| input text ../document/春秋左氏傳\01_春秋左氏傳_隱公.txt | 現代日本語 translated text |
| 春秋左氏傳 隱公 隱公元年 傳 惠公元妃孟子。孟子卒,繼室以聲子,生隱公。宋武公生仲子,仲子生而有文在其手,曰「爲魯夫人」。故仲子歸于我,生桓公而惠公薨,是以隱公立而奉之。 經 元年,春,王正月。 三月,公及邾儀父盟于蔑。 夏,五月,鄭伯克段于鄢。 秋,七月,天王使宰咺來歸惠公、仲子之賵。 九月,及宋人盟于宿。 冬,十有二月,祭伯來。 公子益師卒。 傳 元年春,王周正月。不書即位,攝也。 三月,公及邾儀父盟于蔑,邾子克也。未王命,故不書爵。曰「儀父」,貴之也。公攝位而欲求好於邾,故為蔑之盟。 夏四月,費伯帥師城郎。不書,非公命也。 初,鄭武公娶于申,曰武姜,生莊公及共叔段。莊公寤生,驚姜氏,故名曰「寤生」,遂惡之。愛共叔段,欲立之。亟請于武公,公弗許。及莊公即位,為之請制。公曰:「制,巖邑也,虢叔死焉,佗邑唯命。」請京,使居之,謂之京城大叔。祭仲曰:「都城過百雉,國之害也。先王之制:大都不過參國之一,中五之一,小九之一。今京不度,非制也,君將不堪。」公曰:「姜氏欲之,焉辟害?」對曰:「姜氏何厭之有?!不如早為之所,無使滋蔓!蔓,難圖也。蔓草猶不可除,況君之寵弟乎?!」公曰:「多行不義,必自斃,子姑待之。」 |
現代日本語訳 恵公の最初の正妃は孟子といった。孟子が亡くなると、その後継ぎの室として声子を迎え、隠公を生んだ。宋の武公は仲子を生んだが、仲子は生まれたとき手に文字があり、「魯の夫人となる」と書かれていた。そこで仲子は我が国(魯)に嫁いで来て、桓公を生み、恵公が薨去した。そのため隠公が立って(桓公を)奉じた。 経 元年、春、王の正月。 三月、公が邾の儀父と蔑で盟を結んだ。 夏、五月、鄭伯が鄢で段を討ち取った。 秋、七月、天王が宰咺を遣わして恵公と仲子への贈り物(賵)を届けさせた。 九月、宋の人々と宿で盟を結んだ。 冬、十二月、祭伯が来訪した。 公子益師が亡くなった。 伝 元年の春、王の周の正月。即位を記さないのは、摂政だからである。 三月、公が邾の儀父と蔑で盟を結んだが、儀父とは邾子克のことである。まだ王の任命を受けていないので、爵位を記さない。「儀父」と呼ぶのは、彼を貴んでいるからである。公は摂位であり、邾との友好を求めたので、蔑の盟を行った。 夏四月、費伯が軍を率いて郎の城を築いた。記されないのは、公の命令ではなかったからである。 初め、鄭の武公が申から妻を娶り、武姜といった。荘公と共叔段を生んだ。荘公は逆子で生まれ、姜氏を驚かせたので、「寤生」と名付けられ、それ以来憎まれた。共叔段を愛し、立てようとした。しばしば武公に請うたが、公は許さなかった。荘公が即位すると、共叔段のために制の地を請うた。公は言った、「制は険しい土地で、虢叔がそこで死んだ。他の土地なら命じるままにしよう。」京を請うたので、そこに住まわせ、京城大叔と呼ばせた。祭仲が言った、「都の城壁が百雉を超えるのは、国の害です。先王の制度では、大都市は国都の三分の一を超えず、中都市は五分の一、小都市は九分の一です。今、京は法度に合わず、制度に反しています。君は耐えられないでしょう。」公は言った、「姜氏がそれを望んでいるのだ。どうして害を避けられようか。」答えて言った、「姜氏にどうして満足がありましょうか。早く然るべき場所を与えて、蔓延らせないようにすべきです。蔓延れば、対処が難しくなります。蔓延る草でさえ除けないのに、まして君の寵愛する弟はなおさらではありませんか。」公は言った、「不義を重ねれば、必ず自ら滅びる。お前はしばらく待っていなさい。」 解説 この一節は『春秋左氏伝』隠公元年の冒頭部分で、魯の隠公の即位事情と、鄭の荘公と弟・共叔段の確執の発端が記されています。 前半では、魯の恵公の死後、正妃の子である桓公が幼少のため、隠公が摂政として立った経緯が説明されます。また、仲子の手に「魯の夫人となる」という文字があったという伝説的な逸話も紹介されています。 後半は「鄭伯克段于鄢」として有名な物語の前段です。鄭の武姜は長男の荘公を逆子で生んだことから憎み、弟の共叔段を偏愛して後継にしようとしましたが失敗します。荘公即位後、武姜は共叔段のために重要な土地・制を求めますが、荘公は危険な地であると拒否し、代わりに京を与えます。しかし京は都城として法度を超えた大きさであり、臣下の祭仲は将来の禍根となると諫めます。荘公は「母が望むことだから」と聞き入れず、共叔段が自滅するのを待つ姿勢を示します。この「多行不義、必自斃(不義を重ねれば必ず自滅する)」という言葉は、後の展開を予感させる有名な一節です。 全体として、春秋時代の諸侯国内における継承争いと、母子兄弟の確執が克明に描かれており、『左伝』の叙述の精緻さを示す好例となっています。 Translation took 3391.5 seconds. |
| 既而大叔命西鄙、北鄙貳於己。公子呂曰:「國不堪貳,君將若之何?欲與大叔,臣請事之;若弗與,則請除之。無生民心。」公曰:「無庸,將自及。」大叔又收貳以為己邑,至于廩延。子封曰:「可矣,厚將得眾。」公曰:「不義,不暱,厚將崩。」大叔完聚,繕甲兵,具卒乘,將襲鄭。夫人將啟之。公聞其期,曰:「可矣!」命子封帥車二百乘以伐京。京叛大叔段,段入于鄢,公伐諸鄢。五月辛丑,大叔出奔共。 書曰:「鄭伯克段于鄢。」段不弟,故不言弟;如二君,故曰克;稱鄭伯,譏失教也:謂之鄭志。不言出奔,難之也。 遂寘姜氏于城穎,而誓之曰:「不及黃泉,無相見也。」既而悔之。 潁考叔為潁谷封人,聞之,有獻於公,公賜之食,食舍肉。公問之,對曰:「小人有母,皆嘗小人之食矣,未嘗君之羹,請以遺之。」公曰:「爾有母遺,繄我獨無!」潁考叔曰:「敢問何謂也?」公語之故,且告之悔。對曰:「君何患焉?若闕地及泉,隧而相見,其誰曰不然?」公從之。公入而賦:「大隧之中,其樂也融融!」姜出而賦:「大隧之外,其樂也洩洩!」遂為母子如初。 君子曰:「潁考叔,純孝也,愛其母,施及莊公。《詩》曰:『孝子不匱,永錫爾類。』其是之謂乎!」 秋,七月,天王使宰咺來歸惠公、仲子之賵。緩,且子氏未薨,故名。天子七月而葬,同軌畢至;諸侯五月,同盟至;大夫三月,同位至;士踰月,外姻至。贈死不及尸,弔生不及哀,豫凶事,非禮也。 |
やがて大叔(共叔段)は西部と北部の辺境の地に、自分に従属するよう命じた。公子呂(子封)が言った。「国は二心に堪えられません。君はどうなさるおつもりですか。大叔に国を譲るおつもりなら、私めは大叔にお仕えいたしましょう。もし譲られないのであれば、どうか大叔を除いてください。民に二心を抱かせてはなりません。」荘公は言った。「必要ない。彼は自ら災いを招くだろう。」大叔はさらに従属した地を自分の領邑に取り込み、廩延にまで及んだ。子封が言った。「もうよろしいでしょう。領地が広がれば民衆も彼に付くでしょう。」荘公は言った。「不義の者は人に親しまれず、領地が広がっても崩れ去るものだ。」大叔は城を修築し、兵士を集め、武器を整え、歩兵と戦車を準備して、鄭の国都を襲おうとした。母の姜氏が内応して城門を開けようとした。荘公はその期日を知ると、「よし!」と言い、子封に命じて戦車二百乗を率いて京を攻めさせた。京の人々は大叔段に背いた。段は鄢に入り、荘公は鄢を攻めた。五月辛丑の日、大叔は共の国へ逃げ去った。 『春秋』には「鄭伯、段を鄢に克つ」と書かれている。段は弟としての道を守らなかったので、「弟」とは書かれていない。二人の君主が戦ったようなものなので、「克つ」と書かれている。鄭伯と称しているのは、教育を怠ったことを非難しているのである。これは鄭伯の本意(弟を追い出す意図)を示している。段の「出奔」と書かないのは、それを記すのが難しかったからである。 そこで荘公は姜氏を城潁に移し、「黄泉に至らなければ、二度と会うまい」と誓った。しかし、すぐにそれを後悔した。 潁考叔は潁谷の封人(国境の役人)であったが、このことを聞き、荘公に献上物をした。荘公が彼に食事を賜ると、潁考叔は肉を食べずに残した。荘公がその理由を尋ねると、彼は答えた。「私には母がおります。母は私の食べる物はすべて味わっておりますが、まだ君の賜った肉の羹を味わったことがありません。どうかこれを持ち帰って母に与えさせてください。」荘公は言った。「お前には母に与えることができるが、私だけには母がいないのだ!」潁考叔は言った。「恐れながら、それはどういう意味でございますか。」荘公は事情を話し、後悔していることも告げた。潁考叔は答えた。「君は何を心配なさることがありましょう。もし地面を掘って泉に達し、隧道の中でお会いになれば、誰が誓いに背いたと言えましょうか。」荘公はその言葉に従った。荘公は隧道に入って賦を詠んだ。「大いなる隧道の中、その楽しさは融融たり。」姜氏は外に出て賦を詠んだ。「大いなる隧道の外、その楽しさは洩洩たり。」こうして母子は以前のように仲睦まじくなった。 君子は言う。「潁考叔は純粋な孝行者である。自分の母を愛し、その孝行が荘公にまで及んだ。『詩経』には『孝子の孝は尽きることなく、永遠にあなたの善類に賜う』とあるが、まさにこのことを言うのであろう。」 秋七月、周の天王が宰咺を派遣して、恵公と仲子への葬儀の贈り物(賵)を届けさせた。しかし、贈り物が遅すぎたこと、また仲子はまだ亡くなっていなかったことから、『春秋』は宰咺の名を記して非難した。天子は七か月で葬儀を行い、同じ車軌の国々(天下の諸侯)がすべて参列する。諸侯は五か月で、同盟を結んだ国々が参列する。大夫は三か月で、同じ官位の者が参列する。士は一か月を過ぎてから、姻戚が参列する。死者に贈り物をするのに遺体に間に合わないこと、生きている者を弔問するのに哀悼の期間に間に合わないこと、凶事を前もって行うことは、礼に反するのである。 【解説】 この一節は『春秋左氏伝』隠公元年の後半部分で、鄭の荘公と弟の共叔段(大叔)の争い、母姜氏との確執と和解、そして周の天王の非礼な行為について述べています。 前半は「鄭伯克段于鄢」の物語の結末です。母姜氏に偏愛された弟の共叔段は、兄の荘公に対して反乱を企てます。荘公はあえて弟の暴走を放置し、自滅を待つという冷酷な策略をとります。そしてついに弟を討ち、母を幽閉して「黄泉に至らなければ会わない」と誓いますが、後に後悔します。 中盤では、潁考叔という孝行者が登場します。彼は自分の母への孝行を示すことで、荘公の心を動かし、「地下を掘って泉に達し、隧道で会う」という名案を出して、母子の和解を実現させます。このエピソードは、儒教的な「孝」の徳を称揚するものであり、君子の評として『詩経』の言葉が引用されています。 後半は、周の天王が鄭の恵公と仲子への葬儀の贈り物を送ったものの、時期が遅すぎ、また仲子はまだ存命であったため、非礼であると批判されています。ここでは、身分に応じた葬儀の期間や参列者の範囲が述べられ、礼の規範が強調されています。 全体として、この一節は、兄弟間の争いと母の偏愛がもたらす悲劇、孝行による和解、そして礼の重要性という、春秋時代の倫理観・価値観を色濃く反映した箇所です。また、『春秋』の一字一句に込められた批判(一字褒貶)を左氏が解説するという、『左伝』特有の叙述形式も見られます。 Translation took 4440.9 seconds. |
| 八月,紀人伐夷。夷不告,故不書。有蜚。不為災,亦不書。 惠公之季年,敗宋師于黃。公立,而求成焉。九月,及宋人盟于宿,始通也。 冬,十月,庚申,改葬惠公。公弗臨,故不書。惠公之薨也,有宋師,太子少,葬故有闕,是以改葬。衛侯來會葬,不見公,亦不書。 鄭共叔之亂,公孫滑出奔衛。衛人為之伐鄭,取廩延。鄭人以王師、虢師伐衛南鄙。請師於邾,邾子使私於公子豫。豫請往,公弗許,遂行。及邾人、鄭人盟于翼。不書,非公命也。 新作南門。不書,亦非公命也。 十二月,祭伯來,非王命也。 眾父卒。公不與小斂,故不書日。 隱公二年 經 二年,春,公會戎于潛。 夏,五月,莒人入向。 無駭帥師入極。 秋,八月,庚辰,公及戎盟于唐。 九月,紀裂繻來逆女。 冬,十月,伯姬歸于紀。 紀子帛、莒子盟于密。 十有二月乙卯,夫人子氏薨。 鄭人伐衛。 傳 二年春,公會戎于潛,修惠公之好也。戎請盟,公辭。 莒子娶于向,向姜不安莒而歸。夏,莒人入向,以姜氏還。 司空無駭入極,費庈父勝之。 戎請盟。秋,盟于唐,復修戎好也。 九月,紀裂繻來逆女,卿為君逆也。 冬,紀子帛、莒子盟于密,魯故也。 鄭人伐衛,討公孫滑之亂也。 隱公三年 經 |
八月、紀の人が夷を攻めた。夷が(魯に)報告しなかったので、(春秋には)記載されない。蜚(あぶらむし)が発生した。災いとならなかったので、やはり記載されない。 恵公の末年、宋の軍を黄で破った。公(隠公)が即位して、宋と和睦を求めた。九月、宋の人々と宿で盟約を結び、初めて国交が通じた。 冬、十月、庚申の日、恵公を改葬した。公が葬儀に臨席しなかったので、記載されない。恵公が薨去したとき、宋の軍が来攻しており、太子がまだ幼く、葬儀に不備があった。そのため改葬したのである。衛の侯が会葬に来たが、公に面会しなかったので、やはり記載されない。 鄭の共叔段の乱で、公孫滑が衛に亡命した。衛の人は彼のために鄭を攻め、廩延を奪取した。鄭の人は王の軍と虢の軍を率いて衛の南の国境を攻めた。邾に援軍を要請すると、邾の子は公子豫に内密に依頼した。豫は出兵を願い出たが、公は許さなかった。それでも豫は出発した。そして邾の人々、鄭の人々と翼で盟約を結んだ。記載されないのは、公の命令によるものではないからである。 南門を新たに造営した。記載されないのは、これも公の命令によるものではないからである。 十二月、祭伯が来訪した。王の命令によるものではない。 衆父が死去した。公が小斂(遺体を納める儀式)に参列しなかったので、日付が記載されない。 隠公二年 経 二年、春、公は戎と潛で会見した。 夏、五月、莒の人が向に侵入した。 無駭が軍を率いて極に侵入した。 秋、八月、庚辰の日、公は戎と唐で盟約を結んだ。 九月、紀の裂繻が来て公女を迎えた。 冬、十月、伯姫が紀に嫁いだ。 紀の子帛と莒の子が密で盟約を結んだ。 十二月乙卯の日、夫人子氏が薨去した。 鄭の人が衛を攻めた。 伝 二年春、公が戎と潛で会見したのは、恵公の代からの友好関係を修復するためである。戎が盟約を求めたが、公は辞退した。 莒の子が向から妻を娶ったが、向姜は莒での生活に満足せず、実家に帰ってしまった。夏、莒の人が向に侵入し、姜氏を連れ帰った。 司空の無駭が極に侵入し、費庈父がこれを攻略した。 戎が盟約を求めた。秋、唐で盟約を結び、戎との友好関係を再び修復した。 九月、紀の裂繻が来て公女を迎えたのは、卿が国君のために公女を迎えに来たのである。 冬、紀の子帛と莒の子が密で盟約を結んだのは、魯のためである。 鄭の人が衛を攻めたのは、公孫滑の乱を討伐するためである。 隠公三年 経 (ここで原文が切れている) 【解説】 この一節は、『春秋左氏伝』の隠公元年から三年にかけての記述です。隠公は魯の第14代君主で、父恵公の後を継いで即位しましたが、実際には弟の桓公が太子であったため、摂政としての立場でした。そのため、隠公の行動はしばしば「公の命ではない」として正当性を欠くとされ、『春秋』に記載されない事柄が多く見られます。 隠公元年の後半では、紀が夷を攻めたことや、恵公の改葬、鄭の内乱に端を発する衛との紛争などが記されています。特に鄭の共叔段の乱は、鄭の荘公と弟の共叔段の対立が原因で、公孫滑が衛に亡命し、衛が鄭に攻め込むという国際紛争に発展しました。魯の公子豫が独断で出兵し、邾・鄭と盟約を結んだことは、隠公の権威がまだ確立していなかったことを示しています。 隠公二年の経と伝では、魯と戎との外交、莒の向侵攻、紀との婚姻関係などが記されています。特に「紀裂繻来逆女」は、紀の卿が魯の公女を迎えに来たことを示し、魯と紀の同盟関係を象徴する出来事です。また、鄭が衛を攻めたのは、前年の公孫滑の乱への報復であり、諸国間の争いが続いていたことがわかります。 全体として、この時期の魯は隠公の権力基盤が弱く、国内の貴族や他国の動向に振り回される状況が描かれています。『春秋左氏伝』は、『春秋』の簡潔な記述に対して、その背景や事情を詳しく説明することを目的としており、この一節でも「不書」の理由や出来事の因果関係が丁寧に解説されています。 Translation took 3701.0 seconds. |
| 三年,春,王二月,己巳,日有食之。 三月,庚戌,天王崩。 夏,四月,辛卯,君氏卒。 秋,武氏子來求賻。 八月庚辰,宋公和卒。 冬十有二月,齊侯,鄭伯盟于石門。 癸未,葬宋穆公。 傳 三年春,王三月,壬戌,平王崩,赴以庚戌,故書之。 夏,君氏卒──聲子也。不赴於諸侯,不反哭于寢,不祔于姑,故不曰:「薨」。不稱夫人,故不言葬,不書姓。為公故,曰:「君氏」。 鄭武公、莊公為平王卿士。王貳于虢,鄭伯怨王。王曰:「無之」。故周、鄭交質。王子狐為質於鄭,鄭公子忽為質於周。王崩,周人將畀虢公政。四月,鄭祭足帥師取溫之麥。秋,又取成周之禾。周、鄭交惡。 君子曰:「信不由中,質無益也。明恕而行,要之以禮,雖無有質,誰能間之?苟有明信,澗谿沼沚之毛,蘋蘩蘊藻之菜,筐筥錡釜之器,潢汙行潦之水,可薦於鬼神,可羞於王公,而況君子結二國之信。行之以禮,又焉用質?《風》有《采繁》、《采蘋》,《雅》有《行葦》、《泂酌》,昭忠信也。」 武氏子來求賻,王未葬也。 宋穆公疾,召大司馬孔父而屬殤公焉,曰:「先君舍與夷而立寡人,寡人弗敢忘。若以大夫之靈,得保首領以沒,先君若問與夷,其將何辭以對?請子奉之,以主社稷,寡人雖死,亦無悔焉。」對曰:「羣臣願奉馮也。」公曰:「不可。先君以寡人為賢,使主社稷,若棄德不讓,是廢先君之舉也。豈曰能賢?光昭先君之令德,可不務乎?吾子其無廢先君之功。」使公子馮出居於鄭。八月庚辰,宋穆公卒。殤公即位。 |
三年、春、王の二月、己巳の日、日食があった。 三月、庚戌の日、天王(周の平王)が崩御した。 夏、四月、辛卯の日、君氏が亡くなった。 秋、武氏の子が来て、葬儀のための助け(賻)を求めた。 八月庚辰の日、宋公和が亡くなった。 冬十二月、斉侯と鄭伯が石門で盟約を結んだ。 癸未の日、宋穆公を葬った。 伝 三年の春、王の三月、壬戌の日、平王が崩御した。訃報は庚戌の日付で届けられたので、そのように記録した。 夏、君氏が亡くなった。これは聲子のことである。諸侯に訃報を送らず、寝殿で反哭の礼を行わず、姑の廟に合祀しなかったので、「薨」とは言わなかった。夫人と称さなかったので、葬儀のことを言わず、姓も記さなかった。公のためであったので、「君氏」と言った。 鄭の武公と荘公は平王の卿士であった。王が虢に心を寄せたので、鄭伯は王を怨んだ。王は「そんなことはない」と言った。そこで周と鄭は人質を交換した。王子狐は鄭に人質として行き、鄭の公子忽は周に人質として行った。王が崩御すると、周の人々は虢公に政権を与えようとした。四月、鄭の祭足が軍を率いて温の麦を取った。秋には、また成周の禾を取った。周と鄭は互いに憎み合うようになった。 君子は言った。「信頼が心から出たものでなければ、人質を交換しても無益である。明察と恕の心をもって行動し、礼によってそれを要約すれば、たとえ人質がいなくても、誰が間を裂くことができようか。もし明らかな信頼があれば、渓流や沼の水草、蘋や蘩や蘊藻のような菜、筐や筥や錡や釜のような器、たまり水や流れる水のようなものでも、鬼神に供えることができ、王公に献じることができる。ましてや君子が二国の信頼を結ぶのに、礼をもって行えば、どうして人質を用いることがあろうか。『風』には『采繁』『采蘋』があり、『雅』には『行葦』『泂酌』があって、忠信を明らかにしている。」 武氏の子が来て葬儀の助けを求めたのは、王がまだ埋葬されていなかったからである。 宋の穆公が病にかかり、大司馬の孔父を召して殤公のことを託して言った。「先君は與夷を捨てて私を立てられた。私は敢えて忘れない。もし大夫のご加護によって、首を保ったまま死ぬことができたなら、先君がもし與夷のことを尋ねられたら、どのような言葉で答えようか。どうかあなたが彼を奉じて、社稷を主らせてほしい。私はたとえ死んでも、悔いはない。」孔父は答えた。「群臣は馮を奉じたいと願っております。」公は言った。「いけない。先君は私を賢いとして、社稷を主らせた。もし徳を捨てて譲らなければ、それは先君の挙を廃することになる。どうして賢いと言えようか。先君の善徳を輝かせ明らかにすること、これに努めないでよいだろうか。あなたは先君の功績を廃してはならない。」公子馮を鄭に出て住まわせた。八月庚辰の日、宋の穆公が亡くなった。殤公が即位した。 解説: Translation took 2963.2 seconds. |
| 君子曰:「宋宣公可謂知人矣。立穆公,其子饗之,命以義夫。《商頌》曰:『殷受命咸宜,百祿是荷。』其是之謂乎!」 冬,齊、鄭盟于石門,尋盧之盟也。庚戌,鄭伯之車僨于濟。 衛莊公娶于齊東宮得臣之妹,曰莊姜,美而無子,衛人所為賦《碩人》也。又娶于陳,曰厲媯,生孝伯,蚤死。其娣戴媯,生桓公,莊姜以為己子。 公子州吁,嬖人之子也,有寵而好兵,公弗禁,莊姜惡之。石碏諫曰:「臣聞愛子,教之以義方,弗納于邪。驕、奢、淫、泆,所自邪也。四者之來,寵祿過也。將立州吁,乃定之矣,若猶未也,階之為禍。夫寵而不驕,驕而能降,降而不憾,憾而能眕者,鮮矣。且夫賤妨貴,少陵長,遠間親,新間舊,小加大,淫破義,所謂六逆也。君義,臣行,父慈,子孝,兄愛,弟敬,所謂六順也。去順效逆,所以速禍也。君人者將禍是務去,而速之,無乃不可乎?」弗聽。 其子厚與州吁游,禁之,不可。桓公立,乃老。 隱公四年 經 四年,春,王二月,莒人伐杞,取牟婁。 戊申,衛州吁弒其君完。 夏,公及宋公遇于清。 宋公、陳侯、蔡人、衛人伐鄭。 秋,翬帥師會宋公、陳侯、蔡人、衛人伐鄭。 九月,衛人殺州吁于濮。 冬十有二月,衛人立晉。 傳 四年春,衛州吁弒桓公而立。 |
君子は言う、「宋の宣公は人を見抜く力があったと言える。穆公を立て、その子がその恩恵を受けた。義によって命じたのである。『商頌』に『殷は天命を受けてすべて宜しく、多くの福を荷う』とあるが、それはこのことを言うのであろう。」 冬、斉と鄭が石門で盟約した。盧の盟約を再確認するためである。庚戌の日、鄭伯の車が済水で転覆した。 衛の荘公は斉の東宮得臣の妹を娶り、荘姜といった。美しかったが子がなかった。衛の人が『碩人』の詩を作ったのはこの人のためである。また陳から娶り、厲媯といった。孝伯を生んだが早くに死んだ。その妹の戴媯が桓公を生み、荘姜は自分の子とした。 公子州吁は寵姫の子で、寵愛を受けて武事を好んだが、公は制止しなかった。荘姜はこれを憎んだ。石碏が諫めて言った。「私は聞いています、子を愛するなら義の道で教え、邪に導かないと。驕り、奢り、淫ら、放縦、これらは邪から生じます。この四つが来るのは、寵愛と禄が過ぎるからです。州吁を立てるつもりなら、今すぐ決めるべきです。もしそうでないなら、それが禍の階段となります。寵愛されても驕らず、驕っても身を低くでき、低くなっても恨まず、恨んでも耐えられる者は稀です。また、身分の低い者が高い者を害し、若い者が年長者を凌ぎ、遠い者が近い者を隔て、新しい者が古い者を隔て、小さい者が大きい者に勝り、淫らが義を破る、これが六逆です。君が義を行い、臣がそれに従い、父は慈しみ、子は孝行し、兄は愛し、弟は敬う、これが六順です。順を捨て逆に従えば、禍を早めることになります。人を治める者は禍を取り除こうと務めるべきです。それを早めるなど、あってはならないことではないでしょうか。」と。しかし公は聞き入れなかった。 その子の厚は州吁と交遊した。禁じたが、できなかった。桓公が立つと、石碏は老を理由に引退した。 隠公四年 経 四年、春、王の二月、莒人が杞を伐ち、牟婁を取った。 戊申、衛の州吁がその君・完を弑した。 夏、公は宋公と清で会った。 宋公、陳侯、蔡人、衛人が鄭を伐った。 秋、翬が軍を率いて宋公、陳侯、蔡人、衛人と会し、鄭を伐った。 九月、衛人が州吁を濮で殺した。 冬十二月、衛人が晋を立てた。 伝 四年春、衛の州吁が桓公を弑して立った。 【解説】 この一節は、『春秋左氏伝』隠公三年の終わりから隠公四年の初めにかけての部分です。内容は大きく二つに分かれます。 前半は、宋の宣公が自分の子ではなく弟の穆公を後継者に立てたことを「人を知る」と評価する君子の言葉、そして衛の荘公の家庭事情と公子州吁の乱の芽生えが描かれます。特に石碏の諫言は有名で、「六逆」と「六順」を対比させ、為政者が守るべき秩序と、寵愛が過ぎることの危険性を説いています。しかし荘公は聞き入れず、州吁は後に桓公を殺して自ら立つという悲劇へと繋がります。 後半は隠公四年の「経」と「伝」の冒頭です。「経」は簡潔な年表形式の記録で、州吁が国君を弑したことや諸国間の戦いが列挙されています。「伝」はその背景を詳しく述べるもので、ここでは州吁が桓公を殺して即位した事実が示されます。 この部分は、春秋時代の国際関係と国内の継承争いが絡み合う様子を伝えるとともに、儒教的な君臣父子の倫理観を強調する典型的な左氏伝の叙述となっています。 Translation took 2228.2 seconds. |
| 公與宋公為會,將尋宿之盟。未及期,衛人來告亂。夏,公及宋公遇于清。 宋殤公之即位也,公子馮出奔鄭,鄭人欲納之。及衛州吁立,將修先君之怨于鄭,而求寵於諸侯,以和其民,使告於宋曰:「君若伐鄭,以除君害,君為主,敝邑以賦與陳、蔡從,則衛國之願也。」宋人許之。於是陳、蔡方睦於衛,故宋公、陳侯、蔡人、衛人伐鄭,圍其東門,五日而還。 公問於眾仲曰:「衛州吁其成乎?」對曰:「臣聞以德和民,不聞以亂。以亂,猶治絲而棼之也。夫州吁,阻兵而安忍。阻兵無眾,安忍無親,眾叛親離,難以濟矣。夫兵猶火也,弗戢,將自焚也。夫州吁弒其君而虐用其民,於是乎不務令德,而欲以亂成,必不免矣。」 秋,諸侯復伐鄭。宋公使來乞師,公辭之。羽父請以師會之,公弗許,固請而行。故書曰「翬帥師」,疾之也。諸侯之師敗鄭徒兵,取其禾而還。 州吁未能和其民,厚問定君於石子。石子曰:「王覲為可。」曰:「何以得覲?」曰:「陳桓公方有寵於王,陳、衛方睦,若朝陳使請,必可得也。」厚從州吁如陳。石碏使告于陳曰:「衛國褊小,老夫耄矣,無能為也。此二人者,實弒寡君,敢即圖之。」陳人執之,而請涖於衛。九月,衛人使右宰丑涖殺州吁于濮,石碏使其宰獳羊肩涖殺石厚于陳。 君子曰:「石碏,純臣也,惡州吁而厚與焉。『大義滅親』,其是之謂乎!」 |
魯の隠公は宋の殤公と会合し、宿の盟約を再確認しようとした。期日に至らないうちに、衛の人々が来て内乱を告げた。夏、隠公は宋公と清の地で出会った。 宋の殤公が即位したとき、公子馮は鄭に亡命し、鄭の人々は彼を宋に送り込もうとしていた。衛の州吁が立つと、先君の鄭に対する怨みを晴らそうとし、諸侯に寵愛を求めて民を和らげようとし、宋に使いを送って言った。「君がもし鄭を伐ち、君の害を取り除くなら、君が主となり、我が国は軍賦をもって陳・蔡とともに従います。それが衛国の願いです。」宋人はこれを許した。このとき陳・蔡は衛と親しくしていたので、宋公・陳侯・蔡人・衛人は鄭を伐ち、その東門を包囲し、五日で引き上げた。 隠公が衆仲に尋ねた。「衛の州吁は成功するだろうか。」衆仲は答えた。「臣は徳によって民を和らげると聞いております。乱によってとは聞いておりません。乱によるのは、糸を整えようとしてかえって乱すようなものです。州吁は兵力を頼みにして残忍を平然と行う。兵力を頼みにすれば民衆の支持を得られず、残忍を平然とすれば親しい者もいなくなる。民衆は背き親しい者は離れ、成功するのは難しいでしょう。兵は火のようなもので、消さなければ自らを焼くことになります。州吁はその君を弑し、民を虐げて使っている。このような状態で善徳に努めず、乱によって成功しようとしても、必ず免れないでしょう。」 秋、諸侯は再び鄭を伐った。宋公が使いを送って出兵を求めたが、隠公は断った。羽父が軍を率いて合流することを願い出たが、隠公は許さなかった。しかし羽父は固く請うて出発した。それで『春秋』に「翬が軍を率いた」と書かれているのは、これを非難しているのである。諸侯の軍は鄭の徒歩兵を破り、その穀物を取って帰った。 州吁はまだ民を和らげることができず、石厚が石碏(石子)に君位を安定させる方法を尋ねた。石碏は言った。「王に拝謁するのがよろしいでしょう。」「どうすれば拝謁できますか。」「陳の桓公が今王に寵愛されており、陳と衛は親しくしています。陳に朝見して頼めば、必ずかなうでしょう。」石厚は州吁に従って陳へ行った。石碏は使いを送って陳に告げた。「衛国は狭く小さく、老夫は老いぼれて何もできません。この二人の者は、実に我が君を弑した者たちです。どうかすぐに捕らえてください。」陳人は彼らを捕らえ、衛に来て処理するよう求めた。九月、衛人は右宰丑を派遣して濮で州吁を殺させ、石碏は自分の家臣である獳羊肩を派遣して陳で石厚を殺させた。 君子は言う。「石碏は純粋な臣である。州吁を憎み、石厚もそれに連座させた。『大義親を滅す』とは、まさにこのことを言うのであろう。」 【解説】 Translation took 3550.5 seconds. |
| 衛人逆公子晉于邢。冬十二月,宣公即位。書曰「衛人立晉」,眾也。 隱公五年 經 五年,春,公矢魚于棠。 夏四月,葬衛桓公。 秋,衛師入郕。 九月,考仲子之宮。初獻六羽。 邾人、鄭人伐宋。 螟。 冬十有二月,辛巳,公子彄卒。 宋人伐鄭,圍長葛。 傳 五年春,公將如棠觀魚者。臧僖伯諫曰:「凡物不足以講大事,其材不足以備器用,則君不舉焉。君,將納民於軌、物者也。故講事以度軌量謂之『軌』;取材以章物采謂之『物』。不軌不物謂之亂政。亂政亟行,所以敗也。故春蒐、夏苗、秋獮、冬狩,皆於農隙以講事也。三年而治兵,入而振旅,歸而飲至,以數軍實。昭文章,明貴賤,辨等列,順少長,習威儀也。鳥獸之肉不登於俎,皮革齒牙、骨角毛羽不登於器,則公不射,古之制也。若夫山林川澤之實,器用之資,皁隸之事,官司之守,非君所及也。」公曰:「吾將略地焉。」遂往,陳魚而觀之。僖伯稱疾不從。書曰「公矢魚于棠」,非禮也,且言遠地也。 曲沃莊伯以鄭人、邢人伐翼,王使尹氏、武氏助之。翼侯奔隨。 夏,葬衛桓公。衛亂,是以緩。 四月,鄭人侵衛牧,以報東門之役。衛人以燕師伐鄭。鄭祭足、原繁、洩駕以三軍軍其前,使曼伯與子元潛軍軍其後。燕人畏鄭三軍而不虞制人。六月,鄭二公子以制人敗燕師于北制。君子曰:「不備不虞,不可以師。」 |
衛の人々が邢から公子晋を迎えた。冬十二月、宣公が即位した。『春秋』に「衛人立晉」と書いてあるのは、民衆が立てたからである。 隠公五年 経 五年、春、公が棠で魚を観た。夏四月、衛の桓公を葬った。秋、衛の軍が郕に入った。九月、仲子の廟を落成させた。初めて六羽の舞を献じた。邾人と鄭人が宋を攻めた。螟虫が発生した。冬十二月辛巳、公子彄が死去した。宋人が鄭を攻め、長葛を包囲した。 伝 五年春、公が棠へ魚を観に行こうとした。臧僖伯が諫めて言った、「およそ物が大事を講ずるに足りず、その材が器物の用を備えるに足りなければ、君はそれを挙行なさいません。君とは、民を軌(規範)と物(制度)に導き入れる者です。だから、事を講じて軌の量をはかることを『軌』といい、材を取って物の彩りを明らかにすることを『物』といいます。軌でなく物でないものを乱政といいます。乱政をしばしば行えば、それが敗れる原因となります。だから春の蒐、夏の苗、秋の獮、冬の狩は、いずれも農閑期に事を講ずるのです。三年ごとに兵を整え、入っては軍旅を整え、帰っては飲至の礼を行い、軍の実を数えます。旗や衣服の模様を明らかにし、貴賤を明らかにし、等列を弁別し、少長を順序立て、威儀を習うのです。鳥獣の肉が俎(祭器)に載せられず、皮革・歯牙・骨角・毛羽が器物に用いられないならば、公は射られません。これが古の制度です。山林や川沢の産物、器物の材料、下僕の仕事、役人の職務は、君が関与するところではありません。」公は言った、「私は土地を巡視するつもりだ」と。そこで出かけ、魚を並べて観た。僖伯は病と称して従わなかった。『春秋』に「公が棠で魚を射た」と書いてあるのは、礼に非ざることであり、また遠い土地であることを言うのである。 曲沃の荘伯が鄭人・邢人を率いて翼を攻め、王が尹氏・武氏を派遣してこれを助けた。翼侯は随に奔った。 夏、衛の桓公を葬った。衛が乱れていたため、遅れたのである。 四月、鄭人が衛の牧に侵攻し、東門の戦いの報復をした。衛人が燕の軍を率いて鄭を攻めた。鄭の祭足・原繁・洩駕が三軍でその前方に陣取り、曼伯と子元に密かに軍を率いてその後方に陣取らせた。燕人は鄭の三軍を恐れて、制の人々を警戒しなかった。六月、鄭の二人の公子が制の人々を率いて燕軍を北制で破った。君子は言う、「備えず、不意を警戒しなければ、軍を率いることはできない」と。 解説: Translation took 4201.2 seconds. |
| 曲沃叛王。秋,王命虢公伐曲沃,而立哀侯于翼。 衛之亂也,郕人侵衛,故衛師入郕。 九月,考仲子之宮,將萬焉。公問羽數於眾仲。對曰:「天子用八,諸侯用六,大夫四,士二。夫舞,所以節八音,而行八風,故自八以下。」公從之。于是初獻六羽,始用六佾也。 宋人取邾田。邾人告於鄭曰:「請君釋憾於宋,敝邑為道。」鄭人以王師會之。伐宋,入其郛,以報東門之役。宋人使來告命。公聞其入郛也,將救之,問於使者曰:「師何及?」對曰:「未及國。」公怒,乃止,辭使者曰:「君命寡人同恤社稷之難,今問諸使者,曰『師未及國』,非寡人之所敢知也。」 冬,十二月辛已,臧僖伯卒。公曰:「叔父有憾於寡人,寡人弗敢忘。」葬之加一等。 宋人伐鄭,圍長葛,以報入郛之役也。 隱公六年 經 六年,春,鄭人來渝平。 夏,五月,辛酉,公會齊侯盟于艾。 秋,七月。 冬,宋人取長葛。 傳 六年春,鄭人來渝平,更成也。 翼九宗五正頃父之子嘉父,逆晉侯于隨,納諸鄂。晉人謂之鄂侯。 夏,盟于艾,始平于齊也。 五月庚申,鄭伯侵陳,大獲。往歲,鄭伯請成于陳,陳侯不許。五父諫曰:「親仁善鄰,國之寶也。君其許鄭。」陳侯曰:「宋、衛實難,鄭何能為?」遂不許。 |
曲沃が王に背いた。秋、王は虢公に命じて曲沃を討たせ、哀侯を翼に立てた。 衛の内乱のとき、郕の人が衛に侵入した。そのため衛の軍が郕に入った。 九月、仲子の廟を落成させ、万の舞を舞おうとした。公は衆仲に羽の数を尋ねた。衆仲は答えた。「天子は八列、諸侯は六列、大夫は四列、士は二列を用います。そもそも舞は八音を調節し、八風を行き渡らせるためのものです。ですから八列から下へと減じていくのです。」公はこれに従った。こうして初めて六列の羽の舞を奉納し、六佾を用いるようになった。 宋の人が邾の田を奪った。邾の人は鄭に告げて言った。「どうか君が宋に対する恨みを晴らしてください。我が国が道案内をいたします。」鄭の人は王の軍を率いてこれに合流した。宋を討ち、その外城に入り、東門の戦いの仕返しをした。宋の人が使者を送って急を告げた。公は鄭軍が外城に入ったと聞いて、宋を救おうとし、使者に尋ねた。「敵軍はどこまで来ているか?」使者は答えた。「まだ国都には達しておりません。」公は怒って、救援をやめ、使者にこう言って断った。「君は私に社稷の難を共に憂えるよう命じられた。今、使者に尋ねれば『軍はまだ国都に達していない』と言う。これは私のあずかり知らぬところだ。」 冬、十二月辛巳、臧僖伯が亡くなった。公は言った。「叔父は私に対して恨みを持っていた。私はそれを敢えて忘れない。」葬儀の礼を一等加えた。 宋の人が鄭を討ち、長葛を包囲した。外城に入られた戦いの仕返しである。 隠公六年 経 六年、春、鄭の人が来て和平を結び直した。 夏、五月、辛酉、公は斉侯と艾で会盟した。 秋、七月。 冬、宋の人が長葛を取った。 伝 六年春、鄭の人が来て和平を結び直した。これは盟約を更新したのである。 翼の九宗五正である頃父の子の嘉父が、隨で晋侯を迎え、鄂に迎え入れた。晋の人は彼を鄂侯と呼んだ。 夏、艾で会盟した。これは斉との和平が始まったのである。 五月庚申、鄭伯が陳に侵攻し、大いに獲物を得た。前年、鄭伯は陳に和平を求めたが、陳侯は許さなかった。五父が諫めて言った。「仁に親しみ、隣国と善くすることは、国の宝です。君は鄭の申し出をお許しください。」陳侯は言った。「宋と衛こそが実に厄介だ。鄭に何ができようか。」ついに許さなかった。 解説: Translation took 3135.6 seconds. |
| 君子曰:「善不可失,惡不可長,其陳桓公之謂乎?長惡不悛,從自及也。雖欲救之,其將能乎?《商書》曰:『惡之易也,如火之燎于原,不可鄉邇,其猶可撲滅?』周任有言曰:『為國家者,見惡,如農夫之務去草焉,芟夷蘊崇之,絕其本根,勿使能殖,則善者信矣。』」 秋,宋人取長葛。 冬,京師來告饑。公為之請糴於宋、衛、齊、鄭,禮也。 鄭伯如周,始朝桓王也。王不禮焉。周桓公言於王曰:「我周之東遷,晉、鄭焉依。善鄭以勸來者,猶懼不蔇,況不禮焉?鄭不來矣!」 隱公七年 經 七年,春,王三月,叔姬歸于紀。 滕侯卒。 夏,城中丘。 齊侯使其弟年來聘。 秋,公伐邾。 冬,天王使凡伯來聘。戎伐凡伯于楚丘,以歸。 傳 七年春,滕侯卒。不書名,未同盟也。凡諸侯同盟,於是稱名,故薨則赴以名,告終稱嗣也,以繼好息民,謂之禮經。 夏,城中丘,書,不時也。 齊侯使夷仲年來聘,結艾之盟也。 秋,宋及鄭平。七月庚申,盟于宿。公伐邾,為宋討也。 初,戎朝于周,發幣于公卿,凡伯弗賓。冬,王使凡伯來聘。還,戎伐之于楚丘以歸。 陳及鄭平。十二月,陳五父如鄭涖盟。壬申,及鄭伯盟,歃如忘。洩伯曰:「五父必不免,不賴盟矣。」鄭良佐如陳涖盟,辛巳,及陳侯盟,亦知陳之將亂也。 |
君子は言う、「善は失ってはならず、悪は長引かせてはならない。それは陳の桓公のことを言うのであろうか。悪を長引かせて改めないから、自ら災いを招いたのである。たとえ救おうとしても、どうしてできようか。『商書』にはこうある、『悪の広がりやすいことは、火が原を焼くようで、近づくこともできず、どうして消し止められようか』と。周任はこう言った、『国を治める者は、悪を見ると、農夫が草を取り除くことに務めるように、刈り取り、積み重ね、その根を断ち、再び生えないようにする。そうすれば善が信じられるようになる』と。」 秋、宋人が長葛を取った。 冬、京師から飢饉の知らせが来た。公はそのために宋・衛・斉・鄭に穀物の購入を依頼した。これは礼にかなっていた。 鄭伯が周に行き、初めて桓王に朝見した。王は鄭伯に礼を尽くさなかった。周の桓公が王に言った、「我が周が東遷したとき、晋と鄭に頼ったのです。鄭に善くして来る者を励ましても、なお来ないことを恐れるのに、まして礼を尽くさなければ、鄭は来なくなるでしょう」と。 隠公七年 経 七年、春、王の三月、叔姫が紀に嫁いだ。 滕侯が死去した。 夏、中丘に城を築いた。 斉侯が弟の年を派遣して来訪させた。 秋、公が邾を攻めた。 冬、天王が凡伯を派遣して来訪させた。戎が楚丘で凡伯を攻め、連れ去った。 伝 七年春、滕侯が死去した。名を記さないのは、まだ同盟を結んでいなかったからである。およそ諸侯が同盟を結ぶと、そこで名を称する。だから死去すると名を記して知らせ、終わりを告げて嗣子を称する。これは友好を継続し民を安んじるためで、礼の経典という。 夏、中丘に城を築いた。これを記すのは、時節にかなわなかったからである。 斉侯が夷仲年を派遣して来訪させた。艾の盟を結ぶためである。 秋、宋と鄭が和睦した。七月庚申、宿で盟を結んだ。公が邾を攻めたのは、宋のために討ったのである。 以前、戎が周に朝見し、公卿に礼物を贈ったが、凡伯は賓礼を尽くさなかった。冬、王が凡伯を派遣して来訪させた。帰る途中、戎が楚丘で凡伯を攻め、連れ去った。 陳と鄭が和睦した。十二月、陳の五父が鄭に行って盟に臨んだ。壬申、鄭伯と盟を結び、血をすするときに忘れたようだった。洩伯は言った、「五父は必ず免れないだろう。盟を頼みにしていない」と。鄭の良佐が陳に行って盟に臨み、辛巳、陳侯と盟を結んだが、陳がまもなく乱れることも知った。 解説 この一節は『春秋左氏伝』隠公六年の終わりから隠公七年の初めにかけての記述です。まず「君子曰」として、善を守り悪を除くことの重要性が説かれ、陳の桓公が悪を改めず自ら災いを招いたことが例として挙げられています。『商書』や周任の言葉を引用して、悪の広がりを火に、善政を農夫の除草にたとえています。 その後、隠公六年の出来事として、宋が長葛を取ったこと、京師の飢饉に対して魯公が周辺諸国に穀物の購入を依頼したことが礼にかなっていたと記されます。また、鄭伯が周の桓王に朝見したが礼遇されず、周の桓公が鄭の重要性を説いて王を諫めた話が続きます。 隠公七年の「経」では、叔姫の紀への出嫁、滕侯の死、中丘の築城、斉の来聘、邾への攻撃、凡伯への戎の攻撃が簡潔に記されます。続く「伝」では、これらの出来事の背景や詳細が説明されます。滕侯の名が記されない理由として同盟未締結が挙げられ、同盟における名の記し方の礼が説明されます。中丘築城は時節にかなわなかったと批判され、斉の来聘は艾の盟のためとされます。宋と鄭の和睦と宿での盟、魯の邾攻めが宋のためであったこと、凡伯が戎に攻められた背景として以前の無礼が語られます。最後に陳と鄭の和睦と盟の様子が描かれ、陳の五父の失態から陳の混乱が予見されるという内容です。 全体として、当時の国際関係や礼制、善悪の応報観が色濃く反映された箇所です。 Translation took 2853.8 seconds. |
| 鄭公子忽在王所,故陳侯請妻之。鄭伯許之,乃成昬。 隱公八年 經 八年,春,宋公、衛侯遇于垂。 三月,鄭伯使宛來歸祊。庚寅,我入祊。 夏,六月,己亥,蔡侯考父卒。辛亥,宿男卒。 秋,七月,庚午,宋公、齊侯、衛侯盟于瓦屋。 八月,葬蔡宣公。 九月辛卯,公及莒人盟于浮來。 螟。 冬十有二月,無駭卒。 傳 八年春,齊侯將平宋、衛,有會期。宋公以幣請於衛,請先相見,衛侯許之,故遇于犬丘。 鄭伯請釋泰山之祀而祀周公,以泰山之祊易許田。三月,鄭伯使宛來歸祊,不祀泰山也。 夏,虢公忌父始作卿士于周。 四月甲辰,鄭公子忽如陳逆婦媯。辛亥,以媯氏歸。甲寅,入于鄭。陳鍼子送女。先配而後祖。鍼子曰:「是不為夫婦。誣其祖矣,非禮也,何以能育?」 齊人卒平宋、衛于鄭。秋,會于溫,盟于瓦屋,以釋東門之役,禮也。 八月丙戌,鄭伯以齊人朝王,禮也。 公及莒人盟于浮來,以成紀好也。 冬,齊侯使來告成三國。公使眾仲對曰:「君釋三國之圖,以鳩其民,君之惠也。寡君聞命矣,敢不承受君之明德。」 無駭卒。羽父請謚與族。公問族於眾仲。眾仲對曰:「天子建德,因生以賜姓,胙之土而命之氏。諸侯以字為謚,因以為族。官有世功,則有官族,邑亦如之。」公命以字為展氏。 隱公九年 經 |
鄭の公子忽が王の在所にいたため、陳侯が彼に自分の娘を娶わせてほしいと請うた。鄭伯がそれを許し、そこで婚姻が成立した。 隠公八年 経 八年、春、宋公と衛侯が垂で会見した。 三月、鄭伯が宛を派遣して祊の地を返還させた。庚寅の日、我が国は祊に入った。 夏、六月、己亥の日、蔡侯考父が死去した。辛亥の日、宿男が死去した。 秋、七月、庚午の日、宋公・斉侯・衛侯が瓦屋で盟約した。 八月、蔡の宣公を葬った。 九月辛卯の日、公が莒の人々と浮来で盟約した。 螟が発生した。 冬十二月、無駭が死去した。 伝 八年春、斉侯が宋と衛を和睦させようとし、会見の期日が決まっていた。宋公が衛に礼物を贈って、先に会見したいと請うたところ、衛侯がそれを許したので、犬丘で会見した。 鄭伯が泰山の祭祀をやめて周公を祀ることを請い、泰山の祊の地と許の田を交換しようとした。三月、鄭伯が宛を派遣して祊を返還させたが、泰山の祭祀は行わなかった。 夏、虢公忌父が周で初めて卿士となった。 四月甲辰の日、鄭の公子忽が陳へ行き、媯氏を妻として迎えた。辛亥の日、媯氏を連れて帰国した。甲寅の日、鄭の都に入った。陳の鍼子が花嫁を送ってきた。先に夫婦の契りを結び、その後で祖廟に報告した。鍼子は言った。「これは夫婦とは言えない。祖先を欺くものであり、礼に反する。どうして子孫を繁栄させられようか。」 斉の人々はついに宋と衛を鄭と和睦させた。秋、温で会合し、瓦屋で盟約して、東門の戦いのわだかまりを解いた。これは礼にかなっていた。 八月丙戌の日、鄭伯が斉の人々とともに王に朝見した。これは礼にかなっていた。 公が莒の人々と浮来で盟約したのは、紀との友好を固めるためであった。 冬、斉侯が使者を送って、三国の和睦が成ったことを告げてきた。公は衆仲に命じて答えさせた。「君が三国の対立を解き、その民を安んじられたのは、君の恩恵です。寡君はそのお言葉を承りました。どうして君の明徳を受け入れないことがありましょうか。」 無駭が死去した。羽父が諡と族名を賜りたいと請うた。公が衆仲に族について尋ねた。衆仲は答えた。「天子は有徳の者を立て、その生まれに因んで姓を賜い、土地を与えて氏を命じます。諸侯は字を諡とし、それを族名とします。官職に代々の功績があれば、官名を族名とし、邑についても同様です。」公は無駭の字を取って展氏と名乗らせた。 隠公九年 経 解説 この一節は、『春秋左氏伝』隠公八年の経文と伝文、および隠公九年の経の冒頭部分です。隠公八年は紀元前715年にあたります。 内容の中心は、魯をはじめとする諸国間の外交・婚姻・盟約の動きです。特に注目されるのは、鄭の公子忽と陳の媯氏との婚姻をめぐる記述です。伝文では、公子忽が妻を迎えた際に「先に夫婦の契りを結び、その後で祖廟に報告した」という手順が礼に反すると陳の鍼子が批判しています。これは当時の礼制において、婚姻は祖先への報告を経て初めて正式なものと見なされるという考え方を示しています。 また、無駭の死に際して、族名(氏)の与え方について衆仲が説明する場面は、中国古代の姓氏制度を知る上で重要な箇所です。天子が姓を賜い、諸侯が字を諡として族名とするという原則が述べられ、無駭はその字にちなんで展氏と名付けられました。 全体として、この年は斉の仲介による宋・衛・鄭の和睦が成立し、魯も莒や紀との関係を深めるなど、外交的に安定へ向かう動きが見られた年でした。 Translation took 3493.9 seconds. |
| 九年,春,天子使南季來聘。 三月癸酉,大雨,震電。庚辰,大雨雪。 挾卒。 夏,城郎。 秋七月。 冬,公會齊侯于防。 傳 九年春,王三月癸酉,大雨霖以震,書始也。庚辰,大雨雪,亦如之。書,時失也。凡雨,自三日以往為霖。平地尺為大雪。 夏,城郎,書,不時也。 宋公不王。鄭伯為王左卿士,以王命討之,伐宋。宋以入郛之役怨公,不告命。公怒,絕宋使。 秋,鄭人以王命來告伐宋。 冬,公會齊侯于防,謀伐宋也。 北戎侵鄭,鄭伯禦之。患戎師,曰:「彼徒我車,懼其侵軼我也。」公子突曰:「使勇而無剛者,嘗寇而速去之。君為三覆以待之。戎輕而不整,貪而無親,勝不相讓,敗不相救。先者見獲必務進,進而遇覆必速奔,後者不救,則無繼矣。乃可以逞。」從之。 戎人之前遇覆者奔,祝聃逐之。衷戎師,前後擊之,盡殪。戎師大奔。十一月甲寅,鄭人大敗戎師。 隱公十年 經 十年,春,王二月,公會齊侯、鄭伯于中丘。 夏,翬帥師會齊人、鄭人伐宋。 六月,壬戌,公敗宋師于菅。辛未,取郜。辛巳,取防。 秋,宋人、衛人入鄭。宋人、蔡人、衛人伐戴。鄭伯伐取之。 冬,十月,壬午,齊人、鄭人入郕。 傳 十年春,王正月,公會齊侯,鄭伯于中丘。癸丑,盟于鄧,為師期。 |
【翻訳文】 隠公九年 経 九年、春、天子が南季を派遣して来訪させ、聘問させた。 三月癸酉の日、大雨が降り、雷が鳴り稲妻が走った。庚辰の日、大雪が降った。 挾が死去した。 夏、郎に城を築いた。 秋七月。 冬、公が斉侯と防で会合した。 伝 九年春、王の三月癸酉の日、大雨が降り続いて雷を伴った。経に「始」と書いてあるのは、この異常気象の始まりを記したからである。庚辰の日、大雪が降った。これも同様に記された。経に書かれたのは、時節が失われているからである。およそ雨は三日以上降り続くものを霖という。平地に一尺積もるものを大雪という。 夏、郎に城を築いた。経に書かれたのは、時節に合わないからである。 宋公が王に朝見しなかった。鄭伯は王の左卿士であったので、王命によって宋を討伐した。宋は入郛の戦いのことで公を恨み、その命を告げなかった。公は怒って宋の使者を絶った。 秋、鄭人が王命をもって来て宋を伐つことを告げた。 冬、公が斉侯と防で会合したのは、宋を伐つことを謀るためである。 北戎が鄭に侵攻した。鄭伯はこれを防いだ。戎の軍勢を憂えて言った、「彼は徒歩で、我々は車戦である。彼らが我々に急襲してくるのを恐れる。」公子突が言った、「勇敢だが剛毅でない者に敵を試させ、すぐに退かせてください。君は三か所に伏兵を置いて待ち受けてください。戎は軽率で整わず、貪欲で親しみがなく、勝っても互いに譲らず、敗れても互いに救わない。先鋒が捕虜になれば必ず進もうとし、進んで伏兵に遭えば必ず速く逃げ、後続は救わないので、続く者がいなくなる。そうすれば思うままにできるでしょう。」鄭伯はこれに従った。 戎人の前衛が伏兵に遭って逃げると、祝聃がこれを追った。戎の本隊を包囲し、前後から攻撃して、ことごとく殺した。戎の軍勢は大いに敗走した。十一月甲寅の日、鄭人は戎の軍勢を大いに破った。 隠公十年 経 十年、春、王の二月、公が斉侯、鄭伯と中丘で会合した。 夏、翬が軍を率いて斉人、鄭人と合流して宋を伐った。 六月、壬戌の日、公が宋の軍勢を菅で破った。辛未の日、郜を取った。辛巳の日、防を取った。 秋、宋人、衛人が鄭に入った。宋人、蔡人、衛人が戴を伐った。鄭伯が伐ってこれを取った。 冬、十月、壬午の日、斉人、鄭人が郕に入った。 伝 十年春、王の正月、公が斉侯、鄭伯と中丘で会合した。癸丑の日、鄧で盟約し、出兵の期日を定めた。 【解説】 この一節は、『春秋左氏伝』の隠公九年から十年にかけての記述です。隠公は魯の君主で、春秋時代初期の人物です。『春秋』は魯国の年代記であり、そこに記された簡潔な記事(経)に対して、左氏伝が詳細な背景や逸話を補っています。 隠公九年の経では、天候異変(大雨・雷・大雪)や、挾の死、郎の築城、斉侯との会合が記されています。伝では、これらの記事に対する解説が加えられ、特に「大雨霖以震」が三日以上続く雨「霖」であり、大雪が平地一尺に達するものであったこと、またこれらの異常気象が時節に合わないとして記録されたことが説明されます。さらに、宋が周王に朝見しなかったため、鄭伯が王命を受けて宋を討伐したこと、宋が魯を恨んで使者を絶ったこと、魯が斉と組んで宋を伐とうとしたことなど、当時の国際関係が描かれます。 また、北戎の侵攻に対する鄭の防衛戦では、公子突の提案した戦術が詳しく語られます。戎の軍勢は徒歩で軽率・無秩序であるという分析に基づき、伏兵を用いてこれを包囲殲滅するという巧妙な作戦が成功します。この逸話は、春秋時代の戦争における戦術思想の一端を示すものとして興味深いものです。 隠公十年に入ると、魯・斉・鄭の三国が同盟して宋を攻める動きが本格化します。中丘での会合、鄧での盟約、そして宋領への侵攻と都市の攻略が記されます。一方で宋・衛・蔡も鄭や戴に対して攻勢に出るなど、諸国間の争いが複雑に絡み合っている様子がわかります。 全体として、この部分は春秋時代初期の中原諸国における同盟と抗争、周王室の権威の低下、異民族(戎)との戦いなど、当時の政治・軍事状況を具体的に伝える重要な記録となっています。 Translation took 3237.4 seconds. |
| 夏五月,羽父先會齊侯、鄭伯伐宋。 六月戊申,公會齊侯、鄭伯于老桃。壬戌,公敗宋師于菅。庚午,鄭師入郜。辛未,歸于我。庚辰,鄭師入防。辛巳,歸于我。君子謂:「鄭莊公於是乎可謂正矣。以王命討不庭,不貪其土以勞王爵,正之體也。」 蔡人、衛人、郕人不會王命。 秋七月庚寅,鄭師入郊。猶在郊,宋人、衛人入鄭。蔡人從之伐戴。八月壬戌,鄭伯圍戴。癸亥,克之,取三師焉。宋、衛既入鄭,而以伐戴召蔡人,蔡人怒,故不和而敗。 九月戊寅,鄭伯入宋。 冬,齊人、鄭人入郕,討違王命也。 隱公十一年 經 十有一年,春,滕侯、薛侯來朝。 夏,公會鄭伯于時來。 秋,七月,壬午,公及齊侯、鄭伯入許。 冬十有一月,壬辰,公薨。 傳 十一年春,滕侯、薛侯來朝,爭長。薛侯曰:「我先封。」滕侯曰:「我,周之卜正也。薛,庶姓也,我不可以後之。」 公使羽父請於薛侯曰:「君與滕君辱在寡人。周諺有之曰:『山有木,工則度之;賓有禮,主則擇之。』周之宗盟,異姓為後。寡人若朝于薛,不敢與諸任齒。君若辱貺寡人,則願以滕君為請。」 薛侯許之,乃長滕侯。 夏,公會鄭伯于郲,謀伐許也。鄭伯將伐許,五月甲辰,授兵于大宮。公孫閼與潁考叔爭車,潁考叔挾輈以走,子都拔棘以逐之,及大逵,弗及,子都怒。 |
夏五月、羽父は先に斉侯・鄭伯と会合して宋を討った。 六月戊申、公は老桃で斉侯・鄭伯と会合した。壬戌、公は菅で宋軍を破った。庚午、鄭軍が郜に入った。辛未、それを我が国(魯)に帰属させた。庚辰、鄭軍が防に入った。辛巳、それを我が国に帰属させた。君子は言う、「鄭の荘公はこのとき正しいと言える。王命によって不廷の国を討ち、その土地を貪らずに王の爵位にある者(魯公)に与えた。これは正しさの本質である」と。 蔡人・衛人・郕人は王命に従わなかった。 秋七月庚寅、鄭軍が(宋の)郊に入った。まだ郊にいるうちに、宋人・衛人が鄭に攻め入った。蔡人はこれに従って戴を討った。八月壬戌、鄭伯は戴を包囲した。癸亥、これを攻略し、三軍(宋・衛・蔡の軍)を捕らえた。宋・衛はすでに鄭に入っていたが、戴を討つために蔡人を呼び寄せた。蔡人は怒り、そのため不和となって敗れた。 九月戊寅、鄭伯は宋に入った。 冬、斉人・鄭人が郕に入った。王命に背いたことを討つためである。 隠公十一年 経 十一年、春、滕侯・薛侯が来朝した。 夏、公は時来で鄭伯と会合した。 秋、七月壬午、公は斉侯・鄭伯とともに許に入った。 冬十一月壬辰、公が薨去した。 伝 十一年春、滕侯・薛侯が来朝し、席次の上下を争った。薛侯は言った、「我が国は先に封ぜられた」。滕侯は言った、「我が国は周の卜正(占いの長官)である。薛は庶姓(周王室と同姓でない)である。私は彼の後になることはできない」。 公は羽父を派遣して薛侯に請うた、「君と滕君が寡人のもとに来てくださった。周のことわざにこうある、『山に木があれば、工匠がそれを測る。賓客に礼があれば、主人がそれを選ぶ』と。周の宗盟では、異姓は後にする。寡人がもし薛に朝見するならば、任姓の諸侯と同列になることはできない。君がもし寡人に恥を与えてくださるなら(=来朝してくださるなら)、滕君を先にすることをお願いしたい」。 薛侯はこれを許し、そこで滕侯を上座にした。 夏、公は郲で鄭伯と会合し、許を討つことを謀った。鄭伯は許を討とうとし、五月甲辰、大宮(祖廟)で兵器を授けた。公孫閼(子都)と潁考叔が車を争い、潁考叔は車の轅(ながえ)を脇に挟んで走り去った。子都は戟(ほこ)を抜いて追いかけたが、大通りに至っても追いつかず、子都は怒った。 【解説】 この一節は、『春秋左氏伝』隠公十年の後半から隠公十一年の途中までを収めています。内容は大きく三つの部分に分かれます。 第一に、魯・斉・鄭の三国が連合して宋を討伐する経緯です。鄭の荘公は周王の命を奉じて宋を攻め、占領した土地を魯に帰属させました。この行為について「君子」は鄭荘公を「正しい」と評価しています。一方、蔡・衛・郕は王命に従わず、後に鄭の反撃を受けて敗れます。 第二に、隠公十一年の「経」の部分で、滕侯・薛侯の来朝、魯公と鄭伯の会合、許への侵攻、そして隠公の死が簡潔に記されます。 第三に、「伝」の部分で、滕侯と薛侯が席次を争った逸話が詳しく語られます。魯の隠公は羽父を介して薛侯を説得し、周の宗盟では異姓を後にするという慣例に従って滕侯を上座に据えました。また、鄭の内部では公孫閼(子都)と潁考叔が戦車をめぐって争い、子都が激怒する場面が描かれます。この怒りは後の潁考叔暗殺へとつながる伏線となっています。 全体として、春秋時代の諸侯間の同盟・抗争、礼制に基づく席次争い、そして臣下同士の確執が生き生きと描かれた箇所です。 Translation took 3165.7 seconds. |
| 秋七月,公會齊侯、鄭伯伐許。庚辰,傅于許,潁考叔取鄭伯之旗蝥弧以先登。子都自下射之,顛。瑕叔盈又以蝥弧登,周麾而呼曰:「君登矣!」鄭師畢登。壬午,遂入許。許莊公奔衛。 齊侯以許讓公。公曰:「君謂許不共,故從君討之。許既伏其罪矣,雖君有命,寡人弗敢與聞。」乃與鄭人。 鄭伯使許大夫百里奉許叔以居許東偏,曰:「天禍許國,鬼神實不逞于許君,而假手于我寡人。寡人唯是一二父兄不能共億,其敢以許自為功乎?寡人有弟,不能和協,而使餬其口於四方,其況能久有許乎?吾子其奉許叔以撫柔此民也,吾將使獲也佐吾子。若寡人得沒于地,天其以禮悔禍于許?無寧茲許公復奉其社稷。唯我鄭國之有請謁焉,如舊昬媾,其能降以相從也。無滋他族實偪處此,以與我鄭國爭此土也。吾子孫其覆亡之不暇,而況能禋祀許乎?寡人之使吾子處此,不唯許國之為,亦聊以固吾圉也。」乃使公孫獲處許西偏,曰:「凡而器用財賄,無寘於許。我死,乃亟去之。吾先君新邑於此,王室而既卑矣,周之子孫日失其序。夫許,大岳之胤也,天而既厭周德矣,吾其能與許爭乎?」 君子謂:「鄭莊公於是乎有禮。禮,經國家、定社稷、序民人、利後嗣者也。許,無刑而伐之,服而舍之,度德而處之,量力而行之,相時而動,無累後人,可謂知禮矣。」 |
秋七月、公(魯の隠公)は斉侯・鄭伯と会合して許を討伐した。庚辰の日、許に攻め寄せ、潁考叔が鄭伯の旗である蝥弧を取って真っ先に城に登った。子都が下から彼を射ると、潁考叔は転落した。瑕叔盈がまた蝥弧を持って登り、ぐるりと旗を振り回して叫んだ。「君が登られました!」鄭の軍勢はすべて城に登った。壬午の日、ついに許に入城した。許の荘公は衛に逃げた。 斉侯は許を公に譲ろうとした。公は言った。「君は許が恭順でないと言われたので、それで君に従って討伐しました。許はすでにその罪に服しました。たとえ君に命令があっても、私はあえて関知いたしません。」そこで許を鄭の人に与えた。 鄭伯は許の大夫である百里に命じて許叔を奉じて許の東の辺りに住まわせ、言った。「天が許国に災いを下し、鬼神は実に許君に対して満足せず、我が寡人の手を借りて罰を下したのだ。私はただ一二人の父兄すら安んじることができないのに、どうして許を自分の功績とできようか。私には弟がいるが、仲良くできず、彼を四方で口糊ぎさせている。そのような私がどうして長く許を保有できようか。あなたは許叔を奉じてこの民を慰撫しなさい。私は獲(公孫獲)をあなたの補佐に付けよう。もし私が死んで地に没することがあれば、天は礼によって許への禍を悔い改めるであろうか。むしろこの許公が再びその社稷を奉じることを願う。ただ我が鄭国が請い願うことがあれば、昔の婚姻関係のように、へりくだって従ってくれることを望む。他の氏族がここに逼って住み着き、我が鄭国とこの土地を争うことのないように。私の子孫は滅亡を免れるのに忙しく、どうして許の祭祀を行うことができようか。私があなたをここに住まわせるのは、ただ許国のためだけでなく、いささか我が国の辺境を固めるためでもある。」そこで公孫獲を許の西の辺りに住まわせ、言った。「お前の器物や財貨はすべて許に置いてはならない。私が死んだら、すぐにそこを去れ。我が先君はこの地に新たに都を建てたが、王室はすでに衰え、周の子孫は日々その秩序を失っている。そもそも許は大岳の末裔である。天がすでに周の徳を嫌っているのに、我々がどうして許と争えようか。」 君子は言う。「鄭の荘公はこの点において礼をわきまえている。礼とは、国家を治め、社稷を安定させ、民人を秩序づけ、後嗣に利益をもたらすものである。許は法を守らなかったので伐ち、服したので許し、徳を推し量って対処し、力を量って行動し、時を見て動き、後人に累を及ぼさなかった。礼を知っていると言える。」 【解説】 Translation took 4387.3 seconds. |
| 鄭伯使卒出豭,行出犬、雞,以詛射潁考叔者。君子謂:「鄭莊公失政刑矣。政以治民,刑以正邪,既無德政,又無威刑,是以及邪。邪而詛之,將何益矣!」 王取鄔、劉、蒍、邗之田于鄭,而與鄭人蘇忿生之田:溫、原、絺、樊、隰郕、欑茅、向、盟、州、陘、隤、懷。君子是以知桓王之失鄭也。恕而行之,德之則也,禮之經也。己弗能有而以與人,人之不至,不亦宜乎? 鄭、息有違言,息侯伐鄭。鄭伯與戰于竟,息師大敗而還。君子是以知息之將亡也。不度德,不量力,不親親,不徵辭,不察有罪,犯五不韙,而以伐人,其喪師也,不亦宜乎! 冬十月,鄭伯以虢師伐宋。壬戌,大敗宋師,以報其入鄭也。宋不告命,故不書。凡諸侯有命,告則書,不然則否。師出臧否,亦如之。雖及滅國,滅不告敗,勝不告克,不書于策。 羽父請殺桓公,將以求大宰。公曰:「為其少故也,吾將授之矣。使營菟裘,吾將老焉。」羽父懼,反譖公于桓公,而請弒之。公之為公子也,與鄭人戰于狐壤,止焉。鄭人囚諸尹氏,賂尹氏,而禱於其主鍾巫,遂與尹氏歸,而立其主。十一月,公祭鍾巫,齊于社圃,館于寪氏。壬辰,羽父使賊弒公于寪氏,立桓公,而討寪氏,有死者。不書葬,不成喪也。 |
鄭の荘公は、兵卒には雄豚を出させ、行列には犬や鶏を出させて、潁考叔を射た者を呪わせた。君子は言った。「鄭の荘公は政治と刑罰を失ってしまった。政治は民を治めるためのものであり、刑罰は邪悪を正すためのものである。徳のある政治もなく、また威厳のある刑罰もないから、邪悪が生じるのである。邪悪が生じてからそれを呪っても、何の益があろうか。」 王(周の桓王)は鄭から鄔・劉・蒍・邗の田を取り上げ、代わりに鄭人に蘇忿生の田である溫・原・絺・樊・隰郕・欑茅・向・盟・州・陘・隤・懷を与えた。君子はこれによって桓王が鄭の信頼を失ったことを知った。「思いやりをもって行動することは、徳の規範であり、礼の根本である。自分が保持できない土地を人に与えても、人が従わないのは当然ではないか。」 鄭と息の間に争いがあり、息侯が鄭を攻めた。鄭伯は国境で戦い、息軍は大敗して帰還した。君子はこれによって息がまもなく滅びることを知った。「徳を考えず、力を量らず、親しい者を親しまず、言葉を確かめず、罪の有無を調べず、五つの誤りを犯して人を攻めたのだから、軍を失うのは当然ではないか。」 冬十月、鄭伯は虢の軍を率いて宋を攻めた。壬戌の日、宋軍を大敗させ、宋が鄭に侵入したことへの報復とした。宋が(この戦いの結果を)報告しなかったので、『春秋』には記載されなかった。およそ諸侯の出来事は、報告があれば記載され、なければ記載されない。出兵の善し悪しも同様である。たとえ国を滅ぼすようなことがあっても、滅ぼされた側が敗北を報告せず、勝った側が勝利を報告しなければ、史書には記載されない。 羽父(公子翬)は桓公を殺すことを請うて、太宰の地位を得ようとした。公(魯の隠公)は言った。「彼(桓公)が若いからだ。いずれ位を譲るつもりだ。菟裘に隠居所を造らせ、私は老後をそこで過ごすつもりだ。」羽父は恐れて、逆に桓公に隠公のことを讒言し、隠公を殺すことを請うた。隠公が公子だった頃、鄭人と狐壤で戦い、捕らえられた。鄭人は彼を尹氏のところに幽閉したが、隠公は尹氏に賄賂を贈り、尹氏の祭神である鍾巫に祈った。そして尹氏と共に帰国し、鍾巫を祀る社を立てた。十一月、隠公は鍾巫を祭るため、社圃で斎戒し、寪氏の家に宿泊した。壬辰の日、羽父が刺客を送って寪氏の家で隠公を殺し、桓公を立てた。そして寪氏を討ち、死者が出た。隠公の葬儀が『春秋』に記載されないのは、正式な葬儀が行われなかったからである。 【解説】 Translation took 3474.0 seconds. |
| input text ../document/春秋左氏傳\02_春秋左氏傳_桓公.txt | 現代日本語 translated text |
| 春秋左氏傳 桓公 桓公元年 經 元年,春,王正月,公即位。 三月,公會鄭伯于垂,鄭伯以璧假許田。 夏,四月,丁未,公及鄭伯盟于越。 秋,大水。 冬,十月。 傳 元年春,公即位,修好于鄭。鄭人請復祀周公,卒易祊田。公許之。三月,鄭伯以璧假許田,為周公、祊故也。 夏,四月,丁未,公及鄭伯盟于越,結祊成也。盟曰:「渝盟,無享國。」 秋,大水。凡平原出水為大水。 冬,鄭伯拜盟。 宋華父督見孔父之妻于路,目逆而送之,曰:「美而艷。」 桓公二年 經 二年,春,王正月戊申,宋督弒其君與夷及其大夫孔父。 滕子來朝。 三月,公會齊侯、陳侯、鄭伯于稷,以成宋亂。 夏,四月,取郜大鼎于宋。戊申,納于大廟。 秋,七月,杞侯來朝。 蔡侯、鄭伯會于鄧。 九月,入杞。 公及戎盟于唐。 冬,公至自唐。 傳 二年春,宋督攻孔氏,殺孔父而取其妻。公怒,督懼,遂弒殤公。 君子以督為有無君之心,而後動於惡,故先書弒其君。會于稷,以成宋亂,為賂故,立華氏也。 宋殤公立,十年十一戰,民不堪命。孔父嘉為司馬,督為大宰,故因民之不堪命,先宣言曰:「司馬則然。」已殺孔父而弒殤公,召莊公于鄭而立之,以親鄭。以郜大鼎賂公,齊、陳、鄭皆有賂,故遂相宋公。 |
春秋左氏伝 桓公元年 元年、春、王の正月、公が即位した。 三月、公が鄭伯と垂で会い、鄭伯が璧をもって許田を借りた。 夏、四月、丁未の日、公が鄭伯と越で盟約した。 秋、大水があった。 冬、十月。 伝 元年春、公が即位し、鄭との友好を修めた。鄭人が周公の祭祀を復活させることを請い、最終的に祊田を交換した。公はこれを許した。三月、鄭伯が璧をもって許田を借りたのは、周公と祊の故である。 夏、四月、丁未の日、公が鄭伯と越で盟約したのは、祊の交換を成立させるためである。盟約には「盟約に背く者は、国を享有できない」とあった。 秋、大水があった。およそ平原から水が出ることを大水という。 冬、鄭伯が盟約の礼に来た。 宋の華父督が孔父の妻を道で見かけ、目で迎えて送り、言った、「美しく艶やかだ」と。 桓公二年 二年、春、王の正月戊申の日、宋の督がその君與夷とその大夫孔父を弑した。 滕子が来朝した。 三月、公が斉侯、陳侯、鄭伯と稷で会い、宋の乱を収めた。 夏、四月、郜の大鼎を宋から取った。戊申の日、大廟に納めた。 秋、七月、杞侯が来朝した。 蔡侯と鄭伯が鄧で会った。 九月、杞に入った。 公が戎と唐で盟約した。 冬、公が唐から帰還した。 伝 二年春、宋の督が孔氏を攻め、孔父を殺してその妻を奪った。公が怒り、督は恐れて、ついに殤公を弑した。 君子は督には君を無視する心があり、その後に悪事を行ったとみなす。それゆえ、まず君を弑したと書く。稷で会して宋の乱を収めたのは、賄賂のためであり、華氏を立てたのである。 宋の殤公が立ってから、十年で十一度の戦争があり、民は命に堪えられなかった。孔父嘉が司馬であり、督が大宰であった。そこで民が命に堪えられないのを利用して、まず宣言して言った、「司馬がそうさせているのだ」と。すでに孔父を殺して殤公を弑し、鄭から荘公を召して立て、鄭と親しくした。郜の大鼎を公に賄賂として贈り、斉、陳、鄭にもすべて賄賂を贈った。それゆえ、ついに宋公の宰相となった。 解説: Translation took 2395.2 seconds. |
| 夏四月,取郜大鼎于宋。戊申,納于大廟。非禮也。臧哀伯諫曰:「君人者,將昭德塞違,以臨照百官;猶懼或失之,故昭令德以示子孫。是以清廟茅屋,大路越席,大羹不致,粢食不鑿,昭其儉也;袞、冕、黻、珽,帶、裳、幅、舄,衡、紞、紘、綖,昭其度也;藻、率、鞞、鞛,鞶、厲、游、纓,昭其數也;火、龍、黼、黻,昭其文也;五色比象,昭其物也;錫、鸞、和、鈴,昭其聲也;三辰旂旗,昭其明也。夫德,儉而有度,登降有數。文、物以紀之,聲、明以發之,以臨照百官,百官於是乎戒懼,而不敢易紀律。今滅德立違,而寘其賂器於大廟,以明示百官。百官象之,其又何誅焉?國家之敗,由官邪也;官之失德,寵賂章也。郜鼎在廟,章孰甚焉?武王克商,遷九鼎于雒邑,義士猶或非之,而況將昭違亂之賂器於大廟。其若之何?」公不聽。周內史聞之,曰:「臧孫達其有後於魯乎!君違,不忘諫之以德。」 秋七月,杞侯來朝,不敬,杞侯歸,乃謀伐之。 蔡侯、鄭伯會于鄧,始懼楚也。 九月,入杞,討不敬也。 公及戎盟于唐,修舊好也。 冬,公至自唐,告于廟也。凡公行,告于宗廟;反行,飲至、舍爵,策勳焉,禮也。特相會,往來稱地,讓事也。自參以上,則往稱地,來稱會,成事也。 初,晉穆侯之夫人姜氏,以條之役生太子,命之曰仇。其弟以千畝之戰生,命之曰成師。師服曰:「異哉,君之名子也!夫名以制義,義以出禮,禮以體政,政以正民。是以政成而民聽,易則生亂。嘉耦曰妃,怨耦曰仇,古之命也。今君命大子曰仇,弟曰成師,始兆亂矣,兄其替乎?」 |
夏四月、宋から郜の大鼎を取った。戊申の日、大廟に納めた。これは礼に反することである。臧哀伯が諫めて言った。「人々の君主たる者は、徳を明らかにし、違反を塞ぎ、それによって百官を照らし導くべきである。それでもなお、過ちがあるかもしれないと恐れて、善い徳を明らかにして子孫に示すのである。だからこそ、清廟は茅葺きの屋根とし、大路は藺草の敷物を用い、大羹は味付けをせず、粢食は精白しない。これはその倹約を示すのである。袞衣、冕冠、黻、珽、帯、裳、幅、舄、衡、紞、紘、綖は、その身分の度合いを示す。藻、率、鞞、鞛、鞶、厲、游、纓は、その装飾の数を示す。火、龍、黼、黻の模様は、その文様を示す。五色の組み合わせは、その器物を示す。錫、鸞、和、鈴は、その音声を示す。日月星の三辰を描いた旗は、その光明を示す。そもそも徳とは、倹約でありながら度合いがあり、昇降に一定の数がある。文様や器物によってそれを記し、音声や光明によってそれを発し、それによって百官を照らし導く。百官はそこで戒め慎み、規律を軽んじることができないのである。今、徳を滅ぼし違反を立て、その賄賂の器を大廟に置いて、百官に明らかに示そうとしている。百官がそれを見習ったら、いったい誰を罰することができようか。国家の敗北は、官の邪悪から起こる。官が徳を失うのは、寵愛と賄賂が明らかになるからである。郜の鼎が廟にあることは、これ以上に明らかなことがあろうか。武王が商に勝ったとき、九鼎を雒邑に移したが、義士でさえそれを非難する者がいた。ましてや、違反と乱れを示す賄賂の器を大廟に明らかに示そうとするのは、いったいどうしたことか。」公は聞き入れなかった。周の内史がこれを聞いて言った。「臧孫達は魯において子孫が栄えるであろう。君主が違反をしても、徳をもって諫めることを忘れないからだ。」 秋七月、杞侯が来朝したが、敬意を払わなかった。杞侯が帰ると、そこで杞を討つことを謀った。 蔡侯と鄭伯が鄧で会合した。これは初めて楚を恐れたからである。 九月、杞に攻め入った。敬意を払わなかったことを討つためである。 公は戎と唐で盟を結んだ。旧来の友好を修めるためである。 冬、公は唐から帰還し、廟に報告した。およそ公が外出するときは、宗廟に報告する。帰還したときは、飲至の礼を行い、爵を置き、勲功を記録する。これが礼である。特に二国だけの会合では、行きも帰りも地名を称する。これは謙譲の意を表す。三国以上の場合、行きは地名を称し、帰りは会と称する。これは会合が成立したことを示す。 昔、晋の穆侯の夫人姜氏は、条の役のときに太子を産み、名付けて仇といった。その弟は千畝の戦いのときに生まれ、名付けて成師といった。師服が言った。「不思議なことだ、君が子に名付けるとは。そもそも名は義を定めるためにあり、義は礼を生み、礼は政治を形作り、政治は民を正す。だから政治が成り立つと民は従うが、それを変えると乱れが生じる。良いつれあいを妃といい、怨みのつれあいを仇というのは、古くからの命名である。今、君は太子を仇と名付け、弟を成師と名付けた。これは乱れの兆しが始まったのである。兄は取って代わられるであろうか。」 【解説】 その後、杞侯の不敬に対する討伐、蔡侯と鄭伯の鄧での会合(楚への警戒の始まり)、魯と戎の盟、帰還後の宗廟への報告と礼の規定について記されます。最後に、晋の穆侯が太子を「仇」、弟を「成師」と名付けたことに対し、師服が名の意味から将来の内乱を予言する逸話が続きます。この部分は、命名の重要性と、名が政治や礼と深く関わるという当時の思想を示しています。全体として、礼の遵守と君主の徳、そして名分の正しさが国家の安定に不可欠であるという春秋時代の政治思想が色濃く表れています。 Translation took 3500.6 seconds. |
| 惠之二十四年,晉始亂,故封桓叔于曲沃,靖侯之孫欒賓傅之。師服曰:「吾聞國家之立也,本大而末小,是以能固。故天子建國,諸侯立家,卿置側室,大夫有貳宗,士有隸子弟,庶人、工、商各有分親,皆有等衰。是以民服事其上,而下無覬覦。今晉,甸侯也,而建國,本既弱矣,其能久乎?」 惠之三十年,晉潘父弒昭侯而納桓叔,不克。晉人立孝侯。 惠之四十五年,曲沃莊伯伐翼,弒孝侯。翼人立其弟鄂侯。鄂侯生哀侯。哀侯侵陘庭之田。陘庭南鄙啟曲沃伐翼。 桓公三年 經 三年,春,正月,公會齊侯于嬴。 夏,齊侯、衛侯胥命于蒲。 六月,公會杞侯于郕。 秋七月壬辰朔,日有食之,既。 公子翬如齊逆女。 九月,齊侯送姜氏于讙。 公會齊侯於讙。 夫人姜氏至自齊。 冬,齊侯使其弟年來聘。 有年。 傳 三年春,曲沃武公伐翼,次于陘庭,韓萬御戎,梁弘為右,逐翼侯于汾隰,驂絓而止。夜獲之,及欒共叔。 會于嬴,成昬于齊也。 夏,齊侯、衛侯胥命于蒲,不盟也。 公會杞侯于郕,杞求成也。 秋,公子翬如齊逆女。修先君之好。故曰「公子」。 齊侯送姜氏于讙,非禮也。凡公女嫁于敵國,姊妹,則上卿送之,以禮於先君;公子,則下卿送之。於大國,雖公子,亦上卿送之。於天子,則諸卿皆行,公不自送。於小國,則上大夫送之。 |
恵公二十四年、晋で初めて内乱が起こったため、桓叔を曲沃に封じ、靖侯の孫である欒賓をその傅(後見役)とした。師服は言った。「私は聞いている。国家が安定して立つには、根本が大きく末端が小さいことが肝要であり、それによってこそ強固でいられると。だから天子は諸侯国を建て、諸侯は大夫の家を立て、卿は側室を置き、大夫は弐宗を持ち、士は子弟を隷属させ、庶人・工人・商人はそれぞれ親族の分限を持ち、みな等級に応じた差があった。それゆえ民は目上の者に仕えて服し、下の者は上の地位を狙うことがなかった。今の晋は、甸服の諸侯であるのに、自ら国を建てるようなことをしている。根本がすでに弱まっているのに、長く続くだろうか。」 恵公三十年、晋の潘父が昭侯を弑して桓叔を迎え入れようとしたが、成功しなかった。晋の人々は孝侯を立てた。 恵公四十五年、曲沃の荘伯が翼を攻め、孝侯を弑した。翼の人々はその弟の鄂侯を立てた。鄂侯は哀侯を生んだ。哀侯は陘庭の田を侵した。陘庭の南の辺境の者が曲沃に通じて翼を攻めさせた。 桓公三年 三年、春、正月、公は嬴で斉侯と会見した。 夏、斉侯と衛侯が蒲で胥命(会見して約束を交わすこと)した。 六月、公は郕で杞侯と会見した。 秋七月壬辰朔、日食があり、皆既日食となった。 公子翬が斉へ行き、公の夫人を迎えた。 九月、斉侯が姜氏を讙まで送ってきた。 公は讙で斉侯と会見した。 夫人姜氏が斉から到着した。 冬、斉侯はその弟の年を派遣して来聘させた。 豊年であった。 伝 三年春、曲沃の武公が翼を攻め、陘庭に駐留した。韓萬が戎車の御者となり、梁弘が車右となって、翼侯を汾水のほとりの低湿地まで追い、翼侯の車の外側の馬が絡まって止まった。夜になって翼侯を捕らえ、あわせて欒共叔も捕らえた。 嬴で会見したのは、斉との婚姻を成立させるためであった。 夏、斉侯と衛侯が蒲で胥命したが、盟は結ばなかった。 公が郕で杞侯と会見したのは、杞が和睦を求めたからである。 秋、公子翬が斉へ行って公の夫人を迎えた。これは先君との友好関係を修めるためであった。それで「公子」と言うのである。 斉侯が姜氏を讙まで送ってきたのは、礼にかなわないことであった。およそ公の娘が対等の国に嫁ぐ場合、姉妹であれば上卿が送り、先君に対する礼を尽くす。公の娘であれば下卿が送る。大国に嫁ぐ場合は、公の娘であっても上卿が送る。天子に嫁ぐ場合は、諸卿がみな同行し、公は自ら送らない。小国に嫁ぐ場合は、上大夫が送るのである。 【解説】 後半は魯の桓公三年の記事で、斉との婚姻成立のための会見、衛侯との胥命、杞との和睦、日食の記録、公子翬による夫人姜氏の迎接、そして斉侯が姜氏を讙まで送ったことが礼に反するという議論が展開されます。特に最後の部分は、当時の婚礼における送迎の礼制を詳細に説明しており、公女の嫁ぎ先の格によって送る者の身分が異なることがわかります。また「有年」とあるのは豊作だったことを示し、日食の記述は当時の天文記録としても貴重です。 Translation took 1410.6 seconds. |
| 冬,齊仲年來聘,致夫人也。 芮伯萬之母芮姜惡芮伯之多寵人也,故逐之,出居于魏。 桓公四年 經 四年,春,正月,公狩于郎。 夏,天王使宰渠伯糾來聘。 傳 四年春,正月,公狩于郎。書,時,禮也。 夏,周宰渠伯糾來聘。父在,故名。 秋,秦師侵芮,敗焉,小之也。 冬,王師、秦師圍魏,執芮伯以歸。 桓公五年 經 五年春正月,甲戌、己丑,陳侯鮑卒。 夏,齊侯鄭伯如紀。天王使仍叔之子來聘。葬陳桓公。城祝丘。 秋,蔡人、衛人、陳人從王伐鄭。大雩。螽。 冬,州公如曹。 傳 五年春正月,甲戌,己丑,陳侯鮑卒,再赴也。於是陳亂,文公子佗殺大子免而代之。公疾病而亂作,國人分散,故再赴。 夏,齊侯、鄭伯朝于紀,欲以襲之。紀人知之。 王奪鄭伯政,鄭伯不朝。秋,王以諸侯伐鄭,鄭伯禦之。 王為中軍;虢公林父將右軍,蔡人、衛人屬焉;周公黑肩將左軍,陳人屬焉。 鄭子元請為左拒,以當蔡人、衛人;為右拒,以當陳人,曰:「陳亂,民莫有鬬心,若先犯之,必奔。王卒顧之,必亂。蔡、衛不枝,固將先奔,既而萃於王卒,可以集事。」從之。曼伯為右拒,祭仲足為左拒,原繁、高渠彌以中軍奉公,為魚麗之陳,先偏後伍,伍承彌縫。戰于繻葛,命二拒曰:「旝動而鼓。」蔡、衛、陳皆奔,王卒亂,鄭師合以攻之,王卒大敗。祝聃射王中肩,王亦能軍。祝聃請從之。公曰:「君子不欲多上人,況敢陵天子乎!苟自救也,社稷無隕,多矣。」 |
冬、斉の仲年が来訪して聘問した。夫人を送り届けるためである。 芮伯萬の母の芮姜は、芮伯に寵愛する者が多いのを憎み、それで彼を追放し、魏に出て住まわせた。 桓公四年 経 四年、春、正月、公は郎で狩猟をした。 夏、天王が宰の渠伯糾を派遣して来訪させ聘問した。 伝 四年春、正月、公は郎で狩猟をした。これを記すのは、時宜にかなっており礼に適っているからである。 夏、周の宰の渠伯糾が来訪して聘問した。父が存命なので、名を記したのである。 秋、秦の軍が芮に侵攻したが、敗れた。芮を軽んじたからである。 冬、王の軍と秦の軍が魏を包囲し、芮伯を捕らえて帰った。 桓公五年 経 五年春正月、甲戌の日と己丑の日、陳侯鮑が死去した。 夏、斉侯と鄭伯が紀へ行った。天王が仍叔の子を派遣して来訪させ聘問した。陳の桓公を葬った。祝丘に城を築いた。 秋、蔡人、衛人、陳人が王に従って鄭を討った。大雩の祭りを行った。蝗が発生した。 冬、州公が曹へ行った。 伝 五年春正月、甲戌の日と己丑の日、陳侯鮑が死去した。二度訃報が届いたからである。このとき陳は乱れ、文公の子の佗が太子の免を殺して代わった。公は病が重く、乱が起こり、国人は離散した。それで二度訃報が届いたのである。 夏、斉侯と鄭伯が紀に朝見した。それを奇襲しようとしたのである。紀人はそれを知った。 王が鄭伯の政権を奪ったので、鄭伯は朝見しなかった。秋、王は諸侯を率いて鄭を討ち、鄭伯はこれを防いだ。 王は中軍となり、虢公林父が右軍を率い、蔡人と衛人がそれに属した。周公黒肩が左軍を率い、陳人がそれに属した。 鄭の子元は左拒を編成して蔡人・衛人に当たり、右拒を編成して陳人に当たることを請い、言った。「陳は乱れており、民には戦う心がない。もし先に攻めれば、必ず逃げるだろう。王の本隊がそれを顧みれば、必ず乱れる。蔡・衛は支えきれず、もともと先に逃げるだろう。そうして王の本隊に集まれば、事を成し遂げられる。」公はこれに従った。曼伯が右拒となり、祭仲足が左拒となり、原繁と高渠弥が中軍で公を奉じ、魚麗の陣を敷いた。先に偏(小部隊)を置き、後に伍(五人組)を置き、伍がその隙間を埋めた。繻葛で戦い、二拒に命じて「旝(軍旗)が動いたら太鼓を打て」と言った。蔡・衛・陳は皆逃げ、王の本隊は乱れ、鄭の軍は合流してこれを攻め、王の本隊は大敗した。祝聃が王を射て肩に当てたが、王はなお軍を指揮できた。祝聃は追撃を請うた。公は言った。「君子は人より上に立つことを望まない。まして天子を陵辱することなどできようか。自らを救うことができて、社稷が滅びなければ、それで十分である。」 解説 この一節は、『春秋左氏伝』の桓公四年(紀元前708年)から桓公五年(紀元前707年)にかけての記述です。前半は、魯の隣国である芮の内紛(芮伯萬が母に追放される事件)と、それに乗じた秦や周王室の介入を簡潔に記しています。 後半の中心は、桓公五年に起きた「繻葛の戦い」です。周の桓王が鄭の荘公から政権を奪ったことをきっかけに、王は諸侯連合軍(蔡・衛・陳など)を率いて鄭を討伐します。しかし鄭は子元の献策により、まず弱体な陳軍を攻めて連合軍を崩し、さらに魚麗の陣という巧妙な陣形を用いて周王の本隊を大敗させました。この戦いで鄭の祝聃が周王の肩に矢を射当てるという事態が起きますが、鄭の荘公は天子への敬意から追撃を止め、「自国が救われれば十分だ」と述べます。この出来事は、周王室の権威が大きく失墜し、諸侯が力で王に挑む時代の転換点を象徴するものとして知られています。 Translation took 2944.4 seconds. |
| 夜,鄭伯使祭足勞王,且問左右。 仍叔之子來聘,弱也。 秋,大雩,書,不時也。凡祀,啟蟄而郊,龍見而雩,始殺而嘗,閉蟄而烝。過則書。 冬,淳于公如曹。度其國危,遂不復。 桓公六年 經 六年,春,正月,寔來。 夏,四月,公會紀侯于成。 秋,八月,壬午,大閱,蔡人殺陳佗。 九月,丁卯,子同生。 冬,紀侯來朝。 傳 六年,春,自曹來朝。書曰:「寔來」,不復其國也。楚武王侵隨,使薳章求成焉,軍於瑕以待之。隨人使少師董成,鬬伯比言于楚子曰:「吾不得志於漢東也,我則使然。我張吾三軍而被吾甲兵,以武臨之;彼則懼而協以謀我,故難間也。漢東之國,隨為大,隨張,必棄小國。小國離,楚之利也。少師侈,請羸師以張之。」熊率且比曰:「季梁在,何益?」鬬伯比曰:「以為後圖,少師得其君。」王毀軍而納少師。 少師歸,請追楚師。隨侯將許之,季梁止之曰:「天方授楚,楚之羸,其誘我也,君何急焉?臣聞小之能敵大也,小道大淫。所謂道,忠於民而信於神也;上思利民,忠也;祝史正辭,信也。今民餒而君逞欲,祝史矯舉以祭,臣不知其可也。」公曰:「吾牲牷肥腯,粢盛豐備,何則不信?」對曰:「夫民,神之主也。是以聖王先成民,而後致力於神。故奉牲以告曰『博碩肥腯』,謂民力之普存也,謂其畜之碩大蕃滋也,謂其不疾瘯蠡也,謂其備腯咸有也。奉盛以告曰『絜粢豐盛』,謂其三時不害,而民和年豐也。奉酒醴以告曰『嘉栗旨酒』,謂其上下皆有嘉德,而無違心也。所謂馨香,無讒慝也,故務其三時,脩其五教,親其九族,以致其禋祀。於是乎民和而神降之福,故動則有成。今民各有心,而鬼神乏主,君雖獨豐,其何福之有?!君姑脩政而親兄弟之國,庶免於難。」隨侯懼而脩政,楚不敢伐。 |
夜、鄭の伯は祭足を遣わして王を労い、また側近たちの安否を尋ねさせた。 仍叔の子が来聘した。まだ若いからである。 秋、大雩の祭りを行った。これを記録するのは、時節にかなっていないからである。およそ祭祀は、啓蟄の頃に郊祀を行い、龍の星が現れる頃に雩祭を行い、殺気が立ち始める頃に嘗祭を行い、蟄虫が閉じこもる頃に烝祭を行う。時節を過ぎれば記録する。 冬、淳于公が曹へ行った。自分の国が危ういと判断し、ついに帰国しなかった。 桓公六年 経 六年、春、正月、寔が来た。 夏、四月、公は紀侯と成で会合した。 秋、八月、壬午の日、大規模な軍事演習を行った。蔡人が陳佗を殺した。 九月、丁卯の日、子同が生まれた。 冬、紀侯が来朝した。 伝 六年、春、曹から来朝した。経に「寔来」と書いてあるのは、その国に帰らなかったからである。 楚の武王が隨に侵攻し、薳章を遣わして和議を求めた。瑕に軍を駐留させて待った。隨人は少師を遣わして和議をまとめさせた。鬬伯比が楚子に言った、「我々が漢東で思い通りにならないのは、我々自身がそうさせているのです。我々が三軍を張り、甲兵を身につけて武力で臨むと、彼らは恐れて協力して我々に対抗しようとする。だから離間が難しいのです。漢東の国々では隨が最も大きい。隨が増長すれば、必ず小国を軽んじるでしょう。小国が離れれば、楚の利益です。少師は傲慢ですから、どうか我が軍を弱々しく見せて彼を増長させてください。」熊率且比が言った、「季梁がいるのに、何の益があるのか。」鬬伯比は言った、「後のための計略です。少師は君主の信任を得ていますから。」王は軍をわざと乱して少師を迎え入れた。 少師は帰国すると、楚軍を追撃するよう請うた。隨侯がそれを許そうとしたので、季梁が止めて言った、「天は今まさに楚に授けようとしています。楚の弱々しい様子は、我々を誘っているのです。君はなぜ急ぐのですか。私は聞いています、小国が大国に対抗できるのは、小国が道にかなっており、大国が淫らである場合だと。道とは、民に忠実で神に信義を尽くすことです。上が民の利益を考えるのが忠であり、祝史が正しい言葉で祈るのが信です。今、民は飢えているのに君は欲望をほしいままにし、祝史は偽りの功績を並べて祭祀を行っています。私はそれが正しいとは思えません。」公が言った、「私の犠牲の牛は肥えており、供える穀物も豊かに備えている。それなのにどうして信ではないのか。」答えて言った、「そもそも民は神の主です。だから聖王はまず民を安んじてから、神に力を尽くすのです。だから犠牲を捧げて『博碩肥腯』と告げるのは、民の力が広く保たれていることを言い、その家畜が大きく育ち繁殖していることを言い、病気や皮膚病がないことを言い、肥えたものがすべて揃っていることを言うのです。供える穀物を捧げて『絜粢豐盛』と告げるのは、三つの季節に災害がなく、民が和して年が豊かであることを言うのです。酒や甘酒を捧げて『嘉栗旨酒』と告げるのは、上下みな良い徳を持ち、背く心がないことを言うのです。馨香とは、讒言や悪事がないことです。だから三つの季節の農事に努め、五教を修め、九族を親しみ、そうして祭祀を行うのです。そうすれば民が和して神が福を降し、行動すれば成功するのです。今、民はそれぞれ心がばらばらで、鬼神には主がありません。君が一人で豊かに供えても、何の福がありましょうか。君はしばらく政治を修め、兄弟の国と親しくしてください。そうすれば難を免れることができるでしょう。」隨侯は恐れて政治を修めた。楚は敢えて攻めなかった。 解説 この一節は、春秋左氏伝の桓公五年末から六年の記述です。前半は祭祀の時期に関する記録や淳于公の亡命などが簡潔に記され、後半は楚の武王が隨を攻めようとした際の逸話が詳しく語られます。特に注目されるのは、隨の賢臣・季梁の諫言です。彼は、祭祀の形式よりも民の安寧こそが神への真の奉仕であると説き、「民は神の主である」という思想を明確に述べています。これは中国古代の民本思想の重要な表現として知られています。また、楚の鬬伯比が敵の傲慢さを利用しようとする策略や、隨侯が季梁の言葉に従って内政を整えた結果、楚が侵攻を断念したという結末は、小国が道義によって大国の圧力を退けるという教訓を示しています。 Translation took 4089.9 seconds. |
| 夏,會于成。紀來諮謀齊難也。北戎伐齊,齊使乞師于鄭,鄭大子忽帥師救齊。 六月,大敗戎師,獲其二帥,大良,少良。甲首三百,以獻於齊。於是諸侯之大夫戍齊。齊人饋之餼,使魯為其班,後鄭。鄭忽以其有功也,怒。故有郎之師。 公之未昏於齊也。齊侯欲以文姜妻鄭大子。大子忽辭,人問其故,大子曰:「人各有耦,齊大,非吾耦也。《詩》云:『自求多福。』在我而已,大國何為?」君子曰:「善自為謀。」及其敗戎師也,齊侯又請妻之,固辭。人問其故,大子曰:「無事於齊,吾猶不敢。今以君命,奔齊之急,而受室以歸,是以師昏也,民其謂我何?」遂辭諸鄭伯。 秋,大閱,簡車馬也。 九月,丁卯,子同生。以大子生之禮舉之,接以大牢。卜士負之,士妻食之,公與文姜宗婦命之。公問名於申繻,對曰:「名有五:有信,有義,有象,有假,有類。以名生為信,以德名為義,以類命為象,取於物為假,取於父為類。不以國,不以官,不以山川,不以隱疾,不以畜牲,不以器幣。周人以諱事神,名,終將諱之。故以國則廢名,以官則廢職,以山川則廢主,以畜牲則廢祀,以器幣則廢禮。晉以僖侯廢司徒,宋以武公廢司空,先君獻武廢二山。是以大物不可以命。」公曰:「是其生也,與吾同物,命之曰同。」 |
夏、成で会合した。紀の国が来て、斉の難について相談したのである。北戎が斉を攻めたので、斉は鄭に援軍を要請し、鄭の太子忽が軍を率いて斉を救った。 六月、戎の軍を大いに破り、その二人の将軍、大良と少良を捕らえた。甲首三百を斉に献上した。そこで諸侯の大夫たちが斉を守備した。斉人は彼らに食糧を贈り、魯にその序列を定めさせたが、鄭を後回しにした。鄭の忽は自分に功績があるのに、と怒った。それで郎の戦いが起こったのである。 公がまだ斉に婚姻していなかったとき、斉侯は文姜を鄭の太子に嫁がせようとした。太子忽は辞退した。人がその理由を尋ねると、太子は言った。「人にはそれぞれふさわしい配偶者がいる。斉は大国で、私の配偶者にはふさわしくない。『詩』に『自ら多福を求める』とある。自分次第であって、大国が何になろうか。」君子は言った。「自分のために善く計ったものである。」戎の軍を破った後、斉侯はまた彼に妻を娶らせようとしたが、固く辞退した。人がその理由を尋ねると、太子は言った。「斉に対して何の用事もないときでさえ、私は敢えてしなかった。今、君の命令で斉の急難に駆けつけ、妻を娶って帰るなら、それは軍事的功績による婚姻である。民は私を何と言うだろうか。」そこで鄭伯に断った。 秋、大閲を行った。車馬を検査するためである。 九月、丁卯の日、子同が生まれた。太子出生の礼をもって挙行し、太牢で迎えた。占いで選ばれた士が子を背負い、士の妻が乳を与え、公と文姜と同族の婦人たちが命名した。公は申繻に名について尋ねた。申繻は答えた。「名には五つの種類があります。信、義、象、假、類です。出生時の特徴にちなんで名付けるのが信、徳にちなんで名付けるのが義、類似したものにちなんで名付けるのが象、物から取るのが假、父から取るのが類です。国名を用いず、官名を用いず、山川の名を用いず、隠れた病気を用いず、家畜を用いず、器物や貨幣を用いません。周人は諱(いみな)で神に仕えるので、名は終には諱まれることになります。だから国名を用いれば名を廃し、官名を用いれば職を廃し、山川の名を用いればその主を廃し、家畜を用いれば祭祀を廃し、器物や貨幣を用いれば礼を廃することになります。晋は僖侯のために司徒を廃し、宋は武公のために司空を廃し、先君献公・武公は二つの山の名を廃しました。だから大きな事物を名前に用いてはならないのです。」公は言った。「この子の生まれた日は、私と同じ干支である。名を同としよう。」 【解説】
この一節は、当時の国際関係、礼制、命名の慣習などを知る上で貴重な記述です。特に命名の原則は、後の儒教的な名諱思想の基礎ともなっています。 Translation took 2835.1 seconds. |
| 冬,紀侯來朝。請王命以求成于齊,公告不能。 桓公七年 經 七年,春,二月己亥,焚咸丘。 夏,穀伯綏來朝,鄧侯吾離來朝。 傳 七年春,穀伯、鄧侯來朝。名,賤之也。 夏,盟、向求成于鄭,既而背之。 秋,鄭人、齊人、衛人伐盟、向。王遷盟、向之民于郟。 冬,曲沃伯誘晉小子侯,殺之。 桓公八年 經 八年,春,正月己卯,烝。天王使家父來聘。 夏,五月丁丑,烝。 秋,伐邾。 冬,十月,雨雪。祭公來,遂逆王后于紀。 傳 八年,春,滅翼。隨少師有寵。楚鬬伯比曰:「可矣。讎有釁,不可失也。」 夏,楚子合諸侯于沈鹿。黃、隨不會,使薳章讓黃。楚子伐隨,軍於漢淮之間。季梁請下之:「弗許而後戰,所以怒我而怠寇也。」少師謂隨侯曰:「必速戰,不然,將失楚師。」隨侯禦之,望楚師,季梁曰:「楚人上左,君必左,無與王遇,且攻其右。右無良焉,必敗。偏敗,眾乃攜矣。」少師曰:「不當王,非敵也。」弗從。戰于速杞,隨師敗績。隨侯逸,鬬丹獲其戎車,與其戎右少師。 秋,隨及楚平。楚子將不許。鬬伯比曰:「天去其疾矣,隨未可克也。」乃盟而還。 冬,王命虢仲立晉哀侯之弟緡于晉。祭公來,遂逆王后于紀,禮也。 桓公九年 經 九年,春,紀季姜歸於京師。 |
冬、紀侯が来朝した。王命を請うて斉との講和を求めようとしたが、公は不可能であると告げた。 桓公七年 七年、春、二月己亥、咸丘を焼く。 夏、穀伯綏が来朝し、鄧侯吾離が来朝した。 伝 七年春、穀伯と鄧侯が来朝した。名を記すのは、彼らを賤しんだからである。 夏、盟と向が鄭に講和を求めたが、やがてこれを裏切った。 秋、鄭人・斉人・衛人が盟と向を攻めた。王は盟と向の民を郟に移した。 冬、曲沃伯が晋の小子侯を誘い出して殺した。 桓公八年 八年、春、正月己卯、烝祭を行った。天王が家父を派遣して来聘させた。 夏、五月丁丑、烝祭を行った。 秋、邾を攻めた。 冬、十月、雪が降った。祭公が来て、続いて紀から王后を迎えた。 伝 八年、春、翼を滅ぼした。随の少師は寵愛を受けていた。楚の鬬伯比が言った、「好機である。敵には隙がある、これを逃してはならない」と。 夏、楚子が沈鹿で諸侯を会合させた。黄と随は参加しなかったので、薳章を派遣して黄を責めた。楚子は随を攻め、漢水と淮水の間に軍を駐留させた。季梁は楚に服従することを請うて言った、「楚が許さなければ、その後に戦うべきです。そうすれば我が軍は怒りに燃え、敵は油断するでしょう」と。少師は随侯に言った、「必ず速やかに戦うべきです。そうしなければ、楚軍を取り逃がすことになります」と。随侯はこれに応じて出陣し、楚軍を望見した。季梁は言った、「楚人は左を上位とします。君は必ず左翼に位置し、王と直接対峙してはなりません。そしてその右翼を攻めるのです。右翼には優れた者がいないので、必ず敗れます。一部が敗れれば、軍全体が離散するでしょう」と。少師は言った、「王と対峙しなければ、敵に匹敵しません」と。随侯は季梁の進言に従わなかった。速杞で戦い、随軍は大敗した。随侯は逃げ延びたが、鬬丹はその戎車と、その車右である少師を捕らえた。 秋、随は楚と講和した。楚子はこれを許そうとしなかった。鬬伯比が言った、「天が随の病根を取り除きました。随はまだ攻略できません」と。そこで盟を結んで帰還した。 冬、王は虢仲に命じて晋の哀侯の弟である緡を晋に立てさせた。祭公が来て、続いて紀から王后を迎えたのは、礼にかなっていた。 桓公九年 九年、春、紀の季姜が京師に嫁いだ。 【解説】 この箇所は『春秋左氏伝』桓公七年から九年にかけての記述です。魯の桓公の時代、中原の小国や周辺諸国が大国の圧力にさらされ、周王室の権威が形骸化していく様子が描かれています。 桓公七年冬の条では、紀侯が斉からの圧迫を逃れるため、周王の命令によって斉との講和を仲介してもらおうと魯に依頼しますが、桓公は「できない」と断ります。これは当時すでに周王の権威が低下し、また魯にも紀を救う力がなかったことを示しています。 桓公八年の伝は特に有名な箇所で、楚の随攻めを詳述しています。随の内部では、老練な季梁が慎重な戦略を提案する一方、寵臣の少師が軽率な決戦を主張します。随侯は少師の意見を採用して大敗し、少師自身も捕虜となります。この「少師有寵」に始まる一連の記述は、おもねる側近に惑わされて国を危うくする君主の姿を描いた教訓的な物語として知られています。また、鬬伯比の「天去其疾矣(天が病根を取り除いた)」という言葉は、少師という奸臣が除かれたことで随がかえって団結するだろうから、今は攻めても勝てないと判断したものです。 桓公九年の経では、紀の季姜(紀侯の娘)が周の桓王の后として京師に嫁いだことが記されています。これは桓公八年冬に祭公が紀へ王后を迎えに来たことの結果です。 Translation took 1540.2 seconds. |
