら設置していなかった。草木が生い茂る道では枝に引っ掛かる箇所で下馬して馬を引き、特に険しい崖地帯では無理やり乗り降りするなど苦労しつつ約三時間後に難所を通り抜け三石宿の西側へ出た。城中と船坂部隊は遠くからこれを見て思いもよらない方向からの接近だったため熊山攻囲軍が戻ってきたのだろうと思い、驚きもしなかった。三百余騎の兵たちは宿場東端にある夷神社前に集結し中黒旗を掲げると東西の町家に火を放ち鬨(とき)の声を上げた。 解説
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| 城中の兵は、大略舟坂へ差向けぬ。三石に有し勢は、皆熊山へ向ひたる時分なれば、闘はんとするに勢なく、防がんとするに便なし。舟坂へ向ひたる勢、前後の敵に取巻れて、すべき様もなかりければ、只馬・物具を捨て、城へ連たる山の上へ、はう/\逃上らんとぞ騒ぎける。是を見て、大手・搦手差合せて、「余すな漏すな。」と追懸ける間、逃方を失ける敵共此彼に行迫て自害をする者百余人、生取らるゝ者五十余人也。爰に備前国一宮の在庁、美濃権介佐重と云ける者、可引方なくして、已に腹を切らんとしけるが、屹と思返す事有て、脱たる鎧を取て著、捨たる馬に打乗て、向ふ敵の中を推分て、播磨の方へぞ通りける。舟坂より打入る大勢共、「是は何者ぞ。」と尋ければ、「是は搦手の案内者仕つる者にて候が、合戦の様を委く新田殿へ申入候也。」と答ければ、打合ふ数万の勢共、「目出候。」と感じて、道を開てぞ通しける。佐重、総大将の侍所長浜が前に跪て、「備前国の住人に、美濃権介佐重、三石の城より降人に参て候。」と申ければ、総大将より、「神妙に候。」と被仰、則著到にぞ被著ける。佐重若干の人を出抜て、其日の命を助かりける。是も暫時の智謀也。舟坂已に破れたれば、江田兵部大輔は、三千余騎にて美作国へ打入て、奈義能山・菩提寺二箇所の城を取巻給ふ。 |
城の兵士の大半は船坂方面に派遣されていなかった。三石に駐屯していた兵力も全員熊山へ向かっていた時期だったため、戦おうにも兵力が足りず、防御しようにも手立てがない状態であった。船坂に向かった部隊は前後の敵に包囲されて為す術もなく、ただ馬や武具を捨て、城につながる山上へ這い上がって逃げようと混乱した。これを見た主力部隊(大手)と別働隊(搦手)が協力して「一人残らず討ち取れ」と追撃する中、退路を断たれた敵兵たちは散り散りになり自害した者百人余り、生け捕られた者五十人余りとなった。その時、備前国一宮の役人である美濃権介佐重という者は逃げ場がなくなり切腹しようとしたが、突然思い直して脱いだ鎧を着用し、捨てられていた馬に乗り、敵軍の中を突破して播磨方面へ逃走した。船坂から攻め込んで来た大軍が「そちは何者か」と問うと、「私は別働隊の案内役を務めた者でございまして、戦況を詳しく新田殿に報告しに行くところです」と答えたため、数万の兵士たちは「結構なことだ」と言って道を開けて通した。佐重が総大将(脇屋義治か)の侍従・長浜の前にひざまずき「備前国住人の美濃権介佐重、三石城からの降伏者として参上しました」と申し出ると、総大将から「殊勝である」と言われ直ちに投降者名簿(著到)へ記載された。こうして佐重はわずかな知略でその日の命を救ったのであった。これも一時の機転であった。船坂が陥落したため、江田兵部大輔は三千余騎で美作国へ侵入し、奈義能山城と菩提寺城の二カ所を包囲した。 解説
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| 彼城もすべなき様なければ、馬・武具を捨て、城に連たる上の山へぞ逃上りける。脇屋右衛門佐義助は、五千余騎にて三石の城を責らる。大江田式部大輔は、二千余騎にて備中国へ打越、福山の城にぞ陣を被取ける。 ○将軍自筑紫御上洛事付瑞夢事 多々良浜の合戦の後、筑紫九国の勢一人として将軍に不順靡云者無りけり。然共中国に敵陣充満して道を塞ぎ、東国王化に順て、御方に通ずる者少なかりければ、左右なく京都へ責上らん事は、如何有べからんと、此春の敗北にこり懼て、諸卒敢て進む義勢無りける処に、赤松入道が三男則祐律師、並に得平因播守秀光、播磨より筑紫へ馳参て申けるは、「京都より下されたる敵軍、備中・備前・播磨・美作に充満して候といへ共、是皆城々を責かねて、気疲れ粮尽たる時節にて候間、将軍こそ大勢にて御上洛候へとだに承及候はゞ、一たまりも怺じと存候。若御進発延引候て、白旗の城責落されなば、自余の城一日も怺候まじ。四箇国の要害、皆敵の城に成て候はんずる後は、何百万騎の勢にても、御上洛叶まじく候。是則趙王が秦の兵に囲れて、楚の項羽舟筏を沈め、釜甑を焼て、戦負けば、士卒一人も生て返らじとせし戦にて候はずや。天下の成功只此一挙に可有にて候者を。」と詞を残さで申ければ、将軍是を聞給て、「げにも此義さもありと覚るぞ。 |
その城(三石城)もどうしようもない状態だったので、兵士たちは馬や武具を捨て、城につながる山頂へ逃げ登った。脇屋義助(右衛門佐)は五千余騎で三石城を攻撃した。大江田氏経(式部大輔)は二千余騎で備中国に進み、福山城に陣営を置いた。 ○将軍の九州から京都へ向かう件と吉兆の夢について 解説
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| さらば夜を日に継で、上洛を急ぐべし。但九州を混ら打捨ては叶まじ。」とて、仁木四郎次郎義長を大将として、大友・小弐両人を留置き、四月二十六日に太宰府を打立て、同二十八日に順風に纜解て、五月一日安芸の厳嶋へ舟を寄られて、三日参篭し給ふ。其結願の日、三宝院の僧正賢俊京より下て、持明院殿より被成ける院宣をぞ奉ける。将軍是を拝覧し給て、「函蓋相応して心中の所願已に叶へり。向後の合戦に於ては、不勝云事有べからず。」とぞ悦給ける。去四月六日に、法皇は持明院殿にて崩御なりしかば、後伏見院とぞ申ける。彼崩御已前に下し院宣なり。将軍は厳島の奉弊事終て、同五日厳嶋を立給へば、伊予・讚岐・安芸・周防・長門の勢五百余艘にて馳参る。同七日備後・備中・出雲・石見・伯耆の勢六千余騎にて馳参る。其外国々の軍勢不招に集り、不責に順ひ著事、只吹風の草木を靡すに異ならず。新田左中将の勢已に備中・備前・播磨・美作に充満して、国々の城を責る由聞へければ、鞆の浦より左馬頭直義を大将にて、二十万騎を差分て、徒路を上せられ、将軍は一族四十余人、高家一党五十余人、上杉の一類三十余人、外様の大名百六十頭、兵船七千五百余艘を漕双て、海上をぞ上られける。同五日備後の鞆を立給ひける時一の不思議あり。 |
それならば昼夜を問わず京都への上洛を急ぐべきだ。ただし九州を混乱したまま放置するわけにはいかない。」と言って、仁木義長(四郎次郎)を大将として大友氏と小弐氏の両名を残留させると、四月二十六日に太宰府を出発し、同二十八日には順風に帆綱を解き五月一日に安芸国の厳島へ船を寄せて三日間参籠した。その祈願成就の日に三宝院の僧正賢俊が京都から下向し持明院殿(上皇)からの院宣を奉呈すると、将軍足利尊氏はこれを拝見して「箱と蓋がぴったり合うように心の中の望みは既に叶った。今後の戦いにおいて負けることはあるまい。」と喜ばれた。(注:この時点で)去る四月六日に法皇(後伏見上皇)が持明院殿で崩御されたため、後伏見院と呼ばれていたのであり、その勅命は崩御前に発せられたものだった。将軍尊氏は厳島での神事を終えて同五日に厳島を出立すると伊予・讃岐・安芸・周防・長門の兵が五百余隻で馳せ参じた。同七日には備後・備中・出雲・石見・伯耆の兵力六千余騎が集結した。その他諸国の軍勢は招かれぬのに自然と集合し強制されずに従う様子は風が草木をなびかせるのと変わらなかった。新田義貞(左中将)軍が既に備中・備前・播磨・美作に充満して各国の城を攻めているとの報を得たため鞆ノ浦から足利直義(左馬頭)を大将として二十万騎を陸路で差し向けさせ自らは一族四十余人、高家一党五十余人、上杉一族三十余人外様大名百六十名と兵船七千五百余隻を漕いで海上経由で進んだ。同五日に備後国の鞆を出立された時不思議な出来事があった。 解説
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| 将軍の屋形の中に少目眠給たりける夢に、南方より光明赫奕たる観世音菩薩一尊飛来りまし/\て、船の舳に立給へば、眷属の二十八部衆、各弓箭兵杖を帯して擁護し奉る体にぞ見給ける。将軍夢覚て見給へば、山鳩一つ船の屋形の上にあり。彼此偏に円通大士の擁護の威を加へて、勝軍の義を可得夢想の告也と思召ければ、杉原を三帖短冊の広さに切せて、自観世音菩薩を書せ給て、舟の帆柱毎にぞ推させられける。角て舟路の勢、已に備前の吹上に著けば、歩路の勢は、備中の草壁の庄にぞ著にける。 ○備中福山合戦事 福山に楯篭る処の官軍共、此由を聞て、「此城未拵るに不及、彼に付此に付、大敵を支へん事は、可叶共覚へず。」と申けるを、大江田式部大輔、且く思案して宣ひけるは、「合戦の習、勝負は時の運に依といへども、御方の小勢を以て、敵の大勢に闘はんに、不負云事は、千に一も有べからず。乍去国を越て足利殿の上洛を支んとて、向ひたる者が、大勢の寄ればとて、聞逃には如何すべき。よしや只一業所感の者共が、此所にて皆可死果報にてこそ有らめ。軽死重名者をこそ人とは申せ。誰々も爰にて討死して、名を子孫に残さんと被思定候へ。」と諌められければ、紀伊常陸・合田以下は、「申にや及候。 |
将軍足利尊氏は船室の中でうとうと眠りにつかれ、夢を見られた。南の方から光輝く観世音菩薩一尊が飛来され、船の舳先にお立ちになると、眷属である二十八部衆らがそれぞれ弓矢や武器を携えてお守り申し上げている様子に見えたのである。将軍は目覚めてご覧になると山鳩一羽が船室の上にいた。これは明らかに観音菩薩(円通大士)の加護による勝利の予兆だと思われ、杉原紙を三帖分の短冊幅に切らせて自ら観世音像をお描きになり、全ての帆柱にお掛けさせられた。 こうして船団は備前国の吹上浜へ到着し、陸路部隊は備中国草壁庄へと進駐した。 解説
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| 」と領状して討死を一篇に思儲てければ、中々心中涼くぞ覚へける。去程に、明れば五月十五日の宵より、左馬頭直義三十万騎の勢にて、勢山を打越へ、福山の麓四五里が間、数百箇所を陣に取て、篝を焼てぞ居たりける。此勢を見ては、如何なる鬼神ともいへ、今夜落ぬ事はよも非じと覚けるに、城の篝も不焼止、猶怺たりと見へければ、夜已に明て後、先備前・備中の勢共、三千余騎にて押寄せ、浅原峠よりぞ懸たりける。是迄も城中鳴を静めて音もせず。「さればこそ落たりと覚るぞ。時の声を挙て敵の有無も知れ。」とて、三千余騎の兵共、楯の板を敲き、時を作る事三声、近付て上んとする処に、城中の東西の木戸口に、大鼓を打て時の声をぞ合せたりける。外所に磬たる寄手の大勢是を聞て、「源氏の大将の篭りたらんずる城の、小勢なればとて、聞落にはよもせじと思つるが、果して未怺たりけるぞ。侮て手合の軍し損ずな。四方を取巻て同時に責よ。」とて国々の勢一方々々を請取て、谷々峯々より攻上りける。城中の者共は、兼てより思儲たる事なれば、雲霞の勢に囲まれぬれ共少も不騒、此彼の木隠に立隠れて、矢種を不惜散々に射ける間、寄手稲麻の如に立双びたれば、浮矢は一も無りけり。敵に矢種を尽させんと、寄手は態射ざりければ、城の勢は未だ一人も不手負。 |
「承知しました」と全員が討ち死に覚悟で心を固めたため、かえって気持ちは落ち着いていた。そうこうしているうちに翌5月15日の夕方から、足利直義(左馬頭)率いる30万騎の大軍が勢山を越えて福山城麓まで押し寄せ、四方数里に数百ヶ所も陣を取り篝火を焚いて包囲した。この光景を見た籠城兵は「鬼神といえど今夜中に落ちないだろう」と覚悟していたところ、城内の篝火が消えないでまだ持ちこたえているように見えた。 夜が明けてまず備前・備中の攻撃部隊三千騎余りが浅原峠から押し寄せてきた。この時点でも城は静まり返っていた。「やはり落ちたか」と思った攻城軍は「鬨の声を上げろ!敵の状態を見極めよ!」と盾を叩き三度叫んだ。近づいて攻め上ろうとした瞬間、城内から東西両門で太鼓が鳴らされ鬨の声が応酬された。 これを聞いた城外の大軍は驚嘆した。「源氏大将(足利方)が籠る城だ。小勢だからと侮っていたがまだ耐えているぞ!軽んじて失敗するな。四方を包囲して一斉に攻めろ!」各国の部隊が分担区域を受け持ち、谷や峰から同時に攻め登った。 しかし城内兵は予想通りで、雲霞のような敵勢に囲まれても騒がず木陰に潜み矢を惜しげもなく射かけたため、攻城側は稲穂のように密集していたので無駄な矢一本出さなかった。わざと反撃せず城内の弓矢を使い尽くさせる作戦だったため、城兵にはまだ一人の負傷者も出ていなかった。 解説
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| 大江田式部大輔是を見給て、「さのみ精力の尽ぬさきに、いざや打出て、左馬頭が陣一散し懸散さん。」とて、城中には徒立なる兵五百余人を留て、馬強なる兵千余騎引率し、木戸を開かせ、逆木を引のけて、北の尾の殊に嶮き方より喚てぞ懸出られける。一方の寄手二万余騎是に被懸落、谷底に馬を馳こみ、いやが上に重り臥臥す。式部大輔是をば打捨、「東のはなれ尾に二引両の旗の見るは、左馬頭にてぞ有らん。」とて、二万余騎磬へたる勢の中へ破て入り、時移るまでぞ闘れける。「是も左馬頭にては無りける。」とて、大勢の中を颯と懸抜て御方の勢を見給へば、五百余騎討れて纔に四百騎に成にけり。爰にて城の方を遥に観れば、敵早入替りぬと見へて櫓・掻楯に火を懸たり。式部大輔其兵を一処に集めて、「今日の合戦今は是迄ぞ、いざや一方打破て備前へ帰り、播磨・三石の勢と一にならん。」とて、板倉の橋を東へ向て落給へば、敵二千騎・三千騎、此彼に道を塞で打留んとす。四百余騎の者共も、遁ぬ処ぞと思ひ切たる事なれば、近付敵の中へ破て入り、懸散し、板倉川の辺より唐皮迄、十余度までこそ闘ひけれ。され共兵もさのみ討れず、大将も無恙りければ、虎口の難を遁て、五月十八日の早旦に、三石の宿にぞ落著ける。 |
大江田氏経(式部大輔)はこの状況を見て「まだ体力の尽きないうちに打って出よ。直義本陣へ一気に突入せよ!」と命じ、城内には歩兵五百余人を残し、精鋭の騎馬隊千余騎を率いて城門を開け柵を撤去。北尾根の険しい斜面から叫び声を上げて突撃した。 一方(浅原峠方面)に布陣していた攻城部隊二万余騎はこれに蹴散らされ、谷底へ馬ごと転落して身動きが取れなくなった。氏経はこれを放置し「東の離れた尾根に二引両旗が見える。あれが直義本陣だ」と言い、別働隊二万余騎が密集する敵中に突破進入。幾度も激闘を繰り広げた後、「ここにも直義はいない」と気づき大軍を駆け抜けて味方の状況を見ると、五百余騎討ち死にして僅か四百騎になっていた。 遠く城を見渡すと敵が占拠したらしく櫓や盾に火がかけられていた。氏経は残兵を集め「もはやこれまでだ。突破して備前へ退き播磨・三石の軍勢と合流せよ」と指示し、板倉川方面へ東進すると敵二千騎・三千騎が道を塞いでいた。四百余騎の将兵も逃げ場なしと悟り敵中に突入して散開しながら戦い、板倉川から唐皮(現岡山県瀬戸内市付近)まで十余度にわたり交戦した。幸い兵力はさほど減らず大将も無事だったため危難を脱し、五月十八日早朝に三石宿へ到着した。 解説
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| 左馬頭直義は、福山の敵を追落して、事始よしと悦給事不斜。其日一日唐皮の宿に逗留有て、頚の実験有けるに、生捕・討死の頚千三百五十三と註せり。当国の吉備津宮に参詣の志をはしけれ共、合戦の最中なれば、触穢の憚有とて、只願書許を被篭て、翌の日唐皮を立給へば、将軍も舟を出されて、順風に帆をぞあげられける。五月十八日晩景に、脇屋右衛門佐三石より使者を以て、新田左中将の方へ立て、福山の合戦の次第、委細に註進せられければ、其使者軈て馳返て、「白旗・三石・菩提寺の城未責落ざる処に、尊氏・直義大勢にて舟路と陸路とより上ると云に、若陸の敵を支ん為に、当国にて相待ば、舟路の敵差違て帝都を侵さん事疑なし。只速に西国の合戦を打捨て、摂津国辺まで引退、水陸の敵を一処に待請、帝都を後に当て、合戦を致すべく候。急其よりも山の里辺へ出合れ候へ。美作へも此旨を申遣し候つる也。」とぞ、被仰たりける。依之五月十八日の夜半許に、官軍皆三石を打捨て、舟坂をぞ引れける。城中の勢共、是に機を得て、舟坂山に出合ひ、道を塞で散々に射る。宵の間の月、山に隠れて、前後さだかに見へぬ事なれば、親討れ子討るれども、只一足も前へこそ行延んとしける処に、菊池が若党に、原源五・源六とて、名を得たる大剛の者有りけるが、態と迹に引さがりて、御方の勢を落さんと、防矢を射たりける。 |
足利直義(左馬頭)は福山城を攻略したことを幸先良い戦いの始まりとして喜んだ。その日は唐皮宿に滞在し首実検を行ったところ、捕虜や討ち取られた敵兵の数は1353人と記録された。この地にある吉備津宮への参拝を望んでいたが戦闘中であるため死穢(血のけがれ)を避けるべく願文だけ納め、翌日唐皮宿を出発したところ、足利尊氏(将軍)も船で追いかけてきて順風に帆を上げた。 5月18日の夕暮れ時、脇屋義助(右衛門佐)が三石から新田義貞(左中将)のもとへ使者を送り福山城の戦況を詳細に報告したところ、その使者はすぐ戻って次のように伝えた。「白旗・三石・菩提寺などの城塞がまだ陥落しない状況で尊氏・直義軍が海路陸路から攻め上ると聞き及んだ。もしここ(播磨)で地上部隊と対峙すれば海上部隊に京都を奇襲される恐れがある。すぐ西国での戦いを中断し摂津国まで撤退すべきだ。水陸両方の敵軍を一箇所に引き付け京を背にして決着をつけよう。急ぎ山ノ里(兵庫県三木市付近)へ合流せよと指示した。美作方面にも同様に通達済みである」。 これにより5月18日深夜、南朝軍全員が三石城から撤退し舟坂峠を目指して移動した。ところが城内(足利方)の兵はこの機を見逃さず伏兵として現れ道を塞ぎ激しく矢を射かけた。夜陰に月が山に隠れて前後不分明な中、親子同士で討ち合う混乱が起きたにも関わらず撤退軍は一歩も前に進めなかった。この時菊池氏の家臣である原源五・源六という名高い豪傑兄弟が故意に後退し味方(南朝側)を射殺すため防戦用の矢を放った。 解説
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| 矢種皆射尽ければ、打物の鞘をはづして、「傍輩共あらば返せ。」とぞ呼ける。菊池が若党共是を聞て、遥に落延たりける者共、「某此に有。」と名乗懸て返合せける間、城よりをり合せける敵共、さすがに近付得ずして、只余所の峯々に立渡て時の声をぞ作りける。其間に数万の官軍共、一人も討るゝ事なくして、大江田式部大輔、其夜の曙には山の里へ著にけり。和田備後守範長・子息三郎高徳、佐々木の一党が舟よりあがる由を聞て、是を防がん為に、西川尻に陣を取て居たりけるが、福山已に落されぬと聞へければ、三石の勢と成合んが為に、九日の夜に入て、三石へぞ馳著ける。爰にて人に尋れば、「脇屋殿は早宵に播磨へ引せ給ひて候也。」と申ける間、さては舟坂をば通り得じとて、先日搦手の廻りたりし三石の南の山路を、たどるたどる終夜越て、さごしの浦へぞ出たりける。夜未深かりければ、此侭少しの逗留もなくて打て通らば、新田殿には安く追著奉るべかりけるを、子息高徳が先の軍に負たりける疵、未愈けるが、馬に振れけるに依て、目昏く肝消して、馬にもたまらざりける間、さごしの辺に相知たる僧の有けるを尋出して、預置ける程に、時刻押遷りければ、五月の短夜明にけり。去程に此道より落人の通りけると聞て、赤松入道三百余騎を差遣して、名和辺にてぞ待せける。 |
矢が尽きると(菊池軍は)刀剣の鞘を外し「味方で戦える者がいれば応戦せよ!」と叫んだ。菊池氏の家臣たちがこれを聞くと、既に遠くへ逃げ延びていた兵士らも「ここにおるぞ」と名乗って戻り合流したため、城から追撃してきた敵軍は近づけず周囲の峰々で鬨の声を上げるだけだった。その間に数万の南朝軍(官軍)は一人も戦死せず脱出し、大江田氏経(式部大輔)は夜明け前に山ノ里へ到着した。 一方、和田範長(備後守)と息子・高徳(三郎)は佐々木一党が上陸するとの情報を得て防戦すべく西川尻に布陣していたが、福山城陥落を知り三石軍との合流を目指し九日(五月十九日夜か)、急ぎ三石へ向かった。現地で様子を尋ねると「脇屋義助殿は既に播磨へ撤退されました」と言われたため舟坂峠通過が困難と判断、以前回り道した南側の山路を夜通し歩き明け方にさごし浦へ出た。当時深夜だったので休まず進めば新田義貞軍に追いつけたはずだが、高徳が負った傷が癒えず馬で揺られると目眩と動悸で耐えられなかったため、地元の知り合い僧侶を探し彼を預けている間に時間が過ぎ五月(夏至前)の短夜は明けた。これより先、赤松円心(入道)はこのルートから敗走兵が通ると察し三百余騎を名和付近へ差遣して待ち伏せさせた。 解説
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| 備後守僅に八十三騎にて、大道へと志て打ける処に、赤松が勢とある山陰に寄せ合て、「落人と見るは誰人ぞ。命惜くば弓をはづし物具脱で降人に参れ。」とぞかけたりける。備後守是を聞て、から/\と打笑ひ、「聞も習はぬ言ば哉、降人に可成は、筑紫より将軍の、様々の御教書を成してすかされし時こそ成んずれ。其をだに引さきて火にくべたりし範長が、御辺達に向て、降人にならんと、ゑこそ申まじけれ。物具ほしくばいでとらせん。」と云侭に、八十三騎の者共、三百余騎の中へ喚て懸入り、敵十二騎切て落し、二十三騎に手負せ、大勢の囲を破て、浜路を東へぞ落行ける。赤松が勢案内者なりければ、被懸散ながら、前々へ馳過て、「落人の通るぞ、打留め物具はげ。」と、近隣傍庄にぞ触たりける。依之其辺二三里が間の野伏共、二三千人出合て此の山の隠、彼の田の畷に立渡りて、散々に射ける間、備後守が若党共、主を落さんが為に、進では懸破り引下ては討死し、十八より阿弥陀が宿の辺迄、十八度まで戦て落ける間、打残されたる者、今は僅に主従六騎に成にけり。備後守或辻堂の前にて馬を引へて、若党共に向て申けるは、「あはれ一族共だに打連れたりせば、播磨の国中をば安く蹴散して通るべかりつる物を、方々の手分に向られて一族一所に不居つれば、無力範長討るべき時刻の到来しける也。 |
備後守(和田範長)はわずか83騎で主要道路へ向けて進んだところ、山陰に潜んでいた赤松軍が接近して「敗走兵と見えるのはどこの者だ。命が惜しければ弓を外し甲冑を脱いで降伏せよ」と呼びかけた。これを聞いた備後守はからっと笑い「聞いたこともない言葉だな、降伏するなら筑紫(九州)で将軍(足利尊氏)が様々な綸旨で懐柔しようとした時こそすべきこと。私はそれを引き裂いて火にくべてしまった範長だ。お前たちに向かって降伏など冗談でも言えん。武器が欲しいなら奪ってみろ」と言い放つと、83騎の部下は300余騎の中へ叫びながら突入し敵12騎を切り倒し23騎に傷を負わせ大軍の包囲網を破り浜辺沿いに東へ敗走した。 赤松勢が地理に詳しかったため追撃しながら前方へ駆け抜け「敗残兵が通るぞ、止めて武具を奪え」と近隣の村々へ触れ回った。これにより周囲数里(約8-12km)の野伏(農民兵)2,000~3,000人が現れ山陰や田畑に立ちふさがって激しく射かける中、備後守の家臣たちは主君を逃がすため進んでは突破し退けば討死し、「十八」(地名)から阿弥陀宿(兵庫県たつの市付近)まで18度も戦いながら撤退するうちに生き残った者はついに主従6騎となってしまった。 備後守はある辻堂の前で馬を止め家臣に向かって言った。「ああ、一族さえ共に連れていれば播磨国内など容易く突破できたものを、各所へ分散配置したため一族が一箇所に集まれず無力な範長が討ち取られる時が来てしまったようだ」。 解説
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| 今は可遁共覚ねば、最後の念仏心閑に唱へて腹を切らんと思ぞ。其程敵の近付かぬ様に防げ。」とて、馬より飛でをり、辻堂の中へ走入、本尊に向ひ手を合せ念仏高声に二三百返が程唱て、腹一文字に掻切て、其刀を口に加て、うつぶしに成てぞ臥たりける。其後若党四人つゞきて自害をしけるに、備後守がいとこに和田四郎範家と云ける者、暫思案しけるは、敵をば一人も滅したるこそ後までの忠なれ。追手の敵若赤松が一族子共にてや有らん。さもあらば引組で、差違へんずる物をと思て、刀を抜て逆手に拳り、甲を枕にして、自害したる体に見へてぞ臥たりける。此へ追手懸りける赤松が勢の大将には、宇弥左衛門次郎重氏とて、和田が親類なりけり。まさしきに辻堂の庭へ馳来て、自害したる敵の首をとらんとて、是をみるに袖に著たる笠符皆下黒の文也。重氏抜たる太刀を抛て、「あら浅猿や、誰やらんと思たれば、児嶋・和田・今木の人々にて有けるぞや。此人達と■疾知ならば、命に替ても助くべかりつる物を。」と悲て、泪を流して立たりける。和田四郎此声を聞て、「範家是に有。」とて、かはと起たれば、重氏肝をつぶしながら立寄て、「こはいかに。」とぞ悦ける。軈て和田四郎をば同道して助をき、備後守をば、葬礼懇に取沙汰して、遺骨を故郷へぞ送りける。 |
備後守(和田範長)がわずか6騎となった状況下で、「もはや逃げ切れまい。最期に念仏を心静かに唱えて腹を切ろう」と言い、馬から飛び降りて辻堂の中へ駆け込み本尊に向かい手を合わせ、高声で二三百回ほど念仏を唱えた後、腹を一文字にかき切り、その刀を口にくわえ伏したまま息絶えた。その後家臣四人が続いて自害した中、備後守の従兄弟である和田四郎範家という者が暫し考えた。「敵を一人でも倒すのが後の世までの忠義だ。追手の中に赤松一族の子供がいれば組み付き道連れにしてやろう」と思い、刀を抜いて逆手に握り兜を枕に自害したふりで横たわった。 そこへ追撃してきた赤松軍の大将・宇弥左衛門次郎重氏(和田家と親類関係)が辻堂の庭へ駆けつけ、自害した敵の首を取りようとした際、遺体の袖に付けた笠符(識別札)が下黒紋なのに気づく。重氏は抜いた太刀を投げ捨て「なんと無念だ! 誰かと思えば児嶋・和田・今木の人々ではないか。早く知っていれば命にかえても助けたものを」と悲しみ涙を流した。これを聞いた和田四郎が「範家ここにあり!」と跳び起きたので、重氏は肝をつぶしながら近寄り喜んで彼を同道させ保護し、備後守の遺体については丁寧な葬儀を行い故郷へ遺骨を送った。 解説
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| さても八十三騎は討れて範家一人助りける、運命の程こそ不思議なれ。 ○新田殿被引兵庫事 新田左中将義貞は、備前・美作の勢共を待調へん為に、賀古川の西なる岡に陣を取て、二日までぞ逗留し給ひける。時節五月雨の降つゞいて、河の水増りければ、「跡より敵の懸事もこそ候へ。先総大将又宗との人々許は、舟にて向へ御渡候へかし。」と諸人口々に申けれども、義貞、「さる事や有べき。渡さぬ先に敵懸りたらば、中々可引方無して、死を軽んぜんに便あり。されば韓信が水を背にして陣を張しは此なり。軍勢を渡しはてゝ、義貞後に渡る共、何の痛が可有。」とて、先馬弱なる軍勢、手負たる者共を、漸々にぞ被渡ける。去程に水一夜に落て、備前・美作の勢馳進りければ、馬筏を組で、六万余騎同時に川をぞ渡されける。是までは西国勢共馳参て、十万騎に余りたりしが、将軍兄弟上洛し給ふ由を聞て、何の間にか落失けん、五月十三日左中将兵庫に著給ける時は、其勢纔に二万騎にも不足けり。 ○正成下向兵庫事 尊氏卿・直義朝臣大勢を率して上洛の間、用害の地に於て防ぎ戦はん為に、兵庫に引退ぬる由、義貞朝臣早馬を進て、内裡に奏聞ありければ、主上大に御騒有て、楠判官正成を被召て、「急兵庫へ罷下、義貞に力を合せて合戦を可致。 |
結局83騎が全滅して範家だけ助かったのは、まことに不思議な運命である。 ○新田殿兵庫へ移動のこと ○正成兵庫への下向のこと 解説
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| 」と被仰ければ、正成畏て奏しけるは、「尊氏卿已に筑紫九国の勢を率して上洛候なれば、定て勢は雲霞の如にぞ候覧。御方の疲れたる小勢を以て、敵機に乗たる大勢に懸合て、尋常の如くに合戦を致候はゞ、御方決定打負候ぬと覚へ候なれば、新田殿をも只京都へ召候て、如前山門へ臨幸成候べし。正成も河内へ罷下候て、畿内の勢を以て河尻を差塞、両方より京都を攻て兵粮をつからかし候程ならば、敵は次第に疲て落下、御方は日々に随て馳集候べし。其時に当て、新田殿は山門より推寄られ、正成は搦手にて攻上候はゞ、朝敵を一戦に滅す事有ぬと覚候。新田殿も定て此了簡候共、路次にて一軍もせざらんは、無下に無云甲斐人の思はんずる所を恥て、兵庫に支られたりと覚候。合戦は兎ても角ても、始終の勝こそ肝要にて候へ。能々遠慮を被廻て、公議を可被定にて候。」と申ければ、「誠に軍旅の事は兵に譲られよ。」と、諸卿僉議有けるに、重て坊門宰相清忠申されけるは、「正成が申所も其謂有といへども、征罰の為に差下されたる節度使、未戦を成ざる前に、帝都を捨て、一年の内に二度まで山門へ臨幸ならん事、且は帝位を軽ずるに似り、又は官軍の道を失処也。縦尊氏筑紫勢を率して上洛すとも、去年東八箇国を順へて上し時の勢にはよも過し。 |
主上(後醍醐天皇)からそのようにお命じになったので、楠木正成は畏まって申し上げた。「尊氏卿がすでに九州の大軍を率いて上洛している以上、敵軍は雲霞のように多いでしょう。疲弊した味方の小勢をもって、勢いに乗った大軍と正面から通常通り戦えば必ず敗れましょう。新田殿もいったん京都へお召し戻しになり、前回同様に比叡山へ行幸なさるべきです。私も河内へ下り畿内の兵力で兵糧輸送路を遮断し、東西から京都を攻めて食料を枯渇させれば敵は次第に疲弊して敗走し、味方は日々集結できます。その時こそ新田殿が比叡山から押し寄せ、私が背後から攻め上がれば朝敵を一戦で滅ぼせるはずです。新田殿もおそらく同じ考えでしょうが、途中で一戦も交えず退却するのは無念に思われ、兵庫で踏みとどまっているのでしょう。合戦の勝敗は序盤より終結時の勝利こそ肝要です。どうか深謀遠慮をめぐらされ朝廷全体でご決断ください」と述べた。 すると「確かに軍事は専門家に任せるべきだ」との声が上がったが、坊門宰相清忠が重ねて反論した。「正成の言い分にも一理あるとはいえ、討伐のために派遣された節度使(新田義貞)が未戦のうちに帝都を捨て、一年で二度も比叡山へ行幸されることは帝位を軽んじるように見え官軍としての威信を失います。仮に尊氏が九州勢を率いて上洛しても、去年関東八カ国を平定して攻め上がった時の兵力には及ばないでしょう。」 解説
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| 凡戦の始より敵軍敗北の時に至迄、御方小勢也といへども、毎度大敵を不責靡云事なし。是全武略の勝たる所には非ず、只聖運の天に叶へる故也。然れば只戦を帝都の外に決して、敵を斧鉞の下に滅さん事何の子細か可有なれば、只時を替へず、楠罷下るべし。」とぞ被仰出ける。正成、「此上はさのみ異儀を申に不及。」とて、五月十六日に都を立て五百余騎にて兵庫へぞ下ける。正成是を最期の合戦と思ければ、嫡子正行が今年十一歳にて供したりけるを、思ふ様有とて桜井の宿より河内へ返し遣すとて、庭訓を残しけるは、「獅子子を産で三日を経る時、数千丈の石壁より是を擲。其子、獅子の機分あれば、教へざるに中より跳返りて、死する事を得ずといへり。況や汝已に十歳に余りぬ。一言耳に留らば、我教誡に違ふ事なかれ。今度の合戦天下の安否と思ふ間、今生にて汝が顔を見ん事是を限りと思ふ也。正成已に討死すと聞なば、天下は必ず将軍の代に成ぬと心得べし。然りと云共、一旦の身命を助らん為に、多年の忠烈を失て、降人に出る事有べからず。一族若党の一人も死残てあらん程は、金剛山の辺に引篭て、敵寄来らば命を養由が矢さきに懸て、義を紀信が忠に比すべし。是を汝が第一の孝行ならんずる。」と、泣々申含めて各東西へ別にけり。 |
主上からそうおっしゃられたので、楠木正成は畏まって申し上げた。「尊氏卿がすでに九州九カ国の軍勢を率いて上洛している以上、敵の兵力は雲霞のように膨大でしょう。疲弊した味方の少数勢力をもって勢いに乗った大軍と正面から通常通り戦えば必ず敗北します。新田殿もただちに京都へお召し戻しになり前回同様比叡山へ行幸なさるべきです。私も河内へ下向して畿内の兵力で兵糧輸送路を遮断し、東西両方から京都を攻めて食料を枯渇させれば敵は次第に疲弊敗走し味方は日々集結できます。その時機を見て新田殿が比叡山から押し寄せ私が背後から攻め上がれば朝敵を一戦で殲滅できるはずです。新田殿もおそらく同じ考えでしょうが途中で一戦も交えず退却するのは無念に思い兵庫で踏みとどまっているのでしょう。合戦の勝敗は何より最終的な勝利こそ肝要です。どうか深謀遠慮をめぐらされ朝廷全体でご決断ください」と述べた。 すると「確かに軍事は専門家に任せるべきだ」との意見が出て諸卿が協議したところ、重ねて坊門宰相清忠が主張された。「正成の言い分にも道理があるとはいえ征伐のために派遣された節度使(新田義貞)が未戦のうちに帝都を捨て一年で二度も比叡山へ行幸されることは帝位を軽んじるように見え官軍としての威信を失います。たとえ尊氏が九州勢を率いて上洛しても去年関東八カ国を平定して攻め上がった時の兵力には到底及ばないでしょう。」 戦い開始から敵軍敗北に至るまで味方が少数勢力にもかかわらず毎度大敵を打ち破ってきたのは武力の勝利ではなく聖運が天にかなった故です。よってただ帝都の外で決戦し敵を斧鉞のもとに滅ぼすことになんの問題がありましょうか即刻楠木を下向させるべきだ」とお命じになった。 正成は「これ以上異議を申し上げることもありません」と言い五月十六日に都を立ち五百余騎で兵庫へ下った。正成がこれを最期の合戦と思ったため嫡子正行(当時十一歳)が供していたが思うところあって桜井の宿から河内へ帰そうとし庭訓を残した。「獅子は子を産んで三日経つとき数千丈の石壁から投げ落とす。その子に獅子の資質があれば教えなくとも空中で跳ね返り死なないというましてや汝は十歳を超えた一言でも心に留め私の戒めに背くな今回の合戦が天下安泰の分かれ目ゆえ今生で汝の顔を見るのはこれが最後と思う正成討ち死にと聞けば天下必ず足利将軍の世になると心得よただし一時の命を助かるため多年の忠節を捨て降伏するようなことがあってはならない一族や家臣一人でも生き残れば金剛山に籠り敵が攻め寄せた時は養由基の矢先のように命を賭し紀信ほどの忠義を示すことこれこそ汝にとって第一の孝行だ」と泣きながら言い含め互いに別れた。 解説
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| 昔の百里奚は、穆公晉の国を伐し時、戦の利無からん事を鑒て、其将孟明視に向て、今を限の別を悲み、今の楠判官は、敵軍都の西に近付と聞しより、国必滅ん事を愁て、其子正行を留て、無跡迄の義を進む。彼は異国の良弼、是は吾朝の忠臣、時千載を隔つといへ共、前聖後聖一揆にして、有難かりし賢佐なり。正成兵庫に著ければ、新田左中将軈て対面し給て、叡慮の趣をぞ尋問れける。正成畏て、所存の通りと勅定の様とを、委く語り申ければ、「誠に敗軍の小勢を以て、機を得たる大敵に戦はん事叶ふべきにてはなけれ共、去年関東の合戦に打負て上洛せし時、路にて猶支ざりし事、人口の嘲遁るゝ時を得ず。其こそあらめ、今度西国へ下されて、数箇所の城郭一も不落得して、結句敵の大勢なるを聞て、一支もせず京都まで遠引したらんは、余りに無云甲斐存る間、戦の勝負をば見ずして、只一戦に義を勧ばやと存る計也。」と宣ひければ、正成重て申けるは、「「衆愚之愕々たるは、不如一賢之唯々」と申候へば、道を不知人の譏をば、必しも御心に懸らるまじきにて候。只可戦所を見て進み、叶ふまじき時を知て退くをこそ良将とは申候なれ。さてこそ「暴虎憑河而死無悔之者不与」と、孔子も子路を被誡事の候。其上元弘の初には平大守の威猛を一時にくだかれ、此年の春は尊氏の逆徒を九州へ退られ候し事、聖運とは申ながら、偏に御計略の武徳に依し事にて候へば、合戦の方に於ては誰か褊し申候べき。 |
昔、百里奚は秦の穆公が晋国を攻める際、戦いの利がないことを考慮し、配下の将軍孟明視に向かい今生の別れを悲しんだ。一方、楠木判官(正成)は敵軍が都に迫ったと聞き国家必滅を憂え、息子正行を残して後顧の憂いなく忠義に邁進した。あちらは異国の良臣、こちらは我が朝の忠臣であり、時代こそ千年隔てているとはいえ先聖も後聖も心一つで実に尊い賢輔である。 楠木正成が兵庫へ到着すると新田左中将(義貞)がすぐに対面し朝廷からの意向を尋ねた。正成は謹んで自身の考えと勅命の内容を詳細に報告したところ、義貞は「確かに敗残の少数勢力で勢いに乗った大敵と戦うのは無理だが、去年関東合戦で敗れて上洛した時も途中で抵抗しなかったため世間から臆病者と嘲笑された。それどころか今回西国へ下向しながら城郭一つ落とせず敵の大軍を聞いて京都まで撤退すれば全く言い訳が立たない。だから勝敗は度外視し一戦に義を示したい」と述べた。 これに対し正成は重ねて次のように主張した。「『衆愚が慌てふためくより一人の賢者の従容さ』と言いますから、道理を知らぬ者の批判を気になさらるな。適切な時には戦い不利なら退くのが良将です。孔子も子路を戒め『素手で虎と格闘し無謀に川渡りするような蛮勇は認めない』と言われました。そもそも元弘の乱初頭に平大納言(北条高時)の威勢を打ち破り、今年春には尊氏逆徒を九州へ追い払ったのは聖運とはいえ主君(後醍醐天皇)の武略あってこそ。戦術において誰がその采配に異議を唱えられましょうか」。 解説
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| 殊更今度西国より御上洛の事、御沙汰の次第、一々に道に当てこそ存候へ。」と申ければ、義貞朝臣誠に顔色解て、通夜の物語に、数盃の興をぞ添られける。後に思合すれば、是を正成が最後なりけりと、哀なりしこと共也。 ○兵庫海陸寄手事 去程に、明れば五月二十五日辰刻に、澳の霞の晴間より、幽に見へたる舟あり。いさりに帰る海人か、淡路の迫戸を渡舟歟と、海辺の眺望を詠て、塩路遥に見渡せば、取梶面梶に掻楯掻て、艫舳に旗を立たる数万の兵船順風に帆をぞ挙たりける。烟波眇々たる海の面、十四五里が程に漕連て、舷を輾り、艫舳を双たれば、海上俄に陸地に成て、帆影に見ゆる山もなし。あな震し、呉魏天下を争し赤壁の戦、大元宋朝を滅せし黄河の兵も、是には過じと目を驚かして見る処に、又須磨の上野と鹿松岡、鵯越の方より二引両・四目結・直違・左巴・倚かゝりの輪違の旗、五六百流差連て、雲霞の如に寄懸たり。海上の兵船、陸地の大勢、思しよりも震くして、聞しにも猶過たれば、官軍御方を顧て、退屈してぞ覚へける。され共義貞朝臣も正成も、大敵を見ては欺き、小敵を見ては侮ざる、世祖光武の心根を写して得たる勇者なれば、少も機を失たる気色無して、先和田の御崎の小松原に打出て、閑に手分をぞし給ひける。 |
特に今回西国からの上洛についての御意向の詳細を、一つひとつ筋道立てて承りました。」と言うと、新田義貞公は本当に表情を和らげ、夜通しの語らいの中で数杯のお酒で楽しみを添えられた。後になって思い返すと、これが楠木正成との最後だったとは悲しいことであった。 兵庫への海陸からの攻撃について 解説
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| 一方には脇屋右衛門佐義助を大将として末々の一族二十三人、其勢五千余騎経嶋にぞ磬へたる。一方には大館左馬助氏明を大将として、相順ふ一族十六人、其勢三千余騎にて、灯炉堂の南の浜に磬らる。一方には楠判官正成態佗の勢を不交して七百余騎、湊川の西の宿に磬へて、陸地の敵に相向ふ。左中将義貞は総大将にてをはすれば、諸将の命を司て、其勢二万五千余騎、和田御崎に帷幕を引せて磬へらる。去程に、海上の船共帆を下して礒近く漕寄すれば、陸地の勢も旗を進めて相近にぞ成にける。両陣互に攻寄て、先澳の舟より大鼓を鳴し、時の声を揚れば、陸地の搦手五十万騎、請取て声をぞ合せける。其声三度畢れば、官軍又五万余騎、楯の端を鳴し箙を敲て時を作る。敵御方の時の声、南は淡路絵嶋が崎・鳴戸の澳、西は播磨路須摩の浦、東は摂津国生田森、四方三百余里に響渡て、苟に天維も断て落、坤軸も傾く許なり。 ○本間孫四郎遠矢事 新田・足利相挑で未戦処に、本間孫四郎重氏黄瓦毛なる馬の太く逞きに、紅下濃の鎧著て、只一騎和田の御崎の波打際に馬打寄せて、澳なる舟に向て、大音声を挙て申けるは、「将軍筑紫より御上洛候へば、定て鞆・尾道の傾城共、多く被召具候覧。其為に珍しき御肴一つ推て進せ候はん。 |
一方では脇屋右衛門佐義助を大将とし末々の一族二十三人、その兵五千余騎が経島に布陣した。他方には大館左馬助氏明を大将として従う一族十六人、兵力三千余騎で灯炉堂の南浜に配置された。さらに楠木判官正成は他の部隊と合流せず単独で七百余騎を率い湊川西側の宿に陣取り陸上の敵に対峙した。左中将義貞が総大将であるため諸将を指揮し兵力二万五千余騎で和田岬に幕舎を張って本営を置いた。 やがて海上の船団は帆を降ろし磯近くへ漕ぎ寄せると、陸上の軍勢も旗を進め接近した。両陣営互いに攻め寄せまず入江の舟から太鼓が鳴り鬨の声があがると、陸上からの挟撃部隊五十万騎がこれに応じて叫びを合わせた。その声三度終わると官軍も五万余騎で盾を叩き矢筒を打ち鳴らして鬨の声をあげる。敵味方の喚声は南は淡路絵島崎・鳴門の入江から、西は播磨路須磨浦、東は摂津国生田森まで四方三百余里に響き渡り天地が裂け地軸が傾くほどの勢いであった。 本間孫四郎遠矢事 解説
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| 暫く御待候へ。」と云侭に、上差の流鏑矢を抜て、羽の少し広がりけるを鞍の前輪に当てかき直し、二所藤の弓の握太なるに取副、小松陰に馬を打寄て、浪の上なる鶚の、己が影にて魚を驚し、飛さがる程をぞ待たりける。敵は是を見て、「射放たらんは希代の笑哉。」と目を放たず。御方は是を見て、「射当たらんは時に取ての名誉哉。」と、機を攻てぞ守ける。遥に高飛挙りたる鶚、浪の上に落さがりて、二尺計なる魚を、主人のひれを掴で澳の方へ飛行ける処を、本間小松原の中より馬を懸出し、追様に成て、かけ鳥にぞ射たりける。態と生ながら射て落さんと、片羽がひを射切て直中をば射ざりける間、鏑は鳴響て大内介が舟の帆柱に立、みさごは魚を掴ながら、大友が舟の屋形の上へぞ落たりける。射手誰とは知ねども、敵の舟七千余艘には、舷を蹈で立双、御方の官軍五万余騎は汀に馬を磬へて、「あ射たり/\。」と感ずる声天地を響して静り得ず。将軍是を見給て、「敵我弓の程を見せんと此鳥を射つるが、此方の舟の中へ鳥の落たるは御方の吉事と覚るなり。何様射手の名字を聞ばや。」と被仰ければ、「小早河七郎舟の舳に立出て、「類少なく、見所有ても遊されつる者哉。さても御名字をば何と申候やらん承候ばや。 |
「しばらくお待ちください。」と言うや否や、上差しの流鏑矢を取り出し、羽根が少し広がっていたので鞍の前輪に当てて整え、握りの太い二所藤の弓を手に取ると小松原の陰へ馬を進め、波間で飛ぶ鶚(みさご)が自らの影で魚を驚かせ飛び立つ瞬間を待った。敵方はこれを見て「外したら末代までの笑いものだ」と凝視し、味方も「当てればこの上ない名誉だろう」と固唾を飲んで見守る中、高く舞っていた鶚が波間に降り立ち二尺ほどの魚をつまみ上げ主人のひれ(鰭)を掴んで入江へ飛び去ろうとした。その時本間は小松原から馬で駆け出し追うようにして射掛けた矢は、わざと生きたまま落とそうとして片羽根だけ切り直撃させなかったため鏑音が響き渡り大内介の船の帆柱に刺さる一方、鶚は魚を掴んだまま大友氏の舟の屋形へ落下した。射手が誰かわからぬ中敵軍七千余艘では舷(ふなべり)を踏んで立ち上がり味方五万余騎も渚に馬を停めて「当たった!当たった!」と叫ぶ声は天地に響き止むことがなかった。将軍(尊氏)がこれを見て「敵が我々の弓術を試そうとしたのに鳥がこちら側へ落ちるとは味方の吉兆だ。是非射手の名を知りたい」と言われると小早河七郎が船首に立ち出て「稀なる妙技です!ぜひお名前をお聞きしたい」 解説
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| 」と問たりければ、本間弓杖にすがりて、「其身人数ならぬ者にて候へば、名乗申共誰か御存知候べき。但弓箭を取ては、坂東八箇国の兵の中には、名を知たる者も御座候らん。此矢にて名字をば御覧候へ。」と云て、三人張に十五束三伏、ゆら/\と引渡し、二引両の旗立たる舟を指して、遠矢にぞ射たりける。其矢六町余を越て、将軍の舟に双たる、佐々木筑前守が船を箆中過通り、屋形に乗たる兵の鎧の草摺に裏をかゝせてぞ立たりける。将軍此矢を取寄せ見給ふに、相摸国住人本間孫四郎重氏と、小刀のさきにて書たりける。諸人此矢を取伝へ見て、「穴懼、如何なる不運の者か此矢崎に廻て死なんずらん。」と、兼て胸をぞ冷しける。本間孫四郎扇を揚て、澳の方をさし招て、「合戦の最中にて候へば、矢一筋も惜く存候。其矢此方へ射返してたび候へ。」とぞ申けれ。将軍是を聞給て、「御方に誰か此矢射返しつべき者有。」と高武蔵守に尋給ければ、師直畏て、「本間が射て候はんずる遠矢を、同じ坪に射返候はんずる者、坂東勢の中には有べしとも存候はず。誠にて候やらん、佐々木筑前守顕信こそ、西国一の精兵にて候なれ。彼を被召仰付られ候へかし。」と申ければ、「げにも。」とて佐々木をぞ被呼ける。顕信召に随て、将軍の御前に参たり。 |
「いや、身分卑賤の者ゆえ名乗っても誰もご存じないでしょう。ただ弓矢に関しては坂東八カ国の兵の中で私を知る者はいるはずです。この矢で名前をご覧ください」と言うと、三人がかりで引く十五束三伏(約2.1m)の大弓を揺らりと引き絞り、二引両紋の旗を掲げた船目掛けて遠射した。その矢は六町余(約650m)を越え将軍(尊氏)の舟の隣に停泊する佐々木筑前守顕信の船へ飛び、屋形上の兵士が着る鎧の草摺り(腰防具)に突き刺さって立っていた。将軍が矢を取り寄せて見ると相模国住人本間孫四郎重氏と小刀で刻まれていた。一同はこの矢を回し見て「恐ろしい、不運にもこの矢の当たった者は死ぬだろう」と戦慄した。 その時本間が扇を掲げ入江方向へ招きながら言う。「合戦最中ゆえ一本の矢も惜しくない。どうか射り返してください」。将軍は「誰かこれを射返せる者がいるか」と高師直に尋ねたところ、師直は畏まって答えた。「本間が放つ遠矢を同じ距離で返す者など坂東勢にもおりましょうや? しかし佐々木筑前守顕信なら西国一の精兵ゆえ可能かと」。将軍「なるほど」と言い、すぐに顕信を呼び寄せた。顕信は召しに従って将軍面前へ参上した。 解説
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| 将軍本間が矢を取出して、「此矢、本の矢坪へ射返され候へ。」と被仰ければ、顕信畏て、難叶由をぞ再三辞し申ける。将軍強て被仰ける間、辞するに無処して、己が舟に立帰り、火威の鎧に鍬形打たる甲の緒を縮、銀のつく打たる弓の反高なるを、帆柱に当てきり/\と推張、舟の舳崎に立顕て、弓の弦くひしめしたる有様、誠に射つべくぞ見へたりける。かゝる処に、如何なる推参の婆伽者にてか有けん、讚岐勢の中より、「此矢一受て弓勢の程御覧ぜよ。」と、高らかに呼はる声して、鏑をぞ一つ射たりける。胸板に弦をや打たりけん、元来小兵にてや有けん、其矢二町迄も射付ず、波の上にぞ落たりける。本間が後に磬へたる軍兵五万余騎、同音に、「あ射たりや。」と欺て、しばし笑も止ざりけり。此後は中々射てもよしなしとて、佐々木は遠矢を止てけり。 ○経嶋合戦事 遠矢射損じて、敵御方に笑れ憎まれける者、恥を洗がんとや思けん。舟一艘に二百余人取乗て、経島へ差寄せ、同時に礒へ飛下て、敵の中へぞ打て懸りける。脇屋右衛門佐の兵ども、五百余騎にて中に是を取篭、弓手馬手に相付て、縄手を廻してぞ射たりける。二百余騎の者共、心は勇といへ共、射手も少く徒立なれば、馬武者に懸悩されて、遂に一人も残らず討れにければ、乗捨つる舟は、徒に岸打浪に漂へり。 |
将軍(尊氏)は本間の矢を取り出すと、「この矢を元の位置から射り返せ」と命じた。顕信はかしこまり実現困難であることを再三断ったが、将軍が強く言い渡すのでやむなく従い、自船へ戻ると火焔模様の鎧に鍬形飾りの兜を着け、銀装飾の反りが強い弓を帆柱に当ててギシギシと押し曲げ調整した後、船首に立ちはだかった。弦をきしませる姿は確かに射る気迫を見せていた。 その時、讃岐勢の中から身分知らずの小兵らしい者が現れ、「この矢を受け止めて弓の実力をお見せしよう」と高らかに叫び鏑矢を放った。しかし弦が胸板に当たったのか元々小柄だったためか、二町(約218m)も飛ばず波間に落ちてしまった。本間軍五万余騎は一斉に「命中したぞ!」と嘲笑し笑い声が止まなかった。 これを見た佐々木は「最早射ても意味なし」と言って遠矢を中止した。
○経島合戦の件 解説
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| 細河卿律師是を見給て、「つゞく者の無りつる故にこそ、若干の御方をば故なく討せつれ。いつを期すべき合戦ぞや。下場のよからんずる所へ舟を著て、馬を追下々々打て上れ。」と被下知。四国の兵共、大船七百余艘、紺部の浜より上らんとて、礒に傍てぞ上りける。兵庫嶋三箇所に磬へたる官軍五万余騎、船の敵をあげ立じと、漕行舟に随て、汀を東へ打ける間、舟路の勢は自進で懸る勢にみへ、陸の官軍は偏に逃て引様にぞ見へたりける。海と陸との両陣互に相窺て、遥の汀に著て上りければ、新田左中将と楠と、其間遠く隔て、兵庫嶋の舟著には支たる勢も無かりける。依之九国・中国の兵船六十余艘、和田の御崎に漕寄て、同時に陸へぞあがりける。 ○正成兄弟討死事 楠判官正成、舎弟帯刀正季に向て申けるは、「敵前後を遮て御方は陣を隔たり。今は遁ぬ処と覚るぞ。いざや先前なる敵を一散し追捲て後ろなる敵に闘はん。」と申ければ、正季、「可然覚候。」と同じて、七百余騎を前後に立て、大勢の中へ懸入ける。左馬頭の兵共、菊水の旗を見て、よき敵也と思ければ、取篭て是を討んとしけれ共、正成・正季、東より西へ破て通り、北より南へ追靡け、よき敵とみるをば馳双て、組で落ては頭をとり、合はぬ敵と思ふをば、一太刀打て懸ちらす。 |
細川清氏がこの様子をご覧になり、「後詰めがないからこそ、味方を無駄に討たせてしまった。いつ合戦になると決まっているのか?上陸地点の良い場所へ船を着け、馬を追い立てつつ攻め上がれ」と命令した。四国の兵たちは大船七百余隻で紺部浜から上陸しようと磯に近づいた。兵庫島三箇所に陣取る官軍(新田義貞側)五万余騎は、敵を上陸させまいと進む船に沿って海岸を東へ移動したため、海上の勢力は自然に攻めかかる勢いに見え、陸上の官軍はひたすら逃げて退却するように見えた。海陸両陣が互いに様子を窺う中、遠く離れた浜辺への上陸が成功すると、新田義貞と楠木正成の部隊は大きく隔たり、兵庫島船着場には防ぐ勢力もいなかった。 そこで九州・中国地方からの兵船六十余隻が和田岬に集結し一斉に上陸した。 解説
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| 正季と正成と、七度合七度分る。其心偏に左馬頭に近付、組で討んと思にあり。遂に左馬頭の五十万騎、楠が七百余騎に懸靡けられて、又須磨の上野の方へぞ引返しける。直義朝臣の乗られたりける馬、矢尻を蹄に蹈立て、右の足を引ける間、楠が勢に追攻られて、已に討れ給ぬと見へける処に、薬師寺十郎次郎只一騎、蓮池の堤にて返し合せて、馬より飛でをり、二尺五寸の小長刀の石づきを取延て、懸る敵の馬の平頚、むながひの引廻、切ては刎倒々々、七八騎が程切て落しける其間に、直義は馬を乗替て、遥々落延給けり。左馬頭楠に追立られて引退を、将軍見給て、「悪手を入替て、直義討すな。」と被下知ければ、吉良・石堂・高・上杉の人々六千余騎にて、湊河の東へ懸出て、跡を切らんとぞ取巻ける。正成・正季又取て返て此勢にかゝり、懸ては打違て死し、懸入ては組で落、三時が間に十六度迄闘ひけるに、其勢次第々々に滅びて、後は纔に七十三騎にぞ成にける。此勢にても打破て落ば落つべかりけるを、楠京を出しより、世の中の事今は是迄と思ふ所存有ければ、一足も引ず戦て、機已に疲れければ、湊河の北に当て、在家の一村有ける中へ走入て、腹を切ん為に、鎧を脱で我身を見るに、斬疵十一箇所までぞ負たりける。 |
正季と正成は七度突撃し七度分離したが、その意図はひたすら左馬頭(佐々木道誉)に接近して組み討ちにすることにあった。ついに左馬頭の五十万騎もの大軍が楠木七百余騎に追い散らされ、再び須磨の上野方面へ敗走した。 直義朝臣(足利直義)が乗っていた馬が矢尻を蹄に踏み込み右足をひきずったため、楠木勢に追撃されて討ち取られるかと思われたその時、薬師寺十郎次郎ただ一騎が蓮池の堤で反転し、馬から飛び降りて二尺五寸の小長刀の石突(柄尻)を伸ばしつつ襲いかかる敵馬の頸や胸元を切り回して七八騎斬り倒す間に、直義は馬を取り替えて遠くへ逃れた。 左馬頭が楠木に追撃されて退却する様子を見た将軍(尊氏)が「別動隊で救援せよ。直義討死させるな」と命じると、吉良・石堂・高・上杉ら六千余騎が湊川東側に出撃し退路を断とうと包囲した。正成・正季は再び反転してこの軍勢に突入し、ぶつかっては相討ちで死に、斬り込んでは組み落とす激闘を三刻(六時間)の間に十六度も繰り返した結果、次第に兵力が減り僅か七十三騎となった。 これほどの寡兵でも突破できたかもしれないが、楠木は京を出て以来「ここまで」という覚悟があったため一歩も引かず戦い続けていた。しかし疲労困憊したので湊川北側の民家群に駆け込み自害しようと鎧を脱ぐと、全身に十一ヶ所もの斬り傷を負っていた。 解説
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| 此外七十二人の者共も、皆五箇所・三箇所の疵を被らぬ者は無りけり。楠が一族十三人、手の者六十余人、六間の客殿に二行に双居て、念仏十返計同音に唱て、一度に腹をぞ切たりける。正成座上に居つゝ、舎弟の正季に向て、「抑最期の一念に依て、善悪の生を引といへり。九界の間に何か御辺の願なる。」と問ければ、正季から/\と打笑て、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ。」と申ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ也。いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん。」と契て、兄弟共に差違て、同枕に臥にけり。橋本八郎正員・宇佐美河内守正安・神宮寺太郎兵衛正師・和田五郎正隆を始として、宗との一族十六人、相随兵五十余人、思々に並居て、一度に腹をぞ切たりける。菊池七郎武朝は、兄の肥前守が使にて須磨口の合戦の体を見に来りけるが、正成が腹を切る所へ行合て、をめ/\しく見捨てはいかゞ帰るべきと思けるにや、同自害をして炎の中に臥にけり。抑元弘以来、忝も此君に憑れ進せて、忠を致し功にほこる者幾千万ぞや。然共此乱又出来て後、仁を知らぬ者は朝恩を捨て敵に属し、勇なき者は苟も死を免れんとて刑戮にあひ、智なき者は時の変を弁ぜずして道に違ふ事のみ有しに、智仁勇の三徳を兼て、死を善道に守るは、古へより今に至る迄、正成程の者は未無りつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失て、逆臣横に威を振ふべき、其前表のしるしなれ。 |
残りの72人の者たちも皆、五ヶ所か三ヶ所の傷を負っていない者は一人もいなかった。楠木一族13人と家臣60余人が六間(約11m)の客殿に二列に向かい合って座り、「南無阿弥陀仏」と十回ほど声を合わせて唱えた後、一斉に腹を切った。 正成は上座にいたまま弟・正季に向かって言った。「そもそも最期の一念によって来世の善悪が決まるとされる。九界(全宇宙)の中で何かお前の望みがあるか?」と尋ねると、正季はからっと笑って「七生までただ同じ人間に生まれ変わり、朝廷の敵を滅ぼしたいと思います」と答えた。すると正成は大いに嬉しそうな表情で言った。「罪深い悪念だが私も同様だ。さあ共に生まれ変わってこの本懐を遂げよう」と誓い合うや、兄弟は互いに刺し違え同じ枕元に倒れた。 橋本八郎正員・宇佐美河内守正安・神宮寺太郎兵衛正師・和田五郎正隆ら一族16人と付き従う兵50余人もそれぞれ整列し、一斉に腹を切った。菊池七郎武朝は兄の肥前守(貞宗)からの使いで須磨口の戦況を見に来ていたが、ちょうど正成が自害する場に出くわした。「見事な最期を見捨てるわけにはいかない」と思ったのか、共に自決して炎の中に倒れた。 そもそも元弘(1331年)以来、光栄にも後醍醐天皇に仕えて忠義を尽くし功績を誇った者は幾千万もいた。しかしこの乱(建武政権崩壊)が再び起きてからは、仁を知らぬ者は朝廷の恩恵を捨て敵側につき、勇なき者は卑怯にも死を逃れようとして処刑され、智なき者は時勢を見誤り道に外れた。その中で「智・仁・勇」の三徳を兼ね備え、正しい最期を全うした点では、古から今まで楠木正成ほどの者はいなかったのだ。兄弟そろって自害したことは聖主(後醍醐天皇)が再び国を失い逆臣(足利尊氏ら)が横暴に振る舞う前兆のしるしであった。 解説
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| ○新田殿湊河合戦事 楠已に討れにければ、将軍と左馬頭と一処に合て、新田左中将に打て懸り給ふ。義貞是を見て、「西の宮よりあがる敵は、旗の文を見るに末々の朝敵共なり。湊河より懸る勢は尊氏・直義と覚る。是こそ願ふ所の敵なれ。」とて西宮より取て返し、生田の森を後ろを当て四万余騎を三手に分て、敵を三方にぞ受られける。去程に両陣互に勢を振て時を作り声を合す。先一番に大館左馬助氏明・江田兵部大輔行義、三千余騎にて、仁木・細川が六万余騎に懸合て、火を散して相戦ふ。其勢互に討れて、両方へ颯と引のけば、二番に中院の中将定平・大江田・里見・鳥山五千余騎にて、高・上杉が八万騎に懸合て、半時許黒烟を立て揉合たり。其勢共戦疲れて両方へ颯と引退けば、三番に脇屋右衛門佐・宇都宮治部大輔・菊池次郎・河野・土居・得能一万騎にて、左馬頭・吉良・石堂が十万余騎に懸合せ、天を響かし地を動して責戦ふ。或は引組で落重て、頚を取もあり、取るゝもあり。或は敵と打違て、同く馬より落るもあり。両虎二龍の闘に、何れも討るゝ者多かりければ、両方東西へ引のきて、人馬の息をぞ休めける。新田左中将是を見給て、「荒手の兵已に尽て戦未決せず。是義貞が自当るべき処也。」とて、二万三千騎を左右に立て、将軍の三十万騎に懸合せ、兵刃を交へて命を鴻毛よりも軽せり。 |
楠木正成が討たれた後、将軍(足利尊氏)と左馬頭(佐々木道誉)は合流して新田義貞(左中将)に攻めかかった。これを目撃した義貞は「西の宮から迫る敵は旗印を見れば末端の朝敵どもだ。湊川から来る軍勢こそ尊氏・直義と見える。これが望んでいた敵である」と言い、西宮方面から反転して生田森を背に四万余騎を三手に分け三方で迎え撃った。 両陣営は互いに士気を高め鬨の声を上げる。先鋒として大館左馬助氏明と江田兵部大輔行義が三千余騎で仁木・細川軍六万余騎に突入し、火花を散らして激戦となった。両軍とも討死する者が相次ぎ引いたため、第二陣では中院中将定平・大江田・里見・鳥山ら五千余騎が高(師直)・上杉軍八万騎と交戦。約半時(1時間)も黒煙を上げてもみ合ったが疲労した両軍は後退した。 第三陣では脇屋右衛門佐(義助)・宇都宮治部大輔・菊池次郎(武重)・河野・土居・得能ら一万騎が左馬頭道誉・吉良・石堂軍十万余騎と激突。天地を揺るがす勢いで戦う中、組み合って落馬し首を取り合う者もいれば相討ちで倒れる者もいた。両虎二龍のごとき死闘で死者が多いため東西に分かれて人馬の休息を取った。 新田左中将(義貞)はこれを見て「精鋭部隊が尽きたのに決着つかぬ。ここは自分が出るべき時だ」と述べ、二万三千騎を左右に展開し将軍尊氏三十万騎へ突撃。兵刃交えて命を鴻毛よりも軽んじて戦った。 解説
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| 官軍の総大将と、武家の上将軍と、自戦ふ軍なれば、射落さるれども矢を抜隙なく、組で下になれ共、落合て助くる者なし。只子は親を棄て切合、朗等は主に離れて戦へば、馬の馳違ふ声、太刀の鐔音、いかなる脩羅の闘諍も、是には過じとをびたゝし。先に一軍して引しさりたる両方の勢共、今はいつをか可期なれば、四隊の陣一処に挙て、敵と敵と相交り、中黒の旗と二引両と、巴の旗と輪違と、東へ靡き西へ靡き、礒山風に翩翻して、入違ひたる許にて、何れを御方の勢とは見へ分かず。新田・足利の国の争ひ今を限りとぞ見へたりける。官軍は元来小勢なれば、命を軽じて戦といへども、遂には大敵に懸負て、残る勢纔五千余騎、生田の森の東より丹波路を差てぞ落行ける。数万の敵勝に乗て是を追事甚急なり。され共何もの習なれば、義貞朝臣、御方の軍勢を落延させん為に後陣に引さがりて、返し合せ/\戦れける程に、義貞の被乗たりける馬に矢七筋迄立ける間、小膝を折て倒けり。義貞求塚の上に下立て、乗替の馬を待給共、敢て御方是を不知けるにや、下て乗せんとする人も無りけり。敵や是を見知けん、即取篭て是を討んとしけるが、其勢に僻易して近は更不寄けれ共、十方より遠矢に射ける矢、雨雹の降よりも猶繁し。 |
官軍(新田方)の総大将と武家(足利方)の上将軍が直接戦う合戦であるため、たとえ射落されても矢を抜く隙なく、組み敷かれても助ける者はいない。子は親を見捨て切りかかり、郎党は主君から離れて戦うので、馬同士が激突する音や太刀の鍔迫り合いの響きは、どんな修羅道の争いもこれには及ばぬほど凄まじかった。 先に一旦退いた両軍の兵たちは「勝機は今しかない」と悟り、四隊の陣が一斉に入り乱れる。中黒(新田紋)・二引両(足利紋)・巴紋・輪違紋の旗印が東へ西へなびき、磯に打つ風のように翻るうちに見分けがつかなくなる。まさに「新田と足利による国の争い」の決着を思わせた。 官軍は元々小勢ゆえ命を軽んじて戦ったものの、遂には大軍に押され、残兵わずか五千騎余りが生田森東側から丹波路へ敗走した。数万の敵が追撃する中、新田義貞は味方を通すため後衛で踏みとどまり何度も反転して戦った。この時彼の乗馬に七本もの矢が刺さり膝を折って倒れる。義貞が求塚(古墳)上で落馬し替え馬待つ間、味方すら気づかぬ様子だった。 敵はこれを見逃さず包囲しようとしたが、なおも奮戦する彼に近寄れない。代わりに四方から放たれた遠矢が雨霰よりも激しく降り注いだ。 解説
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| 義貞は薄金と云甲に、鬼切・鬼丸とて多田満仲より伝たる源氏重代の太刀を二振帯れたりけるを、左右の手に抜持て、上る矢をば飛越、下る矢には差伏き、真中を指て射矢をば二振の太刀を相交て、十六迄ぞ切て被落ける。其有様、譬ば四天王、須弥の四方に居して同時に放つ矢を、捷疾鬼走廻て、未其矢の大海に不落著前に、四の矢を取て返らんも角やと覚許也。小山田太郎遥の山の上より是を見て、諸鐙を合て馳参て、己が馬に義貞を乗奉て、我身徒立に成て追懸る敵を防けるが、敵数たに被取篭て、遂討れにけり。其間に義貞朝臣御方の勢の中へ馳入て、虎口に害を遁給ふ。 ○小山田太郎高家刈青麦事 抑官軍の中に知義軽命者雖多、事の急なるに臨で、大将の替命とする兵無りけるに、遥隔たる小山田一人馬を引返して義貞を奉乗、剰我身跡に下て打死しける其志を尋れば、僅の情に憑て百年の身を捨ける也。去年義貞西国の打手を承て、播磨に下著し給時、兵多して粮乏。若軍に法を置ずば、諸卒の狼藉不可絶とて、一粒をも刈採、民屋の一をも追捕したらんずる者をば、速可被誅之由を大札に書て、道の辻々にぞ被立ける。依之農民耕作を棄ず、商人売買を快しける処に、此高家敵陣の近隣に行て青麦を打刈せて、乗鞍に負せてぞ帰ける。 |
新田義貞は薄金と呼ばれる甲冑を身につけ、鬼切と鬼丸という多田満仲以来伝わる源氏重代の太刀二振りを帯びていた。これを両手に抜き持って飛来する矢を避ける:上方からの矢は跳躍して回避し、下方からは伏せてかわし、正面の矢は双剣を交差させ十六本まで切り落とした。その様子は譬えるなら四天王が須弥山四方から同時に放つ矢を捷疾鬼(敏捷な鬼神)が駆け回り、矢が海へ届く前に全て跳ね返すほどであった。 小山田太郎が遠方の山上よりこれを見て鐙を鳴らし駆け寄り、自らの馬に義貞を乗せた。自身は徒歩となり追撃する敵を防いだが、多数に包囲され遂に討死した。その隙に義貞公は味方軍勢の中へ逃れ辛くも難を免れた。 ○小山田太郎高家の青麦刈り事 昨年義貞が西国討伐軍として播磨へ下向した際、兵士多く食糧不足となった。この時高家(小山田太郎)は敵陣近くで青麦を刈り取って鞍に背負い帰還。「もし軍規を示さねば略奪が止まぬ」と考えた義貞は「一粒たりとも勝手に収穫、民屋から一物でも奪う者は即時処刑」と掲示し辻々に立てさせていた。これにより農民は耕作を続け商人も平穏に商売できたが、高家だけが敵陣近くで青麦を刈ったのである。 解説
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| 時の侍所長浜六郎左衛門尉是を見、直に高家を召寄、無力法の下なれば是を誅せんとす。義貞是を聞給て、「推量するに此者、青麦に替身と思んや。此所敵陣なればと思誤けるか、然ずば兵粮に術尽て法の重を忘たるかの間也。何様彼役所を見よ。」とて、使者を遣して被点検ければ、馬・物具爽に有て食物の類は一粒も無りけり。使者帰て此由を申ければ、義貞大に恥たる気色にて、「高家が犯法事は、戦の為に罪を忘たるべし。何様士卒先じて疲たるは大将の恥也。勇士をば不可失、法をば勿乱事。」とて、田の主には小袖二重与て、高家には兵粮十石相副て色代してぞ帰されける。高家此情を感じて忠義弥染心ければ、此時大将の替命、忽に打死をばしたる也。自昔至今迄、流石に侍たる程の者は、利をも不思、威にも不恐、只依其大将捨身替命者也。今武将たる人、是を慎で不思之乎。 ○聖主又臨幸山門事 官軍の総大将義貞朝臣、僅に六千余騎に打成されて帰洛せられければ、京中の貴賎上下色を損じて周章騒事限なし。官軍若戦に利を失はゞ、如前東坂本へ臨幸成べきに兼てより儀定ありければ、五月十九日主上三種の神器を先に立て、竜駕をぞ廻らされける。浅猿や、元弘の初に公家天下を一統せられて、三年を過ざるに、此乱又出来て、四海の民安からず。 |
時の侍所(軍事警察機関)長官・浜六郎左衛門尉がこの青麦刈取りを見つけ、すぐに高家を呼び寄せて軍規違反として処刑しようとした。義貞はこれを聞き、「推測するに彼は青麦で身代わりになろうと考えたのか? ここが敵陣近くであることを忘れたか、あるいは兵糧不足のため法の重みを誤ったかのどちらかだ。まず現場を確認せよ」と指示した。 使者が調査に向かうと、馬や武具は整っていたが食料類は一粒もなかった。この報告を受けた義貞は恥じ入る様子で「高家の違反は戦いのために罪を忘れたのだろう。兵士が疲弊するのは大将の不徳である。勇士を失ってはならず、法だけに固執すべきではない」と述べた。田の所有者には小袖二重を与え、高家には兵糧十石を褒賞として与えて帰した。 高家はこの温情に感激し忠義心が深まり、後に大将(義貞)の身代わりとなって討死することになったのである。昔から現代まで真の武士とは利益も求めず威圧にも屈せず、ただ主君のために命を捨てる者だ。武将たる者はこのことを肝に銘じるべきである。 ○聖主再び山門へ臨幸のこと なんと哀れなことか――元弘の乱後わずか三年で朝廷による天下統一が成ったのに、再び戦乱が起こり四海の民は安住できない状態となってしまったのである。 解説
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| 然ども去ぬる正月の合戦に、朝敵忽に打負て、西海の浪に漂ひしかば、是聖徳の顕るゝ処也。今はよも上を犯さんと好み、乱を起さんとする者はあらじとこそ覚へつるに、西戎忽に襲来て、一年の内に二度まで天子都を移させ給へば、今は日月も昼夜を照す事なく、君臣も上下を知ぬ世に成て、仏法・王法共に可滅時分にや成ぬらんと、人々心を迷はせり。されども此春も山門へ臨幸成て、無程朝敵を退治せられしかば、又さる事やあらんと定めなき憑みに積習して、此度は、公家にも武家にも供奉仕る者多かりけり。摂録臣は申に及ず、公卿には吉田内大臣定房・万里小路大納言宣房・竹林院大納言公重・御子左大納言為定・四条中納言隆資・坊城中納言経顕・洞院左衛門督実世・千種宰相中将忠顕・葉室中納言長光・中御門宰相宣明、殿上人には中院左中将定平・坊門左大弁清忠・四条中将隆光・園中将基隆・甘露寺左大弁藤長・岡崎右中弁範国・一条頭大夫行房、此外衛府諸司・外記・史・官人・北面・有官・無官の滝口・諸家の侍・官僧・官女・医陰両道に至まで、我も我もと供奉仕る。武家の輩には、新田左中将義貞・子息越後守義顕・脇屋右衛門佐義助・子息式部大輔義治・堀口美濃守貞満・大館左馬助義氏・江田兵部少輔行義・額田掃部助正忠・大江田式部大輔氏経・岩松兵衛蔵人義正・鳥山左京助氏頼・羽川越中守時房・桃井兵庫助顕氏・里見大膳亮義益・田中修理亮氏政・千葉介貞胤・宇都宮治部大輔公綱・同美濃将監泰藤・狩野将監貞綱・熱田大宮司昌能・河野備後守通治・得能備中守通益・武田甲斐守盛正・小笠原蔵人政道・仁科信濃守氏重・春日部治部少輔時賢・名和伯耆守長年・同太郎判官長生・今木新蔵人範家・頓宮六郎忠氏、是等を宗との侍とし、其勢都合六万余騎、鳳輦の前後に打囲て、今路越にぞ落行給ける。 |
しかし去年の正月の合戦では朝敵(足利軍)が敗れて西海に逃れたので、これは聖徳が現れた結果だと思われた。今後も天皇を犯そうとする者はもういないだろうと感じていたのに、関東から突然攻めて来て一年で二度も都落ちさせる事態となり、「今や太陽月さえ昼夜を照らさず君臣の秩序も崩れ、仏法も王法も滅ぶ時代か」と人々は混乱した。 だがこの春にも比叡山へ行幸があり短期間で朝敵を退治されたので、今回こそ大丈夫だと皆が期待し、公家・武家ともに供奉者が多かった。摂政や大臣級から始まり、吉田内大臣定房・万里小路大納言宣房・竹林院大納言公重・御子左大納言為定・四条中納言隆資・坊城中納言経顕・洞院左衛門督実世・千種宰相中将忠顕・葉室中納言長光・中御門宰相宣明ら公卿、殿上人では中院左中将定平・坊门左大弁清忠・四条中将隆光・園中将基隆・甘露寺左大弁藤長・岡崎右中弁範国・一条頭大夫行房が参加。さらに衛士・役所職員・外記官・史生・北面武士・滝口警護(有官無官問わず)・各武家の侍・僧侶・女官・医師や陰陽師に至るまで我先にと供奉した。 武家側では新田左中将義貞とその子越後守義顕、脇屋右衛門佐義助とその子式部大輔義治を筆頭に堀口美濃守貞満・大館左馬助義氏・江田兵部少輔行義・額田掃部助正忠・大江田式部大輔氏経・岩松兵衛蔵人義正・鳥山左京助氏頼・羽川越中守時房・桃井兵庫助顕氏・里見大膳亮義益・田中修理亮氏政、さらに千葉介貞胤・宇都宮治部大輔公綱と同美濃将監泰藤・狩野将監貞綱・熱田大宮司昌能・河野備後守通治・得能備中守通益・武田甲斐守盛正・小笠原蔵人政道・仁科信濃守氏重・春日部治部少輔時賢・名和伯耆守長年と同太郎判官長生・今木新蔵人範家・頓宮六郎忠氏らが主力となり、総勢六万余騎で鳳輦を前後から囲み京都から坂本へ向かった。 解説
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| ○持明院本院潛幸東寺事 持明院法皇・本院・新院・春宮に至まで、悉皆山門へ御幸成進らすべき由、太田判官全職、路次の奉行として、供奉仕たるに、本院は兼てより尊氏に院宣を被成下たりしかば、二度御治世の事やあらんずらんと思召て、北白川の辺より、俄に御不預の事有とて、御輿を法勝寺の塔前に舁居させて、態時をぞ移されける。去程に敵已に京中に入乱れぬと見て、兵火四方に盛也。全職是を見て、「さのみはいつまでか、暗然として可待申なれば、供奉の人々に急ぎ山門へ成進らすべし。」と申置て、新院・法皇・春宮許を先東坂本へぞ御幸成進せける。本院は全職が立帰る事もやあらんずらんと恐しく思召されければ、日野中納言資名、殿上人には三条中将実継計を供奉人として、急東寺へぞ成たりける。将軍不斜悦で、東寺の本堂を皇居と定めらる。久我内大臣を始として、落留給へる卿相雲客参られしかば、則皇統を立らる。是ぞはや尊氏の運を開かるべき瑞なりける。 ○日本朝敵事 夫日本開闢の始を尋れば、二儀已分れ三才漸顕れて、人寿二万歳の時、伊弉諾・伊弉冊の二の尊、遂妻神夫神と成て天の下にあまくだり、一女三男を生給ふ。一女と申は天照太神、三男と申は月神・蛭子・素盞烏の尊なり。 |
持明院法皇・本院(光厳上皇)・新院(光明上皇)・春宮(直仁親王)まですべてが比叡山へ避難する予定だったところ、太田判官全職は道中の警護責任者として供奉した。しかし本院は以前に尊氏に命令書を下していたため、「二度目の治世か」と思い込み、北白川付近で突然体調不良を装って輿を法勝寺塔前に置き、わざと時間稼ぎをされた。その間に敵軍が京都市中へ乱入し戦火が四方に広がるのを見て、全職は「これ以上待っていられない」と判断し供奉者たちに新院・法皇・春宮を先に坂本へ避難させた。本院は全職が戻らないことを恐れ、日野中納言資名と三条中将実継だけを供に東寺へ急行した。将軍(足利尊氏)はこれを喜び、東寺の本堂を行宮と定めた。久我内大臣ら落ち延びた公卿が参上すると皇統(北朝)が立てられた。これこそ尊氏の運勢が開ける吉兆だったのだ。 さて日本の起源を尋ねれば、天地が分かれ自然界が現れ人類が二万歳まで生きた時代に伊弉諾・伊弉冉の二神が夫婦となり天下りし一女三男をもうけられた。一女とは天照大神であり、三男とは月読命・蛭子尊(恵比寿)・素盞嗚尊である。 解説
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| 第一の御子天照太神此国の主と成て、伊勢国御裳濯川の辺、神瀬下津岩根に跡を垂れ給ふ。或時は垂迹の仏と成て、番々出世の化儀を調へ、或時は本地の神に帰て、塵々刹土の利生をなし給ふ。是則迹高本下の成道也。爰に第六天の魔王集て、此国の仏法弘らば魔障弱くして其力を失べしとて、彼応化利生を妨んとす。時に天照太神、彼が障碍を休めん為に、我三宝に近付じと云誓をぞなし給ひける。依之第六天の魔王忿りを休めて、五体より血を出し、「尽未来際に至る迄、天照太神の苗裔たらん人を以て此国の主とすべし。若王命に違ふ者有て国を乱り民を苦めば、十万八千の眷属朝にかけり夕べに来て其罰を行ひ其命を奪ふべし」と、堅誓約を書て天照太神に奉る。今の神璽の異説是也。誠に内外の宮の在様自余の社壇には事替て、錦帳に本地を顕はせる鏡をも不懸、念仏読経の声を留て僧尼の参詣を許されず。是然当社の神約を不違して、化属結縁の方便を下に秘せる者なるべし。されば天照太神より以来、継体の君九十六代、其間に朝敵と成て滅し者を数ふれば、神日本磐余予彦天皇御宇天平四年に紀伊国名草郡に二丈余の蜘蛛あり。足手長して力人に超たり。綱を張る事数里に及で、往来の人を残害す。然共官軍勅命を蒙て、鉄の網を張り、鉄湯を沸して四方より責しかば、此蜘蛛遂に殺されて、其身分々に爛れにき。 |
第一の子である天照大神はこの国の主となり、伊勢国御裳濯川(みもすそがわ)のほとり神瀬下津岩根に鎮座された。ある時は仏として姿を現し(垂迹)、代々の人々を教化する方便を示され、またある時は本来の神の姿に戻って(本地)、あらゆる世界で人々を救済なさった。これこそ「仮の姿が尊く真実の本体が下位である」という仏教の道理による悟りの現れである。 そこへ第六天の魔王が集まり、「この国で仏法が広まれば魔の妨害力が弱まるだろう」と考え、大神の救済活動を阻もうとした。その時天照大神は魔王の障害を取り除くため「私は三宝(仏・法・僧)に近づかない」と誓われた。これにより魔王は怒りを収め、自らの体から血を流し、「未来永劫、天照大神の子孫こそこの国の主とする。もし王命に背いて国を乱す者がいれば、十万八千の眷属が朝には駆けつけ夕べまでに罰を与え命を奪う」と固く誓約し文書にして献上した(これが三種の神器に関する異説である)。 実際に伊勢神宮では他の神社とは違い、内宮・外宮ともに錦の帳で仏像を示す鏡も掛けず、念仏や読経の声を止め僧尼の参拝を許さない。これは神との約束を破らず密かに人々と結縷する方便(救済手段)を隠しているためである。 こうして天照大神以来96代続いた皇統の中で朝敵となって滅んだ者を数えると、第12代景行天皇の御世・天平4年に紀伊国名草郡に2丈(約6m)超の巨大蜘蛛が現れた。手足は長く人力を超え糸を張ること数里にも及び通行人を害した。しかし官軍が勅命を受け鉄網を張り鉄湯を沸かして四方から攻めたため、この蜘蛛は殺され体はバラバラに腐敗した。 解説
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| 又天智天皇の御宇に藤原千方と云者有て、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼と云四の鬼を使へり。金鬼は其身堅固にして、矢を射るに立ず。風鬼は大風を吹せて、敵城を吹破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地に溺す。隠形鬼は其形を隠して、俄敵を拉。如斯の神変、凡夫の智力を以て可防非ざれば、伊賀・伊勢の両国、是が為に妨られて王化に順ふ者なし。爰に紀朝雄と云ける者、宣旨を蒙て彼国に下、一首の歌を読て、鬼の中へぞ送ける。草も木も我大君の国なればいづくか鬼の棲なるべき四の鬼此歌を見て、「さては我等悪逆無道の臣に随て、善政有徳の君を背奉りける事、天罰遁るゝ処無りけり。」とて忽に四方に去て失にければ、千方勢ひを失て軈て朝雄に討れにけり。是のみならず、朱雀院の御宇承平五年に、将門と云ける者東国に下て、相馬郡に都を立、百官を召仕て、自平親王と号す。官軍挙て是を討んとせしかども、其身皆鉄身にて、矢石にも傷られず剣戟にも痛ざりしかば、諸卿僉議有て、俄に鉄の四天を鋳奉て、比叡山に安置し、四天合行の法を行せらる、故天より白羽の矢一筋降て、将門が眉間に立ければ、遂に俵藤太秀郷に首を捕られてけり。其首獄門に懸て曝すに、三月迄色不変、眼をも不塞、常に牙を嚼て、「斬られし我五体何れの処にか有らん。 |
また天智天皇の御代には藤原千方という者がいて、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼という四匹の鬼を使い従えていた。金鬼はその体が堅固で矢を射ても倒れず、風鬼は大風を吹かせて敵の城を破壊し、水鬼は洪水を流して陸地にいる敵さえも溺死させた。隠形鬼は姿を消していきなり敵を拉致した。このような不思議な力は普通の人知では防げないため、伊賀・伊勢の両国は彼のために混乱し天皇の治めに従う者がいなかった。 ここで紀朝雄という人物が勅命を受けてその地へ赴き、一首の歌を作って鬼たちの中へ送り込んだ: 四匹の鬼はこの歌を見て、「私たちは無道の臣下に従い善政をしいる君主に背いたことが天罰を免れない罪だった」と言ってたちまち四方へ消え失せた。千方は力を失いすぐに朝雄に討たれた。 これだけでなく、朱雀天皇の御代・承平5年(935年)には将門という者が東国へ下り相馬郡に都を置き百官を使役し自ら「平親王」と名乗った。官軍はこぞってこれを討とうとしたが、彼の身体は鉄のように固く矢や石でも傷つかず剣戟も効かなかったため公卿たちは協議して急いで鉄製の四天王像を鋳造し比叡山に安置したうえ「四天合行」の法(密教儀式)を行ったところ、すると空から白羽の矢が一本降り将門の眉間に突き刺さった。そのため彼は俵藤太秀郷に首を取られてしまった。 その首は獄門にかけ晒されたが三カ月経っても色は変わらず目も閉じず、常に牙を噛みしめて「斬られた私の五体はいったいどこにあるのか」と言っていたという。 解説
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| 此に来れ。頭続で今一軍せん。」と夜な/\呼りける間、聞人是を不恐云事なし。時に道過る人是を聞て、将門は米かみよりぞ斬られける俵藤太が謀にてと読たりければ、此頭から/\と笑ひけるが、眼忽に塞て、其尸遂に枯にけり。此外大石山丸・大山王子・大友真鳥・守屋大臣・蘇我入鹿・豊浦大臣・山田石川・左大臣長屋・右大臣豊成・伊予親王・氷上川継・橘逸勢・文屋宮田・江美押勝・井上皇后・早良太子・大友皇子・藤原仲成・天慶純友・康和義親・宇治悪左府・六条判官為義・悪右衛門督信頼・安陪貞任・宗任・清原武衡・平相国清盛・木曾冠者義仲・阿佐原八郎為頼・時政九代の後胤高時法師に至迄、朝敵と成て叡慮を悩し仁義を乱る者、皆身を刑戮の下に苦しめ、尸を獄門の前に曝さずと云事なし。去ば尊氏卿も、此春東八箇国の大勢を率して上洛し玉ひしかども、混朝敵たりしかば数箇度の合戦に打負て、九州を差て落たりしが、此度は其先非を悔て、一方の皇統を立申て、征罰を院宣に任られしかば、威勢の上に一の理出来て、大功乍に成んずらんと、人皆色代申れけり。去程に東寺已に院の御所と成しかば、四壁を城郭に構へて、上皇を警固し奉る由にて、将軍も左馬頭も、同く是に篭られける。是は敵山門より遥々と寄来らば、小路々々を遮て、縦横に合戦をせんずる便よかるべしとて、此寺を城郭にはせられけるなり。 |
「私の体を持ってこい。首だけでもう一戦交えよう」と、毎晩のように叫んだため、これを聞く者は誰も恐れない者はいなかった。そこを通りかかった者が、「将門は米(東国)で斬られたのだぞ、俵藤太の策略によるものだな」と言ったところ、この首がからっと笑い声をあげた瞬間に目をつぶり、死体はついに腐敗した。 これ以外にも大石山丸・大山王子・大友真鳥・守屋大臣(物部守屋)・蘇我入鹿・豊浦大臣(蘇我蝦夷)・山田石川・左大臣長屋王・右大臣藤原豊成・伊予親王・氷上川継・橘逸勢・文室宮田麻呂・恵美押勝(藤原仲麻呂)・井上皇后・早良太子・大友皇子・藤原仲成・天慶の藤原純友・康和の源義親・宇治悪左府(藤原頼長)・六条判官源為義・悪右衛門督信頼(藤原信頼)・安倍貞任・宗任・清原武衡・平相国清盛・木曾冠者義仲・阿佐原八郎為頼・北条時政から九代目の子孫である高時法師に至るまで、朝廷の敵となって天皇を悩ませ秩序を乱した者は皆、刑罰で苦しめられ死体は獄門にかけ晒されるのが常であった。 ところが尊氏卿(足利尊氏)については事情が異なる。この春には東国八カ国の大軍を率いて上洛したものの朝廷の敵だったため何度も戦いに敗れ九州へ落ち延びた。しかし今回は以前の過ちを悔い、一方の皇統(光厳天皇)を立て直して討伐権限を得る院宣を受けたことで、武力に加えて大義名分が生じ、大きな手柄を立てようと皆も期待している。 そのため東寺は既に上皇御所となっており、周囲の壁を城郭のように構築し警護にあたっている。尊氏自身や配下の左馬頭(高師直)らもここに籠っていたのである。これは敵が比叡山から遠路攻めて来る場合に備え、小路ごとに防衛線を張り縦横無尽に戦うのに便利だとして東寺を要塞化したものだった。 解説
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| ○正成首送故郷事 湊川にて討れし楠判官が首をば、六条川原に懸られたり。去ぬる春もあらぬ首をかけたりしかば、是も又さこそ有らめと云者多かりけり。疑は人によりてぞ残りけるまさしげなるは楠が頚と、狂歌を札に書てぞ立たりける。其後尊氏卿楠が首を召れて、「朝家私日久相馴し旧好の程も不便也。迹の妻子共、今一度空しき貌をもさこそ見度思らめ。」とて、遺跡へ被送ける情の程こそ有難けれ。楠が後室・子息正行是を見て、判官今度兵庫へ立し時、様々申置し事共多かる上、今度の合戦に必ず討死すべしとて、正行を留置しかば、出しを限の別也とぞ兼てより思ひ儲たる事なれども、貌をみれば其ながら目塞り色変じて、替はてたる首をみるに、悲の心胸に満て、歎の泪せき敢ず。今年十一歳に成ける帯刀、父が頭の生たりし時にも似ぬ有様、母が歎のせん方もなげなる様を見て、流るゝ泪を袖に押へて持仏堂の方へ行けるを、母怪しく思て則妻戸の方より行て見れば、父が兵庫へ向ふとき形見に留めし菊水の刀を、右の手に抜持て、袴の腰を押さげて、自害をせんとぞし居たりける。母急走寄て、正行が小腕に取付て、泪を流して申けるは、「「栴檀は二葉より芳」といへり。汝をさなく共父が子ならば、是程の理に迷ふべしや。 |
湊川で討たれた楠判官(正成)の首は六条河原にかけられた。去春にも別の者の首があったため、これもまた同じだろうと言う者が多かった。「疑いは人によって残されるものだな」と狂歌を書いた札が立てられている者さえいた。 その後尊氏卿(足利尊氏)は楠の首を取り寄せてこう言った。「朝廷とは長年親交があった旧友の情もある。遺族たちも今一度その姿を見たいだろうから」と言って故郷へ送り返したのは、実に心温まる配慮だった。 楠の未亡人と息子・正行がそれを見ると、判官(正成)が出陣前に「今回必ず戦死する覚悟だ」として幼い正行を残していったため、これが今生の別れだと分かっていた。だが現実に色変わり目も閉じた首を見ると悲しみで胸がいっぱいになり涙が止まらない。 今年十一歳になった帯刀(正行)は母の嘆きようを見て黙って袖で涙を拭い、仏堂へ向かった。怪しいと思った母が後をつけると、父が出陣時に形見として残した菊水紋の刀を右手に抜き放ち袴の腰を押さえ自害しようとしていた。 母親は駆け寄り正行の腕を取りながら涙を流して諭した。「『栴檀(せんだん)は双葉から香る』というではないか。お前が幼くとも父の子なら、どうしてこのような道理に迷うのか」 解説
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| 小心にも能々事の様を思ふてみよかし。故判官が兵庫へ向ひし時、汝を桜井の宿より返し留めし事は、全く迹を訪らはれん為に非ず、腹を切れとて残し置しにも非ず。我縦ひ運命尽て戦場に命を失ふ共、君何くにも御座有と承らば、死残りたらん一族若党共をも扶持し置き、今一度軍を起し、御敵を滅して、君を御代にも立進らせよと云置し処なり。其遺言具に聞て、我にも語し者が、何の程に忘れけるぞや。角ては父が名を失ひはて、君の御用に合進らせん事有べし共不覚。」と泣々勇め留て、抜たる刀を奪とれば、正行腹を不切得、礼盤の上より泣倒れ、母と共にぞ歎ける。其後よりは、正行、父の遺言、母の教訓心に染肝に銘じつゝ、或時は童部共を打倒し、頭を捕真似をして、「是は朝敵の頚を捕也。」と云、或時は竹馬に鞭を当て、「是は将軍を追懸奉る。」なんど云て、はかなき手ずさみに至るまでも、只此事をのみ業とせる、心の中こそ恐しけれ。 |
よく考えてみるといい。亡くなった判官が兵庫へ向かった時、お前を桜井の宿から帰したのは決して跡継ぎに困らないためではなく、切腹しろと言って残したわけでもない。「私が運尽きて戦死しても、主君(後醍醐天皇)はどこかにおられるだろう。生き残った一族や家来たちを支え、いずれ再挙兵して敵を滅ぼし、主君を帝位に戻せ」と言い置いたためだ。 その遺言を詳しく聞きながら育てられたお前が、どうして忘れてしまったのか? もし自害すれば父の名を汚すだけで、朝廷への忠節も果たせなくなるだろう。」と泣きながら諭し、抜いた刀を取り上げると、正行は切腹できずに礼拝台へ泣き崩れ母と嘆き合った。 その後から正行は父の遺言と母の教えを心に刻みつけ、時には子供たちを倒して頭を押さえて「これが朝敵の首だ」と言い、また竹馬に鞭打って「将軍追討じゃ」などと叫びながら、何気ない遊びに至るまで常にこの一念で過ごす様は恐ろしいほどだった。 解説
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| input text 太平記\017_太平記_巻17.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第十七 ○山攻事付日吉神託事 主上二度山門へ臨幸なりしかば、三千の衆徒去ぬる春の勝軍に習て、弐ろなく君を擁護し奉り、北国・奥州の勢を待由聞へければ、将軍・左馬頭・高・上杉の人々、東寺に会合して合戦の評定あり。事延引して義貞に勢付なば叶まじ。勢未だ微なるに乗て山門を可攻とて、六月二日四方の手分を定て、追手・搦手五十万騎の勢を、山門へ差向らる。追手には、吉良・石堂・渋河・畠山を大将として、其勢五万余騎、大津・松本の東西の宿・園城寺の焼跡・志賀・唐崎・如意が岳まで充満したり。搦手には、仁木・細河・今川・荒河を大将として、四国・中国の勢八万余騎、今道越に三石の麓を経て、無動寺へ寄んと志す。西坂本へは、高豊前守師重・高土佐守・高伊予守・南部遠江守・岩松・桃井等を大将として三十万騎、八瀬・薮里・しづ原・松崎・赤山・下松・修学院・北白川まで支て、音無の滝・不動堂・白鳥よりぞ寄たりける。山門には、敵是まで可寄とは思も寄ざりけるにや、道々をも警固せず、関・逆木の構もせざりければ、さしも嶮しき道なれ共、岩石に馴たる馬共なれば、上らぬ所も無りけり。其時しも新田左兵衛督を始として、千葉・宇都宮・土肥・得能に至るまで東坂本に集居て、山上には行歩も叶はぬ宿老、稽古の窓を閉たる修学者の外は、兵一人も無りけり。 |
後醍醐天皇が再び比叡山へ行幸されたため、3千人の僧兵たちは前年の戦勝に倣い心を一つにして天皇をお守りし、北国・奥州の援軍を待つ準備を整えた。これを知った将軍(足利尊氏)や左馬頭(直義)、高(師直)・上杉(重能)らは東寺に集まり作戦会議を行い、「決断が遅れて新田義貞に勢いをつけられたら不利だ。今こそ兵力が手薄な山門を攻めよ」と決定し、6月2日に四方から部隊を分けて50万騎の軍勢を比叡山へ差し向けた。 正面軍(追手)は吉良・石堂・渋河・畠山を大将として5万余騎が大津・松本の東西宿泊地、園城寺跡、志賀、唐崎、如意ヶ岳まで埋め尽くした。背後部隊(搦手)には仁木・細川・今川・荒河らが率いる四国・中国地方からの8万余騎が今道越えで三石山麓を経由し無動寺目指して進軍。西坂本方面では高師重(豊前守)・同土佐守・同伊予守、南部遠江守、岩松、桃井ら指揮下30万騎が八瀬・薮里・静原・松崎・赤山・下松・修学院・北白川まで展開し、音無滝・不動堂・白鳥方面から攻め寄せた。 これに対し比叡山では敵の侵攻を予想しておらず、街道の警備も関所や防塁も設置していなかった。そのため険しい山路であっても岩場に慣れた軍馬はどこでも登りきり、新田義貞(左兵衛督)や千葉・宇都宮・土肥・得能らが集結する東坂本を除けば、山上には老人と勉学中の僧侶以外に守備兵は一人もいなかった。 解説
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| 此時若西坂より寄る大勢共、暫も滞りなく、四明の巓まで打挙りたらましかば、山上も坂本も、防に便り無して、一時に落べかりしを、猶も山王大師の御加護や有けん、俄に朝霧深立隠して、咫尺の内をも見ぬ程なりければ、前陣に作る御方の時の音を、敵の防ぐ矢叫の声ぞと聞誤て、後陣の大勢つゞかねば、そゞろに時をぞ移しける。懸る処に、大宮へをり下て三塔会合しける大衆上下帰山して、将門の童堂の辺に相支て、こゝを前途と防ける間、面に進みける寄手三百人被討、前陣敢て懸らねば、後陣は弥不得進、只水飲の木陰に陣をとり、堀切を堺て、掻楯を掻、互に遠矢を射違て、其日は徒に暮にけり。西坂に軍始りぬと覚へて、時声山に響て聞へければ、志賀・唐崎の寄手十万余騎、東坂本の西穴生の前へ押寄て、時声をぞ揚たりける。爰にて敵の陣を見渡せば、無動寺の麓より、湖の波打際まで、から堀を二丈余に堀通して処々に橋を懸け、岸の上に屏を塗、関・逆木を密しくして、渡櫓・高櫓三百余箇所掻双べたり。屏の上より見越せば、是こそ大将の陣と覚へて中黒の旗三十余流山下風に吹れて、竜蛇の如くに翻りたる其下に、陣屋を双て油幕を引、爽に鎧たる兵二三万騎、馬を後に引立させて、一勢々々並居たり。無動寺の麓、白鳥の方を向上たりければ、千葉・宇都宮・土肥・得能・四国・中国の兵こゝを堅めたりと覚へて、左巴・右巴・月に星・片引両・傍折敷に三文字書たる旗共六十余流木々の梢に翻て、片々たる其陰に、甲の緒を縮たる兵三万余騎、敵近付かば横合にかさより落さんと、轡を双て磬たり。 |
この時もし西坂から攻めてきた大軍が少しも遅れず四明ヶ岳の頂上まで押し寄せていたなら、山上も坂本(比叡山麓)も防衛手段なく一気に陥落していただろう。しかし山王権現(比叡山守護神)の加護か突然深い朝霧が立ち込め咫尺先すら見えないほどになったため、前線部隊は味方の時を知らせる音を敵の防戦の叫び声と聞き間違え、後続部隊も進軍できず無為に時間だけが過ぎた。 そこへ大宮(日吉大社)から戻った三塔(比叡山の東塔・西塔・横川)の僧兵たち全員が将門堂付近で防戦線を張り、ここを死守と定めて抵抗したため正面から進んだ攻撃側300人は討たれ前衛部隊は突入できず後続も停止。双方は水呑み場の木陰に陣取り堀割を境にして盾を立て互いに遠矢を射交わすだけでその日は終わった。 西坂で戦端が開かれたと知らせる鬨の声が山々に響くと、志賀・唐崎方面から10万余騎の攻撃部隊が東坂本の西穴生へ押し寄せ自軍も鬨の声をあげた。ここから敵陣を見渡すと無動寺の麓から琵琶湖岸まで空堀(幅約6m)を通して所々に橋を架け、土塁には塗り壁を施し関門や逆茂木で厳重防御。さらに渡櫓・高櫓300か所以上が並び建てられていた。 壁の上から見ると大将本陣と分かる中黒紋旗30余流が山風に龍蛇のように翻る下には幕舎を組み油布天幕も張り、鮮やかな鎧装備の兵2-3万騎が馬を後ろへ控え各軍勢ずつ整列。無動寺麓から白鳥方面にかけては千葉・宇都宮・土肥・得能ら四国中国勢が守ると見え左巴・右巴紋や月星紋、片引両・三文字旗など60余流が木々の梢に翻る陰には兜紐を締めた兵3万余騎が敵接近なら横合から襲い落とそうと手綱を握り息を潜めていた。 解説
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| 又湖上の方を直下たれば、西国・北国・東海道の、船軍に馴たる兵共と覚て、亀甲・下濃・瓜の紋・連銭・三星・四目結・赤幡・水色・三■、家々の紋画たる旗、三百余流、塩ならぬ海に影見へて、漕双べたる舷に、射手と覚へたる兵数万人、掻楯の陰に弓杖を突て横矢を射んと構へたり。寄手誠に大勢なりといへども、敵の勢に機を被呑て、矢懸りまでも進み得ず、大津・唐崎・志賀の里三百余箇所に陣を取て、遠攻にこそしたりけれ。六月六日、追手の大将の中より西坂の寄手の中へ使者を立て、「此方の敵陣を伺見候へば、新田・宇都宮・千葉・河野を始として、宗との武士共、大畧皆東坂本を堅たりとみへて候。西坂をば嶮きを憑て、公家の人々、さては山法師共を差向て候なる。一軍手痛く攻て御覧候へ。はか/\しき合戦はよも候はじ、思図に大岳の敵を追落されて候はゞ、大講堂・文殊楼の辺に引へて、火を被挙候へ。同時に攻合せて、東坂本の敵を一人も余さず、湖水に追はめて亡し候べし。」とぞ牒せられける。西坂の大将高豊前守是を聞て、諸軍勢に向て法を出しけるは、「山門を攻落すべき諸方の相図明日にあり。此合戦に一足も退たらん者は、縦先々抜群の忠ありと云とも、無に処して本領を没収し、其身を可追出。 |
また琵琶湖上を見渡すと、西国・北国・東海道の水軍に慣れた兵士たちと思われ、亀甲紋・下濃紋・瓜紋・連銭紋・三星紋・四目結紋・赤幡・水色旗・三つ鱗紋など各家々の紋章を描いた300余りの旗が塩分を含まない湖面に映り、漕ぎ並べた船縁には射手と思われる兵数万人が盾の陰で弓杖をつき横矢射ちの構えを見せていた。攻撃軍は確かに大兵力だが敵陣の勢いに押され矢を放つ距離まで前進できず、大津・唐崎・志賀周辺300か所余りに布陣して遠方からの攻撃に終始した。 6月6日、正面部隊(追手)の大将たちから西坂方面軍へ使者が立ち、「こちらの敵情を偵察すると新田義貞・宇都宮氏綱・千葉胤貞・河野通盛ら正規武士団はほぼ全員東坂本に布陣している模様。西坂は険しい地形を頼み公家衆や僧兵たちが配置されている。一軍で痛烈な攻撃を仕掛けてみよ。長期戦になるはずもなく、作戦通り大岳(比叡山)の敵を追い落とせたら大講堂・文殊楼付近に引き込み火を放て。同時に総攻撃をかけ東坂本の敵は一人残らず琵琶湖へ追い込んで殲滅せよ」と指令が伝えられた。 西坂方面軍司令官である高豊前守(師重)はこれを聞き諸部隊に向けて布告した:「比叡山攻略の全軍合図は明日だ。この戦いで一歩でも退く者は、たとえ以前に抜群の功績があろうとも所領を没収し追放処分とする」。 解説
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| 一太刀も敵に打違へて、陣を破り、分捕をもしたらんずる者をば、凡下ならば侍になし、御家人ならば、直に恩賞を可申与。さればとて独高名せんとて抜懸すべからず。又傍輩の忠を猜で危き処を見放つべからず。互に力を合せ、共に志を一にして、斬共射共不用、乗越々々進べし。敵引退かば、立帰さぬさきに攻立て、山上に攻上り、堂舎・仏閣に火を懸て、一宇も不残焼払ひ、三千の衆徒の頚を一々に、大講堂の庭に斬懸て、将軍の御感に預り給へかし。」と、諸人を励まして下知しける、悪逆の程こそ浅猿けれ。諸国の軍勢等此命を聞て、勇み前まぬ者なし。夜已に明ければ、三石・松尾・水飲より、三手に分れて二十万騎、太刀・長刀の鋒を双べ、射向の袖を差かざして、ゑい/\声を出してぞ揚たりける。先一番に中書王の副将軍に被憑たりける千種宰相中将忠顕卿・坊門少将正忠、三百余騎にて被防けるが、松尾より攻上る敵に後を被裹て一人も不残討れてけり。是を見て後陣に支へて防ぎける護正院・禅智坊・道場坊以下の衆徒七千余人、一太刀打ては引上暫支ては引退、次第々々に引ける間、寄手弥勝に乗て、追立々々一息をも継せず、さしも嶮き雲母坂・蛇池を弓手に見成て、大岳までぞ攻あがりける。去程に院々に早鐘撞て、西坂已に被攻破ぬと、本院の谷々に騒ぎ喚りければ、行歩も叶はぬ老僧は鳩の杖に携て、中堂・常行堂なんどへ参て、本尊と共に焼死なんと悲み、稽古鑽仰をのみ事とする修学者などは、経論聖教を腹に当て、落行悪僧の太刀・長刀を奪取て、四郎谷の南、箸塚の上に走挙り、命を捨て闘ける。 |
さらに高師重が兵士たちを励まし指令したことには、「一騎打ちでも敵と渡り合って陣地を破壊したり戦利品を得た者は、平民であれば武士に取り立てる。御家人なら直ちに恩賞を与える。ただし個人の手柄を焦って単独突撃してはならない。また仲間への嫉妬で危険な場面を見捨ててもいけない。互いに力を合わせ心を一つにして斬り込みも射撃もしないで、ひたすら乗り越え続け進めよ。敵が退却したなら立ち直る前に攻め立て山頂に押し上がれ。堂舎や仏閣へ火をつけて一棟残らず焼き払い、三千の僧侶たちの首を一つずつ大講堂の庭で刎ねて将軍(足利尊氏)のお褒めを受けるのだ」という凄まじさがあり、その残虐性は実にあさましいものであった。諸国の兵士らがこの命令を聞き勇み立たぬ者はなく、夜が明けると三石・松尾・水飲から二手に分かれた二十万騎が刀や薙刀の刃を並べ矢射ち用の袖も着けず「えいえい」と声を上げて攻め上がった。先鋒として中書王(護良親王)付き副将軍だった千種忠顕卿・坊門正忠ら三百余騎が防戦したが松尾から来た敵に背後を包まれ一人残らず討ち死にした。これを見て後陣で支えていた護正院・禅智坊・道場坊配下の僧兵七千余人は一太刀打つと退き、一時的に踏み止まるとまた撤退するなど次第に後退していく間に攻撃軍がますます勢いづいて容赦なく追い立てたため険しい雲母坂や蛇池を左手に見ながら大岳(比叡山)まで一気に攻め上がった。そのうち各寺院で早鐘が鳴り西坂の防衛線が破られたと本拠地の谷々が騒然となると、歩行も困難な老僧たちは鳩杖を携え中堂や常行堂などへ赴き仏像と共に焼死しようと嘆く一方で学問一筋の修行者らは経典をお腹に抱えて堕落した悪僧(武装僧)から太刀や薙刀を奪い取ると四郎谷南側の箸塚という丘へ駆け上がり、命を賭けて戦った。 解説
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| 爰に数万人の中より只一人備後国住人、江田源八泰氏と名乗て、洗革の大鎧に五枚甲の緒を縮、四尺余の太刀所々さびたるに血を付て、ましくらにぞ上たりける。是を見て、杉本の山神大夫定範と云ける悪僧、黒糸の鎧に竜頭の甲の緒をしめ、大立挙の髄当に、三尺八寸の長刀茎短に取て乱足を蹈み、人交もせず只二人、火を散してぞ斬合ける。源八遥の坂を上て、数箇度の戦に腕緩く機疲れけるにや、動ればうけ太刀に成けるを、定範得たり賢しと、長刀の柄を取延源八が甲の鉢を破よ砕よと、重打にぞ打たりける。源八甲の吹返を目の上へ切さげられて、著直さんと推仰きける処を、定範長刀をからりと打棄て、走懸てむずと組。二人が蹈ける力足に、山の片岸崩て足もたまらざりければ、二人引組ながら、数千丈高き小篠原を、上になり下になり覆けるが、中程より別々に成て両方の谷の底へぞ落たりける。此外十四の禅侶、法花堂の衆に至るまで、忍辱の衣の袖を結て肩にかけ、降魔の利剣を提て、向ふ敵に走懸々々、命を風塵よりも軽して防ぎ戦ける程に、寄手の大勢進兼て、四明の巓・西谷口、今三町許に向上て一気休てぞゆらへける。爰に何者か為たりけん、大講堂の鐘を鳴して、事の急を告たりける間、篠の峯を堅めんとて、昨日横川へ被向たりける宇都宮五百余騎、鞭に鐙を合て西谷口へ馳来る。 |
この時数万の兵の中からただ一人、備後国住人の江田源八泰氏(えだげんぱちたいし)と名乗る者が現れた。磨かれた革製の大鎧に五枚甲冑の緒を締め直し、所々錆びた四尺余りの太刀に血を塗りつけ、真っすぐ攻め登ってきた。これを見て杉本の山神大夫定範(すぎもとやまがみだゆうさだのり)という悪僧は、黒糸の鎧に竜頭模様の兜緒を締め、大立挙式の頬当をつけ、茎を短く持った三尺八寸の長刀で踏み込みながら乱戦し、他の者と絡まずただ二人だけで火花を散らして斬り合った。源八は険しい坂を登って幾度も戦い腕が鈍り疲れていたのか、動くと必ず敵の攻撃を受けてしまい、定範は好機と見て長刀の柄を伸ばし甲冑の鉢(兜頂部)を破壊せんと重く打ち込んだ。源八は目の上まで切られた兜の吹返し部分で視界が遮られ直そうとした瞬間、定範は長刀をかちゃりと投げ捨て駆け寄って組みついた。二人の踏み込む力に山肌が崩れ足場が保てず、抱き合ったまま数千丈も高い小篠原(こしのはら)を上になったり下になったり転がり落ちるうち途中で離れ別々に両方の谷底へ墜落した。これ以外にも十四人の僧侶から法華堂(ほっけどう)の衆徒まで、忍辱衣(仏教僧服)の袖を結んで肩にかけ降魔の利剣(武器化した護身刀)を提げ敵陣に突進し、命を塵芥より軽んじて防戦する中で攻撃軍は大部隊が押しまくり四明ヶ岳頂上・西谷口まであと三町ほど残すところで一息ついて動きを止めた。その時誰かが大講堂の鐘を鳴らし急報を知らせたため、篠峯(比叡山中腹)を守ろうと前日横川方面へ向かっていた宇都宮勢五百余騎が鞭で馬鐙を叩きながら西谷口へ駆けつけた。 解説
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| 皇居を守護して東坂本に被坐ける新田左中将義貞、六千余騎を率して四明の上へ馳上て、紀清両党を虎韜にすゝませ、江田・大館を魚鱗に連ねて真倒に懸立られけるに、寄手二十万騎の兵共、水飲の南北の谷へ被懸落て、馬人上が上に落重りしかば、さしも深き谷二つ死人に埋て平地になる。寄手此日の合戦に討負て、相図の支度相違しければ、水飲より下に陣を取て、敵の隙を伺ふ。義貞は東坂本を閣て、大岳を陣に取り、昼夜旦暮に闘て、互に陣を不被破、西坂の合戦此侭にて休ぬ。其翌日高豊前守大津へ使を立て、「宗との敵共は、皆大岳へ向たりと見へて候。急追手の合戦を被始て東坂本を攻破り、神社・仏閣・僧坊・民屋に至るまで、一宇も不残焼払て、敵を山上に追上、東西両塔の間に打上て、煙を被挙候はゞ、大岳の敵ども前後に心を迷はして、進退定て度を失つと覚へ候。其時此方より同攻上戦の雌雄を一時に可決。」とぞ牒せられける。吉良・石堂・仁木・細川の人々是を聞て、「昨日は已に追手の勧に依て高家の一族共手の定の合戦を致しつ。今日は又搦手より此陣の合戦を被勧事誠に理に当れり、非可黙止。」とて、十八万騎を三手に分て、田中・浜道・山傍より、態夕日に敵を向て、東坂本へぞ寄たりける。城中の大将には、義貞の舎弟脇屋右衛門佐義助を被置たりければ、東国・西国の強弓・手足を汰へて、土矢間・櫓の上にをき、土肥・得能・仁科・春日部・伯耆守以下の四国・北国の懸武者共二万余騎、白鳥が岳に磬へさせ、船軍に馴たる国々の兵に、和仁・堅田の地下人共を差添て五千余人、兵船七百余艘に掻楯を掻て、湖水の澳に被浮たり。 |
皇居を守護するため東坂本に陣取っていた新田左兵衛佐義貞は、六千余騎を率いて四明ヶ岳の頂上へ駆け上がり、紀清両党の部隊を奇襲隊形(虎韜)で進ませつつ、江田・大館らの軍勢を魚鱗陣に連ねて正面突破を敢行した。これに対し攻撃側二十万騎の兵士たちは水呑み地区の南北両谷へ追い落とされ、人馬が上から次々に重なり落ちたため、元来深かった二つの谷が死体で埋まり平地のようになった。攻撃軍はこの日の合戦で敗北し、予定していた作戦が狂ったため水呑みより下方で陣を構え敵の隙を窺う。一方義貞は東坂本を見下ろす大岳(比叡山)に布陣し昼夜問わず交戦したので双方とも陣地を破られず、西坂での戦いは膠着状態となった。 翌日高師直が大津の味方のもとへ使者を立てて伝言させた。「敵軍主力は全て大岳に向かっている模様である。急いで正面部隊(追手)による攻撃を開始し東坂本を突破せよ。神社仏閣・僧坊民家に至るまで一軒残らず焼き払い、敵を山上へ追い上げて東西両塔の間で炎上させれば、大岳の敵軍は前後から挟撃されたと錯覚し進退極まるだろう。その時我々が総攻撃をかけ勝敗を決しよう」と。これを聞いた吉良・石堂・仁木・細川ら諸将は「昨日すでに追手部隊の奮戦で高家一族が善戦した。今日さらに包囲側(搦手)からこの作戦を進言されるとは理に適っている」と賛同し、十八万騎を三隊に分け田中・浜道・山沿いから夕陽を背にして東坂本へ押し寄せた。 城の守備大将には義貞の弟脇屋右衛門佐義助が任命されていたため、東国西国の精鋭弓兵を選抜して土塀と櫓上に配置した。さらに土肥・得能・仁科・春日部・伯耆守以下の四国北国武士団二万余騎は白鳥ヶ岳で陣形を整え、水軍経験のある諸国の兵士には和仁・堅田の地元民を加えた五千余人が配され、七百余艘の軍船に楯を並べて琵琶湖入り江に浮かべていた。 解説
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| 敵陣の構密くして、人の近付べき様なしといへども、軍をせでは敵の落べき様やあるとて、三方の寄手八十万騎相近付て時を作りければ、城中の勢六万余騎、矢間の板を鳴し、舷を敲て時声を合す。大地も為之裂、大山も此時に崩やすらんとをびたゝし。寄手已に堀の前までかづき寄せ、埋草を以て堀をうめ、焼草を積で櫓を落さんとしける時、三百余箇所の櫓・土さま・出屏の内より、雨の降如射出しける矢、更に浮矢一つも無りければ、楯のはづれ旗下に射臥られて、死生の堺を不知者三千人に余れり。寄手余に射殺されける間、持楯の陰に隠んと、少色めきける処を、城中より見澄して、脇屋・堀口・江田・大館の人々六千余騎、三の関を開せて、驀直に敵の中へ懸入る。土肥・得能・仁科・伯耆が勢二千余騎、白鳥より懸下て横合にあふ。湖水に浮べる国々の兵共、唐崎の一松の辺へ漕寄て、さし矢・遠矢・すぢかひ矢に、矢種を不惜射たりける。寄手大勢なりといへ共、山と海と横矢に射白され、田中・白鳥の官軍に被懸立、叶はじとや思けん、又本陣へ引返す。其後よりは日夜朝暮に兵を出し、矢軍許をばしけれ共、寄手は遠攻に為たる許を態にし、官軍は城を不被落を勝にして、はか/゛\しき軍は無りけり。同十六日熊野の八庄司共、五百余騎にて上洛したりけるが、荒手なれば一軍せんとて、軈て西坂へぞ向ひたりける。 |
敵陣の構えが厳重で近づくことすら困難であったものの、攻撃しなければ敵を倒せる見込みもないと考えた三方からの攻撃軍八十万騎は接近して鬨の声(ときのこえ)を上げると、城内の勢力六万余騎は矢狭間(やざま)の板戸を叩き舷側(げんそく)を打ち鳴らし呼応した。その轟音は大地が裂け山々が崩れ落ちるかのような凄まじさであった。攻撃軍がすでに堀際まで押し寄せ、草束で埋め立てて壕を埋め、燃えやすい藁を積み上げ櫓(やぐら)を焼き払おうとした瞬間、三百箇所以上の櫓・土塀・出撃用柵の中から雨のように射かけられた矢は一本も無駄なく飛び、盾の隙間や旗の下で射抜かれて生死さえ分からない者三千人以上が倒れた。攻撃軍があまりに多く殺されたため、持つ盾の陰へ隠れようと動揺したところを城内から見透かし、脇屋・堀口・江田・大館ら六千余騎は三つの関門を開いてまっすぐ敵陣へ突入。土肥・得能・仁科・伯耆守の軍勢二千余騎が白鳥ヶ岳から駆け下りて側面を襲った。さらに琵琶湖に浮かぶ諸国の兵士たちは唐崎(からさき)の一本松付近へ船を漕ぎ寄せ、直射ち・遠矢・斜め射ちで矢弾を惜しみなく浴びせた。攻撃軍は大勢とはいえ山と湖からの横槍射撃に晒され田中や白鳥ヶ岳の官軍(新田方)から突き立てられて勝機なしと悟り、本陣へ引き返した。その後は日夜小規模な部隊を出し矢戦程度で済ませたが、攻撃側は遠巻きにするだけに徹し、官軍は城を落とされないことを勝利として大規模な交戦はなかった。同月十六日には熊野の八庄司ら五百余騎が上洛してきたが、荒武者ゆえ一戦しようと直ちに西坂へ向かっていった。 解説
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| 黒糸の鎧甲に、指のさきまで鎖りたる篭手・髄当・半頬・膝鎧、無透処一様に裹つれたる事がら、誠に尋常の兵共の出立たる体には事替て、物の用に立ぬと見へければ、高豊前守悦思事不斜、軈て対面して、合戦の意見を訪ければ、湯河庄司殊更進出て申けるは、「紀伊国そだちの者共は、少きより悪処岩石に馴て、鷹をつかひ、狩を仕る者にて候間、馬の通はぬ程の嶮岨をも、平地の如に存ずるにて候。ましてや申さん、此山なんどを見て、難所なりと思事は、露許も候まじ。威毛こそ能も候はね共、我等が手づから撓拵て候物具をば、何なる筑紫の八郎殿も、左右なく裏かゝする程の事はよも候はじ。将軍の御大事此時にて候へば、我等武士の矢面に立て、敵矢を射ば物具に請留め、斬らば其太刀・長刀に取付、敵の中へわり入程ならば、何なる新田殿共のたまへ、やわか怺へ候や。」と傍若無人に申せば、聞人見人何れも偏執の思を成にけり。「さらば軈て是をさき武者として攻よ。」とて、六月十七日の辰刻に、二十万騎の大勢、熊野の八庄司が五百余人を先に立て、松尾坂の尾崎よりかづきつれてぞ上たりける。官軍の方に綿貫五郎左衛門・池田五郎・本間孫四郎・相馬四郎左衛門とて、十万騎が中より勝出されたる強弓の手垂あり。 |
黒糸の鎧兜から指先まで鎖で覆われた籠手・臑当て・半頬・膝当てが、隙間なく全身を包み込んでいる様子は、普通の兵士たちの装備とは全く異なり、実戦には不向きに見えた。しかし高豊前守(師直)は喜びこそ隠さず、すぐに対面して合戦の意見を尋ねると、湯河庄司が特に前に進み出て言うには、「紀伊国育ちの者どもは幼い頃から険しい岩場に慣れ、鷹狩りを行う者でございます。馬すら通れぬほどの断崖絶壁さえ平地のように思っております。ましてやこの程度の山を難所と思うことなど微塵もありませぬ。腕前は大したものではありませんが、我々自ら鍛えたこの装備ならば、たとえ筑紫八郎(菊池武光)といえど容易に破れませんでしょう。将軍様の一大事である今こそ、我々武士を先鋒に立て敵の矢を受け止めさせてください。斬りつけられればその太刀や長刀に掴まりついてでも敵陣へ割って入ります。どんな新田公どもといえど耐えられるはずがございません」と傍若無人に述べたので、聞く者見る者は皆深く感心した。「ならば直ちにお前たちを先鋒とするぞ」との命により、六月十七日の辰の刻(午前8時頃)、二十万騎の大軍は熊野八庄司ら五百余人を先頭に立てて松尾坂の尾崎から攻め登った。官軍側には綿貫五郎左衛門・池田五郎・本間孫四郎・相馬四郎左衛門という、十万騎の中でも選りすぐられた強力な弓射手が控えていた。 解説
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| 池田と綿貫とは、時節東坂本へ遣はされて不居合ば、本間と相馬と二人、義貞の御前に候けるが、熊野人共の真黒に裹つれて攻上けるを、遥に直下し、から/\と打笑ひ、「今日の軍に御方の兵に太刀をも抜せ候まじ。矢一をも射させ候まじ。我等二人罷向て、一矢仕て奴原に肝つぶさせ候はん。」と申、最閑に座席をぞ立たりける。猶も弓を強引ん為に、著たる鎧を脱置て、脇立許に大童になり、白木の弓のほこ短には見へけれ共、尋常の弓に立双べたりければ、今二尺余ほこ長にて、曲高なるを大木共に押撓、ゆら/\と押張、白鳥の羽にてはぎたる矢の、十五束三臥有けるを、百矢の中より只二筋抜て弓に取副、訛歌うたふて、閑々と向の尾へ渡れば、跡に立たる相馬、銀のつく打たる弓の普通の弓四五人張合たる程なるを、左の肩に打かたげて、金磁頭二つ箆撓に取添て、道々撓直爪よりて一村茂る松陰に、人交もなく只二人、弓杖突てぞ立たりける。爰に是ぞ聞へたる八庄司が内の大力よと覚へて、長八尺許なる男の、一荒々たるが、鎖の上に黒皮の鎧を著、五枚甲の緒を縮、半頬の面に朱をさして、九尺に見る樫木の棒を左の手に拳り、猪の目透したる鉞の歯の亘一尺許あるを、右の肩に振かたげて、少もためらふ気色なく、小跳して登る形勢は、摩醯脩羅王・夜叉・羅刹の怒れる姿に不異。 |
池田と綿貫はその時東坂本へ派遣され不在だったため、本間孫四郎と相馬四郎左衛門の二人だけが義貞のもとに控えていた。熊野勢が真っ黒な武装で攻め上がってくる様子を遠く見下ろし、「今日の戦いでは味方に太刀すら抜かせまい、一本の矢も射させまい。我々二人が出向き一矢放ちあの連中を肝をつぶさせましょう」と高笑いしながら余裕で立ち上がった。さらに弓を強く引くために着ていた鎧を脱ぎ捨て、脇差だけに軽装となり白木の弓を持参した。その弓は短く見えたが普通の弓よりも二尺以上長く反りも高かったため、大勢で押さえつけてぐらぐらと引き絞った。白鳥羽根を装着した十五束三臥(約1.8m)という矢の中から百本に二本だけ選び取り、鼻歌交じりでのんびり前方の尾根へ渡っていくと、後ろに立つ相馬は銀飾りの弓を持ち——これは普通なら四~五人がかりで引くほどの強弓を左肩にかけながら金箔装飾の矢二本を弦につがい道すがら引き絞り、人気のない松陰にただ二人きりで立ち止まった。そこへ熊野八庄司の中でも有名な大力男とみえる者(身長約2.4m)が現れ、鎖帷子の上から黒革鎧をまとい、五枚甲冑の緒を締め直し半頬面当てに朱色をさした姿で、九尺(約2.7m)もの樫木棒を左手にかつぎ、猪目透かし模様の斧(刃渡り一尺=約30cm)を右肩に振りかざして躊躇いなく軽やかに跳ねるように登ってくる。その形相は怒れる阿修羅王・夜叉・羅刹と変わらぬほどであった。 解説
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| あはひ二町許近付て、本間小松の陰より立顕れ、件の弓に十五束三臥、忘るゝ許引しぼり、ひやうと射渡す。志す処の矢坪を些も不違、鎧の弦走より総角付の板まで、裡面五重を懸ず射徹して、矢さき三寸許ちしほに染て出たりければ、鬼歟神と見へつる熊野人、持ける鉞を打捨て、小篠の上にどうど臥す。其次に是も熊野人歟と覚へて、先の男に一かさ倍て、二王を作損じたる如なる武者の、眼さかさまに裂、鬚左右へ分れたるが、火威の鎧に竜頭の甲の緒を縮、六尺三寸の長刀に、四尺余の太刀帯て、射向の袖をさしかざし、後を吃とみて、「遠矢な射そ。矢だうなに。」と云侭に、鎧づきして上ける処を、相馬四郎左衛門、五人張に十四束三臥の金磁頭、くつ巻を残さず引つめて、弦音高く切て放つ。手答とすがい拍子に聞へて、甲の直向より眉間の脳を砕て、鉢著の板の横縫きれて、矢じりの見る許に射篭たりければ、あつと云声と共に倒れて、矢庭に二人死にけり。跡に継ける熊野勢五百余人、此矢二筋を見て、前へも不進後ろへも不帰、皆背をくゝめてぞ立たりける。本間と相馬と二人ながら是をば少しもみぬ由にて、御方の兵の二町許隔たりける向の尾に陣を取て居りけるに向て、「例ならず敵共のはたらき候は、軍の候はんずるやらん。 |
互いに約二町(220m)ほど接近したところで、本間孫四郎が小松の陰から現れ、かの十五束三臥(1.8m)という矢を力一杯引き絞り、「ひゅうっ」と射放った。狙い定めた的は寸分も狂わず、鎧の弦走(胸紐掛け金具)から総角付き(肩当て接合部)の板まで、内部五重の装甲を貫通し、矢先が三寸(9cm)ほど血に染まって飛び出したため、鬼神かと見えた熊野勢は持っていた斧を投げ捨て、笹原にどすんと倒れた。次いでこれも熊野勢と思われる、先の男よりさらに一回り大きく仁王像のような武者が——目を逆立て髭を左右に振り乱し、火焔模様の鎧に竜頭兜の緒を締め直し、六尺三寸(約190cm)の長刀と四尺余(120cm超)の太刀を帯びて——矢が飛んでくる方向へ袖で顔を覆いながら「遠距離射撃か。弓兵ごときが!」と言うや否や、鎧を鳴らして突進してきたところを相馬四郎左衛門が、五人掛かりで引く十四束三臥(1.7m)の金箔鏃矢を絞りきって弦音高く放つ。手応えある命中音とともに兜の正面から眉間の頭蓋骨を砕き、鉢巻部分の横継ぎ目まで裂けて矢尻が見えるほど深々と突き刺さったため、「あっ」という声と共に倒れ、瞬時に二人が絶命した。後に続いていた熊野勢五百余人はこの二本の矢を見て前進も後退もできず、皆背を丸めて立ち尽くしていた。これに対し本間と相馬の二人は全く意に介さぬ様子で、味方軍が約二町離れた向かい側の尾根に布陣しているのへ向かって、「尋常ならざる敵兵の働きぶりですが(このままでは)合戦として成立いたしませぬぞ」と呼びかけた。 解説
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| ならしに一矢づゝ射て見候はん。何にても的に立させ給へ。」と云ければ、「是を遊ばし候へ。」とて、みな紅の扇に月出したるを矢に挟て遠的場だてにぞ立たりける。本間は前に立、相馬は後に立て、月を射ば天の恐も有ぬべし。両方のはづれを射んずるぞと約束して、本間はたと射れば、相馬もはたと射る。矢所約束に不違、中なる月をぞ残しける。其後百矢二腰取寄て、張がへの弓の寸引して、「相摸国の住人本間孫四郎資氏、下総国の住人相馬四郎左衛門尉忠重二人、此陣を堅て候ぞ。矢少々うけて、物具の仁の程御覧候へ。」と高らかに名乗ければ、跡なる寄手二十万騎、誰追としも無れども、我先にとふためきて、又本の陣へ引返す。如今矢軍許にて日を暮し夜を明さば、何年責る共、山落る事やは可有と、諸人攻あぐんで思ける処に、山徒金輪院の律師光澄が許より、今木の少納言隆賢と申ける同宿を使にて、高豊前守に申けるは、「新田殿の被支候四明山の下は、山上第一の難所にて候へば、輒く攻破られん事難叶とこそ存候へ。能物馴て候はんずる西国方の兵を四五百人、此隆賢に被相副、無動寺の方より忍入り、文殊楼の辺四王院の傍にて時声を被揚候はゞ、光澄与力の衆徒等、東西両塔の間に、旗を挙時声を合て、山門をば時の間に、攻落し候べし。 |
「試しに一本ずつ矢を射てみましょう。何でも良いから的として立てなさい。」と言ったところ、「ではこれをご覧ください」と応じ、真紅の扇子に月が描かれたものを矢にはさんで遠距離からの場所へ掲げた。本間孫四郎は前方に立ち、相馬四郎左衛門尉忠重は後方に立つ。(もし)月を射れば天罰があるかもしれないと(危惧し)、扇の両端だけを狙おうと約束して、本間が「ぱっ」と放てば相馬も続けて矢を飛ばした。狙いは寸分違わず命中し中央の月模様だけが残った。その後で百本入りの二つの矢筒を取り寄せ弓を引き絞り、「我々は相模国の住人・本間孫四郎資氏と下総国の住人・相馬四郎左衛門尉忠重である!この陣地を死守する者だ。多少の矢を受けて武具や腕前をご覧に入れよ!」と高らかに名乗り上げると、背後に控えていた攻撃軍二十万騎は追われることもないのに我先にと騒ぎ立ち元の陣へ逃げ戻った。(味方側では)今のように弓矢だけで戦い日夜を過ごせば何年かけてもこの山(比叡山)を落とすのは無理だろうかと皆が攻め手を失くし考え込んだその時、比叡山僧侶・金輪院律師光澄のもとから同宿の今木少納言隆賢を使者として高豊前守(師直?)に伝えた。「新田殿(義貞)が支える四明山は山上で最も要害堅固な場所ゆえ、容易には攻め落とせません。戦いに慣れた西国方の兵を四百か五百人選びこの隆賢につけて無動寺方面から潜入させ文殊楼や四王院付近で鬨の声を上げさせてください。そうすれば光澄配下の僧兵たちが東西両塔間で旗を揚げ鬨の声を合わせ山門(延暦寺)は瞬時に陥落させるでしょう」。 解説
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| 」とぞ申ける。あわれ山徒の中に御方する者の一人なり共出来あれかしと、念願しける処に、隆賢忍やかに来、夜討すべき様を申ければ、高豊前守大に喜で、播磨・美作・備前・備中四箇国の勢の中より、夜討に馴たる兵五百余人を勝て、六月十八日の夕闇に四明の巓へぞ上せける。隆賢多年の案内者なる上、敵の有所無所委見置たる事なれば、少しも道に迷べきにては無りけるが、天罰にてや有けん、俄に目くれ心迷て、終夜四明の麓を北南へ迷ありきける程に、夜已に明ければ紀清両党に見付られて、中に被取篭ける間、迹なる武者共百余人討れて、谷底へ皆ころび落ぬ。隆賢一人は、深手数箇所負て、腹を切んとしけるが、上帯を解隙に被組て生虜れにけり。大逆の張本なれば、軈てこそ斬らるべかりしを、大将山徒の号に宥如して、御方にある一族の中へ遣はされ、「生て置ん共、殺されんとも意に可任。」と被仰ければ、今木中務丞範顕畏て、「承候。」とて、則使者の見ける前にて、其首を刎てぞ捨たりける。忝も万乗の聖主、医王山王の擁護を御憑有て、臨幸成たる故に、三千の衆徒悉仏法と王法と可相比理を存じて、弐なく忠戦を致す処に、金輪院一人山徒の身として我山を背き、武士の家に非して将軍に属し、剰弟子同宿を出し立て、山門を亡んと企ける心の程こそ浅猿けれ。 |
なんとか山門(比叡山)の中から味方してくれる者が一人でも現れればと願っていたところへ、隆賢が密かに訪ねて夜襲の手順を説明したので、高豊前守は大いに喜び播磨・美作・備前・備中の四カ国勢から夜戦に慣れた兵五百余人を選抜し六月十八日の夕闇に四明山頂へと向かわせた。隆賢が長年の案内役で敵陣の地形も熟知していたため道に迷うはずはなかったのだが、天罰だったのか突然視界が暗くなり放心状態となり一晩中山麓を南北にさまよい歩いた挙句夜明けとともに新田勢(紀清両党)に見つかり包囲されてしまった。後続の兵百余人が討たれ谷底へ転落する中、隆賢一人は重傷を負い自害しようとしたが帯を解く隙に組み伏せられ生きたまま捕らわれてしまった。大逆罪の首謀者ゆえ即刻斬られるべきところだったが、大将軍(尊氏か)が「僧侶という身分を考慮して」と寛大な処置を示し味方の一族へ送り届けながら、「生かすも殺すもお前たちに任せる」と言われたので今木中務丞範顕は畏まって承知すると使者の目の前で隆賢の首を刎ね捨てた。尊い天皇陛下が医王山王(比叡山守護神)の加護を頼りに行幸されたゆえに三千の僧侶全員が「仏法と皇室は一体」と信じ疑うことなく忠誠を尽くす中、金輪院ただ一人が僧籍でありながら自らの山を裏切り武士でもないのに将軍方へ付きおまけに同宿弟子を使者に出して延暦寺滅亡を企てたその心根は浅ましい限りであった。 解説
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| されば悪逆忽に顕て、手引しつる同宿ども、或は討れ或は生虜れぬ。光澄は無幾程して、最愛の子に殺されぬ。其子は又一腹一生の弟に討れて、世に類なき不思議を顕ける神罰の程こそ怖しけれ。去程に越前の守護尾張守高経・北陸道の勢を率して、仰木より押寄て、横川を可攻と聞へければ、楞厳院九谷の衆徒、処々のつまり/\に関を拵へ逆木を引て要害を構へける。其比大師の御廟修造の為とて、材木を多く山上に引のぼせたりけるを、櫓の柱、矢間の板にせんとて坂中へぞ運ける。其日、般若院の法印が許に召仕ける童、俄に物に狂て様々の事を口走けるが、「我に大八王子の権現つかせ給たり。」と名乗て、「此御廟の材木、急本の処へ返し運ぶべし。」とぞ申ける。大衆是を不審して、「誠に八王子権現のつかせ給たる物ならば、本地内証朗にして諸教の通儀明かなるべし。」とて、古来碩学の相承し来る一念三千の法門、唯受一人の口決共を様々にぞ問たりける。此童から/\と打笑て、「我和光の塵に交る事久して、三世了達の智も浅く成ぬといへ共、如来出世の御時会座に列て聞し事なれば、あら/\云て聞かせん。」とて、大衆の立てつる処の不審、一々に言に花をさかせ理に玉を聯ねて答へける。大衆皆是に信を取て、重て山門の安否、軍の勝負を問ふに、此物つき涙をはら/\と流して申けるは、「我内には円宗の教法を守り、外には百王の鎮護を致さん為に、当山開基の初より跡を垂し事なれば、何にも吾山の繁昌、朝廷の静謐をこそ、心に懸て思ふ事なれ共、叡慮の向ふ所も、富貴栄耀の為にして、理民治世の政に非ず、衆徒の願ふ心も、皆驕奢放逸の基にして、仏法紹隆の為に非ざる間、諸天善神も擁護の手を休め、四所三聖も加被の力を不被回。 |
そのため裏切り行為がすぐに露見し、道案内をした仲間たちは殺されるか捕らえられた。光澄もほどなくして最も可愛がっていた息子に殺され、その息子も同じ母から生まれた弟に打ち取られてしまい、この世で例のない不思議な神罰があらわになる様は恐ろしいものであった。そうした中で越前守護・尾張守高経(斯波高経か)が北陸道軍勢を率いて仰木から押し寄せ横川を攻撃すると聞いたので、楞厳院九谷の僧兵たちは各所に関所を作り逆茂木を引いて要塞を構築した。ちょうどその頃伝教大師(最澄)御廟修復のために大量の木材が山上に運び上げられていたが、それを櫓の柱や矢狭間の板材に使おうと坂道へ移動させた。ある日般若院法印のもとに仕えている童子が突然狂ったように様々なことを叫ぶうち、「我は大八王子権現(比叡山守護神)である」と名乗り「この御廟の木材を急いで元の場所へ戻せ」と言う。僧侶たちは不審に思い「真に八王子権現が憑依したなら仏教奥義に通じているはずだ」として、古来から碩学によって継承されてきた一念三千(天台宗核心思想)や唯授一人の秘伝について様々な問いを投げかけた。童子は朗らかに笑いながら「私は俗世と交わるが久しく三世を見通す智恵も衰えたとはいえ、釈迦在世時にその教えを直接聞いた身ゆえ詳しく語ろう」と言って疑問一つひとつに華やかな言葉で理知的な答えを返した。僧侶たちはこれに信服し改めて山門(延暦寺)の安否と戦局の行方を尋ねると、憑依した存在は涙を流してこう告げた。「私は内には天台教法を守り外には朝廷鎮護のためにこの山開創以来役割を担ってきた。何よりも我が山の発展と皇室の平穏を願っているのだが、帝(後醍醐天皇か)の思惑も富貴栄達ばかりで民を治める政道ではなく僧侶たちの望みも驕り贅沢に傾き仏法興隆には向かない。それゆえ諸天善神は加護を止め四所三聖(比叡山祭祀対象)も力を及ぼさない」。 解説
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| 悲哉、今より後朝儀久く塗炭に落て、公卿大臣蛮夷の奴となり、国主はるかに帝都を去て、臣は君を殺し、子は父を殺す世にならんずる事の浅猿さよ。大逆の積り却て其身を譴る事なれば、逆臣猛威を振はん事も、又久しからじ。嗚呼恨乎、師重が吾山を攻落して堂舎・仏閣を焼払はんと議する事、看々人々、明日の午刻に早尾大行事を差遣して、逆徒を四方に退けんずる者を。此上は吾山に何の怖畏か可有。其材木皆如元運返せ。」と託宣して、此童自四五人して持程なる大木を一つ打かつぎ、御廟の前に打捨、手足を縮めて振ひけるが、「明日の午刻に、敵を追払ふべしと云神託、余りに事遠からで、誠共覚へず、一事も若相違せば、申処皆虚説になるべし。暫く明日の様を見て思合する事あらば、後日にこそ奏聞を経め。」と申して、其日の奏し事を止めければ、神託空く衆徒の胸中に蔵れて、知人更に無りけり。山門には西坂に軍あらば、本院の鐘をつき、東坂本に合戦あらば、生源寺の鐘を鳴すべしと方々の約束を定たりける。爰に六月二十日の早旦に早尾の社の猿共数群来て、生源寺の鐘を東西両塔に響渡る程こそ撞たりけれ。諸方の官軍、九院の衆徒是を聞て、すはや相図の鐘を鳴すは。さらば攻口へ馳向て防がんとて、我劣らじと渡り合ふ。 |
なんとも悲しいことに、これから朝廷が長く混乱に陥り公卿大臣たちが蛮族(足利方か)の奴隷となり、国主は帝都を遠く離れ臣下が君主を殺し子が父を殺す世の中になるであろう事態の情けなさよ。謀反人の企みが却って自らを滅ぼすのだから逆賊たちの猛威も長く続くまい。ああ恨めしい、師重(高師直か)が我が山(比叡山)を攻め落とし堂舎仏閣を焼き払おうと画策しているとは——なんという事か皆の者よ、明日の正午には早尾大行事(神職名)を使者として遣わし逆徒を四方へ追い散らすであろう。これからは我が山に何も恐れることはない。その木材は全て元通り戻せ」と託宣すると童子自ら大人四五人が担う程の巨木一本をひょいと背負い御廟前に投げ捨て手足を縮めて震え出した。「明日正午に敵を追い払うという神託があまりにも近過ぎ真実と思われぬ。もし一つでも外れれば全て虚偽となるであろう。暫く明日の様子を見て判断すべきことは後日改めて奏上しよう」と言ってその日の報告を取り止めたため、神託は空しく僧侶たち心中に留まり理解者は皆無であった。山門(延暦寺)では西坂で戦いがあれば本院鐘を撞き東坂本の合戦には生源寺の鐘を鳴らすと各所で定めてあったところ、六月二十日の早朝に早尾社の猿が数群れ来て生源寺の鐘を東西両塔に響く程激しく撞いた。各地の官軍(後醍醐天皇方)や九院僧兵たちはこれを聞き「これは合図の鐘か?ならば攻撃口へ急行せよ」と我先にと渡り合った。 解説
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| 東西の寄手此形勢を見て、山より逆寄に寄するぞと心得て、水飲・今路・八瀬・薮里・志賀・唐崎・大津・松本の寄手共、楯よ物具よと、周章色めきける間、官軍是に利を得て、山上・坂本の勢十万余騎、木戸を開、逆木を引のけて打て出たりける。寄手の大将蹈留て、「敵は小勢ぞ、引て討るな。きたなし返せ。」と下知して、暫支たりけれ共、引立たる大勢なれば一足も不留。脇屋右衛門佐義助の兵五千余騎、志賀の炎魔堂の辺に有ける敵の向ひ城に、五百余箇所に東西火を懸て、をめき叫で揉だりける。敵陣こゝより破て、寄手の百八十万騎、さしも嶮しき今路・古道・音無の滝・白鳥・三石・大岳より、人雪頽をつかせてぞ逃たりける。谷深して行さきつまりたる所なれば、馬人上が上に落重て死ける有様は、伝聞治承の古へ、平家十万余騎の兵、木曾が夜討に被懸立て、くりから谷に埋れけるも、是には過じと覚へたり。大将高豊前守は太股を我太刀に突貫て引兼たりけるを、舟田長門守が手者是を生虜り白昼に東坂本を渡し、大将新田左中将の前に面縛す。是は仏敵・神敵の最たれば、「重衡卿の例に任すべし。」とて、山門の大衆是を申請て、則唐崎の浜に首を刎てぞ被懸ける。此豊前守は将軍の執事高武蔵守師直が猶子の弟にて、一方の大将を承る程の者なれば、身に替らんと思者共幾千万と云数を不知しか共、若党の一人も無して、無云甲斐敵に被生取けるは、偏に医王山王の御罰也けりと、今日は昨日の神託に、げにやと被思合て、身の毛も弥立つ許なり。 |
東西から攻め寄せる軍勢はこの状況を見て「山側から逆襲してきた」と判断し、水飲・今路・八瀬・薮里・志賀・唐崎・大津・松本の各隊が盾や武具を慌てふためいて準備する隙に、官軍(後醍醐天皇方)は利を得た。山上と坂本からの勢い十万余騎が木戸を開け逆茂木を撤去して打って出る。攻撃側の大将は踏ん張り「敵は少数だ、退いて討て!卑怯に返すな」と指令し一時持ちこたえたものの、撤退する大軍ゆえ一歩も止まれない。脇屋義助(新田義貞弟)の兵五千余騎が志賀炎魔堂付近の敵陣に向かい五百ヶ所で東西から火を放ち喚声を上げて攻めたため、敵陣はここで崩れた。攻め手百八十万騎は険しい今路・古道・音無滝・白鳥・三石・大岳から人が雪崩のように転げ落ちながら逃げた。谷が深く行き止まりの場所では馬や人間が上から次々に重なり死ぬ様子は、治承年間(1180年代)平家十万騎が木曾義仲に夜討ちされ倶利伽羅峠で埋もれた古話にも勝ると見えた。大将高豊前守(斯波高経か)は太腿を自らの刀で貫き引きずっていたところ、舟田長門守の部隊が生け捕りにし白昼の東坂本を渡って新田義助面前へ縛り付けて連行した。これは「仏敵・神敵の最たるもの」ゆえ「平重衡公の先例に従うべきだ」(1184年処刑)と山門僧侶が申請し、即座に唐崎浜で首を刎ねられた。この豊前守は将軍(足利尊氏)執事・高師直の養子弟分で一方の大将格であったため身代わりを願う者も数千万いたはずだが、供回り一人なく無残にも捕らえられたのは比叡山神仏の罰であると悟った。人々は昨日の童子託宣(敵追撃予言)に「確かに」と思い合せ身の毛が逆立つほどだった。 解説
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| ○京都両度軍事 六月五日より同二十日まで、山門数日の合戦に討るゝ者疵を被る者、何千万と云数を不知。結句寄手東西の坂より被追立、引退たる兵共は、京中にも猶足を留めず、十方へ落行ける間、洛中以外に無勢に成て、如何はせんと仰天す。此時しも山門より時日を回らさず寄たらましかば、敵重て都にはよも怺へじと見へけるを、山門に様々の異義有て、空く十余日を過されける程に、辺土洛外に逃隠たる兵共、機を直して又立帰ける間、洛中の勢又大勢に成にけり。是をば不知、山門には京中無勢也と聞て、六月晦日十万余騎を二手に分て、今路・西坂よりぞ寄たりける。将軍始は態と小勢を河原へ出して、矢一筋射違へて引んとせられける間、千葉・宇都宮・土肥・得能・仁科・高梨が勢、勝に乗て京中へ追懸て攻入る。飽まで敵を近付て後、東寺より用意の兵五十万騎を出して、竪小路・横小路に機変の陣をはり、敵を東西南北より押隔て、四方に当り八方に囲で余さじと闘。寄手片時が間に五百余人被討て西坂を差て引返す。さてこそ京勢は又勢に乗り山門方は力を落して、牛角の戦に成にけり。角て暫は合戦も無りけるに、二条の大納言師基卿、北国より、敷地・上木・山岸・瓜生・河島・深町以下の者三千余騎を率して、七月五日東坂本へ著給ふ。 |
京都における二度の戦いについて:6月5日から20日まで比叡山での数日の合戦で討たれた者や傷ついた者の数は何千万とも言えないほど多かった。結局、攻め手が東西の坂から追い立てられ退却した兵たちも京都に足を留めず四方へ散っていったため洛中は無防備になり途方に暮れていた。この時もし比叡山側が即座に攻めて来れば敵軍は都を守れなかっただろうが、山上で様々な意見対立があり空しく十数日を過ごす間に地方や郊外へ逃げ隠れた兵士たち態勢を立て直して戻ってきたため京方の勢力は再び大軍となった。これを知らない比叡山側は「京都に兵力なし」と聞き6月30日に十万余騎を二手に分け今路・西坂から攻め寄せた。将軍(足利尊氏)は最初わざと少数兵を河原に出し矢一筋射かけて退くふりをしたため千葉・宇都宮・土肥・得能・仁科・高梨の部隊が勢いに乗って京中へ追撃攻め込んだ。敵を十分引き寄せた後、東寺から待機していた兵五十万騎が竪小路・横小路に伏兵陣を張り東西南北から包囲殲滅しようと戦い攻め手は瞬く間に五百余人討たれ西坂へ退却した。こうして京方は勢いを取り戻し比叡山側は力を落として膠着状態となった。その後暫く交戦なかったが二条師基卿が北国から敷地・上木・山岸・瓜生・河島・深町ら三千余騎を率いて7月5日に東坂本へ到着した。 解説
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| 山門是に又力を得て同十八日京都へぞ被寄ける。前には京中を経て、遥々と東寺まで寄ればこそ、小路ぎりに前後左右の敵を防かねて其囲をば破かねつれ、此度は、一勢は二条を西へ内野へ懸出て、大宮を下りに押寄せ、一勢は河原を下りに押寄せ、東西より京を中に挿て、焼攻にすべしとぞ被議ける。此謀いかなる野心の者か京都へ告たりけん、将軍是を聞すましてげれば、六十万騎の勢を三手に分、二十万騎をば東山と七条河原に被置たり。是は河原より寄んずる敵を、東西より却て中に取篭ん為なり。二十万騎をば船岳山の麓、神祇官の南に被隠置たり。是は内野より寄んずる敵を、南北より引裹まん為也。残る二十万騎をば西八条東寺の辺に磬へさせて、軍門の前に被置たり。是は諸方の陣族の被懸散ば、悪手に替らん為也。去程に明れば十八日卯刻に、山門の勢、北白河・八瀬・薮里・下松・修学院の前に押寄て東西二陣の手を分つ。新田の一族五万余騎は、糾杜を南に見て、紫野を内野へ懸通る。二条師基卿・千葉介・宇都宮・仁科・高梨、真如堂を西へ打過て、河原を下りに押寄る。其手の足軽共走散り、京中の在家数百箇所に火を懸たりければ、猛火天に満ち翻て、黒烟四方に吹覆ふ。五条河原より軍始て、射る矢は雨〔の〕如く、剣戟電の如し。 |
比叡山勢はこれで再び力を得て、同年7月18日に京都へ攻め寄せた。以前は京都市中を通り過ぎ遠く東寺まで進軍したため路地に阻まれ前後左右の敵を防げず包囲網を破れなかったが、今回は一方の部隊を二条から西へ内野方面に出させ大宮通り沿いに押し寄せ、もう一方は河原通下流側から攻め上り東西で京都市街を挟撃して火攻めにする計画であった。この謀略を誰か野心家が京都方に密告したため将軍(足利尊氏)は事前に察知し六十万騎の兵力を三手に分けた:二十万騎を東山と七条河原に配置(これは河原から来る敵を東西から挟撃するため)、別働隊二十万騎を船岡山麓・神祇官南側に潜伏させた(内野方面からの敵を南北で包囲する布石)。残り二十万騎は西八条の東寺周辺へ集結させ本陣前に置いた(各戦線が崩れた際の予備戦力である)。明け方18日卯刻、比叡山勢が北白河・八瀬・薮里・下松・修学院方面に迫り東西二手を分ける。新田一族五万余騎は糾杜(糺森)を見ながら紫野から内野へ突進し、二条師基卿ら千葉介・宇都宮・仁科・高梨勢が真如堂西側を突破して河原通沿いに攻め上る。先陣の足軽たちが散り散りとなり京中数百軒に火を放ったため猛炎は天を覆い黒煙が四方へ渦巻く。五条河原で戦端が開かれ射掛ける矢は雨の如く、剣戟(武器)の閃きは稲妻のように激しい。 解説
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| 軈て内野にも合戦始て、右近の馬場の東西、神祇官の南北に、汗馬の馳違音、時声に相交て、只百千の雷の大地に振ふが如く也。暫有て五条川原の寄手、一戦に討負て引たりける程に、内野の大勢弥重て、新田左中将兄弟の勢を、十重・二十重に取巻て、をめき叫で攻戦ふ。され共義貞の兵共、元来機変磬控百鍛千錬して、己が物と得たる所なれば、一挙に百重の囲を解て、左副右衛一人も討れず、返合々々戦て、又山へ引帰す。夫武の七書に言、云、「将謀泄則軍無利、外窺内則禍不制。」とて、此度の洛中の合戦に官軍即討負ぬる事、たゞ敵内通の者共の御方に有ける故也とて、互に心を置あへり。 ○山門牒送南都事 官軍両度の軍に討負て、気疲れ勢ひ薄く成てげれば、山上・坂本に何なる野心の者か出来て、不慮の儀あらんずらんと、主上玉■を安くし給はず、叡襟を傾けさせ給ければ、先衆徒の心を勇しめん為に、七社の霊神九院の仏閣へ、各大庄二三箇所づゝを寄附せらる。其外一所住とて、衆徒八百余人早尾に群集して、軍勢の兵粮已下の事取沙汰しける衆の中へ、江州の闕所分三百余箇所を被行て、当国の国衙を山門永代管領すべき由、永宣旨を成て被補任。若今官軍勝事を得ば、山門の繁昌、此時に有ぬと見へけれ共、三千の衆徒悉此抽賞に誇らば、誰か稽古の窓に向て三諦止観の月を弄び、鑽仰の嶺に攀て一色一香の花を折らん。 |
やがて内野でも合戦が始まり、右近の馬場の東西・神祇官社殿の南北で駆ける軍馬の轟音と鬨の声が入り混じり、あたかも千雷が地を揺るがすようであった。しばらくして五条河原の攻め手(比叡山勢)は一戦で敗れ撤退したため、内野の大軍(足利方)はいよいよ優勢となり新田義貞兄弟の部隊を十重二十重に包囲し喚声あげて攻めた。しかし義貞兵士らは元来機転がきき百鍛千錬の精鋭であったため一挙に包囲網を破り、一人も討たれることなく逆襲しながら山へ引き返した。兵法書『武経七書』に「謀略が漏れれば軍は利を得ず、内部を窺われれば禍い制せられない」とあるように、今回の京中合戦で官軍(比叡山側)が敗れたのは味方の内通者がいたためだと双方疑心暗鬼となった。 ○南都への通告について 解説
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| 富貴の季には却て法滅の基たるべければ、神慮も如何有らんと智ある人は是を不悦。同十七日三千の衆徒、大講堂の大庭に三塔会合して僉議しけるは、「夫吾山者当王城之鬼門、為神徳之霊地。是以保百王之宝祚、依一山之懇誠。鎮四夷之擾乱、唯任七社之擁護。爰有源家余裔尊氏・直義者。将傾王化亡仏法。訪大逆於異国、禄山比不堪。尋積悪於本朝、守屋却可浅。抑普天之下無不王土。縦使雖為釈門之徒、此時蓋尽致命之忠義。故北嶺天子本命之伽藍也。何運朝廷輔危之計略。南都博之氏寺也。須救藤氏類家之淹屈。然早牒送東大・興福両寺、可被結義戦戮力之一諾。」、三千一同に僉議して、則南都へ牒状を送りける。其詞に云、延暦寺牒興福寺衙請早廻両寺一味籌策、御追罰朝敵源尊氏・直義以下逆徒、弥致仏法・王法昌栄状。牒、仏法伝吾邦兮七百余歳、祝皇統益蒼生者、法相円頓之秘■最勝。神明垂権跡兮七千余座、鎮宝祚耀威光者、四所三聖之霊験異他。是以先者淡海公建興福寺、以瑩八識五重之明鏡、後者桓武帝開比叡山、以挑四教三観之法灯。爾以降南都北嶺共掌護国護王之精祈。天台法相互究権教実教之奥旨。寔是以仏法守王法濫觴、以王法弘仏法根源也。因茲当山有愁之時、通白疏而談懇情。朝家有故之日、同丹心而祈安静。 |
富貴が極まる時期こそ仏法滅亡の基となるため、神慮(天の意思)はどうなるのかと賢明な人々はこれを不快に思った。同月17日、三千の僧徒が大講堂前庭に三塔集合して協議した:「そもそも我が山(比叡山)は王城(京都)の鬼門を守護し神徳の霊地である。これにより百代の天皇の御世を保ち、一山の誠意によるものだ。四方の乱れを鎮めるのも七社(延暦寺の守護神)の加護あればこそ。然るに源氏の末裔・尊氏と直義は王法を滅ぼし仏法をも亡ぼそうとしている。外国の安禄山にも劣らぬ大逆を企て、本朝における物部守屋以上の悪行だ。思うに天が覆わぬ土地で王土ならざるはない。たとえ僧門にあっても今こそ忠義を尽くすべき時である(北嶺=比叡山は天子の祈願所だから)朝廷を助けて危機打開策を講じよ。(南都=奈良は藤原氏の氏寺だから)藤原一族救出に努めるべし。早急に東大寺・興福寺へ同盟を求め、共に朝敵討伐せんことを」。三千人の意見が一致して牒状(公式書簡)を南都へ送った。その文面はこう記す: 「延暦寺より興福寺殿へ申し上げる。両寺協力の策を早急に練り、朝敵・源尊氏直義以下逆徒追討により仏法王法繁栄を促さんことを請う。 解説
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| 五六年以来天下大乱民間不静。就中尊氏・直義等、起自辺鄙之酋長、飽浴超涯之皇沢。未知君臣之道、忽有犲狼之心。樹党而誘引戎虜、矯詔而賊害藩籬。倩思王業再興之聖運、更非尊氏一人之武功、企叛逆無其辞。以義貞称其敵、貪天功而為己力、咎犯之所恥也。仮朝錯挙逆謀、劉■之所亡也。為臣犯君忘恩背義、開闢以来未聞其迹。遂乃去春之初、猛火甚於燎原、九重之城闕成灰燼。暴風扇于区宇、無辜之民黎堕塗炭。論其濫悪誰不歎息。且為避当時之災■、且為仰和光之神助、廻仙蹕於七社之瑞籬、任安全於四明之懇府。衆徒之心、此時豈敢乎。爰三千一揆、忘身命扶義兵。老少同心、代冥威伏異賊。王道未衰、神感潜通之故也。逆党巻旗而奔西、凶徒倒戈而敗北。喩猶紅炉之消雪、相似団石之圧卵。昔晉之祈八公也。早覆符堅之兵、唐之感四王也。乍却吐蕃之陣。蓋乃斯謂歟。遂使儼鸞輿之威儀促鳳城之還幸。天掃■搶、上下同見慶雲之色。海剪鯨鯢、遠近尽歇逆浪之声。然是学侶群侶之精誠也。豈非医王山王之加護哉。而今賊党再窺覦帝城、官軍暫彷徨征途。仍慣先度之朝儀、重及当社之臨幸。山上山下興廃只在此時。仏法王法盛衰豈非今日乎。天台之教法、七社之霊験、偏共安危於朝廷。法相之護持、四所之冥応、盍加贔屓於国家。 |
この五六年間天下大乱で民衆の生活は不安定であった。特に尊氏・直義らは辺境の小領主から身を起こしながら、過分な天皇の恩恵を受けたにもかかわらず君臣の道を知らず、突然狼のような反逆心を抱いた。仲間を集めて異国の軍勢(北朝方)を招き入れ、偽りの勅命で朝廷を守る者たちを害した。そもそも王政再興は尊氏個人の武功によるものではなく、謀反の理由など存在しないのに新田義貞らを逆賊呼ばわりし、天が与えた功績を横取りするとは昔の咎犯(春秋時代の裏切り者)も恥じる所業だ。朝錯(漢代の政治家)のような陰謀は劉邦さえ滅ぼしたのである。臣下として君主に背き恩義を忘れるなど、天地開闢以来前例がない。 かくて去春には猛火が野原を焼き尽くすように都は灰燼に帰し、暴風が天下を覆う中で罪なき民衆は塗炭の苦しみを味わった。この残虐さを思えば誰も嘆かない者はいない。当時の災難回避と神仏加護を得るため、玉体(天皇)を七社霊域にお遷しし比叡山に安否をお託ししたが、僧徒たちの心は決して揺らがなかった。ここに三千人が命を賭け義兵を挙げ老若同心で異賊を討ち伏せたのは、王道衰えず神仏の加護があった証である。逆党は旗を巻いて西へ敗走し凶徒たちは自滅した様子は、まるで赤い炉が雪を消すように、丸石が卵を砕くようであった。 昔晋(中国)が八公山の神に祈れば符堅軍は瞬時に崩壊し、唐が四天王を尊んだ時には吐蕃軍が退いた故事と同じである。こうして御輿の威儀を取り戻した天皇は都へご還幸され、天は災いを払って慶雲輝き海は鯨浪(反乱)を鎮めた。これは比叡山学徒たちの誠心によるもので医王(仏教)と山王(神道)の加護に他ならない。 しかる今また賊軍が帝城を狙い官軍は進退窮まっている。前例にならい再度当社への行幸をお願いする時である。山上山下の命運はこの時に懸かり仏法・王法の盛衰も今日にかかっている。天台宗教義と七社霊験こそ朝廷安泰の要であり、南都(興福寺)の護持力と四所明神(春日神社)の冥助を国家に注がれることを請う。 解説
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| 貴寺若存報国之忠貞者、衆徒須運輔君之計略矣。満山之愁訴、猶通音問而成合体。一朝之治乱、何随群議、而無与力。仍勒事由、牒送如件。敢勿猶予。故牒。延元々年六月日延暦寺三千衆徒等とぞ被書たる。状披閲の後、南都大衆則山門に同心して返牒を送る。其状云、 興福寺衆徒牒延暦寺衙来牒一紙牒、夫観行五品之居勝位也。学円頓於河淮之流。等覚無垢之円上果也。敷了義於印度之境。是以隋高祖之崇玄文、玉泉水清。唐文皇奮神藻、瑶花風芳。遂使一夏敷揚之奥■遥伝于叡山。三国相承之真宗、独留于吾寺以降、及于千祀、軌垂百王。寔是弘仏法之宏規、護皇基之洪緒者也。彼尊氏・直義等、遠蛮之亡虜、東夷之降卒也。雖非鷹犬之才、屡忝爪牙之任。乍忘朝奨還挿野心。討揚氏兮為辞、在藩渓兮作逆。劫略州県、掠虜吏民。帝都悉焼残、仏閣多魔滅。軼赤眉之入咸陽、超黄巾寇河北。濫吹之甚、自古未聞。天誅之所覃、冥譴何得遁。因茲去春之初、鋤■棘矜一摧関中焉、匹馬倚輪纔遁海西矣。今聚其敗軍擁彼余衆、不恐雷霆之威、重待斧鉞之罪。六軍徘徊、群兇益振。是則孟津再駕之役、独夫所亡也。城濮三舎之謀、侍臣攸敗也。夫違天者有大咎。失道者其助寡。積暴之勢豈又能久乎。方今廻皇輿於花洛之外、張軍幕於猶渓之辺。 |
貴寺(延暦寺)において国へ報いる忠誠心を持つ者がいれば、僧徒たちは必ず君主を補佐する策略を用いるべきである。比叡山全体の嘆願が音信を通じて一体となるならば、一時的な政情混乱にも決して協力を惜しまないはずだ。よって事由を記しこのように牒状(公式文書)を送付するため、躊躇すべきではない。以上により牒状とします。 (南都の僧徒たちは)この内容を閲覧した後ただちに山門(比叡山)と心を一つにして返答文書を送った。その文章にはこう記されている: 貴殿からの牒状一紙を受領しました。そもそも観行五品が高位につく者は河淮の流れにおいて円頓(完全な真理)の教えを学び、等覚無垢という究極の悟りはインドの地で了義経典を広めるものである。これにより隋の高祖(文帝)は玄妙な仏法を尊んで玉泉寺が清らかとなり、唐太宗は神聖な詩文に励んで瑶花堂の風は芳香を放った。こうして天台大師智顗の深遠なる教えは遥かに比叡山へ伝わり、インド・中国・日本という三国相承の真髄が独自に当寺(興福寺)に継承されて以来千年もの間百代の帝王をお導きした。まさしく仏法弘通の大いなる規範であり皇室守護の偉大な基盤である。 かの尊氏・直義らは辺境蛮族の逃亡者、東夷(関東武士)の降伏兵に過ぎない。鷹犬のような才能もないのにたび重ね朝廷の手足役を務めながら天恩を忘れ野心を抱いた。「揚氏」(北条高時か?)討伐を口実としつつ領地で反逆をおこし、州県を略奪して官民を拉致した。帝都はことごとく焼け野原となり仏閣の多くが破壊された様子は前漢末の赤眉軍による咸陽侵入や黄巾賊の河北侵攻をも超え、その暴虐さは古来例がないほどである。 天罰が下り冥界からの咎めからどうして逃れられようか。このため去春の初めに関東地方があっという間に制圧され彼らはわずかに残兵を連れて西海へ逃走したのだ。ところがいままた敗軍を集めて余党を擁し、雷のような帝威も恐れず重い刑罰をも顧みないでいる。官軍がためらっているうちに賊徒の勢いはますます増大している。これは周武王が孟津で二度兵を挙げて殷王朝を滅ぼした戦いや晋文公が城濮で三舎退避した策略にも似ているが、暴君は自滅し家臣たちも敗れる定めである。 およそ天に背く者は大災厄をもたらすものだ。正義を失えば支援者も少なくなり積み重なった悪行の勢いは決して長続きしないはずである。 解説
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| 三千群侶、定合懇祈之掌、七社霊神、鎮廻擁護之眸者歟。彼代宗之屯長安也。観師於香積寺之中。勾践之在会稽也。陣兵天台山之北。事叶先蹤、寧非佳摸乎。爰当寺衆徒等、自翠花北幸、抽丹棘中庭。専祈宝祚之長久、只期妖■之滅亡。精誠無弐、冥助豈空乎。就中寺辺之若輩、国中之勇士、頻有加官軍之志、屡廻退凶徒之策。然而南北境阻、風馬之蹄不及、山川地殊、雲鳥之勢難接矣。矧亦賊徒構謀、寇迫松■之下。人心未和、禍在蕭牆之中。前対燕然之虜、後有宛城之軍、攻守之間進退失度。但綸命屡降、牒送難黙止。速率鋭師、早征凶党、今以状牒。々到准状。故牒。延元々年六月日興福寺衆徒等とぞ書たりける。南都已に山門に与力しぬと聞へければ、畿内・近国に軍の勝負を計かねて何方へか著べきと案じ煩ひける兵共、皆山門に志を通じ、力を合せんとす。雖然堺敵陣を隔てければ、坂本へ馳参事不可叶、「大将を給て陣を取て京都を攻落し候べし。」とぞ申ける。「さらば。」とて、八幡へは四条中納言隆資卿を被差遣。真木・葛葉・禁野・片野・宇殿・賀島・神崎・天王寺・賀茂・三日の原の者共馳集て、三千余騎大渡の橋より西に陣を取て、川尻の道を差塞。宇治へは、中院中将定平を被遣。宇治・田原・醍醐・小栗栖・木津・梨間・市野辺山・城脇の者共馳集て、二千余騎、宇治橋二三間引落て、橘の小島が崎に陣をとる。 |
(興福寺衆徒は延暦寺への返牒で続けて述べた)3,000人の僧侶たちは確固とした祈りを捧げ、七社の霊神が鎮守し擁護の目を向けていることだろう。あの唐代宗が長安に駐屯した時には香積寺において観音菩薩に祈願し、勾践が会稽にいた際には天台山の北側で兵を陣取ったように、事態は過去の先例と一致しており、まさに良い手本ではないか。 (南都の僧徒が山門へ協力すると聞いたため)畿内や近国の兵士たちは軍勢の勝敗を予測できずに進路に迷っていたところ皆比叡山との連携を決意し力を合わせようとした。しかし敵陣が境界で隔てられていたので坂本へ直接駆けつけることは叶わず「大将を与えて京都攻撃させよ」と申し出た。「それでは」と言って八幡への派遣には四条中納言藤原隆資を任命した。真木・葛葉・禁野・片野・宇殿・賀島・神崎・天王寺・賀茂・三日ヶ原の者たちが集結して3,000余騎で大渡橋より西に陣取り川尻の道を封鎖した。一方宇治へは中院中将源定平が派遣され宇治・田原・醍醐・小栗栖・木津・梨間・市野辺山・城脇の者たち2,000余騎が集結し宇治橋の二、三間を引き落とし橘の小島崎に陣取った。 解説
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| 北丹波道へは、大覚寺の宮を大将とし奉て、額田左馬助を被遣。其勢三百余騎、白昼に京中を打通て、長坂に打上る。嵯峨・仁和寺・高雄・栂尾・志宇知・山内・芋毛・村雲の者共馳集て、千余騎京中を足の下に直下して、京見峠・嵐山・高雄・栂尾に陣をとる。此外鞍馬道をば西塔より塞で、勢多をば愛智・信楽より指塞ぐ。今は四方七つの道、纔に唐櫃越許あきたれば、国々の運送道絶て洛中の士卒兵粮に疲れたり。暫は馬を売、物具を沽、口中の食を継けるが、後には京白川の在家・寺々へ打入て、衣裳を剥取、食物を奪ひくう。卿相雲客も兵火の為に焼出されて、此の辻堂、彼の拝殿に身を側め、僧俗男女は道路に食を乞て、築地の陰、唐居敷の上に飢臥す。開闢以来兵革の起る事多しといへ共、是程の無道は未記処也。京勢は疲れて、山門又つよる由聞へければ、国々の勢百騎・二百騎、東坂本へと馳参る事引もきらず。中にも阿波・淡路より、阿間・志知・小笠原の人々、三千余騎にて参りければ、諸卿皆憑しき事に被思けるにや、今はいつをか可期、四方より牒し合せて、四国の勢を阿弥陀が峯へ差向て、夜々篝をぞ焼せられける。其光二三里が間に連て、一天の星斗落て欄干たるに不異。或夜東寺の軍勢ども、楼門に上て是をみけるが、「あらをびたゝしの阿弥陀が峯の篝や。 |
(北丹波方面への派遣では)大覚寺門跡(尊雲法親王)を大将として奉じ、額田左馬助が派遣された。その軍勢300余騎は白昼の京中を突破し長坂へ進軍した。嵯峨・仁和寺・高雄・栂尾・篠津・山内・芋毛・村雲の者たちが集結して千余騎となり、京都市街を蹴散らしながら直下し、京見峠・嵐山・高雄・栂尾に陣を敷いた。さらに鞍馬道は西塔から封鎖し、勢多(瀬田)は愛智(近江坂本)と信楽方面から遮断した。これで四方七つの街道のうち辛うじて唐櫃越えだけが開いている状態となり、諸国からの物資輸送路が絶たれたため洛中の兵士たちは食糧不足に苦しんだ。一時的に馬や武具を売り払って糊口を凌いだが、後には京・白河の民家や寺院へ押し入って衣服を剥ぎ取り食料を強奪する始末だった。公卿や高位僧侶も兵火で焼け出され、あちこちの堂宇に身を寄せ、僧俗男女は路上で物乞いしながら塀の陰や屋根の上で飢え伏した。「天地開闢以来戦乱は多かったが、これほどの無法は未だ記録になし」という状態である。 (情勢悪化の中)京方が疲弊していると知り比叡山勢力がさらに強まったとの報が伝わると、諸国から百騎・二百騎単位で東坂本へ参集する動きが絶えなかった。特に阿波・淡路より阿間・志知・小笠原の人々3,000余騎が到着すると、廷臣たちは頼もしく思ったのか「今こそ時機なり」と四方から連絡を取り合い四国の軍勢を阿弥陀ヶ峰へ向かわせ夜ごとかがり火を焚かせた。その炎の光は二三里(約8-12km)にわたって連なり、空一面の星々が地上へ落下したかのようだった。ある夜東寺の兵士たちが楼門に登ってこれを見て「なんと凄まじい阿弥陀ヶ峰のかがり火よ」と言ったという。 解説
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| 」と申ければ、高駿河守とりも敢ず、多く共四十八にはよも過じ阿弥陀峯に灯す篝火と一首の狂歌に取成して戯ければ、満座皆ゑつぼに入てぞ笑ける。今一度京都に寄せて、先途の合戦あるべしと、諸方の相図定りにければ、士卒の志を勇めんが為に、忝も十善の天子、紅の御袴をぬがせ給ひ、三寸づゝ切て、所望の兵共にぞ被下ける。七月十三日、大将新田左中将義貞、度々の軍に、打残されたる一族四十三人引具して先皇居へ参ぜらる。主上龍顔麗しく群下を照臨有て、「今日の合戦何よりも忠を尽すべし。」と被仰下ければ、義貞士卒の意に代て、「合戦の雌雄は時の運による事にて候へば、兼て勝負を定めがたく候。但今日の軍に於ては、尊氏が篭て候東寺の中へ、箭一つ射入候はでは、罷帰るまじきにて候なり。」と申て、御前をぞ被退出ける。諸軍勢、大将の前後に馬を早めて、白鳥の前を打過ける時、見物しける女童部、名和伯耆守長年が引さがりて打けるを見て、「此比天下に結城・伯耆・楠木・千種頭中将、三木一草といはれて、飽まで朝恩に誇たる人々なりしが、三人は討死して、伯耆守一人残たる事よ。」と申けるを、長年遥に聞て、さては長年が今まで討死せぬ事を、人皆云甲斐なしと云沙汰すればこそ、女童部までもか様には云らめ。 |
(東寺兵士の発言を受けて)そう申し上げると、高駿河守(高師直?)はためらわず、「多くとも四十八には及ぶまい阿弥陀ヶ峰の篝火」と狂歌に仕立てて戯れたので、満座が爆笑した。再び京都へ攻め寄せて決戦があるとの方針が定まったため、兵士たちの志気を鼓舞しようと、尊き天皇陛下(後醍醐帝)は赤い袴をお脱ぎになり、三寸ずつ切り分けて所望の将士にお与えになった。 七月十三日、大将軍である新田左中将義貞が、これまでの戦で生き残った一族四十三人を引き連れ天皇の御前に参上した。天皇は麗しいお姿で群臣を見渡され「今日の合戦では何よりも忠誠をつくせ」と下命された。すると義貞は兵士たちに代わり「勝敗は時の運によるため事前には決められません。ただ今日の戦いにおいて、尊氏が籠る東寺へ一本でも矢を射込まなければ撤退しません」と述べ退出した。 諸軍勢が大将の前後で馬を駆って白鳥神社前を通り過ぎた時、見物していた少女たちが名和伯耆守長年(なわほうきのかみながとし)が退却する様子を見て言うには「近ごろ世間では結城宗広・名和長年・楠木正成・千種頭中将忠顕を『三木一草』と呼び、朝廷恩顧の誇り高き人々だったのに三人は戦死し伯耆守だけ残ったとは」と。これを遠くで聞いた長年は「ならば私がまだ討ち死にせぬことを皆が無意味と言うのだろう。少女までもこう言うとは」と思った。 解説
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| 今日の合戦に御方若討負ば、一人なり共引留て、討死せん者をと独言して、是を最後の合戦と思定てぞ向ける。 ○隆資卿自八幡被寄事 京都の合戦は、十三日の巳刻と、兼て諸方へ触送たりければ、東坂本より寄る勢、関山・今路の辺に引へて、時剋を待ける処に、敵や謀て火を懸たりけん、北白川に焼失出来て、烟蒼天に充満したり。八幡より寄んずる宮方の勢共是を見て、「すはや山門より寄て、京中に火を懸たるは。今日の軍に為をくれば、何の面目か有べき。」とて、相図の剋限をも不相待、其勢纔に三千余騎にて、鳥羽の作道より東寺の南大門の前へぞ寄たりける。東寺の勢、山門より寄る敵を防んとて、河合・北白河の辺へ皆向たりければ、卿相雲客、或は将軍近習の老者・児なんど許集り居て、此敵を可防兵は更になかりけり。寄手の足軽共、鳥羽田の面の畔をつたひ、四塚・羅精門のくろの上に立渡り、散々に射ける間、作道まで打出たりける、高武蔵守師直が五百余騎、被射立て引退く。敵弥勝に乗て、持楯ひしき楯を突寄々々、かづき入て攻ける程に、坤の角なる出屏の上の高櫓一つ、念なく被攻破て焼けり。城中是に躁れて、声々にひしめき合けれ共、将軍は些共不驚給、鎮守の御宝前に看経しておはしける。 |
もし味方が今日の戦いに敗れたら、たった一人でも踏み留まって戦死しようと思う者を探そうと独り言をつぶやき、これを最後の決戦だと思い定めて進んだ。 ○隆資卿が八幡から攻め寄せたこと 解説
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| 其前に問注所の信濃入道々大と土岐伯耆入道存孝と二人倶して候けるが、存孝傍を屹と見て、「あはれ愚息にて候悪源太を上の手へ向候はで、是に留て候はゞ、此敵をば輒く追払はせ候はんずる者を。」と申ける処に、悪源太つと参りたり。存孝うれしげに打見て、「いかに上の手の軍は未始まらぬか。」「いやそれは未存知仕候はず。三条河原まで罷向て候つるが、東寺の坤に当て、烟の見へ候間、取て返して馳参じて候。御方の御合戦は何と候やらん。」と申ければ、武蔵守、「只今作道の軍に打負て引退くといへ共、是御陣の兵多からねば、入替事叶はず、已に坤の角の出屏を被打破て、櫓を被焼落上は、将軍の御大事此時也。一騎なりとも御辺打出て此敵を払へかし。」畏て、「承り候。」とて、悪源太御前を立けるを、将軍、「暫。」とて、いつも帯副にし給ける御所作り兵庫鎖の御太刀を、引出物にぞせられける。悪源太此太刀を給て、などか心の勇まざらん。洗皮の鎧に、白星の甲の緒を縮て、只今給りたる金作りの太刀の上に、三尺八寸の黒塗の太刀帯副、三十六差たる山鳥の引尾の征矢、森の如にときみだし、三人張の弓にせき絃かけて噛しめし、態臑当をばせざりけり。時々は馬より飛下りて、深田を歩まんが為也けり。 |
その時、問注所の信濃入道々大と土岐伯耆入道存孝の二人が控えていた。存孝が周囲を鋭く見回し、「ああ、愚息である悪源太が正面戦場へ向かわずここに残っていたなら、この敵などすぐに追い払わせたものを」と言ったところ、ちょうど悪源太(土岐頼遠)が駆けつけた。存孝は嬉しそうに見て「どうだ? 正面の戦いはまだ始まっていないか?」と尋ねると、悪源太は「いいえそれは存じません。三条河原まで参りましたところ、東寺の南西側で煙が見えたため引き返して駆けつけたのです。味方の戦況はいかがでしょう」と答えた。すると武蔵守(高師直)が言うには「さきほど農道での戦いに敗れて退却したと言っても、ここ本陣に兵が少ないので交替もできず、すでに南西隅の城壁を破られ櫓を焼かれた以上は将軍(足利尊氏)の御危機である。一騎でもいいから貴公が出撃してこの敵を追い払え」。悪源太は「承知いたしました」と退出しようとした時、将軍が「待て」と言って常に帯刀しておられる兵庫鎖付きの御太刀を取り出し褒美として与えた。 悪源太はこの太刀を受け取り心躍らせた(なぜ勇ましくないことがあろうか)。洗革の鎧を着け、白星兜の緒を締め直し、今賜った金作りの太刀に加え三尺八寸の黒漆太刀も帯びる。山鳥羽根付きの征矢三十六本が森のように束ねられており、三人張りの弓には緊迫した弦をかけ咥えて構えた。わざと脛当ては着けなかった――時々馬から飛び降り深田を歩くためである。 解説
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| 北の小門より打出て、羅精門の西へ打廻り、馬をば畔の陰に乗放て、三町余が外に村立たる敵を、さしつめ引つめ散々にぞ射たりける。一矢に二人三人をば射落せども、あだ矢は一も無りければ、南大門の前に攻寄たる寄手の兵千余人、一度にはつと引退く。悪源太是に利を得て、かけ足逸物馬に打乗、さしも深き鳥羽田中を真平地に懸立て、敵六騎切て落し、十一騎に手負せて、仰たる太刀を押直し、東寺の方を屹と見て、気色ばうたる有様は、いかなる和泉小次郎・朝夷那三郎も是には過じとぞみへたりける。悪源太一人に被懸立て、数万の寄手皆しどろに成ぬと見へければ、高武蔵守師直千余騎にて、又作道を下りに追かくる。越後守師泰は、七百余騎にて竹田を下りに要合せんとす。已に引立たる大勢なれば、なじかは足を留むべき。討るゝをも顧ず、手負をも不助、我先にと逃散て、元の八幡へ引返す。 ○義貞軍事付長年討死事 一方の寄手の破れたるをも不知、相図の剋限よく成ぬとて、追手の大将新田義貞・脇屋義助、二万余騎を率して、今路・西坂本より下て、三手に分れて押寄る。一手は義貞・義助・江田・大館・千葉・宇都宮、其勢一万余騎、大中黒・月に星・左巴、丹・児玉のうちわの旗、三十余流連りて、糾すを西へ打通り、大宮を下りに被押寄。 |
悪源太は北側の小門から飛び出し羅城門の西へ迂回。馬を畦陰に乗り捨てると三町(約330m)先に密集する敵兵に対し、狙い澄まして矢継ぎ早に射かけた。一矢で二~三人を撃ち落とすも無駄矢は一本もなく、南大門前に攻め寄せていた千余人の敵軍が一斉に後退した。悪源太はこの機を逃さず駆け足で名馬に飛び乗り、深田である鳥羽田を平地のように疾走。敵六騎を斬り落とし十一騎に傷を負わせると、振りかざした刀を収めて東寺方向を見据え、その威風は「和泉小次郎(源為朝)や朝夷那三郎(平景清)も及ばない」ほどに見えた。 悪源太の単騎突撃で数万の攻め手が総崩れとなったため、高武蔵守師直は千余騎を率いて農道から追撃。越後守師泰も七百騎で竹田方面から挟み撃ちにしようとする。退却中の大軍は足を止める余地なく、死傷者を顧みず我先にと八幡へ敗走した。 ○義貞の軍勢と長年の戦死に関すること 解説
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| 一手には伯耆守長年・仁科・高梨・土居・得能・春日部、以下の国々の勢集て五千余騎、大将義貞の旗を守て鶴翼魚鱗の陣をなし、猪隈を下りに押寄る。一手は二条大納言・洞院左衛門督を両大将にて五千余騎、牡丹の旗・扇の旗、只二流差揚て、敵に跡を切られじと、四条を東へ引亘して、さきへは態進まれず。兼てより阿弥陀が峯に陣を取たりし阿波・淡路の勢千余騎は、未京中へは入ず、泉涌寺の前今熊野辺までをり下て、相図の煙を上たれば、長坂に陣を取たる額田が勢八百余騎、嵯峨・仁和寺の辺に打散、所々に火を懸たり。京方は大勢なれども、人疲れ馬疲れ、而も今朝の軍に矢種は皆射尽したり。寄るは小勢なれ共、さしも名将の義貞、先日度々の軍に打負て、此度会稽の恥を雪んと、牙を咀名を恥づと聞ぬれば、御治世両統の聖運も、新田・足利多年の憤も、只今日の軍に定りぬと、気をつめぬ人は無りけり。去程に六条大宮より軍始て、将軍の二十万騎と義貞の二万騎と入乱て戦たり。射違る矢は、夕立の軒端を過る音よりも猶滋く、打合ふ太刀の鍔音は、空に応る山彦の、鳴り止む隙も無りけり。京勢は小路々々を立塞で、敵を東西より取篭、進まば先を遮り、左右へ分れば中をわらんと、変化機に応じて戦ければ、義貞の兵少も散らで、中をも不破、退て、跡よりも揉で、向ふ敵に懸立々々、大宮を下りにましくらに懸りける程に、仁木・細川・今川・荒川・土岐・佐々木・逸見・武田・小早河、此を被打散、彼に被追立、所々に磬へたれば、義貞の兵二万余騎、東寺の小門前に推寄て、一度に時をどつと作る。 |
一方の部隊には伯耆守長年・仁科・高梨・土居・得能・春日部以下の諸国勢五千余騎が集結。大将義貞の旗印を中心に鶴翼魚鱗の陣形を取り、猪隈方面へ進軍した。別働隊は二条大納言と洞院左衛門督を総指揮官とする五千余騎で、牡丹紋と扇紋の旗のみ二本掲げて四条通東側に展開し、敵に退路を断たれぬよう前線への深入りを控えた。 事前に阿弥陀ヶ峰に布陣していた阿波・淡路勢千余騎は京都市街へ入らず泉涌寺手前の今熊野付近まで下山。合図の狼煙を上げると、長坂に駐屯する額田勢八百余騎が嵯峨や仁和寺周辺で散開し各所に放火した。 京方(足利軍)は大兵力ながら兵馬共に疲弊し、加えて早朝からの戦闘で矢を消耗していた。攻め手(新田軍)は小勢だが名将・義貞が前日の敗戦の屈辱(会稽の恥)を晴らすべく奮起しており、「治世両統の命運も、新田と足利の長年の確執も今日決着する」との気迫に満ちていた。 やがて六条大宮で戦端が開かれる。将軍(尊氏)方二十万騎と義貞率いる二万騎が入り乱れて激突した。交錯する矢は夕立が屋根を叩く音より激しく、太刀の鍔迫り合う響きは山彦のように絶え間なくこだました。京方は小路々々を封鎖し敵を東西から包囲――前進すれば退路断ち、左右に分かれれば中央突破と機動的に対応したため、義貞軍は散開も後退もしないまま大宮方面へ押し返された。 この混戦で仁木・細川・今川ら京方武将が各地で敗走すると、逆転した義貞軍二万余騎は東寺小門前に迫り一斉に鬨の声を上げた。 解説
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| 義貞坂本を打出し時、先皇居に参て、「天下の落居は聖運に任せ候へば、心とする処に候はず。何様今度の軍に於ては、尊氏が篭て候東寺の中へ矢一射入候はでは、帰参るまじきにて候。」と申て出たりし其言に不違、敵を一と的場の内に攻寄せたれば、今はかうと大に悦で、旗の陰に馬を打すへ城を睨み、弓杖にすがつて、高らかに宣ひけるは、「天下の乱休事無して、無罪人民身を安くせざる事年久し。是国主両統御争とは申ながら、只義貞と尊氏卿との所にあり。纔に一身の大功を立ん為に多くの人を苦しめんより、独身にして戦を決せんと思故に、義貞自此軍門に罷向て候也。それかあらぬか、矢一受て知給へ。」とて、二人張に十三束二臥、飽まで堅めて引しぼり、弦音高く切て放つ。其矢二重に掻たる高櫓の上を越て、将軍の座し給る帷幕の中を、本堂の艮の柱に一ゆり/\て、くつまき過てぞ立たりける。将軍是を見給、「我此軍を起して鎌倉を立しより、全君を傾け奉んと思ふに非。只義貞に逢ひて、憤を散ぜん為也。き。然れば彼と我と、独身にして戦を決せん事元来悦ぶ所也。其門開け、討て出ん。」と宣ひけるを、上杉伊豆守、「是はいかなる御事にて候ぞ。楚の項羽が漢の高祖に向ひ、独身にして戦んと申しをば、高祖あざ笑て汝を討に刑徒を以てすべしと欺き候はずや。 |
新田義貞が坂本へ出陣する際、先帝のもとに参上し「天下平定は天命に任せております故、私見を述べる立場ではございません。ただ今回の戦いにあたり尊氏の籠もる東寺内へ一矢でも射かけずには帰還いたしませぬ」と誓った言葉通り、敵を的場(東寺境内)に押し込んだため「今こそぞ!」と大いに喜び、旗陰で馬を止め城門を見据えながら弓を杖にして高らかに宣言した: 「天下の乱が治まらず罪なき民が苦しむ日々は長く続いた。これは朝廷両統の争いとは言え、実質は私・義貞と尊氏卿との確執にある。わずかな功名のために多くの者を犠牲にするより独りで決着をつけたい――故に私はここまで進軍したのだ!その真意を受けてみよ!」 そう述べると二人がかり(約1.5m)の大矢を力一杯引き絞り、弦音高く放った。矢は二重櫓を越え将軍(尊氏)の本陣幕舎へ飛び込み、本堂北東柱に深々と突き刺さった。 これを見た尊氏が言うには「私が挙兵したのは君側の奸を除くためでなく義貞への私怨による。ならば彼との一騎打ちは本望だ!門を開け、討って出よ!」すると上杉伊豆守(重能)が諫めた:「これは如何なことか?楚の項羽が漢の高祖に決闘を申し込んだ時、高祖は『お前など刑罰人で足りる』と嘲笑い応じませんでしたぞ」 解説
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| 義貞そゞろに深入して、引方のなさに能敵にや遭と、ふてゝ仕候を、軽々しく御出ある事や候べき。思も寄ぬ御事に候。」とて、鎧の御袖に取付ければ、将軍無力義者の諌に順ふて、忿を押へて坐し給ふ。懸る処に、土岐弾正少弼頼遠、三百余騎にて、上賀茂に引へて有けるが、五条大宮に引へたる旗を見てければ、大将は皆公家の人々よと見てければ、後ろより時を吐と作て、喚き叫でぞ懸たりける。「すはや後ろより取回しけるは。川原へ引て、広みにて戦へ」と云程こそ有けれ、一戦も不戦、五条川原へはつと追出されて、些も足を不蹈留、西坂本を差して逃たりける。土岐頼遠、五条大宮の合戦に打勝て、勝時を揚ければ、此彼より勢共数千騎馳集て、大宮を下りに、義貞の後へ攻よする。神祇官に磬へたる仁木・細川・吉良・石堂が勢二万余騎は、朱雀を直違に西八条へ推寄る。東よりは小弐・大友・厚東・大内、四国・中国の兵共三万余騎、七条河原を下りに、針・唐橋へ引回して、敵を一人も不討洩引裹。三方は如此百重千重に取巻て、天を翔り地に潜て出るより外は、漏ても可逃方なし。前には城郭堅く守て、数万の兵鏃をそろへて散々に射る。義貞今日を限の運命也と思定給ければ、二万余騎を只一手に成て、八条・九条に引へたる敵十万余騎四角八方へ懸散し、三条河原へ颯と引て出たるを、千葉・宇都宮も、はや所々に引分れ、名和伯耆守長年も、被懸阻ぬとみへたり。 |
新田義貞が軽率に深く敵陣に入り込み退路を失い、強力な敵と遭遇して無謀に戦っている様子を見て、「軽々しく御出ましになるべきではございますまい。思いもよらぬことです」と言って鎧の袖をつかんだため、将軍(尊氏)は義理堅い者の諫言に従い怒りを抑えて座したままだった。 その時、土岐弴正少弼頼遠が三百余騎で上賀茂に控えていたが、五条大宮の旗印を見て「大将は皆公家の方々か」と判断し、後方から鬨の声を上げ喚き叫んで攻め寄せた。「しまった!背後から回り込まれたぞ。川原へ退いて広場で戦え!」と言う間もなく一戦も交えず五条川原へ追い出され、少しも足を留めず西坂本に向かって敗走した。 土岐頼遠が五条大宮の合戦に勝利し勝ち鬨を上げると、あちらこちらから数千騎が集結して大宮通り下り方面で義貞軍の背後へ攻撃。神祇官付近に陣取る仁木・細川・吉良・石堂の勢二万余騎は朱雀大路を真っ直ぐ西八条へ押し寄せた。東からは小弐・大友・厚東・大内ら四国・中国の兵三万余騎が七条河原沿いに針小路・唐橋方面へ回り込み、敵を一人も逃さず包囲殲滅しようとした。 三方からこのように百重千重に取り囲まれ「天を翔け地に潜ってでも出ない限り」逃げ道は全くない。前面には城郭が堅固に守られ数万の兵が矢をそろえて容赦なく射かける。義貞は今日が最期と覚悟を決め二万余騎を一手にまとめて、八条・九条に布陣する敵十万余騎へ四方八方から散開攻撃し三条河原へ颯と退却したところで、千葉や宇都宮の兵は既にあちこちに分散し名和伯耆守長年も追い詰められたように見えた。 解説
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| 仁科・高梨・春日部・丹・児玉三千余騎一手に成て、一条を東へ引けるが、三百余騎被討て鷺の森へ懸抜たり。長年は二百余騎にて大宮にて返し合せ、我と後の関をさして一人も不残死してけり。其後処々の軍に勝ほこりたる敵三十万騎、纔に討残されたる義貞の勢を真中に又取篭る。義貞も思切たる体にて、一引も引んとはし給はず、馬を皆西頭に立て、討死せんとし給ける処に、主上の恩賜の御衣を切て、笠符に付たる兵共所々より馳集り、二千余騎、戦ひ疲たる大敵を懸立々々揉だりけるに、雲霞の如くなる敵共、馬の足を立兼て、京中へはつと引ければ、義貞・義助・江田・大館、万死を出て一生に逢ひ、又坂本へ被引返。 ○江州軍事 京都を中に篭て四方より寄せば、今度はさりともと憑しく覚へしに、諸方の相図相違して、寄手又打負しかば、四条中納言も、八幡を落て坂本へ被参ぬ。阿弥陀が峯に陣を取し阿波・淡路の兵共も、細川卿律師に打負て、坂本へ帰ぬ。長坂を堅めたりし額田も落て、山上へ帰参しければ、京勢は篭の中を出たる鳥の如く悦、宮方は穴に篭りたる獣の如く縮れり。南都の大衆も山門に可与力由返牒を送しかば、定て力を合せんずらんと待れしかども、将軍より数箇所の庄園を寄附して、被語ける程に、目の前の慾に身の後の恥を忘ければ、山門与力の合戦を翻して、武家合体の約諾をぞなしける。 |
新田義貞が深く敵陣に深入りし退路を失い、強力な敵に出会って無謀に戦っているのを見て、「軽率にお出ましになるべきではありません。思いもよらないことです」と言い鎧の袖をつかんだため、将軍(尊氏)は忠義者の諫言を受け入れ怒りを抑えて座したままだった。 その時、仁科・高梨・春日部・丹・児玉の三千余騎が一手となって一条通りを東へ退却したが三百余騎討たれ鷺ノ森へ突破した。名和長年は二百余騎で大宮通りで反撃し「我こそ最期の関門」と称して一人残らず戦死した。その後、各地での戦いに勝利して驕った敵三十万騎がかろうじて生き残った義貞軍を再び中央に包囲する。 義貞も覚悟を決めた様子で一歩も引く気配なく馬を全て西向きにして討死しようとしたところ、主君(後醍醐天皇)から賜った衣の切れ端を笠印につけた兵士たちが各所から駆け集まり二千余騎となり疲弊した大軍を次々と襲いかかった。すると雲霞のような敵勢は馬足も揃えられず京中へ一気に敗走したため義貞・義助(弟)・江田・大館らは万死の中から生還し再び坂本へ戻った。 ○近江国方面の戦況 南都(奈良)衆徒が比叡山門との協力を約束する返書を送ったので「必ず合力するだろう」と期待していたところ、将軍(尊氏)から数か所の荘園寄進という条件を示され目の前の欲望に将来の恥を忘れたため山門は朝廷側支援を取りやめ武家方との同盟契約を結んだ。 解説
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| 今は君の御憑有ける方とては、備後の桜山、備中の那須五郎、備前の児島・今木・大富が兵船を汰て近日上洛の由申けると、伊勢の愛州が、当国の敵を退治して、江州へ発向すべしと注進したりし許也。山門の衆徒財産を尽して、士卒の兵粮を出すといへ共、公家・武家の従類、上下二十万人に余りたる人数を、六月の始より、九月の中旬まで養ければ、家財悉尽て、共に首陽に莅んとす。剰北国の道をば、足利尾張守高経差塞で人を不通。近江の国も、小笠原信濃守、野路・篠原に陣を取て、湖上往返の舟を留めける間、只官軍朝暮の飢を嗜むのみに非ず、三千の聖供の運送の道塞て、谷々の講演も絶はてゝ、社々の祭礼も無りけり。山門角ては叶まじとて、先江州の敵を退治して、美濃・尾張の通路を開くべしとて、九月十七日に、三塔の衆徒五千余人、志那の浜より襄て、野路・篠原へ押寄る。小笠原、山門の大勢を見て、さしもなき平城に篭て、取巻れなば叶まじとて、逆よせに平野に懸合せて戦ける程に、道場坊注記祐覚、一軍に打負て、立足もなく引ければ、成願坊律師入替て、一人も不残討にけり。山門弥憤を深して、同二十三日、三塔の衆徒の中より五百房の悪僧を勝て、二万余人兵船を連て推渡る。小笠原が勢共、重て寄る山門の大勢に聞懼して大半落失ければ、勢纔三百騎にも不足けり。 |
当時、主君(後醍醐天皇)が頼みにしていた勢力としては備後の桜山氏や備中の那須五郎、備前の児島・今木・大富らの兵船を整えて近日上洛するという情報と、伊勢の愛州氏が当地の敵を討って近江へ出陣すると報告した程度であった。 比叡山(山門)の僧侶たちは財産を使い尽くして将兵の兵糧を供給したものの、公家や武家の従者を含む上下二十万人以上の人々を6月初めから9月中旬まで養ったため、蓄えが完全に枯渇し皆で飢え死にかけていた。加えて北陸への道は足利尾張守高経(斯波高経)が封鎖して通行不能。近江国でも小笠原信濃守貞宗が野路・篠原に陣取り湖上往来の船を止めたため、官軍(南朝方)は朝夕の飢えに苦しむばかりか三千僧侶への供養物資輸送も途絶え谷々での法会は廃れ社寺の祭礼も行われなくなった。 山門側「このままでは維持不可能」と判断し、まず近江の敵を討って美濃・尾張の通路を開こうと9月17日三塔僧兵五千余人が志賀浜から出撃して野路・篠原へ押し寄せた。小笠原は大軍を見て「脆弱な城に籠もり包囲されたら終わり」と考え平野で迎え撃ったが、道場坊注記祐覚の部隊が敗走したため成願坊律師隊と交代したところ全滅させられた。 山門はさらに怒りを深め同月23日三塔僧兵の中から最精鋭五百房の武装僧を選び二万人余りの軍船で攻撃。小笠原勢は再度迫る大軍に戦意喪失し大半が離散、兵力は三百騎にも満たなくなった。 解説
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| 是を聞て例の大早の極めなき大衆共なれば、後陣の勢をも待調へず我前にとぞ進みける。此大勢を敵に受て落留る程の者共なれば、なじかは些も気を可屈す。小笠原が三百余騎、山徒の向ひ陣を取たりける四十九院の宿へ、未卯刻に推寄て、懸立々々戦けるに、宗との山徒理教坊の阿闍梨を始として、三千余人まで討れにければ、湖上の舟に棹て堅田を差して漕もどる。懸る処に佐々木佐渡判官入道導誉、京より潜に若狭路を廻て、東坂本へ降参して申けるは、「江州は代々当家守護の国にて候を、小笠原上洛の路に滞て、不慮に両度の合戦を致し、其功を以て軈て管領仕候事、導誉面目を失ふ所にて候。若当国の守護職を被恩補候はゞ、則彼国へ罷向ひ、小笠原を追落し、国中を打平げて、官軍に力を著ん事、時日を移すまじきにて候。」とぞ申ける。主上も義貞も、出抜て申とは不知給、「事誠に可然。」とて、導誉が申請る旨に任せて、当国の守護職並に便宜の闕所数十箇所、導誉が恩賞に被行て江州へぞ被遣ける。元来斟て申つる事なれば、導誉江州へ推渡て後、当国をば将軍より給りたる由を申す間、小笠原軈て国を捨て上洛しぬ。導誉忽に国を管領して、弥坂本を遠攻に攻ければ、山徒の遠類・親類、宮方の被管・所縁の者までも、近江国中には迹を可止様ぞ無りける。 |
これを聞いて、もともと性急で落ち着かない僧兵たちであるため、後続部隊の準備を待たず我先にと進んだ。この大軍を受け止めて踏み留まるほどに強い者どもではないので、どうして少しでも気力を失うはずがあろうか。小笠原勢三百余騎が山徒(比叡山僧兵)の対陣する四十九院の宿営へ未明の卯刻前に押し寄せ次々と攻め立てると、宗徒である理教坊阿闍梨をはじめ三千人以上も討ち取られたため、湖上の船に乗り堅田(現・滋賀県大津市)目指して漕ぎ戻った。 折しも佐々木佐渡判官入道導誉が京から密かに若狭路を回って東坂本へ降参し申したのは、「近江国は代々私の家が守護職を務める国でございますのに、小笠原貞宗が上洛ルートに立ち塞がり無用な二度の合戦を行い、その功績であっさり管領になったことは道誉にとって面目丸潰れです。もしこの国の守護職をお与えくだされば直ちに出向き小笠原を追放し国中を平定して官軍(南朝)に力を尽くすことを一日も遅らせません」と申したのだった。主君(後醍醐天皇)も新田義貞も突然の申し出には驚かれたが「その提案は至極妥当である」として道誉の申請通り、この国の守護職並びに空所となった数十箇所の領地を恩賞として与え近江へ派遣した。 元来から企んでいたことなので、導誉が近江進出後に「本国(近江)は将軍(足利尊氏)より賜わった」と宣言すると小笠原貞宗は直ちに国を捨て上洛してしまった。道誉はたちまち国を取り仕切り坂本への攻勢を強めたため、山門僧兵の遠縁・親類や宮方(南朝支持者)の家臣・関係者まで近江国内にとどまる術が全くなくなってしまった。 解説
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| 「さては導誉出抜けり、時刻を不移退治せよ。」と、脇屋右衛門佐を大将にて、二千余騎を江州へ被差向。此勢志那の渡をして、舟より下ける処へ、三千余騎にて推寄せ、上も立ず戦ひける程に、或は遠浅に舟を乗すへ、襄り場に馬を下し兼て、被射落被切臥兵数を不知。此日の軍にも官軍又打負て、纔坂本へ漕返る。此後よりは山上・坂本に弥兵粮尽て、始め百騎二百騎有し者、五騎十騎になり、五騎十騎有し人は、馬にも不乗成にけり。 ○自山門還幸事 斯る処に、将軍より内々使者を主上へ進じて被申けるは、「去々年の冬、近臣の讒に依て勅勘を蒙り候し時、身を法体に替て死を無罪賜らんと存候し処に、義貞・義助等、事を逆鱗に寄て日来の鬱憤を散ぜんと仕候し間、止事を不得して此乱天下に及候。是全く君に向ひ奉て反逆を企てしに候はず。只義貞が一類を亡して、向後の讒臣をこらさんと存ずる許也。若天鑒誠を照されば、臣が讒にをち罪を哀み思召て、竜駕を九重の月に被廻鳳暦を万歳の春に被複候へ。供奉の諸卿、並降参の輩に至で、罪科の軽重を不云、悉本官本領に複し、天下の成敗を公家に任せ進せ候べし。」と、「且は条々御不審を散ぜん為に、一紙別に進覧候也。」とて、大師勧請の起請文を副て、浄土寺の忠円僧正の方へぞ被進ける。 |
「それなら道誉が出し抜いたな。一刻も遅れず討伐せよ。」との命により脇屋義助(右衛門佐)を大将として二千余騎の兵を近江へ差し向けた。この軍勢が志賀の渡り場で船から降りようとしたところに三千余騎が押しかけ、上陸もままならず戦った結果、ある者は遠浅で船を乗り捨てたり、揚げ場で馬から転落しかける間に射倒され斬られるなどして兵士数は把握できないほどになった。この日の合戦でも官軍(南朝方)が敗北し辛うじて坂本へ船で戻った。 これ以降、比叡山上と坂本ではさらに兵糧が尽き始め百騎二百騎いた部隊が五騎十騎に減り、五騎十騎いた者たちも馬にも乗れなくなってしまった。 ○ 天皇の山門からの還幸について 解説
(注記:現代語訳では固有名詞表記統一[例:導誉→道誉]、動作主明示[「被差向」→「命により差し向けた」]、比喩的表現の平易化[「竜駕九重月に廻す」→「都へ戻されて」]を実施) |
| 主上是を叡覧有て、「告文を進する上、偽てはよも申されじ。」と被思召ければ、傍の元老・智臣にも不被仰合、軈て還幸成べき由を被仰出けり。将軍勅答の趣を聞て、「さては叡智不浅と申せ共、欺くに安かりけり。」と悦て、さも有ぬべき大名の許へ、縁に触れ趣きを伺て、潜に状を通じてぞ被語ける。去程に還幸の儀事潜に定ければ、降参の志ある者共、兼てより今路・西坂本の辺まで抜々に行設けて、還幸の時分をぞ相待ける。中にも江田兵部少輔行義・大館左馬助氏明は、新田の一族にて何も一方の大将たりしかば、安否を当家の存亡にこそ被任べかりしが、いかなる深き所存か有けん、二人共降参せんとて、九日暁より先山上に登てぞ居たりける。義貞朝臣斯る事とは不知給、参仕の軍勢に対面して事なき様にておはしける処へ、洞院左衛門督実世卿の方より、「只今主上京都へ還幸可成とて、供奉の人を召候。御存知候やらん。」と被告たりければ、義貞、「さる事や可有。御使の聞誤にてぞ有覧。」とて、最騒がれたる気色も無りけるを、堀口美濃守貞満聞も敢ず、「江田・大館が、何の用ともなきに、此暁中堂へ参るとて、登山仕つるが怪く覚候。貞満先内裏へ参て、事の様を見奉り候はん。」とて、郎等に被著たる鎧取て肩に投懸け、馬の上にて上帯を縮、諸鐙合せて参ぜらる。 |
後醍醐天皇はこれをご覧になり、「この上奏文には偽りがあるはずがない」と思われたため、側近の重臣や賢臣とも相談せずにすぐさま還幸(京都帰還)を決断された。将軍(足利尊氏)が勅答の内容を知ると「さすが天皇は深い思慮をお持ちだが騙しやすいものだ」と喜び、身内である有力大名たちのもとに縁故を用いて密かに接触し裏で指示を通した。 こうして還幸計画がひそかに決まると投降を望む者たちは事前に今路や西坂本周辺まで抜け道を整備し天皇下山の時機を待った。中でも江田兵部少輔行義と大館左馬助氏明は新田一族であり一方の大将だったため本来なら運命を共にするべき立場であったが、何か深い思惑があったのか二人とも投降しようと九日の夜明け前に先立って比叡山に登り待機していた。 これとは知らぬ義貞朝臣(新田義貞)は参集した兵士たちと何事もないように接しているところへ洞院左衛門督実世卿から「天皇がただ今京都還幸なさるため供奉者を召されている、ご存じか」との通達があった。すると義貞は「そんなことがあろうはずがない使者の誤報だろう」と言い全く動揺を見せなかったが堀口美濃守貞満は待てず「江田と大館が用もないのに今暁に山上へ登ったのは怪しい、私が先に内裏に行って状況を確かめましょう」として従者の鎧を取り肩にかけ馬上で帯を締め直し鐙を鳴らして駆け出した。 解説
(注:固有名詞統一[例:義貞朝臣→新田義貞]、動作主明確化[「被差向」→還幸計画が決まる]、古語表現平易化[「叡覧有て」→ご覧になり]を実施) |
| 皇居近く成ければ、馬より下、甲を脱で中間に持せ、四方を屹と見渡すに、臨幸只今の程とみへて、供奉の月卿雲客、衣冠を帯せるもあり、未鳳輦を大床に差寄て、新典侍、内侍所の櫃を取出し奉れば、頭弁範国、剣璽の役に随て、御簾の前に跪く。貞満左右に少し揖して御前に参、鳳輦の轅に取付、涙を流して被申けるは、「還幸の事、児如の説幽に耳に触候つれ共、義貞存知仕らぬ由を申候つる間、伝説の誤かと存て候へば、事の儀式早誠にて候ける。抑義貞が不義何事にて候へば、多年の粉骨忠功を被思召捨て、大逆無道の尊氏に叡慮を被移候けるぞや。去元弘の始、義貞不肖の身也といへ共、忝も綸旨を蒙て関東の大敵を数日の内に亡し、海西の宸襟を三年の間に休め進せ候し事、恐は上古の忠臣にも類少く、近日義卒も皆功を譲る処にて候き。其尊氏が反逆顕しより以来、大軍を靡して其師を虜にし、万死を出て一生に逢こと勝計るに不遑。されば義を重じて命を墜す一族百三十二人、節に臨で尸を曝す郎従八千余人也。然共今洛中数箇度の戦に、朝敵勢盛にして官軍頻に利を失候事、全戦の咎に非ず、只帝徳の欠る処に候歟。仍御方に参る勢の少き故にて候はずや。詮ずる処当家累年の忠義を被捨て、京都へ臨幸可成にて候はゞ、只義貞を始として当家の氏族五十余人を御前へ被召出、首を刎て伍子胥が罪に比、胸を割て比干が刑に被処候べし。 |
宮殿近くまで来たので貞満は馬から降りて甲冑を脱ぎ従者に持たせると周囲を見渡すと臨幸の準備中らしく供奉の人々には衣冠姿もあり鳳輦が台座前に置かれたところ新典侍が内侍所の櫃を取り出すと頭弁範国は剣璽を持って御簾前でひざまずいた。 解説
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| 」と、忿る面に泪を流し、理を砕て申ければ、君も御誤を悔させ給へる御気色になり、供奉の人々も皆理に服し義を感じて、首を低てぞ坐られける。 ○立儲君被著于義貞事付鬼切被進日吉事 暫有て、義貞朝臣父子兄弟三人、兵三千余騎を召具して被参内たり。其気色皆忿れる心有といへ共、而も礼儀みだりならず、階下の庭上に袖を連ねて並居たり。主上例よりも殊に玉顔を和げさせ給て、義貞・義助を御前近く召れ、御涙を浮べて被仰けるは、「貞満が朕を恨申つる処、一儀其謂あるに似たりといへ共、猶遠慮の不足に当れり。尊氏超涯の皇沢に誇て、朝家を傾んとせし刻、義貞も其一家なれば、定て逆党にぞ与せんと覚しに、氏族を離れて志を義にをき、傾廃を助て命を天に懸しかば、叡感更に不浅。只汝が一類を四海の鎮衛として、天下を治めん事をこそ思召つるに、天運時未到して兵疲れ勢ひ廃れぬれば、尊氏に一旦和睦の儀を謀て、且くの時を待ん為に、還幸の由をば被仰出也。此事兼も内々知せ度は有つれ共、事遠聞に達せば却て難儀なる事も有ぬべければ、期に臨でこそ被仰めと打置つるを、貞満が恨申に付て朕が謬を知れり。越前国へは、川島の維頼先立て下されつれば、国の事定て子細あらじと覚る上、気比の社の神官等敦賀の津に城を拵へて、御方を仕由聞ゆれば、先彼へ下て且く兵の機を助け、北国を打随へ、重て大軍を起して天下の藩屏となるべし。 |
こうして激した表情で涙を流しながら道理を述べる姿を見て、天皇も自らの誤りを悔やまれる様子となり、供奉の人々も皆その理に心服し義心に打たれ、うつむいて静かに座っていた。 (次に皇太子を新田義貞に関わらせることと鬼切丸の剣が日吉神社へ奉納された件について) 「越前国へは既に川島維頼(新田一族)を先発させてあるから現地統治は問題なかろう。加えて気比神社の神官たちが敦賀津に城塞を築き味方として待つと聞くゆえ、まずそちらへ赴いて兵站を整え北陸を平定せよ。再び大軍を起こし天下の防壁となるのだ」 解説
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| 但朕京都へ出なば、義貞却て朝敵の名を得つと覚る間、春宮に天子の位を譲て、同北国へ下し奉べし。天下の事小大となく、義貞が成敗として、朕に不替此君を取立進すべし。朕已に汝が為に勾践の恥を忘る。汝早く朕が為に范蠡が謀を廻らせ。」と、御涙を押へて被仰ければ、さしも忿れる貞満も、理を知らぬ夷共も、首を低れ涙を流して、皆鎧の袖をぞぬらしける。九日は事騒き受禅の儀、還幸の装に日暮ぬ。夜更る程に成て、新田左中将潜に日吉の大宮権現に参社し玉ひて、閑に啓白し給けるを、「臣苟も和光の御願を憑で日を送り、逆縁を結事日已に久し。願は征路万里の末迄も擁護の御眸を廻らされて、再大軍を起し朝敵を亡す力を加へ給へ。我縦不幸にして命の中に此望を不達と云共、祈念冥慮に不違ば、子孫の中に必大軍を起者有て、父祖の尸を清めん事を請ふ。此二の内一も達する事を得ば、末葉永く当社の檀度と成て霊神の威光を耀し奉るべし。」と、信心を凝して祈誓し、当家累代重宝に鬼切と云太刀を社壇にぞ被篭ける。 ○義貞北国落事 明れば十月十日の巳刻に、主上は腰輿にめされて今路を西へ還幸なれば、春宮は竜蹄にめされ、戸津を北へ行啓なる。還幸の供奉にて京都へ出ける人々には、吉田内大臣定房・万里小路大納言宣房・御子左中納言為定・侍従中納言公明・坊門宰相清忠・勧修寺中納言経顕・民部卿光経・左中将藤長・頭弁範国、武家の人々には、大館左馬頭氏明・江田兵部少輔行義・宇都宮治部大輔公縄・菊池肥後守武俊・仁科信濃守重貞・春日部左近蔵人家縄・南部甲斐守為重・伊達蔵人家貞・江戸民部丞景氏・本間孫四郎資氏・山徒の道場坊助注記祐覚、都合其勢七百余騎、腰輿の前後に相順ふ。 |
「しかし朕が京都に出れば義貞は却って朝敵の汚名を受けるだろうゆえ春宮(皇太子)へ帝位を譲り共に北国へ下向させるつもりだ。天下の事は大小問わず全て義貞の判断に委ね、朕への忠誠を変えぬこの君(新たな天皇)を即位させよ。朕はすでにお前のために勾践の屈辱を忘れる覚悟である。速やかに朕のために范蠡の謀略を用いよ」と涙を押し殺して仰せられたので、さほど怒っていた貞満も道理を知らぬ武人たちもうつむき涙を流し鎧の袖を濡らした。 九日は騒動続きで受禅(譲位)の儀式と還幸準備に日が暮れる。夜更け頃、新田義貞は密かに日吉大宮権現へ参拝され静かに祈願された。「臣たる身ながら神仏の加護を頼み月日を送り、朝廷への忠誠心も久しく持ち続けてまいりました。どうか征途万里の果てまで見守り給わり再び大軍を起こし朝敵を滅ぼす力をお与えください。仮に私が命あるうちにこの願いを達せねども、祈念が神慮に叶うなら子孫の中から必ず大軍を興す者を出し父祖の汚名を晴らさせてください。この二つの内一つでも成就すれば末永く当神社の庇護者となり御神威を輝かせ奉りましょう」と心を込めて誓い、新田家累代の重宝である鬼切丸という太刀を社殿に奉納した。 (義貞北国落ちの件) 解説
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| 行啓の御供にて、北国へ落ける人々には、一宮中務卿親王・洞院左衛門督実世・同少将定世・三条侍従泰季・御子左少将為次・頭大夫行房・子息少将行尹、武士には新田左中将義貞・子息越後守義顕・脇屋右衛門佐義助・子息式部大夫義治・堀口美濃守貞満・一井兵部大輔義時・額田左馬助為縄・里見大膳亮義益・大江田式部大夫義政・鳥山修理亮義俊・桃井駿河守義繁・山名兵庫助忠家・千葉介貞胤・宇都宮信濃将監泰藤・同狩野将監泰氏・河野備後守通治・同備中守通縄・土岐出羽守頼直・一条駿河守為治、其外山徒少々相雑て、都合其勢七千余騎、案内者を前に打せて、竜駕の前後に打囲む。此外妙法院の宮は御舟に被召て、遠江国へ落させ給ふ。阿曾宮は山臥の姿に成て吉野の奥へ忍ばせ給ふ。四条中納言隆資卿は紀伊国へ下り、中院少将定平は河内国へ隠れ給ふ。其有様、偏に只歌舒翰安禄山に打負て、玄宗蜀の国へ落させ給し時、公子・内宮、悉、或は玉趾を跣にして剣閣の雲に蹈迷ひ、或は衣冠を汚して野径の草に逃蔵れし昔の悲に相似たり。昨日一昨日までも、聖運遂に開けば、錦を著て古郷へ帰り、知ぬ里、みぬ浦山の旅宿をも語り出さば、中々にうかりし節も悲きも、忘形見と成ぬべし、心々の有様に身を慰めて有つるに、君臣父子万里に隔り、兄弟夫婦十方に別行けば、或は再会の期なき事を悲み、或は一身の置処なき事を思へり。 |
北国へ向かう供奉者としては、一宮中務卿親王・洞院左衛門督実世およびその息子少将定世・三条侍従泰季・御子左少将為次・頭大夫行房とその息子少将行尹がおり、武士では新田左中将義貞・息子越後守義顕・脇屋右衛門佐義助およびその息子式部大夫義治・堀口美濃守貞満・一井兵部大輔義時・額田左馬助為縄・里見大膳亮義益・大江田式部大夫義政・鳥山修理亮義俊・桃井駿河守義繁・山名兵庫助忠家・千葉介貞胤・宇都宮信濃将監泰藤および同族の狩野将監泰氏・河野備後守通治とその一族備中守通縄・土岐出羽守頼直・一条駿河守為治らがいた。これに山岳修行者の小集団も加わり、総勢七千余騎は先導を立てて天皇の乗り物を前後から取り囲んだ。 さらに妙法院宮(尊澄法親王)は船で遠江国へ落ち延びられ、阿曾宮(宗良親王)は山伏姿に変装して吉野奥地へ潜伏された。四条中納言隆資卿は紀伊国へ下向し、中院少将定平は河内国へ身を隠した。その様子はまさに唐の玄宗皇帝が安禄山に敗れて蜀の国へ落ち延びた際、皇子や后妃たちが裸足で剣閣の山中に迷い込み、あるいは衣冠を汚しながら野道の草むらに隠れた昔の悲劇と酷似していた。つい昨日までは運勢が開ければ錦を飾って故郷へ帰り、知らない土地での旅の苦労も笑い話にできると思っていたのに、今や主君と家臣・親と子は万里離れ、兄弟夫婦は四方八方に散り散りとなった。再会の望みがないことを嘆く者、身の置き所がないことに思い悩む者がいた。 解説
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| 今も逆旅の中にして、重て行、々も敵の陣帰るも敵の陣なれば、誰か先に討れて哀と聞んずらん、誰か後に死て、なき数を添んずらんと、詞に出ては云はね共、心に思はぬ人はなし。「南翔北嚮、難附寒温於春鴈。東出西流、只寄贍望於暁月。」江相公の書たりし、別れに送る筆の迹、今の涙と成にけり。 ○還幸供奉人々被禁殺事 還幸已に法勝寺辺まで近付ければ、左馬頭直義五百余騎にて参向し、先三種の神器を当今の御方へ可被渡由を被申ければ、主上兼より御用意有ける似せ物を取替て、内侍の方へぞ被渡ける。其後主上をば花山院へ入進せて、四門を閉て警固を居へ、降参の武士をば大名共の方へ一人づゝ預て、召人の体にてぞ被置ける。可斯とだに知たらば、義貞朝臣と諸共に北国へ落て、兎も角も成べかりける者をと、後悔すれ共甲斐ぞなき。十余日を経て後、菊池肥後守は、警固の宥くありける隙を得て本国へ逃下りぬ。又宇都宮は、放召人の如にて、逃ぬべき隙も多かりけれ共、出家の体に成て徒に向居たりけるを、悪しと思ふ者や為たりけん、門の扉に山雀を絵書、其下に一首の歌をぞ書たりける。山がらがさのみもどりをうつのみや都に入て出もやらぬは本間孫四郎は、元より将軍家来の者なりしが、去る正月十六日の合戦より新田左中将に属して、兵庫の合戦の時は、遠矢を射て弓勢の程をあらはし、雲母坂の軍の時は、扇を射て手垂の程を見せたりし、度々の振舞悪ければとて、六条川原へ引出して首を被刎けり。 |
今は避難生活中で、進んでも退いても敵ばかりの中にいるため、「誰が先に討たれて無念だろうか」「誰が後に死んで犠牲者数を増やすだろうか」と口には出さないものの、心の中でそう思わぬ者は一人もいなかった。「南へ飛び北へ向かう春雁にも別れの言葉は届かず、東に出て西に流れる身はただ明け方の月を仰ぐばかりだ」。江淹(こうえん)が書いた別離を詠んだ詩の一節が、今や現実の涙となってしまった。 ○還幸供奉人々が殺害されたこと 天皇一行が法勝寺付近まで戻ると、足利直義が五百騎余りで出迎え、「三種の神器は当座の帝(北朝)へお渡しください」と申し入れた。そこで後醍醐天皇は事前に用意していた偽物を取り替えて女官へ渡した。その後、天皇を花山院御所に閉じ込めて門を固く封鎖し、降伏した武士たちは大名のもとに一人ずつ預けられ、監視付きの軟禁状態とされた。「こんなことだとわかっていたなら、義貞殿と共に北国へ落ち延びてどうにかしていたものを」との後悔も今さら無駄であった。十数日後、菊池武重は警護の隙をついて本国へ脱出した。宇都宮公綱も監視が緩い逃亡の機会があったのに、あえて僧体で京にとどまっていたところを不審に思う者が現れ、門扉に山雀(やまがら)の絵と「山里が さのみ戻りを 羨むや 都に入って出もやられぬは」との皮肉な歌を描きつけた。 本間孫四郎こと元将軍家来だった人物は、正月十六日の戦いから新田義貞に従属し、兵庫合戦では遠矢の腕前を見せ、雲母坂(きららざか)の戦いで扇を射落としたほどの武将であった。しかし「度々の行状が悪い」として六条河原へ引き出され斬首された。 解説
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| 山徒の道場坊助注記祐覚は、元は法勝寺の律僧にて有しが、先帝船上に御座ありし時、大衣を脱で山徒の貌に替へ、弓箭に携て一時の栄華を開けり。山門両度の臨幸に軍用を支し事、偏に祐覚が為処也しかば、山徒の中の張本也とて、十二月二十九日、阿弥陀が峯にて切られけるが、一首の歌を法勝寺の上人の方へぞ送りける。大方の年の暮ぞと思しに我身のはても今夜成けり此外山門より供奉して被出たる三公九卿、纔に死罪一等を被宥たれ共、解官停任せられて、有も無が如くの身に成給ければ、傍人の光彩に向て面を泥沙の塵に低、後生の栄耀を望で涙を犬羊の天に淋く。住にし迹に帰り給けれ共、庭には秋の草 茂て通し道露深く、閨には夜の月のみさし入て塵打払ふ人もなし。顔子が一瓢水清して、独道ある事を知るといへ共、相如が四壁風冷して衣なきに堪ず、五衰退没の今の悲に、大梵高台の昔の楽を思出し給ふにも、世の憂事は数添て、涙の尽る時はなし。 ○北国下向勢凍死事 同十一日は、義貞朝臣七千余騎にて、塩津・海津に著給ふ。七里半の山中をば、越前の守護尾張守高経大勢にて差塞だりと聞へしかば、是より道を替て木目峠をぞ越給ひける。北国の習に、十月の初より、高き峯々に雪降て、麓の時雨止時なし。 |
武装僧兵の道場坊祐覚は元々法勝寺の律宗僧侶であったが、先帝(後醍醐天皇)が船上におられた時に法衣を脱ぎ捨て武装集団に身を変え、弓矢を持って一時期栄華を極めた。比叡山への二度の行幸における軍事支援は専ら祐覚の働きによるものだったため、「僧兵勢力の首謀者」として12月29日に阿弥陀ヶ峰で斬刑となったが、処刑前に法勝寺の高僧へ一首の歌を送っている。「おおよそ年の瀬かと思っていたのに/我が身の最期も今夜になってしまった」。 さらに比叡山から供奉して出た高位貴族たち(三公九卿)は辛うじて死罪こそ免れたものの、官職剥奪・停職処分となり存在しないも同然の身分へ落とされたため、他人の輝く姿に向かって顔を地に伏せて恥じ入り、来世での栄達を願いながら涙が尽きるほど泣いた。かつて住んだ邸宅に戻っても庭には秋草が茂り通った道は露でぬかるみ、寝所には夜の月光だけが差し込んで埃を払う者もいない。「顔回のように一瓢の清水で満足して孤高を保つ」心境とは程遠く、「司馬相如のように壁風に凍える貧困」に耐えかねた。衰亡へ向かう現在の悲しみの中、栄華を極めた過去(比叡山での権勢)を思い出せば憂いは増すばかりで涙が止まる時がない。 ○北国下向軍凍死事件 解説
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| 今年は例よりも陰寒早くして、風紛に降る山路の雪、甲冑に洒き、鎧の袖を翻して、面を撲こと烈しかりければ、士卒寒谷に道を失ひ、暮山に宿無して、木の下岩の陰にしゞまりふす。適火を求得たる人は、弓矢を折焼て薪とし、未友を不離者は、互に抱付て身を暖む。元より薄衣なる人、飼事無りし馬共、此や彼に凍死で、行人道を不去敢。彼叫喚大叫喚の声耳に満て、紅蓮大紅蓮の苦み眼に遮る。今だにかゝり、後の世を思遣るこそ悲しけれ。河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが、見の曲にて前の勢に追殿れ、行べき道を失て、塩津の北にをり居たり。佐々木の一族と、熊谷と、取篭て討んとしける間、相がゝりに懸て、皆差違へんとしけれ共、馬は雪に凍へてはたらかず、兵は指を墜して弓を不控得、太刀のつかをも拳得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつぶしに貫かれてこそ死にけれ。千葉介貞胤は五百余騎にて打けるが、東西くれて降雪に道を蹈迷て、敵の陣へぞ迷出たりける。進退歩を失ひ、前後の御方に離れければ、一所に集て自害をせんとしけるを、尾張守高経の許より使を立て、「弓矢の道今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ出られ候へ。此間の義をば身に替ても可申宥。」慇懃に宣ひ遣されければ、貞胤心ならず降参して高経の手にぞ属しける。 |
この年は例年以上に寒さが早く訪れ、風まじりに降る山道の雪が鎧にかかり、袖をひるがえして顔を打ちつける激しさだったため、兵士たちは凍える谷で道を見失い、夕暮れの山に宿もなく木々や岩陰にうずくまるしかなかった。たまたま火を得られた者は弓矢を折って薪とし、仲間と離れていない者同士は互いに抱き合って体を温めた。元来薄着だった者や餌の不足していた馬たちが至る所で凍死し、通行人は道を行くこともできなかった。「叫喚・大叫喚」地獄のような絶叫が耳をつんざき、「紅蓮・大紅蓮」地獄の苦しみがあたかも眼前に広がるようだった。この現状だけでも悲惨なのに、来世を思うとさらに悲嘆に暮れた。 河野・土居・得能ら三百騎は後衛部隊として進んでいたが、峠の曲り角で本隊から遅れ道を見失い塩津北方にとどまっていたところを佐々木一族と熊谷軍に包囲された。必死に反撃しようとしたものの馬は凍えて動かず兵士たちは指を落として弓も引けず、太刀の柄すら握れない状況で地に腰の刀をつき刺し伏せたまま敵の槍に貫かれて死亡した。 千葉介貞胤率いる五百騎余りは方向を見失い吹雪の中で道に迷って敵陣へ踏み込んだ。進退窮まり前後の味方とも連絡が取れないため集団自害を図ろうとしたところ、斯波高経(北朝側)の使者が来て「戦いはこれまでとし無駄な死は避けられよ。ここまでの忠義は私が身代わりとなって申し開きする」と丁重に伝えたため貞胤は不本意ながら降伏して高経配下に入った。 解説
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| 同十三日義貞朝臣敦賀津に著給へば、気比弥三郎大夫三百余騎にて御迎に参じ、東宮・一宮・総大将父子兄弟を先金崎の城へ入奉り、自余の軍勢をば津の在家に宿を点じて、長途の窮屈を相助く。爰に一日逗留有て後、此勢一所に集り居ては叶はじと、大将を国々の城へぞ被分ける。大将義貞は東宮に付進せて、金崎の城に止給ふ。子息越後守義顕には北国の勢二千余騎を副て越後国へ下さる。脇屋右衛門佐義助は千余騎を副て瓜生が杣山の城へ遣はさる。是は皆国々の勢を相付て、金崎の後攻をせよとの為也。 ○瓜生判官心替事付義鑑房蔵義治事 同十四日、義助・義顕三千余騎にて、敦賀の津を立て、先杣山へ打越給ふ。瓜生判官保・舎弟兵庫助重・弾正左衛門照、兄弟三人種々の酒肴舁せて鯖並の宿へ参向す。此外人夫五六百人に兵粮を持せて諸軍勢に下行し、毎事是を一大事と取沙汰したる様、誠に他事もなげに見へければ、大将も士卒も、皆たのもしき思をなし給。献酌順に下て後、右衛門佐殿の飲給ひたる盃を、瓜生判官席を去て三度傾ける時、白幅輪の紺糸の鎧一領引給ふ。面目身に余りてぞみへたりける。其後判官己が館に帰て、両大将へ色々小袖二十重調進す。此外御内・外様の軍勢共の、余に薄衣なるがいたはしければ、先小袖一充仕立てゝ送るべしとて、倉の内より絹綿数千取出して、俄に是をぞ裁縫せける。 |
同月13日、新田義貞公が敦賀津に到着されると、気比弥三郎大夫が三百余騎でお迎えにあたり、東宮(恒良親王)・一宮(尊良親王)・総大将父子兄弟を先だって金ヶ崎城へ案内し入れ、残りの軍勢は港の民家に宿泊させて長旅の疲れを癒した。ここで一日滞在後、「全軍が一箇所に集結しているのは得策ではない」として部隊を各地の城へ分散させることになった。大将である義貞公自身は東宮お付きとして金ヶ崎城に留まり、子息の越後守義顕には北国勢二千余騎をつけて越後国へ下向させた。脇屋右衛門佐義助(弟)には千余騎を与えて瓜生氏の杣山城へ派遣した。これは各地で兵力を集め金ヶ崎への援軍体制を作るためである。 ○瓜生判官心替事件および義鑑房蔵・義治について 解説
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| 斯る処に足利尾張守の方より潜に使者を通じ、前帝より成れたりとて、義貞が一類可御追罰由の綸旨をぞ被送ける。瓜生判官是を見て、元より心遠慮なき者なりければ、将軍より謀て被申成たる綸旨とは思も寄ず。さては勅勘武敵の人々を許容して大軍を動さん事、天の恐も有べしと、忽に心を反じて杣山の城へ取上り、関を閉てぞ居たりける。爰に判官が弟に義鑑房と云禅僧の有けるが、鯖並の宿へ参じて申けるは、「兄にて候保は、愚痴なる者にて候間、将軍より押へて被申成候綸旨を誠と存て、忽に違反の志を挿み候。義鑑房弓箭を取身にてだに候はゞ、差違て共に死ぬべく候へ共、僧体に恥ぢ仏見に憚て、黙止候事こそ口惜覚候へ。但倩愚案を廻し候に、保、事の様を承り開き候程ならば、遂には御方に参じ候ぬと存候。若御幼稚の公達数た御坐候はゞ一人是に被留置進候へ。義鑑懐の中、衣の下にも隠し置進せて、時を得候はゞ御旗を挙て、金崎の御後攻を仕候はん。」と申も敢ず、涙をはらはらとこぼしければ、両大将是が気色を見給て、偽てはよも申さじと疑の心をなし給はず、則席を近付て潜に被仰けるは、「主上坂本を御出有し時、「尊氏若強て申事あらば、休事を得ずして、義貞追罰の綸旨をなしつと覚るぞ。汝かりにも朝敵の名を取らんずる事不可然。 |
このような状況の中で、足利尾張守(高経)側から密かに使者が通じ、「前天皇(光厳上皇)の命令である」として新田義貞一族への討伐命令を示す綸旨(勅命書)を送り届けた。瓜生判官保はこれを見て、元々思慮深くない性格だったため「将軍が謀略で偽造した文書だ」とは全く疑わず、「それならば天皇の敵である者たちを受け入れ大軍を動かすのは天罰を受けるだろう」と突如心変わりし杣山城へ引き上げ関門を閉じて籠ってしまった。 ここで判官の弟・義鑑房という禅僧が鯖波宿に参上して申した:「兄である保は愚かな者ゆえ、将軍から押さえ込まれて偽造された綸旨を真実と信じ突然謀反を起こしました。私自身もし武士として弓矢を持っておれば命懸けで阻止したでしょうが、僧侶の身分であり仏様への畏れもあって黙っているのが悔しくてなりません。しかしよく考えてみると保は事態を知るに及べば最終的には味方へ戻ると存じます。もし幼い公子(南朝側皇族)がおられるなら一人私にお預けください。懐中や衣の下に隠し護り、時機を得たら旗を掲げ金ヶ崎城への援軍と致しましょう」と言い終わらず涙をぽろぽろ流したため両大将(義顕・義助)はその様子を見て「偽りの言葉ではあるまい」と疑念を持たず、近づいて密かにこう述べられた:「主上(後醍醐天皇)が坂本へ行幸された時『尊氏が無理強いすればやむなく義貞追討の綸旨が出るだろう。お前たち決して朝敵扱いされてはならぬ』と…」 解説
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| 春宮に位を譲奉て万乗の政を任せ進らすべし。義貞股肱の臣として王業再び本に複する大功を致せ」と被仰下、三種の神器を春宮に渡し進ぜられし上は、縦先帝の綸旨とて、尊氏申成たり共、思慮あらん人は用るに足ぬ所也と思ふべし。然れ共判官この是非に迷へる上は、重て子細を尽すに及ばず、急で兵を引て、又金崎へ可打帰事已に難儀に及時分、一人兄弟の儀を変じて忠義を顕さるゝ条、殊に有難くこそ覚て候へ。御心中憑もしく覚れば、幼稚の息男義治をば、僧に預申候べし。彼が生涯の様、兎も角も御計候へ。」と宣て、脇屋右衛門佐殿の子息に式部大夫義治とて、今年十三に成給ひけるを、義鑑坊にぞ預けらる。此人鍾愛他に異なる幼少の一子にて坐すれば、一日片時も傍を離れ給はず、荒き風にもあてじとこそ労り哀み給ひしに、身近き若党一人をも付ず、心も知ぬ人に預て、敵の中に留置き給へば、恩愛の別も悲くて、再会の其期知がたし。夜明れば右衛門佐は金崎へ打帰り、越後国へ下んとて、宿中にて勢をそろへ給ふに、瓜生が心替を聞ていつの間にか落行けん、昨日までは三千五百余騎と注したりし軍勢、纔二百五十騎に成にけり。此勢にては、何として越後まで遥々と敵陣を経ては下べし。さらば共に金崎へ引返てこそ、舟に乗て下らめとて、義助も義顕も、鯖並の宿より打連て、又敦賀へぞ打帰り給ける。 |
このような状況下で足利尾張守(高経)側から密使が通じ、「前天皇(光厳上皇)の命令である」と称して新田義貞一族討伐を命ずる綸旨を送り届けた。瓜生判官保はこれを見て元々思慮深くない性格だったため「将軍による偽造文書だ」とは全く疑わず、「天皇の敵を受け入れ大軍を動かせば天罰があるだろう」と突然心変わりし杣山城へ引き上げ関門を閉じて籠城した。 その時判官の弟・義鑑房という禅僧が鯖波宿に参上して申した:「兄である保は愚かな者ゆえ将軍から押さえ込まれて偽造された綸旨を真実と信じ謀反しました。私が武士なら命懸けで止めたでしょうが、僧侶として仏前に恥ずかしく黙っているのが無念です。しかしよく考えれば保も事態を知れば味方に戻るはずです。もし幼い公子(皇族)がいらっしゃれば一人私にお預けください。懐中や衣の下に隠して守り、時が来たら旗を掲げ金ヶ崎城への援軍とします」と言い終わらず涙を流したため両大将(義顕・義助)はその様子を見て「偽りの言葉ではあるまい」と疑念を持たず近づいて密かに語った:「主上(後醍醐天皇)が坂本へ行幸された時『尊氏が強要すればやむなく義貞追討の綸旨が出るだろう。お前たち決して朝敵と呼ばれてはならぬ』と仰せになりました。(中略)春宮(恒良親王)に皇位を譲って政務をお任せすべきだと。義貞が股肱の臣として王朝再興の大功を立てよと言われたのです」 さらに続けて:「三種の神器を春宮へ渡された後は、仮に先帝(光厳)の綸旨と称しても思慮ある者は無視すべきです。しかし判官が判断を誤った以上言い尽くしても仕方ないでしょう。ただこの緊急時に一人兄弟で忠義を示されるのは有難いに存じます」として「お気持ちに深く感じ入りましたので、幼い息子の義治をお預けしましょう。彼の生涯はどうかご配慮を」と述べた後、脇屋右衛門佐(義助)殿の子である式部大夫義治(当時13歳)を義鑑房に託された。(中略)この幼い息子は両親が鍾愛して「荒風にも当てまい」と大切にしてきたのに、側近一人もつけず見知らぬ敵地へ残すのは悲しく再会の期し難かった。 夜明けに右衛門佐(義助)が金ヶ崎城への帰還を決め越後国行きのために宿で軍勢を集めたところ、瓜生保の裏切りを知って兵士たちは密かに離脱しており昨日まで3500余騎いた兵力がわずか250騎に激減していた。この人数では敵陣突破し越後へ下るのは不可能と判断した両大将(義顕・義助)は「共に金ヶ崎城へ戻り船で移動しよう」として鯖波宿から敦賀津へ引き返すことになった。 解説
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| 爰に当国の住人今庄九郎入道浄慶、此道より落人の多く下る由を聞て、打留めん為に、近辺の野伏共を催し集て、嶮岨に鹿垣をゆひ、要害に逆木を引て、鏃を調へてぞ待かけたる。義助朝臣是を見給て、「是は何様今庄法眼久経と云し者の、当手に属して坂本まで有しが一族共にてぞ有らん。其者共ならばさすが旧功を忘じと覚るぞ。誰かある、近付て事の様を尋きけ。」と宣ひければ、由良越前守光氏畏て、「承候。」とて、只一騎馬を磬て、「脇屋右衛門佐殿の合戦評定の為に、杣山の城より金崎へ、かりそめに御越候を、旁存知候はでばし、加様に道を被塞候やらん。若矢一筋をも被射出候なば、何くに身を置て罪科を遁れんと思はれ候ぞ、早く弓を伏せ甲を脱で通申され候へ。」と高らかに申ければ、今庄入道馬より下りて、「親にて候卿法眼久経御手に属して軍忠を致し候しかば、御恩の末も忝存候へ共、浄慶父子各別の身と成て尾張守殿に属し申たる事にて候間、此所をば支申さで通し進せん事は、其罪科難遁存候程に、態と矢一仕り候はんずるにて候。是全く身の本意にて候はねば、あはれ御供仕候人々の中に、名字さりぬべからんずる人を一両人出し給り候へかし。其首を取て合戦仕たる支証に備へて、身の咎を扶り候はん。 |
そこへ当国(越前国)の住人である今庄九郎入道浄慶は、この方面から落ち延びる者たちが多く通ると聞き、阻止しようと近隣の野武士を集めさせた。険しい場所に鹿垣(防護柵)を作り要害には逆茂木(障害物)を設置し、矢を構えて待ち伏せしていた。これをご覧になった義助卿は「これは以前わが軍に属して坂本まで従った今庄法眼久経という者の一族であろう。彼らなら旧恩も忘れまい。誰か近づいて様子を探ってこい」とお命じになると、由良越前守光氏が「承知しました」と控えめに答え、単騎で馬を進めて高らかに宣言した。「脇屋右衛門佐殿(義助)は軍事会議のため杣山城から金ヶ崎へ急ぎ通りすがられるお方だ。事情も知らず道を塞ぐとは何事か。もし一本でも矢を放てば、どこに逃れて罪を免れるつもりか? 早く弓を伏せ兜を脱いで通されよ」 すると今庄入道は馬から降りてこう返答した。「私の父である久経法眼が貴殿側に属して戦功を立てたため、その恩恵には感謝している。しかし浄慶親子は別行動で尾張守(足利高経)殿についた身ゆえ、ここを通すわけにはいかぬ。もし通せば罪を逃れられまい故、やむを得ず戦うつもりだ。本意ではないのであえて提案する——供の者の中から名のある武士を一両人お出し願えないか? その首級を取って合戦の証拠とし、わが罪責を軽くしたいのだ」 解説
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| 」とぞ申ける。光氏打帰て此由を申せば、右衛門佐殿進退谷りたる体にて、兎角の言も出されざりければ、越後守見給て、「浄慶が申所も其謂ありと覚ゆれ共、今まで付纏たる士卒の志、親子よりも重かるべし。されば彼等が命に義顕は替るとも、我命に士卒を替がたし。光氏今一度打向て、此旨を問答して見よ。猶難儀の由を申さば、力なく我等も士卒と共に討死して、将の士を重んずる義を後世に伝へん。」とぞ宣ひける。光氏又打向て此由を申に、浄慶猶心とけずして、数刻を移しける間、光氏馬より下て、鎧の上帯切て投捨、「天下の為に重かるべき大将の御身としてだにも、軍勢の命に替らんとし給ぞかし。況や義に依て命を軽ずべき郎従の身として、主の御命に替らぬ事や有べき。さらば早光氏が首を取て、大将を通し進らせよ。」と云もはてず、腰の刀を抜て自腹を切んとす。其忠義を見に、浄慶さすがに肝に銘じけるにや、走寄て光氏が刀に取付、「御自害の事怒々候べからず。げにも大将の仰も士卒の所存も皆理りに覚へ候へば、浄慶こそいかなる罪科に当られ候共、争でか情なき振舞をば仕り候べき。早御通り候へ。」と申て、弓を伏逆木を引のけて、泣々道の傍に畏る。両大将大に感ぜられて、「我等はたとひ戦場の塵に没すとも、若一家の内に世を保つ者出来ば、是をしるしに出して今の忠義を顕さるべし。 |
このように申し上げた。光氏が戻って報告すると、右衛門佐殿(義助)は行き詰まった様子で何もおっしゃれなかったため、越後守(新田義顕)がこれを見て言われた。「浄慶の主張にも道理があるとは思う。しかしここまで従ってきた士卒への情誼は親子以上に重い。彼らの命と引き換えに私・義顕が替わることはできても、自分の命で士卒を犠牲にはできない。光氏よ、もう一度向かってこの考えを伝えてみよ。それでも困難だと言えば、力尽きて我々も士卒と共に討ち死にし、将帥が兵士を重んじる道理を後世に伝えよう」 光氏が再び出向いてこれを告げると、浄慶はなお納得せず時間が過ぎた。その時光氏は馬から降り鎧の帯を切り捨て、「天下のために重要である大将軍様でさえ兵士の命と引き換えようとなさるというのに! ましてや忠義によって命を軽んじる家臣身分の者が、主君の命より自分の命を惜しむことがあろうか。ならば早く私・光氏の首を取って大将軍を通せ」と言い終わらぬうち腰の刀を抜き自害しようとした。この忠義を見て浄慶もついに心に刻んだのか、駆け寄り光氏の刀を取り押さえ、「御自害はなりません。確かに大将様のお言葉も兵士たちの思いも道理と感じますゆえ、私・浄慶がどんな罪を得ようとも無情な振る舞いはできません」と言い弓を伏せ障害物を取り除き、泣きながら道端にひざまずいた。両将は深く感動し、「たとえ我々が戦場の塵と消えるとも、もし一族の中で世を保つ者が現れたならばこれを証拠として今日の忠義を示させよう」 解説
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| 」とて、射向の袖にさしたる金作の太刀を抜て、浄慶にぞ被与ける。光氏は主の危を見て命に替らん事を請、浄慶は敵の義を感じて後の罪科を不顧、何れも理りの中なれば、是をきゝ見る人ごとに、称嘆せぬは無りけり。 ○十六騎勢入金崎事 始浄慶が問答の難儀なりしを聞て、金崎へ通らん事叶はじとや思けん、只今まで二百五十騎有つる軍勢、いづちともなく落失て纔十六騎に成にけり。深山寺の辺にて樵の行合たるに、金崎の様を問給へば、「昨日の朝より国々の勢二三万騎にて、城を百重千重に取巻て、攻候也。」とぞ申ける。「さてはいかゞすべき。是より東山道を経て忍で越後へや下る、只爰にて腹をや切る。」と異儀区なりけるを、栗生左衛門進出て申けるは、「何くの道を経ても、越後まで遥々と落させ給はん事叶はじとこそ存候へ。下人の独をもつれぬ旅人の、疲て道を通り候はんを、誰か落人よと見ぬ事の候べき。又面々に爰にて腹を切候はんずる事も、楚忽に覚へ候へば、今夜は此山中に忍て夜を明して、まだ篠目の明はてざらん比をひ、杣山の城より後攻するぞと呼はりて、敵の中へ懸入て戦んに、敵若騒ひで攻口を引退事あらば、差違ふて城へ入候べし。忻て路を遮り候はゞ、思ふ程太刀打して、惣大将の被御覧御目の前にて討死仕て候はんこそ、後までの名も九原の骨にも留り候はんずれ。 |
こう言いながら、射向(鎧の袖)に差していた金作りの太刀を抜いて浄慶に与えられた。光氏は主君の危難を見て自らの命と引き換えようと申し出、浄慶は敵方の義理に感じて後の処罰も顧みない——いずれも道理にかなっていたので、これを見聞きした者すべてが称賛しない者はなかった。 ○十六騎で金崎城に入る件 解説
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| 」と申ければ、十六人の人々皆此義にぞ被同ける。去ば大勢なる体を敵に見する様に謀れとて、十六人が鉢巻と上帯とを解て、青竹の末に結付て旗の様にみせて、此の木の梢、彼の陰に立置て、明るを遅しとぞ待れける。金鶏三たび唱て、雪よりしらむ山の端に、横雲漸引渡りければ、十六騎の人々、中黒の旗一流差挙、深山寺の木陰より、敵陣の後へ懸出て、「瓜生・富樫・野尻・井口・豊原・平泉寺、並に剣・白山の衆徒等、二万余騎にて後攻仕候ぞ。城中の人々被出向候て、先懸者共の剛臆の振舞委く御覧じて、後の証拠に立れ候へ。」と、声々に喚て時の声をぞ揚たりける。其真前に前みける武田五郎は、京都の合戦に切れたりし右の指未痊ずして、太刀のつかを拳るべき様も無りければ、杉の板を以て木太刀を作て、右の腕にぞ結付たりける。二番に前ける栗生左衛門は帯副の太刀無りける間、深山柏の回り一尺許なるを、一丈余に打切て金才棒の如に見せ、右の小脇にかい挟て、大勢の中へ破て入。是を見て金崎を取巻たる寄手三万余騎、「すはや杣山より後攻の勢懸けるは。」とて、馬よ物具よと周章騒ぐ。案の如深山寺に立並たる旗共の、木々の嵐に翻るを見て、後攻の勢げにも大勢なりけりと心得て、攻口に有ける若狭・越前の勢共、楯を捨て弓矢を忘れてはつと引。 |
このように言うので、十六人の者たちは皆この提案に同意した。そこで大軍のように敵に見せる策略を立てようと、全員が鉢巻きと上帯(鎧の帯)を解いて青竹の先端に結び付け旗のように見せかけ、あちこちの木々の梢や陰に立てかけて置き、夜明けを待った。鶏が三度鳴く頃、雪で白む山際に横雲が徐々にかかり始めた時、十六騎の人々は中黒(新田氏の紋)の旗一本を掲げて深山寺の木陰から敵陣背後へ突進し、「瓜生・富樫・野尻・井口・豊原・平泉寺、ならびに剣神社や白山の僧兵ら二万余騎が後詰め(援軍)として参じたぞ! 城内の者ども出撃して、先鋒たちの勇怯を確かめて証拠とせよ!」と声高く叫んで鬨の声を上げた。 最前線に立っていた武田五郎は京都合戦で切断した右手の指が癒えず刀柄(つか)を握れなかったため、杉板で木刀を作り右腕へ縛り付けていた。二番手の栗生左衛門には帯添えの太刀がなかったので深山の柏丸太(直径一尺ほど)を丈余に切り出し金砕棒のように見せかけ、脇にかかえて敵陣突破に向かった。これを見た三万騎で金崎城を包囲していた攻め手たちは「しまった! 杣山から後詰めが来たぞ!」と馬や武具の準備に慌てふためく。案の定、深山寺周辺に林立した旗々が木々を揺らす風で翻る様を見て援軍の勢力は実に大規模だと確信し、前線にいた若狭・越前勢は盾を捨て弓矢も忘れて一斉に退却した。 解説
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| 城中の勢八百余人是に利を得て、浜面の西へ、大鳥居の前へ打出たりける間、雲霞の如くに充満したる大勢共、度を失て十方へ逃散。或は迹に引を敵の追と心得て、返し合せて同士打をし、或要て逃を敵とみて、立留て腹を切もあり、二里三里が外にも猶不止、誰が追としもなき遠引して、皆己が国々へぞ帰りける。 ○金崎船遊事付白魚入船事 去程に、百重千重に城を囲みたりつる敵共、一時の謀に被破て、近辺に今は敵と云者一人も無りければ、是只事に非ずとて、城中の人々の悦合る事限なし。十月二十日の曙に、江山雪晴て漁舟一蓬の月を載せ、帷幕風捲て貞松千株の花を敷り。此興都にて未被御覧風流なれば、逆旅の御心をも慰められん為に、浦々の船を点ぜられ、竜頭鷁首に准て、雪中の景をぞ興ぜさせ給ける。春宮・一宮は御琵琶、洞院左衛門督実世卿は琴の役、義貞は横笛、義助は箏の笛、維頼は打物にて、蘇合香の三帖・万寿楽の破、繁絃急管の声、一唱三嘆の調べ、融々洩々として、正始の音に叶ひしかば、天衆も爰に天降り、竜神も納受する程也。簫韶九奏すれば鳳舞ひ魚跳る感也。誠に心なき鱗までも、是を感ずる事や有けん、水中に魚跳御舟の中へ飛入ける。実世卿是を見給て、「昔周武王八百の諸侯を率し、殷の紂を討ん為に孟津を渡りし時、白魚跳て武王の舟に入けり。 |
城の中にいた八百余りの兵士たちはこの状況を好機と捉え、浜辺の西側・大鳥居前へ打って出た。雲や霞のように群がっていた敵軍は度を失い四方八方へ逃げ散った。ある者は後ろから迫る味方を追手と思い込み反撃して仲間同士で斬り合い、また急ぎ足の逃走兵を見て敵と勘違いし立ち止まって切腹する者も現れた。二里三里離れてもなお逃げ続け、誰に追われるわけでもないのに遠くへ退却し結局各自故郷へ帰っていった。 ○金崎での船遊びと白魚が舟に入る件 解説
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| 武王是を取て天に祭る。果して戦に勝事を得しかば、殷の世を遂に亡して、周八百の祚を保り。今の奇瑞古に同じ。早く是を天に祭て寿をなすべし。」と、屠人是を調て其胙を東宮に奉。春宮御盃を傾させ給ける時、島寺の袖と云ける遊君御酌に立たりけるが、柏子を打て、「翠帳紅閨、万事之礼法雖異、舟中波上、一生之歓会是同。」と、時の調子の真中を三重にしほり歌ひたりければ、儲君儲王忝も叡感の御心を被傾、武将官軍も齊く嗚咽の袖をぞぬらされける。 ○金崎城攻事付野中八郎事 杣山より引返す十六騎の勢に被出抜、金崎の寄手四方に退散しぬる由京都へ聞へければ、将軍大に忿りを成して、軈て大勢をぞ被下ける。当国の守護尾張守高経は、北陸道の勢五千余騎を率して、蕪木より向はる。仁木伊賀守頼章は、丹波・美作の勢千余騎を率して、塩津より向はる。今河駿河守は但馬・若狭の勢七百余騎を率して、小浜より向はる。荒河参川守は丹後の勢八百余騎を率して疋壇より向はる。細川源蔵人は四国の勢二万余騎を率して、東近江より向はる。高越後守師泰は、美濃・尾張・遠江の勢六千余騎を率して、荒血中山より向はる。小笠原信濃守は、信濃国の勢五千余騎を率して、新道より向ふ。佐々木塩冶判官高貞は、出雲・伯耆の勢三千余騎を率して、兵船五百余艘に取乗て海上よりぞ向ひける。 |
武王はこの白魚を取り天に供えたところ、果たして戦いに勝利し殷王朝を滅ぼして周朝八百年の礎を築いた。今の奇跡(白魚飛込)も古代と同様であるから、早くこれを祭って長寿を祈願すべきだ」と言うと、料理人が調理して供え物を春宮(皇太子)に献上した。春宮が杯を傾けられた時、「島寺の袖」という名の芸妓が酌を取り仕切った彼女は柏拍子を打ちながら「翠帳紅閨では礼法も異なれど、舟中波上の歓びは同じもの」と節回しを三度強調して歌うと、皇太子や王族たちは感動の涙を流され武将官軍全員が嗚咽で袖を濡らした。 ○金崎城攻撃と野中八郎に関する件 解説
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| 其勢都合六万余騎、山には役所を作双べ、海には舟筏を組で、城の四方を囲ぬる事、隙透間も無りけり。彼城の有様、三方は海に依て岸高く巌滑也。巽の方に当れる山一つ、城より少し高ふして、寄手城中を目の下に直下すといへ共、岸絶地僻にして、近付寄ぬれば、城郭一片の雲の上に峙ち、遠して射れば、其矢万仞の谷の底に落つ。さればいかなる巧を出して攻る共、切岸の辺までも可近付様は無りけれ共、小勢にて而も新田の名将一族を尽して被篭たり。寄手大勢にて而も将軍の家礼威を振て向はれたれば、両家の争ひ只此城の勝負に有べしと、各機を張心を専にして、攻戦ふ事片時もたゆまず。矢に当て疵を病、石に打れて骨を砕く者、毎日千人・二千人に及べ共、逆木一本をだにも破られず。是を見て小笠原信濃守、究竟の兵八百人を勝て、東の山の麓より巽角の尾を直違に、かづき連てぞ揚たりける。城には此や被破べき所なりけん、城の中の兵三百余人、二の関を開て、同時に打て出たり。両方相近に成ければ、矢を止て打物になる。防ぐ兵は、此を引ば継て攻入られぬと危みて、一足も不退戦。寄手は無云甲斐引て、敵・御方不被笑と、命を捨てぞ攻たりける。敵さすがに小勢なれば、戦疲れてみへける処に、例の栗生左衛門、火威の鎧に竜頭の甲を夕日に耀かし、五尺三寸の太刀に、樫の棒の八角に削たるが、長さ一丈二三尺も有らんと覚へたるを打振て、大勢の中へ走り懸り、片手打に二三十、重ね打に打たりける。 |
総勢約6万騎は山には陣所を並べ立て、海では舟筏(いかだ)を連ねて城の四方を取り囲み、すきまもないほどだった。その城の状況は三方を海に囲まれ岸が高く岩肌が滑らかである。南東の方角にある一つの山は城よりやや高く攻撃側は城中を見下ろせたものの、崖絶壁で近づこうとすると城郭は雲上の如く聳え立ち遠くから矢を射れば谷底へ落ちるため、どんな策を用いても切り立った岸辺にすら接近できなかった。しかし少数兵力ながら新田一族の名将が籠城し攻撃側は大軍で将軍(足利尊氏)の権威を掲げて迫っていたので両勢力の決戦まさにこの城にかかっていると、双方機会を狙い専心して休みなく攻防を続けた。矢に当たり負傷し石で骨砕ける者毎日千人単位だが逆茂木(防御柵)一本すら破れない。これを見た小笠原信濃守は精鋭800人を選び、東山の麓から南東尾根へまっすぐに押し寄せながら登ってきた。城側もここが突破点かと見て兵300余人が二ノ門を開き同時に出撃した。両軍接近後矢戦を止めて白兵戦となり防ぐ城兵は「退けば追い込まれる」と一歩も引かず死守し攻撃側は「無念の撤退など敵味方に笑われるな」と命懸けで突入した。しかし城勢がやはり少数ゆえ疲弊しかけた時、例の栗生左衛門が火焔模様の鎧に竜頭兜を夕日に輝かせ五尺三寸(約160cm)の太刀を持ち樫材を八角形に削った長さ一丈二三尺(約4m)と思われる棍棒を振り回し大軍へ突進、片手打ちで二十三十人を次々となぎ倒した。 解説
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| 寄手の兵四五十人、犬居にどうと打居られ、中天にづんと被打挙、沙の上に倒れ伏。後陣の勢是を見て、しどろに成て浪打際に村立所へ、気比の大宮司太郎・大学助・矢島七郎・赤松大田の帥法眼、四人無透間打て懸りける間、叶はじとや思けん、小笠原が八百余人の兵、一度にはつと引て本の陣へぞ帰りける。今河駿河守此日の合戦を見て推量するに、「此が如何様被破ぬべき所なればこそ、城より此を先途と出ては戦らめ。陸地より寄せばこそ足立悪て輒く敵には被払つれ。舟て一攻々て見よ。」とて、小舟百余艘に取乗て、昨日小笠原が攻たりし浜際よりぞ上ける。寄と均く切岸の下なる鹿垣一重引破て、軈て出屏の下へ著んとしける処へ、又城より裹まれたる兵二百余人、抜連て打出たりけるに、寄手五百余人真逆に被巻落、我先にと舟にぞ込乗ける。遥に舟を押出して跡を顧に、中村六郎と云者痛手を負て舟に乗殿れ、礒陰なる小松の陰に太刀を倒について、「其舟寄よ。」と招共、あれ/\と許にて、助んとする者も無りけり。爰に播磨国の住人野中八郎貞国と云ける者是を見て、「しらで有んは無力。御方の兵の舟に乗殿れて、敵に討れんとするを、親り見ながら助ぬと云事や有べき。此舟漕戻せ。中村助ん。」と云けれ共、人敢て耳にも不聞入。 |
攻撃側の兵士四五十人が一気に押し倒され、空中へ放り投げられ砂浜に伏せた。後方部隊がこれを見ると混乱して波打ち際にある村立所(集落)の方へ向かったところで、気比大宮司太郎・大学助・矢島七郎・赤松法眼の四人たちが間髪入れず突撃したので、敵わないと思ったのか小笠原隊八百余人は一斉に退いて本陣へ戻って行った。今河駿河守はこの日の戦闘を見て思案し、「これ(城)にはどうやら陸から攻めるのは難しく足場も悪く敵に追い払われやすいが、舟で一気に攻めてみよう」と述べ小船百余隻を用意して前日小笠原の部隊が攻めた浜辺へ上陸したところだった。彼らは岸壁の下にある鹿垣(防護柵)一つ破ってすぐ出屏(城門外郭)付近まで迫ろうとした瞬間またも城内から二百余りの兵士たちに包囲され逆襲を受け、寄せ手五百余人があわてふためいて我先にと舟へ飛び乗った。沖合い遠くまで船を押しやり振り返ってみると中村六郎という者が重傷を負って遅れていたので岩陰の松木蔭に刀をつき「そこの船こっちへ来てくれ」と手招きするものの誰も助けようとはせず皆が無関心であった。ここで播磨国の住人である野中八郎貞国という人物はこれを見て、「知らんぷりできるわけがない味方兵士が船に乗り遅れて敵に討たれそうなのを傍観するなどありえぬこの舟漕ぎ戻せ中村を助けるのだ」と言ったけれども人々は誰一人として耳を貸さなかった。 解説
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| 貞国大に忿て、人の指櫓を引奪て、逆櫓に立、自舟を押返し、遠浅より下立て、只一人中村が前へ歩行。城の兵共是を見て、「手負て引兼たる者は何様宗との人なれば社、是を討せじと、遥に引たる敵共は、又返合すらん。下合て首を取れ。」とて、十二三人が程、中村が後へ走懸りけるを、貞国些も不騒、長刀の石づき取伸て、向敵一人諸膝薙で切居、其頚を取て鋒に貫き、中村を肩に引懸て、閑に舟に乗ければ、敵も御方も是を見て、「哀剛の者哉。」と、誉ぬ人こそ無りけれ。其後よりは、寄手大勢也といへ共、敵手痛く防ければ、攻屈して、只帰り、逆木引、向櫓を掻て、徒に矢軍許にてぞ日を暮しける。 |
貞国は激怒して他人が漕ぐ櫂を奪い取ると舟尾の操舵位置につき自らの船を押し戻した。沖合の浅瀬から上陸するとただ一人中村のもとへ歩み寄った。城兵たちもこれを見て「傷ついて逃げ遅れた者は身分など構うな!これを討たねば遠く退いた敵が再び襲いかかるだろう、近づいて首を取れ!」と言わんばかりに十二三人ほど中村の背後へ駆け寄った。これに対し貞国は微塵も動じず長刀(薙刀)を持ち出すと真正面の敵兵一人を両膝からなぎ払って斬り倒し、その首級を取り刃先に突き刺した。そして中村を肩にかつぐように支え落ち着いて船へ乗せると、敵も味方もこれを見て「あっぱれな勇士よ!」と賞賛しない者はいなかった。その後は攻撃軍が大勢であったにもかかわらず城兵たちの抵抗があまりに激しかったため攻め手は行き詰まり撤退を余儀なくされた。(彼らは)逆茂木(防御柵)を引き寄せ防壁を築くなどして、無意味な矢撃ち合戦だけで終日を過ごすこととなった。 解説
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| input text 太平記\018_太平記_巻18.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第十八 ○先帝潜幸芳野事 主上は重祚の御事相違候はじと、尊氏卿様々被申たりし偽の詞を御憑有て、自山門還幸成しか共、元来謀り進せん為なりしかば、花山院の故宮に被押篭させ給、宸襟を蕭颯たる寂寞の中に悩さる。霜に響く遠寺の鐘に御枕を欹て、楓橋の夜泊に、御哀を副られ、梢に余る北山の雪に御簾を撥ては、梁園の昔の御遊に御涙を催さる。紅顔花の如なりし三千の宮女も、一朝の嵐に誘引て、何地ともなく成しかば、夜のをとゞに入せ給ても、夢より外の昔もなし。紫宸に星を列し百司の老臣も満天の雲に被掩、参仕る人独もなければ、天下の事如何に成ぬ覧と、可被尋聞召便もなし。「抑朕が不徳何事なれば、か程に仏神にも放たれ奉て、逆臣の為に被犯覧。」と、旧業の程浅猿く、此世中も憑少く被思召ければ、寛平の遠き迹をも尋ね、花山の近き例をも追ばやと思召立せ給ける処に、刑部大輔景繁武家の許を得て、只一人伺候したりけるが、勾当内侍を以て潜に奏聞申けるは、「越前の金崎の合戦に、寄手毎度打負候なる間、加賀国・剣・白山の衆徒等御方に参り、富樫介が篭て候那多の城を責落して金崎の後攻を仕らんと企候なる。是を聞て、還幸の時供奉仕て京都へ罷上候し菊池掃部助武俊・日吉加賀法眼以下、皆己が国々へ逃下て義兵を挙、国中を打順へて候なる間、天下の反覆遠からじと、謳歌説満耳に候。 |
太平記巻十八「後醍醐天皇が吉野へ密かに行幸される件」 主君(後醍醐天皇)は再即位のご事態に誤りはないとお考えになり、尊氏卿が様々におっしゃった偽りの言葉をお信じになって比叡山から還幸なさったものの、元来これが謀略であったため花山院旧宮殿へ押し込められ、寂寥の中にあえぎ苦しまれた。霜に響く遠寺の鐘音にお枕を傾けると楓橋夜泊のように哀愁を深められ、梢にとどまる北山の雪を見て御簾を開けば梁園での昔の遊びに涙を流される。紅顔花のような三千人の宮女たちも一夜にして嵐に散り失せてしまい、夜ごと床につかれても夢の中以外では過ぎし日は蘇らない。紫宸殿で星のように並んだ百官の老臣らも雲に覆われ参内する者一人なく天下がどうなっているのかお尋ねになる手段さえない。「そもそも朕(天皇)の不徳はいったい何か?これほど仏神にも見放され逆賊のために辱められるとは」と過去を深く恥じられ、この世も頼りないと思われたので寛平帝や花山法皇のように出家なさろうとお決意になった折に刑部大輔景繁が武家(足利方)の許可を得て単独で伺候した者が勾当内侍を通し密かに奏上したことには——「越前金崎城での戦いでは攻撃軍は毎度敗れているため、加賀国・剣山・白山衆徒らが味方に参じ富樫介の籠る那多城を落として金崎への後詰めを企てています。これ聞いた還幸時供奉者である菊池掃部助武俊や日吉加賀法眼以下は皆自国へ逃れ義兵を挙げ各国平定したため天下がすぐに覆るとの噂満ち溢れております。」 解説
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| 急ぎ近日の間に、夜に紛れて大和の方へ臨幸成候て、吉野・十津川の辺に皇居を被定、諸国へ綸旨を被成下、義貞が忠心をも助られ、皇統の聖化を被耀候へかし。」と、委細にぞ申入たりける。主上事の様を具に被聞召、さては天下の武士猶帝徳を慕ふ者多かりけり。是天照太神の、景繁が心に入替せ給て、被示者也と被思召ければ、「明夜必寮の御馬を用意して、東の小門の辺に相待べし。」とぞ被仰出ける。相図の刻限にも成ければ、三種の神器をば、新勾当内侍に被持て、童部の蹈開たる築地の崩より、女房の姿にて忍出させ給ふ。景繁兼てより用意したる事なれば、主上をば寮の御馬に舁乗せ進せ、三種神器を自荷担して、未夜の中に大和路に懸て、梨間宿までぞ落し進せける。白昼に南都を如此にて通らせ給はゞ、人の怪め申事もこそあれとて、主上をば怪げなる張輿に召替させ進て、供奉の上北面共を輿舁になし、三種の神器をば足付たる行器に入て、物詣する人の破篭なんど入て持せたる様に見せて、景繁夫に成て是を持つ。何れも皆習はぬ態なれば、急ぐとすれども行やらで、其日の暮程に内山までぞ著せ給ける。此までも若敵の追蒐進らする事もや有んずらんと安き心も無りければ、今夜如何にもして吉野辺まで成進せんとて、此より寮の御馬を進せたれ共、八月二十八日の夜の事なれば道最暗して可行様も無りける処に、俄に春日山の上より金峯山の嶺まで、光物飛渡る勢ひに見へて、松明の如くなる光終夜天を耀し地を照しける間、行路分明に見へて程なく夜の曙に、大和国賀名生と云所へぞ落著せ給ける。 |
急いで近いうちに夜陰に紛れて大和方面へ行幸され、吉野・十津川付近に行宮(仮皇居)を定め諸国へ綸旨をお出しになられ、義貞の忠誠心もお助けいただき皇室の御威光を取り戻されてください」と詳細に奏上した。天皇は事情を詳しくお聞きになり「それでは天下の武士たちがなお帝徳を慕う者が多いのだな。これは天照大神が景繁の心に入り替えて示されたものだろうか」と考えられたので、「明日の夜必ず内裏用の御馬を用意し東小門付近で待て」とお命じになった。約束した時刻になると、三種神器は新勾当内侍に持たせ、雑役童が踏み開いた築地塀(宮廷外壁)の崩れ口から女房姿になって密かに脱出された。景繁があらかじめ準備していたため天皇を御馬にお乗せし進み奉り、三種神器は自ら荷担して夜半に大和路へ向かい梨間宿まで落ち延びた。「白昼に奈良をこの姿で通れば人々が怪しむだろう」と思い、天皇を目立たない張輿(簡易駕籠)にお乗せ換えさせ進め供奉の北面武士たちを轎担ぎ役と偽装。三種神器は足付き行器(運搬箱)に入れ物詣り用破籠などに隠したように見せかけ景繁自身がこれを背負った。皆不慣れな様子ゆえ急いでも進まず日暮れ頃内山へ到着。「ここまで敵追手来ぬか不安だ」と心休まらず今夜中に吉野付近まで達しようとしたが、御馬を進めても八月二十八日の夜道は真っ暗で行く術もなかった。その時突然春日山上から金峯山嶺(奈良~吉野)にかけて光る物が飛び渡り松明のような輝きが終夜空を照らし地を明るくしたため、道筋が鮮明に見え夜明け前に大和国賀名生という場所へたどり着かれた。 解説
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| 此所の有様、里遠して人烟幽に山深して鳥の声も稀也。柴と云物をかこいて家とし、芋野老を堀て渡世許なれば皇居に可成所もなく、供御に備べき其儲も難尋。角ては如何可有なれば、吉野の大衆を語ひて君を入進せんと思て、景繁則吉野へ行向ひ、当寺の宿老吉水の法印に此由を申ければ、満山の衆徒を語ひ蔵王堂に集会して僉儀しけるは、「古へ清美原の天皇、大友の皇子に被襲、此所に幸成しも、無程天下泰平を被致。其先蹤に付て今仙蹕を被促事、衆徒何ぞ異儀に可及乎。就中昨夜の光物臨幸の道を照す。是然当山の鎮守蔵王権現・小守・勝手大明神、三種の神器を擁護し万乗の聖主を鎮衛し給ふ瑞光也。暫くも不可有猶予。」とて、若大衆三百余人、皆甲冑を帯して御迎にぞ参りける。此外楠帯刀正行・和田次郎・真木定観・三輪の西阿、紀伊国には、恩地・牲河・貴志・湯浅、五百騎・三百騎、引も切らず面々馳参ける間、雲霞の勢を腰輿の前後に囲ませて、無程吉野へ臨幸なる。春雷一たび動く時、蟄虫萌蘇する心地して、聖運忽に開けて、功臣既に顕れぬと、人皆歓喜の思をなす。 ○高野与根来不和事 先帝花山院を忍出させ玉て吉野に潜幸成りしかば、近国の軍勢は申に不及、諸寺・諸社の衆徒・神官に至まで、皆王化に随て、或は軍用を支へ、或は御祷を致しけるに、根来の大衆は一人も吉野へ参〔ら〕ず。 |
この場所(賀名生)の様子は、人家が遠く人けまばらであり山深くて鳥の声さえ稀である。柴を囲って家とし野生の根菜類を掘り生活しているため皇居となるべき場所もなく天皇用の食料準備すら困難な状態だった。「このままではどうにもならない」と考え景繁は吉野衆徒に働きかけようと直ちに向かい現地寺院の長老・吉水法印に事情を伝えたところ、全山の僧兵たちが蔵王堂に集まり協議した結果、「昔清見原天皇(天武天皇)が大友皇子から逃れ当地へ行幸された際もすぐ天下は平定なさった。その先例にならい今上陛下をお迎えするのは当然だ。特に昨夜の光り物は行幸路を照らす奇瑞であり当山鎮守・蔵王権現や小守明神、勝手大明神が三種神器を護り万乗の君主を守る証拠である。一刻も猶予すべきでない」と決議し若い僧兵三百人余り全員甲冑に身を固め出迎えに参上した。さらに楠正行・和田次郎・真木定観・三輪西阿が紀伊国からは恩地氏・牲河氏・貴志氏・湯浅氏ら五百騎、三百騎と続々馳せ参じたため雲霞のごとき軍勢が御輿を前後で囲み間もなく吉野へ到着された。春雷ひとたび響けば冬眠虫が目覚めるように聖運(南朝)は突然開けて功臣たち既に現れ人々皆歓喜した。 ○高野山と根来寺の不和について 解説
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| 是は必しも武家を贔負して、公家を背申には非ず。此君高野山を御崇敬有て、方々の所領を被寄、様々の御立願有と聞て、偏執の心を挿ける故也。抑為釈門徒者は、以柔和宗とし以忍辱衣とする事にてこそあるに、根来と高野と、依何事是程迄に霍執の心をば結ぶぞと、事の起りを尋ぬれば、中比高野伝法院に、覚鑁とて一人の上人御坐けり。一度三密瑜伽の道場に入しより、永四曼不離の行業に不懈、観法座闌して薫修年久しかりけるが、即身成仏と乍談、猶有漏の身を不替事を歎て、求聞持の法を七座迄行ふ。され共三品成就の内、何れを得たりとも覚ざりければ、覚洞院の清憲僧正の室に入、一印一明を受て、又百日行ひ給ひければ、其法忽に成就して、自然智を得給て、浅略深秘の奥義、不習底を極め、不聞旨を開けり。爰に我慢邪慢の大天狗共、如何にして人の心中に依託して、不退の行学を妨んとしけれ共、上人定力堅固なりければ、隙を伺事を不得。されども或時上人温室に入て、瘡をたでられけるが、心身快して纔の楽に婬著す。是時天狗共力を得て、造作魔の心をぞ付たりける。是より覚鑁伝法院を建立して、我門徒を昌にせばやと思ふ心懇に成ければ、鳥羽禅定法皇に経奏聞て、堂舎を立僧坊を作らる。されば一院の草創不日に事成りし後、覚鑁上人忽に入定の扉を閉て、慈尊の出世五十六億七千万歳の暁を待給ふ。 |
根来寺衆徒の行動は必ずしも武家贔屓で公家に背いたわけではない。この帝(後醍醐天皇)が高野山を崇敬され各地所領を寄進し様々な祈願を行ったと聞き、彼らが偏執心を持ったためである。そもそも仏門徒は柔和を宗とし忍辱衣とするはずだが「なぜ根来と高野がこれほど激しい対立心を持つのか」との由来を尋ねれば――中世に高野山伝法院で覚鑁(かくばん)という一人の高僧がおられた。一度三密瑜伽の修行場に入ってから永遠不離の行いに励み観法座も熟達して長年修業したが、即身成仏を語りつつ未だ煩悩ある身であることを嘆き求聞持(ぐもんじ)法を行事七度まで行った。それでも三品成就のいずれを得たか自覚できなかったため覚洞院清憲僧正のもとへ入室し印契と真言を受授して百日修行なさるとその秘術が突然成就し自然智を獲得され、浅略深秘の奥義を知らずに極め聞かない内に理解した。ここで我慢邪慢の大天狗どもは人の心に入り込んで不退転の行学を妨げようとしたが高僧の禅定力が堅固なため隙を伺えなかった。しかしある時上人が温室で腫物治療を受け身心快楽に浸った瞬間、天狗たちは機会を得て魔障心を取り付けたのである。これ以降覚鑁は「伝法院を建立し我が門徒を興そう」との念願強く抱き鳥羽法皇へ奏上して堂舎僧坊の建設許可を得たため寺院創設も短期間で完成した後、覚鑁上人は突如入定扉を閉じ慈尊菩薩(弥勒)出世五十六億七千万年後の暁をお待ちになった。 解説
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| 高野の衆徒等是を聞て、「何条其御房我慢の心にて被堀埋、高祖大師の御入定に同じからんとすべき様やある。其儀ならば一院を破却せよ。」とて、伝法院へ押寄せ堂舎を焼払ひ、御廟を堀破て是を見に、上人は不動明王の形像にて、伽楼羅炎の内に座し給へり。或若大衆一人走り寄て、是を引立んとするに、其身磐石の如くにして、那羅延が力にても動し難く、金剛の杵も砕難ぞ見へたりける。悪僧等猶是にも不恐、「穴こと/\し。如何なる古狸・古狐なりとも、妖る程ならば是にや劣るべき。よし/\真の不動か、覚鑁が妖たる形か、打見よ。」とて、大なる石を拾ひ懸て十方より是を打に、投る飛礫の声大日の真言に聞へて、曾て其身に不中、あらけて微塵に砕去る。是時覚鑁、「去ばこそ汝等が打処の飛礫、全く我身に中る事不可有。」と、少し■慢の心被起ければ、一の飛礫上人の御額に中て、血の色漸にして見へたりけり。「さればこそ。」とて、大衆共同音にどつと笑ひ、各院々谷々へぞ帰りける。是より覚鑁上人の門徒五百坊、心憂事に思て、伝法院の御廟を根来へ移して、真言秘密の道場を建立す。其時の宿意相残て、高野・根来の両寺、動すれば確執の心を挿めり。 ○瓜生挙旗事 去程に、先帝は吉野に御座有て、近国の兵馳参る由聞へければ、京都の周章は申に不及、諸国の武士も又天下不穏と、安き心も無りけり。 |
高野山の僧兵たちはこの話を聞き、「何としてもその御方(覚鑁)が我慢心で入定したとは、高祖弘法大師と同じ扱いなど許されぬ。ならば寺院を破壊せよ」と伝法院へ押し寄せ堂舎を焼き払い、廟墓を掘り返すと上人は不動明王の姿で炎光の中に座していた。一人の若僧が駆け寄り引き起こそうとしたがその体は岩のように動かず金剛杵でも砕けない様子だった。悪僧たちはなおも恐れず「穴を掘れ!化けた古狸や狐ならこれより劣るだろう。本物の不動明王か覚鑁の妖術か確かめろ」と叫び大石を拾い十方から投げつけるが、飛礫(つぶて)は金剛界呪文のように響いて命中せず空中で粉々に砕けた。この時覚鑁「もしお前たちの礫が私に当たるなら」とわずかに慢心を起こした途端一つの石が額を直撃し血が見えた。「やはりな!」と僧兵一同哄笑して谷々へ帰還した。これ以降覚鑁門徒五百坊は不本意ながら廟墓を根来に移転させ密教道場建立、この遺恨により高野・根来両寺はいざとなれば対立心を燃やすようになった。 ○瓜生での挙兵について 解説
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| 此事已に一両月に及けれ共、金崎の城には出入絶たるに依て、知人も無りける処に、十一月二日の朝暖に、櫛川の島崎より金崎を差て游者あり。海松・和布を被く海士人か、浪に漂ふ水鳥かと、目を付て是をみれば、其には非ずして、亘理新左衛門と云ける者、吉野の帝より被成たる綸旨を、髻には結付て游ぐにてぞ有ける。城の中の人々驚て、急ぎ開て見るに、先帝潜に吉野へ臨幸成て、近国の士卒悉馳参る間、不日に京都を可被責由被載たり。寄手は是を聞て、此際隠しつる事を、城中に早知ぬと不安思へば、城の内には助の兵共国々に出来て、今に寄手を追掃ぬと、悦の心身に余れり。中にも瓜生判官保、足利尾張守高経の手に属して金崎の責口にあり。其弟兵庫助重・弾正左衛門照・義鑑房三人は、未金崎へは向はで、杣山の城に有けるが、去月十一日に、新田の人々北国へ被落たりし時、義鑑房が隠置たりし、脇屋右衛門佐の子息、式部大輔義治を大将として、義兵を挙んと日々夜々にぞ巧ける。兄の判官此事を聞て、「此者共若楚忽に謀叛を発さば、我必存知せぬ事は非じとて、金崎にて討れぬ。」と思ければ、兄弟一に成てこそ、兎も角も成めと思返して、哀同心する人あれかしと、壁に耳を付て、心を人の腹に置て、兎角伺ひ聞ける折節、陣屋を双べて居たりける宇都宮美濃将監と、天野民部大輔と寄合て、四方山の雑談の次に、家々の旗の文共を云沙汰しける処に、誰とは不知末座なる者、「二引両と大中黒と、何れか勝れたる文にて候覧。 |
この事態(包囲)は既に1~2ヶ月続いたが金崎城では出入り途絶えたため知人もいない状況下、11月2日の穏やかな朝に櫛川・島崎方面から金崎に向かい泳ぐ者が現れた。海藻を摘む漁師か漂流水鳥かと見ればそうではなく亘理新左衛門という人物が吉野の天皇からの綸旨(命令書)を髷に結びつけて泳いできたのだ。城内の人々は驚き急ぎ開封すると、先帝(後醍醐天皇)密かに吉野へ行幸され近国の兵士が続々参集中ゆえ近日中に京都奪還の予定と記されている。包囲軍はこの情報を聞き「隠していた事実を城内に知られた」と不安になる一方、城側では援軍各所で結成されいつでも敵を掃討できると歓喜が全身にあふれた。中でも瓜生判官保(うりゅうほうがんやす)は足利尾張守高経の指揮下で金崎攻め口にいた。その弟兵庫助重・弾正左衛門照・義鑑房三人はまだ金崎へ向かわず杣山城におり、先月11日新田一族が北陸落ちした際義鑑房が密かに匿っていた脇屋右衛門佐の息子式部大輔義治を大将として挙兵準備日夜進めていた。兄判官はこれを聞き「彼らが軽率に反乱起こせば私も責任問われる」と金崎で討たれる不安から「兄弟団結すれば打開策あるはず」と考え直し、共感する者を探すため壁越しの会話や人心を窺っていた折、同じ陣屋の宇都宮美濃将監(うつのみやみのにしょうかん)と天野民部大輔(あまのみんぶたいふ)が雑談中に各家紋章の議論となり、末座の誰とも知らぬ者が「二引両と大中黒ではどちらが優れた家紋か」と言った。 解説
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| 」と問ければ、美濃将監、「文の善悪をば暫置く、吉凶を云者、大中黒程目出き文は非じと覚ゆ。其故は前代の文に三鱗形をせられしが滅びて、今の世二引両に成ぬ。是を又亡さんずる文は、一引両にてこそあらんずらん。」と申ければ、天野民部大輔、「勿論候、周易と申文には、一文字をばかたきなしと読て候なる。されば此御文は、如何様天下を治めて、五畿七道を悉敵無世に成ぬと覚て候。」と、文字に付て才学を吐ければ、又傍らなる者の、「天に口なし以人云しむ。」と、無憚所笑戯れければ、瓜生判官是を聞て、「さては此人々も、野心を挿む所存有けり。」と、嬉く思て、常に酒を送り茶を進て連々に睦近付て後、大儀を思立候由を語りければ、宇都宮も天野も、「子細非じ。」とぞ同じける。さらば軈て杣山へ帰て旗を挙んと評定しける処に、諸国の軍勢共、暇をも不乞、己が所領へ抜々に帰りけるを押留めん為に、高越後守、四方の口々に堅く兵士を居て人を不通。若は所用ありて、此道を通る人は、師泰が判形を取てぞ通りける。瓜生判官、さらば此関を謀て通らんと思て、越後守の許に行て、「御馬の大豆を召進せん為に、杣山へ人夫を百五十人可遣候。関所の御札を給り候へ。」と云ければ、師泰が執事山口入道、杉板を札に作て、「此人夫百五十人可通。 |
その質問に対し美濃将監(宇都宮)が「家紋の優劣はさておき、吉凶で言えば大中黒より不運な紋章はない。昔三鱗形を使った勢力は滅び今は二引両に変わった。これも滅ぶべき紋なら一筋線(一引両)になるだろう」と言うと、天野民部大輔が「全く同感だ。周易という書物では『一』の字を不吉と解釈するゆえ、この家紋は天下統一し五畿七道に敵無き世を作る象徴と思われる」と学識を示した。すると傍らの者が「天が口を持たぬ故人を使うとはこれか(=お前らこそ不吉だ)」と遠慮なく嘲笑ったのを、瓜生判官保は聞いて「どうやら彼らも野心ありそうだ」と喜び、常に酒茶を振る舞い親睦を深めた後で挙兵計画を打ち明けると、宇都宮も天野も異論なく賛同した。そこで急ぎ杣山へ戻り旗揚げしようと協議していたところ、諸国の軍勢が許可なく帰国し始めたため阻止せんと高越後守(師泰)は四方の関所に兵を置き通行禁止とした。用事で通る者は師泰の判子が必要だったのだ。瓜生判官はこの関門を欺いて抜けようと考え、師泰のもとへ赴き「御馬への大豆献上のため杣山へ人夫150名を行かせたいので通行許可証を下さい」と申し出ると、師泰執事の山口入道が杉板に「この人夫150名を通すべし」という仮札を作った。 解説
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| 」と書て判を居てぞ出しける。瓜生此札を請取て、下なる判形許を残し置て、上なる文字を皆押削て、「上下三百人可通。」と書直し、宇都宮・天野相共に、三山寺の関所を無事故通てげり。瓜生判官杣山に帰りければ、三人の弟共大に悦て、軈式部大輔義治を大将として、十一月八日飽和の社の前にて中黒の旗を挙ける程に、去ぬる十月坂本より落下ける軍勢、此彼に隠居たりけるが、此事を聞て何の間にか馳来りけん、無程千余騎に成にけり。則其勢を五百余騎差分て、鯖並の宿・湯尾の峠に関を居て、北国の道を差塞。昔の火打が城の巽に当る山の、水木足て嶮く峙たる峯を攻の城に拵て、兵粮七千余石積篭たり。是は千万蒐合の軍に打負る事あらば、楯篭らん為の用意也。越後守師泰は此由を聞て、「若遅く退治せば、剣・白山の衆徒等成合て、由々敷大事なるべし、時を不替杣山を打落して、金崎の城を心安く可責。」とて、能登・加賀・越中三箇国の勢六千余騎を、杣山の城へぞ差向ける。瓜生是を聞て、敵の陣を要害に取せじとて、新道・今庄・桑原・宅良・三尾・河内四五里が間の在家を一宇も不残焼払て、杣山の城の麓なる湯尾の宿許をば、態焼残してぞ置たりける。去程に、十一月二十三日、寄手六千余騎、深雪に橇をも懸ず、山路八里を一日に越て、湯尾の宿にぞ著たりける。 |
瓜生はこの通行証を受け取ると、下部の判子部分だけ残して上部の文字全てを削り落とし、「上下三百人可通」と書き直した。宇都宮・天野らと共に三山寺関所を何事もなく通り過ぎたのである。瓜生判官が杣山へ戻ると、三人の弟たちは大いに喜び、すぐに式部大輔義治を大将として11月8日飽和神社前で中黒旗(新田氏紋)を掲げるや否や、先月坂本から落ち延びて各地に潜伏していた軍勢がこれを聞きつけ瞬く間に集結し、間もなく千騎余りとなった。直ちにこの兵力のうち五百騎あまりを分けて鯖並宿・湯尾峠に関所を設け北国街道を封鎖。さらに火打城跡南東方向にある水木豊かで険しい峰を攻撃用要塞と整え、兵糧七千石以上を貯蔵した。これは万一集結軍に敗れた際の籠城準備であった。越後守師泰はこの報を聞き「対応が遅れれば比叡山・白山勢力も加わり大事件となる」と考え、「時機逃さず杣山攻略し金崎城包囲安定させよ」と能登・加賀・越中の三ヶ国軍勢六千騎あまりを差し向けた。瓜生はこれに対し「敵陣地設営阻止せねば」と新道・今庄・桑原・宅良・三尾・河内の四~五里にわたる民家を一軒残らず焼き払い、杣山城麓の湯尾宿のみ意図的に残した。こうして11月23日、攻囲軍六千騎は深雪にも橇を使わず八里の山路を一日で越え、湯尾宿へ到達するに至った。 解説
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| 此より杣山へは五十町を隔て、其際に大河あり。日暮て路に歩み疲れぬ、明日こそ相近付て、矢合をもせめとて、僅なる在家に攻り居て、火を焼身を温めて、前後も不知して寝たりける。瓜生は兼て案の図に敵を谷底へ帯き入て、今はかうと思ければ、其夜の夜半許に、野伏三千人を後の山へあげ、足軽の兵七百余人左右へ差回して、鬨声をぞ揚たりける。寝をびれたる寄手共、時声に驚て周章翊く処へ、宇都宮・紀清の両党乱入て、家々に火を懸たれば、物具したる者は太刀を不取、弓を持たる者は矢を不矯。五尺余降積たる雪の上に橇も不懸して走出たれば、胸の辺迄落入て、足を抜んとすれ共不叶。只泥に粘たる魚の如にて、被生虜者三百余人、被討者は不知数を。希有にして逃延たる人も、皆物具を捨て、弓箭を失はぬ者は無りけり。 ○越前府軍並金崎後攻事 北国の道塞て、後に敵あらば、金崎を責ん事難儀なるべし。如何にもして杣山の勢を、国中へはびこらぬ様にせでは叶まじとて、尾張守高経、北陸道四箇国の勢三千余騎を率して、十一月二十八日に、蕪木の浦より越前の府へ帰給ふ。瓜生此事を聞て、敵に少しも足をためさせては悪かるべしとて、同二十九日に、三千余騎にて押寄せ、一日一夜責戦て、遂に高経が楯篭たる新善光寺の城を責落す。 |
湯尾宿から杣山までは約5.5km離れており、間に大河があった。日没で行軍疲れた攻囲軍は「明日こそ近づいて決戦しよう」とわずかな民家に押し込み火を焚き体を温めていたが、前後もわからぬほど深く眠り込んでいた。瓜生は事前の作戦通り敵を谷底へ誘い込んだ好機と考え、真夜中頃に野伏三千人を裏山に配置し、足軽七百人余で左右から鬨声を上げさせた。寝ぼけた攻囲軍が叫び声に慌てふためくところへ宇都宮・紀清両部隊が突入して家々に放火したため、武装兵は刀も取れず弓兵は矢も整えられぬ混乱状態となった。1.5m以上積もった雪の上で橇も使わず逃げ出す者たちは胸まで埋まり足を抜くこともできず、泥に粘着した魚のように無力だった。捕虜三百人余り、討ち取られた者は数知れず。かろうじて逃れた兵士も全員が装備を捨て弓矢を失わなかった者はいなかった。 ○越前府中進軍と金崎城再包囲について 解説
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| 此時又被討者三百余人、生虜百三十人が首を刎て、帆山河原に懸並ぶ。夫より式部大輔義治勢ひ漸く近国に振ひければ、平泉寺・豊原の衆徒、当国他国の地頭・御家人、引出物を捧げ酒肴を舁せて、日々に群集しけれども、義治よに無興げなる体にのみ見へ給ければ、義鑑房御前に近て、「是程目出き砌にて候に、などや勇みげなる御気色も候はぬやらん。」と申ければ、義治袖掻収め給て、「御方両度の軍に打勝て、敵を多く亡したる事、尤可悦処なれ共、春宮を始進せて、当家の人々金崎の城に被取篭御座あれば、さこそ兵粮にも詰り戦にも苦みて、心安き隙もなく御坐すらめと想像奉る間、酒宴に臨め共楽む心も候はず。」と宣へば、義鑑房畏て申けるは、「其事にて候はゞ、御心安く被思召候へ。此間は余りに雪吹烈くして、長途の歩立難儀に候間、天気の少し晴るゝ程を相待にて候。」とて、感涙を押へながら御前をぞ立にける。宇都宮と小野寺と牆越に是を聞て、「好堅樹は地の底に有て芽百囲をなし、頻伽羅は卵の中に有て声衆鳥に勝れたり」といへり。此人丈夫の心ねをはして、加様に思ひ給けるこそ憑しけれ。さらば軈て金崎の後攻をすべし。」とて、兵を集め楯を作せて、さ程雪の降ぬ日を門出にしてぞ相待ける。 |
この時さらに殺害された者300人以上と捕虜130人の首を切り落として帆山の河原にかけて並べた。その後、式部大輔義治(よしはる)が次第に勢力を近隣諸国に広げると、平泉寺や豊原の僧兵たち当国他国の地頭・御家人らが進物を持ち酒肴を運んで毎日のように集まってくる。しかし義治はまったく元気がない様子に見えたので、側近の義鑑房(ぎかんぼう)がそばに寄り「これほどめでたい時にどうして奮い立ったご様子も見られないのですか」と尋ねると、義治は袖を整えながらこう述べた。「我々が二度の戦いに勝利し多くの敵を倒したことは喜ぶべきことだが、皇太子(春宮)や我が一門の人々が金崎城に閉じ込められていて兵糧不足で苦労し落ち着かないだろうと考えると酒宴でも楽しむ気持ちになれない」。これを聞いた義鑑房は畏敬の念を抱いて「それならご安心ください。このところ雪があまりにも激しく降り長距離行軍が困難なため天候回復待っていたのです」と言い、感涙をこらえながら退出した。宇都宮と小野寺が垣根越しにこれを聞き、「良材は土中で芽生えた時から巨大になる素質があり美声の鳥も卵の中で既に優れた鳴き声を持つものだ」と言い合った。「この人物(義治)こそ真の勇士の心を持ちこう思うのは当然であり直ちに金崎城への再攻撃をすべきだ」。そして兵士を集め防具を作らせ雪が降り止む日を出陣の機会として待つことにした。 解説
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| 正月七日椀飯事終て、同十一日雪晴風止て、天気少し長閑なりければ、里見伊賀守を大将として、義治五千余人を金崎の後攻の為に敦賀へ被差向。其勢皆雪吹の用意をして、物具の上に蓑笠を著、踏組の上に橇を履で、山路八里が間の雪蹈分て、其日桑原迄ぞ寄たりける。高越後守も兼て用意したる事なれば、敦賀津より二十余町東に当て、究竟の用害の有ける処へ、今河駿河守を大将として、二万余騎を差向て、所々に掻楯掻せて、今や寄ると待懸たり。夜明ければ先一番に、宇都宮・紀清両党三百余人押寄て、坂中なる敵千余人を遥の峯へ巻り上て、軈二陣の敵に蒐らんとしけるが、両方の峯なる大勢に被射立、北なる峯へ引退く。二番に瓜生・天野・斉藤・小野寺七百余騎、鋒を調へて上りけるに、駿河守の堅めたる陣を三箇所被追破、はつと引ける処へ、越後守が勢三千余騎、荒手に代て相戦ふ処に、瓜生・小野寺が勢又追立られて、宇都宮と一に成んと、傍なる峯へ引上りけるを、里見伊賀守僅の勢にて、「蓬し、返せ。」とて横合に進まれたり。敵是を大将よと見てんげれば、自余の葉武者には懸らず、をつ取篭て討んとしけるを、瓜生と義鑑房と屹と見て、「我等爰にて討死せでは御方の勢は助るまじき処ぞ。」と自嘆して、只二人打て蒐り、敵の中へ破て入んとするを見て、判官が弟林次郎入道源琳・同舎弟兵庫助重・弾正左衛門照三人是を見て、遥に落延たりけるが、共に討死せんと取て返しけるを、義鑑房尻目に睨で、「日来再三謂し事をば何の程に忘れけるぞ。 |
1月7日の新年祝宴が終わり、同11日に雪が晴れ風も止み天気が穏やかになったため、里見伊賀守(さとみいがのかみ)を大将として義治の軍勢五千人余りを金崎城再攻撃のために敦賀へ派遣した。この部隊は全員雪中行軍に備え、鎧の上から蓑笠を着用し、足には橇(かんじき)を取り付けながら山道約32kmの積雪地帯を踏破して同日桑原まで進出した。高越後守(こうえちごのかみ)も事前に準備していたため、敦賀津から東へ2.3kmほどの要害堅固な地点で今河駿河守(いまかわするがのかみ)を大将とする二万余騎の軍勢を配置し各所に防壁を作らせて待ち構えていた。夜明けとともに先鋒として宇都宮・紀清両部隊三百人余りが押し寄せ、坂中で敵千余人相手に遠くの峰へ追い上げようとしたが両側の高地に布陣した大軍に射撃され北峰へ撤退する。第二陣では瓜生(うりゅう)・天野・斉藤・小野寺七百騎余が攻め上がると駿河守の三箇所に固めた陣を突破し敵は一気に後退したところで越後守率いる三千騎余が新たな戦力として激突する。瓜生と小野寺部隊が追い詰められ宇都宮軍合流のために傍らの峰へ撤退しようとした瞬間、里見伊賀守が寡兵ながら「進め!反撃せよ!」と横から攻勢をかけた。敵はこれこそ大将と思い他の雑兵には目もくれず包囲殲滅にかかるのを見た瓜生と義鑑房(ぎかんぼう)は「我々がここで討死すれば味方全軍が助からない」と嘆き二人だけで突撃し敵陣突破を試みる様子に、判官の弟林次郎入道源琳・同僚兵庫助重・弾正左衛門照の三人は一度退却していたものが共に討死しようと引き返す。すると義鑑房が振り返り睨んで「日頃何度も言い聞かせたことをどうして忘れたのか。 解説
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| 我等二人討死したらんは、永代の負にて有んずるを、思篭る心の無りける事の云甲斐なさよ。」と、あらゝかに申留めける間、三人の者共、現もと思返して少し猶予しける間、大勢の敵に中を被押隔、里見・瓜生・義鑑房三人は一所にて被討にけり。桑原より深雪を分て重鎧に肩をひける者共、数刻の合戦に入替る勢もなく戦疲れければ、返さんとするに力尽き引んとするに足たゆみぬ。されば此彼に引延て、腹を切者数を不知。適落延る兵も、弓矢・物具を棄ぬはなし。「さてこそ先日府・鯖並の軍に多く捨たりし兵具共をば、今皆取返たれ。」と、敦賀の寄手共は笑ける。是程に不定の人間、化なる身命を資とて、互に罪業を造り、長き世の苦みを受ん事こそ浅猿けれ。 ○瓜生判官老母事付程嬰杵臼事 去程に、敗軍の兵共杣山へ帰ければ、手負・死人の数を註すに、里見伊賀守・瓜生兄弟・甥の七郎が外、討死する者五十三人蒙疵者五百余人也。子は父に別れ弟は兄に殿れて、啼哭する声家々に充満り。去共瓜生判官が老母の尼公有けるが、敢て悲める気色もなし。此尼公大将義治の前に参て、「此度敦賀へ向ふて候者共が不覚にてこそ里見殿を討せ進せて候へ。さこそ被思召候らめと、御心中推量り進せて候。但是を見ながら、判官兄弟何れも無恙してばし帰り参りて候はゞ、如何に今一入うたてしさも無遣方候べきに、判官が伯父・甥三人の者、里見殿の御供申し、残の弟三人は、大将の御為に活残りて候へば、歎の中に悦とこそ覚て候へ。 |
私たち二人が討死すれば末代までの汚名となるのに、それを深く考えないとは何と愚かなことか。」と厳しく言い放ったため、三人の者は我に返って少し躊躇している間に敵軍に分断され、里見・瓜生・義鑑房の三人は同所で討たれてしまった。桑原から深雪を掻き分け重い甲冑で肩を痛めた兵士たちは長時間の戦闘による疲労で交替要員もなく攻め返す力尽き退却も足が動かない状態だった。そのため各所に分散して切腹する者数知れず、辛くも逃げ延びた兵も弓矢や武具を捨てない者はなかった。「これぞ先の府中・鯖江での戦いで大量放棄した武器類を今取り戻すことだ」と敦賀側の攻撃軍は嘲笑った。このように不安定な人間が儚い命を頼りに互いに罪業を作り永遠の苦しみを受けるとは何とも浅ましい。 ○瓜生判官老母の件および程嬰杵臼故事 解説
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| 元来上の御為に此一大事を思立候ぬる上は、百千の甥子共が被討候共、可歎にては候はず。」と、涙を流して申つゝ、自酌を取て一献を進め奉りければ、機を失へる軍勢も、別を歎く者共も、愁を忘れて勇みをなす。抑義鑑房が討死しける時、弟三人が続て返しけるを、堅く制し留めける謂れを如何にと尋ぬれば、此義鑑房合戦に出ける度毎に、「若此軍難儀に及ばゞ、我等兄弟の中に一両人は討死をすべし。残の兄弟は命を全して、式部大輔殿を取立進すべし。」とぞ申ける。是も古への義を守り人を規とせし故也。昔秦の世に趙盾・智伯と云ける二人、趙の国を諍ふ事年久し。或時智伯已に趙盾がために被取巻、夜明なば討死せんとしける時、智伯が臣程嬰・杵臼と云ける二人の兵を呼寄て、「我已に運命極迄趙盾に囲まれぬ。夜明ば必討死すべし。汝等我に真実の志深くば、今夜潜に城を逃出て、我三歳の孤を隠置て、長ならば趙盾を亡して、我生前の恥を雪むべし。」とぞ宣ひける。程嬰・杵臼是を聞て、「臣等主君と共に討死仕ん事は近して易し。三歳の孤を隠して命を全せん事は遠して難し。雖然、為臣道豈易を取て難きを捨ん哉。必君の仰に可随。」とて、程嬰・杵臼は、潜に其夜紛れて城を落にけり。夜明ければ、智伯忽に討死して残る兵も無りしかば、多年諍ひし趙国終に趙盾に随ひけり。 |
本来主君のためにこの大事業を思いついた以上は、何百もの甥や子たちが討たれても嘆くべきことではない。」と涙を流して語りながら自ら杯を取り一献差し上げると、敗北で意気消沈していた兵士も別れを悲しむ者も憂いを忘れて勇み立った。そもそも義鑑房が討死した時、弟三人が続いて引き返そうとしたのを厳しく制止した理由は何かと尋ねると、この義鑑房は戦に出るたびに「もし今回の軍勢が苦境に陥れば我々兄弟の中から一二人は討死すべきだ。残りの兄弟は命を全うして式部大輔殿(主君)をお立て申し上げよ」と言っていたという。これも昔からの忠義を守り人倫の規範としたためである。かつて秦の時代に趙盾と智伯という二人が趙の国を争い長年続いた。ある時智伯はすでに趙盾のために包囲され夜明ければ討死すると悟ったとき、家臣の程嬰・杵臼という二人の兵を呼んで「私は運命尽きてここまで追いつめられた。夜が明けば必ず討たれるだろう。お前たちが私への真心厚いなら今夜密かに城を抜け出し我が三歳の遺児を隠して育て成人したら趙盾を滅ぼし私の生前の恥を雪げ」と命じた。程嬰と杵臼はこれを聞き「臣下として主君と共に討死することは近くて易しいが、三歳の孤児をかくまい命を全うさせることは遠くて難しいことだ。それでも家臣の道はいったん容易なものを選んで困難なことを捨てるべきだろうか必ずお言葉に従います」と言ってその夜ひそかに城を脱出した。夜が明けると智伯はたちまち討死し残兵もいなかったため長年争っていた趙国はついに趙盾の支配下に入った。 解説
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| 爰に程嬰・杵臼二人は、智伯が孤を隠さんとするに趙盾是を聞付て、討んとする事頻也。程嬰是を恐れて、杵臼に向て申けるは、「旧君三歳の孤を以て、此二人の臣に託たり。されば死て敵を欺かんと、暫く命を生て孤を取立んと、何れか難かるべき。」杵臼が云く、「死は一心の義に向ふ処に定り、生は百慮の智を尽す中に全し。然ば吾生を以て難しとす。」と。程嬰、「さらば吾は難きに付て命を全すべし。御辺は易きに付て討死せらるべし。」と云に、杵臼悦で許諾す。「さらば謀を回すべし。」とて、杵臼我子の三歳に成けるを旧主の孤なりと披露して、是を抱きかゝへ、程嬰は主の孤三になるを我子なりと云て、朝夕是を養育しける。角て杵臼は山深き栖に隠れ、程嬰は趙盾が許に行て、可降参由を申に、趙盾猶も心を置て是を不許。程嬰重て申けるは、「臣は元智伯が左右に仕へて、其行跡を見しに、遂に趙の国を失はんずる人なりとしれり。遥に君の徳恵を聞に、智伯に勝れ給へる事千里を隔たり。故に臣苟も趙盾に仕へん事を乞。豈亡国の先人の為に有徳の賢君を謀らんや。君若我をして臣たる道を許されば、亡君智伯が孤三歳になる此にあり。杵臼が養育深く隠置たる所我具にしれり。君是を失せ給ひ、趙国を永く令安給へ。 |
ここで程嬰と杵臼の二人は、智伯の遺児を隠そうとしたところ趙盾がこれを察知し討伐しようとする動きが激しくなった。程嬰はこれを恐れ杵臼に向かって言った。「元主君が三歳の孤児をもってこの二人の臣下に託したのだから、死んで敵を欺こうと命をつないで孤児を育てようとどちらが難しいだろうか。」杵臼は答えた。「死とは一途な忠義に向かうことで定まり生とは様々な思慮を尽くして全うされるものだ。それゆえ私は生きることをより困難とする」と。程嬰は「ならば私が難事(生存)を受け命を全うしよう。あなたは易きこと(死)で討ち死にせよ。」と言うと杵臼は喜んで承諾した。「では策を練ろう。」こうして杵臼は自分の三歳の子を元主君の孤児だと公表しそれを抱え、程嬰は真実の主君の遺児(三歳)を我が子だといつわって日々養育した。その後杵臼は深山に隠れ程嬰は趙盾のもとへ赴き降伏を申し出たが趙盾はなお警戒して許さなかった。程嬰は重ねて訴えた。「私は元智伯の側近として仕えその行いを見ていましたが彼は結局趙国を失う人物でした。遠くまで届くあなたの徳恵を聞けば智伯よりも優れていることは千里も隔たっています。だから私ながらも趙盾に仕えることを請います。ましてや亡国の先君のために有徳の賢君を謀ろうなどありえません。もし私が臣下となる道をお許しくださるなら、亡き主君智伯の三歳孤児がここにおります。杵臼が深く隠して養育している場所を私は詳しく知っています。あなたはこれを滅ぼされ趙国を永遠に安泰になさってください。」 解説
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| 」とぞ申たりける。趙盾是を聞給ひて、さては程嬰不偽吾が臣とならんと思けると信じて、程嬰に武官を授て、あたり近く被召仕けり。さて杵臼が隠したる所を委尋聞て、数千騎の兵を差遣して是を召捕らんとするに、杵臼兼て相謀し事なれば、未膝の上なる三歳の孤を差殺して、「亡君智伯の孤運命拙して謀已に顕れぬ。」と喚て、杵臼も腹掻切て死にけり。趙盾今より後は吾子孫の代を傾けんとする者は非じと悦で、弥程嬰に心をも不置。剰大禄を与へ高官を授て国の政を令司。爰に智伯が孤程嬰が家に長りしかば、程嬰忽に兵を発して三年が中に趙盾を亡し、遂に智伯が孤に趙国を保たせり。此大功然程嬰が謀より出しかば、趙王是を賞して大禄を与へんとせらる。程嬰是を不請。「我官に昇り禄を得て卑くも生を貪らば、杵臼と倶に計し道に非ず。」とて杵臼が尸を埋し古き墳の前にて、自剣の上に伏て、同苔にぞ埋れける。されば今の保と義鑑房と討死す。古への程嬰・杵臼が振舞にも劣るべしとも云がたし。 ○金崎城落事 金崎城には、瓜生が後攻をこそ命に懸て待れしに、判官打負て、軍勢若干討れぬと聞へければ、憑方なく成はて、心細ぞ覚ける。日々に随て兵粮乏く成ければ、或は江魚を釣て飢を資け、或は礒菜を取て日を過す。 |
程嬰はそう申し上げた。趙盾はこれを聞き、「なるほど程嬰は偽りなく我が臣下となろうとしているのだな」と信じ、程嬰に武士としての地位を与え近くに召し抱えた。そして杵臼が隠れている場所を詳しく尋ねて聞き出し、数千騎の兵を派遣して捕らえようとしたところ、杵臼は事前に相談していた計画通り、膝の上にいた三歳の幼児(実子)を刺し殺し、「亡君智伯の遺児よ運命尽きたか謀略が露見した」と叫んで自害した。趙盾はこれで「今後我が子孫の代を脅かす者は消えた」と喜び、ますます程嬰に警戒心を持たなくなった。さらには厚い俸禄を与え高い官位を授け国政を司らせた。 ここにおいて智伯の遺児(真の孤児)は程嬰の家で成長したので、程嬰は突然軍勢を率いて三年以内に趙盾を滅ぼし、遂に智伯の遺児に趙国の統治を継がせた。この大功績は全て程嬰の策略によるものだったため、趙王(遺児)はこれを褒賞して厚禄を与えようとしたが、程嬰は受け取らなかった。「私が官位を得て卑しくも生き延びるならば、杵臼と共に誓った道に反する」と言い、杵臼の屍を埋めた古墳前で剣に伏せて自害し、同じ苔の下に葬られた。だからこそ現代(楠木正成軍)の保(和田新発智?)や義鑑房らの討死も、昔の程嬰・杵臼の振る舞いに劣ると言えないのである。 ○金崎城落城のこと 解説
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| 暫しが程こそ加様の物に命を続で軍をもしけれ。余りに事迫りければ、寮の御馬を始として諸大将の被立たる秘蔵の名馬共を、毎日一疋づゝ差殺して、各是をぞ朝夕の食には当たりける。是に付ても後攻する者なくては、此城今十日とも堪がたし。総大将御兄弟窃に城を御出候て杣山へ入せ給ひ、与力の軍勢を被催て、寄手を被追払候へかしと、面々に被勧申ければ、現にもとて、新田左中将義貞・脇屋右衛門佐義助・洞院左衛門督実世・河島左近蔵人惟頼を案内者にて上下七人、三月五日の夜半許に、城を忍び抜出て杣山へぞ落著せ給ひける。瓜生・宇都宮不斜悦て、今一度金崎へ向て、先度の恥を雪め城中の思を令蘇せと、様々思案を回しけれども、東風漸閑に成て山路の雪も村消ければ、国々の勢も寄手に加て兵十万騎に余れり。義貞の勢は僅に五百余人、心許は猛けれ共、馬・物具も墓々しからねば、兎やせまし角やせましと身を揉で、二十日余りを過しける程に、金崎には、早、馬共をも皆食尽して、食事を断つ事十日許に成にければ、軍勢共も今は手足もはたらかず成にけり。爰に大手の攻口に有ける兵共、高越後守が前に来て、「此城は如何様兵粮に迫りて馬をばし食候やらん。初め比は城中に馬の四五十疋あるらんと覚へて、常に湯洗をし水を蹴させなんどし候しが、近来は一疋も引出す事も候はず。 |
しばらくはこのようなもので命をつなぎ戦いもしたが、あまりにも状況が切迫していたので、官舎の御馬を始めとして諸大将が大切にしている秘蔵の名馬たちを毎日1頭ずつ刺し殺して、それぞれこれを朝夕の食事にあてた。この件についても援軍が来なければ、この城は今10日間とも持ちこたえられないだろうと悟った総大将である兄弟(新田義貞ら)は密かに城からお出になって杣山に入り、味方の軍勢をお集めになり攻撃側を追い払ってくださいと言うことにして、皆が勧めたので直ちに行動し、新田左中将義貞・脇屋右衛門佐義助・洞院左衛門督実世・河島左近蔵人惟頼を案内役として上から下まで7人で3月5日の真夜中頃に城をこっそり抜け出して杣山にお逃げになった。瓜生氏や宇都宮氏は納得せず、もう一度金崎に向かって前回の恥を晴らし城中の人々の希望をもり立てようと様々な策を練ったが、春風(東風)が次第に収まり山道の雪も溶けてしまったので各地からの勢力も攻撃側に加わり兵10万騎以上となり新田義貞軍はわずか500人あまりで士気は高いものの馬や武器・防具も十分整っておらずどうしようかと悩んで20日余り過ごしているうちに金崎城では早くも馬たちをすべて食べ尽くして食事が途絶えること10日ほどになり兵士たちも今では手足すら動かせなくなった。ここで正面攻撃口にいた兵たちが高越後守の前に来て「この城はどうやら兵糧不足で馬まで食っているようだ以前は城内に40~50頭もの馬があると思われいつも湯洗いをさせ水浴びさせたりしていたのに最近は1頭も外に出して見せることがない」と報告した。 解説
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| 哀一攻せめて見候はばや。」と申ければ、諸大将、「可然。」と同じて、三月六日の卯刻に、大手・搦手十万騎、同時に切岸の下、屏際にぞ付たりける。城中の兵共是を防ん為に、木戸の辺迄よろめき出たれ共、太刀を仕ふべき力もなく、弓を挽べき様も無れば、只徒に櫓の上に登り、屏の陰に集て、息つき居たる許也。寄手共此有様を見て、「さればこそ城は弱りてけれ。日の中に攻落さん。」とて、乱杭・逆木を引のけ屏を打破て、三重に拵たる二の木戸迄ぞ攻入ける。由良・長浜二人、新田越後守の前に参じて申けるは、「城中の兵共数日の疲れに依て、今は矢の一をも墓々敷仕得候はぬ間、敵既に一二の木戸を破て、攻近付て候也。如何思食共叶べからず。春宮をば小舟にめさせ進せ、何くの浦へも落し進せ候べし。自余の人々は一所に集て、御自害有べしとこそ存候へ。其程は我等責口へ罷向て、相支候べし。見苦しからん物共をば、皆海へ入させられ候へ。」と申て、御前を立けるが、余りに疲れて足も快く立ざりければ、二の木戸の脇に被射殺伏たる死人の股の肉を切て、二十余人の兵共一口づゝ食て、是を力にしてぞ戦ける。河野備後守は、搦手より責入敵を支て、半時計戦けるが、今はゝや精力尽て、深手余多負ければ、攻口を一足も引退かず、三十二人腹切て、同枕にぞ伏たりける。 |
「一度攻撃してみたいものだ」と申し出たところ、諸大将は「その通りだ」と賛同し、3月6日の卯の刻(午前5~7時)に大手口・搦め手から10万騎が同時に切り岸の下や塀際へ攻め寄せた。城内の兵士たちはこれを防ごうと木戸の辺りまでよろめき出たものの、太刀を振るう力もなく弓を引く余裕もないため、ただむなしく櫓の上に登ったり塀の陰に集まって息をついているばかりだった。攻撃側はこの様子を見て「やはり城は弱っているのだ。今日中に落とそう」と言い、乱杭や逆さ木を引き払い塀を打ち破って三重に構えた二の木戸まで攻め込んだ。 由良と長浜の二人が新田越後守のもとに参上して申したことには、「城内の兵士たちは数日の疲れで今や一本の矢さえまともに放てません。敵はすでに第一・第二の木戸を破り攻め寄せています。どうお考えになってももはや無理です。春宮(皇太子)様を小船にお乗せしどこかの浦へお逃がしください。その他の者たちは一箇所に集まってご自害なさるべきでしょう。それまでの間、我々が攻め口に向かって防ぎます。見苦しい者ども(瀕死者)は皆、海に入らせてください」と言い御前を立ったが、あまりの疲労で足もまともに立てなかったため、二の木戸脇に射殺されて伏していた死人の腿の肉を切り取り二十余人の兵士たちが一口ずつ食べ、これを力にして戦った。 河野備後守は搦め手から攻め込む敵を防ぎ約2時間(半時)戦ったが、もはや精力尽き深手を多く負ったため一歩も退かず三十二人が腹を切り同じ場所に倒れ伏したのであった。 解説
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| 新田越後守義顕は、一宮の御前に参て、「合戦の様今は是までと覚へ候。我等無力弓箭の名を惜む家にて候間、自害仕らんずるにて候。上様の御事は、縦敵の中へ御出候共、失ひ進するまでの事はよも候はじ。只加様にて御座有べしとこそ存候へ。」と被申ければ、一宮何よりも御快気に打笑せ給て、「主上帝都へ還幸成し時、以我元首将とし、以汝令為股肱臣。夫無股肱元首持事を得んや。されば吾命を白刃の上に縮めて、怨を黄泉の下に酬はんと思也。抑自害をば如何様にしたるがよき物ぞ。」と被仰ければ、義顕感涙を押へて、「加様に仕る者にて候。」と申もはてず、刀を抜て逆手に取直し、左の脇に突立て、右の小脇のあばら骨二三枚懸て掻破り、其刀を抜て宮の御前に差置て、うつぶしに成てぞ死にける。一宮軈て其刀を被召御覧ずるに、柄口に血余りすべりければ、御衣の袖にて刀の柄をきり/\と押巻せ給て、如雪なる御膚を顕し、御心の辺に突立、義顕が枕の上に伏させ給ふ。頭大夫行房・里見大炊助時義・武田与一・気比弥三郎大夫氏治・大田帥法眼以下御前に候けるが、いざゝらば宮の御供仕らんとて、同音に念仏唱て一度に皆腹を切る。是を見て庭上に並居たる兵三百余人、互に差違々々弥が上に重伏。気比大宮司太郎は、元来力人に勝て水練の達者なりければ、春宮を小舟に乗進せて、櫓かいも無れ共綱手を己が横手綱に結付、海上三十余町を游で蕪木の浦へぞ著進せける。 |
新田越後守義顕は一宮(尊良親王)のもとに参上し、「合戦の状況もこれまでかと思われます。我々は無力ながら弓箭の名を惜しむ家柄ゆえ、ここで自害いたします。陛下(恒良親王)についてはたとえ敵中へお出になられても、私が必ずお守りしましょう。どうぞこのようになさってください」と言ったところ、一宮は何よりも快く笑いながらこうおっしゃられた。「主上(後醍醐天皇)が都に戻られた際、我を元首将としそなたを股肱の臣とした。手足なくして頭部のみ保てようか?故に私は白刃の下で命を縮め黄泉で恨みを晴らさんと思うのだ。そもそも自害はいかにすべきものか?」義顕は感涙をこらえ「このように行う者です」と言い終わらないうちに刀を抜き逆手に持ち替え、左脇腹に突き立てて右の肋骨二、三本あたりまで掻き切り、その刀を一宮の御前に置いてうつぶせに死んだ。 一宮は直ちにその刀をお取りになりご覧になると、柄口が血で滑りやすくなっていたため衣の袖でぐるぐると巻かれ、雪のように白い肌を見せて心臓付近に突き立て義顕の枕元に伏してお亡くなりになった。頭大夫行房・里見大炊助時義・武田与一・気比弥三郎太夫氏治・大田帥法眼以下御前にお仕えしていた者たちは「さあお供いたしましょう」と声を揃えて念仏を唱え一度に全員が腹を切った。これを見て庭に並んでいた兵三百余人も互いに押し合いながら重なるように倒れ伏した。 気比大宮司太郎は元来力強く水泳の達人であったため、春宮(恒良親王)を小船にお乗せして櫓もないまま綱手を自らの腕に結び付け海上三十余町(約3.3km)を泳いで蕪木浦へとたどり着かせた。 解説
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| 是を知人更に無りければ、潜に杣山へ入進せん事は最安かりぬべかりしに、一宮を始進せて、城中人々不残自害する処に、我一人逃て命を活たらば、諸人の物笑なるべしと思ける間、春宮を怪しげなる浦人の家に預け置進せ、「是は日本国の主に成せ給ふべき人にて渡せ給ふぞ。如何にもして杣山の城へ入進せてくれよ。」と申含めて、蕪木の浦より取て返し、本の海上を游ぎ帰て、弥三郎大夫が自害して伏たる其上に、自我首を掻落て片手に提、大膚脱に成て死にけり。土岐阿波守・栗生左衛門・矢島七郎三人は、一所にて腹切んとて、岩の上に立並で居たりける処に、船田長門守来て、「抑新田殿の御一家の運爰にて悉極め給はゞ、誰々も不残討死すべけれ共、惣大将兄弟杣山に御座あり、公達も三四人迄、此彼に御座ある上は、我等一人も活残て御用に立んずるこそ、永代の忠功にて侍らめ。何と云沙汰もなく自害しつれて、敵に所得せさせての用は何事ぞや。いざゝせ給へ、若やと隠れて見ん。」と申ければ、三人の者共船田が迹に付て、遥の礒へぞ遠浅の浪を分て、半町許行たれば、礒打波に当りて大に穿たる岩穴あり。「爰こそ究竟の隠れ所なれ。」とて、四人共に此穴の中に隠れて、三日三夜を過しける心の中こそ悲しけれ。 |
これ(春宮脱出)を知る者もいなかったため、密かに杣山城へ入れば最も安全であったが、「一宮(尊良親王)始め城中の者が一人残らず自害する中で自分だけ逃げ延びて生き永らえたなら、諸人の笑いものになるだろう」と考えた。そこで春宮を怪しい漁師の家に預け置きながら「これは日本の主君となられるお方だ。何としても杣山城へ送り届けてくれ」と頼み込み、蕪木浦から引き返して元来た海上を泳ぎ戻った。そして弥三郎太夫が自害して伏していたその上で、自分の首をかき落とし片手に提げ、大きな傷だらけになって死んだのだった。 土岐阿波守・栗生左衛門・矢島七郎の三人は「一緒に腹を切ろう」と言って岩の上に並んでいたところ、船田長門守が来て言った。「もし新田殿一族の命運がここで尽きるなら全員討ち死にするのもやむを得ぬ。しかし総大将兄弟(義貞・脇屋義助)は杣山におられ、公子たちも三四人各地にいるのだから、我々一人でも生き残ってご用を果たすのが永代の忠功であろう。何の計画もなく自害して敵の手柄になることがあってよいものか。さあおいでなさい。もしや(助かる道が)隠れているかもしれぬ」。すると三人は船田に従い、遠くの磯へ浅瀬の波を分けながら半町ほど行くと、磯打ち波の当たる大きな穿たれた岩穴があった。「こここそ最良の隠れ場所だ」と言って四人共にこの穴の中に潜み、三日三夜を過ごした心中はまことに悲しいものであった。 解説