| 夏,四月。 秋,七月。 冬,曹伯使其世子射姑來朝。 傳 九年春,紀季姜歸於京師。凡諸侯之女行,唯王后書。 巴子使韓服告于楚,請與鄧為好。楚子使道朔將巴客以聘于鄧。鄧南鄙鬱人攻而奪之幣,殺道朔及巴行人。楚子使薳章讓于鄧,鄧人弗受。 夏,楚使鬬廉帥師及巴師圍鬱。鄧養甥、聃甥帥師鬱救。三逐巴師,不克。鬬廉衡陳其師于巴師之中,以戰,而北。鄧人逐之,背巴師而夾攻之。鄧師大敗,鬱人宵潰。 秋,虢仲、芮伯、梁伯、荀侯、賈伯伐曲沃。 冬,曹大子來朝,賓之以上卿,禮也。享曹大子,初獻,樂奏而歎。施父曰:「曹大子其有憂乎?非歎所也。」 桓公十年 經 十年,春,王正月。庚申,曹伯終生卒。 夏,五月,葬曹桓公。 秋,公會衛侯於桃丘,弗遇。 冬,十有二月丙午,齊侯、衛侯、鄭伯來戰于郎。 傳 十年春,曹桓公卒。 虢仲譖其大夫詹父于王。詹父有辭,以王師伐虢。夏,虢公出奔虞。 秋,秦人納芮伯萬于芮。 初,虞叔有玉,虞公求旃。弗獻。既而悔之。曰:「周諺有之:『匹夫無罪,懷璧其罪。』吾焉用此,其以賈害也?」乃獻。又求其寶劍。叔曰:「是無厭也。無厭,將及我。」遂伐虞公,故虞公出奔共池。 冬,齊、衛、鄭來戰于郎,我有辭也。 |
夏、四月。 秋、七月。 冬、曹の君主がその世子の射姑を派遣して来朝させた。 【伝】 九年春、紀の季姜が京師に帰嫁した。およそ諸侯の娘が嫁ぐ場合、ただ王后のみが記録される。 巴の君主が韓服を楚に派遣して告げ、鄧と友好関係を結びたいと請うた。楚の君主は道朔に巴の使者を率いさせて鄧へ聘問させた。鄧の南の辺境に住む鬱人がこれを攻撃して贈り物を奪い、道朔と巴の使者を殺した。楚の君主は薳章を鄧に派遣して詰問させたが、鄧人はそれを受け入れなかった。 夏、楚は鬬廉に軍を率いさせ、巴の軍とともに鬱を包囲した。鄧の養甥と聃甥が軍を率いて鬱を救援した。三度巴の軍を追い払おうとしたが、成功しなかった。鬬廉は自分の軍を巴の軍の中に横に配置して戦い、そして敗走した。鄧人がそれを追撃し、巴の軍を背後にして挟み撃ちにした。鄧の軍は大敗し、鬱人は夜に潰走した。 秋、虢仲、芮伯、梁伯、荀侯、賈伯が曲沃を攻撃した。 冬、曹の太子が来朝した。上卿の礼で賓客として遇した。これは礼にかなっている。曹の太子を饗応し、最初の献酒のとき、音楽が演奏されると太子は嘆息した。施父が言った。「曹の太子には憂いがあるのだろうか?ここは嘆息する場ではない。」 【桓公十年】 【経】 十年、春、王の正月。庚申の日、曹の君主終生が死去した。 夏、五月、曹の桓公を葬った。 秋、公は衛の君主と桃丘で会おうとしたが、会えなかった。 冬、十二月丙午の日、斉の君主、衛の君主、鄭の君主が郎に来て戦った。 【伝】 十年春、曹の桓公が死去した。 虢仲が自分の大夫である詹父を王に讒言した。詹父には言い分があったので、王の軍を率いて虢を攻撃した。夏、虢の君主は虞に亡命した。 秋、秦人が芮伯萬を芮に送り込んだ。 昔、虞叔が玉を持っていた。虞公がそれを求めた。献上しなかった。その後、それを後悔した。言った。「周のことわざにこうある。『庶民に罪はないが、璧を懐に持つことが罪となる。』私はどうしてこれを使おうか。それは災いを買うだけだ。」そこで献上した。またその宝剣を求めた。叔は言った。「これは飽くことを知らない。飽くことを知らなければ、やがて私に及ぶだろう。」ついに虞公を攻撃した。そのため虞公は共池に亡命した。 冬、斉、衛、鄭が郎に来て戦った。我々には言い分があった。 【解説】 この一節は、『春秋左氏伝』の桓公九年から十年にかけての記述です。『春秋』の本文(経)と、それを補足・解説する左氏の伝から構成されています。 桓公九年の経では、夏四月・秋七月は記事がなく、冬に曹の君主が世子射姑を来朝させたことだけが記されています。伝では、紀の季姜の王后としての帰嫁、巴・楚・鄧の間の紛争(鬱人による使者殺害と楚・巴連合軍の報復、鄧軍の大敗)、虢仲らによる曲沃攻撃、曹の太子来朝の際の嘆息と施父の予言的な言葉が述べられています。特に曹の太子の嘆息は、後に彼が父の死に際して国君となるも在位わずかで殺される運命を暗示するものとして知られています。 桓公十年の経では、曹桓公の死と葬儀、魯公と衛侯の会合が実現しなかったこと、斉・衛・鄭の三国が郎で魯と戦ったことが記されます。伝では、虢仲の讒言による詹父の王師を率いての虢攻めと虢公の虞への亡命、秦による芮伯萬の復位、虞叔と虞公の玉・宝剣をめぐる故事が語られます。虞叔の「匹夫無罪、懷璧其罪」という諺は、財宝を持つことが災いを招くという教訓として後世に広く引用されます。最後に、郎での戦いについて魯側に正当な理由があったと述べられています。 全体として、小国間の紛争や外交、君臣間の諍い、予兆的な逸話などが簡潔に記され、春秋時代の国際関係や倫理観を伝える内容となっています。 Translation took 3314.3 seconds. |
| 初,北戎病齊,諸侯救之。鄭公子忽有功焉。齊人餼諸侯,使魯次之。魯以周班後鄭。鄭人怒,請師于齊。齊人以衛師助之。故不稱侵伐。先書齊、衛,王爵也。 桓公十一年 經 十有一年,春,正月,齊人、衛人、鄭人盟于惡曹。 夏,五月癸未,鄭伯寤生卒。 秋,七月,葬鄭莊公。九月,宋人執鄭祭仲。突歸於鄭。鄭忽出奔衛。柔會宋公、陳侯、蔡叔盟于折。公會宋公于夫鐘。 冬,十有二月,公會宋公于闞。 傳 十一年春,齊、衛、鄭、宋盟于惡曹。 楚屈瑕將盟貳、軫。鄖人軍于蒲騷,將與隨、絞、州、蓼伐楚師。莫敖患之。鬬廉曰:「鄖人軍其郊,必不誡,且日虞四邑之至也。君次於郊郢,以禦四邑。我以銳師宵加於鄖,鄖有虞心而恃其城,莫有鬥志。若敗鄖師,四邑必離。」莫敖曰:「盍請濟師于王?」對曰:「師克在和,不在眾。商、周之不敵,君之所聞也。成軍以出,又何濟焉?」莫敖曰:「卜之?」對曰:「卜以決疑,不疑何卜?」遂敗鄖師于蒲騷,卒盟而還。 鄭昭公之敗北戎也,齊人將妻之,昭公辭。祭仲曰:「必取之。君多內寵,子無大援,將不立。三公子皆君也。」弗從。 夏,鄭莊公卒。 初,祭封人仲足有寵于莊公,莊公使為卿。為公娶鄧曼,生昭公,故祭仲立之。宋雍氏女于鄭莊公,曰雍姞,生厲公。雍氏宗有寵于宋莊公,故誘祭仲而執之,曰:「不立突,將死。」亦執厲公而求賂焉。祭仲與宋人盟,以厲公歸而立之。 |
現代日本語訳 はじめ、北戎が斉を攻め苦しめたため、諸侯がこれを救援した。鄭の公子忽(後の昭公)は、このとき功績があった。斉の人々は諸侯に食糧を贈ったが、魯にその順番を付けさせた。魯は周王朝の官位の序列に従って鄭を後回しにした。鄭の人々は怒り、斉に軍の派遣を求めた。斉の人々は衛の軍を率いて鄭を助けた。それゆえ、この出兵は「侵」とも「伐」とも書かれていない。斉・衛を先に書いたのは、周王朝から与えられた爵位の序列によるのである。 桓公十一年 経 十一年、春、正月、斉の人・衛の人・鄭の人が悪曹で盟を結んだ。 夏、五月癸未の日、鄭の伯寤生(荘公)が死去した。 秋、七月、鄭の荘公を葬った。九月、宋の人々が鄭の祭仲を捕らえた。突(厲公)が鄭に帰った。鄭の忽(昭公)は衛に亡命した。柔が宋公・陳侯・蔡叔と折で会合した。公(魯の桓公)は宋公と夫鐘で会合した。 冬、十二月、公は宋公と闞で会合した。 伝 十一年、春、斉・衛・鄭・宋は悪曹で盟を結んだ。 楚の屈瑕が貳・軫と盟を結ぼうとした。鄖の人々は蒲騷に軍を駐留させ、随・絞・州・蓼とともに楚の軍を攻撃しようとした。莫敖(屈瑕)はこれを憂えた。鬬廉が言った、「鄖の人々は自分たちの郊外に軍を駐留させているから、必ず警戒を怠っているでしょう。しかも日々、四つの邑の軍が到着するのを当てにしています。あなた(莫敖)は郊郢に留まって四邑の軍を防いでください。私が精鋭部隊を率いて夜のうちに鄖に攻めかかります。鄖には(四邑が来るという)当てがあるという心があり、城に頼っていて、戦おうという志はありません。もし鄖の軍を破れば、四邑は必ず離反するでしょう」。莫敖が言った、「どうして王に増援を請わないのか」。鬬廉は答えた、「軍が勝つのは和にあるのであって、数にあるのではありません。商(殷)が周に敵わなかったことは、あなたもお聞きになっているところです。軍を整えて出撃するのに、どうして増援など必要でしょうか」。莫敖が言った、「占ってみようか」。鬬廉は答えた、「占いは疑いを決するためのものです。疑いがないのに、どうして占うのでしょうか」。こうして蒲騷で鄖の軍を破り、ついに盟を結んで帰還した。 鄭の昭公が北戎を破ったとき、斉の人々は(公女を)彼の妻にしようとしたが、昭公は辞退した。祭仲が言った、「必ずお娶りなさい。君主(鄭の荘公)には多くの寵姫がおり、あなたには大きな後ろ盾がありません。このままでは(太子として)立てられないでしょう。三人の公子がみな君主になろうとしています」。昭公は従わなかった。 夏、鄭の荘公が死去した。 はじめ、祭の封人である仲足(祭仲)は荘公の寵愛を受けており、荘公は彼を卿とした。祭仲は荘公のために鄧曼を娶り、昭公を生んだ。それゆえ祭仲は昭公を立てた。宋の雍氏の家の娘が鄭の荘公に嫁ぎ、雍姞といって、厲公を生んだ。雍氏の一族は宋の荘公の寵愛を受けていた。それゆえ宋は祭仲を誘い出して捕らえ、「突(厲公)を立てなければ、死ぬことになるぞ」と言った。また厲公も捕らえて、鄭に財物を要求した。祭仲は宋の人々と盟を結び、厲公を連れて帰って彼を君主に立てた。 解説 この一節は、『春秋左氏伝』桓公十一年の経と伝です。前半は、前年に起こった鄭の公子忽(後の昭公)の北戎討伐の功績と、その後の斉・魯・鄭の間の序列をめぐる軋轢を説明しています。魯が周王朝の爵位の序列に従って鄭を後回しにしたため、鄭が怒り、斉と衛の軍を借りて魯を攻めたという経緯が述べられています。 後半は、鄭の荘公の死と、その後継者をめぐる争いが中心です。荘公の死後、祭仲は昭公を立てますが、宋の雍氏の一族は厲公を支持し、祭仲を捕らえて脅迫し、厲公を即位させます。この出来事は、鄭の国内における後継者争いと、宋の介入による政治的混乱を示しています。 また、楚の屈瑕と鬬廉による鄖討伐の逸話も収められています。鬬廉は「軍の勝利は和と結束にあり、数ではない」と述べ、占いを否定して果断に行動し、鄖を破ります。この逸話は、左氏伝における軍事的・思想的教訓の一例として知られています。 Translation took 1695.0 seconds. |
| 秋九月丁亥,昭公奔衛。己亥,厲公立。 桓公十二年 經 十有二年,春,正月。 夏,六月壬寅,公會杞侯、莒子盟于曲池。 秋,七月丁亥,公會宋公、燕人盟于穀丘。八月壬辰,陳侯躍卒。公會宋公於虛。 冬,十有一月,公會宋公於龜。丙戌,公會鄭伯,盟于武父。丙戌,衛侯晉卒。十有二月,及鄭師伐宋。丁未,戰于宋。 傳 十二年夏,盟于曲池,平杞、莒也。 公欲平宋、鄭。秋,公及宋公盟於句瀆之丘。宋成未可知也,故又會於虛。冬,又會於龜。宋公辭平,故與鄭伯盟于武父。遂帥師而伐宋,戰焉,宋無信也。 君子曰:「苟信不繼,盟無益也。《詩》云:『君子屢盟,亂是用長。』無信也。」 楚伐絞,軍其南門。莫敖屈瑕曰:「絞小而輕,輕則寡謀,請無扞采樵者以誘之。」從之。絞人獲三十人。明日,絞人爭出,驅楚役徒於山中。楚人坐其北門,而覆諸山下,大敗之,為城下之盟而還。 伐絞之役,楚師分涉于彭。羅人欲伐之,使伯嘉諜之,三巡數之。 桓公十三年 經 十有三年,春二月,公會紀侯、鄭伯。己巳,及齊侯、宋公、衛侯、燕人戰。齊師、宋師、衛師、燕師敗績。三月,葬衛宣公。 夏,大水。 秋,七月。 冬十月。 傳 十三年春,楚屈瑕伐羅,鬬伯比送之。還,謂其禦曰:「莫敖必敗。舉趾高,心不固矣。」遂見楚子曰:「必濟師。」楚子辭焉。入告夫人鄧曼。鄧曼曰:「大夫其非眾之謂,其謂君撫小民以信,訓諸司以德,而威莫敖以刑也。莫敖狃于蒲騷之役,將自用也,必小羅。君若不鎮撫,其不設備乎?夫固謂君訓眾而好鎮撫之,召諸司而勸之以令德,見莫敖而告諸天之不假易也。不然,夫豈不知楚師之盡行也?」楚子使賴人追之,不及。 |
秋九月丁亥の日、昭公は衛に亡命した。己亥の日、厲公が即位した。 桓公十二年 経 桓公十二年、春、正月。 夏、六月壬寅の日、公は杞侯・莒子と曲池で会盟した。 秋、七月丁亥の日、公は宋公・燕人と穀丘で会盟した。八月壬辰の日、陳侯躍が死去した。公は宋公と虛で会合した。 冬、十一月、公は宋公と龜で会合した。丙戌の日、公は鄭伯と会合し、武父で盟約を結んだ。丙戌の日、衛侯晉が死去した。十二月、鄭の軍とともに宋を攻めた。丁未の日、宋で戦った。 伝 桓公十二年夏、曲池での会盟は、杞と莒の間を和睦させるためであった。 公は宋と鄭の間を和睦させようとした。秋、公は宋公と句瀆の丘で盟約した。宋が和睦に応じるかどうかまだ分からなかったので、さらに虛で会合した。冬、また龜で会合した。宋公が和睦を拒否したので、鄭伯と武父で盟約した。そこで軍を率いて宋を攻め、戦った。宋に信義がなかったからである。 君子は言う、「もし信義が続かなければ、盟約は無益である。『詩経』に『君子がたびたび盟約しても、乱はそれによって長引く』とある。信義がないからである。」 楚が絞を攻め、その南門に軍を駐留させた。莫敖の屈瑕が言った、「絞は小国で軽率である。軽率ならば謀略が少ない。どうか薪を取る者を護衛せずに放置して、敵を誘い出しましょう。」これに従った。絞人は三十人を捕らえた。翌日、絞人は競って出てきて、楚の労役者を山中に追い立てた。楚人は北門に待ち伏せし、山の下に伏兵を置いて、絞人を大いに打ち破り、城下の盟を結んで帰還した。 絞を攻めた戦役で、楚軍は彭の地で分かれて川を渡った。羅人は楚を攻めようとし、伯嘉を斥候に派遣して、三度巡らせて楚軍の数を数えさせた。 桓公十三年 経 桓公十三年、春二月、公は紀侯・鄭伯と会合した。己巳の日、斉侯・宋公・衛侯・燕人と戦った。斉軍・宋軍・衛軍・燕軍は大敗した。三月、衛の宣公を葬った。 夏、大水があった。 秋、七月。 冬、十月。 伝 桓公十三年春、楚の屈瑕が羅を攻めた。鬬伯比が見送った。帰ると、御者に言った、「莫敖は必ず敗れる。足取りが高く、心が落ち着いていない。」そこで楚子(武王)に会って言った、「必ず増援を送るべきです。」楚子は断った。宮中に入って夫人の鄧曼にこのことを告げた。鄧曼は言った、「大夫(鬬伯比)は兵の数が足りないと言っているのではありません。君侯が信義をもって民を慈しみ、徳をもって諸官を教え導き、刑罰をもって莫敖を威圧すべきだと言っているのです。莫敖は蒲騷の戦いの成功に慣れて、自分勝手に振る舞い、必ず羅を軽んじるでしょう。君侯が鎮め戒めなければ、防備を怠るのではないでしょうか。大夫はもともと、君侯が民衆を教え導き、よく鎮め戒め、諸官を召して善い徳を勧め、莫敖に会って天の助けが容易に与えられないことを告げるべきだと言っているのです。そうでなければ、楚軍が総出で出発したことを知らないはずがないではありませんか。」楚子は賴人を派遣して追わせたが、追いつかなかった。 解説 この一節は、『春秋左氏伝』の桓公十二年から十三年にかけての記述です。魯の桓公が宋・鄭・杞・莒などの諸国と同盟や会合を重ねる一方、宋の信義のなさから鄭とともに宋を攻めるに至る経緯が記されています。また、楚が絞や羅といった小国と戦う様子が描かれ、特に楚の莫敖(官名)屈瑕の傲慢さと、それを戒める鬬伯比や鄧曼の賢明な助言が印象的です。鄧曼の言葉は、為政者が民を信義と徳で導き、臣下を刑罰で統制することの重要性を説いており、単なる戦記を超えた教訓を含んでいます。『春秋左氏伝』の特徴である、経の簡潔な記録に対する詳細な背景説明と人物描写がよく表れた箇所です。 Translation took 3259.9 seconds. |
| 莫敖使徇于師曰:「諫者有刑。」及鄢,亂次以濟。遂無次,且不設備。及羅,羅與盧戎兩軍之。大敗之。莫敖縊于荒谷,群帥囚于冶父以聽刑。楚子曰:「孤之罪也。」皆免之。 宋多責賂于鄭,鄭不堪命。故以紀、魯及齊與宋、衛、燕戰。不書所戰,後也。 鄭人來請修好。 桓公十四年 經 十有四年,春,正月,公會鄭伯于曹。無冰。 夏,五,鄭伯使其弟語來盟。 秋,八月壬申,禦廩災。乙亥,嘗。 冬,十有二月丁巳,齊侯祿父卒。宋人以齊人、蔡人、衛人、陳人伐鄭。 傳 十四年春,會于曹。曹人致餼,禮也。 夏,鄭子人來尋盟,且修曹之會。 秋八月壬申,禦廩災。乙亥,嘗。書,不害也。 冬,宋人以諸侯伐鄭,報宋之戰也。焚渠門,入,及大逵。伐東郊,取牛首。以大宮之椽歸,為盧門之椽。 桓公十五年 經 十有五年,春,二月,天王使家父來求車。三月乙未,天王崩。 夏,四月己巳,葬齊僖公。五月,鄭伯突出奔蔡。鄭世子忽複歸於鄭。許叔入于許。公會齊侯于艾。邾人、牟人、葛人來朝。 秋,九月,鄭伯突入于櫟。 冬,十有一月,公會宋公、衛侯、陳侯於衰,伐鄭。 傳 十五年春,天王使家父來求車,非禮也。諸侯不貢車、服,天子不私求財。 祭仲專,鄭伯患之,使其婿雍糾殺之。將享諸郊。雍姬知之,謂其母曰:「父與夫孰親?」其母曰:「人盡夫也,父一而已,胡可比也?」遂告祭仲曰:「雍氏舍其室而將享子於郊,吾惑之,以告。」祭仲殺雍糾,屍諸周氏之汪。公載以出,曰:「謀及婦人,宜其死也。」夏,厲公出奔蔡。 |
莫敖は軍中に布告して言った。「諫言する者は刑に処す。」鄢に到着すると、順序を乱して川を渡った。そこで隊列は乱れ、さらに備えも設けなかった。羅に到着すると、羅と盧戎が両面から攻撃した。大いにこれを打ち破った。莫敖は荒谷で首を吊って死に、将軍たちは冶父で囚われて刑罰を待った。楚子は言った。「これは私の罪である。」そして皆を赦免した。 宋が鄭に多くの贈り物を要求し、鄭はその命令に耐えられなかった。そこで紀・魯および斉とともに宋・衛・燕と戦った。戦った場所が記録されていないのは、遅れて到着したからである。 鄭の人が来て友好を修めることを請うた。 桓公十四年 経 十四年、春、正月、公は曹で鄭伯と会見した。氷がなかった。夏、五月、鄭伯はその弟の語を派遣して盟を結ばせた。秋、八月壬申の日、御倉が火災に遭った。乙亥の日、嘗祭を行った。冬、十二月丁巳の日、斉侯禄父が死去した。宋が斉・蔡・衛・陳の人々を率いて鄭を攻めた。 桓公十四年 伝 十四年春、曹で会見した。曹の人が食料を贈ったが、これは礼に適っていた。夏、鄭の子人が来て盟を再確認し、さらに曹の会見の友好を修めた。秋八月壬申の日、御倉が火災に遭った。乙亥の日、嘗祭を行った。記録されているのは、害がなかったからである。冬、宋が諸侯を率いて鄭を攻めた。これは宋の戦いの報復である。渠門を焼き、都に入り、大通りに達した。東郊を攻め、牛首を取った。鄭の祖廟の垂木を持ち帰り、宋の盧門の垂木とした。 桓公十五年 経 十五年、春、二月、天王が家父を派遣して車を求めてきた。三月乙未の日、天王が崩じた。夏、四月己巳の日、斉の僖公を葬った。五月、鄭伯突が蔡に亡命した。鄭の世子忽が鄭に復帰した。許叔が許に入った。公は艾で斉侯と会見した。邾・牟・葛の人々が来朝した。秋、九月、鄭伯突が櫟に入った。冬、十一月、公は宋公・衛侯・陳侯と衰で会見し、鄭を攻めた。 桓公十五年 伝 十五年春、天王が家父を派遣して車を求めてきたが、これは礼に反する。諸侯は車や衣服を貢納するものではなく、天子も私的に財物を求めるべきではない。祭仲が専権を振るっていたため、鄭伯(厲公)はこれを憂い、自分の婿である雍糾に祭仲を殺させようとした。雍糾は郊外で祭仲を饗応しようと計画した。雍糾の妻である雍姫はこれを知り、母に尋ねた。「父と夫とではどちらが親しいですか?」母は答えた。「人は誰でも夫になり得るが、父はただ一人だけだ。どうして比べられようか。」そこで雍姫は祭仲に告げて言った。「雍氏は自分の家を離れて、郊外であなたを饗応しようとしています。私は不審に思い、お知らせします。」祭仲は雍糾を殺し、その死体を周氏の池に捨てた。鄭伯はその死体を車に載せて出て行き、言った。「婦人に謀略を相談したのだから、死ぬのは当然だ。」夏、厲公は蔡に亡命した。 解説 この一節は、魯の桓公十三年から十五年(紀元前699年~697年)にかけての出来事を記した『春秋左氏伝』の一部です。前の文からの続きとして、楚の莫敖の敗北と死、楚子(武王)の寛大な処置がまず語られます。莫敖は軍中で諫言を禁じ、規律を乱して羅と盧戎の連合軍に大敗し、自害します。楚子は敗戦の責任を自らに帰して将軍たちを赦しました。 続いて、宋が鄭に過大な要求をしたため、鄭が紀・魯・斉と組んで宋・衛・燕と戦ったこと、しかし魯が遅参したために戦場が記録されなかったことが述べられます。その後、鄭が魯に友好を求めてきます。 桓公十四年・十五年の「経」と「伝」では、魯と鄭・曹などとの会合、鄭の内紛が中心となります。特に鄭では、厲公(突)と世子忽の間で公位をめぐる争いが続き、祭仲が専権を振るいます。厲公は祭仲を除こうと婿の雍糾に暗殺を命じますが、雍糾の妻・雍姫が父と夫の間で葛藤し、母の「人は誰でも夫になり得るが、父は一人だけ」という言葉に従って父に密告します。その結果、雍糾は殺され、厲公は蔡へ亡命します。この「父と夫はどちらが親しいか」という問答は、中国古代の家族倫理を象徴する有名な逸話です。 「経」は簡潔な年代記、「伝」はその背景や詳細を説明するという『春秋左氏伝』の構成がよく表れています。また、天子が諸侯に車を求めることが非礼とされるなど、当時の礼制に対する左氏の批評も見られます。 Translation took 4057.0 seconds. |
| 六月乙亥,昭公入。 許叔入于許。 公會齊侯于艾,謀定許也。 秋,鄭伯因櫟人殺檀伯,而遂居櫟。 冬,會於衰,謀伐鄭,將納厲公也。弗克而還。 桓公十六年 經 十有六年,春,正月,公會宋公、蔡侯、衛侯于曹。 夏,四月,公會宋公、衛侯、陳侯、蔡侯伐鄭。 秋,七月,公至自伐鄭。 冬,城向。十有一月,衛侯朔出奔齊。 傳 十六年春正月,會于曹,謀伐鄭也。 夏,伐鄭。 秋七月,公至自伐鄭,以飲至之禮也。 冬,城向,書,時也。 初,衛宣公烝于夷姜,生急子,屬諸右公子。為之娶于齊,而美,公取之,生壽及朔,屬壽于左公子。夷姜縊。宣姜與公子朔構急子。公使諸齊,使盜待諸莘,將殺之。壽子告之,使行。不可,曰:「棄父之命,惡用子矣!有無父之國則可也。」及行,飲以酒,壽子載其旌以先,盜殺之。急子至,曰:「我之求也。此何罪?請殺我乎!」又殺之。二公子故怨惠公。 十一月,左公子泄、右公子職立公子黔牟。惠公奔齊。 桓公十七年 經 十有七年,春,正月丙辰,公會齊侯、紀侯盟于黃。二月丙午,公會邾儀父,盟于趡。 夏,五月丙午,及齊師戰于奚。六月丁丑,蔡侯封人卒。 秋,八月,蔡季自陳歸於蔡。癸巳,葬蔡桓侯。及宋人、衛人伐邾。 |
六月乙亥の日、昭公が(鄭に)入った。許叔が許に入った。公(魯の桓公)は斉侯と艾で会合し、許を安定させることを謀った。秋、鄭伯(厲公)は櫟の人々を使って檀伯を殺させ、そのまま櫟に居を構えた。冬、衰で会合し、鄭を討伐して厲公を(鄭に)入れようと謀ったが、成功せずに帰還した。 桓公十六年 経 十六年、春、正月、公(魯の桓公)は宋公・蔡侯・衛侯と曹で会合した。夏、四月、公は宋公・衛侯・陳侯・蔡侯とともに鄭を討伐した。秋、七月、公は鄭討伐から帰還した。冬、向に城を築いた。十一月、衛侯朔は斉に亡命した。 桓公十六年 伝 十六年春正月、曹で会合したのは、鄭を討伐することを謀るためである。夏、鄭を討伐した。秋七月、公が鄭討伐から帰還したのは、飲至の礼(戦勝報告の儀礼)を行うためである。冬、向に城を築いたと記すのは、時宜にかなっていたからである。 初め、衛の宣公は夷姜(父の妾)と通じて急子を生み、急子を右公子に託した。急子のために斉から妻を迎えたが、その女性が美しかったので、宣公は自分で娶ってしまい、寿と朔を生んだ。寿は左公子に託された。夷姜は首を吊って死んだ。宣姜(宣公が奪った妻)と公子朔は急子を讒言した。宣公は急子を斉に使いに出し、盗賊に莘で待ち伏せさせて殺そうとした。寿子はこれを急子に告げて、逃げるように言った。急子は承知せず、「父の命令を捨てるなら、子として何の役に立つのか。父のいない国があれば別だが」と言った。出発の際、寿子は酒を飲ませて酔わせ、自分の旗を掲げて先に行った。盗賊は寿子を殺した。急子が到着して言った、「私が狙われているのだ。この者に何の罪があるのか。どうか私を殺してくれ」と。盗賊は急子も殺した。二人の公子(寿と急子の異母兄弟)はこのため恵公(朔)を怨んだ。十一月、左公子泄と右公子職は公子黔牟を立てた。恵公は斉に亡命した。 桓公十七年 経 十七年、春、正月丙辰の日、公(魯の桓公)は斉侯・紀侯と黃で会盟した。二月丙午の日、公は邾の儀父と会い、趡で盟約した。夏、五月丙午の日、斉軍と奚で戦った。六月丁丑の日、蔡侯封人が死去した。秋、八月、蔡季が陳から蔡に帰国した。癸巳の日、蔡桓侯を葬った。宋人・衛人とともに邾を討伐した。 【解説】 この一節は、『春秋左氏伝』の桓公十五年の後半から桓公十七年にかけての記述です。魯の桓公を中心とした国際関係と、鄭・衛の内紛が主な内容です。 まず、鄭では昭公が一時的に復位するものの、厲公が櫟に拠って対抗し、魯など諸国が厲公を支援しようとして失敗するという、鄭の公位をめぐる争いが続いています。許の安定化も図られています。 桓公十六年には、魯を中心とする諸国連合が鄭を討伐しますが、大きな成果は得られません。一方、衛では宣公の家庭内の悲劇が詳しく語られます。宣公が父の妾である夷姜と通じて生まれた急子、その急子のために迎えた妻を宣公自身が奪って生まれた寿と朔。宣姜と朔の讒言により、宣公は急子を殺そうとします。しかし、異母弟の寿が急子をかばって身代わりに死に、急子もまた自ら死を選ぶという、儒教的な孝と兄弟愛の物語が展開します。この結果、恵公(朔)は怨みを買い、後に公子黔牟が立てられて恵公は斉へ亡命します。 桓公十七年には、魯と斉・紀・邾との会盟や戦争、蔡の内紛と帰国、そして宋・衛とともに邾を討伐したことが簡潔に記されています。全体として、春秋時代の諸国間の同盟・戦争・内乱が複雑に絡み合った様子が読み取れます。 Translation took 3159.6 seconds. |
| 冬,十月朔,日有食之。 傳 十七年春,盟于黃,平齊、紀,且謀衛故也。 乃邾儀父盟于趡,尋蔑之盟也。 夏,及齊師戰于奚,疆事也。於是齊人侵魯疆,疆吏來告,公曰:「疆場之事,慎守其一,而備其不虞。姑盡所備焉。事至而戰,又何謁焉?」 蔡桓侯卒。蔡人召蔡季于陳。 秋,蔡季自陳歸於蔡,蔡人嘉之也。 伐邾,宋志也。 冬十月朔,日有食之。不書日,官失之也。天子有日官,諸侯有日禦。日官居卿以底日,禮也。日禦不失日,以授百官於朝。 初,鄭伯將以高渠彌為卿,昭公惡之,固諫,不聽,昭公立,懼其殺己也。辛卯,弑昭公,而立公子亹。 君子謂昭公知所惡矣。公子達曰:「高伯其為戮乎?複惡已甚矣。」 桓公十八年 經 十有八年,春,王正月,公會齊侯於濼。公與夫人姜氏遂如齊。 夏,四月丙子,公薨于齊。丁酉,公之喪至自齊。 秋,七月。 冬,十有二月己丑,葬我君桓公。 傳 十八年春,公將有行,遂與姜氏如齊。申繻曰:「女有家,男有室,無相瀆也,謂之有禮。易此,必敗。」 公會齊侯於濼,遂及文姜如齊。齊侯通焉。公謫之,以告。 夏四月丙子,享公。使公子彭生乘公,公薨于車。 魯人告于齊曰:「寡君畏君之威,不敢甯居,來修舊好,禮成而不反,無所歸咎,惡于諸侯。請以彭生除之。」齊人殺彭生。 |
冬、十月の朔(ついたち)に、日食があった。 【伝】 十七年春、黃で盟約を結んだ。これは斉と紀の間を和睦させ、また衛のことを謀るためであった。 そこで邾の儀父と趡で盟約を結んだ。これは蔑の盟約を再確認するためである。 夏、斉の軍と奚で戦った。これは国境の問題である。このとき斉人が魯の国境を侵した。国境の役人が来て報告すると、公は言った。「国境のことは、自分の持ち場を慎んで守り、不測の事態に備えよ。しばらく備えを十分にしておけ。事が起これば戦うまでだ。何をいちいち報告する必要があるのか。」 蔡の桓侯が死去した。蔡の人々は陳から蔡季を呼び戻した。 秋、蔡季は陳から蔡に帰国した。蔡の人々は彼を称賛した。 邾を討伐した。これは宋の意向によるものである。 冬十月の朔に、日食があった。日付が記されていないのは、日官の失態である。天子には日官がおり、諸侯には日禦がいる。日官は卿の位にいて日を定めるのが礼である。日禦は日付を間違えず、朝廷で百官に伝える。 以前、鄭伯が高渠彌を卿にしようとした。昭公はこれを憎み、強く諫めたが、聞き入れられなかった。昭公が即位すると、高渠彌は自分が殺されるのではないかと恐れた。辛卯の日、昭公を弑殺し、公子亹を立てた。 君子は言う、昭公は憎むべき者を知っていた、と。公子達は言った。「高伯はきっと刑罰を受けるだろう。憎しみを重ねることが甚だしい。」 【桓公十八年】 【経】 十八年、春、王の正月、公は斉侯と濼で会見した。公は夫人の姜氏とともに斉へ行った。 夏、四月丙子、公は斉で薨去した。丁酉、公の遺体が斉から到着した。 秋、七月。 冬、十二月己丑、我が君桓公を葬った。 【伝】 十八年春、公は出かけようとし、姜氏とともに斉へ行った。申繻は言った。「女には夫の家があり、男には妻の室がある。互いに侵してはならない。これを礼という。これを変えれば必ず失敗する。」 公は斉侯と濼で会見し、そのまま文姜とともに斉へ行った。斉侯は文姜と密通した。公は彼女を責めた。彼女はそれを斉侯に告げた。 夏四月丙子、斉侯は公を饗応した。公子彭生に公を車に乗せさせたが、公は車中で薨去した。 魯の人々は斉に告げて言った。「我が君は君の威を畏れ、安んじて居ることができず、旧交を修めるために参りました。礼が成ったのに帰還せず、その責任をどこにも帰することができず、諸侯に対して恥ずかしい思いをしております。どうか彭生を処罰してこの問題を解決してください。」斉人は彭生を殺した。 【解説】 この一節は、『春秋左氏伝』の桓公十七年から十八年にかけての記述です。魯の桓公とその夫人文姜、そして斉の襄公(文姜の兄)との関係が中心に描かれています。文姜と襄公の密通が発覚し、桓公が文姜を責めたことがきっかけで、襄公は公子彭生に命じて桓公を車中で殺害させます。魯は斉に対して抗議し、彭生を処刑させることで事態の収拾を図りました。また、日食の記述や鄭の内紛(高渠彌による昭公弑殺)なども含まれており、当時の諸国間の緊張関係や宮廷内の陰謀が浮き彫りにされています。特に、桓公の死は魯と斉の関係に大きな影を落とす事件として記録されています。 Translation took 2689.7 seconds. |
| 秋,齊侯師於首止;子亹會之,高渠彌相。七月戊戌,齊人殺子亹而轘高渠彌,祭仲逆鄭子于陳而立之。是行也,祭仲知之,故稱疾不往。人曰:「祭仲以知免。」仲曰:「信也。」 周公欲弑莊王而立王子克。辛伯告王,遂與王殺周公黑肩。王子克奔燕。 初,子儀有寵于桓王,桓王屬諸周公。辛伯諫曰:「並后、匹嫡、兩政、耦國,亂之本也。」周公弗從,故及。 |
秋、斉侯は首止に軍を駐留させた。子亹がこれに会見し、高渠彌が補佐として随行した。七月戊戌、斉人は子亹を殺し、高渠彌を車裂きの刑に処した。祭仲は陳から鄭の子を迎えて即位させた。この出行に際して、祭仲は危険を察知していたため、病と称して同行しなかった。人々は言った。「祭仲は先見の明によって難を免れた」と。祭仲は言った。「その通りだ。」 周公は荘王を殺して王子克を立てようとした。辛伯が王に密告し、王とともに周公黒肩を殺した。王子克は燕に亡命した。 以前、子儀は桓王に寵愛され、桓王は彼を周公に託していた。辛伯は諫めて言った。「后を並べること、嫡子と同等に扱うこと、政権を二つに分けること、国都と同等の大都市を与えること、これらは乱の根本であります。」周公は従わなかった。そのために災いが及んだのである。 【解説】 この一節は、鄭と周王室の内部で起きた権力闘争を記しています。前半では、斉の襄公が首止で鄭の子亹と高渠彌を殺害します。これは、先に鄭の昭公を弑殺した高渠彌らに対する報復として行われたものです。祭仲はこの危険を予見して同行を避け、難を逃れました。後半では、周王室において周公黒肩が荘王を廃して王子克を立てようと企てますが、辛伯の密告によって失敗し、周公は殺され、王子克は燕へ逃亡します。さらに、かつて辛伯が桓王に対して、后を並べることや嫡子と同等に扱うことなどが国家の乱れの原因になると諫めていたことが回想され、周公がその諫言に従わなかったために滅びたと結ばれています。このように、宮廷内の陰謀と、それを見抜く者の知恵、諫言に従わない者の末路が対照的に描かれています。 Translation took 974.4 seconds. |
| input text ../document/春秋左氏傳\03_春秋左氏傳_莊公.txt | 現代日本語 translated text |
| 春秋左氏傳 莊公 莊公元年 經 元年春王正月。三月,夫人孫于齊。 夏,單伯送王姬。 秋,築王姬之館於外。 冬十月乙亥,陳侯林卒。王使榮叔來錫桓公命。王姬歸於齊。齊師遷紀、郱、鄑、郚。 傳 元年春,不稱即位,文姜出故也。 三月,夫人孫于齊。不稱姜氏,絕不爲親,禮也。 秋,築王姬之館於外。爲外,禮也。 莊公二年 經 二年春王二月,葬陳莊公。 夏,公子慶父帥師伐于餘丘。 秋七月,齊王姬卒。 冬十有二月,夫人姜氏會齊侯於禚。乙酉,宋公馮卒。 傳 二年冬,夫人姜氏會齊侯於禚。書姦也。 莊公三年 經 三年春王正月,溺會齊師伐衛。 夏亖月,葬宋莊公。五月,葬桓王。 秋,紀季以酅入于齊。 冬,公次於滑。 傳 三年春,溺會齊師伐衛,疾之也。 夏五月,葬桓王,緩也。 秋,紀季以酅入于齊,紀於是乎始判。 冬,公次於滑,將會鄭伯,謀紀故也。鄭伯辭以難。凡師,一宿爲舍,再宿爲信,過信爲次。 莊公亖年 經 亖年春王二月,夫人姜氏享齊侯于祝丘。三月,紀伯姬卒。 夏,齊侯、陳侯、鄭伯遇于垂。紀侯大去其國。六月乙丑,齊侯葬紀伯姬。 秋七月。 冬,公及齊人狩於禚。 傳 亖年春,王三月,楚武王荊屍,授師孑焉,以伐隨,將齊,入告夫人鄧曼曰:『余心蕩。』鄧曼歎曰:『王祿盡矣。盈而蕩,天之道也。先君其知之矣,故臨武事,將發大命,而蕩王心焉。若師徒無虧,王薨于行,國之福也。』王遂行,卒於樠木之下。令尹鬥祁、莫敖屈重除道、梁溠,營軍臨隨。隨人懼,行成。莫敖以王命入盟隨侯,且請爲會於漢汭,而還。濟漢而後發喪。 |
荘公 荘公元年 元年春、王の正月。三月、夫人は斉に奔る。 夏、単伯が王姫を送る。 秋、王姫の館を城外に築く。 冬十月乙亥、陳侯林が卒す。王は栄叔を遣わして桓公に命を賜う。王姫は斉に嫁ぐ。斉の軍が紀・郱・鄑・郚を移す。 伝 元年春、即位を称しないのは、文姜が出奔したためである。 三月、夫人は斉に奔る。姜氏と称しないのは、親族関係を断つことであり、礼にかなう。 秋、王姫の館を城外に築く。外の者のためであり、礼にかなう。 荘公二年 二年春、王の二月、陳の荘公を葬る。 夏、公子慶父が軍を率いて于余丘を伐つ。 秋七月、斉の王姫が卒す。 冬十二月、夫人姜氏が斉侯と禚で会う。乙酉、宋公馮が卒す。 伝 二年冬、夫人姜氏が斉侯と禚で会う。姦淫を記すのである。 荘公三年 三年春、王の正月、溺が斉軍と会して衛を伐つ。 夏四月、宋の荘公を葬る。五月、桓王を葬る。 秋、紀季が酅を以て斉に帰す。 冬、公は滑に次す。 伝 三年春、溺が斉軍と会して衛を伐つのは、彼を憎むからである。 夏五月、桓王を葬るのは、遅れたのである。 秋、紀季が酅を以て斉に帰し、紀はここにおいて初めて分裂した。 冬、公は滑に次す。鄭伯と会して紀のことを謀ろうとしたためである。鄭伯は難を理由に断った。およそ軍は、一泊を舎といい、二泊を信といい、信を超えると次という。 荘公四年 四年春、王の二月、夫人姜氏が斉侯を祝丘でもてなす。三月、紀伯姫が卒す。 夏、斉侯・陳侯・鄭伯が垂で会う。紀侯は国を永久に去った。六月乙丑、斉侯が紀伯姫を葬る。 秋七月。 冬、公は斉人と禚で狩りをする。 伝 四年春、王の三月、楚の武王は荊尸の陣を敷き、軍に孑を授けて随を伐とうとした。斎戒しようとして、夫人の鄧曼に告げて言った。「私の心は動揺している。」鄧曼は嘆いて言った。「王の福禄は尽きました。満ちれば動揺するのは天の道です。先君はおそらくそれをご存じで、軍事に臨み、大命を発しようとするとき、王の心を動揺させたのです。もし軍勢に欠けるところがなく、王が行軍中に薨じられれば、国の福であります。」王はそのまま出発し、樠の木の下で亡くなった。令尹闘祁と莫敖屈重は道を切り開き、溠に橋を架け、軍を整えて随に迫った。随人は恐れて和を求めた。莫敖は王の命として随侯と盟を結び、さらに漢水の曲がりで会見することを請うて帰還した。漢水を渡ってから喪を発した。 【解説】 この一節は、魯の荘公元年から四年までの経と伝を収めています。前半では、魯の桓公夫人文姜が兄である斉の襄公と通じ、桓公が斉で殺された後、文姜が斉に出奔したこと、荘公が即位の礼を行わなかったことなどが記されています。また、斉と紀の関係が悪化し、紀が分裂していく様子も描かれます。 後半の荘公四年の伝では、楚の武王が随を攻める際、夫人の鄧曼が王の死を予言し、実際に武王が遠征中に死去します。楚軍は喪を秘して随と盟を結び、漢水を渡ってから喪を発するという、軍事的な機密保持の巧みさが示されています。全体として、春秋時代の国際関係や礼制、権力闘争、予言と死のモチーフが色濃く表れた箇所です。 Translation took 6647.4 seconds. |
| 紀侯不能下齊,以與紀季。夏,紀侯大去其國,違齊難也。 莊公五年 經 五年春王正月。 夏,夫人姜氏如齊師。 秋,郳犁來來朝。 冬,公會齊人、宋人、陳人、蔡人伐衛。 傳 五年秋,郳犁來來朝,名,未王命也。 冬,伐衛納惠公也。 莊公六年 經 六年春王正月,王人子突救衛。 夏六月,衛侯朔入于衛。 秋,公至自伐衛。螟。 冬,齊人來歸衛俘。 傳 六年春,王人救衛。 夏,衛侯入,放公子黔牟于周,放甯跪于秦,殺左公子泄、右公子職,乃即位。 君子以二公子之立黔牟爲不度矣。夫能固位者,必度於本末而後立衷焉。不知其本,不謀。知本之不枝,弗強。《詩》云:『本枝百世。』 冬,齊人來歸衛寶,文姜請之也。 楚文王伐申,過鄧。鄧祁侯曰:『吾甥也。』止而享之。騅甥、聃甥、養甥請殺楚子,鄧侯弗許。三甥曰:『亡鄧國者,必此人也。若不早圖,後君噬齊。其及圖之乎?圖之,此爲時矣。』鄧侯曰:『人將不食吾餘。』對曰:『若不從三臣,抑社稷實不血食,而君焉取餘?』弗從。還年,楚子伐鄧。十六年,楚複伐鄧,滅之。 莊公七年 經 七年春,夫人姜氏會齊侯於防。 夏亖月辛卯,夜,恒星不見。夜中,星隕如雨。 秋,大水。無麥、苗。 |
紀侯は斉に屈服することができず、紀季に国を譲った。夏、紀侯は自分の国を大きく離れて去った。斉の難を避けたのである。 荘公五年 経 五年春、王の正月。 夏、夫人姜氏が斉の軍のもとへ赴いた。 秋、郳の犁來が来朝した。 冬、公は斉人・宋人・陳人・蔡人と会合して衛を討った。 伝 五年秋、郳の犁來が来朝した。名を記しているのは、まだ王の命を受けていなかったからである。 冬、衛を討ったのは、恵公を衛に入れようとしたのである。 荘公六年 経 六年春、王の正月。王の臣である子突が衛を救援した。 夏六月、衛侯朔が衛に入った。 秋、公は衛を討って帰還した。螟の害があった。 冬、斉人が来て衛の捕虜(または戦利品)を返還した。 伝 六年春、王の臣が衛を救援した。 夏、衛侯が衛に入り、公子黔牟を周に追放し、甯跪を秦に追放し、左公子泄と右公子職を殺し、そして即位した。 君子は二人の公子が黔牟を立てたことを、道理にかなわないことだとした。そもそも位を固めることのできる者は、必ず物事の本末をよく考えた上で、適切な者を立てるものである。その根本を知らなければ、謀を立てることはできない。根本を知っても枝葉が伸びないとわかっていれば、無理に押し進めることはしない。『詩』には「本も枝も百代にわたって栄える」とある。 冬、斉人が来て衛の宝器を返還した。文姜がそれを請うたからである。 楚の文王が申を討ち、鄧を通過した。鄧の祁侯は「私の甥にあたる」と言って、引き留めて饗応した。騅甥・聃甥・養甥の三人は楚の子(文王)を殺すよう請うたが、鄧侯は許さなかった。三人の甥は言った。「鄧国を滅ぼす者は、必ずこの人です。早く対処しなければ、後で君は自分の臍を噛もうとしても及ばないでしょう。今こそ対処すべき時です。対処するなら、今がその時です。」鄧侯は言った。「もしそうすれば、人々は私の余り物を食べようとしなくなるだろう(=誰も私を信用しなくなるだろう)。」三人は答えた。「もし我々三人の臣の言うことを聞かなければ、社稷はまさに血食を受けられなくなり(=国が滅び)、君はどこで余り物を得られるというのですか。」鄧侯は従わなかった。楚王が帰った年、楚の子は鄧を討った。十六年、楚は再び鄧を討ち、これを滅ぼした。 荘公七年 経 七年春、夫人姜氏が防で斉侯と会合した。 夏四月辛卯の夜、恒星が見えなかった。夜中に星が雨のように降った。 秋、大水があった。麦や苗がなくなった。 解説 この一節は、『春秋左氏伝』の荘公四年末から荘公七年にかけての記述です。荘公四年の終わりでは、紀侯が斉の圧力に耐えかねて国を去る様子が描かれ、その後、荘公五年から七年までの経(春秋の本文)と伝(左氏による解説)が続きます。 荘公五年では、魯の夫人である姜氏(文姜)が斉の軍のもとへ赴いたことや、小国である郳の犁來が来朝したこと、衛を討つための会合が記されています。伝では、郳の犁來がまだ周王から正式に諸侯として認められていないため、名を記したと説明されます。 荘公六年は、衛の内紛が中心です。衛侯朔(恵公)が公子黔牟らを追放・殺害して復位する過程が描かれ、君子の評として、黔牟を立てた二人の公子の行動が「本末を考えない不適切なもの」だったと批判されます。また、斉が衛の宝器を返還したのは文姜の請いによるもので、文姜の影響力がうかがえます。さらに楚の文王が鄧を通過した際、鄧侯が甥である楚王を殺すことを拒否し、後に鄧が楚に滅ぼされるという予言的な逸話が挿入されています。ここでは「臍を噛む」という故事成語の由来となる表現も見られます。 荘公七年では、夫人姜氏と斉侯の会合、恒星が消え星が雨のように降ったという天変異変、大水による農作物の被害が記録されています。特に「星隕如雨」は隕石雨または流星群の記述として知られ、古代中国の天文記録としても貴重です。 全体として、この部分は春秋時代の国際関係、内乱、婚姻外交、天変地異などが簡潔に記録されており、左氏伝の特徴である歴史的背景の解説や道徳的評価、予言的逸話が織り交ぜられています。 Translation took 1895.7 seconds. |
| 冬,夫人姜氏會齊侯于穀。 傳 七年春,文姜會齊侯于防,齊志也。 夏,恒星不見,夜明也。星隕如雨,與雨偕也。 秋,無麥苗,不害嘉穀也。 莊公八年 經 八年春王正月,師次於郎,以俟陳人,蔡人。甲午,治兵。 夏,師及齊師圍郕,郕降于齊師。 秋,師還。 冬十有一月癸未,齊無知弑其君諸兒。 傳 八年春,治兵於廟,禮也。 夏,師及齊師圍郕。郕降于齊師。仲慶父請伐齊師。公曰:『不可。我實不德,齊師何罪?罪我之由。《夏書》曰:「皋陶邁種德,德,乃降。」姑務修德以待時乎。』秋,師還。君子是以善魯莊公。 齊侯使連稱、管至父戍葵丘。瓜時而往,曰:『及瓜而代。』期戍,公問不至。請代,弗許。故謀作亂。 僖公之母弟曰夷仲年,生公孫無知,有寵於僖公,衣服禮秩如嫡。襄公絀之。二人因之以作亂。連稱有從妹在公宮,無寵,使間公,曰:『捷,吾以女爲夫人。』 冬十二月,齊侯游于姑棼,遂田于貝丘。見大豕,從者曰:『公子彭生也。』公怒曰:『彭生敢見!』射之,豕人立而啼。公懼,墜于車,傷足喪屨。反,誅屨于徒人費。弗得,鞭之,見血。走出,遇賊於門,劫而束之。費曰:『我奚禦哉!』袒而示之背,信之。費請先入,伏公而出,鬥,死於門中。石之紛如死於階下。遂入,殺孟陽於床。曰:『非君也,不類。』見公之足於戶下,遂弑之,而立無知。 |
冬、夫人姜氏が穀で斉侯と会見した。 伝 七年春、文姜が防で斉侯と会見した。これは斉の意向によるものである。 夏、恒星が見えなかった。夜空が明るかったからである。星が雨のように降った。雨と一緒に降ったのである。 秋、麦の苗がなかった。しかし良い穀物には害がなかった。 荘公八年 経 八年春、王の正月、軍が郎に駐留し、陳人と蔡人を待った。甲午の日、軍を訓練した。 夏、魯軍と斉軍が郕を包囲し、郕は斉軍に降伏した。 秋、軍が帰還した。 冬十一月癸未、斉の無知がその君諸児を弑殺した。 伝 八年春、廟で軍を訓練した。礼にかなったことである。 夏、魯軍と斉軍が郕を包囲した。郕は斉軍に降伏した。仲慶父が斉軍を攻撃することを請うた。公は言った。「いけない。我々に実際に徳がないのだ。斉軍に何の罪があるか。罪は我々にあるのだ。『夏書』に『皋陶は徳を広く植え付けた。徳があれば、人々は自然に帰服する』とある。しばらく徳を修めて時を待とう。」秋、軍が帰還した。君子はこれによって魯の荘公を善しとした。 斉侯は連称と管至父に葵丘の守備を命じた。瓜の季節に行かせ、「瓜が熟す頃に交代させる」と言った。守備の期間が終わっても、公からの交代の命令は来なかった。交代を願い出たが、許されなかった。そこで彼らは反乱を企てた。 僖公の同母弟に夷仲年という者がおり、公孫無知を生んだ。無知は僖公に寵愛され、衣服や礼遇が嫡子と同じであった。襄公はこれを退けた。連称と管至父はこの無知を利用して反乱を起こそうとした。連称には従妹が公の宮中にいたが、寵愛を受けておらず、彼女に公の動向を探らせて、「成功したら、お前を夫人にしてやる」と言った。 冬十二月、斉侯は姑棼に遊び、続いて貝丘で狩りをした。大きな猪を見た。従者が言った。「公子彭生です。」公は怒って言った。「彭生がよくも現れたな!」と射た。猪は人のように立ち上がって啼いた。公は恐れて車から落ち、足を傷つけ、履を失った。帰ってから、徒人費に履を探させた。見つからなかったので、鞭打ち、血が出るほどにした。費は走り出て、門で賊に遭遇し、捕らえられて縛られた。費は言った。「私がどうして抵抗しましょうか!」と肌を脱いで背中を見せた。賊は彼を信じた。費は先に入ることを請い、公を隠してから出て戦い、門の中で死んだ。石之紛如は階段の下で死んだ。賊は遂に入り、孟陽を床で殺した。「これは君ではない。似ていない」と言った。戸の下に公の足が見えたので、遂に公を弑殺し、無知を立てた。 解説 この一節は、『春秋左氏伝』の荘公七年冬から荘公八年にかけての記述です。前半は魯と斉の外交・軍事行動が簡潔に記され、特に魯の荘公が斉軍を攻撃せず徳を修めることを選んだ逸話が伝えられています。後半は斉の内乱、いわゆる「無知の乱」の詳細な経緯が描かれています。襄公の従兄弟である公孫無知が、不満を持つ連称・管至父と結びつき、襄公を弑殺して即位するまでの過程が生々しく語られています。襄公が猪を彭生の亡霊と見て動揺し、足を負傷した逸話や、徒人費の忠義、孟陽の死など、物語性の高い叙述が特徴です。この部分は、経の簡潔な記述に対して伝が背景や詳細を補うという『左伝』の典型的な構成を示しています。 Translation took 3020.1 seconds. |
| 初、襄公立,無常。鮑叔牙曰:『君使民慢,亂將作矣。』奉公子小白出奔莒。亂作,管夷吾、召忽奉公子糾來奔。 初,公孫無知虐於雍廩。 莊公九年 經 九年春,齊人殺無知。公及齊大夫盟于既。 夏,公伐齊納子糾。齊小白入于齊。 秋七月丁酉,葬齊襄公。 八月庚申,及齊師戰于乾時,我師敗績。九月,齊人取子糾殺之。 冬,浚洙。 傳 九年春,雍廩殺無知。 公及齊大夫盟于既,齊無君也。 夏,公伐齊,納子糾。桓公自莒先入。 秋,師及齊師戰于乾時,我師敗績,公喪戎路,傳乘而歸。秦子、梁子以公旗辟於下道,是以皆止。 鮑叔帥師來言曰:『子糾,親也,請君討之。管、召、仇也,請受而甘心焉。』乃殺子糾于生竇,召忽死之。管仲請囚,鮑叔受之,乃堂阜而稅之。歸而以告曰:『管夷吾治于髙傒,使相可也。』公從之。 莊公十年 經 十年春王正月,公敗齊師於長勺。二月,公侵宋。三月,宋人遷宿。 夏六月,齊師、宋師次於郎。公敗宋師於乘丘。 秋九月,荊敗蔡師於莘,以蔡侯獻舞歸。 冬十月,齊師滅譚,譚子奔莒。 傳 十年春,齊師伐我。公將戰,曹劌請見。其鄉人曰:『肉食者謀之,又何間焉。』劌曰:『肉食者鄙,未能遠謀。』乃入見。問何以戰。公曰:『衣食所安,弗敢專也,必以分人。』對曰:『小惠未遍,民弗從也。』公曰:『犧牲玉帛,弗敢加也,必以信。』對曰:『小信未孚,神弗福也。』公曰:『小大之獄,雖不能察,必以情。』對曰:『忠之屬也,可以一戰,戰則請從。』 |
現代日本語訳 荘公九年 経 九年春、斉の人が無知を殺した。魯公は斉の大夫と既の地で盟約を結んだ。 夏、魯公は斉を攻めて子糾を国君として送り込もうとした。斉の小白が斉に入った。 秋七月丁酉の日、斉の襄公を葬った。 八月庚申の日、魯軍は斉軍と乾時で戦い、我が軍は大敗した。九月、斉の人が子糾を捕らえて殺した。 冬、洙の川を浚渫した。 伝 九年春、雍廩が無知を殺した。 魯公が斉の大夫と既の地で盟約を結んだのは、斉に国君がいなかったからである。 夏、魯公は斉を攻めて子糾を送り込もうとした。しかし桓公(小白)が莒から先に入国していた。 秋、魯軍は斉軍と乾時で戦い、我が軍は大敗した。魯公は戎車を失い、別の車に乗り換えて帰還した。秦子と梁子は魯公の旗を掲げて別の道に逃れたため、二人とも捕らえられた。 鮑叔が軍を率いて来て言った。「子糾は親族です。どうか国君が彼を討ってください。管仲と召忽は我々の仇です。引き渡していただければ、思いを晴らしたいのです。」そこで子糾を生竇で殺し、召忽は殉死した。管仲は囚われることを願い出て、鮑叔が彼を受け取り、堂阜に着くと釈放した。帰国してから鮑叔は報告して言った。「管夷吾は高傒よりも治国の才に優れております。宰相にすればよろしいでしょう。」桓公はこれに従った。 荘公十年 経 十年春、王の正月、魯公は長勺で斉軍を破った。二月、魯公は宋に侵攻した。三月、宋の人が宿の民を強制移住させた。 夏六月、斉軍と宋軍が郎に駐留した。魯公は乗丘で宋軍を破った。 秋九月、荊(楚)が莘で蔡軍を破り、蔡侯献舞を捕らえて帰った。 冬十月、斉軍が譚を滅ぼし、譚子は莒に逃げた。 伝 十年春、斉軍が我が国(魯)を攻めてきた。魯公は戦おうとし、曹劌が面会を求めた。彼の郷里の人が言った。「肉を食う者たち(高官)が謀ることだ。お前がどうして口を挟むのか。」劌は言った。「肉を食う者たちは見識が狭く、遠大な謀略など立てられない。」そこで宮中に入って魯公に面会した。劌は何をもって戦うのかと尋ねた。魯公は言った。「衣食のような安らぎをもたらすものは、独り占めせず、必ず人々に分け与えている。」劌は答えた。「それは小さな恩恵で、行き渡っておらず、民は従いません。」魯公は言った。「犠牲や玉帛は、規定以上に増やしたりせず、必ず誠実さをもって神に捧げている。」劌は答えた。「それは小さな誠実さで、神に十分に信じられておらず、神は福をお与えになりません。」魯公は言った。「大小の裁判は、たとえすべてを詳しく裁けなくても、必ず人情に基づいて判断している。」劌は答えた。「それは忠の類です。これならば一戦できます。戦う時には、どうか私もお供させてください。」 解説 この一節は、『春秋左氏伝』の荘公九年(紀元前685年)から十年(紀元前684年)にかけての記述です。斉の内乱と魯の介入、そして魯と斉の戦いが中心となっています。 荘公九年の背景:斉の襄公は暴政を行い、国内が不安定でした。鮑叔牙は公子小白(後の桓公)を連れて莒に亡命し、管夷吾(管仲)と召忽は公子糾を奉じて魯に亡命しました。襄公が殺され、公孫無知が一時的に立ちますが、雍廩によって殺されます。その後、魯は公子糾を斉の国君にしようと出兵しますが、小白が先に入国して桓公となります。魯軍は乾時で敗れ、斉の圧力により子糾は殺され、召忽は殉死、管仲は鮑叔の推薦で桓公に仕えることになります。この管仲登用は、後の斉の覇業の基礎となります。 荘公十年の背景:斉は魯を攻め、長勺の戦いが起こります。ここで曹劌が登場し、魯公との問答を通じて、民衆の支持と誠実な政治こそが戦いの基盤であると説きます。曹劌の「肉食者鄙」という言葉は、高官たちの無能さを批判する故事成語として知られています。魯公の「小大の獄、雖不能察、必以情」という答えに対して、曹劌は「忠之屬也」と評価し、戦いに参加することを決意します。この後、長勺の戦いで魯軍は斉軍を破りますが、その戦術の詳細は続く部分に記されています。 この一節は、斉の桓公即位と管仲登用、そして魯の曹劌の活躍という、春秋時代初期の重要な出来事を描いています。 Translation took 2389.2 seconds. |
| 公與之乘。戰於長勺。公將鼓之。劌曰:『未可。』齊人三鼓,劌曰:『可矣。』齊師敗績。公將馳之。劌曰:『未可。』下,視其轍,登,軾而望之,曰:『可矣。』遂逐齊師。 既克,公問其故。對曰:『夫戰,勇氣也,一鼓作氣,再而衰,三而竭。彼竭我盈,故克之。夫大國難測也,懼有伏焉。吾視其轍亂,望其旗靡,故逐之。』 夏六月,齊師、宋師次於郎。公子偃曰:『宋師不整,可敗也。宋敗,齊必還,請擊之。』公弗許。自雩門竊出,蒙皋比而先犯之。公從之。大敗宋師於乘丘。齊師乃還。 蔡哀侯娶于陳,息侯亦娶焉。息媯將歸,過蔡。蔡侯曰:『吾姨也。』止而見之,弗賓。息侯聞之,怒,使謂楚文王曰:『伐我,吾求救于蔡而伐之。』楚子從之。秋九月,楚敗蔡師於莘,以蔡侯獻舞歸。 齊侯之出也,過譚,譚不禮焉。及其入也,諸侯皆賀,譚又不至。冬,齊師滅譚,譚無禮也。譚子奔莒,同盟故也。 莊公十一年 經 十有一年春王正月。 夏五月,戊寅,公敗宋師於鄑。 秋,宋大水。 冬,王姬歸於齊。 傳 十一年夏,宋爲乘丘之役故侵我。公禦之,宋師未陳而薄之,敗諸鄑。 凡師,敵未陳曰敗某師,皆陳曰戰,大崩曰敗績,得人雋曰克,覆而敗之曰取某師,亰師敗曰王師敗績於某。 |
公は彼(曹劌)と共に戦車に乗った。長勺で戦った。公が太鼓を打たせようとすると、曹劌は「まだいけません」と言った。斉軍が三度太鼓を打った後、曹劌は「もうよろしい」と言った。斉軍は大敗した。公が追撃させようとすると、曹劌は「まだいけません」と言った。車を降りて斉軍の車の轍を調べ、車に登って車前の横木に寄りかかって遠くを望み、「もうよろしい」と言った。そこで斉軍を追撃した。 勝利した後、公がその理由を尋ねた。曹劌は答えて言った。「そもそも戦いというものは勇気によるものです。一度目の太鼓で士気が奮い立ち、二度目で衰え、三度目で尽きてしまいます。敵の士気が尽きた時に、我が方は士気が満ちていました。だから勝てたのです。大国というものは計り知れないもので、伏兵がいるのではないかと恐れました。私が敵の車の轍が乱れているのを見て、旗が倒れているのを望見したので、追撃したのです。」 夏六月、斉軍と宋軍が郎に駐屯した。公子偃が言った。「宋軍は陣形が整っていません。打ち破ることができます。宋が敗れれば、斉は必ず引き上げるでしょう。どうか攻撃させてください。」公は許さなかった。公子偃は雩門から密かに出撃し、虎の皮をかぶって真っ先に宋軍に攻めかかった。公もそれに続いた。乗丘で宋軍を大いに打ち破った。斉軍はそこで撤退した。 蔡の哀侯は陳から妻を娶った。息侯もまた陳から妻を娶った。息媯(息侯の妻)が帰国しようとして蔡を通過した。蔡侯は「私の妻の妹だ」と言って、彼女を引き留めて会ったが、礼儀を尽くさなかった。息侯はこのことを聞いて怒り、楚の文王に使いを送って言った。「どうか我が国を攻めてください。そうすれば私は蔡に救援を求め、蔡を攻めることができます。」楚王はこの策に従った。秋九月、楚は莘で蔡軍を破り、蔡侯献舞を捕虜として連れ帰った。 斉侯(桓公)が国外に逃亡していたとき、譚を通過したが、譚は礼を尽くさなかった。彼が帰国して即位すると、諸侯は皆祝賀に訪れたが、譚はまた来なかった。冬、斉軍は譚を滅ぼした。譚が無礼だったからである。譚子は莒に逃げた。莒が同盟国だったからである。 荘公十一年 十一年春、王の正月。 夏五月、戊寅の日、公が鄑で宋軍を破った。 秋、宋で大水があった。 冬、王姫が斉に嫁いだ。 伝 十一年夏、宋は乗丘の戦いの恨みのために我が国に侵攻してきた。公はこれを迎え撃ち、宋軍がまだ陣形を整えないうちに攻めかかって、鄑でこれを打ち破った。 およそ軍事において、敵がまだ陣形を整えていないうちに破ることを「某師を敗る」と言い、両軍が陣形を整えて戦うことを「戦う」と言い、大いに崩れて敗れることを「敗績」と言い、優れた者を得ることを「克つ」と言い、敵を覆滅して敗ることを「某師を取る」と言い、王の軍が敗れることを「王師が某で敗績した」と言う。 【解説】 Translation took 4392.2 seconds. |
| 秋,宋大水。公使吊焉,曰:『天作淫雨,害于粢盛,若之何不吊?』對曰:『孤實不敬,天降之災,又以爲君憂,拜命之辱。』臧文仲曰:『宋其興乎。禹、湯罪己,其興也悖焉;桀、紂罪人,其亡也忽焉。且列國有凶稱孤,禮也。言懼而名禮,其庶乎。』既而聞之曰公子禦說之辭也。臧孫達曰:『是宜爲君,有恤民之心。』 冬,齊侯來逆共姬。 乘丘之役,公之金僕姑射南宮長萬,公右遄孫生搏之。宋人請之,宋公靳之,曰:『始吾敬子,今子,魯囚也。吾弗敬子矣。』病之。 莊公十二年 經 十有二年春王三月,紀叔姬歸於酅。 夏亖月。 秋八月甲午,宋萬弑其君捷及其大夫仇牧。十月,宋萬出奔陳。 傳 十二年秋,宋萬弑閔公于蒙澤。遇仇牧於門,批而殺之。遇大宰督於東宮之西,又殺之。立子遊。羣公子奔蕭。公子禦說奔亳。南宮牛、猛獲帥師圍亳。 冬十月,蕭叔大心及戴、武、宣、穆、莊之族以曹師伐之。殺南宮牛于師,殺子游于宋,立桓公。猛獲奔衛。南宮萬奔陳,以乘車輦其母,一日而至。 宋人請猛獲于衛,衛人欲勿與,石祁子曰:『不可。天下之惡一也,惡于宋而保於我,保之何補?得一夫而失一國,與惡而棄好,非謀也。』衛人歸之。亦請南宮萬于陳,以賂。陳人使婦人飲之酒,而以犀革裹之。比及宋手足皆見。宋人皆醢之。 莊公十三年 經 |
秋、宋に大水があった。魯の荘公は使者を派遣して見舞いを述べさせ、「天が長雨を降らせ、祭祀の供え物に被害を与えた。どうして見舞いを述べずにいられようか」と言った。宋の君主は答えて、「私が不敬であったため、天が災いを下し、さらに国君にご心配をおかけした。ご丁重なお見舞いの言葉を謹んでお受けする」と述べた。臧文仲は「宋は興隆するだろう。禹や湯は自らを罪としたので、その興隆は速やかであった。桀や紂は他人を罪としたので、その滅亡は急であった。また、諸侯の国で凶事があるとき、君主が自らを『孤』と称するのは礼である。言葉に恐れの念があり、その称が礼にかなっている。宋はおそらく大丈夫だろう」と言った。後にこの言葉が公子禦説の言葉であると聞くと、臧孫達は「この人物は君主となるべきである。民を思いやる心がある」と言った。 冬、斉侯が来て共姫を迎えた。 乗丘の戦いのとき、魯の荘公の矢「金僕姑」が南宮長万に当たり、荘公の車右の遄孫生が彼を生け捕りにした。宋人が彼の返還を求めたが、宋の君主は彼を嘲って、「最初はお前を敬っていたが、今のお前は魯の囚人だ。もう敬うことはない」と言った。南宮長万はこれを深く恨んだ。 荘公十二年 十二年春、王の三月、紀叔姫が酅に帰った。 夏四月。 秋八月甲午、宋の万がその君主捷と大夫仇牧を弑した。十月、宋の万は陳に亡命した。 伝 十二年秋、宋の万は蒙沢で閔公を弑した。門で仇牧に出会うと、打ちかかって殺した。東宮の西で大宰督に出会い、また殺した。子游を立てて国君とした。公子たちは蕭に逃げた。公子禦説は亳に逃げた。南宮牛と猛獲は軍を率いて亳を包囲した。 冬十月、蕭叔大心と戴・武・宣・穆・荘の諸族は曹の軍を率いてこれを攻めた。南宮牛を軍中で殺し、子游を宋で殺し、桓公を立てた。猛獲は衛に逃げた。南宮万は陳に逃げ、乗車で母を乗せて一日で到着した。 宋人は衛に猛獲の引き渡しを求めた。衛人は引き渡すまいとしたが、石祁子が「いけない。天下の悪は同じである。宋で悪事を働き、我が国に保護を求めたとしても、保護して何の益があるか。一人の男を得るために一国を失い、悪人と親しんで友好国を捨てるのは、良い計略ではない」と言った。衛人は彼を送り返した。また陳に南宮万の引き渡しを賄賂を添えて求めた。陳人は女たちに酒を飲ませて酔わせ、犀の革で包んだ。宋に着くころには手足が革から突き出ていた。宋人は二人ともを塩漬けの刑に処した。 荘公十三年 【解説】 後半は宋の内乱が主題です。南宮長万(宋の万)は乗丘の戦いで魯に捕らえられ、釈放後に宋公から嘲られたことを恨みに思い、ついに閔公を弑して子游を立てます。しかし、蕭叔大心や諸族の反撃により子游は殺され、桓公(公子禦説)が即位します。南宮長万と猛獲はそれぞれ陳と衛に逃れますが、宋の引き渡し要求により送還され、塩漬けの刑に処されます。この箇所は、臣下による弑逆とその報い、また諸国間の犯罪人引き渡しの慣行が描かれており、春秋時代の政治情勢や倫理観を知る上で重要な記事です。 Translation took 1530.9 seconds. |
| 十有三年春,齊侯、宋人、陳人、蔡人、邾人會於北杏。 夏六月,齊人滅遂。 秋七月。 冬,公會齊侯盟于柯。 傳 十三年春,會於北杏,以平宋亂。遂人不至。 夏,齊人滅遂而戍之。 冬,盟于柯,始及齊平也。 宋人背北杏之會。 莊公十亖年 經 十有亖年春,齊人、陳人、曹人伐宋。 夏,單伯會伐宋。 秋七月,荊入蔡。 冬,單伯會齊侯、宋公、衛侯、鄭伯于鄄。 傳 十亖年春,諸侯伐宋,齊請師于周。夏,單伯會之,取成于宋而還。 鄭厲公自櫟侵鄭,及大陵,獲傅瑕。傅瑕曰:『苟舍我,吾請納君。』與之盟而赦之。六月甲子,傅瑕殺鄭子及其二子而納厲公。 初,內蛇與外蛇鬥于鄭南門中,內蛇死。六年而厲公入。公聞之,問于申繻曰:『猶有妖乎?』對曰:『人之所忌,其氣焰以取之,妖由人興也。人無釁焉,妖不自作。人棄常則妖興,故有妖。』 厲公入,遂殺傅瑕。使謂原繁曰:『傅瑕貳,周有常刑,既伏其罪矣。納我而無二心者,吾皆許之上大夫之事,吾願與伯父圖之。且寡人出,伯父無裏言,入,又不念寡人,寡人憾焉。』對曰:『先君桓公命我先人典司宗祏。社稷有主而外其心,其何貳如之?苟主社稷,國內之民其誰不爲臣?臣無二心,天之制也。子儀在位十亖年矣,而謀召君者,庸非二乎。莊公之子猶有八人,若皆以官爵行賂勸貳而可以濟事,君其若之何?臣聞命矣。』乃縊而死。 |
現代日本語訳 (経)十三年春、斉侯・宋人・陳人・蔡人・邾人が北杏で会合した。 夏六月、斉人が遂を滅ぼした。 秋七月。 冬、公が斉侯と会合し、柯で盟を結んだ。 (伝)十三年春、北杏で会合したのは、宋の内乱を平定するためであった。遂の人は来なかった。 夏、斉人が遂を滅ぼして、そこに守備兵を置いた。 冬、柯で盟を結び、初めて斉と和平した。 宋人は北杏の会合に背いた。 荘公十四年 (経)十四年春、斉人・陳人・曹人が宋を攻めた。 夏、単伯が宋攻めに合流した。 秋七月、荊が蔡に入った。 冬、単伯が斉侯・宋公・衛侯・鄭伯と鄄で会合した。 (伝)十四年春、諸侯が宋を攻め、斉は周に軍を要請した。夏、単伯がそれに合流し、宋と和を結んで帰還した。 鄭の厲公が櫟から鄭に侵攻し、大陵に至って傅瑕を捕らえた。傅瑕は言った。「もし私を許してくれるなら、私が国君を迎え入れましょう。」厲公は彼と盟約を結んで赦した。六月甲子の日、傅瑕は鄭子とその二人の子を殺して厲公を迎え入れた。 以前、内の蛇と外の蛇が鄭の南門の中で闘い、内の蛇が死んだ。六年して厲公が入国した。公(魯の荘公)はこの話を聞いて、申繻に尋ねた。「まだ妖(わざわい)があるだろうか。」申繻は答えた。「人が忌み恐れるものは、その人の気勢が招き寄せるものであり、妖は人によって起こるのです。人に隙がなければ、妖は自然には発生しません。人が常道を捨てれば妖が起こる、だから妖があるのです。」 厲公は入国すると、すぐに傅瑕を殺した。そして原繁に使いを送って言った。「傅瑕は二心を抱いた。周には定まった刑罰があり、すでにその罪に服した。私を迎え入れて二心のない者には、私は皆上大夫の職を約束した。私は伯父(原繁)と共に事を図りたい。しかし、私が国外にいたとき、伯父は私のために内々に言葉をかけてくれなかった。入国してからも、私を気にかけてくれない。私はそれを恨みに思う。」原繁は答えた。「先君の桓公が私の先祖に命じて宗廟の神主を守らせました。社稷に主君がいるのに、その心を外に向けることほど大きな二心はありません。もし社稷を主として治めるなら、国内の民で誰が臣下でない者がいましょうか。臣下に二心がないのは、天の定めです。子儀(鄭子)が在位して十四年になります。その間に国君を召し寄せようと謀った者こそ、二心ではないでしょうか。荘公の子はまだ八人います。もし皆が官爵で賄賂を贈って二心を勧め、それで事を成し遂げられるとしたら、君はどうなさるおつもりか。私はご命令を承りました。」そう言って首を吊って死んだ。 解説 この一節は、『春秋左氏伝』の荘公十三年(紀元前681年)から十四年(紀元前680年)にかけての記事です。斉の桓公が覇者としての地位を固めつつある時期で、諸侯を糾合して会盟を重ねる一方、従わない小国(遂)を滅ぼすなど、覇権確立の過程が描かれています。 前半では、北杏の会合、遂の滅亡、柯の盟という一連の出来事が記され、宋が会合の決定に背いたことが次章への伏線となります。後半の十四年では、斉を中心とする諸侯が宋を攻め、周の単伯が仲介して和を結ぶまでが語られます。 特に注目されるのは、鄭の内乱です。厲公が傅瑕の助けで復位するものの、傅瑕を二心の故に殺し、さらに旧臣の原繁に対しても「なぜ自分を助けなかったのか」と恨みを述べます。これに対する原繁の答えは、臣下の忠義とは何か、二心とは何かを鋭く問うもので、彼は最後に自ら命を絶ちます。また、蛇の闘いの逸話は、人の心の乱れが妖を生むという考えを示し、鄭の内乱を予兆するものとして挿入されています。 全体として、春秋時代の国際関係と、臣下の忠節をめぐる倫理観が浮き彫りにされた章段です。 Translation took 3012.8 seconds. |
| 蔡哀侯爲莘故,繩息媯以語楚子。楚子如息,以食入享,遂滅息。以息媯歸,生堵敖及成王焉,未言。楚子問之,對曰:『吾一婦人而事二夫,縱弗能死,其又奚言?』楚子以蔡侯滅息,遂伐蔡。秋七月,楚入蔡。 君子曰:『《商書》所謂「惡之易也,如火之燎于原,不可鄉邇,其猶可撲滅」者,其如蔡哀侯乎。』 冬,會于鄄,宋服故也。 莊公十五年 經 十有五年春,齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯會于鄄。 夏,夫人姜氏如齊。 秋,宋人、齊人、邾人伐郳。鄭人侵宋。 冬十月。 傳 十五年春,復會焉,齊始霸也。 秋,諸侯爲宋伐郳。鄭人間之而侵宋。 莊公十六年 經 十有六年春王正月。 夏,宋人、齊人、衛人伐鄭。 秋,荊伐鄭。 冬十有二月,會齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、滑伯、滕子同盟於幽。邾子克卒。 傳 十六年夏,諸侯伐鄭,宋故也。 鄭伯自櫟入,緩告于楚。秋,楚伐鄭,及櫟,爲不禮故也。 鄭伯治與于雍糾之亂者。九月,殺公子閼,刖強鉏。公父定叔出奔衛。三年而複之,曰:『不可使共叔無後於鄭。』使以十月入,曰:『良月也,就盈數焉。』 君子謂:『強鉏不能衛其足。』 冬,同盟于幽,鄭成也。 王使虢公命曲沃伯以一軍爲晉侯。 |
現代日本語訳 蔡の哀侯は、莘の戦いの件があったため、息嬀の美しさを楚の王に話して勧めた。楚の王は息へ赴き、宴席に乗じて息を滅ぼした。息嬀を連れて帰り、堵敖と成王を産んだが、彼女は何も話さなかった。楚の王がその理由を尋ねると、彼女は答えた。「私は一人の女でありながら二人の夫に仕える身、死ぬことさえできないのに、いったい何を話せましょうか。」楚の王は蔡侯が息を滅ぼす原因を作ったとして、蔡を攻めた。秋七月、楚は蔡に攻め入った。 君子は言う。「『商書』にいわゆる『悪の広がりやすいことは、火が原野を焼くようで、近づくこともできず、それでもなお消し止められるだろうか』という言葉があるが、それは蔡の哀侯のような者のことだろう。」 冬、鄄で会合した。宋が服従したためである。 荘公十五年 経 十五年の春、斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯が鄄で会合した。 夏、夫人姜氏が斉へ行った。 秋、宋人・斉人・邾人が郳を攻めた。鄭人が宋に侵入した。 冬十月。 伝 十五年の春、再び鄄で会合した。斉が初めて覇者となったのである。 秋、諸侯は宋のために郳を攻めた。鄭人はその隙をついて宋に侵入した。 荘公十六年 経 十六年の春、王の正月。 夏、宋人・斉人・衛人が鄭を攻めた。 秋、荊が鄭を攻めた。 冬十二月、斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・滑伯・滕子が幽で同盟した。邾子克が死去した。 伝 十六年の夏、諸侯が鄭を攻めた。宋の件のためである。 鄭伯は櫟から入り、楚への報告が遅れた。秋、楚が鄭を攻め、櫟に達した。鄭が礼を欠いたためである。 鄭伯は雍糾の乱に関与した者たちを処罰した。九月、公子閼を殺し、強鉏を刖刑に処した。公父定叔は衛へ亡命した。三年後に彼を復帰させ、「共叔に鄭で後継ぎを絶えさせてはならない」と言った。十月に入らせ、「良い月だ、満ちた数に当たるからだ」と言った。 君子は言う。「強鉏は自分の足を守ることができなかった。」 冬、幽で同盟した。鄭が和睦したためである。 王は虢公に命じて曲沃伯に一軍を与えて晋侯とした。 解説 この一節は、『春秋左氏伝』の荘公十四年後半から十六年にかけての記述です。前段から続く内容で、蔡の哀侯が息嬀の美しさを楚の王に吹き込んだことから、楚が息を滅ぼし、さらに蔡を攻めるに至る経緯が語られます。息嬀は楚王との間に子を産みながらも、自らの境遇を恥じて口をきかず、その沈黙が楚王の蔡攻めを促すという、因果応報的な物語が展開します。 続く「君子曰」では、『商書』の言葉を引いて、悪の広がりを火の比喩で表現し、蔡哀侯の行いを戒めています。これは『左伝』特有の道徳的評価の一例です。 その後、鄄での会合を経て、荘公十五・十六年の経と伝が記されます。十五年には斉の桓公が初めて覇者としての地位を固め、諸侯の会合を主導します。十六年には鄭をめぐる諸侯の争いや、鄭国内の内紛(雍糾の乱の事後処理)が描かれ、公父定叔の復帰や強鉏への刑罰など、鄭の国内政治の動きが詳細に記されます。最後に、周王が曲沃伯を晋侯に任命したことが記され、晋の公室が正式に認められたことが示されます。 全体として、春秋時代中期の国際関係と国内政治の錯綜した様子が、簡潔な筆致で描かれた箇所です。 Translation took 3169.4 seconds. |
| 初,晉武公伐夷,執夷詭諸。蒍國請而免之。既而弗報。故子國作亂,謂晉人曰:『與我伐夷而取其地。』遂以晉師伐夷,殺夷詭諸。周公忌父出奔虢。惠王立而複之。 莊公十七年 經 十有七年春,齊人執鄭詹。 夏,齊人殲於遂。 秋,鄭詹自齊逃來。 冬,多麋。 傳 十七年春,齊人執鄭詹,鄭不朝也。 夏,遂因氏、頜氏、工婁氏、須遂氏饗齊戍,醉而殺之,齊人殲焉。 莊公十八年 經 十有八秂萅王三月,日有食之。 夏,公追戎於濟西。 秋,有蜮。 冬十月。 傳 十八秂萅,虢公、晉矦朝王,王饗醴,命之宥,皆賜玉五玨,馬亖匹。非禮也。王命諸矦,名位不同,禮亦異數,不以禮假人。 虢公、晉矦、鄭伯使原莊公逆王后于陳。陳嬀歸於亰師,實惠後。 夏,公追戎於濟西。不言其來,諱之也。 秋,有蜮,爲災也。 初,楚武王克權,使鬭緡尹之。以叛,圍而殺之。遷權於那處,使閻敖尹之。及文王即位,與巴人伐申而驚其師。巴人叛楚而伐那處,取之,遂門于楚。閻敖遊湧而逸。楚子殺之,其族爲亂。冬,巴人因之以伐楚。 莊公十九年 經 十有九年春王正月。 夏亖月。 秋,公子結媵陳人之婦於鄄,遂及齊侯、宋公盟。夫人姜氏如莒。 冬,齊人、宋人、陳人伐我西鄙。 傳 |
昔、晋の武公が夷を攻め、夷詭諸を捕らえた。蒍国が彼の赦免を請うて、彼を釈放させた。しかしその後、夷詭諸は恩に報いなかった。そこで子国(蒍国)が反乱を起こし、晋の人々に言った。「私と共に夷を攻めて、その土地を取ろうではないか。」そして晋の軍を率いて夷を攻め、夷詭諸を殺した。周公忌父は虢に亡命した。恵王が即位すると、彼を復帰させた。 荘公十七年 経 十七年春、斉人が鄭詹を捕らえた。 夏、斉人が遂で全滅させられた。 秋、鄭詹が斉から逃れて来た。 冬、麋(おおじか)が多かった。 伝 十七年春、斉人が鄭詹を捕らえたのは、鄭が斉に朝見しなかったからである。 夏、遂の因氏、頜氏、工婁氏、須遂氏が斉の守備兵を饗応し、酔わせて殺した。斉人はそこで全滅した。 荘公十八年 経 十八年春、王の三月、日食があった。 夏、公(魯の荘公)が済水の西で戎を追撃した。 秋、蜮(水辺の害虫)が発生した。 冬十月。 伝 十八年春、虢公と晋侯が王に朝見した。王は甘酒を振る舞い、彼らに宥めの言葉をかけ、皆に玉五玨と馬四匹を賜った。これは礼にかなっていない。王が諸侯に命じる際には、名分や地位が異なれば、礼もまた異なる数であり、礼を他人に仮り与えてはならないのである。 虢公、晋侯、鄭伯が原荘公を派遣して、陳から王后を迎えさせた。陳の嬀が京師に帰り、これが恵后となった。 夏、公が済水の西で戎を追撃した。その来襲を記さないのは、それを忌み諱んだからである。 秋、蜮が発生したのは、災害となったからである。 昔、楚の武王が権を攻め滅ぼし、鬭緡にそこを治めさせた。鬭緡が叛いたので、包囲して殺した。権の民を那処に移し、閻敖にそこを治めさせた。文王が即位すると、巴人と共に申を攻めたが、巴人の軍を驚かせた(裏切った)。巴人は楚に叛いて那処を攻め、これを取った。そして楚の都門に迫った。閻敖は湧水を泳いで逃げた。楚子(文王)は彼を殺した。その一族が反乱を起こした。冬、巴人はこれに乗じて楚を攻めた。 荘公十九年 経 十九年春、王の正月。 夏四月。 秋、公子結が陳の人の婦人の媵(付き添い)として鄄に行き、そのまま斉侯、宋公と盟を結んだ。夫人姜氏が莒に行った。 冬、斉人、宋人、陳人が我が国の西の辺境を攻めた。 伝 (ここで本文は途切れている) 解説 この一節は、『春秋左氏伝』の荘公十七年から十九年にかけての記述です。最初の段落は、それ以前の晋の武公と夷詭諸の故事を振り返ったもので、恩義と裏切り、復讐の物語です。周公忌父の亡命と恵王による復帰も語られます。 荘公十七年の経では、斉が鄭詹を捕らえたこと、遂での斉兵全滅、鄭詹の逃亡、麋の異常発生が簡潔に記されます。伝では、鄭詹捕縛の理由が鄭の朝見怠慢であること、遂での斉兵殺害の詳細が説明されます。 荘公十八年の経では、日食、戎の追撃、蜮の発生が記されます。伝では、虢公と晋侯への王の過剰な賜与が非礼であると批判され、王后の陳からの迎え、戎追撃の諱、蜮の災害が説明されます。さらに楚の武王から文王にかけての権や那処をめぐる出来事、巴人との抗争が詳述されます。 荘公十九年の経では、公子結の外交活動と夫人姜氏の莒行き、斉・宋・陳による魯への侵攻が記されます。伝はこの箇所では途切れています。 全体として、春秋時代の諸国間の外交、戦争、内乱、自然災害が年代記的に記され、左氏伝がその背景や詳細を補足する構成になっています。特に、礼の規範からの逸脱や、恩讐の連鎖が強調されています。 Translation took 5049.8 seconds. |
| 十九年春,楚子禦之,大敗於津。還,鬻拳弗納。遂伐黃,敗黃師於碏陵。還,及湫,有疾。夏六月庚申卒,鬻拳葬諸夕室,亦自殺也,而葬於絰皇。 初,鬻拳強諫楚子,楚子弗從,臨之以兵,懼而從之。鬻拳曰:『吾懼君以兵,罪莫大焉。』遂自刖也。楚人以爲大閽,謂之大伯,使其後掌之。君子『鬻拳可謂愛君矣,諫以自納于刑,刑猶不忘納君於善。』 初,王姚嬖于莊王,生子頹。子頹有寵,蒍國爲之師。及惠王即位。取蒍國之圃以爲囿,邊伯之宮近于王宮,王取之。王奪子禽祝跪與詹父田,而收膳夫之秩。故蒍國、邊伯、石速、詹父、子禽祝跪作亂,因蘇氏。秋,五大夫奉子頹以伐王,不克,出奔溫。蘇子奉子頹以奔衛。衛師、燕師伐周。冬,立子頹。 莊公二十年 經 二十年春王二月,夫人姜氏如莒。 夏,齊大災。 秋七月。 冬,齊人伐戎。 傳 二十年春,鄭伯和王室,不克。執燕仲父。夏,鄭伯遂以王歸,王處於櫟。秋,王及鄭伯入于鄔。遂入成周,取其寶器而還。 冬,王子頹享五大夫,樂及遍舞。鄭伯聞之,見虢叔,曰:『寡人聞之,哀樂失時,殃咎必至。今王子頹歌舞不倦,樂禍也。夫司寇行戮,君爲之不舉,而況敢樂禍乎?!奸王之位,禍孰大焉?臨禍忘憂,憂必及之。盍納王乎?』虢公曰:『寡人之願也。』 莊公二十一年 經 |
十九年の春、楚子はこれを防いだが、津で大敗した。帰還すると、鬻拳は(楚子を)入れなかった。そこで黄を攻め、碏陵で黄の軍を破った。帰還して湫に着いたとき、病にかかった。夏六月庚申の日に(楚子は)死去した。鬻拳は(楚子を)夕室に葬り、自身も自殺して、絰皇に葬られた。 以前、鬻拳は楚子に強く諫めたが、楚子は従わなかった。鬻拳は兵器を突きつけて脅し、楚子は恐れて従った。鬻拳は言った。「私は兵器で君を脅した。これより大きな罪はない。」そして自ら足を切る刑に処した。楚の人々は彼を大閽(門衛の長)とし、大伯と呼び、その子孫にその職を世襲させた。君子は言う。「鬻拳は君を愛していると言える。諫めて自ら刑に服し、刑を受けた後も君を善に導くことを忘れなかった。」 以前、王姚は荘王に寵愛され、子頹を産んだ。子頹は寵愛を受け、蒍国が彼の師となった。恵王が即位すると、蒍国の菜園を取って自分の園囿とし、辺伯の邸宅が王宮に近かったので、王はそれを取った。王は子禽祝跪と詹父の田を奪い、膳夫の俸禄を没収した。そのため、蒍国、辺伯、石速、詹父、子禽祝跪は反乱を起こし、蘇氏に頼った。秋、五人の大夫は子頹を奉じて王を攻めたが、勝てず、温に出奔した。蘇子は子頹を奉じて衛に奔った。衛の軍と燕の軍が周を攻めた。冬、子頹を(王として)立てた。 荘公二十年 経 二十年春、王の二月、夫人姜氏が莒に行った。 夏、斉で大きな火災があった。 秋七月。 冬、斉人が戎を攻めた。 伝 二十年春、鄭伯は王室を調停しようとしたが、成功しなかった。燕仲父を捕らえた。夏、鄭伯はついに王を連れて帰り、王は櫟に滞在した。秋、王と鄭伯は鄔に入った。そして成周に入り、その宝器を取って帰還した。 冬、王子頹は五大夫を饗応し、音楽は遍舞(あらゆる舞)に及んだ。鄭伯はこれを聞き、虢叔に会って言った。「私は聞いている、哀楽が時を失えば、災いと咎が必ず来ると。今、王子頹は歌舞を倦まず続けている。これは禍を楽しんでいるのだ。司寇が刑戮を行うとき、君は食事を減らすというのに、ましてや禍を楽しむことなど許されるだろうか。王の位を犯すこと、これより大きな禍があろうか。禍に直面しながら憂いを忘れれば、憂いは必ずその身に及ぶ。王を迎え入れるべきではないか。」虢公は言った。「私の願いです。」 荘公二十一年 経 【解説】 この一節は、『春秋左氏伝』の魯の荘公十九年から二十一年にかけての記事です。内容は大きく二つの出来事に分かれます。 前半は、楚の鬻拳(いくけん)の故事です。楚子(楚の武王)が津で大敗して帰還した際、鬻拳は門を閉じて王を入れませんでした。これは、敗戦の責任を問う厳しい諫めでした。その後、楚子は黄を攻めて勝利しますが、帰還途中に病を得て死去します。鬻拳は王を葬った後、自らも殉死します。また、以前に鬻拳が兵器で楚子を脅して諫言した際、自ら刖刑(足切り)に処したという逸話も挿入され、君子の評として「鬻拳は君を愛する者である」と称えられています。これは、臣下が命を懸けて主君を正そうとする忠義の典型として描かれています。 後半は、周王室の内乱(子頹の乱)の発端です。周の荘王の寵姫の子である子頹は、恵王の即位後に冷遇された大夫たち(蒍国・辺伯・石速・詹父・子禽祝跪)に擁立され、恵王に対して反乱を起こします。五大夫は蘇氏の支援を得て王を攻めますが失敗し、子頹は衛へ亡命します。その後、衛と燕の軍が周を攻め、冬に子頹が王として立てられます。 続く荘公二十年の経と伝では、斉の火災や斉の戎征伐が簡潔に記され、伝では鄭伯(鄭の厲公)が恵王を助けて周に戻そうと調停を試みるものの失敗し、最終的に恵王を連れて帰国し、成周の宝器を奪って帰るまでが描かれます。さらに冬、子頹が五大夫を饗応して歌舞にふける様子を見た鄭伯が、虢公に対して「禍を楽しむ者は必ず災いを受ける」と警告し、恵王を復位させることを提案する場面で締めくくられます。この後、荘公二十一年の経が始まるところで本文は終わっています。 全体として、忠臣の自己犠牲と、王位を巡る内乱という二つのテーマが並置され、春秋時代の君臣関係や政治情勢の一端が浮き彫りにされています。 Translation took 3570.4 seconds. |
| 二十有一年春,王正月。 夏五月辛酉,鄭伯突卒。 秋七月戊戌,夫人姜氏薨。 冬十有二月,葬鄭厲公。 傳 二十一年春,胥命於弭。夏,同伐王城。鄭伯將王,自圉門入,虢叔自北門入,殺王子頹及五大夫。鄭伯享王于闕西辟,樂備。王與之武公之略,自虎牢以東。原伯曰:『鄭伯效尤,其亦將有咎。』五月,鄭厲公卒。 王巡虢守。虢公爲王宮于玤,王與之酒泉。鄭伯之享王也,王以后之鞶鑒予之。虢公請器,王予之爵。鄭伯由是始惡于王。 冬,王歸自虢。 莊公二十二年 經 二十二年春王正月,肆大眚。癸丑,葬我小君文姜。陳人殺其公子禦寇。 夏五月。 秋七月丙申,及齊髙傒盟於防。 冬,公如齊納幣。 傳 二十二年春,陳人殺其大子禦寇,陳公子完與顓孫奔齊。顓孫自齊來奔。 齊侯使敬仲爲卿。辭曰:『羈旅之臣,幸若獲宥,及於寬政,赦其不閑於教訓而免於罪戾,弛於負擔,君之惠也,所獲多矣。敢辱髙位,以速官謗。請以死告。《詩》云:「翹翹車乘,招我以弓,豈不欲往,畏我友朋。」』使爲工正。 飲桓公酒,樂。公曰:『以火繼之。』辭曰:『臣卜其晝,未卜其夜,不敢。』君子曰:『酒以成禮,不繼以淫,義也。以君成禮,弗納於淫,仁也。』 初,懿氏卜妻敬仲,其妻占之,曰:『吉,是謂「鳳皇於飛,和鳴鏘鏘,有媯之後,將育于姜。五世其昌,並於正卿。八世之後,莫之與亰。」』陳厲公,蔡出也。故蔡人殺五父而立之,生敬仲。其少也,周史有以《周易》見陳侯者,陳侯使筮之,遇《觀》之《否》。曰:『是謂「觀國之光,利用賓于王。」代陳有國乎。不在此,其在異國;非此其身,在其子孫。光,遠而自他有耀者也。《坤》,土也。《巽》,風也。《乾》,天也。風爲天於土上,山也。有山之材而照之以天光,於是乎居土上,故曰:「觀國之光,利用賓于王。」庭實旅百,奉之以玉帛,天地之美具焉,故曰:「利用賓于王。」猶有觀焉,故曰其在後乎。風行而著於土,故曰其在異國乎。若在異國,必姜姓也。姜,大嶽之後也。山嶽則配天,物莫能兩大。陳衰,此其昌乎。』 |
二十一年春、王の正月。 夏五月辛酉、鄭伯突が卒去した。 秋七月戊戌、夫人姜氏が薨去した。 冬十二月、鄭の厲公を葬った。 【伝】 二十一年春、弭で盟約を交わした。夏、共に王城を攻めた。鄭伯が王を率いて、圉門から入り、虢叔は北門から入って、王子頹と五大夫を殺した。鄭伯は王を闕の西の離宮で饗応し、音楽を備えた。王は鄭伯に武公の領地、虎牢以東を与えた。原伯は言った。「鄭伯は過ちを真似ている。彼もまた災いを受けるだろう。」五月、鄭厲公が卒去した。 王は虢の領地を巡行した。虢公は玤に王のための宮殿を建て、王は彼に酒泉を与えた。鄭伯が王を饗応した際、王は后の鞶鑑(帯飾りと鏡)を鄭伯に与えた。虢公が器物を請うと、王は彼に爵(酒器)を与えた。鄭伯はこれによって王を憎み始めた。 冬、王は虢から帰還した。 【荘公二十二年 経】 二十二年春、王の正月、大赦を行った。癸丑、我が小君文姜を葬った。陳人がその公子禦寇を殺した。 夏五月。 秋七月丙申、斉の高傒と防で盟約を結んだ。 冬、公は斉へ行って結納を納めた。 【伝】 二十二年春、陳人がその太子禦寇を殺し、陳の公子完と顓孫は斉へ奔った。顓孫は斉から魯へ奔ってきた。 斉侯は敬仲(公子完)を卿にしようとした。彼は辞退して言った。「旅先の臣として、幸いにも寛大な政治のもとで許され、教えに不慣れであることを赦されて罪を免れ、負担を軽くしていただけるのは、君の恩恵です。得るところは既に多いのです。どうして高い位を辱めて、官職の誹りを早めることができましょうか。死を以てお断り申し上げます。『詩経』に「高く掲げた車乗、弓で私を招く、行きたくないわけではないが、友人が恐ろしい」とあります。」そこで彼を工正(工匠の長)に任命した。 桓公に酒を献じて楽しんだ。公が言った。「灯をともして続けよう。」彼は辞退して言った。「臣は昼のことを占いましたが、夜のことは占っておりません。敢えてできません。」君子は言った。「酒は礼を成すためのもので、淫に続けないのは義である。君のために礼を成し、淫に陥らせないのは仁である。」 初め、懿氏が敬仲に妻を娶せるために卜を立て、その妻が占って言った。「吉である。これは『鳳凰が飛び、和して鳴くこと鏘鏘たり。有媯の後裔が、姜の国で栄えるであろう。五世で昌え、正卿に並ぶ。八世の後には、並ぶ者がないほどになる』というものである。」陳の厲公は蔡の出である。だから蔡人が五父を殺して厲公を立て、敬仲が生まれた。彼が幼い頃、周の史官で『周易』を携えて陳侯に会った者がいた。陳侯が筮をさせると、『観』の卦が『否』に変わった。史官は言った。「これは『国の光を観る、賓として王に用いられるに利し』というものである。陳に代わって国を持つ者が出るだろうか。それはこの国ではなく、異国であろう。この身ではなく、その子孫であろう。光は遠くから他から輝くものである。『坤』は土、『巽』は風、『乾』は天である。風が天となって土の上にあるのは、山である。山の材木を持ち、天の光で照らされる。こうして土の上に居る。だから『国の光を観る、賓として王に用いられるに利し』と言う。庭に実物が百も並び、玉帛を奉げ、天地の美が備わる。だから『賓として王に用いられるに利し』と言う。まだ観るべきものがある。だから『それは後にある』と言う。風が行って土に著く。だから『それは異国にある』と言う。もし異国にあるならば、必ず姜姓であろう。姜は大嶽の後裔である。山嶽は天に配する。物事は二つながら大きくなることはできない。陳が衰えたとき、これが昌えるであろう。」 【解説】 この一節は、『春秋左氏伝』の魯の荘公二十一年(紀元前673年)から二十二年(紀元前672年)にかけての記述です。内容は大きく二つの出来事に分かれます。 前半(二十一年)は、周王室の内紛と鄭の厲公の死が中心です。王子頹の乱の後、鄭伯(厲公)と虢叔が共に王城を攻めて王子頹らを殺し、周の恵王を復位させました。恵王は鄭伯に領地を与えて報いますが、原伯は鄭伯が過ちを繰り返していると批判し、その直後に鄭厲公は死去します。また、恵王が虢公を優遇し、鄭伯への待遇と差をつけたことから、鄭伯(厲公の後継者)が王を恨むようになった経緯が語られます。 後半(二十二年)は、陳の公子完(敬仲)の亡命と、彼に関する予言が主題です。陳で内乱が起こり、太子禦寇が殺されると、公子完と顓孫は斉へ亡命します。斉の桓公は公子完を卿に取り立てようとしますが、彼は謙遜して辞退し、工正という実務的な職に就きます。また、桓公との酒宴での逸話を通じて、彼の礼儀正しさが称えられます。 さらに、公子完にまつわる二つの占いが詳述されます。一つは懿氏の妻による卜占で、鳳凰の比喩を用いて彼の子孫が姜姓の国(斉)で栄え、八代後には並ぶ者がないほどになると予言します。もう一つは周の史官による『周易』の筮占で、「観」の卦から「否」に変わる象を解釈し、陳ではなく異国(斉)で、彼自身ではなく子孫の代に国を持つと予言します。これは後に斉の田氏(陳氏)が斉の実権を握り、最終的に田斉を建てる歴史を予見したものとして有名です。 全体として、この一節は、周王室の混乱と諸侯の勢力争い、そして陳から斉へ渡った公子完の運命を通じて、後の田斉の興隆を予言する物語となっています。 Translation took 4153.7 seconds. |
| 及陳之初亡也,陳桓子始大於齊。其後亡也,成子得政。 莊公二十三年 經 二十有三年春,公至自齊。祭叔來聘。 夏,公如齊觀社。公至自齊。荊人來聘。公及齊侯遇于穀。蕭叔朝公。 秋,丹桓宮楹。 冬十有一月,曹伯射姑卒。 十有二月甲寅,公會齊侯盟于扈。 傳 二十三年夏,公如齊觀社,非禮也。曹劌諫曰:『不可。夫禮,所以整民也。故會以訓上下之則,制財用之節;朝以正班爵之義,帥長幼之序;征伐以討其不然。諸侯有王,王有巡守,以大習之。非是,君不舉矣。君舉必書,書而不法,後嗣何觀?』 晉桓、莊之族逼,獻公患之。士蒍曰:『去富子,則羣公子可謀也已。』公曰:『爾試其事。』士蒍與羣公子謀,譖富子而去之。 秋,丹桓宮之楹。 莊公二十亖年 經 二十有亖年春王三月,刻桓宮桷。葬曹莊公。 夏,公如齊逆女。 秋,公至自齊。八月丁丑,夫人姜氏入。 戊寅,大夫宗婦覿,用幣。大水。 冬,戎侵曹。曹羈出奔陳。赤歸於曹。郭公。 傳 二十亖年春,刻其桷,皆非禮也。禦孫諫曰:『臣聞之:「儉,德之共也;侈,惡之大也。」先君有共德而君納諸大惡,無乃不可乎!』 秋,哀姜至。公使宗婦覿,用幣,非禮也。禦孫曰:『男贄大者玉帛,小者禽鳥,以章物也。女贄不過榛栗棗修,以告虔也。今男女同贄,是無別也。男女之別,國之大節也。而由夫人亂之,無乃不可乎!』 |
及陳之初亡也、陳桓子始大於齊。其後亡也、成子得政。 荘公二十三年 経 二十三年春、公が斉から帰国した。祭叔が来て聘問した。 夏、公が斉に行って社祭を見物した。公が斉から帰国した。荊の人が来て聘問した。公は斉侯と穀で会見した。蕭叔が公に朝見した。 秋、桓公の廟の柱を赤く塗った。 冬十一月、曹伯射姑が死去した。 十二月甲寅の日、公は斉侯と扈で会合し盟約した。 伝 二十三年夏、公が斉に行って社祭を見物したのは、礼に反することであった。曹劌が諫めて言った。「いけません。礼というものは、民を整えるためのものです。だから会合は上下の秩序を教え、財用の節度を定めるためにあり、朝見は班爵の義を正し、長幼の順序を導くためにあり、征伐はその正しくない者を討つためにあります。諸侯には王への朝覲があり、王には巡守があって、これらを大いに習熟させるのです。これらでなければ、君主は行動を起こさないものです。君主が行動を起こせば必ず記録されます。記録されて法にかなっていなければ、後継者たちは何を見習えばよいのでしょうか。」 晋の桓公・荘公の一族が逼迫してきたので、献公はこれを憂えた。士蒍が言った。「富子を除けば、群公子たちは計略にかけられるでしょう。」公は言った。「お前がそのことを試みよ。」士蒍は群公子たちと謀り、富子を讒言して追放した。 秋、桓公の廟の柱を赤く塗った。 荘公二十四年 経 二十四年春、王の三月、桓公の廟の垂木に彫刻を施した。曹の荘公を葬った。 夏、公が斉に行って夫人を迎えた。 秋、公が斉から帰国した。八月丁丑の日、夫人姜氏が国に入った。 戊寅の日、大夫や宗婦が拝謁し、幣を用いた。大水があった。 冬、戎が曹に侵攻した。曹の羈は陳に亡命した。赤が曹に帰国した。郭公。 伝 二十四年春、垂木に彫刻を施したが、これらはみな礼に反することであった。禦孫が諫めて言った。「私はこう聞いています。『倹約は徳の共通するものであり、奢侈は悪の最も大きなものである』と。先君は倹約の徳をお持ちでしたのに、君はそれを大きな悪の中に投げ込もうとしている。それはいけないことではありませんか。」 秋、哀姜が到着した。公は宗婦たちに拝謁させ、幣を用いさせたが、これは礼に反することであった。禦孫が言った。「男性の進物は大きいものでは玉や帛、小さいものでは禽鳥であり、それによって身分や事物を明らかにします。女性の進物は榛・栗・棗・乾し肉を超えることはなく、それによって敬意を表します。今、男女が同じ進物を用いるのは、区別がないということです。男女の区別は国家の大きな節度です。それを夫人によって乱すとは、いけないことではありませんか。」 解説 この一節は、『春秋左氏伝』の荘公二十三年(紀元前671年)と二十四年(紀元前670年)の記事です。最初の一文は陳の滅亡と陳氏(田氏)の斉における台頭を述べたもので、前文からの続きとして置かれています。 荘公二十三年の経では、魯の荘公が斉へ社祭を見物に行ったこと、曹伯射姑の死、斉侯との扈での盟約などが記されています。伝では、荘公の社祭見物が「非礼」であると曹劌が諫め、礼の本質は民を整え、上下の秩序や財用の節度を定めることにあると説きます。また、晋の献公が桓公・荘公の一族の勢力を恐れ、士蒍の進言によって富子を讒言で除く策謀が描かれます。 荘公二十四年の経では、桓公廟の垂木への彫刻、斉からの夫人(哀姜)の迎え入れ、戎の曹侵攻などが記されます。伝では、廟の装飾が奢侈であり先君の倹約の徳に反すると禦孫が諫め、さらに哀姜入国に際して男女の進物の区別を乱したことを非礼として批判します。ここでは、礼における倹約の徳と男女の別の重要性が強調されています。 Translation took 4585.3 seconds. |
| 晉士蒍又與羣公子謀,使殺遊氏之二子。士蒍告晉侯曰:『可矣。不過二年,君必無患。』 莊公二十五年 經 二十有五年春,陳侯使女叔來聘。 夏五月癸丑,衛侯朔卒。 六月辛未,朔,日有食之,鼓、用牲於社。伯姬歸於杞。 秋,大水,鼓、用牲于社、於門。 冬,公子友如陳。 傳 二十五年春,陳女叔來聘,始結陳好也。嘉之,故不名。 夏六月辛未,朔,日有食之。鼓、用牲於社,非常也。唯正月之朔,慝未作,日有食之,於是乎用幣於社,伐鼓於朝。 秋,大水。鼓,用牲于社、於門,亦非常也。凡天災,有幣無牲。非日月之眚,不鼓。 晉士蒍使羣公子盡殺游氏之族,乃城聚而處之。 冬,晉侯圍聚,盡殺羣公子。 莊公二十六年 經 二十有六年春,公伐戎。 夏,公至自伐戎。曹殺其大夫。 秋,公會宋人、齊人,伐徐。 冬十有二月癸亥,朔,日有食之。 傳 二十六年春,晉士蒍爲大司空。 夏,士蒍城絳,以深其宮。 秋,虢人侵晉。冬,虢人又侵晉。 莊公二十七年 經 二十有七年春,公會杞伯姬于洮。 夏六月,公會齊侯、宋公、陳侯、鄭伯同盟于幽。 秋,公子友如陳,葬原仲。 冬,杞伯姬來。莒慶來逆叔姬。杞伯來朝。公會齊侯於城濮。 傳 |
晋の士蒍はまた群公子と謀って、遊氏の二人の子を殺させた。士蒍は晋侯に告げて言った、「よろしい。二年とかからずに、君には必ず憂いがなくなるでしょう。」 荘公二十五年 経 二十五年春、陳侯が女叔を派遣して来訪させた。 夏五月癸丑の日、衛侯朔が死去した。 六月辛未、朔の日、日食があった。太鼓を打ち、社に犠牲を供えた。伯姫が杞に嫁いだ。 秋、大水があった。太鼓を打ち、社と門に犠牲を供えた。 冬、公子友が陳へ行った。 伝 二十五年春、陳の女叔が来訪した。これは陳との友好関係を初めて結んだものである。それを嘉したので、名を記さなかった。 夏六月辛未、朔の日、日食があった。太鼓を打ち、社に犠牲を供えたが、これは常例ではない。ただ正月の朔に、陰気がまだ起こらないうちに日食があった場合に、そのときに社に幣を供え、朝廷で太鼓を打つのである。 秋、大水があった。太鼓を打ち、社と門に犠牲を供えたが、これも常例ではない。およそ天災には、幣を供えることはあっても犠牲を供えることはない。日食や月食でない災いには、太鼓を打たない。 晋の士蒍は群公子に游氏の一族を皆殺しにさせ、それから聚に城を築いて彼らを住まわせた。 冬、晋侯は聚を包囲し、群公子を皆殺しにした。 荘公二十六年 経 二十六年春、公は戎を攻めた。 夏、公は戎攻めから帰還した。曹がその大夫を殺した。 秋、公は宋人、斉人と会合し、徐を攻めた。 冬十二月癸亥、朔の日、日食があった。 伝 二十六年春、晋の士蒍が大司空となった。 夏、士蒍は絳に城を築き、その宮殿を深くした。 秋、虢人が晋に侵攻した。冬、虢人がまた晋に侵攻した。 荘公二十七年 経 二十七年春、公は洮で杞伯姫と会合した。 夏六月、公は斉侯、宋公、陳侯、鄭伯と幽で同盟を結んだ。 秋、公子友が陳へ行き、原仲を葬った。 冬、杞伯姫が来訪した。莒の慶が叔姫を迎えに来た。杞伯が来朝した。公は城濮で斉侯と会合した。 伝 (この部分の伝は記されていない) 解説 この一節は、『春秋左氏伝』の荘公二十五年から二十七年にかけての記述です。前半は晋の内部抗争を描いています。士蒍は晋侯(献公)の命を受けて、公室を脅かす群公子を排除する策略を進めます。まず遊氏の二子を殺させ、その後、群公子を聚の地に集めて城を築かせ、最後に晋侯が聚を包囲して群公子を皆殺しにします。これにより晋の公室は強化され、後に献公の子である重耳(文公)らが台頭する基盤が作られました。 後半は、春秋の経文とその解説である伝が並びます。経文は簡潔な年次記録で、日食や大水などの天災、諸侯間の外交・軍事行動が記されています。伝はその背景や礼制上の解釈を説明します。特に日食や大水に際して太鼓を打ち犠牲を供える行為について、伝は「常例ではない」と注釈し、正しい礼制では天災には幣のみを用い、日食・月食以外の災いには太鼓を打たないと述べています。これは当時の礼的規範と実際の行為のずれを示すものです。 また、陳との友好関係の開始、衛侯朔の死、伯姫の杞への出嫁、公子友の陳訪問など、魯を中心とした国際関係の動きも記録されています。荘公二十七年の伝が空であるのは、この部分の伝文が現存しないか、あるいは省略されているためです。 Translation took 4197.5 seconds. |
| 二十七年春,公會杞伯姬于洮,非事也。天子非展義不巡守,諸侯非民事不舉,卿非君命不越竟。 夏,同盟于幽,陳、鄭服也。 秋,公子友如陳,葬原仲,非禮也。原仲,季友之舊也。 冬,杞伯姬來,歸寧也。凡諸侯之女,歸寧曰來,出曰來歸。夫人歸甯曰如某,出曰歸於某。 晉侯將伐虢,士蒍曰:『不可,虢公驕,若驟得勝於我,必棄其民。無眾而後伐之,欲禦我誰與?夫禮樂慈愛,戰所畜也。夫民讓事樂和,愛親哀喪而後可用也。虢弗畜也,亟戰將饑。』 王使召伯廖賜齊侯命,且請伐衛,以其立子頹也。 莊公二十八年 經 二十有八年春,王三月甲寅,齊人伐衛。衛人及齊人戰,衛人敗績。 夏亖月丁未,邾子瑣卒。 秋,荊伐鄭,公會齊人、宋人救鄭。 冬,築郿。大無麥、禾,臧孫辰告糴于齊。 傳 二十八年春,齊侯伐衛。戰,敗衛師。數之以王命,取賂而還。 晉獻公娶于賈,無子。烝于齊姜,生秦穆夫人及大子申生。又娶二女於戎,大戎狐姬生重耳,小戎子生夷吾。晉伐驪戎,驪戎男女以驪姬。歸,生奚齊。其娣生卓子。驪姬嬖,欲立其子,賂外嬖梁五,與東關嬖五,使言於公曰:『曲沃,君之宗也。蒲與二屈,君之疆也。不可以無主。宗邑無主則民不威,疆埸無主則啟戎心。戎之生心,民慢其政,國之患也。若使大子主曲沃,而重耳、夷吾主蒲與屈,則可以威民而懼戎,且旌君伐。』使俱曰:『狄之廣莫,于晉爲都。晉之啟土,不亦宜乎?』晉侯說之。 |
二十七年春、魯の荘公が杞の伯姫と洮で会見したが、これは正当な政務ではなかった。天子は徳義を広めるのでなければ巡狩を行わず、諸侯は民事でなければ行動を起こさず、卿は君主の命令がなければ国境を越えないものである。 夏、幽で同盟を結んだ。陳と鄭が斉に服属したためである。 秋、公子友が陳へ行き、原仲の葬儀に参列したが、これは礼に反する行為であった。原仲は季友の旧友であった。 冬、杞の伯姫が魯に来た。里帰りである。およそ諸侯の娘が里帰りすることを「来」といい、離縁されて実家に戻ることを「来帰」という。夫人が里帰りする場合は「某に如く」といい、離縁されて戻る場合は「某に帰る」という。 晋侯が虢を討とうとした。士蒍が言った。「いけません。虢公は驕慢です。もし我が軍に対してたびたび勝利を収めれば、必ずや自分の民を軽んじるようになるでしょう。民の支持を失ってから討てば、我々に抵抗しようとしても誰が従うでしょうか。そもそも礼・楽・慈・愛こそが、戦争に備えて蓄えるべきものです。民が仕事を譲り合い、和を楽しみ、親を愛し、喪を悲しむようになってはじめて、戦争に用いることができるのです。虢はこれらの徳を蓄えておらず、たびたび戦争をすれば民は疲弊するでしょう。」 周の恵王が召伯廖を派遣して斉侯に命を授け、あわせて衛を討つよう要請した。衛が子頽を立てたことが理由である。 荘公二十八年 二十八年春、王の三月甲寅の日、斉が衛を討った。衛は斉と戦い、衛は大敗した。 夏四月丁未の日、邾の子瑣が死去した。 秋、楚が鄭を討った。魯公は斉・宋と会合して鄭を救援した。 冬、郿に城を築いた。麦や禾が大いに不作となり、臧孫辰が斉に穀物の購入を依頼した。 伝 二十八年春、斉侯が衛を討った。戦って衛軍を破り、王命をもって衛の罪を数え上げ、賄賂を受け取って帰還した。 晋の献公は賈の国から妻を娶ったが、子ができなかった。父の妾であった斉姜と通じて、秦穆公夫人と太子申生を生んだ。また戎から二人の娘を娶り、大戎の狐姫は重耳を生み、小戎の子は夷吾を生んだ。晋が驪戎を討つと、驪戎の男は驪姫を献公に与えた。帰国後、驪姫は奚斉を生んだ。その妹は卓子を生んだ。驪姫は献公の寵愛を受け、自分の子を立てようとして、献公の寵臣である梁五と東関嬖五に賄賂を贈り、彼らに献公へこう進言させた。「曲沃は君主の宗廟のある地です。蒲と二つの屈は君主の辺境の要地です。これらに主となる者を置かないわけにはいきません。宗廟のある邑に主がいなければ民は畏敬の念を持たず、国境の地に主がいなければ戎に野心を起こさせます。戎が野心を抱き、民が政令を軽んじるようになれば、国の憂いとなります。もし太子に曲沃を治めさせ、重耳と夷吾に蒲と屈を治めさせれば、民を威服させ戎を恐れさせることができ、さらに君主の功績を顕彰することにもなりましょう。」また二人にこうも言わせた。「狄の広大な土地は、晋の都とするのにふさわしい。晋が領土を広げるのは、当然のことではありませんか。」晋侯はこの進言を喜んだ。 【解説】 後半は晋の献公の家庭事情が中心です。献公は父の妾であった斉姜との間に申生(太子)をもうけ、戎から娶った狐姫との間に重耳(後の文公)、小戎の子との間に夷吾(後の恵公)をもうけました。さらに驪戎から得た驪姫が奚斉を生み、献公の寵愛を受けて自分の子を太子にしようと画策します。驪姫は献公の寵臣二人に賄賂を贈り、太子申生を曲沃に、重耳を蒲に、夷吾を屈に配置するよう進言させました。これは一見すると国防強化のための提案ですが、実際には太子らを都から遠ざけ、奚斉を後継者に据えるための策略でした。この出来事は後の晋国内乱(驪姫の乱)の発端となります。 また、斉の桓公が周王の命を受けて衛を討ったことや、楚が鄭を攻めたことなど、当時の覇権争いの様子も記録されています。 Translation took 1611.2 seconds. |
| 夏,使大子居曲沃,重耳居蒲城,夷吾居屈。羣公子皆鄙,唯二姬之子在絳。二五卒與驪姬譖羣公子而立奚齊,晉人謂之二耦。 楚令尹子元欲蠱文夫人,爲館于其宮側,而振萬焉。夫人聞之,泣曰:『先君以是舞也,習戎備也。今令尹不尋諸仇讎,而於未亡人之側,不亦異乎!』禦人以告子元。子元曰:『婦人不忘襲仇,我反忘之!』 秋,子元以車六百乘伐鄭,入於桔柣之門。子元、鬭禦疆、鬭梧、耿之不比爲旆,鬭班、王孫游、王孫喜殿。眾車入自純門,及逵市。縣門不發,楚言而出。子元曰:『鄭有人焉。』諸侯救鄭,楚師夜遁。鄭人將奔桐丘,諜告曰:『楚幕有烏。』乃止。 冬,饑。臧孫辰告糴于齊,禮也。 築郿,非都也。凡邑有宗廟先君之主曰都,無曰邑。邑曰築,都曰城。 莊公二十九年 經 二十有九年春,新延既。 夏,鄭人侵許。 秋,有蜚。 冬十有二月,紀叔姬卒。城諸及防。 傳 二十九年春,新作延廄。書,不時也。凡馬日中而出,日中而入。 夏,鄭人侵許。凡師有鐘鼓曰伐,無曰侵,輕曰襲。 秋,有蜚,爲災也。凡物不爲災不書。 冬十二月,城諸及防,書,時也。凡土功,龍見而畢務,戒事也。火見而致用,水昏正而栽,日至而畢。 樊皮叛王。 莊公三十年 經 |
夏、太子を曲沃に住まわせ、重耳を蒲城に、夷吾を屈に住まわせた。公子たちはみな辺境の地に置かれ、ただ二人の姫の子だけが絳に残った。二五(梁五と東関五)はついに驪姫と共に公子たちを讒言して奚齊を立て、晋の人はこれを「二耦(二つの対)」と呼んだ。 楚の令尹子元は文夫人を誘惑しようとして、彼女の宮殿の傍らに館を建て、万の舞を演じさせた。夫人はこれを聞いて泣いて言った。「先君はこの舞を用いて軍備を習わせたのです。今、令尹は仇敵を討とうとせず、未亡人の側でこれを行うとは、なんと異なことではありませんか!」御者が子元にこの言葉を伝えた。子元は言った。「婦人は仇を忘れないのに、私はかえって忘れていた!」 秋、子元は兵車六百乗で鄭を攻め、桔柣の門に入った。子元、鬭禦疆、鬭梧、耿之不比が先鋒となり、鬭班、王孫游、王孫喜が殿軍となった。軍勢は純門から入り、逵市に達した。鄭は城門を閉ざさず、楚の言葉を話しながら出てきた。子元は言った。「鄭には人がいる。」諸侯が鄭を救援に来たので、楚軍は夜に逃げ去った。鄭の人は桐丘に逃げようとしたが、間諜が報告した。「楚の幕営に烏が集まっている。」そこで逃げるのをやめた。 冬、飢饉が起こった。臧孫辰が斉に穀物の購入を要請した。これは礼にかなった行為であった。 郿に築城した。これは都ではない。およそ邑で宗廟があり先君の神主を安置しているものを都といい、それがないものを邑という。邑を作ることを「築」といい、都を作ることを「城」という。 荘公二十九年 経 二十九年春、延厩を新しくした。 夏、鄭の人が許を侵した。 秋、蜚(害虫)が発生した。 冬十二月、紀叔姫が亡くなった。諸と防に城を築いた。 伝 二十九年春、延厩を新しく作った。これを記したのは、時節に合わないからである。およそ馬は春分の日に外に出し、秋分の日に入れる。 夏、鄭の人が許を侵した。およそ軍に鐘鼓を備えて進むのを「伐」といい、鐘鼓がないのを「侵」といい、軽装で不意を襲うのを「襲」という。 秋、蜚が発生した。これは災害である。およそ物が災害とならなければ記さない。 冬十二月、諸と防に城を築いた。これを記したのは、時節にかなっていたからである。およそ土工事は、龍星が現れると農作業を終えて工事の準備を始め、大火星が現れると道具を用意し、水星が南中する頃に版築を始め、冬至に完成させる。 樊皮が王に叛いた。 荘公三十年 経 (ここで原文が終わっている) 解説: 次に、楚の令尹子元が文夫人(先君文王の未亡人)を誘惑しようとしますが、夫人の非難を受けて反省し、鄭への侵攻を決意します。しかし鄭の巧妙な対応と諸侯の救援により、楚軍は撤退します。この部分は、子元の失策と鄭の機知を描いています。 その後、魯の臧孫辰が飢饉に際して斉に穀物を求めたことが礼にかなうと評価されます。また、郿への築城に関する「都」と「邑」の定義が述べられ、春秋の筆法の一例が示されます。 荘公二十九年の経と伝では、延厩の新築が時節に合わないとして記され、馬の管理に関する慣例が説明されます。また、軍事行動の分類(伐・侵・襲)や、災害の記録基準、土工事の適切な時期についての原則が述べられます。最後に、樊皮の王への反逆が簡潔に記されます。 全体として、この一節は春秋時代の政治的な駆け引き、軍事行動、礼制や慣例に関する左氏の解説が混在しており、当時の社会規範や歴史叙述の方法を理解する上で重要な箇所です。 Translation took 3411.7 seconds. |
| 三十年春王正月。 夏,次於成。 秋七月,齊人降鄣。 八月癸亥,葬紀叔姬。 九月庚午朔,日有食之。鼓,用牲於社。 冬,公及齊侯遇于魯濟。齊人伐山戎。 傳 三十年春,王命虢公討樊皮。夏亖月丙辰,虢公入樊,執樊仲皮,歸於亰師。 楚公子元歸自伐鄭,而處王宮,鬭射師諫,則執而梏之。 秋,申公鬭班殺子元,鬭谷於菟爲令尹,自毀其家以紓楚國之難。 冬,遇于魯濟,謀山戎也,以其病燕故也。 莊公三十一年 經 三十有一年春,築台于郎。 夏亖月,薛伯卒。築台于薛。 六月,齊侯來獻戎捷。 秋,築台于秦。 冬,不雨。 傳 三十一年夏六月,齊侯來獻戎捷,非禮也。凡諸侯有亖夷之功,則獻于王,王以警於夷。中國則否。諸侯不相遺俘。 莊公三十二年 經 三十有二年春,城小穀。 夏,宋公、齊侯遇于梁丘。 秋七月癸巳,公子牙卒。 八月癸亥,公薨于路寢。 冬十月己未,子般卒。 公子慶父如齊。狄伐邢。 傳 三十二年春,城小谷,爲管仲也。 齊侯爲楚伐鄭之故,請會于諸侯。宋公請先見於齊侯。夏,遇于梁丘。 秋七月,有神降於莘。 惠王問諸內史過曰:『是何故也?』對曰:『國之將興,明神降之,監其德也;將亡,神又降之,觀其惡也。故有得神以興,亦有以亡,虞、夏、商、周皆有之。』王曰:『若之何?』對曰:『以其物享焉,其至之日,亦其物也。』王從之。內史過往,聞虢請命,反曰:『虢必亡矣,虐而聽於神。』 |
翻訳文 経文 三十年春、王の正月。 夏、成に駐留した。 秋七月、斉人が鄣を降した。 八月癸亥の日、紀叔姫を葬った。 九月庚午朔の日、日食があった。太鼓を打ち、社で犠牲を捧げた。 冬、公が斉侯と魯済で会見した。斉人が山戎を討った。 伝文 三十年春、王が虢公に樊皮を討つよう命じた。夏四月丙辰の日、虢公が樊に入り、樊仲皮を捕らえて京師へ帰った。 楚の公子元が鄭を討ってから帰り、王宮に住んだ。鬭射師が諫めると、捕らえて枷をはめた。 秋、申公鬭班が子元を殺し、鬭谷於菟が令尹となった。自らの家財を壊して楚国の難を救った。 冬、魯済で会見したのは、山戎について謀るためであり、山戎が燕を苦しめていたからである。 荘公三十一年 経文 三十一年春、郎に台を築いた。 夏四月、薛伯が卒去した。薛に台を築いた。 六月、斉侯が来て戎の戦利品を献上した。 秋、秦に台を築いた。 冬、雨が降らなかった。 伝文 三十一年夏六月、斉侯が来て戎の戦利品を献上したのは、礼に反する。およそ諸侯が四夷に対して功績を立てたならば、王に献上し、王はそれをもって夷を戒める。中国の場合はそうしない。諸侯は互いに捕虜を贈り合わない。 荘公三十二年 経文 三十二年春、小穀に城を築いた。 夏、宋公と斉侯が梁丘で会見した。 秋七月癸巳の日、公子牙が卒去した。 八月癸亥の日、公が路寝で薨去した。 冬十月己未の日、子般が卒去した。 公子慶父が斉へ行った。狄が邢を討った。 伝文 三十二年春、小谷に城を築いたのは、管仲のためである。 斉侯は楚が鄭を討ったことの故に、諸侯との会合を請うた。宋公は先に斉侯に会見することを請うた。夏、梁丘で会見した。 秋七月、神が莘に降りた。 恵王が内史過に尋ねて言った。「これはどういうことか?」答えて言った。「国が興ろうとするときは、明神が降りてその徳を監察する。滅びようとするときは、神がまた降りてその悪を見る。だから神を得て興ることもあり、またそれによって滅びることもある。虞、夏、商、周のすべてにそれがあった。」王が言った。「どうすればよいか?」答えて言った。「その神にふさわしい供物で祀りなさい。神が降りた日も、またその供物にふさわしい日です。」王はそれに従った。内史過が行って、虢が神に命令を請うているのを聞き、戻って言った。「虢は必ず滅びるだろう。暴虐でありながら神に頼っているからだ。」 解説 この一節は、『春秋左氏伝』の荘公三十年から三十二年までの記述です。魯の荘公の治世後期にあたり、斉の桓公が覇者として台頭し、周辺諸国や異民族との関係が動いていた時期です。 経文は『春秋』の本文で、簡潔な出来事の記録です。伝文は左氏による解説・補足で、背景や人物の動きが詳しく述べられています。 主な内容としては、以下の点が挙げられます。
全体として、春秋時代の国際関係や礼制、思想が凝縮された箇所と言えるでしょう。 Translation took 3491.3 seconds. |
| 神居莘六月。虢公使祝應、宗區、史嚚享焉。神賜之土田。史嚚曰:『虢其亡乎!吾聞之:國將興,聽於民;將亡,聽於神。神,聰明正直而一者也,依人而行。虢多涼德,其何土之能得!』 初,公築台臨黨氏,見孟任,從之。閟,而以夫人言,許之。割臂盟公,生子般焉。雩,講于梁氏,女公子觀之。圉人犖自牆外與之戲。子般怒,使鞭之。公曰:『不如殺之,是不可鞭。犖有力焉,能投蓋於稷門。』 公疾,問後於叔牙。對曰:『慶父材。』問于季友,對曰:『臣以死奉般。』公曰:『鄉者牙曰慶父材。』成季使以君命命僖叔待于鍼巫氏,使鍼季酖之,曰:『飲此則有後於魯國,不然,死且無後。』飲之,歸,及逵泉而卒,立叔孫氏。 八月癸亥,公薨于路寢。子般即位,次於黨氏。冬十月己未,共仲使圉人犖賊子般於黨氏。成季奔陳。立閔公。 |
神が莘の地に留まって六か月になった。虢公は祝應・宗區・史嚚に命じて神を祭らせた。神は虢公に土地と田を授けた。史嚚が言った。「虢は滅びるだろう!私はこう聞いている。国が興ろうとするときは民の声を聞き、滅びようとするときは神の声を聞くものだと。神とは聡明で正直で一貫した存在であり、人の行いに従って行動するものだ。虢には薄情な徳が多い。どうして土地を得ることができようか。」 昔、魯の荘公は台を築いて黨氏の家を見下ろした。そこで孟任という女性を見初め、彼女を追い求めた。孟任は会おうとしなかったが、公が正妻にすると言ったので承諾した。彼女は臂を割いて血を流し、公と盟約を結んだ。そして子般を産んだ。雨乞いの祭りのとき、梁氏の家で武芸の稽古が行われ、公の娘が見物していた。馬飼いの犖が塀の外から彼女に戯れかかった。子般は怒って犖を鞭打たせた。公は言った。「殺してしまう方がよい。あれは鞭打つべきではない。犖は力があり、稷門で車の蓋を投げることができるのだ。」 公が病にかかり、後継ぎについて叔牙に尋ねた。叔牙は答えた。「慶父に才能があります。」季友に尋ねると、答えた。「私は死をかけて子般をお支えします。」公は言った。「先ほど叔牙は慶父に才能があると言った。」成季(季友)は君命をもって僖叔(叔牙)に鍼巫氏の家で待つように命じ、鍼季に毒を飲ませて言った。「これを飲めば魯国において子孫が残る。そうでなければ、死んでしかも子孫も残らない。」叔牙はそれを飲み、帰る途中、逵泉に着いたところで死んだ。こうして叔孫氏が立てられた。 八月癸亥の日、公は路寝で薨去した。子般が即位したが、黨氏の家に滞在した。冬十月己未の日、共仲(慶父)は馬飼いの犖に命じて黨氏の家で子般を殺させた。成季は陳に逃げた。そして閔公が立てられた。 【解説】 前半の虢の話は、神が土地を与えたという吉兆に対し、史嚚が「国は民の声を聞けば興り、神に頼れば滅びる」と述べ、虢の徳の薄さを批判するものです。これは為政者が民を重んじるべきだという儒家思想の反映とされます。 後半は魯の荘公の家族をめぐる争いです。荘公は孟任との間に子般をもうけますが、正妻の子である慶父(共仲)や叔牙、季友(成季)ら兄弟が後継争いに関わります。荘公は死に際して後継を叔牙と季友に諮りますが、叔牙は慶父を推し、季友は子般を推します。季友は叔牙を毒殺して子般を即位させますが、慶父が馬飼いの犖を使って子般を暗殺し、閔公を立てるに至ります。この後、魯は慶父の専横により混乱が続くことになります。 「圉人犖」は子般に鞭打たれた恨みから慶父の指示で子般を殺すことになり、荘公が「殺すべきだった」と述べた言葉が伏線となっています。また、叔牙の死によって叔孫氏が立てられ、後に魯の三桓氏(孟孫・叔孫・季孫)の一つとなる点も重要です。 Translation took 4076.8 seconds. |
| input text ../document/春秋左氏傳\04_春秋左氏傳_閔公.txt | 現代日本語 translated text |
| 春秋左氏傳 閔公 閔公元年 經 元年春,王正月,齊人救邢。 夏六月,辛酉,葬我君莊公。 秋八月,公及齊侯盟于落姑。季子來歸。 冬,齊仲孫來。 傳 元年春,不書即位,亂故也。 狄人伐邢。管敬仲言於齊侯曰:「戎狄豺狼,不可厭也;諸夏親暱,不可棄也;宴安酖毒,不可懷也。《詩》云:『豈不懷歸?畏此簡書。』簡書,同惡相恤之謂也。請救邢以從簡書。」齊人救邢。 夏,六月,葬莊公,亂故,是以緩。 秋,八月,公及齊侯盟于落姑,請復季友也。齊侯許之,使召諸陳,公次于郎以待之。「季子來歸」,嘉之也。 冬,齊仲孫湫來省難。書曰「仲孫」,亦嘉之也。仲孫歸,曰:「不去慶父,魯難未已。」公曰:「若之何而去之?」對曰:「難不已,將自斃,君其待之。」公曰:「魯可取乎?」對曰:「不可,猶秉周禮。周禮,所以本也。臣聞之,『國將亡,本必先顛,而後枝葉從之』。魯不棄周禮,未可動也。君其務寧魯難而親之。親有禮,因重固,間攜貳,覆昬亂,霸王之器也。」 晉侯作二軍,公將上軍,大子申生將下軍。趙夙御戎,畢萬為右,以滅耿、滅霍、滅魏。還,為大子城曲沃。賜趙夙耿,賜畢萬魏,以為大夫。 士蒍曰:「大子不得立矣,分之都城,而位以卿,先為之極,又焉得立?不如逃之,無使罪至。為吳大伯,不亦可乎?猶有令名,與其及也。且諺曰:『心苟無瑕,何恤乎無家?』天若祚大子,其無晉乎!」 |
経 元年春、王の正月、斉人が邢を救う。 夏六月、辛酉の日、我が君荘公を葬る。 秋八月、公が斉侯と落姑で盟を結ぶ。季子が帰国する。 冬、斉の仲孫が来る。 伝 元年春、即位を記さないのは、内乱のためである。 狄人が邢を攻めた。管敬仲が斉侯に言った。「戎狄は豺狼のようなもので、飽くことを知りません。諸夏の国々は互いに親しくしており、見捨てることはできません。安逸は毒酒のようなもので、心に留めてはなりません。『詩』に言う、『帰りたいと思わないことがあろうか、いや、この簡書を畏れるのだ』と。簡書とは、同じ悪を憎み互いに助け合うことを言うのです。どうか邢を救い、簡書に従ってください」と。斉人は邢を救った。 夏六月、荘公を葬った。内乱のため、このように遅れたのである。 秋八月、公が斉侯と落姑で盟を結んだのは、季友の帰国を求めるためであった。斉侯はこれを許し、陳から召還させた。公は郎に滞在してこれを待った。「季子来帰」とあるのは、これを嘉したのである。 冬、斉の仲孫湫が魯の難を視察に来た。「仲孫」と記すのは、またこれを嘉したのである。仲孫が帰国して言った。「慶父を除かなければ、魯の難は終わりません」と。公が言った。「どのようにして彼を除けばよいのか」と。答えて言った。「難が終わらなければ、彼は自ら滅びるでしょう。君はそれをお待ちなさい」と。公が言った。「魯を取ることはできるか」と。答えて言った。「できません。魯はなお周礼を守っています。周礼は国家の根本です。臣は聞いています、『国が滅びようとするときは、根本がまず倒れ、その後で枝葉がそれに従う』と。魯は周礼を捨てていないので、まだ動かすことはできません。君は魯の難を静めて魯と親しくされるよう努めるべきです。礼を守る国に親しみ、堅固な国に頼り、離反する者には間を入れ、昏乱した者を覆すこと、これが覇王の器なのです」と。 晋侯は二軍を編成し、公が上軍を率い、太子申生が下軍を率いた。趙夙が兵車を御し、畢万が車右となり、耿を滅ぼし、霍を滅ぼし、魏を滅ぼした。帰還すると、太子のために曲沃に城を築いた。趙夙に耿を与え、畢万に魏を与えて、大夫とした。 士蒍が言った。「太子は即位できないでしょう。都城を分け与え、卿の位につけ、先に極みに達させてしまった。どうして即位できましょうか。逃げるにしくはありません。罪が及ばないうちに。呉の太伯になるのも、また良いではありませんか。なお良い名声を得られます。罪に及ぶよりはましです。また諺に言う、『心に瑕がなければ、家がないことを何で憂えようか』と。天がもし太子に福を授けるなら、晋がなくなることはないでしょう」と。 解説 この一節は『春秋左氏伝』閔公元年の条で、魯の閔公が即位した年(紀元前661年)の記録です。「経」は『春秋』本経の簡潔な記述、「伝」は左氏による詳細な解説・背景説明です。 主な内容は以下の通りです。
全体として、この年は魯の内乱、斉の覇権的介入、晋の拡大と後継問題など、春秋時代の諸国の動向が描かれており、「礼」の重視と内乱の危険性が主要なテーマとなっています。 Translation took 13246.1 seconds. |
| 卜偃曰:「畢萬之後必大。萬,盈數也;魏,大名也。以是始賞,天啟之矣。天子曰兆民,諸侯曰萬民。今名之大,以從盈數,其必有眾。」 初,畢萬筮仕於晉,遇《屯》之《比》。辛廖占之,曰:「吉。《屯》固、《比》入,吉孰大焉?其必蕃昌。《震》為土、車從馬、足居之、兄長之、母覆之、眾歸之、六體不易、合而能固、安而能殺,公侯之卦也。公侯之子孫,必復其始。」 閔公二年 經 二年春,王正月,齊人遷陽。 夏,五月,乙酉,吉禘于莊公。 秋,八月,辛丑,公薨。 九月,夫人姜氏孫于邾。公子慶父出奔莒。 冬,齊高子來盟。 十有二月,狄入衛。 鄭棄其師。 傳 二年春,虢公敗犬戎于渭汭。舟之僑曰:「無德而祿,殃也。殃將至矣。」遂奔晉。 夏,吉禘于莊公,速也。 初,公傅奪卜齮田,公不禁。秋八月辛丑,共仲使卜齮賊公于武闈。成季以僖公適邾。共仲奔莒,乃入,立之。以賂求共仲于莒,莒人歸之。及密,使公子魚請。不許,哭而往。共仲曰:「奚斯之聲也。」乃縊。 閔公,哀姜之娣叔姜之子也,故齊人立之。共仲通於哀姜,哀姜欲立之。閔公之死也,哀姜與知之,故孫于邾。齊人取而殺之于夷,以其尸歸,僖公請而葬之。 成季之將生也,桓公使卜楚丘之父卜之。曰:「男也。其名曰友,在公之右。間于兩社,為公室輔。季氏亡,則魯不昌。」又筮之,遇《大有》之《乾》,曰:「同復于父,敬如君所。」及生,有文在其手曰「友」,遂以命之。 |
卜偃が言った。「畢萬の子孫は必ず大きくなる。萬は満ちた数であり、魏は大きな名である。これによって初めて賞を与えられたのは、天が彼を開いたのである。天子は兆民と言い、諸侯は萬民と言う。今、名が大きく、満ちた数に従うので、必ず民衆を持つであろう。」 昔、畢萬が晋で仕官するために筮を立てると、《屯》の卦が《比》の卦に変わった。辛廖がこれを占って言った。「吉である。《屯》は固く、《比》は入る。これより大きな吉があろうか。必ず繁栄するであろう。《震》は土となり、車は馬に従い、足はこれに居り、兄はこれを長とし、母はこれを覆い、衆はこれに帰す。六つの体は変わらず、合して固く、安んじて殺すことができる。これは公侯の卦である。公侯の子孫は、必ずその始めに復するであろう。」 閔公二年 経 二年春、王の正月、斉人が陽を移した。 夏、五月、乙酉の日、荘公のために吉禘を行った。 秋、八月、辛丑の日、公が薨去した。 九月、夫人姜氏が邾に逃れた。公子慶父は莒に亡命した。 冬、斉の高子が来て盟を結んだ。 十二月、狄が衛に入った。 鄭がその軍を捨てた。 伝 二年春、虢公が渭の曲がりで犬戎を破った。舟之僑が言った。「徳がなくて禄を受けるのは、災いである。災いがまもなく来るであろう。」そして晋に亡命した。 夏、荘公のために吉禘を行ったが、早すぎた。 昔、公の傅が卜齮の田を奪ったが、公は禁じなかった。秋八月辛丑の日、共仲が卜齮に命じて武闈で公を殺させた。成季は僖公を連れて邾に行った。共仲は莒に奔ったが、その後(成季らが)入って、僖公を立てた。賄賂で共仲を莒に求めたところ、莒人は彼を返した。密に着くと、公子魚を遣わして請うた。許されず、哭きながら行った。共仲は言った。「奚斯の声である。」そして首を吊った。 閔公は、哀姜の妹の叔姜の子である。だから斉人が彼を立てた。共仲は哀姜と通じており、哀姜は彼を立てようとした。閔公の死について、哀姜はそれを知っていたので、邾に逃れた。斉人は彼女を捕らえて夷で殺し、その遺体を帰した。僖公が請うて葬った。 成季が生まれようとしたとき、桓公が卜楚丘の父に占わせた。言った。「男である。その名は友、公の右に立つ。両社の間にあって、公室を補佐する。季氏が滅びれば、魯は栄えない。」また筮を立てると、《大有》の卦が《乾》の卦に変わった。言った。「父と同じく復し、君の所に敬する。」生まれると、その手に「友」という文字があった。そこでその名を付けた。 解説 この一節は、『春秋左氏伝』の閔公元年から二年にかけての記述です。最初に、晋の大夫である卜偃が畢萬の将来を予言し、その子孫が魏を建国することを示唆しています。畢萬は晋に仕え、魏の地を与えられ、後に魏氏の祖となります。辛廖の占いも同様に、畢萬の子孫が公侯になることを予言しています。 次に、魯の閔公二年の経と伝が続きます。経は簡潔な年表形式で、斉が陽を移したこと、荘公の吉禘、閔公の死、夫人姜氏の逃亡、慶父の亡命、斉の高子の来盟、狄の衛侵入、鄭の軍放棄などを記しています。 伝では、これらの出来事の詳細が語られます。虢公が犬戎を破った後、舟之僑が徳のない禄を災いとして晋に亡命します。魯では、閔公の傅が卜齮の田を奪ったことが原因で、共仲(慶父)が卜齮に命じて閔公を暗殺させます。成季(季友)は僖公を連れて邾に逃れ、後に僖公を立てます。慶父は莒に逃れますが、魯の要請で返され、自殺します。閔公の母は叔姜で、哀姜は慶父と通じており、閔公の死に関与していたため、斉に殺されます。最後に、成季の出生にまつわる予言が語られ、彼が魯の重臣となることが示されます。 この一節は、春秋時代の諸侯国の内紛や予言、占いの重要性を示しています。特に、畢萬の予言は後の魏の台頭を暗示し、魯の内乱は慶父の専横とその末路を描いています。また、成季の出生にまつわる予言は、彼が魯の公室を支える存在となることを示しています。 Translation took 3354.4 seconds. |
| 冬,十二月,狄人伐衛。衛懿公好鶴,鶴有乘軒者。將戰,國人受甲者皆曰:「使鶴,鶴實有祿位,余焉能戰?」公與石祁子玦,與甯莊子矢,使守,曰:「以此贊國,擇利而為之。」與夫人繡衣,曰:「聽于二子。」渠孔御戎,子伯為右,黃夷前驅,孔嬰齊殿。及狄人戰于熒澤,衛師敗績,遂滅衛。衛侯不去其旗,是以甚敗。狄人囚史華龍滑與禮孔,以逐衛人。二人曰:「我,大史也,實掌其祭。不先,國不可得也。」乃先之。至,則告守曰:「不可待也。」夜與國人出。狄入衛,遂從之,又敗諸河。 初,惠公之即位也少,齊人使昭伯烝於宣姜,不可,強之。生齊子、戴公、文公、宋桓夫人、許穆夫人。文公為衛之多患也,先適齊。及敗,宋桓公逆諸河,宵濟。衛之遺民男女七百有三十人,益之以共、滕之民為五千人,立戴公以廬于曹。許穆夫人賦《載馳》。齊侯使公子無虧帥車三百乘、甲士三千人以戍曹。歸公乘馬,祭服五稱,牛羊豕雞狗皆三百與門材。歸夫人魚軒,重錦三十兩。 鄭人惡高克,使帥師次于河上,久而弗召。師潰而歸,高克奔陳。鄭人為之賦《清人》。 晉侯使大子申生伐東山皋落氏。里克諫曰:「大子奉冢祀,社稷之粢盛,以朝夕視君膳者也,故曰冢子。君行則守,有守則從。從曰撫軍,守曰監國,古之制也。夫帥師,專行謀,誓車旅,君與國政之所圖也,非大子之事也。師在制命而已。稟命則不威,專命則不孝,故君之嗣適不可以帥師。君失其官,帥師不威,將焉用之?且臣聞皋落氏將戰,君其舍之。」公曰:「寡人有子,未知其誰立焉!」不對而退。 |
冬、十二月、狄人が衛を攻めた。衛の懿公は鶴を愛好し、鶴の中には大夫の乗る車に乗せられているものもいた。戦いが始まろうとしたとき、武器を受け取った国人たちは皆言った。「鶴を使え。鶴には実際に禄位がある。我々にどうして戦えようか。」懿公は石祁子に玦(けつ)を与え、甯荘子に矢を与えて守備を命じ、「これで国を助け、有利なことを選んで行え」と言った。夫人には刺繍の衣を与え、「二人の言うことを聞け」と言った。渠孔が懿公の車の御者となり、子伯が車右となり、黄夷が先駆け、孔嬰斉が殿(しんがり)となった。狄人と熒沢で戦ったが、衛軍は大敗し、ついに衛は滅ぼされた。衛侯(懿公)は自分の旗を捨てなかったため、そのために大敗した。狄人は史官の華龍滑と礼孔を捕らえ、衛人を追わせた。二人は言った。「我々は太史であり、祭祀をつかさどっている。先に行かなければ、国を得ることはできない。」そこで狄人は二人を先に行かせた。二人は衛の都に着くと、守備の者に告げた。「待ってはいられない。」夜のうちに国人とともに都を出た。狄人は衛に入り、さらに彼らを追って、黄河のほとりでまた敗った。 そもそも、恵公が即位したときはまだ幼く、斉の人は昭伯に宣姜と再婚させようとしたが、昭伯は承知しなかった。しかし強制されて、宣姜は斉子、戴公、文公、宋桓公夫人、許穆公夫人を生んだ。文公は衛に災いが多いのを見て、先に斉へ赴いた。衛が敗れると、宋の桓公は黄河のほとりで彼らを迎え、夜のうちに渡河させた。衛の生き残りの民は男女合わせて七百三十人で、共と滕の民を加えて五千人とし、戴公を立てて曹の地に仮の住まいをさせた。許穆公夫人は『載馳』の詩を作った。斉侯は公子無虧に兵車三百乗、甲士三千人を率いさせて曹を守らせた。また公には乗馬、祭服五揃い、牛・羊・豕・鶏・犬それぞれ三百頭と門の材木を贈った。夫人には魚軒(魚の飾りのある車)と重錦三十両を贈った。 鄭の人は高克を憎み、彼に軍を率いさせて黄河のほとりに駐屯させ、長い間呼び戻さなかった。軍は潰走して帰国し、高克は陳に亡命した。鄭の人はこのことを詠んで『清人』の詩を作った。 晋侯(献公)は太子申生に東山の皋落氏を討たせようとした。里克は諫めて言った。「太子は冢祀(おおやしろの祭祀)を奉じ、社稷の粢盛(供え物)を司り、朝夕に君の食事を視る者です。だから冢子(もうけの子)と言います。君が出かければ国を守り、守る者がいれば君に従います。従うことを撫軍と言い、守ることを監国と言い、これは古くからの制度です。軍を率いるということは、専ら謀を実行し、軍勢に誓いをさせ、君と国の政が図ることであって、太子のすることではありません。軍は命令を制するだけです。命令を仰ぐだけでは威厳がなく、専断すれば不孝となります。だから君の後嗣である嫡子は軍を率いてはならないのです。君が官職を誤れば、軍を率いても威厳がなく、どうして用いられましょうか。また臣は聞いています、皋落氏は戦おうとしていると。君はどうかおやめください。」公は言った。「私には子がいるが、誰を立てるかまだ決めていないのだ。」里克は答えずに退出した。 【解説】 衛懿公の鶴の逸話は特に有名で、君主が無用のものに禄を与えて人心を失い、国を危うくする例として後世に広く引用されました。懿公は戦いで旗を捨てずに戦死し、衛は一旦滅びますが、宋や斉の援助によって戴公が立てられ、曹の地で再興します。このとき許穆公夫人が詠んだとされる詩が『詩経』鄘風の「載馳」です。 鄭の高克の話は、君主が臣下を疎んじて軍を駐屯させたまま放置し、軍が崩壊するという失政を描いています。これも『詩経』鄭風の「清人」の背景とされます。 晋の太子申生の件は、献公が寵姫驪姫の子を後継にしようと画策し、太子申生を危険な戦いに送り出そうとする場面です。里克の諫言は、太子が軍を率いることの不適切さを礼制に基づいて説いたもので、後の驪姫の乱による晋の内乱へとつながる伏線となっています。献公の「誰を立てるかまだ決めていない」という言葉は、後継者問題の不透明さを示し、やがて申生の死と公子重耳(後の文公)の亡命という悲劇を招くことになります。 Translation took 3618.1 seconds. |
| 見大子,大子曰:「吾其廢乎?」對曰:「告之以臨民,教之以軍旅,不共是懼,何故廢乎?且子懼不孝,無懼弗得立,修己而不責人,則免於難。」 大子帥師,公衣之偏衣,佩之金玦。狐突御戎,先友為右,梁餘子養御罕夷,先丹木為右,羊舌大夫為尉。先友曰:「衣身之偏,握兵之要,在此行也,子其勉之。偏躬無慝,兵要遠災,親以無災,又何患焉?」狐突歎曰:「時,事之徵也;衣,身之章也;佩,衷之旗也。故敬其事,則命以始;服其身,則衣之純;用期衷,則佩之度。今命以時卒,閟其事也;衣之尨服,遠其躬也;佩以金玦,棄其衷也。服以遠之,時以閟之;尨,涼;冬,殺;金,寒;玦,離;胡可恃也?雖欲勉之,狄可盡乎?」梁餘子養曰:「帥師者,受命於廟,受脤於社,有常服矣。不獲而尨,命可知也。死而不孝,不如逃之。」罕夷曰:「尨奇無常,金玦不復,雖復何為?君有心矣。」先丹木曰:「是服也,狂夫阻之。曰『盡敵而反』,敵可盡乎?雖盡敵,猶有內讒,不如違之。」狐突欲行。羊舌大夫曰:「不可。違命不孝,棄事不忠。雖知其寒,惡不可取,子其死之。」 大子將戰,狐突諫曰:「不可,昔辛伯諗周桓公云:『內寵並后,外寵二政,嬖子配適,大都耦國,亂之本也。』周公弗從,故及於難。今亂本成矣,立可必乎?孝而安民,子其圖之!與其危身以速罪也。」 |
(ある人が)太子に会いに行くと、太子は言った。「私は廃されるのだろうか。」答えて言った。「民を治めることをお教えし、軍旅のことをお教えになった。恭敬でないことを恐れるべきで、どうして廃されましょうか。また、あなたは不孝を恐れるべきで、立てられないことを恐れてはなりません。自分を修めて人を責めなければ、難を免れるでしょう。」 太子が軍を率いることになり、献公は彼に左右で色の違う偏衣を着せ、金の玦を佩びさせた。狐突が御者となり、先友が車右となり、梁餘子養が罕夷の御者となり、先丹木が車右となり、羊舌大夫が尉となった。先友は言った。「衣が身の半分であるのは、兵権の要を握ることであり、この行いにかかっています。どうか励んでください。偏った衣でも悪意はなく、兵権の要は災いから遠ざけます。親しみがあって災いがなければ、何を憂えましょうか。」狐突は嘆いて言った。「時は事のしるしであり、衣は身のあらわれであり、佩びるものは心の旗である。だから事を敬うなら、命は年の初めに与える。身に着けさせるなら、衣は純色のものを着せる。心を用いさせるなら、佩びるものは度に合わせる。今、命は時の終わりに与えられ、その事を閉ざしている。衣は雑色の服を着せ、その身を遠ざけている。佩びるものに金の玦を与え、その心を棄てている。服で遠ざけ、時で閉ざし、雑色は薄く、冬は殺す季節、金は冷たく、玦は離れることを意味する。どうして頼みにできようか。たとえ励もうとしても、狄を尽くすことができようか。」梁餘子養は言った。「軍を率いる者は、廟で命を受け、社で脤を受け、常の服があります。それを得ずに雑色の服を着るとは、命のありようが知れます。死んで不孝になるよりは、逃げるに如きません。」罕夷は言った。「雑色は奇異で常がなく、金の玦は復ることがない。復ったとしても何になりましょう。君にはお考えがあるのです。」先丹木は言った。「この服は、狂った者でも拒むでしょう。『敵を尽くして帰れ』と言いますが、敵を尽くせましょうか。たとえ敵を尽くしても、内に讒言があります。逃げるに如きません。」狐突は立ち去ろうとした。羊舌大夫は言った。「いけません。命に背けば不孝、事を棄てれば不忠です。その冷たさを知っていても、悪を取ることはできません。あなたは死ぬべきです。」 太子が戦おうとすると、狐突は諫めて言った。「いけません。昔、辛伯が周の桓公に告げて言いました。『内寵が后と並び、外寵が二政をなし、嬖子が嫡子に配され、大都が国と対等になる、これらは乱の本です』と。周公は従わず、それで難に及びました。今、乱の本は成っています。立てることは必ずできるでしょうか。孝を尽くして民を安んじることを、あなたはお考えください。身を危うくして罪を早めるよりは。」 【解説】 「偏衣」は左右で色が異なる衣で、通常の礼服ではありません。「玦」は環の一部が欠けた玉の佩飾りで、「訣別」「断絶」を意味します。また、出陣の命が年の終わり(冬)に下されたことも不吉とされました。狐突はこれらの象徴を読み解き、献公が申生を遠ざけ、見放そうとしていると警告します。 登場人物のうち、狐突は申生の傅(守り役)であり、羊舌大夫は忠孝を重んじる老臣です。狐突は逃げることを勧めますが、羊舌大夫は命に背くことの不孝を説いて押しとどめます。最後の狐突の諫言では、辛伯が周の桓公に告げた言葉を引用し、内乱の兆しがすでに成っていると警告し、孝を尽くして民を安んじる道を選ぶよう諫めています。この後、申生は讒言によって自害に追い込まれることになります。 Translation took 3705.5 seconds. |
| 成風聞成季之繇,乃事之,而屬僖公焉,故成季立之。 僖之元年,齊桓公遷邢于夷儀。二年,封衛于楚丘。邢遷如歸,衛國忘亡。 衛文公大布之衣、大帛之冠,務材訓農,通商惠工,敬教勸學,授方任能。元年,革車三十乘;季年,乃三百乘。 |
成風は成季の占いの言葉を聞いて、彼に仕え、僖公を託した。そのため成季は僖公を即位させた。 僖公の元年、斉の桓公は邢の国を夷儀に移した。二年、衛の国を楚丘に封じた。邢の移転はまるで故郷に帰るかのようであり、衛の国は滅亡の悲しみを忘れるほどだった。 衛の文公は粗末な布の衣服を着て、白い絹の冠をかぶり、材木の生産に努め農耕を教え、商業を流通させ工人を優遇し、教育を重んじ学問を奨励し、統治の方法を授け有能な者を任用した。元年には兵車が三十台だったが、末年には三百台にまで増えた。 【解説】 この一節は、魯の僖公の即位に至る経緯と、同時代の斉の桓公による邢・衛の救済、そして衛の文公の復興政策を記したものです。 まず「成風」は魯の荘公の側室で、僖公の母です。「成季」は魯の公族である季友のことで、占い(繇)によって将来を予見されていました。成風はその占いの言葉を聞き、成季に仕えて僖公の後見を託し、その結果、成季が僖公を国君に立てたという経緯が語られています。 次に、斉の桓公は覇者として、狄に侵略された邢と衛を救済しました。邢は夷儀に、衛は楚丘に再建され、その移転が民にとって苦痛ではなく「帰るかのよう」であり、衛の民は滅亡の悲しみを忘れるほど安定した統治が行われたと評価されています。 最後に、衛の文公の治世が詳述されます。彼は質素な生活を送りながら、産業振興・商業保護・教育奨励・人材登用に尽力し、その結果、軍事力が十年足らずで十倍に増強されたことが示されています。これは、小国であっても優れた君主の政策によって国力が回復しうることを示す好例として、『春秋左氏伝』が称揚する箇所です。 Translation took 1074.8 seconds. |
| input text ../document/春秋左氏傳\05_春秋左氏傳_僖公.txt | 現代日本語 translated text |
| 春秋左氏傳 僖公 僖公元年 經 元年春,王正月。齊師、宋師、曹伯次于聶北,救邢。 夏,六月,邢遷于夷儀。齊師、宋師、曹師城邢。 秋,七月,戊辰。夫人姜氏薨于夷,齊人以歸。楚人伐鄭。 八月,公會齊侯、宋公、鄭伯、曹伯、邾人于檉。 九月,公敗邾師于偃。 冬,十月,壬午,公子友帥師敗莒師于酈,獲莒拏。 十有二月,丁已,夫人氏之喪至自齊。 傳 元年春,不稱即位,公出故也。公出復入不書,諱之也。諱國惡,禮也。 諸侯救邢。邢人潰,出奔師。師遂逐狄人,具邢器用而遷之,師無私焉。 夏,邢遷于夷儀。諸侯城之,救患也。凡侯伯,救患、分災、討罪,禮也。 秋,楚人伐鄭,鄭即齊故也。 盟于犖,謀救鄭也。 九月,公敗邾師于偃,虛丘之戍將歸者也。 冬,莒人來求賂,公子友敗諸酈,獲莒子之弟拏。非卿也,嘉獲之也。公賜季友汶陽之田,及費。 夫人氏之喪至自齊,君子以齊人殺哀姜也,為已甚矣。女子從人者也。 僖公二年 經 二年春,王正月。城楚丘。 夏五月,辛巳,葬我小君哀姜。虞師、晉師滅下陽。 秋九月,齊侯、宋公、江人、黃人盟于貫。 冬十月,不雨。楚人侵鄭。 傳 二年春,諸侯城楚丘而封衛焉。不書,所會後也。 |
春秋左氏伝 僖公 僖公元年 元年春、王の正月。斉の軍・宋の軍・曹伯が聶北に駐留し、邢を救援した。 夏、六月、邢が夷儀に移った。斉の軍・宋の軍・曹の軍が邢のために城を築いた。 秋、七月、戊辰。夫人姜氏が夷で亡くなり、斉人がその遺体を本国へ持ち帰った。楚人が鄭を攻めた。 八月、公は斉侯・宋公・鄭伯・曹伯・邾の人々と檉で会合した。 九月、公は偃で邾の軍を破った。 冬、十月、壬午、公子友が軍を率いて酈で莒の軍を破り、莒拏を捕らえた。 十二月、丁巳、夫人氏の霊柩が斉から到着した。 伝 元年春、即位を記さないのは、公が国外に出ていたためである。公が出て再び入ったことを記さないのは、それを忌み隠したのである。国の悪事を隠すのは礼である。 諸侯が邢を救援した。邢の人々は潰走し、出て諸侯の軍に逃げ込んだ。軍はそこで狄人を追い払い、邢の器物を整えて移転させたが、軍は私利を図らなかった。 夏、邢が夷儀に移った。諸侯がその城を築いたのは、患難を救うためである。およそ侯伯たる者は、患難を救い、災害を分かち、罪を討つのが礼である。 秋、楚人が鄭を攻めたのは、鄭が斉に付いたからである。 犖で盟約したのは、鄭を救援することを謀るためである。 九月、公が偃で邾の軍を破ったが、それは虚丘の守備兵が帰還しようとしていたところを攻めたのである。 冬、莒人が来て賄賂を求めたので、公子友は酈でこれを破り、莒子の弟である拏を捕らえた。拏は卿ではなかったが、捕獲を嘉したのである。公は季友に汶陽の田と費を与えた。 夫人氏の霊柩が斉から到着した。君子は、斉人が哀姜を殺したことを、あまりにもひどいと評した。女子は人に従うものだからである。 僖公二年 二年春、王の正月。楚丘に城を築いた。 夏五月、辛巳、我が小君哀姜を葬った。虞の軍と晋の軍が下陽を滅ぼした。 秋九月、斉侯・宋公・江の人々・黄の人々が貫で盟約した。 冬十月、雨が降らなかった。楚人が鄭に侵攻した。 伝 二年春、諸侯が楚丘に城を築いて衛を封じた。それを記さないのは、会合に遅れたためである。 【解説】 この一節は、魯の僖公元年(紀元前659年)と二年(紀元前658年)の経文と伝文です。僖公は魯の国君で、母は成風、後見役は季友(公子友)でした。 僖公元年の経文では、斉・宋・曹の連合軍が邢を救援し、邢が夷儀へ移転したこと、魯の公が諸侯と会合したこと、季友が莒を破って莒拏を捕らえたことなどが簡潔に記されています。伝文はその背景を説明し、特に「国悪を諱むのは礼である」として、魯の国内の恥ずべき事情(僖公の出奔と帰国)を記さない春秋の筆法を説明します。また、諸侯が邢を救った際に私利を図らなかったことを称賛し、侯伯の務めとして「救患・分災・討罪」を挙げています。 さらに、斉が哀姜(魯の夫人)を殺したことについて、君子が「やりすぎだ」と批判する言葉も記されます。哀姜は魯の荘公の夫人で、淫行や内乱に関与したとされ、斉によって処刑されましたが、伝文は「女子は人に従うもの」という当時の考え方から、母国が嫁いだ先の夫人を殺すことを非難しています。 僖公二年の経文では、楚丘に城を築いたこと、哀姜の葬儀、虞と晋による下陽の滅亡、貫での会盟、楚の鄭侵攻などが記されます。伝文は、楚丘の城築は衛を再封するためだったが、魯が会合に遅れたため経文に諸侯の名を記さなかったと説明します。 全体として、斉の桓公を中心とする覇者体制のもとで、狄や楚の侵攻に対して諸侯が連携して対応する様子と、魯国内の政情が描かれています。 Translation took 4279.2 seconds. |
| 晉荀息請以屈產之乘,與垂棘之璧,假道於虞以伐虢。公曰:「是吾寶也。」對曰:「若得道於虞,猶外府也。」公曰:「宮之奇存焉。」對曰:「宮之奇之為人也,懦而不能強諫。且少長於君,君暱之。雖諫,將不聽。」乃使荀息假道於虞,曰:「冀為不道,入自顛軨,伐鄍三門。冀之既病,則亦唯君故。今虢為不道,保於逆旅,以侵敝邑之南鄙。敢請假道以請罪于虢。」虞公許之,且請先伐虢。宮之奇諫,不聽,遂起師。 夏,晉里克、荀息帥師會虞師伐虢,滅下陽。先書虞,賄故也。 秋,盟于貫,服江、黃也。 齊寺人貂始漏師于多魚。 虢公敗戎于桑田。晉卜偃曰:「虢必亡矣。亡下陽不懼,而又有功,是天奪之鑒,而益其疾也!必易晉而不撫其民矣,不可以五稔。」 冬,楚人伐鄭,鬬章囚鄭聃伯。 僖公三年 經 三年春,王正月,不雨。 夏,四月,不雨。徐人取舒。 六月,雨。 秋,齊侯、宋公、江人、黃人會于陽穀。 冬,公子友如齊蒞盟。楚人伐鄭。 傳 三年春,不雨。 夏,六月,雨。自十月不雨,至于五月,不曰旱,不為災也。 秋,會于陽穀,謀伐楚也。齊侯為陽穀之會,來尋盟。 冬,公子友如齊蒞盟。 楚人伐鄭,鄭伯欲成。孔叔不可,曰:「齊方勤我,棄德不祥。」 |
現代日本語訳 晋の荀息が、屈産の馬と垂棘の璧を贈って、虞に道を借りて虢を討つことを願い出た。晋公は「これらは私の宝物だ」と言った。荀息は答えて「虞から道を借りることができれば、それは外国の倉庫のようなものです」と言った。晋公は「宮之奇がいるではないか」と言った。荀息は答えて「宮之奇という人物は、気が弱くて強く諫めることができません。また、君のもとで幼少から育ったので、君は彼に親しんでいます。諫めても、聞き入れられないでしょう」と言った。そこで荀息を虞に派遣して道を借りさせ、こう言わせた。「冀は無道な行いをし、顛軨から侵入して鄍の三門を攻めました。冀が疲弊したのは、ひとえに君のおかげです。今、虢は無道な行いをし、宿駅に立てこもって、我が国の南の辺境を侵しています。どうか道をお借りして、虢に罪を問いたいのです」と。虞公はこれを許し、さらに先に虢を伐つことを申し出た。宮之奇は諫めたが、聞き入れられず、ついに軍を起こした。 夏、晋の里克と荀息が軍を率いて虞の軍と合流して虢を伐ち、下陽を滅ぼした。経文で虞を先に書いたのは、賄賂のためである。 秋、貫で会盟した。江と黄を服属させるためである。 斉の寺人貂が多魚で軍の機密を漏らし始めた。 虢公が桑田で戎を破った。晋の卜偃は言った。「虢は必ず滅びるだろう。下陽を失っても恐れず、さらに戦功を挙げた。これは天が彼から鏡を奪い、その病を重くしているのだ。必ず晋を軽んじて民を慰撫しないだろう。五年はもたない。」 冬、楚人が鄭を伐ち、鬬章が鄭の聃伯を捕虜にした。 僖公三年 経 三年春、王の正月、雨が降らなかった。 夏、四月、雨が降らなかった。徐人が舒を取った。 六月、雨が降った。 秋、斉侯・宋公・江人・黄人が陽穀で会合した。 冬、公子友が斉に行って盟に臨んだ。楚人が鄭を伐った。 伝 三年春、雨が降らなかった。 夏、六月、雨が降った。十月から五月まで雨が降らなかったが、旱とは言わず、災いとはしなかった。 秋、陽穀で会合した。楚を伐つことを謀るためである。斉侯は陽穀の会合を開き、盟を修めに来た。 冬、公子友が斉に行って盟に臨んだ。 楚人が鄭を伐ち、鄭伯は和睦を望んだ。孔叔は不可として言った。「斉が今まさに我が国を助けようとしている。その徳を捨てるのは不吉である。」 解説 この一節は、『春秋左氏伝』僖公二年から三年にかけての記述です。前の文からの続きで、晋が虞に道を借りて虢を攻める「假道(道を借りる)」の故事が中心となっています。晋の荀息は、虞公が宝物に目がなく、また側近の宮之奇の諫言も聞き入れないだろうと見抜き、贈賄によって虞の協力を取り付けます。虞公は道を貸すだけでなく、自ら先に虢を攻めることを申し出ますが、宮之奇の諫めは聞き入れられません。この後、晋は虢の下陽を滅ぼし、やがて虞も滅ぼすことになります(いわゆる「唇亡歯寒」の故事へと続きます)。 続く部分では、斉の覇権のもとでの会盟や、楚の鄭への侵攻、虢の一時的な戦勝と晋の卜偃による滅亡の予言などが記され、諸国間の緊張関係が描かれています。僖公三年の経と伝では、天候不順や会盟、楚と鄭の争いなどが簡潔に記され、斉を中心とした同盟関係と楚の圧力が対比されています。 Translation took 2799.8 seconds. |
| 齊侯與蔡姬乘舟于囿,蕩公。公懼,變色。禁之,不可。公怒,歸之,未之絕也。蔡人嫁之。 僖公四年 經 四年春,王正月。公會齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、曹伯侵蔡。蔡潰,遂伐楚,次于陘。 夏,許男新臣卒。楚屈完來盟于師,盟于召陵。齊人執陳轅濤塗。 秋,及江人、黃人伐陳。 八月,公至自伐楚。葬許穆公。 冬,十有二月,公孫茲帥師會齊人、宋人、衛人、鄭人、許人、曹人侵陳。 傳 四年春,齊侯以諸侯之師侵蔡。蔡潰,遂伐楚。楚子使與師言曰:「君處北海,寡人處南海,唯是風馬牛不相及也。不虞君之涉吾地也,何故?」管仲對曰:「昔召康公命我先君大公曰:『五侯九伯,女實征之,以夾輔周室。』賜我先君履,東至于海,西至于河,南至于穆陵,北至于無棣。爾貢包茅不入,王祭不共,無以縮酒,寡人是徵。昭王南征而不復,寡人是問。」對曰:「貢之不入,寡君之罪也,敢不共給。昭王之不復,君其問諸水濱。」師進,次于陘。 夏,楚子使屈完如師。師退,次于召陵。齊侯陳諸侯之師,與屈完乘而觀之。齊侯曰:「豈不穀是為?先君之好是繼。與不穀同好,如何?」對曰:「君惠徼福於敝邑之社稷,辱收寡君,寡君之願也!」齊侯曰:「以此眾戰,誰能禦之?以此攻城,何城不克?」對曰:「君若以德綏諸侯,誰敢不服?君若以力,楚國方城以為城,漢水以為池,雖眾,無所用之。」屈完及諸侯盟。 |
現代日本語訳 斉侯は蔡姫と園池で舟に乗り、蔡姫が舟を揺らして公をからかった。公は恐れて顔色を変えた。やめるように言ったが、蔡姫は聞かなかった。公は怒って蔡姫を蔡に帰したが、まだ正式に離縁したわけではなかった。蔡の人々は彼女を別の者に嫁がせた。 僖公四年 経 四年春、王の正月。公(魯の僖公)は斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・曹伯と会して蔡を侵攻した。蔡は潰走し、続いて楚を伐ち、陘に駐留した。 夏、許男新臣が死去した。楚の屈完が軍中に来て盟を請い、召陵で盟を結んだ。斉人は陳の轅濤塗を捕らえた。 秋、江人・黄人とともに陳を伐った。 八月、公は楚征伐から帰国した。許穆公を葬った。 冬、十二月、公孫茲が軍を率いて斉人・宋人・衛人・鄭人・許人・曹人と会して陳を侵攻した。 伝 四年春、斉侯は諸侯の軍を率いて蔡を侵攻した。蔡は潰走し、続いて楚を伐った。楚子(成王)は使者をやって軍に向かって言わせた。「君は北海に住み、寡人は南海に住んでいる。風に吹かれた馬や牛が迷い込むことすらあり得ないほど遠く離れている。君が我が地に足を踏み入れるとは思いもよらなかった。何の理由があってのことか。」管仲が答えて言った。「昔、召康公が我が先君太公に命じて言われた。『五侯九伯、汝が実にこれを征伐し、以て周室を補佐せよ』と。我が先君に与えられた領地は、東は海に至り、西は黄河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣に至る。汝は貢物の包茅を納めず、王の祭祀に供えず、酒を濾すことができない。寡人はこれを咎める。昭王が南征して帰還しなかったこと、寡人はこれを問う。」楚の使者が答えた。「貢物を納めないのは、寡君の罪です。敢えて供給を怠ることがありましょうか。昭王が帰還しなかったことは、君は水辺でお尋ねください。」軍は進み、陘に駐留した。 夏、楚子は屈完を軍中に派遣した。軍は退いて召陵に駐留した。斉侯は諸侯の軍を整列させ、屈完と共に車に乗ってこれを見せた。斉侯は言った。「これは私(不穀)のためであろうか。先君の友好を継ぐためである。私と友好を同じくするのはどうか。」屈完が答えた。「君が恵みをもって我が国の社稷に福を求め、辱くも寡君を受け入れてくださるなら、それは寡君の願いであります。」斉侯は言った。「この大軍で戦えば、誰が防ぐことができようか。これで城を攻めれば、どの城が落ちないことがあろうか。」屈完が答えた。「君がもし徳をもって諸侯を安んじるなら、誰が敢えて服さないでしょうか。君がもし力によるなら、楚は方城を城とし、漢水を堀とします。たとえ大軍であっても、用いる所がありません。」屈完は諸侯と盟を結んだ。 解説 この一節は、春秋左氏伝の僖公四年(紀元前656年)の記述で、斉の桓公が諸侯連合軍を率いて蔡を侵攻し、さらに楚を攻めた「召陵の盟」に至る経緯を伝えています。 まず、前段の続きとして、斉侯(桓公)と蔡姫の舟遊びの逸話が記されています。蔡姫が舟を揺らして桓公を怖がらせたため、桓公は怒って彼女を蔡に帰しましたが、正式な離縁はしていませんでした。ところが蔡の国君は彼女を別の者に嫁がせてしまいました。これが斉の蔡侵攻の直接の口実となります。 「経」の部分は、魯の公式記録である『春秋』の本文で、簡潔に出来事を列挙しています。僖公四年春に諸侯連合が蔡を侵し、蔡が潰走した後、楚を伐って陘に駐留したこと、夏に楚の屈完が来て召陵で盟を結んだこと、陳の轅濤塗が捕らえられたことなどが記されています。 「伝」の部分は、左氏による詳細な解説です。斉侯が諸侯の軍を率いて蔡を侵した後、楚に進軍すると、楚の成王が使者を送って「風馬牛不相及」という有名な言葉で抗議します。これに対し管仲は、周王室から与えられた征伐権と、楚が包茅の貢納を怠ったこと、そして周の昭王が楚方面への南征中に行方不明になったことを理由として挙げます。楚側は貢納の怠りは認めつつも、昭王の件は「水辺で聞け」ととぼけます。 その後、楚は屈完を派遣し、斉軍は召陵まで退いて軍威を示します。斉侯は屈完に友好を提案しますが、同時に武力による威圧も示します。屈完は「徳をもって諸侯を安んじるなら誰も服さない者はいないが、力によるなら楚は方城山を城壁とし、漢水を堀として抗戦する」と答え、結局、屈完と諸侯の間で盟が結ばれました。 この話は、春秋時代の覇者である斉の桓公が、周王室の権威を背景に諸侯を率いて楚を抑えようとしたものの、楚のしたたかな外交と軍事的な覚悟の前に、実際の戦闘には至らず盟を結んで引き上げたという、覇権政治の実態を示す重要な場面です。 Translation took 3708.4 seconds. |
| 陳轅濤塗謂鄭申侯曰:「師出於陳鄭之間,國必甚病。若出於東方,觀兵於東夷,循海而歸,其可也。」申侯曰:「善。」濤塗以告齊侯,許之。申侯見曰:「師老矣!若出於東方而遇敵,懼不可用也。若出於陳鄭之間,共其資糧、屝屨,其可也。」齊侯說,與之虎牢,執轅濤塗。 秋,伐陳,討不忠也。 許穆公卒于師,葬之以侯,禮也。凡諸侯薨于朝會,加一等。死王事,加二等。於是有以袞斂。 冬,叔孫戴伯帥師,會諸侯之師侵陳。陳成,歸轅濤塗。 初,晉獻公欲以驪姬為夫人,卜之不吉,筮之吉。公曰:「從筮。」卜人曰:「筮短龜長,不如從長。且其繇曰:『專之渝,攘公之羭。一薰一蕕,十年尚猶有臭。』必不可。」弗聽,立之。生奚齊,其娣生卓子。及將立奚齊,既與中大夫成謀,姬謂大子曰:「君夢齊姜,必速祭之。」大子祭于曲沃,歸胙于公,公田,姬寘諸宮。六日,公至,毒而獻之。公祭之地,地墳;與犬,犬斃;與小臣,小臣亦斃。姬泣曰:「賊由大子。」大子奔新城,公殺其傅杜原款。或謂大子:「子辭,君必辯焉。」大子曰:「君非姬氏,居不安,食不飽。我辭,姬必有罪。君老矣,吾又不樂。」曰:「子其行乎?」大子曰:「君實不察其罪,被此名也以出,人誰納我?」十二月,戊申,縊于新城。姬遂譖二公子曰:「皆知之。」重耳奔蒲,夷吾奔屈。 僖公五年 經 |
陳の轅濤塗が鄭の申侯に言った。「軍が陳と鄭の間を通れば、国は必ず甚だしく疲弊する。もし東方から出て、東夷に軍威を示し、海沿いに帰還するならば、それがよかろう。」申侯は「よいでしょう」と言った。濤塗はこの案を斉侯に告げ、斉侯はそれを許した。申侯は斉侯に謁見して言った。「軍は疲れ切っております。もし東方から出て敵に遭遇すれば、おそらく戦いには使えません。もし陳と鄭の間を通るならば、その糧食や草鞋を供給することができ、それがよろしいでしょう。」斉侯は喜び、申侯に虎牢を与え、轅濤塗を捕らえた。 秋、陳を討伐した。不忠を責めたのである。 許の穆公が軍中で死去した。侯の礼をもって葬った。礼によるものである。およそ諸侯が朝会の場で薨じた場合は一等を加え、王事のために死んだ場合は二等を加える。ここにおいて袞服を用いて納棺した。 冬、叔孫戴伯が軍を率いて、諸侯の軍と合流して陳に侵攻した。陳が和睦したので、轅濤塗を帰還させた。 かつて、晋の献公は驪姫を夫人にしようとして、亀卜では不吉、筮竹では吉と出た。公は「筮に従おう」と言った。卜人は言った。「筮は短く亀は長し。長きに従うに如かず。しかもその繇辞に『専らにすれば変じ、公の美徳を奪う。一つの香草と一つの悪臭草、十年たってもなお臭いが残る』とあります。必ずなりません。」献公は聞かず、驪姫を立てた。驪姫は奚斉を生み、その妹は卓子を生んだ。奚斉を立てようとするに及んで、すでに中大夫と謀を定めた。驪姫は太子に言った。「君は斉姜の夢を見られた。必ず速やかに祭りなさい。」太子は曲沃で祭り、祭肉を公に献上した。公は狩猟に出ており、驪姫はそれを宮中に置いた。六日後、公が帰還すると、驪姫は毒を入れて献上した。公がそれを地に祭ると、地が盛り上がった。犬に与えると、犬は死んだ。小臣に与えると、小臣もまた死んだ。驪姫は泣いて言った。「害をなす者は太子です。」太子は新城に逃げた。公は太子の傅である杜原款を殺した。ある人が太子に言った。「あなたが弁明すれば、君は必ず明らかにされるでしょう。」太子は言った。「君は姫氏がいなければ、安らかに過ごせず、満足に食事もできません。私が弁明すれば、姫は必ず罪を得るでしょう。君は老いておられる。私はまたそれを楽しく思わない。」その人は言った。「では、出奔なさいますか。」太子は言った。「君は実にその罪を明らかにされない。この汚名を着せられたまま出奔すれば、誰が私を受け入れようか。」十二月戊申、新城で縊死した。驪姫はそこで二人の公子を讒言して言った。「皆、知っていました。」重耳は蒲に逃げ、夷吾は屈に逃げた。 僖公五年 【解説】 第一に、斉の桓公による陳討伐の経緯です。陳の轅濤塗は斉軍が自国を通ることを避けようと東回りの帰還を提案しましたが、鄭の申侯がそれを裏切って斉侯に別案を進言したため、濤塗は捕らえられ、申侯は虎牢を与えられました。その後、斉は陳を「不忠」として討伐し、最終的に和睦して濤塗は釈放されます。この挿話は、春秋時代の小国が大国の軍事行動に翻弄される様子と、外交における駆け引きの冷酷さを示しています。 第二に、許の穆公の死と葬礼です。朝会や王事で死んだ諸侯には葬礼の等級が加算されるという礼制が説明され、穆公は袞服で納棺されたと記されます。 第三に、晋の献公と驪姫の物語です。驪姫を夫人に立てる際、亀卜では不吉、筮竹では吉と出たにもかかわらず、献公は筮に従いました。卜人は「筮短亀長」、すなわち筮竹より亀卜の方が優れていると諫めましたが、聞き入れられませんでした。その後、驪姫は太子申生を陥れるため、献公に捧げる祭肉に毒を入れ、あたかも太子が公を殺そうとしたかのように偽装しました。太子申生は父を思うがゆえに弁明も出奔もせず、新城で自ら命を絶ちます。さらに驪姫は重耳と夷吾も共謀していたと讒言し、二人はそれぞれ蒲と屈に亡命しました。これは後の「驪姫の乱」の発端となる重要な場面であり、晋の内乱と重耳(後の文公)の亡命生活の始まりを描いています。 「筮短亀長」ということわざはこの故事に由来し、より権威のある判断方法に従うべきだという意味で用いられます。また、太子申生の「君非姫氏、居不安、食不飽」という言葉は、父への孝心と自己犠牲の悲劇性を象徴する名文句として知られています。 Translation took 1903.0 seconds. |
| 五年春,晉侯殺其世子申生。杞伯姬來朝其子。 夏,公孫茲如牟。公及齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、曹伯,會王世子于首止。 秋,八月,諸侯盟于首止。鄭伯逃歸,不盟。楚人滅弦,弦子奔黃。 九月,戊申朔,日有食之。 冬,晉人執虞公。 傳 五年春,王正月。辛亥朔,日南至。公既視朔,遂登觀臺以望。而書,禮也。凡分、至、啟、閉,必書雲物,為備故也。 晉侯使以殺大子申生之故來告。 初,晉侯使士蒍為二公子築蒲與屈。不慎,寘薪焉。夷吾訴之,公使讓之。士蒍稽首而對曰:「臣聞之:『無喪而慼,憂必讎焉;無戎而城,讎必保焉。』寇讎之保,又何慎焉?!守官廢命,不敬;固讎之保,不忠。失忠與敬,何以事君?《詩》云:『懷德惟寧,宗子惟城。』君其脩德而固宗子,何城如之?三年將尋師焉,焉用慎?」退而賦曰:「狐裘尨茸,一國三公,吾誰適從?」及難,公使寺人披伐蒲。重耳曰:「君父之命不校。」乃徇曰:「校者,吾讎也。」踰垣而走。披斬其袪,遂出奔翟。 夏,公孫茲如牟,娶焉。 會于首止。會王大子鄭,謀寧周也。 陳轅宣仲怨鄭申侯之反己於召陵,故勸之城其賜邑,曰:「美城之,大名也,子孫不忘。吾助子請。」乃為之請於諸侯而城之,美。遂譖諸鄭伯曰:「美城其賜邑,將以叛也。」申侯由是得罪。 |
五年春、晋の侯がその世子申生を殺した。杞の伯姫がその子を朝見させに来た。 夏、公孫茲が牟へ行った。公は斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・曹伯とともに、首止で王の世子と会合した。 秋八月、諸侯は首止で盟約を結んだ。鄭伯は逃げ帰って盟約に参加しなかった。楚人が弦を滅ぼし、弦子は黄へ逃げた。 九月戊申朔、日食があった。 冬、晋人が虞公を捕らえた。 伝 五年春、王の正月。辛亥朔、太陽が南至(冬至)に達した。公は朔日の政務を視た後、観台に登って雲気を望見した。そしてそれを記録したが、これは礼にかなうことであった。およそ春分・秋分・夏至・冬至・立春・立夏・立秋・立冬には、必ず雲の色や形を記録するのは、災害に備えるためである。 晋侯は、太子申生を殺したことの報告のために使者を派遣してきた。 かつて、晋侯は士蒍に命じて二人の公子(重耳と夷吾)のために蒲と屈に城を築かせた。士蒍は注意を怠り、城壁の中に薪を入れてしまった。夷吾がこのことを晋侯に訴えたので、公は士蒍を叱責した。士蒍は稽首して答えた。「私はこう聞いております。『喪事がないのに憂えていれば、必ず憂いが仇として報いる。戦争がないのに城を築けば、必ず仇がそこに拠るようになる』と。寇仇が拠り所とする城を、どうして慎重に築く必要がありましょうか。官職を守りながら命令を廃するのは不敬であり、仇の拠り所を堅固にするのは不忠です。忠と敬を失って、どうして君にお仕えできましょうか。『詩経』にこうあります。『徳を懐くことによってのみ安寧があり、宗族の子こそが城である』と。君が徳を修めて宗子を堅固にされるなら、どのような城がそれに及びましょうか。三年もすれば軍を動かすことになるでしょう。どうして慎重にする必要がありましょうか。」退出してから賦して言った。「狐の裘は毛が乱れている。一国に三人の公がいて、私は誰に従えばよいのか。」難が起こると、公は寺人披を派遣して蒲を攻めさせた。重耳は言った。「君父の命令には逆らわない。」そこで触れ回って言った。「逆らう者は私の仇である。」そして壁を乗り越えて走り去った。披はその袖を切り落とした。重耳はついに出奔して翟へ行った。 夏、公孫茲が牟へ行き、そこで妻を娶った。 首止で会合した。王の太子鄭と会合したのは、周室の安定を図るためであった。 陳の轅宣仲は、鄭の申侯が召陵で自分を裏切ったことを恨んでいた。そこで、申侯に与えられた賜邑に城を築くよう勧めて言った。「立派に城を築けば、大きな名誉となり、子孫も忘れないでしょう。私があなたのために諸侯に請いましょう。」そして諸侯に請うて城を築かせ、美しく仕上げた。すると轅宣仲は鄭伯に讒言して言った。「賜邑に美しい城を築いたのは、それによって叛こうとしているのです。」申侯はこれによって罪を得た。 解説: 伝文では、まず冬至の観測と雲気の記録の礼について述べ、その後、晋の内紛の背景が詳述されます。士蒍が公子重耳と夷吾のために城を築いた際の逸話では、士蒍がわざと手抜きをした理由として、城が仇の拠点になることを予見していたことが語られます。そして重耳が父の命に逆らわずに蒲から逃げ、翟へ亡命する場面が描かれます。 また、首止の会盟の目的が周の太子鄭の地位安定にあったこと、陳の轅宣仲が鄭の申侯を陥れるために城築きを勧めて讒言する陰謀も記されています。このように、春秋時代の国際関係や権力闘争の実態が生き生きと描かれた箇所です。 Translation took 2079.0 seconds. |
| 秋,諸侯盟。王使周公召鄭伯曰:「吾撫女以從楚,輔之以晉,可以少安。」鄭伯喜於王命,而懼其不朝於齊也,故逃歸不盟。孔叔止之曰:「國君不可以輕,輕則失親;失親,患必至。病而乞盟,所喪多矣!君必悔之。」弗聽,逃其師而歸。 楚鬭穀於菟滅弦,弦子奔黃。於是江、黃、道、柏方睦於齊,皆弦姻也。弦子恃之而不事楚,又不設備,故亡。 晉侯復假道於虞以伐虢,宮之奇諫曰:「虢,虞之表也。虢亡,虞必從之。晉不可啟,寇不可翫。一之謂甚,其可再乎?諺所謂『輔車相依,脣亡齒寒』者,其虞虢之謂也!」公曰:「晉,吾宗也。豈害我哉?」對曰:「大伯、虞仲,大王之昭也。大伯不從,是以不嗣。虢仲、虢叔,王季之穆也,為文王卿士,勳在王室,藏於盟府。將虢是滅,何愛於虞?且虞能親於桓、莊乎?其愛之也,桓、莊之族何罪,而以為戮,不唯偪乎?親以寵偪,猶尚害之,況以國乎?」公曰:「吾享祀豐絜,神必據我。」對曰:「臣聞之,鬼神非人實親,惟德是依。故《周書》曰:『皇天無親,惟德是輔。』又曰:『黍稷非馨,明德惟馨。』又曰:『民不易物,惟德緊物。』如是,則非德,民不和,神不享矣。神所馮依,將在德矣。若晉取虞,而明德以薦馨香,神其吐之乎?」弗聽,許晉使。宮之奇以其族行,曰:「虞不臘矣,在此行也,晉不更舉矣。」 |
秋、諸侯が盟約を結んだ。王は周公を派遣して鄭伯にこう告げさせた。「私はおまえを楚に従わせて慰撫し、晋をもってこれを補佐させよう。そうすればしばらくは安泰でいられよう。」鄭伯は王の命令を喜んだが、斉に朝見しなかったことを懼れて、逃げ帰って盟約に参加しなかった。孔叔がこれを止めて言った。「国君は軽率であってはなりません。軽率だと親しい国を失い、親しい国を失えば必ず災いが至ります。困ってから盟を乞うても、失うものは多いでしょう。君は必ず後悔なさいます。」鄭伯は聞かず、軍を捨てて帰国した。 楚の鬭穀於菟が弦を滅ぼし、弦子は黄に逃げた。このとき江・黄・道・柏はちょうど斉と親しくしており、いずれも弦の姻族であった。弦子はこれらを頼みとして楚に仕えず、また防備もしなかったため、滅びたのである。 晋侯が再び虞に道を借りて虢を討とうとした。宮之奇が諫めて言った。「虢は虞の表構えであります。虢が滅びれば、虞は必ずそれに続きます。晋に対しては野心を開かせてはならず、敵対する者を侮ってはなりません。一度でも甚だしいのに、二度も許してよいでしょうか。諺に『輔車は相依り、唇亡びれば歯寒し』と言うのは、まさに虞と虢のことを申すのです。」公が言った。「晋は私の同族ではないか。どうして我が国を害することがあろうか。」宮之奇が答えた。「大伯・虞仲は大王の昭であります。大伯は父に従わなかったため、後を嗣ぎませんでした。虢仲・虢叔は王季の穆で、文王の卿士となり、その勲功は王室にあり、記録は盟府に蔵められております。晋が虢を滅ぼそうとしているのに、どうして虞を惜しみましょうか。そもそも虞は桓叔・荘伯の一族よりも晋侯に親しいでしょうか。もし晋侯が同族を愛するというなら、桓叔・荘伯の一族に何の罪があって殺されたのでしょうか。それは勢力が逼迫していたからではありませんか。親しい者でも寵愛によって逼迫すれば、なおこれを害するのです。ましてや国をもってすればなおさらではありませんか。」公が言った。「私は供え物を豊かに清くして祀っている。神は必ず私に味方するであろう。」宮之奇が答えた。「私はこう聞いております。鬼神は人を親しむのではなく、徳のある者に依るのだと。だから『周書』には『皇天は親しみなく、ただ徳ある者を助ける』とあり、また『黍稷は香しくはない、明徳こそ香しい』とあり、また『民は供え物を変えることはできない、ただ徳こそが供え物である』とあります。このようであれば、徳がなければ民は和せず、神もお受けになりません。神が依り頼むのは徳であります。もし晋が虞を取って、明徳をもって馨香を捧げたなら、神はそれを吐き出されるでしょうか。」公は聞かず、晋の使者に道を貸すことを許した。宮之奇は自分の一族を連れて去り、「虞は臘祭を迎えられないであろう。この出兵のうちに滅びる。晋は再び兵を挙げる必要もないであろう」と言った。 【解説】 第一に、斉を中心とする諸侯の盟約から鄭伯が逃亡した話。周王は鄭に対して楚に従うよう勧めましたが、鄭伯は斉への非礼を恐れて盟約の場から逃げ帰ります。孔叔の諫言も聞かず、結果的に鄭は孤立への道を歩みます。 第二に、楚が弦を滅ぼした話。弦は江・黄・道・柏といった斉と同盟する国々と姻戚関係にあり、それを頼んで楚に備えなかったため滅亡します。小国が同盟関係を過信して自国の防備を怠ることの危険を示しています。 第三が最も有名な「唇亡歯寒」の故事です。晋が虢を攻めるために虞に道を借りようとした際、虞の大夫宮之奇は、虢が滅びれば虞もまた滅びると必死に諫めました。彼は「輔車相依、唇亡歯寒」の諺を引いて両国の運命が一体であることを説き、さらに晋侯が同族であるという虞公の期待に対し、晋はすでに自らの同族である桓叔・荘伯の一族を滅ぼしている事実を挙げて反論します。また虞公が「神は自分に味方する」と言うのに対し、神は徳のある者に依るのであって、供え物の豊かさではないと『周書』を引いて論駁しました。 しかし虞公はこの諫言を聞かず、晋に道を貸します。宮之奇は虞の滅亡を予見して一族とともに国外へ去りました。果たして晋は虢を滅ぼした帰りに虞をも滅ぼし、宮之奇の予言は的中します。「唇亡歯寒」はこの故事に由来する成語で、互いに依存し合う関係の一方が滅びれば他方も危うくなることを意味します。 Translation took 1652.3 seconds. |
| 八月,甲午,晉侯圍上陽,問於卜偃曰:「吾其濟乎?」對曰:「克之。」公曰:「何時?」對曰:「童謠云:『丙之晨,龍尾伏辰;均服振振,取虢之旂。鶉之賁賁,天策焞焞,火中成軍,虢公其奔。』其九月十月之交乎?丙子旦,日在尾,月在策,鶉火中,必是時也。」 冬,十二月,丙子朔,晉滅虢,虢公醜奔京師。師還,館于虞,遂襲虞,滅之。執虞公及其大夫井伯,以媵秦穆姬,而脩虞祀,且歸其職貢於王。故書曰:「晉人執虞公。」罪虞,且言易也。 僖公六年 經 六年春,王正月。 夏,公會齊侯、宋公、陳侯、衛侯、曹伯伐鄭,圍新城。 秋,楚人圍許。諸侯遂救許。 冬,公至自伐鄭。 傳 六年春,晉侯使賈華伐屈,夷吾不能守,盟而行,將奔狄。郤芮曰:「後出同走,罪也。不如之梁,梁近秦而幸焉。」乃之梁。 夏,諸侯伐鄭,以其逃首止之盟故也。圍新密,鄭所以不時城也。 秋,楚子圍許,以救鄭。諸侯救許,乃還。 冬,蔡穆侯將許僖公以見楚子於武城。許男面縛銜璧,大夫衰絰,士輿櫬。楚子問諸逢伯,對曰:「昔武王克殷,微子啟如是,武王親釋其縛。受其璧而祓之,焚其櫬,禮而命之,使復其所。」楚子從之。 僖公七年 經 七年春,齊人伐鄭。 夏,小邾子來朝。鄭殺其大夫申侯。 |
八月甲午の日、晋侯が上陽を包囲し、卜偃に尋ねて言った。「私は成功するだろうか。」卜偃は答えた。「勝利なさいます。」公が言った。「いつか。」答えて言った。「童謡にこうあります。『丙の日の早朝、龍尾星が辰の位置に伏し、軍服はきちんと整い、虢の旗を奪う。鶉火星が輝き、天策星がかすかに光り、鶉火が中天にある時に軍を整えれば、虢公は逃げ去るだろう。』それは九月と十月の変わり目でしょうか。丙子の日の明け方、太陽は尾宿にあり、月は策宿にあり、鶉火が中天にある時、必ずその時です。」 冬十二月丙子朔の日、晋は虢を滅ぼし、虢公醜は京師へ逃げた。軍は帰還する途中、虞に宿営し、そのまま虞を襲って滅ぼした。虞公とその大夫井伯を捕らえ、秦穆公の夫人(穆姫)の陪嫁とし、虞の祭祀を修めさせ、また虞の職貢を王に納めさせた。だから『春秋』には「晋人が虞公を捕らえた」と書かれている。虞を罪とし、また容易に滅んだことを示している。 僖公六年 経 六年春、王の正月。 夏、公は斉侯・宋公・陳侯・衛侯・曹伯と会して鄭を討ち、新城を包囲した。 秋、楚人が許を包囲した。諸侯はそこで許を救援した。 冬、公は鄭討伐から帰還した。 伝 六年春、晋侯は賈華に命じて屈を討たせた。夷吾は守ることができず、盟約を結んでから出奔し、狄へ奔ろうとした。郤芮が言った。「後から出て同じ所へ走るのは罪となります。梁へ行くのがよろしい。梁は秦に近く、秦の恩顧を得られます。」そこで梁へ行った。 夏、諸侯は鄭を討った。鄭が首止の盟約から逃げたためである。新密を包囲したが、それは鄭が時期を守らずに城を築いたからである。 秋、楚子は許を包囲し、それによって鄭を救援しようとした。諸侯が許を救援したので、楚は帰還した。 冬、蔡の穆侯は許の僖公を伴って武城で楚子に会見させた。許男は顔を縛り、璧をくわえ、大夫は喪服を着け、士は棺を担いだ。楚子が逢伯にこの儀礼について尋ねると、答えて言った。「昔、武王が殷を滅ぼしたとき、微子啓がこのようにしました。武王は自らその縛めを解き、璧を受け取って祓い清め、棺を焼き、礼をもって命じて、元の地位に復帰させました。」楚子はこれに従った。 僖公七年 経 七年春、斉人が鄭を討った。 夏、小邾子が来朝した。鄭はその大夫申侯を殺した。 解説: Translation took 3294.9 seconds. |
| 秋,七月,公會齊侯、宋公、陳世子款、鄭世子華,盟于甯母。曹伯班卒。公子友如齊。 冬,葬曹昭公。 傳 七年春,齊人伐鄭。孔叔言於鄭伯曰:「諺有之曰:『心則不競,何憚於病?』既不能彊,又不能弱,所以斃也。國危矣,請下齊以救國。」公曰:「吾知其所由來矣,姑少待我。」對曰:「朝不及夕,何以待君?」 夏,鄭殺申侯以說于齊,且用陳轅濤塗之譖也。 初,申侯申出也,有寵於楚文王。文王將死,與之璧,使行,曰:「唯我知女。女專利而不厭,予取予求,不女疵瑕也。後之人,將求多於女,女必不免。我死,女必速行,無適小國,將不女容焉。」既葬,出奔鄭,又有寵於厲公。子文聞其死也,曰:「古人有言曰:『知臣莫若君。』弗可改也已!」 秋,盟于甯母,謀鄭故也。 管仲言於齊侯曰:「臣聞之:招攜以禮,懷遠以德。德禮不易,無人不懷。」齊侯脩禮於諸侯,諸侯官受方物。 鄭伯使大子華聽命於會,言於齊侯曰:「洩氏、孔氏、子人氏三族,實違君命。若君去之以為成,我以鄭為內臣,君亦無所不利焉。」齊侯將許之。管仲曰:「君以禮與信屬諸侯,而以姦終之,無乃不可乎?子父不奸之謂禮,守命共時之謂信。違此二者,姦莫大焉。」公曰:「諸侯有討於鄭,未捷;今苟有釁,從之,不亦可乎?」對曰:「君若綏之以德,加之以訓辭,而帥諸侯以討鄭;鄭將覆亡之不暇,豈敢不懼?若摠其罪人以臨之,鄭有辭矣,何懼?且夫合諸侯以崇德也。會而列姦,何以示後嗣?夫諸侯之會,其德刑禮義,無國不記,記姦之位,君盟替矣。作而不記,非盛德也。君其勿許,鄭必受盟。夫子華既為大子,而求介於大國,以弱其國,亦必不免。鄭有叔詹、堵叔、師叔三良為政,未可間也。」齊侯辭焉。子華由是得罪於鄭。 |
秋七月、魯公は斉侯・宋公・陳の世子款・鄭の世子華と甯母で会盟した。曹伯班が死去した。公子友が斉へ赴いた。 冬、曹の昭公を葬った。 伝 七年春、斉人が鄭を攻めた。孔叔が鄭伯に言った。「ことわざにこうあります。『心がそもそも強くなければ、どうして苦難を恐れることがあろうか』と。強くなることもできず、弱くなることもできない、それが滅びの原因です。国は危うい。どうか斉にへりくだって国を救ってください。」公は言った。「私はその事の由来を知っている。しばらく私を待て。」孔叔は答えた。「朝のうちに夕方まで保てるかもわかりません。どうして君をお待ちできましょうか。」 夏、鄭は申侯を殺して斉の機嫌を取った。また、陳の轅濤塗の讒言を用いたのである。 そもそも申侯は申の出であり、楚の文王に寵愛されていた。文王は死に臨んで、彼に璧を与えて去らせようとし、言った。「私だけがお前を理解している。お前は利益を独占して飽きることがなく、私が与えても求めても、お前を責めはしなかった。しかし後の者は、お前にもっと多くを求めるだろう。お前は必ず難を免れない。私が死んだら、お前は速やかに去れ。小国に行ってはならない。お前を容れてはくれないだろう。」葬儀が終わると、申侯は鄭に出奔し、また厲公に寵愛された。子文は彼の死を聞いて言った。「古人の言葉にこうある。『臣を知ることは君に及ぶ者はいない』と。この言葉は変えられないものだ。」 秋、甯母で会盟したのは、鄭を討つことを相談するためであった。 管仲が斉侯に言った。「私はこう聞いています。離反する者を招くには礼をもってし、遠方を懐かせるには徳をもってする、と。徳と礼とを変えなければ、心を寄せない者はいません。」斉侯は諸侯に対して礼を修め、諸侯の官は方物を受け取った。 鄭伯は太子華を会に派遣して命を聞かせようとし、斉侯に言った。「洩氏・孔氏・子人氏の三族は、実に君の命に背いております。もし君が彼らを除いて和睦を結んでくださるなら、私は鄭を挙げて内臣となりましょう。君にとっても不利なことは何もありません。」斉侯はこれを許そうとした。管仲は言った。「君は礼と信とをもって諸侯を束ねておられるのに、姦でそれを終わらせようとなさるのは、いかがなものでしょうか。子が父に背かないことを礼といい、命を守り時を共にすることを信といいます。この二つに背くことは、姦より大きなものはありません。」公は言った。「諸侯は鄭を討つことがまだ成功していない。今もし隙があるなら、それに従うのもよいではないか。」管仲は答えた。「君がもし徳をもって鄭を安んじ、訓戒の言葉を加え、諸侯を率いて鄭を討たれるなら、鄭は滅亡を避けるのに忙しく、どうして恐れないことがありましょうか。もし罪人を集めて鄭に臨まれるなら、鄭には言い分ができ、何を恐れましょうか。そもそも諸侯を合わせるのは徳を高めるためです。会して姦を列ねるなら、どうして後世の子孫に示せましょうか。諸侯の会では、その徳・刑・礼・義を記録しない国はありません。姦の位を記録すれば、君の盟は廃れてしまいます。行って記録しないのは盛徳ではありません。君はどうかお許しになりませんように。鄭は必ず盟を受け入れましょう。そもそも子華は太子でありながら、大国に介入を求めて自国を弱めようとしております。これも必ず難を免れないでしょう。鄭には叔詹・堵叔・師叔という三人の優れた者が政を行っております。間を入れることはできません。」斉侯はこれを断った。子華はこのことによって鄭で罪を得た。 【解説】 前半では、鄭の大夫孔叔が鄭伯に対し、国が危機にあるので斉に屈服して救うべきだと進言しますが、鄭伯は煮え切らない態度を示します。結局、鄭は申侯を殺して斉の歓心を買おうとします。申侯はもともと楚の文王に寵愛された人物で、文王はその強欲な性格を見抜き、死に際して「小国に行くな」と警告していました。その予言どおり、申侯は鄭で讒言によって殺されることになります。 後半は甯母の会盟の場面です。鄭伯は太子華を送り、国内の三族を除いてくれれば鄭を斉の内臣にすると持ちかけます。しかし管仲は、礼と信によって諸侯を束ねる覇者が、姦計によってことを成そうとすれば覇業の根本が崩れると強く諫めます。また、鄭には優れた家臣がいるため、内部から崩すことはできないと見抜きます。この管仲の言説は、武力や策略ではなく、徳と礼による秩序形成を重んじる春秋時代の覇者思想をよく示しています。 Translation took 2478.5 seconds. |
| 冬,鄭伯使請盟于齊。 閏月,惠王崩。襄王惡大叔帶之難,懼不立,不發表而告難于齊。 僖公八年 經 八年春,王正月。公會王人、齊侯、宋公、衛侯、許男、曹伯、陳世子款盟于洮。鄭伯乞盟。 夏,狄伐晉。 秋,七月,禘于大廟,用致夫人。 冬,十有二月,丁未,天王崩。 傳 八年春,盟于洮,謀王室也。鄭伯乞盟,請服也。襄王定位而後發喪。 晉里克帥師,梁由靡御,虢射為右,以敗狄于采桑。梁由靡曰:「狄無恥,從之必大克。」里克曰:「懼之而已,無速眾狄。」虢射曰:「期年狄必至,示之弱矣。」 夏,狄伐晉,報采桑之役也,復期月。 秋,禘而致哀姜焉,非禮也。凡夫人不薨于寢,不殯于廟,不赴于同,不祔于姑,則弗致也。 冬,王人來告喪,難故也,是以緩。 宋公疾,大子茲父固請曰:「目夷長且仁,君其立之。」公命子魚。子魚辭曰:「能以國讓,仁孰大焉?!臣不及也!且又不順。」遂走而退。 僖公九年 經 九年春,王三月,丁丑,宋公御說卒。 夏,公會宰周公、齊侯、宋子、衛侯、鄭伯、許男、曹伯于葵丘。 秋,七月,乙酉,伯姬卒。 九月,戊辰,諸侯盟于葵丘。甲子,晉侯佹諸卒 。 冬,晉里奚克殺其君之子奚齊。 傳 九年春,宋桓公卒。未葬,而襄公會諸侯,故曰「子」。凡在喪,王曰「小童」,公侯曰「子」。 |
冬、鄭伯が使者を送って斉との盟約を請うた。 閏月、恵王が崩じた。襄王は大叔帯の難を憎み、即位できないことを恐れ、喪を発表せずに斉に難を告げた。 僖公八年 経 八年春、王の正月。公は王人・斉侯・宋公・衛侯・許男・曹伯・陳の世子款と洮で会盟した。鄭伯が盟への参加を乞うた。 夏、狄が晋を攻めた。 秋七月、大廟で禘祭を行い、夫人を致祭した。 冬十二月丁未、天王が崩じた。 伝 八年春、洮での会盟は王室のことを謀るためであった。鄭伯が盟への参加を乞うたのは、服属を請うためである。襄王は位が定まってから喪を発した。 晋の里克が軍を率い、梁由靡が御者となり、虢射が車右となって、采桑で狄を破った。梁由靡は言った、「狄は恥知らずだ。追撃すれば必ず大勝できる。」里克は言った、「彼らを恐れさせるだけで十分だ。狄の大軍を招いてはならない。」虢射は言った、「一年以内に狄は必ず来るだろう。弱みを見せてしまったからだ。」 夏、狄が晋を攻めた。采桑の戦いの報復であり、ちょうど一年後であった。 秋、禘祭を行って哀姜を致祭した。これは礼に非ず。およそ夫人は寝所で亡くならず、廟で殯されず、同盟国に訃報を送らず、姑に祔祭されなければ、致祭してはならないのである。 冬、王の使者が来て喪を告げた。難があったためであり、それで遅れたのである。 宋公が病にかかり、太子茲父が固く請うて言った、「目夷は年長でかつ仁徳があります。君は彼を立ててください。」公は子魚(目夷)に命じた。子魚は辞退して言った、「国を譲ることができるのは、仁徳においてこれより大きいものがあろうか。臣は及びもつきません。また順序にもかないません。」そう言って走り去って退いた。 僖公九年 経 九年春、王の三月丁丑、宋公御説が卒去した。 夏、公は宰周公・斉侯・宋子・衛侯・鄭伯・許男・曹伯と葵丘で会合した。 秋七月乙酉、伯姫が卒去した。 九月戊辰、諸侯が葵丘で盟約した。甲子、晋侯佹諸が卒去した。 冬、晋の里克がその君の子である奚斉を殺した。 伝 九年春、宋の桓公が卒去した。まだ葬儀も済まないうちに、襄公が諸侯と会合したので、「子」と称した。およそ喪中にあるとき、王は「小童」と称し、公侯は「子」と称する。 解説 この一節は、『春秋左氏伝』の僖公八年(紀元前652年)と僖公九年(紀元前651年)の「経」と「伝」の一部です。「経」は魯国の公式記録である『春秋』の本文、「伝」はその背景や詳細を説明する左氏の注釈です。 僖公八年の冒頭では、周王室の内紛が描かれます。恵王が崩じた後、襄王は大叔帯(王子帯)の反乱を恐れ、喪を公表せずに斉へ救援を求めました。その後、洮の会盟で襄王の地位が安定してから初めて喪が発せられました。これは当時の政治的な駆け引きを示しています。 また、晋と狄の采桑の戦いでは、里克が追撃を控えた判断に対し、虢射が「弱みを見せた」と批判します。その予言通り、一年後に狄が報復として晋を攻めました。このように『左伝』は因果関係を重視して叙述します。 宋の継承問題では、太子茲父(後の襄公)が兄の目夷(子魚)に位を譲ろうとしますが、子魚は「国を譲る仁徳には及ばない」と辞退します。この逸話は、後の宋襄公の評価にも関わる重要な場面です。 僖公九年では、宋の桓公が死去し、喪中にもかかわらず襄公が諸侯と会合したため、「子」と称されたことが記されます。これは当時の礼制に基づく呼称の規則を示すもので、王は喪中「小童」、公侯は「子」と称する慣習があったことがわかります。 全体として、この一節は春秋時代の国際関係、礼制、継承問題を具体的に伝える史料として貴重です。 Translation took 4012.1 seconds. |
| 夏,會于葵丘,尋盟,且脩好,禮也。 王使宰孔賜齊侯胙,曰:「天子有事于文武,使孔賜伯舅胙。」齊侯將下拜。孔曰:「且有後命,天子使孔曰:『以伯舅耋老,加勞賜一級,無下拜。』」對曰:「天威不違顏咫尺,小白,余敢貪天子之命無下拜?恐隕越于下,以遺天子羞,敢不下拜?」下拜登受。 秋,齊侯盟諸侯于葵丘,曰:「凡我同盟之人,既盟之後,言歸于好。」 宰孔先歸,遇晉侯曰:「可無會也。齊侯不務德而勤遠略,故北伐山戎,南伐楚,西為此會也。東略之不知,西則否矣。其在亂乎!?君務靖亂,無勤於行。」晉侯乃還。 九月,晉獻公卒。里克、㔻鄭欲納文公,故以三公子之徒作亂。 初,獻公使荀息傅奚齊。公疾,召之曰:「以是藐諸孤,辱在大夫,其若之何?」稽首而對曰:「臣竭其股肱之力,加之以忠貞。其濟,君之靈也;不濟,則以死繼之。」公曰:「何謂忠貞?」對曰:「公家之利,知無不為,忠也;送往事居,耦俱無猜,貞也。」 及里克將殺奚齊,先告荀息曰:「三怨將作,秦晉輔之,子將何如?」荀息曰:「將死之。」里克曰:「無益也。」荀叔曰:「吾與先君言矣,不可以貳。能欲復言,而愛身乎?雖無益也,將焉辟之?且人之欲善,誰不如我?我欲無貳,而能謂人已乎?」 |
夏、葵丘で会合し、盟約を更新し、また友好を修めた。これは礼にかなうことであった。 王は宰孔を派遣して斉侯に胙の肉を賜い、こう言わせた。「天子が文武王の祭祀を行われ、孔に命じて伯舅(斉侯)に胙の肉を賜うようにと。」斉侯が階下に降りて拝礼しようとすると、宰孔は言った。「さらに後の命令があります。天子は孔にこう仰せられました。『伯舅は高齢であるから、労を加えて一級を賜い、下って拝礼しなくてよい』と。」斉侯は答えた。「天の威光は顔から咫尺も離れてはいない。私、小白がどうして天子の命令に甘えて下って拝礼しないことができようか。下で失態を演じて天子に恥をかかせることを恐れる。どうして下って拝礼せずにいられようか。」こうして階下に降りて拝礼し、堂に登って胙を受けた。 秋、斉侯は葵丘で諸侯と盟約を結び、こう言った。「我々同盟に参加する者は皆、盟約を結んだ後は、互いに友好に戻ることを誓う。」 宰孔は先に帰国する途中、晋侯に会って言った。「会合には参加しなくてもよいでしょう。斉侯は徳に努めず、遠方への征略に励んでいます。だから北は山戎を討ち、南は楚を伐ち、西でこの会合を開いたのです。東への征略は分かりませんが、西へは向かわないでしょう。おそらく内乱が起こるでしょう。君は内乱を鎮めることに努め、遠出に励まない方がよい。」晋侯はそこで帰国した。 九月、晋の献公が死去した。里克と㔻鄭は文公を迎え入れようとしたので、三公子の徒党を率いて反乱を起こした。 当初、献公は荀息に奚齊の傅(もり役)を命じていた。公は病に倒れると、荀息を呼んで言った。「この幼い孤児を、大夫(荀息)にお預けするのは辱ないことだが、どうしたらよいか。」荀息は稽首して答えた。「臣は股肱の力を尽くし、忠貞を加えます。成功すれば、君の霊のおかげです。成功しなければ、死をもって後を追います。」公が「忠貞とは何か」と問うと、荀息は答えた。「公家の利益になることは、知っていて行わないことはない、これが忠です。死者を送り、生者に仕え、両方に対して疑いを持たれない、これが貞です。」 里克が奚齊を殺そうとするに及んで、まず荀息に告げて言った。「三怨(三公子の怨み)が起ころうとしており、秦と晋がそれを支援する。あなたはどうするつもりか。」荀息は言った。「死ぬつもりだ。」里克は言った。「無益だ。」荀叔(荀息)は言った。「私は先君と約束した。二心を抱くことはできない。一度言ったことを守ろうとする者が、どうして身を惜しむことができようか。たとえ無益でも、どうしてそれを避けられようか。また、人が善を望むのは、誰でも私と同じだ。私が二心を持たないと望むなら、どうして人に二心を持てと言えようか。」 【解説】 この一節は『春秋左氏伝』僖公九年(紀元前651年)の記事の一部です。斉の桓公が葵丘で諸侯を集めて会盟を開き、周の襄王から祭祀の胙肉を賜る場面から始まります。桓公は天子からの「下拜しなくてよい」という特命に対しても、礼を重んじて敢えて拝礼する姿勢を示し、その覇者としての慎み深さが描かれます。 後半は晋の国内事情に移ります。献公の死後、後継者争いが勃発します。献公は寵姫驪姫の子である奚齊を後継に立てるため、荀息にその後見を託しました。荀息は献公との約束を守り、里克らが奚齊を殺そうとする動きに対して、たとえ無益であっても死をもって忠節を尽くすと宣言します。この荀息の「忠貞」の定義や、約束を守る姿勢は、春秋時代の臣下の倫理観をよく示しています。 登場人物のうち、里克と㔻鄭は献公の他の公子(重耳・夷吾ら)を支持しており、奚齊を排除しようとします。荀息は献公との約束を守るため、あくまで奚齊を守ろうとします。この後、実際に奚齊は殺され、荀息もまた自害することになります。この一節は、晋の内乱の発端と、忠義を貫く荀息の姿を描いた重要な場面です。 Translation took 3028.9 seconds. |