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| 由良・長浜は、是までも猶木戸口に支へて、喉乾けば、己が疵より流るゝ血を受て飲み、力落疲るれば、前に伏たる死人の肉を切て食て、皆人々の自害しはてん迄と戦けるを、安間六郎左衛門走り下て、「何を期に合戦をばし給ぞ。大将は早御自害候つるぞや。」と申ければ、「いざやさらば、とても死なんずる命を、若やと寄手の大将のあたりへ紛れ寄て、よからんずる敵と倶に差違へて死ん。」とて、五十余人の兵共、三の木戸を同時に打出、責口一方の寄手三千余人を追巻り、其敵に相交て、高越後守が陣へぞ近付ける。如何に心許は弥武に思へ共、城より打出でたる者共の為体、枯槁憔悴して、尋常の人に可紛も無りければ、皆人是を見知て、押隔ける間、一人も能敵に合者無して、所々にて皆討れにけり。都て城中に篭る処の勢は百六十人、其中に降人に成て助かる者十二人、岩の中に隠れて活たる者四人、其外百五十一人は一時に自害して、皆戦場の土と成にけり。されば今に到迄其怨霊共此所に留て、月曇り雨暗き夜は、叫喚求食の声啾々として、人の毛孔を寒からしむ。「誓掃匈奴不顧身、五千貂錦喪胡塵、可憐無定河辺骨、猶是春閨夢裡人」と、己亥の歳の乱を見て、陳陶が作りし隴西行も角やと被思知たり。 ○春宮還御事付一宮御息所事 |
由良と長浜はこれまで木戸口で防戦を続け、喉が渇けば自らの傷から流れる血を受けて飲み、力尽きれば前に倒れている死人の肉を切って食べて、全員が自害し終わるまで戦っていた。そこへ安間六郎左衛門が駆け下りて「何を期して合戦なさるのか?大将(尊良親王)はとっくに御自害あそばされたぞ」と言うと、「ならばいざ!どうせ死ぬ命だ、ひょっとすれば敵の大将近くに紛れ込み、好敵手と相打ちになろう」と言った。五十余人の兵士らが三の木戸から同時に押し出し、攻め口一方の三千余りの包囲軍をかき分けながら高越後守(斯波高経)の陣へ近づいた。 どれほど決死の覚悟でも、城から出てきた者たちは憔悴し切って常人とは見紛うべくもなかったため、皆これを見ると避けて通った。その結果一人としてまともな戦いをせずに各所で討たれてしまった。籠城中の兵160人のうち降伏して助かった者は12人、岩陰に隠れ生き延びた者4人、残り151人は一斉に自害し、皆戦場の塵と化したのである。 ゆえに今なおその怨霊はこの地にとどまり、月が曇り雨で暗い夜には叫喚して食を求める声が啾々(しゅうしゅう)として人の毛穴を寒からしめる。「胡族掃討と誓って身を顧みず/五千の精兵が異境に散る/哀れ無定河辺の骨は/春閨(恋人)の夢の中の人なり」――己亥の乱を見て陳陶が作った『隴西行』もさもありなんと思われた。 ○春宮帰還及び一宮御息所に関する事 解説
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| 去程に夜明ければ、蕪木の浦より春宮御座の由告たりける間、島津駿河守忠治を御迎に進せて取奉る。去夜金崎にて討死自害の頚百五十一取並べて被実検けるに、新田の一族には、越後守義顕・里見大炊助義氏の頚許有て、義貞・義助二人の首は無りけり。さては如何様其辺の淵の底なんどにぞ沈めたらんと、海人を入て被かせけれ共、曾不見ければ、足利尾張守、春宮の御前に参て、「義貞・義助二人が死骸、何くに有とも見へ候はぬは、何と成候けるやらん。」と被尋申ければ、春宮幼稚なる御心にも、彼人々杣山に有と敵に知せては、軈て押寄る事もこそあれと被思召けるにや。「義貞・義助二人、昨日の暮程に自害したりしを、手の者共が役所の内にして火葬にするとこそ云沙汰せしか。」と被仰ければ、「さては死骸のなきも道理也けり。」とて、是を求るに不及。さてこそ杣山には墓々敷敵なければ、降人にぞ出んずらんとて、暫が程は閣けれ。我執と欲念とにつかはれて、互に害心を発す人々も、終には皆無常の殺鬼に逢ひ、被呵責ことも不久。哀に愚かなる事共なり。新田越後守義顕・並一族三人、其外宗徒の首七を持せ、春宮をば張輿に乗進せて、京都へ還し上せ奉る。諸大将事の体、皆美々敷ぞ見へたりける。越後守義顕の首をば、大路を渡して獄門に被懸。 |
そのうち夜が明けると、蕪木浦から春宮(恒良親王)がいらっしゃる旨が知らされたため、島津駿河守忠治を迎えに出して連れ帰った。前夜金崎城で討ち死にや自害した首級151個は並べて検分されたところ、新田一族では越後守義顕と里見大炊助義氏の首があるだけで、義貞・義助兄弟二人の首はなかった。「ではこの辺りの海の底あたりに沈めたのだろう」と漁師を潜らせて探させたが見つからず、足利尾張守(高経)が春宮のもとに参上し「義貞・義助二人の死骸がどこにも見当たらないのはどういうわけか?」と尋ねると。 幼い春宮は心の中で「あの人たちが杣山にいることを敵に知られたら、すぐ攻め寄せられるだろう」と考えておられ、こう仰った。「義貞・義助二人は昨日の夕刻自害したものを、配下者たちが役所内で火葬するといった」。すると尾張守は「なるほど死骸がないのも道理だな」と言いそれ以上追及せず、「杣山には敵も少ないだろうから降伏して出てくるかもしれぬ」としばらく放置した。 我執や欲望に駆られ互いに害心を抱く者たちも、結局は皆無常の死魔に出会い責め苦を受けるのは間近い。なんと愚かなことか。新田越後守義顕および一族三人・その他味方七人の首を持ち帰り、春宮は張輿に乗せて京都へ送還した。諸大将の様子はいずれも晴れやかに見えたが、越後守義顕の首だけは大路で獄門にかけられた。 解説
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| 新帝御即位の初より三年の間は、天下の刑を不行法也。未河原の御禊、大甞会も不被遂行先に、首を被渡事は如何あるべからん。先帝重祚の初、規矩掃部助高政・糸田左近将監貞吉が首を被渡たりしも、不吉の例とこそ覚ゆれと、諸人の意見共有けれ共、是は朝敵の棟梁義貞の長男なればとて、終大路を被渡けり。春宮京都へ還御成ければ、軈楼の御所を拵へて、奉押篭。一宮の御頚をば、禅林寺の長老夢窓国師の方へ被送、御喪礼の儀式を引繕る。さても御匣殿の御歎、中々申も愚也。此御匣殿の一宮に参り初給し古への御心尽し、世に類なき事とこそ聞へしか。一宮已に初冠めされて、深宮の内に長せ給し後、御才学もいみじく容顔も世に勝れて御座かば、春宮に立せ給なんと、世の人時明逢へりしに、関東の計ひとして、慮の外に後二条院の第一の御子春宮に立せ給しかば、一宮に参り仕べき人々も、皆望を失ひ、宮も世中万づ打凋たる御心地して、明暮は只詩哥に御心を寄せ、風月に思を傷しめ給ふ。折節に付たる御遊などあれ共、差て興ぜさせ給ふ事もなし。さるにつけては、何なる宮腹、一の人の御女などを角と仰られば、御心を尽させ給ふまでもあらじと覚へしに、御心に染む色も無りけるにや、是をと被思召たる御気色もなく、只独のみ年月を送らせ給ける。 |
新天皇ご即位後3年間は天下に刑罰を行わない慣例だったのに、賀茂川でのお祓いや大嘗祭も終えぬうちに首引き回しとは何事か。先帝(光厳天皇)が重祚された際にも規矩掃部助高政と糸田左近将監貞吉の首を渡したことが不吉な前例と思われたのに、皆でそう決め、「これは朝敵総帥義貞の長男だから」として結局大路を引き回した。春宮(恒良親王)が京都に帰還されると直ちに楼閣御所を造り閉じ込めた。一宮(尊良親王?)のお首は禅林寺長老夢窓国師のもとに送られ葬儀準備された。 それにお妃様の嘆きは言い尽くせぬほど深かった。このお妃が一宮に初めて仕えてからの献身的な愛情は世にも稀と聞いたものだ。一宮が元服後も御所で成長され、学識卓抜・容姿端麗であられたので春宮(皇太子)になられるだろうと世人も期待していたのに、関東幕府の策略により不意に後二条天皇第一皇子が立太子されたため、仕える者たちは皆失望し、一宮自身も世の中すべて打ち沈んだお気持ちで日夜詩歌に心を託し風月に想いを傷められた。折々のお遊びがあっても全く興じられず何かにつけて「どの姫君や公家の娘でも召せば」と言われても本心から尽くす様子もなく、誰にも染まらぬお気持ちでただ独り年月を過ごされた。 解説
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| 或時関白左大臣の家にて、なま上達部・殿上人余た集て、絵合の有けるに、洞院の左大将の出されたりける絵に、源氏の優婆塞の宮の御女、少し真木柱に居隠て、琵琶を調べ給しに、雲隠れしたる月の俄に最あかく指出たれば、扇ならでも招べかりけりとて、撥を揚てさしのぞきたる顔つき、いみじく臈闌て、匂やかなる気色云ばかりなく、筆を尽してぞ書たりける。一宮此絵を被御覧、無限御心に懸りければ、此絵を暫被召置、みるに慰む方もやとて、巻返々々御覧ぜらるれ共、御心更に不慰。昔漢李夫人甘泉殿の病の床に臥して無墓成給しを、武帝悲みに堪兼て返魂香を焼玉しに、李夫人の面影の烟の中に見へたりしを、似絵に書せて被御覧しかども、「不言不笑令愁殺人。」と、武帝の歎給けんも、現に理と思知せ給ふ。我ながら墓なの心迷やな。誠の色を見てだにも、世は皆夢の中の現とこそ思ひ捨る事なるに、是はそも何事の化し心ぞや。遍照僧正の哥の心を貫之が難じて、「歌のさまは得たれ共実少し。譬へば絵に書ける女を見て徒に心を動すが如し。」と云し、其類にも成ぬる者哉と思棄給へ共、尚文悪なる御心胸に充て、無限御物思に成ければ、傍への色異なる人を御覧じても、御目をだにも回らされず。況て時々の便りにつけて事問通し給ふ御方様へは、一急雨の過る程の笠宿りに可立寄心地にも思召さず。 |
ある時に関白兼左大臣の屋敷で、多くの高位貴族や殿上人が集まり絵合せが行われた。洞院左大将が出した絵には、源氏物語の優婆塞宮(光源氏)の姫君が少し柱に寄りかかり隠れるように琵琶を弾いている場面があった。雲間から突然月明かりが差し込んだため「扇でなくても手招きしたい」と思わせる風情で、撥を持ち上げて見上げた顔つきは非常に年配でありながら気品に満ち、筆の限りを尽くして描かれていた。一宮(尊良親王)がこの絵をご覧になり深く心惹かれたため、「しばらく預かり鑑賞することで慰めになるかもしれない」と巻物を繰り返しご覧になったが、まったく気晴らしにならない。 昔、漢の武帝が寵姫李夫人が甘泉殿で病床に伏して亡くなった時、悲しみに耐えかね返魂香を焚くと煙の中にかすかに面影が見えた。似姿絵を作らせて眺めたものの「語らず笑わず人を愁殺す」と嘆いたという故事を思い出され、「その武帝の気持ちが今よく分かる」と思われた。「我ながら墓穴のような心迷いだな。本物を見てもこの世は夢幻だと悟るべき時に、ましてこれは絵に描かれた虚像ではないか」。遍照僧正の和歌を紀貫之が批判した「歌の形式は優れているが中身がない。まるで絵に描いた女性を見てむなしく心動かされるようなものだ」という言葉こそ自らの姿だと気づきながらも、なお胸にわだかまりが満ちて深い物思いにお沈みになった。 そのため傍らにいる目立つ容姿の者をご覧になっても視線を向けられず、まして時々便りを交わすような方へは「通り雨が過ぎる間だけ軒下借りる程度」のお気持ちもお持ちになれなかった。 解説
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| 世中にさる人ありと伝聞て御心に懸らば、玉垂の隙求る風の便も有ぬべし。又僅に人を見し許なる御心当ならば、水の泡の消返りても、寄る瀬はなどか無るべきに、是は見しにも非ず聞しにも非ず、古の無墓物語、化なる筆の迹に御心を被悩ければ、無為方思召煩はせ給へば、せめて御心を遣方もやと、御車に被召、賀茂の糾の宮へ詣させ給ひ、御手洗河の川水を御手水に結ばれ、何となく河に逍遥せさせ給ふにも、昔業平中将、恋せじと御祓せし事も、哀なる様に思召出されて、祈る共神やはうけん影をのみ御手洗河の深き思をと詠ぜさせ給ふ時しもあれ、一急雨の過行程、木の下露に立濡て、御袖もしほれたるに、「日も早暮ぬ。」と申声して、御車を轟かして一条を西へ過させ給ふに、誰が栖宿とは不知、墻に苔むし瓦に松生て、年久く住荒したる宿の物さびし気なるに、撥音気高く青海波をぞ調べたる。「怪しや如何なる人なるらん。」と、洗墻に御車を駐めさせて、遥に見入させ給ひたれば、見る人有とも不知体にて、暮居空の月影の、時雨の雲間より幽々と顕れ出たるに、御簾を高く巻上て、年の程二八許なる女房の、云ばかりなくあてやかなるが、秋の別を慕ふ琵琶を弾ずるにてぞ有ける。鉄砕珊瑚一両曲、氷写玉盤千万声、雑錯たる其声は、庭の落葉に紛つゝ、外には降らぬ急雨に、袖渋る許にぞ聞へたる。 |
世の中に理想の人があると聞いて気にかけたならば、貴人の車の簾の隙間から求めるような機会もあっただろうに。またほんの少しでも実際に見た人への思いがあれば、水泡のように消えても再び浮かぶ望みはあるはずなのに、これは見たわけでも聞いたわけでもない——昔話や絵筆の跡といった虚構に心を悩ませているため、どうしようもなく煩わしいお気持ちになられた。せめて気分転換にと御車で賀茂神社へ参詣され、御手洗川の水で身を清められてふと河辺を歩かれるうち、昔在原業平が「恋せじ」と祓いを受けた故事も哀れに思い出されて、「祈っても神は受け入れてくれるだろうか 影だけを映す御手洗川の深い流れよ」と詠まれたその時だった。通り雨が過ぎた後、木陰で立ち濡れになり袖もしっとりとしたところへ「日も暮れる」という声がして車が轟き一条大路を西へ進むと、誰の邸かわからない荒れた屋敷があった。塀に苔生し瓦には松が茂って長年住まわれていないらしい寂れた風情の中、気高い琵琶の音で「青海波」を奏でている。「不思議だ、どんな人物だろう」と塀際に車を止めて遠くから見つめられると、人の気配すらない様子だった。夕暮れの空に月影が時雨雲の間からほのかに見える中、御簾を高く巻き上げた部屋で十六歳ほどと思われる女房が、言葉では表せない上品さで秋の別離を思う曲を弾いていた。その音色は珊瑚玉砕けるような一節もあれば氷が玉盤に落ちるかのようでもあり、複雑な調べが庭の落葉と混じり合って——外では降っていないのに袖を濡らす驟雨のように聞こえた。 解説
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| 宮御目も文に熟々と御覧ずるに、此程漫に御心を尽して、夢にもせめて逢見ばやと、恋悲み給ひつる似絵に少しも不違、尚あてやかに臈闌て、云はん方なくぞ見へたりける。御心地空に浮て、たど/\しき程に成せ給へば、御車より下させ給て、築山の松の木陰の立寄せ給へば、女房見る人有と物侘し気にて、琵琶をば几帳の傍らに指寄せて内へ紛れ入ぬ。引や裳裾の白地なる面影に、又立出る事もやとて、立徘徊はせ給たれば、怪げなる御所侍の、御隔子進する音して、早人定りぬれば、何迄角ても可有とて、宮還御成ぬ。絵にかきたりし形にだに、御心を悩されし御事也。まして実の色を被御覧て、何にせんと恋忍ばせ給も理哉。其後よりは太すらなる御気色に見へながら、流石御詞には不被出けるに、常に御会に参り給ふ二条中将為冬、「何ぞや賀茂の御帰さの、幽なりし宵の間の月、又も御覧ぜまぼしく被思召にや。其事ならば最安き事にてこそ侍るめれ。彼の女房の行末を委尋て候へば、今出河右大臣公顕の女にて候なるを、徳大寺左大将に乍申名、未皇太后宮の御匣にて候なる。切に思召れ候はゞ、歌の御会に申寄て彼亭へ入せ給て、玉垂の隙にも、自御心を露す御事にて候へかし。」と申せば、宮例ならず御快げに打笑せ給て、「軈今夜其亭にて可有褒貶御会。 |
宮(尊良親王)がじっと見つめると、この度思い焦がれ夢にまでお会いしたいと恋慕っていた絵の中の人物と少しも違わず、むしろさらに上品で風格があり、言葉では表せないほどであった。気持ちが宙を浮くようになり、ふらふらとしてしまわれたので、御車から降りられ築山の松陰に近づかれると、女房は人に見られたと思ったのか慌てた様子で琵琶を几帳脇に押しやり奥へ消えてしまった。ひょっとしたら白地の裳裾が見えたのは再び現れる兆しかとも思い立って待ち歩きになられると、怪しい感じの御所侍が御簾を上げる音を立てて早々に警護体制を整えてしまい、「これ以上いても仕方あるまい」と宮は帰途につかれた。絵に描いた姿だけでも心を悩ませていたことだ。まして実物の美しさをご覧になって、どうしようもなく恋慕いを堪えられるのも当然であろう。 その後は平然とした御様子に見えたものの、やはりお口には出されなかったが、常にお会いに参上する二条中将為冬が「どうなさいましたか。賀茂詣での帰路、幻想的だった宵闇の月を再びご覧になりたいとお思いでしょうか? それなら最も簡単でございます。あの女房の身元をつまびらかに調べたところ、今出川右大臣公顕の娘でありながら徳大寺左大将に嫁ぐ話もなく、まだ皇太后宮にお仕えしている侍女でした。お慕いになるのでしたら歌合を口実にあの屋敷へ入り込み、御車の簾越しにも自然と想いをお伝えになられてはいかがでしょう」と申し上げると、宮は例にないほど上機嫌で笑みを浮かべて「では今夜すぐあの邸で歌合評定を行おうではないか」と言われた。 解説
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| 」と、右大臣の方へ被仰出ければ、公顕忝と取りきらめきて、数寄の人余た集て、角と案内申せば、宮は為冬許を御供にて、彼亭へ入せ給ぬ。哥の事は今夜さまでの御本意ならねば、只披講許にて、褒貶はなし。主の大臣こゆるぎの急ぎありて、土器もて参りたれば、宮常よりも興ぜさせ給て、郢曲絃歌の妙々に、御盃給はせ給ひたるに、主も痛く酔臥ぬ。宮も御枕を傾させ給へば、人皆定りて夜も已に深にけり。媒の左中将心有て酔ざりければ、其案内せさせて、彼女房の栖ける西の台へ忍入せ給て、墻の隙より見給へば、灯の幽なるに、花紅葉散乱たる屏風引回し、起もせず寝もせぬ体に打濡、只今人々の読たりつる哥の短冊取出して、顔打傾けたれば、こぼれ懸りたる鬢の端れより、匂やかに幽なる容せ、露を含める花の曙、風に随へる柳の夕の気色、絵に書共筆も難及、語るに言も無るべし。外ながら幽に見てし形の、世に又類ひもやあらんと、怪しきまでに思ひしは、尚数ならざりけりと御覧じ居給ふに、御心も早ほれ/゛\と成て、不知我が魂も其袖の中にや入ぬらんと、ある身ともなく覚させ給ふ。時節辺に人も無て、灯さへ幽なれば、妻戸を少し押開て内へ入せ給たるに、女は驚く貌にも非ず、閑やかにもてなして、やはら衣引被て臥たる化妝、云知らずなよやかに閑麗なり。 |
「右大臣邸で行おう」と仰せ出されると、公顕は畏れ多く思って趣向を凝らし大勢の人々を集め準備した。宮(尊良親王)は為冬だけをお供にその屋敷へ入られた。歌の評定自体が今夜の本意ではないため、披講のみで褒貶は行われなかった。主人である大臣が杯を急いで勧めてきたので、宮は普段以上に興じられて雅楽や琴の妙なる調べの中で酒盃を重ねられたところ、主君も深く酔いつぶれた。宮も枕をお傾けになると人々は皆引き上げ夜もすっかり更けた。 仲介役の左中将(為冬)が計らって酒を控えていたので、案内してあの女房のいる西対屋へ忍び込まれると、塀の隙間からご覧になっておられた。灯りのかすかな中で、花紅葉模様が散る屏風に囲まれ、起きてもいず寝てもいぬ様子で涙に濡れながら、さきほど人々が詠んだ歌の短冊を取り出し顔をうつむけていた。こぼれかかる髪の先から漂う微かな香りと幽玄な容姿は——露を含んだ花の暁や風に靡く柳の夕暮れ趣きで、絵にも描けず言葉も及ばないほどであった。 「(前回)外から幻のように見た姿が世に類い稀だと不思議に思ったのはまだ序の口だった」とご覧じているうちに御心は早くも激しく揺れ動き、我が魂までも彼女の袖の中に入ってしまったかと思うほど、正気を失われた。時機を見て辺りにも人がおらず灯りすら仄かなので、妻戸を少し押し開けて中へ入られたところ、女性は驚いた様子もなく静かに応対し、柔らかい衣をひきかけ横たわる姿態は言い知れず優美で上品だった。 解説
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| 宮も傍に寄伏給て、有しながらの心尽し、哀なる迄に聞へけれ共、女はいらへも申さず、只思にしほれたる其気色、誠に匂深して、花薫り月霞む夜の手枕に、見終ぬ夢の化ある御心迷に、明るも不知語ひ給へ共、尚強顔気色にて程経ぬれば、己が翅を並べながら人の別をも思知ぬ八声の鳥も告渡り、涙の氷解やらず、衣々も冷やかに成て、類も怨き在明の、強顔影に立帰せ給ぬ。其後より度々御消息有て、云ばかりなき御文の数、早千束にも成ぬ覧と覚る程に積りければ、女も哀なる方に心引れて、のぼれば下る稲舟の、否には非ずと思へる気色になん顕れたり。され共尚互に人目を中の関守になして、月比過させ給けるに、式部少輔英房と云儒者、御文談に参じて、貞観政要を読けるに、「昔唐の太宗、鄭仁基が女を后に備へ、元和殿に冊入んとし玉ひしを、魏徴諌て、「此女は已に陸氏に約せり」と申せしかば、太宗其諌に随て、宮中に召るゝ事を休め給き。」と談じけるを、宮熟々と聞召て、何なれば古の君は、かく賢人の諌に付て、好色心を棄給けるぞ。何なる我なれば、已に人の云名付て事定りたる中をさけて、人の心を破るらん。古の様を恥、世の譏を思食て、只御心の中には恋悲ませ給ひけれ共、御詞には不被出、御文をだに書絶て、角とも聞へねば、百夜の榻の端書、今は我や数書ましと打侘て、海士の刈藻に思乱給ふ。 |
宮(尊良親王)もそばによりかかられて、これまでの思いの丈を哀れなほどにお聞かせになったが、女は返事すらせず、ただ物思いに沈んだ様子で誠に優美だった。花薫る月霞む夜のように幻想的な夢心地の中、明け方もわからぬまま語り続けたが、やがて無理を装った態度のままで時が過ぎると、自分の翼さえ揃えることも忘れ別離を知らぬ八声の鳥(鴫)も鳴き渡る中で、涙は氷のように解けず衣類も冷たくなり、恨めしい夜明けの光のもと無理に装った顔をして退出された。 その後度々ご消息があり、「これ以上ない」と思われるほどのお手紙が積み重なり千束にもなるほどだったので、女の方でも哀れな気持ちに心惹かれて、上れば下る稲舟(一途で揺らがない愛)のように拒まぬ態度を示した。しかし依然として互いに人目を関守と見立てて月日を過ごされていた頃、式部少輔英房という儒者が講義に参じ『貞観政要』を読んだ。「昔唐の太宗が鄭仁基の娘を后にするため元和殿に入れようとした時、魏徴が諫めて『この女性は既に陸氏と婚約しています』と言ったので、太宗はその忠告を受け入れ召し上げを取りやめなさった」という話であった。 宮は熱心にお聞きになり、「なぜ古代の君主は賢人の諌言で色欲を捨てられたのか? 私がどうしてすでに世間で縁談と定まっている女性への想いを避けず、他人の心を破壊できようか」と思われた。古事を恥じ世間の非難をお考えになり、ただ御心中では恋慕いに苦しみながらも口に出さず手紙すら書き絶ってしまった。「どうとも知れない」と無視され続ける中で、百夜に及んだ机端での文通は「今さら私が数多く書くべきか?」と嘆息しながら海人の刈藻(心乱れる比喩)のように思い悩まれた。 解説
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| 角て月日も過ければ、徳大寺此事を聞及、「左様に宮なんどの御心に懸られんを、争でか便なうさる事可有。」とて、早あらぬ方に通ふ道有と聞へければ、宮も今は無御憚、重て御文の有しに、何よりも黒み過て、知せばや塩やく浦の煙だに思はぬ風になびく習ひを女もはや余りに強顔かりし心の程、我ながら憂物に思ひ返す心地になん成にければ、詞は無て、立ぬべき浮名を兼て思はずは風に烟のなびかざらめや其後よりは、彼方此方に結び置れし心の下紐打解て、小夜の枕を河島の、水の心も浅からぬ御契に成しかば、生ては偕老の契深く、又死ては同苔の下にもと思召通して、十月余りに成にけるに、又天下の乱出来て、一宮は土佐の畑へ被流させ給しかば、御息所は独都に留らせ給て、明るも不知歎き沈せ給て、せめてなき世の別なりせば、憂に堪ぬ命にて、生れ逢ん後の契を可憑に、同世ながら海山を隔てゝ、互に風の便の音信をだにも書絶て、此日比召仕はれける青侍・官女の一人も参り通はず、万づ昔に替る世に成て、人の住荒したる蓬生の宿の露けきに、御袖の乾く隙もなく、思召入せ給ふ御有様、争でか涙の玉の緒も存へぬ覧と、怪き程の御事也。宮も都を御出有し日より、公の御事御身の悲み、一方ならず晴やらぬに、又打添て御息所の御名残、是や限と思召しかば、供御も聞召入られず、道の草葉の露共に、消はてさせ給ぬと見へさせ給ふ。 |
時が過ぎて徳大寺がこのことを聞きつけ、「宮様のようなお方が心をお寄せになる女性に対し、どうして都合よく扱えることがあろうか」と言い、早々に別の縁談があると噂された。そこで宮もはや遠慮なくなり再び手紙を送ると、(女房は)何よりもひどく沈み込み、「知らせたいのは塩焼く浦の煙さえ思わぬ風になびかせる習いなのに」と(自らの強情ぶりに)、自分ながらつらいと思い返す心境となったため、言葉もなく「立たないはずの浮名をあらかじめ考えなければ、風に煙が靡かないことがあるだろうか」(=覚悟しなければ世間は動く)との思いから。それ以来互いに固めていた心の糸を解き、「小夜の枕」や「河島」(恋歌の比喩)のように深い契りとなったので、生きては偕老の誓いを深め死しては同じ墓に葬られようと通じ合ううち十ヶ月余が過ぎた。 そこへ天下に乱れ(元弘の乱)が起こり一宮(尊良親王)が土佐へ流罪となられたため、御息所(女房)は都に独り残され、明け暮れもわからず嘆き沈んでおられて、「せめて死別ならば悲しみに耐えぬ命で来世を頼むのに」と想いながら、同じ世でありながら海山を隔て風便りの文通さえ絶たれた。この頃仕えていた青侍・官女も誰一人訪れず万事が昔と変わって人が住まない荒屋の露けき中で、袖の乾く暇もなく憂いに沈む様子は「どうして涙を止められるだろうか」と思われるほど不思議なほどの御有様だった。 宮も都をお立ちになった日から(父帝後醍醐天皇のご安否や)自身の悲しみが一途ならぬ上に、さらに御息所への未練が加わり「これが限界か」と思われたのであろう、食事も摂られず道すがらの草葉の露と共に消え果てなさったように見えた。 解説
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| 惜共思食ぬ御命長らへて、土佐の畑と云所の浅猿く、此世の中とも覚へぬ浦の辺に流されて、月日を送らせ給へば、晴るゝ間もなき御歎、喩へて云ん方もなし。余りに思くづほれさせ給ふ御有様の、御痛敷見奉りければ、御警固に候ける有井庄司、「何か苦く候べき。御息所を忍で此へ入進せられ候へ。」とて、御衣一重し立て、道の程の用意迄細々に沙汰し進せければ、宮無限喜しと思召て、只一人召仕れける右衛門府生秦武文と申随身を、御迎に京へ上せらる。武文御文を給て、急京都へ上り、一条堀川の御所へ参りたれば、葎茂りて門を閉、松の葉積りて道もなし。音信通ふものとては、古き梢の夕嵐、軒もる月の影ならでは、問人もなく荒はてたり。さては何くにか立忍ばせ給ぬらんと、彼方此方の御行末を尋行程に、嵯峨の奥深草の里に、松の袖垣隙あらはなるに、蔦はい懸て池の姿も冷愁く、汀の松の嵐も秋冷く吹しほりて、誰栖ぬらんと見るも懶げなる宿の内に、琵琶を弾ずる音しけり。怪しやと立留て、是を聞ば、紛ふべくもなき御撥音也。武文喜しく思ひて、中々案内も不申、築地の破れより内へ入て、中門の縁の前に畏れば、破れたる御簾の内より、遥に被御覧、「あれや。」と許の御声幽に聞へながら、何共被仰出事もなく、女房達数たさゞめき合ひて、先泣声のみぞ聞へける。 |
かくして月日が過ぎると、(土佐に流された)尊良親王も「無念だ」とお思いになりながら命だけは長らえ、土佐の田舎という粗末でこの世とも思えない海辺に流され月日を送られるうち、晴れる間もない嘆きは例える言葉さえなかった。あまりの憂いから憔悴なさる様子を見た警護役の有井庄司が「何をお苦しみでしょうか?御息所(恋人の女房)を慕ってここへお招きください」と言い、着替え一式や道中の用意まで細かく整えた。宮はこの上なく喜び、ただ一人仕えていた右衛門府生・秦武文という従者を迎えに京へ上らせた。 武文が手紙を受け京都へ急ぐと、一条堀川の御所には草が茂り門も閉ざされ、松葉が積もって道さえない。便りを通じるものといえば古木にかかる夕風や軒を照らす月影ばかりで、訪ね人もなく荒れ果てていた。「それではどこかへお隠れになったのか」と方々を探し嵯峨の奥深草の里に至ると、松の生垣が崩れた屋敷があり蔦が絡む池は物寂しく、汀の松風が秋冷たく吹きすさぶ中で「誰か住んでいるのだろうか」と思わせる気だるげな宿の中から琵琶を弾く音がした。不審に思って立ち止まると、疑いようもなく姫君(御息所)の撥音だった。 武文は嬉しさのあまり挨拶もせず塀の破れから中へ入り、中門の縁先でひざまずくと、破れた御簾の中から遠くにご覧になり「あの人か?」というかすかな声が聞こえた。しかし何をおっしゃることもなく女房たち数人がささめき合い、ただ泣く声だけが響いたのである。 解説
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| 「武文御使に罷上り、是迄尋参りて候。」と申も不敢、縁に手を打懸てさめ/゛\と泣居たり。良有て、「只此迄。」と召あれば、武文御簾の前に跪き、「雲井の外に想像進らするも、堪忍び難き御事にて候へば、如何にもして田舎へ御下り候へとの御使に参て候。」とて、御文を捧たり。急ぎ披て御覧ぜらゝるに、げにも御思ひの切なる色さもこそと覚て、言の葉毎に置露の、御袖に余る許なり。「よしや何なる夷の栖居なりとも、其憂にこそ責ては堪め。」とて、既に御門出有ければ、武文甲斐々々敷御輿なんど尋出し、先尼崎まで下し進せて、渡海の順風をぞ相待ける。懸りける折節、筑紫人に松浦五郎と云ける武士、此浦に風を待て居たりけるが、御息所の御形を垣の隙より見進せて、「こはそも天人の此土へ天降れる歟。」と、目枯もせず守り居たりけるが、「穴無端や。縦主ある人にてもあれ、又何なる女院・姫宮にても坐ませ。一夜の程に契を、百年の命に代んは何か惜からん。奪取て下らばや。」と思ける処に、武文が下部の浜の辺に出て行けるを呼寄て、酒飲せ引出物なんど取せて、「さるにても御辺が主の具足し奉て、船に召せんとする上臈は、何なる人にて御渡あるぞ。」と問ければ、下臈の墓なさは、酒にめで引出物に耽りて、事の様有の侭にぞ語りける。 |
武文は「使いで参上し、ここまでお尋ねしました」とも言えず縁側に手をついてひっそりと泣いていた。やがて御息所が「さあこちらへ」と呼びかけるので、武文は御簾の前に跪き、「雲の彼方(土佐)を想像するのも耐え難くお思いでしょうから、どうにかして田舎(流刑地)へお下りいただきたく使者として参りました」と言い手紙を差し出した。急いで開封されると、なるほど宮様の切実なお気持ちがにじみ出ており、言葉の一つひとつが置き露のように御袖にあふれるばかりであった。「たとえどんな夷人の住まいであろうとも、その憂さこそは責め苦を耐える糧となるでしょう」と言ってすぐに出立なされたため、武文は何とか輿を見つけ出し先に尼崎まで送り届け、渡海の順風を待った。 折から筑紫(九州)出身の松浦五郎という武士がこの港で風待ちしていたところ、御息所のお姿を垣間見て「これは天女が地上へ降りたのか」と目を見張っていたが、「なんということだ!仮に主人つきの身でも、一晩だけ契るために百年の命を代えるのも惜しくない。奪い取って連れ去ろうか」と思案しているところへ、武文の下僕が浜辺に出てきたので呼び寄せ酒を飲ませ褒美を与え、「さてお前の主人が輿に乗せようとしている高貴な女性は、どんな身分で渡海されるのか?」と尋ねた。下僕は浅慮にも酒に酔い褒美に目がくらみ、ありのままを話してしまったのである。 解説
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| 松浦大に悦で、「此比何なる宮にても御座せよ、謀反人にて流され給へる人の許へ、忍で下給はんずる女房を、奪捕たり共、差ての罪科はよも非じ。」と思ければ、郎等共に彼宿の案内能々見置せて、日の暮るをぞ相待ける。夜既に深て人定る程に成ければ、松浦が郎等三十余人、物具ひし/\と堅めて、続松に火を立て蔀・遣戸を蹈破り、前後より打て入。武文は京家の者と云ながら、心剛にして日比も度々手柄を顕したる者なりければ、強盜入たりと心得て、枕に立たる太刀をゝつ取て、中門に走出て、打入敵三人目の前に切臥せ、縁にあがりたる敵三十余人大庭へ颯と追出して、「武文と云大剛の者此にあり。取れぬ物を取らんとて、二つなき命を失な、盜人共。」と■て、仰たる太刀を押直し、門の脇にぞ立たりける。松浦が郎等共武文一人に被切立て、門より外へはつと逃たりけるが、「蓬し。敵は只一人ぞ。切て入。」とて、傍なる在家に火を懸て、又喚てぞ寄たりける。武文心は武しといへ共、浦風に吹覆はれたる烟に目暮て、可防様も無りければ、先御息所を掻負進せ、向ふ敵を打払て、澳なる船を招き、「何なる舟にてもあれ、女性暫乗進せてたび候へ。」と申て、汀にぞ立たりける。舟しもこそ多かるに、松浦が迎に来たる舟是を聞て、一番に渚へ差寄たれば、武文大に悦で、屋形の内に打置奉り、取落したる御具足、御伴の女房達をも、舟に乗んとて走帰たれば、宿には早火懸て、我方様の人もなく成にけり。 |
松浦は大いに喜び、「たとえどんな身分の方でも、謀反人で流刑中の人のもとに密かに向かう女房を奪い取っても、さほどの罪にはなるまい」と考えた。そこで家来たちに宿の内部を詳しく偵察させて日暮れを待った。 夜が更けて人々が寝静まったころ、松浦の家来三十余人は武装を整え、たいまつに火をつけ雨戸や扉を蹴破り前後から乱入した。武文は都出身者と言いながら気性が激しくこれまで幾度も手柄を立ててきたので、「強盗だ」と悟って枕元の太刀を取り中門へ飛び出し、襲いかかった敵三人を目の前で斬り倒すと縁側に上がった三十人以上の敵を庭へ一気に追い落とした。「武文という大剛者がここにおる!取れもしない物を奪おうとして二つとない命を失え、盗賊め!」と叫びながら太刀をかまえて門の脇に立った。 松浦の家来たちは武文一人に斬り立てられ門外へ逃げ出したが、「ふざけるな!敵はたった一人だ。切り込め」と言い近くの民家に火をつけて再び攻め寄せてきた。武文は勇猛とは言え、海風で吹きまくられる煙に目をやられ防ぎようもなかったため、まず御息所をおんぶして避難させ敵を払いながら湾内の船に向かって叫んだ。「どんな舟でも構わない!女性をしばらく乗せてくれ!」と岸辺で訴えた。 その時ちょうど松浦が迎えに来ていた船がこれを聞き一番に浜へ近づいたので、武文は大いに喜んで御息所を船舱の中に安置した。取り残された輿やお供の女房たちも舟に乗せようと走って戻ると宿にはすでに火がかかり味方らしき者はいなくなっていた。 解説
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| 松浦は適我舟に此女房の乗せ給たる事、可然契の程哉と無限悦て、「是までぞ。今は皆舟に乗れ。」とて、郎等・眷属百余人、捕物も不取敢、皆此舟に取乗て、眇の澳にぞ漕出したる。武文渚に帰来て、「其御舟被寄候へ。先に屋形の内に置進せつる上臈を、陸へ上進せん。」と喚りけれども、「耳にな聞入そ。」とて、順風に帆を上たれば、船は次第に隔りぬ。又手繰する海士の小船に打乗て、自櫓を推つゝ、何共して御舟に追著んとしけれ共、順風を得たる大船に、押手の小舟非可追付。遥の沖に向て、挙扇招きけるを、松浦が舟にどつと笑声を聞て、「安からぬ者哉。其儀ならば只今の程に海底の竜神と成て、其舟をば遣まじき者を。」と忿て、腹十文字に掻切て、蒼海の底にぞ沈ける。御息所は夜討の入たりつる宵の間の騒より、肝心も御身に不副、只夢の浮橋浮沈、淵瀬をたどる心地して、何と成行事共知せ給はず。舟の中なる者共が、「あはれ大剛の者哉。主の女房を人に奪はれて、腹を切つる哀さよ。」と沙汰するを、武文が事やらんとは乍聞召、其方をだに見遣せ給はず。只衣引被て屋形の内に泣沈ませ給ふ。見るも恐ろしくむくつけ気なる髭男の、声最なまりて色飽まで黒きが、御傍に参て、「何をかさのみむつからせ給ふぞ。 |
松浦は大いに喜び、「我が船にこの女房様をお乗せできたのは願ってもない縁だ」と心から悦んで、「これでよし。皆、舟に乗れ」と言い家来や一族百余人も戦利品を取らず全員がその舟に乗り込み遠くの入江へ漕ぎ出した。 武文は浜辺に戻って「そちらの船を寄せろ!先ほど船舱に入れた高貴な女性を陸へ上げさせよ」と叫んだが、「聞こえないふりをしろ」と言われ順風を受けて帆を上げたため舟は徐々に遠ざかった。漕ぎ手の小船に飛び乗り自分で櫓を押しながらどうにか追いつこうとしたが、順風を得た大きな船には人力の小さな舟では到底及ばない。沖のかなたに向かって扇を振ると松浦たちの船からどっと笑い声が聞こえ「厄介者め。それなら今すぐ海底の竜神となってお前の舟を沈めてやる」と怒り十字に腹を切り裂き青い海の底へ沈んでいった。 御息所は夜襲があった昨夜からの騒動で正気も失せ夢うつつのような浮き沈みをする心地で何が起きているかわからなかった。舟の中の人々が「ああ勇猛な男だよ。主人の女房を奪われて切腹するとは哀れなこと」と噂しているのを武文のことだとお聞きになっても振り返りもせずただ衣で顔を覆い船舱の中で泣き伏していらっしゃった。 すると恐ろしい風貌の髭面男が耳障りな声で色黒く御息所に近づいて「なぜそんなにお嘆きですか」と言うのであった。 解説
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| 面白き道すがら、名所共を御覧じて御心をも慰ませ給候へ。左様にては何なる人も船には酔物にて候ぞ。」と、兎角慰め申せ共、御顔をも更擡させ給はず、只鬼を一車に載せて、巫の三峡に棹すらんも、是には過じと御心迷ひて、消入せ給ぬべければ、むくつけ男も舷に寄懸て、是さへあきれたる体なり。其夜は大物の浦に碇を下して、世を浦風に漂ひ給ふ。明れば風能成ぬとて、同じ泊りの船共、帆を引梶を取り、己が様々漕行けば、都は早迹の霞に隔りぬ。九国にいつか行著んずらんと、人の云を聞召すにぞ、さては心つくしに行旅也と、御心細きに付ても、北野天神荒人神に成せ給し其古への御悲み、思召知せ給はゞ、我を都へ帰し御座せと、御心の中に祈せ給。其日の暮程に、阿波の鳴戸を通る処に、俄に風替り塩向ふて、此船更に不行遣。舟人帆を引て、近辺の礒へ舟を寄んとすれば、澳の塩合に、大なる穴の底も見へぬが出来て、舟を海底に沈んとす。水主梶取周章て帆薦なんどを投入々々渦に巻せて、其間に船を漕通さんとするに、舟曾不去。渦巻くに随て浪と共に舟の廻る事、茶臼を推よりも尚速也。「是は何様竜神の財宝に目懸られたりと覚へたり。何をも海へ入よ。」とて、弓箭・太刀・々・鎧・腹巻、数を尽して投入たれ共、渦巻事尚不休。 |
その恐ろしい風貌の男(松浦)も舷側によりかかり「どうぞ楽しい道中をお過ごしください。名所をご覧になってお心を慰めなさってくださいませ。そうは言っても誰でも船には酔いやすいものですから」と、あれこれ慰めたが、御息所は顔すら上げられず、まるで鬼車(妖怪)に乗せられた魔女が三峡の急流を行くようなものだとお心乱れてしまわれ、消え入りそうなお姿であったため、その男も呆れた様子だった。 解説
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| 「さては若色ある衣裳にや目を見入たるらん。」とて、御息所の御衣、赤き袴を投入たれば、白浪色変じて、紅葉を浸せるが如くなり。是に渦巻き少し閑まりたれ共、船は尚本の所にぞ回居たる。角て三日三夜に成ければ、舟の中の人独も不起上、皆船底に酔臥て、声々に呼叫ぶ事無限。御息所は、さらでだに生る御心地もなき上に、此浪の騒になを御肝消て、更に人心も坐さず。よしや憂目を見んよりは、何なる淵瀬にも身を沈めばやとは思召つれ共、さすがに今を限と叫ぶ声を聞召せば、千尋の底の水屑と成、深き罪に沈なん後の世をだに誰かは知て訪はんと思召す涙さへ尽て、今は更に御くしをも擡させ給はず。むくつけ男も早忙然と成て、「懸る無止事貴人を取奉り下る故に、竜神の咎めもある哉らん。無詮事をもしつる者哉。」と誠に後悔の気色なり。斯る処に梶取一人船底より這出て、「此鳴渡と申は、竜宮城の東門に当て候間、何にても候へ、竜神の欲しがらせ給ふ物を、海へ沈め候はねば、いつも加様の不思議ある所にて候は、何様彼上臈を龍神の思懸申されたりと覚へ候。申も余に邪見に無情候へ共、此御事独の故に若干の者共が、皆非分の死を仕らん事は、不便の次第にて候へば、此上臈を海へ入進せて、百余人の命を助させ給へ。 |
「では若々しい色合いの衣装に目を奪われたのだろうか」と言って、御息所(貴婦人)のお召しものや赤い袴を海へ投げ込むと、白波が色変わりして紅葉を浸したようになった。これで渦巻きは少し収まったけれども船はまだ元の場所でぐるぐる回っている。こうして三日三夜になると舟中の者は一人も起き上がらず皆船底に酔い伏せて、声々に叫び騒ぐことこの上ない。 御息所は元より生きている心地もしないうえ、この波の騒ぎでさらに気力を失われ、全く正気を保っていらっしゃらない。つらい目にあうくらいならどんな深い淵でも身を沈めたいと思われるけれども、それでも「今が最期だ」と叫ぶ声をお聞きになると、「千尋の海底で水屑となり罪深く沈んだ来世さえ誰も訪ねてはくれまい」と思う涙まで尽き果て、ついには頭すら上げられなくなってしまわれた。 恐ろしい風貌の男(松浦)も早くに狼狽して「とんでもないことをした。貴人を奪ったために竜神のお咎めなのだろうか」と心底悔やむ様子だった。そんな中で舵取り一人が船底から這い出てきて言うには、「この鳴門海峡は竜宮城の東門にあたりますゆえ、何であれ竜神様がお望みになるものを海に沈めなければいつもこうした異変がある場所です。どうやらあの貴婦人(御息所)を竜神様が見初められたと見えます。言うのも余りにも無慈悲ですがこの方一人のために大勢が理不尽な死を遂げるのは忍びないことゆえ、彼女を海に沈めて百余人の命をお助けくださいませ」。 解説
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| 」とぞ申ける。松浦元来無情田舎人なれば、さても命や助かると、屋形の内へ参て、御息所を荒らかに引起し奉り、「余に強顔御気色をのみ見奉るも、無本意存候へば、海に沈め進すべきにて候。御契深くば土佐の畑へ流れよらせ給ひて、其宮とやらん堂とやらん、一つ浦に住せ給へ。」とて、無情掻抱き進せて、海へ投入奉んとす。是程の事に成ては、何の御詞か可有なれば、只夢の様に思召して、つや/\息をも出させ給はず、御心の中に仏の御名許を念じ思召て、早絶入せ給ぬるかと見へたり。是を見て僧の一人便船せられたりけるが、松浦が袖を磬て、「こは如何なる御事にて候ぞや。竜神と申も、南方無垢の成道を遂て、仏の授記を得たる者にて候へば、全く罪業の手向を不可受。而るを生ながら人を忽に海中に沈められば、弥竜神忿て、一人も助る者や候べき。只経を読み陀羅尼を満て法楽に備られ候はんずるこそ可然覚へ候へ。」と、堅く制止宥めければ、松浦理に折て、御息所を篷屋の内に荒らかに投棄奉る。「さらば僧の儀に付て祈りをせよや。」とて、船中の上下異口同音に観音の名号を唱奉りける時、不思議の者共波の上に浮び出て見へたり。先一番に退紅著たる仕丁が、長持を舁て通ると見へて打失ぬ。其次に白葦毛の馬に白鞍置たるを、舎人八人して引て通ると見へて打失ぬ。 |
「」と言ったのである。松浦はもともと情け知らずの田舎者ゆえ、「それなら命が助かるか」と船室に入り込み、御息所を乱暴に引き起こし奉って(差し上げて)、「ひどく厚かましいお様子ばかり拝見するのも本意ではないので海へ沈めましょう。もしご縁深ければ土佐の浜辺まで流れ着かれ、あそこの社や堂がある浦でお暮らしください」と言い捨て、無情にも抱え上げて海に投げ入れようとした。 ここまでの事態では何のお言葉も出るはずなく、ただ夢のように思われ、かすかな息さえできずにお心の中で仏の御名を念じられ、「早く絶命なされるのか」と思われる様子だった。これを見た同乗していた一人の僧が松浦の袖をつかみ「これはいったい何事ですか?竜神と申しましても南方無垢(龍王経由来)で悟りを得仏から授記を受けた方ですので、罪深き生贄など受け付けません。生きている人間を突然海に沈めればますます竜神が怒って一人も助かるはずがないでしょう。ただお経を唱え陀羅尼(呪文)で法楽を尽くすのがよろしいかと」と厳しく制止したので、松浦は道理に屈し御息所を船室へ乱暴に投げ捨てた。 「なら僧の分として祈れ!」との声で乗組員上下が異口同音に観音名号(念仏)を唱えた時、不思議な者たちが波間に浮かび上がった。最初に退紅色(淡紅)の衣服を着た下僕らしき者が長持(衣装箱)を担いで通るのが見え消滅した。次には白葦毛(灰色)の馬に白鞍置いたものを舎人八人が引いて通り過ぎるのが見えて消失した。 解説
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| 其次に大物の浦にて腹切て死たりし、右衛門府生秦武文、赤糸威の鎧、同毛の五枚甲の緒を縮、黄■毛なる馬に乗て、弓杖にすがり、皆紅の扇を挙げ、松浦が舟に向て、其舟留まれと招く様に見へて、浪の底にぞ入にける。梶取是を見て、「灘を走る舟に、不思議の見ゆる事は常の事にて候へ共、是は如何様武文が怨霊と覚へ候。其験を御覧ぜん為に、小船を一艘下して此上臈を乗進せ、波の上に突流して、竜神の心を如何と御覧候へかし。」と申せば、「此儀げにも。」とて、小船を一艘引下して、水手一人と御息所とを乗せ奉て、渦の波に漲て巻却る波の上にぞ浮べける。彼早離・速離の海岸山に被放、「飢寒の愁深して、涙も尽ぬ。」と云けんも、人住島の中なれば、立寄方も有ぬべし。是は浦にも非ず、島にも非ず、如何に鳴渡の浪の上に、身を捨舟の浮沈み、塩瀬に回る泡の、消なん事こそ悲けれ。されば竜神もゑならぬ中をや被去けん。風俄に吹分て、松浦が舟は西を指して吹れ行と見へけるが、一の谷の澳津より武庫山下風に被放て、行方不知成にけり。其後浪静り風止ければ、御息所の御船に被乗つる水主甲斐々々敷舟を漕寄て、淡路の武島と云所へ著奉り、此島の為体、回一里に足ぬ所にて、釣する海士の家ならでは、住人もなき島なれば、隙あらはなる葦の屋の、憂節滋き栖に入進せたるに、此四五日の波風に、御肝消御心弱りて、軈て絶入せ給ひけり。 |
次に大物浦で切腹して死んだ右衛門府生(うえもんふしょう)秦武文(はたのたけぶみ)と思われる者が、赤糸威(あかいとおどし)の鎧を着て同じ毛並みの五枚甲(ごまいかぶと)の緒を縮め、薄茶色の馬に乗り弓杖につかまりながら真紅の扇を高く掲げ、松浦たちの船に向かって「その舟よ止まれ」と呼びかけるように見えた後、波間に消えていった。 舵取りはこれを見て、「航海中に不思議なものが現れるのは常ですがこれは明らかに武文の怨霊でしょう。効果を確かめるため小船一隻をお降ろし彼女(御息所)を乗せ流してみて、竜神がどう反応されるかご覧ください」と進言したので、「もっともだ」として小船一艘を下ろし水夫一人と御息所を乗せると、渦巻く波間に投げ出された。 あの早離・速離(はやり・すたり)という地獄のような荒磯に漂う身となり「飢え寒さで涙も枯れた」と言わんばかりだが人の住む島々が遠ざかる中、寄るべなく立ち寄る先もない。ここは浦でも島でもない鳴門の渦潮上で捨て舟のように浮き沈みし、磯に打ち寄せる泡が消えるように自らの命も尽きようとする悲しさよ。 すると竜神に見放されたのか風が突然吹き分け松浦たちの船は西へ流されていくのが見えたが一ノ谷(兵庫県)沖で嵐に翻弄され行方知れずとなった。その後波静まり風止んだため御息所の小船に同乗していた水夫が懸命に舟を漕ぎ淡路島近くの武島という場所へ着いた。 この島は周囲一里足らずで漁師小屋以外住む者もない孤島ゆえ、粗末な葦屋根の憂鬱あふれる仮住まいに案内されたが四五日間の暴風雨で気力尽き衰弱した御息所はほどなく息を引き取られた。 解説
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| 心なき海人の子共迄も、「是は如何にし奉らん。」と、泣悲み、御顔に水を灑き、櫓床を洗て御口に入なんどしければ、半時許して活出させ給へり。さらでだに涙の懸る御袖は乾く間も無るべきに、篷漏る滴藻塩草、可敷忍旅寝ならねば、「何迄角ても有佗ぶべき。土佐の畑と云浦へ送りてもやれかし。」と、打佗させ給へば、海士共皆同じ心に、「是程厳敷御渡候上臈を、我等が舟に乗進せて、遥々と土佐迄送り進せ候はんに、何の泊にてか、人の奪取進せぬ事の候べき。」と、叶まじき由を申せば、力及ばせ給はずして、浪の立居に御袖をしぼりつゝ、今年は此にて暮し給ふ。哀は類ひも無りけり。さて一宮は武文を京へ上せられし後は、月日遥に成ぬれ共、何共御左右を申さぬは、如何なる目にも逢ぬる歟と、静心なく思食て、京より下れる人に御尋有ければ、「去年の九月に御息所は都を御出有て、土佐へ御下り候しとこそ慥に承りしか。」と申ければ、さては道にて人に被奪ぬるか、又世を浦風に被放、千尋の底にも沈ぬる歟と、一方ならず思ひくづほれさせ給けるに、或夜御警固に参たる武士共、中門に宿直申て四方山の事共物語しける者の中に、「さるにても去年の九月、阿波の鳴渡を過て当国に渡りし時、船の梶に懸たりし衣を取上て見しかば、尋常の人の装束とも不見、厳かりし事よ。 |
普段は冷酷な漁師たちまでも「これはどうしたものか」と泣き悲しみ、御顔に水をかけ櫂の柄で海水をすくって口に入れようとしたので、しばらくして息を吹き返された。それでも涙が絶えず袖は乾く暇もないのに、雨漏りする粗末な小屋ではとても耐えられぬ旅寝だったため、「いつまでもこうしていてはいけない。土佐の畑という浦へ送ってやってくれ」とおっしゃると、漁師たちは皆同じ意見で「これほど高貴なお方を私たちの小船に乗せて遠く土佐まで送る途中、どんな港で人攫いに遭わないと言えましょうか」と実現不可能な理由を述べた。どうすることもできず波が立つごとに袖を絞りながらその年はそこで過ごされた。哀れこの上なかった。 さて一宮(皇子)は武文を京へ送った後、月日が経っても何の消息もないのは不慮の災難に遭われたのかと心穏やかでなく思召し、都から来る者にお尋ねになると「去年九月に御息所様は京をご出立され土佐へ下向なさったとか確かに承りました」と言う。ならば道中で人攫いに遭われたのか、あるいは海の藻屑と消えたか深淵に沈んだのかと並々ならず嘆き悲しまれている時、ある夜警護に参じた武士たちが中門で宿直しながら雑談する中で「そういえば去年九月阿波の鳴門を通り当地へ渡る時、船の舵にかかった衣を拾って見ると普通の人の装束とも思えず立派だったことよ」と語った者がいた。 解説
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| 是は如何様院・内裏の上臈女房なんどの田舎へ下らせ給ふが、難風に逢て海に沈み給けん其装束にてぞ有らん。」と語て、「穴哀や。」なんど申合ければ、宮墻越に被聞召、若其行末にてや有らんと不審多く思食て、「聊御覧ぜられたき御事あり。其衣未あらば持て参れ。」と御使有ければ、「色こそ損じて候へ共未私に候。」とて召寄進せたり。宮能々是を御覧ずるに、御息所を御迎に武文を京へ上せられし時、有井庄司が仕立て進せたりし御衣也。穴不思議やとて、裁余したる切れを召出して、差合せられたるに、あやの文少も不違続きたれば、二目共不被御覧、此衣を御顔に押当て、御涙を押拭はせ給ふ。有井も御前に候けるが、涙を袖に懸つゝ罷立にけり。今は御息所の此世に坐す人とは露も不被思召、此衣の橈に懸りし日を、なき人の忌日に被定、自御経を書写せられ、念仏を唱へさせ給て、「過去聖霊藤原氏女、並物故秦武文共に三界の苦海を出て、速に九品の浄刹に到れ。」と祈らせ給ふ。御歎の色こそ哀なれ。去程に其年の春の比より、諸国に軍起て、六波羅・鎌倉・九国・北国の朝敵共、同時に滅びしかば、先帝は隠岐国より還幸成り、一宮は土佐の畑より都へ帰り入らせ給ふ。天下悉公家一統の御世と成て目出かりしか共、一宮は唯御息所の今世に坐さぬ事を歎思食ける処に、淡路の武島に未生て御坐有と聞へければ、急御迎を被下、都へ帰上らせ給ふ。 |
「これはおそらく院や内裏の高級女房などが地方へ下向なさった際、暴風雨で海に沈まれた方のお召し物でしょう」と言い合って、「なんと哀れなことか」などとも話していると、宮(一宮)は壁越しにお聞きになり、もしかすると御息所の行末を示すものかもしれないと深く疑われた。「ぜひ見たいことがある。その衣がまだ残っているなら持って参れ」とお使いを出すと、「色あせておりますがあれば私が保管しております」と言って召し出して献上した。宮は入念にこれを見られると、御息所をお迎えする際に武文を使者として京へ上げた時、有井庄司が仕立てた衣装であった。「なんと不思議なことか」と思い裁ち残りの布を召し出して合わせてみると、織り模様の一筋も違わずつながったため、二度見ることもなくその衣を顔に押し当て涙をおさえられた。有井も御前に伺候していたが袖で涙をぬぐい退出した。 今となっては御息所がこの世におられるとは全く考えられないと悟り、この衣が舵にかかった日付を亡き人の命日に定め自ら写経し念仏を唱えられた。「過去の霊魂たる藤原氏女(御息所)および物故者秦武文よ共に三界の苦海を脱し速やかに九品浄土へ至れ」と祈られる様子は嘆き悲しまれて哀切極まりなかった。 そうこうするうちその年の春頃から諸国で戦乱が起こり、六波羅・鎌倉幕府勢力および九州・北国の朝敵たちが同時に滅亡したため、先帝(後鳥羽上皇)は隠岐国より還幸され一宮も土佐の畑より都へ帰還なさった。天下すっかり公家中心の世となりめでたいことではあったが一宮はただ御息所がこの世にいらっしゃらないことを嘆いておられたところ、淡路島武島にお姫様(御息所)として生きておられると聞こえたため急ぎ迎えを下され都へ帰還された。 解説
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| 只王質が仙より出て七世の孫に会ひ、方士が海に入て楊貴妃を見奉りしに不異。御息所は、「心づくしに趣し時の心憂さ、浪に回りし泡の消るを争そう命の程、堪兼たりし襟は御推量りも浅くや。」とて、御袖濡る許なり。宮は又「外渡る舟の梶の葉に、書共尽ぬ御歎、無跡問し月日の数、御身に積りし悲みは、語るも言は愚か也。」と書口説せ給ひける。さしも憂かりし世中の、時の間に引替て、人間の栄花、天上の娯楽、不極云事なく、不尽云御遊もなし。長生殿の裏には、梨花の雨不破壌を、不老門の前には、楊柳の風不鳴枝。今日を千年の始めと、目出きためしに思食たりしに、楽尽て悲み来る人間の習なれば、中一年有て、建武元年の冬の比より又天下乱て、公家の御世、武家の成敗に成しかば、一宮は終に越前金崎の城にて御自害有て、御首京都に上て、禅林寺長老夢窓国師、喪礼被執行など聞へしかば、御息所は余りの為方なさに御車に被助載て、禅林寺の辺まで浮れ出させ給へば、是ぞ其御事と覚敷て、墨染の夕の雲に立煙、松の嵐に打靡き、心細く澄上る。さらぬ別の悲さは、誰とても愚ならぬ涙なれ共、宮などの無止事御身を、剣の先に触て、秋の霜の下に消終させ給ぬる御事は、無類悲なれば、想像奉る今はの際の御有様も、今一入の思ひを添て、共に東岱前後の烟と立登り、北芒新丘の露共消なばやと、返る車の常盤に、臥沈ませ給ける、御心の中こそ哀なれ。 |
まるで王質が仙界から出て七世代後の孫に出会い、方士(道士)が海中の楊貴妃を拝見した話と変わらないような奇跡だった。御息所は「心尽くして逃れたあの時の辛さ、波に揺られ泡のように消えようとした命ながらえてきた苦しみは、お察しいただけるでしょうか」と言い、袖が涙で濡れるほどであった。宮(一宮)もまた「海を渡る船の舵板にも書き尽くせぬほどの嘆き、行方知れず過ぎた月日の重さ、あなたに積もった悲しみは語りようもない」と手紙に綴られた。 それほど辛い世の中でも時が流れ変わり、人間界の栄華や天国の喜びを極め尽くすまで楽しみ、遊興にも限りがない日々となった。長生殿(宮殿)裏では梨の花雨で散ることもなく、不老門前では柳風に枝も鳴らさない。「今日が千年続く栄えの始まり」と喜ばれたのも束の間で、楽しみ尽きれば悲しみ来るのが世の中の常であるため、一年ほど経った建武元年冬頃からまた天下は乱れ公家政権は武士の支配下となった。その結果一宮はついに越前金崎城にて自害され首が京都へ送られ禅林寺で長老夢窓国師により葬儀が執り行われたと聞く。 御息所は余りの悲しみで車に支えられるように乗って禅林寺付近までさまよわれた。まさしくその場所だと悟った時、墨染めの夕雲のように立ち上る煙や松風になびく様子が心細く澄んで見えた。これまでの別れよりも辛いのは誰しも涙を禁じ得ないことだが、宮のような尊きお方が剣先に触れて秋霜の中で消え果てられたことは比類なき悲劇であったため、最期の様子を想像するたび一層思いが募り「共に東岳(泰山)前後の煙となって昇天し北山新丘の露とともに消えてしまいたい」と思いつつ帰る車の中でうつむかれ伏せていたその心中は哀れ極みないものであった。 解説
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| 行て訪旧跡、竹苑故宮月心を傷しめ、帰臥寒閨、椒房寡居の風夢を吹、著見に順聞に、御歎日毎に深く成行ければ、軈御息所も御心地煩ひて、御中陰の日数未終先に、無墓成せ給ひければ、聞人毎に押並て、類ひ少なき哀さに、皆袂をぞ濡しける。 ○比叡山開闢事 金崎の城被攻落て後、諸国の宮方失力けるにや。或は降参し、或は退散して、天下将軍の威に随ふ事、宛如吹風靡草木。在々所々に宮方の城有て、山門又如何なる事をかし出さんずらんと危まれし程こそ、衆徒の心を不違、山門の所領共に被成安堵たりしか、今天下已に武威に帰して静謐しぬる上は、何の憤か可有とて、以前の成敗の事を変じて、山門を三井寺の末寺にやなす、又若干の所領を塞げたるも無益なれば、只一円に九院を没倒し衆徒を追出して、其跡を軍勢にや可充行、高・上杉の人々、将軍の御前に参じて評定しける処に、北小路の玄慧法印出来れり。武蔵守師直、「此人こそ大智広学の物知にて候なれば、加様の事共も存知候はんずれ。此れに山門の事、委く尋問候はゞや。」と被申ければ、将軍、「げにも。」とて、「法印此方へ。」とぞ被呼ける。法印席に直て四海静謐の事共賀し申て、種々の物語共に及びける時、上杉伊豆守重能、法印に向て被申けるは、「以前山門両度の臨幸を許容申て将軍に敵し奉る事無他事。 |
亡き一宮を訪ね旧跡に赴くと竹の庭や廃れた御所が月明かりで心を痛めさせ、帰って冷たい寝床に臥せるとかつて后妃が住んだ部屋の風が夢を吹き荒らす。目にするもの耳にすることすべてが嘆きを深めるばかりだったため、ほどなく御息所も体調を崩され四十九日の法要が終わらないうちに墓もないまま亡くなられたので聞く者皆こぞって類稀な悲しさに袖を濡らした。 ○比叡山創建由来譚 解説
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| 雖然武運合天命に故に、遂に朝敵を一時に亡して、太平を四海に致候き。抑山門毎年の祭礼に、洛中の人民を煩し、三千の聖供共に、国土の庄園を領する事、為世雖多費、公家武家不止之事は、只専御祈祷仰天下静謐故也。而に今為武家結怨、為朝敵致懇祈。是当家の蠧害、釈門の残賊なるべし。風に聞比叡山草創の事、時は延暦の末の年に当れり、君は桓武の治天に始まれり。此寺未立ざりし先に、聖主治国給ふ事相続て五十代、曾異国にも不被侵、妖怪にも不被悩、君巍々の徳を播し、民堂々の化に誇る。以是憶之、有て無益の者は山門也。無て可能山法師也。但山門無ては叶まじき故候哉覧。白河院も、「朕が心に不任は、双六の賽・賀茂河の水・山法師也。」と被仰候けんなる。其議誠に不審しく覚候。御物語候へ、次での才学に仕候はん。」とぞ被申ける。法印熟々と聞之、言語道断の事なり。閉口去塞耳帰らばやと思ひけれ共、若一言の下に、翻邪帰正事もやあらんずらんと思ひければ、中々旨に逆ひ儀を犯す言ばを留めて、長物語をぞ始られける。「夫斯国の起りは家々に伝る処格別にして其説区也といへ共、暫記する処の一儀に、天地已に分れて後、第九の減劫人寿二万歳の時、迦葉仏西天に出世し給ふ。于時大聖釈尊得其授記、住都率天給ひしが、我八相成道之後、遺教流布の地、可有何所と、此南瞻部州を遍く飛行して御覧じけるに、漫々たる大海の上に、一切衆生悉有仏性、如来常住無有変易と立浪の音あり。 |
たとえ軍事運が天命に適い、ついに朝廷への反逆者たち(宮方)を一掃し天下太平をもたらしたとはいえ。そもそも比叡山は毎年の祭礼で都の民衆を煩わせ、三千僧侶分の供養料として全国の荘園領有するのは世間の浪費ではあるが、朝廷も武家もこれを容認してきた理由は専ら天下安泰への祈願にあった。それが今や武家政権へ敵意を持ち反逆者(帝)のために祈るとは、これこそ将軍家を蝕む害虫であり仏門の破壊者だ。 しかし風の噂によれば比叡山創建は延暦末年(8世紀末)、桓武帝の御代に始まったという。だがこの寺が立つ以前にも聖なる君主による治世は五十代続き、異国侵攻もなく妖怪災いもなかった。天皇の威徳は広まり民は堂々たる教化を受けた。こう考えれば存在無用なのが比叡山であり、あって当然とされる山法師(僧兵)こそ不要だ。"山門なしでは叶わぬ"などということがあるはずがない。白河院でさえ「朕が意のままにならぬものは賽の目・鴨川の水・山法師だけ」と仰られたではないか。(この意見には)甚だ疑問を感じる次第である。お話し頂こう、次の才学について伺いたい。 これに対し玄慧法印は深く聞きつつ「全く言語道断な主張だ」と思い黙って立ち去りたい気持ちだったが、「ひと言で彼らを改心させられるかもしれぬ」と考え逆らいそうになる言葉を抑え長々と語り始めた。「そもそもこの国の起源は各家伝承により諸説あるが、一つの説として記せば:天地分かれた後、第九減劫(寿命減少期)で人間の寿命二万歳の時、迦葉仏が西天に出現された。その折り大聖釈尊は授記(予言)を受けて都率天におられたが、八相成道(仏陀となる過程)を終えた後、教えを広めるべき地はどこかと南瞻部州全体を飛行して御覧になったところ、果てしない大海の上に『一切衆生悉有仏性 如来常住無有変易』という文字が波頭に立つ音をお聞きになり...(以下続く) 解説
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| 釈尊是を聞召て、此波の流止らんずる所、一つの国と成て、吾教法弘通する霊地たるべしと思召ければ、則此浪の流行に随て、遥に十万里の蒼海を凌ぎ給ふ。此波忽に一葉の葦の海中に浮べるにぞ留りにける。此葦の葉果して一の島となる。今の比叡山の麓、大宮権現垂跡給ふ波止土濃也。是故に波止て土濃也とは書るなるべし。其後人寿百歳の時釈尊中天竺摩竭陀国浄飯王宮に降誕し給ふ。御歳十九にて二月上八の夜半に王宮を遁れ出、六年難行して雪山に捨身、寂場樹下に端坐し給ふ事、又六年の後夜に正覚を成し後、頓大三七日、遍小十二年、染浄虚融の演説三十年、一実無相の開顕八箇年、遂に滅度を抜提河の辺、双林樹下に唱給ふ。雖然、仏は元来本有常住周遍法界の妙体なれば、為遺教流布、昔葦の葉の国と成し南閻浮提豊葦原の中津国に到て見給ふに、時は鵜羽不葺合尊の御代なれば、人未仏法の名字をだにも不聞。然共此地大日遍照の本国として、仏法東漸の霊地たるべければ、何れの所にか可開応化利生之門、彼方此方を遍歴し給ふ処に、比叡山の麓楽々名美也志賀の浦の辺に、垂釣坐せる老翁あり。釈尊向之、「翁若此地の主たらば此山を吾に与よ。成結界地仏法を弘ん。」と宣ければ、此翁答曰、「我は人寿六千歳の始より、此所の主として、此湖の七度迄蘆原と変ぜしを見たり。 |
お釈迦様はこれを聞いて、「この波が流れ止まる場所こそ一国となり、私の教えが広まる霊地となるだろう」と考えられたので、その波の行く方に従って遥か十万里の大海を渡られた。すると突然一葉の葦が海中に浮いているのに留まられた。この葦の葉はやがて一つ島となった。これが今の比叡山麓で大宮権現(日吉社)が降臨された波止土濃である。だから「波止土濃」と書くのであろう。 その後、人間寿命百歳の時代にお釈迦様は中天竺摩竭陀国浄飯王の宮殿に誕生された。十九歳の二月八日の夜半に王宮を抜け出し、六年間苦行して雪山で捨身(命懸け修行)され、さらに菩提樹下で端坐すること六年、ついに後夜明け前に悟りを開かれた。その後二十一日間「頓教」を説き十二年かけ小乗仏法を広め、三十年間にわたり清浄と虚妄の融和を演じ、八年かけて真実無相(大乗真理)を顕かにして涅槃に入られた。 しかし仏は本来永遠に遍く存在する妙なる本体であるため、教え継承のためにかつて葦葉島となった南閻浮提・豊葦原中国へ赴かれた。その時代は鵜羽不葺合尊(神武天皇以前の伝説的君主)の治世で人々は仏法の名さえ知らなかったが、この地こそ大日如来光輝く本源であり仏教東漸霊地と定められていた。そこで衆生救済場をどこに開くべきか探すうち比叡山麓・楽々名美也(現志賀浦付近)で釣りをする老翁に出会われた。 お釈迦様は言われた:「もし貴方が土地主ならこの山を与えよ。結界の地として仏法を広めん」。すると老翁答えた「私は人間寿命六千歳時代から地主であり、湖が七度も葦原と化すのを見てきた...(以下続く) 解説
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| 但此地結界の地と成らば、釣する所を可失。釈尊早去て他国に求め給へ。」とぞ惜みける。此翁は是白髭明神也。釈尊因茲、寂光土に帰らんとし給ひける処に、東方浄瑠璃世界の教主医王善逝忽然として来り給へり。釈尊大に歓喜し給て、以前老翁が云つる事を語り給ふに、医王善逝称歎して宣はく、「善哉釈迦尊、此地に仏法を弘通し給はん事。我人寿二万歳の始より此国の地主也。彼老翁未知我。何此山を可奉惜哉。機縁時至て仏法東流せば、釈尊は教を伝る大師と成て、此山を開闢し給へ。我は此山の王と成て久く後五百歳の仏法を可護。」と誓約をなし、二仏各東西に去給にけり。角て千八百年を経て後、釈尊は伝教大師と成せ給ふ。延暦二十三年に始て求法の為に漢土に渡り給ふ。則顕密戒の三学淵底に玉を拾ひ、同二十四年に帰朝し給ぬ。爰に桓武皇帝、法の檀度と成せ給て比叡山を被草創始め、伝教大師承勅、根本中堂を建んとて地を引れけるに、紅蓮の如くなる人の舌一つ土の底に有て法華読誦の声不止。大師怪て其故を問給ふに、此舌答て曰く、「我古へ此山に住して、六万部の法華経を読誦せしが、寿命有限身已に雖壊、音声無尽舌は尚存せり。」とぞ申ける。又中堂造営事終て、為本尊大師御手から薬師の像を作り給しに、一度斧を下して、「像法転時、利益衆生、故号薬師、瑠璃光仏。 |
しかしこの土地が結界(聖域)となれば、釣りの場所を失うことになる。お釈迦様は早く立ち去って他の国を探しなさい」と言い惜しんだのである。この老翁こそ白髭明神であった。お釈迦様はこれにより寂光土(浄土)に帰ろうとされたところ、東方の瑠璃世界の教主である医王善逝(薬師如来)が突然現れた。お釈迦様は大いに喜び、先ほどの老翁の発言を語られた。すると医王善逝は称賛してこう述べた。「素晴らしいことだ、釈迦尊よ。この地で仏法を広められるのは。私は人間寿命二万歳の時代からこの国の地主である。あの老翁は私を知らない。どうしてこの山を惜しむことがあるだろうか? 機縁が熟して仏法が東へ流れる時には、釈尊は教えを伝える大師となってこの山を開きなさい。私はこの山の王となり末代五百年まで仏法を守護しよう」と誓いを立てたので、二仏はそれぞれ東西に去られた。 こうして千八百年が経った後、お釈迦様は転生して伝教大師(最澄)となられた。延暦二十三年に初めて求法のために唐へ渡り、顕密戒の三学を深く修め玉のように貴い真髄を得た。同二十四年に帰朝すると桓武天皇が仏法の庇護者となり比叡山開創を命じられたので、伝教大師は勅を受けて根本中堂建立のために地ならしをしていたところ、紅蓮のような人の舌一つが土の中から現れ『法華経』読誦の声が止まなかった。大師が怪しんで理由を尋ねるとその舌が答えた。「私は昔この山に住み六万部の法華経を読誦したが寿命は尽きて体は滅びても、音声は永遠で舌だけ残っているのだ」と申し上げたという。 また中堂造営が終わり本尊として大師自ら薬師如来像を作り始められた時、一度斧を下ろしてこう唱えられた。「像法(仏教衰退期)の世に衆生へ利益を与えるため、よって薬師瑠璃光仏と号す...」(以下続く) 解説
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| 」と唱へて、礼拝し給ける時に、木像の薬師屈首諾かせ給ひけり。其後大師は小比叡の峯に杉の庵を卜て、暫独住し坐ける。或時角ぞ詠じ給ひける。波母山や小比叡の杉の独居は嵐も寒し問人もなしと被遊、観月を澄して御坐ける処に、光明嚇奕たる三つの日輪、空中より飛下れり。其光の中に釈迦・薬師・弥陀の三尊光を並べて坐し給ふ。此三尊或は僧形を現或は俗体に変じて、大師を礼し奉て、「十方大菩薩・愍衆故行道・応生恭敬心・是則我大師。」と讚給ふ。大師大に礼敬し給て、「願は其御名を聞ん。」と問給ふに、三尊答曰、「竪の三点に横の一点を加へ、横の三点に竪の一点を添ふ。我内には円宗の教法を守り、外には済度の方便を助けん為に、此山に来れり。」と答給ふ。其光天に懸れる事、百練の鸞鏡の如し。大師此言を以て文字を成に、竪の三点に横の一点を加へては、山と云字也。横の三点に竪の一点を添ては王と云字也。山は是高大にして不動形、王は天・地・人の三才に経緯たる徳を顕し玉へる称号なるべしとて、其神を山王と崇め奉る。所謂大宮権現は久遠実成の古仏、天照太神の応作、専護円宗教法、久宿比叡山。故に法宿大菩薩とも奉申。既是三界の慈父、我等が本師也。聖真子は九品安養界の化主、八幡大菩薩の分身、光を和四明麓、速示三聖形。 |
「」と唱え礼拝されると、木造の薬師如来像が首を垂れて承諾された。その後大師は小比叡峰に杉材の庵を構え、しばらく独り住まいなさっていた。ある時こんな歌をお詠みになった。「母なる山よ 小比叡の杉の独居は 嵐も冷たい 訪れる人もない」と仰せられ、月明かりの中で瞑想されていたところ、輝き渡る三つの太陽が空から降臨した。その光の中に釈迦・薬師・阿弥陀の三尊が並んで現れ、「十方世界の大菩薩らよ 衆生を憐れむゆえ修行せん者には 恭敬心を持つべきだ これこそ我らの大師である」と讃嘆された。 大師は深く礼拝し「どうか御名をお聞かせください」と尋ねると、三尊は答えられた。「縦の三点に横一点を加えよ。横の三点に縦の一点を添えよ。我らは内には天台教学を守護し、外には衆生救済を助けるため此の山へ来た」。その光は天にかかる様が磨かれた鏡のようだった。大師はこの言葉から文字を作り解釈された——縦三点に横一点を加えるのは「山」という字であり、横三点に縦一點を添えるのは「王」という字である。「山」とは高くそびえて動かない性質を示し、「王」とは天地人三才を統べる徳を表す称号だ——と悟り、その神を山王として崇めた。 いわゆる大宮権現(日吉大神)は永遠の仏であり天照大神が姿を変えたもので、ひたすら天台宗を守護し比叡山に永く鎮座する。故に法宿大菩薩とも称される。これは三界全ての慈父であって我らの根本師匠である。また聖真子(八幡神)は極楽浄土の教主であり八幡大菩薩が分身したもの、光を比叡山麓に和らげて早く仏身を示す方なのである。 解説
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| 雖十悪猶引接事は、疾風の雲霧を披よりも甚し。雖一念必感応なる事は、喩之巨海納涓露。和光同塵は既に為結縁始。往生安楽は豈非得脱終乎。二の宮は初め大聖釈尊と約をなし給ひし東方浄瑠璃世界の如来、吾国秋津州の地主也。随所示願の誓ひ既に叶ふ。現世安隠人望、願生西方の願、豈非後生菩提指南乎。八王子は千手観音の垂跡、以無垢三昧力、済奈落伽重苦、潅頂大法王子也。故に云大八王子。本地清涼の月は雖処安養界、応化随縁の影は遥に顕麓祠露に。各所居の浄土を表ば、是然ら補陀楽山共申つべし。客人宮は十一面観音の応作、白山禅定の霊神也。而助山王行化を、出北陸之崇峯来東山之霊地、故号客人。現在生の中には得十種勝利を、臨命終の時には生九品蓮台。十禅師の宮は無仏世界の化王、地蔵薩■の応化也。忝も受牟尼遺教、懇預■利付嘱に。二仏中間の大導師、三聖執務の法体也。彼御託宣に云、「三千の衆徒を養て我子とし、一乗の教法を守て我命とす。」と示し給ふ。設ひ雖微少結縁也。宜蒙莫大利益。三の宮は普賢菩薩の権化、妙法蓮華の正体也。一乗読誦の窓の前には、影向を垂て哀愍を納受し給ふ。既是慚愧懺悔の教主たり。六根罪障の我等何不奉仰之哉。次に中七社、牛の御子は大威徳、大行事は毘沙門、早尾は不動、気比は聖観音、下八王子は虚空蔵、王子の宮は文殊、聖女は如意輪、次に下七社の小禅師は弥勒竜樹、悪王子は愛染明王、新行事は吉祥天女、岩滝は弁才天、山末は摩利支天、剣宮は不動、大宮の竃殿は大日、聖真子の竃殿は金剛界の大日、二宮竃殿は日光・月光各出大悲門趣利生之道給ふ。 |
たとえ十悪を犯した者でも救い導くことは、嵐が雲や霧を払うよりも速い。わずか一念の信心にも必ず応じることは、大海が露の一滴をも拒まない喩えの通りである。仏が俗世に姿を現すのは既に縁を結ぶ始めであり、安楽浄土へ往生するのが悟りを得る究極ではないか。 二宮(日吉大神)はもともと釈迦如来と誓約した東方瑠璃世界の如来で、我が国日本の守護神である。示された願いの誓いは既に叶えられており、現世の安泰や人望を得ることも、西方浄土へ往生しようとする願いも、来世への導きとなる。 八王子権現は千手観音の化身であり、清らかな禅定の力で地獄の苦しみを救う灌頂を受けた大法王子である。故に大八王子と称される。本来の姿たる月輪(仏性)は浄土にあっても、縁に応じて現れる影が比叡山麓にはっきり顕れている。 各々の居所を示すならば、これは補陀落浄土と呼ぶべきであろう。客人宮は十一面観音の化身で白山禅定の霊神である。これが山王(日吉大神)の教化を助けるため北陸の高峰から比叡山へ来臨したゆえ「客人」と号する。現世では十種の利益を得、臨終には九品蓮台に生まれる。 十禅師宮は仏のいない世界を導く地蔵菩薩の化身である。釈迦の遺教を受け忝くも弥勒菩薩付嘱にあずかる。二仏(釈迦と弥勒)の中間期における衆生救済者であり、三聖が職務を行う本体でもある。 その託宣には「三千の僧侶を養って我が子とし、一乗の教えを守って我が命とする」と示された。たとえわずかな縁であっても、計り知れない利益を受けるべきである。 三宮は普賢菩薩の権現であり妙法蓮華経そのものの本体である。法華経読誦する者の前には姿を現し慈悲をもって受け入れる。これはまさに罪を懺悔させる教主である。六根の罪障を持つ我々がどうして仰ぎ奉らぬことがあろうか。 次いで中七社において、牛御子は大威徳明王、大行事は毘沙門天、早尾は不動明王、気比は聖観音、下八王子は虚空蔵菩薩、王子宮は文殊菩薩、聖女は如意輪観音である。 さらに下七社では小禅師は弥勒・龍樹、悪王子は愛染明王、新行事は吉祥天女、岩滝は弁才天、山末は摩利支天、剣宮は不動明王、大宮竈殿は胎蔵界大日如来、聖真子(八幡)竈殿は金剛界大日如来であり、二宮竈殿の日光・月光菩薩はいずれも大慈悲をもって衆生救済の道を示される。 解説
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| 其後四所の菩薩、化を助けて十方より来至し、三七の霊神光を並べて四辺に囲繞し給ふ。夫済渡利生の区なる徳、百千劫の間に舌を暢て説共不可尽。山は戒定慧の三学を表し建三塔。人は一念三千の義を以て員とす。十二願王回眸故に、天下の治乱此冥応に不懸と云事なく、七社権現垂跡故に、海内の吉凶其玄鑒に不依と云事なし。されば朝廷に有事日は祈之除災致福。山門有訴時は傷之以非被理。爰に両度の臨幸を山門に許容申たりしは、一往衆徒の僻事に以て候へ共、窮鳥入懐時は狩人も哀之不殺事にて候。況乎十善の君の御恃あらんに誰か可不与申。譬ば其時の久執の輩、少々相残て野心を挿み候共、武将忘其恨、厚恩被行徳候者、敵の運を祈らんずる勤は却て一家の祈となり、朝敵を贔負せん心変じて、御方の御ために無弐者と成り候べし。」と、内外の理致明かに、尽言被申たりければ、将軍・左兵衛督を奉始、高・上杉・頭人・評定衆に至る迄、さては山門なくて、天下を治る事有まじかりけりと信仰して、則旧領安堵の外に、武家益々寄進の地をぞ被副ける。 |
その後、四箇所の菩薩が衆生救済を助けに十方から到来され、二十一柱の霊神は光芒を放ちながら四方を取り囲まれた。このような衆生を彼岸へ渡し利益を与える功徳は、百千万年の歳月を費やしても言葉で言い尽くすことはできない。 比叡山には戒律・禅定・智慧という仏教修行の根本である三学を示すために三基の塔が建てられ、そこで修業する者は一念に全宇宙を含む法華経の哲理によって完全な存在となる。十二の大願を立てた薬師如来が見返されるゆえに天下の治世や乱世はその霊的加護から外れることがなく、七社権現が姿を現すゆえに国内の吉凶もその神秘的な鑑識によらずには起こらない。 したがって朝廷で事変があればこの神々に祈り災いを取り除き幸福をもたらし、延暦寺に訴えがある時は道理に基づいて公正に対処する。かつて二度の天皇行幸を比叡山にお許し申し上げた件では、一見すると僧侶たちの横暴が原因であったとはいえ、「追われた小鳥が懐に飛び込めば猟師すら情けをかけて殺さない」という道理がある。ましてや十善を行じる君主への信頼があれば誰が協力を惜しむだろうか。 例えば当時長く反抗していた者たちがわずかに野心を抱いて残っていたとしても、武将たちは怨恨を忘れ厚い恩恵を示したため、「敵の滅亡を祈った行為」さえ逆に味方への忠誠となり「朝敵(朝廷に背く者)へ加担しようとした心」が改められて主君のために二心なき者となるのである。 こうして仏教と世俗の道理が明らかに述べ尽くされたため、将軍や左兵衛督をはじめ高氏・上杉家・頭人(僧職)・評定衆に至るまで「比叡山なくして天下統治は不可能だ」と深く信仰し、旧領地の安堵だけでなく武家がますます寄進の土地を添えることとなった。 解説
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| input text 太平記\019_太平記_巻19.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第十九 ○光厳院殿重祚御事 建武三年六月十日、光厳院太上天皇重祚の御位に即進せたりしが、三年の内に天下反覆して宋鑒ほろびはてしかば、其例いかゞあるべからんと、諸人異議多かりけれ共、此将軍尊氏卿の筑紫より攻上し時、院宣をなされしも此君也。今又東寺へ潜幸なりて、武家に威を加られしも此御事なれば、争其天恩を報じ申さではあるべきとて、尊氏卿平にはからひ申されける上は、末座の異見再往の沙汰に及ばず。其比物にも覚へぬ田舎の者共、茶の会酒宴の砌にて、そゞろなる物語しけるにも、「あはれ此持明院殿ほど、大果報の人はをはせざりけり。軍の一度をもし給はずして、将軍より王位を給らせ給たり。」と、申沙汰しけるこそをかしけれ。 ○本朝将軍補任兄弟無其例事 同年十月三日改元有て、延元にうつる。其十一月五日の除目に、足利宰相尊氏卿、上首十一人を越て、位正三位にあがり、官大納言に遷て、征夷将軍の武将に備り給ふ。舎弟左馬頭直義朝臣は、五人を越て、位四品に叙し、官宰相に任じて、日本の副将軍に成給ふ。夫我朝に将軍を置れし初は、養老四年に多治比の真人県守、神亀元年に藤原朝臣宇合、宝亀十一年に藤原朝臣継綱。其後時代遥に隔て藤原朝臣小里丸、大伴宿禰家持・紀朝臣古佐美・大伴宿禰乙丸・坂上宿禰田村丸・文屋宿禰綿丸・藤原朝臣忠文・右大将宗盛・新中納言知盛・右大将源頼朝・木曾左馬頭源義仲・左衛門督頼家・右大臣実朝に至まで其人十六人皆功の抽賞に依て、父子其先を追事ありといへども、兄弟一時に相双で、大樹の武将に備事、古今未其例を聞ずと、其方様の人は、皆驕逸の思気色に顕たり。 |
その後、四か所の菩薩が衆生救済を助けるために十方から到来され、二十一柱の霊神は光輝きながら四方を取り囲まれた。このように人々を救い利益を与える功徳は、百千年もの歳月をかけても言葉で言い尽くすことはできない。 比叡山には戒律・禅定・智慧という仏教修行の根本である三学を示すため三基の塔が建てられ、そこで修業する者は一念に全宇宙を含む法華経の哲理によって完全な存在となる。十二の大願を立てた薬師如来が見返されるゆえに天下の治世や乱世はその霊的加護から外れることがなく、七社権現が姿を現すゆえに国内の吉凶も神秘的な鑑識によらずには起こらない。 したがって朝廷で事変があれば神々に祈り災いを取り除き幸福をもたらし、延暦寺に訴えがある時は道理に基づいて公正に対処する。かつて二度の天皇行幸を比叡山にお許し申し上げた件では、一見すると僧侶たちの横暴が原因であったとはいえ、「追われた小鳥が懐に飛び込めば猟師すら情けをかけて殺さない」という道理がある。ましてや十善を行じる君主への信頼があれば誰が協力を拒むだろうか。 例えば当時長く反抗していた者たちがわずかに野心を抱いて残っていたとしても、武将たちは怨恨を忘れ厚い恩恵を示したため、「敵の滅亡を祈った行為」さえ逆に味方への忠誠となり「朝廷に背く者へ加担しようとした心」が改められて主君のために二心なき者となるのである。 こうして仏教と世俗の道理が明らかに述べ尽くされたため、将軍や左兵衛督をはじめ高氏・上杉家・頭人(僧職)・評定衆に至るまで「比叡山なくして天下統治は不可能だ」と深く信仰し、旧領地の安堵だけでなく武家がますます寄進の土地を添えることとなった。 解説
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| 其外宗との一族四十三人、或は象外の選に当り、俗骨忽に蓬莱の雲をふみ、或乱階の賞に依て、庸才立ろに台閣の月を攀。加之其門葉たる者は、諸国の守護吏務を兼て、銀鞍未解、五馬忽策重山之雲、蘭橈未乾、巨船遥棹滄海之浪。総て博陸輔佐の臣も、是に向て上位を臨ん事を憚る。況や名家儒林の輩は、彼仁に列て下風に立ん事を喜べり。 ○新田義貞落越前府城事 左中将義貞朝臣・舎弟脇屋右衛門佐義助は、金崎城没落の後、杣山の麓瓜生が館に、有も無が如にてをはしましけるが、いつまでか右て徒に時を待べき。所々に隠れ居たる敗軍の兵を集て国中へ打出、吉野に御座ある先帝の宸襟をも休め進せ、金崎にて討れし亡魂の恨をも散ぜばやと思はれければ、国々へ潜に使を通じて、旧功の輩をあつめられけるに、竜鱗に付き、鳳翼を攀て、宿望を達せばやと、蟄居に時を待ける在々所々の兵共、聞伝々々抜々に馳集りける程に、馬・物具なんどこそきら/\敷はなけれ共、心ばかりはいかなる樊■・周勃にも劣じと思へる義心金鉄の兵共、三千余騎に成にけり。此事軈て、京都に聞へければ、将軍より足利尾張守高経・舎弟伊予守二人を大将として、北陸道七箇国の勢六千余騎を差副、越前府へぞ下されける。右て数月をふれ共、府は大勢なり、杣山は要害なれば、城へも寄えず府へも懸りへず、只両陣の堺、大塩・松崎辺に兵を出し合て、日々夜々に軍の絶る隙もなし。 |
そのほか宗家一族四十三人は、ある者は非凡な抜擢にあたり俗人ながら突然高位に昇り、あるいは戦功による恩賞により凡才がたちまち高官の地位を得た。さらにその一門は諸国の守護職と行政権を兼ね備え、銀の鞍(馬具)も外さぬうちに五頭立ての車で山々を越える雲のように迅速に出陣し、蘭香漂う櫂も乾かぬ間に大船で遠く大海原へ漕ぎ出した。すべて霍光のような重臣たちですら彼らに向かって上席につくことをはばかり、ましてや名門の学者連中がその列に加わり下風に立つことを喜んだほどである。 ○新田義貞越前府城落去の件 解説
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| かゝる所に加賀国の住人、敷地伊豆守・山岸新左衛門・上木平九郎以下の者共、畑六郎左衛門尉時能が語に付て、加賀・越前堺、細呂木の辺に城郭をかまへ、津葉五郎が大聖寺の城を責落て、国中を押領す。此時までは平泉寺の衆徒等、皆二心なき将軍方にてありけるが、是もいかゞ思けん、過半引分て宮方に与力申し、三峰と云所へ打出、城をかまへて敵を待所に、伊自良次郎左衛門尉、是に与して三百余騎にて馳加る間、近辺の地頭・御家人等、ふせぎ戦に力を失て、皆己が家々に火を懸て、府の陣へ落集る。北国是より動乱して、汗馬の足を休めず。三峰の衆徒の中より杣山へ使者を立て、大将を一人給て合戦を致すべき由を申ける間、脇屋右衛門佐義助朝臣五百余騎を相副て三峯の陣へ指遣さる。牒使又加賀国に来て前に相図を定らるゝ間、敷地・上木・山岸・畑・結城・江戸・深町の者共、細屋右馬助を大将として、其勢三千余騎越前国へ打こへ、長崎・河合・川口三箇所に城を構て漸々に府へぞ責寄ける。尾張守高経は、六千余騎を随へて府中にたて篭られたりけるが、敵に国中を押取れて、一所に篭居ては兵粮につまりて、ついによかるまじとて、三千余騎をば府に残しをき、三千余騎をば一国に分遣て山々峯々に城を構へ、兵を二百騎・三百騎づゝ三十余箇所にぞ置れける。 |
このような状況の中で、加賀国の住人である敷地伊豆守・山岸新左衛門・上木平九郎以下の者たちは、畑六郎左衛門尉時能の指示により、加賀と越前の国境にある細呂木付近に城郭を築き、津葉五郎が守る大聖寺城を攻め落として領土全体を占拠した。これまで平泉寺の僧兵たちは皆、二心なく将軍(足利尊氏)側についていたが、この事態を見てどう思ったか、大半が離反して宮方(南朝)に加勢し、「三峰」という場所へ出陣し城を築いて敵を待ち受けたところ、伊自良次郎左衛門尉もこれに協力し三百余騎で駆けつけたため、近隣の地頭や御家人たちは防戦に力を尽くせず皆自分の屋敷に火を放って府中の陣営へ敗走した。北陸地方はここから動乱状態となり軍馬の蹄音が絶えなかった。三峰の僧兵らの中から杣山(新田義貞本拠)へ使者を立て、「大将一人をお送りいただき共同戦線を張るべきです」と申し出たため、脇屋右衛門佐義助朝臣は五百余騎を率いて三峰の陣地へ派遣された。連絡役が再び加賀国に来て事前調整した結果、敷地・上木・山岸・畑・結城・江戸・深町の者たちは細屋右馬助を大将とし総勢三千余騎で越前国へ進撃し長崎・河合・川口の三箇所に城塞を築き徐々に府中へ迫った。一方、尾張守高経(足利高経)は六千余騎を率いて府中に籠城していたが敵に国土全域を奪われ一ヶ所に閉じこもっては兵糧不足で不利と悟り三千余騎だけを府内に残し別の三千余騎を越前国全体に分散配置した。山々や峰々三十数箇所に砦を築き兵力を二百騎・三百騎ずつ分けて置いたのである。 解説
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| 戦場雪深して馬の足の立ぬ程は、城と城とを合て昼夜旦暮合戦を致すといへ共、僅に一日雌雄を争ふ計にて、誠の勝負は未なかりけり。去程にあら玉の年立帰て二月中旬にも成ければ、余寒も漸く退て、士卒弓をひくに手かゞまらず、残雪半村消て、疋馬地を蹈に蹄を労せず。今は時分よく成ぬ。次第に府辺へ近付寄て、敵の往反する道々に城をかまへて、四方を差塞で攻戦べし。何くか用害によかるべき所あると、見試ん為に、脇屋右衛門佐僅百四五十騎にて、鯖江の宿へ打出られけり。名将小勢にて城の外に打出たるを、能隙なりと、敵にや人の告たりけん。尾張守の副将軍細川出羽守五百余騎にて府の城より打出鯖江宿へ押寄、三方より相近付て、一人もあまさじとぞ取巻ける。脇屋右衛門前後の敵に囲れて、とても遁ぬ所也と思切てければ、中々心を一にして少も機を撓さず。後陣に高木の社をあて、左右に瓜生畔を取て、矢種を惜まず散々に射させて、敵に少も馬の足を立させず、七八度が程遭つ啓つ追立追立攻付たるに、細川・鹿草が五百余騎、纔の勢に懸立られて、鯖江の宿の後なる川の浅瀬を打わたり、向の岸へ颯と引。結城上野介・河野七郎・熊谷備中守・伊東大和次郎・足立新左衛門・小島越後守・中野藤内左衛門・瓜生次郎左衛門尉八騎の兵共、川の瀬頭に打のぞみ、つゞいて渡さんとしけるが、大将右衛門佐、馬を打寄て制せられけるは、「小勢の大勢に勝事は暫時の不思議也。 |
このような状況で年月が過ぎ二月の中旬になると、余寒も次第に弱まり兵士たちは弓を引くのに手の動きが鈍らず、残雪が村中半分ほど消えたため馬一頭でも地面を踏んで足に負担をかけず済んだ。「今こそ時機到来だ。徐々に府中周辺へ接近し敵の往来路沿いに城塞を築いて四方を封鎖しよう」と計画したものの、どこが要害として最適か試すため脇屋右衛門佐(義助)はわずか百四五十騎で鯖江宿に出撃した。名将が小兵力で城外へ出たことを敵側に誰かが通報したのか、尾張守高経の副将である細川出羽守が五百余騎を率いて府中城から打って出て鯖江宿に押し寄せ三方から包囲し「一人も逃すものか」と攻め立てた。脇屋右衛門佐は前後を敵に囲まれ到底脱出不可能と覚悟したため、むしろ心を一つにして全く動揺せず後陣の高木神社を背に左右の瓜生田畑を防壁代わりにして矢弾惜しまず激しく射かけ敵軍を少しも前進させなかった。七度八度と繰り返された攻撃を受けた細川・鹿草勢五百余騎は、少数部隊に押し返される形で鯖江宿背後の川浅瀬へ敗走し対岸へ素早く退却した。結城上野介ら八騎の武士が川端まで追いかけ続いて渡河しようとした時、大将である右衛門佐(義助)は馬を進めて制止して言った。「小軍が大軍に勝つのは一時的な奇跡だ。(中略)」 解説
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| 若難所に向て敵にかゝらば、水沢に利を失て、敵却て機に乗べし。今日の合戦は、不慮に出来つる事なれば、遠所の御方是をしらで、左右なく馳来らじと覚るぞ。此辺の在家に火を懸て、合戦ありと知せよ。」と、下知せられければ、篠塚五郎左衛門馳廻て、高木・瓜生・真柄・北村の在家二十余箇所に火を懸て、狼烟天を焦せり。所々の宮方此烟を見て、「すはや鯖江の辺に軍の有けるは、馳合て御方に力を合よ。」とて、宇都宮美濃将監泰藤・天野民部大輔政貞三百余騎にて、鯖並の宿より馳来。一条少将行実朝臣、二百余騎にて飽和より打出らる。瓜生越前守重・舎弟加賀守照、五百余騎にて妙法寺の城より馳下る。山徒三百余騎は大塩の城よりをり合ひ、河島左近蔵人惟頼は、三百余騎にて三峯の城より馳来り、総大将左中将義貞朝臣は、千余騎にて杣山よりぞ出られける。合戦の相図ありと覚へて、所々の宮方鯖江の宿へ馳集る由聞へければ、「未河ばたに叩へたる御方討すな。」とて、尾張守高経・同伊予守三千余騎を率して、国分寺の北へ打出らる。両陣相去事十余町、中に一の河を隔つ。此河さしもの大河にてはなけれ共、時節雪消に水増て、漲る浪岸をひたしければ、互に浅瀬を伺見て、いづくをか渡さましと、暫く猶予しける処に、船田長門守が若党葛新左衛門と云者、川ばたに打寄て、「此河は水だに増れば州俄に出来て、案内知ぬ人は、いつも謬する河にて候ぞ。 |
雪が深く馬が動けなかった時期は城と城の間で昼夜問わず戦っていたものの、一日だけ小競り合いする程度で決定的勝負にはならなかった。そうこうしているうちに年月が経ち二月の中旬になると寒さも和らぎ兵士たちは弓を引く手も滑らず、残雪が集落半分ほど消えたので馬一頭でも地面を踏んでも足を痛めなくなった。「今や好機到来だ。徐々に府中周辺へ接近し敵の往来路に城塞を築いて四方を封鎖して攻撃しよう」と考えたものの、どこが要害として適しているか試すため脇屋右衛門佐(義助)はわずか百四五十騎で鯖江宿に出陣した。名将が少数兵力で城外へ出たことを敵に誰か通報したらしく、尾張守高経の副将である細川出羽守が五百余騎を率いて府中城から打って出て鯖江宿へ押し寄せ三方から包囲し「一人も逃すな」と攻め立てた。脇屋右衛門佐は前後を敵に囲まれ脱出不可能と悟ったため、かえって心を一つにして微動だにせず背後の高木神社を盾に左右の瓜生田畑を防壁代わりとして矢弾惜しみなく激しく射かけ敵軍を一歩も前進させなかった。七度八度と繰り返し攻撃を受けた細川・鹿草勢五百余騎は少数部隊に押され鯖江宿背後の川浅瀬へ敗走し対岸へ素早く退却した。結城上野介ら八人の武士が川端まで追いかけ渡河しようとした時、大将の右衛門佐(義助)が馬を進めて制止して言った。「小勢で大軍に勝つのは一時的な奇跡だ。要害に向かって攻めれば水辺で不利になり敵に機会を与えるだろう。今日の戦いは予期せぬ展開だったので遠方の味方は知らず救援も来まい。この集落に火を放ち合戦を知らせよ」と命じると篠塚五郎左衛門が駆け回り高木・瓜生・真柄・北村の民家二十数軒へ放火し狼煙が天を焦がした。各地の宮方(南朝軍)はこの煙を見て「鯖江付近で戦いだ!急ぎ合力せよ」と動き宇都宮泰藤・天野政貞ら三百余騎が鯖並宿から、一条行実朝臣二百余騎が飽和から、瓜生重兄弟五百余騎が妙法寺城から駆け下り山伏衆三百余騎は大塩城より合流し河島惟頼三百余騎が三峰城から馳せ参じ総大将新田義貞朝臣千余騎も杣山を出陣した。戦いの報せがあると聞いた尾張守高経ら三千余騎は「まだ川岸にいる味方を見殺しにするな」と言って国分寺北へ打って出た。両軍距離十余町(約1km)、間に雪解け水で増水した川が隔たり浅瀬を探り合う中、船田長門守の家来葛新左衛門という者が川岸に近づいて「この川は水かさが増すと流路変わり慣れない者は迷うのです」と言った。 解説
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| いで其瀬ぶみ仕らん。」と云まゝに、白蘆毛なる馬に、かし鳥威の鎧著て、三尺六寸のかひしのぎの太刀を抜、甲の真向に指かざし、たぎりて落る瀬枕に、只一騎馬を打入て、白浪を立てぞ游せける。我先に渡さんと打のぞみたる兵三千余騎これを見て、一度に颯と打入て、弓の本筈末筈取ちがへ、馬の足の立所をば手綱をさしくつろげて歩せ、足のたゝぬ所をば馬の頭をたゝき上て泳せ、真一文字に流をきつて、向の岸へ懸あげたり。葛新左衛門は、御方の勢に二町ばかり先立て渡しければ、敵の為に馬のもろ膝ながれて、歩立に成て敵六騎に取篭られて、已に打れぬと見へける処に、宇都宮が郎等に清の新左衛門為直馳合て、敵二騎切て落し、三騎に手負せ、葛新左衛門をば助てけり。寄る勢も三千余騎、ふせぐ勢も三千余騎、大将は何れも名を惜む源氏一流の棟梁也。而も馬の懸引たやすき在所なれば、敵御方六千余騎、前後左右に追つ返つ入乱、半時ばかりぞ戦たる。かくては只命を限の戦にて、いつ勝負あるべしとも見へざりける処に、杣山河原より廻ける三峰の勢と、大塩より下る山法師と差違て、敵陣の後へ廻り、府中に火を懸たりけるに、尾張守の兵三千余騎、敵を新善光寺の城へ入かはらせじと、府中を指引返す。義貞朝臣の兵三千余騎、逃る敵を追すがうて、透間もなく攻入ける間、城へ篭らんと逃入勢共、己が拵たる木戸逆木に支られて、城へ入べき逗留もなかりければ、新善光寺の前を、府より西へ打過る。 |
「よし、その浅瀬を渡ってやろう。」と言い終わるなり、芦毛の馬に乗り樫羽織りの鎧を着た武士が三尺六寸の甲冑切れ太刀を抜き、兜の正面にかざして激流の瀬めがけただ一騎で馬を駆け込み白波を立てて泳いだ。我先に渡ろうと狙っていた兵三千余騎はこれを見ると一度にさっと川へ突入し、弓の上下筈を取り替えながら、馬の足が立つ場所では手綱を緩めて歩ませ、足が届かない所では馬の頭を叩き上げて泳がせ、一直線に流れを切って対岸へ駆け上がった。葛新左衛門は味方軍勢より二町ほど先んじて渡り終えたため敵のために馬の両膝を射抜かれ徒歩となり六騎の敵に包囲されもう討たれるかと思われたその時、宇都宮家臣・清の新左衛門為直が駆けつけて敵二騎を斬り落とし三騎に傷を負わせ葛新左衛門を救った。攻め寄せる勢も三千余騎、防ぐ勢も三千余騎で大将は互いに名を惜しむ源氏一門の棟梁である。しかも馬が駆け引きしやすい土地柄ゆえ敵味方合わせ六千余騎が前後左右に追いかけ返され入り乱れ半時ほど激戦した。こうなれば命尽きるまで戦うのみで勝敗つく様子すら見えない中、杣山河原から回り込んだ三峰城勢と大塩城から下った山伏衆が敵陣の背後に迂回し府中へ火を放ったため、尾張守高経軍三千余騎は敵(新田義貞)を新善光寺城に入らせまいと府中の救援に向かい引き返した。一方で義貞朝臣率いる兵三千余騎が逃げる敵を追って隙間なく攻め込んだため、城に籠ろうとした敗走勢は自ら設けた逆木戸に阻まれ入城の機会も得られず新善光寺前から府中より西へ打ち過ぎて退却した。 解説
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| 伊予守の勢千余騎は、若狭をさして引ければ、尾張守の兵二千余騎、織田・大虫を打過て、足羽の城へぞ引れける。都て此日一時の戦に、府の城すでに責落されぬと聞及て、未敵も寄ざる先に、国中の城の落事、同時に七十三箇所也。 ○金崎東宮並将軍宮御隠事 新田義貞・義助杣山より打出て、尾張守・伊予守府中を落、其外所々の城落されぬと聞へければ、尊氏卿・直義朝臣大に忿て、「此事は偏に春宮の彼等を御扶あらん為に、金崎にて此等は腹を切たりと宣しを、誠と心得て、杣山へ遅く討手を差下つるによつて也。此宮是程当家を失はんと思召けるを知らで、若只置奉らば、何様不思議の御企も有ぬと覚れば、潜に鴆毒を進て失奉れ。」と、粟飯原下総守氏光にぞ下知せられける。春宮は、連枝の御兄弟将軍の宮とて、直義朝臣先年鎌倉へ申下参せたりし先帝第七の宮と、一処に押篭られて御座ありける処へ、氏光薬を一裹持て参り、「いつとなく加様に打篭て御座候へば、御病気なんどの萌す御事もや候はんずらんとて、三条殿より調進せられて候、毎朝一七日聞食候へ。」とて、御前にぞ閣ける。氏光罷帰て後、将軍宮此薬を御覧ぜられて宣けるは、「未見へざるさきに、兼て療治を加る程に我等を思はゞ、此一室の中に押篭て朝暮物を思はすべしや。 |
伊予守の軍勢千余騎は若狭方面へ向け撤退したため、尾張守高経配下の兵二千余騎も織田・大虫(現福井市地域)を通過し足羽城へ退いた。この日の戦闘において府中城が瞬時に陥落したとの報が伝わると、未だ敵軍すら接近していないにもかかわらず国内の諸城七十三箇所が同時に降伏・開城する事態となった。 ○金ヶ崎における東宮と将軍宮幽閉事件 解説
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| 是は定て病を治する薬にはあらじ、只命を縮る毒なるべし。」とて、庭へ打捨んとせさせ給けるを、春宮御手に取せ給て、「抑尊氏・直義等、其程に情なき所存を挿む者ならば、縦此薬をのまず共遁べき命かは。是元来所願成就也。此毒を呑世をはやうせばやとこそ存候へ。「夫れ人間の習、一日一夜を経る間に八億四千の念あり。一念悪を発せば一生の悪身を得、十念悪を発せば十生悪身を受く。乃至千億の念も又爾也。」といへり。如是一日の悪念の報、受尽さん事猶難し。況一生の間の悪業をや。悲哉、未来無窮の生死出離何れの時ぞ。富貴栄花の人に於て、猶此苦を遁ず。況我等篭鳥の雲を恋、涸魚の水を求る如に成て、聞に付見るに随ふ悲の中に、待事もなき月日を送て、日のつもるをも知らず。悪念に犯されんよりも、命を鴆毒の為に縮て、後生善処の望を達んにはしかじ。」と仰られて、毎日法華経一部あそばされ、念仏唱させ給て、此鴆毒をぞ聞召ける。将軍の宮是を御覧じて、「誰とても懸る憂き世に心を留べきにあらず、同は後生までも御供申さんこそ本意なれ。」とて、諸共に此毒薬を七日までぞ聞食ける。軈春宮は、其翌日より御心地例に違はせ給けるが、御終焉の儀閑にして、四月十三日の暮程に、忽に隠させ給けり。 |
「これは決して病を治す薬ではない、ただ命を縮める毒であるはずだ」と言って庭へ捨てようとされたところを、春宮恒良親王が自らお取りになって仰せになった。「そもそも尊氏や直義らがあれほど冷酷な考えを持つ者ならば、たとえこの薬を飲まなくとも逃げられる命だろうか。これは本来の望み通りである。この毒を飲んで早く世を去ろうと思うのだ。」「人間というものは一日一夜の間に八億四千万の念(思い)が生じる。一つ悪い想念を起こせば一生分の悪果を受け、十の悪念なら十生の報いを受ける。千億の念もまた同様だ」と言われている。このようにたった一日の悪念による報いでさえ受け尽くすのは難しいのに、ましてや生涯にわたる悪業はなおさらである。悲しいかな、果てしない生死の輪廻から解脱する時はいずれ来るのか。富貴栄華の人ですらこの苦しみを免れない。まして我々のように籠の鳥が雲を恋い慕うように、干上がった魚が水を求めるような境遇で、見聞きすること全てに悲しみの中にあって待ち望むものもなく日々を送り、月日の経つのすらわからぬ身である。悪念に心を犯されるよりも、鴆毒によって命を縮め来世での善処(極楽往生)の希望を果たしたほうがよい。」とおっしゃられ、毎日法華経一部をお読みになり仏号を唱えながらこの鴆毒を服用された。将軍宮直冬はこれを見て「誰であれ未練のある世に心を留めるべきではない。共にあの世までお供するのが本望である」と言い、ともに七日間この毒薬を飲み続けた。すると春宮は翌日から体調が例と違われたが、最後の時は穏やかに四月十三日の夕暮れ時に突然崩御された。 解説
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| 将軍宮は二十日余まで後座ありけるが、黄疸と云御いたはり出来て、御遍身黄に成せ給て、是も終に墓なくならせ給にけり。哀哉尸鳩樹頭の花、連枝早く一朝の雨に随ひ、悲哉鶺鴒原上の草、同根忽に三秋の霜に枯ぬる事を。去々年は兵部卿親王鎌倉にて失はれさせ給ひ、又去年の春は中務親王金崎にて御自害あり。此等をこそためしなく哀なる事に、聞人心を傷しめつるに、今又春宮・将軍宮、幾程なくて御隠れありければ、心あるも心なきも、是をきゝ及ぶ人毎に、哀を催さずと云事なし。かくつらくあたり給へる直義朝臣の行末、いかならんと思はぬ人も無りけるが、果して毒害せられ給ふ事こそ不思議なれ。 ○諸国宮方蜂起事 主上山門より還幸なり、官軍金崎にて皆うたれぬと披露有ければ、今は再び皇威に服せん事、近き世にはあらじと、世挙て思定ける処に、先帝又三種の神器を帯して、吉野へ潜幸なり、又義貞朝臣已に数万騎の軍勢を率して、越前国に打出たりと聞へければ、山門より降参したりし大館左馬助氏明、伊予国へ逃下り、土居・得能が子共と引合て、四国を討従へんとす。江田兵部大夫行義も丹波国に馳来て、足立・本庄等を相語て、高山寺にたて篭る。金谷治部大輔経氏、播磨の東条より打出、吉河・高田が勢を付て、丹生の山陰に城郭を構へ、山陰の中道を差塞ぐ。 |
将軍宮直冬はその後20日あまり生存されていたが、「黄疸」という病状が現れ、全身が黄色くなられてしまい、ついに墓もなく亡くなられた。悲しいことよ!尸鳩(カッコウ)が木の枝先に咲く花のように、同じ枝から生じた兄弟は早くもひと時の雨と共に散り失せ、哀れなことよ!鶺鴒(セキレイ)が草原で育つ草のように、同根の者はたちまち三秋(晩秋)の霜によって枯れてしまった。一昨年には兵部卿親王(護良親王)が鎌倉で殺害され、また去年の春は中務親王(尊良親王)が金ヶ崎で自刃なさった。これらの出来事もこれ以上ない悲劇として人々を傷つけてきたのに、今度は春宮恒良親王と将軍宮直冬があっけなく亡くなられたので、心ある者も無き者も、この話を聞く者は皆、哀悼の念に駆られずにはいられなかった。これほど残酷なことを行った直義朝臣の末路はどうなるかと思わぬ人はおらず、果たして彼自身が後に毒殺されるというのは何と皮肉なことだろう。 ○諸国における南朝勢力蜂起事件 解説
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| 遠江の井介は、妙法院宮を取立まいらせて、奥の山に楯篭る。宇都宮治部大輔入道は、紀清両党五百余騎を率して、吉野へ馳参ければ、旧功を捨ざる志を君殊に叡感有て、則是を還俗せさせられ四位少将にぞなされける。此外四夷八蛮、此彼よりをこるとのみ聞へしかば、先帝旧労の功臣、義貞恩顧の軍勢等、病雀花を喰て飛揚の翅を伸、轍魚雨を得て■■の脣を湿すと、悦び思はぬ人もなし。 ○相摸次郎時行勅免事 先亡相摸入道宗鑒が二男相摸次郎時行は、一家忽に亡し後は、天に跼り地に蹐して、一身を置に安き所なかりしかば、こゝの禅院、彼の律院に、一夜二夜を明て隠ありきけるが、窃に使者を吉野殿へ進て申入けるは、「亡親高時法師、臣たる道を弁へずして、遂に滅亡を勅勘の下に得たりき。然といへ共、天誅の理に当る故を存ずるに依て、時行一塵も君を恨申処を存候はず。元弘に義貞は関東を滅し、尊氏は六波羅を攻落す。彼両人何も勅命に依て、征罰を事とし候し間、憤を公儀に忘れ候し処に、尊氏忽に朝敵となりしかば、威を綸命の下に仮て、世を叛逆の中に奪んと企ける心中、事已に露顕し候歟。抑尊氏が其人たる事偏に当家優如の厚恩に依候き。然に恩を荷て恩を忘れ、天を戴て天を乖けり。其大逆無道の甚き事、世の悪む所人の指さす所也。 |
遠江国の井伊介(または井介)らは妙法院門跡(皇族僧侶)を奉じて立て、山中に籠城した。宇都宮氏の治部大輔入道(出家者)が紀清両党五百余騎を率いて吉野へ駆け参じたため、旧功績を見捨てない忠節心に対して後醍醐天皇は特に感銘され、これを還俗させ四位少将に任官された。これ以外にも四方から味方が続々と集まるとの報せがあったので、先帝(後醍醐天皇)に仕えた功臣や新田義貞恩顧の軍勢らは、「病んだ雀が花を啄んで飛翔する翼を伸ばすように」「車輪跡の水たまりで干からびかけた魚が雨を得て唇を潤すように」と、誰もが喜ばずにはいられなかった。 ○相模次郎時行の赦免事件 解説
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| 是を以当家の氏族等、悉敵を他に取らず。惟尊氏・直義等が為に、其恨を散ん事を存ず。天鑒明に下情を照されば、枉て勅免を蒙て、朝敵誅罰の計略を廻すべき由、綸旨を成下れば、宜く官軍の義戦を扶け、皇統の大化を仰申べきにて候。夫不義の父を誅せられて、忠功の子を召仕はるゝ例あり。異国には趙盾、我朝には義朝、其外泛々たるたぐひ、勝計すべからず。用捨無偏、弛張有時、明王の撰士徳也。豈既往の罪を以て、当然の理を棄られ候はんや。」と、伝奏に属して委細にぞ奏聞したりける。主上能々聞召て、「犁牛のたとへ、其理しか也。罰其罪にあたり、賞其功に感ずるは善政の最たり。」とて、則恩免の綸旨をぞ下れける。 ○奥州国司顕家卿並新田徳寿丸上洛事 奥州の国司北畠源中納言顕家卿、去元弘三年正月に、園城寺合戦の時上洛せられて義貞に力を加へ、尊氏卿を西海に漂はせし無双の大功也とて、鎮守府の将軍に成れて、又奥州へぞ下されける。其翌年官軍戦破れて、君は山門より還幸なりて、花山院の故宮に幽閉せられさせ給ひ、金崎の城は攻落されて、義顕朝臣自害したりと聞へし後は、顕家卿に付随ふ郎従、皆落失て勢微々に成しかば、纔に伊達郡霊山の城一を守て、有も無が如にてぞをはしける。 |
遠江国の井介らは妙法院宮(守良親王)をお立てして山中へ籠城した。宇都宮治部大輔入道が紀清両党五百余騎を率いて吉野に参上したため、忠誠心を見捨てない志に対し後醍醐天皇は特に感銘され、これを還俗させ四位少将(左近衛少将相当)に任じられた。さらに四方から味方が続々と集まるとの報せがあったので、先帝に尽くした功臣や新田義貞恩顧の軍勢らは、「病んだ雀が花を食べて飛翔する力を取り戻すように」「干上がった車輪跡の魚が雨を得て唇を潤すように」と誰もが喜びに満ちていた。 ○相模次郎時行勅免事件 ○奥州国司顕家卿および新田徳寿丸上洛事件 解説
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| かゝる処に、主上は吉野へ潜幸なり義貞は北国へ打出たりと披露ありければ、いつしか又人の心替て催促に随ふ人多かりけり。顕家卿時を得たりと悦て、廻文を以て便宜の輩を催さるゝに、結城上野入道々忠を始として、伊達・信夫・南部・下山六千余騎にて馳加る。国司則其勢を合て三万余騎、白川の関へ打越給に、奥州五十四郡の勢共、多分はせ付て、程なく十万余騎に成にけり。さらば軈鎌倉を責落て、上洛すべしとて、八月十九日白川関を立て、下野国へ打越給ふ。鎌倉の管領足利左馬頭義詮此事を聞給て、上杉民部大夫・細川阿波守・高大和守、其外武蔵・相摸の勢八万余騎を相副て、利根河にて支らる。去程に、両陣の勢東西の岸に打臨で、互に是を渡さんと、渡るべき瀬やあると見ければ、其時節余所の時雨に水増て、逆波高く漲り落て、浅瀬はさてもありや無やと、事問べき渡守さへなければ、両陣共に水の干落るほどを相待て、徒に一日一夜は過にけり。爰に国司の兵に、長井斉藤別当実永と云者あり。大将の前にすゝみ出て申けるは、「古より今に至まで、河を隔たる陣多けれ共、渡して勝ずと云事なし。縦水増て日来より深く共、此川宇治・勢多・藤戸・富士川に勝る事はよもあらじ。敵に先づ渡されぬさきに、此方より渡て、気を扶て戦を決候はんに、などか勝で候べき。 |
このような状況の中、後醍醐天皇が吉野へ行幸されたことと新田義貞が北陸へ進出したことが公表されると、人々の心は次第に変わり南朝に従う者が増えた。顕家卿(北畠顕家)は好機到来を喜び、廻文(指令書)で味方を召集したところ、結城上野入道道忠を筆頭に伊達・信夫・南部・下山勢ら六千余騎が参集。国司(顕家)はこれらを合わせ三万余騎となり白河の関へ進軍すると、奥州五十四郡の兵士たちも続々と加わり、間もなく十万余騎に膨れ上がった。「さあ鎌倉を攻め落として上洛しよう」との方針で八月十九日に関を発ち下野国へ向かう。これを聞いた鎌倉管領・足利左馬頭義詮(尊氏の子)は、上杉民部大夫や細川阿波守らに武蔵・相模勢八万余騎を付けて利根川で迎え撃たせた。両軍が東西の岸に対峙し渡河点を探ったが、折からの時雨で増水した川は逆巻く波浪が高く、浅瀬さえ見分けられない状況だったため、双方とも水位低下を待つこととなり無為に一日一夜が過ぎた。ここで顕家軍の長井斎藤別当実永という者が大将の前に進み出て申し上げた。「古今東西、川を隔てた陣形では渡河後に勝利した例はありません。仮に増水して普段より深くとも、この利根川が宇治・勢多(瀬田)・藤戸・富士川よりも危険とは思えません。敵に先に渡される前にこちらから攻め込み士気高めて決戦すべきです」 解説
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| 」と申ければ、国司、「合戦の道は、勇士に任るにしかず、兎も角も計ふべし。」とぞ宣ける。実永大に悦て、馬の腹帯をかため、甲の緒をしめて、渡さんと打立けるを見て、いつも軍の先を争ひける部井十郎・高木三郎、少も前後を見つくろはず、只二騎馬を颯と打入て、「今日の軍の先懸、後に論ずる人あらば、河伯水神に向て問へ。」と高声に呼て、箆橈形に流をせいてぞ渡しける。長井斉藤別当・舎弟豊後次郎、兄弟二人是を見て、「人の渡したる処を渡ては、何の高名かあるべき。」と、共に腹を立て、是より三町計上なる瀬を只二騎渡けるが、岩浪高して逆巻く波に巻入られて、馬人共に見へず、水の底に沈で失にけり。其身は徒に溺て、尸は急流の底に漂といへ共、其名は永く止て武を九泉の先に耀す。さてこそ鬚髪を染て討死せし実盛が末とは覚へたれと、万人感ぜし言の下に先祖の名をぞ揚たりける。是を見て、奥州の勢十万余騎、一度に打入れて、まつ一文字に渡せば、鎌倉勢八万余騎、同時に渡合て、河中にて勝負を決せんとす。され共先一番に渡つる奥勢の人馬に、東岸の流せかれて、西岸の水の早き事、宛竜門三級の如なれば、鎌倉の先陣三千余騎、馬筏を押破られて、浮ぬ沈ぬ流行。後陣の勢は是を見て、叶はじとや思けん、河中より引返て、平野に支て戦けるが、引立ける軍なれば、右往左往に懸ちらされて、皆鎌倉へ引返す。 |
このように申し上げると、国司(北畠顕家)は「合戦の成否は勇士に任せるのが最善だ。いずれにせよ検討しよう」と言われた。実永は大いに喜び馬の腹帯を締め直し甲冑の緒を固く結ぶと、渡河しようと立ち上がった。これを見て常に先陣争いをする部井十郎・高木三郎は全くためらわず、ただ二騎でさっと川へ突入し、「今日の先駆けを後から批判する者がいたら水神に向かって問え!」と叫びながら筏のように流れを掻き分けて渡った。長井斉藤別当実永と弟豊後次郎はこれを見て「他人が渡った場所では武功にならない」と腹を立て、そこから三町(約330m)上流の瀬へ単騎で向かうが岩に砕ける逆巻く波に飲まれ人馬もろとも水中に沈んでしまった。彼ら自身は無駄死にし遺体は急流に漂ったが、その名は永遠に残り武勲を黄泉の先陣で輝かせた。「白髪まで生え討ち死にした斎藤実盛(源平合戦)の末裔とはこれだ」と皆が感動する言葉の中で先祖の名誉を高めたのである。この様子を見た奥州勢十万余騎は一気に川へ突入し真っ直ぐ渡ろうとしたため、鎌倉勢八万余騎も同時に対抗して河原で決着をつけようとする。しかし先に渡り終えた奥州軍の兵馬が東岸を塞ぎ西岸では水速があたかも龍門三段滝(急流)のように早いため、鎌倉先陣三千余騎は馬ごと押し流され浮き沈みする。後続部隊はこれを見て勝機なしと悟り途中で引き返して平野で防戦したが退却軍であるため右往左往に散らされ皆鎌倉へ逃げ戻った。 解説
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| 国司利根川の合戦に打勝て、勢漸強大に成と云ども、鎌倉に猶東八箇国の勢馳集て、雲霞の如なりと聞ければ、武蔵の府に五箇日逗留して、窃に鎌倉の様をぞ伺ひきゝ給ける。かゝる処に、宇都宮左少将公綱、紀清両党千余騎にて国司に馳加る。然共、芳賀兵衛入道禅可一人は国司に属せず。公綱が子息加賀寿丸を大将として、尚当国宇都宮の城に楯篭る。これに依て国司、伊達・信夫の兵二万余騎を差遣て、宇都宮の城を責らるゝに、禅可三日が中に攻落れて降参したりけるが、四五日を経て後又将軍方にぞ馳付ける。此時に先亡の余類相摸次郎時行も、已に吉野殿より勅免を蒙てければ、伊豆国より起て、五千余騎足柄・箱根に陣を取て、相共に鎌倉を責べき由を国司の方へ牒せらる。又新田左中将義貞の次男徳寿丸、上野国より起て、二万余騎武蔵国へ打越て、入間河にて著到を付け、国司の合戦若延引せば、自余の勢を待ずして鎌倉を責べしとぞ相謀ける。鎌倉には上杉民部大夫・同中務大夫・志和三郎・桃井播磨守・高大和守以下宗との一族大名数十人、大将足利左馬頭義詮の御前に参て、評定ありけるは、「利根川の合戦の後、御方は気を失て大半は落散候、御敵は勢に乗て、弥猛勢に成候ぬ。今は重て戦共勝事を得難し。 |
国司(北畠顕家)は利根川の戦いに勝利し勢力が次第に拡大したものの、鎌倉にはなお関東八カ国の軍勢が集結して雲霞のように多いと聞いたため、武蔵府中で五日間留まり密かに鎌倉の状況を探らせた。そのような折り、宇都宮左少将公綱が紀清両党千余騎を率いて国司に合流した。しかし芳賀兵衛入道禅可だけは国司に従わず、公綱の息子加賀寿丸を大将として依然と宇都宮城に籠城した。このため国司は伊達・信夫勢二万余騎を派遣して同城を攻撃させたところ、禅可は三日で落城し降伏したが、四五日経つと再び足利方へ走った。また先に滅んだ北条氏の残党である相模次郎時行(北条高時の子)もすでに吉野朝廷から赦免を受けていたため、伊豆国より挙兵し五千余騎を率いて足柄・箱根に布陣し、共に鎌倉攻撃する旨を通達してきた。さらに新田左中将義貞の次男徳寿丸(後の新田義興)が上野国から二万余騎で武蔵国へ進出し入間川付近で軍備を整え、「合戦が遅延した場合は他の勢力待たず単独で鎌倉攻撃する」と示唆した。一方鎌倉では、上杉民部大夫ら数十人の大名たちが足利左馬頭義詮の前で評議を行い「利根川敗戦後は士気低下し大半が離散した。敵は勢いに乗じさらに強力化している。今さら再戦しても勝利は困難である」と述べた。 解説
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| 只安房・上総へ引退て、東八箇国の勢何方へか付と見て、時の反違に随ひ、軍の安否を計て戦ふべきか。」と、延々としたる評定のみ有て、誠に冷しく聞へたる義勢は更になかりけり。 ○追奥勢跡道々合戦事 大将左馬頭殿は其比纔に十一歳也。未思慮あるべき程にてもをはせざりけるが、つく/゛\と此評定を聞給て、「抑是は面々の異見共覚へぬ事哉、軍をする程にては一方負ぬ事あるべからず。漫に怖ば軍をせぬ者にてこそあらめ。苟も義詮東国の管領として、たま/\鎌倉にありながら、敵大勢なればとて、爰にて一軍もせざらんは、後難遁れがたくして、敵の欺ん事尤当然也。されば縦御方小勢なりとも、敵寄来らば馳向て戦はんに、叶はずは討死すべし。若又遁つべくは、一方打破て、安房・上総の方へも引退て、敵の後に随て上洛し、宇治・勢多にて前後より責たらんに、などか敵を亡さゞらん。」と謀濃に義に当て宣ければ、勇将猛卒均く此一言に励されて、「さては討死するより外の事なし。」と、一偏に思切て鎌倉中に楯篭る。其勢一万余騎には過ざりけり。是を聞て国司・新田徳寿丸・相摸次郎時行・宇都宮の紀清両党、彼此都合十万余騎、十二月二十八日に、諸方皆牒合て、鎌倉へとぞ寄たりける。鎌倉には敵の様を聞て、とても勝べき軍ならずと、一筋に皆思切たりければ、城を堅し塁を深くする謀をも事とせず、一万余騎を四手に分て、道々に出合、懸合々々一日支て、各身命を惜まず戦ける程に、一方の大将に向はれける志和三郎杉下にて討れにければ、此陣より軍破て寄手谷々に乱入る。 |
「ただ安房・上総へ退却し、関東八カ国の勢力の動向を見極めたうえで情勢変化に応じ、戦況を考慮して交戦すべきか」と長々しい評議ばかり続き、士気はまったく上がらなかった。 解説
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| 寄手三方を囲て御方一処に集しかば、打るゝ者は多して戦兵は少。かくては始終叶べしとも見へざりければ、大将左馬頭殿を具足し奉て、高・上杉・桃井以下の人々、皆思々に成てぞ落られける。かゝりし後は、東国の勢宮方に随付事雲霞の如し。今は鎌倉に逗留して、何の用かあるべきとて、国司顕家卿以下、正月八日鎌倉を立て、夜を日についで上洛し給へば、其勢都合五十万騎、前後五日路左右四五里を押て通るに、元来無慚無愧の夷共なれば、路次の民屋を追捕し、神社仏閣を焼払ふ。総此勢の打過ける跡、塵を払て海道二三里が間には、在家の一宇も残らず草木の一本も無りけり。前陣已に尾張の熱田に著ければ、摂津大宮司入道源雄、五百余騎にて馳付、同日美濃の根尾・徳山より堀口美濃守貞満、千余騎にて馳加る。今は是より京までの道に、誰ありとも此勢を聊も支んとする者は有がたしとぞ見へたりける。爰に鎌倉の軍に打負て、方々へ落られたりける上杉民部大輔・舎弟宮内少輔は、相摸国より起り、桃井播磨守直常は、箱根より打出、高駿河守は安房・上総より鎌倉へ押渡り、武蔵・相摸の勢を催るゝに、所存有て国司の方へは付ざりつる江戸・葛西・三浦・鎌倉・坂東の八平氏・武蔵の七党、三万余騎にて馳来る。 |
「ただ安房・上総(現在の千葉県)へ退却し、関東八カ国の勢力がどちらにつくか見極めたうえで情勢変化に対応し、戦況を考慮して交戦すべきか」と延々と評議ばかり続き、士気はまったく高まらなかった。 解説
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| 又清の党旗頭、芳賀兵衛入道禅可も、元来将軍方に志有ければ、紀清両党が国司に属して上洛しつる時は、虚病して国に留たりけるが、清の党千余騎を率して馳加る。此勢又五万余騎国司の跡を追て、先陣已に遠江に著ば、其国の守護今河五郎入道、二千余騎にて馳加る。中一日ありて三河国に著ば、当国守護高尾張守、六千余騎にて馳加る。又美濃の州俣へ著ば、土岐弾正少弼頼遠、七百余騎にて馳加る。国司の勢六十万騎前を急て、将軍を討奉らんと上洛すれば、高・上杉・桃井が勢は八万余騎、国司を討んと跡に付て追て行。「蟷螂蝉をうかゞへば、野鳥蟷螂を窺ふ。」と云荘子が人間世のたとへ、げにもと思ひ知れたり。 ○青野原軍事付嚢沙背水事 坂東よりの後攻の勢、美濃国に著て評定しけるは、「将軍は定て宇治・勢多の橋を引て、御支あらんずらん。去程ならば国司の勢河を渡しかねて、徒に日を送べし。其時御方の勢労兵の弊に乗て、国司の勢を前後より攻んに、勝事を立ろに得つべし。」と申合れけるを、土岐頼遠黙然として耳を傾けゝるが、「抑目の前を打通る敵を、大勢なればとて、矢の一をも射ずして、徒に後日の弊に乗ん事を待ん事は、只楚の宋義が「蚊を殺には其馬を撃ず。」と云しに似たるべし。天下の人口只此一挙に有べし。 |
「攻め手は三方から包囲したため味方は一カ所に密集し、打ち負かされる兵士ばかりで戦える者は少なかった。このままでは持ちこたえられそうになく、大将左馬頭殿(足利義詮)を武装させて護衛しながら、高(師直)・上杉(憲顕)・桃井(直常)以下の者たちはそれぞれ散り散りに敗走した。この後、東国の勢力が南朝方につく様子は雲や霞のようだった。今さら鎌倉に留まっても意味がないと考えた国司顕家卿らは正月八日に鎌倉を出発し、昼夜兼行で京都へ向かった。その軍勢は総計五十万騎となり、進軍中五日間も続けて左右四五里(約16-20km)の範囲を占領しながら通ったが、そもそも無慈悲な東国武士たちであったため、道中の民家を略奪し神社仏閣を焼き払い、彼らが通り過ぎた後は海岸沿い二三里にわたり集落の一軒も残らず草木一本さえなくなっていた。 解説
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| 所詮自余の御事は知ず、頼遠に於ては命を際の一合戦して、義にさらせる尸を九原の苔に留むべし。」と、又余儀もなく申されければ、桃井播磨守、「某も如此存候。面々はいかに。」と申されければ、諸大将皆理に服して、悉此儀にぞ同じける。去程に奥勢の先陣、既垂井・赤坂辺に著たりけるが、跡より上る後攻の勢近づきぬと聞へければ、先其敵を退治せよとて、又三里引返して、美濃・尾張両国の間に陣を取らずと云処なし。後攻の勢は八万余騎を五手に分、前後を鬮に取たりければ、先一番に小笠原信濃守・芳賀清兵衛入道禅可二千余騎にて志貴の渡へ馳向ば、奥勢の伊達・信夫の兵共、三千余騎にて河を渡てかゝりけるに、芳賀・小笠原散々に懸立られて、残少に討れにけり。二番に高大和守三千余騎にて、州俣河を渡る所に、渡しも立ず、相摸次郎時行五千余騎にて乱合、互に笠符をしるべにて組で落、々重て頚を取り、半時ばかり戦たるに、大和守が憑切たる兵三百余人討れにければ、東西に散靡て山を便に引退く。三番に今河五郎入道・三浦新介、阿字賀に打出て、横逢に懸る所を、南部・下山・結城入道、一万余騎にて懸合、火出程に戦たり。今河・三浦元来小勢なれば、打負て河より東へ引退く。四番に上杉民部大輔・同宮内小輔、武蔵・上野の勢一万余騎を率して、青野原に打出たり。 |
「結局のところ他の御方々のことは知らないが、私頼遠においてはこの一戦に命を賭け、大義に殉じた屍を九原(黄泉)の苔に留めよう。」と述べると、これには反論もできず、桃井播磨守直常も「私も同様に考えております。諸将はいかがでしょうか」と言上したところ、大将たちは皆その道理に従い全員この方針に同意した。こうして南朝軍の先鋒隊が垂井・赤坂付近へ到達していた時、後続の足利追撃軍が迫っているとの報を得ると、「まずこの敵を討て」との命令で三里(約12km)引き返し、美濃と尾張両国の境界域に陣地を構築した。 足利方八万余騎は五部隊に分かれ前衛・後衛を抽選(くじ)で決めたため、第一陣の小笠原信濃守貞宗と芳賀清兵衛入道禅可二千余騎が志貴渡河点へ向かうと、南朝軍の伊達行朝・信夫氏残党三千余騎が川を渡って迎撃。しかし芳賀・小笠原勢は果敢に突撃し敵を壊滅させた。第二陣として高大和守師泰三千余騎が州俣河(長良川)の渡河点へ進むと、準備も整わぬうちに相模次郎時行五千余騎が乱戦を仕掛け、互いに笠紋で敵味方を識別しながら組打ちとなり、半刻(約1時間)の死闘の末、師泰配下三百余名が討たれたため東西へ潰走し山中に退却した。 第三陣では今河五郎入道直員と三浦新介義勝が阿字賀原へ進出しようとした矢先、横合いから南部信光・下山朝政・結城宗広ら一万余騎の奇襲を受け熾烈な戦闘となる。元々少数勢だった今河・三浦は敗北し川東へ撤退した。第四陣として上杉民部大輔憲顕と同宮内少輔が武蔵・上野兵万余騎を率い青野ヶ原に布陣する。 解説
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| 爰には新田徳寿丸・宇都宮の紀清両党三万余騎にて相向ふ。両陣の旗の紋皆知りたる兵共なれば、後の嘲をや恥たりけん、互に一足も引ず、命を涯に相戦ふ。毘嵐断て大地忽に無間獄に堕、水輪涌て世界こと/゛\く有頂天に翻へらんも、かくやと覚るばかり也。され共大敵とりひしくに難ければ、上杉遂に打負て、右往左往に落て行。五番に桃井播磨守直常・土岐弾正少弼頼遠、態と鋭卒をすぐつて、一千余騎渺々たる青野原に打出て、敵を西北に請てひかへたり。是には奥州の国司鎮守府将軍顕家卿・副将軍春日少将顕信、出羽・奥州の勢六万余騎を率して相向ふ。敵に御方を見合すれば、千騎に一騎を合すとも、猶当るに足ずと見ける処に、土岐と桃井と、少も機を呑れず、前に恐べき敵なく、後に退くべき心有とも見へざりけり。時の声を挙る程こそ有けれ、千余騎只一手に成て、大勢の中に颯と懸入、半時計戦て、つと懸ぬけて其勢を見れば、三百余騎は討れにけり。相残勢七百余騎を又一手に束ねて、副将軍春日少将のひかへたる二万余騎が中へ懸入て、東へ追靡、南へ懸散し、汗馬の足を休めず、太刀の鐔音止時なく、や声を出てぞ戦合たる。千騎が一騎に成までも、引な引なと互に気を励して、こゝを先途と戦けれ共、敵雲霞の如くなれば、こゝに囲れ彼に取篭られて、勢もつき気も屈しければ、七百余騎の勢も、纔に二十三騎に打成され、土岐は左の目の下より右の口脇・鼻まで、鋒深に切付られて、長森の城へ引篭る。 |
ここでは新田徳寿丸(義興)と宇都宮紀清両党の三万余騎が対峙した。双方とも相手方の旗印を知り抜いた兵ばかりだったため、後世の嘲笑を恥じたのか、互いに一歩も引かず命を尽くすまで戦った。(その激しさは)嵐で大地がまっさかさまに地獄へ落ちたり、洪水で世界が逆さまに天界へひっくり返るほどだと感じられるほどであった。しかし敵があまりにも強大だったため、上杉憲顕ら第四陣はついに敗れ、散りじりになって退却した。 第五陣として桃井播磨守直常と土岐弾正少弼頼遠がわざと精鋭を選抜し、千余騎の寡兵で広漠たる青野ヶ原に進出すると、敵軍を北西方向へ誘い込んで待ち構えた。これに対し南朝方では奥州国司・鎮守府将軍北畠顕家卿と副将軍春日少将顕信が率いる羽州(出羽)・奥州勢六万余騎が応戦した。(桃井らは)敵味方の兵力を比較すれば千対一でも到底かなわないと思われた状況で、土岐も桃井も少しも動じる様子なく、「前に恐れるべき敵はおらず後退しようとする心も見せない」という態度だった。鬨の声を上げるとすぐに、千余騎が一手にまとまって大軍の中へ颯と突入し、半時(約1時間)戦って素早く抜け出してみれば三百余騎が討たれていた。 残る七百余騎を再び一団として束ね、副将軍顕信の控え二万余騎めがけて突撃すると、(敵を)東へ追い散らし南へ駆り立てながら、馬も汗だくで休む間もなく刀剣の鍔音は絶えることなく叫び声を上げて戦った。千騎が一騎になるまで引いては立ち向かい士気を鼓舞したが、敵があまりにも雲霞のように多かったため、(逆に)こちらがあちこち包囲され追い詰められると兵力も尽き意気消沈し七百余騎の軍勢はわずか二十三騎にまで減らされた。土岐頼遠は左目の下から右口元・鼻にかけて深く斬りつけられ、長森城へ撤退して籠城した。 解説
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| 桃井も三十余箇度の懸合に七十六騎に打成され、馬の三図・平頚二太刀切れ、草摺のはづれ三所つかれて、余に戦疲ければ、「此軍是に限るまじ、いざや人々馬の足休ん。」と、州俣河に馬を追漬て、太刀・長刀の血を洗て、日も暮れば野に下居て、終に河より東へは越給はず。京都には奥勢上洛の由、先立て聞へけれ共、土岐美濃国にあれば、さりとも一支は支へんずらんと、憑敷思はれける処に、頼遠既に青野原の合戦に打負て、行方知らずとも聞へ、又は討れたり共披露ありければ、洛中の周章斜ならず。さらば宇治・勢多の橋を引てや相待つ。不然ば先西国の方へ引退て、四国・九州の勢を付て、却て敵をや攻べきと異議まち/\に分て、評定未落居せざりけるに、越後守師泰且く思案して申されけるは、「古より今に至まで、都へ敵の寄来る時、宇治・勢多の橋を曳て戦事度々也。然れ共此河にて敵を支て、都を落されずと云事なし。寄る者は広く万国を御方にして威に乗り、防ぐ者は纔に洛中を管領して気を失故也。不吉の例を逐て、忝く宇治・勢多の橋を引、大敵を帝都の辺にて相待んよりは、兵勝の利に付て急近江・美濃辺に馳向ひ、戦を王城の外に決せんには如じ。」と、勇み其気に顕れ謀其理に協て申されければ、将軍も師直も、「此儀然べし。 |
ここでは桃井直常も三十回以上の戦闘で七十六騎にまで減らされ、馬具(三図)と鞍輪(平頚)を二太刀斬り落とされ、草摺のはずれ三箇所を突かれて疲労困憊したため、「この戦いはここまでではないだろう。さあ皆の者よ、馬を休めよう」と言い、州俣河(長良川)に馬を水浴させながら太刀や長刀の血糊を洗った。日も暮れたので野営し、結局は川東へ渡らずに留まった。 京都では南朝軍が上洛するという情報が先立って伝わっていたものの、「土岐頼遠が美濃国にいるのだからさすがに一戦は防げるだろう」と確信していたところ、(実際には)頼遠が青野ヶ原合戦で敗れて行方不明、あるいは討死したとの報せがあったため都中は大混乱となった。そこで「ならば宇治・勢多の橋を落として敵を待ち構えよう」という意見と、「いやむしろ先に西国へ退いて四国・九州の兵を集め、逆襲すべきだ」など異論が入り混じって評定はまとまらなかった。 その時越後守高師泰が思案して述べたのは、「昔から今まで都に敵が迫る際に宇治・勢多橋で防戦した例は数多いものの、この川だけで敵を食い止めて京都を守り切ったことはない。なぜなら攻め寄せる軍は広く諸国を味方につけて勢いに乗っているのに比べ、防ぐ側は都内だけを支配して気力が衰えるからだ。(過去に失敗した)不吉な先例にならって大事な橋を落とし強敵を帝都近郊で待つよりも、兵力の有利性を活かして急ぎ近江・美濃方面へ向かい、都の外で決着をつける方が勝ち目がある」というものであった。その勇猛さが態度に表れ道理にも適った発言だったため将軍(足利尊氏)も高師直も「この案が妥当だ」と同意した。 解説
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| 」とぞ甘心せられける。「さらば時刻をうつさず向へ。」とて、大将軍には高越後守師泰・同播磨守師冬・細川刑部大輔頼春・佐々木大夫判官氏頼・佐々木佐渡判官入道々誉・子息近江守秀綱、此外諸国の大名五十三人都合其勢一万余騎、二月四日都を立、同六日の早旦に、近江と美濃との堺なる黒地河に著にけり。奥勢も垂井・赤坂に著ぬと聞へければ、こゝにて相まつべしとて、前には関の藤川を隔、後には黒地川をあてゝ、其際に陣をぞ取たりける。抑古より今に至まで、勇士猛将の陣を取て敵を待には、後は山により、前は水を堺ふ事にてこそあるに、今大河を後に当て陣を取れける事は又一の兵法なるべし。昔漢の高祖と楚の項羽と天下を争事八箇年が際戦事休ざりけるに、或時高祖軍に負て逃る事三十里、討残されたる兵を数るに三千余騎にも足ざりけり。項羽四十余万騎を以て是を追けるが、其日既に暮ぬ。夜明ば漢の陣へ押寄て、高祖を一時に亡さん事隻手の内に在とぞ勇みける。爰に高祖の臣に韓信と云ける兵を大将に成して、陣を取らせけるに、韓信態と後に大河を当て橋を焼落し、舟を打破てぞ棄たりける。是は兎ても遁るまじき所を知て、士卒一引も引心なく皆討死せよと、しめさん為の謀也。夜明ければ、項羽の兵四十万騎にて押寄、敵を小勢也と侮て戦を即時に決せんとす。 |
そこで一同も承諾した。「それでは一刻も早く出発だ。」ということで、大将軍として高越後守師泰・同播磨守師冬・細川刑部大輔頼春・佐々木大夫判官氏頼・佐々木佐渡判官入道道誉とその息子近江守秀綱が率い、これに加え諸国の大名五十三名総勢一万余騎は二月四日に京都を出発し同六日早朝には近江国(現滋賀県)と美濃国(岐阜県南部)の境にある黒地川に到着した。南朝方奥州軍が垂井・赤坂に進んだとの報を得たため、「ここで待ち構えよう」として、前方に関の藤川を堺とし後方は黒地川を背に陣を敷いた。 そもそも古来より勇将たちが陣を張り敵を迎える時は背面を山に前線を川にするのが常道だが、今回のように大河を背後に配置したのは特異な兵法と言えよう。かつて漢の高祖(劉邦)と楚の項羽が天下争奪戦を繰り広げた八年間のある時、高祖軍は敗れて三十里も後退し生き残った兵は三千騎にも満たなかった。これを四十万騎で追う項羽は「夜明けに漢陣へ突入して一気に決着をつける」と意気込んだ。 その際高祖の臣下韓信が将軍となり布陣したところ、彼はわざと後方の大河にかかる橋を焼き落として舟も破棄したのだ(背水の陣)。これは「逃げ場がないことを兵士に悟らせ退却の余地を断ち全員死ぬ覚悟で戦わせる」という策であった。夜が明けると項羽軍四十万騎は小勢と侮り即時決戦を挑んだ。 解説
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| 其勢参然として左右を不顧懸けるを、韓信が兵三千余騎、一足も引ず死を争て戦ける程に、項羽忽に討負て、討るゝ兵二十万人、逃るを追事五十余里なり。沼を堺ひ沢を隔て、こゝまでは敵よも懸る事得じと、橋を引てぞ居りける。漢の兵勝に乗て今夜軈て項羽の陣へ寄んとしけるに、韓信兵共を集て申けるは、「我思様あり。汝等皆持所の兵粮を捨てゝ、其袋に砂を入て持べし。」とぞ下知しける。兵皆心得ぬ事哉と思ながら、大将の命に随て、士卒皆持所の粮を捨て、其袋に砂を入て、項羽が陣へぞ押寄たる。夜に入て項羽が陣の様を見るに、四方皆沼を堺ひ沢を隔て馬の足も立ず、渡るべき様なき所にぞ陣取たりける。此時に韓信持たる所の砂嚢を沢に投入々々、是を堤に成て其上を渡るに、深泥更に平地の如し。項羽の兵二十万騎終日の軍には疲れぬ。爰までは敵よすべき道なしと油断して、帯紐とひてねたる処に、高祖の兵七千余騎時を咄と作て押寄たれば、一戦にも及ばず、項羽の兵十万余騎、皆河水にをぼれて討れにけり。是を名付て韓信が嚢砂背水の謀とは申也。今師泰・師冬・頼春が敵を大勢也と聞て、態水沢を後に成て、関の藤川に陣を取けるも、専士卒心を一にして、再び韓信が謀を示す者なるべし。去程に国司の勢十万騎、垂井・赤坂・青野原に充満して、東西六里南北三里に陣を張る。 |
項羽軍の勢いは荒々しく周囲も顧みず突進してきたが、韓信率いる三千余騎は一歩も退かず死を賭けて戦った結果、項羽は突然敗走し討たれた兵士二十万人に上り、逃亡者を五十里以上追撃した。その後漢軍は沼沢地の手前で橋を落とし「ここまで敵が攻め寄せることはあるまい」と陣を構えた。 勝ちに乗じた漢軍が今夜中にも項羽本陣へ迫ろうとした時、韓信は兵士全員を集めて命令した:「私には策がある。お前たち皆、各自の携帯食糧を捨て袋の中に砂を詰めよ」。兵士たちは理解できぬと思いながらも大将軍の命に従って全員が食料を廃棄し砂袋を持ち項羽陣へ攻め寄せた。夜になって敵陣を見ると、四方沼沢地に囲まれ馬すら立てない渡河不能な場所に布陣していたのだ。 この時韓信は兵士たちの砂嚢(すなぶくろ)を次々と沼に投げ入れ堤防のように築くと、その上を通れば深い泥も平地同然となった。項羽軍二十万騎は一日の戦闘で疲れ「ここまで敵が攻めてくるはずがない」と油断し休息していたところへ高祖(劉邦)配下七千余騎が時を移さず襲撃、一戦すら交えられないうちに十万余りの兵士たちが川水に溺れて全滅した。これこそ韓信の「嚢砂背水の謀」と呼ばれる計略である。 現在(物語中)高師泰・師冬・頼春も敵軍を大勢力と知りながら、わざと後方に湿地帯がある関の藤川で陣取ったのも兵士たちの心を一つにして韓信の奇策を見せようとしたものだろう。一方南朝方(国司)十万騎は垂井・赤坂・青野原一帯にあふれんばかりに集結し東西六里南北三里にもおよぶ大陣営を展開していた。 解説
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| 夜々の篝を見渡せば、一天の星計落て欄干たるに異ならず。此時越前国に、新田義貞・義助、北陸道を順て、天を幹らし地を略する勢ひ専昌也。奥勢若黒地の陣を払ん事難儀ならば、北近江より越前へ打越て、義貞朝臣と一つになり、比叡山に攀上り、洛中を脚下に直下して南方の官軍と牒し合せ、東西より是攻めば、将軍京都には一日も堪忍し給はじと覚しを、顕家卿、我大功義貞の忠に成んずる事を猜で、北国へも引合ず、黒地をも破りえず、俄に士卒を引て伊勢より吉野へぞ廻られける。さてこそ日来は鬼神の如くに聞へし奥勢、黒地をだにも破えず、まして後攻の東国勢京都に著なば、恐るゝに足ざる敵也とぞ、京勢には思ひ劣されける。顕家卿南都に著て、且く汗馬の足を休て、諸卒に向て合戦の異見を問給ひければ、白河の結城入道進て申けるは、「今度於路次、度々の合戦に討勝、所々の強敵を追散し、上洛の道を開といへども、青野原の合戦に、聊利を失ふに依て、黒地の橋をも渡り得ず、此侭吉野殿へ参らん事、余に云甲斐なく覚へ候。只此御勢を以て都へ攻上、朝敵を一時に追落す歟、もし不然ば、尸を王城の土に埋み候はんこそ本意にて候へ。」と、誠に無予義申けり。顕家卿も、此義げにもと甘心せられしかば、頓て京都へ攻上給はんとの企なり。 |
毎晩のかがり火を見渡せば、まるで空一面の星が降り積もったかのようだった。この時越前国では新田義貞・義助兄弟が北陸道を平定し、天を突き地を覆す勢いで勢力を拡大していた。(南朝方)奥州軍(北畠顕家軍)はもし黒地川の陣を突破できなければ、近江北部から越前に進み新田義貞公と合流した上で比叡山に登り、京都市中を見下ろす位置から一気に攻め落とし、南都(吉野朝廷)の官軍とも連携して東西から挟撃すれば、足利将軍は京都を一日も守れまいと考えられた。 しかし北畠顕家卿は「この大功が義貞の忠節によって成る」ことを妬み、新田軍と合流せず黒地川も突破できぬまま急遽兵を引き上げ伊勢経由で吉野へ向かった。こうして日頃は鬼神のように恐れられた奥州軍ですら黒地川さえ落とせないとなれば、「まして後続の東国勢が京都に着いたとしても脅威ではない」と京方(足利軍)は軽視するようになった。 顕家卿が南都(奈良)に到着し一時的に戦馬を休めていた時、将兵に向かい合戦の意見を求めると白河結城入道(宗広)が進み出て言った:「途中で数度の戦いに勝ち各地の強敵を追い散らし上洛路を開いたとはいえ青野原の戦いで手痛く敗れたため黒地川の橋も渡れず、このまま吉野へ戻るのは言語道断です。今こそ全軍で京都に攻め上がり朝敵(足利氏)を一掃すべきでしょう。もし失敗すれば都の土に屍を埋めるのが本望です」。まことに無鉄砲な主張であったが、顕家卿もこの意見に納得され即刻上洛を企てた。 解説
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| 其聞へ京都に無隠しかば、将軍大に驚給て、急ぎ南都へ大勢を差下し、「顕家卿を遮り留むべし。」とて討手の評定ありしかども、我れ向んと云人無りけり。角ては如何と、両将其器を撰び給ひけるに、師直被申けるは、「何としても此大敵を拉がん事は、桃井兄弟にまさる事あらじと存候。其故は自鎌倉退て経長途を、所々にして戦候しに、毎度此兵どもに手痛く当りて、気を失ひ付たる者共なり。其臆病神の醒めぬ先に、桃井馳向て、南都の陣を追落さん事、案の内に候。」と被申しかば、「さらば。」とて、頓て師直を御使にて桃井兄弟に此由を被仰しかば、直信・直常、子細を申に及ばずとて、其日頓て打立て、南都へぞ進発せられける。顕家卿是を聞て、般若坂に一陣を張、都よりの敵に相当る。桃井直常兵の先に進んで、「今度諸人の辞退する討手を我等兄弟ならでは不可叶とて、其撰に相当る事、且は弓矢の眉目也。此一戦に利を失はゞ、度々の高名皆泥土にまみれぬべし。志を一に励して、一陣を先攻破れや。」と下知せられしかば、曾我左衛門尉を始として、究竟の兵七百余騎身命を捨て切て入る。顕家卿の兵も、爰を先途と支戦しかども、長途の疲れ武者何かは叶ふべき。一陣・二陣あらけ破て、数万騎の兵ども、思々にぞ成にける。 |
その情報が京都に隠れもなく伝わったので、将軍(足利尊氏)は大いに驚かれ、急いで南都(奈良)へ大軍を派遣し「顕家卿を阻止せよ」と討伐隊の編成協議があったものの、「自分が行く」と言う者は誰もいなかった。困り果てた両将の中から適任者を選ぶ際、師直(高師直)が進言した:「この大敵(北畠顕家軍)を討つには桃井兄弟に勝る者はいないでしょう。彼らは鎌倉撤退後も長旅の途中で度々戦いながら南朝軍に痛手を与え続け、相手の兵はすっかり意気消沈しています。その恐怖心が覚める前に桃井を急行させて南都の陣営を追い落とせば成功確実です」。これを受けて「それでは」と言うや師直を使者に立て桃井兄弟へ伝令すると、直信・直常は説明も不要だと即日出発し南都へ進軍した。 顕家卿(北畠顕家)がこれを聞き般若坂で陣を構え京都からの敵と対峙する中、桃井直常が先頭に立って兵士に命令した:「皆が尻込みする討伐任務を受けられるのは我々兄弟だけだ。この抜擢は武士の面目である。もし敗れれば今までの功績も泥まみれとなるだろう。心を一つにして敵第一陣を突破せよ!」すると曾我左衛門尉ら精鋭七百余騎が捨て身で突入した。顕家卿の兵士も決死で防戦したものの、長旅に疲れた武者たちは太刀打ちできるはずがない。第一陣・第二陣と易々と破られ数万騎の軍勢は散り散りになってしまった。 解説
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| 顕家卿も同く在所をしらず成給ぬと聞へしかば、直信・直常兄弟は、大軍を容易追散し、其身は無恙都へ帰上られけり。されば戦功は万人の上に立、抽賞は諸卒の望を塞がんと、独ゑみして待居給たりしかども、更に其功其賞に不中しかば、桃井兄弟は万づ世間を述懐して、天下の大変を憑にかけてぞ待れける。懸る処に、顕家卿舎弟春日少将顕信朝臣、今度南都を落し敗軍を集め、和泉の境に打出て近隣を犯奪、頓て八幡山に陣を取て、勢ひ京洛を呑。依之京都又騒動して、急ぎ討手の大将を差向べしとて厳命を被下しかども、軍忠異于他桃井兄弟だにも抽賞の儀もなし。況て其已下の者はさこそ有んずらんとて、曾て進む兵更に無りける間、角ては叶まじとて、師直一家を尽して打立給ける間、諸軍勢是に驚て我も我もと馳下る。されば其勢雲霞の如にて、八幡山の下四方に尺地も不残充満たり。されども要害の堀稠して、猛卒悉く志を同して楯篭たる事なれば、寄手毎度戦に利を失ふと聞へしかば、桃井兄弟の人々、我身を省みて、今度の催促にも不応、都に残留られたりけるが、高家氏族を尽し大家軍兵を起すと云ども、合戦利を失と聞て、余所には如何見て過べき。述懐は私事、弓矢の道は公界の義、遁れぬ所也とて、偸かに都を打立て手勢計を引率し、御方の大勢にも不牒合、自身山下に推寄せ、一日一夜攻戦ふ。 |
北畠顕家卿も行方不明になったと聞こえたので、桃井直信・直常兄弟は大軍を容易に追い散らし、無事に京都へ帰還した。このため戦功は誰よりも抜きんでているのに褒賞が兵士たちの期待に応えられず、(師直らは)独りほくそ笑みながら待っていたものの、その功績に見合った恩賞を与えなかったところ、桃井兄弟は世間への不満を募らせて天下の大乱を機会と狙って待ち構えた。 折しも顕家卿の弟である春日少将顕信朝臣がこの度南都(奈良)から敗走した兵を集め、和泉国境に進出して周辺地域を略奪すると、すぐに八幡山に陣を構えてその勢力で京都を脅かした。これにより京都市中は再び騒然となり、「急いで討伐大将軍を差し向けよ」との厳命が下されたものの、(以前)桃井兄弟への論功行賞さえ未実施だったため、ましてやその配下などなおさらだろうと誰も進んで出陣せず、ついに「これではどうにもならない」となって高師直一族総出で出撃したところ、諸軍勢は驚きこぞって続いた。 かくて大軍は雲霞のごとく八幡山麓に充満し隙間もなかったが、要害の堀は深く守備兵は全員決意を固めて籠城しているため攻撃側は再三敗退したという情報を得た桃井兄弟の人々(配下)は自己反省し、「今回の出陣命令にも応じず京都に残留していたところ、(高師直が)一族総動員で大軍を起こすと聞いても戦況不利では傍観するわけにはいかない。私怨は個人的なことだが、弓矢(武士としての責務)は公的な道理であり逃れられぬ」と言って密かに都を発ち手勢だけ率い味方主力とも連絡せず単独で山麓に迫り一日一夜攻撃し続けた。 解説
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| 是にして官軍も若干討れ疵を被りける。直信・直常の兵ども、残少に手負討れて、御方の陣へ引て加る。此比の京童部が桃井塚と名づけたるは、兄弟合戦の在所也。是を始として厚東駿河守・大平孫太郎・和田近江守自戦て疵を被り、数輩の若党を討せ、日夜旦暮相挑。かゝる処に、執事師直所々の軍兵を招き集め、「和泉の堺河内は故敵国なれば、さらでだに、恐懼する処に、強敵其中に起ぬれば、和田・楠も力を合すべし。未微〔な〕るに乗て早速に退治すべし。」とて、八幡には大勢を差向て、敵の打て出ぬ様に四方を囲め、師直は天王寺へぞ被向ける。顕家卿の官軍共、疲れて而も小勢なれば、身命を棄て支戦ふといへども、軍無利して諸卒散々に成しかば、顕家卿立足もなく成給て、芳野へ参らんと志し、僅に二十余騎にて、大敵の囲を出んと、自破利砕堅給ふといへども、其戦功徒にして、五月二十二日和泉の堺安部野にて討死し給ければ、相従ふ兵悉く腹切疵を被て、一人も不残失にけり。顕家卿をば武蔵国の越生四郎左衛門尉奉討しかば、頚をば丹後国の住人武藤右京進政清是を取て、甲・太刀・々まで進覧したりければ、師直是を実検して、疑ふ所無りしかば、抽賞御感の御教書を両人にぞ被下ける。哀哉、顕家卿は武略智謀其家にあらずといへども、無双の勇将にして、鎮守府将軍に任じ奥州の大軍を両度まで起て、尊氏卿を九州の遠境に追下し、君の震襟を快く奉休られし其誉れ、天下の官軍に先立て争ふ輩無りしに、聖運天に不叶、武徳時至りぬる其謂にや、股肱の重臣あへなく戦場の草の露と消給しかば、南都侍臣・官軍も、聞て力をぞ失ける。 |
こうして南朝軍も何人かが討たれ傷ついた。桃井直信・直常の兵士たちは残り少なくなり負傷者や戦死者が出て、味方の本陣に引き上げて合流した。この頃京童部(京都の人々)が「桃井塚」と呼んだのは兄弟が戦った場所である。これ以降も厚東駿河守・大平孫太郎・和田近江守らは自ら戦って傷を負い、何人かの若党(従者)を討たれながら昼夜問わず挑発し続けた。 そんな中、執事高師直が各地の兵士を招集して言った:「和泉や堺・河内はもともと敵地だからなおさら恐ろしいのに強敵がここに現れたのだ。和田氏や楠木氏も加勢するだろう。弱っているうちに素早く討伐せねばならない」。こうして八幡山には大軍を送り込み、敵が出撃できないよう四方を包囲させた一方で師直自身は天王寺へ向かった。 北畠顕家卿の南朝軍兵士たちは疲れ切っており小勢であったため命がけで防戦したものの戦況不利となり兵卒らが散り散りになったので、顕家卿は立つ場所もなくなり吉野(芳野)へ向かおうと決意しわずかな二十余騎だけで敵軍包囲網を突破しようと必死に奮闘した。しかしその戦功も空しく1338年5月22日、和泉の堺安部野で討ち死になさったため従っていた兵士全員が自害するか傷ついて一人残らず命を落とした。 顕家卿は武蔵国の越生四郎左衛門尉に討たれたので首級は丹後国住人の武藤右京進政清がこれを取って鎧や太刀まで差し出すと、師直が実検して疑いがないことを確認したため褒美として感状を二人に授けた。ああ悲しいかな!顕家卿は軍事戦略の才では父祖に及ばぬと言えども無二の勇将であり鎮守府将軍として奥州で大軍を二度まで挙兵し尊氏卿(足利尊氏)を九州へ追い落とし帝(後醍醐天皇)の御怒りを静める栄誉を持ち天下の官軍の中で匹敵する者などいなかったのに、南朝方の運が天に背き武徳も尽きたのか。股肱の重臣があえなく戦場で露のように消えたため南都(奈良)侍従や南朝兵士たちはこの報を聞いて力を失った。 解説
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| input text 太平記\020_太平記_巻20.txt | 現代日本語 translated text | |||||||||||||||
| 太平記 太平記巻第二十 ○黒丸城初度軍事付足羽度々軍事 新田左中将義貞朝臣、去二月の始に越前府中の合戦に打勝給し刻、国中の敵の城七十余箇所を暫時に責落して、勢ひ又強大になりぬ。此時山門の大衆、皆旧好を以て内々心を通せしかば、先彼比叡山に取上て、南方の官軍に力を合せ、京都を責られん事は無下に輒かるべかりしを、足利尾張守高経、猶越前の黒丸城に落残てをはしけるを、攻落さで上洛せん事は無念なるべしと、詮なき小事に目を懸て、大儀を次に成れけるこそうたてけれ。五月二日義貞朝臣、自ら六千余騎の勢を率して国府へ打出られ、波羅密・安居・河合・春近・江守五箇所へ、五千余騎の兵をさし向られ、足羽城を攻させらる。先一番に義貞朝臣のこじうと、一条の少将行実朝臣、五百余騎にて江守より押寄て、黒龍明神の前にて相戦ふ。行実の軍利あらずして、又本陣へ引返さる。二番に船田長門守政経、七百余騎にて安居の渡より押寄て、兵半河を渡る時、細河出羽守二百余騎にて河向に馳合せ、高岸の上に相支て、散々に射させける間、漲る浪にをぼれて馬人若干討れにければ、是も又差たる合戦も無して引返す。三番に細屋右馬助、千余騎にて河合の庄より押寄、北の端なる勝虎城を取巻て、即時に攻落さんと、屏につき堀につかりて攻ける処へ、鹿草兵庫助三百余騎にて後攻にまはり、大勢の中へ懸入て面も振らず攻戦ふ。 |
新田左中将義貞朝臣は前年2月初めの越前府中の戦いで勝利された後、国内70余りの敵城を瞬く間に攻略し勢力が再び強大になった。この時比叡山衆徒(僧兵)らが旧交を通じ密かに協力を申し出ていたため、先に彼らと共に山上から京都市中へ攻め下り南朝軍と連携すれば無理なく上洛できたはずだが、足利尾張守高経が依然として越前黒丸城で抵抗しているのを攻城せず放置するのは残念だと考え、(義貞は)取るに足らぬ小敵に執着して大事(京都市中奪還)を後回しにしてしまった。これは全くもって愚かなことであった。 5月2日、義貞朝臣自ら六千余騎を率いて国府から出陣し、波羅密・安居・河合・春近・江守の五方面へ五千余騎を分派して足羽城攻撃を命じた。第一陣として義貞朝臣の甥である一条少将行実朝臣が五百余騎で江守方面から進軍し、黒竜明神前(福井市)で交戦したが敗退し本陣へ引き返す。第二陣では船田長門守政経七百余騎が安居渡河点を攻めたが、半数の兵が川中にある時、細河出羽守二百余騎が対岸から急襲して高所より激しく射かけたため増水した川で溺死する者も多く、これまた決着つけられず撤退。第三陣では細屋右馬助千余騎が河合庄方面から進撃し北端の勝虎城を包囲即時陥落を狙ったが、攻め手が障子塀や堀に取り付こうとした隙に鹿草兵庫助三百余騎が背後から突入して大軍の中へ斬り込んだため苦戦した。 解説
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| 細屋が勢、城中の敵と後攻の敵とに追立られて本陣へ引返す。角て早寄手足羽の合戦に、打負る事三箇度に及り。此三人の大将は、皆天下の人傑、武略の名将たりしかども、余に敵を侮て、■に大早りなりし故に、毎度の軍に負にけり。されば、後漢の光武、々に臨む毎に、「大敵を見ては欺き、小敵を見ては恐よ。」と云けるも、理なりと覚たり。 ○越後勢越々前事 去ば越後の国は、其堺上野に隣て、新田の一族充満たる上、元弘以後義貞朝臣勅恩の国として、拝任已に多年なりしかば、一国の地頭・後家人、其烹鮮に随事日久し。義貞已に北国を平げて京都へ攻上らんとし給ふ由を聞て、大井田弾正少弼・同式部大輔・中条入道・鳥山左京亮・風間信濃守・禰津掃部助・大田滝口を始として、其勢都合二万余騎にて、七月三日越後の府を立て越中国へ打越けるに、其国の守護普門蔵人俊清、国の堺に出合て是を支んとせしか共、俊清無勢なりければ、大半討れて松倉城へ引篭る。越後勢はこゝを打捨て、やがて加賀国へ打通る。富樫介是を聞て、五百余騎の勢を以て、阿多賀・篠原の辺に出合ふ。然共敵に対揚すべき程の勢ならねば、富樫が兵二百余騎討れて、那多城へ引篭る。越後の勢両国二箇度の合戦に打勝て、北国所々の敵恐るゝに足らずと思へり。 |
細屋の軍勢は城内外からの挟撃に遭い本陣へ敗走した。かくして足羽での合戦では早まった攻めが災いし、三度も敗北を重ねた。これら三人の大将(行実・政経・右馬助)はいずれも天下の人傑で武略に優れた名将であったが、過剰に敵を侮り軽率な速攻に出たため毎回敗退したのである。後漢の光武帝が戦場で常々「大敵には油断を見せよ、小敵には警戒せよ」と述べたのは道理に適う言葉だと痛感された。 さて越後の国は上野と境を接し新田一族勢力が充満している上、元弘の乱以降は義貞朝臣が勅命で統治して久しいため、国内の地頭・御家人らも従順であった。彼ら(越後勢)は義貞が北陸平定後に京都奪還を目指すとの情報を得ると、大井田弾正少弼・同式部大輔・中条入道・鳥山左京亮・風間信濃守・禰津掃部助・大田滝口らを中心に総勢二万余騎で7月3日越後府中を出立し、越中国へ進軍した。これに対し同国守護の普門蔵人俊清は国境で迎撃しようとしたが兵力不足であり、大半を討たれて松倉城へ退却した。越後勢はここを見逃して加賀国に侵攻すると、富樫介(北朝方)が五百余騎で阿多賀・篠原付近に出陣するも太刀打ちできず二百騎以上を失い那谷城へ敗走した。こうして越後勢は二度の戦いに勝利し「北陸の敵など恐るに足らぬ」と確信するに至った。 解説
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| 此まゝにて軈て越前へ打越べかりしが、是より京までの道は、多年の兵乱に、国ついへ民疲れて、兵粮有べからず。加賀国に暫く逗留して行末の兵粮を用意すべしとて、今湊の宿に十余日まで逗留す。其間に軍勢、剣・白山以下所々の神社仏閣に打入て、仏物神物を犯し執り、民屋を追捕し、資財を奪取事法に過たり。嗚呼「霊神為怒則、災害満岐。」といへり。此軍勢の悪行を見に、其罪若一人に帰せば、大将義貞朝臣、此度の大功を立ん事如何あるべからんと、兆前に機を見る人は潜に是を怪めり。 ○宸筆勅書被下於義貞事 日を経て越後勢、已に越前の河合に著ければ、義貞の勢弥強大に成て、足羽城を拉がん事、隻手の中にありと、皆掌をさす思をなせり。げにも尾張守高経の義を守る心は奪がたしといへ共、纔なる平城に三百余騎にて楯篭り、敵三万余騎を四方に受て、篭鳥の雲を恋ひ、涸魚の水を求る如くなれば、何までの命をか此世の中に残すらんと、敵は是を欺て勇み、御方は是に弱て悲めり。既に来二十一日には、黒丸の城を攻らるべしとて、堀溝をうめん為に、うめ草三万余荷を、国中の人夫に持寄させ、持楯三千余帖をはぎ立て、様々の攻支度をせられける処に、芳野殿より勅使を立られて仰られけるは、「義興・顕信敗軍の労兵を率して、八幡山に楯篭る処に、洛中の逆徒数を尽して是を囲む。 |
このまますぐに越前へ進攻すべきであったが、京都までの道中は長年の戦乱で国土荒廃し民衆疲弊しており兵糧調達が不可能だった。そのため加賀国(石川県)に一時滞在し今後の兵糧を準備しようと、現在の今湊宿(小松市)で十数日間足止めされた。この間に軍勢は剣神社・白山比咩神社以下各地の寺社仏閣へ乱入し神仏の供物や宝物を略奪、民家から財産を強奪するなど法度を逸脱した行為に及んだ。ああ「霊なる神が怒れば災害は国中に満ちる」(『書経』周書)という通りである。この軍勢の悪行を見て、もしその罪が大将・義貞朝臣一人に帰せば今回の大功など成り立たないだろうと、兆候を察知できる者は密かに懸念した。 さて後醍醐天皇からの勅書が新田義貞へ下された件。 解説
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| 城中已に食乏して兵皆疲る。然といへ共、北国の上洛近にあるべしと聞て、士卒梅酸の渇を忍ぶ者也。進発若延引せしめば、官軍の没落疑有べからず。天下の安危只此一挙にあり。早其堺の合戦を閣て、京都の征戦を専にすべし。」と仰られて、御宸筆の勅書をぞ下されける。義貞朝臣勅書を拝見して、源平両家の武臣、代々大功ありと云共、直に宸筆の勅書を下されたる例未聞所也。是当家超涯の面目也。此時命を軽ぜずんば、正に何れの時をか期すべきとて、足羽の合戦を閣かれて、先京都の進発をぞいそがれける。 ○義貞牒山門同返牒事 児島備後守高徳、義貞朝臣に向て申けるは、「先年京都の合戦の時、官軍山門を落されて候し事、全く軍の雌雄に非ず、只北国の敵に道をふせがれて兵粮につまりし故也。向後も其時の如に候はゞ、縦ひ山上に御陣を召れ候共、又先年の様なる事決定たるべく候。然れば越前・加賀の宗との城々には、皆御勢を残し置れて兵粮を運送せさせ大将一両人に御勢を六七千騎も差副られ山門に御陣を召れ、京都を日々夜々攻られば、根を深し蔕を堅する謀成て、八幡の官軍に力を付け、九重の凶徒を亡すべき道たるべく候。但小勢にて山門へ御上候はゞ、衆徒案に相違して御方を背く者や候はんずらん。 |
城内(足羽城)ではすでに食糧が尽き兵士たち皆疲弊していた。しかし「北陸方面の味方軍がすぐ上洛してくるはずだ」との噂を聞いて、士卒は梅干しの酸っぱさで渇きを凌ぐように耐え忍んでいた(希望を持って苦境に耐える比喩)。もし我々の発進が遅れれば官軍(八幡山篭城部隊)の全滅は確実である。天下の安泰か危機かはこの行動にかかっている。早急に国境での戦いを中止し、京都攻略だけに専念せよ。」と仰せになり天皇直筆の勅書が下されたのである。 新田義貞朝臣は勅書を拝見して思った——源氏平氏両家の武門代々大きな功績があっても直接宸筆(天皇自筆)の勅書を受けた例など未だ聞いたことがない。これは我ら新田家が並外れた名誉にあずかった証であると。この時命を惜しまねば、まさにいつ再び機会を得られようか——こうして足羽城攻撃を中止され京都進軍の準備を急がれた。 義貞の牒状(公文書)を比叡山延暦寺へ送りその返答を受けた件 解説
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| 先山門へ牒状を送られて、衆徒の心を伺ひ御覧ぜられ候へかし。」と申ければ、義貞「誠に此義謀濃にして慮り遠し。さらば牒状を山門へ送るべし。」と宣ば、高徳兼て心に草案をやしたりけん。則筆を取て書之。其の詞云、 正四位上行左近衛中将兼播磨守源朝臣義貞牒延暦寺衙。請早得山門贔屓一諾、誅罰逆臣尊氏・直義以下党類、致仏法王法光栄状。式窃覿素昔渺聞玄風、桓武皇帝下詔専一基叡山者、以聖化期昌顕密両宗於億載。伝教大師上表九鎮王城者、以法威為護国家太平於無疆之耳也。然則聞山門衰微悼之、見朝庭傾廃悲之。不九五之聖位三千之衆徒為孰乎。去元弘之始、一天革命、四海帰風之後。有源家余裔尊氏直義。無忠貪大禄、不材登高官。自誇超涯之皇沢、不顧欠盈之天真。忽棄君臣之義、猥懐犲狼之心。聿害流于蒸民、禍溢于八極。公議不獲止、将行天誅之日、烟塵暗侵九重之月、翠花再掃四明之雲。此時貴寺忽輔危、庸臣謀退暴。雖然守死於善道者寡、求党於利門者多。因茲官軍戦破、而聖主忝逢■里之囚。氈城食竭而君王自臥戦場之刃。自爾以降逆徒弥恣意、婬刑濫行罰。凶戻残賊無不悪而極。自疑天維云絶、日月無所懸。地軸既摧、山川不得載。側耳奪目。苟不忍待時、呑炭含刃、径欲計近敵之処、忽聴鸞輿幸南山、衆星拱北極。 |
新田義貞はすぐに比叡山へ公文書(牒状)を送り僧侶たちの意向を見極めようと考えた。児島高徳が提案した通り「まず山門へ牒状を送られて、僧徒らの本心をお探しになられたらどうか」と進言すると、義貞は「確かにこの策略は綿密で見通しも優れている。それでは早速牒状を届けよう」と言い、高徳が既に草案を考えていたのか筆を取り書いた。その文面には以下のように記された: 正四位上行左近衛中将兼播磨守源朝臣(新田義貞)より延暦寺役所へ申し入れる。 早急に比叡山のご支援を得て逆賊・尊氏直義以下一味を討伐し仏法と朝廷の威光を取り戻したい旨お願いする。そもそも桓武天皇が詔勅で比叡山建立を命じられたのは、顕密両宗による皇室安泰を万代に続けさせるためであった。伝教大師(最澄)が九カ条の表文で王城鎮護を誓ったのも仏法の力で国家太平を永遠に守るためであるはずだ。それなのに今や山門衰微を見れば嘆かわしく朝廷崩壊を知れば悲しむべき時節――天皇陛下の御世と三千僧徒は一体誰のために存在するのか。 元弘革命後、天下が新体制へ移り四海風靡したにも関わらず源氏の落胤・尊氏直義は不忠で高禄に貪欲、無能ながら高位を占めた。皇恩の深さも顧みず天理への背信をも省みない。君臣の道義を捨て狼のような野心を抱き民衆へ害毒を流し八紘(全国)に災禍をまき散らしたため、やむなく朝廷は天誅実行を決断された折には既に戦塵が都を覆い玉体が再び吉野へ遷られる事態となった。この時貴寺はいち早く危機的朝廷を見捨て逆臣側についたのだ。 結局正義の道で死守する者は少なく利権門閥に加担する者が多い現実がある。これにより官軍は敗れ聖主(後醍醐天皇)は不本意にも隠岐流罪となられ、戦場では食糧尽きた御所が包囲され玉体自ら刃を枕にする有様だ。爾来逆賊らの暴虐は増す一方で無実の罰や残虐行為が極みに達し天地の秩序も破壊されたかのように思われる。この状況に耐えかね仇討ちを志して固く決意したところ、突然「鳳輦(天皇)が吉野へ行幸され星々が北極星に向かう如く」(正統朝廷再興の報せ)を知ったのである。 解説
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| 於是蘇恩、発恩、徹憤啓憤。起自嶮溢之中、纔得郡県之衆。然則駆金牛開路、飛火鶏劫城。其戦未半決勝於一挙、退敵於四方訖。疇昔范蠡闘黄地、破呉三万之旅、周郎挑赤壁、虜魏十万之軍。把来何足比。如今挙国量誅朝敵。天慮以臣為爪牙之任。肆不遑卜否泰、振臂将発京師。貴山償若不捐故旧、拉大敵於隻手中必矣。伝聞当山之護持、亘古亘今、卓犖于乾坤。承和修大威徳之法、次君乃坐玉■。承平安四天王之像、将門遂傷鉄身。是以頼佳運於七社之冥応、復旧規於一山之懇祈。熟思量之凡悪在彼与義在我、孰与天下之治乱山上之安危。早聞一諾之群議、而遠合虎竹、速靡三軍之卒伍而為揺竜旗。牒送如件、勒之以状。延元二年七月日とぞ書たりける。山門の大衆は先年春夏両度、山上へ臨幸成たりし時、粉骨の忠功を致すに依て、若干の所領を得たりしが、官軍北国に落行き、主上京都に還幸成しかば、大望一々に相違して、あはれいかなる不思議も有て、先帝の御代になれかしと祈念する処に、此牒状来したりければ、一山挙て悦び合る事限なし。同七月二十三日に、一所住の大衆、大講堂の庭に会合して返牒を送る。其詞云、 延暦寺牒新田左近衛中将家衙。来牒一紙被載朝敵御追罰事。右鎮四夷之擾乱、而致国家之太平者、武将所不失節。 |
こうした情勢の中、蘇恩(児島高徳)や発恩らは怒りに燃え立ち、険しい山中からようやく各地の兵を集めた。金牛(強力な牛)のように道を開き火鶏(伝説の鳥)のように城を急襲し、戦いは半ばで決着がついたかのように見えた――四方の敵は退却した。かつて范蠡が黄池で呉軍三万を破り周瑜が赤壁で魏兵十万を捕らえた故事も、この勝利に比べれば取るに足らない。 今こそ国を挙げて朝敵(尊氏)征伐を行う時だ。天の意志により私(義貞)は武人としての任を与えられた。吉兆凶兆など占っている暇はなく京へ進軍する覚悟である。もし貴山(延暦寺)が旧交を捨てなければ、大敵を一手で打ち倒すことも必ずや可能だろう。 伝聞するところによれば比叡山の護法は古今を通じ天地に輝いている。承和年間には大威徳法修復により帝位(■部分「座」と推定)が守られ、承平期には四天王像安置で将門が鉄身を傷つけられたという。ゆえに七社(延暦寺鎮守神)の加護への期待は大きく、一山全体の祈りをもって旧体制回復を願う次第だ。 深く考えてほしい――悪は彼ら(足利方)にあり正義は我々にあることを。天下治乱と山上安危のどちらが重要か。早急に賛同の議決をお聞きし、遠隔地の軍勢(虎竹:兵符を持つ部隊)と合流した上で全軍を率い御旗(龍旗)を翻したい。以上申し述べる通り牒状を送付する。 延元二年七月日と記された。 山門(比叡山)の僧徒たちは前年、天皇が春夏二度も行幸された際に尽力した功績で数か所の領地を得たものの、官軍が北国へ敗走し主君の京都還御後は期待が裏切られた。先帝(後醍醐)時代を懐かしく祈念していたところこの牒状が届き、全山挙げて大いに歓喜した。 同年七月二十三日に山上僧侶一同が大講堂庭に集合し返答文を作成した。その文言は以下の通り: 延暦寺より新田左近衛中将(義貞)家の役所へ申し送る。 お預かりした牒状一巻には朝敵追討の件が記されていた。そもそも四夷(国内外の敵)の騒乱を鎮め国家太平をもたらすのは、武将として決して忘れてはならない節義である。 解説
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| 祈百王之宝祚、而銷天地之妖■者、吾山所不譲他。途殊帰同。豈其際措一線縷乎。夫尊氏・直義等暴悪、千古未聞其類。是匪啻仏法王法之怨敵。兼又為害国害民之残賊。孟軻有言、出於己者帰己矣。渠若今不亡、以何待之。雖然逆臣益振威、義士恒有困何乎。取類看之、夫差合越之威、遂為勾践所摧、項羽抜山之力、却為沛公見獲。是則所以呉無義而猛、漢有仁而正也。安危所拠無若天命矣。是以山門内重武候之忠烈期佳運、外忝聖主之尊崇、祈皇猷。上下庶幾貪聴之処、儻投青鳥見竭丹心。一山之欣悦底事如之。七社之霊鑒、此時露顕。倩把往昔量吉凶、当山如棄則挙世起而不立。治承之乱、高倉宮聿没外都之塵。吾寺専与則合衆禦而不得。元暦之初、源義仲忽攀中夏之月。是人情起神慮。捨彼取此之故也。満山之群議今如斯。凶徒之誅戮何有疑。時節已到。暫勿遅擬。仍牒送如件。以状。延元二年七月日とぞ書たりける。山門の返牒越前に到来しければ、義貞斜ならず悦で、頓て上洛せんとし給ひけるが、混らに北国を打捨なば、高経如何様跡より起て、北陸道をさし塞ぬと覚れば、二手に分て国をも支へ、又京をも責べしとして、義貞は三千余騎にて越前に留り、義助は二万余騎を率して七月二十九日越前の府を立て、翌日には敦賀の津に著にけり。 |
百代にもわたる天皇の御世を守り天地の妖怪や災いを取り除くことは、当山(延暦寺)が決して他人に譲ることではありません。道筋は異なっても目指す先は同じであり、どうしてこの機会をわずかな糸のように細かいものと軽視できましょうか。 尊氏・直義らの暴虐さは千古に類を見ない悪行です。これは単なる仏法や朝廷への敵対者ではなく、国と民衆を害する残賊でもあります。孟子が言うように「自ら招いた結果は自らに返る」ものです。彼らが今滅びなければいつ待つというのでしょうか。 しかし逆臣(尊氏方)の勢力が強まる一方で義士(南朝側)が苦境にあるのはなぜか? 例を挙げて見れば、夫差は越国を威圧しながら結局勾践に敗れ、項羽は山をも抜く力を持ちながら沛公(劉邦)に捕らえられました。これは呉には正義なくただ強暴だったのに対し漢には仁政があったからです。安危の鍵となるのはまさしく天命なのです。 したがって当山では、内には武人たちの忠誠と幸運を重んじ期待し、外には聖なる君主への尊崇をもって朝廷の発展を祈っています。上下(僧俗)一同が心から耳を傾ける中で、もし使者(青鳥に例えた)を通じて真心を示す機会があれば喜んで尽くしましょう。全山の歓びはこの上なく、七社(鎮守神)のご加護も今こそ現れるはずです。 つらつら過去を考えてみると吉凶がわかります——もし当山が見捨てられたなら世の中は立ち行きません。治承の乱では高倉宮(以仁王)が都外で亡くなり、当寺が味方しても衆徒防衛に失敗しました。元暦元年には源義仲があっけなく京を制圧したのは、人心と神意が彼を見放しこちらを選んだ結果です。 全山の総意は今や固まっています。凶徒(尊氏勢力)征伐に疑いなどありません。時機はすでに熟しています。決断を遅らせてはいけません。以上述べた通り返答文を作成し送付します。 延元二年七月日と記された。 この山門の返牒が越前に届くと、義貞は大いに喜び直ちに上洛しようとした。しかしもし北国を放置すれば高経(斯波高経)がいずれ背後から立ち上がり北陸道を塞ぐだろうと考えたため、二手に分かれて国土防衛と京都攻略を同時に行うことにした。こうして義貞は三千余騎で越前に残留し、弟の義助が二万余騎を率いて七月二十九日に越前府中(現福井県)から出発すると翌日には敦賀津に到着した。 解説
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| ○八幡炎上事 将軍此事を聞召れて、「八幡の城未責落さで、兵攻戦に疲ぬる処に、脇屋右衛門佐義助山門と成し合て、北国より上洛すなるこそゆゝ敷珍事なりけれ。期に臨で引かば、南方の敵勝に乗べし。未事の急にならぬ先に、急八幡の合戦を閣て、京都へ帰て北国の敵を相待べし。」と、高武蔵守の方へぞ下知し給ひける。師直此由を聞て、此城を責かゝりながら、落さで引返しなば、南方の敵に利を得られつべし。さて又京都を閣ば、北国の敵に隙を伺れつべし。彼此如何せんと、進退谷て覚へければ、或夜の雨風の紛に、逸物の忍を八幡山へ入れて、神殿に火をぞ懸たりける。此八幡大菩薩と申奉るは、忝も王城鎮護の宗廟にて、殊更源家崇敬の霊神にて御坐せば、寄手よも社壇を焼く程の悪行はあらじと、官軍油断しけるにや、城中周章騒動して烟の下に迷倒す、是を見て四方の寄手十万余騎、谷々より攻上て、既に一二の木戸口までぞ攻入ける。此城三方は嶮岨にして登がたければ、防に其便あり。西へなだれたる尾崎は平地につゞきたれば、僅に堀切たる乾堀一重を憑で、春日少将顕信朝臣の手の者共、五百余騎にて支たりけるが、敵の火を見て攻上りける勢に心を迷はして、皆引色にぞ成にける。爰に城中の官軍、多田入道が手の者に、高木十郎、松山九郎とて、名を知られたる兵二人あり。 |
将軍(足利尊氏)はこの知らせをお聞きになると、「八幡城がまだ落ちないうちに兵も疲れているところへ、脇屋義助が延暦寺と結んで北国から上洛するとは由々しき事態だ。約束の期日に遅れるなら南朝勢に利を与えてしまう。未然の危機に対処すべく急ぎ八幡城攻撃を中断して京都へ戻り、北国の敵(新田軍)と対峙しよう」と言われ、高師直に命令をお出しになった。 これを知った師直は思案した——このまま攻城を続けて落ちずに退けば南朝勢が有利になり、かといって京都を空ければ北国勢力に隙を与える。進退窮まったと感じた彼はある雨風の夜、目立たぬ忍びを八幡山へ潜入させて神殿に放火した。 この八幡大菩薩(応神天皇)は畏れ多くも都鎮守の宗廟であり、特に源氏が崇敬する霊験あらたかな神であるため、攻め手側まさか社殿まで焼くことはあるまいと官軍(楠木正成勢)は油断していた。城内では突然の火災に慌てふためき煙の中で混乱している隙に、四方から迫る十万余騎が谷を埋めて一気に攻め上がり、ついに第一・第二城門まで突破した。 この城は三方険阻で守りやすかったが西側だけ平坦な尾根続きだった。唯一の防御である浅い空堀(乾堀)一つを頼みに春日顕信配下五百騎が防戦していたところ、敵軍が火災混乱に乗じて攻め上がる様を見て動揺し退却傾向を示した。 その時、城内官軍の中でも多田入道(綱正)部隊の高木十郎と松山九郎という名高い二人の勇士がいた—— 解説
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| 高木は其心剛にして力足らず、松山は力世に勝て心臆病也。二人共に同関を堅めて有けるが、一の関を敵にせめ破れて、二の関になを支てぞ居たりける。敵已に逆木を引破て、関を切て落さんとしけれども、例の松山が癖なれば、手足振惶て戦ん共せざりけり。高木十郎是を見て眼を嗔かし、腰の刀に手を懸て云けるは、「敵四方を囲て一人も余さじと攻戦ふ合戦也。こゝを破られては宗との大将達乃至我々に至までも、落て残る者やあるべき。されば爰を先途と戦べき処なるを、御辺以の外に臆して見へ給こそ浅猿けれ。平生百人二百人が力ありと自称せられしは、何の為の力ぞや。所詮御辺爰にて手を摧きたる合戦をし給はずば、我敵の手に懸んよりは、御辺と差違へて死べし。」と忿て、誠に思切たる体にぞ見へたりける。松山其色を見て、覿面の勝負敵よりも猶怖くや思けん、「暫しづまり給へ、公私の大事此時なれば、我命惜むべきにあらず。いで一戦して敵にみせん。」と云侭に、はなゝく/\走り立て、傍にありける大石の、五六人して持あぐる程なるを軽々と提て、敵の群て立たる其中へ、十四五程大山の崩るゝが如に投たりける。寄手数万の兵共、此大石に打れて将碁倒をするが如、一同に谷底へころび落ければ、己が太刀長刀につき貫て、命を堕し疵を蒙る者幾千万と云数を知らず。 |
高木十郎と松山九郎という名高い兵がいた。高木は心が強い反面力不足であり、松山は怪力を誇るものの臆病だった。二人とも同じ城門を守っていたが第一防衛線(一之関)が敵に突破されてもなお第二防衛線で踏みとどまっている。 攻め手が逆茂木(防御柵)を破壊し扉を切り落とそうとした時、松山は持病の臆病さから手足が震えて動けなかった。これを見た高木十郎が目に怒りを燃やし腰の刀に手をかけながら言った。 「敵は四方包囲して一人残らず殲滅しようとしている!ここを破られれば大将も我々も皆殺しだ!本来なら最後の拠点として死守すべき場所なのに、貴様が思いのほか臆病ぶるとは情けない。普段『二百人力』と自慢していた力は何のためだった?覚悟がないなら敵に捕まる前に俺の手で始末する!」 その言葉には本気の殺意が込められていた。松山は高木の表情を見ると眼前の敵よりも恐ろしいと思ったか、「落ち着け!今こそ公私共に命を惜しむ時ではない。見せてやる!」と叫ぶなり走り出た。 近くにある五、六人でようやく持ち上がる大石を軽々と掴み上げると、密集した敵陣めがけて山崩れのごとく投げつけた。数万の攻撃部隊はこの巨石に直撃されて将棋倒しとなり谷底へ転落。自らの刀槍で貫かれ命を落としたり重傷を負う者が幾千万とも知れなかった。 解説
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| 今夜既に攻落されぬと見へつる八幡の城、思の外にこらへてこそ、松山が力は只高木が身にありけりと、咲はぬ人もなかりけり。去程に敦賀まで著たりける越前の勢共、遥に八幡山の炎上を聞て、いか様せめ落されたりと心得て、実否を聞定ん為に数日逗留して、徒に日数を送る。八幡の官軍は、兵粮を社頭に積で悉焼失しかば、北国の勢を待までのこらへ場もなかりければ、六月二十七日の夜半に、潜に八幡の御山を退落て、又河内国へぞ帰りける。此時若八幡の城今四五日もこらへ、北国の勢逗留もなく上りたらましかば、京都は只一戦の内に攻落すべかりしを、聖運時未至らざりけるにや、両陣の相図相違して、敦賀と八幡との官軍共、互に引て帰りける薄運の程こそあらはれたれ。 ○義貞重黒丸合戦事付平泉寺調伏法事 義貞京都の進発を急れつる事は、八幡の官軍に力をつけ、洛中の隙を伺ん為也。き。而に今其相図相違しぬる上は、心閑に越前の敵を悉く対治して、重て南方に牒合てこそ、京都の合戦をば致さめとて、義貞も義助も河合の庄へ打越て、先足羽の城を責らるべき企也。尾張守高経此事を聞給て、「御方僅に三百騎に足ざる勢を以て、義貞が三万余騎の兵に囲まれなば、千に一つも勝事を得べからず、然といへ共、敵はや諸方の道を差塞ぬと聞ゆれば、落とも何くまでか落延べき。 |
今夜落城寸前に見えた八幡城が予想外に持ちこたえ、松山九郎の怪力発揮を称賛しない者はいなかった。その間に敦賀へ到着した北国軍(新田義貞援軍)は、遠く八幡山炎上を知って「落城したか」と早合点し数日滞在してしまった。 一方、八幡城内の官軍(楠木正成勢)は兵糧が社殿火災で焼失し北国軍到着を待てず、6月27日夜半に密かに脱出して河内国へ撤退した。もしあと4〜5日守り抜き北国軍が遅滞なく進撃していれば京都も奪還できただろうが、天命が熟さなかったのか——両軍の連絡は完全に齟齬し敦賀・八幡部隊共に帰還する不運な結果となった。 ○新田義貞重黒丸合戦と平泉寺調伏法事 これを知った斯波高経は言う。「我が方は300騎未満で義貞の3万騎に包囲されれば勝ち目なし。それでも敵が諸道を塞いだと聞く以上、どこまで逃げ延びられるかもわからぬ」と—— 解説
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| 只偏に打死と志て、城を堅くするより外の道やあるべき。」とて、深田に水を懸入て、馬の足も立ぬ様にこしらへ、路を堀切て穽をかまへ、橋をはづし溝を深して、其内に七の城を拵へ、敵せめば互に力を合て後へまはりあふ様にぞ構られたりける。此足羽の城と申は、藤島の庄に相双で、城郭半は彼庄をこめたり。依之平泉寺の衆徒の中より申けるは、「藤島庄は、当寺多年山門と相論する下地にて候。若当庄を平泉寺に付らるべく候はゞ、若輩をば城々にこめをきて合戦を致させ、宿老は惣持の扉を閉て、御祈祷を致すべきにて候。」とぞ云ける。尾張守大に悦で、今度合戦雌雄、■借衆徒合力、憑霊神之擁護之上者、先以藤島庄所付平泉寺也。若得勝軍之利者、重可申行恩賞、仍執達如件。建武四年七月二十七日尾張守平泉寺衆徒御中と、厳密の御教書をぞ成れける。衆徒是に勇て、若輩五百余人は藤島へ下て城に楯篭り、宿老五十人は、炉壇の烟にふすぼり返て、怨敵調伏の法をぞ行はれける。 ○義貞夢想事付諸葛孔明事 其七日に当りける夜、義貞の朝臣不思議の夢をぞ見給ける。所は今の足羽辺と覚たる河の辺にて、義貞と高経と相対して陣を張る。未戦ずして数日を経る処に、義貞俄にたかさ三十丈計なる大蛇に成て、地上に臥給へり。 |
斯波高経は決然と言った。「ただ死ぬ覚悟で城を固守するしかない!」と。深田に水を引き入れて馬の足も沈むように仕掛け、道を掘り割って落とし穴を作り、橋を外して堀を深くした。城内には七つの砦を設け、敵が攻め寄せれば互いに連携して後方へ回り込める構造に整えた。 この足羽城は藤島庄の隣接地で城域の半分が同庄にかかっていたため、平泉寺僧侶の中から申し出があった。「藤島庄は当寺と延暦寺が長年争ってきた土地です。もし本庄を平泉寺に寄進くださるなら、若手500人余りを諸城に配備して戦わせ、長老50人は護摩堂の扉を閉じ祈祷を行います」。斯波高経は大いに喜び公式文書で約束した。「合戦の勝敗は貴僧らの助力と神仏加護にかかる。まず藤島庄を平泉寺に寄進する。もし勝利を得ればさらなる恩賞を与えよう」——建武4年7月27日付で正式な教書が発せられ、若手500人は藤島へ出陣し長老たちは炉煙の中うずくまって怨敵調伏の修法に励んだ。 ○新田義貞の夢と諸葛孔明 解説
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| 高経是を見て、兵をひき楯を捨て逃る事数十里にして止と見給て、夢は則覚にけり。義貞夙に起て、此夢を語り給に、「竜は是雲雨の気に乗て、天地を動す物也。高経雷霆の響に驚て、葉公が心を失しが如くにて、去る事候べし、目出き御夢なり。」とぞ合せける。爰に斉藤七郎入道々献、垣を阻て聞けるが、眉をひそめて潜に云けるは、「是全く目出き御夢にあらず。則天の凶を告るにて有べし。其故は昔異朝に呉の孫権・蜀の劉備・魏の曹操と云し人三人、支那四百州を三に分て是を保つ。其志皆二を亡して、一にあはせんと思へり。然共曹操は才智世に勝れたりしかば、謀を帷帳の中に運して、敵を方域の外に防ぐ。孫権は弛張時有て士を労らひ衆を撫でしかば、国を賊し政を掠る者競ひ集て、邪に帝都を侵し奪へり。劉備は王氏を出て遠からざりしかば、其心仁義に近して、利慾を忘るゝ故に、忠臣孝子四方より来て、文教をはかり武徳を行ふ。此三人智仁勇の三徳を以て天下を分て持ちしかば、呉魏蜀の三都相並で、鼎の如く峙てり。其比諸葛孔明と云賢才の人、世を避け身を捨てゝ、蜀の南陽山に在けるが、寂を釣り閑を耕て歌ふ歌をきけば、歩出斉東門。往到蕩陰里。里中有三墳。塁々皆相似。借問誰家塚。田疆古冶子。 |
斯波高経はこれを見て兵を率い陣営を捨て数十里も敗走する様子で、その時夢から覚めた。新田義貞は早朝に起きこの夢を語ると、「龍は雲雨の気に乗じて天地を動かす霊物だ。(私が大蛇となるのは吉兆であり)高経は雷鳴のように驚いて逃走する(『葉公好龍』故事のように)。これはめでたい御夢です」と解釈した。 これを障子越しに聞いていた斎藤道献(新田軍武将)は眉をひそめて独り言をつぶやいた。「全くもって吉兆ではない。天の凶事を知らせるものだ。昔中国では孫権・劉備・曹操が天下三分したが、曹操は帷幄で策略めぐらし(智)、孫権は人心掌握術に長けていたが領土争いを招き(勇)、劉備のみ仁徳をもって忠臣を集めた(仁)。この三君主こそ智仁勇の体現者だったのだ」。 「諸葛孔明という賢才は世捨て人として蜀の南陽山で隠棲していた時、『斉東門より歩み出て 蕩陰里に至る 里中に三墳有り...』(古勇士・田開疆らを悼む歌)と詠んでいたが——」 解説
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| 気能排南山。智方絶地理。一朝見讒言。二桃殺三士。誰能為此謀。国将斉晏子。とぞうたひける。蜀の智臣是を聞て、彼が賢なる所を知ければ、是を召て政を任せ、官を高して世を治め給ふべき由をぞ奏し申ける。劉備則幣を重し、礼を厚して召れけれ共、孔明敢て勅に応ぜず。只澗飲岩栖して、生涯を断送せん事を楽しむ。劉備三度び彼の草庵の中へをはして宣ひけるは、「朕不肖の身を以て、天下の太平を求む。全く身を安じ、欲を恣にせんとには非ず。只道の塗炭にをち、民の溝壑に沈ぬる事をすくはん為のみ也。公若良佐の才を出して、朕が中心を輔られば、残に勝、殺を棄ん事、何ぞ必しも百年を待ん。夫石を枕にし泉に漱で、幽栖を楽むは一身の為也。国を治め民を利して大化を致さんは、万人の為也。」と、誠を尽し理を究て仰られければ、孔明辞するに詞なくして、遂に蜀の丞相と成にけり。劉備是を貴寵して、「朕有孔明如魚有水。」と喜給ふ。遂に公侯の位を与て、其名を武侯と号せられしかば、天下の人是を臥龍の勢ひありと懼あへり。其徳已に天下を朝せしむべしと見へければ、魏の曹操是を愁て、司馬仲達と云将軍に七十万騎の兵を副て蜀の劉備を責んとす。劉備は是を聞て孔明に三十万騎の勢を付て、魏と蜀との堺、五丈原と云処へ差向らる。 |
「(孔明の詩には)『その気魄は南山をも押し退け 知略は地理を越えんとす』ともあった。しかし讒言にあい二つの桃で三人の勇士(田開疆ら)が殺されたのは誰の策か? 斉の宰相・晏嬰である」。 蜀の賢臣たちはこの話を聞き孔明の才を知り、劉備に登用を進言した。劉備は厚礼をもって三度招いたが、孔明は渓流で飲み岩陰に住む隠遁生活への未練から応じようとしない。そこで劉備は自ら草庵へ赴き懇願した。「朕は天下太平を求めているのであって安楽のためではない。民衆が苦しみ死ぬのを救いたいだけだ。貴公が補佐してくれれば、百年待たずとも殺生なき世を実現できるだろう」。 これに孔明は遂に出仕を受け入れ蜀の丞相となった。劉備は「朕にとって孔明は魚にとって水のような存在」と喜び武侯と称したため、その名声は天下に轟いた。 これを危惧した魏の曹操が司馬仲達(懿)率いる70万騎を派遣すると、劉備は30万兵を与えた孔明を国境・五丈原へ向かわせた。 解説
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| 魏蜀の兵河を阻て相支る事五十余日、仲達曾て戦んとせず。依之魏の兵、漸く馬疲れ食尽て日々に竃を減ぜり。依之魏の兵皆戦んと乞に、仲達不可也と云て是を許さず。或時仲達蜀の芻蕘共をとりこにして、孔明が陣中の成敗をたづね問に、芻蕘共答て云けるは、「蜀の将軍孔明士卒を撫で、礼譲を厚くし給ふ事疎ならず。一豆の食を得ても、衆と共に分て食し、一樽の酒を得ても、流れに濺で士と均く飲す。士卒未炊ざれば大将食せず。官軍雨露にぬるる時は大将油幕を不張。楽は諸侯の後に楽み、愁は万人の先に愁ふ。加之夜は終夜睡を忘て、自城を廻て懈れるを戒め、昼は終日に面を和て交を睦ましくす。未須臾の間も心を恣にし、身を安ずる事を見ず。依之其兵三十万騎、心を一にして死を軽くせり。鼓を打て進むべき時はすゝみ、鐘を敲て退くべき時は退ん事、一歩も大将の命に違事あるべからずと見へたり。其外の事は、我等が知べき処に非。」とぞ語りける。仲達是を聞て、「御方の兵は七十万騎其心一人も不同、孔明が兵三十万騎、其志皆同じといへり。されば戦を致して蜀に勝事は努あるべからず。孔明が病る弊に乗て戦はゞ、必勝事を得つべし。其故は孔明此炎暑に向て昼夜心身を労せしむるに、温気骨に入て、病にふさずと云事有べからず。 |
魏と蜀の兵士たちは川を隔てて五十日以上対峙していたが、司馬仲達(懿)は全く戦おうとしなかった。そのため魏軍では次第に馬も疲れ食料も尽き、毎日かまどを減らす状態となった。この状況で魏兵たちこぞって出撃を懇願したが、仲達は「不可」と言って決して許可しなかった。 ある時、仲達が蜀の草刈り人夫などを捕虜にして孔明軍中の実情を尋ねると、彼らはこう答えた。「蜀将・諸葛孔明様は兵士たちを慈しみ礼儀を重んじられることは言うまでもありません。一皿の食事を得ても皆と分け合い、一杯の酒があれば川に流して兵卒と平等に飲まれます。兵が炊事していない時は大将自らも食べず、軍勢が雨露に濡れる際には油幕を張ろうともされません。喜びは諸侯より後にし、憂いは万民より先にする方です。加えて夜通し眠らず城壁を見回って警戒を怠らないよう戒め、昼間は終日穏やかな表情で兵士と親しく交わります。ほんの一瞬たりとも心を緩め身体を休める様子など見たことがありません。」 「こうした理由から蜀軍三十万騎は心を一つにして死をも恐れず、太鼓が鳴って進む時には躊躇なく前進し、鐘が響いて退く時には即座に撤退します。大将の命令に一歩も背くことはないと見受けられます。それ以外のことなど、私たち下々の知るべきことではありません。」 仲達はこれを聞き、「我が軍七十万騎は心がバラバラだが、孔明軍三十万騎は皆志を同じくしているという。したがって正面から戦えば蜀に勝つのは困難だ。しかし孔明が体調を崩す隙をついて攻めれば必ず勝利を得られるだろう。」「なぜなら孔明はこの猛暑の中昼夜問わず心身を使い果たしており、熱気が骨髄に入り病気にならないはずがないからである。」 解説
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| 」と云て、士卒の嘲をもかへりみず、弥陣を遠く取て、徒に数月をぞ送りける。士卒ども是を聞て、「如何なる良医と云共あはひ四十里を阻て、暗に敵の脈を取知る事やあるべき。只孔明が臥龍の勢をきゝをぢしてかゝる狂言をば云人也。」と、掌を拍て笑あへり。或夜両陣のあはひに、客星落て、其光火よりも赤し。仲達是を見て、「七日が中に天下の人傑を失べき星也。孔明必死すべきに当れり。魏必蜀を合せて取ん事余日あるべからず。」と悦べり。果して其朝より孔明病に臥事七日にして、油幕の裏に死にけり。蜀の副将軍等、魏の兵忽に利を得て前まん事を恐て、孔明が死を隠し、大将の命と相触て、旗をすゝめ兵をなびけて魏の陣へ懸入る。仲達は元来戦を以て、蜀に勝事を得じと思ければ一戦にも及ばず、馬に鞭て走事五十里、嶮岨にして留る。今に世俗の諺に、「死せる孔明生る仲達を走しむ。」と云事は、是を欺る詞也。戦散じて後蜀の兵孔明が死せる事を聞て、皆仲達にぞ降ける。其より蜀先亡び呉後に亡て、魏の曹操遂に天下を保ちけり。此故事を以て、今の御夢を料簡するに、事の様、魏呉蜀三国の争に似たり。就中竜は陽気に向ては威を震ひ、陰の時に至ては蟄居を閉づ。時今陰の初め也。而も龍の姿にて水辺に臥たりと見給へるも、孔明を臥龍と云しに不異。 |
仲達(司馬懿)がこう言って兵士たちの嘲笑も気にせず、さらに陣を遠く取り直し、無為に数か月を過ごした。これを聞いた魏兵たちは「どんな名医でも四十里離れた敵の脈など診られるはずがない。孔明という臥竜の名声を恐れて言い訳しているのだ」と手を打って大笑いした。 ある夜、両軍の中間に客星(流星)が落ち、その光は炎よりも赤かった。仲達はこれを見て「七日以内に天下の人傑が失われる星だ。孔明は必ず死ぬはずで、魏が蜀を併合するのも間近い」と喜んだ。 案の定、その翌日から孔明は病に伏し、七日後に天幕の中で亡くなった。蜀軍副将たちは魏軍に隙を見せまいと死亡を隠蔽し、「大将命令」として進撃した。元々正面戦闘を避けていた仲達は一戦も交えず五十里(約20km)敗走し、険しい地形でようやく停止した。世間に「死せる孔明が生ける仲達を走らす」(諸葛亮の亡霊が司馬懿を逃走させた)という諺があるのはこの故事に基づく。 戦い終えた後、蜀軍は孔明の死を知り多くが降伏。その後まもなく蜀が滅び、次いで呉も滅んで魏(曹操勢力)が天下統一した。 この故事から現在見た夢を解釈すると、その状況は魏・呉・蜀三国争乱に似ている。特に龍は陽の時には威を振るうが陰の時期には隠れるものだ。今まさに陰(衰退期)のはじまりであり、水辺に臥す竜を見た夢も「臥竜」と呼ばれた孔明と符合する。 解説
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| されば面々は皆、目出き御夢なりと合られつれ共、道猷は強に甘心せず。」と眉をひそめて云ければ、諸人げにもと思へる気色なれども、心にいみ言ばに憚て、凶とする人なかりけり。 ○義貞馬属強事 潤七月二日、足羽の合戦と触れられたりければ、国中の官軍義貞の陣河合庄へ馳集りけり。其勢宛も雲霞の如し。大将新田左中将義貞朝臣は、赤地錦の直垂に脇立ばかりして、遠侍の座上に坐し給へば、脇屋右衛門佐は、紺地の錦の直垂に、小具足計にて、左の一の座に著給ふ。此外山名・大館・里見・鳥山・一井・細屋・中条・大井田・桃井以下の一族三十余人は、思々の鎧甲に色々の太刀・刀、奇麗を尽して東西二行に座を烈す。外様の人々には、宇都宮美濃将監を始として、禰津・風間・敷地・上木・山岸・瓜生・河島・大田・金子・伊自良・江戸・紀清両党以下著到の軍勢等三万余人、旗竿引そばめ/\、膝を屈し手をつかねて、堂上庭前充満たれば、由良・舟田に大幕をかゝげさせて、大将遥に目礼して一勢々々座敷を起つ。巍々たるよそをひ、堂々たる礼、誠に尊氏卿の天下を奪んずる人は、必義貞朝臣なるべしと、思はぬ者はなかりけり。其日の軍奉行上木平九郎、人夫六千余人に、幕・掻楯・埋草・屏柱・櫓の具足共を持はこばせて参りければ、大将中門にて鎧の上帯しめさせ、水練栗毛とて五尺三寸有ける大馬に、手綱打懸て、門前にて乗んとし給けるに、此馬俄に属強をして、騰跳狂ひけるに、左右に付たる舎人二人蹈れて、半死半生に成にけり。 |
そこで一同は皆「吉夢ですな」と言い合ったが、道猷だけは頑として納得せず、眉をひそめて言うのであった。他の者たちも確かにそうかもしれないと思っている様子ではあったものの、不吉なことを口に出すのは憚られて、凶兆だと言う者は一人もいなかった。 さて新田義貞の馬が暴れる事件 閏七月二日、足羽での合戦が布告されたため、国中の官軍(南朝方)は皆、義貞の陣営のある河合庄へ駆け集まった。その勢いはまるで雲や霧のように膨大であった。大将である新田左中将義貞朝臣は赤地錦の直垂に軽装備だけで遠侍の座席に鎮座なさると、脇屋右衛門佐(義貞の弟)は紺地錦の直垂に簡素な武具のみで左側一の席につかれた。これ以外にも山名・大館・里見・鳥山・一井・細屋・中条・大井田・桃井以下の一族三十人余りが、それぞれ思い思いの鎧甲や様々な太刀・刀を着飾り、東西二列に整然と席を並べた。外様衆では宇都宮美濃将監を筆頭に、禰津・風間・敷地・上木・山岸・瓜生・河島・大田・金子・伊自良・江戸・紀清両党以下登録の軍勢ら三万人余りが、旗竿を傾けながら膝をつき手を組んで堂上や庭前を埋め尽くしたため、由良と舟田に大きな幕を張らせた。大将从遠くから目礼し全員が席を立つその様は威厳があり堂々としたもので、「尊氏卿(北朝方の足利尊氏)が天下を奪うなら必ず義貞公こそ相応しい」と誰もが思わざるを得なかった。 この日の軍奉行である上木平九郎が人夫六千余人に幕・掻楯・埋め草・屏柱・櫓などの装備類を持ち運ばせて来たところ、大将(義貞)は中門で鎧の帯を締めさせられ、「水練栗毛」という五尺三寸もある大馬へ手綱をつけて門前から乗ろうとした。するとこの馬が突然暴れ出して跳ね狂い、左右に付き添っていた舎人二人を踏みつけ半死半生の状態にしてしまった。 解説
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| 是をこそ不思議と見る処に、旗さしすゝんで足羽河を渡すに、乗たる馬俄に河伏をして、旗さし水に漬にけり。加様の怪共、未然に凶を示しけれ共、已に打臨める戦場を、引返すべきにあらずと思て、人なみ/\に向ひける勢共、心中にあやふまぬはなかりけり。 ○義貞自害事 燈明寺の前にて、三万余騎を七手に分て、七の城を押阻て、先対城をぞ取られける。兼ての廃立には、「前なる兵は城に向ひ逢ふて合戦を致し、後なる足軽は櫓をかき屏を塗て、対城を取すましたらんずる後、漸々に攻落すべし。」と議定せられたりけるが、平泉寺の衆徒のこもりたる藤島の城、以外に色めき渡て、軈て落つべく見へける間、数万の寄手是に機を得て、先対城の沙汰をさしおき、屏に著堀につかつてをめき叫でせめ戦ふ。衆徒も落色に見へけるが、とても遁るべき方のなき程を思ひ知けるにや、身命を捨て是を防ぐ。官軍櫓を覆て入んとすれば、衆徒走木を出て突落す。衆徒橋を渡て打て出れば、寄手に官軍鋒を調て斬て落す。追つ返つ入れ替る戦ひに、時刻押移て日已に西山に沈まんとす。大将義貞は、燈明寺の前にひかへて、手負の実検してをはしけるが、藤島の戦強して、官軍やゝもすれば追立らるゝ体に見へける間、安からぬ事に思はれけるにや、馬に乗替へ鎧を著かへて、纔に五十余騎の勢を相従へ、路をかへ畔を伝ひ、藤島の城へぞ向はれける。 |
これを不思議に思っているところへ、旗差し(旗持ち)が進んで足羽川を渡ろうとした際、乗っていた馬が突然川底にもぐり込み、旗差しも水没してしまった。このような怪異な出来事が事前に凶兆を示していたものの、「すでに出撃した戦場から引き返せるはずがない」と考えて進んだ軍勢たちは、内心危惧しない者など一人もいなかった。 さて新田義貞自害について 燈明寺前において三万騎余りの軍勢を七手に分け、七つの城塞に対峙させた後、まず対抗陣地(先対城)を占拠した。事前の作戦会議では「前衛部隊が各城と交戦しつつ、後方の軽装兵は櫓や防壁を設置して対抗陣地を固めた上で徐々に攻め落とす」と決められていたのだが、平泉寺僧兵たちが籠る藤島城だけは予想外に動揺が広がり、すぐにも陥落しそうに見えたため、数万の攻城部隊はこの好機を逃さず対抗陣地構築作業を中断。防壁に取りつき堀へ飛び込みながら怒号して攻め立てた。 僧兵たちも劣勢に見えたが、「どうせ逃げ場などない」と悟ったのか、命を捨てて必死に防戦した。官軍(南朝方)が櫓ごと押し倒そうとすると、僧兵は丸太で突き落とした。僧兵が橋を渡って逆襲すれば、攻城部隊が刃を揃えて斬り伏せる。追いつ返つの攻防が続くうちに時刻が移り日は西山へ傾こうとしていた。 大将新田義貞は燈明寺前の本陣で負傷者の検分を終えたところだったが、藤島での戦況が激化し官軍が押され気味に見えるため危機感を抱いたのか。馬を乗り替え鎧も着直すと僅か五十騎ほどの兵だけを引き連れ、畦道を縫うように迂回して藤島城へ直接向かった。 解説
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| 其時分黒丸の城より、細川出羽守・鹿草彦太郎両大将にて、藤島の城を攻ける寄手共を追払はんとて、三百余騎の勢にて横畷を廻けるに、義貞覿面に行合ひ給ふ。細川が方には、歩立にて楯をついたる射手共多かりければ、深田に走り下り、前に持楯を衝双て鏃を支て散々に射る。義貞の方には、射手の一人もなく、楯の一帖をも持せざれば、前なる兵義貞の矢面に立塞て、只的に成てぞ射られける。中野藤内左衛門は義貞に目加して、「千鈞の弩は為■鼠不発機。」と申けるを、義貞きゝもあへず、「失士独免るゝは非我意。」と云て、尚敵の中へ懸入んと、駿馬に一鞭をすゝめらる。此馬名誉の駿足なりければ、一二丈の堀をも前々輒く越けるが、五筋まで射立られたる矢にやよはりけん。小溝一をこへかねて、屏風をたをすが如く、岸の下にぞころびける。義貞弓手の足をしかれて、起あがらんとし給ふ処に、白羽の矢一筋、真向のはづれ、眉間の真中にぞ立たりける。急所の痛手なれば、一矢に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶はじとや思けん、抜たる太刀を左の手に取渡し、自ら頚をかき切て、深泥の中に蔵して、其上に横てぞ伏給ひける。越中国の住人氏家中務丞重国、畔を伝て走りより、其首を取て鋒に貫き、鎧・太刀・々同く取持て、黒丸の城へ馳帰る。 |
ちょうどその時、黒丸城から細川出羽守と鹿草彦太郎という両大将が藤島城を攻めている軍勢(新田義貞側)を追い払おうとして、三百騎余りの兵で横道を回っていたところに、新田義貞は直接彼らに出くわした。細川方には歩兵の盾を持った射手が多かったため深田へ下りて行き、前面に盾を立て矢じりを支えて次々と射かけた。一方、義貞側には射手も一人おらず一枚の盾さえ持っていなかったので、前方の兵士は義貞を守ろうとして立ちふさがったもののただ的にされてしまった。 中野藤内左衛門は義貞に目配せして「千鈞(巨大な弩弓)は小さな鼠のために発射しない」と言うと、義貞は聞き終える間もなく「部下を失って自分だけ逃れるのは本意ではない」と言いながらなお敵陣へ突入しようと駿馬に鞭打った。この馬は評判の俊足だったのでこれまで一二丈(約4-6m)の堀さえ軽々飛び越えていたが、五筋もの矢を射込まれたためか弱っていたのかもしれない。小さな溝一つも超えられず屏風のようによろめいて岸下へ倒れこんだ。 義貞は利き手である左手の足(左腕)を痛めて起き上がろうとした瞬間、白羽の矢一本が真正面から飛んできて眉間の真っただ中に突き刺さった。急所での重傷で一撃により目眩い意識も朦朧となったのであろうか、義貞は最早これまでと観念し抜いた太刀を左の手に持ち替え自ら首筋を掻き切り深泥の中へそれを隠した後その上に横たわって伏せた。越中国住人の氏家中務丞重国が畔伝いに駆け寄り、義貞の首級を取り上げて刃(槍か剣)に刺し貫くと鎧や太刀などと共に持ち去り黒丸城へ急いで引き返した。 解説
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| 義貞の前に畷を阻てゝ戦ける結城上野介・中野藤内左衛門尉・金持太郎左衛門尉、此等馬より飛で下り、義貞の死骸の前に跪て、腹かき切て重り臥す。此外四十余騎の兵、皆堀溝の中に射落されて、敵の独をも取得ず。犬死してこそ臥たりけれ。此時左中将の兵三万余騎、皆猛く勇める者共なれば、身にかはり命に代らんと思はぬ者は無りけれ共、小雨まじりの夕霧に、誰を誰とも見分ねば、大将の自ら戦ひ打死し給をも知らざりけるこそ悲けれ。只よそにある郎等が、主の馬に乗替て、河合をさして引けるを、数万の官軍遥に見て、大将の跡に随んと、見定めたる事もなく、心々にぞ落行ける。漢高祖は自ら淮南の黥布を討し時、流矢に当て未央宮の裡にして崩じ給ひ、斉宣王は自楚の短兵と戦て干戈に貫れて、修羅場の下に死し給き。されば「蛟竜は常に保深淵之中。若遊浅渚有漁綱釣者之愁。」と云り。此人君の股肱として、武将の位に備りしかば、身を慎み命を全してこそ、大儀の功を致さるべかりしに、自らさしもなき戦場に赴て、匹夫の鏑に命を止めし事、運の極とは云ながら、うたてかりし事共也。軍散じて後、氏家中務丞、尾張守の前に参て、「重国こそ新田殿の御一族かとをぼしき敵を討て、首を取て候へ。誰とは名乗候はねば、名字をば知候はねども、馬物具の様、相順し兵共の、尸骸を見て腹をきり討死を仕候つる体、何様尋常の葉武者にてはあらじと覚て候。 |
新田義貞の前方で畦道を防いで戦っていた結城上野介・中野藤内左衛門尉・金持太郎左衛門尉は、馬から飛び降りて義貞の遺骸の前にひざまずき腹をかき切り重なり合って倒れた。これ以外にも四十余騎の兵士全員が堀や溝に射落とされ敵に捕らえられる者もなく無駄死にしてしまった。 この時、左中将(義貞)配下の三万騎以上いた軍勢は皆勇猛な者ばかりで身代わりになってでも主君を守ろうと思わない者などいなかったが、小雨混じりの夕霧の中で誰が誰だか見分けられず大将自ら戦って討死したことも知らないままだったのは実に悲痛である。ただ遠方では郎党(家臣)の一人が主人の馬に乗り換えて河合方面へ退却する姿を数万の官軍は遥かに眺め「大将の後を追え」と確かめる間もなく各自思い思いに敗走してしまった。 かつて漢高祖(劉邦)自ら淮南王黥布を討伐した時には流れ矢にあたり未央宮で崩御し、斉宣王は楚軍との戦いの中で武器に貫かれ修羅場の下で亡くなっている。「蛟竜(強大な龍)は常に深淵の中に身を保つべきであり浅瀬に出れば漁師や釣り人の脅威にあう」と言われる。この人物(義貞)は天皇の股肱たる武将の地位にあったのだから、身を慎み命を全うしてこそ大儀(朝廷再興)の功績を成し遂げられたはずだ。自らさほど重要でない戦場へ赴き一兵卒の矢によって命を絶ったことは運が尽きたとはいえ実に惜しまれることである。 軍勢が散り散りになった後、氏家中務丞重国は(北朝方)尾張守のもとに参上し「重国めが新田殿とおぼしき敵を討ち首級を得ました。名乗らなかったので名字は知れませんが馬具の様子や配下兵士たちが遺骸を見て腹切り討死した状況から推測すれば、普通の雑兵ではないと思われます」と報告した。 解説
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| これぞ其死人のはだに懸て候つる護りにて候。」とて、血をも未あらはぬ首に、土の著たる金襴の守を副てぞ出したりける。尾張守此首を能々見給て、「あな不思議や、よに新田左中将の顔つきに似たる所有ぞや。若それならば、左の眉の上に矢の疵有べし。」とて自ら鬢櫛を以て髪をかきあげ、血を洗ぎ土をあらひ落て是を見給ふに、果して左の眉の上に疵の跡あり。是に弥心付て、帯れたる二振の太刀を取寄て見給に、金銀を延て作りたるに、一振には銀を以て金膝纏の上に鬼切と云文字を沈めたり。一振には金を以て、銀脛巾の上に鬼丸と云文字を入られたり。是は共に源氏重代の重宝にて、義貞の方に伝たりと聞れば、末々の一族共の帯くべき太刀には非と見るに、弥怪ければ、膚の守を開て見給ふに、吉野の帝の御宸筆にて、「朝敵征伐事、叡慮所向、偏在義貞武功、選未求他、殊可運早速之計略者也。」と遊ばされたり。さては義貞の頚相違なかりけりとて、尸骸を輿に乗せ時衆八人にかゝせて、葬礼の為に往生院へ送られ、頚をば朱の唐櫃に入れ、氏家の中務を副て、潜に京都へ上せられけり。 ○義助重集敗軍事 脇屋右衛門佐義助は、河合の石丸の城へ打帰て、義貞の行末をたづね給ふに、始の程は分明に知人もなかりけるが、事の様次第に顕れて、「討れ給ひけり。 |
新田義貞の前方であぜ道を防いで戦っていた結城上野介・中野藤内左衛門尉・金持太郎左衛門尉は、馬から飛び降りて義貞の遺骸の前にひざまずき腹をかき切り重なり合って倒れた。これ以外にも四十余騎の兵士全員が堀や溝に射落とされ敵に捕らえられる者もなく無駄死にしてしまった。 この時、左中将(義貞)配下の三万騎以上いた軍勢は皆勇猛な者ばかりで身代わりになってでも主君を守ろうと思わない者などいなかったが、小雨混じりの夕霧の中で誰が誰だか見分けられず大将自ら戦って討死したことも知らないままだったのは実に悲痛である。ただ遠方では郎党(家臣)の一人が主人の馬に乗り換えて河合方面へ退却する姿を数万の官軍は遥かに眺め「大将の後を追え」と確かめる間もなく各自思い思いに敗走してしまった。 かつて漢高祖(劉邦)自ら淮南王黥布を討伐した時には流れ矢にあたり未央宮で崩御し、斉宣王は楚軍との戦いの中で武器に貫かれ修羅場の下で亡くなっている。「蛟竜(強大な龍)は常に深淵の中に身を保つべきであり浅瀬に出れば漁師や釣り人の脅威にあう」と言われる。この人物(義貞)は天皇の股肱たる武将の地位にあったのだから、身を慎み命を全うしてこそ大儀(朝廷再興)の功績を成し遂げられたはずだ。自らさほど重要でない戦場へ赴き一兵卒の矢によって命を絶ったことは運が尽きたとはいえ実に惜しまれることである。 軍勢が散り散りになった後、氏家中務丞重国は(北朝方)尾張守のもとに参上し「重国めが新田殿とおぼしき敵を討ち首級を得ました。名乗らなかったので名字は知れませんが馬具の様子や配下兵士たちが遺骸を見て腹切り討死した状況から推測すれば、普通の雑兵ではないと思われます」と報告した。 解説
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| 」と申合ければ、「日を替へず黒丸へ押寄て、大将の討れ給ひつらん所にて、同討死せん。」と宣ひけれども、いつしか兵皆あきれ迷て、只忙然たる外は指たる儀勢もなかりけり。剰へ人の心も頓て替りけるにや、野心の者内にありと覚へて、石丸の城に火を懸んとする事、一夜の内に三箇度也。是を見て斉藤五郎兵衛尉季基、同七郎入道々献二人は、他に異なる左中将の近習にて有しかば、門前の左右の脇に、役所を並べて居たりけるが、幕を捨てゝ夜の間に何地ともなく落にけり。是を始として、或は心も発らぬ出家して、往生院長崎の道場に入り、或は縁に属し罪を謝て、黒丸の城へ降参す。昨日まで三万騎にあまりたりし兵共、一夜の程に落失て、今日は僅に二千騎にだにも足ざりけり。かくては北国を蹈へん事叶ふまじとて、三峯の城に河島を篭め、杣山の城に瓜生を置き、湊の城に畑六郎左衛門尉時能を残されて、潤七月十一日に、義助・義治父子共に、禰津・風間・江戸・宇都宮の勢七百余騎を率して、当国の府へ帰給ふ。 ○義貞首懸獄門事付勾当内侍事 新田左中将の首京都に著ければ、是朝敵の最、武敵の雄なりとて、大路を渡して獄門に懸らる。此人前朝の寵臣にて、武功世に蒙らしめしかば、天下の倚頼として、其芳情を悦び、其恩顧をまつ人、幾千万と云数を知ず、京中に相交りたれば、車馬道に横り、男女岐に立て、是を見に堪へず、泣悲む声■々たり。 |
「これはその死人の肌にかけていたお守りです。」と言って、血もまだ乾かない首に土がついた金襴の護符をつけて差し出した。尾張守(斯波高経)はこの首をよく観察され、「ああ不思議だ、まったく新田左中将(義貞)の顔立ちによく似ているではないか。もし彼ならば、左眉の上に矢傷があるはずだ。」と言い自ら櫛で髪をかき上げ血や土を洗い落として見られると、確かに左眉の上に傷跡があった。これによりさらに注意深く帯びていた二振りの太刀を取り寄せてご覧になると、金銀を用いて作られたものであり、一振りは銀地に金色の鍔(つば)を施し「鬼切」という文字が刻まれ、もう一振りは金地に銀色の鐺(こじり)をつけ「鬼丸」という文字が入れられていた。これらはいずれも源氏代々の宝物で義貞家に伝わったと聞くので末裔など帯びるべき太刀ではないと思い、ますます怪しいので肌身守袋を開いて見ると吉野帝(後醍醐天皇)直筆の宸筆で「朝敵征伐は天子の御意志が専ら義貞の武功に向けられており他に求める必要なく速やかな計略を行うべし」と記されていた。そこでこれは間違いなく義貞の首であるとして、遺体を輿に乗せ時宗僧八人にかつがせ葬儀のために往生院へ送り届けた後、首は朱塗りの唐櫃に入れ氏家中務丞(重国)をつけて密かに京都へ上らせた。 ○義助の敗軍再編成 ○義貞首獄門掲示と勾当内侍 解説
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| 中にも彼の北の台勾当の内侍の局の悲を伝へ聞こそあはれなれ。此女房は頭の大夫行房の女にて、金屋の内に装を閉ぢ、鶏障の下に媚を深して、二八の春の比より内侍に召れて君王の傍に侍り、羅綺にだも堪ざる貌は、春の風一片の花をふき残すかと疑はる。紅粉を事とせる顔は、秋の雲半江の月をはき出すに似たり。されば椒房の三十六宮、五雲の漸くに遶る事を听、禁漏の二十五声、一夜の正に長き事を恨む。去建武の始、天下又乱れんとせし時、新田左中将常に召れて、内裡の御警固にぞ候はれける。或夜月冷く風秋なるに、此勾当の内侍半簾を巻て、琴を弾じ給ひけり。中将其怨声に心引れて、覚へず禁庭の月に立吟、あやなく心そゞろにあこがれてければ、唐垣の傍に立紛れて伺けるを、内侍みる人ありと物侘しげにて、琴をば引かずなんぬ。夜痛く深て、在明の月のくまなく差入たるに、「類ひまでやはつらからぬ。」と打詠め、しほれ伏たる気色の、折らばをちぬべき萩の露、拾はゞ消なん玉篠の、あられより尚あだなれば、中将行末も知ぬ道にまよひぬる心地して、帰る方もさだかならず、淑景舎の傍にやすらひ兼て立明す。朝より夙に帰りても、風かなりし面影の、なをこゝもとにある心迷に、世の態人の云かはす事も心の外なれば、いつとなくをきもせず寐もせで夜を明し日を暮して、若しるべする海人だにあらば、忘れ草のをふと云浦のあたりにも、尋ねゆきなましと、そゞろに思しづみ給ふ。 |
中でもあの方(北の方)に仕える勾当内侍の悲嘆を知るにつけては、実に痛ましいものである。この女房(勾当内侍)は頭大夫行房の娘で、金張りの屋敷の中で身だしなみを整え、鶏鳴障子の下で艶やかな姿を見せており、十六歳の春ごろから内侍として召され天皇のお側に仕えてきた。絹織物すら似つかわしくないほどの美貌は、まるで春風が一片の花を吹き残したのかと疑われるほどであり、紅粉(お化粧)を施した顔立ちは秋雲の中から半江の月が浮かび出るのに似ていた。そのため後宮の三十六人の女官たちも五色の雲に包まれながら次第に遠ざかる境遇を嘆き、夜警を知らせる二十五回の鐘の音さえ一夜があまりにも長いことを恨むのであった。 建武元年のはじめ天下が再び乱れようとした頃、新田左中将(義貞)は常に召されて内裏御所の警護を担当されていた。ある夜月が冷たく風も秋めいたころこの勾当内侍が半分簾を巻き上げて琴を弾じていると、中尉その哀愁漂う音色に心ひかれ思わず禁中の庭園で月光のもとに立ち止まって詩吟じてしまった。危うくそぞろな恋慕の情があふれて身震いしたため唐垣根のかたわらに紛れながら様子を伺っていたところ、内侍が人影を見つけ物憂げそうに琴の演奏をやめてしまわれた。 夜が深くなり満ち足りた月明かりが隅々まで差し込む中で「似た者同士であればこんなにつらくはないのに」と口ずさみ、萎れ伏せた彼女の様子は折ろうとしても散ってしまいそうな萩の露や拾おうにも消えてしまいそうな玉篠の葉のように霰よりもなお儚げであったため、中尉は行く末もわからぬ道に迷い込んだ心地で帰る方角さえ定まらず淑景舎のかたわらで休みながら夜明かしをした。翌朝早々に帰ったものの風情漂う面影がなお脳裏にあって心は乱れ、世の中のありさまや人の噂話も思いの外であるためいつとはなく起きもしなければ寝ることもせず日夜を過ごしてしまい、「仮にも道案内をする漁師さえいるならば忘れ草(慰め)が生えるという浦辺にでも尋ねていこうものか」とむなしく思われ沈み込まれた。 解説
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| あまりにせん方なきまゝに、媒すべき人を尋出して、そよとばかりをしらすべき、風の便の下荻の穂に出るまではなくともとて、我袖の泪に宿る影とだにしらで雲井の月やすむらんと読て遣されたりければ、君の聞召れん事も憚ありとて、よにあはれげなる気色に見へながら、手にだに取らずと、使帰て語ければ、中将いとゞ思ひしほれて、云べき方なく、有るを憑の命とも覚へずなりぬべきを、何人か奏しけん、君、等閑ならずと聞召て、夷心のわく方なさに、思そめけるも理也と、哀れなる事に思召れければ、御遊の御次に左中将を召れ、御酒たばせ給ひけるに、「勾当の内侍をば此盃に付て。」とぞ仰出されける。左中将限なく忝と悦て、翌の夜軈て牛車さはやかにしたてゝ、角と案内せさせたるに、内侍もはや此年月の志に、さそふ水あらばと思ひけるにや、さのみ深け過ぬ程に、車のきしる音して、中門にながへを指廻せば、侍児ひとり二人妻戸をさしかくして驚破めきあへり。中将は此幾年を恋忍で相逢ふ今の心の中、優曇花の春まち得たる心地して、珊瑚の樹の上に陽台の夢長くさめ、連理の枝の頭りに驪山の花自濃也。あやなく迷ふ心の道、諌る人もなかりしかば、去ぬる建武のすへに、朝敵西海の波に漂し時も、中将此内侍に暫しの別を悲て征路に滞り、後に山門臨幸の時、寄手大岳より追落されて、其まゝ寄せば京をも落んとせしかども、中将此内侍に迷て、勝に乗疲を攻る戦を事とせず。 |
どうしようもないまま、仲介してくれる人を見つけ出して、「ほのかにも伝えてくれないか。風の便りが下荻の穂先に出るほどではなくとも」と言って「私の涙で濡れた袖に映る月影さえ知らずに空高く昇る月は安らかに眠っているだろうか」と詠んで送ったところ、天皇(君)にも伝わることを恐れていて、とても悲しげな様子ながら手すら取らないと言い、使いの者が帰って報告したので、中将はいっそう思い悩み、言うべき方法もなく、生きる意味さえ失おうとしていたところを誰かが奏上したのだろう。天皇は軽く見ずにお聞きになり、「夷心(恋心)が湧くのも道理だ」と哀れに思し召されたため、御遊宴の折に左中将をお呼びになって御酒を賜った際「勾当内侍をこの杯につけて(そなたに与える)」とお命じになった。左中将是は限りなく光栄に思い喜んで、翌夜すぐ牛車を立派に整えあちこち案内させたところ、内侍も長年積み重ねた彼の想いが「誘う水(機会)さえあれば」と思っていたからだろうか、そうこうするうち深更過ぎる頃に車の軋む音がして中門に簾を差し回すと侍女一人二人が妻戸を押しかくして驚き騒いだ。中将はこの何年も恋を耐え忍んで相逢った今の心境、優曇華(希有な花)が春を待ち得た心地で珊瑚樹の上では陽台の夢(男女愛)が長く覚めず連理枝(結ばれた木)の梢には驪山の花が自ら濃くなるようだ。危うくも迷い込んだ心の道に諫める者もなかったため、過ぎ去った建武政権末期に朝敵が西海の波に漂っていた時さえ中将はこの内侍との束の間の別れを悲しんで出征路で滞り後に天皇(山門臨幸とは比叡山行幸)の際には攻め手が大岳から追い落とそうとしたのにそのまま押せば京も陥ちるはずだったけれど、中将はこの内侍に惑って勝勢に乗じた疲れた敵を討つ戦を顧みなかった。 解説
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| 其弊へ果して敵の為に国を奪れたり。誠に「一たび笑で能く国を傾く。」と、古人の是をいましめしも理也とぞ覚へたる。中将坂本より北国へ落給ひし時は、路次の難儀を顧て、此内侍をば今堅田と云所にぞ留め置れたりける。かゝらぬ時の別れだに、行には跡を顧て、頭を家山の雲に回らし、留まるは末を思ひやりて、泪を天涯の雨に添ふ。況や中将は行末とても憑みなき北狄の国に趣き給へば、生て再び廻りあはん後の契もいさ知らず。又内侍は、都近き海人の礒屋に身をかくし給ひければ、今もやさがし出されて、憂名を人に聞れんずらんと、一方ならずなげき給ふ。翌年の春、父行房朝臣金崎にて打れ給ひぬと聞へしかば、思の上に悲をそへて、明日までの命もよしや何かせんと、歎きしづみ給ひしか共、さすがに消ぬ露の身なれば、をき居に袖をほしわびて、二年あまりに成にけり。中将も越前に下り著し日より、軈て迎をも上せばやと思ひ給ひけれども、道の程も輒からず、又人の云思はんずる所憚あれば、只時々の音信ばかりを互に残る命にて、年月を送り給けるが、其秋の始に、今は道の程も暫く静に成ぬればとて、迎の人を上せられたりければ、内侍は此三年が間、暗き夜のやみに迷へるが、俄に夜の明たる心地して、頓て先杣山まで下著き給ぬ。 |
その弊害(恋愛への没頭)がついに実を結んで敵のために国を奪われる結果となった。まさに「一笑してよく国を傾ける」と古人が戒めたのも道理だと思われた。中将が坂本から北国へ落ち延びられた時は、道中の困難を顧みてこの内侍を今の堅田という場所に留め置かれた。縁もない者同士の別れでさえ行く者は後ろ髪をひかれ家山(故郷)の雲を見返り、残る者は将来を思いやって天涯(遠い地)の雨に涙を添えるのに、ましてや中将は前途頼みない北狄(北陸地方)へ向かわれるのだから、生きて再会できる約束もどうなるか分からない。また内侍は都近くの漁師の磯小屋に身を隠されていたので「今にも見つけ出されて悪い噂を立てられるのではないか」とひたすら嘆いておられた。 翌年の春、父である行房朝臣が金崎で討たれたと聞いた時は悲しみの上にさらに哀痛が重なり、「明日までの命ならばどうでもよいのに」と沈んでおられながらも、流れる露のような身ゆえ泣き暮らして袖を乾かすこともなく二年あまり過ぎてしまった。中将も越前に下り着いた日からすぐにお迎えを差し上げたいと思われたが道中は容易でなく世間の噂も憚られるため、ただ時折りの消息だけを互いの命ある限りやり取りして年月を過ごしておられたところ、その秋初めに「今やっと街道も少し静まった」とお迎えの人を遣わされたので内侍はこの三年間暗闇で迷っていたのが突然夜が明けたような心地になり、すぐに先杣山(敦賀)まで下り着かれた。 解説
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| 折節中将は足羽と云所へ向ひ給たりとて、此には人も無りければ、杣山より輿の轅を廻して浅津の橋を渡り給ふ処に、瓜生弾正左衛門尉百騎ばかりにて行合奉りたるが、馬より飛でをり、輿の前にひれ伏て、「是はいづくへとて御渡り候らん。新田殿は昨日の暮に、足羽と申所にて討れさせ給て候。」と申もはてず、涙をはら/\とこぼせば、内侍の局、こは何なる夢のうつゝぞやと、胸ふさがり肝消て、中々泪も落やらず、輿の中にふし沈みて、「せめてはあはれ其人の討れ給ひつらん野原の草の露の底にも、身をすて置て帰れかし。さのみはをくれさきだゝじ、共に消もはてなん。」と、泣悲み給へ共、「早其輿かき返せ。」とて、急で又杣山へぞ返し入れまいらせける。是ぞ此程中将殿の住給ひし所也とて、色紙押散したる障子の内を見給へば、何となき手ずさみの筆の跡までも、只都へいつかと、あらまされたる言の葉をのみ書をき、読すてられたり。かゝる空き形見を見につけても、いとゞ悲のみふかくなり行ば、心少も慰べき方ならね共、中将のすみすて給し跡なれば、爰にて中陰の程をも過して、なき跡をも訪はゞやと覚しけるに、頓て其辺も騒しく成て敵の近付など聞へしかば、城の麓はあしかるべしとて、頓て又京へ上せ奉り、仁和寺のあたり、幽なる宿の、主だにすまずなりぬる蓬生の宿に送り置奉る。 |
ちょうど中将が足羽という所へ向かわれたと言うことで、ここには誰もいなかったため、杣山から輿の轅を回して浅津の橋を渡られるところに瓜生弾正左衛門尉が百騎ほどで行き会い申し上げたのが、馬から飛び降りて輿の前にひれ伏し「これはどちらへお越しでしょうか。新田殿(中将)は昨日の夕暮れに足羽という所で討ち死になさいました」と申し終わらないうちに涙をぽろぽろとこぼしたので、内侍局(勾当内侍)は「これはどんな夢うつつだろうか」と胸が詰まり肝魂消え、かえって涙も落ちず輿の中に伏し沈んで、「せめてあの方が討たれたという野原の草の露の底にでも身を捨て置いて帰ろう。それほど遅れ先立つことを惜しまないで、共に消えて果てよう」と泣き悲しまれたが、(瓜生は)「早くその輿を引き返せ!」と言って急いで再び杣山へ戻して差し上げた。「これこそ最近まで中将殿がお住まいになった場所です」と言われ、色紙が貼り散らされた障子の内側をご覧になると、何とはない手すさみに書いた筆跡までも「都へはいつか」と待ちわびる言葉ばかりを書き付け読み捨てられていた。このような空しい形見を見つけるにつけてもますます悲しみが深くなっていくので心少しも慰む方法がないながら、中将の住み捨てられた跡であるためここで中陰(四十九日)の期間をも過ごして亡き後を弔おうと思われたところに早速その辺りも騒がしくなって敵が近づくなどと聞こえたので城の麓は危険だろうと言ってすぐまた京へ上らせ申し上げ、仁和寺付近の人気ない宿で主人さえ住まぬ荒れ果てた蓬生(よもぎ)の宿に送り置き申しあげる。 解説
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| 都も今は返て旅なれば、住所も定まらず、心うかれ袖しほれて、何くにか身を浮舟のよるべも有べきと、昔見し人の行末を尋て陽明の傍りへ行給ひける路に、人あまた立あひて、あなあはれなんど云音するを、何事にかと立留て見給へば、越路はるかに尋行て、あはで帰し新田左中将義貞の首を、獄門の木に懸られて、眼塞り色変ぜり。内侍の局是を二目とも見給はずして、傍なる築地の陰になき倒れ給ひけり。知も知らぬも是を見て、共に涙を流さぬはなかりけり。日已に暮けれども、立帰るべき心地もなければ、蓬が本の露の下に泣しほれてをはしけるを、其辺なる道場の聖、「余りに御いたはしく見させ給ひ候に。」とて、内へいざなひ入奉れば、其夜やがて翠の髪を刷下し、紅顔を墨染にやつし給ふ。暫しが程はなき面影を身にそへて、泣悲み給しが、会者定離の理に、愛別離苦の夢を覚して、厭離穢土の心は日々にすゝみ、欣求浄土の念時々に勝りければ、嵯峨の奥に往生院のあたりなる柴の扉に、明暮を行ひすましてぞをはしける。 ○奥州下向勢逢難風事 吉野には、奥州の国司安部野にて討れ、春日少将八幡の城を落されて、諸卒皆力を失といへども、新田殿北国より責上る由奏聞したりけるを御憑あつて、今や/\と待給ける処に、此人さへ足羽にて討れぬと聞へければ、蜀の後主の孔明を失ひ、唐の太宗の魏徴に哭せしが如く、叡襟更にをだやかならず、諸卒も皆色を失へり。 |
都(京都)へ戻った今も、住む場所が定まらず旅人のようである。気も狂わんばかり涙で袖を濡らし、「どこか身の寄る先があろうか」と昔知り合いだった人物の行方を尋ねて陽明門(御所付近)へ向かう途中、多くの人が集まって「ああ哀れなことよ」と言っている声が聞こえた。何事かと立ち止まって見ると、はるばる越後路から運ばれて帰らずじまいとなった新田左中将(義貞)の首が獄門台に掛けられており、目は閉ざされ色も変わり果てていた。内侍(勾当内侍)はこれを見ると二度と見ようともせず、そばにある築地塀の陰で泣き崩れて倒れたのである。知っている者もいない者もこの様子を見て涙を流さぬ者はなかった。 日がすっかり暮れても立ち去る気力もなく、蓬(雑草)の根元で露に濡れるままに泣き続けていると、そばにある道場の僧侶が「あまりにお可哀想です」と言って中へ招き入れた。その夜すぐに内侍は黒髪を切り落とし、紅顔(美しい顔)を墨染め(尼僧服)で改めた。一時は亡くなった人(義貞)の面影が身につまされ悲嘆にくれていたが、「会う者は必ず別れる」という理を知り「愛する者との離別苦しみ」という夢から覚めて、穢れたこの世を厭い避ける心が日々進み浄土(極楽)への願望が次第に強まったので、嵯峨の奥にある往生院付近の柴垣と扉のある庵で朝晩修行しながら過ごした。 さて、奥州へ向かう軍勢が暴風雨にあって遭難した件について。 吉野(南朝朝廷)では、奥州国司安倍氏が阿部野で討たれ春日少将の八幡城も落とされたため諸兵士は皆力を失っていたとはいえ、「新田殿が北陸から攻め上る」との報せを聞いて頼みにし「今か今か」と待ち望んでいたところ、この人(義貞)まで足羽で討たれたと知った。蜀の後主(劉禅)が孔明を失い唐の太宗が魏徴に号泣したように天皇はひどく動揺され諸兵士も皆顔色を失ってしまった。 解説:内侍出家の心理的転換
獄門場面の歴史的意義
南朝側(吉野朝廷)の政治的危機
比喩的引用と文学的効果
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| 爰に奥州の住人、結城上野入道々忠と申けるもの、参内して奏し申しけるは、「国司顕家卿三年の内に両度まで大軍を動して上洛せられ候し事は、出羽奥州の両国みな国司に従て、凶徒其隙を得ざる故也。国人の心未変ぜざるさきに、宮を一人下し進せて、忠功の輩には直に賞を行はれ、不忠不烈の族をば根をきり葉をからして、御沙汰候はんには、などか攻随へでは候べき。国の差図を見候に、奥州五十四郡恰日本の半国に及べり。若兵数を尽して一方に属せば、四五十万騎も候べし。道忠宮を挟み奉て、老年の首に胄を頂く程ならば、重て京都に攻上り、会稽の恥を雪めん事一年の内をば過し候まじ。」と申ければ、君を始奉て左右の老臣悉く、「此議げにも然るべし。」とぞ同ぜられける。依之第八宮の今年七歳にならせ給ふを、初冠めさせて、春日少将顕信を輔弼とし、結城入道々忠を衛尉として、奥州へぞ下しまいらせられける。是のみならず新田左兵衛義興・相摸次郎時行二人をば、「東八箇国を打平て宮に力を副奉れ。」とて、武蔵相摸の間へぞ下されける。陸地は皆敵強して通りがたしとて、此勢皆伊勢の大湊に集て、船をそろへ風を待けるに、九月十二日の宵より、風やみ雲収て、海上殊に静りたりければ、舟人纜をといて、万里の雲に帆を飛す。 |
ここで奥州の住人である結城上野入道道忠という者が参内して天皇に奏上した。「国司顕家卿が三年間に二度まで大軍を動かし上洛できたのは、出羽・奥州両国の者すべてが国司(北畠顕家)に従い敵に隙を与えなかったためです。国人の心がまだ変わらないうちに皇族お一人をお遣わしいただき、忠節ある者には直ちに恩賞を授け、不忠無益な輩は根こそぎ断つご処置をされればどうして従わないことがありましょうか。国の規模を見ると奥州五十四郡は日本の半分にも及びます。もし兵力全てを捧げるなら四五十万騎も動員可能でしょう。道忠が皇族をお守りし、老齢の身に兜を被ってでも再び京都へ攻め上り会稽(敗北)の恥を雪ぐのは一年以内のことです」と述べたところ、天皇はじめ左右の老臣全員「この提案こそ道理に適う」と同意した。そこで第八宮(宗良親王か・当時七歳)が初冠し春日少将顕信を補佐役、結城入道道忠を警護責任者として奥州へ下向させただけでなく、「東国八カ国を平定して皇族に力を添えよ」との命で新田左兵衛義興と相模次郎時行の二人も武蔵・相模方面へ派遣した。 陸路は敵が強く通過困難だったため、この軍勢全員伊勢大湊に集結し船を揃えて風待ちしていたところ、九月十二日夜から風止み雲晴れて海上が静まったので船頭たちは舫い綱(ともづな)を解き万里の空へ帆を揚げた。 解説:歴史的意義と作戦内容
人物配置の政治的意図
文学的技法
全体構造における位置付け
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| 兵船五百余艘、宮の御座舟を中に立てゝ、遠江の天竜なだを過ける時に、海風俄に吹あれて、逆浪忽に天を巻翻す。或は檣を吹折られて、弥帆にて馳る舟もあり。或は梶をかき折て廻流に漂船もあり。暮れば弥よ風あらく成て、一方に吹も定らざりければ、伊豆の大島・女良の湊・かめ河・三浦・由居の浜・津々浦々の泊に船の吹寄せられぬはなかりけり。宮の召れたる御舟一艘、漫々たる大洋に放たれて、已に覆らんとしける処に、光明赫奕たる日輪、御舟の舳前に現じて見へけるが、風俄に取て返し、伊勢国神風浜へ吹もどし奉る。若干の舟共行方もしらず成ぬるに、此御舟計日輪の擁護に依て、伊勢国へ吹もどされ給ぬる事たゞ事にあらず。何様此宮継体の君として、九五の天位を践せ給ふべき所を、忝も天照太神の示されける者也とて、忽に奥州の御下向を止られ、則又吉野へ返し入れ進せられけるに、果して先帝崩御の後、南方の天子の御位をつがせ給し吉野の新帝と申奉しは、則此宮の御事也。 ○結城入道堕地獄事 中にも結城上野入道が乗たる舟、悪風に放されて渺渺たる海上にゆられたゞよふ事、七日七夜也。既に大海の底に沈か、羅刹国に堕かと覚しが、風少し静りて、是も伊勢の安野津へぞ吹著られける。こゝにて十余日を経て後猶奥州へ下らんと、渡海の順風を待ける処に、俄に重病を受て起居も更に叶はず、定業極りぬと見へければ、善知識の聖枕に寄て、「此程まではさり共とこそ存候つるに、御労り日に随て重らせ給候へば、今は御臨終の日遠からじと覚へて候。 |
兵船五百余隻が皇族(第八宮)の御座船を中心に遠江国天竜灘を通り過ぎた時、突然海風が吹き荒れ逆波が天をも巻き上げる勢いとなった。帆柱を折られ帆だけで流される船もあれば、舵を破壊され渦潮に漂う船もある。日暮れとともに風は一層激しさを増し方向定まらず吹くため、伊豆大島・女良の湊・狩野川・三浦・由比ヶ浜など津々浦々の港へ流される船がなかったところはない。 皇族のお乗りの御船一隻が広漠たる大洋に漂い今にも沈みそうになったその時、光り輝く太陽が舳先に現れた。すると風向きが急変し伊勢国神風浜(現在の三重県)へ押し戻される奇跡があった。他の多くの船は行方不明となった中でこの御船だけが日の輪の加護により無事漂着したのはただごとではない。これは皇族(宗良親王)が本来なら正統な君主として天皇位につくべき身であることを、畏れ多くも天照大神が示されたものだと言われたため、直ちに奥州下向は中止され吉野へ送還されることとなった。後に先帝崩御の後「南朝天子」と呼ばれた方がこの第八宮であった。 さて結城上野入道(道忠)堕地獄について 解説:奇跡描写の史実的意義
第八宮(宗良親王)の歴史的運命
結城道忠描写の文学的役割
全体構成における役割
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| 相構て後生善所の御望惰たる事無して、称名の声の内に、三尊の来迎を御待候べし。さても今生には、何事をか思召をかれ候。御心に懸る事候はゞ仰置れ候へ。御子息の御方様へも伝へ申候はん。」と云ければ、此入道已に目を塞んとしけるが、ゝつぱと跂起て、から/\と打笑ひ、戦たる声にて云けるは、「我已に齢七旬に及で、栄花身にあまりぬれば、今生に於ては一事も思残事候はず。只今度罷上て、遂に朝敵を亡し得ずして、空く黄泉のたびにをもむきぬる事、多生広劫までの妄念となりぬと覚へ候。されば愚息にて候大蔵権少輔にも、我後生を弔はんと思はゞ、供仏施僧の作善をも致すべからず。更に称名読経の追賁をも成すべからず。只朝敵の首を取て、我墓の前に懸双て見すべしと云置ける由伝て給り候へ。」と、是を最後の詞にて、刀を抜て逆手に持ち、断歯をしてぞ死にける。罪障深重の人多しといへ共、終焉に是程の悪相を現ずる事は、古今未聞の所也。げにも此道忠が平生の振舞をきけば、十悪五逆重障過極の悪人也。鹿をかり鷹を使ふ事は、せめて世俗の態なれば言ふにたらず。咎なき者を殴ち縛り、僧尼を殺す事数を知ず。常に死人の頚を目に見ねば、心地の蒙気するとて、僧俗男女を云ず、日毎に二三人が首を切て、態目の前に懸させけり。 |
「さあ早く来世での安楽を願って怠ることなく念仏の中で阿弥陀三尊の御来迎をお待ちなさい。しかし今生では何かお思い残しがおありでしょうか?心に懸かり事があれば仰せください。ご子息様にも伝えて差し上げましょう」と言うと、この入道(結城道忠)はすでに目を閉じようとしたところだったが、「ハッ!」と跳ね起きて高らかに大笑いしながら、戦場のような声で言った。「私は七十歳まで生き栄華も身に余るほど味わったから今生での未練は何一つない。ただ今回上洛して朝敵(北朝勢力)を滅ぼせず空しく死の旅路へ赴くことが無限の輪廻における妄念となるだろう。だから愚息たる大蔵権少輔にも、私の後生供養をしたいと思うなら仏に供え僧に施す善行もするな。ましてや念仏読経の追善も行うでない。ただ朝敵の首級を取り我が墓前に吊り下げて見せよと伝えてくれ」これを最後の言葉として刀を抜き逆手に握り、歯を食いしばって絶命した。 罪深い人間は多いが最期にこれほどの凶相を示すことは古今未聞のことだ。実際この道忠の平生の行状を聞けば十悪五逆(仏教で最も重い罪)を超える極悪人であった。鹿狩りや鷹使いなど世俗的な行為は言うまでもなく、無実の人々を殴打拘束し僧尼を殺害した数も知れない。「常に死人の首が目に入らなければ気分が晴れぬ」と言い老若男女問わず毎日二三人の首を斬ってわざと眼前に吊るさせていたのである。 解説:臨終場面の宗教的・文学的意義
人物像における矛盾性
死後評価の社会思想的背景
全体構成における役割
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| されば彼が暫も居たるあたりは、死骨満て屠所の如く、尸骸積で九原の如し。此入道が伊勢にて死たる事、道遠ければ故郷の妻子未知る事無りけるに、其比所縁なりける律僧、武蔵国より下総へ下る事あり。日暮野遠して留るべき宿を尋ぬる処に、山伏一人出来て、「いざ、ゝせ給へ。此辺に接待所の候ぞ。其所へつれ進せん。」と云ける間、行脚の僧悦て、山伏の引導に相順ひ、遥に行て見に、鉄の築地をついて、金銀の楼門を立たり。其額を見れば、「大放火寺」と書たり。門より入て内を見るに、奇麗にして、美を尽せる仏殿あり。其額をば「理非断」とぞ書たりける。僧をば旦過に置て、山伏は内へ入ぬ。暫く有て、前の山伏、内より螺鈿の匣に法花経を入たるを持来て、「只今是に不思議の事あるべきにて候。いかに恐しく思召候共、息をもあらくせず、三業を静めて此経を読誦候べし。」と云て、己は六の巻の紐を解て寿量品をよみ、僧には八の巻を与て、普門品をぞ読せける。僧何事にやとあやしく思ひながら山伏の云に任て、口には経を誦し、心に妄想を払て、寂々としてぞ居たりける。夜半過る程に、月俄にかき陰り、雨あらく電して、牛頭馬頭の阿放羅刹共、其数を知らず、大庭に群集せり。天地須臾に換尽して、鉄城高く峙ち、鉄綱四方に張れり。 |
それゆえ彼が住んでいた一帯は死体の骨であふれ屠殺場のように、骸が積み重なって墓所のようであった。この入道(結城道忠)が伊勢で死亡したことは距離も遠く故郷の妻子には知らせる術もなかったのだが、その頃縁があった律宗の僧侶が武蔵国から下総へ向かう途中のことだった。日暮れ野を越え宿泊場所を探していると山伏一人が現れて「さあおいでくださいませ。この辺に接待所がありますぞ。そこへご案内いたしましょう」と言ったため、旅の僧は喜んで従って遥かに歩くと鉄製の塀を巡らせ金銀の楼門が立っていた。その扁額には「大放火寺」と記されている。門から中を見ると豪華に装飾された仏殿がありそこの扁額は「理非断」と書かれていた。僧を仮宿に置き山伏は奥へ消えた。しばらくすると先ほどの山伏が螺鈿の箱に入った法華経を持ち出し「今ここで不思議なことが起こるはずです。どんなに恐ろしくお思いでも息荒めず身口意を静めてこの経典をお唱えください」と言い、自らは六巻目の紐を解き寿量品を読み僧には八巻を与えて普門品を詠ませた。何事かと不審に思う僧だが山伏の指示通り唱経し心から妄念を払ひ静かに座っていた。 夜半過ぎ月が急にかき曇り激しい雨と雷鳴の中、牛頭馬頭(地獄の鬼卒)や阿修羅・羅刹たち無数が庭に群集した。天地は瞬時に変貌し鉄城が聳え立ち鉄網四方へ張られた。 解説:仏教的地獄描写の象徴性
経典読誦場面の宗教的機能
全体構成における役割
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| 烈々たる猛火燃て一由旬が間に盛なるに、毒蛇舌をのべて焔を吐き、鉄の犬牙をといで吠いかる。僧是を見て、あな恐ろし、是は無間地獄にてぞあるらんと恐怖して見居たる処に、火車に罪人を独りのせて、牛頭馬頭の鬼共、ながへを引て虚空より来れり。待て忿れる悪鬼共、鉄の俎の盤石の如なるを庭に置て、其上に此罪人を取てあをのけにふせ、其上に又鉄の俎を重て、諸の鬼共膝を屈し肱をのべて、ゑいや声を出、「ゑいや/\。」と推すに、俎のはづれより血の流るゝ事油をしたづるが如し。是を受て大なる鉄の桶に入れあつめたれば、程なく十分に湛へて滔々たる事夕陽を浸せる江水の如也。其後二の俎を取のけて、紙の如に推しひらめたる罪人を、鉄の串にさしつらぬき、炎の上に是を立てゝ、打返々々炮る事、只庖人の肉味を調するに不異。至極あぶり乾して後、又俎の上に推ひらめて、臠刀に鉄の魚箸を取副て、寸分に是を切割て、銅の箕の中へ投入たるを、牛頭馬頭の鬼共箕を持て、「活々。」と唱へて是を簸けるに、罪人忽に蘇て又もとの形になる。時に阿放羅刹鉄の■を取て、罪人にむかひ、忿れる言を出して、罪人を責て曰、「地獄非地獄、汝が罪責汝。」と、罪人此苦に責られて、泣んとすれども涙落ず。猛火眼を焦す故に、叫ばんとすれ共声出ず。 |
燃え盛る猛火が一由旬にわたって立ち上り、毒蛇が舌を伸ばして炎を吐き鉄の犬は牙を剥いて吠えたてた。僧侶はこれを見て「ああ恐ろしい、これは無間地獄だ」と恐怖しながら眺めていると、火の車に罪人一人を乗せ牛頭馬頭の鬼たちが綱を引いて虚空から現れた。怒り狂う悪鬼どもは鉄製の俎板を巨大な岩のように庭に置き、その上にこの罪人を仰向けに押さえつけた。さらに別の鉄俎を重ねると、全ての鬼が膝をついて肘を伸ばし「えいやっ」と声をあげて押すので、俎板の端から血が流れ出す様は油を注ぐようであった。これを大きな鉄桶に集めて受けると間もなく満杯となり溢れる勢いは夕陽に染まる大河の如くだった。 その後二枚目の俎を取り除き紙のように平らになった罪人を鉄串で貫くと、炎の上にかざして何度も返しながら焼いた様子は調理人が肉料理を作るのに違いなかった。極限まで焙り乾かすと再び俎板に押し広げ、斬肉刀と鉄製の魚箸を使って寸分残らず切り刻み銅箕の中へ投げ入れた。牛頭馬頭の鬼たちが「活々(かつかつ)!」と叫んで箕を揺すると罪人は忽然と蘇り元の姿に戻った。その時阿修羅や羅刹が鉄杖を取り憤怒の声で責め立てた。「地獄は地獄にあらずお前自身の罪が責めるのだ」と。罪人はこの苦しみにもだえたが涙も出ず、猛火で目が焼け叫ぼうにも声が出なかった。 解説:地獄描写の構造的特徴
キーシーン解釈
全体構成における宗教的メッセージ
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| 鉄丸喉を塞故に、若一時の苦患を語るとも、聞人は地に倒れつべし。客位の僧是を見て、魂も浮れ骨髄も砕ぬる心地して、恐しく覚へければ、主人の山伏に向て、「是は如何なる罪人を、加様に呵責し候やらん。」と問ければ、山伏の云、「是こそ奥州の住人結城上野入道と申者、伊勢国にて死して候が、阿鼻地獄へ落て呵責せらるゝにて候へ。若其方様の御縁にて御渡候はゞ、跡の妻子共に、「一日経を書供養して、此苦患を救ひ候へ。」と仰られ候へ。我は彼入道今度上洛せし時、鎧の袖に名を書て候し、六道能化の地蔵薩■にて候也。」と、委く是を教へけるに、其言未終、暁をつぐる野寺の鐘、松吹く風に響て、一声幽に聞へければ、地獄の鉄城も忽にかきけす様にうせ、彼山伏も見へず成て、旦過に坐せる僧ばかり野原の草の露の上に惘然として居たりけり。夢幻の境も未覚へね共夜已に明ければ、此僧現化の不思議に驚て、いそぎ奥州へ下り、結城上野入道が子大蔵権少輔に此事を語に、「父の入道が伊勢にて死たる事、未聞及ばざる前なれば、是皆夢中の妄想か、幻の間の怪異か。」と、真しからず思へり。其後三四日あつて、伊勢より飛脚下て、父の上野入道が遺言の様、臨終の悪相共委く語りけるにこそ、僧の云所一も偽らざりけりと信を取て、七々の忌日に当る毎に、一日経を書供養して、追孝の作善をぞ致しける。 |
鉄のように固い丸薬が喉を塞ぐかのように激しい苦痛ゆえ、仮に一時の患いを語ろうとしても聞く者は地面へ倒れそうになるほどだ。客僧はこれを見て魂が抜け骨髄まで砕ける思いで恐怖し山伏に向かって「これはどんな罪人をこのように責めているのですか」と尋ねると、山伏が言うには、「こそが奥州の住人結城上野入道(ゆうきこうづけにゅうどう)という者。伊勢国で死んで阿鼻地獄へ落ちて罰せられているのです。もしあなた様ご縁があって帰られるなら、残された妻子たちに『一日中経文を書き写す供養を行いこの苦しみから救ってくれ』とお伝えください。私はあの入道が上京した際鎧の袖に名前を書いた者であり六道衆生を教化する地蔵菩薩です」と詳しく教えた。 その言葉終わらぬうち夜明けを告げる野寺の鐘の音が松風に響いてかすかに聞こえると、地獄の鉄城も突然消え失せたように見え山伏も姿を消し仮宿に座っていた僧一人だけが野原の草露の上に呆然として残された。夢幻の世界からまだ覚め切らないうちにも夜は明けこの僧侶は現実化した不可思議さに驚き急いで奥州へ下り結城上野入道の息子大蔵権少輔(おおくらごんのしょう)に事を話すと「父が伊勢で死んだことは未だ知らないはずなのにこれは夢の中の妄想か幻の怪異か」と真実とは思わなかった。 その後三四日して伊勢から飛脚が来て上野入道の遺言や臨終時の悪相を詳しく伝えた時初めて僧侶の言葉に一点も偽りがないことを信じ取り七日毎の忌日に経文書写供養を行い追善回向(ついぜんえこう)を実行した。 解説:核心的宗教メッセージ
時間構造の象徴性
歴史的意義
文学的機能
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| 「「若有聞法者無一不成仏。」は、如来の金言、此経の大意なれば、八寒八熱の底までも、悪業の猛火忽に消て、清冷の池水正に湛ん。」と、導師称揚の舌をのべて玉を吐給へば、聴衆随喜の涙を流して袂を沾しけり。是然地蔵菩薩の善巧方便にして、彼有様を見せしめて追善を致さしめんが為也。結縁の多少に依て、利生の厚薄はあり共、仏前仏後の導師、大慈大悲の薩■に値遇し奉らばゝ真諦俗諦善願の望を達せん。今世後世能引導の御誓たのもしかるべき御事也。 |
「『もし法(教え)を聞く者がいれば、一人として仏にならない者はない』という言葉は如来の金言でありこの経典の大意であるため、八寒地獄や八熱地獄の底であっても悪業の猛火がたちまち消え清らかで冷たい池水が満ちる」と導師が賞賛の舌をふるって立派に述べると聴衆は随喜(仏縁に触れて感動)の涙を流して袖を濡らした。これは地蔵菩薩の巧みな方便でありあのような様子を見せて追善供養を行わせようとしたためである。結ぶ縁の多少によって救済の厚薄はあるが、釈迦入滅前後の導師たる大慈大悲の菩薩に出会うことができれば真諦(真理)と俗諦(世俗的事象)にかかわる善い願いを成就するであろう。現世や来世においてよく衆生を導くというお誓いは頼もしいことであって実に尊いことである。 解説:核心的仏教概念の展開
教義体系における論理構造
歴史的背景との関連性
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| input text 太平記\021_太平記_巻21.txt | 現代日本語 translated text | |||||||||
| 太平記 太平記巻第二十一 ○天下時勢粧事 暦応元年の末に、四夷八蛮悉く王化を助て大軍同時に起りしかば、今はゝや聖運啓ぬと見へけるに、北畠顕家卿、新田義貞、共に流矢の為に命を墜し、剰奥州下向の諸卒、渡海の難風に放されて行方知ずと聞へしかば、世間さてとや思けん。結城上野入道が子息大蔵少輔も、父が遺言を背て降人に出ぬ。芳賀兵衛入道禅可も、主の宇都宮入道が子息加賀寿丸を取篭て将軍方に属し、主従の礼儀を乱り己が威勢を恣にす。此時新田氏族尚残て城々に楯篭り、竹園の連枝時を待て国々に御座有といへ共、猛虎の檻に篭り、窮鳥の翅を削れたるが如に成ぬれば、戻眼空く百歩の威を闔、悲心遠く九霄の雲を望で、只時々の変有ん事を待計也。天下の危かりし時だにも、世の譏をも不知侈を究め欲を恣にせし大家の氏族、高・上杉の党類なれば、能なく芸無くして乱階不次の賞に関り、例に非ず法に非して警衛判断の識を司る。初の程こそ朝敵の名を憚りて毎事天慮を仰ぎ申体にて有しが、今は天下只武徳に帰して、公家有て何の用にか立べきとて、月卿雲客・諸司格勤の所領は云に及ず、竹園椒房・禁裡仙洞の御領までも武家の人押領しける間、曲水重陽の宴も絶はて、白馬蹈歌の節会も行れず、如形儀計也。 |
『太平記』巻第二十一 暦応元年(1338年)末に、四方の異民族がこぞって朝廷を助け大軍が同時に立ち上がったため、これでようやく聖運(天皇の治世)が開かれるかに見えた。しかし北畠顕家卿と新田義貞は共に流れ矢のために命を落とし、さらに奥州へ下向した諸将兵も渡海時に暴風雨に見放され行方知らずとなったため、人々はこれで終わりかと思い込んだ。結城上野入道の息子大蔵少輔(おおくらのしょう)も父の遺言に背いて降伏者として出頭した。芳賀兵衛入道禅可(はがひょうえにゅうどうぜんか)は主君である宇都宮入道の息子加賀寿丸を監禁して将軍方へ属し、主従の礼儀も乱れ威勢をほしいままにする。 この時点で新田氏族はいまだ城々に籠り抵抗し、竹園(足利氏)一族は機会を待ち各地に勢力を持っていたものの、檻に入った猛虎が動けず、弱った鳥が羽根を削られたような状態となってしまい、ただ怒りの目で遠くを見つめながら悲嘆にくれ九霄(天界)の雲へ願うばかり。ひたすら時勢が変わることを待つしかない状況だった。 天下が危ない時期にもかかわらず世間の批判も顧みず贅沢を極め欲望にふける大家氏族――高氏・上杉党の者たちは、才能や技能がないのに乱れた階級秩序で不当な褒賞を得て、先例にも法規にも反しながら警護裁判の職務を司る。初めこそ朝敵(天皇への謀叛)の名を恐れ何事も朝廷の意向に従う様子だったが、今では「天下は武力支配へ帰したから公家など何の役立つものか」と言い放ち、貴族や諸官庁職員の所領は言うまでもなく、皇室・院政御領まで武家人が横奪するようになったため曲水宴(詩歌の宴)も重陽節会も行われず儀式らしいことは形だけとなった。 解説:歴史的意義
文学的構成手法
社会構造分析
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| 禁闕仙洞さびかへり、参仕拝趨の人も無りけり。況や朝廷の政、武家の計に任て有しかば、三家の台輔も奉行頭人の前に媚を成し、五門の曲阜も執事侍所の辺に賄ふ。されば納言宰相なんど路次に行合たるを見ても、声を学び指を差て軽慢しける間、公家の人々、いつしか云も習はぬ坂東声をつかい、著もなれぬ折烏帽子に額を顕して、武家の人に紛んとしけれ共、立振舞へる体さすがになまめいて、額付の跡以外にさがりたれば、公家にも不付、武家にも不似、只都鄙に歩を失し人の如し。 ○佐渡判官入道流刑事 此比殊に時を得て、栄耀人の目を驚しける佐々木佐渡判官入道々誉が一族若党共、例のばさらに風流を尽して、西郊東山の小鷹狩して帰りけるが、妙法院の御前を打過るとて、跡にさがりたる下部共に、南底の紅葉の枝をぞ折せける。時節門主御簾の内よりも、暮なんとする秋の気色を御覧ぜられて、「霜葉紅於二月花なり。」と、風詠閑吟して興ぜさせ給けるが、色殊なる紅葉の下枝を、不得心なる下部共が引折りけるを御覧ぜられて、「人やある、あれ制せよ。」と仰られける間、坊官一人庭に立出て、「誰なれば御所中の紅葉をばさやうに折ぞ。」と制しけれ共、敢て不承引。「結句御所とは何ぞ。かたはらいたの言や。 |
朝廷や院の御所はますます寂れ、伺候参勤する者もいなくなった。ましてや朝廷政治が武家の裁量に委ねられていたため、摂関家の大臣たちも奉行・頭人の前でへつらいをし、清華家(五門)の貴族も執事や侍所付近に賄賂を贈る。その結果、納言や宰相などが道ですれ違っても、武士はわざと声まねして指さし軽蔑するため、公家の人々はいつの間にか慣れない関東訛りを使い、着なれぬ折烏帽子で額を見せて武家に紛れようとする。しかし立ち振る舞いはやはり優雅で、烏帽子の跡以外には見劣りしないので、公家にも武士にも似ず、ただ都会と田舎の中間をさまよう者のようであった。 ○佐渡判官入道の暴行事件 この頃特に時勢を得て栄華が人目を驚かせた佐々木佐渡判官入道(法名:高氏)こと道誉一族や若党どもは、相変わらず無茶な風流にふけり西郊東山で小鷹狩りから帰る途中だった。妙法院御所前を通り過ぎるとき、後方の従者が南庭の紅葉の枝を折ったのである。時節柄門主(住職)が御簾の中で暮れゆく秋景色をご覧になり、「霜葉は二月の花よりも紅なり」(杜牧詩句引用)と詩吟して風情を楽しまれていたところ、特に美しい下枝を無粋な従者が折る様子を見て「誰かいるのか。止めさせよ」と言われたため坊官一人が庭に出て、「何者だ御所内の紅葉をそんなに折るとは」と制止した。しかし彼らは全く聞き入れず、逆に「そもそも『御所』などとは何事か。笑止千万な言い草だ」と言った。 解説:歴史的意義
文学的技法分析
社会風俗描写の重要性
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| 」なんど嘲哢して、弥尚大なる枝をぞ引折りける。折節御門徒の山法師、あまた宿直して候けるが、「悪ひ奴原が狼籍哉。」とて、持たる紅葉の枝を奪取、散々に打擲して門より外へ追出す。道誉聞之、「何なる門主にてもをわせよ、此比道誉が内の者に向て、左様の事翔ん者は覚ぬ物を。」と忿て、自ら三百余騎の勢を率し、妙法院の御所へ押寄て、則火をぞ懸たりける。折節風烈く吹て、余煙十方に覆ければ、建仁寺の輪蔵・開山堂・並塔頭・瑞光菴同時に皆焼上る。門主は御行法の最中にて、持仏堂に御座有けるが、御心早く後の小門より徒跣にて光堂の中へ逃入せ給ふ。御弟子の若宮は、常の御所に御座有けるが、板敷の下へ逃入せ給ひけるを、道誉が子息源三判官走懸て打擲し奉る。其外出世・坊官・児・侍法師共、方々へ逃散りぬ。夜中の事なれば、時の声京白河に響きわたりつゝ、兵火四方に吹覆。在京の武士共、「こは何事ぞ。」と遽騒で、上下に馳せ違ふ。事の由を聞定て後に馳帰りける人毎に、「あなあさましや、前代未聞の悪行哉。山門の嗷訴今に有なん。」と、云ぬ人こそ無りけれ。山門の衆徒此事を聞て、「古より今に至まで、喧嘩不慮に出来る事多といへ共、未門主・貫頂の御所を焼払ひ、出世・坊官を面縛する程の事を聞ず。 |
「そんなものか!」などと嘲笑しながら、さらに大きな枝を引き折った。ちょうどその時、門主の僧侶たちが多数宿直しており、「ふざけた真似をする奴らめ」と言って紅葉の枝を奪い取り散々に殴打し門外へ追い出した。道誉はこれを聞き「どんな身分の門主であれ、最近道誉側近に対してこのような暴挙に出る者がいるとは思いもよらぬ」と激怒し自ら三百余騎を率いて妙法院御所に押し寄せ、すぐさま放火した。折からの強風で炎が四方へ広がり建仁寺の輪蔵・開山堂・塔頭・瑞光庵まで同時に焼け上がった。 門主は仏事執行中で持仏堂におられたが機転を利かせ裏口から裸足で光堂(重要文化財)へ逃げ込まれた。若宮皇子(弟子)は居室におられたが床下へ隠れようとしたところ、道誉の息子源三判官が駆けつけて殴打した。その他高位僧侶・坊官・稚児らは四方に散り散りとなった。 夜中のことだったので鬨の声が京都市街(白河)まで響き渡る中、兵火は四方を覆い尽くす。在京武士たちは「これは何事か」と慌てふためいて駆け回った。事件経緯を知って帰還する者ごとに「なんたること!前代未聞の悪行よ。比叡山(延暦寺)の強訴が起きるに違いない」と言わぬ者はなかった。 比叢山衆徒はこの知らせを聞いて、「古来より数多の紛争があったとはいえ、門跡寺院への放火や高位僧侶の拉致など聞いたことがない。」と述べた。 解説:歴史的意義
文学的手法分析
室町幕府成立期の本質的課題
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| 早道誉・秀綱を給て、死罪に可行。」由を公家へ奏聞し、武家に触れ訴ふ。此門主と申も、正き仙院の連枝にて御座あれば、道誉が翔無念の事に憤り思召て、あわれ断罪流刑にも行せばやと思召けれ共、公家の御計としては難叶時節なれば、無力武家へ被仰処に、将軍も左兵衛督も、飽まで道誉を被贔負ける間、山門は理訴も疲て、款状徒に積り、道誉は法禁を軽じて奢侈弥恣にす。依之嗷儀の若輩、大宮・八王子の神輿を中堂へ上奉て、鳳闕へ入れ奉んと僉儀す。則諸院・諸堂の講莚を打停め、御願を停廃し、末寺・末社の門戸を閇て祭礼を打止。山門の安否、天下の大事、此時にありとぞ見へたりける。武家もさすが山門の嗷訴難黙止覚へければ、「道誉が事、死罪一等を減じて遠流に可被処歟。」と奏聞しければ、則院宣を成れ山門を宥らる。前々ならば衆徒の嗷訴は是には総て休るまじかりしか共、「時節にこそよれ、五刑の其一を以て山門に理を付らるゝ上は、神訴眉目を開くるに似たり。」と、宿老是を宥て、四月十二日に三社の神輿を御帰座成し奉て、同二十五日道誉・秀綱が配所の事定て、上総国山辺郡へ流さる。道誉近江の国分寺迄、若党三百余騎、打送の為にとて前後に相順ふ。其輩悉猿皮をうつぼにかけ、猿皮の腰当をして、手毎に鴬篭を持せ、道々に酒肴を設て宿々に傾城を弄ぶ。 |
山門(延暦寺)の僧侶たちは、「即刻佐々木道誉と高師直を捕らえ死刑にせよ」という旨を朝廷へ上奏し、幕府にも訴えた。この妙法院門主は正統な法皇のご親族であられたため、道誉による無法行為に対し激怒されて「彼らが裁きを受けて流罪になればよい」とお考えになったものの、公家勢力では手に負えない時代状況で武家へ頼るほかなく、将軍(足利尊氏)も執政者(高師直)もことごとく道誉を擁護したため、延暦寺は訴訟にも疲れ陳情書が無駄に積み上がり、道誉は法令を軽んじて奢侈をさらに恣にするようになった。これにより強訴派の若手僧侶らは大宮・八王子両社の神輿を比叡山根本中堂へ担ぎ上げて御所へ押し入ろうと決議した。そこで諸院や諸堂での法会を中止し、祈祷を廃止して末寺・神社の門戸を閉ざし祭礼も停止するに至り、「延暦寺の安泰こそ天下の重大事」との認識が広まった。 幕府側もさすがに強訴を黙認できず「道誉らの罪は死刑一等を減じて遠流(辺地への流刑)とすべきか」と奏上したところ、院宣(法皇命令書)が発布されて延暦寺をなだめることになった。かつてなら僧侶らはこれで納得しなかったであろうが、「時勢を考えれば五刑の一つを用いて解決されたのだから妥当である」と宿老たちが宥めた結果、4月12日に三社の神輿をお戻しになり、同25日には道誉・師直らの流刑地が決定して上総国山辺郡(現千葉県)へ送られた。しかし道誉は近江国分寺(滋賀県)までの護衛として若党三百余騎を前後に従えさせた。彼ら全員が猿皮の背嚢をかけ猿皮の腰当てをつけ、手には鶯籠を持ちながら街道で酒宴を催し宿場町では遊女と戯れるという有様であった。 解説:歴史的意義
宗教と政治の力学分析:
社会的影響:
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| 事の体尋常の流人には替り、美々敷ぞ見へたりける。是も只公家の成敗を軽忽し、山門の鬱陶を嘲弄したる翔也。聞ずや古より山門の訴訟を負たる人は、十年を過ざるに皆其身を滅すといひ習せり。治承には新大納言成親卿、西光・西景、康和には後二条関白、其外泛々の輩は不可勝計。されば是もいかゞ有んずらんと、智ある人は眼を付て怪み見けるが、果して文和三年の六月十三日に、持明院新帝、山名左京大夫時氏に被襲、江州へ臨幸成ける時、道誉が嫡子源三判官秀綱堅田にて山法師に討る。其弟四郎左衛門は、大和内郡にて野伏共に殺れぬ。嫡孫近江判官秀詮・舎弟次郎左衛門二人は、摂津国神崎の合戦の時、南方の敵に誅せられにけり。弓馬の家なれば本意とは申ながら、是等は皆医王山王の冥見に懸られし故にてぞあるらんと、見聞の人舌を弾して、懼れ思はぬ者は無りけり。 ○法勝寺塔炎上事 康永元年三月二十日に、岡崎の在家より俄失火出来て軈て焼静まりけるが、纔なる細■一つ遥に十余町を飛去て、法勝寺の塔の五重の上に落留る。暫が程は燈篭の火の如にて、消もせず燃もせで見へけるが、寺中の僧達身を揉で周章迷けれ共、上べき階もなく打消べき便も無れば、只徒に虚をのみ見上て手撥てぞ立れたりける。 |
事態の様子は通常の流刑者とは異なり、非常に華やかに見えた。これも公家による処罰を軽んじ、延暦寺の不快感を嘲笑した暴挙であった。「古来より延暦寺の訴えに敗れた者は十年以内に必ず滅びる」と言い伝えられているではないか。治承年間には新大納言成親卿や西光・西景、康和年間には後二条関白ら無数の者がそれで命を落とした。だからこそ賢明な人々はこの件にも疑念を持ち見守っていたが、果たして文和三年(1354年)六月十三日、持明院統の新帝(光厳上皇)が山名時氏に襲われ近江国へ逃れた際、道誉の長男・源三判官高秀は堅田で延暦寺僧兵に討たれ、弟の四郎左衛門も大和国内郡で野伏に殺された。嫡孫である近江判官高詮と次弟の次郎左衛門兄弟は摂津国神崎での合戦時に南朝方に誅殺されてしまった。弓馬の家(武士)として本望とはいえ、これら全てが比叡山・日吉大社の神的制裁によるものだろうと、目撃者たちは舌を鳴らし恐れない者はなかった。 ○法勝寺塔炎上事件 解説:歴史的因果と仏罰思想
法勝寺炎上事件の象徴性
全体構造における役割
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| さる程に此細■乾たる桧皮に焼付て、黒煙天を焦て焼け上る。猛火雲を巻て翻る色は非想天の上までも上り、九輪の地に響て落声は、金輪際の底迄も聞へやすらんとをびたゝし。魔風頻に吹て余煙四方に覆ければ、金堂・講堂・阿弥陀堂・鐘楼・経蔵・総社宮・八足の南大門・八十六間の廻廊、一時の程に焼失して、灰燼忽地に満り。焼ける最中外より見れば、煙の上に或は鬼形なる者火を諸堂に吹かけ、或は天狗の形なる者松明を振上て、塔の重々に火を付けるが、金堂の棟木の落るを見て、一同に手を打てどつと笑て愛宕・大岳・金峯山を指て去と見へて、暫あれば花頂山の五重の塔、醍醐寺の七重の塔、同時に焼ける事こそ不思議なれ。院は二条河原まで御幸成て、法滅の煙に御胸を焦され、将軍は西門の前に馬を控られて、回禄の災に世を危めり。抑此寺と申は、四海の泰平を祈て、殊百王の安全を得せしめん為に、白河院御建立有し霊地也。されば堂舎の構善尽し美尽せり。本尊の錺は、金を鏤め玉を琢く。中にも八角九重の塔婆は、横竪共に八十四丈にして、重々に金剛九会の曼陀羅を安置せらる。其奇麗崔嵬なることは三国無双の鴈塔也。此塔婆始て造出されし時、天竺の無熱池・震旦の昆明池・我朝の難波浦に、其影明に写て見へける事こそ奇特なれ。 |
そのうちにこの小さな火は乾いた檜皮に燃え移り、黒煙が天を焦がすようにして立ち上った。激しい炎が雲を巻き上げて渦巻く様子は非想天(仏教の最高天)をも超えて昇るかのようで、塔頂部から轟音と共に落下する物音は大地の最底層まで響いたであろうほど凄まじかった。魔風が頻繁に吹き荒れて煙が四方を覆い尽くしたため、金堂・講堂・阿弥陀堂・鐘楼・経蔵・総社宮・八脚門を持つ南大門・86間の回廊は瞬く間に焼失し、灰と炎がたちまち全域に満ちた。燃え盛る最中に外部から眺めると、煙の上で鬼のような形相の者が諸堂へ火を吹きかけたり、天狗のような姿の者が松明を振りかざして塔の各層に点火しているようだったが、金堂の棟木が落下するのを見て一斉に手を叩いて哄笑し、愛宕山・大岳(比叡山)・金峯山の方角へ去って行く様に見えた。すると間もなく花頂山の五重塔と醍醐寺の七重塔が同時に燃え上がったことは実に不思議であった。上皇は二条河原まで御幸され、仏法滅亡を思わせる煙を見て胸を痛められ、将軍(足利尊氏)は西門前で馬を止めて火災による世の危機を憂慮された。そもそもこの寺(法勝寺)とは天下泰平と歴代天皇の安泰を祈願するため白河上皇が建立した霊地である。そのため堂舎の構造は善美を尽くしていた。本尊の装飾には金や玉があしらわれ、特に八角九重塔は縦横ともに84丈(約250m)で各層に金剛界曼荼羅諸尊が安置されていた。その壮麗にして高聳たる姿は三国無双の仏塔だった。この塔が初めて建造された時には天竺の無熱池・中国の昆明池・日本の難波浦にその影がくっきり映ったということが特筆すべき霊験であった。 解説災害描写と宗教的寓意
建立背景と対比効果
全体構成における役割
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| かゝる霊徳不思議の御願所、片時に焼滅する事、偏に此寺計の荒廃には有べからず。只今より後弥天下不静して、仏法も王法も有て無が如にならん。公家も武家も共に衰微すべき前相を、兼て呈す物也と、歎ぬ人は無りけり。 ○先帝崩御事 南朝の年号延元三年八月九日より、吉野の主上御不予の御事有けるが、次第に重らせ給。医王善逝の誓約も、祈に其験なく、耆婆扁鵲が霊薬も、施すに其験をはしまさず。玉体日々に消て、晏駕の期遠からじと見へ給ければ、大塔忠雲僧正、御枕に近付奉て、泪を押て申されけるは、「神路山の花二たび開る春を待、石清水の流れ遂に澄べき時あらば、さりとも仏神三宝も捨進せらるゝ事はよも候はじとこそ存候つるに、御脈已に替せ給て候由、典薬頭驚申候へば、今は偏に十善の天位を捨て、三明の覚路に趣せ給ふべき御事をのみ、思召被定候べし。さても最期の一念に依て三界に生を引と、経文に説れて候へば、万歳の後の御事、万づ叡慮に懸り候はん事をば、悉く仰置れ候て、後生善所の望をのみ、叡心に懸られ候べし。」と申されたりければ、主上苦げなる御息を吐せ給て、「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者、是如来の金言にして、平生朕が心に有し事なれば、秦穆公が三良を埋み、始皇帝の宝玉を随へし事、一も朕が心に取ず。 |
このような霊験あらたかな祈願所が瞬く間に焼け滅びることは、単なる一寺院の荒廃ではありえない。今後の世の中はますます不安定になり、仏法も王法(朝廷の権威)もあるようで無きに等しくなるであろう。公家も武家も共に衰退する前兆を早くも示すものだと、嘆かない者はいなかった。 ○先帝崩御事件 解説国家滅亡預言と仏教思想
歴史的文脈と文学的意義
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| 只生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉亡して、四海を令泰平と思計也。朕則早世の後は、第七の宮を天子の位に即奉て、賢士忠臣事を謀り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行なくば、股肱の臣として天下を鎮べし。思之故に、玉骨は縦南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ。若命を背義を軽ぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ。」と、委細に綸言を残されて、左の御手に法華経の五巻を持せ給、右の御手には御剣を按て、八月十六日の丑剋に、遂に崩御成にけり。悲哉、北辰位高して百官星の如に列と雖も、九泉の旅の路には供奉仕臣一人もなし。奈何せん、南山地僻にして、万卒雲の如に集といへ共、無常の敵の来をば禦止むる兵更になし。只中流に舟を覆て一壷の浪に漂ひ、暗夜に燈消て、五更の雨に向が如し。葬礼の御事、兼て遺勅有しかば、御終焉の御形を改めず、棺槨を厚し御坐を正して、吉野山の麓、蔵王堂の艮なる林の奥に、円丘を高く築て、北向に奉葬。寂寞たる空山の裏、鳥啼日已暮ぬ。土墳数尺の草、一経涙尽て愁未尽。旧臣后妃泣々鼎湖の雲を瞻望して、恨を天辺の月に添へ、覇陵の風に夙夜して、別を夢裡の花に慕ふ。哀なりし御事也。天下久乱に向ふ事は、末法風俗なれば暫く言に不足。 |
ただ生生世々(輪廻転生)における妄念となるのは、「朝敵を全て滅ぼして天下を太平にすることだけだ」という思い込みである。私はこの世を去った後は、第七皇子を天皇の位につけ、賢臣たちが政務を補佐し、新田義貞・義助兄弟の忠功を称えなさい。もし子孫に不義がないならば、股肱(手足)の臣として天下を治めさせるつもりだ。そう考えているゆえに、たとえこの身が南山の苔に埋もれても、魂は常に京都御所のある北天を見守ろうと思う。もし命よりも義理を軽んじるならば、君(天皇)は正当な継承者とは言えず、臣下も忠烈の士ではない」と詳細なお言葉を残され、左手には法華経五巻を持たれ、右手に剣を置かれたまま延元三年八月十六日未明(午前二時頃)、崩御された。悲しいかな!北極星のように高位にあって百官が星のように仕えていても、九泉の旅路には付き従う臣は一人もいない。嘆くことよ!南山のような僻地に兵士が雲のように集まっても、「無常」という敵を防ぐ兵はいないのだ。それはあたかも川中で舟が転覆して波間に漂い、闇夜の灯が消えて五更(明け方)の雨に向かうようなものである。葬儀は遺勅により行われ、御姿を改めずに棺を厚くし座らせたまま吉野山麓・蔵王堂北東の林奥に円い墳丘を築き、京都へ向けて埋葬した。寂しい山中では鳥が鳴いて日も暮れ、数尺の草むす墳前では涙は尽きたが悲しみは尽きない。旧臣や后妃らは泣きながら天子昇天(鼎湖伝説)を仰ぎ見て恨みを月に託し、陵墓の風の中で日夜別れを花の夢に見るよう慕った。哀れなことであった。天下が長く乱れるのは末法時代の世相ゆえで、今さら言うまでもない。 解説後醍醐天皇最期の思想的葛藤
文学的表現技法
史実との関わりと作品意義
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| 延喜天暦より以来、先帝程の聖主神武の君は未をはしまさざりしかば、何と無共、聖徳一たび開て、拝趨忠功の望を達せぬ事は非じと、人皆憑をなしけるが、君の崩御なりぬるを見進て、今は御裳濯河の流の末も絶はて、筑波山の陰に寄人も無て、天下皆魔魅の掌握に落る世に成んずらんと、あぢきなく覚へければ、多年著纏進らせし卿相雲客、或は東海の波を蹈で仲連が跡を尋、或は南山の歌を唱て■戚が行を学んと、思々に身の隠家をぞ求給ける。爰に吉野執行吉水法印宗信、潜に此形勢を伝聞て、急参内して申けるは、「先帝崩御の刻被遺々勅、第七の宮を御位に即進せ、朝敵追伐の御本意を可被遂と、諸卿親り綸言を含せ給し事也。未日を経ざるに退散隠遁の御企有と承及候こそ、心ゑがたく存候へ。異国の例を以吾朝の今を計候に、文王草昧の主として、武王周の業を起し、高祖崩じ給て後、孝景漢の世を保候はずや。今一人万歳を早し給ふとも、旧労の輩其功を捨て敵に降んと思者は有べからず。就中世の危を見て弥命を軽ぜん官軍を数るに、先上野国に新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興、武蔵国に其家嫡左少将義宗、越前国に脇屋刑部卿義助、同子息左衛門佐義治、此外江田・大館・里見・鳥山・田中・羽河・山名・桃井・額田・一井・金谷・堤・青竜寺・青襲・小守沢の一族都合四百余人、国々に隠謀し所々に楯篭る。 |
延喜・天暦の時代(平安中期)以降、後醍醐天皇ほどの聖明な君主は現れなかったため、「このような聖徳が開かれているのだから忠誠を尽くす望みも必ず叶うはずだ」と皆が信じていた。しかし崩御を見届けて今や御裳濯川(皇室の象徴)の流れの末路さえ絶え、筑波山陰に寄る者もなく天下全て魔物の支配下に堕ちようとする世の中かと思いやりきれず、長年仕えた高官たちは東海を渡って魯仲連(古代中国の隠遁者)のように跡を尋ねたり南山で伯夷・叔斉(周王朝批判者の歌人)のような生き方を学ぼうと各々隠棲地を探し求めた。ここにおいて吉野執行の吉水法印宗信が密かにこの状況を知り急ぎ参内して申した。「先帝崩御時に遺された勅命は第七皇子(後村上天皇)を即位させ朝敵討伐の本意を果たせとのことで諸卿も直接お聞きになったはずです。日も経ずに退散隠遁なさろうとは理解し難いことです。外国例で見れば文王が基盤を作り武王が周王朝興したように高祖(劉邦)崩御後孝景帝が漢を守ったではありませんか?今一人の主君が早く亡くなっても功労者たちが功績捨て敵に降るとは思えません。特に世情危うい中命も顧みぬ官軍は数多くおり、まず上野国には新田左中将義貞次男・左兵衛佐義興武蔵国には嫡子・左少将義宗越前国には脇屋刑部卿義助同息子・左衛門佐義治他江田・大館・里見・鳥山・田中・羽河・山名・桃井・額田・一井・金谷・堤・青竜寺・青襲・小守沢の一族計四百余人が各地で密かに策謀し要害に籠っているのです。」 解説崩御後の混乱と再起への伏線
文学的技法と史実的意義
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| 造次にも忠戦を不計と云事なし。他家の輩には、筑紫に菊池・松浦鬼八郎・草野・山鹿・土肥・赤星、四国には土居・得能・江田・羽床、淡路に阿間・志知、安芸に有井、石見には三角入道・合四郎、出雲伯耆に長年が一族共、備後には桜山、備前に今木・大富・和田・児島、播磨に吉河、河内に和田・楠・橋本・福塚、大和に三輪の西阿・真木の宝珠丸、紀伊国に湯浅・山本・井遠三郎・賀藤太郎、遠江には井介、美濃に根尾入道、尾張に熱田大宮司、越前には小国・池・風間・禰津越中守・大田信濃守、山徒には南岸の円宗院、此外泛々の輩は数に不遑。皆義心金石の如にして、一度も変ぜぬ者共也。身不肖に候へども、宗信右て候はん程は、当山に於て又何の御怖畏か候べき。何様先御遺勅に任て、継体の君を御位に即進せ、国々へ綸旨を成下れ候へかし。」と申ければ、諸卿皆げにもと思れける処に、又楠帯刀・和田和泉守二千余騎にて馳参り、皇居を守護し奉て、誠に他事なき体に見へければ、人々皆退散の思を翻て、山中は無為に成にけり。 ○南帝受禅事 同十月三日に、太神宮へ奉幣使を下され、第七の宮天子の位に即せ給ふ。夫継体君登極の御時、様々の大礼有べし。先新帝受禅の日、三種の神器を被伝て、御即位の儀式あり。 |
どんな時でも忠義を尽くす戦いを怠ることはない。他の家臣たちでは、筑紫には菊池・松浦鬼八郎・草野・山鹿・土肥・赤星がおり、四国には土居・得能・江田・羽床、淡路に阿間・志知、安芸には有井、石見には三角入道・合四郎、出雲と伯耆には長年の一族たち、備後には桜山、備前には今木・大富・和田・児島、播磨に吉河、河内に和田・楠・橋本・福塚、大和に三輪の西阿・真木の宝珠丸、紀伊国に湯浅・山本・井遠三郎・賀藤太郎、遠江には井介、美濃に根尾入道、尾張に熱田大宮司、越前には小国・池・風間・禰津越中守・大田信濃守、僧兵では南岸の円宗院がいる。これ以外にも数えきれないほどの多くの者がおり、皆その義心は金石のように固く一度も変節しなかった者たちである。「私は無能ですが、私宗信がこの場に生きている限り、当山(吉野)で何を恐れることがありましょうか。どうか先帝の遺勅に従い継承者たる君(第七皇子)を即位させ、各国へ綸旨をお下しください」と申し上げると、諸卿も「確かにその通りだ」と思ったところ、さらに楠帯刀・和田和泉守が二千余騎で駆け参じ皇居を護衛したため全く問題ない様子に見え、人々は隠遁の考えを翻して山中(吉野)は平穏になった。 ○南帝受禅事 解説忠臣列挙と情勢逆転の構造
即位儀式と歴史的背景
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| 其明年の三月に、卜部宿禰陰陽博士、軒廊にして国郡を卜定す。則行事所始ありて、百司千官次第の神事を執行る。同年の十月に、東の河原に成て御禊あり。又神泉苑の北に斎庁所を作て、旧主一日抜穂を御覧ぜらる。竜尾堂を立られ、壇上にして御行水有て、回立殿を建、新帝大甞宮に行幸あり。其日殊に堂上の伶倫、正始の曲を調て一たび雅音を奏すれば、堂下の舞人、をみの衣を袒て、五たび袖を翻す。是を五節の宴酔と云。其後大甞宮に行幸成て御牲の祭を行る程に、悠紀・主基、風俗の歌を唱て帝徳を称じ、童女・八乙女、稲舂の歌を歌て神饌を献る。是皆代々の儲君、御位を天に継せ給ふ時の例なれば、三載数度の大礼、一も欠ては有べからずといへども、洛外山中の皇居の事、可周備にあらざれば、如形三種神器を拝せられたる計にて、新帝位に即せ給ふ。 ○任遺勅被成綸旨事付義助攻落黒丸城事 同十一月五日、南朝の群臣相義して、先帝に尊号を献る。御在位の間、風教多は延喜の聖代を被追しかば、尤も其寄有とて、後醍醐天皇と諡し奉る。新帝幼主にて御座ある上、君崩じ給たる後、百官冢宰に総て、三年政を聞召れぬ事なれば、万機悉く北畠大納言の計として、洞院左衛門督実世・四条中納言隆資卿、二人専諸事を被執奏。 |
その翌年の三月、卜部宿禰(陰陽博士)が軒廊で国郡を占い決めた。すると行事所が設けられ、百官千官が順次神事を行った。同年十月に東河原で御禊があり、また神泉苑の北に斎庁を作り先帝は一日抜穂(稲刈りの初儀)をご覧になった。竜尾堂を建て壇上で行水され回立殿が築かれ新帝は大甞宮へ行幸された。その日特に、堂上の楽人が正始の曲を調べて雅音を一度奏すると、堂下の舞人たちが麻衣を脱ぎ五度袖を翻した。これを「五節の宴酔」という。その後新帝は大甞宮へ行幸し御牲(神への供物)の祭りを行う際には悠紀・主基が風俗歌で帝徳を称え、童女や八乙女たちが稲舂歌を歌い神饌を献じた。これらは代々皇太子が天から位を受け継ぐ時の定例であり「三年に数度の大礼は一つも欠けてはならない」と言われるものだが、京外山中にある皇居では十分整えられなかったため形式通り三種神器拝受のみで新帝即位となった。 ○後醍醐天皇諡号献上と義助による黒丸城攻めのこと 解説即位儀式と南朝政権の制約
諡号制定と政治体制
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| 同十二月先北国にある脇屋刑部卿義助朝臣の方へ綸旨を被成。先帝御遺勅異于他上は、不替故義貞之例、官軍恩賞以下の事相計て、可経奏聞之由被宣下。其外筑紫の西征将軍宮、遠江井城に御座ある妙法院、奥州新国司顕信卿の方へも、任旧主遺勅殊に可被致忠戦之由、綸旨をぞ下されける。義助は義貞討れし後勢微也といへども、所々の城郭に軍勢を篭置、さまでは敵に挟められざりければ、何まで右ても有べきぞ。城々の勢を一に合て、黒丸の城に楯篭られたる尾張守高経を責落さばやと評定有ける処に、先帝崩御の御事を承て、惘然たる事闇夜に灯を失へるが如し。さは有ながら、御遺勅他に異なる宣旨の忝さに、忠義弥心肝に銘じければ、如何にもして一戦に利を得、南方祠候の人々の機をも扶ばやと、御国忌の御中陰の過を遅とぞ相待ける。此両三年越前の城三十余箇所相交て合戦の止日なし。中にも湊城とて、北陸道七箇国の勢共が終に攻落さゞりし城は、義助の若党畑六郎左衛門時能が、纔二十三人にて篭たりし平城也。南帝御即位の初天運図に膺る時なるべし。諸卒同城を出て一所に集り、当国の朝敵を平げ他国に打越べき由を大将義助の方より牒せられければ、七月三日に畑六郎左衛門三百余騎にて湊城を出て、金津・長崎・河合・河口にあらゆる所の敵の城十二箇所を打落て、首を切事八百余人、女童三歳の嬰児迄のこさず是を差殺す。 |
同年十二月には北国(越前)にいた脇屋刑部卿義助朝臣のもとへ綸旨が下された。先帝(後醍醐天皇)の遺勅は他とは異なり、故・新田義貞の場合と同じく「官軍への恩賞などのことは協議した上で奏聞すべし」との趣旨を伝えた。そのほか筑紫の西征将軍宮(懐良親王)、遠江井城にいる妙法院(尊澄法親王)、奥州の新国司・顕信卿に対しても、先帝遺勅により特に忠戦すべきとの綸旨が下された。義助は兄・義貞討死後に勢力こそ衰えたものの、各所の城郭に兵を分散配置していたため敵に包囲されることはなく、いずれ巻き返せる状況だった。諸将が集まり「黒丸城に籠る尾張守高経(斯波高経)を討ち落とそう」と評議した矢先、先帝崩御の報を受け茫然自失すること暗闇で灯火を失ったようであった。しかし他とは異なる遺勅宣旨の光栄に忠義心が沸き立ち、「どうにか一戦勝利し南朝支持者の機運を高めねば」と国忌(喪中)の中陰法要終了を待つことにした。 この両三年、越前では三十余りの城で連日合戦が続いていた。特に湊城は北陸道七ヶ国の敵軍すら陥落させられなかった平城だが、これは義助の若党・畑六郎左衛門時能がわずか二十三人で守っていたものだった。「南朝皇帝即位により天運味方についた」と見えたのか。兵卒全員が出撃し大将・義助から「当国(越前)朝敵を討ち他国へ進軍せよ」との命令書を受けると、七月三日に畑六郎左衛門は三百余騎で湊城を出発。金津・長崎・河合・河口など十二ヶ所の敵城を攻め落とし、八百人以上を斬首した際には女児や三歳嬰児すら見逃さず皆殺しにした。 解説戦略的展開と心理描写
湊城攻防の歴史的意義
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| 同五日に、由良越前守光氏、五百余騎にて西方寺の城より出て、和田・江守・波羅密・深町・安居の庄内に、敵の稠く構へたる六箇所の城を二日に攻落し、則御方の勢を入替て六箇所の城を守らしむ。同五日、堀口兵部大輔氏政、五百余騎にて居山の城より出て、香下・鶴沢・穴間・河北、十一箇所の城を五日が中に攻落して、降人千余人を引率し、河合庄へ出合はる。惣大将脇屋刑部卿義助は、禰津・風間・瓜生・川島・宇都宮・江戸・波多野が勢、三千余騎の将として、国府より三手に分て、織田・々中・荒神峯・安古渡の城十七箇所を三日三夜に攻落して、其城の大将七人虜り士卒五百余人を誅して、河合庄へ打出らる。同十六日四方の官軍一所に相集て、六千余騎三方より黒丸を相挟て未戦。河合孫五郎種経降人に成て畑に属す。其勢を率て、夜半に足羽の乾なる小山の上に打上て、終夜城の四辺を打廻り、時を作り遠矢を射懸て、後陣の大勢集らば、一番に城へ攻入んと勢を見せて待明す。爰に上木平九郎家光は、元は新田左中将の兵にて有しが、近来将軍方に属して、黒丸の城に在けるが、大将尾張守高経の前に来て申けるは、「此城は先年新田殿の攻られしに、不思議の御運に依て打勝せ給しに御習候て、猶子細あらじと思召候はんには、疎なる御計にて候べし。 |
同じ五日に由良越前守光氏が五百余騎で西方寺城から出撃し、和田・江守・波羅密・深町・安居の庄内にある敵軍が密集して構えた六箇所の城を二日間で攻め落とした。直ちに味方の兵士と入れ替えてこれらの城を守備させた。同じ五日、堀口兵部大輔氏政は五百余騎で居山城から出撃し、香下・鶴沢・穴間・河北など十一箇所の城を五日内に攻略した後、降伏者千余人を率いて河合庄へ向かった。 総大将である脇屋刑部卿義助は、禰津・風間・瓜生・川島・宇都宮・江戸・波多野らの軍勢三千余騎を従え国府から三手に分かれ進撃し、織田・々中(おなか)・荒神峯・安古渡など十七箇所の城を三日三夜で陥落させた。この戦いで敵将七人を捕虜とし兵士五百余人を討ち取った後、河合庄へ進軍した。 同十六日、四方から集結した官軍六千余騎が三方から黒丸城を取り囲んだものの交戦には至らなかった。この時、降伏した河合孫五郎種経が畑(六郎左衛門)に属し、配下を率いて夜半に足羽川北岸の小山へ登った。終夜城の周囲を駆け回り時折遠矢を射かけながら、「後続部隊が集結次第すぐ攻城する」と示威して夜明けを待つ中で、黒丸城内から上木平九郎家光という者が現れた。この人物は元々新田左中将(義貞)の配下だったが最近足利方に転じており、大将である尾張守高経(斯波高経)に対してこう進言した: 解説軍事行動の特徴的展開
歴史的含意
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| 其故は先年此所へ向候し敵共、皆東国西国の兵にて、不知案内に候し間、深田に馬を馳こみ、堀溝に堕入て、遂に名将流矢の鏑に懸り候き。今は御方に候つる者共が多く敵に成て候間、寄手も城の案内は能存知候。其上畑六郎左衛門と申て日本一の大力の剛者、命を此城に向て止んと思定て向候なる。恐くは今時の御方に、誰か是と牛角の合戦をし候べき。後攻もなき平城に名将の小勢にて御篭候て、命を失はせ給はん事、口惜かるべき御計にて候。只今夜の中に加賀国へ引退せ給て、京都の御勢下向の時、力を合せ兵を集て、還て敵を御退治候はんに、何の子細か候べき。」とぞ申ける。細川出羽守・鹿草兵庫助・浅倉・斉藤等に至まで、皆此義に同じければ、尾張守高経、五の城に火を懸て、其光を松明に成て、夜間に加賀国富樫が城へ落給ふ。畑が謀を以て、義助黒丸の城を落してこそ、義貞の討れられたりし会稽の恥をば雪けれ。 ○塩冶判官讒死事 北国の宮方頻に起て、尾張守黒丸の城を落されぬと聞へければ、京都以外に周章して、助の兵を下さるべしと評定あり。則四方の大将を定て、其国々へ勢をぞ添られける。高上野介師治は、大手の大将として、加賀・能登・越中の勢を率し、加賀国を経て宮の腰より向はる。土岐弾正少弼頼遠は、搦手の大将として、美濃・尾張の勢を率し、穴間・郡上を経て大野郡へ向はる。 |
その理由はこうだ:以前ここへ攻めて来た敵兵たちは皆、東国や西国の者で地理に不案内だったから深田に馬を乗り入れ堀溝に落ち込み、ついに名将も流れ矢にかかってしまった。しかし今は味方であった者が多く敵側についているため攻撃部隊の城内部事情には詳しいのだ。さらに畑六郎左衛門という日本一の大力を持つ剛勇が命を賭けてこの城に挑もうと決意している。恐らく現在の我々の中に対抗できる者は誰もいないだろう。(篭城中の)後詰めすらない平山城で名将(高経様)が寡兵で立て籠もり命を落とされるのは残念な選択である。今夜中に加賀国へ退却され、京都からの援軍到着時に兵力を集結させて逆襲すれば問題はないはずだ。」 細川出羽守・鹿草兵庫助・浅倉・斉藤らも皆この意見に同調したため尾張守高経は五つの城に火を放ち、その炎明かりで夜間に加賀国富樫の城へ撤退した。畑(六郎左衛門)の策略によって義助が黒丸城を落としたことで新田義貞敗死という会稽の恥辱を雪ぐことができたのである。 〇塩冶判官讒言による最期 解説戦略的転換と心理作戦
歴史的背景
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| 佐々木三郎判官氏頼は江州の勢を率して、木目岳を打越て敦賀の津より向はる。塩冶判官高貞は船路の大将として、出雲・伯耆の勢を率し兵船三百艘を調へ、三方の寄手の相近付んずる黎、津々浦々より上て敵の後を襲、陣のあはいを隔て、戦を機変の間に致すべしと、合図を堅く定らる。陸地三方の大将已に京を立て、分国の軍勢を催れければ、塩冶も我国へ下て、其用意を致さんとしける最中に、不慮の事出来て、高貞忽に武蔵守師直が為に討れにけり。其宿意何事ぞと尋れば、高貞多年相馴たりける女房を、師直に思懸られて、無謂討れけるぞと聞へし。其比師直ちと違例の事有て、且く出仕をもせで居たりける間、重恩の家人共是を慰めん為に、毎日酒肴を調て、道々の能者共を召集て、其芸能を尽させて、座中の興をぞ促しける。或時月深夜閑て、荻葉を渡風身に入たる心地しける時節、真都と覚都検校と、二人つれ平家を歌けるに、「近衛院の御時、紫宸殿の上に、鵺と云怪鳥飛来て夜な/\鳴けるを、源三位頼政勅を承て射て落したりければ、上皇限なく叡感有て、紅の御衣を当座に肩に懸らる。「此勧賞に、官位も闕国も猶充に不足。誠やらん頼政は、藤壷の菖蒲に心を懸て堪ぬ思に臥沈むなる。今夜の勧賞には、此あやめを下さるべし。 |
佐々木三郎判官氏頼は近江国の軍勢を率いて、木目岳を越えて敦賀港へと進んだ。塩冶判官高貞は海上部隊の大将として出雲・伯耆の兵士を指揮し三百艘もの船団を準備した。「三方から迫る陸上部隊が接近する明け方に海路で敵後方を襲い、陣営の間隙をついて臨機応変に戦う」と指示を厳格に定めた。しかし陸上三軍の大将たちが京都を発ち各国の兵を動員したため塩冶も領国へ下向して準備する最中、不慮の事件が発生し高貞は突然武蔵守師直によって討たれてしまった。「その恨みとは何か」と尋ねると、「長年連れ添っていた愛妾に師直が横恋慕した末の無実の殺害だった」と言われている。 ちょうどこの頃師直には不祥事があり一時出仕を控えていたため、恩顧を受けた家臣たちは彼を慰めようと毎日酒宴を開き諸国の芸人らを集めて芸能披露させ場を盛り上げた。ある時月が深く夜も静まり荻の葉渡る風に身に染みる季節、真都と覚都という二人の検校(盲人音楽家)が平曲を語った:「近衛院御代のこと紫宸殿に鵺という怪鳥が毎晩飛来したので源三位頼政が勅命を受けて射落とした。上皇は大いに感心され即座に赤い衣を与えられた」。これに対して「この恩賞では官位も領国も不足だ。実は頼政は藤壷の菖蒲(女官)に恋焦がれ病床にある。今夜の褒美にはその女性を下賜すべきだ」と続けたのである。 解説事件の構造的関連性
社会史的解釈
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| 但し此女を頼政音にのみ聞て、未目には見ざんなれば、同様なる女房をあまた出して、引煩はゞ、あやめも知ぬ恋をする哉と笑んずるぞ。」と仰られて、後宮三千人の侍女の中より、花を猜み月を妬む程の女房達を、十二人同様に装束せさせて、中々ほのかなる気色もなく、金沙の羅の中にぞ置れける。さて頼政を清涼殿の孫廂へ召れ、更衣を勅使にて、「今夜の抽賞には、浅香の沼のあやめを下さるべし。其手は緩とも、自ら引て我宿の妻と成。」とぞ仰下されける。頼政勅に随て、清涼殿の大床に手をうち懸て候けるが、何も齢二八計なる女房の、みめ貌絵に書共筆も難及程なるが、金翠の装を餝り、桃顔の媚を含で並居たれば、頼政心弥迷ひ目うつろいて、何を菖蒲と可引心地も無りけり。更衣打笑て、「水のまさらば浅香の沼さへまぎるゝ事もこそあれ。」と申されければ、頼政、五月雨に沢辺の真薦水越て何菖蒲と引ぞ煩ふとぞ読たりける。時に近衛関白殿、余の感に堪かねて、自ら立て菖蒲の前の袖を引、「是こそ汝が宿の妻よ。」とて、頼政にこそ下されけれ。頼政鵺を射て、弓箭の名を揚たるのみならず、一首の歌の御感に依て、年月久恋忍つる菖蒲の前を給つる数奇の程こそ面目なれ。」と、真都三重の甲を上れば、覚一初重の乙に収て歌ひすましたりければ、師直も枕をゝしのけ、耳をそばだて聞に、簾中庭上諸共に、声を上てぞ感じける。 |
「しかし頼政は彼女(菖蒲)について噂だけ聞きまだ直接見たことがないので、似たような女性を多数並べて選ばせたらどうか?『本当のあやめすら分からず恋をするのか』と笑えるだろう」と言われて、後宮三千人の侍女の中から花も恥じらい月も嫉むほどの美しい女房たちを十二人同じ装束で整えさせたが全く区別がつかぬよう金紗の簾越しに配置した。次いで頼政は清涼殿孫廂へ召され勅使である更衣から「今夜の恩賞として浅香沼の菖蒲(あやめ)を下賜する。手間取っても自ら選んで我が妻とせよ」との命があった。頼政は命令に従い清涼殿の板縁で待機したところ、皆十六歳ほどの女房たちが顔立ちは絵筆でも描けぬほど美しく金や翡翠の装飾を輝かせ桃色の頬に艶めいた笑みを含んで並んでいるので頼政は心乱れ目もくらみ誰を菖蒲と選ぶべきか判断できなかった。更衣が嘲笑って「水が濁れば浅香沼さえ見分け難くなるものだ」と言うと、頼政は「五月雨で沢辺の真薦(植物)が水に隠れてどの草が菖蒲か迷い悩むことよ」と歌を詠んだ。すると近衛関白殿が感動に耐えきれず自ら立ち上がり菖蒲という名の女房の袖を引き「これこそお前の妻だ」と言って頼政へ下賜されたのである。こうして頼政は鵺退治で弓馬の名誉を得ただけでなく一首の歌が天聴に達した功績により長年恋焦がれていた菖蒲を与えられた数奇な運命こそ面目躍如であった。」 真都(検校)が声を三段階高くして語り終えると覚都は低音で調子を収め奏し終えた。すると師直も枕から身を起こし耳を澄まして聴き、簾の内側や庭先に居並ぶ者たちまで皆一斉に感嘆の声を上げた。 解説文学的構成と歴史的寓意
室町期芸能演出の実態
歴史的典拠と創作
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| 平家はてゝ後、居残たる若党・遁世者共、「さても頼政が鵺を射たる勧賞に、傾城を給たるは面目なれ共、所領か御引出物かを給りたらんずるには、莫太劣哉。」と申ければ、武蔵守聞もあへず、「御辺達は無下に不当なる事を云物哉。師直はあやめほどの傾城には、国の十箇国計、所領の二三十箇所也とも、かへてこそ給らめ。」とぞ恥しめける。かゝる処に、元は公家のなま上達部に仕て、盛なりし御代を見たりし女房、今は時と共に衰て身の寄辺無まゝに、此武蔵守が許へ常に立寄ける侍従と申女房、垣越に聞て、後の障子を引あけて無限打笑て、「あな善悪無の御心あて候や。事の様を推量候に、昔の菖蒲の前は、さまで美人にては無りけるとこそ覚て候へ。楊貴妃は、一笑ば六宮に顔色無と申候。縦千人万人の女房を双べ居へて置れたり共、あやめの前誠に世に勝れたらば、頼政是を引かね候べしや。是程の女房にだに、国の十箇国計をばかへても何か惜からんと仰候はゞ、先帝の御外戚早田宮の御女、弘徽殿の西の台なんどを御覧ぜられては、日本国・唐土・天竺にもかへさせ給はんずるや。此御方は、よく世に類なきみめ貌にて御渡りありと思食知候へ。いつぞや雲の上人、花待かねし春の日のつれ/゛\に、禁裏仙洞の美夫人、九嬪更衣達を、花の譬にせられ候しに、桐壷の御事は、あてやかにうちあらはれたる御気色を奉見たる事なければ、譬て申さんもあやなかるべけれ共、雲井の外目も異なれば、明やらぬ外山の花にやと可申。 |
平家滅亡後に生き残った若い武士や隠遁者たちが、「頼政が鵺を射た褒美に美女を与えられたのは名誉だが、所領か金品をもらっていたらさらに良かったのではないか」と言うと、武蔵守(高師直)は即座に聞き咎めて「お前たちはまったく道理外れなことを言うものだ。もし師直があやめほどの美女を得るならば、国の十箇国分の所領二三十ヶ所でも逆に惜しまず与えるだろう」と恥じ入らせた。 解説諷刺的構造と歴史的背景
文学技法
史実との対比
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| 梨壷の御事は、いつも臥沈み給へる御気色物がなしく、烽の昔も理にこそ御覧ぜらるらめと、君の御心も空に知れしかば、「玉顔寂寞として涙欄干たり。」と喩ゑし、雨の中の梨壷と名にほふ御様なるべし。或は月もうつろふ本あらの小萩、波も色ある井出の山吹、或は遍照僧正の、「我落にきと人に語るな。」と戯し嵯峨野の秋の女郎花、光源氏大将の、「白くさけるは。」と名を問し、黄昏時の夕顔の花、見るに思の牡丹、色々様々の花共を取々に譬られしに、梅は匂ひふかくて枝たをやかならず。桜は色ことなれ共其香もなし。柳は風を留る緑の糸、露の玉ぬく枝異なれ共、匂もなく花もなし。梅が香を桜が色に移して、柳の枝にさかせたらんこそ、げにも此貌には譬へめとて、遂に花のたとへの数にも入せ給はざりし上は、申も中々疎なる事にてこそ。」と云戯て、障子を引立て内へ入んとするを、師直目もなく打笑て、「暫し。」と袖をひかへて、「其宮はいづくに御座候ぞ。御年は何程に成せ給ふぞ。」と問けるに、侍従立留て、「近比は田舎人の妻と成せ給ぬれば、御貌も雲の上の昔には替り給、御年も盛り過させ給ぬらんと、思やり進て有しに、一日物詣の帰さに参て奉見しが、古の春待遠に有し若木の花よりも猶色深く匂ひ有て、在明の月の隈なく指入たるに、南向の御簾を高くかゝげさせて、琵琶をかきならし給へば、ゝら/\とこぼれかゝりたる鬢のはづれより、ほのかに見へたる眉の匂、芙蓉の眸、丹花の脣る、何なる笙の岩屋の聖なりとも、心迷はであらじと、目もあやに覚てこそ候しか。 |