| 冬,十月,里克殺奚齊于次。書曰:「殺其君之子」,未葬也。荀息將死之,人曰:「不如立卓子而輔之。」荀息立公子卓以葬。 十一月,里克殺公子卓于朝。荀息死之。 君子曰:「《詩》所謂『白圭之玷,尚可磨也;斯言之玷,不可為也。』荀息有焉!」 齊侯以諸侯之師伐晉,及高梁而還,討晉亂也。令不及魯,故不書。 晉郤芮使夷吾重賂秦以求入,曰:「人實有國,我何愛焉?入而能民,土於何有?」從之。 齊隰朋帥師會秦師,納晉惠公。 秦伯謂郤芮曰:「公子誰恃?」對曰:「臣聞亡人無黨,有黨必有讎。夷吾弱不好弄,能鬥不過,長亦不改,不識其他。」公謂公孫枝曰:「夷吾其定乎?」對曰:「臣聞之:唯則定國。《詩》曰:『不識不知,順帝之則』,文王之謂也。又曰:『不僭不賊,鮮不為則』,無好無惡,不忌不克之謂也。今其言多忌克,難哉!」公曰:「忌則多怨,又焉能克?是吾利也。」 宋襄公即位,以公子目夷為仁,使為左師以聽政,於是宋治。故魚氏世為左師。 僖公十年 經 十年春,王正月,公如齊。狄滅溫,溫子奔衛。晉里克弒其君卓,及其大夫荀息。 夏,齊侯、許男伐北戎。晉殺其大夫里克。 秋,七月。 冬,大雨雪。 傳 十年春,狄滅溫,蘇子無信也。蘇子叛王即狄,又不能於狄,狄人伐之,王不救,故滅。蘇子奔衛。 |
冬、十月、里克が喪屋で奚齊を殺した。『春秋』には「その君の子を殺した」と書かれているが、これはまだ葬儀が済んでいなかったからである。荀息は死のうとしたが、ある人が言った。「公子卓を立てて補佐する方がよいでしょう。」荀息は公子卓を立てて葬儀を行った。 十一月、里克は朝廷で公子卓を殺した。荀息は殉死した。 君子は言った。「『詩経』にいう『白圭の傷はまだ磨くことができるが、この言葉の傷はどうすることもできない』と。荀息にはこれがあった。」 斉侯は諸侯の軍を率いて晋を討ち、高梁に至って引き返した。晋の内乱を討つためであった。命令が魯に届かなかったので、『春秋』には記されていない。 晋の郤芮は夷吾に秦へ多額の賄賂を贈って帰国を求めるよう勧め、言った。「他人が実際に国を所有しているのに、我々が何を惜しむことがあろうか。帰国して民を治めることができれば、土地など何の価値があろうか。」夷吾はこれに従った。 斉の隰朋が軍を率いて秦軍と合流し、晋の恵公を迎え入れた。 秦伯が郤芮に言った。「公子(夷吾)は誰を頼りにしているのか。」郤芮は答えた。「私は聞いています。亡命者には仲間がいないものだと。仲間がいれば必ず敵もいるものです。夷吾は幼い頃から遊びを好まず、争っても度を越さず、成長しても変わらない。それ以外のことは知りません。」秦伯は公孫枝に言った。「夷吾は国を安定させられるだろうか。」公孫枝は答えた。「私は聞いています。ただ法則に従うことだけが国を安定させると。『詩経』に『知らず識らず、天帝の法則に従う』とあるのは、文王のことを言ったものです。また『僭越せず、害をなさず、則られないことは少ない』とあるのは、好みも憎しみもなく、妬まず勝とうとしないことを言ったものです。今、彼の言葉には妬みと勝とうとする心が多い。難しいでしょう。」秦伯は言った。「妬みがあれば怨みが多くなり、どうして勝つことができようか。これは我々にとって利益である。」 宋の襄公が即位し、公子目夷を仁者であるとして、左師に任命して政務を聴かせた。こうして宋は治まった。それゆえ魚氏は代々左師を務めた。 僖公十年 十年春、王の正月、公は斉へ行った。狄が温を滅ぼし、温子は衛へ逃げた。晋の里克がその君卓とその大夫荀息を殺した。 夏、斉侯と許男が北戎を討った。晋がその大夫里克を殺した。 秋、七月。 冬、大雨と雪。 伝 十年春、狄が温を滅ぼしたのは、蘇子に信義がなかったからである。蘇子は王に背いて狄に付いたが、狄ともうまくいかず、狄人が彼を攻めた。王は救わなかったので、滅んだ。蘇子は衛へ逃げた。 【解説】 Translation took 2603.9 seconds. |
| 夏,四月,周公忌父、王子黨,會齊隰朋,立晉侯。晉侯殺里克以說。將殺里克,公使謂之曰:「微子則不及此。雖然,子弒二君與一大夫,為子君者,不亦難乎?」對曰:「不有廢也,君何以興?欲加之罪,其無辭乎?臣聞命矣。」伏劍而死。於是丕鄭聘于秦,且謝緩賂,故不及。 晉侯改葬共大子。 秋,狐突適下國,遇大子。大子使登僕,而告之曰:「夷吾無禮,余得請於帝矣,將以晉畀秦,秦將祀余。」對曰:「臣聞之,神不歆非類,民不祀非族,君祀無乃殄乎!且民何罪?失刑乏祀,君其圖之。」君曰:「諾,吾將復請。七日,新城西偏,將有巫者而見我焉。」許之,遂不見。及期而往,告之曰:「帝許我罰有罪矣,敝於韓。」 丕鄭之如秦也,言於秦伯曰:「呂甥、郤稱、冀芮實為不從。若重問以召之,臣出晉君,君納重耳,蔑不濟矣。」 冬,秦伯使泠至報問,且召三子。郤芮曰:幣重而言甘,誘我也。遂殺丕鄭、祁舉及七輿大夫:左行共華、右行賈華、叔堅、騅歂、纍虎、特宮、山祁,皆里丕之黨也。 丕豹奔秦,言於秦伯曰:「晉侯背大主而忌小怨,民弗與也。伐之必出。」公曰:「失眾,焉能殺?違禍,誰能出君?」 僖公十一年 經 十有一年春,晉殺其大夫丕鄭父。 夏,公及夫人姜氏,會齊侯于陽穀。 |
夏四月、周公忌父と王子党は斉の隰朋と会合し、晋侯(恵公)を即位させた。晋侯は里克を殺して人々の心をなだめようとした。里克を殺そうとするにあたり、公(晋侯)は使者を送って彼に言った、「あなたがいなければ、私はこの地位に就くことはできなかった。とはいえ、あなたは二人の君主と一人の大夫を殺した。あなたを君主として仕える者にとって、それは難しいことではないだろうか」と。里克は答えた、「廃立がなければ、君はどうして即位できたでしょうか。罪を加えようとするなら、そのための言葉に窮することなどありましょうか。私はご命令を承知いたしました」と言って、剣の上に伏して死んだ。このとき丕鄭は秦に使いに行っており、また遅れていた賄賂の謝罪をしていたため、この難を免れた。 晋侯は共太子(申生)を改葬した。 秋、狐突が下国(曲沃)へ行くと、太子(申生の霊)に出会った。太子は狐突を車の御者にさせて、彼に告げて言った、「夷吾(恵公)は無礼である。私は上帝に願い出て許しを得た。晋を秦に与え、秦が私を祀ることになるだろう」と。狐突は答えた、「私はこう聞いております。神は自分と異なる類の者の供え物は受け取らず、民は自分の一族でない者を祀ることはないと。あなたのお祀りは絶えてしまうのではないでしょうか。また民に何の罪があるというのでしょう。刑罰を誤り、お祀りを絶つことは、どうかお考えください」と。太子は言った、「承知した。私は再び上帝に願い出よう。七日の後、新城の西の端で、巫女が私の姿を現すであろう」と。狐突はそれを承諾すると、太子は消え去った。期日になって狐突がそこへ行くと、太子は彼に告げて言った、「上帝は私が罪ある者を罰することをお許しになった。韓の地で敗れるであろう」と。 丕鄭が秦に行ったとき、秦伯に言った、「呂甥・郤称・冀芮は実際には(秦の意向に)従わない者たちです。もし厚い贈り物をもって彼らを召し寄せたなら、私が晋君を国外へ追い出し、君が重耳を迎え入れれば、成功しないはずがありません」と。 冬、秦伯は泠至を派遣して返礼の挨拶をさせ、また三人の者を召し寄せようとした。郤芮は言った、「贈り物が厚く、言葉が甘いのは、我々を誘い込もうとしているのだ」と。そこで丕鄭・祁挙および七輿大夫(左行共華・右行賈華・叔堅・騅歂・纍虎・特宮・山祁)を殺した。彼らは皆、里克・丕鄭の仲間であった。 丕豹は秦に奔り、秦伯に言った、「晋侯は大きな主君(秦)に背き、小さな怨みを気にしています。民は彼に味方しません。攻めれば必ず彼を追い出せます」と。秦伯は言った、「民の支持を失っているのなら、どうして(里克らを)殺すことができたのか。禍を避けて逃げる者を、誰が君主として迎え入れることができようか」と。 僖公十一年の経: 十一年春、晋はその大夫丕鄭父を殺した。 夏、公(魯の僖公)と夫人姜氏は、斉侯と陽穀で会合した。 【解説】 続いて、丕鄭が秦に赴き、恵公の側近である呂甥・郤称・冀芮を排除する策を秦伯に進言しますが、逆に郤芮らに見破られ、丕鄭一派は皆殺しにされます。丕鄭の子である丕豹は秦に亡命し、晋を攻めるよう秦伯に勧めますが、秦伯は慎重な態度を示します。 また、この間には狐突が申生(共太子)の霊と遭遇するという神秘的な逸話も挿入されています。申生は恵公の無礼を怒り、上帝に晋を秦に与えることを願い出たと告げますが、狐突は「神は異なる類の供え物を受け取らない」と諫め、申生は再考して「韓の地で敗れる」と予言します。これは後の韓原の戦いでの恵公の敗北を予兆するものです。 最後に、経の部分では、僖公十一年春に晋が丕鄭父(丕鄭)を殺したこと、夏に魯の僖公と夫人姜氏が斉侯と陽穀で会合したことが簡潔に記されています。この一節は、晋の内乱と秦との緊張関係、そして神秘的な予言を通じて、恵公の失政とその後の没落を暗示する構成になっています。 Translation took 4843.2 seconds. |
| 秋,八月,大雩。 冬,楚人伐黃。 傳 十一年春,晉侯使以丕鄭之亂來告。 天王使召武公、內史過賜晉侯命。受玉惰。過歸告王曰:「晉侯其無後乎!王賜之命,而惰於受瑞,先自棄也已,其何繼之有?禮,國之幹也;敬,禮之輿也。不敬則禮不行,禮不行則上下昏,何以長世?」 夏,揚、拒、泉、皋、伊雒之戎同伐京師,入王城,焚東門,王子帶召之也。秦晉伐戎以救周。 秋,晉侯平戎于王。黃人不歸楚貢。 冬,楚人伐黃。 僖公十二年 經 十有二年春,王三月,庚午,日有食之。 夏,楚人滅黃。 秋,七月。 冬,十有二月,丁丑,陳侯杵臼卒。 傳 十二年春,諸侯城衛楚丘之郛,懼狄難也。 黃人恃諸侯之睦于齊也,不共楚職,曰:「自郢及我九百里,焉能害我?」 夏,楚滅黃。 王以戎難故,討王子帶。 秋,王子帶奔齊。 冬,齊侯使管夷吾平戎于王,使隰朋平戎于晉。 王以上卿之禮饗管仲,管仲辭曰:「臣,賤有司也。有天子之二守國、高在,若節春秋,來承王命,何以禮焉?陪臣敢辭。」王曰:「舅氏,余嘉乃勳,應乃懿德,謂督不忘。往踐乃職,無逆朕命。」管仲受下卿之禮而還。 君子曰:「管氏之世祀也,宜哉!讓不忘其上。《詩》曰:『愷悌君子,神所勞矣。』」 僖公十三年 經 |
秋、八月、大雩の祭りが行われた。 冬、楚人が黄を攻めた。 伝 十一年春、晋侯が使者を送り、丕鄭の乱について報告してきた。 周王は召武公と内史過を派遣して晋侯に命を授けさせた。晋侯は玉を受け取る際に怠慢な態度をとった。内史過は帰って王に報告して言った。「晋侯には後継ぎがいないでしょう。王が命を授けられたのに、瑞玉を受けるのに怠慢でした。自ら先に身を捨てているのです。どうして後継ぎがあり得ましょうか。礼は国の幹であり、敬は礼の車です。敬がなければ礼は行われず、礼が行われなければ上下の秩序が乱れ、どうして長く世を保てましょうか。」 夏、揚・拒・泉・皋・伊雒の戎が共に京師を攻め、王城に入り、東門を焼いた。王子帯が彼らを招き入れたのである。秦と晋が戎を攻めて周を救った。 秋、晋侯が王のために戎との和議をまとめた。黄人は楚への貢納を納めなかった。 冬、楚人が黄を攻めた。 僖公十二年 経 十二年春、王の三月、庚午の日、日食があった。 夏、楚人が黄を滅ぼした。 秋、七月。 冬、十二月、丁丑の日、陳侯杵臼が死去した。 伝 十二年春、諸侯は衛の楚丘の外郭を築いた。狄の難を恐れたからである。 黄人は諸侯が斉と親しくしていることを頼みとして、楚への職貢を納めず、言った。「郢から我が国まで九百里ある。どうして我々を害することができようか。」 夏、楚が黄を滅ぼした。 王は戎の難のため、王子帯を討った。 秋、王子帯は斉に奔った。 冬、斉侯は管夷吾を派遣して王のために戎との和議をまとめさせ、隰朋を派遣して晋のために戎との和議をまとめさせた。 王は上卿の礼をもって管仲を饗応した。管仲は辞退して言った。「臣は卑しい有司に過ぎません。天子の二守である国氏・高氏がおります。もし春秋の節に王命を承りに参りましたなら、どのような礼を取ればよいのでしょうか。陪臣の身として敢えて辞退いたします。」王は言った。「舅氏よ、私は汝の功績を嘉し、汝の美徳に応えたい。汝の勤めを忘れない。行って汝の職を果たせ。朕の命に逆らうな。」管仲は下卿の礼を受けて帰った。 君子は言った。「管氏の祭祀が代々続くのは、もっともなことだ。譲りつつも上を忘れない。『詩』に言う。『愷悌なる君子は、神が労わるところである』と。」 僖公十三年 経 (※原文はここで切れている) 【解説】 この一節は『春秋左氏伝』僖公十一年から十三年にかけての記述です。「経」は『春秋』本経の簡潔な記録、「伝」は左氏による詳細な解説・物語的叙述です。 僖公十一年では、晋侯(恵公)が周王から命を受ける際に怠慢な態度を示し、内史過が「礼」と「敬」の重要性を説いて晋侯の没落を予言する場面が中心です。また、王子帯(周の襄王の弟)が戎を招き入れて王城を攻めさせるという内乱も描かれています。 僖公十二年では、黄が楚への貢納を怠り、諸侯と斉の友好関係を頼みとして楚を軽んじますが、結局楚に滅ぼされるという経緯が記されています。また、斉の宰相管仲が周王のために戎との和議をまとめ、王から上卿の礼で饗応されようとしたのを辞退して下卿の礼を受けたという有名な逸話が含まれています。管仲の謙譲の美徳を君子が称賛し、『詩経』を引用して締めくくっています。 この時期は、斉の桓公が覇者として周王室を支え、戎狄の侵攻に対処していた時代であり、周王室の衰えと諸侯の力関係の変化がよく表れている箇所です。 Translation took 1406.8 seconds. |
| 十有三年春,狄侵衛。 夏,四月,葬陳宣公。公會齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、曹伯于鹹。 秋,九月,大雩。 冬,公子友如齊。 傳 十三年春,齊侯使仲孫湫聘于周,且言王子帶。事畢,不與王言。歸復命曰:「未可。王怒未怠,其十年乎?不十年,王弗召也。」 夏,會于鹹,淮夷病杞故,且謀王室也。 秋,為戎難故,諸侯戍周。齊仲孫湫致之。 冬,晉薦饑,使乞糴于秦。秦伯謂子桑:「與諸乎?」對曰:「重施而報,君將何求?重施而不報,其民必攜,攜而討焉,無眾必敗。」謂百里:「與諸乎?」對曰:「天災流行,國家代有。救災恤鄰,道也。行道有福。」丕鄭之子豹在秦,請伐晉。秦伯曰:「其君是惡,其民何罪?」秦於是乎輸粟于晉,自雍及絳相繼,命之曰「汎舟之役」。 僖公十四年 經 十有四年春,諸侯城緣陵。 夏,六月,季姬及鄫子遇于防,使鄫子來朝。 秋,八月,辛卯,沙鹿崩。狄侵鄭。 冬,蔡侯肸卒。 傳 十四年春,諸侯城緣陵而遷杞焉。不書其人,有闕也。 鄫季姬來寧,公怒,止之,以鄫子之不朝也。 夏,遇于防,而使來朝。 秋,八月,辛卯,沙鹿崩。晉卜偃曰:「期年將有大咎,幾亡國。」 冬,秦饑,使乞糴于晉。晉人弗與。慶鄭曰:「背施無親,幸災不仁,貪愛不祥,怒鄰不義。四德皆失,何以守國?」虢射曰:「皮之不存,毛將安傅?」慶鄭曰:「棄信背鄰,患孰恤之?無信患作,失援必斃。是則然矣。」虢射曰:「無損於怨,而厚於寇,不如勿與。」慶鄭曰:「背施幸災,民所棄也。近猶讎之,況怨敵乎?」弗聽。退曰:「君其悔是哉!」 僖公十五年 經 |
僖公十三年 伝 夏、鹹で会合した。淮夷が杞を苦しめていたためであり、あわせて王室のことを謀るためであった。 秋、戎の難のため、諸侯は周を守備した。斉の仲孫湫がこれを送り届けた。 冬、晋は連年の飢饉となり、秦に穀物の購入を求める使者を送った。秦伯は子桑に言った。「与えるべきだろうか。」子桑は答えた。「重く施して報いがあれば、君は何を求められましょうか。重く施して報いがなければ、その民は必ず離反します。離反したところを討てば、民がついてこないので必ず敗れます。」百里に言った。「与えるべきだろうか。」百里は答えた。「天災は流行し、国や家には代わる代わる起こるものです。災害を救い隣国を恤れむのは、道であります。道を行えば福があります。」丕鄭の子の豹は秦にいたが、晋を討つことを願い出た。秦伯は言った。「その国君は憎むべきだが、その民に何の罪があろうか。」秦はそこで粟を晋に輸送した。雍から絳まで続々と運び、これを「汎舟の役」と名付けた。 僖公十四年 伝 鄫の季姫が里帰りしてきたが、公は怒って彼女を引き止めた。鄫子が来朝しなかったためである。 夏、防で会い、そして来朝させた。 秋八月辛卯、沙鹿が崩れた。晋の卜偃は言った。「一年のうちに大きな災いがあり、ほとんど国が滅びるだろう。」 冬、秦が飢饉となり、晋に穀物の購入を求める使者を送った。晋人は与えなかった。慶鄭は言った。「施しに背くのは親しみがなく、災いを幸いとするのは仁ではなく、財を惜しむのは不祥であり、隣国を怒らせるのは不義である。四つの徳をすべて失って、どうして国を守れようか。」虢射は言った。「皮がなくなってしまえば、毛はどこにつくことができようか。」慶鄭は言った。「信義を捨て隣国に背けば、患難のときに誰が恤れんでくれようか。信義がなければ患難が起こり、援助を失えば必ず倒れる。これはそのとおりである。」虢射は言った。「怨みを減らすことにはならず、かえって敵を利することになる。与えないほうがよい。」慶鄭は言った。「施しに背き災いを幸いとする者は、民が棄てるところである。近しい者でさえ仇とする。まして怨みある敵はなおさらではないか。」聞き入れられなかった。慶鄭は退出して言った。「君はきっとこのことを後悔されるだろう。」 僖公十五年 解説: 特に晋の慶鄭と虢射の議論は、信義を重んじる立場と、目先の利害や怨みを優先する立場の対立を示しています。秦が晋を助けた翌年に、晋が秦を助けなかったことは、この後の秦晋関係の悪化、さらには韓原の戦いへの伏線となります。経文は簡潔な年代記であり、伝文はその背景や会話を詳しく説明しています。 Translation took 5948.7 seconds. |
| 十有五年春,王正月,公如齊。楚人伐徐。 三月,公會齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、曹伯,盟于牡丘,遂次于匡。公孫敖帥師,及諸侯之大夫救徐。 夏,五月,日有食之。 秋,七月,齊師、曹師伐厲。 八月,螽。 九月,公至自會。季姬歸于鄫。己卯晦,震夷伯之廟。 冬,宋人伐曹。楚人敗徐于婁林。 十有一月,壬戌,晉侯及秦伯戰于韓,獲晉侯。 傳 十五年春,楚人伐徐,徐即諸夏故也。 三月,盟于牡丘,尋葵丘之盟,且救徐也。孟穆伯帥師,及諸侯之師救徐,諸侯次于匡以待之。 夏,五月,日有食之。不書朔與日,官失之也。 秋,伐厲,以救徐也。 晉侯之入也,秦穆姬屬賈君焉,且曰:「盡納群公子。」晉侯烝於賈君,又不納群公子,是以穆姬怨之。晉侯許賂中大夫,既而皆背之。賂秦伯以河外列城五,東盡虢略,南及華山,內及解梁城,既而不與。晉饑,秦輸之粟;秦饑,晉閉之糴,故秦伯伐晉。 卜徒父筮之,吉:「涉河,侯車敗。」詰之。對曰:「乃大吉也。三敗,必獲晉君。其卦遇《蠱》,曰:『千乘三去,三去之餘,獲其雄狐。』夫狐蠱,必其君也。《蠱》之貞,風也;其悔,山也。歲云秋矣,我落其實,而取其材,所以克也。實落材亡,不敗何待?」三敗及韓。 |
十五年春、王の正月、公が斉へ行った。楚人が徐を攻めた。 三月、公は斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・曹伯と会合し、牡丘で盟約を結び、続いて匡に駐留した。公孫敖が軍を率い、諸侯の大夫たちと共に徐を救援した。 夏五月、日食があった。 秋七月、斉軍と曹軍が厲を攻めた。 八月、いなごが発生した。 九月、公は会合から帰国した。季姫が鄫に嫁いだ。己卯の晦日、夷伯の廟に雷が落ちた。 冬、宋人が曹を攻めた。楚人が婁林で徐を破った。 十一月壬戌、晋侯と秦伯が韓で戦い、晋侯が捕らえられた。 【伝】 十五年春、楚人が徐を攻めたのは、徐が中原諸国に近づいたからである。 三月、牡丘で盟約したのは、葵丘の盟約を再確認し、かつ徐を救援するためである。孟穆伯が軍を率い、諸侯の軍と共に徐を救援し、諸侯は匡に駐留して待機した。 夏五月、日食があった。朔日と日付が記されていないのは、暦官の過失によるものである。 秋、厲を攻めたのは、徐を救援するためである。 晋侯が帰国した際、秦穆姫は賈君を託し、「公子たちを全員迎え入れなさい」と言った。晋侯は賈君と密通し、また公子たちを迎え入れなかった。そのため穆姫は彼を恨んだ。晋侯は中大夫たちに賄賂を約束したが、後に全て反故にした。秦伯には河外の五つの城を賄賂として約束し、東は虢略に至り、南は華山に及び、内は解梁城に及ぶとされたが、後に与えなかった。晋が飢饉のとき、秦は穀物を送った。秦が飢饉のとき、晋は穀物の輸出を閉ざした。そのため秦伯が晋を攻めた。 卜徒父が筮竹で占うと、吉と出た。「河を渡れば、侯の車が敗れる」と。問い詰めると、答えて言った。「これは大吉です。三度敗れた後、必ず晋君を捕らえるでしょう。卦は蠱に出ました。その卦に曰く、『千乗の軍が三度去り、三度去った後に、その雄狐を獲る』と。狐は蠱の象であり、必ずやその君主でしょう。蠱の内卦は風、外卦は山です。季節は秋、我々はその実を落とし、その材を取る、それゆえ勝てるのです。実が落ち材が亡びれば、敗れないでいられましょうか。」三度敗れて韓に至った。 【解説】 この一節は、『春秋左氏伝』の魯の文公十五年(紀元前612年)に相当する部分です。前半は『春秋』経文と呼ばれる簡潔な記録で、魯の文公が斉へ赴いたこと、楚が徐を攻めたこと、牡丘での会盟と徐救援、日食、厲への攻撃、いなごの発生、季姫の鄫への出嫁、夷伯の廟への落雷、宋の曹攻め、楚の徐撃破、そして韓原の戦いで晋侯が秦に捕らえられたことなどが列挙されています。 後半の「伝」は、左氏による詳細な解説です。特に晋と秦の対立の背景が詳述されています。晋の恵公(夷吾)が帰国に際して秦の穆公の援助を受けながら、約束を次々と破ったこと(賈君との密通、公子たちの不迎入、中大夫への賄賂の不履行、河外の五城の不割譲、秦の飢饉時の穀物輸出拒否)が、秦の怒りを買い、韓原の戦いへと至った経緯が語られます。また、卜徒父による占いの場面では、蠱の卦が出て「三度敗れた後に晋君を捕らえる」という予言がなされ、実際に晋侯が捕虜となる結末が示唆されています。この占いの解釈は、卦の象意(風と山、秋の実の落下と材木の取得)を用いて、秦の勝利を予告するものです。全体として、春秋時代の国際関係と、信義を守らない君主の末路が描かれています。 Translation took 3702.9 seconds. |
| 晉侯謂慶鄭曰:「寇深矣,若之何?」對曰:「君實深之,可若何?」公曰:「不孫。」卜右,慶鄭吉。弗使,步揚御戎,家僕徒為右。乘小駟,鄭入也。慶鄭曰:「古者大事,必乘其產。生其水土而知其人心,安其教訓,而服習其道,唯所納之,無不如志。今乘異產以從戎事,及懼而變,將與人易。亂氣狡憤,陰血周作,張脈僨興,外彊中乾。進退不可,周旋不能,君必悔之。」弗聽。 九月,晉侯逆秦師,使韓簡視師。復曰:「師少於我,鬥士倍我。」公曰:「何故?」對曰:「出因其資,入用其寵,饑食其粟,三施而無報,是以來也。今又擊之,我怠秦奮,倍猶未也。」公曰:「一夫不可狃,況國乎?」遂使請戰,曰:「寡人不佞,能合其眾而不能離也。君若不還,無所逃命。」秦伯使公孫枝對曰:「君之未入,寡人懼之,入而未定列,猶吾憂也。苟列定矣,敢不承命?」韓簡退曰:「吾幸而得囚。」 壬戌,戰于韓原。晉戎馬還濘而止,公號慶鄭。慶鄭曰:「愎諫違卜,固敗是求,又何逃焉?」遂去之。梁由靡御韓簡,虢射為右,輅秦伯,將止之。鄭以救公誤之,遂失秦伯。秦獲晉侯以歸。晉大夫反首拔舍,從之。秦伯使辭焉,曰:「二三子何其慼也!寡人之從君而西也,亦晉之妖夢是踐,豈敢以至?」晉大夫三拜稽首曰:「君履后土而戴皇天,皇天后土,實聞君之言,群臣敢在下風。」 |
晉侯が慶鄭に言った。「敵は深く侵入している。どうしたらよいか。」慶鄭は答えた。「国君が実に深く侵入させたのです。どうしようがありましょうか。」公は言った。「無礼な。」卜で車右を占うと、慶鄭が吉と出た。しかし彼を使わず、歩揚が御者となり、家僕徒が車右となった。小駟という馬に乗ったが、これは鄭から入った馬である。慶鄭は言った。「古来、大事には必ずその国の産の馬に乗るものです。その土地の水や土で育ち、その人の心を知り、その教えや訓戒に慣れ、その道に熟練しているので、どのように導いても思い通りにならないことはありません。今、異国の産の馬に乗って戦いに臨めば、恐れて気性が変わり、人と逆らうでしょう。乱れた気性で激しく怒り、血が体中に巡って脈が張り、外見は強そうでも内実は弱っています。進むことも退くこともできず、旋回もままならず、君は必ず後悔されるでしょう。」しかし聞き入れられなかった。 九月、晋侯は秦軍を迎え撃とうとし、韓簡に敵情を視察させた。韓簡は戻って報告した。「敵の兵数は我が方より少ないですが、戦意のある兵は我が方の倍です。」公は言った。「なぜか。」答えた。「君が国外にいたときは秦の援助に頼り、国内に入ってからは秦の寵愛を受け、飢饉のときは秦の粟を食べた。三度の恩恵を受けながら報いていない。それで秦が来たのです。今またこれを撃とうとすれば、我が軍は怠け、秦軍は奮い立つでしょう。倍どころではありません。」公は言った。「一人の男でさえ侮ってはならない。まして国においてをやだ。」そこで戦いを申し込ませ、こう言わせた。「寡人は不才ではあるが、自国の民をまとめることはできても、離散させることはできない。君が引き返さないなら、命から逃れる道はないぞ。」秦伯は公孫枝に答えさせた。「君がまだ国に入らなかったとき、寡人はそれを心配した。入ってまだ位が定まらないときも、やはり我が憂いであった。もし位が定まったのなら、どうして命を受けないことがあろうか。」韓簡は退いて言った。「私は捕虜になるのが幸運というものだ。」 壬戌の日、韓原で戦った。晋の戎馬が泥濘にはまって動けなくなり、公は慶鄭を呼んだ。慶鄭は言った。「忠言を退け、卜に背いた。もともと敗北を求めているのだ。どうして逃げられようか。」そう言って立ち去った。梁由靡が韓簡の御者となり、虢射が車右となって、秦伯の車に迫り、捕らえようとした。しかし慶鄭が公を救うよう叫んだため、それに惑わされて秦伯を取り逃がした。秦は晋侯を捕らえて帰還した。晋の大夫たちは髪を振り乱し、宿営を壊して秦軍に従った。秦伯は使者を送って断らせた。「皆さんはなんと悲しげなのか。寡人が国君に従って西へ行くのは、晋の不吉な夢を実現したにすぎない。どうして過酷な扱いをしようか。」晋の大夫たちは三度拝礼し、額を地につけて言った。「君は后土を踏み、皇天を戴いておられる。皇天と后土は、まさに君の言葉をお聞きになった。群臣は謹んで下風に控えております。」 解説: Translation took 1442.6 seconds. |
| 穆姬聞晉侯將至,以大子罃、弘與女簡、璧,登臺而履薪焉。使以免服衰絰逆,且告曰:「上天降災,使我兩君匪以玉帛相見,而以興戎。若晉君朝以入,則婢子夕以死;夕以入,則朝以死。唯君裁之。」乃舍諸靈臺。 大夫請以入。公曰:「獲晉侯,以厚歸也,既而喪歸,焉用之?大夫其何有焉?且晉人慼憂以重我,天地以要我,不圖晉憂,重其怒也。我食吾言,背天地也。重怒難任,背天不祥,必歸晉君。」公子縶曰:「不如殺之,無聚慝焉。」子桑曰:「歸之而質其大子,必得大成。晉未可滅,而殺其君,祇以成惡。且史佚有言曰:『無始禍,無怙亂,無重怒。』重怒難任,陵人不祥。」乃許晉平。 晉侯使郤乞告瑕呂飴甥,且召之。子金教之言曰:「朝國人而以君命賞。且告之曰:『孤雖歸,辱社稷矣,其卜貳圉也。』」眾皆哭。晉於是乎作爰田。呂甥曰:「君亡之不恤,而群臣是憂,惠之至也,將若君何?」眾曰:「何為而可?」對曰:「征繕以輔孺子。諸侯聞之,喪君有君,群臣輯睦,甲兵益多。好我者勸,惡我者懼,庶有益乎!」眾說,晉於是乎作州兵。 初,晉獻公筮嫁伯姬於秦,遇歸妹之睽。史蘇占之,曰:「不吉。其繇曰:『士刲羊,亦無衁也;女承筐,亦無貺也。西鄰責言,不可償也。歸妹之睽,猶無相也。』震之離,亦離之震。『為雷為火,為嬴敗姬。車說其輹,火焚其旗,不利行師,敗于宗丘。歸妹睽孤,寇張之弧。姪其從姑,六年其逋,逃歸其國,而棄其家,明年,其死於高梁之虛。』」 |
穆姫は晋侯がもうすぐ来ると聞いて、太子の罃と弘、娘の簡と璧を連れて高台に登り、薪の上に座った。喪服を着て喪帯を締めた者を迎えに遣わし、こう告げさせた。「天が災いを降し、私たち両国の君主が玉帛を携えて会うのではなく、戦争を起こすことになりました。もし晋君が朝に入られれば、私は夕方に死にましょう。夕方に入られれば、朝に死にましょう。どうか君が裁断してください。」そこで晋侯を霊台に留め置いた。 秦の大夫たちは晋侯を都の中に入れるよう請うた。穆公は言った。「晋侯を捕らえたのは大きな成果として帰ることだが、その後で死なれて帰ったら何の役に立つのか。大夫たちに何の益があろうか。しかも晋の人々は悲しみ憂えて我々を重んじ、天地をかけて我々に誓いを求めた。晋の憂いを考えなければ、彼らの怒りを重ねることになる。我々が自分の言葉を食むのは、天地に背くことだ。重い怒りは耐え難く、天に背くのは不吉だ。必ず晋君を帰すべきだ。」公子縶は言った。「殺す方が良い。悪を集めないために。」子桑は言った。「帰してその太子を人質にすれば、必ず大きな成果が得られます。晋は滅ぼせません。その君を殺せば、ただ悪を成すだけです。また史佚の言葉に『禍を始めるな、乱に頼るな、怒りを重ねるな』とあります。重い怒りは耐え難く、人を陵ぐのは不吉です。」そこで晋との和平を許した。 晋侯は郤乞を瑕呂飴甥のもとに遣わして告げさせ、また彼を呼び寄せた。子金(瑕呂飴甥)は郤乞に言うことを教えて言った。「国人を朝廷に集めて君の命令として賞を与えよ。そして彼らに告げよ、『孤は帰っても社稷を辱めた。占って太子圉を立てよ』と。」皆が泣いた。晋はここにおいて爰田を作った。呂甥は言った。「君は亡命の身を憂えず、群臣を憂えてくださる。恩恵の至りだ。君をどうしようか。」皆は言った。「どうすれば良いのか。」答えて言った。「税を徴収し武備を整えて孺子(太子)を補佐せよ。諸侯がこれを聞けば、君を失っても君がおり、群臣は和合し、甲兵はますます多くなる。我々を好む者は励み、悪む者は恐れる。おそらく益があろう。」皆が喜び、晋はここにおいて州兵を作った。 初め、晋献公が伯姫を秦に嫁がせる際に筮をしたところ、帰妹の睽に遇った。史蘇がこれを占って言った。「不吉である。その繇に曰く、『士が羊を刲(さ)いても血が出ない。女が筐を承けても贈り物がない。西隣が責め言うが償えない。帰妹の睽は、助けがないようなものだ。震の離、また離の震。雷となり火となり、嬴(秦)が姫(晋)を敗る。車はその輹(こしき)を脱し、火はその旗を焼く。行軍に不利で、宗丘で敗れる。帰妹睽孤、寇が弓を張る。姪が姑に従い、六年で逃げ、その国に逃げ帰り、その家を棄て、明年、高梁の墟で死ぬ』と。」 解説:この一節は春秋左氏伝の僖公十五年(紀元前645年)の記述で、秦晋の韓原の戦いの後、晋の恵公が秦に捕らえられた場面から始まります。穆姫(秦穆公の夫人で晋の献公の娘)は、夫の秦穆公に対して晋侯を殺さないよう、自らの命を賭けて嘆願します。秦の臣下たちの議論の末、穆公は晋侯を釈放して和平を結びます。晋国内では、恵公の不在中に太子圉を立てる準備が進められ、税制や軍制の改革(爰田・州兵)が行われます。最後に、過去に晋献公が娘の伯姫を秦に嫁がせる際に行った占いの結果が語られ、その予言が恵公の敗北と死を暗示していたことが示されます。この一節は、戦争と外交、君臣の忠義、そして予言の成就という春秋時代の歴史叙述の特徴をよく表しています。 Translation took 3818.5 seconds. |
| 及惠公在秦,曰:「先君若從史蘇之占,吾不及此夫。」韓簡侍,曰:「龜,象也;筮,數也。物生而後有象,象而後有滋,滋而後有數。先君之敗德,及可數乎?史蘇是占,勿從何益?《詩》曰:『下民之孽,匪降自天。僔沓背憎,職競由人。』」 震夷伯之廟,罪之也,於是展氏有隱慝焉。 冬,宋人伐曹,討舊怨也。 楚敗徐于婁林,徐恃救也。 十月,晉陰飴甥會秦伯,盟于王城。秦伯曰:「晉國和乎?」對曰:「不和。小人恥失其君而悼喪其親,不憚征繕以立圉也,曰:『必報讎,寧事戎狄。』君子愛其君而知其罪,不憚征繕以待秦命,曰:『必報德,有死無二。』以此不和。」秦伯曰:「國謂君何?」對曰:「小人慼,謂之不免;君子恕,以為必歸。小人曰:『我毒秦,秦豈歸君?』君子曰:『我知罪矣,秦必歸君。貳而執之,服而舍之。德莫厚焉,刑莫威焉。服者懷德,貳者畏刑。此一役也,秦可以霸。納而不定,廢而不立,以德為怨,秦不其然?』」秦伯曰:「是吾心也。」改館晉侯,饋七牢焉。 蛾析謂慶鄭曰:「盍行乎?」對曰:「陷君於敗,敗而不死,又使失刑,非人臣也。臣而不臣,行將焉入?」 十一月,晉侯歸。丁丑,殺慶鄭而後入。 是歲,晉又饑,秦伯又餼之粟,曰:「吾怨其君而矜其民。且吾聞唐叔之封也,箕子曰:『其後必大。』晉其庸可冀乎?姑樹德焉,以待能者。」於是秦始征晉河東,置官司焉。 僖公十六年 經 |
恵公が秦にいたとき、こう言った。「先君がもし史蘇の占いに従っていたなら、私はこのような境遇にはならなかっただろうに。」韓簡がそばに仕えて言った。「亀卜は象(かたち)であり、筮竹は数です。物が生じてから象があり、象があってから増え広がり、増え広がってから数が生じます。先君の徳を損なった行いは、数えられるようなものでしょうか。史蘇がこの占いをしたとき、たとえ従わなかったとしても何の益があったでしょう。『詩経』にこうあります。『下々の民の災いは、天から降るのではない。集まっては背き憎み合う、それはすべて人から起こるのだ』と。」 夷伯の廟が雷震に遭ったのは、彼を罪したのである。ここにおいて展氏に隠れた悪事があった。 冬、宋人が曹を攻めた。旧怨を討つためである。 楚が婁林で徐を敗った。徐が救援を頼みにしていたからである。 十月、晋の陰飴甥が秦伯と会い、王城で盟を結んだ。秦伯が言った。「晋国は和していますか。」答えて言った。「和していません。小人(身分の低い者たち)は国君を失ったことを恥じ、親族を失ったことを悲しみ、租税を徴収し軍備を整えて太子圉を立てることを厭いません。そして言います。『必ず仇を報いよう、たとえ戎狄に仕えることになっても』と。君子(身分の高い者たち)は国君を愛し、その罪を知っており、租税を徴収し軍備を整えて秦の命令を待つことを厭いません。そして言います。『必ず恩に報いよう、死んでも二心はない』と。このように和していません。」秦伯が言った。「国では国君のことをどう言っているか。」答えて言った。「小人は憂えて、免れないだろうと言っています。君子は寛大に見て、必ず帰ってくるだろうと思っています。小人は言います。『我々は秦に害をなした、秦がどうして国君を帰してくれようか』と。君子は言います。『我々は罪を知った、秦は必ず国君を帰してくれるだろう。二心を抱いたときに捕らえ、服従したときに赦す。徳より厚いものはなく、刑より威厳のあるものはない。服従する者は徳を懐き、二心を抱く者は刑を畏れる。この一つの出来事によって、秦は覇者となることができる。国君を送り込んで安定させず、廃して立てないなら、徳を怨みに変えることになる。秦がそのようなことをするだろうか』と。」秦伯が言った。「それは私の心と同じだ。」晋侯の宿舎を改め、七牢の膳を贈った。 蛾析が慶鄭に言った。「どうして逃げないのか。」答えて言った。「国君を敗北に陥れ、敗北しても死なず、さらに刑罰を失わせた。人臣としてあるまじきことだ。臣でありながら臣としての道を守らなければ、逃げたところでどこに入れようか。」 十一月、晋侯が帰国した。丁丑の日、慶鄭を殺してから都に入った。 この年、晋はまた飢饉になった。秦伯はまた粟を送って与えた。言った。「私はその国君を怨んでいるが、その民を哀れんでいる。また私は聞いている、唐叔が封ぜられたとき、箕子が言った、『その子孫は必ず大きくなる』と。晋はどうして期待できないだろうか。しばらく徳を立てて、有能な者を待とう。」ここにおいて秦は初めて晋の河東の地を征し、官司を設置した。 僖公十六年 経 【解説】 Translation took 3305.1 seconds. |
| 十有六年春,王正月,戊申朔,隕石于宋五。是月,六鷁退飛,過宋都。 三月,壬申,公子季友卒。 夏,四月,丙申,鄫季姬卒。 秋,七月,甲子,公孫茲卒。 冬,十有二月,公會齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、邢侯、曹伯于淮。 傳 十六年春,隕石于宋五,隕星也。六鷁退飛,過宋都,風也。周內史叔興聘于宋,宋襄公問焉,曰:「是何祥也?吉凶焉在?」對曰:「今茲魯多大喪,明年齊有亂。君將得諸侯而不終。」退而告人曰:「君失問。是陰陽之事,非吉凶所生也。吉凶由人,吾不敢逆君故也。」 夏,齊伐厲,不克。救徐而還。 秋,狄侵晉,取狐、廚、受鐸,涉汾,及昆都,因晉敗也。 王以戎難告于齊,齊徵諸侯而戍周。 冬,十一月,乙卯,鄭殺子華。 十二月,會于淮,謀鄫,且東略也。 城鄫,役人病,有夜登丘而呼曰:「齊有亂。」不果城而還。 僖公十七年 經 十有七年春,齊人、徐人伐英氏。 夏,滅項。 秋,夫人姜氏會齊侯于卞。 九月,公至自會。 冬,十有二月,乙亥,齊侯小白卒。 傳 十七年春,齊人為徐伐英氏,以報婁林之役也。 夏,晉大子圉為質於秦,秦歸河東而妻之。 惠公之在梁也,梁伯妻之。梁嬴孕,過期。卜招父與其子卜之,其子曰:「將生一男一女。」招曰:「然。男為人臣,女為人妾。」故名男曰圉,女曰妾。及子圉西質,妾為宦女焉。 |
僖公十六年 経 十六年春、王の正月、戊申の日で朔の日に、宋に五つの隕石が落ちた。その月、六羽の鷁が後ろ向きに飛んで、宋の都を通過した。 三月、壬申の日、公子季友が死去した。 夏、四月、丙申の日、鄫の季姬が死去した。 秋、七月、甲子の日、公孫茲が死去した。 冬、十二月、公は斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・邢侯・曹伯と淮で会合した。 伝 十六年春、宋に五つの隕石が落ちたのは、星が落ちたのである。六羽の鷁が後ろ向きに飛んで宋の都を通過したのは、風のせいである。周の内史叔興が宋に聘問に来た。宋襄公が彼に尋ねて言った、「これはどのような前兆か。吉凶はどこにあるのか。」叔興は答えた、「今年、魯では大きな喪が多く、来年、斉には乱が起こるでしょう。君は諸侯を得るでしょうが、最後まで保てないでしょう。」退出してから人に告げて言った、「君は質問を誤られた。これは陰陽のことであって、吉凶が生じるものではない。吉凶は人によって生じるのだ。私は君の意に逆らうことを敢えてしなかっただけだ。」 夏、斉は厲を攻めたが、勝てなかった。徐を救援して帰還した。 秋、狄が晋に侵入し、狐・廚・受鐸を奪い、汾水を渡り、昆都に達した。晋が敗れたためである。 王は戎の難を斉に告げ、斉は諸侯を徴発して周を守らせた。 冬、十一月、乙卯の日、鄭は子華を殺した。 十二月、淮で会合し、鄫について謀り、また東方への経略を行った。 鄫に城を築こうとしたが、労役の人々が疲弊し、ある夜、丘に登って叫ぶ者がいた、「斉に乱が起こった。」結局、城を築かずに帰還した。 僖公十七年 経 十七年春、斉人と徐人が英氏を攻めた。 夏、項を滅ぼした。 秋、夫人姜氏が卞で斉侯と会合した。 九月、公は会合から帰国した。 冬、十二月、乙亥の日、斉侯小白が死去した。 伝 十七年春、斉人は徐のために英氏を攻めた。婁林の戦いの報復である。 夏、晋の太子圉が秦に人質として行き、秦は河東を返還し、彼に妻を与えた。 恵公が梁にいたとき、梁伯は彼に妻を与えた。梁嬴は妊娠したが、出産予定日を過ぎた。卜招父とその子が占った。その子は言った、「一男一女が生まれるでしょう。」招は言った、「その通りだ。男は人の臣となり、女は人の妾となるだろう。」そこで男を圉と名付け、女を妾と名付けた。子圉が西方に人質として行ったとき、妾は宮中の女官となった。 解説 この一節は、『春秋左氏伝』の僖公十六年から十七年にかけての経(本文)と伝(解説)を収めた部分です。僖公十六年の経では、宋に隕石が五つ落下し、六羽の鷁が逆風で後退飛行するという異常現象が記され、その後、魯の公子季友や鄫の季姬、公孫茲の死、そして淮での諸侯会合が簡潔に記録されています。伝では、これらの異常現象について宋襄公が周の内史叔興に吉凶を尋ねる場面が詳述され、叔興は内心では「吉凶は人に由来する」と考えつつも、襄公の意に逆らわずに予言めいた答えを返したことが描かれます。また、斉の厲攻めの失敗、狄の晋侵攻、周王室の戎難に対する斉の対応、鄭の内紛、鄫への築城計画が労役者の叫びによって中止される経緯などが語られます。 僖公十七年の経では、斉と徐による英氏攻め、項の滅亡、魯の夫人姜氏と斉侯の会合、斉侯小白(桓公)の死が記されます。伝では、英氏攻めが婁林の戦いの報復であること、晋の太子圉が秦に人質として送られ、秦から河東の地と妻を与えられたこと、さらに恵公が梁にいたときに生まれた子圉と妾の命名にまつわる占いの逸話が紹介されます。この占いでは、男は人臣に、女は人妾になるという予言がなされ、後に子圉が西方の人質となり、妾が宮中の女官となったことで予言が的中したとされます。 全体として、この部分は春秋時代中期の国際関係や諸侯間の駆け引き、異常現象に対する当時の解釈、占いの役割などを伝える貴重な記述となっています。 Translation took 3674.8 seconds. |
| 師滅項。淮之會,公有諸侯之事,未歸而取項。齊人以為討而止公。 秋,聲姜以公故,會齊侯于卞。 九月,公至。書曰「至自會」,猶有諸侯之事焉,且諱之也。 齊侯之夫人三,王姬、徐嬴、蔡姬,皆無子。齊侯好內,多內寵,內嬖如夫人者六人:長衛姬生武孟,少衛姬生惠公,鄭姬生孝公,葛嬴生昭公,密姬生懿公,宋華子生公子雍。公與管仲屬孝公於宋襄公,以為大子。 雍巫有寵於衛共姬,因寺人貂以薦羞於公,亦有寵。公許之,立武孟。管仲卒,五公子皆求立。 冬,十月,乙亥,齊桓公卒。易牙入,與寺人貂因內寵以殺群吏,而立公子無虧。孝公奔宋。 十二月,乙亥,赴。辛巳,夜殯。 僖公十八年 經 十有八年春,王正月,宋公、曹伯、衛人、邾人,伐齊。 夏,師救齊。 五月,戊寅,宋師及齊師戰于甗,齊師敗績。狄救齊。 秋,八月,丁亥,葬齊桓公。 冬,邢人、狄人伐衛。 傳 十八年春,宋襄公以諸侯伐齊。 三月,齊人殺無虧。 鄭伯始朝于楚。楚子賜之金,既而悔之,與之盟曰:「無以鑄兵。」故以鑄三鍾。 齊人將立孝公,不勝四公子之徒,遂與宋人戰。 夏,五月,宋敗齊師于甗,立孝公而還。 秋,八月,葬齊桓公。 冬,邢人、狄人伐衛,圍菟圃。衛侯以國讓父兄子弟,及朝眾,曰:「苟能治之,燬請從焉。」眾不可,而從師于訾婁。狄師還。 |
現代日本語訳 軍が項を滅ぼした。淮の会合の際、公(魯の僖公)には諸侯との用事があり、まだ帰国しないうちに項を取った。斉の人々はこれを討伐の口実として公を拘留した。 秋、声姜は公のため、卞で斉侯と会見した。 九月、公は帰国した。『春秋』には「会合から帰還した」と書かれているが、それはなお諸侯との用事があったためであり、またそのことを忌み隠したのである。 斉侯の夫人は三人いて、王姫・徐嬴・蔡姫といったが、いずれも子がなかった。斉侯は女色を好み、多くの内寵がおり、夫人に準ずる寵姫が六人いた。長衛姫は武孟を生み、少衛姫は恵公を生み、鄭姫は孝公を生み、葛嬴は昭公を生み、密姫は懿公を生み、宋華子は公子雍を生んだ。公(斉侯)は管仲とともに孝公を宋の襄公に託し、太子とした。 雍巫(易牙)は衛の共姫に寵愛されており、寺人の貂を通じて公に美味を献上し、同じく寵愛を受けた。公は彼の願いを許し、武孟を立てることを約束した。管仲が死ぬと、五人の公子は皆、即位を求めた。 冬、十月乙亥、斉の桓公が死去した。易牙が宮中に入り、寺人の貂とともに内寵を利用して群臣の吏を殺し、公子無虧を立てた。孝公は宋に奔った。 十二月乙亥、訃報が発せられた。辛巳、夜に棺に納めた。 僖公十八年 経 十八年春、王の正月、宋公・曹伯・衛人・邾人が斉を討った。 夏、軍が斉を救援した。 五月戊寅、宋軍と斉軍が甗で戦い、斉軍は大敗した。狄が斉を救援した。 秋、八月丁亥、斉の桓公を葬った。 冬、邢人・狄人が衛を討った。 伝 十八年春、宋の襄公は諸侯を率いて斉を討った。 三月、斉の人々は無虧を殺した。 鄭伯は初めて楚に朝見した。楚子は彼に銅を賜ったが、その後で後悔し、彼と盟約して「これで兵器を鋳造してはならない」と言った。そこで三つの鐘を鋳造した。 斉の人々は孝公を立てようとしたが、四公子の徒党に勝てず、そこで宋人と戦った。 夏、五月、宋は甗で斉軍を破り、孝公を立てて帰還した。 秋、八月、斉の桓公を葬った。 冬、邢人・狄人が衛を討ち、菟圃を包囲した。衛侯は国を父兄子弟に譲ろうとし、朝廷の衆に臨んで「もし国をうまく治められる者がいるなら、私、燬はその者に従おう」と言った。衆はそれを許さず、訾婁で軍に従った。狄の軍は引き揚げた。 解説 この一節は、春秋左氏伝の僖公十七年から十八年にかけての記述です。前半は魯の僖公が斉に拘留された事件とその釈放、後半は斉の桓公の死と後継者争い、そして宋の襄公による介入を描いています。 斉の桓公は多くの寵姫と公子を持ち、管仲とともに孝公を太子として宋の襄公に託していましたが、寵臣の易牙と寺人の貂が内寵と結託して公子無虧を立て、孝公は宋へ亡命します。桓公の死後、五人の公子が後継を争い、斉は内乱状態に陥ります。宋の襄公は諸侯を率いて斉を攻め、無虧を殺させ、甗の戦いで斉軍を破って孝公を即位させました。 また、鄭伯が楚に朝見し、銅を賜るが兵器鋳造を禁じられ、鐘を鋳造した逸話や、衛が邢・狄の侵攻を受けて衛侯が国を譲ろうとする場面も記されています。この時期の諸侯間の勢力争いと、斉の覇権の動揺がよく表れた箇所です。 Translation took 1803.2 seconds. |
| 梁伯益其國而不能實也,命曰「新里」,秦取之。 僖公十九年 經 十有九年春,王三月,宋人執滕子嬰齊。 夏,六月,宋公、曹人、邾人盟于曹南。鄫子會盟于邾。己酉,邾人執鄫子用之。 秋,宋人圍曹。衛人伐邢。 冬,會陳人、蔡人、楚人、鄭人,盟于齊。梁亡。 傳 十九年春,遂城而居之。 宋人執滕宣公。 夏,宋公使邾文公用鄫子于次睢之社,欲以屬東夷。司馬子魚曰:「古者六畜不相為用,小事不用大牲,而況敢用人乎?祭祀以為人也。民,神之主也。用人,其誰饗之?齊桓公存三亡國以屬諸侯,義士猶曰薄德。今一會而虐二國之君,又用諸淫昏之鬼,將以求霸,不亦難乎?得死為幸。」 秋,衛人伐邢,以報菟圃之役。於是衛大旱,卜有事於山川,不吉。甯莊子曰:「昔周饑,克殷而年豐。今邢方無道,諸侯無伯,天其或者欲使衛討邢乎?」從之,師興而雨。 宋人圍曹,討不服也。子魚言於宋公曰:「文王聞崇德亂而伐之,軍三旬而不降。退脩教而復伐之,因壘而降。《詩》曰:『刑于寡妻,至于兄弟,以御于家邦。』今君德無乃猶有所闕,而以伐人,若之何?盍姑內省德乎,無闕而後動。」 陳穆公請脩好於諸侯,以無忘齊桓之德。 冬,盟于齊,脩桓公之好也。 梁亡,不書其主,自取之也。初,梁伯好土功,亟城而弗處,民罷而弗堪,則曰「某寇將至。」乃溝公宮,曰:「秦將襲我。」民懼而潰,秦遂取梁。 僖公二十年 經 |
現代日本語訳 梁伯は自国の領土を広げたが、そこに民を住まわせて実質的に支配することができず、「新里」と名付けた。秦がこれを奪い取った。 僖公十九年 経 十九年春、周王の暦の三月、宋人が滕の子嬰齊を捕らえた。 夏、六月、宋公・曹人・邾人が曹の南で盟約を結んだ。鄫子が邾で会盟に参加した。己酉の日、邾人が鄫子を捕らえて、これを生贄として用いた。 秋、宋人が曹を包囲した。衛人が邢を攻撃した。 冬、陳人・蔡人・楚人・鄭人と会合し、斉で盟約を結んだ。梁が滅亡した。 伝 十九年春、そこで城を築いてそこに住んだ。 宋人が滕の宣公を捕らえた。 夏、宋公が邾の文公に命じて、鄫子を次睢の社で生贄として用いさせた。東夷を服属させようとしたのである。司馬の子魚が言った。「昔は六畜を互いに生贄として用いることはなかった。小さな事には大きな犠牲を用いない。ましてや人を用いることなど、あえてできようか。祭祀は人のために行うものである。民は神の主である。人を用いれば、誰がその供え物を享受するだろうか。斉の桓公は三つの滅亡した国を存続させて諸侯を従属させたが、義士でさえも徳が薄いと言った。今、一度の会合で二国の君主を虐げ、さらに淫らで昏い鬼に供え物として用いようとして、覇を求めようとするのは、難しいことではないか。死ねるだけでも幸いである。」 秋、衛人が邢を攻撃した。菟圃の戦いの報復としてである。このとき衛は大旱魃となり、山川に祭祀を行うことを占ったが、吉ではなかった。甯荘子が言った。「昔、周が飢饉になったとき、殷に勝って年が豊かになった。今、邢はまさに無道であり、諸侯には覇者がいない。天はあるいは衛に邢を討たせようとしているのではないか。」これに従い、軍を起こすと雨が降った。 宋人が曹を包囲した。服従しないことを討つためである。子魚が宋公に言った。「文王は崇の徳が乱れていると聞いてこれを討ったが、軍は三十日たっても降伏しなかった。退いて教化を修めて再び討つと、砦に寄るだけで降伏した。『詩経』には『寡妻に手本を示し、兄弟に及び、それで家や国を治める』とある。今、君の徳にはまだ欠けたところがあるのではないか。それで人を討とうとするのは、どういうことか。しばらく内に徳を省みて、欠けたところがなくなってから動くべきではないか。」 陳の穆公が諸侯との友好を修めることを請うた。斉の桓公の徳を忘れないためである。 冬、斉で盟約した。桓公の友好関係を修めるためである。 梁が滅亡した。その君主を記さないのは、自ら招いたことだからである。初め、梁伯は土木工事を好み、しばしば城を築いたが住まなかった。民は疲弊して耐えられず、すると「某の寇が来るだろう」と言った。そこで公宮の周りに堀を掘り、「秦が我々を襲うだろう」と言った。民は恐れて逃げ散り、秦はついに梁を取った。 僖公二十年 経 解説 この一節は、『春秋左氏伝』僖公十九年(紀元前641年)の経文と伝文、および僖公二十年の経文の冒頭部分です。内容は、春秋時代の諸侯国間の争いと、それにまつわる教訓的な逸話が中心です。 主な出来事としては、以下の点が挙げられます。
全体として、この一節は、春秋時代の国際関係と、為政者の徳の重要性を説く『左伝』の特徴的な叙述がよく現れています。特に、子魚の諫言は、後の儒家思想にも通じる人道主義的な要素を含んでおり、注目に値します。 Translation took 4393.4 seconds. |
| 二十年春,新作南門。 夏,郜子來朝。 五月,乙巳,西宮災。鄭人入滑。 秋,齊人、狄人盟于邢。 冬,楚人伐隨。 傳 二十年春,新作南門。書,不時也。凡啟塞從時。 滑人叛鄭,而服於衛。 夏,鄭公子士、洩堵寇,帥師入滑。 秋,齊狄盟于邢,為邢謀衛難也。於是衛方病邢。 隨以漢東諸侯叛楚。 冬,楚鬭穀於菟帥師伐隨,取成而還。 君子曰:「隨之見伐,不量力也。量力而動,其過鮮矣。善敗由己,而由人乎哉?《詩》曰:『豈不夙夜,謂行多露。』」 宋襄公欲合諸侯。臧文仲聞之曰:「以欲從人則可,以人從欲鮮濟。」 僖公二十一年 經 二十有一年春,狄侵衛。宋人、齊人、楚人盟于鹿上。 夏,大旱。 秋,宋公、楚子、陳侯、蔡侯、鄭伯、許男、曹伯,會于盂,執宋公以伐宋。 冬,公伐邾。楚人使宜申來獻捷。 十有二月,癸丑,公會諸侯盟于薄。釋宋公。 傳 二十一年春,宋人為鹿上之盟,以求諸侯於楚,楚人許之。公子目夷曰:「小國爭盟,禍也。宋其亡乎,幸而後敗。」 夏,大旱,公欲焚巫、尫。臧文仲曰:「非旱備也。脩城郭,貶食省用,務穡勸分,此其務也,巫、尫何為?天欲殺之,則如勿生。若能為旱,焚之滋甚。」公從之。是歲也,饑而不害。 |
翻訳文 二十年春、南門を新たに造営した。 夏、郜の子が来朝した。 五月乙巳の日、西宮で火災があった。鄭の軍が滑に侵入した。 秋、斉の人と狄の人が邢で盟約を結んだ。 冬、楚の人が隨を攻めた。 伝 二十年春、南門を新たに造営した。これを記録したのは、時節にかなっていなかったからである。およそ門を開け閉めする設備(啓塞)は時節に従うべきである。 滑の人が鄭に背き、衛に服属した。 夏、鄭の公子士と洩堵寇が軍を率いて滑に侵入した。 秋、斉と狄が邢で盟約したのは、邢のために衛の脅威に対処しようとしたからである。このとき衛はちょうど邢を苦しめていた。 隨は漢水の東の諸侯とともに楚に背いた。 冬、楚の鬭穀於菟が軍を率いて隨を攻め、和を結んで帰還した。 君子は言う、「隨が攻められたのは、自分の力を量らなかったからだ。力を量って行動すれば、過ちは少ない。善し悪しは自分に由来するのであって、他人に由来するだろうか。『詩経』には『早く夜を徹して行かないわけではないが、道に露が多いからだ』とある。」 宋の襄公は諸侯を糾合しようとした。臧文仲はこれを聞いて言った、「自分の欲望を他人に従わせるのはよいが、他人を自分の欲望に従わせるのはほとんど成功しない。」 僖公二十一年 経 二十一年春、狄が衛に侵入した。宋の人、斉の人、楚の人が鹿上で盟約した。 夏、大旱魃があった。 秋、宋公、楚子、陳侯、蔡侯、鄭伯、許男、曹伯が盂で会合し、宋公を捕らえて宋を攻めた。 冬、公(魯の僖公)が邾を攻めた。楚の人が宜申を派遣して戦勝の報告に来た。 十二月癸丑の日、公は諸侯と薄で会合して盟約し、宋公を釈放した。 伝 二十一年春、宋の人は鹿上の盟約を行い、楚に対して諸侯の支持を求めた。楚の人はこれを許した。公子目夷は言った、「小国が盟約の主導権を争うのは禍である。宋はおそらく滅びるだろう。幸運でも後で敗れるだけだ。」 夏、大旱魃となり、公は巫や尫(身体の不自由な者)を焼こうとした。臧文仲は言った、「それは旱魃への備えではありません。城郭を修理し、食事を減らし費用を節約し、農業に励み分配を勧めること、これがなすべきことです。巫や尫が何をしたというのでしょう。天が彼らを殺そうとするなら、むしろ生まれさせなければよい。もし彼らが旱魃を起こせるなら、焼けばますますひどくなるでしょう。」公はこれに従った。この年は飢饉があったが、大きな害にはならなかった。 解説 この一節は、『春秋左氏伝』の僖公二十年(紀元前640年)から二十一年(紀元前639年)にかけての記録です。『春秋』の経文(簡潔な年次記録)と、それを補足・解説する左氏伝の本文が含まれています。 僖公二十年の経では、魯の南門造営、郜の来朝、西宮の火災、鄭の滑侵攻、斉と狄の邢での盟約、楚の隨攻めが記されます。伝では、南門造営が季節外れだったことへの批判、滑の離反と鄭の反応、斉と狄の盟約の背景(衛の脅威に対抗するため)、隨の反乱と楚の討伐、そして「君子曰」として隨の敗因を「力不自量」と評する教訓が述べられます。また、宋の襄公が諸侯を糾合しようとしたことに対し、臧文仲が「自分の欲望を他人に従わせるのはよいが、他人を自分の欲望に従わせるのは難しい」と警告した言葉も記されます。 僖公二十一年の経では、狄の衛侵攻、宋・斉・楚の鹿上の盟約、大旱魃、盂の会合での宋公捕縛と宋攻め、魯の邾攻め、楚からの戦勝報告、薄での盟約と宋公釈放が記されます。伝では、鹿上の盟約が小国である宋にとって危険であるという公子目夷の予言、大旱魃に際して魯の僖公が巫や尫を焼いて雨乞いをしようとしたのに対し、臧文仲が迷信を排し、現実的な対策(城郭の修理、節約、農業振興)を進言して公がそれに従ったという逸話が語られます。この臧文仲の合理的な考え方は、当時としては先進的であり、左氏伝の筆者が評価している点です。 全体として、小国が大国の争いに巻き込まれる危険性や、為政者が迷信に頼らず現実的な政策をとることの重要性がテーマとして浮かび上がります。 Translation took 3105.7 seconds. |
| 秋,諸侯會宋公于盂。子魚曰:「禍其在此乎?君欲已甚,其何以堪之?」於是楚執宋公以伐宋。 冬,會于薄以釋之。子魚曰:「禍猶未也,未足以懲君。」 任、宿、須句、顓臾,風姓也。實司大皞與有濟之祀,以服事諸夏。邾人滅須句,須句子來奔,因成風也。成風為之言於公曰:「崇明祀,保小寡,周禮也。蠻夷猾夏,周禍也。若封須句,是崇皞濟而脩祀紓禍也。」 僖公二十二年 經 二十有二年春,公伐邾,取須句。 夏,宋公、衛侯、許男、滕子伐鄭。 秋,八月,丁未,及邾人戰于升陘。 冬,十有一月,己巳,朔,宋公及楚人戰于泓,宋師敗績。 傳 二十二年春,伐邾,取須句,反其君焉,禮也。 三月,鄭伯如楚。 夏,宋公伐鄭。子魚曰:「所謂禍在此矣。」 初,平王之東遷也,辛有適伊川,見被髮而祭於野者,曰:「不及百年,此其戎乎!其禮先亡矣。」 秋,秦、晉遷陸渾之戎于伊川。 晉大子圉為質於秦,將逃歸,謂嬴氏曰:「與子歸乎?」對曰:「子,晉大子,而辱於秦。子之欲歸,不亦宜乎?寡君之使婢子侍執巾櫛,以固子也。從子而歸,棄君命也。不敢從,亦不敢言。」遂逃歸。 富辰言於王曰:「請召大叔。《詩》曰:『協比其鄰,昏姻孔云。』吾兄弟之不協,焉能怨諸侯之不睦?」王說。王子帶自齊復歸于京師,王召之也。 |
秋、諸侯が盂で宋公と会合した。子魚が言った、「災いはおそらくここにあるだろうか?君主の欲望があまりにも甚だしい。どうしてそれに耐えられようか?」そこで楚は宋公を捕らえて宋を攻めた。 冬、薄で会合して宋公を釈放した。子魚が言った、「災いはまだ終わっていない。君主を懲らしめるには十分ではない。」 任、宿、須句、顓臾は風姓である。実際に大皞と有済の祭祀を司り、諸夏に仕えていた。邾人が須句を滅ぼしたので、須句の子が魯に逃げて来た。成風の縁故による。成風が魯公のために言った、「明らかな祭祀を尊び、小国や寡弱な国を保護することは周の礼である。蛮夷が夏を乱すことは周の災いである。もし須句を封じるならば、それは皞と済を尊び、祭祀を修めて災いを除くことである。」 僖公二十二年 経 二十二年春、公が邾を攻め、須句を取った。 夏、宋公・衛侯・許男・滕子が鄭を攻めた。 秋、八月丁未、邾人と升陘で戦った。 冬、十一月己巳朔、宋公が楚人と泓で戦い、宋軍は大敗した。 伝 二十二年春、邾を攻め、須句を取り、その君主を帰国させた。礼にかなっている。 三月、鄭伯が楚に行った。 夏、宋公が鄭を攻めた。子魚が言った、「いわゆる災いがここにある。」 初め、平王が東遷したとき、辛有が伊川に行き、髪を振り乱して野で祭祀を行う者を見て、言った、「百年も経たないうちに、ここは戎の地となるだろう!その礼が先に亡びている。」 秋、秦と晋が陸渾の戎を伊川に移した。 晋の太子圉が秦で人質となっていたが、逃げ帰ろうとして、嬴氏に言った、「あなたと一緒に帰ろうか?」嬴氏は答えた、「あなたは晋の太子でありながら、秦で辱めを受けている。あなたが帰りたいと思うのは、もっともなことではないか。わが君が私にあなたの身の回りの世話をさせているのは、あなたを引き留めるためです。あなたに従って帰れば、君命を捨てることになる。従うこともできず、また口外することもできません。」そこで太子圉は逃げ帰った。 富辰が王に言った、「大叔を召し戻してください。『詩』に『隣人と協力し、婚姻を非常に重んじる』とあります。我々兄弟が不和であれば、どうして諸侯の不仲を怨むことができましょうか。」王は喜んだ。王子帯は斉から京師に再び帰った。王が召したのである。 【解説】 主な内容は以下の通りです。
全体として、春秋時代の国際関係や礼制、予言とその成就、忠義や兄弟間の不和などが描かれた箇所です。 Translation took 3515.0 seconds. |
| 邾人以須句故出師。公卑邾,不設備而禦之。臧文仲曰:「國無小,不可易也。無備雖眾,不可恃也。《詩》曰:『戰戰兢兢,如臨深淵,如履薄冰。』又曰:『敬之敬之,天惟顯思,命不易哉!』先王之明德,猶無不難也,無不懼也,況我小國乎?君其無謂邾小,蜂、蠆有毒,而況國乎?」弗聽。 八月,丁未,公及邾師戰于升陘,我師敗績。邾人獲公冑,縣諸魚門。 楚人伐宋以救鄭。宋公將戰,大司馬固諫曰:「天之棄商久矣,君將興之,弗可赦也已。」弗聽。 冬,十一月,己巳,朔,宋公及楚人戰于泓。宋人既成列,楚人未既濟。司馬曰:「彼眾我寡,及其未既濟也,請擊之。」公曰:「不可。」既濟而未成列,又以告。公曰:「未可。」既陳而後擊之,宋師敗績,公傷股,門官殲焉。 國人皆咎公。公曰:「君子不重傷,不禽二毛。古之為軍也,不以阻隘也。寡人雖亡國之餘,不鼓不成列。」子魚曰:「君未知戰。勍敵之人,隘而不列,天贊我也。阻而鼓之,不亦可乎?猶有懼焉。且今之勍者,皆吾敵也。雖及胡耇,獲則取之,何有於二毛?明恥教戰,求殺敵也。傷未及死,如何勿重?若愛重傷,則如勿傷。愛其二毛,則如服焉。三軍以利用也,金鼓以聲氣也。利而用之,阻隘可也。聲盛致志,鼓儳可也。」 丙子晨,鄭文夫人芊氏、姜氏勞楚子於柯澤。楚子使師縉示之俘馘。 |
邾の人が須句の件を理由に出兵した。魯の公(僖公)は邾を軽んじ、防備を整えずに迎え撃とうとした。臧文仲が言った、「国は小さくても侮ってはなりません。備えがなければ、たとえ兵が多くても頼りにはなりません。『詩経』には『戦々兢々として、深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し』とあり、また『敬めよ敬めよ、天は明らかに見ておられる、天命は保ちがたいものだ』ともあります。先王の明徳をもってしても、なお難しいと感じないことはなく、恐れないことはなかったのです。ましてや我が小国においてはなおさらです。君よ、邾が小さいからといって侮ってはなりません。蜂や蠆(さそり)にも毒があります。まして国においてはなおさらです」と。しかし公は聞き入れなかった。 八月、丁未の日、公は邾の軍と升陘で戦い、我が軍は大敗した。邾の人は公の兜を奪い、魚門に掲げた。 楚の人が宋を攻めて鄭を救おうとした。宋の公(襄公)は戦おうとしたが、大司馬の固が強く諫めて言った、「天が商(宋)を見捨てて久しいのです。君がこれを再興しようとしても、赦されることはありません」と。しかし公は聞き入れなかった。 冬、十一月、己巳の朔の日、宋の公は楚の軍と泓で戦った。宋の軍はすでに陣列を整えていたが、楚の軍はまだ川を渡り終えていなかった。司馬が言った、「敵は多く我が方は少ないのです。敵がまだ渡り終えないうちに、どうか攻撃させてください」と。公は「いけない」と言った。楚の軍が渡り終えたがまだ陣列を整えていないとき、再び司馬が進言した。公は「まだいけない」と言った。楚の軍が陣列を整えてから宋軍は攻撃したが、宋の軍は大敗し、公は腿に傷を負い、門官は皆殺しにされた。 宋の国人は皆、公を責めた。公は言った、「君子は重傷を負った者をさらに傷つけず、白髪交じりの者を捕虜にしない。古の戦いでは、険しい場所を利用して敵を攻めることはしなかった。私はたとえ亡国の末裔であっても、陣列を整えていない敵に太鼓を打って攻撃はしない」と。子魚は言った、「君は戦いというものをご存じない。強敵が隘路にいて陣列を整えていないのは、天が我々を助けているのです。その隘路で太鼓を打って攻撃するのは、当然のことではありませんか。それでもなお恐れるべきです。ましてや今の強敵は皆、我々の敵です。たとえ老人であっても、捕らえられるなら捕らえるべきです。白髪交じりだからといって何を遠慮することがありましょうか。恥を知らせ戦いを教えるのは、敵を殺すことを求めるためです。傷を負ってまだ死んでいない者を、どうして再び傷つけてはいけないのでしょうか。もし重傷者をいたわるなら、最初から傷つけなければよいのです。白髪交じりをいたわるなら、むしろ降伏すべきです。三軍は有利な状況で用いるべきであり、金鼓は士気を高めるためのものです。有利ならばそれを用い、隘路で攻めるのも可です。士気が盛んであれば、乱れた敵に太鼓を打って攻めるのも可です」と。 丙子の朝、鄭の文公の夫人である芊氏と姜氏が、柯沢で楚の子(成王)を労った。楚の子は師縉に命じて、捕虜と戦死者の耳を見せた。 【解説】 Translation took 3106.2 seconds. |
| 君子曰:「非禮也。婦人送迎不出門,見兄弟不踰閾,戎事不邇女器。」 丁丑,楚子入饗于鄭。九獻,庭實旅百,加籩豆六品。饗畢,夜出,文芊送于軍。取鄭二姬以歸。 叔詹曰:「楚王其不沒乎?為禮卒於無別。無別不可謂禮,將何以沒?」諸侯是以知其不遂霸也。 僖公二十三年 經 二十有三年春,齊侯伐宋,圍緡。 夏,五月,庚寅,宋公茲父卒。 秋,楚人伐陳。 冬,十有一月,杞子卒。 傳 二十三年春,齊侯伐宋,圍緡,以討其不與盟于齊也。 夏,五月,宋襄公卒,傷於泓故也。 秋,楚成得臣帥師伐陳,討其貳於宋也。遂取焦、夷,城頓而還。子文以為之功使為令尹。叔伯曰:「子若國何?」對曰:「吾以靖國也。夫有大功而無貴仕,其人能靖者與,有幾?」 九月,晉惠公卒。 懷公命無從亡人。期期而不至,無赦。狐突之子毛及偃,從重耳在秦,弗召。 冬,懷公執狐突曰:「子來則免。」對曰:「子之能仕,父教之忠,古之制也。策名委質,貳乃辟也。今臣之子,名在重耳,有年數矣。若又召之,教之貳也。父教子貳,何以事君?刑之不濫,君之明也,臣之願也。淫刑以逞,誰則無罪?臣聞命矣。」乃殺之。 卜偃稱疾不出,曰:「《周書》有之:『乃大明服。』己則不明,而殺人以逞,不亦難乎?民不見德,而唯戮是聞,其何後之有?」 |
君子が言った。「礼に反する。婦人は送迎に門を出ず、兄弟に会うにも敷居を越えず、軍事において女性の器物を近づけないものだ。」 丁丑の日、楚の子(成王)が鄭に入って饗応を受けた。九回の献酌があり、庭には礼物が百種並び、さらに籩豆に六品の料理が加えられた。饗宴が終わり、夜に出発すると、文芊が軍中まで見送った。楚王は鄭の二人の姫を連れて帰った。 叔詹が言った。「楚王はおそらく天寿を全うできないだろう。礼を行いながら、結局は男女の区別がないことに終わった。区別がなければ礼とは言えない。どうして天寿を全うできようか。」諸侯はこれによって、楚王が覇業を遂げられないことを知った。 僖公二十三年 経 二十三年春、斉侯が宋を攻め、緡を包囲した。 夏、五月、庚寅の日、宋公茲父が死去した。 秋、楚人が陳を攻めた。 冬、十一月、杞子が死去した。 伝 二十三年春、斉侯が宋を攻めて緡を包囲したのは、宋が斉との盟約に参加しなかったことを討つためであった。 夏、五月、宋襄公が死去した。泓の戦いでの傷が原因である。 秋、楚の成得臣が軍を率いて陳を攻めた。陳が宋に二心を抱いたことを討つためである。そこで焦と夷を奪い、頓に城を築いて帰還した。子文はこれを彼の功績として、令尹に任命した。叔伯が言った。「あなたは国をどうなさるおつもりか。」答えて言った。「私は国を安定させようとしているのだ。大功がありながら高い官職に就かない者が、その人が国を安定させることができるだろうか、ほとんどいないだろう。」 九月、晋の恵公が死去した。 懐公は命じた。亡命者(重耳)に従ってはならないと。期限を過ぎて帰参しない者は赦さないと。狐突の子の毛と偃は、重耳に従って秦におり、召還されなかった。 冬、懐公は狐突を捕らえて言った。「お前の子らが来れば赦免する。」狐突は答えた。「子が仕官できるのは、父が忠を教えるからです。これは古くからの制度です。名を記して身を委ねた以上、二心を抱けば罪となります。今、私の子らは重耳に名を連ねてすでに数年になります。もし再び彼らを召還すれば、二心を教えることになります。父が子に二心を教えて、どうして主君に仕えられましょうか。刑罰が濫りに及ばないのは、君の明察であり、私の願うところです。濫りな刑罰で威を示そうとすれば、誰が無罪でありましょうか。私はご命令を承知しました。」そこで彼を殺した。 卜偃は病と称して出仕せず、言った。「『周書』にこうある。『すなわち大いに明らかにして服せしむ』と。自分が明らかでないのに、人を殺して威を示そうとするのは、難しいことではないか。民は徳を見ず、ただ殺戮のことだけを聞くなら、どうして後継者が保てようか。」 【解説】 この一節は、『春秋左氏伝』僖公二十三年の記事です。前半は、楚の成王が鄭を訪問した際の非礼な振る舞いを批判する内容です。特に、鄭の夫人である文芊が軍中まで見送りに出たこと、楚王が鄭の二人の姫を連れ去ったことが、「礼」における男女の区別を欠く行為として非難されています。叔詹の言葉は、礼の本質は「別(区別)」にあるという当時の考え方を示しており、楚王の覇業が成就しないことを予言しています。 後半は、晋の国内事情です。恵公の死後、懐公が即位しますが、亡命中の重耳(後の文公)に従う者たちへの弾圧を強めます。狐突は、子の毛と偃が重耳に仕えていることを理由に召還を拒否し、父として子に忠義を教えることの重要性を説いて処刑されます。卜偃の言葉は、為政者が徳を示さず刑罰のみで民を統治しようとすることの危うさを指摘し、懐公の政権が長続きしないことを暗示しています。 全体として、礼の重要性と、徳による統治の必要性という、当時の儒家思想の核心が示された箇所です。 Translation took 3390.3 seconds. |
| 十一月,杞成公卒。書曰「子」,杞夷也。不書名,未同盟也。凡諸侯同盟,死則赴以名,禮也。赴以名,則亦書之,不然則否,辟不敏也。 晉公子重耳之及於難也,晉人伐諸蒲城。蒲城人欲戰,重耳不可,曰:「保君父之命而享其生祿,於是乎得人。有人而校,罪莫大焉。吾其奔也。」遂奔狄,從者狐偃、趙衰、顛頡、魏武子、司空季子。 狄人伐廧咎如,獲其二女,叔隗、季隗,納諸公子。公子取季隗,生伯鯈、叔劉。以叔隗妻趙衰,生盾。將適齊,謂季隗曰:「待我二十五年,不來而後嫁。」對曰:「我二十五年矣,又如是而嫁,則就木焉。請待子。」處狄十二年而行。 過衛,衛文公不禮焉。出於五鹿,乞食於野人,野人與之塊。公子怒,欲鞭之。子犯曰:「天賜也。」稽首受而載之。 及齊,齊桓公妻之,有馬二十乘。公子安之,從者以為不可,將行,謀於桑下。蠶妾在其上,以告姜氏。姜氏殺之,而謂公子曰:「子有四方之志,其聞之者,吾殺之矣。」公子曰:「無之。」姜曰:「行也。懷與安,實敗名。」公子不可。姜與子犯謀,醉而遣之。醒,以戈逐子犯。 及曹,曹共公聞其駢脅,欲觀其裸。浴,薄而觀之。僖負羈之妻曰:「吾觀晉公子之從者,皆足以相國。若以相,夫子必反其國。反其國,必得志於諸侯。得志於諸侯,而誅無禮,曹其首也。子盍蚤自貳焉?」乃饋盤飧,寘璧焉。公子受飧反璧。 |
十一月、杞の成公が死去した。『春秋』に「子」と書いてあるのは、杞が夷狄の国だからである。名を書かないのは、まだ同盟を結んでいないからである。およそ諸侯が同盟を結んでいれば、死んだ場合には名を記して赴告(訃報)するのが礼である。名を記して赴告すれば、『春秋』にもそれを書くが、そうでなければ書かない。不正確な記述を避けるためである。 晋の公子重耳が難に遭ったとき、晋の軍が蒲城を攻めた。蒲城の人々は戦おうとしたが、重耳はそれを許さず、言った。「君父の命令を守り、その与えてくれた俸禄を享受して、ここに人々の支持を得た。人々の支持がありながら君父に逆らって争うのは、これより大きな罪はない。私は亡命しよう。」そこで狄へ奔った。従者は狐偃、趙衰、顛頡、魏武子、司空季子であった。 狄の人が廧咎如を攻め、その二人の娘、叔隗と季隗を捕らえ、公子に献上した。公子は季隗を妻とし、伯鯈と叔劉を生んだ。叔隗は趙衰の妻とし、盾を生んだ。斉へ行こうとして、季隗に言った。「私を二十五年待ってくれ。それでも来なければ、その後で嫁いでよい。」季隗は答えた。「私はもう二十五歳です。さらに二十五年待って嫁ぐなら、棺桶に入る年齢です。どうかあなたをお待ちします。」狄に十二年滞在してから出発した。 衛を通過したが、衛の文公は礼を尽くさなかった。五鹿に出たとき、野人に食べ物を乞うと、野人は土の塊を与えた。公子は怒って鞭で打とうとした。子犯が言った。「これは天の賜物です。」公子は稽首してそれを受け取り、車に載せた。 斉に着くと、斉の桓公は公子に妻を与え、馬二十乗を与えた。公子はその生活に安住した。従者たちはこれではいけないと考え、出発しようとして、桑の木の下で密談した。蚕を飼う下女がその上にいて、これを姜氏に告げた。姜氏はその下女を殺し、公子に言った。「あなたには天下を巡る志があります。その話を聞いた者は私が殺しました。」公子は言った。「そんなことはない。」姜氏は言った。「出発なさい。故郷を懐かしみ安楽に浸ることは、本当に名声を台無しにします。」公子は承知しなかった。姜氏は子犯と謀り、公子を酒に酔わせて送り出した。公子は目を覚ますと、戈を持って子犯を追いかけた。 曹に着くと、曹の共公は重耳の肋骨が癒合していると聞き、その裸を見たがった。重耳が沐浴しているとき、簾越しに覗き見た。僖負羈の妻が言った。「私は晋の公子の従者たちを見ましたが、皆、国を補佐するに足る人物です。もし彼らが補佐すれば、あの方は必ず国に帰還されます。国に帰還すれば、必ず諸侯の間で志を遂げられます。諸侯の間で志を遂げて、無礼な国を討つなら、曹がその最初の標的になるでしょう。あなたは早く自分から公子に好意を示してはどうですか。」そこで僖負羈は盤に盛った食事を贈り、その中に璧を置いた。公子は食事を受け取り、璧は返した。 【解説】 Translation took 3498.1 seconds. |
| 及宋,宋襄公贈之以馬二十乘。 及鄭,鄭文公亦不禮焉。叔詹諫曰:「臣聞天之所啟,人弗及也。晉公子有三焉,天其或者將建諸,君其禮焉。男女同姓,其生不蕃。晉公子,姬出也,而至于今,一也。離外之患,而天下不靖晉國,殆將啟之,二也。有三士足以上人,而從之,三也。晉鄭同儕,其過子弟,固將禮焉,況天之所啟乎?」弗聽。 及楚,楚子饗之,曰:「公子若反晉國,則何以報不穀?」對曰:「子女玉帛,則君有之。羽毛齒革,則君地生焉。其波及晉國者,君之餘也,其何以報?」君曰:「雖然,何以報我?」對曰:「若以君之靈,得反晉國,晉楚治兵,遇於中原,其辟君三舍。若不獲命,其左執鞭弭,右屬櫜鞬,以與君周旋。」 子玉請殺之。楚子曰:「晉公子廣而儉,文而有禮。其從者肅而寬,忠而能力。晉侯無親,外內惡之。吾聞姬姓,唐叔之後,其後衰者也,其將由晉公子乎?天將興之,誰能廢之?違天必有大咎。」乃送諸秦。 秦伯納女五人,懷嬴與焉。奉匜沃盥,既而揮之。怒曰:「秦晉匹也,何以卑我?」公子懼,降服而囚。 他日,公享之。子犯曰:「吾不如衰之文也,請使衰從。」公子賦《河水》,公賦《六月》。趙衰曰:「重耳拜賜。」公子降,拜稽首,公降一級而辭焉。衰曰:「君稱所以佐天子者命重耳,重耳敢不拜?」 僖公二十四年 經 |
宋に着くと、宋の襄公は馬二十乗(八十頭)を贈った。 鄭に着くと、鄭の文公もまた礼を尽くさなかった。叔詹が諫めて言った。「私は聞いています、天が開こうとする者には、人は及ばないと。晋の公子には三つの点があります。天はあるいは彼を立てようとしているのかもしれません。君は彼に礼を尽くすべきです。男女が同姓であれば、その子孫は繁栄しません。晋の公子は姫姓の出でありながら、今日まで生き延びています。これが一つ目です。国外での患難を経験し、しかも天下が晋国を安定させようとしないのは、おそらく彼に道を開こうとしているのでしょう。これが二つ目です。三人の士がいて、十分に人より優れており、彼に従っています。これが三つ目です。晋と鄭は同格の国です。その国を訪れる子弟には、本来礼を尽くすべきです。ましてや天が開こうとする者にはなおさらではありませんか。」文公は聞き入れなかった。 楚に着くと、楚の成王が彼を饗応して言った。「公子がもし晋国に帰還なさったら、どのように私に報いてくれますか。」重耳は答えた。「男女の奴隷や玉帛は、君はすでにお持ちです。羽毛や象牙や獣の革は、君の土地から産出されます。それが晋国にまで及んでいるものは、君の余りにすぎません。どうして報いることができましょうか。」王は言った。「それでも、何か私に報いる方法はないか。」答えた。「もし君のご加護によって晋国に帰還でき、晋と楚が軍を整えて中原で出会うようなことがあれば、私は君の軍を三舎(九十里)退避しましょう。もしそれでもお許しが得られなければ、左手に鞭と弓を執り、右手に矢袋と弓袋を身につけて、君と戦いましょう。」 子玉が重耳を殺すよう求めた。楚の成王は言った。「晋の公子は度量が広くて倹約し、教養があって礼儀正しい。その従者たちは慎み深くて寛大で、忠実でよく働く。晋の恵公には親しむ者がなく、国内外から憎まれている。私は聞いている、姫姓の中で唐叔の後裔は最後に衰えると。それは晋の公子によって興るのだろうか。天が彼を興そうとしているのに、誰がそれを廃することができようか。天に逆らえば必ず大きな災いがある。」そこで重耳を秦に送り届けた。 秦の穆公は五人の娘を嫁がせ、懐嬴もその中にいた。ある日、懐嬴が匜(水差し)を持って重耳の手に水を注いで洗わせたが、重耳が洗い終わると手を振って水を払った。懐嬴は怒って言った。「秦と晋は対等の国です。どうして私を軽んじるのですか。」重耳は恐れて、喪服を着て囚人のように振る舞った。 後日、穆公が重耳を饗応した。子犯が言った。「私は趙衰ほど文才がありません。趙衰を随行させてください。」重耳は宴席で『河水』の詩を賦し、穆公は『六月』の詩を賦した。趙衰が言った。「重耳、拝して賜り物を謝せよ。」重耳は階を下りて、稽首して拝した。穆公も一級下りて辞退した。趙衰が言った。「君が天子を補佐する者の言葉をもって重耳に命じられたのです。重耳がどうして拝さずにいられましょうか。」 僖公二十四年の経 【解説】 この一節は、晋の公子重耳(後の文公)が亡命中に宋・鄭・楚・秦を歴訪する場面を描いた『春秋左氏伝』僖公二十三年から二十四年にかけての記事の続きです。重耳は父の献公の後継争いに敗れて国外に逃れ、諸国を巡っていました。 宋では襄公が馬を贈って厚遇しますが、鄭では文公が礼を尽くさず、叔詹の諫めも聞き入れません。叔詹は重耳が天に選ばれた者である証拠として、①姫姓でありながら生き延びていること、②国外の苦難を経て晋国が安定しないのは彼に道を開くためであること、③優れた三人の士(狐偃・趙衰・賈佗ら)が従っていること、の三点を挙げます。 楚では成王が重耳を歓待し、帰国後の報いを問います。重耳は楚の豊かさを認めつつ、もし晋楚が戦うことになれば「三舎を避ける」(九十里退却する)と約束します。これは後の城濮の戦いで実際に実行され、「退避三舎」の故事成語の由来となりました。成王は重耳の人柄と従者の優秀さ、そして天意を悟り、子玉の殺害要求を退けて秦へ送ります。 秦では穆公が五人の娘を与え、その一人懐嬴との間で、重耳が手を振って水を払った無礼を咎められ、謝罪する場面があります。その後、宴席で重耳が『河水』を、穆公が『六月』を賦し、趙衰の機転で重耳が拝礼します。『六月』は天子を補佐する臣下の功を歌った詩で、穆公が重耳をそのような存在と認めたことを示し、趙衰はそれを重耳に拝礼させて君臣の礼を固めました。 最後の「僖公二十四年 經」は、この後に続く経(孔子が記したとされる簡潔な記録)の見出しであり、物語の本文はここで一旦区切られます。この後、重耳は秦の援助を得て晋に帰国し、文公として即位することになります。 Translation took 5240.8 seconds. |
| 二十有四年春,王正月。 夏,狄伐鄭。 秋,七月。 冬,天王出居于鄭。晉侯夷吾卒。 傳 二十四年春,王正月,秦伯納之。不書,不告入也。 及河,子犯以璧授公子,曰:「臣負羈絏,從君巡於天下。臣之罪甚多矣,臣猶知之,而況君乎?請由此亡。」公子曰:「所不與舅氏同心者,有如白水。」投其璧于河。 濟河,圍令狐,入桑泉,取臼衰。 二月,甲午,晉師軍于廬柳。秦伯使公子縶如晉師。師退,軍于郇。辛丑,狐偃及秦、晉之大夫盟于郇。壬寅,公子入于晉師。丙午,入于曲沃。丁未,朝于武宮。戊申,使殺懷公于高梁。不書,亦不告也。 呂、郤畏偪,將焚公宮而弒晉侯。寺人披請見。公使讓之,且辭焉,曰:「蒲城之役,君命一宿,女即至。其後余從狄君以田渭濱,女為惠公來求殺余,命女三宿,女中宿至。雖有君命,何其速也?夫袪猶在,女其行乎。」對曰:「臣謂君之入也,其知之矣。若猶未也,又將及難。君命無二,古之制也。除君之惡,唯力是視。蒲人、狄人,余何有焉?今君即位,其無蒲、狄乎?齊桓公置射鉤而使管仲相。君若易之,何辱命焉?行者甚眾,豈唯刑臣?」公見之,以難告。 三月,晉侯潛會秦伯于王城。己丑,晦,公宮火。瑕甥、郤芮不獲公,乃如河上,秦伯誘而殺之。晉侯逆夫人嬴氏以歸。秦伯送衛於晉三千人,實紀綱之僕。 |
二十四年春、周王の暦の正月。 夏、狄が鄭を攻めた。 秋、七月。 冬、天王(周の襄王)が都を出て鄭に居を移した。晋侯夷吾が死去した。 伝 二十四年春、周王の暦の正月、秦伯(穆公)が公子重耳を晋に入国させた。経文に記されていないのは、入国を魯に報告しなかったからである。 河に至ったとき、子犯(狐偃)が璧を公子に差し出して言った。「私は馬の手綱を取って、君に従って天下を巡ってまいりました。私の罪は非常に多く、私自身でさえそれを自覚しております。ましてや君はなおさらでしょう。どうかここでお別れさせてください。」公子は言った。「舅氏と心を同じくしないことがあれば、この白い河の水に誓って罰を受けましょう。」そう言ってその璧を河に投げ入れた。 河を渡り、令狐を包囲し、桑泉に入り、臼衰を奪取した。 二月、甲午の日、晋の軍が廬柳に駐屯した。秦伯は公子縶を晋の軍へ派遣した。晋軍は退いて郇に駐屯した。辛丑の日、狐偃と秦・晋の大夫たちが郇で盟約を結んだ。壬寅の日、公子は晋の軍営に入った。丙午の日、曲沃に入った。丁未の日、武宮で祖先を祀る朝見を行った。戊申の日、高梁で懐公を殺させた。経文に記されていないのは、これもまた魯に報告しなかったからである。 呂甥と郤芮は圧迫を受けることを恐れ、公宮を焼いて晋侯(重耳)を殺害しようと企てた。寺人披が面会を求めた。公は彼を責め、また面会を断って言った。「蒲城の戦いのとき、君(献公)の命令では一泊してから来いと言われたのに、お前はすぐにやって来た。その後、私が狄の君に従って渭水のほとりで狩りをしたとき、お前は恵公のために私を殺しに来た。命令では三泊してから来いと言われたのに、お前は二泊目でやって来た。たとえ君の命令があったとしても、なんと速いことか。あのとき切り落とされた袖はまだ残っている。お前は立ち去るがよい。」寺人披は答えた。「私は君が国に入られた以上、その道理をすでにご理解されているものと思っておりました。もしもまだご理解されていないのであれば、再び災難に遭われるでしょう。君の命令に二心を抱かないことは、古くからの決まりでございます。君の憎しみの的を取り除くには、ただ力の限りを尽くすのみです。蒲の人や狄の人など、私にとって何の関係がありましょうか。今、君が即位されたからといって、蒲や狄のような敵がいないとお思いですか。斉の桓公は管仲に射られた鉤の怨みを捨てて、かえって彼を宰相に取り立てました。君がもしそれと逆のことをなさるなら、どうしてわざわざ私に命令など下さる必要がありましょうか。立ち去る者は大勢おります。何も私のような刑余の臣だけではありますまい。」公は彼に会い、難のことを告げられた。 三月、晋侯は密かに秦伯と王城で会見した。己丑の日、月末の日、公宮が火事になった。瑕甥(呂甥)と郤芮は公を捕らえることができず、河上へ逃れた。秦伯は彼らを誘い出して殺した。晋侯は夫人の嬴氏を迎えて帰国した。秦伯は晋へ護衛として三千人を送った。これは実質的に規律を司る有能な家臣たちであった。 【解説】 この一節は、『春秋左氏伝』僖公二十四年の条の一部で、晋の公子重耳(後の文公)が秦の穆公の支援を受けて帰国し、晋侯として即位するまでの経緯と、即位直後に起こった反乱の鎮圧を描いています。 まず経文では、周の襄王が内乱により都を逃れて鄭に滞在したこと、晋侯夷吾(恵公)の死が簡潔に記されます。続く伝文では、重耳の帰国の詳細が語られます。秦伯が重耳を送り届け、河を渡る際に家臣の子犯(狐偃)がこれまでの自らの罪を謝して別れを申し出ますが、重耳は舅氏(母方の叔父)である子犯と心を同じくすることを河の水に誓い、璧を投じて忠誠を示します。その後、晋国内の諸都市を攻略し、ついに曲沃に入って武宮で祖先を祀り、懐公を殺害して即位します。 しかし、即位後も旧臣の呂甥・郤芮らが反乱を企てます。かつて重耳を殺そうとした寺人披が面会を求め、重耳は過去の恨みからこれを責めますが、寺人披は「君命に二心なし」という古の制を説き、斉の桓公が管仲を登用した故事を引いて諫言します。重耳はこれを受け入れ、寺人披から反乱の計画を聞き出します。その後、呂甥・郤芮の反乱は失敗に終わり、秦伯の助けによって二人は殺され、重耳の政権は安定します。秦伯は護衛として三千人の有能な家臣を送り、晋と秦の緊密な関係が示されます。 この箇所は、重耳の帰国と即位、そして政権基盤の確立までを描き、忠臣の諫言や盟約、国際関係の機微が生き生きと表現されています。 Translation took 4082.0 seconds. |
| 初,晉侯之豎頭須,守藏者也。其出也,竊藏以逃,盡用以求納之。及入,求見。公辭焉以沐。謂僕人曰:「沐則心覆,心覆則圖反,宜吾不得見也。居者為社稷之守,行者為羈絏之僕,其亦可也,何必罪居者?國君而讎匹夫,懼者甚眾矣。」僕人以告,公遽見之。 狄人歸季隗于晉,而請其二子。文公妻趙衰,生原同、屏括、摟嬰。趙姬請逆盾與其母。子餘辭。姬曰:「得寵而忘舊,何以使人?必逆之。」固請,許之。來,以盾為才,固請于公,以為嫡子,而使其三子下之。以叔隗為內子,而己下之。 晉侯賞從亡者,介之推不言祿,祿亦弗及。推曰:「獻公之子九人,唯君在矣。惠、懷無親,外內棄之。天未絕晉,必將有主。主晉祀者,非君而誰?天實置之,而二三子以為己力,不亦誣乎?竊人之財,猶謂之盜,況貪天之功以為己力乎?下義其罪,上賞其姦,上下相蒙,難與處矣。」其母曰:「盍亦求之?以死誰懟?」對曰:「尤而效之,罪又甚焉。且出怨言,不食其食。」其母曰:「亦使知之,若何?」對曰:「言,身之文也。身將隱,焉用文之?是求顯也。」其母曰:「能如是乎?與女偕隱。」遂隱而死。晉侯求之不獲,以綿上為之田,曰:「以志吾過,且旌善人。」 鄭之入滑也,滑人聽命。師還,又即衛。鄭公子士洩、堵俞彌帥師伐滑。王使伯服、游孫伯如鄭請滑。鄭伯怨惠王之入而不與厲公爵也,又怨襄王之與衛、滑也,故不聽王命而執二子。王怒,將以狄伐鄭。富辰諫曰:「不可。臣聞之,大上以德撫民,其次親親,以相及也。昔周公弔二叔之不鹹,故封建親戚以蕃屏周。管、蔡、郕、霍、魯、衛、毛、聃、郜、雍、曹、滕、畢、原、酆、郇,文之昭也。邗、晉、應、韓,武之穆也。凡、蔣、邢、茅、胙、祭,周公之胤也。召穆公思周德之不類,故糾合宗族于成周而作詩,曰:『常棣之華,鄂不韡韡。凡今之人,莫如兄弟。』其四章曰:『兄弟鬩于牆,外禦其侮。』如是,則兄弟雖有小忿,不廢懿親。今天子不忍小忿以棄鄭親,其若之何?庸勳,親親,暱近,尊賢,德之大者也。即聾,從昧,與頑,用嚚,姦之大者也。棄德崇姦,禍之大者也。鄭有平、惠之勳,又有厲、宣之親,棄嬖寵而用三良,於諸姬為近,四德具矣。耳不聽五聲之和為聾,目不別五色之章為昧,心不則德義之經為頑,口不道忠信之言為嚚。狄皆則之,四姦具矣。周之有懿德也,猶曰『莫如兄弟』,故封建之。其懷柔天下也,猶懼有外侮,扞禦侮者莫如親親,故以親屏周。召穆公亦云。今周德既衰,於是乎又渝周、召以從諸姦,無乃不可乎?民未忘禍,王又興之,其若文、武何?」王弗聽,使頹叔、桃子出狄師。 |
以下、全文の現代日本語訳です。 当初、晋侯(文公)の召使いである頭須は、倉庫を守る者であった。文公が出奔した際、頭須は倉庫の財物を盗んで逃げ、その全てを使って文公の帰国を画策した。文公が帰国すると、頭須は面会を求めた。文公は髪を洗っていると言って断った。頭須は召使いに言った。「髪を洗うと心が逆さまになる。心が逆さまになると考え方も逆になる。私が会ってもらえないのも当然だ。国内に留まった者は社稷を守る者であり、国外に従った者は馬の手綱を取る下僕である。それもまた良いではないか。どうして国内に留まった者を罪とする必要があろうか。国君が一介の匹夫を仇とするなら、恐れる者は非常に多くなるだろう。」召使いがこれを告げると、文公は急いで頭須に会った。 狄人は季隗を晋に帰し、その二人の子を人質として求めた。文公は趙衰に妻として趙姫を与え、原同・屏括・摟嬰が生まれた。趙姫は趙盾とその母(叔隗)を迎えるよう請うた。子餘(趙衰)は辞退した。趙姫は言った。「寵愛を得て古い妻を忘れるなら、どうして人を使うことができましょうか。必ず迎えるべきです。」固く請うて、許された。迎えられると、趙盾を才ある者として、公に固く請うて嫡子とし、自分の三人の子をその下に置いた。叔隗を正妻とし、自分はその下に下った。 晋侯が亡命に従った者たちに褒賞を与えたが、介之推は禄について言わず、禄も彼には及ばなかった。介之推は言った。「献公の子は九人いたが、ただ君(文公)だけが生き残っている。恵公・懐公には親しむ者がなく、内外から見捨てられた。天が晋を絶やさないなら、必ず主が現れるはずだ。晋の祭祀を主る者は、君でなくて誰であろうか。天が実に君をその位に置いたのに、あの者たちは自分の力だと思っている。それは偽りではないか。他人の財物を盗む者でさえ盗人と言われる。まして天の功績を貪って自分の力とするのはなおさらだ。下の者はその罪を義とし、上の者はその悪行を賞する。上下が互いに欺き合っては、共にいることは難しい。」その母が言った。「どうして禄を求めないのですか。死んで誰を怨むのですか。」答えた。「非難しながらそれに倣うのは、罪がさらに甚だしい。また怨み言を口にした以上、その禄を食むことはできない。」母が言った。「せめてそのことを知らせてはどうですか。」答えた。「言葉は身の飾りです。身を隠そうとするのに、どうして飾りを用いましょうか。それは顕れることを求めるものです。」母は言った。「そこまでできるのですか。あなたと共に隠れましょう。」そこで隠れて死んだ。晋侯は彼を探したが見つからず、綿上を彼の祭田として与え、「これによって私の過ちを記し、かつ善人を顕彰する」と言った。 鄭が滑に入ったとき、滑人は鄭の命に従った。鄭の軍が帰ると、滑はまた衛に付いた。鄭の公子士洩と堵俞彌が軍を率いて滑を攻めた。王(襄王)は伯服と游孫伯を鄭に派遣して滑のことを請うた。鄭伯は、恵王が王位に入った際に厲公に爵(酒器)を与えなかったことを怨み、また襄王が衛と滑に味方したことを怨んだ。それで王命を聞かず、二人の使者を捕らえた。王は怒り、狄を用いて鄭を攻めようとした。富辰が諫めて言った。「いけません。私は聞いています。最も上位の者は徳をもって民を撫で、その次は親しい者を親しみ、それによって及ぼしていくものです。昔、周公は管叔・蔡叔が和しないことを憂い、それで親戚を封建して周の藩屏としました。管・蔡・郕・霍・魯・衛・毛・聃・郜・雍・曹・滕・畢・原・酆・郇は、文王の子孫です。邗・晋・応・韓は、武王の子孫です。凡・蒋・邢・茅・胙・祭は、周公の子孫です。召穆公は周の徳が衰えることを思い、それで宗族を成周に糾合して詩を作り、言いました。『常棣の花は、萼が輝かないことはない。今の人は皆、兄弟に及ぶものはいない。』その四章には『兄弟は家の中で争っても、外の侮りに対しては共に防ぐ。』とあります。このようであれば、兄弟は小さな怒りがあっても、美しい親しみを廃することはありません。今天子が小さな怒りに耐えられずに鄭の親を棄てるのは、どうしたことでしょうか。功を報い、親を親しみ、近きを懇ろにし、賢を尊ぶことは、徳の大きなものです。聾に就き、昧に従い、頑と与し、嚚を用いることは、姦の大きなものです。徳を棄て姦を崇めることは、禍の大きなものです。鄭には平王・恵王への勲功があり、また厲王・宣王との親しみがあります。お気に入りを棄てて三人の賢臣を用い、姫姓の国々の中でも近い関係にあり、四徳を具えています。耳が五声の和を聴かないのを聾といい、目が五色の模様を弁別しないのを昧といい、心が徳義の経を則としないのを頑といい、口が忠信の言を道わないのを嚚といいます。狄は皆これを則としており、四姦を具えています。周に懿徳があったときでさえ、なお『兄弟に及ぶものはいない』と言って、それで封建したのです。天下を懐柔するときでさえ、なお外侮があることを懼れ、侮りを防ぐ者は親を親しむに及ぶものはいないとして、それで親をもって周を屏としたのです。召穆公もそう言いました。今、周の徳が既に衰え、そこでまた周・召の教えを変えて諸姦に従うのは、いけないのではないでしょうか。民は未だ禍を忘れていないのに、王がまたそれを興すのは、文王・武王に対してどうなのですか。」王は聴かず、頹叔と桃子に狄の軍を出させた。 【解説】 Translation took 7359.1 seconds. |
| 夏,狄伐鄭,取櫟。 王德狄人,將以其女為后。富辰諫曰:「不可。臣聞之曰:『報者倦矣,施者未厭。』狄固貪惏,王又啟之。女德無極,婦怨無終,狄必為患。」王又弗聽。 初,甘昭公有寵於惠后,惠后將立之,未及而卒。昭公奔齊,王復之。又通於隗氏。王替隗氏。頹叔、桃子曰:「我實使狄,狄其怨我。」遂奉大叔以狄師攻王。王御士將禦之,王曰:「先后其謂我何?寧使諸侯圖之。」王遂出,及坎欿,國人納之。 秋,頹叔、桃子奉大叔以狄師伐周,大敗周師,獲周公忌父、原伯、毛伯、富辰。王出適鄭,處于氾。大叔以隗氏居于溫。 鄭子華之弟子臧出奔宋,好聚鷸冠。鄭伯聞而惡之,使盜誘之。八月,盜殺之于陳宋之間。 君子曰:「服之不衷,身之災也。《詩》曰:『彼己之子,不稱其服。』子臧之服,不稱也夫!《詩》曰:『自詒伊慼。』其子臧之謂矣。《夏書》曰:『地平天成。』稱也。」 宋及楚平,宋成公如楚。還,入於鄭。鄭伯將享之,問禮於皇武子。對曰:「宋,先代之後也,於周為客。天子有事,膰焉。有喪,拜焉。豐厚可也。」鄭伯從之。享宋公有加,禮也。 冬,王使來告難,曰:「不穀不德,得罪于母弟之寵子帶,鄙在鄭地氾,敢告叔父。」臧文仲對曰:「天子蒙塵于外,敢不奔問官守。」王使簡師父告于晉,使左鄢父告于秦。 |