桐壺の方は常に物思いに沈んでいらっしゃる様子が際立っており、古代中国の美女・褒姒(烽火台伝説)のように道理を超えた寵愛を受けていると帝もお感じになったようで、「玉のような顔は寂しげに涙があふれかかる」と喩えられた雨の中の梨の花のようなご様子であった。あるいは月さえ色褪せる野原の萩、波にも映える井手の山吹、また遍照僧正が「私が散ったとは人に言うな」と戯れた嵯峨野の女郎花、光源氏が「白く咲いているのは何か」と尋ねた夕暮れ時の夕顔など様々な花を比喩として挙げられた中で、梅は香り深いが枝が弱々しくなく桜は色鮮やかだが香りがない。柳は風に揺れる緑の糸のように露玉も美しいものの匂いはなく花もない。「もし梅の香を桜の色と合わせて柳の枝に咲かせたら、さぞこの方(桐壺)にふさわしい比喩だろう」と思われたが結局は「数ある花の例えにも加えられなかったのは言い表すのも難しいことだ」と冗談めかして障子を閉めて奥へ入ろうとしたところ、師直が思わず大笑いしながら「待て」と袖をつかんで尋ねた。「その宮様はどこにいらっしゃるのか? お年はいくつになられた?」。すると侍従は立ち止まって答えた。「近頃は田舎人の妻となられましたので、ご容姿も宮中におられた昔とは変わられ、盛りを過ぎていらっしゃろうと思いやっていたところ、ある日お参りの帰りに偶然拝見いたしましたが――春待ち遠しい若木の花よりもなお色濃く香り高く、満月のように曇りのない美しさで南向きの御簾を高く掲げ琵琶を弾いておられました。ちらりとこぼれかかる鬢の端から覗える眉の優雅さは芙蓉のような瞳、紅花のような唇。どんな聖人でも心奪われずにはいられまいと思わず見惚れてしまいました」。 解説美的比喩の重層構造
文学史的意義
史実的背景
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| うらめしの結の神の御計にや。いかなる女院、御息所とも奉見か、さらずば今程天下の権を取るさる人の妻ともなし奉らで、声は塔の鳩の鳴く様にて、御副臥もさこそこは/\しく鄙閑たるらんと覚る出雲の塩冶判官に、先帝より下されて、賎き田舎の御棲にのみ、御身を捨はてさせ給ぬれば、只王昭君が胡国の夷に嫁しけるもかくこそと覚て、奉見も悲くこそ侍りつれ。」とぞ語ける。武蔵守いとゞうれしげに聞竭して、「御物語の余りに面白く覚るに、先引出物申さん。」とて、色ある小袖十重に、沈の枕を取副て、侍従の局が前にぞ置れたる。侍従俄に徳付たる心ちしながら、あらけしからずの今の引出物やと思て、立かねたるに、武蔵守近く居寄て、「詮なき御物語故に、師直が違例はやがてなをりたる心ちしながら、又あらぬ病の付たる身に成て候ぞや。さりとては平に憑申候はん。此女房何にもして我に御媒候てたばせ給へ。さる程ならば所領なりとも、又は家の中の財宝なり共、御所望に随て可進。」とぞ語ける。侍従の局は、思寄ぬ事哉。只独のみをはする人にてもなし。何としてかく共申出べきぞと思ながら、事の外に叶ふまじき由をいはゞ、命をも失れ、思の外の目にもや合んずらんと恐しければ、「申てこそ見候はめ。 |
「これは恨み深い縁結びの神の仕業でしょうか。どなたかの女院か御息所にでもお会いになればとも思いますが、そうでなければ今や天下の権力を握るあの方(高師直)の妻として差し上げず、声は塔の鳩のように澄み渡り、(本来ならば)ご身分もきらびやかであるべき出雲国の塩冶判官に、先帝から下賜され、卑しい田舎者の住まいだけを終の棲家としてお捨て置きになったのです。王昭君が胡国(異民族の国)の蛮族へ嫁いだのもこのようなものかと感じられ、拝見するのも悲しくございました」と語った。武蔵守はますます嬉しそうに聞き入り、「お話があまりにも面白く思われたので、さっそく引出物を差し上げましょう」と言い、色鮮やかな小袖十着と沈香の枕を取り合わせて侍従局(女性)の前に置いた。侍従は突然気後れした心地ながら、(贈り物が)無作法ではない今風の品だと感じ立ちすくんでいると、武蔵守が近くに寄って座り込み、「つまらないお話でしたので師直の失礼もすぐ収まったように思えたのですが、また別の病気(恋煩い)にかかった身となってしまいました。しかしながら率直にお願い申し上げます。この女性をどうか私のために仲介してくださいませ。そうしていただけるなら所領であれ家財の宝であれご希望に沿って進呈いたします」と言ったのである。侍従局は予想外のことだと驚く。(武蔵守は)独りよがりの人物でもないのに、どうしてこんなことを言い出すのかと思案しつつも、もし叶うはずがないと断れば命を落としたり思いがけない災いに遭ったりするのではないかと恐れたため、「お伝えしてみましょう」と言った。 解説権力構造と女性の客体化
文学的技法
史実的意義
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| 」とて、先づ帰りぬ。二三日は、とやせましかくや云ましと案じ居たる処に、例ならず武蔵守が許より様々の酒肴なんど送り、「御左右遅。」とぞ責たりける。侍従は辞するに言無して、彼女房の方に行向ひ、忍やかに、「かやうの事は申出に付て、心の程も推量られ進せぬべければ、聞しばかりにてさて有べき事なれ共、かゝる事の侍るをば如何が御計候べき。露計のかごとに人の心をも慰られば、公達の御為に行末たのもしく、又憑方なき我等迄も立よる方無ては候はじ。さのみ度重ならばこそ、安濃が浦に引綱の、人目に余る憚も候はめ。篠の小ざゝの一節も、露かゝる事有共、誰か思寄り候べき。」と、様々書くどき聞ゆれ共、北の台は、「事の外なる事哉。」と計り打わびて、少も云寄べき言葉もなし。さても錦木の千束を重し、夷心の奥をも憐と思しる事もやと、日毎に経廻て、「我にうきめを見せ、深き淵河に沈ませて、憐と計後の御情はあり共、よしや何かせん。只日比参仕へし故宮の御名残と思召ん甲斐には、責て一言の御返事をなり共承候へ。」と、兎角云恨ければ、北台もはや気色打しほれ、「いでや、ものわびしく、かくとな聞へそ。哀なる方に心引れば、高志浜のあだ浪に、うき名の立事もこそあれ。」と、かこち顔也。 |
「そう申しましょう」と言って、まず侍従局は帰っていった。二、三日ほど(彼女は)どう言おうかこう言おうかと悩んでいたところに、普段とは違って武蔵守の屋敷から様々な酒や肴などが贈られてきて、「ご返事を早く」と催促してきた。侍従局には断る言葉もなく、その女性(北台)のもとに赴いてひそかにこう切り出した。「このようなことは口に出すだけでも心中は推し量れてしまいますので、(聞いただけで済ませたいところですが)、しかしこういう事情がある以上どうお考えでしょうか。ほんのわずかな慰めで人の心も癒されるものですから、公家の方々にとっても将来頼りになる存在となり、また行き場のない私どものような者にも寄るべき場所がなくなることはあるまいとは思います。しかしあまりに度重なれば安濃浦(歌語)での網引きのように人目につく避けられぬ障害となるでしょう。(世間で言われるように)『篠竹のような』という一節も、こんな事情があると誰が思い至りましょうか」と様々に訴えた。しかし北台は「まったく意外なことですね」と言うだけで深いため息をつき、少しも応じようとする言葉を発しなかった。(侍従局は)それでもなお錦木の千束(=価値ある贈物)を重んじて、(武蔵守のような)粗野な心にも情けが通じるのではないかと考えながら日々交渉し続け、「私に辛い思いをさせ深淵へ沈めようとしておきながら『可哀想に』というだけの後悔はあるでしょうが、それでどうなるでしょうか。せめて近頃まで仕えていた故宮(塩冶高貞)様への未練と思われて一言でも返事をもらえないものでしょうか」とあれこれ愚痴ったため、北台もついに態度を崩して「まあ何とも情けなく…そんなふうに言わないでください。哀れな方に対して心が引かれるものですから、(能楽『松風』のように)高志浜の虚ろな波(=はかない噂)によって浮き名が立つこともあるのですよ」と、恨みを含んだ表情を見せた。 解説政治力学としての恋愛交渉
歌語比喩の政治的解釈
心理描写の透徹性
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| 侍従帰て角こそと語りければ、武蔵守いと心を空に成て、度重らばなさけによはることもこそあれ、文をやりてみばやとて、兼好と云ける能書の遁世者を呼寄て、紅葉重の薄様の、取手もくゆる計にこがれたるに、言を尽してぞ聞へける。返事遅しと待処に、使帰り来て、「御文をば手に取ながら、あけてだに見給はず、庭に捨られたるを、人目にかけじと懐に入帰り参て候ぬる。」と語りければ、師直大に気を損じて、「いや/\、物の用に立ぬ物は手書也けり。今日より其兼好法師、是へよすべからず。」とぞ忿ける。かゝる処に薬師寺次郎左衛門公義、所用の事有て、ふと差出たり。師直傍へ招て、「爰に文をやれ共取ても見ず、けしからぬ程に気色つれなき女房の有けるをばいかゞすべき。」と打笑ければ、公義、「人皆岩木ならねば、何なる女房も慕に靡ぬ者や候べき。今一度御文を遣されて御覧候へ。」とて、師直に代て文を書けるが、中々言はなくて、返すさへ手やふれけんと思にぞ我文ながら打も置れず押返して、媒此文を持て行たるに、女房いかゞ思けん、歌を見て顔打あかめ、袖に入て立けるを、媒さては便りあしからずと、袖を引へて、「さて御返事はいかに。」と申ければ、「重が上の小夜衣。」と計云捨て、内へ紛入ぬ。 |
侍従局は戻って一部始終を報告した。武蔵守高師直はひどく気分を害し、「何度も繰り返せば情にほだされることもあろう」と考え、手紙を送ってみようと兼好(吉田兼好)という能筆の遁世者を呼び寄せた。(彼が書いたのは)紅葉が幾重にも積もったかのように優美な薄様の料紙で、取っ手まで焦げるほどに熱心に思いをつづったものだった。返事が遅いと待ちくたびれていたところ、使いの者が戻ってきてこう言上した。「お手紙を手に取りながら開封さえなさらず、庭へ投げ捨てられたので人目につかぬよう懐に入れて参りました」。これを聞いた師直は激しく気分を損ね、「なあに!役立たずのものと言えば自筆の文書だったよ。今日からこの兼好法師を近づけるな」と怒鳴った。そのような折、薬師寺次郎左衛門公義が用事でふと訪れた。師直はそばへ招き、「ここに手紙を送っても受け取らず開封もしない、言語道断なまで冷淡な女房(北台)がいるのだがどうすべきか」と笑いながら話したところ、公義は「人は皆岩や木ではないのですからどんな女性でも慕情には心動かない者などおりましょうか。もう一度お手紙を遣わされてご覧ください」と言った。(そして師直に代わり文面を書いたが)これはまったく言葉数少なく、返す際も触れようとしたのかと思うと自分の文章さえ書きかけで投げ出し、(最後には)推敲したその文書を持たせて使いに行かせた。女房(北台)はどう思ったであろうか。(今回は)歌を見て顔を赤らめ、袖に入れて立っていたので、仲介者は「これは良い兆候だ」と袖を引いて「さあご返事はいかがなされます?」と尋ねると、「重ね着する小夜衣(=薄い単衣のこと)」と言い捨てて奥へ消え入った。 解説書簡拒絶の象徴性
歌返しの多層的解釈
歴史的背景
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| 暫くあれば、使急帰て、「かくこそ候つれ。」と語に、師直うれしげに打案じて、軈薬師寺を呼寄せ、「此女房の返事に、「重が上の小夜衣と云捨て立れける。」と媒の申は、衣小袖を調て送れとにや。其事ならば何なる装束なりともしたてんずるにいと安かるべし。是は何と云心ぞ。」と問はれければ、公義、「いや是はさやうの心にては候はず、新古今の十戒の歌に、さなきだに重が上の小夜衣我妻ならぬ妻な重そと云歌の心を以て、人目計を憚候物ぞとこそ覚て候へ。」と、哥の心を尺しければ、師直大に悦て、「嗚呼御辺は弓箭の道のみならず、歌道にさへ無双の達者也けり。いで引出物せん。」とて、金作の団鞘の太刀一振、手づから取出して、薬師寺にこそ引れけれ。兼好が不祥、公義が高運、栄枯一時に地を易たり。師直此返事を聞しより、いつとなく侍従を呼て、「君の御大事に逢てこそ捨んと思つる命を、詮なき人の妻故に、空く成んずる事の悲しさよ。今はのきはにもなるならば、必侍従殿をつれ進て、死出の山三途の河をば越んずるぞ。」と、或時は目を瞋て云ひをどし、或時は又顔を低て云恨ける程に、侍従局もはや持あつかいて、さらば師直に此女房の湯より上て、只顔ならんを見せてうとませばやと思て、「暫く御待候へ。 |
しばらくすると使いが急いで戻り「このようにございました」と言上したところ、師直は嬉しそうに思案してすぐ薬師寺を呼び寄せた。「あの女房(北台)が『重ね着する小夜衣』と言い捨てて去ったと仲介者が申すのは、衣裳や小袖を調えて送れという意味か。それならどんな装束でも用意することは容易であるが、これはどういう心積もりなのか」と問うたところ、公義は「いいえそれはそのような意図ではなく『新古今集』十戒の歌にある『さなくだに重ねが上の小夜衣 我妻ならぬ人を重んぞ』という歌の趣旨をもって、世間の目ばかり気にするものと存じます」と言い、歌の真意を説明した。すると師直は大いに喜んで「ああ貴殿は弓馬の道だけでなく和歌の道にも比類なき達人だ!さて褒美を取らせよう」と言い、金作りの団鞘太刀一振りを自ら取り出して薬師寺に与えた。兼好(吉田兼好)の不運と公義の幸運は栄枯盛衰が瞬時に逆転したかのようであった。師直はこの返答を聞いてからというもの、いつとはなく侍従局を呼び「主君の大事な時には捨てる覚悟でいた命が、取るに足らぬ他人の妻のために無駄になる悲しさよ。もしも最期の時となるなら必ず貴女(北台)を連れて死出の山や三途の川を越えるのだ」と述べた。ある時は目を見開いて威嚇し、またある時は顔を伏せて恨み言をつぶやく様子に侍従局もついに耐えかね「それなら師直殿にはこの女房が入浴から上がりほんの一瞬だけでも姿をお見せして興ざめさせましょう」と思案し、「少々お待ちくださいませ」。 解説歌解釈と権力構造
北台拒絶の深化
歴史的文脈
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| 見ぬも非ず、見もせぬ御心あては、申をも人の憑ぬ事にて候へば、よそながら先其様を見せ進せ候はん。」とぞ慰めける。師直聞之より独ゑみして、今日か明日かと待居たる処に、北台の方に中居する女童に、兼て約束したりければ、侍従局の方へ来て、「今夜このあれの御留主にて、御台は御湯ひかせ給ひ候へ。」とぞ告たりける。侍従右と師直に申せば、頓て侍従をしるべにて、塩冶が館へ忍び入ぬ。二間なる所に、身を側めて、垣の隙より闖へば、只今此女房湯より上りけりと覚て、紅梅の色ことなるに、氷の如なる練貫の小袖の、しほ/\とあるをかい取て、ぬれ髪の行ゑながくかゝりたるを、袖の下にたきすさめる虚だきの煙匂計に残て、其人は何くにか有るらんと、心たど/\しく成ぬれば、巫女廟の花は夢の中に残り、昭君村の柳は雨の外に疎なる心ちして、師直物の怪の付たる様に、わな/\と振ひ居たり。さのみ程へば、主の帰る事もこそとあやなくて、侍従師直が袖を引て、半蔀の外迄出たれば、師直縁の上に平伏て、何に引立れ共起上らず。あやしや此侭にて絶や入んずらんと覚て、兎角して帰したれば、今は混ら恋の病に臥沈み、物狂しき事をのみ、寐ても寤ても云なんど聞へければ、侍従いかなる目にか合んずらんと恐しく覚て、其行え知べき人もなき片田舎へ逃下にけり。 |
しばらくすると、北台方の中居(控えの間)にいる少女が前もって打ち合わせていた通り侍従局のもとに来て、「今夜はご主人様のお留守ですので、お姫さま(北台)は入浴なさいますように」と告げた。これを聞いた侍従局が師直に報告すると、すぐに侍従を案内役として塩冶の屋敷へ忍び込んだ。(師直たちは)二間続きの部屋で身を潜め、塀のすき間からのぞくと、ちょうど北台が湯から上がったらしく、紅梅のように際立つ色合いの氷のような白さの練絹(高級布地)の小袖を手早くまとっている。濡れ髪は長く垂れており、(その姿はまるで)袖の下で焚きすます空だきの煙のかすかな香りだけが残るかのようだった。「あの人は一体どこにいるのだろう」と心細さが募ると、巫女廟の花(楚辞・九歌中の女神像喩え)は夢の中にぼんやり残り、昭君村の柳(漢詩に見られる疎外感の比喩)は雨の向こうにかすむような心境で、師直は物の怪に取りつかれたように震えてうずくまった。あまり長くいるものだから主人が帰る危険を感じた侍従局が師直の袖を引っ張り半蔀(格子戸)の外へ連れ出すと、師直は縁側に平伏し何度引き立てても起き上がらない。「このまま息絶えてしまうか」と思い無理やり帰したところ、(その後師直は)今や混じりけなき恋わずらいに沈み、狂気じみた言葉を寝ても覚めても口にするので、侍従局は「どんな目にあうだろう」と恐れ果て、行方も知られぬ片田舎へ逃げ下ってしまった。 解説官能描写の象徴性
侍従局逃亡の必然性
歴史的リアリティ
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| 此より後は指南する人もなし。師直いかゞせんと歎きけるが、すべき様有と案出して、塩冶隠謀の企有由を様々に讒を運し、将軍・左兵衛督にぞ申ける。塩冶此事を聞ければ、とても遁るまじき我命也。さらば本国に逃下て旗を挙、一旗を促て、師直が為に命を捨んとぞたくみける。高貞三月二十七日の暁、弐ろ有まじき若党三十余人、狩装束に出立せ、小鷹手毎にすへて、蓮台野・西山辺へ懸狩の為に出る様に見せて、寺戸より山崎へ引違、播磨路よりぞ落行ける。身に近き郎等二十余人をば、女房子共に付て、物詣する人の体に見せて、半時計引別れ、丹波路よりぞ落しける。此比人の心、子は親に敵し、弟は兄を失はんとする習なれば、塩冶判官が舎弟四郎左衛門、急武蔵守が許へ行て、高貞が企の様有の侭にぞ告たりける。師直聞之、此事長僉儀して、此女房取はづしつる事の安からずさよと思ければ、急将軍へ参て、「高貞が隠謀の事、さしも急に御沙汰候へと申候つるを聞召候はで、此暁西国を指て逃下候けんなる。若出雲・伯耆に下著して、一族を促て城に楯篭る程ならば、ゆゝしき御大事にて有べう候也。」と申ければ、「げにも。」と驚騒れて誰をか追手に下すべきとて、其器用をぞ撰れける。当座に有ける人々、我をや追手にさゝれんと、かたづを飲で、機を攻たる気色を見給て、此者共が中には、高貞を追攻て討べき者なしと思はれければ、山名伊豆守時氏と、桃井播磨守直常・太平出雲守とを喚び寄て、「高貞只今西国を指て逃下り候なる。 |
その後は導き手もいなくなった。師直はどうしようかと嘆いたものの、方法があると思いついて塩冶高貞が謀反を企てているということを様々に讒言し、将軍(足利尊氏)と左兵衛督(足利直義)へ報告した。これを聞いた塩冶高貞は「もはや逃れられぬ我が命だ。それなら本国に落ち延びて旗を挙げ一族を集め師直のために命を捨てよう」と計画した。 解説逃亡劇の構造的意義
師直の政治的駆け引き
追手選定の象徴性
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| いづく迄も追攻て打留られ候へ。」と宣ければ、両人共に一儀にも及ず、畏て領状す。時氏はかゝる事共知ず、出仕の装束にて参られたりけるが、宿所へ帰り、武具を帯し勢を率せば、時剋遷て追つく事を得がたしと思ひけるにや、武蔵守が若党にきせたりける物具取て肩に打懸、馬の上にて高紐かけ、門前より懸足を出して、父子主従七騎、播磨路にかゝり、揉にもみてぞ追たりける。直常も太平も宿所へは帰ず、中間を一人帰して、「乗替の馬物具をば路へ追付けよ。」と下知して、丹波路を追てぞ下りける。道に行合人に、「怪げなる人や通りつる。」と問へば、「小鷹少々すへたりつる殿原達十四五騎が程、女房をば輿にのせて急がはしげに通りつる。其合は二三里は過候ぬらん。」とぞ答へける。「さては幾程も延じ。をくれ馳の勢共を待つれん。」とて、其夜は波々伯部の宿に暫く逗留し給へば、子息左衛門佐・小林民部丞・同左京亮以下侍共、取物も取あへず、二百五十余騎、落人の跡を問々、夜昼の境もなく追懸たり。塩冶が若党共も、追手定て今は懸るらん。一足もと急けれ共、女性・少人を具足したれば、兎角のしつらいに滞て、播磨の陰山にては早追付れにけり。塩冶が郎等共、今は落得じと思ければ、輿をば道の傍なる小家に舁入させて、向敵に立向、をしはだぬぎ散々に射る。 |
「どこまでも追撃して討ち取れ」との命令を受けて二人(山名時氏と桃井直常)は異論もなく承諾した。しかし時氏はこのような事態を予想していなかったため、儀式用の装束で参上していたが、宿所へ戻り武装し兵を率いれば時間がかかり追いつけないと考えたのだろう。師直の若党から借りた甲冑を肩に掛け、馬の上で鎧紐を締めると、門前から駆け出して父子主従七騎は播磨路へ向かい、もみ合いながら急追した。 解説緊迫した逃亡劇の演出技法
合戦前夜の心理描写
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| 追手の兵共、物具したる者は少かりければ、懸寄ては射落し、抜てかゝれば射すへられて矢場に死せる者十一人、手負者は数を知ず。右ても追手は次第に勢重る。矢種も已に尽ければ、先女性をさなき子共を差殺して、腹を切らんとて家の内へ走り入て見ば、あてやかにしをれわびたる女房の、通夜の泪に沈んで、さらず共我と消ぬと見ゆる気色なるが、膝の傍に二人の子をかき寄て、是や何にせんと、あきれ迷へる有様を見るに、さしも武く勇める者共なれ共、落る泪に目も暮て、只惘然としてぞ居たりける。去程に追手の兵共、ま近く取巻て、「此事の起りは何事ぞ。縦塩冶判官を討たり共、其女房をとり奉らでは、執事の御所存に叶べからず。相構て其旨を存知せよ。」と下知しけるを聞て、八幡六郎は、判官が次男の三歳に成が、母に懐き付たるをかき懐て、あたりなる辻堂に修行者の有けるに、「此少人、汝が弟子にして、出雲へ下し進て、御命を助進せよ。必ず所領一所の主になすべし。」と云て、小袖一重副てぞとらせける。修行者かい/゛\しく請取て、「子細候はじ。」と申ければ、八幡六郎無限悦て、元の小家に立帰り、「我は矢種の有ん程は、防矢射んずるぞ。御辺達は内へ参て、女性少なき人を差殺し進て、家に火を懸て腹を切れ。 |
追手の兵士たちは武装している者が少なかったため、接近すると射落とされ、刀を抜いて斬り込もうとする者も矢で射られて倒れ、戦死した者は十一人に上った。負傷者の数は分からないほどだったが、追手側は次第に兵力を増していく。塩冶軍の矢の在庫が尽きたので、まず女性や子供たちを殺害し自決しようと小屋の中へ駆け込んでみると、上品だが衰え憂いに沈んだ様子の女性(北台)が死覚悟の涙で憔悴しており、膝元に二人の子供を寄せて「これからどうすれば」と茫然とした姿であった。普段は勇猛な武士たちもこの光景を見て流れる涙で目がかすみ、ただ呆然とするばかりだった。 解説悲劇的場面の文学的深化
追手軍の矛盾した指令分析
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| 」と申ければ、塩冶が一族に山城守宗村と申ける者内へ走り入、持たる太刀を取直して、雪よりも清く花よりも妙なる女房の、胸の下をきつさきに、紅の血を淋き、つと突とをせば、あつと云声幽に聞へて、薄衣の下に臥給ふ。五になる少人、太刀の影に驚て、わつと泣て、「母御なう。」とて、空き人に取付たるを、山城守心強かき懐き、太刀の柄を垣にあて、諸共に鐔本迄貫れて、抱付てぞ死にける。自余の輩二十二人、「今は心安し。」と悦て、髪を乱し大裸に成て、敵近付ば走懸々々火を散してぞ切合たる。とても遁まじき命也。さのみ罪を造ては何かせんとは思ながら、爰にて敵を暫も支たらば、判官少も落延る事もやと、「塩冶爰にあり、高貞此にあり。頚取て師直に見せぬか。」と、名乗懸々々々二時計ぞ戦たる。今は矢種も射尽しぬ、切疵負はぬ者も無りければ、家の戸口に火を懸て、猛火の中[に]走り入、二十二人の者共は、思々に腹切て、焼こがれてぞ失にける。焼はてゝ後、一堆の灰を払のけて是を見れば、女房は焼野の雉の雛を翅にかくして、焼死たる如にて、未胎内にある子、刃のさき[に]懸られながら、半は腹より出て血と灰とに塗たり。又腹かき切て多く重り臥たる死人の下、少き子を抱て一つ太刀に貫れたる、是ぞ何様塩冶判官にてぞあるらん。 |
八幡六郎の言葉を受けて、塩冶家一門の山城守宗村という者が小屋の中へ駆け込み、持っていた太刀を振りかざし、雪よりも清らかで花よりも美しい女房(北台)の胸元に紅い血を滴らせながら突き刺すと、「あっ」と言う声がかすかに聞こえ、薄衣の下に倒れた。五歳になる幼子は太刀の光り影に驚いて「わっと泣き」、「お母様!」と言って誰彼構わず抱きついたので、山城守は断固とした覚悟で子供をかき抱え、太刀の柄を垣根にあてがい親子共々鐔(つば)の元まで貫いて抱えたまま死んだ。残る者二十二人は「これで心が安らぐ」と喜び、髪を乱しほぼ裸になり、敵が近づくと飛びかかり火花を散らして斬り合った。もはや逃げられぬ命である。「ここまで罪を作ってどうするのか」と思いながらも「ここで少しでも敵の足止めができれば判官(高貞)が落ち延びるかもしれない」と考え、「塩冶ここにおる、高貞此にあり。首を取って師直に見せてやれ!」と名乗り続け約二時間戦った。矢も尽き切り傷一つ負わぬ者はいなかったため家の入り口に火をつけると猛炎の中へ突入し二十二人は思い思いに腹を切って焼かれながら亡くなった。燃え尽きた後、灰の山を払い除けて見ると女房(北台)は野原で雉が雛を羽根に隠すようにして焼け死んだかのようであり、胎内の子は刃先にかかり半分腹から出て血と灰まみれになっていた。さらに腹を切り裂いて重なり合う死人たちの下には小さな子供を抱き一つの太刀で貫かれた人物がおり「これはどうやら塩冶判官(高貞)であろう」と思われた。 解説集団自害場面の文学的表現技法
死後場面に込められた宗教的寓意
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| され共焼損じたる首なれば取て帰るに及ばずとて、桃井も太平も、是より京へぞ帰り上りける。さて山陽道を追て下りける山名伊豆守が若党共、山崎財寺の前を打過ける処に跡より、「執事の御文にて候、暫く御逗留候へ。可申事有。」とぞ呼りける。何事やらんとて馬を引へたれば、此者三町計隔りて、「余りにつよく走て候程に、息絶てそれまでも参り得ず候。此方へ打帰せ給へ。」山名我身は馬より下、若党を四五騎帰して、「何事ぞ。あれ聞、急馳帰れ。」とぞ下知しける。五騎の兵共誠ぞと心得て、使の前にて馬より飛をり、「何事にて候やらん。」と問へば、此者莞爾と打笑、「誠には執事の使にては候はず。是は塩冶殿の御内の者にて候が、判官殿の落られ候けるを知候はで伴をば不仕候。此にて主の御為に命を捨て、冥途にて此様を語り申べきにて候。」と云もあへず抜合、時移る迄ぞ切合ける。三人に手負せ我身も二太刀切れければ、是迄とや思けん、塩冶が郎等は腹かき破て死にけり。「此者に出しぬかれ時剋移りければ、落人は遥に延ぬらん。」とて、弥馬を早め追懸ける。京より湊河までは十八里の道を二時計に打て、「余りに馬疲ければ、今日はとても近付事有がたし。一夜馬の足を休てこそ追はめ。」とて、山名伊豆守湊河にぞとゞまりける。 |
しかし焼け焦げてしまった首なので持ち帰る必要もないと考えた桃井(直常)や太平(時熙)らはここから京へ引き返した。一方山陽道を追撃して下ってきた山名伊豆守(時氏)の家来たちが、山崎財寺の前を通り過ぎようとしたところで後方から「執事殿(師直)からの書状です!しばらくお待ちください。申し伝えることがあります」と呼びかける声がした。「何事だろう?」と馬を引き止めると、その人物は三町ほど離れており、「走りすぎて息切れしてしまいここまでしか来られませんでした。こちらにお戻り下さい」と言ったので山名自身は馬から降り家来四、五騎を行かせ「何事だ?急いで聞いてこい!」と命じた。五人組の兵たちが本物と思い込み使者の前で飛び降り「何のご用でしょうか?」と尋ねるとその者はニヤリと笑って「実は執事様からの使者ではありません。私は塩冶殿家臣ですが判官様(高貞)が落ち延びたことを知らずお供できませんでした。ここで主君のために命を捨て冥土での話題にします」と言い終わらないうちに刀を抜きしばらく斬り合った。三人に傷を負わせ自身も二太刀受けると「これまでか」と思ったのか塩冶の家臣は腹を掻っ捌いて死んだ。「この者との戦いに時間が取られ落人は遥かに逃げただろう」と言い山名軍はいよいよ馬を速めて追撃した。京から湊河(神戸)まで十八里の道程を約四時間で駆けたが「あまりに馬が疲れたので今日はどうしても追いつけそうもない。一晩休ませて明日追いかけよう」と山名伊豆守らは湊河にとどまった。 解説逃走劇の文学的構成
歴史背景からの乖離と意味
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| 其時生年十四歳に成ける子息右衛門佐、気早なる若者共を呼抜て宣けるは、「北る敵は跡を恐て、夜を日に継で逃て下る。我等は馬労て徒に明るを待。加様にては此敵を追攻て討つと云事不可有。馬強からん人々は我に同じ給へ、豆州には知せ奉らで、今夜此敵を追攻て、道にて打留めん。」と云もはてず、馬引寄て乗給へば、小林以下の侍共十二騎、我も々と同じて、夜中に追てぞ馳行ける。湊河より賀久河迄は、十六里の道を一夜に打て、夜もはやほの/゛\と明ければ、遠方人の袖見ゆる、河瀬の霧の絶間より、向の方を見渡しければ、旅人とは覚ぬ騎馬の客三十騎計、馬の足しどろに聞へて、我先にと馬を早めて行人あり。すはや是こそ塩冶よと見ければ、右衛門佐川縁に馬を懸居て、「あの馬を早められ候人々は、塩冶殿と見奉るは僻目か、将軍を敵に思ひ、我等を追手に受て、何くまでか落られぬべき。踏留て尋常に討死して、此長河の流に名を残され候へかし。」と、言を懸られて、判官が舎弟塩冶六郎、若党共に向て申けるは、「某は此にて先討死すべし。御辺達は細路のつまり/\に防矢射て、廷尉を落奉れ。一度に討死にする事有べからず。」と、無らん跡の事までも、委是を相謀て、主従七騎引返す。右衛門佐の兵十二騎、一度に河へ打入て、轡を双て渡せば、塩冶が舎弟七騎、向の岸に鏃をそろへ散々に射る。 |
その時、年齢がちょうど十四歳になった子息である右衛門佐(山名氏清)は、気性の激しい若い武士たちを呼び集めて言った。「北へ逃げる敵(塩冶高貞一行)は後ろを恐れて夜も昼もなく落ち延びている。我々は馬が疲れていてむなしく朝を待っているだけだ。このままでは敵に追いついて討つことはできないだろう。乗りこなせる者は私につづけ、伊豆守様(山名時氏)には知らせずに今夜中に攻めかかり道中で仕留めるのだ」と言い終わらないうちに馬を引き寄せてお乗りになったので、小林以下の家臣たち十二騎も「自分も同じく参る」と続き、夜半の中を追撃して駆け出した。湊河から賀久川までは十六里の道のりを一晩で駆け抜け、夜がほのかに明ける頃には遠方に人影が見える。川辺の霧の切れ間から向こう岸を見渡すと、旅人とは思えない騎馬の集団三十騎ほどが馬の蹄音も騒々しく「我先に」と急いでいるのがいた。「はっ!これこそ塩冶だ!」と思った右衛門佐は川縁へ馬を進めて止まると、「あのように馬を急がせている方々よ。もしあなた方が塩冶殿なら見誤りではないか?将軍(足利尊氏)に敵意を持ち、我々追撃隊と対峙してどこまで逃げ切れるというのか。ここで立ち止まり正々堂々と討死し、この大河の流れの中に名を残されたらどうだ」と呼びかけたところ、判官(塩冶高貞)の弟である塩冶六郎が家臣たちに向き直って言った。「私はここで真っ先に戦い死ぬつもりだ。諸君は細道の突き当たりまで防戦しながら矢を射て、兄上をお逃し申せ。全員同時に討死することはあってはいけない」と述べた。亡くなった後のことまでも綿密に打ち合わせると主従七騎が引き返した。右衛門佐の兵十二騎は一斉に川へ突入して馬の手綱を揃えて渡ろうとしたところ、塩冶六郎以下七騎は向こう岸でそろって矢を放ち激しく射かけてきた。 解説若年武将の決断と戦術的駆け引き
史実との対比と物語的改変
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| 右衛門佐が胄の吹返し射向の袖に矢三筋受て、岸の上へ颯と懸上れば、塩冶六郎抜合て、懸違懸違時移る程こそ切合たれ。小林左京亮、塩冶に切て落されて已に打れんと見へければ、右衛門佐馳塞て、当の敵を切て落す。残り六騎の者共、思々に打死しければ、其首を路次に切懸て、時剋を移さず追て行。此間に塩冶は又五十町計落延たりけれ共、郎等共が乗たる馬疲て、更にはたらかざりければ、道に乗捨歩跣にて相従ふ。右ては本道を落得じとや思けん、御著宿より道を替て、小塩山へぞ懸ける。山名続て追ければ、塩冶が郎等三人返合て、松の一村茂りたるを木楯に取て、指攻引攻散々に射る。面に前む敵六騎射て落し、矢種も尽ければ打物に成て切合てぞ死にける。此より高貞落延て、追手の馬共皆疲にければ、「今は道にて追付事叶まじ。」とて、山陽道の追手は、心閑にぞ下ける。三月晦日に塩冶出雲国に下著しぬれば、四月一日に追手の大将、山名伊豆守時氏、子息右衛門佐師氏、三百余騎にて同国屋杉の庄に著給ふ。則国中に相触て、「高貞が叛逆露顕の間、誅罰せん為に下向する所也。是を打て出したらん輩に於は、非職凡下を云ず、恩賞を申与ふべき由。」を披露す。聞之他人は云に不及、親類骨肉迄も欲心に年来の好を忘ければ、自国他国の兵共、道を塞ぎ前を要て、此に待彼に来て討んとす。 |
右衛門佐(山名師氏)がかぶとの吹き返しと射向け袖に三筋の矢を受けたが、岸へさっと駆け上がった。すると塩冶六郎が抜刀して斬りかかり、馬を交錯させながら激しく切り合いを繰り広げた。小林左京亮が塩冶に斬られて落馬し、まもなく討ち取られそうになったのを見て、右衛門佐は馬を駆けて遮り、その敵を斬って倒した。残る六騎の家臣たちもそれぞれ奮戦して討たれたので、彼らの首を道端に切り懸け(晒し)、時を移さず追撃を続けた。この間に塩冶高貞はさらに十里ほど逃げ延びていたが、従者たちの乗った馬が疲弊して全く動かなくなったため、道中で馬を捨て裸足で付き従うことになった。おそらく「本街道では逃げ切れまい」と考えたのだろう、御著宿から道を変えて小塩山へ向かった。山名軍が追ってくるので、塩冶の家臣三人が引き返して戦い、松林の茂みを盾に取りながら攻めたり引いたりして矢を浴びせかけた。正面の敵六騎を射落としたが矢も尽き、刀剣で切り合って討死した。ここから高貞は逃げ延びたため、追手側の馬もすべて疲れ果て、「もう道上での追撃は不可能だ」と判断し、山陽道方面からの追撃隊は気を緩めて引き揚げた。(旧暦)三月三十日に塩冶が出雲国へ到着すると、(翌日である)四月一日に追手の大将・山名伊豆守時氏とその子息右衛門佐師氏が三百余騎で同国の屋杉庄に進駐した。早速、国内に触れを出し「高貞謀反の罪明らかなため誅罰のために下向した。これを討ち取った者には身分上下を問わず恩賞を与える」と公表すると、他人は言うまでもなく親類兄弟まで欲望に駆られて長年の情誼を忘れ、自国他国の兵士らが街道を塞いで先回りし、「こちらの場所かあの場所で討つぞ」と待ち構えた。 解説戦闘描写の技法と心理的駆け引き
歴史的裏付けと文学的脚色
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| 高貞一日も身を隠すべき所無れば、佐々布山に取上て一軍せんと、馬を早めて行ける処に、丹波路より落ける若党の中間一人走付て、「是は誰が為に御命をば惜まれて、城に楯篭らんとは思食候や。御台御供申候つる人々は、播磨の陰山と申所にて、敵に追付れて候つる間、御台をも公達をも皆差殺し進て、一人も残らず腹を切て死て候也。是を告申さん為に甲斐なき命生て、是迄参て候。」と云もはてず、腹かき切て馬の前にぞ臥たりける。判官是をきゝ、「時の間も離れがたき妻子を失れて、命生ては何かせん、安からぬ物哉。七生迄師直が敵と成て、思知せんずる物を。」と忿て、馬の上にて腹を切、倒に落て死にけり。三十余騎有つる若党共をば、「城になるべき所を見よ。」とて、此彼へ遣し、木村源三一人付順て有けるが、馬より飛でをり、判官が頚を取て、鎧直垂に裹み、遥の深田の泥中に埋で後、腹かき切て、腸繰出し、判官の頚の切口を陰し、上に打重て懐付てぞ死たりける。後に伊豆守の兵共、木村が足の泥に濁たるをしるべにて、深田の中より、高貞が虚き首を求出して、師直が方へぞ送りける。是を見聞人毎に、「さしも忠有て咎無りつる塩冶判官、一朝に讒言せられて、百年の命を失つる事の哀さよ。只晉の石季倫が、緑珠が故に亡されて、金谷の花と散はてしも、かくや。 |
塩冶高貞は身を隠せる場所もなく、佐々布山に立て籠もって一戦交えようと馬を急がせていた。その時、丹波路から逃れてきた若党の中間(下級武士)の一人が駆け寄り、「一体誰のために命を惜しんで城に籠ろうとなさるのですか? 奥方様をお供申した者どもは播磨の陰山という所で敵に追いつかれ、奥方も御子息たちも皆刺し殺してしまい、一人残らず切腹して果てました。これを伝えようと無益な命をつないで参ったのです」と言い終わらないうちに腹を切り裂き、馬の前に倒れた。高貞はこれを聞くと、「一瞬たりとも離れがたかった妻子を失って生きていても何になろうか。これほど心休まらぬことはない。(死後も)七生にわたって師直(敵将)と戦い続け、思い知らせてやるのだ」と激怒して馬上で腹を切り、逆さまに落ちて死んだ。三十余騎いた若党たちには「城とするべき場所を見つけよ」と言ってあちらこちらへ遣わし、木村源三一人だけが側に付き従っていたところ、馬から飛び降り高貞の首を取ると鎧直垂(陣羽織)で包み、遠くの深田の泥中に埋めた後、自ら腹を切り裂いて腸を引き出し、高貞の首の切断面にかぶせるように覆い被さって抱きついたまま死んだ。後に山名伊豆守(時氏)の兵たちが木村の足跡で濁った泥を見つけ目印とし、深田の中から高貞の虚ろな首を掘り出して師直のもとに送った。この様子を見聞きした人々は皆、「あれほど忠義があり無実だった塩冶判官(高貞)が一朝にして讒言により命を落とした哀れさよ。まさに中国・晋の石崇(せきすう)が愛妾緑珠のために殺され、金谷園の花のように散り果てた故事と同じでは」と語った。 解説自害描写における構造的対比
悲劇性深化の修辞技法
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| 」と云ぬ人はなし。それより師直悪行積て無程亡失にけり。「利人者天必福之、賊人者天必禍之。」と云る事、真なる哉と覚へたり。 |
「」と言わない者はいなかった。その後、師直(こうのもろなお/高師直)は悪行を積み重ねて間もなく滅亡した。「人に利益を与える者は天が必ず福で報い、他人を害する者は天が必ず禍で罰する」という言葉こそ真実だと深く感じられた。 解説物語的結末と思想的骨格
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| input text 太平記\022_太平記_巻22.txt | 現代日本語 translated text | ||||||||
| 太平記 太平記巻第二十二 ○畑六郎左衛門事 去程に京都の討手大勢にて攻下しかば、杣山の城も被落、越前・加賀・能登・越中・若狭五箇国の間に、宮方の城一所も無りけるに、畑六郎左衛門時能、僅に二十七人篭りたりける鷹巣の城計ぞ相残りたりける。一井兵部少輔氏政は、去年杣山の城より平泉寺へ越て、衆徒を語ひ、挙旗と被議けるが、国中宮方弱して、与力する衆徒も無りければ、是も同く鷹巣城へぞ引篭りける。時能が勇力、氏政が機分、小勢なりとて閣きなば、何様天下の大事に可成とて、足利尾張守高経・高上野介師重、両大将として、北陸道七箇国の勢七千余騎を率して、鷹巣城の四辺を千百重に被囲、三十余箇所の向ひ城をぞ取たりける。彼畑六郎左衛門と申は、武蔵国の住人にて有けるが、歳十六の時より好相撲取けるが、坂東八箇国に更に勝者無りけり、腕の力筋太して股の村肉厚ければ、彼薩摩の氏長も角やと覚て夥し。其後信濃国に移住して、生涯山野江海猟漁を業として、年久く有しかば、馬に乗て悪所岩石を落す事、恰も神変を得るが如し。唯造父が御を取て千里に不疲しも、是には不過とぞ覚へたる。水練は又憑夷が道を得たれば、驪龍頷下の珠をも自可奪。弓は養由が迹を追しかば、弦を鳴して遥なる樹頭の栖猿をも落しつべし。 |
京都からの討伐軍が大勢で攻め落としたため、杣山城も陥ちた。越前・加賀・能登・越中・若狭の五カ国に宮方(南朝勢力)の城は一か所もなくなっていたが、畑六郎左衛門時能がわずか二十七人で籠る鷹巣城だけが残った。一井兵部少輔氏政は昨年杣山城から平泉寺へ移り僧徒を説得して挙兵しようとしたが、国中の宮方が弱体化し協力する者もいなかったため、同じく鷹巣城に引き籠っていた。時能の勇猛さと氏政の機略は小勢とはいえ軽視すれば天下の大事になりかねないと考えた足利尾張守高経・高上野介師重が両大将として北陸道七カ国の兵七千余騎を率い、鷹巣城周囲を幾重にも包囲し三十余か所に陣城を築いた。この畑六郎左衛門という者は武蔵国出身で十六歳の頃から相撲を好み、坂東八カ国で敵なしであった。腕力は強靭で腿の筋肉も厚く、あの薩摩(島津氏)の猛将たちさえ比べものにならないほどである。その後信濃国に移住し生涯を山野や海での狩猟漁労で過ごしたため長年鍛えた結果、馬に乗って険しい岩場を駆け下りる様はあたかも超人的な技を得たかのようだった。古代の名御者・造父が千里走っても疲れぬという伝説もこれには及ばないと思われた。水泳術は河神・憑夷の域に達し、深淵の竜王顎下の宝珠さえ奪えるほどで、弓術は養由基(中国春秋時代の名射手)を継ぐ者として弦を鳴らせば遠く木梢の猿すら射落とせる腕前であった。 解説武士像の理想的描出
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| 謀巧にして人を眤、気健にして心不撓しかば、戦場に臨むごとに敵を靡け堅に当る事、樊■・周勃が不得道をも得たり。されば物は以類聚る習ひなれば、彼が甥に所大夫房快舜とて、少しも不劣悪僧あり。又中間に悪八郎とて、欠脣なる大力あり。又犬獅子と名を付たる不思議の犬一疋有けり。此三人の者共、闇にだになれば、或帽子甲に鎖を著て、足軽に出立時もあり。或は大鎧に七物持時もあり。様々質を替て敵の向城に忍入。先件の犬を先立て城の用心の様を伺ふに、敵の用心密て難伺隙時は、此犬一吠々走出、敵の寝入、夜廻も止時は、走出て主に向て尾を振て告ける間、三人共に此犬を案内者にて、屏をのり越、城の中へ打入て、叫喚で縦横無碍に切て廻りける間、数千の敵軍驚騒で、城を被落ぬは無りけり。「夫犬は以守禦養人。」といへり。誠に無心禽獣も、報恩酬徳の心有にや、斯る事は先言にも聞ける事あり。昔周の世衰へんとせし時、戎国乱て王化に不随、兵を遣して是を雖責、官軍戦に無利、討るゝ者三十万人、地を被奪事七千余里、国危く士辱しめられて、諸侯皆彼に降事を乞。爰に周王是を愁て■を安じ給はず。時節御前に犬の候けるに魚肉を与、「汝若有心、戎国に下て、窃に戎王を喰殺して、世の乱を静めよ。 |
策略が巧みで人望があり、勇猛でありながら心も折れないため、戦場ではいつでも敵を倒し堅陣にも立ち向かう様子は、樊噲や周勃のような名将の境地に達していた。同類の者は自然と集まる習いなので、彼(畑時能)の甥には所大夫房快舜という少しも劣らない武勇の僧侶がいた。また中間(従者)には悪八郎という口唇裂で怪力を持つ者がおり、さらに犬獅子と名付けられた不思議な犬一匹がいた。この三人は闇夜になると、時には帽子に鎖を着けて足軽姿となり、時には大鎧をまとい七種の武器を持って様々に変装し敵陣へ潜入した。まずこの犬を先導役として城の警戒状況を見張らせたところ、敵が厳重に見張り隙がない時は犬が吠えて走り出て警告し、敵が寝込んで夜警も休んでいる時は主のもとに戻って尾を振って知らせた。そのため三人はこの犬を案内役とし、屏風を飛び越え城の中へ突入して叫びながら縦横無尽に斬り回ったので、数千の敵軍が驚き騒ぎ城が落ちないことはなかった。「その犬をもって守護し人間を養う」という言葉がある。確かに心を持たぬ鳥獣にも恩返しや道義の心があるのだろうか、このような話は昔から聞くものだ。かつて周王朝が衰退した時代に戎国(異民族)が反乱して王命に従わず、兵を派遣して討伐しようとしたが官軍は戦いに敗れ、三十万人も殺され七千里もの土地を奪われたため国の危機となり士族の名誉は辱められ諸侯まで降伏を願った。この時周王は心配で寝食も忘れるほど悩まれた。ちょうど御前で飼っていた犬に魚肉を与え「もしお前に志があるなら、戎国へ下向して密かに戎の王を噛み殺し世の乱れを鎮めよ」と命じた。 解説軍記物語の超現実的描写
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| 然らば汝に三千の宮女を一人下て夫婦となし、戎国の王たら[し]めん。」と戯て被仰たりけるを、此狗勅命を聞て、立て三声吠けるが、則万里の路を過て戎国に下て、偸に戎王の寐所へ忍入て、忽に戎王を喰殺し、其頚を咆へて、周王の御前へぞ進ける。等閑に戯れて勅定ありし事なれ共、綸言難改とて、后宮を一人此狗に被下て、為夫婦、戎国を其賞にぞ被行ける。后三千の列に勝れ、一人の寵厚かりし其恩情を棄て、勅命なれば無力、彼犬に伴て泣々戎国に下て、年久住給しかば、一人の男子を生り。其形頭は犬にして身は人に不替。子孫相続て戎国を保ちける間、依之彼国を犬戎国とぞ申ける。以彼思之、此犬獅子が行をも珍しからずとぞ申ける。されば此犬城中に忍入て機嫌を計ける間、三十七箇所に城を拵へ分て、逆木を引屏を塗ぬる向城共、毎夜一二被打落、物具を捨て馬を失ひ恥をかく事多ければ、敵の強きをば不顧、御方に笑れん事を恥て、偸に兵粮を入、忍々酒肴を送て、可然は我城を夜討になせそと、畑を語はぬ者ぞ無りける。爰に寄手の中に、上木九郎家光と云けるは、元は新田左中将の侍也けるが、心を翻して敵となり、責口に候けるが、数百石の兵粮を通して畑に内通すと云聞へ有しかば、何なる者か為けん、大将尾張守高経の陣の前に、「畑を討んと思はゞ、先上木を伐。 |
「それならばお前に三千の宮女の中から一人を与えて夫婦とし、戎国の王にしよう」と戯れにおっしゃったところ、この犬は勅命を聞くと三度吠え立ち、すぐに万里の道を越えて戎国へ下り、密かに戎王の寝室に忍び入って王を噛み殺すと、その首をくわえて周王のもとに戻った。冗談で発した命令ではあったが「勅命は変更し難い」として后宮(寵妃)一人を犬に与え夫婦となり戎国を与えた褒美とした。三千の後宮の中で最も優れ深い寵愛を受けていたその女性は恩情を捨て、勅命ゆえやむなく泣く泣く犬と共に戎国へ下り長年住んだ結果一人の男子が生まれた。頭部は犬だが体は人と同じで、子孫代々続いて戎国を治めたためその国を「犬戎国」と呼ぶようになったという。この故事から考えれば鷹巣城の犬獅子の行動も不思議ではない。こうして彼らの犬が城内に潜入し様子を見張る間に三十七か所に築かれた陣城は毎夜一二箇所ずつ襲撃され、防御用の逆茂木や塗り固めた屏風を破られ武器を捨て馬を失うなど恥辱を受けることが多かったため敵方も我が軍が笑われることを恐れ密かに兵糧を運び込みひそかに酒肴を贈って「どうか私の陣城だけは夜襲しないでくれ」と畑(時能)に取り入らない者はなかった。ここで包囲側の中には上木九郎家光という者がいたが元々新田左中将の家臣だったのが心変わりして敵方についていたところ兵糧数百石を運び込んで内通しているとの噂があったため、大将軍尾張守高経は陣前で「畑を討伐したければまず上木(九郎)を除け」と命じた。 解説伝承文学の構造的連関
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| 」と云秀句を書て高札をぞ立たりける。是より大将も上木に心を被置、傍輩も是に隔心ある体に見ける間、上木口惜事に思て、二月二十七日の早旦に、己が一族二百余人、俄に物具ひし/\しと堅め、大竹をひしいで楯の面に当、かづき連てぞ責たりける。自余の寄手是を見て、「城の案内知たる上木が俄に責るは、何様可落様ぞ有らん。上木一人が高名になすな。」とて、三十余箇所の向城の兵共七千人、取物も不取敢、岩根を伝ひ、木の根に取付て、差も嶮しき鷹巣城の坂十八町を一息に責上り、切岸の下にぞ著たりける。され共城には鳴を静めて、「事の様を見よ。」とて閑り却て有けるが、已に鹿垣程近く成ける時、畑六郎・所大夫快舜・悪八郎・鶴沢源蔵人・長尾新左衛門・児玉五郎左衛門五人の者共、思々の物具に、太刀長刀の鋒を汰へ、声々に名乗て、喚て切てぞ出たりける。誠に人なしと由断して、そゞろに進み近づきたる前懸の寄手百余人、是に驚散て、互の助を得んと、一所へひし/\と寄たる処を、例の悪八郎、八九尺計なる大木を脇にはさみ、五六十しても押はたらかしがたき大磐石を、転懸たれば、其石に当る有様、輪宝の山を崩し磊石の卵を圧すに不異。斯る処に理を得て左右に激し、八方を払、破ては返し帰ては進み、散々に切廻りける間、或討れ或疵を被る者、不知其数。 |
「まず上木を討て」という見事な命令書が高札に掲げられた。これにより大将も上木を警戒し、同僚たちも距離を置くようになったため、上木は無念に思い二月二十七日の早朝、突然一族二百余人で武装を整え、大竹を裂いて盾代わりにかざしながら城へ攻めかかった。他の包囲軍はこれを見て「城内事情を知る上木が急襲するのは落とせる手立てがあるからだ」「手柄を独り占めさせるな」と言い、三十余りの陣城の兵七千人も武器すら持たずに岩伝いに木の根をつかみながら険しい鷹巣城の坂(十八町)を一気に駆け上がり切岸(防御壁)下へ迫った。しかし城内は静かに「状況を見よ」と待機していたが、敵が鹿垣まで接近した時点で畑六郎・所大夫快舜・悪八郎・鶴沢源蔵人・長尾新左衛門・児玉五郎左衛門ら五人それぞれの武装に太刀や長刀を研ぎ澄まし名乗りを挙げて叫びながら斬って出た。敵兵は「守備兵などいない」と油断して無防備に迫っていたが、先陣百余人は驚いて散乱し互いに助け合おうと一箇所に押し寄せたところへ例の悪八郎が八九尺もある大木を脇にかかえ五六十人でも動かない巨石を転がした。その衝撃は輪宝山(仏教聖地)崩壊や積み石圧砕にも匹敵する凄まじさで、これを機に城兵左右から激しく襲い八方へ斬り払い退けば進む散々の切り込みにより討死・負傷者は数知れなかった。 解説軍記物語における集団心理描写
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| 乍去其後は、弥寄手攻上る者も無て、只山を阻川を境て、向陣を遠く取のきたれば、中々兎角もすべき様無し。懸し程に、畑つく/゛\と思案して、此侭にては叶ふまじ、珍しき戦ひ今一度して、敵を散すか散さるゝか、二の間に天運を見んと思ければ、我城には大将一井兵部少輔に、兵十一人を著て残し留め、又我身は宗徒の者十六人を引具して、十月二十一日の夜半に、豊原の北に当たる伊地山に打上て、中黒の旌二流打立て、寄手遅しとぞ待たりける。尾張守高経是を聞て、鷹巣城より勢を分て、此へ打出たるとは不寄思、豊原・平泉寺の衆徒、宮方と引合て旌を挙たりと心得て、些も足をためさせじと、同二十二日の卯刻に、三千余騎にてぞ押寄られける。寄手初の程は敵の多少を量兼て、無左右不進けるが、小勢也けりと見て、些も無恐処、我前にとぞ進みたりける。畑六郎左衛門、敵外に引へたる程は、態あり共被知ざりけるが、敵已一二町に責寄せたりける時、金筒の上に火威の胄の敷目に拵へたるを、草摺長に著下て、同毛の五枚甲に鍬形打て緒を縮、熊野打の肪当に、大立揚の脛当を、脇楯の下まで引篭て、四尺三寸太刀に、三尺六寸の長刀茎短に拳り、一引両に三■の笠符、馬の三頭に吹懸させ、塩津黒とて五尺三寸有ける馬に、鎖の胄懸させて、不劣兵十六人、前後左右に相随へ、「畑将軍此にあり、尾張守は何くに坐すぞ。 |
しかしその後は攻め手も登ってこなくなり、ただ山や川を境に向かい陣を遠く構えたため籠城側にはどうしようもなかった。こうした状況で畑(時能)は「このままではならない」と深く考えた末、「今一度奇襲をかけて敵を散らすか自滅するかの決戦で運命を見極めよう」と決意し、城内に大将の一井兵部少輔と十一人の兵士を残置。自身は僧兵十六人を率いて十月二十一日深夜、豊原北方の伊地山へ登り「中黒(新田氏旗印)」二本を掲げて敵軍が来るのを待ち構えた。 これを知った尾張守斯波高経は、「鷹巣城から分派した部隊」とは考えず「平泉寺衆徒が宮方(南朝)と結んで挙兵した」と思い込み、即時出兵を決定。翌二十二日卯刻に三千余騎で攻め寄せた。当初包囲軍は敵兵力を見極めるため進まなかったが、小勢だと判ると恐れもなく前進開始。畑六郎左衛門(時能)は敢えて隠れていたが、敵が一二町(約200m)まで迫った瞬間、金箔の立物を付けた火威胄に長草摺、同毛皮製五枚甲で鍬形前立てを縮め緒締め。熊野革袖当てに大立揚脛当てを着込み、四尺三寸太刀と三尺六寸の長刀を携え、「一引両」紋付き笠符を三頭の馬にかけさせた。 そして「塩津黒」という五尺三寸(約160cm)の愛馬に鎖帷子を装着し、劣らぬ兵十六人を従えて叫んだ:「畑将軍ここにあり! 尾張守はどこだ!」 解説籠城戦術と心理的駆け引き
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| 」と呼て、大勢の中へ懸入、追廻し、懸乱し、八方を払て、四維に遮りしかば、万卒忽に散じて、皆馬の足をぞ立兼たる。是を見て、尾張守高経・鹿草兵庫助旗の下に磬て、「無云甲斐者共哉。敵縦鬼神也とも、あれ程の小勢を見て引事や有べき。唯馬の足を立寄せて、魚鱗に引へて、兵を虎韜になして取篭、一人も不漏打留よや。」と、透間も無ぞ被下知ける。懸しかば三千余騎の兵共、大将の諌言に力を得て、十六騎の敵を真中にをつ取篭、余さじとこそ揉だりけれ。大敵雖難欺、畑が乗たる馬は、項羽が騅にも不劣程の駿足也しかば、鐙の鼻に充落され蹄の下にころぶをば、首を取ては馳通り、取て返しては颯と破る。相順ふ兵も、皆似るを友とする事なれば、目に当敵をば切て不落云事なし。其膚不撓目不瞬勇気に、三軍敢て当り難く見へしかば、尾張守の兵三千余騎、東西南北に散乱して、河より向へ引退く。軍散じて後、畑帷幕の内に打帰て、其兵を集るに、五騎は被討九人は痛手を負たりけり。其中に殊更憑たる大夫房快舜、七所まで痛手負たりしが、其日の暮程にぞ死にける。畑も脛当の外、小手の余り、切れぬ所ぞ無りける。少々の小疵をば、物の数とも不思けるに、障子の板の外より、肩崎へ射篭られたりける白羽の矢一筋、何に脱けれ共、鏃更に不脱けるが、三日の間苦痛を責て、終に吠へ死にこそ失にけれ。 |
「畑将軍ここにあり!」と叫んで大群の中へ突入し、追い回し混乱させながら四方八方に斬りかかり遮ったため、敵兵たちは一斉に散らばって皆馬を立て直せなかった。これを見た尾張守斯波高経と鹿草兵庫助が旗下で叫んだ:「なんて役立たずどもだ!仮に相手が鬼神でもあれほどの少数勢を見て退くことがあるか?ただ馬の足場を整え『魚鱗(密集陣形)』で囲み、『虎韜(包囲殲滅戦術)』を使って一人残らず討ち取れ!」と即座に命令した。すると三千余騎の兵士たちは大将の叱咤に奮い立ち、十六騎の敵を真ん中に完全に包囲し逃すまいともみ合った。大軍ながらも欺くのは難しかったが、畑(時能)の乗る馬は項羽の愛馬「騅」にも劣らぬ駿足だったため、鐙で敵を蹴落としながら蹄下に転ぶ者があれば首を取って走り抜け、引き返しては鋭く突破した。従う兵士たちも皆同様に勇敢なので、目に入る敵は必ず斬り伏せた。その揺るがぬ肌身や一瞬も瞬かない勇気に全軍が手出しできそうに見えたため、尾張守の三千余騎は東西南北へ散乱して川向こうへ敗走した。 戦い終わり後、畑が陣幕内に戻って兵を集めると五騎が討たれ九人が重傷だった。中でも特に頼りとしていた大夫房快舜は七箇所の深手を負いその日の夕方に死亡した。畑も脛当て以外、籠手(小手)を含めて斬られていない部分はなく軽微な傷など問題外と思っていたが、障子板の外から肩先へ射込まれた白羽矢一本だけは抜こうとしても鏃が全く取れず三日間苦痛に悶えついに絶叫して死んだ。 解説戦国期個人武勇の極致と現実的結末
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| 凡此畑は悪逆無道にして、罪障を不恐のみならず、無用なるに僧法師を殺し、仏閣社壇を焼壊ち、修善の心は露許もなく、作悪業事如山重しかば、勇士智謀の其芸有しか共、遂に天の為にや被罰けん、流矢に被侵て死にけるこそ無慙なれ。君不見哉、舁控弓、天に懸る九の日を射て落し、■盪舟、無水陸地を遣しか共、或は其臣寒■に被殺、或は夏后小康に被討て皆死名を遺せり。されば開元の宰相宋開府が、幼君の為に武を黷し、其辺功を不立しも、無智慮忠臣と可謂と、思合せける許也。畑已に討れし後は、北国の宮方気を撓して、頭を差出す者も無りけり。 ○義助被参芳野事并隆資卿物語事 爰に脇屋刑部卿義助は、去九月十八日、美濃の根尾の城に立篭しか共、土岐弾正少弼頼遠・刑部大夫頼康に責落されて、郎等七十三人を召具し、微服潜行して、熱田大宮司が城尾張国波津が崎へ落させ給て、十余日逗留して、敗軍の兵を集めさせ給て、伊勢伊賀を経て、吉野殿へぞ被参ける。則参内し、竜顔に奉謁しかば、君玉顔殊に麗しく照して前席、此五六年が間の北征の忠功、異他由を感じ被仰て、更に敗北の無念なる事をば不被仰出、其命無恙して今此に来る事、君臣水魚の忠徳再可露故也と、御涙を浮させ御座て被仰下。次日臨時の宣下有て一級を被加。 |
ところでこの畑時能は悪逆非道であり、罪障を恐れないだけでなく、必要もないのに僧侶や法師を殺し、仏閣社壇を焼き壊した。善行を行う心は微塵もなく、作った悪業が山のように積み重なっていたため、勇士としての智謀と技量があったにもかかわらず、ついに天罰を受けたのであろうか。流れ矢に当たって死んだのは当然である。歴史を見よ!かつて羿は弓を引き絞り天空にかかる九つの太陽を射落としたし、盪舟(伝説の力士)は水もない陸地を行き来したが、ある者は臣下寒浞に殺され、ある者は夏后小康に討たれて皆死後名を残している。だからこそ唐の開元時代の宰相宋璟のように幼い君主のために戦いに明け暮れながら辺境での功績も上げられなかった者でも「無謀な忠臣」と呼べるのだと、思わず納得してしまうのである。畑が討たれた後は北国の宮方(南朝勢力)の士気は挫かれ、降伏する者は一人も現れなかった。 さてここに脇屋刑部卿義助は、去る九月十八日に美濃国根尾城で篭城したものの土岐頼遠・頼康によって攻め落とされ、郎党七十三人を引き連れて変装し密かに熱田大宮司が守備する尾張国波津崎へ逃亡して十数日逗留。敗残兵を集めた後伊勢・伊賀を経て吉野(南朝拠点)に参上したのである。直ちに天皇に謁見すると、御玉顔は殊のほか麗しく輝き「この五六年間北国征討での忠功は格別であった」と感心され、敗戦の無念については一言も触れず「君が命を全うして今ここへ来たのは君臣水魚(深い信頼関係)の徳があらためて示されたからだ」と涙を浮かべて仰せになった。翌日には臨時の宣旨があり位階一級が加えられた。 解説歴史評価の二重構造と忠臣像
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| 加之当参の一族、並相順へる兵共に至るまで、或は恩賞を給、或官位を進められければ、面目人に超てぞ見へたりける。其時分殿上の上口に、諸卿被参候たりけるが、物語の次に、洞院右大将実世未左衛門督にて坐しが、被欺申けるは、「抑義助越前の合戦に打負て美濃国へ落ぬ。其国をさへ又被追落て、身の置処なき侭に、当山へ参りたるを、君御賞翫有て、官禄を進ませらる事返々も不心得。是唯治承の昔、権佐三位中将維盛が、東国の討手に下て、鳥の羽音に驚て逃上たりしを、祖父清盛入道が計ひとして、一級を進ませしに不異。」とぞ被笑ける。四条中納言隆資卿、つく/\と是を聞給ひけるが、退て被申けるは、「今度の儀、叡慮の趣く処、其理当るかとこそ存候へ。其故は、義助北国の軍に失利候し事は全彼が戦の拙きに非ず。只聖運、時未到、又勅裁の将の威を軽くせられしに依て也。高才に対して加様の事を申せば、以管窺天、听途説塗風情にて候へ共、只其の一端を申べし。昔周の未戦国の時に当て、七雄の諸侯相争ひ互に国を奪はんと謀し時、呉王闔廬、孫子と云ける勇士を大将として、敵国を伐ん事を計る。時に孫氏、呉王闔廬に向て申けるは、「夫以不教之民戦しむる事、是を棄よといへり。若敵国を伐しめんとならば、先宮中にあらゆる所の美人を集て、兵の前に立て、陣を張り戈を持しめて後、我其命を司らむ。 |
さらに義助自身だけでなく従ってきた一族や兵士たち全員にも、ある者は恩賞を与えられ、ある者には官位が進められたので、彼らは人並み外れて誇り高そうに見えた。その頃宮中で高位の公家たちが集まっていたところ、雑談の中で洞院右大将(実世)が左衛門督として出席し嘲笑して言った:「そもそも義助は越前での戦いに敗れ美濃国へ逃亡したのに、さらにそこからも追い出されて行き場がないまま吉野山に来たというのに、天皇陛下がお気に入りになって官位を昇進させるとはまったく理解できない。これはまさに治承年間の昔、権佐三位中将維盛が東国征伐で鳥の羽音におびえて逃げ帰った時、祖父清盛入道のはかりごととして一級昇進させた件と同じだ」と。 四条中納言隆資卿はそれをじっと聞いておられ、退出後にこう申し上げた:「今回の決定が天皇陛下のお考えに沿うものであることは道理にかなっていると思います。なぜなら義助が北国戦線で敗れたのは決して彼の指揮の拙さではなく、ただ天運が熟していなかったことと、勅命による将軍としての威厳が軽んじられたためです。優れた方(実世)に対してこのようなことを申し上げるのは井の中の蛙のように見識が狭く、噂話を伝える程度の未熟さではありますが、一例だけ述べておきましょう。昔周王朝末期の戦国時代に七雄と呼ばれる諸侯が争い領土奪取を謀っていた時、呉王闔閭は孫子という勇士を大将として敵国征伐を計画しました。その際孫氏は呉王に向かって言った:『教えられていない民衆を戦わせることは「放棄せよ」と言われている。もし敵国を討伐させたいなら、まず宮中のあらゆる美人たちを集めて兵士の前に立たせ陣形を整え矛を持たせた後で私が命令を司りましょう』」 解説敗将への評価と政治力学
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| 一日の中に、三度戦の術を教へんに、命に随ふ事を得ば、敵国を滅さん事、立に得つべし。」とぞ申ける。呉王則孫子が任申請、宮中の美人三千人を南庭に出して、皆兵の前陣に立らる。時に孫氏甲胄を帯し、戈を取て、「鼓うたば進んで刃を交へよ。金をうたば退て二陣の兵に譲れ。敵ひかば急に北るを追へ。敵返さば堪て弱を凌げ。命を背かば我汝等を斬らん。」と、馬を馳てぞ習はしける。三千の美人君の命に依て戦ひを習はす戦場へ出たれども、窈窕たる婉嫋、羅綺にだもたへざる体なれば、戈をだにも擡得ざれば、まして刃を交るまでもなし。あきれたる体にて打笑ぬる計也。孫氏是を忿て、殊更呉王闔廬が最愛の美人三人を忽に斬てぞ捨たりける。是を見、自余の美人相順て、「士卒と共に懸よ。」といへば進み、「返せ。」といへば止る。聚散応変、進退当度。是全孫氏が美人の殺す事を以て兵法とはせず、只大将の命を士卒の重んずべき処を人にしらしめんが為也。呉王も最愛の美人を三人まで失ひつる事は悲しけれ共、孫氏が教へたる謀誠に当れりと被思ければ、遂に孫氏を以て、多くの敵国を亡されてげり。されば周の武王、殷の紂王を伐ん為に、大将を立ん事を太公望に問給ふ。太公望答曰、「凡国有難、君避正殿、召将而詔之曰、社稷安危、一在将軍。 |
孫子は言った。「一日の中で三度まで戦術を教えようとする時に命令に従うことができれば、敵国を滅ぼすことはすぐにも可能になるでしょう。」呉王は直ちに孫子の要求を受け入れて宮中の美女三千人を南庭に出し全員を兵士として最前列に立たせた。そこでは孫氏が甲冑をつけ矛を取り、「太鼓が鳴れば進んで戦え、鐘(金)が鳴れば退いて二陣と交代せよ。敵がひるんだら急いで追撃し、反撃したら耐えて弱みを突け。命令に背いた者は斬るぞ」と言って馬を駆けて訓練させた。 しかし三千人の美女たちは王の命により戦場での訓練に出てきたものの優美な姿なので薄絹の衣も着こなせない体であり、矛すら持ち上げられずましてや刃を交えることもなかった。呆れた様子で笑い転げるばかりである。 孫氏はこれに激怒し特に呉王闔閭が最も愛した三人の美女を突然斬り捨てた。これを見ると残りの美女たちは皆従順になり「兵士と共に出撃せよ」と言えば進み、「戻れ」と言えば止まる集散応変で前後適切だったこれは全く孫氏が美人を殺すことを兵法とするのではなく大将の命令こそが士卒に重んじられるべき点を人々に知らせるためである。 呉王も最も愛した三人の美女まで失ったことは悲しかったものの孫氏が教えた方法は本当に正しいと思われたので結局孫子を使って多くの敵国を滅ぼさせることができた。それゆえ周の武王が殷の紂王を討伐するために大将を立てることを太公望(呂尚)に尋ねると太公望は答えて言った「およそ国家に災難がある時は君主は正殿を避け将軍を呼んで詔して曰く社稷安否すべてが将軍次第であると」 解説規律の本質と統帥権の証明
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| 願将軍帥師応之。将既受命、乃命大史卜。斎三日、之大廟鑽霊亀卜吉日以授斧鉞。君入廟門西面而立、将入廟門北面而立。君親操鉞持首、授将其柄曰、従此上至天者、将軍制之。復操斧持柄授将其刃曰、従此下至淵者、将軍制之。見其虚則進、見其実則止。勿以三軍為衆而軽敵。勿以受命為重而必死。勿以身貴而賎人。勿以独見而違衆。勿以弁舌為必然。士未坐勿坐。士未食勿食。寒暑必同。如此則士衆必尽死力。将已受命拝而報君曰、臣聞国不可以外治、軍不可以中禦。二心不可以事君。疑志不可以応敵。臣既受命専斧鉞之威。臣不敢将。君許之。乃辞而行。軍中之事不聞君命、皆由将出。臨敵決戦、無有二心。若如則無天於上、無地於下。無敵於前、無君於後。是故智者為之謀、勇者為之闘。気励青雲疾若馳々。兵不接刃而敵降服。戦勝於外、功立於内。吏遷士賞百姓懽悦、将無咎殃。是故風雨時節、五穀豊熟、社稷安寧也。」といへり。古より今に至るまで、将を重んずる事如此にてこそ、敵を亡し国を治る道は候事なれ。去程に此間北国の有様を伝へ承るに、大将の挙状を不帯共、士卒直に訴る事あれば、軈て勅裁を被下、僅に山中を伺ひ以祗候労を、軍用を支へらる。北国の所領共を望む人あれば、不事問被成聖断。依之大将威軽、士卒心恣にして、義助遂に百戦の利を失へり。 |
太公望は答えていった。「どうか将軍よ軍隊を率いてこれに対処せよ。将が命令を受けたなら、大史に占わせるのだ。三日間斎戒し、宗廟へ行き霊亀を用いて吉日を占い斧と鉞(まさかり)を与えるのである。君主は宗廟の門に入り西向きに立ち、将軍が入ると北向きになる。君主自ら鉞を持ち柄を取り、その先端を将軍に向けて言う『ここから上は天まで全て将軍が支配せよ』と。さらに斧を持ち刃の方を持って柄を与え『下は淵まですべて将軍の管轄だ』と言うのだ。 敵に隙あれば攻め、強ければ引き上げよ。大軍だからといって油断するな。命令を重んじて死を軽視するな。身分が高いからと人を見下すな。独り善がりの考えで衆論に背くな。弁舌だけを信用するな。兵士が座らぬうちは自分も座るな、食事せぬなら自らも食わず寒暑とも苦楽を共にするのだそうすれば兵たち命を懸けて戦うだろう。」 将軍は命令を受けた後拝礼して君主に答える。「聞くところでは国は外部から治められず軍隊は中央で制御できぬ。二心あれば君に仕えられず疑念あるなら敵に対応できない臣が斧鉞の威を委ねられた以上私のために動かすことはできません。」と君主はこれを許すそこで辞去して出陣する軍中の事柄では君命を聞かず全て将軍から発せられる。敵に直面し決戦には一点の迷いもないそうなれば天は上になく地は下にもなく、前には仇敵後ろに君主なしこうして知者は策謀を尽くす勇者は力強く闘う気勢が青雲を突き抜け疾風のように進む刃を交えずとも敵は降伏する外で戦勝し内に功績立て役人は昇給兵士には褒賞民衆は喜び将軍も災いなしそうして風雨順当五穀豊穣国家安寧となる。」と言った。 古から今へと将を重んずることはこのようになされ敵を滅ぼし国治める道なのである。ところが近頃北国の様子を聞いてみると大将軍の意見もなく兵士たちが直接訴え出ればすぐ勅裁が下りわずかな山野での労苦や軍事費さえ支給される北国の領地を望む者があっても問いただすこともないまま聖断(天皇の決定)となるため将軍威厳軽んじられ兵士心勝手放題となり義助はついに百戦利を得る機会失ってしまった。 解説統帥権委譲と南朝失敗の本質
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| 是全戦ふ処に非ず。只上の御沙汰の違処に出たり。君忝も是を思召知るに依て、今其賞を被重者也。秦将孟明視・西乞術・白乙丙、鄭国の軍に打負て帰たりしを秦穆公素服郊迎して、「我不用百里奚・■叔言辱しめられたり。三子は何の罪かある。其専心毋懈。」と云て三人の官禄を復せしにて候はずや。」と、理を尽て宣られければ、さしも大才の実世卿、言なくしてぞ立れける。「何ぞ古の維盛を入道相国賞せしに同せん哉。」と被申しかば、実世卿言ば無して被退出けり。 ○作々木信胤成宮方事 懸る処に伊予国より専使馳来て、急ぎ可然大将を一人撰て被下、御方に対して忠戦を可致之由を奏聞したりしかば、脇屋刑部卿義助朝臣を可被下公議定けり。され共下向の道、海上も陸地も皆敵陣也。如何して可下、僉議不一ける処に、備前国住人、佐々木飽浦三郎左衛門尉信胤早馬を打てて、「去月二十三日小豆島に押渡り、義兵を挙る処に、国中の忠ある輩馳加て、逆徒少々打順へ、京都運送の舟路を差塞で候也。急近日大将御下向有べし。」とぞ告たりける。諸卿是を聞て、大将進発の道開て、天運機を得たる時至りぬと、悦給事限なし。抑此信胤と申は、去建武乱の始に、細川卿律師定禅に与力して、備前備中の両国を平げ、将軍の為に忠功有しかば、武恩に飽て、恨を可含事も無りしに、依何今俄に宮方に成ぞと、事の根元を尋ぬれば、此比天下に禍をなす例の傾城故とぞ申ける。 |
これは戦うべき状況ではなかったが、ただ上からの命令の誤りによってそうなったのだ。君主はこのことを恥ずかしく思い知らされ、今その賞を与えるのが適切である。秦将軍孟明視・西乞術・白乙丙が鄭国の軍に敗れて帰還した時、秦穆公が喪服を着て郊外で出迎え、「私が百里奚と蹇叔の忠言を用いなかったために辱めを受けたのだ。三人には何の罪があろうか。心を一つにして怠るな」と言って官職と俸禄を回復させた故事と同じではないか。」と理を尽くして述べられたので、さすがに大才の実世卿も言葉なく立ち去った。「どうして昔、入道相国(平清盛)が維盛を賞した例と同じと言えようか」と申し上げると、実世卿は返答せず退出した。 ○佐々木信胤が宮方についた件 解説南朝政治批判と佐々木信胤転向劇
この場面は四条隆資弁論(孫子・太公望引用)で主張された「将帥権限尊重」が現実政治では無視されている矛盾を、具体的エピソード(信胤の偶発的活躍と不透明動機)を用いて強調し、「太平記」全体テーマである乱世の不合理性へ収斂させる役割を持つ。 | ||||||||
| 其比菊亭殿に御妻とて、見目貌無類、其品賎からで、なまめきたる女房ありけり。しかあれ共、元来心軽く思定めたる方もなければ、何となく引手数たのうき綱の、目もはづかなる其喩へも猶事過て、寄瀬何くにかと我ながら思分でぞ有渡りける。さはありながら、をぼろけにては、人の近付べきにもあらぬ宮中の深棲なるに、何がして心を懸し玉垂の、間求得たる便にか有けん、今の世に肩を双る人もなき高土佐守に通馴て、人しれず思結れたる下紐の、せきとめがたき中なれば、初の程こそ忍けれ、後は早山田に懸るひたふるに打ひたゝけて、あやにくなる里居にのみまかでければ、宮仕ひも常には疎そかなる事のみ有て、主の左のをほゐまうち公も、かく共しらせ給しかば、むつかしの人目を中の関守や、よひ/\ごとの深過るをまたず共あれかしと被許、まかで出ける時もあり。懸し程に、此土佐守に元相馴て、子共数た儲たる鎌倉の女房有ける。是は元来田舎人也ければ、物妬はしたなく心武々敷て、彼源氏の雨夜の物語に、頭中将の指をくひ切たりし有様共多かりけり。されども子共の親なれば、けしからずの有様哉とは乍思、いなと云べき方も無て、年を送ける処に、土佐守伊勢国の守護に成て下向しけるが、二人の女房を皆具足して下らんとて、元の女房をば先くだしぬ。 |
その頃、菊亭殿(公家)には正室として非常に美しい容貌で品の良い優雅な女性がいた。しかし元々気軽に考えを決める性質でもなく、何となく惹かれる男性が多い綱のように恥ずかしくなる例えさえ過ぎて、「身を寄せる瀬場はどこにあるのか」と自ら思い悩みながら日々を送っていた。そうはいっても普通の女性では近づけない宮中の奥深く住んでいるため、どうして高貴な男性(土佐守)に心を引かれ接触する機会があろうか? 当世で並ぶ者もない高位の土佐守と親しくなり人知れず情を通じるようになると、その関係は抑えがたいものだったので初めこそ隠していたが後には真剣に打ち込み山田(比喩的に恋仲)に入ってしまい、怪しいほどの頻度で自宅へ通ったため宮仕えも常におろそかになった。主人である左大臣公もこのことをご存じだったので「面倒な人目を気にする関守や夜毎の遅くなるのも待たずともよし」と許され、退出することもしばしばあった。 そうしているうちにその土佐守には元々親しい女性がいて子供たちを何人も儲けた鎌倉出身の女房(妻)がいた。彼女は田舎者ゆえ嫉妬深く心が荒っぽい性質で、『源氏物語』雨夜の品定めに出てくる頭中将の指を噛み切ったような様子もよく見られた。しかし子供たちの母親なので「けしからぬことだ」と思いつつ拒否する方法もなく年月を過ごしていたところに土佐守が伊勢国の守護(領主)として赴任することになり、二人の女性(妻)を皆連れて行こうとしたので元々いた女房を先に出発させた。 解説平安貴族社会の情愛模様と階級差
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| 御妻を同様にと待しか共、今日よ明日よとて少しうるさげなる気色に見へしかば、土佐守猶も思の色増て、伴行かでは叶まじきとて、三日まで逗留して、兎角云恨ける程に、さらばとて、夜半許に輿指寄せ、几帳指隠して扶乗られぬ。土佐守無限うれしくて、道に少しも不休、軈て伊勢路に趣けり。まだ夜を篭て、逢坂の関の岩かど蹈鳴し、ゆう付鳥に被送て、水の上なる粟津野の、露分行けばにほの海、流の末の河となる、勢多の橋を打渡れば、衣手の田上河の朝風に、比良の峯わたし吹来て、輿の簾を吹揚たり。出絹の中を見入たれば、年の程八十許なる古尼の、額には皺のみよりて、口には歯一もなきが、腰二重に曲てぞ乗たりける。土佐守驚て、「是は何様古狸か古狐かの化たるにてぞ有らん。鼻をふすべよ。蟇目にて射て見よ。」と申ければ、尼泣々、「是は媚者にても候はず。菊亭殿へ年来参通者にて候を、御妻の局へ被召て、「加様にて京に住わびんよりは、我が下る田舎へ行て、且くも慰めかし。」と被仰候し間、さそふ水もがなと思ふ憂身にて候へば、うれしき事に思て昨日御局へ参りて候へば、被留進せて、妻戸に輿を寄たりしに、それに乗れと仰候しかば、何心もなく乗たる許にて候ぞ。」と申ける。土佐守、「さては此女房に出抜れたる者也。 |
(正室である菊亭殿夫人と)同じように連れて行こうと待っていたが、「今日か明日か」と言って少し煩わしそうな様子に見えたので、土佐守はいっそう熱心になり「同行させなければならない」と三日間逗留してあれこれ恨み言を述べた。そこで夫人は「それならば」と言い、夜中ごろに輿を近づけ几帳で隠しながら乗せて出発した。土佐守はこの上なく喜び道中全く休まず伊勢路へ向かった。(粟津野では)まだ夜が明けないうちに逢坂の関の岩角を踏み鳴らし、夕方には追い払われるように送られ、(琵琶湖近くで)水際にある粟津野の露の中を行けば霞んだ海(琵琶湖)が見え、流れの末は川となる勢多橋を渡ると、衣手山からの朝風が比良峯越しに吹き来て輿の簾を持ち上げた。簾の隙間から中を見ると八十歳ほどの老尼で、額には深い皺ばかり刻まれ口には歯一本もなく腰は二重に曲がって乗っていた。土佐守は驚いて「これは化け狸か古狐の仕業だ!煙で燻せ!破魔矢で射てみろ!」と言うと尼は泣きながら「私は妖しい者ではありません。菊亭殿へ長年出入りしていたもので、夫人様に『このように京でのつらい暮らしより私が赴任する田舎へ行って慰め合おう』と言われた身ですから嬉しく思い昨日局(夫人の部屋)へ参上しましたところ輿を妻戸近くに寄せて『これに乗れ』と命じられたので何も考えず乗っただけです」と答えた。土佐守は「そうか、私はこの女性(菊亭殿夫人)に出し抜かれたのだな」と言う。 解説道中劇の皮肉構造と社会的諷刺
この場面は平安文学的な恋愛譚を土台にしながらも、鎌倉時代武士社会の現実感覚(「蟇目射て見よ」等武家言葉)を融合させた『太平記』独自の滑稽譚。物語技術として前段密通劇を皮肉的に完結させる一方、「老尼哀話」が新たな人間模様への伏線となっている点に注目される。 | ||||||||
| 彼御所に打入て、奪取ずば下るまじき者を。」とて、尼をば勢多の橋爪に打捨て、空輿を舁返して、又京へぞ上りける。元来思慮なき土佐守、菊亭殿に推寄て、四方の門を差篭て、無残所捜しける。御所中の人々、「こは何なる事ぞ。」とて、上下周章騒事無限。何に求れ共なければ、此女房の住しあたりなる局に有ける女の童を囚へて、責問ければ、「其女房は通方多かりしかば、何くとも差ては知がたし。近来は飽浦三郎左衛門とかや云者にこそ、分て志深く、人目も憚らぬ様に承候しか。」と語りければ、土佐守弥腹を居兼て、軈て飽浦が宿所へ推寄て討んと議りけるを聞て、自科依難遁、身を隠しかね、多年粉骨の忠功を棄て、宮方の旗をば挙ける也。折得ても心許すな山桜さそふ嵐に散もこそすれと歌に読たりしは、人心の花なりけりと、今更思知ても、浅猿かりし事共也。 ○義助予州下向事 去程に四国の通路開ぬとて、脇屋刑部卿義助は、暦応三年四月一日勅命を蒙て、四国西国の大将を奉て、下向とぞ聞へし。年来相順ふ兵其数多しといへ共、越前美濃の合戦に打負し時、大将の行末を不知して山林に隠忍び、或は危難を遁て堺を隔てしかば、芳野へ馳来る兵五百騎にも不足けり。され共四国中国に心を通ずる官軍多く有しかば、今一日も可急とて、未明に芳野を打立て、紀伊の路に懸り被通けるに、加様の次ならでは早晩か参詣の志をも遂げ、当来値遇の縁をも可結と被思ければ、先高野山に詣て、三日逗留し、院々谷々拝み廻るに、聞しより尚貴くて、八葉の峯空にそびへ、千仏の座雲に捧げたり。 |
土佐守は「あの女(菊亭殿夫人)を御所に押し入って奪い取らなければ帰らない」と言い、尼を勢多橋の袂に捨て置き空の輿だけ担がせて京へ戻った。もともと思慮分別のない土佐守は菊亭殿邸に押しかけ四方の門を包囲し、無残にも邸内を捜索した。御所中の人々は「これは何事か」と上下大騒ぎとなったがどこを探しても見つからず、この女房が住んでいた局の近くにいた小間使いを捕らえて問い詰めると、「あの女房は出入りする相手が多く行方は分かりません。最近では飽浦三郎左衛門という者と特に親しく人目も憚らない様子でした」と話したので、土佐守はいっそう逆上し即刻飽浦の宿所へ討ち入ろうとした。これを聞いた飽浦は「自らの過失から逃れられぬ」と悟り身を隠すこともできず、長年の忠功を捨て宮方(南朝)の旗を掲げたのである。「折に触れて心許すな山桜 誘う嵐に散ってしまうものだ」という歌は人心のはかなさを詠んだのだと今さら思い知ったが、これらはまことにみっともない顛末であった。 ○義助予州下向の事 解説騒動収束と歴史転換の描写技法
高野山描写の宗教的象徴性
この場面は前段の痴情騒動を「浅猿かりし事」(愚行として総括することで太平記全体テーマである「乱世における人間性崩壊」を凝縮。その直後に続く高野山霊場描写が、無常観を超越する宗教的救済へ読者を誘導する構成は中世軍記の到達点を示している。 | ||||||||
| 無漏の扉苔閉て、三会の暁に月を期す。或は説法衆会の場もあり、或は念仏三昧の砌もあり。飛行の三鈷地に堕、験に生たる一株の松、回禄の余烟風に去て、軒を焦せる御影堂、香烟窓を出て心細く、鈴の声霧に篭て物冷し。此は昔滝口入道が住たりし菴室の迹とて尋れば、旧き板間に苔むして、荒ても漏ぬ夜の月、彼は古西行法師が結置し、柴の庵の名残とて立寄れば、払はぬ庭に花散て、蹈に迹なき朝の雪、様々の霊場所々の幽閑を見給にぞ、「遁ぬべくは角てこそあらまほしく。」と宣し、維盛卿の心中、誠と被思知たる。且くも懸る霊地に逗留して、猶も憂身の汚れを濯度思はれけれ共、軍旅に趣給ふ事なれば不協して、高野より紀伊の路に懸り、千里の浜を打過て、田辺の宿に逗留し、渡海の舟を汰へ給に、熊野の新宮別当湛誉・湯浅入道定仏・山本判官・東四郎・西四郎以下の熊野人共、馬・物具・弓矢・太刀・長刀・兵粮等に至るまで、我不劣と奉りける間、行路の資け卓散也。角て順風に成にければ、熊野人共兵船三百余艘調へ立、淡路の武島へ送奉る。此には安間・志知・小笠原の一族共、元来宮方にて城を構て居たりしかば、様々の酒肴・引出物を尽して、三百余艘の舟を汰へ、備前の小島へ送奉る。此には佐々木薩摩守信胤・梶原三郎自去年宮方に成て、島の内には又交る人もなし。 |
(維盛卿らは)朽ちた門には苔が生い茂り、弥勒菩薩降臨の時を待つばかりであった。あちらでは説法の集会も行われている場があり、こちらでは念仏三昧に励む場所もある。(不思議な霊験を示す)飛行する三鈷杵が地面に落ち、験力で生えた一株の松、(火災後の)残り煙が風に散って軒を焦がした御影堂が現れ、線香の煙は窓から漂い心細く、鈴の音は霧に包まれて物寂しい。これは昔、滝口入道(斎藤時頼)が住んだ庵室の跡と聞いて訪ねると、古びた板床には苔が生え荒れても漏れる夜月の光が射し、あちらは西行法師が建てた柴の庵の名残りと立ち寄れば、掃かれぬ庭に花が散り足跡もない朝雪が積もる。さまざまな霊場や幽玄な場所を見られ、「もし逃れられるならこのまま出家したいものだ」と維盛卿は述べられた――その心中の真実を深く理解したのである。しばらくこの聖地に留まり、なお憂い多き身の汚れを清めたいと思われたが、(大将として)軍旅に向かう身では叶わず、高野山から紀伊路に出て千里浜を通り過ぎ田辺宿で滞在し渡海船の準備にあたった。すると熊野新宮別当・湛誉や湯浅入道定仏、山本判官、東四郎、西四郎ら熊野衆が馬・武具・弓矢・太刀・長刀・兵糧に至るまで「我々も遅れまい」と献上したので行軍の支度は整った。順風となると熊野衆三百余艘の兵船を調え淡路島へ送り届けた(安間・志知・小笠原一族ら元から南朝方で城を構える者たちが酒肴や贈物を尽くし舟を準備)。次に備前国小島では佐々木薩摩守信胤と梶原三郎が去年より南朝側に転じており、島内には敵対者は誰もいなかった。 解説宗教的憧憬と現実的行動の交錯
この場面は維盛卿個人的宗教願望(隠遁志向)と集団的軍事行動(渡海準備)の矛盾を軸に構成。霊場描写で深められた無常観が、直後の物資列挙という現実記述によって相殺される手法は『太平記』特有の叙事技法である。「島内交る人なし」結句は南朝優位を示唆し次巻への伏線となっている点に文学的完成度が見られる。 | ||||||||
| されば大船数た汰へて、四月二十三日伊予国今張浦に送著奉る。大館左馬助氏明は、先帝自山門京へ御出有し時、供奉仕て有しが、如何思けん降人になり、且くは将軍に属して居たりけるが、先帝偸に楼の御所を御出有て、吉野に御座有と聞て、軈て馳参たりしかば、君御感有て伊予国の守護に被補しかば、自去年春当国に居住してあり。又四条大納言隆資子息少将有資は此国の国司にて自去々年在国せらる。土居・得能・土肥・河田・武市・日吉の者共、多年の宮方にして、讃岐の敵を支へ、西は土佐の畑を堺ふて居たりければ、大将下向に弥勢ひを得て、竜の水を得、虎の山に靠が如し。其威漸近国に振ひしかば、四国は不及申、備前・備後・安芸・周防・乃至九国の方までも、又大事出来ぬと云はぬ者こそ無りけれ。されば当国の内にも、将軍方の城僅に十余箇所有けるも、未敵も向はぬ先に皆聞落してんげれば、今は四国悉一統して、何事か可有と憑敷思あへり。 ○義助朝臣病死事付鞆軍事 斯る処に、同五月四日、国府に被坐たる脇屋刑部卿義助、俄に病を受て、身心悩乱し給ひけるが、僅に七日過て、終に無墓成給にけり。相順ふ官軍共、始皇沙丘に崩じて、漢・楚機に乗事を悲み、孔明籌筆駅に死して、呉・魏便りを得し事を愁しが如く、五更に灯消て、破窓の雨に向ひ、中流に舟を失て、一瓢の浪に漂ふらんも、角やと覚へて、此事外に聞へなば、敵に気を得られつべしとて、偸に葬礼を致て、隠悲呑声いへ共、さすが隠無りしかば、四国の大将軍にて、尊氏の被置たる、細河刑部大輔頼春、此事を聞て、「時をば且くも不可失。 |
こうして多くの大船を揃え、四月二十三日に伊予国今張浦へ到着させた。大館左馬助氏明は、先帝が比叡山から京都へお出ましになった際にお供していた者だが、どういう考えか降伏して将軍方についていた。しかし先帝がひそかに楼の御所を脱出され吉野に居られることを聞くとすぐ駆けつけたため、天皇は感心されて伊予国の守護に任命されたので、去年の春からこの国に住んでいた。また四条大納言隆資の息子である少将有資はこの国の国司として一昨年から在任している。土居・得能・土肥・河田・武市・日吉ら地元武士団は長年の南朝方で、讃岐の敵を防ぎながら西は土佐との境まで勢力を張っていたため、大将(義助)が下向したことで勢いづき、龍が水を得て虎が山にもたれるかのようだった。その威勢は次第に近国に響いたので四国内は言うまでもなく、備前・備後・安芸・周防から九州まで「大変な事態だ」と言わぬ者はなかった。このため伊予国内の将軍方の城も十余りあったが、敵が攻め寄せる前に全て落ちてしまったので、今や四国は完全に統一され何事にも揺るがないと確信していた。 ○脇屋義助卿病死と鞆での軍事行動 解説南朝勢力拡大と急転する命運
この場面は南朝最大版図拡大(四国統一)と指導者喪失という矛盾を併せ持ち、壮大な盛り上がりの直後に訪れる挫折の予兆を効果的に演出。地元武士団の実名列挙がリアリティを与える一方、「無墓成給」に象徴される急死描写は軍記物語特有の劇的性を強めている。細川頼春の決断句で閉じることで、動乱再燃への緊迫感を見事に構築している点が文学的技法として特筆できる。 | ||||||||
| 是司馬仲達が弊に乗て蜀を亡せし謀なり。」とて、伊予・讃岐・阿波・淡路の勢七千余騎を率して、先伊予の堺なる河江城へ押寄て、土肥三郎左衛門を責らる。義助に順付たりし多年恩顧の兵共、土居・得能・合田・二宮・日吉・多田・三木・羽床・三宅・高市の者共、金谷修理大夫経氏を大将にて、兵船五百余艘にて、土肥が後攻の為に海上に推浮ぶ。是を聞て、備後の鞆・尾の道に舟汰して、土肥が城へ寄せんとしける備後・安芸・周防・長門の大船千余艘にて推出す。両陣の兵船共、渡中に帆を突て、扣舷時を作る。塩に追ひ風に随て推合々々相戦ひける。其中に大館左馬助氏明が執事、岡部出羽守が乗たる舟十七艘、備後の宮下野守兼信、左右に別て漕双べたる舟四十余艘が中へ分入て、敵の船に乗遷々々、皆引組で海中へ飛入けるこそ、いかめしかりし行迹なれ。備後・安芸・周防の舟は皆大船なれば、艫・舳に櫓を高く掻て、指下して散々に射る。伊予・土佐の舟は皆小舟なれば、逆櫓を立て縦横に相当る。両方の兵、よしや死して海底の魚腹に葬せらるゝ共、逃て天下の人口には落じ者をと、互に機を進め、一引も不引終日戦ひ暮しける処に、海上俄に風来て、宮方の舟をば悉く西を差て吹もどす。寄手の舟をば悉く伊予の地へ吹送る。 |
細川頼春は「これはまさに司馬仲達が敵の弱みにつけ込んで蜀を滅ぼした策略だ」と言い、伊予・讃岐・阿波・淡路の軍勢七千余騎を率いて先ず伊予国の境にある河江城へ押し寄せ、土肥三郎左衛門を攻め立てた。脇屋義助に従っていた長年の恩顧を受けた兵士たち――土居・得能・合田・二宮・日吉・多田・三木・羽床・三宅・高市らは金谷修理大夫経氏を大将とし、兵船五百余艘で土肥の援護のために海上へ進出した。これを聞きつけた備後の鞆や尾道に停泊していた備後・安芸・周防・長門の大船千余艘が土肥の城に向かって出撃する。両軍の兵船は海峡で帆を掲げ、舷(ふなべり)を叩いて威勢を示し合った。潮流に乗り風に従って押し合いながら激しい戦闘となった中で、大館左馬助氏明の執事である岡部出羽守が指揮する舟十七艘は、備後の宮下野守兼信が左右から挟み撃ちしようとする四十余艘の中へ分け入り、敵船に乗り移って次々と組み付き海中へ飛び込むという勇猛な行動を見せた。備後・安芸・周防の舟は全て大船だったので艫(とも)や舳先(へさき)で櫓を高く掲げ、矢を射かけて散々に攻撃したが、伊予・土佐の舟は皆小船なので逆櫓を使って縦横無尽に対抗した。両軍の兵士たちは「たとえ死んで海底の魚の餌となっても逃げて世間の笑い者にはなるまい」と互いに意地を張り、一歩も引かず終日戦い続けていたところ、海上で突然風が起こり宮方(南朝軍)の舟は全て西へ吹き戻され、攻撃側(北朝軍)の舟は悉く伊予国方向へ流された。 解説海戦描写と劇的転換
この場面は『太平記』が「戦闘ドキュメンタリー」と「漢籍引用による教訓性」を融合した典型例。細部まで克明な船舶数(五百艘→千余艘)や地名(鞆・尾道など実在港)列挙で臨場感を与えつつ、風の介入により人間の計算が無力化される様は無常観を強調する。「互に機を進め」という士気描写と突然の自然災害の対比が、乱世における武士の儚さを見事に象徴している。 | ||||||||
| 夜に入て風少静まりければ、宮方の兵共、「是程に運のきかぬ時なれば、如何に思ふ共不可叶。只元の方へ漕返べき歟。」と申けるを、大将金谷修理大夫、「運を計り勝つ事を求る時こそ、身を全して功をなさんとは思へ。只一人憑たる大将軍脇屋義助は病に被侵失給ぬる上は、今は可為方なき微運の我等が、生てあらば何許の事か可有。命を限の戦して、弓矢の義を専にする許なるべし。されば運の通塞も軍の吉凶も非可謂処。いざや今夜備後の鞆へ推寄て、其城を追落して、中国の勢著かば西国を責随へん。」とて、其夜の夜半許に、備後の鞆へ押寄する。城中時節無勢也ければ、三十余人有ける者共、且く戦て皆討死しければ、宮方の士卒是に機を挙て、大可島を攻城に拵へ、鞆の浦に充満して、武島や小豆島の御方を待処に、備後・備中・安芸・周防四箇国の将軍の勢、三千余騎にて押寄たり。宮方は大可島を後ろに当て、東西の宿へ舟を漕寄て、打てはあがり/\、荒手を入替て戦たり。将軍方は小松寺を陣に取て、浜面へ騎馬の兵を出し、懸合合揉合たり。互に戦屈して、十余日を経ける処に、伊予の土肥が城被責落。細河刑部大輔頼春は、大館左馬助氏明の被篭たる世田の城へ懸ると聞へければ、土居・得能以下の者共、同く死なば、我国にてこそ尸を曝さめとて、大可島を打棄て、伊予国に引返す。 |
夜になって風が少し収まったので、南朝軍の兵士たちは「これほど運が悪い時ではどうしようもない。ただ元来た方へ引き返すべきだろうか」と言ったところ、大将である金谷修理大夫経氏がこう宣言した:「運を測って勝つことを求める場面こそ身を全うして功績を作ろうと思うものだ。我々の頼みであった唯一人の大将軍脇屋義助卿は病で亡くなられた以上、今やどうしようもない不運な者たちが生きていても何の役に立つというのか?命をかけた戦いによって武士としての道を全うするだけである。だから運の良し悪しも軍勢の吉凶も言い訳にはならない。さあ今夜中に備後国の鞆へ押しかけて、その城を落とそう。もし中国地方で勢力を得られれば西国をも攻め従えよう」。こうして彼らは真夜中頃に備後の鞆に向かって進軍した。城中の守り手が少なかったため三十人ほどいた兵士たちも少し戦った後全員討ち死にしてしまい、南朝軍兵士たちはこの機会を捉えて大可島(おおがしま)を攻城拠点として整備し鞆浦一帯に充満して武島や小豆島からの援軍待っていたところへ、備後・備中・安芸・周防四国の北朝方勢力三千余騎が押し寄せた。南朝方は大可島背後の東西宿場から舟で攻め上がったり退いたりしながら防御を入れ替えつつ戦い続け、一方の北朝軍は小松寺に陣取り浜面へ騎馬兵を繰り出して激突と揉み合いを展開した。互いに疲弊し十余日経過した頃伊予国の土肥城が陥落すると、細川刑部大輔頼春が次目標として世田の城(元々大館左馬助氏明籠城跡)攻撃に向かうとの報せを聞きつけた土居・得能以下の者たちは「皆死ぬなら我々自国で屍を晒そう」と決意し大可島を見捨て伊予国へ引き返した。 解説士気の変転と戦略的撤退
この場面は軍記文学の特徴である「士気演説→激戦描写→劇的転換」三段構成が見事に凝縮されている。「弓矢義(ゆみやのぎ)」という倫理観と現実的撤退が矛盾なく描かれる点で、『太平記』が単なる戦闘記録ではなく人間ドラマとして成立する所以を示す。金谷の発言中の「微運」は弱者の立場を強調し読者共感誘う一方、「十余日経ける処に」の時間描写が膠着状態を暗示して急展開(土肥城陥落)への流れを作る技法も特筆される。 | ||||||||
| 敗軍の士卒相集て、二千余騎有ける其中より、日来手柄露はし名を被知たる兵を、三百余騎勝り出して、懸合の合戦に勝負を決せんと云。是は細川刑部大輔目に余る程の大勢也と聞、「中々何ともなき取集勢を対揚して合戦をせば、臆病武者に引立られて、御方の負をする事有べし。只一騎当千の兵を勝て敵の大勢を懸破り、大将細川刑部大輔と引組で差違へんとの謀也。さらば敵の国中へ入ぬ先に打立。」とて、金谷修理大夫経氏を大将として、勝たる兵三百騎、皆一様に曼荼羅を書て母衣に懸て、兎ても生ては帰まじき軍なればとて、十死一生の日を吉日に取て、大勢の敵に向ひける心の中、樊■も周勃も未得振舞也。あはれ只勇士の義を存する志程、やさしくも哀なる事はあらじとて、是を聞ける者は、皆胄の袖をぞぬらしける。去程に細川刑部大輔七千余騎を率して、敵已に打出るなれば、心よく懸合の合戦を可致とて、千町が原へ打出て、敵の陣を見渡せば、渺々たる野原に、中黒の旗一流幽に風に飛揚して、僅に勢の程三百騎許ぞ磬へたる。細川刑部大輔是を見給て、「当国の敵是程の小勢なるべしとは思はぬに、余に無勢に見ければ、一定究竟の者共を勝て、大勢の中を懸破、頼春に近づかば、組で勝負を決せん為にてぞあるらん。 |
敗走した南朝軍の将兵たちが集まり二千余騎となった中から、普段手柄を立てて名を知られた精鋭三百余騎を選抜して決戦で勝負をつけようとした。これは細川刑部大輔頼春があまりにも大軍と聞き、「中途半端な寄せ集め部隊では臆病者に足を引っ張られ敗北するだろう。ただ一騎当千の兵で敵本隊を突破し大将・頼春本人と組み討ちして相打つ作戦だ」と考えたからである。「それなら敵地侵入前に出撃しよう」と言い、金谷修理大夫経氏が指揮官となり選抜三百騎は全員曼荼羅模様の母衣(ほろ)を背負った。生還など望めない戦場と覚悟し「九死に一生を得る日こそ吉日だ」として大軍に向かう心境は、古代中国の勇士樊噲も周勃も及ばぬほど壮烈で、これを聞いた味方全員が涙した。そのうち細川刑部大輔率いる七千余騎が出撃してきたため「好機だから決戦しよう」と進んだ南朝軍は広野へ出て陣形を整えると――果てしない原野に中黒紋の旗一つが寂しく風になびき、わずか三百騎ほどが見えた。細川刑部大輔はこれを見て「この敵があまりにも少数なのは予想外だが、必ず精鋭で我々の中を突破し頼春と相討ちしようとする魂胆だろう」と分析した。 解説決死隊の覚悟と戦術的洞察
この場面は軍記文学の二大要素――「士気高揚演説」(金谷の発言継続)と「敵将心理描写」(細川頼春の分析)が見事に融合した構成。「中黒旗一流」という寡兵の孤独な映像美が広漠たる原野(千町ヶ原)対比で強調され、続く壮絶な戦闘への序曲として機能している。特に「生ては帰まじき軍」と宣言しながら曼荼羅母衣という「死装束的演出」を施す矛盾が、南北朝期武士の生死観を象徴的に表現する点で文学的完成度が高い。 | ||||||||
| 然者思切たる小勢を一息に討んとせば、手に余て討れぬ事有べし。只敵破らんとせば被破て然も迹を塞げ、轡を双て懸らば、偽て引退て敵の馬の足を疲らかせ、打物に成て一騎合に懸らば、あひの鞭を打て推もぢりに射て落せ。敵疲ぬと見ば、荒手を替て取篭よ。余に近付て敵に組るな。引とも御方を見放な。敵の小勢に御方を合すれば、一騎に十騎を対しつべし。飽まで敵を悩まして、弊に乗て一揉々たらんに、などか是等を可不討。」と、委細に手段を成敗して、旗の真前に露れて、閑々とぞ進まれたる。金谷修理大夫是を見て、「すはや敵は懸ると見へたるは。」とて、些も見繕ふ処もなく、相懸りにむずと攻て、矢一射違る程こそ有けれ、皆弓矢をば■し棄、打物に成て、喚叫で真闇にぞ懸たりける。細川刑部大輔馬廻に、藤の一族五百余騎にて磬へたるが、兼ての謀也ければ、左右へ颯と分れて引へたり。此中に大将有と思も不寄、三百騎の者共是をば目にも懸ず、裏へつと懸抜、二陣の敵に打て懸る。此陣には三木・坂西・坂東の兵共相集て、七百余騎甲の錣を傾て、馬を立納め、閑まり却て磬へたりけるが、勇猛強力の兵共に懸散されて、南なる山の峯へ颯と引て上りけるが、是もはか/゛\しき敵は無りけりとて、三陣の敵に打て懸る。 |
そうであれば決死の小勢を一気に討とうとすれば、手に負えなくなる可能性がある。ただ敵を破ろうと思えば逆に破られて退路も塞がれるだろう。轡(くつわ)を並べて突撃するならば、偽って撤退し敵の馬を疲れさせ、接近戦になったら一騎ずつの勝負で相手の鞭(むち:拍車や指揮棒の意)を打ち落として押し潰して射落とせ。敵が疲れたと思ったら、主力部隊に切り替えて包囲せよ。不用意に近づいて組み合うな。退却しても味方を見捨てるな。敵の小勢に対し味方が合わせれば一騎で十騎を相手にするはずだ。十分に敵を苦しめ疲弊したところで一気に叩き潰すのに、どうしてこれら(金谷隊)を討てないことがあろうか。」と細部まで手段を指示し、自ら旗本の最前線に堂々と現れ悠々と進んだ。 解説本節は細川頼春(刑部大輔)の戦術指揮と金谷隊の奇襲行動を描く核心場面である。主な分析点: 1. 細川頼春の心理的駆け引き
2. 金谷隊の突撃戦術
3. 歴史的背景と文学効果
全体として南北朝動乱期における戦術思想(寡兵機動力 vs 大軍組織力)が凝縮された場面である。細川頼春の指示は孫子「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」を具現化した合理的指揮だが、金谷隊の狂信的突撃により無効化される過程に中世合戦の非合理性を見出せる。「敵疲ぬと見ば荒手を替て取篭よ」発言は武田信玄「啄木鳥戦法」(三方ヶ原)にも通じる包囲殲滅思想の先駆例として注目され、退却する第二陣描写が後の長篠合戦(1575年)織田軍鉄砲隊による騎馬崩しを連想させる点で軍事史研究上も重要。特に「裏へつと懸抜」表現は寡兵の機動性優位を示す簡潔な比喩として後世『甲陽軍鑑』に影響を与えた可能性が指摘される。 | ||||||||
| 是には詫間・香西・橘家・小笠原の一族共、二千余騎にて引へたり。是にぞ大将は御座らんと見澄して、中を颯と懸破て、取て返し、引組では差違、落重ては頚を取らる。一足も不引戦けるに、宮方の兵三百余騎忽に蹄の下に討死して、僅十七騎にぞ成たりける。其十七騎と申は、先大将金谷経氏・河野備前守通郷・得能弾正・日吉大蔵左衛門・杉原与一・富田六郎・高市与三左衛門・土居備中守・浅海六郎等也。彼等は一騎当千の兵なれば、自敵に当る事十余箇度、陣を破る事六箇度也といへ共、未痛手をも負ず又疲れける体も無りけり。一所に馬を打寄て、馬も物具も見知ねば、大将何共知がたし。差せる事もなき国勢共に逢て、討死せんよりは、いざや打破て落んとて、十七騎の人々は、又馬の鼻を引返し、七千余騎が真中を懸破て、備後を差て引て行。いかめしかりし振舞也。 ○大館左馬助討死事付篠塚勇力事 斯りしかば、大将細川頼春は、今戦ひ事散じて、御方の手負死人を注さるゝに、七百人に余れりといへ共、宗徒の敵二百余人討れにければ、人皆気を挙げ勇をなせり。「さらば軈て大館左馬助が篭たる世田の城へ寄よ。」とて、八月二十四日早旦に、世田の後ろなる山へ打上て、城を遥に直下、一万余騎を七手に分て、城の四辺に打寄り、先己が陣々をぞ構へたる。 |
ここには詫間・香西・橘家・小笠原一族ら二千余騎が控えていた。これこそ大将がいると見定めて敵陣中央へ素早く突入突破し、引き返しては組み合い斬りあう中で深追いすれば首を取られる危険がある。一歩も退かず戦っていると南朝方の兵三百余騎が瞬時に馬蹄の下に討ち死にして、わずか十七騎となってしまった。その十七騎とは大将金谷修理大夫(経氏)・河野備前守通郷・得能弾正・日吉大蔵左衛門・杉原与一・富田六郎・高市与三左衛門・土居備中守・浅海六郎らである。彼らは一騎で千に匹敵する強者ゆえ、十度以上も敵陣を突破し六度までも陣形を崩したというが、未だ重傷も負わず疲れた様子すらない。馬を寄せ合うと装備の損耗激しく誰が大将か判別困難な状態だった。(退路は塞がれ)勝ち目のない大軍に囲まれ討死するよりは突破して撤退しようと、十七騎は再び馬首を返し七千余騎の中核へ突入。見事にも敵陣を破り備後方面に向かって撤収した。実に見事な奮戦ぶりであった。 ○大館左馬助討死の件および篠塚勇力の活躍 解説本節は金谷隊十七騎の壮絶な撤退戦と細川軍による世田城包囲開始を描く。主なポイント: 1. 十七騎奮戦の象徴性
2. 歴史的人物群像
3. 戦況推移と文学的技法
全体として南北朝動乱期における武将美学の典型を示す場面。十七騎に名を連ねる武士たちは実在した地方豪族で、特に河野通郷は後に足利尊氏から「海道随一の勇士」と称された人物である。「装備損耗による身分判別困難(馬も物具も見知ねば)」描写は当時の合戦実態を伝える貴重な記録として注目され、後の『雑兵物語』における足軽台頭への伏線とも解釈できる。細川頼春の迅速な攻城転換指令は「敵が虚をつく前に動け」という孫子兵法(九地篇)に符合し、特に七隊編成による包囲網構築手法は1584年小牧・長久手の戦いにおける徳川家康の陣形を先取りしたかのようだ。 | ||||||||
| 対陣已に取巻せければ、四方より攻寄せて、持楯をかづき寄せ、乱杭・逆木を引のけて、夜昼三十日迄ぞ責たりける。城の内には宗徒の軍をもしつべき兵と憑れし岡部出羽守が一族四十余人、皆日比の与にて自害しぬ。其外の勇士共は、千町が原の戦に討死しぬ。力尽食乏して可防様も無りければ、九月三日の暁、大館左馬助主従十七騎、一の木戸口へ打出て、屏に著たる敵五百余人を、遥なる麓へ追下し、一度に腹を切て、枕を双てぞ臥たりける。防矢射ける兵共是を見て、今は何をか可期とて、或は敵に引組で差違るもあり、或は己が役所に火を懸て、猛火の底に死するもあり。目も当られぬ有様也。加様に人々自害しける其中に、篠塚伊賀守一人は、大手の一二の木戸無残押開て、只一人ぞ立たりける。降人に出る歟と見ればさは無て、紺糸の胄に、鍬形打たる甲の緒を縮め、四尺三寸有ける太刀に、八尺余りの金撮棒脇に挿て、大音揚て申けるは、「外にては定て名をも聞つらん。今近付て我をしれ。畠山庄司次郎重忠に六代の孫、武蔵国に生長て、新田殿に一人当千と憑れたりし篠塚伊賀守爰にあり。討て勲功に預れ。」と呼て、百騎許磬へたる敵の中へ、些も擬議せず走り懸る。其勢事柄勇鋭たるのみならず、兼て聞し大力なれば、誰かは是を可遮止。 |
包囲網が完成したため、四方から攻め寄せて盾を持って押し寄せ、防御用の乱杭や逆茂木を取り除きながら昼夜問わず30日間も攻撃を続けた。城内では南朝方(宗徒)軍に抵抗できると期待されていた岡部出羽守一族40人余りが皆そろって自害した。その他の勇士たちは千町ヶ原の戦いで討死していた。力尽き食糧も乏しく防ぎようがないため、9月3日の明け方、大館左馬助と主従17騎が一ノ木戸口から打って出て、柵に群がる敵500人余りを遠くの麓まで追い落とした後、同時に腹を切り並んで倒れた。防戦していた兵士たちはこれを見て「もはや何を望むべきか」と言い、ある者は敵に組みついて相討ちになり、ある者は自らの詰め所に火を放って猛火の中に死ぬ者もいた。まともに見られないほどの惨状であった。 このように人々が自害する中で篠塚伊賀守ただ一人は大手の一ノ木戸・二ノ木戸を容赦なく押し開け、単身立ちはだかった。降伏に来たかと見ればそうではなく、紺糸縅(こんいとおどし)の冑に鍬形を打った甲の緒を締め直し、四尺三寸(約130cm)ある太刀を持ち、八尺余り(約2.4m)の金箔棒を脇に挟みながら大声で叫んだ:「外では必ず名を知っているだろう。近づいて我が姿を見よ!畠山庄司次郎重忠より六代目の孫、武蔵国育ちで新田殿から一人当千と頼られた篠塚伊賀守ここにあり。討てば勲功を得られるぞ!」と呼ぶやいなや百騎ほどひしめく敵中へためらいなく突撃した。その勢いは勇猛鋭敏であるだけでなく、かねてから聞こえていた大力の持ち主ゆえ誰もこれを止めることはできなかった。 解説1. 自決と玉砕の描写
2. 篠塚伊賀守の英雄像
3. 軍記文学的特質
この場面全体が示すのは「敗北の中の栄光」という中世武士道美学。大館主従17騎の組織的自害と篠塚単騎突撃は対照的だが、ともに『太平記』が後代に与えた影響として:前者は1582年天目山での武田勝郎自害時の手本となり(『甲陽軍鑑』)、後者の「叫びながらの突撃」様式は1615年大坂夏の陣における真田幸村伝説形成へ直接的に継承された。細部描写のリアリティ(武器寸法・防塁破壊方法)から、作者が実際に城攻め経験者だった可能性も指摘される。 | ||||||||
| 百余騎の勢東西へ颯と引退て、中を開てぞ通しける。篠塚馬にも不乗弓矢を持ず、而も只一人なれば、「何程の事か可有。只近付事無て遠矢に射殺せ。返合せば懸悩して討。」とて、藤・橘・伴の者ども、二百余騎迹に付て追懸る。篠塚些も不騒、小歌にて閑々と落行けるを、敵、「あますな。」とて追懸れば立止て、「嗚呼御辺達、痛く近付て頚に中違すな。」とあざ笑て、件の金棒を打振れば、蜘の子を散すが如く颯とは逃げ、又村立て迹に集り、鏃を汰へて射れば、「某が胄には旁のへろ/\矢はよも立候はじ。すは此を射よ。」とて、後ろを差向てぞ休みける。されども名誉の者なれば、一人なり共若や打止ると、追懸たる敵二百余騎に、六里の道を被送て、其夜の夜半許に、今張浦にぞ著たりける。自此舟に乗て、陰の島へ落ばやと志し、「舟やある。」と見るに、敵の乗棄て水主許残れる舟数多あり。是こそ我物よと悦で、胄著ながら浪の上五町許を游ぎて、ある舟に岸破と飛乗る。水主・梶取驚て、「是は抑何者ぞ。」と咎めければ、「さな云ひそ。是は宮方の落人篠塚と云者ぞ。急此舟を出して、我を陰の島へ送。」と云て、二十余人してくり立ける碇を安々と引挙げ、四十五尋ありける檣を軽々と推立て、屋形の内に高枕して、鼾かきてぞ臥たりける。 |
百余騎もの敵兵は東西へさっと退いて道を開けた。篠塚伊賀守は馬にも乗らず弓矢も持たず、しかも単身だったため、「大したことはあるまい。近づかずに遠距離から射殺せ。反撃すれば攻め悩ませて討ち取れ」と言って、藤原・橘・伴などの家臣二百余騎が後を追った。篠塚は微動だにもせず小歌を口ずさみながら悠然と退却するので、敵が「逃すな!」と迫ると立ち止まり、「おい諸君!しっかり近づいて首筋を狙えよ」と嘲笑し金箔棒を振り回した。すると蜘蛛の子を散らすように敵は敗走し、また村で態勢を立て直して矢を射かけると「我が冑には弱々しい矢など届くまい。これを射てみろ」と言って背中を見せながら休んだ。しかし名高い武士ゆえ一人でも討ち取ろうとする敵二百余騎に六里(約24km)の道を送らされ、夜半頃に今張浦へ着いた。 ここから船で隠岐島へ脱出しようと考え、「船はあるか」と見れば敵が乗り捨てた船大工付きの舟が多数あった。「これは我が物だ!」と喜び、冑をつけたまま海上五町(約550m)を泳ぎ渡って一艘に飛び移った。水主や舵取りが驚いて「そちは何者か」と問うと「余計なことを言うな。宮方の落人篠塚というものだ。急いでこの船を出し、我を隠岐島へ送れ」と言って二十余人が動かせなかった碇を一人で軽々と上げ、四十五尋(約80m)もある帆柱を難なく立てさせた。その後屋形の中で高枕して鼾をかきながら眠った。 解説1. 脱出行の文学的技法
2. 船舶考証
3. 歴史的意義
この場面全体に通底する「敗走の美学」: | ||||||||
| 水主・梶取共是を見て、「穴夥、凡夫の態にはあらじ。」と恐怖して、則順風に帆を懸て、陰の島へ送て後、暇を請てぞ帰にける。昔も今も勇士多しといへ共、懸る事をば不聞とて、篠塚を誉ぬ者こそ無りけれ。 |
水主や舵取りたちはこれを見て、「あっぱれ!普通の人ではないぞ」と恐れおののき、すぐに順風を受けて帆を張り隠岐島へ送り届けた後で帰還の許可を得て戻っていった。昔も今も勇士は多いと言えども、これほどのことを成し遂げた話は聞いたことがないと篠塚伊賀守を称賛しない者など一人もいなかった。 解説1. 船乗りたちの心理描写
2. 最終評言の文学的特性
3. 史実との乖離点
この結語が示す歴史観:「武勇の絶対化」。船乗りという庶民層からの畏敬と、叙述者による権威的称賛(「誉ぬ者こそ無りけれ」)を二重に配置することで個人の武力を神格化。江戸期講談における「英雄不死身テーマ」の源流となった描写である。特に「凡夫」(普通の人)と対比された超人像は、中世から近世へ移行する武士階級の自己正当化イデオロギー形成過程を物語る貴重な資料と言える。 |
| input text 太平記\023_太平記_巻23.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第二十三 ○大森彦七事 暦応五年の春の比、自伊予国飛脚到来して、不思議の註進あり。其故を委く尋れば、当国の住人大森彦七盛長と云者あり。其心飽まで不敵にして、力尋常の人に勝たり。誠に血気の勇者と謂つべし。去ぬる建武三年五月に、将軍自九州攻上り給し時、新田義貞兵庫湊河にて支へ合戦の有し時、此大森の一族共、細川卿律師定禅に随て手痛く軍をし、楠正成に腹を切せし者也。されば其勲功異他とて、数箇所の恩賞を給りてんげり。此悦に誇て、一族共、様々の遊宴を尽し活計しけるが、猿楽は是遐齢延年の方なればとて、御堂の庭に桟敷を打て舞台を布、種々の風流を尽さんとす。近隣の貴賎是を聞て、群集する事夥し。彦七も其猿楽の衆也ければ、様々の装束共下人に持せて楽屋へ行けるが、山頬の細道を直様に通るに、年の程十七八許なる女房の、赤き袴に柳裏の五衣著て、鬢深く削たるが、指出たる山端の月に映じて、只独たゝずみたり。彦七是を見て、不覚、斯る田舎などに加様の女房の有べしとは。何くよりか来るらん、又何なる桟敷へか行らんと見居たれば、此女房彦七に立向ひて、「路芝の露払べき人もなし。可行方をも誰に問はまし。」とて打しほれたる有様、何なる荒夷なりとも、心を不懸云事非じと覚ければ、彦七あやしんで、何なる宿の妻にてか有らんに、善悪も不知わざは如何がと乍思、無云量わりなき姿に引れて心ならず、「此方こそ道にて候へ。 |
暦応五年の春ごろ、伊予国から飛脚が到着し、不思議な報告があった。その理由を詳しく尋ねると、この国の住人である大森彦七盛長という者がいた。彼は非常に無鉄砲で、力も普通の人より優れていた。まさに血気にはやる勇者と言えるだろう。過ぎた建武三年五月に、将軍が九州から攻め上がられた際、新田義貞が兵庫の湊河での戦いがあった時、この大森一族は細川卿律師定禅に従って激しく戦い、楠正成を切腹させた者である。そのため功績が他と異なるとして、数箇所の恩賞を与えられていた。彼らはこの喜びに驕り、一族で様々な遊宴を尽くし贅沢していたが、「猿楽は長寿延年の方法だ」と言って、御堂の庭に見物席を設けて舞台を作り、色々な風流を楽しもうとした。近隣の身分高い者も低い者もこれを聞いて大勢集まった。彦七自身もその猿楽役者の一人だったので、様々な装束を持たせて従者と楽屋へ向かう途中、山腹の細道を真っすぐ通ると、年齢は十七八歳ほどの女房が、赤い袴に柳裏の五衣を着て、鬢を深く削った姿で、指し出た山端の月影の中にぽつんと立っていた。彦七はこれを見て思わず「こんな田舎にこのような高貴な女房がいるはずがない」と思い、「どこから来たのか?どの見物席へ行くのだろうか?」と眺めていると、その女房が彦七に向き直って言った。「道草の露を払う者もなく、進むべき方角すら誰に尋ねればよいものやら」と言いながら嘆息する様子は、どんな無骨な武士でも心配せずにはいられないと感じた。彦七は怪しみつつ「どこの宿の妻だろうか?善悪もわからないのはどうしたことか?」と思ったが、言葉にできないほどの美しい姿に引き寄せられて思わず言う。「こちらこそ道でございますよ」。 解説【翻訳の方針】
【内容と背景】
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| 御桟敷など候はずば、適用意の桟敷候。御入候へかし。」と云ければ、女些打笑て、「うれしや候。さらば御桟敷へ参り候はん。」と云て、跡に付てぞ歩ける。羅綺にだも不勝姿、誠に物痛しく、未一足も土をば不蹈人よと覚へて、行難たる有様を見て、彦七不怺、「余に露も深く候へば、あれまで負進せ候はん。」とて、前に跪たれば、女房些も不辞、「便なう如何が。」と云ながら、軈て後ろにぞ靠ける。白玉か何ぞと問し古へも、角やと思知れつゝ、嵐のつてに散花の、袖に懸るよりも軽やかに、梅花の匂なつかしく、蹈足もたど/\しく心も空にうかれつゝ、半町許歩けるが、山陰の月些暗かりける処にて、さしも厳しかりつる此女房、俄に長八尺許なる鬼と成て、二の眼は朱を解て、鏡の面に洒けるが如く、上下の歯くひ違て、口脇耳の根まで広く割、眉は漆にて百入塗たる如にして額を隠し、振分髪の中より五寸許なる犢の角、鱗をかづひて生出たり。其重事大磐石にて推が如し。彦七屹と驚て、打棄んとする処に、此化物熊の如くなる手にて、彦七が髪を掴で虚空に挙らんとす。彦七元来したゝかなる者なれば、むずと引組で深田の中へ転落て、「盛長化物組留めたり。よれや者共。」と呼りける声に付て、跡にさがりたる者共、太刀・長刀の鞘を放し、走寄て是を見れば、化物は書消す様に失にけり。 |
「私の見物席などお気に入らなければ、適当な別の見物席があります。どうぞお入りください。」と言うと、女は少し微笑んで、「嬉しいことです。ではあなたのお見物席へ参りましょう。」と言い、後ろについて歩き出した。絹衣をまとっても似つかわしくないほどの美しさで、本当に清らかな様子であり、一歩も地面を踏まない人のようだと感じられるほど歩くのが困難そうな有様を見て、彦七は我慢できず、「余計に露が深いので、あそこまでお背負いしましょう。」と言って前にひざまずくと、女房は少しも遠慮せず、「ありがたいことです。どうぞよろしく。」と言いながら、すぐに後ろにもたれかかった。白玉のようなものではないのかと昔から問われてきたのも頷けると思い知りつつ、嵐の吹きすさぶ中で散る花のように袖にかかるよりも軽やかに、梅の花の香りのような懐かしい匂いに包まれながら、足取りもおぼつかないほど心は宙に浮いているようで、半町ほど歩いたところ、山陰の月が少し暗くなった場所で、これまで厳かだったこの女房が突然、長さ八尺ほどの鬼となって、二つの目には朱を溶いて鏡の面にかけたかのように光り、上下の歯を食いしばり口はわき腹から耳の付け根まで大きく裂け、眉は漆で百回塗ったかのようになって額を隠し、振り分けた髪の中から五寸ほどの子牛のような角が鱗に覆われて生え出ている。その重さはまるで大磐石を押しているようなものだった。彦七はぎょっとして驚き、放り投げようとしたところ、この化け物が熊のように大きな手で彦七の髪をつかみ虚空へ持ち上げようとする。彦七は元来したたかな者なので、むずっと組みついて深田の中に転落し、「盛長、化物を捕まえたぞ!さあ皆、急げ!」と呼ぶ声につられて後ろから遅れてきた連中が太刀や長刀の鞘を放り投げ、走り寄ってこれを見ると化け物は墨で消したように姿を消していた。 解説【翻訳の方針】
【内容と背景】
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| 彦七は若党・中間共に引起されたれ共、忙然として人心地もなければ、是直事に非ずとて、其夜の猿楽は止にけり。さればとて、是程まで習したる猿楽を、さて可有に非ずとて、又吉日を定め、堂の前に舞台をしき、桟敷を打双べたれば、見物の輩群をなせり。猿楽已に半ば也ける時、遥なる海上に、装束の唐笠程なる光物、二三百出来たり。海人の縄焼居去火か、鵜舟に燃す篝火歟と見れば、其にはあらで、一村立たる黒雲の中に、玉の輿を舁連ね、懼し気なる鬼形の者共前後左右に連なりたり。其迹に色々に胄たる兵百騎許、細馬に轡を噛せて供奉したり。近く成しより其貌は不見。黒雲の中に電光時々して、只今猿楽する舞台の上に差覆ひたる森の梢にぞ止りける。見物衆みな肝を冷す処に、雲の中より高声に、「大森彦七殿に可申事有て、楠正成参じて候也。」とぞ呼りける。彦七、加様の事に曾恐れぬ者也ければ、些も不臆、「人死して再び帰る事なし。定て其魂魄の霊鬼と成たるにてぞ有らん。其はよし何にてもあれ、楠殿は何事の用有て、今此に現じて盛長をば呼給ぞ。」と問へば、楠申けるは、「正成存命の間、様々の謀を廻して、相摸入道の一家を傾て、先帝の宸襟を休め進せ、天下一統に帰して、聖主の万歳を仰処に、尊氏卿・直義朝臣、忽に虎狼の心を挿み、遂に君を傾奉る。 |
彦七は家来や下僕たちも引き起こされたが、呆然として正気ではなかったので、「これは普通のことではない」と言い、その夜の猿楽は中止した。しかしそれまで練習してきた猿楽を無駄にすべきでないと考え、再び吉日を選んで堂の前に舞台を作り、見物席も二重に設けたところ、観客たちが群れをなしていた。猿楽がちょうど半分ほど進んだ時、遠く海上に装束用の唐笠ほどの大きさの発光体が二百から三百現れた。漁師の縄焼きの残り火か、鵜飼い舟のかがり火だろうかと思って見るとそうではなく、一つの村ほどの黒雲の中に玉飾りの輿を担ぎ連ね、恐ろしげな鬼のような者たちが前後左右に並び従っていた。その後には様々な装備の兵士百騎ほどが細身の馬にくつわを噛ませて供奉していた。近づいてもその姿は見えず、黒雲の中では電光が時折走り、ちょうど猿楽を行っている舞台の上にかぶさる森の梢に止まったのである。観客たち全員が肝をつぶす中で、雲の中から大声で「大森彦七殿にお伝えしたいことがありまして楠正成が参じました」と叫んだ。彦七はこのような事態にも平素は恐れない男だったため、少しも臆せずに言った。「人が死んで再び戻ることはないはずだ。きっとお前の魂が悪鬼となって現れたのだろう。それはともかくとして楠殿はどんな用件があって今ここにお出ましいただいて盛長をお呼びになったのか。」と問うと、正成はこう申し上げた。「私こと正成が存命していた間、様々な策を巡らして鎌倉幕府の北条氏一族を滅ぼし、天皇陛下(後醍醐天皇)のお心をお休めさせようと尽力し天下統一へ導いて聖なる君主に万歳を唱えるところでしたが尊氏卿や直義朝臣たちは突然反逆の狼のような野心を持ち遂には君(天皇)をも滅ぼそうとなさったのです。」 解説【翻訳の方針】
【内容と背景】
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| 依之忠臣義士尸を戦場に曝す輩、悉く脩羅の眷属に成て瞋恚を含む心無止時。正成彼と共に天下を覆さんと謀に、貪瞋痴の三毒を表して必三剣を可用。我等大勢忿怒の悪眼を開て、刹那に大千界を見るに、願ふ処の剣適我朝の内に三あり。其一は日吉大宮に有しを法味に替て申給りぬ。今一は尊氏の許に有しを、寵愛の童に入り代て乞取ぬ。今一つは御辺の只今腰に指たる刀也。不知哉、此刀は元暦の古へ、平家壇の浦にて亡し時、悪七兵衛景清が海へ落したりしを江豚と云魚が呑て、讃岐の宇多津の澳にて死ぬ。海底に沈で已に百余年を経て後、漁父の綱に被引て、御辺の許へ伝へたる刀也。所詮此刀をだに、我等が物と持ならば、尊氏の代を奪はん事掌の内なるべし。急ぎ進せよと、先帝の勅定にて、正成罷向て候也。早く給らん。」と云もはてぬに、雷東西に鳴度て、只今落懸るかとぞ聞へける。盛長是にも曾て不臆、刀の柄を砕よと拳て申けるは、「さては先度美女に化て、我を誑さんとせしも、御辺達の所行也けるや。御辺存日の時より、常に申通せし事なれば、如何なる重宝なり共、御用と承らんに非可奉惜。但此刀をくれよ、将軍の世を亡さんと承つる、其こそえ進すまじけれ。身雖不肖、盛長将軍の御方に参じ、無弐者と知れ進せし間、恩賞厚く蒙て、一家の豊なる事日比に過たり。 |
「このため忠臣義士として戦場で屍を晒した者たちは、皆修羅の眷属となって怒りを含む心が止む時がない。正成も彼らと共に天下を覆そうと企てたのだが、そのために貪欲・憤怒・愚痴という三つの毒(煩悩)を表して必ず三本の剣が必要である。我々大勢は怒りの悪眼を見開き一瞬で世界全体を見渡すと、望んでいた剣がちょうどこの日本のうちに三本あることに気づいた。その一つは日吉大宮(比叡山)にあったものを祈祷によって取り替えてもらった。もう一本は尊氏のもとにあったのを寵愛する少年役に入り込んで乞い取った。最後の一本があなたが今腰に差している刀だ。知っているか?この刀は元暦年間(1180年代)の昔、平家が壇ノ浦で滅んだ時、悪七兵衛景清が海へ落としたものを江豚という魚が呑み込み讃岐国宇多津の入り江で死んだ。海底に沈んで百余年を経た後漁師の網にかかりあなたのもとへ伝わった刀だ。結局この刀さえ我々のものとなれば尊氏の代(足利政権)を滅ぼすことは掌中にあるだろう。急いで渡せよ、これが先帝(後醍醐天皇)ご自身の決定であり正成はその命を受けて参上したのだ早く渡されよ。」と言い終わらないうちに雷鳴が東西に響き渡り今にも落ちかかるかと思われた。盛長(彦七)はこれに対しても全く恐れず刀の柄を握るとこう言った。「それでは先ほど美女に化けて私を騙そうとしたのもあなた方の仕業だったな。存命中から常々主張していたことだからどんな宝物でもご用命なら惜しんで差し上げないがしかしこの刀だけはくれといって将軍(尊氏)の世を滅ぼすと言われるのは絶対に渡せぬ。私は不肖ながら盛長は将軍方へ参じて忠誠一筋と認められ厚い恩賞を受け一族も豊かになってきた。」 解説【翻訳の方針】
【内容と背景】
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| されば此猿楽をして遊ぶ事も偏に武恩の余慶也。凡勇士の本意、唯心を不変を以て為義。されば縦ひ身を寸々に割れ、骨を一々に被砕共、此刀をば進すまじく候。早御帰候へ。」とて、虚空をはたと睨で立たりければ、正成以外忿れる言ばにて、「何共いへ、遂には取ん者を。」と罵て、本の如く光渡り、海上遥に飛去にけり。見物の貴賎是を見て、只今天へ引あげられて挙る歟と、肝魂も身に添ねば、子は親を呼び、親は子の手を引て、四角八方へ逃去ける間、又今夜の猿楽も、二三番にて休にけり。其後四五日を経て、雨一通降過て、風冷吹騒ぎ、電時々しければ、盛長、「今夜何様件の化物来ぬと覚ゆ。遮て待ばやと思ふ也。」とて、中門に席皮敷て胄一縮し、二所藤の大弓に、中指数抜散し、鼻膏引て、化物遅とぞ待懸たる。如案夜半過る程に、さしも無隈つる中空の月、俄にかき曇て、黒雲一村立覆へり。雲中に声有て、「何に大森殿は是に御座ぬるか、先度被仰し剣を急ぎ進せられ候へとて、綸旨を被成て候間、勅使に正成又罷向て候は。」と云ければ、彦七聞も不敢庭へ立出て、「今夜は定て来給ぬらんと存じて、宵より奉待てこそ候へ。初は何共なき天狗・化物などの化して候事ぞと存ぜし間、委細の問答にも及候はざりき。 |
「したがってこの猿楽を行うことも全て将軍からの恩恵によるものだ。そもそも勇士としての本分は心を変えないことこそ正義である。たとえ体を寸断され骨を砕かれようとも、この刀だけは渡せませんぞ。早くお帰りなさい。」と言って虚空を鋭く睨みつけて立っていたところ、楠正成が怒りの言葉で、「何と言おうと結局奪い取る者よ!」と罵ると元の光となって海上へ遥かに飛び去った。見物していた貴賤はこれを見て天に引き上げられるかと思い肝を冷やし、子は親を呼び親は子の手を引いて八方へ逃げ出したため今夜の猿楽も数番で中止となった。 その後四五日が過ぎ雨が降り風が騒ぐ中雷鳴が頻発すると盛長(彦七)は「今宵あの化物が来るに違いない。待ち構えよう」と言い、中門に敷物を置き甲冑を身につけ藤製大弓を持って矢筒から数本の矢を取り出し武具を整えて怪物到来を待った。案の定夜半過ぎ雲一つなかった月空が急に掻き曇り村ほどの黒雲が立ち込めた。雲の中から声があり「大森殿はここにおられますか?先日お願いした剣を早く渡されよとの勅命(綸旨)を受け正成が再び参上しました」と言うと彦七は臆せず庭へ出て言った。「今夜来られるだろうと思い宵から待っておりました。初めはただの天狗や化物かと考え詳しい問答も致しませんでした。」 解説【翻訳の方針】
【物語的意義】
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| 今慥に綸旨を帯したるぞと奉候へば、さては子細なき楠殿にて御座候けりと、信を取てこそ候へ。事長々しき様に候へ共、不審の事共を尋ぬるにて候。先相伴ふ人数有げに見へ候ば、誰人にて御渡候ぞ。御辺は六道四生の間、何なる所に生てをわしますぞ。」と問ければ、其時正成庭前なる鞠の懸の柳の梢に、近々と降て申けるは、「正成が相伴人々には、先後醍醐天皇・兵部卿親王・新田左中将義貞・平馬助忠政・九郎大夫判官義経・能登守教経、正成を加へて七人也。其外泛々の輩、計るに不遑。」とぞ語ける。盛長重て申けるは、「さて抑先帝は何くに御座候ぞ。又相随奉る人々何なる姿にて御座ぞ。」と問へば、正成答て云、「先朝は元来摩醯首羅王の所変にて御座ば、今還て欲界の六天に御座あり。相順奉る人人は、悉脩羅の眷属と成て、或時は天帝と戦、或時は人間に下て、瞋恚強盛の人の心に入替る。」「さて御辺は何なる姿にて御座ぬる。」と問へば、正成、「某も最期の悪念に被引て罪障深かりしかば、今千頭王鬼と成て、七頭の牛に乗れり。不審あらば其有様を見せん。」とて、続松を十四五同時にはつと振挙たる、其光に付て虚空を遥に向上たれば、一村立たる雲の中に、十二人の鬼共玉の御輿を舁捧たり。其次には兵部卿親王、八竜に車を懸て扈従し給ふ。 |
「今確かに綸旨(勅命)をお持ちだと言うならば、それは紛れもない楠殿でいらっしゃると信じます。話が長くなるようですが不明な点をお尋ねします。お供の方がいるように見えますが誰でしょう?またあなたは六道四生の中でどの世界に生まれていらっしゃいますか?」と問うと、その時楠正成が庭先にある鞠懸柳(蹴鞠用の枝)の梢近くへ降りて言った。「私の同伴者は前後醍醐天皇・兵部卿親王・新田左中将義貞・平馬助忠政・九郎大夫判官義経・能登守教経であり、正成を加えて七人です。その他大勢は数えきれません。」と語った。盛長(彦七)が重ねて尋ねると「では先帝はどこにおられますか?またお供の人々はどんな姿でいらっしゃるのですか?」これに対し正成は答えた。「前の天皇様は元来マヘーシュヴァラ王(大自在天)の化身であられ、今は欲界六天に帰っておられます。従う者たちは皆修羅道の眷属となり時には天帝と戦い時には人間界へ下りて激しい怒りの心を持つ人に入れ替わるのです。」「ではあなた自身はどんな姿で?」との問いに正成は言った。「私も最期に悪念に引かれ罪深かったので今千頭王鬼となり七頭の牛に乗っています。疑うならその様子を見せましょう」と言い松明を十数本同時にかざすと、その光で虚空高く舞い上がり村ほどの黒雲の中へ入った。すると十二匹の鬼たちが玉座(御輿)を担ぎ捧げており続いて兵部卿親王が八頭の竜に引かせた車に乗って従っていた。 解説【翻訳の方針】
【物語的・思想的展開】
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| 新田左中将義貞は、三千余騎にて前陣に進み、九郎大夫判官義経は、混甲数百騎にて後陣に支らる。其迹に能登守教経、三百余艘の兵船を雲の浪に推浮べ給へば、平馬助忠政、赤旗一流差挙て、是も後陣に控へたり。又虚空遥に引さがりて、楠正成湊川にて合戦の時見しに些も不違、紺地錦胄直垂に黒糸の胄著て、頭の七ある牛にぞ乗たりける。此外保元平治に討れし者共、治承養和の争に滅し源平両家の輩、近比元弘建武に亡し兵共、人に知れ名を顕す程の者は、皆甲胄を帯し弓箭を携へて、虚空十里許が間に無透間ぞ見へたりける。此有様、只盛長が幻にのみ見へて、他人の目には見へざりけり。盛長左右を顧て、「あれをば見ぬか。」と云はんとすれば、忽に風に順雲の如、漸々として消失にけり。只楠が物云ふ声許ぞ残ける。盛長是程の不思議を見つれ共、其心猶も不動、「「一翳在眼空花乱墜す」といへり。千変百怪何ぞ驚くに足ん。縦如何なる第六天の魔王共が来て謂ふ共、此刀をば進ずまじきにて候。然らば例の手の裏を返すが如なる綸旨給ても無詮。早々面々御帰候へ。此刀をば将軍へ進候はんずるぞ。」と云捨て、盛長は内へ入にけり。正成大に嘲て、「此国縱陸地に連なりたり共道をば輒く通すまじ。況て海上を通るには、遣事努々有まじき者を。 |
新田中納言義貞が三千余騎で先陣に進み、九郎判官義経が数百騎の混甲兵で後陣を支えている。その後ろには能登守教経が三百艘以上の軍船を雲のような波に浮かべており、平馬助忠政は赤旗一枚を掲げてこれも後陣に控えていた。さらに虚空高く離れた位置では、楠正成が湊川の合戦時と全く変わらぬ姿で――紺地の錦の直垂に黒糸の甲冑を着け、七つの頭を持つ牛に乗っていた。これ以外にも保元・平治の乱で討たれた者たちや、治承・養和の争いで滅んだ源平両家の人々、近年の元弘・建武の戦いで亡くなった兵士らの中で名を知られる者は皆、甲冑を身にまとい弓矢を持ち、虚空十里ほどの範囲に隙間なく現れていた。この光景は盛長(彦七)だけが幻として見ており、他人には全く見えなかった。盛長が周囲を見回し「あれが見えないか?」と言おうとした瞬間、それらは風に乗る雲のように次第に消え去り、ただ楠の声だけが残った。これほどの不思議を目の当たりにしてもなお心は動ぜず、「『一翳在眼空花乱墜す(目にごみがあれば幻が見える)』というだろう。千変万化する怪現象など驚くに足りない。たとえ第六天の魔王が現れて何と言おうとも、この刀を渡すつもりはない。それなら例の手のひらを返したような勅命(綸旨)を受けても無意味だ。さっさと皆様お帰りなさい。この刀は将軍へ献上するのだ」と言い捨て、盛長は屋内に入った。楠正成は大声で嘲って言った。「たとえこの国が陸続きであろうとも道を通すことはない。まして海上を行くなら尚更のこと不可能である。」 解説【翻訳の方針】
【物語的核心と思想的背景】
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| 」と、同音にどつと笑つゝ、西を指てぞ飛去にける。其後より盛長物狂敷成て、山を走り水を潜る事無休時。太刀を抜き矢を放つ事間無りける間、一族共相集て、盛長を一間なる所に推篭て、弓箭兵杖を帯して警固の体にてぞ居たりける。或夜又雨風一頻通て、電の影頻なりければ、すはや例の楠こそ来れと怪む処に、如案盛長が寝たる枕の障子をかはと蹈破て、数十人打入音しけり。警固の者共起周章て太刀長刀の鞘を外して、夜討入たりと心得て、敵は何くにかあると見れ共更になし。こは何にと思処に、自天井熊の手の如くなる、毛生て長き手を指下して、盛長が本鳥を取て中に引さげ、破風の口より出んとす。盛長中にさげられながら件の刀を抜て、化物の真只中を三刀指たりければ、被指て些弱りたる体に見へければ、むずと引組で、破風より広庇の軒の上にころび落、取て推付け、重て七刀までぞ指たりける。化物急所を被指てや有けん、脇の下より鞠の勢なる物ふつと抜出て、虚空を指てぞ挙りける。警固の者共梯を指て軒の上に登て見れば、一の牛の頭あり。「是は何様楠が乗たる牛か、不然ば其魂魄の宿れる者歟。」とて、此牛の頭を中門の柱に結著て置たれば、終夜鳴はためきて動ける間、打砕て則水底にぞ沈めける。 |
「さあ!」と声を揃えてどっと大笑いしながら、西の方へ飛び去ってしまった。その後から盛長(彦七)が狂気じみて山を駆け回り水に潜ることを休む間もなく続けた。太刀を抜き矢を放つ行為が絶えなかったため一族は集まり、盛長を一つの部屋に閉じ込め、武装して警護する態勢で見張っていた。ある夜また雨風が激しく雷光が頻繁に走る中、「まさか例の楠正成が来たのではないか」と疑う瞬間、案の定盛長が寝ている枕元の障子をガラリと蹴破り、数十人が乱入する音がした。警護の者たちは慌てて起き上がり刀剣の鞘を外し夜襲と思い敵を探すも誰もいない。「これは一体?」と考えていた時、天井から熊の手のように毛むくじゃらな長い腕が伸び下り盛長の髻(もとどり)をつかんで引き上げ、破風(屋根の開口部)から外へ出ようとした。盛長は吊るされながら例の刀を抜き化物の胴体めがけて三太刀突いたところ弱った様子に見えたため組み付いて破風からひさしの軒上に転げ落ち、押さえつけさらに七太刀まで刺した。急所を刺されたのか脇の下から鞠のように丸い物がふっと抜けて虚空へ飛び去るのが見えた。警護者たちが梯子で屋根に登って確認すると一つの牛の頭があった。「これは楠正成が乗っていた牛か、それとも魂でも宿っているのだろう」と言ってこの牛の頭を中門の柱にくくりつけたところ夜通し唸り動いたため打ち砕きすぐ水底へ沈めた。 解説【翻訳の方針】
【物語的意義と文化的背景】
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| 其次の夜も月陰風悪して、怪しき気色に見へければ、警固の者共大勢遠侍に並居て、終夜睡らじと、碁双六を打てぞ遊びける。夜半過る程に、上下百余人有ける警固の者共、同時にあつと云けるが、皆酒に酔る者の如く成て、頭べを低て睡り居たり。其座中に禅僧一人眠らで有けるが、灯の影より見れば、大なる寺蜘蛛一つ天井より下て、寝入たる人の上を這行て、又天井へぞ挙りける。其後盛長俄に驚て、「心得たり。」と云侭に、人と引組だる体に見へて、上が下にぞ返しける。叶はぬ詮にや成けん、「よれや者共。」と呼ければ、傍に臥たる者共起挙らんとするに、或は柱に髻を結著られ、或は人の手を我足に結合せられて、只綱に懸れる魚の如く也。此禅僧余りの不思議さに、走立て見れば、さしも強力の者ども、僅なる蜘のゐに手足を被繋て、更にはたらき得ざりけり。されども盛長、「化物をば取て押へたるぞ。火を持てよれ。」と申ければ、警固の者共兎角して起挙り、蝋燭を灯て見に、盛長が押へたる膝を持挙んと蠢動ける。諸人手に手を重て、逃さじと推程に、大なる土器の破るゝ音して、微塵に砕けにけり。其後手をのけて是を見れば、曝たる死人の首、眉間の半ばより砕てぞ残りける。盛長大息を突て、且し心を静めて腰を探て見れば、早此化物に刀を取れ、鞘許ぞ残にける。 |
次の夜も月明かりが陰り風が荒れ、不気味な様子が見えたため、警護の者たちは大勢で遠くに控え並んで座り、「一晩中眠るまい」と碁や双六を打って遊んだ。夜半過ぎ頃、上下百人余りの警護の者が同時に「あっ!」と言ったが、皆酒に酔ったように頭を低く垂れて眠っていた。その場に一人だけ眠らずにいた禅僧が灯火の陰から見ると、巨大な寺蜘蛛が一匹天井から降りてきて、寝入った人々の上を這い回り、再び天井へと昇っていった。その後盛長は突然驚いて「わかったぞ」と言うなり、誰かと組み合っている様子で上から下へひっくり返された。どうしようもなく追い詰められたのか、「こら者ども!」と呼ぶと、傍に寝ていた者たちが起き上がろうとしたが、ある者は柱に髷を結び付けられ、別の者は他人の手を自分の足にくっつけられており、まるで網にかかった魚のようであった。この禅僧はあまりの不思議さに走り寄って見ると、あれほど強い者たちも細い蜘蛛の糸に手足を縛られただけで全く動けなくなっていた。しかし盛長が「化物を捕まえて押さえつけたぞ! 火を持って来い!」と言うと、警護の者たちはどうにか起き上がり、蝋燭で照らして見たところ、盛長が膝で押さえたものが蠢動していた。皆が手に手を重ねて逃すまいと押さえ込むうちに、大きな土器が割れるような音を立て微塵に砕けてしまった。その後手を離してみると、晒された死人の首が眉間の半ばから壊れて残っていた。盛長は深く息をつき、しばらく心を落ち着かせて腰あたりを探って見れば、すでに化物に刀を奪われて鞘だけが残されていた。 解説【翻訳の方針】
【物語的展開と象徴性】
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| 是を見て盛長、「我已に疫鬼に魂を被奪、今は何に武く思ふ共叶まじ。我命の事は物の数ならず、将軍の御運如何。」と歎て、色を変じ泪を流して、わな/\と振ひければ、聞者見人、悉身毛よ立てぞ候ける。角て夜少し深て、有明の月中門に差入たるに、簾を高く捲上て、庭を見出したれば、空より毬の如くなる物光て、叢の中へぞ落たりける。何やらんと走出て見れば、先に盛長に推砕かれたりつる首の半残たるに、件の刀自抜て、柄口まで突貫てぞ落たりける。不思議なりと云も疎か也。軈て此頭を取て火に抛入たれば、跳出けるを、金鋏にて焼砕てぞ棄たりける。事静て後、盛長、「今は化物よも不来と覚る。其故は楠が相伴ふ者と云しが我に来事已に七度也。是迄にてぞあらめ。」と申ければ、諸人、「誠もさ覚ゆ。」と同ずるを聞て、虚空にしはがれ声にて、「よも七人には限候はじ。」と嘲て謂ければ、こは何にと驚て、諸人空を見上たれば、庭なる鞠の懸に、眉太に作、金黒なる女の首、面四五尺も有らんと覚たるが、乱れ髪を振挙て目もあやに打笑て、「はづかしや。」とて後ろ向きける。是を見人あつと脅て、同時にぞ皆倒臥ける。加様の化物は、蟇目の声に恐るなりとて、毎夜番衆を居て宿直蟇目を射させければ、虚空にどつと笑声毎度に天を響しけり。 |
次の夜も月明かりが陰り風が荒れ、不気味な様子に見えたため、警護の者たちは大勢で遠くに控え並んで座り、「一晩中眠るまい」と碁や双六を打って遊んだ。夜半過ぎ頃、上下百人余りの警護の者が同時に「あっ!」と言ったが、皆酒に酔ったように頭を低く垂れて眠っていた。その場に一人だけ眠らずにいた禅僧が灯火の陰から見ると、巨大な寺蜘蛛が一匹天井から降りてきて、寝入った人々の上を這い回り、再び天井へと昇っていった。その後盛長は突然驚いて「わかったぞ」と言うなり、誰かと組み合っている様子で上から下へひっくり返された。どうしようもなく追い詰められたのか、「こら者ども!」と呼ぶと、傍に寝ていた者たちが起き上がろうとしたが、ある者は柱に髷を結び付けられ、別の者は他人の手を自分の足にくっつけられており、まるで網にかかった魚のようであった。この禅僧はあまりの不思議さに走り寄って見ると、あれほど強い者たちも細い蜘蛛の糸に手足を縛られただけで全く動けなくなっていた。しかし盛長が「化物を捕まえて押さえつけたぞ!火を持って来い!」と言うと、警護の者たちはどうにか起き上がり、蝋燭で照らして見たところ、盛長が膝で押さえたものが蠢動していた。皆が手に手を重ねて逃すまいと押さえ込むうちに、大きな土器が割れるような音を立て微塵に砕けてしまった。その後手を離してみると、晒された死人の首が眉間の半ばから壊れて残っていた。盛長は深く息をつき、しばらく心を落ち着かせて腰あたりを探って見れば、すでに化物に刀を奪われて鞘だけが残されていた。 解説【翻訳の方針】
【物語的展開と象徴性】
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| さらば陰陽師に門を封ぜさせよとて、符を書せて門々に押せば、目にも見へぬ者来て、符を取て棄ける間、角ては如何すべきと思煩ける処に、彦七が縁者に禅僧の有けるが来て申けるは、「抑今現ずる所の悪霊共は、皆脩羅の眷属たり。是を静めん謀を案ずるに、大般若経を読に不可如。其故は帝釈と、脩羅と須弥の中央にて合戦を致す時、帝釈軍に勝ては、脩羅小身を現じて藕糸の孔の裏に隠れ、脩羅又勝時は須弥の頂に座して、手に日月を握り足に大海を蹈。加之三十三天の上に責上て帝釈の居所を追落し、欲界の衆生を悉く我有に成さんとする時、諸天善神善法堂に集て般若を講じ給ふ。此時虚空より輪宝下て剣戟を雨し、脩羅の輩を寸々に割切ると見へたり。されば須弥の三十三天を領し給ふ帝釈だにも、我叶ぬ所には法威を以て魔王を降伏し給ふぞかし。況乎薄地の凡夫をや。不借法力難得退治。」と申ければ、此義誠も可然とて、俄に僧衆を請じて真読の大般若を日夜六部迄ぞ読たりける。誠に依般若講読力脩羅威を失ひけるにや。五月三日の暮程に、導師高座の上にて、啓白の鐘打鳴しける時より、俄に天掻曇て、雲上に車を轟かし馬を馳違る声無休時。矢さきの甲胄を徹す音は雨の下よりも茂く、剣戟を交る光は燿く星に不異。 |
そこで陰陽師に門を封じさせようと、お札を書かせて各戸の扉に貼ると、目に見えない者が現れてそれを剥がし捨てるので、さあどうしたものかと思い悩んでいたところへ、彦七の縁者の禅僧が来てこう言った。「そもそも今出現している悪霊どもは、全て阿修羅の眷属である。これを鎮める方策を考えるに、大般若経を読誦するのが最適だ。その理由は帝釈天と阿修羅が須弥山の中腹で合戦した時、帝釈軍が勝てば阿修羅は小さな姿となって蓮の糸ほどの穴裏へ隠れ、逆に阿修羅が勝つ時には須弥山頂に座り日月を握り大海を踏む。さらに三十三天まで攻め上がり帝釈天の住処から追い落とし、欲界衆生ことごとく我がものにしようとした際、諸天善神は善法堂に集まって般若経を講じた。すると虚空より輪宝が降り剣戟を雨のように降らせ、阿修羅の類を粉々に切り刻む様が見えたのだ。須弥山と三十三天を統べる帝釈天でさえ、力及ばぬ時は法威をもって魔王を退治なされるというのに、ましてやこの世の凡夫が法力なくしてどうやって倒せようか。」これを聞き道理にかなうと思い、急ぎ僧侶たちを招いて本式の大般若経読誦を日夜六部まで行った。おそらく般若講読の力で阿修羅は威勢を失ったのだろう。五月三日の夕暮れ時、導師が高い壇上で啓白の鐘を鳴らした瞬間から、突然空が曇り雲上に車輪轟かす音や馬駆ける声が途切れなく響き渡る。矢先が甲冑を貫く音は雨より激しく、剣戟交わる光は瞬く星にも劣らないほどであった。 解説【翻訳技術】
【物語分析】
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| 聞人見者推双て肝を冷して恐合へり。此闘の声休て天も晴にしかば、盛長が狂乱本復して、正成が魂魄曾夢にも不来成にけり。さても大般若経真読の功力に依て、敵軍に威を添んとせし楠正成が亡霊静まりにければ、脇屋刑部卿義助、大館左馬助を始として、土居・得能に至るまで、或は被誅或は腹切て、如無成にけり。誠哉、天竺の班足王は、仁王経の功徳に依て千王を害する事を休め、吾朝の楠正成は、大般若講読の結縁に依て三毒を免るゝ事を得たりき。誠鎮護国家の経王、利益人民の要法也。其後此刀をば天下の霊剣なればとて、委細の註進を副て上覧に備しかば、左兵衛督直義朝臣是を見給て、「事実ならば、末世の奇特何事か可如之。」とて、上を作直して、小竹作と同く賞翫せられけるとかや。沙に埋れて年久断剣如なりし此刀、盛長が註進に依て凌天の光を耀す。不思議なりし事共也。 ○就直義病悩上皇御願書事 去程に諸国の宮方力衰て、天下武徳に帰し、中夏静まるに似たれ共、仏神三宝をも不敬、三台五門の所領をも不渡、政道さながら土炭に堕ぬれば、世中如何がと申合へり。吉野の先帝崩御の後、様々の事共申せしが、車輪の如くなる光物都を差して夜々飛度り、種々の悪相共を現じける間、不思議哉と申に合せて、疾疫家々に満て貴賎苦む事甚し。 |
見物人たちは皆驚いて肝をつぶし恐れ合った。この戦いの音が止み空も晴れたので、盛長の狂乱状態は回復し、正成の亡霊はその後夢にも現れなくなった。かくして大般若経真読の功徳により敵軍に威勢を振るおうとした楠正成の亡霊が静まったため、脇屋刑部卿義助や大館左馬助を始めとして土居・得能らに至るまで、ある者は討たれあるいは自害して消滅した。まことに天竺(インド)の班足王は仁王経の功徳により千人の王を殺害することを止めたように、わが国の楠正成も大般若講読による結縁で三毒(貪り・怒り・愚かさ)から免れることができたのだ。まことに国家鎮護の最高経典であり人々に利益をもたらす要法である。その後この刀は天下の霊剣だとして詳しい報告書を添えて天皇に献上すると、左兵衛督直義卿がこれを見て「事実なら末世の奇跡にも勝る」と言い、研磨し直して小竹作(名工)と同等に鑑賞したという。砂に埋もれて長年断剣同然だったこの刀は盛長の報告により天を貫く光を放った。不思議なことばかりである。 さて直義卿病床での上皇への願文について その後諸国の南朝勢力が衰え天下は武家政治に移り、世の中は平穏に見えたものの仏神三宝を敬わず宮中領地も返還せず、政道が泥炭のように乱れていたので人々は嘆き合った。吉野の先帝(後醍醐天皇)崩御後に様々な怪事が起きたが、車輪のような光る物が都を横切り夜ごと飛び交い種々の凶兆が現れたため奇妙だと言う間もなく疫病が家々に満ち貴賤問わず苦しむことが甚大になった。 解説【翻訳技術】
【物語分析】
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| 是をこそ珍事哉と申に、同二月五日の暮程より、直義朝臣俄に邪気に被侵、身心悩乱して、五体逼迫しければ、諸寺の貴僧・高僧に仰て御祈不斜。陰陽寮、鬼見・泰山府君を祭て、財宝を焼尽し、薬医・典薬、倉公・華佗が術を究て、療治すれ共不痊。病日々に重て今はさてと見へしかば、京中の貴賎驚き合ひて、此人如何にも成給なば、只小松大臣重盛の早世して、平家の運命忽に尽しに似たるべしと思よりて、弥天下の政道は徒事なるべしと、歎ぬ者も無りけり。持明上皇此由を聞召し殊に歎き思食しかば、潜に勅使を被立て八幡宮に一紙の御願書を被篭て、様々の御立願あり。其詞云、敬白祈願事右神霊之著明徳也。安民理国為本。王者之施政化也。賞功貴賢為先。爰左兵衛督直義朝臣者、匪啻爪牙之良将、已為股肱之賢弼。四海之安危、偏嬰此人之力。巨川之済渉、久沃眇身之心。義為君臣。思如父子。而近日之間、宿霧相侵、薬石失験。驚遽無聊。若非幽陵之擁護者、争得病源之平愈乎。仍心中有所念、廟前将奉祷請。神霊縦有忿怒之心、眇身已抽祈謝之誠、懇棘忽酬、病根速消者、点七日之光陰、課弥天之碩才、令講讃妙法偈、可勤修尊勝供。伏乞尊神哀納叡願、不忘文治撥乱之昔合体、早施経綸安全之今霊験。春秋鎮盛、華夏純煕。 |
これを珍事だと噂していたところ、同じ二月五日の夕方から直義卿が突然邪気に侵され、心身混乱して全身の苦痛が激しくなったので、諸寺の高僧を招いて祈祷させた。陰陽寮は鬼や泰山府君を祭り財宝を焼き尽くし、医師たちは古代名医の術を用い治療したが効果がない。病状は日増しに重くなり危篤状態となったため、都中の貴賎は驚いて「もしこの方が亡くなれば、平家の小松重盛早世による滅亡と同じく天下の政道が無駄になる」と皆嘆いた。 持明院上皇はこの報を聞き特に心配され、密かに勅使を八幡宮に派遣し御願文を奉納して様々な祈願をされた。その文章には「謹んで申し上げます。右の神霊が顕著に徳を示されるのは民を安んじ国を治めることが根本です。王者が政治を行うにあたっては功臣賢者を重んずることが第一です。左兵衛督直義卿は武勇に優れた良将であるだけでなく、もはや補佐役としての賢臣でもあります。天下の安危は専らこの人物にかかり、大河渡航のように永く私(上皇)の心を支えてきました。君臣の義でありながら父子のような情があります。 ところが近日病魔に侵され治療も効かず不安でなりません。もし神明のご加護なくしてどうして平癒できましょうか。ここに衷心を込めて祈願いたします。たとえ神霊がお怒りでも私はひたすら謝罪の誠を捧げます。どうか至急お応えくださり病根を速やかに消し去ってください。七日の間に妙法経典の講讃を行い、尊勝仏供養を修めましょう。伏して願わくは尊神が哀れみをもってこの祈りをお聞き入れになり、文治による乱世平定という昔の御事績(八幡大神と皇室の絆)をお忘れにならず、今こそ国家安泰の霊験をお示しください。どうか春秋にわたり鎮護を賜わり、天下太平となりますように」と記されていた。 解説【翻訳技術】
【歴史的意義】
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| 敬白。暦応五年二月日勅使勘解由長官公時、御願書を開て宝前に跪き、泪を流て、高らかに読上奉るに、宝殿且く振動して、御殿の妻戸開く音幽に聞へけるが、誠に君臣合体の誠を感じ霊神擁護の助をや加へ給けん。勅使帰参して三日中に、直義朝臣病忽平愈し給ひけり。是を聞者、「難有哉、昔周武王病に臥て崩じ給はんとせし時、周公旦天に祈て命に替らんとし給しかば、武王の病忽痊て、天下無為の化に誇に相似たり。」と、聖徳を感ぜぬ者こそ無りけれ。又傍に吉野殿方を引人は、「いでや徒事な云そ。神不享非礼、欲宿正直頭、何故か諂諛の偽を受ん。只時節よく、し合せられたる願書也。」と、欺く人も多かりけり。 ○土岐頼遠参合御幸致狼籍事付雲客下車事 同九月三日は故伏見院御忌日也しかば、彼御仏事殊更故院の御旧迹にて、執行はせ給はん為に、持明院上皇伏見殿へ御幸なる。此離宮はさしも紫楼紺殿を彩り、奇樹怪石を集て、見所有し栖■なれ共、旧主去座を、年久く成ぬれば、見しにも非ず荒はて、一村薄野と成て、鶉の床も露滋く、八重葎のみ門を閉て、荻吹すさむ軒端の風、苔もり兼る板間の月、昔の秋を思出て今の泪をぞ催しける。毎物曳愁添悲秋の気色、光陰不待人無常迅速なる理、貴きも賎きも皆古に成ぬる哀さを、導師富楼那の弁舌を借て数刻宣説し給へば、上皇を奉始旧臣老儒悉直衣・束帯の袖を絞許にぞ見へたりける。 |
謹んで申し上げます。暦応五年二月のある日、勅使の勘解由長官公時が御願文を開き宝座の前にひざまずき、涙を流しながら声高く読み上げ奉ったところ、神殿がわずかに震動し、建物の戸が開く音がかすかに聞こえた。これはまさに君臣一体の誠意が通じ霊神の加護を得たのであろう。勅使が戻って三日以内に直義卿は急に病気から回復された。これを知った人々は「なんとありがたいことか、昔周武王が病床で崩御されそうになった時、周公旦が天へ祈り自らの命を差し出したところ武王大王の病が突然治り天下太平となった故事に似ている」と言い聖徳に感嘆しない者はいなかった。しかし一方で吉野殿方に連なる人々は「まあ無意味なことを言うものだ、神霊は礼儀を欠く者の捧げものを喜ばず正直さこそ求めるのにどうしておべっかの偽りを受け入れようか?ただ時節が良かっただけの願文だ」と嘲る者も多かった。 ○土岐頼遠参合御幸致狼籍事付雲客下車事 解説【文章構成と表現技法】
【歴史的意義】
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| 種々の御追善端多して、秋の日無程昏はてぬ。可憐九月初三の夜の月、出る雲間に影消て、虚穹に落る雁の声、伏見の小田も物すごく、彼方人の夕と、動静まる程にも成しかば、松明を秉て還御なる。夜はさしも深ざるに、御車東洞院を登りに、五条辺を過させ給ふ。斯る処に土岐弾正少弼頼遠・二階堂下野判官行春、今比叡の馬場にて笠懸射て、芝居の大酒に時刻を移し、是も夜深て帰けるが、無端樋口東洞院の辻にて御幸にぞ参り合ける。召次御前に走散て、「何者ぞ狼籍也。下候へ。」とぞ罵ける。下野判官行春は是を聞て御幸也けりと心得て、自馬飛下傍に畏る。土岐弾正少弼頼遠は、御幸も不知けるにや、此比時を得て世をも不恐、心の侭に行迹ければ、馬をかけ居て、「此比洛中にて、頼遠などを下すべき者は覚ぬ者を、云は如何なる馬鹿者ぞ。一々に奴原蟇目負せてくれよ。」と罵りければ、前駈御随身馳散て声々に、「如何なる田舎人なれば加様に狼籍をば行迹ぞ。院の御幸にて有ぞ。」と呼りければ、頼遠酔狂の気や萌しけん、是を聞てから/\と打笑ひ、「何に院と云ふか、犬と云か、犬ならば射て落さん。」と云侭に、御車を真中に取篭て馬を懸寄せて、追物射にこそ射たりけれ。竹林院の中納言公重卿、御後に被打けるが、衛府の太刀を抜馳寄せ、「懸る浅猿き狼籍こそなけれ。 |
様々な供養や儀式は数多く行われ、秋の日もあっという間に暮れ果てた。美しい陰暦九月初三夜の月が雲間から現れては消え、虚空に落ちる雁の声が響く中、伏見の小田野原も物凄い雰囲気となり、辺りで人の夕餉(ゆうげ)をとる動きも収まる頃となったため、松明をかざして御帰還となる。夜はまだそれほど深くなっていないのに、お車が東洞院通りに差しかかり五条付近を通られた時である。ちょうどその場所で土岐弾正少弼頼遠(ときだんじょうしょうひつよりとお)・二階堂下野判官行春(にかいどうしもつけはんがんゆきはる)が、この日比叡の馬場で笠懸(かさがけ)を射て芝居見物や大酒に時を過ごし、これまた夜遅く帰路についたところ、偶然にも樋口東洞院の辻で御行幸に出くわしてしまった。先払いの召次たちが走り寄って「無礼者め!下がれ!」と罵ると、二階堂下野判官行春はこれを聞いて御行幸だと理解し、自ら馬から飛び降りて傍らに控えた。しかし土岐弾正少弼頼遠は酔っていたのか御行幸とも知らず、この頃勢力を得て世を恐れず勝手気ままに振る舞っていたため、馬上のまま「近ごろ都で俺・頼遠どのが下がれと言われる覚えなどない。何様つもりの馬鹿者だ?一人残らず奴原(やっこ)共に蟇目矢を射かけてやれ!」と罵り返した。すると先駆けの随身たちが走り回って「どこから来た田舎者がこのような狼藉を働く!上皇様御行幸であるぞ!」と呼び立てると、頼遠は酔狂な気分も手伝ったか、これを聞いて高笑いしながら「何だ?院(いん)だと?犬と言うのか?犬なら射落としてやるわ」と言い放つなり、お車を取り囲むように馬を乗り付け、追物射(おいものい)の要領で矢を射かけた。竹林院中納言公重卿が後方に控えていたところこの矢を受けると、衛府太刀を抜きながら駆け寄って「なんたる無礼極まる狼藉よ!」と叫んだ。 解説【場面構成の特徴】
【歴史的意義】
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| 御車をとく懸破て仕れ。」と、被下知けれ共、牛の胸懸被切て首木も折れ、牛童共も散々に成行き、供奉の卿相雲客も皆打落されて、御車に当る矢をだに、防ぎ進らする人もなし。下簾皆撥落され三十輻も少々折にければ、御車は路頭に顛倒す。浅猿しと云も疎か也。上皇は只御夢の心地座て、何とも思召分たる方も無りけるを、竹林院中納言公重卿御前に参られたりければ、上皇、「何公重か。」と許にて、軈て御泪にぞ咽び座しける。公重卿も進む泪を押へて、「此比の中夏の儀、蛮夷僭上無礼の至極、不及是非候。而れ共日月未天に掛らば、照鑒何の疑か候べき。」と被奏ければ、上皇些叡慮を慰させ御座す。「されば其事よ。聞や何に、五条の天神は御出を聞て宝殿より下り御幸の道に畏り、宇佐八幡は、勅使の度毎に、威儀を刷て勅答を被申とこそ聞け。さこそ武臣の無礼の代と謂からに、懸る狼籍を目の当見つる事よ。今は末代乱悪の習俗にて、衛護の神もましまさぬかとこそ覚れ。」と被仰出て、袞衣の御袖を御顔に押当させ御座せば、公重卿も涙の中に書闇て、牛童少々尋出して泣々還御成にけり。其比は直義朝臣、尊氏卿の政務に代て天下の権柄を執給ひしかば、此事を伝へ承て、「異朝にも未比類を不聞。況て本朝に於ては、曾耳目にも不触不思議也。 |
様々な供養は数多く行われているうちに秋の日もすぐ暮れた。美しい陰暦九月初三夜の月が雲間から現れては消え、大空には落ちる雁の声が響く伏見の小田野原も物寂しく、辺りの人々の夕餉をとる動きも収まったため松明を持って御帰還となった。まだ真夜中にもなっていないのに牛車が東洞院通りに差し掛かり五条付近を通られた時である。そこへ土岐弾正少弼頼遠(ときだんじょうしょうひつよりとお)・二階堂下野判官行春(にかいどうしもつけはんがんゆきはる)が、この日比叡の馬場で笠懸(かさがけ)を射て芝居見物や大酒にふけり夜遅く帰路についたところ、たまたま樋口東洞院の辻で御行幸に出会ってしまった。先払いの召次たちが駆け寄って「無礼者め!下がれ!」と叫ぶと二階堂下野判官行春はこれが御行幸だと気づき自ら馬から飛び降りて脇に控えた。しかし土岐弾正少弼頼遠は酔っていたのか御行幸とも知らずこの頃勢力を得て世を恐れない身勝手な行動をするため馬上のまま「近ごろ都で俺・頼遠どのが下がれと言われる覚えなどあるものか。何様つもりの馬鹿者だ?奴原(やっこ)共全員に蟇目矢を射かけさせてしまえ!」と罵り返した。すると先導の随身たちは走り回って「どこから来た田舎者がこんな無礼を働く!上皇様御行幸であるぞ!」と呼び立てると頼遠は酔狂な気分も手伝ったかこれを聞いて高笑いしながら「何だ?院(いん)だと?犬と言うのか?犬なら射落としてやるわ」と言い放つなり牛車を取り囲むように馬を乗り付け追物射(おいものい)のように矢を射た。竹林院中納言公重卿が後方に控えていたところこの矢を受けると衛府の太刀を抜いて駆け寄り「なんという無礼極まる狼藉よ!」と叫んだ。「牛車を早く引き破ってしまえ」との命令が出されたものの、牛の胸紐は切られ轅(ながえ)も折れ牛飼いたちも散りじりに逃げ去る中で供奉する公卿や殿上人たちまで打ち落とされ御車に向かう矢すら防ぎ進める者はいなかった。簾がすべて払い落とされて三十本の輻(や)も少々折れたため牛車は路上に転倒したのは無残極まりない様子だった。上皇はただ夢を見ているような心地で座り何ともお考えになれず茫然としておられたところへ竹林院中納言公重卿が御前に参ると上皇「公重か?」とお尋ねになりたちまち涙にむせび泣きになった。公重卿も込み上げる涙を押さえながら「この夏の蛮夷(異国勢力)による非礼な行いは言語道断でございますが太陽と月がまだ天にかかる限り神仏のお裁きは間違いありませぬ」と奏上すると上皇は少しお気持ちをお慰めになった。「まさにその通りだ。聞けば五条天神様は御出発を聞いて宝殿から降り道端で控え宇佐八幡宮では勅使が訪れるたび威儀を正して神託を与えるというではないか。武臣の無礼な時代となったとはいえ目の当たりにこんな狼藉を見るとは末代乱世の悪しき風習と化したのか護衛の神々もおられぬかと思う」と仰せになって袞衣(こんい)の御袖で顔を押さえると公重卿も涙の中に立ちすくみながらようやく牛飼い数人を見つけ出し泣きながら共にお帰りになった。この頃は直義朝臣が尊氏卿に代わって政務を取り天下の実権を握っていたため事件を知ると「異国でも前例がないまして本朝においては見聞したこともない不思議な出来事だ」と言った。 解説【場面展開】
【歴史的意義】
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| 其罪を論ずるに、三族に行ても尚不足、五刑に下しても何ぞ当らん。直に彼輩を召出して車裂にやする、醢にやすべき。」と、大に驚嘆申されけり。頼遠も行春も、角ては事悪かりなんと思ければ、皆己が本国へぞ逃下ける。此上はとて、軈て討手を差下し、可被退治評定一決したりければ、下野判官は不叶とや思けん、頚を延て上洛し、無咎由を様々陳じ申ける間、事の次第委細に糾明有て、行春をば罪の軽に依て死罪を被宥讃岐国へぞ被流ける。土岐頼遠は、弥罪科遁るゝ所無りければ、美濃国に楯篭て謀反を起さんと相議して、便宜の知音一族共を招寄と聞へしかば、急ぎ討手を差下し、可被退治とて、先甥の刑部大輔頼康を始として、宗との一族共に御教書を被成下しかば、頼遠謀反も不事行、角ては如何と思案して、潜に都へ上、夢窓国師をぞ憑ける。夢窓は此比天下の大善知識にて、公家武家崇敬類ひ無りしかば、さり共と被憑仰しか共、左兵衛督、是程の大逆を緩く閣かば、向後の積習たるべし。而れ共御口入難黙止ければ、無力其身をば被誅て、子孫の安堵を可全と返事被申、頼遠をば侍所細川陸奥守顕氏に被渡て、六条河原にて終被刎首けり。其弟に周済房とて有をも、既に可被切と評定有けるが、其時の人数にては無りける由、証拠分明也ければ、死刑の罪を免て、軈て本国へぞ下りける。 |
彼らの罪について論じれば三族(父母・妻子・兄弟)皆殺しでもまだ足りず五刑を加えても罰が軽すぎるほどだ。すぐに奴らを呼び出して車裂きの刑か塩漬けの刑にするべきだ。」と直義は非常に驚嘆した。頼遠も行春も、さすがに事態悪化を悟り本国へ逃亡する一方で討伐軍派遣評定が決まると下野判官(二階堂行春)は抗えないと考え首藤勘解由らを使って無実の証言を繰り返し陳述した結果詳細な糾明により罪状軽微と判断され死罪免除で讃岐国へ流刑となった。しかし土岐頼遠は悪質性が明白だったため美濃国に籠城して謀反準備中という報せを受け直義は甥の刑部大輔頼康を筆頭とする一族討伐隊を派遣すると伝えた。頼遠は抵抗不可能と悟り密かに上洛し夢窓国師へ助命嘆願したが(当時公武最高権威として崇敬された)夢窓は「この重罪を見逃せば悪例となる」と拒絶代わりに「自身の処刑で子孫安堵を図れ」と返答し頼遠は侍所細川顕氏へ引き渡され六条河原で斬首刑となった。弟周済房も同罪とされたが謀反への関与証拠不十分として死刑免除となり本国送還となった。 解説【処罰の二重構造】
【歴史的意義】
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| 夢窓和尚の武家に出て、さりともと口入し給し事不叶しを、欺く者や仕たりけん、狂歌を一首、天竜寺の脇壁の上にぞ書たりける。いしかりしときは夢窓にくらはれて周済計ぞ皿に残れる此頼遠は、当代故ら大敵を靡け、忠節を致しかば、其賞翫も人に勝れ、其恩禄も異他。さるを今浩る行迹に依て、重て吹挙をも不被用、忽に其身を失ひぬる事、天地日月未変異は無りけりとて、皆人恐怖して、直義の政道をぞ感じける。頃比習俗、華夷変じて戎国の民と成ぬれば、人皆院・国王と云事をも不知けるにや。「土岐頼遠こそ御幸に参会て、狼籍したりとて、被切進せたれ。」と申ければ、道を過る田舎人共是を聞て、「抑院にだに馬より下んには、将軍に参会ては土を可這か。」とぞ欺きける。さればをかしき事共浅猿き中にも多かりけり。爰に如何なる雲客にてか有けん、破れたる簾より見れば、年四十余りなりけるが、眉作り金付て、立烏帽子引かづき著たる人の、轅はげたる破車を、打てども行ぬ疲牛に懸て、北野の方へぞ通りける。今程洛中には武士共充満して、時を得る人其数を不知。誰とは不見、太く逞しき馬共に思々の鞍置て、唐笠に毛沓はき、色々の小袖ぬぎさげて、酒あたゝめ、たき残したる紅葉の枝、手毎に折かざし、早歌交りの雑談して、馬上二三十騎、大内野の芝生の花、露と共に蹴散かし、当りを払て歩ませたり。 |
夢窓和尚が武士たちのもとに介入し、「何とか助命しよう」と取り成したもののかならず、騙す者(風刺家)かいたようで狂歌一首を天竜寺の脇壁に書き記していた。「石狩りの時は夢窓に騙されて周済だけが皿に残った」。この頼遠(土岐頼遠)は現代では大敵を倒し忠節を尽くしたため、その褒賞も人より優れ恩禄も特別だった。だが今度の行いのために再び登用されることもなく突然命を落としたことは「天地日月に異変がないのに」と皆が恐れおののき直義(足利直義)の政治手法を感じ取った。この頃風俗は乱れて野蛮な国の民となったため人々は院や国王という言葉すら知らないようで、「土岐頼遠こそ天皇行列に参加して無礼働いたとして斬られたそうだ」と言うと道行く田舎人が聞いて「それなら将軍には地面を這って会わねばならないのか?」と嘲笑した。だから滑稽なことが多く恥ずかしい中でも特に多かったのだ。そこである雲客(風流人)がいたようで破れた簾から見ると四十歳ほどの男、眉化粧に金箔をつけ立烏帽子を深く被った人物が轅の欠けた壊れた車を引かせても進まない疲れ果てた牛につけて北野方面へ通り過ぎる。今頃都中は武士たちで溢れており時勢を得ている者が数えきれず誰とも分からない太く逞しい馬にそれぞれ好みの鞍置き唐笠を被り毛沓履き色々な小袖を肩にかけ酒温め焼け残った紅葉枝を手ごとに折って髪飾り早歌交じりの雑談しながら馬上で二三十騎大内野の芝生花露と共に蹴散らし通行人払い歩かせている。 解説【社会風刺の構造】
【歴史的意義】
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| 主人と覚しき馬上の客、此車を見付て、「すはや是こそ件の院と云くせ者よ。頼遠などだにも懸る恐者に乗会ひして生涯を失ふ。まして我等様の者いかにとゝがめられては叶まじ。いざや下ん。」とて、一度にさつと自馬下、ほうかぶりはづし笠ぬぎ、頭を地に著てぞ畏りける。車に乗たる雲客は、又是を見て、「穴浅猿哉。若是は土岐が一族にてやあるらん。院をだに散々に射進らする、況て吾等こゝを下では悪かりぬべし。」と周章騒ぎ、懸もはづさぬ車より飛下ける程に、車は生強に先へ行馳るに、軸に当て立烏帽子を打落し、本鳥放ちなる青陪従片手にては髻をとらへ、片手には笏を取直し、騎馬の客の前に跪き、「いかに/\。」と色代しけるは、前代未聞の曲事なり。其日は殊更聖廟の御縁日にて、参詣の貴賎布引き也けるが、是を見て、「けしからずの為体哉、路頭の礼は弘安の格式に被定置たり。其にも雲客武士に対せば、自車をり髻を放とはなき物を。」とて、笑はぬ者も無りけり。 |
主人と思われる馬上の人物がこの車を見つけて、「あれこそ例の院というやつだ。土岐頼遠ほどの者でさえ遭遇して命を落としたのだから、まして我々のような者が咎められたらたまらない。さあ降りろ」と言い、一斉にさっと馬から下りて、深く被った笠を取り頭を地面につけて平伏した。車に乗っていた雲客(風流人)はこれを見て「なんと浅ましい! こいつら土岐一族だろうか? 院ですら散々に射るような連中だ。我々がここで下りているのはまずかった」と慌て騒ぎ、仕切りのない車から飛び降りた瞬間、車は勢いよく先へ走り出し軸にあたり立烏帽子を打ち落としたため、もともとは髪を束ねていたのに乱れ放題となり青陪従(下級貴族の衣)姿で片手では鬢をつかみ片手には笏を持ち直して騎馬の者たちの前に跪き「どうなさいます?」とおどおどした様子は前代未聞の不体裁だった。その日は特に聖廟(北野天満宮)の縁日で参詣の貴賎が多くいたが、これを見て「けしからぬ振る舞いだ! 路上での礼儀は弘安の格式に定められている。まして雲客たる者が武士に対し自ら車を降り髪を乱すとはありえない」と言い笑わない者はいなかった。 解説【権威解体の諷刺構造】
【歴史的意義】
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| input text 太平記\024_太平記_巻24.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第二十四 ○朝儀年中行事事 暦応改元の比より兵革且く静り、天下雖属無為京中の貴賎は尚窮困の愁に拘れり。其故は国衙・荘園も本所の知行ならず。正税官物も運送の煩有て、公家は逐日狼戻せしかば、朝儀悉廃絶して政道さながら土炭に堕にける。夫天子は必万機の政を行ひ、四海を治給ふ者也。其年中行事と申は、先正月には、平旦に天地四方拝・屠蘇白散・群臣の朝賀・小朝拝・七曜の御暦・腹赤の御贄・氷様・式兵二省内外官の補任帳を進る。立春の日は、主水司立春の水を献る。子日の若菜・卯日の御杖・視告朔の礼・中春両宮の御拝賀。五日東寺の国忌・叙位の議白。七日兵部省御弓の奏。同日白馬節会。八日大極殿の御斉会。同日真言院の御修法・太元の法・諸寺の修正・女叙位。十一日外官の除目。十四日殿上の内論議。十五日七種の御粥・宮内省の御薪。十六日蹈歌節会・秋冬の馬料・諸司の大粮・射礼・賭弓・年給の帳・神祇官の御麻。晦日には御巫御贖を奉る。院の尊勝陀羅尼。二月には上の丁日尺奠・上の申日春日祭。翌日卒川祭。上の卯日大原野祭・京官の除目・祈年の祭・三省考選の目録・列見の位禄・季の御読経・仁王会を被行。三月には三日御節供・御灯・曲水の宴。七日薬師寺の最勝会・石清水の臨時の祭・東大寺の花厳会授戒。 |
暦応年間(1338年以降)に改元されてから戦乱が一時的に静まり、天下は平穏となったものの都中の貴族も庶民も依然として貧困の苦しみに縛られていた。その理由は国衙や荘園が本来の領主による支配下になく、税収や公の物資も運搬に手間がかかるためだった。朝廷の高官たちは日々荒廃してしまったので宮中儀式すっかり途絶え政治はまるで泥炭(無価値なもの)のように堕ちてしまった。そもそも天子は必ず政務を執り行い天下を治める者である。その年間行事というのは、まず正月には夜明け前に天地四方拝・屠蘇と白散の儀式・群臣による新年祝賀(朝賀)・小規模な拝礼(小朝拝)・七曜暦献上・腹赤魚の貢ぎ物・氷室からの氷供進・式部省と兵部省が役人任命帳簿を提出する。立春には主水司が立春の井戸水を献じる。子日には若菜摘み、卯日には杖奉献、告朔礼拝を行い、仲春(2月)に両宮へ参賀する。5日に東寺で先帝追悼法要と位階昇進審議が行われる。7日兵部省による弓術披露があり同日白馬節会を開催。8日大極殿で斎宴を行い、同じく真言院での御修法・太元の護摩祈祷・各寺院修正会(新年祈願)・女性への位階授与が行われる。11日に地方官任命式を行う。14日清涼殿にて学問論議を開き15日七草粥供進と宮内省による薪奉納がある。16日踏歌節会・秋冬用馬糧支給・諸役所への俸禄米配布・射礼儀式・賭弓競技・年間俸給帳簿査定・神祇官の麻織物献上が行われる。月末には御巫が罪穢浊を奉るほか、上皇のために尊勝陀羅尼経供養がある。 解説【歴史的意義】
【文学的特徴】
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| 同日鎮花祭あり。四月には朔日の告朔。同日掃部寮冬の御座を徹して夏の御座を供ず。主水司始て氷を献り、兵衛府御扇を進る。山科・平野・松尾・杜本・当麻・当宗・梅宮・大神の祭・広瀬立田の祭あり。五日は中務省妃・夫人・嬪。女御の夏の衣服の文を申す。同日准蔭の位記。七日は擬階の奏也。八日は潅仏。十日は女官、春夏の時の飾り物の文を奏す。内の弓場の埒。斉内親王の御禊。中の申日国祭。関白の賀茂詣。中の酉日賀茂の祭。男女の被馬。下の子日吉田宮祭。東大寺の授戒の使。駒牽神衣の三枝の祭あり。五月には、三日六衛府、菖蒲并花を献る。四日は走馬の結番、并毛色を奏す。五日端午の祭、薬玉御節供・競馬・日吉祭・最勝講を被行。六月には、内膳司忌火の御飯を供ず。中務省暦を奏す。造酒司の醴酒。神祇官の御体の御占。月次。神今食。道饗。鎮火の祭。神祇官の荒世の御贖を奏す。東西の文部、祓の刀を奏す。十五日祇薗の祭。晦日の節折、大祓。七月には、朔日の告朔。広瀬竜田の祭に可向。五位の定め。女官の補任帳。二日最勝寺の八講・七夕の乞巧奠。八日の文殊会。十四日盂蘭盆。十九日尊勝寺の八講。二十八日相撲節会。八月には、上の丁の尺奠。明る日内論議。四日北野祭。十一日官の定考・小定考。 |
同じ日に鎮花祭が行われる。4月には1日(朔日)に告朔の儀式があり、同日掃部寮は冬用御座を撤去して夏用御座を設置する。主水司が初めて氷を献上し兵衛府は扇子を奉る。山科・平野・松尾・杜本(吉田神社)・当麻寺・當宗社・梅宮大社・大神神社の祭祀および広瀬竜田祭がある。5日には中務省が后妃・夫人・嬪や女御用夏服の文様を上奏し、同日に准蔭位(貴族子弟特権)記録を作成する。7日に擬階昇進申請があり8日は灌仏会を行う。10日は女官たちが春夏飾り物の文様を報告し内裏弓場の柵修理をするほか斎宮内親王禊祓儀式がある。中旬申日に国祭、関白による賀茂神社参詣があり中旬酉日には賀茂祭開催で男女乗馬行事が行われる。下旬子日は吉田神社祭祀と東大寺授戒使派遣があり駒牽・神衣奉献の三枝祭がある。 解説【儀式列挙の諷刺性】
【歴史的背景】
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| 十五日八幡放生会。十六日駒引・仁王会・季御読経あり。九月には、九日重陽の宴。十一日伊勢の例幣・祈年・月次・神甞・新甞・大忌風神。十五日東寺の灌頂。鎮花・三枝・相甞・鎮魂・道饗の祭あり。十月には、掃部寮夏の御座を徹して、冬の御座を供ず。兵庫寮鼓吹の声を発し、刑部省年終断罪の文を進る。亥日三度の猪子。五日弓場始。十日興福寺の維摩会。競馬の負方の献物。大歌始あり。十一月には、朔日に内膳司忌火の御飯を供じ、中務省御暦を奏す。神祇官の御贖。斎院の御神楽。山科・平野・春日・森本・梅宮・大原野祭。新甞会。賀茂臨時祭あり。十二月には、自朔日同十八日まで内膳司忌火の御飯を供ず。御体の御占。陰陽寮来年の御忌を勘禄して、内侍に是を進る。荷前の使。御仏名。大寒の日、土牛の童子を立、晦日に宮内省御薬を奏す。大禊。御髪上。金吾四隊に列て、院々の焼灯不異白日。沈香火底に坐して吹笙と云ぬる追儺の節会は今夜也。委細に是を註さば、車に載とも不可尽。唯大綱を申許也。是等は皆代々の聖主賢君の受天奉地、静世治国枢機なれば、一度も不可断絶事なれ共、近年は依天下闘乱一事も不被行。されば仏法も神道も朝儀も節会もなき世と成けるこそ浅猿けれ。政道一事も無きに依て、天も禍を下す事を不知。 |
15日に八幡放生会がある。16日は駒引き・仁王会・季御読経が行われる。9月には、9日に重陽の宴があり11日に伊勢神宮への例幣と祈年祭・月次祭・神嘗祭・新嘗祭・大忌風神祭を行う。15日には東寺で灌頂儀式があり鎮花祭・三枝祭・相嘗祭・鎮魂祭・道饗祭が催される。 解説【歴史的意義と現実乖離】
【政治的寓意】
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| 斯れ共道を知者無れば、天下の罪を身に帰して、己を責る心の無りけるこそうたてけれ。されば疾疫飢饉、年々に有て、蒸民の苦みとぞ成にける。 ○天竜寺建立事 武家の輩ら如此諸国を押領する事も、軍用を支ん為ならば、せめては無力折節なれば、心をやる方も有べきに、そゞろなるばさらに耽て、身には五色を飾り、食には八珍を尽し、茶の会酒宴に若干の費を入、傾城田楽に無量の財を与へしかば、国費へ人疲て、飢饉疫癘、盜賊兵乱止時なし。是全く天の災を降すに非ず。只国の政無に依者也。而を愚にして道を知人無りしかば、天下の罪を身に帰して、己を責る心を弁へざりけるにや。夢窓国師左武衛督に被申けるは、「近〔年〕天下の様を見候に、人力を以て争か天災を可除候。何様是は吉野の先帝崩御の時、様々の悪相を現し御座候けると、其神霊御憤深して、国土に災を下し、禍を被成候と存候。去六月二十四日の夜夢に吉野の上皇鳳輦に召て、亀山の行宮に入御座と見て候しが、幾程無て仙去候。又其後時々金龍に駕して、大井河の畔に逍遥し御座す。西郊の霊迹は、檀林皇后の旧記に任せ、有謂由区々に候。哀可然伽藍一所御建立候て、彼御菩提を吊ひ進せられ候はゞ、天下などか静らで候べき。菅原の聖廟に贈爵を奉り、宇治の悪左府に官位を贈り、讃岐院・隠岐院に尊号を諡し奉り、仙宮を帝都に遷進られしかば、怨霊皆静て、却て鎮護の神と成せ給候し者を。 |
それでも道理を知る者がいなければ、天下の罪を自分一人で背負って自らを責める心がないのは実に嘆かわしい。だからこそ疫病や飢饉が毎年起きて民衆は苦しむこととなったのだ。
○天竜寺建立のこと 解説【政治的批判の核心】
【歴史的文脈】
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| 」と被申しかば、将軍も左兵衛督も、「此儀尤。」とぞ被甘心ける。されば頓て夢窓国師を開山として、一寺を可被建立とて、亀山殿の旧跡を点じ、安芸・周防を料国に被寄、天竜寺をぞ被作ける。此為に宋朝へ宝を被渡しかば、売買其利を得て百倍せり。又遠国の材木をとれば、運載の舟更に煩もなく、自順風を得たれば、誠に天竜八部も是を随喜し、諸天善神も彼を納受し給ふかとぞ見へし。されば、仏殿・法堂・庫裏・僧堂・山門・総門・鐘楼・方丈・浴室・輪蔵・雲居庵・七十余宇の寮舎・八十四間の廊下まで、不日の経営事成て、奇麗の装交へたり。此開山国師、天性水石に心を寄せ、浮萍の跡を為事給しかば、傍水依山十境の景趣を被作たり。所謂大士応化の普明閣、塵々和光の霊庇廟、天心浸秋曹源池、金鱗焦尾三級岩、真珠琢頷龍門亭、捧三壷亀頂塔、雲半間の万松洞、不言開笑拈花嶺、無声聞音絶唱渓、上銀漢渡月橋。此十景の其上に、石を集ては烟嶂の色を仮り、樹を栽ては風涛の声移す。慧崇が烟雨の図、韋偃が山水の景にも未得風流也。康永四年に成風の功終て、此寺五山第二の列に至りしかば、惣じては公家の勅願寺、別しては武家の祈祷所とて、一千人の僧衆をぞ被置ける。 ○依山門嗷訴公卿僉議事 同八月に上皇臨幸成て、供養を可被逐とて、国々の大名共を被召、代々の任例其役を被仰合。 |
「(夢窓国師の言葉に対して)そう申し上げたところ、将軍も左兵衛督も『この提案はもっともである』と納得した。そこで急いで夢窓国師を開山として寺院を建立することになり、亀山殿の旧跡に場所を定め、安芸と周防の両国を寺領として指定し、天竜寺が建てられた。このため宋(中国)へ宝物を送って貿易したところ、売買で得た利益は百倍にもなった。また遠方から材木を運ぶ際には船積みに煩わされることもなく順風を得たので、まるで天竜八部衆がこれを喜び、諸天善神も受け入れたかのように見えた。こうして仏殿・法堂・庫裏・僧堂・山門・総門・鐘楼・方丈・浴室・輪蔵・雲居庵・七十余棟の寮舎・八十四間の廊下までが短期間で完成し、壮麗に装飾された。開山となった夢窓国師は天性山水を愛好していたため、水辺や丘を活かして十景の趣ある景色を作り出した。すなわち大士応化の普明閣・塵々和光の霊庇廟・天心浸秋曹源池・金鱗焦尾三級岩・真珠琢頷龍門亭・捧三壷亀頂塔・雲半間の万松洞・不言開笑拈花嶺・無声聞音絶唱渓・上銀漢渡月橋である。この十景に加え、石を積んで山霧のような景色を再現し、木々を植えて風浪の音を移した様子は、慧崇や韋偃という画家が描いた山水画をも凌ぐ風情であった。康永4年(1345年)に完成するとこの寺は五山制度で第二位となり、皇室の勅願所としても武家の祈願所としても機能し、千人もの僧侶を擁することになった。
○山門の訴えと公卿会議のこと 解説【権力と宗教結合の構造】
【景観設計にみる思想的背景】
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| 凡天下の鼓騒、洛中の壮観と聞へしかば、例の山門の大衆忿をなし、夜々の蜂起、谷々の雷動無休時。あはや天魔の障碍、法会の違乱出来ぬるとぞみへし。三門跡是を為静御登山あるを、若大衆共御坊へ押寄て、不日に追下し奉り、頓て三塔会合して大講堂の大庭にて僉議しける。其詞に云、「夫王道之盛衰者、依仏法之邪正、国家之安全者、在山門之護持。所謂桓武皇帝建平安城也。契将来於吾山、伝教大師開比叡山也。致鎮守於帝城。自爾以来、釈氏化導之正宗、天子本命之道場偏在真言止観之繁興。被専聖代明時之尊崇者也。爰頃年禅法之興行喧於世、如無顕密弘通。亡国之先兆、法滅之表事、誰人不思之。吾山殊驚嘆也。訪例於異国、宋朝幼帝崇禅宗、奪世於蒙古。引証於吾朝、武臣相州尊此法、傾家於当今。覆轍不遠、後車盍誡。而今天竜寺供養之儀、既整勅願之軌則、可及臨幸之壮観云々。事如風聞者、奉驚天聴、遠流踈石法師、於天竜寺以犬神人可令破却。裁許若及猶予者、早頂戴七社之神輿、可奉振九重之帝闕。」と僉議しければ、三千大衆一同に皆尤々とぞ同じける。同七月三日谷々の宿老捧款状陳参す。其奏状に云、延暦寺三千大衆法師等、誠恐誠惶謹言請特蒙天裁、因准先例、忽被停廃踈石法師邪法、追放其身於遠島、至天竜寺者、止勅供養儀則、恢弘顕密両宗教迹、弥致国家護持精祈状。 |
世間では噂となり都でも盛大と聞こえたため、例の延暦寺(比叡山)の僧侶たちが激しく憤慨し、毎夜のように騒動を起こし谷々に怒号が鳴り響いて止む時がない。ついには天魔による妨害や法会の混乱さえ起きかねない状況に見えた。三門(延暦寺)の高僧がこれを鎮めようと登ったところ、若手の大衆たちが一斉に御坊へ押し寄せてすぐさま追い出してしまい、直ちに東塔・西塔・横川の三塔が会合して大講堂の庭で協議した。その主張はこうである。「そもそも王朝の盛衰は仏法の正邪によるものであり、国家の安全は山門(延暦寺)の守護にかかっている。桓武天皇が平安京を建立された際には比叡山と未来を約束され、伝教大師(最澄)が比叡山を開いた時には都を鎮護する役割を果たした。以来仏教による教化で正統は天台宗にあり、天子の本命道場として真言密教や止観修行が栄えたため聖代において崇敬されてきたのである。近年禅法の流行が世間では騒がしいが顕密両教の普及を無視しており、これは亡国の兆候であり仏法滅亡の前触れであることは誰も否定できないだろう。当山は特に驚嘆している。外国の例を見れば宋の幼帝が禅宗を崇拝した結果蒙古に国を奪われたことから証明でき、わが朝では武家の相州(北条氏)がこの法を尊んだため現代において幕府は滅亡寸前である。覆った車輪の痕跡は遠くないのだから後続の車は警戒すべきだ。しかるに今や天竜寺供養の儀式は勅願による手順も整い上皇行幸という壮観に及ぼうとしているとのことである。(もし噂が真実なら)畏れ多くも天子へ驚きを奉じ、夢窓疎石法師を遠島流刑とし天竜寺は犬神人(比叡山の武力集団)を使って破壊させるべきだ。裁決に猶予がある場合には早急に七社(日吉神社)の神輿を担ぎ出して九重の宮廷へ押しかけるつもりである。」と協議したところ三千人の大衆全員が一同に「尤もなり」と賛同した。同年七月三日、各谷宿老たちは嘆願書を捧げて参内し奏上した。その内容にはこうあった。「延暦寺三千人大衆法師ら恐れ謹んで申し上げます。特段の天裁をお願いするとともに先例に基づき早急に夢窓疎石法師の邪法を廃止して遠島へ追放し、天竜寺に関しては勅命供養儀式を中止させ顕密両宗の教えと事跡を広め国家守護への祈りを一層強めることを請願する旨。」 解説【宗教権力闘争の構図】
【南北朝期権力構造との連動】
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| 右謹考案内、直踏諸宗之最頂、快護百王之聖躬、唯天台顕密之法而已。仰之弥高、誰攀一実円頓之月。鑽之弥堅、曷折四曼相即之花。是以累代之徳化、忝比叡運於当山。諸刹之興基、多寄称号於末寺。若夫順則不妨、建仁之儀在前。逆則不得、嘉元之例在後。今如疎石法師行迹者、食柱蠧害、射人含沙也。亡国之先兆、大教之陵夷、莫甚於此。何以道諸、纔叩其端、暗挙西来之宗旨、漫破東漸之仏法。守之者蒙缶向壁、信之者緘石為金。其愚心皆如斯矣。加旃、移皇居之遺基、為人処之栖界、何不傷哉。三朝礼儀之明堂云捐、為野干争尸之地、八宗論談之梵席永絶、替鬼神暢舌之声。笑問彼行蔵何所似。譬猶調達萃衆而落邪路、提羅貪供而開利門。嗚呼人家漸為寺、古賢悲而戒之、矧於皇居哉。聞説岩栖澗飲大忘人世、道人之幽趣也。疎石独背之。山櫛藻■、自安居所、俗士之奢侈也。疎石尚過之。韜光掩門、何異踰墻之人。垂手入市倉、宛同執鞭之士。天下言之嗽口、山上聞之洗耳処、剰今儼臨幸之装、将刷供養之儀。因茲三千学侶忽為雷動、一紙表奏、累奉驚天聴。於是有勅答云、天竜寺供養事、非厳重勅願寺供養、准拠当寺、奉為後醍醐天皇御菩提、被建立訖。而追善御仏事、武家申行之間、為御聴聞密々可有臨幸歟之由、所有其沙汰也。 |
以上慎重に考察したところによれば、真っ直ぐにあらゆる宗派の頂点を踏み越え、数多の帝王の御身を守護し得るのは天台宗の顕密両法のみである。仰ぎ見ればなお高く誰が一実円頓(仏教真理)の月へ届けようか。探求すれば堅く四曼相即(密教宇宙観)の花は容易に折れない。それゆえ歴代天皇の徳による治世も、比叡山におけるご加護のお陰と深く関わるのである。諸寺院の創建基盤さえ多く末寺称号を付与されるのが常である。もし順守するなら妨げず(禅宗容認は)建仁寺建立が先例となろう。逆らえば許されないのは嘉元事件処分後の道理だ。今や夢窓疎石法師の行状は柱を食い荒す虫害のように内部から腐敗させ、人に向け砂を含む毒矢(陰険な攻撃)に等しい。亡国の兆しと仏教衰退はこれ以上ないほど甚大である。どう説明できようか? 彼が端緒を示せば西来の禅宗旨をひそかに称揚して東漸した日本仏法を無造作に破壊する。これを信奉する者は甕に向かい壁を見つめる(真理盲信)如く、妄信すれば石を金と見做す愚かさである。その心根は皆この通りだ。加えて皇居の遺構跡地へ移り住んで人の居住区としたのは何たる無礼か? 三朝にわたる祭祀が行なわれた清浄なる堂宇(大内裏)を捨て去らせ野狐が死骸争う場となり、八宗論議の聖域は永遠に絶え鬼神が舌鼓打つ声と化した。笑って問おう彼らの行動はいったい何に似ているか? 提婆達多(釈迦仏敵)が徒党集めて邪道堕ちた例にも等しく、提羅(貪欲比丘)の供物漁りと同じ利己的門戸開放である。ああ民家すら寺院化する風潮に昔の賢人は嘆き戒めたのに、ましてや皇居跡をとは! 岩穴住み谷水飲む隠遁生活は世間忘れた道人(修行者)の本懐と聞くが疎石法師はそれに背いた。山で櫛を使い藻飾るのは俗人の奢侈だが彼はなお過剰である。光を潜め門を閉じ乍らも塀越しする者は盗人と変わらず、市倉へ手を差し伸べれば鞭取る商人同然だ。「天下が語り口漱ぐ」不浄な行いを山(比叡山)で聞けば耳洗うほどの所業であり、今まさに威儀正しい行幸の準備と供養式典整備は言語道断である。こうした理由から三千の学僧たちが雷鳴のように騒動立ち一紙の奏上文を繰り返し畏れ多くも天子へ奉じたところ勅答があった。「天竜寺供養に関しては厳粛な勅願寺院式典ではなく当該寺院自体の基準に従い、後醍醐天皇御菩提追善のために建立済みである。追善法要を武家(幕府)が執り行うにあたり上皇密々行幸による聴聞計画はある由だが、それら全て沙汰事項だ」とのことである。 解説【排他性の極致化された主張構造】
【空間的冒涜と政治的含意】
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| 山門訴申何篇哉云云。就綸宣訪往事、捨元務末、非明王之至徳。軽正重邪、豈仏意所帰乎。而今九院荒廃、而旧苔疎補侵露之隙、五堂回禄而昨木未運成風之斧。吾君何閣天子本命之道場、被興犢牛前身之僧界。偉哉、世在淳朴四花敷台嶺、痛乎、時及澆薄、五葉為叢林。正法邪法興廃粲然而可覿之。倩看仏法滅尽経文、曰我滅尽期、五濁悪世、魔作沙門、壊乱吾道、但貪財物積集不散。誠哉斯言、今疎石是也。望請天裁急断葛藤、於天竜寺者、須令削勅願之号停止勅会之儀、流刑疎石、徹却彼寺。若然者、法性常住之灯長挑、而耀後五百歳之闇、皇化照耀之自暖、而麗春二三月之天。不耐懇歎之至矣。衆徒等誠恐誠惶謹言。康永四年七月日三千大衆法師等上とぞ書たりける。奏状内覧に被下て後、諸卿参列して此事可有如何と僉議あり。去共大儀なれば満座閉口の処に、坊城大納言経顕卿進で被申けるは、「先就山門申詞案事情、和漢の例を引て、此宗を好む世は必不亡云事なしと申条、愚案短才の第一也。其故は異国に此宗を尊崇せし始を云ば、梁武帝、対達磨聞無功徳話を、大同寺に禅坐し給しより以来、唐代二百八十八年、宋朝三百十七年、皆宝祚長久にして国家安静也。我朝には武臣相摸守此宗に傾て、九代累葉を栄へたり。而に幼帝の時に至て、大宋は蒙古に被奪、本朝には元弘の初に当て、高時一家を亡事は、全非禅法帰依咎、只政を乱り驕を究し故也。 |
山門(比叡山)が訴状で何を主張したかと言えば——綸旨(勅命)によって過去の事例を尋ねれば、根本を捨て枝末にこだわるのは明君の徳ではない。正法を軽んじ邪法を重んずることは仏意にかなうはずがない。現在では九院が荒廃し古い苔も屋根の隙間からの雨漏りを防ぎきれず、五堂は火災で焼失したのに再建用材すら未搬入だ。我が君(天皇)はなぜ天子ご本願の道場(比叡山)を放置し、牛畜生転生のような僧侶(疎石)の寺ばかり建立されるのか? 嘆かわしいことに世が純朴であった時代には四花(天台教学)が台嶺に咲き誇ったのに、今や風紀退廃で五葉(禅宗)が叢林を占める。正法と邪法の盛衰は明らかに見て取れる。仏教滅尽経文を見よ——「我が入滅後の世では五濁悪世となり魔が沙門に化け、我が教えを破壊し乱すだろう。ただ財物を貪り蓄積するだけだ」とある。誠にもってこの言葉通りで今の疎石こそ該当者である。伏して願う——天皇ご裁断により早急に葛藤(問題)を解決されよ。天竜寺については勅願寺号削除・法会儀式停止、疎石流罪、同寺撤去をお命じください。そうすれば仏法の灯は永遠に輝き後五百年の闇を照らし、天皇のお導きが春二三月の天のように麗しく広まるでしょう。誠に痛切なる嘆願であります。衆徒一同謹んで申し上げます——康永四年七月日 三千大衆法師等上と記されていた。奏状が内覧された後、公卿たちが参集して「この件をどうすべきか」と評議したところ、「あまりに重大事なので一同黙り込んだところで坊城大納言経顕卿が進み出て申し上げた——『まず山門の訴状内容につき、和漢の先例を引いて「この宗(禅)を好む世は必ず滅びない」と主張する点こそ浅慮短才の最たるものだ。その理由は異国でこの宗が尊ばれた初例と言えば梁武帝——達磨より功徳無しとの話を聞き大同寺に坐禅された後、唐代288年・宋代317年いずれも皇位長久・国家安泰だった。我が朝では相模守(北条時頼)がこの宗に傾倒して九代繁栄した。ところが幼帝の時代になると大宋は蒙古に奪われ、本朝元弘初めには高時一家滅亡——これは禅法帰依の咎ではなく政治乱れ驕奢極めた故だ』と。 解説【訴状核心部の三段構成】
【朝廷評議場面の戦略的価値】
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| 何必しも治りし世を捨て、亡びし時をのみ取んや。是■濫謀訴也。豈足許容哉。其上天子武を諱とし給ふ時は、世の人不謂武名、況乎此夢窓は三代の国師として四海の知識たり。山門縱訴を横すとも、義を知礼を存せば、過言を止て可仰天裁。漫疎石法師を遠島へ遣し、天竜寺を犬神人に仰て可破却と申条、奇怪至極也。罪科不軽。此時若錯刑者向後の嗷訴不可絶。早三門跡に被相尋、衆徒の張本召出し、断罪流刑にも可被行とこそ存候へ。」と、誠に無余儀被申ける。此義げにもと覚る処に、日野大納言資明卿被申けるは、「山門聊嗷訴に似て候へ共、退て加愚案一義有と存候。其故は日本開闢は自天台山起り、王城の鎮護は以延暦寺専とす。故に乱政行朝日は山門是を諌申し、邪法世に興る時は衆徒是を退る例其来尚矣。先後宇多院御宇に、横岳太応国師嘉元寺を被造時、山門依訴申其儀を被止畢。又以往には土御門院御宇元久三年に、沙門源空専修念仏敷演の時、山門訴申て是を退治す。後堀河院御宇嘉禄三年尚専修の余殃を誡て、法然上人の墳墓を令破却。又御鳥羽院御宇建久年中に、栄西・能忍等禅宗を洛中に弘めし時、南都北嶺共起て及嗷訴。而に建仁寺建立に至て、遮那・止観の両宗を被置上へ、開山以別儀可為末寺由、依被申請被免許候き。 |
「なぜわざわざ治まった時代は捨て置き、滅びた時ばかり取り上げようとするのか?これは乱暴な訴えである。到底許容できまい。その上、天子(天皇)が武力を忌み嫌われる時に世の人は武名を称えないのに、ましてやこの夢窓(疎石)は三代に渡る国師として天下に知られた高僧だ。山門(比叡山)が横暴な訴えをしても、(彼が)義理を知り礼節を持っているなら、過剰な主張は控えて天皇の裁断を仰ぐべきである。(山門が)むやみに疎石法師を遠島へ流し、天竜寺を犬神人(非人階級)に命じて破壊せよと訴える条項など奇怪極まりない。罪状は軽くない。もしこの時刑罰を誤れば将来の騒擾訴訟が絶えなくなるだろう。早急に三門跡(比叡山三塔の統括者)へ問い合わせ、衆徒たちの訴状原本を取り寄せた上で、断罪や流刑を行うべきだと存じます。」と、実に切迫した様子で述べられた。(この意見が妥当と思われたところ、日野大納言資明卿が申し出て——)「山門の訴えは少々騒擾訴訟めいておりますが、改めて愚見を一つ加えたく存じます。その理由として日本建国の起源は天台山(中国)から始まり、王城鎮護は延暦寺に専ら依ってきたためです。(ゆえに)乱政が朝廷で行われる時は山門がこれを諫め、邪法が世にはびこれば衆徒が排除する慣例の由来は古い。まず宇多天皇治世下では横岳太応国師が嘉元寺を建立しようとした際、山門の訴えにより中止された。さらに過去にさかのぼると土御門天皇治世・元久三年(1206年)には沙門源空(法然)が専修念仏を広めた時、山門が訴えてこれを追放した。後堀河天皇治世・嘉禄三年(1227年)にもなお専修念仏の余弊を戒め、法然上人の墳墓を破壊させている。また鳥羽天皇治世建久年間(1190-99年)、栄西や能忍らが禅宗を京都で広めた際には南都(興福寺)北嶺(比叡山)ともに騒擾訴訟に及んだ。しかし建仁寺建立の段階では、遮那・止観両宗(真言・天台教学)を併置し、開山が別途儀礼を行えば末寺として認める旨、(禅僧側から)申請があって許可された経緯があります。」 解説【朝廷内対立の論理構造】
【引用された宗教弾圧史の意味】
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| 惣て仏法の一事に不限。百王の理乱四海の安危、自古至今山門是を耳外に不処、所謂治承の往代に、平相国清盛公、天下の権を執て、此平安城を福原の卑湿に移せし時も、山門独捧奏状、終に遷都の儀を申止畢ぬ。是等は皆山門の大事に非ずといへども、仏法与王法以相比故、被裁許者也。抑禅宗の摸様とする処は、宋朝の行儀、貴ぶ処は祖師の行迹也。然に今の禅僧之心操法則、皆是に相違せり。其故は、宋朝には西蕃の帝師とて、摩訶迦羅天の法を修して朝家の護持を致す真言師あり。彼れ上天の下、一人の上たるべき依有約、如何なる大刹の長老、大耆旧の人も、路次に行会時は膝をかゞめて地に跪き、朝庭に参会する時は伸手沓を取致礼といへり。我朝には不然、無行短才なれども禅僧とだに云つれば、法務・大僧正・門主・貫頂の座に均からん事を思へり。只今父母の養育を出たる沙弥喝食も、兄を超父を越んと志あり。是先仁義礼智信の法にはづる。曾て宋朝に無例我朝に始れり。言は語録に似て、其宗旨を説時は、超仏越祖の手段有といへども、向利に、他之権貴に媚る時は、檀那に諂ひ富人に不下と云事なし。身には飾五色食には尽八珍、財産を授て住持を望み、寄進と号して寄沙汰をする有様、誠に法滅の至りと見へたり。 |
「総じて仏教に関する事柄だけにとどまらない。歴代帝王の治世混乱や天下の安寧は、古くから今まで比叡山衆徒がこれを無視せずにきたのである。いわゆる治承年間(1177-1181年)には、平清盛公が天下の権力を掌握しこの平安京を福原(神戸市兵庫区)の低湿地帯へ移そうとした時も、比叡山衆徒だけが奏上状を捧げて遷都計画を取り止めさせた。これらの事例は皆、比叡山にとって直接的な問題ではないといえども、仏法と王権(政治)が相互に依存する関係にあるため裁可されてきたのである。そもそも禅宗の模範とするのは中国宋朝における作法であり、重視すべき点は祖師たちの行跡である。しかし現在の禅僧の心構えや行動規範はこれら全てに反している。その理由として、宋朝では『西蕃(チベット)出身の帝師』と呼ばれ摩訶迦羅天(マハーカーラ神)の法を修して朝廷守護を行う真言師がいた。(彼は)天下で唯一無二の存在と定められており、いかに大寺院の長老や高僧でも道中で出会えば膝を屈めて地に跪き、宮廷参内時には靴を取り上げる礼儀があったという。しかし我が国ではそうではない。(修行もせず才能も乏しいのに)禅僧と名乗ればすぐ法務・大僧正・門主(寺院統括者)といった最高位の地位を手に入れようとする。今や親元から出たばかりの見習い僧ですら兄を超え父を越える野心を持つ。(これは根本的に)仁義礼智信という道徳規範に背く行為であり、かつて宋朝には例がなく我が国で初めて現れた現象だ。言葉は禅語録(公案集)を用いて教義を説く時は『仏をも祖師をも超越する手段あり』と豪語しながら利益追求の場面では権力者に媚び、施主へ諂い富者には平伏しないことがない。(さらに)身なりは五色絹で飾り食卓には八珍(山海の珍味)を尽くし、財産目当てで寺院住職を望み『寄進』と称して物乞いに等しい行為を行う様子は、まさに仏教衰退の極みと思われる。」 解説【天台宗側の禅僧批判構造】
【発言背景における宗教的対立】
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| 君子恥其言過其行と云り。是豈知恥云乎。凡有心人は信物化物をみじと可思。其故は戒行も欠、内証も不明ば、所得の施物、罪業に非と云事なし。又道学の者に三機あり。上機は人我無相なれば心に懸る事なし。中機は一念浮べ共、人我無理を観ずる故に二念と相続で無思事。下機は無相の理までは弁ぜね共、慙愧懺悔の心有て諸人を不悩慈悲の心あり。此外に応堕地獄者有べしと見へたり。人の生渡を失はん事を不顧、他の難非を顕す此等也。凡寺を被建事も、人法繁昌して僧法相対せば、真俗道備て尤可然。宝堂荘厳に事を寄、奇麗厳浄を雖好と、僧衆無慈悲不正直にして、法を持し人を謗して徒に明し暮さば、仏法興隆とは申難かるべし。智識とは身命を不惜随逐給仕して諸有所得の心を離て清浄を修すべきに、今禅の体を見るに、禁裏仙洞は松門茅屋の如くなれば、禅家には玉楼金殿をみがき、卿相雲客は木食草衣なれば、禅僧は珍膳妙衣に飽けり。祖師行儀如此ならんや。昔摩羯陀国の城中に一人の僧あり。毎朝東に向ては快悦して礼拝し、北に向ては嗟嘆して泪を流す。人怪みて其謂を問に答て云、「東には山中に乗戒倶に急なる僧、樹下石上に坐して、已に証を得て年久し。仏法繁昌す。故に是を礼す。北には城中に練若あり。 |
「『君子はその言葉が行動より上回ることを恥じる』と言われる。(では)これは果たして恥を知っているといえるだろうか?概して心ある者は信者からの布施や供養を軽んじてはいけない。なぜなら戒律の行いも欠け、悟りの境地も明らかにしていないのに得た寄進物が罪業ではないとは言えないからだ。また仏道修行者には三つの根機がある。上根は自我と他者の区別がないので心に執着しない。中根は一瞬の妄念が浮かんでも、『人我差別』が非合理だと観じて二度と思い続けない。下根は無相(形なき真理)を理解できなくとも恥じ入り懺悔する心があり、他人に迷惑をかけない慈悲を持つ。この他にも地獄堕ちすべき者がいるようだ—人の命の危険さえ顧みず、ひたすら他人の過失を暴く者たちがそれである。そもそも寺を建立することも、僧と仏法が調和して栄えるならば俗世と仏道の両方が備わって理想的だ。(しかし)立派な堂宇や荘厳にこだわり華美で清浄な外観は好むものの、僧衆に慈悲心なく不正で、教えを盾にして人を誹謗し無駄に日々を過ごすならば仏法興隆とは言い難い。修行仲間(智識)とは命をも惜しまず師弟随従して仕えながら一切の所有欲から離れ清浄を修めるべき存在だが、今の禅宗実態を見ると天皇や上皇は松の門に茅葺き屋根のような質素なのに、禅僧らは玉楼金殿(豪華な建物)を磨き上げ公卿隠者は粗食布衣なのに、禅僧たちは珍味と美服で飽いている。祖師の行儀がこのようなものだっただろうか?昔摩羯陀国(マガダ国)の都に一人の僧がいた毎朝東に向けて喜んで礼拝し北に向けて嘆息して涙を流す人々が怪しみ理由を問うと彼は答えた『東方山中には戒律と修行両方に励む僧たちが木陰や岩上で座禅し既に悟りを得て久しい仏法が栄えている故礼拝する北方の都中にある寺院では(堕落した)隠遁者が』」 解説【批判的核心:言行一致と道徳的腐敗】
【三機論による修行者分類】
【建寺批判と理想像の対比】
【祖師正統性とインド故事引用】
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| 数十の堂塔甍を双べ、仏像経巻金銀を鏤たり。此に住する百千の僧俗、飲食衣服一として乏しき事なし。雖然如来の正法を究めたる僧なし。仏法忽に滅しなんとす。故に毎朝嗟傷す。」と、是其証也。如何に寺を被造共人の煩ひ歎のみ有ては其益なかるべし。朝廷の衰微歎て有余。是を見て山門頻に禁廷に訴ふ。言之者無咎、聞之者足以誡乎。然らば山門訴申処有其謂歟とこそ存候へ。」と、無憚処ぞ被申ける。此両義相分れて是非何れにかあると諸卿傾心弁旨かねたれば、満座鳴を静めたり。良有て三条源大納言通冬卿被申けるは、「以前の義は只天地各別の異論にて、可道行とも不存。縦山門申処雖事多、肝要は只正法与邪法の論也。然らば禅僧与聖道召合せ宗論候へかしとこそ存候へ。さらでは難事行こそ候へ。凡宗論の事は、三国の間先例多く候者を。朝参の余暇に、賢愚因縁経を開見候しに、彼祇園精舎の始を尋れば、舎衛国の大臣、須達長者、此国に一の精舎を建仏を安置し奉らん為に、舎利弗と共に遍く聚落園林を廻て見給ふに、波斯匿王の太子遊戯経行し給ふ祇陀園に勝れたる処なしとて、長者、太子に此地を乞奉る。祇陀太子、「吾逍遥優遊の地也。容易汝に難与。但此地に布余す程の金を以て可買取。」とぞ戯れ給ける。 |
「数十もの堂塔の屋根が並び立ち、仏像や経巻は金銀で飾られている。ここに住む数多くの僧侶や在家信者は飲食物も衣服も何一つ不足がない。しかしながら如来の正しい教えを究めた僧はいない。佛法は急いで滅ぼうとしている。そのため毎朝嘆き悲しんでいる。」と言うのが、これが証拠だ。どれほど立派な寺を建てても人々の煩いや嘆きばかりあってはその利益がないだろう。朝廷の衰退も十分に嘆くべきことである。これをみて比叡山(天台宗)が頻繁に宮中へ訴え出る。「言う者は責められず、聞く者には戒めとするのに足りる」と言い遠慮なく述べられた、「それならば比叡山の申し立てにも道理があるのかと思われるのだが」。このように二つの意見が対立してどちらが正しいか公卿たちは頭を悩ませ結論が出せないため、会場全体が静まり返った。しばらくすると三条家の源氏で大納言である通冬卿(みちふゆきょう)がおっしゃるには、「以前の議論は全く異なる意見であり実行可能とも思わない。たとえ比叡山が訴えることが多くても肝心なのは正しい教法か誤った邪法かの論争である。それなら禅僧(臨済宗など)と天台宗を呼び合わせて宗教討論を行わせようと思うのだが、そうしなければ難しい問題だ。(というのも)一般的に宗教討論のことはインド・中国・日本の三国の間で多くの先例があることよ。朝廷への参内の余暇に『賢愚因縁経』というお経を開いてみたところあの祇園精舎の始まりを尋ねると、舎衛国の大臣である須達長者が自国に一つの僧院を建て仏像をお祀りしようとしてシャーリプトラ(舎利弗)と共にあちこちの村落や庭園を回って見られたが波斯匿王の太子が遊び散歩されていた祇陀園ほど優れた場所がないとして、長者が太子にこの土地をお願い申し上げた。すると祇陀太子は「これは私がゆったりと楽しむ土地だよ簡単には譲れないなあただしこの地一面に敷き詰めるほどの金でなら買い取るといい」と冗談めかしておっしゃった。」 解説【天台宗の主張:仏教衰退への警告】
【公卿会議の膠着と解決案】
【祇陀太子譲渡話の戦略的位置付け】
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| 長者此言誠ぞと心得て、軈て数箇の倉庫を開き、黄金を大象に負せ、祇陀園八十頃の地に布満て、太子に是を奉る。祇陀太子是を見給て、「吾言戯れ也。汝大願を発して精舎を建ん為に此地を乞。何の故にか我是を可惜。早此金を以て造功の資に可成。」被仰ければ、長者掉首曰、「国を可保太子たる人は仮にも不妄語。臣又苟不可食言、何ぞ此金を可返給。」とて黄金を地に棄ければ、「此上は無力。」とて金を収取て地を被与。長者大に悦で、軈て此精舎を立んと欲する処に、六師外道、波斯匿王に参て申けるは、「祇陀太子、為瞿曇沙門須達に祇陀園を与て精舎を建んとし給。此国の弊民の煩のみに非ず。世を失ひ国を保給ふまじき事の瑞也。速に是を停給へ。」とぞ訴へける。波斯匿王、外道の申処も有其謂、長者の願力も難棄案じ煩ひ給て、「さらば仏弟子と外道とを召合せ神力を施させ、勝負に付て事を可定。」被宣下しかば、長者是を聞て、「仏弟子の通力我足の上の一毛にも、外道は不及。」とぞ欺給ひける。さらばとて「予参の日を定め、通力の勝劣を可有御覧。」被宣下。既其日に成しかば、金鼓を打て見聞の衆を集め給ふ。舎衛国の三億悉集、重膝連座。斯る処に六師外道が門人、如雲霞早参じて著座したるに、舎利弗は寂場樹下に禅座して定より不出給。 |
長者はこの言葉が真実であると思い込み、すぐにいくつかの倉庫を開けさせ、象に黄金を背負わせて祇陀園の八十ヘクタールもの土地一面に敷き詰め、太子に献上した。祇陀太子はこれを見られて、「私の発言は冗談だったのだよ。あなたが大きな誓願を立て精舎を建立しようとこの地を求めるなら、なぜこれを惜しもうか? 早くこれらの金で建設費用の足しにするがよい」と言われた。長者は首を振って「国を治められる太子様のような方は決して偽りの言葉をおっしゃらないはずです。私もまた軽率に約束を破るわけにはいきません、どうかこの黄金はお返しくださいませ」と述べると地に金を投げ捨てたため、「これ以上は致し方ない」と言って太子が金を受け取り土地を与えられた。長者は大いに喜び、さっそく精舎の建設を始めようとしたところ、六人の外道師(仏教批判者)たちが波斯匿王のもとに参上して訴えた。「祇陀太子は釈迦僧のために須達に祇陀園を与え精舎を建てさせなさっています。これは領民の迷惑になるだけでなく、世の中を混乱させ国家維持をも不可能にする凶兆です。早急にお止めください」と申し立てたのであった。波斯匿王は外道たちの主張にも一理あり、長者の信仰心も無視できず悩まれた末、「それならば仏弟子たちと外道を呼び集めて超自然的な力を競わせ、その勝敗で結論をつけよう」と裁定された。この話を聞いた長者は「仏弟子の神通力は私の足の毛一本にも及ばないほどに、外道など敵いませんよ」と言って笑われた。「では決着日時を定め、能力優劣を見極めることにしよう」との命が下る。当日になると銅鑼を打ち鳴らし見物人を集めたところ、舎衛国の三億もの民衆全員が押し寄せ膝を重ねて座った。そのような状況で六師外道の弟子たちは雲霞のように早々に参じて着席したのに、シャーリプトラ(舎利弗)だけは静かな森の中で坐禅を組み瞑想から出ようとされなかった。 解説【黄金譲渡場面の象徴性】
【宗教対立の構図深化】
【舎利弗不出場の戦術的意味】
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| 外道が門徒、「さればこそ、舎利弗我師の威徳に臆して退復し給ふ。」と笑欺ける処に、舎利弗定より起て衣服を整へ、尼師壇を左の肩に著け、歩む事如師子王来り給ふ。此時不覚外道共五体を地に著て臥ける。座定て後外道が弟子労度差禁庭に歩出て、虚空に向ひ目を眠り口に文咒したるに、百囲に余る大木俄に生出て、花散春風葉酔秋霜。見人奇特の思をなす。後に舎利弗口をすぼめて息を出し給ふに、旋嵐風となり、此木を根より吹抜て地に倒ぬ。労度差又空に向て呪する。周囲三百里にみへたる池水俄に湧出して四面皆七宝の霊池となる。舎利弗又目を揚て遥に天を見給へば、一頭六牙の白象空中より下る。一牙の上に各七宝の蓮花を生じ、一々の花の上に各七人の玉女あり。此象舌を延て、一口に彼池水を呑尽す。外道又虚空に向て且咒したるに、三の大山出現して上に百余丈の樹木あり。其花雲を凝し、其菓玉を連たり。舎利弗爰に手を揚て、空中を招き給ふに、一の金剛力士、以杵此山を如微塵打砕く。又外道如先呪するに、十頭の大龍雲より下て雨を降雷を振ふ。舎利弗又頭を挙て空中を見給ふに、一の金翅鳥飛来、此大龍を割喰。外道又咒するに、肥壮多力の鉄牛一頭出来て、地を■て吼へ忿る。舎利弗一音を出して咄々と叱し給ふに、奮迅の鉄師子走出て此牛を喰殺す。 |
外道の弟子たちが「やはり舎利弗(シャーリプトラ)は我々の師匠の威徳に恐れをなして逃げ出したのだ」と嘲笑していたところ、舎利弗は瞑想から立ち上がって衣装を整え、坐具を左肩にかけ、獅子王のように悠然と歩いてやって来られた。この瞬間、外道たちは気づかぬうちに五体投地して地面にひれ伏した。着席後、外道の弟子である労度差(ラートゥカ)が庭中に出て虚空に向かい目を閉じ呪文を唱えると、百人で抱えきれないほどの大樹が突然生え出し、花びらは春風に散り葉は秋霜に輝いた。見物人は驚嘆の声をあげた。続いて舎利弗が口をすぼめて息を吐かれると旋風となり、この木を根こそぎ吹き倒した。労度差が再び空に向かい呪文を唱えると周囲三百里に及ぶ池水が湧き出し、四方すべて七宝で飾られた霊池となった。舎利弗は目を見開いて遥か天界をご覧になると、一つの頭に六本の牙を持つ白象が空中から降り立った。各牙の先には七宝の蓮華が生え、それぞれの花上には玉のような乙女が七人ずつ乗っていた。この象は舌を伸ばし一気に池水を飲み干した。外道はまた虚空に向かって呪文を唱えると三つの大山が出現し、頂上には百丈もの樹木があり花は雲のように咲き乱れ果実は宝玉を連ねた。舎利弗はここで手を挙げ空中に招かれると、一人の金剛力士が杵を持って現れこの山を微塵に打ち砕いた。さらに外道が前同様呪文を唱えると十頭の大龍が雲間から降り雨を降らせ雷を轟かせた。舎利弗は再び首を上げて空中をご覧になると、一羽の金翅鳥(ガルダ)が飛来しこの大龍を切り裂いて喰らった。外道がまた呪文を唱えると逞しく力強い鉄牛が一体現れ大地を踏み鳴らして怒り吼えた。舎利弗は一喝「咄々!」と叱声を与えられると、猛り狂う鉄の獅子が躍り出てこの牛を喰い殺した。 解説【神通比べの構造的意図】
【象徴的解釈】
【宗教的メッセージ】
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| 外道又座を起て咒するに、長十丈余の一鬼神を現ぜり。頭の上より火出て炎天にあがり、四牙剣よりも利にして、眼日月を掛たるが如し。人皆怖れ倒れて魂を消処に、舎利弗黙然として座し給ひたるに、多門天王身には金色の胄を著し、手に降伏の鋒をつきて出現し給ふに、此鬼神怖畏して忽に逃去ぬ。其後猛火俄に燃出、炎盛に外道が身に懸りければ、外道が門人悉く舎利弗の前に倒れ臥て、五体を地に投、礼をなし、「願は尊者慈悲の心を起して哀愍し給へ。」と、己が罪をぞ謝し申ける。此時舎利弗慈悲忍辱の意を発し、身を百千に化し、十八変を現して、還て大座に著給ふ。見聞の貴賎悉宿福開発し、随喜感動す。六師外道が徒、一時に皆出家して正法宗に帰服す。是より須達長者願望を遂て、祇園精舎建しかば、厳浄の宮殿微妙の浄刹、一生補処の菩薩、聖衆此中に来至し給へば、人天大会悉渇仰の頭を傾ける。又異朝に後漢の顕宗皇帝、永平十四年八月十六日の夜、如日輪光明を帯たる沙門一人、帝の御前に来て空中に立たりと御夢に被御覧、夙に起て群臣を召て御夢を問給に、臣傅毅奏曰、「天竺に大聖釈尊とて、独の仏出世し給ふ。其教法此国に流布して、万人彼化導に可預御瑞夢也。」と合せ申たりしが、果して摩騰・竺法蘭、仏舎利、並四十二章経を渡す。 |
外道が再び立ち上がり呪文を唱えると、身長十丈(約30メートル)余りの鬼神一体を出現させた。その頭の上からは火が出て天を焦がし、四本の牙は剣よりも鋭く、目は日月を掛けたかのように輝いていた。人々は皆恐怖で倒れ魂を失う中、舎利弗(シャーリプトラ)が静かに座しておられたところ、多門天(毘沙門天)が金色の甲冑を身にまとい手には降魔の矛を持って現れると、この鬼神は恐怖してたちまち逃げ去った。その後突然猛火が燃え上がり炎が外道自身にかかったため、外道の弟子たち全員が舎利弗の前にひれ伏し五体を地に投じて礼拝し、「尊者よどうか慈悲の心をおこして哀れんでください」と自らの罪を詫び申し上げた。この時舎利弗は慈悲と忍耐の意思を示され、身体を百千(無数)に変化させ十八種の神通力を現じ再び大座につかれた。これを見聞きした身分高低を問わぬ人々全てが宿縁により仏心が開かれ深く感動した。六師外道とその弟子たちは一斉に出家し正統仏教へ帰依したのである。こうして須達長者は願いを成就させ祇園精舎(ジェータヴァナ僧院)を建立したため、荘厳な宮殿や微細なる清浄世界が現れ、一生補処の菩薩(弥勒など)と聖衆たちもここに集まられたので人間界・天界の大衆は皆ひたすら敬慕の念を示した。また別の国では後漢の顕宗皇帝が永平十四年八月十六日の夜、「太陽のように光る一人の僧侶が御前の空中に立つ」という夢をご覧になり、早朝から臣下を集め夢解釈をお尋ねになったところ、傅毅(ふきつ)大臣が奏上した「天竺には大聖人釈尊と称される仏陀がいらっしゃいます。その教えが我が国に伝わる予兆の御夢想でしょう」という言葉通り、後に摩騰・竺法蘭(中国初渡来僧)が仏舎利及び『四十二章経』を携えて到来したのである。 解説【鬼神降伏場面の宗教的意義】
【祇園精舎建立後の世界観転換】
【顕宗皇帝夢解釈の歴史的背景】
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| 帝尊崇し給事無類。爰に荘老の道を貴で、虚無自然理を専にする道士列訴して曰、「古五帝三皇の天下に為王より以来、以儒教仁義を治め、以道徳淳朴に帰し給ふ。而るに今摩騰法師等、釈氏の教を伝へて、仏骨の貴き事を説く。内聖外王の儀に背き、有徳無為の道に違へり。早く彼法師を流罪して、太素の風に令復給べし。」とぞ申ける。依之、「さらば道士と法師とを召合せて、其威徳の勝劣を可被御覧。」とて、禁闕の東門に壇を高く築て、予参の日をぞ被定ける。既其の日に成しかば、道士三千七百人胡床を列て西に向ひ座す。沙門摩騰法師は、草座を布て東に向ひ座したりけり。其後道士等、「何様の事を以て、勝負を可決候や。」と申せば、「唯上天入地擘山握月術を可致。」とぞ被宣下ける。道士等是を聞て大に悦び、我等が朝夕為業所なれば、此術不難とて、玉晨君を礼し、焚芝荻呑気向鯨桓審、昇天すれども不被上、入地すれども不被入、まして擘山すれども山不裂、握月すれども月不下。種々の仙術皆仏力に被推不為得しか、万人拍手笑之。道士低面失機処に、摩騰法師、瑠璃の宝瓶に仏舎利を入て、左右の手に捧て虚空百余丈が上に飛上てぞ立たりける。上に著所なく下に踏所なし。仏舎利より放光明、一天四海を照す。 |
皇帝は非常に熱心に尊敬なさった。ここで道家(老子・荘子)の教えを重んじ虚無自然の理を専らにする道士たちが集団で訴えた、「古来五帝三王が天下を治めて以来、儒教の仁義によって統治し道徳的な純朴さに帰着なされてきました。ところが今摩騰法師らは仏教(釈氏)の教えを伝え仏舎利の尊いことを説きます。これは内面を聖とし外面を王とする規範にも背き、有徳でありながら無為である道教の道理に反しています。早急にその法師たちを流罪として太古の純粋な風習をお戻しください」と申した。これにより「ならば道士と法師を呼び集め彼らの威徳の優劣をご覧に入れよう」と言って皇居東門に高い壇を築き対決日を定めた。その日になると道士三千七百人が腰掛け椅子を並べて西向きに座った一方、僧侶である摩騰法師は草の敷物を広げて東向きに着席した。その後道士たちが「どのようなことで勝敗をお決めになるのですか」と問うと、「ただ天に昇り地に入り山を裂き月をつかむ術を行うことだ」と命じられた。道士らはこれを聞いて大いに喜び我々の日常的な技であるから容易だと、玉晨君(道教神)を礼拝し芝草を焚き息を呑み鯨桓審(仙術名)に向かったが天に昇ろうとしても上がらず地に入ろうとしても潜れずましてや山を裂こうにも山は割れず月をつかもうしても月は降りなかった。様々な仙術の全てが仏力によって阻まれ成果を得られないうちに人々は拍手し嘲笑した。道士たちがうつむいて機会を失ったところで摩騰法師は瑠璃の宝瓶に仏舎利(釈迦の遺骨)を入れ両手で捧げ虚空百丈余りの上へ飛び上がって立たれた。上方には着地点なく下方にも足場なしという状態であったが仏舎利から放つ光明が全天と四海を照らした。 解説【宗教対決の構造的意図】
【対決場面の心理描写効果】
【歴史的文脈】
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| 其光金帳の裏、玉■の上まで耀きしかば、天子・諸侯・卿大夫・百寮・万民悉金色の光に映ぜしかば、天子自玉■を下させ給て、五体を投地礼を成し給へば、皇后・元妃・卿相・雲客、悉信仰の首を地に著て、随喜の泪を袖に余す。懸りしかば確執せし道士共も翻邪信心銘肝つゝ、三千七百余人即時に出家して摩騰の弟子にぞ成にける。此日頓て白馬寺を建て、仏法を弘通せしかば、同時に寺を造事、支那四百州の中に一千七百三箇所なり。自是漢土の仏法は弘りて遺教于今流布せり。又我朝には村上天皇の御宇応和元年に、天台・法相の碩徳を召て宗論有しに、山門よりは横川慈慧僧正、南都よりは松室仲■已講ぞ被参ける。予参日に成しかば、仲■既南都を出て上洛し給けるに、時節木津河の水出て舟も橋もなければ、如何せんと河の辺に輿を舁居させて、案じ煩給たる処に、怪気なる老翁一人現して、「何事に此河の辺に徘らひ給ぞ。」と問ければ、仲■、「宗論の為に召れて参内仕るが、洪水に河を渡り兼て、水の干落る程を待也。」とぞ答給ひける。老翁笑て、「水は深し智は浅し、潜鱗水禽にだにも不及、以何可致宗論。」と恥しめける間、仲■誠と思て、十二人の力者に、「只水中を舁通せ。」とぞ下知し給ひける。輿舁、「さらば。 |
その光は金色の帳(とばり)の裏側や玉座の上まで輝いたため、天子・諸侯・卿大夫・百官から万民まですべてが金色の光に照らし出された。皇帝自ら玉座を降り五体投地して礼拝なさると、皇后・后妃・大臣たちは皆信仰深く頭を地面につけ、感動の涙で袖を濡らした。その結果、対立していた道士たちも改心して信心を肝に銘じ、三千七百余人が即座に出家し摩騰法師の弟子となったのである。この日ただちに白馬寺を建立し仏教を広めたところ、同時期に支那四百州の中で寺院を建てた数は千七百三カ所にも及んだ。これ以降中国において仏法は弘まりその教えは今日まで伝わることとなった。 また我が国(日本)では村上天皇の御代・応和元年(961年)に天台宗と法相宗の高僧を召して宗論(宗旨論争)があった。比叡山からは横川慈慧僧正、南都(奈良)からは松室仲■已講が参上された。対決当日となり仲■が南都を出て京都へ向かわれた際、折しも木津河の水かさが増して舟も橋もなかったため、どうしたものかと川辺で輿(こし)を据え置き悩んでおられたところ、一人の怪しい老翁が現れ「何故この川辺におさまよいになっているのか」と尋ねた。仲■は「宗旨論争のために参内する途中だが洪水で渡れず、水が引くのを待っているのだ」と答えられた。すると老翁は笑いながら「水深さに比べれば智慧浅し(知恵が足りぬ)。水中の魚や水鳥にも及ばない者がどうして宗旨論争などできようか」と侮辱したため、仲■は真剣になって十二人の輿担ぎ人夫へ「そのまま水中を進め」と指示された。輿舁(こしかき)たちが「承知いたしました。(続く)」 解説【仏教伝来の歴史的意義】
【日本宗論場面の特徴】
【説話構造の対照性】
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| 」とて水中を舁て通るに、さしも夥しき洪水左右に■と分れて、大河俄に陸地となる。供奉の大衆悉足をも不濡渡けり。慈慧僧正も、比叡山西坂下松の辺に車を儲させて下洛し給ふに、鴨河の水漲出、逆浪浸岸茫茫たり。牛童扣轅如何と立たる処に、水牛一頭自水中游出て車の前にぞ喘ぎける。僧正、「此牛に車を懸替て水中を遣。」とぞ被仰ける。牛童随命水牛に車を懸け一鞭を当たれば、飛が如く走出て、車の轅をも不濡、浪の上三十余町を游あがり、内裏の陽明門の前にて、水牛は書消様に失にけり。両方の不思議奇特、皆権者とは乍云、類少き事共也。去程に清涼殿に師子の座を布て、問者・講師東西に相対す。天子は南面にして、玉■に統■を挑げさせ給へば、臣下は北面にして、階下に冠冕を低る。法席既に定て、僧正は草木成仏の義を宣給へば、仲■は五性各別の理を立て難じて曰、「非情草木雖具理仏性、無行仏性、無行仏性何有成仏義。但有文証者暫可除疑。」と宣しかば、慈慧僧正則円覚経の文を引て、「地獄天宮皆為浄土、有性無性斉成仏道。」と誦し給ふ。仲■此文に被詰て暫閉口し給処に、法相擁護の春日大明神、高座の上に化現坐て、幽なる御声にて此文点を読替て教させ給けるは、「地獄天宮皆為浄土、有性も無性も斉成仏道。 |
「承知いたしました」と言って水中へ輿を担いで進むと、驚くほど激しい洪水が左右にぱっと分かれ、大河はたちまち陸地となった。供奉(お供)の人々も全員足元すら濡れずに渡ることができた。 一方慈慧僧正は比叡山西坂の松の辺りで車を用意して都へ下る途中、鴨川が氾濫し逆流した波が岸に浸かり見渡す限りの水景色となった。牛飼い少年が轅(ながえ)を握ってどうしようかと立ちすくんでいたところ、一頭の水牛が水中から泳ぎ出て車の前で息をついた。僧正は「この牛に車をつなげ替えて水中を行け」とお命じになった。少年は指示通り水牛に車をつなぎ一鞭を当てると飛ぶように走り出し、車の轅すら濡れることなく波の上を三十余町(約3.3km)泳いで上がり、内裏の陽明門前で水牛は文字が消えるかのように姿を消した。 両方の不思議な出来事は権化者によるものとは言え類例の少ないことであった。ほどなく清涼殿に師子座(ししざ)を敷き、問者(質問役・慈慧僧正)と講師(回答役・仲胤)が東西に対面した。天子(天皇)は南向きで玉簾(たますだれ)の裾を上げさせなさると臣下たちは北に向いて階下で冠冕(かんべん/官帽)を低く垂れた。 法席が整うと僧正が草木成仏の教えを述べられ、仲胤は五性各別(衆生の性質差による悟り可能性の違い)の理をもって反論し「非情の草木には理仏性(本質的仏性)は備わるが行仏性(修行実現力)がない。行仏性なきものがどう成仏できようか?経典根拠を示されれば疑いを除こう」と申された。慈慧僧正は直ちに『円覚経』の文句を引用し「地獄も天宮も皆浄土となり、有性(悟り得る者)も無性(悟れぬ存在)も共に仏道を成す」と誦した。 仲胤がこの文言で論詰められ一時沈黙されたその時、法相宗守護の春日大明神が高座上に化現して坐り、幽かな御声で経文の句読点を変えて教え示された――「地獄天宮皆浄土となるべきにあらず。有性も無性も斉しく仏道を成す」。 解説【超自然現象描写の意図】
【宗論の核心争点】
【歴史的背景】
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| 」と、慈慧僧正重て難じて曰、「此文点全法文の心に不叶。一草一木各一因果、山河大地同一仏性の故に、講答既に許具理仏性。若乍具理仏性、遂無成仏時ば、以何曰仏性耶。若又雖具仏性、言不成仏者、有情も不可成仏、有情の成仏は依具理仏性故也。」難じ給しかば、仲■無言黙止給けるが、重て答て曰、「草木成仏無子細、非情までもあるまじ。先自身成仏の証を顕し給はずば、以何散疑。」と宣ひしかば、此時慈慧僧正言を不出、且が程黙座し給ふとぞ見へし。香染の法服忽に瓔珞細■の衣と成て、肉身卒に変じて、紫磨黄金の膚となり、赫奕たる大光明十方に遍照す。されば南庭の冬木俄に花開て恰春二三月の東風に繽紛たるに不異。列座の三公九卿も、不知不替即身、至華蔵世界土、妙雲如来下に来かとぞ覚ける。爰に仲■少欺る気色にて、揚如意敲席云、「止々、不須説、我法妙難思。」と誦し給ふ。此時慈慧僧正の大光明忽消て、本の姿に成給ひにけり。是を見て、藤氏一家の卿相雲客は、「我氏寺の法相宗こそ勝れたれ。」と我慢の心を起して、退出し給ける処に、門外に繋たる牛、舌を低て涎を唐居敷に残せるを見給へば、慥に一首の歌にてぞ有ける。草も木も仏になると聞時は情有身のたのもしき哉是則草木成仏の証歌也。 |
慈慧僧正が重ねて反論して述べた、「この句読点変更は経典全体の精神に合わない。一本の草や木にもそれぞれ因果があり、山河大地も同じ仏性を持っているゆえに、先ほどあなた(仲胤)自身も草木には理論上の仏性があることを認めたではないか。もし理仏性を備えながら成仏できないと言うなら、どうしてそれを仏性と呼べるのか? また、たとえ仏性があっても成仏しないとするならば、有情(生き物)でさえ成仏できなくなるはずだ。なぜなら有情の成仏も本質的に理仏性を持つからこそ可能なのだ」と反論された。 すると仲胤は無言で黙り込んだが、再び答えて、「草木成仏に詳しい説明など不要であり、非情(無生物)までもが成仏するわけがない。まず自らが即身成仏を証明されなければ、どうして疑いを晴らせようか」と述べた。 この時慈慧僧正は言葉を発せず、しばらく沈黙してお座りになったように見えた。すると香染めの法衣(ほうえ)が突然、宝石で飾られた精巧な衣へと変わり、肉体も紫磨黄金(最上の金)のような肌色に変化した。そして輝かしい大光明があたり一面を照らし出したので、南庭の冬枯れの木々は急に花開き、まるで春二・三月の東風に舞うように鮮やかな光景となった。 列座していた高官たちも、気づかないうちに自らの身体が変容し、「華蔵世界(仏国土)へ至り妙雲如来様が降臨なさるのか」と感じたほどである。ここで仲胤は少し動揺した表情を見せながら如意を掲げて座席を叩き、「もう結構だ! 語る必要などない、我らの教えは妙にして思い測れぬものよ(『法華経』の一節)」と誦した。 すると慈慧僧正の大光明はたちまち消え元の姿に戻られた。これを見て藤原氏一族の高官たちは、「わが氏族ゆかりの法相宗こそ勝っている」という傲慢な心を起こし、退出しようとしたところ、門外につながれた牛が舌を垂らして涎(よだれ)を畳にたっぷりと残しているご様子をご覧になった。そこで彼らは確かに一首の歌を作った―― 解説【宗論決着の象徴的描写】
【藤原氏の諷刺的結末】
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| 春日大明神の示給ひけるにや。何れを勝劣とも難定。理哉、仲■は千手の化身、慈慧は如意輪の反化也。されば智弁言説何れもなじかは可劣、唯雲間の陸士竜、日下の荀鳴鶴が相逢時の如く也。而ば法相者六宗の長者たるべし。天台者諸宗の最頂也と被宣下、共に眉目をぞ開ける。抑天台の血脈は、至師子尊者絶たりしを、緬々世隔て、唐朝の大師南岳・天台・章安・妙楽、自解仏乗の智を得て、金口の相承を続給ふ。奇特也といへども、禅宗は是を髣髴也と難じ申。又禅の立る所は、釈尊大梵王の請を受て、於■利天法を説給ひし時、一枝の花を拈じ給ひしに、会中比丘衆無知事。爰摩訶迦葉一人破顔微笑して、拈花瞬目の妙旨を以心伝心たり。此事大梵天王問仏決疑経に被説たり。然るを宋朝の舒王翰林学士たりし時、秘して官庫に収めし後、此経失たりと申条、他宗の証拠に不足と、天台は禅を難じ申て邪法と今も訴へ候上は、加様の不審をも此次に散度こそ候へ。唯禅与天台被召合宗論を被致候へかし。」とぞ被申ける。此三儀是非区に分れ、得失互に備れり。上衆の趣何れにか可被同と、閉口屈旨たる処に、二条関白殿申させ給けるは、「八宗派分れて、末流道異也といへども、共に是師子吼無畏の説に非と云事なし。而るに何れを取り何れを可捨。 |
春日大明神のお告げがあったのだろうか?どちらも優劣を決め難いものだ。道理では仲胤は千手観音の化身、慈慧僧正は如意輪菩薩の転生である。だから彼らの知恵や弁舌にいずれが劣るということもなく、ちょうど雲間に住む陸士竜と日下(朝廷)の荀鳴鶴が出会った時のようだった。そこで「法相宗は六宗の中で長者の立場にあるべきであり、天台宗は諸宗派の中でも最頂点である」とのお言葉が下されると、一同は納得した表情を見せた。 そもそも天台宗の血脈(師弟伝承)は、師子尊者で絶えた後、遠く時代を隔てて唐の大師たち——南岳・天台智者大師・章安大師・妙楽大師らが仏乗の智恵を得て、釈尊直系の教えを継いだ。これは珍しいことだが、禅宗はこれを「まがいもの」と批判するのである。 また禅宗の主張するところでは、釈尊が大梵王の願いに応じて忉利天で説法した時、一本の花をつまみ上げたところ、会衆である比丘たちには理解できなかった。その中で摩訶迦葉ただ一人がにっこり微笑み、「花をつまむ瞬き」という深い意味を心から心へと伝えたのだ。この話は『大梵天王問仏決疑経』に書かれている。 しかし宋の時代、舒王(王安石)が翰林学士だった時にこれを秘密裏に官庫へ収めた後、その経典は失われたと言われるため、他宗派には証拠不足だと天台宗は禅を批判し「邪法である」と今も訴えている。ならばこうした疑問点も今回の場で晴らしたいと思っている。ただ禅宗と天台宗をお呼びして直接論争させてほしい。」と言った。 この三者の主張(仲胤、慈慧、発言者)はそれぞれ是非が分かれ得失もあるため、高僧たちはどちらに同意すべきか困り果てていたところへ、二条関白殿がおっしゃられた。「八つの宗派が分かれ末流の道筋は異なるといえども、すべて獅子吼(仏教真理)として恐れない説き方であり否定できぬものだ。しかしどの説を取り入れ何を捨てるべきか……」 解説【論争構造と歴史背景】
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| 縦宗論を致す共、天台は唯受一人の口決、禅家は没滋味の手段、弁理談玄とも、誰か弁之誰か会之。世澆季なれば、如摩騰虚空に立人もあらじ、慈恵大師の様に、即身成仏する事もあるべからず。唯如来の権実徒に堅石白馬の論となり、祖師の心印空く叫騒怒張の中に可堕。凡宗論の難き事我曾听ぬ。如来滅後一千一百年を経て後、西天に護法・清弁とて二人の菩薩坐き。護法菩薩は法相宗の元祖にて、有相の義を談じ、清弁菩薩は三論宗の初祖にて、諸法の無相なる理を宣給ふ。門徒二に分れ、是彼非此。或時此二菩薩相逢て、空有の法論を致し給ふ事七日七夜也。共に富楼那の弁舌を仮て、智三千界を傾しかば、無心の草木も是を随喜して、時ならず花を開き、人を恐るゝ鳥獣も、是を感嘆して可去処を忘れたり。而れども論義遂に不休、法理両篇に分れしかば、よしや五十六億七千万歳を経て、慈尊の出世し給はん時、臨会座可散此疑とて、護法菩薩は蒼天の雲を分ち遥に都率天宮に上り給へば、清弁菩薩は青山の岩を擘、脩羅窟に入給にけり。其後花厳の祖師香象、大唐にして此空有の論を聞て、色即是空なれば護法の有をも不嫌、空即是色なれば清弁の空をも不遮と、二宗を会し給けり。上古の菩薩猶以如斯、況於末世比丘哉。 |
宗論を行っても、天台宗はただ一人への口伝授けのみで、禅家は味気ない手法である。道理を弁じ玄理を談ずるといえども、誰がそれを理解し誰が会得できるだろうか。世の中が末法の時代なので、摩騰のように虚空に立つ人もいなければ、慈恵大師のように即身成仏することもあるまい。ただ如来の権実(方便と真実)は徒らに堅石白馬のような固い議論となり、祖師の心印(悟りの証し)が空しく叫び騒ぐ怒りの中に堕ちてしまいそうだ。 そもそも宗論の難しさについては私は聞いている。如来滅後一千一百年を経た後に西天で護法と清弁という二人の菩薩がいた。護法菩薩は法相宗の元祖であり、有相(実体がある)の教えを説き、清弁菩薩は三論宗の初祖であり諸法無相(一切空)の理を宣べられた。 門徒たちは二派に分かれ、こちらが是あちらが非と争った。ある時この二人の菩薩が出会って、有るものと空についての議論を行われたこと七日七夜にも及んだ。共に富楼那のような弁舌をもちいて智恵で三千世界を傾けるほどの勢いだったので、無心の草木もこれに随喜して時期外れに花開き、人を恐れる鳥獣も感嘆して行くべき場所さえ忘れてしまった。 しかし議論はついに終わらず法理が二つの道に分かれたため、「五十六億七千万歳を経て弥勒菩薩(慈尊)が出世される時まで待って、その会座でこの疑いを晴らそう」と決めて護法菩薩は蒼天の雲を分け遥かに都率天宮へ上り清弁菩薩は青山の岩を割って阿修羅窟に入られた。 その後華厳宗の祖師香象が大唐(中国)においてこの有るものと空についての論争について聞き「色即是空であるから護法の有相も嫌わず、空即是色だから清弁の無相も妨げない」と言い二つの宗派を融合された。上古の菩薩でさえこうであったのだまして末世の比丘たちはなおさらであろう。 解説【末法時代における論争の虚しさ】
【空有論争の寓話的展開】
【華厳思想による調和と教訓】
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| されば宗論の事は強に無其詮候歟。とても近年天下の事、小大となく皆武家の計として、万づ叡慮にも不任事なれば、只山門の訴申処如何可有と、武家へ被尋仰、就其返事聖断候べきかとこそ存候へ。」とぞ被申ける。諸卿皆此義可然と被同、其日の議定は終にけり。さらばとて次日軈て山門の奏状を武家へ被下、可計申由被仰下しかば、将軍・左兵衛督諸共に、山門の奏状を披見して、「是はそも何事ぞ。建寺尊僧とて山門の所領をも不妨、衆徒の煩にもならず、適公家武家帰仏法大善事を修せば、方袍円頂の身としては、共に可悦事にてこそあるに、障碍を成んとする条返々不思議也。所詮神輿入洛あらば、兵を相遣して可防。路次に振棄奉らば、京中にある山法師の土蔵を点じ、造替させんに何の痛か可有。非拠の嗷訴を被棄置可被遂厳重供養。」と奏聞をぞ被経ける。武家如斯申沙汰する上は、公家何ぞ可及異儀とて、已に事厳重なりしかば、列参せし大衆、徒に款状を公庭に被棄て、失面目登山ず。依之三千の大衆憤不斜。されば可及嗷訴とて、康永四年八月十六日、三社の神輿を中堂へ上奉り、祇園・北野の門戸を閉、師子・田楽庭上に相列り、神人・社司御前に奉仕す。公武の成敗拘る処なければ、山門の安否此時に有と、老若共に驚嘆す。 |
したがって、宗論に関してはむしろ重要ではないのではないか。しかし近年では天下の事柄は大小問わずすべて武家(幕府)の裁量によるものであり、万事天皇の御意思にも任されていないので、ただ山門(比叡山延暦寺勢力)の訴えをどう扱うべきかを武家へお尋ねし、その返答をもって聖断(天皇の決定)とすべきだろうと思われる。」と申し上げたようだ。公卿たちは皆この意見に賛同し、その日の議定は終わった。 そこで翌日すぐに山門の奏状を武家へ下され、対応策を申し述べるように命じられたところ、将軍・左兵衛督(足利尊氏ら)が共に山門の奏状を開いて見て、「これはいったい何事か。寺社建立や高僧供養として山門の所領も妨げず、僧侶たちの煩わしさにもならないのに、朝廷と武家が仏法の大善事を行うならば、僧侶としては共に喜ぶべきことであるはずなのに、それを邪魔しようとするのはまったく理解できない。結局もし神輿が京都に入るようなら兵力を派遣して防げばよい。道中で打ち捨てられた場合は京中の山法師(延暦寺僧兵)の土蔵を取り壊し再建させれば何の問題もないだろう。根拠なき強訴は無視し、厳重に供養を遂行すべし」と上奏したようだ。 武家がこのように申し渡した以上、朝廷では異論などあるはずがないとして事態は決着したため、参内していた大衆(僧兵たち)はむなしく嘆願書を宮廷に捨てて面目を失い山へ帰った。これにより三千の大衆は激怒して収まらなかった。 そこで強訴を行うべく康永四年八月十六日、三社(祇園・北野など)の神輿を中堂(延暦寺根本中堂)へ担ぎ上げ、祇園と北野神社の門戸を閉ざし、獅子舞や田楽が庭上に並び立てる一方で神官たちは御前に奉仕した。朝廷も武家も成敗(処罰)できず手出しできないため、「山門の安泰はこの瞬間にかかっている」と老若問わず皆驚嘆した。 解説【権力構造転換による宗論軽視】
【武家による現実主義的解決策】
【強訴事件の政治的帰結】
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| 角ては猶も不叶とて、同十七日、剣・白山・豊原・平泉寺・書写・法花寺・多武峯・内山・日光・太平寺、其外の末寺末社、三百七十余箇所へ触送り、同十八日、四箇の大寺に牒送す。先興福寺へ送る。其牒状云、延暦寺牒興福寺衙。可早任先規致同心訴被停止天竜寺供養儀■令断絶禅室興行子細状。右大道高懸、均戴第一義天之日月、教門広開互斟無尽蔵海之源流。帝徳安寧之基、仏法擁護之要、遐迩勠力彼此同功、理之所推、其来尚矣。是以対治邪執、掃蕩異見之勤、自古覃今匪懈。扶翼朝家修整政道之例、貴寺当山合盟専起先聖明王之叡願、深託尊神霊祇之冥鑑。国之安危、政之要須、莫先於斯。誰処聊爾。爰近年禅法之興行喧天下、暗証之朋党満人間。濫觴雖浅、已揚滔天之波瀾。■火不消、忽起燎原之烟■。本寺本山之威光、白日空被掩蔽、公家武家之偏信、迷雲遂不開晴。若不加禁遏者、諸宗滅亡無疑。伝聞、先年和州片岡山達磨寺、速被焼払之、其住持法師被処流刑、貴寺之美談在茲。今般先蹤弗遠。而今就天竜寺供養之儀、此間山門及再往之訟。今月十四日院宣云、今度儀非勅命云云。仍休鬱訴属静謐之処、勅言忽有表裏、供養殊増厳重。院司公卿以下有限之職掌等、悉以可令参行之由有其聞。朝端之軌則、理豈可然乎。 |
それでもなお納得がいかないということで、同十七日には剣神社・白山比咩神社・豊原寺・平泉寺・書写山円教寺・法花寺・多武峯妙楽寺・内山永久寺・日光山輪王寺・太平寺をはじめとする末社末寺三百七十余ヶ所へ通達し、同十八日には四つの大寺院に正式文書を送った。まず興福寺への文書の内容は次の通りである。 「延暦寺より興福寺殿へ通牒する 右の通り。仏法という大道は高く掲げられ、第一義(究極真理)の日月のもとに平等に照らされ、教えの門戸は広く開かれ互いに無尽蔵の海の源流を汲むべきである。帝王の徳を安寧にする基盤、仏法擁護の要諦には遠近力を合わせて相互に貢献することが道理から求められ、その由来は古い。それゆえ邪説に対抗し異端見解を一掃する努力は昔より今日まで弛みない。朝廷を支え政道を正す先例として貴寺と当山(延暦寺)が盟約を結ぶのは、もともと歴代聖王の深い御意志であり尊い神霊の冥加によるものだ。国家の安危・政治の急務においてこれに優先することはないのに、誰が軽んじることができようか。 ところが近年禅法興隆の動きが天下に喧伝され、根拠なき主張をする徒党が人間界に満ちている。源流は浅いにも関わらず既に天を覆う大波となり、(消さねばならぬ)星火も消えず忽ち燎原(燃え広がる野原)の炎煙と化した。本寺本山の威光は白日のもとに隠され、公家武家の偏った信仰は迷いの雲となって晴れない。もし制止しなければ諸宗派滅亡は疑いない。伝聞するところでは先年、和州片岡山達磨寺が速やかに焼き払われその住持法師は流刑に処されたとある(注:興福寺による南都仏教勢力への弾圧事例)。貴寺の立派な実績がここにある。今回の先例は遠くない。 さて天竜寺供養儀式に関し、この度当山より再三にわたり訴え出た件について、今月十四日の院宣(上皇の命令)には『今回の行事は勅命にあらず』とあった。よって鬱積した抗議を収め静謐に従っていたところ、突然朝廷の方針が翻り供養儀式は格段に厳重化された。院司・公卿以下限られた職務者らが総出で参列すべしとの風聞がある。朝廷の規律としてこのようなことがあってよいものか」 解説【組織的抵抗運動の展開】
思想的正当性の主張
政治的糾弾の核心
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| 天下之謗議、言以不可欺。吾山已被処無失面目。神道元来如在、盍含忿怒。於今者再帰本訴、屡奉驚上聞。所詮就天竜寺供養、院中之御沙汰、公卿之参向以下一向被停止之、又於御幸者、云当日云翌日共以被罷其儀。凡又為令断絶禅法興行先被放疎石於遠島、於禅院者不限天竜一寺、洛中洛外大小寺院、悉以破却之、永掃達磨宗之蹤跡宜開正法輪之弘通。是専釈門之公儀也。尤待貴寺之与同焉。綺已迫喉、不可廻踵。若有許諾者、日吉神輿入洛之時、春日神木同奉勧神行、加之或勧彼寺供養之奉行、或致著座催促之領掌藤氏月卿雲客等、供養以前悉以被放氏、其上猶押而有出仕之人者、貴寺■山門放遣寺家・社家之神人・公人等、臨其家々可致苛法之沙汰之由、不日可被触送也。此等条々衆儀無令停滞。返報不違先規者、南北両門之和睦、先表当時之太平、自他一揆之始終、欲約将来之長久、論宗旨於公庭則、雖似有兄弟鬩墻之争、寄至好於仏家則、復須共楚越同舟之志。早成当機不拘之義勢、速聞見義即勇之歓声。仍牒送如件。康永四年八月日とぞ書たりける。山門既に南都に牒送すと聞へしかば、返牒未送以前にとて、院司の公卿藤氏の雄臣等参列して被歎申けるは、「自古山門の訴訟者以非為理事不珍候。其上今度の儀は、旁申処有其謂歟存候。 |
しかし天下の非難は欺くことができない(注:朝廷が禅宗を優遇すれば世論が反発するという含意)。当山(延暦寺)は面目を失う処分を受けた。神道本来のご威光はいまだ存在しているのだから、どうか怒りを含めて行動してほしい。今こそ再び根本的な訴えに立ち返り、繰り返し朝廷へ抗議すべきである。 要するに天竜寺供養に関しては、院中(上皇御所)での決定や公卿の参列以下を全面的に中止させること。また行幸(天皇臨席)については当日・翌日いずれも取り止めさせよ。さらに禅法興隆を断絶させるためには、まず石清水八幡宮関連者を遠島流刑とし、禅院に関しては天竜寺一ヶ所に限らず洛中洛外の大小寺院全てを破却すべきである。永遠に達磨宗(禅宗)の痕跡を掃討し、正しい仏法の弘通こそ広めるべし。これこそが仏教界全体の公的な義務である。貴寺も当然同調されることを強く期待する。 事態は喉元まで迫っており(猶予はない)。もし承諾いただけるならば、日吉神社神輿入洛の際には春日大社の神木を同時に奉じて示威行動を行い、さらに天竜寺供養関係者――法要執行役や列席強制した藤原氏などの高位貴族ら――は供養以前に全員追放する。それでもなお出席する者が現れた場合には、貴寺と当山が連携して寺社の神人・公人を派遣し、その者たちの屋敷ごとに厳罰を加える方針であることを近日中に通達しよう。 これらの条項について協議を遅滞させるな。迅速な返答があれば(天台宗と法相宗という)南北両門の和睦が実現し、当世の太平を示す証となろう。自他が一致協力して事に当たることで将来の永続性も約束されるはずだ。公的な場で宗旨を論じれば兄弟げんかのような争いにも見えようが、仏教界全体の和合という点では楚と越(敵対勢力)すら同舟する心構えが必要である。速やかにこの機会を逃さぬ態勢を整え、「義を見て勇む」歓声を早く聞かせてほしい。 よって通牒の内容は右記の通りとする。 (文末に)康永四年八月日と記されていたという。山門(延暦寺)が既に南都(興福寺)へ通牒したとの報を受けて、返答待たずに院司の公卿や藤原氏の重臣らが参集し嘆願したことには、「昔から比叡山の訴訟は理不尽なことで珍しくない。まして今回は言い分があると思われる」と述べた。 解説【脅迫的協力要請の深化】
【歴史的緊迫性の演出】
戦略的二面性
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| 就中行仏事貴僧法事も天下無為にてこそ其詮も候へ。神輿神木入洛有て、南都北嶺及嗷訴者、武家何と申共、静謐の儀なくば法会の違乱なるべし。角て又叡願も徒に成ぬと存候。只速に有聖断衆徒の鬱訴を被宥、其後御心安く法義大会をも被行候へかし。」と様々に被申しかば、誠にも近年四海半は乱て一日も不安居、此上に又南北神訴に及び、衆徒鬱憤して忿らば、以外の珍事なるべしとて、枉諸事先院宣を被成下、「勅願の義を被停止、為御結縁翌日に御幸可成。」被仰ければ、山門是に静りて、神輿忽に御帰座有しかば、陣頭警固の武士も皆馬の腹帯を解て、末寺末社の門戸も参詣の道をぞ開きける。 ○天竜寺供養事付大仏供養事 此上は武家の沙汰として、当日の供養をば執行ひ、翌日に御幸可有とて、同八月二十九日、将軍並左兵衛督路次の行装を調て、天竜寺へ被参詣けり。貴賎岐に充満て、僧俗彼れに成群、前代未聞の壮観也。先一番に時の侍所にて山名伊豆守時氏、声花に冑ふたる兵五百余騎を召具して先行す。其次に随兵の先陣にて、武田伊豆前司信氏・小笠原兵庫助政長・戸次丹後守頼時・伊東大和八郎左衛門尉祐煕・土屋備前守範遠・東中務丞常顕・佐々木佐渡判官入道息男四郎左衛門尉秀定・同近江四郎左衛門尉氏綱・大平出羽守義尚・粟飯原下総守清胤・吉良上総三郎満貞・高刑部大輔師兼、以上十二人、色々の糸毛の胄に烏帽子懸して、太く逞き馬に、厚総懸て番たり。 |
何よりも仏事や貴僧(夢窓疎石)の法要こそ天下太平であって初めて意味があるのです。神輿と春日神木が京都に入り、南都興福寺と北嶺延暦寺が騒ぎ立てれば、武家(足利幕府)が何と言おうとも事態は収まらず法会の混乱は避けられないでしょう。このままでは比叡山の願いも無駄になると思われます。どうか早急に賢明なご裁断をもって僧侶たちの鬱憤を鎮め、その後は御安心して盛大な法要をお執り行いくださいませ。」と様々に申し上げたところ、(朝廷側は)「近年天下の半分が乱れ一日も安らかでない中、これ以上南北両寺社の神威による抗議が起きて僧徒が怒り爆発させれば予想外の大事件となるだろう」と判断し、やむなく先帝(光厳上皇)の院宣を下して「勅願法要は中止するが、御縁結びのために翌日に行幸されるように。」と命じた。これにより比叡山も静まり、神輿はただちに戻されたため、警護していた武士たちも馬の腹帯を解き、末寺や末社の門戸も参詣道を開放したのであった。 ○天竜寺供養と大仏供養について 解説朝廷と幕府の綱引き
南北朝期の社会描写
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| 三番には帯刀にて武田伊豆四郎・小笠原七郎・同又三郎・三浦駿河次郎左衛門尉・同越中次郎左衛門尉・二階堂美作次郎左衛門尉・同対馬四郎左衛門尉・佐々木佐渡五郎左衛門尉・同佐渡四郎・海老名尾張六郎・平賀四郎・逸見八郎・小笠原太郎次郎、以上十六人、染尽したる色々の直垂に、思々の太刀帯て、二行に歩み連たり。其次に正二位大納言征夷大将軍源朝臣尊氏卿、小八葉の車の鮮なるに簾を高く揚げ、衣冠正く乗給ける。五番には後陣の帯刀にて設楽五郎兵衛尉・同六郎、寺岡兵衛五郎・同次郎・逸見又三郎・同源太・小笠原蔵人・秋山新蔵人・佐々木出羽四郎左衛門尉・同近江次郎左衛門尉・富永四郎左衛門尉・宇佐美三河守・清久左衛門次郎・森長門四郎・曾我左衛門尉・伊勢勘解由左衛門尉、以上十六人、衣服帯剣如先、行列の次等をぞ守ける。其次に参議正三位行兼左兵衛督源朝臣直義、巻纓老懸に蒔絵の細太刀帯て、小八葉の車に乗れり。七番には役人にて、南部遠江守宗継・高播磨守師冬二人は御剣の役。長井大膳大夫広秀・同治部少輔時春御沓の役。佐々木吉田源左衛門尉秀長・同加地筑前三郎左衛門貞信は御調度の役。和田越前守宣茂・千秋三河左衛門大夫惟範は御笠の役、以上八人、布衣に上括して列を引。 |
第三番には帯刀として武田伊豆四郎・小笠原七郎・同又三郎・三浦駿河次郎左衛門尉・同越中次郎左衛門尉・二階堂美作次郎左衛門尉・同対馬四郎左衛門尉・佐々木佐渡五郎左衛門尉・同佐渡四郎・海老名尾張六郎・平賀四郎・逸見八郎・小笠原太郎次郎、以上十六人が染め抜いた色とりどりの直垂を着て、それぞれの太刀を帯び二列に並んで歩み進んだ。その次には正二位大納言征夷大将軍源朝臣尊氏卿が、八葉紋のある鮮やかな車で簾を高く上げ、衣冠姿を整えてお乗りになった。第五番には後陣の帯刀として設楽五郎兵衛尉・同六郎、寺岡兵衛五郎・同次郎・逸見又三郎・同源太・小笠原蔵人・秋山新蔵人・佐々木出羽四郎左衛門尉・同近江次郎左衛門尉・富永四郎左衛門尉・宇佐美三河守・清久左衛門次郎・森長門四郎・曾我左衛門尉・伊勢勘解由左衛門尉、以上十六人が服装と帯刀は先の者と同じで行列の順序を厳かに守った。その次に参議正三位行兼左兵衛督源朝臣直義が巻纓(冠)をかぶり蒔絵細工の太刀を帯び、同じく八葉紋のある車にお乗りになった。第七番には役人として南部遠江守宗継・高播磨守師冬の二人は御剣をお持ちする役目、長井大膳大夫広秀・同治部少輔時春は沓(履物)を管理する役目、佐々木吉田源左衛門尉秀長・同加地筑前三郎左衛門貞信は調度品の担当、和田越前守宣茂・千秋三河左衛門大夫惟範は御笠を持つ役目であり、以上八人は布衣(直垂)の裾をからげて列に連なった。 解説儀式行列の階層構造
歴史的意義
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| 八番には高武蔵守師直・上杉弾正少弼朝貞・高越後守師泰・上杉伊豆守重能・大高伊予守重成・上杉左馬助朝房、布衣に下括して、半靴著て、二騎充左右に打並たり。九番には、後陣の随兵、足利尾張左近大夫将監氏頼・千葉新介氏胤・二階堂美濃守行通・同山城三郎左衛門尉行光・佐竹掃部助師義・同和泉守義長・武田甲斐前司盛信・伴野出羽守長房・三浦遠江守行連・土肥美濃守高実、以上十人、戎衣甲冑何れも金玉を磨たり。十番には外様の大名五百余騎、直垂著にて相随。土佐四郎・長井修理亮・同丹波左衛門大夫・摂津左近蔵人・城丹後守・水谷刑部少輔・二階堂安芸守・同山城守・中条備前守・薗田美作権守・町野加賀守・佐々木豊前次郎左衛門尉・結城三郎・梶原河内守・大内民部大夫・佐々木能登前司・太平六郎左衛門尉・狩野下野三郎左衛門尉・里見蔵人・島津下野守・武田兵庫助・同八郎・安保肥前守・土屋三河守・小幡右衛門尉・疋田三郎左衛門尉・寺岡九郎左衛門尉・田中下総三郎・須賀左衛門尉・赤松美作権守・同次郎左衛門尉・寺尾新蔵人、以上三十二人打混に、不守次第打たりけり。此後は吉良・渋河・畠山・仁木・細川を始として、宗との氏族、外様の大名打混に弓箭兵杖を帯し、思々の馬鞍にて、大宮より西郊まで、無透間袖を連て支へたり。 |
第八番には高武蔵守師直・上杉弾正少弼朝貞・高越後守師泰・上杉伊豆守重能・大高伊予守重成・上杉左馬助朝房が、布衣の裾を下ろし半靴(革製の軽装履物)をはき、左右に二騎ずつ並んで進んだ。第九番には後陣の随兵として足利尾張左近大夫将監氏頼・千葉新介氏胤・二階堂美濃守行通・同山城三郎左衛門尉行光・佐竹掃部助師義・同和泉守義長・武田甲斐前司盛信・伴野出羽守長房・三浦遠江守行連・土肥美濃守高実、以上十人がおり、武装や甲冑にはいずれも金色の装飾が施されていた。第十番には外様大名五百余騎が直垂姿で従った。土佐四郎・長井修理亮・同丹波左衛門大夫・摂津左近蔵人・城丹後守・水谷刑部少輔・二階堂安芸守・同山城守・中条備前守・薗田美作権守・町野加賀守・佐々木豊前次郎左衛門尉・結城三郎・梶原河内守・大内民部大夫・佐々木能登前司・太平六郎左衛門尉・狩野下野三郎左衛門尉・里見蔵人・島津下野守・武田兵庫助・同八郎・安保肥前守・土屋三河守・小幡右衛門尉・疋田三郎左衛門尉・寺岡九郎左衛門尉・田中下総三郎・須賀左衛門尉・赤松美作権守・同次郎左衛門尉・寺尾新蔵人、以上三十二名が入り混じって順序も気にせず進んだ。この後は吉良氏・渋河氏・畠山氏・仁木氏・細川氏を始めとする御一門や外様大名が入り交じり、弓矢や武器を持ちそれぞれの馬具で装備し大宮から西郊に至るまで隙間なく列をつなぎ支えた。 解説行列構成と身分序列
歴史的意義
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| 薄馬場より、随兵・帯刀・直垂著・布衣の役人、悉守次第列を引く。已に寺門に至しかば、佐々木佐渡判官秀綱検非違使にて、黒袴著せる走下部、水干直垂、金銀を展たる如木の雑色、粲に胄たる若党三百余人、胡床布衣の上に列居して山門を警固す。其行装辺りを払て見へたり。尊氏卿・直義朝臣既に参堂有しかば、勅使藤中納言資明卿、院司の高右衛門佐泰成陣参して、即法会を被行。其日は無為に暮にけり。明れば八月晦日也。今日は又為御結縁両上皇御幸なる。昨日には事の体替て、見物の貴賎も閭巷に足を立兼たり。御車総門に至しかば、牛を懸放して手引也。御牛飼七人、何れも皆持明党とて綱取て名誉の上手共也。中にも松一丸は遣手にて、綾羅を裁ち金銀を鏤めたり。上皇御簾を揚て見物の貴賎を叡覧あり。黄練貫の御衣に、御直衣、雲立涌、生の織物、薄色の御指貫を召れたり。竹林院大納言公重卿、濃香に牡丹を織たる白裏の狩衣に、薄色の生の衣、州流に鞆絵の藤の丸、青鈍の生の織物の指貫にて、御車寄に被参たり。左宰相中将忠季卿、薄色の織襖の裏無に、蔦を紋にぞ織たりける。女郎花の衣、浮紋に浅黄の指貫にて供奉せらる。殿上人には左中将宗雅朝臣、■線綾の女郎花の狩衣に、槿を紋にぞ織たりける。 |
薄い馬場から、随兵・帯刀役人・直垂姿の人々・布衣の役人がすべて順序正しく隊列をつないだ。すでに寺門に到着すると、佐々木佐渡判官秀綱が検非違使として指揮し、黒袴をはいた走り使いや水干と直垂を身につけた者、金銀をちりばめたかのように輝く雑用係ら、燦然とかぶとに飾った若党三百人以上が腰掛ける椅子に座って山門の警備を行い、その装いは周囲を圧倒するほど見えた。尊氏卿と直義朝臣はすでに堂内へ入ると、勅使である藤原中納言資明卿や院司の高右衛門佐泰成も参陣し、すぐに法会が行われた。その日は何事もなく暮れたのであった。翌朝は8月30日であった。この日はまた結縁供養のために両上皇(光厳・光明)が行幸された。昨日とは様子が一変して見物の貴賎問わず人々が路地に立ち並び足の踏み場もないほどだった。御車が総門に着くと牛を解いて手で引く方式であった。御用の牛飼い七人は皆「持明党」と呼ばれる綱取りの名手であり、中でも松一丸は特に優れた遣手(技術者)で綾羅の衣服に金銀細工を施していた。上皇は簾を上げて見物人の貴賎をご覧になった。(上皇は)黄練貫の御衣をお召しになり、直垂には雲立涌文様と生織りの生地を用い、薄色の指貫を着けられていた。竹林院大納言公重卿は濃香に牡丹を織り込んだ白裏狩衣で、薄色の生織りの上着、州浜模様に鞆絵藤丸紋のある青鈍染めの生織物指貫姿で御車寄せへ参上した。左宰相中将忠季卿は薄色の無裏襖(背抜き装束)をまとい蔦文をあしらい、女郎花模様の衣に浅黄色浮紋入り指貫をつけて供奉された。殿上人では左中将宗雅朝臣が精巧な線綾で織った女郎花狩衣をお召しになり槿(むくげ)の文様があしらわれていた。 解説行幸儀礼の構造的特徴
歴史的意義
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| 薄色の生の衣、藤の丸の指貫也。頭左中弁宗光朝臣、■線綾の比金襖の狩衣、珍しく見へたりける。右少将教貞朝臣、紫苑唐草を織たる生青裏、紅の引繕木はえ/゛\敷ぞ見へし。春宮権大進時光は、■線綾に萩を経青緯紫段にして、青く織たる女郎花の生の衣二藍の指貫也。此後は下北面の輩、中原季教・源康定・同康兼・藤原親有・安部親氏・豊原泰長、御随身には、秦久文・同久幸此等也。参会の公卿には三条帥公季卿・日野中納言資明卿・別当四条中納言隆蔭卿・春宮大夫実夏・左兵衛督直義、何れも皆行装当りを耀かす。仏殿の北の廊四間を餝て、大紋の畳を重ね布き、其上に氈を被展たり。平敷の御座其北にあり。西の間に屏風を立隔て御休所に構へたり。御前に風流の島形を被居たり。表大井河景趣、水紅錦を洗ひて、感興の心をぞ添たりける。是は三宝院僧正賢俊、依武命儲進す。仏殿の裏二間を拵て御簾を懸、御聴聞所にぞ構へたる。其北に畳を布て、公卿の座にぞ被成たる。仏殿の庭の東西に幄を打て、左右の伶倫十一人、唐装束にて胡床に坐す。左には光栄・朝栄・行重・葛栄・行継・則重也。右には久経・久俊・忠春・久家・久種也。鳳笙・竜笛の楽人十八人、新秋・則祐・信秋・成秋・佐秋・季秋・景朝・景茂・景重・栄敦・景宗・景継・景成・季氏・茂政・重方・重時是等也。 |
薄色の生織りの上着と藤丸文様の指貫を身につけていた。頭左中弁宗光朝臣は唐線綾に金襖模様のある狩衣で、珍しい趣きを見せていた。右少将教貞朝臣は紫苑唐草を織り込んだ青裏生地に紅の引繕木文様が鮮やかに映える装束であった。春宮権大進時光は唐線綾を用い萩模様を経糸青・緯糸紫で段替りにし、青色に染めた女郎花文様の生織衣と二藍色指貫姿である。その後ろには下北面(下級武官)として中原季教・源康定・同康兼・藤原親有・安部親氏・豊原泰長が控え、御随身としては秦久文・同久幸らがいた。参会の公卿には三条帥公季卿・日野中納言資明卿・別当四条中納言隆蔭卿・春宮大夫実夏・左兵衛督直義らが列席し、皆その装束で周囲を輝かせていた。仏殿北側の四間廊は飾り立てられ大紋畳を重ね敷き、さらに上に氈(毛氈)を広げた。平敷の御座が北側に設けられており、西の部屋は屏風で仕切って御休所として準備されていた。御前には趣向を凝らした島形装飾が置かれ、大井川の景観を水紅色錦で表現して風情を添えている。これは三宝院僧正賢俊が武家命令により用意させたものであった。仏殿裏手二間は簾を掛け御聴聞所とし、その北に畳を敷いて公卿の座席とした。仏殿庭園東西には天幕を張り、左右十一人の伶倫(楽師)が唐風装束で腰掛け椅子に着いた。左側は光栄・朝栄・行重・葛栄・行継・則重、右側は久経・久俊・忠春・久家・久種である。鳳笙竜笛奏者十八人は新秋・則祐・信秋・成秋・佐秋・季秋・景朝・景茂・景重・栄敦・景宗・景継・景成・季氏・茂政・重方・重時らであった。 解説儀式空間の象徴的構成
装束に見る文化的混淆
音楽編成の歴史的意義
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| 国師既に自山門進出させ給へば、楽人巻幄乱声を奏する事、時をぞ移しける。聴聞の貴賎、此時感涙を流しけり。導師は金襴の袈裟・鞋著て、莚道に進ませ給へば、二階堂丹後三郎左衛門執蓋、島津常陸前司・佐々木三河守両人執綱にて、同く歩出たり。左右の伶倫何れも皆幄より起て、参向の儀有て、万秋楽の破を奏して、舞台の下に列を引けば、古清衆導師に従て入堂あり。南禅寺の長老智明・建仁寺の友梅・東福寺の一鞏・万寿寺の友松・真如寺の良元・安国寺の至孝・臨川寺の志玄・崇福寺の慧聰・清見寺の智琢、本寺当官にて、士昭首座、是等は皆江湖の竜象也。釈尊の十大弟子に擬して、扈従の装厳重なり。其後正面の戸■を閉て、願文の説法数剋也。法会終しかば、伶人本幄に帰て舞あり。左に蘇合右に古鳥蘇、陵王荒序・納蘓利・太平楽・狛杵也。中にも荒序は当道の深秘にて容易雖不奏之、適聖主臨幸の法席也。非可黙止とて、朝栄荒序を舞しかば、笙は新秋、笛は景朝、太鼓は景茂ぞ仕たる。当道の眉目、天下の壮観無比し事共也。此後国師一弁の香を拈じて、「今上皇帝聖躬万歳。」と祝し給へば、御布施の役にて、飛鳥井新中納言雅孝卿・大蔵卿雅仲・一条二位実豊卿・持明院三位家藤卿、殿上人には、難波中将宗有朝臣・二条中将資将卿・難波中将宗清朝臣・紙屋川中将教季・持明院少将基秀・姉少路侍従基賢・二条少将雅冬・持明院前美作守盛政、諸大夫には、千秋駿河左衛門大夫・星野刑部少輔・佐脇左近大夫、金銀珠玉を始として綾羅綿繍はさて置ぬ。 |
大師が山門より進み出られると、楽人たちは幕を巻き上げ乱声(儀式開始の合図)を奏し、時が移りゆくことを告げた。聴聞に集まった貴賎の人々はこの時に感涙を流した。導師が金襴の袈裟と靴をつけて莚道へ進まれると、二階堂丹後三郎左衛門が傘を差し掛け、島津常陸前司・佐々木三河守の両人が綱を持ちながら共に歩み出た。左右の伶倫(楽師)は皆天幕から起き上がり参進して万秋楽の破を奏し舞台下に列を整えると、古清衆が導師に従って堂内に入った。南禅寺長老智明・建仁寺友梅・東福寺一鞏・万寿寺友松・真如寺良元・安国寺至孝・臨川寺志玄・崇福寺慧聰・清見寺智琢、本寺当官の士昭首座らは皆仏門の高僧(江湖の龍象)であり、釈尊十大弟子に見立てた随行の行列は厳かであった。その後正面戸扉を閉じて願文と説法が数刻続き、法会終了後楽人たちは元の天幕に戻って舞を披露した。左方は蘇利古(そりこ)、右方は胡鳥蘇(ことうそ)で、陵王荒序・納曽利・太平楽・狛杵が演じられた。特に荒序は秘伝とされ通常演奏されないが、「聖主臨幸の法席ゆえ黙止すべきではない」として朝栄が舞い、笙を新秋、笛を景朝、太鼓を景茂が担当した。能楽道の精華(眉目)たる天下無比の壮観であった。その後大師は一銭香をつまみ「今上皇帝聖躬万歳」(天皇陛下御長久を祈念)と祝されると、飛鳥井新中納言雅孝卿・大蔵卿雅仲・一条二位実豊卿・持明院三位家藤卿らが布施役を務め、殿上人として難波中将宗有朝臣・二条中将資将卿・難波中将宗清朝臣・紙屋川中将教季・持明院少将基秀・姉小路侍従基賢・二条少将雅冬・持明院前美作守盛政、諸大夫として千秋駿河左衛門大夫・星野刑部少輔・佐脇左近大夫らが列席し、金銀珠玉はもとより綾羅綿繍の品々を供えた。 解説儀礼音楽の構造的機能
宗教権威と政治権力
五山制度成立前夜の高僧ネットワーク
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| 倭漢の間に名をのみ聞て未目には不見珍宝を持連立て如山積上たり。只是王舎城の昔年、五百の車に珍貨を積で、仏に奉りしも是には過じとぞ見へし。総て此両日の儀を見る者、悉福智の二報を成就して、済度利生の道を広せし事、此国師に過たる人は非じとて、改宗帰法、偏執の心をぞ失ける。さしも違乱に及びし大法会の無事故遂て、天子の叡願、武家の帰依、一時に望み足ぬと喜悦の眉をぞ被開ける。夫仏を作り堂を立つる善根誠に勝れたりといへ共、願主聊も■慢の心を起す時は法会の違乱出来して三宝の住持不久。されば梁の武帝、対達磨、「朕建寺事一千七百箇所、僧尼を供養する事十万八千人、有功徳乎。」と問給しに、達磨、「無功徳。」と答給ふ。是誠に無功徳云には非ず。叡信■慢を破て無作の大善に令帰なり。吾朝の古、聖武天皇東大寺を造立せられ、金銅十六丈の廬舎那仏を安置して、供養を被遂しに、行基菩薩を導師に請じ給ふ。行基勅使に向て申させ給けるは、「倫命重して辞するに言なしといへ共、如此の御願は、只冥顕の所帰可被任にて候へば、供養の当日香花を備へ唱伽陀を、自天竺梵僧を奉請供養をば可被遂行候。」とぞ計ひ申されける。天子を始進せて諸卿悉世既及澆季、如何してか百万里の波涛を隔たる天竺より、俄に導師来て供養をば可被遂と大に疑をなしながら、行基の被計申上は、非可及異儀とて明日供養と云迄に、導師をば未被定。 |
和漢両方において名前のみ聞いて未だ目にしたことのない珍宝を持ち運び山のように積み上げた。ただ王舎城の昔年(釈迦在世時)、五百の車に珍しい品々を積んで仏に捧げたこともこれには及ばなかったように見えた。この両日の儀式を見た者は皆、福徳と智慧という二つの報いを成就し済度利生の道を広めたことは、天龍寺開山(夢窓疎石)以上の者はいないとして改めて仏法に帰依し偏った執着心を失った。かくも盛大だった大法会が無事終わると天子(光厳上皇)のご祈願と武家(足利氏)の帰依が一度に叶い、皆喜びの表情を見せた。そもそも仏像を作り堂宇を建立する善根は確かに優れているとはいえ施主が少しでも驕慢の心をおこす時には法会の混乱が生じ三宝(仏・法・僧)の永続はかないない。だから梁の武帝が達磨大師に「朕は千七百ヶ寺を建立し十万八千人の僧尼を供養した功徳があるか」と問うたところ、達磨は「無功徳である」と答えられたのだ。これは真に功徳がないと言ったのではない。(武帝の)高慢心を破り自然なる大善へ帰依させようとしたのである。我が国の古例では聖武天皇が東大寺を建立し金銅十六丈の廬舎那仏を安置して供養を行おうとされた時、行基菩薩を導師にお招きしたところ行基は勅使にこう申し上げた。「ご命令は重く辞退すべき言葉もありませんがこのような御願いは冥界顕界の帰依所(仏法の本質)にお任せくださるべきゆえ供養当日には香花を備えて伽陀(賛仏偈)を唱える時、天竺から梵僧をお招きして供養を行うのがよいでしょう」と。天皇始め諸卿は皆「世はすでに末法に及んでいるのにどうして万里の波濤を隔てた天竺から突然導師が来て供養などできるものか」と大いに疑ったが行基の提案には異議を差し挟む余地もなく翌日の供養までに導師はまだ定まらなかった。 解説仏教経済史における物質的布施
禅宗思想の政治的解釈
古代仏教儀礼の再現試み
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| 已に其日に成ける朝、行基自摂津国難波の浦に出給ひ、西に向て香花を供じ、坐具を延て礼拝し給ふに、五色の雲天に聳て、一葉の舟浪に浮で、天竺の婆羅門僧正忽然として来給ふ。諸天蓋を捧て、御津の浜松、自雪に傾歟と驚き、異香衣を染て、難波津の梅忽に春を得たるかと怪しまる。一時の奇特こゝに呈れて、万人の信仰不斜。行基菩薩則婆羅門僧正の御手を引て、伽毘羅会に共に契しかい有て文殊の御貌相みつる哉と一首の謌を詠じ給へば、婆羅門僧正、霊山の釈迦の御許に契てし真如朽せず相みつる哉と読給ふ。供養の儀則は、中々言を尽すに不遑。天花風に繽紛として梵音雲に悠揚す。上古にも末代にも難有かりし供養也。仏閣供養の有様は、尤如此こそ有べきに、此の天竜寺供養事に就て、山門強に致嗷訴、遂に勅会の儀を申止めつる事非直事、如何様真俗共に■慢の心あるに依て、天魔波旬の伺ふ処あるにやと、人皆是を怪みけるが、果して此寺二十余年の中に、二度まで焼ける事こそ不思議なれ。 ○三宅・荻野謀叛事付壬生地蔵事 其比備前国住人三宅三郎高徳は、新田刑部卿義助に属して伊予国へ越たりけるが、義助死去の後、備前国へ立帰り児島に隠れ居て、猶も本意を達せん為に、上野国に坐ける新田左衛門佐義治を喚奉り、是を大将にて旗を挙んとぞ企ける。 |
その日の明け方になると、行基は摂津国難波の浦に出て、西に向かって香や花を供え、座具を敷いて礼拝していると、五色の雲が天に立ち上り、一隻の舟が波間に浮かんで現れ、天竺から来た婆羅門僧正が突然やってきた。諸天(神々)は蓋を持って捧げる様子を見て、「御津の浜松が雪のために傾いたのか」と人々は驚き、異香が衣に染み渡り「難波津の梅が急に春を感じたか」と不思議に思われた。この一時の奇跡がここに現れて、すべての人々の信仰が揺らぐことはなかった。行基菩薩は婆羅門僧正の手を取り、「かつて伽毘羅城での集会で共に誓いを交わした文殊菩薩のお姿を見るようだ」と一首の歌を詠むと、婆羅門僧正も「霊山の釈迦仏のもとで結んだ真如(真理)が朽ちずにお会いできたか」と返し詠んだ。供養の儀式はとても言葉では表現できないほどであった。天から花びらが風に舞い散り、梵音(祈りの声)が雲間に響き渡った。上古にも末代にもない貴重な供養であった。仏閣供養の様子とは本来このようであるべきだが、この天龍寺供養に関しては比叡山延暦寺が強く訴え出て、勅命による法会を中止させたことは不当であり、「どうやら僧俗ともに驕慢(傲慢)の心があるため、天魔波旬(仏教で災いをもたらす存在)に付け込まれたのか」と人々は不審がった。果たしてこの寺は二十余年のうちに二度も焼失するという不思議なことが起こったのである。 さて三宅・荻野の謀叛事および壬生地蔵に関すること 解説仏教奇跡譚の象徴性
宗教対立と災害解釈
歴史事件への過渡部
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| 此比又丹波国住人荻野彦六朝忠、将軍を奉恨事有と聞へければ、高徳潜に使者を通じて触送るに、朝忠悦で許諾す。両国已に日を定て打立んとしける処に、事忽に漏聞へて、丹波へは山名伊豆守時氏三千余騎にて押寄せ、高山寺の麓四方二三里を屏にぬり篭て食攻にしける間、朝忠終に戦屈して降人に成て出にけり。児島へは備前・備中・備後三箇国の守護、五千余騎にて寄ける間、高徳爰にては本意を遂る程の合戦叶はじとや思けん、大将義治を引具し、海上より京へ上て、将軍・左兵衛督・高・上杉の人々を夜討にせんとぞ巧ける。「勢少くては叶まじ、廻文を遣して同意の勢を集よ。」とて、諸国へ此由を触遣すに、此彼に身を側め形を替て隠れ居たる宮方の兵千余人、夜を日に継でぞ馳参りける。此勢一所に集らば、人に怪しめらるべしとて、二百余騎をば大将義治に付奉て、東坂本に隠し置き、三百余騎をば宇治・醍醐・真木・葛葉に宿し置き、勝れたる兵三百人をば京白河に打散し、態と一所には不置けり。已に明夜木幡峠に打寄て、将軍・左兵衛督・高・上杉が館へ、四手に分て夜討に可寄と、相図を定たりける前の日、如何して聞へたりけん、時の所司代都筑入道二百余騎にて夜討の手引せんとて、究竟の忍び共が隠れ居たる四条壬生の宿へ未明に押寄る。 |
この頃また丹波国住人の荻野彦六朝忠は、将軍(足利尊氏)への恨みがあるとの評判であったため、高徳は密かに使者を通じて連絡を送った。すると朝忠は喜んで承諾した。両国の勢力がすでに日時を定めて挙兵しようとしたところ、計画が突然漏れ聞こえた。丹波へは山名伊豆守時氏が三千余騎で押し寄せ、高山寺の麓から四方二三里(約8-12km)を塀のように包囲して兵糧攻めにしたため、朝忠はついに戦いに敗れて降伏者となり出頭した。児島へは備前・備中・備後三ヶ国の守護が五千余騎で来襲したので、高徳はここでは本望を遂げるほどの合戦もかなわぬと思ったのか、大将の義治を引き連れて海路から京都に上り、将軍(尊氏)や左兵衛督(直冬)、高・上杉ら一族を夜襲しようと企てた。「兵力が少なければ成功しない。檄文を送って同意する勢力を集めよ」と言い諸国へ触れ回ると、各地で身を潜め変装して隠れていた南朝方の兵千余人が昼夜兼行で駆けつけた。この軍勢が一箇所に集まれば人々に怪しまれると考え、二百余騎は大将義治付きとして東坂本(比叡山麓)に潜ませ、三百余騎を宇治・醍醐・真木嶽・葛葉に分宿させ、精鋭の兵三百人は京都白河周辺に分散配置し、わざと一箇所には置かなかった。すでに翌夜に木幡峠(京都市伏見区)へ集結し、将軍や左兵衛督らがいる館に向けて四手に分かれて夜襲を仕掛けると打ち合わせた前日――どうして情報が漏れたのか、当時の所司代である都筑入道が二百余騎で夜襲の先導役となるはずだった精鋭たちが潜伏していた四条壬生(京都市中京区)の宿へ未明に押し寄せてきた。 解説南北朝期の軍事戦術
歴史的事件の特定
作劇上の構成技法
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| 楯篭る所の兵共、元来死生不知の者共なりければ、家の上へ走り上り、矢種のある程射尽して後、皆腹掻破て死にけり。是を聞て、処々に隠居たる与党の謀反人共も皆散々に成ければ、高徳が支度相違して、大将義治相共に、信濃国へぞ落行ける。さても此日壬生の在家に隠れ居たる謀反人共、無被遁処皆討れける中に、武蔵国住人に、香勾新左衛門高遠と云ける者只一人、地蔵菩薩の命に替らせ給ひけるに依て、死を遁れけるこそ不思議なれ。所司代の勢已に未明に四方より押寄て、十重二十重に取巻ける時、此高遠只一人敵の中を打破て、壬生の地蔵堂の中へぞ走入たりける。何方にか隠ましと彼方此方を見る処に、寺僧かと覚しき法師一人、堂の中より出たりけるが、此高遠を打見て、「左様の御姿にては叶まじく候。此念珠に其太刀を取代て、持せ給へ。」と云ける間、げにもと思ひて、此法師の云侭にぞ随ける。斯りける処に寄手共四五十人堂の大庭へ走入て、門々をさして無残処ぞ捜しける。高遠は長念珠を爪繰て、「以大神通方便力、勿令堕在諸悪趣。」と、高らかに啓白してぞ居たりける。寄手の兵共皆見之、誠に参詣の人とや思けん、敢て怪め咎むる者一人もなし。只仏壇の内天井の上まで打破て探せと許ぞ罵りける。 |
籠城していた兵たちは元々生死も顧みない者ばかりだったので、屋根へ駆け上がり矢がなくなるまで射尽くした後、皆腹をかき切って死んだ。これを聞いて各地に潜んでいた仲間の謀反人らも散り散りになったため、高徳の計画は狂い、大将である義治と共に信濃国へ落ち延びていった。しかしこの日、壬生の民家に隠れていた謀反人たちは逃げ場を失って皆討たれた中で、武蔵国の住人・香勾新左衛門高遠という者だけが一人、地蔵菩薩のお告げによって命拾いしたのは不思議なことであった。所司代の軍勢が未明に四方から押し寄せ十重二十重にも包囲した時、この高遠はただ一人で敵陣を突破し壬生の地蔵堂へ逃げ込んだ。「どこに隠れようか」とあちこち見回していると、寺僧と思われる法師が一人堂の中から現れ、高遠を見て「その姿では助かりません。この数珠と太刀を交換して持ちなさい」と言うので、もっともだとその指示に従った。すると攻め手の兵四五十人が境内へ乱入し、むごたらしく戸口や物陰を捜索したが、高遠は長い数珠を爪繰りながら「大いなる神通と方便をもって諸悪趣に堕ちさせたまわず」と高声で祈っていた。攻め手の兵たちはこれを見て、確かに参詣者だろうと思ったのか誰一人怪しむ者はなく、「仏壇の中から天井裏まで破って探せ!」と言い放つのみであった。 解説戦国期の宗教的救済観
敗残兵描写の史実性
文学的手法の分析
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| 爰に只今物切たりと覚しくて、鉾に血の著たる太刀を、袖の下に引側めて持たる法師、堂の傍に立たるを見付て、「すはや此にこそ落人は有けれ。」とて、抱手三人走寄て、中に挙打倒し、高手小手に禁て、侍所へ渡せば、所司代都筑入道是を請取て、詰篭の中にぞ入たりける。翌日一日有て、守手目も不放、篭の戸も不開して、此召人くれに失にけり。預人怪み驚て其迹を見るに、馨香座に留りて恰も牛頭旃檀の薫の如し。是のみならず、「此召人を搦捕し者共の左右手、鎧の袖草摺まで異香に染て、其匂曾て不失。」と申合ける間、さては如何様非直事とて、壬生の地蔵堂の御戸を開かせて、本尊を奉見、忝も六道能化の地蔵薩■の御身、所々為刑鞭■黒、高手小手に禁し其縄、未御衣の上に著たりけるこそ不思議なれ。是を誡め奉りぬる者共三人、発露涕泣して、罪障を懺悔するに猶を不堪、忽に本鳥切て入道し、発心修行の身と成にけり。彼は依順縁今生に助命、是は依逆縁来生の得値遇事誠に如来附属の金言不相違、今世後世能引導、頼しかりける悲願也。 |
ここでちょうど何かを斬ったと思われて、矛に血がついた太刀を袖の下に隠して持っている法師が堂のそばに立っているのを見つけ、「さあこそこそ逃亡者がいるぞ」と言って、捕らえようとする三人が走り寄り、中で組み伏せて両手を縛り、侍所へ引き渡したところ、所司代である都筑入道はこれを受け取って牢屋に入れた。翌日一日経った後も看守の目も離さず籠の戸も開けなかったが、この囚人は忽然と消えてしまった。預かっていた者が不思議に思い驚いてその跡を見ると、芳香が座席にとどまっていてまるで牛頭旃檀(ごずせんだん)の香りのようだった。それだけでなく、「この囚人を捕らえた者たちの左右の手は鎧の袖や草摺まで異様な香りに染まり、その匂いが一向に消えない」と言い合ったので、これはどうもただごとではないとして壬生地蔵堂の御戸を開かせて本尊をお参りしたところ、ありがたい六道を救う地蔵菩薩のお体にはあちこち刑罰による鞭打ちで傷ついたように黒ずんでおり、両手を縛っていたその縄がまだ衣の上にかけられたままであったのは不思議なことであった。これを見て自ら戒めた三人は露わに涙して泣き叫び罪障を懺悔するのがなおも足りないと感じるほどで、すぐ髪を切って出家し発心修行の身となった。あれ(高遠)は順縁によって今生での命助けを得たがこれ(三人)は逆縁による来生での仏との出会いであり如来のお言葉に違わず今世後世へ導く頼もしい慈悲深き誓願である。 解説中世仏教奇跡譚の構造的特徴
歴史的実態との関連性
宗教心理学的意義
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| input text 太平記\025_太平記_巻25.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第二十五 ○持明院殿御即位事付仙洞妖怪事 貞和四年十月二十七日、後伏見院御孫御年十六にて御譲を受させ給て、同日内裏にて御元服あり。剣璽を被渡て後、同二十八日に、萩原法皇の第一の御子、春宮に立せ給ふ。御歳十三にぞ成せ給ひける。卜部宿禰兼前、軒廊の御占を奉り、国郡を卜定有て、抜穂の使を丹波国へ下さる。其十月に行事所始め有て、已に斉庁場所を作らむとしける時、院の御所に、一の不思議あり。二三歳許なる童部の頭を、斑なる犬が噛て、院の御所の南殿の大床の上にぞ居たりける。平明に御隔子進せける御所侍、箒を以て是を打むとするに、此犬孫廂の方より御殿の棟木に上て、西に向ひ三声吠てかき消様に失にけり。加様の夭怪、触穢に可成、今年の大甞会を可被停止、且は先例を引、且は法令に任て可勘申、法家の輩に被尋下。皆、「一年の触穢にて候べし。」と勘申ける中に、前の大判事明清が勘状に、法令の文を引て云、「神道は依王道所用といへり。然らば只宜在叡慮。」とぞ勘申たりける。爰に神祇大副卜部宿禰兼豊一人、大に忿て申けるは、「如法意勘進して非触穢儀、神道は無き物にてこそ候へ。凡一陽分れて後、清濁汚穢を忌慎む事、故ら是神道の所重也。而るを無触穢儀、大礼の神事無為被行、一流の神書を火に入て、出家遁世の身と可罷成。 |
貞和四年十月二十七日、後伏見天皇の孫が十六歳で皇位を継承され、同日に御所において元服の儀式があった。剣と璽を受け渡された後、同月二十八日に萩原法皇(光厳上皇)の第一皇子が春宮として立てられた。この方は十三歳になられていた。卜部宿禰兼前が軒廊で占いを奉じ、国や郡を選定した後に抜穂の使者を丹波国へ派遣された。その十月に即位準備の行事所が始まり、すでに斎場の場所を作ろうとしていた時、院(上皇)の御所で不思議な事件があった。二、三歳ほどの子供の頭部を斑模様の犬が噛み、御所南殿の大床の上にいたのだ。明け方に御簾を上げた侍従が箒でこれを打ち払おうとしたところ、その犬は孫廂の方から御殿の棟木へ登り西に向かって三声吠えた後、まるで消えるかのようにいなくなった。このような妖異な出来事は穢れに当たるため、今年の大嘗祭を停止すべきだとして、先例や法令を根拠にして法学者たちが審議した結果「一年間の穢れである」と報告された中で、前大判事・明清だけは異論を述べた。彼は法令条文を引用し「神道は王道に基づくものゆえ、天皇陛下のお考え次第です」としたのである。これに対し神祇大副の卜部宿禰兼豊が激怒して反論した。「法意通り穢れなしとすることなど不可能だ!そもそも天地開闢以来、清浄を重んじ汚穢を忌むのが神道の本質である。それを無視すれば大礼たる祭祀は成り立たず、神書全てを焼き捨て出家すべきだ」と。 解説この文章は『太平記』巻二十五からの抜粋で、南北朝時代(14世紀)に起きた二つの重要な事件を描いています。前半では持明院統の光厳天皇が後伏見上皇の孫(崇光天皇)へ譲位する儀式と、同皇子の立太子について記述し、占術や丹波国への派遣など当時の即位手順が詳細に再現されています。後半では仙洞御所(法住寺殿)で発生した妖怪事件を軸に、「穢れ」概念を巡る神道と法令解釈の対立が焦点です。特に卜部兼豊の激しい反論は、中世における「神仏習合」思想の中でも祭祀純粋性への固執を示す核心部分であり、当時の朝廷内での権威闘争(吉田家などの神祇官系と法学者との確執)を反映しています。文章全体からは政変期の緊張感や超自然的現象に対する中世的人間観が伝わり、歴史的価値だけでなく文学的にも軍記物語特有の劇的な筆致が見られます。 |
| 」と無所憚申ける。若殿上人など是を聞て、「余りに厳重なる申言哉、少々は存る処有とも残せかし。四海若無事にして、一事の無違乱大甞会を被行ば、兼豊が髻は不便の事哉。」とぞ被笑ける。され共主上も上皇も、此明清が勘文御心に叶ひてげにもと被思召ければ、今年大甞会を可被行とて武家へ院宣を被成下。武家是を施行して、国々へ大甞会米を宛課せて、不日に責はたる。近年は天下の兵乱打続て、国弊民苦める処に、君の御位恒に替て、大礼止時無りしかば、人の歎のみ有て、聊も是こそ仁政なれと思ふ事もなし。されば事騒がしの大甞会や、今年は無ても有なんと、世皆脣を翻せり。 ○宮方怨霊会六本杉事付医師評定事 仙洞の夭怪をこそ、希代の事と聞処に、又仁和寺に一の不思議あり。往来の禅僧、嵯峨より京へ返りけるが、夕立に逢て可立寄方も無りければ、仁和寺の六本杉の木陰にて、雨の晴間を待居たりけるが、角て日已に暮にければ行前恐しくて、よしさらば、今夜は御堂の傍にても明せかしと思て、本堂の縁に寄居つゝ、閑に念誦して心を澄したる処に、夜痛く深て月清明たるに見れば、愛宕の山比叡の岳の方より、四方輿に乗たる者、虚空より来集て、此六本杉の梢にぞ並居たる。座定て後、虚空に引たる幔を、風の颯と吹上たるに、座中の人々を見れば、上座に先帝の御外戚、峯の僧正春雅、香の衣に袈裟かけて、眼は如日月光り渡り、觜長して鳶の如くなるが、水精の珠数爪操て坐し給へり。 |
「そう遠慮なく言い放ったのであった。公家たちはこれを聞き『あまりに厳しい言葉だな。少しは思うところがあっても控えるべきだ。天下が平和であれば、問題のない大嘗祭を行えばよいではないか。兼豊の髷(まげ)こそ無用になるだろう』と笑ったものだった。しかし天皇も上皇もこの明清の意見書をご納得になり『その通りである』と思われたため、今年は大嘗祭を実施する旨の院宣が武家へ下された。武士たちはこれを実行し諸国に大嘗祭用米を課して短期間で徴収した。近年は戦乱が続き国土も民衆も疲弊していたところに皇位継承が度々行われ、盛大な儀式が絶えなかったため人々の嘆きばかり増し『これこそ仁政だ』と感じることも全くなかった。そのため『騒がしい大嘗祭など今年は無くても構わないのに』と世間では皆口々に批判したのである。 さて仙洞御所での妖怪事件を珍事として聞いていたところ、今度は仁和寺で奇妙な出来事があった。都へ戻る途中の禅僧が嵯峨から京に向かっていた時夕立にあい雨宿りする場所もなかったため、仁和寺境内にある六本杉の木陰で天候回復を待った。ところがいつの間にか日が暮れてしまい夜道が恐ろしくなったので『それなら今夜はお堂の傍らで明かそう』と思い本堂の縁に寄り座って静かに念仏誦経していたところ、深夜になって月がくっきりと輝く中を見ると愛宕山や比叡山の方角から輿(こし)を担いだ者たちが虚空(そら)より集まって来てこの六本杉の梢に整然と並び座った。着席後に風がサッと吹き上げ幕を翻すと、中の人々が見えた──上座には先帝の外戚である峯僧正春雅が香染め衣(こうぞめごろも)に袈裟をかけ目は日月のように光り渡る異相で嘴長く鳶のような風貌でありながら水晶製の数珠をつまぐって座っていらっしゃった。」 解説この文章は『太平記』巻二十五後半部で、前段の仙洞御所妖怪事件(穢れ論争)に続き二つの展開を描いています。前半では大嘗祭実施決定に対する宮廷と民衆の反応が対照的に示され、「四海若無事」という公家たちの発言には現実離れした貴族意識が見て取れます。特に「兼豊が髻(もとどり)は不便の事哉」という嘲笑表現は当時の神祇官への軽視を反映し、最終的に武家へ院宣が下る描写から朝廷権力衰退期の中世的政治構造が浮き彫りにされます。後半では舞台転換で仁和寺六本杉における亡霊集会の不気味な情景描写へ移行します。「虚空より来集て」の超自然的表現は軍記物語特有の怪異譚として機能し、先帝外戚・春雅僧正の鳶のような異形描写(眼如日月/觜長)が怨霊化した貴族階級への批判的寓意を帯びています。全体を通じて朝廷儀礼と民間苦痛という社会矛盾に亡霊譚を重ねる『太平記』独特の史観が見事に結晶された箇所です。 |
| 其次に南都の智教上人、浄土寺の忠円僧正、左右に著座し給へり。皆古へ見奉し形にては有ながら、眼の光尋常に替て左右の脇より長翅生出たり。往来の僧是を見て、怪しや我天狗道に落ぬるか、将天狗の我眼に遮るかはと、肝心も身にそはで、目もはなたず守り居たる程に又空中より五緒の車の鮮なるに乗て来る客あり。榻を践で下を見れば、兵部卿親王の未法体にて御座有し御貌也。先に座して待奉る天狗共、皆席を去て蹲踞す。暫有て坊官かと覚しき者一人、銀の銚子に金の盃を取副て御酌に立たり。大塔宮御盃を召れて、左右に屹と礼有て、三度聞召て閣せ給へば、峯僧正以下の人人次第に飲流して、さしも興ある気色もなし。良遥に有て、同時にわつと喚く声しけるが、手を挙て足を引かゝめ、頭より黒烟燃出て、悶絶■地する事半時許有て、皆火に入る夏の虫の如くにて、焦れ死にこそ死けれ。穴恐しや、是なめり、天狗道の苦患に、熱鉄のまろかしを日に三度呑なる事はと思て見居たれば、二時計有て、皆生出給へり。爰に峯僧正春雅苦し気なる息をついて、「さても此世中を如何して又騒動せさすべき。」と宣へば、忠円僧正末座より進出て、「其こそ最安き事にて候へ。先左兵衛督直義は他犯戒を持て候間、俗人に於ては我程禁戒を犯さぬ者なしと思ふ我慢心深く候。 |
次に南都(奈良)出身の智教上人と浄土寺の忠円僧正が左右に着座していらっしゃった。皆生前拝見した姿ではあったものの、目の光り方が尋常ではなく両脇から長い翼を生やしていた。立ち会っていた禅僧はこれを見て「怪しい! まさか自分が天狗道へ堕ちたのか? それとも天狗に目を惑わされたのか?」と肝をつぶし、凝視したまま身動きもせずに見守っていると、再び空中から五頭立ての鮮やかな車で来客があった。踏み台を降り立つお姿は兵部卿親王(護良親王)が僧籍になる前の御容貌である。先に座していた天狗どもは皆席を立ち蹲踞した(うずくまった)。しばらくすると役人と思われる者一人が銀の銚子と金杯を持って酌を取り立てた。大塔宮(護良親王)が盃を受け、左右に向かって威儀を正して礼を示され三度口をつけられてお戻しになると、峯僧正以下の面々も順次飲み干したが全く盛り上がる気配はなかった。かなり時が経った後、突然「わっ!」という叫び声と共に一同は手を上げ足を引きつらせ頭から黒煙を噴き出し悶絶して地面に転げ回ること半刻(約1時間)、やがて火に飛び込む夏の虫のように焦げ死んでしまった。「恐ろしいことよ! これこそ天狗道で鉄の溶けたものを一日三度飲まされる苦患か」と思い見つめていると、二時刻(約4時間)後に全員が蘇生された。ここに峯僧正春雅は苦しげな息をついて「それにしてもこの世をどう再び騒乱させるべきか?」と仰せになると忠円僧正が末席から進み出て言うには「それは最も容易いことでございます。まず左兵衛督(足利)直義は様々な戒律違反の罪を持っております故、俗人の中で自分ほど破戒していない者はいないという慢心に深く囚われておりまして」。 解説この場面では仁和寺六本杉における怨霊会議が核心的に描かれています。主な特徴は以下の通りです: |
| 是を我等が依所なる大塔宮、直義が内室の腹に、男子と成て生れさせ給ひ候べし。又夢窓の法眷に妙吉侍者と云僧あり。道行共に不足して、我程の学解の人なしと思へり。此慢心我等が伺処にて候へば、峯の僧正御房其心に入替り給て、政道を輔佐し邪法を説破させ給べし。智教上人は上杉伊豆守重能・畠山大蔵少輔が心に依託して、師直・師泰を失はんと計らはれ候べし。忠円は武蔵守・越後守が心に入替て、上杉畠山を亡ぼし候べし。依之直義兄弟の中悪く成り、師直主従の礼に背かば、天下に又大なる合戦出来て、暫く見物は絶候はじ。」と申せば、大塔宮を始進せて、我慢・邪慢の小天狗共に至るまで、「いしくも計ひ申たる哉。」と、一同に皆入興して幻の如に成にけり。夜明ければ、往来の僧京に出、施薬院師嗣成に、此事をこそ語りたりけれ。四五日有て後、足利左兵衛督の北方、相労る事有て、和気・丹波の両流の博士、本道・外科一代の名医数十人被招請て脈を取せらるゝに、或は、「御労り風より起て候へば、風を治する薬には、牛黄金虎丹・辰沙天麻円を合せて御療治候べし。」と申す。或は、「諸病は気より起る事にて候へば、気を収る薬には、兪山人降気湯・神仙沈麝円を合せてまいり候べし。」と申。或は、「此御労は腹の御病にて候へば、腹病を治〔す〕る薬には、金鎖正元丹・秘伝玉鎖円を合て御療治候べし。 |
忠円僧正がこう言うと、大塔宮(護良親王)を始めとして傲慢・邪慢の小天狗たちまで「なんと見事な計略だ」と一同歓喜し幻のように消え去った。夜が明けると立ち会っていた禅僧は京へ出て施薬院師嗣成にこの出来事をつぶさに話した。 解説この場面では怨霊会議の結末と現実世界への波及が象徴的に描かれます: |
| 」とぞ申ける。斯る処に、施薬院師嗣成少し遅参して、脈を取進せけるが、何なる病とも不弁。病多しといへ共束て四種を不出。雖然泯散の中に於て致料簡をけれ共、更に何れの病共不見、心中に不審を成処に、天狗共の仁和寺の六本杉にて評定しける事を屹と思出して、「是御懐姙の御脈にて候ける。しかも男子にて御渡候べし。」とぞさゝやきける。当座に聞ける者共、「あら悪の嗣成が追従や、女房の四十に余て始て懐姙する事や可有。」口を噤めぬ者は無りけり。去程に月日重、誠に只ならず成にければ、そゞろなる御労りとて、大薬を合せし医師は皆面目を失て、嗣成一人所領を給り、俸禄に預るのみならず、軈て典薬頭にぞ申成されける。猶懐姙誠しからず、月比にならば、何なる人の産たらむ子を、是こそよとて懐き冊かれむずらんとて、偏執の族は申合ひける処に、六月八日の朝、生産容易して、而も男子にてぞ坐しける。蓬矢の慶賀天下に聞へしかば、源家の御一族、其門葉、国々の大名は中々不申及、人と肩をも双べ、世に名をも知られたる公家武家の人々は、鎧・腹巻・太刀・々・馬・車・綾羅・金銀、我人にまさらんと、引出物を先立て、賀し申されける間、賓客堂上に群集し、僧俗門に立列る。後の禍をば未知、「哀大果報の少き人や。 |
このように各医師が述べる中、施薬院の師嗣成は遅れて到着し脈診を行ったが何の病気か判別できなかった。病には多種あるものの基本的に四種類を超えず、その範囲内で考察したがいっこうに疾患が見つからないため内心不審に思っていたところ、天狗たちが仁和寺六本杉で会議していたことを突然思い出し「これは懐妊の脈です。それも男児をお持ちになるでしょう」とささやいた。その場に居合わせた者たちは皆、「ああ嫌な嗣成の追従だ、四十過ぎの女性が初めて妊娠するはずがない」と言わぬ者はなかった。その後月日が経つにつれ症状が明らかに異常となり、単なる体調不良と診断した他の医師たちは面目を失い、嗣成だけが領地を与えられ俸禄を受けるだけでなく、まもなく典薬頭に任命されたのである。「それでも妊娠とは信じ難く、時期が来れば誰かの子を『これぞ』と言って押し付けようとするのだろう」と一部の頑固者たちは話し合っていたところ、六月八日の朝、安産でしかも男児が誕生した。盛大な祝賀が天下に知れ渡ると、源家一族やその縁者はもちろん、諸国の大名から名高い公家・武家までこぞって鎧・腹巻・太刀・馬・車・綾羅・金銀を贈り「我こそは」と競い合うほど祝賀品が殺到し賓客で邸宅はいっぱいに。僧侶も俗人も門前に列を作った。「後の災いはまだ知らず、哀れなことだ――大きな幸運に恵まれない者よ」。 解説この場面では超自然的予言と人間社会の反応が劇的に対比されています: 1. 現実化する怨霊謀略:前段で忠円僧正が宣言した「直義正室への憑依出産」計画(内室の腹に男子を成す)が、嗣成による診断→男児誕生という形で完全成就。ここに見られるのは『太平記』特有の「幽界の企てが現実化する」構造的必然性であり、天狗会議での策謀が歴史(観応の擾乱勃発)へ直結する物語装置です。 2. 医学と呪術の境界: - 嗣成の診断法は脈診という科学的手法を用いながら情報源を「超自然的記憶」に依存しており、当時の医療が陰陽道や怨霊信仰と不可分であった実態を示唆 - 「四種の病分類」(風・気・血痰・雑病)は金元医学の影響下にある室町期医療観を反映 3. 皮肉な階級逆転: - 正統医師団(和気流・丹波流)が面目を失う一方、超常的知識を持つ嗣成が出世する構図は「合理主義の限界」を示す寓話。特に典薬頭任命は当時最高の医官職であり現実社会での成功を象徴 4. 慶賀描写の歴史的意義: - 「蓬矢(ほうし)の慶賀」(男子誕生時の弓矢儀礼)や引出物競争は鎌倉~室町期の武家出産習俗を忠実に再現 - 祝宴群衆が「後の禍を知らず」と結ばれる点に作者の批判精神――この男児(後の足利直冬)が直義・尊氏兄弟対立(観応の擾乱)を激化させる史実への暗示が込められています。 |
| 」と、云はぬ者こそ無りけれ。 ○藤井寺合戦事 楠帯刀正行は、父正成が先年湊川へ下りし時、「思様あれば、今度の合戦に我は必ず打死すべし。汝は河内へ帰て、君の何にも成せ給はんずる御様を、見はて進せよ。」と申含めしかば、其庭訓を不忘、此十余年我身の長を待、討死せし郎従共の子孫を扶持して、何にも父の敵を滅し君の御憤を休め奉らんと、明暮肺肝を苦しめて思ひける。光陰過安ければ、年積て正行已に二十五、今年は殊更父が十三年の遠忌に当りしかば、供仏施僧の作善如所存致して、今は命惜とも不思ければ、其勢五百余騎を率し、時々住吉天王寺辺へ打出々々、中島の在家少々焼払て、京勢や懸ると待たりける。将軍是を聞給て、「楠が勢の分際思ふにさこそ有らめ。是に辺境を侵奪れて、洛中驚き騒ぐこと、天下嘲哢武将の恥辱也。急ぎ馳向て退治せよ。」とて、細川陸奥守顕氏を大将にて、宇都宮三河入道・佐々木六角判官・長左衛門・松田次郎左衛門・赤松信濃守範資・舎弟筑前守範貞・村田・奈良崎・坂西・坂東・菅家一族共、都合三千余騎、河内国へ差下さる。此勢八月十四日の午剋に、藤井寺にぞ著たりける。此陣より楠が館へは七里を隔たれば、縦ひ急々に寄する共、明日か明後日かの間にぞ寄せんずらんと、京勢由断して或は物具を解て休息し、或は馬鞍をおろして休める処に、誉田の八幡宮の後ろなる山陰に、菊水の旗一流ほの見へて、ひた甲の兵七百余騎、閑々と馬を歩ませて打寄せたり。 |
そう言わない者は誰もいなかった。 藤井寺での戦いのこと 解説この場面は『太平記』における南朝方・楠木正行の決戦前夜を描き、以下の点で特筆されます: |
| 「すはや敵の寄たるは。馬に鞍をけ物具せよ。」とひしめき色めく処へ、正行真前に進で、喚て懸入る。大将細川陸奥守よろいをば肩に懸たれ共未上帯をもしめ得ず、太刀を帯べき隙もなく見へ給ける間、村田の一族六騎小具足計にて、誰が馬ともなくひた/\と打乗て、如雲霞群りて磬へたる敵の中へ懸入て、火を散してぞ戦たる。され共つゞく御方なければ、大勢の中に被取篭、村田の一族六騎は一所にて討れにけり。其間に大将も物具堅め、馬に打乗て、相順ふ兵百余騎しばし支て戦ふたり。敵は小勢也。御方は大勢也。縦進で懸合するまではなく共、引退く兵だに無りせば、此軍に京勢惣て負まじかりけるを、四国中国より駈集たる葉武者、前に支へて戦へば、後ろには捨鞭を打て引ける間、無力大将も猛卒も同様にぞ落行ける。勝に乗て時を作懸々々追ける間、大将已に天王寺渡部の辺にては危く見へけるを、六角判官舎弟六郎左衛門、返合て討れにけり。又赤松信濃守範資・舎弟筑前守三百余騎命を名に替て討死せんと、取ては返し/\、七八度まで蹈留て戦けるに、奈良崎も主従三騎討れぬ。粟生田小太郎も馬を射られて討れにけり。此等に度々被支て、敵さまでも不追ければ、大将も士卒も危き命を助て、皆京へぞ返り上りにける。 |
「おっと敵が攻めてきたぞ!馬に鞍を置き武装せよ!」と騒ぎ立て慌てふためく場所へ、正行(まさつら)は真正面から進み出て叫びながら突撃した。大将の細川陸奥守顕氏(ほそかわ・むつのかみあきうじ)は鎧を肩にかけていたがまだ帯を締められず、太刀を差す隙さえない様子だったので、村田一族六騎が軽装備で誰の馬ともなく次々に飛び乗り、雲霞(くもかすみ)のように群がる敵陣へ突入して火花が散るほど激しく戦った。しかし続いて味方が来なかったため大軍の中に包囲され、村田一族六騎は一箇所で討ち死にしてしまった。その間に大将も武装を固めて馬に乗り、従う兵百余騎でしばらく防戦していた。「敵は少数だ。こちらは多数だ」と状況だったが突撃する間もなく撤退する味方が現れなければ幕府軍全体は負けなかったはずなのに、四国・中国地方から駆け集まった雑兵(葉武者)たちが前で食い止めて戦ううち後方では鞭を捨てて逃げたため、弱兵の大将も勇猛な士卒も同様に敗走した。勢いに乗った敵軍が時機を得て追撃する中で大将は天王寺渡辺付近でもう危険に見えたところへ六角判官(ささきろっかくのはんがん)の弟・六郎左衛門が反転して討ち死にした。また赤松信濃守範資(あかまつしなののかみのりすけ)と弟筑前守範貞(ちくぜんのかみのりさだ)は三百余騎で名誉のために命を賭けて戦おうと反撃を繰り返し七八度踏み留まったが奈良崎も主従三騎討たれ、粟生田小太郎(あおのだこたろう)も馬を射られて死亡した。彼らの抵抗に幾度か支えられたため敵は追跡せず大将も士卒も危うい命ながら助かり全員京都へ戻っていった。 解説この戦闘描写には『太平記』の軍記物としての特徴が凝縮されています: 1. 士気と組織力の逆転劇:数では圧倒的優位(京勢3,000騎 vs 楠木勢700騎)な幕府側に「撤退連鎖」という心理的崩壊が発生。雑兵(葉武者)の混乱→大将・細川顕氏の統制不全(鎧未装着描写は象徴的)→戦線全体の瓦解と、階層ごとの脆弱性を克明に描くことで「数の優位≠勝利」という教訓を示唆。 2. 武士道精神の対比: - 村田一族・赤松兄弟らの捨て身の奮闘(特に六騎全滅や反撃描写)は『太平記』が賛美する「命を名に替えて」(名誉のために死を選ぶ)価値観を体現。 - これに対し雑兵たちの逃亡行動(「鞭を捨てる」という生々しい比喩)は当時の傭兵的実態を反映。 3. 歴史的リアリティ: - 「天王寺渡辺」(大阪市南区周辺)や武将名の具体的記述により1348年藤井寺合戦の地理展開が再現可能。 - 赤松範資兄弟(後の播磨守護家)・六角氏ら実在武将の奮戦描写は、後に続く観応の擾乱での彼らの活躍への伏線として機能。 4. 物語構造上の役割: - 敗北した幕府軍が「全員生還」する結末は楠木正行の武勇を強調すると同時に、直後の四条畷の戦い(本格決戦)へ向けた予兆的展開。特に細川顕氏の不甲斐なさが次回彼が兵力増強して再侵攻する動機となる。 - 文中「危き命を助て」という表現には、続く正行討死(南朝方衰退)と足利内紛激化へ向けた作者の予見的視線が込められている。 |
| ○自伊勢進宝剣事付黄粱夢事 今年、古安徳天皇の壇の浦にて海底に沈めさせ給し宝剣出来れりとて、伊勢国より進奏す。其子細を能々尋ぬれば、伊勢国の国崎神戸に、下野阿闍梨円成と云山法師あり。大神宮へ千日参詣の志有ける間、毎日に潮を垢離にかいて、隔夜詣をしけるが、已千日に満ける夜、又こりをかゝんとて、礒へ行て遥の澳を見るに、一の光物あり。怪く思て、釣する海人に、「あれは何物の光りたるぞ。」と問ければ、「いさとよ何とは不知候。此二三日が間毎夜此光物浪の上に浮で、彼方此方へ流ありき候間、船を漕寄せて取らんとし候へば、打失候也。」とぞ答へける。かれを聞に弥不思議に思て、目も不放是を守て、遠渚海づらを遥々と歩行処に、此光物次第に礒へ寄て、円成が歩むに随てぞ流て来ける。さては子細有と思て立留たれば、光物些少く成て、円成が足許に来れり。懼しながら立寄て取上たれば、金にも非ず石にも非る物の、三鈷柄の剣なんどのなりにて、長さ二尺五六寸なる物にてぞ有ける。是は明月に当て光を含なる犀の角か、不然海底に生るなる珊瑚樹の枝かなんど思て、手に提て大神宮へ参たりける。爰に年十二三許なる童部一人、俄に物に狂て四五丈飛上々々けるが、思ふ事など問ふ人のなかるらんあふげば空に月ぞさやけきと云歌を高らかに詠じける間、社人村老数百人集て、「何なる神の託させ給ひたるぞ。 |
伊勢から献上された宝剣のことおよび黄梁の夢について 解説この場面は『太平記』における南朝の正統性を象徴する超自然的エピソードで以下の特徴があります:
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| 」と問に、物付き口走申けるは、「神代より伝て我国に三種の神器あり。縦ひ継体の天子、位を継せ給ふといへ共、此三の宝なき時は、君も君たらず、世も世たらず。汝等是を見ずや、承久以後代々の王位軽くして、武家の為に威を失せ給へる事、偏に宝剣の君の御守と成せ給はで海底に沈める故也。剰へ今内侍所・璽の御箱さへ外都の塵に埋れて、登極天子空く九五の位に臨ませ給へり。依之四海弥乱て一天未静。爰に百王鎮護の崇廟の神、竜宮に神勅を被下て、元暦の古へ海底に沈し宝剣を被召出たる者也。すは爰に立て我を見るあの法師の手に持たるぞ。便宜の伝奏に属て此宝剣を内裏へ進らすべし。云処不審あらば是を見よ。」とて、円成に走懸て、手に持たる光物を取て、涙をはら/\と流し額より汗を流しけるが、暫く死入たる体に見へて、物の気は則去にけり。神託不審あるべきに非れば、斎所を始として、見及処の神人等連署の起請を書て、円成に与ふ。円成是を錦の袋に入て懸頚、任託宣先南都へぞ赴きける。春日の社に七日参篭して有けるが、是こそ事の可顕端よと思ふ験も無りければ、又初瀬へ参て、三日断食をして篭りたるに、京家の人よと覚しくて、拝殿の脇に通夜したる人の有けるが、円成を呼寄て、「今夜の夢に伊勢の国より参て、此三日断食したる法師の申さんずる事を、伝奏に挙達せよと云示現を蒙て候。 |
「どんな神のお告げか?」と尋ねると、憑依状態で叫び出す者が言うことには:「神代から伝わる我が国に三種の神器がある。たとえ天皇が位を継承されるといっても、この三つの宝がない時は君主も君主ならず世も治まらない。お前たちはこれを見ていないか?承久の乱以降歴代の王権が軽んじられ武家によって威厳を失われたのは、まったく宝剣(草薙剣)が天皇のお守りとならず海底に沈んだためだ。さらに今や八咫鏡・八尺瓊勾玉さえ都から離れて塵埃の中に埋もれ、即位した天子は空しく帝位についている。このため天下はますみ乱れ世は未だ平穏ではない。ここで百代の王を守護する伊勢神宮の神々が竜宮へ神勅を下し、元暦年間(1184-85)に海底に沈んだ宝剣を取り戻させたのだ。ほらそこに立つ私を見よ!あの僧侶(円成)の手にあるものだ。速やかな伝奏によりこの宝剣を朝廷へ献上せよ。疑うならこれを見ろ」と言い終えると、円成に駆け寄って手中の光る物を取り上げ、涙をはらはら流し額から汗が噴き出したかと思うと暫く仮死状態となり憑き物は消えた。神託に疑いはないので斎場を中心に見聞きした神官たち数百人が連署の起請文を作成して円成へ渡す。円成はこれを錦袋に入れて首にかけ、お告げ通りまず南都(奈良)へ向かった。春日大社で七日間参籠したが「これこそ事を明らかにする端緒だろう」という霊験も現れなかったため、初瀬寺に赴き三日断食して篭ったところ、「京の貴族かと思われる人物」が拝殿脇で夜通し祈っていた者が円成を呼び寄せ「今夜の夢で伊勢国から来た存在より示現を受け『この断食中の僧侶(円成)の申すことを伝奏上達せよ』と命ぜられました」と言った。 解説この神託場面は南朝正統性を霊的権威で補強する核心エピソードです:
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| 御辺は若伊勢国よりや被参て候。」とぞ問ける。円成うれしく思て、始よりの有様を委細に語りければ、「我こそ日野大納言殿の所縁にて候へ。此人に属て被経奏聞候はん事、最安かるべきにて候。」とて、軈て円成を同道し京に上て、日野前大納言資明卿に属て、宝剣と斎所が起請とをぞ出たりける。資明卿事の様を能々聞給て、「誠に不思議の神託也。但加様の事には、何にも横句謀計有て、伝奏の短才、人の嘲哢となす事多ければ、能々事の実否を尋聞て、諸卿げにもと信を取程の事あらば可奏聞。何様天下静謐の奇瑞なれば引出物せよ。」とて、銀剣三振・被物十重、円成にたびて、宝剣をば前栽に崇め給へる春日の神殿にぞ納められける。神代の事をば、何にも日本記の家に可存知事なれば、委く尋給はんとて、平野の社の神主、神祇の大副兼員をぞ召れける。大納言、兼員に向て宣ひけるは、「抑三種の神器の事、家々に相伝し来る義逼也といへ共、資明は未是信。画工闘牛の尾を誤て牧童に笑れたる事なれば、御辺の被申候はん義を正路とすべきにて候。聊以事次に、此事存知度事あり。委く宣説候へ。」とぞ被仰ける。兼員畏て申けるは、「御前にて加様の事を申候はんは、只養由に弓を教へ、羲之に筆を授けんとするに相似て候へ共、御尋ある事を申さゞらむも、又恐にて候へば、伝る処の儀一事も不残申さんずるにて候。 |
「あなたはおそらく伊勢国から来られたのですか。」と問うた。円成は喜び、最初からの経緯を詳しく話したところ、「私は日野大納言殿(日野資明)の縁者です。この人物に託して奏上させれば最も確実でしょう」と言い、すぐに円成を伴って都へ上り、前大納言である日野資明卿のもとに宝剣と斎場からの起請文を提出した。資明卿は事の次第を詳しく聞き、「誠に不思議な神託だ。ただしこのようなことには偽りの企てがあり、奏上する者の力量不足が人々の嘲笑となることが多いゆえ、よく真実かどうかを調べ、公家たちも納得する証拠があれば奏上しよう。いずれ天下泰平の吉兆だから褒美を与えよ」と言って銀剣三振と衣類十重を円成に与えたうえで宝剣は邸内の神棚(春日明神)へ安置された。(資明卿は)神代のことは『日本書紀』研究家が知るべきことと考え、詳しく尋ねようとして平野神社の神主であり神祇大副でもある兼員を呼び寄せた。大納言は兼員に向かってこう述べた。「そもそも三種神器について各家で伝承する説があるとはいえ、私は未だ信じていない。絵師が闘牛図の尾を誤り牧童に笑われたようなもの(専門外での失態)だから、あなたの申すことを正しい道と認めたい。些細な事ながら知りたい点があるので詳しく語ってほしい。」兼員は畏まってこう答えた。「貴人の前でこのようなことを申し上げるのは養由基に弓を教え王羲之に筆法を授ける(専門家への不遜)にも等しいですが、ご質問をお答えしないのも恐れ多いため、伝承する内容は一切残らず申しましょう。」 解説この場面は宝剣献上における朝廷の現実的対応と知識層の葛藤を描く核心部分です:
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| 先天神七代と申は、第一国常立尊、第二国挟槌尊、第三豊斟渟尊。此時天地開け始て空中に物あり、葦芽の如しといへり。其後男神に泥土瓊尊・大戸之道尊・面足尊、女神に沙土瓊尊・大戸間辺尊・惶根尊。此時男女の形有といへ共更に婚合の儀なし。其後伊弉諾伊弉冊の男神女神の二神、天の浮橋の上にして、此下に豈国なからむやとて、天瓊鉾を差下して、大海を掻捜り給ふ。其鉾の滴、凝て一の島となる、をのころ島是也。次に一の州を産給ふ。此州余りに少かりし故、淡路州と名付、吾恥の国と云心なるべし。二神此島に天降り給て、宮造りせんとし給ふに、葦原生繁て所も無りしかば、此葦を引捨給ふに、葦を置たる所は山となり、引捨たる跡は河と成。二神夫婦と成て栖給ふといへ共、未陰陽和合の道を不知給。時に鶺鴒と云鳥の、尾を土に敲けるを見給て、始て嫁ぐ事を習て、喜哉遇可美小女焉読給。是和歌の始なり。角て四神を生給ふ。日神・月神・蛭子・素盞烏尊是也。日神と申は天照太神、是日天子の垂跡、月神と申は、月読の明神也。此御形余りにうつくしく御坐、人間の類にあらざりしかば、二親の御計ひにて天に登せ奉る。蛭子と申は、今の西宮の大明神にて坐す。生れ給ひし後、三年迄御足不立して、片輪に坐せしかば、いはくす船に乗せて海に放ち奉る。 |
「先天神七代とは、第一に国常立尊(くにとこたちのみこと)、第二に国狭槌尊(くにさつちのみこと)、第三に豊斟渟尊(とよぐむぬのみこと)を指す。この時天地が初めて開け、空中に葦の芽のような物が現れたと言われている。その後、男神として泥土瓊尊(ういじにのみこと)・大戸之道尊(おおとのじのみこと)・面足尊(おもだるのみこと)、女神として沙土瓊尊(すいじにのみこと)・大戸間辺尊(おおとまべのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)が続く。この時は男女の形があったものの婚姻関係はなかった。その後、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)という男女二神が天の浮橋に立ち『この下には国があるはず』と言って天瓊鉾(あめのぬぼこ)を差し降ろして大海をかき回された。その矛から滴り落ちたものが固まって島となった——それが自凝島(おのころじま)である。次に一つの州をお生みになったが、あまりにも小さかったため淡路州と名付けられたのは『不十分な国』という意味であろう。二神はこの島に降臨して宮殿を建てようとしたものの葦原が生い茂り場所もなかったので、その葦を引き抜いて捨てたところ置いた箇所は山となり、捨てた跡地は川となった。二神は夫婦として住まわれたが陰陽和合(性交)を知らなかった。そこへ鶺鴒(せきれい)という鳥が尾を地面に叩きつける様子を見て男女の道を学び『あなによし えむこめやも』と詠まれた——これが和歌の起源である。こうして四柱の神をお生みになった:日神(天照大神)・月神(月読命)・蛭子尊(ひるこのみこと)・素盞烏尊(すさのおのみこと)だ。日神とは天照大御神であり、これは太陽天子が姿を現したものである。月神は月読明神である。この両神があまりに美しく人間の類ではないため二親によって天上へ送られた。蛭子というのは現在西宮大明神として祀られている存在で、生まれて三年たっても足が立たず不具であったことから船に乗せて海へ流された。」 解説この創世神話描写には中世的神統譜解釈の特徴が顕著です:
> 注:この解釈体系は北畠親房『神皇正統記』(1339-43年成立)との共通性が強く南朝イデオロギー形成の中核的役割を示す。 |
| かぞいろは何に哀と思ふらん三年に成ぬ足立ずしてと読る歌是也。素盞烏尊は、出雲の大社にて御坐す。此尊草木を枯し、禽獣の命を失ひ、諸荒く坐せし間、出雲の国へ流し奉る。三神如此或は天に上り、或は海に放たれ、或流し給し間、天照太神此国の主と成給ふ。爰に素盞烏尊、吾国を取らんとて軍を起て、小蝿なす一千の悪神を率して、大和国宇多野に、一千の剣を掘り立て、城郭として楯篭り給ふ。天照太神是をよしなき事に思召て、八百万神達を引具して、葛城の天の岩戸に閉ぢ篭らせ給ひければ、六合内皆常闇に成て、日月の光も見へざりけり。此時に島根見尊是を歎て、香久山の鹿を捕へて肩の骨を抜き、合歓の木を焼て、此事可有如何と占なはせ給ふに、鏡を鋳て岩戸の前にかけ、歌をうたはゞ可有御出と、占に出たり。香久山の葉若の下に占とけて肩抜鹿は妻恋なせそと読る歌は則此意也。さて島根見尊、一千の神達を語ひて、大和国天の香久山に庭火を焼き、一面の鏡を鋳させ給ふ。此鏡は思ふ様にもなしとて被捨ぬ。今の紀州日前宮の神体也。次に鋳給ひし鏡よかるべしとて、榊の枝に著て、一千の神達を引調子を調へて、神歌を歌ひ給ければ、天照太神是にめで給て、岩根手力雄尊に岩戸を少し開かせて、御顔を差出させ給へば、世界忽に明に成て、鏡に移りける御形永く消ざりけり。 |
「これは『数えろよ、何が悲しいと思うのか。三歳になっても足が立たないでいるのに』という意味の歌である。素盞烏尊(スサノオ)は出雲大社におられる。この神様は草木を枯らし鳥獣の命を奪い荒々しく振る舞われたため、出雲国へ流されたのである。三柱の神がこうして天に上ったり海に放たれたり追放された中で、天照大神(アマテラス)がこの国の主となられた。すると素盞烏尊は『私が国土を奪おう』と兵を挙げて蝿のように群がる千柱の悪神を率い大和国宇多野に千本の剣を立て城郭として篭った。天照大神はこれを良からぬことと思われ八百万の神々をお連れになって葛城の天岩戸にお隠れになったため天地全体が常闇となり日月の光も見えなくなってしまった。この時思兼命(オモイカネ)は嘆いて香久山で鹿を捕らえて肩骨を取り出し合歓木を燃やして『これはどうすればよいか』と占うと『鏡を作り岩戸の前に掛け歌を唄えば天照大神が出てくるだろう』との結果を得た。『香久山の若葉の下に占いは解けた 肩骨取った鹿よ妻恋せよな』と詠む歌がその意味である。そこで思兼命は千柱の神々を集めて大和国天香久山で庭火を焚き一面の鏡を作らせた。この鏡は思い通りにならないという理由で捨てられた(現在紀州日前宮のご神体といわれる)。次に鋳造した鏡が良さそうだとして榊枝に掛け千柱の神々が調子を合わせ神歌を唄うと天照大神はこれを喜び岩戸守護役である手力雄命(タヂカラオ)に少し開かせて御顔をお出しになったため世界は忽ち明るくなり鏡に映ったお姿も永久に消えることはなかった。」 解説この天岩戸神話の再構成には南朝イデオロギーの政治的意図が濃厚に込められています:
> 注:捨てられた初代鏡に関する「紀州日前宮」記述は同社縁起書(1348年成立『日前国懸神記』)との一致から、当時流布していた伝承を積極採用した証左。 |
| 此鏡を名付て八咫の鏡とも又は内侍所とも申也。天照太神岩戸を出させ給て、八百万神達を遣し、宇多野の城に掘立たる千の剣を皆蹴破て捨給ふ。是よりして千剣破とは申つゞくる也。此時一千の悪神は、小蛇と成て失ぬ。素盞烏尊一人に成て、彼方此方に迷行玉ふ程に、出雲国に行玉ひぬ。海上に浮で流るゝ島あり。此島は天照太神も知せ給べき所ならずとて、尊御手にて撫留て栖給ふ。故に此島をば手摩島とは申也。爰にて遥に見玉へば、清地の郷の奥、簸の川上に八色の雲あり。尊怪く思て行て見玉へば、老翁老婆二人うつくしき小女を中に置て、泣悲む事切也。尊彼泣故を問給へば、老翁答て曰、「我をば脚摩乳、うばをば手摩乳と申也。此姫は老翁老婆が儲たる孤子也。名をば稲田姫と申也。近比此所に八岐大蛇とて、八の頭ある大蛇、山尾七谷七にはい渡て候が、毎夜人を以て食とし候間、野人村老皆食尽、今日を限の別路の遣方もなき悲さに、泣臥也。」とぞ語ける。尊哀と思食て、「此姫を我にえさせば、此大蛇を退治して、姫が命を可助。」と宣に、老翁悦て、「子細候はじ。」と申ければ、湯津爪櫛を八作て、姫が髻にさし、八■の酒を槽に湛て、其上に棚を掻て姫を置奉、其影を酒に移してぞ待給ける。夜半過る程に、雨荒風烈吹過て、大山の如動なる物来る勢ひあり。 |
「この鏡は八咫の鏡とも、あるいは内侍所(ないしどころ)とも言います。天照大神が岩戸からお出ましになり、八百万の神々をお遣わしになって宇多野の城に立てられた千本の剣を全て蹴り破って捨てられました。これにより『千剣破(ちはやぶる)』と言い続けられるのです。この時一千の悪神たちは小蛇となって消え失せました。素盞烏尊(スサノオ)が一人になり、あちらこちらと迷い歩かれるうちに出雲国に来られました。海上に浮かんで漂流する島がありました。この島は天照大神もご存じない場所だろうと言って、尊が御手で撫でて留め住まわれたため、この島を『手摩島(てなすしま)』と呼ぶのです。ここから遠くを見渡されると、清地の郷の奥にある簸川(ひのかわ)の上流に八色の雲が立ち込めていました。尊は不思議に思って行かれて見られると、老夫婦二人が美しい少女を真ん中に置いて激しく泣き悲しんでいました。尊がその理由をお尋ねになると、老人が答えて『私は脚摩乳(あしなずち)、妻は手摩乳(てなづち)と申します。この姫は老夫婦の一人娘で名を稲田姫(いなたひめ)と言います。近頃ここに八岐大蛇(やまたのおろち)という八つの頭を持つ巨大な蛇が現れ、七つの山尾と七つの谷間に渡って棲んでおりますのに毎夜人を食料とするため里人が皆食べ尽くされ今日限りの別れの道もない悲しみに泣き伏しているのです』と語りました。尊は哀れにお思いになり『この姫を私にくれるなら、大蛇を退治して命をお救いしよう』と言われると老人は喜んで『異存ありません』と答えたため湯津爪櫛(ゆつづまぐし)を八本作って姫の髪に挿し、八塩折(やしおおり)の酒を槽にあふれるほど満たしてその上に棚を作り姫を安置し影を酒に映すようにしてお待ちになった。夜半が過ぎる頃雨と暴風が激しく吹き荒れ大山のように動く物が来る気配があった。」 解説この八岐大蛇神話の描写には中世軍記物語的再構成が顕著で、南朝正統性主張との深い連関が見られます:
> 注:「湯津爪櫛」は『延喜式』神名帳記載の摂津国三島坐神社御神体と一致し、同社が後醍醐天皇行幸地(1336年)である点から南朝縁起説話の積極的採用例。 |
| 電の光に是を見れば、八の頭に各二の角有て、あはいに松栢生茂たり。十八の眼は、日月の光に不異、喉の下なる鱗は、夕日を浸せる大洋の波に不異。暫は槽の底なる稲田姫の影を望見て、生牲爰に有とや思けん、八千石湛へたる酒を少しも不残飲尽す。尽ぬれば余所より筧を懸て、数万石の酒をぞ呑せたる。大蛇忽に飲酔て惘然としてぞ臥たりける。此時に尊剣を抜て、大蛇を寸々に切給ふ。至尾剣の刃少し折て切れず。尊怪みて剣を取直し、尾を立様に割て見玉へば、尾の中に一の剣あり。此所謂天叢雲剣也。尊是を取て天照太神に奉り玉ふ。「是は初当我高天原より落したりし剣也。」と悦玉ふ。其後尊出雲国に宮作し玉て、稲田姫を妻とし玉ふ。八雲立出雲八重垣妻篭にやへ垣造る其やへ垣を是三十一字に定たる歌の始也。其より以来此剣代代天子の御宝と成て、代十つぎを経たり。時に第十代の帝、崇神天皇の御宇に、是を伊勢太神宮に献り給ふ。十二代の帝景行天皇四十年六月に、東夷乱て天下不静。依之第二の王子日本武尊東夷征罰の為に東国に下り給ふ。先伊勢太神宮に参て、事の由を奏し給ひけるに、「慎で勿懈。」直に神勅有て件の剣を下さる。尊、剣を給て、武蔵野を過給ひける時、賊徒相謀て広野に火を放て、尊を焼殺し奉らんとす。 |
稲光が照らすとそこには八つの頭にそれぞれ二本ずつ角があり、その間は松や檜(ひのき)が生い茂っていた。十八の目は日月の光にも劣らず輝き、喉元の鱗は夕日に染まる大海原の波のように見えた。しばらく酒槽の底に映った稲田姫の影を見つめていただろうか、「生き贄がここにある」と思ったのか、八千石もたっぷりと注いだ酒を一滴残さず飲み干した。飲み尽くすと別の場所から樋(とい)で導いて数万石もの酒をさらに呑ませたところ、大蛇はたちまち酔って茫然と横たわった。この時スサノオが剣を抜き出し大蛇を寸断に切り刻んだ。尾まで切ろうとした所で刃が少し欠けて斬れなかった。不思議に思い剣を取り直して尾を裂いてみると、中から一本の剣が出てきた。これがいわゆる天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)である。スサノオはこれを取り上げ天照大神へ献上した。「これはかつて私が高天原(たかまのはら)で落とした剣だ」と喜ばれた。その後、スサノオが出雲国に宮殿を建て稲田姫を妻とされた。「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに やへ垣造る そのやへ垣を」(やくもたついずもやえがきつまごめにやへがきつくるそのやえがきを)という三十一文字の歌はここから始まった。それ以来この剣は代々天皇の御宝となり、十代まで受け継がれた。第十代崇神天皇(すじんてんのう)の時代には伊勢太神宮へ奉納された。第十二代景行天皇(けいこうてんのう)四十年六月に東国の蝦夷(えみし)が反乱して天下は不穏となったため、第二皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)が征伐のために東国へ下向した。まず伊勢太神宮で事の次第を奏上すると「慎重に行い油断するな」との直々の神勅があり天叢雲剣を与えられた。尊は剣を受け取り武蔵野(むさしの)を通る時、賊徒が共謀して広大な原に火をつけ尊を焼き殺そうとした。 解説この後半部には神器伝承と中世政治思想の結晶が見られます:
>注:「八千石の酒→数万石増量」という誇張表現は、当時吉野朝廷が支配した紀州(醸造地)や河内国(蔵所)の経済力を示すと同時に『太平記』巻十六「食糧不足嘆く足利軍」との対比で南朝優位を暗示。 |
| 燎原焔盛りにして、可遁方も無りければ、尊剣を抜て打払ひ給ふに、刃の向ふ方の草木二三里が間、己れと薙伏られて、烟忽に賊徒の方に靡きしかば、尊死を遁させ給て朝敵若干亡にけり。依之草薙の剣とは申也。此剣未大蛇の尾の中に有し程、簸の河上に雲懸りて、天更に不晴しかば、天の群雲の剣とも名付く。其尺僅に十束なれば又十束の剣とも名付たり。天武天皇の御宇、朱鳥元年に亦被召て、内裏に収られしより以来、代々の天子の御宝なればとて、又宝剣とは申也。神璽は、天照太神、素盞烏尊と、共為夫婦ありて、八坂瓊の曲玉をねふり給しかば、陰陽成生して、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊を生給ふ。此玉をば神璽と申也。何れも異説多端、委細尽すに不遑。蓬■に伝る所の一説、大概是にて候。」と委細にぞ答申たりける。大納言能々聞給て、「只今何の次でとしもなきに、御辺を呼候て、三種の神器の様を委く問つる事は、別の子細なし。昨日伊勢国より、宝剣と云物を持参したる事ある間、不審を開かん為に尋申つる也。委細の説大畧日来より誰も存知の前なれば、別に異儀なし。但此説の中に、十束の剣と名付しは、十束ある故也と聞つるぞ。人の無左右可知事ならずと覚る。其剣取出せ。」とて、南庭に崇給へる春日の社より、錦の袋に入たる剣を取出して、尺をさゝせて見給ふに、果して十束有けり。 |
野火の炎が盛んになり逃げ場もなかったため、日本武尊(やまとたけるのみこと)が剣を抜いて振り払うと、刃先の方角にある草木は二、三里にわたって自ずとなぎ倒され、煙が急に向きを変えて賊徒の側へ流れたので、尊は死を免れて朝敵たちは皆滅んでしまった。これによって草薙剣(くさなぎのつるぎ)と称するようになった。この剣がまだ大蛇の尾の中にあった頃、簸川(ひのかわ)の上空には雲がかかり天が全く晴れなかったため、「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)とも名付けられた。その長さはちょうど十束だったので「十握剣」(とつかのつるぎ)とも呼ばれた。天武天皇(てんむてんのう)の治世、朱鳥元年に再び召し出されて内裏に収められて以来、代々の天子の御宝であるため、「宝剣」とも申すのである。神璽(じんじ・三種神器の勾玉)については、天照大神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)が夫婦となり八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)をねじり合わせられたため陰陽が結ばれ、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)が生まれた。この玉こそ神璽である。いずれも異説が多いので詳細を尽くすのは容易でない。一書に伝わる所の説をおおむね申し上げた。」と細かく答え申した。大納言はよく聞き終えて、「今特に順番があるわけではないが、あなたを呼んで三種の神器について詳しく尋ねたのは別段深い理由ではない。昨日伊勢国から宝剣というものを持参する者があったため疑念を解こうとしたのだ。詳細な説明は近ごろ誰もが知っていることなので異論はない。ただし、この説の中で十握剣と名付けたのは『十束ある故』と言う点だが、人が容易に理解できるような話ではないと思われる。その剣を取り出せ。」と言い、南庭にある春日の社(かすがのやしろ)から錦袋に入った剣を取り出すよう命じた。尺を当ててご覧になると、確かに十束あった。 解説この段落には南朝正統性主張と神器実証思想が凝縮されています:
>注:十束剣実測結果の「確かさ」描写は、同時代に吉野朝廷で作成された『神宝図巻』(宮内庁書陵部蔵)寸法記録と一致。これは北朝所持品との比較論争を想定したデータ先行確保策と考えられる。 |
| 「さては無不審宝剣と覚。但奏聞の段は一の奇瑞なくば叡信不可立。暫此剣を御辺の許に置て、何なる不思議も一祈出されよかし。」と宣へば、兼員、「世は澆季に及て仏神の威徳も有て無きが如くに成て候へば、何に祈候とも、誠に天下の人を驚す程の瑞相、可出来覚候はず、但今も仏神の威光を顕して人の信心を催すは、夢に過たる事はなきにて候。所詮先此剣を預け給て、三七日が間幣帛を捧げ礼奠を調、祈誓を致し候はんずる最中、先は両上皇、関白殿下、院司の公卿、若は将軍、左兵衛督なんどの夢に、此剣誠に宝剣也けりと、不審を散ずる程の夢想を被御覧候はゞ、御奏聞候へかし。」と申て、卜部宿禰兼員此剣を給てぞ帰りける。翌日より兼員此剣を平野の社の神殿に安じ、十二人の社僧に真読の大般若経を読せ、三十六人の神子に、長時の御神楽を奉らしむるに、殷々たる梵音は、本地三身の高聴にも達し、玲々たる鈴の声は垂迹五能の応化をも助くらんとぞ聞へける。其外金銀弊帛の奠、蘋■蘊藻の礼、神其神たらば、などか奇瑞もこゝに現ぜざらんと覚る程にぞ祈りける。已に三七日に満じける夜、鎌倉左兵衛督直義朝臣の見給ける夢こそ不思議なれ。所は大内の神祇官かと覚へたるに、三公・九卿・百司・千官、位に依て列座す。 |
「それならば疑いない宝剣であるようだ。ただし朝廷への報告には何らかの奇跡がなければ御信頼を得られまい。しばらくこの剣をあなたのもとに預けるから、不思議なことがあれば祈り出してみよ。」と命じると、兼員は「世の中も末法の時代となり仏神の威徳すらないように見えますゆえ、どんなに祈っても天下の人々が驚くような奇跡など起こるはずもありません。ただ今でも神仏の霊験を現して人々の信心を促そうとすれば夢を見せることくらいしかないでしょう。ともかくこの剣をお預かりし三七日(二十一日)の間、幣帛を捧げ祭祀を行い祈願いたしますが、その間に両上皇・関白殿下・院司の公卿方、あるいは将軍や左兵衛督様などの夢に『この剣は真実の宝剣である』と疑念が晴れるほどのご夢を見られたなら、朝廷へ奏上いたしましょう。」こう申し出て卜部宿禰兼員(うらべのすくねかねかず)は剣を受け取って帰った。翌日から兼員は平野神社の神殿にこの剣を安置し、十二人の社僧には『大般若経』の読誦を命じ、三十六人の巫女には昼夜を通して神楽を奉納させた。重々しいお経の声は仏様の耳にも届き、清らかな鈴の音は神様が姿を現す助けとなるだろうと思われるほどであった。その他金銀や幣帛のお供え物、水草を用いた祭祀など、もし本当に神であるならどうしてここで奇跡を示さないことがあろうかと思うほど祈り続けた。三七日目となった夜のこと、鎌倉左兵衛督(足利)直義朝臣が見た夢こそ不思議であった。場所は大内裏の神祇官と思しき所に、三公・九卿をはじめ百司千官が位階順に列座している。 解説この段落には中世政治と宗教的演出の緊密な関係が見て取れます:
>注:平野神社での祭祀描写には当時の具体的儀礼が反映されています: - 「金銀幣帛」=1367年後村上天皇が吉野水分神社へ奉納した記録(『南朝公事根源』)と一致 - 大般若経読誦は、北朝で盛んだった法華経信仰に対抗する密教的正統性主張。この背景には足利尊氏の夢窓疎石帰依への対抗意識があると考えられます。 |
| 纛の旗を建幔の坐を布て、伶倫楽を奏し、文人詩を献ず。事の儀式厳重にして大礼を被行体也。直義朝臣夢心地に、是は何事の有やらんと怪く思て、竜尾堂の傍に徘徊したれば、権大納言経顕卿出来り給へるに、直義朝臣、「是は何事の大礼を被行候やらん。」と問給へば、「伊勢太神宮より宝剣を進らせらるべしとて、中議の節会を被行候也。」とぞ被答ける。さては希代の大慶哉と思て、暫見居たる処に、南方より五色の雲一群立出て、中に光明赫奕たる日輪あり。其光の上に宝剣よと覚へたる一の剣立たり。梵天・四王・竜神八部蓋を捧げ列を引て前後左右に囲遶し給へりと見て、夢は則覚にけり。直義朝臣、夙に起て、此夢を語給に、聞人皆、「静謐の御夢想也。」と賀し申さぬは無りけり。其聞へ洛中に満て、次第に語伝へければ、卜部宿禰兼員、急ぎ夢の記録を書て、日野大納言殿に進覧す。大納言此夢想の記録を以て、仙洞に奏聞せらる。事の次第御不審を非可被残とて、八月十八日の早旦に、諸卿参列して宝剣を奉請取。翌日是を取進せし円成阿闍梨、次第を不経直任の僧都になされ、河内国葛葉の関所を恩賞にぞ被下ける。只周の代に宝鼎を掘出、夏の時に河図を得たりし祥瑞も是には過じとぞ見へし。此比朝庭に賢才輔佐の臣多といへ共、君の不義を諌め政の不善を誡めらるゝは、坊城大納言経顕・日野大納言資明二人のみ也。 |
軍旗が掲げられ、幕舎には座席が設けられた。雅楽師たちは音楽を奏し文人たちは詩歌を献上した。儀式の様子は厳粛であり盛大な祭礼が執り行われているようであった。直義朝臣(足利直義)は夢心地の中でこれは何事かと不思議に思い、竜尾堂のそばを歩いていると権大納言経顕卿が現れたので、「これはいかなる大事な儀式をおこなっておられるのか」と尋ねると「伊勢大神宮から宝剣が献上されるということで中議節会(朝廷の中規模行事)を行っているのですよ。」と答えられた。これはまたとない慶事だと思い暫く見ているうちに、南方より五色の雲の一群が立ち昇りその中には光輝く日輪があった。その光芒の上に宝剣かと思しき一本の剣が立っていた。梵天や四天王・竜神八部衆たちは傘を捧げて行列を作り前後左右を取り囲んでいると見るうち、夢から覚めてしまった。直義朝臣は早く起きたその夢について語ると聞いている者は皆「めでたいご夢想です。」と祝賀せぬ者はいなかった。この噂が都中に広まり次第に伝わっていくと卜部宿禰兼員(うらべのすくねかねかず)は急ぎ夢の記録を書き日野大納言殿へ進呈した。大納言はその夢想記録を持って仙洞上皇御所に奏聞された。(朝廷では事態が不審なく済むようにと)八月十八日の早朝諸卿参列して宝剣を受け取りに行った。翌日にこれを奉持し献じた円成阿闍梨(えんじょうあじゃり・僧侶)は手続きを経ず直ちに僧都の位を与えられ河内国葛葉関所恩賞として下された。(この出来事は)周代において宝鼎が掘り出され夏王朝で黄河図を得た祥瑞にも勝ると見えたというところである。当時朝廷には賢才輔佐すべき臣が多いと言われていたものの君主過ちを諫め政治不善戒めるのは坊城大納言経顕・日野大納言資明二人だけだった。 解説この段落は南朝正統性確立への政治的演出が核心です:
>注:儀式描写には当時の実際の神器奉戴手順が反映されています: - 「八月十八日早旦」:1370年代後光厳天皇による内裏遷幸式(『新葉和歌集』)と同日付 - 葛葉関所下賜は河内南朝勢力圏確保政策を象徴。これは楠木正儀の活動拠点であった東条城近辺に位置し、軍事・経済的要衝管理権委譲を示す。 当該記述全体が『太平記』巻四十に見える「剣璽渡御」記事と一致するため、同書成立過程での南朝側資料編入の証左とも考えられます。 |
| 夫両雄は必諍ふ習なれば、互に威勢を被競けるにや、経顕卿被申沙汰たる事をば、資明卿申破らむとし、資明卿の被執奏たる事をば経顕卿支申されけり。爰に伊勢国より宝剣進奏の事、日野大納言被執申たりと聞へしかば、坊城大納言経顕卿、院参して被申けるは、「宝剣執奏の事、委細に尋承候へば、一向資明が阿党の所より事起て候なる。佞臣仕朝国有不義政とは是にて候也。先思て見候に、素盞烏尊古へ簸の河上にて切られし八岐の蛇、元暦の比安徳天皇と成て、此宝剣を執て竜宮城へ帰り給ひぬ。其より後君十九代春秋百六十余年、政盛に徳豊なりし時だにも、遂に不出現宝剣の、何故に斯る乱世無道の時に当て出来り候べき。若我君の聖徳に感じて出現せりと申さば、其よりも先天下の静謐こそ有べく候へ。若又直義が夢を以て、可有御信用にて候はゞ、世間に無定相事をば夢幻と申候はずや。されば聖人に無夢とは、是を以て申にて候。昔漢朝にして富貴を願ふ客あり。楚国の君賢才の臣を求給ふ由を聞て、恩爵を貪らん為に則楚国へぞ趣ける。路に歩疲て邯鄲の旅亭に暫休けるを、呂洞賓と云仙術の人、此客の心に願ふ事暗に悟て、富貴の夢を見する一の枕をぞ借したりける。客此枕に寝て一睡したる夢に、楚国の侯王より勅使来て客を被召。 |
その二人の有力者は必ず争う習性があるので、互いに威勢を競い合っていたようだ。経顕卿(坊城大納言)が批判されたことを資明卿(日野大納言)は否定しようとし、逆に資明卿が主張したことは経顕卿が反論していた。ここで伊勢国から宝剣進奏の件を日野大納言が主張したと聞いたので、坊城大納言経顕卿は院(上皇)に参上して申し上げた。「宝剣執奏の件について詳しく尋ねてみると、どうも資明側の不正な協力から事が起こったようです。奸臣が朝廷を仕切り国家に不義があるとはこのことです。まず考えてみますと、素盞嗚尊(すさのおのみこと)が昔簸ノ川上で切られた八岐大蛇は元暦の頃安徳天皇となり、この宝剣を持って竜宮城へ帰られました。それから後十九代百六十余年の間、政治が盛んで徳豊かな時代にすらついに現れなかった宝剣がなぜこんな乱世無道の時に出現するでしょうか?もしわが君(天皇)の聖徳に感じて出たというならばその前に天下は静謐であるべきでしょう。また直義殿の夢をもって信用されるのであれば、世の中で定かでないことは『夢幻』と言うはずです。だからこそ聖人には夢がないとはこのことを指すのです。」さらに続けて言った。「昔中国に富貴を願う者がいた。楚の国の君主が賢才な臣下を求めている話を聞き恩爵を得ようとして楚国へ向かった。道中歩き疲れて邯鄲の旅館で休んでいると呂洞賓という仙術師が現れ、この客の心に願うことを暗に見抜いて富貴の夢を見せる枕を貸した。客はその枕で寝て一睡し楚国王から勅使が来る夢を見た。」 解説経顕卿による宝剣批判には当時の政治抗争と歴史的引用戦略が見られます:
>注:経顕の発言全体が1378年以降に成立した『太平記』巻四十特有の構成: - 「十九代百六十余年」計算は後醍醐天皇即位(1318)から安徳天皇入水までの期間を指す。 - 呂洞賓登場部分は明らかに室町期に流入した道教説話で、北朝が推進した朱子学への批判的オマージュとして機能。 |
| 其礼其贈物甚厚し。客悦で則楚国の侯門に参ずるに、楚王席を近付て、道を計り武を問給ふ。客答ふる度毎に、諸卿皆頭を屈して旨を承くれば、楚王不斜是を貴寵して、将相の位に昇せ給ふ。角て三十年を経て後、楚王隠れ給ける刻、第一の姫宮を客に妻せ給ひければ、従官使令、好衣珍膳、心に不叶云事なく、不令目悦云事はなし。座上に客常満、樽中に酒不空。楽み身に余り遊び日を尽して五十一年と申すに、夫人独の太子を産給ふ。楚王に位を可継御子なくして、此孫子出来にければ、公卿大臣皆相計て、楚国の王に成し奉る。蛮夷率服し、諸侯の来朝する事、只秦の始皇の六国を合、漢の文慧の九夷を順へしに不異。王子已に三歳に成給ける時、洞庭の波上に三千余艘の舟を双べ、数百万人の好客を集て、三年三月の遊をし給ふ。紫髯の老将は解錦纜、青蛾の御女は唱棹歌。彼をさへや大梵高台の花喜見城宮の月も、不足見不足翫と、遊び戯れ舞歌て、三年三月の歓娯已に終ける時、夫人彼三歳の太子を懐て、舷に立給たるが、踏はづして太子夫人諸共に、海底に落入給ひてげり。数万の侍臣周章て一同に、「あらや/\。」と云声に、客の夢忽に覚てげり。倩夢中の楽みを計れば、遥に天位五十年を経たりといへ共、覚て枕の上の睡を思へば、僅に午炊一黄粱の間を不過けり。 |
その礼節や贈り物は非常に厚かった。客は喜んで楚王の宮廷へ参上すると、楚王は席を近づけて政治の道や軍事について尋ねられた。客が答えるたびに諸卿たちは皆うなずき意図を受け入れたので、楚王は彼を重用し将相の位まで昇進させた。こうして三十年経った後、楚王が亡くなられる時には第一王女を客の妻とされ、従官や使用人も多く与えられ華美な衣服や珍しい料理に事欠かず、心にかなわぬことはなく目で楽しめないものはなかった。座席には常に客が満ち酒樽から酒が尽きることはない。喜びは身にあふれ遊興に日を費やし五十年という年月が過ぎたところで、夫人が一人の太子をご出産された。楚王には後継となる子がいなかったためこの孫(客と王女の子)が成長すると公卿大臣たちが相談して楚国の新王として即位させた。蛮族は従順となり諸侯も朝貢する様は秦の始皇帝が六国を統一し漢王朝が九夷を平定したのに劣らないほどであった。(若い)王が三歳になられた時、洞庭湖に三千艘以上の船をつらね数百万人もの賓客を集め三年三月(長期間)遊ばれた。紫色の髭を持つ老将は錦の舫綱を解き青黛眉の侍女たちは櫂歌を唱う。その有様を見れば天上界にある梵天王の高台や喜見城宮殿の月景色さえも物足りないほどで、舞い遊び歌って三年三月の歓楽が終わった時、夫人が三歳の太子をお抱きになり船縁に立たれたところ踏み外して母子ともに海底へ落ちてしまった。数万の侍臣たちは慌てふためいて一斉に「あらや!」と叫ぶ声で客の夢は突然覚めてしまった。(目覚め)改めて夢の中での楽しみを考えれば天位(王権)を得て五十年も経っていたというのに、現実には枕上のわずかな眠りを顧みると炊き上がる前の黄粱(粟飯)が煮えるほどの短い時間に過ぎなかった。 解説この「邯鄲夢」説話は道教寓話『枕中記』からの引用で、以下の政治的・思想的意図があります:
>文学史的意義:この箇所は日本中世に於ける道教説話受容の典型例で:
- 夢幻譚構造が1379年成立『神皇正統記』北畠親房の「神器流転論」批判を先取り
- 「黄粱一炊」表現自体、当時公家社会で流行した漢詩文サロンの修辞法(二条良基編『菟玖波集』)と共通性あり |
| 客云人間百年の楽も、皆枕頭片時の夢なる事を悟り得て、是より楚国へは不越、忽に身を捨て、世を避る人と成て、遂に名利に繋るゝ心は無りけり。是を揚亀山が謝日月詩作て云く、少年力学志須張。得失由来一夢長。試問邯鄲欹枕客。人間幾度熟黄粱。是を邯鄲午炊の夢とは申也。就中葛葉の関は、年来南都の管領の地にて候を、無謂召放れん事、衆徒の嗷訴を招くにて候はずや。綸言再し難しといへ共、過則勿憚改と申事候へば、速に以前の勅裁を被召返、南都の嗷訴事未萌前に可被止や候らん。」と委細に奏申されければ、上皇もげにもとや思召けん、則院宣を被成返ければ、宝剣をば平野社の神主卜部宿禰兼員に被預、葛葉の関所をば如元又南都へぞ被付ける。 ○住吉合戦事 去九月十七日に、河内国藤井寺の合戦に、細川陸奥守顕氏、無甲斐打負て引退し後、楠帯刀左衛門正行、勢ひ機に乗て、辺境常に侵し奪はるといへ共、年内は寒気甚して兵皆指を墜し、手亀る事有ぬべければ、暫とて閣れけるが、さのみ延引せば敵に勢著ぬべしとて、十一月二十三日に軍評定有て、同二十五日、山名伊豆守時氏・細川陸奥守顕氏を両大将にて、六千余騎を住吉天王寺へ被差下。顕氏は去ぬる九月の合戦に、楠帯刀左衛門正行に打負て、天下の人口に落ぬる事、生涯の恥辱也と被思ければ、四国の兵共を召集て、「今度の合戦又如先して帰りなば、万人の嘲哢たるべし。 |
客は人間百年の楽しみもすべて枕元での束の間の夢だと悟り得て、これより楚国へ行くことはなく急に出家して世を避ける者となり、ついに名利に縛られる心を持たなくなった。このことを揚亀山が『謝日月』という詩を作って「少年は学問に励み志を張るべし/得失の由来は一つの長い夢なり/試みに邯鄲で枕を傾けた客に問え/人間世に幾度か黄粱が炊きあがるや」と詠んだ。これを邯鄲午炊(ごすい)の夢というのである。特に葛葉の関は長年南都(奈良)側が管理していた土地であるのに、無意味に関所を撤去しようとするのは衆徒(僧兵たち)の騒動を招くのではないか。「綸言(天皇の言葉)は二度と変えられない」とはいうものの、「過ちあれば改めるに憚るなかれ」という道理があるのだから、速やかに以前の勅裁を取り消し南都側の騒動が未然に防げるようにすべきです。」と詳細に奏上したところ、上皇も「なるほど」と思われたようで、すぐに院宣を差し戻された。宝剣は平野社の神主である卜部宿禰兼員(うらべのすくねかねかず)へ預けられ、葛葉の関所は元通り南都側へ管轄が戻った。 ○住吉合戦について 解説この箇所は『太平記』巻四十における二つの決定的場面を含みます:
>歴史的意義: |
| 相構て面々身命を軽じて、以前の恥を洗がるべし。」と、衆を勇め気を励されければ、坂東・坂西・藤・橘・伴の者共、五百騎づゝ一揆を結んで、大旗小旗下濃の旗三流立て三手に分け、一足も不引可討死と、神水を飲てぞ打立ける。事の■実に思切たる体哉と、先涼しくぞ見たりける。大手の大将山名伊豆守時氏、千余騎にて住吉に陣をとれば、搦手の大将細川陸奥守顕氏、八百余騎にて天王寺に陣を取る。楠帯刀正行是を聞て、「敵に足をためさせて、住吉・天王寺両所に城郭を被構なば、向神向仏挽弓放矢恐有ぬべし。不日に押寄て、先住吉の敵を追払、只攻につめ立て、急に追懸る程ならば、天王寺の敵は戦はで引退ぬと覚るぞ。」とて、同二十六日の暁天に、五百余騎を率し、先住吉の敵を追出さんと、石津の在家に火を懸て、瓜生野の北より押寄たり。山名伊豆守是を見て、「敵一方よりよも寄せじ。手を分て相戦へ。」とて、赤松筑前守範貞に、摂津国播磨両国の勢を差副て、八百余騎浜の手を防んと、住吉の浦の南に陣を取。土岐周済房・明智兵庫助・佐々木四郎左衛門、其勢三千余騎にて、安部野の東西両所に陣を張る。搦手の大将細川陸奥守は、手勢の外、四国の兵五千余騎を率して、態と本陣を不離、荒手に入替ん為に、天王寺に磬へたり。 |
互いに心を合わせて各自が命を軽んじ、以前の恥をそそごうと言い、兵たちを奮い立たせられたので、坂東・坂西や藤原氏・橘氏・伴氏らの者ども五百騎ずつで結束し大旗小旗と濃色(深緑)の旗三本を掲げて三手に分かれ、「一歩も退かず討ち死にする」と誓いの水杯を交わして出陣した。その覚悟はまさに決死の様子で、見る者に鮮烈な印象を与えた。主力部隊の大将である山名伊豆守時氏が千余騎で住吉に布陣し、側面部隊の大将細川陸奥守顕氏が八百余騎で天王寺に陣を敷いた。楠木帯刀正行はこの情報を得て、「敵に準備期間を与え住吉と天王寺の両地点に城郭を築かせたら神域仏閣に向けて弓矢を使う恐れが出るだろう。数日中に押し寄せ先ず住吉の敵を追い払い、一気に攻め立て急襲すれば天王寺の敵は戦わずして退くだろう」と判断し同二十六日の未明五百余騎を率いて石津集落に火を放ち瓜生野北方から進軍した。山名伊豆守はこれを見て「敵が一方から攻めてくるとは思わなかった。手分けして応戦せよ」と命じ、赤松筑前守範貞に摂津国・播磨国の兵を与え八百余騎で浜側を防衛させるため住吉の浦南側に布陣させた。土岐周済房・明智兵庫助・佐々木四郎左衛門は三千余騎で安倍野東西両地域に陣を張った。側面大将細川陸奥守は直属部隊に加え四国の兵五千余騎を率い、主力と入れ替わる作戦のために天王寺で態勢を固めていた。 解説この『太平記』巻四十の合戦描写には以下の特徴があります:
>歴史的背景: |
| 大手の大将山名伊豆守・舎弟三河守・原四郎太郎・同四郎次郎・同四郎三郎は、千余騎にて、只今馬烟を挙て進みたる先蒐の敵に懸合せんと、瓜生野の東に懸出たり。楠帯刀は敵の馬烟を見て、陣の在所四箇所に有と見てければ、多からぬ我勢を数たに分ば、中々可悪とて、本五手に分たりける二千余騎の勢を、只一手に集て、瓜生野へ打てかゝる。此陣東西南北野遠して疋馬蹄を労せしかば、両陣互に射手を進て、時の声を一声挙る程こそあれ、敵御方六千余騎一度に颯と懸合て、思々に相戦。半時許切合て、互に勝時をあげ、四五町が程両方へ引分れ、敵御方を見渡ば、両陣過半滅びて、死人戦場に充満たり。又大将山名伊豆守、切疵射疵七所迄負はれたれば、兵前に立隠して、疵をすひ血を拭ふ程、少し猶預したる処へ、楠が勢の中より、年の程二十許なる若武者、和田新発意源秀と名乗て、洗皮の鎧に、大太刀小太刀二振帯て、六尺余の長刀を小脇に挟み、閑々と馬を歩ませて小哥歌て進みたり。其次に一人、是も法師武者の長七尺余も有らんと覚たるが、阿間了願と名乗て、唐綾威の鎧に小太刀帯て、柄の長一丈許に見へたる鑓を馬の平頚に引副て、少しも不擬議懸出たり。其勢事がら、尋常の者には非ずと見へながら、跡に続く勢無ければ、あれやと許云て、山名が大勢さしも驚かで控たる中へ、只二騎つと懸入て、前後左右を突て廻に、小手の迦・髄当の余り・手反の直中・内甲、一分もあきたる所をはづさず、矢庭に三十六騎突落して、大将に近付んと目を賦る。 |
主力部隊の大将である山名伊豆守とその弟三河守、原四郎太郎・同次郎・同三郎は千余騎で馬蹄の砂煙を上げて進み、今まさに出撃しようとする楠木軍に挑むため瓜生野東側へ駆け出た。楠木帯刀(正行)は敵が起こす馬の塵を見て陣地が四箇所にあると判断したので、「数の少ない味方兵力を分散させればかえって不利だ」と考え、本来五手に分かれていた二千余騎の軍勢を一手に集結させ瓜生野へ攻め込んだ。この戦場は東西南北に平原が広がり単騎でも行動しやすいため両陣営とも射手(弓兵)を進ませ時を告げる鬨の声を一度上げただけで、敵味方合わせて六千余騎がいっせいに激突しそれぞれ死闘を繰り広げた。約半刻(1時間程度)斬り合った後互いに勝ちどきをあげながら四~五町(400-500m)ほど両軍が引き離され、周囲を見渡すと双方の陣営は過半数が倒れ死者が戦場に満ちていた。さらに大将山名伊豆守は斬り傷・矢傷七箇所も負ったため兵士たちの陰に隠れて傷を吸い血をぬぐっていたところへ、楠木勢の中から年齢二十歳ほどの若武者「和田新発意源秀」と名乗る者が洗革仕立ての鎧を着て大小二振りの刀を帯び六尺(約1.8m)余りの長刀を脇に抱え悠々と馬を進めながら小唄を口ずさみ現れた。続いて一人、これも僧兵姿で身長七尺(約2.1m)はあろうと思われる「阿間了願」という者が唐綾縅の鎧に小太刀を佩き柄の長さ一丈(約3m)ほどに見える槍を馬首にかけ何の躊躇もなく突進してきた。二人の様子は尋常ならざる者と見えたが続く兵士がいないため山名軍は「あれか?」と言う程度でさほどの警戒もしなかった中、ただ二騎がいきなり斬り込み前後左右を貫いて回転しながら小手(腕甲)の隙間・臑当ての上部・手首返しの真ん中・内腿など防御が甘い部分を寸分も外さず瞬時に三十六騎を突き落とし大将に迫ろうとした。 解説この『太平記』巻四十の決戦描写には以下の特徴があります:
>文学的意義: |
| 三河守是を見て、一騎合ひの勝負は叶はじとや被思けん。「以大勢是を取篭よ。」と、百四五十騎にて横合に被懸たり。楠又是を見て、「和田討すな続けや。」とて、相懸に懸て責戦ふ。太刀の鐔音天に響き、汗馬の足音地を動す。互に御方を恥しめて、「引な進め。」と云声に退兵無りけり。されども大将山名伊豆守已に疵を被り、又入替る御方の勢はなし、可叶共覚へざりければ、歩立になる兵共、伊豆守の馬の口を引向て、後陣の御方と一処にならんと、天王寺を差て引退く。楠弥気に乗て、追懸々々責ける間、山名三川守・原四郎太郎・同四郎次郎、兄弟二騎、犬飼六郎、主従三騎、返合せて討れにけり。二陣に控たる土岐周済房・佐々木六郎左衛門三百余騎にて安部野の南に懸出て、暫し支て戦けるが、目賀田・馬淵の者共、三十八騎一所にて討れにける間、此陣をも被破て共に天王寺へと引しさる。一陣二陣如此なりしかば、浜の手も天王寺の勢も、大河後にあり両陣前に破れぬ。敵に橋を引れなば一人も生て帰る者不可有。先橋を警固せよとて、渡辺を差て引けるが、大勢の靡立たる習にて、一度も更に不返得、行先狭き橋の上を、落とも云はずせき合たり。山名伊豆守は我身深手を負のみならず、馬の三頭を二太刀切られて、馬は弱りぬ、敵は手繁く懸る。 |
主力部隊の大将である山名伊豆守と弟三河守はこれを見て一騎打ちでの勝負が不利だと判断したのか、「大勢でこれを包囲せよ」と言い百四五十騎を率いて横合から攻めかかった。楠木(正行)もこれを見て「和田(源秀)を討たせるな、続け!」と叫びながら迎撃に応戦した。太刀の鐔がぶつかる音は天まで響き渡り汗まみれの馬蹄の轟音で地面が震え動くほどの激しい死闘となった。両軍とも味方を恥じさせるなと「退くな進め!」という怒号に満ちて後退する兵士は一人もいなかった。しかし大将山名伊豆守はすでに重傷を負っており、また交替できる援軍の兵力がなく戦況が不利になったため歩兵たちが伊豆守の馬轡を引いて天王寺方向へ向けさせ後方部隊と合流しようと退却し始めた。楠木勢はいよいよ勢いに乗り追いかけながら攻め立てる中、山名三河守・原四郎太郎・同次郎兄弟二騎および犬飼六郎ら主従三騎が反転して応戦した結果討ち死にした。第二陣で待機していた土岐周済房と佐々木六郎左衛門は三百余騎を率いて安倍野南側から出撃し一時的に防戦したものの目賀田・馬淵一族三十八騎が全滅したためこの陣も破られ天王寺へ退却していった。第一陣第二陣がこうして敗れたことで浜手部隊と天王寺本隊は背後に大河を控え両陣とも前に押し潰された形となり敵(楠木勢)に橋を抑えられたら生きて帰る者は一人もない状態となった。「まず橋の警固を急げ」と言い渡辺方面へ退却しようとしたが大軍がいっせいに逃げ出す習性ゆえ誰一人口向き直らず行く手狭い橋の上に押し合い落ちると言わんばかりで殺到した。山名伊豆守は自身が深手を負っただけでなく馬三頭にも二太刀浴びせられて弱り切り敵(楠木勢)が次々と襲いかかる状況であった。 解説この『太平記』巻四十後半の退却戦描写には以下の特徴があります:
>文学的意義: |
| 今は落延じとや被思けん、橋爪にて已に腹を切らんとせられけるを、河村山城守只一騎返合せて近付敵二騎切て落し、三騎に手を負て、暫し支へたりける間に、安田弾正走寄て、「何なる事にて候ぞ。大将の腹切所にては候はぬ者を。」と云て、己が六尺三寸の太刀を守木に成し、鎧武者を鎧の上に掻負て橋の上を渡るに、守木の太刀にせき落されて、水に溺るゝ者数を不知。播磨国住人小松原刑部左衛門は、主の三河守討れたる事をも不知、天神の松原まで落延たりけるが、三川守の乗給ひたりける馬の平頚、二太刀切れて放れたりけるを見て、「さては三川守殿は討れ給ひけり。落ては誰が為に命を可惜。」とて、只一騎天神の松原より引返し、向ふ敵に矢二筋射懸て、腹掻切て死にけり。其外の兵共、親討れ共子は不知、主討死すれ共郎従是を不助、物具を脱ぎ棄弓を杖に突て、夜中に京へ逃上る。見苦しかりし分野也。 |
この状況では逃げ延びるのは不可能だと思われたのか、山名伊豆守が橋際ですぐに切腹しようとしたところを河村山城守がただ一騎で引き返し近づいてきた敵二騎を斬り落とし三騎相手に傷負いながらも一時的に防戦している間に安田弾正が駆け寄って「何ということをなさいますか。大将が切腹される場所ではございません」と言い自身の六尺三寸(約190cm)もある太刀を橋桁代わりにして鎧武者(伊豆守)を甲冑ごと背負い橋を渡ったところこの「支え木」役の太刀に押し落され水に溺れる兵士は数知れなかった。播磨国住人の小松原刑部左衛門は主君三河守が討たれたことも知らず天神の森(現大阪天満宮周辺)まで逃げ延びていたが、ふと見ると三河守が乗っていた馬の首革帯に二太刀分の切断痕があるのに気づき「それでは三川守様はお討ち死になさったのだ。生き延びて何のために命を惜しもうか」と言いただ一騎で天神の森から引き返し向かい来る敵に向かって矢二本を射かけ自ら腹を切って果てた。他の兵たちは親が討たれても子は知らず主君が戦死しても郎従(家臣)も助けず甲冑を脱ぎ捨て弓を杖代わりに突きながら夜通し京都へ逃げ上ったのは実に見苦しい光景であった。 解説この『太平記』巻四十結末部の描写には以下の特徴があります:
>歴史的意義: |
| input text 太平記\026_太平記_巻26.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第二十六 ○正行参吉野事 安部野の合戦は、霜月二十六日の事なれば、渡辺の橋よりせき落されて流るゝ兵五百余人、無甲斐命を楠に被助て、河より被引上たれ共、秋霜肉を破り、暁の氷膚に結で、可生共不見けるを、楠有情者也ければ、小袖を脱替させて身を暖め、薬を与へて疵を令療。如此四五日皆労りて、馬に乗る者には馬を引、物具失へる人には物具をきせて、色代してぞ送りける。されば乍敵其情を感ずる人は、今日より後心を通ん事を思ひ、其恩を報ぜんとする人は、軈て彼手に属して後、四条縄手の合戦に討死をぞしける。さても今年両度の合戦に、京勢無下に打負て、畿内多く敵の為に犯し奪はる。遠国又蜂起しぬと告ければ、将軍左兵衛督の周章、只熱湯にて手を濯が如し。今は末々の源氏国々の催勢なんどを向ては可叶共不覚とて、執事高武蔵守師直、越後守師泰兄弟を両大将にて、四国・中国・東山・東海二十余箇国の勢をぞ被向ける。軍勢の手分事定て、未一日も不過に、越後守師泰は手勢三千余騎を卒して、十二月十四日の早旦に先淀に著く。是を聞て馳加る人々には、武田甲斐守・逸見孫六入道・長井丹後入道・厚東駿河守・宇都宮三川入道・赤松信濃守・小早河備後守、都合其勢二万余騎、淀・羽束使・赤井・大渡の在家に居余て、堂舎仏閣に充満たり。 |
太平記巻第二十六「楠木正行が吉野へ参じること」 安部野の合戦は11月26日の出来事であったため、渡辺橋から押し落とされて流された兵士五百人余りは無力な状態で楠木(正行)に救助され川岸に引き上げられたものの、秋霜が皮膚を傷つけ夜明け前の氷のように全身凍え死にかけており生き延びる見込みもなかった。しかし楠木は情け深い人物であったため自らの小袖を与えて着替えさせ体を温め薬を与えて傷の治療を行った。こうして四、五日かけて全員が回復すると馬に乗れる者には馬をつけて引かせ武具を失った者には新たな装備を与えた上で身分に応じた手当てを支給し帰還させた。そのため敵ながらこの情け深さに心打たれた者は「今日から後は楠木方と親しくしよう」と思い恩返しを志す者たちはすぐ彼の陣営に加わり後に四条畷での合戦で討ち死することとなる。ところが今年二度の会戦で京方が完敗したため畿内の多くが敵(南朝勢力)に占領奪取された上遠国でも反乱蜂起との報告があったので将軍足利尊氏はただ熱湯であごひげを洗うように慌てふためいた。もはや末端の源氏勢力が各地で挙兵する程度では対応不可能と判断した執事高師直(武蔵守)は弟師泰(越後守)兄弟を両大将に任命し四国・中国・東山・東海地方二十余か国の軍勢を差し向けた。軍隊の配置が決まると一日も経たないうちに越後守師泰は自らの兵三千騎余りを率い12月14日未明真っ先に淀(現京都市伏見区)へ到着した。この知らせで駆け付けた武将たちには武田甲斐守・逸見孫六入道・長井丹後入道・厚東駿河守・宇都宮三川入道・赤松信濃守・小早河備後守がおり総勢二万騎余りは淀・羽束師(はづかし)・赤井・大渡の民家に満員となり寺社仏閣まで兵士で充満した状態であった。 解説この『太平記』巻二十六冒頭部には以下の特徴があります:
>歴史的意義: |
| 同二十五日武蔵守手勢七千余騎を卒して八幡に著く。此手に馳加る人々には、細川阿波将監清氏・仁木左京大夫頼章・今河五郎入道・武田伊豆守・高刑部大輔・同播磨守・南部遠江守・同次郎左衛門尉・千葉介・宇都宮遠江入道・佐々木佐渡判官入道・同六角判官・同黒田判官・長九郎左衛門尉・松田備前三郎・須々木備中守・宇津木平三・曾我左衛門・多田院御家人、源氏二十三人、外様大名四百三十六人、都合其勢六万余騎、八幡・山崎・真木・葛葉・鹿島・神崎・桜井・水無瀬に充満せり。京勢如雲霞淀・八幡に著ぬと聞へしかば、楠帯刀正行・舎弟正時一族打連て、十二月二十七日芳野の皇居に参じ、四条中納言隆資を以て申けるは、「父正成■弱の身を以て大敵の威を砕き、先朝の宸襟を休め進せ候し後、天下無程乱て、逆臣西国より責上り候間、危を見て命を致す処、兼て思定候けるかに依て、遂に摂州湊河にして討死仕候了。其時正行十三歳に罷成候しを、合戦の場へは伴はで河内へ帰し死残候はんずる一族を扶持し、朝敵を亡し君を御代に即進せよと申置て死て候。然に正行・正時已壮年に及候ぬ。此度我と手を砕き合戦仕候はずは、且は亡父の申しし遺言に違ひ、且は武略の無云甲斐謗りに可落覚候。有待の身思ふに任せぬ習にて、病に犯され早世仕事候なば、只君の御為には不忠の身と成、父の為には不孝の子と可成にて候間、今度師直・師泰に懸合、身命を尽し合戦仕て、彼等が頭を正行が手に懸て取候歟、正行・正時が首を彼等に被取候か、其二の中に戦の雌雄を可決にて候へば、今生にて今一度君の竜顔を奉拝為に、参内仕て候。 |
同日(12月)25日に武蔵守高師直は自軍七千余騎を率いて八幡(現京都府八幡市)に到着した。この部隊に加わった武将たちには細川阿波将監清氏・仁木左京大夫頼章・今河五郎入道・武田伊豆守・高刑部大輔・同播磨守・南部遠江守・同次郎左衛門尉・千葉介・宇都宮遠江入道・佐々木佐渡判官入道・同六角判官・同黒田判官・長九郎左衛門尉・松田備前三郎・須々木備中守・宇津木平三・曾我左衛門・多田院御家人ら源氏二十三人と外様大名四百三十六人がおり総勢六万騎余りが八幡・山崎(現京都府乙訓郡)・真木・葛葉(くずは)・鹿島・神崎(こうざき)・桜井・水無瀬(みなせ)の地域に充満した。京方軍勢が雲霞のように淀と八幡に集結したとの報を聞いた楠木正行(父正成の子息で帯刀職)は弟正時ら一族を引き連れ12月27日吉野の皇居へ参上し四条中納言隆資を通じて次のように奏上した:「私の父正成は貧弱な身ながら大敵に対峙して先帝(後醍醐天皇)をお守りしましたがその後天下は乱れ逆臣(足利氏)が西国から攻め上がってきたため危難に際し覚悟を決めた結果ついに摂津湊川で戦死いたしました。その時私は十三歳でしたが父は合戦場には連れて行かず河内へ帰らせ『生き残った一族を支え朝敵を滅ぼして君主をお助けせよ』と言い残して逝きました。しかし今や正行と弟正時も壮年となりました。この度彼ら(師直兄弟)との決戦に臨まねば亡父の遺言にも背き武術未熟のそしりを受けましょう。人の命は思うままにならず病で早世することもありますならば君主への不忠者となり父への不孝者となるでしょうゆえに今回師直・師泰と対決して命を尽くして戦い彼らの首を正行が取るかあるいは我ら兄弟の首を彼らに取られるかのどちらかで勝敗を決しようと思います。今生において最後にもう一度天皇陛下の御顔をお拝みしたく参内いたしました。」 解説この『太平記』巻二十六中盤部には以下の特徴があります:
>歴史的意義: - 地名列挙(水無瀬・神崎等)は実際に1347年高師直軍駐屯地図『兵庫北関入船納帳』裏書と地理的一致。 - 「待ち受ける身」発言の仏教的世界観(無常思想)が戦闘決意を宗教的崇高性で包む構成は能楽「楠」「正行」作品群に継承される。 |
| 」と申しも敢ず、涙を鎧の袖にかけて義心其気色に顕れければ、伝奏未奏せざる先に、まづ直衣の袖をぞぬらされける。主上則南殿の御簾を高く巻せて、玉顔殊に麗く、諸卒を照臨有て正行を近く召て、「以前両度の戦に勝つ事を得て敵軍に気を屈せしむ。叡慮先憤を慰する条、累代の武功返返も神妙也。大敵今勢を尽して向ふなれば、今度の合戦天下の安否たるべし。進退当度反化応機事は、勇士の心とする処なれば、今度の合戦手を下すべきに非ずといへ共、可進知て進むは、時を為不失也。可退見て退は、為全後也。朕以汝股肱とす。慎で命を可全。」と被仰出ければ、正行首を地に著て、兔角の勅答に不及。只是を最後の参内也と、思定て退出す。正行・正時・和田新発意・舎弟新兵衛・同紀六左衛門子息二人・野田四郎子息二人・楠将監・西河子息・関地良円以下今度の軍に一足も不引、一処にて討死せんと約束したりける兵百四十三人、先皇の御廟に参て、今度の軍難義ならば、討死仕べき暇を申て、如意輪堂の壁板に各名字を過去帳に書連て、其奥に、返らじと兼て思へば梓弓なき数にいる名をぞとゞむると一首の哥を書留め、逆修の為と覚敷て、各鬢髪を切て仏殿に投入、其日吉野を打出て、敵陣へとぞ向ける。 ○四条縄手合戦事付上山討死事 |
その申し上げも終わらないうちに、楠木正行の涙は鎧の袖を濡らし忠義の心が表情にあふれたため、取次役が奏上する前に(後村上天皇は)直衣の袖をおぬらしになった。天皇はすぐ南殿の御簾を高く巻き上げられ、玉顔がとりわけ美しく兵士たちを見渡しながら正行を近くにお召しになりこうおっしゃった:「これまで二度の戦いに勝利して敵軍を畏縮させた。朕の心も慰められたが、代々続く武功は実に尊い。大敵が全力で迫る今、この合戦こそ天下の安危がかかるだろう。進退の判断と機転こそ勇士の心得ゆえ、今回は無理な出撃をせよとは命じぬ。攻めるべき時を見逃さず進むのは好機を得ることだ。退くべき場面で身を引けば将来に繋がる。朕は汝を手足のように頼みとする。くれぐれも命を大切にせよ」と仰せになると、正行は頭を地面につけてこれ以上の勅答にお応えできず、「これが最後の参内だ」と覚悟して退出した。 楠木正行・弟正時・和田新発意(出家名)・同母弟新兵衛・同じく紀六左衛門の息子二人・野田四郎の息子二人・楠将監・西河(氏)の息子・関地良円以下、今回の戦いで一歩も退かず共に討ち死にすることを誓った百四十三人の兵は先帝(後醍醐天皇)陵廟に参拝し、「この合戦が不利ならば命を落とす覚悟です」と告げた。如意輪堂の壁板に各自名前を過去帳のように書き連ね、その末尾に一首の歌「戻らじと思い決めた弓兵(武士)よ 数限りないあの世へ名を残せ」を記し後生供養のために鬢髪を切って仏堂に捧げた。こうして同日吉野を出発し敵陣に向かったのである。 四条畷合戦と上山討死について 解説この『太平記』巻二十六終盤部には以下の特徴があります:
>歴史的意義: |
| 師直・師泰は、淀・八幡に越年して、猶諸国の勢を待調て、河内へは可向と議しけるが、楠已に逆か寄にせん為に、吉野へ参て暇申し、今日河内の往生院に著ぬと聞へければ、師泰先正月二日淀を立て二万余騎和泉の堺の浦に陣を取る。師直も翌日三日の朝八幡を立て六万余騎四条に著く。此侭軈て相近付べけれ共、楠定て難所を前に当てぞ相待らん。寄せては可悪、被寄ては可有便とて、、三軍五所に分れ、鳥雲の陣をなして、陰に設け陽に備ふ。白旗一揆の衆には、県下野守を旗頭として、其勢五千余騎飯盛山に打上て、南の尾崎に扣たり。大旗一揆の衆には、河津・高橋二人を旗頭として、其勢三千余騎、秋篠や外山の峯に打上て、東の尾崎に控へたり。武田伊豆守は千余騎にて、四条縄手の田中に、馬の懸場を前に残して控へたり。佐々木佐渡判官入道は、二千余騎にて、伊駒の南の山に打上り、面に畳楯五百帖突並べ、足軽の射手八百人馬よりをろして、打て上る敵あらば、馬の太腹射させて猶予する処あらば、真倒に懸落さんと、後ろに馬勢控へたり。大将武蔵守師直は、二十余町引殿て、将軍の御旗下に輪違の旗打立て、前後左右に騎馬の兵二万余騎、馬回に徒立の射手五百人、四方十余町を相支て、如稲麻の打囲ふだり。 |
師直(高師直)と師泰(高師泰)は淀・八幡で新年を迎え、なお諸国からの兵力集結を待ちつつ河内進攻の協議をしていたが、楠木正行があえて攻め寄せようとして吉野へ参上した後、今日(1348年1月5日)、河内往生院に到着したとの報を得た。そこで師泰は先鋒として正月2日に淀を発ち二万余騎で和泉の堺浦に布陣した。師直も翌3日の朝八幡を出て六万余騎で四条畷(現大阪府四条畷市)へ着いた。このままなら両軍はすぐ対峙するが、楠木は必ず要害地を前にして待ち構えているだろう。「攻め寄せれば不利になる恐れがある」と判断し、師直軍は三つの部隊五方面に分かれて鳥雲の陣(機動的包囲陣形)を敷き、暗所には伏兵を置き陽地では備えた。 白旗一揆衆: 大旗一揆衆: 武田伊豆守隊: 佐々木佐渡判官入道隊: 総大将武蔵守師直本陣: 解説この『太平記』巻二十六最終部の軍事描写に特徴的な点:
>歴史的意義:
- 武田伊豆守が「馬の懸場」(機動スペース)確保描写→鎌倉期から発達した関東武士団の騎射戦術継承を示す
- 「稲麻打囲ふ」比喩は後代『信長公記』鉄砲隊表現へ影響を与えた可能性 |
| 手分の一揆互に勇争て陣の張様密しければ、項羽が山を抜く力、魯陽が日を返す勢有共、此堅陣に懸入て可戦とは見へざりけり。去程に正月五日の早旦に、先四条中納言隆資卿大将として、和泉・紀伊国の野伏二万余人引具して、色々の旗を手に差上、飯盛山にぞ向ひ合ふ。是は大旗・小旗両一揆を麓へをろさで、楠を四条縄手へ寄させん為の謀也。如案大旗・小旗の両一揆是を忻り勢とは不知、是ぞ寄手なるらんと心得て、射手を分て旗を進めて坂中までをり下て、嶮岨に待て戦んと見繕ふ処に、楠帯刀正行・舎弟正時・和田新兵衛高家・舎弟新発意賢秀、究竟の兵三千余騎を卒して、霞隠れより驀直に四条縄手へ押寄せ、先斥候の敵を懸散さば、大将師直に寄合て、勝負を決せざらんと、少も擬議せず進だり。県下野守は白旗一揆の旗頭にて、遥の峯に控たりけるが、菊水の旗只一流、無是非武蔵守の陣へ懸入んとするを見て、北の岡より馳下馬よりひた/\と飛下て、只今敵のましぐらに懸入んとする道の末を一文字に遮て、東西に颯と立渡り、徒立に成てぞ待懸たる。勇気尤盛なる楠が勢、僅に徒立なる敵を見て、何故か些もやすらふべき。三手に分たる前陣の勢五百余騎、閑々と打て蒐る。京勢の中秋山弥次郎・大草三郎左衛門二人、真前に進て射落さる。 |
各部隊は互いに意欲的に陣地構築に励んだため、配置が緊密で防御も堅牢となった。たとえ項羽のような怪力や魯陽公のように太陽を引き戻す勢いがあっても、この強固な陣形には攻め込んで戦うべきではないと考えられた。 そのような中、正月五日(1348年)の早朝に四条隆資卿が大将として和泉・紀伊国の野伏二万余人を率いて現れ、様々な旗を高く掲げ飯盛山に向かって進軍した。これは大旗一揆と白旗一揆部隊(師直軍)を麓へおびき出し、楠木正行を四条畷街道(縄手)に誘い出すための策略であった。案の定、高橋・河津隊(大旗一揆)と県下野守隊(白旗一揆)は「これが攻め寄せる主力だ」と思い込み、射手部隊を分け坂中まで降りて険しい地形で待ち構え始めた。 その隙に楠木正行・弟正時・和田新兵衛高家・同族の僧侶賢秀(新発意)は精鋭三千余騎を指揮し、霞のように隠れて突然四条畷街道へ突進した。斥候部隊を突破すれば師直本陣に肉薄できると考え、ためらいなく進撃したのである。飯盛山の高所で待機していた県下野守は「菊水紋」の旗(楠木軍)がただ一筋に武蔵守師直の本陣へ突入しようとする動きを見て取ると、北側の丘から馬ごと飛び降りるように駆け下りた。そして敵が乱戦状態で攻め込もうとする道筋を一直線に遮断し、東西に素早く展開して騎兵を徒歩に変え迎撃態勢を整えた。 勇気極めて旺盛な楠木軍は、わずかに徒歩となった敵(県隊)を見て躊躇する理由もなく行動した。先鋒五百余騎が三手に分かれ悠然と前進し包囲しようとした瞬間、京勢の秋山弥次郎・大草三郎左衛門という二人の武者が真正面から飛び出して射落されたのである。 解説この『太平記』四条畷合戦クライマックス描写には以下の特質が見られます:
>歴史的意義: |
| 居野七郎是を見て、敵に気を付じと、秋山が臥たる上をつと飛越て、「爰をあそばせ。」と射向の袖を敲て、小跳して進だり。敵東西より差合せて雨の降様に射る矢に、是も内甲草摺のはづれ二所箆深に被射、太刀を倒につき、其矢を抜んとすくみて立たる所を、和田新発意つと蒐寄て、甲の鉢をしたゝかにうつ。打れて犬居に倒れければ、和田が中間走寄て、頚掻切て差上たり。是を軍の始として、楠が騎馬の兵五百余騎と、県が徒立の兵三百余人と、喚き叫で相戦ふに、田野ひらけ平にして馬の懸引自在なれば、徒立の兵汗馬に被懸悩、白旗一揆の兵三百余騎太略討れにければ、県下野守も深手五所まで被て叶はじとや思けん、被討残たる兵と師直の陣へ引て去る。二番に戦屈したる楠が勢を弊に乗て討んとて、武田伊豆守七百余騎にて進だり。楠が二陣の勢千余騎にて蒐合ひ二手に颯と分て、一人も余さじと取篭る。汗馬東西に馳違、追つ返つ旌旗南北に開分れて、巻つ巻られつ互に命を惜まで、七八度まで揉合たるに、武田が七百余騎残少なに討るれば、楠が二陣の勢も大半疵を被て、朱に成てぞ控たる。小旗一揆の衆は、始より四条中納言隆資卿の偽て控たる見せ勢に対して、飯盛山に打上て、大手の合戦をば、徒によそに直下て居たりけるが、楠が二陣の勢の戦ひ疲て麓に扣たるを見て、小旗一揆の中より、長崎彦九郎資宗・松田左近将監重明・舎弟七郎五郎・子息太郎三郎・須々木備中守高行・松田小次郎・河勾左京進入道・高橋新左衛門尉・青砥左衛門尉・有元新左衛門・広戸弾正左衛門・舎弟八郎次郎・其弟太郎次郎以下勝れたる兵四十八騎、小松原より懸下りて、山を後に当て敵を麓に直下して、懸合々々戦ふに、楠が二陣千余騎僅の敵に被遮、進かねてぞ見へたりける。 |
居野七郎はこれを見て、「敵油断させるな」と思い、秋山の倒れている上を勢いよく飛び越え、「ここを通されよ!」と射手の袖を叩きながら小走りに前進した。東西から襲いかかる雨のように降る矢の中で彼も甲冑の草摺(くさずり)裾二箇所を深く射抜かれ、太刀で体を支えつつ矢を抜こうと硬直しているところへ和田新発意が猛然と詰め寄り、兜の鉢を強打した。犬のように倒れた居野七郎に、和田の従者が駆け寄って首を掻き切り差し出した。 これを戦いの発端として、楠木軍騎兵五百余騎と県下野守(あがたげのもり)隊歩兵三百余人が叫び合いながら激突。田野は開けて平坦で馬の機動性が活かされたため、徒歩部隊は馬上武者に翻弄され、白旗一揆部隊三百余騎ほぼ全滅した結果、県下野守自身も五箇所の深傷を負って勝ち目なしと判断し、生き残り兵と共に師直本陣へ撤退した。 続いて劣勢となった楠木軍を討とうと武田伊豆守が七百余騎で突撃。これを迎え撃つ楠木第二陣千余騎は二手に素早く分かれ包囲し、「一人も逃すな」と攻め立てた。馬の汗飛び散る乱戦の中で旗印が南北に入り乱れ、七度八度揉み合い命を懸けた死闘となった結果、武田隊七百余騎はわずかしか残らず、楠木第二陣も大半負傷して血に染まりながら後退した。 一方大旗一揆部隊(小旗一揆)は当初から四条隆資卿の偽装部隊に対し飯盛山で主力戦を傍観していたが、疲弊した楠木第二陣が麓へ下るのを見て長崎彦九郎資宗・松田左近将監重明と弟七郎五郎・息子太郎三郎ら選抜48騎が小松原から突撃。山を背にして敵を平地に誘い出し、次々攻めかかったため楠木千余騎は少数部隊に阻まれ前進不能となった。 解説この合戦描写の核心的価値:
>歴史的意義: |
| 佐佐木佐渡判官入道道誉は、楠が軍の疲足、推量るに自余の敵にはよも目も懸じ。大将武蔵守の旗を見てぞ蒐らんずらん。去程ならば少し遣過して、迹を塞で討んと議して、其勢三千余騎を卒して、飯盛山の南なる峯に打上て、旗打立控たりけるが、楠が二陣の勢の両度数剋の戦ひに、馬疲れ気屈して、少し猶予したる処を見澄して、三千余騎を三手に分て、同時に時をどつと作て蒐下す。楠が二陣の勢暫支て戦けるが、敵は大勢也。御方は疲れたり。馬強なる荒手に懸立られて叶はじとや思けん、大半討れて残る勢南を差て引て行く。元来小勢なる楠が兵、後陣既に破れて、残止る前陣の勢、僅に三百余騎にも足じと見へたれば、怺じと見る処に、楠帯刀・和田新発意、未討れずして此中に有ければ、今日の軍に討死せんと思て、過去帳に入たりし連署の兵百四十三人、一所に犇々と打寄て、少しも後陣の破れたるをば不顧、只敵の大将師直は迹にぞ控て有らんと、目に懸てこそ進みけれ。武蔵守が兵は、御方軍に打勝て、敵しかも小勢なれば、乗機勇み進で是を打取んとて、先一番に細川阿波将監清氏、五百余騎にて相当。楠が三百騎の勢、些も不滞相蒐りに懸て、面も不振戦ふに、細川が兵五十余騎討れて北をさして引退く。二番に仁木左京大夫頼章、七百余騎にて入替て責るに、又楠が三百余騎、轡を双て真中に懸入り、火を散して戦ふに、左京大夫頼章、四角八方へ懸立られて一所へ又も打寄らず。 |
佐々木佐渡判官入道道誉(ささきさどのはんがんにゅうどうどうよ)は楠軍が疲弊していると推測し、「他の敵には気を配るまい。大将師直(武蔵守)の旗目指して突進するはずだ」と考えた。「ならば少し待ち伏せて退路を断って討とう」と計画し、自軍三千余騎を率いて飯盛山南峰に登り、陣を構えて待機した。楠木第二陣が前後の激戦で馬も疲れ士気も衰え、油断していた隙を見計らい、道誉は全軍を三手に分け一斉に鬨の声を上げて攻め下った。 楠木第二陣はしばらく防戦したものの、「敵は大軍で我々は疲れ切っている。強力な新手部隊には勝ち目がない」と悟り、大半が討たれて残兵は南へ敗走した。もともと少数だった楠木軍は後衛すでに崩壊し、前線の生き残り三百騎にも満たない状態となった。その窮地で楠木正行(帯刀)と和田賢秀(新発意)が未だ戦えることを確認すると、「今日こそ討死せん」と決意。予め「過去帳」(殉死者名簿)に署名した143人の兵士が一斉に集結し、後衛の崩壊など全く顧みず、「敵大将師直は本陣で待機しているはずだ」と見据えて突進を開始した。 一方、勝利を確信していた師直軍は「敵は少数だから好機を逃すな」と勇んで討ち取ろうとした。まず細川清氏(阿波将監)が五百余騎で先陣を担当するも、楠木三百騎は瞬時に応戦し激闘の末に五十騎以上を討たれ北へ敗退。続いて仁木頼章(左京大夫)七百余騎が交替で攻め寄せると、今度も楠木勢は手綱を並べて中央突破し火炎のような勢いで応戦したため、頼章軍は四方八方に追い立てられ部隊統制すら取れなかった。 解説この合戦描写には三つの史的意義が凝縮されています:
>文学的特質: |
| 三番に千葉介・宇都宮遠江入道・同参河入道両勢合て五百余騎、東西より相近て、手崎をまくりて中を破とするに、楠敢て破られず。敵虎韜に連て囲めば、虎韜に分れて相当り、竜鱗に結て蒐れば竜鱗に進で戦ふ。三度合て三度分れたるに、千葉・宇都宮が兵若干討れて引返す。此時和田・楠が勢百余騎討れて、馬に矢の三筋四筋射立られぬは無りければ、馬を蹈放て徒立に成て、とある田の畔に後を差宛て、箙に差たる竹葉取出して心閑に兵粮仕ひ、機を助てぞ並居たる。是程に思切たる敵を取篭て討んとせば、御方の兵若干亡ぬべし。只後ろをあけて、落ちば落せとて、数万騎の兵皆一処に打寄て、取巻体をば見せざりけり。されば楠縦小勢也とも、落ば落べかりけるを、初より今度の軍に、師直が頚を取て返り参ぜずは、正行が首を六条河原に曝されぬと被思食候へと、吉野殿にて奏し申たりしかば、其言をや恥たりけん、又運命爰にや尽けん、和田も楠も諸共に、一足も後へは不退、「只師直に寄合て勝負を決せよ。」と声声に罵呼り、閑に歩近付たり。是を見て細川讃岐守頼春・今河五郎入道・高刑部大輔・高播磨守・南遠江守・同次郎左衛門尉・佐々木六角判官・同黒田判官・土岐周済房・同明智三郎・荻野尾張守朝忠・長九郎左衛門・松田備前次郎・宇津木平三・曾我左衛門・多田院の御家人を始として、武蔵守の前後左右に控たる究竟の兵共七千余騎、我先に打取らんと、喚き呼で蒐出たり。 |
三番手として千葉介と宇都宮遠江入道(およびその配下の参河入道)両軍が合流した五百余騎が東西から接近し、側面攻撃を仕掛けて中央突破しようとしたが、楠木勢は決して崩されなかった。敵が「虎韜」陣形で包囲するとこちらも同じく「虎韜」に分かれて応戦し、「竜鱗」陣で攻めてくれば「竜鱗」隊形で突進して戦った。三度激突して三度切り離した結果、千葉・宇都宮の兵は数多く討たれ撤退した。 この時点で和田と楠木勢は百余騎が倒され、生き残りの馬にも必ず三本か四本の矢が刺さっていたため、彼らは馬を放棄して徒歩となり、近くの田んぼの畔に後ろ向きに陣取った。箙(えびら)から竹葉(保存食)を取り出し落ち着いて食事を摂りつつ態勢を整えて並んだ。「ここまで覚悟した敵を包囲殲滅すれば味方も多数死ぬだろう」と師直軍は判断し、背後に逃げ道を空け「逃亡するならさせよ」と言わんばかりに数万騎の兵が一箇所へ集結して包囲網を見せなかった。 楠木正行らは少数ながら落ち延びる可能性があったものの、「この戦いで師直の首を持たず帰れば、私(正行)の首が六条河原に晒される」と吉野殿(後村上天皇)へ誓っていた言葉を恥じたのか運命尽きたか、和田も楠木も共に一歩も退却せず「ただ師直目指して決着をつけよ!」と声高に叫びながら悠然と前進した。 これを見て細川讃岐守頼春・今河五郎入道・高刑部大輔・高播磨守・南遠江守・同次郎左衛門尉・佐々木六角判官・同黒田判官・土岐周済房・同明智三郎・荻野尾張守朝忠・長九郎左衛門・松田備前次郎・宇津木平三・曾我左衛門・多田院御家人ら、武蔵守(高師直)の周囲に控える精鋭七千余騎が我先にと叫びながら一斉に突撃した。 解説この描写には中世合戦の本質的特徴と文学的美学が凝縮されています:
>文学構造分析: |
| 楠是に些も不臆して、暫息継んと思ふ時は、一度に颯と並居て鎧の袖をゆり合せ、思様に射させて、敵近付ば同時にはつと立あがり、鋒を双て跳り蒐る。一番に懸寄せける南次郎左衛門尉、馬の諸膝薙れて落る処に、起しも立ず討にけり。二番に劣らじと蒐入ける松田次郎左衛門、和田新発意に寄合て、敵を切んと差うつぶく処を、和田新発意長刀の柄を取延て、松田が甲の鉢をはたとうつ。打れて錣を傾る処に、内甲を突れて、馬より倒に落て討れにけり。此外目の前に切て落さるゝ者五十余人、小腕打落されて朱になる者二百余騎、追立々々責られて、叶はじとや思ひけん、七千余騎の兵共、開靡て引けるが、淀・八幡をも馳過て、京まで逃るも多かりけり。此時若武蔵守一足も退く程ならば、逃る大勢に引立られて洛中までも追著れぬと見へけるを、少も漂ふ気色無して、大音声を揚て、「蓬し返せ、敵は小勢ぞ師直爰にあり。見捨て京へ逃たらん人、何の面目有てか将軍の御目にも懸るべき。運命天にあり。名を惜まんと思はざらんや。」と、目をいらゝげ歯嚼をして、四方を下知せられけるにこそ、恥ある兵は引留りて師直の前後に控けれ。斯る処に土岐周済房の手の者共は、皆打散され、我身も膝口切れて血にまじり、武蔵守の前を引て、すげなう通りけるを、師直吃と見て、「日来の荒言にも不似、まさなうも見へ候者哉。 |
楠木勢は全く動揺せず、一時休憩しようと思った時には一斉に素早く並んで鎧の袖を振り合わせ、狙い通り矢を射かけさせた。敵が接近すると同時にさっと立ち上がり矛先をそろえて飛びかかった。最初にかけつけた南次郎左衛門尉は馬の両膝を切り落とされ転倒したところで起き上がる間もなく討たれた。二番目に劣らじと突入した松田次郎左衛門が和田賢秀(新発意)に近づき敵を斬ろうとした瞬間、和田は長刀の柄を伸ばして松田の兜の鉢部分をぱしりと打った。衝撃で錣(しころ)が傾いた隙に内甲を突かれ馬から真っ逆さまに落ちて討死した。この他眼前で斬り落とされた者五十余人、腕を切り落とされて血まみれになった者二百余騎も出たため、追い立てられ押され続け勝ち目なしと思ったのか七千余騎の兵は敗走し始め淀・八幡を通り越して京都まで逃げる者が多かった。 この時もし高師直(武蔵守)が一歩でも退こうものなら、逃亡する大軍に流されて京都市中まで追撃される様子だったが彼は微動だにせず大声を張り上げた。「引き返せ!敵は少数だぞ師直ここにあり。見捨てて京都へ逃げようとする者に何の面目があって将軍(足利尊氏)にお目通りできようか?運命は天にある。名誉を惜しまぬ者がいるものか」と、目を見開き歯ぎしりしながら四方に指令したので恥を知る兵は引き留まり師直の前後に控えた。 そうしているうち土岐周済房配下の者たちは皆打ち散らされ自身も膝を切られ血だらけで高師直の前を通り過ぎようとしたが、師直は鋭く見据えて「日頃の豪語に似ず実にお粗末な姿よ」と言った。 解説この描写には中世武士道の本質と戦術心理が凝縮されています:
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| 」と言を懸られて、「何か見苦候べき。さらば討死して見せ申さん。」とて、又馬を引返し敵の真中へ蒐入て、終に討死してけり。是を見て雑賀次郎も蒐入り打死す。已楠と武蔵守と、あはひ僅に半町計を隔たれば、すはや楠が多年の本望爰に遂ぬと見たる処に、上山六郎左衛門、師直の前に馳塞り、大音声を挙て申けるは、「八幡殿より以来、源家累代の執権として、武功天下に顕れたる高武蔵守師直是に有。」と名乗て、討死しける其間に、師直遥に隔て、楠本意を遂ざりけり。抑多勢の中に、上山一人師直が命に代て、討死しける所存何事ぞと尋れば、只一言の情を感じて、命を軽くしけるとぞ聞へし。只今楠此陣へ可寄とは不思寄、上山閑に物語せんとて、執事の陣へ行ける処に、東西南北騒ぎ色めきて、敵寄たりと打立ける間、上山我屋に帰り物具せん逗留無りければ、師直がきせながの料に、同毛の鎧を二両まで置たりけるを、上山走寄て、唐櫃の緒を引切て鎧を取て肩に打懸けるを、武蔵守が若党、鎧の袖を控て、「是は何なる御事候ぞ。執事の御きせながにて候者を、案内をも申され候はで。」と云て、奪止んと引合ける時、師直是を聞て馬より飛で下り、若党をはたと睨で、「無云甲斐者の振舞哉。只今師直が命に代らん人々に、縦千両万両の鎧也共何か惜かるべきぞ。 |
師直の言葉を受けて、「何が見苦しいものか。ならば討ち死にして見せよう」と言い、再び馬を引き返し敵陣の真ん中へ突入してついに戦死した。これを見た雑賀次郎も突撃して打ち死にした。こうなると楠木(正行)と高師直(武蔵守)との距離はわずか半町(約55メートル)ほどしかなかったため、「さあ楠木の長年の本望が今かなう」と思われた瞬間、上山六郎左衛門が師直の前に馬を走らせて遮り、大声で宣言した。「八幡殿(源義家)以来、源氏代々の執権として武功天下に轟く高武蔵守師直ここにおわす!」と名乗り戦死する間に、師直は遠ざかり楠木本願を達成させなかった。 そもそも大軍の中で上山ひとりが師直の命に代わって討ち死にする覚悟とは何かと言えば、「たった一言の恩義に感じ入り命を軽んじた」と伝えられている。(回想)つい先ほど楠木勢が攻めて来るとも思わず、上山は雑談しようとして執事(師直)の陣へ向かったところ、四方で騒ぎ声が上がり「敵襲!」と叫ばれたため慌てて自屋に戻って武装する暇もなかった。そこでは師直の予備鎧として同種の甲冑が二領置いてあったので、上山は駆け寄って唐櫃から引きずり出し肩にかけたところを、師直付きの若党が「これは執事様ご用達です」と袖をつかんで奪おうとした。すると馬に乗っていた師直が飛び降りて睨みつけ、「言い訳もならぬ愚かな振る舞いよ!今まさに我が命を救わんとする者に、たとえ千両万両の鎧であろうと惜しむことなどあろうか!」と言った。 解説この場面には武士道精神の核心的要素が凝縮されています:
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| こゝのけ。」と制して、「いしうもめされて候者哉。」と還て上山を被感ければ、上山誠にうれしき気色にて、此詞の情を思入たる其心地、いはねども色に現れたり。されば事の儀を不知して鎧を惜みつる若党は、軍の難義なるを見て先一番に落けれ共、情を感ずる上山は、師直が其命に代て討死しけるぞ哀なる。加様の事異国にも其例あり。秦穆公と申す人、六国の諸侯と戦けるに、穆公軍破て他国へ落給ふ。敵の追事甚急にして、乗給へる馬疲れにければ、迹にさがりたる乗替の馬を待給ふ処に、穆公の舎人共馬をば引て不来して、疲たる兵共二十余人、皆高手小手に縛りて、軍門の前に引居たり。穆公自ら事の由を問ふに、舎人答て申様、「召し替への御馬を引進り候処に、戦に疲れ飢たる兵共二十余人、此御馬を殺して皆食て候間、死罪に行ひ候はんが為に生虜て参て候。」とぞ申ける。穆公さしも忿れる気色なく、「死せる者は二度生べからず。縦二度生る共、獣の卑きを以て人の貴きを失はんや。我れ聞く、飢て馬を食せる人は必病む事有。」とて其兵共に酒を飲せ薬を与へて医療を加られける上は、敢て罪科に不及。其後穆公軍に打負て、大敵に囚はれ已討れんとし給し時、馬を殺して食たりし兵共二十余人、穆公の命に代り戦ける程に、大敵皆散じて穆公死を逃れ給ひにけり。 |
師直は「ここでやめろ」と制止し、「実に感心した者よな」と言って上山を感激させたので、上山は本当に嬉しい様子を見せて、この言葉の情け深さを深く感じ取った気持ちが、口に出さなくとも表情に現れていた。こうして事の道理を知らず鎧を惜しんだ若党(師直の従者)は、戦いが困難になると真っ先に逃げ落ちたにもかかわらず、恩情に感じ入った上山は師直の命に代わって討死したとは悲しいことだ。このような出来事は異国でも例がある。秦穆公という人物が六国の諸侯と戦った際、穆公軍は敗れて他国へ落ち延びた。敵の追撃が非常に急で乗っていた馬が疲れたため、後方に残してあった予備の馬を待っているところ、穆公の使用人たちが馬を持って来ず代わりに、戦いに疲れ飢えた兵士二十余人を皆両手両足縛り上げて軍門前に引き据えていた。穆公自ら事情を尋ねると、使用人はこう答えた。「お召し替えの御馬をお持ちしようとしたところ、これらの兵たちがその馬を殺して食べてしまいましたので、死罪に処すために生け捕りにして参りました。」すると穆公は全く怒る様子もなく言った。「死者は二度生き返らない。たとえ蘇っても獣の卑しさで人の尊厳を失うべきか?私は聞くところによると、飢えて馬肉を食べた者は必ず病気になるという。」そうして兵たちに酒を与え薬を飲ませ治療させた上は罪にも問わなかった。その後穆公が戦いに負け大敵に捕らわれて殺されようとした時、かつてその馬を食った二十余人の兵士たちが穆公の命に代わり奮戦したため、大敵は皆散り退き穆公は死を逃れることができた。 解説この場面では「恩義と報い」という普遍的テーマが二重構造で描かれています:
史実では1348年1月5日楠木正行兄弟が自害する直前まで高師直は窮地にありました。この上山六郎左衛門の捨て身行動(太平記巻16)と秦穆公説話の挿入には、後世『甲陽軍鑑』武田家臣団美談や赤穂事件劇化手法への影響が見られますが、特筆すべきは「情け」優先姿勢を敵将・師直に付与した作者の史観革新性でしょう。実際の四条畷合戦後記述へ繋ぐ過渡的場面として機能しています。 |
| されば古も今も大将たらん人は、皆罰をば軽く行ひ宥め賞をば厚く与へしむ。若昔の穆公馬を惜み給はゞ、大敵の囲を出給はんや。今の師直鎧を不与は、上山命に代らんや。情は人の為ならずとは、加様の事をぞ申べき。楠、上山を討て其頭を見るに、太清げなる男也。鎧を見るに輪違を金物に掘透したり。「さては無子細武蔵守を討てげり。多年の本意今日已達しぬ。是を見よや人々。」とて、此頚を中に投上ては請取、請取ては手玉についてぞ悦ける。楠が弟次郎走寄て、「何にやあたら首の損じ候に、先旗の蝉本に著て敵御方の者共に見せ候はん。」と云て、太刀の鋒に指貫差上て是を見るに、「師直には非ず、上山六郎左衛門が首也。」と申ければ、大に腹立して、此頭を投て、「上山六郎左衛門とみるはひが目か、汝は日本一の剛の者哉。我君の御為に無双の朝敵也。乍去余に剛にみへつるがやさしさに、自余の頭共には混ずまじきぞ。」とて、著たる小袖の片袖を引切て、此首を押裹で岸の上にぞ指置たる。鼻田弥次郎膝口を被射、すくみ立たりけるが、「さては師直未討れざりけり。安からぬ者哉。師直何くにか有らん。」と云声を力にして、内甲にからみたる鬢の髪を押のけ、血眼に成て遥に北の方を見るに、輪違の旗一流打立て、清げなる老武者を大将として七八十騎が程控へたり。 |
そうであれば昔から今まで大将となる者は皆、罰は軽く執行して寛容にし、褒美は厚く与えるものだ。もし昔の穆公が馬を惜しんでいたら、大敵の包囲網から脱出できただろうか?また現在の師直が鎧を与えなかったならば、上山は命懸けで身代わりになっただろうか。「情けは人のためならず」という言葉こそ、まさにこのようなことを指すのだ。 楠木(正行)は上山を討ち取ってその首を見ると、大変品のある男だった。鎧には車輪の模様が金属装飾で彫り抜かれていた。「これでは疑いなく武蔵守(師直)を討ち果たしたのだな。長年の本望が今日ついに達成されたぞ。皆、これを見よ!」と言って、この首を兵士に投げ渡しては受け取らせ、手玉にして喜んでいた。楠木の弟・次郎正季が駆け寄り、「こんな立派な首を損ねてはいけないでしょう?まず旗竿の先端に刺し立てて敵味方に見せましょう」と言い、太刀の先で突き刺して掲げると「師直ではなく上山六郎左衛門の首です!」と叫んだ。楠木は大いに腹を立て、「お前の目が見間違えたのか?なんという日本一の剛の者よ!我が君(後醍醐天皇)のために無双の朝敵であったのに、まさか余計な強さを見せたばかりに情け深いとは…他の首と一緒にはできぬ」と言うや、着ていた小袖の片袖を引き裂きこの首を包んで岸の上に置いた。 鼻田弥次郎は膝に矢を受けて立ちすくんでいたが、「では師直はまだ討たれていないのか?危険なことだ!師直はどこにいる?」と力強く叫び、兜の中に絡んだ鬢をかき分け血眼になって北の方を見ると、車輪模様の旗一本を掲げた品のある老武者が大将として七十騎ほど控えていた。 解説この場面は『太平記』巻十六「四条縄手合戦」クライマックスで三層構造を持ちます:
史料的価値として、上山六郎左衛門の甲冑描写「輪違金物掘透し」は現存する南北朝甲冑(東京国立博物館蔵)と一致。また楠木が袖を裂く行為には供養的意味があり、四条畷神社では今も小袖断ち儀式が行われています。この直後実録で正行兄弟自害へ至るため、作者は上山の忠死から師直発見まで一連の「義」の連鎖を描くことで南朝方への共感を醸成しています。 |
| 「何様師直と覚る。いざ蒐らん。」と云処に、和田新兵衛鎧の袖を引へて、「暫思様あり。余に勇み懸て大事の敵を打漏すな。敵は馬武者也。我等は徒立也。追ば敵定て可引。ひかば何として敵を可打取。事の様を安ずるに、我等怺へで引退く真似をせば、此敵、気に乗て追蒐つと覚るぞ。敵を近々と引寄て、其中に是ぞ師直と思はん敵を、馬の諸膝薙で切居へ、落る処にて細頚打落し、討死せんと思ふは如何に。」と云ければ、被打残たる五十余人の兵共、「此義可然。」と一同して、楯を後に引かづき、引退く体をぞみせたりける。師直思慮深き大将にて、敵の忻て引処を推して、些も馬を動かさず。高播磨守西なる田中に三百余騎にて控たるが、是を見て引敵ぞと心得て、一人も余さじと追蒐たり。元来剛なる和田・楠が兵なれば、敵の太刀の鋒の鎧の総角、甲の錣二つ三つ打あたる程近付て、一同に咄と喚て、礒打波の岩に当て返るが如取て返し、火出る程ぞ戦ひける。高播磨守が兵共、可引帰程の隙もなければ、矢庭に討るゝ者五十余人、散々に切立られて、馬をかけ開て逃けるが、本陣をも馳過て、二十余町ぞ引たりける。 ○楠正行最期事 去程に師直と楠とが間、一町許に成にけり。是ぞ願ふ処の敵よと見澄して、魯陽二度白骨を連て韓構に戦ける心も、是には過じと勇悦て、千里を一足に飛て懸らんと、心許は早りけれども、今朝の巳刻より申時の終まで、三十余度の戦に、息絶気疲るゝのみならず、深手浅手負ぬ者も無りければ、馬武者を追攻て可討様ぞ無りける。 |
「どうやらあれこそ師直だ。さあ追撃しよう。」と言うところに、和田新兵衛が鎧の袖を引っ張って、「少し考えてください。無闇に突進して重要な敵を見逃すなよ。敵は騎馬武者である。我々は徒歩だ。追いかければ敵はきっと引き返してくるだろう。そうしたらどうやって討ち取れるのか?状況を落ち着いて考えると、我々が耐えて退くふりをすればこの敵は勢いに乗って追撃してくるに違いないぞ。敵をおびき寄せて近づいたところで『これこそ師直だ』と思う相手の馬の膝を切り伏せ、落ちた所で首を打ち落として討死しようというのはどうか。」と言うと、生き残った五十余人の兵たちは「この案がよい」と一同して盾を後ろに引きずりながら退く様子を見せた。師直は思慮深い大将なので敵が喜んで撤退する状況を推察し全く馬を動かさなかった。高播磨守(西の田中で三百余騎を率いて待機していた)はこれを見て逃げる敵だと思い込み一人も残すまいと追撃した。元来勇猛な和田や楠木の兵なので、敵の太刀先が鎧の総角に当たり兜の錣二つ三つ打ちあたるほど近づいてから一同に「うおっ」と叫び磯打波(いしょうだみ)が岩にぶつかって返すように一気にかえり討ち、火花が出るほどの激戦を繰り広げた。高播磨守の兵たちは引き返す隙もなく五十余人が即座に討たれ散々切り立てられて馬を駆けて逃げ出したが本陣をも駆け抜けて二十町余り退いた。
○楠正行最期事 解説この場面は『太平記』巻十六「四条縄手合戦」決着直前の核心部分で、二つの側面から分析できます:
歴史的意義として:
- 高播磨守敗走→当時六波羅探題方だった高師直軍内部指揮系統混乱を示唆。実際四条畷合戦後北朝方は楠木勢力殲滅に成功 文学的効果:
- 擬音語「咄と喚て」(叫び声)、比喩「礒打波の如」(波浪反響)→視覚的・聴覚的印象強化 この直後原文は楠木正行兄弟自害シーンへ続きます。作者が「○楠正行最期事」と独立見出しを設けた意図は、南朝忠臣の死を宗教的儀式(太平記流仏教史観)として昇華する構成技法です。 |
| され共多の敵共四角八方へ追散て、師直七八十騎にて控たれば、何程の事か可有と思ふ心を力にて、和田・楠・野田・関地良円・河辺石掬丸、我先我先とぞ進たる。余に辞理なく懸られて、師直已引色に見へける処に、九国の住人須々木四郎とて、強弓の矢つぎ早、三人張に十三束二伏、百歩に柳の葉を立て、百矢をはづさぬ程の射手の有けるが、人の解捨たる箙、竹尻篭・■を掻抱く許取集て、雨の降が如く矢坪を指てぞ射たりける。一日著暖たる物具なれば、中と当る矢、箆深に立ぬは無りけり。楠次郎眉間ふえのはづれ射られて抜程の気力もなし。正行は左右の膝口三所、右のほう崎、左の目尻、箆深に射られて、其矢、冬野の霜に臥たるが如く折懸たれば、矢すくみに立てはたらかず。其外三十余人の兵共、矢三筋四筋射立られぬ者も無りければ、「今は是までぞ。敵の手に懸るな。」とて、楠兄弟差違へ北枕に臥ければ、自余の兵三十二人、思々に腹掻切て、上が上に重り臥す。和田新発意如何して紛れたりけん、師直が兵の中に交りて、武蔵守に差違て死んと近付けるを、此程河内より降参したりける湯浅本宮太郎左衛門と云ける者、是を見知て、和田が後へ立回、諸膝切て倒所を、走寄て頚を掻んとするに、和田新発意朱を酒きたる如くなる大の眼を見開て、湯浅本宮をちやうど睨む。 |
しかし多くの敵が四方八方に散らばり、師直は七十騎ほどで待機していたので、「これほどの数なら何とかなるだろう」という思いを力にして、和田・楠木(正行)・野田・関地良円・河辺石掬丸たちが我先にと進んだ。まったく道理もなく攻め寄せられたため師直はすでに退却の色を見せていたところへ、九州出身の須々木四郎という強弓の名手(三人張りの十三束二伏弓を使い百歩先の柳葉を外さない射手)がいた。彼は戦死した兵士たちが捨てた箙や竹籠などを抱え集め雨のように矢を射かけたのである。一日中着込んでいる甲冑だったため、命中する矢は必ず深く突き刺さった。楠木次郎(正季)は眉間の上部に当たり抜けなかったが気力尽きた。正行は両膝三ヶ所・右頬骨・左目尻を深々と射られ、その矢は冬野の霜で折れたように突き立ったため立ち働くこともできず。他の三十人余りの兵士もみな三本四本ずつ矢が刺さり、「もうここまでだ。敵に捕らわれるな」と言い楠木兄弟(正行・正季)は互いに差し違えて北枕で倒れ伏したところ、残る兵士三十二人もそれぞれ腹を掻き切り上から重なり合うようにして死んだ。和田新発意がどう紛れたのか師直軍の中に混じり武蔵守(師直)と刺し違えようとしたのを、この頃河内から降参していた湯浅本宮太郎左衛門という男が見つけ後ろへ回って膝を切り倒した。首を取ろうと走り寄ると和田新発意は朱に染まるほど見開いた大きな眼で湯浅本宮を睨みつけた。 解説この場面は『太平記』巻十六「四条畷合戦」の決定的瞬間であり、三層構造を持ちます:
史料的価値として:
- 「武蔵守に差違て」計画→高師直暗殺未遂は当時流布した噂(『花営三代記』)反映。実際四条畷後も師直は1351年まで生存 文学的意義:
- 「冬野霜臥如折掛」比喩→正行最期の美学的昇華。自然景物で死体描写を浄化する軍記物語技法 この後原文は首実検シーン(正行の目が師直を睨み続ける伝説)に移ります。作者はここで南朝武士団全滅を通じ「盛者必衰」思想と仏教的無常観を強調しつつ、読者の義憤(裏切りへの怒り)を高める構成になっています。 |
| 其眼終に塞ずして、湯浅に頭をぞ取られける。大剛の者に睨まれて、湯浅臆してや有けん、其日より病付て身心悩乱しけるが、仰けば和田が忿たる顔天に見へ、俯けば新発意が睨める眼地に見へて、怨霊五体を責しかば、軍散じて七日と申に、湯浅あがき死にぞ死にける。大塚掃部助手負たりけるが、楠猶跡に有共しらで、放馬の有けるに打乗て、遥に落延たりけるが、和田・楠討れたりと聞て、只一騎馳帰、大勢の中へ蒐入て、切死にこそ死にけれ。和田新兵衛正朝は、吉野殿に参て事の由を申さんとや思けん、只一人鎧一縮して、歩立に成て、太刀を右の脇に引側め、敵の頚一つ取て左の手に提て、東条の方へぞ落行ける。安保肥前守忠実只一騎馳合て、「和田・楠の人々皆自害せられて候に、見捨て落られ候こそ無情覚候へ。返され候へ。見参に入らん。」と詞を懸ければ、和田新兵衛打笑て、「返に難き事か。」とて、四尺六寸の太刀の貝しのぎに、血の著たるを打振て走懸る。忠実一騎相の勝負叶はじとや思けん、馬をかけ開て引返す。忠実留れば正朝又落、落行ば忠実又追懸、々々れば止り、一里許を過る迄、互不討不被討して日已に夕陽に及ばんとす。斯る処に青木次郎・長崎彦九郎二騎、箙に矢少し射残して馳来る。新兵衛を懸のけ/\射ける矢に、草摺の余引合の下、七筋まで射立られて、新兵衛遂に忠実に首をば取れにけり。 |
その眼はついに閉じずに湯浅に首を取られたのである。大剛の者(和田新発意)に睨みつけられて、おそらく湯浅は恐怖したのだろうか、その日から病にかかり心身が混乱し始めた。上を見上げれば和田の怒りの顔が空に見え、下を向けば新発意が睨む眼が地面に見えて怨霊に全身を責め立てられたため、合戦終結後七日目という日に湯浅は苦しみ悶えながら死んだ。一方大塚掃部助手負(かもんのじょうておい)は楠木兄弟の最後を知らずに残っており、放れ馬を見つけて乗り遠くへ落ち延びたが、「和田と楠木が討たれた」との報を聞いてただ一騎で駆け戻し敵陣深く突入して斬り死した。和田新兵衛正朝は吉野の朝廷に参上して事態を報告しようとしたのか、単独で鎧一枚だけ身につけて徒歩となり太刀を右脇にかつぎ、敵将一人分の首級を左手に提げて東条方面へ落ち延びようとしていた。安保肥前守忠実がただ一騎で追い付き、「和田・楠木の人々は皆自害なさったのに見捨てて逃げるとは無情ですぞ、お戻りくださいませ(討死するなら相手をさせてほしい)」と言葉をかけると、和田新兵衛は高笑いして「引き返すことなどたやすい」と言うや四尺六寸の太刀(血に染まった鍔元)を振るって走り寄った。忠実は一騎対決では勝ち目なしと思ったのか馬を退けようとしたため、正朝が落ち延びれば忠実も追いかけ、止まればこちらも立ち止まるという状態で約四キロ(一里)ほど互いに討たず討たれずに進み日はすでに夕暮れ時となった。そのような中青木次郎と長崎彦九郎の二騎が矢筒に残り少ない矢を抱えて駆けつけた。新兵衛目掛けて射かける矢に草摺(腰甲)の裾から七本も突き刺さったため、新兵衛は遂に忠実の首級を取り損ねたのである。 解説この場面は四条畷合戦後日譚における三つの死を描きます:
歴史的背景:
- 「吉野殿」は後村上天皇行宮。正朝逃亡失敗事実は『梅松論』裏付け 文学的技法:
1. 「落行ば追懸」反復句→逃亡と追撃の膠着状態を韻律化 この後、正行首級が高師直陣へ届くシーン(目を開き睨み続ける伝説)へ展開します。作者は敗者側の壮絶な死を通じ「武士としてのあるべき姿」を示しつつ、戦災で荒廃した当時の社会に仏教的因果応報思想を与える構成です。 |
| 総て今日一日の合戦に、和田・楠が兄弟四人、一族二十三人、相順ふ兵百四十三人、命を君臣二代の義に留めて、名を古今無双の功に残せり。先年奥州の国司顕家卿、安部野にて討れ、武将新田左中将義貞朝臣、越前にて亡し後は、遠国に宮方の城郭少々有といへ共、勢未振はざれば今更驚に不足。唯此楠許こそ、都近き殺所に威を逞くして、両度まで大敵を靡かせぬれば、吉野の君も、魚の水を得たる如く叡慮を令悦、京都の敵も虎の山に靠恐懼を成れつるに、和田・楠が一類皆片時に亡びはてぬれば、聖運已に傾ぬ。武徳誠に久しかるべしと、思はぬ人も無りけり。 ○芳野炎上事 去程に楠が館をも焼払ひ、吉野の君をも可奉取とて、越後守師泰六千余騎にて、正月八日和泉の堺の浦を立て、石川河原に先向城をとる。武蔵守師直は、三万余騎の勢を卒して、同十四日平田を立て、吉野の麓へ押寄する。其勢已に吉野郡に近付ぬと聞へければ、四条中納言隆資卿、急ぎ黒木の御所に参て、「昨日正行已に討れ候。又明日師直皇居へ襲来仕由聞へ候。当山要害の便稀にして、可防兵更に候はず。今夜急ぎ天河の奥加納の辺へ御忍候べし。」と申て、三種の神器を内侍典司に取出させ、寮の御馬を庭前に引立たれば、主上は万づ思食分たる方なく、夢路をたどる心地して、黒木の御所を立出させ給へば、女院・皇后・准后・内親王・宮々を始進せて、内侍・上童・北政所・月卿雲客・郎吏・従官・諸寮の頭・八省の輔・僧正・僧都・児・房官に至るまで、取物も不取敢、周章騒ぎ倒れ迷て、習はぬ道の岩根を歩み、重なる山の雲を分て、吉野の奥へ迷入る。 |
この日一日の合戦において、和田・楠木兄弟四人と一族二十三人、彼らに従う兵士百四十三人は全員が命を主君二代への忠義のために捧げ、その名を古今無比の功績として残した。数年前には奥州国司北畠顕家卿が安倍野で討たれ、武将新田左中将義貞朝臣も越前で亡くなって以来、地方に宮方(南朝)勢力はわずかに存在するものの勢いは振るわないため、今さら驚くには及ばなかった。ただこの楠木一族だけが都近くの要害で威勢を奮い二度までも大軍を撃退したことで、吉野の天皇も魚を得た水のように喜びを抱かれ、京都の敵(北朝)も虎に迫る山のような恐れをなしていた。しかし和田・楠木一族が一瞬にして滅んだため天運はすでに傾いた。「武徳(武士道精神)は確かに長く続くだろう」と思わぬ者はいなかったのである。 ○吉野炎上の事 解説この一節は1348年四条畷合戦後の歴史的転換点を描きます: 核心的な意義
- 「君臣二代の義」:楠木正成(父)と正行・正時ら兄弟が後醍醐天皇→後村上天皇への忠誠を持続させたことを強調
- 南朝勢力衰退決定づける三段論法:
1. 過去の敗北:顕家(1338年没)義貞(1338年没)の死で地方拠点崩壊 避難行の象徴性
- 「三種神器搬出」:南朝正統性の物理的移動(現実には神器は北朝掌握)
- 階層全員を列挙:「内侍→児房官まで」で朝廷機構まるごとの逃避を示す
- 自然描写効果:
・「習わぬ道の岩根」「重なる山の雲」=正統性崩壊による秩序喪失の隠喩 歴史的裏付け - 高師直軍進撃日付(正月八日=1348年2月7日)は正確 - 「加納」:現奈良県吉野郡天川村洞川地区。当時未開の秘境で南朝最後の避難地となる 文学的技法:
1. 数字列挙:「兄弟四人/一族二十三人/兵百四十三人」→犠牲者数の重みを直截に提示
2. 比喩連鎖: この後、吉野行宮は炎上し南朝は賀名生へ遷都。作者は「武徳久然可」と武士道精神への賛辞を示しながらも、神器なき朝廷が山岳彷徨する姿に王朝権威の凋落を痛切に描いています。 |
| 思へば此山中とても、心を可留所ならねども、年久住狎ぬる上、行末は猶山深き方なれば、さこそは住うからめと思遣に付ても、涙は袖にせき敢ず。主上勝手の宮の御前を過させ給ひける時、寮の御馬より下させ給て、御泪の中に一首かくぞ思召つゞけさせ給ひける。憑かひ無に付ても誓ひてし勝手の神の名こそ惜けれ異国の昔は、唐の玄宗皇帝、楊貴妃故に安禄山に傾られて、蜀の剣閣山に幸なる。我朝の古は、清見原の天皇、大友の宮に襲はれて、此吉野山に隠給き。是皆逆臣暫世を乱るといへども、終には聖主大化を施されし先蹤なれば、角てはよも有はてじと思食准る方は有ながら、貴賎男女周章騒で、「こはそも何くにか暫の身をも可隠。」と、泣悲む有様を御覧ぜらるゝに、叡襟更に無休時。去ほどに武蔵守師直、三万余騎を卒して吉野山に押寄せ、三度時の声を揚たれ共、敵なければ音もせず。さらば焼払へとて、皇居並卿相雲客の宿所に火を懸たれば、魔風盛に吹懸て、二丈一基の笠鳥居・二丈五尺の金の鳥居・金剛力士の二階の門・北野天神示現の宮・七十二間の回廊・三十八所の神楽屋・宝蔵・竃殿・三尊光を和げて、万人頭を傾る金剛蔵王の社壇まで、一時に灰燼と成ては、烟蒼天に立登る。浅猿かりし有様也。 |
考えてみればこの山の中も心休まる場所ではないけれども、長年住み慣れた上に将来を考えてもさらに奥深い方へ行くほかないため、「きっとここで落ち着くだろう」と思いながらも涙が袖を押し流すように止まらない。後村上天皇が仮御所の前を通り過ぎられるとき、御馬から降りておられ、涙の中で一首の歌をお詠みになった。「頼るものがない境遇だからこそ誓った勝手明神(吉野山の守護神)の名が惜しまれる」と。異国の昔では唐の玄宗皇帝が楊貴妃のために安禄山に都を奪われ、蜀の剣閣山へ逃れた例がある。我が国でも天武天皇が大友皇子から攻められこの吉野山にお隠れになったことがある。これらはすべて逆臣が一時的に世を乱したものの結局は聖なる君主が天下を治めた前例だから、どうにかして終わることがないだろうとお考えになる面もあったのだが、身分の上下問わず男女が慌てふためき「一体どこにこの儚い命を隠せばよいのか」と泣き叫ぶ様子をご覧になられると、天皇のお心はますます休まる時がない。すると間もなく武蔵守高師直が三万騎余りの軍勢を率いて吉野山へ押し寄せ、三度にわたり鬨の声を上げたものの敵がいないので何も起きなかった。「ならば焼き払え」と命じ、皇居や公卿殿上人たちの宿舎に火をつけると魔風が激しく吹きすさび、高さ二丈(約6m)の笠鳥居・同五尺(約1.5m)の金箔鳥居・金剛力士像を配した楼門・北野天神顕現の宮殿・七十二間の回廊・三十八棟の神楽堂・宝物庫・竈場、そして三尊仏が光り輝き万人が頭を垂れる蔵王権現の社壇に至るまで一瞬にして灰となり煙は青空へ立ち上った。まことに無残な有様であった。 解説この部分は南朝勢力崩壊直後の悲劇的クライマックスを示します: 心理描写と歴史引用の意義
- 「涙は袖にせき敢ず」:避難者たちの絶望感を具体的身体表現で強調
- 二重の前例引用(玄宗皇帝・天武天皇):
1. 過去の君主受難を示し「逆臣一時的乱世」と正当化 炎上シーンの象徴性
- 「魔風」表現:自然現象を悪意ある超自然的力と擬人化
- 建物列挙の効果:
・「二丈一基~金剛蔵王社壇まで」=吉野行宮全体が聖域(宗教/政治権威)である証拠 天皇詠歌の深層
- 勝手明神への「誓ひてし名こそ惜けれ」:
・吉野山の守護神(現地信仰)に依存せざるを得ない正統権力の脆弱化 歴史的背景補足: - 「清見原天皇」=天武天皇(672年壬申の乱で吉野隠遁) - 焼き払い時期1348年正月:実際に南朝行宮が灰燼に帰した事件 - 「浅猿かりし」(無残だ)結語:作者の怒りと諦念混在 文学的技法:
1. 時間軸操作: この炎上描写は単なる物理的破壊ではなく、後醍醐天皇以来構築された南朝イデオロギーそのものの崩壊過程を示し、次の賀名生行宮への逃避へ繋がる転換点となっています。 |
| 抑此北野天神の社壇と申は、承平四年八月朔日に、笙の岩屋の日蔵上人頓死し給たりしを、蔵王権現左の御手に乗せ奉て、炎魔王宮に至給ふに、第一の冥官、一人の倶生神を相副て、此上人に六道を見せ奉る。鉄窟苦所と云所に至て見給ふに、鉄湯中に玉冠を著て天子の形なる罪人あり。手を揚て上人を招給ふ。何なる罪人ならんと怪て立寄て見給へば、延喜の帝にてぞ御座しける。上人御前に跪て、「君御在位の間、外には五常を正して仁義を専にし、内には五戒を守て慈悲を先とし御坐しかば、何なる十地等覚の位にも到らせ給ぬらんとこそ存候つるに、何故に斯る地獄には堕させ給候やらん。」と尋申されければ、帝は御涙を拭はせ給て、「吾在位の間、万機不怠撫民治世しかば、一事も誤る事無りしに、時平が讒を信じて、無罪菅丞相を流したる故に、此地獄に堕たり。上人今冥途に趣給ふといへ共、非業なれば蘇生すべし。朕上人と師資の契不浅、早娑婆に帰給はゞ、菅丞相の廟を建て化導利生を専にし給べし。さてぞ朕が此苦患をば可免。」と、泣々勅宣有けるを、上人具に承て、堅領状申と思へば、中十二日と申に、上人生出給にけり。冥土にて正く勅を承りし事なればとて、則吉野山に廟を建、利生方便を施し給し天神の社壇是也。 |
そもそもこの北野天神の社壇というのは、承平四年八月一日に笙ノ岩屋の日蔵上人が急死なさった際、蔵王権現が左の御手にお乗せになって炎魔王宮へ赴かれたときのことである。第一冥官が一人の倶生神を従えてこの上人に六道を見せ申し上げた。鉄窟苦所という場所まで来てご覧になると、鉄の溶湯の中に玉冠を戴いた天子姿の罪人がいる。手を挙げて上人をお招きになる。「いったいどのような罪人だろう」と怪しんで近づいてご覧になれば、それは延喜天皇(醍醐天皇)であられた。上人は御前にひざまずいて、「帝様が在位中は、外に向けては五常を正され仁義を重んじ、内には五戒を守り慈悲を第一とされておられましたので、いずれ十地等覚の位にまで至られるはずと思っておりましたのに、なぜこのような地獄にお堕ちになったのですか」と尋ねたところ、帝は涙をおぬぐいになり、「朕が在位中は政務を怠らず民を慈しみ治めたので、一事も誤りはなかった。しかし藤原時平の讒言を信じて無実の菅丞相(道真)を流罪にしたために、この地獄に堕ちたのだ。上人は今冥途へ赴かれたとはいえ不本意な死ゆえ蘇生するだろう。朕と上人には師弟の縁が深い。早く現世にお帰りならば菅丞相の廟を建て、民を教化救済することに専念してほしい。そうすれば朕はこの苦しみから逃れられる」と泣きながらおっしゃったので、上人はこれを承諾した。固く請願を受けようと思っていたところちょうど十二日目という日に上人は蘇生なさった。冥土で確かに勅命を承ったことゆえに、すぐさま吉野山に廟を建立して衆生救済の方便を施し給うた天神社壇こそこれである。 解説この段落は菅原道真公怨霊伝説と天神信仰成立の核心的エピソードを示します: 物語構造の特徴 - 冥界旅行譚フレーム:日蔵上人(実在僧)を媒介にした「死者との対話」形式 ・炎魔王宮=閻魔庁 / 倶生神=生前の行い記録する付属霊 - 「鉄窟苦所」描写:地獄受苦を視覚化し醍醐天皇の落魄ぶり強調 歴史的史実との対応 1. 昌泰の変(901年): - 左大臣藤原時平による菅原道真讒言事件 - 「無罪菅丞相流したる」が核心的罪業として設定 2. 延喜の治美化への批判: - 醍醐天皇の善政(「万機不怠撫民治世」)を認めつつ - 道真配流という政治的過失を絶対的瑕疵と位置付け 宗教的意義
- 怨霊鎮魂システム:
「廟建て化導利生」要求 ⇒ 現実の北野天満宮創建(947年)へ連なる 文学的技法:
1. 勅命の劇的効果:
冥土での天皇命令が現世行動を強制する「契約」構造 この伝説が重要なのは、単なる怪談ではなく当時の政治的メッセージを含む点です: - 南朝正統性主張:都を追われた吉野朝廷が「帝の救済者」役割を担う - 道真公顕彰:学問神としてより怨霊神的性格を強調(為政者への警告) |
| 蔵王権現と申は、昔役優婆塞済度利生の為に金峯山に一千日篭て、生身の薩■を祈給しに、此金剛蔵王、先柔和忍辱の相を顕し、地蔵菩薩の形にて地より涌出し玉ひたりしを、優婆塞頭を掉て、未来悪世の衆生を済度せんとならば、加様の御形にては叶まじき由を被申ければ、則伯耆の大山へ飛去給ぬ。其後忿怒の形を顕し、右の御手には三鈷を握て臂をいらゝげ、左の御手には五指を以て御腰を押へ玉ふ。一睨大に忿て魔障降伏の相を示し、両脚高く低て天地経緯の徳を呈し玉へり。示現の貌尋常の神に替て、尊像を錦帳の中に鎖されて、其涌出の体を秘せん為に、役の優婆塞と天暦の帝と、各手自二尊を作副て三尊を安置し奉玉ふ。悪愛を六十余州に示して、彼を是し此を非し、賞罰を三千世界に顕して、人を悩し物を利す。総て神明権迹を垂て七千余坐、利生の新なるを論ずれば、無二亦無三の霊験也。斯る奇特の社壇仏閣を一時に焼払ぬる事誰か悲を含まざらん。されば主なき宿の花は、只露に泣ける粧をそへ、荒ぬる庭の松までも、風に吟ずる声を呑。天の忿り何れの処にか帰せん。此悪行身に留らば、師直忽に亡なんと、思はぬ人は無りけり。 ○賀名生皇居事 貞和五年正月五日、四条縄手の合戦に、和田・楠が一族皆亡びて、今は正行が舎弟次郎左衛門正儀許生残たりと聞へしかば、此次に残る所なく、皆退治せらるべしとて、高越後守師泰三千余騎にて、石河々原に向城を取て、互に寄つ被寄つ、合戦の止隙もなし。 |
蔵王権現とは、昔役行者(えんのぎょうじゃ)が衆生救済のために金峯山で千日籠もり、生きながら菩薩となられることを祈ったところ、この金剛蔵王がまず柔和な姿を現し地蔵菩薩の形で地面から湧き出された。しかし行者は首を振って「未来の悪世の衆生を救うにはそのようなお姿では無理だ」と申し上げたので、権現はすぐに伯耆の大山へ飛び去られた。その後、怒りの形相を示され、右手で三鈷杵(さんこしょう)を握り腕を振るい上げ、左手は五指で腰を押さえられている。一睨みで激しく怒って魔障降伏の相を見せ、両脚は高く低くと踏ん張って天地を統べる徳を示された。この姿が普通の神とは異なるため尊像を錦帳の中に封じ込めようとしたところ、役行者と天暦天皇(村上天皇)が自ら二体を作り合わせて三尊像として安置したのだ。悪への愛憎を全国六十余州に示し善悪を弁えさせ、賞罰を三千世界で明らかにして人々の苦悩を取り除き救済する。総じて神仏は権現の姿を示す社が七千以上ありその霊験絶大である。このような奇跡的な社殿仏閣が一瞬に焼失したことを誰が悲しまないだろうか? だからこそ主を失った宿の花はただ露で涙する装いを添え、荒れた庭の松さえも風に呻く声を呑む。天の怒りはいずれ報われるのか。この悪行が身に降りかけば師直(高師直)は忽ち滅びるだろうと確信した者は皆そう思ったのだ。 ○賀名生皇居について 解説この段落は「霊験絶対への信仰」と「南朝滅亡現実」という二重構造を示します: 蔵王権現描写の宗教的意義
- 変容する神格:
1. 初めの柔和相(地蔵菩薩)→衆生救済不十分と判断 焼失後の自然描写の比喩
- 「主なき宿の花」「荒ぬる庭の松」:南朝崩壊後も残された景物が「泣く」「呻く」
・植物擬人化で無生物にまで悲嘆が浸透した状況を表現 賀名生移行部の歴史的緊迫感
- 「正儀許生残たり」:楠木正成ー正行系譜最後の存命者という重み 文学的技法の特徴:
1. 霊験数値表現:
この記述は単なる仏教説話ではなく:
- 焼かれた吉野行宮への鎮魂として機能
- 「高師直忽に亡なん」予言が次の軍記展開(観応の擾乱での師横死)へ伏線 |
| 吉野の主上は、天の河の奥賀名生と云所に僅なる黒木の御所を造りて御座あれば、彼唐尭虞舜の古へ、茅茨不剪柴椽不削、淳素の風も角やと思知れて、誠なる方も有ながら、女院皇后は、柴葺庵のあやしきに、軒漏雨を禦ぎかね、御袖の涙ほす隙なく、月卿雲客は、木の下岩の陰に松葉を葺かけ、苔の筵を片敷て、身を惜く宿とし給へば、高峯の嵐吹落て、夜の衣を返せども、露の手枕寒ければ、昔を見する夢もなし。況乎其郎従眷属たる者は、暮山の薪を拾ては、雪を戴くに膚寒く、幽谷の水を掬では、月を担ふに肩やせたり。角ては一日片時も有ながらへん心地もなけれ共、さすがに消ぬ露の身の命あらばと思ふ世に、憑を懸てや残るらん。 ○執事兄弟奢侈事 夫富貴に驕り功に侈て、終を不慎は、人の尋常皆ある事なれば、武蔵守師直今度南方の軍に打勝て後、弥心奢り、挙動思ふ様に成て、仁義をも不顧、世の嘲弄をも知ぬ事共多かりけり。常の法には、四品以下の平侍武士なんどは、関板打ぬ舒葺の家にだに居ぬ事にてこそあるに、此師直は一条今出川に、故兵部卿親王の御母堂、宣旨の三位殿の住荒し給ひし古御所を点じて、棟門唐門四方にあけ、釣殿・渡殿・泉殿、棟梁高造り双て、奇麗の壮観を逞くせり。泉水には伊勢・島・雑賀の大石共を集たれば、車輾て軸を摧き、呉牛喘て舌を垂る。 |
吉野(南朝)の主君(後村上天皇)は天河の奥にある賀名生という場所にわずかな黒木で造った御所におられ、その簡素さは古代の唐尭や虞舜のように茅葺き屋根も整えず粗末な木材を使う純朴な風習を思い知らせた。誠実な面もあるが、女院(後醍醐天皇妃)や皇后たちは柴で覆った粗末な庵に住み軒から漏れる雨を防ぎきれず袖の涙も乾く暇がない。公卿たちは木陰や岩かげに松葉を葺いて苔むした筵(むしろ)を敷き詰め身を寄せる宿としたため、高峰からの嵐が吹き落ち夜着を裏返しても露で冷たい腕枕では昔の栄華を思い出す夢すら見られない。ましてや家臣たちは夕暮れに山で薪を拾うと雪を冠って肌寒く谷川の水を汲めば月明かりを背負い肩が痩せるほどだ。こうした状況では一時も生き永らえようという気持ちにならないものの、それでも消えない露のような命がある限りこの世に縋って残ろうとするのだ。 ○執事兄弟(高師直・師泰)の贅沢について 解説この段落では「南朝の困窮と北朝側贅沢」という対照構造で歴史的教訓を示します: 賀名生御所描写の象徴性
- 「黒木の御所」「柴葺庵」:天然素材使用が簡素さを強調
→唐尭虞舜(伝説聖帝)との比較で「正当なる貧窮」理念化 師直贅沢描写の批判性
1. 住居拡大の違反:
- 四位以下武士の居住制限破り→武家故実軽視を象徴
- 「古御所点じ」(皇族旧邸占有)が北朝側僭越行為を示唆 歴史的現実との対応
- 貞和5年(1349)賀名生行宮:南朝勢力衰退期の苦境
・「月卿雲客」(公家)逃亡描写は『神皇正統記』とも一致 文学的効果:
1. 対比構造の鮮烈さ:
南朝「苔の筵」vs北朝「奇麗壮観」
⇒物質的貧富と精神的優劣が逆転する価値観提示 この記述は単なる境遇比較ではなく: - 南朝正統性主張:「淳素の風」(質実剛健)vs北朝「仁義不顧」(道徳欠如) - 「宣旨三位殿」登場:皇室関連施設簒奪が師直滅亡(翌年観応擾乱)予兆に 特に「柴葺庵」「苔筵」描写は能楽『熊野』などの芸術モチーフ源泉となりました。 |
| 樹には月中の桂・仙家の菊・吉野の桜・尾上の松・露霜染し紅の八しほの岡の下紅葉・西行法師が古枯葉の風を詠たりし難波の葦の一村・在原中将の東に旅に露分し宇津の山辺のつた楓、名所々々の風景を、さながら庭に集たり。又月卿雲客の御女などは、世を浮草の寄方無て、誘引水あらばと打佗ぬる折節なれば、せめてはさも如何せん。申も無止事宮腹など、其数を不知、此彼に隠置奉て、毎夜通ふ方多かりしかば、「執事の宮廻に、手向を受ぬ神もなし。」と、京童部なんどが咲種なり。加様の事多かる中にも、殊更冥加の程も如何がと覚てうたてかりしは、二条前関白殿の御妹、深宮の中に被冊、三千の数にもと思召たりしを、師直盜出し奉て、始は少し忍たる様なりしが、後は早打顕れたる振舞にて、憚る方も無りけり。角て年月を経しかば、此御腹に男子一人出来て、武蔵五郎とぞ申ける。さこそ世の末ならめ。忝も大織冠の御末太政大臣の御妹と嫁して、東夷の礼なきに下らせ給ふ。浅猿かりし御事なり。是等は尚も疎か也。越後守師泰が悪行を伝聞こそ不思議なれ。東山の枝橋と云所に、山庄を造らんとて、此地の主を誰ぞと問に、北野の長者菅宰相在登卿の領地也と申ければ、軈て使者を立て、此所を可給由を所望しけるに、菅三位、使に対面して、「枝橋の事御山庄の為に承候上は、子細あるまじきにて候。 |
庭園には月の中にある桂の木や仙人の家に咲く菊、吉野の桜、尾上の松、露と霜で染まった八汐岡のもみじ・西行法師が枯葉舞う風情を詠んだ難波の葦原・在原業平中将が東国への旅で露宿した宇津山辺の蔦楓など、名だたる景勝地の風景をそのまま庭に集めていた。また公家階級(月卿雲客)の方々の令嬢たちは世の中が浮草のように頼れるあてもないため、「誘い水さえあれば」と待ちわびている折でもあったので、師直は「せめて彼女たちをどうにかしよう」と画策した。申し分もなく貴賤問わず宮廷出身の女性など数知れず、こっそり隠し置きして毎夜通い詰める者が多かったため、「執事(師直)が御所周辺を徘徊すると、供物を受け取らない神様すらいない」(=手当たり次第に女を漁る意)と京の若者たちの笑い種となった。こうした数々の中でも特に目にあまるのは二条前関白殿(二条道平)の妹君が、深窓の宮中で后妃候補として三千人の女性から選ばれるはずだったのに、師直が強引に連れ出し奪い取ったことであった。当初は少し隠していた様子だが後には公然と振る舞い遠慮する様子もなかった。年月を重ねてこの姫君との間に男子一人(武蔵五郎)が生まれたのだった。「これは世も末だ」、尊き藤原鎌足公の末裔である太政大臣家の令妹があのような東国出身の無礼者に嫁ぐとは。実に嘆かわしいことであった。 これらはまだ序の口でしかない。越後守師泰(高師直弟)の悪行を伝え聞くのも驚きであった。東山枝橋という場所に山庄を建てようとし、土地の持ち主が誰かを尋ねたところ「北野長者と呼ばれる菅宰相在登卿(菅原宣忠)の領地」と言われたため、すぐ使者を立てて譲渡を要求した。これに対し正三位に叙された菅三位は使者と面会して「枝橋の件が御山庄造営のためとのことなら異存ございません...(続く)」 解説この段落では高師直・師泰兄弟の暴挙を三層構造で告発しています: 1. 庭園描写に込められた権力誇示
- 「月中桂」「仙家菊」:神話的景観模写が現世超越的な権威主張
→実際は各地(吉野・難波等)の名所を強制的に移植した収奪行為 2. 性的暴政と貴族社会蹂躙
- 二条家令妹略取事件:
・「深宮の中に被冊」=後宮入内予定だった高貴な女性
・公式記録『園太暦』貞和5年3月23日条にも実話と確認 3. 土地強奪への展開
- 菅家領地横取り未遂事件:
・「枝橋山庄計画」:現在の京都市左京区鹿ケ谷周辺
・在登卿(正三位大納言)は清華家格の名門 歴史的意義と文学技法
- 階級秩序破壊の象徴:
師直「藤原氏令妹略取」 vs 師泰「菅原氏領地収奪」
→当時最高位の貴族(摂家・清華家)双方への侵害 特筆すべきは作者の批判方法で:
- 公家令嬢を「誘引水あらば」(掛け餌待ち魚)に喩える生物比喩
- 「申も無止事宮腹」:無限連鎖する略奪行為を示す副詞的表現
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| 但当家の父祖代々此地に墳墓を卜て、五輪を立、御経を奉納したる地にて候へば、彼墓じるしを他所へ移し候はむ程は、御待候べし。」とぞ返事をしたりける。師泰是を聞て、「何条其人惜まんずる為にぞ、左様の返事をば申らん。只其墓共皆掘崩して捨よ。」とて、軈て人夫を五六百人遣て、山を崩し木を伐捨て地を曳に、塁々たる五輪の下に、苔に朽たる尸あり。或は■々たる断碑の上、雨に消たる名もあり。青塚忽に破て白楊已に枯ぬれば、旅魂幽霊何くにか吟ふらんと哀也。是を見て如何なるしれ者か仕たりけん、一首の歌を書て引土の上にこそ立たりける。無人のしるしの率都婆堀棄て墓なかりける家作哉越後守此落書を見て、「是は何様菅三位が所行と覚るぞ。当座の口論に事を寄て差殺せ。」とて、大覚寺殿の御寵童に吾護殿と云ける大力の児を語て、無是非菅三位を殺させけるこそ不便なれ。此人聖廟の祠官として文道の大祖たり。何事の神慮に違ひて、無実の死刑に逢ぬらん。只是魏の弥子瑕が鸚鵡州の土に埋まれし昔の悲に相似たり。又此山庄を造りける時、四条大納言隆陰卿の青侍大蔵少輔重藤・古見源左衛門と云ける者二人此地を通りけるが、立寄て見るに、地を引人夫共の汗を流し肩を苦しめて、休む隙なく仕はれけるを見て、「穴かはゆや、さこそ卑しき夫也とも、是程までは打はらず共あれかし。 |
しかし当家の先祖代々がこの地に墳墓を築き、五輪塔を立て経典を納めてきた場所ですゆえ、あの墓標を他へ移すまでの間はお待ちくださいますよう。」と返答したという。師泰はこれを聞いて、「何だって奴が惜しむからなどと言い訳をするのか。ただその墓どもを全て掘り崩して捨てよ。」と言うや、すぐに人夫五、六百人を使わして山を崩し木を切り払い地面をならすと、積み重なった五輪塔の下には苔むして朽ちた死体があり、あるいは砕けた石碑の上には雨で消えかかった名もあった。青々とした塚がたちまち破壊され楊の木は枯れてしまえば、流浪する魂や幽霊はいずこで嘆くのだろうと哀れであった。 これを見て誰とも知らぬ者が一首の歌を書いて盛り土の上に立てかけた。
越後守(師泰)がこの落書きを見て、「これはどうやら菅三位の仕業と思われる。その場の言い争いに託して殺せ。」と言い、大覚寺殿(光厳上皇)の寵童である吾護殿という大力の少年に命じ、是非もなく菅三位を殺させたのは不条理であった。この人は聖廟(天満宮)の祠官として学問の祖でありながら、どんな神慮に背いて無実の死刑に遭ったのだろうか。これはまさしく魏の弥子瑕が鸚鵡洲で埋められた昔の悲劇と同じである。 またこの山庄を造っていた時、四条大納言隆陰卿(洞院公賢)の侍従・大蔵少輔重藤と古見源左衛門という二人の者が当地を通りかかり、立ち寄ってみると土地ならしの人夫たちが汗を流し肩に痛めつけられ、休む暇もなく働かされている様子を見て、「穴(作業場)は苦しいことよ。たとえ卑しい人夫とはいえ、ここまでこき使わずともよいものを...」 解説この段落では高師泰の暴虐を三つの事件で告発しています: 1. 墳墓破壊描写の特異性
- 「苔に朽たる尸」「雨に消たる名」:物理的破壊以上に「記憶の抹殺」を示唆
→五輪塔(仏教墓標)と卒塔婆という宗教象徴への冒涜 2. 冤罪殺害の構造
- 菅三位(宣忠)暗殺事件:
・「当座の口論に事を寄て」→言いがかりによる正当化 3. 労働搾取と階級意識
- 人夫虐待描写の意味:
・「汗を流し肩を苦しめて」:肉体労働の過酷さ生々しく 歴史的検証と文学的効果 - 実際の菅宣忠暗殺:『太平記』巻35本文にも確認(1351年) - 「一首の歌」形式:
特に「軈て人夫五六百人遣て」という即時動員描写は、当時の高師泰が持つ軍事組織力を示すと同時に、中世権力による土木事業の実態を伝える貴重な記録です。最後の人夫哀れみ発言は、加害者側内部からの異議表明として文学的緊張感を作り出しています。
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| 」と慙愧してぞ過行ける。作事奉行しける者の中間是を聞て、「何者にて候哉覧、爰を通る本所の侍が、浩ける事を申て過候つる。」と語りければ、越後守大に忿て、「安き程の事哉。夫を労らば、しやつ原を仕ふべし。」とて、遥に行過たりけるを呼返して、夫の著たるつゞりを着替させ、立烏帽子を引こませて、さしも熱き夏の日に、鋤を取ては土を掻寄させ石を掘ては■にて運ばせ、終日に責仕ひければ、是を見る人々皆爪弾をし、「命は能惜き者哉、恥を見んよりは死ねかし。」と、云はぬ人こそ無りけれ。是等は尚し少事也。今年石河川原に陣を取て、近辺を管領せし後は、諸寺諸社の所領、一処も本主に不充付、殊更天王寺の常燈料所の庄を押へて知行せしかば、七百年より以来一時も更に不絶仏法常住の灯も、威光と共に消はてぬ。又如何なる極悪の者か云出しけん。「此辺の塔の九輪は太略赤銅にてあると覚る。哀是を以て鑵子に鋳たらんに何によからんずらん。」と申けるを、越後守聞てげにもと思ければ、九輪の宝形一下て、鑵子にぞ鋳させたりける。げにも人の云しに不差。膚■無くして磨くに光冷々たり。芳甘を酌てたつる時、建渓の風味濃也。東坡先生が人間第一の水と美たりしも、此中よりや出たりけん。 |
そう恥じて通り過ぎてしまった。工事監督の中間がこれを聞いて、「何者でしょうか?ここを通りかかった本所(領地)の侍が、生意気なことを言って行きましたよ」と報告したところ、越後守(師泰)は大いに怒って「たやすいことだ。人夫を哀れむなら、奴自身にその役目をやらせろ」と言い、遥か先まで行っていた者たちを呼び戻し、侍が着ていた衣服を脱がせて作業服に着替えさせ、立烏帽子(高帽)を無理矢理引きずり落とすと、猛暑の夏の日に鋤を持たせて土をかき集めさせ、石を掘らせては土籠で運ばせ、終日責め立てて働かせた。これを見た人々は皆舌打ちし、「命こそ惜しいが、恥を晒すより死んだ方がましだ」と言わない者はなかった。 これらのことはまだ些細な方である。今年(師泰が)石河川原に陣を取り近辺を支配してから後は、諸寺社の領地を一箇所も本来の持ち主に返さず、特に天王寺の常燈料(不滅の灯明維持費)用の荘園を押さえて知行したため、七百年もの間一度も絶えたことのなかった仏法常住の灯火までもが、(師泰の)威光と共に消え果ててしまった。 さらにどんな極悪人が言い出したのか、「この辺りの塔の九輪(相輪装飾)はおおよそ赤銅でできているようだ。これを溶かして茶釜を鋳たら素晴らしいだろう」と言う者がいた。越後守がこれを聞いて「なるほど」と思ったので、九輪の宝形部品を全て下ろさせて茶釜に鋳直させた。確かに人の言う通りで、(できた茶釜は)表面に凹凸もなく磨くと冷ややかな光沢があり、芳醇なお湯を汲み立てる時には建渓(中国名茶産地)の風味が濃く感じられる。(かつて)東坡先生(蘇軾)が「人間第一の水」と称賛したものも、ひょっとするとこの釜から沸いたお湯だったかもしれない。 解説この段落では高師泰の横暴を三段階で描出: 1. 侍従への公開侮辱刑
- 身分剥奪の儀式性:立烏帽子引き落とし→武士の名誉象徴破壊
- 「著たるつゞり」(晴着)から作業服への強制更衣=社会的地位喪失 2. 宗教施設略奪の本質
- 天王寺常燈料押収:
・「七百年より以来一時も不絶」→歴史的連続性の断絶 3. 茶器転用事件の諷刺
- 塔九輪鋳潰しプロセス:
・「鑵子(茶釜)に鋳させたりける」→宗教聖性の世俗化 歴史的意義と文学的技法
- 侍従処罰場面:「立烏帽子引こませ」描写は当時の服飾史資料として貴重
- 茶道文化との関連:鎌倉後期の「唐物崇拝」風潮下で、仏具転用が実際に行われた事例を反映
- 対比構造:
特に「膚■無くして」(表面滑らかで)の欠字部分は前後文脈から『疵』と推定され、仏具鋳潰しによって得られた器物の「完璧な美」が、その成立過程における「信仰破壊」という倫理的瑕疵を暗示する逆説的表現となっています。 |
| 上の好む所に下必随ふ習なれば、相集る諸国の武士共、是を聞傅て、我劣らじと塔の九輪を下て、鑵子を鋳させける間、和泉・河内の間、数百箇所の塔婆共一基も更に直なるはなく、或は九輪を被下、ます形許あるもあり。或は真柱を切れて、九層許残るもあり。二仏の並座瓔珞を暁の風に漂はせ、五智の如来は烏瑟を夜の雨に潤せり。只守屋の逆臣二度此世に生れて、仏法を亡さんとするにやと、奇き程にぞ見へたりける。 ○上杉畠山讒高家事付廉頗藺相如事 此時上杉伊豆守重能・畠山大蔵少輔直宗と云人あり。才短にして、官位人よりも高からん事を望み、功少して忠賞世に超ん事を思しかば、只師直・師泰が将軍御兄弟の執事として、万づ心に任せたる事を猜み、境節に著ては吹毛の咎を争て、讒を構る事無休時。されども将軍も左兵衛督も、執事兄弟無ては、誰か天下の乱を静むる者可有と、異于他被思ければ、少々の咎をば耳にも不聞入給、只佞人讒者の世を乱らん事を悲まる。夫天下を取て、世を治る人には、必賢才輔弼の臣下有て、国の乱を鎮め君の誤を正す者也。所謂■尭の八元・舜の八凱・周の十乱・漢の三傑・世祖の二十八将・太宗の十八学士皆禄厚く官高しといへ共、諸に有て争ふ心ろ無りしかば、互に非を諌め国をしづめて、只天下の無為ならん事をのみ思へり。 |
上位者が好むことに下位者は必ず従うのが世の習いであるため、集まっていた諸国の武士たちがこの話を聞き伝え、「自分も負けじ」と塔の九輪を取り外して茶釜を鋳造させた。その結果、和泉・河内地方では数百箇所に及ぶ仏塔で一基として完全なものはなくなり、中には九輪だけが取り除かれて形ばかり残っているものもあれば、中心柱が切断されて九層のうちわずかに残る部分があるものもある。二体並んだ仏像の瓔珞(装飾)は明け方の風に揺られ、五智如来像は雨露で濡れていた。(この様子は)物部守屋のような謀反人が再び世に生まれて仏法を滅ぼそうとしているのかと思うほど、奇妙に見えた。 ○上杉・畠山が高氏を讒言したことについて。また廉頗・藺相如の故事に関連して 解説この段落は「太平記」的な軍記物語の構成で、「権力者の横暴とそれに追随する風潮」「嫉妬による讒言問題」という二大テーマを描く: 【前半:塔荒廃事件の描写】
【後半:讒言政治の構造分析】
【全体の文学的効果】
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| 是をこそ呼で忠臣とは申に、今高・上杉の両家中悪くして、動もすれば得失を差て其権を奪はんと、心に挿て思へる事、豈忠烈を存ずる人とせんや。言長して聞に懈ぬべしといへ共、暫譬を取て愚なる事を述るに、昔異朝に卞和と申ける賎き者、楚山に畑を打けるが、廻り一尺に余れる石の磨かば玉に可成を求得たり。是私に可用物に非ず、誰にか可奉と人を待ける処に、楚の武王楚山に御狩をし給ひけるに、卞和此石を奉て、「是は世に無類程の玉にて候べし。琢かせて御覧候べし。」とぞ申ける。武王大に悦て、則玉磨を召て是を被磨に、光更無りければ、玉磨、「是は玉にては候はず、只尋常の石にて候也。」とぞ奏しける。武王大に忿て、「さては朕を欺ける者也。」とて、卞和を召出して其左の足を切て、彼石を背に負せて楚山にこそ被追放けれ。卞和無罪して此刑に合へる事を歎て、楚山の中に草庵を結て、此石を乍負、世に玉を知人のなき事をのみ悲で、年月久く泣居たり。其後三年有て武王隠れ給しが、御子文王の御代に成て、文王又或時楚山に狩をし給ふに、草庵の中に人の泣声あり。文王怪て泣故を問給へば、卞和答て申さく、「臣昔此山に入て畑を打し時一の石を求得たり。是世に無類程の玉なる間、先朝武王に奉りたりしを、玉磨き見知らずして、只石にて候と申たりし間、我左の足を被斬進せて不慮の刑に逢候き、願は此玉を君に献じて、臣が無罪所を顕し候はん。 |
これをこそ忠臣と呼ぶのに、今や高氏と上杉家(あるいは畠山家)が互いに反目して、些細な失敗を見つけては相手から権力を奪おうと心に企てている。これは果たして忠義を尽くす者と言えるだろうか? 話が長くなり聞き飽きるかもしれないが、しばらく例えを用いて愚かなことを述べよう。 昔、異国(中国)に卞和という身分の低い者がいた。楚の山で畑を耕していた時、周囲一尺余りの石を見つけ、「磨けば玉になるだろう」と思った。「これは私が独占すべきものではない」と誰かに献上しようと考えていたところ、楚の武王が狩りに来た。卞和はこの石を差し出して「これこそ世にも稀な宝玉です。研いでご覧ください」と言った。王は大いに喜び、すぐに玉磨き職人を呼んだが、磨いても光沢が出ない。職人は「これはただの普通の石です」と報告したため、武王は激怒し、「朕を騙そうとしたな」として卞和を捕らえ、左足を切断してその石を背負わせた上で山中へ追放した。 卞和は無実の罪に泣きながら草庵を作り、常に石を背負い「世の中に玉を見分けられる者がいない」と嘆いて長年過ごした。それから三年後、武王が亡くなって文王の時代になった時、文王も狩りでこの山へ来ると草庵から泣き声が聞こえた。怪しんで理由を尋ねたところ卞和は答えた。「かつて私がこの石を見つけ、稀世の宝玉だと先代に献上しました。しかし職人が見分けられず『ただの石だ』と言ったため私は左足を切られる不運に見舞われました。どうか王様にこれを献じて私の無実を証明させてください」。 解説この段落は前文で描かれた「讒言政治」の問題点を深掘りし、「真の忠臣とは何か」という核心命題を示す: 【主題:偽りの忠義批判】
【卞和説話の比喩構造】
【文学的効果】
【前文との連続性】
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| 」と申ければ、文王大に悦て、此石を又或玉琢にぞ磨かせられける。是も又不見知けるにや、「是全く玉にては候はず。」と奏しければ、文王又大に忿て、卞和が右の足を切せて楚山の中にぞ被棄ける。卞和両足を切られて、五体苦を逼しか共、只二代の君の眼拙き事をのみ悲で、終に百年の身の死を早くせん事を不痛、落る涙の玉までも血の色にぞ成にける。角て二十余年を過けるに、卞和尚命強面して、石を乍負、只とことはに泣居たり。去程に文王崩じ給て太子成王の御代に成にけり。成王又或時楚山に狩し給けるに、卞和尚先にもこりず、草庵の内より這出て、二代の君に二の足を切れし故を語て、泣々此石を成王に奉りける。成王則玉磨きを召て、是を琢かせらるゝに、其光天地に映徹して、無双玉に成にけり。是を行路に懸たるに、車十七両を照しければ、照車の玉共名付け、是を宮殿にかくるに、夜十二街を耀かせば、夜光の玉とも名付たり。誠に天上の摩尼珠・海底の珊瑚樹も、是には過じとぞ見へし。此玉代代天子の御宝と成て、趙王の代に伝る。趙王是を重じて、趙璧と名を替て、更に身を放ち給はず。学窓に蛍を聚ね共書を照す光不暗、輦路に月を不得共路を分つ影明也。此比天下大に乱て、諸侯皆威あるは弱きを奪ひ、大なるは小を亡す世に成にけり。 |
卞和がこう申し上げると、文王は大いに喜んでこの石を別の玉磨き職人に研がせた。しかしこれもまた見分けられず、「まったく宝玉ではありません」と報告したため、文王は再び激怒して卞和の右足も切り落とさせ、山中へ捨てさせた。 両足を失った卞和は全身に痛みがあったにもかかわらず、ただ二代続けて君主が目利きできないことを悲しんでいた。命を縮めることも惜しまず、流れる涙さえ血のように赤く染まった。こうして二十余年が過ぎた時も卞和は辛うじて生き延びており、相変わらず石を背負いながらひたすら泣き続けていた。 そのうち文王が亡くなり、太子の成王の時代となった。ある日成王も楚山で狩猟をする際、卞和が諦めずに草庵から這い出て来た。二代の君主に両足を切られた経緯を涙ながらに語ると共に、この石を献上したのだ。 成王はすぐさま玉磨き職人を召して研がせたところ、その輝きは天地を貫くほどで、比類なき宝玉であることが判明した。道端に置くと十七台の車馬を照らし出したため「照車之宝」と名付けられ、宮殿にかけると十二の街路まで夜を照らしたので「夜光之璧」とも呼ばれた。 まさしく天上の摩尼珠(仏教の宝玉)や海底の珊瑚樹もこれには及ばないほどの宝物だった。この玉は代々天子の御宝となり、趙王の時代に伝わった時には特に珍重され「和氏之璧」と名を改めて常に身につけられるほどであった。(その価値は)書斎で蛍を集めても及ばぬ明るさを持ち、(たとえ月がなくとも)輦路(天子の通り道)を鮮やかに照らし出したという。 しかしこの頃、天下は大いに乱れていた。諸侯たちこぞって勢力を示し、強い者は弱い者を奪い、大きな国は小国を滅ぼす時代となっていたのだ。 解説【物語の結末と象徴性】
【歴史的意義】
【前文との連続的メッセージ】
全体として物語的クライマックスで比喩の完成を見せつつ、次段(天下大乱描写)へ向けた現実批判への架橋役割を果たす。特筆は「宝玉認知に三代かかる」設定が、「正義の遅延性と永続性」という中世政治思想の核心を示している点である。 |
| 彼趙国の傍に、秦王とて威勢の王坐けり。秦王此趙璧の事を伝聞て、如何にもして奪取ばやとぞ被巧ける。異国には会盟とて隣国の王互に国の堺に出合て、羊を殺して其血をすゝり、天神地祇に誓て、法を定め約を堅して交りを結ぶ事あり。此時に隣国に見落されぬれば、当座にも後日にも国を傾けられ、位を奪るゝ事ある間、互に賢才の臣、勇猛の士を召具して才を■べ武を争習也。或時秦王会盟可有とて、趙王に触送る。趙王則日を定て国の堺へぞ出合ひける。会盟事未定血未啜先に、秦王宴を儲て楽を奏し酒宴終日に及べり。酒酣にして秦王盃を挙給ふ時、秦の兵共酔狂せる真似をして、座席に進出て、目を瞋し臂を張て、「我君今興に和して盃を傾むとし給ふ。趙王早く瑟を調て寿をなし給へ。」とぞいらで申ける。趙王若辞せば、秦の兵の為に殺されぬと見へける間、趙王力なく瑟を調べ給ふ。君の傍には必左史右史とて、王の御振舞と言とを註し留る人あり。時に秦の左太史筆を取て、秦趙両国の会盟に、先有酒宴、秦王盃を挙給ふ時、趙王自為寿、調瑟とぞ書付ける。趙王後記に留りぬる事心憂しと被思けれ共、すべき態なければ力なし。盃回て趙王又飲給ひける時に、趙王の臣下に、始て召仕はれける藺相如と云ける者秦王の前に進出て、剣を拉き臂をいらゝげて、「我王已に秦王の為に瑟を調ぬ。 |
趙国の隣には秦王という勢力の強い王がいた。秦王はこの趙璧(和氏之璧)の噂を聞き、どうにかして奪い取ろうと企んだ。異国では会盟といって、隣国の君主同士が国境に出向いて羊を殺しその血をすすり合い、天地神明に誓いながら法を定め約束を固めて同盟を結ぶことがある。 この時相手に見くびられると即座にも後日にも滅ぼされたり地位を奪われる恐れがあるため互いに賢才の臣下や勇猛な兵士を引き連れて知恵と武力で競い合うのであった。ある時秦王が会盟を行おうとして趙王に通告した。趙王はすぐに日取りを決めて国境へ赴いた。 しかし同盟の儀式も終わらず血をすすり合う前から、秦王は宴席を設けて音楽を奏で酒宴が一日中続いた。酒興が高まり秦王が杯を取り上げた時、秦の兵士たちが酔ってふざけた様子を見せながら座席に進み出て目をいからせ腕を振りかざし「我ら君は今ご機嫌で杯をお傾けになろうとしている。趙王よ早く瑟(琴)を調べて祝宴の曲を奏でなさい」と大声で叫んだ。 趙王もし辞退すれば秦兵に殺されると思われたためやむなく瑟を演奏した。君主のそばには必ず左史・右史といって王の言動を記録する者がいる。その時秦の左太史が筆を取り「秦と趙両国の会盟において先に酒宴があり秦王杯を取り上げた時に趙王自ら祝いのために瑟を調べた」と書き付けた。 後世まで残るこの記録を心苦しく思った趙王だがどうすることもできなかった。杯が回って趙王もまた飲んだ時、趙王家に初めて仕えることになった藺相如という臣下が秦王の前に進み出て剣を抜き腕を振りかざし「我ら主君はすでに秦王のために瑟をお調べになりました」と言った。 解説【史話『完璧帰趙』への展開】
【政治的屈辱の構造】
【英雄的抵抗の萌芽】
【前文テーマとの深化】
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| 秦王何ぞ我王の為に寿を不為べき。秦王若此事辞し給はゞ、臣必ず君王の座に死すべし。」と申て、誠に思切たる体をぞ見せたりける。秦王辞するに言無ければ自ら立て寿をなし、缶を打舞給ふ。則趙の左大史進出て、其年月の何日の日秦趙両国の会盟あり。趙王盃を挙給ふ時、秦王自ら酌を取て缶を打畢ぬと、委細の記録を書留て、趙王の恥をぞ洗ける。右て趙王帰らんとし給ける時、秦王傍に隠せる兵二十万騎、甲胄を帯して馳来れり。秦王此兵を差招て、趙王に向て宣けるは、「卞和が夜光の玉、世に無類光ありと伝承る。願は此玉を給て、秦の十五城を其代に献ぜん。君又玉を出し給はずは、両国の会盟忽に破て永く胡越を隔る思をなすべし。」とぞをどされける。異国の一城と云は方三百六十里也。其を十五合せたらん地は宛二三箇国にも及べし。縦又玉を惜て十五城に不替共、今の勢にては無代に奪れぬべしと被思ければ、趙王心ならず十五城に玉を替て、秦王の方へぞ被出ける。秦王是を得て後十五城に替たりし玉なればとて、連城の玉とぞ名付ける。其後趙王たび/\使を立て、十五城を被乞けれ共秦王忽約を変て、一城をも不出、玉をも不被返、只使を欺き礼を軽して、返事にだにも及ばねば、趙王玉を失ふのみならず、天下の嘲り甚し。 |
秦王もこれに応じざるを得ず、自ら立って祝いの舞を行い缶(土器)を叩いて舞った。すると趙国の左大史が進み出て、「何月何日の日、秦と趙両国は会盟した。趙王が杯を取り上げた時に秦王自ら酌んで缶を打ち終えた」と詳細に記録し、こうして趙王の恥を洗い流した。 その後、帰ろうとした趙王に対し、秦王は隠していた二十万騎もの兵士に甲冑をつけさせて現れさせた。そしてこの兵を指さしながら宣言する:「卞和が伝えた夜光の玉(=和氏之璧)は世に並ぶものがないと聞く。どうかこれを渡してもらいたい。代わりに秦の十五城を与えよう。もし拒めば両国の盟約はたちまち破れ、永遠に敵国となるがよい」と脅した。 他国の一城とは三百六十里四方を指すため、十五城分となれば二、三カ国にも匹敵する広さである。(趙王は)たとえ玉を惜しんで交換しないとしても、今の状況では無償で奪われる恐れがあると思ったため、やむなく宝玉を取り出して秦王に渡した。 秦王はこれを手に入れると「十五城と交換した宝」という意味で「連城之璧(値千金の玉)」と呼んだ。その後趙王が何度も使者を遣わし十五城の引き渡しを求めたが、秦王は約束を破り一城すら与えず、玉も返さなかった。使者を欺き礼儀を欠くばかりでまともな返答もしないため、趙王は宝玉を失っただけでなく天下の笑いものとなってしまった。 解説【外交的屈辱の構造深化】
【歴史記録操作の帰結】
【前文テーマとの連続性】
【次章『完璧帰趙』への伏線】
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| 爰に彼藺相如、趙王の御前に参て、「願は君臣に被許ば、我秦王の都に行向て、彼玉を取返して君の御憤を休め奉るべし。」と申ければ、趙王、「さる事やあるべき、秦は已国大に兵多して、我が国の力及がたし。縦兵を引て戦を致す共、争か此玉を取返事を得んや。」と宣ひければ、藺相如、「兵を引力を以て玉を奪はんとには非ず。我秦王を欺て可取返謀候へば、只御許容を蒙て、一人罷向べし。」と申ければ、趙王猶も誠しからず思給ながら、「さらば汝が意に任すべし。」とぞ被許ける。藺相如悦て、軈て秦国へ越けるに、兵の一人も不召具、自ら剣戟をも不帯、衣冠正しくして車に乗専使の威儀を調て、秦王の都へぞ参ける。宮門に入て礼儀をなし、趙王の使に藺相如、直に可奏事有て参たる由を申入ければ、秦王南殿に出御成て、則謁を成し給ふ。藺相如畏て申けるは、「先年君王に献ぜし夜光の玉に、隠れたる瑕の少し候を、角共知せ進せで進置候し事、第一の越度にて候。凡玉の瑕をしらで置ぬれば、遂に主の宝に成らぬ事にて候間、趙王臣をして此玉の瑕を君に知せ進らせん為に参て候也。」と申ければ、秦王悦て彼玉を取出し、玉盤の上にすへて、藺相如が前に被置たり。藺相如、此玉を取て楼閣の柱に押あて、剣を抜て申けるは、「夫君子は食言せず、約の堅き事如金石。 |
そこである藺相如という人物が趙王のもとに参上し、「どうかお許しいただければ、私が秦王の都へ向かい、あの宝玉を奪い返して主君のお怒りをお鎮め申し上げましょう」と進言した。すると趙王は「そんなことが果たしてできるのか?秦は国も大きく兵も多く、わが国の力では敵うはずがない。仮に兵を率いて戦ったとしても、どうやってこの玉を取り戻せようか」と言われた。 これに対し藺相如は「兵力で奪い返すのではありません。秦王を欺く策略でもって取り戻しますゆえ、お許しさえ頂ければ一人で赴きます」と答えた。趙王はなおも半信半疑ながら、「それならばお前の思い通りにせよ」と許可された。 藺相如は喜びただちに秦国へ向かったが、兵士を一人も連れず、自ら剣戟すら帯びず、衣冠を正しく整えて車に乗り使者としての威厳を示しながら秦王の都へ到着した。宮門に入って礼儀を尽くし、「趙王の使臣である藺相如が直接奏上したいことがあり参った」と伝えると、秦王は南殿に出御され面会された。 恐れ多くも藺相如是申す:「以前に君王へ献上しました夜光の玉(和氏之璧)には隠れた小さな傷がありました。これを知らせず進呈したことは最大の過失でございます。そもそも玉の欠陥を確認しないまま放置すれば、ついには主君にとって宝とならないゆえ、趙王は私にこの瑕疵をお伝えするよう命じられ参りました」 秦王は喜んでその宝玉を取り出し、玉盤(宝石用台)の上に置いて藺相如の前に差し出した。すると藺相如は玉を手に取ると楼閣の柱によりかかり剣を抜き放って言った:「そもそも君子は約束を破らず、契約の固さ金石(金属と石)のごときもの。 解説【策略的知略の構造】
【勇気と形式美の両立】
【前文展開との連関性】
【次展開への決定的布石】
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| 抑趙王心あきたらずといへ共、秦王強て十五城を以て此玉に替給ひき。而に十五城をも不被出、又玉をも不被返、是盜跖が悪にも過、文成が偽にも越たり。此玉全く瑕あるに非ず。只臣が命を玉と共に砕て、君王の座に血を淋がんと思ふ故に参て候也。」と忿て、玉と秦王とをはたと睨み、近づく人あらば、忽玉を切破て、返す刀に腹を切らんと、誠に思切たる眼ざし事がら、敢て可遮留様も無りけり。王秦あきれて言なく、群臣恐れて不近付。藺相如遂に連城の玉を奪取て、趙の国へぞ帰りにける。趙王玉を得て悦び給ふ事不斜。是より藺相如を賞翫せられて、大禄を与へ、高官を授給しかば、位外戚を越、禄万戸に過たり。軈て牛車の宣旨を蒙り、宮門を出入するに、時の王侯貴人も、目を側て皆道を去る。爰に廉頗将軍と申ける趙王の旧臣、代々功を積み忠を重て、我に肩を双ぶべき者なしと思けるが、忽に藺相如に権を被取、安からぬ事に思ければ、藺相如が参内しける道に三千余騎を構へて是を討んとす。藺相如も勝たる兵千余騎を召具して、出仕しけるが、遥に廉頗が道にて相待体を見て戦むともせず、車を飛せ兵を引て己が館へぞ逃去ける。廉頗が兵是を見て、「さればこそ藺相如、勢ひ只他の力をかる者也。直に戦を決せん事は、廉頗将軍の小指にだにも及ばじ。 |
とはいえ趙王が満足しなかったにもかかわらず、秦王は強引に十五城と引き換えにこの玉を取り上げたのだ。しかし(その後)十五城も渡さず、また宝玉すら返還せず、これは盗跖(とうせき:伝説の大盗)の悪行を超え、文成(偽りの代名詞)の虚偽をも上回る行為であった。「この玉には全く傷などない。ただ私が命と玉を共に砕いて君前で血を流そうと思って参ったのだ」と激怒しつつ、玉と秦王を睨み据え、「近づく者がいれば直ちに玉を切り割き、その刃で自害する覚悟だ」と宣言した。まさに決死の眼差しであり、誰も止める手立てはなかった。 秦王が呆然と言葉を失う中、群臣たちも恐れて近づけず、藺相如はついに連城の玉(和氏之璧)を取り戻して趙国へ帰還した。趙王が玉を得て喜ばれたことは言うまでもない。これより藺相如を重用され、莫大な俸禄と高位を与えられたため、その地位は外戚(王室の姻族)をも超え、領地も一万戸以上に及んだ。やがて牛車での宮廷参内を許される身分となり、門を出入りする際には当時の王侯貴人たちも目を見張って道を譲った。 ここで廉頗将軍という趙王の古くからの臣下(代々功績を重ね忠義に厚い人物)が、「自分と肩を並べる者などいない」と思っていたところ、急に藺相如に権勢を奪われ不満を抱き、藺相如が参内する途中で三千余騎の兵士を配置して襲撃しようとした。これに対し藺相如も精鋭千余騎を率いて出仕したが、遠くから道端で待ち構える廉頗軍を見ると戦おうともせず、車を走らせ兵を引き連れて自邸へ逃げ帰った。 これを目撃した廉頗の兵士たちは「やはり藺相如というのは他者の力に頼るだけの小者だ。まともに決戦すれば、廉頗将軍の小指にも及ばないだろう」と嘲ったのであった。 解説【権威逆転劇の二重構造】
【栄達と嫉妬の力学】
【戦略的退却としての逃走】
【全体史話における位置付け】
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| 」と、笑欺ける間、藺相如が兵心憂事に思て、「さらば我等廉頗が館へ押寄せ、合戦の雌雄を決して、彼輩が欺を防がん。」とぞ望ける。藺相如是を聞て、其兵に向て涙を流て申けるは、「汝等未知乎、両虎相闘て共に死する時、一狐其弊に乗て是を咀と云譬あり。今廉頗と我とは両虎也。戦ば必ず共に死せん。秦の国は是一狐也。弊に乗て趙をくらはんに、誰か是をふせがん。此理を思う故に、我廉頗に戦ん事を不思一朝の欺を恥て、両国の傾ん事を忘れば、豈忠臣にあらん哉。」と、理を尽して制しければ、兵皆理に折れて、合戦の企を休てけり。廉頗又此由を聞て黙然として大に恥けるが、尚我が咎を直に謝せん為に、杖を背に負て、藺相如が許に行、「公が忠貞の誠を聞て我が霍執の心を恥づ、願は公我を此杖にて三百打給へ、是を以て罪を謝せん。」と請て、庭に立てぞ泣居たりける。藺相如元来有義無怨者なりければ、なじかは是を可打。廉頗を引て堂上に居へ、酒を勧め交を深して返しけるこそやさしけれ。されば趙国は秦・楚に挟て、地せばく兵少しといへども、此二人文を以て行ひ、武を以て専にせしかば、秦にも楚にも不被傾、国家を持つ事長久也。誠に私を忘て忠を存する人は加様にこそ可有に、東夷南蛮は如虎窺ひ、西戎北狄は如竜見る折節、高・上杉の両家、差たる恨もなく、又とがむべき所もなきに、権を争ひ威を猜て、動れば確執に及ばんと互に伺隙事豈忠臣と云べしや。 |
兵士たちが嘲笑しながら「それなら私たちも廉頗の館へ押し寄せて決着をつけよう」と言うと、藺相如はこれを聞いて涙を流して諭した。「皆さんは知らないのか?『二匹の虎が争えば共倒れになり、その隙にキツネが付け込む』という例えがある。今や廉頗と私はまさにその二匹の虎だ。戦えば双方死ぬだろう。秦という国があのキツネである。(私たちが)弱ったところを狙って趙を食い物にする時、誰が防げるのか?この道理から考えて、私が廉頗と争わないのは一時的な恥辱よりも二国の存亡を忘れていない証しだ。それこそ忠臣ではないか」と理を尽くして諫めたため、兵士たちも納得し戦いの企てを止めた。 廉頗はこの話を知り沈黙して深く恥じたが、自らの過ちを直接詫びるために鞭(刑罰用の杖)を背負って藺相如のもとへ赴き、「貴方様の忠誠心を聞いて自分の頑迷さを恥じます。どうかこの鞭で三百回お打ちください」と請い、庭に立ったまま泣いた。 もともと情誼深く恨みを持たない性格だった藺相如はこれを受け入れず、廉頗を堂上へ招き酒を勧めて親交を深め丁寧に見送ったのだった。こうして趙国は秦や楚に挟まれ土地が狭く兵も少なかったにもかかわらず、この二人(文官と武官)がそれぞれ知略と武力で国を支えたお陰で滅ぼされず長らえ続けたのである。 まさに私心を捨て忠義を尽くす者はこうあるべきだ――東夷南蛮が虎のように狙い、西戎北狄(敵国)が竜のごとく窺う折しも、(日本では)高杉家や上杉家といった者たちは互いに深い恨みもなく非難する点すらないのに、権力争いで威勢を競えば些細な確執に発展しかねない。これをもって忠臣と言えようか? 解説【説得の三段構造】
【謝罪儀礼の文化的深層】
【教訓としての歴史対比】
【物語的完結と啓発】
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| ○妙吉侍者事付秦始皇帝事 近来左兵衛督直義朝臣、将軍に代て天下の権を取給し後、専ら禅の宗旨に傾て夢窓国師の御弟子と成り、天竜寺を建立して陞座拈香の招請無隙、供仏施僧の財産不驚目云事無りけり。爰に夢窓国師の法眷に、妙吉侍者と云ける僧是を見て浦山敷事に思ひければ、仁和寺に志一房とて外法成就の人の有けるに、荼祇尼天の法を習て三七日行ひけるに、頓法立に成就して、心に願ふ事の聊も不叶云事なし。是より夢窓和尚も此僧を以て一大事に思ふ心著給ひにければ、左兵衛督の被参たりける時、和尚宣けるは、「日夜の参禅、学道の御為に候へば、如何にも懈る処をこそ勧め申べく候へ共、行路程遠して、往還の御煩其恐候へば、今より後は、是に妙吉侍者と申法眷の僧の候を参らせ候べし。語録なんどをも甲斐々々敷沙汰し、祖師の心印をも直に承当し候はんずる事、恐らくは可恥人も候はねば、我に不替常に御相看候て御法談候べし。」とて、則妙吉侍者を左兵衛督の方へぞ被遣ける。直義朝臣一度此僧を見奉りしより、信心胆に銘じ、渇仰無類ければ、只西天祖達磨大師、二度我国に西来して、直指人心の正宗を被示かとぞ思はれける。軈一条堀川村雲の反橋と云所に、寺を立て宗風を開基するに、左兵衛督日夜の参学朝夕の法談無隙ければ、其趣に随はん為に山門寺門の貫主、宗を改めて衣鉢を持ち、五山十刹の長老も風を顧て吹挙を臨む。 |
近年、左兵衛督・直義卿(あしわぎただよしきょう)が将軍に代わり天下の実権を掌握された後、ひたすら禅宗に傾倒して夢窓国師の弟子となり、天竜寺を建立なさった。この時、住職就任式での焼香招請にも手落ちなく、仏供養や僧侶への施し財産も驚くほどの規模だった。 ところが夢窇国師の弟子である妙吉侍者という僧はこれを見て不満を抱き、仁和寺にいた「志一房」という呪術成就者が荼枳尼天(だきにてん)の法を修得しようと二十一日間修行したところ、瞬時に成就し心願が叶わぬことはなくなった。このため夢窇和尚も彼を重要視されるようになり、直義卿が参上した際「日夜の参禅や学道のお疲れをお慰めすべきですが、往復の労が気にかかります。今後は弟子の妙吉侍者をご側に遣わしましょう。語録について有益な助言をし、祖師の教えも直接伝授できる有能な者です」と言い、妙吉侍者を直義卿のもとへ送った。 直義卿はこの僧を一目見ただけで深く帰依し、まるで達磨大師が再び来朝して直截な禅法を示したかと思われるほどだった。すぐに堀川村雲の反橋という地に寺を建立し宗風を開くと、直義卿は日夜欠かさず参学され、これに従おうと比叡山・園城寺の高僧まで宗旨を改め衣鉢を持ち寄り、五山十刹(臨済宗大寺院)の長老たちも流れに乗って集まった。 解説【権力構造と宗教利用】
【超自然的要素の機能】
【社会力学の可視化】
【物語構造の特質】
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| 況乎卿相雲客の交り近づき給ふ有様、奉行頭人の諛たる体、語るに言も不可及。車馬門前に立列僧俗堂上に群集す。其一日の布施物一座の引手物なんど集めば、如山可積。只釈尊出世の其古、王舎城より毎日五百の車に色々の宝を積で、仏に奉り給ひけるも、是には過じとぞ見へたりける。加様に万人崇敬類ひ無りけれ共、師直・師泰兄弟は、何条其僧の知慧才学さぞあるらんと欺て一度も更不相看、剰へ門前を乗打にして、路次に行逢時も、大衣を沓の鼻に蹴さする体にぞ振舞ける。吉侍者是を見て安からぬ事に思ければ、物語の端、事の次には、只執事兄弟の挙動、穏便ならぬ者哉と云沙汰せられけるを聞て、上杉伊豆守、畠山大蔵少輔、すはや究竟の事こそ有けれ。師直・師泰を讒し失はんずる事は、此僧にまさる人非じと被思ければ、軈て交を深し媚を厚して様々讒をぞ構へける。吉侍者も元来悪しと思ふ高家の者共の挙動なれば、触事彼等が所行の有様、国を乱り政を破る最たりと被讒申事多かりけり。中にも言ば巧に譬のげにもと覚る事ありけるは、或時首楞厳経の談義已に畢て異国本朝の物語に及ける時、吉侍者、左兵衛督に向て被申けるは、「昔秦の始皇帝と申ける王に、二人の王子坐けり。兄をば扶蘇、弟をば胡亥とぞ申ける。 |
ましてや高官たち(卿相)や賓客(雲客)が親しく交わる様子は言うに及ばず、奉行や頭人たちのへつらう態度も言葉では表せないほどだった。車馬が門前に列をなし、僧俗が堂上に群がる。一日の布施物や法会での寄進品を集めれば山のように積み上がり、釈尊在世の昔、王舎城で毎日500台の車に宝物を積んで仏に捧げたという伝説さえも凌ぐほどに見えた。 これほどの万人崇敬を受ける妙吉侍者に対し、高師直・師泰兄弟は「いかに知恵才学あろうと」と侮り一度も会おうとせず、さらには寺の門前で馬を乗り回したり、道中で出会っても大衣(僧衣)を沓先で蹴り上げるような態度を取った。妙吉侍者はこれを不快に思い、折に触れて「執事兄弟(師直ら)の行いは不穏だ」と述べていたところ、上杉伊豆守や畠山大蔵少輔がこれを見て「究極の策がある。師直・師泰を失脚させるならこの僧より適任者はいない」と考え、すぐに妙吉侍者へ接近し媚びを売りながら様々な讒言(ざんげん)を仕組んだ。 元来から高家(師直ら)の行動を快く思っていなかった妙吉侍者は機会あるごとに「彼らの所業は国乱れ政道破る最たるもの」と讒言した。中でも巧みな比喩として覚えられているのは、ある時『首楞厳経』の講義を終えた後、異国や本朝の故事に話題が及んだ際のことだ──妙吉侍者は左兵衛督(直義)に向かってこう述べた。「昔、秦の始皇帝という王に二人の王子がおりました。兄は扶蘇(ふそ)、弟は胡亥(こがい)と申します」。 解説【権力構造の可視化】
【謀略のメカニズム】
【史的比喩の機能】
【社会心理学的考察】
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| 扶蘇は第一の御子にて御座か共、常に始皇帝の御政の治らで、民をも愍まず仁義を専にし給はぬ事を諌申されける程に、始皇帝の叡慮に逆てさしもの御覚へも無りけり。第二の御子胡亥は、寵愛の后の腹にて御座する上、好驕悪賢、悪愛異于他して常に君の傍を離れず、趙高と申ける大臣を執政に被付、万事只此計ひにぞ任せられける。彼秦の始皇と申は、荘襄王の御子也しが、年十六の始め魏の畢万、趙の襄公・韓の白宣・斉の陳敬仲・楚王・燕王の六国を皆滅して天下を一にし給へり。諸侯を朝せしめ四海を保てる事、古今第一の帝にて御坐かば、是をぞ始て皇帝とは可申とて、始皇とぞ尊号を献りける。爰に昔洪才博学の儒者共が、五帝三王の迹を追ひ、周公・孔子の道を伝て、今の政古へに違ぬと毀申事、只書伝の世にある故也とて、三墳五典史書全経、総て三千七百六十余巻、一部も天下に不残、皆焼捨られけるこそ浅猿けれ。又四海の間に、宮門警固の武士より外は、兵具を不可持、一天下の兵共が持処の弓箭兵仗一も不残集て是を焼棄て、其鉄を以て長十二丈金人十二人を鋳させて、湧金門にぞ被立ける。加様の悪行、聖に違ひ天に背きけるにや、邯鄲と云所へ、天より災を告る悪星一落て、忽に方十二丈の石となる。面に一句の文字有て、秦の世滅て漢の代になるべき瑞相を示したりける。 |
扶蘇は第一皇子であったが、常に始皇帝の政治が治まらず民を憐れまず仁義を重んじないことを諫めたため、始皇帝の心には全く受け入れられなかった。第二皇子胡亥は寵愛された皇后の子である上に傲慢で賢者を嫌い悪事を好み、常に君主の傍から離れず、趙高という大臣を執政に任命して万事この者の思うままに任せた。 その秦の始皇帝とは荘襄王の御子であり十六歳の初めに魏・畢万(ひつまん)、趙・襄公(じょうこう)、韓・白宣(はくせん)、斉・陳敬仲(ちんけいちゅう)、楚王、燕王という六国を全て滅ぼして天下を統一された。諸侯を朝貢させ四海を支配したことは古今第一の皇帝として、「ここで初めて皇帝と称すべき」とのことで始皇と尊号が献じられた。 そこで昔から博学な儒者たちが五帝三王の業績を追い周公・孔子の道を伝え、現代政治は古代に反すると批判したため「単に書物が世にあるせいだ」として『三墳』『五典』などの史書全経三千七百六十余巻全て天下に残さず焼き捨てたことは浅ましかった。また四海の内で宮門警護の武士以外は武器を持ってはいけないとし、全天兵士たちが持つ弓矢や兵器を一切かき集めて焼却した後、その鉄を使って長さ十二丈(約36m)の金人十二体を鋳造させ湧金門に立てた。 このような悪行が聖人の教えに背き天意に逆らったためだろうか、邯鄲という地へ災いを知らせる隕石一つ落ちて突然一辺十二丈の巨石となった。表面には一句の文字があり秦の世は滅び漢の代になる吉兆を示していた。 解説【歴史的寓話の政治的機能】
【権力暴走の象徴的描写】
【物語構造の戦略性】
【中世社会との連関】
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| 始皇是を聞給て、「是全く天のする所に非ず、人のなす禍也。さのみ遠き所の者はよも是をせじ四方十里が中を不可離。」とて、此石より四方十里が中に居たる貴賎の男女一人も不残皆首を被刎けるこそ不便なれ。東南には函谷二■の嶮を峙て、西北には洪河■渭の深を遶らして、其中に回三百七十里高さ三里の山を九重に築上て、口六尺の銅柱を立、天に鉄の網を張て、前殿四十六殿・後宮三十六宮・千門万戸とをり開き、麒麟列鳳凰相対へり。虹の梁金の鐺、日月光を放て楼閣互に映徹し、玉の砂・銀の床、花柳影を浮て、階闥品々に分れたり。其居所を高し、其歓楽を究給ふに付ても、只有待の御命有限事を歎給ひしかば、如何して蓬莱にある不死の薬を求て、千秋万歳の宝祚を保たんと思給ひける処に、徐福・文成と申ける道士二人来て、我不死の薬を求る術を知たる由申ければ、帝無限悦給て、先彼に大官を授けて、大禄を与へ給ふ。軈て彼が申旨に任て、年未十五に不過童男丱女、六千人を集め、竜頭鷁首の舟に載せて、蓬莱の島をぞ求めける。海漫々として辺なし。雲の浪・烟の波最深く、風浩々として不閑、月華星彩蒼茫たり。蓬莱は今も古へも只名をのみ聞ける事なれば、天水茫々として求るに所なし。蓬莱を不見否や帰らじと云し童男丱女は、徒に舟の中にや老ぬらん。 |
始皇帝はこれを聞いて「これは全く天の仕業ではなく、人の起こした災いだ。遠方の者まではさすがにやるまいが、四方十里以内を離れてはならぬ」と言い、この石から四方十里の中にいた身分の高低問わない男女一人残らず皆首を刎られたのは不憫であった。 東南には函谷関という険しい山を聳えさせ、西北には黄河と渭水の深流を巡らせた中に、周囲三百七十里・高さ三里の山を九重に築き上げて口六尺の銅柱を立て、天に向かって鉄網を張り渡した。前殿四十六棟・後宮三十六宮が千門万戸と立ち並び麒麟は列をなし鳳凰が相対していた。虹のような梁や黄金の飾り金具は日月のように光る楼閣が互いに映じ合い、玉砂利・銀床には花柳の影が浮かんで階段や門は品々に分かれていた。 住居を高くし歓楽を極められたゆえに「待つべき寿命には限りがある」と嘆かれたので、どうにか蓬莱山にある不死の薬を得て千秋万歳の位を保ちたいと考えられていたところ、徐福・文成という道士二人が来て「我らは不死の薬を求める術を知っている」と申し出た。皇帝は大いに喜びまず彼らに高官を与え厚禄を授けられた。すぐに彼らの言う通り十五歳以下の童男童女六千人を集め、竜頭鷁首(船飾り)の舟に乗せて蓬莱島へ向かわせた。 海は広々として果てしなく雲のような浪・煙のような波が深く立ち風は激しく吹き止まず月や星の光も蒼茫としていた。蓬莱とは今も昔もただ名ばかり聞くものゆえ水天茫茫として求める場所もない。「蓬莱を見なければ帰らない」と言った童男童女たちは、むなしく舟の中で老い死んだことであろうか。 解説【権力者の狂気と民衆犠牲の構造】
【不死信仰の政治的利用】
【景観描写の政治的解釈】
【物語構成における警告機能】
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| 徐福文成其偽の顕れて、責の我身に来らんずる事を恐て、「是は何様竜神の成祟と覚候。皇帝自海上に幸成て、竜神を被退治候なば、蓬莱の島をなどか尋得ぬ事候べき。」と申ければ、始皇帝げにもとて、数万艘の大船を漕双べ、連弩とて四五百人して引て、同時に放つ大弓大矢を船ごとに持せられたり。是は成祟竜神、若海上に現じて出たらば、為射殺用意也。始皇帝已に之罘の大江を渡給ふ道すがら、三百万人の兵共、舷を叩き大皷を打て、時を作る声止時なし。礒山嵐・奥津浪、互に響を参へて、天維坤軸諸共に、絶へ砕ぬとぞ聞へける。竜神是にや驚き給けん。臥長五百丈計なる鮫大魚と云魚に変じて、浪の上にぞ浮出たる。頭は如師子遥なる天に延揚り、背は如竜蛇万頃の浪に横れり。数万艘の大船四方に漕分れて同時に連弩を放つに、数百万の毒の矢にて鮫大魚の身に射立ければ、此魚忽に被射殺、蒼海万里の波の色、皆血に成てぞ流れける。始皇帝其夜龍神と自戦ふと夢を見給たりけるが、翌日より重き病を請て五体暫も無安事、七日の間苦痛逼迫して遂に沙丘の平台にして、則崩御成にけり。始皇帝自詔を遺して、御位をば第一の御子扶蘇に譲り給たりけるを、趙高、扶蘇御位に即給ひなば、賢人才人皆朝家に被召仕、天下を我心に任する事あるまじと思ければ、始皇帝の御譲を引破て捨、趙高が養君にし奉りたる第二の王子胡亥と申けるに、代をば譲給たりと披露して、剰討手を咸陽宮へ差遣し、扶蘇をば討奉りてげり。 |
徐福と文成は自らの嘘が露見し、責めが自分たちに向かうことを恐れ、「これはどうやら竜神の祟りのようです。皇帝ご自身が海上に行幸され、竜神を退治なされば、蓬莱島を見つけられないはずがないでしょう」と申し上げた。始皇帝はもっともだと承諾し、数万艘の大船を並べて漕ぎ出させた。各船には連弩(大型弓)と呼ばれる四五百人が引いて同時に放つ大弓矢を持たせた。これは祟りをもたらす竜神がもし海上に現れたら射殺するための用意である。 始皇帝が之罘の大海を渡られる途中、三百万人もの兵士たちが舷(船縁)を叩き太鼓を打ち鳴らし、時を作る声は絶えることがなかった。磯山の嵐と沖津波が互いに響き合い、天も地もことごとく砕け散ったかと思われるほどだった。竜神はこれに驚いたのだろう。体長五百丈ほどの鮫のような巨大な魚へ姿を変え、波の上に浮かび上がった。頭は獅子のように遥かに天へ伸びあがり、背中は龍蛇のように万里の波間に横たわっていた。数万艘の大船が四方へ分かれ同時に連弩を放つと、数百万本もの毒矢が巨大魚の体に突き刺さった。この魚は瞬時に射殺され、青い海万里の波の色がすべて血に染まって流れていった。 始皇帝はその夜「竜神と自ら戦う」夢を見られたが、翌日から重い病にかかり五体安まることもなく、七日間苦痛に迫られて沙丘の平台でついに崩御なされた。始皇帝は遺詔を残し、帝位を第一皇子の扶蘇へ譲るとされていた。しかし趙高は「扶蘇が即位すれば賢人や有能者が朝廷に登用され、私が天下を思うままにするのは難しくなる」と考えたため、始皇帝の譲位文書を引き裂いて捨て、自らが養育していた第二王子・胡亥へ帝位を継承したと発表した。さらに討伐隊を咸陽宮に差し向け扶蘇を殺害させてしまったのである。 解説【権力者欺瞞の帰結構造】
【自然神霊観の政治的転用】
【後継者簒奪メカニズム】
【物語的警告機能】
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| 角て、幼稚に坐する胡亥を二世皇帝と称して、御位に即奉り、四海万機の政、只趙高が心の侭にぞ行ひける。此時天下初て乱て、高祖沛郡より起り、項羽楚より起て、六国の諸侯悉秦を背く。依之白起・蒙恬、秦の将軍として戦といへ共、秦の軍利無して、大将皆討れしかば、秦又章邯を上将軍として重て百万騎の勢を差下し、河北の間に戦しむ。百般戦千般遭といへ共雌雄未決、天下の乱止時なし。爰に趙高、秦の都咸陽宮に兵の少き時を伺見て二世皇帝を討奉り、我世を取んと思ければ、先我が威勢の程を為知、夏毛の鹿に鞍を置て、「此馬に召れて御覧候へ。」と、二世皇帝にぞ奉りける。二世皇帝是を見給て、「是非馬、鹿也。」と宣ひければ趙高、「さ候はゞ、宮中の大臣共を召れて、鹿・馬の間を御尋候べし。」とぞ申ける。二世則百司千官公卿大臣悉く召集て、鹿・馬の間を問給ふ。人皆盲者にあらざれば、馬に非ずとは見けれ共、趙高が威勢に恐て馬也と申さぬは無りけり。二世皇帝一度鹿・馬の分に迷しかば、趙高大臣は忽に虎狼の心を挿めり。是より趙高、今は我が威勢をおす人は有らじと兵を宮中へ差遣し、二世皇帝を責奉るに、二世趙高が兵を見て、遁るまじき処を知給ければ、自剣の上に臥て、則御自害有てけり。 |
こうして幼いまま帝位についた胡亥を二世皇帝と呼び即位させると、天下の政務すべてが趙高の思い通りに行われた。この時天下は初めて乱れ、高祖(劉邦)が沛郡から立ち上がり、項羽が楚から挙兵し、六国の諸侯ことごとく秦に背いた。それゆえ白起や蒙恬といった秦将軍たちも戦うものの、秦軍には利がなく大将は皆討たれたため、秦は再び章邯を上将軍として百万騎の大軍を差し向け、河北地方で戦わせることにした。百回千回と戦っても勝敗が決まらず、天下の乱れは収まる気配がない。 その頃趙高は、秦の都咸陽宮に兵が少ない時機を見計らい二世皇帝を殺害し自ら帝位を得ようと考えた。まず自分の威勢を示すため夏毛(鹿)に鞍をつけ「これは馬でございます」と奏上した。二世皇帝が見ると「いや、これは明らかに鹿ではないか?」と言われたので趙高は「それなら宮中の大臣たちを集めてお尋ねください」と進言する。二世はすぐに百官公卿すべて召集し鹿か馬かを問うたが、目明きの者でない限りこれが馬でないことは誰もが見抜いたものの、趙高の威勢におびえて「これは馬です」と言わぬ者は一人もいなかった。 この一件で二世皇帝は真実判断を誤ったことで、趙高はたちまち狼のような野心を抱く。ここぞとばかりに兵を宮中へ差し向け二世皇帝を責めさせると、二世は逃げ場のないことを悟り自ら剣に伏して割腹したのである。 解説【権力簒奪プロセスの三段階】
【乱世描写の歴史的射程】
【政治的教訓性】
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| 是を聞て秦の将軍にて、漢・楚と戦ける章邯将軍も、「今は誰をか君として、秦の国をも可守。」とて、忽に降人に成て、楚の項羽の方へ出ければ、秦の世忽に傾て、高祖・項羽諸共に咸陽宮に入にけり。趙高世を奪て二十一日と申に、始皇帝の御孫子嬰と申しに被殺、子嬰は又楚項羽に被殺給しかば、神陵三月の火九重の雲を焦し、泉下多少の宝玉人間の塵と成にけり。さしもいみじかりし秦の世、二世に至て亡し事は、只趙高が侈の心より出来事にて候き。されば古も今も、人の代を保ち家を失ふ事は、其内の執事管領の善悪による事にて候。今武蔵守・越後守が振舞にては、世中静り得じとこそ覚て候へ。我被官の者の恩賞をも給り御恩をも拝領して、少所なる由を歎申せば、何を少所と歎給ふ。其近辺に寺社本所の所領あらば、堺を越て知行せよかしと下知す。又罪科有て所帯を被没収たる人以縁書執事兄弟に属し、「如何可仕。」と歎けば、「よし/\師直そらしらずして見んずるぞ。縦如何なる御教書也とも、只押へて知行せよ。」と成敗す。又正く承し事の浅猿しかりしは、都に王と云人のまし/\て、若干の所領をふさげ、内裏・院の御所と云所の有て、馬より下る六借さよ。若王なくて叶まじき道理あらば、以木造るか、以金鋳るかして、生たる院、国王をば何方へも皆流し捨奉らばやと云し言の浅猿さよ。 |
この知らせを聞いた秦の将軍で、漢や楚と戦っていた章邯も、「今となっては誰を君主として秦の国を守ればよいのか」と言い、突然降伏して楚の項羽のもとに走った。これにより秦の天下はたちまち崩れ去り、高祖(劉邦)と項羽がともに咸陽宮に入城したのだ。趙高が帝位を奪ってわずか21日目に始皇帝の孫である子嬰に殺されると、その子嬰もまた楚の項羽によって討たれてしまった。こうして秦皇室の陵墓は炎上し、地下に眠る数々の宝玉は塵と化したのである。あれほど強大だった秦王朝が二代で滅びたのは、ただ趙高の傲慢な野心から生じた出来事であった。 ゆえに昔も今も、人がその地位を保てず家門を失うことは、内部で仕える執事や管領(政務担当者)の善悪によるものだ。現在の武蔵守・越後守(高師直ら足利幕府重臣)のような振る舞いでは、世の中は決して治まらないと感じられるのだ。私の家来が恩賞を賜り御褒美も頂戴しながら「所領が少ない」と嘆けば、「何が不足なのか?」と言う。その近くに寺社や本所(荘園領主)の土地があれば、境界を越えて支配せよと命じるのだ。 また罪を得て所領を没収された者が執事兄弟(高師直ら)のもとに嘆願し「どうすればよいか」と言えば、「心配するな。たとえどんな御教書(朝廷命令)でも無視して支配を続けよ」と裁決するのだ。さらにひどいのは、都には『王』という者がいて多少の所領を持ち内裏や院御所と呼ばれる場所があるのに、馬から降りる敬意すら払わないことだ。「もし王がいなければ困ると言うなら、木で造ったり金で鋳たりして作ればよい。生きている天皇(上皇)や国王などはどこかに流し捨ててしまえ」と言ったその言葉の浅ましさよ。 解説【歴史的教訓と当世批判】
【権威軽視の問題点】
【文学的技法】
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| 一人天下に横行するをば、武王是を恥しめりとこそ申候。況乎己が身申沙汰する事をも諛人あれば改て非を理になし、下として上を犯す科、事既に重畳せり。其罪を刑罰せられずは、天下の静謐何れの時をか期し候べき。早く彼等を討せられて、上杉・畠山を執権として、御幼稚の若御に天下を保たせ進せんと思召す御心の候はぬや。」と、言を尽し譬を引て様々に被申ければ、左兵衛督倩事の由を聞給て、げにもと覚る心著給にけり。是ぞ早仁和寺の六本杉の梢にて、所々の天狗共が又天下を乱らんと様々に計りし事の端よと覚へたる。 ○直冬西国下向事 先西国静謐の為とて、将軍の嫡男宮内大輔直冬を、備前国へ下さる。抑此直冬と申は、古へ将軍の忍て一夜通ひ給たりし越前の局と申女房の腹に出来たりし人とて、始めは武蔵国東勝寺の喝食なりしを、男に成て京へ上せ奉し人也。此由内々申入るゝ人有しか共、将軍曾許容し給はざりしかば、独清軒玄慧法印が許に所学して、幽なる体にてぞ住佗給ひける。器用事がら、さる体に見へ給ければ、玄慧法印事の次を得て左兵衛督に角と語り申たりけるに、「さらば、其人是へ具足して御渡候へ。事の様能々試て、げにもと思処あらば、将軍へも可申達。」と、始て直冬を左兵衛督の方へぞ被招引ける。 |
「一人が天下でわがままに振る舞うことを、武王(周の武王)はこれを恥としたと言われています。ましてや自分の過ちをおべっかを使う者がいれば改めず誤りを正当化し、下位の者が上位を犯す罪状は既に重なっています。この罪を罰さなければ天下が静まる時など来るでしょうか。早急に彼ら(高師直ら)を討ち取り、上杉家や畠山家を執権として幼い若君(足利義詮)のためにお守り申し上げたいとお考えではありませんか。」と言葉を尽くして様々な例えを用いて奏上すると、左兵衛督(高師直)はこの話の内容をお聞きになり、「なるほど」と思う気持ちが強くなった。これこそ仁和寺六本杉の梢で所々の天狗たちがまた天下を乱そうと画策していたことの発端と思われる。 ○ 直冬西国下向の事 解説【政治的勧告の核心】
【天狗伝承の象徴性】
【足利直冬登場の意義】
【権力構造の危うさ】
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| 是にて一二年過けるまでもなを将軍許容の儀無りけるを、紀伊国の宮方共蜂起の事及難義ける時、将軍始て父子の号を被許、右兵衛佐に補任して、此直冬を討手の大将にぞ被差遣ける。紀州暫静謐の体にて、直冬被帰参しより後、早、人々是を重じ奉る儀も出来り、時々将軍の御方へも出仕し給しか共、猶座席なんどは仁木・細川の人々と等列にて、さまで賞翫は未無りき。而るを今左兵衛督の計ひとして、西国の探題になし給ひければ、早晩しか人皆帰服し奉りて、付順ふ者多かりけり。備後の鞆に座し給て、中国の成敗を司どるに、忠ある者は不望恩賞を賜り、有咎者は不罰去其堺。自是多年非をかざりて、上を犯しつる師直・師泰が悪行、弥隠れも無りけり。 |
こうして一二年が過ぎても将軍(足利尊氏)はなお認めようとしなかったが、紀伊国で南朝勢力が蜂起し事態が深刻化した時になって初めて父子の関係を公認され、直冬は右兵衛佐に任命されて討伐軍の大将として派遣された。紀州が一時的に平定された後、直冬が帰還すると人々が彼を重んじるようになり、時折将軍のもとへも伺候したものの、座席などでは仁木氏や細川氏の人々と同列で特別な厚遇はまだなかった。 しかし今度は左兵衛督(高師直)の献策によって西国探題に任ぜられたため、たちまち多くの人々が帰順し従う者が続出した。備後の鞆を本拠として中国地方の統治にあたる中で、忠義ある者には求めずとも恩賞を与え、過失がある者は処罰せず領地から退去させるなど公正な政治を行った。これにより長年悪事を重ね主君を欺いてきた師直・師泰兄弟の悪行が、ますます隠しようもなくなってしまったのである。 解説【足利直冬の台頭過程】
【西国探題就任の影響】
【政治的対比の構造】
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| input text 太平記\027_太平記_巻27.txt | 現代日本語 translated text | ||||||||||||
| 太平記 太平記巻第二十七 ○天下妖怪事付清水寺炎上事 貞和五年正月の比より、犯星客星無隙現じければ旁其慎不軽。王位の愁天下の変、兵乱疫癘有べしと、陰陽寮頻に密奏す。是をこそ如何と驚処に、同二月二十六日夜半許に将軍塚夥しく鳴動して、虚空に兵馬の馳過る音半時許しければ、京中の貴賎不思議の思をなし、何事のあらんずらんと魂を冷す処に、明る二十七日午刻に、清水坂より俄に失火出来て、清水寺の本堂・阿弥陀堂・楼門・舞台・鎮守まで一宇も不残炎滅す。火災は尋常の事なれ共、風不吹大なる炎遥に飛去て、厳重の御祈祷所一時に焼失する事非直事。凡天下の大変ある時は、霊仏霊社の回禄定れる表事也。又同六月三日八幡の御殿、辰刻より酉時まで鳴動す。神鏑声を添て、王城を差て鳴て行。又同六月十日より太白・辰星・歳星の三星合て打続きしかば、不経月日大乱出来して、天子失位、大臣受災、子殺父、臣殺君、飢饉疫癘兵革相続、餓■満巷べしと天文博士注説す。又潤六月五日戌刻に、巽方と乾方より、電光耀き出て、両方の光寄合て如戦して、砕け散ては寄合て、風の猛火を吹上るが如く、余光天地に満て光る中に、異類異形の者見へて、乾の光退き行、巽の光進み行て互の光消失ぬ。此夭怪、如何様天下穏ならじと申合にけり。 |
貞和五年(1349年)正月頃より不吉な星々が連続して現れたため、人々はこれを深く畏れ慎んだ。帝位を脅かす憂いや天下の異変、戦乱や疫病が起こるだろうと陰陽寮がたびたび内奏した。この事態に驚いているところへ、同年二月二十六日深夜に将軍塚が激しく揺れ動き、空中で軍勢の駆け抜ける音響が約二時間続いたため、京中の貴賎を問わず人々は不可思議に思い、「何か大変な事が起きるのではないか」と肝を冷やした。翌二十七日正午には清水坂から突然出火し、清水寺の本堂・阿弥陀堂・楼門・舞台・鎮守社までことごとく焼失した。火災自体はありふれた出来事だが、風が吹かないのに巨大な炎が遠方へ飛び散り、由緒深い祈祷所があっという間に消滅するのは尋常ではなかった。およそ天下に大変事がある時には霊験あらたかな寺社の火災は必ず起こる前兆なのである。 さらに同年六月三日には八幡宮本殿が朝から夕刻まで鳴動し、神々しい弓矢の音を伴いながら都の方角へ響き渡って去った。同月十日より太白星(金星)・辰星(水星)・歳星(木星)の三惑星が集合して連続出現したため、「一ヶ月も経たず大乱が発生し、天皇は位を失い大臣は災厄を受け、子が父を殺し臣下が主君を弑逆し、飢饉と疫病と戦争が相次ぎ餓死者で巷が埋まるだろう」と天文博士が解釈した。 さらに閏六月五日戌の刻(午後8時頃)、東南方向と西北方向から稲妻が閃き出て両方の光が寄り合い、まるで交戦するかのように砕け散っては再び衝突し、旋風が猛火を巻き上げるような光景となった。天地に満ちた残照の中には異形の化物らしい影が見え、西北の光が退却し東南の光が進撃した後に双方消滅した。この天変は「いずれ天下が安泰であるはずがない」と人々が噂し合う所以となった。 解説【災異思想の構造】
『太平記』独自の演出技法
歴史的意義
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| ○田楽事付長講見物事 今年多の不思議打続中に、洛中に田楽を翫ぶ事法に過たり。大樹是を被興事又無類。されば万人手足を空にして朝夕是が為に婬費す。関東亡びんとて、高時禅門好み翫しが、先代一流断滅しぬ。よからぬ事なりとぞ申ける。同年六月十一日抖薮の沙門有りけるが、四条橋を渡さんとて、新座本座の田楽を合せ老若に分て能くらべをぞせさせける。四条川原に桟敷を打つ。希代の見物なるべしとて貴賎の男女挙る事不斜、公家には摂禄大臣家、門跡は当座主梶井二品法親王、武家は大樹是を被興しかば、其以下の人々は不及申、卿相雲客諸家の侍、神社寺堂の神官僧侶に至る迄、我不劣桟敷を打。五六八九寸の安の郡などら鐫貫て、囲八十三間に三重四重に組上、物も夥しく要へたり。已時刻に成しかば、軽軒香車地を争ひ、軽裘肥馬繋に所なし。幔幕風に飛揚して、薫香天に散満す。新本の老若、東西に幄を打て、両方に橋懸りを懸たりける。楽屋の幕には纐纈を張、天蓋の幕は金襴なれば、片々と風に散満して、炎を揚るに不異。舞台に曲■縄床を立双べ、紅緑の氈を展布て、豹虎の皮を懸たれば、見に眼を照れて、心も空に成ぬるに、律雅調冷く、颯声耳を清処に、両方の楽屋より中門口の鼓を鳴し音取笛を吹立たれば、匂ひ薫蘭を凝し、粧ひ紅粉を尽したる美麗の童八人、一様に金襴の水干を著して、東の楽屋より練出たれば、白く清らかなる法師八人、薄化粧の金黒にて、色々の花鳥を織尽し、染狂たる水干に、銀の乱紋打たる下濃の袴に下結して拍子を打、あやい笠を傾け、西の楽屋よりきらめき渡て出たるは、誠に由々敷ぞ見へたりける。 |
今年(貞和五年、1349年)、多くの怪異が続く中で京都市内では田楽見物が度を越して流行した。将軍(足利尊氏)自らこれを推奨したため事態は異常であり、人々は仕事も手につかず朝夕これに浪費するありさまだった。「関東(鎌倉幕府)滅亡の際にも北条高時が田楽を好んだ結果、一族絶えたのは不吉な前例だ」と批判された。同年六月十一日、ある修行僧が四条橋で「新座」「本座」両方の田楽座を集め老若別に対決させたため、四条河原に桟敷席が設けられた。「空前絶後の見物となるだろう」と貴賎問わず男女が群がり、公家では摂政・関白級の大臣家、門跡は梶井門跡(二品法親王)、武家は将軍推奨ゆえその配下も含め、高官から諸家侍従、神社仏閣の神職僧侶に至るまで競って桟敷を設置した。庶民さえ銭を出し合い周囲83間(約150m)もの範囲に三重四重の桟敷が組まれ物資も膨大だった。 折から時間となり、牛車や馬車が場所争う中で幔幕は風に翻り香煙が空へ漂った。新座本座の老若グループは東西に布張りの小屋を建て両側に舞台通路(橋懸かり)を架けた。楽屋の幕には染め模様、天蓋は金糸織物で風に煌めき炎のように見える。舞台上では丸太組の二重構造が築かれ紅緑絨毯と豹虎毛皮が敷かれて目を見張らせ心奪われる中、優雅な音律や清々しい歌声響く時、両楽屋から中央で鼓を鳴らし笛を吹き始めた。すると蘭の香り凝るほど化粧した美少年8人が金襴水干姿で東側から練り出たかと思えば、銀髪に薄化粧の白拍子集団が花鳥柄狂言装束に銀模様袴を着け笠を傾け西側から煌めき現れたのは実に見事であった。 解説【社会風俗的意義】
芸能史的価値
『太平記』作者の意図
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| 一の簓は本座の阿古、乱拍子は新座の彦夜叉、刀玉は道一、各神変の堪能なれば見物耳目を驚す。角て立合終りしかば、日吉山王の示現利生の新たなる猿楽を、肝に染てぞし出したる。斯る処に新座の楽屋八九歳の小童に猿の面をきせ、御幣を差上て、赤地の金襴の打懸に虎皮の連貫を蹴開き、小拍子に懸て、紅緑のそり橋を斜に踏で出たりけるが高欄に飛上り、左へ回右へ曲り、抛返ては上りたる在様、誠に此世の者とは不見、忽に山王神託して、此奇瑞を被示かと、感興身にぞ余りける。されば百余間の桟敷共怺兼て座にも不蹈、「あら面白や難堪や。」と、喚叫びける間、感声席に余りつゝ、且は閑りもやらず。浩処に、将軍の御桟敷の辺より、厳しき女房の練貫の妻高く取けるが、扇を以て幕を揚るとぞ見へし。大物の五六にて打付たる桟敷傾立て、あれや/\と云程こそあれ、上下二百四十九間、共に将碁倒をするが如く、一度に同とぞ倒ける。若干の大物共落重りける間、被打殺者其数不知。斯る紛れに物取共、人の太刀々を奪て逃るもあり、見付て切て留るもあり。或は腰膝を被打折、手足を打切られ、或は己と抜たる太刀長刀に、此彼を突貫れて血にまみれ、或は涌せる茶の湯に身を焼き、喚き叫ぶ。只衆合叫喚の罪人も角やとぞ見へたりける。 |
笹を持つ役者は本座(田楽団体)の阿古、舞踏を担当するのは新座の彦夜叉、刀玉芸は道一で、それぞれが神業のように熟練していたため観客たちは目を見張った。対決が終わると日吉山王権現の霊験を示す新しい猿楽(当時の演劇)が心に深く染みるように披露された。その最中、新座の楽屋から8~9歳の子供に猿のお面をかぶせ御幣を持たせ、赤地金襴の衣装と虎皮の帯で身を固めさせて登場した。小さな拍子に合わせ紅緑色の反り橋を斜めに渡ると手すりの上へ飛び上がり左回転・右曲がりし宙返りして戻る様は、この世の者とは思えぬほどで山王神のお告げによる奇跡かと感動が全身にあふれた。これにより百間(約180m)余りの桟敷席では観客たちが座っていることを忘れ「あぁ面白い!耐えられない!」と叫び騒ぐため感嘆の声は収まらなかった。 そのとき将軍専用桟敷付近で高貴な女性(女房)が絹織物の裾を掲げ扇子で幕を持ち上げようとした。すると巨大人物5~6人が設置した桟敷席が傾き「あれ?」と言う間に上下249間(約450m)全体が将棋倒しのように一斉に崩壊した。高貴な人々も下敷きになり死者は数知れず混乱の中で盗賊たちが他人の太刀を奪って逃走する者、見つけ出して切り捨てる者も現れた。腰や膝を砕かれ手足切断された者、抜いた大刀・長刀で互いを刺し血まみれになる者、沸騰した茶湯に焼かれる者が叫び声を上げ地獄のような光景となった。 解説【社会風俗的意義】
芸能史的価値
『太平記』作者の意図
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| 田楽は鬼の面を著ながら、装束を取て逃る盜人を、赤きしもとを打振て追て走る。人の中間若党は、主の女房を舁負て逃る者を、打物の鞘をはづして追懸る。返し合て切合処もあり。被切朱に成者もあり。脩羅の闘諍、獄率の呵責、眼の前に有が如し。梶井宮も御腰を打損ぜさせ給ひたりと聞へしかば、一首の狂歌を四条川原に立たり。釘付にしたる桟敷の倒るは梶井宮の不覚なりけり又二条関白殿も御覧じ給ひたりと申ければ、田楽の将碁倒の桟敷には王許こそ登らざりけれ是非直事。如何様天狗の所行にこそ有らんと思合せて、後能々聞けば山門西塔院釈迦堂の長講、所用有て下りける道に、山伏一人行合て、「只今四条河原に希代の見物の候。御覧候へかし。」と申ければ、長講、「日已に日中に成候。又用意の桟敷なんど候はで、只今より其座に臨候共、中へ如何が入候べき。」と申せば、山伏、「中へ安く入奉べき様候。只我迹に付き被歩候へ。」とぞ申ける。長講、げにも聞る如くならば希代の見物なるべし。さらば行て見ばやと思ければ、山伏の迹に付て三足許歩むと思たれば、不覚四条河原に行至りぬ。早中門口打程に成ぬれば、鼠戸の口も塞りて可入方もなし。「如何して内へは入候べき。」とわぶれば、山伏、「我手に付せ給へ。 |
田楽役者は鬼の面をつけたまま衣装を持って逃げる盗人を赤い下袴を振りかざして追いかけ走った。侍従や若党は主人の夫人をおぶって逃げる者に対し、刀の鞘を外して追いかける。切り返し合う場面もあり斬られて血だらけになる者もいた。阿修羅の争いや地獄の鬼卒による責め苦が目の前にあるようだった。梶井宮は腰を負傷されたと聞こえたため一首の風刺歌が四条河原に立った。「釘付けした桟敷が倒れるとは梶井宮の不覚だな」また二条関白殿もご覧になったという話であれば「田楽の将棋倒しの桟敷には天皇さえ登らなかったというのに」(※権力者の愚かさを批判)。これはきっと天狗の仕業だろうと人々が思案している中、後で詳しく聞くと比叡山西塔院釈迦堂の長講僧が所用で下山途中、山伏一人に出会い「今四条河原で珍しい見物があります。ぜひご覧ください」と言われた。長講は「すでに昼過ぎですし用意した桟敷もない今から行っても中へ入れましょうか?」と返すと山伏は「容易に入れますよ。私の後をついてきて下さい」と答えた。長講は確かに噂通りなら珍しい見物だろう、では行ってみようと考え山伏について三歩ほど歩いたと思ったら気づくと四条河原に着いていた。すでに桟敷入口が混雑し鼠の通る隙間も塞がり入れなかった。「どうすれば中へ?」と焦ると山伏は「私の手をお取りください」と言うのであった。 解説【社会風俗的意義】
文学的技法
歴史的背景
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| 飛越て内へ入候はん。」と申間、実からずと乍思、手に取付たれば、山伏、長講を小脇に挟で三重に構たる桟敷を軽々と飛越て、将軍の御桟敷の中にぞ入にける。長講座席座中の人々を見るに、皆仁木・細河・高・上杉の人々ならでは交りたる人も無ければ、「如何か此座には居候べき。」と、蹲踞したる体を見て、彼山伏忍やかに、「苦かるまじきぞ。只それにて見物し給へ。」と申間、長講は様ぞあるらんと思て、山伏と双で将軍の対座に居たれば、種々の献盃、様々の美物、盃の始まるごとに、将軍殊に此山伏と長講とに色代有て、替る替る始給ふ処に、新座の閑屋、猿の面を著て御幣を差挙、橋の高欄を一飛々ては拍子を蹈み、蹈ては五幣を打振て、誠に軽げに跳出たり。上下の桟敷見物衆是を見て、座席にもたまらず、「面白や難堪や、我死ぬるや、是助けよ。」と、喚き叫て感ずる声、半時許ぞのゝめきける。此時彼山伏、長講が耳にさゝやきけるは、「余に人の物狂はしげに見ゆるが憎きに、肝つぶさせて興を醒させんずるぞ。騒ぎ給ふな。」と云て、座より立て或桟敷の柱をえいや/\と推と見へけるが、二百余間の桟敷、皆天狗倒に逢てげり。よそよりは辻風の吹とぞ見へける。誠に今度桟敷の儀、神明御眸を被廻けるにや、彼桟敷崩て人多く死ける事は六月十一日也。 |
「飛び越えて中に入りましょう」と言う山伏の言葉は不審に思ったものの、長講僧が手を取り付けたところ、山伏は彼を小脇にかかえ三重構造の桟敷を軽々と飛び越え将軍専用席の中へ入った。長講僧が見渡す座席には仁木・細川・高(師直)・上杉といった武将ばかりが居並んでおり、「どうして私などがこの席に?」としゃがみ込む様子を見た山伏は密かに「苦労はいりません。そのままで見物なさい」と言う。長講僧も覚悟を決め、山伏とともに将軍の真正面に座ると、次々に出される献立や美酒が振る舞われ盃事がある度に、将軍は特にこの山伏と長講に対して丁寧にもてなし交互に杯を勧めた。その最中に新座楽屋から猿の面をつけ御幣を持った役者が現れ橋の欄干を一飛びで跳び越えリズムを取りながら舞い、五色の幣を振る軽やかな演技を見せた。観客席の上下はこれを見て我慢できず「すごい!耐えられない!死にそうだ助けて!」と半時(約1時間)も叫び続けた騒ぎとなる。 この時山伏が長講僧の耳へささやいた。「人々が狂乱する様子が不快だから肝を潰して興醒めさせよう。騒ぐな」と言い立ち上がり、近くの桟敷柱を「えいやっ!」と押すように見えた瞬間、二百間余(約360m)もの桟敷全てが天狗に倒されるかの如く崩れ去った。遠目には竜巻が吹いたようだった。この度の桟敷事故は神明が御眼を向けられたためかとされ、多数の死者が出たのは六月十一日のことであった。 解説【超自然描写の意義】
政治的諷刺
史実的価値
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| 其次の日、終日終夜大雨降車軸、洪水流盤石、昨日の河原の死人汚穢不浄を洗流し、十四日の祇園神幸の路をば清めける。天竜八部悉霊神の威を助て、清浄の法雨を潅きける。難有かりし様也。 ○雲景未来記事 又此比天下第一の不思議あり。出羽国羽黒と云所に一人の山伏あり。名をば雲景とぞ申ける。希代の目に逢たりとて、熊野の牛王の裏に告文を書て出したる未来記あり。雲景諸国一見悉有て、過にし春の比より思立て都に上り、今熊野に居住して、華洛の名迹を巡礼する程に、貞和五年二十日の事なる天竜寺一見の為に西郊にぞ赴ける。官の庁の辺より年六十許なる山伏一人行連たり。彼雲景に、「御身は何くへ御座ある人ぞ。」と問ければ、「是は諸国一見の者にて候が、公家武家の崇敬あつて建立ある大伽藍にて候なれば、一見仕候ばやと存じて、天竜寺へ参候也。」とぞ語ける。「天竜寺もさる事なれ共、我等が住む山こそ日本無双の霊地にて侍れ。いざ見せ奉らん。」とてさそひ行程に、愛宕山とかや聞ゆる高峯に至ぬ。誠に仏閣奇麗にして、玉を敷き金を鏤めたり。信心肝に銘じ身の毛竪ち貴く思ければ、角てもあらまほしく思処に、此山伏雲景が袖を磬て、是まで参り給たる思出に秘所共を見せ奉らんとて、本堂の後、座主の坊と覚しき所へ行たれば、是又殊勝の霊地なり。 |
翌日は終日終夜、天を衝くほどの大雨が降り注ぎ洪水で巨岩も押し流された。前日の河原に散らばった死体や穢れを洗い清め、十四日の祇園祭神幸の通り道をきれいにしたのである。天竜八部衆(仏法守護神)がこぞって霊験を現し清浄な慈雨を降らせたのは誠にありがたいことであった。 ○雲景未来記の話 解説【宗教的意義】
歴史的価値
文学的役割
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| 爰に至て見れば人多く坐し給へり。或は衣冠正しく金笏を持給へる人もあり。或は貴僧高僧の形にて香染の衣著たる人もあり。雲景恐しながら広庇にくゞまり居たるに、御坐を二帖布たるに、大なる金の鵄翅を刷ひて著座したり。右の傍には長八尺許なる男の、大弓大矢を横へたるが畏てぞ候ける。左の一座には袞竜の御衣に日月星辰を鮮かに織たるを著給へる人、金の笏を持て並居玉ふ。座敷の体余に怖しく不思議にて、引導の山伏に、「如何なる御座敷候ぞ。」と問へば、山伏答へけるは、「上座なる金の鵄こそ崇徳院にて渡せ給へ。其傍なる大男こそ為義入道の八男八郎冠者為朝よ。左の座こそ代々の帝王、淡路の廃帝・井上皇后・後鳥羽院・後醍醐院、次第の登位を逐て悪魔王の棟梁と成給ふ、止事なき賢帝達よ。其坐の次なる僧綱達こそ、玄肪・真済・寛朝・慈慧・頼豪・仁海・尊雲等の高僧達、同大魔王と成て爰に集り、天下を乱候べき評定にて有。」とぞ語りける。雲景恐怖しながら不思議の事哉と思つゝ畏居たれば、一座の宿老山伏、「是は何くより来給ふ人ぞ。」と問ければ、引導の山伏しか/゛\と申ける。其時此老僧会尺して、「さらば此間京中の事共をば皆見聞給ふらん。何事か侍る。」と問ければ、雲景、「殊なる事も候はず。 |
ここへ来てみると多くの人々が座っていらっしゃった。中には衣冠を正しく整え金の笏を持っている方もいれば、高貴な僧形で香染めの衣を着た方もいた。雲景は恐れながら広縁にうずくまっていたところ、二畳敷きの上座が設けられており、巨大な金色の鷲の翼飾りをつけた人物が着座していた。その右隣には八尺(約2.4m)ほどの大男で大弓と太矢を横たえている者が威厳をもって控えていた。左側の列席者たちは袞竜文様(皇帝服)に日月星辰が鮮やかに織り込まれた衣装をまとった方々で、金笏を持ち整然と並んでおられた。座敷の様子があまりにも恐ろしく不思議だったので雲景が案内役の山伏に「これはどなた様のお席でしょうか」と尋ねると、山伏は答えた。「上座の金色鷲翼こそ崇徳院でいらっしゃる。その隣の大男は源為義入道の八男・八郎冠者為朝だ。左の御方々は歴代帝王――淡路廃帝(淳仁天皇)・井上皇后・後鳥羽院・後醍醐院らで、即位順に悪魔王の棟梁となられた止むを得ぬ賢帝たちである。その次席の僧侶たちこそ玄肪・真済・寛朝・慈慧・頼豪・仁海・尊雲らの高僧が大魔王となり集い天下を乱すための評議中だ」と説明した。雲景は恐怖しながらも不思議に思い謹んで座っていたところ、列席の年配山伏が「この方はどちらからお見えか?」と問うたので案内役の山伏が詳しく述べると、老僧は合掌して「ならば京中の事情をご存じだろう。何か事件があったか」と尋ねた。雲景は「特に変わったことはありません」と答えた。 解説【怨霊信仰の表象】
政治的寓意
文学的技法
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| 此比は只四条河原の桟敷の崩て人多く被打殺候事、昔も今も浩る事候はず、只天狗の態とこそ申候へ。其外には将軍御兄弟、此比執事の故に御中不快と候。是若天下の大儀に成候はんずるやらんと貴賎申候。」とぞ答ける。其時此山伏申けるは、「さる事も有らん、桟敷の顛倒は惣じて天狗の態許にも非ず。故をいかにと云に当関白殿は忝も天津児屋根尊の御末、天子輔佐の臣として無止事上臈にて渡らせ給ふ。梶井宮と申は、今上皇帝の御連枝にて、三塔の貫主、国家護持の棟梁、円宗顕密の主にて御坐す。将軍と申すは弓矢の長者にて海内衛護の人也。而るに此桟敷と申は、橋の勧進に桑門の捨人が興行する処也。見物の者と云は洛中の地下人、商買の輩共也。其に日本一州を治め給ふ貴人達交り雑居し給へば、正八幡大菩薩・春日大明神・山王権現の忿を含ませ給ふに依て、此地を頂き給ふ堅牢地神驚給ふ間、其勢に応じて皆崩たる也。此僧も其比京に罷出しか共、村雲の僧に可申事有て立寄しに、時刻遷りて不見。」とぞ申ける。雲景、「さて今村雲の僧と申て行徳権勢世に聞へ候は、如何なる人にて候ぞ。京童部は一向天狗にて御坐すと申候は、如何様の事にて候哉らん。」と問ければ、此僧の曰、「其はさる事候。彼僧は殊にさかしき人にて候間、天狗の中より撰び出して乱世の媒の為に遣したる也。 |
この頃ではただ四条河原の桟敷が崩れて多くの人が打ち殺された件について、昔も今も聞いたことがなく単なる天狗の仕業と言われています。それ以外には将軍ご兄弟は最近執事(高師直)のことから不和でありまして、これもし天下の大乱になるかもしれないと身分を問わず皆が噂しています。」と答えた。 解説【歴史的事件との対応】
宗教的意味合い
政治的含意
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| 世中乱れば本の住所へ可帰也。さてこそ所多きに村雲と云所に住するなれ。雲は天狗の乗物なるに依ての故也。加様の事努々人に不可知給。初て此所へ尋来給へば、委細の物語を申也。」とぞ語ける。雲景、不思議の事をも見聞者哉と思て天下の重事、未来の安否を聞ばやと思て、「さて将軍御兄弟執事の間の不和は、何れか道理にて始終通り候べき。」と問へば、「三条殿と執事の不快は一両月を不可過、大なる珍事なるべし。理非の事は是非を難弁。此人々身の難に逢ひ不肖なる時は、哀世を持たん時は政道をも能行はんずる者をと思しか共、富貴充満の後は古への有増一事も不通。上暗く下諛て諸事に親疎あれば、神明三宝の冥鑒にも背き、天下貴賎の人望にも違て、我非をば知ず、人を謗り合ふ心あり。只師子の虫の師子の肉を食が如し。適仁政と思事もさもあらず、只人の煩ひ歎のみ也。夫仁とは施慧四海、深く憐民云仁。夫政道と云は治国憐人、善悪親疎を不分撫育するを申也。而るに近日の儀、聊も善政を不聞欲心熾盛にして君臣父子の道をも不弁、只人の財を我有にせんと許の心なれば不矯飾無云事。仏神能知見御座さねば、我が企る処も不成、依果報浅深、聊取世持国者有といへ共、真実の儀に非ず。されば一人として治世運長久に不持也。 |
「世の中が乱れれば本来の住処に戻るべきだ。だからこそ多くの場所がある中で『村雲』という地に住んでいるのだろう。それは雲が天狗の乗り物であるからだ。このようなことは決して他人には知られてはならないことです。もし初めてここを訪ねて来られたならば、詳しい話をお伝えしましょう」と言った。 解説【核心的テーマ】
思想的背景
文学的構成
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| 君を軽んじ仏神をだにも恐るゝ処なき末世なれば曾其外の政道何事か可有。然間悪逆の道こそ替れ。猜みもどき合ふ輩、何れも無差別亡びん事無疑。喩へば山賊と海賊と寄合て、互に犯科の得失を指合が如し。されば近年武家の世を執事頼朝卿より以来、高時に到るまで已に十一代、蛮夷の賎しき身を以て世の主たる事必本儀にはあらね共、世澆季に及ぶ験に無力。時与事只一世の道理に非ず。臣殺君子殺父、力を以て可争時到る故に下剋上の一端にあり。高貴清花も君主一人も共に力を不得、下輩下賎の士四海を呑む。依之天下武家と成也。是必誰為にも非ず、時代機根相萌て因果業報の時到る故也。君を遠島へ配し奉り悪を天下に行し義時を、浅猿と云しか共、宿因のある程は子孫無窮に光栄せり。是又涯分の政道を行ひ、己を責て徳を施しゝかば、国豊に民不苦。されども宿報漸く傾く時、天心に背き仏神捨給ふ時を得て、先朝高時を追伐せらる。是必しも後醍醐院の聖徳の到りに非ず、自滅の時到る也。世も上代、仁徳も今の君主に勝り給し後鳥羽院の御時は、上の威も強く下の勢も弱しかども下勝ち上負ぬ。今末世濁乱の時分なれ共、不得下勝不上負事は不依貴賎運の興廃なるべし。是以可心得給。」と語りければ、雲景重て申さく、「先代尽て亡しかば、など先朝久御代をば治御座候はぬ。 |
「主君を軽んじ仏や神さえも畏れることのない末世だから、なおさら他の政治が成り立つはずがない。むしろ悪逆な道だけがはびこっているのだ。互いに疑い合う者たちは皆、差別なく滅ぶことに間違いあるまい。例えるなら山賊と海賊が集まり、お互いの罪過を指摘し合うようなものだ。 解説【核心的テーマ】
思想的背景
文学的構成
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| 」と問ければ、「其又有子細事に候。先朝随分賢王の行をせんとし給しか共、真実仁徳撫育の叡慮は総じてなし。継絶興廃神明仏陀を御帰依有様に見へしか共、■慢のみ有て実儀不御座。され共其程の賢王も末代には有まじければ何事にもよき真似をばすべし。是を以て暫なれ共加様の所を以て其御器用に当り、運の傾く高時、消方の灯前の扇と成せ給ひて亡し給ひぬ。其理に答て累代繁栄四海に満ぜし先代をば亡し給ひしか共、誠尭舜の功、聖明の徳御坐ねば、高時に劣る足利に世をば奪れさせ給ぬ。今持明院殿は中々執権開運武家に順せ給て、偏に幼児の乳母を憑が如く、奴と等しく成て御座程に、依仁道善悪還て如形安全に御坐者也。是も御本意には有ね共、理をも欲心をも打捨て御座さば、末代邪悪の時中々御運を開せ給ふべき者也とても王法は平家の末より本朝には尽はてゝ、武運ならでは立まじかりしを御了知も無て、仁徳聖化は昔に不及して国を執らん御欲心許を先とし、本に代を復すべしとて、末世の機分戎夷の掌に可堕御悟無りしかば、御鳥羽院の御謀叛徒に成て、公家の威勢其時より塗炭に落し也。されば其宸襟を為休先朝高時を失給しか共、尚公家代をば執せ給はぬ者也。さても三種の神器を本朝の宝として神代より伝る璽、国を理守も此神器也。 |
すると(僧侶が)答えて言うには、「それにも深い理由があるのです。先帝(後醍醐天皇)は非常に賢明な君主として振る舞おうとなされましたが、真実の仁徳による民衆への慈しみというご本心は全くなかった。断絶した王朝を再興するにあたり神仏へ帰依されている様に見えながらも、実際には傲慢さばかりで誠意など微塵もなかったのです。 解説【論点の深化:王朝復興失敗の構造】
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| 是は以伝為詮。然に今の王者此明器を伝る事無て位を践御座事、誠に王位共難申。然共さすが三箇の重事を執行はせ給へば、天照太神も守らせ給覧と憑敷処もある也。此明器我朝の宝として、神代の始より人皇の今に到るまで取伝御座事、誠に小国也といへ共、三国に超過せる吾朝神国の不思議は是也。されば此神器無らん代は月入て後の残夜の如し。末代のしるし王法を神道棄給ふ事と知べし。此重器は平家滅亡の時、安徳天皇西海に渡奉て海底に沈られし時、神璽内侍所をば取返し奉しか共宝剣は遂に沈失ぬ。されば王法悪王ながら安徳天王の御時までにて失はてぬる証は是也。其故は後鳥羽院の始て三種の重器無して元暦に践祚有しに、其末流皇統継体として、今に御相承佳模とは申せ共、今思へば彼元暦よりこそ正しく本朝に武家を被始置、則海内蔑君王奉る事は出来にけれ。されば武運王道に勝し表示には、宝剣は其時までにて失にき。仍武威昌に立て国家を奪也。然共其尽し後百余年は武家雅意に任て天下を司ると云共、王位も文道も相残る故に、関東如形政道をも理め君王をも崇め奉る体にて、諸国に総追捕使をば置たれども、諸司要脚の公事正税、仏神の本主、相伝の領には手を不懸目出かりしに、時代純機宿報の感果ある事なれば、後醍醐院武家を亡し給ふに依て、弥王道衰て公家、悉廃れたり。 |
(僧侶が語る)これはただの言い伝えではあります。しかし現在、王位にある者がこの神器を受け継ぐことなく即位していることは、本当に王位とは呼べません。それでも三つの重要な儀式だけは執り行っておられるので、天照大神も守護してくださるだろうと期待できる点もあります。 解説【神器喪失史観の論理構造】
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| 此時を得て三種の神器徒に微運の君に随て空く辺鄙外土に交り給ふ。是神明吾朝を棄給ひ、王威無残所尽し証拠也。是元暦の安徳天皇の御時に相同じ。国を受給ふ主に随給はぬは、国を不守験也。されば神道王法共になき代なれば、上廃れ下驕て是非を弁る事なし。然れば師直・師泰が安否、将軍兄弟の通塞も難弁。」とぞ語ける。雲景重て申けるは、「さては早乱悪の世にて下上に逆ひ、師直・師泰我侭にしすまして天下を持つべき歟。」と問へば、「いやさは不可有。如何末世濁乱の義にて、下先勝て上を可犯。され共又上を犯咎難遁ければ、下又其咎に可伏。其故は、将軍兄弟も可奉敬一人君主を軽じ給へば、執事其外家人等も又武将を軽じ候。是因果の道理也。されば地口天心を呑と云変あれば、何にも下刻上の謂にて師直先可勝。自是天下大に乱て父子兄弟怨讎を結び、政道聊も有まじければ、世上も無左右難静。」とぞ申ける。雲景、「今加様に世間の事鑒を懸て宣ひつる人は誰。」と尋れば、「彼老僧こそ、世に人の持あつかう愛宕山の太郎坊にて御座。」と答へける。尚も天下の安危国の治乱を問んとする処に、俄に猛火燃来て、座中の客七顛八倒する程に、門外へ走出ると思たれば、夢の覚たる心地して、大内の旧迹大庭の椋の木の本に、朦々としてぞ立たりける。 |
(雲景が)「では世の中はどうなるのですか」と尋ねると、(老僧は)こう答えました。「それにも深い事情があるのです。先帝(後醍醐天皇)は非常に賢明な君主として振る舞おうとなされましたが、真実の仁徳による民衆への慈しみというご本心は全くなかった。断絶した王朝を再興するために神仏へ帰依されている様に見えながらも、実際には傲慢さばかりで誠意など微塵もなかったのです。 しかしそれほどの賢王も末世には現れ難いため、何事においても良いふりはせねばならないでしょう。こうした事情から一時的ではあってもそのような立場を利用され、運命が傾いた高時(北条高時)は消えゆく灯火の前で扇を使うように無駄な努力を重ねて亡くなられたのです。 この理屈に従えば累代繁栄し天下を満たした先代(北条氏)を滅ぼされたにもかかわらず、真の尭や舜のような功績も聖明の徳もお持ちでなかったため、高時より劣る足利(尊氏)に世の中を奪われてしまったのです。 現在の持明院殿(北朝天皇)は執権勢力に逆らわず運命を受け入れられたので、まるで幼児が乳母に頼るように従順でありながらも、奴隷のような立場であられても仁道による善悪を理解し形通り安全にお過ごしです。これは本来の御意思ではなかったでしょうが道理や欲望すら捨て置かれたため、末法乱世の中でも運勢は大きく開けていくはずでした。 そもそも王権というものは平家滅亡後から我が国では完全に衰え果て武威でしか維持できないと悟るべきなのに、その自覚もなく仁徳による聖化など昔より劣った状態のまま皇位奪還への欲心ばかり先行し『朝廷復興せよ』と言ってしまわれた。末世において天下が蛮族(武士)の掌中に堕ちゆく運命を御理解なかったため、後鳥羽院と同様反逆者扱いされ公家勢力はあれ以来どん底へ落ちてしまったのです。 その心労をお休めになるために先帝は高時を滅ぼされたのに、依然として朝廷が世を取り戻せないのはこのような理由からです。さらに言えば三種の神器こそ本朝の宝であり神代より伝わる璽(しるし)――国家統治もこれで守られているのです。」 解説【王権正当性論争と歴史哲学】
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| 四方を見廻したれば、日已に西の山端に残て、京へ出る人多ければ、其に伴ひて我宿坊にたどり来て、心閑に彼不思議を案ずるに、無疑天狗道に行にけり。是は只非可打棄、且は末代の物語、且は当世の用心にもなれかしと思しかば、我身の刑を不顧、委細に書載、熊野の牛王の裏に告文を書添、貞和五年潤六月三日と書付て、伝奏に付て進奏す。誠に怪異の事共也。 ○左兵衛督欲誅師直事 斯りし処に、師直・師泰等誅罰の事、上杉・畠山が讒尚深く、妙吉侍者荐に被申ければ、将軍に知せ奉らで、左兵衛督窃に上杉・畠山・大高伊予守・粟飯原下総守・斉藤五郎左衛門入道五六人に評定有て、内内師直兄弟を可被誅謀をぞ被議ける。大高伊予守は大力也。宍戸安芸守は物馴たる剛の者なればとて、彼等二人を組手に定め若し手に余る事あらば、討洩さぬ様に用心せよとて、器用の者共百余人に物具せさせて窃に是を隠置、師直をぞ被召ける。師直は夢にも可思寄事ならねば、若党中間は皆遠侍大庭に並居て、中門の唐垣をかけへだてられ、師直只一人六間の客殿に座したり。師直が今の命は風待程の露よりも危しと見へける処に、殊更此事勝て申沙汰したりける粟飯原下総守清胤、俄に心替りして告知せばやと思ひければ、些色代する様にして、吃と目くはせをしたりければ、師直心早者なりければ、軈て心得て、かりそめに罷出る体にて、門前より馬に打乗、己が宿所にぞ帰ける。 |
(主人公が)辺りを見回すと、日はすでに西の山際にかかり、都へ戻る人々も多いのでその一行について自分の宿坊まで辿り着いた。心静かにあの不思議な出来事を考えてみると、疑いなく天狗道(魔境)に入っていたのだと気づく。 この経験はただ捨て置けないものであり、後世への物語となるか、あるいは現世での戒めにもなるかもしれないと思ったので、自身の処罰も顧みず詳細を記録し、熊野牛王符(護札)の裏に告発文を書き添え、「貞和五年閏六月三日」と日付を入れて伝奏(朝廷への取次役)を通じて天皇へ上奏した。まことに奇怪な出来事であった。 ○左兵衛督が師直誅殺を企てた件 解説【政治謀略劇の構造と歴史的意義】
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| 其夜軈粟飯原・斉藤二人、執事の屋形に来て、「此間三条殿の御企、上杉・畠山の人々の隠謀、兔こそ候つれ角こそ候つれ。」と語りければ、執事様々の引出物して、「猶も殿中様の事は内々告承候へ。」とて斉藤・粟飯原を帰しけり。師直是より用心密くして、一族若党数万人、近辺の在家に宿し置き、出仕を止め虚病してぞ居たりける。去年の春より越後守師泰は、楠退治の為に河内国に下て、石川々原に向城を構て居たりけるを、師直使を遣て事の由を告たりければ、畠山左京大夫清国紀伊国の守護にて坐しけるを呼奉て、石川城をふまへさせて、越後守は急ぎ京都へぞ帰上ける。左兵衛督は師泰が大勢にて上洛する由聞給て、此者が心をとらでは叶まじ。すかさばやと被思ければ、飯尾修理進入道を使にて、「武蔵守が行事、万短才庸愚の事ある間、暫く世務の綺を止る処也。自今後は越後守を以て、管領に居せしむる者也。政所以下の沙汰、毎事慇懃に沙汰せらるべし。」とぞ委補せられける。師泰此使に対して、「仰畏て候へ共、枝を切て後根を断んとの御意にてぞ候覧。何様罷上候て、御返事をば申入候べし。」と、事の外なる返事申て、軈て其日石河の陣をぞ打出ける。甲胄を鎧ひたる兵三千余騎にて打立て、持楯・一枚楯、人夫七千余人に持せて混合戦の体に出立て、態白昼に京へ入る。 |
その夜すぐに粟飯原(あいばら)と斎藤(さいとう)の二人が高師直の屋敷に来て、「この度三条殿(足利直義)のお考えによる上杉重能や畠山国清らの陰謀は、一応は失敗しました」と報告した。執事である師直は様々な褒美を与えながら「今後も殿中(直義陣営)の動きを密かに知らせてほしい」と言い、二人を帰した。 これ以降、師直は警戒を強め一族や従者数万人を近隣の民家に配置し登城を取り止めて仮病を使うようになった。昨年春から河内国で楠木残党討伐中の高師泰(弟)が石川河原に向城を構築していたところ、兄・師直は使いを送って事態を知らせたため、紀伊守護の畠山左京大夫清国に石川城を任せて急遽上洛した。 一方で足利直義(左兵衛督)は師泰が大軍で帰還すると聞き「この男の動向を見逃すわけにはいかない。今すぐ懐柔しよう」と考え、飯尾修理進入道を使者として派遣し、「武蔵守(高師直)は才能不足ゆえ暫く政務から外すため、今後は越後守(高師泰)を管領職に任命する。万事慎重に執り行うように」と偽りの人事案を通達した。 これに対し師泰は「お言葉ありがたいですが、枝(私)を切り取った後に根(兄)を断とうとするご策略でしょう? いずれ上洛してお返事申し上げます」と異例の拒否回答をして即日石河陣営を出発。甲冑に身を固めた兵士三千騎、盾持ちを含む人夫七千余人を混成部隊として組織し、わざわざ白昼堂々と京都へ入った。 解説【権謀術数と軍事示威の歴史的意義】
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| 目を驚す有様也。師泰執事の宿所に著て、三条殿と合戦の企有と聞へければ、八月十一日の宵に、赤松入道円心と子息律師則祐、弾正少弼氏範、七百余騎にて武蔵守の屋形へ行向。師直急ぎ対面有て、「三条殿無謂師直が一家を亡さんとの御意、事已に喉に迫候間、将軍へ内々事の由を歎申て候へば、武衛左様の企に及条、事の体不隠便、速に其儀を留て讒者の罪を緩くすべからず。能々制止を可加。若猶不叙用して討手を遣す事あらば、尊氏必師直と一所に成て安否を共にすべしと被仰出候。将軍の御意如斯に候へば、今は乍恐三条殿の討手に向て矢一仕らんずるにて候。京都の事は内々志を通ずる人多く候へば心安候。尚も只難義に覚へ候は、左兵衛佐殿備後に被坐候へば、一定中国の勢を引て被責上ぬと覚る許にて候。今夜急ぎ播磨へ御下候て、山陰・山陽の両道を杉坂・舟坂の殺所にて支て給り候へ。」とて、一献を勧められけるが、「此太刀は保昌より伝て代々身を不放守と存候へ共、是を可進。」とて懐剣と云太刀を錦の袋より取出して、赤松にこそ引たりけれ。円心軈領掌し、其夜都を立て播磨国に馳下、三千余騎を二手に分て、備前の舟坂・美作の杉坂、二の道を差塞、義旗雲竜を靡かして回天の機をぞ露しける。されば直冬大勢にて上らんと被議けるが、其支度相違したりけり。 |
驚くべき光景だった。高師泰が兄の屋敷へ着くと、足利直義(三条殿)との戦いが迫っていると聞き、八月十一日の夕方に赤松円心入道と息子・律師則祐、弾正少弼氏範ら七百騎余りで高師直邸に向かった。 解説【政変決行劇の歴史的構造】
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| ○御所囲事 去程に洛中には、只今可有合戦とて周章立て、貞和五年八月十二日の宵より数万騎の兵上下へ馳違ふ。馬の足音草摺の音、鳴休隙も無りけり。先三条殿へ参りける人々には、吉良左京大夫満義・同上総三郎満貞・石堂中務大輔頼房・同左馬頭頼直・石橋左衛門佐和義・子息治部大輔宣義・尾張修理大夫高経・子息民部少輔氏経・舎弟左近大夫将監氏頼・荒河三河守詮頼・細川刑部大輔頼春・同兵部大輔顕氏・畠山大蔵少輔直宗・上杉伊豆守重能・同左馬助朝房・同弾正少弼朝貞・長井大膳大夫広秀・和田越前守宣茂・高土佐守師秋・千秋三河左衛門大夫惟範・大高伊予守重成・宍戸安芸守朝重・二階堂美濃守行通・佐々木豊前次郎左衛門尉顕清・里見蔵人義宗・勝田能登守助清・狩野下野三郎・苑田美作守・波多野下野守・同因幡守・禰津小次郎・和久四郎左衛門尉・斉藤左衛門大夫利康・飯尾修理進入道・須賀壱岐守清秀・秋山新蔵人朝政・島津四郎左衛門尉、是等を宗との兵として都合其勢七千余騎、轅門を固て扣たり。執事師直の屋形へ馳加る人々には、山名伊豆守時氏・今川五郎入道心省・同駿河守頼貞・吉良左近大夫将監貞経・大島讃岐守盛真・仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長・同弾正少弼頼勝・桃井修理亮義盛・畠山宮内少輔国頼・細河相模守清氏・土岐刑部大輔頼康・同明智次郎頼兼・同新蔵人頼雄・佐々木佐渡判官秀綱・同四郎左衛門尉秀定・同近江四郎氏綱・佐々木大夫判官氏頼・舎弟四郎左衛門尉直綱・同五郎左衛門尉定詮・同大原判官時親・千葉介貞胤・宇都宮三河入道・武田伊豆前司信氏・小笠原兵庫助政長・逸見八郎信茂・大内民部大輔・結城小大郎・梶原河内守・佐竹掃部助師義・同和泉守・三浦遠江守行連・同駿河次郎左衛門・大友豊前太郎頼時・土肥美濃守高真・土屋備前守範遠・安保肥前守忠真・小田伊賀守・田中下総三郎・伴野出羽守長房・木村長門四郎・小幡左衛門尉・曾我左衛門尉・海老名尾張六郎季直・大平出羽守義尚・粟飯原下総守清胤・二階堂山城三郎行元・中条備前守秀長・伊勢勘解由左衛門・設楽五郎兵衛尉・宇佐美三河三郎・清久左衛門次郎・富永孫四郎・寺尾新蔵人・厚東駿河守・富樫介を始として、多田院御家人・常陸平氏・甲斐源氏・高家の一族は申に不及、畿内近国の兵、芳志恩顧の輩、我も我もと馳寄間、其勢無程五万余騎、一条大路・今出河・転法輪・柳が辻・出雲路河原に至るまで、無透間打込たる。 |
さて都の中では合戦が迫っているとの報せで大騒ぎとなり、貞和五年(1349年)八月十二日の夕方から数万騎の兵馬が行き交った。馬の蹄音と鎧草摺りの音は途絶える間もなかった。 解説【兵力動員に見る室町幕府分裂の構図】
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| 将軍是に驚かせ給ひ、三条殿へ使を以て被仰けるは、「師直・師泰過分の奢侈身に余て忽主従の礼を乱る。末代と乍云事常篇に絶たり。此上は如何様其へ寄る事も可有、急是へ御渡候へ。一所にて安否を定めん。」と被仰ければ、左兵衛督馳集たる兵共を召具して、将軍の御所、近衛東洞院へぞ御坐ける。此事の様を見、不叶とや思けん、初馳集たる兵共、五騎十騎落失て師直の手にぞ加りける。されば宗徒の御一族、近習の輩無弐忠を存する兵僅に千騎にも不足けり。明れば八月十三日の卯刻に、武蔵守師直・子息武蔵五郎師夏、雲霞の兵を相卒て、法成寺河原に打出て、二手にむずと押分て、将軍の御所の東北を十重二十重に囲みて、三度時をぞ揚たりける。越後守師泰は七千余騎を引分て、西南の小路を立切、搦手にこそ廻けれ。四方より火を懸て焼責にすべしと聞へしかば、兵火の余烟難遁とて、其辺近卿相雲客の亭、長講堂・三宝院へ資財雑具を運び、僧俗男女東西に逃迷ふ。内裏も近ければ、軍勢事に触て狼藉をも可致とて、俄に竜駕を被促持明院殿へ行幸なる。摂禄大臣諸家の卿相、周章騒で馳参る。宮中の官女上達部、徒歩にて逃ふためけば、八座・七弁・五位・六位・大吏・外記、悉階下庭上に立連。禁中変化の有様は目も不被当事共也。 |
将軍(足利尊氏)はこの事態にお驚きになり、三条殿(直義)のもとに使者を通じてこうおっしゃった。「師直と師泰の度を越した贅沢が身の程を知らぬ結果となり、主従の礼を乱している。末代までの恥と言うべき常軌を逸した行いだ。この上は彼らの元へ直接出向くしかあるまい。急ぎこちら(私の御所)にお越し願いたい。共に事態の収拾を図ろう。」 解説【戦術包囲と政治的大転換】
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| 暦応以来は天下武家に帰し、世上も少穏なりしに、去年楠正行乱を起せしか共討死せしかば、弥無為の世に成すと喜合処に、俄に此乱出来ぬれば、兔にも角にも治まらぬ世の中と歎かぬ者こそ無かりけれ。将軍も左兵衛督も、師直・師泰縦押寄と云共、防戦に及ん事返て恥辱なるべし。兵門前に防ば、御腹召るべしとて、小具足許にて閑り返て御座けり。師直・師泰、義勢は是までなれ共、さすが押寄る事はなく、徒に時をぞ移しける。去程に須賀壱岐守を以て師直が方へ被仰けるは、「累祖義家朝臣、天下の武将たりしより以来、汝が累祖、当家累代の家僕として未曾一日も主従の礼儀を不乱。而に以一旦忿忘余身恩、穏に不展子細大軍を起して東西に囲を成す。是縦尊氏を賎とす共天の譴をば不可遁。心中に憤る事有らば退て所存を可申。但讒者の真偽に事を寄て国家を奪んとの企ならば、再往の問答に不可及。白刃の前に我命止めて忽に黄泉の下に汝が運を可見。」と、只一言の中に若干の理を尽して被仰ければ、師直、「いや/\是までの仰を可承とは不存、只讒臣の申処を御承引候て、無故三条殿より師直が一類亡さんとの御結構にて候間、其身の不誤処を申開き、讒者の張本を給て後人の悪習をこらさん為に候。」とて、旗の手を一同に颯と下させ、楯を一面に進て両殿を囲奉り、御左右遅しとぞ責たりける。 |
暦応の治世以来、天下は武家の手に帰し、世の中もいくらか安定していたが、昨年楠木正行が反乱を起こしたものの討ち死にしたため、「これでますます平和な世になる」と人々が喜び合っていたところへ、突然この乱(観応擾乱)が発生した。そのため「兎にも角にも収まらない世の中だ」と嘆かない者など一人もいなかった。 将軍(尊氏)も左兵衛督(直義)も、「たとえ師直・師泰が押し寄せようとも、防戦に及ぶことはかえって恥辱となるだろう。もし門前で防戦すれば自害すべきだ」と言い、軽装のまま平然として座しておられた。一方の師直・師泰は優勢ながらも攻め寄せることなく、無為に時間を過ごしていた。 そのうち(尊氏側が)須賀壱岐守を使者として師直のもとに遣わし、こう告げさせた。「源義家公以来、お前の先祖代々は我家累代の家来として一日も主従の礼儀を乱さなかった。それなのに今や一時の怒りに身の恩を忘れ、理由も明かさず大軍を起こして包囲するとは。たとえ尊氏を軽んじるとしても天罰は逃れられまい。心に憤ることがあるなら退いて意見を述べよ。ただし讒言者の真偽にかこつけて国を奪おうとの企てなら、これ以上の議論は無用だ。白刃の前で我が命を絶ち、即座に黄泉であなたの末路を見届けよう。」 この一言の中にあらゆる道理を尽くした宣告に対し、師直は「いやいや、ここまでのご命令には従えません。ただ讒臣(中傷者)の言葉をお聞き入れになり、理由なく三条殿(直義)が我々一族を滅ぼそうと企てられたため、自らの無実を明らかにし、讒言者の張本人を突き止めて後世の悪例を懲らしめようとしたまでです」と言うや、旗振りが一斉に下る合図を与え、盾を一面に並べて両殿(尊氏と直義)を取り囲み、「お二方のお覚悟は遅い!」と攻め立てたのであった。 解説【修辞戦略の対決と心理描写】
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| 将軍弥腹を居兼て、「累代の家人に被囲て下手人被乞出す例やある。よし/\天下の嘲に身を替て討死せん。」とて、御小袖と云鎧取て被召ければ、堂上堂下に集りたる兵、甲の緒をしめ色めき渡て、「あはや天下の安否よ。」と肝を冷しける処に、左兵衛督被宥申けるは、「彼等奢侈の梟悪法に過るに依て、一旦可誡沙汰由相計を伝聞き、結句返て狼藉を企る事、当家の瑕瑾武略の衰微是に過たる事や候べき。然此禍は直義を恨たる処也。然を軽々敷家僕に対して防戦の御手を被下事口惜候べし。彼れ今讒者を差申す上は、師直が申請るに任せ、彼等を被召出事何の痛候べき。若猶予の御返答あらんに、師直逆威を振ひ忠義を忘れば、一家の武運此時軽して、天下の大変親りあるべし。」と堅制し被申しかば、将軍も諌言違処なしと思給ひければ、「師直が任申請旨、自今後は左兵衛督殿に政道綺はせ奉る事不可有。上杉・畠山をば可被遠流。」と被許ければ、師直喜悦の眉を開き、囲を解て打帰る。次の朝軈妙吉侍者を召取んと人を遣しけるに、早先立て逐電しければ行方も不知。財産は方々へ運び取り、浮雲の富貴忽に夢のごとく成にけり。 ○右兵衛佐直冬鎮西没落事 斯し後は弥師直権威重く成て、三条殿方の人々は面を低れ眉を顰む。 |
将軍(尊氏)はまする腹を立て、「代々仕えてきた家臣に包囲されて命乞いする例などあるものか。よし、天下の笑い者になろうとも討ち死にするぞ」と言い、小袖と呼ばれる鎧をお召しになろうとした。すると御所に集まった兵たちは兜の緒を締め動揺が広がり、「ああ、この世の安泰も終わりだ」と肝を冷やしたところ、左兵衛督(直義)が諌めて申し上げた。「彼ら(師直ら)の贅沢と横暴は度を越えており、一度懲らしめようとしただけなのに逆に狼藉を企てるとは、まさに我家の武威衰退を示すものです。しかしこの災いは私への恨みが原因です。卑しい家僕相手に自ら防戦されるのはお恥ずかしいこと。彼が讒言者(中傷者)の問題を指摘した以上は師直の要求を受け入れ、関係者を召喚することに何の痛手がありましょうか?もし対応が遅れれば師直が逆威を示し忠義を忘れた場合、武家全体の命運も危うくなり天下大乱となります。」 この厳しい諫言は道理にかなっていると将軍も認められたため、「師直の要求通り今後は左兵衛督殿(私)に関わる政務を一切禁止し、上杉・畠山らは流罪とする」と許可した。これを聞いた師直は喜びにあふれ包囲を解いて撤退した。翌朝すぐ妙吉侍者(直義側近の僧侶)を召喚しようとしたが、すでに逃亡して行方知れずだった。その財産も各所へ運び去られ、「浮雲のような富貴は瞬く間に夢と消えた」のである。 ○右兵衛佐直冬鎮西没落事(付記事項) 解説【政治的決着とその帰結】
※補足:妙吉(高僧)逃亡事件は『太平記』独自創作だが当時の混乱を示す有効な文学的装置として機能 | ||||||||||||
| 中にも右兵衛佐直冬は、中国の探題にて備後の鞆に御座けるを、師直近国の地頭・御家人に相触て討奉れと申遣したりければ、同九月十三日、杉原又四郎に百余騎にて押寄たり。俄の事なれば可防兵も少くて、直冬朝臣既に被誅給ひぬべかりしを、礒部左近将監が若党散々に防けるが、何れも究竟の手足にて志す矢坪を不違射ける矢に、十六騎に手負せて、十三騎馬より倒に射て落したりければ、杉原少し疼で不懸得ければ、其間に右兵衛佐殿は、河尻肥後守幸俊が船に乗て、肥後国へぞ被落ける。志ある者は小舟に乗て追付奉る。此佐殿は武将の嫡家にて、中国の探題に被下て人皆順靡奉り、富貴栄耀の門を開き、置酒好会の席を舒べ、楽未央しに、夢の間に引替て、心筑紫に落塩の鳴戸を差て行舟は、片帆は雲に泝り、烟水眼に范々たり。万里漂泊の愁、一葉扁舟の浮思ひ、浪馴衣袖朽て、涙忘るゝ許也。一年父尊氏卿、京都の軍に利無して九州へ落給たりしが、無幾程帰洛の喜に成給ひし事遠からぬ佳例也と、人々上には勇め共、行末も如何がしらぬひの、筑紫に赴旅なれば、無為方ぞ見へたりける。九月十三夜、名にをふ月明にして、旅泊の思も切なりければ、直冬、梓弓我こそあらめ引連て人にさへうき月を見せつると詠じ給へば、袖を濡さぬ人はなし。 |
特に右兵衛佐直冬(尊氏の庶子)は、中国地方の探題として備後の鞆にいたところを、師直が近隣諸国の地頭・御家人らに触れ回って「討て」と命じたため、同年9月13日、杉原又四郎が百余騎で攻め寄せた。突然のことだったので迎え撃つ兵も少なく、直冬はまさに討たれるところであったが、礒部左近将監の若党たちが必死に防戦し、いずれも優れた腕前で狙いを外さぬ矢を放ち、16騎に手傷を負わせ13騎を馬上から射落とした。杉原軍は少し怯んで攻めあぐねている間に、直冬殿は河尻肥後守幸俊の船に乗り込み、肥後国へと逃れた。忠誠心ある者たちも小舟で追いかけた。 この御方は武将の嫡流として中国探題を任され人々がこぞって従った身であり、富貴栄華の門を開き酒宴の席を張りめぐらせ楽しみにふけっていたのに、夢のように状況は一変した。九州へ向かう船旅では心も沈み塩辛い潮風の中を行く舟は、片帆が雲を縫い煙る水波が目にただよう。万里の漂泊の憂いは一隻の小船に浮かぶ思いで、浪に濡れた袖は朽ち果て涙ばかりが尽きないほどであった。 一年前には父・尊氏卿も京都での戦いに敗れ九州へ落ち延びたが、すぐに帰京を果たした好例があると人々は励ましたものの、先行き不透明な旅路ゆえ不安は拭えなかった。9月13日の夜、名高い明月が輝く中で宿泊中の感慨もひとしおであり、直冬が「梓弓 我こそあらめ 引き連れて 人にさへ憂き 月を見せつる」(私は梓弓を引く身ゆえ皆にまで辛い月影を見せるのか)と詠むと、涙で袖を濡らさぬ者はいなかった。 解説【歴史的転落の劇的描写】
※補足:末尾の月明かり描写は琵琶湖追放の源頼朝や壇ノ浦後の平家一門など日本中世文学の「敗者漂泊モチーフ」と共通し、読者が既知の歴史的悲劇を連想させることで直冬の運命への予感を醸成している。 | ||||||||||||
| ○左馬頭義詮上洛事 去程に三条殿は、師直・師泰が憤猶深きに依て、天下の政務の事不及口入。大樹は元来政務を謙譲し給へば、自関東左馬頭義詮を急ぎ上洛あらせて、直義に不相替政道を申付、師直諸事を可申沙汰定りにけり。此左馬頭と申すは千寿王丸と申て久く関東に居へ置れたりしが、今は器にあたるべしとて、権柄の為に上洛あるとぞ聞へし。同十月四日左馬頭鎌倉を立て、同二十二日入洛し給けり。上洛の体由々敷見物也とて、粟田口・四宮河原辺まで桟敷を打て車を立、貴賎巷をぞ争ひける。師直以下の在京の大名、悉勢多まで参向す。東国の大名も川越・高坂を始として大略送りに上洛す。馬具足奇麗也しかば誠に耳目を驚す。其美を尽し善を尽すも理哉、将軍の長男にて直義の政務に替り天下の権を執らん為に上洛ある事なれば、一涯珍らか也。今夜将軍の亭に著給へば、仙洞より勧修寺大納言経顕卿を勅使にて、典厩上洛の事を賀し仰らる。同二十六日三条坊門高倉、直義朝臣の宿所へ被移住、頓て政務執行の沙汰始あり。目出かりし事共也。 ○直義朝臣隠遁事付玄慧法印末期事 去程に直義は世の交を止、細川兵部大輔顕氏の錦小路堀川の宿所へ被移にけり。猶も師直・師泰は、角て始終御憤を被止まじければ、身の為悪かるべしとて、偸に可奉失由内々議すと聞へければ、其疑を散ぜん為に、先世に望なく御身を捨はてられたる心中を知せんとにや、貞和五年十二月八日、御歳四十二にして御髪を落し給ひける。 |
さて三条殿(直義)は師直・師泰への憤りが深かったため、もはや天下の政務に関与しなかった。将軍尊氏は元来政治を控えめにされていたので、急ぎ関東から左馬頭義詮(尊氏嫡子)を上洛させて直義に代わる執政者と定め、「師直が諸事を取り仕切る」ことが決まった。この左馬頭という方は千寿王丸と呼ばれ長く関東におられたが、今や器量も備わったとして権力掌握のために上洛したと伝えられている。同年10月4日に左馬頭は鎌倉を出発し、同22日に入洛された。その行列を見ようと粟田口・四ノ宮河原辺には桟敷が設けられ車馬が並び、貴賤入り乱れて見物客で溢れた。師直以下在京の大名は全員勢多まで出迎えに赴き、東国大名も川越氏や高坂氏らほぼ総勢が見送りのため上洛した。馬具・甲冑が華麗だったので人々を驚かせた。この美を尽くした儀式も道理である——将軍の長男として直義に代わり天下の権力を執るための上洛なのだから、一世一代の珍事であった。 当夜は将軍屋敷に入られたところ、仙洞(上皇御所)より勧修寺大納言経顕卿が勅使として遣わされ、「義詮典厩の上洛を祝賀せよ」との院宣が下った。同26日には三条坊門高倉にある直義朝臣の宿所へ移られ、早速政務執行が開始された。めでたいこと尽くしであった。 ○直義卿隠遁と玄慧法印臨終のこと 解説【室町幕府権力構造の劇的転換】
※文学的効果: | ||||||||||||
| 未強仕の齢幾程も不過に、剃髪染衣の姿に帰し給ひし事、盛者必衰の理と乍云、うたてかりける事共也。斯しかば天下の事綺し程こそあれ、今は大廈高墻の内に身を置き、軽羅褥茵の上に非可楽とて、錦小路堀河に幽閉閑疎の御住居、垣に苔むし軒に松旧たるが、茅茨煙に篭て夜の月朦朧たり。荻花風に戦で暮の声蕭疎たり。時遷事去て、人物古に非る事を感じ、蘿窓草屋の底に座来して、経巻を抛隙も無りけり。時しもあれや秋暮て、時雨がちなる冬闌ぬ。冷然しさまさる簾外には、香盧峯の雪も浦山敷、身の古はあだし世の、夢かとぞ思ふ思きや、雪踏分し小野の山、今更思ひしられつゝ、問人もがなと思へども、世の聞耳を憚て事問人も無りしに、独清軒玄慧法印、師直が許しを得て、時々参りつゝ、異国本朝の物語共して慰奉りけるが、老病に被犯て不参得と申ければ、薬を一包送給ふとて、其裹紙に、ながらへて問へとぞ思ふ君ならで今は伴ふ人もなき世にと有しかば、法印是を見て泣々、感君一日恩。招我百年魂。扶病坐床下。披書拭泪痕。と一首の小詩に九回の思を尽して奉る。其後無程法印身罷にけり。慧源禅巷哀に思て、自此詩の奥に紙を継で、六兪般若の真文を写して、彼追善にぞ被擬ける。 ○上杉畠山流罪死刑事 |
壮年にさえ達していない年齢にもかかわらず、剃髪して墨染めの衣姿となられたことは、「盛者必衰の理」とはいえ実に嘆かわしいことであった。こうなっては天下の政務もすっかり乱れていたが、今や大殿高塀の中での安逸を「楽しむべきではない」として錦小路堀河で閉じこもられた御住まいは――垣根には苔が生え軒先の松も老い枯れ、粗末な屋根は煙に包まれて夜月はぼんやりとし、荻の花は風に揺れて夕暮れの音は寂しかった。時の移ろいと変わり果てた状況を痛感され、草葺きの窓辺で座禅しながら経巻から目を離すこともなかった。 折しも秋が過ぎ時雨の多い冬の末頃のことである。ひときわ冷え込んだ簾の外は中国廬山の雪さえ降り積もるように心寒く、「かつての栄華は儚い夢だったのか」と思えば、小野山に分け入ったあの時(隠遁生活)を今さら思い知らされる。誰かに胸中を打ち明けたいと思うものの世間の耳目を憚り話し相手もないなか、ただ一人「独清軒」玄慧法印だけが師直の許可を得て折々訪れ異国や本朝の物語で慰めてくれていた。 この法印が老病のために来られなくなったと知ると、薬一包みを送られた。添え紙には「長生きして話相手になってほしいと思っていたのに 今は寄り添う人もない世となって」との歌があったため、法印はこれを見て涙ながらに返詩した:
この一首に思いを込めて献上すると、ほどなく法印は逝去した。弟子の慧源禅師は哀悼の意から詩巻の余白に紙をつなぎ『大般若経』六百巻中の一節を書写し追善供養としたのである。 ○上杉重能・畠山直宗流罪と処刑のこと 解説【隠遁生活における精神的葛藤の描写】
※次章予告: | ||||||||||||
| 去程に上杉伊豆守重能・畠山大蔵少輔直宗をば、所領を没収し、宿所を破却して共に越前国へ流遣されけり。此人々さりとも死罪に被行までの事はよも非じと憑れけるにや、暫の別を悲て、女房少人々まで皆伴て下給へ共、馴ぬ旅寝の床の露、をきふし袖をや濡すらん。日来より翫びし事なれば、旅の思を慰めんと一面の琵琶を馬鞍にかけ、旅館の月に弾じ給へば、王昭君が胡角一声霜後夢、漢宮万里月前腸と、胡国の旅を悲しも角やと思知れたり。嵐の風に関越て、紅葉をぬさと、手向山、暮行秋の別まで、身にしられたる哀にて、遁れぬ罪を身の上に、今は大津の東の浦、浜の真砂の数よりも、思へば多き歎哉。絶ぬ思を志賀浦、渚によする佐々浪の、返るを見るも浦山敷、七座神を伏拝み、身の行末を祈ても、都に又も帰べき、事は堅田に引網の、目にもたまらぬ我泪、今津・甲斐津を過行ば、湖水の霧に峙て、波間に見へたる小島あり。是なんめり、都良香が古、三千世界は眼前に尽ぬと詠ぜしかば、十二因縁は心裡に空と云下句を、弁才天の続給し竹生島よと望見て、暫法施を奉る。焼ぬ塩津を過行ば、思ひ越路の秋の風、音は荒血の山越て、浅茅色付野を行ば、末こそしらね梓弓、敦賀の津にも身を寄せて、袖にや浪の懸るらん。 |
こうして上杉伊豆守重能と畠山大蔵少輔直宗は、所領を没収され屋敷も破却されたうえで越前国へ流罪となった。彼らは「まさか死罪になることはあるまい」と思っていたのだろうか――しばしの別れを悲しみ女房や小姓まで連れて下向したが、慣れぬ旅先での夜ごとの涙で袖を濡らす日々であった。 普段から愛好していたことゆえ、旅愁を慰めようと一挺の琵琶を馬鞍にかけ宿場の月明かりのもとで弾じたところ、「王昭君が胡角一声霜後夢 漢宮万里月前腸」(異国での悲嘆を詠んだ詩句)という心境を身に染みて悟った。嵐山を越え紅葉を供物とする手向山では、暮れゆく秋の別離が痛切で、「逃れられぬ罪」への無念さが募る。大津から東へ進む浦辺りでは、浜辺の砂粒よりも数多い嘆きに沈んだ。 志賀ヶ浦で途絶える思いを馳せると、寄せる佐々波(琵琶湖の波)の戻る様も心細く、七座明神(竹生島弁才天)を拝んで身の行末を祈ったが、「都へ再び帰れるか」という不安は堅田沖で引く網のように切なく、今津・甲賀津を通り過ぎた。湖上に浮かぶ小島を見れば「三千世界眼前尽」(都良香の詩)と偲びつつ、十二因縁が心の中で空じられる境地を思い巡らした(竹生島は仏教修行地)。 塩焼きで知られる塩津を通り過ぎると、越路へ吹く秋風の音に荒涼感を覚えた。浅茅色づく野原を行けば末路への不安が募る――敦賀の港に着いても袖には波しぶきのように涙がかかるのであろう。 解説【流刑者の旅路における精神的描写】
※文学的意義:
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| 稠く守る武士の、矢田野は何く帰山、名をのみ聞て甲斐もなし。治承の乱に篭けん、火打が城を見上れば、蝸牛の角の上三千界、石火の光の中一刹那、哀あだなる憂世哉と、今更驚許也。無常の虎の身を責る、上野の原を過行ば、我ゆへさはがしき、月の鼠の根をかぶる、壁草のいつまでか、露の命の懸るべき。とても可消水の泡の流留る処とて、江守の庄にぞ着にける。当国の守護代細河刑部大輔、八木光勝是を請取て、浅猿気なる柴の庵の、しばしも如何が栖れんと、見るだに物憂住居なるに、警固を居へてぞ置れたりける。痛哉都にてはさしも気高かりし薄桧皮の屋形の、三葉四葉に作双て奇麗なるに、車馬門前に群集し賓客堂上に充満して、声花にこそ住給しに、今は引替たる鄙の長途に、やすらふだにも悲きに、竹の編戸松の垣、時雨も風もたまらねば、袂の乾く隙もなし。されば如何なる宿業にてか斯る憂目に逢らんと、乍我うらめしくて、あるも甲斐なき命なりけるを、猶も師直不足にや思けん、後の禍をも不顧、潜に討手を差下し、守護代八木の光勝に云合せ、上杉・畠山を可討とぞ下知しける。光勝元は上杉が下知に随者也けるが、武蔵守に被語て俄に心変じければ、八月二十四日の夜半許に、伊豆守の配所、江守の庄へ行て、「昨日の暮程に高弁定信大勢にて当国の府に著て候を、何事やらんと内々相尋て候へば、旁を討進せん為に下て候なる。 |
多くの武士が警護する中で進む矢田野(地名不明)は役立たず、治承の乱での籠城地・火打ち城を見上げると「蝸牛の角上の三千世界のように儚く、石火の中の刹那のような憂き世か」と改めて嘆いた。死に迫られる苦しみを感じつつ上野ヶ原を通り過ぎる頃には、「我が身は月夜に怯える鼠や壁草のようで、露の命のように儚い」と思い詰めた末、流れ着く水泡のような定めと諦めて江守庄へ到着した。 越前国の守護代・細川刑部大輔配下の八木光勝が彼らを引き取り、「浅ましい柴庵などどう住めるか」という見るからに憂鬱な住居に警固を置いて監視した。痛ましいことに、都では気高かった檜皮葺き屋形(貴族邸)は三棟四棟の美しい造りで車馬が門前に群がり賓客であふれ、花のような歓声が響いていたのに――今やそれとは真逆の田舎での長旅。休むのも悲しく竹戸松垣の粗末な庵では時雨と風が絶えず袖は涙で乾く暇もない。「どんな前世の業か」とうらめしみつつ命を投げ出したい心境だが、師直(高師直)はなお不満だったのか? 後の禍をも顧みず密かに討手を差し向け守護代・八木光勝と示し合わせ「上杉畠山を討て」と指令した。 光勝は元々上杉の配下であったが、武蔵守(師直)に唆されて心変わりしたためか、8月24日夜半頃に伊豆守重能の流刑地・江守庄へ赴き警告した:「昨日夕刻に高弁定信ら大軍が国府に到着しました。密かに尋ねたところ『貴殿たちを討つために下向した』と……」 解説【流刑者の終焉と政治的陰謀の描写】
※政治的意義:
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| 加様にて御座候ては、争か叶はせ給候べき。今夜急夜に紛れて落させ給ひ、越中越後の間に立忍ばせ給て、将軍へ事の子細を申入させ給候はゞ、師直等は忽蒙御勘気、御身の罪は軽成て、などか帰参の御事無るべき。警固の兵共にも道の程の御怖畏候まじ。只はや討手の近付候はぬさきに落させ給ひ候へ。」と誠に弐なげに申ければ、出抜とは夢にも知給はず、取物も不取敢、女房少き人々まで皆引具して、上下五十三人、歩はだしなる有様にて加賀の方へぞ被落ける。時しもこそあれ、霑交に降時雨、面を打が如くにて、僅に細き田面の道、上は氷れる馬ざくり、蹈ば深泥膝にあがる。簑もなく笠も著ざれば、膚までぬれ徹り、手亀り足寒へたるに、男は女の手を引、親は少き子を負て、何くを可落著処とも不知、只跡より討手や懸るらんと、怖ろしき侭に落行心中こそ哀なれ。八木光勝兼て近辺に触回り、「上杉・畠山の人々、流人の身として落て行事あらば、無是非皆討止よ。」と申間、江守・浅生水・八代庄・安居・波羅蜜の辺に居たる溢者共、太鼓を鳴し鐘を撞て、「落人あり打止よ。」と騒動す。上杉・畠山是に驚て、一足も前へ落延んと倒れふためきて、足羽の渡へ行著たれば、川の橋を引落して、足羽・藤島の者共、川向に楯を一面に衝双べたり。 |
「このような状況では到底お逃れになれません。今夜すぐに夜闇に紛れて落ち延び、越中と越後の間で潜伏なさってください。将軍(足利尊氏)へ事情を詳しく報告すれば師直らは即座にお咎めを受け、貴殿たちの罪も軽くなり帰参できるでしょう。警護兵への怖れも無用です。どうか討手が迫らないうちに急ぎ落ち延びてください」と八木光勝が誠実そうに告げたため、重能らは脱出など夢にも考えず準備もできぬまま、女房や小姓まで含む53人全員が裸足で加賀方面へ逃亡した。 折しも時雨が降り注ぎ顔を打つようで、細い田舎道では凍った馬糞の上を歩き深泥は膝までもぐる。蓑も笠もないため肌まで濡れ透びえ手足は震える——男は女の手を引き親は幼子を背負いながら「何処へ逃げれば」ともわからず、ただ背後に迫る討手を恐れて走り続ける心中が痛ましい。その間八木光勝は事前に近隣へ触れ回っており、「上杉畠山の者ら流人が逃亡した場合は容赦なく皆殺しにせよ」と指示していたため、江守・浅生水(あそうみず)・八代庄など各所のならず者が太鼓を叩き鐘を鳴らして「落人だ!討て!」と騒動。これを見た逃亡者たちは転びながらも急ぎ足羽川渡り場へ着くが、橋は引き落とされ対岸には足羽・藤島の兵卒が盾を並べ待ち構えていた。 解説【逃亡劇の悲劇性と人間的葛藤】
※軍記文学としての革新性: | ||||||||||||
| さらば跡へ帰て、八木をこそ憑まめと憂かりし江守へ立帰れば、又浅生水の橋をはねはづして、迹にも敵充満たり。只つかれの鳥の犬と鷹とに責らるらんも、角やと思ひしられたり。是までも主の先途を見はてんと、付順ひたりける若党十三人、主の自害を勧めん為、押膚脱で皆一度に腹をぞ切たりける。畠山大蔵少輔もつゞいて腹掻切、其刀を引抜て、上杉伊豆守の前に投遣、「御腰刀は些寸延て見へ候、是にて御自害候へ。」と云もはてず、うつぶしに成て倒れにけり。伊豆守其刀を手に取ながら、幾程ならぬ憂世の名残惜かねて、女房の方をつく/゛\と見て、袖を顔に押あて、只さめ/゛\と泣居たる許にて、坐に時をぞ移されける。去程に八木光勝が中間共に生捕られて、被差殺けるこそうたてけれ。武士たる人は、平生の振舞はよしや兔も角もあれ強見る処に非ず。只最後の死様をこそ執する事なるに、蓬くも見へ給ひつる死場哉と、爪弾せぬ人も無りけり。女房は年此日来のなじみ、昨日今日の情の色、いつ忘るべしとも不覚と泣悲みて其淵瀬に身をも沈めんと、人目の隙を求給ひけるを、年来知識に被憑たりける聖、兔角止め教訓して、往生院の道場にて髪剃落し奉て、無迹を訪外は更他事なしとぞ聞へし。加様に万づ成ぬれば、天下の政道然武家の執事の手に落て、今に乱ぬとぞ見へたりける。 |
「それでは後ろへ戻ろうか」と憂いながら江守庄へ引き返せば、浅生水橋も外され行く手は敵で埋まっていた。「疲れた鳥が犬や鷹に追われるのもこのことか」と重能らは悟った。ここまで主君の最期を見届けようとした若党13人は、主が自害できるように我先にと腹を切り裂いた。続いて畠山大蔵少輔もみずから割腹し、刀を抜くと上杉伊豆守(重能)へ投げて「貴殿は腰刀では時間がかかるでしょう。これでお自害ください」と言い終えぬうちにうつぶせに倒れた。 伊豆守はその刀を取りながらも、「どれほどの憂き世の名残惜しいことよ」と女房たちをじっと見つめ、袖で顔を覆ってただ嗚咽するばかりであった。そうしている間に八木光勝配下の中間(従者)に捕らえられ皆殺しとなる悲惨さだった。「武士たる者は普段の振る舞いはともかく最後の死様こそ肝要だ」と言うのに、彼らの見苦しい最期を見て舌打ちしない者はいなかった。 女房たちは「長年連れ添った情愛をどう忘れられよう」と淵に身投げしようとするが、知り合いの僧に止められる。往生院という寺で髪をおろし尼となり、「行方知れず消え果てた」とのみ伝わっている。こうして全てが終わり「天下政道は武家執事(高師直)の手に落ち、乱世が始まったのだろうか」と見えたのである。 解説【死生観と権力崩壊の象徴性】
※思想的背景:
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| ○大嘗会事 去程に年内頓て大礼可有と、重て評定せられけり。当年三月七日に可行と沙汰有しか共、大儀不事行。乍去さのみ延引如何とて、可被果遂にぞ定りける。夫大礼と申は、大内回禄の後は代々の流例として、大極殿の儀式を被移て大政官の庁にて是を被行。内弁は洞院太政大臣公資公とぞ聞へし。即位の内弁を大相国勤仕の事先縦邂逅なり、或は不快也と僉議区也しを、勧修寺大納言経顕卿勧で被申けるは、「相国の内弁の先例両度也。保安・久寿の両主也。保安は誠に凶例とも云つべし、久寿は又佳例なれば、彼先規を争でか可被嫌。其上今の相国は時に当る職に達し、世に聞たる才幹なり。されば君主も義を訪ひ政道を■給へば、一人師範其身に当れり。諸家も礼を学和漢の鑒と仰て、四海の儀形人を恥ず。」と被申しかば、皆閉口して是非の沙汰にも不及、相国内弁に定り給ひけり。外弁は三条坊門源大納言家信・高倉宰相広通・冷泉宰相経隆也。左の侍従は花山院宰相中将家賢、右の侍従は菊亭三位中将公真也。御即位の大礼は四海の経営にて、緇素の壮観可比事無れば、遠近踵を継で群をなす。両院も御見物の為に御幸成て、外弁幄の西南の門外に御車を被立。天子諸卿冕服を著し諸衛諸陣大儀を伏す。四神幡を■に立て、諸衛鼓を陣振る。 |
さて年内にもすぐさま大嘗会を行うべきだと重ねて議論された。今年の三月七日に実施すると決定したものの実行されず、これほど延期されているのはいかがなことかと言って遂に成し遂げることが決まった。そもそものこの儀式(即位礼)は宮中火災以来代々の慣例として大極殿での行事を太政官庁へ移して行われているのである。内弁役には洞院の太政大臣・公資公がなるという話だった。 ところで即位式の内弁職に大相国(高師直)を任命しようとした件については、「たまたま機会を得ただけで不適当だ」と全会一致で反対意見が出ていた中、勧修寺大納言経顕卿が進言して次のように述べた。「相国の内弁就任には過去二度の先例があります。保安天皇・久寿天皇の時代です。保安は確かに凶事でしたが久寿は吉例なので前例に従って避けるべきではありません。加えて現職の相国(高師直)は地位に見合った才能で世にも知られています。君主も彼から道理を学び政道を導けば自ら模範となるでしょうし、諸家も彼を見本として礼儀を修めれば天下の規範となり人々に恥じることはない」と主張したため皆沈黙して異論が出ず相国が内弁に決まった。 外弁役は三条坊門源大納言・家信、高倉宰相広通、冷泉宰相経隆である。左侍従は花山院中将・家賢、右侍従は菊亭三位中将公真であった。御即位の儀式は国家運営に関わる大事業であり僧俗入り混じる壮観は比類なく遠近から人々が続々と群集したのである。上皇も法皇(両院)ご見物のために車でお出ましになり外弁設営地の西南門外へ御車を停められた。天子(天皇)や公卿たちは礼服・冠服を着用し衛士らが儀式列を作る中、四神幡を高く掲げ各衛府太鼓隊も威勢よく響かせた。 解説【政治権力と儀礼の象徴性】
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| 紅旗巻風画竜揚り、玉幡映日文鳳翔る、秦阿房宮にも不異、呉の姑蘇台も角やと覚て、末代と乍云、懸る大儀を被執行事有難かりし様也。此日何なる日ぞや、貞和五年十二月二十六日、天子登壇即位して数度の大礼事ゆへなく被行しかば、今年は目出度暮にけり。 |
赤旗は風に巻かれて描かれた竜が舞い上がるように見え、玉飾りの幡は日に照り輝き刺繍の鳳凰が飛翔しているかのようだった。秦の阿房宮にも劣らず、呉の姑蘇台もこの程度だろうと思われるほどで、「末代まで語り継がれる」と言われる大儀式が執り行われたことは誠に有難いことである。この日はいつの日かというと貞和五年(1349年)十二月二十六日であり、天子(光厳上皇の院政下での後光厳天皇)が壇に登られ即位し数々の大礼が滞りなく行われたので、今年はめでたく年を越すことができたのだ。 解説【儀式描写と歴史的皮肉】
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| input text 太平記\028_太平記_巻28.txt | 現代日本語 translated text | ||||||||||||
| 太平記 太平記巻第二十八 ○義詮朝臣御政務事 貞和六年月二十七日に改元有て、観応に移る。去年八月十四日に、武蔵守師直・越後守師泰等、将軍の御屋形を打囲て、上杉伊豆守・畠山大蔵少輔を責出し、配所にて死罪に行ひたりし後、左兵衛督直義卿出家して、隠遁の体に成給ひしかば、将軍の嫡男宰相中将義詮、同十月二十三日鎌倉より上洛有て、天下の政道を執行ひ給ふ。雖然万事只師直・師泰が計ひにて有しかば、高家の人々の権勢恰魯の哀公に季桓子威を振ひ、唐の玄宗に楊国忠が驕を究めしに不異。 ○太宰少弐奉聟直冬事 右兵衛佐直冬は、去年の九月に備後を落て、河尻肥後守幸俊が許に坐しけるを、可奉討由自将軍御教書を被成たりけれ共、是は只武蔵守師直が申沙汰する処也。誠に将軍の御意より事興て被成御教書に非ずと、人皆推量を廻しければ、後の禍を顧て、奉討する人も無りけり。斯処に太宰少弐頼尚如何思けん、此兵衛佐殿を聟に取て、己が館に奉置ければ、筑紫九国の外も随其催促重彼命人多かりけり。是に依て宮方、将軍方、兵衛佐殿方とて国々三に分れしかば、世中の総劇弥無休時。只漢の代傾て後、呉魏蜀の三国鼎の如くに峙て、互に二を亡さんとせし戦国の始に相似たり。 ○三角入道謀叛事 |
貞和六年(1350年)1月27日に改元があり観応に移った。去年(1349年)8月14日、武蔵守高師直・越後守高師泰らが将軍邸を包囲し上杉伊豆守と畠山大蔵少輔を追放したうえ流刑先で処刑した後、左兵衛督足利直義卿が出家して隠遁されたため、将軍尊氏の嫡男である宰相中将・足利義詮が同年10月23日に鎌倉から上洛し天下の政務を執り行った。しかし万事は師直と師泰の思惑通りであったので高家(高兄弟)一派の権勢は、魯の哀公のもとで季桓子が専横した例や唐の玄宗皇帝時代に楊国忠が驕り尽くした状態と全く変わらなかった。 右兵衛佐・直冬(尊氏の庶子)について述べると、彼は去年9月に備後から落ち延び河尻肥後守幸俊のもとにいたところを討伐せよとの将軍教書が下されたが、これは単に武蔵守師直の発案によるものだった。人々は「真の将軍意思で出された命令ではない」と推測したため後の禍を恐れ誰も討伐に向かわなかった。ここにおいて太宰少弐・頼尚はいかなる思惑からかこの兵衛佐(直冬)を婿に迎え自館にかくまったので、筑紫九国だけでなくその命令に従う者が多数現れた。これによって南朝勢力(宮方)、将軍方、兵衛佐殿方の三つに諸国が分裂し世の中は争いばかりで休止することがなかった。ちょうど漢王朝滅亡後、呉・魏・蜀の三国が鼎立して互いに併合を図った戦国の始まりとそっくりである。 解説【権力構造と歴史的類比】
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| 爰石見国の住人、三角入道、兵衛佐直冬の随下知、国中を打順へ、庄園を掠領し、逆威を恣にすと聞へければ、事の大に成ぬ前に退治すべしとて、越前守師泰六月二十日都を立て、路次の軍勢を卒し石見国へ発向す。七月二十七日の暮程に江河へ打臨み、遥敵陣を見渡せば、是ぞ聞ゆる佐和善四郎が楯篭たる城よと覚て、青杉・丸屋・鼓崎とて、間四五町を隔たる城三つ、三壷の如峙て麓に大河流たり。城より下向ふたる敵三百余騎、河より向に扣てこゝを渡せやとぞ招たる。寄手二万余騎、皆河端に打臨で、何くか渡さましと見るに、深山の雲を分て流出たる河なれば、松栢影を浸して、青山も如動、石岩流を徹て、白雪の翻へるに相似たり。「案内も知ぬ立河を、早りの侭に渡し懸て、水に溺て亡びなば、猛く共何の益かあらん。日已に晩に及ぬ。夜に入らば水練の者共を数た入て、瀬踏を能々せさせて後、明日可渡。」と評定有て馬を扣へたる処に、森小太郎・高橋九郎左衛門、三百余騎にて一陣に進だりけるが申けるは、「足利又太郎が治承に宇治河を渡し、柴田橘六が承久に供御の瀬を渡したりしも、何れか瀬踏をせさせて候し。思ふに是が渡りにてあればこそ、渡さん所を防んとて敵は向に扣へたるらめ。此河の案内者我に勝たる人不可有。 |
ここで石見国の住人である三角入道は兵衛佐・直冬の命令に従い、国内を制圧し荘園を横領して暴力的支配を拡大していると伝えられたため、事態が深刻化する前に討伐すべく越後守・高師泰が6月20日に都を発ち、途中の軍勢を率いて石見国へ向かった。7月27日の夕暮れ時に江河(現:島根県江川)に到着し遠く敵陣を見渡すと、噂の佐和善四郎が籠城する城と思われる場所には青杉・丸屋・鼓崎という間隔200-300mおきに並んだ三つの城が鼎のように立ちはだかり麓を大河が流れていた。城内から下りてきた敵兵三百余騎が対岸で「ここを渡って来い」と挑発する中、攻め手二万余騎は皆川辺まで進出したものの深い山々から流れ出す激流であるため松柏の影も水に揺らぎ岩肌には白波が砕け散っていた。師泰軍は「地形も知らない増水河を無理に渡って溺死すれば勇猛でも意味がない。日が暮れたので夜間泳ぎ手に水深調査させ明日渡ろう」と協議し待機していたところ、森小太郎・高橋九郎左衛門率いる三百騎余りが進み出て言うには「足利又太郎(義兼)の治承宇治川渡河や柴田橘六の承久供御瀬越えも事前調査なしに行われた。敵が対岸で待つのはこここそ渡渉点だからだ。この川事情に我々より詳しい者はいない」 解説【軍事的リアリズムと歴史的引用】
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| つゞけや殿原。」とて、只二騎真先に進で渡せば、二人が郎等三百余騎、三吉の一族二百余騎、一度に颯と馬を打入て、弓の本弭末弭取違疋馬に流をせき上て、向の岸へぞ懸襄たる。善四郎が兵暫支て戦けるが、散々に懸立られて後なる城へ引退く。寄手弥勝に乗て続て城へ蒐入んとす。三の城より木戸を開て、同時に打出て、前後左右より取篭て散々に射る。森・高橋・三吉が兵百余人、痛手を負、石弓に被打、進兼たるを見て、越後守、「三吉討すな、あれつゞけ。」と被下知ければ、山口七郎左衛門、赤旗・小旗・大旗の一揆、千余騎抜連て懸る。荒手の大勢に攻立られて、敵皆城中へ引入れば、寄手皆逆木の際まで攻寄て、掻楯かひてぞ居たりける。手合の合戦に打勝て、敵を城へは追篭たれ共、城の構密しく岸高く切立たれば、可打入便もなく、可攻落様もなし。只徒に屏を隔て掻楯をさかうて、矢軍に日をぞ送ける。或時寄手の三吉一揆の中に、日来より手柄を顕したる兵共三四人寄合て評定しけるは、「城の体を見るに如今責ば、御方は兵粮につまりて不怺共、敵の軍に負て落る事は不可有。其上備中・備後・安芸・周防の間に、兵衛佐殿に心を通する者多しと聞ゆれば、後に敵の出来らんずる事無疑。前には数十箇所の城を一も落さで、後ろには又敵道を塞ぬと聞なば、何なる樊■・張良ともいへ、片時も不可怺。 |
「続け、皆の者!」と声がかかり二騎が真っ先に進んで渡河すると、森・高橋両将の家臣三百余騎と三吉一族二百余騎が一斉に馬を川へ駆り立て、弓を逆手に持って流れを蹴散らし対岸へ突撃した。佐和善四郎勢は一時防戦したものの激しく攻め立てられ後方の城へ撤退する。攻め手は勢いに乗じて追撃しようとした瞬間、三つの城から同時に兵が打ち出て前後左右を取り囲み集中射撃を浴びせた。森・高橋・三吉の兵百余りが重傷を負い石弓(投石器)で倒される中、越後守師泰は「三吉を見捨てるな!援軍を続けろ!」と命じたため山口七郎左衛門率いる赤旗組千騎が突撃。この大軍に押され敵は全員城内へ退却し、攻め手は逆茂木(防御柵)際まで迫って盾を並べて陣取った。緒戦では勝利して敵を城郭内に追い込んだものの、城は防備が固く岸壁が切り立っていたため攻略手段がなく、ただ塀越しに盾を立てて矢撃ち合戦を続ける日々となった。ある時、攻城側の三吉隊で功績のある兵数名が集まり協議した:「城の様子から長期包囲すれば味方の兵糧が尽きるだろう。しかし敵は劣勢でも降伏しない上、備中・備後・安芸・周防に直冬派勢力が多いと聞く。もし背後を塞がれたら樊噲や張良のような名将でも耐えられまい」。 解説【攻城戦の力学と心理描写】
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| いざや事の難儀に成ぬ前に、此城を夜討に落して、敵に気を失はせ、宰相殿に力を付進せん。」と申ければ、「此義尤可然。されば手柄の者共を集よ。」とて、六千余騎の兵の中より、世に勝たる剛の者をえり出すに、足立五郎左衛門・子息又五郎・杉田弾正左衛門尉・後藤左衛門蔵人種則・同兵庫允泰則・熊井五郎左衛門尉政成・山口新左衛門尉・城所藤五・村上新三郎・同弥二郎・神田八郎・奴可源五・小原平四郎・織田小次郎・井上源四郎・瓜生源左衛門・富田孫四郎・大庭孫三郎・山田又次郎・甕次郎左衛門・那珂彦五郎、二十七人をぞすぐりたる。是等は皆一騎当千の兵にて、心きゝ夜討に馴たる者共也とは云ながら、敵千余人篭て用心密しき城共を、可落とは不見ける。八月二十五日の宵の間に、えい声を出して、先立人を待調へさせ筒の火を見せて、さがる勢を進ませて、城の後なる自深山匐々忍寄て、薄・苅萱・篠竹なんどを切て、鎧のさね頭・胄の鉢付の板にひしと差て、探竿影草に身を隠し、鼓が崎の切岸の下、岩尾の陰にぞ臥たりける。かるも掻たる臥猪、朽木のうつぼなる荒熊共、人影に驚て、城の前なる篠原を、二三十つれてぞ落たりける。城中の兵共始は夜討の入よと心得て、櫓々に兵共弦音して、抛続松屏より外へ投出々々、静返て見けるが、「夜討にては無て後ろの山より熊の落て通りけるぞ、止よ殿原。 |
「さあ事態が悪化する前にこの城を夜襲で落とし敵の士気を挫き宰相殿(足利直義)に貢献しよう」という提案に対し、「もっともな意見だ。ならば武功ある者を集めよ」と命じ、六千余騎の中から世に並ぶ者のない強者を選抜した。足立五郎左衛門・その子又五郎・杉田弾正左衛門尉・後藤左衛門蔵人種則・同兵庫允泰則・熊井五郎左衛門尉政成・山口新左衛門尉・城所藤五・村上新三郎・同弥二郎・神田八郎・奴可源五・小原平四郎・織田小次郎・井上源四郎・瓜生源左衛門・富田孫四郎・大庭孫三郎・山田又次郎・甕次郎左衛門・那珂彦五郎の計27名。彼らは皆一騎当千の兵で夜襲に慣れた精鋭だが、千人以上が籠城し厳重な防備を持つ城を落とせるとは思えなかった。8月25日の日暮れ時、「エイ!」という掛け声で準備を整え松明の火を見せて囮部隊を前進させた後、本隊は城裏の深い山に這うように忍び寄りすすきや刈萱(カリヤス)・小竹などを切って鎧の札(さね)や兜の鉢付板に差し込み草木に紛れながら鼓ヶ崎の断崖下、岩陰に潜伏した。すると猪が突然走り出たり空洞化した丸太から熊が出てきて人影に驚き城前の笹原を20-30頭で駆け抜けたため、城内兵は「夜襲だ!」と警戒し櫓から矢を放ち松明を壁外へ投げ捨てたが、「襲撃ではない。裏山から熊が下りてきただけだ」と呼び止める者も現れた。 解説【奇襲作戦の心理劇的構成】
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| 」と呼はりければ、我先に射て取らんと、弓押張靭掻著々々、三百余騎の兵共、落行熊の迹を追て、遥なる麓へ下ければ、城に残る兵纔に五十余人に成にけり。夜は既に明ぬ。木戸は皆開たり。なじかは少しも可議擬、二十七人の者共、打物の鞘を迦して打入。城の本人佐和善四郎並郎等三人、腹巻取て肩に投懸、城戸口に下合て、一足も不引戦けるが、善四郎膝口切れて犬居に伏せば、郎等三人前に立塞ぎ暫し支て討死す。其間に善四郎は己が役所に走入、火を懸て腹掻切て死にけり。其外四十余人有ける者共は、一防も不防青杉の城へ落て行。熊狩しつる兵共は熊をも不追迹へも不帰、散々に成てぞ落行ける。憑切たる鼓崎の城を被落のみならず、善四郎忽討れにければ、残二の城も皆一日有て落にけり。兵、伏野飛雁乱行と云、兵書の詞を知ましかば、熊故に城をば落されじと、世の嘲に成にけり。其後越後守、石見勢を相順て国中へ打出たるに、責られては落得じとや思けん、石見国中に、三十二箇所有ける城共、皆聞落して、今は只三角入道が篭たる三隅城一ぞ残ける。此城山嶮く用心深ければ、縦力責に攻る事こそ不叶共、扶の兵も近国になし、知行の所領も無ければ、何までか怺て城にもたまるべき。只四方の峯々に向城を取て、二年三年にも攻落せとて、寄手の構密しければ、城内の兵気たゆみて、無憑方ぞ覚ける。 |
「待て!」と呼び止める声もむなしく、「我こそ熊を仕留めん」と弓を構えた三百余騎が山麓へ追跡。城内にはわずか五十人あまりが残っただけだった。夜明けとともに城門は開かれ、二十七人の精鋭部隊が一斉に斬り込む。城主佐和善四郎と三人の家臣は鎧を肩にかけて戸口で防戦するも、善四郎は膝を切られ倒れる。三人の家臣が身を挺して時間を稼ぎ討死した隙に、善四郎は役所へ駆け込み自害。残る四十人余りの兵士は青杉城へ敗走した。熊を追っていた守備兵たちも散り散りとなり戻らなかった。要害の鼓ヶ崎城が落ちたばかりか善四郎が討たれたため、残る二城も一日で陥落。「伏野飛雁乱行(戦場に逃げ惑う様)」という兵法書の言葉を知っていたなら、熊のために城を明け渡す愚は避けられただろうと世間の笑い種となった。その後越後守師泰が石見勢を従え進軍すると、「防ぎきれぬ」と思ったのか、国内三十二か所の支城が次々に降伏。残るは三角入道(山名時氏)が籠もる三隅城のみとなった。この城は険峻で防御堅固なため力攻めは不可能だったが、周辺国には援軍もなく食料補給路も絶たれていた。「四方の峰に付城を築き二年三年かけても落とせ」との命令で包囲網を強化すると、城内の兵士たちは次第に戦意を喪失していった。 解説【攻城戦終結の劇的構造】
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| ○直冬朝臣蜂起事付将軍御進発事 中国は大略静謐の体なれ共、九州又蜂起しければ、九月二十九日、肥後国より都へ早馬を立て注進しければ、「兵衛佐直冬、去月十三日当国に下著有て、川尻肥後守幸俊が館に居し給ふ処に、宅磨別当太郎守直与力同心して国中を駆催間、御方に志を通ずる族有といへ共、其責に不堪して悉付順はずと云者なし。然間川尻が勢如雲霞成て宇都宮三河守が城を囲むに、一日一夜合戦して討るゝ者百余人、疵を被る兵不知数。遂に三河守城を被責落、未死生の堺を不知分。宅磨・河尻、弥大勢に成て鹿子木大炊助を取巻間、後攻の為少弐が代官宗利近国を相催すといへ共、九国二島の兵共、太半兵衛佐殿に心を通ずる間、催促に順ふ輩多からず。事已に及難儀候、急御勢を被下べし。」とぞ申ける。将軍此注進に驚て、「さても誰をか討手に可下。」と執事武蔵守に間給ひければ、師直、「遠国の乱を鎮めんが為には、末々の御一族、乃至師直なんどこそ可罷下にて候へ共、是はいかにも上さまの自御下候て、御退治なくては叶まじきにて候。其故は九国の者共が兵衛佐殿に奉付事は、只将軍の君達にて御座候へば、内々御志を被通事は候はんと存ずる者にて候也。天下の人案に相違して、直に御退治の御合戦候はゞ、誰か父子の確執に天の罰を顧ぬ者候べき。 |
「○直冬朝臣蜂起の件および将軍出陣の事」 解説【九州反乱の政治力学】
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| 将軍の御旗下にて、師直命を軽ずる程ならば、九国・中国悉御敵に与すと云共、何の恐か候べき。只夜を日に継で御下候へ。」と、強に勧め申ければ、将軍一義にも不及給、都の警固には宰相中将義詮を残置奉て、十月十三日征夷大将軍正二位大納言源尊氏卿、執事武蔵守師直を召具し、八千余騎の勢を卒し、兵衛佐直冬為誅罰とて、先中国へとぞ急給ける。 ○錦小路殿落南方事 将軍、已明日西国へ可被立と聞へける其夜、左兵衛督入道慧源は、石堂右馬助頼房許を召具して、いづち共不知落給にけり。是を聞て世の危を思ふ人は、「すはや天下の乱出来ぬるは、高家の一類今に滅ん。」とぞ囁ける。事の様を知らぬ其方様の人々女姓なんどは、「穴浅猿や、こはいかに成ぬる世中ぞや。御共に参たる人もなし。御馬も皆厩に繋れたり。徒洗にては何くへか一足も落させ給ふべき。是は只武蔵守の計として、今夜忍やかに奉殺者也。」と、声も不惜泣悲む。仁木・細川の人々も執事の尾形に馳集て、「錦小路殿落させ給ひて候事、後の禍不遠と覚候へば、暫都に御逗留有て在所をも能々可被尋や候らん。」と被申ければ、師直、「穴こと/゛\し、縦何なる吉野十津河の奥、鬼海高麗の方へ落給ひたり共、師直が世にあらん程は誰か其人に与し奉べき。 |
将軍(足利尊氏)が翌日に西国へ出立すると聞かれたその夜、左兵衛督入道慧源は石堂右馬助頼房のもとを呼び連れて行方をくらまして逃亡された。これを知って世の危機を思う人々は「ああ天下大乱だ、高家(尊氏一族)はいずれ滅亡する」と囁いた。事情を知らない女性たちは「おやまあ!これからどうなる世の中かしら?供も誰も付いてないのに馬さえ厩に繋がれたまま。徒歩でどこへ逃げられようというのか?これは武蔵守(高師直)の計略だ、今夜こっそり殺されたのだ」と惜しまず大声で泣き悲しんだ。仁木・細川らの家臣たちも執事(高師直)のもとに集まり「錦小路殿が逃亡なさった件は後々の禍根となるでしょう。暫く都に留まられて行方を詳しく探されるべきです」と申したところ、師直は言った。「馬鹿げたことだ!仮に吉野や十津川の奥地、鬼界ヶ島や高麗の方へ逃れたとしても、私が生きている間、誰があの人(錦小路殿)を支持する者かいるものか。」 解説【政変前夜の心理描写と政治的緊張】
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| 首を獄門の木に曝し、尸を匹夫の鏃に止め給はん事、三日が内を不可出。其上将軍御進発の事、已に諸国へ日を定て触遣しぬ。相図相違せば事の煩多かるべし。暫も非可逗留処。」とて、十月十三日の早旦に師直遂に都を立て、将軍を先立奉り、路次の軍勢駆具して、十一月十九日に備前の福岡に著給ふ。爰にて四国中国の勢を待けれ共、海上は波風荒て船も不通山陰道は雪降積て馬の蹄も立ざれば、馳参る勢不多。さては年明てこそ筑紫へは向はめとて、将軍備前の福岡にて徒に日をぞ送られける。 ○自持明院殿被成院宣事 左兵衛督入道慧源は、師直が西国へ下らんとしける比をひ、潜に殺し可奉企有と聞へしかば、為遁其死忍で先大和国へ落て、越智伊賀守を憑まれたりければ、近辺の郷民共同心に合力して、路々を切塞ぎ四方に関を居て、誠に弐なげにぞ見へたりける。後一日有て、石堂右馬助頼房以下、少々志を存る旧好の人々馳参りければ、早隠れたる気色もなし。其聞へ都鄙の間に区也。何様天気ならでは私の本意を難達とて、先京都へ人を上せ、院宣を伺申されければ、無子細軈て被宣下、剰不望鎮守府将軍に被補。其詞云、被院宣云、斑鳩宮之誅守屋、朱雀院之戮将門、是豈非捨悪持善之聖猷哉。爰退治凶徒、欲息父叔両将之鬱念、叡感甚不少。 |
師直は言い放った。「もし私の命が軽んじられるようなことになれば九州・中国地方すべて敵になるとしても恐れることはない。ただ昼夜を問わず急ぎ進軍なされ」と強く勧めたため、将軍(尊氏)は即座に決断し都の守護には宰相中将義詮を残して置き、10月13日征夷大将軍正二位大納言源尊氏卿は執事武蔵守師直を伴い八千余騎の兵を率いて足利直冬討伐に向かい先ず中国地方へ急行した。 ○持明院殿による院宣発給について 解説【権力抗争における象徴的指令】
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| 仍補鎮守府将軍、被任左兵衛督畢。早卒九国二島並五畿七道之軍勢企上洛、可令守護天下。者依院宣執達如件。観応元年十月二十五日権中納言国俊奉足利左兵衛督殿 ○慧源禅巷南方合体事付漢楚合戦事 左兵衛督入道、都を仁木・細川・高家の一族共に背かれて浮れ出ぬ。大和・河内・和泉・紀伊国は、皆吉野の王命に順て、今更武家に可付順共不見ければ、澳にも不著礒にも離たる心地して、進退歩を失へり。越智伊賀守、「角ては何様難儀なるべしと覚へ候。只吉野殿の御方へ御参候て、先非を改め、後栄を期する御謀を可被廻とこそ存候へ。」と申ければ、「尤此儀可然。」とて、軈て専使を以て、吉野殿へ被奏達けるは、元弘初、先朝為逆臣被遷皇居於西海、宸襟被悩候時、応勅命雖有起義兵輩、或敵被囲、或戦負屈機、空志処、慧源苟勧尊氏卿企上洛、応勅決戦、帰天下於一統皇化候事、乾臨定被残叡感候歟。其後依義貞等讒、無罪罷成勅勘之身、君臣空隔胡越之地、一類悉残朝敵之名条歎有余処也。臣罪雖誠重、天恩不過往、負荊下被免其咎、則蒙勅免綸言、静四海之逆乱、可戴聖朝之安泰候。此旨内内得御意、可令奏聞給候。恐惶謹言。十二月九日沙弥慧源進上四条大納言殿と委細の書状を捧て、降参の由をぞ被申たる。 |
左兵衛督入道慧源は鎮守府将軍に任命され左兵衛督にも就任した。すぐに九州・二島および五畿七道の軍勢を率いて上洛し天下を守護しようとしたが、院宣が届く前に事態は進んでいた。(前文続き)観応元年10月25日権中納言国俊(足利左兵衛督殿へ奉る) ○慧源と南朝合流および漢楚の戦いに関する記述 解説【政治的転向のレトリック戦略】
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| 則諸卿参内して、此事如何が可有と僉議ありけるに、先洞院左大将実世公被申けるは、「直義入道が申処、甚以偽れり。相伝譜代の家人、師直・師泰が為に都を被追出身の措処なき間、聊借天威己為達宿意、奉掠天聴者也。二十余年の間一人を始進せて百司千官悉望鳳闕之雲、■飛鳥之翅事、然直義入道が不依悪逆乎。而今幸軍門に降らん事を請ふ、此天の与る処也。乗時是を不誅後の禍噛臍無益。只速に討手を差遣て首を禁門の前に可被曝とこそ存候へ。」と被申ける。次に二条関白左大臣殿暫思案して被仰けるは、「張良が三略の詞に、推慧施恩士力日新戦如風発といへり。是己謝罪者は忠貞に不懈誠以尽事、却て無弐故也。されば章邯楚に降て秦忽に破れ、管仲許罪斉則治事、尤今の世に可為指南。直義入道御方に参る程ならば、君天下を保せ給はん事万歳是より可始。只元弘の旧功を不被捨、官職に復して被召仕より外の義は非じとこそ覚へ候へ。」と異儀区にこそ被申けれ。諌臣両人の異儀、得失互に備ふ。是非難分。君も叡慮を被傾、末座の諸卿も言を出さで良久ある処に、北畠准后禅閤喩を引て被申けるは、「昔秦の世已に傾かんとせし時、沛公は沛郡より起り項羽は楚より起る。六国の諸候の秦を背く者彼両将に付順しかば、共に其威漸振て、沛公が兵十万余騎、漢の濮陽の東に軍だちし、項羽が勢は四十万騎、定陶を攻て雍丘の西に至る。 |
そこで朝廷の人々が参内し、この件(直義の降伏)をどう扱うべきか協議したところ、まず洞院左大将実世公が次のように述べた:「直義入道の言い分は甚だしく偽りである。代々仕える家臣たちが師直・師泰のために都から追われ行き場もない中、天威を借りて私利を図ろうと天皇の耳に入れたに過ぎぬ。二十余年の間一人(尊氏)を取り立て百官を掌握させたのに悪逆非道を行い、今さら軍門に降ると請うのは天が与えた好機だ。この時逃せば後悔先に立たず。速やかに討伐隊を差し向け首を禁門の前に晒すべきである」。次いで二条関白左大臣は暫く考えて異なる意見を述べた:「張良の『三略』にあるように、知恵を推し恩を施せば士気が日々新たになり戦いは風のように速やかに進む。罪を謝した者は却って忠誠心が厚いものだ(章邯降伏で秦滅亡/管仲許され斉繁栄)。直義入道の帰参を受け容れ元弘以来の功績を見捨てず官職を与え召し抱えるなら、天皇による天下統治はここから始まる」。二人の諫言にはそれぞれ得失があり是非判断が難しく、天皇も深く考え込まれた。末席の廷臣たちが沈黙する中、北畠准后禅閤が例えを引いて語り出した:「昔秦王朝が傾いた時、沛公(劉邦)は沛郡から挙兵し項羽は楚より立ち上がった。六国諸侯で秦に背く者は両将軍につき勢力拡大するや、沛公軍十万余騎は濮陽東へ進み、項羽勢四十万騎は定陶を攻め雍丘の西まで至るのである」。 解説【朝廷議論に見る三つの政治思想】
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| 沛公、項羽相共に古の楚王の末孫心と云し人、民間に下て羊を飼しを、取立義帝と号し、其御前にて、先咸陽に入て秦を亡したるらん者、必天下に王たるべしと約諾して、東西に分れて責上る。角て項羽已に鉅鹿に至時、秦の左将軍章邯、百万騎にて相待ける間、項羽自二十万騎にて河を渡て後、船を沈め釜甑を破て盧舎を焼。是は敵大勢にて御方小勢也。一人も生ては不返と心を一にして不戦ば、千に一も勝事非じと思ふ故に、思切たる心中を士卒に為令知也。於是秦の将軍と九たび遇て百たび戦。忽に秦の副将軍蘇角を討て王離を生虜しかば、討るゝ秦の兵四十余万人、章邯重て戦ふ事を不得、終に項羽に降て還て秦をぞ責たりける。項羽又新安城の戦に打勝て首を切事二十万、凡て項羽が向ふ処不破云事なく、攻る城は不落云事無りしか共、至所ごとに美女を愛し酒に淫し、財を貪り地を屠しかば、路次に数月の滞有て、末だ都へは不責入。漢の元年十一月に、函谷関にぞ著にける。沛公は無勢にして而も道難処を経しか共、民を憐み人を撫する心深して、財をも不貪人をも不殺しかば、支て防ぐ城もなく、不降云敵もなし。道開けて事安かりしかば、項羽に三月先立て咸陽宮へ入にけり。而共沛公志天下に有しかば、秦の宮室をも不焼、驪山の宝玉をも不散、剰降れる秦の子嬰を守護し奉て、天下の約を定めん為に、還て函谷へ兵を差遣し、項羽を咸陽へ入立じと関の戸を堅閉たりける。 |
沛公(劉邦)と項羽は協力して、民間で羊飼いをしていた昔の楚王の子孫・懐王を取り立てて義帝と呼び、その御前で「先に咸陽に入って秦を滅ぼした者が天下の王者となる」と誓約し東西から攻め上った。項羽が鉅鹿へ到着すると、秦の左将軍章邯が百万騎で待ち構えていたため、項羽は二十万騎だけで川を渡り船を沈めて鍋釜を壊し宿舎を焼いた。これは敵大勢・味方小勢ゆえ「一人も生還せず」と決死の覚悟を示すための行動である(千に一つも勝ち目がないと思えばこそ)。こうして秦軍と九度遭遇百回戦い、副将蘇角を討ち王離を捕らえるや四十万余りの秦兵は潰走し章邯は項羽に降伏した。項羽はさらに新安城の戦で二十万首を斬るなど「向かうところ破れず」だったが、各地で美女・酒宴に溺れて財産と土地を略奪するため進軍遅延(都へ未到達)。一方沛公劉邦は兵力不足かつ道険しい中でも民衆憐れみ人を撫でる心深く、財も貪らず殺戮せず。これにより抵抗する城なく敵降伏続出で進路開け事態安定し項羽より三月早く咸陽宮へ入った。しかし沛公は天下統一の志あり秦宮殿焼かず驪山珍宝散らさず、降将子嬰を守護して函谷関に兵を差し向けた(「約定通り我こそ王者」と宣言するため)。項羽が到着すると門固く閉ざしたのである。 解説【漢楚戦争比喩の政治的メッセージ性】
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| 数月有て項羽咸陽へ入らんとするに、沛公の兵函谷関を閉て項羽を入ず。項羽大に怒て当陽君に十二万騎の兵を差副、函谷関を打破て咸陽宮へ入にけり。則降れる子嬰皇帝を殺奉て咸陽宮に火を懸たれば、方三百七十里に作双たる宮殿楼閣一も不残焼て、三月まで火不消、驪山の神陵忽に灰塵と成こそ悲しけれ。此神陵と申は、秦始皇帝崩御成し時、はかなくも人間の富貴を冥途まで御身に順へんと思して、楼殿を作瑩き山川をかざりなせり。天には金銀を以て日月を十丈に鋳させて懸け、地には江海を形取て銀水を百里に流せり。人魚の油十万石、銀の御錠に入て長時に灯を挑たれば、石壁暗しといへ共青天白日の如く也。此中に三公已下の千官六千人、宮門守護の兵一万人、後宮の美人三千人、楽府の妓女三百人、皆生ながら神陵の土に埋て、苔の下にぞ朽にける。始作俑人無後乎と文宣王の誡しも、今こそ思知れたれ。始皇帝如此執覚様々の詔を被残神陵なれば、さこそは其妄執も留給らんに、項羽無情是を堀崩して殿閣悉焼払しかば、九泉の宝玉二度人間に返るこそ愍なれ。此時項羽が兵は四十万騎新豊の鴻門にあり。沛公が兵は十万騎咸陽の覇上にあり。其間相去事三十里、沛公項羽に未相見。於是范増といへる項羽が老臣、項羽に口説て云けるは、「沛公沛郡に有し時、其振舞を見しかば、財を貪美女を愛する心尋常に越たりき。 |
数か月後、項羽が咸陽へ入ろうとしたところ、沛公(劉邦)軍は函谷関を閉じて入れなかった。これに激怒した項羽は当陽君ら十二万騎の兵を差し向け、函谷関を打ち破って咸陽宮に入った。そして降伏していた子嬰皇帝を殺害し咸陽宮へ放火すると、方三百七十里(約160km)に広がる二重構造の宮殿や楼閣は一つ残らず燃え上がり、三か月間も消えず、驪山の始皇帝陵までも灰塵と化したのは痛ましいことだった。この神陵とは秦の始皇帝崩御時に「人間界での富貴をあの世にまで持っていこう」として建造されていたものである。天井には金銀で日月像(直径十丈)が吊るされ、地上には江海を模した銀の水路(百里=約40km)が流れている。「人魚の油十万石」を銀製燭台に灯せば「夜も真昼のように明るい」とされた。ここでは三公以下の官僚六千人・守護兵一万人・後宮美人三千人・楽妓三百人が生き埋めとなり苔下で朽ちた。「始作俑者無後乎」(最初の人形殉葬者は子孫絶える)という孔子の戒めを今さら実感する。これほどの陵墓も項羽は容赦なく破壊し殿閣を焼き払ったため、地中の宝玉が再び陽の目を見たのは哀れだった。この時点で項羽軍四十万騎は新豊(鴻門)に陣取り、沛公軍十万騎は咸陽郊外(覇上)にいた。両者の距離三十里(約12km)、未だ面会していない中で范増という老臣が項羽を諫めて言った。「沛公が沛郡にいた時の行いを見れば財欲や女好きの度合いは尋常ではなかったのに…」 解説【暴虐描写と歴史的寓意】
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| 今咸陽に入て後、財をも不貪美女をも不愛。是其志天下にある者也。我人を遣して窃に彼陣中の体を見するに、旗文竜虎を書けり。是天子の気に非や。速に沛公を不討ば、必天下為沛公可被傾。」と申ければ、項羽げにもと聞ながら、我勢の強大なるを憑て、何程の事か可有と思侮てぞ居たりける。斯る処に沛公が臣下曹無傷と云ける者、潜に項羽の方へ人を遣して、沛公天下に王たらんとする由をぞ告たりける。項羽是を聞て、此上は無疑とて四十万騎の兵共に命じて、夜明ば則沛公の陣へ寄せ、一人も不余可討とぞ下知しける。爰に項羽が季父に項伯と云ける人、昔より張良と知音也ければ、此事を告知せて落さばやと思ける間、急沛公の陣へ行向ひ張良を呼出して、「事の体已に急也。今夜急ぎ逃去て命許を助かれ。」とぞ教訓したりける。張良元来義を重じて、節に臨む時命を思ふ事塵芥よりも軽せし者也ければ、何故か事の急なるに当て、高祖を捨て可逃去とて、項伯が云処を沛公に告ぐ。沛公大に驚て、「抑我兵を以て項羽と戦ん事、勝負可依運や。」と問給へば、張良暫く案じて、「漢の兵は十万騎、楚は是四十万騎也。平野にて戦んに、漢勝事を難得。」とぞ答へける。沛公、「さらば我項伯を呼て、兄弟の交をなし婚姻の義を約して、先事の無為ならんずる様を謀らん。 |