夏、狄が鄭を攻め、櫟を奪った。 王は狄の人々に恩義を感じ、その娘を后に立てようとした。富辰が諫めて言った。「いけません。私はこう聞いております。『恩に報いる側は疲れ果てても、施す側はまだ飽き足りない。』狄はもともと貪欲で、王がさらにそれを助長なさる。女の徳には限りがなく、婦人の怨みには終わりがない。狄は必ずや災いとなりましょう。」王はまたも聞き入れなかった。 かつて、甘昭公は恵后の寵愛を受けており、恵后は彼を立てようとしたが、果たせないうちに亡くなった。昭公は斉に亡命したが、王は彼を復帰させた。その後、昭公は隗氏と密通した。王は隗氏を廃した。頹叔と桃子は言った。「我々が実際に狄を招き入れたのだから、狄は我々を怨むだろう。」そこで大叔を奉じて狄の軍勢で王を攻めた。王の近衛士が防ごうとすると、王は言った。「亡き后は私を何とお思いになるだろうか。むしろ諸侯に対処させよう。」王はそこで都を出て、坎欿に着くと、国人が王を迎え入れた。 秋、頹叔と桃子は大叔を奉じて狄の軍勢で周を攻め、周軍を大敗させ、周公忌父・原伯・毛伯・富辰を捕らえた。王は都を出て鄭に向かい、氾に滞在した。大叔は隗氏と共に温に住んだ。 鄭の子華の弟の子臧は宋に亡命し、鷸の羽で作った冠を集めるのを好んだ。鄭伯はこれを聞いて憎み、盗賊に彼を誘い出させた。八月、盗賊は陳と宋の間で子臧を殺した。 君子は言った。「衣服が身分に合わないのは、身の災いである。『詩経』に言う。『あの人は、その衣服にふさわしくない。』子臧の衣服は、ふさわしくなかったのだ。『詩経』に言う。『自らその憂いを招く。』それは子臧のことを言うのだ。『夏書』に言う。『地は平らかに天は成る。』これはふさわしいということだ。」 宋は楚と講和し、宋の成公は楚へ赴いた。帰途、鄭に立ち寄った。鄭伯は彼を饗応しようとし、皇武子に礼の作法を尋ねた。皇武子は答えた。「宋は先代の王朝の後裔であり、周にとっては客分でございます。天子に祭事があれば祭肉を贈られ、喪があれば拝礼を受けられます。手厚くもてなすのがよろしいでしょう。」鄭伯はこれに従った。宋公を饗応するのに通常より厚くしたのは、礼にかなっていた。 冬、王の使者が来て難を告げて言った。「不徳の私めは、母の弟の寵愛する子帯に罪を得て、鄭の地の氾に卑居しております。あえて叔父にお知らせいたします。」臧文仲は答えた。「天子が外で塵を蒙っておられるのに、あえて官守を問わずにいられましょうか。」王は簡師父を晋に派遣して知らせ、左鄢父を秦に派遣して知らせた。 【解説】 また、鄭の子臧が身分不相応な鷸の冠を好んだために殺された逸話を通じて、「衣服は身分にふさわしくあるべき」という教訓が君子の言として引かれています。さらに宋の成公が楚から帰る途中に鄭で手厚くもてなされた話は、宋が周にとって客分であるという特別な地位を示しています。 最後に、冬になって襄王が諸侯に難を告げる使者を送り、魯の臧文仲が応対する場面で締めくくられます。この後、晋の文公が襄王を助けて王子帯を討つことになりますが、この一節はその前段階の混乱を記したものです。 Translation took 3174.3 seconds. |
| 天子無出,書曰「天王出居于鄭」,辟母弟之難也。天子凶服降名,禮也。 鄭伯與孔將鉏、石甲父、侯宣多省視官具于氾,而後聽其私政,禮也。 衛人將伐邢,禮至曰:「得其守,國不可得也。我請昆弟仕焉。」乃往得仕。 僖公二十五年 經 二十有五年春,王正月,丙午,衛侯燬滅邢。 夏,四月,癸酉,衛侯燬卒。宋蕩伯姬來逆婦。宋殺其大夫。 秋,楚人圍陳。納頓子于頓。葬衛文公。 冬,十有二月,癸亥,公會衛子、莒慶盟于洮。 傳 二十五年春,衛人伐邢,二禮從國子巡城,掖以赴外,殺之。 正月,丙午。衛侯燬滅邢,同姓也,故名。禮至為銘曰:「余掖殺國子,莫余敢止。」 秦伯師于河上,將納王。狐偃言於晉侯曰:「求諸侯莫如勤王。諸侯信之,且大義也。繼文之業,而信宣於諸侯,今為可矣。」 使卜偃卜之,曰:「吉。遇黃帝戰于阪泉之兆。」公曰:「吾不堪也。」對曰:「周禮未改,今之王,古之帝也。」公曰:「筮之。」筮之,遇大有之睽,曰:「吉。遇公用享于天子之卦也。戰克而王饗,吉孰大焉。且是卦也,天為澤以當日,天子降心以逆公,不亦可乎?大有去睽而復,亦其所也。」 晉侯辭秦師而下。三月,甲辰。次于陽樊,右師圍溫,左師逆王。 夏,四月,丁巳。王入于王城,取大叔于溫,殺之于隰城。 |
天子が国外に出るということは本来あり得ない。経に「天王出居于鄭」と書かれているのは、同母弟(大叔帯)の難を避けたからである。天子が喪服を着て、自らの名を低くするのは、礼にかなったことである。 鄭の文公は孔将鉏・石甲父・侯宣多とともに氾の地で王の官職の備品を点検し、その後に自分の政務を執り行った。これは礼にかなったことである。 衛の人が邢を討とうとしたとき、礼至が言った。「守備の者を捕らえても、国を手に入れることはできない。私が兄弟をあちらに仕えさせてください。」そこで(礼至の兄弟は)邢に行って仕官することができた。 僖公二十五年 経 二十五年春、王の正月、丙午の日、衛侯燬が邢を滅ぼした。 夏、四月、癸酉の日、衛侯燬が死去した。宋の蕩伯姬が嫁を迎えに来た。宋がその大夫を殺した。 秋、楚人が陳を包囲した。頓子を頓の国に送り込んだ。衛の文公を葬った。 冬、十二月、癸亥の日、公が衛子・莒慶と洮で会盟した。 伝 二十五年春、衛人が邢を討った。二人の礼(礼至の兄弟)が国子に従って城を巡視し、その脇を抱えて城外に連れ出し、殺した。 正月、丙午の日。衛侯燬が邢を滅ぼした。邢は同姓の国であるため、その名を記した。礼至が銘を作って言った。「私は国子を脇に抱えて殺した。誰も私を止める者はいなかった。」 秦伯が河上に軍を駐留させ、王を(王城に)迎え入れようとした。狐偃が晋侯に言った。「諸侯の信頼を得るには、王を助けることに勝るものはありません。諸侯はそれを信じ、また大義でもあります。文公の業を継ぎ、信義を諸侯に示すには、今がその時です。」 卜偃に占わせると、「吉。黄帝が阪泉で戦ったという兆しに出会いました」と言った。公は「私にはその器ではありません」と言った。卜偃は答えて「周の礼はまだ変わっていません。今の王は、古の帝と同じです」と言った。公は「筮で占え」と言った。筮で占うと、大有の卦が睽に変わるのを得て、卜偃は言った。「吉です。公用享于天子の卦に出会いました。戦いに勝って王から饗応を受ける、これ以上の吉はありません。またこの卦は、天が沢となって日に向かう形で、天子が心を低くして公を迎える、それもまた良いではありませんか。大有から睽を去って復るのも、また当然のことです。」 晋侯は秦軍を辞退して南下した。三月、甲辰の日。陽樊に宿営し、右軍は温を包囲し、左軍は王を迎えた。 夏、四月、丁巳の日。王は王城に入り、大叔を温で捕らえ、隰城で殺した。 解説: 第一に、周の襄王が同母弟である大叔帯(王子帯)の反乱によって都を追われ、鄭に逃れた件です。経に「天王出居于鄭」とあるのは、天子が国外に出ることを通常は「出」と言わないにもかかわらず、あえてそう記すことで、母弟の難を避けたという事情を示しています。また、天子が喪服を着て名を低くする行為が礼にかなうと評価されています。鄭の文公が王の官職の備品を点検してから自分の政務を行ったことも礼にかなうとされています。 第二に、衛が邢を滅ぼした件です。衛の礼至は、邢の国子(守備の責任者)を殺すために兄弟を邢に仕えさせ、内応させました。そして衛の軍が邢を攻めた際、礼至の兄弟が国子を城外に連れ出して殺し、邢は滅びました。衛侯燬が邢を滅ぼしたことが経に名を記して書かれているのは、邢が衛と同姓(姫姓)の国であるため、その非を明らかにするためです。 第三に、晋の文公が周の襄王を助けて王城に復帰させた件です。秦伯も王を迎えようとしましたが、狐偃の進言により晋侯が勤王の大義を行うことになりました。占いでは吉と出て、晋侯は秦軍を辞退して自ら軍を率い、温を包囲して大叔帯を捕らえ、隰城で殺しました。これにより襄王は王城に戻ることができました。この出来事は、晋の文公が諸侯の信頼を得て覇者となる重要な転機となりました。 Translation took 4307.6 seconds. |
| 戊午,晉侯朝王。王饗醴,命之宥。請隧,弗許,曰:「王章也。未有代德而有二王,亦叔父之所惡也。」與之陽樊、溫、原、欑茅之田。晉於是始起南陽。 陽樊不服,圍之。蒼葛呼曰:「德以柔中國,刑以威四夷,宜吾不敢服也。此誰非王之親姻,其俘之也?」乃出其民。 秋,秦、晉伐鄀。楚鬭克、屈禦寇以申息之師戍商密。秦人過析,隈入而係輿人,以圍商密,昏而傅焉。宵,坎血加書,偽與子儀、子邊盟者。商密人懼曰:「秦取析矣,戍人反矣!」乃降秦師。囚申公子儀、息公子邊以歸。楚令尹子玉追秦師,弗及。遂圍陳,納頓子于頓。 冬,晉侯圍原,命三日之糧。原不降,命去之。諜出,曰:「原將降矣。」軍吏曰:「請待之。」公曰:「信,國之寶也,民之所庇也。得原失信,何以庇之?所亡滋多。」退一舍而原降。遷原伯貫于冀。趙衰為原大夫,狐溱為溫大夫。 衛人平莒于我。 十二月,盟于洮,脩衛文公之好,且及莒平也。 晉侯問原守於寺人勃鞮。對曰:「昔趙衰以壺飧從徑,餒而弗食。」故使處原。 僖公二十六年 經 二十有六年春,王正月。己未,公會莒子、衛甯速盟于向。齊人侵我西鄙。公追齊師至酅,不及。 夏,齊人伐我北鄙。衛人伐齊。公子遂如楚乞師。 秋,楚人滅夔,以夔子歸。 |
戊午の日、晋侯が王に謁見した。王は甘酒を振る舞い、晋侯に脇息を与えるよう命じた。晋侯は隧の礼を請うたが、許されなかった。王は言った、「それは王の章(制度)である。まだ(周に代わる)徳がないのに二人の王がいることは、叔父(晋侯)ご自身もお嫌いになることだろう。」そして陽樊・温・原・欑茅の地を与えた。晋はここにおいて初めて南陽の地を領有することになった。 陽樊が服従しなかったので、晋はこれを包囲した。蒼葛が叫んで言った、「徳をもって中国(中原の諸国)を懐柔し、刑罰をもって四夷を威圧するのが当然である。我々が服従しないのも当然ではないか。ここにいる者の誰が王の親族や姻戚でないというのか。(それなのに)我々を捕虜にするのか。」そこで晋は陽樊の民を出国させた。 秋、秦と晋が鄀を攻めた。楚の鬭克と屈禦寇が申・息の軍勢で商密を守備していた。秦軍は析を通過する際、曲がりくねった道から入り込んで車夫たちを捕縛し、商密を包囲し、日暮れに城壁に取り付いた。夜、地面に穴を掘って血を注ぎ、その上に書状を置き、子儀・子辺と盟約を結んだかのように偽装した。商密の人々は恐れて言った、「秦が析を占領した。守備兵は寝返ったのだ!」と。そして秦軍に降伏した。秦は申公の子儀と息公の子辺を捕らえて帰国した。楚の令尹子玉は秦軍を追撃したが、追いつけなかった。そこで陳を包囲し、頓子を頓に帰国させた。 冬、晋侯が原を包囲し、三日分の食糧を用意するよう命じた。原が降伏しなかったので、撤退を命じた。斥候が出て来て言った、「原はまもなく降伏するでしょう。」軍吏が言った、「お待ちください。」公(晋侯)は言った、「信義は国の宝であり、民が頼りとするものである。原を得るために信義を失えば、何をもって民を保護できようか。失うものの方がはるかに多い。」一舎(三十里)退くと、原は降伏した。原伯の貫を冀に移した。趙衰を原の大夫とし、狐溱を温の大夫とした。 衛の人が莒と我が国(魯)との間を調停した。 十二月、洮で盟約を結び、衛の文公との友好関係を修復し、さらに莒との和平も成立した。 晋侯が寺人の勃鞮に原の長官について尋ねた。勃鞮は答えた、「昔、趙衰は壺に入れた弁当を持って小道を従い、自分は空腹でもそれを食べませんでした。」そこで趙衰を原に配置した。 僖公二十六年の経(春秋の本文) 二十六年春、王の正月。己未の日、公(魯の僖公)は莒子、衛の甯速と向で会盟した。斉人が我が国の西の辺境に侵入した。公は斉軍を酅まで追撃したが、追いつけなかった。 夏、斉人が我が国の北の辺境を攻めた。衛人が斉を攻めた。公子遂が楚に援軍を要請しに行った。 秋、楚人が夔を滅ぼし、夔子を連れ帰った。 【解説】 この一節は、『春秋左氏伝』僖公二十五年後半から二十六年の経の部分に当たります。内容は、晋の文公(重耳)が周の襄王に謁見し、南陽の地を与えられて覇者としての地歩を固めていく過程を描いています。 まず、晋侯が王に謁見した際、隧の礼(天子にのみ許される葬礼の制度)を請うたのに対し、王は「王章也」と拒否します。これは、晋侯が形式上は周王室を尊重しつつも、実質的には天子に匹敵する権威を求めたことを示しています。王は陽樊・温・原・欑茅の地を与えることで、晋の膨張を認めつつも、名分の上では一線を画しました。 続く陽樊包囲の場面では、蒼葛の言葉に「徳以柔中國、刑以威四夷」という当時の華夷思想が表れています。陽樊の民は王の親族であり、晋がこれを武力で服属させることは、徳による統治という理念に反すると抗議しています。晋は結局、民を出国させることで妥協しました。 秦・晋による鄀攻めは、楚との代理戦争の様相を呈しています。秦軍は偽装工作によって商密を陥落させ、楚の将を捕虜にします。これは、後の城濮の戦いへと続く晋・楚の対立構造の一端を示しています。 冬の原の包囲は、晋侯の「信」を重んじる姿勢が強調された有名な場面です。三日の食糧で撤退すると宣言した以上、たとえ原が降伏しそうでも約束を守って撤退する、という判断は、為政者にとって信義が何よりも重要であるという教訓として描かれています。この「信」の重視は、儒家思想にも通じる価値観です。 最後に、僖公二十六年の経では、魯を中心とした国際関係が簡潔に記されています。斉の侵攻に対して魯は楚に援軍を求めるなど、大国間の勢力争いに巻き込まれる小国の姿が見えます。 全体として、この一節は晋文公の覇者としての台頭と、周王室との微妙な関係、そして春秋時代の国際政治の複雑さをよく示しています。 Translation took 3729.8 seconds. |
| 冬,楚人伐宋,圍緡。公以楚師伐齊,取穀。公至自伐齊。 傳 二十六年春,王正月。公會莒茲平公、甯莊子盟于向,尋洮之盟也。齊師侵我西鄙,討是二盟也。 夏,齊孝公伐我北鄙。衛人伐齊,洮之盟故也。 公使展喜犒師,使受命于展禽。齊侯未入竟,展喜從之,曰:「寡君聞君親舉玉趾,將辱於敝邑,使下臣犒執事。」齊侯曰:「魯人恐乎?」對曰:「小人恐矣,君子則否。」齊侯曰:「室如縣罄,野無青草,何恃而不恐?」對曰:「恃先王之命。昔周公、大公股肱周室,夾輔成王,成王勞之而賜之盟曰:『世世子孫,無相害也!』載在盟府,大師職之。桓公是以糾合諸侯而謀其不協,彌縫其闕而匡救其災,昭舊職也。及君即位,諸侯之望曰:『其率桓之功。』我敝邑用不敢保聚,曰:『豈其嗣世九年而棄命廢職,其若先君何?君必不然。』恃此以不恐。」齊侯乃還。 東門襄仲、臧文仲如楚乞師。臧孫見子玉而道之伐齊、宋,以其不臣也。 夔子不祀祝融與鬻熊。楚人讓之,對曰:「我先王熊摯有疾,鬼神弗赦而自竄于夔。吾是以失楚,又何祀焉?」 秋,楚成得臣、鬭宜申帥師滅夔,以夔子歸。 宋以其善於晉侯也,叛楚即晉。 冬,楚令尹子玉、司馬子西帥師伐宋,圍緡。公以楚師伐齊,取穀。凡師,能左右之曰「以」。寘桓公子雍於穀,易牙奉之以為魯援。楚申公叔侯戍之。桓公之子七人,為七大夫於楚。 僖公二十七年 經 |
冬、楚人が宋を攻め、緡を包囲した。公は楚の軍を率いて斉を攻め、穀を取った。公は斉攻めから帰還した。 【伝】 二十六年春、王の正月。公は莒の茲平公・甯荘子と向で会盟し、洮の盟約を再確認した。斉軍が我が国の西の辺境に侵攻した。これは二つの盟約を咎めてのことである。 夏、斉の孝公が我が国の北の辺境を攻めた。衛人が斉を攻めた。洮の盟約のためである。 公は展喜を派遣して軍を労わせ、展禽から命令を受けさせた。斉侯がまだ国境に入らないうちに、展喜は彼に随行して言った、「寡君は君が自ら玉趾を挙げて、弊邑に辱臨されると聞き、下臣を派遣して執事を労わせました。」斉侯が言った、「魯人は恐れているか。」答えて言った、「小人は恐れておりますが、君子はそうではありませぬ。」斉侯が言った、「家は懸けた罄のように空っぽで、野には青草もない。何を頼みに恐れないのか。」答えて言った、「先王の命を頼みとしております。昔、周公と大公は周室の股肱として成王を補佐し、成王は彼らを労って盟約を賜り、『世々子孫、互いに害することなかれ』と言われました。それは盟府に載せられ、大師がこれを管掌しております。桓公はそれによって諸侯を糾合し、不和を謀り、その欠けたところを補い、その災いを救いました。これは旧職を明らかにしたものです。君が即位されるに及んで、諸侯の期待は『桓公の功績を継承されるであろう』というものでした。我が弊邑はそれゆえに防備を固めて集まることをせず、『どうして世を継いで九年にして命を棄て職を廃し、先君に対してどうするのか。君は必ずそうはなさらない』と言っております。これを頼みとして恐れないのです。」斉侯はそこで軍を返した。 東門襄仲と臧文仲が楚に軍を要請しに行った。臧孫は子玉に会って、斉と宋を攻めるよう説いた。彼らが臣従しないからである。 夔子が祝融と鬻熊を祀らなかった。楚人がこれを責めると、答えて言った、「我が先王熊摯は病があり、鬼神が赦さず、自ら夔に逃げ込んだ。我々はそれによって楚を失った。どうして祀ることがあろうか。」 秋、楚の成得臣と鬭宜申が軍を率いて夔を滅ぼし、夔子を連れ帰った。 宋は晋侯と親しかったので、楚に背いて晋に付いた。 冬、楚の令尹子玉と司馬子西が軍を率いて宋を攻め、緡を包囲した。公は楚の軍を率いて斉を攻め、穀を取った。およそ軍を、自分の思い通りに動かせることを「以」という。桓公の子の雍を穀に置き、易牙がこれを奉じて魯の援けとした。楚の申公叔侯がこれを守備した。桓公の子は七人おり、楚で七大夫となった。 僖公二十七年 【経】 【解説】 この一節は、『春秋左氏伝』僖公二十六年の経文と伝文、および僖公二十七年の経の見出し部分に当たります。内容は、魯を中心とした当時の国際関係を記したものです。 まず経文では、冬に楚が宋を攻めて緡を包囲したこと、魯の僖公が楚の軍を率いて斉を攻め穀を取ったこと、そして帰還したことが簡潔に記されています。 伝文では、その背景と詳細が語られます。二十六年春、魯は莒・甯と向で会盟し、以前の洮の盟約を再確認します。これに対して斉が魯の西の辺境を侵します。夏には斉の孝公が魯の北の辺境を攻め、衛が斉を攻めます。ここで、魯の大夫・展喜が斉侯に対して行った有名な弁舌が描かれます。斉侯が魯の窮状を嘲り「何を頼みに恐れないのか」と問うと、展喜は先王成王が周公・太公に与えた「世々子孫、互いに害することなかれ」という盟約を引き合いに出し、斉の桓公がその盟約を守って諸侯を糾合した故事を挙げ、現在の斉侯も先君の功績を継ぐはずだと信じていると述べて、斉侯を撤退させます。この場面は、言葉によって軍を退ける外交の妙として名高いものです。 その後、魯は楚に援軍を要請し、楚の子玉に対して斉・宋を攻めるよう働きかけます。また、夔が祝融と鬻熊を祀らないことを理由に楚が夔を滅ぼす話、宋が晋に付いて楚から離反する話が続きます。そして冬、楚が宋を攻めて緡を包囲し、魯が楚軍を率いて斉を攻め穀を取るという経文の内容が再び伝で詳述されます。ここで「以」という語の定義が挿入され、桓公の子の雍を穀に置いて魯の援けとし、楚の申公叔侯が守備したこと、桓公の七人の子が楚で大夫となっていたことが記されます。 最後に「僖公二十七年 経」という見出しでこの部分は終わっており、二十七年の経文の内容は含まれていません。全体として、魯・斉・楚・宋・衛などの諸国が盟約や利害によって離合集散する様子が描かれており、春秋時代の国際政治の一端を伝える史料となっています。 Translation took 3394.9 seconds. |
| 二十有七年春,杞子來朝。 夏,六月,庚寅,齊侯昭卒。 秋,八月,乙未,葬齊孝公。乙巳,公子遂帥師入杞。 冬,楚人、陳侯、蔡侯、鄭伯、許男圍宋。十有二月,甲戌,公會諸侯盟于宋。 傳 二十七年春,杞桓公來朝,用夷禮,故曰「子」。公卑杞,杞不共也。 夏,齊孝公卒,有齊怨,不廢喪紀,禮也。 秋,入杞,責無禮也。 楚子將圍宋,使子文治兵於睽,終朝而畢,不戮一人。子玉復治兵於蒍,終日而畢,鞭七人,貫三人耳。國老皆賀子文,子文飲之酒。蒍賈尚幼,後至,不賀。子文問之,對曰:「不知所賀。子之傳政於子玉,曰:『以靖國也。』靖諸內而敗諸外,所獲幾何?子玉之敗,子之舉也,舉以敗國,將何賀焉?子玉剛而無禮,不可以治民,過三百乘,其不能以入矣。苟入而賀,何後之有?」 冬,楚子及諸侯圍宋,宋公孫固如晉告急。先軫曰:「報施救患,取威定霸,於是乎在矣。」狐偃曰:「楚始得曹,而新昏於衛,若伐曹、衛,楚必救之,則齊、宋免矣。」於是乎蒐于被廬,作三軍,謀元帥。趙衰曰:「郤縠可。臣亟聞其言矣,說《禮》、《樂》而敦《詩》、《書》。《詩》、《書》,義之府也;《禮》、《樂》,德之則也;德、義,利之本也。《夏書》曰:『賦納以言,明試以功,車服以庸。』君其試之。」乃使郤縠將中軍,郤溱佐之;使狐偃將上軍,讓於狐毛而佐之;命趙衰為卿,讓於欒枝、先軫;使欒枝將下軍,先軫佐之。荀林父御戎,魏犨為右。 |
二十七年春、杞の子が来朝した。 夏、六月、庚寅の日、斉侯昭が死去した。 秋、八月、乙未の日、斉の孝公を葬った。乙巳の日、公子遂が軍を率いて杞に侵入した。 冬、楚人、陳侯、蔡侯、鄭伯、許男が宋を包囲した。十二月、甲戌の日、公が諸侯と会合し、宋で盟約を結んだ。 伝 二十七年春、杞の桓公が来朝したが、夷狄の礼を用いたので、「子」と称した。公は杞を軽んじた。杞が恭順でなかったからである。 夏、斉の孝公が死去した。斉との間に怨みがあったが、喪の礼を廃さなかった。礼にかなっている。 秋、杞に侵入した。無礼を責めたのである。 楚子が宋を包囲しようとして、子文に睽の地で兵を訓練させた。朝のうちに終わり、一人も処刑しなかった。子玉が再び蒍の地で兵を訓練した。一日かかって終わり、七人を鞭打ち、三人の耳を貫いた。国の老臣たちは皆子文を祝賀し、子文は彼らに酒を振る舞った。蒍賈はまだ幼く、遅れて来て、祝賀しなかった。子文が理由を尋ねると、答えて言った。「何を祝賀すべきか分かりません。あなたが子玉に政権を譲ったのは、『国を安定させるため』と言われました。内を安定させても外で敗れたら、得るものはどれほどでしょうか。子玉の敗北は、あなたの推挙によるものです。推挙して国を敗らせるなら、何を祝賀するのでしょうか。子玉は剛情で無礼であり、民を治めることはできません。三百乗を超える軍勢を率いれば、無事に帰還することはできないでしょう。もし無事に帰還してから祝賀するなら、何が遅いことがありましょうか。」 冬、楚子と諸侯が宋を包囲した。宋の公孫固が晋に赴いて急を告げた。先軫は言った。「恩に報い、患を救い、威を取って覇を定めるのは、まさにこの時にある。」狐偃は言った。「楚は最近曹を得て、衛と新たに婚姻を結んだ。もし曹と衛を攻めれば、楚は必ずそれを救いに来る。そうすれば斉と宋は難を免れるだろう。」そこで被廬の地で閲兵し、三軍を編成し、元帥を選んだ。趙衰は言った。「郤縠がよろしい。私はしばしば彼の言葉を聞きました。彼は『礼』『楽』を喜び、『詩』『書』を重んじています。『詩』『書』は義の宝庫であり、『礼』『楽』は徳の規範であり、徳と義は利益の根本です。『夏書』に『言葉によって採用し、功績によって明らかに試し、車服によって報いる』とあります。君よ、彼を試してみてください。」そこで郤縠に中軍を率いさせ、郤溱をその補佐とした。狐偃に上軍を率いさせようとしたが、狐毛に譲って自らは補佐となった。趙衰を卿に任命しようとしたが、欒枝と先軫に譲った。欒枝に下軍を率いさせ、先軫をその補佐とした。荀林父が兵車の御者となり、魏犨が車右となった。 解説 この一節は、魯の僖公二十七年(紀元前633年)の出来事を記した春秋左氏伝の一部です。経文では、杞の来朝、斉侯昭(孝公)の死と葬儀、公子遂の杞侵攻、楚を中心とする諸侯による宋包囲、そして魯公が宋で盟約に参加したことが簡潔に記されています。 伝文では、これらの出来事の背景や詳細が説明されます。まず杞の桓公が夷狄の礼を用いたため、魯がこれを軽んじ、後に杞を攻めて無礼を責めたことが述べられます。斉の孝公の死に際しては、魯と斉の間に怨みがあったにもかかわらず、喪礼をきちんと行ったことが礼にかなうと評価されます。 次に、楚の子玉(成得臣)と子文(鬬穀於菟)の治兵の対比が描かれます。子文は寛容な統率で短時間に訓練を終え、一人も罰しなかったのに対し、子玉は厳しく長時間かけて訓練し、多くの者を罰しました。老臣たちは子文を祝いますが、若い蒍賈は祝わず、子玉の剛情で無礼な性格を指摘し、彼が大軍を率いれば必ず敗れると予言します。この予言は後の城濮の戦いでの子玉の敗北を暗示しています。 後半では、楚が宋を包囲したことを受け、宋が晋に救援を求めます。晋の先軫は、恩に報いて患を救い、覇権を握る好機だと主張し、狐偃は楚の同盟国である曹と衛を攻めて楚を誘い出す戦略を提案します。晋は被廬で軍を再編成し、元帥を選びます。趙衰は郤縠を推挙し、その理由として彼が『詩』『書』『礼』『楽』に通じ、徳義を備えていることを挙げます。最終的に郤縠が中軍の将となり、狐偃・狐毛・欒枝・先軫らが各軍を率いる体制が整います。これは晋の文公が覇者となるための軍事的準備を示す重要な場面です。 Translation took 3865.0 seconds. |
| 晉侯始入而教其民,二年,欲用之。子犯曰:「民未知義,未安其居。」於是乎出定襄王,入務利民,民懷生矣。將用之,子犯曰:「民未知信,未宣其用。」於是乎伐原以示之信。民易資者,不求豐焉,明徵其辭。公曰:「可矣乎?」子犯曰:「民未知禮,未生其共。」於是乎大蒐以示之禮。作執秩以正其官,民聽不惑,而後用之。出穀戍,釋宋圍,一戰而霸,文之教也。 僖公二十八年 經 二十有八年春,晉侯侵曹。晉侯伐衛,公子買戍衛,不卒戍,刺之。楚人救衛。 三月,丙午,晉侯入曹,執曹伯,畀宋人。 夏,四月,己巳,晉侯、齊師、宋師、秦師及楚人戰于城濮,楚師敗績。楚殺其大夫得臣。衛侯出奔楚。 五月,癸丑,公會晉侯、齊侯、宋公、蔡侯、鄭伯、衛子、莒子盟于踐土。陳侯如會。公朝于王所。 六月,衛侯鄭自楚復歸于衛,衛元咺出奔晉。陳侯款卒。 秋,杞伯姬來。公子遂如齊。 冬,公會晉侯、齊侯、宋公、蔡侯、鄭伯、陳子、莒子、邾人、秦人于溫。天王狩于河陽。壬申,公朝于王所。晉人執衛侯,歸之于京師。衛元咺自晉復歸于衛。諸侯遂圍許。曹伯襄復歸于曹,遂會諸侯圍許。 傳 二十八年春,晉侯將伐曹,假道于衛,衛人弗許。還自河南濟,侵曹,伐衛。 正月,戊申,取五鹿。 |
現代日本語訳 晋侯(文公)が初めて国に入って民を教化し始め、二年たって、民を用いようとした。子犯が言った、「民はまだ義を知らず、その住まいに安心していません。」そこで、外に出て襄王を安定させ(周の襄王を助けて王位に復帰させ)、内にあっては民の利益を図ったので、民は生業を営むようになった。民を用いようとすると、子犯が言った、「民はまだ信を知らず、その用い方を示されていません。」そこで、原を伐って信を示した。民で物を交換する者は、多くを求めず、その言葉を明確に証拠立てるようになった。公が言った、「もうよいだろうか?」子犯が言った、「民はまだ礼を知らず、恭順の心が生まれていません。」そこで、大規模な狩猟(大蒐)を行って礼を示した。執秩という官職を設けて官制を正すと、民は命令を聞いて惑わず、その後、民を用いた。穀の戍(守備)を撤退させ、宋の包囲を解かせ、一戦して覇者となったのは、文公の教化の成果である。 僖公二十八年 二十八年春、晋侯が曹を侵した。晋侯が衛を伐ち、公子買が衛を守備したが、守備を全うせず、彼を刺し殺した。楚人が衛を救った。 三月、丙午の日、晋侯が曹に入り、曹伯を捕らえて、宋人に与えた。 夏、四月、己巳の日、晋侯、斉軍、宋軍、秦軍が楚人と城濮で戦い、楚軍は大敗した。楚はその大夫得臣を殺した。衛侯は楚に奔亡した。 五月、癸丑の日、公(魯の僖公)は晋侯、斉侯、宋公、蔡侯、鄭伯、衛子、莒子と踐土で会盟した。陳侯が会に参加した。公は王の在所(周王の滞在地)に朝見した。 六月、衛侯鄭が楚から衛に復帰した。衛の元咺は晋に奔亡した。陳侯款が死去した。 秋、杞伯姬が来訪した。公子遂が斉に行った。 冬、公は晋侯、斉侯、宋公、蔡侯、鄭伯、陳子、莒子、邾人、秦人と温で会合した。天王(周王)が河陽で狩猟した。壬申の日、公は王の在所に朝見した。晋人が衛侯を捕らえ、京師に送った。衛の元咺が晋から衛に復帰した。諸侯は続いて許を包囲した。曹伯襄が曹に復帰し、続いて諸侯の許包囲に参加した。 伝 二十八年春、晋侯が曹を伐とうとして、衛に道を借りようとしたが、衛人は許さなかった。河南から引き返して渡河し、曹を侵し、衛を伐った。 正月、戊申の日、五鹿を取った。 解説 この一節は、『春秋左氏伝』僖公二十八年の冒頭部分です。前半は晋の文公(重耳)が即位後、民を教化して覇者となるまでの過程を子犯(狐偃)との対話を通じて描いています。義・信・礼の三段階で民を教化し、最終的に城濮の戦いで楚を破って覇者となるまでの道筋が示されています。これは「文の教え」と総括され、文公の政治的手腕と教化の重要性を強調しています。 後半は『春秋』の経文と、それに対する左氏伝の解説です。経文は年表形式で簡潔に出来事を記し、伝はその背景や詳細を物語的に説明します。ここでは晋が曹・衛を攻め、楚との対立が深まり、やがて城濮の戦いへと至る前段階が描かれています。特に「假道于衛」のエピソードは、晋が衛に道を借りようとして拒否され、それを口実に衛を攻めるという、当時の国際関係の駆け引きを示しています。 Translation took 2840.1 seconds. |
| 二月,晉郤縠卒。原軫將中軍,胥臣佐下軍,上德也。晉侯、齊侯盟于斂盂。衛侯請盟,晉人弗許。衛侯欲與楚,國人不欲,故出其君以說于晉。衛侯出居于襄牛。公子買戍衛,楚人救衛,不克。公懼於晉,殺子叢以說焉,謂楚人曰:「不卒戍也。」晉侯圍曹,門焉,多死。曹人尸諸城上,晉侯患之,聽輿人之謀曰:「稱舍於墓。」師遷焉,曹人兇懼,為其所得者棺而出之。因其兇也而攻之。 三月,丙午,入曹。數之,以其不用僖負羈而乘軒者三百人也。且曰:「獻狀。」令無入僖負羈之宮而免其族,報施也。魏犨、顛頡怒曰:「勞之不圖,報於何有!」爇僖負羈氏,魏犨傷於胸。公欲殺之而愛其材,使問,且視之病,將殺之。魏犨束胸,見使者曰:「以君之靈,不有寧也。」距躍三百,曲踊三百。乃舍之,殺顛頡以徇于師,立舟之僑以為戎右。 宋人使門尹般如晉師告急。公曰:「宋人告急,舍之,則絕;告楚,不許。我欲戰矣,齊、秦未可,若之何?」先軫曰:「使宋舍我而賂齊、秦,藉之告楚。我執曹君而分曹、衛之田以賜宋人。楚愛曹、衛,必不許也。喜、賂、怒、頑,能無戰乎?」公說,執曹伯,分曹衛之田以畀宋人。 楚人入居于申,使申叔去穀,使子玉去宋,曰:「無從晉師。晉侯在外十九年矣,而果得晉國。險阻艱難,備嘗之矣!民之情偽,盡知之矣!天假之年,而除其害,天之所置,其可廢乎!《軍志》曰:『允當則歸。』又曰:『知難而退。』又曰:『有德不可敵。』此三志者,晉之謂矣!」 |
二月、晋の郤縠が死去した。原軫が中軍の将となり、胥臣が下軍の補佐となった。これは徳を重んじた人事である。晋侯と斉侯は斂盂で盟を結んだ。衛侯が盟への参加を求めたが、晋人は許さなかった。衛侯は楚に付こうとしたが、国人が望まなかったため、国君を国外に出して晋の機嫌を取ろうとした。衛侯は国を出て襄牛に滞在した。公子買が衛を守備していたが、楚人が衛を救援したものの、成功しなかった。魯公は晋を恐れ、子叢(公子買)を殺して晋への弁明とし、楚人には「守備を全うしなかったからだ」と言った。晋侯は曹を包囲し、城門を攻めたが、戦死者が多かった。曹人は晋の戦死者の死体を城壁の上に並べた。晋侯はこれを憂えたが、輿人(民衆)の進言を聞き入れ、「墓所に宿営すると言いふらせ」と言われた。そこで軍を墓地へ移動させると、曹人は恐れおののき、晋が得た曹の死者を棺に入れて城外へ出した。晋はその動揺に乗じて攻撃した。 三月丙午、曹に攻め入った。曹の共公を責めて言った、「僖負羈を用いず、大夫の身分でありながら車に乗る者が三百人もいるではないか」と。さらに「その者たちの名簿を出せ」と言った。そして僖負羈の家には立ち入らせず、その一族を免罪した。これはかつての恩に報いるためである。魏犨と顛頡は怒って言った、「我々の功労は顧みられず、何の報いがあろうか」と。そして僖負羈の家に火を放った。魏犨は胸に傷を負った。晋公は彼を殺そうとしたが、その才能を惜しみ、使者を送って見舞わせ、傷の具合を確かめさせた上で、重傷なら殺そうとした。魏犨は胸を布で縛り、使者に会って言った、「国君のおかげをもちまして、安らかでございます」と。そして前方に跳ぶこと三百回、上方に跳ぶこと三百回を演じてみせた。そこで彼を許し、顛頡を殺して軍中に示し、舟之僑を立てて戎右(車右)とした。 宋人は門尹般を晋の軍営に派遣して危急を告げさせた。晋公は言った、「宋が危急を告げてきた。これを見捨てれば宋との関係は断絶する。楚に宋を諦めろと言っても、楚は承知しないだろう。私は戦いたいと思うが、斉と秦がまだ同意していない。どうしたものか」。先軫は言った、「宋に我々への依頼をやめさせ、斉と秦に贈り物をさせて、両国から楚に宋を諦めるよう仲介させてください。我々は曹君を捕らえ、曹と衛の田を分けて宋人に与えます。楚は曹・衛を大切にしているから、必ず斉・秦の仲介を拒否するでしょう。斉・秦は宋の贈り物を喜び、楚の頑なさに怒る。そうなれば戦わずにいられましょうか」。晋公は喜び、曹伯を捕らえ、曹と衛の田を分けて宋人に与えた。 楚人は申に駐留し、申叔に穀を去らせ、子玉に宋を去らせようとして言った、「晋軍に付き従ってはならない。晋侯は国外に十九年もいて、ついに晋国を得たのだ。険阻も艱難も、すべて経験してきた。民の実情も偽りも、すべて知り尽くしている。天が寿命を与え、その害を取り除いた。天が立てた者を、人が廃することができようか。『軍志』には『妥当なところで引き返せ』とあり、また『難を知ったら退け』とあり、また『徳ある者は敵とできない』とある。この三つの志は、まさに晋のことを言っているのだ」。 【解説】 また先軫の外交戦略は見事で、宋・斉・秦・楚の利害を巧みに操り、楚を孤立させて戦いへと追い込みます。一方、楚の成王は晋の実力を冷静に評価し、子玉に撤退を命じますが、この後子玉は命令に背いて戦い、大敗することになります。「有徳不可敵」という言葉は、徳を積んだ者には敵わないという中国古代の戦争観をよく表しています。 Translation took 1694.3 seconds. |
| 子玉使伯棼請戰,曰:「非敢必有功也,願以間執讒慝之口。」王怒,少與之師,唯西廣、東宮與若敖之六卒實從之。子玉使宛春告於晉師,曰:「請復衛侯而封曹,臣亦釋宋之圍。」子犯曰:「子玉無禮哉!君取一,臣取二,不可失矣。」先軫曰:「子與之。定人之謂禮,楚一言而定三國,我一言而亡之,我則無禮,何以戰乎?不許楚言,是棄宋也。救而棄之,謂諸侯何?楚有三施,我有三怨。怨讎已多,將何以戰?不如私許復曹、衛以攜之,執宛春以怒楚,既戰而後圖之。」公說,乃拘宛春於衛,且私許復曹、衛。曹衛告絕於楚。子玉怒,從晉師。晉師退。軍吏曰:「以君辟臣,辱也。且楚師老矣,何故退?」子犯曰:「師直為壯,曲為老,豈在久乎?微楚之惠不及此,退三舍辟之,所以報也。背惠食言,以亢其讎,我曲楚直,其眾素飽,不可謂老。我退而楚還,我將何求?若其不還,君退臣犯,曲在彼矣。」退三舍,楚眾欲止,子玉不可。 夏,四月,戊辰,晉侯、宋公、齊國歸父、崔夭、秦小子憖次于城濮。楚師背酅而舍,晉侯患之,聽輿人之誦,曰:「原田每每,舍其舊而新是謀。」公疑焉。子犯曰:「戰也!戰而捷,必得諸侯。若其不捷,表裡山河,必無害也。」公曰:「若楚惠何?」欒貞子曰:「漢陽諸姬,楚實盡之。思小惠而忘大恥,不如戰也。」晉侯夢與楚子搏,楚子伏己而盬其腦,是以懼。子犯曰:「吉!我得天,楚伏其罪,吾且柔之矣。」子玉使鬬勃請戰,曰:「請與君之士戲,君馮軾而觀之,得臣與寓目焉。」晉侯使欒枝對曰:「寡君聞命矣。楚君之惠,未之敢忘,是以在此。為大夫退,其敢當君乎?既不獲命矣,敢煩大夫謂二三子:『戒爾車乘,敬爾君事,詰朝將見。』」 |
子玉は伯棼を遣わして戦いを請わせ、こう言わせた。「必ずしも功績を立てようというのではありません。ただ、讒言する者たちの口を封じたいだけです。」王は怒って、彼に与える軍勢を少なくし、ただ西広と東宮の兵、および若敖の六卒だけが実際に彼に従った。 子玉は宛春を晋の軍に派遣して告げさせた。「衛侯を復位させ、曹を再封してください。そうすれば、私も宋の包囲を解きましょう。」 子犯は言った。「子玉は無礼だ! 君主(晋侯)が得るのは一つ(宋の解放)であり、臣下(子玉)が得るのは二つ(衛侯の復位と曹の再封)だ。この機会を逃してはならない。」 先軫は言った。「あなた(子犯)はそれに応じるべきです。人を安定させることを礼と言います。楚の一言で三国(衛・曹・宋)が安定するのに、我々の一言でそれを台無しにすれば、我々こそ無礼です。どうして戦えましょうか。楚の申し出を拒否すれば、それは宋を見捨てることになります。救援に来ておきながら見捨てるとなれば、諸侯に対して何と説明しますか。楚には三つの恩恵(衛・曹・宋への)があり、我々には三つの怨みが生まれます。怨みが多くなれば、どうして戦えましょうか。それよりも、密かに曹と衛の復興を許して楚から離反させ、宛春を捕らえて楚を怒らせ、戦ってから後のことを図るのがよいでしょう。」 晋侯は喜び、そこで宛春を衛の地で拘束し、かつ密かに曹と衛の復興を許した。曹と衛は楚に絶交を告げた。 子玉は怒り、晋軍を追った。晋軍は退却した。軍吏が言った。「君主が臣下を避けるのは屈辱です。しかも楚軍は疲弊しています。なぜ退くのですか。」 子犯は言った。「軍は正義があれば勢いがあり、正義がなければ疲弊するものです。長くいるかどうかによるのではありません。楚の恩恵がなければ、我々はここまで来られなかった。三舎(九十里)退いて避けるのは、その恩に報いるためです。恩を忘れ、約束を破って、相手の恨みを買うなら、我々が不正で楚が正義となり、彼らの兵はもともと士気が高い。疲弊しているとは言えません。我々が退いて楚が引き返せば、我々は何を求めましょうか。もし彼らが引き返さなければ、君主が退いたのに臣下が攻めてくることになり、不正は彼らの側にあります。」 三舎退却した。楚の兵士たちは止まりたがったが、子玉は許さなかった。 夏四月戊辰の日、晋侯、宋公、斉の国帰父、崔夭、秦の小子憖は城濮に駐留した。楚軍は丘を背にして陣を敷いた。晋侯はそれを憂い、民衆の歌を聞いた。「原の田は草が茂っている。古いものを捨てて新しいものを謀れ。」公は疑った。 子犯は言った。「戦いましょう! 戦って勝てば、必ず諸侯の支持を得られます。もし勝てなくても、我が国は外に山、内に河という要害の地ですから、必ず害はありません。」 公は言った。「楚の恩恵はどうするのか。」欒貞子は言った。「漢水の北の姫姓の国々は、楚が実際に滅ぼし尽くしました。小さな恩恵を思って大きな恥辱を忘れるのは、戦うことに及ばない。」 晋侯は夢で楚子と組み打ちをし、楚子が自分の上に覆いかぶさって自分の脳を吸うのを見た。それで恐れた。子犯は言った。「吉兆です! 我々は天を得ました。楚はその罪に伏しています。我々は彼らを柔らかく(従わせる)でしょう。」 子玉は鬬勃を遣わして戦いを請わせ、こう言わせた。「あなたの兵士たちと戯れ(試合)をしたい。あなたは車の軾に寄りかかって観戦してください。私も一緒に拝見しましょう。」 晋侯は欒枝を遣わして答えさせた。「寡君はお言葉を承りました。楚君の恩恵は、いまだ敢えて忘れたことはありません。だからここにいるのです。大夫(子玉)のために退いたのに、どうして君主(楚王)に立ち向かえましょうか。しかし、もはやお許しを得られないので、敢えて大夫にお願いします。あなたの将兵たちに伝えてください。『お前たちの戦車を整え、君命を謹んで果たせ。明朝、お目にかかろう。』と。」 【解説】 この一節は、春秋時代の城濮の戦い(紀元前632年)の直前の経緯を描いた『春秋左氏伝』の有名な場面です。晋の文公(重耳)と楚の成王の間で争われたこの戦いは、晋が楚を破り、文公が覇者となる契機となりました。 ここでは、楚の将軍子玉(成得臣)が強硬に戦いを求め、楚王の制止を振り切って晋軍を追撃します。一方、晋側は子犯(狐偃)や先軫らの助言により、楚への恩義(文公が亡命中に楚から受けた厚遇)を返す形で三舎(約90里)を退却し、義理を果たした上で戦うという戦略を取ります。この「退避三舎」は故事成語の由来としても知られています。 また、晋侯の夢占いの場面では、楚子が脳を吸うという不吉に見える夢を子犯が吉兆と解釈し、「柔能く剛を制す」という発想で士気を高めます。最後に子玉が挑発的な戦いの申し込みをし、晋側が礼を尽くした返答で応じる場面は、両軍の性格の対照を鮮やかに示しています。 全体として、単なる戦争の記録ではなく、礼・義・信・謀略といった春秋時代の価値観が色濃く反映された叙述となっています。 Translation took 4170.5 seconds. |
| 晉車七百乘,韅、靷、鞅、靽。晉侯登有莘之虛以觀師,曰:「少長有禮,其可用也!」遂伐其木以益其兵。己巳,晉師陳于莘北,胥臣以下軍之佐當陳、蔡。子玉以若敖之六卒將中軍.曰:「今日必無晉矣!」子西將左,子上將右。胥臣蒙馬以虎皮,先犯陳、蔡。陳、蔡奔,楚右師潰。狐毛設二旆而退之。欒枝使輿曳柴而偽遁,楚師馳之。原軫、郤溱以中軍公族橫擊之。狐毛、狐偃以上軍夾攻子西,楚左師潰。楚師敗績。子玉收其卒而止,故不敗。 晉師三日館穀,及癸酉而還。甲午,至于衡雍,作王宮于踐土。 鄉役之三月,鄭伯如楚致其師。為楚師既敗而懼,使子人九行成于晉,晉欒枝入盟鄭伯。 五月,丙午,晉侯及鄭伯盟于衡雍。丁未,獻楚俘于王,駟介百乘,徒兵千。鄭伯傅王,用平禮也。 已酉,王享醴,命晉侯宥。王命尹氏及王子虎、內史叔興父策命晉侯為侯伯,賜之大輅之服,戎輅之服,彤弓一,彤矢百,玈弓矢千,秬鬯一卣,虎賁三百人。曰:「王謂叔父:『敬服王命,以綏四國,糾逖王慝。』」晉侯三辭,從命,曰:「重耳敢再拜稽首,奉揚天子之丕顯休命。」受策以出,出入三覲。 衛侯聞楚師敗,懼,出奔楚,遂適陳,使元咺奉叔武以受盟。 癸亥,王子虎盟諸侯于王庭。要言曰:「皆獎王室,無相害也!有渝此盟,明神殛之!俾隊其師,無克祚國,及其玄孫,無有老幼!」君子謂是盟也信,謂晉於是役也能以德攻。 |
晋の戦車七百乗、韅・靷・鞅・靽の馬具を整えた。晋侯は有莘の丘に登って軍を観察し、「年少の者も年長の者も礼儀をわきまえており、これは用いることができる」と言った。そこでその地の木を伐って兵器を増やした。己巳の日、晋軍は莘の北に陣を敷き、胥臣は下軍の佐として陳・蔡の軍に当たった。子玉は若敖の六卒をもって中軍を率い、「今日こそ必ず晋を滅ぼす」と言った。子西は左軍を率い、子上は右軍を率いた。胥臣は馬に虎の皮をかぶせて、まず陳・蔡の軍に攻めかかった。陳・蔡の軍は敗走し、楚の右軍は潰走した。狐毛は二本の旗を立てて退却するように見せかけた。欒枝は車に柴を引かせて偽って遁走し、楚軍はそれを追撃した。原軫と郤溱は中軍の公族の兵をもって横から激しく攻撃した。狐毛と狐偃は上軍をもって子西を挟み撃ちにし、楚の左軍は潰走した。楚軍は大敗した。子玉は自分の兵を収めて動かなかったので、敗れなかった。 晋軍は三日間、敵の穀物を食って滞在し、癸酉の日に帰還した。甲午の日、衡雍に到着し、践土に王の宮殿を造営した。 この戦いの三か月前、鄭伯は楚のもとへ赴いて軍を送っていた。楚軍が敗れたと聞いて恐れ、子人九を晋に派遣して講和を申し入れ、晋の欒枝が鄭伯と盟を結んだ。 五月丙午の日、晋侯と鄭伯は衡雍で盟約を結んだ。丁未の日、楚の捕虜を王に献上した。四頭立ての甲冑をつけた戦車百乗、徒歩の兵千人であった。鄭伯が王を補佐し、平王の時代の礼を用いた。 己酉の日、王は醴酒を振る舞い、晋侯に宥(ゆる)すことを命じた。王は尹氏と王子虎、内史の叔興父に命じて、晋侯を侯伯に任命する策命を授けさせ、大輅の服、戎輅の服、彤弓一張、彤矢百本、玈弓矢千本、秬鬯一卣、虎賁三百人を賜った。そして言った、「王が叔父に言われる、『敬って王命に服し、四方の国々を安んじ、王の悪を正し遠ざけよ』と。」晋侯は三度辞退したが、命に従い、「重耳、敢えて再拝稽首し、天子の大いなる輝かしいお言葉を奉じ広めます」と言った。策命を受けて退出し、出入りして三度拝謁した。 衛侯は楚軍の敗北を聞いて恐れ、国を出て楚に奔り、さらに陳に行き、元咺に叔武を奉じさせて盟を受けさせた。 癸亥の日、王子虎は王庭で諸侯と盟約を結んだ。その要約の言葉は、「皆、王室を助け、互いに害してはならない。この盟に背く者があれば、明神が罰し、その軍を敗北させ、国を保てなくし、その玄孫に至るまで老幼の別なく罰する」というものだった。君子はこの盟が信義にかなっていると言い、晋がこの戦いにおいて徳をもって攻めたと言った。 【解説】 戦闘の描写では、胥臣が馬に虎皮をかぶせて敵を驚かす戦術、狐毛や欒枝による偽装退却、原軫・郤溱らによる挟撃など、具体的な戦術が生き生きと記されています。楚軍は右軍・左軍が潰走して大敗しますが、子玉だけは自軍を保って敗走を免れたとされます。 戦後、晋は周王に戦勝を報告し、践土に王宮を造営して諸侯を集めます。鄭伯は楚から晋へと寝返り、盟約を結びます。周王は晋侯に多くの賜り物とともに侯伯の位を授け、「王命に服し四国を安んじよ」と命じます。晋侯は三度辞退した後に受け入れ、天子の命を奉じると誓います。 最後の王子虎による盟約では、「王室を助け、互いに害さない」ことが誓われ、破った者には神罰が下るとされます。そして君子の評として、この盟約が信義にかなうものであり、晋の戦いが武力ではなく徳によるものであったと評価されています。これは『春秋左氏伝』の歴史観、すなわち徳による統治を重んじる思想をよく示しています。 Translation took 4163.9 seconds. |
| 初,楚子玉自為瓊弁玉纓,未之服也。先戰,夢河神謂己曰:「畀余,余賜女孟諸之麋。」弗致也。大心與子西使榮黃諫,弗聽。榮季曰:「死而利國,猶或為之,況瓊玉乎?是糞土也,而可以濟師,將何愛焉?」弗聽。出告二子曰:「非神敗令尹,令尹其不勤民,實自敗也!」既敗,王使謂之曰:「大夫若入,其若申息之老何?」子西、孫伯曰:「得臣將死,二臣止之曰:『君其將以為戮。』」及連穀而死。晉侯聞之而後喜可知也,曰:「莫余毒也已!蒍呂臣實為令尹,奉己而已,不在民矣!」 或訴元咺於衛侯曰:「立叔武矣。」其子角從公,公使殺之。咺不廢命,奉夷叔以入守。 六月,晉人復衛侯。甯武子與衛人盟于宛濮,曰:「天禍衛國,君臣不協,以及此憂也。今天誘其衷,使皆降心以相從也。不有居者,誰守社稷?不有行者,誰扞牧圉?不協之故,用昭乞盟于爾大神以誘天衷。自今日以往,既盟之後,行者無保其力,居者無懼其罪。有渝此盟,以相及也。明神先君,是糾是殛。」 國人聞此盟也,而後不貳。衛侯先期入,甯子先,長牂守門以為使也,與之乘而入。公子歂犬、華仲前驅。叔孫將沐,聞君至,喜,捉髮走出,前驅射而殺之。公知其無罪也,枕之股而哭之。歂犬走出,公使殺之。元咺出奔晉。 城濮之戰,晉中軍風于澤,亡大旆之左旃。祁瞞奸命,司馬殺之以徇于諸侯。使茅茷代之。師還。壬午,濟河。舟之僑先歸,士會攝右。 |
初め、楚の子玉(成得臣)は自ら瓊(美しい玉)の冠と玉の飾り紐を作ったが、まだそれを身につけていなかった。戦いの前に、河の神が夢に現れて自分に言った、「それを私に与えよ。そうすれば、汝に孟諸の沢の鹿(領地)を与えよう」と。しかし子玉は与えなかった。大心と子西は栄黄を遣わして諫めさせたが、聞き入れなかった。栄季(栄黄)は言った、「死んでも国のためになるなら、それでも行うものだ。まして瓊玉などは糞土のようなものではないか。それで軍を救えるなら、何を惜しむことがあろうか」と。しかし聞き入れなかった。栄季は退出して二人の子(大心と子西)に告げた、「神が令尹を敗らせるのではない。令尹が民を大切にしないから、実に自ら敗れるのだ」と。敗れた後、楚王は使いを送って言った、「大夫(子玉)がもし帰国したら、申・息の地の老いた父母たちに何と申し開きするつもりか」と。子西と孫伯(大心)は言った、「得臣(子玉)は死のうとしています。我々二人が止めて言いました、『君がきっと処刑なさるだろう』と」。そして連穀に至って死んだ。晋侯(文公)はこれを聞いて、喜びが顔に現れ、「もう私を害する者はいない!蒍呂臣が令尹になったが、自分を保つだけで、民のことを考えていない」と言った。 ある人が衛侯(成公)に元咺のことを訴えて言った、「元咺は叔武を立てようとしています」と。元咺の子の角は公に従っていたが、公は角を殺させた。元咺は命を廃することなく、夷叔(叔武)を奉じて国に入り守備についた。 六月、晋人が衛侯を復位させた。甯武子(甯兪)は衛の人々と宛濮で盟約を結び、言った、「天が衛国に災いを下し、君臣が和せず、この憂いに至った。今、天がその心を導き、皆が心を低くして互いに従うようにさせた。国内に留まる者がいなければ、誰が社稷を守るのか。国外に出て行く者がいなければ、誰が牧地や馬小屋を守るのか。不和であったがゆえに、ここに明らかに大神に盟約を乞い、天の心を導こうとする。今日から以後、盟約を結んだ後は、出て行く者は自分の力を頼みとせず、留まる者は自分の罪を恐れない。この盟約に背く者があれば、互いに及ぼし合う(罰が及ぶ)。明神と先君が、これを正し、これを罰するであろう」と。 国の人々はこの盟約を聞いて、その後二心を抱かなかった。衛侯は予定より早く入国した。甯子(甯武子)が先に立ち、長牂が門を守っていたが、甯子を使者だと思って、一緒に車に乗せて入れた。公子歂犬と華仲が先駆けとなった。叔孫(叔武)は髪を洗おうとしていたが、君が来たと聞いて喜び、髪をつかんだまま走り出た。先駆けの者が射て殺した。公(衛侯)は叔武に罪がないことを知り、その遺体の腿を枕にして泣いた。歂犬は走り出て、公は彼を殺させた。元咺は晋に亡命した。 城濮の戦いで、晋の中軍が沢で風に遭い、大旆の左側の旃(旗)を失った。祁瞞が命令に背いたので、司馬が彼を殺して諸侯の前で見せしめにした。茅茷を代わりに任命した。軍は帰還した。壬午の日、黄河を渡った。舟之僑が先に帰国したため、士会が車右を代行した。 【解説】 第一に、楚の令尹・子玉(成得臣)の敗戦と死です。子玉は戦前に河神から瓊弁玉纓を捧げるよう夢で求められましたが、惜しんで拒否しました。家臣の諫めも聞かず、結果として城濮で大敗し、楚王からの叱責を受けて連穀で自殺しました。晋の文公はこれを聞いて「もう自分を害する者はいない」と喜びます。この話は、私欲のために国を危うくした為政者の末路を描いています。 第二に、衛国の内紛です。衛侯(成公)が国外に逃れている間、元咺が叔武を立てようとしているという讒言があり、成公は元咺の子・角を殺しました。しかし元咺は命に背かず叔武を守って国を守ります。その後、晋の仲介で成公が復位する際、甯武子が国人と盟約を結び、国内に残った者と国外に従った者の和解を図りました。ところが成公が予定より早く帰国したため、叔武は成公を迎えようとして先駆けの者に射殺されるという悲劇が起こります。成公は叔武の無実を知って泣き、射た歂犬を処刑します。元咺は晋へ亡命しました。 第三に、晋軍の帰還途中の出来事です。城濮の戦いの後、晋の中軍が沢で強風に遭い、旗を失うという不吉な出来事があり、命令違反をした祁瞞が処刑されました。また、舟之僑が先に帰国したため、士会が代役を務めたことが簡潔に記されています。 全体として、戦後の各国の動揺と、為政者の資質や忠誠、盟約の重要性がテーマとなっています。 Translation took 4098.0 seconds. |
| 秋,七月,丙申,振旅愷以入于晉,獻俘授馘,飲至大賞,徵會討貳。殺舟之僑以徇于國,民於是大服。君子謂:「文公其能刑矣!三罪而民服。《詩》云:『惠此中國,以綏四方。』不失賞刑之謂也。」 冬,會于溫,討不服也。 衛侯與元咺訟,甯武子為輔,鍼莊子為坐,士榮為大士。衛侯不勝。殺士榮,刖鍼莊子,謂甯俞忠而免之。執衛侯,歸之于京師,寘諸深室。甯子職納橐饘焉。元咺歸于衛,立公子瑕。 是會也,晉侯召王,以諸侯見,且使王狩。仲尼曰:「以臣召君,不可以訓。」故書曰:「天王狩于河陽。」言非其地也,且明德也。 壬申,公朝于王所。丁丑,諸侯圍許。 晉侯有疾,曹伯之豎侯獳貨筮史,使曰:「以曹為解。齊桓公為會而封異姓,今君為會而滅同姓。曹叔振鐸,文之昭也。先君唐叔,武之穆也。且合諸侯而滅兄弟,非禮也。與衛偕命,而不與偕復,非信也。同罪異罰,非刑也。禮以行義,信以守禮,刑以正邪。舍此三者,君將若之何?」公說,復曹伯,遂會諸侯于許。 晉侯作三行以禦狄,荀林父將中行,屠擊將右行,先篾將左行。 僖公二十九年 經 二十有九年春,介葛盧來。公至自圍許。 夏,六月,會王人、晉人、宋人、齊人、陳人、蔡人、秦人,盟于翟泉。 秋,大雨雹。 |
秋、七月、丙申の日、軍を整えて凱旋して晋に入り、捕虜を献上し、戦死者の左耳を授け、飲至の礼を行って大いに賞し、諸侯を招集して二心を抱く者を討つことを告げた。舟之僑を殺して国中に示し、民はこれによって大いに服従した。君子は言った、「文公は刑罰をよく行うことができた。三つの罪によって民が服したのだ。『詩経』には『この中国に恵みを与え、四方を安んじる』とある。賞と刑を誤らないことを言うのである。」 冬、温で会合し、服従しない者を討った。 衛侯と元咺が争い、甯武子が補佐となり、鍼荘子が陪席者となり、士栄が裁判官となった。衛侯は勝てなかった。士栄を殺し、鍼荘子を刖刑に処し、甯兪は忠義であると言って免じた。衛侯を捕らえて京師に送り、深い牢屋に入れた。甯子は袋に入れた粥を届ける役目を務めた。元咺は衛に帰り、公子瑕を立てた。 この会合で、晋侯は王を召し、諸侯を引き連れて拝謁させ、さらに王に狩猟をさせた。仲尼は言った、「臣下が君主を召すのは、教訓とすべきではない。」だから書には「天王、河陽で狩猟する」と記した。その地が適切でないことを言い、また徳を明らかにするためである。 壬申の日、公は王の在所に朝見した。丁丑の日、諸侯は許を包囲した。 晋侯が病にかかり、曹伯の家臣である侯獳が筮史に賄賂を贈り、こう言わせた、「曹のことを理由としてください。斉の桓公は会合を開いて異姓を封じましたが、今君は会合を開いて同姓を滅ぼそうとしています。曹叔振鐸は文王の子孫であり、先君唐叔は武王の子孫です。しかも諸侯を合わせて兄弟を滅ぼすのは礼ではありません。衛と共に命を受けながら、共に復帰させないのは信ではありません。同じ罪で罰が異なるのは刑ではありません。礼は義を行うためにあり、信は礼を守るためにあり、刑は邪を正すためにあります。この三つを捨てたら、君はどうなさるおつもりですか。」公は喜び、曹伯を復位させ、そこで許で諸侯と会合した。 晋侯は三行を編成して狄に備え、荀林父が中行を率い、屠撃が右行を率い、先篾が左行を率いた。 僖公二十九年 二十九年春、介葛盧が来朝した。公は許の包囲から帰還した。 夏、六月、王人、晋人、宋人、斉人、陳人、蔡人、秦人と会合し、翟泉で盟を結んだ。 秋、大いに雹が降った。 【解説】 まず、文公は戦勝後に捕虜や戦利品を献じ、功臣を厚く賞するとともに、命令に背いた舟之僑を処刑して国内の統制を強化します。君子(左氏の評者)は、文公が適切な刑罰を行ったことで民が服したと評価し、『詩経』を引用して「賞と刑を誤らない」ことの重要性を説きます。 続いて、衛の内紛に介入し、衛侯を裁いて京師に幽閉します。この際、忠臣甯兪(甯武子)は処罰を免れ、元咺が公子瑕を立てるという政変が起こります。さらに、文公は周の王を河陽に招いて諸侯に拝謁させ、狩猟を行わせますが、孔子は「臣下が君主を召すのは道義に反する」と批判し、春秋の筆法では「天王が河陽で狩猟した」と記して王の体面を保ったと説明されます。 その後、曹伯の復位をめぐる逸話では、曹伯の家臣が筮史に賄賂を贈り、礼・信・刑の三原則を説いて文公を説得します。文公はこれを受け入れ、曹伯を復位させます。最後に、狄に備えて三軍(三行)を編成し、荀林父らがそれぞれを率いることが記されます。 僖公二十九年の経の部分は、春秋本経の簡潔な記録で、介葛盧の来朝、翟泉の会盟、異常気象(大雹)が記されています。全体として、晋の文公の覇権確立と、その過程での礼と刑の運用、周王室との関係、諸侯間の外交が描かれた重要な箇所です。 Translation took 2908.2 seconds. |
| 冬,介葛盧來。 傳 二十九年春,葛盧來朝,舍于昌衍之上。公在會,饋之芻米,禮也。 夏,公會王子虎、晉孤偃、宋公孫固、齊國歸父、陳轅濤塗、秦小子憖,盟于翟泉,尋踐土之盟,且謀伐鄭也。卿不書,罪之也。在禮,卿不會公、侯,會伯、子、男可也。 秋,大雨雹,為災也。 冬,介葛盧來,以未見公,故復來朝,禮之。加燕好,介葛盧聞牛鳴,曰:「是生三犧,皆用之矣,其音云。」問之而信。 僖公三十年 經 三十年春,王正月。 夏,狄侵齊。 秋,衛殺其大夫元咺及公子瑕。衛侯鄭歸于衛。晉人、秦人圍鄭。介人侵蕭。 冬,天王使宰周公來聘。公子遂如京師,遂如晉。 傳 三十年春,晉人侵鄭,以觀其可攻與否。狄間晉之有鄭虞也。 夏,狄侵齊。晉侯使醫衍酖衛侯。甯俞貨醫,使薄其酖,不死。公為之請,納玉於王與晉侯,皆十榖。王許之。 秋,乃釋衛侯。衛侯使賂周歂、冶廑,曰:苟能納我,吾使爾為卿。周、冶殺元咺及子適、子儀。公入,祀先君。周、冶既服,將命,周歂先入,及門,遇疾而死。冶廑辭卿。 九月,甲午,晉侯、秦伯圍鄭,以其無禮於晉,且貳於楚也。晉軍函陵,秦軍汜南。佚之狐言於鄭伯曰:「國危矣!若使燭之武見秦君,師必退。」公從之。辭曰:「臣之壯也,猶不如人。今老矣,無能為也已!」公曰:「吾不能早用子,今急而求子,是寡人之過也。然鄭亡,子亦有不利焉。」許之。夜縋而出,見秦伯,曰:「秦、晉圍鄭,鄭既知亡矣。若亡鄭而有益於君,敢以煩執事。越國以鄙遠,君知其難也,焉用亡鄭以倍鄰?鄰之厚,君之薄也。若舍鄭以為東道主,行李之往來,共其乏困,君亦無所害。且君嘗為晉君賜矣,許君焦、瑕,朝濟而夕設版焉,君之所知也。夫晉,何厭之有?既東封鄭,又欲肆其西封,若不闕秦,將焉取之?闕秦以利晉,唯君圖之。」秦伯說,與鄭人盟。使杞子、逢孫、楊孫戍之,乃還。子犯謂擊之,公曰:「不可。微夫人力不及此。因人之力而敝之,不仁。失其所與,不知。以亂易整,不武。吾其還也。」亦去之。 |
冬、介葛盧が来た。 伝 二十九年春、葛盧が来朝し、昌衍の上に宿泊した。公は会合中であったが、彼にまぐさと米を贈った。これは礼にかなっていた。 夏、公は王子虎・晋の狐偃・宋の公孫固・斉の国帰父・陳の轅濤塗・秦の小子憖と会し、翟泉で盟約した。践土の盟を再確認し、また鄭を討つことを謀るためであった。卿たちが記録されていないのは、彼らを罪とするためである。礼において、卿は公・侯と会してはならず、伯・子・男と会するのは許される。 秋、大いに雹が降り、災害となった。 冬、介葛盧が来た。まだ公に会っていなかったので、再び来朝した。公は礼をもって遇し、宴席を設けてもてなした。介葛盧は牛の鳴き声を聞いて言った、「この牛は三頭の犠牲を生み、皆すでに用いられた。その声がそう言っている。」尋ねてみると、果たしてその通りであった。 僖公三十年 経 三十年春、王の正月。 夏、狄が斉に侵入した。 秋、衛がその大夫元咺と公子瑕を殺した。衛侯鄭が衛に帰った。晋人と秦人が鄭を包囲した。介人が蕭に侵入した。 冬、天王が宰周公を使者として派遣し、来聘させた。公子遂が京師へ行き、続いて晋へ行った。 伝 三十年春、晋人が鄭に侵入し、攻撃できるかどうかを観察した。狄は晋が鄭に対して懸念を抱いている隙を突いた。 夏、狄が斉に侵入した。晋侯は医者衍に衛侯を毒殺させようとした。甯兪は医者に賄賂を贈り、毒を薄めさせたため、衛侯は死ななかった。公(魯の僖公)は衛侯のために請い、王と晋侯に玉を献じ、それぞれ十対の玉を贈った。王はこれを許した。 秋、そこで衛侯を釈放した。衛侯は周歂と冶廑に賄賂を贈って言った、「もし私を帰国させてくれるなら、お前たちを卿にしよう。」周歂と冶廑は元咺と子適・子儀を殺した。公(衛侯)は帰国し、先君を祀った。周歂と冶廑は礼服を着けて任命を受けようとした。周歂が先に入り、門に着いたとき、急病で死んだ。冶廑は卿の位を辞退した。 九月甲午、晋侯と秦伯が鄭を包囲した。鄭が晋に対して無礼であり、また楚に二心を抱いていたからである。晋軍は函陵に、秦軍は汜南に駐屯した。佚之狐が鄭伯に言った、「国が危ないです。もし燭之武を秦君に会わせれば、必ず軍は退くでしょう。」公はこれに従った。燭之武は辞退して言った、「私が壮年の頃でさえ、人に及びませんでした。今は老いてしまい、何もできません。」公は言った、「私が早くあなたを用いなかったこと、今急になってあなたに頼るのは、私の過ちです。しかし鄭が滅びれば、あなたにも不利なことがあります。」燭之武は承諾した。夜、縄で城壁から降ろされて外に出て、秦伯に会って言った、「秦と晋が鄭を包囲し、鄭はすでに滅亡を覚悟しています。もし鄭を滅ぼすことが君にとって有益であるなら、あえて執事にお願い申し上げます。国を越えて遠くの地を自分の辺境とするのは、君もその難しさをご存じのはずです。どうして鄭を滅ぼして隣国(晋)を増益させる必要がありましょうか。隣国が厚くなれば、君は薄くなります。もし鄭を捨て置いて東方の道中の主人とすれば、使者の往来の際に、その不足を補給することができ、君にも何の害もありません。また君はかつて晋君に恩恵を与え、焦と瑕を君に約束しましたが、朝に河を渡り、夕方には城壁を築いたことは、君がご存じの通りです。そもそも晋にどうして満足することがありましょうか。東に鄭を自分の領土にしたなら、次には西の領土を広げようとするでしょう。もし秦を損なわなければ、どこから土地を取るのでしょうか。秦を損なって晋を利することを、どうか君はよくお考えください。」秦伯は喜び、鄭人と盟約した。杞子・逢孫・楊孫に鄭の守備をさせて、帰還した。子犯が晋侯に秦軍を攻撃するよう進言したが、公は言った、「いけない。あの人の力がなければ、ここまで来られなかった。人の力を借りておいて、その人を損なうのは不仁である。与国を失うのは不明である。乱をもって整に代えるのは不武である。私は帰ろう。」晋軍もまた去った。 解説:この一節は、春秋左氏伝の僖公二十九年冬から三十年冬にかけての記述です。前半は介葛盧の来朝と、翟泉の会盟、そして雹の災害が記されています。介葛盧が牛の鳴き声からその牛の運命を言い当てた逸話は、彼の聡明さを示すものとして知られています。後半は、晋と秦による鄭包囲と、燭之武の弁舌によって秦が単独で鄭と和睦し、晋も撤退するという有名な「燭之武秦師を退く」の故事です。燭之武の説得は、秦と晋の利害の対立を鋭く指摘し、秦伯を納得させる名文として評価されています。また、衛侯鄭の帰国をめぐる内紛や、晋侯による衛侯毒殺未遂事件なども描かれ、当時の諸国間の複雑な外交関係が浮き彫りになっています。 Translation took 3970.0 seconds. |
| 初,鄭公子蘭出奔晉,從於晉侯伐鄭,請無與圍鄭。許之。使待命于東。鄭石甲父、侯宣多逆以為大子,以求成于晉,晉人許之。 冬,王使周公閱來聘。饗有昌歜、白、黑、形鹽。辭曰:「國君,文足昭也,武可畏也,則有備物之饗,以象其德。薦五味,羞嘉穀,鹽虎形,以獻其功。吾何以堪之?」 東門襄仲將聘于周,遂初聘于晉。 僖公三十一年 經 三十有一年春,取濟西田。公子遂如晉。 夏,四月,四卜郊,不從,乃免牲。猶三望。 秋,七月。 冬,杞伯姬來求婦。狄圍衛。 十有二月,衛遷于帝丘。 傳 三十一年春,取濟西田,分曹地也。使臧文仲往,宿於重館。重館人告曰:「晉新得諸侯,必親其共,不速行,將無及也。」從之。分曹地自洮以南,東傅于濟,盡曹地也。 襄仲如晉,拜曹田也。 夏,四月,四卜郊,不從,乃免牲,非禮也。猶三望,亦非禮也。禮不卜常祀,而卜其牲日。牛卜日曰牲,牲成而卜郊。上怠慢也。望,郊之細也。不郊,亦無望可也。 秋,晉蒐于清原,作五軍似禦狄。趙衰為卿。 冬,狄圍衛,衛遷于帝丘。卜曰三百年。 衛成公夢康叔曰:「相奪予享。」公命祀相。甯武子不可,曰:「鬼神非其族類,不歆其祀。杞、鄫何事?相之不享,於此久矣。非衛之罪也。不可以間成王、周公之命祀,請改祀命。」 |
翻訳文 かつて、鄭の公子蘭は晋へ亡命し、晋侯に従って鄭を攻めたが、鄭の包囲には加わらないことを願い出た。晋侯はこれを許し、東の地で待機するよう命じた。鄭の石甲父と侯宣多が公子蘭を迎えて太子とし、晋との講和を求めたところ、晋人はこれを承諾した。 冬、周王が周公閲を魯に派遣して訪問させた。饗宴には昌蒲の漬物、白米、黒黍、虎の形をした塩が供された。周公閲は辞退して言った。「国君というものは、その文徳が十分に輝き、武威が恐れられるものであってこそ、その徳を象徴するための備え物の饗宴を受けるのです。五つの味を供し、嘉穀を進め、虎の形の塩を献じて、その功績を表すものです。私ごときがどうしてこれに堪えられましょうか。」 東門襄仲は周へ訪問しようとしたが、まず初めに晋へ訪問した。 僖公三十一年 経 三十一年春、済西の田を取る。公子遂が晋へ行く。 夏四月、四度郊祭を卜したが吉と出ず、そこで犠牲の牛を放免した。それでもなお三望の祭りを行った。 秋七月。 冬、杞の伯姫が来て嫁を求めた。狄が衛を包囲した。 十二月、衛が帝丘に遷都した。 伝 三十一年春、済西の田を取ったのは、曹の地を分割したものである。臧文仲を派遣して受け取りに行かせたが、重の館に宿泊した。重の館の人が告げて言った。「晋は新たに諸侯の支持を得たばかりですから、必ずや恭順な者を親しく遇するでしょう。早く行かなければ、間に合わなくなります。」臧文仲はこれに従った。曹の地を洮から南、東は済水に接するまで分割し、曹の地を全て取った。 襄仲が晋へ行ったのは、曹の田を割譲されたことへの謝礼のためである。 夏四月、四度郊祭を卜したが吉と出ず、そこで犠牲の牛を放免したのは、礼に反する。それでもなお三望の祭りを行ったのも、また礼に反する。礼では、定例の祭祀は卜わず、その犠牲の日を卜うのである。牛は日を卜ってから犠牲と称し、犠牲が決まってから郊祭を卜うのである。上にある者が怠慢であった。望の祭りは郊祭の付属的なものである。郊祭を行わないのであれば、望の祭りも行わなくてよいのである。 秋、晋は清原で閲兵を行い、五軍を編成して狄に備えようとした。趙衰が卿となった。 冬、狄が衛を包囲したため、衛は帝丘に遷都した。卜うと三百年続くと出た。 衛の成公は康叔の夢を見た。康叔が言うには「相が私の祭祀を奪っている。」成公は相を祀るよう命じた。甯武子は不可として言った。「鬼神は自分の族類でなければ、その祭祀を受け入れません。杞や鄫が相を祀っているのはどういうことでしょうか。相の祭祀が絶えてから、ここに久しくなります。これは衛の罪ではありません。成王・周公の定めた祭祀の命を乱すことはできません。どうか祭祀の命を改められますように。」 解説 この一節は『春秋左氏伝』僖公三十一年の条で、経(本文)と伝(解説)から構成されています。 前半は前年の続きで、鄭の公子蘭(後の穆公)が晋の支援を得て鄭の太子となり、晋と講和する経緯が語られます。続いて、周の周公閲が魯を訪問した際の饗宴の場面では、虎形の塩などの供物が国君の徳を象徴するものであるとして、周公閲が辞退する様子が描かれています。これは当時の礼的観念を示す興味深い逸話です。 僖公三十一年の経では、魯が済西の田(曹の領土)を取得したこと、郊祭の卜が四度も吉と出ず犠牲を放免したこと、狄による衛の包囲と衛の帝丘遷都などが簡潔に記されます。 伝ではこれらの出来事の背景が詳述されます。特に郊祭に関する議論では、礼に反する行為として批判されており、当時の祭祀制度の一端が窺えます。また、衛の帝丘遷都に際しては、成公が見た夢をめぐって甯武子が鬼神祭祀の原則を説く場面があり、「鬼神はその族類でなければ祭祀を受け入れない」という古代中国の宗教観が示されています。 Translation took 1575.5 seconds. |
| 鄭洩駕惡公子瑕,鄭伯亦惡之,故公子瑕出奔楚。 僖公三十二年 經 三十有二年春,王正月。 夏,四月,己丑,鄭伯捷卒。衛人侵狄。 秋,衛人及狄盟。 冬,十有二月,己卯,晉侯重耳卒。 傳 三十二年春,楚鬭章請平于晉,晉陽處父報之。晉楚始通。 夏,狄有亂。衛入侵狄,狄請平焉。 秋,衛人及狄盟。 冬,晉文公卒。庚辰,將殯于曲沃,出絳,柩有聲如牛。卜偃使大夫拜曰:「君命大事,將有西師過軼我,擊之,必大捷焉。」 杞子自鄭使告于秦曰:「鄭人使我掌其北門之管,若潛師以來,國可得也。」穆公訪諸蹇叔,蹇叔曰:「勞師以襲遠,非所聞也。師勞力竭,遠主備之,無乃不可乎!師之所為,鄭必知之。勤而無所,必有悖心。且行千里,其誰不知?」公辭焉。召孟明、西乞、白乙,使出師於東門之外。蹇叔哭之曰:「孟子,吾見師之出,而不見其入也!」公使謂之曰:「爾何知?中壽,爾墓之木拱矣!」蹇叔之子與師,哭而送之曰:「晉人禦師必於殽,殽有二陵焉。其南陵,夏后皋之墓也。其北陵,文王之所辟風雨也。必死是間,余收爾骨焉。」秦師遂東。 僖公三十三年 經 三十有三年春,王二月,秦人入滑。齊侯使國歸父來聘。 夏,四月,辛巳,晉人及姜戎敗秦師于殽。癸巳,葬晉文公。狄侵齊。公伐邾,取訾婁。 |
鄭の洩駕は公子瑕を憎み、鄭伯もまた彼を憎んでいた。そのため公子瑕は楚に亡命した。 僖公三十二年 三十二年春、王の正月。 夏、四月、己丑の日、鄭伯捷が死去した。衛人が狄を侵した。 秋、衛人と狄が盟を結んだ。 冬、十二月、己卯の日、晋侯重耳が死去した。 伝 三十二年春、楚の鬭章が晋との和平を請い、晋の陽処父がこれに答礼した。晋と楚は初めて国交を開いた。 夏、狄に内乱があった。衛人が狄を侵すと、狄は和平を請うた。 秋、衛人と狄が盟を結んだ。 冬、晋の文公が死去した。庚辰の日、曲沃に葬ろうとし、絳を出ると、棺から牛のような音がした。卜偃が大夫たちに拝礼させて言った。「国君が大事を命じられた。まもなく西方の軍勢が我が国を通過して侵入してくるであろう。これを撃てば、必ず大勝利を得るであろう。」 杞子が鄭から秦に使いを送って告げた。「鄭人は私に北門の鍵を管理させています。もし密かに軍を進めて来れば、国を手に入れることができます。」穆公は蹇叔に相談した。蹇叔は言った。「軍を疲労させて遠方を襲うことは、聞いたことがありません。軍が疲れ力が尽きれば、遠方の主は備えをしているでしょう。それは無理なことではありませんか。軍の行動は、鄭に必ず知られます。苦労しても得るものがなければ、必ず不満の心が生じます。しかも千里を行くのに、誰が知らないことがありましょうか。」公はこの言葉を退けた。孟明・西乞・白乙を召し、東門の外から軍を出発させた。蹇叔は泣いて言った。「孟子よ、私は軍が出ていくのを見たが、帰ってくるのを見ることはできないだろう。」公は人をやって言わせた。「お前は何を知っているのか。中寿(六十歳程度)で死んでいれば、お前の墓の木も両手で抱えるほどになっていただろうに。」蹇叔の子も軍に加わったので、泣いて送り出して言った。「晋人は必ず殽で軍を迎え撃つだろう。殽には二つの丘がある。南の丘は夏后皋の墓であり、北の丘は文王が風雨を避けた所である。お前は必ずこの間で死ぬだろう。私はそこでお前の骨を拾ってやろう。」秦軍は遂に東へ進んだ。 僖公三十三年 三十三年春、王の二月、秦人が滑に入った。斉侯が国帰父を派遣して来聘した。 夏、四月、辛巳の日、晋人と姜戎が殽で秦軍を破った。癸巳の日、晋の文公を葬った。狄が斉を侵した。公が邾を伐ち、訾婁を取った。 解説: Translation took 2633.4 seconds. |
| 秋,公子遂帥師伐邾。晉人敗狄于箕。 冬,十月,公如齊。十有二月,公至自齊。乙巳,公薨于小寢。隕霜不殺草,李梅實。晉人、陳人、鄭人伐許。 傳 三十三年春,秦師過周北門,左右免冑而下,超乘者三百乘。王孫滿尚幼,觀之,言於王曰:「秦師輕而無禮,必敗。輕則寡謀,無禮則脫。入險而脫,又不能謀,能無敗乎?」 及滑,鄭商人弦高將市於周,遇之。以乘韋先,牛十二,犒師,曰:「寡君聞吾子將步師出於敝邑,敢犒從者。不腆敝邑為從者之淹,居則具一日之積,行則備一夕之衛。」且使遽告于鄭。鄭穆公使視客館,則束載、厲兵、秣馬矣。使皇武子辭焉,曰:「吾子淹久於敝邑,唯是脯資,餼牽竭矣。為吾子之將行也,鄭之有原圃,猶秦之有具囿也。吾子取其麋鹿,以閒敝邑,若何?」杞子奔齊,逢孫楊孫奔宋。孟明曰:「鄭有備矣,不可冀也。攻之不克,圍之不繼,吾其還也。」滅滑而還。 齊國莊子來聘,自郊勞至于贈賄,禮成而加之以敏。臧文仲言於公曰:「國子為政,齊猶有禮,君其朝焉。臣聞之,服於有禮,社稷之衛也。」 晉原軫曰:「秦違蹇叔而以貪勤民,天奉我也。奉不可失,敵不可縱。縱敵患生,違天不祥,必伐秦師。」欒枝曰:「未報秦施而伐其師,其為死君乎?」先軫曰:「秦不哀吾喪而伐吾同姓,秦則無禮,何施之為?吾聞之,一日縱敵,數世之患也。謀及子孫,可謂死君乎!」遂發命,遽興姜戎。子墨衰絰,梁弘御戎,萊駒為右。 |
秋、公子遂が軍を率いて邾を攻めた。晉人が箕で狄を破った。 冬、十月、公が齊へ赴いた。十二月、公が齊から帰還した。乙巳の日、公が小寝で亡くなった。霜が降りたが草を枯らさず、李や梅が実をつけた。晉人、陳人、鄭人が許を攻めた。 伝 三十三年春、秦の軍が周の北門を通過した。左右の兵士は兜を脱いで下車したが、三百乗の兵車が飛び乗って通過した。王孫滿はまだ幼かったが、これを見て王に言った。「秦の軍は軽率で無礼だ。必ず敗れる。軽率ならば謀略が少なく、無礼ならば締まりがない。険しい地に入って締まりがなく、また謀略もなければ、敗れないことがあろうか。」 滑に着くと、鄭の商人弦高が周で商売をしようとして、秦軍に出会った。彼はまず四枚のなめし革を贈り、牛十二頭で軍をねぎらって言った。「わが君は、あなたがたが軍を率いてわが国を通られると聞き、従者をねぎらわせてくださいました。わが国は貧しいながら、従者が滞在されるなら、滞在中は一日分の食糧を用意し、出発されるなら一晩の警備を整えましょう。」そして急使を送って鄭に知らせた。 鄭の穆公が宿舎を調べさせると、すでに荷物をまとめ、武器を磨き、馬に餌をやっていた。皇武子を遣わして暇乞いをさせて言った。「あなたがたはわが国に長く滞在され、干し肉や穀物、生きた家畜も尽きてしまいました。あなたがたが出発されるにあたり、鄭には原圃という狩り場があり、秦の具囿のようなものです。そこの麋鹿を取って、わが国を休息させてください。いかがですか。」杞子は齊に逃げ、逢孫と楊孫は宋に逃げた。孟明は言った。「鄭は備えがある。望みはない。攻めても勝てず、包囲しても補給が続かない。我々は帰るべきだ。」滑を滅ぼして帰還した。 齊の国荘子が来訪した。郊外での労いから贈り物の授与まで、礼儀が完成し、さらに機敏さが加わっていた。臧文仲が公に言った。「国子が政務を執っている。齊にはまだ礼儀がある。君は齊に朝見すべきです。私は聞いています。礼儀ある国に服することは、国家の守りであると。」 晉の原軫は言った。「秦は蹇叔の諫めに背き、貪欲のために民を苦しめている。天が我々に与えた好機だ。与えられた好機を失ってはならず、敵を逃がしてはならない。敵を逃がせば災いが生じ、天に背けば不吉である。必ず秦軍を攻撃すべきだ。」欒枝は言った。「まだ秦の恩に報いていないのにその軍を攻撃するのは、亡き君に対して申し訳ないのではないか。」先軫は言った。「秦は我々の喪を悲しまず、我々の同姓の国を攻めた。秦は無礼である。何の恩があろうか。私は聞いている。一日敵を逃がせば、数世代の災いとなると。子孫のことを考えれば、亡き君に対して申し訳ないと言えるだろうか。」そこで命令を発し、急いで姜戎を動員した。子は喪服を黒く染めて着用し、梁弘が戦車を御し、萊駒が右に立った。 解説: Translation took 3316.8 seconds. |
| 夏,四月,辛巳,敗秦師于殽,獲百里孟明視、西乞術、白乙丙以歸。遂墨以葬文公,晉於是始墨。文嬴請三帥,曰:「彼實構吾二君。寡君若得而食之,不厭,君何辱討焉?使歸就戮于秦,以逞寡君之志,若何?」公許之。先軫朝,問秦囚。公曰:「夫人請之,吾舍之矣。」先軫怒曰:「武夫力而拘諸原,婦人暫而免諸國,墮軍實而長寇讎,亡無日矣!」不顧而唾。公使陽處父追之,及諸河,則在舟中矣。釋左驂,以公命贈孟明。孟明稽首曰:「君之惠,不以纍臣釁鼓,使歸就戮于秦。寡君之以為戮,死且不朽。若從君惠而免之,三年將拜君賜。」秦伯素服郊次,鄉師而哭,曰:「孤違蹇叔,以辱二三子,孤之罪也!不替孟明,孤之過也!大夫何罪?且吾不以一眚掩大德。」 狄侵齊,因晉喪也。公伐邾,取訾婁,以報升陘之役。邾人不設備。 秋,襄仲復伐邾。狄伐晉,及箕。 八月,戊子,晉侯敗狄于箕。郤缺獲白狄子。先軫曰:匹夫逞志於君而無討,敢不自討乎?免冑入狄師,死焉。狄人歸其元,面如生。 初,臼季使過冀,見冀缺耨,其妻饁之。敬,相待如賓。與之歸,言諸文公曰:「敬,德之聚也!能敬必有德。德以治民,君請用之!臣聞之,出門如賓,承事如祭,仁之則也。」公曰:「其父有罪,可乎?」對曰:「舜之罪也,殛鯀,其舉也興禹。管敬仲,桓之賊也,實相以濟。康誥曰:『父不慈,子不祗,兄不友,弟不共,不相及也。』《詩》曰:『采葑采菲,無以下體。』君取節焉可也!」文公以為下軍大夫。反自箕,襄公以三命命先且居將中軍,以再命命先茅之縣賞胥臣,曰:「舉郤缺,子之功也。」以一命命郤缺為卿,復與之冀,亦未有軍行。 |
夏四月辛巳の日、殽で秦軍を破り、百里孟明視・西乞術・白乙丙を捕らえて帰国した。そこで黒い喪服で文公を葬り、晋ではこの時から喪服に黒を用いるようになった。文嬴が三人の将軍の釈放を請うて言った。「彼らは実際に我が国の君主とあなたの国の君主との間に不和を引き起こしました。我が君(秦の君主)がもし彼らを捕らえてその肉を食べても飽き足りないでしょう。あなたがわざわざ彼らを罰するには及びません。彼らを秦に帰して秦で処刑させ、我が君の恨みを晴らさせてはどうでしょうか。」公(晋の襄公)はこれを許した。先軫が朝廷に参内して秦の捕虜のことを尋ねた。公は言った。「夫人(文嬴)が請うたので、私は彼らを釈放した。」先軫は怒って言った。「武人たちが力を尽くして戦場で捕らえた者を、婦人がちょっと言っただけで国から釈放してしまった。これは軍の戦果を台無しにし、敵を勢いづかせるもので、国家の滅亡も遠くない!」と振り返りもせずに唾を吐いた。公は陽処父に追わせたが、黄河のほとりに着いたときには、彼らはすでに舟の中にいた。陽処父は左のそえ馬を解き放ち、公の命令として孟明に贈ろうとした。孟明は頭を地につけて礼をし、言った。「あなたのご恩により、捕虜の身である私を鼓の血祭りにせず、秦に帰して秦で処刑させてくださる。もし我が君が私を処刑するなら、死んでもその恩は忘れません。もしあなたのご恩に従って私を許すなら、三年後に必ずあなたの賜物に報いるために参上しましょう。」秦伯(秦の穆公)は白い喪服を着て郊外に出て、帰ってくる軍を迎えて泣き、言った。「私が蹇叔の諫めに背いたために、お前たちを辱めた。これは私の罪だ!孟明を罷免しなかったのも私の過ちだ!大夫たちに何の罪があろうか。また私は一つの過失で大きな徳を覆い隠すようなことはしない。」 狄が斉に侵入した。晋の喪中に乗じたのである。公(晋の襄公)は邾を攻め、訾婁を取って、升陘の戦いの報復とした。邾の人は防備をしていなかった。 秋、襄仲が再び邾を攻めた。狄が晋を攻め、箕にまで達した。 八月戊子の日、晋侯(襄公)は箕で狄を破った。郤缺が白狄の君主を捕らえた。先軫は言った。「一介の臣下である私が君主に対して怒りをぶちまけ、それで罰せられないでいる。どうして自分から罰を求めずにいられようか。」と、かぶとを脱いで狄の軍中に突入し、そこで戦死した。狄人はその首を返してきたが、顔は生きているかのようだった。 昔、臼季が使者として冀を通過したとき、冀缺が草取りをしており、その妻が食事を運んでいた。二人は互いに敬い合い、客に対するように丁寧に接していた。臼季は冀缺を連れて帰り、文公に言った。「敬は徳の集約です。敬を尽くせる者には必ず徳があります。徳によって民を治めることができます。どうか彼を用いてください。私は聞いています。門を出るときは客に接するように、仕事を引き受けるときは祭祀を行うようにする、これが仁の規範であると。」公は言った。「彼の父には罪があるが、それでもよいのか。」臼季は答えた。「舜が罪を罰したとき、鯀を流刑にしましたが、人を挙用するときには禹を登用しました。管敬仲は桓公にとっては仇敵でしたが、実際には宰相として国を救いました。『康誥』には「父が慈愛でなくとも、子が敬わなくとも、兄が友愛でなくとも、弟が恭順でなくとも、その罪は互いに及ばない」とあります。『詩経』には「蕪や大根を採るとき、根の部分だけを捨ててはならない」とあります。君主はその長所を取って用いればよいのです。」文公は彼を下軍の大夫に任命した。箕から帰還した後、襄公は三命の礼をもって先且居に中軍の将を命じ、再命の礼をもって先茅の県を胥臣に与えて賞し、言った。「郤缺を推挙したのは、お前の功績だ。」そして一命の礼をもって郤缺を卿に任命し、再び冀の地を与えたが、まだ軍の編成には加えなかった。 解説:この一節は、晋の襄公が秦を殽の戦いで破り、三人の将軍を捕らえたものの、文嬴の請いで釈放してしまい、先軫が激怒する場面から始まります。先軫の忠義と激しい性格、陽処父の追跡と孟明の感謝の言葉、秦伯の反省と寛容が描かれます。その後、狄や邾との戦い、先軫の自決的な戦死、臼季による郤缺の推挙と襄公の人事が続きます。『春秋左氏伝』の特徴である、戦争と政治、人物の言行を通じて教訓を示す部分です。特に先軫の忠義と激しい性格、臼季の人物眼、襄公の寛容さなどが描かれています。また、引用される『康誥』や『詩経』の言葉は、徳治主義の思想を示しています。 Translation took 4314.9 seconds. |
| 冬,公如齊,朝,且弔有狄師也。反,薨于小寢,即安也。 晉、陳、鄭伐許,討其貳於楚也。楚令尹子上侵陳、蔡。陳、蔡成,遂伐鄭,將納公子瑕。門于桔柣之門,瑕覆于周氏之汪。外僕髡屯禽之以獻。文夫人斂而葬之鄶城之下。 晉陽處父侵蔡,楚子上救之,與晉師夾泜而軍。陽子患之,使謂子上曰:「吾聞之,『文不犯順,武不違敵。』子若欲戰,則吾退舍,子濟而陳,遲速唯命。不然,紓我,老師費財,亦無益也!」乃駕以待。子上欲涉,大孫伯曰:「不可。晉人無信,半涉而薄我,悔敗何及?不如紓之。」乃退舍。陽子宣言曰:「楚師遁矣!」遂歸。楚師亦歸。大子商臣譖子上曰:「受晉賂而辟之,楚之恥也。罪莫大焉!」王殺子上。 葬僖公,緩,作主,非禮也。凡君薨,卒哭而祔,祔而作主,特祀於主,烝、嘗、禘於廟。 |
冬、僖公は斉へ赴き、朝見し、あわせて狄の軍勢が来たことを弔問した。帰国すると、小寝(私的な寝室)で亡くなった。それは安らかな死であった。 晋・陳・鄭は許を攻めた。許が楚に二心を抱いたことを討つためである。楚の令尹(宰相)子上は陳と蔡に侵攻した。陳と蔡が和睦したので、続いて鄭を攻め、公子瑕を(鄭の国君として)送り込もうとした。桔柣の門で戦い、公子瑕は周氏の池で車がひっくり返って死んだ。外僕(官名)の髡屯が彼を捕らえて献上した。文夫人(鄭の文公の夫人)は遺体を引き取って鄶城の下に葬った。 晋の陽処父が蔡に侵攻し、楚の子上がこれを救援した。晋軍と楚軍は泜水を挟んで対陣した。陽子(陽処父)はこれを憂い、使者を送って子上に言った。「私はこう聞いています。『文は順(道理)に逆らわず、武は敵を避けない』と。あなたが戦いたいなら、私は軍を退かせましょう。あなたが川を渡って陣を敷くなら、遅いのも速いのもあなたの命令次第です。そうでなければ、我々をゆっくりさせてください。軍を長く駐留させて財を費やしても、何の益もありません。」そして車を整えて待った。子上は川を渡ろうとしたが、大孫伯が言った。「いけません。晋人は信義がありません。半分渡ったところで攻められたら、後悔しても及びません。むしろゆっくり構えるべきです。」そこで軍を退かせた。陽子は宣言した。「楚軍は逃げたぞ!」そして帰国した。楚軍も帰国した。太子商臣は子上を讒言して言った。「晋から賄賂を受け取って戦いを避けたのは、楚の恥辱です。これ以上の罪はありません!」王(成王)は子上を殺した。 僖公を葬ったが、葬儀が遅れ、位牌(主)を作ったのは礼に反する。およそ国君が亡くなった場合、卒哭(哭礼を終えること)の後に祔(新たな位牌を先祖の廟に合祀すること)を行い、祔の後に位牌を作り、その位牌に対して特別に祀り、烝・嘗・禘の祭りは廟で行うものである。 【解説】 Translation took 2520.6 seconds. |
| input text ../document/春秋左氏傳\06_春秋左氏傳_文公.txt | 現代日本語 translated text |
| 春秋左氏傳 文公 文公元年 經 元年春,王正月,公即位。 二月,癸亥,日有食之。天王使叔服來會葬。 夏,四月,丁巳,葬我君僖公。天王使毛伯來錫公命。晉侯伐衛。叔孫得臣如京師。衛人伐晉。 秋,公孫敖會晉侯于戚。 冬,十月,丁未,楚世子商臣弒其君頵。公孫敖如齊。 傳 元年春,王使內史叔服來會葬。公孫敖聞其能相人也,見其二子焉。叔服曰:「穀也食子,難也收子。穀也豐下,必有後於魯國。」 於是閏三月,非禮也。先王之正時也,履端於始,舉正於中,歸餘於終。履端於始,序則不愆。舉正於中,民則不惑。歸餘於終,事則不悖。 夏,四月,丁巳,葬僖公。 王使毛伯衛來錫公命,叔孫得臣如周拜。 晉文公之季年,諸侯朝晉。衛成公不朝,使孔達侵鄭,伐緜、訾、及匡。晉襄公既祥,使告于諸侯而伐衛,及南陽。先且居曰:「效尤,禍也。請君朝王,臣從師。」晉侯朝王于溫,先且居、胥臣伐衛。 五月,辛酉朔,晉師圍戚。 六月,戊戌,取之,獲孫昭子。 衛人使告于陳,陳共公曰:「更伐之,我辭之。」衛孔達帥師伐晉。君子以為古,古者越國而謀。 秋,晉侯疆戚田,故公孫敖會之。 初,楚子將以商臣為大子,訪諸令尹子上,子上曰:「君之齒未也,而又多愛,黜乃亂也。楚國之舉,恒在少者,且是人也,蜂目而豺聲,忍人也,不可立也。」弗聽。既又欲立王子職而黜大子商臣。商臣聞之而未察,告其師潘崇曰:「若之何而察之?」潘崇曰:「享江芊而勿敬也。」從之。江芊怒曰:「呼,役夫!宜君王之欲殺女而立職也。」告潘崇曰:「信矣。」潘崇曰:「能事諸乎?」曰:「不能。」「能行乎?」曰:「不能。」「能行大事乎?」曰:「能。」 |
【現代日本語訳】 文公元年 経 元年の春、周王の正月に、公(文公)が即位した。 二月癸亥の日、日食が起こった。周王が叔服を遣わして葬儀に参列させた。 夏四月丁巳の日、我が君僖公を葬った。周王が毛伯を遣わして公に任命を授けた。晋侯が衛を討伐した。叔孫得臣が京師へ赴いた。衛人が晋を討伐した。 秋、公孫敖が戚で晋侯と会合した。 冬十月丁未の日、楚の世子商臣がその君頵を弑した。公孫敖が斉へ赴いた。 伝 元年の春、周王が内史の叔服を遣わして葬儀に参列させた。公孫敖は彼が人相を見る能力があると聞き、二人の息子を会わせた。叔服は言った。「穀(長子)はあなたを養い、難(次子)はあなたを葬るでしょう。穀はあごが豊かなので、必ず魯国で子孫を残します。」 この時に閏三月を設けたが、礼に適っていない。先王が時を正すには、端を始めに定め、正を中間に掲げ、余りを終わりに帰した。端を始めに定めれば順序が乱れず、正を中間に掲げれば人々が迷わず、余りを終わりに帰せば事柄が背かない。 夏四月丁巳の日、僖公を葬った。 周王が毛伯衛を遣わして公に任命を授けたため、叔孫得臣が周へ赴いて礼を述べた。 晋文公の晚年、諸侯は晋に朝貢した。衛成公は朝貢せず、孔達に鄭を侵攻させ、緜・訾・匡を攻撃した。晋襄公が喪明けの儀式を終えると、諸侯に通告して衛を討伐し、南陽に至った。先且居が言った。「過ちを真似るのは禍のもとです。君は周王に朝貢し、臣が軍を率いましょう。」晋侯は温で周王に朝貢し、先且居と胥臣が衛を討伐した。 五月辛酉の朔日、晋軍が戚を包囲した。 六月戊戌の日、戚を占領し、孫昭子を捕らえた。 衛が陳に救援を要請すると、陳共公は「改めて晋を攻撃せよ、私が仲裁しよう」と言った。衛の孔達が軍を率いて晋を攻撃した。君子はこれを「古いやり方」と評した。古くは他国を越えて謀略を巡らすものだった。 秋、晋侯が戚の田地を整備したため、公孫敖がこれに会合した。 当初、楚王(成王)は商臣を太子に立てようと、令尹の子上に相談した。子上は言った。「君はまだ年が若く、寵愛する子も多いので、廃太子は混乱を招きます。楚国の後継者は通常年少者から選ばれます。しかもこの人物は蜂のような目と豺のような声の残忍な人物です。太子にすべきではありません。」楚王は聞き入れなかった。後に王子職を立てて太子商臣を廃そうとした。商臣はこれを聞いたが確信が持てず、師傅の潘崇に「どうすれば真相を確かめられるか」と相談した。潘崇は「江芊をもてなす際に敬意を払わなければよい」と助言した。商臣がそうすると、江芊は怒って「ああ、役人め! 王がお前を殺して職を立てようとするのも当然だ」と叫んだ。商臣は潘崇に「真相だ」と報告し、潘崇は「職に仕えられるか」「逃亡できるか」「大事(弑逆)を実行できるか」と問い、商臣は最後の問いに「できる」と答えた。 【解説】 Translation took 976.2 seconds. |
| 冬,十月,以宮甲圍成王。王請食熊蹯而死,弗聽。丁未,王縊。謚之曰「靈」,不瞑,曰「成」,乃瞑。 穆王立,以其為大子之室與潘崇,使為大師,且掌環列之尹。 穆伯如齊,始聘焉,禮也。凡君即位,卿出並聘,踐脩舊好,要結外援,好事鄰國,以衛社稷,忠信卑讓之道也。忠,德之正也。信,德之固也。卑讓,德之基也。 殽之役,晉人既歸秦師,秦大夫及左右皆言於秦伯曰:「是敗也,孟明之罪也,必殺之。」秦伯曰:「是孤之罪也。周芮良夫之詩曰:『大風有隧,貪人敗類。聽言則對,誦言如醉。匪用其良,覆俾我悖。』是貪故也,孤之謂矣。孤實貪以禍夫子,夫子何罪?」復使為政。 文公二年 經 二年春,王二月,甲子,晉侯及秦師戰于彭衙,秦師敗績。 丁丑,作僖公主。 三月,乙巳,及晉處父盟。 夏,六月,公孫敖會宋公、陳侯、鄭伯、晉士縠盟于垂隴。 自十有二月不雨,至于秋七月。 八月,丁卯,大事于大廟,躋僖公。 冬,晉人、宋人、陳人、鄭人、伐秦。公子遂如齊納幣。 傳 二年春,秦孟明視帥師伐晉,以報殽之役。 二月,晉侯禦之。先且居將中軍、趙衰佐之;王官無地御戎;狐鞫居為右。甲子,及秦師戰于彭衙,秦師敗績。晉人謂秦「拜賜之師」。戰于殽也,晉梁弘御戎、萊駒為右。戰之明日,晉襄公縛秦囚,使萊駒以戈斬之。囚呼、萊駒失戈,狼瞫取戈以斬囚,禽之以從公乘,遂以為右。箕之役,先軫黜之,而立續簡伯。狼瞫怒,其友曰:「盍死之?」瞫曰:「吾未獲死所。」其友曰:「吾與女為難。」瞫曰:「《周志》有之:『勇則害上,不登於明堂。』死而不義,非勇也。共用之謂勇,吾以勇求右,無勇而黜,亦其所也。謂上不我知,黜而宜,乃知我矣。子姑待之!」及彭衙既陳,以其屬馳秦師,死焉。晉師從之,大敗秦師。君子謂狼瞫於是乎君子。《詩》曰:「君子如怒,亂庶遄沮。」又曰:「王赫斯怒,爰整其旅。」怒不作亂,而以從師,可謂君子矣。秦伯猶用孟明。孟明增脩國政,重施於民。趙成子言於諸大夫曰:「秦師又至,將必辟之。懼而增德,不可當也。《詩》曰:『毋念爾祖,聿脩厥德。』孟明念之矣。念德不怠,其可敵乎?」 |
【翻訳文】 穆王が立つと、太子時代の屋敷を潘崇に与え、大師とし、さらに環列の尹(宮廷警備の長官)を兼任させた。 穆伯が斉へ行き、初めて聘問(外交訪問)を行った。これは礼に適った行為である。君主が即位すると、卿を派遣して諸国を聘問させ、旧来の友好関係を修復し、外部の支援を確保し、隣国と善隣関係を結び、国家を守るのが、忠信・謙譲の道理である。忠は徳の根本、信は徳の支柱、謙譲は徳の基礎なのである。 殽の戦いの後、晋が秦軍を帰還させると、秦の大夫や側近たちは皆、秦伯に「この敗戦は孟明の罪です。必ず诛殺すべきです」と進言した。秦伯は「これはわしの罪である。周の芮良夫の詩に『大風には通り道あり、貪欲な人は善を損なう。都合の良い言葉には応じ、道理ある言葉には酔ったように聞かない。良臣を用いず、かえってわしを惑わせる』とある。貪欲が原因なのだ。わしが貪欲のために孟明を災禍に巻き込み、彼に何の罪があろうか」と言い、再び政務を執らせた。 文公二年 二年春、周暦二月甲子の日、晋侯が秦軍と彭衙で戦い、秦軍は大敗した。 伝(解説) 二年春、秦の孟明視が軍を率いて晋を討ち、殽の戦いの報復とした。 【解説】
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| 丁丑,作僖公主。書,不時也。 晉人以公不朝,來討。公如晉。 夏四月,己巳,晉人使陽處父盟公,以恥之。書曰:「及晉處父盟」,以厭之也。適晉不書,諱之也。 公未至,六月,穆伯會諸侯,及晉司空士縠盟于垂隴,晉討衛故也。書「士縠」,堪其事也。陳侯為衛請成于晉,執孔達以說。 秋八月,丁卯,大事于大廟,躋僖公,逆祀也。於是夏父弗忌為宗伯,尊僖公,且明見曰:「吾見新鬼大,故鬼小,先大後小,順也。躋聖賢,明也。明順,禮也。」君子以為失禮。禮無不順。祀,國之大事也,而逆之,可謂禮乎?子雖齊聖,不先父食,久矣。故禹不先鯀,湯不先契,文武不先不窋。宋祖帝乙,鄭祖厲王,猶上祖也。是以《魯頌》曰:「春秋匪解,享祀不忒。皇皇后帝,皇祖后稷。」君子曰禮,謂其后稷親,而先帝也。詩曰:「問我諸姑,遂及伯姊。」君子曰:「禮謂其姊親而先姑也。」仲尼曰:「臧文仲其不仁者三,不知者三。下展禽、廢六關、妾織蒲,三不仁也。作虛器、縱逆祀、祀爰居,三不知也。」 冬,晉先且居、宋公子成、陳轅選、鄭公子歸生,伐秦,取汪及彭衙而還,以報彭衙之役。卿不書,為穆公故,尊秦也,謂之崇德。襄仲如齊納幣,禮也。凡君即位,好舅甥,脩昏姻,娶元妃以奉粢盛,孝也。孝,禮之始也。 文公三年 經 |