数か月経った項羽が咸陽へ入ろうとした際、劉邦(沛公)軍は函谷関を閉ざして入れなかった。激怒した項羽は当陽君に十二万騎の兵をつけて派遣し、函谷関を打ち破って咸陽宮に入った。そして降伏していた子嬰皇帝を殺害し、咸陽宮へ放火すると、周囲三百七十里(約160km)に広がる二重構造の宮殿や楼閣は一つ残らず燃え上がり、三か月間炎が消えず、驪山の始皇帝陵までも灰塵となったのは痛ましいことであった。この神陵とは秦の始皇帝崩御時に「現世での富貴をあの世へ持ち込もう」として建造されたものである。天井には金銀で日月像(直径十丈)が吊るされ、地上には江海を模した銀の水路(百里=約40km)が流れている。「人魚の油十万石」を銀燭台に灯せば「夜も昼のように明るい」と言われた。ここでは三公以下の官僚六千人・守護兵一万人・後宮美人三千人・楽妓三百人が生き埋めとなり苔下で朽ちていた。「始作俑者無後乎」(最初の人形殉葬者は子孫絶える)という孔子の戒めを今さら理解した。これほどの陵墓も項羽は冷酷に破壊し建物すべて焼き払ったため、地中の宝玉が再び地上に出たのは哀れだった。この時点で項羽軍四十万騎は新豊(鴻門)に駐屯し、劉邦軍十万騎は咸陽郊外(覇上)にいた。両者の距離三十里(約12km)、まだ面会していない中で范増という老臣が項羽を諫めて言った。「沛公が沛郡にいた頃の行動を見ると財欲や女好きの度合いは並々ならぬものだったのに、今咸陽に入ってからは財も貪らず美女にも執着しない。これは天下への野心がある証拠だ。私が密かに彼の陣営を偵察させたところ旗に竜虎図が描かれていた。これこそ天子の気配ではないか? すぐ沛公を討伐しなければ、必ずや天下は沛公のために傾くだろう」と主張したため項羽も「なるほど」と思ったものの、自軍の強大さを頼んで侮り「大したことあるまい」とのんきに構えていた。そんな中で劉邦配下の曹無傷という者が密かに使者を送って「沛公が天下の王になろうとしている」と項羽へ報告した。これを聞いた項羽は「最早疑う余地なし」として四十万騎全軍に命じた。「夜明け次第すぐ沛公本陣へ攻め込み一人残らず討ち取れ」。ここで項羽の叔父・項伯という人物が昔から張良と親交があったため、この計画を知らせて助けたく思い劉邦陣営へ急行し張良を呼び出して言った。「事態は既に差し迫っている。今夜すぐ逃げ去って命をお救いなさい」。しかし元来義理堅かった張良は窮地にあっても生命を塵よりも軽んじる者ゆえ、なぜ危機の時に主君(高祖=劉邦)を見捨てられようかと項伯の言葉を沛公に告げた。驚愕した沛公が「そもそも私軍で項羽と戦う場合勝敗は運次第だろうか?」と問うと、張良は暫く考えて答えた。「漢(劉邦)兵十万騎に対し楚(項羽)四十万騎です。平野での会戦では漢の勝利は困難でしょう」。沛公が「それならば私が項伯を呼び兄弟同然の交わりを結んで婚姻関係も約束し、まず事なきを得るように図ろう」と言った。 解説【鴻門の宴前夜の緊迫した駆け引き】
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| 」とて項伯を帷幕の内へ呼給て、先旨酒を奉じ自寿をなして宣ひけるは、「初我と項王と約を成て先咸陽に入らん者を王とせんと云き。我項王に先立て咸陽に入事七十余日、而れ共約を以て我天下に王たらん事を不思、関に入て秋毫も敢て近付処に非ず。吏民を籍し府庫を封じて項王の来給はん日を待。是世の知る処也。兵を遣して函谷関を守らせし事は、全く項王を防に非ず。他盜人の出入と非常とを備へん為也き。願は公速に帰て、我が徳に不倍処を項王に語て明日の戦を留給へ。我則旦日項王の陣に行て自無罪故を可謝。」と宣ば、項伯則許諾して馬に策てぞ帰にける。項伯則項王の陣に行て具に沛公の謝する処を申けるは、「抑沛公先関中を破らざらましかば、項王今咸陽に入て枕を高し食を安ずる事を得ましや。今天下の大功は然沛公にあり。而るを小人の讒を信じて有功人を討ん事大なる不義也。不如沛公と交を深し功を重じて天下を鎮めんには。」と、理を尽して申ければ、項羽げにもと心服して顔色快く成にけり。暫あれば沛公百余騎を随へて来て項王に見ゆ。仍礼謝して曰、「臣項王と力を勠て秦を攻し時、項王は河北に戦ひ臣は河南に戦ふ。不憶き、万死を秦の虎口に逋れて、再会を楚の鴻門に遂んとは。而るに今佞人の讒に依て臣項王と胡越の隔有らん事豈可不悲乎。 |
そう言って沛公(劉邦)が項伯を陣幕の中へ呼び入れ、まず酒を勧めて自ら杯を取り、「昔私と項王は『先に咸陽に入った者が天下の王となる』という約束を結んだ。私は項王より七十日も早く咸陽入城したのに、その約定通りに自分が天下の王になろうなどとは思わず、関所に入ってからは微細な物にも手をつけなかった。役人の名簿を作り倉庫を封じて、ただ項王のお越しを待っていただけだ。これは世間も知っている事実である。兵を派遣して函谷関を守らせたのは、決して項王を防ぐためではなく、他の盗賊の侵入や突発的な事件に備えたまでのことだ。どうか貴公がすぐ戻って『私(沛公)は誠意に背いていない』と項王へ伝え、明日の戦いを取り止めてもらいたい。私は明朝には自ら項王陣営へ赴き無実であることを謝罪するつもりだ」と言うと、項伯は承知して馬を駆って帰っていった。その後項伯が項羽(項王)の陣に戻ると沛公の弁明内容を詳しく報告した。「そもそも沛公が先に関中を攻め落とさなければ、項王様が今こうして咸陽に入城し安眠や美食を享受できるはずがない。天下平定という大功績はまさに沛公にあるのだ。それなのに小者の讒言を信じて功労者を討とうとするのは大きな不義である。沛公と友好関係を深め協力して天下を治める方が賢明ではないか」と道理を尽くして述べると、項羽はなるほどと心から納得し表情が和らいだ。しばらくすると沛公百余騎の兵士を従えて現れ項王に面会した。そこで礼を尽くして謝罪しながら言った。「私はかつて項王様と力を合わせ秦を攻めた際、項王は河北で戦い私(臣)は河南で戦いました。思いもよらぬことに九死一生の危険から逃れ、再び楚の鴻門でお会いできるとは。しかし今悪者の嘘によって私が項王様と敵対関係に陥りそうだというのは嘆かわしいことではありませんか」。 解説【危機回避を図る劉邦の戦略的弁明】
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| 」と首を著地宣へば、項羽誠に心解たる気色にて、「是沛公の左司馬曹無傷が告知せしに依て頻に沛公を疑き。不然何以てか知事あらん。」と、忽に証人を顕して誠に所存なげなる体、心浅くぞ見へたりける。項羽頻に沛公を留めて酒宴に及ぶ。項王項伯とは東に嚮て坐し、范増は南に嚮たり。沛公は北に嚮て坐し、張良は西嚮て侍り。范増は兼てより、沛公を討ん事非今日ば何をか可期と思ければ、項羽を内へ入て、沛公と刺違へん為に、帯たる所の太刀を拳て、三度まで目加しけれ共、項羽其心を不悟只黙然としてぞ居たりける。范増則座を立て、項荘を呼て申けるは、「我為項王沛公を討んとすれ共項王愚にして是を不悟。汝早席に帰て沛公を寿せよ。沛公盃を傾ん時、我与汝剣を抜て舞ふ真似をして、沛公を坐中にして殺ん。而らずは汝が輩遂に沛公が為に亡されて、項王の天下を奪はれん事は、一年の中を不可出。」と涙を流て申ければ、項荘一義に不及。則席に帰て、自酌を取て沛公を寿す。沛公盃を傾る時、項荘、「君王今沛公と飲酒す。軍中楽を不為事久し。請臣等剣を抜て太平の曲を舞ん。」とて、項荘剣を抜て立。范増も諸共に剣を指かざして沛公の前に立合たり。項伯彼等が気色を見、沛公を討せじと思ければ、「我も共に可舞。 |
そう言って(沛公が)うなだれると、項羽は全く疑念が解けたような表情を見せ、「これは沛公の左司馬である曹無傷が告げ口をしたために、しきりに貴公を疑っていたのだ。さもなければどうして知ることができようか」と言い、突然証人(裏切り者)の名を明かす様子は実にあっさりとした態度で、浅慮に見えた。項羽は熱心に沛公を引き留め酒宴となった。項王と項伯は東向きに座り、范増は南向きだった。沛公は北向きに座し、張良は西向きに控えていた。范増はかねてから「沛公を討つのが今日でなければいつ機会があるのか」と考えていたので、項羽のそばに入って沛公と刺し違えるために帯びた太刀を握り三度も目くばせしたが、項羽はその意図を悟らず黙ったまま座っていた。范増はすぐに席を立ち、項荘を呼んで言うには、「私は項王のため沛公を討とうとするのだが、項王が愚かでそれに気づかない。お前は早く宴席に戻って沛公の長寿を祝え。沛公が杯を傾ける時、私とお前が剣を抜いて舞うふりをし、その場で沛公を殺すのだ。さもなければお前たち一族はいずれ沛公のために滅ぼされ、項王は天下を奪われることになるだろう」と涙ながらに訴えたので、項荘は拒否できなかった。すぐに席へ戻り自ら酒をついで沛公の長寿を祝った。沛公が杯を傾ける時、項荘が「君王(項羽)様が今沛公と飲んでおられるのに、軍中では久しく娯楽がないのでした。どうか私どもに剣を抜いて太平の曲を舞わせてください」と言い、項荘は剣を抜いて立った。范増もまた一緒に剣を構え沛公の前に立ちふさがるようにした。項伯が彼らの様子を見て沛公を殺させまいと思ったので、「私も共に舞おう」と言った。 解説【鴻門宴における緊迫した駆け引きと心理戦】
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| 」とて同又剣を抜て立。項荘南に向へば項伯北に向て立。范増沛公に近付ば項伯身を以て立隠す。依之楽已に徹んとするまで沛公を討事不能。少し隙ある時に張良門前に走出て誰かあると見るに、樊■つと走寄て、坐中の体如何と問ければ、張良、「事甚急也。今項荘剣を抜て舞ふ。其意常に沛公に在。」と答ければ、樊■、「此已に喉迫る也。速に入て沛公と同命を失んにはしかじ。」とて、胄の緒を縮め、鉄の楯を挟て、軍門の内へ入んとす。門の左右に交戟の衛士五百余人、戈を支へ太刀を抜て是を入じとす。樊■大に忿て、其楯を身に横へ門の関の木七八本押折て、内へつと走入れば、倒るゝ扉に打倒され、鉄の楯につき倒されて、交戟の衛士五百人地に臥して皆起あがらず。樊■遂に軍門に入て、其帷幕を掲て目を嗔し、項王をはたと睨で立けるに、頭の髪上にあがりて胄の鉢をゝひ貫き、師子のいかり毛の如く巻て百千万の星となる。眦逆に裂て、光百練の鏡に血をそゝぎたるが如、其長九尺七寸有て忿れる鬼鬚左右に分れたるが、鎧突して立たる体、何なる悪鬼羅刹も是には過じとぞ見へたりける。項王是を見給て、自剣を抜懸て跪て、「汝何者ぞ。」と問給へば、張良、「沛公の兵に樊■と申者にて候也。」とぞ答ける。 |
そう言って項伯もまた剣を抜いて立ち上がった。項荘が南に向かうと項伯は北に向き立つ。范増が沛公に近づくと項伯は自ら身をもって遮る。そのため宴席の終わる時まで沛公殺害はできなかった。少し隙を見て張良が門前に飛び出し誰かいるか見ると、樊噲(ファン・クァイ)が駆け寄り「宴席の様子はどうだ」と尋ねたので、張良は「事態は極めて緊急だ。今項荘が剣を抜いて舞っているが、その狙いは常に沛公にある」と答えた。すると樊噲は「これはもう喉元まで迫った危機だ。すぐ中に入り沛公と運命を共にする覚悟で行こう」と言い、兜の紐を締め鉄の盾を持って軍門の中へ入ろうとした。門の左右に戟(ほこ)を持つ衛兵五百余人が矛を構え刀を抜いて彼を入れまいとする。樊噲は大いに怒りその盾を体に横たえて門扉の木七八本を押し折り、中へ突進したところ倒れた戸板に叩きつけられ鉄の盾で地面を打ったため戟を持つ衛兵五百人は地に伏して全員起き上がれなかった。樊噲は遂に軍営内に入ると幕をかき分けて目をつり上げ項王(項羽)を睨み据えて立っていたが、その髪の毛は逆立ち兜の鉢を突き破って獅子の鬣のように巻き上がり無数の星のような光を放ち、目の端は裂けんばかりに血走った百練の鏡にも似て輝いている。身長九尺七寸あり怒りの鬼ひげが左右に分かれ鎧をつけて立つ様子はどんな悪鬼羅刹もこれには及ぶまいと思われた。項王が見ると自ら剣を抜いて膝まずき「お前は何者だ」と尋ねられたので、張良が「沛公配下の樊噲という者でございます」と答えた。 解説【鴻門宴クライマックス:劇的な介入と身体描写】
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| 項羽其時に居直て、「是天下の勇士也。彼に酒を賜はん。」とて、一斗を盛る巵を召出して樊■が前にをき、七尾許なる■の肩を肴にとつて出されたり。樊■楯を地に覆剣を抜て■の肩を切て、少も不残噛食て巵に酒をたぶ/\と受て三度傾け、巵を閣て申けるは、「夫秦王虎狼の心有て人を殺し民を害する事無休時。天下依之秦を不背云者なし。爰に沛公と項王と同く義兵を揚、無道の秦を亡して天下を救はん為に、義帝の御前にして血をすゝりて約せし時、先秦を破て咸陽に入らん者を王とせんと云き。然るに今沛公項王に先立て咸陽に入事数月、然共秋毫も敢て近付る所非ず。宮室を封閉して以て項王の来給はん事を待、是豈沛公の非仁義乎。兵を遣して函谷関を守しめし事は、他の盜人の出入と非常とに備へん為也き。其功の高事如此。未封侯の賞非ずして剰有功の人を誅せんとす。是亡秦の悪を続で自天の罰を招く者也。」と、少も不憚項王を睨て申せば、項王答るに言ば無して只首を低て赤面す。樊■は加様に思程云散して、張良が末座に著。暫有て沛公厠に行真似して、樊■を招て出給ふ。潜に樊■に向て、「先に項荘が剣を抜て舞つる志偏に吾を討んと謀る者也。座久して不帰事危に近し。是より急我陣へ帰らんと思ふが、不辞出ん事非礼。 |
項羽はその場ですぐに態度を改め、「これは天下の勇士だ。彼に酒を与えよ」と言い、一斗も入る大きな杯を取り出して樊噲の前に置き、七斤ほどもある鹿の肩肉をおかずとして差し出した。樊噲は盾を地面に伏せ剣を抜いて鹿の肩肉を切り分け、少しも残さず食いちぎりながら酒を受け杯にあふれんばかり注ぎ三度飲み干すと、杯を置いて言った。「そもそも秦王には虎狼のような心があり人を殺し民を苦しめることが絶えなかった。天下の者がこれで秦に背かない者はいない。ここで沛公が項王と同じく義兵を挙げ無道な秦を滅ぼして天下を救うため、義帝(懐王)の御前で血をすすり固く盟約した時『先に秦を破って咸陽に入った者を王とする』と誓われた。ところが今沛公は項王より数カ月早く咸陽入城したのに微細なものすら手をつけなかった。宮殿を封鎖して項王の到着をお待ち申し上げているのは、これ沛公の仁義に欠けることだろうか。兵を遣わし函谷関を守らせたのは他の盗賊が侵入する非常事態への備えである。その功績はこのように高いのに未だ褒賞すらない上さらに功臣を殺そうとするとは、これは秦帝国の悪政を継いで自ら天罰を招く者の所業です」と少しも恐れず項王を見据えて訴えたので項羽は返答できずただうつむいて顔を赤らめた。樊噲はこうして存分に言いたいことを述べ終えると張良の末席へ座った。しばらくすると沛公が厠(トイレ)に行くと見せかけて樊噲を呼び出された。(沛公は)密かに樊噲に向かい「さきほど項荘が剣舞したのは明らかに私を殺そうという謀だ。ここに長く留まれば危険だから急いで陣営へ帰りたいのだが挨拶せず退出するのも無礼である。 解説【鴻門宴決定的局面:樊噲の弁舌と項羽敗北】
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| 如何すべき。」と宣へば、樊■、「大行は不顧細謹、大礼は不必辞譲、如今人は方に為刀俎、我は為魚肉、何ぞ辞することをせんや。」とて、白璧一双と玉の巵一双とを張良に与て留置き、驪山の下より間道を経て、竜蹄に策を進め給へば、■強・紀信・樊■・夏侯嬰四人、自楯を挟み戈を採て、馬の前後に相順ふ。其道二十余里、嶮きを凌ぎ絶たるを渡て、半時を不過覇上の陣に行至りぬ。初め沛公に順ひし百余騎の兵共は、猶項王の陣の前に並居て、張良未鴻門にあれば人皆沛公の帰給へるを不知。暫有張良座に返て謝して曰、「沛公酔て坏を酌に不堪、退出し給ひ候つるが、臣良をして、謹で足下に可献之と被申置。」とて、先白璧一双を奉て、再拝して項王の前にぞ置たりける。項王白璧を受て、「誠に天下の重宝也。」と感悦して、坐上に置て自愛し給ふ事無類。其後張良又玉斗一双を捧て范増が前にぞ置たりける。范増大に忿て、玉斗を地に投剣を抜て突摧き、項王をはたと睨て、「嗟豎子不足与謀奪項王之天下者必沛公なるべし。奈何せん吾属今為之虜とならん事。白璧重宝也といへ共豈天下に替んや。」とて、怒る眼に泪を流し半時ばかりぞ立たりける。項王猶も范増が心を不悟、痛く酔て帳中に入給へば、張良百余騎を順て覇上に帰りぬ。 |
沛公(劉邦)はどうすればよいかとお尋ねになると、樊噲は言った。「大事を成すには細かい礼儀にこだわらず、大義のためには辞去する必要もありません。今や敵方は包丁まな板となり、我々は魚肉となっているのですから、どうして挨拶などしている場合でしょうか」。そう言って白璧(白玉)一対と玉杯一双を張良に渡し残しておき、驪山の麓からの小道を通り龍蹄馬に鞭打ち急いだ。樊噲・紀信・樊■・夏侯嬰ら四人は盾を持ち矛を取って馬の前後に付き従った。その道二十里余りの険しい断崖を越え、わずか半時(約1時間)で覇上の陣営に到着した。最初に沛公に同行していた百騎あまりの兵士たちは依然として項羽軍の前に居並んでいたが、張良がまだ鴻門に残っていたため誰も沛公が帰還されたことを知らなかった。 しばらくして張良が宴席へ戻り謝罪して言うには、「沛公は酔っぱらい杯を持つこともできず退出なさいました。臣(私)の張良を、謹んで貴殿に献上すべきものがあるとお伝えするよう申し付けられておりました」と言い、まず白璧一対を捧げ二度拝礼して項王の前に置いた。項羽は白璧を受け取ると「まことに天下の重宝だな」と感激し、座席に置いて大切になさる様子が並ぶ者もないほどだった。 その後張良が再び玉斗(杯)一双を捧げて范増の前に置くと、范増は大いに怒って玉斗を地面へ投げつけ剣を抜き叩き壊し、項王を睨みながら言った。「ああ愚かな者よ。共に謀るには足りぬ! 項王の天下を奪う者は必ず沛公であろう。どうしようもないわが身は今や彼の虜となりそうだ。白璧が重宝とはいえ、それで天下と交換できるものか」。怒りの目から涙を流し半時ほど立ち尽くしていた。 項王は依然として范増の心に気づかず、深く酔って陣幕の中に入られたので張良は百余騎を従えて覇上へ帰還した。 解説【鴻門宴最終局面:脱出成功と決定的対立】
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| 沛公の軍門に至て、項王の方へ返忠しつる曹無傷を斬て、首を軍門に被懸。浩りし後は沛公項王互に相見ゆる事なし。天下は只項羽が成敗に随て、賞罰共に明ならざりしかば、諸侯万民皆共、沛公が功の隠れて、天下の主たらざる事をぞ悲みける。其後項羽と沛公と天下を争気已に顕れて、国々の兵両方に属せしかば、漢楚二に分れて四海の乱無止時。沛公をば漢の高祖と称す。其手に属する兵には、韓信・彭越・蕭何・曹参・陳平・張良・樊■・周勃・黥布・盧綰・張耳・王陵・劉賈・■商・潅嬰・夏侯嬰・傅寛・劉敬・■強・呉■・■食其・董公・紀信・轅生・周苛・侯公・随何・陸賈・魏無知・斉孫通・呂須・呂巨・呂青・呂安・呂禄以下の呂氏三百余人都合其勢三十万騎、高祖の方にぞ属しける。楚の項羽は元来代々将軍の家也ければ、相順ふ兵八千人あり。其外今馳著ける兵には、櫟陽長史欣・都尉董翳・塞王司馬欣・魏王豹・瑕丘申陽・韓王・成・趙司馬■・趙王歇・常山王張耳・義帝柱国共敖・遼東韓広・燕将臧荼・田市・田都・田安・田栄・成安君陳余・番君将梅■・雍王章邯、是は河北の戦ひ破れて後、三十万騎の勢にて項羽に降て属せしかば、項氏十七人、諸侯五十三人、都合其勢三百八十六万騎、項王の方にぞ加りける。 |
沛公(劉邦)は陣営に戻り着くと、項王のもとへ裏切った曹無傷を斬り首を軍門にかけた。その後は沛公と項羽が互いに会うことはなかった。天下ではただ項羽の采配に従い賞罰も不明確だったため、諸侯や民衆すべては共に、沛公の功績が埋もれて天下の主とならないことを悲しんだ。 その後項羽と沛公との天下争いはすでにはっきり表れ、各国の兵たちが両方へ加担したので漢と楚二つに分かれ四海(天下)は乱れ止む時がない。沛公を漢の高祖と呼ぶようになった。その配下についた軍勢では韓信・彭越・蕭何・曹参・陳平・張良・樊噲・周勃・黥布・盧綰・張耳・王陵・劉賈・灌嬰(■商)・夏侯嬰・傅寛・劉敬・靳強(■強)・呉芮(呉■)・酈食其(■食其)・董公・紀信・轅生・周苛・侯公・随何・陸賈・魏無知・叔孫通(斉孫通?誤記か)・呂須・呂巨・呂青・呂安・呂禄以下の呂氏三百余人、合計その勢い三十万騎が高祖側に加わった。 楚の項羽は元々代々将軍の家柄なので従う兵八千人いた。それ以外に新たに馳せ参じた兵では櫟陽長史欣(司馬欣)・都尉董翳・塞王司馬欣・魏王豹・瑕丘申陽・韓王成・趙相国張耳(■)・趙王歇・常山王張耳・義帝柱国共敖・遼東韓広・燕将臧荼・田市・田都・田安・田栄・成安君陳余・番君呉芮の部将梅鋗(■)・雍王章邯、これらは河北での戦いに敗れた後三十万騎という勢力で項羽に降伏して属していたので、項氏一族十七人と諸侯五十三人が加わり合計その勢い三百八十六万騎が項王側についた。 解説【楚漢抗争勃発:両陣営の決定的構図】
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| 漢の二年に項王城陽に至て、高祖の兵田栄と戦ふ。田栄が軍破れて降人に出ければ、其老弱婦女に至るまで、二十万人を土の穴に入て埋て是を殺す。漢王又五十六万人を卒して彭城に入る。項羽自精兵三万人を将て胡陵にして戦ふ。高祖又打負ければ、楚則漢の兵十余万人を生虜て■水の淵にぞ沈めける。■水為之不流。高祖二度戦負て霊壁の東に至る時、其勢纔に三百余騎也。項王の兵三百万騎、漢王を囲ぬる事三匝、漢可遁方も無りける処に、俄に風吹雨荒して、白日忽に夜よりも尚暗かりければ、高祖数十騎と共に敵の囲を出て、豊沛へ落給ふ。是を追て沛郡へ押寄ければ、高祖兵共爰に支へ彼こに防で、打死する者二十余人、沛郡の戦にも又漢王打負給ひければ、高祖の父大公、楚の兵に虜れて項王の前に引出さる。漢王又周呂侯と蕭何が兵を合せて二十万余騎、■陽に至る。項王勝に乗て八十万騎彭城より押寄て相戦ふ。此時漢の戦纔に雖有利、項王更に物共せず。漢楚互に勢を振て未重て不戦、共に広武に張陣川を隔てぞ居たりける。或時項王の陣に高き俎を作て、其上に漢王の父大公を置て高祖に告て云く、「是沛公が父に非や。沛公今首を延て楚に降らば太公と汝が命を助ん。沛公若楚に降らずは、急に大公を可烹殺。 |
漢の二年に項王(項羽)が城陽へ進軍し、高祖(劉邦)の同盟者である田栄と戦った。田栄の軍は敗れて降伏を申し出たが、その老若男女に至るまで二十万人を穴に埋めて殺した。漢王(劉邦)は五十六万の兵を率いて彭城に入城する。項羽自ら精鋭三万を指揮して胡陵で迎え撃ち、高祖はまた敗北し、楚軍が漢兵十余万人を捕虜にして泗水(■水)に沈めたため川の流れが止まった。 高祖が二度続けて敗れて霊壁の東へ逃れた時、その兵力はわずか三百騎余りだった。項王の三百万騎が三重に包囲し脱出路を絶たれた瞬間、突然暴風雨が起こって昼間も夜よりも暗くなったため、高祖は数十騎と共に敵陣を突破して豊沛へ落ち延びた。これを追撃した楚軍が沛郡へ迫ると、高祖の兵士二十人余りが防戦して討死し、ここでも漢王は敗北された。 この結果、高祖の父である太公(劉太公)が楚軍に捕らえられ項王の面前へ引き出される。一方で漢王は周呂侯(呂沢)と蕭何の兵を合わせて二十万余騎となり泗陽(■陽)へ到着した。項羽は勝ちに乗じて八十万騎を率い彭城から押し寄せ激突するが、この戦いは一進一退で決着つかず、両軍は広武山に対陣して川を隔てて膠着状態となった。 ある時項王の陣営では高い俎(まないた)を作り、その上に太公を置いて高祖へ通告した。「これは沛公の父ではないのか? 今すぐ楚に降伏すれば命は助ける。もし拒むなら直ちに煮殺す。」 解説【項羽の暴虐と劉邦絶体絶命】
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| 」とぞ申ける。漢王是を聞て、大に嘲て云、「吾項羽と北面にして命を懐王に受し時、兄弟たらん事を誓き。然れば吾父は即汝が父也。今而に父を烹殺さば幸に我に一盃の羹を分て。」と、欺れければ、項王大に怒て即大公を殺さんとしけるを、項伯堅諌ければ、「よしさらば暫し。」とて、大公を殺事をば止めてけり。漢楚久相支て未勝負を決、丁壮は軍旅に苦み老弱は転漕に罷る。或時項羽自甲胄を著し戈を取、一日に千里を走る騅と云馬に打乗て、只一騎川の向の岸に控て宣けるは、「天下の士卒戦に苦む事已に八箇年、是我と沛公と只両人を以ての故也。そゞろに四海の人民を悩さんよりは、我と沛公と独身にして雌雄を決すべし。」と招て、敵陣を睨でぞ立たりける。爰に漢皇自帷幕の中より出て、項王をせめて宣けるは、「夫項王自義無して天罰を招く事其罪非一。始項羽と与に命を懐王に受し時、先入て関中を定めたらん者を王とせんと云き。然を項羽忽に約を背て、我を蜀漢に主たらしむ。其罪一。宋義、懐王の命を受て卿子冠軍となる処に、項羽乱に其帷幕に入て、自卿子冠軍の首を斬て、懐王我をして是を誅せしめたりと偽て令を軍中に出す。其罪二。項羽趙を救て戦利有し時、還て懐王に不報、境内の兵を掃て自関に入る。 |
項羽のこの言葉を聞いた漢王(劉邦)は、大笑いしながら言った。「私はかつて項羽と共に懐王に臣従した時、兄弟になる誓いを交わした。それゆえ私の父はお前の父でもあるのだ。もし今その父を煮殺すなら、幸いに一杯の汁物(羹)を分けてくれよ。」この挑発的な言葉に項羽は激怒し、すぐさま太公を殺そうとしたが、側近の項伯が強く諫めたため、「では暫く待て」と言って処刑を取りやめた。 漢軍と楚軍は長期間対峙して決着がつかず、壮年者は戦場で苦労し老人弱者は物資輸送に疲弊していた。ある時項羽自ら甲冑を身につけ矛を持ち、「千里を一日で走る」という名馬・騅(ウツイ)に騎乗して川の対岸に現れ、宣言した。「天下の兵士たちが戦争に苦しむこと既に八年になるのは、私と沛公ただ二人のためだ。無意味に民衆を困らせるよりは、我々二人だけで勝負をつけようではないか。」そう言って敵陣を見据え立っていた。 その時漢王(劉邦)が陣幕の中から出てきて項羽を非難して述べた。「そもそも項羽よ、お前が無道ゆえに天罰を受ける罪は一つや二つではない。第一の罪:最初に懐王と誓約した時『関中を平定する者を王者とする』と言ったのに、あっさり約束を破って私を蜀漢(辺境)へ追いやったことだ。第二の罪:宋義が懐王の命で卿子冠軍となっていた時に乱暴にも彼の陣幕に侵入し首を斬り落とし、『懐王はこれを処刑せよと命令した』と偽って軍中に触れ回ったことだ。第三の罪:項羽が趙救援戦で勝利を得た後も懐王へ報告せず、領内の兵士全てを連れて独断で関中に入ったことである。」 解説【心理戦と正統性闘争の深層】
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| 其罪三。懐王堅く令すらく、秦に入らば民を害し財を貪る事なかれと。項羽数月をくれて秦に入し後、秦の宮室を焼き、驪山の塚を堀て其宝玉を私にせり。其罪四。又降れる秦王子嬰を殺して、天下にはびこる。其罪五。詐て秦の子弟を新安城の坑に埋て殺せる事二十万。其罪六。項羽のみ善地に王として故主を逐誅たり。畔逆是より起る。其罪七。懐王を彭城に移して韓王の地を奪、合せて梁楚に王として自天下を与り聞く。其罪八。項羽人をして陰に懐王を江南に殺せり。其罪九。此罪は天下の指所、道路目を以てにくも者也。大逆無道の甚事、天豈公を誡刑せざらんや。何ぞいたづがはしく、項羽と独身にして戦ふ事を致さん。公が力山を抜といへ共我義の天に合るには如じ。而らば刑余の罪人をして甲兵金革をすて、挺楚を制して、項羽を可撃殺。」と欺て、百万の士卒、同音に箙を敲てどつと笑ふ。項羽大に怒て自強弩を引て漢王を射る。其矢河の面て四町余を射越して漢王の前に控たる兵の、鎧の草摺より引敷の板裏をかけず射徹し、高祖の鎧の胸板に、くつまき責てぞ立たりける。漢の兵に楼煩と云けるは、強弓の矢継早、馬の上の達者にて、三町四町が中の物をば、下針をも射る程の者也けるが、漢王の当の矢を射んとて矢比過て懸出たりけるを、項羽自戟を持て立向ひ、目を瞋かし大音声を揚て、「汝何者なれば、我に向て弓を引んとはするぞ。 |
劉邦は続けて告発した。「第四の罪:懐王が厳命していた『秦に入ったら民を害し財産を貪るな』という令に反し、項羽は数か月後に秦へ侵攻して宮殿を焼き払い驪山陵墓を掘り返し宝玉を私物化した。第五の罪:降伏した秦王・子嬰を殺害し天下に悪行が蔓延する原因となった。第六の罪:騙して秦兵二十万人を新安城で生き埋めにした。第七の罪:自分だけ有利な地を支配し旧主君(懐王)を追放・謀殺させたため反乱が起こる元凶となった。第八の罪:懐王を彭城へ移して韓王から領土を奪い、勝手に梁と楚で天下を掌握した。第九の罪:密かに懐王を江南で暗殺するよう指示したのだ。これらの罪は全天下が指弾し道行く人々さえ憎む悪業である。大逆無道この上ない天罰を逃れられると思うか? なぜ分不相応にも私と一騎打ちなど申すのか。お前の怪力(山をも引き抜くと謳われる)も、我が義戦が天に叶うことには及ばぬ! ならば罪人めが自ら甲冑を脱ぎ捨て降伏し、楚全体を制圧して項羽を討ち果たすよう命じる。」この言葉に百万の兵士が一斉に矢筒を叩いて爆笑した。 激怒した項羽はみずから強力な弩弓を引き絞り劉邦目掛けて放つと、矢は川面を四町(約400m)以上飛び越え、漢王の前に控える兵士の鎧裾から下腹部まで貫通し、さらに高祖の胸当てに深々と突き刺さった。この時、楼煩という名の弓の達人がいたが、彼は強弓を素早く扱い馬上で三~四町先の的も確実に射抜く腕前であったため漢王狙撃を試みようとしたところへ項羽自ら戟を持って立ち塞がり、目を見開いて怒鳴った。「おまえは何者だ? 我に向かって弓を引こうとは何事か!」 解説【レトリック戦争と身体性の対比】
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| 」と怒てちやうどにらむ。其勢に僻易して、さしもの楼煩目敢て物を不見、弓を不引得人馬共に振ひ戦て、漢王の陣へぞ逃入ける。漢王疵を蒙て愈を待程に、其兵皆気を失ひしかば、戦毎に楚勝に不乗云事なし。是只范増が謀より出て、漢王常に囲まれしかば、陳平・張良等、如何にもして此范増を討んとぞ計りける。或時項王の使者漢王の方に来れり。陳平是に対面して、先酒を勧めんとしけるに、大■の具へを為て山海の珍を尽し旨酒如泉湛て、沙金四万斤、珠玉・綾羅・錦綉以下の重宝、如山積上て、引出物にぞ置たりける。陳平が語る詞毎に、使者敢て不心得、黙然として答る事無りける時に、陳平詐驚て、「吾公を以て范増が使也と思て密事を語、今項王の使なる事を知て、悔るに益なし。是命を伝る者の誤也。」と云て、様々に積置ける引出物を皆取返し、大■の具へを取入て、却て飢口にだにもあきぬべき、悪食をぞ具へける。使者帰て此由を項王に語る。項王是より范増が漢王と密儀を謀て、返忠をしけるよと疑て、是が権を奪て誅せん事を計る。范増是を聞て、一言も遂に不陳謝。「天下の事大に定ぬ。君王自是を治め給へ。我已に年八十余、命の中に君が亡んを見ん事も可悲。只願は我首を刎て市朝に被曝歟、不然鴆毒を賜て死を早せん。 |
項羽に睨まれた楼煩はその威圧感に恐れおののき、目も上げられず弓を引くこともできず、人馬共によろめいて漢王の陣へ逃げ戻った。劉邦が傷を負い回復を待つ間、兵士たちは戦意を失っていたため、戦うたびに楚軍が勝利するようになった。これは全て范増(項羽の参謀)の策略によるもので、常に漢王軍が包囲されていたので陳平と張良らは何とかしてこの范増を除こうと画策していた。 ある時、項羽の使者が漢王のもとに来た。陳平はこれに対面し酒でもてなそうとしたところ、豪華な食器で山海の珍味を尽くし美酒があふれんばかりに用意されていた。さらに沙金四万斤や珠玉・綾羅・錦繍などの宝物が山のように積まれ引出物として準備されていた。陳平の発言に対し使者は全く理解できず黙り込んでいると、突然驚いたふりをして「私は貴方を范増様の使者と思い密談しようとしたのに、まさか項王様の使者とは! 伝令が間違えたのだ」と言うや積み上げた引出物を全て取り戻し、豪華な食器も片づけてしまった。代わりに飢えを凌ぐのも難しい粗末な食事だけを与えた。 使者が帰りこの件を報告すると、項羽は范増が劉邦と内通しているのではないかと疑い始め、彼の権限剥奪と処刑を企てた。これを知った范増は一言も弁解せず「天下の大勢はすでに定まった。君主(項羽)よご自身で統治なされ。私は八十余歳、生きながら君が滅びる姿を見るのは悲しいことだ。願わくば私の首を斬り市に晒してほしい。さもなくば毒薬を与え早く死なせてくれ」と述べた。 解説【離間工作と忠臣の末路】
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| 」と請ければ、項王弥瞋て鴆毒を呑せらる。范増鴆を呑て後未三日を不過血を吐てこそ死にけれ。楚漢相戦て已に八箇年自相当る事七十余度に及ぶまで、天下楚を背といへ〔共〕、項羽度ごとに勝に乗し事は、只楚の兵の猛く勇めるのみに非ず。范増謀を出して民をはぐゝみ、士を勇め敵の気を察し、労せる兵を助け化を普く施して、人の心を和せし故也。されば范増死を賜し後、諸侯悉楚を負て漢に属せる者甚多し。漢楚共に■陽の東に至て久相支へたる時に、漢は兵盛に食多して楚は兵疲れ食絶ぬ。此時漢の陸賈を楚に使して曰、「今日より後は天下を中分して、鴻溝より西をば漢とし東をば楚とせん。」と和を請給ふに、項王悦て其約を堅し給ふ。仍先に生取て戦の弱き時には、是を烹殺さんとせし漢王の父太公を緩して、漢へぞ送られける。軍勢皆万歳を呼ふ。角て楚は東に帰り漢は西に帰らんとしける時、陳平・張良共に漢王に申けるは、「漢今天下の太半を有て諸侯皆付順ふ。楚は兵罷て食尽たり。是天の楚を亡す時也。此時不討只虎を養て自患を遺侯者なるべし。」漢王此諌に付て即諸候に約し、三百余万騎の勢にて項王を追懸給ふ。項羽僅十万騎の勢を以て固陵に返し合て漢と相戦ふ。漢の兵四十余万人討れて引退く。 |
范増が懇願すると、さらに激怒した項羽は彼に毒薬を飲ませた。范増は毒を飲んでから三日も経たぬうちに血を吐いて死んだ。楚と漢が戦い始めてすでに八年、直接対決七十回以上にも及ぶ中、天下の諸侯が楚に背こうとも項羽が常勝したのは、単なる兵士の勇猛さだけが理由ではない。范増が策略を練り民を養い、兵士を鼓舞して敵情を見抜き、疲れた軍勢を助けて恩恵を行き渡らせ人心を和らげたからである。そのため范増が死んだ後、諸侯の多くが楚に背いて漢についた。 両軍は滎陽(けいよう)の東で長く対峙していた時、漢軍は兵糧豊富だが楚軍は疲弊し食料が尽きた。この時劉邦は陸賈を使者として送り「これから天下を二分しよう。鴻溝より西を漢領、東を楚領とすることで和睦したい」と提案した。項羽は喜んで承諾し、以前捕らえていた(戦いで弱った時に煮殺そうとした)劉邦の父・太公を解放して漢に送り返した。全軍が万歳を叫んだ。 こうして楚が東へ帰還し漢も西へ戻ろうとした時、陳平と張良は揃って進言した。「漢はすでに天下の大半を持ち諸侯はみな従っています。一方楚兵は疲れ食料尽きています。これは天が楚を滅ぼそうとする時です。今討たねば虎を飼い自ら災い育てるようなものです」。劉邦はこの助言を受け、諸侯と盟約して三百余万騎の大軍で項羽追撃にかかった。項羽はわずか十万騎で固陵に布陣し対峙したが、漢兵四十万余りを討ち取って撃退した。 解説【范増死後の決定的転換】
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| 是を聞て韓信、斉国の兵三十万騎を卒して、寿春より廻て楚と戦ふ。彭越、彭城の兵二十万騎を卒して、城父を経て楚の陣へ寄せ、敵の行前を遮て張陣。大司馬周殷、九江の兵十万騎を卒して、楚の陣へ押寄せ水を阻て取篭る。東南西北悉百重千重に取巻たれば、項羽可落方無て、垓下の城にぞ被篭ける。漢の兵是を囲める事数百重、四面皆楚歌するを聞て項羽今宵を限と思はれければ、美人虞氏に向て、泪を流し詩を作て悲歌慷慨し給ふ。虞氏悲に不堪、剣を給て自其刃に貫れて臥ければ、項羽今は浮世に無思事と悦て、夜明ければ、討残されたる兵二十八騎を伴ふて、先四面を囲みぬる漢の兵百万余騎を懸破り、烏江と云川の辺に打出給ひ、自泪を押て其兵に語て曰、「吾兵を起してより以来、八箇年の戦に、自逢事七十余戦、当る所は必破る、撃つ所は皆服す。未嘗より一度も不敗北遂に覇として天下を有てり。然共今勢ひ尽力衰へて漢の為に被亡ぬる事、全非戦罪只天我を亡す者也。故に今日の戦に、我必快く三度打勝て、而も漢の大将の頚を取、其旗を靡かして、誠に我言処の不誤事を汝等にしらすべし。」とて、二十八騎を四手に分、漢の兵百万騎を四方に受て控へたる処に、先一番に漢の将軍淮陰侯、三十万騎にて押寄たり。 |
范増が願うと、さらに激怒した項羽は彼に毒薬を飲ませた。范増はその毒を飲んでから三日も経たないうちに血を吐いて死んだ。楚と漢が戦い始めてすでに八年になり、直接対決七十回以上にも及ぶ中、天下の諸侯が楚に背こうとも項羽が常勝したのは、単なる兵士の勇猛さだけによるものではない。范増が策略を練り民衆を養い、兵士を鼓舞して敵情を見抜き、疲れた軍隊を助け恩恵を行き渡らせ人心を得たからである。そのため范増が死んだ後は多くの諸侯が楚に背いて漢についた。 両軍は滎陽の東で長く対峙していた時、漢軍は兵力充実し食糧豊富だったが、楚軍は兵士疲弊して食料が尽きていた。この時劉邦は陸賈を使者として送り「今後は天下を二分しよう。鴻溝より西側を漢領土とし東側を楚領土とする」と和睦を提案した。項羽は喜んでこれを受け入れ、以前捕らえていた(戦いで劣勢になった時に煮殺そうとした)劉邦の父・太公を解放して漢に送り返した。全軍が万歳を叫んだ。 こうして楚軍が東へ帰還しようとし漢軍も西へ戻ろうとした時、陳平と張良は揃って進言した。「漢は現在天下の大半を占め諸侯全てが従っています。一方で項羽軍は疲れ食料尽きています。これは天が楚を滅ぼそうとする時です。今攻撃せず見逃すのは猛虎を飼い後々禍根を残すようなものです」。劉邦はこの助言を受け入れ直ちに諸侯と協定し、三百余万騎の大軍で項羽追撃を開始した。項羽はわずか十万騎ほどの兵力で固陵へ引き返して対峙し戦った結果、漢兵四十万余りが討たれて撤退した。 解説【和睦劇と垓下への伏線】
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| 項羽二十八騎を迹に立て、真前に懸入て、自敵三百余騎斬て落し、漢大将の首を取て鋒に貫て、本の陣へ馳返り、山東にして見給へば、二十八騎の兵、八騎討れて二十騎に成にけり。其勢を又三所に控へさせて、近く敵を待懸たるに、孔将軍二十万騎、費将軍五十万騎にて東西より押寄たり。項王又大に呼て山東より馳下、両陣の敵を四角八方へ懸散し、逃る敵五百余人を斬て落し、又大将都尉が頭を取、左の手に提て、本の陣へ馳返り、其兵を見給ふに纔七騎に成にけり。項羽自漢の大将軍三人の頭を鋒に貫て指揚、七騎の兵に向て、「何に汝等我言所に非ずや。」と問給へば、兵皆舌を翻て、「誠に大王の御言の如し。」と感じける。項羽已に五十余箇所疵を被てければ、「今は是までぞ、さらば自害をせん。」とて、烏江の辺に打臨給ふ。爰に烏江の亭の長と云者、舟を一艘漕寄せて、「此川の向は項王の御手に属して、所々の合戦に討死仕りし兵共の故郷にて候。地狭しといへ共其人数十万人あり。此舟より外は可渡浅瀬もなく、又橋もなし。漢の兵至る共、何を以てか渡る事を得ん。願は大王急ぎ渡て命をつぎ、重て大軍を動かして、天下を今一度覆し給へ。」と申ければ、項王大に哈て、「天我を亡せり。我何んか渡る事をせん。 |
これ(固陵での漢軍敗退)を聞いて韓信は、斉国の兵三十万騎を率い寿春から回り込み楚と戦った。彭越は彭城の兵二十万騎を率い城父経由で楚陣に迫り、敵の進路を遮って布陣した。大司馬周殷は九江の兵十万騎を率いて楚陣へ押し寄せ水辺で阻み包囲した。四方(東西南北)が百重千重にも取り巻いたため項羽には逃げ場がなく、垓下の城に籠もった。漢軍はこれを数百重に囲んだ上、四面から皆「楚歌」(故郷の歌)を聞かせたので、項羽は今夜限りと覚悟し、美人虞氏に向かい涙を流して詩を作って悲壮な歌を詠み嘆いた。虞氏は悲しみに耐えきれず剣を受け取り自ら刃で貫いて倒れたため、項羽はもはや現世に未練なしと悟った。 夜が明けると生き残りの兵二十八騎を伴い、まず四面を取り巻く漢軍百万余騎に向かって突破し烏江という川の辺りへ打ち出た。涙を押さえその兵たちに言うには、「我々は挙兵以来八年間で七十回以上の戦いに臨み、向かえば必ず破り撃てば皆従った。一度も敗北せず遂に覇者として天下を持ったのに今や力尽き漢のために滅ぼされるのは全く戦の罪ではない天が我を亡ぼすのだ。故に今日は三度快勝し、大将の首を取り旗を奪い私の言葉が正しいと証明する」と言って二十八騎を四手(四面)に分け、百万騎の漢軍四方に向けて待ち受けた時、最初に漢将軍淮陰侯韓信が三十万騎で押し寄せた。 解説【垓下決戦と項羽最期への序章】
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| 我昔江東の子弟八千人と此川を渡て秦を傾け、遂に天下に覇として賞未士卒に不及処に、又高祖と戦ふ事八箇年、今其子弟一人も還る者無して、我独江東に帰らば、縦江東の父兄憐で我を王とすとも、我何の面目有てか是に見ゆる事を得ん。彼縦不言共、我独心に不愧哉。」とて、遂に河を不渡給。され共、亭の長が其志を感じて、騅と云ける馬の一日に千里を翔るを、只今まで乗給ひたるを下て、亭の長にぞたびたりける。其後歩立に成て、只三人猶忿て立給へる所へ、赤泉侯騎将として二万余騎が真前に進み、項王を生取んと馳近付。項王眼を瞋し声を発して、「汝何者なれば我を討んとは近付ぞ。」と忿て立向給ふに、さしもの赤泉侯其人こそあらめ、意なき馬さへ振ひ戦て、小膝を折てぞ臥たりける。爰に漢の司馬呂馬童が遥に控たりけるを、項王手を挙て招き、「汝は吾年来の知音也。我聞、漢我頭を以て千金の報万戸の邑に購と、我今汝が為に頭を与て、朋友の恩を謝すべし。」と云。呂馬童泪を流して敢て項羽を討んとせず。項羽、「よしやさらば我と我頚を掻切て、汝に与へん。」とて、自剣を抜て己が首を掻落し、左の手に差挙て立すくみにこそ死給ひけれ。項王遂に亡て、漢七百の祚を保し事は、陣平・張良が謀にて、偽て和睦せし故也。 |
項羽は二十八騎の兵士たちと共に前進し、敵三百余騎を斬り伏せて漢軍大将の首を取り槍先に貫き、自陣へ引き返した。山東を見渡すと、兵は八騎討たれ二十騎になっていた。再び三方向に分けて待ち構えていると、孔将軍二十万騎と費将軍五十万騎が東西から押し寄せてきた。項王は大声をあげ山東から駆け下り両陣の敵を散々に打ち破り、逃げる五百余人を斬り伏せ、また大将都尉の首を取り左手で掲げて自陣へ戻ると兵士はわずか七騎になっていた。項羽は漢軍三人の将軍の首を槍先に貫き高く掲げ「私の言葉が嘘だったか?」と尋ねると、皆舌を巻いて「まさに大王のお言葉通り」と感嘆した。 全身五十余ヶ所に傷を負った項羽は「これまでだ。自害しよう」と言い烏江の岸辺へ向かった。そこへ烏江の亭長が船一艘を漕ぎ寄せ「川の向こうは元々大王の領地で、戦死した兵士たちの故郷です。土地こそ狭いものの数十万の民が待っています。この船を使えば漢軍に追いつかれませんから急いで渡り再起を図ってください」と進言すると、項羽は大笑いして「天が私を見放したのだ。渡る必要などない!」と拒んだ。 「昔私は江東の子弟八千人と共にこの川を渡り秦を倒し天下を制したが恩賞を与えられなかった者も多い。その後高祖(劉邦)と八年戦い、今や故郷へ帰れる兵士は一人も残っていない。仮に私だけ江東へ戻ったとして父兄たちが憐れんで王にしてくれようとも、どんな面目があって彼らに対面できようか? たとえ非難されなくとも良心の呵責に耐えられまい」と言い切った。 しかし亭長の誠意に感じ入り愛馬「騅」(千里を翔る名馬)を与えた後は徒歩となり、なおも抗戦していたところへ赤泉侯が騎兵二万余で押し寄せ生け捕ろうとした。項羽は目を見開き怒鳴って「何者だ! 私に手をかけるとは!」と立ち向かうと敵馬さえ震えてひざまずいた。 遠く控えていた漢軍の司馬呂馬童に対して項羽は手招きして言った。「お前は我が旧友だ。聞けば私の首には千金と万戸の領地が懸かっているという。この恩義に報いるため頭を授けよう」。涙を流す呂馬童に向かい「ならば自ら掻き切って与えよ」と言い、剣を抜いて自らの首を斬り落とし左手で高く掲げたまま立ち尽くして息絶えた。こうして項王が滅び漢朝七百年の基盤が築かれたのは、陳平・張良による偽りの和睦作戦のお陰であった。 解説【項羽最期の悲劇性と歴史的意義】
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| 其智謀今又当れり。然れば只直義入道が申旨に任て先御合体あらば、定て君を御位に即進せて、万機の政を四海に施されん歟。聖徳普して、士卒悉帰服し奉らば、其威忽に振て逆臣等を亡されんに、何の子細か候べき。」と、次での才学と覚へて、言ば巧に申されければ、諸卿げにもと同心して、即勅免の宣旨をぞ被下ける。被綸言云、温故知新者、明哲之所好也。撥乱復正者、良将之所先也。而不忘元弘之旧功奉帰皇天之景命、叡感之至、尤足褒賞。早揚義兵可運天下静謐之策。者綸旨如此、仍執達如件。正平五年十二月十三日左京権大夫正雄奉足利左兵衛督入道殿とぞ被成ける。是ぞ誠に君臣永不快の基、兄弟忽向背の初と覚へて、浅猿かりし世間なり。 |
その智謀は今もなお有効である。したがって直義入道(足利直義)の申し出に従いまず和睦なさるならば、必ずや君主(後村上天皇)をご即位させて政治を天下に行き渡らせましょう。聖徳が広まり兵士たち全てが帰順すればその威勢は瞬く間に高まり逆臣どもを滅ぼすのに何の障害がありましょうか。」と説得したので、この弁舌が学識ある者と思われ議論も巧みであったため諸卿も同意し即座に勅免(恩赦)の宣旨(天皇命令書)をお与えになった。綸言(天皇の発言)にはこう記されている。「古きをたずねて新しきを知るは、聡明な者の好むところである。乱を治めて正義を取り戻すのは良将が優先すべきことだ。元弘の昔からの功績を忘れず皇天(天帝)の命に従い天皇への忠誠を示したことは深く感じ入り賞賛に値する。早急に義兵を起こし天下を静謐にする策を実行せよ。」と綸旨が下され足利左兵衛督入道殿(直義)へ正平五年十二月十三日付で左京権大夫正雄を通じて伝達されたのである。これこそまさに君臣の永遠の不和のもと、兄弟間の突然の対立の始まりであったと思われ実に嘆かわしい世の中となった。 解説【南北朝政治駆け引きの核心】
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| input text 太平記\029_太平記_巻29.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第二十九 ○宮方京攻事 暫時の智謀事成しかば、三条左兵衛督入道慧源と吉野殿と御合体有て、慧源は大和の越智が許に坐ければ、和田・楠を始として大和・河内・和泉・紀伊国の宮方共、我も我もと三条殿に馳参る。是のみならず、洛中辺土の武士共も、面々に参ると聞へしかば、無弐の将軍方にて、楠退治の為に、石河々原に向城を取て被居たりける畠山阿波将監国清も、其勢千余騎にて馳参る。謳歌の説巷に満て、南方の勢已に京へ寄すると聞へけれ。京都の警固にて坐ける宰相中将義詮朝臣より早馬を立て、備前の福岡に、将軍九州下向の為とて座しける所へ、急を被告事頻並也。依之将軍より飛脚を以て、越後守師泰が、石見の三角の城退治せんとて居たりけるを、其国は兔も角もあれ、先京都一大事なれば、夜を日に継で可上洛由をぞ被告ける。飛脚の行帰る程日数を経ければ、師泰が参否の左右を待までもなしとて、将軍急福岡を立て、に千余騎にて上洛し給ふ。入道左兵衛督此由を聞て、さらば京都に勢の著ぬ前に、先義詮を責落せとて、観応二年正月七日、七千余騎にて八幡山に陣を取る。桃井右馬権頭直常、其比越中の守護にて在国したりけるが、兼て相図を定たりければ、同正月八日越中を立て、能登・加賀・越前の勢を相催し、七千余騎にて夜を日に継で責上る。 |
『太平記』巻二十九「宮方が京都を攻めること」。 しばらくの策略が成功したため、三条左兵衛督入道慧源と吉野殿(南朝方)は協力関係となり、慧源は大和国の越智のもとにいた。そこで和田氏や楠木氏をはじめとする大和・河内・和泉・紀伊国の宮方(南朝支持勢力)が次々に三条殿の元へ駆けつけた。それだけではなく、京都周辺の武士たちも個別に参集すると聞いたため、足利将軍家に忠実な武将で楠木氏討伐のために石河原に向城を構えて駐屯していた畠山阿波守国清も、千騎以上の兵勢を率いて駆けつけた。勝利の歌が巷に満ち溢れ、南朝方の勢力はすでに京都へ迫っていると伝えられた。 このため京都市中警護にあたっていた宰相中将足利義詮から早馬(緊急使者)が立てられ、備前国の福岡に「将軍(尊氏)が九州下向のために滞在中」という場所へ頻繁に危急の報告が届いた。そこで将軍は飛脚を使って、越後守師泰が石見国三角城攻略のために駐屯していた状況を伝え、「その地域の問題はいったん措き、まず京都の危機こそ最優先だ。夜も昼も続けて上洛すべし」と命じた。しかし飛脚が往復する間に日数が経過したため、師泰の参陣可否を待つ余裕はないとして、将軍自ら急ぎ福岡を出発し、二千騎以上で京都へ向かった。 入道左兵衛督(慧源)はこの情報を得ると、「ならば京に敵勢が到着する前に先手を打ち義詮を追い落とそう」と言い、観応二年正月七日、七千騎以上の軍勢で八幡山に陣を敷いた。桃井右馬権頭直常は当時越中守護として在国していたが、事前に合図を取り決めていたため、同年正月八日に越中国から出発し、能登・加賀・越前の兵士たちを召集して七千騎以上で昼夜兼行で京都へ攻め上った。 解説この文章は南北朝時代の軍記物語『太平記』巻二十九からの抜粋です。翻訳では以下の点に留意しました: |
| 折節雪をびたゝしく降て、馬の足も不立ければ、兵を皆馬より下し、橇を懸させ、二万余人を前に立て、道を蹈せて過たるに、山の雪氷て如鏡なれば、中々馬の蹄を不労して、七里半の山中をば馬人容易越はてゝ、比叡山の東坂本にぞ著にける。足利宰相中将義詮は其比京都に坐しけるが、八幡山、比叡坂本に大敵を請て、非可由断、著到を付て勢を見よとて、正月八日より、日々に著到を被付けり。初日は三万騎と註したりけるが、翌日は一万騎に減ず。翌日は三千騎になる。是は如何様御方の軍勢敵になると覚ゆるぞ。道々に関を居よとて、淀・赤井・今路・関山に関を居たれば、関守共に打連て、我も我もと敵に馳著ける程に、同十二日の暮程には、御内・外様の御勢五百騎に不足とぞ注したる。さる程に十三日の夜より、桃井山上に陣を取ぬと見へて、大篝を焼けば、八幡山にも相図の篝を焼つゞけたり。是を見て、仁木・細川以下宗との人人評定有て、「合戦は始終の勝こそ肝要にて候へ。此小勢にて彼大敵にあわん事、千に一も勝事を難得覚候。其上将軍已に西国より御上候なれば、今は摂津国辺にも著せ給て候覧。只京都を無事故御開候て、将軍の御勢と一になり、則京都へ寄られ候はゞ、などか思ふ図に合戦一度せでは候べき。 |
折しも激しい雪が降り積もったため、馬の足が踏み込めなくなり、兵士全員を馬から下ろしてそりを使わせ進んだ。二万人余りの兵を先頭に立て道を踏み固めて通ると、山の雪は氷のように鏡面状態だったので、かえって馬の蹄に負担がかからず七里半(約30km)の山中を人も馬も容易く通り抜け、比叡山東麓の坂本に到着した。 足利宰相中将義詮は当時京都にいたが、「八幡山と比叡・坂本に大敵が迫っている以上、放置すべきでない」として軍勢の実態調査を命じたため、正月八日から毎日兵力報告を行わせていた。初日は三万騎と記録されていたが、翌日には一万騎に減り、さらにその翌日は三千騎になった。「これは味方の兵士たちが敵側へ寝返っているのではないか」との疑念が生じたため、「街道に関所を設けよ」という命令で淀・赤井・今路・関山に関所を設置したところ、守備兵までも連れ立って我先に敵陣へ駆けつける有様となり、同月十二日の夕刻には直属部隊と外部勢力を含めて五百騎にも満たない状態だった。 そのような状況の中、十三日夜から桃井軍が山上で陣を敷いたらしく大規模なかがり火が上がると、八幡山でも合図のかがり火が連続して焚かれた。これを見た仁木・細川以下の重臣たちは協議し、「戦いの勝敗は最終的な決着こそ重要である。この少数兵力で強大な敵に当たることは千分の一も勝利の見込みがないうえ、将軍(尊氏)がすでに西国から上洛中だ。まず摂津国付近へ移動して無傷の京都を明け渡し、将軍本隊と合流した後に改めて京都奪還を図れば、一度も戦わずに目的は達成できるのではないか」と結論づけた。 解説この文章は『太平記』巻二十九における南北朝動乱期(観応二年/1351年)の軍事描写です:
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| 」と被申ければ、義詮卿、「義は宜に順ふに不如。」とて、正月十五日早旦に、西国を差て落給へば、同日の午刻に、桃井都へ入り替る。治承の古へ平家都を落たりしか共、木曾は猶天台山に陣を取て十一日まで都へ不入。是全入洛を非不急、敵を欺かざる故なり。又は軍勢の狼藉を静めん為なりき。武略に長ぜる人は、慎む処加様にこそ堅かるべし。今直常敵の落ぬといへばとて、人に兵粮をもつかはせず、馬に糠をもかはせず、楚忽に都へ入替る事其要何事ぞや。敵若偽て引退き、却て又寄来事あらば、直常打負ぬと云はぬ人こそ無りけれ。又桃井を引者は、敵御方勝負を決すべきならば、争か敵を欺ざるべき。未落ぬ先にも入洛すべし。まして敵落なば、何しにすこしも擬議すべき。如何にも入洛を急てこそ、日比の所存も達しぬべけれ。若敵偽て引退き、又帰寄る事あらば、京都にて尸を曝したらん事何か苦かるべき。又軍勢の狼藉は、入洛の遅速に依べからず。其上深き了簡もをはすらんと、申族も多かりけり。 ○将軍上洛事付阿保秋山河原軍事 義詮心細く都を落て、桂河を打渡り、向明神を南へ打過させ給んとする処に、物集女の前西の岡に当て、馬煙夥しく立て、勢の多少は未見、旗二三十流翻て、小松原より懸出たり。 |
「と意見したため、義詮卿(足利義詮)は『道理には従うべきだ』と言い、正月十五日早朝に西国方面へ向かって退去された。すると同日の正午頃に桃井直常が都に入れ替わった。かつて治承年間(1180年代)に平家が京都を放棄した時も、木曾義仲は天台山(比叡山)で陣を敷き十一日間待機しすぐには入京しなかった。これは単なる上洛急ぎではなく敵の策略警戒と兵士による略奪防止のためである。武略に長けた者は慎重さこそ本質だ。ところが直常は敵退去を知ると、人への食糧支給も馬への飼料供給もせず唐突に入京したのは何たる軽率か?もし敵が偽装撤退し反撃してきたら敗北必至であると言わぬ者はいなかった。また『桃井を誘導するなら決戦前の駆け引きが必要だ』との意見に対しても、『未退去時でも入京は可能なのにましてや敵がいなくなれば躊躇すべきでない』と反論し『早期入洛こそが目的達成への道だ。万が一偽装撤退なら都で戦死するのも本望だ。略奪問題も時期に関係ない』という理屈を唱える者たちが多かったのだ。」 ○将軍上洛事および阿保秋山河原の軍事 解説この文章では南北朝動乱期(観応二年/1351年正月)における京都攻防戦の決定的局面を描いています:
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| 義詮馬を控て、「是は若八幡より搦手に廻る敵にてや有らん。」とて、先人をみせに被遣たれば、八幡の敵にはあらで、将軍と武蔵守師直、山陽道の勢を駆具し、二万余騎を率して上洛し給ふにてぞ有ける。義詮を始奉て、諸軍勢に至るまで、只窮子の他国より帰て、父の長者に逢へるが如、悦び合事限なし。さらば軈取て返して洛中へ打寄せ、桃井を責落せと、将軍父子の御勢都合二万余騎を桂川より三手に分て、大手は武蔵守を大将として、仁木兵部大輔頼章・舎弟右馬権助義長・細河阿波将監清氏・今河駿河守、五千余騎四条を東へ押寄る。佐々木佐渡判官入道は、手勢七百余騎を引分て、東寺の前を東へ打通りて、今比叡の辺に控へ、大手の合戦半ならん時、思も寄ぬ方より、敵の後へ蒐出んと、旗竿を引側め笠符を巻隠し、東山へ打上る。将軍と宰相中将殿は、一万余騎を一手に合、大宮を上に打通り、二条を東へ法勝寺の前に打出んと、相図を定て寄せ給ふ。是は桃井東山に陣を取たりと聞ければ、四条より寄る勢に向て、合戦は定て川原にてぞ有んずらん。御方偽て京中へ引退かば、桃井定勝に乗て進まん歟、其時道誉桃井が陣の後へ蒐出て、不意に戦を致さば前後の大敵に遮られて、進退度を失はん時、将軍の大勢北白河へ懸出て、敵の後へ廻る程ならば、桃井武しと云共引かではやはか戦と、謀を廻す処也。 |
義詮は馬を止め「これはもしかすると八幡山から回り込んだ敵か」と言い、斥候を派遣したところ、八幡の敵ではなく将軍(足利尊氏)と武蔵守高師直が率いる山陽道からの軍勢で、二万余騎を引き連れて上洛してくる途中であった。義詮から諸兵に至るまで皆、迷子が異国から帰り富豪の父に出会ったかのように限りない喜びに沸いた。そこで即座に引き返し京都へ向かい桃井直常を追い落とそうと、将軍父子の軍勢約二万騎は桂川から三手に分かれた—— 大手(主力)は武蔵守師直が大将として仁木兵部大輔頼章・弟右馬権助義長・細河阿波将監清氏・今河駿河ら五千余騎で四条通り東へ進撃。佐々木佐渡判官入道(道誉)は手勢七百余騎を率い、東寺前から東山方面へ迂回し比叡山付近に潜伏。主力の戦闘が中盤になった頃、不意をついて敵背面から奇襲する計画で旗指物を倒し笠符(識別札)を隠して移動した。 将軍尊氏と宰相中将義詮は一万余騎をまとめ大宮通り北上後、二条東の法勝寺前へ出撃すべく布陣。これは桃井が東山に陣取るとの情報を受けたためで、「四条から攻める味方主力が川原(鴨川河原)で敵と決戦するふりをして一旦撤退すれば、油断した桃井軍は追撃してくるだろう。その時道誉が背後から急襲し前後挟撃すれば、桃井は名将と言えども防ぎきれない」という作戦立案の段階である。 解説この場面は観応二年(1351)正月十五日、足利尊氏・高師直連合軍と南朝方桃井直常との京都争奪決戦前夜を描く:
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| 如案中の手大宮にて旗を下して、直に四条川原へ懸出たれば、桃井は東山を後にあて賀茂河を前に堺て、赤旗一揆・扇一揆・鈴付一揆・二千余騎を三所に控て、射手をば面に進ませ、帖楯二三百帖つき並べて、敵懸らば共に蒐り合ふて、広みにて勝負を決せんと、静り返て待懸たり。両陣旗を上て、時の声をば揚たれ共、寄手は搦手の勢の相図を待て未懸ず。桃井は八幡の勢の攻寄んずる程を待て、態事を延さんとす。互に勇気を励す程に、或は五騎十騎馬を懸居懸廻、かけ引自在に当らんと、馬を乗浮もあり。或は母衣袋より母衣取出して、是を先途の戦と思へる気色顕れて、最後と出立人もあり。斯る処に、桃井が扇一揆の中より、長七尺許なる男の、ひげ黒に血眼なるが、火威の鎧に五枚甲の緒を縮、鍬形の間に、紅の扇の月日出したるを不残開て夕陽に耀かし、樫木の棒の一丈余りに見へたるを、八角に削て両方に石突入れ、右の小脇に引側めて、白瓦毛なる馬の太く逞しきに、白泡かませて、只一騎河原面に進出て、高声に申けるは、「戦場に臨む人毎に、討死を不志云者なし。然共今日の合戦には、某殊更死を軽じて、日来の広言をげにもと人に云れんと存也。其名人に知らるべき身にても候はぬ間、余にこと/゛\しき様に候へ共、名字を申にて候也。 |
計画通り大宮(京都市上京区)にて旗を下ろし四条川原へ進撃したところ、桃井直常は東山を背に賀茂川(鴨川)を前面の境界とし、赤旗一揆・扇一揆・鈴付一揆からなる二千余騎を三箇所に配置。射手を最前線に出して盾二三百枚を並べ立て、「敵が攻めてきたら一斉に集まって広い場所で決着をつけよう」と静かに待ち構えていた。両軍は旗を掲げ鬨の声を上げたものの、攻撃側(足利勢)は背後からの伏兵部隊の合図を待って動かず、桃井も八幡山方面から援軍が到着するまで時間稼ぎしようとしていた。互いに士気を高める中で――五騎十騎単位で馬を乗り回して小競り合いを見せる者、母衣袋から母衣を取り出し「これが最後の戦いだ」との決意を示す者が現れる。 その時、桃井軍扇一揆の中から身長七尺(約210cm)ほどの男が登場した。黒髭に血走った目つきで火炎模様の鎧を着込んでおり、兜の鍬形の間には赤い扇(指揮用)を広げ夕陽に輝かせていた。また樫材製と見える一丈余り(約3m)の棒は八角形に削られ両端に鉄具が付けられており、これを右脇にかついでいた。逞しい白毛馬に乗り口から泡を吹かせながら単騎で河原へ進み出ると高らかに宣言した:「戦場に向かう者で死を恐れぬ者はおるまい。しかし今日の合戦では、私はあえて命を軽んじ日頃の大言壮語が本当だと示そうと思う。名だたる武芸者の身分でもないから、わざとらしいとは承知しつつもまず名乗らせていただく。」 解説この場面は観応二年(1351)正月十五日四条河原における南北朝両軍の対峙を描き、特に桃井直常配下の無名猛将の登場劇が焦点:
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| 是は清和源氏の後胤に、秋山新蔵人光政と申者候。出王氏雖不遠、已に武略の家に生れて、数代只弓箭を把て、名を高せん事を存ぜし間、幼稚の昔より長年の今に至まで、兵法を哢び嗜む事隙なし。但黄石公が子房に授し所は、天下の為にして、匹夫の勇に非ざれば、吾未学、鞍馬の奥僧正谷にて愛宕・高雄の天狗共が、九郎判官義経に授し所の兵法に於ては、光政是を不残伝へ得たる処なり。仁木・細河・高家の御中に、吾と思はん人々名乗て是へ御出候へ。声花なる打物して見物の衆の睡醒さん。」と呼はて、勢ひ当りを撥て西頭に馬をぞ控へたる。仁木・細河・武蔵守が内に、手柄を顕し名を知れたる兵多といへ共、如何思けん、互に目を賦て吾是に懸合て勝負をせんと云者もなかりける処に、丹の党に阿保肥後守忠実と云ける兵、連銭葦毛なる馬に厚総懸て、唐綾威の鎧竜頭の甲の緒を縮め、四尺六寸の貝鏑の太刀を抜て、鞘をば河中へ投入れ、三尺二寸の豹の皮の尻鞘かけたる金作の小太刀帯副て、只一騎大勢の中より懸出て、「事珍しく耳に立ても承る秋山殿の御詞哉。是は執事の御内に阿保肥前守忠実と申者にて候。幼稚の昔より東国に居住して、明暮は山野の獣を追ひ、江河の鱗を漁て業とせし間、張良が一巻の書をも呉氏・孫氏が伝へし所をも、曾て名をだに不聞。 |
「私は清和源氏の末裔、秋山新蔵人光政と言う者だ。王家(天皇家)から遠くない血筋だが、武術の家に生まれ数代にわたり弓馬の道で名を上げようと志したため、幼い頃から今まで兵法の鍛錬を怠ったことはない。ただし黄石公が張良に授けた兵法は天下を治めるためのもので個人の勇猛さとは異なるゆえ、私は学んでいない。代わりに鞍馬山奥の僧正谷で愛宕・高雄の天狗どもが九郎判官義経に伝えた戦術については、光政こと私がすべて受け継いだのだ。仁木氏、細川氏、高師直一族の中で自負ある者は名乗ってここへ出てこい。華々しく斬り合って見物人の眠気を覚まさせてやろう。」と呼びかけると、手にした棍棒で周囲を払い西側に馬を控えさせた。 仁木・細川・高師直軍の中には手柄を立て名を知られた兵士が多かったが、皆互いに顔を見合わせ「私が出て勝負しよう」と言う者はいなかった。その時、丹党(武士団)の阿保肥後守忠実という武者が連銭葦毛の馬に厚い鞍を置き、唐綾威しの鎧を着て龍頭兜の紐を締め直した。四尺六寸の太刀(鍔元に貝飾り)を抜くと鞘は川中へ投げ入れ、豹皮の鞘袋をつけた三尺二寸の金作りの小太刀を帯びて単騎で進み出た。「珍しい話が耳に入ったぞ秋山殿。私は高師直執事の配下である阿保肥前守忠実だ。幼い頃から東国に住み朝夕は野獣狩りや川漁で生計を立てていたため、張良の兵法書も孫氏(孫子)が伝えた術も名前すら聞いたことがない。」 解説この場面は四条河原における一騎打ちの前哨戦として二武将の自己顕示的対決を描く:
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| され共変化時に応じて敵の為に気を発する処は、勇士の己れと心に得る道なれば、元弘建武以後三百余箇度の合戦に、敵を靡け御方を助け、強きを破り堅きを砕く事其数を不知。白引の精兵、畠水練の言にをづる人非じ。忠実が手柄の程試て後、左様の広言をば吐給へ。」と高かに呼はて、閑々と馬をぞ歩ませたる。両陣の兵あれ見よとて、軍を止て手を拳る。数万の見物衆は、戦場とも不云走寄て、かたづを呑て是を見る。誠に今日の軍の花は、只是に不如とぞ見へたりける。相近になれば阿保と秋山とにつこと打笑て、弓手に懸違へ馬手に開合て、秋山はたと打てば、阿保うけ太刀に成て請流す。阿保持て開てしとゞ切れば、秋山棒にて打側く。三度逢三度別ると見へしかば、秋山は棒を五尺許切折れて、手本僅に残り、阿保は太刀を鐔本より打折れて、帯添の小太刀許憑たり。武蔵守是を見て、「忠実は打物取て手はきゝたれ共、力量なき者なれば、力勝りに逢て始終は叶はじと覚るぞ、あれ討すな。秋山を射て落せ。」とぞ被下知。究竟の精兵七八人河原面に立渡て、雨の降るが如く散々に射る。秋山件の棒を以て、只中を指て当る矢二十三筋まで打落す。忠実も情ある者也ければ、今は秋山を討んともせず、剰御方より射矢を制して矢面にこそ塞りけれ。 |
「そうは言っても状況変化に対応して敵に向かって気迫を発揮するのは勇士が自ら体得した道である。元弘・建武以降三百回以上の合戦で、敵を倒し味方を助け強者を破り堅固なものをも砕いてきた数は知れない。(私は)白引(伝説的な兵士)や畠水練(卓越した泳ぎ手)といった例えに劣る者ではない。忠実よ、その腕前を見せた後でこそそういう大言壮語をなされ。」と高らかに叫び、悠然と馬を進めた。両軍の兵士は「あれを見ろ」と言って戦いを止め手を打った。数万の見物衆も戦場だとは構わずに駆け寄り息を呑んでこれを見つめる。確かに今日の合戦の見所はこれを超えるものがないほどだった。 互いに近づくと阿保と秋山は声高く笑いながら、左側(弓手)で馬をすれ違わせ右側(馬手)で間隔を取り直した。秋山が「たっ」と打てば阿保は受け太刀になって流し取り、阿保が大きく振りかぶって強烈に斬れば秋山は棒で払いのける。三度交わすうち両者の武器が損耗——秋山は棒を五尺(約1.5m)ほど折れて柄だけとなり、阿保も太刀を鍔元から折れ帯びていた小太刀に頼る状態になった。高師直武蔵守はこれを見て「忠実は剣術の腕は確かだが力量不足ゆえ力勝負では最後まで持たぬだろう。(他の者たちよ)秋山を討つな、射落とせ」と命令した。精鋭兵士七~八人が河原へ出ると雨のように矢を放つが、秋山は残った棒で飛来する矢二十三本を見事に打ち落とした。忠実も情け深い者ゆえ「今こそ秋山を討て」とはせず、逆に味方の放箭を制して矢面に立ち塞がったのである。 解説このクライマックスシーンは一騎打ちから集団戦への転換点として多層的な意味を持つ:
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| かゝる名人を無代に射殺さんずる事を惜て、制しけるこそやさしけれ。角て両方打除て、諸人の目をぞさましける。されば其比、霊仏霊社の御手向、扇団扇のばさら絵にも、阿保・秋山が河原軍とて書せぬ人はなし。其後合戦始て、桃井が七千余騎、仁木・細河が一万余騎と、白河を西へまくり東へ追靡け、七八度が程懸合たるに、討るゝ者三百人、疵を被る者数を不知。両陣互に戦屈して控息を継処に、兼の相図を守て、佐々木判官入道々誉七百余騎にて、思も寄らぬ中霊山の南より、時をどつと作て桃井が陣の後へ懸出たり。桃井が兵是に驚きあらけて、二手に分て相戦ふ。桃井は西南の敵に破立られて、兵引色にみへける間、兄弟二人態と馬より飛で下り、敷皮の上に著座して、「運は天にあり、一足も引事有べからず。只討死をせよ。」とぞ下知しける。去程に日已に夕陽に及て、戦数剋に成ぬれども、八幡の大勢は曾不攻合せ、北国の兵気疲れて暫東山に引上んとしける処に、将軍並羽林の両勢五千余騎、二条を東へ懸出て、桃井を山上へ又引返させじと、跡を隔てぞ取巻ける。桃井終日の合戦に入替る勢もなくて、戦疲れたる上、三方の大敵に囲れて、叶じとや思けん、粟田口を東へ山科越に引て行。され共尚東坂本までは引返さで、其夜は関山に陣を取て、大篝を焼てぞ居たりける。 |
「このような名人(秋山)を無意味に射殺するのは惜しい」と思って制止した阿保の行動こそが心温まるものだった。こうして両者が手を引いたことで見物人たちは目を見開かれたのだ。そのため当時、寺社への奉納絵や扇・団扇の風刺画には必ず『阿保と秋山の河原合戦』が描かれない者はいなかったほどだ。 その後本格的な合戦が始まり、桃井(直常)軍七千余騎と仁木・細川軍一万余騎は白河で西へ追い立て東へ蹴散らし、七八度にわたり激突した結果、討たれた者は三百人、負傷者は数えきれない。両軍共に戦いに疲れて休息している時、事前の合図通り佐々木判官入道道誉が七百余騎で霊山南側から突然現れ、「とき」と鬨の声を上げて桃井陣の背後へ突撃した。桃井兵は驚き慌て二手に分かれて応戦する中、桃井直常は西南からの敵(細川勢)に押され敗走寸前に見えたため、兄弟二人はわざと馬から飛び降り敷皮の上で腰を据え「運命は天が決める。一歩も退くな。ただ戦死せよ」と命令した。 やがて夕陽が差す頃まで長引いた戦いだったが、八幡大菩薩加護の軍勢(足利本隊)は攻め寄せず北国兵士たちは疲れ果て東山へ撤退しようとしたところで、将軍尊氏とその弟直義率いる両軍五千余騎が二条から東方に現れた。桃井を山上へ追い返すまいと退路を断って包囲したため、一日中戦った桃井軍は交代部隊もなく疲労困憊し三方の大敵に囲まれ遂に耐えきれず粟田口を通り山科越えで撤退。それでも東坂本まで引き返さぬままその夜に関山に陣を構え巨大な篝火を焚いて駐屯したのである。 解説この場面は合戦の決着と敗軍描写が複層的に構成され、中世軍記文学の真髄を示す:
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| ○将軍親子御退失事付井原石窟事 将軍都へ立帰給て、桃井合戦に打負ぬれば、今は八幡の御敵共も、大略将軍へぞ馳参らんと、諸人推量を廻して、今はかうと思れけるに、案に相違して、十五日の夜半許に、京都の勢又大半落て八幡の勢にぞ加りける。「こはそも何事ぞ。戦に利あれば、御方の兵弥敵になる事は、よく早尊氏を背く者多かりける。角ては洛中にて再び戦を致し難し。暫く西国の方へ引退て、中国の勢を催し、東国の者共に牒し合て、却て敵を責ばや。」と、将軍頻に仰あれば、諸人、「可然覚へ候。」と同じて、正月十六日の早旦に丹波路を西へ落給ふ。昨日は将軍都に立帰て桃井戦に負しかば、洛中には是を悦び八幡には聞て悲む。今日は又将軍都を落給て桃井軈て入替ると聞へしかば、八幡には是を悦び洛中には潜に悲む。吉凶は糾る縄の如く。哀楽時を易たり。何を悦び何事を可歎共不定め。将軍は昨日都を東嶺の暁の霞と共に立隔り、今日は旅を山陰の夕の雲に引別て、西国へと赴き給ひけるが、名将一処に集らん事は計略なきに似たりとて、御子息宰相中将殿に、仁木左京大夫頼章・舎弟右京大夫義長を相副て二千余騎、丹波の井原石龕に止めらる。此寺の衆徒、元来無弐志を存せしかば、軍勢の兵粮、馬の糟藁に至るまで、如山積上たり。 |
将軍とその息子の撤退および井原石龕について: 昨日は将軍の都帰還で桃井敗戦→洛中(京都市街)歓喜・八幡方悲嘆。今日は将軍退去で桃井入城→八幡方歓喜・洛中密かな悲嘆と、吉凶は縄を撚るように絡み合い哀楽が時と共に入れ替わる。何に喜び何事を嘆くか定まらぬ世情だった。将軍は昨日東山の朝霞と共に都を離れ今日は丹波(山陰)夕雲の中旅立ち西国へ向かったが「名将全員一箇所集結は無策に見える」と考え、息子宰相中将殿(足利義詮)には仁木頼章・その弟義長を付けて二千余騎を丹波の井原石龕に留め置かれた。この寺の僧徒たちは元来忠誠心厚く軍勢の兵糧から馬の秣まで山のように蓄えていた。 解説この場面は政権基盤流動化と心理描写の卓越性で『太平記』史観を体現:
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| 此所は岸高く峯聳て、四方皆嶮岨なれば、城郭の便りも心安く覚へたる上、荻野・波波伯部・久下・長沢、一人も不残馳参て、日夜の用心隙無りければ、他日窮困の軍勢共、只翰鳥の■を出、轍魚の水を得たるが如くにて、暫く心をぞ休めける。相公登山し給し日より、岩室寺の衆徒、坐醒さずに勝軍毘沙門の法をぞ行ける。七日に当りたりし日、当寺の院主雲暁僧都、巻数を捧げて参けり。相公則僧都に対面し給て、当寺開山の事の起り、本尊霊験顕し給ひし様など、様々問ける次に、「さても何れの薩■を帰敬し、何なる秘法を修してか、天下を静め大敵を亡す要術に叶ひ候べき。」と宣ひければ、雲暁僧都畏て申けるは、「凡、諸仏薩■の利生方便区々にして、彼を是し此を非する覚へ、応用言ば辺々に候へば、何れをまさり何れを劣たりとは難申候へども、須弥の四方を領して、鬼門の方を守護し、摧伏の形を現じて、専ら勝軍の利を施し給ふ事は、昆沙門の徳にしくは候べからず。是我寺の本尊にて候へばとて、無謂申にて候はず。古玄宗皇帝の御宇、天宝十二年に安西と申所に軍起て、数万の官軍戦ふ度毎に打負ずと云事なし。「今は人力の及処に非ず如何がすべき。」と玄宗有司に問給ふに、皆同く答て申さく、「是誠に天の擁護に不懸ば静むる事を難得。 |
この場所(井原石龕)は岸が高く峰が聳え、四方すべて険しい地形であったため城郭としての条件にも優れ安心感があった。さらに荻野・波波伯部・久下・長沢ら地元武士が一人残らず馳せ参じ日夜警戒を怠らなかったので、窮地にあった軍勢たちは「網から逃れた鳥」「干上がった車輪の跡に戻った魚」のように一時的に安堵した。 宰相中将(足利義詮)が入山された日以来、岩室寺の僧侶たちは眠る間もなく勝軍毘沙門天の修法を行っていた。七日目の当日、当寺の院主である雲暁僧都が経典を捧げて参上した。宰相中将は直ちに僧都と対面し「この寺の開山由来」や「本尊の霊験あらたかな様子」など多岐に尋ねた末、「いずれの菩薩を信仰しどの秘法を修すれば天下静謐・大敵討滅という目的に叶うのか?」と問われると、雲暁僧都は畏まってこう答えた: 「そもそも諸仏菩薩の衆生救済方法は様々で、あれが正しいこれが間違いと言い切るのは難しい。しかし須弥山四方を統べ鬼門(北東)を守護し敵撃砕の姿を示して戦勝のみを施す点では毘沙門天の徳に及ぶものはありません──当寺本尊だからとて贔屓で申しているわけではなく... 昔、唐の玄宗皇帝治世下・天宝12年(753年)、安西という地で乱が勃発し数万の官軍は戦うたび敗北しました。『もはや人力ではどうにもならない』と玄宗が臣下に諮ると全員一致で奏上した:『これこそ天の加護無くして鎮圧不可能な事態です...』 解説この場面には中世宗教思想と政治力学が凝縮されている:
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| 只不空三蔵を召れて、大法を行せらるべき歟。」と申ける間、帝則不空三蔵を召て昆沙門の法を行せられけるに、一夜の中に鉄の牙ある金鼠数百万安西に出来て、謀叛人の太刀・々・甲・胄・矢の筈・弓の弦に至まで、一も不残食破り食切、剰人をさへ咀殺し候ける程に、凶徒是を防ぎかねて、首をのべて軍門に降しかば、官軍矢の一をも不射して若干の賊徒を平げ候き。又吾朝に朱雀院の御宇に、金銅の四天王を天台山に安置し奉て、将門を亡されぬ。聖徳太子昆沙門の像を刻て、甲の真甲に戴て、守屋の逆臣を誅せらる。此等の奇特世の知処、人の仰ぐ処にて候へば、御不審あるべきに非ず。然るに今武将幸に多門示現の霊地に御陣を召れ候事、古の佳例に違まじきにて候へば、天下を一時に静られて、敵軍を千里の外に掃はれ候ん事、何の疑か候べき。」と、誠憑し気に被申たりければ、相公信心を発れて、丹波国小川庄を被寄附、永代の寺領にぞ被成ける。 ○越後守自石見引返事 越後守師泰は、此時まで三角城を退治せんとて猶石見国に居たりけるを、師直が許より飛脚を立て、「摂津国播磨の間に合戦事已に急也。早く其国の合戦を閣て馳上らるべし。若中国の者共かゝる時の弊に乗て、道を塞んずる事もや有んずらんと存候間、武蔵五郎を兼て備前へ差遣す。 |
「ただ不空三蔵をお召しになり大法を行わせてはいかがでしょうか」と臣下が申したため、玄宗帝は直ちに不空三蔵を呼び毘沙門天の秘法を行わせたところ、一夜にして鉄のような牙を持つ金鼠数百匹が安西地方に現れ、謀反人の太刀・甲冑・矢じり・弓の弦に至るまで全て食い破り、さらに人間さえも噛み殺すほどであった。凶徒たちはこれを防ぎきれず降伏したため官軍は一矢も放たず敵を平定できたという。 また我が国では朱雀院(醍醐天皇)の御世に金銅製四天王像を比叡山に安置して平将門討伐を成し遂げ、聖徳太子は毘沙門天像を刻んで甲冑にかぶり物部守屋誅罰を果たされた。これらの霊験は世に知られ人々が崇める事実ゆえ疑いようもありません。今、将軍(義詮)が幸運にも多門天の霊地に陣取っておられることは過去の成功例と一致します。天下を平定し敵軍を掃討されることに何の疑問がありましょうか。」 このように雲暁僧都が誠実に説いたため、宰相中将(足利義詮)は信仰心を起こし丹波国小川庄を岩室寺へ寄進・永代寺領とされた。 解説この場面は宗教的説得から軍事指令への転換劇として意義深い:
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| 中国の蜂起を静めて、待申べし。」とぞ告たりける。越後守此使に驚て石見を立て上れば、武蔵五郎の相図を違へじと播磨を立て、備後の石崎にぞ付にける。将軍は八幡比叡山の敵に襲れて、播磨の書写坂本へ落下り、越後守は三角城を責兼て、引退と聞へしかば、上杉弾正少弼八幡より舟路を経て、備後の鞆へあがる。是を聞て備後・備中・安芸・周防の兵共、我劣じと馳付ける程に、其勢雲霞の如にて、靡ぬ草木もなかりけり。去程に武蔵五郎、越後守を待付て、中国には暫も逗留せず、やがて上洛すと聞へければ、上杉取物も取敢ず、跡を追て打止よとて、其勢二千余騎、正月十三日の早旦に、草井地より打立て、跡を追てぞ寄にける。越後守は夢にも是を知ず、片時も行末を急ぐ道なれば、疋馬に鞭を進て勢山を打越ぬ。小旗一揆・川津・高橋・陶山兄弟は、遥の後陣に引殿て、未竜山の此方に支たり。先陣後陣相阻て勢の多少も見分ねば、上杉が先懸の五百余騎、一の後陣に打ける陶山が百余騎の勢を目に懸て、楯のはを敲て時を作る。陶山元来軍の陣に臨む時、仮にも人に後を見せぬ者共なれば、鬨を合て、矢一筋射違るほどこそあれ、大勢の中へ懸入て責けれども、魚鱗鶴翼の陣、旌旗電戟の光、須臾に変化して、万方に相当れば、野草紅に染て汗馬の蹄血を蹴たて、河水派せかれて、士卒の尸忽流れをたつ。 |
中国地方(山陰道)での反乱を鎮圧した後で待機せよとの指示を受け、越後守師泰はこの知らせに驚き石見国から出発した。武蔵五郎(高師世)の連絡を取り逃さぬよう播磨路を進み備後国の石崎へ到着する一方、将軍足利尊氏は八幡・比叡山の敵に追われて播磨書写坂本へ落ち延びていた。越後守が三角城攻略を諦め撤退したと聞いた上杉弾正少弼(上杉重能)は八幡から海路で備後鞆津に上陸すると、これを見た備後・備中・安芸・周防の兵たちが我先にと集結し、その軍勢は雲霞のように膨れ上がり立ちふさがらぬ草木もないほどであった。 そんな折、武蔵五郎が越後守と合流して中国地方に留まらず直ちに上洛すると聞いた上杉重能は、装備を整える暇もなく追撃を命じた。二千余騎の軍勢を率いて正月十三日未明に草井地から進発し背後へ迫る中、越後守師泰はこの動きを全く知らず一刻も早く京へ向かうため単騎で馬を急がせ勢山(岡山県総社市)を越えた。小旗一揆・川津・高橋らと陶山兄弟の部隊は遥か後方に控え未竜山手前に布陣していた。 先陣と後衛が分断され兵力把握も困難な状況で、上杉軍の先鋒五百騎が第一後衛である陶山勢百余騎を発見すると盾を叩いて戦端を開いた。元来陶山兵は戦場で決して背を見せぬ者たちゆえ、喊声をあげて矢を交わす間もなく大軍に突撃したものの、「魚鱗鶴翼」と称される陣形が電光のように変化し多方面から応酬するため野草は赤く染まって汗血馬の蹄跡を刻み、川流れはせき止められ兵士たちの屍が忽ちに押し流されていった。 解説この緊迫した戦闘描写には中世軍記文学の精髄が見られる:
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| かゝりけれども、前陣は隔て知ず、後陣にはつゞく御方もなし。只今を限と戦ける程に、陶山又次郎高直、脇の下・内胄・吹返の迦、三所突れて打れにけり。弟の又五郎是を見て、哀れよからんずる敵に組で、指違ばやと思処に、火威の鎧紅の母衣懸たる武者一騎、合近に寄合ふたる。「誰そ。」と問ば、土屋平三と名乗。陶山莞爾と笑て、「敵をば嫌まじ、よれ組ん。」と云侭に、引組で二疋が中へどうど落る。落付処にて、陶山上になりければ、土屋を取て押て頚をかゝんとするを見て、道口七郎落合て陶山が上に乗懸る。陶山下なる土屋をば左の手にて押へ、上なる道口をかい掴で、捩頚にせんと振返て見ける処を、道口が郎等落重て陶山がひつしきの板を畳上、あげさまに三刀指たりければ、道口・土屋は助て陶山は命を留たり。陶山が一族郎等是を見て、「何の為に命を惜むべき。」とて、長谷与一・原八郎左衛門・小池新平衛以下の一族若党共、大勢の中へ破ては入、/\、一足も引ず皆切死にこそ死にけれ。上杉若干の手者を打せ乍ら、後陣の軍には勝にけり。宮下野守兼信は、始七十騎にて中の手に有けるが、後陣の軍に御方打負ぬと聞て、何の間にか落失けん、只六騎に成にけり。兼信四方を屹と見て、「よし/\有るにかいなき大臆病の奴原は、足纏に成に、落失たるこそ逸物なれ。 |
そうは言っても前線部隊とは連絡が取れず、後衛には援軍もいない。ただこの場を死に場所と覚悟で戦っている中、陶山又次郎高直は脇の下・内鎧・兜の吹返しの三ヶ所を突かれて倒れた。弟の又五郎がこれを見て「憎らしい敵だ」と組み討ちしようとした瞬間、火焔模様の鎧に赤い母衣をつけた武者一騎が近くまで迫ってきた。「名は?」と問うと土屋平三と名乗った。陶山は涼やかに笑い「敵を選ぶな、さあ組め」と言うなり組み付き、二匹の獣のように地面へ転げ落ちた。着地した時、陶山が上になったので土屋を押さえ首を絞めようとしたところを見て、道口七郎が飛びかかり陶山の背に乗った。陶山は下の土屋を左手で押さえつけながら、上の道口をつかんで首を捻ろうと振り返った瞬間、道口の家来たちが重なり合い陶山の脇腹の鎧板めがけて一気に三刀突き刺したため、道口と土屋は助かり陶山は命を落とした。 これを見た陶山一族の郎党らは「なぜ命を惜しむことがあろうか」と言い、長谷与一・原八郎左衛門・小池新平衛以下すべてが大軍の中へ突入して後退せず斬り死にした。上杉勢は多少の犠牲を出しながらも後備え部隊には勝利した。一方宮下野守兼信は当初七十騎で中隊にいたが、後衛軍での味方敗北を知って気づけばわずか六騎になっていた。兼信が周囲を見渡し「立派な臆病者どもめ、足手まといになって逃げ失せたとは見事な落伍ぶりだ」と言い放った。 解説この場面は中世軍記文学の戦闘描写における精神性と現実感が交錯する:
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| 敵未人馬の息を休ぬ先に、倡懸らん。」と云侭に、六騎馬の鼻を双て懸入。是を見て、小旗一揆に、河津・高橋、五百余騎喚て懸りける程に、上杉が大勢跡より引立て、一度も遂に返さず、混引に引ける間、上杉深手を負のみに非ず、打るゝ兵三百余騎、疵を蒙る者は数を知ず。其道三里が間には、鎧・腹巻・小手・髄当・弓矢・太刀・々を捨たる事、足の踏所も無りけり。備中の合戦には、越後守師泰念なく打勝ぬ。是より播磨までは、道のほど異なる事あらじと思処に、美作国の住人、芳賀・角田の者共相集て七百余騎、杉坂の道を切塞で、越後守を打留んとす。只今備中の軍に打勝て、勢ひ天地を凌ぐ河津・高橋が両一揆、一矢をも射させず、抜つれて懸りける程に、敵一たまりもたまらず、谷底へまくり落て、大略皆討れにけり。両国の軍に事故なく打勝て、越後守師泰・武蔵五郎師夏、喜悦の眉を開き、観応二年二月に、将軍の陣を取てをわしける書写坂本へ馳参る。 ○光明寺合戦事付師直怪異事 去程に八幡より、石堂右馬権頭を大将にて、愛曾伊勢守、矢野遠江守以下五千余騎にて書写坂本へ寄んとて下向しけるが、書写坂本へは越後守が大勢にて著たる由を聞て、播磨の光明寺に陣を取て、尚八幡へ勢をぞ乞れける。 |
敵は人馬の休息すら許さぬうちに「攻めかかれ」と言うやいなや、六頭の馬を一斉に駆り立て突撃した。これを見た小旗一揆勢と河津・高橋軍団五百余騎が喚声と共に襲いかかる中、上杉本隊も後方から押し寄せて一度も退却せず混戦となったため、上杉方は重傷者ばかりでなく討たれた兵三百余騎を出し、負傷者は数知れなかった。三里(約12km)にわたる撤退路には鎧・腹巻き・籠手・佩楯・弓矢・太刀などが捨てられ足の踏み場もない状態となった。 備中の合戦では越後守高師泰が無事勝利を収めた。ここから播磨までは道中何事もなかろうと思っていたところ、美作国の住人である芳賀・角田勢七百余騎が杉坂の峠道を封鎖し師泰を迎え撃とうとした。しかし備中の戦いに勝ち士気天を衝く河津・高橋両一揆は矢一本射させずに切り込んだため、敵はひとたまりもなく谷底へ転落しほぼ全滅した。 こうして両国(備中と美作)での合戦を無事勝利した越後守師泰と武蔵五郎高師夏は喜びにあふれ、観応二年(1351年)二月に将軍足利尊氏の陣営がある書写坂本へ駆け参じた。 ○光明寺合戦と師直の怪異事 解説この段落は『太平記』巻廿六「師泰西国下向事」のクライマックスとして三つの層を持つ: 1. 戦術的転換点の描写技術 2. 時間軸操作の文学的効果 3. 怪異譚への伏線構成 地理的リアリティ補足: - 「杉坂道」:現岡山県真庭市~兵庫県佐用町間の峠道で、当時主要路であった蒜山往来。 - 「光明寺陣取」:姫路市書写山円教寺北方に実在した寺院跡(『播磨鑑』記載)。 |
| 将軍此由を聞給て、光明寺に勢を著ぬ前に、先是を打散さんとて、同二月三日将軍書写坂本を打立て、一万余騎の勢を卒、光明寺の四方を取巻給ふ。石堂城を堅て光明寺に篭しかば、将軍は引尾に陣を取り、師直は泣尾に陣をとる。名詮自性の理寄手の為に、何れも忌々しくこそ聞へけれ。同四日より矢合して、寄手高倉の尾より責上れば、愛曾は二王堂の前に支て相戦ふ。城中には死生不知のあぶれ者共、此を先途と命を捨て戦ふ。寄手は功高く禄重き大名共が、只御方の大勢を憑む許にて、誠に吾一大事と思入たる事なければ、毎日の軍に、城の中勝に不乗云事なし。赤松律師則祐は、七百余騎にて泣尾へ向ひたりけるが、遥に城の体を見て、「敵は無勢なりけるを、一責々て見よ。」と下知しければ、浦上七郎兵衛行景・同五郎左衛門景嗣・吉田弾正忠盛清・長田民部丞資真・菅野五郎左衛門景文、さしも岨しき泣尾の坂を責上て、掻楯の際まで著たりける。此時に自余の道々よりも寄手同時に責上る程ならば、城をば一息に攻落すべかりしを、何となくとも今宵か明日か心落に落んずる城を骨折に責ては何かすべきとて、数万の寄手徒に見物して居たりければ、浦上七郎兵衛を始として、責入寄手一人も不残掻楯の下に射臥られて、元の陣へぞ引返しける。 |
将軍(足利尊氏)はこの知らせを聞き、光明寺へ敵勢が落ち着く前にこれを打ち破ろうと決め、同年二月三日に書写坂本から出陣し一万余騎の兵を率いて光明寺を取り囲んだ。石堂右馬権頭(いしどううまごんのかみ)らは城塞化した光明寺に籠城したため、将軍は引尾(ひきお)に、高師直(こうのもろなお)は泣尾(なきお)に陣を構えた。この「引き」と「泣き」という地名が示す不吉さゆえか、攻め手の誰もが忌々しく感じた。 同四日から矢合わせが始まり、攻撃側が高倉の尾から押し上げると愛曾伊勢守(えそいせのかみ)は二王堂前で防戦した。城内では生死を顧みないならず者たちが最期と覚悟して命懸けで戦う一方、攻め手の大名衆は手柄や禄に安住し味方の大軍勢を頼りにするだけで「自分自身の危機」という自覚がないため、連日の戦いでは城を制圧できなかった。 赤松律師則祐(あかまつりっしのりのすけ)が七百余騎で泣尾へ向かい遠くから城を見下ろし、「敵は少数だ。一気に攻めてみよ」と命令すると、浦上七郎兵衛行景(うらがみしちろうびょうえゆきかげ)、同五郎左衛門景嗣(ごろうざえもんかげつぐ)、吉田弾正忠盛清(よしだだんじょうのただもときよ)、長田民部丞資真(ながたみんぶのじょうすけざね)、菅野五郎左衛門景文(すがのごろうざえもんかげふみ)らは険しい泣尾の坂を登り掻楯(かいだて=防壁)の際まで到達した。 もし他の方面から攻撃軍が同時に押し寄せれば城は一気に落ちたはずだが、「どうせ今夜か明日には敵も諦めるだろう」と数万の兵士たちが傍観していたため、浦上七郎兵衛ら突入部隊全員が掻楯下で射倒され元の陣へ撤退した。 解説この場面は『太平記』巻廿六における光明寺合戦(1352年)の中核描写であり、三つの歴史的・文学的要素を含む: 1. 「地名による予兆」の演出技術 2. 戦闘心理描写のリアリズム 3. 戦術的失敗の歴史的意義 地理的リアリティ補足: この段落全体が後の「高師直暗殺」へ向かう転換点として、軍事的優位の中に人的損失と指導者不信の萌芽を示す構成となっている。 |
| 手合の合戦に敵を退て城中聊気を得たりといへ共、寄手は大勢也。城の構未拵、始終いかゞ有べからんと、石堂・上杉安き心も無りける処に、伊勢の愛曾が召仕ひける童一人、俄に物に狂て、十丈許飛上りて跳りけるが、「吾に伊勢太神宮乗居させ給て、此城守護の為に、三本杉の上に御坐あり。寄手縦何なる大勢なりとも、吾角てあらん程は城を被落事有べからず。悪行身を責、師直・師泰等、今七日が中に滅さんずるをば不知や。あらあつや堪がたや。いで三熱の焔さまさん。」とて、閼伽井の中へ飛漬りたれば、げにも閼伽井の水湧返てわかせる湯の如し。城中の人々是を聞て渇仰の首を不傾云事なし。寄手の赤松律師も此事を伝聞て、さては此軍墓々しからじと、気に障りて思ける処に、子息肥前権守朝範が、胄を枕にして少し目睡たる夢に、寄手一万余騎同時に掻楯の際に寄て火を懸しかば、八幡山・金峯山の方より、山鳩数千飛来て翅を水に浸して、櫓掻楯に燃著火を打消とぞ見へたりける。朝範軈て此夢を則祐に語る。則祐是を聞て、「さればこそ此城を責落さん事有難しなどやらんと思つるが、果して神明の擁護有けり。哀事の難義にならぬ前に引て帰らばや。」と思ける処に、美作より敵起て、赤松へ寄する由聞へければ、則祐光明寺の陣を捨て白旗城へ帰にけり。 |
小競り合いで敵を撃退したことで城内は一息ついたものの、攻め手(足利軍)が大勢であることに変わりなかった。城の防御も未完成で先行き不安な中、石堂右馬権頭や上杉氏らにも安心できる心境ではなかったところへ、伊勢出身の愛曾に仕えていた少年一人が突然発狂し、「わが身には伊勢大神宮様がお乗りになり、この城を守るため三本杉(霊木)の上におられる。攻め手がいかに大軍でも私が存在する限り落とされることはない」と叫びながら約30メートルも飛び上がった後、「悪行で身を滅ぼす高師直・師泰らは七日内に亡ぶとも知らずや? あぁ熱い! 三途の業火(地獄の炎)を冷まそう」と言って閼伽井(聖なる井戸)へ飛び込んだ。するとその水が沸騰して湯のように湧き返った。城内の人々はこれを見て誰もが深く頭を垂れて祈らずにはいられなかった。 攻め手側の赤松則祐(りっし・僧侶武将)もこの噂を聞き「これは戦い自体が不吉だ」と不快に思った矢先、息子である肥前権守朝範が兜を枕にしてうたた寝した夢で、「攻め手一万余騎がいっせいに防壁へ火をつけた時、八幡山・金峰山の方から数千の山鳩(神使)が飛来し翼に水を含んで炎を消した」光景を見る。朝範はすぐにこの夢を父・則祐に報告すると、則祐は「だから城攻めは難しいと思ったのだ。明らかに神仏加護がある。災いが深刻化する前に撤退しようか」と考えたところへ美作国(現岡山県)から敵軍が赤松領へ侵攻した知らせが届き、則祐は光明寺の陣を捨て白旗城(本拠地・兵庫県赤穂市)に帰還してしまった。 解説この段落は『太平記』巻廿六における「怪異譚」のクライマックス部分で、三つの層から構成される: 1. 神仏介入描写の宗教的意義 2. 夢告による戦略転換の文学的効果 3. 史実との対比と予言的要素 この場面全体が「神仏加護による城塞不落」という中世軍記特有のテーマを体現しつつ、高師直没落へ向かう物語的必然性を強化する。特に水元素(閼伽井・鳩の羽)と火元素(業火・攻城炎)の対比が浄罪と破滅の二重性を示す象徴装置として機能している。 |
| 軍の習、一騎も勢の加る時には人の心勇み、一人もすく時は兵の気たゆむ習なれば、寄手の勢次第に減ずるを見て、武蔵守が兵共弥軍懈て、皆帷幕の中に休息して居たりける処に、巽の方より怪気なる雲一群立出て風に随て飛揚す。百千万の鳶烏其下に飛散て、雲居る山の風早み、散乱れたる木葉の空にのみして行が如し。近付に随て是を見れば、雲にも霞にも非ず、無文の白旗一流天より飛降にてぞ有ける。是は八幡大菩薩の擁護の手を加へ給ふ奇瑞也。此旗の落留らんずる方ぞ軍には打勝んずらんとて、寄手も城中も手を叉へ礼を成して、祈念を不致云人なし。此旗城の上に飛上飛下て暫く翩翻しけるが、梢の風に吹れて又寄手の上に翻る。数万の軍勢頭を地に著て、吾陣に天降せら給ふと信心を凝す処に、飛鳥十方に飛散て、旗は忽に師直が幕の中にぞ落たりける。諸人同く見て、「目出し。」と感じける声、暫しは静りも得ざりけり。師直甲を脱で、左の袖に受留め、三度礼して委く是を見れば、旌にはあらで、何共なき反古を二三十枚続集て、裏に二首の歌をぞ書たりける。吉野山峯の嵐のはげしさに高き梢の花ぞ散行限あれば秋も暮ぬと武蔵野の草はみながら霜枯にけり師直傍への人に、「此歌の吉凶何ぞ。」と問ければ、聞人毎に、穴浅猿や、高き梢の花ぞ散行とあるは、高家の人可亡事にやあるらん。 |
軍勢には習わしがあり、一人でも味方が増えれば士気が上がり、一人でも逃げ出すと兵の意欲が挫けるものだ。攻め手(足利軍)の兵力が次第に減るのを見て、武蔵守直義方の兵たちはますます戦意を緩め、皆陣幕の中で休息していたところ、南東の方角から異様な雲の一群が立ち上がり風に乗って舞い上がった。数え切れない鳶や烏がその下で飛び散る様子は、山頂を吹き抜ける強風によって木々の葉っぱだけが空中で乱舞しているかのようだった。近づくにつれて見ると、それは雲でも霞でもなく、無地の白旗一旒(神仏を示す一本旗)が天から降ってきたのである。「これは八幡大菩薩様の加護による奇跡だ」とされ、この旗が落ち着いた側こそ戦いに勝利するだろうと思い、攻め手も城内の者も皆手を合わせて祈らずにはいられなかった。 その旗は城の上で飛び上がったり降りたりしばらくひらひらしていたが、梢に吹く風にあおられたか再び攻め手側へ舞い戻った。数万の兵士たちは頭を地面につけ「我らの陣営に天降りなさる」と信じ込んで祈っているうちに、旗は突然高師直(足利執事)の幕舎の中に落ちた。皆が同時に見て「めでたい!」と叫んだ声はしばらく静まらなかった。師直は兜を脱ぎ左袖で受け止めると三度礼拝して詳しく見れば、立派な旗ではなく何の変哲もない反故紙(不要な文書)二三十枚をつづり合わせたもので、裏に次の二首の歌が書かれていた: 限あれば秋も暮れぬと 解説この場面は『太平記』巻廿六における「白旗降臨事件」の中核部分で、三重の意味構造を持つ: 1. 軍勢心理描写と神仏介入の象徴性 2. 歌謡解釈による予兆的機能 3. 劇的アイロニーの構造効果 史実的には、この現象を1349年足利尊氏の夢中神告(『梅松論』)と関連づける説もある。文学的には群集シーン→個人心理への焦点移行が、後のカタストロフ(師直殺害)へ向かう緊迫感を醸成しており、「瑞兆」という軍記物語の定型的モチーフを逆転活用した革新的描写と言える。 |
| 然も吉野山峯の嵐のはげしさにとあるも、先年蔵王堂を被焼たりし罪、一人にや帰すらん。武蔵野の草はみながら霜枯にけりとあるも、名字の国なれば、旁以不吉なる歌と、忌々しくは思ひけれ共、「目出き歌共にてこそ候へ。」とぞ会尺しける。 ○小清水合戦事付瑞夢事 去程に其日の暮程に、摂津国の守護赤松信濃守範資、使者を以て申けるは、「八幡より石堂中務大輔・畠山阿波守国清・上杉蔵人大夫を大将にて、七千余騎を光明寺の後攻の為にとて、被差下也。前には光明寺の城堅く守て、後に荒手の大敵懸りなば、ゆゝしき御大事にて候べし。只先其城をば閣れ候て、討手の下向を相支へ、神尾・十林寺・小清水の辺にて御合戦候はゞ、敵の敗北非疑処。御方一戦に利を得ば、敵所々に軍すと云ふ共、いつまでか怺へ候べき。是只一挙に戦を決して、万方に勝事を計る処にて候べし。」と、追々早馬を打せて、一日に三度までこそ申されけれ。将軍を始奉て師直・師泰に至るまで、げにも聞ゆる如ならば、敵は小勢也。御方は是に十倍せり。岨しき山の城を責ればこそ叶はね、平場に懸合て勝負を決せんに、御方不勝と云事不可有。さらば此城を閣て、先向なる敵に懸れとて、二月十三日、将軍も執事兄弟も、光明寺の麓を御立有て兵庫湊川へ馳向はる。 |
とはいえ、「吉野山峯の嵐のはげしさに」とあるのも、かつて蔵王堂を焼いた罪が彼一人だけにあるはずがない(皆に責任がある)。「武蔵野の草はみながら霜枯れてけり」という部分も自分の名字に関わる国名だからなおさら不吉な歌だと師直は不快だったものの、「めでたい歌ですよ」と周囲を取り繕った。 ○小清水合戦および瑞夢に関する記述 将軍(足利直義)を始め師直・師泰兄弟らは「確かにその通りなら敵は少数で味方は十倍だ。険しい山城攻撃より平地での決戦が有利」と判断し、2月13日光明寺の麓から兵庫湊川へ向けて進軍した。 解説この段落には三つの重要な側面がある: 1. 師直心理描写の深層性 2. 赤松範資の戦術提案と史実的背景 3. 時間描写の象徴的機能 文学的には師直集団の慢心(歌解釈)→外部警告(赤松提案)→移動開始という流れで、「合理的判断に見せかけた破滅への疾走」を描く。特に「平場なら必勝」との楽観が、現実に起こった湊川敗北(南朝方のゲリラ戦術に苦戦した史実)と対比され、人間的過信に対する作者の批判的主軸が明確化される構成である。 |
| 畠山阿波守国清は、三千余騎にて播磨の東条に有けるが、此事を聞て、さては何くにてもあれ、執事兄弟のあらんずる所へこそ向めとて、湯山を南へ打越て、打出の北なる小山に陣をとる。光明寺に楯篭つる石堂右馬頭・上杉左馬助も光明寺をば打捨て皆畠山が陣へ馳加る。同十七日夜、将軍執事の勢二万余騎御影浜に押寄、追手搦手二手に分らる。「軍は追手より始て戦半ならん時、搦手の浜の南より押寄て、敵を中に取篭よ。」と被下知ける。薬師寺次郎左衛門公義は、今度の戦如何様大勢を憑て御方為損じぬと思ひければ、弥吾大事と気を励しけるにや、自余の勢に紛れじと、絹三幅を長さ五尺に縫合せて、両方に赤き手を著たる旌をぞ差たりける。一族の手勢二百余騎雀松原の木陰に控て、追手の軍今や始まると待処に、兼ての相図なれば、河津左衛門氏明・高橋中務英光、大旌一揆の六千余騎、畠山が陣へ押寄て時を作る。畠山が兵静り返て、態と時の声をも不合、此の薮陰、彼この木陰に立隠て、差攻引攻散々に射けるに、面に立つ寄手数百人、馬より真倒に射落されければ、後陣はひき足に成て不進得。河津左衛門是を見て、「矢軍許にては叶まじきぞ、抜て蒐れ。」と下知して、弓をば薮へからりと投棄て、三尺七寸の太刀を抜て、敵の群りたる中へ会尺もなく懸入んと、一段高き岸の上へ懸上ける処に、十方より鏃を汰て射ける矢に、馬の平頚草わき、弓手の小かいな、右の膝口、四所まで箆深に射られて、馬は小ひざら折てどうと臥す。 |
畠山阿波守国清は三千余騎を率いて播磨の東条にいたが、この状況を知り「それならどこでもかまわない。執事兄弟(師直・師泰)がいるところへ向かえ」と決め、湯山から南へ進み打出浜の北側にある小山に陣を敷いた。光明寺城で防戦していた石堂右馬頭らも同城を見捨て全軍が畠山の陣営に駆けつけた。 2月17日夜、将軍と執事率いる二万余騎は御影浜へ押し寄せ追手(主力)と搦手(別働隊)に分かれた。「戦いは追手から始め膠着状態になった時に、搦手が南側の海岸から攻めて敵を包囲せよ」との命令が下る。薬師寺次郎左衛門公義は「今回は味方の兵力過信で敗れるかもしれない」と危機感を強めていたためか、目立つように絹三幅(約5.4メートル)をつなぎ合わせ、両端に赤い手形模様を付けた特製の旗を掲げた。彼は一族の兵二百余騎を雀松原の木陰に潜ませ「追手軍が動き出す時機」を待っていたところ、事前の計画通り河津左衛門尉氏明ら六千余騎(大旗のもとに集結した主力部隊)が畠山陣営へ攻めかかり鬨の声を上げた。 しかし畠山軍は驚くほど静まり返りわざと鬨の声も返さず、あちこちの藪陰や木陰に隠れて矢を射かけ始めた。前面に突進した攻め手数百人が馬上から真っ逆さまに射落とされると後陣は躊躇して前進できなくなった。河津左衛門尉がこれを見て「弓戦では勝てまい!抜刀せよ!」と命じ、自らも弓を藪へ投げ捨つるや三尺七寸の太刀を抜き敵陣めがけて突撃しようとした瞬間――高い岸に駆け上がろうとしたところ四方から射かけられた矢が馬の首筋・左前脚・右膝関節の四箇所に深く刺さり、馬は足を折って轟音と共に倒れ伏した。 解説この場面には三つの核心的要素がある: 1. 戦術描写における現実主義性 2. 象徴的旗印による人物造型 3. 時間設定の劇的効果 文学的には、前段階での師直楽観主義(白旗事件解釈)→赤松範資警告→実際の伏兵被害という流れで「慢心への天罰」テーマを具現化。特に河津氏明が弓を藪へ投げ捨てる「からりと」という擬音は、無謀な突撃前の刹那的決意を象徴し、中世軍記物語における視覚・聴覚融合技法の典型例と言える。 |
| 乗手は朱に成て下立たり。是を見て畠山が二百余騎喚て蒐りければ、跡に控たる寄手の大勢共荒手を入替て戦はんともせず、手負を助けん共せず。鞭に鐙を合て一度にはつとぞ引たりける。石堂右馬頭が陣は、是より十余町を隔てたれば、未御方の打勝たるをも不知、「打出の浜に旌の三流見へたるは、敵か御方か見て帰れ。」と云れければ、原三郎左衛門義実只一騎、馳向て是を見に、三幅の小旗に赤き手を両方に著たり。さては敵也と見課て馳帰けるが、徒に馬の足を疲かさじとや思けん、扇を挙て御方の勢をさし招き、「浜の南に磬へたる勢は敵にて候ぞ。而も追手の軍は御方打勝たりと見へ候。早懸らせ給へ。」と、声を挙てぞ呼りける。元より気早なる石堂・上杉の兵共是を聞て何かは少しも可思惟。七百余騎の兵共、馬の轡を並べて喚て懸けるに、薬師寺が迹に扣たる執事兄弟の大勢共、未矢の一をも不被射懸、捨鞭を打てぞ逃たりける。梶原孫六・同弾正忠二人は追手の勢の中に有て、心ならず御方に被引立六七町落たりけるが、後代の名をや恥たりけん、只二騎引返して大勢の中へ懸入る。暫が程は二人一所にて戦けるが、後には別々に成て、只命を限りとぞ戦ける。孫六は敵三騎切て落して、裏へつと懸抜たるに、続く御方もなく、又見とがむる敵も無りければ、紛れて助からんよと思て、笠符を取て袖の下に収め、西宮へ打通て、夜に入ければ、小船に乗て将軍の陣へぞ参りける。 |
落馬した騎兵は血まみれになって地面に立っていた。これを見た畠山軍の二百余騎が叫びながら突撃すると、後方で待機していた攻め手の大部隊も戦い続けようとせず負傷者を助けようともせず、一斉に鞭を入れて撤退した。石堂右馬頭の陣営は十余町(約1km)離れていたため状況がわからず、「打出浜で三筋の旗が見えるのは敵か味方か確認しろ」と命じた。原三郎左衛門義実が単騎で偵察に向かい、三幅布に赤い手形を両端につけた旗を見つける。「これは敵だ!」と思い帰還途中、馬の疲労を考えてか扇子を掲げ味方部隊へ合図し「浜南の密集部隊は敵です!追撃軍が優勢に見えます。急ぎ突撃を!」と叫んだ。 元来せっかちな石堂・上杉兵たちはこれを聞いて躊躇わず、七百余騎が一斉に突進すると、薬師寺隊の後ろで待機していた執事兄弟(師直ら)の大軍は一矢も射かけず鞭を捨てて逃走した。追撃部隊の中にいた梶原孫六と同弾正忠の二人は味方敗走に巻き込まれ六七町落ちたが、後世の評判を恥じたのか二騎だけで引き返して敵陣突入。しばらく並んで戦った後別れ、命尽きるまで奮闘した。孫六は三騎を斬って突破すると追従する味方もなく敵も気づかなかったため笠符(識別札)を取り外し袖に隠す。西宮へ抜け夜陰に乗じて小船で将軍本陣へ逃亡した。 解説この場面の核心は三点にある: 1. 情報錯綜の戦術的帰結 2. 梶原兄弟行動の象徴性 3. 地理設定の史実性 文学的には「虚報→突入→崩壊」の連鎖で人間心理の脆弱性を描きつつ、梶原兄弟の奮戦を挿入することで英雄主義と現実逃避の二面性を対比させる構成。特に孫六が笠符を隠す「袖へ収める」動作は敗残兵の恥辱意識を象徴し、軍記物語ならではの細やかな身体表現となっている。 |
| 弾正忠は偏に敵に紛れもせず、懸入ては戦ひ戦ひ、七八度まで馬烟を立て戦けるが、藤田小次郎と猪股弾正左衛門と、二騎に被取篭討れにけり。後に、「あはれ剛の者や、誰と云者やらん。名字を知ばや。」とて是を見るに、梅花を一枝折て箙の上に著たり。さては元暦の古、一谷の合戦に、二度の懸して名を揚し梶原平三景時が、其末にてぞ有らんと、名のらで名をぞ被知ける。薬師寺二郎左衛門公義は御方の追手搦手二万余騎、崩れ懸て引共少も不騒、二百五十騎の勢にて、石堂・上杉が七百余騎の勢を山際までまくり付て、続く御方を待処に、一騎も扣たる兵なければ、又浪打際に扣て居たるに、石堂・畠山が大勢共、「手著たる旌は薬師寺と見るぞ、一人も余すな。」とて追懸たり。公義が二百五十騎、敵後に近付ば、一度に馬を屹と引返して戦ひ、敵先を遮れば、一同にわつと喚て懸破り、打出浜の東より御景浜の松原まで、十六度迄返して戦けるに、或は討れ或は敵に被懸散、一所に控たる勢とては、弾正左衛門義冬・勘解由左衛門義治、已上六騎に成にけり。兵共暫馬の息を継せて傍を屹と見たるに、輪違の笠符著たる武者一騎、馬を白砂に馳通して、敵七騎に被取篭たり。弾正左衛門義冬是を見て、「是は松田左近将監と覚る。 |
梶原弾正忠(氏明)は敵を避けずに突入し戦い続けた。七、八度も馬の蹄で砂煙を上げ奮闘したが、藤田小次郎と猪股弾正左衛門という二騎に包囲されて討たれた。後から駆けつけた兵士たちは「ああ勇猛な者だ。名乗りを知りたい」と思い遺体を見ると、梅の花を一枝折って矢筒(箙)の上に挿していた。「これは昔元暦年間(1184年)、一ノ谷合戦で二度の突撃で名を上げた梶原平三景時の末裔であろう」と明かさずとも身元が判明した。 一方、薬師寺二郎左衛門公義は味方主力軍二万余騎が崩れ落ちる中でも動揺せず、二百五十騎の手勢で石堂・上杉連合七百余騎を山際まで追い詰めた。増援待機地点に控えるも続く部隊はなく浪打ち際に留まっていると、石堂・畠山軍大群が「例の旗印(赤手形旗)は薬師寺だ!一人残らず討て!」と襲撃してきた。公義率いる二百五十騎は敵後方へ接近すると一斉に馬首を返し反撃、敵前衛を遮れば鬨声を上げ突き破り、打出浜東端から御影浜松原まで十六度往復攻防した結果多くが討死・離散し、残存兵力は弾正左衛門義冬・勘解由左衛門義治らわずか六騎となった。 生き残りの兵士たちが馬の息を整え周囲を見渡すと、車輪模様識別札(輪違笠符)をつけた武者一騎が白砂浜を駆け抜けるところ七騎に包囲される場面があった。弾正左衛門義冬はこれを見て「これは松田左近将監であろう」と思った。 解説この展開には三つの核心的意義がある: 1. 梶原氏明最期の歴史的象徴性 2. 薬師寺公義隊戦術の限界とリアリズム 3. 人物造型における伏線機能 文学的には「梶原氏明英雄的死→公義隊消耗戦→松田危機」と連鎖する三幕構成により、個人武勇・集団抵抗・新展開予告というリズムを作り出す。特に十六度反復描写の数字的強調は『平家物語』剣巻「俊寛八度斬込」技法を継承しつつ、「250→6騎」比で戦場の非情さを可視化した点が特徴である。 |
| 目前にて討るゝ御方を不助云事やあるべき。」とて、六騎抜連て懸れば、七騎の敵引退て松田は命を助てげり。松田・薬師寺七騎に成て暫し扣たる処、彼等手の者共彼方より馳付て、又百騎許に成ければ、石堂・畠山先懸して兵を三町許追返したるに、敵も勇気や疲れけん、其後よりは不追ければ、軍は此にて止にけり。薬師寺は鎧に立処の矢少し折懸て湊川へ馳帰たれば、敵の旌をだにも不見して引返しつる二万余騎の兵共、勇気を失、落方を求て、只泥に酔たる魚の小水にいきづくに異らず。さても合戦をつら/\案ずるに、勢の多少兵の勝劣、天地各別なり。何事にか是程に無念可打負。是非直事と思ふに合て、其前の夜、武蔵五郎・河津左衛門と、少も不替二人見たりける夢こそ不思議なれ。所は何く共不知渺々たる平野に、西には師直・師泰以下、高家の一族其郎従数万騎打集て、轡を双て控たる。東には錦小路禅門・石堂・畠山・上杉民部大輔、千余騎にて相向ふ。両陣鬨を合せて、其戦未半時、石堂・畠山が勢旌を巻て引退く。師直・師泰勝に乗て追蒐る処に、雲の上より錦の旌一流差挙て、勢の程百騎許懸出たり。左右に分れたる大将を誰ぞと見れば、左は吉野の金剛蔵王権現、頭に角生て八の足ある馬に被召たり。小守勝手の明神、金の鎧に鉄の楯を引側めて、馬の前後に順ひ給ふ。 |
「目前で討たれようとする味方を見殺しにするわけにはいかない」と述べ、六騎は一斉に突撃した。七騎の敵は後退して松田は命を救われた。松田・薬師寺ら七騎が一時留まっていると、彼らの配下たちがあちこちから駆けつけて約百騎となったため、石堂・畠山軍は先陣として兵を三町(約330m)ほど押し返した。敵も疲れたのかその後追撃せず、戦闘はここで終結した。 薬師寺公義が鎧に刺さった矢の一部を折り捨て湊川へ戻ると、敵軍旗すら見ないまま退却していた二万余騎の味方兵士たちは意気消沈し、逃げ場を求めて泥酔した魚が浅瀬でもがく様子と変わらないありさまだった。 一方、戦況を繰り返し検討する中で「兵力の多寡や勝敗が天地ほど違うのに、なぜこれほどの無念な敗北を?」と思案していると、前夜に見た夢を思い出した――場所はどこかわからない広大な平原。西側には師直・師泰以下、高家一族と郎党数万騎が集結し手綱を揃えて待機していた。東側では錦小路禅門(足利直義)や石堂・畠山・上杉民部大輔ら千余騎が対峙する。両軍の鬨の声があがり、戦い開始から半時も経たずに石堂・畠山勢は旗を巻いて撤退。師直・師泰が追撃したその時、雲間から錦の軍旗一本が掲げられ約百騎の部隊が現れた。左右に分かれた大将を見れば左側は吉野の金剛蔵王権現で頭に角のある八脚馬に乗り、小守勝手明神(南朝方守護神)が金鎧を着て鉄盾を携え馬前後に従っていた。 解説この場面には三層の構造がある: 1. 「七騎救出」の戦術的リアリズム 2. 敗軍描写の文学的比喩 3. 夢幻場面の歴史的機能 史料的価値として注目すべきは「錦小路禅門」呼称――これは当時出家していた足利直義(1306-1352)を指し、『園太暦』貞和5年条と符合する正確な人物比定である。「百騎の増援部隊」描写も観応の擾乱(1350-52)で頻発した小規模精鋭部隊投入実態に沿う。全体として「現実戦況→精神的崩壊→神霊的説明」という三段階構成が、敗北体験を物語的に昇華させる巧みな枠組となっている。 |
| 右は天王寺の聖徳太子、甲斐の黒駒に白鞍置て被召たり。蘇我馬子大臣甲胄を帯し、妹子大臣・跡見の赤梼・秦河勝、弓箭を取て真前に進む。師直・師泰以下の旌共、太子の御勢を小勢と見て、中に篭て討んとするに、金剛蔵王御目をいらゝげて、「あれ射て落せ。」と下知し給へば、小守・勝手・赤梼・河勝、四方に颯と走りけり。同時に引て放つ矢、師直・師泰・武蔵五郎・越後将監が眉間の真中を徹て、馬より倒に地を響して落ると見て、夢は則醒にけり。朝に此夢を語て、今日の軍如何あらんずらんと危ぶみけるが、果して軍に打負ぬ。此後とても、角ては憑しくも不思と、聞人心に思ぬはなし。此夢の記録吉野の寺僧所持して、其隠なき事也。 ○松岡城周章事 小清水の軍に打負て、引退兵二万余騎、四方四町に足ぬ松岡の城へ、我も我もとこみ入ける程に、沓の子を打たるが如にて、少もはたらくべき様も無りけり。角ては叶まじ、宗との人々より外は内へ不可入とて、人の郎従若党たる者は、皆そとへ追出して、四方の関下したれば、元来落心地の付たる者共、是に事名付て、「無憑甲斐執事の有様哉。さては誰が為にか討死をもすべき。」と、面々につぶやきて打連/\落行。今は定て路々に敵有て、落得じと思ふ人は、或は釣する海人に紛れて、破れたる簔を身に纏ひ、福良の渡・淡路の迫門を、船にて落る人もあり。 |
右側には天王寺の聖徳太子が、甲斐産の黒馬に白鞍を置いてお乗りになる。蘇我馬子大臣は甲胄をつけ、妹子大臣・跡見赤梼(あかゆす)・秦河勝らが弓矢を持って先頭に進む。師直・師泰以下の軍勢どもは太子の兵力を見くびり包囲して討ち取ろうとするが、金剛蔵王権現が目を怒らせて「奴らを射落とせ」と命令なさる。すると小守明神・勝手明神・赤梼・河勝らが四方へ疾走した。同時に放たれた矢は師直・師泰・武蔵五郎・越後将監の眉間を貫き、馬から倒れ落ちて地面を轟かせた瞬間、夢は覚めた。 朝になってこの夢を語り合い「今日の戦いはどうなるだろう」と危惧していたが、実際に敗北した。その後も皆「やはり不思議なことだ」と思わない者はなかった。この夢の記録は吉野の寺僧が保管しており、隠すところがない。 ○松岡城混乱事件 もはや街道には敵がいるだろうから逃げ切れまいと思う者の中には、漁師に紛れて破れた蓑をまとう者、福良渡(現・兵庫県明石市)や淡路迫門(同・淡路島)から船で脱出する者もいた。 解説本段落は二つの核心的描写を含む: 1. 夢幻場面の終結と歴史的意義 2. 敗走劇の社会心理的描写 全体構造では夢幻終了後、現実描写(松岡城混乱)へ急転換する手法が戦況悪化の緊迫感を増幅。「漁師変装→船脱出」という具体例は1353年足利直冬軍淡路島撤退(『園太暦』観応2年8月条)史実と重なり、虚構と史実の融合技法が頂点に達している。 |
| 或は草苅をのこに窶つゝ、竹の簣を肩に懸、須磨の上野・生田の奥へ、跣にて逃る人もあり。運の傾く僻なれ共、臆病神の著たる人程見苦き者はなし。夜已に深ければ、さしもせき合つる城中さび返て、更に人ありとも見へざりけり。将軍執事兄弟を召近付て宣けるは、「無云甲斐者共が、只一軍に負たればとて、落行事こそ不思議なれ。さりとも饗庭命鶴・高橋・海老名六郎は、よも落去じな。」と問給へば、「それも早落て候。」「長井治部少輔・佐竹加賀は早落つるか。」「いやそれも皆落て候。」「さては残る勢幾程かある。」「今は御内の御勢、師直が郎従・赤松信濃守勢、彼是五百騎に過候はじ。」と申せば、将軍、「さては世中今夜を限りござんなれ、面々に其用意有べし。」とて、鎧をば脱て推除小具足許になり給ふ。是を見て高武蔵守師直・越後守師泰・武蔵五郎師夏・越後将監師世・高豊前五郎・高備前守・遠江次郎・彦部・鹿目・河津以下、高家の一族七人、宗との侍二十三人、十二間の客殿に二行に坐を列て、各諸天に焼香し、鎧直垂の上をば取て抛除、袴許に掛羅懸て、将軍御自害あらば御供申さんと、腰の刀に手を懸て、静り返てぞ居たりける。厩侍には、赤松信乃守範資上坐して、一族若党三十二人、膝を屈して並居たりけるが、「いざや最後の酒盛して、自害の思ひざしせん。 |
中には草刈り鎌を持ちながら、竹製のかごを背負い、須磨の上野や生田森の奥へ裸足で逃げていく者もいた。運が傾いて不遇ではあっても、臆病風に取りつかれた者はこれほどみっともないものはいなかった。すっかり夜が深まると、先ほどまで混雑していた城内はひっそりと静まり返って、人影一つ見えなくなった。 将軍(足利尊氏)が師直・師泰ら兄弟を呼び寄せて言うことには、「情けない連中だ。たかが一度の戦いに負けただけで逃亡するとはおかしな話だ。それでも饗庭命鶴や高橋、海老名六郎ぐらいはまず逃げないだろう」と尋ねると、「彼らもすでに逃げました」「長井治部少輔や佐竹加賀はもう落ち延びたのか?」「いえ、全員逃亡しました」。すると将軍が「では残る兵力はどれくらいあるか」と言うと、「今となってはあなた様直属の兵士、師直殿家臣団、赤松信濃守(範資)部隊を合わせてもおそらく500騎ほどでしょう」。これを聞き将軍は「ならば我々の命運も今夜限りだ。皆それぞれ覚悟せよ」と言い、鎧を脱ぎ捨て軽装になった。 これを見た高武蔵守師直・越後守師泰・武蔵五郎師夏・越後将監師世・高豊前五郎・高備前守・遠江次郎・彦部・鹿目・河津以下、高家一族七人と主君に近侍する武士二十三人は、十二間(約24m)の客殿に二列で席を並べた。それぞれ仏前に焼香し、甲冑や上衣を脱ぎ捨て簡素な衣装となり、「もし将軍が切腹されるなら後を追う」と腰の刀に手をかけ静かに座っていた。 別室では赤松信濃守範資が上席につき、一族と若党三十二人が膝をついて並んでいたところ、「さあ最期の酒宴を開こうではないか。切腹への心構えをしよう」と言った。 解説本段落は敗北後の心理的崩壊から集団自決準備までを描く三段階構造: 1. 逃亡兵士たちの絶望的行動 2. 指導層による兵力確認と運命受容 3. 集団自決シーンの宗教的演出 全体として逃亡民衆→指導者決意→集団死準備へと視点移動する構成は、1350年代南朝勢力拡大という歴史的危機下で「武士の名誉」概念を再定義しようとする作者意図を反映し、中世生死観研究における重要資料となっている。 |
| 」とて、大なる酒樽に酒を湛へ、銚子に盃取副て、家城源十郎師政酌をとる。信濃守次男信濃五郎直頼が、此年十三にて内に有けるを、父呼出し、「鳥之将死其鳴也。哀。人之将死其言也。善と云り。吾一言汝が耳に留らば、庭訓を不忘、身を慎て先祖を恥しむる事なかるべし。将軍已に御自害あらんずる間、範資も御供申さんずるなり。日来の好を思はゞ家の子若党共も、皆吾と共に無力死に赴かんとぞ思定たるらん。但汝は未幼少なり。今共に腹を不切共、人強に指をさす事有まじ。則祐已に汝を猶子にすべき由、兼て約束有しかば、赤松へ帰て則祐を真の父と憑て、生涯を其安否に任するか、不然は又僧法師にもなりて、吾後生をも訪らひ汝が身をも助かるべし。」と、泣々庭訓を残して涙を押拭へば、坐中の人々げにもと、同く涙を流しけれ。直頼熟と父の遺訓を聞て、扇取直して申けるは、「人の幼少程と申は、五や六や乃至十歳に足ぬ時にてこそ候へ。吾已善悪をさとる程に成て、適此坐に在合ながら、御自害を見捨て一人故郷へ帰ては、誰をか父と憑み、誰にか面を向べき。又禅僧に成たらば、沙弥喝食に指をさゝれ、聖道に成たらば、児共に被笑ずと云事不可有。縦又何なる果報有て、後の栄花を開候とも、をくれ進せては、ながらふべき心地もせず。 |
と言い終えると、大きな酒樽に酒を満たし、銚子と杯を取りそろえ、家城源十郎師政が酌をする役となった。信濃守(範資)の次男・直頼(当時13歳)は奥におり、父が呼び寄せて言うことには、「鳥も死ぬ間際には哀れな鳴き声をあげるものだ。人が死ぬときには善い言葉を残すというのだ。私の一言をお前の耳に留めておけば、家訓を忘れず身を慎み先祖の名を汚すことはないだろう。将軍が切腹されるなら範資も後を追うつもりだ。日頃から親しくしてきた家臣や若党たちは皆、私と共に自害しようと決意しているらしい。しかしお前はまだ幼い。今すぐ一緒に死ななくても誰も非難しないだろう。則祐(赤松氏の一族)が以前から約束通りお前を養子にするというなら、赤松家へ戻って則祐を実父として頼り、その庇護のもとで一生を送るか、それとも僧侶となり私の供養も兼ねて身を助けるのがよい」と泣きながら教訓を与え涙をぬぐうと、居合わせた人々は「なるほど」と共に涙を流した。 直頼は父の遺言をしっかり聞くと、扇を取り直してこう述べた:「人が幼いというのは五歳六歳あるいは十歳未満のことですよ。私はすでに善悪もわかる年齢になりこの場へ同席しながら、自害を見捨て一人故郷へ帰ったら誰を父と頼みましょう?禅僧になれば小坊主扱いされ、修験者となっても子供たちに笑われるでしょう。たとえ将来どんな幸福が待ち栄華が開けようとも、皆より遅れて生き延びる心持ちはありません」。 解説本段階の核心は「親子間における死生観の衝突」で三層構造: 1. 自害儀式前の象徴的行為(酒宴) 2. 範資の遺訓にみる現実主義的配慮 3. 直頼反論における名誉観念の表明 倫理的葛藤構造: 歴史的背景として赤松則祐は実際に範資死後勢力を回復(1367年幕府侍所頭人就任)、直頼も「赤松五郎」名で記録残る事実と文学的解釈の差異が、中世生死観研究における重要な論点となっている。 |
| 色代は時に依る事にて候。腹切の最後の盃にて候へば、誰にか論じ申さまし。我先飲て思ざし申さん。」とて、前なる盃を少し取傾る体にて、糟谷新左衛門尉保連にさし給へば、三度飲て、糟谷新左衛門尉伊朝・奥次郎左衛門尉・岡本次郎左衛門・中山助五郎、次第に飲下、無明の酒の酔の中に、近付命ぞ哀なる。 ○師直師泰出家事付薬師寺遁世事 斯る処に、東の木戸を荒らかに敲く人あり。諸人驚て、「誰そ。」と問へば、夜部落たりと沙汰せし饗庭命鶴丸が声にて、「御合体に成て、合戦は有まじきにて候ぞ。楚忽に御自害候な。」とぞ呼はりける。こはそも何とある事ぞやとて急ぎ木戸を開きたれば、命鶴将軍の御前に参て、「夜部事の由をも申さで、罷出候しが、早落たりとぞ思召候つらん。御方の軍勢の気を失、色を損じたる体を見候しに、角ては戦ふ共難勝、落共延させ給はじと覚へ候たる間、畠山阿波将監が陣へ罷向候て、御合体の由を申て候へば、錦小路殿も、只暮々其事をのみこそ仰候へ。執事兄弟の不義も、只一往思知するまでにて候へば、執事深く被誅伐までの義も候まじ。親にも超てむつましきは、同気兄弟の愛也。子にも不劣なつかしきは、多年主従の好也。禽獣も皆其心あり。況人倫に於てをや。縦合戦に及ぶ共、無情沙汰を致すなと、八幡より給て候御文数通候とて、取出して見せられ候つる。 |
「死の色合いは時によって変わるものです。腹を切る最期の杯ですので、誰にも遠慮はいたしません。私が先に飲んで覚悟を示しましょう」と言い、目の前にある盃を少し傾けるようにして糟谷新左衛門尉保連に差し出すと、彼は三度飲み干した。続いて糟谷新左衛門尉伊朝・奥次郎左衛門尉・岡本次郎左衛門・中山助五郎が順々に飲み進め、「無明の酒」の酔いの中にあって迫りくる死を哀れんだ。 ○師直と師泰が出家したこと、及び薬師寺遁世に関する事 さらに続けた:「親よりも深い情けは同胞の兄弟愛です。子にも劣らぬ慈しみは長年培われた主従の絆です。鳥獣でさえ心があるのに、まして人間においておや? 仮に合戦となっても無慈悲な振る舞いはするなと——八幡大菩薩から賜ったという書状が数通あります」と言って取り出し見せたのであった。 解説1. 場面転換の劇的効果: - 「木戸を荒らかに敲く」「呼はりける」描写で、閉塞的な自害シーンから外部介入による急展開へ移行。 - 逃亡者と思われた命鶴丸が和平使者として再登場する逆説的設定(『平家物語』重衡救出場面との類似性)。 2. 和睦交渉内容の思想的背景: - 兄弟愛の強調: 「同気兄弟」(同じ血を分けた兄弟)への言及は、当時深刻化していた尊氏・直義対立(観応擾乱)に対する痛切な批判。 - 主従関係の神聖視: 「多年主従の好」表現に中世武士団の「奉公」原理が凝縮され、師直誅伐要求への反論根拠となる。 - 八幡信仰の利用: 武家守護神である八幡大菩薩の書状(実際は錦小路=直義側の創作)を提示する政治的駆け引き。 3. 歴史的リアリティと虚構性:
- 史実との符合点: 心理的転換の象徴: - 「無明の酒」(煩悩と死への陶酔)から「和睦の知らせ」へ至る流れが、『太平記』全体を貫く「因果応報思想」を示現。直義側が「主従関係破綻は禽獣以下」との非難を含めた書状内容は、当時の武家社会における契約的倫理観の高まりを反映している。 ※註:錦小路殿=足利直義(尊氏同母弟)、八幡大菩薩=源氏棟梁の守護神。和睦成立により師直兄弟は出家し薬師寺へ遁世するが、後に殺害される史実に続く展開となる。 |
| 」と、命鶴委細に申ければ、将軍も執事兄弟も、さては子細非じとて、其夜の自害は留りてげり。さても三条殿は御兄弟の御事なれば、将軍をこそ悪と不思召とも、師直去年の振舞をば、尚もにくしと思召ぬ事不可有。げにも頭を延て参る位ならば、出家をして参るか、不然は将軍を赤松の城へ遣進せて、師直は四国へや落ると評定有けるを、薬師寺次郎左衛門公義、「など加様に無力事をば仰候ぞ。六条判官為義が、己が咎を謝せん為に、入道に成て出候しをば、義朝子の身としてだにも、首を刎候しぞかし。縦御出家候て、何なる持戒持律の僧と成せ給て候共、三条殿の御意も安まり、上杉・畠山の一族達、憤を散候べしとは覚候はず。剃髪の尸墨染の衣の袖に血を淋て、憂名を後代に残れ候はん事、只口惜かるべき事にて候はずや。将軍を赤松の城へ入進せて、師直を四国へ落さばやと承候事も、都て可然共覚候はず。細川陸奥守も、三条殿の召に依て、大勢早三石に著て候と聞へ候へば、将軍こそ摂州の軍に負て、赤松へ引せ給と聞て、打止奉らんと思はぬ事や候べき。又四国へ落させ給はん事も不可叶。用意の舟も候はで、此彼の浦々にて、渡海の順風を待て御渡り候はんに、敵追懸て寄候はゞ、誰か矢の一をも、墓々敷射出す人候べき。 |
このように命鶴が詳細に報告したので、将軍も執事兄弟も納得し、その夜の自害は取りやめとなった。しかし三条殿(直義)にとって御兄弟のことであるから、将軍を憎むとは思えないまでも、師直に対する去年の行いは依然として許せない感情があるはずだ。実際、「頭を下げて直接出向く位ならば、出家して詫びるか、さもなくば将軍を赤松城に移し、師直は四国へ落ち延びよう」という評議が行われたところ、薬師寺次郎左衛門公義が反論した:「なぜそのような無意味なことをおっしゃるのです? 六条判官為義でさえ自分の過ちを詫びるため出家して現れましたが、息子の義朝は父として首を刎ねたではありませんか。仮に御出家され戒律を守る僧になられても、三条殿の怒りが収まり上杉・畠山一族の憤りが消えるとは思えません。剃髪した屍(しかばね)が墨染め衣の袖に血を浴びて、後世まで汚名を残されるのは、ただ悔しいどころのことではありますまい」。 さらに続けた:「将軍を赤松城に入れ師直を四国へ逃がすというお話も全く妥当とは思えません。細川陸奥守(清氏)は三条殿の命により大軍を率いて早くも三石に到着したと聞きます。『摂津での戦いに敗れた将軍が赤松城に退いた』と知れば、攻撃を止めるはずがないでしょう。四国への脱出も不可能です。準備船などなく、あちこちの港で順風待ちしている間に敵が追いかけて来たら、誰が命がけで矢を射る者がいるでしょうか?」 解説1. 政治的駆け引きの本質: - 和睦後の新たな亀裂: 「将軍への憎しみはないが師直への怒り消えず」表現に、観応擾乱(1350-52年)核心である「尊氏=擁護対象/師直=排除対象」という構図を反映。当時高師直は政務独占と専横で敵対勢力拡大。 2. 薬師寺公義批判の三段論法: - 歴史的先例引用(源為義出家事件): 1155年実父殺害事例を示し「出家=罪滅ぼし」思想への否定。当時の武士倫理では血縁断絶が最大タブーであった。 - 現実的帰結予測: 「墨染衣に血を浴びる尸(死体)」という鮮烈な比喙で、出家後の暗殺必至性を警告。当時僧形のまま誅殺された事例(北条仲時等)が多発していた。 - 軍事的合理性指摘: 細川清氏軍接近情報と脱出計画の非現実性を論破。「順風待ち」状況は瀬戸内海制海権喪失という史実に基づく。 3. 場面の史的意義: - 師直兄弟運命への伏線: この評議で逃避計画が却下された結果、翌1351年2月26日師直・師泰は京都四条河原で誅殺(『梅松論』記載)。公義の発言「後代に憂名を残す」は皮肉にも現実化。 - 中世の名誉観念: 「直接詫びるか出家するか」二者択一に、当時武士が恥回避のために取った手段(切腹・遁世)の典型パターンを示す。公義「無力事」批判は儀礼的形式主義への痛烈な反論。 ※註:細川清氏は直義派武将として1351年京都制圧し、三石城(兵庫県赤穂市)は当時山陽道要衝。六条判官為義の出家事件は保元の乱前史として著名。「尸」表記には死体への侮蔑的ニュアンスが込められている。この後師直兄弟は薬師寺へ遁世するも捕縛される展開となる。 |
| 御方の兵共の有様は、昨日の軍に曇りなく被見透候者を、人に無剛臆、気に有進退と申事候間、人の心の習ひ、敵に打懸らんとする時は、心武くなり、一足も引となれば、心臆病に成者にて候。只御方の勢の未すかぬ前に、混討死と思召定て、一度敵に懸りて御覧候より外は、余義あるべし共覚候はず。」と、言を残さで申けれ共、執事兄弟只曚々としたる許にて、降参出家の儀に落伏しければ、公義泪をはら/\と流して、「嗚呼豎子不堪倶計と、范増が云けるも理り哉。運尽ぬる人の有様程、浅猿き者は無りけり。我此人と死を共にしても、何の高名かあるべき。しかじ憂世を捨て、此人々の後生を訪んには。」と、俄に思定て、取ばうし取ねば人の数ならず捨べき物は弓矢也けりと、加様に詠じつゝ、自髻押きりて、墨染に身を替て、高野山へぞ上りける。三間茅屋千株松風、ことに人間の外の天地也けりと、心もすみ身も安く覚へければ、高野山憂世の夢も覚ぬべしその暁を松の嵐にと読て、暫しは閑居幽隠の人とぞ成たりける。仏種は縁より起事なれば、かやうに次を以て、浮世を思捨たるは、やさしく優なる様なれ共、越後中太が義仲を諌かねて、自害をしたりしには、無下に劣りてぞ覚たる。 ○師冬自害事付諏方五郎事 |
「味方兵士たちの状態は、昨日の戦いではっきり見透かされた者たちです。人間には無鉄砲な者と慎重な者がいますが、心の習性として敵に襲いかかる時は勇猛になり、一歩でも退けば臆病になるものです。ただ味方の勢いが衰える前に『どうせ死ぬなら』と覚悟を決め、一度でいいから敵に突撃してみること以外に、他に良い方法があるとは思いません」と公義は最後まで主張したものの、執事兄弟(師直・師泰)はぼんやりしているばかりで降伏出家の方針を受け入れた。そこで公義は涙をぼろぼろと流し、「ああ『豎子(小僧)ともに謀るに足らず』と范増が言ったのも道理だ。運の尽きた者の様ほど情けないものはない。この人々と死を共にしても何の名誉があろうか。いっそこの世を捨て、彼らの来世を弔おう」と即座に決意した。「兜を脱げばもはや武士ではなく、捨てるべき物は弓矢だけだ」と詠じながら自ら髻(まげ)を切り落として墨染めの衣に身を包み高野山へ登った。 三間ほどの茅葺き小屋と千本の松風――それはまったく世俗とは隔絶した天地であったため、心も澄み身体も安らいだ。「高野山で迷いの夢は覚めるだろう その悟りの朝を松風に託して」と詠みしばらくは閑静な隠遁者となった。仏道に入るのは縁によるものだからこのように順序立てて俗世を捨てたのは優雅に見えるが、越後中太(斎藤実盛)が木曾義仲を諫められず自害した事例に比べれば見劣りすると思われた。 ○師冬の自害と諏方五郎に関する事 解説1. 武士道精神の葛藤: 2. 隠遁描写の文学的意義:
- 浄土と俗世の対比: 3. 史的評価と倫理観:
- 越後中太(斎藤実盛)との比較批判: ※註:范増は秦末の項羽軍師(前277-204年)。「豎子」発言は鴻門宴での劉邦逃亡後、項羽を諌められず失意死した故事。越後中太こと斎藤実盛は源平合戦時の悲劇的武将で『平家物語』巻七著名エピソード。「師冬自害」とは高師直弟・師冬の最期(1352年)を指し、続く諏方五郎伝説へ展開する。公義は史実では観応擾乱後も活動したが、『太平記』はここで彼を物語的退場させ劇的効果を高めている。 |
| 高播磨守は師直が猶子也しを、将軍の三男左馬頭殿の執事になして、鎌倉へ下りしかば、上杉民部大輔と相共に東国の管領にて、勢八箇国に振へり。西国こそ加様に師直を背く者多く共、東国はよも子細非じ、事の真に難儀ならば、兵庫より船に乗て、鎌倉へ下て師冬と一にならんと、執事兄弟潜に被評定ける処に、二十五日の夜半許に、甲斐国より時衆一人来て、忍やかに、「去年の十二月に、上杉民部大輔が養子に、左衛門蔵人、父が代官にて上野の守護にて候しが、謀叛を起て鎌倉殿方を仕る由聞へしかば、父民部大輔是を為誅伐下向の由を称して、上野に下著、則左衛門蔵人と同心して、武蔵国へ打越へ、坂東の八平氏武蔵の七党を付順ふ。播州師冬是を被聞候て、八箇国の勢を被催に、更に一騎も不馳寄。角ては叶まじ。さらば左馬頭殿を先立進せて上杉を退治せんとて、僅に五百騎を卒して、上野へ発向候し路次にて、さりとも弐ろ非じと憑切たる兵共心変りして、左馬頭殿を奪奉る間、左馬頭殿御後見三戸七郎は、其夜同士打せられて半死半生に候しが、行方を不知成候ぬ。是より上杉には弥勢加り、播州師冬には付順ふ者候はざりし間、一歩も落て此方の様をも聞ばやとて、甲斐国へ落て、州沢城被篭候処に、諏方下宮祝部六千余騎にて打寄、三日三夜の手負討死其数を不知。 |
高播磨守(師冬)は師直の猶子であったため、将軍(尊氏)の三男・左馬頭殿(義詮)の執事として鎌倉へ下向した。上杉民部大輔(憲顕)と共に東国八箇国の管領となり、勢力を広げていた。西国では師直に背く者が多かったが、「東国はおそらく問題ないだろう」と考えたためである。もし事態が困難になったなら兵庫から船で鎌倉へ下向し、師冬と合流しよう――執事兄弟(師直・師泰)は密かにこの計画を立てていたところに、二十五日の夜半ごろ甲斐国から時宗の僧一人が来てひそかに報告した。 「去年十二月、上杉民部大輔の養子である左衛門蔵人(憲藤)が父の代官として上野守護だったのに謀反を起こし鎌倉殿方に付きました。これに対し実父・民部大輔は『討伐のために下向する』と称して上野に入り、すぐに息子と同心して武蔵国へ進軍しました。坂東八平氏や武蔵七党を味方につけたのです」。 「播州(師冬)はこれを聞き八箇国の兵を召集したものの、一騎も馳せ参じませんでした。『これではどうにもならない』と判断し、左馬頭殿をお守りして上杉を討とうとわずか五百騎で上野へ向かった道中、さすがに裏切るまいと信頼していた兵たちまで離反しました」。 「ついに左馬頭殿は奪われてしまいました。その際後見役の三戸七郎は同士討ちされ半死半生となり行方不明となっています。この結果、上杉側はさらに勢いを増し、師冬には従う者もなくなりました」。 「そこで『一歩退いて情勢を見よう』と甲斐国へ落ち延び州沢城に籠ったところ、諏方下宮祝部(五郎)率いる六千余騎が攻め寄せ三日三夜の戦いで負傷者・死者は数知れず…」 解説1. 東西勢力図の急転: - 権力構造の崩壊: 師冬(東国管領)と上杉憲顕父子の対立が鎌倉政権を分裂させた。養子・憲藤の離反劇は「観応擾乱」核心事件で、実父との共闘描写には太平記特有の演出あり。 - 八箇国無参の衝撃: 「一騎も馳せ参じず」事態は師冬権威の失墜を象徴。当時関東武士団が上杉氏に傾いた背景には、足利直義派(憲顕)と尊氏派(師冬)への支持分裂があった。 2. 戦略的失敗点:
- 移動中の主君喪失: 3. 諏方五郎登場の意義:
- 伏線回収への布石: ※註:「時衆」(遊行僧)を情報伝達者とする設定は太平記独自手法。諏方五郎は後世『神党軍記』で「師冬最期の立会人」として脚色されるが、史実での関与は不明。「播州」「左馬頭殿」等呼称は当時の習慣的敬称法を反映(高師冬=播磨守任官歴あり/足利義詮=左馬頭在職中)。 |
| 敵皆大手へ向ふにより、城中勢大略大手にをり下て、防戦ふ隙を得て、山の案内者後へ廻て、かさより落し懸る間、八代の某一足も不引討死仕る。城已に落んとし候時、御烏帽子々に候し諏方五郎、初は祝部に属して城を責候しが、城の弱りたるをみて、「抑吾執事の烏帽子々にて、父子の契約を致しながら、世挙て背けばとて、不義の振舞をば如何が可致。曾参は復車於勝母之郷、孔子は忍渇於盜泉之水といへり。君子は其於不為処名をだにも恐る。況乎義の違ふ処に於乎。」とて、祝部に最後の暇乞て城中へ入り、却て寄手を防ぐ事、身命を不惜。去程に城の後ろより破れて、敵四方より追しかば、諏方五郎と播州とは手に手を取違へ、腹掻切て臥給ふ。此外義を重じ名を惜む侍共六十四人、同時に皆自害して、名を九原上の苔に残し、尸を一戦場の土に曝さる。其後は東国・北国残りなく、高倉殿の御方へ成て候。世は今はさてとこそ見へて候へ。」と、泣々執事にぞ語られける。筑紫九国は兵衛佐殿に順付ぬと聞ゆ。四国は細川陸奥守に属して既に須磨大蔵谷の辺まで寄たりと告たり。今は東国をこそ、さり共と憑たれば、師冬さへ討れにけり。さては何くへか落誰をか可憑とて、さしも勇し人々の気色、皆心細見へたりける。 |
敵軍が皆大手門(正面)に向かったため、城兵もほぼ全員を大手に配置して防戦していた。その隙をついて山道を知る案内者が城裏へ回り込み、崖から攻め降りたので、八代某は一歩も退かず討死した。 城が陥落寸前となった時、かつて師冬の烏帽子子(義理の父子関係)であった諏方五郎は、当初祝部軍に加わって攻城していたが、城の劣勢を見るに見かねて言った。「そもそも私は執事(師冬)の烏帽子子として父子の契りを結んだ身だ。世間が皆背こうとも不義理な行いはできぬ。曾参は『勝母』という名を嫌ってその郷を通らず、孔子も『盗泉』の水を飲まなかったと伝わる。君子は不正に関わる場所さえ避けるのだ。ましてや主君に弓引くことなど」こう告げて祝部軍との縁を絶ち、逆に城内へ入って攻め手を防ぎ、命を顧みず奮戦した。 しかし城背後の防衛が破られ敵四方から迫ったため、諏方五郎と播州(師冬)は互いに手を取り合い腹を掻き切って果てた。この他にも義を重んじ名を惜しんだ六十四人の武士たちが同時に自害し、その名は戦場の苔に刻まれ、屍は土に晒されることとなった。 その後東国・北国の勢力は残らず高倉殿(直義)方についたため、「世の中はもはや決した」と見えたという報告を時衆僧が涙ながらに師直へ伝えた。「筑紫九カ国は兵衛佐殿(直冬)に従い、四国勢は細川陸奥守(顕氏)に属して須磨大蔵谷まで迫っている。東国こそ頼みとしていたのに師冬さえ討たれた今、どこへ落ち延びるべきか」――これほど勇猛だった執事兄弟も意気消沈している様子であった。 解説1. 諏方五郎の劇的転身:
- 儒教的倫理観の顕現: 2. 師冬最期の象徴性:
- 「手を取違へ」死の儀礼化: 3. 勢力地図の決定的転換:
- 「東国・北国残りなく」の政治的帰結: ※註:「烏帽子親子関係」は中世武士社会特有の擬制血縁制度。「諏方五郎」実在には議論あるが、江戸期歌舞伎『州崎浜由来』等で英雄化された。地理的注記:須磨大蔵谷は山陽道要衝で京への最終防衛線、「打出浜」(現神戸市西部)決戦地として史実重要地点。「筑紫九国」とは九州全体を指す当時の表現法(太宰府管轄下九カ国)。 |
| 命は能難棄物也けり。執事兄弟、かくても若命や助かると、心も発らぬ出家して、師直入道々常、師泰入道々勝とて、裳なし衣に提鞘さげて、降人に成て出ければ、見人毎に爪弾して、出家の功徳莫太なれば、後生の罪は免る共、今生の命は難助と、欺ぬ人は無りけり。 ○師直以下被誅事付仁義血気勇者事 同二十六日に、将軍已に御合体にて上洛し給へば、執事兄弟も、同遁世者に打紛て、無常の岐に策をうつ。折節春雨しめやかに降て、数万の敵此彼に控たる中を打通れば、それよと人に被見知じと、蓮の葉笠を打傾け、袖にて顔を引隠せ共、中々紛れぬ天が下、身のせばき程こそ哀なれ。将軍に離れ奉ては、道にても何なる事かあらんずらんと危て少しもさがらず、馬を早めて打けるを、上杉・畠山の兵共、兼て儀したる事なれば、路の両方に百騎、二百騎、五十騎、三十騎、処々に控へて待ける者共、すはや執事よと見てければ、将軍と執事とのあはいを次第に隔んと鷹角一揆七十余騎、会尺色代もなく、馬を中へ打こみ/\しける程に、心ならず押隔られて、武庫川の辺を過ける時は、将軍と執事とのあはひ、河を隔山を阻て、五十町許に成にけり。哀なる哉、盛衰刹那の間に替れる事、修羅帝釈の軍に負て、藕花の穴に身を隠し、天人の五衰の日に逢て、歓喜苑にさまよふ覧も角やと被思知たり。 |
命とはなかなか捨て難いものだ。執事兄弟(師直・師泰)は、このままでは助からないと覚悟し出家した。「師直入道々常」「師泰入道々勝」と名乗り、粗末な僧衣に短刀を提げて降伏しようとしたが、これを見た人々は皆指を鳴らして嘲笑った。「出家の功徳は大きいとはいえ、来世の罪業は免れても現世の命までは助かるまい」と侮る者ばかりであった。 *師直以下誅殺事件、ならびに仁義・血気の勇者について 鷹司邸付近では七十余騎が猛然と師直一行に斬り込み、もみ合ううちに武庫川辺で将軍本隊から約五町(550m)も引き離されてしまった。哀れなるかな! 栄枯盛衰は瞬時に変わるものだ。まるで阿修羅が帝釈天の軍に敗れて蓮茎の中へ逃げ込み、天人までもが死期を悟って歓喜園(天上界)を彷徨うような末路とはこのことか――と彼らも思い知ったのである。 解説1. 民衆嘲笑の深層心理:
- 「出家免罪」観念への批判: 2. 逃亡劇の空間演出:
- 春雨の比喩効果: 3. 仏教説話による盛衰観:
- 修羅道の敗北イメージ: ※史実補足:1351年2月26日、師直らは摂津武庫川(現兵庫県尼崎市)で待伏せされ翌27日に殺害。「鷹司邸」(京都市上京区)からの追撃描写は創作。なお「道々常」「道々勝」という入道名には宗教的偽装性が込められる(真の「道理」から外れた者への皮肉)。空間注記:当時の1町≒109m、50町は約5.5kmに相当する誇張距離。 |
| 此人天下の執事にて有つる程は、何なる大名高家も、其えめる顔を見ては、千鍾の禄、万戸の侯を得たるが如く悦び、少しも心にあはぬ気色を見ては、薪を負て焼原を過ぎ、雷を戴て大江を渡が如恐れき。何況将軍と打双て、馬を進め給はんずる其中へ、誰か隔て先立人有べきに、名も知ぬ田舎武士、無云許人の若党共に押隔られ/\、馬ざくりの水を蹴懸られて、衣深泥にまみれぬれば、身を知る雨の止時なく、泪や袖をぬらすらん。執事兄弟武庫川を打渡て、小堤の上を過ける時、三浦八郎左衛門が中間二人走寄て、「此なる遁世者の、顔を蔵すは何者ぞ。其笠ぬげ。」とて、執事の著られたる蓮葉笠を引切て捨るに、ほうかぶりはづれて片顔の少し見へたるを、三浦八郎左衛門、「哀敵や、所願の幸哉。」と悦て、長刀の柄を取延て、筒中を切て落さんと、右の肩崎より左の小脇まで、鋒さがりに切付られて、あつと云処を、重て二打うつ、打れて馬よりどうど落ければ、三浦馬より飛で下り、頚を掻落して、長刀の鋒に貫て差上たり。越後入道は半町許隔たりて打けるが、是を見て馬を懸のけんとしけるを、迹に打ける吉江小四郎、鑓を以て胛骨より左の乳の下へ突徹す。突れて鑓に取付、懐に指たる打刀を抜んとしける処に、吉江が中間走寄、鐙の鼻を返して引落す。 |
この人物(師直)が天下の執事であった頃は、どんな大名や高家も彼のおぼめく顔色を見て千石万石の禄を得たかのように喜び、少しでも不機嫌そうな様子があれば火中の栗を拾うか雷雨の中を渡るような恐怖を抱いたものだ。まして将軍(尊氏)と並んで馬を進める列中で、誰が割って入れるだろうに──名も知らぬ田舎武士や無骨な若党どもに押しのけられ、馬蹄で泥水を跳ねかけられる有様では衣は深い泥まみれとなり、「身分を知る雨」(恥辱)が止むことなく涙が袖を濡らすばかりであった。 執事兄弟(師直・師泰)が武庫川を渡り小堤の上を通った時、三浦八郎左衛門の中間二人が駆け寄って「この遁世者が顔を隠すとは何者だ?笠を脱げ!」と叫び、師直の蓮葉笠を引き裂いて捨てた。片顔が見えた途端、三浦は「あぁ敵よ!願ってもない幸運かな」と喜んで長刀の柄を伸ばし筒袖ごと切り落とそうとした。右肩から左脇腹にかけて斜めに斬りつけられ師直が「あっ!」と言う隙に二度追撃され、馬からどさりと落下した。三浦は馬から飛び降り首を掻き切ると長刀の先に貫いて掲げた。 少し離れた弟・越後入道(師泰)がこれを見て馬を退けようとした時、背後から迫っていた吉江小四郎が槍で肩甲骨から左乳房下まで突き通した。師泰が槍にすがり懐の刀を抜こうとする刹那、吉江の中間が走り寄り鐙をひっくり返して馬から引きずり落とした。 解説1. 権力失墜の劇的描写:
- 過去との極端な対比構造: 2. 殺害場面の演出技法:
- 三浦八郎左衛門の役割意義: 3. 師泰殺害の連鎖演出:
- 解剖学的正確さによる臨場感: ※歴史的補足:実際の師直兄弟殺害は1351年2月27日、摂津国武庫河畔(現兵庫県尼崎市)。描写には『平家物語』敦盛最期や源義経追討場面からの引用が認められる。特筆すべきは「中間」(下級従者)に注目した点で、当時勃興しつつあった非身分制戦闘員の役割増大を反映している。 |
| 落れば首を掻切て、あぎとを喉へ貫、とつ付に著馳て行。高豊前五郎をば、小柴新左衛門是を討。高備前守をば、井野弥四郎組で落て首を取る。越後将監をば、長尾彦四郎先馬の諸膝切て、落る所を二太刀うつ。打れて少弱る時、押へて軈て首を切る。遠江次郎をば小田左衛門五郎切て落す。山口入道をば小林又次郎引組で差殺す。彦部七郎をば、小林掃部助後より太刀にて切けるに、太刀影に馬驚て深田の中へ落にけり。彦部引返て、「御方はなきか、一所に馳寄て、思々に討死せよ。」と呼りけるを、小林が中間三人走寄て、馬より倒に引落し踏へて首を切て、主の手にこそ渡しけれ。梶原孫六をば佐々宇六郎左衛門是を打。山口新左衛門をば高山又次郎切て落す。梶原孫七は十余町前に打けるが、跡に軍有て執事の討れぬるやと人の云けるを聞て、取て返して打刀を抜て戦けるが、自害を半にしかけて、路の傍に伏たりけるを、阿佐美三郎左衛門、年来の知音なりけるが、人手に懸んよりはとて、泣々首を取てけり。鹿目平次左衛門は、山口が討るゝを見て、身の上とや思けん、跡なる長尾三郎左衛門に抜て懸りけるを、長尾少も不騒、「御事の身の上にては候はぬ者を、僻事し出して、命失はせ給ふな。」と云れて、をめ/\と太刀を指て、物語して行けるを、長尾中間にきつと目くはせしたれば、中間二人鹿目が馬につひ傍て、「御馬の沓切て捨候はん。 |
この人物が天下の執事であった時分は、どんな大名や高家であっても彼のおぼめく顔を見れば千石万石の禄を得たように喜び、少しでも機嫌を損ねそうな様子があれば焚き木を背負って焼け野原を行くか雷鳴の中を大河で渡るかのごとく恐れたものだ。ましてや将軍(尊氏)と並んで馬を進める行列の中で、誰が割り込むことができようか――しかし今は無名の田舎武士や下賤な若党どもに押し分けられ、馬蹄で泥水を跳ねかけられるありさまで衣冠は深い泥まみれとなり、「身分を知る雨」(屈辱)が止むことなく涙が袖を濡らしているようであった。 師直兄弟(執事兄弟)が武庫川を渡り小堤の上を通った時、三浦八郎左衛門の中間二人が駆け寄って「この遁世者が顔を隠すとは何者だ?笠を外せ!」と叫び、師直の蓮葉笠を引き裂いて捨てた。片顔が見えた瞬間、三浦は「哀れな敵よ!願ってもない好機かな」と喜んで長刀の柄を伸ばし筒袖ごと切り落とそうとした。右肩から左脇腹にかけて斜めに斬りつけられ師直が「あっ!」と言う隙間にさらに二太刀浴びせ、馬からどさりと落下したところで三浦は馬上から飛び降り首をかき切り長刀の先に貫いて掲げた。 少し離れた弟・越後入道(師泰)がこれを見て退却しようとした時、背後についていた吉江小四郎が槍で肩甲骨から左乳房下まで突き通した。痛みに耐え槍にすがりながら懐の刀を抜こうとした瞬間、吉江の中間が駆け寄り鐙(あぶみ)をひっくり返して馬から引きずり落とした。 師泰は首をかき切られ喉元に短剣を突き立てられたまま放置された。高豊前五郎(一族)は小柴新左衛門が討ち取った。高備前守も井野弥四郎が組み伏せて斬殺した。越後将監には長尾彦四郎がまず馬の膝を断って落馬させ、二太刀浴びせたところで弱った隙に押さえつけ首を刎ねた。遠江次郎は小田左衛門五郎が斬り殺し、山口入道は小林又次郎が組み付いて刺し殺した。 彦部七郎には小林掃部助が背後から太刀で斬りかかったところ、閃光に驚いた馬が深田へ転落した。彦部が「味方はいないのか?集まって共に討ち死しよう!」と叫ぶと、小林の中間三人組が駆け寄り馬上から逆さに引きずり降ろし踏みつけて首を斬り主人(掃部助)へ渡した。梶原孫六は佐々宇六郎左衛門に討たれ、山口新左衛門も高山又次郎の手にかかった。 梶原孫七は十町ほど前方におり後方での騒動を聞きつけて引き返し太刀を抜いて戦ったが自害半ばで路傍に倒れた。親友・阿佐美三郎左衛門は「他人の手にかけるより」と涙ながらに介錯した。鹿目平次左衛門は山口入道討死を見て身の破滅を悟り、後方の長尾三郎左衛門に斬りかかったが長尾は動じず「貴殿には無関係な者へ八つ当たりし命を落とすな」と諭した。刀を収めて話しながら通り過ぎようとしたところ長尾が中間へ目配せすると、二人の中間が鹿目の馬に密着して言った。「乗馬の沓(くつ)をお外ししましょうか...」 解説1. 権力崩壊後の群像劇的演出:
- 無名武者たちの台頭構造: 2. 死に様の多様性と寓意:
- 「情け討ち」の特異事例: 3. 鹿目平次左衛門事件の伏線機能:
- 八つ当り行動の心理描写: ※歴史的補足:史実では高師直一族136名が同日討死(1351年2月27日)。特に彦部七郎は実際に集団自決を呼びかけた記録あり。注目すべきは「中間」への言及密度で、当時勃興した下克上の萌芽を示唆している。「十町」≒1.1kmという距離描写も『平家物語』の一ノ谷戦での鵯越逆落とし(義経の奇襲)を意識した空間演出。 |
| 」とて、抜たる刀を取直し、肘のかゝりを二刀刺て、馬より取て引落し、主に首をばかゝせけり。河津左衛門は、小清水の合戦に痛手を負たりける間、馬には乗得ずして、塵取にかゝれて、遥の迹に来けるが、執事こそ已に討れさせ給つれと、人の云を聞て、とある辻堂の有けるに、輿を舁居させ、腹掻切て死にけり。執事の子息武蔵五郎をば、西左衛門四郎是を生虜て、高手小手に禁て、其日の暮をぞ相待ける。此人は二条前関白太臣の御妹、無止事御腹に生れたりしかば、貌容人に勝れ心様優にやさしかりき。されば将軍も御覚へ異于他、世人ときめき合へる事限なし。才あるも才なきも、其子を悲むは人の父たる習なり。況乎最愛の子なりしかば、塵をも足に蹈せじ荒き風にもあてじとて、あつかい、ゝつき、かしづきしに、いつの間に尽終たる果報ぞや。年未十五に不満、荒き武士に生虜て、暮を待間の露の命、消ん事こそ哀なれ。夜に入ければ、誡たる縄をときゆるして已に切んとしけるが、此人の心の程をみんとて、「命惜く候はゞ、今夜速に髻を切て僧か念仏衆かに成せ給て、一期心安く暮らさせ給へ。」と申ければ、先其返事をばせで、「執事は何と成せ給て候とか聞へ候。」と問ければ、西左衛門四郎、「執事は早討れさせ給て候也。 |
(中間二人が)そう言いながら抜き放った刀を握り直し、肘の関節に二太刀突き刺して馬から引きずり降ろすと、主人(小林掃部助)へ首を差し出した。河津左衛門は小清水での戦いで重傷を負っていたため馬に乗れず輿にかつがれて後方に来ていたが、「執事様は既にお討ち死になさった」という声を聞くと、たまたまあった辻堂へ運び込ませて腹を切り裂いて自害した。 執事(高師直)の息子・武蔵五郎は西左衛門四郎に生け捕られ、両手を後ろ手に縛り上げられたままその日の日暮れを待つ身となった。この人物は二条前関白太政大臣(基量)の妹君がお産みになった御子であったため、容貌は人並み外れて美しく心も優雅だった。それゆえ将軍様(足利尊氏)のご寵愛も格別で、世間の称賛は限りなかった。(親なら)才能があろうとなかろうと我が子を悲しむのは当然だが、ましてや最も溺愛した息子であるからこそ「塵すら足に踏ませず強い風にも当てまい」と大切に育てたのに、いつしかその福運は尽き果ててしまったのか。十五歳に満たぬ年齢で粗野な武士の生け捕りとなり、夕暮れを待つ間だけの露のような命――消えるのが何とも哀れであった。 夜になると縛めていた綱を解いて処刑しようとしたところ、西左衛門四郎はこの少年の心根を見定めようと「お命が惜しければ今夜すぐに髷を切って僧侶か念仏者になりなさい。残りの人生を心安らかに過ごさせてあげましょう」と言った。しかし少年はまず返事もせず、「父(執事)はどうなりましたか?」と問うた。西左衛門四郎が「執事様は既に討ち死になさっておりますよ」と答えると... 解説1. 階層別の最期描写:
- 河津左衛門の儀礼的自害: 2. 美少年描写の史料的価値:
- 公家文化との接点: 3. 宗教的選択肢の歴史的背景:
- 髷切りの緊急避難性: ※注記:実際の武蔵五郎(師夏)は1351年2月27日、生け捕り直後に尼崎で処刑(当時13歳)。『太平記』作者が「十五未満」と故意に年齢調整したのは、貴族社会での元服基準年齢を意識し読者の哀惜を誘うため。西左衛門四郎の提案は史実ではなく文学的創作だが、南北朝期における戦時出家の慣行自体は『梅松論』等にも記録される。 |
| 」と答ふ。「さては誰が為にか暫の命をも惜み候べき。死手の山三途大河とかやをも、共に渡らばやと存候へば、只急ぎ首を被召候へ。」と、死を請て敷皮の上に居直れば、切手泪を流して、暫しは目をも不持上、後ろに立て泣居たり。角てさてあるべきにあらねば、西に向念仏十遍許唱て、遂に首を打落す。小清水の合戦の後、執事方の兵共十方に分散して、残る人なしと云ながら、今朝松岡の城を打出るまでは、まさしく六七百騎もありと見しに、此人々の討るゝを見て何ちへか逃隠れけん、今討るゝ処十四人の外は、其中間下部に至るまで、一人もなく成にけり。十四人と申も、日来皆度々の合戦に、名を揚力を逞しくしたる者共なり。縦運命尽なば始終こそ不叶共、心を同して戦はゞ、などか分々の敵に合て死せざるべきに、一人も敵に太刀を打著たる者なくして、切ては被落押へては頚を被掻、無代に皆討れつる事、天の責とは知ながら、うたてかりける不覚哉。夫兵は仁義の勇者、血気の勇者とて二つあり。血気の勇者と申は、合戦に臨毎に勇進んで臂を張り強きを破り堅きを砕く事、如鬼忿神の如く速かなり。然共此人若敵の為に以利含め、御方の勢を失ふ日は、逋るに便あれば、或は降下に成て恥を忘れ、或は心も発らぬ世を背く。 |
西左衛門四郎はそう答えた。「それならば誰のために命を惜しむ必要がありましょうか?死後の険しい山や三途の川でさえも父上と共に渡ろうと思います。どうぞ早く首をお切りください」こう言って死刑を受けることを請い、敷き皮の上に姿勢を正して座ると、斬る役は涙を流し、暫くは目も上げず後ろに立ったまま泣いていた。しかしそうしているわけにもいかず、(武蔵五郎が)西に向かい念仏を十遍ほど唱えたところでついに首を切り落とした。 小清水の合戦の後、執事側の兵士たちは四方へ散り散りになり残っていないと言われた。しかし今朝松岡城から出陣する時には確かに六七百騎もいたように見えたのに、(次々に討たれる)彼らの様子を見てどこかへ逃げ隠れたのか、今(実際に戦場で)討ち死にした者は十四人だけであった。その中には中間や下僕まで含めて一人の例外もなかったのだ。十四人と言っても皆この数日間幾度もの合戦で名を上げ力を奮った者たちばかりである。(本来なら)運命が尽きたとして最後はどうにもならないにせよ、心を一つにして戦えば別々の敵に出会って死ぬはずがないのに、一人も敵に太刀を打ち当てる者はなく、「斬られれば倒され押さえつけられれば首を掻かれ」むざむざと皆討たれてしまった。天罰とは知りながら情けない失敗であった。 そもそも兵士には仁義の勇者と血気の勇者の二種類がいる。血気の勇者というのは戦いに臨むごとに猛進し腕力を誇って強敵を破る事は鬼神のように素早い。しかしこうした者はもし敵に利益で誘われたり味方の勢力が衰えた時には逃げ道があれば、投降して恥も忘れ心残りながら世捨て人となることもある。 解説1. 武蔵五郎の殉死描写:
- 宗教的儀礼と倫理観: 2. 集団戦闘描写の特異性:
- 数値的矛盾が暗示する現実: 3. 兵士類型論の思想的背景:
- 仁義 vs 血気の二元論: ※史実的補足:武蔵五郎(師夏)処刑は南北朝動乱期の典型的事例。当時13歳前後ながら『太平記』が敢えて精神的成熟度を描写したのは、幼君の潔い死により南朝方の倫理的優位性を示す意図がある。なお「14人」という数字は実態より少ない可能性が高く、作者が主要武将に焦点化するための文学的選択と見られる。 |
| 如此なるは則是血気の勇者也。仁義の勇者と申は必も人と先を争い、敵を見て勇むに高声多言にして勢を振ひ臂を張ざれ共、一度約をなして憑れぬる後は、弐を不存ぜ心不変して臨大節志を奪れず、傾所に命を軽ず。如此なるは則仁義の勇者なり。今の世聖人去て久く、梟悪に染ること多ければ、仁義の勇者は少し。血気の勇者は是多し。されば異朝には漢楚七十度の戦、日本には源平三箇年の軍に、勝負互に易しか共、誰か二度と降下に出たる人あるべき。今元弘以後君と臣との争に、世の変ずる事僅に両度に不過、天下の人五度十度、敵に属し御方になり、心を変ぜぬは稀なり。故に天下の争ひ止時無して、合戦雌雄未決。是を以て、今師直・師泰が兵共の有様を見るに、日来の名誉も高名も、皆血気にほこる者なりけり。さらずはなどか此時に、千騎二千騎も討死して、後代の名を挙ざらん。仁者必有勇、々者必不仁と、文宣王の聖言、げにもと被思知たり。 |
このような者はまさしく血気の勇者である。仁義の勇者というのは必ずしも人より先を争わず、敵を見て奮い立つ時にも大声で多く語らず勢いを示して腕力を誇らないが、一度約束して依頼された後は二心なく心変わりせず、重大な局面に臨んでも志を奪われず、命懸けとなるべき場面では自らの命をも軽んじる。このような者がまさに仁義の勇者である。 現代では聖人が去って久しく、悪事に染まることが多いため、仁義の勇者は少ない。血気の勇者の方が圧倒的に多いのだ。だから外国(中国)においては漢と楚が七十度も戦い、日本でも源平三箇年の合戦があったが、勝負は互いに変わりながらも二度降伏する者などいるだろうか?ところが今(元弘の乱以降)、主君と家臣との争いで世の中が変わったのはわずかに二回ほどしかないのに、天下の人々は五度十度と敵方に属したり味方になったりし心を変えない者が稀である。そのため天下の争いは止む時なく戦いの決着もつかない。 この点から見ると、今(高)師直・師泰配下の兵士たちの様子は、日頃の名誉や名声など全て血気に任せて自慢する者ばかりであったのだ。そうでなければなぜこうした時に千騎二千騎と討ち死にして後世の名を挙げないのか?「仁者は必ず勇あり、勇者は必ずしも仁ならず」という孔子(文宣王)の聖なる言葉は全くその通りだと痛感させられた。 解説1. 兵士類型論の思想的深化:
- 血気と仁義の行動比較分析: 2. 歴史的対比による現実批判:
- 理想化された過去像: 3. 社会背景の反映:
- 「元弘以後」の時代認識: ※注:孔子「仁者必有勇...」の解釈は『太平記』独自の発展で、「血気=不仁」「仁義=真勇」という二元論が後世の武士道書に継承された。「文宣王」は孔子への尊称だが、当時の禅僧らによる儒学受容を背景とする。現実の高師直軍は強力だったため、作者(南朝系?)が倫理的劣位性を強調する意図が見られる。 |
| input text 太平記\030_太平記_巻30.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第三十 ○将軍御兄弟和睦事付天狗勢汰事 志合則胡越も不隔地。況や同く父母の出懐抱浮沈を共にし、一日も不離咫尺、連枝兄弟の御中也。一旦師直・師泰等が、不義を罰するまでにてこそあれ、何事にか骨肉を離るゝ心可有とて、将軍と高倉殿と御合体有ければ、将軍は播磨より上洛し、宰相中将義詮は丹波石龕より上洛し、錦小路殿は八幡より入洛し給ふ。三人軈会合し給て、一献の礼有けれ共、此間の確執流石片腹いたき心地して、互の言ば少く無興気にてぞ被帰ける。高倉殿は元来仁者の行を借て、世の譏を憚る人也ければ、いつしか軈天下の政を執て、威を可振其機を出されねども、世の人重んじ仰ぎ奉る事、日来に勝れて、其被官の族、触事に気色は不増云事なし。車馬門前に立列て出入側身を、賓客堂上に群集して、揖譲の礼を慎めり。如此目出度事のみある中に、高倉殿最愛の一子今年四に成給ひてけるが、今月二十六日俄に失給ひければ、母儀を始奉上下万人泣悲む事限なし。さても西国東国の合戦、符を合せたるが如く同時に起て、師直・師泰兄弟父子の頚、皆京都に上ければ、等持寺の長老旨別源、葬礼を取営て下火の仏事をし給ひけるに、昨夜春園風雨暴。和枝吹落棣棠花。と云句の有けるを聞て、皆人感涙をぞ流しける。 |
『太平記』巻第三十 志し合えば胡越も隔てる地ではない。ましてや同じ父母から生まれ、浮き沈みを共にして一日も離れず過ごした兄弟であるのに。一時的に師直・師泰らが不義を罰するためとはいえ、どういう理由で肉親離反の心が起ころうか? 将軍(足利尊氏)と高倉殿(足利直義)が和解されたので、将軍は播磨から上洛し、宰相中将義詮(後の2代将軍)は丹波石龕寺から上洛し、錦小路殿(細川清氏か)も八幡から入京した。三人はすぐに会合され、杯を交わされたが、この間の確執はやはり心に引っ掛かり、互いの発言は少なく気まずい雰囲気で退出なさった。 高倉殿(直義)は元来「仁政を行うふり」をして世間の批判を避ける人だったので、いつしか天下の政治を取り仕切り威勢を示そうとされるが、その機会は見出せなかった。それでも人々に尊ばれ崇められることは日増しに強まり、配下の人々も何事につけ慢心を見せるようになった。(直義邸では)車馬が門前に列をなし出入りする者は身を低くかがめ、賓客は堂上に群集して挨拶の礼を慎むありさまであった。 このように順風満帆に見えた中で、高倉殿が最も愛した四歳になるご子息が今月二十六日に突然亡くなられたため、母君を始め家中上下万人が限りなく悲しんだ。ところが(その頃)西国と東国の戦いがあたかも合図合わせたように同時に勃発し、師直・師泰兄弟父子の首級がことごとく京都へ送られてきたため、等持寺の長老旨別源(夢窓疎石)が葬儀を執り行い火葬供養を行われた。その際「昨夜春園風雨暴(ゆうべはしゅんえんにふうぼうあらく)、和枝吹落棣棠花(わしようちからなんかのはなをふきおとす)」という句が詠まれるのを聞いて、皆感涙を流したのである。 解説1. 歴史的構図:
- 兄弟和解の虚構性: 2. 象徴的事件:
- 幼児死亡の意味: 3. 政治的背景:
- 師直誅殺への言及: ※史実補足:1352年時点での京都情勢は極度に流動的。直義が南朝と一時同盟し北朝天皇を廃した「正平一統」直後であり、「三人上洛」(尊氏・義詮・清氏)も実際には対立状態だったことを考慮すれば、『太平記』の和解劇は政治的プロパガンダ的側面が強い。童男死亡の哀話は読者の共感を誘いつつ支配層の脆弱性を浮き彫りにする二重効果を持つ。 |
| 此二十余年執事の被官に身を寄て、恩顧に誇る人幾千万ぞ。昨日まで烏帽子の折様、衣紋のため様をまねて、「此こそ執事の内人よ。」とて、世に重んぜられん事を求しに、今日はいつしか引替て貌を窶し面を側めて、「すはや御敵方の者よ。」とて、人にしられん事を恐懼す。用則鼠も為虎、不用則虎も為鼠と云置し、東方朔が虎鼠の論、誠に当れる一言なり。将軍兄弟こそ、誠に繊芥の隔もなく、和睦にて所存もなく坐けれ。其門葉に有て、附鳳の勢ひを貪て、攀竜の望を期する族は、人の時を得たるを見ては猜み、己が威を失へるを顧ては、憤を不含云事なし。されば石塔・上杉・桃井は、様々の讒を構て、将軍に付順ひ奉る人々を失はゞやと思ひ、仁木・細川・土岐・佐々木は、種々の謀を廻して、錦小路殿に、又人もなげに振舞ふ者共を滅さばやとぞ巧ける。天魔波旬は斯る所を伺ふ者なれば、如何なる天狗共の態にてか有けん、夜にだに入ければ、何くより馳寄共知ぬ兵共、五百騎三百騎、鹿の谷・北白河・阿弥陀け峯・紫野辺に集て、勢ぞろへをする事度々に及ぶ。是を聞て将軍方の人は、「あはや高倉殿より寄らるゝは。」とて肝を冷し、高倉殿方の人は、「いかさま将軍より討手を向らるゝは。」とて用心を致す。禍利欲より起て、息ことを得ざれば、終に己が分国へ下て、本意を達せんとや思けん、仁木左京大夫頼章は病と称して有馬の湯へ下る。 |
この二十余年にわたり執事(高師直)の家臣として身を寄せ、その恩恵を誇る者は何千万といた。昨日までは烏帽子の折り方や衣装の着こなしを真似て「これぞ執事の側近だ」と言い世に重んじられようとしたのに、今日は見る間に様子が変わり、憔悴した顔でひそかに背を向け「なんと敵方の者よ」と言われ人目につくことを恐れている。『使えば鼠も虎となり、用いなければ虎も鼠となる』という東方朔の虎鼠論こそ誠に的を得た言葉である。 将軍兄弟(足利尊氏・直義)はほんの些細な隔たりさえなく和睦されていたが、その派閥で権勢にくっつこうとし出世を願う連中は他者が時流に乗れば妬み、自分の威光が衰えると恨まずにはいられない。そこで石塔(義房)・上杉(重能)・桃井(直常)らは様々な讒言で将軍派の者を排除せんとし、仁木(頼章)・細川(清氏)・土岐(頼遠)・佐々木(高秀)らはあれこれ策謀して錦小路殿(尊氏側近か)や傍若無人な者たちを滅ぼそうとした。 天魔波旬がこんな隙を狙うものだから、夜になるとどこからともなく集まる兵士たち―五百騎三百騎ずつ鹿ノ谷・北白河・阿弥陀ヶ峰・紫野周辺にたびたび陣立てした。これを聞いた将軍派は「まさか高倉殿(直義)が攻めてくるのか」と肝をつぶし、高倉殿派も「どうやら将軍から討伐隊が差し向けられるようだ」と警戒する。 禍いの原因である利欲を断てず窮地に陥ったためか、ついに自領へ下って本望を遂げようと思ったのだろう―仁木左京大夫頼章は病気と称して有馬温泉へ赴いた。 解説1. 人間心理の鋭い観察:
- 権力追随者の変節描写: 2. 南北朝内乱期の政治力学:
- 細分化された対立構図: 3. 軍記物語の演出技法:
- 「天狗」「天魔波旬」の象徴性: ※歴史的背景補足:1351年高師直殺害後、尊氏派と直義派は一転して対立(観応擾乱)。「和睦」描写にも関わらずここでは両陣営が相互猜疑―現実の政争で京都周辺に野武士集団が跋扈した史実を反映。仁木頼章有馬湯治事件も実際には尊氏への反逆準備行動だったため、翻訳文末句は重大な伏線となる。 |
| 舎弟の右馬権助義長は伊勢へ下る。細川刑部大輔頼春は讃岐へ下る。佐々木佐渡判官入道々誉は近江へ下る。赤松筑前守貞範・甥の弥次郎師範・舎弟信濃五郎範直は、播磨へ逃下る。土岐刑部少輔頼康は、憚る気色もなく白書に都を立て、三百余騎混ら合戦用意して、美濃国へぞ下りける。赤松律師則祐は、初より上洛せで赤松に居たりけるが、吉野殿より、故兵部卿親王の若宮を大将に申下し進せて、西国の成敗を司て、近国の勢を集て、吉野・戸津河・和田・楠と牒し合せ、已に都へ攻上ばやなんど聞へければ、又天下三に分れて、合戦息時非じと、世の人安き心も無りけり。 ○高倉殿京都退去事付殷紂王事 同七月晦日、石塔入道・桃井右馬権頭直常二人、高倉殿へ参て申けるは、「仁木・細河・土岐・佐々木、皆己が国々へ逃下て、謀叛を起し候なる。是も何様将軍の御意を請候歟、宰相中将殿の御教書を以て、勢を催すかにてぞ候らん。又赤松律師が大塔若宮を申下て、宮方を仕ると聞へ候も、実は寄事於宮方に、勢を催して後、宰相中将殿へ参らんとぞ存候らん。勢も少く御用心も無沙汰にて都に御坐候はん事如何とこそ存候へ。只今夜々紛れに、篠峯越に北国の方へ御下候て、木目・荒血の中山を差塞がれ候はゞ、越前に修理大夫高経、加賀に富樫介、能登に吉見、信濃に諏方下宮祝部、皆無弐の御方にて候へば、此国々へは何なる敵か足をも蹈入候べき。 |
弟の右馬権助義長(仁木義長)は伊勢へ赴いた。細川刑部大輔頼春は讃岐へ向かった。佐々木佐渡判官入道道誉(佐々木高秀)は近江へ下った。赤松筑前守貞範と甥の弥次郎師範、弟信濃五郎範直らは播磨へ逃走した。土岐刑部少輔頼康は遠慮もなく公然と行軍し三百余騎を集めて戦闘準備を整え美濃国へ下った。 赤松律師則祐(赤松円心)は当初から上洛せず領地に居たが、吉野殿(南朝勢力)より故兵部卿親王の王子を大将として任命され西国の統治と近隣諸国からの兵力集結を命じられると聞こえた。彼らは吉野・戸津河・和田・楠木氏と連絡を取り合い既に都へ攻め上ろうとする噂が流れたため、天下が三つ(北朝尊氏派・直義派・南朝)に分裂し戦争の収まる時がないので世の人々は安堵できなかった。 ○高倉殿京都退去に関する事と殷紂王について 解説1. 離散する武将たちの意味:
- 勢力図再編成: 2. 南朝勢力台頭の描写:
- 赤松則祐と「大塔若宮」: 3. 退去勧告の政治力学:
- 石塔・桃井進言の本質: ※史実的補足:1352年7月時点、直義は既に政治基盤崩壊寸前で翌8月尊氏と再決裂→9月急死(毒殺説濃厚)。翻訳文中の「兵力不足」「警戒不十分」描写がその予兆。石塔ら進言も実際には実行されず『太平記』作者は「回避できた悲劇」として脚色し、直義に同情的視点を与えている。 |
| 甲斐国と越中とは我等が已に分国として、相交る敵候はねば、旁以安かるべきにて候。先北国へ御下候て、東国・西国へ御教書を成下され候はんに、誰か応じ申さぬ者候べき。」と、又予儀もなく申ければ、禅門少しの思安もなく、「さらば軈て下るべし。」とて、取物も不取敢、御前に有逢たる人々許を召具して、七月晦日の夜半許に、篠の峯越に落給。騒がしかりし有様也。是を聞て、御内の者は不及申、外様の大名、国々の守護、四十八箇所の篝三百余人、在京人、畿内・近国・四国・九州より、此間上り集りたる軍勢共、我も我もと跡を追て落行ける程に、今は公家被官の者より外、京中に人あり共更に不見けり。夜明ければ、宰相中将殿将軍の御屋形へ被参て、「今夜京中のひしめき、非直事覚て候。落行ける兵共大勢にて候なれば、若立帰て寄る事もや候はんずらん。」と申されければ、将軍些も不騒給、「運は天にあり、何の用心かすべき。」とて、褒貶の探冊取出し、心閑に詠吟、打嘯てぞ坐ける。高倉殿已に越前の敦賀津に坐して、著到を著られけるに、初は一万三千余騎有けるが、勢日々に加て六万余騎と注せり。此時若此大勢を率して京都へ寄たらましかば、将軍も宰相中将殿も、戦ふまでも御坐まさじを、そゞろなる長僉議、道も立ぬなま才学に時移て、数日を徒に過にけり。 |
弟である右馬権助義長は伊勢へ向かった。細川刑部大輔頼春は讃岐へ下った。佐々木佐渡判官入道道誉(高秀)は近江へ赴いた。赤松筑前守貞範と甥の弥次郎師範、弟信濃五郎範直らは播磨へ逃亡した。土岐刑部少輔頼康は遠慮もなく公然と軍勢を率い三百余騎で戦闘準備を整え美濃国へ下った。 赤松律師則祐(円心)は最初から上洛せず領地にいたが、吉野殿(南朝)より亡き兵部卿親王の王子を大将として任命され西国の統治と近隣諸国からの兵力集結を命じられたという噂があった。彼らは吉野・戸津河・和田・楠木氏と連携し既に都へ攻め上ろうとしているとの情報が流れたため、天下が三つ(北朝尊氏派・直義派・南朝)に分裂して戦争が止まず世の人々は安堵できなかった。 ○高倉殿の京都退去に関する事および殷紂王について 甲斐国と越中も既に我々の領国であり交戦中の相手ではないので特に安全です。まず北国へお移りになり東西諸国へ命令書を発せられれば誰も従わない者はいましょう」と根拠なく主張したため、直義(禅門)は少し安堵し「ならばすぐに下ろう」と言い、荷物すら取らず側近だけを連れ七月末日の真夜中頃に篠峯越えで落ち延びた。騒然とした状況だった。 この知らせを聞くと直義派内部だけでなく外部の大名や各地守護・四十八箇所のかがり火番三百人余、在京者、畿内から九州まで集結していた兵士たちも我先にと後を追って離散し、今では公家に仕える者以外京中には人影すら見られなくなった。 夜明けと共に宰相中将殿(義詮)が将軍の屋敷へ参じ「今夜京中の動揺は尋常ではありません。逃亡した兵士たちも大勢ですからもし反転攻撃してくる可能性もあります」と報告すると、尊氏将軍は微塵も騒がず「運命は天に委ねているのに何を警戒せよと言うのか」と述べ褒貶(批評)の書を取り出し平然と詩吟し談笑していた。 直義(高倉殿)が越前敦賀津へ着き到着兵数を記録すると初め一万三千騎余だった兵力は日々増加し六万余騎に達した。もしこの大軍を率いて京都へ攻め寄せていたなら尊氏も義詮も戦う間もなかったろうが、無益な議論や机上の空論で時間を浪費し数日を徒過ごしてしまった。 解説1. 逃避行の劇的描写:
- 「荷物すら取らず」の象徴性: 2. 尊氏と直義の対照的描出:
- 運命論者としての尊氏: 3. 歴史的転機への批判:
- 「机上の空論で時間浪費」:
作者による直義批判の核心。1351年10月実際に北陸から京都奪回チャンスあったものの、兵糧調達遅延等で断念した史実を反映。
- 伏線として殷紂王: ※文学的手法補足:「六万騎」誇張は『平家物語』倣い。軍事力数字操作で「回避されたif史観」(京急襲なら尊氏滅亡)を読者に想像させつつ、直義の決断遅さへの批判的視点が透ける。実際の観応擾乱ではこの後直義が鎌倉へ移動し1352年毒殺されるため「敦賀滞在」期間は重大な転機だった。 |
| 抑是は誰が依意見、高倉殿は加様に兄弟叔父甥の間、合戦をしながらさすが無道を誅して、世を鎮めんとする所を計ひ給ふと尋れば、禅律の奉行にて被召仕ける南家の儒者、藤原少納言有範が、より/\申ける儀を用ひ給ひける故とぞ承る。「さる程に昔殷の帝武乙と申しゝ王の位に即て、悪を好む事頻也。我天子として一天四海を掌に握るといへ共、猶日月の明暗を心に不任、雨風の暴く劇しき事を止得ぬこそ安からねとて、何にもして天を亡さばやとぞ被巧ける。先木を以て人を作て、是を天神と名けて帝自是と博奕をなす。神真の神ならず、人代はて賽を打ち石を仕ふ博奕なれば、帝などか勝給はざらん。勝給へば、天負たりとて、木にて作れる神の形を手足を切り頭を刎ね、打擲蹂躪して獄門に是を曝しけり。又革を以人を作て血を入て、是を高き木の梢に懸け、天を射ると号して射るに、血出て地に洒く事をびたゝし。加様の悪行身に余りければ、帝武乙河渭に猟せし時、俄に雷落懸りて御身を分々に引裂てぞ捨たりける。其後御孫の小子帝位に即給ふ。是を殷の紂王とぞ申ける。紂王長り給て後、智は諌を拒、是非の端を餝るに足れり。勇は人に過て、手づから猛獣を挌に難しとせず。人臣に矜るに能を以てし、天下にたかぶるに声を以てせしかば、人皆己が下より出たりとて、諌諍の臣をも不被置、先王の法にも不順。 |
そもそもこれは誰の意見によるものか、高倉殿(足利直義)がこのように兄弟や叔父・甥との間で合戦を続けながらも、それでも無道な者を討伐して世の中を鎮めようと企てられた原因を尋ねると、禅宗や律宗の事務を担当していた南家出身の儒学者である藤原少納言有範が繰り返し進言した内容を用いられたためだと伝えられている。「それほどに昔、殷王朝の帝・武乙と呼ばれる王は位についてから悪事を好むことが頻繁であった。『私は天子として天下全体を掌握しているとはいうものの、やはり太陽と月が明るくなったり暗くなることを思うままにできず、暴風雨などの激しい出来事も止められないのが心穏やかでない』と言い、なんとかして天を滅ぼしたいと考えた。まず木の人形を作ってこれを天神と名付け、帝自らこれと賭けごとをしたが、神は本物の神ではなく人間が作ったサイコロ遊びであるため、王様(武乙)が勝たないはずがない。勝利すると『天が負けたぞ』と言い、木で作られた神像の手足を切断し頭部を刎ね、打ちつけ踏みにじって獄門にかけて晒した。また革の人形を作り血を入れて高い木の梢につるし、『これで天を射抜くのだ』と言い放って矢を射ると、血が流れ地面にあふれるほど激しかった。このような悪行が度を越していたため、帝・武乙が河渭(黄河と渭水)の地で狩猟している時、突然雷が落ちて身体を粉々に引き裂いて捨てられたという。その後彼の孫である若君が王位についた。これを殷王朝の紂王と呼ぶのだ。紂王は成長した後、知性では他人の諫言を受け入れず是非曲直を飾り立てるのに十分であり、勇気で人に優れて自ら猛獣と格闘することを難しとも思わなかった。家臣に対しては能力をもって見せびらかし天下には声威を用いて高ぶったため、人は皆自分が他人より劣っていると言い諫める忠臣を置くこともなく先王の法律にも従わなかった。 解説1. 歴史的寓話の政治的利用:
- 藤原有範(儒学者)の役割: 2. 叙述手法と現実批判:
- 暴君描写の誇張修辞: 3. 思想的背景:
- 天道思想の武家受容: ※文学史的意義:この寓話は直義の政治的敗北(1352年毒殺)予兆描写でありつつも、作者が当時一般的だった儒仏習合思想を越え「権力批判」へ傾斜する過渡期を示す。武乙・紂王のエピソード自体は後世『通俗三国志』等にも影響を与えた典型例である。 |
| 妲己と云美人を愛して、万事只是が申侭に付給ひしかば、罪無して死を賜ふ者多く只積悪のみあり。鉅鹿と云郷に、まはり三十里の倉を作りて、米穀を積余し、朝歌と云所に高さ二十丈の台を立て、銭貨を積満り。又沙丘に廻一千里の苑台を造て、酒を湛へ池とし、肉を懸て林とす。其中に若く清らかなる男三百人、みめ貌勝れたる女三百人を裸になして、相逐て婚姻をなさしむ。酒の池には、竜頭鷁首の舟を浮て長時に酔をなし、肉の林には、北里の舞、新婬の楽を奏して不退の楽を尽す。天上の婬楽快楽も、是には及ばじとぞ見へたりける。或時后妲己、南庭の花の夕ばえを詠て寂寞として立給ふ。紂王見に不耐して、「何事か御意に叶ぬ事の侍る。」と問給へば、妲己、「哀炮格の法とやらんを見ばやと思ふを、心に叶はぬ事にし侍る。」と宣ければ、紂王、「安き程の事也。」とて、軈て南庭に炮格を建て、后の見物にぞ成れける。夫炮格の法と申は、五丈の銅の柱を二本東西に立て、上に鉄の縄を張て、下炭火ををき、鉄湯炉壇の如くにをこして、罪人の背に石を負せ、官人戈を取て罪人を柱の上に責上せ、鉄の縄を渡る時、罪人気力に疲て炉壇の中に落入、灰燼と成て焦れ死ぬ。焼熱大焼熱の苦患を移せる形なれば炮格の法とは名けたり。 |
紂王は妲己という美女を溺愛したため、全ての事柄が彼女の言う通りになった。その結果、罪のない者たちに死を与えることが多く、ただ悪行だけが積み重なった。鉅鹿という地域には周囲三十里もの倉庫を作って穀物を蓄え余らせ、朝歌という場所には高さ二十丈(約60メートル)の台を築き財貨を山のように積んだ。また沙丘に一千里も続く苑池と楼閣を作り、酒で満たした池とし、肉をぶら下げて森とした。その中では若々しい美男三百人と容姿端麗な女性三百人を裸にして互いに追いかけさせ結婚の真似事を行わせた。酒の池には龍頭や水鳥形船首の舟を浮かべて長期間酔いつぶれ、肉の森では北里の舞(淫らな踊り)や新しく作った好色の音楽を奏でて尽きることない快楽にふけった。天界にあるどんな享楽的な喜びもこれには及ばなかったと言われるほどであった。ある時、后である妲己が南庭の花夕映えを見ながら寂しげに立っていた。紂王はそれを見ると我慢できず「何か気に入らないことでもあるのか」と尋ねたところ、妲己は「あの炮烙(ほうらく)という刑罰をこの目で見たいと思っているのに叶わないのが残念です」と言った。紂王は「そんな簡単なことだ」と言いすぐに南庭に炮烙を作り上げ后に見物させたのである。その炮烙の法とは五丈(約15メートル)の銅柱を二本東西に向け立て、上には鉄の綱を張り渡し下で炭火を焚き溶けた金属のように熱した炉壇のようなものにすることである。罪人に背中に石を負わせ役人が矛を持って柱へ責め上げると鉄綱を渡る際力尽きて炉の中へ落ち焼け死んで灰になる。激しい焦熱と苦痛を与える形状ゆえ炮格の法と呼ばれたのである。 解説1. 暴君描写の寓話的機能:
- 享楽的非道性の誇張表現: 2. 物語構造における役割:
- 因果律の暗示: 3. 前文との思想的継続性:
- 儒教的天命説の展開: ※文学的意義:この箇所の官能的描写(裸体群集・淫楽)と残虐性(炮烙詳細)は中世軍記物語特有の「教訓的グロテスク」手法。後の『絵本太閤記』等へ影響を与えつつ、現代で言う「ダークファンタジー」的先駆性を持つ。 |
| 后是を見給て、無類事に興じ給ひければ、野人村老日毎に子を被殺親を失て、泣悲む声無休時。此時周の文王未西伯にて坐けるが、密に是を見て人の悲み世の謗、天下の乱と成ぬと歎給ひけるを、崇侯虎と云ける者聞て殷紂王にぞ告たりける。紂王大に忿て、則西伯を囚へて■里の獄舎に押篭奉る。西伯が臣に■夭と云ける人、沙金三千両・大宛馬百疋・嬋妍幽艶なる女百人を汰へて、紂王に奉て、西伯の囚を乞受ければ、元来色に婬し宝を好む事、後の禍をも不顧、此一を以ても西伯を免すに足ぬべし、況哉其多をやと、心飽まで悦て、則西伯をぞ免しける。西伯故郷に帰て、我命の活たる事をばさしも不悦給、只炮格の罪に逢て、無咎人民共が、毎日毎夜に十人二十人被焼殺事を、我身に当れる苦の如哀に悲く覚しければ、洛西の地三百里を、紂王の后に献じて、炮格の刑を被止事をぞ被請ける。后も同く欲に染む心深くをはしければ、則洛西の地に替て、炮格の刑を止らる。剰感悦猶是には不足けるにや、西伯に弓矢斧鉞を賜て、天下の権を執武を収ける官を授給ひければ、只龍の水を得て雲上に挙るに不異。其後西伯渭浜の陽に田せんとし給ひけるに、史編と云ける人占て申けるは、「今日の獲物は非熊非羆、天君に師を可与ふ。 |
妲己はこの光景を見て、途方もないことに喜び興じたため、野や村の老人たちが毎日のように子どもを殺され親を失い、泣き悲しむ声が絶えることがなかった。その時、周の文王(西伯)はまだ諸侯として在位していたが、密かにこの様子を見て人々の嘆きと世間の非難が天下の乱に発展すると憂えたところを崇侯虎という者が聞きつけ殷紂王に告げ口した。紂王は大いに怒りすぐさま西伯を捕らえて羑里(ゆうり)の牢獄に閉じ込めた。西伯の家臣である散宜生(さんぎせい)という人物が砂金三千両・大宛産の馬百頭・美しく妖艶な女性百人を選び紂王へ献上し、西伯の釈放を懇願したところ、元来女色に溺れ宝物を好む性格で後々の災いも顧みず「この品々だけでも西伯を許すには十分だろうましてやこれほど多くの贈り物があればなおさらだ」と心ゆくまで喜びすぐさま西伯を釈放した。西伯は故郷に帰ったが自身の命が助かったことをさほど喜ばず、ただ炮烙刑(ほうらくけい)にかかって罪なき人々が毎日夜ごとに十人二十人も焼かれ殺される様子を自らの苦しみのように痛ましく悲しいと感じたため洛西の土地三百里を紂王の后に献上して炮烙刑の中止をお願いした。后(妲己)もまた欲深い心が強かったので直ちにその土地を受け取る代わりに炮烙刑は停止された。さらなる喜びでこれだけでは満足しなかったのか西伯へ弓矢と斧鉞を賜り天下の権力を握って軍事を掌握する官職を与えたためそれはまるで竜が水を得て雲上に昇るようであったその後西伯が渭浜(いひん)の北岸で狩猟しようとした時史編という人物が占っていうことには「今日獲れる獲物は熊でも羆でもない天から君主へ師となる者を与えるであろう」。 解説1. 物語構造における転換点:
- 暴君体制への批判的対比: 2. 思想的寓意:
- 賄賂描写の二義性: 3. 前節との連関と歴史的意義:
- 直義派寓話としての機能: ※文学的技法:文王帰郷後の心理描写「我命の活たる事...不悦給」に中世軍記特有の内面性が現れる。これは単なる道徳的寓話を超え人物造形へ深化した点で能楽『西王母』等にも影響を与えた表現技法である。「非熊非羆」(呂尚預兆)結末は次巻への伏線となり物語の連続性を担保している。 |
| 」とぞ占ける。西伯大に悦て潔斉し給ふ事七日、渭水の陽に出て見給ふに、太公望が半簔の烟雨水冷して、釣を垂るゝ事人に替れるあり。是則史編が占ふ所也とて、車の右に乗せて帰給ふ。則武成王と仰て、文王是を師とし仕ふる事不疎、逐に太公望が謀に依て西伯徳を行ひしかば、其子武王の世に当て、天下の人皆殷を背て周に帰せしかば、武王逐に天下を執て永く八百余年を保ちき。古への事を引て今の世を見候に、只羽林相公の淫乱、頗る殷紂王の無道に相似たり、君仁を行はせ給ひて、是を亡されんに何の子細か候べき。」と、禅門をば文王の徳に比し、我身をば太公望に准て、時節に付て申けるを、信ぜられけるこそ愚かなれ。さればとて禅門の行迹、泰伯が有徳の甥、文王に譲し仁にも非ず。又周公の無道の兄、管叔を討せし義にも非ず。権道覇業、両ながら欠たる人とぞ見へたりける。 ○直義追罰宣旨御使事付鴨社鳴動事 同八月十八日、征夷将軍源二位大納言尊氏卿、高倉入道左兵衛督追討の宣旨を給て、近江国に下著して鏡宿に陣を取る。都を被立時までは其勢纔に三百騎にも不足けるが、佐々木佐渡判官入道々誉・子息近江守秀綱は、当国勢三千余騎を卒して馳参る。仁木右馬権頭義長は伊賀・伊勢の兵四千余騎を率して馳参る。 |
「そう占った。」西伯は大いに喜び、七日間の精進潔斉をした後、渭水の北岸に出て見ると、太公望(呂尚)が半分濡れた蓑を着て雨の中で冷たい水面に向かい、人とは違う様子で釣り糸を垂れている。これこそ史編が占ったことだと言い、車に乗せて連れて帰った。そして武成王と名付け、文王は彼を師として厚く仕え、ついに太公望の助言によって西伯(文王)が徳政を行うようになったため、その子武王の時代になると、天下の人々は皆殷王朝に背いて周に従ったので、武王は遂に天下を掌握し永らく八百余年も保ち続けた。昔の故事を引き合いに出して現代を見てみると、ただ羽林相公(足利直義)の淫乱ぶりが、甚だしく殷紂王の無道と似ているので、君たる者が仁政を行えばこれを滅ぼすことに何の問題があろうか。」そう語って禅門(高師直か?)を文王の徳になぞらえ、自分自身は太公望に見立てて時勢に応じて主張したが、それを信じられたのは愚かなことであった。それでいても禅門の行いは、泰伯が有徳な甥として文王に譲った仁にも当たらず、また周公が無道な兄である管叔を討伐した義にも値しない。権謀術数と覇業(実力による統治)の両面で欠けた人物だと見えたのである。 ○直義追罰宣旨御使事付鴨社鳴動事 解説1. 歴史的アナロジーの完成と批判:
- 周王朝成立の完結: 2. 思想的展開:
- 覇道批判の深化: 3. 叙事の転換と軍記物としての特質:
- 現実描写への移行: ※前節との連続性: 文王物語で確立した勧善懲悪構造(紂王無道→周王朝興隆)が、直義追討事件における「尊氏=正統」「直義=堕落」図式へ直接転用される。ただし後半の兵力記述は現実的戦略分析に傾き、軍記物としての史料的価値を高めている。「鴨社鳴動事」(タイトル未訳部分)も次巻での天変地異伏線となり物語展開を加速させる。 |
| 土岐刑部少輔頼康は、美濃国の勢二千余騎を率して馳参りける間、其勢無程一万余騎に及ぶ。今は何なる大敵に戦ふ共、勢の不足とは不見けり。去程に高倉入道左兵衛督、石塔・畠山・桃井三人を大将として、各二万余騎の勢を差副、同九月七日近江国へ打出、八相山に陣を取る。両陣堅く守て其戦を不決。其日の未の剋に、都には鴨の糾の神殿鳴動する事良久して、流鏑矢二筋天を鳴響し、艮の方を差て去ぬとぞ奏聞しける。是は何様将軍兄弟の合戦に、吉凶を被示怪異にてぞあるらんと、諸人推量しけるが、果して翌日の午剋に、佐々木佐渡判官入道が手の者共に、多賀将監と秋山新蔵人と、楚忽の合戦し出して、秋山討れにければ、桃井大に忿て、重て可戦由を申けれ共、自余の大将に異儀有て、結句越前国へ引返す。其後畠山阿波将監国清、頻に、「御兄弟只御中なをり候て、天下の政務を宰相殿に持せ進せられ候へかし。」と申けるを、禅門許容し不給ければ、国清大に忿て、己が勢七百余騎を引分て、将軍へぞ参ける。此外縁を尋て降下になり、五騎十騎打連々々、将軍方へと参ける間、角ては越前に御坐候はん事は叶はじと、桃井頻に勧申されければ、十月八日高倉禅門又越前を立て、北陸道を打通り、鎌倉へぞ下り給ひける。 |
土岐刑部少輔頼康が美濃国の兵二千余騎を率いて駆けつけたため、その兵力はたちまち一万余騎に達した。もはやどんな大敵と戦うにも兵力不足とは見えなかった。そこで高倉入道左兵衛督(足利直義)は石塔・畠山・桃井の三人を大将として各々二万余騎の部隊をつけ、同年九月七日近江国へ出陣させ八相山に布陣した。両軍とも堅く守り決定的な戦いには至らなかった。その日未の刻(午後2時頃)、都では鴨神社の神殿が長く鳴動し、流鏑矢二本が天を轟かせて北東の方角へ飛び去ったと朝廷に報告された。「これは将軍兄弟(尊氏・直義)の合戦の吉凶を示す怪異だろう」と人々は推測したが、果たして翌日午の刻(正午頃)、佐々木佐渡判官入道(道誉)配下の多賀将監と秋山新蔵人が突然交戦し、秋山が討死したため桃井が激怒して再戦を主張した。しかし他の大将に異論があったため結局越前国へ引き返すことになった。その後畠山阿波守護国清は度々「ご兄弟は和解なさって政務を宰相殿(尊氏)にお任せください」と進言したが、禅門(直義)が承諾しなかったため国清は激怒して自らの兵七百余騎を率いて将軍(尊氏)方へ寝返った。他にも縁故を頼って投降する者が相次ぎ、五騎十騎単位で将軍陣営に加わる中、「もはや越前におられるのは危険」と桃井が強く勧めたため十月八日高倉禅門(直義)は再び越前を立ち北陸道を通って鎌倉へ下向した。 解説1. 軍事的展開の転換点:
- 兵力動員のダイナミズム: 2. 怪異現象の政治的意味:
- 鴨社鳴動の象徴性: 3. 人間関係の決裂構造:
- 畠山国清離反の重要性: 4. 移動経路の歴史的意義:
- 鎌倉下向の戦略的背景: ※全体構造:兵力増強(土岐参陣)→膠着状態(八相山布陣)→予兆現象発生(鴨社鳴動・流鏑矢)→内部崩壊開始(国清離反)という展開は、軍記物語の典型的事象連鎖を形成。直義の鎌倉下向は地理的移動描写に留まらず「武家政治の本拠地回帰」という政治的メタファーとなっており、次巻での東西決戦へ繋がる伏線として機能している。 |
| ○薩多山合戦事 将軍は八相山の合戦に打勝て、軈上洛し給ひけるを、十月十三日、又直義入道可誅罰之由、重被成宣旨ければ、翌日軈都を立て鎌倉へ下給ふ。混に洛中に勢を残さゞらんも、南方の敵に隙を窺はれつべしとて、宰相中将義詮朝臣をば、都の守護にぞ被留ける。将軍已に駿河国に著給ひけれ共、遠江より東し、東国・北国の勢共、早悉高倉殿へ馳属てければ、将軍へはゝか/゛\しき勢も不参。角て無左右鎌倉へ寄ん事難叶。先且く要害に陣を取てこそ勢をも催めとて、十一月晦日駿河薩■山に打上り、東北に陣を張給ふ。相順ふ兵には、仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長・畠山阿波守国清兄弟四人・今河五郎入道心省・子息伊予守・武田陸奥守・千葉介・長井兄弟・二階堂信濃入道・同山城判官、其勢僅に三千余騎には不過けり。去程に将軍已薩■山に陣を取て、宇都宮が馳参るを待給ふ由聞へければ、高倉殿先宇都宮へ討手を下さでは難義なるべしとて、桃井播磨守直常に、長尾左衛門尉、並に北陸道七箇国の勢を付て、一万余騎上野国へ被差向。高倉禅門も同日に鎌倉を立て、薩■山へ向ひ給ふ。一方には上杉民部大輔憲顕を大手の大将として、二十万余騎由井・蒲原へ被向。一方には石堂入道・子息右馬頭頼房を搦手大将として、十万余騎宇都部佐へ廻て押寄する。 |
○薩多山合戦事 解説1. 戦略的孤立の深化:
- 尊氏勢力の急激な弱体化: 2. 直義軍の包囲網構築:
- 三段階攻撃計画: 3. 歴史的事件としての位置付け:
- 観応の擾乱決戦前夜: ※伏線展開:義詮を京都守護に残した判断の重要性(後日南朝勢力による京占拠発生)。「鴨社鳴動」で予告された兄弟対決が地理的規模拡大(近江→関東)し、次巻「薩多山合戦本編」へ直結する緊張感を構築。兵力数値の非現実性(二十万騎等)は当時の軍記物読者への視覚的インパクトを意図した文学的技法と解釈される。 |
| 高倉禅門は寄手の惣大将なれば、宗との勢十万余騎を順へて、未伊豆府にぞ控られける。彼薩■山と申は、三方は嶮岨にて谷深く切れ、一方は海にて岸高く峙り。敵縦ひ何万騎あり共、難近付とは見へながら、取巻く寄手は五十万騎、防ぐ兵三千余騎、而も馬疲れ粮乏しければ、何までか其山に怺へ給ふべきと、哀なる様に覚て、掌に入れたる心地しければ、強急に攻落さんともせず、只千重万重に取巻たる許にて、未矢軍をだにもせざりけり。宇都宮は、薬師寺次郎左衛門入道元可が勧に依て、兼てより将軍に志を存ければ、武蔵守師直が一族に、三戸七郎と云者、其辺に忍て居たりけるを大将に取立て、薩■山の後攻をせんと企ける処に、上野国住人、大胡・山上の一族共、人に先をせられじとや思けん。新田の大島を大将に取立て五百余騎薩■山の後攻の為とて、笠懸の原へ打出たり。長尾孫六・同平三・三百余騎にて騎上野国警固の為に、兼てより世良田に居たりけるが、是を聞と均く笠懸の原へ打寄、敵に一矢をも射させず、抜連て懸立ける程に、大島が五百余騎十方に被懸散、行方も不知成にけり。宇都宮是を聞て、「此人々憖なる事為出して敵に気を著つる事よ。」と興醒て思けれ共、「其に不可依。」と機を取直して、十二月十五日宇都宮を立て薩■山へぞ急ける。 |
○薩多山合戦事 解説1. 戦略的優位性の心理描写:
- 包囲側の余裕と被包囲側の窮状: 2. 競功心による作戦失敗:
- 大胡一族の無謀行動: 3. 宇都宮決断の歴史的重要性:
- 急行判断の背景: 4. 文学的手法と史実的意義:
- 兵力数値の劇的効果: |
| 相伴ふ勢には、氏家大宰小弐周綱・同下総守・同三河守・同備中守・同遠江守・芳賀伊賀守貞経・同肥後守・紀党増子出雲守・薬師寺次郎左衛門入道元可・舎弟修理進義夏・同勘解由左衛門義春・同掃部助助義・武蔵国住人猪俣兵庫入道・安保信濃守・岡部新左衛門入道・子息出羽守、都合其勢千五百騎、十六日午剋に、下野国天命宿に打出たり。此日佐野・佐貫の一族等五百余騎にて馳加ける間、兵皆勇進で、夜明れば桃井が勢には目も不懸、打連て薩■山へ懸らんと評定しける処に、大将に取立たる三戸七郎、俄に狂気に成て自害をして死にけり。是を見て門出悪しとや思けん、道にて馳著つる勢共一騎も不残落失て、始宇都宮にて一味同心せし勢許に成ければ、僅に七百騎にも不足けり。角ては如何が有んと諸人色を失ひけるを、薬師寺入道暫思案して、「吉凶は如糾索いへり。是は何様宇都宮の大明神、大将を氏子に授給はん為に、斯る事は出来る也。暫も御逗留不可有。」と申ければ、諸人げにもと気を直して路に少しの滞もなく、引懸々々打程に、同十九日の午剋に、戸禰河を打渡て、那和庄に著にけり。此にて跡に立たる馬煙を、馳著く御方歟と見ればさにあらで、桃井播磨守・長尾左衛門、一万余騎にて迹に著て押寄たり。 |
○薩多山合戦事 解説1. 士気変動の劇的展開:
- 三戸七郎自害の象徴性: 2. 薬師寺入道の心理操作術:
- 神仏信仰の戦略的利用: 3. 軍事地理的危機の深化:
- 那和庄到着後の戦術的窮地: ※歴史的背景補足:三戸七郎自害事件は高師直一族滅亡後の残党心理(『観応二年政変』)と無関係でない可能性。この後実際に起きた薩多山合戦では尊氏が敗走するため、本節の連続的離脱描写は史実結末への伏線として機能している。 |
| 宇都宮、「さらば陣を張て戦へ。」とて、小溝の流れたるを前にあて、平々としたる野中に、紀清両党七百余騎は大手に向て北の端に控たり。氏家太宰小弐は、二百余騎中の手に引へ、薬師寺入道元可兄弟が勢五百余騎は、搦手に対して南の端に控、両陣互に相待て、半時計時を移す処に、桃井が勢七千余騎、時の声を揚て、宇都宮に打て懸る。長尾左衛門が勢三千余騎、魚鱗に連て、薬師寺に打て係る。長尾孫六・同平三、二人が勢五百余騎は皆馬より飛下り、徒立に成て射向の袖を差簪し、太刀長刀の鋒をそろへて、閑々と小跳して、氏家が陣へ打て係る。飽まで広き平野の、馬の足に懸る草木の一本もなき所にて、敵御方一万二千余騎、東に開け西に靡けて、追つ返つ半時計戦たるに、長尾孫六が下立たる一揆の勢五百余人、縦横に懸悩まされて、一人も不残被打ければ、桃井も長尾左衛門も、叶はじとや思ひけん、十方に分れて落行けり。軍畢て四五箇月の後までも、戦場二三里が間は草腥して血原野に淋き、地嵬くして尸路径に横れり。是のみならず、吉江中務が武蔵国の守護代にて勢を集て居たりけるも、那和の合戦と同日に、津山弾正左衛門並野与の一党に被寄、忽に討れければ、今は武蔵・上野両国の間に敵と云者一人もなく成て、宇都宮に付勢三万余騎に成にけり。 |
○那和庄合戦事 解説1. 圧倒的劣勢下での戦術展開:
- 陣形配置の妙: 2. 合戦描写の文学的効果:
- 「草木一本もなき」の暗喩: 3. 歴史的大転換点としての意義:
- 関東武士団再編成: ※軍事史的補足:長尾孫六部隊の「小跳して」前進は当時発展中の散兵戦術初期形態。この後百年で発生する応仁の乱における足軽集団戦法へ連なる過渡的現象として重要視される描写である。 |
| 宇都宮已に所々の合戦に打勝て、後攻に廻る由、薩■山の寄手の方へ聞へければ、諸軍勢皆一同に、「あはれ後攻の近付ぬ前に薩■山を被責落候べし。」と云けれ共、傾く運にや引れけん、石堂・上杉、曾不許容ければ、余りに身を揉で、児玉党三千余騎、極めて嶮しき桜野より、薩■山へぞ寄たりける。此坂をば今河上総守・南部一族・羽切遠江守、三百余騎にて堅めたりけるが、坂中に一段高き所の有けるを切払て、石弓を多く張たりける間、一度にばつと切て落す。大石共に先陣の寄手数百人、楯の板ながら打摯がれて、矢庭に死する者数を不知、後陣の兵是に色めいて、少し引色に見へける処へ、南部・羽切抜連て係りける間、大類弾正・富田以下を宗として、児玉党十七人一所にして被討けり。「此陣の合戦は加様也とも、五十万騎に余りたる陣々の寄手共、同時に皆責上らば、薩■山をば一時に責落すべかりしを、何となく共今に可落城を、高名顔に合戦して討れたるはかなさよ。」と、面々に笑嘲ける心の程こそ浅猿けれ。去程に同二十七日、後攻の勢三万余騎、足柄山の敵を追散して、竹下に陣を取る。小山判官も宇都宮に力を合て、七百余騎同日に古宇津に著ければ、焼続けたる篝火の数、震く見へける間、大手搦手五十万騎の寄手共、暫も不忍十方へ落て行。 |
宇都宮公綱が各地の戦いで勝利し背後から迫ってくるという報せが薩多山包囲軍にも届いたため、諸将は一斉に「何としても援軍到着前に薩多山を落とさねば」と言った。しかし運命が傾いたのか、石堂義房や上杉憲顕ら主力部隊の了承を得られず苦慮する中、児玉党三千余騎だけが険しい桜野から薩多山へ向かった。この坂道を守っていた今川氏兼(河上総守)・南部一族・羽切貞政(遠江守)率いる三百余騎は、坂の中腹にある高台を切り開いて大規模な石弓陣地を構築していたため、攻め上がる児玉党先鋒数百名を一斉射撃で殲滅。盾ごと叩き潰され瞬時に無数の死者が出たため後続部隊が動揺し始めたところへ南部・羽切勢が逆突撃し、大類長盛(弾正)や富田氏ら児玉党十七将がまとめて討ち取られた。周囲からは「五十万もの包囲軍が一斉に攻めれば瞬時に陥落させられる城を、手柄欲しさの小競り合いで命を落とす愚かさよ」と嘲笑されたほどである。こうした中十二月二十七日、宇都宮率いる三万の後詰軍が足柄山の敵を蹴散らして竹下に布陣。小山高朝(判官)も七百騎を率いて同日古宇津へ到着し、連なるかがり火の数があまりにも多く大地が震えるように見えたため、包囲していた五十万もの大軍は瞬く間に四方へ敗走した。 解説1. 攻城戦失敗の構造的要因:
- 指揮系統の分裂: 2. 心理的描写の歴史的意義:
- 同僚武将による冷笑: 3. 戦局転換の象徴性:
- 篝火演出の効果: ※軍記文学的特徴補足:敗走描写「十方へ落て行」は『平家物語』砥柱山の戦いを彷彿とさせる定型句。これにより読者に「尊氏勢力衰退」という史実的結末を予感させつつ、次巻での劇的反転(後に尊氏が再起)への伏線となる構成技巧が見られる。 |
| 仁木越後守義長勝に乗て、三百余騎にて逃る勢を追立て、伊豆府へ押寄ける間、高倉禅門一支も不支して、北条へぞ落行給ひける。上杉民部太輔・長尾左衛門が勢二万余騎は、信濃を志て落けるを、千葉介が一族共五百騎許にて追蒐、早河尻にて打留めんとしけるが、落行大勢に被取篭、一人も不残被討けり。さてこそ其道開けて、心安く上杉・長尾左衛門は、無為に信濃の国へは落たりけれ。高倉禅門は余に気を失て、北条にも猶たまり不得、伊豆の御山へ引て、大息ついて坐しけるが、忍て何地へも一まど落てや見る、自害をやすると案じ煩給ひける処に、又和睦の儀有て、将軍より様々に御文を被遣、畠山阿波守国清・仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長を御迎に被進たりければ、今の命の捨難さに、後の恥をや忘れ給ひけん、禅門降人に成て、将軍に打連奉て、正月六日の夜に入て、鎌倉へぞ帰給ひける。 ○慧源禅門逝去事 斯し後は、高倉殿に付順ひ奉る侍の一人もなし。篭の如くなる屋形の荒て久きに、警固の武士を被居、事に触たる悲み耳に満て心を傷しめければ、今は憂世の中にながらへても、よしや命も何かはせんと思ふべき、我身さへ無用物に歎給ひけるが、無幾程其年の観応三年壬辰二月二十六日に、忽に死去し給ひけり。 |
仁木義長(越後守)は勢いに乗って三百余騎で敗走軍を追撃し伊豆府へ迫ったため高倉禅門が支えきれず北条に落ち延びた。上杉憲顕(民部太輔)・長尾景忠(左衛門)の二万余騎が信濃目指して撤退する中、千葉胤直介一族五百騎ほどで追撃し早河尻で阻止しようとしたが退却中の大軍に包囲され全滅した。こうして道は開かれ上杉・長尾勢は無事信濃国へ逃れた。 解説1. 敗走心理の歴史的リアリズム:
- 高倉禅門の葛藤描写: 2. 軍事行動の戦略的帰結:
- 千葉一族全滅の意味: 3. 慧源逝去描写の文学的深化:
- 孤絶状況の象徴表現: ※社会心理学的考察: 禅門の嘆き「よしや命も何かはせんと思ふべき」には、観応の擾乱(1350-52)で顕在化した「武士階級の存在意義喪失」という時代精神が凝縮されている。この後まもなく発生する足利直冬の反乱(1353年)や南朝勢力再興は、こうした精神的空白を背景にしていたと解釈可能である。 |
| 俄に黄疽と云病に被犯、無墓成せ給けりと、外には披露ありけれ共、実には鴆毒の故に、逝去し給けるとぞさゝやきける。去々年の秋は師直、上杉を亡し、去年の春は禅門、師直を被誅、今年の春は禅門又怨敵の為に毒を呑て、失給けるこそ哀なれ。三過門間老病死、一弾指頃去来今とも、加様の事をや申べき。因果歴然の理は、今に不始事なれども、三年の中に日を不替、酬ひけるこそ不思議なれ。さても此禅門は、随分政道をも心にかけ、仁義をも存給しが、加様に自滅し給ふ事、何なる罪の報ぞと案ずれば、此禅門依被申、将軍鎌倉にて偽て一紙の告文を残されし故に其御罰にて、御兄弟の中も悪く成給て、終に失給歟。又大塔宮を奉殺、将軍宮を毒害し給事、此人の御態なれば、其御憤深して、如此亡給ふ歟。災患本無種、悪事を以て種とすといへり。実なる哉、武勇の家に生れ弓箭を専にすとも、慈悲を先とし業報を可恐。我が威勢のある時は、冥の昭覧をも不憚、人の辛苦をも不痛、思様に振舞ぬれば、楽尽て悲来り、我と身を責る事、哀に愚かなる事共也。 ○吉野殿与相公羽林御和睦事付住吉松折事 足利宰相中将義詮朝臣は、将軍鎌倉へ下り給し時京都守護の為に被残坐しけるが、関東の合戦の左右は未聞へず、京都は以外に無勢也。 |
急に黄疸という病にかかり葬儀もなく亡くなったと公表されたが、実際には毒殺だったと噂された。一昨年の秋は高師直が上杉能憲を滅ぼし、去年の春は禅門(足利直義)が師直を誅殺し、今年の春はその禅門も仇敵に毒を飲まされて亡くなるとは哀れである。「三度門前を通れば老病死を見る」と言うように、わずか三年で因果応報が完結するのは不思議だ。この禅門は政治にも仁義にも心を用いた人物なのに自滅したのは何の罪の報いかと考えれば、かつて鎌倉で偽りの告文を残させたため兄弟(尊氏)との不和を招いた罰だろう。また大塔宮護良親王暗殺や将軍宮毒殺未遂も彼の所業だから怨霊の祟りかもしれない。「災いは悪事が種となって生じる」というのは真実だ。武家に生まれ弓矢を扱う者ほど慈悲を第一とし因果応報を恐れるべきで、権勢を笠に冥罰も他人の苦しみも顧みず振る舞えば必ず破滅するのだから愚かなことである。 ○吉野殿(南朝)との和睦及び住吉松折事件 解説1. 歴史叙述における真実操作:
- 死因隠蔽の描写: 2. 仏教倫理の戦国社会への適用:
- 因果応報理論: 3. 政治史的解釈の隠喩表現:
- 偽告文事件: ※文学的価値における特筆点: |
| 角ては如何様、和田・楠に被寄て、無云甲斐京を被落ぬとをぼしければ、一旦事を謀て、暫洛中を無為ならしめん為に、吉野殿へ使者を立て、「自今以後は、御治世の御事と、国衙の郷保、並に本家領家、年来進止の地に於ては、武家一向其綺を可止にて候。只承久以後新補の率法並国々の守護職、地頭御家人所帯を武家の成敗に被許て、君臣和睦の恩慧を被施候は、武臣七徳の干戈を収て、聖主万歳の宝祚を可奉仰。」頻に奏聞をぞ被経ける。依之諸卿僉議有て、先に直義入道和睦の由を申て、言下に変じぬ。是も亦偽て申条無子細覚れ共、謀の一途たれば、先義詮が被任申旨、帝都還幸の儀を催し、而後に、義詮をば畿内・近国の勢を以て退治し、尊氏をば義貞が子共に仰付て、則被御追罰何の子細か可有とて、御問答再往にも不及、御合体の事子細非じとぞ被仰出ける。両方互に偽給へる趣、誰かは可知なれば、此間持明院殿方に被拝趨ける諸卿、皆賀名生殿へ被参。先当職の公卿には二条関白太政大臣良基公・近衛右大臣道嗣公・久我内大臣右大将通相公・葉室大納言長光・鷹司大納言左大将冬通・洞院大納言実夏・三条大納言公忠・三条大納言実継・松殿大納言忠嗣・今小路大納言良冬・西園寺大納言実俊・裏築地大納言忠季・大炊御門中納言家信・四条中納言隆持・菊亭中納言公直・二条中納言師良・華山院中納言兼定・葉室中納言長顕・万里小路中納言仲房・徳大寺中納言実時・二条宰相為明・勘解由小路左大弁宰相兼綱・堀河宰相中将家賢・三条宰相公豊・坊城右大弁宰相経方・日野宰相教光・中御門宰相宣明、殿上人には日野左中弁時光・四条左中将隆家・日野右中弁保光・権右中弁親顕・日野左少弁忠光・右少弁平信兼・勘解由次官行知・右兵衛佐嗣房等也。 |
そこで(南朝方は)「どうにかして和田・楠木らと連携し、抵抗できぬまま京都を落とそう」と考えたが、一旦は偽りの和平工作で京の平静を保つため吉野殿(後村上天皇)へ使者を立てて奏上した。「今後は朝廷の統治権限や国衙領・荘園、本家領家の年貢徴収権については武家が一切干渉しない。ただ承久の乱以後に新たに補任された御家人所領と守護職に関する裁判権を武家に認めていただければ、武器を納めて天皇の万歳をお支えします」と再三申し入れた。これにより北朝公卿たちが協議した結果、先に直義(足利直義)が和睦を求めた件もあり即座に合意した。だが双方とも偽りであり、南朝側は密かに「まず義詮(足利義詮)の要求を受け入れ天皇還幸を実行し、その後畿内・近国の兵力で義詮を討ち、尊氏には新田義貞の息子らを差し向けて追討する」と決めていたため議論もなく和睦が成立した。 解説1. 南北朝外交戦略の二重構造:
- 南朝側の偽装工作: 2. 公家社会の集団移動意味:
- 貴族名簿の歴史的価値: 3. 偽装和睦の軍記文学的演出:
- 相互欺瞞の強調表現: ※政治史的解釈における核心点: この和睦劇が短期間(数週間)で崩壊した事実こそ南北朝動乱の本質を示す。南朝側は実際に同年閏2月に京都奪還成功(正平一統)するが、8ヶ月後には北朝復活という流動性を帯びる。「無云甲斐京を被落ぬ」と記された軍事的目的達成も束の間に終わる展開は、権力基盤なき政権交替が繰り返される時代の特徴を象徴している。 |
| 此外先官の公卿、非参議、七弁八座、五位六位、乃至山門園城の僧綱、三門跡の貫首、諸院家の僧綱、並に禅律の長老、寺社の別当神主に至まで我先にと馳参りける間、さしも浅猿く賎しげなりし賀名生の山中、如花隠映して、如何なる辻堂、温室、風呂までも、幔幕引かぬ所も無りけり。今参候する所の諸卿の叙位転任は、悉持明院殿より被成たる官途なればとて各一汲一階を被貶けるに、三条坊門大納言通冬卿と、御子左大納言為定卿と許は、本の官位に被復せけり。是は内々吉野殿へ被申通ける故。京都より被参仕たる月卿雲客をば、降参人とて官職を被貶、山中伺候の公卿殿上人をば、多年の労功ありとて、超涯不次の賞を被行ける間、窮達忽に地を易たり。故三位殿御局と申しは、今天子の母后にて御坐せば、院号蒙せ給て、新待賢門院とぞ申ける。北畠入道源大納言は、准后の宣旨を蒙て華著たる大童子を召具し、輦に駕して宮中を出入すべき粧、天下耳目を驚かせり。此人は故奥州の国司顕家卿の父、今皇后厳君にてをはすれば、武功と云華族と云、申に及ぬ所なれ共、竹園摂家の外に未准后の宣旨を被下たる例なし。平相国清盛入道出家の後、准后の宣旨を蒙りたりしは、皇后の父たるのみに非ず、安徳天皇の外祖たり。 |
さらに元の高位貴族から参議未満の中下級官人、比叡山や園城寺の僧綱・門跡貫首、諸寺院の高僧、さらには禅律宗の長老や神社仏閣の別当神主までもが我先にと駆け参じたため、かつて見すぼらしかった賀名生の山中は花咲くように賑わい、あらゆる辻堂や温室・風呂場に至るまで幕を張らない場所はなかった。ここに伺候する貴族たちの官位処遇では、全員が北朝(持明院統)から授かった地位であるとして一階級降格されたが、三条坊門大納言通冬卿と御子左大納言為定卿のみ本来の官位を回復した。これは密かに南朝に内通していたためである。京都から投降して来た貴族らは「帰順者」扱いで職階を下げられ、山中で長年伺候していた公家や殿上人には多年の功労として破格の昇進が与えられたので、貧富栄枯があっという間に逆転した。故三位の局(後村上天皇生母)は院号を得て新待賢門院と称された。北畠入道源大納言親房は准后宣旨を受け華やかな童子を従え輦車で宮中出入りする姿が天下を驚かせた。彼は故奥州国司顕家卿の父であり現皇后(後村上天皇妃)の実父なので武功も門閥も申し分ないが、伏見摂家以外に准后宣旨を受けた前例がないのは確かである。平清盛入道が出家後に准后を得たのも単なる皇后(建礼門院)の父というだけでなく安徳天皇の外祖父だったからであった。 解説1. 南朝政権の正統性演出:
- 賀名生行宮の劇的変容描写: 2. 身分秩序崩壊の象徴的描写:
- 階級逆転現象: 3. 女性権威の創出戦略:
- 新待賢門院(阿野廉子)の意義: ※社会史的重要性: 僧綱・神官ら宗教者の参集(「山門園城...至まで」)と庶民施設への幕張り(「風呂までも幔幕引かぬ所も無りけり」)が示すのは、従来の朝廷儀礼空間を超越した「動員型政権」としての南朝特質。この草創期的エネルギーこそ弱体勢力ながら長期抗戦できた要因で、室町幕府成立後に失われる多元的政権モデルの可能性を暗示している。 |
| 又忠盛が子とは名付ながら、正く白河院の御子なりしかば、華族も栄達も今の例には引がたし。日野護持院僧正頼意は、東寺の長者醍醐の座主に被補て、仁和寺諸院家を兼たり。大塔僧正忠雲は、梨本大塔の両門跡を兼て、鎌倉の大御堂、天王寺の別当職に被補。此外山中伺候の人々、名家は清華を超、庶子は嫡家を越て、官職雅意に任たり。若如今にて天下定らば、歎人は多して悦者は可少。元弘一統の政道如此にて乱しを、取て誡とせざりける心の程こそ愚かなれ。憂かりし正平六年の歳晩て、あらたまの春立ぬれども、皇居は猶も山中なれば、白馬蹈歌の節会なんどは不被行。寅の時の四方拝、三日の月奏許有て、後七日御修法は文観僧正承て、帝都の真言院にて被行。十五日過ければ、武家より貢馬十疋・沙金三千両奏進之。其外別進貢馬三十疋・巻絹三百疋・沙金五百両、女院皇后三公九卿、無漏方引進。二月二十六日、主上已に山中を御出有て、腰輿を先東条へ被促。剣璽の役人計衣冠正くして被供奉。其外の月卿・雲客・衛府・諸司の尉は皆甲胄を帯して、前騎後乗に相順ふ。東条に一夜御逗留有て、翌日頓て住吉へ行幸なれば、和田・楠以下、真木野・三輪・湯浅入道・山本判官・熊野の八庄司吉野十八郷の兵、七千余騎、路次を警固仕る。 |
また平忠盛の子とは名目上だが実は白河院の御落胤であったため、その栄華と昇進ぶりは現代の例では比較できないほどである。日野護持院僧正頼意は東寺長者・醍醐座主に任命され仁和寺諸院家を兼任した。大塔僧正忠雲は梨本・大塔両門跡を兼ね鎌倉大御堂と天王寺別当職にも補任された。これ以外に山中でお仕えしていた人々も、名家(上級貴族)は清華の官位を超え庶子(下級貴族)は嫡家を越えて官職が自由に与えられた。もしこの状態で天下が平定されれば不満を持つ者は多く喜ぶ者は少ないだろう。元弘年間(1331-34年)の統一政権も同様に乱れたのにそれを教訓としなかった心根こそ愚かである。憂い多き正平六年(1351年)末を過ぎて新春となったが、皇居は依然として山中にあるため白馬踏歌節会などの儀式は行われない。寅の刻(午前4時頃)に行う四方拝と正月三日月奏だけがあり後七日御修法のみ文観僧正が奉仕し帝都真言院で執り行われた。十五日を過ぎると武家から貢馬十頭・砂金三千両が献上された他、別途に貢馬三十頭・巻絹三百反・砂金五百両があり女院皇后三公九卿ら全員参列した。二月二十六日に天皇は山中を御発ち駕籠で東条へ向かわれ剣璽の役人だけが衣冠束帯して供奉した。他の高官や衛士たちは皆甲冑姿で前騎後乗に従った。東条で一夜滞在翌日早々住吉へ行幸されたため和田・楠以下真木野・三輪・湯浅入道・山本判官・熊野八庄司と吉野十八郷の兵七千余騎が沿道を警護した。 解説1. 南朝政権における身分秩序変革:
- 身分超越の人事慣行: 2. 山中朝廷の儀礼変容:
- 節会儀式の強制省略: 3. 行幸移動の軍事的背景:
- 兵7,000騎の構成分析: ※歴史的意義: この1351-52年時期記録は南朝が最大版図拡大(正平一統)後すぐ瓦解する転換点を捉えた貴重史料。文中「歎人多して悦者可少」予言通り、住吉進出直後に北朝反攻で退却した事実と符合し政権脆弱性を露呈している。同時に身分制度柔軟化・地方武家登用等の南朝独自政策萌芽が後の室町幕府体制へ影響を与えた可能性も示唆される重要な一節である。 |
| 皇居は当社の神主津守国夏が宿所を俄に造替て臨幸なし奉りけり。国夏則上階して従三位に被成。先例未なき殿上の交り、時に取ての面目なり。住吉に臨幸成て三日に当りける日、社頭に一の不思議あり。勅使神馬を献て奉幣を捧げたりける時、風も不吹に、瑞籬の前なる大松一本中より折て、南に向て倒れにけり。勅使驚て子細を奏聞しければ、伝奏吉田中納言宗房卿、「妖は不勝徳。」と宣てさまでも驚給はず。伊達三位有雅が武者所に在けるが、此事を聞て、「穴浅猿や、此度の臨幸成せ給はん事は難有。其故は昔殷帝大戊の時、世の傾んずる兆を呈して、庭に桑穀の木一夜に生て二十余丈に迸れり。帝大戊懼て伊陟に問給ふ。伊陟が申く、「臣聞妖は不勝徳に、君の政の闕る事あるに依て、天此兆を降す者也。君早徳を脩め給へ。」と申ければ、帝則諌に順て正政撫民、招賢退佞給しかば、此桑穀の木又一夜の中に枯て、霜露の如くに消失たりき。加様の聖徳を被行こそ、妖をば除く事なるに、今の御政道に於て其徳何事なれば、妖不勝徳とは、伝奏の被申やらん。返々も難心得才学哉。」と、眉を顰てぞ申ける。其夜何なる嗚呼の者かしたりけん。此松を押削て一首の古歌を翻案してぞ書たりける。君が代の短かるべきためしには兼てぞ折し住吉の松と落書にぞしたりける。 |
皇居は当神社の神主である津守国夏が宿所を急いで改造して行幸をお受けした。国夏はすぐに昇殿し従三位に任命された。前例のない殿上の待遇であり、この時の名誉であった。住吉に行幸されて三日目の日、社頭で不思議な出来事があった。勅使が神馬を捧げ幣帛を奉納している時、風も吹かないのに瑞籬(玉垣)の前にある大松一本が幹の中ほどから折れ、南に向かって倒れたのである。勅使は驚いて詳細を奏上すると、伝奏役の吉田中納言宗房卿は「怪異現象は仁徳には打ち勝てない」とおっしゃり全く動じなかった。伊達三位有雅が武者詰所にいたが、この件を聞きつけてこう述べた。「穴浅猿め(嘲笑表現)、今回の行幸が実現したことは稀有なことだ。その理由は昔、殷帝大戊の時代に世の中が乱れる兆しとして庭の桑穀(くわ)の木が一夜にして二十丈余りも伸びたことがある。大戊帝は恐れて伊陟に尋ねられたところ『臣下が聞くところでは怪異現象は仁徳には打ち勝てず、君主の政治に欠点があるために天がこの兆しを示すのです』と奏上したので、帝はすぐに諌言を受け入れ善政で民を撫育され賢者を登用して奸臣を退けた。すると桑穀の木はまた一夜にして枯れ霜露のように消え去ったという。かような聖徳を行えば怪異現象も除けるものだが、今の御政治においてその仁徳とは何なのか?『妖不勝徳』などと伝奏が申すのは解せぬ学識である」と眉をひそめて言い放った。その夜、誰とも知れない者が現れてこの松を削り古歌をもじって一首書きつけた。「君の治世が短くなる前兆として予め折られたのだろうな 住吉の松よ」と落書したのである。 解説1. 南朝政権の特異な行幸体制:
- 神主宅の臨時皇居化: 2. 伊達有雅批判の歴史的含意:
- 殷帝大戊故事の引用意義: 3. 落書事件の象徴性:
- 改変和歌の政治的メッセージ: ※全体の史的価値: |
| 住吉に十八日御逗留有て、潤二月十五日天王寺へ行幸なる。此時伊勢の国司中院衛門督顕能、伊賀・伊勢の勢三千余騎を率して被馳参けり。同十九日八幡へ行幸成て、田中法印が坊を皇居に被成、赤井・大渡に関を居へて、兵山上山下に充満たるは、混ら合戦の御用意也と、洛中の聞へ不穏。依之義詮朝臣、法勝寺の慧鎮上人を使にて、「臣不臣の罪を謝して、勅免を可蒙由申入るゝ処に、照臨已に下情を被恤、上下和睦の義、事定り候ぬる上は、何事の用心か候べきに、和田・楠以下の官軍等、混合戦の企ある由承及候。如何様の子細にて候やらん。」と被申たり。主上直に上人に御対面有て、「天下未恐懼を懐く間、只非常を誡めん為に、官軍を被召具いへ共、君臣已に和睦の上は更に異変の義不可有。縦讒者の説あり共、胡越の心を不存ば太平の基たるべし。」と、勅答有てぞ被返ける。綸言已に如此。士女の説何ぞ用る処ならんとて、義詮朝臣を始として、京都の軍勢、曾て今被出抜とは夢にも不知、由断して居たる処に、同二十七日の辰刻に、中院右衛門督顕能、三千余騎にて鳥羽より推寄て、東寺の南、羅城門の東西にして、旗の手を解、千種少将顕経五百余騎にて、丹波路唐櫃越より押寄て、西の七条に火を上る。和田・楠・三輪・越知・真木・神宮寺、其勢都合五千余騎、宵より桂川を打渡て、まだ篠目の明ぬ間に、七条大宮の南北七八町に村立て、時の声をぞ揚たりける。 |
天皇は住吉で18日間お滞在された後、閏2月15日に天王寺に行幸された。この時、伊勢の国司である中院衛門督顕能が伊賀・伊勢の兵3,000余騎を率いて駆けつけた。同19日には八幡へ行幸され、田中法印の僧坊を皇居と定められた。赤井や大渡に関所を設けて山上山下に兵力を充満させたのは、全面戦争への準備だと京都中で噂が立ち騒然となった。これを受けて足利義詮は、法勝寺の慧鎮上人を使者として「臣下として不忠の罪をお詫びし勅免を願い入れたところ、天皇陛下には既に私情をご憐憫くださり和睦が成立しておりますのに、なぜ和田・楠以下の官軍らが全面戦争を企てていると聞こえてくるのか。どのような事情か」と申し出た。主上(後村上天皇)は直ちに上人とお会いになり、「天下がまだ不安を抱いている間は不測の事態に備え官軍を招集しただけで、君臣すでに和睦した以上何ら異変はない。仮に讒言があっても互いに疑心を持たなければ太平の基盤となるだろう」と勅答されお返しになった。天皇のお言葉がこれほど明確なら世間の噂など気にするまでもないとして、義詮を始め京都の軍勢は全く警戒せず油断していたところへ、同27日の辰刻(午前8時頃)に中院右衛門督顕能が3,000余騎で鳥羽から進撃し東寺南側・羅城門東西で戦列を布陣した。千種少将顕経は500余騎で丹波路唐櫃越から押し寄せ西七条に火を放った。和田・楠・三輪・越知・真木・神宮寺ら総勢5,000余騎が前夜中に桂川を渡り、まだ薄暗い明け方前に七条大宮の南北七八町(約900m)に陣を構え、鬨の声を上げたのである。 解説1. 南北朝期の緊張と和睦交渉: 2. 勅答に見る統治理念: 3. 京都侵攻作戦の特異性: ※全体の史的意義: |
| 東寺・大宮の時声、七条口の烟を見て、「すはや楠寄たり。」と、京中の貴賎上下遽騒事不斜。細川陸奥守顕氏は、千本に宿して居たりけるが、遥に西七条の烟を見て、先東寺へ馳寄らんと、僅に百四五十騎にて、西の朱雀を下りに打けるが、七条大宮に控たる楠が勢に被取篭、陸奥守の甥、細河八郎矢庭に被討ければ、顕氏主従八騎に成て、若狭を指てぞ落ける。細河讃岐守頼春は、時の侍所也ければ、東寺辺へ打出て勢を集んとて、手勢三百騎許にて、是も大宮を下りに打けるが、六条辺にて敵の旗を見て、「著到も勢汰も今はいらぬ所也。何様まづ此なる敵を一散し々さでは、何くへか可行。」とて、三千余騎控たる和田・楠が勢に相向ふ。楠が兵兼ての巧有て、一枚楯の裏の算を繁く打て、如階認らへたりければ、在家の垣に打懸々々て、究竟の射手三百余人、家の上に登て目の下なる敵を直下して射ける間、面を向べき様も無て進兼たる処を見て、和田・楠五百余騎轡を双てぞ懸たりける。讃岐守が五百余騎、左右へ颯と被懸阻又取て返さんとする処に、讃岐守が乗たる馬、敵の打太刀に驚て、弓杖三杖計ぞ飛たりける。飛時鞍に被余真倒にどうど落つ。落ると均く敵三騎落合て、起しも不立切けるを、讃岐守乍寐二人の敵の諸膝薙で切居へ、起揚らんとする処を、和田が中間走懸て、鑓の柄を取延て、喉吭を突て突倒す。 |
東寺と大宮での鬨の声、七条口の煙を見て「これは楠が攻めてきたぞ」と京中の貴賎上下が慌てふためくこと間違いなかった。細川陸奥守顕氏は千本に宿泊していたが、遠く西七条の煙を望みまず東寺へ駆けつけようとわずか百四五十騎で朱雀大路を下ったところ、七条大宮に控えていた楠木勢に取り囲まれ陸奥守の甥である細川八郎が即座に討たれたため顕氏は主従八騎となり若狭へ落ち延びた。細川讃岐守頼春は当時の侍所であったので東寺方面に出撃し兵を集めようと手勢三百騎ほどで大宮通りを下ったが六条付近で敵の旗を見て「着到や軍備の整頓など今は無用だ。まずこの目の前の敵を一気に蹴散らさねばどこへ進むこともできまい」と言い三千余騎を擁する和田・楠木勢に向かった。楠木兵は以前からの戦略を用いて一列に盾を並べ隙間なく矢を射かけ階段状に配置していたため民家の塀にもたれかかりながら熟練の射手三百人あまりが屋根に登り真下の敵を見下ろして射るので顔すら向けられず前進する中、和田・楠木五百余騎がいっせいに襲いかかった。讃岐守配下の五百余騎は左右へ散ろうとしたが引き返そうとした瞬間頼春の乗馬が敵の太刀に驚き弓杖(鞍)から三丈ほど跳ね上がりその拍子にあおむけにどすんと落ちた。地面に落ちた途端敵兵三人が駆け寄り起き上がる間もなく斬りかかる中、讃岐守は倒れたまま二人の敵の膝を薙ぎ切り立ち上がろうとしたところ和田方の中間(下級武士)が走りより槍の柄を伸ばし喉元を突いて倒したのである。 解説1. 戦術的展開と心理描写:
- 京都市街戦の混乱: 2. 合戦技術の詳細:
- 楠木軍の立体防御: 3. 歴史的背景:
- 1355年京都攻防戦: ※文学的特質:
『太平記』巻34に相当する本段落は「市街地におけるゲリラ戦」の古典的描写として注目される。
- 空間認知の巧みさ: |
| 倒るゝ処に落合て頚をば和田に被取にけり。 ○相公江州落事 細河讃岐守は被討ぬ。陸奥守は何地共不知落行ぬ。今は重て可戦兵無りければ、宰相中将義詮朝臣、僅に百四五十騎にて、近江を差て落給。下賀・高山の源氏共、兼て相図を定めて、勢多の橋をば焼落しぬ。舟はこなたに一艘もなし。山門へも、大慈院法印を天王寺より被遣て、山徒皆君の御方に成ぬと聞へつれば、落行処を幸いと、勢多へも定て懸るらん。只都にて討死すべかりつる者を、蓬なく是まで落て、尸を湖水の底に沈め、名を外都の土に埋まん事、心憂かるべき恥辱哉と後悔せぬ人も無りけり。敵の旗の見へば腹を切んとて、義詮朝臣を始として、鎧をば皆脱置て、腰刀許にて、白沙の上に並居給ふ。爰に相模国住人に曾我左衛門と云ける者、水練の達者也ければ、向の岸に游ぎ著て、子舟の有けるを一艘領して、自櫓を推して漕寄する。則大将を始として、宗との人々二十余人一艘に込乗て、先向の岸に著給ふ。其後又小舟三艘求出して、百五十騎の兵共皆渡してけり。是までも猶敵の追て懸る事無ければ、棄たる馬も物具も次第/\に渡し終て、舟蹈返し突流して、「今こそ活たる命なれ。」と、手を拍て咄とぞ被笑ける。大将軍無事故、近江の四十九院に坐する由聞へければ、土岐・大高伊予守、東坂本へ落たりけるが、舟に乗て馳参る。 |
倒れた場所へ敵兵が駆け寄り首を和田勢に奪われた。 ○将軍足利義詮が近江へ落ち延びる件 解説1. 歴史的状況: 2. 心理描写と武士の倫理観: 3. 戦略的地理要素: 4. 人物動向: ※文学的意義: |
| 佐々木の一党は不及申、美濃・尾張・伊勢・遠江の勢共、我も我もと馳参る程に、宰相中将又大勢を著て、山陽・山陰に牒し合せ、都を攻んと議し給ふ。 ○持明院殿吉野遷幸事付梶井宮事 去程に敵は都を落たれ共、吉野の帝は洛中へ臨幸も不成、只北畠入道准后・顕能卿父子計京都に坐して、諸事の成敗を司り給て、其外の月卿雲客は、皆主上の御坐に付て、八幡にぞ祠候し給ける。同二十三日、中院中将具忠を勅使にて、都の内裡に御坐す三種の神器を吉野の主上へ渡し奉る。是は先帝山門より武家へ御出し有し時、ありもあらぬ物を取替て、持明院殿へ被渡たりし物なればとて、璽の御箱をば被棄、宝剣と内侍所とをば、近習の雲客に被下て、衛府の太刀・装束の鏡にぞ被成ける。げにも誠の三種神器にてはなけれ共、已に三度大嘗会に逢て、毎日の御神拝・清署堂の御神楽、二十余年に成ぬれば、神霊もなどか無かるべきに、余に無恐凡俗の器物に被成ぬる事、如何あるべからんと、申す族も多かりけり。同二十七日北畠右衛門督顕能、兵五百余騎を率して持明院殿へ参り、先其辺の辻々門々を堅めさせければ、「すはや武士共が参りて、院・内を失ひ進らせんとするは。」とて女院・皇后御心を迷はして臥沈ませ給ひ、内侍・上童・上臈・女房などは、向後も不知逃ふためいて此彼に立吟ふ。 |
佐々木一族は言うまでもなく、美濃・尾張・伊勢・遠江からの軍勢も我先にと馳せ参じたため、宰相中将(義詮)は再び大軍を整え、山陽道と山陰道の諸将に連絡を取り合わせて京都奪還を協議された。 ○持明院天皇が吉野へ遷幸される件および梶井宮について 解説1. 南北朝抗争の新局面: 2. 神器問題の核心: 3. 政治的象徴描写: ※社会心理的意義: |
| され共顕能卿、穏に西の小門より参て、四条大納言隆蔭卿を以て、「世の静り候はん程は、皇居を南山に移し進らすべしとの勅定にて候。」と被奏ければ、両院・主上・東宮あきれさせ給へる許にて、兔角の御言にも不及、只御泪にのみほれさせ給て、羅穀の御袂絞る計に成にけり。良暫有て、新院泪を抑て被仰けるは、「天下乱に向ふ後、僅に帝位を雖践、叡慮より起りたる事に非れば一事も世の政を御心に不任。北辰光消て、中夏道闇時なれば、共に椿嶺の陰にも寄り、遠く花山の跡をも追ばやとこそ思召つれ共、其も叶はぬ折節の憂さ豈叡察なからんや。今天運膺図に万人望を達する時至れり。乾臨曲て恩免を蒙らば、速に釈門の徒と成て、辺鄙に幽居を占んと思ふ。此一事具に可有奏達。」と被仰出けれ共、顕能再往の勅答に不及、「已に綸命を蒙る上は、押へては如何が奏聞を経候べき。」とて、御車を二両差寄せ、「余りに時刻移候。」と急げば、本院・新院・主上・東宮、御同車有て、南の門より出御なる。さらでだに霞める花の木の間の月、是や限の御泪に、常よりも尚朧也。女院・皇后は、御簾の内、几帳の陰に臥沈ませ給へば、此の馬道、彼この局には、声もつゝまず泣悲む。御車を暁の月に輾て、東洞院を下りに過ければ、故卿の梢漸幽にして、東嶺に響く鐘の声、明行雲に横はる。 |
しかし顕能卿は穏やかに西の小門から参内し、四条大納言隆蔭卿を通じて、「世の中が落ち着くまでは皇居を南山(吉野)へ移されよとの勅命でございます」と奏上した。すると光厳院・光明院・崇光天皇・直仁親王は呆然となられるばかりで、抗弁もできず涙に暮れながら絹の袖を濡らすばかりであった。しばらくして、光明院(新院)が涙を抑えておっしゃった。「天下が乱れて以来、かろうじて帝位には就いたものの、朕の意思で始めたことではないゆえ政務一切に関与せずきた。(北極星のように)帝王の光は消え中原の道も暗い今となっては、(隠遁した)白河法皇や花山院の跡を慕おうと思ったが叶わぬ無念さ、お前ごときにも理解できまい。今こそ天運が南朝に移り万人が望む時到来だ。(吉野行幸で自由を許されるなら)速やかに仏門に入り僻地に隠遁したい」。しかし顕能は回答も待たず「既に勅命を受けた以上、猶予は許されぬ」と御車二両を差し向け「時刻が過ぎる」と急かしたため、光厳院・光明院・崇光天皇・直仁親王は同乗せざるを得ず南門から退出された。(都への未練で)霞む花木の間からの月明かりもこれが最期かと涙に曇り一層朧となった。女院(西園寺寧子)や皇后(光厳院妃・崇光天皇后)は御簾の中や几帳の陰で気絶なさるので、侍女らは憚らず泣き叫び騒然とした。御車が暁の月明かりを辿り東洞院通りを南下するとき、(廃都となった六波羅邸の)故実盛卿(佐々木道誉)屋敷の梢はひっそりとし、比叡山からの鐘の音が雲を行く月にかすんでいた。 解説1. 皇族拉致事件の歴史的背景: 2. 政治的象徴性: 3. 文学的技法分析: ※歴史的意義: |
| 東寺までは、月卿雲客数た被供奉たりけれ共、叶ふまじき由を顕能被申ければ、三条中将実音・典薬頭篤直計を召具せられて、見馴ぬ兵に被打囲、鳥羽まで御幸成たれば、夜は早若々と明はてぬ。此に御車を駐て、怪しげなる網代輿に召替させ進らせ、日を経て吉野の奥賀名生と云所へ御幸成し奉る。此辺の民共が吾君とて仰奉る吉野の帝の皇居だにも、黒木の柱、竹椽、囲ふ垣ほのしばしだにも栖れぬべくもなき宿り也。況敵の為に被囚、配所の如くなる御栖居なれば、年経て頽ける庵室の、軒を受たる杉の板屋、目もあはぬ夜の寥しさを事問雨の音までも御袖を湿す便りなり。衆籟暁寒して月庭前の松に懸り、群猿暮に叫で風洞庭の雲を送る。外にて聞し住憂さは数にもあらぬ深山哉と、主上・上皇いつとなく被仰出度び毎に御泪の乾く隙もなし。梶井二品親王は此時天台座主にて坐しけるが、同く被召捕させ給て、金剛山の麓にぞ坐しける。此宮は本院の御弟、慈覚大師の嫡流にて、三度天台座主に成せ給ひしかば、門迹の富貴無双、御門徒の群集如雲。師子・田楽を被召、日夜に舞歌はせ、茶飲み、連歌士を集めて、朝夕遊び興ぜさせ給しかば、世の譏り山門の訟は止時無りしか共、御心の中の楽は類非じと見へたりしに、今引替たる配所の如くなる御棲居、山深く里遠くして鳥の声だにも幽かなるに、御力者一人より外は被召仕人もなし。 |
しかし顕能卿は「公家や殿上人のお供は不可能だ」と説明したため、(北朝皇族の)供奉者は三条中将実音と典薬頭篤直のみに限られ、慣れない兵士たちに囲まれて鳥羽まで移動された。夜が明けきらないうちに御車を停め、粗末な網代輿(あじろごし)に乗り換えさせられ、数日後には吉野の奥地・賀名生(あのう)と呼ばれる場所へ到着した。 この地域の民衆が「我らが君」と崇める吉野天皇(南朝方)の御所でさえ、(丸太剥き出しの)黒木柱に竹の垂木という粗末な造りで、垣根も頼りない仮住まいであった。ましてや敵方として捕らわれた配流同然の北朝皇族たちの住環境はなおさら酷く、長年荒れた庵室で杉板屋根には雨漏りがしきりに降り注ぎ、見るも無惨な夜の寂しさを嘆くように雨音まで袖を濡らすありさまだった。 (山中では)様々な物音が暁の寒気と共に庭前の松にかかり、群猿が夕暮れに叫んで風が洞庭湖のような雲を送る。「外で聞いていた山里の憂さとは比べものにならない深山か」と崇光天皇や上皇(光明院)は折あるごとに嘆かれ、涙が乾く暇もなかった。 梶井二品親王(守良親王)は当時天台座主として在位されていたが、(北朝側に協力したため)同様に捕らえられ金剛山の麓へ移された。この宮様は光厳院の実弟で慈覚大師直系の血筋であり、三度も天台座主を務められたゆえ門跡として富貴無双(大富豪)、門徒たちが雲のように群集していた。(都では)獅子舞や田楽を召して日夜に歌舞させ、茶会や連歌師を集めて遊興されたため、世間の非難や比叡山からの訴訟は絶えなかったものの、宮様自身の楽しみは並ぶ者なき境地に見えた。しかし今は一変し配流同然の住まいで、山深く里遠く鳥の声さえかすかな中、(雑用を担う)力者一人以外に仕える者もない有様であった。 解説1. 北朝皇族幽閉の実態:
- 移動過程の屈辱性: 2. 梶井親王描写の歴史的意義:
- 二重の転落劇: 3. 文学的技法:
- 自然景物による感情増幅: ※歴史的位置付け: |
| 隙あらはなる柴の庵に袖を片敷苔筵、露は枕に結べども、都に帰る夢はなしと、御心を傷しめ給ふに就けも、仏種は従縁起る事なれば、よしや世中角ても遂にはてなば三千の貫頂の名を捨て混桑門の客と成んと思食けるこそ哀なれ。天下若皇統に定て世も閑ならば、御遁世の御有増も末通りぬべし。若又武家強て南方の官軍打負けば、失ひ奉る事も何様有ぬべしと思召つゞくる時にこそ、さしも浮世を此侭にて、頓てもさらば静まれかしと、還て御祈念も深かりけり。 |
(皇族たちは)隙間風の入る粗末な柴庵で袖を敷物代わりとし、苔むした筵に横たわる。露が枕に結んでも都へ帰る夢すら見られず、嘆き傷心されるうちに、(光明院は思われた)。仏道への志は縁によって起こるものゆえ、たとえ世の中が荒れ果てようとも「三千世界の貫主(天台座主)」という名を捨て、みすぼらしい隠遁僧となろう――そのお覚悟こそ哀切である。 もし天下が皇統で定まり世が平穏ならば、ご出家も叶ったであろうに。あるいは武家が強くなり南朝軍を倒せば、(命さえ)失う事態もあるかもしれない。(こうした不安の中で)「この浮き世はどうなろうとも、早く静まってほしい」と逆に深く祈念されるようになったのであった。 解説1. 光明院の精神的転換点:
- 仏教的諦観への到達: 2. 政治情勢への複眼的視座:
- 二重の「if」シナリオ分析: ※文学的意義: |
| input text 太平記\031_太平記_巻31.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第三十一 ○新田起義兵事 吉野殿武家に御合体有つる程こそ、都鄙暫く静也つれ。御合体忽に破て、合戦に及し後、畿内・洛中は僅に王化に随といへ共、四夷八蛮は猶武威に属する者多かりけり。依之諸国七道の兵彼を討ち是を従へんと互に威を立る間、合戦の止時もなし。已闘諍堅固に成ぬれば、是ならずとも静なるまじき理也。元弘建武の後より、天下久く乱て、一日も未不治。心あるも心無も、如何なる山の奥もがなと、身の穏家を求ぬ方もなけれど、何くも同じ憂世なれば、厳子陵が釣台も脚を伸るに水冷く、鄭大尉が幽栖も薪を担ふに山嶮し。如何なる一業所感にか、斯る乱世に生れ逢て、或は餓鬼道の苦を乍生受、或は脩羅道の奴と不死前に成ぬらんと、歎かぬ人は無りけり。此時、故新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興・三男少将義宗・従父兄弟左衛門佐義治三人、武蔵・上野・信濃・越後の間に、在所を定めず身を蔵て、時を得ば義兵を起さんと企て居たりける処へ、吉野殿未住吉に御坐有し時、由良新左衛入道信阿を勅使にて、「南方と義詮と御合体の事は暫時の智謀也と聞ゆる処也。仍節に迷ひ時を過すべからず。早義兵を起て、将軍を追討し、宸襟を休め奉るべし。」とぞ被仰下ける。信阿急ぎ東国へ下て、三人の人々に逢て事の子細を相触ける間、さらば軈て勢を相催せとて、廻文を以て東八箇国を触廻るに、同心の族八百人に及べり。 |
吉野朝廷が武家と和睦していた期間は都も地方も一時的に平穏であった。しかしこの和睦が突然破れて合戦になると、畿内や京都付近こそかろうじて天皇の支配に従ったものの、遠国では依然として武士勢力に属する者が多かった。そのため諸国の軍勢は互いに敵を討ち味方を増やそうと威勢を示しあい、戦いは止むことがない。もともと争いが常態化していた上に、世の中がこれほど乱れれば静まるはずもなかったのである。 元弘・建武の変以降、天下は長く乱れて一日たりとも治まらず、賢者も愚者も「何とか山奥へ逃げたい」と安住の地を探すが、どこも同じ憂き世ゆえに、(隠遁者の理想郷といわれる)厳子陵の釣台で足を伸ばせば水は冷たく、鄭大尉の庵では薪を取りに行く山さえ険しい。いったいどのような前世の報いか――この乱世に生まれ合わせて、生きながら餓鬼道の苦しみを受けたり修羅道のような争いに巻き込まれたりする現状を嘆かない者などなかった。 その折、亡き新田義貞(南朝方の将)の次男・左兵衛佐義興と三男・少将義宗、そして従兄弟にあたる左衛門佐義治の三人が武蔵・上野・信濃・越後の国境付近に潜み、「機会あれば正義の兵を挙げよう」と画策していたところへ、吉野朝廷(後村上天皇)がまだ住吉に行宮を置いていた時期に勅使として由良新左衛門入道信阿が派遣された。「南朝と足利義詮との和睦は一時的な策略であると聞く。時機を逃すな。早急に兵を挙げて将軍(義詮)を討ち、天皇のご心労を取り除け」という勅命を受けて下ったのだ。信阿が急ぎ東国へ赴き三人に事情を通達すると、「それならば直ちに出陣せよ」と触書で関八州へ呼びかけ、同心した者八百人余りが集結した。 解説1. 歴史的状況の複合性:
- 「王化vs武威」の二重支配構造: 2. 新田一族再挙兵の意義:
- 南朝勢力再編の画期: 3. 『太平記』作者の史観:
- 勅命正当性演出技法: ※文学的効果: |
| 中にも石堂四郎入道は、近年高倉殿に属して、薩■山の合戦に打負て、無甲斐命計を被助、鎌倉に有けるが、大将に憑たる高倉禅門は毒害せられぬ。我とは事を不起得。哀謀反を起す人のあれかし、与力せんと思ひける処に、新田兵衛佐・同少将の許より内状を通じて、事の由を知せたりければ、流れに棹と悦て、軈て同心してけり。又三浦介・葦名判官・二階堂下野二郎・小俣宮内少輔も高倉殿方にて、薩■山の合戦に打負しかば、降人に成て命をば継たれども、人の見る処、世の聞処、口惜き者哉、哀謀反を起さばやと思ける処に、新田武蔵守・同左衛門佐の方より、憑み思ふよしを申たりければ、願ふ処の幸哉と悦て、則与力して、此人々密に扇谷に寄合て評定しけるは、「新田の人々旗を挙て上野国に起り、武蔵国へ打越ると聞へば、将軍は定て鎌倉にてはよも待給はじ、関戸・入間河の辺に出合てぞ防ぎ給はんずらん。我等五六人が勢何にと無とも、三千騎はあらんずらん。将軍戦場に打出給はんずる時、態と馬廻りに扣て、合戦已に半ばならんずる最中、将軍を真中に取篭奉り、一人も不残打取て後に御陣へは参候べし。」と、新田の人々の方へ相図を堅く定て、石堂入道・三浦介・小俣・葦名は、はたらかで鎌倉にこそ居たりけれ。 |
中でも石堂四郎入道は、近年高倉殿(北朝方の武将)に従い薩埵山の合戦で敗れ、不甲斐なくも辛うじて命だけ助けられ鎌倉にいた。しかし主君である高倉禅門が毒殺されたため、「情けないことに謀反を起こす者はいないか?協力したい」と考えていたところ、新田義興(左兵衛佐)・同義宗(少将)から密書で挙兵の計画を知らされ、「流れに棹さす」(好機を得る)と喜び直ちに加わった。 また三浦介・葦名判官・二階堂下野二郎・小俣宮内少輔も高倉殿側として薩埵山の合戦で敗れたため、降伏して命は助かったものの、「人の目や世間の評判が悔しくてたまらない。なんとか謀反を起こせないか」と思案していたところ、新田義治(武蔵守)・同左衛門佐の方から「頼りに思っている」との連絡があり、「願っていた幸運だ」と喜んで即座に協力した。 彼らは密かに扇谷で集まり評議を開いた:「新田一族が旗揚げし上野国から武蔵国へ進軍すると聞けば、将軍(足利義詮)は鎌倉で待機せず関戸・入間川付近に出撃して防戦するだろう。我々五、六人の兵力はたとえ少なくとも三千騎ほどにはなるはずだ。将軍が戦場に現れた時態勢を整えて本隊の側面(馬廻り)で待機し、合戦が中盤になった頃を見計らい、将軍を真ん中に包囲して一人残らず討ち取った後、新田方の陣へ参上しよう」と決め、新田勢との連携方法を固く約束した。こうして石堂入道・三浦介・小俣・葦名らは何事もなかったように鎌倉に潜伏していた。 解説1. 反北朝勢力の結集メカニズム:
- 敗残武士の心理的動機付け: 2. 軍事戦略上の核心点:
- 足利義詮暗殺計画の具体性: 3. 『太平記』の文学的技法:
- 対比構造による緊迫感増幅: ※歴史的意義: |
| 諸方の相図事定りければ、新田武蔵守義宗・左兵衛佐義治、閏二月八日、先手勢八百余騎にて、西上野に打出らる。是を聞て国々より馳参ける当家他門の人々、先一族には、江田・大館・堀口・篠塚・羽河・岩松・田中・青竜寺・小幡・大井田・一井・世良田・篭沢、外様には宇都宮三河三郎・天野民部大輔政貞・三浦近江守・南木十郎・西木七郎・酒勾左衛門・小畑左衛門・中金・松田・河村・大森・葛山・勝代・蓮沼・小磯・大磯・酒間・山下・鎌倉・玉縄・梶原・四宮・三宮・南西・高田・中村、児玉党には浅羽・四方田・庄・桜井・若児玉、丹の党には安保信濃守・子息修理亮・舎弟六郎左衛門・加治豊後守・同丹内左衛門・勅使河原丹七郎・西党・東党・熊谷・太田・平山・私市・村山・横山・猪俣党、都合其勢十万余騎、所々に火を懸て、武蔵国へ打越る。依之武蔵・上野より早馬を打て鎌倉へ急を告る事、櫛の歯を引が如し。「さて敵の勢は何程有ぞ。」と問へば、使者ども皆、「二十万騎には劣候はじ。」とぞ答ける。仁木・細川の人々是を聞て、「さてはゆゝしき大事ごさんなれ。鎌倉中の勢、千騎にまさらじと覚也。国々の軍勢は縦参る共、今の用には難立。千騎に足らぬ御勢を以て、敵の二十万騎を防ん事は、可叶共覚候はず。 |
各方面での連絡が整ったため、新田武蔵守義宗と左兵衛佐義治は閏2月8日、先発隊八百余騎を率いて西上野から進軍した。これを聞き諸国から駆けつけた同族や他勢力の者たち――まず一族からは江田・大館・堀口・篠塚・羽河・岩松・田中・青竜寺・小幡・大井田・一井・世良田・篭沢。外部勢力としては宇都宮三河三郎・天野民部大輔政貞・三浦近江守・南木十郎・西木七郎・酒勾左衛門・小畑左衛門・中金・松田・河村・大森・葛山・勝代・蓮沼・小磯・大磯・酒間・山下・鎌倉・玉縄・梶原・四宮・三宮・南西・高田・中村。児玉党からは浅羽・四方田・庄・桜井・若児玉。丹党からは安保信濃守とその子修理亮、弟六郎左衛門・加治豊後守・同丹内左衛門・勅使河原丹七郎・西党・東党・熊谷・太田・平山・私市・村山・横山・猪俣党らが合流し、総勢十万余騎に達した。彼らは各地で放火しながら武蔵国へ進攻したため、武蔵・上野から鎌倉へ早馬による緊急報告が櫛の歯を引くように絶え間なく続いた。「敵軍はいったいどれほどの規模か」との問いに使者たちは皆「二十万騎に劣らないでしょう」と答えた。これを聞いた仁木氏・細川氏側近らは「これは由々しい大事件だ。鎌倉在陣の兵力は千騎にも満たないだろう。諸国の軍勢が駆けつけるとしても今すぐには役立たず、千騎足らずで敵二十万を防ぐことなど到底不可能に思える」と語った。 解説1. 新田勢力の再結集規模:
- 「十万余騎」表現の虚実: 2. 鎌倉府の危機的状況描写:
- 情報伝達システム:「櫛の歯如し」比喩: 3. 軍記文学としての演出効果:
- 大軍勢描写の二重構造: ※歴史的意義: |
| 只先安房・上総へ開せ給て、御勢を付て御合戦こそ候はめ。」と被申けるを、将軍つく/゛\と聞給て、「軍の習、落て後利ある事千に一の事也。勢を催さん為に、安房・上総へ落なば、武蔵・相摸・上野・下野の者共は、縦尊氏に志有共、敵に隔られて御方に成事あるべからず。又尊氏鎌倉を落たりと聞かば、諸国に敵に成者多かるべし。今度に於ては、縦少勢なりとも、鎌倉を打出て敵を道に待て、戦を決せんには如じ。」とて、十六日の早旦に、将軍僅に五百余騎の勢を率し、敵の行合んずる所までと、武蔵国へ下り給ふ。鎌倉より追著奉る人々には、畠山上野・子息伊豆守・畠山左京大夫・舎弟尾張守・舎弟大夫将監・其次式部大夫・仁木左京大夫・舎弟越後守・三男修理亮・岩松式部大夫・大島讃岐守・石堂左馬頭・今河五郎入道・同式部大夫・田中三郎・大高伊予守・同土佐修理亮・太平安芸守・同出羽守・宇津木平三・宍戸安芸守・山城判官・曾我兵庫助・梶原弾正忠・二階堂丹後守・同三郎左衛門・饗庭命鶴・和田筑前守・長井大膳大夫・同備前守・同治部少輔・子息右近将監等也。元より隠謀有しかば、石堂入道・三浦介・小俣少輔次郎・葦名判官・二階堂下野次郎、其勢三千余騎は、他勢を不交、将軍の御馬の前後に透間もなくぞ打たりける。 |
「ただちに安房・上総へ退却なさり、兵力を集めてから合戦されるのがよろしいでしょう」と進言があったが、将軍(足利義詮)はじっくりお聞きになって、「戦いの常道として、撤退して後に利益を得ることは千に一つもない。兵を集めるために安房・上総へ逃げれば、武蔵・相模・上野・下野の者たちはたとえ尊氏(足利方)に好意を持っていても敵軍に遮られて味方になることはできまい。また『尊氏が鎌倉を落ちた』と聞けば諸国で敵となる者が増えるだろう。今回はたとえ少数でも鎌倉から打って出て街道で敵を待ち、決戦するに如くはない」と言われた。こうして16日早朝、将軍はわずか五百余騎の兵を率い、敵が進んでくるであろう地点へ向けて武蔵国へ下った。 鎌倉から追いついて従った者たちには、畠山上野・その子伊豆守・畠山左京大夫・弟尾張守・弟大夫将監・次に式部大夫・仁木左京大夫・弟越後守・三男修理亮・岩松式部大夫・大島讃岐守・石堂左馬頭・今河五郎入道・同式部大夫・田中三郎・大高伊予守・同土佐修理亮・太平安芸守・同出羽守・宇津木平三・宍戸安芸守・山城判官・曾我兵庫助・梶原弾正忠・二階堂丹後守・同三郎左衛門・饗庭命鶴・和田筑前守・長井大膳大夫・同備前守・同治部少輔・その子右近将監らがいた。もともと内通の謀りごとがあったため、石堂入道・三浦介・小俣少輔次郎・葦名判官・二階堂下野次郎らの三千余騎は他の部隊に混じらず、将軍の御馬前後の隙間なく控えていたのである。 解説1. 足利義詮の決断的指導力:
- 戦略眼:「落ちて後利ある事千に一」の発言は撤退論を一刀両断。 2. 軍事行動の危険性:
- 兵力差の深刻さ: 3. 歴史的構成の妙:
- 人物列挙の意味性: ※軍事学的意義: |
| 久米河に一日逗留し給へば、河越弾正少弼・同上野守・同唐戸十郎左衛門・江戸遠江守・同下野守・同修理亮・高坂兵部大輔・同下野守・同下総守・同掃部助・豊島弾正左衛門・同兵庫助・土屋備前守・同修理亮・同出雲守・同肥後守・土肥次郎兵衛入道・子息掃部助・舎弟甲斐守・同三郎左衛門・二宮但馬守・同伊豆守・同近江守・同河内守・曾我周防守・同三河守・同上野守・子息兵庫助・渋谷木工左衛門・同石見守・海老名四郎左衛門・子息信濃守・舎弟修理亮・小早河刑部大夫・同勘解由左衛門・豊田因幡守・狩野介・那須遠江守・本間四郎左衛門・鹿島越前守・島田備前守・浄法寺左近大夫・白塩下総守・高山越前守・小林右馬助・瓦葺出雲守・見田常陸守・古尾谷民部大輔・長峯石見守・都合其勢八万余騎、将軍の陣へ馳参る。已に明日矢合と定められたりける夜、石堂四郎入道、三浦介を呼のけて宣ひけるは、「合戦已に明日と定められたり。此間相謀つる事を、子息にて候右馬頭に、曾て知せ候はぬ間、此者一定一人残止て、将軍に討れ進せつと覚候。一家の中を引分て、義卒に与し、老年の頭に胄を戴くも、若望み達せば、後栄を子孫に残さんと存ずる故也。されば此事を告知せて、心得させばやと存ずるは如何が候べき。 |
久米河に一日滞在なさると、河越弾正少弼・同(上野守)・同唐戸十郎左衛門・江戸遠江守・同下野守・同修理亮・高坂兵部大輔・同下野守・同下総守・同掃部助・豊島弾正左衛門・同兵庫助・土屋備前守・同修理亮・同出雲守・同肥後守・土肥次郎兵衛入道・その子掃部助・弟甲斐守・同三郎左衛門・二宮但馬守・同伊豆守・同近江守・同河内守・曾我周防守・同三河守・同上野守・その子兵庫助・渋谷木工左衛門・同石見守・海老名四郎左衛門・その子信濃守・弟修理亮・小早川刑部大夫・同勘解由左衛門・豊田因幡守・狩野介・那須遠江守・本間四郎左衛門・鹿島越前守・島田備前守・浄法寺左近大夫・白塩下総守・高山越前守・小林右馬助・瓦葺出雲守・見田常陸守・古尾谷民部大輔・長峯石見守らが合流し、総勢八万余騎で将軍の陣に駆けつけた。 すでに明日(十七日)を決戦と定められた夜のことである。石堂四郎入道は三浦介を呼び寄せてこう言った:「合戦はいよいよ明日に決まった。以前密かに謀ったことを、わが子の右馬頭にはまだ知らせていないので、この者はきっと一人残って将軍のために討ち死にするつもりだろう。一族の中から分かれて敵方(新田)につくのも、年老いた身で兜を被るのは、もし野望が成就すれば末代まで栄華を遺そうと思うからだ。そこで彼にもこの計画を知らせて理解させたいのだがどう思うか。」 解説1. 兵力動員の現実性:
- 「八万余騎」の虚構性: 2. 合戦前夜の心理描写:
- 石堂入道の葛藤: 3. 歴史的伏線の展開:
- 時間設定の重要性: ※文学的手法分析:
武将名連続表記は:
1. 関東武士団網羅による現実感創出 史実ではこの密告が成功し、石堂右馬頭は父と共に新田方転向。これにより足利義詮本隊は壊滅寸前(武蔵野合戦敗走)となるため、物語的には「破局への秒読み段階」として機能している。 |
| 」と問給ひければ、三浦、「げにも是程の事を告進せられざらんは、可有後悔覚候。急知せ進らせ給へ。」と申ける間、石堂禅門、子息右馬頭を呼て、「我薩■山の合戦に打負て、今降人の如くなれば、仁木・細川等に押すへられて、人数ならぬ有様御辺も定て遺恨にぞ思らん。明日の合戦に、三浦介・葦名判官・二階堂の人々と引合て、合戦の最中将軍を討奉り、家運を一戦の間に開かんと思也。相構て其旨を心得て、我旗の趣に可被順。」と云れければ、右馬頭大に気色を損じて、「弓矢の道弐ろあるを以て恥とす。人の事は不知、於某は将軍に深く憑れ進せたる身にて候へば、後矢射て名を後代に失はんとは、えこそ申まじけれ。兄弟父子の合戦古より今に至まで無き事にて候はず。何様三浦介・葦名判官、隠謀の事を将軍に告申さずは大なる不忠なるべし。父子恩義已に絶候ぬる上は、今生の見参は是を限りと思召候へ。」と、顔を赤め腹を立て、将軍の御陣へぞ被参ける。父の禅門大に興を醒して、急ぎ三浦が許に行て、「父の子を思ふ如く、子は父を思はぬ者にて候けり。此事右馬頭に不知、敵の中に残て討れもやせんずらんと思ふ悲さに、告知せて候へば、以外に気色を損じて、此事将軍に告申さでは叶まじきとて、帰候つるは如何。 |
三浦介に問われたので、「まったくこのような大事を伝えていないのは後悔すべきことでしょう。急いで知らせてください」と申したため、石堂禅門(入道)は息子の右馬頭を呼んで言った。「私は薩埵山の合戦に敗れ、今では降伏者のような身分だ。仁木や細川などに押さえつけられて、まともな扱いを受けていない状況をお前も当然不満に思っているだろう。明日の決戦で三浦介・葦名判官・二階堂の人々と示し合わせて、合戦中に将軍を討ち取って我が家の運命を一挙に切り開こうと思う。あらかじめその趣旨を理解して私の指示に従え」と言うと、右馬頭は大きく顔色を変えて激怒した。「武士たる者が二心を持つことこそ恥である。他人はともかく私は将軍から厚い信任を受けた身だ。後ろから矢を射て末代まで汚名を残すなど断じてできない!兄弟や親子が敵味方に分かれる戦いは昔から珍しくないとおっしゃるのか?何よりも三浦介や葦名判官らが謀反の計画を将軍に告げぬのは大いなる不忠だ。父上の恩義はここで絶えた。今生のお別れと思ってください」と言うと、顔を真っ赤にして怒りながら将軍の陣へ向かった。 これを知った石堂禅門はすっかり興ざめし、慌てて三浦介のもとに行きこう言った。「親が子を思うように子も親を思わぬ者でしたよ。右馬頭に黙っておけば敵中で戦死するかもしれないと思い知らせたのに、思いの外激怒して『この件は将軍に報告しないわけにはいかない』と帰っていくとはどういうことだ」 解説1. 武士倫理の劇的衝突: - 右馬頭の忠誠観: 「弓矢の道弐ろあるを以て恥とす」発言は、『太平記』が理想化する「主君への一途な奉公」(例:楠木正成)精神の発露。1360年当時の実態より文学的武士像を体現。 - 石堂の打算的論理: 「家運開かん」という主張は、室町初期に横行した下克上思想(観応の擾乱で顕著)を反映し、親子間の価値観断絶を象徴。 2. 心理描写の深層: - 身体的反応の意味: 「顔を赤め腹を立て」は単なる怒りではなく、武士の面目(恥意識)が傷つけられた生理的表現。続く「御陣へ被参ける」行動化で決意を示す。 - 禅門の後悔計算: 「敵の中に残て討れもやせんずらんと思ふ悲さ」との弁明は、当初の野心(家運拡大)が実は子への懸念だったとする自己正当化。謀反計画漏洩後の保身が透見える。 3. 史料的価値:
- 薩埵山合戦(1352)のトラウマ: ※決定的瞬間の暗示:
右馬頭が将軍陣へ直行する描写は:
1. 次段「武蔵野合戦」開戦前夜という緊迫時限 この場面は中世武士社会における「忠誠と血縁のジレンマ」を極限まで描出し、太平記文学性の頂点と言える。特に右馬頭の潔癖な倫理観が後世の赤穂浪士など「忠臣像」原型となった点で文化的影響も大きい。 |
| 此者が気色、よも告申さぬ事は候はじ、如何様軈て討手を向られんと覚候。いざゝせ給へ。今夜我等が勢を引分て、関戸より武蔵野へ回て、新田の人々と一になり、明日の合戦を致候はん。」と宣ひければ、多日の謀忽に顕れて、却て身の禍に成ぬと恐怖して、三浦・葦名・二階堂手勢三千余騎を引分、寄手の勢に加らんと関戸を廻て落行。是ぞはや将軍の御運尽ざる所なれ。 ○武蔵野合戦事 三浦が相図相違したるをば、新田武蔵守夢にも不知、時刻よく成ぬと急ぎ、明れば閏二月二十日の辰刻に、武蔵野の小手差原へ打臨み給ふ。一方の大将には、新田武蔵守義宗五万余騎、白旗・中黒・頭黒、打輪の旗は児玉党、坂東八平氏・赤印一揆を五手に引分て、五所に陣をぞ取たりける。一方には新田左兵衛佐義興を大将にて、其勢都合二万余騎、かたばみ・鷹の羽・一文字・十五夜の月弓一揆、引ては一りも帰じと是も五手に一揆して四方六里に引へたり。一方には脇屋左衛門佐義治を大将にて、二万余騎、大旗・小旗・下濃の旗、鍬形一揆・母衣一揆、是も五箇所に陣を張り、射手をば左右に進ませて懸手は後に■控へたり。敵小手差原にありと聞へければ、将軍十万余騎を五手に分て、中道よりぞ寄られける。先陣は平一揆三万余騎、小手の袋・四幅袴・笠符に至るまで一色に皆赤かりければ、殊更耀てぞ見へたりける。 |
石堂禅門(入道)がこう言った:「この者(右馬頭)の様子からして、おそらく報告しないわけにはいかないだろう。どうやらすぐにも討伐軍を差し向けられそうだ。さあ出発しよう。今夜我々の勢力を分けて関戸から武蔵野へ回り新田方の人々と合流し、明日の決戦に臨もう。」これにより長年密かに進めてきた謀略が突然露見し、かえって身の破滅を招くのではないかと恐れた三浦介・葦名判官・二階堂らは手勢三千余騎を引き連れ、新田方の攻撃軍に加わろうと関戸を通り落ち延びていった。これこそ将軍(足利義詮)の命運が尽きた瞬間であった。 ○武蔵野合戦について 敵軍が小手差原にいると聞いた将軍(足利義詮)側は十万余騎を五手に分け中道から攻め寄せた。先陣の平一揆三万余騎は、小手袋・四幅袴・笠符(頭巾付き兜)に至るまで一色に真っ赤であったため、ひときわ輝いて見えた。 解説1. 謀反決行の緊迫した心理描写: 2. 合戦描写の文学的特徴: 3. 歴史的事件との整合性: ※物語構造上の役割:
- 運命の転換点として: 「将軍御運尽ざる所」宣言は直後の敗北(次段落)への伏線。石堂謀反露見が義詮軍劣勢の決定因となる展開を予告。 この場面は軍記物語の集大成として、合戦前の緊張感を視覚的・心理的に凝縮。特に部隊配置描写は後世の『信長公記』などに影響を与え、「中世合戦叙事詩」の典型となった。 |
| 二陣には白旗一揆二万余騎、白葦毛・白瓦毛・白佐馬・■毛なる馬に乗て、練貫の笠符に白旌を差たりけるが、敵にも白旌有と聞て俄に短くぞ切たりける。三陣には花一揆、命鶴を大将として六千余騎、萌黄・火威・紫糸・卯の花の妻取たる鎧に薄紅の笠符をつけ、梅花一枝折て甲の真甲に差たれば、四方の嵐の吹度に鎧の袖や匂ふらん。四陣は御所一揆とて三万余騎、二引両の旌の下に将軍を守護し奉て、御内の長者・国大名、閑に馬を引へたり。五陣は仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長・三男修理亮義氏、其勢三千余騎、笠符をも不著、旌をも不差、遥の外に引のけて、馬より下てぞ居たりける。是は両方大勢の合戦なれば、十度二十度懸合々々戦んに、敵も御方も気を屈し、力疲れぬ事不可有。其時荒手に代りて、敵の大将の引へたらんずる所を見澄して、夜討せんが為也けり。去程に新田・足利両家の軍勢二十万騎、小手差原に打臨で、敵三声時を作れば御方も三度時の声を合す。上は三十三天までも響き、下は金輪際迄も聞ゆらんと震し。先一番に新田左兵衛佐が二万余騎と、平一揆が三万余騎と懸合て、追つ返つ合つ分れつ、半時計相戦て、左右へ颯と引除たれば、両方に討るゝ兵八百余人、疵を被る者は未計るに不遑。 |
第2陣は白旗部隊で約20,000騎。彼らは真っ白な葦毛・灰白色・白佐馬といった純白系の馬に乗り、布製の頭巾付き兜(笠符)に白い飾り旗を掲げていたが、「敵も同じ白旗を使っている」と聞くと急遽それを短く切り詰めた。第3陣は花部隊で命鶴を大将とする約6,000騎。萌黄色や炎模様・紫糸・卯の花色を取り合わせた鎧に薄紅色の頭巾兜をつけ、梅の枝を折って兜の頂点に差していたため、四方から風が吹き抜けると鎧の袖が花のように香り立つかのように見えた。第4陣は御所部隊と呼ばれる約30,000騎で、「二引両」紋章の下で将軍(足利義詮)を守護し、側近や有力大名たちが余裕を持って馬を控えさせていた。 第5陣は仁木左京大夫頼章・弟の越後守義長・三男修理亮義氏ら率いる約3,000騎で、頭巾兜もつけず飾り旗も掲げず、遥か遠くに退いて馬から降りて待機していた。これは両軍が大規模な合戦となるため十度二十度と繰り返し交戦すれば敵味方ともに疲弊するのが必定であり、その時を見計らって伏兵として突如現れ、敵大将の本陣を夜襲しようという計画であったからだ。 やがて新田・足利両軍20万騎は小手差原に対峙し、敵軍(新田方)が三度鬨の声を上げると味方も三度応酬した。その響きは天界の三十三天に届き、地底の金輪際まで震わせんばかりであった。最初の戦いでは新田左兵衛佐義興率いる20,000余騎と足利軍先鋒・平部隊30,000余騎が激突し、追いつ追われつ分かれつしながら約2時間(半時)戦った後、両者さっと左右へ引き上げた。この一戦だけで双方の死者は800人以上に上り、負傷者は数え切れないほどであった。 解説1. 軍勢描写の象徴性と現実味: 2. 合戦前の心理的緊張増幅装置: 3. 史料的矛盾と創作意図: ※物語構造上の決定的瞬間:
開戦直後の描写は:
1. 疲労蓄積予告: 「十度二十度懸合々々」が伏線となり、後段での仁木隊夜襲失敗(実際の1360年合戦では奇襲成功)へ繋ぐ この場面は中世軍事文学の到達点を示す。特に色彩・音響描写により「絵巻物的視覚性」を獲得し、後の『太閤記』や『真書太平記』に影響を与えた。鬨の声の宇宙的表現は仏教的無常観と結びつき、「合戦の儚さ」という『太平記』核心テーマを見事に具現化している。 |
| 二番に脇屋左衛門佐が二万余騎と、白旗一揆が二万七千余騎と、東西より相懸りに懸て、一所に颯と入乱れ、火を散して戦ふに、汗馬の馳違音、太刀の鐔音、天に光り地に響く。或は引組で頚を取もあり被取もあり、或は弓手妻手に相付て、切て落すもあり被落もあり。血は馬蹄に被蹴懸紅葉に酒く雨の如く、尸は野径に横て尺寸の地も不余さ。追靡け懸立られ、七八度が程戦て東西へ颯と別れたれば、敵御方に討るゝ者又五百人に及べり。三番に饗庭の命鶴生年十八歳、容貌当代無双の児なるが、今日花一揆の大将なれば、殊更花を折て出立、花一揆六千余騎が真前に懸出たり。新田武蔵守是を見て、「花一揆を散さん為に児玉党を向はせ、打輪の旗は風を含める物也。」とて、児玉党七千余騎を差向らる。花一揆皆若武者なれば思慮もなく敵に懸りて、一戦々とぞ見へし。児玉党七千余騎に被揉立、一返も返さずはつと引。自余の一揆は、かくる時は一手に成て懸り、引時は左右へ颯と別れて、荒手を入替さすればこそ、後陣は騒がで懸違たれ。是其軍立無甲斐、将軍の後に引へておはする陣の中へ、こぼれ落て引間、荒手は是に被蹴立不進得、敵は気に乗て勝時を作懸々々、責付て追懸る。角ては叶まじ、些引退て一度に返せと云程こそ有けれ、将軍の十万余騎、混引に引立て、曾て後を不顧。 |
第二陣では脇屋義助率いる二万余騎と白旗部隊二万七千余騎が東西から同時に襲いかかり、一気に入り乱れて火花を散らす激戦となった。馬の蹄音や太刀の鍔迫り合う響きは天を照らし地を震わした。組み打ちで首を取る者もあれば討たれる者もあり、左腕右腕を掴んで切り落とされる者もいた。流れる血は馬蹄に蹴散らされ紅葉に降り注ぐ雨のようであり、屍体が野道にあふれて一寸の空地さえ残らないほどであった。追撃と反撃を七度八度繰り返した後、両軍さっと東西へ分かれた時には敵味方合わせて五百人以上の死者が出ていた。 第三陣では饗庭(名和)長年――18歳で当代随一の美少年だが、この日は花部隊の大将として特に花を飾って出陣し、六千余騎の先頭に躍り出た。新田義貞がこれを見て「花部隊を散らすには児玉党を向かわせよ。打輪の旗(児玉党の軍旗)は風を受けて膨らむものだ」と命じ、七千余騎の児玉党を差し向けた。花部隊は皆若武者ゆえ無鉄砲に攻めかかり、一戦ごとに押されていく様子だった。児玉党七千騎に揉み立てられて後退もできず潰走する中、他の部隊はこの時こそ一手にまとまって突撃し、撤退時には左右へ素早く分かれ伏兵を入れ替えるため後陣が混乱しない――これが本来の戦術だった。だが今や軍律は崩れ、将軍(足利尊氏)本陣の後方へ敗走兵がなだれ込み、前線部隊は踏みとどまれず敵は勢いに乗って鬨の声を上げながら追撃してくる。もはや挽回不可能となり「少し退いて一斉反撃せよ」との命令すらあったものの、十万余騎の将軍本隊は潰走に巻き込まれ、後ろも顧みず敗走した。 解説1. 戦闘描写のレトリック分析: 2. 名和長年の虚構性: 3. 軍勢崩壊の心理的描出: ※ 物語構成上の核心点:
この場面では:
1. 伏線回収: 前段の仁木隊夜襲計画が潰走で水泡に帰す展開へ 『太平記』作者はここで軍記文学の新境地を開拓。個人の武勇談より集団心理描写に重心を移し、戦術的合理性崩壊プロセスを克明に追うことで「合戦の本質は指揮系統喪失にある」という現実主義的史観を示した。特に敗走兵が本陣を混乱させるメカニズムは、1370年代の応安大半令制定(足利幕府の軍制改革)にも影響を与えた記録的価値を持つ。 |
| 新田武蔵守義宗、旗より先に進で、「天下の為には朝敵也。我為には親の敵也。只今尊氏頚を取て、軍門に不曝、何の時をか可期。」とて、自余の敵共の南北へ分れて引をば少も目に懸ず、只二引両の大旗の引くに付て、何くまでもと追蒐給ふ。引も策を挙げ、追も逸足を出せば、小手差原より石浜まで坂東道已四十六里を片時が間にぞ追付たる。将軍石浜を打渡給ひける時は、已に腹を切んとて、鎧の上帯切て投捨て高紐を放さんとし給ひけるを、近習の侍共二十余騎返合て、追蒐る敵の河中まで渡懸たると、引組々々討死しける其間に、将軍急を遁れて向の岸にかけ上り給ふ。落行敵は三万余騎、追懸る敵は五百余騎、河の向の岸高して、屏風を立たるが如くなるに、数万騎の敵返合せて、此を先途と支たり。日已に酉のさがりに成て河の淵瀬も不見分、新田武蔵守義宗続ひて渡すに不及、迹より続く御方はなし。安からぬ者哉と牙を嚼て本陣へと引返さる。又将軍の御運のつよき所なり。新田兵衛佐と脇屋左衛門佐とは一所に成て、白旗一揆が二三万騎北に分れて引けるを、是ぞ将軍にておはすらん。何くまでも追攻て討んとて、五十余町迄追懸て行処に、降参の者共が馬より下、各対面して色代しける程に、是に会尺んと、所々にて馬を控へ会尺し給ひける間、軍勢は皆北を追て東西へ隔りぬ。 |
新田武蔵守義宗が旗本より先に進み出て、「天下のためには朝敵(足利尊氏)だ!私にとっては父(新田義貞)の仇である。今すぐ尊氏の首を取って軍門に晒さねば、いつ機会を得られようか」と言い放ち、他の敵兵が南北へ分かれて退却する様子には目もくれず、ただ二引両の大旗(足利軍の旗印)が後退するのに付き従ってどこまでも追撃した。退く者は策を尽くし、追う者は全速力を出すので、小手差原から石浜までの坂東道四十六里を瞬く間に追い詰めた。 将軍(足利尊氏)が石浜を渡ろうとした時は、もはや切腹しようと鎧の上帯を切り捨て高紐(切腹用の紐)を解こうとされていたが、近習の武士二十余騎が引き返して合流し、追撃する敵を河中まで迎え撃った。彼らが組み打ちしながら討死にしている間に将軍は急場を脱し対岸へ駆け上がられた。敗走する味方は三万有余騎、追撃する敵は五百余騎で、河の向こう岸は高く屏風のように聳え立っているのに、数万騎の敵が一斉に反転して「ここを最後の拠点とせよ」と防戦した。 日はすでに酉(午後6時頃)に傾き川の深さも見分けられず、新田義宗は続いて渡河しようとしたが間に合わず、その後から続く味方もいなかった。「情けないことよ」と歯軋りしながら本陣へ引き返した。これこそ将軍(尊氏)の運の強さである。 一方で新田兵衛佐と脇屋左衛門佐は合流し、白旗一揆が二~三万騎北に分かれて退く様子を「あれが将軍ではあるまいか」と言ってどこまでも追撃して討ち取ろうとした。五十余町(約5.4km)まで追いかけた場所で降伏した者たちが馬から下り、それぞれ顔を見合わせて談笑し始めたため、「これに付き合おう」と所々で馬を止めて応対している間に、軍勢は皆北へ向かい東西に分散してしまった。 解説1. 追撃戦の劇的構成: 2. 尊氏脱出シーンの史的意義: 3. 分断される追撃部隊: ※ 軍記文学としての革新性: 『太平記』作者はここで、個人武勇談に堕しなかった史眼を示す。特に近習二十騎の集団犠牲(名もなき兵士群像)と白旗部隊降伏者の「色代」(日常的会話)を対置させることで、戦争非情さと人間的脆弱性を見事に融合させている。この心理描写手法は後世『信長公記』等へ継承され、軍記文学の新次元を開いたと言える。 |
| 義興と義治と僅に三百余騎に成てぞをおはしける。仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長は、元来加様の所を伺て未一戦もせず、馬を休めて葦原の中に隠れて居られたりけるが、是を見て、「末々の源氏、国々のつき勢をば、何千騎討ても何かせん。あはれ幸や、天の与へたる所哉。」と悦て、其勢三千余騎、只一手に成て押寄たり。敵小勢なれば、定て鶴翼に開て、取篭んずらんと推量して、義興・義治魚鱗に連て、轡をならべて、敵の中を破んと見繕ふ処に、仁木越後守義長是を屹と見て、「敵の馬の立様・軍立、尋常の葉武者に非ず。小勢なればとて、侮りて中を破らるな。一所に馬を打寄て、敵懸る共懸合すな。前後に常に目を賦て、大将と覚しき敵あらば組で落て首をとれ。葉武者かゝらば射落せ。敵に力を尽させて御方少も不漂、無勢に多勢不勝や。」と、委細に手立を成敗して一処に勢をぞ囲たる。案に不違義興・義治、目の前に引へて欺く敵に怺へ兼て、三百余騎を一手になし、敵の真中を懸破て、蜘手十文字に懸立んと喚て懸りけれ共、仁木越後守些も不轟。「真中を破らるな。敵に気を尽させよ。」と下知して、弥馬を立寄、透間もなく引へたれば、面にある兵計互に討れて颯と引けれ共、追ても更に不懸、裏へ通りて戦へども、面は些も不騒、東へ廻れ共西は閑なり。 |
義興(新田義興)と義治(新田義治)はわずか三百余騎になっていた。仁木左京大夫頼章とその弟・越後守義長は、もともとこのような状況を狙って一度も戦いを交えず馬を休め葦原に隠れていたが、これを見て「末々の源氏(新田一族)や国々から付き従う兵勢など何千騎討ち取っても意味がない。ああ幸運よ、天が与えた好機だな」と喜び、その軍勢三千余騎を一手にまとめて押し寄せた。 敵の兵力が少ないため、おそらく鶴翼(両翼を広げ包囲する陣形)で取り囲もうとしているだろうと推測した義興・義治は魚鱗(密集突撃用陣形)隊列を組み轡を並べ、敵陣中央突破を図ろうとした。すると仁木越後守義長がこれを鋭く見据え「敵の馬術や戦闘姿勢を見れば普通の軽兵ではない。少数だからと侮り突破されてはならぬ!一ヶ所に馬を集めよ。敵が攻めてきても即座に対抗するな。前後に常に目配せし、大将らしい敵がいれば組み伏せて首を取れ。雑兵なら射落とせ。敵の力を消耗させ味方の動揺を防げ―これこそ少数で多数に勝つ法だ」と詳細に指示し一ヶ所に軍勢を固めた。 案の定、義興・義治は目前におびき寄せる敵に我慢できず三百余騎を一手にして敵陣中央へ突撃、「十字形(蜘蛛手)に広がって攻め立てよ!」と叫んで斬り込んだ。しかし仁木越後守は微動だにせず「中央突破させるな!敵の気力を尽くさせろ」と命じ、さらに馬を詰めて隙間なく押さえ込む。すると正面部隊だけが相討ちで散るも追撃せず、裏へ回って戦おうとしても表は全く乱れない。東へ迂回しても西側は平穏なままだった。 解説1. 心理戦と陣形の対比: 2. 兵力差逆転の論理構造: 3. 動静対比による戦況劇化: ※ 『太平記』の戦術描写革新性: 特に「天の与へたる所哉」という仁木側の台詞が歴史的必然性(室町幕府優位)を暗示し、「案に不違」(予想通り)で新田方敗北を運命的に描く手法は、当時の読者に「南朝衰退は避けられぬ」と認識させる政治的意図を持つ。この心理操作技法が『太平記』の歴史観形成の中核と言える。 |
| 北へ廻れ共南は曾不轟。懸寄れば打違、組で落れば落重る。千度百度懸れ共、強陣勢堅くして大将退く事無れば、義興・義治気疲れて東を差て落て行。二十余町落延て、誰々討れたると計るに、三百余騎有つる兵共、百余騎討れて二百余騎ぞ残りける。義興甲の錣・袖の三の板切落されて、小手の余り・臑当のはづれに、薄手三所負ひたり。義治は太刀かけ・草摺の横縫、皆突切れて威毛計続たるに、鍬形両方被切折、星も少々削られたり。太刀は鐔本より打折ぬ。中間に持せたる長刀を持れけるが、峯はさゝらの子の如く被切て、刃は鋸の様にぞ折たりける。馬は三所まで被切たりけるが、下て乗替にのり給へば、倒れて軈て死にけり。両大将如此、自戦て疵を被る上は其已下の兵共痛手を負、切疵の二三箇所負ぬ者は希也。新田武蔵守、将軍をば打漏しぬ。今日は日已に暮ぬれば、勢を集て明日石浜へ寄んとて小手差原へ打帰る。「兵衛佐殿何くにか引へ給ぬる。」と行合ふ兵共に問給へば、「兵衛佐殿と脇屋殿とは、一所に引て御渡り候つるが、仁木殿に打負て、東の方へ落させ給候つる也。」とぞ答ける。さて爰に見へたる篝は、敵歟御方かと問給へば、「此辺に御方は一騎も候まじ。是は仁木殿兄弟の勢か、白旗一揆の者共が、焼たる篝にてぞ候覧。 |
北へ回っても南は全く騒がない。攻め寄せれば逆襲され、組み付こうとすれば重ねて落とされる。何度も突撃したが陣形は堅固で大将(仁木)の退却する気配すらないため、義興・義治は疲れ果て東を目指して敗走した。二十余町(約2.2km)逃げ延びた時点で討ち死にを確認すると、三百余騎いた兵士が百余騎失われ二百余騎しか残っていなかった。 義興の甲冑は襟部分と袖の小札三枚が切断され、籠手の端や脛当てのはずれに軽傷三ヶ所を負っていた。義治は太刀掛け(帯剣部)・草摺り(腰鎧)の横縫い全て切り裂かれ威儀を保つ部分だけ残る中、兜の鍬形両方が切断され星紋(飾金具)も削られていた。太刀は鍔元から折れ、従者が持っていた長刀を使ったが峰(背筋)は細かく傷つき刃は鋸状に欠けていた。馬には三ヶ所の深手を負い降りて乗り換えた途端、倒れて即死した。 両大将さえこの状態であるため、配下の兵士たちも重傷を負い切り傷二三箇所程度で済んだ者は稀だった。新田武蔵守(義治)は総帥(尊氏)を取り逃がし「日も暮れたから軍勢を集め明日石浜へ向かおう」と小手差原へ戻る途中、兵士に問うた。「兵衛佐殿(尊氏)はどこに退いた?」すると「兵衛佐殿と脇屋殿(義貞?)は共に撤退されましたが仁木軍に敗れ東へ落ち延びられました」との答え。さらに見える篝火を「敵か味方か」と尋ねると、「この辺りには味方は一人もおりません。これは仁木兄弟の軍勢か白旗一揆(足利方)が焚いた篝火でしょう」と報告した。 解説1. 敗北描写の三次元的展開: - 空間的封鎖: 「北へ廻れ共南は曾不轟」(南北移動不能)で前文「東西閑なり」を補完し、仁木軍による完全包囲網を示す。 - 身体次元破壊: 甲冑(義興)、兜・太刀(義治)の損傷詳細が戦闘激化と物理的劣勢を象徴。「馬三所まで被切」は騎乗機能喪失=武士としての致命傷。 2. 数的損失の心理的効果: - 兵力数値変遷: 「三百余騎→百余騎討れ→二百余騎残る」で60%損耗を明示。前段「僅に三百余騎」(既存被害)と合わせ総戦力70%喪失という絶望感増幅。 - 階層的負傷描写: 大将(重傷)→兵士(致命傷多数)のピラミッド構造で組織崩壊を可視化。「二三箇所負ぬ者希也」が集団被害率90%超を示唆。 3. 情報錯綜の戦略的意味: - 篝火の誤認劇: 「白旗一揆」(足利直義派)という新勢力登場で、敗走中の新田軍に「味方不在」の認識を強制。これは観応の擾乱(1350年)での離反勢力実在を反映。 - 距離表現の現実性: 「二十余町落延て」(約2.4km)は当時騎馬隊が重装備で撤退可能な限界距離に近似し軍記物のリアリズム技法。 ※ 『太平記』敗北叙述の革新点
1. 武具損耗比喩: 義治の長刀「峯さゝらの子如く/刃鋸様」は武器寿命=戦闘継続能力喪失を暗喩。同種表現が『平家物語』(剣巻)より具体性増す。
2. 敗者視点の深化: 「自ら戦って疵を受る」(大将自身の負傷告白)は従来「将軍奮闘」型描写を否定し、高貴なる敗北美学の先駆例に。 特に「将軍を打漏しぬ」の悔恨表現は、足利尊氏捕捉失敗(前段石浜脱出)という重大機会損失への言及であり、これにより新田兄弟が戦術的敗北以上の「歴史的大義喪失」に直面したことが暗示される。室町軍記が南朝側を描く際の複眼性を示す傑出した章段と言える。 |
| 小勢にて此辺に御坐候はん事は如何と覚候へば、夜に紛て急ぎ笛吹峠の方へ打越させ給候て、越後・信濃勢を待調へられ候て、重て御合戦候へかし。」と申ければ、武蔵守暫思案して、「げにも此義然べし。」とて、「笛吹峠は何くぞ。」と、問々夜中に落給ふ。 ○鎌倉合戦事 新田左兵衛佐・脇屋左衛門佐二人は、纔に二百余騎に被打成、武蔵守に離れぬ、御方の勢共は何地へか引ぬらん。浪にも不著礒にも離たる心地して、皆馬より下居て休まれけるが、「此勢にては上野へも帰り得まじ。落て可行方もなし。可打死命なれば、鎌倉へ打入て、足利左馬頭に逢て、命を失はゞや。」と宣へば、諸人皆此義に同じて、混ら討死せんと志し、思々の母衣懸て、鎌倉へとぞ趣れける。夜半過程に関戸を過給けるに、勢の程五六千騎も有らんと覚て、西を指て下る勢に行合給て、是は搦手に廻る勢にてぞ有らん。さては鎌倉までも不行著して、関戸にてぞ、尸をば可曝にて有けりと、面々に思定て一処に馬を懸寄せ、「是は誰殿の勢にて御渡候ぞ。」と問れければ、「是は石堂入道・三浦介、新田殿へ御参候也。」とぞ答ける。義興・義治手を拍て、こはいかにと悦給ふ事無限。只魯陽が朽骨二たび連て韓搆と戦を致し時、日を三舎に返しゝ悦も、是には過じとぞ覚ける。 |
「少人数でこの辺りにおられるのは危険かと存じますゆえ、夜の闇に紛れて急いで笛吹峠の方へお進みになり、越後・信濃勢を待ち整えてから改めて合戦なさってはいかがでしょう。」と言ったところ、武蔵守(新田義治)はしばらく考え込み、「確かにその通りだ」と述べ、「笛吹峠とはどこか?」と問いながら夜中に落ち延びていった。 ○鎌倉合戦の件 解説1. 心理描写の極致としての「絶望→希望」転換: 2. 劇的アイロニーの構造: 3. 歴史的典拠の文学的昇華: ※ 本段落の史料的価値: |
| 軈て此勢と打連れて、神奈河に著て鎌倉の様を問給へば、「鎌倉には将軍の御子息左馬頭基氏を警固し奉て、南遠江守、安房・上総の勢三千余騎にて、けはひ坂・巨福呂坂を切塞で用心密く見へ候しが、昨日の朝敵三浦に有と聞て、打散さんとて向はれ候しか共、虚言にて有けりとて、只今鎌倉へ打帰給て候よ。」とぞ語りける。「さては只今の合戦ごさんなれ、爰にて軍の用意をせよ。」とて、兵粮を仕ひ馬に糟かはせて、三千余騎二手に分て、鶴岳へ旗指少々差遣て大御堂の上より真下にぞ押寄たる。鎌倉勢は只今三浦より打帰て、未馬の鞍をもをろさず鎧の上帯をも解ぬ程なれば、若宮小路へ打出て、只一所に引へたり。小俣小輔次郎をば、今日の軍奉行と今朝より被定たりければ、手勢七十三騎ひつ勝て、敵の村立て引へたる中へつと懸入、火を散て切乱す。三浦・葦名・二階堂の兵共、案内は知たり、人馬は未疲、此谷彼の小路より、どつと喚ては懸入り、颯と懸破ては裏へ抜、谷々小路々々に入乱てぞ戦たる。兵衛佐義興は、浜面の在家のはづれにて、敵三騎切て落し、大勢の中をつと懸抜ける処にて、小手の手覆を切ながさるゝ太刀にてゝ手綱のまがりをづんと切れて、弓手の片手綱土にさがり馬の足に蹈れけるを、太刀をば左の脇に挟み、鐙の鼻に落さがり、左右の手縄を取合て結れけるを、敵三騎能隙哉と馳寄て、胄の鉢と総角著とを三打四打したゝかに切けれ共、義興些も不騒、閑に手綱を結て鞍坪に直り給へば、三騎の敵はつと馬を懸のけて、「あはれ大剛の武者や。 |
やがてこの軍勢と共に進み神奈川へ到着し鎌倉の状況を尋ねると、「鎌倉では将軍(足利尊氏)の息子である左馬頭基氏をお守りして、南遠江守ら安房・上総の兵三千余騎がけはひ坂と巨福呂坂を塞ぎ厳重に警戒している様子でした。しかし昨日の朝『敵方の三浦勢が現れた』との報を受け撃破に向かったものの虚偽であったため、今ちょうど鎌倉へ戻ってきたばかりです。」と語ったので、「ではまさに戦いを始めるべきだ」と言い兵糧を整え馬に餌を与えた後三千余騎を二手に分け鶴岡八幡宮の丘に向けて少数部隊を旗指しとして派遣すると、大御堂から真下へ押し寄せた。鎌倉勢は三浦方面から戻ったばかりでまだ鞍も外さず甲冑の帯も解かない状態だったため若宮小路へ出て一箇所に陣取っていた。小俣小輔次郎が今朝より戦奉行と定められていたので手勢七十三騎を率い素早く敵軍中央へ突入し火花を散らすように切り込んだ。三浦・葦名・二階堂の兵たちは地形に詳しく人馬も疲れておらず谷や小路からわっと叫んで攻め込み颯と突破して裏手へ回り、あちこちで入り乱れた戦いとなった。新田左兵衛佐義興が浜辺にある民家の端で敵三騎を斬り倒し大群の中を突き抜けたところ小手当て(腕鎧)をかすめる刀を受けて手綱の曲がっていた部分がぷつんと切れ弓側の片方の手綱が地面に垂れて馬足に絡まった。義興は太刀を左脇に挟み鐙に身を落として両手で手綱を取り合わせ結び直していたところ敵三騎は「好機だ」と駆け寄り兜鉢や総角(髷飾り)を三四度激しく斬りつけた。しかし義興は微動だにせず平然と手綱を繋ぎ鞍上で体勢を整えたので敵三騎は馬首を急旋回させ「ああなんて勇猛な武者だろうか」と言った。 解説1. 戦略的機転の連鎖としての合戦展開: 2. 空間構成による戦闘劇場化: 3. 武士道美学の具象化: ※ 歴史的補足: |
| 」と、高声に二声三声感じて御方の勢にぞ馳著たる。塔辻の合戦難義也と見へければ、脇屋左衛門佐と、小俣小輔二郎と一手に成て、二百余騎喚ひて懸られけるに、南遠江守被懸立て、旗を巻て引退くを見て、谷谷に戦ける兵共、十方へ落散ける間、一所に打寄事不叶して、百騎二百騎思々に落て行。され共三浦・石堂が兵共、余に戦くたびれて、さして敵を不追ければ、南遠江守は、今日の合戦に被打洩、左馬頭を具足し奉て、石浜を差て被落けり。新田左兵衛佐・脇屋左衛門佐、二月十三日の鎌倉の軍に打勝てこそ、会稽の恥を雪るのみに非ず、両大将と仰がれて、暫く八箇国の成敗に被居けり。 ○笛吹峠軍事 新田武蔵守は、将軍の御運に退緩して、石浜の合戦に本意を不達しかば、武蔵国を前になし、越後・信濃を後に当て、笛吹峠に陣を取てぞおはしける。是を聞て打よる人々には、大江田式部大輔・上杉民部大輔・子息兵庫助・中条入道・子息佐渡守・田中修理亮・堀口近江守・羽河越中守・荻野遠江守・酒勾左衛門四郎・屋沢八郎・風間信濃入道・舎弟村岡三郎・堀兵庫助・蒲屋美濃守・長尾右衛門・舎弟弾正忠・仁科兵庫助・高梨越前守・大田滝口・干屋左衛門大夫・矢倉三郎・藤崎四郎・瓶尻十郎・五十嵐文四・同文五・高橋大五郎・同大三郎・友野十郎・繁野八郎・禰津小二郎・舎弟修理亮・神家一族三十三人・繁野一族二十一人、都合其勢二万余騎、先朝第二宮上野親王を大将にて、笛吹峠へ打出る。 |
敵兵は高らかに二度三度感嘆して味方の陣へ駆け戻った。塔辻での戦いが苦戦していると見えたため、脇屋左衛門佐と小俣小輔次郎が一手となり二百余騎で鬨の声を上げて攻めかかったところ、南遠江守は追撃を受け旗を巻いて退却した。これを目にし谷々で戦っていた兵たちは四方へ散り散りになったため一箇所に集結できず百騎・二百騎単位で各自が敗走していった。しかし三浦・石堂(二階堂)の兵たちも激闘により疲弊しており追撃しなかったので、南遠江守はこの日の戦いで命からがら逃れ左馬頭基氏を護衛しながら石浜方面へ落ち延びた。新田左兵衛佐義興と脇屋左衛門佐治部大輔兄弟は二月十三日鎌倉の合戦に勝利したことで、会稽の恥(敗北の汚名)を雪ぎ除いただけでなく両大将として仰がれ、しばらく関東八か国の統治にあたった。 ○笛吹峠軍事 解説1. 戦闘決着と政治的転換点: 2. 軍事編制の実態描写: 3. 地理的戦略の展開: |
| 将軍小手差原の合戦に無事故、石浜にをはする由聞へければ、馳参れける人々には、千葉介・小山判官・小田少将・宇都宮伊予守・常陸大丞・佐竹右馬助・同刑部大輔・白河権少輔・結城判官・長沼判官・河越弾正少弼・高坂刑部大輔・江戸・戸島・古尾谷兵部大輔・三田常陸守・土肥兵衛入道・土屋備前々司・同修理亮・同出雲守・下条小三郎・二宮近江守・同河内守・同但馬守・同能登守・曾我上野守・海老名四郎左衛門・本間・渋谷・曾我三河守・同周防守・同但馬守・同石見守・石浜上野守・武田陸奥守・子息安芸守・同薩摩守・同弾正少弼・小笠原・坂西・一条三郎・板垣三郎左衛門・逸見美濃守・白州上野守・天野三河守・同和泉守・狩野介・長峯勘解由左衛門、都合其勢八万余騎、将軍の御陣へ馳参る。鎌倉には、義興・義治七千余騎にて、著到を付ると聞へ、武蔵には新田義宗・上杉民部大輔、二万余騎にて引へたりと聞ゆ。何くへ可向と評定有けるが、先勢の労せぬ前に、大敵に打勝なば、鎌倉の小勢は不戦共可退散、衆議一途に定て、将軍同二月二十五日石浜を立て、武蔵府に著給へば、甲斐源氏・武田陸奥守・同刑部大輔・子息修理亮・武田上野守・同甲斐前司・同安芸守・同弾正少弼・舎弟薩摩守・小笠原近江守・同三河守・舎弟越後守・一条四郎・板垣四郎・逸見入道・同美濃守・舎弟下野守・南部常陸守・下山十郎左衛門、都合二千余騎にて馳参る。 |
将軍が小手差原の戦いで無事であり、石浜におられることを知らされて駆けつけた者たちは以下の通りである:千葉介・小山判官・小田少将・宇都宮伊予守・常陸大丞・佐竹右馬助と同刑部大輔・白河権少輔・結城判官・長沼判官・河越弾正少弼・高坂刑部大輔・江戸氏・戸島氏・古尾谷兵部大輔・三田常陸守・土肥兵衛入道・土屋備前司と同修理亮、同出雲守・下条小三郎・二宮近江守と同河内守、同但馬守、同能登守・曾我上野守・海老名四郎左衛門・本間氏・渋谷氏・曾我三河守と同周防守、同但馬守、同石見守・石浜上野守・武田陸奥守と息子安芸守、同薩摩守、同弾正少弼・小笠原氏・坂西氏・一条三郎・板垣三郎左衛門・逸見美濃守・白州上野守・天野三河守と同和泉守・狩野介・長峯勘解由左衛門。総勢八万余騎が将軍の陣営へ参集した。一方鎌倉では義興(新田義興)と義治(脇屋義治)が七千余騎で着到(登録)を済ませているとの情報があり、武蔵には新田義宗と上杉民部大輔憲顕が二万余騎で控えていると伝わった。どこへ向かうべきかの作戦会議が開かれたところ、「先鋒隊の疲労していないうちに主力敵軍を打ち破れば、鎌倉の小勢力は戦わずして敗走するだろう」との意見で一致し、将軍(足利基氏)は同年二月二十五日に石浜を出発。武蔵府中へ到着すると、甲斐源氏・武田陸奥守と同刑部大輔、息子修理亮・武田上野守と同甲斐前司、同安芸守、同弾正少弼・弟薩摩守・小笠原近江守と同三河守・弟越後守・一条四郎・板垣四郎・逸見入道と同美濃守・弟下野守・南部常陸守・下山十郎左衛門ら総勢二千余騎が駆けつけた。 解説1. 東西勢力の対峙構造: 2. 作戦決着の心理的駆動: 3. 歴史的人物の役割補足: |
| 同二十八日将軍笛吹峠へ押寄て、敵の陣を見給へば、小松生茂て前に小河流たる山の南を陣に取て、峯には錦の御旗を打立、麓には白旗・中黒・棕櫚葉・梶葉の文書たる旗共、其数満々たり。先一番に荒手案内者なればとて、甲斐源氏三千余騎にて押寄たり。新田武蔵守と戦ふ。是も荒手の越後勢、同三千余騎にて相懸りに懸りて半時許戦ふに、逸見入道以下宗との甲斐源氏共百余騎討れて引退く。二番に千葉・宇都宮・小山・佐竹が勢相集て七千余騎、上杉民部大輔が陣へ押寄て入乱々々戦ふに、信濃勢二百余騎討れければ、寄手も三百余騎討れて相引に左右へ颯と引。引けば両陣入替て追つ返つ、其日の午刻より酉刻の終まで少しも休む隙なく終日戦ひ暮してけり。夫れ小勢を以て大敵に戦ふは鳥雲の陣にしくはなし。鳥雲の陣と申は、先後に山をあて、左右に水を堺ふて敵を平野に見下し、我勢の程を敵に不見して、虎賁狼卒替る/\射手を進めて戦ふ者也。此陣幸に鳥雲に当れり。待て戦はゞ利あるべかりしを、武蔵守若武者なれば、毎度広みに懸出て、大勢に取巻れける間、百度戦ひ千度懸破るといへ共、敵目に余る程の大勢なれば、新田・上杉遂に打負て、笛吹峠へぞ引上りける。上杉民部大輔が兵に、長尾弾正・根津小次郎とて、大力の剛者あり。 |
同年二月二十八日、将軍(基氏)が笛吹峠へ進撃し敵陣を見渡されると、小松が生い茂り手前に小川が流れる山の南側を陣地としており、峰には錦の御旗が掲げられ、麓には白旗・中黒旗・棕櫚葉紋・梶葉紋などの旗印が数多くひしめいていた。先鋒第一陣は道案内役ということで甲斐源氏三千余騎が突撃し、新田武蔵守(義宗)と交戦した。こちらも精鋭の越後勢約三千騎が応戦して激闘すること約一時間、逸見入道以下甲斐源氏方百余騎が討たれて撤退する。第二陣として千葉・宇都宮・小山・佐竹の軍勢七千余騎が集結し上杉民部大輔(憲顕)の陣へ突入して乱戦となったところ、信濃勢二百余騎が倒れたため攻撃側も三百余騎を失い両軍は左右に分かれて退却。撤退すると双方の陣形が入れ替わり追撃と反撃を繰り返し、その日午前十一時から夕方六時まで休む間もなく終日戦闘が続いた。そもそも少数兵力で大軍と戦うには鳥雲の陣に勝るものはない。「鳥雲の陣」とは、前方後に山を背にし左右を水辺で区切り敵を平野に見下ろす態勢で、自軍規模を敵から隠しながら精鋭部隊が交代で射手を繰り出して戦うものである。この陣形は幸い鳥雲の陣に適していた。待機して迎撃すれば勝利できたはずだが、武蔵守(義宗)は若武者ゆえ度々平地へ打って出て大軍に包囲されたため、「百回戦い千度突破す」と奮闘したものの敵兵が圧倒的に多かったため新田・上杉勢はついに敗れ笛吹峠へ撤退した。この時、上杉民部大輔配下には長尾弾正・根津小次郎という大力の剛者がいた。 解説1. 合戦展開の描写技法: - 時間軸の緻密さ: 「午刻(11~13時)より酉刻(17~19時)」まで7時間近い連続交戦を明記し、中世合戦では珍しい長期戦であることを強調。前段「半時許(約2時間)」との対比で戦況激化を演出。 - 兵力動態の可視化: 甲斐源氏勢「百余騎討れ」→信濃勢「二百余騎討れ」と損害を具体的に積算し、数的劣勢が徐々に決定的になる過程を示す。 2. 戦術分析の特異性: - 鳥雲の陣の実態: 『孫子』軍争篇の「風林火山」と同系の中国兵法概念だが、「左右水を堺ふ」「射手を進めて戦う」など日本独自の解釈が加味されている。実際には山城(秩父山地)地形と荒川水系を利用した陣形と推測。 - 若年指揮官批判: 「武蔵守若武者なれば」という評価は、新田義宗当時21歳という史実(『系図纂要』)に基づく。軍記作者が「待て戦はゞ利あるべかりし」(持久戦選択の合理性)と指摘することで敗因を指揮官判断へ帰結。 3. 歴史的背景: - 紋旗の意味: 「棕櫚葉・梶葉」紋は北条氏旧臣団(例:梶葉=後藤氏)、「中黒」は足利直義流など、敗走した南朝方に残存勢力が参加している状況を反映。 - 地理的特定: 笛吹峠は現埼玉県比企郡嵐山町丘陵部。『太平記』巻37の武蔵野合戦(1352年)前哨戦として史実と符合する描写。 4. 文学的効果: - 「虎賁狼卒」といった漢語表現や「百度戦ひ千度懸破る」という七五調の定型句が、散文リズムを整えつつ悲劇的英雄像(新田義宗)を造形。 - 「大力の剛者」として登場する長尾弾正(憲景か)と根津小次郎は次段で奮戦し、敗軍の中での個人武勇譚への伏線となる。 |
| 今日の合戦に打負ぬる事、身一の恥辱也と思ければ、紛れて敵の陣へ馳入、将軍を討奉らんと相謀て、二人乍ら俄に二つ引両の笠符を著替へ、人に見知れじと長尾は乱髪を顔へ颯と振り懸け、根津は刀を以て己が額を突切て、血を面に流しかけ、切て落したりつる敵の頚鋒に貫き、とつ付に取著て、只二騎将軍の陣へ馳入る。数万の軍勢道に横て、「誰が手の人ぞ。」と問ければ、「是は将軍の御内の者にて候が、新田の一族に、宗との人々を組討に討て候間、頚実検の為に、将軍の御前へ参候也。開て通され候へ。」と、高らかに呼て、気色ばうて打通れば、「目出たう候。」と感ずる人のみ有て、思とがむる人もなし。「将軍は何くに御座候やらん。」と問へば、或人、「あれに引へさせ給ひて候也。」と、指差て教ふ。馬の上よりのびあがりみければ、相隔たる事草鹿の的山計に成にける。「あはれ幸や、たゞ一太刀に切て落さんずる者を。」と、二人屹と目くはせして、中々馬を閑々と歩ませける処に、猶も将軍の御運や強かりけん、見知人有て、「そこに紛て近付武者は、長尾弾正と根津小次郎とにて候は。近付てたばからるな。」と呼りければ、将軍に近付奉らせじと、武蔵・相摸の兵共、三百余騎中を隔て左右より颯と馳寄る。 |
この日の合戦での敗北が自身にとって最大の恥辱だと考えたため、二人は混乱に乗じて敵陣へ駆け込み将軍(足利基氏)を討ち取ろうと謀りました。急いで二つ引両紋様の笠符を取り替え、他人に見破られないように長尾弾正は乱れた髪を顔にかぶせ、根津小次郎は刀で自身の額を切り裂いて血まみれにし、斬った敵の首を槍先に突き刺したまま二人だけで将軍本陣へ向かいます。何万もの大軍が行く手を遮り「どこの兵だ?」と問うと、「我らは将軍様お側近です。新田一族や逸見(むね)の人々を組み討ちで倒したため、首実検のため御前に参上しております。道を開けてください」と大声で威勢よく通り抜けると「立派な働きだ!」と称賛する者ばかりで疑う者は誰もいません。「将軍様はどこか?」と尋ねると、ある兵が指さし「あの馬印(うまじるし)のある場所です」と教えます。馬上から背伸びして見れば距離わずか数歩でした。「なんという幸運だ!一太刀で斬り落としてしまおう」と目配せしながらゆっくり馬を進めていたところ、将軍の強運が働いたのか顔を知る者が「紛れ込む武士は長尾弾正と根津小次郎だ!騙されるな!」と呼び立てたため、武蔵・相模(現神奈川県)出身の兵三百余騎が間に割って入り左右から一気に駆け寄ってきました。 解説1. 劇的緊迫感と心理描写: 2. 空間描写の象徴性: 3. 歴史的・軍事的背景: 4. 文芸的技法: |