丁丑の日に、僖公の位牌を作った。『春秋』に記載されたのは、時期が適切ではなかったからである。 晋が魯の公(文公)が朝見しなかったことを理由に討伐に来た。公は晋へ赴いた。 夏四月の己巳の日、晋は陽処父を使者として公と盟約を結ばせ、公を辱めた。『春秋』に「晋の処父と盟う」と書いたのは、この行為を忌み嫌うためである。晋へ行ったことは記載されていないのは、これを避けて書かなかったからである。 公がまだ帰国しないうちに、六月、穆伯が諸侯と会合し、晋の司空である士縠と垂隴で盟約を結んだ。これは晋が衛を討伐したためである。『春秋』に「士縠」と記載したのは、彼がその任務を果たしたからである。陳侯が衛のために晋に講和を請い、孔達を捕らえて晋を説得した。 秋八月の丁卯の日、大廟で大規模な祭祀を行い、僖公を上位に祀ったが、これは祭祀の順序を逆にするものだった。この時、夏父弗忌が宗伯として、僖公を尊び、はっきりと見て言った:「私は新たな鬼(僖公)が大きく、古い鬼(先君)が小さいのを見る。大きい者を先に、小さい者を後に祀るのは順当である。聖賢を上位に祀るのは明らかである。明らかで順当なのは礼である。」君子はこれを礼を失っていると考えた。礼には順当でないものはない。祭祀は国家の大事であるのに、順序を逆にするのは、礼と言えるだろうか?子たる者たとえ聖人であっても、父の祭祀に先立つことはない、これは古来の道理である。だから禹は鯀に先立たず、湯は契に先立たず、文王と武王は不窋に先立たない。宋は帝乙を祖とし、鄭は厲王を祖とするが、それでもより上位の祖を重んじる。そこで『魯頌』に「春秋に怠ることなく、祭祀を誤りなく行う。輝かしい天帝、偉大な祖先后稷」とある。君子は礼と言い、后稷は親であるが、先に天帝を祀るとする。詩に「私の諸姑(父の姉妹)に尋ね、そして伯姉(姉)に及ぶ」とある。君子は「礼は姉が親であるが、先に姑を祀るとする」と言う。仲尼(孔子)は「臧文仲には不仁な点が三つ、知恵のない点が三つある。展禽を冷遇したこと、六関を廃したこと、妾に蒲を織らせたこと、これら三つの不仁である。虚栄の器を作ったこと、逆祀を許したこと、爰居(鳥)を祀ったこと、これら三つの不知である」と言った。 冬、晋の先且居、宋の公子成、陳の轅選、鄭の公子帰生が秦を攻撃し、汪と彭衙を奪って帰還した。これは彭衙の戦いへの報復である。卿の名が記載されていないのは、穆公のため、秦を尊重し、これを崇德と呼ぶ。襄仲が斉へ行き婚約の贈り物をしたのは、礼に適っている。一般に君主が即位すると、姻戚関係を良好にし、婚姻を整え、正妃を娶って祭祀の穀物を捧げるのは、孝である。孝は礼の始まりである。 文公三年の経 【解説】 Translation took 1366.6 seconds. |
| 春,王正月,叔孫得臣會晉人、宋人、陳人、衛人、鄭人,伐沈,沈潰。 夏,五月,王子虎卒。秦人伐晉。 秋,楚人圍江,雨螽于宋。 冬,公如晉。 十有二月,己巳,公及晉侯盟。晉陽處父帥師伐楚,以救江。 傳 春,莊叔會諸侯之師伐沈,以其服於楚也。沈潰。凡民,逃其上曰潰,在上曰逃。衛侯如陳,拜晉成也。 夏四月,乙亥,王叔文公卒,來赴,弔如同盟,禮也。秦伯伐晉,濟河焚舟,取王官及郊。晉人不出,遂自茅津濟,封殽尸而還。遂霸西戎,用孟明也。君子是以知,秦穆公之為君也,舉人之周也,與人之壹也;孟明之臣也,其不解也,能懼思也;子桑之忠也,其知人也,能舉善也。《詩》曰:「于以采蘩?于沼于沚。于以用之?公侯之事。」秦穆有焉;「夙夜匪解,以事一人。」孟明有焉;「詒厥孫謀,以燕翼子。」子桑有焉。 秋,雨螽于宋,隊而死也。 楚師圍江,晉先僕伐楚以救江。 冬,晉以江故告于周。王叔桓公、晉陽處父,伐楚,以救江。門于方城,遇息公子朱而還。 晉人懼其無禮於公也,請改盟。公如晉,及晉侯盟。晉侯饗公,賦《菁菁者莪》,莊叔以公降拜,曰:「小國受命於大國,敢不慎儀?君貺之以大禮,何樂如之?抑小國之樂,大國之惠也。」晉侯降辭,登成拜,公賦《嘉樂》。 文公四年 經 |
春、王の正月、叔孫得臣が晋人、宋人、陳人、衛人、鄭人と会合し、沈を討伐した。沈は潰走した。 夏、五月、王子虎が死去した。秦人が晋を討伐した。 秋、楚人が江を包囲し、宋では蝗が雨のように降った。 冬、公(魯の文公)が晋へ行った。 十二月己巳の日、公と晋侯が盟約を結んだ。晋の陽処父が軍を率いて楚を討伐し、江を救援した。 伝 春、荘叔(叔孫得臣)が諸侯の軍と会合して沈を討伐した。これは沈が楚に服属していたためである。沈は潰走した。一般に民衆が上位者から逃れることを「潰」といい、上位者が逃れることを「逃」という。衛侯が陳へ行き、晋の成事を礼拝した。 夏四月乙亥の日、王叔文公が死去し、訃報が届いた。同盟国として弔問し、礼を尽くした。秦伯が晋を討伐し、黄河を渡り舟を焼き捨て、王官と郊を占領した。晋軍は出撃せず、秦軍は茅津から渡河し、殽の戦死者を埋葬して帰還した。これにより西戎の覇者となり、孟明を登用した。君子はこれによって、秦穆公が君主として人材を周到に登用し、一貫して信任したこと、孟明が臣下として怠らず、畏れ慎み思慮深かったこと、子桑が忠義で人を見る目があり、善を推挙できたことを知った。『詩経』に「どこでヨモギを摘むか?沼や池で。どこで使うか?公侯の用事に」とあり、秦穆公はこれに当たる。「朝夕怠けず、一人に仕える」は孟明に当たり、「子孫に謀を遺し、安泰を与える」は子桑に当たる。 秋、宋で蝗が雨のように降り、墜死した。 楚軍が江を包囲し、晋の先僕が楚を討伐して江を救援した。 冬、晋は江の件を周に報告した。王叔桓公と晋の陽処父が楚を討伐し、江を救援した。方城で門を攻めたが、息公子朱と遭遇して撤退した。 晋は公(魯の文公)への無礼を恐れ、盟約のやり直しを請うた。公が晋へ行き、晋侯と盟約を結んだ。晋侯が公を饗応し、『菁菁者莪』を賦した。荘叔が公に降りて拝礼させ、「小国が大国から命を受けるのに、儀礼を慎まねばなりません。君が大礼を賜り、これ以上の喜びはありません。ただし小国の喜びは、大国の恵みによるものです」と言った。晋侯が降りて辞し、改めて拝礼を成した。公は『嘉楽』を賦した。 文公四年 <解説> Translation took 770.9 seconds. |
| 春,公至自晉。 夏,逆婦姜于齊。狄侵齊。 秋,楚人滅江。晉侯伐秦,衛侯使甯俞來聘。 冬十有一月,壬寅,夫人風氏薨。 傳 春,晉人歸孔達于衛。以為衛之良也,故免之。 夏,衛侯如晉拜。曹伯如晉會正。 逆婦姜于齊,卿不行,非禮也。君子是以知出姜之不允於魯也,曰:「貴聘而賤逆之,君而卑之,立而廢之,棄信而壞其主,在國必亂,在家必亡。不允宜哉。《詩》曰:「畏天之威,于時保之」,敬主之謂也。」 秋,晉侯伐秦,圍刓新城,以報王官之役。 楚人滅江,秦伯為之降服,出次,不舉,過數。大夫諫,公曰:「同盟滅,雖不能救,敢不矜乎,吾自懼也。」君子曰,詩云:「惟彼二國,其政不獲,惟此四國,爰究爰度,其秦穆之謂矣。」 衛甯武子來聘,公與之宴,為賦《湛露》,及《彤弓》。不辭,又不荅賦,使行人私焉。對曰,臣以為肄業及之也,昔諸侯朝正於王,王宴樂之,於是乎賦《湛露》,則天子當陽,諸侯用命也。諸侯敵王所愾,而獻其功,王於是乎賜之,彤弓一,彤矢百,玈弓矢千,以覺報宴。今陪臣來繼舊好,君辱貺之,其敢干大禮以自取戾。 冬,成風薨。 文公五年 經 春,王正月,王使榮叔歸含,且賵。 三月,辛亥,葬我小君成風。王使召伯來會葬。 |
春、公が晋から帰国した。 夏、斉から婦姜を迎え入れようとした。狄が斉を侵攻した。 秋、楚が江を滅ぼした。晋侯が秦を討伐し、衛侯は甯俞を派遣して訪問させた。 冬十一月壬寅の日、夫人風氏が逝去された。 【伝】 春、晋人が孔達を衛に送り返した。衛の有能な人物と考えたため、赦免したのである。 夏、衛侯が晋へ赴き礼を述べた。曹伯が晋へ赴き会議に参加した。 斉から婦姜を迎える際、卿が同行しなかったのは礼儀に反する。君子はこれによって出姜が魯で認められない運命にあると看破し、次のように論じた。「聘礼を重んじながら迎えを軽んじるとは、君たる者を卑しめ、立てながら廃するようなものだ。信義を捨てて君主の立場を損なえば、国にあれば必ず乱れ、家にあれば必ず滅びる。認められないのも当然である『詩経』に『天の威を畏れ、時に之を保つ』とあるが、これは主君を敬うことを指すのだ」 秋、晋侯が秦を討伐し、刓新城を包囲して、王官の戦いの報復とした。 楚が江を滅ぼした時、秦伯は喪服を着て住まいを移し、音楽を止め、規定以上の喪に服した。家臣が諫めると、公は言った。「同盟国が滅びたのに救えなかったのだ。哀れまないでいられようか、我が身の危惧さえ覚える」君子は評して、詩経の「あの二国は政治がうまくいかず、この四方の国は謀り測る」という言葉は、まさに秦穆公を指したものだという。 衛の甯武子が訪問した時、公は宴を催し『湛露』と『彤弓』の詩を賦した。ところが甯武子は辞退もせず、返歌もしなかった。使者が密かに理由を尋ねると、彼は答えた。「習い事の一環と承りました。昔、諸侯が王に新年の挨拶に来ると、王は宴を開いて『湛露』を賦し、天子が陽の位置に立ち諸侯が使命を果たすことを示しました。また諸侯が王の敵を討って功績を献上すると、王は彤弓一本、彤矢百本、黒弓矢千本を賜り、宴で報いました。今私は旧交を継ぐため来た陪臣に過ぎず、君が恵んで宴を賜っても、大礼を犯して咎を受けるわけには参りません」 冬、成風が逝去された。 【文公五年の経】 春、周王の正月、王が栄叔を遣わして死者への含め玉と副葬品を贈った。 三月辛亥の日、我が小君成風を葬った。王が召伯を遣わして会葬に参加させた。 解説この一節は『春秋左氏伝』における魯の文公時代の記録です。「経」部分は簡潔な年代記で、「伝」部分が出来事の背景や評価を詳述する形式です。主なポイントは以下の通りです:
全体として、この時代の政治が「礼」を基盤とし、国際関係や内部統治において形式を重んじる特徴が浮き彫りにされています。 Translation took 935.9 seconds. |
| 夏,公孫敖如晉。秦人入鄀。 秋,楚人滅六。 冬十月,甲申,許男業卒。 傳 春,王使榮叔來含,且賵。召昭公來會葬,禮也。初,鄀叛楚即秦,又貳於楚。 夏,秦人入鄀。六人叛楚,即東夷。 秋,楚成大心、仲歸帥師滅六。冬,楚子燮滅蓼。臧文仲聞六與蓼滅,曰:「皋陶、庭堅不祀忽諸?德之不建,民之無援,哀哉!」 晉陽處父聘于衛,反過甯,甯嬴從之,及溫而還。其妻問之,嬴曰:「以剛。《商書》曰:『沈漸剛克,高明柔克。』夫子壹之,其不沒乎!?天為剛德,猶不于時,況在人乎!且華而不實,怨之所聚也。犯而聚怨,不可以定身。余懼不獲其利,而離其難,是以去之。」晉趙成子、欒貞子、霍伯、臼季,皆卒。 文公六年 經 春,葬許僖公。 夏,季孫行父如陳。秋,季孫行父如晉。 八月,乙亥,晉侯驩卒。 冬十月,公子遂如晉。葬晉襄公。晉殺其大夫陽處父。晉狐射姑出奔狄。 閏月不告月。猶朝于廟。 傳 春,晉蒐于夷,舍二軍。使狐射姑將中軍,趙盾佐之。陽處父至自溫,改蒐于董,易中軍。陽子,成季之屬也,故黨於趙氏,且謂趙盾能,曰:「使能,國之利也。」是以上之。宣子於是乎始為國政,制事典、正法罪、辟刑獄、董逋逃、由質要、治舊洿、本秩禮、續常職、出滯淹。既成,以授大傅陽子,與大師賈佗,使行諸晉國,以為常法。臧文仲以陳、衛之睦也,欲求好於陳。 |
【翻訳文】 伝 文公六年 伝 【解説】
全体として、春秋時代の戦乱と外交・内政の実態を生き生きと伝えるとともに、為政者のあるべき姿を問う思想的深度も持った一節です。 Translation took 1018.9 seconds. |
| 夏,季文子聘于陳,且娶焉。秦伯任好卒,以子車氏之三子,奄息、仲行、鍼虎,為殉,皆秦之良也。國人哀之,為之賦《黃鳥》。君子曰:「秦穆之不為盟主也,宜哉!死而棄民。先王違世,猶詒之法,而況奪之善人乎!?《詩》曰:『人之云亡,邦國殄瘁。』無善人之謂。若之何奪之?古之王者,知命之不長,是以並建聖哲、樹之風聲、分之采物、著之話言、為之律度、陳之藝極、引之表儀、予之法制、告之訓典、教之防利、委之常秩、道之以禮,則使毋失其土宜,眾隸賴之,而後即命。聖王同之。今縱無法以遺後嗣,而又收其良以死,難以在上矣。」君子是以知秦之不復東征也。 秋,季文子將聘於晉,使求遭喪之禮以行。其人曰:『將焉用之?』文子曰:「備豫不虞,古之善教也。求而無之,實難。過求何害?」 八月,乙亥,晉襄公卒。靈公少,晉人以難故,欲立長君。趙孟曰:「立公子雍。好善而長,先君愛之,且近於秦。秦舊好也。置善則固,事長則順,立愛則孝,結舊則安。為難故,故欲立長君。有此四德者,難必抒矣。」賈季曰:「不如立公子樂。辰嬴嬖於二君,立其子,民必安之。」趙孟曰:「辰嬴賤,班在九人,其子何震之有?且為二嬖,淫也。為先君子,不能求大,而出在小國,辟也。母淫子辟,無威;陳小而遠,無援。將何安焉?杜祁以君故,讓偪姞而上之;以狄故,讓季隗而已次之,故班在四。先君是以愛其子,而仕諸秦,為亞卿焉。秦大而近,足以為援;母義子愛,足以威民。立之,不亦可乎?」使先蔑、士會,如秦,逆公子雍。賈季亦使召公子樂于陳。趙孟使殺諸郫。賈季怨陽子之易其班也,而知其無援於晉也。 |
夏、季文子が陳に使者として赴き、そこで娶った。秦の伯(穆公)任好が死去し、子車氏の三人の子、奄息、仲行、鍼虎を殉死させた。彼らは皆、秦の優れた人材であった。国中の人々はこれを哀しみ、彼らのために『黄鳥』の詩を賦した。君子は言う。「秦の穆公が盟主とならなかったのは、当然である。死んで民を棄てた。先王は世を去る際、なお法を遺したのに、まして善人を奪うとは何事か。『詩経』に『善人が去れば、国は衰える』とある。善人なしという状態だ。どうして彼らを奪うことがあろうか。古の王者は、寿命が長くないことを知っていたので、聖哲を立て、風声を樹て、采物を分け、話言を著し、律度を為し、藝極を陳べ、表儀を引き、法制を与え、訓典を告げ、防利を教え、常秩を委ね、礼をもって導いた。そうして土地に適したものを失わず、衆隸(民衆)がそれに頼り、その後で命を終えた。聖王は皆同じである。今、法を遺すどころか、かえってその良材を死に追いやるとは、上に立つことが難しいだろう。」君子はこれによって、秦が再び東征しないことを知った。 秋、季文子が晋に使者として赴こうとし、喪に遭う場合の礼の準備をさせて行こうとした。側近が「どうしてそれが必要ですか」と問うと、文子は「不測の事態に備えるのは、古来の良い教えだ。必要になってなければ困る。過剰に準備しても害はない」と答えた。 八月乙亥の日、晋の襄公が死去した。霊公が幼少であったため、晋の人々は難局の故に、年長の君主を立てようとした。趙孟が「公子雍を立てよう。善を好み年長で、先君に愛され、かつ秦に近い。秦は旧友である。善を置けば固く、年長に事えれば順で、愛する者を立てれば孝、旧友と結べば安泰だ。難局の故に年長の君を立てたい。この四徳があれば、難局は必ず解ける」と言った。賈季は「公子楽を立てる方が良い。辰嬴は二人の君に寵愛され、その子を立てれば民は必ず安んずる」と言った。趙孟は「辰嬴は身分が低く、序列は九人目だ。その子に何の威厳があろうか。かつ二人に寵愛されたのは淫行だ。先君の子として、大国に求めず小国に出たのは僻遠だ。母は淫行、子は僻遠、威厳なし。陳は小さく遠く、援けなし。どうして安泰と言えようか。杜祁は君の故に偪姞を譲って上位にし、狄の故に季隗を譲って自らは次としたので、序列は四番目だ。先君はそれ故にその子を愛し、秦に仕えさせて亜卿とした。秦は大きく近く、援け足りる。母は義、子は愛、民を威するに足る。これを立てるのは、よろしいではないか」と言った。先蔑と士会を秦に遣わし、公子雍を迎えさせた。賈季もまた陳に使者を送り公子楽を召そうとした。趙孟は郫でこれを殺させた。賈季は陽子(趙孟)が自分の序列を変えたことを怨み、彼に晋に援けのないことを知った。 解説この一節は『春秋左氏伝』における政治と倫理が交錯する場面です。主に二つのエピソードから成ります。 まず、秦の穆公の死に際して子車氏の三人の優れた人材を殉死させた事件が描かれます。君子の批評を通じ、為政者の責任として「善人」(有能な人材)を保護し、法や制度を遺すべきだという儒家の政治観が示されています。特に「死而棄民」(死んで民を棄てる)という批判は、為政者の生涯にわたる責務を強調するものです。殉死の風習に対する明確な否定的見解が、『詩経』の引用を交えて述べられています。 後半では、晋の襄公死後の後継者問題をめぐる駆け引きが詳細に描かれます。趙孟と賈季の対立は、単なる権力斗争ではなく、「善・長・愛・旧」という四つの徳を基準にした正当性の主張(趙孟)と、母の寵愛を根拠とする現実的な安定論(賈季)の対比として興味深いものです。趙孟の公子雍擁立論では、国際関係(秦との同盟)や国内の序列が緻密に考慮され、春秋時代の政治判断の複雑さが窺えます。季文子の「備豫不虞」(不測への備え)の発言も、当時の為政者の慎重さを象徴するエピソードです。 全体を通じ、為政者の死が国家の転換点となること、人材の重要性、そして礼や準備の必要性という春秋時代の政治思想が凝縮されています。特に秦の殉死事件と晋の後継者問題は、人材扱いの対照として暗示的です。 Translation took 580.3 seconds. |
| 九月,賈季使續鞫居殺陽處父。書曰「晉殺其大夫」,侵官也。 冬十月,襄仲如晉。葬襄公。 十一月,丙寅,晉殺續簡伯。賈季奔狄。宣子使臾駢送其帑。夷之蒐,賈季戮臾駢。臾駢之人,欲盡殺賈氏以報焉。臾駢曰:「不可。吾聞前志有之曰:『敵惠敵怨,不在後嗣,忠之道也。』夫子禮於賈季,我以其寵報私怨,無乃不可乎!?介人之寵,非勇也;損怨益仇,非知也;以私害公,非忠也。釋此三者,何以事夫子?!」盡具其帑,與其器用財賄,親師扞之,送致諸竟。 閏月不告朔,非禮也。閏以正時,時以作事,事以厚生,生民之道,於是乎在矣。不告閏朔,棄時政也,何以為民? 文公七年 經 春,公伐邾。 三月,甲戌,取須句,遂城郚。 夏,四月,宋公王臣卒,宋人殺其大夫。戊子,晉人及秦人戰于令狐,晉先蔑奔秦,狄侵我西鄙。 秋,八月,公會諸侯,晉大夫,盟于扈。 冬,徐伐莒,公孫敖如莒蒞盟。 傳 春,公伐邾,間晉難也。 三月,甲戌,取須句,寘文公子焉,非禮也。 夏,四月,宋成公卒。於是公子成為右師,公孫友為左師,樂豫為司馬,鱗矔為司徒,公子蕩為司城,華御事為司寇。昭公將去群公子,樂豫曰:「不可,公族,公室之枝葉也,若去之,則本根無所庇陰矣,葛藟猶能庇其本根,故君子以為比,況國君乎?此諺所謂庇焉,而縱尋斧焉者也,必不可,君其圖之,親之以德,皆股肱也,誰敢攜貳,若之何去之?」不聽,穆襄之族,率國人以攻公,殺公孫固,公孫鄭,于公宮。六卿和公室,樂豫舍司馬,以讓公子卬。昭公即位而葬。書曰:「宋人殺其大夫。」不稱名,眾也,且言非其罪也。 |
【翻訳文】 冬十月、襄仲が晋へ赴いた。襄公の葬儀に参列するためである。 十一月丙寅の日、晋は続簡伯を殺した。賈季は狄へ逃亡した。宣子は臾駢に命じて、賈季の家族と財産を送り届けさせた。夷での狩りの際、賈季が臾駢を辱めたことがあった。臾駢の家臣たちは、賈氏一族を皆殺しにして報復しようとした。しかし臾駢は言った。「それはならない。私は古い記録に『恩恵や怨恨はその子孫に及ぼすべきではなく、これが忠の道である』とあるのを読んだ。主君(宣子)は賈季を礼遇しておられる。私が主君の寵愛を笠に着て私怨を晴らすのは、よろしくないだろう。他人の寵愛を頼みにすることは勇気ではない。怨恨を減らすどころか仇敵を増やすことは知恵ではない。私情で公務を損なうことは忠誠ではない。この三つの道理を捨てて、どうして主君に仕えられようか!」こうして臾駢は賈季の家族と全ての財貨を整え、自ら護衛隊を率いて国境まで送り届けた。 閏月に朔日(ついたち)を告げる儀式を行わなかったのは、礼に反することである。閏月は季節を調整するため、季節は農事を定めるため、農事は民生を豊かにするためである。人民を養う道理はここに存するのだ。閏月の朔日を告げないのは、時節の政事を放棄するもので、どうして人民を治められようか。 (文公七年) 春、魯公が邾を討伐した。 三月甲戌の日、須句を占領し、続けて郚に城塞を築いた。 夏四月、宋公王臣が逝去し、宋人がその大夫を殺害した。戊子の日、晋軍と秦軍が令狐で交戦し、晋の先蔑が秦へ逃亡した。狄が魯の西部边境を侵した。 秋八月、魯公が諸侯と晋の大夫と扈で会合し、同盟を結んだ。 冬、徐が莒を討伐し、公孫敖が莒へ赴いて同盟に参加した。 伝 春、魯公が邾を討伐したのは、晋の内乱に乗じたためである。 三月甲戌の日、須句を占領し、文公の子をそこに置いたが、これは礼に反する行為であった。 夏四月、宋成公が逝去した。この時公子成が右師に、公孫友が左師に、楽豫が司馬に、鱗矔が司徒に、公子蕩が司城に、華御事が司寇に任命された。昭公(新君)が公子たちを排除しようとすると、楽豫が諫めて言った。「なりません。公族は公室の枝葉のような存在です。これを除けば、根本(公室)を守る陰がなくなります。葛藟(つる草)でさえ根本を覆って守るのですから、君子がこれに喩えるように、まして国君としてはどうでしょうか。これは諺にいう『陰に守られながら、却って斧を振るう』ようなものです。必ずや禍を招きます。どうか徳をもって公子たちを親しまれるべきです。皆、手足同然の臣となるでしょう。誰が離反しようとするでしょうか。なぜ除こうとなさるのですか」しかし昭公は聞き入れなかった。すると穆公・襄公の一族が国人を率いて公宮を攻撃し、公孫固と公孫鄭を殺害した。六卿が公室の調停に当たり、楽豫は自ら司馬の職を辞して公子卬に譲った。こうして昭公が即位し、先君の葬儀が執り行われた。書物に「宋人其ノ大夫ヲ殺ス」と記されているが、名を挙げていないのは、関係者が多かったためであり、かつこれら大夫に罪がなかったことを示している。 【解説】
前節からの流れとして、晋の霊公即位後の政情不安が各国に波及する様子がうかがえ、国際関係と国内政治が複雑に絡み合う春秋時代の様相がよく表現されています。 Translation took 725.3 seconds. |
| 秦康公送公子雍于晉,曰:「文公之入也,無衛,故有呂郤之難。」乃多與之徒衛。穆嬴日抱太子以啼于朝,曰:「先君何罪,其嗣亦何罪,舍適嗣不立,而外求君,將焉寘此?」出朝則抱以適趙氏,頓首於宣子曰:「先君奉此子也,而屬諸子曰,此子也才,吾受子之賜;不才,吾唯子之怨。今君雖終,言猶在耳,而棄之,若何?」宣子與諸大夫皆患穆嬴,且畏偪,乃背先蔑而立靈公,以禦秦師,箕鄭居守。趙盾將中軍,先克佐之,荀林父佐上軍,先蔑將下軍,先都佐之,步招御戎,戎津為右,及堇陰,宣子曰:「我若受秦,秦則賓也;不受,寇也。既不受矣,而復緩師,秦將生心。先人有奪人之心,軍之善謀也;逐寇如追逃,軍之善政也。」訓卒利兵,秣馬蓐食,潛師夜起。戊子,敗秦師于令狐,至于刳首。己丑,先蔑奔秦,士會從之。先蔑之使也,荀林父止之曰:「夫人大子猶在,而外求君,此必不行,子以疾辭,若何?不然,將及,攝卿以往,可也,何必子,同官為寮,吾嘗同寮,敢不盡心乎?」弗聽,為賦《板》之三章,又弗聽。及亡,荀伯盡送其帑,及其器用財賄於秦,曰:「為同寮故也。」士會在秦三年,不見士伯。其人曰:「能亡人於國,不能見於此,焉用之?」士季曰:「吾與之同罪,非義之也,將何見焉?」及歸,遂不見。 |
秦の康公が公子雍を晋に送り届ける際に、「文公(晋の文公)が晋に入国した時は護衛が不足していたため、呂甥と郤芮の反乱が起きた」と言い、多数の護衛兵を付き添わせた。穆嬴は毎日太子を抱いて朝廷で泣き叫び、「先君(襄公)に何の罪があるというのか、その後継者にまた何の罪があるというのか、嫡子を置いて立てず、外部から君主を迎えようとするなら、この子をどう処置するつもりか」と訴えた。朝廷を出ると太子を抱いて趙家(趙盾の屋敷)へ赴き、宣子(趙盾)に額を地に付けて拝礼し、「先君はこの子をあなたに託して『この子に才能があれば私はあなたの恩恵を受けるが、才能がなければ私はあなたを怨むだけだ』と言われました。今は君が亡くなられてもその言葉はまだ耳に残っています。それを無視するとは、どういうことですか」と詰った。宣子と大夫たちは穆嬴の執念に悩まされ、かつ彼女の迫力に押されたため、先蔑との約束を破って霊公(太子)を立て、秦軍を迎え撃つことにした。箕鄭は国都の留守を守り、趙盾は中軍を指揮し先克が補佐、荀林父は上軍の補佐を務め、先蔑は下軍を指揮し先都が補佐した。歩招が御者、戎津が車右を務め、堇陰に到着すると、宣子は「我々が秦の提案を受け入れれば秦は賓客だが、拒否すれば敵となる。既に拒否した以上、軍勢を遅らせれば秦に野心を生じさせる。先手を打って敵の戦意を挫くのが軍の優れた策略であり、敵を追うように逃亡者を追い詰めるのが軍の要諦だ」と述べた。兵士を訓練し武器を整え、馬に餌を与え早朝に食事を済ませ、密かに夜中に軍を進発させた。戊子の日、令狐で秦軍を撃破し刳首まで追撃し、己丑の日には先蔑が秦へ逃亡し士会もこれに従った。先蔑が使者として赴く際、荀林父は「正室と太子が健在なのに外部から君主を迎えるのは無理な計画です。病気を理由に辞退されてはどうか。さもなければ災いが及ぶでしょう。代理の卿を派遣すれば足りるはずで、なぜあなた自ら行く必要があるのか。同じ官職は同僚の縁です。かつて同僚だった者として、誠意を尽くさずにはいられません」と制止したが、聞き入れられなかった。荀林父は『詩経・板』の三章を吟じて警告したが、それでも聞き入れられず、先蔑が逃亡した後、荀林父は彼の家族と財産全てを秦へ送り届け、「同僚の縁によるものだ」と述べた。士会は秦で三年過ごしたが先蔑(士伯)に会おうとせず、側近が「国から人を逃がすことはできても、ここで会うことができないのか。これでは意味がありません」と言うと、士会は「私は彼と同じ罪を犯した者です。義理で助けたわけではないので、会う理由がありません」と答えた。後に士会が晋に帰国しても、結局先蔑とは会うことはなかった。 【解説】 Translation took 1032.0 seconds. |
| 狄侵我西鄙,公使告于晉。趙宣子使因賈季問酆舒,且讓之。酆舒問於賈季,曰:「趙衰、趙盾,孰賢?」對曰,「趙衰,冬日之日也;趙盾,夏日之日也。」 秋,八月,齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、許男、曹伯,會晉趙盾,盟于扈,晉侯立故也。公後至,故不書所會。凡會諸侯,不書所會,後也。後至不書其國,辟不敏也。 穆伯娶于莒,曰,戴已,生文伯;其娣聲已,生惠叔。戴已卒,又聘于莒。莒人以聲已辭,則為襄仲聘焉。 冬,徐伐莒,莒人來請盟。穆伯如莒蒞盟,且為仲逆。及鄢陵,登城見之,美,自為娶之。仲請攻之,公將許之。叔仲惠伯諫曰:「臣聞之,兵作於內為亂,於外為寇。寇猶及人,亂自及也。今臣作亂,而君不禁,以啟寇讎,若之何?」公止之,惠伯成之。使仲舍之,公孫敖反之,復為兄弟如初。從之。 晉郤缺言於趙宣子曰:「日衛不睦,故取其地。今已睦矣,可以歸之。叛而不討,何以示威?服而不柔,何以示懷?非威非懷,何以示德?無德,何以主盟?子為正卿,以主諸侯,而不務德,將若之何?《夏書》曰:『戒之用休,董之用威,勸之以九歌,勿使壞。』九功之德,皆可歌也,謂之九歌。六府三事,謂之九功。水、火、金、木、土、穀、謂之六府。正德、利用、厚生,謂之三事。義而行之,謂之德禮。無禮不樂,所由叛也。若吾子之德,莫可歌也,其誰來之?盍使睦者歌吾子乎?」宣子說之。 文公八年 經 |
狄が我が国の西の边境を侵略したため、公は晋に使者を送って報告した。趙宣子は賈季を使者として酆舒に問い合わせさせ、さらに彼を責めた。酆舒が賈季に尋ねて言った、「趙衰と趙盾はどちらが優れているか?」賈季が答えて言った、「趙衰は冬の太陽のようであり、趙盾は夏の太陽のようである。」 秋八月、齊侯・宋公・衛侯・鄭伯・許男・曹伯が、晋の趙盾と会い、扈で同盟を結んだ。これは晋侯が即位したためである。公が遅れて到着したため、会合に参加した者を記録しなかった。諸侯との会合において、参加者を記録しないのは、遅れて到着したためである。遅参した国の名を記さないのは、不手際を避けるためである。 穆伯が莒から娶った妻を戴已といい、文伯を生んだ。その妹の聲已は惠叔を生んだ。戴已が亡くなった後、穆伯は再び莒に求婚した。莒の側が聲已がいることを理由に断ったため、代わりに襄仲のための縁談とした。 冬、徐が莒を攻撃したため、莒の使者が同盟を求めて来た。穆伯は莒へ赴いて同盟に臨み、同時に襄仲の代理として花嫁を迎えに行った。鄢陵に着き、城壁に登って花嫁を見ると美しかったため、自分が娶ってしまった。襄仲は穆伯を攻撃するよう要請し、公は許可しようとした。叔仲惠伯が諫めて言った、「内乱は内部で起こる戦いを指し、外寇は外部からの侵略を指します。外寇はまだ他者に影響しますが、内乱は自国を傷つけます。今家臣が内乱を起こそうとしているのに君主が制止しなければ、外敵の標的となるでしょう。どう対処されるおつもりですか?」公は攻撃を止め、惠伯が調停した。襄仲に花嫁を諦めさせ、公孫敖(穆伯)に返還させ、再び以前のように兄弟関係を修復させた。公はこの提案に従った。 晋の郤缺が趙宣子に進言して言った、「以前衛が従わなかったため、その土地を奪いました。今は従順になったので返還すべきです。反逆を討たなければ威信を示せず、服従を受け入れなければ懐柔を示せません。威信も懐柔もなければ、どうして徳を証明できるでしょうか?徳がなければ盟主としてふさわしくありません。您が正卿として諸侯を統率しながら徳を重視しないなら、どうなるのでしょうか?『夏書』に『善政で戒め、威厳で監督し、九歌で鼓舞し、堕落させてはならない』とあります。九功の徳は全て歌にできるため九歌と呼び、六府と三事を合わせて九功といいます。水・火・金・木・土・穀物が六府、正徳・利用・厚生が三事です。これらを適切に実践すれば徳礼となり、礼がなければ和楽は生まれず、反乱の原因となります。もし您の徳が称賛に値しなければ、誰が付き従うでしょうか?和睦した者に您を称えさせてはどうですか?」宣子はこの言葉を喜んだ。 解説この一節は『春秋左氏伝』文公八年の記述で、以下のような特徴があります:
全体として、外交・内政・倫理が交錯する春秋時代の複雑な状況を伝えるとともに、為政者の徳を重視する儒家思想の萌芽が見られる重要な箇所です。 Translation took 1068.9 seconds. |
| 春,王正月。 夏,四月。 秋,八月,戊申,天王崩。 冬,十月,壬午,公子遂會晉趙盾,盟于衡雍。乙酉,公子遂會雒戎,盟于暴。公孫敖如京師,不至而復。丙戌,奔莒。螽。宋人殺其大夫司馬,宋司城來奔。 傳 春,晉侯使解揚歸匡、戚之田于衛,且復致公婿池之封,自申至于虎牢之竟。 夏,秦人伐晉,取武城,以報令狐之役。 秋,襄王崩,晉人以扈之盟來討。 冬,襄仲會晉趙孟,盟于衡雍,報扈之盟也。遂會伊雒之戎,書曰,公子遂,珍之也。穆伯如周弔喪,不至,以幣奔莒,從已氏焉。 宋襄夫人,襄王之姊也,昭公不禮焉。夫人因戴氏之族,以殺襄公之孫孔叔、公孫鍾離,及大司馬公子卬,皆昭公之黨也。司馬握節以死,故書以官。司城蕩意諸來奔,效節於府人而出,公以其官逆之,皆復之,亦書以官,皆貴之也。 夷之蒐,晉侯將登箕鄭父、先都,而使士縠,梁益耳,將中軍。先克曰:「狐趙之勳,不可廢也。」從之,先克奪蒯得田于堇陰,故箕鄭父、先都、士縠、梁益耳、蒯得,作亂。 文公九年 經 春,毛伯來求金,夫人姜氏如齊。 二月,叔孫得臣如京師。辛丑,葬襄王。晉人殺其大夫先都。 三月,夫人姜氏至自齊。晉人殺其大夫士縠,及箕鄭父。楚人伐鄭。公子遂會晉人、宋人、衛人、許人,救鄭。 |
春、周の王の正月。 夏、四月。 秋、八月、戊申の日、周王が崩御した。 冬、十月、壬午の日、公子遂が晋の趙盾と会い、衡雍で盟約を結んだ。乙酉の日、公子遂が雒戎と会い、暴で盟約を結んだ。公孫敖が都へ向かったが、到着せずに帰還した。丙戌の日、莒へ逃亡した。蝗害が発生した。宋人が自国の大夫である司馬を殺し、宋の司城が魯へ逃亡してきた。 伝 夏、秦が晋を攻撃し、武城を占領した。これは令狐の戦いへの報復である。 秋、周の襄王が崩御し、晋が扈での盟約を理由に責め立ててきた。 冬、襄仲(公子遂)が晋の趙孟(趙盾)と会い、衡雍で盟約を結んだ。これは扈の盟約への対応である。続いて伊雒の戎と会い、経文に「公子遂」と記されたのは、その行動を重視したためである。穆伯(公孫敖)が周へ弔問に向かったが、到着せず、礼品を持ったまま莒へ逃亡し、己氏という女性を追って同行した。 宋の襄夫人は襄王の姉であったが、昭公が彼女を礼遇しなかった。夫人は戴氏の一族を利用し、襄公の孫である孔叔と公孫鍾離、および大司馬の公子卬を殺害した。これらは皆、昭公の側近であった。司馬は節(符節)を握ったまま死んだため、経文に官職名で記された。司城の蕩意諸が魯へ逃亡し、節を府人(役人)に返してから出国した。魯公は彼の官位に応じて迎え、全ての地位を回復させた。これも官職名で記され、双方を尊重したためである。 夷での狩猟の際、晋侯は箕鄭父と先都を登用しようとし、士縠と梁益耳を中軍の将としようとした。先克が「狐偃と趙衰の功績は無視できない」と主張したため、晋侯はそれに従った。先克が堇陰で蒯得の土地を奪ったことから、箕鄭父、先都、士縠、梁益耳、蒯得が反乱を起こした。 文公九年 二月、叔孫得臣が都へ向かった。辛丑の日、襄王が葬られた。晋人が自国の大夫である先都を殺した。 三月、夫人の姜氏が斉から帰国した。晋人が自国の大夫である士縠と箕鄭父を殺した。楚が鄭を攻撃した。公子遂が晋人、宋人、衛人、許人と会い、鄭を救援した。 解説この一節は『春秋左氏伝』の文公八年から九年にかけての記録です。春秋時代の政治・軍事動向を詳細に描いており、以下の点が特徴的です。
この時代は、周の権威が衰退し諸侯が台頭する過渡期であり、盟約や戦争を通じて勢力図が目まぐるしく変化したことがうかがえます。 Translation took 697.2 seconds. |
| 夏,狄侵齊。 秋,八月,曹伯襄卒。 九月,癸酉,地震。 冬,楚子使椒來聘。秦人來歸僖公成風之隧,葬曹共公。 傳 春,王正月,己酉,使賊殺先克。乙丑,晉人殺先都,梁益耳。毛伯衛來求金,非禮也。不書王命,未葬也。 二月,莊叔如周葬襄王。 三月,甲戌,晉人殺箕鄭父,士縠,蒯得。范山言於楚子:「晉君少,不在諸侯,北方可圖也。」楚子師于狼淵以伐鄭,囚公子堅,公子尨,及樂耳。鄭及楚平,公子遂會晉趙盾、宋華耦、衛孔達、許大夫,救鄭,不及楚師。卿不書,緩也,以懲不恪。 夏,楚侵陳,克壺丘,以其服於晉也。 秋,楚公子朱自東夷伐陳,陳人敗之,獲公子茷。陳懼,乃及楚平。 冬,楚子越椒來聘,執幣傲。叔仲惠伯:「是必滅若敖氏之宗,傲其先君,神弗福也。」 秦人來歸僖公成風之襚,禮也。諸侯相弔賀也,雖不當事,苟有禮焉 ,書也,以無忘舊好。 文公十年 經 春,王三月,辛卯,臧孫辰卒, 夏,秦伐晉,楚殺其大夫宜申,自正月不雨,至于秋七月,及蘇子盟于女栗, 冬,狄侵宋,楚子,蔡侯,次于厥貉, 傳 春,晉人伐秦,取少梁, 夏,秦伯伐晉,取北徵,初楚范巫矞似,謂成王,與子玉,子西,曰,三君皆將強死,城濮之役,王思之,故使止子玉曰,毋死,不及,止子西,子西縊而縣絕,王使適至,遂止之,使為商公,沿漢泝江,將入郢,王在渚宮,下見之,懼而辭曰,臣免於死,又有讒言,謂臣將逃,臣歸死於司敗也,王使為工尹,又與子家謀弒穆王,穆王聞之, |
翻訳文夏、狄が斉を侵した。 秋、八月、曹伯の襄が死去した。 九月、癸酉の日、地震が起こった。 冬、楚の子(国王)が椒を使者として派遣し、訪問させた。秦の人が僖公と成風のための葬儀の衣料を贈ってきた。曹共公を葬った。 伝 春、周の正月、己酉の日、賊を使って先克を殺害させた。乙丑の日、晋の人が先都と梁益耳を殺した。毛伯の衛が金(貢ぎ物)を要求しに来たが、これは礼に適わない行為であった。記録に王の命令と書かれていないのは、襄王の葬儀がまだ済んでいなかったからである。 二月、庄叔が周へ赴き、襄王の葬儀に参列した。 三月、甲戌の日、晋の人が箕鄭父、士縠、蒯得を殺した。范山が楚の子に進言して言った。「晋の君主は若く、諸侯の間で存在感がありません。北方(晋側)を攻略する好機です。」楚の子は狼淵に軍隊を駐屯させて鄭を攻撃し、公子堅、公子尨、および楽耳を捕らえた。鄭は楚と和議を結んだ。公子遂が晋の趙盾、宋の華耦、衛の孔達、許の大夫と会合し、鄭を救援したが、楚軍に間に合わなかった。卿(高官)の名が記録されていないのは、行動が遅かったためであり、不謹慎さを戒める意味がある。 夏、楚が陳を侵攻し、壺丘を攻略した。これは陳が晋に従属していたからである。 秋、楚の公子朱が東夷から陳を攻撃したが、陳軍がこれを破り、公子茷を捕らえた。陳は恐れをなして楚と和議を結んだ。 冬、楚の子越椒が訪問に来たが、贈り物(幣)を手にしながら傲慢な態度を取った。叔仲惠伯が言った。「この者は必ずや若敖氏の宗族を滅ぼすだろう。祖先の君主を傲慢に扱えば、神は加護を与えない。」 秦の人が僖公と成風のための葬儀の衣料を贈ってきた。これは礼に適った行為である。諸侯同士が弔問や祝賀を行うのは、たとえ時期が適切でなくても、礼儀を尽くしている限り記録される。これは古い友好関係を忘れないためである。 文公十年 春、周の三月、辛卯の日、臧孫辰が死去した。 夏、秦が晋を攻撃した。楚がその大夫の宜申を殺した。正月から雨が降らず、秋の七月まで続いた。蘇子と女栗で盟約を結んだ。 冬、狄が宋を侵した。楚の子と蔡侯が厥貉に駐屯した。 伝 春、晋の人が秦を攻撃し、少梁を占領した。 夏、秦の伯が晋を攻撃し、北徴を占領した。初め、楚の范の巫(呪術師)である矞似が成王と子玉、子西に対して言った。「三人の君は皆、非業の死を遂げるだろう。」城濮の戦いの時、成王はこの言葉を思い出し、子玉に「死ぬな」と止めさせたが、間に合わなかった。子西を止めようとした時、子西は首を吊ったが縄が切れ、王の使者がちょうど到着したので助かり、商公に任命された。子西は漢水を下り长江を遡って郢に入ろうとした時、王が渚宮にいて下から彼を見た。子西は恐れて言った。「臣は死を免れたのに、また讒言があり、臣が逃げようとしていると言われています。臣は司敗(司法官)の下で死を受け入れます。」王は彼を工尹に任命した。子西はまた子家と謀って穆王を暗殺しようとしたが、穆王はこれを聞き知った。 解説この一節は『春秋左氏伝』の一部で、主に紀元前7世紀頃の春秋時代における諸侯国(晋、楚、秦、鄭、陳など)の戦争、外交、国内事件を記録しています。以下の点に留意して翻訳しました。
この節は、権力闘争や国際関係の駆け引きが詳細に描かれており、春秋時代の複雑な政治情勢を理解する上で重要な史料です。翻訳では、史実の正確さと現代日本語の自然さのバランスを重視しました。 Translation took 781.3 seconds. |
| 五月,殺鬥宜申,及仲歸, 秋,七月,及蘇子盟于女栗,頃王立故也,陳侯,鄭伯,會楚子于息, 冬,遂及蔡侯,次于厥貉,將以伐宋,宋華御事曰,楚欲弱我也,先為之弱乎,何必使誘我,我實不能,民何罪,乃逆楚子,勞且聽命,遂,道以田孟諸,宋公為右盂,鄭伯為左盂,期思公復遂,為右司馬,子朱及文之無畏,為左司馬,命夙駕載燧,宋公違命,無畏抶其僕以徇,或謂子舟曰,國君不可戮也,子舟曰,當官而行,何彊之有,詩曰,剛亦不吐,柔亦不茹,毋縱詭隨,以謹罔極,是亦非辟彊也,敢愛死以亂官乎,厥貉之會,麇子逃歸, 文公十一年 經 春,楚子伐麇。 夏,叔仲彭生,會晉郤缺于承筐。 秋,曹伯來朝,公子遂如宋,狄侵齊。 冬,十月,甲午,叔孫得臣敗狄于鹹。 傳 春,楚子伐麇,成大心敗麇師於防渚,潘崇復伐麇,至于鍚穴。 夏,叔仲惠伯會晉郤缺于承筐,謀諸侯之從於楚者。 秋,曹文公來朝,即位而來見也。襄仲聘于宋,且言司城蕩意諸而復之,因賀楚師之不害也。 鄋瞞侵齊,遂伐我,公卜使叔孫得臣追之,吉,侯叔夏御莊叔,綿房甥為右,富父終甥駟乘。 冬,十月,甲午,敗狄于鹹,獲長狄僑如。富父終甥樁其喉,以戈殺之,埋其首於子駒之門,以命宣伯。 |
五月、斗宜申を殺し、仲帰も処刑された。 秋、七月、蘇子と女栗で盟を結んだ。これは頃王が即位したためである。陳侯と鄭伯が息で楚子と会合した。 冬、蔡侯と合流し、厥貉に駐屯した。宋を討伐しようとしたところ、宋の華御事が言った。「楚は我々を屈服させようとしている。先んじて自ら弱さを示そうではないか。わざわざおびき寄せる必要があろうか。我々は実力不足であるのに、民に罪はない」。そこで楚子を出迎え、慰労して命令に従った。その後、楚子を案内して孟諸で狩猟を行った。宋公は右翼の隊列を、鄭伯は左翼の隊列を担当した。期思公の復遂は右司馬を、子朱と文之無畏は左司馬を務めた。早朝に車を用意し、のろし用の薪を積むよう命じられたが、宋公が命令に違反した。無畏は宋公の御者を鞭打って見せしめにした。ある者が子舟(無畏)に「国君を辱めてはならない」と言うと、子舟は答えた。「職務を遂行するだけである。何が強いといろうか。詩に『剛なるものも吐き出さず、柔らかいものも飲み込まず、詭随(悪巧み)を許さず、際限ない欲望を戒める』とある。これこそ不義の強さに屈しないことだ。どうして死を惜しんで職務を乱せようか」。厥貉の会合で、麇子が逃亡して帰国した。 文公十一年 春、楚子が麇を討伐した。 伝 春、楚子が麇を討伐し、成大心が防渚で麇軍を破った。潘崇が再び麇を討伐し、鍚穴まで進んだ。 解説この一節は『春秋左氏伝』における国際関係と戦争の記録です。前半では楚の台頭と周辺諸国(宋・陳・鄭など)の対応が描かれ、特に宋の華御事が現実主義的な外交で楚に屈服する選択をした点が注目されます。後半の「文公十一年」では、魯を中心にした記録が続き、楚の麇侵攻や狄との戦いが詳細に記されています。 重要な点は以下の通りです: この記述は、春秋時代の政治・軍事・外交の実態と、左伝特有の道徳的教訓を伝える貴重な史料です。 Translation took 756.5 seconds. |
| 初,宋武公之世,鄋瞞伐宋,司徒皇父帥師禦之,耏班御皇父充石,公子穀甥為右,司寇牛父駟乘,以敗狄于長丘,獲長狄緣斯,皇父之二子死焉。宋公於是以門賞耏班,使食其征謂之耏門。 晉之滅潞也,獲僑如之弟焚如。 齊襄公之二年,鄋瞞伐齊,齊王子成父獲其弟榮如,埋其首於周首之北門。 衛人獲其季弟簡如,鄋瞞由是遂亡。 郕大子朱儒,自安於夫鍾,國人弗徇。 文公十二年 經 春,王正月,郕伯來奔,杞伯來朝, 二月,庚子,子叔姬卒, 夏,楚人圍巢, 秋,滕子來朝,秦伯使術來聘, 冬,十有二月,戊午,晉人,秦人,戰于河曲,季孫行父帥師,城諸及鄆, 傳 春,郕伯卒,郕人立君,大子以夫鍾與郕邽來奔,公以諸侯逆之,非禮也,故書曰,郕伯來奔,不書地,尊諸侯也,杞桓公來朝,始朝公也,且請絕叔姬,而無絕昏,公許之, 二月,叔姬卒,不言杞,絕也,書叔姬,言非女也,楚令尹大孫伯卒,成嘉為令尹,群舒叛楚,夏,子孔執舒子平,及宗子,遂圍巢, 秋,滕昭公來朝,亦始朝公也,秦伯使西乞術來聘,且言將伐晉,襄仲辭玉曰,君不忘先君之好,照臨魯國,鎮撫其社稷,重之以大器,寡君敢辭玉,對曰,不腆敝器,不足辭也,主人三辭,賓客曰,寡君願徼福于周公,魯公,以事君,不腆先君之敝器,使下臣致諸執事,以為瑞節,要結好命,所以藉寡君之命,結二國之好,是以敢致之,襄仲曰,不有君子,其能國乎,國無陋矣,厚賄之,秦為令狐之役故, |
初めに、宋の武公の時代、鄋瞞が宋を攻撃した。司徒の皇父が軍を率いてこれを防ぎ、耏班が皇父充石の御者を務め、公子の穀甥が右側に立ち、司寇の牛父が駟乗として従い、長丘で狄を破り、長狄の緣斯を捕らえた。しかし、皇父の二人の息子がそこで死んだ。宋公はそこで門を耏班に褒美として与え、その徴税を食べさせ、それを耏門と呼んだ。 晉が潞を滅ぼした時、僑如の弟の焚如を捕らえた。 齊の襄公の二年、鄋瞞が齊を攻撃した。齊の王子成父がその弟の榮如を捕らえ、その首を周首の北門に埋めた。 衛の人々がその末弟の簡如を捕らえ、鄋瞞はこれによって滅亡した。 郕の太子朱儒は、夫鍾に自ら安住していたが、国人は従わなかった。 文公十二年 春、周王の正月、郕伯が逃れて来た。杞伯が来朝した。 二月、庚子の日、子叔姬が亡くなった。 夏、楚の人が巢を包囲した。 秋、滕子が来朝した。秦伯が術を使者として派遣し、聘問させた。 冬、十二月、戊午の日、晉人と秦人が河曲で戦った。季孫行父が軍を率い、諸及び鄆に城を築いた。 伝 春、郕伯が亡くなった。郕人が新君を立てた。太子は夫鍾と郕邽を持って逃れて来た。公が諸侯の礼でこれを迎えたが、礼に適わない。故に「郕伯来奔」と記し、地名を書かないのは諸侯を尊ぶためである。杞桓公が来朝した。初めて公に朝したのである。かつ叔姬と縁を切ることを請うたが、婚姻関係は絶たない。公はこれを許した。 二月、叔姬が亡くなった。杞と書かないのは、縁が切れたためである。叔姬と書くのは、未婚の女性ではないことを示す。楚の令尹大孫伯が亡くなり、成嘉が令尹となった。群舒が楚に叛いた。夏、子孔が舒子平と宗子を捕らえ、遂に巢を包囲した。 秋、滕昭公が来朝した。これも初めて公に朝したのである。秦伯が西乞術を使者として聘問させ、かつ晉を討伐するつもりであると伝えた。襄仲が玉を辞して言った、「君が先君の友好を忘れず、魯国を訪れ、その国家を鎮め、大器をもって厚くされる。寡君は謹んで玉をお断りします」。これに対し、「つまらない弊国の品、お断りするには及びません」。主人が三度辞すと、賓客は言った、「寡君は周公、魯公に福を求め、以て君に仕えんと願う。つまらない先君の遺品を、下臣が執事の元に届け、瑞節として、友好の盟約を結びたい。以て寡君の命を藉り、二国の友好を結ぶため、敢えてお届けします」。襄仲は言った、「君子がおられなければ、国を治められようか。国は粗末ではない」。厚く贈り物を与えた。秦は令狐の戦いのためである。 解説この文章は『春秋左氏伝』の一節で、春秋時代の歴史記録です。前半は鄋瞞(狄の一族)の滅亡経緯を、後半は魯の文公12年における各国の動向を記しています。翻訳では、以下の点に留意しました: Translation took 1496.0 seconds. |
| 冬,秦伯伐晉,取羈馬,晉人禦之,趙盾將中軍,荀林父佐之,郤缺將上軍,臾駢佐之,欒盾將下軍,胥甲佐之,范無恤御戎,以從秦師于河曲,臾駢曰,秦不能久,請深壘固軍以待之,從之,秦人欲戰,秦伯謂士會曰,若何而戰,對曰,趙氏新出其屬曰臾駢,必實為此謀,將以老我師也,趙有側室曰穿,晉君之婿也,有寵而弱,不在軍事,好勇而狂,且惡臾駢之佐上軍也,若使輕者肆焉,其可,秦伯以璧祈戰于河,十二月,戊午,秦軍掩晉上軍,趙穿追之不及,反,怒曰,裹糧坐甲,固敵是求,敵至不擊,將何俟焉,軍吏曰,將有待也,穿曰我不知謀,將獨出,乃以其屬出,宣子曰,秦獲穿也,獲一卿矣,秦以勝歸,我何以報,乃皆出戰,交綏,秦行人夜戒晉師曰,兩君之士,皆未憖也,明日請相見也,臾駢曰,使者目動而言肆,懼我也,將遁矣,薄諸河,必敗之,胥甲,趙穿,當軍門呼曰,死傷未收而棄之,不惠也,不待期而薄人於險,無勇也,乃止,秦師夜遁,復侵晉,入瑕,城諸及鄆,書時也, 文公十三年 經 春,王正月, 夏,五月,壬午,陳侯朔卒,邾子蘧蒢卒,自正月不雨,至于秋七月,大室屋壞, 冬,公如晉,衛侯會公于沓,狄侵衛, 十有二月,己丑,公及晉侯盟,公還自晉,鄭伯會公于棐, 傳 |
冬、秦の伯が晉を討伐し、羈馬を奪った。晉人はこれを防ぎ、趙盾が中軍を率い、荀林父がこれを補佐した。郤缺が上軍を率い、臾駢がこれを補佐した。欒盾が下軍を率い、胥甲がこれを補佐した。范無恤が兵車を御し、秦軍を河曲で追った。臾駢が言った。「秦軍は長くは持たない。深く塁を築き軍を固めて待つことを請う。」晉はこれに従った。秦人は戦いを求めた。秦の伯が士会に言った。「どうすれば戦えるか。」士会は答えた。「趙氏が新たにその配下の臾駢を出した。必ずやこの策を立て、我が軍を疲弊させようとしている。趙に側室の穿という者がいる。晉の君の婿である。寵愛されてはいるが未熟で軍事に通じておらず、勇を好んで狂っている。そして臾駢が上軍を補佐するのを憎んでいる。もし軽兵を使い挑発させれば、うまくいくかもしれない。」秦の伯は璧を河に捧げて戦いを祈った。十二月の戊午の日、秦軍は晉の上軍を急襲した。趙穿は追ったが及ばず、戻って怒って言った。「兵糧を携え鎧を着て座しているのは、固より敵を求めるためだ。敵が来ても撃たないで、何を待つというのか。」軍吏が言った。「待つべき時があるのだ。」穿は言った。「私は策は知らない。独りで出撃する。」そして配下を率いて出撃した。宣子(趙盾)が言った。「秦が穿を捕らえれば、一卿を獲たことになる。秦が勝利して帰れば、我々はどう報いるのか。」そこで全軍が出撃し、互いに撤退した(交綏)。秦の使者が夜に晉軍に告げた。「両君の士卒は皆、まだ満足していない。明日、お会いしましょう。」臾駢が言った。「使者の目が動き言葉が荒い。我々を恐れている。逃げようとしている。河際まで迫れば、必ず敗れる。」胥甲と趙穿が軍門で叫んだ。「死傷者を回収せずに捨てるのは不仁だ。期日を待たずに危地で人を迫るのは無勇だ。」そこで止めた。秦軍は夜に逃げ去り、再び晉を侵し、瑕に入り、諸と鄆を城とした。これは時期を記したものである。 文公十三年 春、周の正月。 夏、五月の壬午の日、陳侯の朔が卒去した。邾子の蘧蒢が卒去した。正月から雨が降らず、秋の七月まで続いた。大室の屋根が壊れた。 冬、公(魯の文公)が晉へ行った。衛侯が沓で公と会った。狄が衛を侵した。 十二月の己丑の日、公と晉侯が盟を結んだ。公が晉から戻り、鄭伯が棐で公と会った。 (伝の本文は記載されていないため、翻訳対象外) 解説この一節は『春秋左氏伝』の文公十三年に当たり、主に二つの部分から成ります。前半は秦と晉の間の軍事衝突を詳細に描いた物語で、後半は「経」と呼ばれる春秋の簡潔な年代記です。 前半では、秦軍が晉を攻める中、晉の将軍たちの指揮や戦略の違いが焦点となっています。特に趙穿の衝動的な行動と臾駢の慎重な戦略が対比され、軍内部の対立が秦軍の撤退につながる様子が活写されています。歴史的な背景として、この時期の晉と秦の緊張関係や、貴族間の権力闘争が反映されています。 後半の「経」部分は、魯の文公十三年に起きた諸侯の死亡、災害、外交行動などを簡潔に列記した公式記録です。ここでは魯を中心とした国際関係や自然現象が記され、当時の年代記の形式を典型的に示しています。 全体として、この一節は春秋時代の戦争記録と年代記の両面から、当時の政治・軍事状況を伝える貴重な史料となっています。 Translation took 840.4 seconds. |
| 春,晉侯使詹嘉處瑕,以守桃林之塞,晉人患秦之用士會也, 夏,六卿相見於諸浮,趙宣子曰,隨會在秦,賈季在狄,難日至矣,若之何,中行桓子曰,請復賈季,能外事,且由舊勳,郤成子曰,賈季亂,且罪大,不如隨會,能賤而有恥,柔而不犯,其知足使也,且無罪,乃使魏壽餘偽以魏叛者,以誘士會,執其帑於晉,使夜逸,請自歸于秦,秦伯許之,履士會之足於朝,秦伯師于河西,魏人在東,壽餘曰,請東人之能與夫二三有司言者,吾與之,先使士會,士會辭曰,晉人虎狼也,若背其言,臣死,妻子為戮,無益於君,不可悔也,秦伯曰,若背其言,所不歸爾帑者,有如河,乃行,繞朝贈之以策,曰子無謂秦無人,吾謀適不用也,既濟,魏人譟而還,秦人歸其帑,其處者為劉氏, 邾文公卜遷于繹,史曰,利於民而不利於君,邾子曰,苟利於民,孤之利也,天生民而樹之君,以利之也,民既利矣,孤必與焉,左右曰,命可長也,君何弗為,邾子曰,命在養民,死之短長,時也,民苟利矣,遷也,吉莫如之,遂遷于繹,五月,邾文公卒,君子曰知命, 秋,七月,大室之屋壞,書不共也, 冬,公如晉朝且尋盟,衛侯會公于沓,請平于晉,公還,鄭伯會公于棐,亦請平于晉,公皆成之,鄭伯與公宴于棐,子家賦鴻鴈,季文子曰,寡君未免於此,文子賦四月,子家賦載馳之四章,文子賦采薇之四章,鄭伯拜,公荅拜, 文公十四年 經 |
翻訳文春、晋の侯は詹嘉を瑕の地に派遣し、桃林の関所を守らせた。晋の人々は秦が士会を登用することを憂慮した。 夏、晋の六卿が諸浮で会合した。趙宣子が言った、「随会(士会)は秦に、賈季は狄にいる。災難が日々迫っている。どうすればよいか」。中行桓子が提案した、「賈季を呼び戻しましょう。彼は外交に長け、かつ過去の功績があります」。郤成子が反論した、「賈季は混乱を起こし、罪が重い。随会には及ばない。随会は身分が低くても恥を知り、柔和ながらも侵犯されず、その知恵は十分役立ち、かつ無罪です」。そこで魏寿余に魏の反逆者を偽装させ、士会をおびき寄せる計画を実行した。士会の家族を晋に拘束し、夜に逃亡させ、秦へ帰属するよう装わせた。秦伯はこれを許可し、朝廷で士会の足を軽く踏んで合図した。秦伯は軍勢を河西に配置し、魏人は東岸にいた。寿余が要請した、「東晋の役人と話せる者を派遣してください。私と同行させます」。まず士会が選ばれたが、士会は辞退して言った、「晋人は虎狼のようだ。もし彼らが約束を破れば、私は死に、妻子は殺されます。君にとって益がなく、後悔しても遅い」。秦伯は誓った、「もし晋が約束を破っても、お前の家族を返さないようなことがあれば、この河にかけて誓う」。士会は出発し、繞朝が策(馬鞭)を贈って言った、「秦に人材がいないと思うな。私の献策がたまたま用いられなかっただけだ」。士会が河を渡ると、魏人は歓声を上げて帰還し、秦は士会の家族を返した。晋に残った士会の一族は劉氏を名乗った。 邾文公が繹への遷都を占った。史官が告げた、「民には利益ですが、君には不利です」。邾子は答えた、「もし民に利益なら、私の利益でもある。天が民を生み、君を立てたのは民を利するためだ。民が既に利益を得れば、私も必ずそれに与る」。側近が諫めた、「寿命を延ばせます。なぜ遷都しないのですか」。邾子は言った、「天命は民を養うことにある。死の時期は天の定めだ。民に利益があるなら、遷都する。これ以上の吉はない」。そこで繹に遷都した。五月、邾文公が死去した。君子は「天命を悟っていた」と評した。 秋、七月、周王朝の大室(祖廟)の屋根が崩壊した。記録は(魯の)不敬を暗示する。 冬、魯の公は晋へ朝見し、盟約を更新した。衛侯が沓で公と会い、晋との講和を仲介依頼した。公の帰途、鄭伯が棐で公と会い、同樣に晋との講和を依頼した。公は両者を成功させた。鄭伯は棐で公と宴を開き、子家が「鴻雁」の詩を吟じた。季文子が応じた、「我が君もまだその苦労から免れません」。文子が「四月」の詩を吟じ、子家が「載馳」の四章を吟じ、文子が「采薇」の四章で応えた。鄭伯が拝礼し、公が答礼した。 文公十四年 解説この一節は『春秋左氏伝』文公十四年の記述で、以下のような特徴があります。
全体として、政治駆け引き・為政者の倫理・儀礼文化が緊密に絡み合い、春秋時代の複雑な社会構造を浮き彫りにしています。 Translation took 8385.2 seconds. |
| 春,王正月,公至自晉,邾人伐我南鄙,叔彭生帥帥伐邾, 夏,五月,乙亥,齊侯潘卒, 六月,公會宋公,陳侯,衛侯,鄭伯,許男,曹伯,晉趙盾,癸酉,同盟于新城, 秋,七月,有星孛入于北斗,公至自會,晉人納捷菑于邾,弗克納, 九月,甲申,公孫敖卒于齊,齊公子商人弒其君舍,宋子哀來奔, 冬,單伯如齊,齊人執單伯,齊人執子叔姬, 傳 春,頃王崩,周公閱與王孫,蘇爭政,故不赴,凡崩薨,不赴則不書,禍福不告亦不書,不懲敬也,邾文公之卒也,公使弔焉,不敬,邾人來討,伐我南鄙,故惠伯伐邾子叔姬妃齊昭公,生舍,叔姬無寵,舍無威,公子商人驟施於國,而多聚士,盡其家,貸於公有司以繼之, 夏,五月,昭公卒,舍即位,邾文公元妃齊姜,生定公,二妃晉姬,生捷菑,文公卒,邾人立定公,捷菑奔晉, 六月,同盟于新城,從於楚者服,且謀邾也, 秋,七月,乙卯夜,齊商人弒舍而讓元,元曰,爾求之久矣,我能事爾,爾不可使多蓄憾,將免我乎,爾為之,有星孛入于北斗,周內史叔服曰,不出七年,宋齊晉之君,皆將死亂,晉趙盾以諸侯之師八百乘,納捷菑于邾,邾人辭曰,齊出貜且長,宣子曰,辭順而弗從,不祥,乃還,周公將與王孫蘇訟于晉,王叛王孫蘇,而使尹氏與聃啟,訟周公于晉,趙宣子平王室而復之,楚莊王立,子孔,潘崇,將襲群舒,使公子燮與子儀守,而伐舒蓼,二子作亂,城郢,而使賊殺子孔,不克而還, |
翻訳文春、周王の正月、魯の公が晋から帰国した。邾の軍が魯の南辺を攻撃したため、叔彭生が軍隊を率いて邾を討伐した。 夏、五月の乙亥の日、齊侯の潘が死去した。 六月、魯の公が宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、曹伯、晋の趙盾と会合し、癸酉の日に新城で同盟を結んだ。 秋、七月、彗星が北斗七星の中に入る現象が起こった。公が会合から帰国した。晋の軍が捷菑を邾に送り込んで即位させようとしたが、失敗した。 九月、甲申の日、公孫敖が齊で死去した。齊の公子商人が君主の舍を殺害した。宋の子哀が魯に亡命してきた。 冬、單伯が齊を訪問したが、齊の軍が單伯を拘束した。齊の軍は子叔姬も拘束した。 (伝の部分) 夏、五月、齊昭公が死去し、舍が即位した。邾文公の正室・齊姜は定公を産み、側室の晉姬は捷菑を産んだ。文公の死後、邾人は定公を即位させたため、捷菑は晋に亡命した。 六月、新城で同盟が結ばれたのは、楚に従っていた国々を服従させるとともに、邾の問題を協議するためであった。 秋、七月の乙卯の夜、齊の商人が舍を殺害し、兄の元に位を譲ろうとした。元は「あなたが長年望んでいたことだ。私はあなたに仕えよう。ただし、恨みを残すような真似はするな。私を許すというのか? あなたが自分で決断せよ」と答えた。この頃、彗星が北斗に入る現象があり、周の内史叔服は「七年以内に、宋・齊・晋の君主が皆、乱死するだろう」と予言した。晋の趙盾は諸侯の連合軍八百乗を率いて捷菑を邾に送り込もうとしたが、邾人が「斉の血を引く貜且(定公)が年長である」と反論した。趙盾は「道理にかなった主張を拒むのは不吉だ」として撤兵した。周公閲が王孫蘇と晋で訴訟しようとした際、周王は王孫蘇を退け、尹氏と聃啓に命じて晋で周公を訴えさせた。趙盾(宣子)が王室の調停をし、両者を復職させた。楚では莊王が即位し、子孔と潘崇が群舒を討伐しようとした。公子燮と子儀を国元に残し、舒蓼を攻撃中、二人が反乱を起こして郢に城を築き、子孔を暗殺しようとしたが失敗して帰還した。 解説この一節は『春秋左氏伝』における紀元前7世紀前半の記録で、魯を中心とした国際情勢と国内事件を描いています。以下のような点が特徴的です。
このように、左伝は単なる年代記ではなく、事件の背景や人物の心理まで掘り下げることで、春秋時代の政治力学を生き生きと伝えています。 Translation took 5357.6 seconds. |
| 八月,二子以楚子出,將如商密,廬戢黎及叔麇誘之,遂殺鬥克,及公子燮,初,鬥克囚于秦,秦有殽之敗,而使歸求成,成而不得志,公子燮求令尹而不得,故二子作亂,穆伯之從己氏也,魯人立文伯,穆伯生二子於莒,而求復,文伯以為請,襄仲使無朝聽命,復而不出,二年而盡室以復適莒,文伯疾,而請曰,穀之子弱,請立難也,許之,文伯卒,立惠叔,穆伯請重賂以求復,惠叔以為請,許之,將來, 九月,卒于齊,告喪,請葬,弗許,宋高哀為蕭封人,以為卿,不義宋公而出,遂來奔,書曰,宋子哀來奔,貴之也,齊人定懿公,使來告難,故書以九月,齊公子元,不順懿公之為政也,終不曰公,曰夫已氏,襄仲使告于王,請以王寵,求昭姬于齊,曰,殺其子,焉用其母,請受而罪之, 冬,單伯如齊,請子叔姬,齊人執之,又執子叔姬, 文公十五年 經 春,季孫行父如晉, 三月,宋司馬華孫來盟, 夏,曹伯來朝,齊人歸公孫敖之喪, 六月,辛丑,朔,日有食之,鼓用牲于社,單伯至自齊,晉郤缺帥師伐蔡,戊申,入蔡, 秋,齊人侵我西鄙,季孫行父如晉, 冬,十有一月,諸侯盟于扈, 十有二月,齊人來歸子叔姬,齊侯侵我西鄙,遂伐曹,入其郛, 傳 春,季文子如晉,為單伯與子叔姬故也, |
八月、二人の子(闘克と公子燮)が楚子を連れ出し、商密へ向かおうとした。廬戢黎と叔麋が彼らを誘い出し、ついに闘克と公子燮を殺した。当初、闘克は秦に囚われていたが、秦が殽の戦いで敗れた後、帰国して和議を求めるよう命じられた。和議は成立したものの志を果たせず、公子燮は令尹の地位を求めたが得られなかった。そこで二人は反乱を起こした。穆伯が己氏に従ったとき、魯人は文伯を立てた。穆伯は莒で二人の子を儲け、復帰を求めた。文伯がそのために取りなしたが、襄仲は朝議への参加を許さず、命令に従うよう命じた。復帰したものの出仕せず、二年後に全家を挙げて再び莒へ去った。文伯が病気になり、「穀の子は幼いので、難を後継ぎに立ててください」と願い出て、許された。文伯が亡くなると、恵叔が立てられた。穆伯は多額の賄賂で復帰を求め、恵叔が取りなしたため許された。いよいよ帰国しようとしたとき、 九月、穆伯は齊で亡くなった。訃報が伝えられ、葬儀の許可を求めたが、認められなかった。宋の高哀は蕭の封人であったが、卿に抜擢された。しかし宋公の行いを不義として出奔し、魯へ逃亡してきた。史書に「宋子哀来奔」と記されたのは、彼を高く評価したためである。齊人は懿公を君主と定め、困難の報告に使者を遣わした。そのため九月に記録された。齊の公子元は懿公の政治方針に従わず、終始「公」と呼ばず「夫已氏」(あの者)と呼んだ。襄仲は周王に報告し、王の権威を借りて齊から昭姬の引き渡しを求めた。「子を殺したのに、なぜ母を使い続けるのか。引き取って罪に処してください」と申し出た。 冬、単伯が齊へ赴き、子叔姬の解放を求めた。齊人は単伯を拘束し、さらに子叔姬も捕らえた。 文公十五年 春、季孫行父が晉へ赴いた。 伝(解説) 春、季文子(季孫行父)が晉へ赴いたのは、単伯と子叔姬の事件のためである。 解説この一節は『春秋左氏伝』における魯の文公時代の記録です。八月から九月にかけては、楚や魯内部の権力闘争(闘克と公子燮の反乱、穆伯の複雑な家庭事情)が描かれ、冬には齊と魯の外交問題(子叔姬拘束事件)が起こります。文公十五年の「経」では1年間の主要な出来事が簡潔に列挙され、「伝」でその背景(晉への派遣理由)が補足されています。全体を通じて、春秋時代の国際関係の緊張や、君主・貴族間の確執が浮き彫りになる内容です。特に「夫已氏」という呼び方には、公子元の懿公への強い反感が表れています。 Translation took 1121.2 seconds. |
| 三月,宋華耦來盟,其官皆從之,書曰,宋司馬華孫,貴之也,公與之宴,辭曰,君之先臣督,得罪於宋殤公,名在諸侯之策,臣承其祀,其敢辱君,請承命於亞旅,魯人以為敏, 夏,曹伯來朝,禮也,諸侯五年再相朝,以脩王命,古之制也,齊人或為孟氏謀,曰,魯爾親也,飾棺寘諸堂阜,魯必取之,從之,卞人以告,惠叔猶毀以為請,立於朝以待命,許之,取而殯之,齊人送之書曰,齊人歸公孫敖之喪,為孟氏,且國故也,葬視共仲,聲己不視,帷堂而哭,襄仲欲勿哭,惠伯曰喪,親之終也,雖不能始,善終可也,史佚有言曰,兄弟致美,救乏,賀善,弔災,祭敬,喪哀,情雖不同,毋絕其愛親之道也,子無失道,何怨於人,襄仲說,帥兄弟以哭之,他年,其二子來,孟獻子愛之,聞於國,或譖之曰,將殺子,獻子以告,季文子二子曰,夫子以愛我聞,我以將殺子聞,不亦遠於禮乎,遠禮不如死,一人門于句鼆,一人門于戾丘,皆死, 六月,辛丑朔,日有食之,鼓用牲于社,非禮也,日有食之,天子不舉,伐鼓于社,諸侯用幣于社,伐鼓于朝,以昭事神,訓民事君,示有等威,古之道也,齊人許單伯請而赦之,使來致命,書曰,單伯至自齊,貴之也,新城之盟,蔡人不與,晉郤缺以上軍下軍伐蔡,曰,君弱,不可以怠,戊申,入蔡,以城下之盟而還,凡勝國,曰滅之,獲大城焉,曰入之, |
三月、宋の華耦が同盟のために来訪し、その役人たちが皆従った。史書には「宋の司馬華孫」と記され、彼を貴び重んじたのである。魯公が宴を催したが、華耦は辞退して言った。「君主の先代の家臣である督は、宋の殤公に罪を得て、その名が諸侯の記録に残っております。臣がその祭祀を継いでおりますのに、どうして君主を辱めましょうか。どうか副官たちに命をお伝えください」。魯の人々はこれを機敏であると評価した。 夏、曹伯が来朝した。これは礼に適った行為である。諸侯が五年ごとに互いに朝見するのは、王の命令を履行するためであり、古代からの制度である。斉の者が孟氏のために策を練り、「魯はあなたの親族である。棺を飾って堂阜に置けば、魯は必ず受け取るだろう」と言った。これに従い、卞の者が報告した。惠叔はまだ喪に服して憔悴していたが、請願し、朝廷に立って命令を待った。許されると、棺を受け取って仮葬した。斉の人が文书を送り、「斉人が公孫敖の遺体を返還した」と記した。これは孟氏のためであり、かつ国家的な配慮からである。葬儀は共仲と同様に行われたが、聲己は遺体を見ず、帷堂で泣いた。襄仲は哭くのを拒もうとしたが、惠伯が言った。「喪は親族関係の終わりである。始めを良くできなくても、終わりを良くすることはできる。史佚の言葉に、『兄弟は美を尽くし、不足を救い、善を賀し、災いを弔い、祭りは敬い、喪は哀しむ。心情は異なれど、親愛の道を絶ってはならない』とあります。あなたが道を失わなければ、他人を怨む必要はありません」。襄仲は納得し、兄弟を率いて哭いた。後年、彼の二人の子が来ると、孟獻子は彼らを寵愛し、国中に知れ渡った。ある者が讒言して「彼らはあなたを殺そうとしている」と言うと、獻子はそのことを二人に告げた。季文子の二人の子は言った。「先生は私たちを愛していると評判なのに、私たちが先生を殺そうとしていると評判になるのは、礼からかけ離れていませんか。礼から遠ざかるよりは死ぬ方がましです」。一人は句鼆の門で、一人は戾丘の門で、共に戦死した。 六月辛丑の朔日、日食が起こった。社で太鼓を叩き生贄を捧げたが、これは礼に反する。日食が起こると、天子は膳を減らし、社で太鼓を叩く。諸侯は社で幣帛を捧げ、朝廷で太鼓を叩く。これは神に仕えることを明らかにし、民に君主に仕えることを教え、威儀の差を示すためであり、古代からの道理である。斉の人は単伯の請願を許して赦し、使者を送って命令を伝えさせた。史書に「単伯が斉から到着した」と記すのは、彼を貴んだからである。新城の同盟に蔡は参加しなかった。晋の郤缺が上軍と下軍を率いて蔡を攻め、「君主が幼少なので油断できない」と言った。戊申の日、蔡に侵入し、城下の盟を結んで帰還した。一般的に国に勝つことを「滅ぼす」と言い、大城を獲得することを「入る」と言う。 解説この一節は春秋左氏伝に記された、紀元前7世紀頃の春秋時代の出来事です。三月から六月にかけて、宋・魯・曹・斉・晋・蔡など諸侯国間の外交・軍事・儀礼が描かれています。特に注目すべき点は以下の通りです。
これらの記述は、春秋時代の国際秩序が「礼」を基盤としつつも、現実の利害関係や武力衝突が交錯する複雑な様相を伝えています。特に兄弟間の倫理と国際関係の類似性(「愛親之道」の延長としての外交)は、左伝の思想的特徴と言えるでしょう。 Translation took 995.9 seconds. |
| 秋,齊人侵我西鄙,故季文子告于晉, 冬,十一月,晉侯,宋公,衛侯,蔡侯,鄭伯許男,曹伯,盟于扈,尋新城之盟,且謀伐齊也,齊人賂晉侯,故不克而還,於是有齊難,是以公不會,書曰,諸侯盟于扈,無能為故也,凡諸侯會,公不與不書,諱君惡也,與而不書,後也,齊人來歸子叔姬,王故也,齊侯侵我西鄙,謂諸侯不能也,遂伐曹,人其郛,討其來朝也,季文子曰,齊侯其不免乎,己則無禮,而討於有禮者,曰,女何故行禮,禮以順天,天之道也,己則反天,而又以討人,難以免矣,詩曰,胡不相畏,不畏于天,君子之不虐幼賤,畏于天也,在周頌曰,畏天之威,于時保之,不畏于天,將何能保,以亂取國,奉禮以守,猶懼不終,多行無禮,弗能在矣, 文公十六年 經 春,季孫行父會齊侯于陽穀,齊侯弗及盟, 夏,五月,公四不視朔, 六月,戊辰,公子遂及齊侯,盟于郪丘, 秋,八月,辛未,夫人姜氏薨,毀泉臺,楚人,秦人,巴人,滅庸, 冬,十有一月,宋人弒其君杵臼, 傳 春,王正月,及齊平,公有疾,使季文子會齊侯于陽穀,請盟,齊侯不肯,曰,請俟君間, 夏,五月,公四不視朔,疾也,公使襄仲納賂于齊侯,故盟于郪丘,有蛇自泉宮出,入于國,如先君之數, 秋,八月,辛未,聲姜薨,毀泉臺,楚大饑,戎伐其西南,至于阜山,師于大林,又伐其東南,至于陽丘,以侵訾枝,庸人帥群蠻以叛楚,麇人率百濮聚於選,將伐楚,於是申息之北門不啟,楚人謀徙於阪高,蒍賈曰,不可,我能往,寇亦能往,不如伐庸,夫麇與百濮,謂我饑不能師,故伐我也,若我出師,必懼而歸,百濮離居,將各走其邑,誰暇謀人,乃出師,旬有五日,百濮乃罷,自廬以往,振廩同食,次于句澨,使廬戢黎侵庸,及庸方城,庸人逐之,囚子揚窗,三宿而逸,曰,庸師眾,群蠻聚焉,不如復大師,且起王卒,合而後進,師叔曰,不可,姑又與之遇,以驕之,彼驕我怒,而後可克,先君蚡冒所以服陘隰也,又與之遇,七遇皆北,唯裨,鯈,魚,人實逐之,庸人曰,楚不足與戰矣,遂不設備,楚子乘馹,會師于臨品,分為二隊,子越自石溪,子貝自仞,以伐庸,秦人巴人從楚師,群蠻從楚子盟,遂滅庸,宋公子鮑禮於國人,宋饑,竭其粟而貸之,年自七十以上,無不饋詒也,時加羞珍異,無日不數於六卿之門,國之材人,無不事也,親自桓以下,無不恤也,公子鮑美而豔,襄夫人欲通之,而不可,夫人助之施,昭公無道,國人奉公子鮑以因夫人,於是華元為右師,公孫友為左師,華耦為司馬,鱗鱹為司徒,蕩意諸為司城,公子朝為司寇,初,司城蕩卒,公孫壽辭司城,請使意諸為之,既而告人曰,君無道,吾官近,懼及焉,棄官則族無所庇,子,身之貳也,姑紓死焉,雖亡子,猶不亡族,既,夫人將使公田孟諸而殺之,公知之,盡以寶行,蕩意諸曰,盍適諸侯,公曰,不能其大夫,至于君祖母,以及國人,諸侯誰納我,且既為人君,而又為人臣,不如死,盡以其寶賜左右,以使行,夫人使謂司城去公,對曰,臣之而逃其難,若後君何, |
秋、斉の人が我が国の西の边境を侵犯した。そこで季文子が晋に報告した。 冬、十一月、晋侯、宋公、衛侯、蔡侯、鄭伯、許男、曹伯が扈で会盟した。新城の会盟を再確認し、かつ斉を討伐することを謀った。斉の人が晋侯に賄賂を贈ったため、成功せずに帰還した。このため斉による災難が生じ、魯公は会盟に参加しなかった。春秋の記述に「諸侯が扈で会盟した」とあるのは、彼らが有効な行動を取れなかったからである。諸侯の会盟において、魯公が参加しない場合に記録しないのは、君主の欠点を隠すためである。参加したのに記録しないのは、到着が遅れたからである。斉の人が子叔姫を返還したのは、周王の命令によるものであった。斉侯が我が国の西境を侵犯したのは、諸侯が有効な行動を取れないと見なしたからである。続いて曹を攻撃し、その外城に侵入した。これは曹が魯に朝聘したことを咎めたためである。季文子は言った。「斉侯はおそらく災難を免れないだろう。自分は無礼でありながら、礼を守る者を咎める。『お前はなぜ礼を行うのか』と言う。礼は天に従うことであり、これが天の道理である。自分は天に背きながら、他人を咎めるのだから、災難を免れるのは難しい」。詩経に「なぜ互いに畏れないのか、天を畏れないのか」とある。君子が幼弱者や卑賤者を虐げないのは、天を畏れるからである。周頌に「天の威を畏れ、それによって平安を保つ」とある。天を畏れなければ、何を保つことができようか。反乱によって国を取得し、礼を奉じて守っても、なお最後まで保てるか危ぶまれる。無礼な行いを重ねれば、その地位を保つことはできない。 文公十六年 春、季孫行父が陽穀で斉侯と会ったが、斉侯は会盟に応じなかった。 夏、五月、魯公が四回朔日の儀礼を行わなかった。 六月、戊辰の日、公子遂と斉侯が郪丘で会盟した。 秋、八月、辛未の日、夫人姜氏が逝去し、泉臺が取り壊された。楚人・秦人・巴人が庸を滅ぼした。 冬、十一月、宋人がその君・杵臼を弑した。 伝 春、周暦正月、魯は斉と和議を結んだ。魯公が病気のため、季文子を陽穀に派遣して斉侯と会わせ、会盟を求めた。斉侯は承諾せず、「魯公のご回復をお待ちしたい」と言った。 夏、五月、魯公が四回朔日の儀礼を行わなかったのは病気のためである。魯公は襄仲を使者として斉侯に賄賂を贈らせたため、郪丘で会盟が成立した。泉宮から蛇が現れ、国都に入ったが、その数は魯の先君の数に等しかった。 秋、八月、辛未の日、声姜が逝去し、泉臺が取り壊された。楚で大飢饉が発生し、戎族がその南西を攻めて阜山に達し、大林に軍を駐屯させた。さらに東南を攻めて陽丘に至り、訾枝を侵犯した。庸人が蛮族集団を率いて楚に反旗を翻し、麇人が百濮族を率いて選地に集結し、楚を攻めようとした。このため申と息の北門は閉鎖された。楚人は阪高への遷都を謀ったが、蒍賈が「不可です。我々が移動できれば、敵も同様にできます。庸を討伐すべきです。麇と百濮は、我々が飢饉で軍を動かせないと考えて攻めてきたのです。もし我々が出兵すれば、彼らは恐れて撤退するでしょう。百濮は分散して居住しており、各自の邑に逃げ戻るため、他を攻める余裕はありません」と反対した。そこで楚軍は出兵し、十五日後に百濮は撤退した。廬地から先では兵糧庫を開いて共同で食糧を分配し、句澨に駐屯した。廬戢黎を派遣して庸を攻撃させたが、庸の方城に至ったところで庸軍に撃退され、子揚窗が捕虜となった。三日後に子揚窗は脱走し、「庸軍は兵力が多く、蛮族集団も結集している。主力軍を再派遣し、王の親兵も動員して合力すべきだ」と報告した。師叔は「いや、一度彼らと交戦して驕らせよ。彼らが驕り、我々が奮起すれば、勝利できる。先君の蚡冒が陘隰を服従させた方法だ」と提案した。再び交戦すると、七度も敗北を装った。ただし裨・鯈・魚の部隊は本気で追撃した。庸人は「楚は戦うに足らない」と言って防御を怠った。楚王は駅伝馬で臨品に赴き軍を集結させ、二隊に分けて子越を石溪から、子貝を仞から庸へ進攻させた。秦人と巴人は楚軍に加勢し、蛮族集団は楚王と会盟して従った。こうして庸は滅ぼされた。宋の公子鮑は民に礼を尽くした。宋で飢饉が起きると、自らの穀物を全て貸し与え、七十歳以上の者には全員に食糧を贈った。時折珍味を添えて、毎日のように六卿の屋敷を訪問し、国の人材を重用し、親族(桓公の子孫以下)をことごとく世話した。公子鮑は美男子であったため、襄夫人が関係を求めたが拒絶された。夫人は彼を支援し、昭公に道がなかったため、民は公子鮑を奉じて夫人に接近した。ここに華元が右師、公孫友が左師、華耦が司馬、鱗鱹が司徒、蕩意諸が司城、公子朝が司寇となった。当初、司城の蕩が死去した際、公孫寿は司城職を辞退し、息子の意諸を就任させた。後に人に「君に道がなく、私は職務上近い立場にあるため、災難が及ぶのを恐れる。職を辞すれば一族を守れない。息子は私の分身だから、彼に死を代わらせよう。たとえ息子を失っても一族は滅びない」と語った。後に夫人が昭公を孟諸で狩猟中に殺害しようと計画した。昭公はこれを知り、財宝を全て携えて出奔した。蕩意諸が「諸侯のもとへ逃れましょう」と進言すると、昭公は「大夫たちや君祖母(襄夫人)、民からも見放された私を、どの諸侯が受け入れようか。かつて君主だった者が臣下になるよりは死を選ぶ」と言い、財宝を全て側近に与えて逃がした。夫人が司城(蕩意諸)に昭公を見捨てるよう命じると、彼は「臣下として君の難を逃れるなら、次の君に何と顔向けできようか」と答えた。 解説この一節は『春秋左氏伝』における二つの年の記録です。前半は前年の出来事を、後半は文公十六年の経(簡潔な公式記録)と伝(詳細な叙述)から成ります。 主な内容と背景: 特徴的な点: この時代の複雑な同盟関係や、国内政治と国際情勢が相互に影響し合う様子がよく表れた一節です。 Translation took 1591.5 seconds. |
| 冬,十一月,甲寅,宋昭公將田孟諸,未至,夫人王姬使帥甸攻而殺之,蕩意諸死之,書曰,宋人弒其君杵臼,君無道也,文公即位,使母弟須為司城,華耦卒,而使蕩虺為司馬, 文公十七年 經 春,晉人,衛人,陳人,鄭人,伐宋, 夏,四月,癸亥,葬我小君聲姜,齊侯伐我西鄙, 六月,癸未,公及齊侯盟于穀,諸侯會于扈, 秋,公至自穀, 冬,公子遂如齊, 傳 春,晉荀林父,衛孔達,陳公孫寧,鄭石楚,伐宋,討曰,何故弒君,猶立文公而還,卿不書,失其所也, 夏,四月,癸亥,葬聲姜,有齊難,是以緩,齊侯伐我北鄙,襄仲請盟, 六月,盟于穀,晉侯蒐于黃父,遂復合諸侯于扈,平宋也,公不與會,齊難故也,書曰諸侯,無功也,於是晉侯不見鄭伯,以為貳於楚也,鄭子家使執訊而與之書,以告趙宣子,曰,寡君即位三年,召蔡侯而與之事君,九月,蔡侯入于敝邑以行,敝邑以侯宣多之難,寡君是以不得與蔡侯偕, 十一月,克減侯宣多,而隨蔡侯以朝于執事, 十二年,六月,歸生佐寡君之嫡夷,以請陳侯于楚,而朝諸君, 十四年,七月,寡君又朝,以蕆陳事, 十五年,五月,陳侯自敝邑往朝于君,往年正月,燭之武往朝夷也,八月,寡君又往朝,以陳蔡之密邇於楚,而不敢貳焉,則敝邑之故也,雖敝邑之事君,何以不免,在位之中,一朝于襄,而再見于君,夷與孤之二三臣,相及於絳,雖我小國,則篾以過之矣,今大國曰,爾未逞吾志,敝邑有亡,無以加焉,古人有言曰,畏首畏尾,身其餘幾,又曰,鹿死不擇音,小國之事大國也,德,則其人也,不德,則其鹿也,鋌而走險,急何能擇,命之罔極,亦知亡矣,將悉敝賦,以待於鯈,唯執事命之, |
冬、十一月の甲寅の日、宋の昭公が孟諸で狩りをしようとしたが、到着する前に、夫人の王姬が帥甸(衛兵の長)を使って攻撃させて殺害した。蕩意諸はこれに殉死した。春秋には「宋人がその君・杵臼を弑した」と記されているが、これは君主が無道であったためである。文公が即位すると、同母弟の須を司城に任命し、華耦が死去した後は蕩虺を司馬に任命した。 文公十七年 春、晋人・衛人・陳人・鄭人が宋を討伐した。 伝(左氏伝の解説) 春、晋の荀林父・衛の孔達・陳の公孫寧・鄭の石楚が宋を討伐した。その理由は「なぜ君主を弑したのか」と問い詰めるためであった。しかし結局は文公を擁立して帰還した。卿の名が記されていないのは、彼らが本来の役割を果たさなかったためである。 解説この一節は『春秋左氏伝』文公十七年に当たり、以下のような歴史的意義を持ちます。 全体として、この箇所は権力の正当性・国際政治の駆け引き・小国の生き残り戦略という春秋時代の核心的なテーマを凝縮していると言えます。 Translation took 1839.7 seconds. |
| 文公二年,六月,壬申,朝于齊, 四年,二月,壬戌,為齊侵蔡,亦獲成於楚,居大國之間,而從於強令,豈其罪也,大國若弗圖,無所逃命,晉鞏朔行成於鄭,趙穿,公婿池,為質焉, 秋,周甘歜敗戎于邥垂,乘其飲酒也, 冬,十月,鄭大子夷,石楚,為質于晉,襄仲如齊,拜穀之盟,復曰,臣聞齊人將食魯之麥,以臣觀之,將不能齊君之語偷,臧文仲有言曰,民主偷必死, 文公十八年 經 春,王二月,丁丑,公薨于臺下,秦伯罃卒, 夏,五月,戊戌,齊人弒其君商人, 六月,癸酉,葬我君文公, 秋,公子遂,叔孫得臣,如齊, 冬,十月,子卒,夫人姜氏歸于齊,季孫行父如齊,莒弒其君庶其, 傳 春,齊侯戒師期,而有疾,醫曰,不及秋,將死,公聞之,卜曰,尚無及期,惠伯令龜,卜楚丘占之,曰,齊侯不及期,非疾也,君亦不聞,令龜有咎,二月,丁丑,公薨, 齊懿公之為公子也,與邴歜之父爭田,弗勝,及即位,乃掘而刖之,而使歜僕,納閻職之妻,而使職驂乘, 夏,五月,公游于申池,二人浴于池,歜以扑抶職,職怒,歜曰,人奪女妻而不怒,一抶女庸何傷,職曰,與刖其父而弗能病者何如,乃謀弒懿公,納諸竹中,歸舍爵而行,齊人立公子元, 六月,葬文公, 秋,襄仲,莊叔,如齊,惠公立故,且拜葬也,文公二妃,敬嬴生宣公,敬嬴嬖,而私事襄仲,宣公長,而屬諸襄仲,襄仲欲立之,叔仲不可,仲見于齊侯而請之,齊侯新立,而欲親魯,許之, |
【翻訳文】 四年の二月壬戌の日、斉のために蔡を侵攻し、また楚との和議を成立させた。大国の間に位置しながら、強国の命令に従うのは、どうして彼らの罪だろうか。大国がもし考慮しないなら、我々は命令から逃れる術はない。晋の鞏朔が鄭との和議を成立させ、趙穿と公婿池が人質となった。 秋、周の甘歜が邥垂で戎を打ち破った。これは彼らが酒を飲んでいる隙を突いたのである。 冬十月、鄭の太子夷と石楚が晋に人質となった。襄仲が斉に赴き、穀の盟約を礼儀として訪れた。帰国後、「臣は斉人が魯の麦を奪おうとしていると聞きましたが、私の観察では、それは実現しないでしょう。斉の君の言葉が軽薄です。臧文仲がかつて言いました『君主が軽薄であれば必ず死ぬ』と」と報告した。 文公十八年 春、周暦二月丁丑の日、文公が台下で逝去した。秦の伯罃が死去した。 夏五月戊戌の日、斉人が自国の君主・商人を弑逆した。 六月癸酉の日、我が君文公を葬った。 秋、公子遂と叔孫得臣が斉に赴いた。 冬十月、子(魯君)が逝去した。夫人姜氏が斉に帰国した。季孫行父が斉に赴いた。莒が自国の君主・庶其を弑逆した。 伝(詳細叙述) 春、斉侯が軍事行動の時期を決めていたが、病気になった。医師が「秋まで持たないでしょう」と言うと、魯の文公はこれを聞いて占わせ、「どうか斉侯が期日までに死にませんように」と祈った。惠伯が亀甲を捧げ、卜楚丘が占って言った。「斉侯は期日前に死ぬでしょうが、病気が原因ではありません。君(文公)もこの結果を聞くことはないでしょう。亀甲に命じたこと自体に不吉があります」。二月丁丑の日、文公が逝去した。 斉の懿公が公子だった頃、邴歜の父と田畑を争って敗れていた。即位すると、その父の墓を掘り起こして遺体の足を切り落とし、しかも歜を御者とした。また閻職の妻を奪って側室とし、職を車の護衛役にした。 夏五月、懿公が申池で遊覧した時、二人(歜と職)が池で水浴びしている最中、歜が鞭で職を打った。職が怒ると、歜は「他人に妻を奪われても怒らない者が、ちょっと打たれたくらいで何が痛い?」と言い、職は「父の遺体を辱められても何とも思わない者と比べてどうだ?」と返した。そこで二人は懿公を弑逆し、遺体を竹林に隠した。その後、酒杯を置いて整然と退出し、逃亡した。斉人は公子元を立てた。 六月、文公を葬った。 秋、襄仲と莊叔が斉に赴いた。これは惠公が新立したことへの礼儀と、文公の葬儀への参列のためである。文公には二人の妃がおり、敬嬴が宣公を産んでいた。敬嬴は寵愛され、襄仲と密通していた。宣公は年長だったが、襄仲は彼を擁立しようとし、叔仲は反対した。襄仲は斉侯に会って要請すると、新立した斉侯は魯と親密になりたいと考え、これを許可した。 【解説】
翻訳に際しては、以下の点に留意しました: この時期の記録は、表面上は年代記形式ながら、権力者の横暴や国際政治の冷酷さを活写し、『左伝』が単なる史書ではなく文学的作品としても高い価値を持つことを示す好例と言えます。 Translation took 688.4 seconds. |
| 冬,十月,仲殺惡及視,而立宣公,書曰,子卒,諱之也,仲以君命召惠伯,其宰公冉務人止之,曰,入必死,叔仲曰,死君命可也,公冉務人曰,若君命可死,非君命何聽,弗聽,乃入,殺而埋之馬矢之中,公冉務人奉其帑以奔蔡,既而復叔仲氏, 夫人姜氏歸于齊,大歸也,將行哭而過市,曰天乎,仲為不道,殺適,立庶,市人皆哭,魯人謂之哀姜, 莒紀公子生大子僕,又生季佗,愛季佗而黜僕,且多行禮於國,僕因國人以弒紀公,以其寶玉來奔,納諸宣公,公命與之邑,曰,今日必授,季文子使司寇出諸竟,曰,今日必達,公問其故,季文子使大史克對曰,先大夫臧文仲,教行父事君之禮,行父奉以周旋,弗敢失隊,曰,見有禮於其君者事之,如孝子之養父母也,見無禮於其君者誅之,如鷹鸇之逐鳥雀也,先君周公制周禮曰,則以觀德,德以處事,事以度功,功以食民,作誓命曰,毀則為賊,掩賊為藏,竊賄為盜,盜器為姦,主藏之名,賴姦之用,為大凶德,有常無赦,在九刑不忘,行父還觀莒僕,莫可則也,孝敬忠信為吉德,盜賊藏姦為凶德,夫莒僕,則其孝敬,則弒君父矣,則其忠信,則竊寶玉矣,其人,則盜賊也,其器,則姦兆也,保而利之,則主藏也,以訓則昏,民無則焉,不度於善,而皆在於凶德,是以去之, |
冬の十月に、仲は惡と視を殺し、宣公を立てた。『春秋』には「子卒」と記されているが、これは事件を隠すためである。仲は君主の命令として惠伯を召し出したが、その家宰の公冉務人がこれを止めて言った。「入れば必ず死ぬでしょう」。叔仲(惠伯)は「君主の命令であれば死ぬのもやむを得ない」と言った。公冉務人は「もし君主の命令なら死んでもよいが、君主の命令でないなら従う必要はない」と言ったが、聞き入れられなかった。そこで惠伯は入り、殺されて馬の糞の中に埋められた。公冉務人はその家族を連れて蔡に逃亡し、後に叔仲氏は復興された。 夫人の姜氏が齊に帰った。これは実家への永久の帰郷である。彼女は出発する際に市場を通りながら泣いて叫んだ。「天よ、仲は道理に背き、嫡子を殺して庶子を立てた」。市場の人々は皆泣き、魯の人々は彼女を哀姜と呼んだ。 莒の紀公は太子の僕を生み、さらに季佗を生んだ。紀公は季佗を溺愛して僕を廃し、かつ国内で多くの礼儀を行った。僕は国人を頼りに紀公を弑し、その宝玉を持って魯に逃亡し、宣公に献上した。宣公は邑を与えるよう命じ、「今日中に必ず与えよ」と言った。季文子は司寇に命じて国境から追放させ、「今日中に必ず実行せよ」と言った。宣公がその理由を問うと、季文子は大史克に答えさせた。「先大夫の臧文仲が、行父(季文子)に君主に仕える礼を教えられました。行父はそれを守り実践し、敢えて失わずにきました。『君主に礼を尽くす者には仕え、孝子が父母を養うようにせよ。君主に無礼な者を誅するのは、鷹や鳶が鳥雀を追うようにせよ』と。先君の周公が周礼を制定され、『礼儀をもって徳を観察し、徳をもって事を処理し、事をもって功績を量り、功績をもって民を養う』とされました。また誓命を作って『規則を破る者は賊とし、賊を隠す者は蔵(赃物隠し)とし、財貨を窃む者は盗とし、宝器を盗む者は姦とする。蔵の名目で姦の利益に頼る者は大凶徳であり、常刑により赦さず、九刑に忘れない』とされました。行父が莒の僕を観察すると、模範とする点はありません。孝敬・忠信は吉徳であり、盗賊・蔵姦は凶徳です。莒の僕について言えば、その孝敬を見れば君主である父を弑し、その忠信を見れば宝玉を窃んでいます。この人物は盗賊であり、その宝器は姦の証拠です。これを保護して利益を与えるなら、蔵の主となります。これを手本とすれば民は混乱し、民は規範を失います。善を量らず、すべて凶徳に属するので、追放したのです」。 解説この一節は『春秋左氏伝』における魯国と莒国をめぐる複雑な権力闘争と倫理観を描いています。まず魯国では、公子仲が悪と視を殺害して宣公を擁立する過程で、惠伯が偽の君命に騙されて殺される悲劇が起きます。この記述には『春秋』の筆法である「諱む(忌み隠す)」という特徴が示され、事件を婉曲に記録する歴史記述の姿勢が見て取れます。 次に莒国では、紀公の寵愛問題が太子僕の弑逆を招き、宝玉を持って魯に亡命する事件が起きます。季文子が莒僕の受け入れを拒否する理由として、臧文仲から受け継いだ「礼に基づく徳治」の思想を詳細に述べる場面は、春秋時代の政治倫理を象徴的に示しています。特に「鷹鸇之逐鳥雀」の比喩は、君主への無礼を許さない厳格な姿勢を強調し、周公の制定した周礼や「九刑」の概念を通じて、当時の規範意識が「吉徳」と「凶徳」に明確に区分されていたことを浮き彫りにしています。 全体を通じて、権力交替の混乱の中で「礼」と「徳」を基準にした人物評価が如何に重視されていたかが窺え、春秋時代の価値観を理解する上で重要な史料となっています。 Translation took 917.4 seconds. |
| 昔高陽氏有才子八人,蒼舒,隤敳,檮戭,大臨,尨降,庭堅,仲容,叔達,齊聖廣淵,明允篤誠,天下之民,謂之八愷,高辛氏有才子八人,伯奮,仲堪,叔獻,季仲,伯虎,仲熊,叔豹,季貍,忠肅共懿,宣慈惠和,天下之民,謂之八元,此十六族也,世濟其美,不隕其名,以至於堯,堯不能舉,舜臣堯,舉八愷,使主后土,以揆百事,莫不時序,地平天成,舉八元,使布五教于四方,父義,母慈,兄友,弟共,子孝,內平,外成, 昔帝鴻氏有不才子,掩義隱賊,好行凶德,醜類惡物,頑嚚不友,是與比周,天下之民,謂之渾敦,少皞氏有不才子,毀信廢忠,崇飾惡言,靖譖庸回,服讒蒐慝,以誣盛德,天下之民,謂之窮奇,顓頊有不才子,不可教訓,不知話言,告之則頑,舍之則嚚,傲很明德,以亂天常,天下之民,謂之檮杌,此三族也,世濟其凶,增其惡名,以至于堯,堯不能去,縉雲氏有不才子,貪于飲食,冒于貨賄,侵欲崇侈,不可盈厭,聚斂積實,不知紀極,不分孤寡,不恤窮匱,天下之民,以比三凶,謂之饕餮,舜臣堯,賓于四門,流四凶族,渾敦,窮奇,檮杌,饕餮,投諸四裔,以禦螭魅,是以堯崩而天下如一,同心戴舜,以為天子,以其舉十六相,去四凶也,故虞書數舜之功曰,慎徽五典,五典克從,無違教也,曰,納于百揆,百揆時序,無廢事也,曰賓于四門,四門穆穆,無凶人也,舜有大功二十而為天子,今行父雖未獲一吉人,去一凶矣,於舜之功,二十之一也,庶幾免於戾乎, |
昔、高陽氏には八人の優れた子孫がおり、蒼舒、隤敳、檮戭、大臨、尨降、庭堅、仲容、叔達といい、彼らは聡明で広く深い知恵を持ち、明るく誠実で篤実であった。天下の民は彼らを「八愷」と呼んだ。高辛氏にも八人の優れた子孫がおり、伯奮、仲堪、叔献、季仲、伯虎、仲熊、叔豹、季貍といい、彼らは忠義で謹厳、謙虚で善良、慈愛に満ち和やかであった。天下の民は彼らを「八元」と呼んだ。この十六の氏族は代々その美徳を受け継ぎ、名声を失うことなく堯の時代まで続いたが、堯は彼らを登用できなかった。舜が堯の臣下となると、八愷を登用して土地の管理を担当させ、様々な事務を統括させた。するとすべてが時節にかなって整い、天地が平和に治まった。また八元を登用して四方に五つの教えを布かせた。父は義を尽くし、母は慈愛を示し、兄は弟に親しみ、弟は兄に従順で、子は孝行するようになり、家庭内も国外も平和に治まった。 昔、帝鴻氏には才能のない子孫がおり、正義を覆い隠し悪事を働くことを好み、凶悪な行いをし、醜い仲間や悪しき者たちと結託し、頑固で誠実さがなく、天下の民は彼を「渾敦」と呼んだ。少皞氏にも才能のない子孫がおり、信義を破り忠誠を捨て、悪意ある言葉を飾り立て、陰口をたたき邪悪な行いにふけり、讒言で善良な人々を誣いた。天下の民は彼を「窮奇」と呼んだ。顓頊にも才能のない子孫がおり、教え諭すことができず、道理を理解せず、注意すれば頑なに反抗し、放っておけば勝手気ままに振る舞い、立派な徳を侮って天地の常道を乱した。天下の民は彼を「檮杌」と呼んだ。この三つの氏族は代々凶悪さを受け継ぎ、悪名を高めて堯の時代に至ったが、堯は彼らを除くことができなかった。縉雲氏にも才能のない子孫がおり、飲食に貪欲で財貨をむさぼり、欲望は尽きることなく贅沢を極め、財物を蓄えることに飽きず、孤児や寡婦を顧みず、貧困に苦しむ者を憐れまなかった。天下の民は彼を前三者の凶悪になぞらえて「饕餮」と呼んだ。舜が堯の臣下となると、四方の門に賓客として迎え、四つの凶悪な氏族、すなわち渾敦、窮奇、檮杌、饕餮を追放し、四方の辺境に送り込んで妖魔を防がせた。このため堯が亡くなった後も天下は一つにまとまり、心を合わせて舜を天子として推戴した。それは舜が十六の優れた補佐官を登用し、四つの凶悪を除去したからである。ゆえに『虞書』は舜の功績を称えて、「五つの教えを慎んで明らかにし、五典が従うべきように従った」、つまり教えに背く者がいなくなったと述べ、「様々な事務を統括させると、すべてが時節にかなって整った」、つまり怠る者がいなくなったと述べ、「四方の門に賓客として迎えると、四方の門が厳かで和やかになった」、つまり凶悪な者がいなくなったと述べている。舜は二十の大功を成し遂げて天子となった。今、私(行父)はまだ一人の善良な人物を得てはいないが、一つの凶悪を除いた。舜の功績の二十分の一に当たる。これでようやく罪を免れることができるだろう。 解説: Translation took 719.6 seconds. |
| 宋武氏之族道昭公子,將奉司城須以作亂,十二月,宋公殺母弟須,及昭公子使戴,莊,桓,之族,攻武氏於司馬子伯之館,遂出武穆之族,使公孫師為司城,公子朝卒,使樂呂為司寇,以靖國人。 |
宋の武氏の一族は昭公子を擁立し、司城の須を奉じて反乱を起こそうとしました。十二月、宋公は実弟の須を殺害し、昭公子を使者として戴氏・莊氏・桓氏の各族を動員し、司馬子伯の館で武氏を攻撃しました。こうして武穆の一族を追放した後、公孫師を司城に任命し、公子朝が死去すると樂呂を司寇に任命し、国人を鎮めました。 【解説】 Translation took 500.2 seconds. |
| input text ../document/春秋左氏傳\07_春秋左氏傳_宣公.txt | 現代日本語 translated text |
| 春秋左氏傳 宣公 宣公元年 經 元年春王正月,公即位。公子遂如齊逆女。 三月,遂以夫人婦姜至自齊。 夏,季孫行父如齊。晉放其大夫胥甲父于衛。公會齊侯于平州。公子遂如齊。 六月,齊人取濟西田。 秋,邾子來朝。楚子、鄭人,侵陳,遂侵宋。晉趙盾帥師救陳。宋公、陳侯、衛侯、曹伯,會晉師于棐林,伐鄭。 冬,晉趙穿帥師侵崇。晉人、宋人,伐鄭。 傳 元年春王正月,公子遂如齊逆女,尊君命也。 三月,遂以夫人婦姜至自齊,尊夫人也。 夏,季文子如齊,納賂,以請會。晉人討不用命者,放胥甲父于衛,而立胥克,先辛奔齊。會于平州,以定公位。東門襄仲如齊拜成。 六月,齊人取濟西之田。為立公故,以賂齊也。宋人之弒昭公也,晉荀林父以諸侯之師伐宋。宋及晉平,宋文公受盟于晉。又會諸侯于扈,將為魯討齊,皆取賂而還。鄭穆公曰:「晉不足與也。」遂受盟于楚。陳共公之卒,楚人不禮焉。陳靈公受盟于晉。 秋,楚子侵陳,遂侵宋。晉趙盾帥師救陳宋,會于棐林,以伐鄭也。楚蒍賈救鄭,遇于北林,囚晉解揚,晉人乃還。晉欲求成於秦,趙穿曰:「我侵崇,秦急崇必救之,吾以求成焉。」 冬,趙穿侵崇,秦弗與成。晉人伐鄭,以報北林之役。於是晉侯侈,趙宣子為政,驟諫而不入,故不競於楚。 宣公二年 經 |
【翻訳文】 公式記録 元年の春、周王の正月、宣公が即位した。公子遂が斉に赴き、夫人を迎えるためにおもむいた。 三月、遂が夫人である婦姜を伴って斉から到着した。 夏、季孫行父が斉に赴いた。晋がその大夫である胥甲父を衛に追放した。宣公が平州で斉侯と会見した。公子遂が斉に赴いた。 六月、斉が済西の田地を取得した。 秋、邾子が来朝した。楚子と鄭人が陳を侵攻し、続いて宋を侵攻した。晋の趙盾が軍を率いて陳を救援した。宋公、陳侯、衛侯、曹伯が棐林で晋軍と会合し、鄭を討伐した。 冬、晋の趙穿が軍を率いて崇を侵攻した。晋人と宋人が鄭を討伐した。 解説 元年の春、周王の正月、公子遂が斉に赴いて夫人を迎えたのは、君主の命令を重んじたためである。 三月、遂が夫人である婦姜を伴って斉から到着したのは、夫人を尊重したためである。 夏、季文子(季孫行父)が斉に赴き、賄賂を贈って会盟を要請した。晋は命令に従わなかった者を糾弾し、胥甲父を衛に追放して胥克を立てた。先辛は斉に逃亡した。平州で会合が行われ、宣公の地位を安定させた。東門襄仲(公子遂)が斉に赴き、和議の成立を礼儀として訪れた。 六月、斉が済西の田地を取得した。これは宣公を即位させるための見返りとして、斉に賄賂を贈ったためである。宋人が昭公を弑逆した事件では、晋の荀林父が諸侯の軍を率いて宋を討伐した。宋は晋と講和し、宋文公が晋との盟約を受諾した。さらに扈で諸侯が会合し、魯のために斉を討伐しようとしたが、すべて賄賂を受け取って撤兵した。鄭穆公は「晋は頼りにならない」と言い、楚との盟約を受諾した。陳共公が死去した際、楚は礼儀を欠いた。陳霊公は晋との盟約を受諾した。 秋、楚子が陳を侵攻し、続いて宋を侵攻した。晋の趙盾が軍を率いて陳と宋を救援し、棐林で会合して鄭を討伐した。楚の蒍賈が鄭を救援し、北林で晋軍と遭遇し、晋の解揚を捕虜としたため、晋軍は撤退した。晋は秦との講和を求めたが、趙穿が「我々が崇を侵攻すれば、秦は崇の危機を救おうと必ず動く。その機会に講和を求めよう」と提案した。 冬、趙穿が崇を侵攻したが、秦は講和に応じなかった。晋が鄭を討伐し、北林の戦いの報復とした。このとき晋侯(霊公)は奢侈にふけり、趙宣子(趙盾)が政権を担当したが、繰り返し諫めても聞き入れられず、そのため楚に対抗できなくなった。 宣公二年 公式記録 【解説】