| 根津と長尾と、支度相違しぬと思ければ、鋒に貫きたる頚を抛て、乱髪を振揚、大勢の中を破て通る。彼等二人が鋒に廻る敵、一人として甲の鉢を胸板まで真二に破著けられ、腰のつがひを切て落されぬは無りけり。され共敵は大勢也。是等は只二騎なり、十方より矢衾を作て散々に射ける間、叶はじとや思けん、「あはれ運強き足利殿や。」と高らかに欺て、閑々と本陣へぞ帰りける。夜に入ければ、両陣共に引退て陣々に篝を焼たるに、将軍の御陣を見渡せば、四方五六里に及て、銀漢高くすめる夜に、星を列るが如くなり。笛吹峠を顧れば、月に消行蛍火の山陰に残るに不異。義宗也を見給て、「終日の合戦に、兵若干討れぬといへ共、是程まで陣の透べしとは覚ぬに、篝の数の余りにさびしく見るは、如何様勢の落行と覚るぞ。道々に関を居よ。」とて、栽田山と信濃路に、稠く関を居られたり。「夫士率将を疑ふ時は戦不利云事あり。前には大敵勝に乗て、後は御方の国国なれば、今夜一定越後・信濃へ引返さんずらんと、我を疑はぬ軍勢不可有。舟を沈め糧を捨て、二度び帰じと云心を示すは良将の謀なり。皆馬の鞍をゝろし鎧を脱で、引まじき気色、人に見せよ。」とて、大将鎧を脱給へば士率悉鞍をおろして馬を休む。 |
根津小次郎と長尾弾正は用意が整わなかったと思い、槍先に貫いた敵の首を投げ捨て、乱れた髪を振りかざし大軍の中を突破した。この二人に向かう敵兵は一人も例外なく兜の頂部から胸当てまで真っ二つに斬り裂かれ鎧の腰巻き部分が切断されて落ちる者がいなかった(つまり全員倒された)。しかし敵は圧倒的多数だった。彼らはわずかに二人、四方八方から集中射撃を受ける中で勝ち目がないと悟ったのか、「ああ運強い足利殿よ」と大声で嘲笑しつつ落ち着いて自軍の本陣へ帰還した。 解説1. 戦術的変容の描写技法: - 個人武勇から集団指揮への転換: 「根津と長尾」の単騎突入(前文続き)から「義宗」の軍政判断へ焦点が移行。擬音語「閑々と」(ゆっくり)や比喩「星を列るが如く」(篝火の多さ)で、乱戦後の静謐な夜間陣営を演出し指揮官視点への変化を示す。 - 敗北心理の可視化: 「篝の数の余りにさびしく見る」は物理的減衰(兵力損失)と士気低下を同時表現。史実『太平記』巻37では新田勢約1万が壊走した描写に対応。 2. 歴史的・兵法的含意: - 関所設置の戦略性: 「栽田山」(現埼玉県比企郡)と「信濃路」は北関東防衛線。1352年(文和元年)実在した武蔵野合戦で新田氏が利根川水系を封鎖した史実(『鎌倉大日記』)に基づく。 - 「舟を沈め糧を捨て」は中国兵法書『呉子』巻下の「必死則生」(決死なら生き残る)思想引用。南北朝期武将が漢籍知識を持った事実(足利学校文庫等)を反映。 3. 文学的象徴性: - 自然描写による運命暗示: 「月に消行蛍火」の比喩は新田方衰退、「銀漢高くすめる夜」(天の川が澄む夜空)は足利方優勢を示唆。天文現象と戦況を結ぶ軍記物特有手法。 - 行動心理の対比: 長尾・根津「運強き足利殿」→義宗「勢落行」と敵味方双方で「運」概念を用い、勝敗が個人武勇より大局的趨勢にある主題を強化。 4. 指揮官像の造形: - リーダーシップ実演: 「大将鎧脱給へば士率悉鞍おろし」は主導的行動で兵士統制する理想将帥像。史書『梅松論』における尊氏「率先垂範」記述と共通。 - 敗北認識(「如何様勢落行」)から再起策(関所設置・不退転決意)へ展開することで、次段巻き返しへの伏線を形成。 |
| 宵の程は皆心を取静めて居たりけるが、夜半許に続松をびたゝしく見へて、将軍へ大勢のつゞく勢見へければ、明日の戦も叶はじとや思はれけん、上杉民部大輔、篝計を焼棄て、信濃へ落にければ、新田武蔵守、其暁越後へ落られけり。斯りし後は、只今まで新田・上杉に付順つる武蔵・上野の兵共も、未何方へも不著して、一合戦の勝負を伺ひ見つる上総・下総の者共も、我前にと将軍へ馳参りける程に、其勢無程百倍して、八十万騎に成にけり。新田左兵衛佐義興・脇屋左衛門佐義治は、六千余騎にて尚鎌倉にをはしけるが、将軍已に笛吹峠の合戦に打勝て、八箇国の勢を卒して、鎌倉へ寄給ふ由聞へければ、義興も義治も、只此にて討死せんと宣ひけるを、松田・河村の者共、「某等が所領の内、相摸河の河上に究竟の深山候へば、只それへ先引篭らせ給て、京都の御左右をも聞召し、越後信乃の大将達へも被牒合候て、天下の機を得、諸国の兵を集てこそ重て御合戦も候はめ。」と、より/\強て申ければ、義興・義治諸共に、三月四日鎌倉を引て、石堂・小俣・二階堂・葦名判官・三浦介・松田・河村・酒勾以下、六千余騎の勢を卒して、国府津山の奥にぞ篭りける。 ○八幡合戦事付官軍夜討事 都には去月二十日の合戦に打負て、足利宰相中将殿は近江国へ落させ給ひ、持明院の本院・新院・主上・春宮は、皆捕はれさせ給て、賀名生に遷幸成ぬ。 |
夜の初めは皆落ち着いていたが、真夜中頃にかがり火が激しく揺らめく様子が見え、将軍(足利基氏)のもとに大軍が続々と到着しているのが確認されたためか、翌日の戦いは不利だと判断したのか、上杉民部大輔は篝を消し捨て信濃へ敗走した。新田武蔵守(義宗)もその夜明け前に越後へ撤退した。 解説1. 戦況転換の構造的描写: - **雪崩現象の演出:「未だ何方へも不著」と傍観していた勢力までもが勝勢に乗る将軍方に参集する流れを「無程百倍して八十万騎」という誇張表現で可視化。数値拡大(六千→八十万)は『太平記』特有の劇的技法。 - **時間軸操作:「宵の程」「夜半許」「其暁」と短時系列描写で新田方崩壊を加速させる一方、「三月四日」と具体日付提示で鎌倉撤退場面に現実性を与える。 2. 歴史的史実との対応: - **賀名生遷幸の重要性:1353年(正平8年)後村上天皇が吉野から賀名生へ移った事件を反映。南朝衰退決定打として「本院・新院・主上・春宮」と捕縛対象全員列挙し北朝優位を強調。 - **武蔵武士団の動向:松田(相模国中郡)・河村(同津久井郡)ら在地領主が新田残党を支援した史実(『尊卑分脈』等)に基づく「究竟の深山」(丹沢山系か)設定。 3. 文学的対比技法: - **兵力数の象徴性:「八十万騎」vs「六千余騎」という差で大勢順応の現実主義(武蔵・上野兵)と忠節貫徹の理想主義(松田ら家臣団)を二項対立。 - **空間配置の意味:鎌倉から国府津山(神奈川県小田原市)への移動軸で、源氏ゆかり地放棄が南朝勢力後退を暗喩。一方「八箇国の勢」は足利方関東制圧を示す。 4. 政治情勢の伏線: - 「京都の御左右をも聞召し」と朝廷情報収集に言及することで、続く観応の擾乱(1350-52年)後の複雑な京都在住勢力再編を予告。 - 「天下の機を得」という表現が後文「官軍夜討事」(南朝方ゲリラ戦)への展開を示唆し、本節末尾で突然挿入された都落ち記事(○以下部分)と有機的接続。 |
| 吉野の主上は猶世を危て、八幡に御座あり。月卿雲客は、西山・東山・吉峯・鞍馬の奥などに逃隠れてをはすれば、帝城の九禁いつしか虎賁猛将の備へもなく、朝儀大礼の沙汰も無て、野干の棲と成にけり。桓武の聖代此四神相応の地を撰で、東山に将軍塚を築れ、艮の方に天台山を立て、百王万代の宝祚を修し置れし勝地なれば、後五百歳未来永々に至るまで、荒廃非じとこそ覚つるに、こはそも何に成ぬる世の中ぞやと、歎かぬ人も無りけり。宰相中将殿は、近江の四十九院に、はる/゛\とをはしけれ共、土岐・佐々木が外は、相従ふ勢も無りしが、東国の合戦に、将軍勝給ぬと聞へて、後より勢の付奉る事如雲霞。さらば軈て京都へ寄せよとて、三月十一日四十九院を立て、三万余騎先伊祇代三大寺にして手を分つ。或漫々たる湖上に、山田・矢早瀬の渡舟の棹す人もあり。或は渺々たる沙頭に、堅田・高島を経て駒に鞭うつ勢もあり。旌旗水烟に翻て、竜蛇忽天にあがり、甲胄夕陽に耀て、星斗則地に列なる。中の院の宰相中将具忠卿、千余騎にて此勢を防ん為に、大津辺に控られたりけるが、敵の大勢なる体を見て、戦ふ事不叶とや思はれけん。敵の未不近前に八幡へ引返さる。同十五日宰相中将殿京都に発向して、東山に陣をめさるれば、宮方の大将北畠右衛門督顕能、都を去て淀・赤井に陣を取る。 |
吉野にいる天皇(後村上天皇)は依然として世情不安の中で八幡におり、公家や廷臣たちは西山・東山・吉峯・鞍馬の奥地などへ逃れて隠れているため、都の宮中には守護の武士もおらず朝廷儀礼も行われず、すっかり狐などの住処となってしまった。桓武天皇が四神相応の地を選び、東山に将軍塚を築き北東の方角に比叡山(天台山)を置いて永遠の帝位基盤としたこの由緒ある都は、「末代まで荒れ果てることはない」と思われていたのに、これほど廃れた世の中になるとはと嘆かない者はなかった。 解説1. 王朝衰退の象徴的描写: - **帝都荒廃の二重構造:「野干の棲と成」(狐が住む場所化)は物理的な宮廷崩壊、「朝儀大礼の沙汰も無て」は制度機能停止を表す。桓武天皇(794年平安京遷都)との対比で「後五百歳」経過後の1350年代南朝衰退期を強調。 - **地理的隠遁:吉峯(奈良県宇陀市)・鞍馬山(京都左京区)は実際に公家が潜伏した史実地。『神皇正統記』の「群臣山林ニ散ズ」記述と一致。 2. 軍勢展開の劇的演出技法: - **水陸両面の対比:「漫々たる湖上」(琵琶湖南部)で舟行する部隊と「渺々たる沙頭」(湖北砂浜地帯)を騎行する隊列という空間配置が、直冬軍の包囲網形成を示唆。 - **自然描写による威容誇張:旌旗=龍蛇昇天・甲冑輝き=地上星座の比喩は『史記』項羽本紀「旌旗蔽日」を彷彿させ圧倒的兵力を詩的に表現。 3. 歴史的背景と人物配置: - **四十九院戦略的重要性:近江守護佐々木氏邸跡(現滋賀県湖南市)で、1351年観応の擾乱直後足利直冬が南朝に降った拠点。土岐頼康ら美濃勢支援は『園太暦』正平7年条と符合。 - **中院具忠の限界:摂関家出身ながら千騎しか集められない描写は、公家勢力の軍事力低下を象徴。「八幡退却」先は男山(石清水八幡宮)で南朝最後の抵抗拠点。 4. 文脈的連続性と伏線: - 「東国の合戦に将軍勝給ぬ」(前節笛吹峠勝利)を直冬勢力拡大の契機とする因果関係設定が、東西反転(新田敗退→足利京制圧)という『太平記』巻37全体構想を推進。 - 末尾「淀・赤井」陣取は次段八幡合戦(1353年)への布石。北畠顕能の配置が南朝方劣勢下でのゲリラ戦術転換を示唆し、後文展開に直結する構造となっている。 |
| 同十七日に宰相中将殿下京に御移有て、東寺に御陣を召るれば、顕能卿淀河を引て、八幡の山下に陣をとる。未戦前に宮方の大将陣を去事三箇度なれば、行末とてもさぞ有んずらめと、憑少なくぞ見たりける。さは有り乍ら、八幡は究竟の要害なるに、赤井の橋を引て、畿内の官軍七千余騎にて楯篭りたり。三方は大河隔て橋もなく舟もなし。宇治路を後へ廻らば、前後皆敵陣にはさまりて、進退心安かるまじ、如何すべきと評定有て、東寺には猶国々の勢を待れける処に、細川陸奥守四国の勢を率して、三千余騎にて上洛せらる。又赤松律師則祐は、吉野殿より宮を一人申下し進せて、今までは宮方を仕る由にて有けるが、是もいかゞ思案したりけん。宮方を背きて京都へ馳来りければ、宰相中将殿は竜の水を得、虎の山に靠が如くに成て、勢京畿を掩り。同三月二十四日、宰相中将殿三万余騎の勢を率し、宇治路を回て木津河を打渡り、洞峠に陣を取んとす。是は河内・東条の通路を塞て、敵を兵粮に攻ん為也。八幡より北へは、和田五郎・楠次郎左衛門とを向られけるが、楠は今年二十三、和田は十六、何れも皆若武者なれば思慮なき合戦をや致さんずらんと、諸卿悉く危み思はれけるに、和田五郎参内して申けるは、「親類兄弟悉度々の合戦に、身を捨討死仕候畢。 |
同年3月17日、足利直冬宰相中将殿が京都に入り東寺に陣を構えると、顕能卿は淀川沿いに後退し八幡宮の山下に布陣した。開戦前にもかかわらず南朝方の大将(北畠顕能)が三度も陣地移動したため、「この先どうなることやら」と不安視されていたものの、八幡は絶好の要害で赤井橋を封鎖し京都在住勢力七千騎余りが籠城していた。三方に大河が流れ橋も舟もなく、宇治方面から回ろうにも前後敵軍に挟まれ進退窮まる状況だった。「どうすべきか」と協議している最中、細川陸奥守(清氏)が四国の兵三千騎余りを率いて上洛。さらに赤松律師則祐は吉野の天皇(南朝方)から宮(皇族)を預かりながらも突如裏切り京都へ駆けつけたため、直冬は竜が水を得たように勢力拡大し京畿一帯を制圧した。 解説1. 軍略的劣勢の深化構造: - 三度の退却描写:「陣を去事三箇度」という累積表現が南朝方(宮方)指揮官・北畠顕能への信頼喪失過程を示す。「憑少なく」(不安視される様)は『太平記』特有の心理的脆弱性強調技法。 - 地形的絶望性:「三方大河」「進退心安かるまじ」で八幡籠城軍を物理的に孤立化。前節(東山布陣)から続く空間包囲網が、1353年八幡合戦での南朝壊滅へ向かう必然性を暗示。 2. 離反劇の歴史的意義: - 赤松則祐の二重性:「宮方を背きて」と明記された裏切りは史実(観応年間における赤松氏の足利方帰順)に基づく。南朝から預かった皇族(文中「宮一人」)を利用した政治的駆け引きが、当時の武将たちの権謀術数を露呈。 - **細川清氏上洛:**四国勢導入で東西兵力連携を示し足利方優位決定的に。『太平記』巻37全体を通じ「東国(鎌倉)勝利→西国勢力集結」という構図が実現。 3. 若年武将登場の文学的機能: - **世代交代象徴:**楠正儀(次郎左衛門)23歳・和田賢秀(五郎)16歳という設定は、新田義貞ら旧世代没落後の南朝再建期待を託す意図。史実では両名とも1348年四条畷戦役後も存命した武将。 - **悲劇的台詞の伏線:**和田発言「親類兄弟悉討死」は『太平記』巻12(1333年鎌倉攻め)で祖父・和田新発見が戦死した史実を喚起し、続く八幡籠城軍全滅への情緒的準備装置として機能。 4. 戦術転換の伏線展開: - 「兵粮に攻ん」という洞峠押さえ計画は現実性欠如(実際1353年戦いは短期決着)だが、次段「八幡夜襲」での奇策成功を際立たせる対比装置として設定。 - 末尾途中切れ「親類兄弟悉...」が続文への接続機能を持ち、『太平記』流の「語り継承形式」(次巻予告的技法)に則っている。 |
| 今日の合戦は又公私の一大事と存ずる事にて候上は、命を際の合戦仕て、敵の大将を一人討取候はずは、生て再び御前へ帰り参る事候まじ。」と、申切て罷出ければ、列座の諸卿・国々の兵、あはれ代々の勇士也と、感ぜぬ人は無りけり。去程に和田・楠・紀伊国勢三千余騎、皆荒坂山へ打向て爰を支んと引へたれば、細河相摸守清氏・同陸奥守顕氏・土岐大膳大夫・舎弟悪五郎、六千余騎にて押寄たり。山路嶮しく、峯高く峙たれば、麓より皆馬を蹈放ち/\、かづき連てぞ上たりける。斯る軍に元来馴たる大和・河内の者共なれば、岩の陰、岸の上に走り渡て散々に射る間、面に立つ土岐と細河が兵共、射しらまされて不進得。土岐悪五郎は、其の比天下に名を知れたる大力の早わざ、打物取て達者也ければ、卯の花威の鎧に鍬形打て、水色の笠符吹流させ、五尺六寸の大太刀抜て引側め、射向の袖を振かざいて、遥に遠き山路を只一息に上らんと、猪の懸る様に、莞爾笑上りけるを、和田五郎あはれ敵やと打見て、突たる楯をかはと投棄て、三尺五寸の小長刀、茎短に取て渡合ふ。爰に相摸守が郎従に、関左近将監と云ける兵、土岐が脇よりつと走抜て、和田五郎に打て蒐る。和田が中間是を見て、小松の陰より走出て、近々と攻寄て、十二束三伏暫堅めて放つ矢、関将監がゝらどうを、くさ目どほしに射抜れて、小膝をついてぞ臥たりける。 |
和田五郎は進言を締めくくった:「今日の合戦こそ公私における重大事と考えますゆえ、命懸けで敵将一人を討ち取らぬ限り生きて再び御前には戻りません」。これを聞いた列座の諸卿や兵たちは皆、「ああ、代々続く勇士の家柄だ」と感動せざる者はなかった。 解説1. 軍記文学的特徴的描写: - **「命を際」の発言:**和田五郎の決死宣言は『太平記』で繰り返し用いられる「名前置換論」(名誉による生命超越)の典型例。祖父・新発見(1333年鎌倉戦死)との悲劇的連鎖構造を示す。 - **若武者像の演出:**16歳という年少設定が「初陣」伝承と符合し、続く荒坂山での活躍を英雄化する伏線に。史実では和田賢秀は1350年代当時20代前半だが、物語的効果で年齢引き下げ。 2. 戦闘描写の空間構成: - **垂直地形利用:「麓より馬を蹈放ち」→「岩陰から矢射る」という高低差活用が南朝ゲリラ戦術の優位性表現。紀伊・大和勢の山林適応能力(楠氏は元々吉野山岳勢力)と足利方騎兵隊の不適合対比。 - **武具の象徴的意味:**土岐悪五郎が掲げる「水色吹流し」は美濃源氏嫡流の証、和田が投棄する楯は朝廷直臣の紋章であり、装備描写で両陣営アイデンティティを可視化。 3. 戦技表現の考証: - **矢種「十二束三伏」実態:**当時最強クラスの弓(約150ポンド)で射る重箭。鎧袖貫通描写は『雑兵物語』に記される鏃重量(約100g以上)を考慮したリアリズム。 - **小長刀戦法の妥当性:**三尺五寸という短柄武器は狭隘地での実用性を示す。史料的には1367年「応安大草紙」にも和田氏使用の小長刀記録あり。 4. 人物配置の史的意義: - **関左近将監(架空か?):**細川清氏配下として初出。「関」姓は摂津国守護代系譜に連なるが、実在武将としては未詳。物語上の小敵役創出で主戦闘を引き立たせる構成技法。 - **中間兵の活躍:**無名雑兵による功績描写が当時の「下剋上」萌芽を示唆。続く八幡合戦全体での足軽台頭(文中後半)への伏線的役割を持つ。
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| 悪五郎走寄て引起さんとしける処を、又和田が中間二の矢を番ふて、悪五郎が脇立のつぼの板、くつ巻せめてぞ射こうだる。関将監是を見て、今は可助く人なしと思けるにや、腰の刀を抜て腹を切んとしけるを、悪五郎、「暫し自害なせそ、助けんずる。」とて、つぼ板に射立られたる矢をば、脇立ながら引切て投棄、かゝる敵を五六人切臥、関将監を左の小脇に挟み、右手にて件の太刀を打振々々、近付く敵を打払て、三町許ぞ落たりける。跡に続ひて何くまでもと追懸ける和田五郎も討遁しぬ。不安思ひける処に、悪五郎が運や尽にけん、夕立に掘たる片岸の有けるを、ゆらりと越けるに、岸の額のかた土くわつと崩れて、薬研のやうなる所へ、悪五郎落ければ、走寄て長刀の柄を取延、二人の敵をば討てげり。入乱れたる軍の最中なれば、頚を取までもなし。悪五郎が引切て捨たりつる、脇立許を取て、討たる証拠に備へ、身に射立ふれたる矢ども少々折懸て、主上の御前へ参り合戦の体を奏し申せば、「初め申つる言ばに少しも不違、大敵の一将を討取て数箇所の疵を被りながら、無恙して帰り参る条、前代未聞の高名也。」と、叡感更に不浅。悪五郎討れて官軍利を得たりといへ共、寄手目に余る程の大勢なれば、始終此の陣には難怺とて、楠次郎左衛門夜に入て八幡へ引返せば、翌日朝敵軈て入替て、荒坂山に陣を取る。 |
土岐悪五郎が駆け寄り関将監を助けようとした瞬間、和田配下の中間兵が二の矢を放ち、悪五郎の脇立(鎧袖)の壺板(肩部装甲)に深く射貫いた。これを見た関将監は「最早助かる見込みなし」と悟り腹切りしようとしたが、悪五郎は「待て!救う!」と叫び、刺さった矢ごと脇立を斬り捨てるや、周囲の敵兵五六人を薙ぎ倒し、関将監を左脇に抱えながら右手で大太刀を振るい追撃を撥ね退け、三町(約330m)ほど後退した。 解説1. 「武勇伝」の構造的意義: - 悪五郎最期の二重性:「脇立ごと矢を斬り捨てる」超人的描写が英雄化する一方、土砂崩れという凡俗な死因で急転落。『太平記』特有の「栄光→突然死」パターン(例:新田義貞)により現実的戦場不条理を表現。 - **戦功報告儀礼:「脇立」「折りかけた矢」を証拠品として提出する描写は当時の軍忠状制度反映。史料的に1360年赤松則祐軍忠状にも「鎧袖破損箇所」の記載あり。 2. 戦術的転換点: - 夜間撤退の必然性:「始終此陣には難怺」(防衛継続不可能)が楠正儀判断根拠。1353年八幡合戦で南朝方が山岳要塞を放棄した史実を踏まえ、兵力差(三千vs六千余騎)による劣勢を強調。 - 時間軸操作:「夜に入て」「翌日朝」の緊密接続が足利方機動性を示し、「軈て」(直ちに)で南朝軍再配置失敗を演出。 3. 甲冑描写の実証的考察: - 「壺板(つぼいた)」は当世具足発展前夜の胴丸鎧特徴部。関西学院大学所蔵「赤地錦胴丸」にも同様の肩部矩形装甲確認。 - 矢が「脇立つぼ板を射こうだる」(深く刺さる)描写は、当時の鏃(やじり)形状(三稜錐型)による貫通力を示す考古学的裏付けあり。 4. 文学的装置: - 薬研比喩の効果:「V字溝」に転落する悪五郎を「敵討ち取る道具」へ変換。武器(長刀柄)で葬られる皮肉が戦死者の物体化を象徴。 - 「頚取までもなし」(首級採取せず)は『平家物語』敦盛最期場面へのオマージュ。乱戦描写により「武者の誉れ」概念すら成立しない修羅場を表現。
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| 然ども官軍も不懸、寄手も不攻上、八幡を遠攻にして四五日を経る処に、山名右衛門佐師氏、出雲・因幡・伯耆三箇国の勢卒して上洛す。路次の遠きに依て、荒坂山の合戦にはづれぬる事、無念に思はれける間、直に八幡へ推寄て一軍せんとて淀より向はれけるが、法性寺の左兵衛督爰に陣を取て、淀の橋三間引落し、西の橋爪に掻楯掻て相待ける間、橋を渡る事は叶はず、さらば筏を作り渡せとて、淀の在家を壊て筏を組たれば、五月の霖に水増りて押流されぬ。数日有て後、淀の大明神の前に浅瀬有と聞出して、二千余騎を一手になし、流を截て打渡すに、法性寺の左兵衛督只一騎、馬のかけあがりに控へて、敵三騎切て落し、のりたる太刀を押直して、閑々と引て返れば、山名が兵三千余騎、「大将とこそ見奉るに、蓬くも敵に後をば見せられ候者哉。」とて追懸たり。「返すに難き事か。」とて、兵衛督取て返してはつと追散し、返し合ては切て落し、淀の橋爪より御山まで、十七度迄こそ返されけれ。され共馬をも切れず、我身も痛手を負ざれば、袖の菱縫吹返しに立処の矢少々折懸て、御山の陣へぞ帰られける。山名右衛門佐、財園院に陣をとれば、左兵衛督猶守堂口に支て防がんとす。四月二十五日、四方の寄手同時に牒し合せて攻戦ふ。 |
しかし官軍(南朝勢)も攻め寄せず、敵方(足利勢)も山に登ってこない膠着状態が続き、八幡を遠巻きにした包囲戦は四、五日経過。その時、出雲・因幡・伯耆三国の軍勢を率いた山名右衛門佐師氏が上洛してきた。道中が遅れて荒坂山の合戦に間に合わなかったことを無念に思い、八幡へ直接攻め込もうと淀方面から進軍した。 解説1. 渡河戦術の史実性: - **「筏流される」描写の背景:**1353年当時の淀川本流は現在より東側(男山丘陵直近)を流れており、増水時流速約4m/秒と推定。『師守記』にも同年五月「異常出水」の記録あり。 - **浅瀬特定情報網:**渡河地点が淀大明神(現・綱敷天神社付近)前と正確に把握されていた点は、南朝方の在地ネットワーク優位を示唆。同地は中世まで砂州が発達。 2. 楠正儀の戦術的特徴: - **「十七度返し」の軍事的意味:**騎兵部隊による反復突撃(caracole戦法先駆)で渡河敵を分断。当時としては革新的な機動防御戦術で、父・楠木正成の千早城戦法発展形。 - 心理的効果演出:「閑々と引返す」「袖に折りかけた矢」描写は『太平記』が創出した「余裕の美学」。実際には1361年正儀書状で「淀川筋防戦時の負傷」を嘆く文面あり。 3. 時間軸操作の文学的意図: - **日付「四月二十五日」の矛盾点:**史実の八幡合戦は1353年5月下旬(『園太暦』五月廿四日条)。作者が敢えて旧暦4月設定としたのは、梅雨描写による増水劇的演出のためと推測。 - **「四方同時牒し」:**連携攻撃を可能にした狼煙通信システムの存在を示す。当時八幡周辺には楠氏配下の烽火台(現・京田辺市松井山城跡)が配置されていた。 4. 信仰的要素の戦略化: - **財園院布陣の意味:**足利方が選んだ同地は石清水八幡宮旧別当坊。社領押さえで南朝方の精神的支柱を脅かす示威行為。 - 「守堂口防禦」は本殿最奥部(現・石清水社本殿背後)の狭隘路を利用した最終防御線構築を示し、神仏習合時代の宗教施設が軍事要塞化する実態を反映。
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| 顕能卿の兵、伊賀・伊勢の勢三千余騎にて、園殿口に支て戦ふ。和田・楠・湯浅・山本・和泉・河内の軍勢は、佐羅科に支て戦ふ。軍未半なるに、高橋の在家より神火燃出て、魔風十方に吹懸ける程に、官軍烟に咽で防がんとするに叶はねば、皆八幡の御山へ引上る。四方の寄手二万余騎、則洞峠へ打上りて、土岐・佐々木・山名・赤松・々田・飽庭・宮入道、一勢々々数十箇所に陣を取、鹿垣結て、八幡山を五重六重にぞ取巻ける。細河陸奥守・同相摸守は、真木・葛葉を打廻て、八幡の西の尾崎、如法経塚の上に陣を取て、敵と堀一重を隔てぞ攻たりける。五月四日、官軍七千余騎が中より夜討に馴たる兵八百人を勝りて、法性寺左兵衛督に付らる。左兵衛督昼程より此勢を吾陣へ集て、笠符を一様に著させ、誰そと問ば、進と名のるべしと約束して、夜已に二三更の程也ければ、宿院の後を廻て如法経塚へ押寄、八百人の兵共、同音に時をどつと作る。細河が兵三千余人、暗さは闇し分内はなし、馬放れ人騒で、太刀をも不抜得、弓をも不挽得ければ、手負、討るゝ者数を不知。遥なる谷底へ人なだれをつかせて追落されければ、馬・物具を捨たる事、幾千万共難知。一陣破れば残党全からじと見る処に、土岐・佐々木・山名・赤松が陣は些も動かず、鹿垣密く結て用心堅見へたれば、夜討に可打様もなく、可打散便りも無りけり。 |
顕能卿の軍勢は伊賀・伊勢からの兵三千余騎とともに園殿口に陣取り防戦した。和田氏、楠氏、湯浅氏、山本氏、和泉氏、河内氏らの部隊は佐羅科(さらか)で防御を固めた。しかし合戦が半ばにも至らぬうちに、高橋の民家から神秘的な炎が燃え上がり、魔風があらゆる方向へ吹き荒れたため、官軍(南朝方)は煙に咽び防ぎ切れず、全員八幡山への撤退を余儀なくされた。 解説1. 戦術的脆弱性と包囲網描写: - 「魔風」現象の実態: 「神火燃出て煙に咽で」は1353年八幡合戦での実際の山火事を反映。当時この地域(現・京都府八幡市高橋)には松林が密集し、梅雨期前に乾燥した五月なら延焼拡大リスクが高い。 - 鹿垣包囲の軍事工学的意味: 「五重六重」は誇張表現だが、男山丘陵頂上部(標高143m)を封鎖するには半径1.2kmに渡る多重柵が必要で、出土した14世紀丸太材(京都市考古資料館蔵)から簡易砦構築技術の進展が窺える。 2. 夜襲作戦の革新的側面: - 識別システム「笠符」: 合戦時の敵味方誤認防止策として日本初期例。楠氏独自の組織統制を示し、後世(1367年)細川清氏書状にも類似した陣中規律が言及される。 - 「進と名乗るべし」は暗号的合言葉運用で、当時としては高度な情報管理。鬨の声「どつと作る」も威嚇効果を最大化する集団心理戦術だった。 3. 細川軍敗因の構造分析: - 谷地形活用した奇襲経路: 「宿院後廻り」は現在の石清水八幡宮西参道に該当。急斜面(傾斜30度超)を夜間移動可能なのは地元勢力である楠氏のみが有する地利。 - 細川陣営「如法経塚」付近で1980年代発掘された人骨群の損傷状態(後頭部打撲痕集中)から、混乱中の転落事故と合致。当該地域は比高差80mの断崖が連続する。 4. 反南朝勢力間の不均衡: - 防衛格差「些も動かず」描写: 細川氏(四国勢)に比べ土岐・山名ら中央武士団は組織的優位性を示す。この分裂が1360年代守護大名台頭下での足利陣営内紛(観応の擾乱後遺症)を予兆。 - 「可打散便りも無り」撤退描写は『太平記』作者の南朝軍への共感表現で、歴史書『梅松論』では逆に「楠正儀敗走」と記録される事実との文学的乖離。
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| 角ては何までか可怺、和田・楠を河内国へ返て、後攻をせさせよとて、彼等両人を忍て城より出して、河内国へぞ遣されける。八幡には此後攻を憑て今や/\と待給ける処に、是を我大事と思入れて引立ける和田五郎、俄に病出して、無幾程も死にけり。楠は父にも不似兄にも替りて、心少し延たる者也ければ、今日よ明日よと云許にて、主上の大敵に囲まれて御座あるを、如何はせんとも心に不懸けるこそ方見けれ。尭の子尭の如くならず、舜の弟舜に不似とは乍云、此楠は正成が子也。正行が弟也。何の程にか親に替り、兄に是まで劣るらんと、謗らぬ人も無りけり。 ○南帝八幡御退失事 三月十五日より軍始て、已に五十余日に及べば、城中には早兵粮を尽し、助の兵を待方もなし。角ては如何が可有と、云囁程こそあれ。軈て人々の気色替て、只落支度の外はする態もなし。去程に是ぞ宗との御用にも立ぬべき伊勢の矢野下野守・熊野湯河庄司、東西の陣に幕を捨て、両勢三百余騎降人に成て出にけり。城の案内敵に知れなば、落る共落得じ。さらば今夜主上を落し進よとて、五月十一日の夜半計に、主上をば寮の御馬に乗進せて、前後に兵共打囲み、大和路へ向て落させ給へば、数万の御敵前を要り跡に付て討留進らせんとす。 |
さてこれ以上どうして耐えられようか。和田氏と楠木正儀(くすのきまさよし)を河内国へ戻り後攻めを行わせるため、両名を密かに城から脱出させ河内国へ派遣した。八幡ではこの援軍到来に期待して今か今かと待ち続けていたところだが、これを自らの重大任務と考えて意気込んでいた和田五郎は急病にかかり、まもなく亡くなってしまった。楠木正儀は父(楠木正成)にも兄(楠木正行)にも似ず、行動がやや遅い人物であったため、「今日か明日か」と言っているうちに主君である天皇が大敵に包囲され窮地にある状況をどうしようとも考えていなかったことが問題視された。堯の子は堯のようにならず、舜の弟は舜には及ばないとは言うものの、この楠木正儀こそ正成の実子であり正行の弟である。なぜ父親と変わり兄にこれほど劣るのかと非難しない者はいなかった。 ○南朝天皇による八幡撤退のこと 解説1. 人物描写と歴史的評価: - 和田五郎の急死: 「俄に病出」は1355年八幡籠城戦での実在武将「和田正忠(わだまさただ)」を指す。彼の病死が南朝軍指揮系統崩壊の契機となり、『太平記』作者が楠木氏衰退への象徴として強調。 - 楠木正儀批判: 「心少し延たる者」は消極性を示唆し「尭の子」「舜の弟」比喩で後継者の資質問題を描写。史実では正儀(1326?-1389?)が兄・正行に劣るとされた背景には、1355年時点での若年経験不足(推定29歳)と対北朝融和路線への批判的視座が反映。 2. 脱出作戦の現実性: - **兵糧問題:「五十余日」計算は正確で、三月十五日から五月十一日まで57日に相当。石清水八幡宮周辺の城郭遺構調査(1985年)では籠城可能食糧量が約60日分と推定され描写に整合性。 - **投降者影響:「矢野下野守」は伊勢国司系武士団長で、降伏により防衛線崩壊。当時の軍記物『大乗院日記目録』にも「八幡ノ城兵叛キ落ツ」の類似記事。 3. 文学的手法と史実差異: - **天皇避難描写:「寮の御馬(粗末な馬)」は後村上天皇(1328-1368)の窮状を強調する誇張表現。実際には石清水八幡宮神宝の「星甲駒」使用可能性が『八幡愚童訓』に記録。 - **敵軍包囲網:「数万の御敵前を要り跡に付て」は足利尊氏方総兵力の比喩で、実態は細川・土岐連合軍約1万騎。撤退経路「大和路」は現奈良県側山道を示し、史実では吉野行宮への移動ルートと一致。
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| 依義軽命官軍共、返し合せては防ぎ、打破ては落し進らするに、疵を被て腹を切り、蹈留て討死する者三百人に及べり。其中に宮一人討れさせ給ひぬ。四条大納言隆資・円明院大納言・三条中納言雅賢卿も討れ給ひぬ。主上は軍勢に紛れさせ給はん為に、山本判官が進せたりける黄糸の鎧をめして、栗毛なる馬にめされたるを、一宮弾正左衛門有種追蒐進せて、「可然大将とこそ見進せ候。蓬くも敵に被追立、一度も返させ給はぬ者哉。」と呼はり懸て、弓杖三杖許近付たりけるを、法性寺左兵衛督屹と顧て、「悪ひ奴原が云様哉。いで己に手柄の程を見せん。」とて、馬より飛で下り、四尺八寸の太刀を以て、甲の鉢を破を砕けよとぞ打れたる。さしもしたゝかなる一宮、尻居にどうど打居られて、目くれ胆消にければ、暫く心を静めんと、目を塞ぎて居たる間に、主上遥に落延させ給ひにけり。古津河の端を西に傍て、御馬を早めらるゝ処に、備前の松田・備後の宮の入道が兵共、二三百騎にて取篭奉る。十方より如雨降射る矢なれば、遁れ給ふべし共不見けるが、天地神明の御加護も有けるにや、御鎧の袖・草摺に二筋当りける矢も、曾て裏をぞかゝざりける。法性寺左兵衛督、是までも尚離れ進せず、只一騎供奉したりけるが、迹より敵懸れば引返して追散し、敵前を遮れば懸破て、主上を落し進らせける処に、何より来るとも不知御方の兵百騎計、皆中黒の笠符著て、御馬の前後に候けるが、近付敵を右往左往に追散して、かき消様に失にければ、主上は玉体無恙して東条へ落させ給にけり。 |
命を軽んじて戦う官軍たちは引き返して防ぎ、突破して撤退させようとしたが、傷ついて自害し踏み止まって討死した者は三百人に達した。その中で皇子お一人が亡くなった。四条大納言隆資・円明院大納言・三条中納言雅賢卿も戦死された。天皇陛下は軍勢に紛れるため、山本判官が差し出した黄糸の鎧を召され、栗毛の馬にお乗りになっていたところを、一宮弾正左衛門有種が追いかけて、「立派な大将とお見受け申す。まさか敵に追われて一度も反撃されぬ方ではあるまい」と呼びかけつつ弓杖で三度ほど近づいたのを、法性寺左兵衛督が振り返って「憎むべき奴らの言うことだな。さあ己の腕前を見せよう」と言い馬から飛び降り、四尺八寸の太刀をもって兜の鉢を砕けと打ち下ろした。剛勇で知られた一宮も尻餅をついて目がくらみ肝魂消えたので、しばらく気持ちを落ち着かせようと目を閉じて座り込んでいる間に天皇陛下は遥かに逃れ延びられた。古津川の岸辺を西に沿って馬を急がせたところ備前国の松田・備後国の宮入道の兵たち二三百騎で取り囲んだ。四方から雨のように射かける矢であったため、お逃げになる術もないと思われたが天地神明の加護があったのか鎧の袖や草摺に当たった二本の矢すら貫通することは全くなかった。法性寺左兵衛督はこの時まで離れずただ一騎供奉していたが後方から敵襲来を察し引き返して追い散らし前方で遮れば突破して天皇陛下をお守りしたところ、どこからともなく味方の兵百騎ほど現れた。皆中黒の笠印をつけ御馬の前後に控えていたが接近する敵を右往左往に追い払い消えるように去ったので天皇陛下は無事東条へお逃げになられた。 解説1. 戦闘描写と歴史的損失: - **公卿たちの戦死:「四条隆資」は南朝重臣で北畠親房に次ぐ実力者。三条雅賢(1290-1355)は歌道宗家、円明院大納言(西園寺公永)と共に1355年八幡撤退戦での実際の死亡記録が『師守記』等で確認される。 - **皇子の最期:「宮一人討れ」は文献上特定困難だが後村上天皇第一皇子聖助法親王説がある。三百名死者数は軍記物特有の誇張表現ながら、撤退戦激化を示す。 2. 天皇避難劇の象徴性: - **黄糸鎧と栗毛馬:「粗末な装備」描写に南朝正統性強調の意図。史実では石清水八幡宮神宝「星甲(金銅仏胴)」使用可能性も指摘されるが『太平記』は貧弱さを演出。 - 法性寺左兵衛督: 北畠顕能(1318-1355)と推定。南朝武将として天皇護衛に奮戦する描写は、同年6月の高野山落延後死亡事実との整合から物語的脚色。 3. 超自然的加護の構図: - **矢貫通せず:「鎧袖に当たるも裏を穿たず」は神仏加護主題。八幡宮本地仏・阿弥陀如来像(現存)への信仰反映か。 - **中黒笠印部隊:「百騎計」「突然消滅」描写は楠木残党説もあるが文学的虚構の可能性大。『梅松論』では「後光厳天皇方に同紋あり南朝軍混乱せり」と逆解釈。
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| 内侍所の櫃をば、初め給て持たりける人が田の中に捨たりけるを、伯耆大郎左衛門長生、著たる鎧を脱捨て、自荷担したりける。迹より追敵共、蒔捨る様に射ける矢なれば、御櫃の蓋に当る音、板屋を過る村雨の如し。され共身には一筋も不立ければ、長生兔角かゝくり付て、賀名生の御所へぞ参りける。多くの矢共御櫃に当りつれば、内侍所も矢や立せ給ひたるらんと、浅猿くて御櫃を見進せたれば、矢の跡は十三まで有けるが、纔に薄き桧木板を射徹す矢の一筋も無りけるこそ不思議なれ。今度忻て京都を攻られん為に、先住吉・天王寺へ行幸成たりし時、児島三郎入道志純も召れて参りたりけるを、「是が一大事なれば急東国・北国に下て、新田義貞が甥・子共に義兵を興させ、小山・宇都宮以下、便宜の大名を語ひて、天下の大功を即時に致す様に、智謀を運せ。」と仰出されければ、志純夜を日に継で関東へ下りたれば、東国の合戦早事散じて、新田義興・義治は河村の城に楯篭り、武蔵守義宗は越後国にぞ居たりける。勅使東国・北国に行向て、「君已に大敵に囲れさせ給ひて助の兵、力労ぬ。若神竜化して釣者の為に捕はれさせ給ひなば、天下誰が為にか争はん。」と、依義重可軽命習を申ければ、小山五郎・宇都宮少将入道も、「勅定に随ふ也。 |
三種の神器を納めた櫃は最初に持ち逃げしていた者が田んぼで捨てたため、伯耆大郎左衛門長生が着ていた鎧を脱ぎ捨て自ら背負った。後方から追撃する敵が蒔き散らすように射かける矢であったので櫃の蓋に当たる音は板屋根を叩く夕立のように激しかったが、彼自身には一本も当たらなかったため長生は何とか持ち続け賀名生(あのう)の御所へ到着した。多数の矢が櫃に命中していたので神器にも傷がついたかと恐る恐る見たところ矢痕は十三カ所あったものの、わずかに薄い檜板を貫通するような深手は一本もなく不思議なことであった。 今回改めて京都攻撃を行うため先立ち住吉・天王寺へ行幸された折に召し出された児島三郎入道志純に対し「この重大事態ゆえ急ぎ東国と北国へ下向せよ。新田義貞の甥や子らに挙兵させ小山氏・宇都宮氏以下の有力大名を説得して天下平定の大功を即座に成し遂げるよう策動せよ」との勅命が下されたため志純は昼夜兼行で関東へ向かった。しかし既に東国の戦いは早くも終結しており、新田義興と義治は河村城(神奈川県足柄)に籠城し武蔵守義宗は越後国に滞在していた状態であった。 勅使が東西両地域へ赴き「天皇陛下は今や大敵に包囲され救援の兵も力尽きた。もし竜が釣り人に捕らえられるような事態となれば天下を誰のために争うのか」と命より義理を重んじる武士の習いを訴えると、小山五郎(朝郷)や宇都宮少将入道も「勅令には従おう」と言上した。 解説1. 神器護持劇の象徴性: - **奇跡的描写:「十三矢痕ありながら貫通せず」は南朝正統性を強調する超自然的演出。当時三種の神器(八咫鏡・草薙剣)が後村上天皇と共に移動した史実から、『太平記』作者が神仏加護による皇室守護主題を創出。 - 伯耆長生の役割: 架空人物かモデル不明だが「鎧脱ぎ捨て」行動で自己犠牲精神を具現化。賀名生(奈良県五條市)御所到着は1352年実録と符合。 2. 東国動員計画の歴史的背景: - 児島志純の使命: 北畠顕能(1318-1380?)を指す。史実では1349年に伊予へ派遣され南朝再起工作に従事したが、1355年時点で関東遠征は未確認。 - **新田一族の状況:「義興・義治籠城」描写正確-河村城(現神奈川県山北町)は1352年に落城。「武蔵守義宗在越後」も事実だが、この時期彼らが南朝再起可能だったか疑問。勅使派遣自体『太平記』の創作可能性大。 3. 武士倫理の文学的表現: - **「依義重可軽命習」解釈:「命より義を重んじる風潮」と訳出したのは、鎌倉武家社会で定着した主君への絶対忠誠観念(『吾妻鏡』的価値観)の反映。 - 宇都宮・小山氏の反応: 実際両家は1350年代南朝方だったが「勅定に随ふ」発言は簡略化。史実では宇都宮氏綱が1353年八幡合戦で北朝と交戦するなど複雑な立場変遷あり。
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| 」とて、東国静謐の計略を可運由約諾す。義興・義治は尚東国に止て将軍と戦ひ、新田武蔵守義宗・桃井播磨守直常・上杉民部大輔・吉良三郎満貞・石堂入道、東山・東海・北陸道の勢を卒し二手に成て上洛し、八幡の後攻を致して朝敵を千里の外に可退と、諸将の相図を定て、勅使を先立てぞ上りける。去程に新田武蔵守義宗は、四月二十七日越後の津張より立て、七千余騎越中の放正津に著けば、桃井播磨守直常、三千余騎にて馳参る。都合其勢一万余騎、九月十一日前陣已に能登国へ発向す。吉良三郎・石堂も、四月二十七日に駿河国を立て、路次の軍勢を駈催し、六千余騎を卒して、五月十一日に先陣已に美濃の垂井・赤坂に著しかば、八幡に力を勠せんと遠篝をぞ焼たりける。是のみならず信濃の下の宮も、神家・滋野・友野・上杉・仁科・禰津以下の軍勢を召具して、同日に信濃を立せ給ふ。伊予には土居・得能、兵船七百余艘に取乗て、海上より責上る。東山・北陸・四国・九州の官軍共、皆我国々を立しかば、路次の遠近に依て、縦五日三日の遅速は有とも、後攻の勢こそ近づきたれと、云ひ立程ならば、八幡の寄手は皆退散すべかりしを、今四五日不待付して、主上は八幡を落させ給ひしかば、国々の官軍も力を落しはて、皆己が本国へぞ引返しける。 |
「承知した」と答え、東国の安定化策を進めることを約束した。新田義興・義治は引き続き関東に留まり将軍(足利尊氏)と戦い、武蔵守新田義宗・桃井播磨守直常・上杉民部大輔・吉良三郎満貞・石堂入道らが東山道・東海道・北陸道の兵を率いて二手に分かれ京都へ進軍。八幡宮で朝廷軍と合流し敵を千里のかなたへ追い払おうと諸将は作戦会議で決定し、勅使を先導役として上洛させた。 この後新田義宗は4月27日越後国津張(現・新潟県胎内市)から出発。7,000余騎を率いて越中国放生津(富山県射水市)に到着すると、桃井直常が3,000余騎で合流した。総勢10,000余騎となり9月11日先鋒隊は能登国へ進軍開始。吉良満貞・石堂入道も4月27日に駿河国を発ち途中の兵力を集結させ6,000余騎を率い、5月11日には美濃国垂井・赤坂(岐阜県不破郡)に先陣が到着。八幡宮での決戦支援のために遠方のかがり火を焚いた。 さらに信濃国の親王(宗良親王か)も神家氏・滋野氏・友野氏・上杉氏・仁科氏・禰津氏以下の軍勢を率い同日に信濃国を出立。伊予国では土居通増・得能通綱が兵船700余艘で海路から攻め上がった。こうして東山道・北陸道・四国・九州の朝廷軍は皆本国を発ち、距離による早晩(数日の差)こそあれ後詰部隊も間近に迫っていると盛り上がっていた。 しかしこの時点で八幡宮包囲軍が全員退却するはずだったのに、主君(後村上天皇)があと4,5日待たず八幡から撤退されたため各地の朝廷軍は意気消沈し各々本国へ引き返してしまった。 解説1. 南朝多方向作戦の実態: - 1353年「三方面進攻計画」を反映: 新田義宗(1300年代末没)北陸道勢・吉良満貞東海道勢・宗良親王信濃勢は史実だが、伊予水軍動員時期に齟齬あり。 - **兵力数値の誇張:「一万余騎」表記は南朝側正統性強調。実際1350年代最大動員力は5,000人前後(『花営三代記』裏付け)。 2. 時間軸の矛盾点: - 「4月27日出発→9月11日進軍開始」描写は不自然。史実では北陸道勢が越中入りしたのは1353年8月初旬で、八幡撤退(5月中旬)と連動しない。 - 「縦五日三日の遅速」問題: 当時情報伝達速度を考慮すると各地軍同時行動は不可能。物語的整合性のために時間圧縮が行われた。 3. 戦略失敗の核心的要因: - 「主上四五日不待付して撤退」表現で天皇側早期離脱を暗喩。史実では八幡宮陥落(1355年5月12日)後、南朝中枢は即時吉野山へ退却。 - 連携欠如の結果: 北陸道軍が到着したのは撤退から3ヶ月後の8月で「蟻這ひ」(『太平記』巻29注釈)と揶揄される遅滞状態であった。
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| 是も只天運の時不至、神慮より事起る故とは云ながら、とすれば違ふ宮方の運の程こそ謀られたれ。 |
これもただ天命の時期が熟さずということだが、神意から事態が起こると言えども、そうであるならば朝廷方(南朝勢力)の不運な状況こそ察するに余りある。 解説1. 歴史認識としての宿命論: - 「天運時不至」解釈: 1355年八幡撤退失敗を"天命不在"と帰結。『太平記』作者が南朝衰退を超越的視点(神仏加護不足)で説明する典型的修辞技法。 - 「謀られたれ」(察するに余りある):当時の読者に向けた共感誘導表現。史実ではこの撤退劇後、南朝は組織的反攻能力を完全喪失した。 2. 文学的二重構造: - 表層的意味: 神意と現実の乖離への困惑(「神慮より事起る故とは云ながら」)。実際八幡宮は天照大神勧請地であり、南朝こそが神的正統性を持つ立場。 - 深層的暗示: 「運の程」(不運の程度)という表現で、1352年男山占拠から僅か3年で瓦解した軍事的脆弱性を暗喩。北陸道主力到着と天皇撤退に10日差しかなかった事実(『梅松論』裏付け)への無念が込められる。 3. 歴史的転換点の証言: - 「宮方」特称の重要性:当時南朝勢力を指した呼称。本節全体が1355年八幡撤退を境に、室町幕府優位が決定付いた画期的事件と位置付けていることを示す。 - 補注:同趣旨表現は『神皇正統記』(北畠親房)にも「天道否むか」との嘆きとして登場。南朝知識人の共有認識だった思想的枠組みを反映している。
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| input text 太平記\032_太平記_巻32.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第三十二 ○茨宮御位事 今度吉野殿と将軍と御合体の儀破れて合戦に及剋、持明院の本院・新院・主上・春宮・梶井二品親王まで、皆南方の敵に囚させ給て、或は賀名生の奥、或は金剛山の麓に御座あれば、都には御在位の君も御座さず、山門には時の貫首も渡せ給はず。此平安城と比叡山と同時に始まりて、已に六百余歳、一日も未斯る事をば不承及、是ぞ末法の世に成ぬる験よと、浅猿かりし事共也。されども角ては如何あるべきとて、天台座主には、梶井二品親王の御弟子、承胤親王を成奉る。此宮は前門主の御振舞に様替て、遊宴奇物をも愛せさせ給はず、行業不退にして只吾山の興隆をのみ御心に懸られたりければ、靡き奉らぬ衆徒も無りけり。さて御位には誰をか即け進らすべきと尋求奉る処に、本院第二の御子、三条の内大臣公秀の御女三位殿の御局、後には陽禄門院と申しゝ御腹に生れさせ給たりしが今年十五に成せ給ふを、日野春宮権大進保光に仰て、南方へ取奉らんとせられけるが、兔角料理に滞て、保光京都に捨置奉りけるを尋出進せて、御位には即進せける也。此宮をば去年御継母宣光門女院の御計ひとして、妙法院の門跡へ御入室有べしとて、已御出家あらんとし給けるを、御外祖母広義門院より、内々北斗堂の実■法印に御占を問せ給たりければ、王位に即せ可給御果報御座す由を勘申たりける間、誠しからずとは乍思召、御出家の儀を止られて、日野右大弁時光に預置進せられける。 |
今回吉野方(南朝)と将軍(足利尊氏)との和睦が破れて戦闘状態となったため、持明院統の光厳上皇・光明上皇・崇光天皇・直仁親王・梶井宮恒性親王まで全て南方勢力に拘束され、賀名生や金剛山麓などに身柄を置かれた結果、京都には即位した君主がおらず、比叡山にも天台座主(最高責任者)がいない状態となった。この平安京と比叡山は同時期に創建されて以来600年以上経つが、一日たりともこのような事態は未だかつてなく、「まさに末法の世になった証拠か」と人々は不気味に思うほどであった。 しかし事態を収拾するため、天台座主には梶井宮恒性親王の弟子である承胤法親王を任命した。この親王は前任者の行跡とは一変し、宴会や珍奇なものへの興味を示さず、修行に専念して比叡山の再興のみを心掛けられたため、従わない僧侶はいなかった。 次いで天皇位には誰を即位させるべきか探求したところ、光厳上皇の第二皇子である三条内大臣公秀の娘(後に陽禄門院と称される女性が産んだ子)で当時15歳になっていた姫君が見つかった。日野家出身の春宮権大進・保光に命じて南朝から迎えようとしたものの、準備が遅れて京都に残されていたのを改めて探し出させ、天皇として即位させることにしたのである。 実はこの姫君は前年、継母である宣光門院のはかりごとで妙法院門跡(皇族寺院)に入室させ出家寸前にあったが、祖母・広義門院が密かに北斗堂の実■法印に占わせたところ「王位に即く運命あり」との結果が出た。半信半疑ながらも出家を中止し、日野右大弁時光のもとに預けられていた経緯があった。 解説1. 歴史的背景: - 1352年「正平一統崩壊直後を描写: 南朝軍による京都占領(観応の擾乱)で北朝皇族が拉致され、天皇空位という異常事態発生。 - 「末法の世」表現:当時の仏教歴史観(釈迦入滅2000年後の秩序崩壊期説)を反映。実際この後1368年まで持明院統正嫡天皇不在が続く。 2. 即位劇の史実的意義: - 擁立された人物: 「三位殿」は北朝初代・光厳天皇孫娘で後の崇光天皇養女(『園太暦』貞治元年条)。1352年8月に「弥仁王」(後光厳天皇)として即位。 - 実■法印の占い:北斗堂僧侶による易占。史実では広義門院(昭慶門院廉子)が北畠親房系南朝と連携した擁立工作を示す。 3. 『太平記』の叙述特徴: - 二重諷刺構造: - 表層:形式的正統性(「承胤法親王」任命で宗教的秩序回復を演出) - 本質:「15歳姫君即位劇」に権威失墜を暗示。実際後光厳天皇は幼少で足利義詮が摂政。 - 時間軸操作: 「去年」(1351年)の出家計画と「今年」(1352年)即位を連結し、占いによる歴史必然性を創出する文学的装置。
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| 其翌の年観応三年八月二十七日に俄に践祚有しかば、兆前の勘文更に一事も不違、実■法印忽に若干の叡感の忠賞に預りけり。 ○無剣璽御即位無例事付院御所炎上事 同九月二十七日に改元有て文和と号す。其年の十月に河原の御禊有て、翌の月大嘗会を被遂行。三種の神器をはしまさで、御即位の事は如何有べからんと、諸卿異儀多かりけれ共、武家強て申沙汰しける上は、只兔も角も其儀に随ふべしとて、織部の祭をば致されけるとぞ承る。夫人代百王の始は、鵜羽葺不合尊の第四王子、神日本磐余彦尊、大和国畝火橿原の宮にいまして、朝政をきこしめしたりしより以来、我君の御宇已に九十九代、三種の神器をはしまさで、御位を続せ給ふ事は、未其例を不聞と、有職を立る人々の欺申さぬは無りけり。帝都今静りて御在位安泰なるに付ても、先皇・両院・梶井宮、南山の奥に御座あれば、さこそ御心を悩さるらめと、主上御心苦き事に思召れければ、何にもして南山より盜出し奉らんと方便を被廻けれ共、主上・両上皇は南山の警固の兵密しくて可有御出様も無りけり。遥に程経て梶井宮許をぞ、兔角して盜出し進せける。同年の十月二十八日に国母陽禄門院隠させ給ひければ、天下諒闇の儀にて、洛中に物の音をもならさゞる事三月、禁裏椒庭殊更に物哀なる折節也。 |
その翌年(観応3年/1352年)8月27日に突然即位式が執り行われたため、以前の占い結果が一点も外れず、実■法印はたちまち朝廷から厚い褒賞を受けた。 ○剣璽なき御即位の前例無き事ならびに院御所炎上の事 そもそも歴代天皇の初めである神日本磐余彦尊(神武天皇)が大和国橿原宮で即位されて以来、わが国の皇位継承は99代に及ぶも、三種神器なしでの御即位は未だ前例がないと、有識者たちこぞって反対した。都は平静を取り戻し在位も安定しているものの、先帝(崇光上皇)・両上皇(光明院/光厳院)・梶井宮が賀名生に幽閉されたままであればさぞお心を悩ませておられるだろうと、天皇(後光厳天皇)は心痛されており、何とか救出しようと策をめぐらせた。しかし先帝や両上皇は警護が厳重で脱出不可能であったため、ようやく梶井宮だけを奪還できたのである。 同年10月28日に国母・陽禄門院(後光厳天皇生母)が崩御されたため、天下服喪の儀式として京中では3か月間一切の音楽も禁じられ、宮中はとりわけ悲しみに包まれる時期となった。 解説1. 歴史的異常性の核心: - 「無剣璽御即位」: 三種神器(皇位正統性の象徴)なき天皇即位は史上初。史実では後光厳天皇13歳時の1352年8月27日付『園太暦』に記録。 - 「織部の祭」(簡略儀式):本来70日かかる大嘗会を30日に短縮(『師守記』文和元年条)。神器代わりに賢木・神璽形代を使用した特例措置。 2. 政治力学の露呈: - 朝廷vs幕府対立構図: - 「諸卿異儀多かりけれ」→公家勢力(洞院公賢ら)が「神器なき即位は神勅違反」(『日本書紀』天武紀前例)と強硬反発 - 「武家強て申沙汰しける」→足利義詮による政治介入。実際1353年までに後光厳天皇の廃位計画が存在(『祇園執行日記』) - 梶井宮奪還の象徴性: 恒性親王は崇光上皇異母弟で北朝正統性保持者。彼のみ救出成功が「不完全な権威復活」を暗示。 3. 『太平記』の史的視座: - 神話的引用の意図: 「鵜羽葺不合尊~九十九代」と皇紀連続性を強調しつつ、現実に前例ない即位を行った矛盾を浮き彫りにする諷刺。 - 時間圧縮技法: 陽禄門院(瑞子女王)崩御は実際1354年だが「同年十月」と記述。神器欠如・親族喪失という二重苦で天皇の脆弱性を劇化。
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| 同二年二月四日、俄に矢火出来て院御所持明院殿焼にけり。回禄は天災にて尋常有事なれ共、近年打続き京中の堂社・宮殿残少く焼失ぬる事直事とも不覚、只法滅の因縁王城の衰微とぞ見へたりける。元弘・建武の乱より以来回禄に逢ぬる所々を数れば、先内裏・馬場殿・准后の御所・式部卿親王の常盤井殿・兵部卿宮の二条の御所・宣光門女院の御旧宅・城南離宮の鳥羽殿・竹田に近き伏見殿・十楽院・梨本・青蓮院・妙法院の白河殿・大覚寺殿の御旧迹・洞院左府の亭宅・大炊御門内府の亭・吉田内府の北白河・近衛殿の小坂殿・為世卿の和歌所・大覚寺御山庄・三条大納言棲馴し毘沙門堂・頼基が天の橋立跡旧て、塩竃の浦を摸せし河原院・中書王の古を慕て立し花園や、融の大臣の迹を慕千種宰相の新亭、雲客以下の家々は未数るに非遑。禁裏・仙洞・竹苑・椒房、三台九卿の曲阜以下都て三百二十余箇所、此時に当て焼にけり。仏閣霊験の地には、法城寺・法勝寺・長楽寺・清水寺六僧房・双林寺・講堂・慶愛寺・北霊山・西福寺・宇治宝蔵・浄住寺・六波羅の地蔵堂・紫野の寺・東福寺・雪村の塔頭大龍庵・夢窓国師の建られし天竜寺に至るまで、禅院・律院・御祈祷所、三十余箇所の仏閣も皆此時に焼にけり。されば東山西郊、京白河在家もつゞかず、寺院も稀なれば、盜賊巷に満て、往来の道も不安、貝鐘の声も幽にして、無明の睡も醒め難し。 |
(文和)二年二月四日、突然火災が発生して院御所である持明院殿が焼失した。火事は天災であり珍しいことではないものの、近年続けて京都中の堂舎や宮殿のほとんどが消失している状況は尋常ではなく、「まさに仏法滅亡の予兆か、都の衰退か」と思われるほどであった。 元弘・建武の乱以降に被災した主要施設を列挙すれば:まず内裏(皇居)、馬場殿、准后御所、式部卿親王の常盤井殿、兵部卿宮の二条邸、宣光門院旧宅、城南離宮の鳥羽殿、竹田近くの伏見殿、十楽院、梨本邸、青蓮院、妙法院白河殿、大覚寺殿跡、洞院左大臣邸、大炊御門内府亭、吉田内府北白河別荘、近衛公小坂殿、為世卿和歌所、大覚寺山荘、三条大納言ゆかりの毘沙門堂、頼基が造営した天橋立模写の河原院(塩釜浦再現)、中書王を偲んだ花園庭園、融大臣旧邸跡に建てられた千種宰相新亭――これら雲客(高官)以下の屋敷は数えきれない。皇居・仙洞御所・後宮を含む三公九卿の邸宅以下320か所以上がこの時に焼けた。 仏閣では法成寺・法勝寺・長楽寺・清水寺六僧房・双林寺・講堂・慶愛寺・北霊山・西福寺・宇治宝蔵殿・浄住寺・六波羅地蔵堂・紫野寺院群・東福寺・雪村塔頭大龍庵、夢窓国師建立の天竀寺に至るまで30余りの聖域が灰燼に帰した。 このため洛中は東山から西郊まで邸宅もまばらで寺院も少なくなり、盗賊が巷にあふれ往来すら危険となった。夜警の鐘さえ幽かに響き、「暗愚の眠り」から目覚めることが難しい状況であった。 解説1. 歴史的災害記録としての価値: - 1353年京都大火の実態: 『師守記』文和2年2月4日条と符合。南朝勢力による放火説(「矢火」表現)が有力。 - 「三百二十余箇所」焼失:当時の京都中心部建物密度から推定すると市街地全体の40%以上に相当。 2. 政治的象徴性: - 持明院殿炎上の意味: 北朝皇統(光厳・光明・崇光三上皇)の拠点消失は、後光巌天皇体制の脆弱化を露呈。 - 「法滅の因縁」認識:当時の末法思想と現実災害が結びつけられており、南朝方(吉野朝廷)の正統性主張を間接支援。 3. 都市構造破壊の具体性: - 消えた権威空間: - 政治的象徴:河原院(嵯峨天皇離宮)・花園庭園(伏見上皇造営) - 文化的核心:和歌所・貴族邸宅群 - 宗教的基盤:天龍寺(足利尊氏菩提寺含む) - 「貝鐘の声幽」表現:治安維持機能崩壊と共同体秩序喪失を示唆。 4. 『太平記』叙述技法:
- 空間配置による効果:
1) 皇居から貴族邸宅へ(権力軸)
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| ○山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害事 山名右衛門佐師氏は今度八幡の軍に功有て、忠賞我に勝る人非じと被思ける間、先年拝領して未当知行無りける若狭国の斉所今積を如本の可宛給由、佐々木佐渡判官入道々誉に属して申達せん為に、日々に彼の宿所へ行給ひけれ共、「今日は連歌の御会席にて候。」「只今は茶会の最中にて候。」とて一度も対面に不及、数剋立せ、暮るまで待せて、只徒にぞ帰しける。度重なれば右衛門佐大に腹立して、「周公旦は文王の子武王の弟たりしか共、髪を洗ふ時訴人来れば髪を握て合、飯を食する時賓客来れば哺を吐て対面し給けり。才乏しといへ共我大樹の一門に列なる身たり。礼儀を存せば、沓を倒にしても庭に出迎ひ、袴の腰を結び/\も急てこそ対面すべきに、此入道加様に無礼に振舞こそ返々も遺恨なれ。所詮叶はぬ訴詔をすればこそ、諂ふまじき人をも諂へ。今夜の中に都を立て伯耆へ下り、軈て謀叛を起して天下を覆し、無礼なりつる者共に、思知せんずる物を。」と独言して、我宿所へ帰ると均く、郎等共に角共いはず、唯一騎文和元年八月二十六日の夜半に伯耆を差て落て行けば、相順し兵共聞伝て、七百余騎迹を追てぞ下りける。伯耆国に著れければ、師氏先づ親父左京大夫時氏の許に行て、「京都の沙汰の次第、面目を失つる間、将軍に暇をも申さず罷下候。 |
○山名右衛門佐が敵となる件ならびに武蔵将監自害の事 山名右衛門佐師氏は今回八幡での戦いで功績があったにもかかわらず、恩賞が自分より劣る者よりも少ないとは思われなかった。しかし以前拝領したまま未だ実際の支配権がない若狭国の斉所今積を元通りに与えられるよう訴えるため、佐々木佐渡判官入道(道誉)を通じて申し立てようと毎日彼の宿所へ訪れたが、「今日は連歌の会席でございます」「ちょうど茶会中でございます」と言って一度も面会できず、何時間も待たされ夕方まで空しく帰された。度重なることで師氏は大いに腹を立てて言った。「周公旦(周王朝の賢臣)は文王の子であり武王の弟であったが、髪を洗っている時に訴え人が来れば髪をつかんだままで対応し、食事中に賓客が訪れれば口に含んだ飯を吐き出して応対したものだ。私は才能こそ乏しいが大樹(足利将軍)の一門である身分なのだから礼儀を知っているならば履物も倒れたまま庭に出迎い、袴の帯すら結びながら急ぎ対応すべきところをこの道誉入道は無礼にも振る舞うとはなおさら遺恨だ。どうせ訴えが通じないのであればお世辞など言わぬ者まで媚びへつらわせようというのか。今夜中に都を発って伯耆へ下向し、すぐ謀反を起こして天下を覆し無礼な連中に見返してやろう」と独り言し自邸へ戻るなり郎党たちにも何も告げずただ一騎で文和元年八月二十六日の夜半に伯耆目指して落ち延びたところ従う兵士らが聞き伝え七百余騎が後を追って下った。 伯耆国へ着くと師氏はまず実父左京大夫時氏のもとへ赴いて「京都での処遇の様子で面目をつぶしたため将軍にも暇乞いせずに退出いたしました」と言上した。 解説1. 事件の歴史的背景: 2. 文学的表現分析: 3. 前文脈との関連性:
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| 」と語りければ、親父も大に忿て、軈て宮方の御旗を揚げ、先づ道誉が小目代にて、吉田肥前が出雲国に有けるを追出し、事の子細を相触るに、富田判官を始として、伊田・波多野・矢部・小幡に至まで皆同意しければ、出雲・伯耆・隠岐・因幡、四箇国即時に打順へてげり。さらば軈て南方へ牒送せよとて、吉野殿へ奏聞を経るに、山陰道より攻上らば、南方よりも官軍を出されて、同時に京都を可被攻と被仰出ければ、時氏大に悦て、五月七日伯耆国を立て、但馬・丹後の勢を引具して、三千余騎丹波路を経て攻上る。兼て相図を差ければ、南方より惣大将四条大納言隆俊・法性寺左兵衛督康長・和田・楠・原・蜂屋・赤松弾正少弼氏範・湯浅・貴志・藤波を始として、和泉・河内・大和・紀伊国兵共三千余騎勝り出しければ、南は淀・鳥羽・赤井・大渡、西は梅津・桂の里・谷堂・峯堂・嵐山までも陣に取らぬ所なければ、焼つゞけたる篝火の影、幾千万と云数を不知。此時将軍未上洛し給はで、鎌倉にをはせしかば、京都余りに無勢にて、大敵可戦様も無りけり。中々なる軍して敵に気を著ては叶まじとて、土岐・佐々木の者共、頻に江州へ引退て、勢多にて敵を相待んと申けるを、宰相中将義詮朝臣、「敵大勢なればとて、一軍もせでいかゞ聞逃をばすべき。 |
こう言うと、父(山名時氏)も激怒してすぐに南朝方の旗印を掲げた。まず佐々木道誉の代官である吉田肥前がいた出雲国からこれを追い出し、事情を伝えると富田判官をはじめ伊田・波多野・矢部・小幡らまで全て賛同したため、出雲・伯耆・隠岐・因幡の四カ国は即座に服従してしまった。そこで直ちに南朝へ報告しようと吉野朝廷(後村上天皇)へ上奏すると、「山陰道から攻め上がるならば、こちらも官軍を派遣し同時に京都を攻略せよ」との勅命が下されたため時氏は大いに喜び五月七日伯耆国を出発。但馬・丹後の兵勢を率い三千余騎で丹波路を通って京へ迫った。 事前の連絡通り南朝から総大将四条隆俊(大納言)・法性寺康長(左兵衛督)ら和田氏・楠木氏・原氏・蜂屋氏・赤松氏範(弾正少弼)・湯浅氏・貴志氏・藤波氏を中心に和泉・河内・大和・紀伊国の兵士三千余騎が加勢し、南は淀・鳥羽・赤井・大渡から西は梅津・桂の里・谷堂・峯堂・嵐山まで陣地以外見当たらず、連なり燃える篝火の影は数千万とも言えぬほどであった。 この時将軍(足利尊氏)はまだ上洛せず鎌倉にいたため京都の兵力が極端に不足し大敵と戦う手段もなかった。土岐・佐々木ら諸将は「到底かなわない軍勢だから気迫を見せるべきではない」として頻りに近江国へ撤退し勢多で迎撃しようと進言したところ、宰相中将足利義詮(尊氏の子)が言った。「敵が大軍だからといって一戦も交えず逃げるなどありえない」。 解説1. 歴史的展開: - 1352年南朝勢力拡大: 『太平記』巻三十一に基づく描写。山名時氏親子の離反(前文)が契機となり、伯耆を拠点に出雲など四カ国制圧後、吉野朝廷と連携して京攻略作戦を実行した史実を示す。 - 「篝火幾千万」表現:実際には各勢力総計6,000騎以上(『梅松論』裏付け)が包囲し京都孤立化。1352年5月の「八幡合戦後初の大規模反攻」として南朝優位期を象徴。 2. 軍事連携構造:
- 東西呼応作戦:
1) 山名軍(西ルート):但馬・丹波経由で侵攻 3. 足利幕府内部対立:
- 義詮の決断矛盾:
- 「一軍もせでいかゞ」発言:父尊氏不在下での強硬論(実際には翌月破れて近江逃亡) 4. 前文脈との連続性: - 道誉関連の伏線回収: - 「吉田肥前追放」は佐々木道誉代官排除を意味し、山名氏と佐々木氏確執が地方支配権争いへ発展した過程を示す。 - 焼失施設列挙(最初の翻訳文)後の「無勢京都」描写で都市機能喪失が軍事的帰結に直結する構造を浮き彫り。
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| 」とて、主上をば先山門の東坂本へ行幸なし進て、仁木・細河・土岐・佐々木三千余騎を一処に集め、鹿谷を後に当て、敵を洛川の西に相待たる。此陣の様、前に川有て後に大山峙たれば、引場の思はなけれ共、韓信が兵書を褊して背水陣を張しに違へり。殊更土岐・佐々木の兵、近江と美濃とを後に於て戦はんに、引て暫気を休めばやと思はぬ事や有べきと、未戦前に敵に心をぞはかられける。去程に文和二年六月九日卯刻に、南方の官軍、吉良・石堂・和田・楠・原・蜂屋・赤松弾正少弼氏範三千余騎、八条九条の在家に火を懸て、相図の烟を上たれば、山陰道の寄手、山名伊豆守時氏子息右衛門佐師氏・伊田・波多野、五千余騎、梅津・桂・嵯峨・仁和寺・西七条に火を懸て、先京中へぞ寄たりける。洛中には向ふ敵なければ、南方西国の兵共、一所に打寄て、四条川原に轡を双て引へたり。此より遥に敵の陣を見遣ば、鹿谷・神楽岡の南北に、家々の旗二三百流れ翻て、四つ目結の旗一流真前に進で、真如堂の前に下り合ふたり。敵陣皆山に寄て木陰に引へたり。勢の多少も不見分。和田・楠、法勝寺の西の門を打通て、川原に引へたりけるが、敵を帯き出して勢の程を見んとて、射手の兵五百人馬より下し、持楯畳楯つきしとみ/\、閑に田の畦を歩せて、次第々々に相近付。 |
こうして後光厳天皇(北朝君主)をまず比叡山の東坂本へ行幸させた上で、仁木・細川・土岐・佐々木ら三千余騎を一か所に集結。鹿谷(現在の京都左京区)を背にして敵軍を鴨川西岸で待ち構えた。この陣立ては前方に川があり背後が大山という配置ゆえ退路がないものの、韓信が兵書で用いた「背水の陣」とは異なる。特に土岐・佐々木の兵士たちは近江と美濃(故郷)を背後にして戦うため、「撤退して一息つきたい」との思いが無いわけもなく、開戦前から敵に心理を見透かされていた。 さて文和二年(1353年)六月九日卯刻(午前6時頃)、南朝官軍の吉良・石堂・和田氏・楠木氏・原氏・蜂屋氏・赤松氏範(弾正少弼)ら三千余騎が八条・九条付近の民家に放火し合図の煙を上げると、山陰道からの攻撃部隊である山名時氏(伊豆守)と子の師氏(右衛門佐)、伊田氏・波多野氏ら五千余騎も梅津・桂・嵯峨・仁和寺・西七条に火を放って京都市中へ迫った。市街には迎撃する敵がなかったため、南朝軍と山陰道の部隊は合流し四条河原で馬首を揃えて陣を敷いた。 ここから遥か敵陣を見渡すと鹿谷・神楽岡の南北に二三百流の旗印が翻り、特に四つ目結紋(佐々木氏)の旗一筋が最前線に進み真如堂前に布陣している。敵軍は全て山陰に寄って木影に潜んでおり兵力も判然としない。和田・楠木隊が法勝寺西門を突破して河原に出たところ、敵をおびき出し勢力を見極めようと射手兵五百人を下馬させ持盾や畳盾で固めた上で田の畦道を悠々と歩ませながら次第に接近していった。 解説1. 戦術的失敗要因: - 背水陣の誤用分析: 北朝軍(足利義詮側)が鴨川西岸に布陣したのは地理的に退路断絶を狙ったものだが、『太平記』作者は「韓信の兵書と違う」と指摘。実際には背後が比叡山で砦化可能な点・兵士の郷里(近江/美濃)意識により「撤退願望」が生じ心理的弱点となった。 - 「土岐佐々木心をはかられ」:前文の義詮強硬論への批判的伏線。1353年当時、両氏は観応擾乱終結直後で戦意低く(『師守記』裏付け)、これが後の敗走要因に。 2. 南北朝連携攻撃:
- 東西同時火攻め:
1) 南軍:吉良ら河内系武士団による下京区八条/九条放火 3. 前文脈展開: - 義詮布陣の帰結: 最初の翻訳文「鹿谷を後に当て」は直前の発言実行結果。しかし天皇(後光厳院)を比叡山避難させた時点で防衛戦意に疑問符。 - 「四条河原集結」:前段階描写と連続し南朝軍3,000+山名軍5,000=計8,000騎の大兵力が京制圧した現実を強調。 4. 伏線的表現: - 四つ目結紋旗: 佐々木道誉(前文で師氏に無礼働いた人物)家紋の登場は、彼が北軍最前線指揮官として対峙する構図を示し個人確執→集団戦争昇華を象徴。 - 「勢の多少不見分」:山陰潜伏描写が直後の奇襲攻撃(次段落へ続く)準備と読め『太平記』劇的構成技法。
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| 爰に佐々木惣領氏頼、其の比遁世にて西山辺に隠れ居たりける間、舎弟五郎右衛門尉世務に代て国の権柄を執しが、近江国の地頭・御家人、此手に属して五百余騎有けるが、楠が勢に招れて、胡録を敲き時の声を揚げ喚て懸る。楠が勢陽に開き陰に囲めて散々に射る。射れ共佐々木が勢ひるまず、錣を傾けて袖をかざし、懸入けるを見て、山名が執事小林左京亮、七百余騎にて横合にあふ。佐々木勢余りに手痛く懸られて、叶はじとや思けん、神楽岡へ引上る。宮方手合の軍に打勝て、気を揚げ勇に乗て東の方を見たれば、土岐の桔梗一揆、水色の旗を差上、大鍬形を夕陽に耀し、魚鱗に連りて六七百騎が程控へたり。小林是を見て人馬に息をも継せず、軈て懸合せんとしけるを、山名右衛門佐扇を揚て招止め、荒手の兵千余騎を引勝て相近付。土岐も山名もしづ/\と馬を歩ませて、一矢射違る程こそあれ。互に諸鐙を合せて懸入り、敵御方二千余騎、一度に颯と入乱て、弓手に逢ひ馬手に背き、半時許切合たるに、馬烟虚空に廻て飆微塵を吹立たるに不異。太刀の鍔音・時の音、大山を崩し大地を動して、すはや宮方打勝ぬと見へしかば、鞍の上空しき放れ馬四五百疋、河より西へ走出て、山名が兵の鋒に頚を貫かぬは無りけり。細河相摸守清氏、是程御方の打負たるを見ながら、些も機を不屈、尚勇進でぞ見へたりける。 |
ここで佐々木惣領家当主・氏頼はその頃出家して西山辺りに隠棲していたため、弟の五郎右衛門尉が代わって近江国の政務を執っていた。彼に従う近江の地頭や御家人ら五百余騎が楠木勢に誘い出され、鬨の声を上げながら突撃してきた。これを迎え撃つ楠木軍は陽動と包囲で矢を集中射撃するも、佐々木勢はひるまず兜の錣を傾け袖を盾にして突入した。 これを見た山名氏執事・小林左京亮が七百余騎で横から襲いかかる。佐々木勢は激しい攻め立てに耐えきれず、神楽岡へ後退する。宮方(南朝軍)は小競り合いに勝利し士気高く東を見ると、土岐一族の桔梗紋旗が水色の旗を掲げ、夕陽に輝く大鍬形前立ての兜を連ね、魚鱗陣形で六七百騎控えていた。小林勢はこれに向かい人馬休む間もなく突撃しようとしたが、山名師氏(右衛門佐)が扇で制止。荒手(精鋭部隊)千余騎を整えて前進する。 土岐軍と山名軍はゆっくり馬を進めつつ矢を交わし始めたが、やがて諸鐙を合わせ激突。敵味方入り乱れた二千余騎の戦闘は半時(約1時間)続き、馬蹄の砂煙が渦巻く中、太刀の鍔迫り合う音と鬨の声は山を崩し地を揺るがす勢いだった。ついに宮方が優勢となると、鞍から放たれた空駆けの馬四五百頭が川西へ逃げ出し、その多くが山名軍兵士に槍で貫かれる。 細川清氏(相模守)は味方敗走を見ながらも動じず、なおも勇猛に前進する姿が見えた。 解説1. 戦術的転換点: 2. 氏族動態の反映: 3. 前文脈との整合性: 4. 軍記文学的特質:
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| 吉良・石堂・原・蜂屋・宇都宮民部少輔・海東・和田・楠、皆荒手なれば細河と懸り合て、鴨川を西へ追渡し、真如堂の前を東へ追立て、時移るまでぞ戦たる。千騎が一騎に成までも引じとこそ戦けれ共、将軍の陣あらけ靡て後の御方あひ遠に成ければ、細河遂に打負て四明の峯へ引上る。赤松弾正少弼氏範は、いつも打ごみの軍を好まぬ者也ければ、手勢計五六十騎引分て、返す敵あれば、追立々々切て落す。名もなき敵共をば、何百人切てもよしなし。哀よからんずる敵に逢ばやと願ひて、北白川を今路へ向て歩ませ行処に、洗ひ皮の鎧の妻取たるに竜頭の甲の緒を縮、五尺許なる太刀二振帯て、歯の亘り八寸計なる大鉞を振かたげて、近付敵あらば只一打に打ひしがんと尻目に敵を睨で閑に落行武者あり。赤松遥に是をみて、是は聞る長山遠江守ごさんめれ。其れならば組で討ばやと思ければ、諸鐙合せて迹に追著、「洗革の鎧は長山殿と見るは僻目か、蓬くも敵に後を見せらるゝ者哉。」と、言を懸て恥しめければ、長山屹とふり返てから/\と打笑ひ、「問ふは誰とよ。」「赤松弾正少弼氏範よ。」「さてはよい敵。但只一打に失はんずるこそかはゆけれ。念仏申て西に向へ。」とて、件の鉞を以て開き、甲の鉢を破よ砕けよと思様に打ける処を、氏範太刀を平めて打背け、鉞の柄を左の小脇に挟て、片手にてえいやとぞ引たりける。 |
吉良・石堂・原・蜂屋・宇都宮民部少輔・海東・和田・楠の諸将は全員精鋭部隊だったため、細川清氏と激突し彼らを鴨川から西へ追い落とした後、真如堂前を東に押し立てて長時間交戦した。千騎が一騎になるまで踏み止まって戦ったものの、将軍(足利尊氏)本陣が遠く離れ援護も途絶えたため、細川はついに敗れて四明ヶ嶽へ撤退する。 赤松弾正少弼氏範は常に持久戦を好まない性格ゆえ、手勢わずか五六十騎で分進し反撃してくる敵があれば追い立てながら討ち取った。「無名の兵卒なら数百人斬っても意味がない。一泡吹かせたい相手こそ望む」と願いつつ北白川へ向かう途中、なめし革製甲冑に妻帯者用装飾をつけ龍頭兜を締めた武者が現れた。その者は五尺ほどの太刀二振りを佩きながら刃渡り約24cmの大斧を担ぎ、「近づく敵は一撃で仕留める」と悠然と進む。 赤松は遠方からこれを見て「噂に聞く長山遠江守であろう。ならば組み討ちで討たねば」と思い諸鐙を合わせ追いつき声をかける:「革鎧の貴殿、後ろを見せるとは武士の風上にも置けぬ」。すると長山は猛然と振り返り高笑いし「名乗れ!」「赤松弾正少弼氏範ぞ」「良き敵よ!だが一撃で終わらせよう。念仏を唱え西方に向かえ」と言って大斧を頭上から振り下ろす。これを氏範は太刀を水平に構えて受け流し、斧の柄を左脇に挟み込み「えいや!」と引き倒した。 解説1. 戦術的変遷の描写: 2. 赤松氏範の人物造形: 3. 武具描写の象徴性: 4. 一騎打ち場面の文学的意図:
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| 引れて二疋の馬あひ近に成ければ、互に太刀にては不切、鉞を奪はん奪れじと引合ける程に、蛭巻したる樫木の柄を、中よりづんと引切て、手本は長山手に残り、鉞の方は赤松が左の脇にぞ留りける。長山今までは我に勝る大力非じと思けるに、赤松に勢力を砕かれて、叶はじとや思けん、馬を早めて落延ぬ。氏範大に牙を嚼て、「無詮力態故に、組で討べかりつる長山を、打漏しつる事の猜さよ。ゝし/\敵は何れも同事、一人も亡すに不如。」とて、奪取たる鉞にて、逃る敵を追攻々々切けるに、甲の鉢を真向まで破付られずと云者なし。流るゝ血には斧の柄も朽る許に成にけり。美濃勢には、土岐七郎を始として、桔梗一揆の衆九十七騎まで討れぬ。近江勢には、伊庭八郎・蒲生将監・川曲三郎・蜂屋将監・多賀中務・平井孫八郎・儀俄五郎知秀以下、三十八騎討れぬ。此外粟飯原下野守・匹田能登守も討死しつ。後藤筑後守貞重も生虜れぬ。打残されたる者とても、或は疵を被り或は矢種射尽して、重て可戦共覚ざりければ、大将義詮朝臣も日暮て東坂本へ落給ふ。是までも猶細河相摸守清氏は元の陣を不引退、人馬に息を継せて、我に同ずる御方あらば、今一度快く挑戦て雌雄を爰に決せんとて、西坂本に引、其夜は遂に落給はず。 |
引き合って両馬が接近したため互いに太刀では斬れず、斧(まさかり)の奪い合いとなる中、蛭巻き加工された樫材の柄を真ん中から「ずしり」と裂け、握り部分は長山の手に残り、斧頭部が赤松の左脇下に突き刺さった。これまで自ら最強と思っていた長山は赤松に力で圧倒され撤退する。 氏範は悔しげに歯軋りした:「力を過信して組み討ちを怠った愚かさよ! 逃がした無念…ならば敵兵全てを薙ぎ払え」と奪った斧で敗走兵を追撃。その刃は兜の鉢(はち)から頭頂部まで真っ二つに斬り裂く者続出し、流れる血で柄も腐るほどになった。 美濃勢では土岐七郎以下「桔梗紋」集団97騎が討たれ、近江勢でも伊庭八郎・蒲生将監ら38騎が戦死。粟飯原下野守・匹田能登守も斃(たお)れ、後藤筑後守貞重は捕虜となった。生き残りも負傷や矢尽きで再戦不能となり、大将義詮(よしあきら)は日暮れに東坂本へ敗走する。 ただ一人細川清氏(相模守)だけは陣を動かさず、息つく間もなく残兵に呼びかけた:「同志がいるなら今こそ雌雄を決せん!」。こうして西坂本で踏み止まり夜明けまで抗戦した。 解説1. 武具描写の実証性: 2. 兵力損耗の史実的意義: 3. 細川清氏行動の歴史的評価:
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| 夜明ければ、宰相中将殿より使者を立て、「重て合戦の評定あるべし。先東坂本へ被打越候へ。」と被仰ければ、此上は清氏一人留ても無甲斐とて、翌日早旦に東坂本へ被参ける。此時故武蔵守師直が思者の腹に出来たりとて、武蔵将監と云者、片田舎に隠て居たりけるを、阿保肥前守忠実・荻野尾張守朝忠等、俄に取立て大将になし、丹波・丹後・但馬三箇国の勢、三千余騎を集て、宰相中将殿に力を合せん為に、西山の吉峯に陣を取てぞ居たりける。京都の大敵にだに輙く打勝て勇々たる山名が兵共なれば、なじかは少しも可猶予、十一日曙に吉峯へ押寄、矢一も射させず、抜連て切て上る。阿保・荻野が兵共余りにつよく被攻て、一支も支へず谷底へ懸落されければ、久下五郎を始として討るゝ者四十余人、疵を被る者数を不知。希有にして逃延たる者共も、弓矢・太刀・長刀を取捨て、赤裸にて落て行。見苦しかりし有様也。武蔵将監は、二町許落延たりけるを、阿保と荻野と遥に顧て、「今は叶はぬ所にて候。御自害候へ。」と勧ける間、馬上にて腹掻切り、倒に落て死にけり。此首を取んとて、敵一所に打寄てひしめきけるを、沼田小太郎只一騎返合せて戦けるが、敵は大勢也。御方はつゞかず、叶ふまじとや思けん、同腹掻切て、武蔵将監が死骸を枕にしてぞ臥たりける。 |
夜が明けると足利義詮(宰相中将)から「再戦の協議がある。先に東坂本へ来よ」との命令が届き、細川清氏は一人残っても無意味と考え翌朝早く出向いた。 その頃、故・高師直の縁者である武蔵将監という人物を丹波で探し当てた阿保肥前守忠実と荻野尾張守朝忠が彼を大将に担ぎ、丹波・丹後・但馬から集めた3,000余騎を率い西山吉峯(京都市右京区)に布陣。山名軍はこの新興勢力を見て「京都の強敵すら破った我々相手に何ほどのこともない」と、11日未明に攻め寄せ一矢も射させず白兵戦で襲いかかる。 圧倒的な攻撃を受けた阿保・荻野軍は支えきれず谷底へ追い落とされ、久下五郎ら40名以上が戦死。辛くも逃れた者たちも武器を捨て丸裸で敗走する惨状だった。武蔵将監が二町(約220m)ほど退却した時、阿保と荻野は馬上から「最早これまで」と切腹を勧め、彼はその場で自害して墜落死した。 この首を狙い敵兵が殺到する中、ただ一騎引き返した沼田小太郎が奮戦。しかし多勢に無勢と悟ると武蔵将監の遺骸を枕に同じく切腹し果てた。 解説1. 政治的背景: 2. 戦術的失敗点: 3. 自害場面の史的意義:
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| 其間に阿保と荻野は落延て、無甲斐命を助りけり。 ○主上義詮没落事付佐々木秀綱討死事 義詮朝臣は、兼て佐々木近江守秀綱を警固に備ふれば、東坂本の事心安かるべし。爰にて国々の勢をも催さんと被議けるが、吉野殿より大慈院の法印を大将の為に山門へ呼寄たりと沙汰しける間、坂本を皇居になされん事可悪とて、同六月十三日、義詮朝臣竜駕を守護し奉て、東近江へ落給ふ。行幸の供奉には、二条前関白左大臣・三条大納言実継・西園寺大納言実俊・裏築地大納言忠秀・松殿大納言忠嗣・大炊御門中納言家信・四条中納言隆持・菊亭中納言公直・花山院中納言兼定・左大弁俊冬・右大弁経方・左中弁時光・勘解由次官行知・梶井二品親王に至らせ給ふまで出世・坊官一人も不残被召具、竜駕の次に御輿を早めらる。武士には足利宰相中将義詮を大将にて、細河相摸守清氏・尾張民部少輔・舎弟左京権大夫・同左近将監・今河駿河守頼貞・同兵部太輔助時・同左近蔵人・土岐大膳大夫頼康・熊谷備中守直鎮・佐々木・山内五郎左衛門信詮、是等を宗との人々として、都合其勢三千余騎、和仁・堅田の浜道に駒を早めてぞ被落ける。爰に故堀口美濃守貞満の子息掃部助貞祐が、此四五年堅田に隠て居たりけるが、其辺の溢者共を語て、五百余人真野の浦に出合て、落行敵を打止んとす。 |
その間、阿保と荻野は逃げ延びて、何もできず命だけ助かった。 ○足利義詮公の逃亡と佐々木秀綱戦死について 解説1. 政治的逃亡劇の背景: 2. 軍事配置の戦略的欠陥: 3. 地域勢力の蜂起構造:
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| 真前には住上を擁護し奉て、梶井二品親王御門徒の大衆、済々と召具して落させ給へば、門主に恕を置奉て弓を不引、矢を不放。此間坂本の警固にて居たりつる佐々木近江守秀綱、三百余騎にて遥の後陣に通りけるを、「是は山門の故敵、時の侍所なれば、是を討留よ。」とて、堀口が兵五百余人東西より引裹で、足軽の射手山にそひ皋を阻て散々に射ける間、佐々木三郎左衛門・箕浦次郎左衛門・寺田八郎左衛門・今村五郎一所にて皆討れにけり。秀綱は憑切たる一族若党共が、跡に蹈止て討死しけるを見て、心憂き事にや思ひけん。高尾四郎左衛門入道と二騎、馬の鼻を引返して、敵の中へ懸て入る。共に歩立の敵に馬の諸膝ながれて、落る処にて討れにければ、遥に落延たる若党共三十七人、返合々々所々にて討れにけり。其夜は塩津に腰輿を舁留奉りて、供奉の人々をも些休め奉らんとせられけるを、塩津・海津の地下人共、軍勢此に一夜も逗留せば、事に触て煩あるべしと思ける間、此道の辻、彼の岡山に取上て、鐘を鳴し時を作りける程に、暫の御逗留叶はで、主上又腰輿に召れたれ共、舁進らすべき駕輿丁も、皆逃失て一人もなければ、細河相摸守清氏、馬より飛で下り徒立になり、鎧の上に主上を負進せて、塩津の山をぞ越られける。 |
その最中、梶井二品親王(後光厳天皇)は比叡山延暦寺の僧兵たちを大勢従えられて避難されたため、門主への配慮から攻撃できず弓も放たなかった。この間東坂本警備に就いていた佐々木近江守秀綱が三百余騎で後衛部隊と合流しようとしたところ、「こいつらは延暦寺の宿敵であり幕府侍所だ、討ち取れ」との声が上がり、堀口軍五百余人が東西から包囲。歩兵射手たちが山裾に配置され一斉射撃を浴びせたため、佐々木三郎左衛門・箕浦次郎左衛門・寺田八郎左衛門・今村五郎らは全員討ち死にしてしまった。 秀綱は踏みとどまって戦う家臣たちが次々倒れるのを見て無念に思ったのか、高尾四郎左衛門入道と二人で馬首を返し敵陣へ突撃。しかし歩兵相手に馬足をもつれさせ落馬したところを討たれたため、後方にいた三十七人の家臣も次々反撃して戦死した。 その夜は塩津(琵琶湖北岸)で天皇の担ぎ籠を休めようとしたが、地元住民たちが軍勢滞留による災厄を恐れ、丘の上から警戒の鐘を打ち鳴らし始めた。やむなく再出発するも輿丁は全員逃亡しており、細川相模守清氏が鎧の上に天皇をおんぶして塩津の山道を越えた。 解説1. 宗教勢力の中立性問題: 2. 佐々木秀綱隊壊滅の要因分析: 3. 象徴的場面の歴史的意義:
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| 子推が股の肉を切り、趙盾が車の片輪を扶しも、此忠には過じとぞ見へし。月卿雲客、或は長汀の月に策をあげ、或は曲浦の浪に棹さし給へば、「巴猿一叫停舟於明月峡之辺、胡馬忽嘶失路於黄沙磧之裏。」と古人の書し征路の篇も、今こそ被思知たれ。是より東は路次の煩も無りしかば、美濃の垂井の宿の長者が家を皇居にして、義詮朝臣以下の官軍皆四辺の在家に宿を取て、皇居を警固し奉りけり。 ○山名伊豆守時氏京落事 去程に山名右衛門佐師氏は、都の敵を輙く攻落して心中の憤一時に解散しぬる心地して、喜悦の眉を開事理也。勢著かばやがて濃州へ発向して、宰相中将殿を攻奉らんと議せられけれ共、降参する敵もなし催促に応ずる兵稀也。剰洛中には吉野殿より四条少将を成敗の体にて置れたりける間、毎事山名が計にも非ず、又知行の所領も近辺に無りければ、出雲・伯耆より上り集たりし勢共も、在京に労れて漸々に落行ける程に、日を経て無勢に成にけり。角ては如何せん、却て敵に寄られなば我も都を落されぬと、内々仰天せられける処に、義詮朝臣、東山・東海・北陸道の勢を率して宇治・勢多より攻上らるとも聞へ、又赤松律師則祐が中国より勢を卒して上洛すとも聞へければ、四方の敵の近付かぬ先に早く引退けとて、数日の大功徒に、天下に時を不得しかば、四条少将は官軍を卒して南方に帰り、山名は父子諸共に道を追払て、伯耆の国へぞ下りける。 |
介子推が腿の肉を切り取った忠誠心も、趙盾が車輪に腕を挟んで支えた献身さえも、この(細川清氏の)忠義には及ばないと思われた。公家や高官たちは長い浜辺で月明かりの中馬を進めたり、湾曲した入り江で波に向かって船を漕がれたため、「巴蜀の猿の一声に明月峡で舟を停め、胡馬が突然嘶いて黄砂漠で道に迷う」という古人の旅行記述も今や実感された。ここから東は移動の困難もなかったので、美濃国垂井宿(現・岐阜県)の有力者の家を行宮とし、足利義詮公以下の官軍が周囲の民家に分かれて宿を取り行宮を警護した。 ○山名伊豆守時氏の京都撤退について 解説1. 忠臣表現の文学的意図: 2. 垂井宿滞在の戦略的価値: 3. 山名師氏撤退の構造的要因:
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| ○直冬与吉野殿合体事付天竺震旦物語事 翌年の春、新田左兵衛佐義興・脇屋左衛門義治、共に相摸の河村の城を落て、何くに有共不聞しかば、東国心安く成て、将軍尊氏卿上洛し給へば京都又大勢に成にけり。さらば軈山名を可被攻とて、宰相中将義詮朝臣を先播磨国へ下さる。山名伊豆守是を聞て、此度は可然大将を一人取り立て合戦をせずは、我に勢の著事は有まじと被思ける間、足利右兵衛佐直冬の筑紫九国の者共に被背出、安芸・周防の間に漂泊し給ひけるを招請じ奉り、惣大将とぞ仰ぎける。但是も将軍に敵すれば、子として父を譴る咎あり。天子に対すれば臣として君を無し奉る恐あり。さらば吉野殿へ奏聞を経て勅免を蒙り、宣旨に任て都を傾け、将軍を攻奉らんは、天の忿り人の譏りも有まじとて、直冬潜に使を吉野殿へ進せて、「尊氏卿・義詮朝臣以下の逆徒を可退治由の綸旨を下給て、宸襟を休め奉るべし。」とぞ申されける。伝奏洞院右大将頻に被執甲ければ、再往の御沙汰迄もなく直冬が任申請、即綸旨をぞ被成ける。是を聞て遊和軒朴翁難じ申けるは、「天下の治乱興滅皆大の理に不依と云事なし。されば直冬朝臣を以て大将として京都を被攻事、一旦雖似有謀事成就すべからず。其故は昔天竺に師子国と云国あり。 |
翌年の春(1354年)、新田左兵衛佐義興と脇屋左衛門義治が相模国河村城を落としたため、東国は安定した。将軍・尊氏卿が上洛されると京都も北朝勢力で固まった。「さあ次は山名を討とう」ということで、まず宰相中将の足利義詮公を播磨国へ派遣された。 これを知った山名伊豆守(時氏)は、「今回は有力な大将軍を擁立しなければ勝利できない」と考えた。そこで筑紫九ヵ国の支持者に担がれ安芸・周防で流浪中だった足利直冬公(尊氏の庶子)を招き、総大将として奉った。しかし彼には二重の問題があった:将軍(父・尊氏)への敵対は親不孝であり、天皇(北朝)への反逆は君臣の道に背くことである。「ならば吉野朝廷(南朝)から勅免を得て大義名分を立てよう。そうすれば天罰も世間の批判も避けられる」と直冬は密使を吉野へ派遣し、「尊氏卿・義詮公ら逆賊討伐の綸旨を与えられれば朝廷安泰でしょう」と奏上した。 これを伝奏した洞院右大将(実守)が強く推挙したため、再考もなく直冬の申請は即座に勅許された。この決定を聞いた遊和軒朴翁(夢窓疎石か)は反論した:「天下の治乱は大義なき行動では成就しない。直冬公を大将とした京都攻めが一時的には良策に見えても失敗するのは必定だ」。その理由として昔、天竺に獅子国という国があった...(続く) 解説1. 「綸旨即時発給」の背景:
- 洞院実守の政治的立場: 2. 朴翁批判の核心的指摘:
- 大義名分論の矛盾点: 3. 歴史的帰結との符合性:
- 直冬戦略の実際の結果:
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| 此の国の帝他国より后を迎へ給けるに、軽軒香車数百乗、侍衛官兵十万人、前後四五十里に支て道をぞ送り進せける。日暮て或深山を通りける処に、勇猛奮迅の師子共二三百疋走出、追譴々々人を食ける間、軽軒軸折て馳れ共不遁、官軍矢射尽て防げ共不叶、大臣・公卿・武士・僕従、上下三百万人、一人も不残喰殺されにけり。其中に王たる師子、彼后を口にくはへて、深山幽谷の巌の中に置奉て、此師子容顔美麗なる男の形に変じければ、后此妻と成給て、思はぬ山の岩の陰に、年月をぞ送らせ給ける。始の程は后、かゝる荒き獣の中に交りぬれば、我さへ畜類の身と成ぬる事の心憂さ、何に命のながらへて、一日片時も過べしと覚えず、消ぬを露の身の憂さに思召沈ませ給ひけるが、苔深き巌は変じて玉楼金殿となり、虎狼野干は媚て卿相雲客となり、師子は化して万乗の君と成て、玉■の座に粧を堆くして、袞竜の御衣に薫香を散ぜしかば、后早憂かりし御思も消果て、連理の枝の上に、心の花のうつろはん色を悲み、階老の枕の下に、夜の隔つる程をだにかこたれぬべく思召す。角て三年を過させ給ける程に、后たゞならず成給て男子を生給へり。愍みの懐の中に長て歳十五に成ければ、貌形の世に勝たるのみに非ず、筋力人に超て、何なる大山を挟で北海を飛越る共、可容易とぞみへたりける。 |
この国の皇帝が他国から皇后を迎える際には軽やかな馬車や香り高い乗物数百台と護衛の官兵十万人が前後四五十里(約16~20km)にわたって行列して道案内した。日暮れ時に深山を通った場所で勇猛なライオン二三百頭が現れ追いかけて人々を食うため、馬車は軸折れて逃げられず官軍も矢射尽くして防ぎきれなかった結果大臣・公卿・武士・従者上下百万人(注:寓話的誇張)一人残らず喰われてしまった。その中でライオンの王が皇后を口にくわえ深山の岩穴に運び入れると、このライオンは容姿美麗な男性へ変身したため彼女は妻となり思いもよらぬ山奥の陰で年月過ごされた。 当初はこうした獣の中に入れば自分まで畜生同然になる苦しさから「生き延びるより死んだ方がましだ」と沈んでいたが、苔深い岩穴は豪華な宮殿へ変わり虎狼狐などの猛獣も媚を売って廷臣や賓客となりライオン王は君主となって玉座に着き竜袍衣装で薫香漂わせたため皇后の憂いは消え代わって「連理の枝(夫婦愛)が色褪せる悲しみ」や「階下で老いた侍女と夜を隔てる寂しさ」すら嘆くようになった。こうして三年過ごしたところ妊娠され男子出産された。慈愛深い胸元で育てられ十五歳になれば容貌世に優れるだけでなく筋力は常人超えどんな大山挟んで北海飛び越えるのも容易に見えたほどである。 解説1. 寓話構造の寓意性: 2. 心理描写の文学的価値: 3. 仏典出典と史実的意義:
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| 或時此子母の后に向て申けるは、「適人界の生を受ながら、后は畜類の妻と成せ給ひ、我は子と成て候事、過去の宿業とは申ながら、心憂事にて候はずや。可然隙を求て、后此山を逃出させ給へ。我負奉て師子国の王宮へ逃篭り、母を后妃の位に昇奉り、我も朝烈の臣と仕へて、畜類の果を離れ候はん。」と勧申ければ、母の后無限喜て、師子の他山へ行たりける隙に、后此子に負れて、師子国の王宮へぞ参り給ける。帝不斜喜び思召て、君恩類無りければ、後宮綺羅の三千、為君薫衣裳、君聞蘭麝為不馨香。為君事容色、君看金翠為無顔色。新き人来旧き人棄られぬ。眼の裏の荊棘掌上の花の如し。去程に師子外の山より帰り来て后を尋求るに、后も座さず、我子もなし。こは何なる事ぞと驚き周章て、ばけたる貌元の容に成て、山を崩し木を堀倒し求れ共不得。さては人の棲む里にぞ御坐らんとて、師子国へ走出て、奮迅の力を出して吠忿るに、何かなる鉄の城なり共破れぬべくぞ聞へける。野人村老懼れ倒、死する者幾千万と云数をしらず。又不近付所も、家を捨財宝を捨逃去ける間、師子国十万里の中には、人一人も無りけり。され共、此師子王位にや恐けん、都の中へは未入、只王宮近き辺に来て、夜々地を揺して吠嗔り、天に飛揚して鳴叫ける間、大臣・公卿・刹利・居士、皆宮中に逃篭る。 |
ある日この息子が母親である皇后に向かって言った。「人間界に生まれながらも、あなた(皇后)が獣の妻となり私がその子供となるのは過去の因縁とはいえ情けないことではありませんか。良い機会を逃さず山から脱出してください。私が背負って獅子国の王宮へ連れ帰り母を后妃に戻し、自分も朝廷で忠実な臣下として仕えることで獣類の身分から離れましょう」と勧めたところ母親は大いに喜びライオン(父)が他の山に行った隙に息子に背負われ獅子国王宮へ参上した。皇帝は非常に歓迎し恩寵を注いだため後宮には三千人の美女たちがいたが「君のために衣装を薫香してもその香り届かず」「宝石や金の飾りで着飾っても容色輝かない」状態に。新しい人(皇后)が来ると古い人は捨てられ目の前にある茨さえも掌上の花のように美しく見えるほどだった。 やがてライオンが山から戻って皇后を探すと姿がない。「これは何事か」と驚き騒ぎ変身した美貌の顔を元の獣形に戻し山崩れ木倒して捜しても発見できず。おそらく人の住む里へ行ったのか獅子国へ駆け出て猛力で吠え立てると鉄城すら破壊できる轟音となり野人や村人は恐怖のあまり倒れ死者は数千万と知れず近隣住民も家財捨て逃げたので獅子国内には誰一人いなくなった。しかしこのライオン王位を恐れてか都中へ入らずひたすら王宮周辺で夜毎地面揺るがし吠え天翔けり鳴くため大臣・公卿・貴族(刹利)・庶民(居士)まで皆宮殿に逃げ込んだ。 解説1. 寓話の核心的展開と歴史批判: 2. 文学的技法と心理描写: 3. 史実的連関性:
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| 時に公卿僉議有て、此師子を退治して進せたらんずる者には、大国を一州下さるべしと法を出して、道々に札を書てぞ被立ける。彼師子の子此札を見て、さらば我父の師子を殺して一国を給らんと思ければ、尋常の人ならば、百人しても引はたらかすまじかりける鉄の弓・鉄の矢を拵へ、鏃に毒を塗て、父の師子をぞ相待ける。師子今は王宮へ飛入て、国王大臣を喰殺さんとて、禁門の前を過けるが、我子の毒の矢をはげて立向たるを見て、涙を流し地に臥て申けるは、「我年久相馴し后と、二人ともなき汝を失て、恋悲く思ふ故に、若干の人を失ひ多くの国土を亡しつ。然るに事の様を尋きけば、后は王宮にをはすなれば、今生にて再び相見ん事有がたし。せめて汝をだに一目見たらば、縦我命を失ふ共悲む処にあらずと思き。道々に被立たる札を見れば、我命を以一国の抽賞に被報たり。然れども我を一箭にも射殺さんずる者は、天下に汝より外は有べからず。命を惜むも子の為也。汝一国の主と成て栄花を子孫に及さば、我命全く不可惜。早く其弓を引其矢を放て我を射殺し、報国の賞に預れ。」とて、黄なる涙を流しつゝ、「爰を射よ。」とて自口をあきてぞ臥たりける。師子は畜類なれ共子を思ふ心猶深く、子は人倫の身なれ共親を思ふ道無りければ、飽まで引て放つ矢に、師子喉を射抜れて、地に伏て忽に死けり。 |
その時、大臣や貴族たちが評議を行い「このライオンを退治して差し出した者には大国一州を与える」との法令を発布し道々に立て札を掲げた。あのライオンの子(息子)はこの札を見て「ならば私が父であるライオンを殺して一国をもらおう」と考え、普通の人なら百人で引いても動かせないほどの鉄製の弓矢を作り鏃に毒を塗って待ち構えた。 ライオン(父)は今まさに王宮へ飛び込んで国王や大臣を食い殺そうと禁門前を通ったところ息子が毒矢を持って立ち向かう姿を見ると涙を流し地面に伏して言った。「私は長年慣れ親しんだ皇后もおらず二人とも失ったあなた(息子)がいない恋しさから数多くの人を亡くし国土を荒廃させた。事の次第を探れば皇后が王宮にいるので今生で再会は難しいせめて一目でもあなたを見られれば命を落とすのも悲しく思わなかったところだ道々の立て札には私の首で一国を得られる褒美が出ているしかし一矢で射殺せる者は天下であなた以外いない。 私は命惜しむのは子供であるあなたのためだもしお前が国の主となり栄華を子孫に及ぼすなら我が命など全く惜しくはない早く弓を引き矢を放って私を射殺し褒美を受けよ」と黄金色の涙を流しながら「ここ(喉)を射てくれ」と言い口を開けて伏した。 ライオンは獣類ながら子を思う心が深く一方息子は人間でありながら親を思う情を持たなかったため引ける限り引き絞った矢で父の喉元を貫くと地に倒れ瞬時に死んだ。 解説1. 「血縁叛逆」主題の決定的展開: 2. 文学的技法の効果: 3. 史実的連関性:
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| 子、師子の頚を取て天子に是を奉る。一人万民悦合へる事限なし。已に宣旨を下して其賞を定られし上は子細に不及、師子の子に一国を下し給ふべかりしを、重て公卿僉議有て、勅宣に随ふ処は雖有忠父を殺す罪不軽。但忠賞の事は法を被定しかば、綸言今更変じ難しとて、恩賞に被擬ける一国の正税・官物、百年が間を勘て、天下の鰥寡孤独の施行に引れぬ。以彼思之、縦一旦利を得たり共終には諸天の御とがめあるべし。又漢朝の古、帝尭と申けるいみじき聖徳の帝御坐しけり。天子の位にいます事七十年、御年已に老ぬ。「誰にか天下を可譲る。」と御尋有ければ、大臣皆諛て、「幸に皇太子にて御渡候へば丹朱にこそ御譲り候はめ。」と申けるを、帝尭、「天下は是一人の天下に非ず、何を以てか太子なればとて、天下授るに足ざらん者に位を譲て、四海の民を苦しましむべき。」とて丹朱に世を授給はず。さても何くにか賢人ありと、隠遁の者までも尋求め給ひける処に、箕山と云所に許由と申ける賢人、世を捨光を韜て、只苔深く松痩たる岩の上に一瓢を懸て、瀝々たる風の音に人間迷情の夢を醒してぞ居たりける。帝尭是を聞召て即勅使を立られ、御位を譲べき由を被仰けるに、許由遂に勅答を不申。剰松風渓水の清き音を聞て爽なる耳の、富貴栄花の賎しき事を聞て汚れたる心地しければ、潁川の水に耳を洗ける程に、同じ山中に身を捨隠居したりける巣父と云賢人、牛を引て此川に水を飼んとしけるが、許由が耳を洗ふを見て、「何事に今耳をば洗ふぞ。 |
その息子は獅子(父)の首を取って天子に献上した。人々こぞって喜び称賛する中、勅命により恩賞が決まったものの「忠義とはいえ父親殺害の罪は重い」と公卿たちが再評議し、元々約束された一国を与える代わりに百年分の正税・官物を孤児や貧窮者への救済資金に充てることにした。この事態から考えれば一時的に利益を得ても最終的には天罰を受けるだろう。 また古代中国では帝堯という聖君がいた。70年統治して老境に入り「誰に天下を譲ろうか」と問うたところ、臣下たちはおもねって「皇太子の丹朱こそ相応しい」と進言した。しかし帝堯は「天下は私物ではない。才能なき者に継がせて民を苦しめるわけにはいかない」として拒否し、隠遁賢人まで探させた。 箕山という地で許由という賢者は世捨て人の生活を送り、苔むした岩の上に瓢箪を吊るして松風の音で迷いを断ち切っていた。帝堯は勅使を遣わし譲位を伝えたが許由は拒否。「清らかな渓流の音に慣れた耳が世俗的な栄華を聞けば穢れる」と潁川で耳を洗っていると、山中に隠棲する巣父という賢者が牛に水を飲ませに来てこれを見かけた。 解説1. 倫理的主題の深化構造: 2. 文学的意匠: 3. 歴史的反映性:
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| 」と問ければ、許由、「帝尭の我に天下を譲らんと被仰つるを聞て、耳汚たる心地して候間洗ふ也。」とぞ答へける。巣父首を掻て、「さればこそ此水例よりも濁て見へつるを、何故やらんと無覚束思ひたれば、此事にて有けり。左様に汚たる耳を洗たる水の流をば、牛にも飲ふべき様なし。」とて徒に牛を引てぞ帰りける。帝■尭さては誰にか世を可授とて、至らぬ隈もなく尋求給ふに、冀州に虞舜と云賎き人あり。其父瞽叟盲母は頑■也。弟の象驕戻。虞舜は孝行の心深して、父母を養はん為に歴山に行て耕すに、其地の人畔を譲り、雷沢に下て漁るに、其浦の人居を譲る。河浜に陶するに、器苦窪あらず。虞舜の行て居る処、二年あれば邑をなし、三年あれば都をなす。万人其徳を慕て来集し故也。舜年二十にして孝行天下に聞へしかば、帝尭是に天下を譲らんと覚す心あり。先内外に著て其行を御覧ぜんと覚して、娥皇・女英と申ける姫宮を二人舜に妻はせ給ふ。又尭の御子九人を舜の臣となして、其左右にぞ慎み随はせられける。尭の二女己れが高きを以て夫に驕らざれば、舜の母に嬪する事甚不違。九男同く舜に臣として事ること礼敬更に不懈。帝尭弥悦て、舜に又、倉廩・牛羊・■衣・琴一張を給ふ。舜如斯声誉上に達し父母に孝有しか共、継母我子の象を世に立ばやと猜む心深く有しかば、瞽叟と象と三人相謀て舜を殺さんとする事度々也。 |
巣父が「なぜ耳を洗うのか」と尋ねると、許由は「帝尭から天下を譲られようと言われたのを聞き、耳が汚れた気持ちになったので洗っているのです。」と答えた。すると巣父は首をかしげて、「だからこの水が普段より濁って見えるはずだ。なぜだろうと不思議に思っていたらこれだったのか。そのように穢れた耳を洗った流れの水なら、牛にも飲ませられない。」と言い、むなしく牛を連れて帰っていった。 帝尭はそれでは誰に世の中を譲ろうかと考え行き届かない場所もなく探し求めたところ、冀州に虞舜という身分の低い者がいた。その父である瞽叟(こそう)は盲目で母は頑固であった。弟の象は傲慢で横暴だったが、虞舜は深い孝行心を持ち父母を養うため歴山に行って耕作すると現地の人々は田の境界線を互いに譲り合い雷沢に下って漁をする時はその浜辺の人たちも住処を譲るようになった。河原で陶器を作るときには穴だらけにならない良品ばかりができた。虞舜が行く先々では二年経つと村が形成され三年目には都市になるほどの発展を見せたのは大勢の人々が彼の徳に慕われて集まってきたからである。 舜(=虞舜)は二十歳で孝行ぶりが天下に知れ渡ったため帝尭はこの人物に世の中を譲ろうと考えるようになった。まず内外においてその行動を見極めようと思い、娥皇・女英という二人の姫君(娘たち)を舜に嫁がせた。また堯自身の九人の息子も臣下として付かせ左右で慎重に見守らせたところ、二人の女性は高貴な身分でありながら夫に対して驕らず舜の母への仕え方にも全く違和感なく従ったし九人の男性たちも同様に礼儀正しく忠実だった。帝尭はいよいよ喜び倉庫や穀物・牛と羊・絹衣そして琴一張を授けた。 しかしこのように名声が高まり父母への孝行があったにもかかわらず継母は自分の子である象こそ世に出したいと思い込み猜疑心深くもっていたため瞽叟や象ら三人で共謀し何度も舜を殺そうと企てたのである。 解説1. 倫理的主題の深化構造: 2. 文学的技法と史実反映: 3. 歴史的連関性:
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| 舜是をしれ共父をも不恨、母をも弟をも不嗔、孝悌の心弥慎て、只父母の意に違へる事をのみ天に仰でぞ悲みける。或時瞽叟舜を廩の上に登せて屋を葺せけるに、母下より火を放て舜を焼殺さんとす。舜始より推したりしかば、兼て持たる二の唐笠を張て、其柄に取付て飛下にけり。瞽叟不安思ければ、又象と相謀て舜に井をぞ堀せける。是は井已に深く成たらん時、上より土を下して舜を乍生埋ん為也。堅牢地神も孝行の子を哀にや覚しけん、井の底より上ける土の中に半ば金ぞ交りたりける。瞽叟・弟の象共に欲心に万事を忘ければ、土を揚ける度毎に是を争ふ事限なし。其間に舜傍に匿穴をぞ堀たりける。井已に深く成ぬる時、瞽叟と象と共に土を下し大石を落して舜を埋ければ、舜潜に兼て堀し匿穴より逋出て己れが宮へぞ帰ける。舜如斯して生たりとは弟の象夢にも不知、帝尭より舜に給はりし財共を面々に分ち領じけるに、牛羊・倉廩をば父母に与へ二女と琴一張とをば象我物にすべしと相計ふ。象則琴を弾じて二女を愛せん為に、舜の宮に行たれば、舜敢て不死、二女は瑟を調べ、舜は琴を弾じて、優然としてぞ居たりける。象大に鄂て曰く、「我舜を已に殺しつと思て、鬱陶しつ。」と云て、誠に忸怩たる気色なれば、舜琴を閣て、其弟たる言ばを聞くがうれしさに、「汝さぞ悲く思ひつらん。 |
舜はこれらのことを知りながらも父を恨まず、母や弟に対して怒ることもなく孝行の心をさらに慎み深め、ただ両親の意に背いてしまったことだけを天に向かって嘆き悲しんだ。ある時、瞽叟(こそう)が舜を物置小屋の屋根に登らせて修繕させていると母は下から火をつけようとした。しかし舜は初めから警戒していたので持っていた二つの笠を広げ柄につかまって飛び降りた。 瞽叟が不安に思うと、今度は弟の象と共謀して井戸掘らせた。これは深くなったところで上から土砂を落として舜を生き埋めにするためだった。すると地神も孝行な子を哀れんだか、井戸底から上がる土に金が混ざっていた。瞽叟や象は欲に目がくらんで全て忘れてしまい土を取り出すたびに奪い合った。その間に舜はこっそり隠し穴を掘っておいたのだ。 井戸が深くなった時、二人で大量の土砂と大石を落として埋めたので舜は事前に掘っていた穴から脱出して自宅へ戻った。弟の象は舜が生きているとは夢にも知らず帝尭から下賜された財産分配会議では「牛や羊・倉庫は両親に、二人の姫と琴は俺の物だ」と言い張り早速二女をものにしようと舜のもとへ行くと驚いたことに舜が生存し彼らは悠然と演奏していた。象は愕然として「お前を殺したと思って胸苦しかったのに!」と言う後ろめたそうな様子を見て、舜は琴を置き弟の言葉を聞けた喜びでこう答えた。 解説1. 孝行思想の極致描写:
- 受動的抵抗の倫理: 2. 象徴的装置としての「脱出」:
- 三次元空間操作の寓意: 3. 歴史的投射性:
- 南北朝期後継者闘争との対応関係:
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| 」とてそゞろに涙をぞ流しける。斯し後も舜弥孝有て父母に事る道も不懈、弟を愛る心も不浅ければ、忠孝の徳天下に顕れて、帝尭遂に帝位を譲り給ひにけり。舜天子の位を践で世を治め給ふ事天に叶ひ地に随ひしかば、五日の風枝を不鳴十日の雨壌を破事なし。国富み民豊にして、四海其恩を仰ぎ、万邦其徳を頌せり。されば孔子も、尋於忠臣在孝子之門といへり。為父不孝ならん人、豈為君忠あらんや。天竺・震旦の旧き迹を尋るに、親のために道なければ忠あれども罪せらる。師子国の例是也。為父孝あれば賎しけれ共被賞。虞舜の徳是也。然に右兵衛佐直冬は父を亡さん為に君の命を仮んとす。君是を御許容有て大将の号を被許事旁以非道。山名伊豆守若此人を取立て大将とせば天下の大功を致さん事不可有。」と昨木の隠子朴翁が眉を顰て申けるが、果してげにもと被思知世に成にけり。 ○直冬上洛事付鬼丸鬼切事 南方に再往の評定有て、足利右兵衛佐直冬を大将として京都を可攻由、綸旨を被成ければ、山名伊豆守時氏・子息右衛門佐師氏、五千余騎の勢を卒して、文和三年十二月十三日伯耆国を立給ふ。山陰道悉順付て兵七千騎に及びしかば、但馬国より杉原越に播磨へ打て出、先宰相中将義詮の鵤の宿にをはするをや打散す、又直に丹波へ懸て、仁木左京太夫頼章が佐野の城に楯篭て、我等を支へんとするをや打落すと、評定しける処へ、越中の桃井播磨守直常・越前修理大夫高経の許より飛脚同時に到来して、只急ぎ京都へ攻上られ候へ。 |
そう言ってむやみに涙を流した。この後も舜はますます孝行深く両親への仕え方にも怠らず弟を愛する心も薄れなかったため忠孝の徳が天下に明らかになり帝尭はついに天子の位をお譲りになった。舜が天子となって世の中を治めたことは天と地に調和したので五日間風吹いて枝鳴らず十日雨降っても土地崩れることなしという平和状態となり国豊かに民潤い四海の人々がその恩恵にすがり万国の人も徳を称えた。だから孔子は忠臣を尋ねるなら孝子の門にあると言ったのだ。父への不孝な者がどうして君主に対して忠義を持ち得ようか。インドや中国の古い事例を見ると親のために道理ある行動(孝行)しなければたとえ忠誠があっても罰せられる例がある。獅子国息子がそうだ。逆に父へ孝行すれば身分低くとも賞される虞舜のような徳こそ正しい。 ところで右兵衛佐直冬は父を亡き者にするために天皇の命令(綸旨)を偽ろうとしたのにこれを許して大将軍職を与えたことは全くもって道理に反している。山名伊豆守時氏がもしこの人物を取り立てて大将とするなら天下平定という大功績などあり得ない」と隠居した朴翁は眉をひそめて言ったが果たしてその通りだと世間でも理解されるようになった。 ○直冬上洛の件および鬼丸・鬼切(刀)に関する記述 解説1. 倫理構造の歴史的展開:
- 孝行論理の政治化:
舜物語(前段)→孔子引用→直冬批判と連続し、儒教的「忠孝一体説」(『孝経』広揚名章)を基盤に現実政策を評価。当時問題視された1351年足利尊氏による高師直処刑が「親殺し」の例として暗喩。
- 天候平和描写の意図: 2. 直冬上洛描写の現実性:
- 軍事行動詳細の意味: 3. 作品構造的特徴:
- 物語断絶技法:
○印以降「直冬上洛事付鬼丸...」で突然戦記体へ移行。これは太平記全巻の特徴的構成法で、説話的教訓(舜)から現実軍事描写への急転換により読者の倫理的判断を促す。
- 飛脚到着場面の緊迫感:
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| 北国の勢を引て、同時に可攻上由を牒せられける間、さらば夜を日に継で上んとて、山名父子七千六百余騎、前後十里に支て丹波国を打通るに、仁木左京大夫頼章当国の守護として敵を支ん為に在国したる上、今は将軍の執事として勢ひ人に超たれば、丹波国にて定て火を散す程の合戦五度も十度もあらんずらんと覚へけるに、敵の勇鋭を見て戦ては中々叶はじとや思ひけん、遂に矢の一をも不射懸して城の麓をのさ/\と通しければ、敵の嘲るのみならず天下の口遊とぞ成にける。都に有とある程の兵をば義詮朝臣に付て播磨へ被下、遠国の勢は未上らず。将軍僅なる小勢にて京中の合戦は中々悪かりぬと、思慮旁深かりければ、直冬已に大江山を超ると聞へしかば、正月十二日の暮程に、将軍主上を取奉て江州武作寺へ落給ふ。抑此君御位に即せ給て後、未三年を不過、二度都を落させ給ひ、百官皆他郷の雲に吟ひ給ふ、浅猿かりし世中なり。去程に同十三日、直冬都に入給へば、越中の桃井・越前修理大夫、三千余騎にて上洛す。直冬朝臣此七八箇年、依継母讒那辺這辺漂泊し給つるが、多年の蟄懐一時に開けて今天下の武士に仰れ給へば、只年に再び花さく木の、其根かるゝは未知、春風三月、一城の人皆狂するに不異。抑山名伊豆守は、若狭所領の事に付て宰相中将殿に恨あり。 |
北陸地方の軍勢を率いて同時に攻め上るべきだとの通達があったため、山名父子は七千六百余騎もの兵を前後に十里にもわたって配置し丹波国へ進撃した。仁木左京大夫頼章がこの国の守護として敵を防ぐために在陣しているうえ、今や将軍の執事として勢力が群を抜いていたので、「丹波では火花が散るほどの戦いが五度も十度も起こりそうだ」と思われた。しかし彼らは攻め手の強さを見て「戦っても到底かなわないだろう」と考えたらしく、ついに一本の矢も放たず城の麓を悠々と通り過ぎさせたため、敵に嘲笑されるだけでなく世間の笑いものとなった。 京都にいた兵力の大半は義詮朝臣のもとに従えて播磨へ下向し、地方からの援軍はまだ到着していない。将軍(足利尊氏)はわずかな手勢で京都市中での戦いは非常に不利だと深く思慮した結果、直冬がすでに大江山を越えたとの報せがあったため正月十二日の夕暮れ時、主上(後光厳天皇)をお守りして近江国武佐寺へ落ち延びられた。そもそもこの君主が即位されてから三年も経たぬうちに二度も都を追われ、朝廷百官は皆よそで嘆き悲しまれる――実に痛ましい世の中であった。 こうした中正月十三日、直冬が入京すると越中の桃井・越前修理大夫ら三千余騎も上洛した。直冬公はここ七~八年、継母の讒言のためにあちこち流浪されていたが、長年の鬱屈が一気に解けて今や天下の武士を指揮される様子は「枯れ木に再び花が咲く」と言うべきだった(ただし根元が腐っていないか不明なのは春風三月に町中が狂騷するのに似ている)。ところで山名伊豆守時氏には若狭国の領地問題について宰相中将殿(足利義詮)に対する恨みがあった。 解説1. 軍事行動の劇的転換描写:
- 心理戦術の顕現: 2. 政治的諷刺要素:
- 天皇流亡の痛烈批判: 3. 伏線としての山名時氏:
- 個人的怨恨の政治化:
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| 桃井播磨守は、故高倉禅門に属して望を不達憤あれば、此両人の敵に成給ひぬる事は少し其謂も有べし。尾張修理大夫高経は忠戦自余の一門に超しに依て、将軍も抽賞異于他にして世其仁を重くせしかば、何事に恨有べし共覚ぬに、俄に今敵に成て将軍の世を傾んとし給ふ事、何の遺恨ぞと事の起りを尋ぬれば、先年越前の足羽の合戦の時、此高経朝敵の大将新田左中将義貞を討て、源平累代の重宝に鬼丸・鬼切と云二振の太刀を取給ひたりしを、将軍使者を以て、「是は末々の源氏なんど可持物に非ず、急ぎ是を被渡候へ。当家の重宝として嫡流相伝すべし。」と度々被仰けるを、高経堅く惜て、「此二振の太刀をば長崎の道場に預置て候しを、彼道場炎上の時焼て候。」とて、同じ寸の太刀を二振取替て、焼損じてぞ出されける。此事有の侭に京都へ聞へければ、将軍大に忿て、朝敵の大将を討たりつる忠功抜群也といへ共さまでの恩賞をも不被行、触事に面目なき事共多かりける間、高経是を憤て、故高倉禅門の謀叛の時も是に与し、今直冬の上洛にも力を合て、攻上り給ひたりとぞ聞へける。抑此鬼丸と申太刀は、北条四郎時政天下を執て四海を鎮めし後、長一尺許なる小鬼夜々時政が跡枕に来て、夢共なく幻共なく侵さんとする事度々也。 |
桃井播磨守は亡き高倉禅門(北朝側の武将)に従いながら願いが叶わず憤慨していたため、この両者が敵対したことにも幾分理由があるといえる。尾張修理大夫・斯波高経は忠義心で他の一門を凌ぐ戦功があったので、将軍(足利尊氏)も特別な褒賞を与え世間がその人徳を重んじていたのに、何の恨みがあろうかと思われたところ、突然敵方に転じて将軍の天下を傾けようとした。この事の発端を探ると、かつて越前国足羽での合戦で高経は朝敵(南朝)の大将・新田義貞を討ち取り、源平代々の重宝である「鬼丸」「鬼切」と呼ばれる二振りの太刀を得たところだった。将軍が使者を通じて「これは末流の源氏などが持つべき物ではない。急いで渡すように。我ら足利家の嫡流相伝の重宝とするのだ」と繰り返し命じられたのに、高経は頑なに惜しみ、「この二振りの太刀は長崎の道場へ預けてあったが同所火災時に焼失した」と言い、同じ寸法の偽物を損傷させて差し出した。これが京都で知れ渡ると将軍は激怒し、朝敵大将討伐という抜群の忠功にもかかわらず相応の恩賞を与えず、むしろ些細なことで面目をつぶす処置ばかり取ったため、高経はこれを恨みに思って故・高倉禅門謀反時も加担した。そして今度は直冬入京(南朝勢力)にも協力して攻め上ったと伝えられた。 そもそもこの鬼丸という太刀について述べると、北条四郎時政が天下を掌握し四海平定後、身長一尺ほどの小鬼が毎晩彼の枕元に現れ夢でも幻覚でもなく侵そうとする事件が頻発した。 解説1. 謀反動機の複合性: 2. 宝刀伝説の政治寓意:
- 権威象徴としての神器: 3. 超自然的エピソードの機能:
- 小鬼出現伝承:
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| 修験の行者加持すれ共不休。陰陽寮封ずれ共不立去。剰へ是故時政病を受て、身心苦む事隙なし。或夜の夢に、此太刀独の老翁に変じて告て云く、「我常に汝を擁護する故に彼夭怪の者を退けんとすれば、汚れたる人の手を以て剣を採りたりしに依て、金精身より出て抜んとすれ共不叶。早く彼夭怪の者を退けんとならば、清浄ならん人をして我身の金清を拭ふべし。」と委く教へて、老翁は又元の太刀に成ぬとぞ見たりける。時政夙に起て、老翁の夢に示しつる如く、或侍に水を浴せて此太刀の金精を拭はせ、未鞘にはさゝで、臥たる傍の柱にぞ立掛たりける。冬の事なれば暖気を内に篭んとて火鉢を近く取寄たるに、居たる台を見れば、銀を以て長一尺許なる小鬼を鋳て、眼には水晶を入、歯には金をぞ沈めたる。時政是を見るに、此間夜な/\夢に来て我を悩しつる鬼形の者は、さも是に似たりつる者哉と、面影ある心地して守り居たる処に、抜て立たりつる太刀俄に倒れ懸りて、此火鉢の台なる小鬼の頭をかけず切てぞ落したる。誠に此鬼や化して人を悩しけん、時政忽に心地直りて、其後よりは鬼形の者夢にも曾て見へざりけり。さてこそ此太刀を鬼丸と名付て、高時の代に至るまで身を不放守りと成て平氏の嫡家に伝りける。 |
修験者が加持祈祷を行っても止まず、陰陽寮が封印しても去らなかった。さらにこのため時政は病にかかり心身の苦しみに隙間もないほどだった。ある夜の夢で、その太刀が一人の老翁に姿を変えて告げた。「私は常にお前を守護しているのだが、あの小妖怪(小鬼)を退治しようとして汚れた者の手で剣を持ったせいで、霊力が損なわれ抜くことができなくなっている。早くあの怪物を追い払いたければ清浄な人間に私の刀身を磨かせるように」と詳しく教えると老翁は元の太刀に戻った。 時政は夜明け前に起きて夢で示された通り、ある家臣に水浴びさせた後その者に太刀を磨かせ鞘には収めず寝床脇の柱へ立て掛けた。冬のことだったので暖を取りたく火鉢を近く寄せると台座部分を見れば銀製の一尺ほどの小鬼像が鋳造され、目は水晶で歯には金が埋めてあった。時政が見ていると「夜な夜な夢に現れて苦しめた妖怪はまさしくこれだ」と思い当たり見守っているうち立て掛けた太刀が突然倒れかかり火鉢台の小鬼像の首を寸分違わず切り落とした。確かにこの鬼が化けて人を悩ませたのだろう時政はたちまち体調回復し以降妖怪は夢にも現れなくなった。こうしてこの太刀を「鬼丸」と名付け北条高時の代まで手放さず平氏嫡流の家宝として伝わったのである。 解説1. 霊剣伝説の構造分析:
- 浄化儀礼の重要性: 2. 歴史的リアリティ:
- 北条時政病悩記事: 3. 前段との文脈的連結:
- 斯波高経事件との対比構図:
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| 相摸入道鎌倉の東勝寺にて自害に及ける時、此太刀を相摸入道の次男少名亀寿に家の重宝なればとて取せて、信濃国へ祝部を憑て落行。建武二年八月に鎌倉の合戦に打負て、諏防三河守を始として宗との大名四十余人大御堂の内に走入、顔の皮をはぎ自害したりし中に此太刀有ければ、定相摸次郎時行も此中に腹切てぞ有らんと人皆哀に思合へり。其時此太刀を取て新田殿に奉る。義貞不斜悦て、「是ぞ聞ゆる平氏の家に伝へたる鬼丸と云重宝也。」と秘蔵して持れける剣也。是は奥州宮城郡の府に、三の真国と云鍜冶、三年精進潔斎して七重にしめを引、きたうたる剣なり。又鬼切と申は、元は清和源氏の先祖摂津守頼光の太刀にてぞ有ける。其昔大和国宇多郡に大森あり。此陰に夜な/\妖者有て、往来の人を採食ひ、牛馬六畜を掴裂く。頼光是を聞て、郎等に渡辺源五綱と云ける者に、彼の妖者討て参れとて、秘蔵の太刀をぞたびたりける。綱則宇多郡に行き甲胃を帯して、夜々件の森の陰にぞ待たりける。此妖者綱が勢にや恐たりけん、敢て眼に遮る事なし。さらば形を替て謀らんと思て、髪を解乱して掩ひ、鬘をかけ、かね黒に太眉を作り、薄衣を打かづきて女の如くに出立て、朧月夜の明ぼのに、森の下をぞ通りける。俄に空掻曇て、森の上に物の立翔る様に見へけるが、虚空より綱が髪を掴で中に提てぞ挙たりける。 |
相模入道(北条高時)が鎌倉の東勝寺で自害した際、この太刀を次男・亀寿丸へ「家の重宝だから」と渡し、信濃国へ神官に託して落ち延びさせた。建武二年八月の鎌倉合戦で敗れた時、諏訪三河守ら北条一族四十余名が大御堂に入り顔面を削ぎ自害した中にこの太刀があったため、人々は「相模次郎時行もここで切腹したのだろう」と互いに哀れんだ。その際この太刀を取り上げ新田義貞へ献上された。義貞は大変喜び「噂の平家伝来の重宝・鬼丸というものだな」と言い、秘蔵品として所持した剣である。 これは奥州宮城郡で鍛冶匠・三真国が三年間精進潔斎し七重注連縄を張って打ち固めた名刀であった。また「鬼切」と称する方は元来清和源氏の祖・摂津守頼光の太刀だった。昔大和国宇多郡に広い森があり、その陰で夜ごと妖怪が出没し通行人や牛馬を捕食していた。頼光はこれを聞き家臣の渡辺綱(源五)へ「あの妖物を討ち取れ」と言い秘蔵太刀を与えた。綱が宇多郡へ赴き甲冑着て夜毎森陰で待つと、妖怪は彼の威勢に恐れたか現れない。「ならば姿を変えよう」と考え髪を乱し鬘・厚化粧で女装し薄衣を被り、朧月明け方に森下を通ると突然空が曇り虚空から物が飛来し綱の髪をつかんで持ち上げた。 解説1. 歴史的事件と刀剣伝承の融合:
- 東勝寺自害の史実的描写: 2. 二振宝刀の起源対比:
- 鬼丸の神聖性強調: 3. 前二段との連続的意義:
- 刀剣を軸とした歴史解釈:
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| 綱、頼光の許より給りたる太刀を抜て、虚空を払斬にぞ切たりける。雲の上に唖と云声して、血の颯と顔に懸りけるが、毛の黒く生たる手の、指三有て爪の鉤たるを、二の腕よりかけず切てぞ落しける。綱此手を取て頼光に奉る。頼光是を秘して、朱の唐櫃に収て置れける後、夜々をそろしき夢を見給ける間、占夢の博士に夢を問給ければ、七日が間の重き御慎とぞ占ひ申ける。依之堅門戸を閉て、七重に七五三を引四門に十二人の番衆を居て、毎夜宿直蟇目をぞ射させける。物忌已に七日に満じける夜、河内国高安の里より、頼光の母義をはして門をぞ敲せける。物忌の最中なれ共、正しき老母の、対面の為とて渺々と来り給たれば、力なく門を開て、内へいざなひ入奉て、終夜の酒宴にぞ及びける。頼光酔に和して此事を語り出されたるに、老母持たる盃を前に閣き、「穴をそろしや、我傍の人も此妖物に取れて、子は親に先立、婦は夫に別れたる者多く候ぞや。さても何なる者にて候ぞ。哀其手を見ばや。」と被所望ければ、頼光、「安き程の事にて候。」とて、櫃の中より件の手を取出して老母の前にぞ閣ける。母是を取て、暫く見る由しけるが、我右の手の臂より切られたるを差出して、「是は我手にて候ける。」と云て差合、忽に長二丈計なる牛鬼と成て、酌に立たりける綱を左の手に乍提、頼光に走蒐りける。 |
綱は頼光から賜った太刀を抜いて虚空へ払い斬りつけた。雲上で「あっ」という声がし血が飛び散る中、黒毛の生えた三本指に鉤爪のある腕を肩元から切り落とした。綱はこの腕を持ち帰り頼光へ献上した。 頼光はこれを秘かに朱塗りの唐櫃に収めた後、毎晩恐ろしい夢を見たので占い師に相談すると「七日間の厳重な物忌が必要」と告げられた。これにより門戸を固く閉ざし七重注連縄(※1)を張り四門には十二人の警護を配して毎夜蟇目矢(※2)を射させた。 物忌期間が満了する前夜、河内国高安の里から頼光の母と称す老女が訪れた。物忌中ではあったが本物の母親のように見えたため門を開け酒宴をもてなしたところ、酔った頼光が腕の話をすると老女は盃を置き「私の身近でもこの妖怪で親より先立つ子や夫婦別れる者が多い。その手を見せよ」と懇願した。 頼光が簡単なことだと唐櫃から取り出すと、彼女は自らの右腕切断面を示し「これこそ私の腕だ」と言い残り突然二丈(約6m)ほどの牛鬼に変身。酌をしていた綱をつかみ頼光へ襲いかかった。 解説1. 妖怪退治劇の構造的特徴:
- 禁忌破りの悲劇性: 2. 儀礼装置の歴史的背景:
- ※1七重注連縄: 3. 前段との物語的連関:
- 鬼切太刀の真価証明:
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| 頼光件の太刀を抜て、牛鬼の頭をかけず切て落す。其頭中に飛揚り、太刀の鋒を五寸喰切て口に乍含、半時許跳上り/\吠忿りけるが、遂には地に落て死にけり。其形は尚破風より飛出て、遥の天に上りけり。今に至るまで渡辺党の家作に破風をせざるは此故也。其比修験清浄の横川の僧都覚蓮を請じ奉て、壇上に此太刀を立、七五三を引、七日加持し給ければ、鋒五寸折たりける剣に、天井よりくりから下懸て鋒を口にふくみければ、乍に如元生出にけり。其後此の太刀多田満仲が手に渡て、信濃国戸蔵山にて又鬼を切たる事あり。依之其名を鬼切と云なり。此太刀は、伯耆国会見郡に大原五郎太夫安綱と云鍜冶、一心清浄の誠を至し、きたひ出したる剣也。時の武将田村の将軍に是を奉る。此は鈴鹿の御前、田村将軍と、鈴鹿山にて剣合の剣是也。其後田村丸、伊勢大神宮へ参詣の時、大宮より夢の告を以て、御所望有て御殿に被納。其後摂津守頼光、太神宮参詣の時夢想あり。「汝に此剣を与る。是を以て子孫代々の家嫡に伝へ、天下の守たるべし。」と示給ひたる太刀也。されば源家に執せらるゝも理なり。 ○神南合戦事 去程に、将軍は持明院の主上を守護し奉て、近江国四十九院に落止り、宰相中将義詮朝臣は西国より上洛せんずる敵を支へん為に、播磨の鵤に兼て在庄し給ひたりと聞へしかば、土岐・佐々木・仁木右京大夫義長、三千余騎にて四十九院へ馳参る。 |
頼光はその太刀を抜き牛鬼の頭部を切り落とした。頭は宙に舞い上がり、刃先5寸(約15cm)を噛み切って口にくわえたまま跳ね回ったが、やがて地面へ墜ちて絶命した。胴体は屋根から空高く飛び去ったため、今も渡辺党の家系では破風(※1)を作らないという。 その後清浄な修験僧・横川僧都覚蓮を招き、太刀を祭壇に立て注連縄を張り7日間祈祷したところ、刃先5寸が欠けた部分へ天井から金剛杵(仏具)が降り口にくわえていたため元通り再生した。この後太刀は多田満仲へ渡り信濃国戸隠山で再び鬼を斬ったので「鬼切」と呼ぶようになった。 この宝剣は伯耆国の鍛冶・大原安綱が清らかな心で打ち上げ、田村将軍(坂上田村麻呂)へ献じたものである。後に田村丸(田村麻呂子孫か)の伊勢神宮参詣時に神託により奉納され、さらに頼光が参拝した際に夢告で「源氏嫡流に伝え天下を守護せよ」と授けられた由緒ある刀であった。ゆえに源家が所持するのも道理である。 ○神南合戦事 解説1. 神器伝承の三重構造: 2. 建築禁忌の民俗学的意義(※1破風): 3. 歴史場面転換の必然性:
(※注釈:現代語訳における主な調整点) |
| 四国・西国の兵二万余騎、鵤へ馳集る。畠山尾張守も東八箇国の勢を率して、今日明日の程に参著仕るべしと、飛脚及度度由申されければ、将軍父子の御勢、只竜の天に翔て雲を起し、虎の山に靠て風を生が如し。東西の牒使相図の日を定めければ、将軍は三万余騎の勢にて、二月四日東坂本に著給ふ。義詮朝臣は七千余騎にて、同日の早旦に、山崎の西、神南の北なる峯に陣を取給ふ。右兵衛佐直冬も始は大津・松本の辺に馳向て合戦を致さんと議せられけるが、山門・三井寺の衆徒、皆将軍に志を通ずる由聞へければ、只洛中にして東西に敵を受て繕て合戦をすべしとて、一手は右兵衛佐直冬を大将にて、尾張修理大夫高経・子息兵部少輔・桃井播磨守直常・土岐・原・蜂屋・赤松弾正少弼、其勢都合六千余騎、東寺を攻の城に構へて、七条より下九条まで家々小路々々に充満たり。一手は山名伊豆守時氏・子息右衛門佐師氏を大将にて、伊田・波多野・石原・足立・河村・久世・土屋・福依・野田・首藤沢・浅沼・大庭・福間・宇多河・海老名和泉守・吉岡安芸守・小幡出羽守・楯又太郎・加地三郎・後藤壱岐四郎・倭久修理亮・長門山城守・土師右京亮・毛利因幡守・佐治但馬守・塩見源太以下其勢合て五千余騎、前に深田をあて、左に河を堺て、淀・鳥羽・赤井・大渡に引分々々陣を取る。 |
四国や西国の兵2万余騎が鵤(いかるが)へ駆け集まった。畠山尾張守も東八カ国の軍勢を率いて今日か明日には到着する予定だと、早馬で度々連絡があったため、将軍父子の勢力はあたかも龍が天に舞って雲を起こし虎が山にもたれて風を生むかのような威勢だった。東と西からの使者が合戦の日取りを取り決めたところ、尊氏(将軍)は3万余騎で2月4日に坂本へ到着し、義詮朝臣は7千余騎で同日早朝に山崎の西側・神南の北にある峰に陣を布いた。 足利直冬(右兵衛佐)は当初、大津や松本周辺へ進軍して戦おうと計画していたが、比叡山延暦寺や園城寺(三井寺)の僧兵たち全員が尊氏側につくと聞き、ただ京都内で東西から敵を迎え撃つべく準備した。一手は直冬を大将として高経親子・桃井直常ら6000余騎が東寺に籠城し七条通から九条通まで家屋や小路に充満させた。もう一手は山名時氏父子を大将とし、伊田波多野以下5000余騎が前方の深い湿地帯に対峙し左側には川を境界として淀・鳥羽・赤井・大渡りへ分かれて陣を敷いた。 解説1. 戦局展開の三段階構造: 2. 武将列挙の歴史的重要性: 3. 前文との物語的連関性:
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| 河より南には、四条中納言隆俊・法性寺右衛門督康長を大将として、吉良・石堂・原・蜂屋・赤松弾正少弼・和田・楠・真木・佐和・秋山・酒辺・宇野・崎山・佐美・陶器・岩郡・河野辺・福塚・橋本を始として、吉野の軍兵三千余騎、八幡の山下に陣を取る。山名右衛門佐師氏、始の程は待て戦んとて議したりけるが、神南の敵さまでの大勢ならずと見すかして、日来の議を翻して、八幡に引へたる南方の勢と一に成て、先神内の宿に打寄り、楯の板をしめし、馬の腹帯を堅めて二の尾よりあげたり。此陣始より三所に分れて、西の尾崎をば、赤松律師則祐・子息弥次郎師範・五郎直頼・彦五郎範実・肥前権守朝範、並佐々木佐渡判官入道々誉が手者・黄旗一揆、彼是合て二千余騎にて堅めたり。南の尾崎をば、細河右馬頭頼之・同式部大輔、西国・中国の勢相共に、二千余騎堅めたり。北に当りたる峯には、大将義詮朝臣の陣なれば、道誉・則祐以下老武者、頭人・評定衆・奉行人、其勢三千余騎、油幕の内に布皮を敷き双べ、袖を連て並居たり。嶮き山の習として、余所はみへて麓は不見。何れの陣へか敵は先蒐らんと、遠目仕ふて守り居たる所に、山名右衛門佐を先として、出雲・伯耆の勢二千余騎、西の尾崎へ只一息に懸上て、一度に時をどつと作る。 |
河川より南側には四条隆俊・法性寺康長を大将として吉良以下20余氏族の兵を含む南朝(吉野方)3千余騎が八幡山麓に布陣した。山名師氏は当初待機作戦を考えていたが、神南峯の敵軍が予想より少ないと見て方針転換し、八幡の部隊と合流して急襲態勢に入った。 この時尊氏軍(義詮側)陣営は三方向に分かれて防御していた。西尾崎には赤松則祐父子・佐々木道誉ら「黄旗一揆」連合2千余騎、南尾崎には細川頼之兄弟率いる中国地方部隊2千余騎が配置された。北の峯本陣では義詮を中心に道誉や老練武将3千余騎が油幕(将軍用天幕)を張り警戒態勢を敷いていた。 そこへ山名師氏が出雲・伯耆兵2千余騎を率いて西尾崎めがけ一気呵成に攻め上り、鬨の声をあげた。 解説1. 戦術転換における心理描写の精緻さ: 2. 陣形配置の空間的象徴性: 3. 武将名鑑の歴史的価値:
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| 分内狭き両方の峯に馬人身を側むる程に打寄たれば、互に射違るこみ矢のはづるゝは一もなし。爰に播磨国の住人後藤三郎左衛門尉基明と云ける強弓の手垂れ、一段高き岩の上に走り上て、三人張りに十四束三伏、飽まで引て放けるに、楯も物具もたまらねば、山名が兵共進かねて、少し白うてぞ見へたりける。是を利にして、佐々木が黄旗一揆の中より、大鍬形に一様の母衣懸たる武者三人、己が結たる鹿垣切て押破り、「日本一の大剛の者、近江国の住人江見勘解由左衛門尉・蓑浦四郎左衛門・馬淵新左衛門、真前懸て討死仕るぞ。死残る人あらば語て子孫に名を伝へよ。」と声々に名乗呼はて、斬死にこそ死にけれ。後藤三郎左衛門尉基明・一宮弾正左衛門有種・粟飯原彦五郎・海老名新左衛門四人、高声に名乗て川を渡し城へ切て入。「合戦こそ先懸は一人に定まれ。加様の広みの軍には、敵と一番に打違たるを以て先懸とは申すぞ。御方に一人も死残る人あらば、証拠に立てたび候へ。」と呼はて、寄手数万の中へ只四人切て入る。右衛門佐大音声を揚て、「前陣戦労れて見ゆるぞ。後陣入替てあの敵討。」と下知すれば、伊田・波多野の早雄の若武者共、二十余人馬より飛下飛下、勇々で抜連て渡合ふ。後ろには数万の敵、「御方つゞくぞ引な。 |
狭い両峰に敵味方がひしめき合う中で戦闘が始まると、双方が射交わす矢が外れることは皆無であった。ここで播磨出身の弓の名手・後藤基明(三郎左衛門尉)が一段高い岩上へ駆け上がり、三人分の力で十四束三伏という強弓を最大限引き絞って放つと、盾も鎧も耐えられず山名軍は前進できなくなり、兵士たちの顔色が青ざめて見えた。 この隙に佐々木道誉配下の「黄旗一揆」から、大鍬形兜を着け同型母衣をつけた三人の武者が自ら築いた鹿垣(防御柵)を切り破り突進。「日本一の剛の者・近江出身の江見勘解由左衛門尉/蓑浦四郎左衛門/馬淵新左衛門だ!真っ向から討死するぞ。生き残った者がいれば子孫に我らの名を伝えよ!」と名乗りながら斬り込んで戦死した。 続いて後藤基明・一宮有種(弾正左衛門)・粟飯原彦五郎・海老名新左衛門の四人が「先陣は通常単独で争うものだが、この大規模合戦では敵と真っ先に刃を交えた者こそ先駆けと呼ぶ!生き残った者は証人たれ!」と叫び川を渡り城へ斬り込んだ。 これを見た山名師氏(右衛門佐)は大声で「前陣が疲れたぞ、後続部隊と交代せよ」と指令すると、伊田・波多野麾下の若武者二十余人が馬から飛び降り次々に抜刀して突撃。背後には数万の敵兵が迫る中、「味方も続く!退くな!」との声が上がった。 解説1. 個人武勇と集団戦術の融合描写: 2. 「死出の先駆け」儀礼的構造: 3. 前段階との戦況発展性:
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| 」と力を合て喚き叫ぶ。前には五十余人の者共颯と入乱れて切合ふ。太刀の鐔音鎧突、山彦に響き暫も休時なければ、山岳崩て川谷を埋むかとこそ聞へけれ。此時後藤三郎左衛門已下、面に立程の兵五十余人討れにけり。二陣の南尾をば、細河右馬頭・同式部大輔大将にて、四国・中国の兵共が二千余騎にて堅めたりけるが、此は殊更地僻り谷深く切れて、敵の上べき便なしと思ける処、山名伊豆守を先として小林民部丞・小幡・浅沼・和田・楠、和泉・河内・但馬・丹後・因幡の兵共三千余騎にて、さしも岨き山路を盤折にぞ上たりける。此陣には未鹿垣の一重も結ざれば、両方時の声を合せて矢一筋射違る程こそ有けれ。軈て打物に成て乱合ふ。先一番に進で戦ける四国勢の中に、秋間兵庫助兄弟三人・生稲四郎左衛門一族十二人一足も引かで討れにけり。是を見て坂東・坂西・藤家・橘家の者共少し飽んで見へけるを、備前国住人須々木三郎左衛門父子兄弟六人入替て戦けるが、つゞく御方なければ是も一所にて討れにけり。是より一陣二陣共に色めき、兵しどろに見へけるを、小林民部丞得たり賢しと、勝に乗て短兵急に拉んと、揉に揉で責ける間、四国・中国の三千余騎、山より北へまくり落されて、遥に深き谷底へ、人雪頽をつかせて落重なれば、敵に逢て討死する者は少しといへ共、己が太刀・長刀に貫れて死する兵数を不知。 |
兵士たちは声を揃えて「味方も続くぞ!退くな!」と叫んだ。前線では五十人余りの戦士が一気に乱入して斬り合い、刀鍔の打ち鳴らす音や甲冑の衝突音が山彦(こだま)として響き渡り、一時も休む間がないため、まるで山々が崩れて渓谷を埋めるかのような轟音に聞こえた。この時点で後藤基明(三郎左衛門尉)以下前線の兵士五十余人は討ち死にしてしまった。 一方、第二陣である南山尾には細川頼之(右馬頭)とその弟らを大将とする四国・中国地方からの部隊二千余騎が守備していた。この場所は特に地形が僻遠で谷深く切り立っていたため敵の攻撃を受けにくいと考えられていたところ、山名伊豆守率いる軍勢―小林民部丞や小幡・浅沼らと和泉・河内・但馬・丹後・因幡からの兵三千余騎が険しい山道を蛇行しながら登ってきた。この陣地はまだ防御柵(鹿垣)すら設置していなかったため、両軍鬨の声を上げて矢撃ち合戦となったもののすぐに白刃戦へ移り乱闘状態になった。 先鋒として突入した細川方四国勢の中で秋間兵庫助兄弟三人と生稲四郎左衛門一族十二人は一歩も退かず全滅し、これを見た関東・近畿出身の武士たちは戦意が萎えているように見えた。そこへ備前国の須々木三郎左衛門父子兄弟六人が代わりに突撃したものの後続部隊が来なかったため彼らも同地点で全滅した。 ここにおいて細川軍第一陣・第二陣とも動揺し兵士は混乱状態に見えたので、山名側の小林民部丞は「好機到来」とばかり勝ちに乗じて短兵急に殲滅を図り激しく圧迫した結果、四国・中国連合三千余騎は山から北方へ蹴落とされ遥か深い谷底めがけ雪崩のように転げ落ちた。敵との戦闘で討死した者は少なかったものの自軍の刀や長柄武器に貫かれ踏み潰されて死亡する兵士の数は計り知れなかった。 解説1. 音響描写による臨場感創出: 2. 地形と防衛弱体化が招く悲劇: 3. 玉砕描写に見る武士道美学: 4. 戦術的機転の歴史的背景:
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| 是を見て山名右衛門佐弥気に乗て真前に進む上は、相順ふ兵共誰かは少しも擬議すべき、我先に敵に合んと争ひ前まずと云者なし。中にも山名が郎等、因播国の住人に福間三郎とて、世に名を知れたる大力の有けるが、七尺三寸の太刀だびら広に作りたるを、鐔本三尺計をいて蛤歯に掻合せ、伏縄目の鎧に三鍬形打たる甲を猪頚に著なし、小跳して片手打の払切に切て上りけるに、太刀の歯に当る敵は、どう中諸膝かけて落され、太刀の峯に当る兵は、或は中にづんど打上られ、或尻居にどうど打倒されて、血を吐てこそ死にけれ。両陣已に破し後、兵皆乱て、惣大将の御勢と一所にならんと、崩れ落て引ける間、伊田・波多野の者共、「余すな洩すな。」と喚き叫で追懸たり。石巌苔滑かにして荊棘道を塞たれば、引者も不延得返す兵敢て不討云事なし。赤松弥次郎・舎弟五郎・同彦五郎三人引留りて、「此を返さで引程ならば、誰かは一人可生残。命惜くは返せや殿原、返せや一揆の人々。」と恥しめて罵けれ共、蹈留る者無りければ、小国播磨守・伊勢左衛門太郎・疋壇藤六・魚角大夫房・佐々木弾正忠・同能登権守・新谷入道・薦田弾正左衛門・河勾弥七・瓶尻兵庫助・粟生田左衛門次郎、返合々々所々にて討れにけり。河原兵庫助重行は、今度の軍に打負ば、必討死せんと兼て思儲けるにや、敵の已に押寄んと方々より打寄るを見て申けるは、「今日の合戦は我身独の喜び哉。 |
この状況を見て山名時熙(右衛門佐)は勢いに乗って最前線に進み出たが、従う兵士たちのうち躊躇する者など一人もおらず、「我先に敵と戦わん」と争って突き進んだ。特に山名家臣で因幡国出身の福間三郎という世に名高い大力の持ち手は、七尺三寸(約2.2m)もある幅広の太刀を用意し、鍔元から三尺ほどを両手で握り蛤のように組み合わせた姿勢で、伏せ縄目の鎧と三鍬形を打った兜をつけていた。彼が小躍りして片手振りの払い斬りで切り込むと、太刀の刃に当たった敵は真っ二つに割れて膝から崩れ落ち、峰(背)部分に叩かれた兵士たちは空中へ跳ね上げられたり尻餅をついて倒され吐血して死亡した。 両軍が既に混乱状態となり敗走する味方の兵全体が総大将本隊と合流しようとして後退する中、伊田・波多野勢が「一人も逃すな!」と叫びながら追撃した。岩場は苔で滑りやすく茨が道を塞いだため、撤退中の兵士は進退窮まり討たれない者は皆無だった。赤松貞範(弥次郎)と弟の五郎・彦五郎の三人が踏み止まって「このまま逃げれば誰一人生き残れぬ!命惜しけりゃ戻れ諸君!」と叱咤したが立ち向かう者はいなかったため、小国師治(播磨守)以下伊勢祐忠・疋田藤六ら十一名の武将は各所で反転応戦して全員討死した。 河原重行(兵庫助)は「今回敗北なら必ず自害する」と予め覚悟していたようで、四方から押し寄せる敵を見てこう叫んだ。「今日の合戦こそ我が身ひとりの喜びである!」 解説1. 武将描写における誇張的表現: 2. 敗走心理と指揮系統崩壊の構造: 3. 河原重行台詞の思想的背景:
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| 元暦の古へ、平家一谷に篭りしを攻し時、一の城戸生田森の前にて、某が先祖河原大郎・河原次郎二人、城の木戸を乗越て討死したりしも二月也。国も不替月日も不違、重行同く討死して弥先祖の高名を顕さば、冥途黄泉の道の岐に行合て、其尊霊さこそ悦給はんずらめ。」と、泪を流して申けるが、云つる言少しも不違、数万人の敵の中へ只一騎懸入て、終に討死しけるこそ哀なれ赤松肥前権守朝範は、此陣を一番に破られぬる事、身独の恥と思ければ、袖に著たる笠符を引隠て、敵の中へ交て、よき敵にあはゞ打違へて死なんと伺見ける処に、山名右衛門佐が引敵を追立て、敵を少も足ためさせずして、只何くまでも追攻々々討て、前へ通れと兵を下知して、弓手の方を通りけるを、朝範吃と打見て、「哀敵や。」と云侭に、走懸て追様に、右衛門佐が甲を破よ砕よとしたゝかにちやうど打れて吃と振返れば、山名が若党三人中に隔て、肥前守が甲を重ね打に打て打落す。落たる甲を取て著んとて、差うつぶく処に、小鬢のはづれ小耳の上、三太刀まで被切ければ、流るゝ血に目昏て、朝範犬居に動と臥せば、敵押へてとどめを差てぞ捨たりける。され共此人死業や不来けん、敵頚をも不取。軍散じて後、草の陰より生出て助りけるこそ不思議なれ。 |
昔、元暦年間(1185年)に平家が一ノ谷で籠城した際、生田森の城門前で私の先祖である河原大郎と次郎兄弟は敵陣を乗り越えて戦死しました。その時も2月でした。今ここ同じ地でありながら年月も変わらず重行(兵庫助)が討ち死にすれば、冥途へ向かう道すがら祖先の霊魂に出会い彼らの名誉を示せるでしょう。きっと先祖は喜ばれるはずです。」と涙を流して語った言葉通り、数万人もの敵軍の中へ単騎で突入し遂に討ち死にするのは痛ましい限りだ。 一方赤松朝範(肥前権守)はこの戦いでの敗北を自身の恥辱と考えていたため、袖につけた笠印を隠して敵陣へ紛れ込み「相応しい相手と刺し違えて果てよう」と機会を窺っていた。すると山名時熙(右衛門佐)が追撃部隊に退却する味方を一切止めさせず前進のみ命じている姿を見かけ、「情けない敵よ!」と言いながら猛然と襲いかかり、時熙の兜へ必死で斬りつけた。しかし山名家臣三人に阻まれ逆に何度も兜を叩かれ落とされる。拾おうとした瞬間こめかみから耳上にかけて三太刀浴びたため血が目に入って気絶したところ、敵は止めを刺して放置していった。 それでも朝範の死期は訪れなかったのか誰にも首を取られずに済んだ。戦い終わった後草陰から這い出て生き延びるとは全く不思議なことである。 解説1. 「先祖との対比」構造による殉死美意識: 2. 赤松朝範描写に見る軍記文学の矛盾性: - 恥意識の過剰演出: 「笠符を隠す」行動(所属部隊マークの消去)は『太平記』独自創作。史実では朝範が湊川敗戦時逃亡した事実への文学的贖罪装置として設定。 - 超現実的生存描写:「三太刀被切」「気絶しても首を取られない」不自然な生還 は、軍記物語の虚構性を示す典型例。作者が「不思議なり」と断った点に読者への説明責任放棄が見える。 3. 戦闘描写技法における身体表現:
- 擬態語・擬音語の視覚化効果:
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| 一陣二陣忽に攻破られて、山名弥勝に乗ければ、峯々に控たる国々の集勢共、未戦先に捨鞭を打て落行ける程に、大将羽林公の陣の辺には僅に勢百騎計ぞ残ける。是までも猶佐々木判官入道々誉・赤松律師則祐二人、小も気を不屈、敷皮の上に居直りて、「何くへか一足も引候べき。只我等が討死仕て候はんずるを御覧ぜられて後、御自害候へ。」と、大将をおきて奉て、弥勇てぞ見へたりける。大将の陣無勢に成て、而も四目結の旗一流有と見へければ、山名大に悦て申けるは、「抑我此の乱を起す事、天下を傾け将軍を滅し奉らんと思ふに非ず、只道誉が我に無礼なりし振舞を憎しと思許也。此に四目結の旗は道誉にてぞ有らん。是天の与たる処の幸也。自余の敵に目な懸そ。あの頚取て我に見せよ。」と、歯嚼をして前まれければ、六千余騎の兵共、我先にと勇み前んで大将の陣へ打て懸る。敵の近事二町許に成にければ、赤松律師則祐、帷幕を颯と打挙て、「天下勝負此軍に非ずや。何の為にか命を可惜。名将の御前にて紛もなく討死して、後記に留めよや。」と下知しければ、「承候。」とて、平塚次郎・内藤与次・近藤大蔵丞・今村宗五郎・湯浅新兵衛尉・大塩次郎・曾禰四郎左衛門七人、大将の御前をはら/\と立て抜て懸る。 |
第一陣と第二陣が瞬く間に攻め破られると山名氏はさらに勢いづき、周囲の峰々に控えていた各国からの援軍たちも戦う前から鞭を捨て逃げ出す始末であった。そのため大将である羽林公(足利尊氏)の本陣付近にはわずか百騎ほどの兵しか残っていなかった。ここまで追い詰められても佐々木道誉(判官入道)と赤松則祐(律師)は微動だにせず、毛皮を敷いた上で姿勢を正し「どこへ退く必要がありましょうか。どうか我らが討ち死にする姿をご覧になった後で御自害ください」と言って大将を見守りながらますます勇猛な様子を示した。 一方山名氏は本陣の兵力が少ないにも関わらず、四つ目結いの旗印一つが見えたことに大喜びし「そもそも私がこの反乱を起こすのは天下を傾け将軍(尊氏)を滅ぼそうというものではなく、ただ道誉が我に対して行った無礼な振る舞いへの恨みゆえである。あの四つ目結いは道誉に違いない――これは天からの幸運だ!他の敵は構うな。その首を取って私に見せよ!」と歯軋りしながら突撃を命じたため、六千余騎の兵たちが我先にと大将本陣へ殺到した。 敵が二町(約220メートル)ほどに迫った時、赤松則祐は幕舎をさっと引き上げ「天下の勝負はこの一戦にある!何のために命を惜しもうか。名将(尊氏)御前で紛れもなく討死して後世に記録させよ!」と号令すると、「承知した」と言う平塚次郎ら七人の武将が大将の眼前すっくと立ち並び突撃していった。 解説1. 「忠義の構造化」描写における文学的意図: - 二重の献身構図: 佐々木道誉と赤松則祐による「我ら先に死ぬので大将はその後自害を」(実質的玉砕勧告)という逆説的忠誠表現は、『太平記』特有のドラマツルギー。実際の観応の擾乱(1350-52年)では両名とも生存しており、この場面は「敗北の中の美徳」を演出する虚構。 - 旗印シンボリズム: 「四つ目結い」(佐々木家紋)への山名執着は歴史的な両家対立(出雲・近江守護職争い)を反映。当時の読者は旗識別による敵味方認識の重要性を想起させる仕掛け。 2. 戦術的リアリズムと心理描写: - 兵力差の物理的表現: 「百騎 vs 六千余騎」という数字強調は軍記物語の定石だが、特に「二町(220m)に接近」した段階での赤松則祐決起は、弓矢有効射程距離を考慮したリアルな戦闘間隔描写。 - 逃亡兵観察: 援軍が「鞭を捨てる」(騎馬放棄の比喩)という詳細行為で敗走心理を示す技法は『平家物語』巻九「月見」段階からの継承。 3. 七人武将突撃場面の歴史的意義: - 列挙される武将名(平塚次郎ら)はいずれも赤松氏被官で実在人物。特に「湯浅新兵衛尉」は後の明徳の乱(1391年)でも活躍するが、この描写が後世に与えた影響として『難太平記』(江戸期軍記)では七人の奮戦を独立章段化。 - 「帷幕を颯と打挙て」(幕舎を素早く上げる)動作は指揮官の決断を示す視覚的メタファーで、能楽『田村』での陣幕操作に通じる舞台的演出。
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| 敵に射手は一人もなし。向ふ敵を御方の射手に射すくめさせて、七人の者共鎧の射向の袖汰合せ、跳懸々々鍔本に火を散し、鋒に血を淋ひで切て廻けるに、山名が前懸の兵四人目の前に討れて、三十人深手を負ければ、跡につゞける三百余人進兼てぞ見へたりける。是を見て平井新左衛門景範・櫛橋三郎左衛門尉・桜田左衛門俊秀・大野弾正忠氏永、声々に、「つゞくぞ引な。」と、御方の兵に力を付て、喚てぞ懸たりける。かさに敵を請たる徒立の勢なれば、悪手の馬武者に中を懸破られて足をもためず、両方の谷へ雪下て引を見て、初め一陣二陣にて打散されつる四国・中国の兵、此彼より馳来て、忽に千余騎に成にけり。山名右衛門佐、跡なる勢を麾て、猶蒐入んと四方を見廻す処に、南方の官軍共、跡に千余騎にて控たりけるが、何と、云儀もなく、崩落て引ける間、矢種尽き気疲れたる山名が勢、心は猛く思へ共不叶、心ならず御方に引立られて、山崎を差て引退く。敵却て勝に乗しかば、嶺々谷々より、五百騎三百騎道を要へ前を遮て、蜘手十文字に懸立る。中にも内海十郎範秀は、逃る敵に追すがうて、甲の鉢・胄の総角、切付々々行けるが、鐔本より太刀をば打折ぬ。馬は疲れぬ。徒立に成てぞ立たりける。弓手の方を屹と見たれば、噎爽に鎧ふたる武者一騎、三引両の笠符著て馳通りけるを、哀敵やと打見て、馬の三頭にゆらりと飛乗り、敵と二人馬にぞ乗たりける。 |
第一陣と第二陣が瞬時に攻め破られると山名勢の士気がさらに高まり、周囲の峰々で待機していた各国からの援軍たちは戦う前から鞭を捨て逃げ出す始末だった。そのため大将である羽林公(足利尊氏)の本陣付近にはわずか百騎ほどの兵しか残っていなかったが、それでも佐々木道誉(判官入道)と赤松則祐(律師)は微動だにせず、毛皮を敷いた上で姿勢を正し「どこへ退く必要がありましょうか。どうか我らが討ち死にする姿をご覧になった後で御自害ください」と言って大将を見守りながらますます勇猛な様子を示した。 一方山名勢は本陣の兵力不足にも関わらず、四つ目結いの旗印一つが見えたことに大喜びし「そもそも私がこの反乱を起こすのは天下を転覆させ将軍(尊氏)を滅ぼそうという意図ではなく、ただ道誉が我に対して行った無礼な振る舞いへの恨みゆえである。あの四つ目結いは道誉に違いない――これは天からの幸運だ!他の敵は構うな。その首を持ってこい!」と歯軋りしながら突撃を命じたため、六千余騎もの兵たちが我先にと大将本陣へ殺到した。 敵軍が二町(約220メートル)ほどまで接近すると赤松則祐は幕舎をさっと引き上げ「天下の勝負はこの一戦にある!なぜ命を惜しむのか。名将(尊氏)御前で紛れもなく討ち死にして後世に記録させよ!」と号令した。これに対し平塚次郎・内藤与次・近藤大蔵丞・今村宗五郎・湯浅新兵衛尉・大塩次郎・曽禰四郎左衛門の七人が「承知しました」と応え、大将の眼前に整然と立ち並び突撃していった。 解説1. 「限界状況における忠誠」の演出効果: - 心理的極限描写: 佐々木道誉と赤松則祐による「自害勧告」(退却拒否+玉砕推奨)は、兵力差(百騎 vs 六千余騎)という絶望的状況で武士の忠義心を強調する文学的誇張。実際の観応の擾乱では両名とも生存しており、この場面は『太平記』作者による「敗北の中の美徳」の創作演出。 - 旗印の象徴性: 山名の発言に込められた「四つ目結い」(佐々木家紋)への執着は史実的な両家対立(出雲守護職争い)を反映し、当時の読者には敵味方識別システムとして機能した。旗一つを見て攻撃目標を特定する描写に中世合戦のリアリズム。 2. 突撃シーンの軍記物語的特徴: - 七武将列挙の意味: 平塚次郎ら実在武士(赤松氏被官)の名前を具体的に記載することで歴史的説得力を増す技法。特に「湯浅新兵衛尉」は後の明徳の乱でも活躍する人物で、読者の既知情報と連動させる効果。 - 指揮官行動の視覚化: 「帷幕を颯と打挙て」(幕舎を素早く上げる)動作は赤松則祐の決断力を象徴。能楽『田村』など後世芸能に影響を与えた劇的演出で、戦闘前の緊張感を高める。 3. 歴史的文脈における虚構性: - 山名動機の矛盾点: 「天下転覆ではなく道誉への私怨」という主張は史実(観応の擾乱が足利直義派 vs 尊氏派の政争)と乖離。作者による敵役造形で、個人的怨恨を優先させることで山名時熙のキャラクター化を図る。 - 羽林公特定の問題: 「大将」は通説では尊氏だが(『太平記』流布本)、当該時期に彼が湊川にいた証拠はなく、義詮とする異説も。物語的な英雄像創出のため史実を改変。
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| 敵是を御方ぞと心得て、「誰にてをはするぞ。手負ならば我が腰に強く抱著給へ。助奉らん。」と云ければ、「悦入て候。」と云もはてず、刀を抜て前なる敵の頚を掻落し、軈其馬に打乗て、落行敵を追て行く。山名右衛門佐が兵共始因幡を立しより、今度は必都にて尸を曝さんと思儲し事なれば、伊田・波多野・多賀谷・浅沼・藤山・土屋・福依・石原・久世・竹中・足立・河村・首藤・大庭・福塚・佐野・火作・歌・河沢・敷美以下、宗との侍八十四人、其一族郎従二百六十三人、返合々々四五町が中にて討れにけり。右衛門佐は小林民部丞が跡に蹈止て防矢射けるを、討せじと七騎にて又取て返し、大勢の中へ懸入て面も不振戦はれける程に、左の眼を小耳の根へ射付られて目くれ肝消しければ、太刀を倒に突て、些心地を取直さんとせられける処に、敵の雨の降如く射る矢、馬の太腹・草脇に五筋まで立ければ、小膝を折て動ど臥す。馬より下り立て、鎧の草摺たゝみ上て、腰の刀を抜て自害をせんとし給けるを、河村弾正馳寄て、己が馬に掻乗せ、福間三郎が戦疲れて、とある岩の上に休て居たりけるを招て、右衛門佐の馬の口を引せ、河村は徒立に成て、追て懸る敵に走懸々々、切死にこそ死にけれ。右衛門佐は乗替の馬に乗て、些人心は付たれ共、流るゝ血目に入て東西更に不見ければ、「馬廻に誰かある。 |
敵軍には弓射手がいなかったため、味方の射手たちは自由に射かけられた。七人の武将(平塚次郎ら)は鎧の袖を合わせて跳びかかり、鍔元で火花を散らし刀身に血をしたたらせながら斬り込んだところ、山名軍前衛部隊の四人が眼前で討たれ三十人が重傷を負った。これを見ていた後方の三百余騎は進むことができなかった。 この状況を見て平井新左衛門景範・櫛橋三郎左衛門尉・桜田左衛門俊秀・大野弾正忠氏永が声を揃えて「続け!退くな!」と味方兵士を励まし自ら突撃した。山名軍は地の利を得ていた歩兵部隊だったため、精鋭騎馬武者に中央突破されると足場を保てず谷へ雪崩れ落ちるように敗走した。 最初に壊滅していた四国・中国地方の兵たちが各所から駆けつけ、瞬く間に千余騎まで兵力が回復する。山名時氏(右衛門佐)は後方部隊を指揮し立て直そうとしたその時、南方で待機していた官軍千余騎が何の前触れもなく崩壊して敗走したため、矢玉尽き疲弊した山名勢は奮戦むなしく追撃され山崎方面へ退却せざるを得なかった。 敵(尊氏方)が優勢に乗じると、各所から五百騎・三百騎単位で進路を遮り十字形に包囲攻撃を仕掛けてきた。特に内海十郎範秀は敗走兵を追いかけ兜の鉢や冑の総角(飾り)を斬りつけながら突き進んだが、刀身中央から折れてしまう。馬も疲労し徒歩で立ち向かっていたところ、左側方に三引両紋の笠符をつけた武者一騎が駆ける姿を見て「哀れな敵よ」と飛び乗り押さえつけ二人乗りの状態となった。 これを味方と思い込んだその敵は「どなたですか?負傷ならしっかり抱きついてください。助けます」と言うので、範秀が「ありがたい!」と返答し終わらぬうちに刀を抜き相手の首を刎ねると、たちまち馬を奪い敗走兵を追撃していった。 山名時氏配下の将兵は因幡(鳥取)出陣以来この京都決戦で屍を晒す覚悟だったため、伊田・波多野・多賀谷ら八十四人の武士とその郎従二百六十三人が退却中に交戦し四~五町(約440-550m)の範囲で討死した。時氏自身は小林民部丞が矢を防いでいる場を見て踏み止まったところ、七騎の家臣が救出にかけ戻り大軍の中へ突入したため目立たず戦えた。 しかし左眼に矢を受け視界が暗転し気絶しかけたとき、刀を杖に立てようとした瞬間、雨のように降る敵矢で馬の腹や草摺(腰鎧)に五筋も刺さり膝をついて倒れた。下馬して鎧の草摺を巻き上げ自害しようとする時氏のもとへ河村弾正が駆けつけ、自身の馬に押し乗せた。 さらに疲労していた福間三郎を岩陰から呼び出し「殿様の馬の手綱を引け」と命じると、徒歩となった河村は追撃兵に向かい切り込みながら戦死した。時氏は代わりの馬に乗り意識が朦朧とする中で流れ込む血により視界が遮られ「側近は誰かいる?」と呼びかけている。 解説1. 敗走劇の立体的描写手法: - 心理的葛藤の可視化: 「屍を曝さんと覚悟」した山名勢将兵(伊田ら84人+郎従263人)が退却中に次々討死する展開は、戦場倫理「戦功か撤退かの矛盾」を具現化。特に河村弾正の自己犠牲的救出劇により「家臣団の忠義構造」が強調される。 - 感覚描写の革新性: 時氏の左眼中矢(視界暗転)や血による視力喪失表現は、中世軍記物初の主観的身体損傷描写。『平治物語』など先行作品を超えるリアリズム。 2. 戦術的ディテールの史料的価値: - 兵種特性の活写: 「徒立(歩兵部隊)が騎馬に突破される」という記述は、南北朝期における機動力格差問題を反映。特に山崎(京都西郊)での谷間地形設定が陣形崩壊要因として機能。 - 兵力回復メカニズム: 四国・中国勢の「千余騎への再集結」描写は、当時の合戦で敗走兵収拾部隊(搦手)が組織的に活動した史実を裏付ける。 3. 文学的象徴と歴史的虚構性: - 三引両紋の寓意: 範秀が奪取した笠符「三引両」(後の吉良氏家紋)は、観応擾乱時点では未使用という時代錯誤。作者による足利一門のシンボリックな配置で、「敵味方識別不能」テーマを視覚化。 - 人名列挙の効果: 討死将兵84名の実名記載(福塚・火作など)は『太平記』独自資料価値を示すが、河村弾正や小林民部丞などの最期は他史料に未確認で英雄的演出と推測。
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| 此馬の口を敵の方へ引向よ。馳入、河村弾正が死骸の上にて討死せん。」と勇けるを、福間三郎、「此方が敵の方にて候。」とて、馬の口を下り頭に引向け、自馬手の七寸に付て、小砂まじりの小篠原を、三町許馳落て、御方の勢にぞ加りける。爰までは追てかゝる敵もなし。其後軍は休にけり。右衛門佐は淀へ打帰て、此軍に討れつる者共の名字を一々に書注して、因幡の岩常谷の道場へ送り、亡卒の後世菩提をぞ吊はせられける。中にも河村弾正忠は我命に代て討れつる者なればとて、懸たる首を敵に乞受て、空しき顔を一目見て泪を流てくどかれけるは、「我此乱を起して天下を覆へさんとせし始より、御辺が我を以て如父憑み、我は御辺を子の如くに思き。されば戦場に臨む度毎に、御辺いきば我もいき、御辺討死せば我も死なんとこそ契しに、人は依儀に為我死し、我は命を助られて人の跡に生残りたる恥かしさよ。苔の下草の陰にても、さこそ無云甲斐思給ふらめ。末の露と先立本の瀝と後るゝ共、再会は必九品浄土の台に有べし。」と泣々鬢を掻き撫て、聖一人請じ寄て、今まで秘蔵して被乗たる白瓦毛の馬白鞍置て葬馬に引せ、白太刀一振聖に与て、討死しつる河村が後生菩提を問れける、情の程こそ難有けれ。昔唐の太宗戦に臨で、戦士を重くせしに、血を含み疵を吸のみに非ず、亡卒の遺骸をば帛を散して収しも、角やと覚て哀なり。 |
「この馬の首をもっと敵の方に向けろ。駆け入って河村弾正の亡骸のそばで討ち死にしよう」と勇ましく言う時氏に対し、福間三郎は「こちらが味方ですよ」と言いながら手綱を引いて馬首を下げさせ、自らの馬を七寸(約21cm)ほど接近させた。小石混じりの笹原を三町(約330m)駆け降りてようやく味方の陣に合流した。ここまで追撃してくる敵はいなかった。その後戦いは収束に向かった。 山名時氏(右衛門佐)は淀へ戻ると、この戦いで討ち死にした者たちの名前を一人ひとり書き記し因幡(鳥取県)の岩常谷道場へ送った。亡くなった兵士たちの後世供養を行わせたのだ。中でも河村弾正は「我が身命と引き換えに討ち死した者だ」として、敵から彼の首級を譲り受け、無念な顔つきを見つめた時氏は涙ながらに嘆いた。 「私が天下を覆そうと乱を起こして以来、お前は私を父のように頼り、私はお前を実の子同然に思っていた。だから戦場では常にお前が生きれば私も生きる、お前が死ねば私も死ぬと誓い合ったのに――人は約束通り我がために命を落としたのに、私は助かって人の後塵を拝してしまったこの恥ずかしさよ。苔の下や草陰であっても(冥界で)無念に思っているだろうな。先立つ露と後に残る雫のように別れても再会は必ず極楽浄土で叶うぞ」と泣きながら鬢を撫で、僧一人を呼び寄せた。 これまで秘蔵していた白い葦毛の馬に白鞍を置いて葬儀用の馬として引かせ、一振りの名刀を僧侶へ与え河村弾正の供養を依頼した。その情け深さは並々ならぬものであった。 昔唐の太宗(李世民)が戦場で兵士を大切に扱った故事があるが、彼が負傷者の血を含んで吸い出したり亡骸を絹布で包み収容する行為も立派だと思われた。しかし山名時氏の振る舞いはそれ以上に哀れ深く感じられた。 解説1. 武士道精神と葬送儀礼の描写: - 主従契約の再定義: 「お前が死ねば私も死ぬ」という誓い(契し)は中世的主従関係「生死共同性」を体現。時氏が生き残ったことで生じる「後塵を拝する恥」(武士的倫理観との矛盾)に焦点化。 - 葬儀の象徴性: 白馬・白鞍による供養は『平家物語』清盛の熊野詣で譲渡描写と共通。特に愛馬提供(瓦毛=葦毛種)が「武士と戦馬一体観」を示す史料的事実。 2. 文学的手法における革新性: - 空間移動表現: 「小砂まじりの笹原を三町許駆け落る」の地形描写は軍記物初の退却ルート特定例。七寸(21cm)単位での馬間距離制御も騎乗技術のリアリズム向上を示す。 - 仏教受容と武士倫理: 「九品浄土」(阿弥陀経由来)信仰引用により、来世再会という宗教的救済で現世的恥辱(生き残りの罪悪感)を昇華する構造は中世軍記の心理描写深化例。 3. 史料的価値と創作性: - 実名記載機能: 「岩常谷道場」(鳥取県智頭町現存)送付設定が山名家菩提寺「興禅寺」創建前段階を反映。亡卒リスト作成行為は当時軍忠状制度の存在を示唆。 - 唐太宗故事引用: - 史実的基盤:『貞観政要』記載の李世民エピソード(負傷兵治療)が13世紀日本で受容された証左 - 虚構性:「帛を散して収む」(絹布での遺体回収)は原典にない創作。時氏供養行為と対比させるための文学的脚色
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| input text 太平記\033_太平記_巻33.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第三十三 ○京軍事 昨日神南の合戦に山名打負て、本陣へ引返ぬと聞へしかば、将軍比叡山を打おり下て、三万余騎の勢を卒し、東山に陣をとる。仁木左京大夫頼章は、丹後・丹波の勢三千余騎を順へて、嵐山に取上る。京より南、淀・鳥羽・赤井・八幡に至るまでは、宮方の陣となり、東山・西山・山崎・西岡は、皆将軍方の陣となる。其中に有とあらゆる神社仏閣は役所の掻楯の為に毀たる。山林竹木は薪櫓の料に剪尽さる。京中をば敵横合に懸る時、見透す様になせとて、東山より寄て日々夜夜に焼仏ふ。白河をば敵を雨露に侵させて、人馬に気を尽させよとて、東寺より寄て焼仏ふ。僅に残る竹苑・枡庭・里内裏・三台・九棘の宿所々々、皆門戸を閉て人も無れば、野干の栖と成はて、荊棘扉を掩へり。去程に二月八日、細川相摸守清氏千余騎にて、四条大宮へ押寄せ、北陸道の敵八百余騎に懸合て、追つ返つ終日に戦ひ暮して、左右へ颯と引退処に、紺糸の鎧に紫の母衣懸て、黒瓦毛なる馬に厚総懸て乗たる武者、年の程四十許に見へたるが、只一騎馬を閑々と歩ませ寄て、「今日の合戦に、進む時は士率に先立て進み、引時は士率に殿れて引れ候つるは、如何様細河相摸守殿にてぞ坐すらん。声を聞ても我を誰とは知給はんずれ共、日已に夕陽に成ぬれば分明に見分くる人もなくて、あはぬ敵にや逢んずらんと存ずる間、事新く名乗申也。 |
『太平記』巻第三十三「京の戦況」 昨日、神南での合戦で山名軍が敗れ本陣へ戻ったとの報せを受けたため、将軍(足利尊氏)は比叡山を下りて三万騎余りの兵を率い東山に布陣した。仁木左京大夫頼章は丹後・丹波の兵三千騎余りを整え嵐山へ進んだ。京都より南の淀、鳥羽、赤井、八幡までは南朝方(宮方)が占領し、東山、西山、山崎、西岡一帯は全て将軍方の陣となった。この地域にあった神社仏閣はすべて防御施設の資材として破壊され、山林や竹木も櫓用の薪として伐採された。 京都市中では敵を側面から攻撃する際に見通しを良くしようと、東山方面から日夜放火が続けられた。白河地区は敵に雨露を凌ぐ場所を与えず兵馬を疲弊させるため、東寺周辺から焼き払われた。わずかに残った竹苑・枡庭・里内裏(臨時御所)・三台院・九条家などの宿舎も戸を閉ざし人影はなく、狐の巣窟となり茨が門を覆っていた。 こうした中で二月八日、細川相模守清氏が千騎余りで四条大宮に押し寄せた。北陸道から来た敵八百騎と追いつ戻つ終日戦った後、左右へ素早く退却しようとした時である。紺糸の鎧を着て紫の母衣(防護布)を背負い、黒葦毛の馬に厚い鞍を置いて乗る四十歳ほどの武者が一人、ゆったりと馬を歩ませながら近づき言った。「今日の合戦で進む時は兵士の先頭を切り退く時は後衛となって殿(しんがり)をお務めになったのはおそらく細川相模守様であろう。声を聞けば私が誰か気付かれるかもしれぬが、日も夕暮れとなり顔を見分ける者もいないため誤った敵と戦う恐れがあるゆえ、改めて名乗ろう」。 解説1. 南北朝動乱期の京都争奪戦: 2. 文学的破壊表現の深化: 3. 武将像と戦場心理描写:
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| 是は今度北陸道を打順へて罷上りて候桃井播磨守直常にて候ぞ。あはれ相摸殿に参り会て、日来承及し力の程をも見奉り、直常が太刀の金をも金引て御覧候へかし。」と、高声に名乗懸て、馬を北頭らに立てぞ控へたる。相摸守は元来敵に少も言ばを懸られて、たまらぬ気の人なりければ、桃井と名乗たるを聞て、少も不擬議、是も只一騎馬を引返て歩ませ寄る。あひ近に成ければ、互にあはれ敵や、天下の勝負只我と彼とが死生に可有。馬を懸合せ、組で勝負をせんと、鎧の綿嚼を掴んで引著たるに、言には不似桃井が力弱く覚へければ、甲を引切て抛げ捨て、鞍の前輪に押当て、頚掻切てぞ差挙たる。軈て相摸守の郎従十四五騎来たるに、此首と母衣とを持せて将軍の御前へ参り、「清氏こそ桃井播磨守を討て候へ。」とて軍の様を申されければ、蝋燭を明に燃し是を見給ふに、年の程はさもやと覚へ乍らさすがそれとは不見へ、田舎に住て早や多年になりぬれば面替りしけるにやと不審にて、昨日降人に出たりける八田左衛門大郎と云ける者を被召、「是をば誰が頚とか見知たる。」と問れければ、八田此頚を一目見て、涙をはら/\と流し、「是は越中国の住人に二宮兵庫助と申者の頚にて候。去月に越前の敦賀に著て候し此時、二宮、気比の大明神の御前にて、今度京都の合戦に、仁木・細川の人々と見る程ならば、我桃井と名乗て組で勝負を仕るべし。 |
「これはこのたび北陸道から攻め上って参った桃井播磨守直常であるぞ。ああ、相模殿とお会いできて光栄だ。かねがね噂に聞く御力量を拝見し、直常の太刀筋もじっくりご覧に入れよう。」と高らかに名乗りを上げ、馬を北側に向けて控えた。相模守(細川清氏)は元来、敵から少しでも言葉を掛けられると我慢できない性分だったので、「桃井」の名を聞くやいなや、一瞬も躊躇せず単騎で馬首を返し近づいて行った。互いに間近になると「こいつが敵か! 天下の勝負はまさに我々二人の生死にかかっている!」とばかりに馬を並べ組み合おうとしたところ、鎧の胸紐をつかんで引き寄せたが、意外にも桃井と思われる相手の力が弱く感じられた。そこで兜ごと首を斬り落として投げ捨て、鞍の前輪に押さえつけ頸動脈を断ち切って首級を掲げた。 すぐさま相模守の郎従十四、五騎が駆けつけたので、この首と母衣を持たせ将軍(足利尊氏)のもとへ届けさせ、「清氏、桃井播磨守を討ち取ったり!」と戦況を報告した。蝋燭をかざして御覧になると「年齢は確かにそれらしいが…どうも本人には見えない」と思われたため、前日に降伏してきた八田左衛門大郎という者を呼び出し、「これは誰の首だと見分けるか?」と問いただすと、八田は一目でその首を見て涙をはらはらと流した。「これは越中国住人の二宮兵庫助という者の首でございます。先月に越前敦賀へ着いた時、気比大明神の御前で『今回の京都合戦では仁木や細川方の人々と見れば、わしが桃井と名乗って一騎打ちを仕掛ける』と誓いました…」 解説1. 武士道心理の劇的描写: 2. 名乗りとアイデンティティ詐称の構造: 3. 人間性を描く細部表現:
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| 是若偽申さば、今生にては永く弓矢の名を失ひ後生にては無間の業を受べしと、一紙の起請を書て宝殿の柱に押て候しが、果して討死仕りけるにこそ。」と申ければ、其母衣を取寄て見給ふに、げにも、「越中国の住人二宮兵庫助、曝尸於戦場、留名於末代。」とぞ書たりける。昔の実盛は鬢鬚を染て敵にあひ、今の二宮は名字を替て命をすつ。時代隔たるといへ共其志相同じ。あはれ剛の者哉と惜まぬ人こそ無りけれ。二月十五日の朝は、東山の勢共上京へ打入て、兵粮を取由聞へければ、蹴散かさんとて、苦桃兵部太輔・尾張左衛門佐、五百余騎にて東寺を打出、一条・二条の間を二手に成て打廻る。是を見て細川相摸守清氏・佐々木黒田判官、七百余騎にて東山よりをり下る。尾張左衛門佐が後陣に朝倉下野守が五十騎許にて通りけるを、追切て討んと、六条河原より京中へ懸入る。朝倉少も不騒、馬を東頭らに立て直して、閑に敵を待懸たり。細川・黒田が大勢是を見て、あなづりにくしとや思けん。あはひ半町計に成て、馬を一足に颯とかけ居て、同音に時をどつと作る。朝倉少も不擬議大勢の中へ懸入て、馬烟を立て切合ふ。左衛門佐是を見て、「朝倉討すな、つゞけ。」とて、三百余騎にて取て返し、六条東洞院を東へ烏丸を西へ、追つ返つ七八度までぞ揉合たる。 |
「もし私が偽って名乗ったなら、今生では永遠に武士としての名誉を失い、来世では無間地獄の業を受けるだろう」と誓紙を書いて気比神社本殿の柱に貼り付けていました。果たして討ち死にしてしまいました。」との言葉を受け、母衣を取り寄せて見ると確かに「越中国住人二宮兵庫助、戦場に屍を晒し末代まで名を残す」と記されていた。昔の斎藤実盛は白髪を染めて敵に対したが、今の二宮は名乗りを偽って命を捨てた。時代は違えどその志は同じである。「ああ、剛毅な者よ」と惜しまない者は誰一人いなかった。 二月十五日の明け方、東山(足利軍)の兵たちが上京へ押し入り食糧を奪うとの報せを受け、これを追い散らそうと苦桃兵部太輔と尾張左衛門佐が五百騎余りで東寺から出撃。一条通と二条通の間で二手に分かれて機動する。これを見た細川相模守清氏と佐々木黒田判官は七百騎余りで東山から駆け下り、尾張左衛門佐の後方部隊を追撃しようと六条河原から京中へ突入した。そこにいた朝倉下野守(約五十騎)は全く動揺せず馬首を東に向けて悠然と待ち構える。細川・黒田の大軍はこれを「侮りがたい」と思ったか、半町(約55m)ほどまで近づくと一斉に駆け足で進み、同時にかけ声を上げた。朝倉は躊躇せず大軍へ突入し馬蹄の砂塵を立てて斬り合う。尾張左衛門佐がこれを見て「朝倉を討ち取られるな!続け!」と三百騎余りで反転援護。六条東洞院(東側)から烏丸通(西側)にかけて追いつ戻つ七、八度の激しい乱戦となった。 解説1. 武士の名誉観念と偽名行為の意義: 2. 朝倉勢の寡兵戦術と心理的効果: 3. 軍記物語特有の戦闘リズム:
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| 細河度毎に被追立体に見へけるに、南部六郎とて世に勝たる兵有けるが、只一騎踏止て戦ひ、返し合ては切て落し、八方をまくりて戦ひけるに、左衛門佐の兵共、箆白に成てぞ見へたりける。左衛門佐の兵の中に、三村首藤左衛門・後藤掃部助・西塔の金乗坊とて、手番ふたる勇士五騎あり。互に屹と合眼して、南部に組んと相近付く。南部尻目に見て、から/\と打咲ひ、「物々しの人々哉。いで胴切て太刀の金の程見せん。」とて、五尺六寸の太刀を以て開て片手打にしとゝ打。金乗房無透間つと懸寄てむずと組。南部元来大力なれば、金乗を取て中に差上たれ共、人飛礫に打まではさすが不叶、太刀の寸延たれば、手本近してさげ切にもせられず、只押殺さんとや思けん、築地の腹に推当て、ゑいや/\と押けるに、已に乗たる馬尻居に動と倒れければ、馬は南部が引敷の下に在ながら、二人引組で伏たり。四騎の兵馳寄て、遂に南部を打てければ、金乗南部が首を取て鋒に貫て馳返る。此にて軍は止で敵御方相引に京白河へぞ帰りにける。又同日の晩景に、仁木右京大夫義長・土岐大膳大夫頼康、其勢三千余騎にて七条河原へ押寄せ、桃井播磨守直常・赤松弾正少弼氏範・原・蜂屋が勢二千余騎と寄合て、川原三町を東西へ追つ返つ、烟塵を捲て戦事二十余度に及べり。 |
細川勢(足利方)が追い詰めるたびに劣勢に見えたところ、南部六郎という世に並ぶ者なき猛者がおり、ただ一騎踏みとどまって戦った。返す刃で敵を切り落とし、八方の敵を薙ぎ払うように奮闘する姿を見て、尾張左衛門佐(南朝方)の兵たちは呆然と見守るばかりだった。その中に三村・首藤左衛門・後藤掃部助・西塔の金乗坊という二番手を担う勇者五騎がいた。互いに鋭く目配せし、南部に組みかからんと近づくと、南部は尻目にかけ「大げさな連中よ。見よ、胴切りしてこの太刀の切れ味を見せてやる!」と嘲笑いながら五尺六寸(約170cm)の大太刀を片手でひらりと振った。金乗坊は一瞬も遅れず詰め寄りがっしり組みつく。南部は元来怪力ゆえ、金乗坊をつかんで宙に差し上げようとするが、人を投石のように飛ばすことはさすがにできぬ。太刀の刃長すぎて柄の部分で切れず、押し潰そうとしたのか土塀めがけて「エイヤ!」と圧しかける。その瞬間騎乗していた馬もろとも轟音と共に倒れ込んだため、馬は南部の敷かれた下じきとなったまま二人組み合って伏した。残る四騎の兵が駆け寄り遂に南部を討ち取ると、金乗坊はその首級を槍先に貫いて引き上げた。この戦いで軍勢は止み敵味方共に退却し京・白河方面へ帰還した。 さらに同日夕刻には仁木右京大夫義長と土岐大膳大夫頼康(北朝方)が三千余騎を率いて七条河原へ押し寄せ、桃井播磨守直常と赤松弾正少弼氏範・原・蜂屋ら南朝勢二千余騎と激突。川原三町(約330m)の東西で追いつ戻つ砂塵を巻き上げて二十度以上も戦い続けた。 解説1. 南部六郎の「捨て奸」戦術とその心理的効果: 2. 金乗坊との死闘における身体表現の象徴性: 3. 七条河原合戦の空間的特性:
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| 中にも桃井播磨守が兵共、半ば過て疵を被ければ、悪手を替て相助ん為に、東寺へ引返しける程に、土岐の桔梗一揆百余騎に被攻立、返し合る者は切て落され、城へ引篭る者は城戸・逆木にせかれ不入得。城中騒ぎ周章て、すはや只今此城被攻落ぬとぞ見へたりける。赤松弾正少弼氏範は、郎等小牧五郎左衛門が痛手を負て引兼たるを助んと、馬上より手を引立て歩ませけるを、大将直冬朝臣、高櫓の上より遥に見給て、「返して御方を助けよ。」と、扇を揚て二三度まで招れける間、氏範、小牧五郎左衛門をかひ掴城戸の内へ投入、五尺七寸の太刀の鐔本取延て、只一騎返合々々、馳並々々切けるに、或は甲の鉢を立破に胸板まで破付られ、或は胴中を瓜切に斬て落されける程に、さしも勇める桔梗一揆叶はじとや思けん、七条河原へ引退て、其日の軍は留りけり。三月十三日、仁木・細川・土岐・佐々木・佐竹・武田・小笠原相集て七千余騎、七条西洞院へ押寄せ、一手は但馬・丹後の敵と戦ひ、一手は尾張修理大夫高経と戦ふ。此陣の寄手動ば被懸立体に見へければ、将軍より使者を立られて、「那須五郎を可罷向。」と被仰ける。那須は此合戦に打出ける始、古郷の老母の許へ人を下して、「今度の合戦に若討死仕らば、親に先立つ身と成て、草の陰・苔の下までも御歎あらんを見奉らんずる事こそ、想像も悲く存候へ。 |
特に桃井播磨守直常(南朝方)の兵士たちは半数以上が傷を負い、不利な戦況の中で援護するため東寺へ引き返そうとしたところ、土岐大膳大夫頼康配下の桔梗紋軍団百余騎に襲撃された。反撃しようとする者は斬り落とされ、城内へ逃げ込もうとする者も城門や逆茂木(防御柵)で阻まれて入れない。城中は大混乱し、「最早この城は陥落する」という状況に見えた。 これを見た赤松弾正少弼氏範(南朝方)は、重傷を負いながら撤退していた家臣・小牧五郎左衛門を助けようと馬上から手を引いて歩ませていたが、総大将の直冬卿が櫓上から遥かにこれを眺め、「すぐに味方を救援せよ」と扇を掲げて二三度招いた。氏範はたちまち小牧五郎左衛門を掴んで城門内へ投げ入れ、自身は五尺七寸(約173cm)の太刀の鍔元まで握りしめてただ一騎で反転突撃。敵騎と並ぶやいなや切りまくり、ある敵は兜の鉢から胸甲板まで真っ二つに斬られ、また別の兵は胴体を瓜のように切断されるほどであった。さすがの勇猛な桔梗軍団も「到底かなわぬ」と悟ったか、七条河原へ退却しその日の戦いは終結した。 三月十三日には仁木・細川・土岐・佐々木・佐竹・武田・小笠原(北朝方)らが集結して七千余騎で七条西洞院に押し寄せ、一手は但馬・丹後勢と交戦し、もう一手は尾張修理大夫高経を攻撃した。この陣形が動き出すや「たちまち包囲される」情勢となったため将軍(足利義詮)から使者が派遣され、「那須五郎に出陣せよ」との命令があった。ところで那須は合戦に赴く直前、故郷の老母のもとに使いを立ててこう伝えていた。「この度の戦いで私が討死したならば、親より先立つ身となり草葉の陰・苔の下(墓場)まで嘆き続ける母上の姿を拝見できぬことこそ、想像するだけで耐え難く思います」。 解説1. 直冬卿による扇指揮の重要性: 2. 桔梗一揆敗退の物理的要因: 3. 那須五郎の心理描写と社会背景:
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| 」と、申遣したりければ、老母泣々委細に返事を書て申送けるは、古より今に至まで、武士の家に生るゝ人、名を惜て命を不惜、皆是妻子に名残を慕ひ父母に別を悲むといへ共、家を思ひ嘲を恥る故に惜かるべき命を捨る者也。始め身体髪膚を我に受て残傷ざりしかば、其孝已に顕ぬ。今又身を立道を行て名を後の世に揚るは、是孝の終たるべし。されば今度合戦に相構て身命を軽じて先祖の名を不可失。是は元暦の古へ、曩祖那須与一資高は、八島の合戦の時扇を射て名を揚たりし時の母衣也。」とて、薄紅の母衣を錦の袋に入てぞ送りたりける。さらでだに戦場に臨て、いつも命を軽ずる那須五郎が、老母に義を勧められて弥気を励しける処に、将軍より別して使を立られ、「此陣の戦難儀に及ぶ。向て敵を払へ。」と無与儀も被仰ければ、那須曾て一儀も不申畏て領状す。只今御方の大勢共立足もなくまくり立られて、敵皆勇み進める真中へ会尺もなく懸入て、兄弟二人一族郎従三十六騎、一足も不引討死しける。那須が討死に、東寺の敵機に乗らば、合戦又難儀に成ぬと危く覚へける処に、佐々木六角判官入道崇永と相摸守清氏と両勢一手に成て、七条大宮へ懸抜け、敵を西にうけ東に顧て、入替々々半時許ぞ戦たる。東寺の敵も此を先途と思けるにや、戒光寺の前に掻楯掻て打出々々火を散して戦けるに、相摸守薄手数所に負て、すはや討れぬと見へければ、崇永弥進て是を討せじと戦ふたる。 |
このように伝えたところ、老母は涙ながらにくわしく返事を書き送った。すなわち、「昔から今に至るまで武士の家に生まれた者は、名誉を重んじて命を惜しまない。皆それぞれ妻子への未練を慕い父母との別れを悲しむが、それでも家系の面目と恥辱を思うゆえに、本来なら大切なはずの命を捨てる者である。そもそも身体髪膚(親から授かった体)を傷つけず守ってきたことは、すでに孝行を示していると言える。さらに身をもって道を行い後世に名を残すことが、孝行の究極であろう。だからこそ今回の合戦では生命を軽んじて先祖の名誉を汚してはならない。これは元暦(1184年)の昔、祖先である那須与一資高が屋島の戦いで扇の的を射抜いて名を上げた時に用いた母衣(武者の背に付ける布)だ」と言って、薄紅色の母衣を錦袋に入れて送ったのである。 もともと戦場では常に命を軽視していた那須五郎だったが、老母から大義を諭されてさらに奮い立っていたところへ、将軍(足利義詮)から特に使者が派遣され、「この陣の戦いは苦境にある。向かって敵を撃退せよ」とためらいもなく命じられたので、那須は一言の異論も述べず承諾した。その直後、味方の大勢が足場すら固められないまま押し戻されている最中へ、一瞬の躊躇いもなく突入して兄弟二人と一族郎従三十六騎全員が一歩も退かず討死した。 那須の戦死で東寺(南朝軍)に好機が訪れれば合戦は再び危機的状況になると危惧された矢先、佐々木六角判官入道崇永と相模守清氏の両軍が一手となり七条大宮へ突破。敵を西側に対峙させつつ東方向にも警戒し、入れ替わり立ち代り約一時間(半時)戦った。東寺の敵もこれを最後と決意したか、戒光寺前にかまえた盾防壁から繰り返し突出して火花散る激闘を展開するうち、相模守清氏は数カ所に軽傷を負い「最早討ち取られる」と思われたので、崇永がさらに進んでこれを救おうと奮戦した。 解説1. 「身体髪膚」の思想的背景: 2. 母衣(ほろ)の象徴的意味: 3. 三十六騎討死の戦術的意義: 4. 時間表現「半時許」:
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| 斯処に土岐桔梗一揆五百余騎にて、悪手に替らんと進けるを見て、敵も悪手をや憑けん、掻楯の陰をばつと捨半町計ぞ引たりける。敵に息を継せば又立直す事もこそあれとて、佐々木と土岐と掻楯の内へ入て、敵の陣に入替らんとしけるが、廻る程も猶遅くや覚へけん、佐佐木が旗差堀次郎、竿ながら旗を内へ投げ入て、己が身は軈て掻楯を上り越てぞ入たりける。其後相摸守と桔梗一揆と左右より回て掻楯の中へ入、南に楯を突双て、三千余騎を一所に集め、向城の如くにて蹈せたれば、東寺に篭る敵軍の勢、気を屈し勢を呑れて、城戸より外へ出ざりけり。京中の合戦は、如此数日に及て雌雄日々に替り、安否今にありと見へけれ共、時の管領仁木左京大夫頼章は、一度も桂川より東へ打越ず、只嵐山より遥に直下して、御方の勝げに見ゆる時は延上りて悦び、負るかと覚しき時は、色を変じて落支度の外は他事なし。同陣に有ける備中の守護飽庭許ぞ、余りに見兼て、己が手勢許を引分て、度々の合戦をばしたりける。され共大廈は非一本支、山陰道をば頼章の勢に塞がれ、山陽道は義詮朝臣に囲れ、東山・北陸の両道は将軍の大勢に塞がつて、僅に河内路より外はあきたる方無りければ、兵粮運送の道も絶ぬ。重て攻上るべき助の兵もなし。 |
この時、土岐桔梗一揆の五百余騎が劣勢を挽回しようと進軍してくるのを見て、敵も弱みを見せるまいと、盾防壁(掻楯)のかげをすっかり捨て半町ほど後退した。敵に息継ぎさせれば態勢を立て直しかねないと考えた佐々木崇永と土岐氏は、盾の内側へ入り込んで敵陣に切り替わろうとしたが、回る時間さえ遅いと思われたらしく、佐々木軍の旗差し役・堀次郎が旗竿ごと柵内に投げ込み、自らは直ちに盾を乗り越えて突入した。その後、相模守清氏と桔梗一揆勢が左右から回り込んで防壁内部へ侵入すると、南側で二重の楯壁(掻楯)を構築し三千余騎を一点集結させたため、城塞のように踏み固めた。これにより東寺に籠る敵軍は意気阻喪して城外に出られなくなった。 京都市中での合戦はこのように数日にわたり勝敗が日々入れ替わり、成り行きはいまだ決していないかに見えた。しかし当時の管領(最高司令官)である仁木左京大夫頼章は一度も桂川より東へ進まず、ただ嵐山から遠く眺め下ろすばかりで、味方が優勢に見える時は高みに登って喜び、劣勢と見れば青ざめて退却準備以外のことは何もしなかった。同陣していた備中国守護・飽庭某があまりにも傍観し過ぎているのに耐えかねて自ら手勢を引き連れ離脱し、幾度も単独で戦いを挑んだ。 しかしながら巨大な建物は一本柱では支えられないように(比喩)、山陰道は頼章軍に塞がれ、山陽道は足利義詮に囲まれ、東山・北陸の両街道は将軍勢によって封鎖されたため、わずかに河内路を除けば開かれた進路もなく兵糧輸送ルートすら絶たれてしまった。さらに追撃して攻め上がるべき援軍も皆無という状態であった。 解説1. 「桔梗一揆」の実態: 2. 掻楯(かいだて)戦術の革新性: 3. 仁木頼章の歴史的評価: 4. 兵站線遮断の戦略的影響:
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| 合戦は今まで牛角なれ共、将軍の勢日々に随て重る。角ては始終叶はじとて、三月十三日の夜に入て右兵衛佐直冬朝臣、国々の大将相共に、東寺・淀・鳥羽の陣を引て、八幡・住吉・天王寺・堺の浦へぞ落られける。 ○八幡御託宣事 爰にて落集たる勢を見れば五万騎に余れり。此上に伊賀・伊勢・和泉・紀伊国の勢共、猶馳集るべしと聞へしかば、暫此勢を散さで今一合戦可有歟と、諸大将の異見区也けるを、直冬朝臣、「許否凡慮の及ぶ処に非ず。八幡の御宝前にして御神楽を奏し、託宣の言に付て軍の吉凶を知べし。」とて、様々の奉幣を奉り、蘋■を勧て、則神の告をぞ待れける。社人の打つ鼓の声、きねが袖ふる鈴の音、深け行月に神さびて、聞人信心を傾たり。託宣の神子、啓白の句、言ば巧みに玉を連ねて、様々の事共を申けるが、たらちねの親を守りの神なれば此手向をば受る物かはと一首の神歌をくり返し/\二三反詠じて、其後御神はあがらせ給にけり。諸大将是を聞て、さては此兵衛佐殿を大将にて将軍と戦はん事は、向後も叶まじかりけりとて、東山・北陸の勢は、駒に策をうち己が国々へ馳下り、山陰・西海の兵は、舟に帆を揚て落て行。誠に征罰の法、合戦の体は士卒に有といへ共、雌雄は大将に依る者也。 |
これまでの戦いは膠着状態であったにもかかわらず、将軍(足利義詮)の勢力は日増しに強まるばかりだった。このままでは遂には持ちこたえられまいと考えて、三月十三日の夜に入ると右兵衛佐直冬朝臣(足利直冬)は諸国の大将らと共に東寺・淀・鳥羽の陣を引き払い、八幡・住吉・天王寺・堺の浦へ撤退した。 ○八幡でのご神託について 神社の者が打つ太鼓の音や巫女が袖を振って鳴らす鈴の響きは、深まる月影の中でひときわ神秘的に感じられ、聞く者は皆信仰心を傾けた。託宣役の巫女が唱える祝詞の言葉は巧みに玉をつなぐように流麗で、様々な内容を語っていたが、「母なる守護神(八幡菩薩)である我らが故にこの捧げ物を受けられようか」という一首の神歌を二度三度と繰り返し詠唱した後、ついに御神霊は天へ昇られた。 諸大将たちはこれを聞いて「やはり直冬卿を総大将として将軍(義詮)と戦うことは今後も叶わないであろう」と言い、東山・北陸の兵勢は馬に鞭打って自国へ駆け下り、山陰・西海の部隊は船に帆を揚げて退却して行った。確かに軍規や戦術運用は士卒(兵士)にかかっているが、勝敗そのものは大将次第なのである。 解説1. 「牛角」表現の比喩性: 2. 八幡神託儀式の歴史的意義: 3. 離散兵士数の現実性: 4. 結語「雌雄は大将に依る」の思想的背景:
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| されば周の武王は木主を作て殷の世を傾け、漢高祖は、義帝を尊て秦の国を滅せし事、旧記の所載誰か是を不知。直冬是何人ぞや、子として父を攻んに、天豈許す事あらんや。始め遊和軒の朴翁が天竺・震旦の例を引て、今度の軍に宮方勝事を難得と、眉を顰て申しを、げにも理なりけりとは、今社思ひ知れたれ。東寺落て翌の日、東寺の門にたつ。兔に角に取立にける石堂も九重よりして又落にけり深き海高き山名と頼なよ昔もさりし人とこそきけ唐橋や塩の小路の焼しこそ桃井殿は鬼味噌をすれ ○三上皇自芳野御出事 足利右兵衛佐直冬・尾張修理大夫高経・山名伊豆守時氏・桃井播磨守直常以下の官軍、今度諸国より責上て、東寺・神南度々の合戦に打負しかば、皆己が国々に逃下て、猶此素懐を達せん事を謀る。依之洛中は今静謐の体にて、髪を被り衽を左にする人はなけれ共、遠国は猶しづまらで、戈を荷ひ粮を裹こと隙なし。爰に持明院の本院・新院・主上・春宮は皆去々年の春南方へ囚れさせ給て、賀名生の奥に被押篭御坐しかば、とても都には茨の宮已に御位に即せ給ぬる上は、山中の御棲居余りに御痛はしければとて、延文二年の二月に、皆賀名生の山中より出し奉て、都へ還幸なし奉る。上皇は故院の住荒させ給し伏見殿に移らせ給て御座あれば、参り仕る月卿雲客の一人もなし。 |
それゆえ周の武王が木像を作って殷王朝を倒し、漢高祖が義帝を尊んで秦王国を滅ぼしたことは古記録に明記されており誰も知らぬ者はいない。直冬(足利直冬)とは何者か?子として父(足利尊氏)を攻めるなど天が許すはずがない。以前遊和軒の朴翁という人物がインドや中国の事例を引き合いに出し、今回の戦で宮方(南朝側)が勝つのは困難だと眉をひそめて述べたことが、確かに道理だったと今さらながら思い知らされる。東寺から撤退した翌日、その門前に立った感慨である。あれこれ建てられた石堂も都から再び落ち去り、「深き海高き山」と呼ばれた山名氏への期待は昔語りのようだ――唐橋や塩小路で焼け野原となったのは桃井殿が散々に敗走したためか。 ○三人の天皇が吉野からご移動されたこと ここで持明院統の本院・新院・天皇・皇太子らは一昨年の春に南方へ連行され賀名生の奥深くにお閉じ込めになっていた。しかし都では既に光厳上皇系の皇子(北朝方)が即位したうえ、山中でのご生活があまりにもお痛ましいとの理由から延文二年二月、皆を賀名生の山中からお連れ出し京都へ還幸させた。上皇たちは荒廃していた伏見殿に移られて住んでいらっしゃるが、参内する公卿や廷臣は一人も訪れない。 解説1. 「武王・高祖」引用の意図: 2. 比喩表現の解釈: 3. 賀名生還幸の史実性: 4. 地理的用語の実態:
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| 庭には草生滋りて、梧桐の黄葉を踏分たる道もなく、軒には苔深くむして、見人からに袖ぬらす月さへ疎く成にけり。本院は去観応三年八月八日、河内の行宮にして御出家あり。御年四十一、法名勝光智とぞ申ける。御帰洛の後、本院・新院、両御所ともに夢窓国師の御弟子に成せ給て、本院は嵯峨の奥小倉の麓に幽なる御庵りを結ばれ、新院は伏見の大光明寺にぞ御座有ける。何れも物さびしく人目枯たる御栖居、申も中々疎かなり。彼悉達太子は、浄飯王の宮を出て檀特山に分入、善施太子は、鳩留国の翁に身を与へて檀施の行を修し給ふ。是は皆十善の国を合せたる十六の大国を保給ひし王位なれ共、捨るとなれば其位一塵よりも猶軽し。況や我国は粟散辺地の境也。縦天下を一統にして無為の大化に楽ませ給ふ共、彼の大国の王位に比せば千億にして其一にも難及。加様の理りを思食知せ給て、憂を便りに捨はてさせ給ひぬる世なれば、御身も軽きのみならず御心も又閑にして、半間の雲一榻の月、禅余の御友と成にければ、中々御心安くぞ渡らせ給ける。 ○飢人投身事 角て事の様を見聞に、天下此の二十余年の兵乱に、禁裏・仙洞・竹苑・枡房を始として、公卿・殿上・諸司・百官の宿所々々多く焼け亡て、今は纔に十が二三残りたりしを、又今度の東寺合戦の時、地を払て、京白川に武士の屋形の外は在家の一宇もつゞかず。 |
庭には草が生い茂り、桐の木の黄色く色づいた葉を踏み分ける小道さえなく、軒先には苔が深々とむしており、訪れる人もまれで袖をぬらす月影までも疎くなってしまった。本院(光厳上皇)は去る観応三年八月八日、河内の仮御所にてご出家された。ご年齢四十一歳、法名は勝光智と申し上げたという。京都帰還後、本院・新院(光明上皇)両御所とも夢窓国師(夢窓疎石)の弟子となり、本院は嵯峨奥の小倉山麓にひっそりとした庵を結ばれ、新院は伏見の大光明寺にお住まいになった。どちらも物寂しく人目が絶えた御住居で、言うまでもなくご生活は非常に簡素である。 かの釈迦太子(悉達多)は浄飯王の宮殿を出て檀特山に入り、善施太子(スダーナ王子)は鳩留国の老人に身を捧げて布施行を修められた。これらはいずれも十六大国という広大な領土を治める王位でありながら捨てるとなれば塵一つよりも軽いものであった。ましてや我が国は粟粒のように散った辺境の地である。たとえ天下統一し無為の政治で民を安らかにさせても、あの大国の王権に比べれば千億分の一にも及ばない。この理りをご理解なさって「憂い」を契機として世俗を捨てられた世の中ゆえ、お身体だけでなく御心もまた閑かで、「半間を埋める雲・一枚の床を照らす月」が禅余(修行後のくつろぎ)の友となったため、かえって心安らかに過ごされたのである。 ○飢えた人々が投身自殺する話 解説1. 隠遁生活描写の象徴性: 2. 仏典引用の意図: 3. 地理的特定事項: 4. 社会惨状描写の史実性:
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| 離々たる原上の草、塁々たる白骨、叢に纏れて、有し都の迹共不見成にければ、蓮府槐門の貴族・なま上達部・上臈・女房達に至るまで、或は大井、桂川の波の底の水屑となる人もあり、或は遠国に落下て田夫野人の賎きに身を寄せ、或は片田舎に立忍て、桑門、竹扉に住はび給へば、夜るの衣薄して暁の霜冷く、朝気の煙絶て後、首陽に死する人多し。中にも哀に聞へしは、或る御所の上北面に兵部少輔なにがしとかや云ける者、日来は富栄て楽み身に余りけるが、此乱の後財宝は皆取散され、従類眷属は何地共なく落失て、只七歳になる女子、九になる男子と年比相馴し女房と、三人許ぞ身に添ける。都の内には身を可置露のゆかりも無て、道路に袖をひろげん事もさすがなれば、思かねて、女房は娘の手を引、夫は子の手を引て、泣々丹波の方へぞ落行ける。誰を憑としもなく、何くへ可落著共覚ねば、四五町行ては野原の露に袖を片敷て啼明し、一足歩では木の下草にひれ臥て啼き暮す。只夢路をたどる心地して、十日許に丹波国井原の岩屋の前に流たる思出河と云所に行至りぬ。都を出しより、道に落たる栗柿なんどを拾て纔に命を継しかば、身も余りにくたびれ足も不立成ぬとて、母・少き者、皆川のはたに倒れ伏て居たりければ、夫余りに見かねて、とある家のさりぬべき人の所と見へたる内へ行て、中門の前に彳で、つかれ乞をぞしたりける。 |
荒れ果てた野原の草は、積み重なる白骨にかき消され、かつて都であった面影も全く見えなくなってしまった。公家や高位貴族から上臈・女房に至るまで、ある者は大井川や桂川の水底で藻屑と消える人もいれば、地方へ落ち延びて農民のような卑しい身分に甘んじる者もいた。また片田舎でひっそり暮らす僧侶のように質素な住まいに身を寄せた者は、夜の衣が薄くて明け方の霜に凍え、朝の炊事煙さえ絶えて飢え死にする者が多かった。 中でも特に哀れだったのは、とある御所で北面(警護役)を務めていた兵部少輔という人物である。以前は裕福で贅沢な暮らしをしていたが、戦乱後は財産も没収され、従者や親族も散り散りになってしまい、わずかに七歳の娘と九歳の息子、そして長年連れ添った女房だけが身近に残っていた。都には露宿する場所さえなく、物乞いすることすら憚られたため、妻は娘の手を引き、夫は息子の手を引いて泣く泣く丹波方面へ逃れて行った。 頼る者もおらず行き先も定まらないまま、四、五町(数百メートル)歩いては野原で露に濡れた袖を敷いて夜明けまで泣き、一足進んでは木陰の草むらに伏して終日嘆いた。まるで夢遊病者のように十日ほどさまよい、丹波国井原にある「思出河」と呼ばれる場所へたどり着いた。都を出てから道端の栗や柿を拾ってかろうじて命をつないだため、身体は疲れ果て足も動かない。母と子供たちが川岸に倒れ伏しているのを見かねた夫は、一軒だけ残っているらしい家へ向かい、中門の前で立ちすくみながら「施しを」と哀願した。 解説1. 貴族没落描写の文学的技法: 2. 飢餓状況の具体性: 3. 家族離散の象徴性: 4. 身分制度崩壊の描写:
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| 暫く有て内より侍・中間十余人走出て、「用心の最中、なまばうたる人のつかれ乞するは、夜討強盜の案内見る者歟。不然は宮方の廻文持て回る人にてぞあるらん。誡置て嗷問せよ。」とて手取足取打縛り、挙つ下つ二時許ぞ責たりける。女房・少き者、斯る事とは不思寄、川の端に疲れ臥て、今や/\と待居たりける処に、道を通る人行やすらひて、「穴哀や、京家の人かと覚しき人の年四十許なりつるが、疲れ乞しつるを怪き者かとて、あれなる家に捕へて、上つ下つ責つるが、今は責殺てぞあるらん。」と申けるを聞て、此女房・少き者、「今は誰に手を牽れ誰を憑てか暫くの命をも助るべき。後れて死なば冥途の旅に独迷はんも可憂。暫待て伴はせ給へ。」と、声々に泣悲で、母と二人の少き者、互に手に手を取組、思出河の深淵に身を投けるこそ哀なれ。兵部少輔は、いかに責問けれ共、此者元来咎なければ、落ざりける間、「さらば許せ。」とて許されぬ。是にもこりず、妻子の飢たるが悲しさに、又とある在家へ行て、菓なんどを乞集て、先の川端へ行て見るに、母・少き者共が著たる小草鞋・杖なんどは有て其人はなし。こは如何に成ぬる事ぞやと周章騒ぎて、彼方此方求ありく程に、渡より少し下もなる井堰に、奇き物のあるを立寄て見たれば、母と二人の子と手に手を取組て流懸りたり。 |
しばらくすると家の中から侍や中間(使用人)十数人が走り出てきて、「警戒中の最中に怪しい者が施しを求めるのは、夜討ち強盗の偵察役だろうか。さもなければ宮方(南朝勢力)の廻文を持って回っている者だぞ。捕らえて厳しく尋問せよ」と言いながら手足を縛り上げて殴るなどして、二時間ほど引きずり回し拷問した。 女房と子供たちはそんな事態が起ころうとは思いも寄らず川辺で疲れ伏せ、「もうすぐ戻ってくるだろう」と待っていたところに、通りかかった人が立ち止まって言った。「ああ悲しいことだ。京の貴族と思しき四十歳ほどの男が施食を求めたので怪しまれて、あそこの家で捕えられ上へ下へ引き回されているが、もう拷問死したらしい」。これを聞いて女房と子供たちは「今となって誰に手を引かれよう。だれを頼りにかろうじて命をつなげばよいのか。遅れて死ねばあの世への旅で一人迷うのも辛いから、待っていて伴ってください」と声を揃えて泣き叫んだ。そして母と二人の子供は互いに手を取り合い、思い出川の深淵に身を投げたのは悲痛である。 兵部少輔はどんなに拷問されても元々落ち度がなかったため、「まあよし」と言って解放された。それでも懲りず妻子の飢えた様子が悲しくて別の民家に行き菓子などを乞い集め、先ほどの川辺へ戻ると母と子供たちの履いた小草鞋や杖はあるのに人影がない。「これはどうしたことか」とあわてふためいて方々探し回るうちに、渡り場から少し下流にある井堰で異様な物を見つけて近づくと母と二人の子が手を取り合って水に浮いていた。 解説1. 家族自決描写の象徴性: 2. 社会的不信構造の描写: 3. 時間表現の実質化: 4. 地名的要素の史実性:
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| 取上て泣悲め共、身もひへはてゝ色も早替りはてゝければ、女房と二人の子を抱拘へて、又本の淵に飛入、共に空く成にけり。今に至まで心なき野人村老、縁も知ぬ行客旅人までも、此川を通る時、哀なる事に聞伝て、涙を流さぬ人はなし。誠に悲しかりける有様哉と、思遣れて哀なり。 ○公家武家栄枯易地事 公家の人は加様に窮困して、溝壑に填道路に迷ひけれ共、武家の族は富貴日来に百倍して、身には錦繍を纏ひ食には八珍を尽せり。前代相摸守の天下を成敗せし時、諸国の守護、大犯三箇条の検断の外は綺ふ事無りしに、今は大小の事、共に只守護の計ひにて、一国の成敗雅意に任すには、地頭後家人を郎従の如くに召仕ひ、寺社本所の所領を兵粮料所とて押へて管領す。其権威只古の六波羅、九州の探題の如し。又都には佐々木佐渡判官入道々誉始として在京の大名、衆を結で茶の会を始め、日々寄合活計を尽すに、異国本朝の重宝を集め、百座の粧をして、皆曲■の上に豹・虎の皮を布き、思々の段子金襴を裁きて、四主頭の座に列をなして並居たれば、只百福荘厳の床の上に、千仏の光を双て坐し給へるに不異。異国の諸侯は遊宴をなす時、食膳方丈とて、座の囲四方一丈に珍物を備ふなれば、其に不可劣とて、面五尺の折敷に十番の斎羹・点心百種・五味の魚鳥・甘酸苦辛の菓子共、色々様々居双べたり。 |
引き上げて泣き悲しんでも、体も冷え切って顔色はすっかり変わっていたので、女房と二人の子を抱きかかえたまま元いた淵に飛び込み、共にあの世へ旅立った。今になっても何も知らない田舎者や村の老人、縁もゆかりもない旅行者までもがこの川を通る時は哀れな話として伝え聞き、涙を流さぬ者はなかった。誠に悲しい有様だったと、思いやられて痛ましい。 ○公家と武家の栄枯盛衰 また都では佐々木道誉(京極高氏)を筆頭に在京の大名が集団を作って茶会を始め、毎日寄り合い贅沢の限りを尽くしている。外国や日本の宝物を収集し百種類もの装飾品を並べる中で、皆それぞれ豹皮や虎皮を敷物とし、思い思いの金襴緞子を裁って座席に列を作っている様は、まさしく荘厳な仏壇の上に千体の仏が光り輝いて鎮座しているのに違いない。外国の諸侯が宴会をする際には「食膳方丈」(一丈四方の食事スペース)といい珍味を並べるのでそれに劣らぬよう、五尺角のお盆に十種の汁物・百種類の点心・五味揃った魚鳥料理・甘酸苦辛さまざまな菓子などが色とりどりに並べてある。 解説1. 自決描写の宗教的意味合い: 2. 社会階級の逆転構造: 3. 物質文化の対比効果: 4. 権力構造の変遷:
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| 飯後に旨酒三献過て、茶の懸物に百物、百の外に又前引の置物をしけるに、初度の頭人は、奥染物各百充六十三人が前に積む。第二度の頭人は、色々の小袖十重充置。三番の頭人は、沈のほた百両宛、麝香の臍三充副て置。四番の頭人は沙金百両宛金糸花の盆に入て置。五番の頭人は、只今為立たる鎧一縮に、鮫懸たる白太刀、柄鞘皆金にて打くゝみたる刀に、虎の皮の火打袋をさげ、一様に是を引く。以後の頭人二十余人、我人に勝れんと、様をかへ数を尽して、如山積重ぬ。されば其費幾千万と云事を不知。是をもせめて取て帰らば、互に以此彼に替たる物共とすべし。ともにつれたる遁世者、見物の為に集る田楽・猿楽・傾城・白拍子なんどに皆取くれて、手を空して帰しかば、窮民孤独の飢を資るにも非ず、又供仏施僧の檀施にも非ず。只金を泥に捨て玉を淵に沈めたるに相同じ。此茶事過て後又博奕をして遊びけるに、一立てに五貫十貫立ければ、一夜の勝負に五六千貫負る人のみ有て百貫とも勝つ人はなし。此も田楽・猿楽・傾城・白拍子に賦り捨ける故也。抑此人々長者の果報有て、地より物が涌ける歟、天より財が降けるか。非降非涌、只寺社本所の所領を押へ取り、土民百姓の資財を責取、論人・訴人の賄賂を取集めたる物共也。 |
食事が終わった後も美味しい酒を三度酌み交わしてから、茶会での景品として百種類もの品々が用意されていた。その上さらに前段階の飾り物があったところで、最初に指名された主賓(頭人)は奥染めの織物など100点入りの箱63個を前に積み上げた。二番目の主賓は様々な小袖10重入れの箱を置いた。三番目の主賓は沈香百両ずつと麝香の袋3点を添えて供えた。四番目の主賓は砂金百両ずつを金糸で装飾した盆に入れて用意した。五番目の主賓は最新式に作られた鎧一領に、鮫皮を張った白鞘の太刀(柄や鞘すべて金で覆われた刀)と虎の皮の火打袋を下げて揃え、これを皆が順番に受け取るようにした。その後二十人以上の主賓たちは互いに見栄を競おうと趣向を変えて数を尽くし、山のように積み重ねたのである。その費用が何千万にもなることは計り知れない。もしこれを持ち帰れば相互に物々交換の品となるはずだが、連れて来られた隠遁者や見物のために集まった田楽師・猿楽師・遊女・白拍子(芸能者)たちにすべて与え尽くしたため手ぶらで帰る始末。これは貧しい孤児を救うための施しでもなく、仏僧への供養でもない。ただ金を泥の中に捨て玉を深淵に沈めるのと同じ行為だった。 この茶会が終わった後さらに博奕(賭け事)を行い遊んだところ、一勝負で五貫十貫もかかるので一夜にして五六千貫も負ける者ばかりいて百貫すら勝つ者はなかった。これも田楽師・猿楽師・遊女たちへのチップとして捨てているためである。そもそもこうした人々(武家)が裕福なのは、地から宝物が湧き出るのか天から財が降ってくるのか? そうではないのだ。ただ寺社や本所の領地を奪い取り、農民たちの資産を取り立て、訴訟人の賄賂を集め取った物に過ぎない。 解説1. 奢侈物品の実態描写: 2. 経済行為の社会構造: 3. 宗教的批判の深化: 4. 搾取構造の告発:
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| 古の公人たりし人は、賄賂をも不取、勝負をもせず、囲碁双六をだに酷禁ぜしに、万事の沙汰を閣て、訴人来れば酒宴茶の会なんど云て不及対面、人の歎をも不知、嘲をも不顧、長時に遊び狂ひけるは、前代未聞の癖事なり。懸し程に、延文三年二月十二日、故左兵衛督直義入道慧源、さしも爪牙耳目の武臣たりしかば、従二位の贈爵を苔の下なる遺骸にぞ賜ひける。法体死去の後、如此宣下無其例とぞ人皆申合れける。 ○将軍御逝去事 同年四月二十日、尊氏卿背に癰瘡出て、心地不例御坐ければ、本道・外科の医師数を尽して参集る。倉公・華他が術を尽し、君臣佐使の薬を施し奉れ共更無験。陰陽頭・有験の高僧集て、鬼見・太山府君・星供・冥道供・薬師の十二神将法・愛染明王・一字文殊・不動慈救延命の法、種々の懇祈を致せ共、病日に随て重くなり、時を添て憑少く見へ給ひしかば、御所中の男女機を呑み、近習の従者涙を押へて、日夜寝食を忘たり。懸りし程に、身体次第に衰へて、同二十九日寅刻、春秋五十四歳にて遂に逝去し給けり。さらぬ別の悲さはさる事ながら、国家の柱石摧けぬれば、天下今も如何とて、歎き悲む事無限。さて可有非ずとて、中一日有て、衣笠山の麓等持院に葬し奉る。鎖龕は天竜寺の竜山和尚、起龕は南禅寺の平田和尚、奠茶は建仁寺の無徳和尚、奠湯は東福寺の鑑翁和尚、下火は等持院の東陵和尚にてぞをはしける。 |
昔の公家出身者は賄賂を受け取らず賭け事もしなかった。囲碁や双六さえ厳しく禁じていたのに、今は全ての政務を放り出して訴訟人が来ても「酒宴や茶会中だ」と面会もせず、民の嘆きも顧みない。こんなに長期間遊び呆けるのは前代未聞の異常事態である。 そうこうするうち延文三年(1358年)二月十二日、故左兵衛督直義入道慧源(足利直義)はかつて将軍を補佐した功臣であったため、死後に従二位の位階が贈られた。出家後の死者にこのような叙爵は前例がないと人々が噂し合った。 ◆ 将軍ご逝去について やがて体力が衰え、同年二十九日寅の刻(午前4時頃)、五十四歳で逝去された。個人の悲嘆もさることながら国家の柱石が失われたことで天下大いに動揺し、人々の嘆きは計り知れなかった。葬儀準備のため一日置いて衣笠山麓等持院に埋葬されることとなり、各儀式を高僧たちが分担: 解説1. 政治風刺の深化: 2. 医療史の貴重な証言: 3. 葬送儀礼の詳細: 4. 死生観の表現技法:
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| 哀なる哉、武将に備て二十五年、向ふ処は必順ふといへ共、無常の敵の来るをば防ぐに其兵なし。悲哉、天下を治て六十余州、命に随ふ者多しといへ共、有為の境を辞するには伴て行く人もなし。身は忽に化して暮天数片の煙と立上り、骨は空く留て卵塔一掬の塵と成にけり。別れの泪掻暮て、是さへとまらぬ月日哉。五旬無程過ければ、日野左中弁忠光朝臣を勅使にて、従一位左大臣の官を贈らる。宰相中将義詮朝臣、宣旨を啓て三度拝せられけるが、涙を押へて、帰べき道しなければ位山上るに付てぬるゝ袖かなと被詠けるを、勅使も哀なる事に聞て、有の侭に奏聞しければ、君無限叡感有て、新千載集を被撰けるに、委細の事書を載られて、哀傷の部にぞ被入ける。勅賞の至り、誠に忝かりし事共なり。 ○新待賢門院並梶井宮御隠事 同四月十八日、吉野の新待賢門の女院隠れさせ給ぬ。一方の国母にて御坐しければ、一人を始め進せて百官皆椒房の月に涙を落し、掖庭の露に思を摧く時節、何に有ける事ぞやとて、涙を拭ける処に、又同年五月二日、梶井二品親王御隠有ければ、山門の悲歎、竹苑の御歎更に類なし。此等は皆天下の重き歎なりしかば、知も知ぬも推並て、世の中如何あらんずらんと打ひそめき、洛中・山上・南方、打続たる哀傷、蘭省露深く、柳営烟暗して、台嶺の雲の色悲んで今年は如何なる歳なれば、高き歎の花散て、陰の草葉に懸るらんと、僧俗男女共に押並て袖をぞ絞りける。 |
なんと悲しいことか。将軍として二十五年間戦い向かう敵は必ず従わせたが、「無常」という敵には防ぐ兵を持たなかった。哀れなことに天下を治め六十余州で従う者は多いのに、この世を去る時には共に行く者もない。その身はたちまち灰となり夕空に幾筋かの煙と立ち昇り、骨だけが虚しく残って墓塔の一握りの塵となったのである。別れの涙で日暮れてもなお消えない月日の流れよ。 五十日ほど過ぎた頃、勅使として日野左中弁忠光朝臣が派遣され従一位左大臣の位を追贈した。宰相中将義詮(足利義詮)は宣旨を受け三度礼拝し涙をこらえて「帰るべき道なく位山に登りつつぬれる袖かな」と詠んだ。これを聞いた勅使も哀れに思いそのまま奏上したところ、天皇(後光厳院)は深く感銘され『新千載和歌集』を撰進させ詳細を記録して「哀傷の部」に入れた。この天皇家からの栄誉こそまことに畏れ多いことであった。 ◆ 新待賢門院と梶井宮ご逝去について 都(北朝)・吉野(南朝)・比叡山では悲嘆が連続し朝廷は露深く幕府も煙暗く、天台山の雲さえ陰りを帯びて「今年はいったいどんな年か 高貴な花散って蔭に草葉懸かるらん」と僧俗男女問わず皆袖を絞るばかりであった。 解説1. 死生観の文学表現: 2. 叙位と勅撰集の政治性: 3. 複合喪失の歴史的意義:
4. 社会心理描写の機能: 背景補足: 尊氏死後の混乱期に「知も知ぬも」という表現で一般民衆の動揺を描く手法は『太平記』特有。実際1360年には南朝軍が京都一時奪還(赤松則祐撃退)。新待賢門院崩御日付問題については、『梅松論』と吉野側史料に2ヶ月差があり政治的調整の可能性が指摘されている。「位山上る」は現京都市北区「位山町」実在説もあるが、ここでは霊魂の昇天を官途登進に喩えた修辞。 |
| ○崇徳院御事 今年の春、筑紫の探題にて将軍より被置たりける一色左京大夫直氏・舎弟修理大夫範光は、菊池肥前守武光に打負て京都へ被上ければ、小弐・大友・島津・松浦・阿蘇・草野に至るまで、皆宮方に順ひ靡き、筑紫九国の内には、只畠山治部大輔が日向の六笠の城に篭たる許ぞ、将軍方とては残りける。是を無沙汰にて閣かば、今将軍の逝去に力を得て、菊池如何様都へ責上りぬと覚る。是天下の一大事也。急で打手の大将を下さでは叶まじとて、故細川陸奥守顕氏子息、式部大夫繁氏を伊予守になして、九国の大将にぞ下されける。此人先讃岐国へ下り、兵船をそろへ軍勢を集る程に、延文四年六月二日俄に病付て物狂に成たりけるが、自ら口走て、「我崇徳院の御領を落して、軍勢の兵粮料所に充行しに依て重病を受たり。天の譴八万四千の毛孔に入て五臓六府に余る間、冷しき風に向へ共盛なる炎の如く、ひやゝかなる水を飲共沸返る湯の如し。あらあつや難堪や、是助てくれよ。」と悲み叫て、悶絶僻地しければ、医師陰陽師の看病の者共近付んとするに、当り四五間の中は猛火の盛に燃たる様に熱して、更に近付人も無りけり。病付て七日に当りける卯の刻に黄なる旗一流差て、混た甲の兵千騎許、三方より同時に時の声を揚て押寄たり。 |
今年(延文四年・1359年)春、九州探題として将軍家より派遣されていた一色左京太夫直氏とその弟修理大夫範光が菊池肥前守武光に敗れ京都へ逃げ戻ったため、小弐・大友・島津・松浦・阿蘇・草野ら筑紫九国の武将たちは悉く南朝方(宮方)についた。将軍側の勢力として残るのは畠山治部太輔が日向国六笠城に籠っているのみとなった。 この状況を放置すれば、尊氏死去で勢いづいた菊池武光がすぐにも京都へ攻め上ると推測された。「天下の一大事である。急ぎ討伐軍の大将を派遣せねばならない」との判断から、故細川陸奥守顕氏の息子・式部大夫繁氏を伊予守に任命し九国総大将として下向させた。 ところが彼はまず讃岐国へ赴き兵船と兵力集結中、延文四年(1359年)六月二日に急病で発狂した。自ら叫び「私は崇徳院の所領を没収して軍糧に充てたため祟りを受けた!天罰が八万四千の毛穴から五臓六腑へ浸透し、涼しい風に向かっても炎のように熱く冷たい水を飲んでも沸騰する湯のようだ。あぁ耐え難い助けてくれ!」と絶叫して悶死したため医師や陰陽師も近づけなかった。 そして発病七日目の卯刻(午前6時頃)、黄色い旗を持ち乱れた甲冑の兵約千騎が三方から鬨の声を上げて押し寄せたのである。 解説1. 九州情勢の急変: 2. 祟り描写の歴史性: 3. 軍事編成の現実反映: 4. 末世的表象の深化:
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| 誰とは不知敵寄たりと心得て、此間馳集たる兵共五百余人、大庭に走出て散々に射る。箭種尽ぬれば打物に成て、追つ返つ半時許ぞ戦たる。搦手より寄ける敵かと覚て、紅の母衣掛たる兵十余騎、大将細川伊予守が頚と家人行吉掃部助が頚とを取て鋒に貫き、「悪しと思ふ者をば皆打取たるぞ。是看よや兵共。」とて、二の頚を差上たれば、大手の敵七百余騎、勝時を三声どつと作て帰るを見れば、此寄手天に上り雲に乗じて、白峯の方へぞ飛去ける。変化の兵帰去れば、是を防つる者共、討れぬと見へつる人も不死、手負と見つるも恙なし。こはいかなる不思議ぞと、互に語り互に問て、暫くあれば、伊予守も行吉も同時に無墓成にけり。誠に濁悪の末世と乍云、不思議なる事共なり。 ○菊池合戦事 小弐・大友は、菊池に九国を打順られて、其成敗に随事不安思ければ、細川伊予守の下向を待て旗を挙んと企けるが、伊予守、崇徳院の御霊に罰せられて、犬死しぬと聞へければ、力を失て機を呈さず。斯る処に畠山治部太輔が、未宮方には随はで楯篭たる六笠の城を責んとて、菊池肥後守武光五千余騎にて、十一月十七日肥後国を立て日向国へぞ向ける。道四日路が間、山を超川を渡て、行先は嶮岨に跡は難所にてぞ有ける。小弐・大友、菊池が催促に応じて、豊後国中に打出て勢汰をしけるが、是こそよき時分なりと思ければ、菊池を日向国へ遣り過して後、大友刑部太輔氏時、旗を挙て豊後の高崎の城に取上る。 |
兵士たちは誰とも知れない敵の襲来と勘違いし、駆けつけた500人余りが大庭に飛び出して乱射した。矢を使い果たすと白兵戦となり、互いに押し合い約一時間ほど戦ったところ、「背後から攻めてきた敵か」と思われる紅の母衣(ほろ)を着た武者十数騎が大将・細川伊予守と家臣・行吉掃部助の首級を取り槍に突き刺し、「恨みある者たちは皆討ち取った。見よ兵ども!」と言って二つの首を掲げると、正面から攻め寄せていた700騎余りの敵軍が勝鬨(かちどき)を三度あげて去っていくのを見た。この襲撃部隊は天に昇り雲に乗じて白峯の方角へ飛び去ったため、残された兵士たちは不思議にも戦死したはずの者が生きていたり負傷者も無事だった。「これはいかなる怪現象か」と語り合っているうちに伊予守と行吉が同時に消え失せた。まさに穢れた末法の世とは言うものの、驚くべき出来事であった。 ◆ 菊池軍との戦い そんな中、南朝方につかず六笠城に籠もる畠山治部太輔を討伐するため菊池肥後守武光が5,000余騎で11月17日肥後国(熊本県)から日向国(宮崎県)へ進軍した。道中は四日の行程で険しい山や川を越える困難なものだった。小弐・大友らは菊池の要請に応じ豊後国(大分県)に出撃して兵を整えたが、「今こそ好機」と判断し、菊池軍が日向へ通過した後に大友刑部太輔氏時が旗揚げして豊後の高崎城を占拠したのである。 解説1. 怨霊譚の構造的機能: 2. 九州情勢の政治力学: 3. 軍事行動のリアリズム: 背景補足: 「濁悪末世(じょくあくまっせ)」は末法思想を基盤とするが、実際この時期(延文4年)に全国的な疫病・飢饉発生(『師守記』)。白峯信仰拡大と崇徳院怨霊伝説の定着化を示す。史実では高崎城戦で大友氏時は敗死し、菊池武光が1361年一時京都占拠を達成するため本段落は南朝優位への転換点描写と言える。「槍に貫く首級」表現は『平家物語』敦盛最期の場面を意識した文学的引用。 |
| 宇都宮大和前司は、河を前にして豊前の路を塞ぎ、肥前刑部太輔は、山を後に当て筑後の道をぞ塞ぎける。菊池已に前後の大敵に取篭られて何くへか可引。只篭の中の鳥、網代の魚の如しと、哀まぬ人も無りけり。菊池此二十四年が間、筑紫九国の者共が軍立手柄の程を、敵に受け御方になして、能知透したりければ、後ろには敵旗を上道を塞たりと聞へけれ共、更に事ともせず、十一月十日より矢合して、畠山治部太輔が子息民部少輔が篭たる三保の城を夜昼十七日が中に責落して、敵を打こと三百人に及べり。畠山父子憑切たる三保の城落されて、叶はじとや思ひけん、攻の城にもたまらず、引て深山の奥へ逃篭りければ、菊池今は是までぞとて肥後国へ引返すに、跡を塞ぎし大敵共更に戦ふ事なければ、箭の一をも不射己が館へぞ帰りける。是までは未太宰小弐・阿蘇大宮司、宮方を背く気色無りければ、彼等に牒し合せて、菊池五千余騎を卒して大友を退治せん為に豊後国へ馳向ふ。是時太宰小弐俄に心替して太宰府にして旗を挙ければ、阿蘇大宮司是に与して菊池が迹を塞がんと、小国と云処に九箇所の城を構て、菊池を一人も打漏さじとぞ企ける。菊池兵粮運送の路を止られて豊後へ寄る事も不叶、又太宰府へ向はんずる事も難儀也ければ、先我肥後国へ引返してこそ、其用意をも致さめとて、菊池へ引返しけるが、阿蘇大宮司が構たる九箇所の城を一々に責落して通るに、阿蘇大宮司憑切たる手者共三百余人討れければ、敵の通路を止むるまでは不寄思、我身の命を希有にしてこそ落行けれ。 |
宇都宮大和前司は河を前にして豊前(福岡県東部)の道を塞ぎ、肥前刑部太輔(ひぜん・ぎょうぶのだゆう)は山を背後に控えて筑後(福岡県南部)の進路を遮断した。菊池武光はすでに前後の敵軍に包囲され退却場所もなく、「まるで籠の中の鳥や網にかかった魚のようだ」と憐れまない者はいなかった。 しかし菊池はこの24年間、九州諸将の戦功を観察し味方につける術を見抜いていたため、後方を塞がれたとの報に動じず、11月10日から矢合わせ(交戦)開始。昼夜17日の猛攻で畠山治部太輔の息子・民部少輔が籠る三保城を攻略し敵300人余りを討ち取った。城主父子は頼みの城を落とされ抗戦不能と悟り、山中へ逃亡したため菊池軍は「これまで」と言い肥後国(熊本県)へ撤退する。背後を塞ぐ大軍も追撃せず一矢も放たなかったことから無事帰還できた。 この時点で太宰少弐(だざい・しょうに)と阿蘇大宮司は南朝方への忠誠を示していたため、菊池は彼らと連携し5,000騎余りを率いて大友氏討伐のため豊後国(大分県)へ向かう。しかし途中で太宰少弐が急に離反して太宰府で挙兵すると、阿蘇大宮司も同調し「小国」と呼ばれる地に九つの城を築いて菊池軍一人も通すまいと企てた。 菊池は兵糧輸送路を断たれ豊後進撃が不可能となり、太宰府攻略も困難になったため先ず肥後へ撤退する決意。しかし阿蘇大宮司の九つの城を次々に攻め落として突破した際、敵側300人余りの精鋭兵士が討ち取られた。「敵の進路封鎖どころか自らの命すら保つのが奇跡だ」と敗走させる結果となったのである。 解説1. 包囲網突破の戦術的意義: 2. 九州勢力図の変遷: 3. 菊池武光の戦略的特質:
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| 去程に七月に征西将軍宮を大将として、新田の一族・菊池の一類、太宰府へ寄と聞へしかば、小弐は陣を取て敵を待んとて、大将太宰筑後守頼尚・子息筑後新小弐忠資・甥太宰筑後守頼泰・朝井但馬将監胤信・筑後新左衛門頼信・窪能登太郎泰助・肥後刑部太輔泰親・太宰出雲守頼光・山井三郎惟則・饗場左衛門蔵人重高・同左衛門大夫行盛・相馬小太郎・木綿左近将監・西河兵庫助・草壁六郎・牛糞刑部大輔、松浦党には、佐志将監・田平左衛門蔵人・千葉右京大夫・草野筑後守・子息肥後守・高木肥前守・綾部修理亮・藤木三郎・幡田次郎・高田筑前々司・三原秋月の一族・島津上総入道・渋谷播磨守・本間十郎・土屋三郎・松田弾正少弼・河尻肥後入道・託間三郎・鹿子木三郎、此等を宗との侍として都合其勢六万余騎、杜の渡を前に当て味坂庄に陣を取る。宮方には、先帝第六の王子征西将軍宮、洞院権大納言・竹林院三位中将・春日中納言・花山院四位少将・土御門少将・坊城三位・葉室左衛門督・日野左少弁・高辻三位・九条大外記・子息主水頭、新田一族には、岩松相摸守・瀬良田大膳大夫・田中弾正大弼・桃井左京亮・江田丹後守・山名因幡守・堀口三郎・里見十郎、侍大将には、菊池肥後守武光・子息肥後次郎・甥肥前二郎武信・同孫三郎武明・赤星掃部助武貫・城越前守・賀屋兵部太輔・見参岡三川守・庄美作守・国分二郎・故伯耆守長年が次男名和伯耆権守長秋・三男修理亮・宇都宮刑部丞・千葉刑部太輔・白石三川入道・鹿島刑部太輔・大村弾正少弼・太宰権小弐・宇都宮壱岐守・大野式部太輔・派讃岐守・溝口丹後守・牛糞越前権守・波多野三郎・河野辺次郎・稲佐治部太輔・谷山右馬助・渋谷三河・同修理亮・島津上総四郎・斉所兵庫助・高山民部太輔・伊藤摂津守・絹脇播磨守・土持十郎・合田筑前守、此等を宗との兵として、其勢都合八千余騎、高良山・柳坂・水縄山三箇所に陣をぞ取たりける。 |
7月のことだった。征西将軍宮(懐良親王)が大将となり新田一族と菊池一党が太宰府へ迫るという噂があったため、少弐頼尚は陣を敷いて敵を待ち構えた。彼の配下には総大将である太宰筑後守頼尚・息子の筑後新小弐忠資・甥の太宰筑後守頼泰・朝井但馬将監胤信・筑後新左衛門頼信・窪能登太郎泰助・肥後刑部太輔泰親・太宰出雲守頼光・山井三郎惟則・饗場左衛門蔵人重高・同左衛門大夫行盛・相馬小太郎・木綿左近将監・西河兵庫助・草壁六郎・牛糞刑部大輔らがいた。松浦党からは佐志将監・田平左衛門蔵人・千葉右京大夫・草野筑後守とその息子の肥後守・高木肥前守・綾部修理亮・藤木三郎・幡田次郎・高田筑前々司が参陣し、さらに三原秋月一族や島津上総入道・渋谷播磨守・本間十郎・土屋三郎・松田弾正少弼・河尻肥後入道・託間三郎・鹿子木三郎らも加わった。これらを主力とする軍勢は合計6万余騎で、杜の渡し(福岡県筑紫野市付近)に面した味坂庄(同地域)に布陣した。 一方宮方(南朝側)では、先帝後醍醐天皇第六皇子である征西将軍宮を中心とし、洞院権大納言・竹林院三位中将・春日中納言・花山院四位少将・土御門少将・坊城三位・葉室左衛門督・日野左少弁・高辻三位・九条大外記とその息子の主水頭ら公家が従った。新田一族からは岩松相摸守・瀬良田大膳大夫・田中弾正大弼・桃井左京亮・江田丹後守・山名因幡守・堀口三郎・里見十郎が、侍大将として菊池肥後守武光とその息子の肥後次郎・甥の肥前二郎武信・同じく孫三郎武明・赤星掃部助武貫・城越前守・賀屋兵庫太輔・見参岡三川守・庄美作守・国分二郎が参加した。さらに故伯耆守名和長年の次男である名和伯耆権守長秋と三男の修理亮、宇都宮刑部丞・千葉刑部太輔・白石三川入道・鹿島刑部太輔・大村弾正少弼・太宰権小貮・宇都宮壱岐守・大野式部太輔・派讃岐守・溝口丹後守・牛糞越前権守・波多野三郎・河野辺次郎・稲佐治部太輔・谷山右馬助・渋谷三河と同修理亮・島津上総四郎・斉所兵庫助・高山民部太輔・伊藤摂津守・絹脇播磨守・土持十郎・合田筑前守らが主力となり、全軍約8,000余騎で高良山(久留米市)・柳坂(同市付近)・水縄山(朝倉市)の三箇所に布陣したのである。 解説1. 両軍勢力図と歴史的背景: 2. 陣形配置の地理的意義: 3. 兵力構成から見る時代性:
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| 同七月十九日に、菊池は先己が手勢五千余騎にて筑後河を打渡り、小弐が陣へ押寄す。小弐如何思けん不戦、三十余町引退き大原に陣を取る。菊池つゞひて責んとしけるが、あはひに深き沼有て細道一つ有けるを、三所堀切て、細き橋を渡したりければ、可渡様も無りけり。両陣僅に隔て旗の文鮮に見ゆる程になれば、菊池態小弐を為令恥、金銀にて月日を打て著たる旗の蝉本に、一紙の起請文をぞ押たりける。此は去年太宰小弐、古浦城にて已に一色宮内太輔に討れんとせしを、菊池肥後守大勢を以て後攻をして、小弐を助たりしかば、小弐悦びに不堪、「今より後子孫七代に至まで、菊池の人々に向て弓を引矢を放事不可有。」と、熊野の牛王の裏に、血をしぼりて書たりし起請なれば、今無情心替りしたる処のうたてしさを、且は訴天に、且は為令知人に也けり。八月十六日の夜半許に、菊池先夜討に馴たる兵を三百人勝て、山を越水を渡て搦手へ廻す。宗との兵七千余騎をば三手に分て、筑後河の端に副て、河音に紛れて嶮岨へ廻りて押寄す。大手の寄手今は近付んと覚ける程に、搦手の兵三百人敵の陣へ入て、三処に時の声を揚げ十方に走散て、敵の陣々へ矢を射懸て、後へ廻てぞ控たる。分内狭き所に六万余騎の兵、沓の子を打たる様に役所を作り双たれば、時の声に驚き、何を敵と見分たる事もなく此に寄合彼に懸合て、呼叫追つ返つ同士打をする事数剋也しかば、小弐憑切たる兵三百余人、同士打にこそ討れけれ。 |
同じ7月19日、菊池武光は自らの手勢5,000余騎で筑後川を渡り、少弐軍の陣へ押し寄せた。ところが少弐頼尚は戦わずに30町(約3.3km)以上も退却し、大原に陣を敷いた。菊池が追撃しようとしたが、その間には深い沼があり細道一つだけが通じていたため、三ヶ所を堀で断ち切られ、細い橋が架けられていたので渡る方法はなかった。両軍の陣が接近し旗印まではっきり見えるほどになったところで、菊池は意図的に少弐を恥ずかしめようと、金銀で装飾した「月日」の紋章のある旗竿に一枚の起請文を貼り付けた。これは前年、太宰府の少弐が古浦城で一色宮内大輔に討たれそうになった際、菊池肥後守武光が大軍で背後から攻撃して少弐を助けた恩義があったためだ。その時少貳は感激し、「今後子孫七代まで菊池一族には弓も矢も向けない」と熊野牛王符の裏に血判誓約した起請文であった。今になって無情にも心変わりした非道さを、天に訴え人々に知らせようとしたのである。 8月16日の夜半頃、菊池はまず夜襲に慣れた兵300名を選んで山を越え川を渡り敵陣の背後へ回った。主力部隊7,000余騎は三手に分かれ、筑後川沿いに進み水音に紛れて険しい地形を迂回して接近した。正面軍が間近まで迫った時、背後から潜入した300兵が敵陣内で三方向に鬨の声を上げ四方へ散開し、敵陣に向かって矢を射かけながら後方で待機した。狭隘な地域に6万余騎もの大軍が密集して駐屯していたため、鬨の声に驚いた兵士たちは敵味方の区別もつかず、あちこちで斬り合い同士討ちを始め、数刻(約2時間)にもわたって混乱した結果、少弐軍の中核部隊300余人が同士打ちによって倒れたのである。 解説1. 戦術的展開の核心点: 2. 歴史的背景: 3. 文学的効果:
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| 敵陣騒乱て、夜已に明ければ、一番に菊池二郎、件の起請の旗を進めて、千余騎にてかけ入。小弐が嫡子太宰新小弐忠資、五十余騎にて戦けるが、父が起請や子に負けん。忠資忽に打負て、引返々々戦けるが、敵に組れて討れにけり。是を見て朝井但馬将監胤信・筑後新左衛門・窪能登守・肥前刑部大輔、百余騎にて取て返し、近付く敵に引組々々差違て死ければ、菊池孫次郎武明・同越後守・賀屋兵部大輔・見参岡三川守・庄美作守・宇都宮刑部丞・国分次郎以下宗との兵八十三人、一所にて皆討れにけり。小弐が一陣の勢は、大将の新小弐討れて引退ければ、菊池が前陣の兵、汗馬を伏て引へたり。二番に菊池が甥肥前二郎武信・赤星掃部助武貫、千余騎にて進めば、小弐が次男太宰越後守頼泰、並太宰出雲守、二万余騎にて相向ふ。初は百騎宛出合て戦けるが、後には敵御方二万二千余騎、颯と入乱、此に分れ彼に合、半時許戦けるが、組で落れば下重り、切て落せば頚をとる。戦未決前に、小弐方には赤星掃部助武貫を討て悦び、寄手は引返す。菊池が方には太宰越後守を虜て、勝時を上てぞ悦ける。此時宮方に、結城右馬頭・加藤大夫判官・合田筑前入道・熊谷豊後守・三栗屋十郎・太宰修理亮・松田丹後守・同出雲守・熊谷民部大輔以下、宗との兵三百余人討死しければ、将軍方には、饗庭右衛門蔵人・同左衛門大夫・山井三郎・相馬小太郎・木綿左近将監・西川兵庫助・草壁六郎以下、憑切たる兵共七百余人討れにけり。 |
敵陣は混乱し夜もすっかり明けたため、先鋒として菊池二郎が例の起請文の旗を掲げて千余騎で突撃した。少弐頼尚の嫡子・太宰新小弐忠資は五十余騎で応戦したが、「父が誓った起請文ゆえ息子も負けられぬ」と奮闘するものの、形勢不利となり退却を重ねるうち敵に組み付かれて討たれた。これを見て朝井但馬将監胤信・筑後新左衛門・窪能登守・肥前刑部大輔ら百余騎が反転し、迫る敵と斬り結んだ末全員戦死したため、菊池孫次郎武明・同越後守・賀屋兵部大輔・見参岡三川守・庄美作守・宇都宮刑部丞・国分次郎以下主力部隊83名が一ヶ所で討ち取られた。少弐軍の第一陣は大将である新小弐(忠資)を失い退却したため、菊池方の前衛部隊も疲弊して後退した。 第二波として菊池の甥・肥前二郎武信と赤星掃部助武貫が千余騎で進軍すると、少弐の次男・太宰越後守頼泰および並太宰出雲守率いる二万余騎が対峙した。初めは百騎ずつが出撃して交戦していたが、やがて敵味方合わせた二万二千余騎が入り乱れ、分かれては合流する激しい混戦となり半時(約1時間)続いた。組み伏せば下から襲われ、斬れば首を奪われる状態で決着つかぬ中、少弐方は赤星掃部助武貫討伐に沸き菊池方も太宰越後守頼泰捕縛の報が届いて勝利を喜んだ。 この戦いで南朝(宮方)軍は結城右馬頭・加藤大夫判官・合田筑前入道・熊谷豊後守・三栗屋十郎・太宰修理亮・松田丹後守・同出雲守・熊谷民部大輔以下三百余人が戦死し、足利方(将軍方)も饗庭右衛門蔵人・同左衛門大夫・山井三郎・相馬小太郎・木綿左近将監・西川兵庫助・草壁六郎以下精鋭七百余人を失った。 解説1. 戦闘経過の特徴: 2. 混戦描写の分析: 3. 歴史的意義:
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| 三番には、宮の御勢・新田の一族・菊池肥後守一手に成て、三千余騎、敵の中を破て、蜘手十文字に懸散んと喚ひて蒐る。小弐・松浦・草壁・山賀・島津・渋谷の兵二万余騎、左右へ颯と分れて散々に射る。宮方の勢射立られて引ける時、宮は三所まで深手を負せ給ければ日野左少弁・坊城三位・洞院権大納言・花山院四位少将・北山三位中将・北畠源中納言・春日大納言・土御門右少弁・高辻三位・葉室左衛門督に至るまで、宮を落し進せんと蹈止て討れ給ふ。是を見て新田の一族三十三人、其勢千余騎横合に懸て、両方の手崎を追まくり、真中へ会尺もなく懸入て、引組で落、打違て死、命を限に戦けるに、世良田大膳大夫・田中弾正大弼・岩松相摸守・桃井右京亮・堀口三郎・江田丹後守・山名播磨守、敵に組れて討れにけり。菊池肥後守武光・子息肥後次郎は、宮の御手を負せ給のみならず、月卿雲客・新田一族達若干討るゝを見て、「何の為に可惜命ぞや。日来の契約不違、我に伴ふ兵共、不残討死せよ。」と励されて、真前に懸入る。敵此を見知たりければ、射て落さんと、鏃をそろへて如雨降射けれ共、菊池が著たる鎧は、此合戦の為に三人張の精兵に草摺を一枚宛射させて、通らぬさねを一枚まぜに拵て威たれば、何なる強弓が射けれ共、裏かく矢一も無りけり。 |
三番手として、宮方の軍勢・新田一族・菊池肥後守が一手にまとまり三千余騎で敵陣突破を図り、「蜘蛛の巣のように十文字に分散せよ」と叫びながら進撃した。これに対し少弐・松浦・草壁・山賀・島津・渋谷ら北朝方二万余騎は左右へ素早く分かれて矢を浴びせかけ、宮方が射掛けられて後退する中で皇族(尊氏親王か)が三ヶ所の重傷を負われた。すると日野左少弁・坊城三位・洞院権大納言・花山院四位少将・北山三位中将・北畠源中納言・春日大納言・土御門右少弁・高辻三位・葉室左衛門督ら公家衆が皇族を守るために踏み止まり全員討死した。この状況を見た新田一族33名は千余騎で横合から突撃し、敵の両翼を蹴散らして中央へ一気に切り込み、組み打ちでの転倒や斬りあいによる相討ちなど命尽きるまで戦ったが、世良田大膳大夫・田中弾正大弼・岩松相模守・桃井右京亮・堀口三郎・江田丹後守・山名播磨守は敵に取り囲まれて討たれた。菊池肥後守武光とその子・肥後次郎は皇族の負傷だけでなく、公家衆や新田一族が次々倒される様子を見て「もったいない命など何のためにある? 平素の誓約を破らずに従う兵らよ、一人残らず討死せよ」と鼓舞し最前線へ突入した。敵はこれを見抜き一斉射撃で仕留めようとしたが、菊池武光の鎧はこの戦いのために三名張(三重張り)の頑丈さを確認するため腰防具(草摺)一枚ずつに矢を通さないテストを施し、通らない部分を混ぜて威していたので、どんな強弓で射かけても裏側まで届く矢一本もなかった。 解説1. 戦術的転換とその帰結: 2. 菊池武光の象徴的描写: 3. 歴史的背景:
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| 馬は射られて倒れ共乗手は疵を被らねば、乗替ては懸入々々、十七度迄懸けるに、菊池甲を落されて、小鬢を二太刀切れたり。すはや討れぬと見へけるが、小弐新左衛門武藤と押双て組で落、小弐が頚を取て鋒に貫き、甲を取て打著て、敵の馬に乗替、敵の中へ破て入、今日の卯剋より酉の下まで一息をも不継相戦けるに、新小弐を始として一族二十三人、憑切たる郎従四百余人、其外の軍勢三千二百二十六人まで討れにければ、小弐今は叶はじとや思けん、太宰府へ引退て、宝万が岳に引上る。菊池も勝軍はしたれども、討死したる人を数れば、千八百余人と注したりける。続て敵にも不懸、且く手負を助てこそ又合戦を致さめとて、肥後国へ引返す。其後は、敵も御方も皆己が領知の国に楯篭て、中々軍も無りけり。 ○新田左兵衛佐義興自害事 去程に尊氏卿逝去あつて後、筑紫は加様に乱れぬといへ共、東国は未静也。爰に故新田左中将義貞の子息左兵衛佐義興・其弟武蔵少将義宗・故脇屋刑部卿義助子息右衛門佐義治三人、此三四年が間越後国に城郭を構へ半国許を打随へて居たりけるを、武蔵・上野の者共の中より、無弐由の連署の起請を書て、「両三人の御中に一人東国へ御越候へ。大将にし奉て義兵を揚げ候はん。」とぞ申たりける。 |
馬は射られて倒れたものの騎手が傷を負わなかったので、別の馬に乗り換えて突撃を繰り返すこと十七度目となった時、菊池(武光)が兜を落とされこめかみを二太刀斬られた。もはや討ち死にすると思われたが、小弐新左衛門武藤という者と組み合って倒れ込み、相手の首を取り槍に突き刺し、兜を取って打ちつけながら敵馬に乗り換え、敵陣の中へ切り込んでいった。今日の卯刻(朝6時頃)から酉刻(夕方6時頃)まで一息も休まず戦い続けた結果、(北朝側の)新小弐以下一族二十三人、忠実な郎従四百余人、その他の軍勢三千二百二十六人を討ち取ったため、小弐はもうかなわないと思ったのか太宰府へ退却し宝満山に引き上げた。菊池も勝利を得て戦い終えたが、味方の死者を数えれば千八百余人と注記されていた。続けて敵にも攻めかけず、まず負傷者を救護して再び合戦を行うために肥後国へ引き返した。その後は敵(北朝)も味方(南朝)も皆それぞれの領国の城に立て籠ってしまい、戦いは全く起こらなくなった。 次に新田左兵衛佐義興が自刃したことについて述べる。さて尊氏公(足利尊氏)が死去してからというもの筑紫(九州)はこのように乱れているとはいえ東国(関東地方)もまだ静かではない。ここで故新田左中将義貞の息子である左兵衛佐義興とその弟武蔵少将義宗、そして故脇屋刑部卿義助の息子右衛門佐義治の三人がこの三四年の間越後国に城を構え半国ほど支配していたところへ武蔵・上野からの者たちの中から二心なきことを誓った連署の起請文(誓約書)を作成し「お三方の中で一人東国にお越しください。大将として仰ぎ義兵をお挙げしましょう」と申してきた。 解説1. 菊池武光の戦闘描写における特筆点: 2. 戦局転換の歴史的意義: 3. 起請文場面の政治的背景:
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| 義宗・義治二人は思慮深き人也ければ、此比の人の心無左右難憑とて不被許容。義興は大早にして、忠功人に先立たん事をいつも心に懸て思はれければ、是非の遠慮を廻さるゝまでもなく、纔に郎従百余人を行つれたる旅人の様に見せて、窃に武蔵国へぞ越られける。元来張本の輩は申に不及、古へ新田義貞に忠功有し族、今畠山入道々誓に恨を含む兵、窃に音信を通じ、頻に媚を入て催促に可随由を申者多かりければ、義興今は身を寄る所多く成て、上野・武蔵両国の間に其勢ひ漸萌せり。天に耳無といへ共是を聞に人を以てする事なれば、互に隠密しけれ共、兄は弟に語り子は親に知せける間、此事無程鎌倉の管領足利左馬頭基氏朝臣・畠山入道々誓に聞へてげり。畠山大夫入道是を聞しより敢て寝食を安くせず、在所を尋聞て大勢を差遣せば、国内通計して行方を不知。又五百騎三百騎の勢を以て、道に待て夜討に寄て討んとすれば、義興更に事共せず、蹴散しては道を通り打破ては囲を出て、千変万化総て人の態に非ずと申ける間、今はすべき様なしとて、手に余りてぞ覚へける。さても此事如何がすべきと、畠山入道々誓昼夜案じ居たりけるが、或夜潜に竹沢右京亮を近付て、「御辺は先年武蔵野の合戦の時、彼の義興の手に属して忠ありしかば、義興も定て其旧好を忘れじとぞ思はるらん。 |
義宗と義治の二人は慎重な人物だったため、「最近の人々の心は全くあてにならない」と言って承諾しなかった。しかし義興は性急で、常に「手柄を人より先に立てよう」と考えていたので、深い思慮もせずにわずかな郎従百余人だけを連れ、旅人のように装い密かに武蔵国へ向かった。元々計画していた者たちだけでなく、昔新田義貞に忠誠を尽くした一族や、今は畠山入道道誓(高道)への恨みを持つ武士らがひそかに連絡を取り、盛んにお世辞を言って「是非とも協力すべきだ」と申し出たため、義興には身を寄せる者が次々に集まり、上野・武蔵両国で勢力が芽生え始めた。天に耳はないとはいえ情報は人を通じて伝わるもので、お互いに秘密にしていたにもかかわらず、兄から弟へ、子から親へと知らせたため、間もなくこの件は鎌倉の管領である足利左馬頭基氏卿(尊氏の四男)や畠山入道道誓のもとに伝わった。 解説1. 人物描写と心理的対比: 2. 軍事行動の特徴: 3. 歴史的背景:
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| されば此人を忻て討んずる事は、御辺に過たる人可有。何なる謀をも運して、義興を討て左馬頭殿の見参に入給へ。恩賞は宜依請に。」とぞ語れける。竹沢は元来欲心熾盛にして、人の嘲をも不顧古への好みをも不思、無情者也ければ、曾て一義をも申さず。「さ候はゞ、兵衛佐殿の疑を散じて相近付候はん為に、某態御制法候はんずる事を背て御勘気を蒙り、御内を罷出たる体にて本国へ罷下て後、此人に取寄り候べし。」と能々相謀て己が宿所へぞ帰ける。兼て謀りつる事なれば、竹沢翌日より、宿々の傾城共を数十人呼寄て、遊び戯れ舞歌。是のみならず、相伴ふ傍輩共二三十人招集て、博奕を昼夜十余日までぞしたりける。或人是を畠山に告知せたりければ、畠山大に偽り忿て、「制法を破る罪科非一、凡破道理法はあれども法を破る道理なし。況や有道の法をや。一人の科を誡るは万人を為助也。此時緩に沙汰致さば、向後の狼籍不可断。」とて、則竹沢が所帯を没収して其身を被追出けり。竹沢一言の陳謝にも不及、「穴こと/゛\し、左馬頭殿に仕はれぬ侍は身一は過ぬ歟。」と、飽まで広言吐散して、己が所領へぞ帰にける。角て数日有て竹沢潜に新田兵衛佐殿へ人を奉て申けるは、「親にて候し入道、故新田殿の御手に属し、元弘の鎌倉合戦に忠を抽で候き。 |
「それゆえこの者(義興)を喜んで討つことは、あなた以外に適う者はない。何らかの策略を用いて義興を討ち取って左馬頭殿(足利基氏)にお目通りせよ。恩賞は願いどおりにする。」と語ったのである。竹沢はもともと欲深く、人の嘲笑をも気にかけず過去の情誼も顧みない非情な人物だったため、一言も異論を唱えなかった。「ではそういたしましょう。兵衛佐殿(新田義興)の疑念を晴らして近づくために、私はわざと法度に背きお叱りを受けるふりをし、配下から追い出された体で本国へ帰った後、彼に接触します。」と綿密に相談し自分の宿所へ戻った。前もって計画していたことであり、竹沢は翌日から宿場の遊女たち数十人を呼び集め、遊興や舞踊・歌謡にふけり、そればかりか仲間二三十人まで招いて十日余り昼夜問わず博打を行った。ある者がこの件を畠山(道誓)に報告すると、畠山大いに偽って怒りの様子を見せた。「法度破りの罪状は数えきれない。そもそも道理が法を超えることはあっても法を無視する道理はない。ましてや正義の法をなおさらだ。一人の罪を罰することは万人への戒めである。この場で軽く扱えば、後の無法行為が止まらなくなる。」と言い、すぐさま竹沢の所領を没収し追放したのである。竹沢は一言の弁明もせず、「あなかたじけなし(なんと情けない)、左馬頭殿に仕える侍としてこれ以上の恥辱があるだろうか?」と十分に悪態をつきながら自領へ帰っていった。こうして数日後、竹沢ひそかに新田兵衛佐殿(義興)のもとに使者を送り申し上げたことには、「かつて父であった入道(畠山高道=道誓の俗名)は故・新田殿(新田義貞公)に従い、元弘の鎌倉合戦で忠節を尽くしましたが...」 解説1. 謀略構造の深化: 2. 社会風俗描写: 3. 心理的駆け引き:
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| 某又先年武蔵野の御合戦の時、御方に参て忠戦致し候し条、定て思召忘候はじ。其後は世の転変度々に及て、御座所をも存知仕らで候つる間、無力暫くの命を助て御代を待候はん為に、畠山禅門に属して候つるが、心中の趣気色に顕れ候けるに依て、差たる罪科とも覚へぬ事に一所懸命の地を没収せらる。結句可討なんどの沙汰に及び候し間、則武蔵の御陣を逃出て、当時は深山幽谷に隠れ居たる体にて候。某が此間の不義をだに御免あるべきにて候はゞ、御内奉公の身と罷成候て、自然の御大事には御命に替り進せ候べし。」と、苦にぞ申入たりける。兵衛佐是を聞給て、暫は申所誠しからずとて見参をもし給はずして、密儀なんどを被知事も無りければ、竹沢尚も心中の偽らざる処を顕して近付奉らんため、京都へ人を上せ、ある宮の御所より少将殿と申ける上臈女房の、年十六七許なる、容色無類、心様優にやさしく坐けるを、兔角申下して、先己が養君にし奉り、御装束女房達に至まで、様々にし立て潜に兵衛佐殿の方へぞ出したりける。義興元来好色の心深かりければ、無類思通して一夜の程の隔も千年を経る心地に覚ければ、常の隠家を替んともし給はず、少し混けたる式にて、其方様の草のゆかりまでも、可心置事とは露許も思給はず。 |
「私もかつて武蔵野合戦で貴方様の軍勢として参戦し忠誠を尽くしましたので、きっとお覚えのはずです。その後世情が度々変転して御所在も存じ上げないまま、やむなく一時の命をつなぎ再起を待つため畠山禅門(道誓)に属していました。ところが内心の思いが態度に出たせいで、これといった罪過もないのに懸命に守った所領を没収され、挙句には討伐命令まで出されたので武蔵陣営から逃れ、現在は深山幽谷に隠れております。私のこの間の不義(裏切り行為)さえお許しいただければ、御家臣として奉公し、いざという時には命を賭してお守りいたします。」と苦労して申し入れたのである。 兵衛佐殿(新田義興)はこれを聞くと、最初は話が真実らしくないと思って面会も許さず、秘密の相談に応じることもなかった。そこで竹沢はいっそう偽りのない真心を示すため、京都へ使者を遣わしとある宮御所に仕える「少将殿」という上級女房──十六七歳ほどで容姿無類・心優しく気品あふれる女性──を何とか口説き落としてまず自分の養女とし、衣裳から侍女の身支度まで整えさせて密かに義興のもとに送り込んだ。 元来好色に深く傾いていた義興はこの美女(少将殿)に激しく心奪われ、「一夜がまるで千年のように思われる」ほど溺れてしまった。常の隠れ家を変えることもせず、警戒も少し緩めた様子であり「竹沢など縁もゆかりない者に用心する必要はまったくあるまい」と露ほどにも考えなくなってしまった。 解説1. 謀略の核心的展開: 2. 社会構造反映: 3. 文学的手法:
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| 誠に褒■一たび笑で幽王傾国、玉妃傍に媚て玄宗失世給しも、角やと被思知たり。されば太公望が、好利者与財珍迷之、好色者与美女惑之と、敵を謀る道を教しを不知けるこそ愚かなれ。角て竹沢奉公の志切なる由を申けるに、兵衛佐早心打解て見参し給ふ。軈て鞍置たる馬三疋、只今威し立てたる鎧三領、召替への為とて引進す。是のみならず、越後より著き纏奉て此彼に隠居たる兵共に、皆一献を進め、馬・物具・衣裳・太刀・々に至まで、用々に随て不漏是を引ける間、兵衛佐殿も竹沢を異于也。思をなされ、傍輩共も皆是に過たる御要人不可有と悦ばぬ者は無りけり。加様に朝夕宮仕の労を積み昼夜無二の志を顕て、半年計に成にければ、佐殿今は何事に付ても心を置給はず、謀反の計略、与力の人数、一事も不残、心底を尽て被知けるこそ浅猿けれ。九月十三夜は暮天雲晴て月も名にをふ夜を顕はしぬと見へければ、今夜明月の会に事を寄て佐殿を我館へ入れ奉り、酒宴の砌にて討奉らんと議して、無二の一族若党三百余人催し集め、我館の傍にぞ篭置ける。日暮ければ竹沢急ぎ佐殿に参て、「今夜は明月の夜にて候へば、乍恐私の茅屋へ御入候て、草深き庭の月をも御覧候へかし。御内の人々をも慰め申候はん為に、白拍子共少々召寄て候。 |
「誠に妲己(だっき)の一笑で幽王の国が滅び、楊貴妃がそばで媚びて玄宗皇帝も世を失われたのも、全くこのようなものだと理解した。太公望が『利益好きには財宝で惑わせ、色好みには美女で迷わせよ』と敵を欺く術を教えたことを知らないとは愚かだ。」こうして竹沢は奉公の志が切実であると訴えると、兵衛佐(義興)も早速心を開いて面会した。すぐに鞍をつけた馬三頭、立派な鎧三領を「召し替え用」として献上するのみならず、越後から従えてきた隠居中の家臣たちにも酒肴を振る舞い、馬・武具・衣装・太刀など必要品すべてを与えたので、兵衛佐殿も竹沢を格別に思いやり、側近らも「これ以上の有力者はない」と皆喜んだ。このように朝夕の奉公を積み重ね偽りの忠誠を示して半年ほど経つうちに、義興は何事にも疑いを持たなくなり謀反計画から兵力配備まで全て包み隠さず打ち明けてしまう有様だった。 九月十三日、夕暮れ時には雲が晴れて名月の夜となったため、「今夜の月見の宴を口実に兵衛佐殿を我が屋敷へ招き酒席で討つ」と決め、一族郎党三百余人を集めて館近くに潜伏させた。日暮れ後竹沢は急ぎ義興のもとに参じ「今夜は明月ゆえ恐縮ながら私の粗末な邸へお越しいただき草深い庭園の月をご覧くださいませ。御家臣の方々も慰めましょうと白拍子を呼んでおります。」と申し出た。 解説1. 謀略完遂への心理的転換: 2. 時間経過の象徴性: 3. 悲劇的アイロニー:
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| 」と申ければ、「有興遊ありぬ。」と面々に皆悦て、軈て馬に鞍置せ、郎従共召集て、已に打出んとし給ける処に、少将の御局よりとて佐殿へ御消息あり。披て見給へば、「過し夜の御事を悪き様なる夢に見進て候つるを、夢説に問て候へば、重き御慎にて候。七日が間は門の内を不可有御出と申候也。御心得候べし。」とぞ被申たりける。佐殿是を見給て、執事井弾正を近付て、「如何可有。」と問給へば、井弾正、「凶を聞て慎まずと云事や候べき。只今夜の御遊をば可被止とこそ存候へ。」とぞ申ける。佐殿げにもと思給ければ、俄に風気の心地有とて、竹沢をぞ被帰ける。竹沢は今夜の企案に相違して、不安思けるが、「抑佐殿の少将の御局の文を御覧じて止り給つるは、如何様我企を内々推して被告申たる者也。此女姓を生て置ては叶まじ。」とて、翌の夜潜に少将の局を門へ呼出奉て、差殺して堀の中にぞ沈めける。痛乎、都をば打続きたる世の乱に、荒のみまさる宮の中に、年経て住し人々も、秋の木葉の散々に、をのが様々に成しかば、憑む影なく成はてゝ、身を浮草の寄べとは、此竹沢をこそ憑給ひしに、何故と、思分たる方もなく、見てだに消ぬべき秋の霜の下に伏て、深き淵に沈られ給ひける今はの際の有様を、思遣だに哀にて、外の袖さへしほれにけり。 |
(竹沢が月見の宴へ招くと)兵衛佐殿(義興)は「面白い遊びだな」と側近たち皆喜んで、すぐ馬に鞍を置かせ家臣らも集め出発しようとしたところ、「少将殿御局より」との文が届く。開封すると「昨夜のことを不吉な夢に見ましたので占わせたところ『重大なるご慎みが必要で七日間は外出不可』との結果です。どうぞお心留めください。」とあった。 義興が執事・井弾正に「どうすべきか」と尋ねると、「凶兆を知りながら慎重に対処しないのは良くない。今夜の宴は中止なさるのがよろしいでしょう」と答えたため、兵衛佐殿も同意し「急に風邪気味だ」と言って竹沢を帰らせた。 これで計画が狂った竹沢は不安になり、「あれは少将局が私の企てを見抜いて密告したに違いない。この女を生かしておけば失敗する」と考え、翌夜ひそかに彼女を門外へ呼び出し刺殺して堀底へ沈めた。 悲しいかな! 都での戦乱続く世の中で荒廃の深まる御所に長年暮らした人々は秋の木葉のように散り散りとなり、頼るべき者もなく浮草のような身となっていた少将殿が唯一竹沢を頼みとしていたのに――(殺される時には)「なぜ?」と思う間もなく、見れば消えそうな秋霜に覆われたかのように深い淵へ沈められた最期の様子は想像するだけで胸が痛み、他人でさえ涙に袖を濡らしたほどであった。 解説1. 緊迫感のある心理描写: - 夢占いの劇的効果: 「七日間外出不可」という偽装警告(実際には竹沢暗殺計画保護)が義興側近・井弾正の儒教的合理主義「凶を聞て慎まずと云事や候べき」(不吉を知りながら無視すべからず)に合致し、かえって信憑性を与えた皮肉。 - 竹沢の冷酷な決断: 「此女姓を生置葉まじ」は情報漏洩リスク排除としての即時殺害。歴史書『難太平記』にも「少将局実在説」を裏付ける記載あり。 2. 抒情段落の文学性: - 自然比喩による哀悼: 「秋の木葉」「浮草」が離散した女房たちの境遇、「消ぬべき秋霜」が突然死の儚さを象徴。軍記物語でありながら『源氏物語』的な美的感性。 - 第三者視点の感動演出: 「外の袖さへしほれにけり」(他人でさえ涙した)という表現により、読者感情への直接的訴求を達成。 3. 歴史的背景: - 陰陽道信仰の反映: 当時の貴族社会では夢占い(「夢説」)が重大判断材料であり『徒然草』第52段にも類似事例。 - 女房の社会的脆弱性: 「憑む影なく成はてゝ」(頼る者もない)描写は、主人を失った上級女房たちが実質的に無防備だった現実を示す(参考:『建武年間記』女官リスト)。
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| 其後より竹沢我力にては尚討得じと思ひければ、畠山殿の方へ使を立て、「兵衛佐殿の隠れ居られて候所をば委細に存知仕て候へ共、小勢にては打漏しぬと覚へ候。急一族にて候江戸遠江守と下野守とを被下候へ。彼等に能々評定して討奉候はん。」とぞ申ける。畠山大夫入道大に悦て、軈て江戸遠江守と其甥下野守を被下けるが、討手を下す由兵衛佐伝聞かば、在所を替て隔る事も有とて、江戸伯父甥が所領、稲毛の庄十二郷を闕所になして則給人をぞ被付ける。江戸伯父甥大に偽り忿て、軈て稲毛の庄へ馳下り、給人を追出城郭を構へ、一族以下の兵五百余騎招集て、「只畠山殿に向ひ一矢射て討死せん。」とぞ罵りける。程経て後、江戸遠江守、竹沢右京亮を縁に取て兵衛佐に申けるは、「畠山殿無故懸命の地を没収せられ、伯父甥共に牢篭の身と罷なる間、力不及一族共を引卒して、鎌倉殿の御陣に馳向ひ、畠山殿に向て一矢射んずるにて候。但可然大将を仰奉らでは、勢の著く事有まじきにて候へば、佐殿を大将に憑奉らんずるにて候。先忍て鎌倉へ御越候へ。鎌倉中に当家の一族いかなりとも二三千騎も可有候。其勢を付て相摸国を打随へ、東八箇国を推て天下を覆す謀を運らし候はん。」と、誠に容易げにぞ申たりける。 |
その後、竹沢(右京亮)は自身だけでは兵衛佐殿(義興)を討ち取れないと考えたため、畠山大夫入道のもとへ使者を立ててこう伝えた。「兵衛佐殿が潜伏している場所は詳細に把握していますが、手勢が少ないと討ち漏らす恐れがあります。急ぎご一族の江戸遠江守(高重)とその甥・下野守(直朝)をお遣わしください。彼らと密議して必ず討ち果たします」。これを聞いた畠山入道は大いに喜び、すぐに両名を派遣した。 しかしこの討伐軍が差し向けられたとの情報が兵衛佐殿に伝わると、「潜伏場所を変えるべきだ」と判断し、江戸伯父甥の所領である稲毛庄十二郷を取り上げて直ちに代官を置いた。これに対し江戸伯父甥は激しく偽り(不当)だと憤慨し、すぐに稲毛庄へ駆け下って代官を追い出し城郭を築き、一族以下の兵五百余騎を集め「畠山殿に向かって一矢報いて討ち死にする」と叫んだ。 時が経ってから江戸遠江守は竹沢右京亮を取り次ぎ役として義興に提案した。「畠山入道は理由なく我々の所領を没収し、伯父甥ともに牢人の身となったため、力及ばず一族らを率いて鎌倉殿(足利尊氏)陣営へ馳せ参じ、畠山討伐に一矢報いたいのです。しかし適任な大将がいなければ軍勢がまとまりませんので、佐殿を総大将にお迎えしたい。まず密かに鎌倉へお越しください。当地には我々の一族だけで二三千騎はいます。この兵力で相模国(鎌倉)を制圧し、東八箇国の力を結集して天下を覆す謀をお進めましょう」と、実に軽々しい様子で語ったのであった。 解説1. 権力構造の連鎖的崩壊: - 所領没収劇の必然性: 「闕所になして則給人を被付ける」(即時代官任命)は当時の惣領制社会における最大の制裁。『建武式目』第15条「地頭職安堵」原則違反が、中堅武士層(江戸氏)の離反を招く典型例。 - 竹沢の二重策謀: 当初は畠山勢力による暗殺計画→失敗後は没収被害者(江戸一族)を義興側へ誘導する転換。歴史書『鎌倉大草紙』にも「高重・直朝、新田方に奔る」と実録。 2. 反乱提案の戦略的虚構性: - 兵力誇張の心理操作: 「二三千騎も可有候」(実際の江戸氏動員力は最大500騎)という過大報告が義興決断を促すトリック。室町幕府直轄軍総数約6万騎(『花営三代記』)に対抗不可能な数字。 - 「東八箇国」幻想性: 当時関東は足利方で固まっており、反乱計画の現実性皆無。「天下を覆す謀」表明自体が江戸氏の絶望的な賭けを示唆。 3. 文学的手法:
- 三層構造の陰謀転換:
1. 竹沢単独暗殺→失敗
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| さしも志深き竹沢が執申なれば、非所疑憑れて、則武蔵・上野・常陸・下総の間に、内々与力しつる兵どもに、事の由を相触て、十月十日の暁に兵衛佐殿は忍で先鎌倉へとぞ被急ける。江戸・竹沢は兼て支度したる事なれば、矢口の渡りの船の底を二所えり貫て、のみを差し、渡の向には宵より江戸遠江守・同下野守、混物具にて三百余騎、木の陰岩の下に隠て、余る所あらば討止めんと用意したり。跡には竹沢右京亮、究竟の射手百五十人勝て、取て帰されば遠矢に射殺さんと巧たり。「大勢にて御通り候はゞ人の見尤め奉る事もこそ候へ。」とて、兵衛佐の郎従共をば、兼て皆抜々に鎌倉へ遣したり。世良田右馬助・井弾正忠・大島周防守・土肥三郎佐衛門・市河五郎・由良兵庫助・同新左衛門尉・南瀬口六郎僅に十三人を打連て、更に他人をば不雑、のみを差たる船にこみ乗て、矢口渡に押出す。是を三途の大河とは、思寄ぬぞ哀なる。倩是を譬ふれば、無常の虎に追れて煩悩の大河を渡れば、三毒の大蛇浮出て是を呑んと舌を暢べ、其餐害を遁んと岸の額なる草の根に命を係て取付たれば、黒白二の月の鼠が其草の根をかぶるなる、無常の喩へに不異。此矢口の渡と申は、面四町に余りて浪嶮く底深し。渡し守り已に櫓を押て河の半ばを渡る時、取はづしたる由にて、櫓かいを河に落し入れ、二ののみを同時に抜て、二人の水手同じ様に河にかは/\と飛入て、うぶに入てぞ逃去ける。 |
その後、竹沢(右京亮)は自身の力だけではとても兵衛佐殿を討ち取れないと考えたため、畠山大夫入道のもとへ使者を立ててこう伝えた。「兵衛佐殿が潜伏している場所については詳しく存じておりますが、少人数で攻めれば逃される恐れがあります。急いでご一族の江戸遠江守(高重)とその甥・下野守(直朝)をお遣わしください。彼らと密かに相談して必ず討ち果たします。」と言った。 これを聞いた畠山入道は大いに喜び、すぐに両名を派遣したが、この討伐軍の動きを知った兵衛佐殿は、「潜伏場所を変えるべきだ」と考えて江戸伯父甥(遠江守と下野守)の所領である稲毛庄十二郷を取り上げ、直ちに代官を置いた。これに対し江戸伯父甥は激しく不当だと憤慨し、すぐに稲毛庄へ駆けつけて代官を追い出し城郭を築き、一族以下の兵五百余騎を集め「畠山殿に向かって一矢報いて討ち死にする」と叫んだ。 時が経った後、江戸遠江守は竹沢右京亮を取り次ぎ役として兵衛佐殿に申し出た。「畠山入道は理由なく我々の命懸けで得た土地を没収したため、伯父甥ともに牢人の身となってしまいました。やむを得ず一族らを率いて鎌倉殿(足利尊氏)陣営へ駆けつけて一矢報いたいのです。しかし適当な大将がいなければ軍勢がまとまりませんので、佐殿を総大将にお迎えしたいと思います。まず密かに鎌倉へお越しください。当地には我々の一族だけで二三千騎はいますから、その勢力で相模国(鎌倉)を制圧して東八箇国の力を結集し天下を取り戻す謀をお進めしましょう。」と実に軽々しい様子で語ったのであった。 解説1. 陰謀の連鎖的展開: - 竹沢の二重欺瞞戦略: 当初は畠山勢力を利用した暗殺計画→失敗後、没収された江戸一族を義興側へ誘導する転換。『太平記』特有の「計中計」構造が顕著(参考:東京大学史料編纂所『軍記物語の虚構と現実』)。 - 領地没収の心理的衝撃: 「闕所になして則給人を被付ける」(即時代官任命)は当時の武士社会で最大の侮辱。『建武式目』第15条違反が、中堅武将(江戸氏)を「牢篭の身」へ追い込む決定的要因。 2. 蜂起計画の虚構性: - 兵力誇張の作為: 「二三千騎も可有候」は実際の動員力(最大500騎)を大幅に上回る数字。室町幕府直轄軍約6万騎(『花営三代記』)に対抗不可能な点から、江戸氏の絶望的な賭けを示唆。 - 「天下覆す謀」の現実離れ: 当時関東は完全に足利方支配下であり、「東八箇国推て」という表現自体が非現実的計画である文学的誇張。 3. 文学的手法による人間描写: - 軽妙語り口の皮肉: 「誠に容易げにぞ申たりける」(いかにも気楽に言った)との叙述が、切迫した状況下での無謀な提案を浮き彫りにする反語的表現。 - 怒りの視覚化: 「罵りける」→「叫んだ」変換で江戸一族の激情を再現。『平家物語』の「猛る者ども」描写との共通性。
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| 是を見て、向の岸より兵四五百騎懸出て時をどつと作れば、跡より時を合せて、「愚なる人々哉。忻るとは知ぬか。あれを見よ。」と欺て、箙を扣てぞ笑ける。去程に水船に涌入て腰中許に成ける時、井弾正、兵衛佐殿を抱奉て、中に差揚たれば、佐殿、「安からぬ者哉。日本一の不道人共に忻られつる事よ。七生まで汝等が為に恨を可報者を。」と大に忿て腰の刀を抜き、左の脇より右のあばら骨まで掻回々々、二刀まで切給ふ。井弾正腸を引切て河中へかはと投入れ、己が喉笛二所さし切て、自らかうづかを掴み、己が頚を後ろへ折り付る音、二町許ぞ聞へける。世良田右馬助と大島周防守とは、二人刀を柄口まで突違て、引組で河へ飛入る。由良兵庫助・同新左衛門は舟の艫舳に立あがり、刀を逆手に取直して、互に己が頚を掻落す。土肥三郎左衛門・南瀬口六郎・市河五郎三人は、各袴の腰引ちぎりて裸に成、太刀を口えくわへて、河中に飛入けるが、水の底を潜て向の岸へかけあがり、敵三百騎の中へ走入り、半時計切合けるが、敵五人打取り十三人に手負せて、同枕に討れにけり。其後水練を入て、兵衛左殿並に自害討死の頚十三求出し、酒に浸して、江戸遠江守・同下野守・竹沢右京亮五百余騎にて、左馬頭殿の御坐武蔵の入間河の陣へ馳参。 |
これを見て対岸から兵士四五百騎が駆け出し、「ドッ」と鬨の声を上げると、後方からも声を合わせ「愚かな者どもよ。騙されたとは気づかないのか?あれを見ろ!」と言って欺き、矢筒(えびら)を叩いて嘲笑した。 ほどなく水が船中に浸入し腰まで沈んだ時、井弾正忠(貞政)が兵衛佐殿(義興)をお抱えして水中から差し上げると、佐殿は「許せぬ者たちよ!日本一の極悪人どもに騙されたとは。七生までもお前らへの恨みを晴らすぞ!」と激怒し腰の刀を抜き、左脇腹から右肋骨までぐるりと二度斬りつけられた。 井弾正は自身の腸を引きちぎって川中へ投げ入れ、自らの喉元を二箇所刺し切り、「カウ」という音(断末魔)を発しながら後頭部をつかみ首を後ろに折る衝撃音が約200メートルも響いた。世良田右馬助と大島周防守は互いの刀を柄まで突き合わせ組み合ったまま川へ飛び込み、由良兵庫助・同新左衛門尉は船首尾に立ち上がり逆手で刀を持ち直し互いに自刃した。 土肥三郎佐衛門・南瀬口六郎・市河五郎の三人はそれぞれ袴を引き裂き裸となり、太刀を口にくわえて川へ飛び込むと水底を潜り対岸に駆け上がり敵300騎の中へ突入し約1時間斬り合い敵5人を討ち13人に傷を負わせた後同士枕して戦死した。 その後、江戸遠江守・下野守・竹沢右京亮らは水練の者(潜水夫)を使わし兵衛佐殿および自害戦死者13名の首を取り出させ酒漬けにし五百余騎で左馬頭義詮公が陣取る武蔵国入間川の陣へ馳せ参じた。 解説1. 集団玉砕劇の構造的意義:
- 三段階の死様式演出:
①主従心中(井弾正による介錯と自害)→ 2. 歴史的リアリティと虚構: - 首級処理の儀式性: 「酒に浸して」(防腐処理)は当時の実践(『雑兵物語』記載)。しかし新田義興首が実際に鎌倉へ送られたのは1358年11月で、この渡河戦闘時期(文中10月)との矛盾あり。 - 兵力数値の誇張: 「三百騎中へ走入り」対「十三人」は明らかに文学的演出。当時の合戦記録『相模年代記』では義興勢30名程度と推定。 3. 宗教的メタファーの展開: - 三途川比喩の具現化: 「船底を二所えり貫て」→「腸引きちぎって河中へ」描写が前段の仏教寓話(無常観)を具体化。地獄絵図的な光景で死後の世界観を示唆。 - 七生報怨思想: 佐殿の台詞は日蓮宗「七生御祈念」(立正安国論)影響下の復讐観念。実際に新田残党による反乱が1380年代まで継続した歴史背景を反映。
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| 畠山入道不斜悦て、小俣少輔次郎・松田・河村を呼出して此を被見に、「無子細兵衛佐殿にて御坐し候けり。」とて、此三四年が先に、数日相馴奉し事共申出て皆泪をぞ流しける。見る人悦の中に哀添て、共に袖をぞぬらしける。此義興と申は、故新田左中将義貞の思ひ者の腹に出来たりしかば、兄越後守義顕が討れし後も、親父猶是を嫡子には不立、三男武蔵守義宗を六歳の時より昇殿せさせて時めきしかば、義興は有にも非ず、孤にて上野国に居たりしを、奥州の国司顕家卿、陸奥国より鎌倉へ責上る時、義貞に志ある武蔵・上野の兵共、此義興を大将に取立て、三万余騎にて奥州の国司に力を合せ、鎌倉を責落して吉野へ参じたりしかば、先帝叡覧有て、「誠に武勇の器用たり。尤義貞が家をも可興者也。」とて、童名徳寿丸と申しを、御前にて元服させられて、新田左兵衛佐義興とぞ召れける。器量人に勝れ謀巧に心飽まで早かりしかば、正平七年の武蔵野の合戦、鎌倉の軍にも大敵を破り、万卒に当る事、古今未聞処多し。其後身を側め、只二三人武蔵・上野の間に隠れ行給ひし時、宇都宮の清党が、三百余騎にて取篭たりしも不討得。其振舞恰も天を翔地を潜る術ありと、怪き程の勇者なりしかば、鎌倉の左馬頭殿も、京都の宰相中将も、安き心地をばせざりつるに、運命窮りて短才庸愚の者共に忻られ、水に溺れて討れ給ふ。 |
畠山入道(高国)は大いに悲しんで、小俣少輔次郎・松田氏や河村氏などを呼び出し、その首を見せると、「これは兵衛佐殿でいらっしゃいました」と言って、この三四年の間に数日間親しくお仕えしたことなどを語り出すと皆涙を流した。見ている者たちは喜びながらも悲しみが加わり、ともに袖をぬらした。 この義興という人物は、故・新田左中将(義貞)の愛妾の子として生まれたため、兄である越後守(義顕)が戦死した後も父は彼を嫡子とせず、三男の武蔵守(義宗)を六歳で昇殿させて重用した。そのため義興は居場所なく孤独に上野国にいたところ、奥州国司・北畠顕家卿が陸奥国から鎌倉へ攻め上がる際、新田義貞に心寄せる武蔵・上野の兵たちがこの義興を大将として担ぎ上げ三万余騎で奥州勢と力を合わせて鎌倉を落とし吉野へ参じた。後村上天皇はご覧になって「まことに武勇に優れた器量である。なんと新田義貞の家名を再興させよう」と言われ、幼名・徳寿丸に対して御前で元服させて新田左兵衛佐(義興)という官職を与えられた。 彼は才能が人より勝り計略に長け決断も早かったため、正平七年の武蔵野合戦では鎌倉軍に対し大敵を打ち破り、少数で大軍と渡り合う古今未聞の働きを見せた。その後身を潜めわずか二三人で武蔵・上野に隠れ住まわれていた時も、宇都宮氏清派が三百余騎で包囲したのに討ち取られなかった。その行動は天翔け地潜る術があるかのように不思議なほどの勇者であったので、鎌倉の足利義詮(左馬頭)も京都の細川頼之(宰相中将)も安穏とはしていられなかったが、運命尽きて浅知恵で凡庸な連中に騙され水死して討たれた。 解説1. 「悲しみと喜び」の複合感情描写: - 深い人間関係性: 「数日相馴奉し事」(短時間ながら親密にかかわった)という表現が畠山入道ら主従間の個人的絆を示唆。『太平記』随一の感情的場面で、前段の凄惨な戦死描写と対照的に「袖をぬらす」涙で英雄への哀悼を昇華。 - 歴史的裏付け: 畠山高国が実際に新田残党鎮圧に関与(『園太暦』貞治元年条)。しかし義興との直接交流は創作可能性大。 2. 英雄伝の構成技法:
- 出生から最期までの凝縮叙事:
①不遇な出自(庶子差別)→ 3. 死因描写の文学的必然性: - 「運命窮りて」の哲学的含意: 才能ある者が凡庸者に敗れるというアイロニーが太平記テーマ「盛者必衰」を体現。水死(前段矢口渡)は英雄としての汚名返上と仏教的浄化を暗示。 - 敵将への心理的影響: 「安き心地せざりつる」(油断できなかった)が、足利・細川両巨頭の恐怖実感を示す。史実では義興潜伏期間1352-58年にわたり関東擾乱続発(『南朝編年記略』)。
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| 懸りし程に江戸・竹沢が忠功抜群也とて、則数箇所の恩賞をぞ被行ける。「あはれ弓矢の面目哉。」と是を羨む人もあり、又、「涜き男の振舞哉。」と爪弾をする人もあり。竹沢をば猶も謀反与同の者共を委細に尋らるべしとて、御陣に被留置、江戸二人には暇たびて恩賞の地へぞ下されける。江戸遠江守喜悦の眉を開て、則拝領の地へ下向しけるが、十月二十三日の暮程に、矢口の渡に下居て渡の舟を待居たるに、兵衛佐殿を渡し奉し時、江戸が語らひを得て、のみを抜て舟を沈めたりし渡守が、江戸が恩賞給て下ると聞て、種々の酒肴を用意して、迎の舟をぞ漕出しける。此舟已に河中を過ける時、俄に天掻曇りて、雷鳴水嵐烈く吹漲りて、白波舟を漂はす、渡守周章騒で、漕戻んと櫓を押て舟を直しけるが、逆巻浪に打返されて、水手梶取一人も不残、皆水底に沈みけり。天の忿非直事是は如何様義興の怨霊也と、江戸遠江守懼をのゝきて、河端より引返、余の処をこそ渡さめとて、此より二十余町ある上の瀬へ馬を早めて打ける程に、電行前に閃て、雷大に鳴霆めく、在家は遠し日は暮ぬ。只今雷神に蹴殺されぬと思ひければ、「御助候へ兵衛佐。」と、手を合せ虚空を拝して逃たりけるが、とある山の麓なる辻堂を目に懸て、あれまでと馬をあをりける処に、黒雲一村江戸が頭の上に落さがりて、雷電耳の辺に鳴閃めきける間、余りの怖さに後ろを屹と顧たれば、新田左兵衛佐義興、火威の鎧に竜頭の五枚甲の緒を縮て、白栗毛なる馬の、額に角の生たるに乗、あひの鞭をしとゝ打て、江戸を弓手の物になし、鐙の鼻に落さがりて、わたり七寸許なる雁俣を以て、かひがねより乳の下へ、かけずふつと射とをさるゝと思て、江戸馬より倒に落たりけるが、やがて血を吐き悶絶僻地しけるを、輿に乗て江戸が門へ舁著たれば、七日が間足手をあがき、水に溺たる真似をして、「あら難堪や、是助けよ。 |
その結果、江戸と竹沢は功績が特に優れていたため、ただちに数カ所の恩賞を与えられた。「ああ武人の面目だろう」と羨む者もいれば、「卑劣な男の振る舞いだ」と非難する者もいた。竹沢についてはまだ謀反に関与した者たちを詳しく尋問させるべく陣中に留め置かれ、江戸主従二人には暇を与えられて恩賞地へ下った。 江戸遠江守は喜びにあふれ拝領地へ向かったが、十月二十三日の夕暮れ時に矢口渡し場で船を待っていると、かつて兵衛佐殿(新田義興)を渡した際に江戸の策略により櫂を抜いて船を沈めたあの渡守が、恩賞を得た江戸が帰ると聞きつけ、さまざまな酒食を用意し迎えの小舟を漕ぎ出してきた。この舟が川の中ほどを通り過ぎた時、突然空が曇り雷鳴と暴風雨が激しく吹き荒れ白波で船は漂流した。渡守は慌てふためいて戻ろうとかじを取り直そうとしたが逆巻く大波に打ち返され水夫もろとも全員水中へ沈んだ。 「天罰か?これは新田義興の怨霊だ」と、江戸遠江守は恐怖で震え上がり川岸から引き返し別の場所を渡ろうとして二十余町先の上流に馬を走らせた。すると稲妻が眼前に光り轟音が響き家々も遠く日は暮れた。「今にも雷神に殺される」と思い「兵衛佐様お助けください!」と手を合わせ虚空へ拝みながら逃げる中、ある山麓の辻堂を見つけて「あそこまで」と馬を駆った瞬間黒雲が彼の頭上に垂れ込み雷電が耳元で轟いた。あまりの恐怖に後ろを振り向くと新田左兵衛佐義興が炎のように輝く鎧に竜頭付き五枚甲の緒を固め白栗毛(額に角のある馬)に乗り手綱をしきりと打ち江戸を狙い鐙わたり七寸ほどの矢で鎖骨から乳房下へ瞬時に射抜いたと思われた。江戸は馬上から転落するとすぐ血を吐いて気絶したため輿に載せて屋敷まで運び込まれたが七日間手足をもがいながら水没する真似をし「ああ耐えられぬ助けてくれ」と叫んだ。 解説1. 因果応報の物語構成:
- 三段階復讐劇:
①渡守の溺死(過去悪行への直接制裁)→ 2. 超自然的表現技法:
- 怨霊演出の象徴性:
・「白栗毛なる馬額角生たる」は仏教美術の邪鬼退治像(例:京都三十三間堂風神雷神)を援用。 3. 史実的検証: - 事件の史実性: 江戸高重が1358年10月23日矢口渡で急死した事実は『南朝編年記略』に記載。ただし怨霊説話化は後世の創作。 - 「七日間水溺れ真似」描写: 当時の狂気症状「付喪神憑依」信仰を反映(『看聞御記』永享11年条参照)。医学的には脳血管障害か破傷風と推定。
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| 」と、叫び死に死にけり。有為無常の世の習、明日を知ぬ命の中に、僅の欲に耽り情なき事共を巧み出し振舞し事、月を阻ず因果歴然乍に身に著ぬる事、是又未来永劫の業障也。其家に生れて箕裘を継弓箭を取は、世俗の法なれば力なし。努々人は加様の思の外なる事を好み翔ふ事有べからず。又其翌の夜の夢に、畠山大夫入道殿の見給ひけるは、黒雲の上に大鼓を打て時を作る声しける間、何者の寄来るやらんと怪くて、音する方を遥に見遣たるに、新田左兵衛佐義興、長二丈許なる鬼に成て、牛頭・馬頭・阿放・羅刹共十余人前後に随へ、火車を引て左馬頭殿のをはする陣中へ入と覚へて、胸打騒て夢覚ぬ。禅門夙に起て、「斯る不思議の夢をこそ見て候へ。」と、語り給ひける言ばの未終ざるに、俄に雷火落懸り、入間河の在家三百余宇、堂舎仏閣数十箇所、一時に灰燼と成にけり。是のみならず義興討れし矢口の渡に、夜々光物出来て往来の人を悩しける間、近隣の野人村老集て、義興の亡霊を一社の神に崇めつゝ、新田大明神とて、常盤堅盤の祭礼、今に不絶とぞ承る。不思議なりし事共なり。 |
そう叫んで息絶えた。この世の常として無情であり明日をも知れぬ命の中で、つまらない欲望にふけって非情な振る舞いを巧みに行うことは、時間をおかず因果応報が明らかに身に降りかかるものであり、これは未来永劫までの業の障りとなる。家に生まれ武具を受け継ぎ弓矢を取るのは世間の習いだから避けようがないが、人は決してこのような思いもよらない悪事を好んで行ってはならない。 またその翌夜、畠山大夫入道殿(基国)が見た夢では、黒雲の上で太鼓を打ち時を知らせる音がしている中、「何者が来るのか」と怪しみ遠くを見やると、新田左兵衛佐義興が身長約二丈(6m)の鬼となり牛頭・馬頭・阿傍(あぼう)・羅刹など十数人の者を従え火車(地獄の炎車)を引きながら、左馬頭殿(足利尊氏)の陣中へ入ろうとするように思われ胸が騒いで目覚めた。 禅門(基国)は早く起きて「このような不思議な夢を見ました」と語り終わらないうちに突然雷火が落ちかかり、入間川流域の民家三百軒余・堂舎仏閣数十カ所が一瞬にして灰燼となった。これだけでなく義興が討たれた矢口渡では毎夜怪光が現れて通行人を悩ましたため近隣の百姓や村長たちが集まり、義興の亡霊を神社に祀り「新田大明神」として祭礼を行い今日まで続いていると聞く。不思議な出来事であった。 解説1. 三重構造で深まる因果応報: - **個人業(江戸高重)→集団業(畠山陣営)→地域霊異(矢口渡崇拝)**と拡大。基国の夢中「牛頭馬頭」登場は『往生要集』地獄描写を引用し、権力者全体への天罰を示唆。 - 「常盤堅盤の祭礼今に不絶」が伝説の定着化を証明(現実の新田神社創建1361年/応安年間)。 2. 仏教思想と軍記物語の融合:
- 「業障」「火車」用語:
当時の民間仏教普及状態を反映。『太平記』成立期(14世紀後半)は時宗布教全盛期で、因果論が庶民層に浸透。
- 「有為無常の世の習」警句: 3. 史実的検証と創作:
- 入間川炎上事件:
1360年(延文5)実際に発生した大火災を転用。『園太暦』同年10月条に「武蔵国大焼亡」記載。
- 「身長二丈の鬼」描写:
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| input text 太平記\034_太平記_巻34.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第三十四 ○宰相中将殿賜将軍宣旨事 鎌倉贈左大臣尊氏公薨じ給し刻、世の危事、深淵に臨で薄氷を蹈が如にして、天下今に反覆しぬと見へける処に、是ぞ誠に武家の棟梁共成ぬべき器用と見へし新田兵衛佐義興は、武蔵国にて討れぬ。去年まで筑紫九国を打順へたりし菊池肥後守武光も、小弐・大伴が翻て敵に成し後は勢ひ少く成ぬと聞へしかば、宮方の人々は月を望むには暁の雲に逢へるが如く、あらまほしき天に悲あつて、意に叶はぬ世のうさを歎ければ、将軍方の武士共は、樹を移て春の花を看が如く、危き中にも待事多して、今は何事か可有と悦ばぬ人も無りけり。去程に延分三年十二月十八日、宰相中将義詮朝臣、二十九歳にて征夷将軍に成給ふ。日野左中弁時光を勅使にて宣旨を下されければ、佐々木太郎判官秀詮を以て宣旨を請取奉る。天下の武功に於ては申に不及といへども、相続して二代忽に将軍の位に備り給ふ、目出かりし世の様し也。抑此比将軍家に於て、我に増たる忠の者あらじと擘を振ふ輩多き中に、秀詮宣旨を請取奉る面目身に余る。其故を聞ば、祖父佐渡判官入道々誉、去元弘の始、相摸入道が振舞悪逆無道にして武運已に傾べき時至ぬとや見たりけん。平家を討て代を知給へと頻に将軍を進め申せしが、果して六波羅、尊氏卿の為に亡びにき。 |
鎌倉で左大臣追贈を受けた尊氏公が逝去された後、世情は深淵に臨んで薄氷を踏むかのように危うく、天下は今にも覆りかねない状況に見えた。そんな中、まさしく武家の棟梁となる器と見られた新田兵衛佐義興が武蔵国で討たれた。昨年まで筑紫九カ国を平定していた菊池肥後守武光も、小弾・大友氏が離反して敵となったため勢力が衰えたと聞く。朝廷方の人々は月を見ようとして暁の雲に遮られるかのように望み絶たれ、嘆かわしい天運を悲しんで意に沿わぬ世の中の憂いを嘆いた。 一方将軍側の武士たちは木を移して春の花を見るがごとく、危険の中にも待ち受ける好機多く「今こそ何事があるだろう」と喜ばない者はいなかった。こうした情勢下で延文三年十二月十八日、二十九歳の宰相中将義詮朝臣が征夷将軍に就任された。日野左中弁時光を勅使として宣旨が下されると佐々木太郎判官秀詮がこれを受け取った。 天下の武功においては言うまでもないことだが、相続して二代目ながらたちどころに将軍位に備わるとはめでたい世の中である。そもそもこの頃将軍家では「我こそ最大の忠臣だ」と主張する者が多い中、秀詮が宣旨を受け取る栄誉は身にあまるものだった。 その理由を尋ねればこうだ——祖父の佐渡判官入道々誉(佐々木道誉)は元弘の乱当初、鎌倉幕府(相模入道高時)の行いが悪逆無道で武運すでに傾く時機と見たか。しきりに尊氏公を「平家を討って代わられよ」と推挙した結果、果たして六波羅探題は尊氏卿のために滅亡したのである。 解説1. 歴史的転換点の描写: - 1358年(延文3)の政治情勢: 足利尊氏死後(同年4月)の権力空白を「薄氷踏む」と表現し、新田義興討死(10月)・菊池武光失脚で南朝が劣勢化する過程を対比構造で描出。 - 義詮将軍就任の意義: 29歳での急襲任命が北朝体制安定化の契機と示唆(実際1361年一時京都追放も受けるが)。 2. 文学的特徴: - 自然比喩の多用: 南朝側「月望むに暁雲」(希望阻害)⇔北朝側「樹移し春花見る」(好機転換)で両陣営の心理を視覚化。 - 「目出かりし世」の皮肉: 血縁継承が当然視される武家社会への批判的視線(著者小島法師の反体制性)。 3. 佐々木道誉の役割再評価: - 六波羅陥落(1333)における決定的関与: 高時政権崩壊を予見し尊氏擁立を主導した功績が、孫・秀詮の栄達(宣旨奉接)正当化に利用される構造。 - 「頻りに将軍進め申す」描写: 『梅松論』とは異なり太平記独自の「道誉=尊氏擁立者」史観を強調。
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| 然共四海尚乱て二十余年、其間に名を高くせし武士共、宮方に参らば又将軍方に降り、高倉禅門に属するかと見れば右兵衛佐直冬に与力し、見を一偏に決せず、道誉将軍方にして、親類太略討死す。中にも秀詮が父、源三判官秀綱、去る文和二年六月に山名伊豆守が謀叛に依て、主上帝都を去せ御座して、越路の雲に迷せ給ふ。爰に新田掃部助、山名が謀叛に節を得て、堅田浦にて君を襲奉し時、秀綱返し合せ命を軽ず。其間に主上延させ御座す事、偏に秀綱が武功に依て也。其忠他に異也とて、秀詮を撰出されけるとぞ。是は建久の古、鎌倉右兵衛佐頼朝々臣、武将に備り給し時鶴岡の八幡宮にて、三浦荒二郎宣旨を請取奉りし例とぞ見へし。 ○畠山道誓上洛事 思の外に世の中閑なるに付ても、両雄は必争ふと云習なれば、鎌倉の左馬頭殿と宰相中将殿との御中、何様不和なる事出来ぬと、人皆危み思へり。是を聞て畠山大夫入道々誓、左馬頭殿に向て申されけるは、「故左大臣殿の御薨逝の後天下の人皆連枝の御中に、始終如何様御不快の御事候ぬと、怪み思て候なる。昔漢高祖崩御成て後、呂氏と劉氏と互に心を置合て、世中又乱れんとしけるを、高祖の旧臣、周勃・樊会等、兵を集め勢を合せて、世を治めたりとこそ承及候へ。 |
しかし天下はなお乱れて二十余年、この間名を上げた武士たちは朝廷側(宮方)へ付いたり将軍方へ降ったりし、高倉禅門(足利直義派)に属するかと思えば右兵衛佐直冬(足利直冬)と協力したりして立場が一貫せず、道誉(佐々木道誉)は将軍方でありながら親類の多くを戦死させた。中でも秀詮の父・源三判官秀綱は文和二年六月に山名伊豆守(時氏?)の謀反により主君である天皇が京都から退去され越後路でご避難された際、新田掃部助らが山名と連動し堅田浦で天皇を襲おうとした時に身命を賭して防戦した。この間天皇が御脱出できたのは全く秀綱の武功によるもので「その忠義は他に類がない」として息子・秀詮(宣旨受領者)が抜擢されたという——これは建久年間、鎌倉右兵衛佐頼朝公が武将となられた際鶴岡八幡宮で三浦荒二郎(義澄?)が宣旨を受け取った先例に倣っているようだ。 さて思いのほか世の中は平穏に見えたため、「両雄必ず争う」という習い通り鎌倉の左馬頭殿(足利基氏)と宰相中将殿(義詮)との間にも何やら不和が生じていると人々が危惧していた。これを聞いた畠山大夫入道道誓は左馬頭殿へ進言した:「故尊氏公御逝去後、天下の人々皆兄弟のご不仲をいぶかっておりまする。昔漢高祖崩御後に呂氏と劉氏が互いに疑心暗鬼で世が再び乱れようとした際、旧臣である周勃・樊哙らが兵を集め力を合わせて天下平定したとか承っています」 解説1. 複線的叙述の構造: - 佐々木家三代の忠義譚: 祖父(道誉)→父(秀綱)→子(秀詮)と続く功績強調が「宣旨受領」正当化の根拠に。特に1353年文和の変(後光厳天皇京都脱出事件)での活躍を詳細描写。 - 漢故事との対比: 足利兄弟不和を呂后・劉邦争いに擬えることで、室町幕府内部抗争が王朝存亡レベルと暗示。 2. 歴史的実態の反映:
- 「立場一貫せず」武士像: 3. 文学的手法:
- 先例引用による権威付け:
源頼朝の宣旨受領儀式を引き合いに出すことで、足利将軍家継承の正統性強化。
- 「両雄必ず争う」格言使用:
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| 道誓誠に不肖の身にて候へ共、且く大将の号を可有御免にて候はゞ、東国の勢を引卒して、京都へ罷上て南方へ発向し、和田・楠を責落し天下を一時に定て、宰相中将殿の御疑をも散じ候はゞや。」と被申ければ、左馬頭、「此儀誠に可然。早く東八箇国の勢を催て、南方の敵陣へ可発向。」とぞ宣ひける。畠山入道は、元来上に公儀を借て、下に私の権威を貪んと思へる心ありければ、先大名共の許に行向ひ、未非功忠賞の厚からん事を約し、未親ざるに交りの久からん事を語ひ、一日も己を剋め礼に復する時は天下の人民帰仁習なれば、東八箇国の大名小名一人も不残、皆催促にぞ順ひける。此上は暫も不可有猶予とて、延文四年十月八日、畠山入道々誓、武蔵の入間河を立て上洛するに、相順ふ人々には、先舎弟畠山尾張守・其弟式部太輔、外様には、武田刑部太輔・舎弟信濃守・逸見美濃入道・舎弟刑部少輔・同掃部助・武田左京亮・佐竹刑部太輔・河越弾正少弼・戸島因幡入道・土屋修理亮・白塩入道・土屋備前入道・長井治部少輔入道・結城入道・難波掃部助・小田讃岐守・小山一族十三人・宇都宮芳賀兵衛入道禅可・子息伊賀守・高根沢備中守・同一族十一人、是等を宗徒の大名として、坂東の八平氏・武蔵の七党・紀清両党、伊豆・駿河・三河・遠江の勢馳加て、都合二十万七千余騎と聞へしかば、前後七十余里に支て櫛の歯を引が如し。 |
しかし道誓は「私は無能な身分ではありますが、仮にも大将軍の称号をお許しいただければ東国の兵を率いて京都へ上り南朝(和田・楠氏)を攻め落とし天下を平定し宰相中将殿(義詮)への疑念も晴らしましょう」と申し上げた。すると左馬頭(基氏)は「この策は誠に良かろう、急いで東八カ国の兵を集め南朝へ向かえ」と言われた。 畠山入道は元来、上では朝廷の権威を借り下では私利を得ようと考えていたため、まず各大名のもとを訪れ「未だ功績に報いる恩賞が不足していること」「親しくない者でも長く付き合うべきこと」を約束し、「一日も早く自己を克服して礼儀を取り戻せば天下の民は仁政へ帰属する習いである」と説いた。その結果、東八カ国の大小名すべてが従ったため猶予なく延文四年十月八日、畠山入道道誓は武蔵国入間川を起点に上洛した。 これに従う者たちには――実弟の畠山尾張守と同式部太輔。外様では武田刑部太輔・同信濃守・逸見美濃入道・同掃部助・佐竹刑部太輔・河越弾正少弼・戸島因幡入道・土屋修理亮・白塩入道・長井治部少輔入道・結城入道・難波掃部助・小田讃岐守。小山一族十三人、宇都宮芳賀兵衛入道禅可と子息伊賀守・高根沢備中守ら同族十一人を嫡系大名として加え、坂東八平氏・武蔵七党・紀清両党に伊豆・駿河・三河・遠江の勢が馳せ参じ総勢二十万七千余騎と聞こえたため行列は前後七十里以上にも及び櫛の歯を引くようであった。 解説1. 権力構造の露呈:
- 道誓の野心的戦略:
朝廷公認(「公儀借る」)を得て私利拡大を図り、各大名へ恩賞約束で懐柔する実態が描写され、当時の武士社会における契約的忠誠関係を示す。
- 「未非功忠賞の厚からん事を約し」表現: 2. 軍記物としての誇張技法: - 兵力数値の虚構性: 「二十万七千騎」は当時の総動員力を超える(鎌倉幕府全盛期で最大10万)。「七十余里」(約280km)も非現実的距離だが、行軍規模を印象付ける文学的誇張。 - 参加武将リストの意図: 武田・佐竹ら関東豪族34名(含む一族分家)列挙は道誓が広範な支持を得た演出。但し「白塩入道」など架空人物混在可能性あり。 3. 儒教的価値観の援用:
- 「天下人民帰仁習」論理:
孟子「仁政に帰す」思想を引用し、武力行使を倫理化する正当化装置として機能。
- 漢籍との対比継続:
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| 路次に二十日余の逗留有て、京著は十一月二十八日の午刻と聞へしかば、摂政関白・月卿雲客を始として、公家武家の貴賎上下、四宮河原より粟田口まで、桟敷を打続け、車を立双べて、見物の衆二行に群をなす。げにも聞しに不違。天下久く武家の一統と成て、富貴に誇る武士共が、爰を晴と出立たれば、馬・物具・衣裳・太刀・刀・金銀をのべ綾羅を不飾云事なし。中にも河越弾正少弼は、余りに風情を好で、引馬三十疋、白鞍置て引せけるが、濃紫・薄紅・萌黄・水色・豹文、色々に馬の毛を染て、皆舎人八人に引せたり。其外の大名共一勢一勢引分て、或は同毛の鎧著て、五百騎千騎打もあり、或は四尺五尺の白太刀に、虎皮の尻鞘引篭め、一様に二振帯副て、百騎二百騎打もあり。只孟嘗君が三千の客悉珠履をはいて春信君が富を欺しも、角やと覚へて目も盻也。 ○和田楠軍評定事付諸卿分散事 此比吉野の新帝は、河内天野と云処を皇居にて御座有ければ、楠左馬頭正儀・和田和泉守正武二人、天野殿に参じて奏聞しけるは、「畠山入道々誓東八箇国の勢を卒して二十万騎、已に京都に著て候なる。山陽道は播磨を限り、山陰道は丹波を堺ひ、東海・東山・南海・北陸道の兵、数を尽して上洛仕り候なれば、敵の勢は定て雲霞の如くにぞ候覧。 |
道誓軍は途中二十日余り滞在し京都着いたのは十一月二十八日の正午頃と聞く。摂政関白や高位公家から始まり、武家・庶民の身分上下問わず、四宮河原(四条大宮)から粟田口まで桟敷が連なり車を並べ見物客が両側に群れていた。噂通り確かに壮観であった。天下久しく武士政権となったため富を誇る武者たちはこの場を見せ場と装い、馬・武具・衣装・刀剣の金銀細工や綾羅絹織物を飾らぬ者はいなかった。 特に河越弾正少弼(貞詮)は風流を好み三十頭の引き馬に白鞍をつけさせた。濃紫・薄紅・萌黄・水色・豹紋と馬毛を染め、全て舎人八人が引いていた。他の大名も各々趣向凝らし——同色甲冑で五百騎千騎揃えた勢や、四尺五尺の白鞘太刀に虎皮尻鞘をつけ二振り帯びた百騎二百騎隊など様々だった。「孟嘗君の三千食客が珠履を履き春申君の富を凌いだ」故事さながらで目を見張る光景であった。 さて当時吉野(南朝)天皇は河内天野を行宮としておられたため、楠左馬頭正儀と和田和泉守正武が参上し奏上した:「畠山入道道誓が東八カ国の兵二十万騎を率いて既に京都に入りました。山陽道(播磨まで)・山陰道(丹波境)はもとより、東海・東山・南海・北陸の諸軍総動員で上洛しております故、敵勢は雲霞のように膨大です」。 解説1. 権力誇示の視覚演出:
- 「見せ場としての行列」:
入京シーンを劇場化(桟敷・群衆)することで室町期武士階級の威信示威を表現。「孟嘗君」故事引用は中国古典教養で正当性補強。
- 「馬毛染色」「虎皮尻鞘」等: 2. 兵力描写の虚実構造:
- 数値的誇張の持続:
前文「二十万七千騎」を受けて更に諸道総動員を強調するが、1360年当時の現実兵力(南朝側含め全武士階級10万人未満)と乖離。軍記物としての演出性顕著。
- 「雲霞如く」比喩: 3. 政治的構図の深化:
- 南朝側視点導入:
吉野行宮シーンで物語が両勢力並列化。楠・和田「軍評定」開始により緊張感増幅。
- 「四道兵尽し」表現:
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| 但於合戦は、決定御方の勝とこそ料簡仕て候へ。其故は、軍に三の謀候べし。所謂天の時・地の利・人の和にて候。此内一も違ふ時は、勢ありと云共、勝事を不得とこそ見へて候へ。先づ天の時に付て勘候へば、明年よりは大将軍西に在て東よりは三年塞たり。畠山冬至以後、東国を立て罷上て候。是已に天の時に違れ候はずや。次に地の利に付て案じ候に、御方の陣、後は深山に連て敵案内を不知、前に大河流て僅なる橋一を路とせり。さ候へば、元弘の千盤屋の軍は中々不及申に。其後建武の乱より以来、細河帯刀・同陸奥守顕氏・山名伊豆守時氏・高武蔵守師直・同越後守師泰、今の畠山入道々誓に至るまで、已に六箇度此処へ寄て、猛勢を振ひ戦を挑しに、敵の軍遂に不利。或は尸を河南の路に曝し或は名を敗北の陣に失ひ候き。是当山形勝の地、要害の便を得たる故にて候。次には人の和に付て思案を廻し候に、今度畠山が上洛は、只勢を公義に借て忠賞を私に貪んと志にて候なる。仁木・細川の一族共も彼が権威を猜み、土岐・佐々木が一類も其忠賞を嫉まぬ事や候べき。是又人の心の和せぬ処にて候はずや。天地人の三徳三乍ら違ひ候はゞ、縦敵百万の勢を合せて候共、恐に足ぬ所にて候。但、今の皇居は余りにあさまなる処にて候へば、金剛山の奥、観心寺と申候処へ、御座を移し進せ候て、正儀・正武等は和泉・河内の勢を相伴ひ、千葉屋・金剛山に引篭り、竜山・石川の辺に懸出々々、日々夜々に相戦ひ、湯浅・山本・恩地・贄河・野上・山本の兵共は、紀伊国守護代、塩冶中務に付て、竜門山・最初峰に陣を張せ、紀伊川禿辺に野伏を出して、開合せ攻合せ、息をも継せず令戦、極めて短気なる坂東勢共などか退屈せで候べき。 |
しかし合戦においては必ずこちら(南朝)が勝つと見込んでおります。その理由として軍には三つの要素があります。いわゆる天の時・地の利・人の和でございます。このうち一つでも欠ければ兵力があっても勝利できないでしょう。 まず「天の時」を考えますに、来年からは大将軍(北極星)が西に位置し東からの攻勢は三年塞がれます。畠山入道が冬至後に東国より上洛したのは既にこの天時に反しています。次に「地の利」につきまして味方陣営は背後の深山続きで敵は地理不案内、前方には大河が流れて一つの橋のみが通路です。元弘年間(1331-34)の千盤城防戦にも劣らない要害でありましょう。建武の乱以降、細河帯刀・山名時氏・高師直兄弟ら六度もここへ攻め寄せた敵は全て敗北し屍を川沿いに晒すか名誉を失っております。これこそ当地が地形に勝り要害を得ている証拠です。 さらに「人の和」につきまして今度の畠山上洛は朝廷権威を借り私利を貪る企みであり仁木・細川一族もその権勢を疑い土岐・佐々木一門も恩賞分配に嫉妬しております。これでは人心が一致しているとは言えません。天地人の三要素すべて欠けている敵は百万の軍勢でも恐れるに足りません。 ただし現在の行宮(天野)は危険すぎますゆえ金剛山奥の観心寺へ御所を移され正儀・正武らが和泉河内兵を率い千葉城と金剛山に籠城すべきです。竜山や石川方面に出撃し日夜戦闘を続け湯浅・山本らの紀伊勢は守護代塩冶中務指揮の下で竜門山・最初峰に布陣し紀ノ川流域に伏兵を置き絶え間なく攻防戦を行いましょう。短気な坂東武者たちが耐えられるはずがありません。 解説1. 兵法理論の体系化:
- 三要素分析の典拠:
孟子「天時不如地利」(『孟子』公孫丑下)を基盤とする中世軍学の応用。「天の時=冬至違反」「地の利=要害地形」「人の和=内部対立」と論理展開。
- 「元弘千盤屋」比喩: 2. 地形描写の実証性:
- 金剛山地域の軍事的価値:
現在の大阪府南部(河内長野市)。「深山」「大河」(石川水系)、「一橋」(狭路)が天然要塞として機能した史実を反映。
- 「六度敗北」列挙: 3. 心理戦略の透視:
- 内部対立の指摘:
仁木義長・細川清氏ら北朝武将間確執(1360年実態)を「忠賞嫉妬」と看破。続く康安政変(1361年)で道誓失脚する伏線。
- 「坂東勢短気」評:
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| 退屈して引返す者ならば、勝に乗て追懸け、敵を千里の外に追散し、御運を一時に可開。是庶幾する処の合戦也。」と、事もなげにぞ申ける。主上を始進せて近侍の月卿雲客に至るまで、皆憑もしき事にぞ思食ける。さらば軈て観心寺へ皇居を移し進らすべしとて臨幸なるに、無用ならん人々を、そゞろに召具させ給べからずと申ける間、げにもとて伝奏の上卿両三人・奉行の職事一両輩・護持僧二人・衛府官四五人許を召具せられ、此外は何地へも暫く落忍て、御敵退散の時を可待と被仰出ければ、摂政関白・太政大臣・左右の大将・大中納言・七弁・八史・五位・六位・後宮の美婦人・青上達部・内侍・更衣・上臈女房・出世・房官に至るまで、或は高野・粉川・天河・吉野・十津河の方に落行て、浅猿げなる山賎共に、憂身を寄る人もあり、或は志賀の古郷・奈良の都・京白河に立帰り、敵陣の中に紛れ居て、魂を消す人もあり。諸苦所因貪欲為本と、如来の金言、今更に思知こそ哀れなれ。 ○新将軍南方進発事付軍勢狼籍事 去程に足利新征夷大将軍義詮朝臣、延文四年十二月二十三日都を立て、南方の大手へ向給ふ。相順ふ人々には、先一族細川相摸守清氏・舎弟左近大夫将監・同兵部太輔・同掃部助・同兵部少輔・尾張左衛門佐・仁木右京大夫・舎弟弾正少弼・同右馬助・一色左京大夫・今河上総介・子息左馬助・舎弟伊予守、他家には、土岐大膳大夫入道善忠・舎弟美濃入道・同出羽入道・同宮内少輔・同小宇津美濃守・同高山伊賀守・同小里兵庫助・同猿子右京亮・厚東駿河守・同蜂屋近江守・同左馬助義行・同今峰駿河守・同舟木兵庫助・同明智下野入道・同戸山遠江守・同修理亮頼行・同出羽守頼世・同刑部少輔頼近・同飛弾伊豆入道・佐々木判官信詮・佐佐木六角判官入道崇永・舎弟山内判官・河野一族・赤松筑前入道世貞・舎弟帥律師則祐・甥大夫判官光範・舎弟信濃五郎直頼・同彦五郎範実・諏防信濃守・禰津小次郎・長尾弾正左衛門・浅倉弾正、此等を始として、都合其勢七万余騎、大島・渡辺・尼崎・鳴尾・西宮に居余て、堂宮までも充満たり。 |
もし敵が退屈して撤退するようなら、勝利に乗じて追撃し千里の彼方まで追い散らし、御運勢を一気に開くことができます。これこそ我々が望む合戦です。」と軽々しく申し上げた。主上(後村上天皇)から側近の高官たちに至るまで皆、頼もしいことだとお思いになった。「それでは早急に観心寺へ御所を移しましょう」ということになり行幸が決まったが、「無用な人々をむやみにお連れしてはいけません」との意見があったため、確かにとお考えになり伝奏の上卿両三人・奉行職事一両輩・護持僧二人・衛府官四五人ほどだけをお伴にし、それ以外はどこへでも一時身を潜めて敵が退散する時を待つようにとのお触れが出された。摂政関白から太政大臣・左右大将・大中納言・七弁(弁官)八史(史官)五位六位の役人後宮の美女青上達部内侍更衣上臈女房出世房官に至るまで、ある者は高野や粉川天河吉野十津河方面へ逃れてみすぼらしい山間の民のもとに憂い身を寄せる者もあり、ある者は志賀の故郷奈良京白河へ戻り敵陣の中に紛れ込んで命を落とす人もいた。「あらゆる苦しみは貪欲が原因」という如来のお言葉が今さらながら思い知られ哀れである。 さて足利新征夷大将軍義詮卿は延文四年十二月二十三日都を出立し南朝の主力方面へ向かわれた。従う人々にはまず一族細川相模守清氏・弟左近大夫将監(頼春)同兵部太輔(繁氏?注:適宜補足)同掃部助(満之?)同兵部少輔尾張佐衛門佐仁木右京大夫(義長)弟弾正少弼(義守)同右馬助一色左京大夫今河上総介息子左馬助弟伊予守他家では土岐大膳大夫入道善忠・弟美濃入道同出羽入道同宮内少輔同小宇津美濃守同高山伊賀守同小里兵庫助同猿子右京亮厚東駿河守同蜂屋近江守同左馬助義行同今峰駿河守同舟木兵庫助同志明智下野入道戸山遠江守修理亮頼行出羽守頼世刑部少輔頼近飛騨伊豆入道佐々木判官信詮(京極)六角判官崇永弟山内判官河野一族赤松筑前入道世貞弟帥律師則祐甥大夫判官光範弟信濃五郎直頼同彦五郎範実諏訪信濃守禰津小次郎長尾弾正左衛門浅倉弾正らを筆頭に総勢七万余騎が大島渡辺尼崎鳴尾西宮にあふれ寺社までも満ちた。 解説1. 南朝側の戦略的移転:
- 皇居移動の緊急性:
1360年当時、金剛山観心寺(現・大阪府河内長野市)は天然要害として機能。楠正儀提案に従い後村上天皇が極少数随行のみで遷座した背景には北朝軍圧迫があった。
- 「無用ならん人々」の排除: 2. 仏教説話の引用意義: - 「諸苦所因貪欲為本」: 法華経方便品第二の一節で、貴族たちの権力闘争を「欲望が悲劇の根源」と批判。当時の南朝知識人が仏典で現実を解釈する思考様式を示す。 3. 北朝軍編成の歴史的価値:
- 延文四年(1359)冬の進軍:
足利義詮初陣として記録される大規模遠征。列挙された武将名は細川清氏・仁木義長ら当時の幕府中枢から、土岐善忠・赤松世貞など守護大名まで網羅。
- 兵力「七万余騎」の真偽:
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| 畠山大夫入道々誓は搦手の大将として、東八箇国の勢二十万騎引卒して、翌日の辰刻に都を立て、八幡の山下・真木・葛葉に陣を取。是は大手の勢渡辺の橋を懸ん時、敵若川に支て戦ば、左々良・伊駒の道を経て、敵を中に篭んと也。大手の寄手赤松判官光範は、摂津国の守護にて、敵陣半ば我領知を篭たれば、人より先に渡辺の辺に、五百余騎にて打寄たり。河舟百余艘取寄て、河の面二町余に引並べ、柱をゆり立、もやいを入て、上にかぶ木を敷並べたれば、人馬打並て渡れ共曾て不危。和田・楠爰に馳向て、手痛く一合戦せんずらんと、人皆思ひて控たりけれ共、如何なる深き謀か有けん、敢て河を支ん共せざりけり。去間大手・搦手三十万騎、同日に河より南へ打越、天王寺・安部野・住吉の遠里小野に陣を取る。され共猶大将宰相中将殿は河を越不給、尼崎に轅門を堅してをはすれば、赤松筑前入道世貞・同帥律師則祐は、大渡に打散て、斥候の備へを全し、仁木右京大夫義長は、三千余騎を一所に集め、西宮に陣を取て、先陣若戦負ば、荒手に成て入替、天下の大功を我一人の高名に称美せられんとぞ儀せられける。南方の兵の軍立、始は坂東の大勢の程を聞て、「城に篭て戦はゞ、取巻れて遂に不被責落云事有べからず。 |
畠山大夫入道道誓は別働隊(搦手)の大将として、関東八カ国の軍勢二十万騎を率い、翌日の朝に出発し、八幡山下・真木・葛葉に布陣した。これは正面部隊(大手)が渡辺橋を架ける際、敵がもし川で防戦すれば、左々良や伊駒の道を通って敵を包囲しようという策略である。正面攻撃隊の赤松判官光範は摂津国守護であり、敵陣の半分が自領内に含まれていたため、誰よりも先に渡辺付近へ五百余騎で進軍した。川船百余艘を集め河面二町余(約200m)に並べ、支柱を立てて繋ぎ留め、上に木板を敷き詰めたので人馬が一斉に渡っても危険はなかった。和田・楠らもここへ向かい激戦になるだろうと皆思って待機したが、どうやら深い策略があったのか敵は全く川で防戦しなかった。こうして正面部隊と別働隊合わせ三十万騎が同日に河を南へ越え天王寺・安部野・住吉の遠里小野に陣取った。しかし大将軍である宰相中将(足利義詮)はまだ河を渡らず尼崎で本営を固めていたため、赤松筑前入道世貞と帥律師則祐は広範囲に散って偵察態勢を整え仁木右京大夫義長は三千余騎を一箇所に集め西宮に布陣し「先鋒がもし敗れれば我々が突撃部隊となり天下の大功を独占せん」と画策した。南朝軍の戦略では当初、関東(北朝)の大軍勢を聞き「城に籠って防戦すれば包囲され落城は避けられない。 解説1. 軍事作戦の展開構造:
- 二正面作戦:
搦手(別働隊・畠山道誓)と大手(主力部隊・赤松光範ら)による挟撃計画が明示。渡辺橋(現大阪市北区付近)での架橋は淀川の渡河点確保を狙ったもので、当時の合戦における河川制圧の典型例。
- 「深き謀」の解釈: 2. 陣形配置の地理的意義:
- 布陣地点: 3. 武将たちの思惑描写:
- 仁木義長の野心:
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| 只深山幽谷に走散て敵に在所を知れず、前に有かとせば後へ抜て、馬に乗かとせば野伏に成て、在々所々にて戦はんに、敵頻に懸らば難所に引懸て返合せ、引て帰らば迹に付て追懸け、野軍に敵を疲かして、雌雄を労兵の弊に決すべし。」と議したりけるが、東国勢の体思ふにも不似、無左右敵陣へ懸入ん共せず、爰に日を経、彼こに時をぞ送りける。さらば此方も陣を前に取り、城を後に構へて合戦を致せとて、和田・楠は、俄に赤坂の城を拵て、三百余騎にて楯篭る。福塚・川辺・佐々良・当木・岩郡・橋本判官以下の兵は、平石の城を構て、五百余騎にて楯篭る。真木野・酒辺・古折・野原・宇野・崎山・佐和・秋山以下の兵は、八尾の城を取り繕て、八百余騎にて楯篭る。此外大和・河内・宇多・宇智郡の兵千余人をば、竜泉峯に屏を塗り、櫓を掻せて、見せ勢になしてぞ置たりける。去程に寄手は同二月十三日、後陣の勢三万余騎を、住吉・天王寺に入替させて、後を心安く蹈へさせ、先陣の勢二十万騎は、金剛山の乾に当りたる津々山に打上て陣を取。敵御方其あはい僅に五十余町を隔たり。互に時を待て未戦ざる処に、丹下・俣野・誉田・酒勾・水速・湯浅太郎・貴志の一族五百余騎、弓を弛し甲を脱で、降人に成て出たりければ、津々山の人々皆勇罵て、さればこそ敵早弱りにけり。 |
「ただ深山幽谷へ散らばって敵に居場所を知られず、こちらが攻めれば背後から襲い、騎馬隊と見せかけては伏兵となり各地で戦おう。敵が頻繁に押し寄せるなら要害地形で反撃し、退却するなら追跡して野戦で疲れさせ、兵力の消耗で勝敗を決しよう」と評議したものの、関東軍(北朝側)は予想外にも全く攻め込まず、ここかしこに日々を過ごしていた。そこで南朝方は「陣を前方に置き城砦を後方に築いて戦え」と決断。和田・楠らは急造で赤坂城(現大阪府東部)を構築し三百余騎が籠城、福塚・川辺・佐々良らは平石城(同)に五百余騎、真木野・酒辺らは八尾城(同上)整備して八百余騎で防衛。さらに大和・河内方面の兵千余人を竜泉峰(生駒山地付近)に柵と櫓を設けて陽動部隊とした。 こうした中、攻め手(北朝軍)は同年2月13日、後詰め三万騎を住吉・天王寺へ配置し補給路確保。先鋒二十万騎は金剛山の西北麓にあたる津々山に登って布陣。敵味方間隔わずか五十町(約5.4km)で睨み合う中、丹下・俣野ら一族五百余騎が弓を解き甲冑を脱いで降伏者として現れたため、津々山の北朝兵は皆「敵は早くも弱ったな」と嘲笑した。 解説1. 戦略転換の核心点: - ゲリラ戦術から要塞防衛へ: 初期計画(「深山幽谷に走散て」「野伏に成て」)は機動的奇襲作戦だが、敵が無反応だったため急遽城砦群を構築。赤坂・平石・八尾の三点防御網と竜泉峰の陽動作戦で持久体制へ転換。 - 距離表示「五十余町」: 約5.4km(1町≒109m)は当時の長弓有効射程外だが、視認可能な緊張域。『太平記』では心理的圧迫感を強調する数値描写。 2. 歴史的背景:
- 「降人」の史実性:
1360年(延文5)摂津国での離反は史料確認されないが、正平一統直前の動揺を示唆。丹下氏(紀伊守護代系)ら在地武士団の寝返り描写は南北朝期特有の流動的忠誠を反映。
- 城砦位置特定:
- 赤坂城:現大阪府千早赤阪村
- 八尾城:同八尾市恩智地域 3. 軍記文学的特性:
- 兵力数の誇張:
「二十万騎」「五百余騎」等は象徴的表現。実際1360年戦役で北朝側動員力は最大5万(『師守記』裏付け)。
- 「勇罵て」の心理描写:
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| 和田・楠幾程か可怺と、思はぬ人も無りけり。され共未騎馬の兵懸合て、勝負をする程の事はなし。只両陣互に野伏を出合せて、矢軍する事隙なし。元来敵は物馴て、御方は案内を知ねば、毎度合戦に寄手の手負、討るゝ事数を不知。角ては只和田・楠が、兼て謀る案の内に落されたる事よと云ながら、止事を不得ける。去程に始のほどこそ禁制をも用ひけれ。兵次第に疲れければ、神社仏閣に乱入て戸帳を下し神宝を奪ひ合ふ。狼籍手に余て不拘制止、師子・駒犬を打破て薪とし、仏像・経巻を売て魚鳥を買ふ。前代未聞の悪行也。先年高越後守師奉が、石川々原に陣を取て、楠を攻て居たりし時、無悪不造の兵共が塔の九輪を下て、鑵子に鋳たりし事こそ希代の罪業哉と聞しに、是は猶其れに百倍せり。浅猿といふも疎也。「為不善于顕明之中者、人得誅之、為不善乎幽暗之中者、鬼得討之。」いへり。師泰已に是を以て亡き。前車の轍未遠。畠山今是を取て不誡、後車の危き事在近。今度の軍如何様にも墓々しからじと、私語く人も多かりけり。 ○紀州竜門山軍事 四条中納言隆俊は、紀伊国の勢三千余騎を卒して、紀伊国最初峯に陣を取てをはする由聞へければ、同四月三日、畠山入道々誓が舎弟尾張守義深を大将にて、白旗一揆・平一揆・諏防祝部・千葉の一族・杉原が一類、彼れ此れ都合三万余騎、最初が峯へ差向らる。 |
和田・楠らは「これがいつまで耐えられるか」と思う者ばかりだった。しかし騎馬兵同士が正面衝突して決着をつける状況にはならず、両軍とも偵察部隊(野伏)を出し合って絶え間ない弓矢の応酬があるだけである。そもそも敵は地形に慣れており味方は地理を知らないため、戦いごとに攻撃側の負傷・死者が数知れぬ状態だ。「どうやら和田と楠の事前の策略にはまったようだ」と言いつつも打開策がない。 こうした中、当初は軍規を守っていた兵士たちも次第に疲弊し、神社仏閣へ乱入して垂れ幕を剥がし神宝を奪い合った。無法行為は収拾がつかず制止も不可能で、獅子像や狛犬を壊して薪とし、仏像や経典を売って魚鳥を買う始末。前代未聞の悪行である。「以前に高越後守師泰(こう えちごのかみ もろやす)が石川河原で楠氏攻撃中、兵士たちが塔の九輪(金属装飾)を剥して鍋に鋳た話は未曾有の罪業だ」と聞いたが、今回はさらに百倍ひどい。嘆かわしいという言葉も及ばない。「明るみでの悪事には人が罰し、闇中の悪行には鬼が討つ」(『礼記』引用)と言う通り、師泰は既にこの故に滅んだのだ。前車の轍(失敗例)が間近にあるのに畠山入道もこれを戒めず、後続者(自軍)が危機に陥るのも時間の問題だ。「今回の戦役はどうやら不吉な結末になる」と噂する者も多かった。 ○紀州竜門山方面の軍事 四条中納言隆俊が紀伊国兵三千余騎を率いて同国最初峯(龍門山)に布陣したとの報を得て、同年4月3日には畠山入道道誓の弟・尾張守義深を大将とする軍勢——白旗一揆(足利直義派武士団)、平氏系武者集団、諏訪神官部隊、千葉一族、杉原氏族ら計三万余騎が最初峯へ向けて進撃した。 解説1. 軍紀弛緩の実態描写: - 宗教施設略奪: 寺社への「戸帳下し」(建築装飾剥奪)、神宝強奪は当時頻発した現象。1360年摂津国では『園太暦』に実際の狼藉記録が残る。 - 「九輪を鑵子に鋳」:仏塔頂部の金属製九輪(くわん)を鍋材料として溶解転用——中世戦乱期の典型的宗教冒涜。 2. 歴史的教訓の引用構造:
- 高師泰前例:
1348年四条縄手合戦で、高師泰軍が河内国石川寺を略奪した史実(『太平記』巻21)と対比。
- 『礼記』格言適用: 3. 紀伊国方面戦線の意義:
- 四条隆俊:
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| 此勢則敵陣に相対したる和佐山に打上りて三日まで不進、先己が陣を堅して後に寄んとする勢に見へて、屏塗り櫓を掻ける間、是を忻らん為に宮方の侍大将塩谷伊勢守、其兵を引具して、最初峰を引退て、竜門山にぞ篭りける。畠山が執事、遊佐勘解由左衛門是を見て、「すはや敵は引けるぞ。何くまでも追懸て、打取れ者共。」とて馳向ふ。楯をも不用意、手分の沙汰もなく、勝に乗る処は、げにもさる事なれ共、事の体余りに周章ぞ見へたりける。彼竜門山と申は、岩竜頷に重なて路羊腸を遶れり。岸は松栢深ければ嵐も時の声を添へ、下には小篠茂りて露に馬蹄を立かねたり。され共麓までは下り合ふ敵なければ、勇む心を力にて坂中まで懸上り、一段平なる所に馬を休めて、息を継んと弓杖にすがり太刀を逆に突処に、軽々としたる一枚楯に、靭引付たる野伏共千余人、東西の尾崎へ立渡り、如雨降散散に射る。三万余騎の兵共が、僅なる谷底へ沓の子を打たる様に引へたる中へ、差下て射こむ矢なれば、人にはづるゝは馬に当り、馬にはづるゝは人に当る。一矢に二人は射らるれ共、はづるゝは更になし。進で懸散さんとすれば、岩石前に差覆て、懸上るべき便もなし。開ひて敵に合はんとすれば、南北の谷深く絶て、梯ならでは道もなし。 |
この軍勢は敵陣と向き合う和佐山(現在の和歌山県有田郡付近)へ登り三日間進まず、自らの陣地を強化して後続部隊待ちのように装い柵や櫓を築いている間に、南朝方(宮方)の侍大将・塩谷伊勢守は隙を見せておびき寄せるため兵を率いて最初峯から撤退し龍門山へ籠城した。畠山軍の執事である遊佐勘解由左衛門がこれを見て「敵は退いたぞ!どこまでも追いかけて討ち取れ!」と叫びながら無防備に突進。部隊編成も整えず、勢いに乗じた行動ではあるものの状況判断があまりにも軽率だった。 この竜門山という場所は岩が龍の顎のように重なり道は羊腸のように曲がりくねっている。岸には松や檜(ひのき)が深く生い茂るため風音さえ鬨の声と混じり、麓には笹が密生して露に馬足も踏み込めない地形だ。しかし追撃軍は坂の中腹まで登ると、一段平らな場所で馬を休めて弓杖にもたれ刀を逆さまに突きながら息継ぎしていたところへ、軽装備の楯と矢筒をつけた伏兵(野伏)千余人が東西の尾根から現れ雨あられと矢を射かけてきた。 三万もの騎馬部隊が狭い谷底で将棋倒しのように密集している状態に上から射かけられたため、人を外せば馬に当たり、馬を外せば人に命中する。一つの矢で二人貫かれることもあり、外れる矢など全くなかった。進んで突撃しようにも巨大な岩が前に立ちはだかり道もなく、退却しようとすれば南北の谷は深く断絶して梯子なしでは降りられない状況だった。 解説1. 戦術的罠の構造分析: 2. 文学描写の特徴: 3. 戦術史的背景:
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| いかゞせんと背をくゞめて、引やする引かれてやあると見る処に、黄瓦毛なる馬の太く逞きに、紺糸の鎧のまだ巳の剋なるを著たる武者、濃紅の母衣懸て、四尺許に見へたる長刀の真中拳て、馬の平頚に引側め、塩谷伊勢守と名乗て真前に進めば、野上・山東・貴志・山本・恩地・牲河・志宇津・禿の兵共二千余騎、大山も崩れ鳴雷の落るが如く、喚き叫で懸たりける。敵を遥のかさに受て、引心地付たる兵共なれば、なじかは一足も支ふべき。手負を助けんともせず、親子の討るゝをも不顧、馬物具を脱捨て、さしも嶮き篠原を、すべる共なく転ぶ共なく、三十余町を逃たりける。塩谷は余りに深く長追して、馬に箭三筋立、鑓にて二処つかれければ、馬の足立兼て、嶮岨なる処より真逆様に転ければ、塩谷も五丈計岩崎より下に投ふれければ、落付よりして目くれ東西に迷、起上んとしける処を、蹈留敵余に多に依て、武具の迦れ内甲を散々にこみければ、つゞく御方はなし、塩谷終に討れにけり。半時許の合戦に、生慮六十七人、討るゝ者二百七十三人とぞ聞へし。其外捨たる馬・物具・弓矢・太刀・刀、幾千万と云数を不知。其中に遊佐勘解由左衛門が今度上洛之時、天下の人に目を驚かさせんとて金百両を以て作たる三尺八寸の太刀もあり。 |
どうしようかと背中を丸めて撤退する様子を見ていると、黄色がかった灰色の毛並みの逞しい馬に乗り、紺色の糸で編んだ鎧(午前10時頃)を着た武者が深紅の母衣(ほろ)を背負い、約四尺(1.2m)の長刀の中ほどを持って馬の首元へ引き寄せながら「塩谷伊勢守」と名乗り正面に進んでくる。すると野上・山東・貴志ら南朝方の兵士二千余騎が、大山が崩れるかのような轟音と雷鳴のような喚声を上げて突撃した。 追い詰められ退却中の畠山軍は一歩も踏み留まれず、負傷者を助けようともせず親子が討たれても顧みず、馬や武具を脱ぎ捨てて険しい笹原を滑るように転げ落ちながら三十町(約3.3km)以上逃げた。塩谷は深追いしすぎて馬に三本の矢を受け、槍で二箇所突かれたため馬が足を立て直せず断崖から真っ逆さまに転落。五丈(約15m)ほどの岩場から投げ出され着地時に目眩いで起き上がろうとしたところを取り囲んだ敵兵の鎧の隙間めがけて集中攻撃を受け、救援も来ないまま討ち死にした。 わずか半時(1時間)ほどの戦闘での犠牲は、畠山軍側生き残り67名・戦死者273名と伝えられ、他に放棄された馬や武具・弓矢・太刀類は数千万ともいえないほど。中には遊佐勘解由左衛門が上洛時に天下を驚かせようと金百両で作らせた三尺八寸(約1.15m)の名刀も含まれていた。 解説1. 戦闘描写の特徴的技法: 2. 歴史的背景: 3. 武具描写の史料的価値:
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| 又日本第一の太刀と聞へたる禰津小次郎が六尺三寸の丸鞘の太刀も捨たりけり。されば大力も高名も不覚も時の運による者也。此禰津小次郎は自讃に常に申けるは、「坂東八箇国に弓矢を取人、駈合の時根津と知らで駈合せ太刀打違んは不知、是禰津よと知たらん者、我に太刀打んと思人は、恐くは不覚。」と申程の大力の剛の者なれ共、差たる事もせで力のある甲斐には、人より先に逃たりけり。 ○二度紀伊国軍事付住吉楠折事 紀伊国の軍に寄手若干討れて、今は和佐山の陣にも御方怺へ難しと云たりければ、津々山の勢も尼崎の大将も、興を醒し色を失ふ。され共仁木右京大夫義長一人は、「あらをかしやさてこそよ。哀同じくは津々山・天王寺・住吉の勢共も皆被追散裸に成て逃よかし。興ある見物せん。」とて、えつぼに入てぞ咲ける。是をば御方とや云べき敵とや申べき。難心得所存也。紀伊路の向陣を追落されなば津々山とても不可怺。さらば敵の懸らぬ前に荒手を副て、尾張守に力を付よとて、同四月十一日、畠山式部大夫・今河伊予守・細河左近将監・土岐宮内少輔・小原備中守・佐々木山内判官・芳賀伊賀守・土岐桔梗一揆・佐々木黄一揆、都合其勢七千余騎、重て紀伊路へぞ向られける。中にも芳賀兵衛入道禅可は我身は天王寺に止られて、嫡子伊賀守公頼を紀伊路へ向られけるが、二三里が程打送て、泪を流て申けるは、「東国に名ある武士多しといへ共、弓矢の道に於て指をさゝれぬは只我等が一党也。 |
さらに日本一と評されていた根津小次郎の六尺三寸(約1.9m)もある丸鞘の太刀も捨てられていた。こうして見ると怪力や名声を得ること、あるいは不覚を取ることも時の運によるものだと言えるだろう。この根津小次郎は自慢話として常々「関東八カ国で武芸に励む者たちの中でも合戦の場で私と知らずに対峙し刀を交えようとする者はまずいないはずだ。もし『これは禰津だ』と気づいた者がわざわざ斬りかかってくるなら、それは恐ろしいほどの不覚というものだろう」と言うほど腕力に優れた剛の者であったにも関わらず、実際には何の抵抗もせず持てる力を発揮することなく他の兵士より先に逃げ出してしまった。 ○第二回:紀伊国での戦いと住吉における敗退について 解説1. 人間的弱さと運命観: 2. 仁木義長の人物造形: 3. 戦略的決断の背景: 4. 親子別れ場面の情感:
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| 御方の大勢先度の合戦に打負て敵に機を著ぬれば、今度の合戦は弥手痛からんと知べし。若し合戦仕違て引返しなば、只少しも違はぬ二の舞にて、敵に力を付るのみならず、殊に仁木左京大夫に笑れん事、我一人が恥と存べし。されば此軍に敵を追落さずは、生て二度我に面を不可向。是は円覚寺の長老より持ち奉りし御袈裟也。是を母衣に懸て、後世の悪業を助れ。」とて、懐より七条の袈裟を取出て泣々公頼に与ふ。公頼庭訓を受て、子細に不及と領掌して両へ別れけるが、今生の対面若是や限なるべきと、名残惜げに顧て、互に泪をぞ浮めける。恩愛の道深ければ、何なる鳥獣さへも子を思ふ心浅からず。況乎於人倫乎。況乎於一子乎。され共弓矢の道なれば、禅可最愛の子に向て、只討死せよと進めける心の中こそ哀なれ。去程に四条中納言隆俊は、重て大勢懸る由聞へしかば、尚本の陣にてや戦ふ、平場に進でや懸合ひにすると評定有けるに、湯川庄司心替りして後に旗を挙げ、熊野路より寄する共披露し、船をそろへて田辺よりあがるとも聞へければ、此陣角ては如何が可有と、案じ煩てをはしけるを見て、大手の一の木戸を堅めたりける越智、降人に成て芳賀伊賀守が方へ出たりける。さらでだに猛き清党、兼て父に義を被勧、今又越智に力を被著、なじかは少しも滞るべき。 |
味方の大軍が前回の合戦で敗れ敵に勢いをつけられたため、今回はさらに激しい戦いになることは明らかだ。もし戦いに失敗して退却すれば、全く同じ過ちを繰り返すだけで敵をより強くするばかりか、特に仁木左京大夫(義長)に嘲笑われることが私にとって最大の恥となるだろう。だからこそこの合戦で勝利しなければ生きて再び会うことは許されない――これは円覚寺長老から賜った袈裟だ。これを母衣にかけて後世での悪業を軽減せよ」と言い、懐から七条の袈裟を取り出して涙ながらに息子公頼へ渡した。 公頼は父の教えを受け「承知しました」と深く礼を示し別れたが、「これが今生の別れとなるのか」との思いで名残惜しそうに振り返り、父子ともに涙を浮かべた。親子の情愛とは深いものであり、どんな鳥獣ですら子を思う心は浅くない。まして人間においてなおさらであり、ましてや一人息子であればなおのことだ。しかし武門である以上、禅可が最愛の息子に「討ち死にせよ」と命じる心中こそ痛切であった。 その頃四条中納言隆俊は大軍で再度攻め寄せるという情報を得たため、「従来の陣地で防戦するか平原へ進出して迎撃すべきか」との評議が行われていた。そこに湯川庄司が裏切り、背後から旗を揚げ熊野路方面より侵攻すると同時に田辺(現・和歌山県田辺市)では船団で上陸したとの報せが入る。この状況下で陣地維持は不可能と判断し焦慮する芳賀軍を見て、大手門の守備を担っていた越智が降伏者となり伊賀守公頼のもとに現れたのである。 もともと精鋭揃いの清和源氏流武士団であり、事前に父から大義を示されていた上に今や敵方(越智)まで加勢したのだから、どうして躊躇する余地があるだろうか? 解説1. 禅可父子の心理的葛藤: 2. 軍記文学の情感表現技法: 3. 戦術情報網の描出: 4. 清党武士団の精神性:
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| 竜門の麓へ打寄ると均く、楯をも不突、矢の一をも不射、抜連れて責上ける程に、さしもの兵と聞へし恩地・牲河・貴志・湯浅・田辺別当・山本判官、半時も不支竜門の陣を落されて、阿瀬河の城へぞ篭りける。芳賀二度めの軍に先度の恥をぞ洗ける。今は是まで也。一功なす上はとて、紀州の討手伊賀守、無恙津々山の陣へ帰ければ、父の禅可悦喜して、公私の大崇是に過るは非じとぞ申ける。四条中納言隆俊卿、竜門山の軍に打負て阿瀬河へ落ぬと聞へければ、吉野の主上を始進せて、竜顔に咫尺し奉る月卿雲客、色を失ひ胆を銷し給ふ。斯る処に又住吉の神主津守国久密に勘文を以て申けるは、今月十二日の午剋に、当社の神殿鳴動する事良久し。其後庭前なる楠、不風吹中より折れて、神殿に倒れ懸る。され共枝繁く地に支て、中に横はる間、社壇は無恙とぞ奏し申ける。諸卿此密奏を聞て、「神殿の鳴動は凶を示し給条無疑。楠今官軍の棟梁たり。楠倒れば誰か君を擁護し奉るべき。事皆不吉の表事也。」と、私語き合れけるを、大塔忠雲僧正不聞敢被申けるは、「好事も不如無と申事候へば、まして此事吉事なるべしとは難申。但神凶を告給ふは、天未捨者也。其故は後漢の光武の昔、庭前なる槐木の高さ二十丈に余たるが、不風吹根より抜て倒にぞ立たりける。 |
竜門山の麓へ攻め寄せた時には均等に、盾さえ突かず矢一本も放たず、そのまま押し上げて攻めたので、あれほど強い兵と評判だった恩地・牲河・貴志・湯浅・田辺別当・山本判官らは半刻(約1時間)も防げずに竜門の陣を落とされ、阿瀬川城へ逃げ込んだ。芳賀軍が二度目の攻撃で前回の恥辱を見事に晴らしたのである。「もうこれまでだ」と思いながらも最後の功績を立てて紀州方面部隊指揮官・伊賀守(公頼)は無傷で津々山の陣地へ帰還すると、父の禅可は大いに喜び「朝廷への忠義と私的な名誉においてこれ以上のことはあるまい」と言った。 一方四条中納言隆俊卿が竜門山での敗戦を知り阿瀬川へ落ち延びたとの報せを聞くと、吉野の天皇(後村上天皇)をはじめ御前にお仕えする高官たちは顔色を失い肝をつぶされた。そこに住吉大社神主・津守国久が密かに「今月十二日午刻(正午頃)、当神社神殿が長く鳴動した後、庭の楠木が風もないのに折れ、神殿へ倒れかかりました。ただし枝葉が地面を支え中途で止まったため社殿は無事でした」という神託報告書を提出すると、公卿たちは「神殿鳴動は凶兆に違いなく、楠(南朝の象徴)が倒れたのは我々の支柱喪失を示す不吉な前触れだ」と噂し合った。 しかし大塔忠雲僧正はこれを聞き入れず申し上げた。「『好事も無いに如かず』と言いますから、ましてこれが吉事とは言い難い。ただし神様が凶を告げるのは天が見捨てていない証拠です。後漢の光武帝時代にも庭前の槐(20丈超)が風なく根こそぎ抜け倒立した例があります...」 解説1. 戦況劇転の描写技法: 2. 父子劇と歴史的整合性: 3. 神託場面の構造分析: 4. 光武帝故事の伏線:
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| 諸臣相見て皆恐怖しけるを、光武天の告を悦て、貧き民に財を省き余れるを以て不足助給ければ、此槐木一夜に又如本成て一葉も不枯けり。又我朝には応和の年の末に、比叡山の三宮林の数千本の松一夜に枯凋て、霜を凌ぐ緑の色黄葉に成にけり。三千の衆徒大に驚て、十善寺に参て、各自受法楽の法施を奉り、前相何事ぞと祈誓を凝さしめたりけるに、一人の神子俄に物に狂出て、「我に七社権現乗居させ給へり。」とて託しけるは、「我内には円宗の教法を守て化縁を三千の衆徒に結び、外には国家の安全を致して利益を六十余州に垂る。雖然今衆徒の挙動一として不叶神慮、兵杖を横へて法衣を汚し、甲胄を帯して社頭を往来す。嗚呼自今後、三諦即是の春の華誰が袂にか薫はまし。四曼不離の秋の月、何れの扉をか可照。此上は我当山の麓に迹を垂ても何かせん。只速に寂光の本土へこそ帰らめ。只耳に留る事とては、常行三昧の念仏の音、尚も心に飽ぬは、一乗読讃の論義の声。」と、泣々託宣しけるが、額より汗を流して、物の付は則醒にけり。大衆是に驚て、聖真子の御前にして、常行三昧の仏名を唱へ、止観院の外陣にして一乗読讃の竪義を執行ふ。衣之神慮も忽に休まりけるにや、月に叫峡猿の声も暁の枕を不濡、戴霜林松の色本の緑に成にけり。 |
家臣たちが見て皆恐れおののいたところ、光武帝は天のお告げを喜び貧しい民衆へ財産を節約した余剰分で不足を補い助けたため、この槐(えんじゅ)の木が一夜にして元通りになり一枚の葉も枯れることはなかった。またわが国では応和年間(961-964年)の末に比叡山三宮林の数千本の松が一夜で枯れ落ち霜を凌いだ緑色が黄色く変色した。三千人の僧侶たちは大いに驚き十善寺へ参詣し各自法楽供養を行い「前兆はいかなる事か」と祈誓に専念していたところ、一人の巫女(みこ)が突然憑依状態で飛び出し「我れに七社権現(天台宗守護神)がお乗りになられた」として次の託宣を伝えた:「私は内には円融した教法を守って三千衆徒と縁を結び、外には国家の安全をもたらして六十余州に利益を垂れる。それなのに今や僧侶たちの行動は一つとして神意に適わず武器を携えて法衣を汚し甲冑をつけて神社境内を行き来する。ああ今後は三諦即是(究極真理)の春の花が誰の袖にか香ろうか?四曼不離(宇宙調和)の秋の月がいずれの窓を照らすだろう?この上私はこの山麓に留まっても何になろう。ただ早く寂光浄土へ帰還しよう。唯一心に残るのは常行三昧堂での念仏の声と、止観院で行われた一乗読讃(法華経論議)の響きである」と涙ながらに託宣したが額から汗を流し憑依状態は覚めた。 僧侶たちはこれを見て驚き聖真子尊像前では常行三昧堂での念仏唱和を、止観院外陣では一乗読讃の論義を再開すると神慮も突然鎮まったようで月下に響く谷猿の声が夜明けまで枕を濡らすこともなく霜を含んだ松林は元の緑色を取り戻したのである。 解説1. 歴史的典拠と物語構成: 2. 七社権現託宣の思想的背景: 3. 宗教的実践回復の効果描写: 4. 軍記文学としての機能:
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| 其後住吉大明神の四海の凶賊を静め給ひし御託宣に曰、「天慶に誅凶徒昔は我為大将軍、山王は為副将軍。承平に静逆党時山王は為大将軍、我は為副将軍。山王は鎮に飽一乗法味に。故に勢力勝我に云云。」彼を以て此を思ふに、叡慮徳に趣き、四海の民を安穏ならしめんと思召す大願を被発、以法味を神力を被添候はゞ、朝敵は還て御方になり、禍は転じて幸に帰せん事、疑ふ処に非ず。」と被申ければ、群臣悉此旨に順ひ、君も無限叡信を凝させ給て、軈て住吉四所の明神、日吉七社権現を勧請し奉て、座さまさずの御修法を百日の間行はせらる。主上毎朝に御行水を召れて、玉体を投地に除災与楽の御祈り、誠に身の毛も弥立許也。天地も是に感応し、神明仏陀もなどか擁護の御手を垂れ給はざらんと、憑も敷ぞ見へたりける。 ○銀嵩軍事付曹娥精衛事 此比吉野の将軍の宮と申は、故兵部卿の親王の御子、御母は北畠准后の御妹にてぞ御坐ける。御幼稚の時より文武二の道何も達して見へさせ給ひしかば、此宮ぞ誠に四海の逆浪をも静められて、旧主先帝の御追念をも休め進らせらるべき御機量にて御坐とて、吉野の新帝登極の後則被宣下、征夷将軍に成し進らせらる。去る正平七年に、赤松律師則祐、暫く事を謀て宮方に参ぜし時、此宮を大将に申下し進らせたりしが、則祐忽に変じて又武家に参ぜしかば、宮心ならず京へ上らせ給て、召人の如にして御座有しを、但馬国の者共盜出し奉て、高山寺の城へ入れ奉る。 |
その後、住吉大明神が四海の凶賊を鎮められた託宣に「天慶年間(938年)に凶徒を討った時は私が大将軍となり山王権現が副将軍となった。承平年間(931-938年)に逆党を平定した際には山王が大将軍で私は副将軍であった。山王は永遠に一乗の法味(仏教真理)に満ちているゆえ、その勢力は我々を超える」とある。これを踏まえて考えるならば、天子様(南朝天皇)の御意志が徳へ向かい四海の民を安穏にする大願をお発しになり、法味に神力をお添えになれば朝敵は逆に味方となり禍も幸いに転じることは疑いない」と述べたところ、群臣は皆これに従った。天皇も深くご信頼を寄せられ、すぐに住吉四所明神(摂津)と日吉七社権現(比叡山)をお招きし、百日間絶え間なく御修法を行わせた。主上(後村上天皇)は毎朝沐浴され自ら地面に身を投げて除災与楽の祈りを捧げるご様子は誠に感動的であった。天地もこれに応じ神仏がどうして加護をお示しにならないことがあろうか、と確信できる光景が見られた。 ○銀嵩(高山寺城)の軍事について曹娥・精衛(孝行伝説)との関連 解説1. 神託の歴史的意義と構造: 2. 南朝正統性の主張: 3. 文学的構成技法: 4. 軍記物語としての機能:
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| 本庄平太・平三、御手に属して、但馬・丹波の両国を打随るに、不靡云者更になし。軈て播磨国を退治せんとて山陽道へ御越有しに、則祐三千余騎にて、甲山の麓に馳向て相戦ふ。軍未決、宮の一騎当千と憑み思召たりける本庄平太・平三、共に数箇所の疵を被て、兄弟同時に討れにければ、軍忽に破て、宮は河内国へ落させ給ひにけり。其後も大将にし奉らんとて、国々より此宮を申けれ共、自然の事もあらば、此宮をこそ大将にもし奉らんずれとて、何くへも下し進せられず、武略の為に惜まれて、吉野の奥にぞ坐ける。今紀伊国の合戦に四条中納言打負て、阿瀬河へ落給ぬ。和田・楠も津々山の敵陣に被攻て、機疲ぬと見へければ、「今はいつをか可期。可然兵共を被相副候へ、自出向て合戦を致候はん。」と、宮頻に被仰ける間、げにもとて、此三四年兄弟不和の事有て吉野へ被参たりける赤松弾正少弼氏範に、吉野十八郷の兵を差副て、宮の御方へぞ進せられける。宮此勢を付順へさせ給て後、何なる物狂はしき御心や著けん。さらば此時分に吉野の新帝を亡し奉て、武家の為に忠を致して、吉野十八郷を一円に管領せばやと思召けるこそ不思議なれ。密に御使を以て事の由を義詮朝臣の方へ被牒て、四月二十五日宮の御勢二百余騎、野伏三千人を召具して賀名生の奥に銀嵩と云山に打上り、御旗を被揚、先の皇居賀名生の黒木の内裡を始として、其辺の山中に隠居たる月卿雲客の宿所々々を一々に焼払はる。 |
本庄平太・平三が配下となって但馬国と丹波国の両国を攻め従えたところ、抵抗する者は全くいなかった。すぐに播磨国を平定しようと山陽道へ向かわれた際、赤松則祐が三千余騎で甲山の麓に駆けつけて戦った。戦いは決着せず、将軍宮(懐良親王)が「一騎当千」として信頼していた本庄平太・平三は共に数か所の傷を負い兄弟同時に討たれたため、軍勢はたちまち敗れ、宮は河内国へ落ち延びられた。その後も各地からこの宮を大将軍に推す声があったが、「自然と時機があればこそ任命しよう」としてどこにも派遣されず、武略の才を惜しまれて吉野の奥でお過ごしになっていた。 解説1. 人物と歴史的展開: 2. 軍事行動の地理的・政治的背景: 3. 文学的技法と物語機能: 4. 伏線としての赤松氏範:
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| 暫が程は真実を知たる人少なければ、是は如何様大宋の伯顔将軍が城を焼て敵を忻りし謀歟、不然は楚の項羽が自ら廬舎を焼て再び本の陣へ帰じと誓ひし道歟と、様々に推量を廻して、此宮尚も御敵に成せ給ひたりと知る人聊も無りけり。去程に探使度々馳廻て宮の御謀叛事已に急也と奏聞しければ、軈其翌の日二条前関白殿を大将軍として和泉・大和・宇多・宇智郡の勢千余騎を向らる。是を見てさらば御謀叛の宮に可奉著様なしとて、吉野十八郷の者共皆散々に落失ける程に、宮の御勢僅に五十余騎に成てげり。され共赤松弾正少弼氏範は、今更弱きを見て捨るは弓矢の道にあらず、無力処也。討死するより外の事有まじとて、主従二十六騎は、四方に馳向て散々に戦ける程に、寄手無左右近付得ず、三日三夜相戦て、氏範数箇所の疵を被てければ、今は叶はじとて宮は南都の方へ落させ給へば、氏範は降人に成て、又本国播州へ立返る。不思議なりし御謀反也。抑故尊氏卿朝敵と成て、先帝外都にて崩御なり、天下大に乱て今に二十七年、公家被官人悉道路に袖をひろげ、武家奉公の族は、皆国郡に臂を張る事は何故ぞや。只尊氏卿、故兵部卿親王を殺し奉し故也。天以て許し給はゞ、天下の将軍として六十六箇国などか此宮に帰伏し奉らざらん。 |
しばらくの間は真相を知る者がほとんどいなかったので、「これはまるで大宋の伯顔将軍が城を焼いて敵をおびやかした謀略なのか?それとも楚の項羽みずから宿舎を焼き払って再び本陣に帰らないと誓ったやり方なのか?」などと様々に推測し、この宮(懐良親王)がすでに敵側になったことに気づく者は誰もいなかった。ところがあちこちから偵察の使者たちがたびたび駆け巡って「宮様の謀反は差し迫っている」と報告したため、すぐその翌日には二条前関白殿(道直か)を大将軍として和泉・大和・宇多・宇智郡の兵士千余騎が派遣された。これを見て、「もはや謀反人である宮様に従うわけがない」と吉野十八郷の人々はみな散りじりに逃げ失せたため、宮様のお供わずか五十数騎になってしまった。 解説1. 謀反への誤認と歴史的比喩: 2. 赤松氏範の忠誠と限界: 3. 天下大乱の原因分析: 4. 構造的な対比効果: |
| 然ば旧主先皇も草の陰にても喜悦の眉を開せ給はゞ、忠孝の御志を天神地祇もなどか感応の御眸を添させ給はざらん。然ば御子孫繁昌して天下の武将たるべきに、思慮なき御謀叛起されて、先皇梁園の御尸血をそゝき給へば、厳親幽霊も、いかに方見しく覚すらんと、草の陰さこそは露も乱らめ。昔漢朝に一人の貧者あり。朝気の煙絶て、柴の庵のしば/\も、事問通はす人もなければ、筧の竹の浮節に堪て、可住心地も無て明し暮しけるが、或時曹娥と云ける一人の娘を携へて、他国へぞ落行ける。洪河と云河を渡らんとするに、折節水増りて橋もなく船もなし。行前遠して可留里も遥に過ぬれば、何までか角ても可有。さらば自此娘を負てこそ渡らめと思て、先川の淵瀬を知ん為に、娘をば岸の上に置て、只一人河の瀬を蹈み行ける時に、毒蛇俄に浮出て、曹娥が父を噛へて碧潭の底へぞ入にける。曹娥是を見て、手を揚て地に倒て、如何せんと佗て、悲めども可助人もなし。一日二日は尚も無墓心にて、若や流の末に浮出たると、河に傍て下て見れ共、浮出たる事もなし。若や岩のはざまに流懸りたると、岸に上り見れ共、散浮ぶ木葉ならでは、せかれて留る物もなし。日を暮し夜を明し、空くをくれて独は可帰心地も無りければ、七日七夜まで川の上にひれ臥、天に叫び地に哭して、「我父を失つる毒蛇を罰してたび候へ。 |
そうであれば、旧主である先帝も草の陰で喜びの表情をお見せになるならば、忠孝の御志に対して天地の神々がどうして感応の御眼を添えられないことがあろうか。しかしながら御子孫が繁栄し天下の武将となるはずであったのに、思慮なき謀反が起され、先帝が異郷で血にまみれて崩御されたため、父君の霊もどれほど嘆かれていることだろうと、草陰では露さえ乱れるように落ちる。 解説1. 儒教的倫理の展開: 2. 曹娥挿話の機能: 3. 時間描写の技法: 4. 宗教的枠組み: |
| 縦空き形なり共、父を今一度我に見せしめ給へ。」と、梵天・帝釈・堅牢地神に肝胆を砕てぞ祈ける。夫叶はぬ物ならば同水底に沈まんともだへあこがる。志誠に蒼天にや答へけん、洪河の水忽に血に成て流けるが、毒蛇遂に河伯水神に罰せられて、曹娥が父を乍呑其身寸々に被切割て、波の上にぞ浮出たりける。曹娥此処に空き骨を収て、泣々故郷へ帰にけり。彼処の人是を憐て、此に墳を築き石を刻て、碑の文を書て立たりける。其銘石今に残て、行客泪を落し騒人詩を題す、哀なりし孝行也。又発鳩山に精衛と申人、他国に行て帰るとて、難風に船を覆されて、海中に沈て無墓成にけり。其子未幼くて故郷に独有けるが、父が海に沈める事を聞て、其江の辺に行て夜昼泣悲けるが、尚も思に堪かね、遂に蒼海の底に身を投て死にけり。其魂魄一の鳥と成て、波の上に飛渡り、精衛々々と呼声、泪を不催云事なし。怨念尽る事なければ、此の鳥自ら大海を埋て、平地になさんと思ふ心を挿、毎日三度草の葉木の朶をくはえて、海中に沈めて飛帰る。尾閭洩せ共不乾、七旱ほせ共曾て一滴も不減大海なれば、何なる神通を以ても争か埋はつべき。され共父が怨を報ぜん為に、此鳥一枝一葉を含で、海中に是を沈る事哀なりける志也。されば此精衛を題するに、人笑其功少、我怜其志多と、詩人も是を賛たり。 |
たとえ空しい願いであっても、「父をもう一度私に見せてください。」と梵天・帝釈・堅牢地神に向かって心身をすり減らして祈った。それが叶わないならば、同じ水底に沈もうとひたすら焦がれた。その真心が青空に通じたのだろうか、洪河の水は突然血となって流れ出し、毒蛇はついに河伯(水神)によって罰せられて曹娥の父を吐き出すと同時に自らの体も寸断され波間に浮かび上がった。 解説1. 孝行と天応の思想的結実: 2. 精衛説話の寓意的機能: 3. 物語構造の深化技法: 4. 歴史意識との連動: |
| 君不見乎、精衛は卑き鳥也。親の恩を報じて大海を埋ん事を謀る。曹娥は幼き女なれ共、父の為に悲で、毒蛇を害する事を得たり。人として鳥獣にだにも不及、男子にして女子にも如ず、何をか異也とせんやと、此宮の御謀叛を欺き申さぬ人はなし。 ○龍泉寺軍事 竜泉の城には和田・楠等相謀て、初は大和・河内の兵千余人を篭置たりけるが、寄手敢て是を責ん共せざりける間、角ては徒に勢を置ても何かせん、打散してこそ野軍にせめとて、竜泉の勢をば皆呼下て、さしもなき野伏共百人許見せ勢に残し置き、此の木の梢、彼この弓蔵のはづれに、旗許を結付、尚も大勢の篭りたる体を見せたりける。津々山の寄手是を見て、「あなをびたゝし。四方手を立たる如くなる山に、此大勢の篭りたらんずるをば、何なる鬼神共いへ、可責落者に非ず。」とろ々に云恐て、責んと云人は一人もなし。只徒に旗許を見上て、百五十余日過にけり。或時土岐桔梗一発の中に、些なま才覚ありける老武者、竜山の城をつく/゛\と守り居たりけるが、其衆中に語て云く、「太公が兵書の塁虚篇に、望其塁上飛鳥不驚、必知敵詐而為偶人也といへり。我此三四日相近て竜泉の城を見るに、天に飛鳶林に帰る烏、曾て驚事なし。如何様是は大勢の篭りたる体を見せて、旗許を此彼に立置たりと覚ゆるぞ。 |
あなたは見ないのか?精衛というのは取るに足らない小さな鳥だ。親の恩に報いようとして大海を埋め立てようと企てた。曹娥は幼い娘であったが、父のために悲しみ毒蛇を退治することに成功した。人間でありながら鳥獣にも及ばず男児でありながら女子すらもかなわないとは何ということであろうかと、この宮(南朝勢力)への謀反に対する欺瞞行為を非難しない者はいなかった。 ○竜泉城の戦略 解説1. 寓話から現実批判への転換: 2. 空城計描写の戦術分析: 3. 歴史的文脈における位置付け: 4. 物語構造上の機能: |
| いざや人々他の勢を不交此一発許向て竜泉を責落し、天下の称歎に備ん。」と云ければ、桔梗一発の衆五百余騎、皆、「可然。」とぞ同じける。さらば軈て打立とて、閏四月二十九日の暁、桔梗一揆五百余騎、忍やかに津々山より下て、まだ篠目の明はてぬ霧の紛れに、竜泉の一の木戸口に推寄、同音に時をどつと作る。細川相摸守清氏と、赤松彦五郎範実とは、津々山の役所を双べて居たりけるが、竜泉の時の声を聞て、「あはや人に前を懸られぬるは。但城へ切て入んずる事は、又一重の大事ぞ。夫をこそ誠の先懸とは云べけれ。馬に鞍置け旗差急げ。」と云程こそ有けれ。相摸守と彦五郎と、鎧取て肩に投懸、道々高紐堅て、竜泉の西の一の城戸、高櫓の下へ懸上たり。爰にて馬を蹈放し、後を屹と見たれば、赤松が手の者に、田宮弾正忠・木所彦五郎・高見彦四郎、三騎続ひたり。其迹を見れば、相摸守の郎従六七十、かけ堀共云はず我先にと馳来る。其旗差、高岸に馬の鼻を突せて、上かねたるを見て、相摸守自走下て、其旗をおつ取て、切岸の前に突立て、「先懸は清氏に有。」と高声に名乗ければ、赤松彦五郎城の中へ入、「先懸は範実にて候。後の証拠に立て給り候へ。」と声々に名乗て、屏の上をぞ越たりける。是を見て桔梗一揆の衆に日吉藤田兵庫助・内海修理亮光範、城戸を引破て込入る。 |
さあ皆の者よ他の軍勢と合流せずこの一手だけで竜泉を攻め落とし天下の称賛を得ようではないか。」と言うので桔梗一隊の兵五百余騎は全員「もっともなことだ」と同意した。それではすぐに出発しようということで閏四月二十九日の明け方、桔梗一揆(土岐軍)五百余騎が密かに津々山から下りまだ薄暗い霧に紛れて竜泉城の第一門前に押し寄せ全員で鬨の声をどっとあげた。 解説1. 「一番乗り」競争の象徴性: 2. 戦闘描写のリアリズム: 3. 歴史的戦役との対応: 4. 物語構造上の転換点: |
| 城の中の兵共、暫く支へて戦けるが、敵の大勢に御方の無勢を顧て、叶はじとや思けん、心閑に防矢射て、赤坂を差して落行ける。暫くあれば、陣々に集り居たる大勢共、「すはや桔梗一揆が竜泉へ寄て責けるは。但し輙くはよも責落さじ。楯の板しめせ、射手を先立よ。」と、最騒ず打立て、其勢既に十万余騎、竜泉の麓へ打向ひたれば、城は早已に責落されて、櫓掻楯に火を懸けり。数万の軍勢頭を掻て、「安からぬ者哉、是程まで敵小勢なるべしとは知らで、土岐・細川に高名をさせつる事の心地あしさよ。」と、牙を喫ぬ者は無りけり。 ○平石城軍事付和田夜討事 今河上総守・佐々木六角判官入道崇永・舎弟山内判官、竜山の軍に不合つる事、安からぬ者哉と思はれければ、態他の勢を不交して、五百余騎、同日の晩景に平石の城へ押寄する。一矢射違ふる程こそあれ、切岸高ければ、先なる人の楯の■を蹈へ、甲の鉢を足だまりにして、城戸逆木を切破り、討るゝをも不云、手を負をも不顧、我先にと込入ける間、敵不怺して、其日の夜半計に金剛山を差て落にけり。二箇所の城輙く落されしかば、寄手は勝に乗て、竜の水を得たるが如くになり、和田・楠は機を失て、魚の泥に吻が如し。如斯ならば、赤坂の城も幾程か怺ふべき。 |
城内の兵たちはしばらく防戦したが、敵方が大勢で味方の少なさを見て勝ち目がないと思ったのか、落ち着いて矢を射かけながら赤坂方面へ撤退していった。しばらくすると陣地に集結していた主力部隊が「なんと土岐桔梗隊が竜泉城を攻撃しているぞ。ただし簡単には落とせまい。盾の板を固めよ、射手を先頭に出せ」と大騒ぎで出動し、その軍勢はすでに十万余騎となって竜泉山麓へ向かったが、城は既に陥落して櫓や楯に火がかけられていた。数万の将兵は頭をかきながら「なんとも腹立たしいことだ!これほど敵が少数だと知らずに土岐氏と細川氏にあのような手柄を取らせてしまうとは、悔しさで身もだえする」と言い、歯ぎしりしない者はいなかった。 ○平石城の戦略及び和田勢への夜襲 解説1. 「功名競争」の帰結と心理描写: 2. 夜襲描写の戦術的特徴: 3. 敗北象徴としての生物比喩: 4. 構成上の役割: |
| 暫時に責落して後、主上を生虜進らせ、三種の神器を取奉て、都へ返し入れ進らすべしと、諸人指掌を思ひをなす。すはや天下静りて、武家一統の世に成ぬと、思はぬ人は無りけり。竜門・平石二箇所の城落しかば、八尾城も不怺、今は僅に赤坂の城許りこそ残りけれ。此城さまでの要害共不見、只和田・楠が館の当りを敵に無左右蹴散されじと、俄に構へたる城なれば、暫もやは支るとて、陣々の寄手一所に集て二十万騎、五月三日の早旦に赤坂の城へ押寄せ、城の西北三十余町が間に一勢々々引分て、先向城をぞ構へける。楠は元来思慮深きに似て急に敵に当る機少し。「此大敵に戦はん事難叶。只金剛山へ引隠て敵の勢のすく処を見て後に戦はん。」と申けるを、和田はいつも戦ひを先として、謀を待ぬ者なりければ、都て此儀に不同、「軍の習ひ負るは常の事也。只可戦所を不戦して身を慎を以て恥とす。さても天下を敵に受たる南方の者共が、遂に野伏軍許しつる事のをかしさよと、日本国の武士共に笑れん事こそ口惜けれ。何様一夜討して、太刀の柄の微塵に砕る程切合んずるに、敵あらけて引退なば、軈て勝に乗て討べし。引ずんば又力なく、其時こそ金剛山の奥までも、引篭て戦はんずれ。」とて、夜討に馴たる兵三百人勝て、「問はゞ武しと答へよ。 |
城が落ちた後すぐに天皇陛下をお捕え申し上げ、三種の神器を奪い取って都へお連れしようと、皆は当然のことと思った。これで天下も静まり、武家による統一された世の中になっただろうと考えない者はいなかった。竜門・平石二つの城が落ちたため八尾城も持ちこたえられず、今やただ赤坂城だけが残っている状態であった。この城は以前からの要害ではなく単に和田氏と楠木氏の屋敷付近を敵に蹂躙されまいと急造したものゆえ、長く防げるはずもないと言って、各陣営から集結した二十万騎が五月三日の早朝に赤坂城へ押し寄せた。城の西北三十余町(約3.3km)の範囲で部隊ごとに分かれ、まずは対陣用の砦を構築しようとした。 楠木正成は元来思慮深い性格なので急敵との戦闘には慎重だった。「この大軍と正面から戦うのは無理だ。金剛山へ一旦退き敵勢力が分散した所を見計らって反撃すべきだ」と主張すると、和田義盛は常に先制攻撃を好み策略を待たない性格ゆえ全く同意せず、「合戦で敗れることはよくあることだ。ただ戦うべき時に戦わず自己保身するのが恥である。それに天下の敵となった南朝方の武士たちが結局は野伏りのような戦いしかできなかったなどと、日本の武士どもに嘲笑されることが悔しいではないか! 何としても今夜中に襲撃し刀柄が微塵になるほど斬り合うのだ。もし敵が撤退すればその隙に追撃しよう。退かなければ力尽きるまで金剛山の奥深くでも籠城して戦うつもりだ」と言い、夜襲に慣れた三百人の兵を選んで「問われたら『武士』と答えよ」と命じた。 解説1. 「三種神器奪還計画」の政治的意図: 2. 戦略対立の本質: 3. 数字誇張と心理効果: 4. 「問わば武士と答えよ」台詞の歴史的意義: |
| 」と、約束の名乗を定つゝ、夜深る程をぞ待たりける。五月八日の夜なれば、月は宵より入にけり。時剋よく成ぬとて三百人の兵共、一陣に進で見へける結城が向城へ忍寄て、木戸口にして時を作る。其声に驚て、外の陣には騒げ共、結城が陣は少も不騒、鳴を静めて待懸たり。射手は元来櫓にあれば、矢間を引て差攻々々散々に射る。打物の衆は、掻楯逆木を阻てゝ、上れば切て落し、越れば突落し、此を先途と防けれ共、和田和泉守正武・真前に懸て切て入る。「日来の言を不忘して、続けや人々。」と喚て、掻楯切て引破り、一枚楯引側めて、城の中へ飛入ければ、相順兵三百人、続て城へぞ込入ける。甲の鉢を傾け、鎧の袖をゆり合せ/\切逢て、天地を動かし火を散す。互に喚叫で半時計切合たるに、結城が兵七百余人、余に戦屈して、已に引色に見へける処に、細川相摸守五百余騎にて敵の後へ廻り、「清氏後攻をするぞ、引な/\。」と呼りけるに力を得て、鹿窪十郎・富沢兵庫助・茂呂勘解由左衛門尉三人、蹈止々々戦けるに、和田が兵数十人討れ、若干疵を被て、叶はじとや思けん、一方の掻楯蹈破て、一度にばつと引たりけり。爰に結城が若党に、物部次郎郡司とて、世に勝たる兵四人あり。兼てより、敵若夜討に入たらば、我等四人は敵の引返さんずるに紛れて、赤坂の城へ入、和田・楠に打違へて死るか、不然は城に火を懸て焼落すかと、約束したりけるが、少も不違、引て帰る敵に紛て、四人共に赤坂の城へぞ入たりける。 |
城が落ちた後すぐに天皇陛下をお捕え申し上げ、三種の神器を奪い取って都へお連れしようと、皆は当然のことと思った。これで天下も静まり、武家による統一された世の中になっただろうと考えない者はいなかった。竜門・平石二つの城が落ちたため八尾城も持ちこたえられず、今やただ赤坂城だけが残っている状態であった。この城は以前からの要害ではなく単に和田氏と楠木氏の屋敷付近を敵に蹂躙されまいと急造したものゆえ、長く防げるはずもないと言って、各陣営から集結した二十万騎が五月三日の早朝に赤坂城へ押し寄せた。城の西北三十余町(約3.3km)の範囲で部隊ごとに分かれ、まずは対陣用の砦を構築しようとした。 楠木正成は元来思慮深い性格なので急敵との戦闘には慎重だった。「この大軍と正面から戦うのは無理だ。金剛山へ一旦退き敵勢力が分散した所を見計らって反撃すべきだ」と主張すると、和田義盛は常に先制攻撃を好み策略を待たない性格ゆえ全く同意せず、「合戦で敗れることはよくあることだ。ただ戦うべき時に戦わず自己保身するのが恥である。それに天下の敵となった南朝方の武士たちが結局は野伏りのような戦いしかできなかったなどと、日本の武士どもに嘲笑されることが悔しいではないか!何としても今夜中に襲撃し刀柄が微塵になるほど斬り合うのだ。もし敵が撤退すればその隙に追撃しよう。退かなければ力尽きるまで金剛山の奥深くでも籠城して戦うつもりだ」と言い、夜襲に慣れた三百人の兵を選んで「問われたら『武士』と答えよ」と命じた。 約束した合言葉を定めると深夜になるまで待機していた。五月八日の夜であったため月は早く沈んだ。「時機到来」と見て三百の兵士が一団となって進み、結城氏対陣用砦へ忍び寄り木戸口でわざと物音を立てた。これに驚いた周囲の陣営は騒いだものの、結城勢の陣は全く動じず静かに待ち構えていた。射手たちはもともと櫓上におり矢間(射撃孔)から次々と矢を浴びせかけた。刀や槍を持つ兵士らが逆茂木を盾に攻め上がろうとするのを、登れば斬り落とし越えようとすれば突き落とした。防戦一方の中、和田和泉守正武は最前列へ躍り出て切り込んだ。「日頃の誓い忘れるな!続け諸君!」と呼びながら盾陣を切り裂き一枚板を蹴破って城内に飛び入ったため、付従していた三百兵も続々と突入した。兜鉢を傾け鎧袖を翻しながら斬り合う様は天地を揺るがし火花を散らすようで、双方叫喚して約一時間(半時)戦い続けた結果、結城勢七百余人はついに劣勢となり退却の兆候を見せた。 そこへ細川相模守清氏率いる五百騎が敵背後に回り「清氏後詰めだ!引くな!」と叫んだため勢いを得て鹿窪十郎・富沢兵庫助・茂呂勘解由左衛門尉の三人は踏み留まって奮戦した。和田軍数十人が討たれ多数が傷を負ったので勝機なしと悟り、一斉に盾陣を突破してバッと撤退した。この時結城氏家臣で物部次郎郡司という者の配下に、並外れた強さの兵士四人がいた。前もって「敵が夜襲に入ったら我々四名は退却する敵に紛れて赤坂城内へ潜入し和田・楠木と刺し違えて死ぬか、城に火を放ち焼き落す」と誓っていたため、約束通り撤退兵にまぎれ四人そろって赤坂城へ侵入した。 解説1. 「五月八日」設定の歴史的意図: 2. 戦術的転換点としての結城陣: 3. 物部次郎郡司配下の象徴的役割: 4. 「武士」名乗りの深層解釈: |
| 夫夜討強盜をして帰る時、立勝り居勝りと云事あり。是は約束の声を出して、諸人同時に颯と立颯と居、角て敵の紛れ居たるをえり出さん為の謀也。和田が兵赤坂の城に帰て後、四方より続松を出し、件の立勝り居勝りをしけるに、紛れ入四人の兵共、敢て加様の事に馴ぬ者共なりければ、無紛えり出されて、大勢の中に取篭られ、四人共に討死して、名を留めけるこそ哀なれ。天下一の剛の者とは、是をぞ誠に云べきと、褒ぬ人こそ無りけれ。和田が夜討にも、敵陣一所も不退、城気に乗て見へければ、此城にて敵を支へん事は叶はじとて、和田も楠も諸共に、其夜の夜半許に、赤坂の城に火を懸て、金剛山の奥へ入にけり。 ○吉野御廟神霊事付諸国軍勢還京都事 南方の皇居は、金剛山の奥観心寺と云深山なれば、左右なく敵の可付所ならね共、斥候の御警固に憑思召れたる龍泉・赤坂も責落されぬ。又昨日一昨日まで御方せし兵共、今日は多く御敵と成ぬと聞へしかば、山人・杣人案内者として、如何様何くの山までも、敵責入ぬと申沙汰しければ、主上を始進せて、女院・皇后・月卿・雲客、「こは如何すべき。」と、懼恐れさせ給ふ事無限。爰に二条禅定殿下の候人にて有ける上北面、御方の官軍加様に利を失ひ城を落さるゝ体を見て、敵のさのみ近付ぬ先に妻子共をも京の方へ送り遣し、我身も今は髻切て、何なる山林にも世を遁ればやと思て、先吉野辺まで出たりけるが、さるにても多年の奉公を捨はてゝ主君に離れ、此境を立去る事の悲さに、せめて今一度先帝の御廟へ参り、出家の暇をも申さんと思て、只一人御廟へ参りたるに、近来は洒掃する人無りけりと覚て、荊棘道を塞ぎ、葎茂て旧苔扉を閉たり。 |
夜襲や強盗が引き上げる時には「立ち上がれ」「座れ」という合図がある。これは約束の声を出し全員同時にサッと立ったり座ったりして、敵兵が紛れている者を見つけ出すための策略である。和田軍が赤坂城へ戻った後、四方から松明を持ち寄り「立ち上がれ」「座れ」の合図を行ったところ、潜入していた四人の兵士はこうした作戦に慣れておらず見破られてしまい、大勢の中に包囲され全員討死して名を残したのは悲しいことだ。彼らこそ真に「天下第一の強者」と言うべきだと誰もが賞賛し悼んだ。和田軍は夜襲で敵陣一つも退けず城兵の士気だけが高まったように見えたため、このまま赤坂城で防戦しても無理と判断したのか、結局その日の真夜中ごろに楠木らと共に城へ火を放ち金剛山の奥深くへ撤退した。 ○吉野御廟神霊事ならびに諸国軍勢京都還陣について 解説1. 「立勝り居勝り」の戦術的意義: 2. 「天下第一の剛者」評価の文学的機能: 3. 赤坂城撤退描写と伏線構造: 4. 吉野御廟シーンの象徴的役割: |
| 何の間にかくは荒ぬらんと此彼を見奉るに、金炉香絶草残一叢之煙、玉殿無灯、蛍照五更之夜。思有て聞く時は、心なき啼鳥も哀を催す歟と覚へ、岩漏水の流までも、悲を呑音なれば、通夜円丘の前に畏て、「つく/゛\と憂世の中の成行く様を案じつゞくるに、抑今の世何なる世なれば、有威無道者は必亡ぶと云置し先賢の言にも背き、又百王を守らんと誓ひ給し神約も皆誠ならず。又いかなる賎き者までも、死ては霊となり鬼と成て彼を是し此を非する理明也。況君已に十善の戒力に依て、四海の尊位に居し給ひし御事なれば、玉骨は縦郊原の土と朽させ給ふとも、神霊は定て天地に留て、其苗裔をも守り、逆臣の威をも亡さんずらんとこそ存ずるに、臣君を犯せ共天罰もなし、子父を殺せども神の忿をも未見。こはいかに成行世の中ぞや。」と泣々天に訴て、五体を地に投礼をなす。余りに気くたびれて、頭をうな低て少し目睡たる夢の中に、御廟の震動する事良久し。暫有て円丘の中より誠にけたかき御声にて、「人やある/\。」と召れければ、東西の山の峯より、「俊基・資朝是に候。」とて参りたり。此人々は、君の御謀叛申勧たりし者共也とて、去る元徳三年五月二十九日に、資朝は佐渡国にて斬れ、俊基は其後鎌倉の葛原が岡にて、工藤二郎左衛門尉に斬れし人々也。 |
「いつの間にこんなにも荒れ果てたのか」と周囲を見渡すと、香炉は冷え草木だけが煙のように立ち上り、玉殿には灯もなく蛍のみが夜明け前を照らしていた。こうした光景に思い巡らせていると、無心の鳥たちまでも哀れみを催しているようで、岩から滴る水音さえ悲しみを含んで聞こえる。御陵前にひざまずき「じっと暗い世の中の行く末を考え続けるが、そもそも今はどんな時代なのか? 権威あって道義なき者が必ず滅ぶという先賢の言葉にも背き、百代の帝王を守ると誓われた神々の約束も全て虚しい。いかなる卑賤の人でも死後は霊となり鬼となって善悪を裁く理が明らかであるのに、ましてや陛下(後醍醐天皇)は十戒の徳によって天下の尊位におられた方だ。御遺骸こそ野辺に朽ちようとも神霊は天地に留まり子孫をお守りになり逆臣を滅ぼされるはずと信じていたのに、今や臣下が君を犯しても天罰なく、子供が父を殺しても神の怒りすら見えない。これは一体どうなってしまったのか」と泣きながら天に訴え五体投地した。あまりの精神的疲労でうつむいて微睡んだ夢の中で御陵が長く震動し続けるのが感じられた。やがて霊廟の中から威厳あるお声で「そこの者よ」と呼びかけがあり、東西の山々より「俊基・資朝ここにござる」と答える者が現れた。彼らは天皇への謀反を勧めたとして元徳三年五月二十九日、資朝が佐渡国で斬首され、後に俊基も鎌倉葛原ヶ岡で工藤二郎左衛門尉によって処刑された者たちである。 解説1. 「金炉香絶~蛍照五更之夜」の象徴的描写: 2. 「天訴」内容における倫理観崩壊の主張: 3. 霊廟震動と亡霊登場シーンの歴史的意義: 4. 「十善戒力」解釈における天皇神性観: |
| 貌を見れば、正く昔見たりし体にては有ながら、面には朱を差たるが如く、眼の光耀て左右の牙銀針を立たる様に、上下にをひ違たり。其後円丘の石の扉を排く音しければ遥に向上たるに、先帝袞竜の御衣を召れ、宝剣を抜て右の御手に提げ、玉■の上に坐し給ふ。此御容も昔の竜顔には替て、忿れる御眸逆に裂、御鬚左右へ分れて、只夜叉羅刹の如也。誠に苦し気なる御息をつがせ給ふ度毎に、御口より焔はつと燃出て、黒烟天に立上る。暫有て、主上俊基・資朝を御前近く召れて、「さても君を悩し、世を乱る逆臣共をば、誰にか仰付て可罰す。」と勅問あれば、俊基・資朝、「此事は已に摩醯脩羅王の前にて議定有て、討手を被定て候。」「さて何に定たるぞ。」「先今南方の皇居を襲はんと仕候五畿七道の朝敵共をば、正成に申付て候へば、一両日の間には、追返し候はんずらん。仁木右京大夫義長をば、菊池入道愚鑑に申付て候へば、伊勢国にてぞ亡び候はんずらん。細川相摸守清氏をば、土居・得能に申付て候へば、四国に渡て後亡候べし。東国の大将にて罷上て候畠山入道・舎弟尾張守をば、殊更嗔恚強盛の大魔王、新田左兵衛佐義興が申請候て、可罰由申候つれば、輙かるべきにて候。道誓が郎従共をば、所々にて首を刎させ候はんずる也。 |
姿を見ると、確かに生前に見たままの体つきではあったが、顔には朱を塗ったように赤く、目は鋭く光り左右の牙が銀針のように立ち上がって上下に食い違っている。その後に霊廟の石扉を押し開ける音がしたので遠くを見上げると、先帝(後醍醐天皇)は袞竜の御衣をお召しになり宝剣を抜いて右手にお持ちになられ、玉座に鎮座しておられた。このお姿もかつてのお顔とは変わり、怒りに燃える瞳が逆さに裂け、髭は左右へ乱れ、まるで夜叉や羅刹のようであった。苦しげな息をおつきになるたびに口から炎がぱっと燃え上がり黒煙が天へ立ち昇る。しばらくすると天皇は俊基・資朝を御前近くにお呼びになり、「それでは朕を悩ませ世を乱す逆臣どもを、誰に命じて罰せよというのか」とお尋ねになった。これに対し俊基・資朝が「この件は既に摩醯修羅王の面前で議定があり討伐役をお決めになられております」「では誰に決めたのだ」「まず南方(吉野朝廷)を襲わんとする五畿七道の敵勢については正成へ命じれば一両日中に撃退いたしましょう。仁木右京大夫義長は菊池入道愚鑑へ任せれば伊勢国で滅びるでしょう。細川相模守清氏は土居・得能が担当すれば四国渡航後に討ち果たすはずです。東国の大将として上洛する畠山入道とその弟尾張守については、特に怨念強き大魔王である新田左兵衛佐義興の申し出により罰すると決めましたので適任でございます。道誓の配下どもは各所で首を刎ねさせましょう」と答えた。 解説1. 「御容変貌」描写の宗教的意味: 2. 摩醯修羅王設定の思想的背景: 3. 「罰分配」台詞の軍記物語的特徴: 4. 「新田義興」特別扱いの歴史的意義: |
| 中に江戸下野守・同遠江守二人は、殊更に悪ひ奴にて候へば、竜の口に引居て、我手に懸て切候べしとこそ申候つれ。」と奏し申ければ、主上誠に御心よげに打咲せ給て、「さらば年号の替らぬ先に、疾々退治せよ。」と被仰て、御廟の中へ入せ給ぬと見進せて、夢は忽に覚にけり。上北面此示現に驚て、吉野より又観心寺へ帰り参り、人々に内々語ければ、「只あらまほしき事ぞ、思寝の夢に見へつらん。」とて、信ずる人も無りけり。げにも其験にてや有けん、敵寄せば尚山深く主上をも落し進せんと、逃方を求て戦はんとはせざりけり。観心寺の皇居へは敵曾不寄来、剰へさしてし出したる事もなきに、「南方の退治今は是までぞ。」とて、同五月二十八日、寄手の総大将宰相中将義詮朝臣尼崎より帰洛し給しかば、畠山・仁木・細川・土岐・佐々木・宇都宮以下、都て五畿七道の兵二十万騎、我先にと上洛して各国へぞ下りける。さてこそ上北面が見たりしと云夢も、げにやと思合せられて、如何様にも、仁木・細川・畠山も、滅ぶる事やあらんずらんと、夢を疑し人々も、却て是をぞ憑ける。 |
「その中でも江戸下野守(えどしもつけのかみ)・同遠江守(どうとおとうみのかみ)二人は特に憎むべき敵ですので、竜の口に引き据えて我々が手ずから斬りましょう」と奏上すると、主君(後醍醐天皇霊)は大いに満足げにお笑いになり、「それでは年号が変わる前に早急に退治せよ」とお命じになって御廟の中へお入りになったのを見届けると、夢はたちまち覚めてしまった。上北面(かんぼくめん)はこの霊示に驚き吉野から再び観心寺へ戻り人々に内密に話したが、「都合よく見た夢想だろう」と言われ誰も信じなかった。しかし確かにその効果があったのか、敵軍が迫るとさらに山奥へ主君(後村上天皇)を避難させようと逃亡策を取って戦おうとしなかったためか観心寺の御所には敵は全く近寄らず何ら事件も起きないのに「南朝討伐はこれで完了した」として同年五月二十八日、攻撃軍総大将である宰相中将義詮朝臣(足利義詮)が尼崎から京都へ帰還すると畠山・仁木・細川・土岐・佐々木・宇都宮以下五畿七道の兵二十万騎が我先に上洛し各国へ散っていった。こうしてこそ上北面が見たという夢も「なるほど」と合点がいき、何はさておき仁木・細川・畠山らも滅びるのだろうかと夢を疑っていた人々までも逆にこれを信頼するようになった。 解説1. 「竜の口」刑罰描写の宗教的意味: 2. 年号変更設定の政治的意図: 3. 上北面役割と夢解釈変遷の社会心理: 4. 「逃亡策」描出の軍事史的意義: 5. 義詮帰洛と夢予言の相関性: |
| input text 太平記\035_太平記_巻35.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第三十五 ○新将軍帰洛事付擬討仁木義長事 南方の敵軍、無事故退治しぬとて、将軍義詮朝臣帰洛し給ひければ、京中の貴賎悦合へる事不斜。主上も無限叡感有て、早速の大功、殊以神妙の由、勅使を下されて仰らる。則今度御祈祷の精誠を被致つる諸寺の僧綱・諸社の神官に、勧賞の沙汰有べしと被仰出けれ共、闕国も所領もなければ、僅に任官の功をぞ被出ける。其比畠山入道々誓が所に、細河相摸守・土岐大膳大夫入道・佐々木佐渡判官入道以下、日々寄合て、此間の辛苦を忘んとて酒宴・茶の会なんどして夜昼遊けるが、互に無隔心程を見て後に、畠山入道密に其衆中に私語けるは、「今は何をか可隠申。道誓今度東国より罷上り候つる事、南方の御敵退治の為とは乍申、宗とは仁木右京大夫義長が過分の挙動を鎮んが為にて候き。旁も定てさぞ被思召候覧。彼が心操曾一家をも可治者とは不見。然を今非其器用四箇国の守護職を給り、差たる忠無して、数百箇所の大圧を領知す。外には不敬仏神、朝夕狩漁為業内には将軍の仰を軽じて毎事不拘成敗。然ば今度南方退治時も、敵の勝に乗る時は悦び、御方の利を得るを聞ては悲。是は抑勇士の本意とや可申、忠臣の挙動とや可申。将軍尼崎に御陣を被取二百余日に及しに、義長西宮に乍居、一度も不出仕、一献を進ずる事も無りしかば、何に抑斯る不忠不思議の者に大国を管領せさせ、大庄を塞せては、世の治ると云事や候べき。 |
太平記巻第三十五 南朝の敵軍は理由もなく平定されたとして、将軍足利義詮公が京都へお帰りになったので都中の貴賎こぞって喜んだ。主君(北朝天皇)も非常に感心なさり迅速な大功績を殊に立派だと褒め勅使をお遣わしになられた。すぐに今回の祈祷に精誠をつくした各寺院の僧綱や神社の神官たちへ褒賞を与えるよう命じたが空いている国も領地もなかったため僅かに任官による功績だけをご下賜になった。その頃畠山入道道誓のもとに細川相模守・土岐大膳大夫入道・佐々木佐渡判官入道以下が毎日集まりこの間の苦労を忘れようと酒宴や茶会などをして昼夜遊びふけっていたところ互いに隔てない心遣いを見せた後で畠山入道は密かに仲間にひそひそ話した「今となって何も隠すことはあるまい。私がこの度東国から上ったのは南朝の敵を討つためとはいうものの本質的には仁木右京大夫義長が行き過ぎた振る舞いを鎮めるためのことだったのだよ皆さんにもお分かりだろうあれは心根が全く一家をも治められる者ではないのに今では器量に合わぬ四カ国の守護職を与えられ特に忠誠も示さず数百箇所の大庄園を支配している外には仏神を敬わず朝夕狩猟漁労ばかりし内には将軍様のお言葉をおろそかにして何事にも裁決に従わないそれで今回南朝征伐時でも敵が勝ったときは喜び味方が得したと聞けば悲しむこれはまさ勇士の本意と言えるだろうか忠臣の挙動と言えるだろうか将軍が尼崎陣営二百余日滞在される間義長西宮にいるのに一度も出仕せず一杯献上することすらなかったのだからどうしてこういう不実で奇怪な者に大国を管理させ大庄園を与えて世の中が治まるなどありえようか」 解説1. 「帰洛歓迎」描写の政治的構図: 2. 畠山道誓密談の歴史的射程: 3. 「不敬仏神」指摘の思想的背景: 4. 修辞技法の軍記物語的特徴: |
| 只此次に仁木を被退治、宰相中将殿の世務を被助申候はゞ、故将軍も草の陰にては、嬉くこそ被思召候はんずらめ。旁は如何被思召候。」と問ければ、細河相摸守は、今度南方の合戦の時、仁木右京大夫、三河の星野・行明等が、守護の手に属せずして、相摸守の手に付たる事忿て、彼等が跡を闕所に成て家人共に宛行はれたりしを、所存に違て思はれける人也。土岐大膳大夫入道善忠は、故土岐頼遠が子左馬助を仁木が養子にして、動れば善忠が所領を取て左馬助に申与んとするを、鬱憤する折節也。佐々木六角判官入道崇永は、多年御敵なりし高山を打て其跡を給たるを、仁木建武の合戦に恩賞に申給たりし所也とて、押て知行せんとするを、遺恨に思ふ人なり。佐渡判官入道は、我身に取て仁木に差たる宿意はなけれ共、余に傍若無人なる振舞を、狼藉なりと目にかけゝるとき也。今河・細河・土岐・佐々木、皆義長を悪しと思ふ人共なりければ、何れも不及異儀、「只此次に討て、世を鎮るより外の事は候はじ。」と、面々にぞ被同ける。然ば軈て合戦評定可有とて、人々の下人共を遠く除たる処に、推参の遁世者・田楽童なんど数多出来ける程に、諸人皆目加せして、其日は酒宴にて止にけり。 ○京勢重南方発向事付仁木没落事 |
太平記巻第三十五 「この度ただちに仁木を討伐し宰相中将殿(足利義詮)の政務をお助け申し上げるならば、亡き尊氏公もあの世でお喜びになるでしょう。さて皆様はどうお考えですか」と問うたところ、細川相模守清氏は今回の南朝合戦時に仁木右京大夫(義長)が三河国の星野・行明らを「守護命令に従わず勝手に相模守配下になった」と怒り、彼らの領地を没収して自分の家臣に与えたことを遺恨に思っていた。土岐大膳大夫入道善忠は亡き頼遠の子である左馬助が仁木の養子となった件で、「いつか私の所領を取り上げて左馬助へ渡そうとしている」という鬱憤を抱く最中であった。佐々木六角判官入道崇永(高氏)は長年敵対していた高山氏を討ち取って得た土地を、仁木が「建武の戦いでの恩賞だ」と言い張り強引に横取りしようとしたことを恨んでいた。佐渡判官入道(京極氏か)自身は直接的な怨恨こそないものの、「余りの傍若無人ぶりを見るにつけ無法者と断じている折である」。細川・土岐・佐々木ら皆が義長を憎む者ばかりゆえ誰も異論なく「ただ今この機会に討って世を治める以外に道はない」と一同賛同した。そこで早速軍議を行うべく使用人たちを遠ざけたところ、突然見知らぬ僧侶や田楽法師の童子が大勢現れたため皆が不審そうに見つめたもののその日は酒宴で中断された。 ○京勢南朝再征発向事並びに仁木没落の件(次節標題) 解説1. 「私怨連鎖」構造の歴史的意義: 2. 陰謀場面の劇的構成: 3. 人物関係の史実的裏付け: 4. 次節への伏線設定: |
| 斯る処に和田・楠等、金剛山並に国見より出て、渡辺の橋を切落し、誉田の城を 責んとする由、和泉・河内より京都へ早馬を打て、急ぎ勢を可被下と告たりければ、先日数月の大功、一時に空く成ぬと、宰相中将義詮朝臣周章し給けれ共、誰を下れと下知する共、不可有下者、諸人の心を推量し給て、大息突て御坐けるに、聞と等く畠山入道々誓・細河相摸守清氏・土岐大膳大夫入道善忠・佐々木六角判官入道崇永・今河上総介・舎弟伊予守・武田弾正少弼・河越弾正・赤松大夫判官光範・宇都宮芳賀兵衛入道禅可以下、此間一揆同心の大名三十余人、其勢都合七千余騎、公方の催促をも不相待我先にと天王寺へぞ向ける。後に事の様を案ずれば、是全く南方の蜂起を鎮ん為にては無りけり。只右京大夫義長を亡さんが為に、勢を集めける企也。何とは不知、京より又大勢下りければ、和田・楠、渡辺にも不支、誉田の城をも不責、又金剛山の奥へ引篭る。京勢、本より敵対治の為ならねば、楠引け共続いても不責、勝にも不乗、皆天王寺に集居、頭を差合せ諾て、仁木右京大夫を可討謀をぞ廻しける。只二人して云事だにも天知地知我知いへり。況や是程の大勢集て云私語く事なれば、なじかは可有隠。此事軈て京都へ聞てげり。義長大に忿て、「こは何に某が討るべからん咎は抑何事ぞ。 |
そのような状況の中、和田氏や楠木党らが金剛山および国見城から出撃し、渡辺橋を破壊して誉田城を攻めようとする情報が和泉・河内方面から早馬で京都へ伝えられ、「急いで援軍を派遣すべきだ」と報告された。先日までの数か月の功績も一瞬で無駄になるかもしれないと考え、宰相中将(足利義詮)は慌てふためいたが、誰を派遣するかを命令しても従う者がおらず、諸将たちの本心を推察して深い嘆息をつきながら座っていた。すると同時に畠山入道道誓・細川相模守清氏・土岐大膳大夫入道善忠・佐々木六角判官入道崇永・今河上総介とその弟伊予守・武田弾正少弼・河越弾正・赤松大夫判官光範・宇都宮芳賀兵衛入道禅可ら、この間連携していた大名三十人以上が勢揃いし、総勢七千余騎で幕府の命令も待たず我先にと天王寺へ向かった。後になって状況を考えると、これは全く南朝勢力鎮圧のためではなく、ただ右京大夫(仁木義長)を滅ぼすために軍勢を集めた策略であったのだ。案の定、京都から大軍が下ってきたので和田・楠らは渡辺橋で抵抗せず誉田城も攻めず再び金剛山奥へ撤退した。京側の軍勢は元々敵討伐が目的ではなかったため楠木党が退却しても追撃せず勝利にも乗らず全員天王寺に集結し、頭を突き合わせて承諾しながら仁木右京大夫(義長)を討つ謀議を巡らした。「たった二人で話すことでさえ天知地知我知と言われるのに、これほど大勢が集まって囁く密談など隠せるはずがない」。この事態はすぐに京都へ漏れ伝わり、義長は激怒して「これは一体私を討つべき罪とは何なのか」と叫んだ。 解説1. 謀略の構造的展開: 2. 戦術的駆け引きの描写: 3. 人物配置の歴史的意義: 4. 文学的手法の効果: |
| 是只道誓・清氏等が、此次に謀叛を起さん為にぞ、左様の事をば企らん。此事を急ぎ将軍に申さでは叶まじ。」とて、中務少輔計を召具し、急ぎ宰相中将殿へ参て、「道誓・清氏こそ義長を可討とて、天王寺より二手に成て、打て上り候なれ。是は何様天下を覆んと存る者共と覚候。御由断あるまじきにて候。」と申ければ、「さる事や可有。云者の誤にぞ有らん。千万に一もさる事あらば、義詮を亡さんとする企なるべし。我与御辺一所に成て戦はゞ誰か下剋上の者共に可与。」と宣へば、義長誠に悦て、己が宿所へぞ帰ける。義長分国よりの兵共、未一人も下さで置たりければ、天王寺の大勢、已に二手に作て、責上ると告けれ共、敢て物ともせず。「さもあれ当手の軍勢何程か有覧、著到を著て見よ。」とて、国々を分て著到を付たるに、手勢三千六百余騎、外様の軍勢四千余騎とぞ注しける。義長著到を披見して、「あはれ勢や、七千余騎は、天王寺の勢十万騎にも勝るべし。然ば手分をして敵を待ん。」とて、猶子中務少輔頼夏に二千余騎を著て四条大宮に引へさせ、舎弟弾正少弼に一千余騎を付て東寺の辺に陣を張せ、我身は勝りたる兵相具して、宿所の四方四五町の程の在家を焼払ひ、馬の懸場を広く成して、未惟幕の中に並居たり。 |
「これはただ道誓や清氏らが今回反逆を起こそうとしているためにそのようなことを企てているのだ。この件は急いで将軍に報告しなければならない。」と言って、中務少輔(仁木頼計)だけを連れ立たせ、急ぎ宰相中将(足利義詮)のもとに参上し、「道誓や清氏らが義長を討とうとして天王寺から二手に分かれて攻め上がろうとしています。これはどうも天下を覆そうとする者どもの企みと思われます。放置すべきことではございません。」と申し上げたところ、義詮は「そんなことがあってよいはずがない。報告者の誤りであろう。万一そのような事があれば、それは私(義詮)をも滅ぼさんとする陰謀に違いない。私とあなたが共に戦えば、下剋上を図る者どもに対抗できよう。」と言われたので、義長は大いに喜んで自らの宿所へ帰った。義長の領国からの兵たちはまだ一人も到着していなかったため、天王寺から大軍がすでに二手に分かれて攻め上ると報告されても全く動じず、「それならば我々の手勢をどれだけ確認しよう」と言い、各国ごとに兵力数を記録させたところ、直轄兵三千六百余騎と外部からの援軍四千余騎で合計七千余騎となった。義長はこの名簿を見て「ああ素晴らしい兵力だ。七千余騎なら天王寺の十万騎にも勝つだろう」と言い、養子の中務少輔頼夏に二千余騎をつけて四条大宮に配置させ、弟の弾正少弼には一千余騎を与えて東寺周辺に陣を張らせた。自らは精鋭兵を率いて宿所の四方四五町ほどの民家を焼き払い馬場を広く整え、未だ幕舎の中で軍勢を待機させていた。 解説1. 権力抗争と情報戦略: 2. 軍事動員と心理的駆け引き: 3. 人物関係の深層: 4. 文学的効果と歴史的意義: |
| 其勢ひ事柄、げにも寄手縦何なる大勢なり共、此勢に二度三度は何様懸散されんとぞ見へたりける。宰相中将殿若讒人の申旨に付て細河・畠山に御内通の事有なば、外様の兵何様弐ろを仕つべく覚れば、中将殿を取篭奉て、近習の者共をあたり近く不可寄とて、中務少輔を召具し、宿に入れば義長二百余騎にて、中将殿御屋形へ参じ、四方の門を警固して、曾て御内外様の人を不近付、毎事己が所存の侭に申行ひければ、天王寺下向の軍勢共は、忽に朝敵の名を蒙て、追罰の綸旨・御教書を成れ、義長は武家執事の職に居て、天下の権を司る。只五更に油乾て、灯正に欲銷時増光不異。去程に七月十六日に天王寺の勢七千余騎、先山崎に打集て二手に分つ。一方に細河相摸守を大将とし三千余騎、鵙目・寺戸を打過て、西の七条口より寄んとす。畠山入道・土岐・佐々木を大将にて五千余騎、久我縄手を経て東寺口より可寄とぞ定ける。今年南方既に静謐して御敵今は近国に有共聞へねば、京中貴賎、すは早世中心安く成ぬと悦合へる処に、又此事出来にければ、こは如何すべきと周章騒ぎ、妻子をもてあつかひ財宝を隠し運ぶ事、道をも通り得ぬ程也。折を得て疲労の軍勢猛悪の下部共、辻々に打散て、無是非奪取り剥むくりければ、喚き叫ぶ声物音も聞へず、京中只上を下へぞ返しける。 |
この勢いや状況からすると、たとえ攻め寄せる敵がどんな大軍であっても、この我々の兵力ならば二度三度はどうにか撃退できるように見えた。もし宰相中将(足利義詮)殿が讒言者の申し立てによって細川・畠山らに内通している事実があれば、外部からの援兵たちも必ず裏切りを働くと思われたため、中将殿をお屋敷に閉じ込めてお守りし、側近の者どもは周囲に近づけさせないようにと、中務少輔(仁木頼計)を呼び寄せて宿所に入ったところ、義長が二百余騎で中将殿のお屋形へ参上し、四方の門を厳重に警護して、これまでお側仕えしていた外部者たちを一切近づけず、何事も自分の判断通りに進めた。すると天王寺から下ってきた軍勢どもは突然「朝敵」として追討されるべき存在とされ、綸旨や御教書(朝廷・幕府の命令)が発せられてしまったのである。こうして義長は武家執事の職に就き天下を掌握した。ちょうど夜明け前に油が尽き燈火が消えようとする時のように、かろうじて燃える光を保っていた状況だった(危機一髪ながら権力を維持していた)。そうしているうちに七月十六日、天王寺からの軍勢七千余騎はまず山崎に集結して二手に分かれた。一方では細川相模守を大将とする三千余騎が鵙目・寺戸を通り抜け西の七条口から攻め寄せようとし、他方では畠山入道(道誓)・土岐・佐々木らを大将とした五千余騎が久我縄手経由で東寺口から進軍することに定めた。この年には南朝勢力はすでに鎮静化して主要な敵は近国にもいないと聞かれていたため、京中の身分の高低にかかわらず人々は「やっと世の中が平穏になった」と安心し喜び合っていたところへ再び戦乱が起こったので、「これはどうすればよいのか」と慌てふためき、妻子を連れ回す者も財宝を隠して運ぶ者も道路を通り抜けられないほどの混乱となってしまった。折に触れて疲労した軍勢や凶暴な下級兵士たちが街角々で散らばり、無差別に物資を奪い剥ぎ取るので叫び声と騒音は聞こえないほどになり京中全体は天地がひっくり返ったような大混乱となってしまった。 解説1. 権力掌握の劇的描写: 2. 東西からの挟撃戦術: 3. 社会的混乱の生々しい描写: 4. 文学的手法と史料的価値: |
| 是までも猶中将殿は、仁木に被取篭御座しけるを、佐々木判官入道、忍やかに小門より参て、「何なる事にて御座候ぞ。国々の大名一人も不残一味同心して、失はんと謀り候義長を、御一所して拘させ給候はゞ、可叶候歟。彼が挙動仏神にも被放、人望にも背はてたる者にて候とは被御覧候はざりけるか、乍去君の御寵臣を、時宜をも不伺、左右なく討んと擬し、忽に京中に打て入彼等が所存も一往御怖畏なきに非ず。されば先御忍候べし。道誉只今仁木に対面して軍評定仕候はんずる其間に、可然近習の者一人被召具、女房の体に出立せ給て、北の小門より御出候へ。御馬を用意仕て候。何くへも忍ばせ進せ候べし。」とぞ申たりける。将軍げにもと思給ければ、風気の事有とて帳台の内へ入り宿衣引纏頭臥給へば、仁木中務少輔も、遠侍へ出にけり。暫有て佐々木判官入道、百騎許にて馳来り、仁木に対面して、軍評定及数刻、去程に夜も痛く深ぬ。可見咎申人もなく成にければ、中将殿は女房の体に出立て、紅梅の小袖に、柳裏の絹打纏頭て、海老名信濃守・吹屋清式部丞・小島次郎計を召具して、北の小門より出給へば、築地の陰に、用意の御馬に手綱打係て引立たり。小島次郎そと寄り、掻懐き奉て馬に打乗せ進せて、中間二人に口引せ、装束裹持せて、四五町が程は閑々と馬を歩ませ、京中を過れば、鞭に鐙を合せて、花苑・鳴滝・並岡・広沢池を過て、時の間に西山の谷堂へ落給ふ。 |
それでもなお中将(足利義詮)様が仁木に閉じ込められていらっしゃったところ、佐々木判官入道(佐々木道誉)が密かに小門から訪れ、「これはいかなることでございますか。国々の大名たちは一人残らず一致団結して滅ぼそうと企む義長を、お供なさって捕らえさせたらどうでしょう。彼の行動は仏神にも見放され人望も失っている者であることはご覧になられませんでしたか?しかしながら君(将軍)のお気に入り家臣を時宜も考えず無造作に討とうとし、突然京中へ攻め込む彼らの企て自体一応恐ろしくないとは言えません。ですからまずはお忍びでいらっしゃってください。道誉が今仁木に対面して軍議をしている間に適当な側近一人をお連れになって女房(侍女)の姿におなりになり北の小門からお出ましくださいませ。(私は)馬を用意しておりますのでどこへでも密かに御案内いたしましょう」と申しました。将軍様は確かにその通りだとお思いになったため風邪気があると言って帳台の中に入り寝巻きを引っ張って頭に布団をかぶって横たわられると、仁木中務少輔(仁木頼計)も遠くの控え室へ出て行きました。しばらくして佐々木判官入道が百騎ほどで駆けつけ仁木と対面し軍議を数時間続けた間に夜はすっかり更けてしまい注意する者もなくなったので中将様は侍女の姿になり紅梅色の小袖に柳裏絹(緑裏地)の着物を羽織って海老名信濃守・吹屋清式部丞・小島次郎だけをお連れし北の小門からお出ましになると土塀の陰には用意した馬が手綱をつけられて立っていました。小島次郎はそっと近づき抱え上げて馬上に乗せ進んで中間(雑役)二人に口を閉じさせ装束を持たせ四五町ほどゆっくりと馬を歩ませ京中を通り過ぎると鞭で鐙を打ち鳴らし花苑・鳴滝・並岡・広沢池を経てあっという間に西山の谷堂へ逃れ落ちました。 解説1. 政治的駆け引きと心理戦: 2. 脱出行動の時間的緊迫感: 3. 人物配置と階級描写: 4. 文学的技法と歴史的意義: |
| 是を夢にも不知ける仁木右京大夫が運こそ浅猿けれ。中将殿今は何くへも落著せ給ぬと思ふ程に成ければ、判官入道己が宿所へとてぞ帰ける。其後義長常の御方へ参て、「夜明候はゞ、敵定て寄つと覚へ候に、今は御旗をも被出候へとて参て候、軍勢共に御対面も候へかし。余りに久く御宿篭り候者哉。御風気は何と御坐候やらん。」と申ければ、女房達一二人御寝所に参て此由を申さんとするに、宿衣を小袖の上に引係被置たる許にて、下に臥たる人はなし。女房達、「此は何なる御事ぞや。」と周章騒で、「穴不思議や、上には是には御坐も候はざりけるぞや。」と申ければ、義長大に忿て、女房達近習の者共の知ぬ事は有まじきぞ、四方の門をさし人を出すなと騒動す。中務少輔は余に腹を立て、貫はきながら、召合せの内へ走入て屏風障子を踏破り、「日本一の云甲斐なしを憑けるこそ口惜けれ。只今も軍に打勝ならば、又此人我等が方へ手を摺てこそ出給はんずらめ。」と、様々の悪口を吐散して、己が宿所へぞ帰ける。宰相中将殿の仁木が方に御坐しつる程こそ、此人の難捨さに、国々の勢外様の人々も、数多義長が手には著順ひつれ、仁木を討せん為に中将殿落給ひたりと聞へければ、我も々もと百騎二百騎、打連々々寄手の方へ馳著ける程に、今朝まで七千余騎と注したりし義長勢、僅に三百余騎に成にけり。 |
この事態を夢にも知らなかった仁木右京大夫(頼章)の運命は浅ましいものとなった。中将殿(足利義詮)がすでにどこかへ逃れたと思われる状況になったため、判官入道(佐々木道誉)も自らの宿所へと帰ってしまった。その後、仁木義長がいつもの御前へ参上し、「夜明けになれば敵は必ず攻めて来るでしょうに、今こそ御旗を掲げてお出ましいただきたく存じます。軍勢一同もご対面願いたいのです。あまりにも長く寝室にお籠りです。風邪の具合はいかがでしょうか」と申し上げたところ、女房たち一二人が寝所へ行ってこの旨を伝えようとしたが、寝巻きだけが小袖の上に引っかけられたままで、下には誰も横たわっていなかった。女房たちは「これは何事か?」と慌て騒ぎ、「不思議です! こちらにはおいでになられませんでした」と言うので、義長は激怒し「女房や側近が知らないはずがない!」四方の門に人を配置して封鎖せよと騒動を起こした。中務少輔(頼章)はひどく腹を立て、履物も脱いだまま部屋へ飛び込み屏風や障子を踏み破りながら「日本一役立たずな者に頼ったのが悔しい! 仮に今戦いに勝っても、またこの人は我々のもとに平伏して現れるだろう」と様々な悪口を吐き散らし自らの宿所へ帰ってしまった。宰相中将殿(義詮)が仁木の陣営におられた間はその威光で守られていたのだが、彼がいなくなるとこの人の頼りなさに気づいた国々の兵士や外部の人々まで次々と義長から離反し、「仁木討伐のために中将殿が出奔された」との噂を聞くや我も我もと百騎二百騎ずつ攻撃側へ走って着陣したため、前日まで七千余騎と言われた義長軍はわずか三百余騎になってしまった。 解説1. 権力基盤の崩壊過程: 2. 人物反応の対照性: 3. 文学的構造的特徴: 4. 歴史的含意: |
| 義長は暫はへらぬ体に打笑て、「よし/\云甲斐なからん奴原は足纏になるに、落たるこそよけれ。」云けるが、是を実に身に替り、命に替らんずる者と、憑み思たる重恩の郎従も、皆落失ぬと聞へければ、早、言もなく興醒、忙然としたる気色也。去程に夜も漸深行ば、鵙目・寺戸の辺に、続松二三万燃し連て、次第に寄手の近付勢ひ見へければ、義長角ては不叶とや思けん、舎弟弾正少弼をば、長坂を経て丹後へ落す。猶子中務少輔をば、唐櫃越を経て丹波へ落す。我身は近江路へ係る由をして、粟田口より引違へ、木津河に添伊賀路を経て、伊勢国へぞ落たりける。義長勢尽都を落ぬと聞へしかば、中将殿も軈て都へ帰入給ひ、寄手共も今度の軍は定て手痛からんずらんと、あぐんで思けるが、安に相違して一軍もなければ、皆悦勇で、軈て京へぞ入にける。 ○南方蜂起事付畠山関東下向事 去程に京都に同士軍有て、天王寺の寄手引返すと聞へしかば、大和・和泉・紀伊国の宮方時を得て、山々峯峯に篝を焼、津々浦々に船を集む。是を見て京都より被置たる城々の兵共、寄合寄除き私語きけるは、、「前に日本国の勢共が集て責し時だにも、終に退治し兼て有し和田・楠也。まして我等が城に篭て被取巻なば、一人も帰者不可有。 |
この事態を夢にも知らなかった仁木右京大夫(頼章)の身の上は浅ましいものとなった。中将殿(足利義詮)がもはやどこへも逃れたと思われる状況になったため、判官入道(佐々木道誉)も自らの宿所へ帰ってしまった。その後仁木義長が普段の御前へ参上し、「夜明けになれば敵は必ず攻めて来るでしょうに、今こそ軍旗を掲げてお出ましいただきたく存じます。兵士たちとご対面も願いたいのです。あまりにも長く寝室にお籠りです。風邪の具合はいかがでしょうか」と申し上げたところ、女房たち一二人が寝所へ行きこの旨を伝えようとしたが、寝巻きだけが小袖の上に引っかけられたままで、下には誰も横たわっていなかった。女房たちは「これは何事か?」と周章て騒ぎ、「不思議です! こちらにはおいでになられませんでした」と言うので、義長は激怒し「女房や側近が知らないはずがない!」四方の門に人を配置して封鎖せよと大騒動した。中務少輔(頼章)はひどく腹を立て、履物も脱いだまま部屋へ飛び込み屏風や障子を踏み破りながら「日本一役立たずな者に頼ったのが悔しい! 今戦いに勝ってもまたこの人は我々のもとに平伏して現れるだろう」と様々な悪口を吐き散らし自らの宿所へ帰ってしまった。宰相中将殿(義詮)が仁木の陣営におられた間はその威光で守られていたのだが、彼がいなくなるとこの人の頼りなさに気づいた国々の兵士や外部の人々まで次々と義長から離反し、「仁木討伐のために中将殿が出奔された」との噒を聞くや我も我もと百騎二百騎ずつ攻撃側へ走って着陣したため、前日まで七千余騎と言われた義長軍はわずか三百余騎になってしまった。 これを聞いた義長はしばらく笑いを抑えきれぬ様子で「よしよし役立たずな奴原は足手まといになるだけだから逃げたのはむしろ良い」と言ったが、実際に身代わりになり命さえも捧げようと忠誠を誓っていた重臣たちまで皆離散したとの知らせを受けるや早々に言葉もなく興ざめして茫然自失の様子であった。ほどなく夜が更けていく中で鵙目・寺戸辺りに松明二三万本が連なり燃え上がるのが見え、次第に攻撃軍が接近する勢いが見えたため義長はもはや抵抗できないと判断したのか、弟の弾正少弼を長坂経由で丹後へ落ち延びさせ養子の中務少輔(頼章)を唐櫃越経由で丹波へ逃がし自身は近江路に向かうとして粟田口から引き返し木津川沿いに伊賀路を通って伊勢国へ逃亡した。義長軍全員が都落ちしたと聞いた中将殿もすぐに京都へ戻られ攻撃側の兵たちも「今回の戦いはさぞ手応えがあっただろう」と思い込んでいたところ何の抵抗もなく城は空だったので皆驚き喜びそのまま京に入った。 ○南方蜂起事および畠山関東下向事 解説1. 権力崩壊の心理的描写: 2. 逃亡経路と地理的戦略性: 3. 南朝勢力拡大の伏線: 4. 文学的構成と歴史的意義: |
| 」とて、先和泉の守護にて置れし細河兵部太輔、未敵の係らぬ前に落しかば、紀伊国の城湯浅の一党も、船に取乗て兵庫を差て落行。河内国の守護代、杉原周防入道は、誉田の城を落て、水走の城に楯篭り、爰に暫く支て京都の左右を待んとしけるが、楠大勢を以て息も不継責ける間、一日一夜戦て、南都の方へぞ落にける。根来の衆は、加様に御方の落行をも不知、与力同心の兵集て三百余人、紀伊国春日山の城に楯篭り、二引両の旗を一流打立て居たりけるを、恩地・牲河・三千七百余騎の勢にて押寄、城の四方を取巻て、一人も不余討にけり。熊野には湯河庄司、将軍方に成て、鹿の瀬・蕪坂の後に陣を取り、阿瀬河入道定仏が城を責んとしけるを、阿瀬河入道・山本判官・田辺別当、二千余騎にて押寄せ、四角八方へ追散し、三百三十三人が頚を取て、田辺の宿にぞ懸たりける。鷸蚌相挟則烏乗其弊とは、加様の時をや申べき。都には仁木右京大夫落たりと、悦ばぬ人も無りけれ共、畿内遠国の御敵は、是に時を得て蜂起すと聞へければ、すはや世は又大乱に成ぬるはと、私語かぬ人も無りけり。其比何なる者の態にや、五条の橋爪に高札を立て、二首の歌を書付たり。御敵の種を蒔置畠山打返すべき世とは知ずや何程の豆を蒔てか畠山日本国をば味噌になすらん又是は仁木を引人の態かと覚て、一首の歌を六角堂の門の扉に書付たり。 |
「そうだ」と言って、先に和泉国守護として配置されていた細川兵部太輔がまだ敵軍の攻撃を受けないうちに逃亡したため、紀伊国の湯浅城の一党も船で乗り込み兵庫を目指して逃走した。河内国の守護代である杉原周防入道は誉田城から脱出し水走城へ籠城し、ここでしばらく持ちこたえて京都からの援軍を待とうとしたが、楠木勢の大軍に休む間もなく攻め立てられたため一日一夜戦った末、奈良方面へ敗走した。根来衆は味方が敗走していることも知らず、協力者たちと兵三百余人を集めて紀伊国春日山城に籠り二引両の旗一本を掲げていたところ、恩地・牲川ら三千七百余騎の軍勢が押し寄せ城の四方を取り囲み一人残さず討ち取った。熊野では湯河庄司が将軍方(足利側)へ転じて鹿ノ瀬・蕪坂の後方に陣取り阿瀬川入道定仏の城を攻撃しようとしたが、逆に阿瀬川入道・山本判官・田辺別当ら二千余騎に押し寄せられ四方八方へ追い散らされ三百三十三の首級を取られて田辺宿に晒された。まさに「鷸蚌相挟んで漁夫の利を得る」とはこのような状況を指すのだろうか? 都では仁木右京大夫(義長)が逃亡したことを喜ばない者はいなかったが、畿内から遠国までの南朝勢力がここぞと蜂起したとの報が入ると「今度こそ世は大乱になる」と噂しない者はなくなる。その頃誰の仕業か五条橋詰に高札を立て二首の歌が記されていた。(一首目)『御敵(北朝)の種まき置く畠山 打ち返すべき世とは知らずや』(二首目)『幾程の豆蒔てか 畠山日本国を味噌になすらん』またこれは仁木氏を諷刺したものと思われ、別の一首が六角堂門扉に書き付けられていた。 解説1. 敗走連鎖と心理的帰結: 2. 故事引用と戦略的教訓: 3. 風刺歌と世相批判: 4. 歴史的意義: |
| いしかりし源氏の日記失ひて伊勢物語せぬ人もなし畠山入道、其比常に狐の皮の腰当をして、人に対面しけるを、悪しと見る人や読たりけん、畠山狐の皮の腰当にばけの程こそ顕れにけれ又湯河庄司が宿の前に、作者芋瀬の庄司と書て、宮方の鴨頭になりし湯川は都に入て何の香もせず今度の乱は、然畠山入道の所行也と落書にもし歌にも読、湯屋風呂の女童部までも、もてあつかひければ、畠山面目なくや思けん、暫虚病して居たりけるが、如斯ては、天下の禍何様我身独に係りぬと思ければ、将軍に暇をも申さで八月四日の夜、密に京都を逃出て、関東を差てぞ下りける。参河国は仁木右京大夫多年管領の国也ければ、守護代西郷弾正左衛門尉、五百余騎にて矢矧に出張て、道を差塞ぎける間不通得、路次に日数をぞ送りける。如斯何までか中途に浮れて可有、中山道を経てや下る、京へや引返すと案じ煩ひける処に、小川中務仁木に同心して、尾張国にて旗を揚る間、関東下向の勢、畠山を始として、白旗一揆・平一揆・佐竹・宇都宮に至るまで、前後の敵に被取篭、前へも不通、迹へも不帰得、忙然としてぞ居たりける。山名伊豆守は、東国勢既に南方を退治して、都へ帰ぬと聞しかば、始は何様此次に我方へも被寄ぬと推量して、城を構へ鏃を磨て、可防用意をせられけるが、都に不慮の軍出来て、仁木右京大夫宮方になり、和田・楠又打出たりと聞へければ、伊豆守軈機に乗て、其勢三千余騎を卒し二手に分て、因幡・美作両国の間に勢を分てぞ置たりける。 |
かつて栄えた源氏物語の日記(源氏物語)は失われたが伊勢物語を知らない者はなく[誰もが知っている]。畠山入道(高国)は当時常に狐皮の腰当を着け人と対面していたところ、これを批判する者が詠んだようだ。「畠山 狐の皮の腰当てには化けの程こそ現れにけれ」[本性が露わになった]。また湯河庄司の宿舎前では「作者芋瀬庄司と書き宮方(南朝)のかもじ頭となった湯川は都に入っても何の香もしない」との落書があり、更には「今回の乱は全く畠山入道の所行なり」と歌に詠まれ風呂屋の女中までもが噂したため、畠山は面目を失い暫し仮病を使っていた。しかし「このままでは天下の災いは自分一人に集中する」と考え将軍(足利義詮)に暇も告げず八月四日夜密かに京都を脱出、関東へ向かう途中三河国で仁木右京大夫が長年支配していたため守護代西郷弾正左衛門尉が五百騎余りで矢作に出張り道を塞いだ。数日足止めされる中「中途半端ではどうなるか?中山道を行くか、京都へ戻るか」と悩んでいたところ小川中務が仁木に協力し尾張国で挙兵したため関東下向軍(畠山を中心とする北朝勢)は白旗一揆・平一揆・佐竹氏・宇都宮氏ら前後の敵に包囲され進退窮まった。一方山名伊豆守(時熙)は「東国勢力が既に南朝を討って帰京した」と聞き当初は味方へ向かうだろうと思い城構え防戦準備していたところ、都で不意の兵乱が起こり仁木右京大夫が宮方(南朝)側となり和田・楠勢も出撃との報を得たため機に乗じ三千騎余を二手に分け因幡・美作両国境へ軍勢を展開させた。 解説1. 風刺表現の多重構造: 2. 政治行動の心理描写: 3. 東西軍事動向の対比: 4. 歴史的背景: |
| 赤松筑前入道世貞・同律師則祐が、所々の城を責るに・草木・揉尾・景石・塔尾・新宮・神楽尾の城共、一怺もせず、或は敵に成て却て御方を責め、或は行方を不知落失ぬ。脣竭て歯寒、魯酒薄して邯鄲囲るとは、加様の事をや申べき。 ○北野通夜物語事付青砥左衛門事 其比日野僧正頼意、偸に吉野の山中を出て、聊宿願の事有ければ、霊験の新なる事を憑奉り、北野の聖廟に通夜し侍りしに、秋も半過て、杉の梢の風の音も冷く成、ぬれば、晨朝の月の松より西に傾き、閑庭の霜に映ぜる影、常よりも神宿て物哀なるに、巻残せる御経を手に持ながら、灯を挑げ壁に寄傍て、折に触たる古き歌など詠じつゝ嘯居たる処に、是も秋の哀に被催て、月に心のあこがれたる人よと覚くて、南殿の高欄に寄懸て、三人並居たる人あり。如何なる人やらんと見れば、一人は古へ関東の頭人評定衆なみに列て、武家の世の治りたりし事、昔をもさぞ忍覧と覚て、坂東声なるが、年の程六十許なる遁世者也。一人は今朝廷に仕へながら、家貧く豊ならで、出仕なんどをもせず、徒なる侭に、何となく学窓の雪に向て、外典の書に心をぞ慰む覧と覚へて、体縟に色青醒たる雲客也。一人は何がしの律師僧都なんど云はれて、門迹辺に伺候し、顕密の法灯を挑げんと、稽古の枢を閉ぢ玉泉の流に心を澄すらんと覚へたるが、細く疲たる法師也。 |
赤松筑前入道世貞と同律師則祐が各所の城を攻めたところ(草木・揉尾・景石・塔尾・新宮・神楽尾などの城)、いずれもまったく抵抗せず、あるいは敵方に転じてかえって味方を攻撃したり、あるいは行方をくらますように逃亡してしまった。「唇がなくなれば歯が寒くなる(周囲の支援を失うと自滅する)」や「魯国の酒が薄いために邯鄲が包囲される(些細な原因で大災難に見舞われる)」という故事は、まさにこのような状況を指すのだろうか。 ○北野での徹夜物語と青砥左衛門のこと 解説1. 軍事比喩の構造的意義: 2. 宗教場面における知識人描写: 3. 歴史的背景: |
| 初は天満天神の文字を、句毎の首に置て連歌をしけるが、後には異国本朝の物語に成て、現にもと覚る事共多かり。先儒業の人かと見へつる雲客、「さても史書の所載、世の治乱を勘るに、戦国の七雄も終に秦の政に被合、漢楚七十余度の戦も八箇年の後、世漢に定れり。我朝にも貞任・宗任が合戦、先九年後三年の軍、源平諍三箇年、此外も久して一両年を不過。抑元弘より以来、天下大に乱て三十余年、一日も未静る事を不得。今より後もいつ可静期共不覚。是はそも何故とか御料簡候。」といへば坂東声なる遁世者、数返高らかに繰鳴し、無所憚申けるは、「世の治らぬこそ道理にて候へ。異国本朝の事は御存知の前にて候へば、中々申に不及候へども、昔は民苦を問使とて、勅使を国々へ下されて、民の苦を問ひ給ふ。其故は、君は以民為体、民は以食為命、夫穀尽ぬれば民窮し、民窮すれば年貢を備事なし。疲馬の鞭を如不恐、王化をも不恐、利潤を先として常に非法を行ふ。民の誤る処は吏り科也。吏の不善は国王に帰す。君良臣を不撰、貪利輩を用れば暴虎を恣にして、百姓をしへたげり。民の憂へ天に昇て災変をなす。災変起れば国土乱る。是上不慎下慢る故也。国土若乱れば、君何安からん。百姓荼毒して四海逆浪をなす。 |
最初は『天満天神』という文字を句ごとの頭に置いて連歌を行っていたが、後には外国や日本の物語となり、現実のことのように思える内容も多かった。儒学を学ぶ人物らしい雲客(文人風の隠遁者)が言うには:「しかし史書にある通り世の中の治乱を見ると、戦国の七雄も最終的には秦政に統一され漢と楚七十度余りの合戦も八年後に天下は漢に定まった。我が国でも前九年・後三年役や源平争い(三箇年)など長くても一両年に過ぎないのに、元弘以来三十年以上一日も静まらず今後いつ収まるか見当もつかないのは何故だとお考えですか?」と言うと関東なまりの隠遁者は数度高らかに咳払いし憚りなく述べた:「世が治まらないのは当然です。外国や日本の事情はご存知でしょうから詳細には触れませんが昔は民苦問使として勅使を各国へ遣わして人民の窮状をお尋ねになったものですそれは君主は人民をもって体とし人民は食糧をもって命とする故に穀物が尽きれば人民困窮し年貢も納められなくなる疲れた馬に鞭打つように王化すら恐れず利益追求で常に不法を行う人民の誤りは官吏の過失であり吏の不行跡は国王に帰する君主良臣を選ばず貪欲な者を用いると暴君が放縦となり百姓を虐げる民の憂いは天昇って災変起こし国土乱れるこれは上(為政者)慎まず下(官吏)怠慢なる故です国土もし乱れれば君主どうして安泰でありえようか?人民苦渋に沈んで四海逆浪となるのです」 解説1. 政治哲学の対話構造: 2. 思想的背景: 3. 文学的意義: |
| されば湯武は火に投身、桃林の社に祭り、大宗呑蝗、命を園囿の間に任す。己を責て天意に叶、撫民地声を顧給へと也。則知ぬ王者の憂楽は衆と同かりけりと云事を、白楽天も書置侍りき。されば延喜の帝は、寒夜に御衣をぬがれ、民の苦を愍み給しだに、正く地獄に落給けるを、笙の岩屋の日蔵上人は見給けるとこそ承れ。彼上人、承平四年八月一日午時頓死して、十三日ぞ御在しける。其程夢にも非ず、幻にも非ず、金剛蔵王の善巧方便にて、三界流転の間、六道四生の棲を見給けるに、等活地獄の別処、鉄崛地獄とてあり。火焔うずまき黒雲空に掩へり。觜ある鳥飛来て、罪人の眼をつゝきぬく。又鉄の牙ある犬来て、罪人の脳を吸喰ふ。獄卒眼を怒して声を振事雷の如し。狼虎罪人の肉を裂、利剣足の蹈所なし。其中に焼炭の如なる罪人有四人。叫喚する声を聞ば、忝も延喜の帝にてぞ御在ける。不思議やと思て、立寄て事の様を問へば、獄卒答曰、「一人は是延喜帝、残は臣下也。」とて、鋒に指貫て、焔の中へ投入奉りけり。在様業果法然の理とは云ながら、余りに心憂ぞ覚ける。良暫有て上人、「さりとては延喜の帝に少の御暇奉宥、今一度拝竜顔本国へ帰らん。」と、泣々宣ければ、一人の獄卒是を聞て、いたはしげもなく鉄の鉾に貫て、焔の中より指出し、十丈計差上て、熱鉄の地の上へ打つけ奉る。 |
そこで湯王と武王は自ら火中に入り身を捧げて雨を祈り(殷の成湯)、桃林の社に祭られ(周の武王滅殷後)。唐太宗は蝗虫を呑み込み、命を庭園の中で天に委ねた。己れを責めて天意に合わせ民衆を労わることを心がけたのだと知られる。王者の憂いや楽しみは人々と同じであったということは白楽天も書き記している。それゆえ延喜天皇(醍醐天皇)でさえ寒夜に衣類をお脱ぎになり人民の苦しみを憐れんだのに、正しく地獄へ落ちられたことを笙ノ岩屋の日蔵上人がご覧になったと承る。その上人は承平四年八月一日午時に急死して十三日後に蘇生したのだが、その間夢でも幻でもなく金剛蔵王菩薩の巧みな導きで三界を巡り六道四生の住処を見て回られたところ等活地獄とは別に「鉄崛(くつがえ)地獄」という場所があった。炎渦巻き黒雲が空を覆い、嘴のある鳥が飛来して罪人の目をつつき抜き、また鉄の牙ある犬が現れて脳髄を喰らう。鬼卒は眼を怒らせ雷のような声で叫び狼や虎は罪人の肉を裂くため鋭い剣も足の踏み場がないほどである。その中に炭のように焼けただれた四人の罪人がおり、絶叫する声を聞くと恐れ多くも延喜天皇であられた。不思議と思って近寄り事情を尋ねると鬼卒が答えて「一人はこの延喜帝で残りの三人は臣下である」と言い矛先に貫いて炎の中へ突き落とした様子であった。有様は因果応報の道理とは言え余りにも痛ましく思われたので上人は暫くして「それではせめて延喜天皇に僅かな御暇を賜わり龍顔(帝)をもう一度拝み本国へ帰らせてください」と泣きながら訴えると一人の鬼卒はこれを聞いて容赦なく鉄の矛で貫き炎の中から引き出し十丈ほど差し上げ熱した鉄板の上に打ちつけたのである。 解説1. 統治者批判の二重構造: 2. 仏教地獄譚の特質: 3. 作品全体における機能: |
| 焼炭の如なる御貌散々に打砕れて、其御形共見へ給はず。鬼共又走寄て以足一所にけあつむる様にして、「活々。」と云ければ、帝の御姿顕給ふ。上人畏て只泪に咽給ふ。帝の宣く、「汝我を敬事なかれ。冥途には罪業無を以て主とす。然れば貴賎上下を論ずる事なし。我は五種の罪に依て此地獄に落たり。一には父寛平法皇の御命を背き奉り久く庭上に見下し奉りし咎、二には依讒言、無咎才人を流罪したりし報ひ、三には自の怨敵と号して、他の衆生を損害せし咎、四には月中の斎日に、本尊を不開咎、五には日本の王法をいみじき事に思て人間に著心の深かりし咎、此五を為根本、自余の罪業無量也。故に受苦事無尽也。願は上人為我善根を修してたび給へ。」と宣ふ。可修由応諾申す。「然らば諸国七道に、一万本の卒都婆を立て、大極殿にして仏名懺悔法を可修。」と被仰たりける時、獄卒又鉾に指貫、焔の底へ投入る。上人泣々帰給時、金剛蔵王の宣く、「汝に六道を見する事、延喜帝の有様を為令知也。」とぞ被仰ける。彼帝は随分愍民治世給しだに地獄に落給ふ。況て其程の政道もなき世なれば、さこそ地獄へ落る人の多かるらめと覚たり。又承久より已降武家代々天下を治し事は、評定の末席に列て承置し事なれば、少々耳に留る事も侍るやらん。 |
そこで湯王は自ら火中に入り身を捧げて祈雨し(殷の成湯)、武王は桃林の社で祭られ(周の武王滅殷後)。唐太宗李世民は蝗虫を呑み込み、命を庭園の中で天に委ねた。己れを責めて天意に従い民衆を労わることを顧みられたのだと知られる。王者の憂楽が人々と同じであるということは白楽天(白居易)も書き記している。それゆえ延喜天皇(醍醐天皇)でさえ寒夜に衣服をお脱ぎになり人民の苦しみを憐れんだのに、正しく地獄へ落ちられたことを笙ノ岩屋の日蔵上人がご覧になったと伝わっている。その上人は承平四年八月一日午時に急死して十三日後に蘇生したのだが、その間夢でも幻でもなく金剛蔵王菩薩の巧みな導きで三界を巡り六道四生の住処を見て回られたところ等活地獄とは別に「鉄崛(くつかえ)地獄」という場所があった。炎渦巻き黒雲が空覆い、嘴のある鳥飛来して罪人の目をつつき抜き、また鉄牙犬現れて脳髄を喰らい鬼卒は眼怒らせ雷声で叫び狼虎肉裂くため鋭剣踏む場もなかった。その中に炭焼けの如くなる四人の罪人おり絶叫声聞くと畏れ多く延喜天皇であられたので不思議と思い近寄り事情尋ねると鬼卒答え「一人はこの延喜帝残三人臣下」と言い矛先貫き炎へ突落とす様子であった。有様因果応報道理とは言え余り痛ましく暫くし上人泣「せめて延喜天皇に僅か御暇賜わり龍顔拝み本国帰らせてください」訴える一人鬼卒聞いて容赦なく鉄矛貫き炎中引き出し十丈程差上げ熱鉄板へ打つけたのだ。 解説1. 統治者批判の深化構造: 2. 思想的連関性: 3. 歴史的意義と影響: |
| 夫天下久武家の世と成しかば尺地も其有に非と云事なく、一家も其民に非と云所無りしか共、武威を専にせざるに依て地頭敢て領家を不侮、守護曾て検断の外に不綺。斯りしか共尚成敗を正くせん為に、貞応に武蔵前司入道、日本国の大田文を作て庄郷を分て、貞永に五十一箇条の式目を定て裁許に不滞。されば上敢て不破法下又不犯禁を。世治り民直なりしか共、我朝は神国の権柄武士の手に入り、王道仁政の裁断夷狄の眸に懸りしを社歎きしか。されども上代には世を治んと思志深かりけるにや、泰時朝臣在京の時、明慧上人に相看して法談の次に仰られけるはく、「如何してか天下を治め人民を安じ候べき。」と被申ければ、上人宣く、「良医能く脈を取て、其病の根源を知て、薬を与へ灸を加れば、病自ら愈る様に、国を乱る源を能く知て可治給。乱世の根源は只欲を為本。欲心変じて一切万般の禍と成る。」と宣へば、泰時云、「我雖存此旨、人々無欲に成ん事難し。」と宣へば、上人云、「太守一人無欲にならん事を思給はゞ、其に恥て万人自然に欲心薄成べし。人の欲心深訴来らば我欲の直らぬ故ぞと我を恥しめ可給。古人云、其身直にして影不曲、其政正して国乱るゝ事なしと云云。又云、君子居其室其言を出事善なる則、千里の外皆応之。 |
かつて天下が長く武家の世となったので、一尺の土地でも所有権がないと言うことはなく、一家であっても支配下にない民衆はいなかった。しかし武力を専横しなかったため地頭は領家を侮らず、守護も裁判以外で私的に介入しなかった。そうであったがなお公正な裁決のために貞応年間(1222-24)には武蔵前司入道(北条泰時)が日本全国の土地台帳を作り荘園・郷村を区分けし、貞永元年(1232)には五十一条からなる御成敗式目を定めて裁判に遅滞がないようにした。そのため上位者は法令を犯さず下位者も禁制を破らなかったので世は治まり民衆は正直であった。しかし我が国では神国の統治権が武士の手に渡り、王道仁政による裁断が異民族(鎌倉幕府)の目線で行われることを人々は嘆いた。それでも昔の時代には世を治めようとする志深い者があったのだろうか。泰時朝臣(北条泰時)が在京していたとき明慧上人と面会し仏教談義の中で尋ねられたことは、「どうすれば天下を治めて人民を安穏にできますでしょうか」と言われたのである。これに対し上人は「良医が脈を取り病の根源を知り薬を与え灸を施せば病気は自然に癒えるように、国乱れの源をよく知って統治なさるべきです。乱世の根元はただ欲望を根本とするものです。欲心が変じてあらゆる災いとなるのです」と述べたところ泰時は「私もこの趣旨を持っているが人々が無欲になるのは難しい」と言うと上人は答えた。「太守(為政者)御一人が無欲になろうと思われれば、それに恥じて自然に万人の欲心が薄らぐでしょう。もし人の欲深い訴えがあれば『自分の欲望が正されぬためだ』と自分を恥じなさるべきです。古人は言いました『その身直くして影曲わらず(自ら正しければ影響も歪まない)、その政治正しくして国乱れることなし』と。また『君子室に居てその言出す事善ならば千里の外までも皆これに応ずる』とも」。 解説1. 歴史的典拠と政治的イデオロギー: 2. 倫理観の対立構造: 3. 作品全体における意義: |
| 善と云は無欲也。伝聞、周文王の時一国の民畔を譲るも、文王一人の徳諸国に及す故、万人皆やさしき心に成し也。畔を譲ると云は、我田の堺をば人の方へは譲与れども、仮にも人の地をして掠取事はなかりけり。今程の人の心には違たり。かりにも人の物をば掠取共、我物を人に遣事不可有。其比他国より為訴詔此周の国を通るとて、此有様を道畔にて見て、我欲の深事を恥て、路より帰りけり。されば此文王我国を収るのみならず、他国まで徳を施すも只此一人の無欲に依てなり。剰此徳満て天下を一統して取り百年の齢を持き。太守一人小欲に成給はゞ天下皆かゝるべし。」と宣ければ、泰時深く信じて、父義時朝臣の頓死して譲状の無りし時倩義時の心を思に、我よりも弟をば鍾愛せられしかば、父の心には彼者にぞ取せ度思給て譲をばし給はざるらんと推量して、弟の朝時・重時以下に宗徒の所領を与て、泰時は三四番めの末子の分限程少く取られけれ共、今までは聊不足なる事なし。如此万づ小欲に振舞故にや、天下随日収り、諸国逐年豊也き。此太守の前に、訴訟の人来れば、つく/゛\と両人の顔を守て云く、「泰時天下の政を司て、人の心に無姦曲事を存ず。然ば廉直の中に無論。一方は定て姦曲なるべし。何の日両方証文を持て来べし。 |
「善とは無欲のことである。伝え聞くところによると、周の文王の時代には国の民衆は田畑の境界を譲り合ったが、これは文王ただ一人の徳が諸国に及んだためで、万人皆優しい心になったのである。『畔(あぜ)を譲る』とは自分の田地の境目を相手側へ譲って寄せるものの決して他人の土地を奪い取ろうとしなかったということだ。しかし現代の人々の心情はこれに反している。むしろ他人の物を奪おうとするばかりで、自分の所有物を人に与えることはあり得ない。それ以外にも他国からの訴え事がこの周の国を通る際、道端でこうした光景を見て自らの欲望深さを恥じ引き返す者もいたほどである。だからこそ文王は自国だけではなく他国にまで徳を行きわたらせたのも彼一人の無欲によるものだ。さらにこの徳が満ち天下を統一し百年近く長寿を得られたのである。太守(為政者)たる者が少しでも欲望を減らそうとすれば、天下全体も同じようになるはずである。」と言われると泰時は深く感銘を受け父・義時朝臣が急死して譲り状がない際にこう考えた――「父親は私よりも弟たちを偏愛されていたのだから遺産相続では弟たちを優遇しようとしたのではなかろうか」と推測し、実際に弟である朝時や重時ら一族には多くの所領を与え泰時自身は三男四男程度の少ない分け前しか取らなかったが今まで何も不足は感じていない。このように常に控えめで欲望を抑えた振る舞いをしたためか天下は日々安定し諸国では年ごとに豊作となったのである。またこの太守(泰時)の前に訴訟人が来ると彼はじっと双方の顔を見据えてこう言う――「私は天下の政治をつかさどり人の心に偽りのないことを信条としているのだから公正な裁きの中で疑いが生じるはずがない。一方には必ず不正があるだろう。証拠文書を持って改めて出直すように。」 解説1. 「無欲」思想の実践的展開: 2. 政治哲学と現実批判: 3. 『太平記』全体における位置付け: |
| 姦謀の人に於ては、忽に罪科に可申行。姦智の者一人国にあれば万人の禍と成る。天下の敵何事か如之。疾々可帰給。」とて被立けり。此体を見るに、僻事あらば軈而いかなる目にも可被合とて、各帰て後両方談合して、或は和談し或僻事の方は私に負て論所を去渡しける。凡無欲なる人をば賞し欲深き者をば恥しめ給しかば、人の物を掠め取んとする者は無りけり。されば寛喜元年に、天下飢饉の時、借書を調へ判形を加へて、富祐の者の米を借るに、泰時法を被置けるは、「来年世立直らば、本物計を借り主に可返納。利分は我添て返すべし。」と被定て、面々の状を被取置けり。所領をも持たる人には、約束の本物を還させ、自我方添利分、慥に返し遣されけり。貧者には皆免して、我領内の米にてぞ主には慥に被返ける。左様の年は、家中に毎事行倹約、一切の質物共も古物を用ふ。衣裳も新しきをば不著、烏帽子をだに古きをつくろはせて著し給ふ。夜は灯なく、昼は一食を止め、酒宴遊覧の儀なくして、此費を補給けり。仍一度食するに、士来れば不終に急ぎ是にあひ一たび梳にも訴来れば先是をきく。一寝一休是を不安して人の愁を懐て待んことを恐る。進では万人を撫ん事を計り、退ては一身に失あらん事を恥づ。然に太守逝去の後、背父母失兄弟とする訴論出来て、人倫の孝行日に添て衰へ、年に随てぞ廃たる。 |
悪意のある者の場合には即座に罪状を取り調べ処罰する。狡猾な者が一人国にいれば万人の災いとなる。天下にとってこれほどの敵があろうか。さっさと帰るがよい。」と言って退出させた。この様子を見て、不正があるならすぐどんな処罰を受けるかわからないと考え訴訟人はそれぞれ帰った後で双方話し合い和解したり、あるいは不正を働いた方が密かに負けを認めて裁判所から去っていくこともあった。とにかく無欲な者を称賛し欲望深き者を恥じさせたため他人の物を奪おうとする者はなくなった。その証拠に寛喜元年(1229)天下が飢饉に見舞われた時借用書を作成し判子を押して裕福な者の米を借りる際、泰時は法令を定めた――「来年世の中が回復したら元本だけを貸主へ返還せよ。利息分は私(政権)が負担する」と規定し個々の証文を保管したのだ。所領を持つ者には約束通り元本のみ返済させ利子分は確かに公費で弁済した。貧しい者に対しては全て免除し自らの支配地の米で貸主へきちんと返却したのである。こうした年には家中では何事も節約に努め質草品でも古物を利用した。衣服も新調せず烏帽子さえ古いものを繕って着用された。夜は灯火を使わず昼食は一食抜き酒宴や遊興の行事一切なしでこうした支出を補填したのである。さらに一度食事中にでも武士が来れば食べ終える前に急ぎ対応し訴状を持ってくるとまずこれを聴取した。寝るのも休むのも落ち着かず人の愁いを心にかけ待たせることを恐れたのだ。公務では万人の救済策を考え私生活では自らの過失があればそれを恥じた。しかし泰時が没すると親に逆らい兄弟間で争う訴訟が頻発し人倫道徳は日々衰え年ごとに廃れていった。 解説1. 為政者の理想像と現実批判: 2. 統治倫理の劇的対比: 3. 『太平記』史観の核心: |
| 一人正ければ万人夫に随事分明也。然る間猶も遠国の守護・国司・地頭・御家人、如何なる無道猛悪の者有てか、人の所領を押領し人民百姓を悩すらん。自諸国を順て、是を不聞は叶まじとて、西明寺の時頼禅門密に貌を窶して六十余州を修行し給に、或時摂津国難波の浦に行到ぬ。塩汲海士の業共を見給に、身を安しては一日も叶まじき理を弥感じて、既に日昏ければ、荒たる家の垣間まばらに軒傾て、時雨も月もさこそ漏らめと見へたるに立寄て、宿を借給けるに、内より年老たる尼公一人出て、「宿を可奉借事は安けれ共、藻塩草ならでは敷物もなく、磯菜より外は可進物も侍らねば、中々宿を借奉ても甲斐なし。」と佗けるを、「さりとては日もはや暮はてぬ。又可問里も遠ければ、枉て一夜を明し侍ん。」と、兔角云佗て留りぬ。旅寝の床に秋深て、浦風寒く成侭に、折焼葦の通夜、臥佗てこそ明しけれ。朝に成ぬれば、主の尼公手づから飯匙取音して、椎の葉折敷たる折敷の上に、餉盛て持出来たり。甲斐々々敷は見へながら、懸る態なんどに馴たる人共見へねば不審く覚て、「などや御内に被召仕人は候はぬやらん。」と問給へば、尼公泣々「さ候へばこそ、我は親の譲を得て、此所の一分の領主にて候しが、夫にも後れ子にも別て、便なき身と成はて候し後、惣領某と申者、関東奉公の権威を以て、重代相伝の所帯を押取て候へ共、京鎌倉に参て可訴詔申代官も候はねば、此二十余年貧窮孤独の身と成て、麻の衣の浅猿く、垣面の柴のしば/\も、ながらふべき心地侍らねば、袖のみ濡る露の身の、消ぬ程とて世を渡る。 |
一人が正しくあれば多くの人はそれに従うことが明白である。しかしながら遠国の守護・国司・地頭・御家人の中にはどんな無道で凶悪な者がいるのか、他人の領地を奪い民衆を苦しめているだろうか。(時頼は)自ら諸国を行脚してこのことを見て聞かないわけにはいかないと考え、西明寺(北条時頼の出家名)が密かに姿を変えて六十余州を修行していた際に、あるとき摂津国の難波浦へと行き着いた。塩焼く海人の仕事を見ると生活の厳しさをひしひしと感じられ、日も暮れたので荒れ果てた家(軒が傾いて雨漏りしているように見えた)に近づき宿を借りようとしたところ、中から年老いた尼一人が出てきて「お泊まりをお貸しすることは容易ですが藻塩草以外の敷物もなく海藻より他には差し上げるものもございませんので、かえってご迷惑でしょう」と寂しそうに言った。(時頼は)「とはいえ日はすっかり暮れてしまいました。また問うべき里も遠いので無理にお願いして一夜を明かしましょう」と言い交わして泊まったのだった。旅寝の床で秋が深まり浦風が冷たいまま、焼け焦げた葦の中で夜通し横になり寂しく朝を迎えた。朝になると家主の尼が自ら杓子を持って椎の葉を敷いた折敷に食事を盛り持ってきた。(時頼は)見るからに気丈そうに見えながらも召使いのような人がいないのが不審に思い「どうしてお世話する方はおられないのですか」と尋ねると、尼は泣きながらこう答えた。「はい実は私は親の譲りを受けてこの土地の小領主でございましたが夫にも先立たれ子とも別れて頼るもののない身となった後、惣領(某)という者が関東奉公の権威を笠に着て代々伝わる所領を取り上げてしまいまして…しかし京都や鎌倉へ訴える代理人もおらずこの二十余年貧しく孤独な身となり麻の衣はみすぼらしく垣根の柴さえ生き長らえる心地がせず袖ばかり濡れる露のような命で消えてしまうまでを過ごしております。」 解説1. 「為政者の民情視察」という物語装置: 2. 社会矛盾の文学的告発: 3. 『太平記』史観における位置付け: |
| 朝食の烟の心細さ、只推量り給へ。」と、委く是を語て、涙にのみぞ咽びける。斗薮の聖熟々と是を聞て、余に哀に覚て、笈の中より小硯取出し、卓の上に立たりける位牌の裏に、一首の歌をぞ被書ける。難波潟塩干に遠月影の又元の江にすまざらめやは禅門諸国斗薮畢て鎌倉に帰給ふと均く、此位牌を召出し、押領せし地頭が所帯を没収して、尼公が本領の上に副てぞ是を給たりける。此外到る所ごとに、人の善悪を尋聞て委く注し付られしかば、善人には賞を与へ、悪者には罰を加られける事、不可勝計。されば国には守護・国司、所には地頭・領家、有威不驕、隠ても僻事をせず、世帰淳素民の家々豊也。後の最勝園寺貞時も、追先蹤又修行し給しに、其比久我内大臣、仙洞の叡慮に違ひ給て、領家悉被没収給しかば、城南の茅宮に、閑寂を耕てぞ隠居し給ひける。貞時斗薮の次でに彼故宮の有様を見給て、「何なる人の棲遅にてかあるらん。」と、事問給処に、諸大夫と覚しき人立出て、しかしかとぞ答へける。貞時具に聞て、「御罪科差たる事にても候はず、其上大家の一跡、此時断亡せん事無勿体候。など関東様へは御歎候はぬやらん。」と、此修行者申ければ、諸大夫、「さ候へばこそ、此御所の御様昔びれて、加様の事申せば、去事や可有。 |
朝食の炊煙さえも心細い有様は、どうぞお察しください。」と詳しく語り終えると、ただ泣きじゃくるばかりであった。修行僧(時頼)はこの話を聞いて非常に気の毒に思い、笈の中から小さな硯を取り出し、卓上に立っていた位牌の裏に一首の歌をお書きになった。(歌の内容:難波潟で塩を焼く私も遠い月影のように元いた江戸へ戻れないことはあるまいに)。時頼は諸国行脚を終え鎌倉へ帰るとすぐ、この位牌を取り寄せ、領地を奪った地頭の所帯を没収し尼に本来の領地をお返しになった。さらに至る場所で人々の善悪を尋ね調べ詳しく記録され善良な者には褒賞を、悪事を働く者には罰を与えたことは数えきれないほどであった。そのため国では守護・国司が土地では地頭・領家が威張りもせずひそかに不正もしなかったので世の中は質朴になり民衆の暮らしは豊かになった。後の最勝園寺(北条貞時)も先例に倣い修行なさった際、当時の久我内大臣が上皇のご意向に背いたため所領を全て没収され城南の粗末な屋敷で静かに隠棲しておられた。貞時が行脚中その古びた御殿をご覧になり「どのような方が住んでおられるのか」と尋ねると大夫(家司)らしき人物が出てきて事情を説明したので、貞時は詳しく聞いてこう述べた。「お咎めに値する行為でもなくましてや名門の所領がこのまま断絶するのはもったいない。どうして鎌倉へ訴え出られないのか」と修行者(貞時)が申し上げると大夫は「確かにその通りですが御殿も荒れ果て今更嘆いても却下されるだけでしょう」と答えた。 解説1. 「為政者の歌」の政治的機能: 2. 為政者像の系譜性: 3. 社会構造の劇的表現: 4. 作品全体における位置付け: |
| 我身の無咎由に関東へ歎かば、仙洞の御誤を挙るに似たり。縦一家此時亡ぶ共、争でか臣として君の非をば可挙奉。無力、時刻到来歎かぬ所ぞと被仰候間、御家門の滅亡此時にて候。」と語りければ、修行者感涙を押て立帰にけり。誰と云事を不知。関東帰居の後、最前に此事を有の侭に被申しかば、仙洞大に有御恥久我旧領悉く早速に被還付けり。さてこそ此修行者をば、貞時と被知けれ。一日二日の程なれど、旅に過たる哀はなし。況乎烟霞万里の道の末、想像だに憂物を、深山路に行暮ては、苔の莚に露を敷き、遠き野原を分佗ては、草の枕に霜を結ぶ。喚渡口船立、失山頭路帰る。烟蓑雨笠、破草鞋底、都べて故郷を思ふ愁ならずと云事なし。豈天下の主として、身富貴に居する人、好で諸国を可修行哉。只身安く楽に誇ては、世難治事を知る故に、三年の間只一人、山川を斗薮し給ける心の程こそ難有けれと、感ぜぬ人も無りけり。又報光寺・最勝園寺二代の相州に仕へて、引付の人数に列りける青砥左衛門と云者あり。数十箇所の所領を知行して、財宝豊なりけれ共、衣裳には細布の直垂、布の大口、飯の菜には焼たる塩、干たる魚一つより外はせざりけり。出仕の時は木鞘巻の刀を差し木太刀を持せけるが、叙爵後は、此太刀に弦袋をぞ付たりける。 |
「私自身に落ち度がないからといって関東へ訴え出れば、(主君である)仙洞様(上皇)の誤りを指摘するようなものだ。たとえ一家が今滅びようとも、どうして臣下として君主の過失を挙げられようか。(貞時はさらに言われた:)力もなく運命が巡って嘆くべき時に嘆かないだけのことですから」と言ったので、修行者(北条貞時)は感涙を押さえて立ち去っていった。誰であるかは知られていない。関東に戻り居所についた後、真っ先にこの件をありのままにお話しになったところ、仙洞様(上皇)は大いに恥じ入られ久我内大臣の旧領地全てが早速お返しされた。こうして初めてこの修行者が貞時だと知られたのである。(君主たる者の旅路について:)一日や二日の短い期間とはいえ、放浪する哀れさは深く言い尽くせない。ましてや雲霞万里の道を想像しただけで憂うべきことなのに、(実際には)深山の道で日が暮れると苔むす筵に露を敷き、遠い野原を分け彷徨えば草枕に霜を結ぶ。(旅人は)渡し場で船出を呼び求め山頂では帰路を見失う。煙る蓑笠や破れた草鞋の底まで故郷を思わぬものはない。天下の主として富貴にある身分の者が、どうして好んで諸国を行脚できようか。(貞時が)ただひたすら安楽に身を置こうとせず(修行したのは)、世の中の治めにくさを知るためであり三年間独りで山川を巡られたそのお心遣いは尊く感じない者はいなかった。また報光寺・最勝園寺二代の相州(北条氏)に仕え引付衆に列なった青砥左衛門という者がいた。数十箇所の領地を知行し財宝は豊かであったが、衣服には木綿の直垂と布製の大口袴を着用し食事のおかずも焼き塩や干魚一品以外は取らなかった。(彼は)出仕時には白木鞘巻の刀を差し木太刀を持っていたが叙爵後はこの太刀に弦袋をつけるようになった。 解説1. 「嘆訴拒否」場面の政治思想: 2. 旅路描写の文学的特徴: 3. 青砥左衛門像の歴史的意義: 4. 作品構成上の機能: |
| 加様に我身の為には、聊も過差なる事をせずして、公方事には千金万玉をも不惜。又飢たる乞食、疲れたる訴詔人などを見ては、分に随ひ品に依て、米銭絹布の類を与へければ、仏菩薩の悲願に均き慈悲にてぞ在ける。或時徳宗領に沙汰出来て、地下の公文と、相摸守と訴陳に番事あり。理非懸隔して、公文が申処道理なりけれ共、奉行・頭人・評定衆、皆徳宗領に憚て、公文を負しけるを、青砥左衛門只一人、権門にも不恐、理の当る処を具に申立て、遂に相摸守をぞ負しける。公文不慮に得利して、所帯に安堵したりけるが、其恩を報ぜんとや思けん、銭を三百貫俵に裹て、後ろの山より潜に青砥左衛門が坪の内へぞ入れたりける。青砥左衛門是を見て大に忿り、「沙汰の理非を申つるは相摸殿を奉思故也。全地下の公文を引に非ず。若引出物を取べくは、上の御悪名を申留ぬれば、相摸殿よりこそ、悦をばし給ふべけれ。沙汰に勝たる公文が、引出物をすべき様なし。」とて一銭をも遂に不用、迥に遠き田舎まで持送せてぞ返しける。又或時此青砥左衛門夜に入て出仕しけるに、いつも燧袋に入て持たる銭を十文取はづして、滑河へぞ落し入たりけるを、少事の物なれば、よしさてもあれかしとてこそ行過べかりしが、以外に周章て、其辺の町屋へ人を走らかし、銭五十文を以て続松を十把買て下、是を燃して遂に十文の銭をぞ求得たりける。 |
「このように自分自身のためには、少しも贅沢なことはせずに、公務のこととなれば千の金や万の宝玉さえ惜しまない。また飢えた乞食や疲れ切った訴人などを見ると、身分や状況に応じて米・銭・絹・布などを与えたので、(その慈悲は)仏菩薩の悲願にも匹敵するものだった。ある時徳宗領で裁判が行われ、地下人の公文と相模守(北条氏一門)との訴訟があった。(両者の主張には)理非の差が大きく、公文の申し立てに正当性があるのに、奉行・頭人・評定衆は皆徳宗領を憚って公文を敗訴させた。しかし青砥左衛門だけは権力者をも恐れず、正しい道理を詳細に述べて遂に相模守を敗訴させた。公文は予期せぬ勝利を得て所領安堵したが、その恩返しと思われようか、(後日)銭三百貫を俵に包んで裏山から密かに青砥左衛門の屋敷内に入れた。これを見た青砥左衛門は大いに怒り『裁判で理非を述べたのは相模殿(主君)への忠義であって、地下人の公文を引き立てるためではない。もし賄賂を受け取れる立場なら、(不正判決で)朝廷の悪名を止めなかったのであり、その場合は相模殿こそ喜ばれたはずだ。裁判に勝った公文が賄賂などする道理がない』と言って一銭も受け取らずはるか遠い田舎まで送り返した。またある時この青砥左衛門が夜に出仕中、いつも燧袋に入れて持つ十文の銭を落として滑川へ流し込んでしまった。(普通なら)些細なものだからそのまま通り過ぎる所だが、(彼は案外に慌てふためき近くの町屋から人を使いに走らせ、五十文で松明を十把買い求めこれを燃やして遂に十文の銭を見つけ出した。」 解説1. 青砥左衛門像と中世武士道: 2. 裁判エピソードの構造的意義: 3. 「十文銭逸話」の修辞効果: 4. 作品全体における位置付け: |
| 後日に是を聞て、「十文の銭を求んとて、五十にて続松を買て燃したるは、小利大損哉。」と笑ければ、青砥左衛門眉を顰て、「さればこそ御辺達は愚にて、世の費をも不知、民を慧む心なき人なれ。銭十文は只今不求は滑河の底に沈て永く失ぬべし。某が続松を買せつる五十の銭は商人の家に止まて永不可失。我損は商人の利也。彼と我と何の差別かある。彼此六十の銭一をも不失、豈天下の利に非ずや。」と、爪弾をして申ければ、難じて笑つる傍の人々、舌を振てぞ感じける。加様に無私処神慮にや通じけん。或時相摸守、鶴岡の八幡宮に通夜し給ける暁、夢に衣冠正しくしたる老翁一人枕に立て、「政道を直くして、世を久く保たんと思はゞ、心私なく理に不暗青砥左衛門を賞翫すべし。」と慥に被示と覚へて、夢忽覚てげり。相摸守夙に帰、近国の大庄八箇所自筆に補任を書て、青砥左衛門にぞ給ひたりける。青砥左衛門補任を啓き見て大に驚て、「是は今何事に三万貫に及ぶ大庄給り候やらん。」と問奉りければ、「夢想に依て、先且充行也。」と答給ふ。青砥左衛門顔を振て、「さては一所をもえこそ賜り候まじけれ。且は御意の通も歎入て存候。物の定相なき喩にも、如夢幻泡影如露亦如電とこそ、金剛経にも説れて候へば、若某が首を刎よと云夢を被御覧候はゞ、無咎共如夢被行候はんずる歟。 |
「後日これを聞いた者が『十文の銭を見つけようとして五十文も松明を買って燃やすとは、小さな得のために大きな損をするものだな』と笑うと、青砥左衛門は眉をひそめて言った。『だからこそあなた方は愚かで世の中の無駄を知らず民を思いやる心がないのだ。十文の銭を今探さなければ滑川の底に沈んで永久に失われるだろうが、私が松明購入に使った五十文は商人のもとにとどまり永遠に消えない。私の損は商人の利益だ。彼と私に何の違いがあるか?双方合わせて六十文のお金を一つも失わずにおさめたのだから天下にとって有利ではないか』と爪弾きしながら言うと、無理やり笑っていた周囲の人々は舌を振って感心した。(青砥左衛門の)このように私心がない様子が神意に通じたのか。ある時相模守(北条氏一門)が鶴岡八幡宮で徹夜祈祷された明け方、夢の中で衣冠正装の老人一人が枕元に立ち『政道を正しくして世を長く保とうと思うなら心に私なく道理を見誤らない青砥左衛門を重用せよ』とはっきり告げられる夢を見て目覚めた。相模守は早朝帰還し近国の八箇所の大規模荘園(三万貫相当)の補任状自筆で書き青砥左衛門に与えた。青砥左衛門が任命書を開いて見ると非常に驚き『これはいったい何事でしょう?私ごとき者へ三万貫もの領地をお与えになるのですか』と尋ねたところ(相模守は)「夢のお告げによる仮の恩賞だ」と答えられた。青砥左衛門は首を振って言った。『それでは一箇所たりともお受けできません。(任命が夢に基づくなら)仮にお命じになられても困惑するばかりです。世の中のはかなさを「夢幻泡影の如く露また電光の如し」と金剛経にも説かれていますから、もし私の首を刎ぜよという夢をご覧になった場合無実でもただ夢だとして処刑されるのでしょうか』」 解説1. 「十文銭論争」における経済思想: 2. 夢告エピソードの政治的機能: 3. 前段落との思想的連続性:
- 無私の一貫性: 「続松購入」(自費処理)→「荘園辞退」で公私混同拒否を徹底
- 反権力構造: 前段賄賂拒否(下位者から)と本段落恩賞辞退(上位者へ)の対称的構図 4. 歴史的リアリティ検証: |
| 報国の忠薄して、超涯の賞を蒙らん事、是に過たる国賊や候べき。」とて、則補任をぞ返し進せける。自余の奉行共も加様の事を聞て己を恥し間、是までの賢才は無りしか共、聊も背理耽賄賂事をせず。是以平氏相州八代まで、天下を保し者也。夫政道の為に怨なる者は、無礼・不忠・邪欲・功誇・大酒・遊宴・抜折羅・傾城・双六・博奕・剛縁・内奏、さては不直の奉行也。治りし世には是を以て誡とせしに、今の代の為体皆是を肝要とせず。我こそ悪からめ。些礼義をも振舞、極信をも立る人をば、「あら見られずの延喜式や、あら気詰の色代や。」とて、目を引、仰に倒笑ひ軽謾す。是は只一の直なる猿が、九の鼻欠猿に笑れて逃去けるに不異。又仏神領に天役課役を懸て、神慮冥慮に背かん事を不痛。又寺道場に懸要脚僧物施料を貪事を業とす。是然上方御存知なしといへ共、せめ一人に帰する謂もあるか。角ては抑世の治ると云事の候べきか。せめては宮方にこそ君も久艱苦を嘗て、民の愁を知食し候。臣下もさすが知慧ある人多候なれば、世を可被治器用も御渡候覧と、心にくゝ存候へ。」と申せば、鬢帽子したる雲客打ほゝ笑て、「何をか心にくゝ思召候覧。宮方の政道も、只是と重二、重一にて候者を。某も今年の春まで南方に伺候して候しが、天下を覆へさん事も守文の道も叶まじき程を至極見透して、さらば道広く成て、遁世をも仕らばやと存じて、京へ罷出て候際、宮方の心にくき所は露許も候はず。 |
「国への忠義も尽くさずに過分な恩賞を受けることなどは、これ以上の裏切り者が他にあるでしょうか。」と言って、すぐに補任状を返上した。他の役人たちもこのような話を聞いて自ら恥じ入り、今までも賢い人物がいなかったわけではないが、少しも道理に背いたり賄賂に溺れたりすることはしなかった。これによって平氏(北条家)は相模守として八代まで天下を治められたのである。そもそも政治の道で問題となるのは、無礼・不忠実・邪な欲望・功績の誇示・大酒・遊興・乱暴者・遊女・双六・賭博・強引な縁故・不正な上奏、そして不正直な役人である。治まっていた世の中ではこれを戒めとしたのに、今の時代はむしろこれらを肝要としないのだろうか?自分こそ悪者かもしれないが、わずかに礼儀正しく振る舞い誠実さを持つ人物に対して、「あれ見たことのない古式ゆかしい作法だな」とか「気詰まりな堅物め」などと言って、目を吊り上げて後ろに反り返って笑い軽蔑するのは、ただ一匹のまっすぐな猿が九匹の鼻欠け猿に笑われて逃げ去るのに変わりない。また神社仏閣領地に重税や課役をかけ神慮(天意)にも背こうとすることを痛みと思わず、さらに寺院道場で僧侶からの施物料を強要し搾取するのを常としている。これが上層部に知られていないとはいえせめて一人に帰す意味もあるのか? 結局世の中は治まると言えることがあるのだろうか? せめて宮方(朝廷側)には君主も長年苦労をなさり民の憂いをご存じであられる。臣下にもやはり知恵のある人々が多いので、世を治める手腕もあるはずと深く思います。」と言うと、鬢帽子をつけた雲客が軽く笑って「何をお思いでしょうか? 宮方の政治もただ重二(単純な反復)や重一(稚拙さ)のようなものですよ。私も今年の春まで南方に伺候していましたが天下を覆そうとする企ても文治政策もうまくいかないほど極限を見透かしてしまったので、それならば世捨て人となりましょうと思って京へ出た折には宮方のかっこういいところなど露ほどのこともありませんでした。」 解説1. 「補任返上」の倫理的含意: 2. 腐敗リストと社会病理: 3. 猿寓話の政治学的意義: 4. 宮方(南朝)への希望的観測とその崩壊: 5. 寺院搾取描写の歴史的実態: 6. 全体構造における諷刺手法: |
| 先以古思候に昔周の大王と申ける人、■と云所に御坐しけるを、隣国の戎共起て討んとしける間、大王牛馬珠玉等の宝を送て、礼を成けれ共尚不止。早く国を去て不出、以大勢可責由をぞ申ける。万民百姓是を忿て、「其儀ならば、よしや我等身命を捨て防ぎ戦んずる上は、大王戎に向て和を請ふ事御坐すべからず。」と申けるを、大王、「いや/\我国を惜く思ふは、人民を養はんが為許也。我若彼と戦はゞ、若干の人民を殺すべし。其を為養地を惜て、可養民を失ん事何の益か有べき。又不知隣国の戎共、若我より政道よくは、是民の悦たるべし。何ぞ強に以我主とせんや。」とて、大王■の地を戎に与へ、岐山の麓へ逃去て、悠然として居給ける。■の地の人民、「懸る難有賢人を失て、豈礼義をも不知仁義もなき戎に随ふべしや。」とて、子弟老弱引連て、同く岐山の麓に来て大王に付順ひしかば、戎は己と皆亡はてゝ、大王の子孫遂に天下の主と成給ふ。周の文王・武王是也。又忠臣の君を諌め、世を扶けんとする翔を聞に、皆今の朝廷の臣に不似。唐の玄宗は兄弟二人坐しけり。兄の宮をば寧王と申し、御弟をば玄宗とぞ申ける。玄宗位に即せ給て、好色御心深りければ、天下に勅を下して容色如華なる美人を求給しに、後宮三千人の顔色我も我もと金翠を餝しかども、天子再びと御眸を不被廻。 |
昔から考えてみると、周の大王という人が邠(びん)と呼ばれる地におられたところ、隣国の戎族どもが攻めようとしたので、大王は牛馬や珠玉などの宝物を贈り礼儀を尽くしたが、それでも止まなかった。すぐに国を去れと脅され、大軍で責めるという通告があった。万民の百姓たちはこれに憤慨して、「そういうことなら、たとえ我々が命を捨てて防ぎ戦っても、大王が戎族に向かって和睦を求めることはあってはなりません」と言ったところ、大王は「いやいや私が国を惜しむのは人民を養うためだけだ。もし彼らと戦えば多くの民の命が失われるであろう。土地を守るために必要な民を犠牲にすることに何の益があろうか?また隣国の戎族は、もし我々より政治の道が優れているならば、それは人民にとって喜びであるはずだ。なぜ無理やり私を主君としなければならないのか」と言い、大王は邠の地を戎族に譲り岐山(きざん)の麓へ逃れて悠然と暮らした。すると邠の地の人々が「かくも貴重な賢人を見捨てて、どうして礼儀を知らず仁義のない戎族に従えようか」と言い、子供や老人を引き連れ岐山の麓まで来て大王につき従ったため、戎族は自滅し尽くした。こうして大王の子孫が遂に天下の主となり、周の文王・武王となったのである。また忠臣が君主を諫めて世の中を支えようとする話を聞くと皆、今の朝廷の家臣とは似てもいないほど立派だ。唐の玄宗には兄弟二人があった。兄は寧王といい弟は玄宗といった。玄宗が帝位につかれると好色な心根が深く、天下に勅令を下して花のように美しい女性を探させたところ、後宮三千人の美女たちが競って金銀の飾りをつけたにも関わらず皇帝は二度とお目にかけることもなかった。 解説1. 「周太王」逸話の政治思想的意義: 2. 地名表記問題への対応: 3. 玄宗エピソードとの対照構造: 4. 全体における勧善懲悪メッセージ: 5. 歴史引用の実用的意図: 6. 文体変換上の注意点: |
| 爰に弘農の楊玄■が女に楊貴妃と云美人あり。養れて在深窓人未知之。天の生せる麗質なれば更に人間の類とは不見けり。或人是を媒して、寧王の宮へ進せけるを、玄宗聞召て高力士と云将軍を差遣し、道より是を奪取て後宮へぞ冊入奉りける。寧王無限無本意事に思召けれ共、御弟ながら時の天子として振舞せ給事なれば、不及力。寧王も同内裏の内に御坐有ければ、御遊などのある度毎に、玉の几帳の外金鶏障の隙より楊貴妃の容を御覧ずるに、一度び笑める眸には、金谷千樹の花薫を恥て四方の嵐に誘引れ、風に見たる容貌は、銀漢万里の月妝を妬て五更の霧に可沈。雲居遥に雷の中を裂ずは、何故か外には人を水の泡の哀とは思消べきと、寧王思に堪兼て、臥沈み歎かせ給ける御心の中こそ哀なれ。天子の御傍には、大史の官とて、八人の臣下長時に伺候して、君の御振舞を、就善悪注し留め、官庫に収る習也。此記録をば天子も不被御覧、かたへの人にも不見、只史書に書置て、前王の是非を後王の誡に備る者也。玄宗皇帝今寧王の夫人を奪取給へる事、何様史書に被注留ぬと思召ければ、密に官庫を開せて、大夫の官が注す所を御覧ずるに、果して此事を有の侭に注付たり。玄宗大に逆鱗あつて、此記録を引破て被捨、史官をば召出して、則首をぞ被刎ける。 |
さて弘農(こうのう)出身の楊玄璬(ようげんきょう)という人物に、楊貴妃という美しい娘がいた。深い閨で育てられ世間に知られていなかったが、天から授かった麗しさは人間とは思えないほどだった。ある者が仲介して寧王の宮殿へ献上したところを、玄宗皇帝がお聞きつけになり高力士という将軍を使わして道中で奪い取り、後宮にお入れになった。寧王はこの無念な出来事に心を痛められたものの、相手が実弟である天子として振る舞われることゆえ手出しできなかった。寧王も同じ内裏(だいり)の中にお住まいだったため、宴などの折に玉で飾った几帳(きちょう)の外や金鶏障子(きんけいしょうじ)の隙間から楊貴妃の姿をご覧になると、一度笑うその目は金谷園(きんこくえん)の千本もの花が香りを恥じて嵐に散るようであり、風に揺れる容姿は銀河万里の月の装いさえ妬んで五更(ごこう)の霧の中へ沈むかのように見えた。雲居(うんきょ=宮殿)で雷鳴が響くたび「なぜ外では人々があれを水泡のように儚いと言わないのか」と寧王は思い悩み、床に伏して嘆かれるお心の内は哀切そのものだった。天子のおそばには大史(たいし)という官職があり八人の臣下が常時侍って君主の行跡を善悪記録し公文庫へ収める慣わしであった。この記録は天子もご覧にならず他人にも見せず、ただ歴史書に残して前代帝王の是非を後世への戒めとするものである。玄宗皇帝は今回寧王夫人を奪った件が史書へ書き留められたかとお疑いになり密かに公文庫を開けさせたところ、大夫(たいふ)役人の記述通りしっかり記載されていた。激怒した玄宗はこの記録を引き裂いて破棄し、史官を呼び出してすぐさま首をお刎ねにされた。 解説1. 「楊玄璬」の補完根拠: 2. 寧王悲嘆描写の文学的解釈: 3. 史官制度の歴史的典拠: 4. 暴君描写における構造的意義: 5. 現代語訳における文脈調整: 6. 全体の警世的メッセージ: |
| 其より後大史の官闕て、此職に居る人無りければ、天子非を犯させ給へども、敢て憚る方も不御坐。爰に魯国に一人の才人あり。宮闕に参て大史の官を望みける間、則左大史に成して天子の傍に慎随ふ。玄宗又此左大史も楊貴妃の事をや記し置たる覧と思召て、密に又官庫を開せ記録を御覧ずるに、「天宝十年三月弘農楊玄■女為寧王之夫人。天子聞容色之媚漫遣高将軍、奪容后宮。時大史官記之留史書云云。窃達天覧之日、天子忿之被誅史官訖。」とぞ記したりける。玄宗弥逆鱗有て、又此史官を召出し則車裂にぞせられける。角ては大史の官に成る者非じと覚たる処に、又魯国より儒者一人来て史官を望ける間、軈て左大史に被成。是が注す処を又召出して御覧ずるに、「天宝年末泰階平安而四海無事也。政行漸懈遊歓益甚。君王重色奪寧王之夫人。史官記之或被誅或被車裂。臣苟為正其非以死居史職。後来史官縦賜死、続以万死、為史官者不可不記之。」とぞ記したりける。己が命を軽ずるのみに非ず、後史官に至まで縦万人死する共不記有べからずと、三族の刑をも不恐注留し左大史が忠心の程こそ難有けれ。玄宗此時自の非を知し食し、臣の忠義を叡感有て、其後よりは史官を不被誅、却て大禄をぞ賜りける。人として死不痛云事なければ、三人史官全く誅を非不悲。 |
その後、大史(歴史記録官)の役職が欠けており、この任務につく者がいなかったため、天子は過ちを犯されても恐れる相手もおられなかった。さて魯国に一人の有能な人物がいた。宮廷へ参上し大史の役職を望んだので、すぐ左大史(首席記録官)として任命され、天子のそばで慎み深く仕えた。玄宗皇帝はまたこの左大史も楊貴妃の件を書き残したのではないかとお疑いになり、密かに公文庫を開けさせて記録をご覧になると、「天宝十年三月、弘農出身の楊玄璬(ようげんきょう)の娘が寧王夫人となる。天子はその美貌を知り高将軍を使わし奪って後宮に入れた。当時大史官がこれを記述して歴史書に残す」と書き留められていた。密かに天子の目に触れそうになった際、激怒した皇帝はこの史官を処刑された。玄宗はますます逆鱗にふれて再びこの史官を呼び出し車裂き(手足を引き裂く刑)にされられた。こうなると大史になる者はいないだろうと思われたところへ、また魯国から学者一人が来て史官を望んだので、やがて左大史に任命された。この者が記録したものを再び取り寄せてご覧になると、「天宝年末は天下太平で四海何事もなかったのに政治は次第におろそかになり遊興はいっそう激しくなった。君主は色欲を重んじて寧王夫人を奪う。史官がこれを記すと処刑されたり車裂きにされる。私は非を正して死をも辞さずこの任務につく。後の世の史官たる者、万人が死しても書き続けねばならぬ」と記載されていた。(彼は)自らの命を軽んじるだけでなく後代の史官へも「仮に万人死すとも記録しないわけにはいかない」と書いており三族(父・子・孫一族皆殺し刑)をも恐れず書き残した左大史の忠誠心は実に見事だった。玄宗皇帝はこの時自らの過ちを悟り臣下の忠義に深く感じ入って、その後からは史官を処刑せずかえって厚い禄を与えられた。人は死を悲しまない者はなく三人の史官が皆誅殺されるのは全く痛ましいことである。 解説1. 史官制度と権力監視機能: 2. 忠臣描写における文体操作: 3. 玄宗改心描写の歴史的真実性: 4. 欠字処理と固有名詞統一: 5. 全体構造における警世的意義: 6. 暴力的描写の文学的機能: |
| 若恐天威不注君非、叡慮無所憚悪き御翔尚有ぬと思し間、死罪に被行をも不顧、是を注し留ける大史官の心の中、想像こそ難有けれ。国有諌臣其国必安、家有諌子其家必正し。されば如斯君も、誠に天下の人を安からしめんと思召し、臣も無私君の非を諌申人あらば、是程に払棄る武家の世を、宮方に拾て不捕や。か程に安き世を不取得、三十余年まで南山の谷の底に埋木の花開く春を知ぬ様にて御坐を以て、宮方の政道をば思ひ遣せ給へ。」と爪弾をしてぞ語りける。両人物語、げにもと聞居て耳を澄す処に、又是は内典の学匠にてぞある覧と見へつる法師、熟々と聞て帽子を押除菩提子の念珠爪繰て申けるは、「倩天下の乱を案ずるに、公家の御咎共武家の僻事とも難申。只因果の所感とこそ存候へ。其故は、仏に無妄語と申せば、仰で誰か信を取らで候べき。仏説の所述を見に、増一阿含経に、昔天竺に波斯匿王と申ける小国の王、浄飯王の聟に成んと請ふ。浄飯王御心には嫌はしく乍思召辞するに詞や無りけん、召仕はれける夫人の中に貌形無殊類勝たるを撰で、是を第三の姫宮と名付給て、波斯匿王の后にぞ被成ける。軈此后の御腹に一人の皇子出来させ給ふ。是を瑠璃太子とぞ申ける。七歳に成せ給ける年、浄飯王の城へ坐して遊ばれけるが、浄飯王の同じ床にぞ坐し給たりける。 |
もし天子の威光を恐れて君主の過ちを記さず、おそれるべき悪事もないとお考えになるならば(中略)、死罪に処されても顧みず書き残した大史官たちの心中は想像するのも難しい。国に諫言を行う臣がいればその国は必ず安泰であり、家に忠告をする子がいるならその家は正しくなる。だからこのような君主も(玄宗のように)、本当に天下の人々を安らかにしようとお思いになり、私心なく君の非を諌める人がいれば、これほど荒れ果てた武家の世の中でも宮方(朝廷)が捨て置かず取り戻せただろう。このように平和な世を得られないまま三十年以上も南山の谷底で埋もれた木のように花開く春を知らずにおられるのであって、どうか宮方の政治を思い悩みお過ごしください。」と(琵琶を)指ではじきながら語った。二人は物語に納得して耳を傾けているところへ、今度は仏典に通じた学匠らしい法師がおり、深く聞いて帽子を取り念珠をもみしだらしながら言うことには、「考えてみれば天下の乱れについて公家側の過ちも武家側の不正も一概に非難できません。ただ因果応報によるものと存じます。その理由は仏様が虚偽を語らないと言われるなら、誰か信頼しないことがありましょうや(いえありません)。仏教経典にあることを見ると増一阿含経には昔インドに波斯匿王という小国の王がおり浄飯王の娘婿になりたいと願った。ところで浄飯王は内心嫌だったものの断る言葉もなかったようだか召し使っていた女官たちの中から姿形が特に優れた者を選びこれをお三番目の姫君として名付けられ波斯匿王の妃になさせられたのです。やがてこの后様のお腹に一人皇子がお生まれになったこれを瑠璃太子と申した七歳におなりになる年浄飯王の城へ遊びに行かれたところ同じ床にお座りあそばされた。 解説1. 諫言(かんげん)思想の深化: 2. 仏教因果論への転換: 3. 比喩表現の文学的処理: 4. 固有名詞と典拠の扱い: 5. 構造的意義: 6. 社会背景反映: |
| 釈氏諸王大臣是を見て、「瑠璃太子は是実の御孫には非、何故にか大王と同位に座し給べき。」とて、則玉の床の上より追下し奉る。瑠璃太子少き心にも不安事に思召ければ、「我年長ぜば必釈氏を滅して此恥を可濯。」と深く悪念をぞ被起ける。さて二十余年を歴て後、瑠璃太子長となり浄飯王は崩御成しかば、瑠璃太子三百万騎の勢を卒して摩竭陀国の城へ寄給ふ。摩竭陀国は大国たりといへ共、俄の事なれば未国々より馳参らで、王宮已に被攻落べく見へける処に、釈氏の刹利種に強弓共数百人有て、十町二十町を射越しける間、寄手曾不近付得、山に上り河を隔て徒に日をぞ送りける。斯る処に釈氏の中より、時の大臣なりける人一人、寄手の方へ返忠をして申けるは、「釈氏の刹利種は五戒を持たる故に曾て人を殺事をせず。縦弓強して遠矢を射る共人に射あつる事は不可有。只寄よ。」とぞ教へける。寄手大に悦て今は楯をも不突鎧をも不著、時の声を作りかけて寄けるに、げにも釈氏共の射る矢更に人に不中、鉾を仕ひ剣を抜ても人を斬事無りければ、摩竭陀国王宮忽に被責落、釈氏の刹利種悉一日が中に滅んとす。此時仏弟子目連尊者、釈氏の無残所討れなんとするを悲て、釈尊の御所に参て、「釈氏已に瑠璃王の為に被亡て、僅に五百人残れり。 |
釈迦族の王たちと大臣はそれを見て、「瑠璃太子は本当の御孫ではないのに、なぜ大王と同じ位に座っていられるのか。」と言い、すぐさま玉の床から引きずり降ろした。瑠璃太子は幼い心にも不満なことと思われたので、「私が年を取ったら必ず釈迦族を滅ぼしてこの恥を晴らそう」と深く悪意を起こされた。そして二十数年後、瑠璃太子が成長し浄飯王も亡くなられたため、瑠璃太子は三百万騎の軍勢を率いて摩竭陀国の城に攻め寄せた。摩竭陀国は大国であるけれど突然のことだったのでまだ各国から援軍が駆けつける前に、王宮がもう攻め落とされそうに見えたその時、釈迦族の中の刹帝利たちには強力な弓を持つ数百人がいて十町二十町を射越すほどであったため、攻撃側は全く近づくことができず山に登り川を隔て無為に日々を過ごしていた。そんな中で釈迦族の中から当時の大臣だった一人が攻め手の味方へ裏切って申した、「釈迦族の刹帝利たちは五戒を持っているので決して人を殺すことはない。たとえ弓が強く遠矢を射るとしても人に命中することはありえない。ただどんどん攻めてこい。」そう教えたのだ。攻め手は大いに喜び今や盾も突かず鎧も着けず鬨の声を上げて押し寄せると、確かに釈迦族たちが放つ矢は全く人に当たらず槍を使い剣を抜いても人を斬ることはなかったので摩竭陀国王宮は忽ち攻め落とされ釈迦族の刹帝利たちすべて一日で滅ぼそうとした。この時仏弟子目連尊者が、釈迦族があまりにも無残に殺されることを悲しんでお釈迦様のもとに参り「釈迦族はすでに瑠璃王のために亡ぼされわずか五百人が残っている。」 解説1. 因果応報の劇的展開: 2. 仏教戒律による逆説的悲劇: 3. 戦闘描写の文学的効果: 4. 固有名詞の歴史的背景: 5. 社会批判的側面: |
| 世尊何ぞ以大神通力五百人の刹利種を不助給や。」と被申ければ、釈尊、「止々、因果の所感仏力にも難転。」とぞ宣ける。目連尊者尚も不堪悲に、「縦定業也共、以通力是を隠弊せんになどか不助や。」と思召て、鉄鉢の中に此五百人を隠入て、■利天にぞ被置ける。摩竭陀国の軍はてゝ瑠璃王の兵共皆本国に帰ければ、今は子細非じとて目連神力の御手を暢て、■利天に置れたる鉢を仰けて御覧ずるに、以神通被隠五百人の刹利種、一人も不残死けり。目連悲て其故を仏に問奉。仏答て宣く、「皆是過去の因果也。争か助る事を得ん。其故は、往昔に天下三年旱して無熱池の水乾けり。此池に摩羯魚とて尾首五十丈の魚あり。又多舌魚とて如人言ふ魚あり。此に数万人の漁共集て水を換尽し、池を旱て魚を捕んとするに、魚更になし。漁父共求るに無力空く帰んとしける処に、多舌魚岩穴の中より這出て、漁父共に向て申けるは、『摩羯魚は此池の艮の角に大なる岩穴を掘て水を湛、無量の小魚共を伴ひて隠居たり。早く其岩を引除て隠居たる摩羯魚を可殺。加様に告知せたる報謝に、汝等我命を助よ。』と委く是を語て、多舌魚は岩穴の中へぞ入にける。漁父共大に悦て件の岩を掘起して見に、摩羯魚を始として五丈六丈ある大魚共其数を不知集居たり。 |
目連尊者は「お釈迦様はなぜ大いなる神通力で五百人の刹帝利たちをお助けにならなかったのか」と申し上げると、お釈迦様は「よせよせ。原因と結果によって生じる影響は仏の力でも変えがたいのだ。」とおっしゃった。目連尊者はなおも悲しみに耐えられず、「たとえ定められた運命だとしても、神通力で彼らを隠して助けることがなぜできなかったのか」と思い立ち、鉄の鉢の中にこの五百人を隠しいれて忉利天(とうりてん)にお置きになった。摩竭陀国の軍勢が引き上げ瑠璃王の兵たちも皆本国へ帰ったため、「今はもう問題ないだろう」と考えた目連尊者は神通力のお手を伸ばし、忉利天に置いた鉢を見上げてご覧になると、神通力で隠されていた五百人の刹帝利たちが一人残らず死んでいた。目連は悲しみその理由をお釈迦様にお尋ねした。お釈迦様は答えてこうおっしゃった。「これらはすべて過去の原因と結果によるものだ。どうして助けることができようか? そのわけを言えば、むかし世の中が三年間干ばつに見舞われて無熱池(むねつち)の水が枯れた時である。この池に摩羯魚(まかつぎょ)という頭から尾まで五十丈もある魚と、多舌魚(たぜつぎょ)という人の言葉を話す魚がいた。そこへ数万人もの漁師たちが集まり水を汲み尽くし、池の水干して魚を捕らえようとしたが、魚は全くいなかった。漁師たちが探しても見つけられず空しく帰ろうとしていたところに、多舌魚が岩穴の中からはい出てきて、漁師たちに向かってこう言った『摩羯魚はこの池の北東の角にある大きな岩穴を掘り水を溜め、無数の小さな魚たちを伴って隠れ住んでいる。早くその岩を取り除いて隠れた摩羯魚を殺すがよい。このように教えたお礼に私の命を助けてくれ』と詳しく語ると多舌魚は岩穴の中へ入っていった。漁師たちは大いに喜び、指された岩を掘り起こして見たところ、摩羯魚を始めとして五丈六丈ある大きな魚たちが数えきれないほど集まっていた。 解説1. 仏教の宿命観と限界性: 2. 寓話としての魚譚: 3. 時間軸操作による因果律証明: 4. 数値表現の宗教的意義: 5. 社会倫理的含意: |
| 小水に吻く魚共なれば、何くにか可逃去なれば、不残漁父に被殺、多舌魚許を生たりけり。されば此漁父と魚と諸共に生を替て後、摩羯魚は瑠璃太子の兵共と成り、漁父は釈氏の刹利種となり、多舌魚は今返忠の大臣と成て摩竭陀国を滅しける。又舎衛国に一人の婆羅門あり。其妻一りの男を産り。名をば梨軍支とぞ号しける。貌醜く舌強くして、母の乳を呑する事を不得。僅に酥蜜と云物を指に塗り、舐せてぞ命を活けたりける。梨軍支年長じて家貧く食に飢たり。爰に諸の仏弟子達城に入て食を乞給ふが、悉鉢に満て帰給を見て、さらば我も沙門と成て食に飽ばやと思ひければ、仏の御前に詣でゝ、出家の志ある由を申に、仏其志を随喜し給て、『善来比丘於我法中快修梵行得尽苦際。』と宣へば、鬢髪を自落て沙門の形に成にけり。角て精勤修習せしかば軈阿羅漢果をぞ得たりける。さても尚貧窮なる事は不替。長時に鉢を空くしければ仏弟子達是を憐て、梨軍支比丘に宣ひけるは、『宝塔の中に入て坐よ。参詣の人の奉んずる仏供を請て食んに不足あらじ。』とぞ教られける。梨軍支悦て塔の中に入て眠居たる其間に、参詣の人仏供を奉りたれ共更に是を不知。時に舎利弗五百人の弟子を引て、他邦より来て仏塔の中を見給に、参詣の人の奉る仏供あり。 |
小さな水たまりでひしめき合う魚たちだったので、逃げる場所もなくすべて漁師たちに殺され、多舌魚だけが生き延びた。こうしてこの漁師と魚たちは共に生まれ変わり、後には摩羯魚は瑠璃太子の兵士たちとなり、漁師たちは釈迦族の刹帝利となり、多舌魚は裏切り者の大臣となって摩竭陀国を滅ぼしたのである。 また舎衛国に一人のバラモンがいた。その妻は男児を産み、名を梨軍支と称した。容姿は醜く舌が硬かったため、母の乳を飲むことができず、わずかに「酥蜜」というものを指に塗り舐めさせて命をつないだ。 解説1. 輪廻転生と因果応報の構造: 2. 梨軍支説話の宗教的意義: 3. 時間軸操作と物語技法: 4. 社会階級描写の背景: 5. 説話全体の思想的基盤: |
| 是を払集て、乞丐人に与へ給ふ。其後梨軍支眠醒て、食せんとするに物なし。足摺をしてぞ悲ける。舎利弗是を見給て、『汝強に勿愁事、我今日汝を具して城に入り、旦那の請を可受。』とて伽耶城に入て、檀那の請を受給。二人の沙門已に鉢を挙て飯を請けんとし給ける処に、檀那の夫婦俄喧をし出して、共に打合ける間、心ならず飯を打こぼして、舎利弗・梨軍支共に餓てぞ帰給ける。其翌の日又舎利弗、長者の請を得て行給ひけるが、梨軍支比丘を伴ひ連給ふ。長者五百の阿羅漢に飯を引けるが、如何して見はづしたりけん。梨軍支一人には不引けり。梨軍支鉢を捧て高声に告けれども人終に不聞付ければ、其日も飢て帰にける。阿難尊者此事を憐て、『今日我仏に随奉て請を受るに、汝を伴て飯に可令飽。』と約し給。阿難既に仏に随て出給時に、梨軍支に約束し給つる事を忘て、連給はざりければ、今日さへ鉢を空して徒然としてぞ昏しける。第五日に、阿難又昨日梨軍支を忘たりし事を浅猿く思召て、是に与ん為に或家に行て飯を乞て帰給。道に荒狗数十疋走進ける間、阿難鉢を地に棄て、這々帰給しかば、其日も梨軍支餓にけり。第六日に、目連尊者梨軍支が為に食を乞て帰給に、金翅鳥空中より飛下て、其鉢を取て大海に浮べければ、其日も梨軍支餓にけり。 |
これら(供物)をかき集めて乞食たちに与えられた。その後で梨軍支は眠りから覚め、食べようとしたが何もなかったので地団駄踏んで嘆いた。舎利弗はこれを見て、「無理に悲しまないように。今日私はお前を連れて町に入り施主の招きを受けよう」と言い、伽耶城に入って檀那(施主)からの招待を受けた。二人の沙門がすでに鉢を掲げ食事を受け取ろうとしたところ、檀那の夫婦が突然けんかを始めて互いに殴り合う間に、思わず飯をこぼしてしまい、舎利弗と梨軍支は共に空腹で帰ることになった。 その翌日また舎利弗は長者の招待を得て出かけた際、梨軍支比丘を連れて行った。長者が五百人の阿羅漢に食事を配っていたが、どうしたことか見落としたのか、梨軍支一人には与えなかった。梨軍支が鉢を捧げて大声で訴えたものの誰も気づかなかったため、その日も空腹で帰ることになった。 阿難尊者はこの様子を哀れに思い、「今日私は仏にお供して招きを受けるのでお前を連れて行って満腹させよう」と約束した。しかし阿難がすでに仏について出かけた際、梨軍支との約束を忘れて連れて行かなかったため、その日も彼は鉢を空のままで虚しく暮らした。五日目には阿難が昨日梨軍支を忘れたことを恥ずかしく思い、彼のために食事を与えようとある家に行って飯を乞い帰ろうとした。道中で野良犬数十匹が走り寄ったため、阿難は鉢を地面に放り投げて慌てふためいて逃げ帰ったので、その日も梨軍支は飢えたままだった。 六日目には目連尊者が梨軍支のために食事を乞い帰ろうとした際、金翅鳥(神話の大鳥)が空中から飛び降り鉢を奪って大海に投げ入れたため、その日も梨軍支は飢えた。 解説1. 業(カルマ)と救済不可能性の深化: 2. 身体的飢餓の宗教的意味: 3. 動物モチーフと業報の可視化: 4. 社会批判的側面: 5. 説話技法と思想的頂点: |
| 第七日に、舎利弗又食を乞て、梨軍支が為に持て行給に、門戸皆堅く鎖して不開。舎利弗以神力其門戸を開て内へ入給へば、俄に地裂て、御鉢金輪際へ落にけり。舎利弗、伸神力手御鉢を取上げ飯を食せんとし給に、梨軍支が口俄に噤て歯を開く事を不得。兔角する程に時已に過ければ、此日も食はで餓にけり。此に梨軍支比丘大に慚愧して、四衆の前にして、『今は是ならでは可食物なし。』とて、砂をかみ水を飲て即涅槃に入けるこそ哀なれ。諸の比丘怪て、梨軍支が前生の所業を仏に問奉る。于時世尊諸の比丘に告曰、『汝等聞け、乃往過去に、波羅奈国に一人の長者有て名をば瞿弥といふ。供仏施僧の志日々に不止。瞿弥已に死して後、其妻相続て三宝に施する事同じ。長者が子是を忿て其母を一室の内に置き、門戸を堅く閉て出入を不許。母泣涕する事七日、飢て死なんとするに臨で、母、子に向て食を乞に、子忿れる眼を以て母を睨て曰、「宝を施行にし給はゞ、何ぞ砂を食ひ水を飲で飢を不止。」と云て遂に食物を不与。食絶て七日に当る時母は遂食に飢て死ぬ。其後子は貧窮困苦の身と成て、死して無間地獄に堕す。多劫の受苦事終て今人中に生る。此梨軍支比丘是也。沙門と成即得阿羅漢果事は、父の長者が三宝を敬し故也。 |
七日目には、舎利弗がまた食を得て梨軍支のために持って行こうとしたところ、扉はすべて固く閉ざされていて開かなかった。そこで舎利弗が神通力でその戸をこじ開けて中に入ると、突然地面が割れ、鉢が金輪際(地の底)まで落ちてしまった。舎利弗が神通力を伸ばして手で鉢を取り上げ、飯を与えようとしたところ、梨軍支の口が急に閉じて歯を開くことができなかった。あれこれしているうちに時間は過ぎていき、この日も食事せず飢えたままだった。 解説1. 「七日間」の業報完結と象徴性: 2. 「砂と水による涅槃」の宗教的解釈: 3. 過去世エピソードにおける因果応報構造: 4. 社会的メッセージ性: 5. 全体主題としての業思想: |
| 其身食に飢て砂を食て死せし事は、母を飢かし殺したりし依其因果也。』」と、釈尊正に梨軍支過去の所業を説給しかば、阿難・目連・舎利弗等作礼而去給。加様の仏説を以て思ふにも、臣君を無し、子父を殺すも、今生一世の悪に非ず。武士は衣食に飽満て、公家は餓死に及事も、皆過去因果にてこそ候らめ。」と典釈の所述明に語りければ、三人共にから/\と笑けるが、漏箭頻に遷、晨朝にも成ければ、夜も已に朱の瑞籬を立出て、己が様々に帰けり。以是安ずるに、懸る乱の世間も、又静なる事もやと、憑を残す許にて、頼意は帰給にけり。 ○尾張小河東池田事 去程に小河中務丞と、土岐東池田と引合て、仁木に同心し、尾張小河庄に城を構て楯篭りたりけるを、土岐宮内少輔三千余騎にて押寄せ、城を七重八重に取巻て、二十日余り責けるが、俄拵たる城なれば、兵粮忽に尽て、小河も東池田も、共に降人に出たりけるを、土岐日来所領を論ずる事有し宿意に依て、小河中務をば則首を刎て京都へ上せ、東池田をば一族たるに依て、尾張の番豆崎の城へぞ送りける。吉良治部太輔も仁木が語ひを得て、参河国の守護代西郷兵庫助と一に成て、矢矧の東に陣を張り、海道を差塞ぎ、畠山入道が下向を支たりけるが、大島左衛門佐義高、当国の守護を給て、星野・行明等と引合ひ、国へ入ける路次の軍に打負て、西郷伊勢へ落行ければ、吉良治部太輔は御方に成て、都へぞ出たりける。 |
彼が食べ物に飢えて砂を食って死んだことは、母親を餓えさせて殺した因果の報いである。」と釈尊が梨軍支の過去の行いを説かれたので、阿難・目連・舎利弗らは礼拝して去った。このような仏教の教えに照らせば、家臣が主君を亡き者にするのも、子が父を殺すのも、今生ただ一世の悪行ではない。武士が衣食に満ち足りておりながら公家が餓死する事態も、皆過去世の因果によるのだろう。」と経典解釈で明快に語ったので、三人はともにからからと笑った。時計(漏箭)が頻繁に進み朝になると、夜はすっかり朱塗りの瑞籬(宮中垣根)を出て、それぞれの住まいへ帰った。これにより思うに、騒乱の世間も再び静まるかもしれないと期待しながら頼意は戻られた。 ○尾張小河東池田事 解説1. 因果応報の拡大適用: 2. 合戦描写の歴史的背景: 3. 構造的象徴: 4. 全体主題: |
| 是のみならず、石塔刑部卿頼房、仁木三郎を大将として、伊賀・伊勢の兵を起し、二千余騎にて近江国に打越、葛木山に陣を取。佐々木大夫判官入道崇永・舎弟山内判官、国中の勢を集て飯守岡に陣を張り数日を経る処に、九月二十八日早旦に、仁木三郎兵を印て申けるは、「当国に打越て、数日合戦に不及して徒に里氏を煩す事非本意上、伊勢の京兆も定て未練にぞ思給らん。今日吉日なれば敵を一当々て可散。但佐々木治部少輔高秀が手の者を分て守るなる市原の城を責落し、敵を一人も跡に不残、心安く合戦を可致。」とて打立ければ、石塔刑部卿も伊賀の名張が一族、当国の大原・上野の者共付順ひける間、手勢三百余騎是も同く打立て、旗を靡け兵を進めければ、此勢を見て佐々木大夫判官入道、「すはや敵こそ陣を去て色めきたれ、打立や者共。」とて兵を集ける。譜代恩顧の若党三百余騎の外は、相順勢も無りけり。敵は是が天下の要めなるべし。仁木京兆の憑たる桐一揆を始として、宗徒の勇士五百余騎に、伊賀の服部・河合の一揆馳加て、廻天の勢を振ふ。其様を見に、五百騎に足ぬ佐々木が勢可叶とは見へざりけり。され共佐々木大夫判官入道其気勇健なる者なりければ、「此軍天下の勝負を計るのみに非ず。今日打負なば弓矢の名を可失とて、僅の勢を数たに成ては叶まじ。 |
それだけでなく、石塔刑部卿頼房が仁木三郎を大将として、伊賀・伊勢の兵を挙げ二千余騎で近江国に進攻し葛木山に布陣した。佐々木大夫判官入道崇永と弟の山内判官は領国内の兵力を集めて飯守岡に数日間陣を敷いていたところ、九月二十八日の早朝、仁木三郎が軍勢を指揮して言うには、「この国に攻め込んで数日も合戦せず無駄に民衆を苦しめるのは本意ではない上、伊勢の京兆(細川氏)もきっと不満だろう。今日は吉日だから敵を一撃で退却させよう。ただし佐々木治部少輔高秀配下が守る市原城をまず攻め落とし、一人残さず殲滅してから心おきなく決戦しよう」と言って出陣したので、石塔刑部卿も伊賀の名張一族や近江の大原・上野勢ら三百余騎を率いて同様に出撃。旗を翻し進軍する様子を見た佐々木大夫判官入道は「敵がついに動いたぞ!出陣だ!」と兵を集めたが、譜代の恩顧を受けた若党三百余騎以外に従う兵力はなかった。この状況こそ天下の帰趨を決めるはずである。仁木京兆(義長)が頼みとする桐紋一揆を筆頭に宗徒の勇士五百余騎、伊賀服部・河合一揆も加わり天をも覆す勢いを見せており、五百騎にも満たない佐々木軍では太刀打ちできないと見えた。しかし佐々木大夫判官入道は豪胆な人物ゆえ、「この合戦は天下の勝敗を決めるだけでなく、今日負ければ武士としての名誉も失うのだから、少勢だと卑屈になるわけにはいかない」と言った。 解説1. 軍事作戦の詳細分析: 2. 歴史的人物の実像: 3. 戦術心理描写の巧みさ: 4. 武士道精神の核心: |
| 」とて、目賀田・楢崎・儀俄・平井・赤一揆を旗頭にて、河端に傍て引へたり。青地・馬淵・伊庭入道・黄一揆を大将として、左手の河原に陣を取。佐々木大夫判官入道に、吉田・黒田・二部・鈴村・大原・馬杉を始として、宗との兵を馬回に引へさせて、敵の真中を破んと引へたり。■弱の勢かさを見て大勢の敵などか勇まであるべき、「三手の小勢を見に、中なる四目結の大旌は、大将佐々木と見るぞ。打取て勲功に預れや。」と呼て、長野が蝿払一揆、一陣に進で懸出たり。元来佐々木は機変■控を心に得て、死を一時に定たる気分なれば、何かは些も可擬議、大勢の真中に懸入て十文字巴の字に懸散し、鶴翼魚鱗に連て東西南北に馬の足を不悩、敵の勢を懸靡て、後に小野の有けるに、西頭に馬を立直し人馬の息を継せければ、朱に成たる放馬其数を不知。蹄の下に切て落したる敵共、算を散てぞ臥たりける。是を見て残の兵気を失て、さしも深き内貴田井を天満山へと志し、左になだれて引ける間、機に乗たる佐々木が若党共、息をもくれず追懸たり。引立たる者共が、難所に追懸られて、なじかは可能。矢野下野守・工藤判官・宇野部・後藤弾正・波多野七郎左衛門・同弾正忠・佐脇三河守・高島次郎左衛門・浅香・萩原・河合・服部、宗との者共五十余人、一所にて皆討れにけり。 |
そう言って目賀田・楢崎・儀俄・平井・赤一揆らを旗頭として河の端に配置した。青地・馬淵・伊庭入道・黄一揆を大将とし左手の河原に布陣させた。佐々木大夫判官入道は吉田・黒田・二部・鈴村・大原・馬杉ら宗徒兵を親衛隊として敵中央突破を狙い待機した。劣勢な軍勢を見て大軍の敵がどうして怯むだろうかと、「三手の小部隊の中にある四目結紋の大旗は大将佐々木だ!討ち取って武功に預かれ!」と呼びかけ、長野の蠅追い一揆が先陣を切って突撃した。もともと佐々木は臨機応変の戦術心得があり死を覚悟していたため少しも躊躇せず大軍の中へ突入し十字形や巴紋のように散開して攻め、鶴翼や魚鱗の陣形で連携しながら四方に馬足を乱さず敵勢を翻弄した。後方の小野という地まで進むと西側で馬を立て直し人馬の息継ぎをする間に血に染まった放れ馬が無数になり蹄のもとに切り倒された敵兵は算木を散らすように横たわっていた。これを見て残存兵力も士気喪失し深い内貴田井から天満山目指して左側へなだれるように退却したため、好機と見た佐々木の家臣たちが息継ぎさせず追撃をかけた。逃げる者どもは難所で追いつかれどうすることもできなかった。矢野下野守・工藤判官・宇野部・後藤弾正・波多野七郎左衛門・同弾正忠(弟)・佐脇三河守・高島次郎左衛門・浅香・萩原・河合・服部ら宗徒勢五十余人が一箇所で全員討ち死にした。 解説1. 戦術的逆転の要因: 2. 戦闘描写の史料的価値: 3. 文学的表現技法: 4. 全体構造上の意義: |
| 軍散じければ、同十一月一日、彼首共を取て都に上せしかば、六条河原にぞ被懸ける。是を見ける大名・小名・僧俗・貴賎、哀哉、昨日までも詞をかはし肩を双て、見馴し朋友なれば、涙を拭て首を見、悲の思散満たり。懸りしかば仁木義長も、三千余騎と聞へし兵皆落失て五百余騎にぞ成にける。結句憑たる連枝仁木三郎は、今度軍に打負て、其侭降参して出たりける。加様に義長微々に成しかば、「軈て責よ。」とて、佐々木大夫判官入道・土岐大膳大夫入道、両人討手を承て、七千余騎にて伊勢国へ発向す。義長さしもの勇士なりしか共、兵減じ気疲れしかば、懸合て一度も軍をせず、長野が城に楯篭る。要害よければ寄手敢て不近得。土岐・佐々木は又大勢なれば、平場に陣を取れども、義長打出て散すに不及。両陣五六里を隔て、玉笥二見の浦の二年は、徒にのみぞ過しける。 |
軍勢が敗れたため、同年十一月一日、討ち取った首級を持って都へ上ると六条河原に晒された。これを見た大名・小名・僧侶や俗人・貴賎の別なく、「ああ哀れなことだ」と嘆いた。昨日まで言葉を交わし肩を並べ親しくしていた友人が多いため、涙を拭いながら首を見て悲しみが広く満ちた。この結果仁木義長も三千余騎と言われた兵はほとんど失って五百余騎に減っていた。結局頼りにしていた一族の仁木三郎(弟か)は今回の戦いに敗れ、そのまま降参して出頭したのである。こうして義長が衰退したため、「直ちに攻めよ」との命令で佐々木大夫判官入道と土岐大膳大夫入道の両名が討伐軍を引き受け七千余騎で伊勢国へ進発した。義長は並外れた勇士であったにもかかわらず、兵力が減り士気も衰えていたため正面から戦うこともできず長野城に籠城した。要害堅固なため攻撃側は近づくことすら叶わない。土岐・佐々木軍は大軍ではあったが平地に陣を敷いても義長が出撃して打ち破ることはなく、両陣営は五六里(約20-24km)離れて伊勢の玉笥山と二見ヶ浦付近で二年もの間、むなしく時だけが過ぎていった。 解説1. 戦後処理の歴史的実態: 2. 籠城戦術の特徴: 3. 時間描写の象徴性: 4. 全体構成上の意義: |
| input text 太平記\036_太平記_巻36.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第三十六 ○仁木京兆参南方事付大神宮御託宣事 都には去年の天災・旱魃・飢饉・疫癘、都鄙の間に発て、尸骸路径に充満せし事、只事にあらず、何様改元有べしとて、延文六年三月晦日に、康安に改られける。其夜四条富小路より火出て、四方八十六町まで焼失す。改元の始に、洛中加様に焼ぬる事、先不吉の表示也。此年号不可然と被申人多かりけれ共、武家既に宣下を承て国々へ施行しぬるを、いつしか又改元有ん条無其例とて、終に此年号をぞ被用ける。去程に仁木右京大夫義長は、三年が間大敵に取巻れて、伊勢の長野の城に篭りたれば、知行の地もなく、兵粮乏くなるに付て、憑切たる一族郎従漸々に落失て、僅に三百余騎に成にけり。土岐右馬頭氏光・外山・今峯、兄弟三人、始は仁木に属して城に篭りたりけるが、弟の外山・今峯は、忽に翻て寄手に加り、兄の右馬頭は、猶城に留て仁木が方にぞ居たりける。連枝の間なれば、外山・今峯、何にもして右馬頭を助ばやと思て、潜に人を遣し、「城のさのみ弱り候はぬ先に、急ぎ御降参候へ。将軍の御意も無子細候へば、御本領なども相違有まじきにて候。」と、申遣したりければ、右馬頭使に向て、兔角の返事をばせで、其文を引返て、一首の歌を書てぞ返しける。 |
太平記巻第三十六 都では去年から天災・干ばつ・飢饉・疫病が都市と地方に広がり、死体が道にあふれる異常な状態だったため、「改元すべきだ」という意見により延文6年(1361年)3月30日に康安へ改められた。その夜四条富小路から出火し四方八十六町を焼失した。改元初日に都がこれほど燃えたのは不吉な前兆であるとされた。「この年号は良くない」と言う者も多かったが、武家(幕府)が既に宣旨を受けて全国へ布告してしまったため、「すぐまた改元する先例がない」として結局康安の使用が続いた。 解説1. 歴史背景の核心点: 2. 籠城戦の心理描写: 3. 文学的技法: 4. 史料価値: |
| 連りし枝の木葉の散々にさそふ嵐の音さへぞうき外山・今峯此返事を見て、是程に思切たる人なれば、語ふ共甲斐あるまじ。げにも連枝の兄弟散々に成て後、憂世を秋の霜の下に朽なん名こそ悲けれと、泪ぐみけるぞ哀なる。日に随て勢の落行気色を見て、我力にては遂に可叶とも不思けるにや、義長潜に吉野殿へ使者を進じて、御方に可参由をぞ申入たりける。伝奏吉田中納言宗房卿、参内して事の由を被奏聞けるに、諸卿異儀多しといへ共、義長御方に参りなば、伊賀・伊勢両国、官軍に属するのみならず、伊勢の国司顕能卿の城も、心安く成ぬべしとて、則勅免の綸旨をぞ被成ける。是を承て、武者所に候ける者共が囁き申けるは、「近年源氏の氏族の中に、御方に参ずる人々を見るに、何れも以詐君を欺申さずと云者なし。先錦小路慧源禅門は、相伝譜代の家人師直・師泰等が害を遁ん為に、御方に参りしか共、当方の力を仮て、会稽の恥を雪たりし後、一日も更に天恩を重しとせず、其譴身に留て遂に毒害せられにき。其後又宰相中将義詮朝臣、御方に可参由を申て、君臣御合体の由なりしも、何か天下を君の御成敗に任せたりし堅約忽に破て、義詮江州を差て落たりしは、其偽の果所に非ずや。又右兵衛佐直冬・石堂刑部卿頼房・山名伊豆守時氏等が、御方の由なるも、都て実共不覚。 |
外山・今峯兄弟がこの返答を見て、「これほど固い決意の人だから説得しても無駄だろう」と思った。「確かに血縁の兄弟が離散した後、憂き世を秋の霜に朽ちる名こそ悲しい」と涙ぐんだのは哀れであった。日々勢力が衰える様子を見て自力ではどうにもならないと考えたのか、義長は密かに吉野(南朝)へ使者を送り帰属したい旨を申し入れた。伝奏役の吉田中納言宗房卿が参内してこの経緯を天皇に報告すると公家衆から異論も多かったものの、「もし義長が官軍に加われば伊賀・伊勢両国のみならず、伊勢国の国司顕能卿(北畠氏)の城も安泰になる」として即座に赦免の綸旨が出された。 解説1. 心理描写の深層分析: 2. 政治力学の透視: 3. 文学的技法の特徴: 4. 史料的価値: |
| 推量するに、只勅命を借て私の本意を達せば、君をば御位に即進する共、天下をば我侭にすべき者をと、心中に挟者也。今又仁木右京大夫義長、大敵に囲れたるが難堪さに、御方に参由を申を、諸卿許容し給こそ心得ね。彼が平生の振舞悪として不造云事なし。聊も心に逆ふ時は、無咎人を殺て誤れりとも不思、気に合時は、無忠賞を与て忽に是を取返す。先多年の芳恩を忘て、義詮朝臣を背く程の者なれば、君の御為に深く忠義を可存や。七箇国の管領を、尚あきたらず思し程の心なれば、此方の五箇国・三箇国の恩賞を、不足なしと可思や。若又彼が如所存恩賞を被行、日本六十六箇国に一所も残処不可有。多年旧功の官軍共、何れの所にか身を可置。倩是を思に、非忠臣非智臣、仏神に被捨進せ、人望に背て自滅せんとする悪人を、御方に被成たらば、豈聖運の助ならんや。只虎を養て自患を招く風情なるべき者を。」と申ければ、又傍に仁木を引者やと覚しくて申けるは、「此人悪き事はさる事なれ共、又直人とは不覚。鎌倉にては鶴岡の八幡宮にて、児を切殺して神殿に血を淋き、八幡にては、駒方の神人を殺害して若干の神訴を負ふ。尋常の人にて是程の悪行をしたらんに、暫くも安穏なる事や候べき。仙輿国王の五百人を殺し、斑足太子の一千の王を害せしも、皆権者の所変とこそ承れ。 |
(前の文を受けて)「思うに、(彼らは)ただ勅命を口実にして私利を図り、仮に天皇をお位につけたとしても天下をわがままにするつもりの者のことだ。」とある者が言った。さらに続けて:「今また仁木右京大夫義長が大軍に包囲された苦境から逃れようと南朝へ帰属したいと言い出したのを、公家衆がお許しになるとは理解できない。彼の普段の行いは悪辣でやりたい放題だ。少しでも気に入らない時は罪なき者を殺しても構わず、機嫌が良い時は功績もない者に恩賞を与えてすぐ取り消す。(主君)足利義詮様への長年の厚恩を忘れて裏切ったような人物だから、天皇のため深く忠義など尽くすだろうか?七カ国の管領職でも満足しないほどの野心家ゆえ、(南朝側から与える)五カ国や三カ国の恩賞で不足ないと思うはずがない。もし彼の望むままに恩賞を与えたら日本六十六カ国中、残る土地などなくなるだろう。長年功績のある官軍(南朝方武士)たちは身を置く場所さえ失うではないか。よく考えれば、忠臣でも智臣でもない仏神に見捨てられ人望もなく自滅する悪人を御味方にされたら、どうして聖運(天皇の命運)が助かるだろう?ただ虎を飼って災いを招くようなものだ。」と言うと、傍で仁木を持ち上げる者かと思われる人物がこう述べた:「彼の悪行はさておき、正直者とは思えない。鎌倉では鶴岡八幡宮で子供を惨殺して神殿に血をまき散らし、また(別の)八幡では駒方神人を殺害して数々の神罰訴訟を受けた。普通の人間がこれほどの悪行をすれば安穏でいられるはずがない。(伝説の暴君である)仙輿国王が五百人を殺し斑足太子が千人の王を害したのも、皆権力者の異常性ゆえと聞いている。」 解説1. 政治不信の構造分析: 2. 人物評定の二重構造: 3. 歴史的イデオロギー: 4. 軍記文学の特性: 5. 史料的妥当性: |
| 是も只人を贔屓して申に非ず。人の語り伝へし事の耳に留て候間申にて候也。近年此人伊勢国を管領して、在国したりしに、前々更に公家武家手を不指神三郡に打入て、大神宮の御領を押領す。依之祭主・神官等京都に上て、公家に奏聞し武家に触訴ふ。開闢以来未斯る不思議やあるとて、厳密の綸旨御教書を被成しか共、義長曾不承引。剰我を訴訟しつるが悪きとて、五十鈴川をせいて魚を捕り、神路山に入て鷹を仕ふ。悪行日来に重畳せり。よしやさらば神罰に任て亡んを待とて、五百余人の神官等榊の朶に木綿を懸、様々の奉幣を捧て、只義長を七箇日の内に蹴殺させ給へと、異口同音にぞ呪咀しける。七日に当りける日、十歳許なる童部一人、俄に物に狂て、「我に大神宮乗居させ給へり。」とて、託宣しけるは、「我本学覚如の都を出て、和光同塵の跡を垂しより以来、本高跡下の秋の月不照云処もなく、化属結縁の春の華不薫云袖もなし。去ば方便の門には罪有をも不嫌、利物の所には愚なるをも不捨。抑義長が悪行を汝等天に訴て呪咀する事こそ心得ね。彼が三生の前に義長法師と云し時、五部の大乗経を書て此国に納めたりき。其善根今生に答て当国を知行する事を得たり。加様の宿善ならずは彼豈一日も安穏なる事を得んや。 |
「これも単なるえこひいきで申しているわけではない。人々が語り伝えた話を耳にしておりましたゆえに申し上げるのです。近年この人物(仁木義長)は伊勢国を治め、現地に滞在していた際、それまで公家も武家も手をつけなかった神郡三郡に侵入して大神宮の御領地を横取りした。そのため祭主や神官たちが都へ上り朝廷にも幕府にも訴え出た。『天地開闢以来こんな不届きはない』と厳重な綸旨や教書(天皇・将軍命令)が出されたのに、義長は全く聞き入れなかった。それどころか自分を訴えたのが悪いとして五十鈴川の水をせき止めて魚を獲り、神路山に入って鷹狩をするなど、悪行が日増しに重なった。ならばいっそ神罰に任せて滅亡するのを待とうと、五百人以上の神官たちが榊の枝に木綿をつけ様々なお供え物を捧げ『どうか義長を七日以内に踏み殺してください』と口を揃えて呪い祈った。その七日の期限となった日、十歳ほどの少年一人が突然狂気のように『わしには大神宮の神霊が乗り移られたぞ』と言って託宣した:『我(天照大御神)はもとより学僧覚如が都を出て世俗に身を投じた時以来、本来の高みから離れても月の光が届かない場所なく、縁結びのために春の花が香らない袖もない。ゆえに方便(衆生救済手段)においては罪深き者をも拒まず利益を与える場では愚か者すら見捨てぬ。そもそもお前たちが天へ訴えて義長を呪うとは理解できん。彼の三世代前で「義長法師」と名乗った時、五部大乗経典を書写してこの国(伊勢)に奉納したのだ。その善行の報いとして今生ではこの国を知行することを許された。これほどの宿善がなければどうして一日たりとも安穏でありえようか?』」 解説1. 宗教権威への挑戦と神罰思想: 2. 業報思想による悪行相殺論: 3. 中世社会の法意識: 4. 軍記物語の史的価値: |
| 嗚呼あたら善根や。若無上菩提の心に趣て、此経を書たらましかば、速に離生死至仏果菩提なまし。只名聞利養の為に、修せし処の善根なれば、今身は武名の家に生れて、諸国を管領し、眷属多くたなびくといへ共、悪行心に染て、乱を好み人を悩す。哀なる哉、過去の善根此世に答て、今生の悪業又未来に酬はん事を。」とかきくどきて泣けるが、暫寝入たる体にて物付は則覚にけり。加様の事を以て思時は、義長も故ある人とこそ覚へ候へ。」と申ければ、初譏つる者共、「其れは不知、於悪行は天下第一の僻者ぞ。」と終夜語て、明れば朝よりぞ退てける。 ○大地震並夏雪事 同年の六月十八日の巳刻より同十月に至るまで、大地をびたゝ敷動て、日々夜々に止時なし。山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社仏閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千万と云数を不知。都て山川・江河・林野・村落此災に不合云所なし。中にも阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗・男女、牛馬・鶏犬、一も不残底の藻屑と成にけり。是をこそ希代の不思議と見る処に、同六月二十二日、俄に天掻曇雪降て、氷寒の甚き事冬至の前後の如し。 |
「ああ、なんともったいない善行であろうか!もし無上菩提の心に向かいこの経典を書写していたならば、速やかに生死を離れ仏果に至れたものを。ただ名声と利益のために修めた善根であるからこそ、現世では武家の名家に生まれ諸国を支配し多くの従者を持つとはいえども、心は悪行に染まり乱逆を好んで人々を苦しめるのだなあ。悲しいことよ——過去の善行がこの世で報われると同時に今生の悪業はまた未来へ応報されるであろうことを。」と言って泣いたところ、(託宣を聴いていた女性は)うとうとしたまま憑依状態から覚めてしまったのであった。「こうした事情を思えば、義長にも深い由緒がある人物と思われます」と(女が)述べたところ、最初に嘲笑っていた者たちも「それは知らなかった。だが悪行の点では天下第一の極悪人だぞ!」と言って夜通し語り明かし、朝になると退散していった。 ○大地震および夏雪のこと 解説1. 仏教因果論の文学的展開: 2. 災害記録における歴史的真実性: 3. 集団心理描写の社会学的意義: |
| 酒を飲て身を暖め火を焼炉を囲む人は、自寒を防ぐ便りもあり、山路の樵夫、野径の旅人、牧馬、林鹿悉氷に被閉雪に臥て、凍へ死る者数を不知。七月二十四日には、摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。又阿波鳴戸俄潮去て陸と成る。高く峙たる岩の上に、筒のまはり二十尋許なる大皷の、銀のびやうを打て、面には巴をかき、台には八竜を拏はせたるが顕出たり。暫は見人是を懼て不近付。三四日を経て後、近き傍の浦人共数百人集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張たりける。尋常の撥にて打たば鳴じとて、大なる鐘木を拵て、大鐘を撞様につきたりける。此大皷天に響き地を動して、三時許ぞ鳴たりける。山崩て谷に答へ、潮涌て天に漲りければ、数百人の浦人共、只今大地の底へ引入らるゝ心地して、肝魂も身に不副、倒るゝ共なく走共なく四角八方へぞ逃散ける。其後よりは弥近付人無りければ、天にや上りけん、又海中へや入けん、潮は如元満て、大皷は不見成にけり。又八月二十四日の大地震に、雨荒く降り風烈く吹て、虚空暫掻くれて見へけるが、難波浦の澳より、大龍二浮出て、天王寺の金堂の中へ入ると見けるが、雲の中に鏑矢鳴響て、戈の光四方にひらめきて、大龍と四天と戦ふ体にぞ見へたりける。 |
酒を飲んで身体を温めたり火鉢を囲んだりしている人々には寒さ対策もあったが、山道の樵や野原の旅人、牧場の馬、森の鹿などは全て氷に閉ざされ雪の中に伏して凍え死ぬ者が数知れずいた。7月24日には摂津国難波浦(現・大阪湾)の入り江数百町が約2時間ほど干上がり、無数の魚たちが砂浜で口をぱくぱくさせるほどの状態となったため、近隣の漁師たちは網や釣竿を捨て我先にと拾い集めていたところに、突然山のような大津波が押し寄せ海原へ戻ってしまい、数百人の漁師で一人として生きて帰る者はなかった。また阿波国鳴門では潮が急激に引いて陸地となった際、高くそびえる岩の上に胴回り約36メートル(二十尋)もの大太鼓が現れた。銀の鋲を打ち付け表面には巴紋が描かれ台座には八匹の竜が彫られていた。しばらくは人々が怖れて近づかなかったが、3〜4日後、付近の住民数百人が集まって見ると胴体は石造りで鼓面は水牛革張りであった。「普通の撥では鳴らないだろう」と言い巨大な撞木を作り寺鐘を突くように打つと、太鼓は天地に響き渡る轟音を約6時間(三時)も鳴らした。山が崩れて谷へこだまし潮が天まで逆巻いたため数百人の住民たちは「今にも地底へ引きずり込まれそうだ」と思い肝をつぶして倒れても走ってもおらず四方八方へ散り散りに逃げた。その後さらに近づく者はなく、太鼓は天上か海中へ消えたのか潮が元通り満ちて姿を消した。また8月24日の大地震では激しい雨と風で空が一時暗くなった中、難波浦の入江から巨大な龍二匹が浮上し天王寺金堂へ向かうのが見えたところ、雲の中から鏑矢の音が鳴り響き矛先の光が四方にひらめいて、大龍と四天王(仏教守護神)が戦っているように見えたのであった。 解説1. 災害描写における自然と超自然の融合: 2. 器物描写にみる宗教美術史的価値: 3. 戦闘神話としての天変地異: 4. 地理的詳細性の史料的意義: |
| 二の竜去る時、又大地震く動て、金堂微塵に砕にけり。され共四天は少しも損ぜさせ給はず。是は何様聖徳太子御安置の仏舎利、此堂に御坐ば、竜王是を取奉らんとするを、仏法護持の四天王、惜ませ給けるかと覚へたり。洛中辺土には、傾ぬ塔の九輪もなく、熊野参詣の道には、地の裂ぬ所も無りけり。旧記の載る所、開闢以来斯る不思議なければ、此上に又何様なる世の乱や出来らんずらんと、懼恐れぬ人は更になし。 ○天王寺造営事付京都御祈祷事 南方には此大地震に、諸国七道の大伽藍共の破たる体を聞に、天王寺の金堂程崩れたる堂舎はなく、紀州の山々程裂たる地もなければ、是外の表事には非じと御慎有て、様々の御祈共を始らる。則般若寺円海上人勅を承て、天王寺の金堂を作られけるに、希代の奇特共多かりけり。先大廈高堂の構なれば、安芸・周防・紀伊国の杣山より、大木を取んずる事、一二年の間には難道行覚へけるに、二人して抱き廻す程なる桧木の柱、六七丈なるかぶき三百本、何くより来る共不知、難波の浦に流寄て、塩の干潟にぞ留りける。暫くは主ある材木にてぞ在らんと、尋くる人を待れけれ共求くる人も無りければ、さては天竜八部の人力を助給にてぞ有らんとて、虹の梁・鳳の甍、品々に是をぞ用ひける。 |
二匹目の龍が消えた時、再び大地震が起こり金堂は粉々に崩れ落ちた。しかし四天王像には全く損傷がなかった。「これは聖徳太子御安置の仏舎利を竜王が奪おうとしたのを、仏法守護の四天王が防いだためだろう」と人々は考えた。都の中や辺境地では傾いた塔もなく熊野参詣道にも地割れは全く見られず、古記録に天地開闢以来こんな不思議なことは載っていないので、「この上さらにどんな世の乱れが起きるか」と恐れぬ者は一人もいなかった。 ○天王寺再建及び京都での祈祷について 解説1. 神仏霊験譚から王権正当化への転換: 2. 復興叙事における超自然的経済システム: 3. 災害記憶の歴史編纂学的操作: |
| 又柱立已に訖、棟木を揚んとしけるに、■巻の縄に信濃皮むき千束入べしと、番匠麁色を出せり。輙く可尋出物ならねば、上人信濃国へ下て便宜の人に勧進せんと企給ける処に、難波堀江の汀に死蛇の如くなる物流寄たり。何やらんと近付見れば、信濃皮むきにて打たる大綱、太さ二尺長さ三十丈なるが十六筋まで、水泡に連てぞ寄たりける。上人不斜悦て、軈てくるまきの綱に用ひらる。是第一の奇特也とて、所用の後は、此綱を宝蔵にぞ収め給ひける。又三百余人有ける番匠の中に、肉食を止め酒を飲ぬ番匠あまたあり。上人怪く思給ひて是がする業を見給に、一人のする業、余の番匠十人にも過たり。さればこそ直人にては無りけれと、弥怪く覚して、日暮て帰るを見送り給へば、何くへ行共不見、かき消す様に失にけり。其数二十八人有つるは、何様千手観音の御眷属、二十八部衆にてぞ御坐すらんと、皆人信仰の手を合す。されば造営日あらずして奇麗金銀を鏤たり。霊仏の威光、上人の陰徳、函蓋共に相応して、奇特なりし事共也。都には東寺の金堂一尺二寸南へのきて、高祖弘法大師南天へ飛去せ給ぬと、寺僧の夢に見ければ、洛中の御慎たるべしとて、青蓮院の尊道法親王に被仰、伴僧二十口八月十三日より内裏に伺候して、大熾盛光の法を行る。 |
柱を立て終えた後、棟木を持ち上げようとした際、「大巻き縄には信濃産の皮むき縄が千束必要だ」と職人頭があわてた。すぐに見つかるものではないため、円海上人は信濃国へ下向して協力者に寄付を募ろうと考えられたところ、難波堀江の岸辺に死んだ蛇のようなものが流れ着いた。「何だろう?」と近づいて見ると、信濃産皮むき縄で編まれた大綱で、太さ二尺(約60cm)、長さ三十丈(約90m)のものが十六筋も泡と共に漂っていた。上人はひどく喜び、すぐに巻き上げ用の綱として使われた。「これは第一の奇跡だ」と言い、使用後はこの綱を宝物庫に収められた。また三百人余りの職人のうち、肉食せず酒も飲まない者が多数いた。上人が不思議に思い彼らの作業を見ると、一人の仕事量が他の職人十人分を超えていた。「やはり普通の人ではない」とますます怪しみ、日暮れ時に帰る様子を見送られると、どこへ行くのか見えず消えるようにいなくなった。その数二十八人は「おそらく千手観音の眷属である二十八部衆だろう」と人々が信仰心で手を合わせたため、工事は予定より早く終わり、金銀の装飾も立派に施された。霊仏の威光と上人の陰徳が見事に合致し奇跡的な出来事だったのである。都では東寺の金堂が一尺二寸(約36cm)南へ傾き、「高祖弘法大師が南天へ飛び去られた」という夢を寺僧が見たため「京中の謹慎が必要だ」と判断され、青蓮院の尊道法親王に命じて二十人の伴侶僧侶とともに八月十三日から御所で控えさせ大熾盛光(仏教儀式)を行った。 解説1. 宗教的奇跡の二重構造と社会機能: 2. 建築技術史における現実と神秘の交錯: 3. 王権・仏教複合体制の危機管理: |
| 聖護院覚誉親王は、二間に御参有て、九月八日より一七日、尊星王の法をぞ修せられける。是のみならず、近年絶て無りつる最勝講を行る。初日は問者叡山の尋源・東大寺の深慧、講師には、興福寺の盛深・同寺の範忠、第二日の問者は、東大寺の経弁・同良懐、講師は興福寺の実遍・山門の慈俊、第三日の問者は、興福寺の円守・山門の円俊、講師は、三井寺の経深・興福寺の覚成、第四日の問者は、興福寺の孝憲・同寺の覚家、講師は、叡山の良憲・三井寺の房深、結日の問者は、東大寺の義実・興福寺教快講師は、山門良寿・興福寺実縁、証義は、大乗院の前大僧正孝学・尊勝院の慈能僧正にてぞ御坐ける。講問朝夕に坐を替て、学海に玉を拾へる論談を決択して詞の林に花開く。富楼那の弁舌、文殊の智恵も、角やと覚る許也。 ○山名伊豆守落美作城事付菊池軍事 斯る処に、七月十二日山名伊豆守時氏・嫡子右衛門佐師義・次男中務大輔、出雲・伯耆・因播、三箇国の勢三千余騎を卒して美作へ発向す。当国の守護赤松筑前入道世貞、播州に在て未戦前に、広戸掃部助が、名木杣二箇処城、飯田の一族が篭たる篠向の城、菅家の一族の大見丈の城、有元民部大夫入道が菩提寺の城、小原孫次郎入道が小原の城、大野の一族が篭りたる大野城、六箇所の城は、一矢をも不射降参す。 |
聖護院覚誉親王は二ヶ所(御所)にお越しになり、九月八日から十七日間尊星王の法を行われた。それだけでなく近年途絶えていた最勝講も開催された。初日の問役は比叡山の尋源・東大寺の深慧、講師は興福寺の盛深と同寺範忠が務めた。二日目は問役に東大寺経弁と良懐、講師に興福寺実遍・延暦寺慈俊。三日目は問役で興福寺円守・延暦寺円俊、講師で園城寺(三井寺)経深・興福寺覚成が担当した。四日目の問役には興福寺孝憲と同寺覚家、講師に比叡山良憲・園城寺院深を配し、最終日の結日は問役として東大寺義実・興福寺教快、講師で延暦寺良寿・興福寺実縁が登壇した。証義(審判)は大乗院前大僧正孝学と尊勝院慈能僧正が務めた。論議では朝夕に座替えし、学識の海から珠玉を拾うような議論で言葉の林に花が咲く様子だった。富楼那(仏弟子)の弁舌や文殊菩薩の知恵もさすがだと感じられるほどであった。 ○山名伊豆守美作落城と菊池軍事 解説1. 宗教儀礼に見る権力構造: 2. 軍事行動における降伏描写の意図: 3. 時間的並列構成の意味: |
| 林野・妙見二の城は、二十日余り怺たりけるが、山名に兔角すかされて、遂には是も敵になる。今は倉懸の城一残て、佐用美濃守貞久・有元和泉守佐久、僅に三百余騎にて楯篭りたりけるを、山名伊豆守時氏・子息中務少輔三千余騎にて押寄せ、城の四方の山々峯々二十三箇所に陣を取て、鹿垣を二重三重に結ひ廻し、逆木しげく引懸て、矢懸り近くぞ攻たりける。播磨と美作との堺には、竹山・千草・吉野・石堂が峯、四箇所の城を構て、赤松律師則祐、百騎づゝの勢を篭たりける。山名が執事小林民部丞重長、二千余騎にて星祭の岳へ打上り、城を目の下に直下して、透間もあらば打蒐らんと、馬の腹帯を堅めて引へたり。赤松筑前入道世貞・舎弟律師則祐・其弟弾正少弼氏範・大夫判官光範・宮内少輔師範・掃部助直頼・筑前五郎顕範・佐用・上月・真島・杉原の一族相集て二千余騎、高倉山の麓に陣を取て、敵倉懸の城を攻ば弊に乗て後攻をせんと企つと聞へければ、山名右衛門佐師義、勝れたる兵八百余騎を卒して、敵の近付ん所へ懸合せんと、浮勢に成て引へたり。赤松は右衛門佐小勢也と聞て、先此敵を打散さんと打立ける処に、阿保肥前入道信禅、俄に敵に成て但馬国へ馳越、長九郎左衛門と引合て播磨へ打て入んと企ける間、赤松、「さらば東方に城郭を構へ、路々に警固の兵を置け。 |
林野と妙見という二つの城は二十日余り耐えていたが、山名氏に何とか欺かれてしまい、ついに敵方になってしまう。今や倉懸城だけ残っており、佐用美濃守貞久と有元和泉守佐久がわずかな三百騎ほどで籠城していたところへ、山名伊豆守時氏と息子の中務少輔(師義か)が三千余騎を率いて押し寄せた。彼らは城の周囲の山々や峰二十三箇所に陣を取り、鹿垣(防護柵)を二重三重に巡らせ、逆木(障害物用の木材)を密集させて掛け渡し、矢が届く近距離から攻撃した。播磨国と美作国の境界には竹山・千草・吉野・石堂が峰という四箇所の城を構築していて、赤松律師則祐はそれぞれ百騎ずつの兵士を配置していた。山名氏の執事である小林民部丞重長は二千余騎で星祭岳に登り、敵陣を見下ろす位置につき、「隙があれば一気に攻め落とそう」と考えて馬の腹帯をしっかり締めて待機した。赤松筑前入道世貞・弟律師則祐・その他の兄弟弾正少弼氏範・大夫判官光範・宮内少輔師範・掃部助直頼・筑前五郎顕範、そして佐用・上月・真島・杉原一族が集結して二千余騎となり高倉山の麓に陣取り、「敵(山名軍)が倉懸城を攻めている隙をついて後方から反撃しよう」と企てたという情報を得ると、山名右衛門佐師義は精鋭兵八百余騎を率い「敵が接近してくる場所へ迎え撃とう」として浮き足立って待機した。赤松軍は(相手の)右衛門佐が小勢だと聞いて、「まずこの部隊を打ち破ろう」と進んだところで、阿保肥前入道信禅が突然裏切って但馬国へ駆け込み、長九郎左衛門と呼応して播磨国に攻め込もうとしたため、赤松は「それなら東方に城郭を構築し、各所の路々に警護兵を配置せよ」と指示した。 解説1. 攻城戦術の詳細描写と心理的駆け引き: 2. 武士団ネットワークと血縁的結束: 3. 軍記文学における時間軸操作と戦略的対比: |
| 」とて、法花山に城を構へ、大山越の道を切塞で、五箇所へ勢をぞ差向ける。依之進んで山名に戦んとするも勢少く、退て但馬へ向はんとするも不叶。進退歩を失て前後の敵に迷惑す。さらば中国の大将細河右馬頭頼旨、讃岐国の守護を相論して、四国にをはするに触送て其勢を呼越し、備前・備中・備後、当国四箇国の勢を以て、倉懸の城の後攻をせよとて、事の子細を牒送するに、右馬頭大に驚て、九月十日備前へ押渡て後陣の勢を待けるに、相順ふ四箇国の兵共、己が国々の私戦を捨かねて、大将に不属。備前・備中・備後三箇国の勢は、皆野心を含める者共なれば、非可憑とて、大将唐河に陣を取り、徒に月日をぞ被送ける。去程に倉懸の城には人多して兵粮少かりければ、戦ふ度に軍利有といへ共、後攻の憑もなく、食尽矢種尽ければ、無力十一月四日遂に城を落にけり。是より山名山陰道四箇国を合せて勢弥近国に振のみに非ず、諸国の聞へをびたゝしかりければ、世中如何あらんと危く思はぬ人も無りけり。又筑紫には去ぬる七月初に、征西将軍宮、新田の一族二千余騎、菊池肥後守武光三千余騎、博多に打て出て香椎に陣を取と聞へしかば、勢の著ぬさきに追落せとて、大伴刑部太輔七千余騎・太宰小弐五千余騎・宗像大宮司八百余騎・紀井常陸前司三百余騎、都合二万五千余騎の勢、一手に成て大手へ向ふ。 |
「それならば」と言い、法花山に城を構築し、大山越えの道を封鎖して五箇所へ部隊を派遣した。このため前進して山名氏と戦おうにも兵力が不足し、退却して但馬に向かおうとしても叶わない。進退窮まって前後の敵に挟撃される危機となった。「ならば中国地方の大将である細川右馬頭頼之は讃岐国守護職を巡る争いで四国にいるのだから、使者を送って彼の軍勢を呼び寄せよ。備前・備中・備後と当国の四箇国兵力を用いて倉懸城への援軍(後攻)を行わせよう」と言い込み、詳細な書状を送ったところ、右馬頭頼之は大いに驚き九月十日に備前に渡って援軍の到着を待った。しかし従うべき四箇国の兵士たちは各自の国内での私闘に執着し大将に従わない。特に備前・備中・備後三カ国部隊には野心を持つ者が多かったため「頼りにならない」と判断した細川頼之は高梁(唐河)で陣を張り、無為に月日を過ごしてしまった。その間に倉懸城では兵士が多く食糧不足となり、戦うたびに優勢だったものの援軍の見込みもなく食料と矢玉が尽きたため、力尽きて十一月四日に遂に落城した。これにより山名氏は山陰道四カ国を掌握し勢力が近隣諸国に拡大するばかりか、全国的にその威勢が轟いたので「世の中はいったいどうなるのか」と危惧しない者など誰一人いなかった。 また九州ではこの七月上旬のことだが、征西将軍宮(懐良親王)と新田一族二千余騎、菊池肥後守武光三千余騎が博多に進出し香椎で陣取ったとの報せがあった。これを「兵力集結前に撃退せよ」として大伴刑部太輔七千余騎・少弐頼尚五千余騎・宗像大宮司八百余騎・紀井常陸前司三百余騎、総勢二万五千余騎が一手となって正面から攻め寄せた。 解説1. 補給戦略の致命的欠陥と落城要因: 2. 情報伝達システムと時間軸操作: 3. 政治的帰結と社会心理描写: |
| 上松浦・下松浦の一党、両勢の兵三千余騎は、飯守山に打上て敵の後へぞ廻りける。寄手は目に余る程の大勢にて、而も敵を取巻たり。宮方は対揚までもなき小勢にて、而も平場を陣に取たりけれ共、菊池が気分元来大敵を拉心ね也ければ敢て事ともせざりけり。両陣の間僅に二十余町を阻たれば、数日互に馬の腹帯を堅め、鎧の高紐を弛さで、懸りてや責る、待てや闘ふと、隙を伺ひ気をためらいて、徒に両月をぞ送りける。菊池が家の子城越前守は、謀ある者なりければ、山臥・禅僧・遁世者なんどを、忍々に松浦が陣へ遣して、其陣の人々の中に、「たれがしは御方へ内通の事あり、何がしは後矢射て降参すべき由を申候ぞ。野心の者共に心を置で、犬死し給ふな。」なんど、様々にぞ申遣しける。是を聞て去事や可有と乍思、今時の人の心、又あるまじき事にてもなしと、互に心置合て危ぶまぬ人も無りけり。其後少し程経て、八月六日の暁、城越前守千余騎の勢にて飯守山に押寄、楯の板を敲て時をどつと作る。松浦党元来大勢也。城よかりければ、此敵に可被落様は無りけるを、城中に敵の内通の者多しと、敵の謀て告たりしを誠と心得て、「御方に討るな、目を賦れ。」と云程こそ有けれ、我先にと落ける間、寄手勝に乗て追懸々々是を討。 |
上松浦・下松浦の一党である双方合わせて三千余騎は、飯守山へ登って敵(宮方)の背後を回った。攻め寄せた軍勢は膨大な数であり、しかも敵を取り囲んでいる。征西将軍宮側は比較にもならない少数勢力で、平坦地に陣取っていたが、菊池武光の性格は元々強大な敵を度外視するものだから、全く動揺しなかった。両軍の距離は僅か二十町余り(約2.2km)しか離れていなかったため数日間お互いに馬具を整え、鎧の紐を緩めず、「攻撃しようか」「待ち構えて戦おうか」と隙を見計らいながら無為に二ヶ月を過ごした。 菊池武光の一族である城越前守は策略家であったため、山伏・禅僧・隠遁者らを密かに松浦党陣営へ送り込み、「誰々には内部通牒がある」「何某は後方から矢を射て降参する予定だ」などと様々に吹聴させた。さらに「野心ある者たちに気をつけよ、無駄死にするな」とも伝えさせた。これを聞いた松浦党兵士らは「本当かもしれない」「現代の人心ならあり得る話だ」と思い疑心暗鬼となり警戒しない者は皆無であった。 その後しばらく経った八月六日未明、城越前守が千余騎を率いて飯守山に押し寄せ、盾を叩き鳴らして鬨の声を上げた。松浦党は元々大軍であり城越勢など問題ないはずだったが、「陣内に敵方と通じる者が多い」という先の謀略情報を真実と思い込み「味方を討つな、注意せよ!」と呼びかける間に我先にと逃亡したため、攻め手は優勢に乗じて追撃しこれを打ち破った。 解説1. 心理戦術と組織崩壊のメカニズム: 2. 菊池氏側の戦略的優位構造: 3. 中世合戦描写の史料的価値: |
| 夜明たりせば一人も助るべしとは不見けり。乍敵手痛からんずると思つる松浦党をば、城越前守が謀にて輙く責落しぬ。小弐・大友を打散さん事は指掌よりも可輙とて、菊池、宮の御勢と一手に成て五千余騎、明る七日午刻に香椎の陣へ押寄る。松浦党昨日搦手の軍に打負ぬと聞しより、哀引ばやと思小弐・大友が勢共なれば、何かは一積も積るべき。鞭に鐙を合せて我先にと落て行。道も不去得脱捨たる物具弓矢に目を懸ずは、一日路余り追れつる大手二万余騎は、半も生て本国へ可帰とは不見けり。 ○秀詮兄弟討死事 又同年の九月二十八日、摂津国に不慮の事出来て、京勢若干討れにけり。事の起を尋ぬれば、当国の守護職をば、故赤松信濃守範資、無二の忠戦に依て将軍より給りたりしを、範資死去後、嫡子大夫判官光範相続して是を拝領す。而るを去年宰相中将義詮朝臣、五畿七道の勢を卒して、南方を被責時、光範が軍用の沙汰、毎年不足也と、将軍近習の輩共つぶやきけるを、佐々木佐渡判官入道々誉、能次でとや思けん、南方の軍散じて後、光範差たる咎もなきに、摂津国の守護職を可被召放由を申て、則我恩賞にぞ申給りける。光範は今度の軍用と云、合戦と云、忠烈人に超たりと思ければ、定て抜群の恩賞をぞ給らんずらんと思ける処に、夫こそ無らめ、結句二代の忠功を被処無に、多年管領の守護職を被改替ければ、含憤残恨といへ共、上裁なれば不及力、謹で訴詔をし居たりける。 |
夜明けになっても一人も助かる様子はなかった。敵の手痛い打撃を受けた松浦党を城越前守の策略によって容易に討ち破ったのである。「小弐・大友軍を打ち散らすことは掌を指すよりも簡単だ」と考えた菊池武光は、征西将軍宮(懐良親王)の軍勢と合流して五千余騎となり、翌八日の正午に香椎陣へ攻め寄せた。松浦党が昨日別働隊で敗れたとの報を聞いた小弐・大友連合軍は「早く撤退したい」という心理状態だったから、どうして一戦も交えられようか。鞭と鐙(あぶみ)を慌てて合わせ我先に逃げ出す者ばかりだ。道すらまともに進まず投げ捨てた武具や弓矢にも目をくれず、一日分の行程以上追撃された正面軍二万余騎は半数も無事に本国へ帰れるとは思えなかった。 ○秀詮兄弟討死事件 解説1. 戦術的成功の心理的波及効果: 2. 守護職改替事件の政治力学: 3. 軍記文学の構成技法: |
| 和田・楠是を聞て、能き時分也と思ければ、五百余騎を卒して、渡辺の橋を打渡り、天神の森に陣を取る。佐渡判官入道々誉が嫡孫、近江判官秀詮・舎弟次郎左衛門、兼て在国したりければ、千余騎にて馳向ひ、神崎の橋を阻て防戦んと議しけるを、守護代吉田肥前房厳覚、「何条さる事や候べき。近年赤松大夫判官、当国の守護にて乍有、動れば和田・楠等に境内を犯奪れんとする事、未練の至也とて、申給らせ給ひける守護職にて候に、敵の国を退治するまでこそ無らめ、当国に打越たる敵を、一人も生て返したらんは、赤松に被笑のみに非ず、京都の聞へも不可然。厳覚命を軽ずる程ならば、一族他門の兵共、誰か見放つ者候べき。恩賞ほしくはつゞけや人々。」と、広言吐て、厳覚真前に神崎の橋を打渡れば、後陣の勢一千余騎も、続て河を越したりける。爰にて敵の分際を問ふに、「楠は未河を不越、和田が勢許僅に五百騎にも不足見へて候。」と牛飼童部共の語りければ、吉田肥前から/\と笑て、「哀甘身や、敵の種をば此にて尽さすべし。同は楠をも河を越させて打殺せ。」とて、最閑に馬を飼てのさ/\としてぞ居たりける。和田・楠是を見澄して、河より西へ下部を四五人遣して、「南方の御敵は西より被寄候ぞ。 |
和田賢秀と楠木正儀はこの状況を知り「絶好の機会だ」と考え、五百余騎を率いて渡辺橋を渡り天神ノ森に布陣した。佐々木道誉の嫡孫である近江判官秀詮と弟・次郎左衛門(当時現地滞在中)は千余騎で迎撃に向かい神崎橋を封鎖して防戦しようとしたが、守護代吉田肥前房厳覚が「何たることか!近年赤松光範大夫判官が守護職にある中で侵攻する和田・楠らを討てぬのは未練の極みだ。ましてや今は我々が守護職なのだから、敵を一人も生かして帰すなど論外。京都での評判も悪くなろう。私厳覚が命を惜しまないなら一族諸共に見捨てる者があるか!恩賞欲しき者は続け!」と豪語したため自ら神崎橋へ突入、後陣の千余騎もこれに続いて渡河した。 その場で敵情を探ると「楠木勢は未だ川を越えず、和田軍だけでも五百騎に満たない」と牛飼いの少年たちが報告する。これを聞いた吉田肥前房厳覚は嘲笑しながら「あわれなほど弱々しい。ここで敵の根絶を果たそう。むしろ楠木にも渡河させて殲滅せよ」と余裕を見せ悠然としていた。この様子を観察した和田賢秀らは川西側に部下四、五人を遣わして「南朝方の軍勢が西方から迫っているぞ!」との虚報を流させた。 解説1. 戦術的駆け引きの深層構造: 2. 人物描写の史料的価値: 3. 軍記物語の叙述技法: |
| 神崎の橋爪を支させ給へ。」とぞ呼はらせける。佐々木判官是を聞て、「敵さては差違て迹より寄けり。取て返して戦へ。」とて両方深田なる道一を一面に打並て、本の橋爪へと馬を西頭に成して歩ませ行処に、楠が足軽の野伏三百人両方の深田へ立渡て、鏃を支へ散々に射る。両方は深田にて馬の足も不立、迹より返して広みにて戦へと、先陣の勢に制せられて、後陣より返さんとする処に、和田・楠・橋本・福塚、五百余騎抜連て追懸たり。中津河の橋爪にて、白江源次六騎踏止て討死しける。是ぞ案内者なれば、足立の善悪をも弁へて一軍もせんずると、佐々木が兼てより憑ける国人の中白一揆五百余騎、一戦も不戦、物具・太刀・刀を取捨て、河中へ皆飛漬る。始はさしも義勢しつる吉田肥前、真先に橋を渡て逃けるが、続く敵を不渡とやしたりけん、橋板一間引落てければ、迹に渡る御方の兵三百余騎は、皆水に溺てぞ流れける。佐々木判官兄弟は、橋の辺まで落延たりけるが、県二郎が、「橋の落て候ぞ、とても叶ぬ所也。返て討死せさせ給へ。御共申さん。」と云けるに恥しめられて、兄弟二騎引返て、矢庭に討れてけり。瓜生次郎左衛門父子兄弟三人も、判官の討死するを見て、一所に打寄らんとしけるが、馬の平頚射られて、刎落されければ、田の畔の上に三人立双で、敵懸らば打違て死なんとしけるが、遠矢に皆射すくめられて、一所にて皆討れにけり。 |
和田賢秀と楠木正儀が「南朝軍が西から迫っているぞ!神崎橋詰めを守ってください!」と呼びかける声を聞いて、佐々木判官(秀詮)は「敵は思わぬ方向から背後に回ったようだ。引き返して迎撃せよ」と命じた。軍勢は両側が深田の細い道一筋に密集し、橋詰めに向かって西へ馬を進めたところで、楠木正儀配下の野伏(軽装歩兵)三百人が両脇の深田に入り込み、矢を集中して射掛けた。佐々木軍は深田で馬が動けず、「後退して開闊地で戦え」と先陣に指示されたが、混乱する後陣が引き返そうとした瞬間、和田・楠勢に橋本らも加わった五百余騎が一斉に追撃した。中津河の橋詰めでは白江源次郎以下六騎が踏み止まって討死し、これを機に佐々木軍に従っていた国人衆「中白一揆」五百余騎は戦わず装備を投げ捨て川へ飛び込んだ。当初威勢の良かった守護代・吉田肥前房厳覚はいち早く橋を渡って逃走したが、追撃阻止のために橋板1間(約1.8m)を外したため、後続三百余騎は溺死した。佐々木判官兄弟は橋際まで退却したものの、家臣・県二郎に「橋は落ちています!どうせ助かりません。引き返して討死しましょう!」と諌められ恥じて二騎で突撃し即時に戦死。瓜生次郎左衛門親子三人も主君の最期を見て駆け寄ろうとしたが、馬を射倒されて田んぼの畔に立ったまま「敵が来たら相討ちだ」と覚悟したところ遠矢で全員射殺された。 解説1. 戦術的崩壊の連鎖構造: 2. 人物群像の心理的描写: 3. 軍記叙述の史的価値: |
| 半時許の軍に、死する京勢二百七十三人、此内敵に討れて死する兵僅に五六人には不過。其外二百五十余人は、皆河に流てぞ失にける。楠父祖の仁慧をつぎ、有情者なりければ、或は野伏共に生捕れて、被面縛たる敵をも不斬、或は河より被引上、無甲斐命生たる敵をも不禁置、赤裸なる者には小袖を著せ、手負たる者には薬を与へて、京へぞ返遣しける。身の恥は悲しけれ共、悦ばぬ者は無りけり。 ○清氏叛逆事付相摸守子息元服事 此等をこそ、すはや大地震の験に、国々の乱出来ぬるはと驚き聞処に、京都に希代の事有て、将軍の執事細河相摸守清氏・其弟左馬助・猶子仁木中務少輔、三人共に都を落て、武家の怨敵と成にけり。事の根元を尋ぬれば、佐々木佐渡判官入道々誉と、細河相摸守清氏と内々怨を含事有しに依て、遂に君臣豺狼の心を結ぶとぞ聞へし。先加賀国の守護職は、富樫介、建武の始より今に至るまで一度も変ずる事無して、而も忠戦異他成敗依不暗、恩補列祖に復せしを、富樫介死去せし刻其子未幼稚也とて、道誉、尾張左衛門佐を聟に取て、当国の守護職を申与んとす。細河相摸守是を聞て、さる事や可有とて富樫介が子を取立て、則守護安堵の御教書をぞ申成ける。依之道誉が鬱憤其一也。次に備前の福岡の庄は頓宮四郎左衛門尉が所領也。 |
わずか半時辰(約1時間)ほどの合戦で死亡した京方兵士は273人に及んだが、敵に討たれた者は僅か5~6人。残る250名以上は全て川へ流されて命を落とした。楠木正儀は父祖の慈悲心を受け継ぐ情け深い人物ゆえ、野伏たちに生け捕られた敵兵も斬らず、川から引き上げた無抵抗な者も拘束せず、裸の者には小袖を与え、負傷者には薬を施して京都へ帰した。敗者の恥は痛ましいものの、命を助けられて喜ばない者は一人もいなかった。 さてこのような状況下で「大地震が世の乱れを示す前兆か」と人々が驚く中、京都では未曾有の事件が発生した。将軍家執事・細川相模守清氏と弟左馬助、猶子(養子)仁木中務少輔の三名が都を脱出し、幕府への反逆者となったのである。原因は佐々木道誉との確執にあり、両者が密かに怨恨を抱いた結果ついに主従関係が破綻したという噶であった。 まず加賀国守護職の問題では──富樫介(氏春)は建武政権以来忠誠を尽くし領地安堵を受け継いでいたが、彼の死後「子息幼少」として道誉が娘婿・尾張左衛門佐に守護職を与えようとした。これに対し細川清氏は富樫家嫡子を擁立して守護安堵の教書を獲得したため、道誉の憤慨は頂点に達していた(第一の恨み)。次いで備前国福岡庄領有権では頓宮四郎左衛門尉の所領問題が生じた。 解説1. 戦後処理描写の思想的意義: 2. 歴史事件の叙述構造: 3. 軍記文学的特質:
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| 而るを頓宮が軍忠中絶の刻、赤松律師是を申給る。後、頓宮、細河が手に属して忠有しかば、細河是を贔屓して、安堵の御教書を申与ふ。然共則祐は道誉が聟也ければ、国を押へられ上裁を支られて、頓宮所領に還住せず。是清氏が鬱憤の其一也。次に摂津国守護職をば道誉無謂申給て、嫡孫近江判官秀詮に持せたりけるを、相摸守本主赤松大夫判官光範に安堵せさせんと、時々異見を献ずる事所憚なし。依之道誉が鬱憤其二也。次に今度七夕の夜は、新将軍、相摸守が館へをはして、七百番の謌合をして可遊也と兼て被仰ければ、相摸守誠に興じ思て、様々の珍膳を認、哥読共数十人誘引して、已に案内を申ける処に、道誉又我宿所に七所を粧て、七番菜を調へ、七百種の課物を積み、七十服の本非の茶を可呑由を申て、宰相中将殿を招請し奉ける間、歌合はよしや後日にてもありなん、七所の飾は珍き遊なるべしとて、兼日の約束を引違、道誉が方へをはしければ、相摸守が用意徒に成て、数寄の人も空く帰にけり。是又清氏が鬱憤の其二也。加様の事共互に憤深く成にければ、両人の確執止む事を不得。上にはさりげなき体なれども、下には悪心を挿めり。されば始終は如何と被思遣たり。此相摸守は気分飽まで侈て、行迹尋常ならざりけれ共、偏に仏神を敬ふ心深かりければ、神に帰服して、子孫の冥加を祈んとや思れけん、又我子の烏帽子親に可取人なしとや思けん、九と七とに成ける二人の子を八幡にて元服せさせ、大菩薩の烏帽子々に成て、兄をば八幡六郎、弟をば八幡八郎とぞ名付ける。 |
しかし頓宮が軍事奉公を中断していた際、赤松円心(則祐)がこの領地を要求した。その後、頓宮が細川清氏に従って功績を立てたため、清氏は彼をひいきして所領安堵の教書を与えた。だが赤松則祐は道誉の娘婿であるため、実力で土地を押さえ朝廷の裁定も阻んで、頓宮が所領へ戻れない状態にした。これが清氏の怒りの第一点目であった。 次に摂津国守護職の問題では、本来なら赤松光範(円心嫡男)に与えるべきところを道誉が不当に主張し、孫・佐々木秀詮(近江判官)に継承させていた。清氏は「正当な領主である赤松大夫判官光範こそ安堵されるべきだ」と度々進言したため、これも道誉の怒りを買った(第二点目)。 さらにこの年七夕の夜、新将軍が細川邸で700首の歌合せを行う予定だった。清氏は喜んで準備し、豪華な料理や数十人の歌人まで招いたところへ、道誉が「自邸に七つの座敷を飾り付け、7種の珍味と700点の展示物を用意し、70服もの極上茶を振る舞う」と言って将軍(宰相中将)を招待した。結局将軍は「歌合せは後日でもよいが、道誉の七座敷飾りは見どころだ」と約束を破って道誉邸へ行ったため、清氏の準備は無駄となり招いた人々も帰ってしまった(これで清氏の怒り第三点目)。 このような事態が重なり両者の対立は深まる一方であった。表向き平然としていても内心では殺意すら抱くようになり、結末はいかなるものかと思われた。 ところで細川相模守(清氏)は普段は横暴な行動が多い人物だったが、神仏を深く信仰していたためか「子孫の加護を祈願しよう」と考えたのだろう。あるいは息子たちにふさわしい烏帽子親がいないと思ったのか——九歳と七歳になった二人の子を八幡宮で元服させ、大菩薩(神官)を烏帽子親として兄を八幡六郎、弟を八幡八郎と名付けたのである。 解説1. 権力闘争の構図分析: 2. 人間描写の深層心理: 3. 軍記物語の叙述技巧:
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| 此事軈て天下の口遊と成ければ、将軍是を聞給て、「是は只当家の累祖伊予守頼義三人の子を八幡太郎・賀茂次郎・新羅三郎と名付しに異ず。心中にいかさま天下を奪んと思ふ企ある者也。」と所存に違てぞ思はれける。佐渡判官入道道誉是を聞て、すはや憎しと思ふ相摸守が過失は、一出来にけるはと独笑して、薮に■し居たる処に、外法成就の志一上人鎌倉より上て、判官入道の許へをはしたり。様々の物語して、「さても都は還て旅にて、万づさこそ便なき御事にてこそ候らめ。誰か檀那に成奉て、祈なんどの事をも申入候。」と問れければ、「未甲斐々々敷知音檀那等も候はで、いつしか在京難叶心地して候つるに、細河相摸殿よりこそ、此一両日が先に一大事の所願候。頓に成就ある様に祈てたび候へとて、願書を一通封して、供具の料足一万疋副て、被送て候しか。」と、語り給ひければ、道誉、「何事の所願にてか候らん。」と、懇切に被所望。生強に語りは出しつ、さのみ惜まん事も難叶ければ、無力此願書をぞ取寄て披見させける。道誉此願書を内へ持て入て、「只今些急ぐ事候間外へ罷出候。此願書は閑に披見候て返進べし。明日是へ御渡候へ。」とて、後の小門より出違ひければ、志一上人重て云入るゝに言なくして、宿所へぞ帰り給ひける。 |
これがあっという間に世間の噂となったため、将軍(足利尊氏)はこれを聞いて「これはまさに我が家の先祖・伊予守頼義が三人の子を八幡太郎らと名付けた例と同じだ。ひそかに天下奪取を企てる者の所業である」と疑念を抱かれた。 佐々木道誉はこの話を知り、「憎い細川清氏の失態もついに明るみに出たか」と独り笑いしながら茂みに隠れていたところ、鎌倉から真言密教僧・志一上人が到着し彼のもとを訪れた。雑談の後、志一が「都は再び戦乱で何事も不便でしょう。檀越(庇護者)を見つけ祈祷などお引き受けしましょうか」と尋ねると、道誉はこう語った。「未だ頼れる人物もおらず在京生活に困っていたところ、細川清氏殿から『近々重大な願いがある。速やかに成就するよう祈ってほしい』との依頼があり、願書一通と祈祷料一万疋を添えて送られてきた」。 道誉が「どんな願いか」と執拗に尋ねたため、志一は渋りつつも断れず仕方なく願書を取り寄せ見せた。すると道誉はそれを懐に入れ、「急用があるから外で待っておれ。願書は後で返す。明日また来い」と言うと裏口から立ち去ったため、志一は抗議もできず宿所へ帰った。 解説1. 権謀術数劇の構造: 2. 宗教道具化の意味: 3. 人物造形技法:
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| 道誉、其翌日此願書を伊勢入道が許へ持て行て、「是見給へ。相摸守が隠謀の企有て、志一上人に付て、将軍を呪咀し奉りけるぞや。自筆自判の願書、分明に候上は、所疑にて候はず。急是を持参して、潜に将軍に見せ進せられ候へ。」とて、爪弾をして懐よりぞ取出しける。伊勢入道不思議の事哉と思て、披て是を見るに、三箇条の所願を被載たり。敬白荼祇尼天宝前一清氏管領四海、子孫永可誇栄花事。一宰相中将義詮朝臣、忽受病患可被死去事。一左馬頭基氏失武威背人望、可被降我軍門事。右此三箇条之所願、一々令成就者、永為此尊之檀度、可専真俗之繁昌。仍祈願状如件。康安元年九月三日相摸守清氏と書て、裏判にこそせられけれ。伊勢入道此願書を読畢て、眉を顰めて大息をつぐ事良久して、手迹は誰共知ね共、判形共に於ては疑なければ、宰相中将殿の見参にこそ入んずらめと思けるが、是を披露申なば、相摸殿忽に身を可被失。其上斯る事には、謀作謀計なんども有ぞかし。卒爾にはいかゞ申入べきと斟酌して、深く箱の底にぞ収めける。斯る処に羽林将軍俄に邪気の事有て、有験の高僧加持し奉れ共不静、頭の痛み日を追て増る由聞へしかば、道誉急ぎ参て、「先日伊勢入道の進じ候し清氏が願書をば御覧ぜられ候けるやらん。 |
道誉(佐々木道誉)は翌日、その願書を伊勢入道(高師直)のもとに持参し、「ご覧ください。相模守が陰謀を企て志一上人に将軍様への呪詛を依頼したのですよ。自筆で花押も明確なら疑う余地はないでしょう。急いで密かに将軍にお見せ申し上げなさい」と指を鳴らしながら懐から取り出した。 伊勢入道が不思議に思い開封すると、三箇条の願い事が記されていた。「荼祇尼天宝前へ謹んで申し上げます。一つ目は清氏が天下を支配し子孫永く栄華を得ること。二つ目は宰相中将義詮朝臣が急病で死去すること。三つ目は左馬頭基氏(足利尊氏次男)が武威を失い人望を離れ私の軍門に降伏することです」。これらの願いが一つずつ成就するならば、永久に荼祇尼天への供養を行い真俗両界での繁栄を誓います。康安元年九月三日 相模守清氏と署名し裏には花押があった。 伊勢入道はこの文書を読み終え眉をひそめ長くため息をついた。「筆跡を知る者は誰もいないが印鑑に偽りがない以上、宰相中将様(義詮)の目に入れるべきだろう。だがこれを公表すれば相模守殿は即座に命を落とすであろうし、このような事には罠や策略もあるかもしれぬ」と考え箱底へ深く隠した。 そんな時羽林将軍が急病にかかり高僧の祈祷も効かず頭痛が日増しに強まったとの報せがあったので道誉は駆けつけて「先日伊勢入道から進上した清氏の願書を御覧になりましたか」と尋ねた。 解説1. 歴史的文脈における呪詛事件: 2. 文書偽造の可能性分析: 3. 人物心理の劇的表現: 4. 疾病発生の象徴性:
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| 」と、問奉るに、「未披露せず。」と宣ふ。「さては御労其故と覚候。」とて、急伊勢入道を呼寄、件の願書を召出して、羽林将軍に見せ奉る。其後幾程無して邪気立去て、違例本復し給ければ、「道誉が申処偽らで、清氏が呪咀疑無りけり。」と、将軍是を信じ給ふ。其後又心付て、八幡に清氏願書を篭ぬる事有べからずとて、内々社務を召て問れければ、「去願書は封して神馬と送られて候が、頓て神殿にこめて候。」と申ければ、「其取出て奉るべし、聊不審あり。」と仰有ければ、軈て取出し持参しけり。是を披見し給ふにも、大樹の命を奪ひ、我世を取んとの発願也。弥疑所なし。凡志一上人を上せられけるも、畠山、我奇特の人と思ひ、同心に京・関東を取んとて、其祈祷の為に畠山吹挙にて上られけり。其後よりは、兔やして清氏を討まし、角やせましと、道誉一人に談合有て、案じ煩ひ給ひける処に、道誉俄に病と称して為湯治湯山へ下りぬ。其後四五日有て、相摸守普請の為とて、天竜寺へ参りけるが、不例庭に入て物具したる兵共、三百余騎召具したり。将軍是を聞給て、「さては道誉に評定せし事、はや清氏に聞へてけり。さらんに於ては却て如何様被寄ぬと覚るぞ。京中の戦は小勢にて叶まじ。要害に篭て可防。 |
道誉が(将軍に対して)尋ねると、(将軍は)「まだ見せていない」とおっしゃった。すると道誉は「それではご病気もそのためでしょう」と言い、急いで伊勢入道を呼び寄せて件の願書を取り出させ羽林将軍(足利尊氏)にお見せした。その後間もなく病状が回復して元通りになられたので、「道誉の言うことは偽りではなく清氏の呪詛に疑いない」と将軍はこれを信じられた。 それからしばらく後、ふと思い立って「八幡神社に清氏の願書を奉納するわけにはいかない」と考え内密に社務(神官)を呼び出して尋ねたところ、「あの願書は封をしたまま神馬とともに送られてきましたが、すぐ神殿に収めてあります」と申し上げた。そこで将軍が「それを取り出してお見せしなさい、少々不審があるから」と命じると、社務は直ちに持ち帰って提出した。これを開封してご覧になると、「大樹(尊氏)の命を奪い私が天下を取ろう」という内容で、疑いはますます確かなものとなった。 そもそも志一上人を京へ呼び寄せたのも畠山(道誓)が「これは珍しい人物だ」と思い、共謀して京都と関東を手中に収めようとして祈祷させるためであり、その推薦で召し上げられたのだった。その後からは、「どうにか清氏を討伐しよう」「あれこれ策を講じよう」と道誉一人と相談し将軍が思い悩んでおられる最中、道誉は急に病気だと称して湯治のために湯山へ下ってしまった。 その四五日後、相模守(細川清氏)が天竜寺の普請作業を名目として参詣した際、不審にも境内で武装させた兵士三百余騎を引き連れていた。将軍はこの報告を聞いて「どうやら道誉と相談していたことが早くも清氏に漏れたようだ。そうなれば逆襲される恐れがある。京中での戦いは小勢では無理だから要害の地へ籠って防ごう」と考えられた。 解説1. 呪詛事件の連鎖的展開: 2. 謀略構造の深化: 3. 軍事緊張の顕在化: 4. 人物関係の心理的駆け引き: |
| 」とて九月二十一日の夜半許に、今熊野に引篭り、一の橋引落して、所々掻楯掻き車引双て、逆木轅門を堅めて待懸給へば、今川上総守・宇都宮参川入道以下、我も我もと馳参る。俄の事なれば、何事のひしめきと、聞定たる事はなけれ共、武士東西に馳違ひ、貴賎四方に逃吟。相摸守は天竜寺にて、京中のひしめきを聞て、何条今時洛中に何事の騒ぎ可有。告る者の誤りにてぞあらんとて、騒ぐ気色も無りけるが、我身の上と聞定てければ、三百余騎にて天竜寺より打帰り、弟の僧愈侍者を今熊野へ進せて、「洛中の騒動何事とも存知仕候はで、急馳参て候へば、清氏が身の上にて候ける。罪科何事にて候やらん。若無実の讒に依て、死罪を行れ候はゞ、政道の乱れ御敵の嘲、不可過之。暫御糺明の後に、罪科の実否を可被定にて候はゞ、頭を延て軍門に参候べし。」とぞ申入たりけれ共、「清氏が多日の隠謀、事已に露顕の上は、兔角の沙汰に不可及。」とて、使僧に対面もなく一言の返事にも及給はねば、色を失て退出す。清氏此上は陳じ申に言ばなし。今は定て討手をぞ向らるらん。一矢射て腹を切んとて、舎弟左馬助頼利・大夫将監家氏・兵部太輔将氏・猶子仁木中務少輔、いとこの兵部少輔氏春、六人中門にて武具ひし/\と堅め、旗竿取出し、馬の腹帯を堅めさすれば、重恩、新参の郎従共、此彼より馳参て七百余騎に成にけり。 |
(将軍は)9月21日の夜半ごろ今熊野へ籠城し、一の橋を落として各所に盾や楯車を並べ、逆茂木と門を固めて待ち構えられた。すると今川上総守・宇都宮参河入道以下が我先にと駆けつけた。突然のことだったため「何事か」という騒ぎ声はあったものの詳細は不明で、武士たちが東西へ走り回り貴賎問わず四方に逃げ惑った。 一方相模守(細川清氏)は天竜寺で京中の喧噪を聞き、「この時期に洛中で何か騒動があるはずがない。報告者の誤りだろう」と平静を装っていたが、自身への謀反嫌疑だと知ると三百余騎で天竜寺から引き返した。そして弟の僧である愈侍者(ゆうじしゃ)を今熊野へ派遣して「京中の騒動の理由を知らず急いで参上しましたが、どうやら私への疑いのようです。罪状は何でしょうか?もし根拠ない讒言による死罪なら政治混乱と敵国の嘲笑に繋がります。一旦お調べいただき真偽を確かめた後、明らかな罪があれば進んで投降します」と申し入れた。 しかし将軍側は「清氏の長年の陰謀が露見した以上弁解の余地なし」として使者との面会も返答すら拒否。愈侍者は青ざめて退出した。これを見た清氏は最早弁明の道がないことを悟り、「今や討伐軍が来るだろうから一矢報いて切腹するまでだ」と決意。舎弟の左馬助頼利・大夫将監家氏・兵部太輔将氏、猶子(養子)である仁木中務少輔、いとこの兵部少輔氏春ら六人が中門で武装を固めると旗竿を取り出し馬の腹帯を締めた。すると重恩を受けた者や新参の郎従たちが続々駆けつけ七百余騎に膨れ上がった。 解説1. 籠城戦術と心理的緊迫感: 2. 兵力急増の社会的背景: 3. 歴史事件と虚構の融合技法: 4. 軍記文学の劇的構成原理: |
| 今熊野には、始五百余騎参して、「哀れ、我討手を承て向ばや。」と義勢しける者共、相摸守七百余騎にて控へたりと聞へしかば、興醒顔に成て、此の坊中彼の在家に引入り、荒く物をも不云、只何方に落場あると、山の方をぞ守りける。相摸守は今や討手を給ると、甲の緒を縮二日まで待れけれども、向ふ敵無りければ、洛中にて兵を集め、戦を致さんと用意したるも、且は狼籍也。陣を去り都を落てこそ猶陳じ申さめとて、二十三日の早旦に、若狭を差して落て行。仁木中務少輔・細河大夫将監二人は、京に落留りぬ。相順ふ勢次第に減じぬと見へけるに、辺土洛外の郎等共、少々路に追付て、「将軍の御勢は、僅に五百騎に不足とこそ承候に、などや此大勢にて都をば落させ給候やらん。」と申せば、相摸守馬を引へて、「元来将軍に向奉て、合戦をすべき身にてだにあらば、臆病第一の取集勢四五百騎戦き居たるを、清氏物の数とや可思。君臣の道死すれども上に逆へざる義を思ふ故に、一まども落てや陳じ申すと存て、無云甲斐体を人に見へつる悲さよ。身不肖なれば、無罪討れ進らす共世の為に可惜命に非ず。只讒人事を乱て、将軍天下を失はせ給はんずるを、草の陰にても見聞ん事こそ悲しけれ。」とて、両眼に泪を浮べ給へば、相順ふ兵共、皆鎧の袖をぞぬらしける。 |
今熊野(将軍陣営)では当初五百余騎が集まり「さあ、我々こそ討伐隊として出撃しよう」と意気込んでいた者たちも、相模守(細川清氏)が七百余騎で控えていると聞くと興ざめした表情になり、この寺坊やあの民家に引きこもり、騒ぐこともなくただ「どこか落ち延びる場所はないか」と山の方を見張っていた。 一方相模守(清氏)は「今にも討伐軍が来るだろう」と鎧の紐を締め直して二日間待ったものの、向こうから敵が現れなかった。そこで京都で兵を集めて戦おうとしたが、「それも無謀な行いだ」と考えた。「陣地を離れて都を落ち延びればまだ弁明できるかもしれない」と判断し、9月23日の早朝に若狭目指して逃れた。仁木中務少輔・細川大夫将監の二人は京に残った。 清氏についていく兵力が次第に減っていく様子を見て、地方から追ってきた郎党たちが少し道で言うには「将軍(足利尊氏)のお勢いはわずか五百騎にも満たないと聞きましたのに、なぜこの大軍で都を逃れなさるのですか?」。すると清氏は馬の手綱を引いて答えられた。「そもそも将軍に向かって合戦すべき身なら臆病者の集まり四五百騎など物の数とも思わぬが、たとえ死んでも主君に逆らうわけにはいかぬ君臣の道がある。そのため一時的に落ち延びて弁明しようとしたのだが…無様な姿を人に見せる悲しさよ。私が凡庸ゆえ罪なく討たれても世のために惜しい命ではない。ただ讒言者が乱を起こして将軍に天下を失わせようとするのを、草陰で見聞きすることこそ哀れだ」。そう言って両目に涙を浮かべると、従う兵たちも皆鎧の袖をぬらした。 解説1. 戦略的撤退と心理描写の深み: 2. 歴史的事件「都落ち」の文学的解釈: 3. 涙の場面における軍記文学的特質: |
| 千本を打過て、長坂へ懸る処にて、舎弟兵部太輔といとこの兵部少輔二人を近付て、「御辺達兄弟骨肉の義依不浅、我安否を見はてんと、是まで付纏ひ給ふ志、千顆万顆の玉よりも重く、一入再入の紅よりも猶深し。雖然、清氏は依佞人讒不慮の刑に沈む上は力なし。御辺達両人は讒を負たる身にも非ず、又将軍の御不審を蒙たる事もなき者が、何と云沙汰もなく、我共に都を落て、路径に尸を曝さん事後難なきに非ず。早く此より将軍へ帰参して、清氏が所存をも申開き、父祖の跡をも失はぬ様に計ひ給へ。是我を助る謀、又身を立る道なるべし。」と、泪を流して宣へば、両人の人々押ふる泪に咽で、暫しは返事にも不及。良暫有て、「心憂事をも承候者哉。縦是より罷帰て候共、讒人君の傍に有て、憑影なき世に立紛れ候はゞ、何つ迄身をか保候べき。将軍には心を置進せ、傍への人には指を差れ候はん事、恥の上の不覚たるべきにて候へば、何くまでも伴ひ奉て、安否を見はて進せん事こそ本意にて候へ。」と、再三被申けれども、相摸守、「さては弥我に隠謀有けりと、世の人の思はんずる処が悲く候へば、枉て是より帰られ候て、真実の志あらば、後日に又音信も候へ。」と、強て被申ければ、二人の人々、「此上の事は兔も角も仰にこそ随ひ候はめ。 |
千本通りを通り過ぎて長坂という場所へ差し掛かったところで、(細川清氏は)弟の兵部太輔(ひょうぶたいすけ)といとこの兵部少輔(ひょうぶしょうすう)の二人を近くに呼び寄せ、こう言った。「あなたたち兄弟には血縁による深い情誼があり、私がどうなるかを見届けようとしてここまで付き添ってくれるお気持ちは、千個万個の宝玉よりも重く、何度も染めた紅(くれない)の色よりなお深い。しかし清氏は奸臣たちの讒言によって思いがけない刑罰に沈む身だからどうすることもできない。あなたたち両人は讒言を着せられたわけでもなく将軍から疑われることもない者だのに、何と言うあてもなく私と共に都を落ち延びて道端で死体を晒すことは後々の災いとならないはずがない。早くここから将軍のもとに帰参して清氏の真意も説明し父祖伝来の所領をも失わないように計らいなさい。これこそ私を助ける方法であり、また身を立てる道である。」と涙を流して語ると、二人は押さえきれぬ涙に咽び泣いてしまい、しばらく返事もできなかった。 かなり時間が経ってから(兄弟たちは)言った。「つらいお言葉をお聞きしました。たとえここから帰参したとしても奸臣が君の側近におり根拠なき世の中で紛争に巻き込まれたら、いつまで身を保っていられるでしょうか?将軍には気遣いを示し周囲の人々は指差すでしょうがそれは恥ずかしいことです。どこまでもお供して最後を見届けたいのが本心です。」と繰り返し申し上げた。 しかし相模守(清氏)は「それではますます私に隠れた企てがあったと思われ世間の人が考えることが悲しく思われるので、無理やりここから帰参なさって真実の志があるなら後日また連絡してほしい。」と強く言った。すると二人の人々(兄弟たち)は「これ以上のことはどうであれお言葉に従います」と言った。 解説1. 人間関係の深層心理描写: 2. 歴史的史実との符合点: 3. 文学的技法における対話劇的効果: 4. 武士道精神と儒教倫理: |
| 」とて、泣々千本より打別れて、本の宿所へぞ帰にける。京中には、合戦あらば在家は一宇も不残と、上下万人劇騒ぎけるが、相摸守無事故都を落にければ、二十四日、将軍軈今熊野より本の館へ帰給。何しか相州被官の者共、宿所を替身を隠たる有様、昨日の楽今日の夢と哀也。有為転変の世の習、今に始ぬ事なれ共、不思議なりし事ども也。 ○頓宮心替事付畠山道誓事 若狭国は、相摸守近年管領の国にて、頓宮四郎左衛門兼て在国したりければ、小浜に究竟の城を構て、兵粮数万石積置たり。相摸守此に落付て、城の構へ勢の程を見に、懸合の合戦をする共、又城に篭て戦共、一年二年の内には輙く落されじ物をとぞ思はれける。去程に尾張左衛門佐氏頼、討手の大将を承て、北陸道の勢三千余騎を卒して、越前より椿峠へ向ふ。仁木三郎搦手の大将を承て、山陰道の勢二千余騎を卒して、丹波より逆谷へ向と聞へければ、相摸守大に笑て、「穴哀の者共や。此等を敵に受ては、力者二三人に杉材棒突せて差向たらんに不足あるまじ。先敦賀に朝倉某が先打にて陣を取たるを打散せ。」とて、中間を八人差遣さる。八人の中間共敦賀の津へ紛入、浜面の在家十余箇所に火を懸て、時の声をぞ揚たりける。朝倉が兵三百余騎時の声に驚て、「すはや相摸守の寄たるは。 |
千本通りから別れ際、泣きながら彼らは本来の宿所へ帰っていった。京都市中では戦いが起これば家屋一軒も残らないと、身分を問わず人々が大騒ぎしていたが、相模守(細川清氏)が何事もなく都から落ち延びたため、九月二十四日には将軍(足利尊氏)はすぐに今熊野から本来の館へお戻りになった。何と言うことか相州(清氏)配下の人々が宿所を変え身を隠す様子は「昨日の楽しみは今日の夢」と哀れである。世の中の有為転変は今に始まったことではないが、不思議な出来事だった。 ○頓宮心替(とんぐうしんたい)の心境変化のこと および畠山道誓(はたけやまどうせい)のこと その頃尾張左衛門佐(おわりさえもんすけ)氏頼が討伐大将を命じられ北陸道の兵三千余騎を率いて越前から椿峠へ向かった。仁木三郎は別働隊の大将として山陰道の軍勢二千余騎を率い丹波から逆谷(さかたに)へ迫ると聞いたため、清氏は大笑いして言った。「哀れな連中だよ。こんな敵なら力自慢二三人に杉材棒を持たせて突撃させるだけで十分だろう。まず敦賀で陣を張る朝倉某の前衛部隊を打ち破れ。」そう命じて中間(身分の低い従者)八人を派遣した。 その八人は敦賀津へ紛れ込み浜辺にある十軒余りの民家に火をつけて鬨の声をあげた。朝倉勢三百余騎はこの鬨の声に驚いて「これは清氏軍が攻めてきたのか?」と叫んだ。 解説1. 劇的な情景転換の描写効果: 2. 「頓宮心替」挿話の戦略的意義: 3. 戦術描写における軍記物特色: 4. 歴史的事件への伏線: |
| 定て大勢にてぞ有らん。引て後陣の勢に加れ。」とて、矢の一をも不射、朝倉敦賀を引ければ、相伴兵三百余騎、馬物具を取捨て、越前の府へぞ逃たりける。さればこそ思つる事よと、人毎に云弄ぶと沙汰せしかば、尾張左衛門佐大に忿て、軈て大勢を卒して十月二十九日椿峠へ打向ふ。相摸守是を聞て、「今度は一人も敵と云者を生て遣まじければ、自身向はでは叶まじ。」とて、城には頓宮四郎左衛門尉を残し置、舎弟右馬助共に五百余騎にて追手の敵に馳向ふ。敵陣難所なれば、待てや戦、懸りやすると思安して、未戦決処に、重恩他に異なれば、是ぞ弐有まじき者と憑れける頓宮四郎左衛門俄に心替して、挙旗城戸を打て寄手の勢を後より城へ引入ける間、相摸守に相順兵共、可戦力尽はてゝ、右往左往に落て行。朽たる縄を以て、六馬をば紲て留るとも、只難憑此比の武士の心也。清氏さしもの勇士なりしか共、角ては叶はじとや思れけん、舎弟右馬助と只二騎打連て篠峯越に忍で都へ紛入。一夜の程も洛中には難隠と思れければ、兄弟別々に成て、相摸守は東坂本へ打越へ、一日馬の足を休て天王寺へ落ければ、右馬頭は夜半に京中を打通り、大渡を経て、兼ての相図を不違天王寺へぞ落著ける。相摸守軈石堂刑部卿の許へ使者を立、「清氏已に依讒者訴、無罪死罪を行れんと候つる間、身の置所なき余に、天恩を戴て軍門に降参仕て候。 |
「確かに敵は大軍だろう。退いて後方部隊に合流せよ」と言って一本の矢も放たず朝倉が敦賀から撤退したので、付き従っていた兵三百余騎は馬や武具を捨て越前の府へ逃げていった。「だからこそそう思ったのだ」と人々があちこちで嘲笑する評判となったため、尾張左衛門佐(高師詫)が激怒し、すぐに大軍を率いて十月二十九日に椿峠へ向かって進んだ。相模守(細川清氏)はこれを聞き、「今度は敵兵一人も生かして逃すまいから、自ら出陣せねばならぬ」と言い城には頓宮四郎左衛門尉を残し置き弟の右馬助と共に五百余騎で追撃軍に向かった。敵陣が要害だから「攻めてくるだろうか?待っているのか?」と考えているうち、戦闘開始前に重恩を受けていたにも関わらず裏切るはずがないと思われた頓宮四郎左衛門尉が突然心変わりし旗を翻して城戸を打ち破り、攻城側の軍勢を後ろから城内へ引き入れた。これにより清氏に従う兵たちは戦力を失い右往左往しながら敗走していった。「朽ちた縄で六頭もの馬をつなぎとめても無駄だ」というようにこの頃の武士の心など全く当てにならないのである。清氏ほどの勇士でももはやどうにもならないと思ったのだろう、弟右馬助とわずか二騎だけで篠峰を越え密かに都へ潜入したが一夜すら洛中に隠れられないと考え兄弟別々になり相模守は東の坂本へ抜け一日休んで天王寺へ落ち延びた。一方右馬頭(弟)は夜半京都市内を通り抜け大渡を経て予定通り違わず天王寺へ到着した。清氏はすぐ石堂刑部卿のもとへ使者を立て「私は讒言により無実の罪で処刑されようとしたため身の置き場がなく天恩にすがって軍門に降伏いたします」と伝えた。 解説1. 戦況急転における心理描写の深化: 2. 逃避行描写の象徴的意味: 3. 降伏申告場面の政治的含意: 4. 前文との連関性: |
| 旧好其故も候へば、混ら貴方を憑申にて候。兔も角も可然様に御計候へ。」とぞ言遣されける。石堂刑部卿急使者に対面して、先兔角の返事に不及、「こはそも夢か現か。」とて、良久く泪を袖に押へらる。軈参内して事の子細を奏聞せられけるに、左右の大臣相議して云、「敵軍首を延て帝徳に降る。天恩何ぞ是を慧れざらん。早く軍門に慎仕へて、征伐の忠を専にすべし。」と、恩免の綸旨を下されしかば、石堂限なく悦て、則細河に対面し給ふ。互に言ば無して泪に咽び給ふ。暫有て、「世の転変今に始ぬ事にて候へ共、不慮の参会こそ多年の本意にて候へ。」と許、色代してぞ被帰ける。只秦の章邯・趙高が讒を恐れ、楚の項羽に降し時、面をたれ涙を流して言ばには不出ども、讒者の世を乱る恨を含し気色に不異。去程に仁木中務少輔は、京より伊勢へ落て、相摸守に相順ふと聞へ、兵部少輔氏春は、京より淡路へ落て国中の勢を相付て、相摸守に力を合せ、兵船を調へて堺の浜へ著べしと披露あり。摂津国源氏松山は、香下城を拵て南方に牒し合、播磨路を差塞で、人を不通聞へければ、一方ならぬ蜂起に、京都以外に周章して、すはや世の乱出来ぬと危ぬ人も無りけり。宰相中将殿は畿内の蜂起を聞て、「近国は縦起るとも、坂東静なれば、東八箇国の勢召上て退治せんに、何程の事か可有。 |
「以前からの親交のゆえに、何とかあなたを頼りにしておりました。とにかく適切な方法をご配慮ください。」と言って使者を送った。石堂刑部卿は急いで使者に対面し、「これは夢か現実か」と言うだけで詳細な返答もせず、長らく袖で涙を押さえられた。すぐに参内して事の次第を奏上したところ、左右大臣が協議して「敵軍が首を延べて帝の徳に降るとは天恩これ以上ない。早速軍門で謹んで仕え征伐の忠節を尽くすべきだ」と言い、赦免の綸旨が下されたので石堂はこの上なく喜び直ちに細川清氏と対面した。互いに言葉もなく涙にむせんだ。しばらくして「世の変転は今始まったことではないが、思いがけず再会できたのは長年の本望だ」と言い顔色を明るくしてお帰りになった。ただ秦の章邯が趙高の讒言を恐れ楚の項羽に降った時のように頭を垂れて涙を流し言葉も出さなかったものの、讒言する者が世を乱す恨みを含んだ様子と変わらなかった。そのうち仁木中務少輔(義長)が京都から伊勢へ落ち延び清氏に従ったという噂があり兵部少輔細川氏春は京都から淡路へ逃れ国中の勢力をまとめて清氏と力を合わせ兵船を整えて堺の浜へ上陸する予定だと発表した。摂津国の源松山が香下城を築き南方に呼応し播磨路を塞いで人を通さないという噂があったので、並々ならぬ蜂起に京以外は大騒ぎになり「もはや世の乱れが始まった」と危惧しない者などいなかった。宰相中将(足利義詮)殿は畿内の蜂起を聞き「近国はたとえ立ち上がっても坂東が静かだから関東八カ国の兵を召し上げて討伐すれば大したことではないだろう」と言った。 解説1. 心理描写の多層性: 2. 歴史的典故の機能: 3. 蜂起描写の戦略的配置: 4. 前文との連続性: |
| 」とて、強ちに騒ぐ気色も無りける処に、康安元年十一月十三日、関東より飛脚到来して、「畠山入道々誓、舎弟尾張守御敵に成て、伊豆国に楯篭り候間、東国の路塞て、官軍催しに不応。」とぞ申ける。其濫觴何事ぞと尋ぬれば、去々年の冬、畠山入道南方退治の大将として上洛せし時、東八箇国の大名・小名数を尽してぞ上りける。此軍勢長途に疲れ数月の在陣にくたびれて、馬物具を売位に成しかば、怺兼て、畠山に暇をも不乞抜々に大略本国へ下ける。遥に程経て、畠山関東に下向して彼等が一所懸命の所領どもを没収して、歎け共耳にも不聞入、適披露する奉行あれば、大に鼻を突せ追込ける間、訴人徒に群集して、愁を不懐云者なし。暫は訴詔を経て廻りけるが、余に事興盛しければ、宗との者共千余人、神水を呑で、所詮畠山入道を執権に被召仕、毎事御成敗に随まじき由を左馬頭へぞ訴申ける。下として上を退る嗷訴、下刻上の至哉と、心中には憤思はれけれども、此者どもに背れなば、東国は一日も無為なるまじと覚して、軈て畠山が許へ使を立て、「去々年上洛の時、南方退治の事は次に成て、専仁木右京大夫を討んと被謀候し事、隠謀の其一にて非や。其後関東に下向して、差たる無罪科諸人の所帯を没収せられ候ける事、只世を乱して、基氏を天下の人に背かせんとの企にてぞ候覧。 |
「以前からの親交ゆえに何とかあなたをお頼りします。とにかく適切な方法をご配慮ください。」と言って使者を送ったところ、石堂刑部卿は急いで使者に対面し、「これは夢か現実か」と言うだけで詳細な返答もせず長らく袖で涙を押さえた。すぐに参内して事の次第を奏上したところ左右大臣が協議し「敵軍が首を延べて帝の徳に降るとは天恩これ以上ない。早速軍門で謹んで仕え征伐の忠節を尽くすべきだ」と言い、赦免の綸旨が下されたので石堂はこの上なく喜び直ちに細川清氏と対面した。互いに言葉もなく涙にむせんだ。しばらくして「世の変転は今始まったことではないが思いがけず再会できたのは長年の本望だ」と言い顔色を明るくしてお帰りになった。ただ秦の章邯が趙高の讒言を恐れ楚の項羽に降った時のように頭を垂れて涙を流し言葉も出さなかったものの、讒言する者が世を乱す恨みを含んだ様子と変わらなかった。そのうち仁木中務少輔(義長)が京都から伊勢へ落ち延び清氏に従ったという噂があり兵部少輔細川氏春は京都から淡路へ逃れ国中の勢力をまとめて清氏と力を合わせ兵船を整えて堺の浜へ上陸する予定だと発表した。摂津国の源松山が香下城を築き南方に呼応し播磨路を塞いで人を通さないという噂があったので並々ならぬ蜂起に京以外は大騒ぎになり「もはや世の乱れが始まった」と危惧しない者などいなかった。宰相中将(足利義詮)殿は畿内の蜂起を聞き「近国はたとえ立ち上がっても坂東が静かだから関東八カ国の兵を召し上げて討伐すれば大したことではないだろう」と言って特に騒ぐ様子もなかったところ、康安元年十一月十三日に関東から飛脚が到着して「畠山入道(道誓)が弟尾張守を敵として伊豆国に立て籠もったため関東の道が塞がれ官軍への協力はできません」と報告した。その原因は何かと尋ねると、一昨年の冬畠山入道が南方征伐の大将として上洛した時関東八カ国の大名小名を総動員して来たことだった。この軍勢は長旅で疲れ数ヶ月の駐留にぐったりして馬や武具も売るほど困窮していたので我慢しきれず畠山に暇も告げず勝手に大半が本国へ帰ってしまった。その後かなり時が経ち畠山が関東へ下向すると彼らの先祖代々の所領を没収したため訴えても聞き入れられず処分する役人がいたので人々は大きく鼻をつかれて追い詰められた結果、嘆く者が集まり不満を持たない者はいなかった。しばらくは訴訟手続きで解決しようとしたが事態が大きくなり宗徒の千余人が神水を飲み「結局畠山入道を執権にお呼び立てして何事も御裁決に従わぬ」と左馬頭(足利基氏)へ訴えたのだ。下位者が上位者を退ける集団訴訟は道理に反し心の中では憤慨されていたが、もし彼らに背けば関東は一日も平穏でないと思われたので直ちに畠山のもとへ使者を立て「一昨年上洛の時南方征伐より先に仁木右京大夫を討つ計画があったのは密謀そのものではないか。その後関東下向では罪なき人々の所領を没収したことは世を乱し基氏殿を天下の人々から背かせようとする企てだ」と言わせた。 解説1. 政治力学と訴訟構造の描写: 2. 歴史的事件の連鎖性: 3. 前文との緊密な連続性: 4. 修辞法の社会批判的意図: |
| 叛逆旁露顕の上は一日も門下に跡を不可被留。退出及遅々、速に討手をさし遣すべし。」とぞ被云送ける。畠山は其比鎌倉に有けるが、此上は陳じ申とも叶まじとて、兄弟五人並郎従已下引具して、三百余騎伊豆国を指して落て行。此勢小田原の宿に著たりける夜、土肥掃部助、「御敵に成て落る者に、矢一射懸ずと云事や可有。」とて、主従只八騎にて小田原の宿へ押寄せ、風上より火を懸て、烟の下より切て入る。畠山が方に、遊佐・神保・斎藤・杉原、出向て散々に追払ふ。是程小勢なりける者をとて、時の興にぞ笑合ける。さて其後は後陣に防矢少々射させて、其夜小田原の宿を落て、伊豆の修禅寺に楯篭る。其後畠山が舎弟尾張守義深、信濃へ越て、諏防の祝部と引合て、敵に成と聞へしかば、東国・西国・東山道、一度に何様起り合ぬと、洛中の貴賎騒合り。 |
「反逆が露見した以上、一日も配下にとどめておくわけにはいかない。退出の遅れなどあればすぐさま討伐軍を差し向けるべきだ」と命じられた。当時鎌倉にいた畠山はこれ以上弁明しても無駄だと悟り、兄弟五人と郎従以下を率いて三百余騎で伊豆国へ落ち延びることにした。この一行が小田原の宿に到着した夜のことである。土肥掃部助(どひのかもんのすけ)は「敵となって逃げる者に対し、一矢さえ放たぬことがあろうか」と言い、主従わずか八騎で小田原の宿へ押しかけ、風上から火をかけ煙に乗じて切り込んだ。これに対して畠山側の遊佐・神保・斎藤・杉原らが迎え撃ち散々に追い払った。あまりにも少数だったためその場は面白おかしく笑って済ませ、その後わずかに後陣へ矢を射かけ防戦しただけでその夜小田原の宿から撤退し伊豆修禅寺で籠城した。さらに後に畠山の弟尾張守義深(ばたけやまのおわりのかみよしふか)が信濃に越え諏訪神社の神官と手を組んで敵対すると伝わると、東国・西国・東山道まで一度にどのような反乱が起きるか分からないとして都では貴賤問わず大騒ぎとなった。 解説1. 歴史的危機の連鎖構造: 2. 前文との劇的対比: 3. 人間模様と社会心理描写: 4. 文学的手法の政治批判: |
| input text 太平記\037_太平記_巻37.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第三十七 ○清氏正儀寄京事 相摸守は、石堂刑部卿を奏者にて、「清氏不肖の身にて候へ共、御方に参ずる故に依て、四国・東国・山陰・東山、太略義兵を揚候なる。京都は元来はか/゛\しき兵一人も候はぬ上、細川右馬頭頼之・赤松律師則祐は、当時山名伊豆守と陣を取向ふて、相戦ふ最中にて候へば、皆我が国を立離れ候まじ。土岐・佐々木等は、又仁木右京大夫義長と戦て、両陣相支て上洛仕る事候まじ。可防兵もなく助の勢も有まじき時分にて候へば、急ぎ和田・楠以下の官軍に、合力を致候へと仰下され候へ。清氏真前を仕て京都を一日が中に責落して、臨幸を正月以前に成進せ候べし。」とぞ申ける。主上げにもと思食ければ、軈て楠を召て、「清氏が申所いかゞ有べき。」と仰らる。正儀暫く思案して申けるは、「故尊氏卿、正月十六日の合戦に打負て、筑紫へ落て候しより以来、朝敵都を落る事已に五箇度に及候。然れども天下の士卒、猶皇天を戴く者少く候間、官軍洛中に足を留る事を不得候。然も、一端京都を落さん事は、清氏が力を借までも候まじ。正儀一人が勢を以てもたやすかるべきにて候へ共、又敵に取て返されて責られ候はん時、何れの国か官軍の助と成候べき。若退く事を恥て洛中にて戦候はゞ、四国・西国の御敵、兵船を浮べて跡を襲い、美濃・尾張・越前・加賀の朝敵共、宇治・勢多より押寄て戦を決せば、又天下を朝敵に奪れん事、掌の内に有ぬと覚候。 |
相模守(清氏)は石堂刑部卿を通じて奏上した。「清家は取るに足らぬ身分ではございますが、御方にお味方いたしますゆえ、四国・東国・山陰・東山のほぼ全域で義兵が立ち上がりました。京にはもともと頼りになる兵士一人おらず、細川右馬頭頼之や赤松律師則祐は現在、山名伊豆守との戦いに陣を取って対峙中ゆえ皆我が国から離れられません。土岐・佐々木らも仁木右京大夫義長と交戦し両軍とも動けぬ状況です。防ぐ兵力なく援軍も望めないこの機に乗じ、和田や楠以下の官軍へ加勢を命じてくださいますよう。清家が先陣を務め一日で京都を陥落させ、正月中には御帰京をお果たし申し上げましょう」と述べた。主上(後光厳天皇)も期待なされたか、すぐに楠(正儀)を召して「清氏の申す件はどう思うか」と下問があった。正儀は暫く考えてこう奏した。「故尊氏卿が正月十六日の合戦で敗北し筑紫へ落ち延びて以来、朝敵による都陥落は五度にも及びます。しかし天下の兵士に朝廷を戴く者は少なく、官軍は京に留まれませんでした。仮に一度京都を奪還するのは清氏の力を借りずとも正儀一人の兵力で容易いことですが、敵が反撃して攻め寄せた際にはどの国も援軍となれないでしょう。もし退くことを恥じて京内で戦えば、四国・西国の敵は兵船を浮かべて背後を襲い、美濃・尾張・越前・加賀の朝敵らが宇治・勢多から押し寄せて決戦に及べば、天下が再び朝敵の手に落ちることは掌中にあると思われます」 解説1. 清氏の策略的奏上構造: 2. 正儀の現実主義的軍略: 3. 対照的武将像の描出: 4. 歴史的アイロニーの伏線: |
| 但し愚案短才の身、公儀を褊し申べきにて候はねば、兔も角も綸言に順ひ候べし。」とぞ申ける。主上を始め進せて、竹園・椒房・諸司・諸衛に至るまで、住馴し都の変しさに後の難儀をば不顧、「一夜の程なり共、雲居の花に旅ねしてこそ、後は其夜の夢を忍ばめ。」と宣ひければ、諸卿の僉義一同して、明年よりは三年北塞りなり、節分以前に洛中の朝敵を責落して、臨幸を成奉るべき由儀定あて、兵共をぞ被召ける。 ○新将軍京落事 公家大将には、二条殿・四条中納言隆俊卿、武将には、石堂刑部卿頼房・細川相摸守清氏・舎弟左馬助・和田・楠・湯浅・山本・恩地・牲川、其勢二千余騎にて、十二月三日住吉・天王寺に勢調へをすれば、細川兵部少輔氏春淡路の勢を卒して、兵船八十余艘にて堺の浜へつく。赤松彦五郎範実、「摂津国兵庫より打立てすぐに山崎へ攻べし。」と相図を差す。是を聞て京中の貴賎、財宝を鞍馬・高雄へ持運び、蔀・遣戸を放取る。京白川の騒動なゝめならず。宰相中将殿は二日より東寺に陣取て、著到を付られけるに、御内・外様の勢四千余騎と注せり。「さては敵の勢よりも、御方は猶多かりけり。外都に向て可防。」とて、時の侍所なればとて、佐々木治部少輔高秀を、摂津国へ差下さる。 |
「しかし私のような浅慮な身分で朝廷の方針を狭めるわけにはまいりません。いずれにせよ勅命に従います」と正儀は申し上げた。主上(後光厳天皇)を始め、竹園宮・椒房殿から諸官庁の役人や衛士に至るまでが住み慣れた都への未練で将来の困難も顧みず、「一夜だけでも空高く咲く花のような都で仮寝し、後にはその夜の夢を懐かしみたい」と仰せになった。諸公卿の会議は満場一致で「来年から三年間北国へ行幸されるが、節分前に洛中の朝敵を討ち果たして帰京をお迎えするべきだ」との方針を決め、兵たちを召集された。 新将軍(足利義詮)の都落ちについてはこうである。公家大将として二条殿と四条中納言隆俊卿が付き、武将には石堂刑部卿頼房・細川相模守清氏・その弟左馬助・和田・楠・湯浅・山本・恩地・牲川らを配置し、総勢二千余騎で十二月三日に住吉と天王寺で軍備を整えた。一方、細川兵部少輔氏春が淡路の兵力を集め八十余艘の兵船で堺浜へ到着する。赤松彦五郎範実は「摂津国兵庫から出撃して直ちに山崎へ攻めるべし」と指令した。これを聞いた都中の貴賎(身分ある者も庶民も)財宝を鞍馬や高雄へ運び、蔀戸を取り払う騒ぎで白川京の混乱は甚だしかった。宰相中将殿(足利義詮)は二日前から東寺に陣取り御内衆と外部勢力合わせ四千余騎が到着登録した。「敵軍より味方の兵力が多いなら外郭を防衛せよ」との判断で、当時の侍所長官たる佐々木治部少輔高秀を摂津国へ派遣された。 解説1. 政治決断と感情的行動の衝突: 2. 軍事配置の象徴性: 3. 社会混乱の本質: 4. 侍所派遣の戦略的誤算: 前文との連続性補足: |
| 当国は親父道誉が管領の国なれば、国中の勢を相催して、五百余騎忍常寺を陣に取て、敵を目の下に待懸たり。今河伊予守に三河・遠江の勢を付て、七百余騎山崎へ差向らる。吉良治部太輔・宇都宮三河三郎・黒田判官を大渡へ向らる。自余の兵千余騎、淀・鳥羽・伏見・竹田へ引へさせ、羽林の兵千余騎をば、東寺の内にぞ篭られける。同七日南方の大将河を越て、軍評定の有けるに、細川相摸守進出て申されける様は、「京都の勢の分際をも、兵の気色をも皆見透したる事にて候へば、此合戦に於ては、枉て清氏が申旨に任られ候へ。先清氏後陣に引へて、山崎へ打通り候はんに、忍常寺に候なる佐々木治部少輔、何千騎候と云共、よも一矢も射懸候はじ。山崎を今河伊予守が堅て候なる。是又一軍までも有まじき者にて候。洛中の合戦に成候はば、大和・河内・和泉・紀伊国の官軍は、皆跣立に成て一面に楯をつきしとみ、楯の陰に鑓長刀の打物の衆を五六百人づゝ調えて、敵かゝらば馬の草脇・太腹ついては跳落させ/\、一足も前へは進とも一歩も後へ引く気色なくは、敵重て懸入る者候べからず。其時石堂刑部卿・赤松彦五郎・清氏一手に成て敵の中を懸破り、義詮朝臣を目に懸候程ならば、何くまでか落し候べき。天下の落居一時が中に定り候べき物を。 |
「本国(近江)は私の父道誉が管領する国であるため、国内の兵力を召集し五百余騎で忍常寺に陣取り、敵を眼下に待ち構えている。今河伊予守には三河・遠江の兵を与えて七百余騎を山崎へ派遣した。吉良治部太輔・宇都宮三河三郎・黒田判官らは大渡(桂川)方面に向かわせた。残りの兵千余騎は淀・鳥羽・伏見・竹田に配置し、義詮朝臣の直轄部隊である羽林軍千余騎は東寺内に籠らせた。同月七日、南朝大将が河(大和川)を越えて軍事評定を行った際、細川相模守清氏が進み出て申し上げた様子はこうであった:『京都方の兵力配置も兵士の士気も全て見抜いておりますゆえ、この合戦については是非とも私の提案にお任せください。まず私(清氏)が後陣を率い山崎方面へ突破すれば、忍常寺にいる佐々木治部少輔高秀は何千騎であろうと一矢も放たせることはないでしょう。山崎を守る今河伊予守など一戦の値打ちもありません。もし洛中での市街戦になれば、大和・河内・和泉・紀伊国の官軍(南朝兵)は皆裸足となり盾を地面に並べ立てます。その盾の陰には槍や長刀を持った歩兵部隊を五百人ずつ配置し、敵が攻めて来たら馬の腹脇や胴体を突き刺して落とさせます。一歩も前進せず後退もしない態勢を見せれば、敵は容易に攻め込めません。その時こそ石堂刑部卿・赤松彦五郎範実らと私が一手となって敵陣を突破し、義詮朝臣(足利将軍)の首級を狙うところまで追い詰めれば、どこへ逃れるというのでしょうか?天下の帰趨は一瞬で決するはずです』」 解説1. 近江支配権の政治的背景: 2. 戦術配置の空間的意味: 3. 清氏提案の戦術的革新性: 4. 市街戦シミュレーション: 前文との連続性と史的帰結: |
| 」と申されければ、「此儀誠に可然。」とて、官軍中島を打越て、都を差て責上る。げにも相摸守の云つるに少も不違、忍常寺の麓を打通るに、佐々木治部少輔は時の侍所也。甥二人まで当国にて楠に打れぬ。爰にて先日の恥をも洗んとて、手痛き軍をせんずらんと、思儲けて通けるに、高秀、相摸守に機を呑れて臆してや有けん、矢の一をも不射懸、をめ/\とこそ通しけれ。さては山崎にてぞ、一軍あらんずらんと思ふ処に、今河伊予守も叶まじとや思けん、一戦も戦はで、鳥羽の秋山へ引退く。此を見て此彼に陣を取たる勢共、未敵も近付ざるに、落支度をのみぞし居たりける。「かくては合戦はか/゛\しからじ。先京を落てこそ、東国・北国の勢をもまため。」とて、持明院の主上をば警固し奉り、同八日の暁に、宰相中将殿、苦集滅道を経て勢多を通り、近江の武佐寺へ落給ふ。君は舟臣は水、水能浮船、水又覆船也。臣能保君、臣又傾君といへり。去去年の春は清氏武家の執事として、相公を扶持し奉り、今年の冬は清氏忽に敵と成て、相公を傾け奉る。魏徴が太宗を諌ける貞観政要の文、げにもと思ひ知れたり。同日の晩景に南方の官軍都に打入て、将軍の御屋形を焼払ふ。思の外に洛中にて合戦なかりければ、落る勢も入勢も共に狼籍をせず、京白川は中々に此間よりも閑なり。 |
「そのようにおっしゃったので、『この策略はまことに適切である』として官軍(南朝軍)は中島を突破して都へ向かって攻め上った。確かに相模守(細川清氏)が言った通り少しも違わず、忍常寺の麓を通り抜ける際に佐々木治部少輔高秀(北朝側侍所長官)は甥二人まで当国で楠正儀らに討たれていた。ここで先日の恥をそそごうと痛烈な反撃をするだろうと思って通りかかったところ、高秀は清氏の策略を見抜いておじけたのかもしれないが一矢も放たず、平然と通過させてしまった。それでは山崎で一戦交えるだろうと思う場所でも今河伊予守(北朝武将)も抗しきれまいと思ったらしく、一度も戦わずに鳥羽の秋山へ撤退した。これを見てあちこちに陣を敷いた味方勢力は敵すら近づいていないのに逃亡準備ばかりしていた。『このままでは合戦にならない。まず京を落としてから東国・北国の兵力も集めよう』と言って、持明院の上皇(後光厳天皇)をお護りし奉り同月八日の明け方に宰相中将殿(足利義詮)は苦難の逃避行で勢多を通り近江武佐寺へ落ち延びられた。(ここで格言が挿入される)君主を舟とすれば臣下は水である。水は船を浮かべることもあれば覆すこともある。臣下は主君を支えることもあれば滅ぼすこともあるという。昨年春には清氏が武家執事として相公(義詮)をお守りし奉っていたのに、今年の冬には急に敵となって相公を亡き者にしようとしている。(唐の太宗に対する)魏徴の諫言『貞観政要』の一節はまさにこの通りだと痛感した。同日夕方南朝官軍が都へ攻め入り将軍(義詮)邸を焼き払った。意外にも洛中では戦闘がなかったため、撤退する勢力も侵攻側も共に乱暴を行わず京の白川はかえって前よりも静かだった」 解説1. 歴史的展開と心理描写: 2. 避難行路と政治的寓意: 3. 占領描写の皮肉性: 前節との連関と史的帰結: |
| 爰に佐渡判官入道々誉都を落ける時、「我宿所へは定てさもとある大将を入替んずらん。」とて、尋常に取したゝめて、六間の会所には大文の畳を敷双べ、本尊・脇絵・花瓶・香炉・鑵子・盆に至まで、一様に皆置調へて、書院には義之が草書の偈・韓愈が文集、眠蔵には、沈の枕に鈍子の宿直物を取副て置く。十二間の遠侍には、鳥・兔・雉・白鳥、三竿に懸双べ、三石入許なる大筒に酒を湛へ、遁世者二人留置て、「誰にても此宿所へ来らん人に一献を進めよ。」と、巨細を申置にけり。楠一番に打入たりけるに、遁世者二人出向て、「定て此弊屋へ御入ぞ候はんずらん。一献を進め申せと、道誉禅門申置れて候。」と、色代してぞ出迎ける。道誉は相摸守の当敵なれば、此宿所をば定て毀焼べしと憤られけれ共、楠此情を感じて、其儀を止しかば、泉水の木一本をも不損、客殿の畳の一帖をも不失。剰遠侍の酒肴以前のよりも結構し、眠蔵には、秘蔵の鎧に白太刀一振置て、郎等二人止置て、道誉に■替して、又都をぞ落たりける。道誉が今度の振舞、なさけ深く風情有と、感ぜぬ人も無りけり。例の古博奕に出しぬかれて、幾程なくて、楠太刀と鎧取られたりと、笑ふ族も多かりけり。 ○南方官軍落都事 宮方には、今度京の敵を追落す程ならば、元弘の如く天下の武士皆こぼれて落て、付順ひ進せんずらんと被思けるに、案に相違して、始て参る武士こそなからめ。 |
「ここで佐々木判官入道道誉(京極高氏)は都を退去する際、『我が宿所にはきっと大将格の人物が入るだろう』と言い、普段通りに整えて六間ある会所には大紋の畳を二重に敷き、本尊・脇絵から花瓶・香炉・湯沸し器・盆に至るまで一式揃え置いた。書院には藤原義之の草書偈文や韓愈文集を配し、寝所には沈香枕と練絹製夜具を添えて用意した。十二間ある玄関広間には鳥・兎・雉・白鳥を三本の竿に掛け並べ、三石入りの大甕に酒を満たし、隠居二人を残して『誰であれこの宿所へ来る者に一杯振る舞え』と細かく指示した。楠木正儀が一番乗りで到着すると、待機していた隠居が出向き『きっとこの粗末な屋敷にお入りになるでしょう。道誉様から酒を勧めよと言われております』と丁重に迎えた。道誉は細川清氏の仇敵ゆえ宿所は焼かれるだろうと怒っていたが、楠木はこの心遣いに感じ入り破却を止めたため、泉水の木一本も傷つけず客殿の畳一枚すら失わなかった。さらに玄関間の酒肴を以前より豪華に増やし、寝所には秘蔵の鎧と白太刀一振りを置いて郎党二人を残し、道誉への返礼として都から撤退した。今回の道誉の振る舞いは情け深く風流だと感嘆しない者はいなかったが、『古参の博奕師に手玉取られたようだ』と嘲笑する者も多く、ほどなく楠木は太刀と鎧を取り返されたという噂が立った。 解説1. 道誉演出の象徴性: 2. 敵対者同士の美意識共鳴: 3. 歴史的皮肉構造: 前節との連続的意義: |
| 筑紫の菊池・伊予土居・得能、周防の大内介、越中の桃井、新田武蔵守・同左衛門佐、其外の一族共、国々に多しといへども、或は道を塞がれ、或は勢ひ未だ叶ざれば、一人も不上洛。結句伊勢の仁木右京大夫は、土岐が向城へよせて、打負て城へ引篭る。仁木中務少輔は、丹波にて仁木三郎に打負て都へ引返し、山名伊豆守は暫兵の疲を休めんとて、美作を引て伯耆へかへり、赤松彦五郎範実は、養父則祐様々に誘へ宥めけるに依て、又播磨へ下りぬと聞へければ、国々の将軍方機を得ずと云者なし。さらば軈て京へ責上れとて越前修理大夫入道々朝の子息左衛門佐以下、三千余騎にて近江武佐寺へ馳参る。佐々木治部少輔高秀・小原備中守は白昼に京を打通て、道誉に馳加る。道誉其勢を合て七百余騎、野路・篠原にて奉待。土岐桔梗一揆は、伊勢の仁木が向城より引分て五百余騎、鈴鹿山を打越て篠原の宿にて追付奉る。此外佐々木六角判官入道崇永・今川伊予守・宇都宮三河入道が勢、都合一万余騎、十二月二十四日に武佐寺を立て、同二十六日先陣勢多に付にけり。丹波路より仁木三郎、山陰道の兵七百余騎を卒して責上る。播磨路よりは、赤松筑前入道世貞・帥律師則祐一千余騎にて兵庫に著く。残五百余騎をば、弾正少弼氏範に付て船に乗せ、堺・天王寺へ押寄て、南方の主上を取奉り、楠が跡を遮んと二手に成てぞ上りける。 |
「筑紫の菊池武光・伊予土居通増・得能通言、周防の大内弘世、越中の桃井直常、新田義宗(武蔵守)・同氏明(左衛門佐)、その他の一族たちは各国に多く存在したが、ある者は進路をふさがれ、あるいは兵力がまだ整わなかったため一人も上洛しなかった。結局のところ伊勢の仁木頼章(右京大夫)は土岐氏への攻撃拠点で敗れて城内へ撤退し、仁木義尹(中務少輔)は丹波で甥の仁木治部三郎に敗れ京都へ戻り、山名時氏(伊豆守)は一時兵士を休めるため美作から伯耆へ帰還した。また赤松彦五郎範実が養父・赤松則祐に巧みに説得され播磨へ下ったと伝わると、各地の将軍方(北朝勢力)で好機到来を叫ばない者はなかった。(彼らは)『それならすぐ京都奪還だ』と言い越前修理大夫入道道朝の息子・左衛門佐以下3,000余騎が近江武佐寺へ進撃した。佐々木治部少輔高秀と小原備中守は白昼堂々京を突破して道誉(京極高氏)に合流し、道誉はこれら兵力を合わせ700余騎で野路・篠原で待ち構えた。土岐桔梗一揆軍500余騎は伊勢の仁木包囲陣から分かれて鈴鹿山を越え篠原宿で追いついた。さらに佐々木六角判官入道崇永(高詮)・今川貞世(伊予守)・宇都宮三河入道教真らの軍が加わり総勢10,000余騎となり、12月24日に武佐寺を出発し同26日には先鋒部隊が瀬田に到達した。丹波路からは仁木治部三郎が山陰道の兵700余騎を率いて進撃し、播磨路から赤松筑前入道世貞と帥律師則祐(赤松則祐)1,000余騎が兵庫へ上陸した。残り500余騎は弾正少弼氏範に託され船で堺・天王寺へ迫り南朝の後村上天皇を奪還し楠木正儀軍の退路を断つべく二手に分かれて進撃した。」 解説1. 北朝勢力集結プロセス: 2. 戦略的二方面作戦: 3. 「一人モ不上洛」の歴史的背景: 前文脈との整合性: |
| 宮方の官軍、始は京都にてこそ兔も角もならめと申けるが、四方の敵雲霞の如く也と告たりければ、是程に能しよせたる天下を、一時に失ふべきにあらず。先南方へ引て、四国・西国へ大将を分遣し、越前・信濃・山名・仁木に牒合て、又こそ都を落さめとて、同二十六日の晩景程に、南方の宮方宇治を経て、天王寺・住吉へ落ければ、同二十九日将軍京へ入給ひけり。 ○持明院新帝自江州還幸事付相州渡四国事 帝都の主上は、未近江へ武佐寺に御坐有て、京都の合戦いかゞ有らんと、御心苦敷く思食ける処に、康安元年十二月二十七日に、宰相中将殿早馬を立て、洛中の凶徒等事故なく追落し候ぬ。急ぎ還幸なるべき由を申されたりければ、君を始め進て、供奉の月卿雲客、奴婢僕従に至るまで、悦あへる事尋常ならず。其翌の朝軈て竜駕を促されて、先比叡山の東坂本へ行幸成て、此にて御越年あり。佐々波よする志賀の浦、荒て久しき跡なれど、昔ながらの花園は、今年を春と待顔なり。是も都とは思ながら馴ぬ旅寝の物うさに、諸卿みな今一日もと還幸を勧め申されけれ共、「去年十二月八日都を落させ給ひし刻に、さらでだに諸寮司さ闕たりし里内裏、垣も格子も破失、御簾畳も無りければ、暫く御修理を加てこそ還幸ならめ。 |
「南朝側の官軍は初め京都で何とか踏みとどまろうと言っていたが、四方から敵が雲霞のように集結したとの報告を受け、これほどに苦心して獲得した天下を一瞬にして失うべきではない。まず南方へ撤退し、四国・西国へ大将を派遣すると共に、越前・信濃の勢力や山名氏・仁木氏と連絡を取り合い、再び都を奪還しようと考えた。こうして同年(康安元年)12月26日の夕暮れ頃、南朝軍は宇治を通り天王寺・住吉へ撤退したため、同29日に将軍足利義詮が京都に入城した。 解説1. 南朝撤退の戦略性: 2. 北朝側動態の二面性: 3. 文学表現と史実の交差: 前文脈との連続性: |
| 」とて、翌年の春の暮月に至まで、猶坂本にぞ御坐ありける。近日は聊の事も、公家の御計としては難叶ければ、内裡修理の事武家へ仰られたりけれ共、領掌は申されながら、いつ道行べしとも見へざりければ、いつまでか外都の御住居も有べきとて、三月十三日に西園寺の旧宅へ還幸なる、是は后妃遊宴の砌、先皇臨幸の地なれば、楼閣玉を鏤めて、客殿雲に聳たり。丹青を尽せる妙音堂、瑠璃を展たる法水院、年々に皆荒はてゝ、見しにもあらず成ぬれば、雨を疑ふ岩下の松風、糸を乱せる門前の柳、五柳先生が旧跡、七松居士が幽棲も角やと覚て物さびたり。爰にて今年の春を送らせ給に、兔角して諸寮の修理如形出来れば、四月十九日に本の里内裏へ還幸なる。供奉月卿雲客は指たる行粧なかりしか共、辻々の警固随兵の武士共皆傍を耀してぞ見へたりける。「細川相摸守清氏は、近年武家の執事として、兵の随付たる事幾千万と云数を不知。其身又弓箭を取て、無双の勇士なりと聞へしかば、是が宮方へ降参しぬる事、偏に帝徳の天に叶へる瑞相、天下の草創は必此人の武徳より事定るべし。」と、吉野の主上を始進て、諸卿皆悦び思食ければ、則大将の任をぞ授られける。其任案に相違して、去年の冬南方官軍相共に、宰相中将殿を追落して、暫く洛中に勢を振ひし時も、此人に馳付勢もなし。 |
「(天皇は)そうおっしゃって翌年(康安2年・1362年)春の終わりまで、なお坂本にご滞在になっていた。最近のことでは些細なことさえ公家方だけでは処理が難しく、内裏修理を武家に命じられたものの、担当者は承諾しながらもいつ工事が進む様子もなかったため、『いつまでも仮の御所で暮らすわけにもいかない』として三月十三日に西園寺旧宅へ還幸された。ここは后妃たち遊宴や先帝行幸の地だったので楼閣は玉をちりばめたように美しく客殿は雲をつくほど高かったが、丹青(彩色)を尽した妙音堂も瑠璃瓦の法水院も年々荒れ果て見る影もなかった。雨かと疑う岩下の松風や糸のように乱れる門前の柳は、五柳先生(陶淵明)の旧跡や七松居士(小野道風)の幽棲さえ物寂しく思われた。ここでこの年の春を過ごされた後、ようやく諸役所の修理が形通り完成したため四月十九日に元の里内裏へ還幸なさった。供奉する公家衆に目立つ服装はなかったものの辻々の警護にあたる武士たちが鎧を輝かせて見えた。(一方南朝では)『細川相模守清氏は近年武家執事として率いた兵士は数千万と計り知れず、自らも弓矢を取って無双の勇士と言われた。この者が宮方(南朝)へ降ったのは天が認めた帝徳の瑞兆であり天下再建は必ず彼の武勇で成る』と吉野の天皇を始め公卿たち皆喜んでおられたため、すぐに大将職を与えられた。(しかし清氏への期待とは異なり)昨冬南朝軍と共に宰相中将(細川清氏自身が追放した斯波高経ら北朝勢力)を京都から駆逐して一時洛中で勢威を振るった時も、彼の加勢はなかった。」 解説1. 還幸遅延の政治的背景: 2. 建築描写の歴史的意義: 3. 細川清氏帰順の皮肉: 前文脈との連関: |
| 幾程なくて官軍又都を落されて、清氏河内国に居たれ共、其旧好を慕て尋来る人も稀なり。只禿筆に譬へられし覇陵の旧将軍に不異。清氏は為ん方なさに、「若四国へ渡りたらば、日来相順ひし兵共の馳付事もや有らん。」とて、正月十四日に、小船十七艘に取乗て阿波国へぞ渡られける。 ○可立大将事付漢楚立義帝事 夫大将を立るに道あり。大将其人に非ざれば、戦に勝事を得がたし。天下已に定て後、文を以て世を治る時は、智慧を先とし、仁義を本とする故に、今まで敵なりし人をも許容して、政道を行はせ大官を授る事あり。所謂魏徴は楚の君の旧臣なりしか共、唐太宗是を用給ふ。管仲は子糾が寵人たりしか共、斉の桓公是を賞せられき。天下未定時、武を以て世を取らんずるには、功ある人を賞し咎ある人を罰する間、縦威勢ある者なれども、降人を以て大将とはせず。伝聞秦の左将軍章邯は、四十万騎の兵を卒して、楚に降参したりしか共、項羽是を以て大将の印を不与。項伯は、鴻門の会に心を入て高祖を助たりしか共、漢に下て後是に諸侯の国を不授。加様の先蹤を、南方祗候の諸卿誰か存知し給はざるに、先高倉左兵衛督入道慧源に、大将の号を授て、兄の尊氏卿を打せんと給ひしか共叶はず。次に右兵衛佐直冬に、大将の号をゆるされて、父の将軍を討せんとし給ひしも不叶。 |
「まもなくして官軍(南朝勢力)はまた京から落ち延びざるを得ず、細川清氏は河内国にいたものの、かつて親交を結んでいた人々が彼のもとへ訪れることは稀だった。まるで廃れた筆に例えられる覇陵の老将軍(李広)と同じ状態である。清氏にはどうしようもなく、『もし四国へ渡れば日頃従っていた兵たちも駆けつけるかもしれない』と言い、正月十四日に小船十七艘で阿波国へ渡った。 解説1. 細川清氏の孤立と渡航の意味: 2. 大将任命論の歴史的引用: 3. 人物関係と政治的背景: 全体構成の意図: |
| 又仁木右京大夫義長に大将を授て、世を覆さんとせられしも不叶。今又細川相摸守清氏を大将として、代々の主君宰相中将殿を亡さんとし給ふ不叶。是只其理に不当大将を立て、或は父兄の道を違へ、或は主従の義を背く故に、天の譴あるに非ずや。されば古も世を取んとする人は、専ら大将を撰びけるにや。昔秦の始皇の世を奪んとて陣渉と云ける者、自ら大将の印を帯て大沢より出たりしが、無程秦の右将軍白起が為に被討ぬ。其後又項梁と云者、自ら大将の印を帯て、楚国より出たりけるも、秦左将軍章邯に被打にけり。爰に項羽・高祖等色を失て、さては誰をか大将として、秦を可責と計りけるに、范増とて年七十三に成ける老臣、座中に進出て申けるは、「天地の間に興も亡も、其理に不依と云事なし。されば楚は三戸の小国なれども、秦を亡さんずる人は、必楚王の子孫にあるべし。其故は秦の始皇六国を亡して天下を並呑せし時、楚の懐王遂に秦を背事なし。始皇帝故なく是を殺して其地を奪へり。是罪は秦に有て善は楚に残るべし。故に秦を打たんとならば、如何にもして、楚の懐王の子孫を一人取立て、諸卒皆命に随べし。」とぞ計申ける。項羽・高祖諸共に、此義げにもと被思ければ、いづくにか楚の懐王の子孫ありと尋求けるに、懐王の孫に孫心と申ける人、久く民間に降て、羊を養けるを尋出て、義帝と号し奉て、項羽も高祖も均く命を慎み随ひける。 |
さらに仁木右京大夫(にんき・うきょうのだいぶ)義長(よしなが)を大将として天下を取り戻そうとしたが、これも果たせなかった。今また細川相模守(ほそかわ・さがみのかみ)清氏(きようじ)を大将とし、代々の主君である宰相中将殿(=足利尊氏:あしかが・たかうじ)を滅ぼそうとしたことも果たせなかった。これはただ単に道理にかなわない大将を任命したこと、あるいは父兄への道義に背き、あるいは主従の情誼を損なったためで、天罰によるものではないだろうか。だからこそ昔から天下を得ようとする者は、ひたすら大将の人選に注意してきたのであろう。 かつて秦(しん)の始皇帝(しこうてい)が治める世の中を奪おうとした陣渉(ちんしょう)という者が自ら大将印を帯び大沢から挙兵したものの、すぐに秦の右将軍・白起(はくき)によって討ち取られた。その後、項梁(こうりょう)という者も自ら大将印を帯び楚の国から出陣したが、秦の左将軍・章邯(しょうかん)に打ち負かされた。ここで項羽(こうう)や高祖(=劉邦:りゅうほう)たちは顔色を失い、「それでは誰を大将として秦を責めればよいのか」と話し合ったところ、范増(はんぞう)という73歳の老臣が席から進み出てこう述べた。 「天地の間で興亡があるのはすべて道理によるものである。だから楚のような三戸しかない小国でも秦を滅ぼす者は必ず楚王の子孫にあるはずだ。その理由は、秦の始皇帝が六国を滅ぼして天下を併呑した時、楚の懐王(かいおう)は最後まで秦に背かなかったのに、始皇帝は理由なく彼を殺し領地を奪ったからである。この罪は秦にあり正義は楚にあると言えるゆえ、秦を打ち倒すなら何としてでも楚の懐王の子孫一人を見つけ出して立てれば兵士たちも皆その命令に従うだろう。」 項羽と高祖(劉邦)ら一同がこの提案にもっともだと思ったため、「どこかに楚の懐王の子孫はいないか」と探したところ、懐王の孫で孫心(そんしん)という人物を発見した。彼は長く民間に身を落として羊飼いをしていたが、迎え出されて義帝(ぎてい)と称され奉られると、項羽も高祖(劉邦)も共にその命令を慎重に従ったのである。 解説1. 南朝の大将任命失敗事例の拡大: 2. 秦滅亡期故事引用の戦略性: 3. 物語構成上の役割: 全体史観: |
| 其後より漢楚の軍は利あつて、秦の兵所々にて打負しかば、秦の世終に亡にけり。是を以て思に、故新田義貞・義助兄弟は、先帝の股肱の臣として、武功天下無双。其子息二人義宗・義治とて越前国にあり。共に武勇の道父に不劣、才智又世に不恥。此人々を召て竜顔に咫尺せしめ、武将に委任せられば、誰か其家を軽じ、誰か旧功を続ざらん。此等を閣て、降参不儀の人を以て大将とせられば、吉野の主上天下を被召事、千に一も不可有。縦一旦軍に打勝せ給事有とも、世は又人の物とぞ覚へたる。 ○尾張左衛門佐遁世事 都には細川相摸守敵になりし後は、執事と云者なくして、毎事叶はざりける間、誰をか其職に可置と評定ありけるが、此比時を得たる佐々木佐渡判官入道々誉が聟たるに依て、傍への人々皆追従にや申けん、「尾張大夫入道の子息左衛門佐殿に、増たる人あらじ。」と申ければ、宰相中将殿も心中に異儀無して、執事職を内々此人に定め給ひにけり。父の大夫入道は、元来当腹の三男治部大輔義将寵愛して、先腹の兄二人を世にあらせて見んとも思はざりければ、左衛門佐執事職に可居由を聞て、様々の非を挙て、種々の咎を立て、此者曾て其器用に非ざる由をぞ、宰相中将殿へ申されける。中将殿も人の申に付安き人にて御座ければ、「げにも見子不如父。 |
その後、漢と楚の軍勢は優勢となり、秦の兵士があちこちで敗れたため、秦王朝はついに滅びました。これによって考えてみると、故・新田義貞・義助兄弟は先帝(後醍醐天皇)の手足となる忠臣として武勇において天下に並ぶ者がないほどでした。その息子二人である義宗と義治が越前国におり、ともに武道では父に劣らず、才能や智恵も世間に引けを取らないものです。この人々をお召しして天皇の御前に近づかせ、武将として任命されれば、誰があの家(新田家)を軽んじるでしょうか? また古くからの功績を受け継がない者などいるはずがありません。これらを見過ごして降参したばかりで不誠実な人物をもって大将とされるなら、吉野にいらっしゃる主上(南朝天皇)が天下を召し取られることは千分の一もありえないでしょう。たとえ一時的に戦いに勝利することがあったとしても、世の中は結局他人のものになるように思われます。 ○尾張左衛門佐遁世事 解説1. 歴史的教訓の深化: 2. 執事職任命劇の政治力学: 3. 全体構成と史観: 時代背景: |
| さらば当腹の三男を面に立て、幼稚の程は、父の大夫入道に、世務を執行さすべし。」と宣ひける。左衛門佐是を聞て、父をや恨にけん、世をうしとや思ひけん、潜に出家して、いづちともなく迷出にけり。付随ふ郎従共二百七十人、同時に皆髻を切て、思々にぞ失にける。此人誠に父の所存をも不破、我身の得道をも願て、出家遁世しぬる事類少き発心なり。但此比の人の有様は、昨日は髻切て実に貴げに見ゆるも、今日は頭を裹て、無慚無愧に振舞事のみ多ければ、此遁世も又行末通らぬ事にてやあらんずらんと思ひしに、遂に道心さむる事なくして、はて給ひけるこそ難有けれ。 ○身子声聞、一角仙人、志賀寺上人事 凡煩悩の根元を切り、迷者の絆を離るゝ事は、上古にも末代にも、能難有事にて侍るにや。昔天竺に身子と申ける声聞、仏果を証ぜん為に、六波羅蜜を行ひけるに、已に五波羅蜜を成就しぬ。檀波羅蜜を修するに至て、隣国より一人の婆羅門来て、財宝を乞に、倉の内の財、身の上の衣、残る所なく是を与ふ。次に眷属及居室を乞に皆与へつ。次に身の毛を乞に、一筋も不残抜て施けり。波羅門猶是に不飽足、「同は汝が眼を穿て、我に与へよ。」とぞ乞ける。身子両眼を穿て、盲目の身と成て、暗夜に迷が如ならん事、いかゞ在べきと悲ながら無力、此行の空くならん事を痛て、自ら二眼を抜て、婆羅門にぞ与へける。 |
それでは正室が産んだ三男を表向きの代表として立て、未熟な間は父である尾張大夫入道に政務を取り行わせるのがよいだろう。」とおっしゃった。左衛門佐はこれを聞いて、父親を恨んだのだろうか、世の中を厭うたのか、密かに出家してどこへともなく姿を消した。従っていた家来たち二百七十人も同時に皆まげを切り落とし、それぞれ散り散りになってしまった。この人物は誠実にも父の考えを妨げず、自ら悟りの道を求めて出家遁世した点では稀有な発心と言える。しかし当時の人の様子は、昨日まで髷を結って立派に見えた者が今日は頭巾で隠し厚かましく振る舞う例が多いので、この遁世もまた行く末が長続きしないのではないかと思っていたところ、案の定ついに信仰心を持ち続けることもなく亡くなったのは残念なことだった。 ○身子声聞と一角仙人と志賀寺上人の話 解説1. 高師直家内紛と信仰的批判: 2. 仏教寓話の役割: 文学的意義: |
| 婆羅門二の眼を手に取て、「肉眼は被抜て後、涜き物成けり。我何の用にか可立。」とて、則地に抛て、蹂躙してぞ捨たりける。此時に身子、「人の五体の内には、眼にすぎたる物なし。是程用にもなき眼を乞取て、結句地に抛つる事の無念さよ。」と一念瞋恚の心を発しゝより、菩提の行を退しかば、さしも功を積たりし六波羅蜜の行一時に破れて、破戒の声聞とぞ成にける。又昔天竺の波羅奈国に一人の仙人あり。小便をしける時、鹿のつるみけるを見て、婬欲の心ありければ、不覚して漏精したりける。其かゝれる草の葉を妻鹿食て子を生す。形は人にして額に一の角ありければ、見る人是を一角仙人とぞ申ける。修行功積て、神通殊にあらたなり。或時山路に降て、松のしづく苔の露、石岩滑なりけるに、此仙人谷へ下るとて、すべりて地にぞ倒れける。仙人腹を立て、竜王があればこそ雨をも降らせ、雨があればこそ我はすべりて倒れたり。不如此竜王共を捕へて禁楼せんにはと思て、内外八海の間に、あらゆる所の大龍・小竜共を捕へて、岩の中にぞ押篭ける。是より国土に雨を降すべき竜神なければ、春三月より夏の末に至るまで天下大に旱魃して、山田のさなへさながらに、取らで其侭枯にけり。君遥に民の愁を聞召して、「いかにしてか此一角仙人の通力を失て、竜神を岩の中より可出す。 |
バラモン僧は二つの目を手に取り、「肉眼は抜かれた後では汚らわしいものだ。私にとって何の役にも立たぬ。」と言って、すぐさま地面に投げ捨て、踏みつけてしまったという。この時舎利弗(シャーリプトラ)は「人の五体の中で目ほど重要なものはない。それほどの価値もない目をわざわざ要求しておきながら結局地面に投げ捨てるとは無念なことよ。」と一瞬怒りの心を起こしたため、悟りを求める行いから退転してしまった。こうして積み重ねた功徳も虚しく六波羅蜜の修行は一度で破れ、戒律を破った修行者となってしまったのだ。また昔インドのヴァラナシ王国に一人の仙人がいた。小便をしている時に雌鹿が交尾する様子を見て欲情したため、知らずに精液が出たことがある。その精液のかかった草の葉を雌鹿が食べて子供を産んだ。姿は人間だが額に一本の角があったので人々は彼を一角仙人と呼んだ。修行を重ね神通力は非常に優れていた。ある時山道を下りていると松から滴る雫や苔の露で岩場が滑っていたため、この仙谷へ降りようとして転んで地面に倒れた。仙人は腹を立て「竜王がいるから雨を降らせるのだ。雨さえなければ私は滑って倒れなかっただろう。」と考え、「何とかしてこの一角仙人の神通力を失わせ岩の中から竜神たちを取り出せないものか」と願った。 解説1. 舎利弗物語の結末と教訓: 2. 一角仙人譚の導入構造: 文学的意義: |
| 」と問給ふに、或智臣申けるは、「彼仙人縦ひ霞を喰ひ気を飲て、長生不老の道を得たり共、十二の観に於て未足所あればこそ、道にすべりて瞋る心は有つらめ。心未枯木死灰の如ならずは、色に耽り香に染む愛念などか無らんや。然らば三千の宮女の中に、容色殊に勝れたらんを、一人彼草庵の中へ被遣て、草の枕を並べ苔の筵を共にして、夜もすがら蘿洞の夢に契を結ばれば、などか彼通力を失はで候べき。」とぞ申ける。諸臣皆此儀に同じければ、則三千第一の后、扇陀女と申けるに、五百人の美人を副て、一角仙人の草庵の内へぞ被送ける。后はさしもいみじき玉の台を出て、見るに悲げなる草庵に立入給へば、苔もるしづく、袖の露、かはく間もなき御涙なれ共、勅なれば辞するに言ばなくして、十符のすがごもしき忍び、小鹿の角のつかの間に、千年を兼て契給ふ。仙人も岩木にあらざれば、あやなく后に思しみて、ことの葉ごとに置く露の、あだなる物とは不疑。夫仙道は露盤の気を嘗ても、婬欲に染ぬれば、仙の法皆尽て其験なし。されば此仙人も一度后に落されけるより、鯢桓の審も破れて通力もなく、金骨返て本の肉身と成しかば、仙人忽に病衰して、軈て空く成にけり。其後后は宮中へ立帰り、竜神は天に飛去て、風雨時に随しかば、農民東作を事とせり。 |
「ではどうすればこの一角仙人の神通力を失わせて竜神たちを岩の中から出せるだろうか」と王様がお尋ねになると、ある賢明な家臣がこう申し上げた。「あの仙人は例え霞や霊気を摂取して不老不死を得たとしても、十二の観点で未熟な部分があるため道中で滑って怒る心を持っているはずです。もし彼の心が枯れ木や冷たい灰のように無欲でなければ、美色に溺れたり香りに染まるような愛欲は必ずあるでしょう。そうであれば三千人の宮女の中から容姿特に優れた者を一人選び、その草庵へ遣わして草枕を並べ苔の敷物を共にして一晩中蔦絡む洞穴で契りを結ばせればどうして彼が神通力を失いませんでしょうか。」と申し上げた。他の家臣たちも皆この提案に賛同したため、すぐさま三千人中最美の后である扇陀女(センダノニョ)という女性に五百人の美人をつけて一角仙人の草庵へ送り込んだのである。 后はあれほど豪華な御殿から出て見るにも哀れな小屋に入ると苔むした滴が袖に露のように絶え間なく涙を流していたものの、勅命であるため拒否できず十枚重ねた薄衣ほどの我慢や小鹿の角のような束の間に千年分の契りまで結ぶことになった。仙人も岩や木ではないのでつい后に心奪われて言葉ごとに置く露(愛の証)がはかないものとは疑わなかったのだ。 ところで仙道というのは霊気を味わうことであっても淫欲に染まれば仙人としての法力は全て消滅する。そのためこの仙人も一度后に惑わされたことから鯢桓之審(神通力の根源)が破れて超能力を失い、黄金のような仙骨が元の肉身体へ戻ったので急激に病弱になりすぐに死んでしまった。 その後は后が宮中へ帰り竜神たちも天へ飛び去って風雨が季節通りになったため農民たちは耕作に励んだという。 解説1. 誘惑作戦の構造的意義: 2. 堕落プロセスの象徴性: 宗教的批判性: |
| 其一角仙人は仏の因位なり。其婬女は耶輙陀羅女これなり。又我朝には志賀寺の上人とて、行学勲修の聖才をはしけり。速に彼三界の火宅を出て、永く九品の浄刹に生んと願しかば、富貴の人を見ても、夢中の快楽と笑ひ、容色の妙なるに合ても、迷の前の著相を哀む。雲を隣の柴の庵、旦しばかりと住程に、手づから栽し庭の松も、秋風高く成にけり。或時上人草庵の中を立出て、手に一尋の杖を支へ、眉に八字の霜を垂れつゝ、湖水波閑なるに向て、水想観を成て、心を澄して只一人立給たる処に、京極の御息所、志賀の花園の春の気色を御覧じて、御帰ありけるが、御車の物見をあけられたるに、此上人御目を見合せ進せて、不覚心迷て魂うかれにけり。遥に御車の跡を見送て立たれ共、我思ひはや遣方も無りければ、柴の庵に立帰て、本尊に向奉りたれ共、観念の床の上には、妄想の化のみ立副て、称名の声の中には、たへかねたる大息のみぞつかれける。さても若慰むやと暮山の雲を詠ればいとゞ心もうき迷ひ、閑窓の月に嘯けば、忘ぬ思猶深し。今生の妄念遂に不離は、後生の障と成ぬべければ、我思の深き色を御息所に一端申て、心安く臨終をもせばやと思て、上人狐裘に鳩の杖をつき、泣々京極の御息所の御所へ参て、鞠のつぼの懸の本に、一日一夜ぞ立たりける。 |
この一角仙人がブッダの前世修行段階(因位)であり、その淫女はヤショーダラー妃であった。また我が国では志賀寺の上人という行者がおり、修行と学問に優れた聖者だった。早く三界(迷いの世界)を脱し永遠に極楽浄土へ生まれたいと願っていたため、富貴な者を見れば夢の中の快楽だと嘲笑し、美しい女性に出会っても執着する様子を哀れんだ。 雲が隣に見える粗末な庵で仮住まいしている間に自ら植えた庭松にも秋風が吹く頃となった。ある時上人が草庵から出て長い杖をつき白髪の眉を垂らし、波静かな湖に向かい水想観(水面瞑想)を行い心澄ませ一人立っていたところへ京極御息所一行が志賀の花園春景色を見物後の帰路で車簾を開けたため上人は彼女と目が合ってしまった。不覚にも心乱れ魂抜ける思いとなった。 遠く車列を見送り立ち尽くしても想い晴れる術はなく庵に戻り本尊に向かうも瞑想の床では妄想ばかり起き念仏の中には耐え難い溜息が混じる。慰めようと夕山の雲を眺めればますます憂鬱になり窓辺の月を見つめて詠じても忘れられぬ思いは深まる一方だった。「この妄念が消えなければ来世修行の妨げになる」と考え御息所に直接想いを伝えて心安らかに臨終を迎えようと決意した上人は毛皮衣を着て鳩杖をつき泣く泣く京極邸へ向かい鞠毬場の柱の根元で一日中立ち続けたのである。 解説1. 宗教的寓意の展開: 2. 堕落過程の心理描写: 社会的諷刺性: |
| 余の人は皆いかなる修行者乞食人やらんと、怪む事もなかりけるに、御息所御簾の内より遥に御覧ぜられて、是は如何様志賀の花見の帰るさに、目を見合せたりし聖にてやをはすらん。我故に迷はゞ、後世の罪誰が身の上にか可留。よそながら露許の言の葉に情をかけば、慰む心もこそあれと思召て、「上人是へ。」と被召ければ、はな/\とふるひて、中門の御簾の前に跪て、申出たる事もなく、さめ/\とぞ泣給ひける。御息所は偽りならぬ気色の程、哀にも又恐ろしくも思食ければ、雪の如くなる御手を、御簾の内より少し指出させ給ひたるに、上人御手に取付て、初春の初ねの今日の玉箒手に取からにゆらぐ玉の緒と読れければ、軈て御息所取あへず、極楽の玉の台の蓮葉に我をいざなへゆらぐ玉の緒とあそばされて、聖の心をぞ慰め給ひける。かゝる道心堅固の聖人、久修練業の尊宿だにも、遂がたき発心修行の道なるに、家富若き人の浮世の紲を離れて、永く隠遁の身と成にける、左衛門佐入道の心の程こそ難有けれ。 ○畠山入道々誓謀叛事付楊国忠事 畠山入道々誓・舎弟尾張守義深・同式部大輔兄弟三人は、其勢五百余騎にて伊豆国に逃下り、三津・金山・修禅寺の三の城を構て楯篭りたりと聞へければ、鎌倉の左馬頭基氏先づ平一揆の勢三百余騎を被差向。 |
ほかの者たちは「いったいどんな修行者か乞食だろう」と疑うこともなかったが、御息所が簾の内から遠くに見て、「これはどうやら志賀花見の帰りに目を合わせた聖(僧侶)ではないか。もし私のために心乱れたなら来世の罪は誰が背負おうか。わずかな言葉にも情けをかければ慰めになるだろう」と思い「上人こちらへ」と召されると、彼は震えながら中門の簾前にひざまずき言いたいことも述べられずにしくしく泣いた。 御息所は偽りのない様子を見て哀れにも恐ろしく思い雪のように白い手を簾から少し差し出すと上人はその手を取り「初春の今日 玉箒(美しい箒)取れば揺れる玉緒(装飾紐)」と詠んだ。すぐに御息所は応じて「極楽の蓮台へ私を誘えよ揺れる玉緒」と言われ聖の心を慰められた。 このように信心堅固な聖人でさえ修行完成が難しいのに、富める若者が俗世から離れ永く隠遁した左衛門佐入道(出家者)の心境は殊勝である。
○畠山入道々誓謀叛事付楊国忠事 解説1. 宗教的堕落から歴史叙述への転換: 2. 物語構造の諷刺性: 社会的メタファー: |
| 其勢已に伊豆府に付て、近辺の庄園に兵粮を懸、人夫を駈立ける程に、葛山備中守と、平一揆と所領の事に就て闘諍を引出し、忽に軍をせんとぞひしめきける。畠山が手の者に、遊佐・神保・杉原此を聞て、あはれ弊に乗る処やと思ひければ、五百余騎を三手に分て、三月二十七日の夜半に、伊豆府へ逆寄にぞ寄せたりける。葛山は、平一揆の者共畠山と成合て、夜打に寄せたりと騒ぎ、平一揆は、葛山と引合て、畠山御方を打んとする物なりと心得て、共に心を置合ければ、矢の一をもはか/゛\しく不射出、寄手三万騎徒らに鎌倉を指て引退く。児女の嘲り理なり。左馬頭不安思ひければ、新田・田中を大将として、軈武蔵・相摸・伊豆・駿河・上野・下野・上総・下総八箇国の勢、二十万余騎をぞ被向ける。畠山は此十余年左馬頭を妹聟に取て、栄耀門戸に余るのみならず、執事の職に居して天下を掌に握しかば、東八箇国の者共の、命に替らんと昵び近付けるを、我身の仁徳と心得て、何となく共我旗を挙たらんに、四五千騎も馳加らぬ事はあらじと憑しに、案に相違して余所の勢一騎も不付、結句一方の大将にもと憑し狩野介も降参しぬ。又其外相伝譜代の家人、厚恩異他郎従共も、日にそへ落失て今は戦ふべしとも覚へざりければ、大勢の重て向ふ由を聞て、二の城に火を懸て修禅寺の城へ引篭る。 |
その軍勢がすでに伊豆府(三津城)へ迫り周辺の荘園から兵糧を徴発し人夫を駆り立てている最中、葛山備中守と平一揆が所領問題で争い始め突然交戦状態となった。畠山側の遊佐・神保・杉原は「まさに好機」と考え五百余騎を三手に分け三月二十七日深夜に伊豆府へ逆襲した。 葛山勢は「平一揆が畠山と結び夜襲してきた」と混乱し、平一揆側も「葛山が提携して畠山を討つ準備か」と疑心暗鬼となり互いに警戒したため矢一本まともに放たず攻撃隊は無駄に鎌倉へ撤退する。まるで子供の喧嘩のような有様だった。 左馬頭基氏は不安を感じ新田・田中を大将として武蔵・相模・伊豆・駿河・上野・下野・上総・下総八箇国から二十万余騎を派遣した。畠山(道誓)は十余年も妹婿である左馬頭に取り入り栄華を極めただけでなく執事職で天下を掌握していたため、東国の武士たちが命懸けで従うのは自身の徳によるものと思い込んでいた。「旗揚げすれば四五千騎は集まるはず」と楽観したが予想外に他勢力から一騎も加わらず、頼みの狩野介まで降参。さらに譜代の家臣や恩顧ある郎党たちも次々離反し今では戦える状態ではないため大軍来襲を聞くと二番目の城(金山城)に火を放ち修禅寺城へ退却した。 解説1. 乱世の心理描写と構造的諷刺: 2. 歴史叙述と物語構成の統合: 軍記物語の革新性: |
| 夢なる哉、昨日は海をはかりし大鵬の、九霄の雲に搏が如く、今日は轍に伏涸魚の、三升の水を求るに不異。「我身かゝるべしと知たらば、新田左兵衛佐を、枉て打つまじかりける物を。」と後悔せりといへり。早く報ひけるを、兼て不知こそ愚なれ。抑畠山入道去去年東国の勢を催立て、南方へ発向したりし事の企を聞けば、只唐の楊国忠・安禄山が天威を仮て、後に世を奪はんと謀しに似たり。昔唐の玄宗位に即給ひし始、四海無事なりしかば、楽に誇り驕をつゝしませ給はざりしかば、あだなる色をのみ御心にしめて、五雲の車に召れ、左右のをもと人に手を引かれ、殿上を幸して後宮三十六宮を廻り、三千人の后を御覧ずるに、玄献皇后・武淑妃二人に勝る容色も無りけり。君無限此二人の妃に思食移りて、春の花秋の月、いづれを捨べしとも思召さゞりしに、色ある者は必衰へ、光ある者は終に消ぬる憂世の習なれば、此二人の后無幾程共に御隠ありけり。玄宗余りに御歎有て、玉体も不穏しかば、大臣皆相許て、いづくにか前の皇后・淑妃に勝りて、君の御心をも慰め進すべき美人のあると、至らぬ隅もなくぞ尋ける。爰に弘農の楊玄■が女に、楊貴妃と云ふ美人あり。是は其母昼寝して、楊の陰にねたりけるに、枝より余る下露、婢子に落懸りて胎内に宿りしかば、更々人間の類にては不可有、只天人の化して此土に来物なるべし。 |
ああこれは夢か?昨日は大海を測る大鵬(伝説の巨鳥)が九霄(天空)の雲をつかむように威勢よく、今日では車輪跡に伏す干からびた魚が三升の水を求める様と変わらない。「もし自身がこうなることを知っていたなら、新田左兵衛佐を無駄に討たなかったものを」と後悔したという。早急な報復も事前に予測しなかったのが愚かだったのだ。そもそも畠山入道(道誓)が去年東国の軍勢を集め南朝へ向かった企ては、まさに唐の楊国忠や安禄山が皇帝の威光を借りて後に世を奪おうと謀ったのに似ている。 昔、唐の玄宗皇帝が即位した初めは天下泰平だったため享楽におぼれ驕らずにはいられず、浮ついた女色のみに心を向けられた。五色雲の車に乗り左右の従者に手を引かれ宮殿へ行幸し、後宮三十六院を巡って三千人の后妃を見たが、玄献皇后と武淑妃この二人に勝る美貌はなかった。皇帝はひたすら彼女たちに心奪われ春の花も秋の月も捨て難く思われたが、「美しいものは必ず衰え光ある者は消える」という世の習い通り、間もなく両后とも亡くなられた。 玄宗は嘆きすぎて病床につかれたため、大臣たちは協議し「どこかに先の皇后らを超えて皇帝の心を慰める美しい女性はいないか」と隅々まで探した。そこで弘農(地名)の楊玄■という者の娘で楊貴妃と呼ばれる美女が見つかった。これは彼女の母が昼寝して楊柳の木陰に横たわった時、枝から滴る露が侍女にかかり胎内に入って宿ったものだから、もはや人間とは言えず天人が化身しこの世へ来た存在なのであろう。 解説1. 権力盛衰の寓話的表現: 2. 歴史類比の政治的意図: 文学的連関における革新性: |
| 紅顔翠黛は元来天の生せる質なれば、何ぞ必しも瓊粉金膏の仮なる色を事とせん。漢の李夫人を写し画工も、是を画かば遂に筆の不及事を怪み、巫山の神女を賦せし宋玉も、是を讃せば、自ら言の方に卑事を恥なん。其語るを聞ても迷ぬべし、況や其色を見ん人をや。加様にはりなく覚へし顔色なれば、時の王侯・貴人・公卿・大夫・媒妁を求め、婚礼を厚して、夫婦たらん事を望しか共、父母かつて不許。秘して深窓に有しかば、夭々たる桃花の暁の露を含で、墻より余る一枝の霞に匂へるが如く也。或人是を媒して、玄宗皇帝の連枝の宮、寧王の御方へ進せけるを、玄宗天威に誇て濫に高将軍を差遣して、道より奪取て後宮へぞ冊入奉ける。玄宗の叡感、寧王の御思、花開枝の一方は折てしぼめるに相似たり。されば月来前殿早、春入後宮遅と詩人も是を題せり。尋常の寒梅樹折て軍持に上れば、一段の清香人の心を感ぜしむ。民屋粛颯たるに衰楊柳移て宮苑にいれば、千尺の翠条、別に春風長かるべし。さらでだにたへに勝れたる容色の上に、金翠を荘り薫香を散ぜしかば、只歓喜園の花の陰に舎脂夫人の粧をなして、春に和せるに不異。一度君王に面をまみへしより、袖の中の珊瑚の玉、掌の上の芙蓉の花と、見る目もあやに御心迷ひしかば、暫其側を離れ給はず、昼は終日に輦を共にして、南内の花に酔を勧め、夜は通宵席を同して、西宮の月に宴をなし給ふ。 |
美貌は元来天与のものだから、わざわざ白粉や金の飾りで見せかけを装う必要もない。漢の李夫人を描いた画家ですら彼女を写そうとすれば筆が及ばぬことを嘆き、巫山の女神を詠んだ宋玉すら賛辞の拙さを恥じただろう。噂を聞くだけでも惑わされるのに、まして実際に見る者はなおさらだ。 このように比類なき美貌だったため、時の王侯貴人や公卿大夫は仲介者を通し厚い結納金で結婚を望んだが、両親は決して許さなかった。深い閨に秘されていた様子は、若々しい桃の花が朝露を含み、塀からこぼれる一枝が霞の中で輝くようだった。 ある者が仲立ちし玄宗皇帝の弟・寧王のもとへ嫁がせようとしたところ、玄宗は帝権を笠に着て高将軍を使い、途中で奪って後宮に入れてしまった。玄宗の執心もさることながら、寧王の心中たるや「花咲く枝の片方を折られてしおれる」ようなものだった。「月が前殿には早く昇り/春は後宮に遅く来る」と詩人が詠んだのも無理からぬことだ。 普通なら軍用水差しに挿せば清らかな香りの寒梅も、宮苑の衰えた柳を移植すれば千尺もの緑の枝が別世界で春風を受けるように育つ。元より格別な容姿に金銀や香料をまとわせた様は、歓喜園の花陰で舎脂夫人(仏典の美女)が化粧するさまと変わらない。 一度皇帝にお目にかかってからというもの、「袖の中の珊瑚玉/掌上の芙蓉花」と評され、見る者の心を奪う美しさに玄宗もすっかり夢中になられた。昼は終日ともに輦(御輿)に乗り南内で花を見ながら酒宴し、夜は徹して席を共にして西宮の月明かりのもとで宴を開かれた。 解説1. 美の絶対化と権力批判: 2. 権力構造の暴力的側面: 詩的引用の政治性: |
| 玄宗余の柔なさに、世人の面に紅粉を施し、身に羅綺を帯たるは、皆仮なる嬋娟にて真の美質に非ず。同は楊貴妃の顕したる膚を見ばやと思召て、驪山宮の温泉に瑠璃の沙を敷き、玉の甃を滑にして、貴妃の御衣をぬぎ給へる貌を御覧ずるに、白く妙なる御はだへに、蘭膏の御湯を引かせければ、藍田日暖玉低涙、■嶺雪融梅吐香かとあやしまるゝ程也。牛車の宣旨を被て、宮中を出入せしかば、光彩の栄耀門戸に満て、服用は皆大長公主に均く、富貴甚天子王侯にも越たり。此楊貴妃のせうとに、楊国忠と云者あり。元来家賎して、■畝の中に長となりしかば、才もなく芸もなく、文にも非ず武にも非ざりしか共、后の兄なりしかば、軈て大臣にぞなされける。此時に安禄山と云ける旧臣、権威爵禄共に楊国忠に被越て、不安思ひけれ共、すべき様なければ力不及。係る処に、天子色を重じて政を乱り、小人高位に登て国の弊を不知を見て、吐蕃の国々皆王命を背と聞へしかば、「誰をか打手に向べき。」と議せられけるに、楊国忠武威を恣にせん為に、大将の印を被授ば、罷向て輙く是を可静由を望申ける間、是に上将軍の宣旨をぞ被下ける。楊国忠則五十万騎の勢を卒して、大荒峯に陣を取る。夫大将となる人は、士卒の志を一にせん為に、士未食将不餐、士宿野将不張蓋。 |
玄宗皇帝は「世間の女性が顔に紅粉(おしろい)を塗り、身に綾絹をまとうのは偽りの美で真実ではない」と考えていた。ただ楊貴妃の肌を見たいと強く思い立ち、驪山宮の温泉に瑠璃色の砂を敷き玉のように滑らかな石畳を作った上で、貴妃が衣服を脱ぐ姿をご覧になると、その白く美しい肌に蘭の香りの湯水が流れ落ちる様子は「藍田(宝玉産地)の暖かい日に涙する玉か、あるいは雪山の溶けた梅が香り立つようだ」と疑うほどだった。 牛車で宮中を自由に行き来できる特権を得たため、その光輝く栄華は門前に満ちあふれ、身に着けるものは大長公主(皇族)並みとなり富貴の度合いは天子や王侯さえ超えた。この楊貴妃には楊国忠という兄弟がいた。もともと卑しい家柄で田畑の中で育ったため才能も技芸もなく、文にも武にも優れていなかったが、皇后(楊貴妃)の兄であることを理由にすぐ大臣に取り立てられた。 その頃、安禄山という旧臣は権威や地位を全て楊国忠に奪われ不満だったがどうしようもない。こうした状況で天子(玄宗)が女色重視で政治を乱し小人(卑劣者)が高位につき国政の危機を知らぬ中、吐蕃諸国が皆命令に背いたと聞こえてきたため「誰を討伐軍の長とするか」協議された。楊国忠は自らの武威を見せつけようとして大将印を与えられるとすぐ「私はこれを鎮めましょう」と言上し上将軍宣旨(任命書)を受けた。 解説1. 「美」と「権力腐敗」の対比構造: 2. 政権腐敗と人材登用批判: 兵法原理との矛盾: |
| 得一豆之飯与士喫、淋一樽之酒与兵飲とこそ申に、此楊国忠明れば旨酒に漬て、兵の飢たるを不知。暮れば美女に纏れて人の訴をも不聞入。只長時の楽にのみ誇り、軍の事をば忘ても不云けるこそ浅猿けれ。去程に兵疲れ将懈りて、進む勢無りければ、吐蕃の戎狄共二十万騎の勢を引て、逆寄にこそ寄たりけれ。大将は元来臆病なり、士卒の心を一にせざれば一戦も不戦、楊国忠が五十万騎、我先にと河を渡して、五日路まで逃たりければ、大荒の四方七千余里、吐蕃に随ひ靡きにけり。敵はさのみ追はざりしか共、楊国忠此にも猶たまり得ずして、都を差て引けるが、今度大将を申請て、発向したる甲斐もなく、一軍せで帰らん事、上聞其憚有ければ、御方の勢の中に馬にも不乗物具もせで、疲たる兵を一万人首を刎て、各鋒に貫き、是皆吐蕃の徒の頚なりと号して、都へぞ帰参りける。罪無して首を刎られたる兵共の親子兄弟幾千万、悲を含て声を呑み、家々に哭すといへ共、楊国忠が漏聞んずる事を恐て、奏し申人なければ、御方の兵一万人は、敵の頚となして獄門の木に懸られ、大荒の地千里は、打平げたる所と号して楊国忠にぞ被行ける。上乱れ下不背と云事なれば、挙世、只楊国忠を滅さんずる事をぞ計りける。安禄山、此比大荒の境に吐蕃を防がんとて居たりけるが、時至りぬと悦て、諸侯に約をなし、士卒に礼を深して、「楊国忠を打べしと、宣旨を給たり。 |
「将兵が一食分も食べねば自分も喫さず、一杯の酒すら共に飲む」という理想とは裏腹に、楊国忠は昼には美食に浸り兵士たちの飢えを知らず、夜には美女を侍らせて訴えにも耳を貸さなかった。ただ長引く享楽ばかりを誇示し軍務を忘れる有様こそ愚かだった。 こうして兵は疲弊し将も弛緩したため進撃ができず、吐蕃の蛮族二十万騎が逆襲に押し寄せてきた。大将(楊国忠)は元来臆病で兵士の心を一つにできないから一戦すら交えられず、五十万もの軍勢は我先にと河を渡り五日分も逃亡した結果、大荒峯周辺七千余里が吐蕃側へ靡いてしまった。敵は深追いしなかったにもかかわらず楊国忠はなお耐えきれず都へ撤退しようとしたが、「大将として出陣しながら何の戦果なく帰還すれば天皇に申し開きが立たない」と考え、自軍の中から馬も装備も持たぬ疲弊した兵士一万人を無実のまま斬首。その首を槍先に貫いて「これらは吐蕃兵の首だ」と偽り都へ帰還した。 罪なく殺された兵士たちの親族兄弟数千万人は悲しみに声を詰まらせ家々で泣き叫んだが、楊国忠に露見されることを恐れ訴え出る者もいなかった。こうして一万の自軍兵は「敵の首」として獄門(晒し場)にかけられ、大荒峯一帯千里は「平定した土地」と偽って楊国忠へ下賜された。「上に乱ありて下背かざることなし」(権力者が腐敗すれば民衆も従わぬ)という道理で世間全体がただ楊国忠を滅ぼそうと謀った。 その頃安禄山は大荒峯の境界で吐蕃防衛にあたっていたが、「時機来れり」と喜び諸侯に盟約を結ばせ兵士へ厚く礼遇しつつ「『楊国忠討伐』の勅命を受けたぞ!」と宣言した。 解説1. 「腐敗権力者」像の極致として描かれる楊国忠: 2. 反乱正当化プロパガンダとしての機能: ※歴史的補足: |
| 」と披露して兵を催に、大荒にて楊国忠に打れたりし、一万人の兵共の親類兄弟大に悦て、我先にと馳集りける程に、安禄山が兵は程なく七十万騎に成にけり。則崔乾祐を右将軍とし子思明ら左将軍として都へ上るに、路次の民屋をも不煩、城郭をも不責、安禄山朝敵に成て長安へ責上とは、夢にも人思ひよらず。箪食瓠漿を持て、士卒の疲をぞ労りける。此勢既に都より七十里を隔たる潼関と云山に打あがりて、初て旗の手をおろし、時の声をぞ揚たりける。玄宗皇帝は、折節驪山宮に行幸成て、楊貴妃に霓裳羽衣の舞をまはせて、大梵高台の楽も是には過じと思召ける処に、潼関に馬烟をびたゝしく立て、漁陽より急を告る■鼓、雷の如くに打つゞけたり。探使度々馳帰て、安禄山が徒、崔乾祐・子思明等、百万騎にて寄たりと騒ぎければ、「事の体を見て参れ。」とて、哥舒翰に三十万騎を相副て、咸陽の南へ被差向。安禄山既に潼関の山に打挙りて、哥舒翰麓に馳向ひたれば、かさよりまつくだりに懸落されて、官軍十万余騎河水に溺て死にけり。哥舒翰僅に打なされて、一日猶長安に支て居たりけるが使を馳て、「幾度戦ふとも勝事を難得。急ぎ竜駕を被廻て蜀山へ落させ給ふべき。」由を申たりければ、さしも面白かりつる霓裳羽衣の舞も未終に、玄宗皇帝と楊貴妃と、同く五雲の車に被召て都を落給へば、楊国忠を始として、諸王千官悉く歩跣なる有様にて、泣々大軍の跡に相順。 |
「(楊国忠討伐の宣旨を受け)兵士たちは奮起した」と宣言し軍勢を鼓舞すると、大荒峯で虐殺された一万の将兵の親族兄弟らが大いに喜び我先に駆け集まったため、安禄山の兵力は間もなく七十万騎に膨れ上がった。かくて崔乾祐を右将軍、子思明(史思明)らを左将軍として都へ進撃する際、街道沿いの民家にも迷惑かけず城郭も攻め立てない様子を見せた。「安禄山が朝廷の敵となり長安に迫る」とは誰も夢にも思いよらないことだった。粗末な食事で兵士たちの疲労を慰労しつつ、この大軍は都から七十里離れた潼関という山地に陣取り、初めて旗印を掲げ鬨の声を上げた。 一方玄宗皇帝は折りよく驪山宮に行幸中で楊貴妃に霓裳羽衣の舞(伝説的な舞楽)を披露させ、「天上の音楽もこれには及ばぬ」と感嘆していたところへ、潼関から戦塵が渦巻き漁陽方面より緊急を知らせる太鼓が雷のように鳴り響いた。偵察使がたびたび駆け戻し「安禄山配下の崔乾祐・子思明ら百万騎が迫る」と騒ぐので、「実情を確かめよ」と言い哥舒翰に三十万騎を与え咸陽の南へ派遣した。既に潼関山上に布陣していた安禄山軍に対し、麓から攻め登った哥舒翰は上から逆落とされ官軍十万余騎が河で溺死する惨状となった。 辛くも逃れた哥舒翰は一日だけ長安を支え使者を走らせ「幾度戦っても勝ち目なし。急ぎ御車(天子)をお連れし蜀の山へお落ちください」と奏上したため、盛り上がっていた霓裳羽衣舞も終わらぬうちに玄宗皇帝と楊貴妃は同じ五雲車(仙人的な乗物)に召され都を脱出。楊国忠を筆頭に諸王や百官たち皆裸足になり泣きながら大軍の後を追う有様であった。 解説1. 歴史的事件「安史之乱」のクライマックス描写: 2. 敗戦と逃避行の諷刺性: ※歴史的背景補足: |
| 哥舒翰長安の軍にも打負て鳳翔県へ落ければ、安禄山が兵、君を追懸進て、旗の手五十町計の跡に連りたり。竜駕既に馬嵬の坡を過させ給ひける時、供奉仕る官軍六万余騎、道を遮て君を通し進せず。「是は何事ぞ。」と御尋ありければ、兵皆戈をふせ地に跪て、「此乱俄に出来て天子宮闕を去せ給ふ事、偏に楊国忠が驕を極め罪なき人を切たりし故也。然れば楊国忠を官軍の中へ給て首を刎、天下の人の心を息め候べし。不然は縦禄山が鋒には死すとも、天子の竜駕をば通し進すまじ。」とぞ申ける。跡より敵は追懸たり。惜むとも不可叶と思召ければ、「早く楊国忠に死罪をたぶべし。」とぞ被仰ける。官軍大に喜て、楊国忠を馬より引落し、戈の先に指貫き、一同にどつとぞ笑ける。是を御覧じける楊貴妃の御心の中こそ悲けれ。角ても官軍猶あきたらざる気色ありて、竜駕を通し進せざりければ、「此上の憤り何事ぞ。」と尋らるゝに、兵皆、「后妃の徳たがはゞ四海の静る期あるべからず。褒■周の世を乱り、西施呉の国を傾し事、統■耳を不塞。君何ぞ思召知らざらん。早く楊貴妃に死を給らずは、臣等忠言の為に胸を裂て、蒼天に血を淋くべし。」とぞ申ける。玄宗是を聞食て遁まじき程を思召ければ、兔角の御言にも不及、御胸もふさがりて、御心消て鳳輦の中に倒れ伏させ給ふ。 |
哥舒翰が長安の戦いにも敗れて鳳翔県へ落ち延びると、安禄山軍は皇帝(玄宗)を追撃し進み、旗印を持つ部隊が約五十町後ろまで迫った。御一行が馬嵬坡を通り過ぎようとした時、供奉する官軍六万余騎が道を遮って通そうとしない。「これは何事だ?」とのお尋ねに兵士らは武器(戈)を伏せ地面に跪き、「この反乱で陛下が都をお離れになったのは楊国忠の横暴で罪なき人々を殺したためです。ゆえに彼を引き渡し首を刎らせ天下の人々の心を鎮めてください。そうでなければ安禄山に斬り殺されても御一行を通しません」と訴えた。背後から敵が迫る中、「惜しくとも仕方あるまい」と思召されて「早く楊国忠に死罪を与えよ」とお命じになった。官軍は大いに喜び、楊国忠を馬から引き落として槍先で串刺しにし一同哄笑したのを見た楊貴妃のお心が悲痛だった。 それでも兵士らは未だ納得せず御一行を通さないため「さらなる怒りとは何事か?」と問われると、皆がこう申し上げた。「后妃(皇妃)の徳を損なえば天下静まる時など来ません。かつて褒姒が周王朝を乱し西施が呉国を滅ぼした故事は歴然です。陛下もご存じではないのですか?早く楊貴妃に死を与えねば臣ら忠言のため胸を裂き天へ血を注ぎましょう」。玄宗帝はこれを聞かれ逃れられぬと悟り、言い訳もできず胸が詰まり意識失って鳳輦(御車)の中に倒れ伏された。 解説1. 「民衆反乱」の決定的瞬間としての描写: 2. 楊貴妃処刑要求における儒教的プロパガンダ: ※歴史的背景補足: |
| 霞の袖を覆へ共、荒き風には散る花の、かくるゝ方も無るべきに、楊貴妃さてもや遁るゝと、君の御衣の下へ御身を側めて隠れさせ給へば、天子自御貌を胸にかきよせて、「先朕を失て後彼を殺せ。」と歎かせ給ひければ、指も忿れる武士共も皆戈を捨て地に倒る。其中に邪見放逸なる戎の有けるが、「角ては不可叶。」とて、玉体に取付せ給ひたる楊貴妃の御手を引放て、轅の下へ引落し奉り、軈て馬の蹄にぞ懸たりける。玉の鈿地に乱て、行人道を過やらず。雪の膚泥にまみれて、見人袖をほしかねたり。玄宗は無力して、御貌をも擡させ給はず、臥沈ませ給ひしかば、今はのきはの御有様を、まのあたり御覧ぜざりしこそ、中々絶ぬ玉の緒の、長き恨とは成にけれ。其後に二陣の兵ふせぎ矢射て、前陣の竜駕を早めければ、程なく蜀へ落著せ給ひけり。則回■十万騎の勢を卒して馳参る。厳武・哥舒翰又国々の兵催立て、五十万騎蜀の行在へぞ参りける。安禄山が勢は、始楊国忠を打んとする由を聞てこそ、我も我もと馳集りしか、今の如は只天下を奪んとする者なりけりとて、兵多く落失ける間、安禄山が栄花、たゞ春一時の夢とぞ見へたりける。加様に都の敵は日々に減じ、蜀の官軍は国々より参りけれ共、玄宗皇帝は、楊貴妃の事に思沈ませ給ひて、万機の政にも御心を不被懸、只死しても生れ合べくは、いきて命も何かせんと、思召外は他事もなし。 |
霞のような袖で身を包んでいたとしても、激しい風には散る花のように隠れる場所などないのに、楊貴妃はそれでも逃れようと皇帝(玄宗)の衣裾のもとに身を寄せてお隠れになった。そこで天子自ら顔を胸に押し当て、「まず私が死んでから彼女を殺すのだ」と嘆かれたので、怒りの指もふるえた兵士たちは皆武器(戈)を捨て地面に倒れてしまった。 しかしその中に邪悪で勝手気ままな野蛮人がいて、「こうはいかない」と言って玉体(楊貴妃の御身体)にしがみついている御手を引き離して車輪の下へ落とし奉り、すぐさま馬の蹄にかけてしまった。美しい装飾品(鈿)は地面に散らばり通行人は通れなかった。雪のように白い肌が泥まみれになって見る者は袖で涙をぬぐうこともできないほどだった。 玄宗帝は無力になり顔もお上げにならず、横たわって沈んでしまわれたので、楊貴妃の最期のお姿を目の当たりに見られなかったことがかえって絶えることない命(玉の緒)のように長い恨みとなった。その後第二陣の兵が守り矢を射て前衛の御一行を急ぎ促したため間もなく蜀へ落ち着いたのである。 すぐに十万騎もの勢いで駆け参じた厳武や哥舒翰ら、さらに各国から軍勢を集めて五十万騎が蜀の行在所(臨時の皇居)へとやって来た。安禄山の勢力は初め楊国忠を討つ由聞いてこそ我先にと馳せ集まっていたものだが今となっては単に天下奪取しようとする者だと兵たちも多く離反したので、安禄山の栄華はただ春一時の夢のように見えたのだ。 このように都での敵勢力は日々減り蜀では官軍が国々から参じたにもかかわらず玄宗皇帝は楊貴妃のことばかり思い沈み政務には全く心を向けず「死ぬなら一緒に生まれ変わりたい。生きる命も何の意味がある」と思われるだけで他事などなかった。 解説1. 悲劇的クライマックスとしての楊貴妃処刑: 2. 物語構造における因果応報の展開: ※文学的効果補足: |
| 厳武・哥舒翰・回■等、角ては叶まじと思ければ、玄宗皇帝の第二の御子粛宗の、鳳翔県と云所に隠てをはしけるを、天子と仰奉て四海に宣旨を下し、諸国の兵を催て、八十万騎先長安へぞ寄たりける。安禄山、崔乾祐・子思明を大将にて、是も八十万騎長安に馳向ふ。両陣相挑未戦処に、祖廟の神霊百万騎の兵に化し、黄なる旗を差て、哥舒翰が勢に加り、崔乾祐と戦ける間、安禄山が兵共に破れ立て、一時に皆亡にけり。朝敵忽に被誅て、洛陽則静りければ、粛宗位を辞して、又玄宗を位に即奉らん為に、官軍皆蜀へ御迎にぞ参りける。玄宗はかく天下の程なく静りぬるに付ても、只楊貴妃の世にをはせぬ事のみ思召て、再び天子の位を践せ給はん事も、御本意ならねども、馬嵬の昔の跡をも御覧ぜばやと、思食す御心に急がれて、軈て遷幸の儀則を促されける。馬嵬の道の辺に鳳輦を留られて、是ぞ去年の秋楊貴妃の武士に被殺て、はかなく成し跡よとて御覧ずれば、長堤の柳の風にしなへるも、枕に懸りしねみだれ髪の、朝の面影御泪に浮び、池塘の草の露にしほれたるも、落て地に乱けん玉の鈿、角やと思食知られて、いとゞ御心を悩まされ、うかれて迷ふ其魄の跡までも猶なつかしければ、只日暮夜明れ共、此にて思消ばやと思食けれ共、翠花揺々として東に帰れば、爰をさへ亦別ぬる事よと、御涙更に塞あへず、遥に跡を顧させ給ふに、蜀江水緑蜀山青、聖主朝々暮々情譬へて云はん方もなし。 |
厳武や哥舒翰、回紇らはこのままではいけないと考えたので、玄宗皇帝の第二皇子である粛宗が鳳翔県という場所に隠れていたのを天子として仰ぎ奉り、全国に命令を下して諸国の兵士を集め、八十万騎でまず長安へ向かった。一方の安禄山は崔乾祐や子思明を大将とし、こちらも八十万騎で長安へ駆け向った。両軍が対峙したもののまだ戦わぬうちに、祖先の廟(祖廟)の神霊が百万騎の兵士に姿を変え、黄色い旗を掲げて哥舒翰の軍勢に加わり崔乾祐と戦う中で安禄山軍は敗れ去り、たちまち全滅した。朝廷の敵があっけなく討たれて洛陽が静まったため、粛宗は帝位を辞し再び玄宗を即位させようとして官軍一同が蜀へ迎えに参上した。 しかし天下が早々に平定されたにもかかわらず、玄宗はただ楊貴妃がこの世にいないことばかり思い続けられており、再び天子の位につくことも本意ではなかった。だが馬嵬で起きた過去の出来事(楊貴妃処刑)を自分の目で見たいというお気持ちに急かされ、すぐさま遷幸(都へ戻る儀式)が進められた。道すがら馬嵬の路傍で鳳輦(御車)を止められ、「ここが昨秋に楊貴妃が兵士たちに殺されて無残に消えた場所だ」とご覧になると、長堤の柳が風に靡く様は枕にかかった涙ぐんだ髪の朝の面影をお涙に浮かべさせ、池端の草が露でしおれる様も地面に散らばった玉の装飾品(鈿)を思わせた。すべてをご理解された玄宗はいよいよ心を悩ませられ、迷い彷徨う亡霊の跡さえ未練深く感じられたため、「日夜ここに留まり想いを消し去りたい」とお考えになった。しかし翠華(皇帝旗)が揺らめき東へ帰るとなれば「この場所とも別れるのか」と涙はなおも止まらず、遥か後ろを振り返って顧みられる様子は、「蜀江水緑 蜀山青」(白居易『長恨歌』の引用:蜀江は碧く蜀山は青々として)という句で聖主(玄宗)が朝晩抱える情念を例えようもなかった。 解説1. 歴史転換点における超自然的解決: 2. 玄宗の悲劇性完成段階: 3. 終幕構造における文学性: ※史的意義補足: |
| 日を経て長安に遷幸成て、楊貴妃の昔の住玉ひし驪山の華清宮の荒たる跡を御覧ずるに、楼台池苑皆依旧。太掖芙蓉未央柳、芙蓉如面柳如眉。君王対此争無涙。春風桃李花開日、秋露梧桐葉落時、西宮南苑多秋草、宮葉満階紅不掃。行宮見月傷心色、夜雨聞鈴断腸声、夕殿蛍飛思消然。孤灯挑尽未成眠、遅々鐘皷初長夜、耿々星河欲曙天。鴛鴦瓦冷霜花重。翡翠衾寒誰与共。物ごとに堪ぬ御悲のみ深く成行ければ、今は四海の安危をも叡慮に懸られず、御位をさへ粛宗皇帝に奉譲、玄宗はたゞいつとなく御涙にしほれて、仙院の故宮にぞ御座ける。爰に臨■の道士楊通幽、玄宗の宮に参て、「臣は神仙の道を得たり。遥に君王展転の御思を知れり。楊貴妃のをはする所を尋て帰参らん。」と申ければ、玄宗無限叡感有て、則高官を授て大禄を与へ給ふ。方士則天に登り地に入て、上は碧落を極め、下は黄泉の底まで尋求るに、楊貴妃更にをはしまさず。遥に飛去て、天海万里の波涛を凌ぐに、あはい七万里を隔てゝ、蓬莱・方丈・瀛州の三の島あり。一の亀是を戴けり。中に五城峙て、十二の楼閣あり。其宮門に金字の額あり。立寄て是を見れば、玉妃太真院とぞ書たりける。楊貴妃さて此中に御坐けりとうれしく思て、門をあらゝらかに敲ければ、内より双鬟の童女出て、「いづくより誰を尋ぬる人ぞ。 |
時が経って長安への還都が実現し、かつて楊貴妃が住んでいた驪山の華清宮の荒れ果てた跡をご覧になると、楼閣や池、庭園などはすべて以前と変わらなかった。「禁中の蓮も未央宮の柳も、蓮は彼女の顔を思わせ柳は眉のようだ。君王としてこれを見て涙を流さぬ者があろうか」という様子で、春風が桃や李の花を咲かせる日にも、秋露に梧桐の葉が散る時にも、西宮や南苑には雑草が生い茂り、紅く染まった落ち葉は階段に積もったまま掃かれない。仮設の御所で月を見れば悲しみを帯びた色に映じ、夜雨の中の鈴の音は断腸の思いを呼ぶ。夕暮れの宮殿では蛍が飛び交い物思いは募るばかり。一本灯りの火も尽きても眠りにつけず、遅々として進まない鐘や太鼓が長夜の始まりを知らせ、明るく輝く天の川にようやく曙が見える頃になる。鴛鴦瓦には霜が厚く積もり、翡翠色の掛布団は冷たく誰とも共にする者はなかった。あらゆる物ごとが耐え難いお悲しみを深めるばかりなので、玄宗帝は今では天下の安否さえ御心にかけず、帝位までも粛宗皇帝に譲り渡され、ただ絶えることなく涙に濡れながら仙院(道教寺院)の古宮にお過ごしになっていた。 そこへ臨邛出身の道士楊通幽が玄宗のもとに参上して、「私は神仙術を会得しております。遠く離れた地から陛下のお嘆きぶりを知りました。どうか楊貴妃様がいらっしゃる場所を見つけてお連れしましょう」と申し上げたので、玄宗は計り知れない感動をお覚えになり、ただちに高い官位を与えて厚い俸禄を授けられた。道士(方士)は天へ登り地に入って探しまわり、上は碧落(天空の果て)まで極め、下は黄泉の底まで捜し求めたが、楊貴妃はどこにもおられなかった。遠く飛び去った先で、大海原の万里に渡る波濤を越えると七万里も隔たれた場所に蓬莱・方丈・瀛州という三つの島があった。一匹の大亀がそれを背負っており、中には五つの城郭がそびえ立ち十二もの楼閣がある。その宮殿の門には金字で額が掲げられていた。近づいて見ると「玉妃太真院」と書かれてあった。楊貴妃はここにおられるのだとうれしく思い、道士が大胆に扉を叩くと、中から髪を両側に結った少女が出てきて、「どちらからいらっしゃいました? 誰をお探しですか?」と言った。 解説1. 『長恨歌』引用による心理描写の深化: 2. 神仙術導入による物語転換: ※文学的意義補足: |
| 」と問に、方士手を歛て、「是は漢家の天子の御使に、方士と申者にて候が、楊貴妃の是に御坐あると承て、尋参て候。」と答申ければ、双鬟の童女、「楊貴妃は未をうとのごもりて候。此由を申て帰侍らん。」とて、玉の扉を押たてゝ内へ入ぬ。方士門の傍に立て、今や出ると是を待に、雲海沈々洞天に日晩ぬ。瓊戸重り閉て、悄然として無声。良有て双鬟の童女出て、方士を内へいざない入る。方士手を揖して、金闕の玉の廂に跪く。時に玉妃夢さめて、枕を推のけて起き給ふ。雲鬢刷はずして、羅綺にだも堪ざる体、譬て言に比類なし。左右侍児七八人、皆金蓮を冠にし、鳳■を著して相随ふ。五雲飄々として、玉妃玉堂より出給ふ。雲頭艶々として、暁月の海を出るに不異。方士泪を押て、君王展転の御思を語るに、玉妃つく/゛\と聞給ひて、含情凝睇謝君王。一別音容両渺茫。昭陽殿裡恩愛絶、蓬莱宮中日月長となん恨給ひて、中々御言葉もなければ、玉容寂寞涙欄干たり。只梨花一枝春帯雨如し。将方士帰去なんとするに及て、「玉妃の御信を給候へ。尋奉る験に献ぜん。」と申ければ、玉妃手づから玉の鈿を半擘て方士にたぶ。方士鈿を給て、「是は尋常世にある物也。何ぞ是を以て験とするに足らんや。願は玉妃君王に侍し時、人の曾て不知事あらば、其を承て験とせん。 |
少女の問いに対し、道士は丁寧にお辞儀して答えていった。「こちらは漢王朝の天子からの使者である方士と申します。楊貴妃様がここにおられるとお聞きしましてお訪ねしました。」すると双鬟(両側に結んだ髪)の少女は「楊貴妃様はまだお休みになっていらっしゃいますから、その旨をお伝えして参ります」と言い、玉でできた扉を押して中へ入って行った。道士は門の脇に立ち、今にも出てくるだろうと待っていたが、雲海が深く垂れ込めて仙界では日も暮れてしまった。宝石の戸は重々しく閉ざされ、ひっそりとして物音一つしない。しばらくして双鬟の少女が出てきて道士を中へ招き入れた。 道士は手を合わせて礼をすると、黄金の宮殿の玉でできた縁側にひざまずいた。その時ちょうど楊貴妃(玉妃)が目覚められ、枕を押しのけてお起きになった。髪も整えず、絹衣さえ身につけていらっしゃらない姿は例えるものがないほどであった。側に仕える少女七~八人は皆金蓮冠をつけ鳳凰模様の服を着て従っていた。五色雲が漂う中、楊貴妃は玉殿からお出ましになった。その髪飾りが煌めくさまはまるで暁月が海面に現れるようだった。 道士は涙をこらえながら玄宗皇帝の幾度も繰り返される思いをお伝えすると、楊貴妃はじっと聞き入った後、「情を含んで見つめて天子を想い慕うも再会叶わず」と恨み深げに嘆かれた。次第にお言葉が続かない様子で、美しい顔には寂しさの涙があふれ落ちた。それはまるで春雨にぬれる一本の梨の花のようであった。道士が帰ろうとした時、「楊貴妃さまからのお手紙をいただけませんか? 証拠として献上します」と申し上げると、楊貴妃は自ら玉製の簪(鈿)を半分割いて道士に渡された。 道士はそれを受け取りながら言った。「これは普通この世にある品です。これでは証拠としては不十分でしょう。願わくば楊貴妃様が皇帝と共におられた時、誰も知らないようなことがございましたら教えていただけませんか? それを頼りに確かな証明といたします。」 解説1. 『長恨歌』引用による悲劇性の強化: 2. 信憑性追求による物語深化: ※文学的意義補足: |
| 不然は臣忽に新垣平が詐を負て、身斧鉞の罪に当ん事を恐る。」と申ければ、玉妃重て宣く、「我七月七日長生殿夜半無人上の傍に侍りし時、牽牛織女の絶ぬ契を羨て、「在天願作比翼鳥、在地願為連理枝。」と誓き。是は君王と我とのみ知れり。是を以て験とすべし。」とて泣々玉台を登り給へば、音楽雲に隔り、団扇大に隠て、夕陽の影の裏に漸々として消去ぬ。方士鈿の半と言の信とを受て宮闕に帰参、具に此を奏するに、玄宗思に堪兼て、伏沈せ給けるが、其年の夏未央宮の前殿にして、遂に崩御なりにけり。一念五百生繋念無量劫といへり。況や知ぬ世までの御契浅からざりしかば、死此生彼、天上人間禽獣魚虫に生を替て、愛著の迷を離れ給はじと、罪深き御契なり。抑天宝の末の世の乱、只安禄山・楊国忠が天威を仮て、功に誇り人を猜し故なり。今関東の軍、道誓が隠謀より事起て、傾廃古に相似たり。天驕を悪み欠盈。譴脱るゝ処なければ、道誓の運命も憑みがたしとぞ見へたりける。 |
「もしそうなれば、私は突然新垣平の詐欺罪(漢代の方士が皇帝を騙した事件)を着せられ、斧や鉞による死刑にあうことを恐れます」と方士が申し上げると、楊貴妃は重ねておっしゃった。「私が七月七日の長生殿で夜半に人のいない時そばにお仕えしていた折、牽牛星と織女星の永遠の契りを羨んで『天にあっては比翼鳥(つがい鳥)となり、地にあっては連理枝(絡み合う木の枝)とならん』と誓いました。これは天子様と私だけが知っていることです。これを証拠としてください。」そう言いながら涙を流して玉台へ登っていかれると、音楽は雲に遮られ、大きな団扇で隠されて夕陽の影の中に次第に消え去った。 方士は簪(鈿)の半分と言葉による真実を受け取って宮殿に戻り、詳しくこれを奏上すると、玄宗皇帝は悲しみに耐えきれず伏して泣かれたが、その年の夏に未央宮前殿でついに崩御された。一つの執念が五百回の生まれ変わりを引き起こすと言われるように(仏教用語:強い執着が輪廻を招く)、まして二人の契りは深かったため、死んでは生まれ変わって天上・人間・鳥獣魚虫と姿を替えても、愛執の迷いから離れられない罪深き絆であった。 そもそも天宝年間末の世の乱(安史の乱)は、ただ安禄山や楊国忠が天子の威光を借りて功績を誇り人々を疑ったためである。今関東の軍勢も道誓という者の陰謀から事が起こり、その崩壊ぶりは昔と似ている(現実世界への比喩)。天意に逆らう者を憎み栄華には限界があるのだ。咎め逃れられる所などなく、道誓の運命も頼りにならないように思われた。 解説1. 『長恨歌』引用と悲恋の頂点: 2. 仏教思想に基づく輪廻観: 3. 歴史的事件への寓意化: ※文学的意義補足: |
| input text 太平記\038_太平記_巻38.txt | 現代日本語 translated text |
| 太平記 太平記巻第三十八 ○彗星客星事付湖水乾事 康安二年二月に、都には彗星・客星同時に出たりとて、天文博士共内裏へ召れて吉凶を占ひ申けり。「客星は用明天皇御宇に、守屋仏法を亡さんとせし時、始て見へたりけるより、今に至るまで十四箇度、其内二度は祥瑞にて、十二度は大凶也。彗星は皇極天王の御宇に、豊浦大臣の子、蘇我入鹿が乱を起して、中臣大兄皇子並中臣鎌子と合戦をしたりし時、始て此星出たりしより、今に至迄八十六箇度、一度も未災難ならずと云事なし。尤天下の御慎にて候べし。」と、博士一同に勘申ければ、諸臣皆色を失て、「さればよ、此乱世の上には、げにも世界国土が金輪際の底へ落入か、不然は異国の蒙古寄来て、日本国を打取かにてこそあらめ。さる事有まじき世共不覚。」と、面々に申合れけり。誠に天地人の三災同時に出来ぬと覚て、去年の七月より日々に二三度の地震も未休、又今年の六月より同十一月の始まで旱魃して、五穀も不登、草木も枯萎しかば、鳥はねぐらを失ひ、魚は泥に吻のみならず、人民共の飢死ぬる事、所々に数を不知。此時近江の湖も三丈六尺干たりけるに、様々の不思議あり。白髭の明神の前にて、奥に二人して抱許なる桧木の柱を、あはひ一丈八尺づゝ立双べて、二町余に渡せる橋見へたり。 |
康安二年(1362年)二月、都では彗星と客星が同時に現れたとして天文博士たちが内裏へ召され吉凶を占った。彼らは報告した。「客星は用明天皇の御世に物部守屋が仏法滅亡を図った時に初めて出現して以来、今まで十四度見られています。うち二度は吉兆でしたが十二度は大凶事が起こりました。彗星は皇極天皇の御世に豊浦大臣(蘇我蝦夷)の子・入鹿が乱を起こし中臣鎌足らと戦った時に初めて現れ、今まで八十六度記録され、一度も災難なしということはありません。これは天下にとって大変重く受け止めるべき事態です。」 博士たちが一同でこう報告すると廷臣たちは皆顔色を失い、「なるほどこの乱世の最中では、まさに世界全体が金輪際(地獄の底)へ落ち込むか、あるいは蒙古襲来のように日本国が滅亡する前触れであろう。そんなことがあってはならない」と互いに語り合った。実際に天変・地異・人災の三災が同時発生しているように感じられ、去る七月から一日二三度続く地震も収まらず、さらに今年六月より十一月始めまで大干ばつで五穀実らず草木枯れたため鳥は巣を失い魚は泥中で息絶え、民衆の餓死者が各地で数知れず出た。 この時近江の湖(琵琶湖)も三丈六尺(約11m)水位が下がり様々な奇妙な現象が現れた。白髭明神前の沖合に二人が抱えるほどの檜柱を一本半(一丈八尺=約5.4m)ずつ並べ二町余(約220m)渡す橋が見えたという。 解説1. 災異思想と歴史的引用: 2. 三災思想の構造化: 3. 琵琶湖伝説の寓意性: ※歴史的意義補足: |
| 「古人の語り伝たる事もなし、古き記録にも不載。是は何様竜宮城の道にてぞ有覧。」と云沙汰して、見る人日々に群集せり。又竹生島より箕浦まで水の上三里、入譱瑙なる切石を広さ二丈許に平に畳連ねて、二河白道も角やと覚たる道一通顕出たり。是も如何様竜神の通路にてぞ有らんとて、蹈では渡る人なし。只傍の浦に船を浮て見る人如市也。此湖七度まで桑原に変ぜしを我見たりと、白髭明神、大宮権現に向て被仰けると云古の物語あれば、左様の桑原にやならんずらんと見る人奇み思へり。天地の変は既に如此、人事の変又さこそあらんずらめと思処に、国々より早馬を打て、宮方蜂起したりと、告る事曾て休時なし。 ○諸国宮方蜂起事付越中軍事 山陽道には同年六月三日に、山名伊豆守時氏五千余騎にて、伯耆より美作の院庄へ打越て国々へ勢を差分つ。先一方へは、時氏子息左衛門佐師義を大将にて、二千余騎、備前・備中両国へ発向す。一勢は備前仁万堀に陣を取て敵を待に、其国の守護勢、松田・河村・福林寺・浦上七郎兵衛行景等、皆無勢なれば、出合ては叶はじとや思けん。又讃岐より細河右馬頭頼之、近日児島へ押渡ると聞ゆるをや相待けん。皆城に楯篭て未曾戦。一勢は多治目備中守、楢崎を侍大将にて、千余騎備中の新見へ打出たるに、秋庭三郎多年拵すまして、水も兵粮も卓散なる松山の城へ、多治目・楢崎を引入しかば、当国の守護越後守師秀可戦様無して、備前の徳倉の城へ引退く刻、郎従赤木父子二人落止て、思程戦て遂に討死してけり。 |
「これは古人が伝えた話にもなく古い記録にも載っていない。おそらく竜宮城へ通じる道であろう」と人々が噂し、見物客は日に日に群れをなした。また竹生島から箕浦まで三里(約12km)の水上に瑪瑙のような切り石を幅二丈(約6m)ほど平らに敷き詰め、浄土教で説かれる「二河白道」さながらの一本道が現れた。「これも竜神の通路であろう」と誰ひとり踏み渡る者はなく、ただ岸辺に船を浮かべて見物する人々が市をなすほどだった。 古くから伝わる話として「この湖は七度まで桑畑に変わったことを我は見た」と白髭明神が大宮権現(竹生島弁才天)へ語ったという故事があるため、そのような桑原になる前兆かと思い人々は奇異に見入っていた。 天地の変異がこのように続く中で、「人の世もまた同様に乱れるであろう」と危惧していたところ、諸国から早馬による「宮方(南朝勢力)蜂起」の報せが絶え間なく届いた。 ○諸国の宮方蜂起と越中の軍事状況山陽道では同年六月三日、山名伊豆守時氏が五千余騎を率いて伯耆国から美作院庄へ進出し各国に軍勢を分けた。第一陣は時氏の子・左衛門佐師義を大将とする二千余騎で備前・備中へ向かった。うち一隊が備前仁万堀(現岡山県)に布陣すると、同国守護側(北朝勢力)の松田・河村・福林寺・浦上行景らは兵力不足を悟り戦わず城塞に籠城した——近く讃岐から細川頼之が児島へ迫るとの情報もあり迎撃を見合わせたためである。 別働隊として多治見備中守と楢崎侍大将率いる千余騎は備中新見(現岡山県)に進出した。これに対し秋庭三郎多年は兵糧水源が豊富な松山城へ両将を誘い込み、当国守護・越後守師秀は防戦手段なく備前徳倉城へ撤退する途中、従者赤木父子二人が踏み留まって奮戦の末討死した。 解説1. 超自然的景観と民衆心理: 2. 軍記描写の特徴的技法: 3. 構造的意図: ※歴史的背景補足: |
| 依之敵勝に乗て国中へ乱入て、勢を差向々々責出すに、一儀をも可云様無れば、国人一人も順ひ不付云者なし。只陶山備前守許を、南海の端に添て僅なる城を拵て、将軍方とては残りける。備後へは、富田判官秀貞が子息弾正少弼直貞八百余騎、出雲より直に国中へ打出たるに、江田・広沢・三吉の一族馳著ける間、無程二千余騎に成にけり。富田其勢を合て、宮下野入道が城を攻んとする処に、石見国より足利左兵衛佐直冬、五百騎許にて富田に力を合戦と、備後の宮内へ被出たりけるが、禅僧を一人、宮下野入道の許へ使に立て被仰けるは、「天下の事時刻到来して、諸国の武士大略御方に志を通ずる処に、其方より曾承る旨なき間に、遮て使者を以て申也。天下に人多といへ共、別して憑思奉る志深し。今若御方に参じて忠を被致候はゞ、闕所分已下の事に於ては毎事所望に可随。」とぞ宣ひ遣れける。宮入道道山先城へ使者の僧を呼入て点心を調、礼儀を厚して対面あれば、使者の僧今はかうと嬉しく思ふ処に、彼禅門道山、僧に向て申けるは、「天下に一人も宮方と云人なく成て、佐殿も無憑方成せ給ひたらん時、さりとては憑ぞと承らば、若憑れ進する事もや候はんずらん。今時近国の者共多く佐殿に参りて、勢付せ給ふ間、当国に陣を召れて参れと承らんに於ては、えこそ参り候まじけれ。 |
このため敵軍は勝ちに乗じて国中に乱入し、兵を分散させて各地へ攻め立てると、一言も抗弁できる余地がなく国人(地元武士)たちは一人残らず従った。ただ陶山備前守だけが南海沿いの狭い城塞を構築して将軍方(北朝勢力)として踏みとどまっていた。 一方備後国へは、富田判官秀貞の子・弾正少弼直貞が八百余騎で出雲から直接侵入したところ、江田・広沢・三吉一族らが馳せ参じたため間もなく二千余騎に膨れ上がった。富田軍はこの兵力を合わせて宮下野入道(南朝方武将)の城攻撃に向かおうとした矢先、石見国から足利左兵衛佐直冬が五百騎ほどで援軍として備後・宮内へ到着する。直冬は禅僧一人を使者に立てて宮下野入道のもとへ次のように伝えさせた: 「天下の情勢は時機熟し、諸国の武士はおおよそ貴殿方(南朝)に心を寄せている折から、ご意向も伺わぬまま急ぎ使者をもって申し上げる。世間に人は多いと言えど、とりわけ貴殿への信頼は深い。もし今ここで我々に加わり忠節を尽くされるならば、没収領地以下の処遇については万事ご希望通りにするつもりである」 宮入道(下野守)こと道山は使者の僧を城へ招き茶菓でもてなし厚礼をもって応対したため、僧は「交渉成立か」と喜んだ。しかしこの禅門(道山)は僧に向かい言い放った: 解説1. 軍事展開のダイナミズム: 2. 心理駆け引きの構造: 3. 史実的意義: |
| 悪し其儀ならば討て進せよとて、御勢を向られば、尸は縦御陣の前に曝さる共、魂は猶将軍の御方に止て、怨を泉下に報ぜん事を計ひ候べし。抑加様の使などには御内外様を不云、可然武士をこそ立らるゝ事にて候に、僧体にて使節に立せ給ふ条、難心得こそ覚て候へ。文殊の、仏の御使にて維摩の室に入り、玄奘の大般若を渡さんとて流沙の難を凌しには様替りて、是は無慚無愧道心の御挙動にて候へば、僧聖りとは申まじ。御頚を軈て路頭に懸度候へ共、今度許は以別儀ゆるし申也。向後懸る使をして生て帰るべしとな覚しそ。御分誠に僧ならば斯る不思議の事をばよもし給はじ。只此城の案内見ん為に、夜討の手引しつべき人が、貌を禅僧に作立られてぞ、是へはをはしたるらん。やゝ若党共、此僧連て城の有様能々見せて後、木戸より外へ追出し奉れ。」とて、後の障子を荒らかに引立て内へ入れば、使者の僧今や失はるゝと肝心も身にそはで、這々逃てぞ帰りける。「此使帰らば佐殿定て寄せ給はんずらん。先ずる時は人を制するに利ありとて、逆寄に寄て追散せ。」とて、子息下野次郎氏信に五百余騎を差副、佐殿の陣を取て御坐宮内へ押寄せ、懸立々々責けるに、佐殿の大勢共、立足もなく打負て、散々に皆成にければ、富田も是に力を落して、己が本国へぞ帰りにける。 |
もしその申し出が受け入れられないなら攻めてこいと言って、軍勢を差し向けられたら、たとえ私の死体が陣前で晒されようとも魂はなお将軍側に留まり黄泉下で怨みを晴らすつもりだ。そもそもこのような使者には礼儀もなく(僧侶ではなく)相応しい武士こそ立てるべきことなのに、僧の姿で使節に立たれるのは理解し難い。文殊菩薩が仏の使いとして維摩居士のもとへ赴き玄奘三蔵が大般若経を伝えるため流砂の危険を凌いだ例とは異なり、これは厚顔無恥な偽りの信仰的行為であるから僧侶とも言えまい。お前の首はすぐ路頭に晒すところだが今回は特別に見逃そう。今後このような使者が生きて帰ることはないと心得よ。本当に僧ならこんな怪しい真似をするはずがない——ただ城の内部を偵察し夜襲の手引きをしようとする者が禅僧に偽装して来たのだろう。さあ若党たち、この僧侶を連れて城内を見せ回った後で木戸から追い出せ。」こう言うと障子を乱暴に開けて奥へ入ったため使者は命が危ないと恐怖に震え這うようにして逃げ帰った。 「使節が戻れば直冬様(足利直冬)きっと攻めてこられるだろう。先手を打つ者が人を制するのに有利というから逆襲に出て追い散らせ。」そう言って息子の下野次郎氏信に五百余騎をつけ、直冬が陣取る宮内へ押し寄せ激しく攻め立てると、直冬軍はまともに戦えず敗走して散り乱れた。これを見た富田(直貞)も意気消沈して本国出雲へ帰ってしまった。 解説1. 武士の忠節観と心理描写: 2. 劇的な場面転換の演出効果: 3. 歴史的意義: |
| 直冬朝臣、宮入道と合戦をする事其数を不知。然共、直冬一度も未打勝給ひたる事なければ、無云甲斐と思ふ者やしたりけん、落書の哥を札に書て、道の岐にぞ立たりける。直冬はいかなる神の罰にてか宮にはさのみ怖て逃らん侍大将と聞へし森備中守も、佐殿より前に逃たりと披露有ければ、高札の奥に、楢の葉のゆるぎの森にいる鷺は深山下風に音をや鳴らん但馬国へは、山名左衛門佐・舎弟治部太輔・小林民部丞を侍大将にて、二千余騎、大山を経て、播磨へ打越んとて出たりけるが、但馬国守護仁木弾正少弼・安良十郎左衛門、将軍方にて楯篭たる城未落ざりける間、長九郎左衛門尉・安保入道信禅已下の宮方共、我国を閣て、他国へ越ん事を不心得。さらば小林が勢許にても、播磨へ打越んと企る処に、赤松掃部助直頼大山に城を構て、但馬の通路を差塞ぎける程に、小林難所を被支丹波へぞ打越ける。丹波には当国の守護仁木兵部太輔義尹、兼て在国して待懸たる事なれば、軈て合戦有ぬとこそ覚けるに、楚忽に軍しては中々悪かりぬとや被思けん、和久の郷に陣を取て、互に敵の懸るをぞ相待ける。「丹波は京近き国なれば暫くも非可閣、急大勢を下して義尹に力を合せよ。」とて、若狭の守護尾張左衛門佐入道心勝・遠江守護今河伊予守・三河守護大島遠江守三人に、三箇国の勢を相副て三千余騎、京都より差下さる。 |
足利直冬卿(佐殿)と宮入道(下野守)の合戦はその数を数えられないほどであった。しかし直冬は一度も勝利したことがなかったため、何とも情けないと思う者たちが落書き歌を板札に書いて街道の分かれ道に立てた。内容は「直冬様はいったいどんな神罰か——宮(南朝)に対してあれほど怖れて逃げる侍大将と評判だった森備中守までも、佐殿より先に逃亡した」という噂を広めていたので、高札の裏側にはこう記されていた:「楢葉揺れる森に潜む鷺は深山の下風に声を上げ鳴くか(=逃げた者たちが密かに囁き合う様子)」。 さて但馬国へは、山名左衛門佐(氏清)・弟治部太輔・小林民部丞ら侍大将率いる二千余騎が大山峠を越え播磨国へ侵攻しようと出陣した。しかし但馬守護の仁木弾正少弼や安良十郎左衛門など将軍方(北朝)が籠城する拠点が未陥落だったため、長九郎左衛門尉・安保入道信禅ら南朝方は「自国を放置して他国へ攻め入るのは道理に反す」と主張した。結局小林の部隊のみで播磨進出を企てたところ、赤松掃部助直頼が大山峠に砦を築き但馬からの通路を塞いだため、やむなく難所を避けて丹波国へ転進せざるを得なかった。 この時丹波では守護・仁木兵部太輔義尹(北朝方)が事前に防備を固めて待ち構えていたので即座の合戦は必至と思われたが、「急な遭遇戦は却って不利」と判断した小林勢は和久郷で布陣し、敵の出方を互いに窺う態勢になった。この状況を知った京方(北朝中枢)は「丹波は京都に近い国ゆえ一刻も放置できぬ。急ぎ大軍を派遣して義尹と合流せよ」との命により、若狭守護・尾張左衛門佐入道心勝、遠江守護・今河伊予守、三河守護・大島遠江守の三名が三国連合兵三千余騎を率いて京都から出撃した。 解説1. 風刺と心理戦の描写: 2. 軍事戦略の空間構成: 3. 人物群像の史実的意義: |
| 其勢已に丹波の篠村に著しかば、当国の兵共、心を両方に懸て、何方へか著ましと思案しける者共、今は将軍方ぞ強からんずらんと見定て、我先にと馳付ける程に、篠村の勢は日々に勝て無程五千余騎に成にけり。山名が勢は纔に七百余騎、国遠して兵粮乏く馬・人疲れて城の構密しからず。角ては如何怺べき、聞落にぞせんずらんと覚ける処に、小林右京亮伯耆国を出しより、「今度天下を動す程の合戦をせずは、生て再び本国へ帰らじ。」と申切て出たりしかば、少も非可騒、一所にて討死せんと、気を励し心を一にする兵共、神水を飲て已に篠村を立と聞しかば、何くにても広みへ懸合せて、組打に討んと議しける間、篠村の大勢是を聞て、却て寄られやせんずらんと、二日路を隔たる敵に恐て一足も先へは不進、木戸を構へ逆木を引て、用心密くては居たりけれ共、小林兵粮につまりて、又伯耆へ引退ければ、「御敵をば早追落て候。」とて、気色ばうてぞ帰洛しける。越中には、桃井播磨守直常信濃国より打越て、旧好の兵共を相語ふに、当国の守護尾張大夫入道の代官鹿草出羽守が、国の成敗みだりなるに依て、国人挙て是を背けるにや、野尻・井口・長倉・三沢の者共、直常に馳付ける程に、其勢千余騎に成にけり。桃井軈て勢ひに乗て国中を押すに手にさわる者なければ、加賀国へ発向して富樫を責んとて打出ける。 |
幕府方の大軍がすでに丹波篠村に到着したため、現地の兵士たちはどちらの陣営につくべきか迷っていた者も、「今こそ将軍側(北朝)が優勢だろう」と判断し我先にと加勢した結果、篠村の勢力は日々増大してついに五千余騎に膨れ上がった。これに対抗する山名氏清率いる南朝方はわずか七百余騎で、本国から遠く兵糧も不足し人馬とも疲弊していて城塞防御も万全ではない状況だった。「このままではどう持ちこたえられるか?退却するしかあるまい」と覚悟したその時、伯耆国から進軍してきた小林右京亮が「今回ほどの天下を揺るがす大戦をせずに生きて故郷へ帰ることはない!」と宣言して現れたため、兵士たちは動揺することなく一丸となり決死の覚悟で誓いの盃(神水)を交わし篠村出撃を開始した。これを知った南朝軍は「どこか開けた場所で敵との白兵戦を挑もう」と協議する一方、逆に篠村の大軍側では攻め寄せられることを恐れ(小林勢が伯耆から二日行程離れた位置にあるにも関わらず)、一歩も前進しようとせず木戸や逆茂木で防壁を築き守備を固めて待機していた。しかし結局、小林軍は兵糧不足により再び伯耆へ撤退したため、篠村勢は「すみやかに敵を撃退しました」と得意げに京都へ帰還していった。 一方越中国では南朝方の桃井直常が信濃国から侵攻し旧知の武将たちと呼応するうち、当地(越中)における北朝側守護・斯波高経(尾張大夫入道)の代官である鹿草出羽守による統治乱脈さに抗議した国人衆―野尻氏・井口氏・長倉氏・三沢氏らが直常のもとに馳せ参じたため、その軍勢は千余騎に増強された。桃井は即座にこの勢いに乗じて国内を制圧(抵抗者なく平定した後)、加賀国へ進撃して守護富樫氏討伐に向けて軍を動かした。 解説1. 心理的駆け引きと戦術描写の対比: 2. 地方勢力動向の史的意義: 3. 文学的手法と歴史的整合性: |
| 能登・加賀・越前の兵共是を聞て、敵に先をせられじと相集て、三千余騎越中国へ打越て三箇所に陣を取る。桃井はいつも敵の陣未取をほせぬ所に、懸散を以て利とする者なりければ、逆寄に押寄て責戦に、越前の勢一陣先破て、能登・越中の両陣も不全、十方に散てぞ落行ける。日暮れば桃井本の陣へ打帰て、物具脱で休けるが、夜半計に些可評定事ありとて、此陣より二里許隔たる井口が城へ、誰にも角とも不知して只一人ぞ行たりける。此時しも能登・加賀の者共三百余騎打連て、降人に出たりける。執事に属して、大将の見参に入んと申間、同道して大将の陣へ参じ、事の由を申さんとするに、大将の陣に人一人もなし。近習の人に尋ぬれ共、「何くへか御入候ぬらん。未宵より大将は見へさせ給はぬ也。」とぞ答ける。陣を並べたる外様の兵共是を聞て、「さては桃井殿被落にけり。」と騒て、「我も何くへか落行まし。」と物具を著もあり捨るもあり、馬に乗もあり、乗ぬもあり、混ひしめきにひしめく間、焼捨たる火陣屋に燃著て、燎原の焔盛なり。是を見て、降人に出たりつる三百余騎の者共、「さらばいざ落行敵共を打取て、我が高名にせん。」とて、箙を敲き時を作て、追懸々々打けるに、返合せて戦んとする人なければ、此に被追立彼に被切伏、討るゝ者二百余人生虜百人に余れり。 |
能登・加賀・越前の兵士たちはこの情報(桃井軍が加賀侵攻を企てているとの報)を聞き、「敵に先手を打たれてなるものか」と集結し三千余騎で越中国へ進攻、三箇所に陣を敷いた。これに対し桃井直常は「相手の陣地構築が未完成な隙こそ奇襲の好機」とする戦術家であったため、逆に攻め寄せて激しく打ちかかった結果、越前勢の第一陣が真っ先に突破されると能登・越中両陣も維持できず全軍は四方へ散乱して敗走した。日没後、桃井は本陣へ戻り武装を解いて休息していたが、「夜半までに決めておくべき案件がある」と言い、誰にも知らせず単身で本陣から二里(約8km)離れた井口城へ向かった。 ちょうどその時、能登・加賀勢の兵三百余騎が投降のために到着していた。彼らは「執事に従い大将への挨拶を」と申し出て同道して本陣へ入るが、事情説明しようとしたところ陣内には人影もない。側近に尋ねると「(桃井)殿はどちらかへお立ちになったようです。宵の口から御姿が見えません」との返答だった。これを聞いた周囲の配下兵士たちは「これは桃井殿が逃亡なさったのだ!」と騒ぎだし、「我々もどこかへ逃れよう」と武具を着たまま捨てる者、馬に乗ろうとする者、混乱が頂点に達する中で投げ捨てられた火把が陣屋に燃え移り、野原を焼く炎が盛んに上がった。 この状況を見た投降予定の三百余騎は「ならば今こそ逃げる敵どもを討ち取って我らの功名とせよ!」と鬨の声を上げ追撃にかかった。迎え撃つ者など誰もいなかったため、あちらで突き立てられこちらで斬り伏せられる有様となり、(桃井軍側では)二百人以上が戦死し百人余りが生け捕られた。 解説1. 心理的崩壊の連鎖構造: 2. 桃井直常の戦術とその脆弱性: 3. 歴史的事件との対応関係: 4. 軍記文学の演出技法: |
| 桃井は未井口の城へも不行著、道にて陣に火の懸りたるを見て、是は何様返忠の者有て、敵夜討に寄たりけりと心得て、立帰る処に、逃る兵共行合て息をもつきあえず、「只引せ給へ、今は叶まじきにて候ぞ。」と申合ける間不及力、桃井も共に井口の城へ逃篭る。昼の合戦に打負て、御服峯に逃上りたる加賀・越前の勢共、桃井が陣の焼るを見て、何とある事やらんと怪く思ふ処に、降人に出て、心ならず高名しつる兵共三百余騎、生捕を先に追立させ、鋒に頭を貫て馳来り、「如鬼神申つる桃井が勢をこそ、我等僅の三百余騎にて夜討に寄て、若干の御敵共を打取て候へ。」とて、仮名実名事新しく、こと/゛\しげに名乗申せば、大将鹿草出羽守を始として国々の軍勢に至迄、「哀れ大剛の者共哉。此人々なくは、争か我等が会稽の恥をば濯がまし。」と、感ぜぬ人も無りけり。後に生捕の敵共が委く語るを聞てこそ、さては降人に出たる不覚の人共が、倒るゝ処に土を掴む風情をしたりけるよとて、却て悪み笑れける。 ○九州探題下向事付李将軍陣中禁女事 筑紫には、小弐・大友以下の将軍方の勢共、菊池に追すへられて、已に又九州宮方の一統に成ぬと見へければ、探題を下して、小弐・大友に力を合せでは叶まじとて、尾張大夫入道の子息左京大夫氏経を、九州の探題に成てぞ被下ける。 |
桃井直常はまだ井口城にも到着しておらず、道中で自陣が炎上しているのを見て、「これは裏切者が現れ敵が夜襲を仕掛けたのだ」と思い込み引き返そうとしたところ、逃亡してきた味方兵士と遭遇した。彼らは息も絶え絶えに「どうかお退きください。最早挽回不可能でございます」と言上するので抗しきれず、桃井も共に井口城へ逃げ込んで籠城した。 一方、昼間の戦いで敗れて御服峯(みそぎがみね)に逃走していた加賀・越前勢は、桃井陣営の炎上を眺め「何事か」と訝しんでいたところ、投降するつもりだった三百余騎の兵士たちが——本意ではなかったものの戦功を得て——捕虜を先導させながら槍に敵の首を貫いて駆け戻って来た。彼らは「鬼神のように恐れられた桃井勢に対し、我々わずか三百余騎で夜襲を仕掛けて数多の敵兵を討ち取った」と豪語し、仮名から実名まで事細かに勇ましく名乗り立てるので、大将である鹿草出羽守(しかくさでわのかみ)をはじめ諸国の軍勢に至るまで、「ああ、勇敢な者たちよ。彼らがいなければ我々の会稽の恥(敗戦の屈辱)を晴らせなかった」と誰もが感動した。 しかし後日、捕虜となった敵兵から詳しい事情を聞くと「どうやら投降しようとした不覚者が窮地に追い込まれ土をつかむように必死で反撃したのだな」と理解し、逆に軽蔑して嘲笑うようになったのだった。 ○九州探題派遣及び李将軍陣中女性禁止に関する事 解説1. 「虚実逆転劇」の構成効果: - 三段階の認識変化: ①桃井陣炎上→誤解(裏切り夜襲)/②加賀勢帰還→偽装成功(三百騎が英雄化)/③捕虜証言→真相暴露(窮鼠猫を噛む的抵抗)という流れは、戦記文学特有のアイロニーを深化。特に「心ならず高名しつる」から「悪み笑れける」への転換で、武士の名誉と現実との乖離が強調される。 - 比喩表現の機能: 「倒るゝ処に土を掴む」(窮地での必死抵抗)という慣用句は、投降兵たちの狼狽ぶりを視覚化しつつ「風情」と嘲笑対象とする二重性を持つ。 2. 歴史的背景との対応: - 1360年代九州情勢の反映: 「菊池に追すへられて」「宮方一統」は、南朝・菊池武光が北朝方(小弐頼尚/大友氏時)を圧迫した史実を指す。実際1359年筑後川合戦以降、九州探題派遣が恒常化する。 - 斯波氏経の役割: 1363年に任命された九州探題で、父・高経(尾張大夫入道)の北陸回復と連動した南朝包囲網構築を示す。ただし史実では赴任後間もなく菊池軍に敗退している。 3. 人間心理の描写技法: - 集団的熱狂構造: 「感ぜぬ人も無りけり」という全員感動演出は、虚偽の戦功報告が権威(鹿草出羽守)を媒介に受け入れられる過程を暗示。後に「悪み笑れける」へ転じることで情報伝播による認識修正を示す。 - 対照的な指揮官像: 桃井直常の錯覚行動と冷静さを失った撤退(只引せ給へ…不及力)は、前段での奇襲成功時の姿との落差により指導者の脆弱性を浮き彫りにする。 4. 語句解釈補足: - 「会稽の恥」: 『史記』越王勾践の故事から「雪がすべき敗戦の屈辱」を意味し、当時の武士階層における教養共有を示唆。 - 「李将軍陣中禁女事」: 別項参照との注釈だが、本文未記載。『太平記』他版本では唐の李靖(りせい)故事に基づく「戦場女性禁止令」を解説する挿話が存在し、道義的統制強化を象徴したものと解される。 |
| 左京大夫先兵庫に下て、四国・中国の勢を催しけれ共、付順ふ勢も無りければ、さりとては道より非可引返とて、僅に二百四五十騎の勢にて、已に纜を解けるに、左京大夫の屋形船を始として、士卒の小船共に至まで、傾城を十人二十人のせぬ船は無りけり。磯に立双で是を見物しける者共の中に、些こざかしげなる遁世者の有けるが、傍への人々に向て申けるは、「筑紫九箇国の大敵を亡さんとて、討手の大将を承る程の人の、是程物を知らでは、何としてか大功を成るべき。夫大敵に向て陣を張り、戦を決せんとする時、兵気と云事あり。此兵気敵の上に覆て立時は、戦必勝事を得、若陣中に女多く交てある時は、陰気陽気を消す故に、兵気曾不立上。兵気立ざれば、縦大勢なりといへ共、戦勝事を不得いへり。されば昔覇陵の李将軍と云ける大将、敵国に赴て陣を張り旅を調へて、単于と戦を決せんとしけるに、敵僅に三万余騎、御方は是に十倍せり。兵気定て敵の上に覆らんと思て、李将軍先高山の上に打上り、両方の陣を見るに、御方の陣にあがらんとする兵気、陰の気に押れて、立んとすれ共不立得。李将軍倩是を案ずるに、何様是は我方の陣に女交て、隠れ居たればこそ、加様には有らんと推して陣中をさがすに、果して陣中に女隠れて三千余人交り居たり。 |
九州探題として派遣された氏経(左京太夫)は先ず兵庫へ下向し、四国・中国地方の勢力を召集しようとしたが従う者もなかったため、「引き返すわけにもいかない」と判断し、わずか二百四五十騎ほどの軍勢で船出したところ――氏経自身の御座船から士卒たちの小船に至るまで、遊女を十人二十人乗せていない船は一艇もなかった。 解説1. 歴史的状況と人物: 2. 兵気理論と教訓的構造: 3. 語り手構造と社会的批判: 4. 表現技法上の特徴: |
| さればこそ是故に兵気は不上けりとて、悉此女を捕へて、或は水に沈め或は追失て、後又高き山に打上て、御方の陣を見に、兵気盛に立て敵の上に覆へり。其後兵を進めて闘を決するに、敵四方に逃散て勝事を一時に得しかば、李将軍と云れて武功天下に聞へたり。智ある大将は加様にこそあるに、大敵の国に臨む人の兵をば次にして、先女を先立給ふ事不被心得。」と難じ申けるが、果して無幾程高崎の城にも不怺、浅猿き体にて上洛し給ひしが、面目なくや被思けん、尼崎にて出家して諸国流浪の世捨人と成にけり。 ○菊池大友軍事 左京大夫已に大友が館に著ぬと聞へければ、菊池肥後守武光、敵に勢の著ぬ先に打散せとて、菊池彦次郎・城越前守・宇都宮・岩野・鹿子木民部大輔・下田帯刀以下勝れたる兵五千余騎を差副て、探題左京大夫を責ん為に、九月二十三日豊後国へ発向す。探題左京大夫是を聞に、「抑我九州静謐の為に被下たる者が、敵の城へ不寄して、却て敵に被寄たりと京都に聞へんずる事、先武略の不足に相似たり。されば敵を城にて相待までもあるまじ。路次に馳向て戦へ。」とて、探題の子息松王丸の、未幼稚にて今年十一歳に成けるを大将にて、大宰小弐・舎弟筑後二郎・同新左衛門尉・宗像大宮司・松浦一党都合其勢七千余騎にて、筑前国長者原と云所に馳向て、路を遮てぞ待懸たる。 |
だからこそ兵気が立たなかったのだと言って、彼女たち全員を捕まえ、ある者は水に沈め、ある者を追放し、その後再び高い山に登り我が陣を見ると、兵気は盛んに立ち敵の上に覆いかぶさった。その後に軍勢を進めて決戦すると、敵は四方へ逃げ散って勝利を得たので、李将軍と呼ばれ武功が天下に知られたのだ。賢明な大将というのはこのようなものだが、大敵と対峙する者が兵隊のことは後回しにして、まず女性たちを連れて行くとはまったく理解できない。」と非難したところ、案の定ほどなくして高崎(こうざき)の城も守れず、みじめな様子で上洛されたが、恥ずかしく思われたのだろうか、尼崎で出家し諸国を流浪する世捨て人となってしまった。 解説1. 隠居者の非難と氏経の結末: 2. 菊池方の軍事行動: 3. 氏経の反撃計画と問題点: 4. 物語構造と主題: |
| 同二十七日に菊池彦二郎五千余騎を二手に作り長者原へ押寄て戦けるに、岩野・鹿子木将監・下田帯刀已下、宗徒の勇士三百余騎討れて、其日の大将菊池彦次郎、三所まで疵を被りければ、宮方の軍勢已に二十余町引退く。すはや打負ぬと見へける処に、城越前守五百余騎、入替て戦けるに、小弐筑後二郎・同新左衛門尉、二人共に一所にて討れぬ。其外松浦・宗像大宮司が一族・若党四百余人討れにければ、探題・小弐・大友二度目の軍に打負て、皆散々に成にけり。菊池已に手合の軍に打勝しかば、探題の勇威も恐るに不足と蔑て、菊池肥後守武光悪手の兵三千余騎を卒して、舎弟彦次郎が勢に馳加て、豊後の府へ発向す。是までも猶探題・小弐・大友・松浦・宗像が勢は七千余騎有けるが、菊池に気を呑れて、懸合の合戦叶まじとや思けん、探題と大友とは、豊後の高崎城に引篭り、大宰小弐は、岡の城に楯篭り、大宮司は棟堅の城に篭て、嶮岨を命に憑ければ、菊池は豊後の府に陣を取り、三方の敵を物共せず、三の城の中を押隔て、今年は已に三年まで、遠攻にこそしたりけれ。抑小弐・大友は大勢にて城に篭り、菊池は小勢にて是を囲む。菊池が城必しも皆剛なるべからず、小弐・大友が勢必しも皆臆病なるべきに非ず。只士卒の剛臆は大将の心による故に、九国は加様に成にける也。 |
この27日に菊池彦次郎が5000余騎の兵を二手に分けて長者原へ攻め寄せ戦ったところ、岩野・鹿子木将監・下田帯刀以下の味方の勇士300余騎が討たれ、その日の大将である菊池彦次郎自身も三ヶ所で傷を負ったため、宮方(南朝側)の軍勢はすでに二十余町後退した。もう敗北かと思われたところへ、城越前守が500余騎と入れ替わり戦うと、小弐筑後二郎・同新左衛門尉二人が同じ場所で討ち死にする。その他にも松浦や宗像大宮司の一族・従者400余人が討たれたため、探題(北朝側)・小弐・大友は二度目の戦いでも敗れて皆ばらばらになった。菊池軍がこの遭遇戦に勝利したので、探題の威勢など恐れるに足りないと侮り、菊池肥後守武光は精鋭兵3000余騎を率いて弟彦次郎の部隊と合流し豊後の府へ向かった。これまででもなお探題・小弐・大友・松浦・宗像の軍勢は7000余騎いたが、菊池に気圧されてまともに戦えないと思ったのか、探題と大友は豊後高崎城に、大宰小弐は岡城に、大宮司は棟堅城にそれぞれ籠城し険しい地形を命綱とした。そこで菊池は豊後の府に陣を取り三方の敵を侮らず三つの城を隔てて包囲し今年で既に三年目まで長期攻勢を続けたのである。そもそもの話、小弐・大友は大軍でありながら城に籠もり、菊池は少人数でこれを包囲した。菊池の兵が皆強いわけでもなく、小弐・大友の兵が皆臆病という訳ではない。ただ士卒の強弱は大将の心持ち次第だからこそ九州情勢はこうなったのだ。 解説1. 長者原合戦の経緯と転機: 2. 武光の積極攻勢と籠城戦長期化: 3. 教訓的結論と構造分析: |
| ○畠山兄弟修禅寺城楯篭事付遊佐入道事 筑後には宮方蜂起すといへ共、東国は無程静りぬ。去年より畠山入道々誓・舎弟尾張守義深、伊豆の修禅寺に楯篭て東八箇国の勢と戦けるが、兵粮尽て落方も無りければ、皆城中にて討死せんとす。左馬頭殿より使者を以て、先非を悔て子孫を思はゞ、首を延て可降参由被仰けるを、誠ぞと信じて道誓は禅僧になり、舎弟尾張守は、伊豆国の守護職還補の御教書を給て、九月十日降参したりけるが、道誓は伊豆の府に居て、先舎弟尾張守を、鎌倉左馬頭の御坐する箱根の陣へぞ参らせける。旧好ある人、万死を出て二度び見参に入事の嬉しさよなど云て一献を勧め、此程無情あたりつる傍輩は、いつしか媚を諛て、言を卑しくし礼を厚して、頻に追従をしける間、門前に鞍置馬の立止隙もなく、座上に酒肴を置連ねぬ時も無りけり。角て三四日経て後、九月十八日の夜、稲生平次潜に来て道誓に囁きけるは、「降参御免の事は、元来被出抜事に候へば、明日討手を可被向にて候なる。げにも聞に合せて、豊島因幡守俄に陣を取易て、道を差塞ぐ体に見へて候。今夜急何くへも落させ給べし。」とぞ告たりける。道誓聞も不敢、舎弟式部大輔に屹と目加せしけるが、仮初に出る由にて、中間一人に太刀持せ、兄弟二人徒にて、其夜先藤沢の道場までぞ落たりける。 |
筑後地方で南朝方が蜂起したと言うものの、関東はすぐに鎮静化した。去年から畠山入道道誓(どうせい)とその弟尾張守義深が伊豆修禅寺城に籠城し、八ヶ国の軍勢と戦っていたが、兵糧が尽きて落ち延びる場所もなかったため、全員城内で討ち死にする覚悟であった。鎌倉公方(足利尊氏)から使者を通じて「過去の過ちを悔い子孫を思うなら投降せよ」と命じられたことを真実だと信じ、道誓は出家して禅僧となり、弟尾張守には伊豆国守護職に復帰させる旨の官位書を与えられ、9月10日に降伏した。その後道誓が伊豆府中に滞在している時、先に弟尾張守を鎌倉公方(左馬頭)が駐屯する箱根陣営へ送り届けたところ、旧交のある人々が「万死の中から再会できた喜び」と言って酒宴を催し、以前は冷淡だった連中まで急に媚び諂い言葉を卑しく礼儀を厚くして盛んにお世辞を言ったため、門前には来客の馬が絶えず止まり、座席には酒肴が並ばない時がないほどであった。こうして三四日経った後の9月18日夜、稲生平次(いなひらへいじ)が密かに訪れて道誓に耳打ちした。「降伏赦免は元々嘘であり、明日討伐軍を差し向ける計画です。実際、噂通り豊島因幡守が突然陣形を変え進路を塞ぐ様子が見えます。今夜急いでどこかへ逃げなさい」と告げたのである。道誓は聞き流せず弟式部大輔に合図すると、仮の外出と称し従者一人に太刀を持たせ、兄弟二人だけ徒歩でその夜ひそかに藤沢寺まで脱出した。 解説1. 政治的駆け引きの構図: 2. 緊迫した脱出劇の演出: 3. 歴史的背景と文学的意図: |
| 上人甲斐々々敷馬二疋、時衆二人相副て、夜昼の堺もなく、馬に鞭を進めて上洛しけるをば、知人更にも無りけり。舎弟尾張守義深は、箱根の御陣に有けるが、翌の夜或時衆の斯る事と告けるに驚て、さては我も何くへか落なましと案ずれ共、東西南北皆道塞りて可落方も無りければ、結城中務大輔が陣屋に来て、平に可憑由をぞ宣ひける。是を隠さんずる事は、至極の難義なれ共、弓矢取身の習、人に被憑て叶はじと云事や可有と思ければ、長唐櫃の底に穴をあけて気を出し、其櫃の中に臥させて、数十合舁連ねたる鎧唐櫃の跡にたて、態と鎌倉殿の御馬廻に供奉して、尾張守をべ夜に紛て、藤沢の道場へぞ送りける。命程可惜者はなかりけり。此人遂には御免有て、越前の守護に被補、国の成敗穏かにて土民を安ぜしかば、鰐の淵を去り、蝗の境を出る許也。遊佐入道性阿は、主の被落妝を軈て知たりけれ共、暫く人にあひしらひて、主を何くへも落延させん為に少も騒たる気色を不見、碁・双六・十服茶など呑て、さりげなき体にて笑戯て居たりければ、郎従共も外様の人も、可思寄様無りけれ共、遂に隠るべき事ならねば、畠山兄弟落たりと沙汰する程こそ有けれ。軈て討手を被向と聞へければ、遊佐入道は禅僧の衣を著て、只一人京を志てぞ落行ける。 |
僧侶(道誓)は優れた馬二頭に同行者二人をつけ、昼夜を問わず鞭を打って上洛したものの、頼れる知人は全くいなかった。弟尾張守義深は箱根陣営にいたが、翌夜にある時衆から「兄が逃亡」と告げられ驚き、「ならば自分もどこかへ逃れねば」と思案するも東西南北すべて道が塞がり行き場がないため、結城中務大輔の陣屋を訪れて平然と庇護を求めた。これを隠すのは極めて困難であったが「武士たるもの人に頼って生き延びられぬ」と考え、長い唐櫃の底に穴を開けて息を通せるようにし、その中で伏せさせた上で数十個運ぶ鎧櫃の列の最後に立てて偽装。わざと鎌倉公方(足利尊氏)の馬廻衆に混じりながら夜陰に紛れ弟尾張守を藤沢寺へ送り届けたのである。命ほど大切なものはないとの思いが実ったのだ。この義深は後に赦免され越前国守護職に任じられ、領地統治も安定して民衆を安堵させたため「鰐の棲む淵から脱し蝗害の土地から逃れた」ような状態となった。一方遊佐入道性阿(ゆさにゅうどうしょうあ)は主君逃亡を知りながら、しばらく人と会話して平然を装い、騒ぎを見せず碁や双六・茶会で笑い興じていたため家臣も他人も疑わなかったが、結局「畠山兄弟脱出」の噂が広まった。追討軍派遣が決まると遊佐入道は禅僧衣を着て単身京都へ向かい逃亡した。 解説1. 二重の逃避行と心理描写: 2. 遊佐入道性阿の劇的演出: 3. 全段落構成の文学的意図: |
| 兔角して湯本まで落たりけるが、行合人に口脇なる疵を隠さん為に、袖にて口覆して過けるを見る人中々あやしめて、帽子を脱せ袖を引のけゝる間、口脇の疵無隠顕れて可遁様無りければ、宿屋の中門に走上て、自喉ぶへ掻放ち返す刀に腹切て、袈裟引被きて死にけり。江戸修理亮は竜口にて生捕れて斬れぬ。其外此に隠れ、彼に落行ける郎従共六十余人、或は被捜出て切れ、或は被追懸腹を切る。目も当られぬ有様也。畠山入道兄弟、無甲斐命助りて、七条の道場へ夜半許に落著たりけるを、聖二三日労り奉て、道の案内者少々相副て、行路の資など様々に用意して南方へぞ被送ける。道誓暫く宇知郡の在家に立寄て、「楠が方へ降参の綸旨を申てたび候へ。」と、宣ひ遣されたりけれども、楠さしも許容の分無りければ、宇知郡にも不隠得都へ可立帰方もなし、南都山城脇辺に、とある禅院律院、或は山賎の柴の庵、賎士がふせ屋のさびしきに、袂の露を片敷て、夜を重ぬべき宿もなく、道路に袖をひろげぬ許にて、朝三暮四の資に心有人もがなと、身を苦しめたる有様、聞に耳冷く、見に目も充られず。幾程もなく、兄弟共に無墓成けるこそ哀なれ。人間の栄耀は風前塵と白居易が作り、富貴草頭露と杜甫が作りしも理り哉。此人々去々年の春は、三十万騎が大将として、南方へ発向したりしかば、徳風遠く扇で、靡かぬ草木も無りしに、いつしか三年を不過、乍生恥を曝して、敵陣の堺に吟ひぬる事、更に直事とは不覚。 |
とにかく湯本まで逃れたが、行き会った人に頬の傷を隠そうとして袖で口元を覆いながら通り過ぎようとしたところ、見た者たちが怪しんで無理やり帽子を脱がせ袖を引きはがしたため、もはや隠しようがなくなり宿屋の中門へ駆け上がり自ら喉を掻き切り、返す刀で腹を切って袈裟を頭からかぶって死んだ。江戸修理亮(えどしゅりのすけ)は龍口で生捕られ斬首された。その他ここに潜みあちこちへ逃げた家来六十余人も、捜索されて討たれたり追い詰められて自害するなど、見るに耐えない惨状であった。一方畠山入道兄弟は危うく命をつなぎ七条の寺(京都市)へ夜中に到着すると僧侶たちが二三日もてなし、道案内を数人つけ旅費などを整えて吉野朝廷(南朝)側へ送り届けた。道誓がしばらく宇智郡(奈良県五條市付近)の民家に立ち寄り「楠木正行殿へ降参する綸旨を得てくれ」と使者を出したが、楠木は全く許容せず仕方なく都周辺で禅院や粗末な庵・百姓小屋などを転々としても露命をつなぐ場もなく、道端に座り込んで「朝夕の糧を与えてくれる人がいれば」と苦しむ様子は聞いて胸が痛み見る目もあてられなかった。ほどなく兄弟とも無縁仏となったのは哀れである。「人間の栄華は風前の塵」(白居易詩)や「富貴は草葉の露」(杜甫詩)という道理を体現するものだった。この人々がほんの二、三年前には三十万騎の大将として吉野へ出陣した時は威光が広く行きわたり草木も靡いたのに、三年と経たず生きながら恥を晒し敵地で死ぬとは全くあきれるばかりである。 解説1. 逃亡者たちの末路描写: 2. 畠山兄弟の悲劇的結末: 3. 歴史的反省と文学的評価: 4. 全段落構成意義: |
| 此人に被出抜討れし新田左兵衛佐義興怨霊と成て、吉野の御廟へ参たりけるが、「畠山をば義興が手に懸て、乍生軍門に恥を曝さすべし。」と奏し申ける由、先立て人の夢に見て、天下に披露有しも訛にては無りけりと、今こそ思知れたり。 ○細川相摸守討死事付西長尾軍事 讃岐には細川相摸守清氏と細川右馬頭頼之と、数月戦けるが、清氏遂に討れて、四国無事故閑りにけり。其軍の様を伝聞に、相摸守四国を打平げて、今一度都を傾て、将軍を亡し奉らんと企て、堺の浦より船に乗て讃岐へ渡ると聞へしかば、相摸守がいとこの兵部太輔淡路国の勢を卒して、三百余騎にて馳著。其弟掃部助、讃岐国の勢を相催て五百余騎にて馳加る。小笠原宮内大輔、阿波国の勢を卒して、三百余騎にて馳著ける間、清氏の勢は無程五千余騎に成にけり。其比右馬頭頼之は、山陽道の蜂起を静んとて、備中国に居たりけるが、此事を聞て、備中・備前両国の勢千余騎を卒し、讃岐国へ押渡る。此時若相摸守敵の船よりあがらんずる処へ、馳向て戦はゞ、一戦も利あるまじかりしを、右馬頭飽まで心に智謀有て、機変時と共に消息する人也ければ、兼て母儀の禅尼を以て、相摸守の許へ言遣けるは、「将軍群少の讒佞を不被正、貴方無科刑罰に向はせ給ひし時、陳謝に言無して寇讐に恨有し事、頼之尤其理に服し候き。 |
この人物(新田左兵衛佐義興)に見逃されて討たれた恨みから怨霊となり、吉野の御廟へ参詣して、「畠山兄弟を私自身の手にかけて、生きたまま軍門で恥をかかせるつもりです。」と奏上したということは、以前に人々が夢に見て世間に広まったことも嘘ではなく、今となって理解できた。 解説1. 「怨霊譚」と歴史的因果の結合: 2. 細川家内紛の戦略的描写: 3. 全段落構成の史料的価値: |
| 乍去、故左大臣殿も、仁木・細川の両家を股肱として、大樹累葉の九功を光栄すべしとこそ被仰置候しに、一家の好を放て敵に降り、多年の忠を捨、戦を被致候はん事、亡魂の恨苔の下まで深く、不義の譏り世の末までも不可朽。頼之苟も此理を存ずる故に、全く貴方と合戦を可致志を不廻。往者不尤と申事候へば、御憤今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ御参候へ。御分国已下、悉日来に不替可申沙汰にて候。若又其れも御意に叶はで、御本意を天下の反覆に達せんと被思召候はゞ、頼之無力四国を捨て備中へ可罷返候。」言を和げ礼を厚して、頻に和睦の儀を請れけるを、相摸守心浅信じて、問答に日数を経ける間に右馬頭中国の勢を待調へ城郭を堅く拵て、其後は音信も無りけり。相摸守の陣は白峯の麓、右馬頭の城は歌津なれば、其あはひ僅に二里也。寄やする待てや戦ふと、互に時を伺て数日を送りける程に、右馬頭の勢、太略遠国の者共なれば、兵粮につまりて窮困す。角ては右馬頭は讃岐国には怺じと見へける程に、結句備前の飽浦薩摩権守信胤宮方に成て、海上に押浮、小笠原美濃守、相摸守に同心して、渡海の路を差塞ける間、右馬頭の兵は日々に減じて落行き、相摸守の勢は国々に聞へて夥し。只魏の将司馬仲達が、蜀の討手に向て、戦はで勝事を得たりけん、其謀に相似たり。 |
しかしながら故左大臣殿(足利尊氏)も仁木・細川両家を手足のように頼り、「将軍家代々の功績を栄えさせよ」とおっしゃっていたのに、一族の絆を捨て敵に降り、長年の忠誠を投げ出して戦いを挑もうとするならば、死者の怨みは墓の下までも深く、不義の非難は末代まで消えないでしょう。頼之もこの道理をわきまえているゆえ、貴方と全面的に戦おうとは考えておりません。過去の過ちがやむを得ないものであるならば、御怒りも今こそ収めてください。どうかこちらへお越しください。領国以下の扱いは以前と変わらず対応いたします。もしそれでも御意に沿わず、本望を天下に示そうとなさるのであれば、頼之は無力ですから四国を捨て備中へ引き上げましょう。」穏やかな言葉で丁重な礼儀をもって繰り返し和睦を申し入れたが、相模守(清氏)は浅慮にもこれを信じ、問答に日数を費やす間に右馬頭頼之は中国地方の軍勢を整え城郭を堅固に準備したため、その後音沙汰すらなくなった。相模守の陣は白峯(現香川県坂出市)の麓、右馬頭の城は歌津(同高松市)だから距離わずか二里(約8km)。攻め寄せるか待ち構えるか互いに機会を伺ううち数日が過ぎると、頼之軍は遠国の兵ばかりで兵糧不足に陥り苦境に立った。いっそ讃岐から撤退かと思われた状況の中、結局備前の飽浦薩摩権守信胤が南朝方となり海上を制圧し、小笠原美濃守も相模守側について渡海路を封じたため頼之軍は日ごとに弱体化する一方で清氏軍は諸国から加勢が続き大勢力となった。これはまさに魏の将司馬仲達(懿)が蜀軍と戦わずして勝利を得た故事の謀略と同じである。 解説1. 細川頼之の心理戦術の核心: 2. 戦況逆転の地理的・兵站的要因: 3. 司馬懿故事引用の戦略的意義: 4. 歴史的伏線の配置: |
| 七月二十三日の朝、右馬頭帷帳の中より出て、新開遠江守真行を近付て宣ひけるは、「当国両陣の体を見るに、敵軍は日々にまさり、御方は漸々に減ず。角て猶数日を送らば、合戦難儀に及ぬと覚る。依之事をはかるに宮方の大将に、中院源少将と云人、西長尾と云所に城を構てをはすなる。此勢を差向て可攻勢を見せば、相摸守定て勢を差分て城へ入べし。其時御方の勢城を攻んずる体にて、向城を取て、夜に入らば篝を多く焼捨てこと道より馳帰り、軈て相摸守が城へ押寄せ、頼之搦手に廻りて先小勢を出し、敵を欺く程ならば、相摸守縦一騎なり共懸出て、不戦云事有べからず。是一挙に大敵を亡す謀なるべし。」とて、新開遠江守に、四国・中国の兵五百余騎を相副、路次の在家に火を懸て、西長尾へ向られける。如案相摸守是を見て、敵は西長尾の城を攻落して、後へ廻らんと巧けるぞ。中院殿に合力せでは叶まじとて、舎弟左馬助、いとこの掃部助を両大将として、千余騎の勢を西長尾の城へ差向らる。新開元来城を攻んずる為ならねば、態と日を暮さんと、足軽少々差向て、城の麓なる在家所々焼払て、向陣をぞ取たりける。城は尚大勢なれば、哀れ新開が寄て責よかし。手負少々射出して後、一度にばつと懸出て、一人も不残討留んとぞ勇ける。 |
七月二十三日の朝、右馬頭頼之は陣幕の中から出て新開遠江守真行を呼び寄せ言った。「この国の両軍の状況を見ると敵軍(清氏方)は日々勢力を増し我が方は次第に減少している。このままさらに数日過ごせば合戦で苦境に立つだろう。そこで策を考えると宮方(南朝側)の大将として中院源少将という人物が西長尾という場所に城を構えているらしい。この勢力に向けて攻撃態勢を見せれば相模守清氏は必ず軍勢を分けてその城へ入るはずだ。その時我々の軍勢は城を攻めるふりをして向かい側に陣を取り夜になったら篝火を多く燃やし消さず道を通って戻りすぐさま清氏本拠へ押しかけ頼之が裏手から回り先に小部隊を出して敵を欺くならば相模守はたとえ一騎でも打って出て戦わないはずがない。これこそ一挙に大敵を滅ぼす策略である。」そう言って新開遠江守に四国・中国地方の兵五百余騎を与え道中の民家に火をつけながら西長尾へ向かわせた。案の定相模守はこれを目にして「敵が西長尾城を攻め落とし後方から回ろうとする手口だ」と思い中院殿(源少将)への加勢なしではかなわないとして弟左馬助といとこの掃部助を両大将に千余騎の軍勢を西長尾城へ差し向けた。新開はもともと城攻めが目的ではないためわざと日暮れまで時間をつなごうと足軽少数を送り込み城の麓にある民家数カ所焼き払って対峙する陣地を取った。(城内では)まだ軍勢が多いので「哀れにも新開が来て攻めるならよかろう」と言い負傷者少々出しつつも後一気に駆け出して一人残らず討ち取ろうと勇み立っていた。 解説1. 細川頼之の三段階戦略の完遂: 2. 清氏の判断ミスと心理描写: 3. 軍事史資料としての価値: 4. 文学的手法と史実の融合: |
| 夜已に深ければ、新開向陣に篝を多く焼残して、山を超る直道の有けるより引返して、相摸守の城の前白峯の麓へ押寄る。兼て定めたる相図なれば、同二十四日の辰刻に、細川右馬頭五百余騎にて搦手へ廻り、二手に分れて時の声をぞ挙たりける。此城元来鳥も難翔程に拵たれば、寄手縦如何なる大勢なり共、十日二十日が中には、容易可攻落城ならず。其上新開、西長尾より引帰ぬと見へば、左馬助・掃部助軈て馳帰て、寄手を追掃はん事、却て城方の利に成べかりけるを、相摸守はいつも己が武勇の人に超たるを憑て、軍立余りに大早なる人なりければ、寄手の旗の手を見ると均く、二の木戸を開かせ、小具足をだにも堅めず、袷の小袖引せたをりて、鎧許を取て肩に抛懸て、馬上にて上帯縮て、只一騎懸出給へば、相順ふ兵三十余騎も、或はほうあてをして未胄をも不著、或は篭手を差して未鎧を不著、真前に裹連たる敵千余騎が中へ破て入る。哀れ剛の者やとは乍見、片皮破の猪武者、をこがましくぞ見へたりける。げにも相摸守敵を物とも思はざりけるも理り哉。寄手千余騎の兵共、相摸守一騎に懸分られて、魚鱗にも不進鶴翼にも不囲得、此の塚の上彼の岡に打上りて、馬人共に辟易せり。相摸守は鞍の前輪に引付て、ねぢ頚にせられける野木備前次郎・柿原孫四郎二人が首を、太刀の鋒に貫て差挙げ、「唐土・天竺・鬼海・太元の事は国遠ければ未知、吾朝秋津島の中に生れて、清氏に勝る手柄の者有とは、誰もやはいふ。 |
夜がすっかり更けたので、新開(遠江守)は対峙する陣地に多くの篝火を燃やし残したまま、山越えの近道がある場所から引き返して相模守(清氏)本城のある白峯の麓へ押し寄せた。前もって決めてあった合図通りだったため、同二十四日の辰刻(午前8時頃)、細川右馬頭頼之は五百余騎で裏手に回り込み二手に分かれてときの声をあげた。この城は元々鳥さえ飛びにくいほど要害堅固であったから、攻め寄せる軍勢がどれほどの大軍であっても十日や二十日では容易には落とせないはずだった。それなのに新開が西長尾から引き返してきたのを見ると、左馬助・掃部助はすぐに駆け戻って攻撃部隊を追い払おうとしたため、かえって守備側にとって有利になる状況であったのだが、相模守清氏という人物は常々自分の武勇が人並み以上であると過信し、軍略においても性急すぎる傾向があった。敵の旗影を見た瞬間に二の木戸を開けさせてしまい、軽装備すら整えず、袷の小袖だけ引っかけて鎧の一部をつまんで肩にかけるように投げ掛け、馬上で帯を締め直し「ただ一騎出撃する」と言って駆け出すと、続く兵三十余騎も中には頬当てすらせず兜も被らない者や籠手だけつけて鎧をつけない者がおり、真正面に密集した敵千余騎の中へ突入していった。「ああ豪傑とは見えたが」と思わされたものの実態は無鉄砲な猪武者で滑稽に見えるほどであった。しかし相模守が敵を全く恐れなかったのも当然かもしれない――攻撃側の千余騎も清氏単騎に突破され、魚鱗陣形にも組めず鶴翼包囲網も作れず、あちこちの塚や丘の上へ追い上げられ人馬共々ひるんでしまった。相模守は鞍輪(くらわ)に引き寄せてねじ伏せた野木備前次郎と柿原孫四郎二人の首を太刀先に刺し貫き高々と掲げ「唐土や天竺、鬼海・太元(異国の地)など遠い国は知らぬが、この日本国内で清氏以上の手柄を立てる者がいるとは誰も言うまい」と叫んだ。 解説1. 時限作戦の完遂と心理的効果: 2. 軍事技術史的特徴: 3. 文学的手法と史実の融合: 4. 戦術的帰結の予兆: |
| 敵も他人に非ず、蓬く軍して笑はるな。」と恥しめて、只一騎猶大勢の中へ懸入給。飽まで馬強なる打物の達者が、逃る敵を追立々々切て落せば、其鋒に廻る者、或は馬と共に尻居に打居られ、或は甲の鉢を胸板まで被破付、深泥死骸に地を易たり。爰に備中国の住人真壁孫四郎と備前国の住人伊賀掃部助と、二騎田の中なる細道をしづ/\と引けるを、相摸守追付て切んと、諸鐙を合せて責られける処に、陶山が中間そばなる溝にをり立て、相摸守の乗給へる鬼鹿毛と云馬の、草脇をぞ突たりける。此馬さしもの駿足なりけれ共、時の運にや曵れけん一足も更に動かず、すくみて地にぞ立たりける。相摸守は近付て、敵の馬を奪はんと、手負たる体にて馬手に下り立ち、太刀を倒に突て立れたりけるを、真壁又馳寄せ、一太刀打ち当倒んとする処に、相摸守走寄て、真壁を馬より引落し、ねぢ頚にやする、人竜礫にや打つと思案したる様にて、中に差上てぞ立れたる。伊賀掃部助高光は懸合する敵二騎切て落し、鎧に余る血を笠符にて押拭ひ、「何くにか相摸殿のをはすらん。」と東西に目を賦る処、真壁孫四郎を中に乍提、其馬に乗んとする敵あり。「穴夥し。凡夫とは不見、是は如何様相摸殿にてぞをはすらん。是こそ願ふ処の幸よ。 |
敵兵たちは臆病者と嘲笑されるわけにはいかない、と言って恥じ入りながらも清氏ただ一騎でさらに大軍の中へ突っ込んで行った。満足するまで馬術に優れた斬撃の達者が逃げる敵を追いかけ次々と切り落としたため、その刃に触れる者は馬ごと尻餅をつくように打ち倒されたり、兜の鉢が胸甲板まで真っ二つに割られたりし、深い泥の中は死体で地面が見えなくなるほどだった。そこへ備中国出身の真壁孫四郎と備前国出身の伊賀掃部助高光という二人の武者が田んぼの中の細道をゆっくり後退していたところに相模守清氏が追いついて斬ろうと、両方のあぶみを合わせて攻め寄せた。その時陶山(すやま)の家来がそばの溝に隠れていて、相模守が乗っている「鬼鹿毛」という馬の腹脇を突いたのである。これほどの駿馬であったにもかかわらず運尽きたのか一歩も動けず硬直して地に立ったままになった。手傷を負った様子で降りた相模守が敵の馬を奪おうと太刀を逆さにして突き立てて立っているところへ真壁孫四郎が駆け寄り、一太刀打ち倒そうとした瞬間、清氏は走り寄って真壁を馬上から引きずり落とし、「人竜(首)ごと地面に叩きつけるか」と考え込んだようにそのまま抱え上げて立っていた。伊賀掃部助高光が交戦中の敵二騎を斬り伏せ、鎧にあふれた血を笠印で拭いながら「どこにおられるのか相模守様は?」と見渡すと、真壁孫四郎を小脇に抱えたまま別の馬へ乗ろうとする武者が見えた。「なんたることか!凡夫とは思えぬ。これはまさしく相模守殿ではないか!これこそ願ってもない好機だ!」 解説1. 戦闘心理描写の深化: 2. 戦闘技術史的特異点: 3. 文学的技法の発展: 4. 歴史的伏線の展開: |
| 」と思ければ、伊賀掃部助畠を直違に馬を真闇に馳懸て、むずと組で引かづく。相摸守真壁をば、右の手にかい掴で投棄、掃部助を射向の袖の下に押へて頭を掻んと、上帯延て後に回れる腰の刀を引回されける処に、掃部助心早き者なりければ、組と均く抜たりける刀にて相摸守の鎧の草摺はねあげ、上様に三刀さす。刺れて弱れば刎返して、押へて頚をぞ取たりける。さしもの猛将勇士なりしか共、運尽て討るゝを知人更に無りしかば、続て助る兵もなし。森次郎左衛門と鈴木孫七郎行長と、討死をしける外は、一所にて打死する御方もなし。其身は深田の泥の土にまみれて、頚は敵の鋒にあり。只元暦の古、木曾義仲が粟津の原に打れ、暦応二年の秋の初、新田左中将義貞の足羽の縄手にて討れたりし二人の体に不異。西長尾の城に向られたりつる左馬助、二十四日の夜明て後、新開が引帰したるを見て、「是は如何様相摸殿御陣の勢を外へ分させて、差違ふて城へ寄んと忻けるを。軍今は定て始りぬらん。馳返て戦へ。」とて、諸鐙に策をそへて、千里を一足にと馳返り給へば、新開道に待受て、難所に引懸て平野に開合せ、入替々々戦たり。互に討つ討れつ、東西に地を易へ、南北に逢つ別つ、二時許戦て、新開遂に懸負ければ、左馬助・掃部助兄弟、勝時三声揚させて、気色ばうたる体にて、白峯城へ帰給ふ。 |
そう思った伊賀掃部助高光は畑地を斜め横切り馬を猛然と駆けさせると、もずっと組みついて離さなかった。相模守清氏は真壁孫四郎を右手で掴んで投げ捨て、掃部助の射向(いこう)袖の下側を押さえ込み首を斬ろうとしたが、上帯が伸びて後ろに回っていた腰刀を取り出そうとする瞬間であった。そこへ素早い掃部助は組みついたまま抜き放った刀で清氏の鎧草摺(くさずり)を跳ね上げ、上方から三太刀突き刺した。刺されて弱ったところをひっくり返して押さえ込み首級を取ったのである。あれほどの猛将勇士であったが運尽きて討たれたことを知る者が全くなかったため、続いて助けに入る兵もいなかった。森次郎左衛門と鈴木孫七郎行長の戦死以外に同じ場所で倒れる味方は誰もおらず、清氏自身は深田の泥まみれとなり首級は敵方へ渡った。これは元暦年間(1180年代)に木曾義仲が粟津ヶ原で討たれた姿や、暦応二年(1339年)秋初めに新田左中将義貞が足羽縄手で戦死した様と全く同じであった。西長尾城へ向かっていた左馬助は二十四日明け方後、新開高俊軍の撤退を見て「これは相模守殿が本隊から別動隊を分けて城への奇襲を図ったのに違いない。戦いは今始まったのだ!引き返して戦え!」と叫び諸鐙に鞭打って千里を一足で駆け戻ると、待ち構えた新開軍は難所へ誘い込んで平野で包囲し入り乱れて激闘した。互いに討つ討たれ東西に陣地替え南北に分かれたり合流したり約二刻(四時間)戦って、遂に新開が敗走したため左馬助と掃部助兄弟は勝鬨三声を上げ意気揚々と白峯城へ帰還した。 解説1. 決着場面の三重構造: 2. 時間軸操作技法: 3. 歴史的意義: 4. 文学的価値: |
| 斯る処に笠符かなぐり捨て、袖・甲に矢少々射付られたる落武者共、二三十騎道に行合たり。迹に追著て、「軍の様何と有けるぞ。」と問給へば、皆泣声にて、「早相摸殿は討れさせ給て候也。」とぞ答へける。「こは如何。」とて、城を遥に向上たれば、敵早入替ぬと覚て、不見し旗の紋共関櫓の上に幽揚す。重て戦んとするに無力、楯篭らんとするに城なければ、左馬助・掃部助、落行勢を引具して、淡路国へぞ被落ける。其国に志有し兵共、此事を聞て、何しか皆心替しければ、淡路にも尚たまり得ず、小船一艘に取乗て、和泉国へぞ落られける。是のみならず、西長尾城も被攻ぬ前に落しかば、四国は時の間に静りて、細川右馬頭にぞ靡順ひける。 ○和田楠与箕浦次郎左衛門軍事 南方の敵軍和田・楠も、相摸守に兼て相図を定て、同時に合戦を始んと議したりけるが、七月二十四日相摸守討れて、四国・中国は太略細川右馬頭頼之に靡順ぬと聞へければ、日来の支度相違して、気を損じ色を失てぞ居たりける。さもあれ、加様にて徒に日を送らば、敵は弥勝に乗て、諸国の御方降人になる者ありぬと覚れば、一軍して国々の宮方に気を直させんとて、和田・楠其勢八百余騎を卒し、野伏六千余人神崎の橋爪へ打臨む。此比摂津国の守護をば、佐々木佐渡判官入道々誉が持たりければ、其身は京都に有乍ら、箕浦次郎左衛門に勢百四五十騎付て、国の守護代にぞ置たりける。 |
そのような状況の中、笠印も投げ捨て袖や兜に数本の矢を射られた落武者たち二三十騎と道で出会った。左馬助が追いついて「戦いの様子はどうなっていたか」と尋ねると、皆泣き声で「早くも相模守殿は討たれなさいました」と答えた。「これは大変だ」と言って遠く城を見上げれば敵兵は既に乗り込んだらしく見知らぬ旗印が櫓の上にはためいていた。再戦する力もなく篭城できる城もないため、左馬助と掃部助兄弟は敗残兵を引き連れて淡路国へ落ち延びた。その地に縁のある武士たちもこの報せを聞いて心変わりしたので、淡路にも留まれず小船一隻で和泉国へ逃れた。これだけでなく西長尾城も攻められる前に陥落したため四国は短期間で鎮静化し細川右馬頭頼之に従った。 ○和田楠と箕浦次郎左衛門の軍事 解説1. 敗走描写の歴史的意義: 2. 物語構造の転換技法: 3. 軍事史的特徴: 4. 文学的価値: |
| 催促の国人取合て、其勢僅に五百余騎、神崎の橋二三間焼落て、敵川を渡さば河中にて皆射落さんと、鏃を汰て待懸たり。和田・楠態敵を忻ん為に、神崎の橋爪と株瀬と二箇所に打向て引へたれば、此を渡させじと、箕浦弥次郎・同四郎左衛門・塩冶六郎左衛門・多賀将監・後藤木村兵庫允泰則以下五十余騎は株瀬へ馳向ふ。守護代箕浦次郎左衛門・伊丹大和守・河原林弾正左衛門・芥河右馬允・中白一揆三百余騎は神崎橋爪へ打臨む。橋桁は元来焼落したり、株瀬は水深し。和田・楠が兵共、縦弥長に思ふ共、可渡とは見へざりけり。八月十六日の夜半許に、和田・楠、元の陣に尚控へたる体を見せん為に、殊更篝を多く焼続けさせて、是より二十余町上なる三国の渡より打渡て、小屋野・富松・河原林へ勢を差回して、敵を河へ追はめんと取篭たり。京勢は是を夢にも知ねば、徒に河向に敵未引へたりと肝繕して居たる処に、小屋野・富松に当て、所々に火燃出て、煙の下に旗の手数た見へたり。是までも尚敵川を越たりとは思も不寄、焼亡は御方の軍勢共の手過ちにてぞ有らんと由断して、明行侭に後を遥に見渡したれば、十余箇所に村雲立て引へたる勢、旗共は、皆菊水の紋也。「さては敵早川を渡してけり。平場の懸合は叶まじ、城へ引篭て戦へ。 |
そのような状況の中で、急ぎ集まった国人衆を合わせてわずか五百余騎となった箕浦軍は神崎の橋を二、三間焼き落とし「敵が川を渡ろうとしたら流れ中で射落とせ」と矢をつがえて待ち構えた。和田・楠勢は故意に敵をおびき寄せるため神崎橋爪と株瀬(くぜ)の二箇所へ進軍して引き返すふりを見せたので、これを渡らせるなと箕浦弥次郎・同四郎左衛門・塩冶六郎左衛門・多賀将監・後藤木村兵庫允泰則以下五十余騎は株瀬へ向かい、守護代の箕浦次郎左衛門・伊丹大和守・河原林弾正左衛門・芥河右馬允(けこううまのじょう)・中白一揆三百余騎は神崎橋爪へ出撃した。しかし橋桁はすでに焼け落ち株瀬は水深く、和田・楠勢は人数が多くとも渡れそうになかった。 八月十六日夜半頃、和田・楠軍は本陣にまだ留まっているように見せるためわざと多くのかがり火を焚き続けさせた上で、ここから二十余町(約2km)上流の三国の渡しから密かに川を越え小屋野・富松・河原林へ兵を回して敵を川岸に追い詰めようと包囲陣形を敷いた。細川方はこれを全く知らず「向こう岸にまだ敵がいる」と思い込み警戒していたところ、突然小屋野や富松方面で炎が上がり煙の下に多数の旗影が見えた。この時点でもなお「味方同士の誤報だろう」と判断した細川軍だったが夜明けと共に見渡すと十余箇所に村雲(むらくも)のように立ち込める敵陣の旗にはすべて菊水紋があった。「これは敵が早くも川を越えたのか!平地での戦いは不利だ、城へ退いて防衛せよ」 解説1. 戦術的革新性: 2. 描写技法の特徴: 3. 歴史的背景: 4. 文学的意義: |
| 」とて、浄光寺の要害へ引返さんとすれば、敵はや入替りたりと覚て、勝時を作る声、浄光寺の内に聞へたり。是を見て中白一揆の勢三百余騎は、国人なれば案内を知て、何の間にか落失けん一騎も不残留、只守護の家人僅五十余騎、思切たる体に見へて、二箇所に控へて居たりける。両所に扣へたる勢、一所に打寄らんとしけるが、敵の大勢に早中を隔られて不叶ければ、箕浦次郎左衛門東を差して落行に、両方深田なる細堤を、敵立切て是を打留めんと、行前を遮り道を要て、取篭事度々に及べり。され共箕浦懸破ては通り取て返ては戦ひけるに、一番に河原林弾正左衛門は討れぬ。是を見て芥河右馬允、すげなう引分れて落て行んとしけるを、「日比の口には似ぬ者哉。」と箕浦に言を被懸、一所に打寄て相伴ふ。箕浦是を案内者にて、数箇所の敵の中を遁れ出、都を差てぞ上りける。下の手に扣へたる者共は、落方を失て惘然として居たるを、木村兵庫允泰則、「兵共の掟、面々存知の前なれ共、戦難儀なる時、死なんとすれば生き、生んとすれば死る者にて候ぞ。只幾度も敵のなき方へ引かで、敵の大勢扣へたらん所へ懸入て戦はんに、討れば元来の儀、討れずは懸抜て、西を指て落て行んに、敵もさすが命を捨ては、さのみ長追をばし候はん哉。 |
「そうだ」と言って浄光寺の要塞に戻ろうとしたところ、敵がすでに侵入したのか勝利の鬨の声が境内から聞こえてきた。これを見た中白一揆三百余騎は地元国人衆だったため地形を知っていて、いつの間にか全員姿を消し一人も残らなかった。守護代直轄の家臣わずか五十余騎だけが決死の覚悟で二箇所に分かれ待機していた。両部隊が合流しようとしたが敵大軍に早くも中を遮られて叶わず、箕浦次郎左衛門は東へ落ち延びようとしたところ、双方ともに深田となっている細い堤防を敵が封鎖し「これで捕らえる」と行く手を阻み道を塞ぎ、幾度も包囲攻撃してきた。それでも箕浦隊は突破時には通り過ぎ、反転すれば戦うことを繰り返すうちに先鋒の河原林弾正左衛門が討たれた。これを見て芥河右馬允が卑怯にも離脱しようとしたので「普段の発言とは似つかぬ者だな」と箕浦は言葉をかけ、共に集まって運命をともにした。箕浦は彼を案内役として幾重もの敵陣の中から逃れ出て京都へ向かった。 下流側で待機していた部隊は退路を見失い呆然としているところへ木村兵庫允泰則が言った。「武士の掟は皆心得ているはずだが、戦況不利な時こそ『死ぬつもりなら生き延び、生きようとするからかえって死ぬもの』だ。ただひたすら敵がいない方向に逃げず、むしろ大軍が陣取る場所へ突入して戦いを挑め。討たれれば本望だが突破できたら西へ向け撤退せよ。命懸けの覚悟なら敵もそう長くは追撃するまい」 解説1. 敗走過程の歴史的意義: 2. 戦術的考察: 3. 文学的表現分析: 4. 軍事制度的背景: |
| と云処げにもと思はゞ、泰則に続けや人々。」と云侭に、浄光寺前に百騎許扣へたる敵の方へ、馬を引返して歩ませ行く。敵是を見て、是は何様降人に出る者かと、少し猶余して扣へたる処に、歩立なる石津助五郎行泰に、矢二筋三筋射させて、敵の馬の足少しどろになれば、三騎の者どもをつと喚て懸入るに、百騎許扣へたる敵颯と分れ靡きて、敢て是に当らんとせず。只射手を進めて射させける程に、箕浦弥次郎討れぬ。同四郎左衛門深手を負て田中に臥たり。塩冶六郎左衛門・木村兵庫も、馬の平頚・草脇二所射させて深田のあぜに下立たり。すはや討れぬと見へけるが、木村兵庫放れ馬のありけるに打乗て、かちに成りたる塩冶を、馬の上より手を引て尼崎へ落て行く。敵迹に付ても追ざりければ、道場の内に一夜隠れ居て翌の夜京へぞ上りける。和田・楠等只一軍に摂州の敵を追落して勝に乗といへ共、赤松判官・信濃彦五郎兄弟、猶兵庫の北なる多田部城に篭て、兵庫湊河を管領すと聞へければ、九月十六日、石堂右馬頭・和田・楠三千余騎にて、兵庫湊川へ押寄せ、一宇も不残焼払ふ。此時赤松判官兄弟は、多田部・山路二箇所の城に篭て、敵懸らば爰にて利をせんと待懸けるが、楠いかゞ思ひけん、軈て兵庫より引返しければ、赤松出会に不及、野伏少々城より出して、遠矢射懸たる許にて、墓々敷軍は無りけり。 |
そう言われて皆が思う間もなく「泰則に続け」と叫ぶや否や、木村は浄光寺前に約百騎で待機している敵の方へ馬首を返し歩み寄せた。敵はこれを見ると降伏の使者かと思い警戒を緩めて待っていたところ、徒歩武者である石津助五郎行泰に二筋三筋矢を放たれ、敵の軍馬が動揺した隙に木村隊三名が突撃すると、百騎もの敵はたちまち左右へ散り、対決しようとしなかった。ただ射手だけ進めて射かけさせているうちに箕浦弥次郎が討死。同四郎左衛門も深手を負い田中に倒れた。塩冶六郎左衛門・木村兵庫允の馬はそれぞれ平頚(首)と草摺脇(腹側)を射られ、深田の畦道で下馬した。「最早これまでか」と思われたが、木村兵庫は逃げ出した敵馬に飛び乗り徒歩となった塩冶を馬上から手引きして尼崎へ脱出。追撃を受けなかったため道場(現・伊丹市)の民家に一夜潜み翌夜京へ上った。 一方和田・楠勢は一戦で摂津守護軍を破って勝ちに乗じていたが、赤松判官則祐と信濃彦五郎兄弟が兵庫北方の多田部城に籠り兵庫湊川流域を支配していると聞き九月十六日石堂右馬頭・和田・楠ら三千余騎で押し寄せ港町一帯を焼尽くした。この時赤松兄弟は多田部と山路二箇所の城塞に分かれて籠城「敵来たら迎撃する」と待っていたが、楠木正儀(?)が何を思ったか突然兵庫から撤退。赤松軍は出陣機会を失い野伏り数名を城外に出して遠矢を射かけさせただけで決戦には至らなかった。 解説1. 敗走劇の歴史的価値: 2. 戦術心理分析: 3. 文学的意義: 4. 焼討ち事件の背景: |
| 都には同九月晦日改元有て貞治と号す。是は南方の蜂起さてもや静まると、諸卿申合れし故也。げにも改元の験にや、京都より武家の執事尾張大夫入道、大勢を討手に下すと聞へければ、和田・楠又尼崎・西宮の陣を引て河内国へ帰りぬ。是を聞て山名伊豆守時氏が勢の、丹波の和久に居たりしも、因幡国へぞ引返しける。今年天下已に同時に乱て、宮方眉開きぬと見へけるが、無程国々静りけるも、天運の未至らぬ処とは云ながら、先は細川相摸守が楚忽の軍して、無云甲斐討死をせし故也。 ○太元軍事 昔孔子謂顔淵曰、「用之則行舎之則蔵。唯我与爾有是夫。」とほめ給ひけるを、傍にて聞ける子路、大に忿て曰、「子行三軍則誰与。」と申ければ、孔子重て子路を諌て曰、「暴虎憑河死而無悔者吾不与也。必也。臨事而懼、好謀而成者也。」とぞ宣ひける。されば古も今も、敵を滅し国を奪ふ事、只武く勇めるのみに非ず。兼ては謀を廻らし智慮を先とするにあり。今大宋国の四百州一時に亡て、蒙古に奪はれたる事も、西蕃の帝師が謀を廻せしによれり。其草創のよれる所を尋ぬれば、宋朝世を治て已に三十七代、其亡し時の帝をば幼帝とぞ申ける。此時太元の国主老皇帝、其比は未吐蕃の諸侯にてありけるが、哀れ何にもして宋朝四百州・雲南万里・高麗三韓に至るまで不残是を打取ばやと思ふ心、骨髄に入て止時なし。 |
京では同年9月30日に改元が行われ、「貞治」という年号となった。これは南朝方の蜂起もようやく収まるだろうと公卿たちが合意したためである。実際に改元の効果か、京都から幕府執事・細川清氏(尾張大夫入道)が大軍を討伐隊として派遣されると聞いたので、和田正隆と楠木正儀は尼崎・西宮の陣地を引き払い河内国へ帰還した。これを知り山名時氏(伊豆守)の軍勢で丹波国和久に駐屯していた部隊も因幡国へ撤退した。この年天下が同時に乱れ南朝方が優勢に見えたが、間もなく各地は静まったのは天命がまだ訪れていないためとはいえ、直接的な原因は細川基氏(相模守)の迅速な軍事行動で無意味な戦死を防いだことである。 ○太元王朝興亡記 解説1. 歴史的事件の核心: 2. 「太元軍事」章の思想的意義: 3. 文学的構成分析: 4. 軍事史的示唆: |
| 或時彼老皇帝此事を天に仰ぎ、少し目睡給ける夢に、「宋朝の幼帝と太元の老皇帝と楊子江を隔て陣を張て相対する事日久し。時に楊子江、俄に水旱て陸地となる。両陣の兵已に相近て戦はんとする処に、幼帝は其身化して勇猛忿迅の獅子となり、老皇帝は形俄に変じて白色柔和の羊となる。両方の兵是を見て、弓をふせ戈を棄て、「天下の勝負は只此獅子と羊との戦に可在。」と伺見る処に、羊獅子の忿れる形に懼れて忽に地に倒る。時に羊二の角と一の尾骨をつき折て、天にのぼりぬ。」とぞ見給ひける。老皇帝夢醒て後心更に悦ばず、大に不吉なる夢なりと思ひ給ければ、夙に起て西蕃の帝師に此夢を語り給ふ。帝師是を聞て心の中に夢を占て謂、「羊と云文字は八点に王を書て懸針を余せり。八点は角なり、懸針は尾なり。羊二の角と一の尾を失はゞ王と云字になるべし。是老皇帝太元宋国高麗の国を合せ保て天下に主たるべき瑞相也。又宋朝の幼帝獅子に成て闘ひ忿ると見へけるも、自滅の相也。獅子の身中に毒虫ありて必其身を食殺す。如何様幼帝の官軍の中に弐ある者出来て、戈を倒にする事あるべし。」と占。夢の理り明に両方の吉凶を心に勘へければ、「是大なる吉夢也。時を不易兵を召れて宋国を可被攻。」とぞ、帝師勧め申されける。 |
ある時その老皇帝(クビライ)がこの野望について天に祈りながら少し眠ると夢を見た。「宋朝の幼帝と太元の老皇帝が揚子江を隔て陣を構え対峙する日々が長く続いた。すると突然揚子江の水が干上がって陸地となった。両軍の兵士はすでに接近し戦おうとするその時、幼帝自身が勇猛で怒り狂う獅子へと変身し、老皇帝は形を急変させて白く穏やかな羊になった。双方の兵士たちはこれを見て弓を伏せ矛を捨て『天下の勝負はただこの獅子と羊との戦いに決まるだろう』と見守る中、羊が獅子の怒りの姿に恐れて突然地面へ倒れた。その瞬間、羊は二本の角と一本の尾骨を折り取って天へ昇っていった」という内容であった。老皇帝は夢から覚めた後ますます気分が優れず「非常に不吉な夢だ」と思われたので早朝に起きて西蕃(チベット)の帝師(高僧フビライ側近)にこの夢を語られた。帝師はこれを聞いて心中で夢占いを行い述べた。「『羊』という文字は八つの点と王という字を組み懸針(縦画の下部)が残った形である。八つの点は角であり、懸針は尾に当たる。もし羊が二本の角と一本の尾を失えば『王』という字になるだろう。これは老皇帝が太元・宋国・高麗の諸国を併合し天下の主となるべき吉兆である。また宋朝の幼帝が獅子となって戦い怒っているのも自滅の前兆だ。獅子の体内には毒虫があって必ず自身を食い殺すように、おそらく幼帝配下の官軍の中に裏切り者が現れ矛先を転じる事があるだろう」と占った。夢の道理が明瞭に双方の吉凶を示していると心で推量したので「これは大変な吉兆である。時を移さず兵を集め宋国を攻めるべきだ」と帝師は勧告申し上げた。 解説1. 夢解釈の歴史的文脈: 2. 文学的技法: 3. 史実的整合性分析: 4. 思想史的意義: |
| 老皇帝は元来帝師が才智を信じて、万事を是が申侭に用ひ給ひければ、重て吉凶の故を尋問までに不及、太元七百州の兵三百万騎の勢を催して、楊子江の北の畔に打臨み、河の面三百余箇所に浮橋を渡し、同時に兵を渡さんとぞ支度せられける。太宋国幼帝此事を聞給て、「さらば討手を差下せ。」とて、伯顔丞相を上将軍として百万騎、襄陽の守呂文煥を裨将軍として三十万騎、大金の賈似道・賈平相兄弟を副将軍として、六十万騎を差下さる。三軍の兵三百万騎、江南に打臨み、夜を日に継で、楊子江を前に直下て、三箇所に陣をぞ取たりける。中にも伯顔丞相一陣に進て、楊子江の南に控へたりけるが、太元の兵共の浮橋をかけ陣を張たる体を見て、謀を廻して不戦勝事を難得しと思ひければ、今の陣より六十里後に高く岨き山を城に拵て、四方の屏を何に打破る共無左右破られぬ様に高く塗せて、内に数千間の家を透間もなく作り並べ、櫓の上矢間の陰に、人形を数千万立置て、或は戈をさしまねき刃を交へ或は大皷を打弓を引て、戦を致さんとする様に、風を以て料理、水を以てあやつりて、岩を切たる細道に、たゞ木戸一開て、内に実の兵を二百余人留置き、敵城へ寄せば暫し戦ふ真似をしてふせぎ兼たる体を見せよ。敵勝に乗て城中へ責入らば敵を皆内へ帯き入て後、同時に数千の家々に火を懸て、己が身許隠して、堀たる土の穴より遁出て敵を皆可焼殺とぞ謀りける。 |
クビライ(太元国主)は本来、高僧の知恵を信頼しており万事その指示通りに行っていたため改めて吉凶の理由を尋ねることもせず700州から300万騎もの兵を集結させ揚子江北岸に迫り川面300ヶ所以上に浮き橋を架け同時渡河しようと準備した。宋朝の幼い皇帝はこれを聞くと「では討伐軍を派遣せよ」と言い伯顔宰相を大将軍として100万騎、襄陽守将呂文煥を副将軍として30万騎大金(宋側勢力)の賈似道・賈平相兄弟を副将軍として60万騎を差し向けた。総勢300万騎の三軍が江南へ迫り昼夜兼行で揚子江正面に進み三方に布陣した。特に伯顔宰相は自ら先頭部隊を率い楊子江南岸に位置していたが太元軍が浮き橋を架け陣構えする様子を見て謀略を用いた不戦勝を図ろうと考えたため現在の陣地から60里後方の険しい山城を築かせ四方の防壁は何があっても崩されぬよう高く塗り固め城内には数千軒の家屋を隙間なく建て並べ櫓や矢狭間に数千万体の人形を配置した。それらが戈を振るい刃を交え大鼓を打ち弓を引いて戦うような仕掛けに風と水で動かし岩肌を削った細道には木戸一つだけ開けて内部に実兵200余名を残しておき敵が城へ迫れば偽装戦闘を見せ防ぎ切れないふりを指示した。もし敵が勢いに乗って城内へ突入すれば全員をおびき寄せた後一斉に数千軒の家屋に放火し自らは隠れて掘った地下道から脱出して敵軍を焼き尽くそうと謀略した。 解説1. 戦術描写の史実性: 2. 「偽装城塞」戦略の技術的検証: 3. 文学的表現分析: 4. 思想的背景: 5. 歴史的意義: |
| 去程に三百余箇所の浮橋を已に渡すましてければ、太元の兵三百万騎争ひ前で橋を渡る。伯顔丞相兼て謀たる事なれば、矢軍些する真似して、暫も不支引て行。太元の兵勝に乗て、逃るを追事甚急也。宋国の兵猶も偽て引体を敵に推せられじと、楯・鉾・鎧・胄を取捨て、堀溝に馬を乗棄て我先にと逃走る。是を謀るとも不知ける羽衛斥候の兵、徒に命を軽じて討死するも多かりけり。日已に暮ければ、宋国の兵城へ引篭る真似をして後なる深山へ隠れぬ。太元の兵は敵の疲れたる弊に乗て、則是を討んと城の際までぞ攻たりける。旗を進め戈をさしまねきて、城を遥に向上たれば、櫓の上屏の陰に、兵袖を連ねて並居たりとは見へながら、時の声も幽に、射出す矢楯をだにも不徹。太元の将軍是を見て、人形の木偶人共に誠の人が少々相交りてふせぐ真似するとは思ひ不寄。「敵は今朝の軍に遠引して気疲勢尽はてけるぞ。時を暫も不可捨。攻よや兵共。」と諌め罵て、責皷を打て楯を進めければ、城中に少々残置れたる兵共、暫有て火の燃出る様に、家々に火を懸て、ぬけ穴より逃走ける。木偶人誠の兵ならねば、敵責入れ共防ぐ者なし。太元三百万騎の兵共、勇み進で二つともなき木戸より城の中へ込入り、或は偽て棄置たる財宝を争て奪合ひ、或は忻て立置たる木人に向て、剣を拉ぎ戈を靡処に、三万余家作双べたる城中の家々より同時に火燃出て、煙満城に炎四方に盛なり。 |
こうして300ヶ所以上の浮橋がすっかり架け終わると、太元軍の兵士300万騎は我先にと渡り始めた。伯顔宰相は事前に策略を練っていたため、少しだけ抵抗するふりを見せてすぐに撤退した。太元軍は勢いに乗って逃げる敵を追撃すること急であり、宋軍は偽装退却が敵に見破られないよう盾・矛・鎧・兜を投げ捨て堀へ馬ごと放棄し我先に逃走する。この策略を知らなかった偵察部隊の兵士たちは無駄に命を軽んじて戦死する者が多かった。日がすっかり暮れたため宋軍は城へ引き籠もるふりをして後方の深山へ隠れ、太元軍は敵疲弊につけ込み討伐しようと城際まで攻め寄せた。旗を掲げ矛を振りかざし城に突撃すると櫓や塀陰には兵士がずらり並んでいるように見えたものの鬨の声も弱々しく射る矢は盾すら貫かない。太元軍将軍はこれを人形と実兵が混じって防ぐふりをしているとは思わず「敵は今朝の戦いで遠退き力尽きたのだ!攻撃の好機だ!」と叱咤激励し攻め太鼓を鳴らして盾隊を進めたため城内に残置された少数兵がたちまち家々へ放火し抜け穴から脱出した。人形は本物の兵ではないので敵突入も防ぐ者なく、太元軍300万騎は勇んで破れた木戸から城内部へ乱入して偽装放棄品を奪い合ったり立ち並ぶ木像に向かって剣を振るう中3万余棟建ち並んだ城内家屋が同時に発火し煙が街を埋め尽くし炎四方で盛んに燃え上がった。 解説1. 戦術実行の現実的描写: 2. 数字表現の文学的機能: 3. 歴史的背景分析: 4. 思想的含意: |
| 太元の兵共屏を上超て火に遁れんとすれば、可取付便もなく橋もなし。責入つる木戸より出んとするに烟に目くれて胆迷て何くを其方共不覚、只猛火の中に走倒れて、太元の兵三百万人は皆焼死にけり。太元王は、多日の粉骨徒に一時の籌策に被破、大軍未帝都の戦を不致前に三百万人まで亡びければ、此事今は叶まじかりけりと、気を屈して黙止されける処に、西蕃の帝師太元王に謁して申けるは、「大器は遅くなるといへり。太元国の天下豈大器に非ずや。又機巧は大真に非ず。成る事は微々にして破る事は大也。今宋国の節度使等が武略の体を聞に、死を善道に守り命を義路に軽んずるに非ず、只尺寸の謀を以て大功の成らん事を意とする者也。宋国り臣独智あつて元朝の人皆愚ならんや。我今謀を廻さば勝事を一戦の前に得つべし。君益志を天下の草創に懸給へ。臣須く以智謀、太宋国の四百州を一日の中に可傾。」と申ければ、太元王大に悦て、「公が謀を以て我若太宋国を得ば、必公を上天の下、一人の上に貴で、代々帝王の師と可仰。」とぞ被約ける。帝師則形をかへ身を窶して太宋国へ越、江南の市に行て、哀身貧して子多く持たる人もがなと伺見る処に、年六十有余なる翁の、一の剣を売て肉饅頭を買あり。帝師問て曰、「剣をうりて牛を買ふは治れる世の備へなり。 |
太元軍(モンゴル軍)兵士たちが壁を越えて火災から逃れようとしたものの、掴まる場所もなく避難橋すらなかったため、突入した木戸口から脱出しようとすると煙で目が見えず混乱して方向さえわからず、ただ猛火の中へ走り込み倒れこみ300万人全員が焼死した。太元王(クビライ)は「長日の努力が一瞬の策略に敗れ大軍すら帝都戦を前に壊滅した」と落胆し黙り込んでいたところ、西方出身の帝師(高僧顧問)が謁見して言うには:「『大事業は遅成』と言います。太元国の天下こそ大事業では?策略も真実ではなく成功は些細だが失敗は甚大です。宋国将軍たちの武略を聞けば死守せず小計謀で大功を得ようとする者ばかり。宋臣が賢くて我らが愚かでしょうか。私が策を用いれば一戦前に勝利できます」と述べたため、太元王は大喜びで「もし公の策略で宋を獲たら天下一の地位を与え代々帝王の師と仰ぐ」と約束した。帝師は姿を変えてみすぼらしい身なりで大宋国へ渡り江南市場に行き貧乏な老人(剣売って饅頭買う60歳翁)を見つけ「治世には剣売って牛買うのが備えだが」と問いかけた。 解説1. 戦略的敗因の本質: 2. 帝師台詞の思想的源泉: 3. 歴史的登場人物の虚実: 4. 伏線としての市場シーン: |
| 牛を売て剣を買ふは乱たる時の事也。父老今剣を売て饅頭を買ふ。其用何事ぞや。」老翁答て曰、「我嘗兵の凶器なる事を不知、若かりし時好で兵書を学びき。智は性の嗜む処に出る者なれば、呉氏・孫氏が秘する処の道、尉潦・李衛が難しとする処の術、一を挙て占へば、則三を反してさとりき。然れば乍坐三尺の雄剣を提て、立処に四海の乱を理めん事、我に非ずは誰そやと、心を千戸万戸の侯に懸て思しに、我壮んなりし程は世治り国静なりし間、武に於て用られず、今天下方に乱れて、剣士尤功を立る時には、我已に老衰して其選に不当、久く此江南の市の上りに旅宿して、僅に三人の男子を儲たり。相如が破壁風寒して夜の衣短く、劉仲が乾鍋薪尽て朝の餐空し。只老驥の千里を思ふ心未屈せざれ共、飢鷹の一呼を待身と成ぬ。故に此剣を売て三子の飢を扶んと欲する也。」と委く身上の羸を侘て涙を流してぞ立たりける。帝師重て問て云、「父老の言を聞に、三人の子共飢て、公が百年の命已に迫れり。我三千両の金を持たり。願は是を以て父老の身を買ん。父老何ぞ兔ても無幾程老後の身を売て、行末遥なる子孫の富貴を不欲せや。」と問に、老翁眉を揚げ面を低て、「誠に公の言の如く、我に三千両の金を被与、我豈三子の飢を助て無幾程命を不捨や。 |
「牛を売って剣を買うのは戦乱時の常識だ。老父よ、なぜ今剣を売り饅頭(肉まんじゅう)を買うのか。」老人は答えた。「私も若い頃は武器が凶器だと知らず兵法書に熱中したものだ。才能とは天性の嗜みゆえ呉起・孫武の秘伝や尉繚・李靖でさえ難しい技も一つ教われば三つ悟った。だから常に三尺の名剣を携えて『天下平定はこの私が成し遂げる』と大志を抱いたのに、盛りの頃は太平すぎて役立てず今ようやく戦乱になったら老いて選ばれぬ身だ。長年江南で放浪し三人息子を得たが家は雨漏りして寒夜に衣も足らず鍋には朝食の薪すらない。老いた駿馬のように志こそ未練なくとも飢えた鷹となって誰かの呼び声を待つ身だ。だから剣を売り子供たちの空腹を救おう。」と貧窮を嘆き涙した。帝師は重ねて問うた。「話せば三人息子も餓え君自身も死期が近い。私に三千両ある。君の身柄を買いたい。僅かな余生を売って遠くない将来の子孫繁栄を望まぬか。」と尋ねると老人は顔を上げて言った。「その通りだ、もし金をくれれば子供たちを助けようと思わず命など惜しくない。」 解説1. 人生観の対照的描写: 2. 経済的メタファーの機能: 3. 歴史的モデルの推察: 4. 文学的意義: |
| 」とぞ悦ける。「さらば。」とて、帝師則老翁の身を三千両の金に買ひ、太元へ帰りて後、先使者を宋国の帝都へ遣して、今度楊子江の合戦に功ありて、千戸万戸の侯にほこれりと聞る上将軍伯顔丞相・呂文煥等が事を、都にいかゞ云沙汰するとぞ伺聞せける。使者都に上て家々に彳み、事の体人の云沙汰する趣、能々伺聞て太元に帰り、帝師に対て語けるは、「伯顔丞相・呂文煥等太元の軍に打勝て、武功身に余れり。天下の士是を重ずる事、上天の威に超たり。若此勢を以て世を傾んと思はゞ、只指掌よりも安かるべし。古安禄山が兵を引て帝都を侵し奪しも、斯る折節にてこそあれと、恐れ思はぬ人も候はず。」とぞ語りける。帝師使者の語るを聞て、今はかうと思ければ、三千両の金に身を売たりつる老翁を呼て、彼が股の肉を切裂て、呂文煥・伯顔将軍・賈丞相三人が手迹を学て返逆籌策の文を書、彼が骨のあはひに収て疵を愈してぞ持せける。其文に書けるは、「我等已に太元の軍に打勝て士卒の付順事数を不知。天已に時を与たり。不取却禍有べし。然ば早士を引約を成して帝都に赴んと欲す。若亡国の暗君を捨て有道の義臣に与せんとならば、戈を倒にする謀を可致。」と書て、宮中の警固に残し留られたる国々の兵の方へぞ遣しける。 |
老人は喜んだ。「では。」と言い、帝師は老翁の身柄を三千両で買い取り太元へ帰還した後、まず使者を宋国の都に派遣し、「楊子江の戦いで功績があり千戸万戸の侯爵と称賛される伯顔丞相・呂文煥らが都でどう評判かを探れ」と命じた。使者は都へ上り家々を回って噂や人々の反応を詳細に聞き取り太元へ戻ると、帝師に向かって報告した。「伯顔丞相や呂文煥らは太元軍に勝利し武功が過剰です。世間での評価は天威さえ超えており、この勢いで天下奪取を図れば掌を返すより容易でしょう。昔の安禄山叛乱もこんな機会だったと恐れぬ者はいません。」帝師はこれを聞き計画実行時だと悟り、三千両で身売りした老翁を呼んで彼の太腿肉を切り開かせた。呂文煥・伯顔将軍・賈丞相三人の筆跡を真似て謀反計画書を作成し、傷口に隠して治癒させたのである。その文書には「我らは既に太元軍に勝利したが服従兵士数も不明。天は時を与えたのだから手遅れになれば災いとなる。急ぎ兵を集め盟約し都へ向かいたい。もし亡国の暗君を見捨て有道の忠臣につくなら武器放棄計画実行可」と記され、宮中警護に残る各国兵士たちに向けて送り届けた。 解説1. 諜報工作の戦術的構造: 2. 歴史人物描写の虚構性と現実適合: 3. 身体操作シーンの象徴性: 4. 文書内容のイデオロギー分析: |
| 敵を討手だて如此認て、帝師重て老翁に向て申けるは、「汝先帝都に上り怪げなる体にて宮中を伺見るべし。去程ならば、宮門を守る兵共汝を捕へて嗷問すべし。縦水火の責に逢共、暫は勿落事。倒懸身を苦め炮烙骨を砕時に至て、我は伯顔将軍・賈丞相等が使として、謀反与力の兵共に事の子細を相触ん為に、帝都に赴きたる由を白状して、其験是也とて、件の身の中に隠しける書を可取出。」とぞ教へける。彼老翁已に三千両の金に身を売し上は、命を非可惜、帝師が教の侭に謀反催促の状を数十通身の肉を創て中に収め、帝都の宮門へぞ赴ける。忽身を車裂にせられ骨を醢にせらるべきをも不顧、千金に身を替て五刑に趣く、人の親の子を思道こそ哀なれ。老翁則帝都に上て、態怪げなる体に身を窶し、宮門を廻て案内を見る由に翔ひける間、守護の武士是を捕へて、上つ下つ責問に、暫は敢て不落。嗷問度重て骨砕け筋断ぬと見へける時に、「我は是伯顔将軍・呂文煥等が謀叛催促の使也。」と白状して、股の肉の中より、宮中洛外諸侯の方へ、約をなし賞を与たる数通の状をぞ取出たりける。典獄の官驚て此由を奏聞しければ、先使者の老翁を誅せられて、軈て伯顔将軍・賈丞相・呂文煥等が父子兄弟三族の刑に行れて、或は無罪諸侯死を兵刃の下に給り、或は功有し旧臣尸を獄門の前に曝せり。 |
敵を討つ手立てをこのように定め、帝師はさらに老翁に向かって言った。「お前はまず都へ上り、怪しい様子で宮中を偵察しろ。そうすれば宮門の守護兵がお前を捕らえ尋問するだろう。たとえ水火の拷問を受けてもすぐには自白してはいけない。逆さ吊りの苦しみや炮烙(熱した鉄)で骨砕ける時点になって、私は伯顔将軍・賈丞相らの使者として謀反に加担する兵士らに事情を通達しに都へ来たと告白せよ。そして『証拠はこれだ』と言って体内に隠した文書を取り出せ。」そう指示した。老翁はすでに三千両で身を売っていたため命も惜しまず、帝師の教え通り謀反催促状数十通を肉を切り開いて体に収め都へ向かった。八つ裂きにされ骨をミンチにされる覚悟ですら顧みず――千金のために五刑(残酷な刑罰)に向かう親心こそ哀れである。老翁は都へ上り、わざと怪しい姿でやつれながら宮門周辺を探るふりをしていたが守護武士に捕まり尋問された。しばらく自白せず拷問が激化して骨砕け筋断たれる様子となった時、「私は伯顔将軍・呂文煥らの謀反催促の使者だ」と告白し腿肉の中から「宮中や都周辺諸侯宛てに盟約を結び褒賞を与える」旨の数通の状を取り出した。典獄官が驚いてこの件を通報すると、まず老翁は処刑されすぐ伯顔将軍・賈丞相・呂文煥らとその父子兄弟三族も死刑となった。無実だった諸侯たちも兵刃で殺害され功績ある旧臣の死体は獄門前に晒された。 解説1. 諜報工作プロセスの完成形: 2. 歴史的拷問方法の正確性: 3. 文学的悲劇性の構築手法: 4. 伏線回収と物語的意義: |
| 此事速に楊子江の陣へ聞へしかば、伯顔将軍・賈丞相・呂文煥等、頭を延て無罪由を陳じ申さん為に、太元の戦を打捨て都へ帰り上けるが、国々の諸侯道塞て不通ける間、三人の将軍空く帝師が謀に被落て、所々にて討れにけり。是より楊子江の陣には敵を防ぐ兵一人も無れば、太元五百万騎の兵共、推して都へ責上るに、敢て遮るべき勢なければ、宋朝の幼帝宮室を尽し宗廟を捨て、遂に南蛮国へ落給ふ。太元の老皇帝、軈て都に入替り給しかば、天下の諸侯皆順付奉て、太宋国四百州、忽に太元の世に成にけり。さしもいみじかりし太宋国、一時に傾し事も、天運図に当る時とは云ながら、只帝師が謀によれる者也。今細河相摸守、無双大力世に超たる勇士なりと聞へしか共、細河右馬頭が尺寸の謀に被落、一日の間に亡ぬる事、偏に宋朝の幼帝、帝師が謀に相似たり。人而無遠慮、必有近憂とは、如此の事をや申べき。 |
この事態が早く楊子江の陣営に知らされると、伯顔将軍・賈丞相・呂文煥らは首を差し出して無罪を訴えようと太元との戦いを放棄し都へ帰還した。しかし諸国の諸侯が道を塞ぎ通行できぬ間に三人の将軍はむなしく帝師の謀略に陥り、あちこちで殺されてしまった。これにより楊子江の陣には敵を防ぐ兵士一人もいなくなり太元五百万騎の軍勢が押し寄せ都へ攻め上るのを阻む力は全くなく宋朝幼帝は宮殿と宗廟(祖先の霊廟)を捨て遂に南蛮国へ落ち延びた。太元老皇帝がすぐに入城したので天下諸侯皆降伏し大宋国四百州は瞬時に太元の世となった。かくも強大だった大宋国があっけなく滅んだのは天命に合う時とはいえただ帝師の謀略によるものである。今細河相模守(ほそこうさがみのかみ)は無双大力で世上に超える勇士と聞こえたものの細河右馬頭(ほそうまのかみ)の小策に陥り一日にして滅んだことは全く宋朝幼帝や帝師の謀略に似ている。人遠慮なければ必ず近憂ありとはこのようなことを言うのであろう。 解説1. 物語結末と史実改変の意図: 2. 歴史的人物の創作扱い: 3. 思想的メッセージの構造: 4. 文学的技法と時代背景: |
| input text 太平記\039_太平記_巻39.txt | 現代日本語 translated text | |||||||||||||||
| 太平記 太平記巻第三十九 ○大内介降参事 聖人世に出て義を教へ道を正す時だにも、上智は少く下愚は多ければ、人の心都て不一致。肆に尭の代にすら四凶の族あり。魯国に小星卯あり。況時今澆季也。国又卑賎也。因何に仁義を知人有べきなれ共、近年我朝の人の有様程うたてしき事をば不承。先弓矢取とならば、死を善道に守り名を義路に不失こそ可被思、僅に欲心を含ぬれば、御方に成るも早く、聊も有恨、敵になるも易し。されば今誰をか始終の御方と可憑思。変じ安き心は鴻毛より軽く、不撓志は麟角よりも稀也。人数ならぬ小者共の中に、適一度も翻らぬ人一両人有といへ共、其れも若禄を与へ利を含めて呼出す方あらば、一日も足を不可留。只五十歩に止る者、百歩に走るを如咲。見所の高懸とかやの風情して、加様の事を申共、書伝の片端を聞たる人は古へを引て、さても百里奚は虞の君を棄て、秦の穆公に不仕、管夷吾は桓公に降て公子糾と不死しは如何に、とぞ思給らん。それは誠に似たる事は似たれ共、是なる事は是ならず。彼百里奚は、虞公の、垂棘の玉、屈産の乗の賄に耽て路を晉に開しかば、諌けれ共叶まじき程を知て、秦の穆公に仕へき。管夷吾は召忽と共に不死、子路非仁譏りしかば、豈如匹夫匹婦自経溝壑無知乎と、文宣王是を塞ぎ給へり。 |
この話が早く楊子江の陣営へ伝わると、伯顔将軍・賈丞相・呂文煥らは無実を訴えようと太元との戦いを捨て都へ戻ろうとした。しかし諸国の諸侯が道を塞ぎ通れない中で三人の将軍は空しく帝師の策略に陥り、各地で討たれてしまった。これにより楊子江の陣には防衛兵士一人もおらず太元五百万騎の大軍が都へ押し寄せても阻む力など全くなく宋朝幼帝は宮殿と祖先の霊廟を捨てついに南蛮国へ逃亡した。太元老皇帝がすぐに都に入ったため天下諸侯は皆降伏し大宋四百州は瞬時に太元の支配下となった。これほど強大だった大宋国があっけなく滅んだのは天運尽きたとはいえただ帝師の策略によるものである。今細河相模守(ほそこうさがみのかみ)が無双大力で世に並ぶ者なき勇士と誉高かったにも関わらず細河右馬頭(ほそうまのかみ)の小策に敗れ一日にして滅んだことは全く宋朝幼帝や帝師の謀略と似ている。人遠慮なければ必ず近憂ありとはこのようなことを言うのであろう。 解説1. 「天運」論と策略優位性の構造: 2. 滅亡描写の史実対照: 3. 『論語』引用の思想的深化: 4. 蒙古襲来記憶との連関: | |||||||||||||||
| されば古賢の世を治めん為に二君に仕しと、今の人の欲を先として降人に成とは、雲泥万里の隔其中に有と云つべし。爰に大内介は多年宮方にて周防・長門両国を打平げて、無恐方居たりけるが、如何が思ひけん、貞治三年の春の比より俄に心変じて、此間押へて領知する処の両国を給らば、御方に可参由を、将軍羽林の方へ申たりければ、西国静謐の基たるべしとて、軈て所望の国を被恩補。依之今迄弐無りける厚東駿河守、長門国の守護職を被召放含恨ければ、則長門国を落て筑紫へ押渡り、菊池と一に成て、却て大内介を攻んとす。大内介遮て、三千余騎を卒して豊後国に押寄せ、菊池と戦けるが、第二度の軍に負て菊池が勢に囲れければ、降を乞て命を助り、己が国へ帰て後、京都へぞ上りける。在京の間数万貫の銭貨・新渡の唐物等、美を尽して、奉行・頭人・評定衆・傾城・田楽・猿楽・遁世者まで是を引与へける間、此人に勝る御用人有まじと、未見へたる事もなき先に、誉ぬ人こそ無りけれ。世上の毀誉非善悪、人間の用捨は在貧福とは、今の時をや申すべき。 ○山名京兆被参御方事 山名左京大夫時氏・子息右衛門佐師氏は、近年御敵に成て、南方と引合て、両度まで都を傾しかば、将軍の御為には上なき御敵なりしか共、内々属縁、「両度の不義全く将軍の御世を危め奉らんとには非ず。 |
だから昔の賢人が世を治めるために二人の君主に仕えたことと、今の者が利欲のために降伏者になることは、雲泥万里の差があると言うべきである。さて大内介(おおうちのすけ)は長年宮方として周防・長門両国を平定し安穏に暮らしていたが、どういう考えからか貞治三年(1364年)春ごろ突然心変わりし、「今まで抑えて領有している両国を与えられるなら味方につく」と将軍(足利義詮)へ申し出た。西国の安定の基となるだろうとして、すぐに望み通りの国を恩賞として与えられた。これにより以前から不満を持っていた厚東駿河守(あつとうするがのかみ)は長門国の守護職を取り上げられ恨み、直ちに長門国から脱出して筑紫へ渡り菊池氏と結託し、逆に大内介を攻撃しようとした。大内介はこれを阻もうと三千余騎を率いて豊後国へ押し寄せ菊池軍と戦ったが、二度目の合戦で敗れ包囲されたため降伏を乞い命を助かり自国へ帰還したのち京都へ上った。在京中に数万貫の銭貨や新たな唐物などを惜しみなく使い、奉行・高官・評定衆から遊女・田楽師・猿楽師・隠遁者までを手厚くもてなしたため、「この人に勝る側近はいない」と未見の事柄さえ褒め称えない者がいなかった。世間の毀誉は善悪によらず、人の採用棄却は貧富によるとはまさしく今の状況を指すのだろう。 ○山名京兆が味方についたこと 解説1. 「裏切りモラル」描写の歴史的意義: 2. 経済力と権力構造の描写: 3. 山名氏登場部の政治的文脈: 4. 文学的手法における革新性: | |||||||||||||||
| 只道誉が余に本意無りし振舞を思知せん為許にて候き。其罪科を御宥免有て、此間領知の国々をだにも被恩補候はゞ、御方に参て忠を致すべき。」由をぞ申たりける。げにも此人御方に成ならば、国々の宮方力を落すのみならず、西国も又可無為とて、近年押へて被領知つる因幡・伯耆の外、丹波・丹後・美作、五箇国の守護職を被充行ければ、元来多年旧功の人々、皆手を空して、時氏父子の栄花、時ならぬ春を得たり。是を猜て述懐する者共、多く所領を持んと思はゞ、只御敵にこそ成べかりけれと、口を顰けれ共甲斐なし。「人物競紛花、麗駒逐鈿車。此時松与柏、不及道傍花。」と、詩人の賦せし風諭の詞、げにもと思知れたり。 ○仁木京兆降参事 仁木左京大夫義長は、差たる不義は無りしか共、行迹余りに思ふ様也とて、諸人に依被悪、心ならず御敵になり、伊勢国に逃下て、長野の城に楯篭りたりしを、初めは佐々木六角判官入道崇永・土岐大膳大夫入道善忠両人討手を承、是を攻けるが、佐々木は他事に被召て上洛しぬ。土岐一人国に留て攻戦けれども、義長敢て城を不被落。此時又当国の国司北畠源中納言顕信卿、雲出川より西を管領して、兵を出し隙を伺て戦ひ挑し間、一国三に分れて、片時も軍の絶る日もなし。 |
ただ、道誉(どうよ)が私に対して本心がない行動を理解させようとしただけのことでした。「その罪を許していただき、現在領有している国々さえも与えてくだされば、味方に加わって忠誠を尽くします。」と申し出た。確かにこの人物(山名時氏)が味方になれば、各地の宮方勢力が弱まるだけでなく西国も安定するだろうと考えて、近年抑えて領有していた因幡・伯耆以外に丹波・丹後・美作の五か国の守護職を与えたので、元来長年功績を立てていた人々は皆手ぶらになり、時氏親子の栄華は季節外れの春を得たようだった。これをねたみ不満を述べる者たちも、「多くの所領を持ちたいならば敵になるべきだった」と口をゆがめるだけで何の効果もない。「人々は花のように争い競い、美しい馬が飾り車を追う。この時には松や柏さえ道端の草花に及ばない。」という詩人の風刺的な言葉こそ、まさにその通りだと理解されたのだ。 ○仁木京兆(にききょうちょう)が降参したこと 解説1. 「裏切り正当化」の政治力学: 2. 詩引用の諷刺的機能: 3. 仁木義長(にきよしなが)事件の虚実: 4. 作者の史観と現代性: | |||||||||||||||
| 角て五六年を経て後、義長日来の咎を悔て降参すべき由を被申ければ、「此人元来忠功異于他。今又降参せば、伊賀・伊勢両国も静るべし。」とて、義長を京都へ返し入られける。是は勢已に衰たる後の降参なりしかば、領知の国もなく、相従し兵も身に不添、李陵が如在胡にして、旧交の友さへ来らねば、省る人遠き庭上の花、春独春の色なり。鞍馬稀なる門前の柳、秋独秋の風なり。 ○芳賀兵衛入道軍事 如斯近年は、敵に成たりつる人々は皆降参して、貞治改元の後より洛中西国静也といへ共、東国に又不慮の同士軍出来して里民樵蘇を不楽。其事の起りを尋れば、此三四年が先に、将軍兄弟の御中悪く成給て、合戦に及し刻、上杉民部大輔、故高倉禅門の方にて、始は上野国板鼻の合戦に宇都宮に打負て、後には薩■山の軍に御方の負をしたりしが、兔角して信濃国へ逃下り、宮方に成て猶此所存を遂ばやと、時を待てぞ居たりける。上杉斯る不義を致しけれども、鎌倉左馬頭基氏、幼少より上杉に懐きそだてられたりし旧好難捨思はれければ、以別儀先越後国守護職を与て上杉をぞ被呼出ける。此時芳賀兵衛入道禅可は、越後国の守護にて有けるが、「降参不忠の上杉に被思替奉て、忠賞恩補の国を可被召放様やある。」とて、上杉と芳賀と越後国にて及合戦事数月也。 |
こうして五六年経った後、義長が日頃の過ちを悔いて降参したい旨を申し出たので、「この人物はもともと忠功が他者とは異なる。今また降参すれば伊賀・伊勢両国も静まるだろう」と言って、義長を京都に戻された。これは勢力がすでに衰えた後の降参であったため、領地の国もなく従う兵士も身近におらず、李陵が胡の地にあって旧交の友さえ来ないように省みる人もいない庭先の花は春だけが春らしく、鞍馬(訪れる客)が少ない門前の柳は秋だけが秋の風情を帯びていた。 ○芳賀兵衛入道禅可に関する軍事 解説1. 「孤立化」の心理的描写: 2. 東国騒乱構造の政治力学: 3. 芳賀禅可(はがぜんか)反乱の歴史的意義: 4. 物語構成上の役割: | |||||||||||||||
| 禅可遂に打負しかば当国を上杉に被奪のみならず、一族若党其数を不知落様に皆討れにけり。禅可是を忿て、「哀不思議も有て世中乱よかし。上杉と一合戦して此恨を散ぜん。」と憤けり。斯る処、上杉已に左馬頭の執事に成て鎌倉へ越ると聞へければ、禅可道に馳向て戦はんとて、上野の板鼻に陣を取てぞ待せける。然共上杉、上野国へも不入先に、左馬頭宣ひけるは、「何ぞ任雅意加様の狼籍を可致。所存あらば逐て可致訴詔処に、合戦の企奇怪の至也。所詮可加退治。」とて、自大勢を卒して宇都宮へぞ被寄ける。禅可此事を聞て、「さらば鎌倉殿と先戦はん。」とて、我身は宇都宮に有ながら、嫡子伊賀守高貞・次男駿河守八百余騎を差副て、武蔵国へぞ遣しける。此勢坂東路八十里を一夜に打て、六月十七日辰刻に、苦林野にぞ著にける。小塚の上に打上て鎌倉殿の御陣を見渡せば、東には白旗一揆の勢五千余騎、甲胄の光を耀して、明残る夜の星の如くに陣を張る。西には平一揆の勢三千余騎、戟矛勢ひ冷して、陰森たる冬枯の林を見に不異。中の手は左馬頭殿と覚て、二引両の旗一流朝日に映じて飛揚せる其陰に、左輔右弼密く、騎射馳突の兵共三千余騎にて控へたり。上より見越ば数百里に列て、坂東八箇国の勢共、只今馳参ると覚て如雲霞見へたり。 |
禅可はついに敗れたため、越後国を上杉に奪われるだけでなく一族や家臣たちも数知れず討ち死にしてしまった。これを憤慨した禅可は「まったく驚きだ。こんなにも世の中が乱れるならいっそ……上杉と一戦交えてこの恨みを晴らそう」と激怒した。そのような中、上杉がすでに鎌倉左馬頭(足利基氏)の執事となり鎌倉へ向かうとの情報を得たため、禅可は途中で襲撃しようと上野国板鼻に陣を構えて待ち受けた。 しかし上杉は上野国に入る前に先手を打たれていた。左馬頭(基氏)が「どうして好き勝手な暴挙を許せようか?主張があるなら訴え出ればよいところ、合戦など企てるとは怪しむべき極みだ」と宣言し自ら大軍を率いて宇都宮へ進撃したのである。この報を知った禅可は「それではまず鎌倉殿(基氏)と戦おう」と決意、自身は宇都宮に残りながら嫡子・伊賀守高貞と次男・駿河守を主力とした八百余騎の部隊を武蔵国へ差し向けた。 この軍勢は坂東路八十里(約314km)を一晩で踏破し、6月17日の辰刻(午前8時頃)、苦林野に到着した。小高い丘に登って鎌倉殿の陣営を見渡すと――東方には白旗を掲げた一揆勢五千余騎が甲冑のきらめきを輝かせ、明け残る星のように布陣している。西方は平氏系一揆三千余騎が矛戟の冷気を放ち冬枯れの森のような陰影を見せる。中央部隊は左馬頭殿と見え二引両旗が朝日に映えて翻り、その下に側近たちが固く守る中で機動戦闘兵三千余騎が控える。高みから眺めると数百里にも連なる坂東八カ国の大軍が雲霞のごとく集結しつつあるのが確認された。 解説1. 芳賀禅可(はがぜんか)の決起構図: 2. 合戦前駆の政治力学: 3. 苦林野布陣描写の文学的特質: 4. 歴史的背景と物語位置付け: | |||||||||||||||
| 雲鳥の陣堅して、逞卒機尖なれば、何なる孫呉が術を得たり共、千騎に足ぬ小勢にて懸合すべしと不覚。芳賀伊賀守馬に打乗て、母衣を引繕ひて申けるは、「平一揆・白旗一揆は、兼て通ずる子細有しかば、軍の勝負に付て、或は敵ともなり或は御方とも成べし。跡にさがりて只今馳参る勢は、縦ひ何百万騎有と云共、物の用に不可立。家の安否身の浮沈、只一軍の中に定むべし。」と高声に呼て、前後に人なく東西に敵有とも思はぬ気色にて、真前にこそ進だれ。舎弟駿河守是を見て、「軍門に君の命なし。戦場に兄の礼なし。今日の軍の先懸は、我ならでは覚ぬ者を。」と、嗚呼がましげに広言吐て、兄より先につと懸抜て懸入上は、相従ふ兵共八百余騎誰かは是に可劣、我先に戦はんと、魚鱗に成てぞ懸りける。左馬頭の基氏、参然たる敵の勇鋭を見ながら機を撓め給はず、相懸りに馬を閑々と歩ませ事もなげに進まれたり。敵時の声三度作て些擬議したる処に、天も落ち地も裂るかと覚る許に、只一声時を作て左右に颯と分る。芳賀が八百余騎を東西より引裹て、弓手に相付け馬手に背けて、切ては落され、まくつまくられつ半時許戦て、両陣互に地を易、南北に分れて其迹を顧れば、原野血に染て草はさながら緑をかへ、人馬汗を流、堀かねの池も血となる。 |
芳賀伊賀守(高貞)が陣形を堅固に整え、精鋭兵士たちも戦意満ちていたため、「たとえ孫子や呉起の兵法を知る者がいても、千騎にも満たない小勢で正面から挑むことはできない」という状況であった。そこで伊賀守は馬に乗り母衣を整えて宣言した:「平一揆と白旗一揆とは従来からの因縁があるため戦況次第では敵味方になる可能性もあるし、後から到着する大軍もいかに数多くても役立たないだろう。家の安泰も我々の運命もこの一戦で決まるのだ」と高らかに叫び、前後の危険や東西の敵を全く意に介さぬ様子で真っ直ぐに進撃した。 これを見た弟の駿河守は「軍中では主君の命令が優先され、戦場では兄弟関係など通用しない。今日の先陣争いはこの私以外には務まらない」と豪語し、兄を追い越すように猛然と突入すると、それに続く八百余騎も我先にと魚鱗のような陣形で攻め込んだ。 これに対し左馬頭(足利基氏)は敵の勇猛さを見ながらも動揺せず、ゆったりと馬を進めて平然として前進した。敵軍が三度鬨の声を上げて躊躇している瞬間、「天地が裂けるかと思われるほどの大音響」で基氏軍は一気に鬨の声を発し左右に分かれた。芳賀勢八百騎を東西から包囲すると、弓兵隊と騎馬隊が連携して半時(約1時間)も激しい攻防戦を展開しついに両陣営は位置を入れ替えた。 南北に別れて振り返ると草原全体が血で染まり草木の緑色すら消えている。人馬ともに汗と血にまみれ、掘ったばかりの堀さえも血の池となっていた。 解説1. 戦術的対比構造: 2. 武将心理描写の機能: 3. 戦闘場面の文学的技法: 4. 歴史的裏付けと物語展開: | |||||||||||||||
| 左馬頭は芳賀が元の陣に取上り、芳賀は左馬頭の始の陣に打上て、共に其兵を見るに、討れたる者百余人、被疵者数を不知。「さても宗との者共の中に、誰か討れたる。」と尋る処に、「駿河守殿こそ、鎌倉殿に切落され給ふと見へつるが、召れて候し御馬の放れて候つる。如何様討れさせ給てや候らん。」と申ければ、兄の伊賀守流るゝ涙を汗と共に推拭て云けるは、「只二人如影随ふて、死ば共にと思つる弟を、目の前にて被討、其死骸何くに有共不見、さてあると云事や可有。」とて、切散されたる母衣結継で鎧ゆり直し、喚ひてぞ懸入ける。鎌倉殿方にも、軍兵七十余人討れたるのみならず、木戸兵庫助、両方引分つる時、近付敵に引組て、落重る敵に被討ければ、是を聞給て、鎌倉殿御眼血をときたる如くに成て宣ひけるは、「此合戦に必死なば諸共に死し、生ば同生んと、深く契し事なれば、命を惜べきに非ず。」とて、如編木子叩きなしたる太刀の歯本を小刀にて削り直し、打振て懸足を出し給へば、左右の兵共三千余騎、大将の先に馳抜て、一度に颯と蒐り逢ひ、追廻懸違へ、喚き叫で戦ふ声、さしも広き武蔵野に余る許ぞ聞へける。大将左馬頭、余りに手繁く懸立々々戦ける程に、乗給へる馬の三頭・平頚三太刀斬れて、犬居にどうとぞ臥たりける。 |
左馬頭(足利基氏)は芳賀軍の元々の陣地を取り戻し、一方で芳賀伊賀守は左馬頭が最初に布陣していた場所へ移動した。互いに自軍の兵士を見渡すと、討ち死にした者は百人以上おり負傷者の数も分からないほど多い。「何と言っても我々の中では誰か戦死していないか」と尋ねたところ、「駿河守殿(芳賀高貞の弟)は鎌倉殿(基氏)に切り落とされたようです。彼が乗っていた馬だけが放れていましたので、おそらく討ち取られたのでしょう」と報告があった。 これを聞いた兄の伊賀守は流れる涙を汗と一緒に拭いながら言った。「ただ二人で影のように寄り添って死ぬなら共になろうと思っていた弟を目の前で討たれ、その遺体さえ見つからないとは何事か」と言うと切り裂かれた母衣(武者の装備)をつなぎ合わせ鎧を直し、叫びながら突撃した。 一方鎌倉殿側でも兵士七十人以上が戦死していただけでなく木戸兵庫助という武将も両軍が引き分けた時に近づいた敵と組み合い落ち重なる敵に討たれた。この報告を受けた足利基氏は目を充血させながら宣言した。「この戦で必ず死ぬなら皆共に散ろうし、生き延びるのなら一緒に生還しようと深く誓っていたのだから命など惜しまない」と言うと編み木のように打ち鳴らして刃こぼれした太刀を小刀で研ぎ直すや振りかざして突撃姿勢に入った。 すると左右の兵士三千余騎が大将に先駆けて一斉に集まり追ったり回ったり掛け違えたり喚き叫びながら戦う声は広大な武蔵野にも響き渡るほどだった。大将である左馬頭があまりにも頻繁に突撃を繰り返し激しく戦っているうち乗っていた三頭目の馬の首が斬られ地面へどさりと倒れた。 解説1. 武士団内部の結束心理: 2. 合戦描写の構造的意義: 3. 歴史的事件の物語化: 4. 軍記文学としての技法革新: | |||||||||||||||
| 是を大将と見知たる敵多かりければ、懸寄々々胄を打落さんと、後より廻る者あり、飛下々々徒立に成、太刀を打背けて組討にせんと、左右より懸る敵あり。され共左馬頭元来力人に勝れ、心飽まで早して、膚撓まず目逃れず、黄石公が伝へし処、李道翁が授し道、機に膺て心とせし太刀きゝなれば、或は胄の鉢を真二に打破り、引太刀に廻る敵を斬居、或は鎧のどう中を不懸打切て、余る太刀にては、左に懸る敵を払はる。其刃に胸を冷して敵敢て不近付。東西開け前後晴て、弥大将馬に放れぬと、見知ぬ敵も無りけり。大高左馬助重成遥に是を見て、急馳寄り弓手に下立て、「穴夥の只今の御挙動候や。昔の和泉・朝比奈も是まではよも候はじ。」と、覿面に奉褒、「早此馬に召れ候へ。」と申せば、左馬頭悦て、馬の内跨にゆらりと飛乗て、鞍坪に直り様に、「平家の侍後藤兵衛が主の馬に乗て逃たりしには、遥に替りたる御振舞哉。」と、「只今こそ誠に大高の名は相応したれ。」と、互にぞ褒返されける。其後左馬助は、放れ馬の有けるを取て打乗、所々に村立たる御方の勢を相招き、又敵の中へ懸入て、時移るまでぞ戦ける。互に人馬を休めて、両方へ颯と引分たれば、又鎌倉殿の御陣は芳賀が陣となり、芳賀が陣は二度鎌倉殿の御陣となる。 |
これを大将と見抜いた敵たちは多く集まってきたため、後ろから回り込んで兜を打ち落そうとする者もいれば、馬から飛び降りて徒歩で立ち向かい左右から斬りかかり背中に太刀を当てようとして組み討ちにしようと襲い掛かる敵がいた。しかし左馬頭(足利基氏)は元来並外れた力持ちであり冷静沈着、肌も震えず目線も揺らさない。黄石公から伝授され李道翁より学んだ武道の極意をこの機に実践したため刀捌きが見事で、兜鉢を真っ二つに打ち割ったり振りかぶった敵を斬り伏せたり鎧の隙間を見逃さず切り込み余勢そのまま左から襲う敵を払い落とした。この刃にかかる者は胸が凍る思いで誰も近づけなくなったため東西は開け前後は空き、ついに大将が馬に乗れない状態だと気付かない敵はいなくなった。 これを遠く見ていた大高左馬助重成が急ぎ駆け寄り左手側へ下ろし「まったく驚異的なお振る舞いです。昔の和泉守や朝比奈もここまではできなかったでしょう」と直接称賛して「早くこの馬にお乗りください」と言うと、左馬頭は喜び馬の首筋に軽やかに飛び乗り鞍を整えながら「平家物語で後藤兵衛実基が主人の馬に乗って逃げた話とは大違いだな。まさに今こそ『大高』という名にふさわしい働きよ」と互いに称賛し合った。 その後左馬助は放れ馬を捕らえて騎乗すると、あちこちで待機していた味方の兵士たちを集め再び敵陣へ突入し時間が移り変わるまで戦い続けた。両軍が人馬を休めてさっと分かれた時には鎌倉殿(基氏)の本陣は芳賀勢に奪われ、芳賀側の元々の陣地も今度は逆に足利方の本陣となっていた。 解説1. 危機的状況における武将描写: 2. 戦術的象徴性: 3. 軍記物語における対話機能: 4. 武具描写の実証的価値: | |||||||||||||||
| 芳賀伊賀守御方の勢を見巡して、「八郎がみへぬは、討れたるやらん。」と親の身なれば心元なげに申けるを、馬の前なる中間、「放れ馬の数百疋走散たる中に、毛色・鞍具足を委く見て候へば、黒鴾毛なる馬に連蒻の鞦懸たるは、慥かに八郎殿召れたりつる御馬にて候。早討れさせ給ひぬとこそ覚へ候へ。」と申ければ、「さて其馬に血や付たる。」と問ふに、「いや馬の頭に矢一筋立て見へ候へ共鞍に血は候はず。」とぞ答へける。是を聞てさしも勇める伊賀守、涙を一目に浮めて、「さては此者幼稚なれば被生捕けり。軍暫くも隙あらば、八郎如何様切られぬと覚ゆ。いさ今一軍せん。」と云ければ、岡本信濃守富高聞も敢ず莞爾とうち笑て、「子細候はじ。敵の大将を見知ぬ程こそ、葉武者に逢て組で勝負はせじと、軍はしにくかりし。今は見知りたり。先に白糸の鎧著て、下立たりつる若武者は、慥に鎌倉殿と見澄したり。鎧の毛をしるしにして、組討に討奉らんずる事、何よりも可安る。」とて、敵に心安く紛れんと、笠符を取て投捨、時衆に最期の十念を受て、思切たる機をぞ顕しける。左馬頭の御方に、岩松治部大輔はよく慮有て軍の変を計る人なりければ、大将左馬頭殿の鎧の毛を、敵何様見知ぬらんと推量して、御大事に替らんと思はれければ、我今まで著給へる紺糸の鎧に、鎌倉殿の白糸の鎧を俄に著替奉りてぞ控へたる。 |
芳賀伊賀守は味方の兵を見渡し、「八郎が見えないのは討ち死にしたのか」と親心から不安げに言った。すると馬の前にいた従者が「放れ馬が数百頭走り回っている中、毛色や鞍具を詳しく見たところ、黒鴾毛(くろはぐけ)の馬で連蒻紋(れんじゃくもん)の鞦(しりがい)をつけたのは確かに八郎殿がお乗りだった馬です。早々に討ち取られたようです」と報告した。「ではその馬に血はついていたか」と問うと、「いいえ、馬頭に矢が一本刺さっていましたが鞍には血痕はありませんでした」と答えた。 これを聞いて豪胆な伊賀守も一目で涙を浮かべ「この子は幼いから生きて捕らえられたのだ。戦の隙があれば八郎はどう切り殺されるかと思う。今すぐ全軍突撃だ」と言うと、岡本信濃守富高がこれを聞き思わずほほ笑んで言った。「心配無用です。敵大将を見分けられず雑兵相手に苦戦していましたが、先ほど白糸の鎧を着て下馬していた若武者は確かに鎌倉殿(足利基氏)と見定めました。鎧の毛印を目印にして組み討ちで討ち取れば何より安全です」と言い、敵に気付かれないよう笠符(識別札)を投げ捨て時宗僧に臨終十念を受けるなど死を覚悟した様子を示した。 一方左馬頭(基氏)側では岩松治部大輔が戦況変化を読む人物だったため、大将の鎧毛印を敵に見破られる危険を案じた。そこで自分が着ていた紺糸の鎧と急遽基氏の白糸の鎧を取り替えさせ「これは御身大切に」と言って控えさせた。 解説1. 親子情愛と武士の論理の葛藤: 2. 宗教的行為の実践的意味: 3. 鎧着替え劇の史料的価値: 4. 軍記物語としての構成技巧: | |||||||||||||||
| 暫有て両陣又乱合て入替々々戦ける。岡本信濃守白糸の鎧著たる岩松を左馬頭殿ぞと目に懸て、組で討んと相近付く。岩松は又元来左馬頭の命に代らんと鎧を著替し上は、なじかは命を可惜。二人共に閑々と馬を歩ませ寄て、あはひ已に草鹿のあづち長に成ける時、岩松が郎等金井新左衛門、岩松が馬の前に馳塞て、岡本と引組馬よりどうと落けるが、互に中にて差違へて、共に命を止てけり。岩松は左馬頭の命に代らんと鎧を著かへ、金井は岩松が命に代て討死す。主従共に義を守て節を重んずる忠貞、難有かるべき人々也。其外命を軽じ義を重んじて、爰にて勝負を決せんと、相互にぞ戦ける。さて芳賀八郎は被生捕たりけれども、幼稚の上垂髪なりければ、軍散じて後に、人を付て被帰けるとかや。優にやさしとぞ申ける。去程に芳賀が八百余騎の兵、昨日は二日路を一夜に打しかば馬皆疲れぬ。今日は又入替る勢も無て終日戦ひくらしければ、兵息を不継敢。所存今は是までとや思けん、日已に夕陽に成ければ、被討残たる兵纔に三百余騎を助て、宇都宮へぞ帰ける。是を見て今まで戦を外に見て、勝方に付んと伺つる白旗一揆、弊に乗て疲を攻て、何くまでも追攻て打止んと、高名がほに追たりける。是のみならず芳賀が勢打負て引と聞へしかば、後れ馳に御陣へ参りける兵共、橋を引、路を塞で落さじとしける程に、道にても百余騎被討けり。 |
少しすると両軍は再び乱戦状態となり入り混じって戦った。岡本信濃守(富高)は白糸の鎧を着た岩松(治部大輔)を見て左馬頭殿(足利基氏)だと見抜き、組み討ちで仕留めようと近づいた。一方岩松は元々主君の命に代わって鎧を着替えた身ゆえ、命など惜しくない。二人とも落ち着いて馬を進めて接近し、間合いが草鹿(的)を射る距離まで詰めた時、岩松の家臣・金井新左衛門が突然馬前へ駆け込み岡本に組みつき、馬上から共に転げ落ちた。互いに刃で刺し違え両者とも絶命した――ここにおいて岩松は主君(基氏)の命に代わり鎧を着替えた身となり、金井は更に主人(岩松)の命に代わって討死したのである。主従共に忠義を守り節度を重んじる尊い人々であった。 他の兵士たちもまた命を軽視して義を重視し、この場で決着をつけようと激しく戦った。一方芳賀八郎は捕虜となっていたが幼さゆえ垂れ髪の少年だったため、合戦終結後に護送されて帰されたという。優しい扱いを受けたとのことである。 その間、芳賀軍八百余騎は前日二日の行程を一晩で強行したため馬が疲弊しきっていた。今日も交代要員なしに終日戦った結果兵士の息継ぎすらできず、「これまでだ」と観念したかどうか夕陽が沈む頃、生き残りわずか三百騎余を連れて宇都宮へ撤退した。 この様子を見て傍観していた白旗一揆(新田方)は敗軍に乗じて疲れを攻めようと、「どこまでも追撃して止めるな」と手柄争いしながら追った。さらに芳賀勢敗走の報が広まり、遅れて本陣へ向かう味方が橋を引き落としたり道を塞ぐなどしたため行軍中に百余騎も討たれた。 解説1. 「主従二重身代わり」構造の象徴性: 2. 敗戦描写における歴史的真実性: 3. 人道的配慮の劇的効果: 4. 敗走過程の地理的考証: | |||||||||||||||
| 辛き命を助て、故郷に帰ける者も、大略皆髪を切り遁世して、無きが如くに成にけり。軍散じければ、軈て宇都宮を退治せらるべしとて、左馬頭八十万騎の勢にて先小山が館へ打越給ふ。斯る処に、宇都宮急ぎ参じて申けるは、「禅可が此間の挙動、全く我同意したる事候はず。主従向背の自科依難遁、其身已逐電仕ぬる上は、御勢を被向までも候まじ。」と申ければ、左馬頭も深き慮やをはしけん、翌日軈て鎌倉へ打帰給にけり。されば「君無諌臣則君失其国矣、父無諌子則父亡其家矣。」と云り。禅可縦老僻て斯る悪行を企つ共、子共若義を知て制し止る事あらば、豈若干の一族共を討せて、諸人に被嘲哢乎。無思慮禅可が合戦故に、鎌倉殿の威勢弥重く成しかば、大名一揆の嗷儀共、是より些止にけり。 ○神木入洛事付洛中変異事 尾張修理大夫入道々朝は、将軍御兄弟合戦時、慧源禅門の方に属して打負しかば、鬱陶を不散、暫くは宮方に身を寄けるが、若将軍義詮朝臣より様々弊礼を尽して頻に招請し給ける間、又御方に成て、三男治部大輔義将を面に立て執事の職に居、武家の成敗をぞ意に任られける。去程に越前国は多年の守護にて、一国の寺社本所領を半済して家人共にぞ分行ける。其中に南都の所領河口庄をば、一円に家中の料所にぞ成たりける。 |
辛うじて命を取り留め故郷に帰った者たちは、ほぼ全員が髪を切り出家し、存在しないかのようになった。合戦終結後すぐ、「宇都宮氏を討伐すべき」との判断で左馬頭(足利基氏)は八十万騎の大軍を率いて小山館へ進撃した。この時、宇都宮氏綱が急ぎ参上し申し上げた。「禅可(私)の今回の行動は全く独断であり主君への謀反です。身分に応じた罰から逃れられません。すでに逃亡しましたので討伐軍派遣の必要もございますまい。」これを聞いた左馬頭には深慮があったのか、翌日早々鎌倉へ帰還した。 ここに「主君に諫言する臣がいなければ国を失い、父に忠告する子がいなければ家が滅びる」という道理がある。禅可(氏綱)は老齢の偏見で悪行を企てたとはいえ、もし彼の息子たちが義理を知って制止していれば、どうして多くの一族を討たれ世間の嘲笑を受ける事態に至っただろうか? この無謀な合戦によって鎌倉殿(基氏)の権威は一層強まり、大名連合による騒乱もようやく収束した。 ○神木入洛と京都異変について 解説1. 「出家隠遁」の歴史的含意: 2. 宇都宮氏綱事件の教訓構造: 3. 斯波高経権力掌握劇: 4. 章題「神木入洛」への伏線: | |||||||||||||||
| 此所は毎年維摩会の要脚たるのみに非ず、一寺の学徒是を以て、朝三の資を得て、僅に餐霞の飢を止、夜窓の燈挑て聚蛍の光に易ふ。而るを近年は彼依押領諸事の要脚悉闕如しぬれば、維摩の会場には、柳条乱て垂手の舞を列ね、講問の床の前には、鴬舌代て緩声の哥を唱ふ。是一寺滅亡の基、又は四海擾乱の端たるべし。早く当社押領の儀を止て、大会再興の礼に令復給べしと、公家に奏聞し武家に触訴ふ。然共公家の勅裁はなれ共人不用、武家の奉書は憚て渡す人なし。依之嗷儀の若輩・氏人の国民等、春日の神木を奉餝、大夫入道々朝が宿所の前に奉振捨。其日軈て勅使参迎して、神木をば長講堂へぞ奉入ける。天子自玉■を下させ給て、常の御膳を降ださる。摂家皆高門を掩て、日の御供を奉り給ふ。今澆末の風に向て大本の遠を見るに、政道は棄れて無に似たりといへ共、神慮は明にして如在。哀とく裁許あれかしと人々申合けれども、時の権威に憚て是をと申沙汰する人も無りけり。禰宜が鈴振る袖の上に、託宣の涙せきあへず、社人の夙夜する枕の上に、夢想の告止時なし。同五月十七日、何くの山より出たり共知ず、大鹿二頭京中に走出たりけるが、家の棟・築地の覆の上を走渡て、長講堂の南の門前にて四声鳴て、何の山へ帰る共見へずして失にけり。 |
この場所(興福寺領河口庄)は毎年の維摩会に必要な経費を賄う場であるだけでなく、一山の学僧たちがこれによってわずかな収入を得て空腹をしのぎ、夜遅くまで灯火のもとで勉学に励む基盤であった。しかし近年は斯波氏による押領で全ての資金源が絶たれ、維摩会の場では柳の枝が乱れて舞姫たち(非僧侶)の踊りが並び、講義の席前では囀るような声で世俗的な歌が唱えられるありさま。これは寺院滅亡のもとであり、また天下大乱のはずみとなるだろう。」こう訴えて朝廷に奏上し幕府へ抗議した。 だが朝廷の勅裁は形骸化して効力なく、幕府奉書も怖れて執行する者はいない。そこで若い神官や氏子らが春日神社の神木(榊)を飾り立てて斯波高経宿所前に打ち捨てた。その日すぐに勅使が出迎え、神木は長講堂へ奉安された。天皇自ら御璽を下し常膳を断たれ摂関家も門戸を閉ざして献食した。(中世の)乱れた風潮の中で根本を見失えば政治は形骸化するが、神意は明瞭に現存しているのだ。 人々は「早く裁定あってほしい」と願ったものの権力者への恐れで誰も動けず、神官たちは鈴を振る袖の上に託宣の涙をこらえられず、社家の枕元には夜ごと霊夢が告げた。同年5月17日、どこからか現れた二頭の大鹿が京中を駆け抜け、屋根や塀の上を走り回って長講堂南門前で四度鳴き声をあげると、行方もわからず消え去った。 解説1. 「寺領侵害」描写の歴史的意義: 2. 神木強訴の政治的力学: 3. 鹿出現事件の象徴解釈: 4. 権力批判的メッセージ: | |||||||||||||||
| 是をこそ不思議の事と云沙汰しける処に、同二十一日月額の迹有て、目も鼻も無て、髪長々と生たる、なましき入道頚一つ、七条東洞院を北へ転ありくと見へて、書消す様に失にけり。又同二十八日長講堂の大庭に、こま廻して遊ける童の内に、年の程十許なるが、俄に物に狂て、二三丈飛上々々、跳る事三日三夜也。参詣の人怪て、何なる神の託せ給たるぞと問に、物づき口うち噤て、其返事をばせで、人や勝つ神や負ると暫しまて三笠の山のあらん限はと、数万人の聞所にて、高らかに三反詠じて物付は則醒にけり。見るも懼しく、聞に身の毛も竪神託共なれば、是に驚て、神訴を忽に裁許有ぬと覚へけれ共、混ら耳の外に処して、三年まで閣れければ、朱の玉垣徒に、引人もなき御注連縄、其名も長く朽はてゝ、霜の白幣かけまくも、賢き神の榊葉も、落てや塵に交らんと、今更神慮の程被計、行末如何と空をそろし。今程国々の守護、所々の大名共、独として寺社本所領を押へて、不領知云者なし。然共叶はぬ訴詔に退屈して、乍歎徒に黙止ぬれば、国々の政に僻事多けれ共、其人無咎に似たり。然るに此人独斯る大社の訴詔に取合ふて、神訴を得、呪咀を負けるも、只其身の不祥とぞ見へたりける処に、同十月三日道朝が宿所、七条東洞院より俄に失火出来て、財宝一も不残、内厩の馬共までも多焼失ぬ。 |
この出来事を人々が不思議に噂している中で、同月21日には月のような輪郭を持ちながら目も鼻もなく、長い髪の生えた生々しい入道(僧形)の首一つが七条東洞院から北へ転がっていくのが見え、たちまち消えてしまった。また同28日には長講堂の庭でこままわしをしていた子どもたちの中に十歳ほどの子が突然憑りつかれ、2~3丈(約6~9m)も飛び跳ねる状態が三日三晩続いた。 参詣人たちが怪しんで「どの神様のお告げか」と問うと、少年は口を閉ざしたまま答えず、「人が勝つか神が負けるか 三笠山のある限りは」と大勢の前で高らかに三度詠唱すると正気に戻った。見るも恐ろしいこの神託に人々は「すぐ裁定が出るだろう」と思ったが、権力者たちは全く無視して三年も放置したため、「朱塗りの玉垣や人影なき注連縄 霜を戴いた御幣さえ朽ち果て 賢明なる榊の葉も塵に混じろうか」(神社荒廃の比喩)と神慮を案じるばかりだった。 今や国々の守護・大名たちはこぞって寺社領を押領しているが、訴えても退屈するだけで諦めて黙っているため、悪政ながら本人らは無実のように見える。しかし斯波高経(道朝)だけがこの大社の訴えを取り上げず神罰を受けたのは自業自得と映ったところへ、同年10月3日ついに彼の宿所(七条東洞院邸)から突然出火し、財宝一切はおろか厩舎の馬までもが焼け落ちた。 解説1. 「怪異三重奏」の政治的寓意: 2. 放置された神罰の時間的深化: 3. 火災結末の史的整合性: | |||||||||||||||
| 是こそ春日明神の御祟よと、云沙汰せぬ人も無りけり。されども道朝やがて三条高倉に屋形を立て、大樹に咫尺し給へば、門前に鞍置馬の立止隙もなく、庭上に酒肴を舁列ねぬ時もなし。夫さらぬだにも、富貴の家をば鬼睨之云り。何況や神訴を負へる人也。是とても行末如何が有んずらんと、才ある人は怪しめり。 ○諸大名讒道朝事付道誉大原野花会事 抑此管領職と申は、将軍家にも宗との一族也ければ、誰かは其職を猜む人も可有。又関東の盛なりし世をも見給たりし人なれば、礼儀法度もさすがに今の人の様にはあるまじければ、是ぞ誠に武家の世をも治めんずる人よと覚けるに、諸人の心に違ふ事のみ有て、終に身を被失けるも、只春日大明神の冥慮也と覚へたり。諸人の心に違ける事は、一には近年日本国の地頭・御家人の所領に、五十分一の武家役を毎年被懸けるを、此管領の時に二十分一になさる。是天下の先例に非ずと憤を含む処也。次に将軍三条の坊門万里小路に御所を立られける時、一殿一閣を大名一人づゝに課て被造。赤松律師則祐も其人数たりけるが、作事遅して期日纔に過ければ、法を犯す咎有とて新恩の地、大庄一所没収せらる。是又赤松が恨を含む随一也。次には佐々木佐渡判官入道々誉、五条の橋を可渡奉行を承て京中の棟別を乍取、事大営なれば少し延引しけるを励さんとて、道朝他の力をも不仮、民の煩をも不成、厳密に五条の橋を数日の間にぞ渡にける。 |
これは春日明神のご崇りだと誰もが噂した。しかし斯波道朝(高経)はすぐ三条高倉に屋敷を建て将軍邸に近接したため、門前には馬をつなぐ鞍置き武士が絶えず、庭には酒肴を運ぶ列が途切れることがなかった。「富貴の家は鬼に見られる」という諺がある。ましてや神罰を受けた身である。末路はどうなるかと識者は危惧した。 ○諸大名による道朝讒言事件ならびに道誉大原野花会事情 第一に近年日本全国の地頭・御家人領地へ課されていた五十分の一の武家役(税)を、管領時代に二十分の一に引き上げたこと。これは前例なき暴政と不満が高まった。第二に将軍が三条坊門万里小路に御所建設した際、各大名に建造物を分担させた時、赤松則祐(律師)は工期遅れで僅かに期限超過しただけで新領地の大庄園を没収された件である。これが赤松深恨の主因だ。 第三は佐々木道誉(佐渡判官入道)への対応であった。五条橋架け替え奉行を命じられた彼は京中の棟別銭(税)で工事したが、大規模事業ゆえ遅延気味となった。これを厳しく叱責した道朝は他者の助力も借りず住民の負担も顧みぬまま数日間で強行完工させたのである。 解説1. 「富貴鬼睨」描写の歴史的意義: 2. 管領職矛盾点の史的背景: 3. 三大名怨恨事件の政治力学: 4. 『太平記』的史観の結節点: | |||||||||||||||
| 是又道誉面目を失ふ事なれば、是程の返礼をば致さんずる也とて、便宜を目に懸てぞ相待ける。懸処に、柳営庭前の花、紅紫の色を交て、其興無類ければ、道朝種々の酒肴を用意して、貞治五年三月四日を点じ、将軍の御所にて、花下の遊宴あるべしと被催。殊更道誉にぞ相触ける。道誉兼ては可参由領状したりけるが、態と引違へて、京中の道々の物の上手共、独も不残皆引具して、大原野の花の本に宴を設け席を妝て、世に無類遊をぞしたりける。已に其日に成しかば、軽裘肥馬の家を伴ひ、大原や小塩の山にぞ趣きける。麓に車を駐て、手を採て碧蘿を攀るに、曲径幽処に通じ、禅房花木深し。寺門に当て湾渓のせゞらきを渉れば、路羊腸を遶て、橋雁歯の危をなせり。此に高欄を金襴にて裹て、ぎぼうしに金薄を押し、橋板に太唐氈・呉郡の綾・蜀江の錦、色々に布展べたれば、落花上に積て朝陽不到渓陰処、留得横橋一板雪相似たり。踏に足冷く歩むに履香し。遥に風磴を登れば、竹筧に甘泉を分て、石鼎に茶の湯を立置たり。松籟声を譲て芳甘春濃なれば、一椀の中に天仙をも得つべし。紫藤の屈曲せる枝毎に高く平江帯を掛て、■頭の香炉に鶏舌の沈水を薫じたれば、春風香暖にして不覚栴檀林に入かと怪まる。眸を千里に供じ首を四山に廻、烟霞重畳として山川雑り峙たれば、筆を不仮丹青、十日一水の精神云に聚り、足を不移寸歩、四海五湖の風景立に得たり。 |
この一件で佐々木道誉の面目が丸つぶれとなったため、「必ずや相応の仕返しをしよう」と機会を狙っていたところ、将軍御所の庭先に咲いた花々が紅紫入り混じって格別の風情を見せたので、斯波道朝(高経)は酒肴を用意して貞治5年(1366年)3月4日を期し、同地で花見の宴を催すことを決めた。特に道誉にも招待状を送ったが、彼は事前に承諾していたのにわざとこれを断り、京中の芸能者たちを全て引き連れて大原野(現・京都市西京区)の桜の名所で豪華な宴席を作り上げ、比類なき遊興を行った。当日になると軽装に良馬という供回りと共に出発し、麓では車を停めて互いに手を取りながら青々とした蔦を伝って登っていくと、曲がりくねった小道は静かな場所へ続いており、寺院の建物は花木に囲まれてひっそりとしていた。寺門近くで蛇行する小川を渡ると細い山道を行きついた先には危うげな橋があり、その欄干は金襴布で覆われ擬宝珠も金色に輝かせていた上、床面には唐産の毛氈や蘇州の綾織物・四川の錦などが敷き詰められていたため、散り積もった花びらが陽差し届かない谷間を埋めて横たわる橋板はまるで雪化粧したかのようであった。足元には冷たい感触がありながら歩くと靴裏から香気が漂い、さらに風通りの良い岩場へ登ると竹樋に分けられた清泉の脇では石製の炉にお茶も用意されていた。松籟(そよ風)の音さえかき消すほどの甘美な春の香りの中、一碗のお茶で天界を味わう心境となる。紫藤の曲がった枝々には高く帯状の装飾布が掛けられ、獣頭形香炉に焚かれた丁子や沈水香(じんこう)は暖かい春風と共に漂い、知らぬ間に白檀林へ迷い込んだかの錯覚を起こさせる。目を凝らせば霞が幾重にも立ちこめ山々の稜線が入り混じる眺望は、まるで筆や絵具を用いることなく十日かけて一滴ずつ描くような精緻さであり、一歩も動かずして四海五湖(世界中)の風景を目の前に得たかのようだった。 解説本節は佐々木道誉が斯波高経主催の花見宴への「対抗イベント」として大原野で開催した豪華な宴会の描写です。歴史的には貞治5年(1366年)に実際に行われた事件を基にしており、『太平記』における権力抗争の重要なエピソードとなっています。
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| 一歩三嘆して遥に躋ば、本堂の庭に十囲の花木四本あり。此下に一丈余りの鍮石の花瓶を鋳懸て、一双の華に作り成し、其交に両囲の香炉を両机に並べて、一斤の名香を一度に焚上たれば、香風四方に散じて、人皆浮香世界の中に在が如し。其陰に幔を引曲■を立双て、百味の珍膳を調へ百服の本非を飲て、懸物如山積上たり。猿楽優士一たび回て鸞の翅を翻し、白拍子倡家濃に春鴬の舌を暢れば、坐中の人人大口・小袖を解て抛与ふ。興闌に酔に和して、帰路に月無れば、松明天を耀す。鈿車軸轟き、細馬轡を鳴して、馳散り喚き叫びたる有様、只三尸百鬼夜深て衢を過るに不異。華開花落る事二十日、一城の人皆狂ぜるが如しと、牡丹妖艶の色を風せしも、げにさこそは有つらめと思知るゝ許也。此遊洛中の口遊と成て管領の方へ聞へければ、「是は只我申沙汰する将軍家の華下の会を、かはゆ気なる遊哉と欺ける者也。」と、安からぬ事にぞ被思ける。乍去是は心中の憤にて公儀に可出咎にもあらず。「哀道誉、何事にても就公事犯法事あれかし。辛く沙汰を致さん。」と心を付て被待ける処、二十分一の武家役を、道誉両年まで不沙汰間、管領すはや究竟の罪科出来すと悦て、道誉が近年給りたりける摂州の守護職を改め、同国の旧領多田庄を没収して政所料所にぞ成たりける。 |
この一件で道誉は面目を失ったため、「必ずや相応の仕返しをする」と機会を狙っていたところ、将軍御所庭前の花々が紅紫入り混じって格別に見事だったので、斯波高経(道朝)は酒肴を準備して貞治5年(1366年)3月4日に将軍邸で花見宴を催すことにした。特に佐々木道誉にも招待状を送ったが、彼は承諾していたのをわざと断り、京中の芸能者たちを全員引き連れ大原野の桜の名所で豪勢な宴会を開き、世に例を見ない遊興を行った。当日になると軽装に良馬という供回りを伴い山道へ向かうと、麓では車を停め互いに手を取り青々とした蔦をつたって登っていくうち曲がりくねった小道は静寂の境地へ続き、寺院本堂前には十人抱えほどの花木四本があった。その下に丈一丈余(約3m)の鍮石製花瓶を設置し両側から盛られた枝に見立てた上で大型香炉二基を机に並べ一斤分もの高級香料を焚き上げると、芳香が四方に漂い人々はまるで香水世界の中にいるようだった。木陰には幕を張りめぐらせ珍味百種を供し美酒を飲み干す中、猿楽師たちの舞いは鳳凰の羽ばたきのように優雅なら白拍子の歌声は春鶯さながらで座客たちは大口(上着)・小袖を脱いでは投げ与えた。宴もたけなわ皆が酔いに和し帰路には月明かりすらないので松明に夜空が照らされる中、飾り車の轟音や細馬の轡鳴らしながら騒ぎ散る様子は三尸神(道教で人体内の悪鬼)百匹が深夜の街を闊歩するかのようだった。花開いて落ち尽きる二十日間京全体が狂乱したと評されるほどの熱狂ぶりに牡丹さえも妖艶な彩りを見せたのも当然だと誰しも納得したものだ。 この騒ぎは洛中の話題として管領(高経)の耳にも届き、「これは我々将軍家主催で開く花見宴を嘲笑った振る舞いだ」と不快感を抱いた。しかし公的な処罰理由にはならないため「哀れな道誉よ何か法に触れることをしてくれ。そうすれば厳しく裁いてやろう」と思案し機会を窺っていたところ、武家役(税)二十分一の未納が二年続いている事実を見つけて天罰到来と喜び勇み直ちに道誉から摂津国守護職を取り上げ同国の旧領多田荘まで没収して政所料所とした。 解説本節は佐々木道誉による大原野花見宴のクライマックス描写と、斯波高経(管領)が行った報復措置を描いています。『太平記』巻第37段に相当する部分で歴史的には1366年3月の事件です。 1. 豪華宴席描写の象徴性: - 鍮石花瓶・一斤香料: 当時輸入品だった黄銅器と大量香料(現代価値数千万円)使用は道誉派の経済力を誇示。仏教美術を思わせる「丈一丈余」サイズが宗教的権威への挑戦を示唆。 - 「大口小袖抛与ふ」「三尸百鬼」: 客が高級衣装(当時武士の正装)を芸人に投げ渡す場面は秩序破壊のメタファー。深夜の騒動「百鬼夜行」比喩で道誉勢力を異形化する反体制的表現。 2. 政治的対立構図: - 花見宴日程の意図: 高経主催宴会(3月4日)と同日開催は明白な挑戦。大原野神社周辺が当時南朝方貴族ゆかりの地であった点も北朝幕府への皮肉。 - 「武家役未納」口実: 前節で問題化した二十分一税(通常五十分一)を道誉だけ徴収免除→高経による恣意的処分。1367年実際に摂津守護職剥奪となった史実反映。 3. 『太平記』の文学的技法: - 「華開花落二十日」: 宴が20日間続く誇張表現で「京中狂乱」状態を強調し、牡丹花期(4~5月)との矛盾も意図的虚構。退廃的社会風潮への批判。 - 道教用語の転用: 「三尸」(人間体内の悪鬼)という中国思想引用で権力者堕落を神罰視点で告発する構成は、作者・小島法師(天台僧説あり)の宗教観反映。 この事件は貞治の変(1367年高経失脚クーデター)へ直結し室町幕府管領職権限肥大化問題を象徴的に描く中世政治史の重要史料として位置付けられます。 | |||||||||||||||
| 依之道誉が鬱憤不安。如何にもして此管領を失ばやと思て、諸大名を語ふに、六角入道は当家の惣領なれば無子細。赤松は聟也。なじかは可及異儀。此外の太名共も大略は道誉に不諛云者無りければ、事に触此管領天下の世務に叶まじき由を、将軍家へぞ讒し申ける。魯叟有言、曰、衆悪之必察焉、衆好之必察焉。或は其衆阿党比周して好ずる事あり。或は其人特立不詳にして悪るゝ事あり。毀誉共に不察あるべからず。諸人の讒言遂に真偽を不糾しかば、道朝無咎して忽に可討に定けり。此事内々佐々木六角判官入道崇永に被仰て、江州の勢をぞ被召ける。道朝此由を伝聞て、貞治四年八月四日晩景に、将軍の御前に参じて被申けるは、「蒙御不審由内々告知する人の候つれ共、於身不忠不儀の事候はねば、申人の謬にてぞ候らんと、愚意を遣候つるに、昨日江州の勢共、合戦の用意にて、罷上り候ける由承及候へば、風聞の説早実にて候けりと信を取て候。抑道朝以無才庸愚身、大任重器の職を汚し候ぬれば、讒言も多く候覧と覚候。然るを讒者の御糺明までも無て、御不審を可蒙にて候はゞ、国々の勢を被召までも候まじ。侍一人に被仰付て、忠諌の下に死を賜て、衰老の後に尸を曝さん事何の子細か候べき。」と、恨の面に涙を拭て被申ければ、将軍も理に服したる体にて、差たる御言なし。 |
このため道誉は鬱憤と不安を抱えていた。「どうにかしてこの管領(斯波高経)を失脚させたい」と思い、諸大名に働きかけたところ、六角入道は当家の惣領だから問題ない。赤松は婿だ。異議があるはずがない。その他の大名たちもおおよそ道誉にお世辞を言わない者はいなかったので、機会を見てこの管領が天下の政務に向いていないことを将軍家に讒言した。 孔子にはこういう言葉があった。「衆人が悪く言うことは必ず調査せよ。衆人が好むことも必ず調査せよ。」時には大勢で結束して無理に称賛することもあるし、その人物が孤立していて理由もなく嫌われる場合もある。批判と称賛はどちらも軽視すべきではないのだ。 諸人の讒言を結局真偽のほどを調べなかったので、道朝(斯波高経)には落ち度がないのに突然討伐対象に定められてしまった。この件について内密に佐々木六角判官入道崇永に命じて、近江国の勢力を召集した。 道朝がこれを伝え聞いて、貞治四年八月四日の夕暮れ時に将軍の御前に参上して申し上げたことには、「私に対してご疑惑があると内密にお知らせする者がいたそうですが、身に不忠や不正なことはございませんので、告げ口した者の誤りだろうと思いをはかっていたところ、昨日近江国の勢力が合戦の準備で上洛してきたとのこと承りました。噂話が早くも事実となったと確信いたしました。 そもそも道朝は才能なく愚かな身でありながら大任重き職務に就いているため、讒言が多いことも分かっております。しかし告げ口した者のご査察さえなされず、疑いをかけられるのであれば、国々の勢力をお召しになるまでもないでしょう。侍一人にお命じになって忠諫のもとに死を与えてください。老いて衰えた後に屍を晒すことに何の問題がありましょうか。」と恨み顔で涙を拭きながら申し上げたところ、将軍も道理に納得した様子でこれといったお言葉がなかった。 解説本節は佐々木道誉による斯波高経(管領・道朝)失脚工作と、高経の決死的抗弁を描く『太平記』巻第37段の核心部分です。1366年後半から1367年にかけて現実化した貞治の政変を下敷きにしています。 1. 権謀術数の構造分析: - 道誉派閥形成: 「六角入道は惣領」「赤松聟也」とある通り、佐々木氏嫡流・姻族による結束が基盤。当時近江守護だった六角氏(崇永)の軍事動員力も後述される。 - 讒言戦略: 「世務に叶まじき由」という曖昧な非難は、管領職の行政能力を狙い撃ちした心理的操作。史実では高経が南朝との和睦交渉で足利義詮将軍と対立していた点も背景。 2. 孔子引用の政治的意義: - 「衆悪之必察焉」は『論語』衛霊公篇からの直引。「毀誉共に不察あるべからず」という作者注釈が道誉派による「集団的虚偽」(阿党比周)を暗喩。当時の読者には為政者の公正さ欠如への痛烈な批判と映った。 3. 高経弁明場面の演劇性: - 「忠諫の下に死を賜て」発言は、切腹による責任取替えで武家法理「喧嘩両成敗」を逆用したレトリック。貞治4年(1365)当時60代後半だった高経が「衰老の屍」と自己老化を強調する点に悲劇的効果。 - 「将軍も差たる御言なし」で終わる黙認描写は、足利義詮の優柔不断さを象徴。実際この直後に崇永勢撤退(史実では1366年8月)が起こり高経は一時的に立場回復する。 4. 歴史的帰結への伏線: - 「貞治四年八月四日」という正確な日付記載(『太平記』の虚構性の中で異例)は、2ヶ月後の10月に起きた「貞治の変」(高経失脚クーデター)を予告。道誉が最終的に1367年守護職復帰する伏線となる。 - 「江州勢召喚」命令の発令主体不明(将軍か?管領自身か?)という曖昧性は、当時の幕府指令系統混乱の実態を示す史料価値あり。 この場面は中世政治劇として卓越した構成を持ち、室町幕府「三管領制」崩壊への序章を告げる歴史的転換点と言えます。高経の弁舌が虚しく終わる結末から、続く巻では道誉派による武力クーデター(貞治の変)へ展開します。 | |||||||||||||||
| 良久黙然として涙を一目に浮べ給ふ。暫有て道朝已に退出せんとせられける時、将軍席を近付給て、「条々の趣げにもさる事にて候へ共、今の世中我心にも任たる事にても無ければ、暫く越前の方へ下向有て、諸人の申処をも被宥候へかし。」と宣へば、道朝、「畏て承ぬ。」とて軈被退出ぬ。去程に崇永兼て用意したる事なれば、稠くよろひたる兵八百余騎を卒して将軍の御屋形へ馳参り、四門を警固仕る。是より京中ひしめき渡て、将軍へと馳参る武者もあり、管領へと馳る人もあり。柳営家臣の両陣のあはひ僅に半町許あれば、何れを敵何れを御方共不見分。道朝始は一箭射て腹を切らんと企けるが、将軍より三宝院覚済僧正を御使にて、度々被宥仰ける間、さらばとて北国下向の儀に定りぬ。乍去をめ/\と都を出て下る体ならば悪かりなん。敵共に被追懸事もこそあれとて、八月八日の夜半許に、二宮信濃守五百余騎、高倉面の門より、将軍家に押寄る体を見せて、鬨をぞ揚たりける。是を聞て、将軍家へ馳参りたる大勢共、内へ入んとするもあり、外へ出んとするもあり。何と云事もなくせき合ふ程に、鎧の袖・胄を奪れ、太刀・長刀を取られ、馬・物具を失ふ者数を不知。未戦先に、禍蕭墻の中より出たりとぞ見へたりける。 |
長い間黙ったまま涙を一筋浮かべられた。しばらくして道朝(斯波高経)が退出しようとした時、将軍は席に近づいて、「おっしゃることは確かにごもっともでございますが、今の世の中私の思い通りにもいかないことが多いので、しばらく越前の方へ下向なさって、諸人の申すところをお許しいただきたい」と命じられた。すると道朝は「かしこまりました」と言ってすぐに退出した。 それから崇永(佐々木六角入道)が事前に用意していたことだったので、重装備の兵士800人以上を率いて将軍の御所へ駆けつけ、四つの門を厳しく警護した。これにより京中全体が騒ぎ立ち、将軍のもとへ駆け参じる武者もいれば、管領(道朝)のもとへ向かう者もいた。御所の家臣たち両陣営はわずか半町ほどしか離れていなかったので、どちらが敵で味方なのか見分けられない状況だった。 道朝は初め一矢射て腹を切ろうと考えたが、将軍から三宝院覚済僧正をお使いに立て度々お許しの言葉があったため、「それならば」と北国(越前)下向を決めた。しかしながら見送りの人たちと一緒に都を出る様子ではまずいだろうと思ったので、敵方から追撃されることもあるかもしれないと考えて、八月八日の夜半ごろに二宮信濃守が500騎以上で高倉面の門から将軍家へ押し寄せるふりを見せて鬨の声を挙げた。 これを聞いて将軍のもとへ駆け参じていた大勢の人々は、中に入ろうとする者もいれば外に出ようとする者もいて何が起こったのか分からないまま押し合ううちに鎧の袖や兜を奪われ太刀長刀を取り上げられ馬や装具を失う者が数知れなかった。まだ戦わない先から災いは内部から生じたように見えた。 解説本節は貞治4年(1365)8月の政変クライマックスで『太平記』巻37段後半部です。前場面での道朝弁明後の展開として、将軍義詮の優柔不断と軍事衝突直前の混乱を劇的に描きます。
この場面で特筆すべきは「敵味方混乱」描写のリアリズムです。半町(約50m)間隔での対峙状態は京都御所付近の地理的狭さを示し、鎧や武器奪い合いは集団心理の暴走を活写します。結果的に道朝派弱体化で終わるが、その過程で幕府権威失墜を如実に描出した名場面と言えます。 | |||||||||||||||
| 此ひしめきの紛れに、道朝は三百余騎の勢を卒し、長坂を経て越前へぞ被落ける。先陣今は一里許も落延ぬらんと覚る程に成て、二宮は迹を追て落行く。諸大名の勢共、疲れに乗て打止めんと追懸たり。二宮長坂峠に控て少も漂へる機を不見、馬に道草かふて嘲たる声ざしにて申けるは、「都にて軍をせざりつるは敵を恐るゝにはあらず、只将軍に所を置奉る故也。今は都をも離れぬ。夜も明ぬ。敵も御方も只今まで知り知られたる人々也。爰にては我人の剛臆の程を呈さでは何れの時をか可期。馬の腹帯の延ぬ先に早是へ御入候へ。我等が頚を御引出物に進するか、御頚共を餞に給るか、其二の間に自他の運否を定め候ばや。」と高声に呼て、馬の上にて鎧の上帯縮直して、東頭に引へたり。其勇気誠に節に中て、死を軽ずる義有て、前に可恐敵なしと見へければ、数万騎の寄手共、よしや今は是までぞとて、長坂の麓より引返しぬ。道朝、二宮を待付て、越前へ下著し、軈て我身は杣山の城に篭り、子息治部大輔義将を栗屋の城に篭て、北国を打随へんと被議ける間、将軍、「さらば討手を下せ。」とて、畠山尾張守義深・山名中務大輔・佐々木治部大輔高秀・土岐左馬助・佐々木判官入道崇永・舎弟山内判官入道崇誉・赤松大夫判官・同兵庫助範顕、能登・加賀・若狭・越前・美濃・近江の国勢、相共に七千余騎、同年の十月より二の城を囲て、日夜朝暮に攻けれ共、此城可被落とも不見けり。 |
この騒ぎの中に紛れて道朝(斯波高経)は三百余騎の兵を率いて長坂を通り越前に逃れた。先鋒隊がすでに一里ほども落ち延びたかと思われる頃になって、二宮信濃守は後を追って行く。諸大名の軍勢たちは疲れに乗じて討ち取ろうと追いかけた。 二宮は長坂峠に陣取り少しもためらう様子を見せず、馬に道草を食わせるように余裕のある嘲り気な口調でこう言った。「都で戦わなかったのは敵を恐れたからではなくただ将軍への遠慮の故だ。今は京を離れ夜も明けた。敵も味方も互いに顔見知りの者ばかりである。ここでは我々一人ひとりの勇猛さを示さずして、いつ機会を得ようか。馬の腹帯が緩む前に早くこちらへおいでなさい。我等の首を進物として差し出すか、そちらの首を餞別にいただくか、この二つのうちから運命を決めましょう。」と大声で叫び、馬上で鎧の上帯を締め直して東側へ退いた。 その勇気は誠に見事であり死を軽んじる覚悟があって前に恐れる敵はいないように見えたため数万騎もの追撃軍勢たちも「まあこれまでか」と言い長坂の麓から引き返した。道朝は二宮と合流して越前に到着しすぐに自分自身は杣山城に籠り息子治部大輔義将を栗屋城に籠らせて北国を制圧しようと考えているところへ、将軍が「それでは討伐隊を差し向けよ」と命じて畠山尾張守義深・山名中務大輔・佐々木治部大輔高秀・土岐左馬助・佐々木判官入道崇永・弟の山内判官入道崇誉・赤松大夫判官および同兵庫助範顕、さらに能登・加賀・若狭・越前・美濃・近江の国勢合わせて七千余騎を同年十月から二つの城に包囲し昼夜問わず攻撃したがこの城は陥落する様子もなかった。 解説本節は『太平記』巻37段のクライマックスで、1365年8月の斯波高経(道朝)逃亡劇と籠城戦を描きます。前場面での京騒乱後の展開として武士道的価値観が凝縮された名場面です。
この場面全体に流れる「武士の美学」—特に二宮演説に見られる潔さと死生観—が室町軍記物語の核心です。史実では斯波高経は一時復権するも翌年失脚しますが、『太平記』はその悲哀を個人武勇で昇華させる文学的達成を見せています。「未戦先に禍あり」(前文)から「城落ちず」への展開は乱世における抵抗の象徴として後世まで影響を与えました。 | |||||||||||||||
| 斯る処に翌年七月に道朝俄に病に被侵逝去しければ、子息治部大輔義将様様に歎申されけるに依て、同九月に宥免安堵の御教書を被成、京都へ被召返。無幾程越中の討手を承て、桃井播磨守直常を退治したりしかば、軈越中の守護職に被補。是より北国は無為に成にけり。此濫觴抑道朝が僻事は何ぞや。唯依諸人讒言失身給し者也。されば楚の屈原が泪羅の沢に吟て、「衆人皆酔、我独醒たり。」と、世を憤しを、漁父笑て、「衆人皆酔らば、何ぞ其糟を喰て其汁をすゝらざる。」と哥て、滄浪の舟に棹しも、げにさる事も有けりと、被思知世と成にけり。 ○神木御帰座事 大夫入道々朝都を落て後、越前国河口庄南都被返付しかば、神訴忽に落居して、八月十二日神木御帰坐あり。刻限卯時と被定たるに、其暁より雨闇く風暴かりしかば、天の忿猶何事にか残らんと怪かりしに、其期に臨で雨晴風定りて、天気殊に麗かりしかば、是さへ人の意を感ぜしめたり。先南曹弁嗣房参て諸事を奉行す。午刻許に鷹司左大臣殿・九条殿・一条殿、大中納言・大理以下次第に参り給ふ。関白殿御著座あれば、数輩の僧綱以下、御座の前にして其礼を致す。是時の長者の験也。出御の程に成ぬれば、数万人立双たる大衆の中より、一人進出て有僉議。 |
そうした中で翌年(貞治5年/1366年)7月に道朝(斯波高経)が急病にかかって死去したため、息子の治部大輔義将が深く嘆き悲しまれたので、同年9月にお許しと所領安堵のお触れ書が出され京都へ呼び戻された。間もなく越中討伐を命じられ桃井播磨守直常を退治したためすぐに越中の守護職に任命された。これにより北国は平穏になった。 この事件の発端である道朝の過ちとは何か?それはただ人々の中傷によって地位を失っただけだった。だからこそ楚の屈原が泪羅の沢で詠んだ「衆人は皆酔い、我一人だけが目覚めている」という世への憤りに対し漁父は笑って「衆人が皆酔うならなぜ酒粕を食べてその汁をもすすらないのか」と歌い滄浪の川で櫂を動かしたのも本当に道理のあることだったと思われ、世の中がそうなったのである。 ○神木御帰座事 解説本節は『太平記』巻37段終盤部で、1366-67年の斯波高経死後と伊勢神宮関連事件を描きます。前文での籠城戦後の収束として歴史的教訓と宗教的象徴性が融合した構成です。
特筆点は寓話と神事の対比構造です。「衆人皆酔」(前段)で批判された京騒乱に対し、後半では天候回復や大衆協議(僉議)により秩序回復を象徴。『太平記』が単なる軍記ではなく乱世における倫理と神意の調和を追究する文学性を証明しています。 | |||||||||||||||
| 音声雲に響き、言語玉を連ねたり。僉議終ば幄屋に乱声を奏す。翕如たる声の中に、布留の神宝を出し奉るに、関白殿以下、卿相雲客席を避て皆跪き給ふ。其次に本社の御榊・四所の御正体、光明赫奕としてゆすり出させ給へば、数千の神官共、覆面をして各捧げ奉る。両列の伶倫、道々還城楽を奏して、正始の声を調べ、神人警蹕の声を揚て非常を禁しむ。赤衣仕丁白杖を持て御前に立、黄衣神人神宝を頂戴して次々に順ふ。其外の神司束帯を著して列を引。白衣神人、数千人の国民等歩列る。時の関白良基公は、柳の下重に糸鞋を召、当りも耀く許に歩み出させ給へば、前駆四人左右に順ひ、殿上人二人御裾をもつ。随身十人有といへ共態御先をばをはず。神幸に恐を成し奉る故也。其次には鷹司左大臣・今出河大納言・花山院大納言・九条大納言・一条大納言・坊城中納言・四条中納言・西園寺中納言・四条宰相・洞院宰相中将、殿上人には、左中将忠頼・右中将季村・新中将親忠・左中弁嗣房・新中将基信・蔵人右中弁宣房・権右中弁資康・蔵人左中弁仲光・右小弁宗顕・左少将為有・右少将兼時、行妝を整へ、威儀を正くして、閑に列をなし給へば、供奉の大衆二万人、各貝を吹連て、前後三十余町に支たり。盛哉朝廷無事の化、遠く天児屋根の昔に立返り、博陸具瞻の徳、再び高彦霊尊の勅を新にし給へり。 |
声は雲まで響き渡り、言葉が珠のように続いた。協議が終わると天幕の屋根から高らかな音を奏した。一つに集まるような音の中、布留(石上神宮)の御神宝を取り出し奉ると、関白殿以下、公卿や雲客たちは席を離れて皆ひざまずかれた。次いで本社の御榊と四所神殿の御霊代が光り輝いて揺らめきながらお運びになると、数千人の神官たちは顔をおおってそれぞれ捧げ持った。両側に並ぶ伶人(楽師)たちは道々「還城楽」を奏し、正しい調べの音律を整え、神と人が警蹕(けいひつ・行列中の威嚇声)の声を上げて不審者を取り締まった。赤衣の仕丁が白杖を持って御前へ立ち、黄衣の神人は神宝を頂戴して次々に従った。その他の神職たちは束帯(儀式服)を着て列を作り、白衣の神人や数千人の一般民衆も歩いて続いた。 時の関白良基公は柳染めの下襲(したがさね・衣)に糸鞋を履かれ、輝くばかりにお進みになると、先駆け四人が左右に従い、殿上人二人が裾を持った。随身十人はいたもの皆前方には行かず、神幸行列への畏れ敬う姿勢を示すためである。次いで鷹司左大臣・今出河大納言・花山院大納言・九条大納言・一条大納言・坊城中納言・四条中納言・西園寺中納言・四条宰相・洞院宰相中将らが、殿上人では左中将忠頼・右中将季村・新中将親忠・左中弁嗣房・新中将基信・蔵人右中弁宣房・権右中弁資康・蔵人左中弁仲光・右小弁宗顕・左少将為有・右少将兼時らが、装いを整え威儀を正してゆったりと列を作られたので、供奉する大衆二万人はそれぞれ貝笛を吹き鳴らし前後三十余町(約3.3km)に広がった。壮観なことよ朝廷の平穏治世は遠く天児屋根命(あめのこやねのみこと・古代神話の祭祀者)の時代へ戻り、博陸侯(中国故事の賢臣)のように衆望を集めた徳により再び高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の御威光が新たに輝いたのである。 解説本節は伊勢神宮への神木還座行列のクライマックス描写で、1366年8月12日の儀式完遂を伝える『太平記』巻37段最終部です。前文での天候回復劇に続く場面として、室町時代初期における宗教的・政治的統合の象徴性が凝縮されています。
全体として王朝文化の再生願望を基調としながら、中世的な大衆動員(「数千人の国民」参加描写が初出例)との融合が見られる点が特徴です。1360年代という動乱期にあって神事が政治的安定装置として機能した実態を伝え、「朝廷無事の化」賛辞には太平への希求と皮肉が共存しています。この場面は後世の『神道集』や御伽草子にも影響を与えた、軍記文学随一の儀式描写名場面です。 | |||||||||||||||
| 誠に利物の垂迹、順逆の縁に和光し不給、今斯る神幸を拝し奉るべしやと、岐に満る見物衆の、神徳を貴ばぬは無りけり。 ○高麗人来朝事 四十余年が間本朝大に乱て外国暫も不静。此動乱に事を寄せて、山路には山賊有て旅客緑林の陰を不過得、海上には海賊多して、舟人白浪の難を去兼たり。欲心強盛の溢物共以類集りしかば、浦々島々多く盜賊に被押取て、駅路に駅屋の長もなく関屋に関守人を替たり。結句此賊徒数千艘の舟をそろへて、元朝・高麗の津々泊々に押寄て、明州・福州の財宝を奪取る。官舎・寺院を焼払ひける間、元朝・三韓の吏民是を防兼て、浦近き国々数十箇国皆栖人もなく荒にけり。依之高麗国の王より、元朝皇帝の勅宣を受て、牒使十七人吾国に来朝す。此使異国の至正二十三年八月十三日に高麗を立て、日本国貞治五年九月二十三日出雲に著岸す。道駅を重て無程京都に著しかば、洛中へは不被入して、天竜寺にぞ被置ける。此時の長老春屋和尚覚普明国師、牒状を進奏せらる。其詞云、皇帝聖旨寰、征東行中書省、照得日本与本省所轄高麗地境水路相接。凡遇貴国飄風人物、往往依理護送。不期自至正十年庚寅、有賊船数多、出自貴国地面、前来本省合浦等処、焼毀官廨、掻擾百姓甚至殺害。経及一十余年、海舶不通、辺界居民不能寧処。 |
まさに神仏が姿を現した御利益であり、順境逆境にかかわらずその光を和らげておられないので、このような神幸行列を拝見できるとはと、岐路(分かれ道)にあふれる見物人たちで、神のご加護を尊ばぬ者は一人もいなかった。 ○高麗人来朝事 解説本節は『太平記』巻38段冒頭部で、前文の神事描写から国際情勢へ急転換する場面です。1360年代後半という南北朝動乱期における倭寇問題と外交交渉を描きます。
全体として国際紛争の伏線となる部分で、作者は倭寇発生原因を国内治安悪化(「欲心強盛」「類集り」)と明示しつつ後段へ続く貞治外交決裂への布石を敷いています。特に元朝文書引用は『太平記』が軍記文学である以上に史料編纂的側面を持つ証左です。 | |||||||||||||||
| 蓋是島嶼居民不懼官法、専務貪婪。潜地出海劫奪。尚慮貴国之広、豈能周知。若使発兵勣捕、恐非交隣之道。徐已移文日本国照験。頗為行下概管地面海島、厳加禁治、毋使如前出境作耗。本省府今差本職等一同馳駅、恭詣国主前啓稟。仍守取日本国回文還省。閣下仰照験。依上施行、須議箚付者。一実起右、箚付差去、万戸金乙貴、千戸金龍等准之。とぞ書たりける。賊船の異国を犯奪事は、皆四国九州の海賊共がする所なれば、帝都より厳刑を加るに拠なしとて、返牒をば不被送。只来献の報酬とて、鞍馬十疋・鎧二領・白太刀三振・御綾十段・綵絹百段・扇子三百本、国々の奉送使を副て、高麗へぞ送り被著ける。 ○自太元攻日本事 倩三余の暇に寄て千古の記する処を看るに、異国より吾朝を攻し事、開闢以来已に七箇度に及べり。殊更文永・弘安両度の戦は、太元国の老皇帝支那四百州を討取て勢ひ天地を凌ぐ時なりしかば、小国の力にて難退治かりしか共、輙く太元の兵を亡して吾国無為なりし事は、只是尊神霊神の冥助に依し者也。其征伐の法を聞けば、先太元の大将万将軍、日本王畿五箇国を四方三千七百里に勘へて、其地に兵を無透間立双て是を数るに、三百七十万騎に当れり。此勢を大船七万余艘に乗て、津々浦々より推出す。 |
これは島々の住民たちが官府の法令を恐れず、ひたすら欲深く振る舞い、密かに海に出て略奪を行う者たちです。さらに貴国の国土が広大であることを考慮すれば、周知徹底は困難でしょう。もし兵を派遣して討伐させれば、隣国との友好関係に反する恐れがあります。既に日本国へ文書を送り調査を依頼しましたので、(貴国では)管轄下の地域や島々に対して厳重な取り締まりを行い、以前のように国外に出て害を与えることがないよう禁止してください。本省は今、職務担当者らを派遣し馳せ参じさせ、恭しく国王陛下のもとで申し上げます。また日本国からの返答文書を受け取って当省へ戻りますので、(貴方・閣下も)調査のうえ上記の指示に従い執行してください。この通り命じる者として右記を実行せよ、との命令書(箚付)を派遣先の万戸金乙貴と千戸金龍らに交付した、と記されていた。 賊船が外国で略奪を行う事件はすべて四国や九州の海賊たちによるものであるため、都から厳罰を加える根拠がないとして返答文書は送られなかった。(代わりに)来朝への報酬として鞍付き馬十頭・鎧二領・白太刀三振り・御綾十反・彩絹百反・扇子三百本を取り揃え、諸国からの奉行を随伴させて高麗へ送り届けた。 ○元寇による日本攻撃の事 解説本節は『太平記』巻38段の後半部で、前文(高麗使節来朝)を受けて倭寇問題への対応と元寇回想へ展開します。1360年代の国際情勢を描く歴史叙述です。
全体として倭寇問題の解決失敗が元寇勝利回想へ繋がる構造で、作者は現実の外交挫折(返牒拒否)を歴史的栄光(文永弘安の役)で相殺しようとする意図が見られます。特に蒙古襲来描写には『八幡愚童訓』等の先行文献影響も認められ、中世軍記文学が史実と伝説を融合する特性を示す好例です。 | |||||||||||||||
| 此企兼てより吾朝に聞へしかば、其用意を致せとて、四国・九州の兵は筑紫の博多に馳集り、山陽・山陰の勢は帝都に馳参る。東山道・北陸道の兵は、越前敦賀の津をぞ堅めける。去程に文永二年八月十三日、太元七万余艘の兵船、同時に博多の津に押寄たり。大舶舳艫を双て、もやいを入て歩の板を渡して、陣々に油幕を引き干戈を立双べたれば、五島より東、博多の浦に至るまで、海上の四囲三百余里俄に陸地に成て、蜃気爰に乾闥婆城を吐出せるかと被怪。日本の陣の構は、博多の浜端十三里に石の堤を高く築て、前は敵の為に切立たるが如く、後は為御方平々として懸引自在也。其陰に屏を塗り陣屋を作て、数万の兵並居たれば、敵に勢の多少をば見透されじと思ふ処に、敵の舟の舳前に、桔槹の如くなる柱を数十丈高く立て、横なる木の端に坐を構て人を登せたれば、日本の陣内目の下に直下されて、秋毫の先をも数つべし。又面の四五丈広き板を、筏如に畳鎖て水上に敷双たれば、波の上に平なる路数た作出されて、恰三条の広路、十二の街衢の如く也。此路より敵軍数万の兵馬を懸出し、死をも不顧戦ふに、御方の軍勢の鉾たゆみて、多くは退屈してぞ覚ける。皷を打て兵刃既に交る時、鉄炮とて鞠の勢なる鉄丸の迸る事下坂輪の如く、霹靂する事閃電光の如くなるを、一度に二三千抛出したるに、日本兵多焼殺され、関櫓に火燃付て、可打消隙も無りけり。 |
この企てはかねてより我が国にも伝わっていたため、備えを整えるべく四国・九州の兵は筑紫の博多に急ぎ集結し、山陽道・山陰道の軍勢は都へ駆け参じた。東山道・北陸道の兵士たちは越前敦賀の港を守備した。そうしているうちに文永二年(1265年)八月十三日、元軍七万余隻の軍船が同時に博多湾へ押し寄せた。巨大な艦船が舳先と艫を連ねて碇をおろし、歩行用の板を渡しては陣営ごとに油幕を張り武器を立て揃えたため、五島列島から東の博多沿岸に至るまで海面四方三百余里が忽然と陸地へと変じ、まるで蜃気楼が乾闥婆城(空中楼閣)を出現させたかと思われ怪しまれた。 日本軍の陣構えは、博多浜辺十三里に石堤を高く築き上げ、前面は敵に向けて切り立った崖のようにし、背面は味方にとって平坦で移動自在な構造であった。その陰には塗り固めた屏風状の陣屋を作り数万の兵士が並んでいたため、敵軍に兵力数を悟られまいとしていたところへ、元軍船団の舳先に井戸釣瓶のような柱を数十丈(約100m)も高く立て、横木の端に設けた座席に観測兵を登らせた。これにより日本陣営が眼下に見下ろされ、細かな動きまでも数えられる状態となった。さらに幅四五丈(12-15m)の板を筏のように鎖で繋ぎ水上へ敷き詰めたため、波の上に平坦な道路網が出現し、あたかも京都三条大路や十二坊門の街路のようであった。 この道から元軍数万の兵馬が押し寄せ、死をも顧みず戦いを挑んだので日本側の兵士たちは矛先が鈍り多くが退却寸前となった。陣太鼓を打ち鳴らし刃を交えたその時、「鉄炮」と呼ばれる鞠ほどの大きさの鉄球が坂を転がるように飛来し、雷電のように爆発するものを一度に二三千発も放ってきたため日本兵は多く焼き殺され、関所や櫓には火炎が燃え移り消火の隙すらなかった。 解説本節は文永の役(1265年)における博多湾防衛戦を描いた『太平記』巻38段後半部です。軍記物特有の劇的表現に注目:
この部分は軍記文学として以下の創作技法を駆使:
- 数字誇張(七万艘→三百七十万里)で脅威増幅 | |||||||||||||||
| 上松浦・下松浦の者共此軍を見て、尋常の如にしては叶はじと思ければ、外の浦より廻て、僅に千余人の勢にて夜討にぞしたりける。志の程は武けれ共、九牛が一毛、大倉の一粒にも当らぬ程の小勢にて寄せたれば、敵を討事は二三万人なりしか共、終には皆被生捕、身を縲紲の下に苦しめて、掌を連索の舷に貫れたり。懸りし後は重て可戦様も無りしかば、筑紫九国の者共一人も不残四国・中国へぞ落たりける。日本一州の貴賎上下如何がせんと周章騒ぐ事不斜。諸社の行幸御幸・諸寺の大法秘法、宸襟を傾て肝胆を砕かる。都て六十余州大小の神祇、霊験の仏閣に勅使を被下、奉幣を不被捧云所なし。如此御祈祷已に七日満じける日、諏訪の湖の上より、五色の雲西に聳き、大蛇の形に見へたり。八幡御宝殿の扉啓けて、馬の馳ちる音、轡の鳴音、虚空に充満たり。日吉の社二十一社の錦帳の鏡動き、神宝刃とがれて、御沓皆西に向へり。住吉四所の神馬鞍の下に汗流れ、小守・勝手の鉄の楯己と立て敵の方につき双べたり。凡上中下二十二社の震動奇瑞は不及申、神名帳に載る所の三千七百五十余社乃至山家村里の小社・櫟社・道祖の小神迄も、御戸の開ぬは無りけり。此外春日野の神鹿・熊野山の霊烏・気比宮の白鷺・稲荷山の名婦・比叡山の猿、社々の仕者、悉虚空を西へ飛去ると、人毎の夢に見へたりければ、さり共此神々の助にて、異賊を退け給はぬ事はあらじと思ふ許を憑にて、幣帛捧ぬ人もなし。 |
上松浦・下松浦の人々はこの戦況を見て通常の戦法では太刀打ちできないと考え、別の海岸から回り込み、わずか千余人の兵力で夜襲を決行した。志操は勇ましかったものの、九牛の一毛や大倉庫の一粒米にも満たない少数での攻撃だったため、敵兵を二、三万人も倒す戦果を上げたが、最終的には全員捕虜となり、縄で縛られて苦しみながら掌に鎖を通され船べりにつながれた。この敗北後は再び戦える状態ではなくなったため、筑紫九国の兵士たちは一人残らず四国・中国地方へと落ち延びた。 日本全国の貴賎上下を問わず人々が右往左往し騒ぎ立てる様子は激しいものだった。各神社では天皇自ら行幸(御幸)され、諸寺では盛大な秘法祈祷が行われ、帝も心を砕かれた。全国六十余州の大小神祇や霊験あらたかな仏閣には勅使が遣わされ、幣帛を捧げない場所はなかった。こうした祈願が七日間満ちた日、諏訪湖上から五色の雲が西に湧き立ち大蛇のような形に見えた。八幡宮宝殿の扉が開き、馬の駆ける音や轡の鳴る声が虚空に満ちた。日吉神社二十一社では錦帳の鏡が揺れ神宝の刃は研ぎ澄まされ、御沓(神の履物)ことごとく西を向いた。住吉四社の神馬には鞍下に汗が流れ、小守・勝手神社の鉄楯は自然に敵方へと傾き並んだ。 およそ上中下二十二社の地震や奇跡は言うまでもなく、「神名帳」記載の三千七百五十余社から山間村落の小さな祠、道祖神に至るまで扉が開かない神社はなかった。さらに春日野の神鹿・熊野山の霊烏(八咫烏)・気比宮の白鷺・稲荷山の名狐(おつき)・比叡山の猿など各社の使いが悉く虚空を西へ飛び去る様子を見たという夢告が人々に伝わった。しかし「神々の加護で異賊は必ず退散される」との確信から、幣帛を捧げる者もいなくなってしまったのである。 解説本節は元寇における夜襲失敗後の国家的動員と宗教的反応を描く『太平記』巻38の核心部分です:
この記述には中世神国思想の核心的特徴が凝縮: | |||||||||||||||
| 浩る処に弘安四年七月七日、皇太神宮の禰宜荒木田尚良・豊受太神宮の禰宜度会貞尚等十二人起請の連署を捧て上奏しけるは、「二宮の末社風の社の宝殿の鳴動する事良久し。六日の暁天に及て、神殿より赤雲一村立出て天地を耀し山川を照す。其光の中より、夜叉羅刹の如くなる青色の鬼神顕れ出て土嚢の結目をとく。火風其口より出て、沙漁を揚げ大木を吹抜く。測ぬ、九州の異狄等、此日即可滅と云事を。事若誠有て、奇瑞変に応ぜば、年来申請る処の宮号、被叡感儀可火宣下。」とぞ奏し申ける。去程に大元の万将軍、七万余艘のもやひをとき、八月十七日辰刻に、門司・赤間が関を経て、長門・周防へ押渡る。兵已に渡中をさしゝし時、さしも風止み雲閑なりつる天気俄に替て、黒雲一村艮の方より立覆ふとぞ見へし。風烈く吹て逆浪大に漲り、雷鳴霆て電光地に激烈す。大山も忽に崩れ、高天も地に落るかとをびたゝし。異賊七万余艘の兵船共或は荒磯の岩に当て、微塵に打砕かれ、或は逆巻浪に打返されて、一人も不残失にけり。斯りけれ共、万将軍一人は大風にも放たれず、浪にも不沈、窈冥たる空中に飛揚りてぞ立たりける。爰に呂洞賓と云仙人、西天の方より飛来て、万将軍に占しけるは、「日本一州の天神地祇三千七百余社来て、此悪風を起し逆浪を漲しむ。 |
さてある時、弘安四年七月七日、皇太神宮(伊勢神宮内宮)の禰宜・荒木田尚良と豊受太神宮(外宮)の禰宜・度会貞尚ら十二人が起請文に連署して上奏したことには、「両神宮の末社である風の社の宝殿が長く鳴動しております。六日の明け方になると、神殿から赤い雲が一筋立ち昇り天地を輝かせ山川を照らしました。その光の中から夜叉や羅刹のような青い鬼神が現れ土嚢(砂袋)の結び目を解きました。火炎と暴風がその口から吹き出し、砂塵を巻き上げ大木をなぎ倒します。これは九州にいる異国の敵どもが今日滅ぼされるであろうことを示すものです。もしこの奇跡的な兆候が真実となり現実の変化となれば、長年申請しております宮号(神階)について天皇様のご裁可を賜りたい。」と申し上げたのであった。 するとその通りに大元(モンゴル)の万将軍は七万余隻もの船団を出航させ、八月十七日辰刻(午前8時頃)、門司・赤間関を通って長門・周防へ押し渡ろうとした。兵がすでに海峡の中ほどまで来たその時、それまで風も止み雲もない静かな天気が急変し黒い雲の塊が北東の方角から立ち込めたかのように見えた。烈風が吹き荒れ逆浪が大きくうねり、雷鳴は轟いて電光が激しく地上を走った。大山さえもたちまち崩れ落ちるかと思われた高天すら地に墜ちそうなほどの凄まじい響きであった。異国の敵七万余隻の軍船どもは荒磯の岩にぶつかり粉々に砕け散るもの、逆巻く波に飲み返されて一人残らず失せてしまった。 しかしながら万将軍ただ一人は大風にも飛ばされず波にも沈まず、深遠な空中へ舞い上がって立っていたところであった。ここで呂洞賓という仙人が西方から飛来し万将軍に占いを授けたことには、「日本全国の天神地祇三千七百余社が結集してこの悪風を起こし逆浪を引き寄せたのだ。」 解説本節は『太平記』巻38における弘安の役(1281年)クライマックスであり、神国思想と史実の融合が見られる核心場面です: 1. 二重構造の予兆解釈: 2. 台風被害の劇的表現:
3. 呂洞賓登場の思想的背景: この描写には三つの歴史的意義が凝縮されています:
実際の弘安の役では、九州武士団のゲリラ戦や防塁構築が被害軽減に寄与しましたが、「神風伝説」成立過程でこれらの人間的努力は宗教的ナラティブへ吸収されたことが窺えます。 | |||||||||||||||
| 人力の可及処に非ず。汝早く一箇の破船に乗て本国へ可帰。」とぞ申ける。万将軍此言を信じて、一箇の破船有けるに乗て、只一人大洋万里の波を凌て、無程明州の津にぞ著にける。舟より上り、帝都へ参らんとする処に、又呂洞賓忽然として来て申けるは、「汝日本の軍に打負たる罪に依て、天子忿て親類骨肉、皆三族の罪に行はれぬ。汝帝都に帰らば必共に可被刑。早く是より剣閣を経て、蜀の国へ行去れ。蜀王以汝大将として、雍州を攻ばやと、羨念ふ事切なり。至らば必大功を建べしと云て別れたるが、我汝が餞送の為に嚢中を探るに、此一物の外は無他。」とて、膏薬を一付与へける。其銘に至雍発とぞ書付たりける。万将軍呂洞賓が言に任て、蜀へ行たるに、蜀王是を悦給ふ事無限。軈て万将軍に上将の位を授け、雍州をぞ攻させける。万将軍兵を卒し旅を屯て雍州に至るに、敵山隘の高く峙たるに、石の門を閉てぞ待たりける。誠に一夫忿て臨関に、万夫も不可傍と見へたり。此時に万将軍、呂洞賓が我に与し膏薬の銘に至雍発せよと書たりしは、此雍州の石門に付よと教へけるにこそと心得て、密に人をして、一付有ける膏薬を、石門の柱にぞ付させたりける。付ると斉く石門の柱も戸も如雪霜とけて、山崩れ道平になりければ、雍州の敵数万騎、可防便を失て、皆蜀王にぞ降りける。 |
これは人の力ではどうにもならないことだ。お前はただちに一隻の壊れた舟に乗って故郷へ戻るがよい。」と言った。万将軍はこの言葉を信じ、一艘あった破船に乗り、たった一人で大海原の何千里もの波を越えて、ほどなくして明州(現在の寧波)の港に到着した。舟から上がって都へ向かおうとしたところ、再び呂洞賓が突然現れて言った。「お前が日本の軍に敗れた罪のために、皇帝は怒り、親族や肉親を皆、三族の刑(一族皆殺し)にかけてしまわれた。もし都へ戻れば必ず共に処刑されるだろう。急いでここから剣閣を通って蜀の国へ行きなさい。蜀王がお前を大将軍として迎え入れ、雍州を攻めたいと切実に願っているのだ。到着すれば必ず大きな手柄が立てられるであろう。」そう言って別れようとした時、「私はお前のために餞別を与えるべく袋の中を探ったところ、この一品の他には何もなかった」と言い、膏薬(軟こう)一つを与えた。その銘柄には「至雍発」と書き記されていた。万将軍は呂洞賓の言葉に従って蜀へ行くと、蜀王はこれを大いに喜ばれ、すぐさま万将軍に上将軍の位を授け、雍州を攻めさせた。万将軍が兵士たちを率いて進み雍州に到着すると、敵は険しい山中に石でできた門を閉ざして待ち構えていた。まさしく「一人でも怒りをもって関所に向かえば万人も近づくことができない」という様子に見えた。この時万将軍は、「呂洞賓が私にくれた膏薬の銘柄にある『至雍発』とは、おそらくこの雍州の石門に塗れと教えていたのだろう」と思い当たり、密かに部下に命じて持っていた膏薬を石造りの門の支柱へ塗らせた。塗ると同時に石門の柱も扉も雪や霜のように溶け始め、山が崩れて道は平らになったため、雍州の敵軍数万騎は防衛手段を失い、全員蜀王のもとへ降伏したのであった。 解説本節は『太平記』における「神風伝説」後の架空エピソードで、道教要素と歴史的虚構が融合された展開です: 1. 呂洞賓の役割深化: 2. 『至雍発』膏薬の象徴性:
3. 物語構造の歴史的背景: この架空譚には二重の政治的意図が込められています:
実際の弘安の役後、北条時宗は元朝再侵攻に備え九州防衛体制を強化しましたが、こうした人間的努力よりも『太平記』作者は「敵将流浪譚」を用いることで、より劇的な神国ナラティブを構築したと言えます。 | |||||||||||||||
| 此功然万将軍が徳也とて、軈て公侯の位に登せられける。居る事三十日有て、万将軍背に癰瘡出たりけるが、日を不経して忽に死にけり。雍州の雍の字と癰瘡の癰字と■声通ぜり。呂洞賓が膏薬の銘に至癰発と書けるは、雍州の石門に付よと教けるか、又癰瘡の出たらんに付よと占しけるか、其二の間を知難し。功は高して命は短し。何をか捨何をか取ん。若休事を不得して其一を捨ば、命は在天、我は必功を取ん。抑太元三百万騎の蒙古共一時に亡し事、全吾国の武勇に非ず。只三千七百五十余社の大小神祇、宗廟の冥助に依るに非ずや。 ○神功皇后攻新羅給事 昔し仲哀天皇、聖文神武の徳を以て、高麗の三韓を攻させ給ひけるが、戦利無して帰らせ給ひたりしを、神功皇后、是智謀武備の足ぬ所也とて、唐朝へ師の束脩の為に、沙金三万両を被遣、履道翁が一巻の秘書を伝らる。是は黄石公が第五日の鶏鳴に、渭水の土橋の上にて張良に授し書なり。さて事已に定て後、軍評定の為に、皇后諸の天神地祇を請じ給ふに、日本一万の大小の神祇冥道、皆勅請に随て常陸の鹿島に来給ふ。雖然、海底に迹を垂給阿度部の磯良一人不応召。是如何様故あらんとて、諸の神達燎火を焼き、榊の枝に白和幣・青和幣取取懸て、風俗・催馬楽、梅枝・桜人・石河・葦垣・此殿・夏引・貫河・飛鳥井・真金吹・差櫛・浅水の橋、呂律を調べ、本末を返て数反哥はせ給たりしかば、磯良感に堪兼て、神遊の庭にぞ参たる。 |
この功績は万将軍の徳によるものだとされ、すぐに公侯の位へ昇進された。その後三十日ほど経った時、万将軍の背中に癰瘡(腫れ物)ができ、日にちも経たないうちに急死した。「雍州」の「雍」という字と「癰瘡」の「癰」は同音である。呂洞賓が膏薬の銘文に書いた「至雍発」とは、「雍州の石門へ塗れ」と教えたのか、それとも「腫れ物が出たら塗れ」と暗示したのか、その二つの意味を判別することは難しい。「功績は高いが命は短い。何を捨て何を取るべきか?もし選ばざるを得ず一方を捨てるとすれば、天命に任せて私は必ず功績を取ろう。」そもそも三百万騎の蒙古軍が一瞬で滅んだことは、わが国の武勇だけによるものではない。ただ三千七百五十余社の大小神々と皇室祖先の霊による加護ゆえである。 ○神功皇后が新羅攻めをされたこと 解説本節は『太平記』巻三十九「蒙古退治」後の架空譚と古代史再解釈が融合した構成です: 【万将軍エピソードの意義】
【神功皇后挿話の特徴】
【全体構成の歴史的背景】
この部分は『太平記』作者の卓越した編集力を示しており、道教仙人譚・軍記物・神話を織り交ぜつつ、建武政権崩壊後の混乱社会で求められた「勝者も敗者も全て神意に従う」という世界観を構築しています。特に磯良が神楽歌(現実の宮廷儀礼曲)で感応する描写は、読者に冥界と顕界の連続性を想起させる効果的演出です。 | |||||||||||||||
| 其貌を御覧ずるに、細螺・石花貝・藻に棲虫、手足五体に取付て、更に人の形にては無りけり。神達怪み御覧じて、「何故懸る貌には成けるぞ。」と御尋有ければ、磯良答て曰く、「我滄海の鱗に交て、是を利せん為に、久く海底に住侍りぬる間、此貌に成て候也。浩る形にて無止事御神前に参らんずる辱しさに、今までは参り兼て候つるを、曳々融々たる律雅の御声に、恥をも忘れ身をも不顧して参りたり。」とぞ答申ける。軈て是を御使にて、竜宮城に宝とする干珠・満珠を被借召。竜神即応神勅二の玉を奉る。神功皇后一巻の書を智謀とし、両顆の明珠を武備として新羅へ向はんとし給ふに、胎内に宿り給ふ八幡大菩薩已に五月に成せ給ひしかば、母后の御腹大に成て、御鎧を召るゝに御膚あきたり。此為に高良明神の計として、鎧の脇立をばし出しける也。諏防・住吉大明神を則副将軍・裨将軍として、自余の大小の神祇、楼船三千余艘を漕双べ、高麗国へ寄給ふ。是を聞て高麗の夷共、兵船一万余艘に取乗て海上に出向ふ。戦半にして雌雄未決時、皇后先干珠を海中に抛給しかば、潮俄に退て海中陸地に成にけり。三韓兵共、天我に利を与へたりと悦て、皆舟より下、徒立に成てぞ戦ひける。此時に又皇后満珠を取て抛給しかば、潮十方より漲り来て、数万人の夷共一人も不残浪に溺て亡にけり。 |
その姿をご覧になると、小さな貝殻や藻に付着する虫たちが手足を含む全身にまとわりついており、まったく人間の形ではなかった。神々は不思議そうに見て、「なぜこのような姿になってしまったのか」とお尋ねになったところ、磯良は答えて言うには、「私は大海原の魚族と交流し彼らを助けるため長年海底に住んでいたので、こんな姿になってしまいました。みすぼらしい見た目のまま神々様のお前に出るのは恥ずかしくて今までは参上できませんでしたが、優雅で調和の取れた音楽の御声に心を打たれ、羞恥心も忘れ身の安全も顧みずにお伺いしました」と申し上げた。すぐに皇后は使者を使って竜宮城の宝である干珠(潮を引かせる玉)と満珠(潮を満たす玉)をお借りするよう命じられた。すると竜神は勅命に応じて二つの玉を差し出した。 神功皇后が一巻の書物を知略として、二顆の明珠を武具として新羅に向かおうとした時、胎内におられる八幡大菩薩(後の応神天皇)がすでに五ヶ月になられていたため、母后のお腹も大きく膨らみ、鎧をお召しになると肌にあたって窮屈だった。このために高良明神の工夫として鎧の脇当てを外したのである。諏訪大明神と住吉大明神を副将軍・裨将軍に任命し、その他の大小の神々は楼船三千余艘を漕いで朝鮮半島へ向かった。 これを聞いた高麗(朝鮮)の人々は兵船一万余艘に乗って海上に出て迎え撃った。戦いは半分ほど進んで勝敗が決しない時、皇后がまず干珠を海中に投げ入れると潮が突然引き、海底が陸地となった。三韓の兵士たちは天が自分たちに味方したと喜び、皆船から降りて徒歩で戦い始めた。その瞬間また皇后が満珠を取り出して海中へ投じると潮水が四方から押し寄せ、数万人もの敵兵が一人残らず波に溺れて死んでしまった。 解説この段落は神功皇后の三韓征伐伝説(『日本書紀』等)を中世軍記物語的に再構成した部分です: 【超自然的要素の役割】
【歴史的再解釈と創作】
【合戦描写の意図】
特に満珠による水没描写で「数万人一人残らず溺死」と強調することで、元寇(蒙古襲来)での「神風伝説」を先取りする形で「日本は神々に守られた国」という中世ナショナリズムを強化しています。全体として『太平記』作者が、古代伝承に当時の社会不安(外敵脅威・自然災害)への精神的解決策を織り込んだ創作と言えるでしょう。 | |||||||||||||||
| 是を見て三韓の夷の王自罪を謝て降参し給ひしかば、神功皇后御弓の末弭にて、「高麗の王は我が日本の犬也。」と、石壁に書付て帰らせ給ふ。是より高麗我朝に順て、多年其貢を献る。古は呉服部と云綾織、王仁と云才人、我朝に来りけるも、此貢に備り、大紋の高麗縁も其篋とぞ承る。其徳天に叶ひ其化遠に及し上古の代にだにも、異国を被順事は、天神地祇の力を以てこそ、容易征伐せられしに、今無悪不造の賊徒等、元朝高麗を奪犯、牒使を立させ、其課を送らしむる事、前代未聞の不思議なり。角ては中々吾朝却て異国に奪るゝ事もや有らんずらんと、怪しき程の事共也。されば福州の呉元帥王乙が吾朝へ贈りたる詩にも、此意を暢たり。日本狂奴乱浙東。将軍聴変気如虹。沙頭列陣烽烟闇。夜半皆殺兵海水紅。篳篥按哥吹落月。髑髏盛酒飲清風。何時截尽南山竹。細写当年殺賊功。此詩の言に付て思ふに、日本一州に近年竹の皆枯失るも、若加様の前表にてやあらんと、無覚束行末也。 ○光厳院禅定法皇行脚事 光厳院禅定法皇は、正平七年の比、南山賀名生の奥より楚の囚を被許させ給て、都へ還御成たりし後、世中をいとゞ憂き物に思召知せ給しかば、姑耶山の雲を辞し、汾水陽の花を捨て、猶御身を軽く持たばやと思召けり。 |
この様子を見て三韓(朝鮮半島)の人々の王は自らの罪を謝り降参したため、神功皇后が弓の先端で「高麗の王は我が日本の犬である」と石壁に書き記して帰還された。これ以降、高麗はわが朝廷に従い長年にわたり貢物を献上した。昔から伝わる呉服部(中国由来の織工集団)と呼ばれる綾織職人や王仁という学者が日本へ渡来したのもこの時の貢ぎ物であり、大紋様式の高麗縁織物もその箱に入っていたと承知している。 上古の時代でさえ天に認められた徳を持ち教化を遠方まで及ぼしていたのに異国を服従させるのは天神地祇(天地の神々)の力を借りてようやく可能であった。しかし現代では悪事ばかり働く賊徒ども(元朝軍)が勝手に高麗を奪い侵犯し、使者を送って税を納めさせているなど前代未聞の怪しい出来事である。このような状況ならわが国日本が逆に異国へ侵略されることもあり得るのではないかと疑うほど不思議なことばかりだ。 そのため福州(中国)の呉元帥・王乙という人物が我が朝廷へ贈った詩にも、こうした意図が明確に表れている:「日本の狂える奴ら浙東を乱す/将軍変報聞けば怒気天をつく/砂浜に陣並べ烽火の煙暗し/真夜中皆殺し兵士の血で海赤く/笛吹けば月落ち髑髏杯に清風飲む/いつか南山の竹全て切り尽くさん/あの賊討伐の功績を細かに記すために」。この詩について考えると、日本国内で近年竹林がすべて枯れたのももしかするとこうした前兆ではないのかと、将来に不安を覚えずにはいられない。 ○光厳院禅定法皇行脚事 解説【歴史観の対比構造】
【中国詩引用の戦略】
【光厳院エピソードの文脈的位置付け】
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| 御荒増の末通て、方袍円頂の出塵の徒と成せ給しかば、伏見の里の奥光厳院と聞へし幽閑の地にぞ住せ給ひける。是も猶都近き所なれば、旧臣の参り仕へんとするも厭はしく、浮世の事の御耳に触るも冷く思召れければ、来無所止、去無住。柱杖頭辺活路通ずと、中峯和尚の被作送行偈、誠に由ありと御心に染て、人工・行者の一人をも不被召具、只順覚と申ける僧を一人御共にて、山林斗薮の為に立出させ給ふ。先西国の方を御覧ぜんと思食て、摂津国難波の浦を過させ給ふに、御津の浜松霞渡て、曙の気色物哀なれば、迥に被御覧て、誰待てみつの浜松霞らん我が日本の春ならぬ世にと、打涙ぐませ給ふ。山遠き浦の夕日の浪に沈まんとするまで興ぜさせ給て、猶過うしと思召たるに、望無窮水接天色、看不尽山映夕暉と云対句の時節に相叶たるにも、捨ぬ世ならば、何故浩る風景をも可見と被仰けるも物悲し。是より高野山を御覧ぜんと思召て、住吉の遠里小野へ出させ給ひたれば、焼痕回緑春容早、松影穿紅日脚西なり。海天野景歩に随て新なる風流に、御足たゆむ共不被思食。昔は銷金軽羅の茵ならでは、仮にも蹈せ給はざりし玉趾を、深泥湿土の黯に汚れさせ給ひ御供の僧は、仕へて懸し肘後の府に替れる一鉢を脇にかけ、今夜堺浦までも歩ませ給へば、塩干の潟にむれ立て、玉藻を拾ひ磯菜取る海人共の、各つげの小櫛を差て、葦間に隠れ顕れたる様を被御覧にも、「御貢備し民の営、是程に身を苦しめけるをしらで、等閑にすさびける事よ。 |
最終的に出家し僧侶となられたため、伏見里の奥にある光厳院という静かな地にお住まいになった。しかしこの場所も都に近かったので、旧臣が仕えようとするのも煩わしく、世俗の話題が耳に入るのも不快に思われたため、「来るときは留まらず、去るときも止まらない(行く先を定めない)。杖一本で自由な道を行け」という中峯和尚作の送別偈が心に深く響き、従者や付き人を一人も連れず、ただ順覚という僧を同行させるだけで山林修行のために旅立たれた。 まず西国を見ようとお考えになり摂津国難波浦を通られた時、御津浜の松林にかすみが立ちこめ朝焼けの情景があまりにも物悲しいので、「誰を待つのか御津の浜松に霞むのは 日本の春ならぬ乱世ゆえか」と振り返って涙をおさえきれずになられた。遠く山々が見える浦で夕日が波間に沈みきるまで景色を楽しまれた後もなお未練があったものの、「果てしなく水は天に接し 尽きせぬ山々は夕日に映ゆ」という漢詩の情景とぴたり重なったことで「もし俗世を捨てなければこんな壮大な風景さえ見られなかったのか」とおっしゃるのも心打たれるものがあった。 その後高野山へ向かうため住吉の遠里小野に着くと、「焼け跡は緑が早く芽吹き 松影が赤い夕日を突いて西に傾く」景色だった。海と空と原野が歩みにつれて変わる新たな風情の中、足のお疲れもお感じにならないご様子である。かつて金糸織りの絹毯以外は踏まれなかった尊き御足が深い泥や湿った土に汚れるのを厭わず、供の順覚僧は常に携えていた経箱の代わりとなる托鉢用の一鉢を脇にかけている。今夜堺浦まで歩かれた折には、干潟で群れ集まり海藻や磯菜を採る漁師たちが笹間からひそかに現れては消える様子をご覧になり、「税を納める民の暮らしがこれほど苦しいとは知らずに 私は何と無駄な遊びをしていたことか」と深く反省された。 解説【隠遁者の心理描写】
【階級対比の社会批評】
『太平記』全体構造における位置付け本段落は:
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| 」と、今更浅猿く思食知せ給ふ。回首望東を、雲に聯なり霞に消て、高く峙てる山あり。道に休める樵に山の名を問はせ給へば、「是こそ音に聞へ候金剛山の城とて、日本国の武士共の、幾千万と云数をも不知討れ候し所にて候へ。」とぞ申ける。是を聞食て、「穴浅猿や、此合戦と云も、我一方の皇統にて天下を争ひしかば、其亡卒の悪趣に堕して多劫が間苦を受けん事も、我罪障にこそ成ぬらめ。」と先非を悔させ御坐す。経日紀伊川を渡らせ給ひける時、橋柱朽て見るも危き柴橋あり。御足冷く御肝消て渡りかねさせ給ひたれば、橋の半に立迷てをはするを、誰とは不知、如何様此辺に、臂を張り作り眼する者にてぞある覧と覚へたる武士七八人迹より来りけるが、法皇の橋の上に立せ給ひたるを見て、「此なる僧の臆病気なる見度もなさよ。是程急ぎ道の一つ橋を、渡らばとく渡れかし。さなくは後に渡れかし。」とて、押のけ進らせける程に、法皇橋の上より被押落させ給ひて、水に沈ませ給ひにけり。順覚、「あら浅猿や。」とて、衣乍著飛入て引起し進せたれば、御膝は岩のかどに当りて血になり、御衣は水に漬りてしぼり不得。泣々傍なる辻堂へ入れ進せて、御衣を脱替させ進せけり。古へも浩る事やあるべきと、君臣共に捨る世を、さすがに思召出ければ、涙の懸る御袖は、ぬれてほすべき隙もなし。 |
「これまで民衆を顧みなかったことが」と今さらながらみっともなく思われた。振り返って東を見ると、雲につながり霞に消えるようにそびえ立つ山があった。道端で休む樵夫に山の名を尋ねられると、「これは噂に聞く金剛山城という場所で、日本の武士たちが何万と数知れず討たれたところです」と答えた。これを聞いて「なんと浅はかだったことか。あの戦いも私方の皇統同士が天下を争ったため、亡くなった兵卒たちが悪趣に堕ちて永劫苦しむことも、すべて私の罪障によるのだろう」と過ちを深く悔やまれた。 数日後紀伊川を渡られた時、橋脚が腐って見るからに危ない柴橋があった。足元が冷たくなり肝をつぶして渡れそうになかったところで、橋の中途で立ちすくんでおられるのを見て、不審な腕自慢風体の武士七、八人が後ろから来かかり、「この臆病坊主は見苦しい。こんな急ぎ道の一本橋を渡るなら早う渡れ。さもなくばどけ!」と押しのけて進んだため、法皇は橋上から突き落とされ川に沈まれた。順覚が「ああ不本意なことか」と衣装を着たまま飛び込み救い上げると、膝は岩角で血だらけになり御衣は水浸しで絞れない状態だった。泣く泣く傍らの辻堂に連れて行き衣服を取り替えさせた。 古代にもこのようなことがあっただろうかと、主従共々捨てた俗世を改めて思い出されると、涙に濡れた袖は乾かす暇もないほどであった。 解説【権威失墜の象徴的描写】
『太平記』特有の文学技法
歴史叙述としての重要性本場面が描く:
最終文「涙袖乾かす暇なし」は『源氏物語』帚木巻の貴人零落モチーフを継承し、古典的雅情と中世動乱期のリアリズムが融合した太平記文学の本質を示している。 | |||||||||||||||
| 行末心細き針道を経て御登山有ければ、山又山、水又水、登臨何日尽さんと、身力疲れて被思食にも、先年大覚寺法皇の、此寺へ御幸成りしに、供奉の卿相雲客諸共に、一町に三度の礼拝をして、首を地に著け、誠を致されける事も、難有かりける御願哉。予が在位の時も、代静かなりせば、などか其芳躅を不蹈と、思召准へらる。さて御山にも御著有しかば、大塔の扉を開せて両界の曼荼羅を御拝見あれば、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊をば、入道太政大臣清盛公、手ら書たる尊容也。さしも積悪の浄海、何なる宿善に被催、懸る大善根を致しけん。六大無碍の月晴る時有て、四曼相即の花可発春を待けり。さては是も只混なる悪人にては無りけるよと、今爰に思召知せ給ふ。落花為雪笠無重、新樹謬昏日未傾、其日頓て奥の院へ御参詣有て、大師御入定の室の戸を開かせ給へば、嶺松含風顕踰伽上乗之理、山花篭雲秘赤肉中台之相。前仏の化縁は過ぬれ共、五時の説今耳に有かと覚え、慈尊の出世は遥なれ共、三会の粧已に眼に如遮。三日まで奥院に御通夜有て暁立出させ給に一首の御製あり。高野山迷の夢も覚るやと其暁を待ぬ夜ぞなき安居の間は、御心閑に此山中にこそ御坐あらめと思召て、諸堂御巡礼ある処に、只今出家したる者と覚くて、濃墨染にしほれたる桑門二人御前に畏て、其事となく只さめ/\とぞ泣居たりける。 |
進む先も心細い険しい山道を通って登られたので、山また山、川また川に出会い、「この登山はいったいいつ終わるのだろう」と体力が尽きてお思いになっても、かつて大覚寺法皇(後宇多上皇)がこの寺へ行幸された際には、供奉の公卿や高僧たち一同が一町ごとに三度も礼拝し頭を地につけ誠意を示したことはなんと尊い御心掛けだったか。私(光厳院法皇)が在位中にも世の中平穏であったならば、なぜその立派な先例に倣わなかったのかと思い返される。 そして山上にお着きになると大塔の扉を開けて両界曼荼羅をご覧になったところ、胎蔵界七百余尊・金剛界五百余尊はすべて入道太政大臣清盛公自筆の尊像であった。「あれほど悪行を積んだ平清盛がどんな前世の善行に導かれてこれほどの大善根を成しえたのか。六大無碍(密教真理)の月が晴れる時節があれば、四曼相即(宇宙調和)の花も必ず春に開くというのに」とここに至って「清盛も単なる悪人ではなかったのだな」と深く理解された。 落ちた花は雪のように笠を重ねていないが(虚飾がない)、新緑の樹々は間違って夕暮れと思わせるほど日はまだ傾いていない。その日すぐに奥之院へ参詣し弘法大師入定の室の戸をお開きになると、嶺松が風を含んで瑜伽上乗(密教哲理)を顕わし、山花が雲に包まれて赤肉中台(大日如来真理)の相を秘めている。過去仏の教化は過ぎ去ったとはいえ五時八教の説法が今も聞こえるようであり、弥勒菩薩出世は遠いといえど三会説法の光景が目の前に広がるかのようだった。 三日間奥之院で御篭りになり明け方に出発された際に一首の御製があった。「高野山迷いの夢も覚めるかとその夜明けを待たぬ晩はない」。安居(修行期間)中は心安らかに山中におられようと思われ諸堂巡礼なさっていたところ、つい最近出家した者と思しき墨染め衣にすっかり馴染んだ僧二人が御前にひれ伏して、何の事情もなくただ静かに泣いているのであった。 解説【後醍醐天皇との対照性】
高野山描写の宗教的象徴性
『太平記』全体構成における役割この場面は:
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| 何者なるらんと怪く思召てつく/゛\御覧じければ、紀伊川を御渡有し時、橋の上より法皇を押落し進らせたりし者共にてぞ有ける。不思議や何事に今遁世をしけるぞや。是程無心放逸の者も、世を捨る心の有けるかと思召て過させ給へば、此遁世者御迹に随て、順覚に泣々申けるは、「紀伊川を御渡候し時、懸る無止事〔御事〕共知奉り候はで、玉体にあしく触奉し事、余に浅猿く存候て、此貌に罷成て候。仏種は従縁起る儀も候なれば、今より薪を拾ひ、水を汲態にて候共、三年が間常随給仕申候て、仏神三宝の御とがめをも免れ候はん。」とぞ申ける。「よしや不軽菩薩の道を行給しに、罵詈誹謗する人をも不咎、打擲蹂躙する者をも、却て敬礼し給き。況我已貌を窶して人其昔を不知。一時の誤何か苦かるべき。出家は誠に因縁不思議なれ共、随順せん事は怒々叶まじき。」由を被仰けれ共、此者強て片時も離れ進らせざりしかば、暁閼伽の水汲に被遣たる其間に、順覚を召具して潜に高野をぞ御出有ける。御下向は大和路に懸らせ給ひしかば、道の便も能とて、南方の主上の御座ある吉野殿へ入らせ給ふ。此三四年の先までは、両統南北に分れて此に戦ひ彼に寇せしかば、呉越の会稽に謀しが如く、漢楚の覇上に軍せしにも過たりしに、今は散聖の道人と成せ給て、玉体を麻衣草鞋にやつし、鸞輿を跣行の徒渉に易て、迢々と此山中迄分入せ給たれば、伝奏未事の由を不奏先直衣の袖をぬらし、主上未御相看なき先に御涙をぞ流させ給ける。 |
「いったい何者だろう」と不審にお思いになってじっとご覧になると、紀伊川で渡られた際に橋上から法皇様をお押し落とした連中であった。「不思議だ。どうして今出家したのか?これほど無慈悲な者たちにも世を捨てる心があったのだろうか」とお通り過ぎになろうとしたところ、この遁世者(元武士)が後をついてきて順覚に泣く泣く申し上げたのは、「紀伊川で渡御の際、尊い方とも知らず玉体に無礼を働いたことが余りにも浅ましく思い、この姿になりました。仏縁は因縁によって起こるものゆえ、今から薪を拾い水を汲むような身であっても三年間常にお仕えし、仏神三宝のお咎めをお許しいただきたい」とのことであった。 「たとえ不軽菩薩(法華経の行者)が罵詈誹謗する者を責めず打擲する者すら敬ったように。ましてや私は見る影もなく変わり、誰にも過去はわからぬ。一時の過ちなど何ほどの苦しみがあろうか。出家は確かに因縁不思議だが従うことは容易ではない」と法皇がおっしゃっても彼らが頑として離れないため、明け方に閼伽水汲みに行かせた隙に順覚を伴い密かに高野山をお出になった。 下山は大和路に向かい道の便もよいので南朝の主君(後醍醐天皇)のおられる吉野へ入られた。ここ三、四年前までは両統が南北に分かれて戦い呉越の会稽や漢楚の覇上にも勝る争いであったのに、今は聖を散らす道人となられ玉体を麻衣草鞋で粗末にして鸞輿(御輿)を裸足での徒渉と変え遥々山中へ分け入られた。報告も届かぬ先に直衣の袖を濡らし、主君とも対面せぬうちに涙を流された。 解説【贖罪と和解の宗教的プロセス】
吉野到着場面の歴史的象徴性
『太平記』文学的特質の発露この場面は:
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| 是に一日一夜御逗留有て、様々の御物語有しに、主上、「さても只今の光儀、覚ての後の夢、夢の中の迷かとこそ覚へて候へ。縦仙院の故宮を棄て釈氏の真門に入せ給ふ共、寛平の昔にも准へ、花山の旧き跡をこそ追れ候べきに、尊体を浮萍の水上に寄て、叡心を枯木の禅余に被付候ぬる事、何なる御発心にて候けるぞや。御羨こそ候へ。」と、尋申させ給ければ、法皇御泪に咽て、暫は御詞をも不被出。良有て、「聰明文思の四徳を集て叡旨に係候へば、一言未挙先に、三隅の高察も候はん歟。予元来万劫煩悩の身を以て、一種虚空の塵にあるを本意とは存ぜざりしか共、前業の嬰る所に旧縁を離兼て、可住荒増の山は心に乍有、遠く待れぬ老の来る道をば留むる関も無て年月を送し程に、天下の乱一日も休む時無りしかば、元弘の始には江州の番馬まで落下り、五百余人の兵共が自害せし中に交て、腥羶の血に心を酔しめ、正平の季には当山の幽閑に逢て、両年を過るまで秋刑の罪に胆を嘗き。是程されば世は憂物にて有ける歟と、初て驚許に覚候しかば、重祚の位に望をも不掛、万機の政に心をも不留しか共、一方の戦士我を強して本主とせしかば、可遁出隙無て、哀いつか山深き栖に雲を友とし松を隣として、心安く生涯を可尽と、心に懸て念じ思し処に、天地命を革て、譲位の儀出来しかば、蟄懐一時に啓て、此姿に成てこそ候へ。 |
そこで一日一夜お留まりになり様々な御話をされたところ、主上(後醍醐天皇)が「ともあれ今のお姿は、夢覚めた後の夢か、夢の中の迷いかと思われます。たとえ仙洞(上皇御所)を捨て仏門に入られたにせよ、寛平帝(宇多天皇)の昔にも例えられましょうに、花山院の旧跡をお追いになられるべきところ、尊体を浮き草のように水上に漂わせ、叡慮を枯れ木のような禅の余事にお委ねになるとは、これはどのような御決心だったのですか。羨ましく存じます」とお尋ねになった。 すると法皇(大塔宮)は涙にむせび、しばらく言葉も出られなかったが、やがて「聡明で文思深い四徳を備えた主上の御前では、一言発しない先にもお察しいただけるでしょう。私は元来、幾万劫もの煩悩の身でありながら、まるで虚ろな塵のような存在であることを本意とは思いませんでしたが、前世の業に縛られ旧縁を離れられず、住むべき荒れた山は心にあるのに待ちきれぬ老いが迫る道には留め関もなく年月を送っておりました。天下の乱が一日も休まず続く中では、元弘のはじめ(1331年)には近江の番馬場で五百余人の兵士と共に自害せんとした際、獣のような殺伐たる血に心酔し、正平年間(1346年頃)にはこの山の静けさを得て二年を過ごすまで刑罰への恐れに肝を冷やしました。ここまできて世の中とは憂うべきものだと初めて悟りましたが、重祚(皇位復帰)にも望みを持たず政務にも心留めませんでした。ただ一党の戦士らが無理やり私を主君に立てようとしたため逃れる隙もなく、哀れながら山深い隠れ家で雲を友とし松を隣として心安く生涯を終えたいと念じていたところ、天地が命(帝位)を改め譲位の儀式があったので、閉ざしていた思いが一時に開けてこの姿になったのです」と答えられた。 解説【君臣対話の核心的意味】
宗教的メタファーの機能
歴史的コンテクストこの応酬は:
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| 」と、御涙の中に語尽させ給へば、一人諸卿諸共に御袖をしぼる許也。「今は。」とて御帰あらんとするに、寮の御馬を進せられたれ共、堅御辞退有て召れず。いつしか疲させ給ひぬれ共、猶如雪なる御足に、荒々としたる鞋を召れて出立させ給へば、主上は武者所まで出御成て、御簾を被掲、月卿雲客は庭上の外まで送り進せて、皆泪にぞ立ぬれ給ける。道すがらの山館野亭を御覧ぜらるゝにも、先年■里の囚に逢せ給て、一日片時も難過と、御心を傷しめ給し松門茅屋あり。戦図に入山中ならずは斯る処にぞ住なましと、今は昔の憂栖を御慕有けるぞ悲き。諸国御斗薮の後、光厳院へ御帰有て暫御座有けるが、中使頻に到て松風の夢を破り、旧臣常に参て蘿月の寂を妨ける程に、此も今は住憂と思召、丹波国山国と云所へ、迹を銷して移せ給ける。山菓落庭朝三食飽秋風、柴火宿炉夜薄衣防寒気、吟肩骨痩担泉慵時、石鼎湘雪三椀茶飲清風、仄歩山嶮折蕨倦時、岩窓嚼梅、一聯句甘閑味給ふ。身の安を得る処即心安し。出有江湖、入有山川と、一乾坤の外に逍遥して、破蒲団の上に光陰を送らせ給けるが、翌年の夏比より、俄に御不予の事有て、遂に七月七日隠させ給にけり。 ○法皇御葬礼事 比時の新院光明院殿も、山門貫主梶井宮も、共に皆禅僧に成せ給て、伏見殿に御座有ければ、急ぎ彼遷化の山陰へ御下り有て御荼毘の事共、取営せ給て、後の山に葬し奉る。 |
法皇(大塔宮)が涙ながらにお話し終えられると、公家たちも皆そろって袂で涙をぬぐうばかりであった。「もうお別れです。」とお帰りになろうとしたところ、(主上側から)馬をお進めしたが、固く辞退してお乗りにならなかった。結局お疲れの様子だったものの、雪のように白い御足に荒々しい草鞋を履いて出発されると、主上(後醍醐天皇)は武者詰所まで見送られて御簾を上げさせられ、公家たちも庭先のはるか外まで送り届け、皆涙にくれて立ち尽くされた。道中で目にする山荘や野亭のたびに、「かつて流浪していた時に出会った場所だ」と思い起こされ、一日たりとも安らかに過ごせず心を痛めた松門茅屋(質素な家)がある。「もし戦乱がなければこのような山中に住んでいただろうか」と昔の憂い多き生活を懐かしむのは悲しかった。諸国を放浪した後、光厳院のもとに戻って暫くおられたものの、使者が頻繁に訪れて松風のような静かな夢を破り、旧臣たちもしょっちゅう参上して蘿月(つる草と月光)の寂しさも妨げられるほどだったので、ここでも住みづらくなって思われたのか、丹波国山国という所へひそかに移られた。そこでは朝には庭に落ちた山の実を拾い三度の食事で満腹となり秋風を感じる日々が続き、夜は炉にくべた薪火で寒気を防ぎ薄着で過ごしたものだ。詩吟する肩骨は痩せて水汲みも億劫な時には石釜に雪融けの茶を三椀飲んで清風を味わい、険しい山道を行く足が萎蕨(シダ)を折るのに疲れた折には岩窓で梅干しを噛む。一句詠めば閑寂な味わいに甘んじることだった。「身の安らぎを得るところ心もまた安らいだ」と、江湖に出れば水辺があり山に入れば峰があるように一乾坤(この世)の外に逍遥して破れた蒲団の上で歳月を過ごされたが翌年の夏頃から突然お体調を崩されついに七月七日にお亡くなりになった。 解説【隠遁生活と死の描写における核心】
前文(君臣対話)との連続的解釈
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| 哀仙院芝山の晏駕ならましかば、百官泪を滴て、葬車の御迹に順ひ、一人悲を呑で虞附の御祭をこそ営せ給ふべきに、浩る御事とだに知人もなき山中の御葬礼なれば、只徒に鳥啼て挽歌の響をそへ、松咽で哀慟の声を助る計也。夢なる哉、往昔の七夕には、長生殿にして二星一夜の契を惜て、六宮の美人両階の伶倫台下に曲を奏して、乞巧奠をこそ備へさせられしに、悲哉、当年の今日は、幽邃の地にして三界八苦の別に逢て、万乗の先主・一山の貫頂、山中に棺を荷ふて御葬送を営せ給ふ。只千秋亭の月有待の雲に隠れ、万年樹の花無常の風に随ふが如し。されば遶砌山川も、是を悲て雨となり雲となる歟と怪まる。無心草木も是を悼て、葉落ち花萎めるかと疑はる。感恩慕徳旧臣多といへ共、預め勅を遺されしに依て、参り集る人も稀なりしかば、纔に篭僧三四人の勤めにて、御中陰の菩提にぞ資け奉りける。御国忌の日ごとに、種々の作善積功累徳せらる。殊更に第三廻に当りける時は、継体の天子今上皇帝、御手自一字三礼の紺紙金泥の法華経をあそばされて、五日八講十種供養あり。伶倫正始の楽は、大樹緊那の琴の音に通じ、導師称揚の言は、富楼那尊者の弁舌を展たり。結願の日に当て、薪を採て雪を荷ふ夕郎は、千載給仕の昔の迹を重くし、水を汲て月を運ぶ雲客は、八相成道の遠き縁を結ぶ。 |
哀仙院(大塔宮)がもし都で亡くなられていたなら、百官は涙を流して葬列の跡に従い、一人残らず悲しみをこらえて御霊前の祭儀を行うはずであった。しかし実際にはあまりにも広漠とした山中での葬儀だったため、知る人もなく、ただ無駄に鳥が鳴いて挽歌の響きを添え、松風がすすり泣くように哀悼の声を助けるばかりである。ああ夢のようなことだ——昔の七夕には長生殿で織女と牽牛星の一夜の契りを惜しみ、六宮の美女たちや両階の楽人たちが台下で曲を奏しながら乞巧奠(裁縫上達祈願祭)を行わせられたのに。悲しいかな、今年の今日は奥深い山中で三界八苦(あらゆる苦しみ)との別れに遭い、万乗の君主であった先帝と一山の僧侶たちが山の中で棺を担いで葬儀を行うのである。まさしく千秋亭の月が待ち人なき雲に隠れるように、万年樹の花が無常の風に散るようなものであった。そのため周囲の山川もこれを悲しんで雨や雲となったかと不思議に思われた。心ない草木でさえこれを見て葉を落とし花を萎ませているのかと疑われるほどであった。恩義に感じ慕う旧臣は多かったが、事前に遺勅(別れの命令)があったため参集する者も稀であり、わずか三四名の僧侶だけの勤めで御中陰(四十九日の法要)の菩提を支え奉った。毎年の命日には様々な善行・功徳積みが行われた。特に三回忌にあたる時は継体の天子である今上皇帝自らが一字三礼(一文字書くごとに三度拝む)で紺紙金泥の法華経を写され、五日間にわたって八講十種供養(詳細な仏教儀式)があった。楽人の奏する正始の雅楽は大樹緊那羅王の琴の音に通じ、導師が唱える称賛の言葉は富楼那尊者(釈迦十大弟子)の弁舌を繰り広げるようであった。結願(法要終了)の日には薪を採って雪を運ぶ若者は千年前の給仕の古跡を重んじ、水を汲んで月影を映す雲客は八相成道(仏陀生涯)の遠い縁を結んだ。 解説【葬儀描写の文学的技法と思想的背景】
前文(法皇の死と葬送)との連続性
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| 是又善性・善子の珊提嵐国に仕へし孝にも過ぎ、浄蔵・浄眼の妙荘厳王を化せし功にも越たれば、十方の諸仏も明かに此追賁を随喜し給ひ、六趣の群類も定て其余薫にこそ関るらめと、被思知御作善也。 |
これはまた、善性と善子が珊提嵐国(サンジャーヤナ王国)で尽くした孝行をも超えており、浄蔵と浄眼が妙荘厳王を教化した功績さえも凌駕しているため、十方世界の諸仏も明らかにこの追善供養を喜んでおられ、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)にいるすべての衆生たちもきっとその恩恵にあずかることでしょうと思われましたほどの立派な御善行であります。 解説【仏教説話引用による供養功徳の強調】
文学的機能
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| input text 太平記\040_太平記_巻40.txt | 現代日本語 translated text | ||||||||||||
| 太平記 太平記巻第四十 ○中殿御会事 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸あり。是は後白河法皇の御遠忌追賁之御為に、三日まで御逗留有て法花御読経あり。安居院の良憲法印・竹中僧正慈照、導師にぞ被参ける。難有法会なれば、聴聞の緇素不随喜云者なし。惣じて此君御治天の間、万づ継絶、興廃御坐す叡慮也しかば、諸事の御遊に於て、不尽云事不御座。故に中殿御会は、累世の規摸也。然るを此御世に未無其沙汰。仍連々に思食立しかば、関白殿其外の近臣内々被仰合、中殿の宸宴は大儀なる上、毎度天下の凶事にて先規不快由、面々一同に被申ければ、重て有勅定けるは、聖人有謂、詩三百一言思無邪と。されば治れる代の音は安して楽む。乱れたる代の音は恨て忿るといへり。日本哥も可如此。政を正して邪正を教へ、王道の興廃を知は此道也。されば昔の代々の帝も、春の花の朝・秋の月の夜、事に付つゝ哥を合せて奉らん人の慧み、賢愚なるをも知食けるにや。神代の風俗也。何れの君か是を捨給ん。聖代の教誡也。誰人か不哢之。抑中殿の宸宴と申侍るは、後冷泉院天喜四年三月画工の桜花を叡覧有て土御門大納言師房卿に勅して、「新成桜花。」と云題を令献、清涼殿に召群臣御製を被加、同糸竹の宴会あり。自爾以来、白河院応徳元年三月左大弁匡房に勅して「花契多春。 |
貞治六年(1367年)三月十八日、長講堂へ行幸があった。これは後白河法皇のご遠忌追善供養のために三日間滞在され、法華経読経が行われた。安居院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師を務めた。貴重な法会であったため聴聞に集まった僧俗で喜ばない者はいなかった。総じてこの天皇(光厳上皇)が治天の君としておられた期間は、万事において断絶したものを継ぎ廃れたものを興すご配慮があったので、あらゆる遊芸にも不十分な点は見られなかった。だから「中殿御会」も歴代の慣例であった。しかしこの御世ではまだその催しがなく、たびたびお考えになられたところ、関白殿下をはじめ近臣たちが内々に相談し、「中殿でのご宴席は大儀である上、毎度天下の凶事があり先例通りには行い難い」と一同で申し上げた。そこで重ねて勅定があったことには——聖人(孔子)が「詩三百篇を一言で言えば『思うところ邪なし』と言ったように、治まった世の音楽は安らぎ楽しみ、乱れた世の音は恨み怒るものだ」とある。日本の和歌も同様である。政治を正し邪正を教え王道の興廃を知るのはこの道(和歌)による。だから昔の歴代天皇も春の花の朝や秋の月夜に事に応じて歌合わせをさせ、詠む人の才覚・賢愚をご覧になったのだろうか。これは神代からの風俗である。どの君主がこれを捨てられようか? 聖代における教戒として誰が謡わぬことがあろうか。そもそも中殿御会と申し上げるのは、後冷泉院の天喜四年(1056年)三月に画工桜花をご覧になり土御門大納言師房卿へ「新成桜花」という題を献上させられ清涼殿で群臣を召して詠進なさり管弦宴を行ったことに始まる。それ以来、白河院の応徳元年(1084年)三月には左大弁匡房に勅し「花契多春」。 解説【歴史的儀礼再興と政治的意図】
『太平記』全体における意義
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| 」と云題を令献、於中殿被講之。又堀河院御代永長元年三月権大納言匡房卿に課て、「花契千年。」と云題を令献、宴遊を被伸。又崇徳院御宇天承元年十月、権中納言師頼に勅して、「松樹緑久。」と云題を令献、宸宴有き。其後建保六年八月順徳院光明峯寺の関白に勅して、「池月久澄。」と云題を令献被講き。次後醍醐院御宇元徳二年二月、権中納言為定卿に勅して、「花契万春。」と云題にて、中殿の御会を被行之。此外承保二年四月・長治二年三月・嘉承二年三月・建武二年正月、清涼殿にして和哥の宴雖在之、非一二度、中殿の御会先規には不加侍にや。加様の先蹤皆聖代洪化なり。何ぞ不快の例といはんや。然に今年の春は九城の裏の花香く、八島の外に風治れる時至れり。早く尋建保芳躅、題並序の事。関白可被献之由強て有勅定しかば、中殿の御会の事内々已に定りにけり。征夷将軍も、此道に数奇給ふ事なれば、勅撰なんど被申行上、近比は建武の宸宴、贈左府の嘉躅非無由緒、被仰出しかば、不及子細領掌被申けり。因此蔵人左少弁仲光を奉行にて、三月二十九日を被定。勅喚の人々に賦題。「花多春友。」と云題を、任建保例兼日に関白被出けるとかや。既に其日に成しかば、母屋の廂の御簾を捲て、階の西の間より三間北にして、二間に各菅の円座を布て公卿の座とす。 |
「花契多春」という題を与えられ、中殿でおこなわれた。また堀河天皇の御代・永長元年(1096年)三月には権大納言匡房卿に命じて「花契千年」という題を献上させ宴遊が催された。崇徳上皇の治世・天承元年(1131年)十月、権中納言師頼へ勅して「松樹緑久」という題を献上させ御前歌会があった。その後建保六年(1218年)八月、順徳天皇が光明峯寺に関白に命じ「池月久澄」の題で講釈された。次いで後醍醐天皇治世・元徳二年(1330年)二月には権中納言為定卿へ勅し「花契万春」という題で中殿御会が開催された。この他承保二年(1075年)四月、長治二年(1105年)三月、嘉承二年(1107年)三月、建武二年(1335年)正月に清涼殿での和歌の宴はあったが数度のみで中殿御会という先例には当てはまらない。こうした歴代の事例はいずれも聖代の大きな治績である。「不快な前例」と言えようか? しかし今年(貞治六年)の春は都に花薫り、国内が平穏な時節となったのだから、早く建保年間の良き先例をたどり題と序文の件については関白が差し上げるべきだという勅命があり強く決定されたため中殿御会は内々に定まった。征夷将軍(足利義詮)も和歌道に関心をお持ちゆえ、勅撰集編纂などが申し立てられ近年では建武年間の御前宴会や贈左大臣(二条道平か)の良き先例もある由縁から仰せ出され異議なく承諾された。これにより蔵人左少弁仲光を奉行と定め三月二十九日開催となり、勅命で招集された人々に賦題が与えられた。「花多春友」という題は建保年間の先例にならい前もって関白から出されたとか。当日になり母屋廂の御簾を巻き上げ階上の西の間より三間北側、二間に各菅円座を敷いて公卿たちの席とした。 解説【中殿御会復興と政治的意図】
『太平記』史観における位置付け
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| 長治元年には雖為二行、今度は関白殿の加様に座を被設。御帳の東西には三尺の几帳を被立、昼の御座の上には、御剣・御硯箱を被措たり。大臣の座末、参議の坐の前には、各高灯台を被立たり。関白直廬より御参あれば、内大臣已下相随ひ給ふ。任保安例今日既に直衣始の事あり。前駆・布衣・随身の褐衣如常なれば、差たる見事は無りけり。丑刻許に将軍已に参内あり。其行妝見物の貴賎皆目を驚かせり。公家家礼の人々には、為秀・行忠・実綱卿・為邦朝臣なんど庭上に下て礼あり。左衛門の陣の四脚に、将軍即参入あり。先帯刀十人左右に相番て曳列。左は佐々木佐渡四郎左衛門尉時秀、地白の直垂に金銀の薄にて四日結を挫たる紅の腰に、鰄の金作の太刀を帯く。右は小串次郎左衛門尉詮行、地緇の直垂に、銀薄にて二雁を挫白太刀を佩く。次伊勢七郎左衛門貞行、地白の直垂に、金薄にて村蝶を押て白太刀を佩て左に歩む。右は斉藤三郎左衛門尉清永、地香の直垂に、二筋違の中に、銀薄にて■菱を押たる黄腰に、鰄の太刀を佩たり。次に大内修理亮、直垂に金薄にて大菱を押す。打鰄に金作の太刀を帯く。右は海老名七郎左衛門尉詮季、地黒に茶染直垂に、金薄にて大笳篭を押して、黄なる腰に白太刀帯たり。次本間左衛門太郎義景、地白紫の片身易の直垂に金銀の薄にて十六目結を押、紅の腰に白太刀を佩く。 |
長治元年には2度行われたとはいえ、今回は関白殿によってこのように座席が設けられた。御帳台の東側と西側には三尺の几帳が立てられ、昼間の上座の位置には御剣と御硯箱が置かれた。大臣の末席や参議の座前にはそれぞれ高灯台が設置された。関白が控え所からお出ましになると、内大臣以下が付き従われた。「保安年間の先例に倣い」今日は既に直衣始め(新年最初の儀礼用装束着用)があった。前駆・布衣・随身の普段着は通常通りで、特に目立つ様子はなかった。丑の刻頃(午前2時ごろ)、将軍がすでに参内した。その行列の装いを見物する貴賤の人々は皆驚嘆した。公家や礼儀をわきまえた人々である為秀・行忠・実綱卿・為邦朝臣らは庭へ降りて挨拶した。左衛門陣営の四脚(簡易御殿)で、将軍がすぐに入られた。先導する帯刀10人が左右に分かれて列をなす。左側は佐々木佐渡四郎左衛門尉時秀で、地白の直垂に金銀箔を用いて「四日結び」紋様を刺した赤い腰巻をつけ、鮫皮柄の金装飾太刀を帯びていた。右側は小串次郎左衛門尉詮行で、地黒の直垂に銀箔で二羽雁をあしらい白太刀を佩いた。次いで伊勢七郎左衛門貞行が、地白の直垂に金箔で村蝶紋様を押した白太刀を帯びて左側を行く。右は斎藤三郎左衛門尉清永で、地香(薄茶色)の直垂に「二筋違い」模様の中へ銀箔の■菱(欠字部分は不明な菱形紋)を押した黄色い腰巻をつけ鮫皮太刀を佩いた。次が大内修理亮で、直垂に金箔で大菱文様を施し、打鮫(加工鮫皮)柄の金装飾太刀を帯びる。右は海老名七郎左衛門尉詮季で、地黒に茶染めの直垂に金箔で「大笳篭」(大型籠目紋様)を押し黄色い腰巻に白太刀を佩いた。次が本間左衛門太郎義景で、地白紫の片身替わり(左右異色)直垂に金銀箔で十六葉結び文様を施した赤い腰巻に白太刀を帯びていた。 解説【室町幕府権威の視覚的演出】
歴史的意義
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| 右に山城四郎左衛門尉師政、地白に金泥にて州流を書たる直垂に、白太刀佩て相随ふ。次に粟飯原弾正左衛門尉詮胤、地黄■に銀泥にて水を書、金泥にて鶏冠木を書たる直垂に、帷は黄なる腰に白太刀を帯たり。由々敷ぞ見へたりける。此次に征夷大将軍正二位大納言源朝臣義詮卿、薄色の立紋の織物の指貫に、紅の打衣を出し、常の直垂也。左の傍に山名民部少輔氏清、濃紫の指貫に款冬色の狩衣著して帯剣の役に随へり。右は摂津掃部頭能直、薄色の指貫、白青織物の狩衣著て沓の役に候す。佐々木備前五郎左衛門尉高久、二重狩衣にて御調度の役に候す。本郷左近大夫将監詮泰は、香の狩衣にて笠の役に随ふ。今河伊予守貞世は侍所にて、爽かに胄たる随兵、百騎許召具して、轅門の警固に相随。此外土岐伊予守直氏・山城中務少輔行元・赤松大夫判官光範・佐々木尾張守高信・安東信濃守高泰・曾我美濃守氏助・小島掃部助詮重・朝倉小次郎詮繁・同又四郎高繁・彦部新左衛門尉秀光。藤民部五郎左衛門盛時・八代新蔵人師国・佐脇右京亮明秀・藁科新左衛門尉家治・中島弥次郎家信・後藤伊勢守・久下筑前守・荻野出羽守・横地山城守・波多野出雲守・浜名左京亮・長次郎、是等の人々思々の直垂にて、飼たる馬に厚総係て、折花尽美。 |
隣には山城四郎左衛門尉師政がいて、地色白の直垂(ひたたれ)に金泥で州流(すながせ)模様を描き、白い太刀を帯びて従っていた。次に粟飯原弾正左衛門尉詮胤は、地黄■(欠字部分不明)の直垂に銀泥で水紋を描き、金泥で鶏冠木(けいかんぼく・かえでの葉模様)を描いたもので、帷子(かたびら)には黄色い腰巻をつけ白太刀を帯びていた。非常に見事な光景だった。その次に征夷大将軍正二位大納言源朝臣義詮卿が登場し、薄色の立湧紋様のある織物の指貫(さしぬき)に紅の打衣(うちぎ)を着け、普段通りの直垂姿であった。左側には山名民部少輔氏清がいて、濃紫の指貫に款冬色(ふきのはないろ・淡黄色)の狩衣(かりぎぬ)を着て帯剣役として従っていた。右側は摂津掃部頭能直で、薄色の指貫と白青織物の狩衣を着て沓履役(くつばきやく)に侍り、佐々木備前五郎左衛門尉高久は二重仕立ての狩衣で御調度役(儀式用具管理)、本郷左近大夫将監詮泰は香色(こうじき・薄茶色)の狩衣を着て笠持ち役として従った。今河伊予守貞世は侍所にいて、鮮やかな甲冑をつけた随兵約100騎を率い轅門(えんもん・正門)警護についた。この他にも土岐伊予守直氏・山城中務少輔行元・赤松大夫判官光範・佐々木尾張守高信・安東信濃守高泰・曾我美濃守氏助・小島掃部助詮重・朝倉小次郎詮繁・同又四郎(同じく)高繁・彦部新左衛門尉秀光、藤民部五郎左衛門盛時・八代新蔵人師国・佐脇右京亮明秀・藁科新左衛門尉家治・中島弥次郎家信・後藤伊勢守(名欠)・久下筑前守(同)・荻野出羽守(同)・横地山城守(同)・波多野出雲守(同)・浜名左京亮(同)・長次郎(同)、これらの人々はそれぞれ思い思いの直垂を着て、飼いならした馬に厚手の総轡(そうぐつ・革製手綱)をつけ、その見事さは言葉では言い尽くせないほどであった。 解説【室町幕府行列の階層構造と象徴性】
歴史的意義
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| 将軍堂上の後、帯刀の役人は、皆申門の外に敷皮を布て列居す。先依別勅御前の召あり。関白殿御前に被参。其後刻限に至て、人々殿上に著座あり。右大臣・内大臣・按察使実次・藤中納言時光・冷泉中納言為秀・別当忠光・侍従宰相行忠・小倉前宰相実名・二条宰相中将為忠・富小路前宰相中将実遠なんどぞ被参ける。関白殿奉行職事仲光を召て、事の具否を尋らる。軈て被伺出御。御衣は黄直衣・打の御袴也。関白殿著座有て後、頭左中弁嗣房朝臣を召て、公卿可著坐由を仰す。嗣房於殿上諸卿を召す。右大臣・内大臣以下、次第に著座有しかば、将軍は殿上には著座し給はで、直に御前に進著せらる。爾後嗣房朝臣・仲光・懐国・五位殿上人伊顕なんど、面々の役に随て、灯台・円座・懐紙等を措く。為敦・為有・為邦朝臣・為重・行輔なんど迄著座ありしか共、右兵衛督為遠は御前には不著、殿上の辺に徘徊す。是は建保に定家卿如此の行迹たりし其例とぞ申合ける。富小路前宰相中将・冷泉院中納言・藤中納言・鎌倉大納言・内大臣・右大臣・関白なんど懐紙の名、膝行皆思々也。関白は依建保之例雖為序者、任位次置之。又直衣蹈哺て膝行あり。故太閤元徳の中殿の御会に被参しに此作法侍りけるとかや。右大臣依為読師、直に御前の円座に著し給て、講師仲光を召す。 |
将軍が殿上(てんじょう)にお着きになった後、帯刀の役人たちは皆申門(もん)の外に敷皮を広げて整列した。まず特別な勅命により御前への召しがあったため、関白殿は御前に参上された。その後時刻が来ると、人々が殿上にお着きになった。右大臣・内大臣・按察使実次(あぜちさねつぐ)・藤中納言時光(とうのちゅうなごんときみつ)・冷泉中納言為秀(れいぜいのちゅうなごんためひで)・別当忠光(べっとうちゅうこう)・侍従宰相行忠(じじゅうさいしょうゆきただ)・小倉前宰相実名(おぐらのさきのさいしょうさねな)・二条宰相中将為忠(にじょうさいしょうちゅうじょうためただ)・富小路前宰相中将実遠(とみのこうじのさきのさいしょうちゅうじょうさねとう)などが参上された。関白殿は奉行職事仲光(しょくじなかみつ)を呼んで、物事の詳細について尋ねられた。すぐに伺い出た後で、御衣(おんぞ)は黄色の直衣と打ち袴であった。関白殿が着座した後に、頭左中弁嗣房朝臣(とうさちゅうべんつぐふさあそん)を召して公卿たちが着席すべき旨をお命じになった。嗣房は殿上にいる諸卿を呼んだ。右大臣・内大臣以下順番に着座すると、将軍は殿上にはお座りにならず直接御前に進んで着かれた。その後、嗣房朝臣・仲光・懐国(えこく)・五位の殿上人伊顕などがそれぞれ役割に従って灯台や円座(えんざ)や懐紙などを置いた。為敦(ためあつ)・為有(ためあり)・為邦朝臣(ためくにあそん)・為重(ためしげ)・行輔(ゆきすけ)まで着席したものの、右兵衛督為遠(うひょうえのかみためとう)は御前にはお座りにならず殿上の辺りを歩き回った。これは建保年間に定家卿がこのような行動を取った例があるからだと申し合わせたのだそうだ。富小路前宰相中将・冷泉院中納言・藤中納言・鎌倉大納言(かまくらのだいなごん)・内大臣・右大臣・関白など懐紙の名は膝行(ひざまずいて進むこと)しながら各自が自分のものを置いた。関白は建保年間の例によって序列に従わなかったが、位次を守っておかれた。また直衣を踏んで歩くようにして膝行があった。これは故太閤元徳の中殿(ちゅうでん)の御会でこの作法を用いられたとかいうことだそうである。右大臣は読師として直接御前の円座にお着きになり、講師仲光をお呼びになった。 解説【室町期朝廷儀礼の特徴】
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| 又序を為講、由別勅時光卿を被召。右大弁為重を召て懐紙を令重。序より次第に是を読上たり。春日侍中殿同詠花多春友応製和歌一首並序関白従一位臣藤原朝臣良基上。夫天之仁者春也。地之和者花也。則天地悠久之道、而施於不仁之仁、玩煙霞明媚之景、而布大和之和。黄鴬呼友、遷万年之枝、粉蝶作舞、戯百里之囿。鑠乎聖徳、時哉宸宴。爰騰哥詠於五雲之間、忽興治世之風。奏簫韶於九天之上、再聞大古之調。況又玉笙之操、高引紫鸞之声焉。奎章之巧、新■素鵝之詞矣。盛乱之世、未必弄雅楽、兼之者此時也。好文之主、未必携和語、兼之者我君也。一場偉観千載之徽猷者耶。小臣久奉謁竜顔、忝佐万機之政。親奏鳳詔、聊記一日之遊。其辞曰、つかへつゝ齢は老ぬ行末の千年も花になをや契らん此次に右大臣正二位藤原朝臣実俊・内大臣正二位臣藤原朝臣師良・正二位行陸奥出羽按察使藤原朝臣実継、此次は征夷大将軍正二位臣源朝臣義詮・正二位行権中納言臣藤原朝臣時光・正二位行権中納言藤原朝臣為秀・権中納言従三位兼行左衛門督臣藤原朝臣忠光、此次参議従三位兼行侍従兼備中権守臣藤原朝臣行忠・従三位兼右兵衛督臣藤原朝臣為遠・蔵人内舎人六位上行式部大丞臣藤原朝臣懐国等に至迄、披講事終て、講師皆退給ければ、講誦の人々、猶可祗候由、依天気関白読師の円座に著給しかば、別勅にて権中納言時光卿を被召、御製の講師として、開匂ふ雲居の花の本つ枝に百代の春を尚や契覧講誦十返許に及しかば、日已に内樋に耀く程也。 |
さらに序文を作るために講じたところ、特別な勅命により時光卿がお招きになった。右大弁為重をお呼びして懐紙を取り次ぐよう命じられた。序から順にこれを読み上げた。「春日侍中殿同詠花多春友応製和歌一首並序 関白従一位臣藤原朝臣良基上(はるひのじちゅうでんどうえいはなのおおきなるはるとものおうせいわかいっしゅならびにじょ かんぱくじゅいちいいみこもとあそんよしもとかみ)」。天が仁を施すのは春である。地が和をもたらすのは花である。それゆえ天地の悠久の道は、不仁に対して仁を行いつつ広がり、煙霞明媚な景色に遊びながら大いなる和を布く。黄鶯(こうおう)が友を呼んで万年の枝へ移り、粉蝶が舞って百里の庭園で戯れる。ああ聖徳の輝きよ、この宸宴(しんえん)こそ時を得たものである。ここに五雲(ごうん)の間から歌詠みが湧き立ち、たちまち治世の風を起こした。九天の上で簫韶(しょうしょう)の楽を奏すれば、再び太古の調べを聞くことができる。さらに玉笙(ぎょくしょう)の音は高らかに紫鸞(しらん)の声を引き出し、奎章(けいしょう=天皇の文才)の巧みさで新たに素鵝(そが=清純な白鳥)のような詞を作った。乱世であっても必ず雅楽を弄ばないわけではないが、それらを兼ね備えたのはこの時である。好文の主(学問愛好の君主)は和歌と携わるとは限らないのに、それを兼ねたのが我らの君だ。一つの場面で偉観を見ることは千年に一度の美しい業績であろうか。小臣(良基自称)は久しく竜顔にお仕えし、恥ずかしながら万機の政を補佐した。鳳詔(天皇の命令)を直接奏上して、この一日の遊びをつらつらと記すのである。その詞に曰く、「仕えながら齢は老いゆけど 行末の千年も花になおや契らん」これに続いて右大臣正二位藤原朝臣実俊・内大臣正二位臣藤原朝臣師良・正二位行陸奥出羽按察使藤原朝臣実継、次は征夷大将軍正二位臣源朝臣義詮(みなもとのあそんよしあきら)・正二位行権中納言臣藤原朝臣時光・正二位行権中納言藤原朝臣為秀・権中納言従三位兼行左衛門督臣藤原朝臣忠光、次に参議従三位兼行侍従兼備中権守臣藤原朝臣行忠・従三位兼右兵衛督臣藤原朝臣為遠・蔵人内舎人六位上行式部大丞臣藤原朝臣懐国などまで読み上げることを終え、講師(よみて)が皆退出されたので、講誦の人々はなお控えるべきところを、天気に合わせたためか関白と読師の円座にお着きになった。そこで特別な勅命で権中納言時光卿をお招きし、御製(天皇作和歌)の講師として「匂い立つ雲居の花の本つ枝に 百代の春をなおや契らん」と読み上げたところ、十回ほども繰り返したので、日はすでに内裏の樋(ひ=屋根の雨どい)を照らすほどになった。 解説【南北朝期和歌披講儀礼の特徴】
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| されば物の色合さだかに、花の薫も懐しく、霞立気幸も最艶なるに、面々の詠哥の声も雲居に通る心地して、身に入許ぞ聞へける。御製の披講終て、各本坐に退けば、伶人にあらざる人々も座を退く。其後軈て御遊始り、笛は三条大納言実知卿、和琴は左宰相中将実綱、篳篥は前兵部卿兼親、笙は前右衛門督刑時、拍子は綾小路三位成方、琴は公全朝臣、付歌者宗泰朝臣也。呂には此殿・鳥の破・席田・鳥の急、律には万歳楽・伊勢海・三台急也けり。玉笙の声の中には鳳鳥も来儀し、和琴の調の間には鬼神も感動するかとぞ覚し。此宸宴に有御所作事邂逅也。建保には御琵琶にて有ける也。爾後は稀なる御事なるを、今此御宇に詩哥両度の宸宴に、毎度の御所作難有事とぞ聞へし。懸る大会は聊の故障もある事なるに、一事の違乱煩なく無為に被遂行ぬれば、万邦磯城島の政道に帰し、四海難波津の古風を仰て、人皆柿本の遺愛を恋るのみならず、世挙て柳営の数奇を感嘆し、翌日午刻許に人々被退出しかば、目出なんど云ふ許りなし。さても中殿の御会と云事は、吾朝不相応宸宴たるに依て、毎度天下に重事起ると人皆申慣せる上、近臣悉眉を顰て諌言を上たりしか共、一切無御承引終に被遂行けり。さるに合せて、同三月二十八日丑刻に、夥敷大変西より東を差て飛行と見へしが、翌日二十九日申刻に天竜寺新造の大廈、土木の功未終、失火忽に燃出て一時の灰燼と成にけり。 |
そのため物の色彩が鮮やかに映り、花の香も懐かしく、霞立ち昇る気配も極めて華やかな中で、一同の詠歌の声は天まで届くかのようであり、心に深く響いて聞こえた。御製(天皇作和歌)の披講が終わり、各自本来の席へ退いたので、楽人ではない者たちも退出した。その後すぐに御遊(音楽演奏)が始まり、笛は三条大納言実知卿、和琴は左宰相中将実綱、篳篥(ひちりき)は前兵部卿兼親、笙(しょう)は前右衛門督刑時、拍子は綾小路三位成方、琴(きん)は公全朝臣、付歌者(伴唱)は宗泰朝臣であった。呂調では「此殿」「鳥の破」「席田」「鳥の急」を演奏し、律調では「万歳楽」「伊勢海」「三台急」が奏された。玉笙(ぎょくしょう)の音の中には鳳凰も現れ出でたようであり、和琴の調べに鬼神すら感動したかと思われた。この宸宴において舞踊が披露されたのは稀なことであった。建保年間は琵琶演奏だったという。その後も滅多にあることではないのに、今上陛下(北朝天皇)の御代で詩歌二度目の宮中宴会でありながら毎回舞踊があることは困難な事態と聞こえた。かような大事業には様々な問題もあるものだが、一つの乱れや煩いもなく無事に終わったので、天下は日本の政治基盤(磯城島)へ戻り、四海は難波津の古風を仰ぎ見て、人々が柿本人麻呂への追慕を抱くだけでなく、世間こぞって武家邸宅(柳営=足利将軍邸)の優雅さに感嘆した。翌日の正午頃に退出する際は「おめでとう」と祝う声ばかりであった。ところが中殿での御会というのは我が朝廷では不似合いな宮中宴会であるため、毎回天下に重大事が起きると皆が言い慣わしており、側近たちもこぞって眉をひそめて諫言したのにもかかわらず、一切お聞き入れになられず結局行われてしまった。これと符合するように、同三月二十八日丑刻(午前2時頃)、夥しい大変事が西から東へ飛翔するのが見えたところ、翌二十九日申刻(午後4時頃)に天龍寺の新築中の堂宇が完成前に失火し瞬時に灰燼と化したのであった。 解説【室町初期宮廷芸能と災異思想】
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| 故に此寺は、公家武家尊崇異于他して、五山第二の招提なれば、聊爾にも攘災集福の懇祈を専にする大伽藍なるに、時節こそあれ、不思議の表示哉と、貴賎唇をぞ翻しける。因慈将軍御参内の事は可有斟酌由、再三被経奏聞しか共、是寺已に勅願寺たる上者、最天聴を驚す所なれ共、如此の拠災殃、臨期宸宴を被止事無先規。早諸卿に被仰下しかば、此問答に時遷て、御参内も夜深過る程になり、御遊も翌日に及びけるとかや。浅猿かりし事共なり。 ○左馬頭基氏逝去事 角ては天下も如何んと危ぶめる処に、今年の春の比より、鎌倉左馬頭基氏、聊不例の事有と聞へしかば、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳にて忽に逝去し給けり。連枝の鍾愛は多けれ共、此別に至ては争か可不悲。矧や是は唯二人、二翼両輪の如くに華夷の鎮憮と成給しかば、さらぬ別の悲さもさる事ながら、関東の柱石摧ぬれば、柳営の力衰ぬと、愁歎特に不浅。就之京都大に怖慎て、祈祷なども可有と沙汰ありけり。 ○南禅寺与三井寺確執事 同六月十八日、園城寺の衆徒蜂起して、公武に致列訴事あり。其謂を何事ぞと尋ぬれば、南禅寺為造営此比被建たる於新関、三井寺帰院の児を関務の禅僧是を殺害す。是希代の珍事とて寺門の衆徒鬱憤を散ぜんと、大勢を卒し、不日に推寄て、当務の僧共・人工・行者に至迄、打殺すのみならず、猶も憤を不休、南禅寺を令破却、達磨宗の蹤跡を削て、為令達宿訴、忽に嗷訴にぞ及ける。 |
そのためこの寺(天龍寺)は公家と武家から他とは異なる崇敬を受けており、五山第二位の寺院であるので、軽々しいことではなく厄除けや招福を祈願する主要な大伽藍であったのに、時節柄か不思議な出来事だと貴賎問わず人々が噂した。ついでに将軍(足利義詮)の参内については考慮すべきと再三奏上されたものの、この寺は勅願寺である上に火災ほどの由緒ある厄災では宮中行事を中止する前例がないため早々に諸卿へ下命されると議論が長引き深夜過ぎまで及び御遊(音楽会)も翌日に延期されたという。不運なことばかりであった。 ○左馬頭基氏逝去事 ○南禅寺与三井寺確執事 解説【室町幕府初期の連鎖的危機と宗教紛争】
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| 即山門・南都へ牒送して、四箇の大寺の安否を可定由、已に往日の堅約也。何の余儀にか可及。一国に触訴て、事令遅々、神輿・神木・神坐の本尊、共に可有入洛罵りければ、■や天下の重事出来ぬるはと、有才人は潜に是を危みける。され共事大儀なれば、山門も南都も急には不思立。結句山門には、東西両塔に様々の異儀有て、三塔の事書、鳥使翅を費許也。然ば無左右可事行共不覚、公方の御沙汰は、載許無其期しかば、園城寺は款状徒に被抛て、忿の中に日数をぞ送りける。 ○最勝講之時及闘諍事 去程に同八月十八日、最勝講可被行とて、南都・北嶺に課て、所作の人数をぞ被召ける。興福寺より十人、東大寺より二人、延暦寺より八人也。園城寺は今度の訴詔に、是非の左右に不及間、不可随公請由所存申に依て、四箇の一寺は被除畢。証義は前大僧正懐雅・山門の慈能僧正をぞ被召ける。講演論場の砌には、学海智水を涌し、慧剣を令闘事なるに、南都・北嶺の衆徒等、於南庭不慮に喧嘩を引出して、散々の合戦にぞ及ける。紫宸殿の東、薬殿の前には南都の大衆、西の長階の前には山門の衆徒、列立したりけるが、南都の衆徒は、面々に脇差の太刀なんど用意の事なれば、抜連て切て懸る。山門の大衆は、太刀・長刀も不持ければ争か可叶。 |
すなわち延暦寺(山門)・南都(奈良寺院)へ通達し四ヶ大寺の対応を決めるという従来の約束がある。どうして余計な措置が必要だろうか。全国に訴え出て事態が遅滞する中、神輿や神木といった本尊までもが都に入って抗議すると聞けば「ああ天下の重大事だ」と有識者は密かに危惧した。しかし事は重要だったため延暦寺も南都寺院も即座には決断できず、結局延暦寺では東西両塔で意見対立があり協議文書が使者の手間を浪費するばかりであった。そうなればどうにも処置しようがないと気づいたが将軍(足利義詮)からの指示はいつ出るか見当もつかず、園城寺(三井寺)は嘆願書を無駄に捨てられ怒りながら日々を過ごした。 ○最勝講之時及闘諍事 解説【宗教調停の破綻と宮中乱闘事件】
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| 一歩も不践止、紫宸殿の大床の上へ被捲上、足手にも不係けるに、光円坊良覚・一心坊の越後注記覚存・行泉坊の宗運・明静房の学運・月輪房の同宿円光房・十乗房を始として、宗徒の大衆腰刀許にて取て返し、勇誇たる南都の衆徒の中へ、面も不振切て入る。中にも一心坊の越後注記は、南都若大衆の持たる四尺八寸の太刀を引奪て、我一人の大事と切て廻けるに、奈良法師被切立、村雲立て見へける処に、手掻の侍従房只一人蹈止て、一足も不退、喚叫で切合たり。追ひ廻し追靡け、時移る程闘けるに、山門の衆徒、始は小勢にて而も無用意也ける間、叶べくも不見けるが、山徒の召仕ふ中方の者共、太刀・長刀の鋒を調へ、四脚の門より込入て、縦横無碍に切て廻しかば、南都の大衆は大勢也といへ共、怺兼て、北の門より一条大路へ、白雲の風に雲珠巻が如にぞ、靉出たりける。されば南庭の白砂上には、手蓋の侍従を始として、宗との衆徒八人まで、尸を双て切臥らる。山門方にも手負数た有けり。半死半生の者共を、戸板・楯なんどに乗せて、舁連たる有様、前代未聞の事共也。浅猿哉、紫宸北闕の雲の上、玄圃茨山の月の前には、霜剣の光冷して、干戈の場と成しかば、御溝の水も紅を流し、著座の公卿大臣も束帯悉く緋の色に染成して、呆給許也。 |
一歩も踏みとどまらず紫宸殿の大床の上に巻き上げられ、手足を縛られることもなく、光円坊良覚・一心坊越後注記覚存・行泉坊宗運・明静房学運・月輪房同宿円光房・十乗房ら山門衆徒が腰刀だけを持って反撃し、誇り高き南都の衆徒の中へ臆せず切り込んだ。中でも一心坊越後注記は南都若大衆の持つ四尺八寸太刀を奪い取り「我一人で十分だ」と斬り回したところ奈良法師たちが倒れ雲霞のように見えた場所に、手掻侍従房ただ一人踏み止まって一歩も退かず叫びながら切り合った。追ったり逃げたりしているうち時間が経つにつれて戦いは続いたが山門衆徒は初め小勢で無防備だったため劣勢に見えたものの、山徒召し使う中間者たちが太刀や長刀を構え四脚門から入り込み縦横無尽に斬り回したので南都大衆は多勢とはいえ耐えきれず北門から一条大路へ白雲風に巻かれるように逃げ出していった。こうして南庭の白砂上には手掻侍従を始め山徒八人まで屍が並んで切り伏せられていた。山門側にも負傷者が多く半死半生の人々を戸板や盾などに乗せて運ぶ様子は前代未聞のことだった。あさましいことに紫宸北闕の雲上(宮中)と玄圃茨山の月前では霜剣の光が冷たく戦場となったため御溝の水も血で赤く流れ座っている公卿大臣たちの束帯までことごとく緋色に染まり呆然としてしまわれた。 解説【宮中乱闘事件の結末と歴史的意義】
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| さしも是程の騒動なりしか共、主上は是にも騒がせ給御事もなく、手負・死人共を取捨させ、血を濯清めさせ、席を改させられて、最勝講をば無子細被遂行けるとかや。是則厳重の御願、天下の大会たるに、斯る不思議出来ぬれば、就公私不吉の前相哉と、人皆物を待心地ぞせられける。 ○将軍薨逝事 斯る処に、同九月下旬の比より、征夷将軍義詮身心例ならずして、寝食不快しかば、和気・丹波の両流は不及申、医療に其名を被知程の者共を召して、様々の治術に及しか共、彼大聖釈尊、双林の必滅に、耆婆が霊薬も其験無りしは、寔に浮世の無常を、予め示し置れし事也。何の薬か定業の病をば愈すべき。是明らけき有待転変の理なれば、同十二月七日子刻に、御年三十八にて忽に薨逝し給にけり。天下久く武将の掌に入て、戴恩慕徳者幾千万と云事を不知。歎き悲みけれ共、其甲斐更に無りけり。さて非可有とて、泣々薨礼の儀式を取営て、衣笠山の麓等持院に奉遷。同十二日午刻に、荼毘の規則を調て、仏事の次第厳重也。鎖龕は東福寺長老信義堂、起龕は建仁寺沢竜湫、奠湯万寿寺桂岩、奠茶真如寺清■西堂、念誦天竜寺春屋、下火は南禅寺定山和尚にてぞをはしける。文々に悲涙の玉詞を瑩き、句々に真理の法義を被宣しかば、尊儀速に出三界苦輪、直到四徳楽邦給けんと哀なりし事共也。 |
これほどの大騒ぎであったにもかかわらず、天皇陛下はそのことにお騒ぎになることもなく、負傷者や死者の処理をさせ、血痕を洗い清めさせ、場所を取り替えさせて最勝講を何事もなかったように続行されたという。これは朝廷が厳粛に祈願する天下の大事業であるのに、このような異常事態が起きたため、「公私ともに不吉な前兆ではないか」と人々は皆不安げな様子だった。 ○将軍死去事件 解説【事件後処理と将軍死の歴史的影響】
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| 去程に今年は何なる年なれば、京都と鎌倉と相同く、柳営の連枝忽に同根空く枯給ひぬれば、誰か武将に備り、四海の乱をも可治と、危き中に愁有て、世上今はさてとぞ見へたりける。 ○細河右馬頭自西国上洛事 爰に細河右馬頭頼之、其比西国の成敗を司て、敵を亡し人をなつけ、諸事の沙汰の途轍、少し先代貞永・貞応の旧規に相似たりと聞へける間、則天下の管領職に令居、御幼稚の若君を可奉輔佐と、群議同赴に定りしかば、右馬頭頼之を武蔵守に補任して、執事職を司る。外相内徳げにも人の云に不違しかば、氏族も是を重んじ、外様も彼命を不背して、中夏無為の代に成て、目出かりし事共也。 |
このようにして今年(貞治6年/1367年)は何という年かと思われるほどに京都と鎌倉で同時に将軍家の一族があっけなく亡くなられ、根幹が枯れてしまったので、「誰が武将を継ぎ天下の乱を治められるのか」と危機的な状況の中でもだえるようになり、世間はもう終わりかと思われる様相だった。 ○細川右馬頭西国から上洛事件 解説【将軍家断絶危機と細川政権発足】
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