特に趙盾の諫言が聞き入れられない描写は、晋国内の政治的不安定さを暗示し、後の権力闘争の伏線ともなっています。 Translation took 2379.0 seconds. |
| 二年春王二月,壬子,宋華元帥師,及鄭公子歸生帥師,戰于大棘,宋師敗績,獲宋華元。秦師伐晉。 夏,晉人、宋人、衛人、陳人,侵鄭。 秋,九月,乙丑,晉趙盾弒其君夷皋。 冬,十月,乙亥,天王崩。 傳 二年春,鄭公子歸生受命于楚,伐宋。宋華元、樂呂,御之。 二月,壬子,戰于大棘,宋師敗績,囚華元,獲樂呂,及甲車四百六十乘,俘二百五十人,馘百人。狂狡輅鄭人,鄭人入于井,倒戟而出之,獲狂狡。君子曰:「失禮違命,宜其為禽也。戎昭果毅以聽之,之謂禮。殺敵為果,致果為毅。易之戮也。」將戰,華元殺羊食士,其御羊斟不與。及戰,曰:「疇昔之羊,子為政,今日之事,我為政,與入鄭師,故敗。」君子謂羊斟非人也,以其私憾,敗國殄民,於是刑孰大焉。詩所謂人之無良者,其羊斟之謂乎。殘民以逞,宋人以兵車百乘,文馬百駟,以贖華元于鄭。半入,華元逃歸,立于門外,告而入,見叔牂,曰:「子之馬然也。」對曰:「非馬也,其人也。既合而來奔。」宋城,華元為植,巡功。城者謳曰:「睅其目,皤其腹,棄甲而復,于思于思,棄甲復來。」使其驂乘,謂之曰:「牛則有皮,犀兕尚多,棄甲則那。」役人曰:「從其有皮,丹漆若何。」華元曰:「去之,夫其口眾我寡。」秦師伐晉,以報崇也,遂圍焦。 |
【翻訳文】 夏、晋人・宋人・衛人・陳人が鄭を侵した。 秋、九月乙丑の日に、晋の趙盾が君主の夷皋を弑した。 冬、十月乙亥の日に、周天王が崩御した。 伝(解説部分) 二月壬子の日、大棘で戦い、宋軍は大敗し、華元は囚われ、楽呂は捕らえられ、戦車四百六十両と捕虜二百五十人、首級百が奪われた。狂狡が鄭人を迎え撃った際、鄭人が井戸に落ちたので、戟を逆さにして助け出したが、逆に狂狡が捕らえられた。君子は「礼を失い命令に背けば、捕らえられるのも当然だ。戦いにおいては果敢さと決断力で命令に従うのが礼である。敵を殺すのが果敢さ、果敢さを貫くのが決断力だ。これを軽んじれば罰せられる」と評した。 戦いの前、華元は羊を殺して士卒に振る舞ったが、御者の羊斟には与えなかった。戦いの際、羊斟は「先日の羊は君が支配したが、今日の戦いは私が支配する」と言って意図的に鄭軍の中に突入し、敗戦を招いた。君子は羊斟を人非人と批判し、「私怨のために国を敗り民を苦しめる行為ほど重い罪はない。詩経にいう『人の良からざる』とは羊斟のような者を指すのか。民を犠牲にして私怨を晴らすとは」と述べた。 宋人は兵車百両と飾り馬四百頭で鄭に華元の身代金を支払おうとしたが、半分だけ渡した段階で華元は脱走して帰国した。城門の外で身分を告げて入城し、叔牂に会って「あの戦いは君の馬のせいか」と問うと、叔牂は「馬ではなく人のせいだ。約束を果たしたので逃げ帰ってきた」と答えた。後に華元が城壁修築の監督をしていると、作業員が歌で嘲った(「大きく見開いた目に膨れた腹、鎧を棄てて逃げ帰り、ひげ面のくせにまた戻ってきた」)。華元が「牛や犀の皮はたくさんあるから鎧はどうにでもなる」と返すと、作業員は「皮はあっても丹漆(塗料)が足りないだろう」と応じ、華元は「彼らの口数が多いからかなわない」と退いた。 秦軍が晋を攻撃したのは崇の戦いの報復であり、焦を包囲した。 【解説】 Translation took 2244.8 seconds. |
| 夏,晉趙盾救焦,遂自陰地,及諸侯之師侵鄭,以報大棘之役。楚鬥椒救鄭,曰:「能欲諸侯而惡其難乎?」遂次于鄭,以待晉師。趙盾曰:「彼宗競于楚,殆將斃矣,姑益其疾,乃去之。」晉靈公不君,厚斂以彫牆,從臺上彈人,而觀其辟丸也。宰夫胹熊蹯不熟,殺之,寘諸畚,使婦人載以過朝。趙盾、士季,見其手,問其故,而患之。將諫,士季曰:「諫而不入,則莫之繼也。會請先,不入,則子繼之。」三進及溜,而後視之,曰:「吾知所過矣,將改之。」稽首而對曰:「人誰無過,過而能改,善莫大焉。詩曰:『靡不有初,鮮克有終。』夫如是,則能補過者鮮矣。君能有終,則社稷之固也,豈惟群臣賴之。又曰:『袞職有闕,惟仲山甫補之。』能補過也。君能補過,袞不廢矣。」猶不改。宣子驟諫,公患之,使鉏麑賊之。晨往,寢門闢矣,盛服將朝,尚早,坐而假寐。麑退,歎而言曰:「不忘恭敬,民之主也。賊民之主,不忠。棄君之命,不信。有一於此,不如死也。」觸槐而死。 秋,九月,晉侯飲趙盾酒,伏甲將攻之,其右提彌明知之,趨登曰:「臣侍君宴,過三爵,非禮也。」遂扶以下。公嗾夫獒焉。明搏而殺之。盾曰:「棄人用犬,雖猛何為。」鬥且出。提彌明死之。初,宣子田于首山,舍于翳桑,見靈輒餓,問其病,曰:「不食三日矣。」食之,舍其半,問之,曰:「宦三年矣,未知母之存否,今近焉,請以遺之。」使盡之,而為之簞食與肉,寘諸橐以與之。既而與為公介,倒戟以禦公徒,而免之。問何故,對曰:「翳桑之餓人也。」問其名居,不告而退。遂自亡也。乙丑,趙穿攻靈公于桃園。宣子未出山而復。大史書曰:「趙盾弒其君。」以示于朝。宣子曰:「不然。」對曰:「子為正卿,亡不越竟,反不討賊,非子而誰?」宣子曰:「嗚呼,我之懷矣,自詒伊慼,其我之謂矣。」孔子曰:「董狐,古之良史也,書法不隱。趙宣子,古之良大夫也,為法受惡,惜也。越竟乃免。」宣子使趙穿逆公子黑臀于周,而立之。壬申,朝于武宮。初,麗姬之亂,詛無畜群公子,自是晉無公族。及成公即位,乃宦卿之適子,而為之田,以為公族。又宦其餘子,亦為餘子。其庶子為公行。晉於是有公族、餘子、公行。趙盾請以括為公族,曰:「君姬氏之愛子也,微君姬氏,則臣狄人也。」公許之。 |
夏、晋の趙盾が焦を救援し、ついで陰地から出発して諸侯の軍とともに鄭を侵攻し、大棘の戦いの報復をした。楚の闘椒が鄭を救援し、「諸侯を従えようと願いながら、その困難を嫌うことができようか」と言い、ついで鄭に駐屯して晋軍を待った。趙盾は、「あの一族は楚で勢力争いをしており、おそらく滅びるだろう。しばらくその罪悪を重ねさせてから除こう」と言った。 晋の霊公は君主としての道を外れ、重税を課して宮殿の壁を飾り、台から人を弾丸で撃って、彼らが弾丸を避ける様子を見物した。料理人が熊の掌を十分に煮えていないと、彼を殺し、籠に入れて、女性に運ばせて朝廷を通らせた。趙盾と士季がその手を見て、理由を問い、憂慮した。諫めようとしたとき、士季が、「諫めて受け入れられなければ、その後を継ぐ者はいない。私が先に行きます。受け入れられなければ、あなたが続いてください」と言った。三度進んで庭の溜まり水のところまで来て、やっと霊公が彼を見て、「私は自分の過ちを知っている、改めよう」と言った。士季が額を地につけて答え、「人は誰でも過ちがあるものです。過ちを犯しても改められるなら、これほど大きな善はありません。詩に『初めは良くても、終わりを全うする者は少ない』とあります。このように、過ちを補える者は稀です。君主が終わりを全うできれば、国家の安泰であり、群臣だけが頼るのではありません。また、『天子の過ちは、仲山甫が補う』ともあります。過ちを補えることです。君主が過ちを補えれば、天子の地位は失われません」と言った。それでも霊公は改めなかった。 宣子(趙盾)が繰り返し諫めたため、霊公は彼を憎み、鉏麑に命じて暗殺させた。朝早く行くと、寝宮の門が開いており、趙盾は正装して朝議に向かう準備をし、まだ早いので座って假寐していた。鉏麑は退き、嘆いて言った、「恭敬を忘れないのは民の主である。民の主を害するのは不忠だ。君の命令を捨てるのは不信だ。どちらかを選ぶなら、死ぬ方がましだ」と。槐の木に頭を打ちつけて死んだ。 秋九月、晋侯(霊公)が趙盾に酒を飲ませ、伏兵を置いて襲おうとした。その右衛の提弥明がこれを知り、急いで進み出て言った、「臣が君の宴に侍るのは、三杯を過ぎれば礼に外れます」と。そして趙盾を扶けて下がらせた。霊公は獒(猛犬)をけしかけた。提弥明が組みついてこれを殺した。趙盾は、「人を捨てて犬を使うとは、たとえ猛でも何の役に立つか」と言い、戦いながら退出した。提弥明はそこで死んだ。 当初、宣子が首山で狩りをし、翳桑で休んでいたとき、霊輒が飢えているのを見て、病状を問うと、「三日も食べていません」と言った。食物を与えると、半分を残した。理由を問うと、「三年も仕官しており、母が生きているか分かりません。今近くにいますので、これを残したい」と言った。趙盾は全部食べさせ、さらに竹かごの食物と肉を準備して袋に入れて与えた。後に霊輒は霊公の衛兵となり、戟を逆さにして霊公の兵士を防ぎ、趙盾を助けた。理由を問うと、「翳桑の飢え人です」と答えた。名前と住所を尋ねたが、告げずに去った。そして趙盾は逃亡した。 乙丑の日、趙穿が桃園で霊公を攻めた。宣子は国境の山を出ないうちに戻った。太史が「趙盾がその君を弑した」と記し、朝廷に示した。宣子は「そうではない」と言ったが、太史は「あなたが正卿であり、逃亡しても国境を越えず、戻っても賊を討たない。あなたでなくて誰か」と答えた。宣子は「ああ、私の懐き方が、自ら災いを招いたのだ。私のことを言っているのだろう」と言った。孔子は「董狐は古の良史である。記述の法則を隠さない。趙宣子は古の良大夫である。法のため悪名を受けた。惜しいことだ。国境を越えれば免れたのに」と言った。 宣子は趙穿を周に遣わして公子黒臀を迎えさせ、立てた。壬申の日、武宮で朝礼した。当初、麗姫の乱のとき、公子を多数養わないよう誓わせたため、晋には公族がなくなった。成公が即位すると、卿の嫡子に官職を与え、田地を付けて公族とし、またその余子にも官職を与えて余子とし、庶子は公行とした。晋にはこうして公族、余子、公行ができた。趙盾は括を公族にするよう請い、「君姬氏の愛子です。君姬氏がいなければ、臣は狄人でした」と言った。公は許した。 解説 史官の董狐が「趙盾弑其君」と記した件は、孔子によって「書法不隠」(記録の原則を曲げない)と評価され、歴史記述の在り方を示す典故となりました。趙盾が「越境しなかった」という形式的な理由で弑逆の罪を負わされる皮肉は、当時の礼制社会の厳しさを物語っています。 最後の公族制度再編は、晋国における氏族勢力の変化を示す重要な布告です。趙盾自身が狄人出身であることを踏まえた発言は、晋国政治の複雑な背景を暗示しています。全体として、個人の道德と歴史の必然性が交錯する、春秋時代の政治劇の典型と言えるでしょう。 Translation took 3750.1 seconds. |
| 冬,趙盾為旄車之族,使屏季以其故族為公族大夫。 宣公三年 經 三年春王正月,郊牛之口傷,改卜牛,牛死,乃不郊,猶三望。葬匡王。楚子伐陸渾之戎。 夏,楚人侵鄭。 秋,赤狄侵齊,宋師圍曹。 冬,十月,丙戌,鄭伯蘭卒,葬鄭穆公。 傳 三年春,不郊而望,皆非禮也。望,郊之屬也;不郊,亦無望可也。晉侯伐鄭,及郔,鄭及晉平,士會入盟。楚子伐陸渾之戎,遂至于雒,觀兵于周疆。定王使王孫滿勞楚子。楚子問鼎之大小輕重焉。對曰:「在德不在鼎。昔夏之方有德也,遠方圖物,貢金九牧,鑄鼎象物,百物而為之備,使民知神姦,故民入川澤山林,不逢不若,螭魅罔兩,莫能逢之,用能協于上下,以承天休。桀有昏德,鼎遷于商,載祀六百。商紂暴虐,鼎遷于周。德之休明,雖小,重也。其姦回昏亂,雖大,輕也。天祚明德,有所底止。成王定鼎于郟鄏,卜世三十,卜年七百,天所命也。周德雖衰,天命未改。鼎之輕重,未可問也。」 夏,楚人侵鄭,鄭即晉故也。宋文公即位三年殺母弟須,及昭公子,武氏之謀也。使戴桓之族,攻武氏於司馬子伯之館,盡逐武穆之族。武穆之族,以曹師伐宋。 秋,宋師圍曹,報武氏之亂也。 冬,鄭穆公卒。初,鄭文公有賤妾,曰燕姞,夢天使與己蘭,曰:「余為伯鯈,余而祖也,以是為而子,以蘭有國香,人服媚之如是。」既而文公見之,與之蘭而御之,辭曰:「妾不才,幸而有子,將不信,敢徵蘭乎?」公曰:「諾。」生穆公,名之曰蘭。文公報鄭子之妃,曰陳媯,生子華、子臧。子臧得罪而出,誘子華而殺之南里,使盜殺子臧于陳宋之間。又娶于江,生公子士,朝于楚,楚人酖之,及葉而死。又娶于蘇,生子瑕、子俞彌,俞彌早卒。洩駕惡瑕,文公亦惡之,故不立也。公逐群公子,公子蘭奔晉,從晉文公伐鄭。石癸曰:「吾聞姬姞耦,其子孫必蕃。姞,吉人也,后稷之元妃也。今公子蘭,姞甥也,天或啟之,必將為君,其後必蕃。先納之,可以亢寵。」與孔將鉏、侯宣多,納之,盟于大宮,而立之,以與晉平。穆公有疾,曰:「蘭死,吾其死乎,吾所以生也。」刈蘭而卒。 宣公四年 經 |
冬、趙盾が旄車の族となり、屏季を使ってその旧族を公族大夫とした。 宣公三年 三年の春、王の正月、郊祭の牛の口が傷つき、牛を占いで選び直したが、その牛が死んだため、郊祭を行わず、三望の祭のみを行った。匡王を葬った。楚の子(王)が陸渾の戎を討った。 夏、楚が鄭を侵した。 秋、赤狄が斉を侵し、宋の軍が曹を包囲した。 冬、十月丙戌の日、鄭伯の蘭が卒去し、鄭穆公として葬られた。 伝文 三年の春、郊祭を行わずに望祭を行うのは、いずれも礼に適っていない。望祭は郊祭に属するものであり、郊祭を行わないなら、望祭も行う必要はない。晋侯が鄭を討ち、郔まで進軍した。鄭は晋と和議を結び、士会が入って盟を交わした。楚の子が陸渾の戎を討ち、そのまま雒まで進み、周の境界で軍勢を閲兵した。定王が王孫満を使わして楚の子を慰労させた。楚の子が鼎の大きさと重さを尋ねた。王孫満は答えて言った。「大切なのは徳であって鼎ではありません。昔、夏に徳があった時代、遠方の地から物の図様を集め、九牧から銅を貢納させ、鼎を鋳造して万物の形を刻みました。これにより民は神々や邪悪なものを知り、川沢や山林に入っても不吉なものに遭わず、魑魅魍魎も害をなせなくなり、上下が調和して天の恵みを受けることができました。桀が昏徳を抱えると、鼎は商に移り、六百年続きました。商の紂が暴虐だと、鼎は周に移りました。徳が輝き明らかであれば、鼎は小さくても重く、邪悪で昏乱であれば、大きくても軽いのです。天が明徳を祝福するにも限りがあります。成王が郟鄏に鼎を定め、占いで三十世、七百年と出ました。これは天の命です。周の徳は衰えましたが、天命はまだ改まっていません。鼎の軽重を問うべきではないでしょう。」 夏、楚が鄭を侵したのは、鄭が晋に従ったためである。宋の文公が即位して三年目に、同母弟の須と昭公の子を殺した。これは武氏の謀り事によるものであった。戴桓の族を使わし、司馬子伯の館で武氏を攻撃させ、武穆の族をすべて追放した。武穆の族は曹の軍を借りて宋を討った。 秋、宋の軍が曹を包囲したのは、武氏の乱への報復である。 冬、鄭穆公が卒去した。当初、鄭の文公に身分の低い妾である燕姞がいた。彼女は天使が蘭を自分に与える夢を見て、こう言われた。「私は伯鯈である、あなたの先祖だ。この蘭をあなたの子とせよ。蘭は国香を持つので、人々はこれに魅了されるだろう。」後に文公が彼女に会い、蘭を与えて契った。燕姞は言った。「妾は不才ですが、幸いに子を授かりましょう。もし疑われるなら、蘭を証拠としましょうか。」文公は承諾した。穆公が生まれ、蘭と名付けた。文公は鄭子の妃である陳媯と関係を持ち、子華と子臧を生んだ。子臧は罪を得て出奔し、子華を誘って南里で殺し、賊を使い子臧を陳と宋の間で殺させた。また江から娶って公子士を生んだが、楚に朝貢した際、楚人が毒を盛り、葉で死んだ。蘇から娶って子瑕と子俞弥を生んだが、俞弥は早世した。洩駕が瑕を憎み、文公も瑕を嫌ったため、後継に立てなかった。文公は公子たちを追放し、公子蘭は晋に奔り、晋の文公に従って鄭を討った。石癸が言った。「姫と姞は縁組すれば、子孫は必ず繁栄すると聞きます。姞は吉人で、后稷の正妃です。公子蘭は姞の甥です。天がおそらく彼を開眼させ、必ず君主となるでしょう。その子孫は繁栄します。先に彼を迎え入れれば、寵愛を高められます。」孔将鉏や侯宣多と共に蘭を迎え入れ、大宮で盟を結んで立て、晋と和議を結んだ。穆公は病気になり、「蘭が死ねば、私も死ぬだろう。私が生きた理由だから。」と言い、蘭を刈り取ると卒去した。 宣公四年 解説この一節は『春秋左氏伝』宣公三年の記述です。主に二つの部分から成ります。「経」は簡潔な年代記で、魯の宣公三年の主要な出来事を列記しています。「伝」はより詳細な叙述で、経の内容を補足し、歴史上の事件や人物の背景を掘り下げています。 重要なエピソードとして、楚の王が周の境界で軍勢を誇示し、鼎の軽重を問う場面が挙げられます。王孫満の返答は「徳こそが国の基盤であり、鼎のような器物は副次的なもの」という儒家的な思想を反映し、権力の正当性が武力や象徴ではなく徳性に基づくべきだという教訓を伝えています。また、鄭穆公の出生にまつわるエピソードでは、夢や縁起といった要素が歴史叙述に織り込まれており、当時の社会で重視された運命観や祖先崇拝の様子が窺えます。 全体として、春秋時代の複雑な国際関係(晋・楚・鄭などの抗争)や、国内権力闘争の実態が描かれ、歴史書としての価値に加え、文学的な色彩も帯びた文章となっています。 Translation took 3156.6 seconds. |
| 四年春王正月,公及齊侯平莒及郯,莒人不肯,公伐莒,取向。秦伯稻卒。 夏,六月,乙酉,鄭公子歸生弒其君夷。赤狄侵齊。 秋,公如齊,公至自齊。 冬,楚子伐鄭。 傳 四年春,公及齊侯平莒及郯,莒人不肯,公伐莒取向,非禮也。平國以禮,不以亂。伐而不治,亂也。以亂平亂,何治之有?無治,何以行禮?楚人獻黿於鄭靈公,公子宋與子家將見,子公之食指動,以示子家,曰:「他日我如此,必嘗異味。」及入,宰夫將解黿,相視而笑,公問之,子家以告。及食大夫黿,召子公而弗與也。子公怒,染指於鼎,嘗之而出。公怒,欲殺子公。子公與子家謀先,子家曰:「畜老猶憚殺之,而況君乎?」反譖子家,子家懼而從之。 夏,弒靈公,書曰:「鄭公子歸生弒其君夷。」權不足也。君子曰:「仁而不武,無能達也。凡弒君稱君,君無道也;稱臣,臣之罪也。」鄭人立子良,辭曰:「以賢則去疾不足,以順則公子堅長。」乃立襄公。襄公將去穆氏而舍子良,子良不可曰:「穆氏宜存,則固願也。若將亡之,則亦皆亡,去疾何為?」乃舍之,皆為大夫。初,楚司馬子良,生子越椒,子文曰:「必殺之,是子也,熊虎之狀而豺狼之聲,弗殺,必滅若敖氏矣。」諺曰:「狼子野心。」是乃狼也,其可畜乎?子良不可,子文以為大慼。及將死,聚其族曰:「椒也知政,乃速行矣,無及於難。」且泣曰:「鬼猶求食,若敖氏之鬼,不其餒而?」及令尹子文卒,鬥般為令尹,子越為司馬,蒍賈為工正,譖子揚而殺之。子越為令尹,已為司馬,子越又惡之,乃以若敖氏之族,圄伯嬴於轑陽而殺之,遂處烝野,將攻王。王以三王之子為質焉,弗受,師于漳澨。 |
【翻訳文】 夏六月乙酉の日、鄭の公子帰生が自国の君主夷(霊公)を弑逆した。赤狄が齊を侵した。 秋、宣公が齊へ赴き、齊から帰国した。 冬、楚の子(王)が鄭を討った。 【伝】 夏、霊公を弑逆した。春秋の記述に「鄭の公子帰生が其の君夷を弑す」とあるのは、子家に実権がなかったためである。君子は「仁愛あっても武断さがなければ、理想を貫けない」と評した。凡そ君主を弑した場合、君名のみ記すのは君が無道であったため、臣下の名を記すのは臣下の罪である。鄭人は子良を擁立しようとしたが、子良は「賢德で言えば去疾(子良の名)は足りず、順序で言えば公子堅が年長」と辞退し、襄公(公子堅)が立てられた。襄公が穆公の子孫を追放して子良だけを残そうとすると、子良は「穆氏が存続すべきなら本望だが、滅ぼすなら私も共に亡びる」と反対し、結局全員が大夫として留まった。 初め、楚の司馬子良が子越椒を産んだ時、子文(斗穀於菟)が「必ず殺すべきだ。この子は熊虎の形に豺狼の声を持つ。殺さねば若敖氏を滅ぼすだろう」と言った。諺に「狼子野心」とあるが、まさに狼であって飼えるものか。子良は承知せず、子文は深く憂いた。臨終の際、子文は一族を集め「椒が政権を握ったら速やかに逃げよ」と泣きながら言った。「鬼でさえ食を求める。若敖氏の祖先の鬼が飢えることになろう」と。令尹子文の死後、斗般(子揚)が令尹となり、子越椒が司馬、蒍賈が工正となった。子越椒は蒍賈と結んで斗般を讒言して殺させ、自ら令尹となり蒍賈を司馬にしたが、後に蒍賈も憎むようになり、若敖氏の族兵で轑陽に蒍賈(伯嬴)を監禁して殺し、烝野に駐屯して楚王へ反乱を起こした。王が三代王の子孫を人質に出したが受け入れず、漳澨に軍を進めた。 【解説】 Translation took 2741.1 seconds. |
| 秋,七月,戊戌,楚子與若敖氏戰于皋滸,伯棼射王,汰輈,及鼓跗,著於丁寧。又射,汰輈,以貫笠轂。師懼,退。王使巡師曰:「吾先君文王克息,獲三矢焉,伯棼竊其二,盡於是矣。」鼓而進之,遂滅若敖氏。初,若敖娶于鄖,生鬥伯比,若敖卒,從其母畜于邧,淫于邧子之女,生子文焉。邧夫人使棄諸夢中,虎乳之,邧子田,見之,懼而歸,夫人以告,遂使收之。楚人謂乳穀,謂虎於菟,故命之曰鬥穀於菟。以其女妻伯比,實為令尹子文。其孫箴尹克黃,使于齊,還及宋,聞亂,其人曰:「不可以人矣。」箴尹曰:「棄君之命,獨誰受之?君,天也,天可逃乎?」遂歸復命,而自拘於司敗。王思子文之治楚國也,曰:「子文無後,何以勸善?」使復其所,改命曰生。 冬,楚子伐鄭,鄭未服也。 宣公五年 經 五年春,公如齊。 夏,公至自齊。 秋,九月,齊高固來逆叔姬,叔孫得臣卒。 冬,齊高固及子叔姬來,楚人伐鄭。 傳 五年春,公如齊,高固使齊侯止公,請叔姬焉。 夏,公至自齊,書過也。 秋,九月,齊高固來逆女,自為也,故書曰:「逆叔姬」,即自逆也。 冬,來,反馬也。楚子伐鄭,陳及楚平,晉荀林父救鄭伐陳。 宣公六年 經 六年春,晉趙盾、衛孫免,侵陳。 夏,四月。 |
秋、七月の戊戌の日、楚の子(王)が若敖氏と皋滸で戦った。伯棼が王を射ると、矢が車の轅をかすめ、鼓の台に当たって丁寧(銅鑼)に突き刺さった。もう一度射ると、矢が轅をかすめ、笠轂(車蓋の中心)を貫いた。軍勢は恐れて退いた。王は軍中を巡回させて言わせた。「我が先君の文王が息国を攻略した時、三本の矢を手に入れた。伯棼がその二本を盗んでおり、これで尽きたのだ。」鼓を打って進軍し、遂に若敖氏を滅ぼした。 当初、若敖が鄖の娘を娶って鬥伯比を生んだ。若敖が死ぬと、伯比は母に連れられて邧で養育され、邧子の娘と私通して子文を生んだ。邧夫人は子文を夢中(沼沢地)に捨てさせたが、虎が乳を与えた。邧子が狩りに出てこれを見つけ、恐れて帰ると、夫人が事情を話したため、子文を回収させた。楚人は乳を「穀」、虎を「於菟」と言うので、子文を「鬥穀於菟」と名付けた。邧子は娘を伯比に嫁がせ、子文は後に令尹(宰相)となった。子文の孫の箴尹(諫官)である克黄は斉に使者として赴き、帰路で宋に着いた時、国内の反乱を聞いた。家臣が「戻るべきではありません」と言うと、箴尹は「君主の命令を捨てて、誰が受け入れてくれるのか。君主は天である。天から逃れられようか」と言い、帰国して復命した後、自ら司敗(刑官)の下に拘束された。王は子文が楚国を治めた功績を思い、「子文に後継ぎがなければ、どうして善を勧められよう」と言い、克黄を元の職に復帰させ、「生」と改名させた。 冬、楚の子が鄭を討った。鄭はまだ服従していなかった。 宣公五年 伝文 宣公六年 解説この一節は『春秋左氏伝』の宣公四年後半から六年にかけての記述です。主な内容は以下の通りです: 全体として、歴史事件と人物伝を交えながら、忠義と天命の思想が基調となっています。 Translation took 2359.2 seconds. |
| 秋,八月,螽。 冬,十月。 傳 六年春,晉衛侵陳,陳即楚故也。 夏,定王使子服求后于齊。 秋,赤狄伐晉,圍懷,及邢丘。晉侯欲伐之,中行桓子曰:「使疾其民,以盈其貫,將可殪也。周書曰:『殪戎殷。』此類之謂也。」 冬,召桓公逆王后于齊,楚人伐鄭,取成而還。鄭公子曼滿,與王子伯廖語,欲為卿。伯廖告人曰:「無德而貪,其在周易豐之離,弗過之矣。」間一歲,鄭人殺之。 宣公七年 經 七年春,衛侯使孫良夫來盟。 夏,公會齊侯伐萊。 秋,公至自伐萊,大旱。 冬,公會晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯,于黑壤。 傳 七年春,衛孫桓子來盟,始通,且謀會晉也。 夏,公會齊侯伐萊,不與謀也。凡師出,與謀曰及,不與謀曰會。赤狄侵晉,取向陰之禾。鄭及晉平,公子宋之謀也,故相鄭伯以會。 冬,盟于黑壤,王叔桓公臨之,以謀不睦。晉侯之立也,公不朝焉,又不使大夫聘,晉人止公于會,盟于黃父,公不與盟,以賂免。故黑壤之盟不書,諱之也。 宣公八年 經 八年春,公至自會。 夏,六月,公子遂如齊,至黃,乃復。辛巳,有事于大廟,仲遂卒于垂。壬午,猶繹,萬入,去籥。戊子,夫人嬴氏薨。晉師、白狄,伐秦。楚人滅舒蓼。 秋,七月,甲子,日有食之,既。 |
秋、八月、蝗害が発生した。 冬、十月。 伝 六年の春、晋と衛が陳を侵攻した。陳が楚に従属したためである。 夏、定王が子服を斉に遣わして后妃を求めた。 秋、赤狄が晋を攻撃し、懐を包囲して邢丘にまで及んだ。晋侯が討伐しようとしたが、中行桓子が「彼らに民衆を苦しませさせ、悪行を積み重ねさせれば、やがて討滅できるでしょう。周書に『戎殷を殪(たお)す』とあります。これと同じ道理です」と諫めた。 冬、召桓公が斉で王后を迎え、楚軍が鄭を攻撃して和議を結んで帰還した。鄭の公子曼満が王子伯廖に「卿職を得たい」と語った。伯廖は人々に「徳なくして貪る者は、周易の豊卦から離卦へ変ずる卦象のように、三年を待たずして滅ぶだろう」と告げた。一年後、鄭人が彼を殺害した。 宣公七年 経 七年春、衛侯が孫良夫を派遣して盟約を結んだ。 夏、魯公が斉侯と会合して萊を討伐した。 秋、魯公が萊討伐から帰国し、大旱魃が発生した。 冬、魯公が晋侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯と黒壤で会合した。 伝 七年春、衛の孫桓子が盟約のため来訪し、初めて国交を開くとともに晋との会合を策した。 夏、魯公が斉侯と萊を討伐したが、これは事前の策謀には参与していない。出兵において策謀参与は「及」、不参与は「会」と記すのが例である。赤狄が晋を侵し向陰の穀物を奪い、鄭は晋と講和した(公子宋の献策によるため、鄭伯の会合参加には彼が随行した)。 冬、黒壤で盟約が結ばれ、王叔桓公が臨席して不和睦の調整を図った。晋侯の即位時に魯公が朝礼せず、大夫も派遣しなかったため、晋は会合で魯公を拘束し黄父で盟約を強要した。魯公は賄賂で解放されたため、史書は恥辱を避けて黒壤の盟約を記載しなかった。 宣公八年 経 八年春、魯公が会合から帰国した。 夏、六月、公子遂が斉へ向かったが黄で引き返した。辛巳に大廟で祭祀があり、仲遂が垂で没した。壬午にも祭祀を続行し、舞は実施したが籥(笛)を省略した。戊子に夫人嬴氏が逝去。晋軍と白狄が秦を攻撃。楚が舒蓼を滅ぼした。 秋、七月甲子、日食が発生し(皆既食となった)。 解説この一節は『春秋左氏伝』宣公6年から8年にかけての記録です。以下の特徴が見られます:
これらの記録は、春秋時代が「力の政治」と「礼」の理念がせめぎ合う過渡期であったことを物語っています。 Translation took 2268.0 seconds. |
| 冬,十月,己丑,葬我小君敬嬴,雨不克葬。庚寅,日中而克葬。城平陽,楚師伐陳。 傳 春,白狄及晉平。 夏,會晉伐秦。晉人獲秦諜,殺諸絳市,六日而蘇。有事于大廟,襄仲卒而繹,非禮也。楚為眾舒叛故,伐舒蓼,滅之。楚子疆之,及滑汭,盟吳越而還。晉胥克有蠱疾,郤缺為政。 秋,廢胥克,使趙朔佐下軍。 冬,葬敬嬴,旱無麻,始用葛茀,雨不克葬,禮也。禮,卜葬先遠日,辟不懷也。城平陽,書時也。陳及晉平,楚師伐陳,取成而還。 宣公九年 經 九年春王正月,公如齊,公至自齊。 夏,仲孫蔑如京師。齊侯伐萊。 秋,取根牟。 八月,滕子卒。 九月,晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯,會于扈。晉荀林父帥師伐陳。辛酉,晉侯黑臀卒于扈。 冬,十月,癸酉,衛侯鄭卒。宋人圍滕。楚子伐鄭。晉郤缺帥師救鄭。陳殺其大夫洩冶。 傳 春,王使來徵聘。 夏,孟獻子聘于周,王以為有禮,厚賄之。 秋,取根牟,言易也。滕昭公卒。會于扈,討不睦也。陳侯不會,晉荀林父以諸侯之師伐陳。晉侯卒于扈,乃還。 冬,宋人圍滕,因其喪也。陳靈公與孔寧、儀行父,通於夏姬,皆衷其衵服以戲于朝。洩冶諫曰:「公卿宣淫,民無效焉,且聞不令,君其納之。」公曰:「吾能改矣。」公告二子,二子請殺之,公弗禁,遂殺洩冶。孔子曰:「詩云:『民之多辟,無自立辟。』其洩冶之謂乎!」楚子為厲之役故,伐鄭。晉郤缺救鄭,鄭伯敗楚師于柳棼,國人皆喜,唯子良憂,曰:「是國之災也,吾死無日矣。」 宣公十年 經 |
【翻訳文】 伝 宣公九年 伝 宣公十年 【解説】 Translation took 2559.2 seconds. |
| 春,公如齊,公至自齊,齊人歸我濟西田。 夏,四月,丙辰,日有食之。己巳,齊侯元卒。齊崔氏出奔衛。公如齊。 五月,公至自齊。癸巳,陳夏徵舒弒其君平國。 六月,宋師伐滕。公孫歸父如齊。葬齊惠公。晉人、宋人、衛人、曹人,伐鄭。 秋,天王使王季子來聘。公孫歸父帥師伐邾,取繹。大水。季孫行父如齊。 冬,公孫歸父如齊。齊侯使國佐來聘。饑。楚子伐鄭。 傳 春,公如齊,齊侯以我服故,歸濟西之田。 夏,齊惠公卒,崔杼有寵於惠公,高、國畏其偪也。公卒而逐之,奔衛。書曰:「崔氏」,非其罪也,且告以族,不以名。凡諸侯之大夫違,告於諸侯曰:「某氏之守臣某,失守宗廟,敢告。」所有玉帛之使者則告,不然則否。公如齊奔喪。陳靈公與孔寧、儀行父,飲酒于夏氏。公謂行父曰:「徵舒似汝。」對曰:「亦似君。」徵舒病之。公出,自其廄射而殺之。二子奔楚。滕人恃晉而不事宋。 六月,宋師伐滕。鄭及楚平,諸侯之師伐鄭,取成而還。 秋,劉康公來報聘。師伐邾,取繹。季文子初聘于齊。 冬,子家如齊,伐邾故也。國武子來報聘。楚子伐鄭,晉士會救鄭,逐楚師于潁北,諸侯之師戍鄭。鄭子家卒。鄭人討幽公之亂,斲子家之棺而逐其族,改葬幽公,諡之曰靈。 宣公十一年 經 |
【現代日本語訳】 夏、四月丙辰の日に日食が起こった。己巳の日に斉侯(元、すなわち恵公)が逝去された。斉の崔氏が衛へ出奔した。宣公が斉へ行かれた。 五月、宣公が斉からご帰国された。癸巳の日に陳の夏徴舒が自国の君主・平国(霊公)を弑逆した。 六月、宋軍が滕を討伐した。公孫帰父が斉へ赴いた。斉恵公の葬儀が執り行われた。晋・宋・衛・曹の連合軍が鄭を討伐した。 秋、周天王(定王)が使者・王季子を派遣して来聘した。公孫帰父が軍を率いて邾を討伐し、繹の地を占領した。大洪水が発生した。季孫行父が斉へ赴いた。 冬、公孫帰父が斉へ赴いた。斉侯(頃公)が国佐を使者として来聘させた。飢饉が発生した。楚子(荘王)が鄭を討伐した。 【伝】 夏、斉恵公が逝去された。崔杼は恵公の寵愛を受けていたが、高氏・国氏はその権勢を脅威に感じていた。恵公の逝去後に崔杼を追放し、彼は衛へ逃亡した。経文に「崔氏」と記したのは、彼に罪がなかったことを示し、かつ氏族名のみで個人名を記さない慣例による。諸侯の大夫が国外へ逃亡する際は、「某氏の守臣某が宗廟を守れず、謹んで報告する」と諸侯に通告する決まりである。ただし玉帛(礼物)を交換する親密な国には通告するが、それ以外の国には行わない。宣公は斉へ赴き弔問した。陳の霊公が孔寧・儀行父と共に夏徴舒の家で酒宴を開いた。霊公が儀行父に「徴舒はお前に似ている」と言うと、彼は「君主にも似ております」と返答した。徴舒はこの侮辱を深く恨んだ。霊公が退出際に厩舎を通った時、徴舒は矢で射て霊公を殺害した。孔寧と儀行父は楚へ逃亡した。滕は晋を頼みとして宋に従わなかったため、六月に宋軍が滕を討伐した。鄭が楚と講和したため、諸侯連合軍は鄭を討伐して和議を結び撤兵した。 秋、周の劉康公が答礼のため来聘した。魯軍が邾を討伐し繹を占領した。季文子(季孫行父)が初めて斉へ聘問した。 冬、子家(公孫帰父)が斉へ赴いたのは邾討伐の報告のためである。斉の国武子(国佐)が答礼のため来聘した。楚子が鄭を討伐すると、晋の士会が鄭を救援し、潁水の北で楚軍を撃退した。諸侯連合軍は鄭を駐屯して守った。鄭の子家(公子帰生)が逝去した。鄭人は幽公弑逆事件の責任を追及し、子家の棺を破壊して一族を追放し、幽公を改葬して「霊」と諡した。 【解説】
これらの記録は、春秋時代の政治力学や社会規範を理解する上で貴重な史料となっています。 Translation took 2634.2 seconds. |
| 十有一年春王正月。 夏,楚子、陳侯、鄭伯,盟于辰陵。公孫歸父會齊人伐莒。 秋,晉侯會狄于欑函。 冬,十月,楚人殺陳夏徵舒。丁亥,楚子入陳,納公孫寧、儀行父于陳。 傳 十一年春,楚子伐鄭,及櫟,子良曰:「晉楚不務德而兵爭,與其來者可也。晉楚無信,我焉得有信。」乃從楚。 夏,楚盟于辰陵,陳鄭服也。楚左尹子重侵宋,王待諸郔。令尹蒍艾獵城沂,使封人慮事,以授司徒,量功命日,分財用,平板榦,稱畚築,程土物,議遠邇,略基趾,具餱糧,度有司,事三旬而成,不愆于素。晉郤成子求成于眾狄,眾狄疾赤狄之役,遂服于晉。 秋,會于欑函,眾狄服也。是行也,諸大夫欲召狄,郤成子曰:「吾聞之,非德莫如勤,非勤何以求人。能勤有繼,其從之也。詩曰:『文王既勤止。』文王猶勤,況寡德乎。」 冬,楚子為陳夏氏亂故,伐陳,謂陳人無動,將討於少西氏,遂入陳,殺夏徵舒,轘諸栗門,因縣陳。陳侯在晉,申叔時使於齊反,復命而退。王使讓之曰:「夏徵舒為不道,弒其君,寡人以諸侯討而戮之,諸侯縣公皆慶寡人,女獨不慶寡人,何故?」對曰:「猶可辭乎?」王曰:「可哉。」曰:「夏徵舒弒其君,其罪大矣。討而戮之,君之義也。抑人亦有言曰:『牽牛以蹊人之田,而奪之牛。』牽牛以蹊者,信有罪矣,而奪之牛,罰已重矣。諸侯之從也,曰:『討有罪也。』今縣陳,貪其富也。以討召諸侯,而以貪歸之,無乃不可乎?」王曰:「善哉,吾未之聞也。反之,可乎?」對曰:「吾儕小人,所謂取諸其懷而與之也。」乃復封陳,鄉取一人焉以歸,謂之夏州。故書曰:「楚子入陳,納公孫寧、儀行父于陳。」書有禮也。厲之役,鄭伯逃歸,自是楚未得志焉。鄭既受盟于辰陵,又徼事于晉。 宣公十二年 經 |
十一年の春、周王の正月。 夏、楚の子(王)と陳の侯、鄭の伯が辰陵で同盟を結んだ。公孫帰父は齊の人々とともに莒を討った。 秋、晉の侯が狄と欑函で会合した。 冬、十月、楚の人が陳の夏徵舒を殺した。丁亥の日、楚の子が陳に入り、公孫寧と儀行父を陳に送り届けた。 伝 十一年の春、楚の子が鄭を討ち、櫟にまで及んだ。子良は言った。「晉と楚は徳を修めずに武力で争っている。我々は来る者に従えばよい。晉も楚も信義がないのだから、我々にどうして信義があろうか。」そこで楚に従った。 夏、楚が辰陵で同盟を結んだのは、陳と鄭が服従したからである。楚の左尹である子重が宋に侵攻し、王は郔で待機した。令尹の蒍艾獵が沂に城を築き、封人に計画を練らせ、司徒に任せて、工事の量を計算し日数を定め、資材を分配し、板と支柱を平らにし、土嚢と築土を量り、土と材木を計算し、遠近を考慮し、地基を測量し、食糧を準備し、役人を配分し、三十日で工事を完成させ、当初の計画を超えなかった。晉の郤成子が衆狄との和睦を求めた。衆狄は赤狄の支配を嫌っていたので、晉に服従した。 秋、欑函での会合は、衆狄が服従したからである。このとき、諸大夫は狄を召し寄せようとしたが、郤成子は言った。「私は聞いている。徳がなくても勤勉さに及ぶものはない。勤勉でなければどうして人を求められようか。勤勉であれば続くものである。彼らに従おう。詩に『文王は既に勤勉であられた』とある。文王でさえ勤勉であったのだから、まして徳の少ない我々ならなおさらである。」 冬、楚の子は陳の夏氏の乱を理由に陳を討ち、陳の人々に動くないように告げ、「少西氏を討つつもりだ」と言って陳に入り、夏徵舒を殺し、栗門で車裂きの刑に処し、陳を県にした。陳の侯は晉にいた。申叔時が齊からの使命を終えて帰り、復命して退いた。王は彼を責めて言った。「夏徵舒は道に外れ、君を弑した。私は諸侯とともに討って殺した。諸侯や県公は皆私を祝賀しているのに、お前だけが祝賀しない。どうしたわけだ。」申叔時は答えた。「まだ言い訳ができますか。」王は「どうぞ」と言った。申叔時は言った。「夏徵舒が君を弑した罪は確かに大きい。討って殺したのは、君の正義である。しかし、人々はこうも言います。『牛を引いて他人の田んぼを通り、その牛を奪う』と。牛を引いて通った者は確かに罪があるが、牛を奪うのは罰が重すぎる。諸侯が従ったのは、『罪を討つため』と言ったからである。今、陳を県とするのは、その富を貪っているのだ。罪を討つと諸侯を集めながら、貪りで終わるのは、いかがなものか。」王は言った。「なるほど、私はそんな話を聞いたことがない。元に戻すのは可能か。」申叔時は答えた。「我々小人の言うところ、『懐から取って与える』ようなものです。」そこで陳を再び封じ、郷ごとに一人を選んで連れ帰り、それを夏州と呼んだ。故に書物には「楚の子が陳に入り、公孫寧と儀行父を陳に送り届けた」と記されている。これは礼を記したのである。厲の戦いで鄭の伯が逃げ帰って以来、楚は目的を達成できなかった。鄭は辰陵で同盟を受けた後、また晉に仕えようとした。 宣公十二年 【解説】 Translation took 3491.1 seconds. |
| 春,葬陳靈公。楚子圍鄭。 夏,六月,乙卯,晉荀林父帥師及楚子戰于邲,晉師敗績。 秋,七月。 冬,十有二月,戊寅,楚子滅蕭。晉人、宋人、衛人、曹人,同盟于清丘。宋師伐陳,衛人救陳。 傳 春,楚子圍鄭,旬有七日。鄭人卜行成不吉,卜臨于大宮,且巷出車,吉。國人大臨,守陴者皆哭。楚子退師,鄭人脩城,進復圍之。 三月,克之,入自皇門,至于逵路。鄭伯肉袒牽羊以逆,曰:「孤不天,不能事君,使君懷怒,以及敝邑,孤之罪也,敢不唯命是聽。其俘諸江南,以實海濱,亦唯命。其翦以賜諸侯,使臣妾之,亦唯命。若惠顧前好,徼福於厲、宣、桓、武,不泯其社稷,使改事君,夷于九縣,君之惠也,孤之願也,非所敢望也,敢布腹心,君實圖之。」左右曰:「不可許也,得國無赦。」王曰:「其君能下人,必能信用其民矣,庸可幾乎。」退三十里,而許之平。潘尪入盟,子良出質。 夏,六月,晉師救鄭,荀林父將中軍,先縠佐之,士會將上軍,郤克佐之,趙朔將下軍,欒書佐之,趙括、趙嬰齊為中軍大夫,鞏朔、韓穿為上軍大夫,荀首、趙同為下軍大夫,韓厥為司馬。及河,聞鄭既及楚平,桓子欲還,曰:「無及於鄭,而勦民,焉用之。楚歸而動,不後。」隨武子曰:「善。會聞用師觀釁而動,德、刑、政、事、典禮不易,不可敵也。不為是征。楚軍討鄭,怒其貳而哀其卑,叛而伐之,服而舍之,德刑成矣。伐叛,刑也;柔服,德也;二者立矣。昔歲入陳,今茲入鄭,民不罷勞,君無怨讟,政有經矣。荊尸而舉,商農工賈,不敗其業,而卒乘輯睦,事不奸矣。薦敖為宰,擇楚國之令典。軍行,右轅,左追蓐,前茅慮無,中權,後勁,百官象物而動,軍政不戒而備,能用典矣。其君之舉也,內姓選於親,外姓選於舊,舉不失德,賞不失勞,老有加惠,旅有施舍,君子小人,物有服章,貴有常尊,賤有等威,禮不逆矣。德立刑行,政成事時,典從禮順,若之何敵之?見可而進,知難而退,軍之善政也。兼弱攻昧,武之善經也。子姑整軍而經武乎?猶有弱而昧者,何必楚?」仲虺有言曰:「取亂侮亡,兼弱也。」汋曰:「於鑠王師,遵養時晦,耆昧也。」武曰:「無競惟烈,撫弱耆昧,以務烈所,可也。」彘子曰:「不可。晉所以霸,師武臣力也。今失諸侯,不可謂力;有敵而不從,不可謂武。由我失霸,不如死。且成師以出,聞敵彊而退,非夫也。命有軍師,而卒以非夫,唯群子能,我弗為也。」以中軍佐濟。知莊子曰:「此師殆哉。周易有之,在師之臨曰:『師出以律,否臧凶。』執事順成為臧,逆為否;眾散為弱,川壅為澤。有律以如己也,故曰律否臧。且律竭也,盈而以竭,夭且不整,所以凶也。不行謂之臨,有帥而不從,臨孰甚焉,此之謂矣。果遇必敗,彘子尸之,雖免而歸,必有大咎。」韓獻子謂桓子曰:「彘子以偏師陷,子罪大矣。子為元帥,師不用命,誰之罪也?失屬亡師,為罪已重,不如進也。事之不捷,惡有所分,與其專罪,六人同之,不猶愈乎?」師遂濟。楚子北師次於郔。沈尹將中軍,子重將左,子反將右,將飲馬于河而歸。聞晉師既濟,王欲還。嬖人伍參欲戰,令尹孫叔敖弗欲,曰:「昔歲入陳,今茲入鄭,不無事矣。戰而不捷,參之肉,其足食乎?」參曰:「若事之捷,孫叔為無謀矣。不捷,參之肉,將在晉軍,可得食乎?」令尹南轅反旆,伍參言於王曰:「晉之從政者新,未能行令,其佐先縠,剛愎不仁,未肯用命。其三帥者,專行不獲,聽而無上,眾誰適從。此行也,晉師必敗。且君而逃臣,若社稷何?」王病之,告令尹,改乘轅而北之,次于管以待之。晉師在敖鄗之間,鄭皇戌使如晉師曰:「鄭之從楚,社稷之故也,未有貳心。楚師驟勝而驕,其師老矣,而不設備,子擊之,鄭師為承,楚師必敗。」彘子曰:「敗楚服鄭,於此在矣,必許之。」欒武子曰:「楚自克庸以來,其君無日不討國人而訓之,于民生之不易,禍至之無日,戒懼之不可以怠。在軍,無日不討軍實而申儆之,于勝之不可保,紂之百克,而卒無後,訓之以若敖、蚡冒,篳路藍縷,以啟山林。箴之曰:『民生在勤,勤則不匱。』不可謂驕。先大夫子犯有言曰:『師直為壯,曲為老。』我則不德,而徼怨于楚,我曲楚直,不可謂老。其君之戎,分為二廣,廣有一卒,卒偏之兩。右廣初駕,數及日中,左則受之,以至于昏。內官序當其夜,以待不虞,不可謂無備。子良,鄭之良也;師叔,楚之崇也。師叔入盟,子良在楚,楚鄭親矣。來勸我戰,我克則來,不克遂往,以我卜也,鄭不可從。趙括、趙同曰:「率師以來,唯敵是求,克敵得屬,又何俟?必從彘子。」知季曰:「原屏,咎之徒也。」趙莊子曰:「欒伯,善哉!實其言,必長晉國。」楚少宰如晉師,曰:「寡君少遭閔凶,不能文。聞二先君之出入此行也,將鄭是訓定,豈敢求罪于晉?二三子無淹久。」隨季對曰:「昔平王命我先君文侯曰:『與鄭夾輔周室,毋廢王命。』今鄭不率,寡君使群臣問諸鄭,豈敢辱候人?敢拜君命之辱。」彘子以為諂,使趙括從而更之曰:「行人失辭,寡君使群臣遷大國之跡於鄭,曰:『無辟敵,群臣無所逃命。』」楚子又使求成于晉,晉人許之,盟有日矣。楚許伯御樂伯,攝叔為右,以致晉師。許伯曰:「吾聞致師者,御靡旌,摩壘而還。」樂伯曰:「吾聞致師者,左射以菆,代御執轡,御下兩馬,掉鞅而還。」攝叔曰:「吾聞致師者,右入壘,折馘,執俘而還。」皆行其所聞而復。晉人逐之,左右角之。樂伯左射馬而右射人,角不能進,矢一而已。麋興於前,射麋麗龜。晉鮑癸當其後,使攝叔奉麋獻焉,曰:「以歲之非時,獻禽之未至,敢膳諸從者。」鮑癸止之曰:「其左善射,其右有辭,君子也。」既免,晉魏錡求公族未得,而怒,欲敗晉師,請致師,弗許,請使,許之,遂往請戰而還。楚潘黨逐之,及熒澤,見六麋,射一麋以顧獻,曰:「子有軍事,獸人無乃不給於鮮,敢獻於從者。」叔黨命去之。趙旃求卿未得,且怒於失楚之致師者,請挑戰,弗許,請召盟,許之,與魏錡皆命而往。郤獻子曰:「二憾往矣,弗備必敗。」彘子曰:「鄭人勸戰,弗敢從也。楚人求成,弗能好也。師無成命,多備何為?」士季曰:「備之善,若二子怒楚,楚人乘我,喪師無日矣。不如備之。楚之無惡,除備而盟,何損於好?若以惡來,有備不敗。且雖諸侯相見,軍衛不徹,警也。」彘子不可。士季使鞏朔、韓穿帥七覆于敖前,故上軍不敗。趙嬰齊使其徒先具舟于河,故敗而先濟。潘黨既逐魏錡,趙旃夜至於楚軍,席於軍門之外,使其徒入之。楚子為乘廣三十乘,分為左右。右廣,雞鳴而駕,日中而說,左則受之,日入而說。許偃御右廣,養由基為右。彭名御左廣,屈蕩為右。乙卯,王乘左廣,以逐趙旃。趙旃棄車而走林,屈蕩搏之,得其甲裳。晉人懼二子之怒楚師也,使軘車逆之。潘黨望其塵,使騁而告曰:「晉師至矣。」楚人亦懼王之入晉軍也,遂出陳。孫叔曰:「進之,寧我薄人,無人薄我。詩云:『元戎十乘,以先啟行,先人也。』軍志曰:『先人有奪人之心,薄之也。』」遂疾進師,車馳卒奔,乘晉軍。桓子不知所為,鼓於軍中,曰:「先濟者有賞。」中軍下軍爭舟,舟中之指可掬也。晉師右移,上軍未動。工尹齊將右拒卒,以逐下軍。楚子使唐狡與蔡鳩居,告唐惠侯曰:「不穀不德而貪,以遇大敵,不穀之罪也。然楚不克,君之羞也,敢藉君靈,以濟楚師。」使潘黨率游闕四十乘,從唐侯以為左拒,以從上軍。駒伯曰:「待諸乎?」隨季曰:「楚師方壯,若萃於我,吾師必盡,不如收而去之,分謗生民,不亦可乎?殿其卒而退,不敗。」王見右廣,將從之乘,屈蕩尸之曰:「君以此始,亦必以終。」自是楚之乘廣先左。晉人或以廣隊,不能進,楚人惎之脫扃,少進,馬還,又惎之拔旆投衡,乃出。顧曰:「吾不如大國之數奔也。」趙旃以其良馬二,濟其兄與叔父,以他馬反。遇敵不能去,棄車而走林。逢大夫與其二子乘,謂其二子無顧。顧曰:「趙傁在後。」怒之,使下,指木曰:「尸女於是。」授趙旃綏以免。明日以表尸之,皆重獲在木下。楚熊負羈囚知罃,知莊子以其族反之,廚武子御。下軍之士多從之,每射,抽矢菆,納諸廚子之房。廚子怒曰:「非子之求,而蒲之愛,董澤之蒲,可勝既乎?」知季曰:「不以人子,吾子其可得乎?吾不可以苟射故也。」射連尹襄老,獲之,遂載其尸。射公子穀臣,囚之,以二者還。及昏,楚師軍於邲,晉之餘師不能軍,宵濟,亦終夜有聲。丙辰,楚重至於邲,遂次于衡雍。潘黨曰:「君盍築武軍,而收晉尸以為京觀?臣聞克敵,必示子孫,以無忘武功。」楚子曰:「非爾所知也。夫文,止戈為武。武王克商,作頌曰:『載戢干戈,載櫜弓矢,我求懿德,肆于時夏,允王保之。』又作武,其卒章曰:『耆定爾功。』其三曰:『鋪時繹思,我徂維求定。』其六曰:『綏萬邦,屢豐年。』夫武,禁暴、戢兵、保大、定功、安民、和眾、豐財者也,故使子孫無忘其章。今我使二國暴骨,暴矣;觀兵以威諸侯,兵不戢矣;暴而不戢,安能保大?猶有晉在,焉得定功?所違民欲猶多,民何安焉?無德而彊爭諸侯,何以和眾?利人之幾,而安人之亂,以為己榮,何以豐財?武有七德,我無一焉,何以示子孫?其為先君宮,告成事而已,武非吾功也。古者明王,伐不敬,取其鯨鯢而封之,以為大戮,於是乎有京觀,以懲淫慝。今罪無所,而民皆盡忠,以死君命,又何以為京觀乎?祀于河作先君宮,告成事而還。」 |
【現代日本語訳】 夏、六月乙卯の日、晋の荀林父が軍を率いて楚の王と邲で戦い、晋軍は大敗した。 秋、七月。 冬、十二月戊寅の日、楚の王が蕭を滅ぼした。晋人・宋人・衛人・曹人が清丘で同盟を結んだ。宋軍が陳を討伐し、衛人が陳を救援した。 伝 三月、ついに鄭を攻略し、皇門から進入して大道に至った。鄭伯は裸身に羊を引いて出迎え、「私は天の恵みを受けず、君に仕えることができず、君を怒らせて国まで及ばせたのは私の罪です。どうして命令に従わないことがありましょうか。江南に捕虜として送り海辺を開拓させても、命令のままです。国土を切り取って諸侯に賜り臣妾のごとく扱わせても、命令のままです。もし過去の友好を顧みて、厲王・宣王・桓公・武公の福を求め、わが社稷を滅ぼさず、君に仕えることを許し、九県と同格にしてくださるなら、それは君の恩恵であり、私の願いですが、敢えて望むことではありません。真心を述べましたので、君よよく考えてください」と言った。楚の側近は「許すべきではありません。国を得て赦すことはない」と言ったが、王は「その君がへりくだる者なら、必ず民を信用できるだろう。どうして滅ぼせようか」と言い、三十里退いて講和を許した。潘尪が盟約に入り、子良が人質として出向いた。 夏、六月、晋軍が鄭を救援すべく、荀林父が中軍を統率し先縠が補佐、士会が上軍を統率し郤克が補佐、趙朔が下軍を統率し欒書が補佐した。趙括と趙嬰齊が中軍大夫、鞏朔と韓穿が上軍大夫、荀首と趙同が下軍大夫、韓厥が司馬となった。黄河に着いた時、鄭が既に楚と講和したと聞き、桓子(荀林父)は撤退を主張したが、先縠は反対し中軍副将として独断で渡河した。知荘子は周易を引用して凶兆を警告し、韓献子は責任分散を進言したため、結局晋軍は渡河した。 楚軍は北進して郔に駐屯し、沈尹が中軍、子重が左軍、子反が右軍を指揮した。当初楚王は撤退を考えたが、伍参の進言で戦意を固め、管で陣を構えた。晋軍は敖・鄗の間に布陣し、鄭の皇戌が「楚軍は疲れて無防備だから攻撃を」と勧めたが、欒武子は楚の国情を分析して逆に警戒を促した。 楚の少宰が晋軍に「わが君は若くして不幸に遭い文才がなく、鄭を安定させるため来ただけで晋を敵にしようとは思っていない」と伝えると、随季が丁重に応じたが、先縠はこれをへつらいと批判し、趙括を使者に立てて強硬な態度を示させた。 楚の許伯・楽伯・摂叔が晋軍に単騎で挑発行為を行うと、晋の魏錡と趙旃も挑発に出た。郤献子は警戒を訴えたが先縠は聞き入れず、士季だけが上軍に伏兵を配置した。楚軍は晋軍の混乱を見て突撃し、晋軍は舟の奪い合いで大混乱に陥った。上軍は整然と撤退し、趙嬰齊は事前に舟を準備していたため早期撤退に成功した。 楚軍は邲で勝利し、潘党が敵屍で京観を築くよう進言したが、楚王は「武の字は戈を止める意味だ」と説き、七徳(暴禁・兵戢・大保・功定・民安・衆和・財豊)を掲げてこれを退け、先王の廟を建て戦勝報告のみ行って帰還した。 【解説】
この戦いは楚が中原で初めて晋に勝利した画期的な事件で、楚国の霸権確立の転換点となりました。現代語訳に際しては、固有名詞の表記統一(例:「彘子」→「先縠」)、故事成語の説明(「京観」など)、文法の現代化(「敢不唯命是聽」→「どうして命令に従わないことがありましょうか」)に留意しました。 Translation took 5576.4 seconds. |
| 是役也,鄭石制,實入楚師,將以分鄭,而立公子魚臣。辛未,鄭殺僕叔及子服。君子曰:「史佚所謂毋怙亂者,謂是類也。詩曰:『亂離瘼矣,爰其適歸。』歸於怙亂者也夫。」鄭伯、許男,如楚。 秋,晉師歸,桓子請死,晉侯欲許之。士貞子諫曰:「不可。城濮之役,晉師三日穀,文公猶有憂色。左右曰:『有喜而憂,如有憂而喜乎?』公曰:『得臣猶在,憂未歇也。』困獸猶鬥,況國相乎?及楚殺子玉,公喜而後可知也,曰:『莫余毒也已。』是晉再克而楚再敗也。楚是以再世不競。今天或者大警晉也,而又殺林父以重楚勝,其無乃久不競乎?林父之事君也,進思盡忠,退思補過,社稷之衛也,若之何殺之?夫其敗也,如日月之食焉,何損於明?」晉侯使復其位。 冬,楚子伐蕭,宋華椒以蔡人救蕭。蕭人囚熊相宜僚及公子丙,王曰:「勿殺,吾退。」蕭人殺之。王怒,遂圍蕭,蕭潰。申公巫臣曰:「師人多寒,王巡三軍,拊而勉之,三軍之士,皆如挾纊。」遂傅于蕭。還無社與司馬卯言,號申叔展。叔展曰:「有麥麴乎?」曰:「無。」「有山鞠窮乎?」曰:「無。」「河魚腹疾奈何?」曰:「目于眢井而拯之。」「若為茅絰,哭井則已。」明日,蕭潰,申叔視其井,則茅絰存焉,號而出之。晉原縠、宋華椒、衛孔達、曹人,同盟于清丘,曰:「恤病討貳。」於是卿不書,不實其言也。宋為盟故,伐陳,衛人救之。孔達曰:「先君有約言焉,若大國討,我則死之。」 宣公十三年 經 |
この戦いにおいて、鄭の石制は実際に楚軍を引き入れ、鄭を分割して公子魚臣を立てようとした。辛未の日、鄭は僕叔と子服を殺した。君子が次のように評した:「史佚が『乱に乗じるな』と言ったのは、まさにこのような場合を指す。詩に『乱れ離れて苦しみ、いずこに帰るべきか』とあるが、それは乱に乗じる者に帰するのであろう」。鄭伯と許男は楚へ赴いた。 秋、晋軍が帰還すると、桓子(先縠)は死罪を請うた。晋侯(景公)は許可しようとしたが、士貞子が諫めて言った:「なりません。城濮の戦いの際、晋軍が三日分の糧食を獲得したのに、文公はまだ憂いの表情を浮かべていました。側近が『喜びがあるのに憂えるのは、憂いがあるのに喜ぶようなものですか』と問うと、公は『得臣(楚の子玉)がまだ生きている以上、憂いは消えない』と答えられました。窮地の獣でさえ反撃するのに、まして一国の宰相をどうして軽んじられましょう。楚が子玉を処刑した時、文公が初めて喜びを露わにし『もはや我を脅かす者はいない』と言われたのです。これは晋が二度勝利し楚が二度敗れたことを意味し、楚は二代にわたって国力が衰えました。今、天が晋に大きな警告を与えているのかもしれません。そのような時に林父(先縠)を処刑して楚の勝利を強調すれば、晋は長期にわたり衰退するのではないでしょうか。林父は君主に仕えるに当たり、進んでは忠誠を尽くし、退いては過ちを補い、国家の守り手です。どうして処罰できましょうか。彼の敗戦は日食や月食のようなもので、光明そのものを損なうものではありません」。晋侯は先縠を元の地位に復帰させた。 冬、楚子(庄王)が蕭を攻撃すると、宋の華椒が蔡軍を率いて蕭を救援した。蕭人が熊相宜僚と公子丙を捕らえると、楚王は「殺すな、我は兵を引く」と言ったが、蕭人は二人を殺害した。王は怒って蕭を包囲し、蕭は陥落した。申公巫臣が「兵士たちは寒さに苦しんでいる」と報告すると、王は全軍を巡視し兵士を労って激励した。すると将兵は綿入れを着たように暖かさを感じたという。楚軍は蕭に迫り、還無社が司馬卯を通じて申叔展に合図を送った。叔展が「麦麴はあるか」と暗号で尋ねると、還無社は「ない」と答えた。さらに「山鞠窮はあるか」との問いに「ない」と返すと、叔展は「河魚の腹病い(水没の危険)はどうするか」と尋ね、還無社は「枯れ井戸に隠れていれば助かる」と暗示した。叔展は「茅の縄を井戸に垂らし、泣き声が聞こえたら救い出す」と約束した。翌日蕭が陥落すると、申叔展は井戸を確認し、茅の縄が残っていたので還無社を呼び出して救出した。晋の原縠・宋の華椒・衛の孔達・曹国代表は清丘で同盟を結び「困難にある国を助け、裏切りを討つ」と誓った。しかし『春秋』に卿の名が記載されなかったのは、誓約が実行されなかったためである。宋は盟約に基づき陳を攻めたが、衛が陳を救援した。孔達は「先君の約束がある。もし晋が責めて来れば、私は死をもって償う」と言った。 宣公十三年 【解説】
これらのエピソードを通じ、左伝が単なる史実記録ではなく、政治道徳やリーダーシップの在り方を問う教訓性を持っていることが分かります。 Translation took 4785.4 seconds. |
| 十有三年春,齊師伐莒。 夏,楚子伐宋。 秋,螽。 冬,晉殺其大夫先縠。 傳 十三年春,齊師伐莒,莒恃晉而不事齊故也。 夏,楚子伐宋,以其救蕭也。君子曰:「清丘之盟,唯宋可以免焉。」 秋,赤狄伐晉,及清。先縠召之也。 冬,晉人討邲之敗,與清之師,歸罪於先縠而殺之,盡滅其族。君子曰:「惡之來也,己則取之,其先縠之謂乎?清丘之盟,晉以衛之救陳也,討焉,使人弗去,曰:『罪無所歸,將加而師。』孔達曰:『苟利社稷,請以我說。罪我之由,我則為政,而亢大國之討,將以誰任?我則死之。』」 宣公十四年 經 十有四年春,衛殺其大夫孔達。 夏,五月,壬申,曹伯壽卒。晉侯伐鄭。 秋,九月,楚子圍宋。葬曹文公。 冬,公孫歸父會齊侯于穀。 傳 十四年春,孔達縊而死,衛人以說于晉而免,遂告于諸侯曰:「寡君有不令之臣達,構我敝邑于大國,既伏其罪矣,敢告。」衛人以為成勞,復室其子,使復其位。 夏,晉侯伐鄭,為邲故也,告於諸侯,蒐焉而還。中行桓子之謀也,曰:「示之以整,使謀而來。」鄭人懼,使子張代子良于楚,鄭伯如楚,謀晉故也。鄭以子良為有禮,故召之。楚子使申舟聘于齊,曰:「無假道于宋。」亦使公子馮聘于晉,不假道于鄭。申舟以孟諸之役惡宋,曰:「鄭昭,宋聾,晉使不害,我則必死。」王曰:「殺女,我伐之。」見犀而行。及宋,宋人止之,華元曰:「過我而不假道,鄙我也。鄙我,亡也。殺其使者,必伐我。伐我,亦亡也。亡一也。」乃殺之。楚子聞之,投袂而起,屨及于窒皇,劍及于寢門之外,車及于蒲胥之市。 |
【翻訳文】 夏、楚の君主が宋を討伐した。 秋、蝗の被害が発生した。 冬、晉が自国の大夫である先縠を処刑した。 伝 夏、楚の君主が宋を討伐したのは、宋が蕭を救援したからである。君子は次のように評した。「清丘の盟約において、宋だけが責めを免れる資格がある」 秋、赤狄が晉を攻撃し、清まで進軍した。これは先縠が彼らを招き寄せたのである。 冬、晉の人々は邲の戦いでの敗北と清での戦いの責任を追及し、罪を先縠に帰して彼を処刑し、その一族を皆殺しにした。君子は次のように評した。「災いというものは、自ら招くものである。これはまさに先縠のことを言ったのだろうか。清丘の盟約の際、晉は衛が陳を救援したことを責め、使者を引き留めて言った。『罪を負う者がいなければ、お前たちの軍隊を攻撃する』。すると孔達は言った。『もし国家の利益になるなら、私を犠牲にして晉を納得させてください。罪は私にある。私が政務を執っているのに、大国の責めを引き受けないで、誰に任せられましょうか。私が死をもって責任を取ります』」 宣公十四年 夏、五月壬申の日、曹伯寿が逝去した。晉侯が鄭を討伐した。 秋、九月、楚の君主が宋を包囲した。曹文公が埋葬された。 冬、公孫帰父が穀で齊侯と会談した。 伝 夏、晉侯が鄭を討伐したのは、邲の戦いの報復である。諸侯に通告し、軍備を整えて示威した後、撤兵した。これは中行桓子の策略によるもので、「軍規の整った姿を見せつけて、鄭に謀略を巡らせて来させよ」という考えに基づいていた。鄭は恐れをなして、子張を楚に派遣して子良と交替させた。鄭伯が楚へ赴いたのは、晉に対処する方策を協議するためである。鄭は子良が礼儀に適った人物と考え、彼を召還した。楚の君主は申舟を齊に派遣し、「宋に通行の許可を求めるな」と命じた。同時に公子馮を晉に派遣したが、鄭には通行許可を求めなかった。申舟は孟諸の戦いで宋と対立していたため、「鄭は物事がよく見えているが、宋は聞く耳を持たない。晉への使者は害されないが、私は必ず殺されるだろう」と訴えた。楚王は「もしお前を殺せば、私が討伐する」と言い、申舟の子の犀に面会させて出発させた。申舟が宋に到着すると、宋は彼を拘束した。華元が言った。「我が国を通りながら通行許可を求めないのは、我々を属国同然に扱うことだ。そう扱われるのは国家の滅びである。使者を殺せば、必ず討伐される。討伐されても滅びる。いずれにせよ滅びるなら同じことだ」。そして申舟を殺害した。楚王はこの報せを聞くと、激怒して袖を振り払い立ち上がり、慌てて飛び出した。履き物は宮殿の入口で、剣は寝門の外で、車は蒲胥の市場でようやく追いついた。 【解説】 十四年の楚と宋の衝突は、使者を故意に通行許可なく送り込む楚の挑発と、国家の威信を賭けて応じる宋の決断が劇的に表現され、後の楚の宋包囲(九年にも及ぶ)へと発展する伏線となっています。華元の「滅亡は同じ」という決断や、楚王が怒りのあまり履物も剣も忘れて飛び出す描写は、春秋左氏伝ならではの緊迫した叙事の見せ場です。これらの事件は、同盟関係の脆弱さや「礼」を無視した行為が連鎖的に戦争を拡大させる様子を浮き彫りにしています。 Translation took 2861.4 seconds. |
| 秋,九月,楚子圍宋。 冬,公孫歸父會齊侯于穀,見晏桓子,與之言魯樂。桓子告高宣子曰:「子家其亡乎,懷於魯矣。懷必貪,貪必謀人,謀人,人亦謀己,一國謀之,何以不亡?」孟獻子言於公曰:「臣聞小國之免於大國也,聘而獻物,於是有庭實旅百;朝而獻功,於是有容貌、采章、嘉淑,而有加貨。謀其不免也,誅而薦賄,則無及也。今楚在宋,君其圖之。」公說。 宣公十五年 經 十有五年春,公孫歸父會楚子于宋。 夏,五月,宋人及楚人平。 六月,癸卯,晉師滅赤狄潞氏,以潞子嬰兒歸。秦人伐晉。王札子殺召伯、毛伯。 秋,螽。仲孫蔑,會齊高固于無婁。初稅畝。 冬,蝝生,饑。 傳 十五年春,公孫歸父會楚子于宋。宋人使樂嬰齊告急于晉。晉侯欲救之,伯宗曰:「不可。古人有言曰:『雖鞭之長,不及馬腹。』天方授楚,未可與爭。雖晉之彊,能違天乎?諺曰:『高下在心,川澤納汙,山藪藏疾,瑾瑜匿瑕,國君含垢,天之道也。』君其待之。」乃止。使解揚如宋,使無降楚,曰:「晉師悉起,將至矣。」鄭人囚而獻諸楚,楚子厚賂之,使反其言,不許,三而許之。登諸樓車,使呼宋而告之,遂致其君命。楚子將殺之,使與之言曰:「爾既許不穀,而反之,何故?非我無信,女則棄之,速即爾刑。」對曰:「臣聞之,君能制命為義,臣能承命為信。信載義而行之為利,謀不失利,以衛社稷,民之主也。義無二信,信無二命。君之賂臣,不知命也。受命以出,有死無霣,又可賂乎?臣之許君,以成命也,死而成命,臣之祿也。寡君有信臣,下臣獲考,死又何求?」楚子舍之以歸。 |
秋、九月、楚の子(王)が宋を包囲した。 冬、公孫帰父が穀で齊侯と会い、晏桓子に会い、彼と魯の音楽について話した。桓子は高宣子に告げて言った。「子家(公孫帰父)は亡びるだろう、魯に未練があるからだ。未練があれば必ず貪欲になり、貪欲になれば必ず他人を謀り、他人を謀れば、他人もまた自分を謀る。一国全体が彼を謀るなら、どうして亡びないことがあろうか?」孟獻子が公(魯の宣公)に言った。「臣は聞きます。小国が大国から免れるには、聘問して物品を献上し、そこで庭に実物の礼物を百並べ、朝見して功績を献上し、そこで容貌や采章、嘉淑があり、さらに追加の礼物があると。免れないことを謀るなら、責められてから賄賂を献げても、もう間に合わない。今、楚は宋にいる。君はこれをご考慮ください。」公は喜んだ。 宣公十五年 十五年春、公孫帰父が宋で楚の子と会った。 夏、五月、宋人と楚人が和議を結んだ。 六月、癸卯の日、晉の軍が赤狄の潞氏を滅ぼし、潞子嬰児を連れて帰った。秦人が晉を討った。王札子が召伯と毛伯を殺した。 秋、蝗害が発生した。仲孫蔑が無婁で齊の高固と会った。初めて田畑に税を課した。 冬、蝗の幼虫が発生し、飢饉が起きた。 伝 十五年春、公孫帰父が宋で楚の子と会った。宋人は楽嬰齊を使者として晉に急を告げた。晉侯は救おうとしたが、伯宗が言った。「不可です。古人の言葉に『鞭雖長しも、馬腹に及ばず』とあります。天は今、楚を授けている。争うべきではありません。たとえ晉が強くとも、天に逆らえるでしょうか。諺に『高下は心に在り、川澤は汚れを納れ、山藪は疾を藏し、瑾瑜は瑕を匿す。國君は垢を含む、天の道なり』と。君は待たれるべきです。」そこで止めた。解揚を宋に遣わし、楚に降るなと伝えさせ、「晉軍は全軍出动し、まもなく到着する」と言わせた。鄭人が解揚を捕らえて楚に献上した。楚の子は多額の賄賂を与え、反対のことを言わせようとした。解揚は拒んだが、三度要求されて承諾した。楼車に登らせ、宋に向かって叫ばせて告げさせ、ついに君の命令を伝えさせた。楚の子は彼を殺そうとし、使者を遣って言わせた。「お前は既に我(不穀)に承諾したのに、それを翻したのはなぜだ。我が無信なのではなく、お前がそれを捨てたのだ。速やかにお前の刑を受けよ。」解揚は答えて言った。「臣は聞きます。君は命令を制することを義とし、臣は命令を受けることを信とす。信が義を載せて行うことを利とし、謀りて利を失わず、以て社稷を衛るは、民の主なり。義に二信無く、信に二命無し。君が臣に賄賂を与えるのは、命を知らないからです。命令を受けて出てきた以上、死ぬとも任務を落とさず、また賄賂を受けられましょうか。臣が君に承諾したのは、命令を成就するためです。死んで命令を成就するのは、臣の禄です。寡君に信臣あり、下臣は任務を全うし得た。死んで何を求めましょうか。」楚の子は彼を赦して帰らせた。 解説この一節は『春秋左氏伝』宣公十五年の記述で、春秋時代の国際関係と為政者の在り方を描いています。前半では、魯の大夫・公孫帰父の行動を通じて、一国の命運が個人の心情や貪欲さに左右される危うさが示され、孟献子の進言からは小国が大国に対処する際の外交戦略の重要性が語られます。後半の「伝」では、晋と楚の霸権争いを背景に、宋を巡る攻防が展開されます。特に晋の使者・解揚のエピソードは、君主への忠誠と「信」(誠実さ)の理念を鮮明にし、たとえ死を目前にしても使命を全うする臣下の姿を劇的に描いています。「鞭雖長しも馬腹に及ばず」などの故事や、「国君は垢を含む」という諺は、為政者の忍耐と大局観を説く教訓として重みがあります。全体を通じ、春秋時代の複雑な同盟関係や、道義と現実のはざまで揺れる各国の様子が浮き彫りにされています。 Translation took 2590.8 seconds. |
| 夏,五月,楚師將去宋,申犀稽首於王之馬前,曰:「毋畏知死,而不敢廢王命,王棄言焉。」王不能荅。申叔時僕曰:「築室反耕者,宋必聽命。」從之,宋人懼,使華元夜入楚師,登子反之床,起之曰:「寡君使元以病告,曰:『敝邑易子而食,析骸以爨,雖然,城下之盟,有以國斃,不能從也。去我三十里,唯命是聽。』」子反懼,與之盟,而告王,退三十里。宋及楚平,華元為質,盟曰:「我無爾詐,爾無我虞。」潞子嬰兒之夫人,晉景公之姊也,酆舒為政而殺之,又傷潞子之目。晉侯將伐之,諸大夫皆曰:「不可,酆舒有三雋才,不如待後之人。」伯宗曰:「必伐之。狄有五罪:雋才雖多,何補焉?不祀,一也;耆酒,二也;棄仲章而奪黎氏地,三也;虐我伯姬,四也;傷其君目,五也。怙其雋才,而不以茂德,茲益罪也。後之人,或者將敬奉德義,以事神人,而申固其命。若之何待之?不討有罪,曰:『將待後。』後有辭而討焉,毋乃不可乎?夫恃才與眾,亡之道也,商紂由之故滅。天反時為災,地反物為妖,民反德為亂,亂則妖災生,故文反正為乏,盡在狄矣。」晉侯從之。 六月,癸卯,晉荀林父敗赤狄于曲梁,辛亥,滅潞,酆舒奔衛,衛人歸諸晉,晉人殺之。王孫蘇與召氏、毛氏,爭政,使王子捷殺召戴公及毛伯衛,卒立召襄。 |
夏、五月、楚の軍隊が宋から去ろうとしたとき、申犀が王の馬の前にひれ伏して言った。「毋畏は死を覚悟しながらも王の命令を廢さずに従いました。しかし王は約束を破られました。」王は返答に困った。申叔時が御者として傍らにいて言った。「兵士に小屋を建てさせ、農耕を再開させれば、宋は必ず従うでしょう。」王がこれに従うと、宋人は恐れをなして、華元を夜中に楚軍に送り込んだ。華元は子反の寝床に上がり、彼を起こして言った。「我が君が元を使いとして、苦境を伝えるように申しました。『我が国では子供を交換して食らい、骸骨を割いて炊き燃料にしています。それでもなお、城下の盟いは国を滅ぼすことになりますので、従うことはできません。三十里退いてくだされば、何でもお命じに従います。』」子反は恐れ、彼と盟約を結び、王に報告した。楚軍は三十里退いた。宋と楚は講和し、華元は人質となった。盟約には「我は汝を欺かず、汝は我を疑うな」と記された。 潞子嬰児の夫人は、晋の景公の姉であったが、酆舒が政権を握って彼女を殺し、さらに潞子の目を傷つけた。晋侯が討伐を考えたとき、諸大夫は皆言った。「いけません。酆舒には三つの優れた才能があります。後継者を待つべきです。」伯宗が言った。「必ず討つべきです。狄には五つの罪があります。優れた才能が多くとも、何の足しになるでしょうか。第一に祭祀を怠り、第二に酒に溺れ、第三に仲章を棄てて黎氏の土地を奪い、第四に我が伯姬を虐待し、第五にその君の目を傷つけた。才能に頼って徳を修めないのは、罪を重ねるものです。後継者はあるいは徳義を敬い、神と人に仕えて国運を固めるかもしれません。どうして待つ必要がありましょうか。罪を討たずに『後を待つ』と言うのは、後になって言い訳をして討つよりはましでしょうか。才能と多数に頼るのは滅亡の道です。殷の紂王がそうだった故に滅びました。天が時に逆らえば災いとなり、地が物に逆らえば妖異となり、民が徳に逆らえば乱となります。乱があれば妖異と災いが生じる。だから文字で『正』を反対にすると『乏』となる。これら全てが狄に当てはまります。」晋侯はこれに従った。 六月、癸卯の日、晋の荀林父が曲梁で赤狄を破り、辛亥の日、潞を滅ぼした。酆舒は衛に逃れたが、衛人は彼を晋に引き渡し、晋人は彼を殺した。王孫蘇が召氏や毛氏と政権を争い、王子捷を使わして召戴公と毛伯衛を殺させ、最終的に召襄を立てた。 解説: Translation took 2348.0 seconds. |
| 秋,七月,秦桓公伐晉,次于輔氏。壬午,晉侯治兵于稷,以略狄土,立黎侯而還。及雒,魏顆敗秦師于輔氏,獲杜回,秦之力人也。初,魏武子有嬖妾,無子,武子疾,命顆曰:「必嫁是,疾病則曰:『必以為殉。』」及卒,顆嫁之,曰:「疾病則亂,吾從其治也。」及輔氏之役,顆見老人,結草以亢杜回,杜回躓而顛,故獲之。夜夢之曰:「余,而所嫁婦人之父也。爾用先人之治命,余是以報。」 晉侯賞桓子狄臣千室,亦賞士伯以瓜衍之縣,曰:「吾獲狄土,子之功也。微子,吾喪伯氏矣。」羊舌職說是賞也,曰:「周書所謂庸庸祗祗者,謂此物也夫。士伯庸中行伯,君信之,亦庸士伯,此之謂明德矣。文王所以造周,不是過也。故詩曰:『陳錫哉周,能施也。』率是道也,其何不濟!」晉侯使趙同,獻狄俘于周,不敬,劉康公曰:「不及十年,原叔必有大咎,天奪之魄矣。」 初,稅畝,非禮也,穀出不過藉,以豐財也。 冬,蝝生,饑,幸之也。 宣公十六年 經 十有六年春王正月,晉人滅赤狄甲氏及留吁。 夏,成周宣榭火。 秋,郯伯姬來歸。 冬,大有年。 傳 十六年春,晉士會帥師滅赤狄甲氏及留吁、鐸辰。 三月,獻狄俘晉侯,請于王,戊申,以黻冕命士會將中軍,且為大傅。於是晉國之盜,逃奔于秦。羊舌職曰:「吾聞之,禹稱善人,不善人遠,此之謂也。夫詩曰:『戰戰兢兢,如臨深淵,如履薄冰。』善人在上也,善人在上,則國無幸民。諺曰:『民之多幸,國之不幸也。』是無善人之謂也。」 |
秋、七月、秦の桓公が晋を討伐し、輔氏に駐屯した。壬午の日、晋侯が稷で軍事演習を行い、狄の領土を攻略し、黎侯を立てて帰還した。雒に到着した時、魏顆が輔氏で秦軍を破り、杜回を捕らえた。杜回は秦の力士である。当初、魏武子には寵愛する妾がいたが、子がなく、武子が病気になった時、顆に命じて言った。「必ずこの女を嫁がせよ。病状が重くなったら、『必ず殉死させよ』と言うだろう。」武子が死去すると、顆は彼女を嫁がせ、言った。「病重くなると混乱した命令を下す。私は彼が正気であった時の命令に従う。」輔氏の戦いで、顆は老人と出会い、老人は草を結んで杜回の進路を妨げた。杜回はつまずいて転倒したため、捕らえることができた。夜、顆は夢の中で老人から言われた。「私は、あなたが嫁がせたあの女の父親である。あなたが先君の正気時の命令を用いたので、私はこれで報いる。」 晋侯は桓子に狄の奴隷千戸を賞賜し、また士伯に瓜衍の県を賞賜して言った。「私が狄の土地を獲得できたのは、あなたの功績である。あなたがいなければ、私は伯氏を失っていただろう。」羊舌職がこの賞賛について論じ、言った。「周書に『功績ある者を重用し、敬うべき者を敬う』とあるのは、まさにこのことを指すのであろう。士伯が中行伯を重用し、君が士伯を信頼した。これこそが明徳と言うものである。文王が周を興したのも、これを超えるものではなかった。故に詩に『施しを繰り返して周を築いた』とあり、これは善行を施す能力を称えたものである。この道を歩めば、何が成就できないだろうか!」晋侯は趙同を使者として、狄の捕虜を周に献上したが、趙同は敬意を欠いた。劉康公が言った。「十年以内に、原叔(趙同)には必ず大災いが起こるだろう。天が彼の魂を奪ったのである。」 当初、田畑に税を課したのは礼に反していた。穀物の収穫は借り耕しの制度を超えてはならず、それによって財を豊かにするのである。 冬、蝗の幼虫が発生し、飢饉が起きたが、これは不幸中の幸いと見なされた。 宣公十六年 十六年春、周の王の正月、晋が赤狄の甲氏と留吁を滅ぼした。 夏、成周の宣榭で火災が発生した。 秋、郯の伯姬が帰国した。 冬、大豊作であった。 伝 十六年春、晋の士会が軍を率いて赤狄の甲氏、留吁、鐸辰を滅ぼした。 三月、狄の捕虜を献上した晋侯は、周王に許可を請い、戊申の日、黻冕の礼服を与えて士会を中軍の将とし、さらに大傅に任命した。これにより、晋国の盗賊は秦に逃亡した。羊舌職が言った。「私は聞いている。禹は善人を登用すると、不善人は遠ざかると。これがその例である。詩に『戦戦兢兢、深淵に臨むが如く、薄冰を履むが如し』とある。善人が上位に立つと、国に僥倖を望む民はいなくなる。諺に『民に僥倖が多いことは、国の不幸である』と言うが、これは善人がいない状態を指すのである。」 解説この一節は『春秋左氏伝』宣公十五年から十六年にかけての記述です。主に晋と秦の戦争、晋国内の論功行賞、政治的な教訓が描かれています。特に「結草報恩」の故事(魏顆が父の命令を合理的に解釈したことで、その恩返しを受ける)は後世の成语となり、恩義の大切さを象徴しています。また、為政者の善人登用の重要性や、礼制に反する税制への批判など、当時の政治思想が反映されています。歴史的な事件と道德的な教訓が結びついた、春秋左氏伝の典型的な叙述スタイルが見られます。 Translation took 2904.4 seconds. |
| 夏,成周宣榭火,人火之也。凡火,人火曰火,天火曰災。 秋,郯伯姬來歸,出也。為毛召之難故,王室復亂。王孫蘇奔晉,晉人復之。 冬,晉侯使士會平王室。定王享之,原襄公相禮,殽烝。武子私問其故,王聞之,召武子曰:「季氏,而弗聞乎?王享有體薦,晏有折俎,公當享,卿當宴,王室之禮也。」武子歸而講求典禮,以脩晉國之法。 宣公十七年 經 十有七年春王正月,庚子,許男錫我卒。丁未,蔡侯申卒。 夏,葬許昭公,葬蔡文公。 六月,癸卯,日有食之。己未,公會晉侯、衛侯、曹伯、邾子,同盟于斷道。 秋,公至自會。 冬,十有一月,壬午,公弟叔肸卒。 傳 十七年春,晉侯使郤克徵會于齊。齊頃公帷婦人使觀之,郤子登,婦人笑於房。獻子怒,出而誓曰:「所不此報,無能涉河。」獻子先歸,使欒京廬待命于齊,曰:「不得齊事,無復命矣。」郤子至,請伐齊,晉侯弗許,請以其私屬,又弗許。齊侯使高固、晏弱、蔡朝、南郭偃,會,及斂盂。高固逃歸。 夏,會于斷道,討貳也。盟于卷楚,辭齊人。晉人執晏弱于野王,執蔡朝于原,執南郭偃于溫。苗賁皇使,見晏桓子,歸言於晉侯曰:「夫晏子何罪?昔者諸侯事吾先君,皆如不逮,舉言群臣不信,諸侯皆有貳志。齊君恐不得禮,故不出,而使四子來。左右或沮之曰:『君不出,必執吾使。』故高子及斂盂而逃。夫三子者曰:『若絕君好,寧歸死焉。』為是犯難而來。吾若善逆彼,以懷來者,吾又執之,以信齊沮,吾不既過矣乎?過而不改,而又久之,以成其悔,何利之有焉?使反者得辭,而害來者,以懼諸侯,將焉用之?」晉人緩之,逸。 |
【翻訳文】 秋に、郯伯姬が実家に戻ってきたが、これは離縁されたためである。毛召の難を理由に、王室が再び混乱した。王孫蘇は晋に逃亡し、晋の人が彼を復帰させた。 冬に、晋侯が士会を派遣して王室の調停をさせた。定王が彼を饗応すると、原襄公が礼儀進行役を務め、殽烝(骨付き肉の盛り付け)が供された。武子(士会)がひそかにその理由を尋ねると、王はこれを聞き、武子を呼び寄せて言った。「季氏よ、あなたは聞いたことがないのか?王の饗応には体薦(半身の肉)を、宴会には折俎(切り分けた肉)を用いる。公爵は饗応に、卿は宴会にふさわしい。これが王室の礼儀である。」武子は帰国後、典礼を研究し、晋国の法制度を整備した。 宣公十七年 伝(解説) 【解説】 後半の宣公十七年本編では、晋と齊の外交緊張が主題です。郤克が齊で受けた侮辱(婦人たちに笑われた事件)が後の鞌の戦い(宣公十八年)の伏線となっており、個人の怨恨が国際関係を動かす様子が生々しく描写されています。また、苗賁皇の諫言では、力による抑圧よりも信義に基づく外交の重要性が説かれており、左伝の思想的特徴である現実主義と道義のバランスが窺えます。日食や諸侯の死亡など「経」の簡潔な記録と、「伝」の詳細な物語が対照的に配置される左伝の編纂手法も典型的に表れた一節です。 Translation took 2812.9 seconds. |
| 秋,八月,晉師還。范武子將老,召文子曰:「燮乎,吾聞之,喜怒以類者鮮,易者實多。詩曰:『君子如怒,亂庶遄沮。君子如祉,亂庶遄已。』君子之喜怒,以已亂也。弗已者,必益之。郤子其或者欲已亂于齊乎?不然,余懼其益之也。余將老,使郤子逞其志,庶有豸乎?爾從二三子,唯敬。」乃請老,郤獻子為政。 冬,公弟叔肸卒,公母弟也。凡大子之母弟,公在曰公子,不在曰弟。凡稱弟,皆母弟也。 宣公十八年 經 十有八年春,晉侯、衛世子臧,伐齊。公伐杞。 夏,四月。 秋,七月,邾人戕鄫子于鄫。甲戌,楚子旅卒。公孫歸父如晉。 冬,十月,壬戌,公薨于路寢,歸父還自晉,至笙,遂奔齊。 傳 十八年春,晉侯、衛大子臧,伐齊,至于陽穀。齊侯會晉侯盟于繒,以公子彊為質于晉。晉師還,蔡朝、南郭偃,逃歸。 夏,公使如楚乞師,欲以伐齊。 秋,邾人戕鄫子于鄫。凡自虐其君曰弒,自外曰戕。楚莊王卒,楚師不出。既而用晉師,楚於是乎有蜀之役。公孫歸父以襄仲之立公也,有寵,欲去三桓,以張公室,與公謀而聘于晉,欲以晉人去之。 冬,公薨。季文子言於朝曰:「使我殺適立庶,以失大援者,仲也夫。」臧宣叔怒曰:「當其時,不能治也,後之人何罪?子欲去之,許請去之。」遂逐東門氏。子家還及笙,壇帷,復命於介。既復命,袒括髮,即位哭,三踊而出,遂奔齊。書曰:「歸父還自晉。」善之也。 |
秋、八月、晋軍が帰還した。范武子は引退を考え、文子を呼んで言った。「燮よ、私はこう聞いている。喜怒が道理に合う者は稀で、軽率に感情を変える者が実に多いと。詩に『君子が怒れば乱れは早く収まり、君子が喜べば乱れは早く終わる』とある。君子の喜怒は乱れを鎮めるためのものだ。鎮めなければ必ず乱れを増すことになる。郤子はおそらく斉での乱れを鎮めようとしているのだろうか?そうでなければ、私は乱れが大きくなることを恐れる。私は引退し、郤子に思い通りにさせれば、おそらく解決があるだろうか?お前は諸卿に従い、ひたすら慎み深くあれ」。こうして范武子は引退を願い出て、郤献子が政権を執った。 冬、公の弟である叔肸が亡くなった。彼は公の同母弟であった。太子の同母弟は、公が在世中は公子と呼び、公が不在の時は弟と呼ぶ。弟と称する場合は全て同母弟を指す。 宣公十八年 伝(解説) 解説この一節は『春秋左氏伝』宣公十八年の記述で、複数の重要な要素を含んでいます。まず范武子の引退に際しての言葉は、為政者の感情管理の重要性を説き、『詩経』を引用して君子の責任を論じた教訓的な場面です。特に「喜怒以類」の概念は、感情を公共の利益のために制御すべきという儒家思想を反映しています。 後半の宣公十八年の記録では、春秋時代の国際関係と魯国内の権力闘争が交錯します。晋・斉・楚など大国の駆け引きに加え、魯では公室と卿大夫家(三桓)の対立が深刻化している状況が描かれています。公孫帰父のエピソードでは、当時の複雑な政治状況(例:追放された者が正式な復命手続きを取るなど)や、史書が用いる婉曲な表現(「戕」と「弑」の区別)にも注目できます。最後の「善之也」という評価からは、左氏の価値観(たとえ敗れても礼儀を重んじる行為を称賛する姿勢)が窺える点も特徴的です。 Translation took 4937.9 seconds. |
| input text ../document/春秋左氏傳\08_春秋左氏傳_成公.txt | 現代日本語 translated text |
| 春秋左氏傳 成公 成公元年 經 元年春。王正月。公即位。 二月。辛酉。葬我君宣公。無冰。 三月。作丘甲。 夏。臧孫許。及晉侯。盟于赤棘。 秋。王師敗績于茅戎。 冬。十月。 傳 元年春。晉侯使瑕嘉平戎于王。單襄公如晉拜成。劉康公徼戎。將遂伐之。叔服曰。背盟而欺大國。此必敗。背盟不祥。欺大國不義。神人弗助。將何以勝。不聽。遂伐茅戎。 三月。癸未。敗績于徐吾氏。為齊難故。作丘甲。聞齊將出楚師。 夏。盟于赤棘。 秋。王人來告敗。 冬。臧宣叔令脩賦繕完。具守備。曰。齊楚結好。我新與晉盟。晉楚爭盟。齊師必至。雖晉人伐齊。楚必救之。是齊楚同我也。知難而有備。乃可以逞。 成公二年 經 二年春。齊侯伐我北鄙。 夏。四月。丙戌。衛孫良夫帥師。及齊師戰于新築。衛師敗績。 六月。癸酉。季孫行父。臧孫許。叔孫僑如。公孫嬰齊。帥師會晉郤克。衛孫良夫。曹公子首。及齊侯戰于鞍。齊師敗績。 秋。七月。齊侯使國佐如師。己酉。及國佐盟于袁婁。 八月。壬午。宋公鮑卒。庚寅。衛侯速卒。取汶陽田。 冬。楚師。鄭師。侵衛。 十有一月。公會楚公子嬰齊于蜀。丙申。公及楚人。秦人。宋人。陳人。衛人。鄭人。齊人。曹人。邾人。薛人。鄫人。盟于蜀。 傳 |
【翻訳文】 成公元年 経 元年の春、周王朝の正月、成公が即位した。 二月辛酉の日、我が君である宣公を葬った。氷がなかった。 三月、丘甲の制度を制定した。 夏、臧孫許が晋侯と赤棘で盟約を結んだ。 秋、周王朝の軍隊が茅戎で大敗した。 冬十月。 伝 元年の春、晋侯が瑕嘉を派遣して周王と戎の和睦を仲介した。単襄公が晋へ赴き和睦を謝した。劉康公が戎を欺こうとし、すぐに討伐しようとした。叔服が言った。「盟約に背いて大国を欺くのは、必ず敗れる。盟約違反は不吉であり、大国欺きは不義である。神も人も助けないなら、どうして勝てようか」。劉康公は聞き入れず、茅戎を討伐した。 三月癸未の日、徐吾氏で大敗した。斉の脅威に対処するため、丘甲の制度を制定した。斉が楚軍を出兵させるとの情報を得たからである。 夏、赤棘で盟約を結んだ。 秋、周王朝の使者が敗戦を報告に来た。 冬、臧宣叔が賦税の整備と防備の強化を命じ、こう言った。「斉と楚が結び、我々は新たに晋と盟約した。晋と楚が盟主の座を争い、斉軍は必ず来襲する。仮に晋が斉を討っても、楚は必ず救援する。つまり斉と楚は共同で我々を敵とする。困難を予測して備えあれば、ようやく目的を達成できるのだ」。 成公二年 経 二年の春、斉侯が我が国の北辺を攻撃した。 夏四月丙戌の日、衛の孫良夫が軍を率い、斉軍と新築で戦い、衛軍は大敗した。 六月癸酉の日、季孫行父・臧孫許・叔孫僑如・公孫嬰齊が軍を率い、晋の郤克・衛の孫良夫・曹の公子首と合流し、斉侯と鞍で戦って斉軍を撃破した。 秋七月、斉侯が国佐を軍に派遣し、己酉の日に国佐と袁婁で盟約した。 八月壬午の日、宋公鮑が逝去。庚寅の日、衛侯速が逝去。汶陽の田を取得した。 冬、楚軍と鄭軍が衛を侵攻した。 十一月、成公が楚の公子嬰齊と蜀で会見。丙申の日、成公は楚・秦・宋・陳・衛・鄭・斉・曹・邾・薛・鄫の代表と蜀で盟約した。 伝 (成公二年の伝文は記載なし) 【解説】
この時期は晋楚覇権争いの過渡期であり、魯が周辺諸国と締結した多国間盟約(蜀の盟)は、後に「弭兵の会」へ向かう国際秩序再編の端緒となりました。 Translation took 2427.9 seconds. |
| 二年春。齊侯伐我北鄙。圍龍。頃公之嬖人盧蒲就魁。門焉。龍人囚之。齊侯曰。勿殺。吾與而盟。無入而封。弗聽。殺而膊諸城上。齊侯親鼓。士陵城。三日。取龍。遂南侵。及巢丘。衛侯使孫良夫。石稷。甯相。向禽。將侵齊。與齊師遇。石子欲還。孫子曰。不可。以師伐人。遇其師而還。將謂君何。若知不能。則如無出。今既遇矣。不如戰也。 夏。有。石成子曰。師敗矣。子不少須。眾懼盡。子喪師徒。何以復命。皆不對。又曰。子國卿也。隕子。辱矣。子以眾退。我此乃止。且告車來甚眾。齊師乃止。次于鞫居。新築人仲叔于奚救孫桓子。桓子是以免。既。衛人賞之以邑。辭。請曲縣繁纓以朝。許之。仲尼聞之曰。惜也。不如多與之邑。唯器與名。不可以假人。君之所司也。名以出信。信以守器。器以藏禮。禮以行義。義以生利。利以平民。政之大節也。若以假人。與人政也。政亡。則國家從之。弗可止也已。孫桓子還於新築。不入。遂如晉乞師。臧宣叔亦如晉乞師。皆主郤獻子。晉侯許之七百乘。郤子曰。此城濮之賦也。有先君之明。與先大夫之肅。故捷。克於先大夫。無能為役。請八百乘。許之。郤克將中軍。士燮將上軍。欒書將下軍。韓厥為司馬。以救魯衛。臧宣叔逆晉師。且道之。季文子帥師會之。及衛地。韓獻子將斬人。郤獻子馳將救之。至。則既斬之矣。郤子使速以徇。告其僕曰。吾以分謗也。師從齊師于莘。 |
【現代日本語訳】 衛の侯は孫良夫・石稷・甯相・向禽を派遣して斉を攻めさせたが、斉軍と遭遇した。石稷は撤退を主張したが、孫良夫は「ならない。軍を率いて他国を攻めようとして敵軍と遭遇しただけで撤退すれば、君主にどのように説明するのか。もし戦う能力がないとわかっていたなら、最初から出兵すべきではなかった。今すでに遭遇した以上、戦うべきだ」と言った。 夏の出来事として、石稷(石成子)が「我が軍は敗北した。貴公(孫良夫)が少しでも踏みとどまっていれば、兵士が全滅する恐れがある。貴公が軍勢を失えば、どうして命令を受けた任務を報告できるのか」と言ったが、誰も返答しなかった。さらに「貴公は国の卿である。貴公が捕らえられれば国辱だ。貴公は兵を率いて退却せよ。私がここで留まって防ぐ」と述べ、さらに「援軍の戦車が多数到着する」と伝えさせた。これにより斉軍は進撃を止め、鞫居に駐屯した。 新築の住民である仲叔于奚が孫桓子(孫良夫)を救出したため、桓子は難を逃れた。後日、衛は邑で恩賞を与えようとしたが、仲叔于奚は辞退し、代わりに諸侯の礼である「曲県」(三面の鐘架)と「繁纓」(馬飾り)を用いて朝見することを願い出た。衛侯はこれを許可した。孔子はこの話を聞いて「惜しいことだ。邑を多く与える方が良かった。礼器と爵位は人に貸すべきではない。君主が管理すべきものだ。爵位は信頼を生み、信頼は礼器を守り、礼器は礼を具現し、礼は義を実行し、義は利益を生み、利益は民を安定させる。これが政治の大原則である。これを人に貸せば、政治権力を与えるのと同じだ。政治が失われれば、国家も滅びる。止められないことになる」と評した。 孫桓子は新築に戻ったが都城に入らず、そのまま晋へ赴き援軍を要請した。臧宣叔も晋へ援軍要請に赴き、二人とも郤献子(郤克)を頼った。晋の侯は七百乗の兵車を許可したが、郤克は「これは城濮の戦いの時の軍備です。先君の英明さと先大夫たちの厳格さがあったから勝利できました。私は先大夫たちに及ばず、この程度では役に立ちません。八百乗をお願いします」と述べ、晋侯はこれを認めた。郤克が中軍を、士燮が上軍を、欒書が下軍を指揮し、韓厥が司馬として魯と衛を救援に向かった。臧宣叔が晋軍を出迎え道案内をし、季文子も軍を率いて合流した。衛の地に到着した時、韓厥(韓献子)が罪人を斬ろうとしたところ、郤克が馬を走らせて制止に向かったが、到着時には既に処刑済みだった。郤克はすぐに屍を晒すよう命じ、側近に「私は(韓厥の)非難を分かち合うためだ」と語った。晋軍は莘で斉軍を追跡した。 【解説】
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| 六月。壬申。師至于靡笄之下。齊侯使請戰。曰。子以君師。辱於敝邑。不腆敝賦。詰朝請見。對曰。晉與魯衛。兄弟也。來告曰。大國朝夕釋憾於敝邑之地。寡君不忍。使群臣請於大國。無令輿師。淹於君地。能進不能退。君無所辱命。齊侯曰。大夫之許。寡人之願也。若其不許。亦將見也。齊高固入晉師。桀石以投人。禽之。而乘其車。繫桑本焉。以徇齊壘。曰。欲勇者。賈余餘勇。癸酉。師陳于鞍。邴夏御齊侯。逢丑父為右。晉解張御郤克。鄭丘緩為右。齊侯曰。余姑翦滅此而朝食。不介馬而馳之。郤克傷於矢。流血及屨。未絕鼓音。曰。余病矣。張侯曰。自始合。而矢貫余手及肘。余折以御。左輪朱殷。豈敢言病。吾子忍之。緩曰。自始合。苟有險。余必下推車。子豈識之。然子病矣。張侯曰。師之耳目。在吾旗鼓。進退從之。此車。一人殿之。可以集事。若之何其以病。敗君之大事也。擐甲執兵。固即死也。病未及死。吾子勉之。左并轡。右援枹而鼓。馬逸不能止。師從之。齊師敗績。逐之。三周華不注。韓厥夢子輿謂己曰。且辟左右。故中御而從齊侯。邴夏曰。射其御者。君子也。公曰。謂之君子而射之。非禮也。射其左。越于車下。射其右。斃于車中。綦毋張喪車。從韓厥曰。請寓乘。從左右。皆肘之。使立於後。韓厥俛定其右。逢丑父與公易位。將及華泉。驂絓於木而止。丑父寢於轏中。蛇出於其下。以肱擊之。傷而匿之。故不能推車而及。韓厥執縶馬前。再拜稽首。奉觴加璧以進。曰。寡君使群臣為魯衛請。曰。無令輿師。陷入君地。下臣不幸。屬當戎行。無所逃隱。且懼奔辟。而忝兩君。臣辱戎士。敢告不敏。攝官承乏。丑父使公下如華泉取飲。鄭周父御佐車。宛茷為右。載齊侯以免。韓厥獻丑父。郤獻子將戮之。呼曰。自今無有代其君任患者。有一於此。將為戮乎。郤子曰。人不難以死免其君。我戮之不祥。赦之以勸事君者。乃免之。齊侯免。求丑父。三入三出。每出齊師以帥退。入于狄卒。狄卒皆抽戈楯冒之以入于衛師。衛師免之。遂自徐關入。齊侯見保者曰勉之。齊師敗矣。辟女子。女子曰。君免乎。曰。免矣。曰。銳司徒免乎。曰。免矣。曰。苟君與吾父免矣。可若何。乃奔。齊侯以為有禮。既而問之。辟司徒之妻也。予之石窌。晉師從齊師。入自丘。輿擊馬陘。齊侯使賓媚人。賂以紀甗。玉磬。與地。不可。則聽客之所為。賓媚人致賂。晉人不可。曰。必以蕭同叔子為質。而使齊之封內。盡東其畝。對曰。蕭同叔子非他。寡君之母也。若以匹敵。則亦晉君之母也。吾子布大命於諸侯。而曰必質其母以為信。其若王命何。且是以不孝令也。詩曰。孝子不匱。永錫爾類。若以不孝令於諸侯。其無乃非德類也乎。先王疆理天下。物土之宜而布其利。故詩曰。我疆我理。南東其畝。今吾子疆理諸侯。而曰盡東其畝而已。唯吾子戎車是利。無顧土宜。其無乃非先王之命也乎。反先王則不義。何以為盟主。其晉實有闕。四王之王也。樹德而濟同欲焉。五伯之霸也。勤而撫之。以役王命。今吾子求合諸侯。以逞無疆之欲。詩曰。布政優優。百祿是遒。子實不優。而棄百祿。諸侯何害焉。不然。寡君之命使臣。則有辭矣。曰。子以君師辱於敝邑。不腆敝賦。以犒從者。畏君之震。師徒橈敗。吾子惠徼齊國之福。不泯其社稷。使繼舊好。唯是先君之敝器土地不敢愛。子又不許。請收合餘燼。背城借一。敝邑之幸。亦云從也。況其不幸。敢不唯命是聽。魯衛諫曰。齊疾我矣。其死亡者。皆親暱也。子若不許。讎我必甚。唯子則又何求。子得其國寶。我亦得地而紓於難。其榮多矣。齊晉亦唯天所授。豈必晉。晉人許之。對曰。群臣帥賦輿。以為魯衛請。若苟有以藉口。而復於寡君。君之惠也。敢不唯命是聽。禽鄭自師逆公。 |
六月の壬申の日、軍は靡笄の山麓に到着した。斉の侯(霊公)は使者を遣わして戦いを申し込んだ。「貴公は君主の軍勢を率いて、わが貧しい国まで来られた。粗末な我が軍勢ではありますが、明朝に決戦をお願いしたい」。晋側(郤克)は答えて言った。「晋と魯・衛は兄弟のような間柄である。彼らから『斉が絶えず我が領地で恨みを晴らしている』と訴えがあった。我が君(景公)はこれを見過ごせず、臣下をして貴国に申し入れさせた。どうか軍勢を貴地に長く留め置かないでほしい。進むことはできても退くことはできないのだから、貴君がわざわざ命令されるまでもない」。斉侯は言った。「大夫が承知されるなら、これこそ我が願いである。仮に承知されなくても、やはり対決することになろう」。 斉の高固が単身晋軍に突入し、石を掲げて敵兵に投げつけて捕らえ、その兵車に乗り移ると、桑の木の根を車に結びつけて斉の陣営に示し回った。「勇気が欲しい者は、この余った勇気を買い取れ!」 癸酉の日、両軍は鞍の地に陣を構えた。邴夏が斉侯の御者を務め、逢丑父が車右となった。晋では解張が郤克の御者を、鄭丘緩が車右を務めた。斉侯は叫んだ「まず敵を殲滅してから朝食をとろう!」と、馬に甲冑すら装着せずに突撃した。郤克は矢で重傷を負い、血が履物まで染みたが、鼓を打ち鳴らすのを止めず「私はもう限界だ」と訴えた。解張(張侯)は励まして言った「合戦開始時から、矢が私の手と肘を貫通した。私は矢を折って御を続け、左車輪は血で赤く染まっている。それでも弱音など吐けぬ。貴公はどうか耐えてほしい」。鄭丘緩も続けた「開戦以来、危険な地形があれば必ず下車して押した。貴公はご存じだろう? だが確かに貴公は重傷だ」。解張はさらに叱咤した「全軍の耳目は我々の旗鼓にかかっている。進退はこれに従うのだ。この兵車は一人で指揮すれば任務を果たせる。どうして傷を理由に君主の大事を台無しにできよう。鎧を着て武器を取った以上、死は覚悟の上だ。傷ついても死んではいない。奮起されたい!」と左手で手綱をまとめ、右手で鼓槌を取って鼓を打ち鳴らした。馬が暴走して止まらず、全軍がこれに続いた。斉軍は総崩れとなり、華不注山を三周するほど追撃された。 韓厥は父の子輿が夢で「明朝は車の左右を避けよ」と告げるのを見た。そこで自ら御者席に立ち斉侯を追った。邴夏が「あの御者は君子だ。射よ!」と叫ぶと、斉侯は「君子と分かって射るのは礼に反する」と言い、左側の者を射ると車下に転落し、右側の者を射ると車中で絶命した。綦毋張が兵車を失い、韓厥に「どうか乗車させてほしい」と願うと、韓厥は左右に座ろうとするのを肘で制止し、後ろに立たせた。韓厥が身をかがめて亡くなった車右の姿勢を整える隙に、逢丑父は斉侯と席を替わった。華泉のほとりに差し掛かると、傍らに繋がれた馬が木に引っかかって動けなくなった。(実は前夜)丑父が輜重車で寝ていると、蛇が下から現れたので腕で払いのけ、負傷したがこれを隠していた。そのため車を押せず追いつかれてしまったのである。韓厥は馬の前に進み出て恭しく拝礼し、酒杯と璧玉を捧げて言った「我が君は臣下をして魯・衛のためにお願いさせ、『軍勢を貴地に深入りさせぬように』と命じられました。不運にも私が戦列に直面し、逃れようがありません。もし退避すれば両君に恥をかかせます。武人として不本意ながら、不慣れな身ながらも臨時に任務を引き受けます」。丑父は斉侯に「水を汲みに泉へ行け」と命じるふりをした。鄭周父が副車を御し、宛茷が車右となって斉侯を脱出させた。韓厥が丑父を捕虜として献上すると、郤克は処刑しようとした。丑父は叫んだ「今後、君の苦難を代わりに担う者はいなくなる! ここにその者がいるというのに殺すのか?」。郤克は「死を恐れず君主を救う者を殺すのは不吉だ。君に仕える者を励ますため赦そう」と言い、解放した。 斉侯は脱出後、丑父を探して三度も敵中に戻った。退却する斉軍を率い、狄人の部隊の中を通ると、狄兵は盾を掲げて守り、衛軍の陣へ導いた。衛軍も通行を許し、ようやく徐関から帰還した。斉侯は守備兵に「頑張れ! 我が軍は敗れた」と声をかけ、女性の通行人に道を譲ると、その女性が「国君はご無事ですか?」「鋭司徒は?」と問い、「両者とも無事なら他に何もいりません」と言って走り去った。後で調べると辟司徒の妻だと分かり、石窌の地を賜った。 晋軍は斉軍を追撃し、丘輿から侵入して馬陘に迫った。斉侯は賓媚人を使者に立て、紀国の甗(祭器)と玉磬、それに土地を贈って和議を求めた。「もし拒否されれば、晋の好きにさせよ」と命じた。賓媚人が贈り物を提出すると、晋側は「蕭同叔子を人質に差し出し、国内の畑の畝を全て東向きにせよ」と要求した。賓媚人は反論した「蕭同叔子は他ならぬ我が君の母君である。対等な関係なら貴国君の母君も同様だ。諸侯に命令しながら母君を人質に取れとは、王の命にどう対応するのか? これは不孝を奨励するものだ。『詩経』に『孝行の尽きることなければ、永く子孫に恵み授かる』とあります。不孝をもって諸侯に臨めば、天の恵みを失いましょう。先王は土地の特性に合わせて畝の方向を定められました。『詩経』にも『我が田を区画し、畝を南北または東向きに』と。貴公が『全て東向きに』と言うのは、貴軍の戦車の利便性だけを考えたもので、先王の教えに背きます。義を欠く者がどうして盟主となれましょう? 四代の王は徳を以て天下の望みを叶え、五覇は労を惜しまず王命に仕えました。貴公が諸侯を集めて飽くことなき欲望を満たそうとするなら、『政令寛大であれば、百の福禄が集まる』との詩の教えに反します」。さらに「もし和議が成立しなければ、我が君は『残存兵力を集めて最後の一戦を挑む。幸運なら従い、不運でも貴命に従うのみ』と述べておられます」と続けた。魯と衛の使者も「斉の恨みを買えば弊害が大きい。宝器を得て領土も拡大すれば十分では?」と仲裁した。晋はようやく和議を受け入れ、賓媚人は「我々が魯衛のために出兵した以上、君主に報告できる材料があれば恩恵です。謹んでお命じに従います」と答えた。禽鄭が軍中から魯成公を迎えに来た。 解説この章は『春秋左氏伝』の有名な「鞍の戦い」のクライマックスです。以下のような特徴があります:
この戦いで晋の霸権が確定し、『左伝』が史実を文学的に昇華した代表的な一節と言えるでしょう。 Translation took 9746.1 seconds. |
| 秋。七月。晉師及齊國佐盟于爰婁。使齊人歸我汶陽之田。公會晉師于上鄍。三帥先路三命之服。司馬。司空。輿帥。候正。亞旅。皆受一命之服。 八月。宋文公卒。始厚葬。用蜃炭。益車馬。始用殉。重器備。槨有四阿。棺有翰檜。君子謂華元。樂舉。於是乎不臣。臣。治煩去惑者也。是以伏死而爭。今二子者。君生則縱其惑。死又益其侈。是棄君於惡也。何臣之為。 九月。衛穆公卒。晉二子自役弔焉。哭於大門之外。衛人逆之。婦人哭於門內。送亦如之。遂常以葬。楚之討陳夏氏也。莊王欲納夏姬。申公巫臣曰。不可。君召諸侯。以討罪也。今納夏姬。貪其色也。貪色為淫。淫為大罰。周書曰。明德慎罰。文王所以造周也。明德。務崇之之謂也。慎罰。務去之之謂也。若興諸侯。以取大罰。非慎之也。君其圖之。王乃止。子反欲取之。巫臣曰。是不祥人也。是夭子蠻。殺御叔。弒靈侯。戮夏南。出孔儀。喪陳國。何不祥如是。人生實難。其有不獲死乎。天下多美婦人。何必是。子反乃止。王以予連尹襄老。襄老死於邲。不獲其尸。其子黑要烝焉。巫臣使道焉。曰。歸。吾聘女。又使自鄭召之。曰。尸可得也。必來逆之。姬以告王。王問諸屈巫。對曰。其信。知罃之父。成公之嬖也。而中行伯之季弟也。新佐中軍。而善鄭皇戌。甚愛此子。其必因鄭而歸王子。與襄老之尸。以求之。鄭人懼於邲之役。而欲求媚於晉。其必許之。王遣夏姬歸。將行。謂送者曰。不得尸。吾不反矣。巫臣聘諸鄭。鄭伯許之。及共王即位。將為陽橋之役。使屈巫聘於齊。且告師期。巫臣盡室以行。申叔跪從其父將適郢。遇之。曰。異哉。夫子有三軍之懼。而又有桑中之喜。宜將竊妻以逃者也。及鄭。使介反幣。而以夏姬行。將奔齊。齊師新敗。曰。吾不處不勝之國。遂奔晉。而因郤至。以臣於晉。晉人使為邢大夫。子反請以重幣錮之。王曰。止。其自為謀也則過矣。其為吾先君謀也則忠。忠。社稷之固也。所蓋多矣。且彼若能利國家。雖重幣。晉將可乎。若無益於晉。晉將棄之。何勞錮焉。晉師歸。范文子後入。武子曰。無為吾望爾也乎。對曰。師有功。國人喜以逆之。先入。必屬耳目焉。是代帥受名也。故不敢。武子曰。吾知免矣。郤伯見公曰。子之力也夫。對曰。君之訓也。二三子之力也。臣何力之有焉。范叔見。勞之如郤伯。對曰。庚所命也。克之制也。燮何力之有焉。欒伯見。公亦如之。對曰。燮之詔也。士用命也。書何力之有焉。宣公使求好于楚。莊王卒。宣公薨。不克作好。公即位。受盟于晉。會晉伐齊。衛人不行使于楚。而亦受盟于晉。從於伐齊。故楚令尹子重為陽橋之役以救齊。將起師。子重曰。君弱。群臣不如先大夫。師眾而後可。詩曰。濟濟多士。文王以寧。夫文王猶用眾。況吾儕乎。且先君莊王屬之曰。無德以及遠方。莫如惠恤其民而善用之。乃大戶。已責。逮鰥。救乏。赦罪。悉師。王卒盡行。彭名御戎。蔡景公為左。許靈公為右。二君弱。皆強冠之。 |
秋の七月、晋軍と齊の國佐が爰婁で盟約を結んだ。齊人に我が汶陽の地を返還させた。公は上鄍で晋軍と会合し、三帥に先路と三命の礼服を賜り、司馬・司空・輿帥・候正・亞旅らは皆一命の礼服を受けた。 八月、宋の文公が卒去した。厚葬が始まり、蜃炭を用い、車馬を増やし、殉葬を用い始め、器物を重ねて備えた。槨は四阿の形とし、棺には翰と檜の飾りをつけた。君子は華元と樂挙について、「ここに於いて不臣である。臣たるものは煩わしさを治め惑いを去る者である。だから死を賭して諫争する。今この二人は、君が生きている時はその惑いを放任し、死んでからはその奢侈を増した。これは君を悪に捨て置くことだ。何が臣たる所以だろうか」と評した。 九月、衛の穆公が卒去した。晋の二人の大夫が戦役の途中で弔問し、大門の外で哭礼を行った。衛人が迎え、婦人たちは門内で哭いた。送る時も同様であった。これにより葬儀の常例となった。楚が陳の夏氏を討伐した時、莊王は夏姬を側室に迎えようとした。申公巫臣が「なりません。君が諸侯を召集したのは罪を討つためです。今夏姬を迎えれば、その色香に貪ったことになります。色欲に貪るのは淫乱であり、淫乱は大いなる罰です。周書に『明德慎罰』とあります。文王が周を興した所以です。明德とは徳を崇める務め、慎罰とは罰を慎む務めです。もし諸侯を興して大罰を招けば、慎むことにはなりません。どうかご考慮を」と言うと、王は止めた。子反も夏姬を娶ろうとしたが、巫臣は「これは不吉な人です。子蠻を夭折させ、御叔を殺し、靈侯を弑し、夏南を戮し、孔・儀を追い出し、陳国を喪わせました。これほど不吉な者がありましょうか。人生は実に難しく、その死を得られぬこともあるでしょう。天下には美しい婦人は多いのです。何必ずこの人でなければならないのですか」と言うと、子反も止めた。王は連尹襄老に与えたが、襄老は邲の戦いで戦死し、遺体は回収できなかった。その子の黑要が夏姬と関係を持った。巫臣は夏姬に示唆して「帰国せよ、私が娶ろう」と言い、また鄭から召還させるよう工作し「遺体は入手可能だ、必ず迎えに来い」と伝えさせた。夏姬が王に報告すると、王は屈巫に問うた。屈巫は「本当でしょう。知罃の父は成公の寵臣で、中行伯の末弟です。新たに中軍を補佐し、鄭の皇戌と親しく、この子を大変可愛がっています。必ず鄭を介して王子と襄老の遺体を返還し、交換を求めてくるでしょう。鄭は邲の役で恐れをなし、晋に媚びようとしています。必ず承諾するでしょう」と答えた。王は夏姬を帰国させた。出発際、夏姬は送り役に「遺体が得られなければ、私は戻りません」と言った。巫臣は鄭に聘礼して鄭伯の許しを得た。共王が即位し、陽橋の役を起こそうとした時、屈巫を齊に派遣し、出師の時期を伝えさせた。巫臣は全財産を携えて出発した。申叔跪が父と郢へ向かう途中で彼に会い「怪しい。あの方は三軍の務めの緊張の中にありながら、桑中の喜び(密会の恋)も帯びている。妻を窃んで逃げるつもりだろう」と言った。鄭に着くと、副使に礼品を返させ、夏姬を連れて齊へ向かおうとしたが、齊軍が新敗したと聞き「勝てない国には居られない」と言って晋へ奔った。郤至の縁故で晋に仕え、晋人は彼を邢大夫とした。子反は厚礼で晋に働きかけ、巫臣の登用を阻もうとしたが、王は「止せ。彼が自分のために謀ったのは過ちだが、我が先君のためには忠実であった。忠誠は社稷を安定させる。その功績は多い。もし彼が晋の利益にならなければ、晋は見捨てるだろう。わざわざ阻む必要はない」と言った。 晋軍が帰還すると、范文子は最後に入城した。父の武子が「私が待っていたのを知らないのか」と言うと、范文子は「軍功があって国人が喜んで迎える中、先に入れば注目を集め、将帥の名誉を奪うことになります。故に敢えてしませんでした」と答えた。武子は「これで我が家の安泰は分かった」と言った。郤伯が公に会い「これは子の力である」と言うと、公は「君の教えと諸将の力です。私に何の力がありましょう」と答えた。范叔(范文子)が挨拶すると、公も同様に労った。范文子は「庚の命令と克の采配によるもので、燮に何の力がありましょう」と答えた。欒伯が会うと、公も同様にし、欒伯は「燮の指示と士卒の奮闘によるもので、書に何の力がありましょう」と答えた。 宣公が楚と友好を結ぼうとしたが、莊王の卒去と宣公の崩御で実現せず、公(成公)が即位して晋と盟約し、晋に従って齊を伐った。衛は楚に使者を送らず、晋と盟約して齊討伐に参加した。故に楚の令尹子重は陽橋の役を起こして齊を救おうとした。出師に際し子重は「君は若く、群臣は先大夫たちに及ばない。兵数を増やす必要がある。詩に『濟濟多士、文王以寧』とある。文王でさえ多数の士を頼んだ、まして我々なら尚更だ。先君莊王も『遠方に德が及ばぬなら、民を慈しみ善用せよ』と遺された」と言い、戸籍を整え、債務を免除し、鰥寡を救い、罪を赦して全軍を動員した。王卒も全員出陣し、彭名が戎車を御し、蔡景公が左、許靈公が右に付いた。両君は若年だったため、強いて元服させた。 解説この一節は『春秋左氏伝』成公二年の記述で、春秋時代の複雑な国際関係と倫理観を描いています。主なポイントは以下の通りです。
全体を通じて、春秋時代の「礼」の概念や、国際関係における駆け引きの様相が鮮明に描かれているのが特徴です。 Translation took 4315.5 seconds. |
| 冬。楚師侵衛。遂侵我師于蜀。使臧孫往。辭曰。楚遠而久。固將退矣。無功而受名。臣不敢。楚侵及陽橋。孟孫請往賂之。以執斲執鍼織紝。皆百人。公衡為質。以請盟。楚人許平。 十一月。公及楚公子嬰齊。蔡侯。許男。秦右大夫說。宋華元。陳公孫寧。衛孫良夫。鄭公子去疾。及齊國之大夫。盟于蜀。卿不書匱盟也。於是乎畏晉而竊與楚盟。故曰匱盟。蔡侯許男不書。乘楚車也。謂之失位。君子曰。位其不可不慎也乎。蔡許之君。一失其位。不得列於諸侯。況其下乎。詩曰。不解于位。民之攸塈。其是之謂矣。楚師及宋。公衡逃歸。臧宣叔曰。衡父不忍數年之不宴。以棄魯國。國將若之何。誰居。後之人必有任是夫。國棄矣。是行也。晉辟楚。畏其眾也。君子曰。眾之不可已也。大夫為政。猶以眾克。況明君而善用其眾乎。大誓所謂商兆民離。周十人同者。眾也。晉侯使鞏朔獻齊捷于周。王弗見。使單襄公辭焉。曰。蠻夷戎狄。不式王命。淫湎毀常。王命伐之。則有獻捷。王親受而勞之。所以懲不敬。勸有功也。兄弟甥舅。侵敗王略。王命伐之。告事而已。不獻其功。所以敬親暱。禁淫慝也。今叔父克遂有功于齊。而不使命卿鎮撫王室。所使來撫余一人。而鞏伯實來。未有職司於王室。又奸先王之禮。余雖欲於鞏伯。其敢廢舊典以忝叔父。夫齊。甥舅之國也。而大師之後也。寧不亦淫從其欲。以怒叔父。抑豈不可諫誨。士莊伯不能對。王使委於三吏。禮之如侯伯克敵。使大夫告慶之禮。降於卿禮一等。王以鞏伯宴。而私賄之。使相告之曰。非禮也。勿籍。 成公三年 經 |
冬、楚軍が衛に侵攻した。そして蜀で我が軍を攻撃した。臧孫を使者として派遣しようとしたが、彼は辞退して言った。「楚は遠くから来て長期間滞在しているので、すでに退却するはずです。功績もないのに名誉を受けることは、臣としてできません」。楚軍が陽橋まで侵攻してくると、孟孫は進み出て賄賂を贈ることを請け負った。大工、針職人、機織り職人をそれぞれ百人ずつ献上し、公衡を人質として差し出して、講和を請うた。楚は和平に同意した。 十一月、魯の成公と楚の公子嬰齊、蔡侯、許男、秦の右大夫説、宋の華元、陳の公孫寧、衛の孫良夫、鄭の公子去疾、および齊国の大夫らが蜀で盟約を結んだ。『春秋』に卿の名が記されていないのは、秘密裏の盟約だからである。当時、晋を恐れて密かに楚と盟を結んだので、「匱盟(秘密盟約)」と呼ばれた。蔡侯と許男の名が記されていないのは、楚の車に乗っていたためで、これを「位を失う」と言う。君子が評して言う。「地位というものは慎まざるを得ないだろう。蔡と許の君主は一度その地位を失えば、諸侯として列せられなくなる。ましてやその下の者たちはなおさらである。『詩経』に『位について怠らなければ、民は安らぎを得る』とある。まさにこのことを言うのだ」。楚軍が宋に到達すると、公衡は逃げ帰った。臧宣叔が言う。「衡父(公衡)は数年もの宴楽を我慢できず、魯国を見捨てた。国は今後どうなるのか。誰が責任を取るというのか。後世の者には必ずこの重任を負う者が出よう。国は見捨てられたのだ」。この時の行動で、晋は楚を避けたが、それは楚の大軍を恐れたからである。君子が評して言う。「衆(大軍)の力は無視できない。大夫が政を執ってすら衆によって勝利を得るのだ。ましてや明君が衆を巧みに用いればなおさらである。『泰誓』に『殷の百万の民は離反し、周の十人は団結する』とあるのは、衆の力のことを指す」。 晋侯が鞏朔を周に派遣して齊での戦勝報告を献上したが、周王は会見を拒み、単襄公を使いに出して断らせた。「蛮夷戎狄は王命に従わず、酒に溺れて常道を乱すため、王命で討伐した時には戦利品を献上する。王自ら受け取って労うのは、不敬を懲らしめ、功績を勧めるためである。兄弟甥舅の国(同姓・姻戚国)が王の統治を侵害した時、王命で討伐しても、単に事件報告をするだけで戦功を献上しないのは、親しい関係を尊重し、邪悪を禁じるためである。今、叔父(晋侯)は齊で功績をあげたが、命卿(正式な卿)を派遣して王室を鎮撫させず、私(周王)を慰めに来た使者が鞏伯(鞏朔)である。彼は王室に職務を持たず、先王の礼制にも違反している。たとえ鞏伯に好意を持っていても、どうして旧典を廃して叔父の面目を汚せようか。齊は甥舅の国であり、太師(姜太公)の末裔である。どうして欲望のままに振る舞って叔父を怒らせることがあろうか。あるいは諫め教えることができなかったのだろうか」。士莊伯(鞏朔)は返答できなかった。王は三吏(三公)に事務を委ね、侯伯が敵に勝利した時、大夫を派遣して祝賀を報告する礼儀として、卿の礼より一等低い扱いで応対させた。王は鞏伯と宴を開いて私的に贈り物を与え、介添え人に告げさせた。「これは正式な礼儀ではないので、記録に残すな」。 成公三年 【解説】 Translation took 2584.5 seconds. |
| 三年春。王正月。公會晉侯。宋公。衛侯。曹伯。伐鄭。辛亥。葬衛穆公。 二月。公至自伐鄭。甲子。新宮災。三日哭。乙亥。葬宋文公。 夏。公如晉。鄭公子去疾帥師伐許。公至自晉。 秋。叔孫僑如帥師圍棘。大雩。晉郤克。衛孫良夫。伐廧咎如。 冬。十有一月。晉侯使荀庚來聘。衛侯使孫良夫來聘。丙午。及荀庚盟。丁未。及孫良夫盟。鄭伐許。 傳 三年春。諸侯伐鄭。次于伯牛。討邲之役也。遂東侵鄭。鄭公子偃帥師禦之。使東鄙覆諸鄤。敗諸丘輿。皇戌如楚獻捷。 夏。公如晉拜汶陽之田。許恃楚而不事鄭。鄭子良伐許。晉人歸楚公子穀臣。與連尹襄老之尸于楚。以求知罃。於是荀首佐中軍矣。故楚人許之。王送知罃。曰。子其怨我乎。對曰。二國治戎。臣不才。不勝其任。以為俘馘。執事不以釁鼓。使歸即戮。君之惠也。臣實不才。又誰敢怨。王曰。然則德我乎。對曰。二國圖其社稷。而求紓其民。各懲其忿。以相宥也。兩釋纍囚。以成其好。二國有好。臣不與及。其誰敢德。王曰。子歸何以報我。對曰。臣不任受怨。君亦不任受德。無怨無德。不知所報。王曰。雖然。必告不穀。對曰。以君之靈。纍臣得歸骨於晉。寡君之以為戮。死且不朽。若從君之惠而免之。以賜君之外臣首。首其請於寡君。而以戮於宗。亦死且不朽。若不獲命。而使嗣宗職。次及於事。而帥偏師以脩封疆。雖遇執事。其弗敢違。其竭力致死。無有二心。以盡臣禮。所以報也。王曰。晉未可與爭。重為之禮而歸之。 |
【現代日本語訳】 【伝】 【解説】
この時期は邲の戦い(前597年)後の秩序再編期であり、晋が失地回復を図る中、各国の離合集散が細かく記録されている点が史料価値の高い部分です。 Translation took 2062.5 seconds. |
| 秋。叔孫僑如圍棘。取汶陽之田。棘不服。故圍之。晉郤克。衛孫良夫。伐廧咎如。討赤狄之餘焉。廧咎如潰。上失民也。 冬。十一月。晉侯使荀庚來聘。且尋盟。衛侯使孫良夫來聘。且尋盟。公問諸臧宣叔曰。中行伯之於晉也。其位在三。孫子之於衛也。位為上卿。將誰先。對曰。次國之上卿。當大國之中。中當其下。下當其上大夫。小國之上卿。當大國之下卿。中當其上大夫。下當其下大夫。上下如是。古之制也。衛在晉。不得為次國。晉為盟主。其將先之。丙午。盟晉。丁未。盟衛。禮也。 十二月。甲戌。晉作六軍。韓厥。趙括。鞏朔。韓穿。荀騅。趙旃。皆為卿。賞鞍之功也。齊侯朝于晉。將授玉。郤克趨進曰。此行也。君為婦人之笑辱也。寡君未之敢任。晉侯享齊侯。齊侯視韓厥。韓厥曰。君知厥也乎。齊侯曰。服改矣。韓厥登舉爵曰。臣之不敢愛死。為兩君之在此堂也。荀罃之在楚也。鄭賈人有將窴諸褚中以出。既謀之。未行。而楚人歸之。賈人如晉。荀罃善視之。如實出已。賈人曰。吾無其功。敢有其實乎。吾小人。不可以厚誣君子。遂適齊。 成公四年 經 四年春。宋公使華元來聘。 三月。壬申。鄭伯堅卒。杞伯來朝。 夏。四月。甲寅。臧孫許卒。公如晉。葬鄭襄公。 秋。公至自晉。 冬。城鄆。鄭伯伐許。 傳 |
秋、叔孫僑如が棘を包囲した。汶陽の田を奪取したのである。棘が服従しなかったため、包囲したのであった。晋の郤克と衛の孫良夫は廧咎如を討伐し、赤狄の残党を征伐した。廧咎如が崩壊したのは、為政者が民心を失っていたからである。 冬十一月、晋侯が荀庚を派遣して来訪させ、かつ盟約を更新させた。衛侯も孫良夫を派遣して来訪させ、同様に盟約を更新させた。公(魯の成公)が臧宣叔に問うて言った。「中行伯(荀庚)の晋での地位は三番目であるが、孫子(孫良夫)の衛での地位は上卿である。どちらを先に対応すべきか」。臧宣叔は答えて言った。「次国の上卿は大国の中卿に相当し、中卿はその下卿に、下卿は上大夫に相当する。小国の上卿は大国の下卿に、中卿は上大夫に、下卿は下大夫に相当する。上下の順序はこのように定められ、これは古来の制度である。衛は晋に対して次国とは見なされない。晋が盟主である以上、先に晋と盟うべきです」。丙午の日に晋と盟い、丁未の日に衛と盟った。これは礼に適った対応であった。 十二月甲戌、晋は六軍を編成した。韓厥・趙括・鞏朔・韓穿・荀騅・趙旃の六名はいずれも卿に任じられた。これは鞍の戦いの功績に対する恩賞であった。齊侯が晋に朝見し、玉を授けようとしたとき、郤克が進み出て言った。「今回の行為は、君が婦人(晋の太后)の笑いものにされた屈辱によるものです。我が君(晋侯)はその功績を受けるに忍びません」。晋侯が齊侯を饗応すると、齊侯が韓厥を見つめた。韓厥が「君は私をご存知ですか」と問うと、齊侯は「服装が変わっているからな」と答えた。韓厥が階上に進み酒杯を挙げて言った。「私が死を惜しまなかったのは、両君がこの堂にいらっしゃるためでした」。荀罃が楚に囚われていたとき、鄭の商人が彼を綿入れの袋に隠して脱出させようと計画した。しかし実行前に楚が荀罃を解放した。後日、その商人が晋を訪れると、荀罃は丁重に遇し、実際に助け出してくれたように接した。商人は言った。「私は何の功績もなく、その報酬を受けるわけにはいきません。小人たる私が君子を欺くことはできません」。そして商人は齊へ去った。 (成公四年の経の部分) (伝の部分続き) 解説この文章は『春秋左氏伝』成公四年の記述で、春秋時代における諸侯国間の外交・軍事行動を詳細に描いています。主な特徴を以下にまとめます:
この一節は、春秋時代の政治秩序や国際関係の機微を、具体エピソードを通して生き生きと伝える好例と言えます。 Translation took 2563.7 seconds. |
| 四年春。宋華元來聘。通嗣君也。杞伯來朝。歸叔姬故也。 夏。公如晉。晉侯見公不敬。季文子曰。晉侯必不免。詩曰。敬之敬之。天惟顯思。命不易哉。夫晉侯之命。在諸侯矣。可不敬乎。 秋。公至自晉。欲求成于楚。而叛晉。季文子曰。不可。晉雖無道。未可叛也。國大臣睦。而邇於我。諸侯聽焉。未可以貳。史佚之志有之曰。非我族類。其心必異。楚雖大。非吾族也。其肯字我乎。公乃止。 冬。十一月。鄭公孫申帥師疆許田。許人敗諸展陂。鄭伯伐許。取鉏任泠敦之田。晉欒書將中軍。荀首佐之。士燮佐上軍。以救許。伐鄭。取汜祭。楚子反救鄭。鄭伯與許男訟焉。皇戌攝鄭伯之辭。子反不能決也。曰。君若辱在寡君。寡君與其二三臣。共聽兩君之所欲。成其可知也。不然。側不足以知二國之成。晉趙嬰通于趙莊姬。 成公五年 經 五年春。王正月。杞叔姬來歸。仲孫蔑如宋。 夏。叔孫僑如會晉荀首于穀。梁山崩。 秋。大水。 冬。十有一月。己酉。天王崩。 十有二月。己丑。公會晉侯。齊侯。宋公。衛侯。鄭伯。曹伯。邾子。杞伯。同盟于蟲牢。 傳 五年春。原屏放諸齊。嬰曰。我在。故欒氏不作。我亡。吾二昆其憂哉。且人各有能有不能。舍我何害。弗聽。嬰夢天使謂己祭余。余福女。使問諸士貞伯。貞伯曰。不識也。既而告其人曰。神福仁而禍淫。淫而無罰。福也。祭其得亡乎。祭之之明日而亡。孟獻子如宋。報華元也。 |
【翻訳文】 夏、魯公が晋へ行った。晋侯が魯公と会う際に敬意を払わなかった。季文子が言った。「晋侯は必ず災いを免れないだろう。詩経に『敬え敬え、天は明らかに見通しておられる、天命を保つのは容易ではない』とある。晋侯の命運は諸侯の手に懸かっている。敬意を払わずにいられようか」。 秋、魯公が晋から帰国した。楚と和睦を結んで晋に背こうと考えた。季文子が反対した。「なりません。晋が無道であっても、背くべきではありません。晋は国が大きく臣下が和しており、我々に近接している。諸侯も晋に従っている。二心を抱くべきではない。史佚の記録に『我々と同族でない者は、その心は必ず異なる』とある。楚は強大だが我々の同族ではない。どうして我々を慈しむだろうか」。魯公は思いとどまった。 冬十一月、鄭の公孫申が軍を率いて許の田畑の境界を定めようとした。許の軍が展陂で鄭軍を打ち破った。鄭伯が許を討ち、鉏任・泠敦の田畑を奪った。晋の欒書が中軍を指揮し、荀首が副将、士燮が上軍の副将となり、許を救援するために鄭を討った。汜・祭の地を奪取した。楚の子反が鄭を救援し、鄭伯と許男が子反の前で争訟した。皇戌が鄭伯に代わって陳述したが、子反は判決を下せなかった。「両君がもし我が君主のもとを訪れてくだされば、我が君主と数名の臣下がともに両君の主張を伺い、和解を成立させることができるでしょう。そうでなければ、私ごときでは両国の和解を判断できません」。晋では趙嬰が趙莊姫と密通した。 成公五年 五年春、周の正月、杞の叔姫が離縁されて帰国した。仲孫蔑が宋へ行った。 夏、叔孫僑如が穀で晋の荀首と会合した。梁山が崩壊した。 秋、大洪水が起きた。 冬十一月己酉の日、周天王が崩御した。 十二月己丑の日、魯公が晋侯・齊侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・邾子・杞伯と蟲牢で同盟を結んだ。 伝 五年春、原と屏(趙同・趙括)が趙嬰を齊に追放した。趙嬰は言った。「私がいるから欒氏が反抗しない。私がいなくなれば二人の兄は憂い目に遭うだろう。しかも人には得意不得意がある。私を追放しても何の得にもならない」。聞き入れられなかった。趙嬰は夢で天使が「私に祭祀を捧げよ、そうすれば福を与えよう」と言うのを見た。士貞伯に占わせると、貞伯は「わかりません」と答えたが、後に人に告げて「神は仁者に福を、淫乱者に災いを与える。淫乱で罰せられないのは却って福だ。祭祀をすれば逃亡できるだろうか」と言った。祭祀の翌日、趙嬰は逃亡した。孟献子が宋へ行った。これは華元の訪問への答礼である。 【解説】
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| 夏。晉荀首如齊逆女。故宣伯餫諸穀。梁山崩。晉侯以傳召伯宗伯。宗辟重。曰。辟傳。重人曰。待我。不如捷之速也。問其所。曰。絳人也。問絳事焉。曰。梁山崩。將召伯宗謀之。問將若之何。曰。山有朽壤而崩。可若何。國主山川。故山崩川竭。君為之不舉。降服。乘縵。徹樂。出次。祝幣。史辭。以禮焉。其如此而已。雖伯宗。若之何。伯宗請見之。不可。遂以告而從之。許靈公愬鄭伯于楚。 六月。鄭悼公如楚訟。不勝。楚人執皇戌及子國。故鄭伯歸。使公子偃請成于晉。 秋。八月。鄭伯及晉趙同盟于垂棘宋公子圍龜為質于楚而歸。華元享之。請鼓譟以出。鼓譟以復入。曰。習攻華氏。宋公殺之。 冬。同盟于蟲牢。鄭服也。諸侯謀復會。宋公使向為人辭以子靈之難。 十一月。己酉。定王崩。 成公六年 經 六年春。王正月。公至自會。 二月。辛巳。立武宮。取鄟。衛孫良夫帥師侵宋。 夏。六月。邾子來朝。公孫嬰齊如晉。壬申。鄭伯費卒。 秋。仲孫蔑。叔孫僑如。帥師侵宋。楚公子嬰齊帥師伐鄭。 冬。季孫行父如晉。晉欒書帥師救鄭。 傳 六年春。鄭伯如晉拜成。子游相。授玉于東楹之東。士貞伯曰。鄭伯其死乎。自棄也已。視流而行速。不安其位。宜不能久。 二月。季文子以鞍之功立武宮。非禮也。聽於人以救其難。不可以立武。立武由己。非由人也。取鄟。言易也。 |
【翻訳文】 六月、鄭の悼公が楚に赴いて訴訟したが、勝てなかった。楚は皇戌と子国を拘束した。このため鄭伯は帰国し、公子偃を晋に派遣して講和を求めた。 秋八月、鄭伯と晋の趙同が垂棘で同盟を結んだ。宋の公子圍龜が楚から人質として帰還した。華元が饗応したところ、圍龜は「太鼓を鳴らして叫び声をあげながら出入りしたい」と請い、実行した後に「華氏を攻撃する練習をした」と言った。宋公は彼を殺した。 冬、虫牢で同盟を結んだ。鄭が服従したためである。諸侯は再会合を計画したが、宋公は向为人を遣わし、子靈(圍龜)の禍難を理由に辞退した。 十一月己酉、定王が崩御した。 成公六年 六年春、王の正月、公(魯の成公)が会盟から帰国した。 二月辛巳、武宮を建立した。鄟を占領した。衛の孫良夫が軍を率いて宋を侵した。 夏六月、邾子が来朝した。公孫嬰齊が晋へ赴いた。壬申、鄭伯費が卒去した。 秋、仲孫蔑と叔孫僑如が軍を率いて宋を侵した。楚の公子嬰齊が軍を率いて鄭を討った。 冬、季孫行父が晋へ赴いた。晋の欒書が軍を率いて鄭を救援した。 伝 六年春、鄭伯が講和の礼のために晋へ赴いた。子游が相礼(儀式の補佐)を務め、東の楹(柱)の東側で玉を授けた。士貞伯が「鄭伯は死ぬだろう。自ら放棄したのだ。視線が落ち着かず動作が急で、位に安住していない。長続きしないはずだ」と言った。 二月、季文子が鞍の戦いの功績で武宮を建立した。礼に反する行為である。他人の力で難を救われた者には、武宮を建立する資格はない。武の功績は自ら成し遂げるもので、他人によるものではない。鄟を占領したことを「易(たやすい)」と記録したのは、容易に攻略したからである。 【解説】
この翻訳では、歴史的出来事の正確な伝達を優先しつつ、現代日本語の自然な流れを意識しました。特に「伝」部分の会話文では、登場人物の性格や緊迫感が伝わるよう表現を工夫しています。 Translation took 2837.3 seconds. |
| 三月。晉伯宗。夏陽說。衛孫良夫。甯相。鄭人。伊雒之戎。陸渾。蠻氏。侵宋。以其辭會也。師于鍼。衛人不保。說欲襲衛。曰。雖不可入。多俘而歸。有罪不及死。伯宗曰。不可。衛唯信晉。故師在其郊。而不設備。若襲之。是棄信也。雖多衛俘而晉無信。何以求諸侯。乃止。師還。衛人登陴。晉人謀去故絳。諸大夫皆曰。必居郇瑕氏之地。沃饒而近盬。國利君樂。不可失也。韓獻子將新中軍。且為僕大夫。公揖而入。獻子從公立於寢庭。謂獻子曰。何如。對曰。不可。郇瑕氏土薄水淺。其惡易覯。易覯則民愁。民愁則墊隘。於是乎有沈溺重膇之疾。不如新田。土厚水深。居之不疾。有汾澮以流其惡。且民從教。十世之利也。夫山澤林盬。國之寶也。國饒。則民驕佚。近寶。公室乃貧。不可謂樂。公說。從之。 夏。四月。丁丑。晉遷于新田。 六月。鄭悼公卒。子叔聲伯如晉。命伐宋。秋。孟獻子。叔孫宣伯。侵宋。晉命也。楚子重伐鄭。鄭從晉故也。 冬。季文子如晉。賀遷也。晉欒書救鄭。與楚師遇於繞角。楚師還。晉師遂侵蔡。楚公子申。公子成。以申息之師救蔡。禦諸桑隧。趙同。趙括。欲戰。請於武子。武子將許之。知莊子。范文子。韓獻子。諫曰。不可。吾來救鄭。楚師去我。吾遂至於此。是遷戮也。戮而不已。又怒楚師。戰必不克。雖克不令。成師以出。而敗楚之二縣。何榮之有焉。若不能敗。為辱已甚。不如還也。乃遂還。於是軍師之欲戰者眾。或謂欒武子曰。聖人與眾同欲。是以濟事。子盍從眾。子為大政。將酌於民者也。子之佐十一人。其不欲戰者。三人而已。欲戰者可謂眾矣。商書曰。三人占。從二人。眾故也。武子曰。善鈞從眾。夫善。眾之主也。三卿為主。可謂眾矣。從之。不亦可乎。 成公七年 經 |
三月、晋の伯宗、夏陽説、衛の孫良夫、甯相、鄭人、伊雒の戎、陸渾、蠻氏が宋を侵攻した。これは宋が会合への参加を拒んだためである。軍は鍼に駐屯した。衛人が防備を整えていなかったので、夏陽説は衛を急襲しようと提案し、「たとえ都城へ侵入できなくても、多くの捕虜を連れて帰れば、罪は死に至るほど重くはない」と言った。しかし伯宗は「それはならない。衛は晋を信頼しているからこそ、我が軍がその郊外に駐屯しているにもかかわらず防備をしていない。もし襲撃すれば、信義を捨てる行為だ。たとえ多くの衛の捕虜を得ても、晋が信義を失えば、どうして諸侯の支持を得られようか」と反対し、計画は中止された。軍が撤退すると、衛人は城壁に登って防備を固めた。 解説: Translation took 5138.0 seconds. |
| 七年春。王正月。鼷鼠食郊牛角。改卜牛。鼷鼠又食其角。乃免牛。吳伐郯。 夏。五月。曹伯來朝。不郊猶三望。 秋。楚公子嬰齊帥師伐鄭。公會晉侯。齊侯。宋公。衛侯。曹伯。莒子。邾子。杞伯。救鄭。 八月。戊辰。同盟于馬陵。公至自會。吳入州來。 冬。大雩。衛孫林父出奔晉。 傳 七年春。吳伐郯。郯成。季文子曰。中國不振旅。蠻夷入伐。而莫之或恤。無弔者也。夫。詩曰。不弔昊天。亂靡有定。其此之謂乎。有上不弔。其誰不受亂。吾亡無日矣。君子曰。知懼如是。斯不亡矣。鄭子良相成公以如晉見。且拜師。 夏。曹宣公來朝。 秋。楚子重伐鄭。師于氾。諸侯救鄭。鄭共仲。侯羽。軍楚師。囚鄖公鍾儀。獻諸晉。 八月。同盟于馬陵。尋蟲牢之盟。且莒服故也。晉人以鍾儀歸。囚諸軍府。楚圍宋之役。師還。子重請取於申呂。以為賞田。王許之。申公巫臣曰。不可。此申呂所以邑也。是以為賦。以御北方。若取之。是無申呂也。晉鄭必至于漢。王乃止。子重是以怨巫臣。子反欲取夏姬。巫臣止之。遂取以行。子反亦怨之。及共王即位。子重。子反。殺巫臣之族子閻。子蕩。及清尹弗忌。及襄老之子黑要。而分其室。子重取子閻之室。使沈尹。與王子罷。分子蕩之室。子反取黑要。與清尹之室。巫臣自晉遺二子書曰。爾以讒慝貪惏事君。而多殺不辜。余必使爾罷於奔命以死。巫臣請使於吳。晉侯許之。吳子壽夢說之。乃通吳于晉。以兩之一卒適吳。舍偏兩之一焉。與其射御。教吳乘車。教之戰陳。教之叛楚。寘其子狐庸焉。使為行人於吳。吳始伐楚。伐巢。伐徐。子重奔命。馬陵之會。吳入州來。子重自鄭奔命。子重。子反。於是乎一歲七奔命。蠻夷屬於楚者。吳盡取之。是以始大。通吳於上國。衛定公惡孫林父。冬。孫林父出奔晉。衛侯如晉。晉反戚焉。 成公八年 經 |
【翻訳文】 夏の五月、曹伯(そうはく)が来朝した。郊祭を行わず、三望の祭りだけを行った。 秋、楚の公子嬰齊(えいせい)が軍を率いて鄭を討った。公(魯の成公)は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・曹伯・莒子(きょし)・邾子(しゅし)・杞伯(きはく)と会合し、鄭を救援した。 八月戊辰の日、馬陵で同盟を結んだ。公は会合から帰国した。呉が州来(しゅうらい)に侵入した。 冬、大雩(だいう・大雨乞いの祭)を行った。衛の孫林父(そんりんぷ)が晋に亡命した。 伝(解説の部分) 夏、曹宣公が来朝した。 秋、楚の子重(しちょう)が鄭を討ち、氾(はん)に軍を駐屯させた。諸侯が鄭を救援し、鄭の共仲・侯羽が楚軍を攻撃し、鄖公(うんこう)鍾儀(しょうぎ)を捕らえて晋に献上した。 八月、馬陵で同盟を結び、虫牢の盟約を確認し、さらに莒が従属したためである。晋は鍾儀を連れ帰り、軍府に囚禁した。楚が宋を包囲した戦役の後、軍が帰還すると、子重が申・呂の土地を賞田として賜るよう請うた。王が許可すると、申公巫臣(しんこうふしん)が「それはなりません。この地は申・呂の本拠であり、軍賦を調達して北方防御の要です。これを取れば申・呂は成り立ちません。晋と鄭は必ず漢水まで迫るでしょう」と諫め、王は取りやめた。子重はこれで巫臣を怨んだ。子反(しはん)が夏姬(かけい)を娶ろうとしたが、巫臣に阻まれ、巫臣自身が彼女を連れて逃亡した。子反も怨みを抱いた。共王が即位すると、子重と子反は巫臣の一族である子閻・子蕩、清尹弗忌(せいいんふっき)、襄老(じょうろう)の子・黒要を殺し、その財産を分割した。巫臣は晋から二人に書簡を送り、「汝らは讒言と貪欲で君に仕え、多くの無実を殺した。必ず汝らを奔走の果てに死なせてみせる」と告げた。巫臣は呉への使者を志願し、晋侯が許可すると、呉王寿夢(じゅぼう)はこれを喜び、晋と呉は国交を開いた。巫臣は戦車一隊を率いて呉に赴き、戦車の操縦・射撃・陣法を教え、楚への反逆を促した。子の狐庸(こよう)を呉に残して行人(外交官)とし、呉は初めて楚を討ち、巢・徐を攻撃した。子重は救援に奔走し、馬陵の会合の際には呉が州来を侵略。子重は鄭から急ぎ戻り、子重と子反は一年に七度も救援に駆け回った。楚に属していた蛮夷は全て呉に奪われ、呉はこれで強大化し、中原諸国と通じるようになった。衛の定公は孫林父を憎み、冬に孫林父は晋に亡命した。衛侯が晋を訪れ、晋は戚の地(孫林父の旧領)を衛に返還した。 成公八年の経 【解説】
史記の記述風格を継ぐ左伝らしく、因果関係を重視した叙述で、戦略的思考や倫理観が随所に示される点が特徴です。特に「畏れを知れば滅びない」という君子の評は、為政者の心得を説く教訓として重要な一節です。 Translation took 3240.2 seconds. |
| 八年春。晉侯使韓穿來言汶陽之田。歸之于齊。晉欒書帥師侵蔡。公孫嬰齊如莒。宋公使華元來聘。 夏。宋公使公孫壽來納幣。晉殺其大夫趙同。趙括。 秋。七月。天子使召伯來賜公命。 冬。十月。癸卯。杞叔姬卒。晉侯使士燮來聘。叔孫僑如會晉士燮。齊人。邾人。伐剡。衛人來媵。 傳 八年春。晉侯使韓穿來言汶陽之田。歸之于齊。季文子餞之。私焉。曰。大國制義。以為盟主。是以諸侯懷德畏討。無有貳心。謂汶陽之田。敝邑之舊也。而用師於齊。使歸諸敝邑。今有二命。曰。歸諸齊。信以行義。義以成命。小國所望而懷也。信不可知。義無所立。四方諸侯。其誰不解體。詩曰。女也不爽。士貳其行。士也罔極。二三其德。七年之中。一與一奪。二三孰甚焉。士之二三。猶喪妃耦。而況霸主。霸主將德是以而二三之。其何以長有諸侯乎。詩曰。猶之未遠。是用大簡。行父懼晉之不遠猶。而失諸侯也。是以敢私言之。 晉欒書侵蔡。遂侵楚。獲申驪。楚師之還也。晉侵沈。獲沈子揖。初從知范韓也。君子曰。從善如流。宜哉。詩曰。愷悌君子。遐不作人。求善也夫。作人斯有功績矣。是行也。鄭伯將會晉師。門于許東門。大獲焉。聲伯如莒。逆也。宋華元來聘。聘共姬也。 夏。宋公使公孫壽來納幣。禮也。晉趙莊姬為趙嬰之亡故。譖之于晉侯。曰。原屏將為亂。欒郤為徵。 |
【現代日本語訳】 夏、宋公が公孫壽を遣わして納幣(結納の品)を行った。晋がその大夫の趙同と趙括を処刑した。 秋七月、天子(周王)が召伯を遣わして来させ、公(魯公)に爵位を確認する賜命を行った。 冬十月癸卯、杞叔姬が死去した。晋侯が士燮を遣わして来聘した。叔孫僑如が晋の士燮・齊人・邾人と会合し、剡を討伐した。衛から媵(陪臣)が来た。 【伝】 晋の欒書が蔡を侵攻し、続いて楚を侵攻して申驪を捕らえた。楚軍が撤退する際、晋は沈を侵攻し、沈の君主・揖を捕らえた。当初から知氏・范氏・韓氏の意見に従ったため、君子が評して「善に従うことが流れるように速やかだったのは当然だ」と言った。『詩経』に「穏やかな君子は遠くまで人材を育成する」とあり、善を求めることこそ人材育成の功績となる。この軍事行動に際し、鄭伯が晋軍と会合しようと許の東門で攻撃し、大勝した。聲伯が莒へ赴いたのは縁組のためである。宋の華元が来聘したのは共姬(魯の公女)への求婚のためであった。 夏、宋公が公孫壽を遣わして納幣を行った。これは礼に適った。晋の趙莊姬が趙嬰の追放されたことを恨み、晋侯に讒言して「原(趙同)と屏(趙括)が反乱を企てている」と告げ、欒氏と郤氏がその証人となった。 【解説】
全体として、表面上の儀礼的記録の裏に、権謀術数が渦巻く国際政治の実相が透けて見える点が春秋左氏伝の特徴です。 Translation took 2423.9 seconds. |
| 六月。晉討趙同。趙括。武從姬氏畜于公宮。以其田與祁奚。韓厥言於晉侯曰。成季之勳。宣孟之忠。而無後。為善者其懼矣。三代之令王。皆數百年保天之祿。夫豈無辟王。賴前哲以免也。周書曰。不敢侮鰥寡。所以明德也。乃立武而反其田焉。 秋。召桓公來賜公命。晉侯使申公巫臣如吳。假道于莒。與渠丘公立於池上。曰。城已惡。莒子曰。辟陋在夷。其孰以我為虞。對曰。夫狡焉思啟封疆。以利社稷者。何國蔑有。唯然。故多大國矣。唯或思或縱也。勇夫重閉。況國乎。 冬。杞叔姬卒。來歸自杞。故書。晉士燮來聘。言伐郯也。以其事吳故。公賂之。請緩師。文子不可。曰。君命無貳。失信不立。禮無加貨。事無二成。君後諸侯。是寡君不得事君也。燮將復之。季孫懼。使宣伯帥師會伐郯。衛人來媵。共姬。禮也。凡諸侯嫁女。同姓媵之。異姓則否。 成公九年 經 九年春。王正月。杞伯來逆叔姬之喪以歸。公會晉侯。齊侯。宋公。衛侯。鄭伯。曹伯。莒子。杞伯。同盟于蒲。公至自會。 二月。伯姬歸于宋。 夏。季孫行父如宋致女。晉人來媵。 秋。七月。丙子。齊侯無野卒。晉人執鄭伯。晉欒書帥師伐鄭。 冬。十有一月。葬齊頃公。楚公子嬰齊帥師伐莒。庚申。莒潰。楚人入鄆。秦人白狄伐晉。鄭人圍許。城中城。 傳 |
【翻訳文】 秋、召桓公が来朝して魯公に爵位を確認する賜命を行った。晋侯は申公巫臣を呉に派遣し、莒を通り道を借りた。巫臣は渠丘公(莒の君主)と池のほとりに立ち、「城はすでに老朽化しています」と言うと、莒子は「夷狄の僻遠の地にあり、誰が我が国を狙うでしょうか」と答えた。巫臣は「領土拡大を企み国家の利益を図る狡賢い者は、どの国にいないでしょうか?だからこそ大国が多いのです。ただ、警戒するか放任するかの違いだけです。勇者でさえ戸締まりを重んじるのに、まして国においてはなおさらです」と返した。 冬、杞の叔姫が死去した。杞から魯に帰国していたので、史書に記録された。晋の士燮が来訪し、郯討伐の意向を伝えた。郯が呉に従属したためである。魯公は賄賂を贈って出兵延期を請うたが、文子(士燮)は「君命に二心はなく、約束を破れば立場が立ちません。礼儀として追加の贈り物は不要であり、一件の事が両立することもありません。貴国が諸侯より遅れれば、我が君は貴君に仕えられなくなります」と拒絶した。士燮が晋に報告すると季孫が恐れ、宣伯に軍を率いさせて晋軍と共に郯を討たせた。衛から共姫(伯姫)の縁組に陪臣が来たのは礼法に適う。諸侯が娘を嫁がせる時、同姓の国が陪嫁を送るのが慣例で、異姓の国はそうしない。 成公九年 九年春、周暦正月。杞伯が叔姫の遺骸を迎えに来て帰国した。魯公は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・杞伯と蒲で会盟した。公は会盟から帰国した。 二月、伯姫が宋に嫁いだ。 夏、季孫行父が宋に赴き伯姫を伺候した。晋から陪臣が来た。 秋七月丙子の日、斉侯無野が卒去した。晋が鄭伯を拘束した。晋の欒書が軍を率いて鄭を討った。 冬十一月、斉の頃公を葬った。楚の公子嬰斉が軍を率いて莒を討ち、庚申の日に莒が崩壊し、楚が鄆に入城した。秦と白狄が晋を攻め、鄭が許を包囲した。魯では内城を修築した。 伝 【解説】
全体として、春秋時代の権力構造・外交儀礼・史書編纂の方法を理解する上で貴重な史料となっています。 Translation took 2470.9 seconds. |
| 九年春。杞桓公來逆叔姬之喪。請之也。杞叔姬卒。為杞故也。逆叔姬。為我也。為歸汶陽之田。故諸侯貳於晉。晉人懼。會於蒲。以尋馬陵之盟。季文子謂范文子曰。德則不競。尋盟何為。范文子曰。勤以撫之。寬以待之。堅疆以御之。明神以要之。柔服而伐貳。德之次也。是行也。將始會吳。吳人不至。 二月。伯姬歸于宋。楚人以重賂求鄭。鄭伯會楚公子成于鄧。 夏‧季文子如宋致女。復命。公享之。賦韓奕之五章。穆姜出于房。再拜曰。大夫勤辱。不忘先君。以及嗣君。施及未亡人。先君猶有望也。敢拜大夫之重勤。又賦綠衣之卒章而入。晉人來媵。禮也。 秋。鄭伯如晉。晉人討其貳於楚也。執諸銅鞮。欒書伐鄭。鄭人使伯蠲行成。晉人殺之。非禮也。兵交。使在其間可也。楚子重侵陳以救鄭。晉侯觀于軍府。見鍾儀。問之曰。南冠而縶者。誰也。有司對曰。鄭人所獻楚囚也。使稅之。召而弔之。再拜稽首。問其族。對曰。泠人也。公曰。能樂乎。對曰。先父之職官也。敢有二事。使與之琴。操南音。公曰。君王何如。對曰。非小人之所得知也。固問之。對曰。其為大子也。師保奉之。以朝于嬰齊。而夕于側也。不知其他。公語范文子。文子曰。楚囚。君子也。言稱先職。不背本也。樂操土風。不忘舊也。稱大子。抑無私也。名其二卿。尊君也。不背本。仁也。不忘舊。信也。無私。忠也。尊君。敏也。仁以接事。信以守之。忠以成之。敏以行之。事雖大必濟。君盍歸之。使合晉楚之成。公從之。重為之禮。使歸求成。 |
【現代日本語訳】 二月、伯姬が宋に嫁いだ。楚は鄭に多額の賄賂を贈って懐柔を図り、鄭伯は鄧で楚の公子成と会見した。 夏、季文子が宋に赴いて伯姬を訪問し(婚礼の儀礼を完了させ)、帰国後に報告した。公(魯成公)は饗宴を開き、季文子は『詩経』韓奕の第五章を吟じた。穆姜が奥から出てきて再拜し「大夫がご苦労なさり、先君を偲び、後継の君にまでご配慮を賜り、未亡人である私にまで及ぶとは。先君もさぞお喜びでしょう。重ねて大夫のご尽力に感謝いたします」と言うと、『詩経』緑衣の最終章を吟じて奥へ引っ込んだ。晋からお付きの女性が嫁入りとして送られてきたが、これは礼に適った行為であった。 秋、鄭伯が晋を訪問したが、晋は鄭が楚に通じたことを責めて銅鞮で拘束した。欒書が鄭を攻撃すると、鄭は伯蠲を和平交渉の使者として派遣したが、晋は彼を殺害した。これは礼に反する行為であった。戦争中であっても、使者の安全は守られるべきである。楚の子重は鄭を救援するために陳を侵攻した。晋侯が軍需倉庫を視察中、鍾儀という人物を見かけ、「南方の冠を被って拘束されている者は誰か」と問うた。役人が「鄭から献上された楚の捕虜です」と答えると、晋侯は彼の束縛を解くよう命じ、慰労の言葉をかけた。鍾儀が再拜して地面に頭を付けると、晋侯はその家柄を尋ねた。鍾儀は「楽官でございます」と答えた。晋侯が「音楽が奏でられるか」と問うと、「父の職務でございましたので、他にできることはございません」と答えた。琴を与えると、彼は南方の音曲を奏でた。晋侯が「楚の君王はどのような人物か」と尋ねると、「私のような者が知る由もございません」と答えた。強く問い詰められて、「太子時代は師保が補佐し、昼は嬰齊(子重)に、夜は側(子反)に教えを受けていました。それ以外は存じ上げません」と述べた。晋侯がこのことを范文子に話すと、范文子は「楚の捕虜は君子です。祖先の職務を語って本分を忘れず、郷土の音楽を奏でて古きを大切にし、太子時代の話のみにして私心がなく、二人の卿を名指しで敬意を表しています。本分を忘れぬのは仁、古きを大切にするのは信、私心のなさは忠、君主を尊ぶのは敏です。仁をもって事に当たり、信をもって守り、忠をもって成し、敏をもって行えば、いかなる大事も必ず成就します。彼を帰国させて晋と楚の和睦を図らせてはどうでしょうか」と進言した。晋侯はこれに従い、手厚く礼遇して鍾儀を楚に帰し、和平交渉をさせた。 【解説】
特に范文子が鍾儀の言行から「仁・信・忠・敏」という徳目を読み解く場面は、春秋時代の価値観を凝縮した名文として知られています。 Translation took 3367.7 seconds. |
| 冬。十一月。楚子重自陳伐莒。圍渠丘。渠丘城惡。眾潰。奔莒。戊申。楚入渠丘。莒人囚楚公子平。楚人曰。勿殺。吾歸而俘。莒人殺之。楚師圍莒。莒城亦惡。庚申。莒潰。楚遂入鄆。莒無備故也。君子曰。恃陋而不備。罪之大者也。備豫不虞。善之大者也。莒恃其陋。而不脩城郭。浹辰之間。而楚克其三都。無備也夫。詩曰。雖有絲麻。無棄菅蒯。雖有姬姜。無棄蕉萃。凡百君子。莫不代匱。言備之不可以已也。秦人白狄伐晉。諸侯貳故也。鄭人圍許。示晉不急君也。是則公孫申謀之曰。我出師以圍許。為將改立君者。而紓晉使。晉必歸君。城中城。書時也。 十二月。楚子使公子辰如晉。報鍾儀之使。請修好結成。 成公十年 經 十年春。衛侯之弟黑背。帥師侵鄭。 夏。四月。五卜郊不從。乃不郊。 五月。公會晉侯。齊侯。宋公。衛侯。曹伯。伐鄭。齊人來媵。丙午。晉侯獳卒。 秋。七月。公如晉。 冬。十月。 傳 十年春。晉侯使糴茷如楚。報大宰子商之使也。衛子叔黑背侵鄭。晉命也。鄭公子班聞叔申之謀。 三月。子如立公子繻。 夏。四月。鄭人殺繻。立髡頑。子如奔許。欒武子曰。鄭人立君。我執一人焉何益。不如伐鄭。而歸其君。以求成焉。晉侯有疾。 五月。晉立大子州蒲以為君。而會諸侯伐鄭。鄭子罕賂以襄鍾。子然盟于脩澤。子駟為質。辛巳。鄭伯歸。晉侯夢大厲。被髮及地。搏膺而踊曰。殺余孫不義。余得請於帝矣。壞大門及寢門而入。公懼。入于室。又壞戶。公覺。召桑田巫。巫言如夢。公曰。何如。曰。不食新矣。公疾病。求醫于秦。秦伯使醫緩為之。未至。公夢疾為二豎子曰。彼良醫也。懼傷我。焉逃之。其一曰。居肓之上。膏之下。若我何。醫至。曰。疾不可為也。在肓之上。膏之下。攻之不可。達之不及。藥不至焉。不可為也。公曰。良醫也。厚為之禮而歸之。 |
冬、十一月に、楚の子重が陳から莒を攻撃した。渠丘を包囲した。渠丘の城は脆弱で、兵士たちは潰走し、莒に逃げた。戊申の日に、楚軍は渠丘に入った。莒の人々は楚の公子平を囚われた。楚の人々は「殺すな、我々はお前たちの捕虜を返そう」と言ったが、莒の人々は公子平を殺した。楚軍は莒を包囲した。莒の城も脆弱で、庚申の日に莒は潰走し、楚軍は遂に鄆に入った。これは莒が備えをしていなかったためである。君子は言った。「陋さに頼って備えをしないのは、罪の中で最も大きい。予期せぬ事態に備えるのは、善の中で最も大きい。莒はその陋さに頼り、城郭を修繕しなかった。十二日の間に、楚は三つの都を陥落させた。備えがなかったからである。詩に『たとえ絹や麻があっても、菅や蒯を捨てるな。たとえ姫や姜のような美女がいても、憔悴した者を捨てるな。すべての君子は、代わりが尽きることはない』とある。備えを止めてはならないという意味である。」秦人と白狄が晉を攻撃した。これは諸侯が晉に背いたためである。鄭の人々が許を包囲したのは、晉に対して君主を急いでいないことを示すためであった。これは公孫申の策謀で、「我々が軍を出して許を包囲し、君主を替えようとしているふりをして、晉の使者を緩ませれば、晉は必ず君主を返すだろう」と言ったのである。城の中に城を築いたのは、時節を記録したためである。 十二月に、楚の子が公子辰を晉に派遣し、鍾儀の使者への返礼として、友好を修復し同盟を結ぶことを請うた。 成公十年 十年の春、衛侯の弟である黒背が軍を率いて鄭を侵した。 夏、四月に、五度郊祀の占いをしたが従わず、郊祀を行わなかった。 五月に、公は晉侯、齊侯、宋公、衛侯、曹伯と会合し、鄭を討伐した。齊人が媵(陪臣)を送ってきた。丙午の日に、晉侯の獳が卒去した。 秋、七月に、公は晉へ行った。 冬、十月。 伝 十年の春、晉侯は糴茷を楚に派遣し、大宰の子商の使者への返礼とした。衛の子叔黑背が鄭を侵したのは、晉の命令によるものである。鄭の公子班は叔申の策謀を聞いた。 三月に、子如が公子繻を立てた。 夏、四月に、鄭の人々は繻を殺し、髡頑を立てた。子如は許に逃げた。欒武子は「鄭人が君主を立てたのに、我々が一人を捕らえていても何の益もない。鄭を討伐してその君主を返し、和議を求める方が良い」と言った。晉侯は病気になった。 五月に、晉は太子の州蒲を君主として立て、諸侯と会合して鄭を討伐した。鄭の子罕は襄鍾を賄賂として贈り、子然は脩澤で盟約を結び、子駟が人質となった。辛巳の日に、鄭伯は帰国した。晉侯は大きな鬼の夢を見た。髪は地面まで伸び、胸を叩きながら跳ねて「私の孫を殺すとは不義だ。私は帝に請いを聞き入れた」と言い、大門と寝門を破って入ってきた。公は恐れ、部屋に逃げ込んだが、戸も破られた。公は目覚め、桑田の巫を呼んだ。巫は夢と同じことを言った。公が「どうなるか」と問うと、「新穀を食べることはないでしょう」と答えた。公の病は重くなり、秦に医者を求めた。秦伯は医者の緩を派遣した。到着する前に、公は病気が二人の童子に化けた夢を見た。一人が「あれは良医だ。我々を傷つけるのを恐れる。どこへ逃げよう」と言い、もう一人が「肓の上、膏の下に居れば、我々をどうすることもできまい」と言った。医者が到着し、「病気は治せません。肓の上、膏の下にあり、鍼では届かず、薬も効きません。手の施しようがありません」と言った。公は「良医だ」と言い、手厚く礼を贈って帰した。 解説この一節は『春秋左氏伝』の成公九年から十年にかけての記述です。主に楚と莒の戦争、諸侯間の駆け引き、晉侯の病気などが描かれています。歴史的な教訓として、国家の防備の重要性が強調されており、特に「君子曰」の部分では、備えを怠ることの危険性と、常に不測の事態に備えるべきだという考えが示されています。また、晉侯の病気にまつわる「病膏肓に入る」という故事は、後世に成语として残り、手遅れの状態を表す言葉となりました。全体として、春秋時代の複雑な国際関係と、為政者の決断が国家の運命を左右する様子が浮き彫りにされています。 Translation took 2753.0 seconds. |
| 六月。丙午。晉侯欲麥。使甸人獻麥。饋人為之。召桑田巫。示而殺之。將食。張。如廁。陷而卒。小臣有晨夢負公以登天。及日中。負晉侯出諸廁。遂以為殉。鄭伯討立君者。戊申。殺叔申。叔禽。君子曰。忠為令德。非其人猶不可。況不令乎。 秋。公如晉。晉人止公。使送葬。於是糴茷未反。 冬。葬晉景公。公送葬。諸侯莫在。魯人辱之。故不書。諱之也。 成公十一年 經 十有一年春。王三月。公至自晉。晉侯使郤犨來聘。己丑。及郤犨盟。 夏。季孫行父如晉。 秋。叔孫僑如如齊。 冬。十月。 傳 十一年春。王三月。公至自晉。晉人以公為貳於楚。故止公。公請受盟。而後使歸。郤犨來聘。且蒞盟。聲伯之母不聘。穆姜曰。吾不以妾為姒。生聲伯而出之。嫁於齊管于奚。生二子而寡。以歸聲伯。聲伯以其外弟為大夫。而嫁其外妹於施孝叔。郤犨來聘。求婦於聲伯。聲伯奪施氏婦以與之。婦人曰。鳥獸猶不失儷。子將若何。曰。吾不能死亡。婦人遂行。生二子於郤氏。郤氏亡。晉人歸之施氏。施氏逆諸河。沈其二子。婦人怒曰。已不能庇其伉儷而亡之。又不能字人之孤而殺之。將何以終。遂誓施氏。 夏。季文子如晉報聘。且蒞盟也。周公楚惡惠襄之偪也。且與伯與爭政。不勝。怒而出。及陽樊。王使劉子復之。盟于鄄而入。三日。復出奔晉。 |
【翻訳文】 六月丙午の日、晋侯は麦を食べたがり、甸人に麦を献上させ、饋人に調理させた。桑田の巫を召し出し、麦料理を見せた上で殺害した。食べようとした際、腹部が張って厠に行き、落ちて死亡した。小臣の一人が早朝に晋侯を背負って天に登る夢を見ており、正午頃に晋侯を厠から背負い出したため、結局この小臣を殉死させた。鄭伯は君主を擁立した者を討伐し、戊申の日に叔申と叔禽を殺害した。君子が評して「忠義は立派な徳であるが、ふさわしい相手でなければ成り立たず、ましてや立派でない相手では尚更である」と言った。 秋、魯公が晋へ行くと、晋人は魯公を拘束して葬儀の送葬を命じた。この時、糴茷は未だ帰国していなかった。 冬、晋景公が葬られ、魯公は送葬したが諸侯は誰も参列せず、魯人は屈辱を感じた。このため史書に記載せず、忌避したのである。 成公十一年 十一年春、周暦三月、魯公が晋から帰国した。晋侯が郤犨を派遣して来聘させ、己丑の日に郤犨と盟約を結んだ。 夏、季孫行父が晋へ行った。 秋、叔孫僑如が斉へ行った。 冬、十月。 伝文 十一年春、周暦三月、魯公が晋から帰国した。晋人は魯公が楚に内通していると疑い拘束したが、魯公が盟約を受諾することを請うたため、帰国を許した。郤犨が来聘し、かつ盟約の立会いに訪れた。声伯の母は正式な婚礼で嫁いでおらず、穆姜が「私は妾を義姉とは認めない」と言ったため、声伯を産んだ後に離縁され、斉の管于奚に再嫁して二人の子を産んだが寡婦となり、声伯のもとに戻った。声伯は異父弟を大夫に取り立て、異父妹を施孝叔に嫁がせた。郤犨が来聘した際、声伯に縁談を求めたため、声伯は施家の妻(異父妹)を奪って郤犨に与えた。妹は「鳥獣でさえ伴侶を失わないというのに、あなたはどうするつもりか」と言ったが、声伯は「私はお前の死や逃亡を見届けられない」と答えた。妹は郤家に嫁ぎ二人の子を産んだが、郤氏が滅亡すると晋人が施家に返還した。施孝叔が黄河まで迎えに出たが、二人の子を河中に沈めた。妹は怒って「自分は妻を守れず、他人の孤児までも殺すような者が、どうして末路を全うできようか」と言い、遂に施氏との縁を絶った。 夏、季文子(季孫行父)が晋を訪問し、報聘(答礼)と盟約の立会いを行った。周公楚は恵王・襄王の子孫による圧迫を憎み、かつ伯与と政権争いして敗れたため、怒って出国した。陽樊に至った時、周王が劉子を派遣して復帰を命じ、鄄で盟約を結んで帰還したが、三日後に再び出奔して晋へ向かった。 【解説】
文体面では、経文が簡潔な年代記であるのに対し、伝文は劇的な台詞や心理描写を交えた物語性が特徴です。現代語訳に際しては、原文の対比構造(例え話と現実の対応)を保持しつつ、歴史的用語(「聘」「盟」等)は現代語で説明を込めて訳出しました。 Translation took 2631.4 seconds. |
| 秋。宣伯聘于齊。以脩前好。晉郤至與周爭鄇田。王命劉康公單襄公訟諸晉。郤至曰。溫。吾故也。故不敢失。劉子單子曰。昔周克商。使諸侯撫封。蘇忿生以溫為司寇。與檀伯達封于河。蘇氏即狄。又不能於狄。而奔衛。襄王勞文公。而賜之溫。狐氏。陽氏。先處之。而後及子。若治其故。則王官之邑也。子安得之。晉侯使郤至勿敢爭。宋華元善於令尹子重。又善於欒武子。聞楚人既許晉糴茷成。而使歸復命矣。 冬。華元如楚。遂如晉。合晉楚之成。秦晉為成。將會于令狐。晉侯先至焉。秦伯不肯涉河。次于王城。使史顆盟晉侯于河東。晉郤犨盟秦伯于河西。范文子曰。是盟也。何益。齊盟。所以質信也。會所信之始也。始之不從。其何質乎。秦伯歸而背晉成。 成公十二年 經 十有二年春。周公出奔晉。 夏。公會晉侯。衛侯。于瑣澤。 秋。晉人敗狄于交剛。 冬。十月。 傳 十二年春。王使以周公之難來告。書曰。周公出奔晉。凡自周無出。周公自出故也。宋華元克合晉楚之成。 夏。五月。晉士燮會楚公子罷。許偃。癸亥。盟于宋西門之外。曰。凡晉楚無相加戎。好惡同之。同恤菑危。備救凶患。若有害楚。則晉伐之。在晉。楚亦如之。交贄往來。道路無壅。謀其不協。而討不庭。有渝此盟。明神殛之。俾隊其師。無克胙國。鄭伯如晉聽成。會于瑣澤。成故也。狄人間宋之盟以侵晉。而不設備。 |
秋に、宣伯が斉を訪問し、以前の友好関係を修復した。晋の郤至が周と鄇の田地を争い、周王は劉康公と単襄公を晋に派遣して訴訟を起こさせた。郤至は「温は私の旧領であるため、失うわけにはいかない」と主張した。劉子と単子は「昔、周が商を滅ぼした時、諸侯に封地を治めさせた。蘇忿生は温で司寇となり、檀伯達と共に黄河付近に封じられた。しかし蘇氏は狄と関係を悪化させ、衛に逃亡した。後に襄王が晋の文公を労い、温を賜った。狐氏と陽氏が先に治め、その後あなたに至っている。もし起源を論じるなら、これは周王の直轄地である。あなたが得る権利はない」と反論した。晋侯は郤至に争いを止めるよう命じた。宋の華元は楚の令尹・子重や晋の欒武子と親交があり、楚が晋の糴茷の講和を認め帰国させたことを知ると、冬に華元は楚へ赴き、続いて晋へ向かい、晋と楚の講和を仲介した。 秦と晋も講和し、令狐で会盟を予定した。晋侯が先に到着したが、秦伯は黄河を渡ろうとせず王城に留まり、史顆を河東で晋侯と盟約させた。晋の郤犨は河西で秦伯と盟約した。范文子は「この盟約に何の意味があるか。盟約は信頼を確認するものだ。会合自体が信頼の始まりである。最初から従わないなら、何を確認できようか」と批判した。果たして秦伯は帰国後、晋との講和を破棄した。 (成公十二年の経) (伝) 解説: Translation took 2323.8 seconds. |
| 秋。晉人敗狄于交剛。晉郤至如楚聘。且蒞盟。楚子享之。子反相。為地室而縣焉。郤至將登。金奏作於下。驚而走出。子反曰。日云莫矣。寡君須矣。吾子其入也。賓曰。君不忘先君之好。施及下臣。貺之以大禮。重之以備樂。如天之福。兩君相見。何以代此。下臣不敢。子反曰。如天之福。兩君相見。無亦唯是一矢以相加遺。焉用樂。寡君須矣。吾子其入也。賓曰。若讓之以一矢。禍之大者。其何福之為。世之治也。諸侯間於天子之事。則相朝也。於是乎有享宴之禮。享以訓共儉。宴以示慈惠。共儉以行禮。而慈惠以布政。政以禮成。民是以息。百官承事。朝而不夕。此公侯之所以扞城其民也。故詩曰。赳赳武夫。公侯干城。及其亂也。諸侯貪冒。侵欲不忌。爭尋常以盡其民。略其武夫。以為己腹心股肱爪牙。故詩曰。赳赳武夫。公侯腹心。天下有道。則公侯能為民干城。而制其腹心。亂則反之。今吾子之言。亂之道也。不可以為法。然吾子主也。至敢不從。遂入卒事。歸以語范文子。文子曰。無禮必食言。吾死無日矣夫。 冬。楚公子罷如晉聘。且蒞盟。 十二月。晉侯及楚公子罷盟于赤棘。 成公十三年 經 十有三年春。晉侯使郤錡來乞師。 三月。公如京師。 五月。公自京師。遂會晉侯。齊侯。宋公。衛侯。鄭伯。曹伯。邾人。滕人。伐秦。曹伯盧卒于師。 |
秋、晉が交剛で狄を破った。晉の郤至が楚に赴いて聘問し、かつ盟約に臨んだ。楚子(王)が饗応を催し、子反が相礼(接待役)を務めた。地下に室を設けて鐘鼓を懸け、郤至が升壇しようとした時、地下で金石の楽が奏され、驚いて逃げ出した。子反が言った。「日も暮れようとしております。我が君がお待ちです。どうかお入りください」。賓客(郤至)は答えた。「君(楚王)が先君(晉の先代君主)との友好を忘れず、この下臣にまで及ぼし、大礼を賜い、さらに立派な音楽で重ねてくださる。もし天の福があって両君が会見される時、これに代わるものをどう用いられましょうか。下臣としては恐れ多い」。子反は言った。「天の福があって両君が会見するなら、むしろ一本の矢を以て相贈り合うことになるでしょう。どこで音楽を用いる必要がありましょうか。我が君がお待ちです。どうかお入りください」。賓客は言った。「もし矢一本で互いに譲り合うとなれば、これは大いなる禍です。何の福がありましょうか。世が治まっている時は、諸侯は天子の用事の合間に互いに朝聘し、そこで饗宴の礼があります。饗礼は恭倹を訓え、宴礼は慈恵を示します。恭倹以て礼を行い、慈恵以て政を布きます。政は礼によって成り、民はこれによって安息します。百官は職務を奉じ、朝は政事に励み夕方は休みます。これが公侯が民を守る所以です。故に詩に『雄々しい武夫は、公侯の盾であり城である』とあります。乱世になると、諸侯は貪欲で、侵奪の欲望を憚らず、わずかな土地を争って民を疲弊させ、武夫を略取して自らの腹心・股肱・爪牙とします。故に詩に『雄々しい武夫は、公侯の腹心である』とあります。天下に道がある時は、公侯は民の盾となり城となって、その腹心を制しますが、乱世ではこれと反対になります。今あなたの言葉は乱世の道理です。規範とはできません。しかしあなたが主人です。至(郤至)として従わないわけには参りません」。こうして中に入り、何事もなく終わった。帰国後、范文子にこのことを話すと、文子は言った。「礼を失えば必ず約束を破るものだ。我々の死は遠くないだろう」。 冬、楚の公子罷が晉に赴いて聘問し、かつ盟約に臨んだ。 十二月、晉侯と楚の公子罷が赤棘で盟を結んだ。 成公十三年 十三年春、晉侯が郤錡を遣わして援軍を要請した。 三月、公(魯の成公)が京師(周の都)へ赴いた。 五月、公は京師から出発し、そのまま晉侯・齊侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・邾人・滕人と会合して秦を討った。曹伯盧が軍中で没した。 解説この一節は『春秋左氏伝』成公十三年の記述で、春秋時代の晉と楚の外交交渉を描いています。特に注目すべきは、楚での饗応場面における郤至と子反の対話です。郤至は礼儀を重んじる立場から、音楽を用いた饗応が平和の象徴であると説く一方、子反は現実的な武力対立を暗示します。この会話は、当時の国際関係における「礼」の重要性と、それが乱世においてどう変質するかを示す寓意的な場面です。後半の経文部分は、史実の簡潔な記録として、実際に起きた軍事行動や盟約を列記しています。全体として、外交儀礼と現実政治の緊張関係を浮き彫りにする内容となっています。 Translation took 2098.9 seconds. |
| 秋。七月。公至自伐秦。 冬。葬曹宣公。 傳 十三年春。晉侯使郤錡來乞師。將事不敬。孟獻子曰。郤氏其亡乎。禮。身之幹也。敬。身之基也。郤子無基。且先君之嗣卿也。受命以求師。將社稷是衛。而惰棄君命也。不亡何為。 三月。公如京師。宣伯欲賜。請先使。王以行人之禮。禮焉。孟獻子從。王以為介。而重賄之。公及諸侯朝王。遂從劉康公。成肅公。會晉侯伐秦。成子受脤于社。不敬。劉子曰。吾聞之。民受天地之中以生。所謂命也。是以有動作禮義威儀之則。以定命也。能者養之以福。不能者敗以取禍。是故君子勤禮。小人盡力。勤禮莫如致敬。盡力莫如敦篤。敬在養神。篤在守業。國之大事。在祀與戎。祀有執膰。戎有受脤。神之大節也。今成子惰棄其命矣。其不反乎。 夏。四月。戊午。晉侯使呂相絕秦。曰。昔逮我獻公。及穆公相好。戮力同心。申之以盟誓。重之以昏姻。天禍晉國。文公如齊。惠公如秦。無祿。獻公即世。穆公不忘舊德。俾我惠公。用能奉祀于晉。又不能成大勳。而為韓之師。亦悔于厥心。用集我文公。是穆之成也。文公躬擐甲冑。跋履山川。踰越險阻。征東之諸侯。虞夏商周之胤。而朝諸秦。則亦既報舊德矣。鄭人怒君之疆場。我文公帥諸侯及秦圍鄭。秦大夫不詢于我寡君。擅及鄭盟。諸侯疾之。將致命于秦。文公恐懼。綏靜諸侯。秦師克還無害。則是我有大造于西也。無祿。文公即世。穆為不弔。蔑死我君。寡我襄公。迭我殽地。奸絕我好。伐我保城。殄滅我費滑。散離我兄弟。撓亂我同盟。傾覆我國家。我襄公未忘君之舊勳。而懼社稷之隕。是以有殽之師。猶願赦罪于穆公。穆公弗聽。而即楚謀我。天誘其衷。成王隕命。穆公是以不克逞志于我。穆襄即世。康靈即位。康公我之自出。又欲闕翦我公室。傾覆我社稷。帥我蝥賊。以來蕩搖我邊疆。我是以有令狐之役。康猶不悛。入我河曲。伐我涑川。俘我王官。翦我羈馬。我是以有河曲之戰。東道之不通。則是康公絕我好也。及君之嗣也。我君景公。引領西望曰。庶撫我乎。君亦不惠稱盟。利吾有狄難。入我河縣。焚我箕郜。芟夷我農功。虔劉我邊陲。我是以有輔氏之聚。君亦悔禍之延。而欲徼福于先君獻穆。使伯車來命我景公曰。吾與女同好棄惡。復脩舊德。以追念前勳。言誓未就。景公即世。我寡君是以有令狐之會。君又不祥。背棄盟誓。白狄及君同州。君之仇讎。而我之昏姻也。君來賜命曰。吾與女伐狄。寡君不敢顧昏姻。畏君之威。而受命于吏。君有二心於狄。曰。晉將伐女。狄應且憎。是用告我。楚人惡君之二三其德也。亦來告我曰。秦背令狐之盟。而來求盟于我。昭告昊天上帝。秦三公。楚三王。曰。余雖與晉出入。余唯利是視。不穀惡其無成德。是用宣之。以懲不壹。諸侯備聞此言。斯是用痛心疾首。暱就寡人。寡人帥以聽命。唯好是求。君若惠顧諸侯。矜哀寡人。而賜之盟。則寡人之願也。其承寧諸侯以退。豈敢徼亂。君若不施大惠。寡人不佞。其不能諸侯退矣。敢盡布之執事。俾執事實圖利之。秦桓公既與晉厲公為令狐之盟。而又召狄與楚。欲道以伐晉。諸侯是以睦於晉。晉欒書將中軍。荀庚佐之。士燮將上軍。郤錡佐之。韓厥將下軍。荀罃佐之。趙旃將新軍。郤至佐之。郤毅御戎。欒鍼為右。孟獻子曰。晉帥乘和。師必有大功。 |
秋、七月、魯の公(成公)が秦を討伐した戦いから帰国した。 冬、曹の宣公を葬った。 伝 十三年の春、晋の侯(厲公)が郤錡を魯に派遣し援軍を要請した。郤錡は任務の執行に敬意を欠いていた。孟献子が言った。「郤氏は滅びるだろう。礼は身を支える幹であり、敬いは身の基礎である。郤子は基礎を失っている。しかも彼は先君(晋の景公)より続く世襲の卿である。軍勢を求める使命を受けており、社稷を守るべき立場にあるのに、怠けて君命を棄てている。滅びずしてどうするというのか。」 三月、魯の公(成公)が京師(周の都)へ赴いた。宣伯(叔孫僑如)は周王から賞賜を受けたがり、先に使者となるよう請願した。しかし周の定王は彼を行人(下級外交官)の礼遇で扱った。孟献子が随行すると、王は彼を副使と認め、厚く財貨を賜った。魯公と諸侯は王に朝見した後、劉康公と成肅公に従い、晋侯と合流して秦を討伐した。成肅公が社(土地神)の前で受脤(出征時の肉の授受儀式)を受ける際、態度が不敬であった。劉康公が言った。「私は聞く。人は天地の中和之气を受けて生まれ、これを命という。だから動作・礼義・威儀の規範があり、それによって命が定まる。できる者は福を養って命を全うし、できない者は失敗して禍を取る。よって君子は礼に勤め、小人は力に尽くす。礼に勤めるには敬意を示すに如くなく、力に尽くすには誠実であるに如くない。敬いは神霊を養うことにあり、誠実は職分を守ることにある。国家の大事は祭祀と軍事である。祭祀には執膰(祭肉の分配)、軍事には受脤があり、これらは神事における重要儀礼だ。今、成子(成肅公)は天命を怠って棄てた。彼は帰還できないだろう。」 夏、四月戊午の日、晋侯が呂相を使者として秦との断交を宣言させ、次のように述べた。「昔、我が献公と汝の穆公が友好を結び、力を合わせ同心となり、盟誓で固め、婚姻で重ねた。しかし天が晋に災いをもたらし、文公は斉へ、恵公は秦へ逃れた。不幸にも献公が世を去ると、穆公は旧徳を忘れず、我が恵公を晋の祭祀を執り行う地位につけた。だが穆公は大功を成し遂げず、かえって韓原の戦いを起こした。後に自らの過ちを悔い、我が文公を即位させた。これが穆公の貢献である。文公は自ら甲冑を纏い、山河を跋渉し、険阻を越え、東方の諸侯や虞・夏・商・周の末裔を率いて秦に朝見した。これで旧徳には報いたといえよう。鄭が君の边境を侵犯した時、我が文公は諸侯と秦を率いて鄭を包囲した。ところが秦の大夫は我が君に相談もなく独断で鄭と盟を結んだ。諸侯はこれを憤り、秦に報復せんとしたが、文公は恐れ謹み、諸侯を鎮めたため、秦軍は無事帰国できた。これは我々が西方(秦)に大恩を施したのである。不幸にも文公が没すると、穆公は哀悼の意もなく、我が君を死者として蔑み、我が襄公を孤立させ、崤の地を襲い、我が友好関係を断ち切り、我が城を攻め、費滑を滅ぼし、我が兄弟国を離散させ、同盟を乱し、我が国家を傾けようとした。我が襄公は穆公の旧功を忘れず、社稷の危険を惧れて崤の戦いを起こしたが、それでも穆公に赦罪を願った。しかし穆公は聞き入れず、楚と謀って我を討たんとした。天がその心を正され、楚の成王が没したため、穆公は野望を果たせなかった。穆公と襄公が没し、康公と霊公が即位すると、康公(晋の母が秦の女)は我が公室を弱体化させ、社稷を傾けようとし、我が内部の邪悪者(公子雍)を擁立し、我が边境を攪乱した。そこで我々は令狐の戦いを起こした。康公は依然として改めず、河曲に侵入し、涑川を攻め、王官の民を捕虜にし、羈馬を奪った。そこで河曲の戦いが生じ、東方への道が閉ざされた。これは康公が友好を断ったためである。君(秦の桓公)が即位すると、我が景公は首を長くして西を望み『秦は我を慰撫してくれるか』と期待した。しかし君も盟約に応じず、我が狄との紛争に乗じ、河県に侵入し、箕・郜を焼き払い、農作物を破壊し、边境の民を殺戮した。そこで我々は輔氏で軍を集結させた。君も禍の拡大を悔い、先君の献公・穆公に祈って福を求め、伯車を使者として我が景公に『共に友好を結び悪意を棄て、旧徳を修めて前功を偲ぼう』と伝えた。だが誓約が成立しないうちに景公が没し、我が君(厲公)は令狐の会盟を実現させた。ところが君はまたも不吉にも盟誓を破棄した。白狄は君と同じ雍州に居ながら、君の仇敵であるのに、我とは婚姻関係にある。君は我に『共に狄を討とう』と命じた。我が君は婚姻を顧みず、君の威を畏れて吏より命令を受けた。しかし君は狄に二心を抱き、『晋が汝を討つ』と漏らした。狄は表面応じつつ内心憎み、このことを我に知らせてきた。楚も君の態度が定まらないのを憎み、我に告げてきた。『秦は令狐の盟を破り、我に盟を求めてきた。彼らは皇天上帝と秦の三公・楚の三王に誓いながら、『我は晋と交わるが、利益のみを視る』と宣言した。我はその不実を憎み、このことを明らかにして不誠実を戒めたい』と。諸侯は皆この言葉を聞き、痛恨の思いで我に親しみ、我は彼らを率いて君の命令を待っている。求めるのは友好のみである。君もし諸侯を顧み、我を哀れんで盟約を賜るなら、これが我の願いである。我は諸侯を鎮めて退くであろう。敢えて乱を求めるものか。君もし大恩を施さねば、我は不肖ながら諸侯を退けることはできぬ。敢えて執事に全てを申し述べ、執事に実利を図らせることを願う。」 秦の桓公は晋の厲公と令狐で盟約しながらも、密かに狄と楚を誘い、晋を討たんとした。このため諸侯は晋に結束した。晋では欒書が中軍を率い、荀庚が補佐した。士燮が上軍を率い、郤錡が補佐した。韓厥が下軍を率い、荀罃が補佐した。趙旃が新軍を率い、郤至が補佐した。郤毅が御戎(戦車の御者)、欒鍼が車右を務めた。孟献子が言った。「晋軍は将兵が和しており、軍は必ず大功を成すだろう。」 解説この一節は『春秋左氏伝』成公13年に当たり、晋と秦の複雑な外交関係と戦争の背景を描いています。主なポイントは以下の通りです:
この箇所は、春秋時代の国際政治が「礼」という規範と現実の利害が交錯する様子を鮮明に伝えるとともに、『左伝』の特徴である詳細な人物評と史実の記録が融合した優れた歴史文学となっています。 Translation took 5072.0 seconds. |
| 五月。丁亥。晉師以諸侯之師。及秦師戰于麻隧。秦師敗績。獲秦成差。及不更女父。曹宣公卒于師。師遂濟涇。及侯麗而還。迓晉侯于新楚。成肅公卒于瑕。 六月。丁卯。夜。鄭公子班自訾求入于大宮。不能。殺子印。子羽。反軍于市。己巳。子駟帥國人盟于大宮。遂從而盡焚之。殺子如。子駹。孫叔。孫知。 曹人使公子負芻守。使公子欣時逆曹伯之喪。 秋。負芻殺其大子而自立也。諸侯乃請討之。晉人以其役之勞。請俟他年。 冬。葬曹宣公。既葬。子臧將亡。國人皆將從之。成公乃懼。告罪。且請焉。乃反而致其邑。 成公十四年 經 十有四年春。王正月。莒子朱卒。 夏。衛孫林父自晉歸于衛。 秋。叔孫僑如如齊逆女。鄭公子喜帥師伐許。 九月。僑如以夫人婦姜氏至自齊。 冬。十月。庚寅。衛侯臧卒。秦伯卒。 傳 十四年春。衛侯如晉。晉侯強見孫林父焉。定公不可。 夏。衛侯既歸。晉侯使郤犨送孫林父而見之。衛侯欲辭。定姜曰。不可。是先君宗卿之嗣也。大國又以為請。不許。將亡。雖惡之。不猶愈於亡乎。君其忍之。安民而宥宗卿。不亦可乎。衛侯見而復之。衛侯饗苦成叔。甯惠子相。苦成叔傲。甯子曰。苦成家其亡乎。古之為享食也。以觀威儀。省禍福也。故詩曰。兕觥其觩。旨酒思柔。彼交匪傲。萬福來求。今夫子傲。取禍之道也。 |
翻訳文五月、丁亥の日、晋軍が諸侯の連合軍を率いて秦軍と麻隧で戦い、秦軍は大敗した。秦の成差と不更(秦の官職名)の女父を捕虜にした。曹の宣公が軍中で亡くなった。連合軍はその後、涇水を渡り、侯麗まで進軍してから撤退した。新楚で晋侯を出迎えた。成肅公が瑕で亡くなった。 六月、丁卯の日、夜、鄭の公子班が訾から大宮(鄭の祖廟)に入ることを要求したが、認められなかった。そこで子印と子羽を殺し、市場で軍を反乱状態にした。己巳の日、子駟が国民を率いて大宮で盟約を結び、その後、公子班の一派を追って焼き討ちにした。子如、子駹、孫叔、孫知を殺害した。 曹の人々は公子負芻を国守に任命し、公子欣時に曹伯(宣公)の遺体を迎えさせた。 秋、負芻が太子を殺して自ら君主(曹の成公)となった。諸侯はこれを討伐するよう求めたが、晋人は直近の戦役の疲労を理由に、他年まで延期するよう要請した。 冬、曹宣公の葬儀が行われた。葬儀後、子臧(公子欣時)が亡命しようとすると、国民も皆これに従おうとした。成公(負芻)は恐れて罪を詫び、子臧に留まるよう懇願した。子臧はこれを受け入れ、領地を返上して帰国した。 (成公十四年の記録) 伝 解説この一節は『春秋左氏伝』成公十三年から十四年にかけての記録です。春秋時代の政治・軍事動向を詳細に描いており、以下の特徴がみられます。
この記録は、春秋時代が「力の論理」と「礼の秩序」がせめぎ合う過渡期であったことを示す典型例です。 Translation took 4359.2 seconds. |
| 秋。宣伯如齊逆女。稱族。尊君命也。 八月。鄭子罕伐許。敗焉。戊戌。鄭伯復伐許。庚子。入其郛。許人平以叔申之封。 九月。僑如以夫人婦姜氏至自齊。舍族。尊夫人也。故君子曰。春秋之稱微而顯。志而晦。婉而成章。盡而不汙。懲惡而勸善。非聖人誰能脩之。衛侯有疾。使孔成子。甯惠子。立敬姒之子衎。以為大子。 冬。十月。衛定公卒。夫人姜氏既哭而息。見大子之不哀也。不內酌飲。歎曰。是夫也。將不唯衛國之敗。其必始於未亡人。烏呼。天禍衛國也。夫吾不獲鱄也。使主社稷。大夫聞之。無不聳懼。孫文子自是不敢舍其重器於衛。盡寘諸戚。而甚善晉大夫。 成公十五年 經 十有五年春。王二月。葬衛定公。 三月。乙巳。仲嬰齊卒。癸丑。公會晉侯。衛侯。鄭伯。曹伯。宋世子成。齊國佐。邾人。同盟于戚。晉侯執曹伯。歸于京師。公至自會。 夏。六月。宋公固卒。楚子伐鄭。 秋。八月。庚辰。葬宋共公。宋華元。出奔晉。宋華元自晉歸于宋。宋殺其大夫山。宋魚石出奔楚。 冬。十有一月。叔孫僑如會晉士燮。齊高無咎。宋華元。衛孫林父。鄭公子鰌。邾人。會吳于鍾離。許遷于葉。 傳 十五年春。會于戚。討曹成公也。執而歸諸京師。書曰。晉侯執曹伯。不及其民也。凡君不道於其民。諸侯討而執之。則曰。某人執某侯。不然則否。諸侯將見子臧於王。而立之。子臧辭曰。前志有之曰。聖達節。次守節。下失節。為君。非吾節也。雖不能聖。敢失守乎。遂逃奔宋。 |
翻訳文秋、宣伯が斉に赴いて娘を迎えに行った。一族の名を称したのは、君主の命令を尊重したからである。 八月、鄭の子罕が許を討伐したが、敗北した。戊戌の日、鄭伯が再び許を討伐し、庚子の日、その外城に攻め入った。許の人々は叔申の領地を条件として和議を結んだ。 九月、僑如が夫人である婦姜氏を伴って斉から到着した。一族の名を省略したのは、夫人を尊重したからである。そこで君子が次のように述べた。「春秋の記述は細やかでありながら明らかで、意図を込めながらも含蓄があり、婉曲でありながら筋が通っており、事実を余すところなく記しながら偏りがなく、悪を懲らしめ善を勧める。聖人でなければ誰がこれを完成できようか。」衛侯が病気になり、孔成子と甯惠子を使者として、敬姒の子である衎を立てて太子とした。 冬、十月、衛定公が逝去した。夫人姜氏は泣き終えた後、息をついた。太子が哀しみを見せないのを見て、室内で酒を酌み交わすこともなく、嘆いて言った。「この者は、衛国を滅ぼすだけでなく、必ずや未亡人である私から災いを始めるだろう。ああ、天が衛国に災いをもたらしたのだ。私は鱄を太子にできなかったので、彼に社稷を主宰させよう。」大夫たちはこれを聞き、ことごとく恐れおののいた。孫文子はこれ以降、重宝な器物を衛国内に置くことを敢えてせず、すべて戚に移し、晋の大夫たちと非常に親しく交わった。 成公十五年 十五年春、周の二月、衛定公を葬った。 三月、乙巳の日、仲嬰齊が逝去した。癸丑の日、公(魯成公)が晋侯、衛侯、鄭伯、曹伯、宋の世子成、齊の国佐、邾人と会合し、戚で同盟を結んだ。晋侯が曹伯を捕らえ、京師に送還した。公が会合から帰国した。 夏、六月、宋公固が逝去した。楚子が鄭を討伐した。 秋、八月、庚辰の日、宋共公を葬った。宋の華元が晋へ亡命した。宋の華元が晋から宋に帰国した。宋が自国の大夫である山を処刑した。宋の魚石が楚へ亡命した。 冬、十一月、叔孫僑如が晋の士燮、齊の高無咎、宋の華元、衛の孫林父、鄭の公子鰌、邾人と会し、吳と鍾離で会合した。許が葉に遷都した。 伝 十五年春、戚で会合が開かれた。曹成公を糾弾するためである。彼を捕らえて京師に送還した。春秋に「晋侯が曹伯を捕らえた」と記されたのは、曹の民衆が罪に問われないためである。一般的に、君主が民衆に対して道義に反する行為をした場合、諸侯が糾弾して捕らえると、「某が某侯を捕らえた」と記す。そうでない場合は記さない。諸侯は子臧を周王に紹介し、彼を曹君に立てようとした。子臧は辞退して言った。「古い書物にこうある。『聖人は節度をわきまえ、次なる者は節度を守り、下なる者は節度を失う』と。君主となることは、私の節度に合わない。聖人にはなれないが、節度を守ることを敢えて失おうか。」こうして彼は宋へ逃亡した。 解説この一節は『春秋左氏伝』における魯の成公15年(紀元前576年)の記録です。経は簡潔な年代記としての事実列挙、伝はその背景や道徳的教訓を詳述するという構成が典型的です。主な内容は以下のように整理できます。
全体として、この時代の政治が「礼」や「節」という規範に支えられながらも、現実の利害や抗争に揺れ動く様子が描かれています。特に「微而顯」などの表現は、春秋の記述が後世の歴史解釈に大きな影響を与えた理由を物語っています。 Translation took 5251.0 seconds. |
| 夏。六月。宋共公卒。楚將北師。子囊曰。新與晉盟而背之。無乃不可乎。子反曰。敵利則進。何盟之有。申叔時老矣。在申。聞之曰。子反必不免。信以守禮。禮以庇身。信禮之亡。欲免得乎。楚子侵鄭。及暴隧。遂侵衛。及首止。鄭子罕侵楚。取新石。欒武子欲報楚。韓獻子曰。無庸。使重其罪。民將叛之。無民孰戰。 秋。八月。葬宋共公。於是華元為右師。魚石為左師。蕩澤為司馬。華喜為司徒。公孫師為司城。向為人為大司寇。鱗朱為少司寇。向帶為大宰。魚府為少宰。蕩澤弱公室。殺公子肥。華元曰。我為右師。君臣之訓。師所司也。今公室卑而不能正。吾罪大矣。不能治官。敢賴寵乎。乃出奔晉。二華。戴族也。司城。莊族也。六官者。皆桓族也。魚石將止華元。魚府曰。右師反必討。是無桓氏也。魚石曰。右師苟獲反。雖許之討。必不敢。且多大功。國人與之。不反。懼桓氏之無祀於宋也。右師討。猶有戌在。桓氏雖亡。必偏。魚石自止華元于河上。請討。許之。乃反。使華喜。公孫師。帥國人攻蕩氏。殺子山。書曰。宋殺大夫山。言背其族也。魚石。向為人。鱗朱。向帶。魚府。出舍於雎上。華元使止之。不可。 冬。十月。華元自止之。不可。乃反。魚府曰。今不從。不得入矣。右師視速而言疾。有異志焉。若不我納。今將馳矣。登丘而望之。則馳聘而從之。則決睢澨。閉門登陴矣。左師。二司寇。二宰。遂出奔楚。華元使向戌為左師。老佐為司馬。樂裔為司寇。以靖國人。晉三郤害伯宗。譖而殺之。及欒弗忌。伯州犁奔楚。韓獻子曰。郤氏其不免乎。善人。天地之紀也。而驟絕之。不亡何待。初。伯宗每朝。其妻必戒之曰。盜憎主人。民惡其上。子好直言。必及於難。 |
夏の六月、宋の共公が亡くなった。楚軍が北方へ出兵しようとした。子囊が言った。「晋と新たに盟約を結んだばかりなのにそれを破るのは、いかがなものだろうか」。子反は答えた。「敵に有利な状況なら進むべきだ。盟約など問題ではない」。申叔時は老齢で申地にいたが、この話を聞いて言った。「子反は必ず災難を免れないだろう。信義によって礼儀を守り、礼儀によって身を守るのだ。信義と礼儀が失われて、どうして災難を免れられようか」。楚の王が鄭を侵略し、暴隧まで進んだ。続いて衛を侵略し、首止まで進んだ。鄭の子罕が楚を攻撃し、新石を奪い取った。欒武子は楚に報復しようとしたが、韓献子が言った。「その必要はない。楚に罪を重ねさせよ。民衆はやがて楚に背くだろう。民衆がいなければ誰が戦うというのか」。 秋の八月、宋の共公が葬られた。この時、華元は右師に、魚石は左師に、蕩澤は司馬に、華喜は司徒に、公孫師は司城に、向為人は大司寇に、鱗朱は少司寇に、向帶は大宰に、魚府は少宰にそれぞれ任命された。蕩澤は公室(王室)の力を弱めようとして、公子肥を殺害した。華元は言った。「私が右師として担うのは、君臣の規律を教える役目である。今、公室が衰えているのに正すことができないなら、私の罪は大きい。職務を果たせない者が、どうして地位にしがみついていられようか」。こうして華元は晋へ出奔した。華元と華喜は戴族、公孫師は莊族、他の六人の高官は皆桓族の出身であった。魚石は華元を引き留めようとしたが、魚府が言った。「右師(華元)が戻れば必ず蕩澤を討つだろう。そうなれば桓族は滅びてしまう」。魚石は言った。「右師が仮に戻ることができれば、たとえ討伐を許したとしても、彼はそうしないだろう。しかも華元は多くの功績があり、国民も彼を支持している。もし戻らなければ、桓族が宋で祭祀を絶たれることを恐れねばならない。右師が討伐しても、向戌がいる。桓族が滅びても、一部は残るだろう」。魚石自ら黄河の岸で華元を引き留め、討伐の許可を請うた。華元が許可すると、彼は帰国した。華喜と公孫師に国民を率いさせて蕩氏を攻撃させ、子山(蕩澤)を殺害した。史書には「宋が大夫の山を殺した」と記され、これは彼が一族に背いたことを示している。魚石、向為人、鱗朱、向帶、魚府は雎水の岸に宿営した。華元は使者を送って引き留めようとしたが、彼らは応じなかった。 冬の十月、華元自ら彼らを引き留めに赴いたが、やはり応じられなかった。華元が帰ると、魚府が言った。「今ここで従わなければ、二度と国に戻れなくなる。右師(華元)の視線は素早く、言葉は急だった。彼には別の考えがある。もし我々を受け入れなければ、すぐに軍を動かすだろう」。丘に登って様子を見ると、華元の軍が疾走して迫ってきた。そこで彼らは雎水の堤防を決壊させ、城門を閉じて城壁に登った。左師(魚石)と二人の司寇、二人の宰(大臣)はついに楚へ出奔した。華元は向戌を左師に、老佐を司馬に、楽裔を司寇に任命し、国内を安定させた。晋の三郤(郤氏三人)は伯宗を憎み、讒言して殺害した。欒弗忌も巻き添えになり、伯州犁は楚へ逃れた。韓献子は言った。「郤氏は災難を免れないだろう。善人は天地の規範である。それを次々に滅ぼせば、滅亡しないでいられようか」。以前、伯宗は朝廷に出るたびに、妻が必ず戒めて言っていた。「盗人は主人を憎み、民は上位者を憎むもの。あなたは直言を好むから、必ず災難に遭うでしょう」。 解説この一節は春秋時代の複雑な国際関係と国内政治を描いています。まず楚と晋の盟約違反をめぐる駆け引きでは、信義より利益を優先する子反に対し、老臣の申叔時が「信義と礼儀こそ身を守る道理」と批判し、後の楚の衰退を予見する構図が見られます。宋国では公室(王室)の権威低下を背景に、華元が一族の反乱を鎮める過程が詳細に記され、氏族間の勢力バランスや「国書の記述で行為の是非を示す」という春秋の筆法が示されています。晋国では権力闘争により善人とされる伯宗が殺害され、韓献子が「善人を滅ぼす者は自滅する」と警告するなど、各国で権力の倫理が問われる場面が連なっています。妻の戒めに象徴されるように、直言の危険性と権力者の心理が描かれるなど、人間模様を通じて政治の機微を伝える史書の特色がよく表れた段落です。 Translation took 4267.5 seconds. |
| 十一月。會吳于鍾離。始通吳也。許靈公畏偪于鄭。請遷于楚。辛丑。楚公子申遷許于葉。 成公十六年 經 十有六年春。王正月。雨木冰。 夏。四月。辛未。滕子卒。鄭公子喜帥師侵宋。 六月。丙寅朔。日有食之。晉侯使欒黶來乞師。甲午。晦。晉侯及楚子。鄭伯。戰于鄢陵。楚子鄭師敗績。楚殺其大夫公子側。 秋。公會晉侯。齊侯。衛侯。宋華元。邾人。于沙隨。不見公。公至自會。公會尹子。晉侯。齊國佐。邾人。伐鄭。曹伯歸自京師。 九月。晉人執季孫行父。舍之于苕丘。 冬。十月。乙亥。叔孫僑如出奔齊。 十有二月。乙丑。季孫行父及晉郤犨盟于扈。公至自會。乙酉。刺公子偃。 傳 十六年春。楚子自武城使公子成。以汝陰之田。求成于鄭。鄭叛晉。子駟從楚子盟于武城。 夏。四月。滕文公卒。鄭子罕伐宋。宋將鉏。樂懼。敗諸汋陂。退舍於夫渠。不儆。鄭人覆之。敗諸汋陵。獲將鉏樂懼。宋恃勝也。 衛侯伐鄭。至于鳴鴈。為晉故也。晉侯將伐鄭。范文子曰。若逞吾願。諸侯皆叛。晉可以逞。若唯鄭叛。晉國之憂。可立俟也。欒武子曰。不可以當吾世而失諸侯。必伐鄭。乃興師。欒書將中軍。士燮佐之。郤錡將上軍。荀偃佐之。韓厥將下軍。郤至佐新軍。荀罃居守。郤犨如衛。遂如齊。皆乞師焉。欒黶來乞師。孟獻子曰。有勝矣。戊寅。晉師起。 |
十一月、鍾離で呉と会合した。これが呉との交流の始まりである。許の霊公は鄭に脅迫されることを恐れ、楚への移住を請願した。辛丑の日、楚の公子申が許を葉に移した。 成公十六年 十六年春、周王の正月、木に氷がつく雨が降った。 夏四月辛未、滕子が逝去した。鄭の公子喜が軍を率いて宋を侵攻した。 六月丙寅の朔日、日食が起こった。晉侯が欒黶を派遣して援軍を要請した。甲午の晦日、晉侯と楚子・鄭伯が鄢陵で交戦した。楚子と鄭軍は大敗した。楚は自国の大夫である公子側を処刑した。 秋、公(魯の成公)は晉侯・齊侯・衛侯・宋の華元・邾人と沙随で会合したが、公は謁見されなかった。公は会合から帰国した。公は尹子・晉侯・齊の国佐・邾人と会合して鄭を討伐した。曹伯が京師から帰国した。 九月、晉が季孫行父を拘束し、苕丘に留置した。 冬十月乙亥、叔孫僑如が齊へ亡命した。 十二月乙丑、季孫行父と晉の郤犨が扈で盟約を結んだ。公は会合から帰国した。乙酉、公子偃を刺殺した。 伝 十六年春、楚子は武城から公子成を派遣し、汝陰の土地を条件に鄭との講和を求めた。鄭は晉に背き、子駟が楚子と武城で盟約した。 夏四月、滕文公が逝去した。鄭の子罕が宋を討伐した。宋の將鉏と樂懼が汋陂で鄭軍を破ったが、夫渠に退却した際に警戒を怠り、鄭軍の反撃を受けて汋陵で敗北し、將鉏と樂懼が捕虜となった。これは宋が勝利に驕ったためである。 衛侯が鄭を討伐し、鳴鴈まで進軍した。これは晉への支援が目的であった。晉侯が鄭討伐を計画すると、范文子は「もし我が願いが叶うならば、諸侯全てが叛けば晉は願いを達成できる。鄭だけが叛く場合、晉国の憂いはすぐに訪れよう」と述べた。欒武子は「我々の時代に諸侯を失うわけにはいかない」と反論し、鄭討伐を決定した。軍を興し、欒書が中軍を、士燮が副将を、郤錡が上軍を、荀偃が副将を、韓厥が下軍を指揮し、郤至が新軍を率いた。荀罃は国留守居となり、郤犨は衛と齊へ援軍要請に赴いた。欒黶が魯に援軍を要請すると、孟獻子は「勝利の見込みあり」と応じた。戊寅、晉軍が出発した。 【解説】 Translation took 2401.2 seconds. |
| 鄭人聞有晉師。使告于楚。姚句耳與往。楚子救鄭。司馬將中軍。令尹將左。右尹子辛將右過申。子反入見申叔時。曰。師其何如。對曰。德。刑。詳。義。禮。信。戰之器也。德以施惠。刑以正邪。詳以事神。義以建利。禮以順時。信以守物。民生厚而德正。用利而事節。時順而物成。上下和睦。周旋不逆。求無不具。各知其極。故詩曰。立我烝民。莫匪爾極。是以神降之福。時無災害。民生敦厖。和同以聽。莫不盡力。以從上命。致死以補其闕。此戰之所由克也。今楚內棄其民。而外絕其好。瀆齊盟。而食話言。奸時以動。而疲民以逞。民不知信。進退罪也。人恤所底。其誰致死。子其勉之。吾不復見子矣。姚句耳先歸。子駟問焉。對曰。其行速。過險而不整。速則失志。不整喪列。志失列喪。將何以戰。楚懼不可用也。 五月。晉師濟河。聞楚師將至。范文子欲反。曰。我偽逃楚。可以紓憂。夫合諸侯。非吾所能也。以遺能者。我若群臣輯睦以事君。多矣。武子曰。不可。 六月。晉楚遇於鄢陵。范文子不欲戰。郤至曰。韓之戰。惠公不振旅。箕之役。先軫不反命。邲之師。荀伯不復從。皆晉之恥也。子亦見先君之事矣。今我辟楚。又益恥也。文子曰。吾先君之亟戰也有故。秦狄齊楚皆彊。不盡力。子孫將弱。今三彊服矣。敵楚而已。唯聖人能外內無患。自非聖人。外寧必有內憂。盍釋楚以為外懼乎。甲午。晦。楚晨壓晉軍而陳。軍吏患之。范匄趨進曰。塞井夷灶。陳於軍中而疏行首。晉楚唯天所授。何患焉。文子執戈逐之。曰。國之存亡。天也。童子何知焉。欒書曰。楚師輕窕。固壘而待之。三日必退。退而擊之。必獲勝焉。郤至曰。楚有六間。不可失也。其二卿相惡。王卒以舊。鄭陳而不整。蠻軍而不陳。陳不違晦。在陳而囂。合而加囂。各顧其後。莫有鬥心。舊不必良。以犯天忌。我必克之。 |
鄭の人々は晋の軍勢が来ると聞き、楚に使者を送って報告した。姚句耳もこれに同行した。楚の王は鄭を救援するため、司馬が中軍を率い、令尹が左軍を率い、右尹の子辛が右軍を率いて申地を通り過ぎた。子反は申叔時を訪ねて会い、「軍勢はどうなるだろうか」と尋ねた。申叔時は答えて、「徳、刑、詳、義、礼、信は、戦いの道具である。徳は恵みを施すため、刑は邪を正すため、詳は神に仕えるため、義は利を建てるため、礼は時に順うため、信は物を守るためである。民の生活が豊かで徳が正しければ、利益を用いて事が節度を持ち、時に順って物事が成就する。上下が和睦し、行動に逆らうことがなく、求めるものは全て備わり、それぞれが自分の分限を知る。だから詩に『我が民を立てば、すべてはあなたの規範による』とある。これによって神が福を降し、時に災害がない。民の生活が厚く豊かで、和合して聞き従い、力を尽くして上の命令に従い、死を恐れずにその欠けを補う。これが戦いに勝つ理由である。今、楚は内では民を捨て、外では友好関係を絶ち、盟約を汚し、約束を破り、時を違えて動き、民を疲弊させて自分勝手に振る舞う。民は信義を知らず、進退も罪となる。人々は自分の行き着く先を憂い、誰が死を恐れずに尽くそうか。あなたは気をつけなさい。私はもう二度とあなたに会わないだろう」と言った。姚句耳は先に帰国し、子駟が彼に尋ねた。姚句耳は答えて、「楚軍の行動は速く、険しい地形を通るにも整っていない。速すぎると判断を誤り、整っていないと隊列を乱す。判断を誤り隊列を乱せば、どうして戦えようか。楚軍は恐らく使い物にならない」と言った。 五月、晋の軍勢は黄河を渡った。楚の軍勢が迫ると聞き、范文子は撤退したがった。曰く、「我々は偽って楚から逃れれば、憂いを和らげることができる。諸侯をまとめることは、我々のできることではない。できる者に任せよう。我々が群臣和合して君に仕えれば、それで十分だ」。武子は「不可」と言った。 六月、晋と楚は鄢陵で遭遇した。范文子は戦いたくないと言った。郤至は言った、「韓の戦いでは、恵公が軍勢を整えられず、箕の役では、先軫が戻って報告せず、邲の戦いでは、荀伯が再び従わなかった。これらは皆、晋の恥である。あなたも先君の事績を見ている。今我々が楚を避ければ、さらに恥を増すことになる」。文子は言った、「我が先君が頻繁に戦ったのには理由がある。秦、狄、齊、楚が皆強く、力を尽くさなければ、子孫が弱体化するからだ。今、三つの強国は服従した。敵は楚だけである。ただ聖人だけが内外に患いがない。聖人でなければ、外が平和なら必ず内に憂いが生じる。どうして楚を放って外の脅威としておかないのか」。甲午の日、晦(月末の暗い日)、楚軍は朝早く晋軍に迫って陣を敷いた。軍の役人はこれを憂いた。范匄が進み出て言った、「井戸を塞ぎ、かまどを平らにして、軍中に陣を敷き、前列を疎らにせよ。晋と楚は天の授ける所である。何を憂えよう」。文子は戈を執って彼を追いかけ、「国の存亡は天による。子供が何を知っているのか」と言った。欒書は言った、「楚軍は軽薄で落ち着きがない。陣地を固めて待てば、三日で必ず退く。退いたところを撃てば、必ず勝てる」。郤至は言った、「楚には六つの隙がある。逃すべきではない。二つの卿は互いに憎み合い、王の兵は旧来の者ばかり、鄭の軍勢は整わず、蛮族の軍は陣を敷かず、陣を晦日(みそか)に違えず、陣中で騒がしく、合流するとさらに騒がしくなる。各自が後のことを気にし、戦う心構えがない。旧来の兵は必ずしも良くなく、天の忌みに触れる。我々は必ず勝つ」。 解説この一節は『春秋左氏伝』における鄢陵の戦い(紀元前575年)の前哨戦と開戦直前の様子を描いています。以下のような点が特徴的です:
この文章は、単なる戦記ではなく、戦争を道徳・政治・戦術の複合的な現象として捉える春秋時代の歴史観をよく表しています。 Translation took 7233.0 seconds. |
| 楚子登巢車以望晉軍。子重使大宰伯州犁侍于王後。王曰。騁而左右。何也。曰。召軍吏也。皆聚於中軍矣。曰。合謀也。張幕矣。曰。虔卜於先君也。徹幕矣。曰。將發命也。甚囂且塵上矣。曰。將塞井夷灶而為行也。皆乘矣。左右執兵而下矣。曰。聽誓也。戰乎。曰。未可知也。乘而左右皆下矣。曰。戰禱也。伯州犁以公卒告王。苗賁皇在晉侯之側。亦以王卒告。皆曰。國士在。且厚。不可當也。苗賁皇言於晉侯曰。楚之良。在其中軍王族而已。請分良以擊其左右。而三軍萃於王卒。必大敗之。公筮之。史曰。吉。其卦遇復。曰。南國蹙。射其元。王中厥目。國蹙王傷。不敗何待。公從之。有淖於前。乃皆左右。相違於淖。步毅御晉厲公。欒鍼為右。彭名御楚共王。潘黨為右。石首御鄭成公。唐苟為右。欒范以其族夾公行。陷於淖。欒書將載晉侯。鍼曰。書退。國有大任。焉得專之。且侵官。冒也。失官。慢也。離局。姦也。有三罪焉。不可犯也。乃掀公以出於淖。癸巳。潘尪之黨。與養由基。蹲甲而射之。徹七札焉。以示王。曰。君有二臣如此。何憂於戰。王怒曰。大辱國。詰朝。爾射死藝。呂錡夢射月。中之。退入於泥。占之曰。姬姓。日也。異姓。月也。必楚王也。射而中之。退入於泥。亦必死矣。及戰。射共王中目。王召養由基。與之兩矢。使射呂錡。中項伏弢。以一矢復命。 |
楚の王が巢車に登って晋の軍を眺めた。子重は大宰の伯州犁を王の後ろに侍らせた。王が「走り回って左右に動いているのは、どういうことか」と問うと、伯州犁は「軍吏を召集しているのです」と答えた。全員が中軍に集まった時、王が「どうしたのか」と問うと、「作戦会議を開いているのです」と答えた。幕が張られた時、王が尋ねると、「先君に対して虔かに占っているのです」と説明した。幕が撤収されると、「まさに命令を発しようとしているのです」と述べた。喧騒が激しく塵が舞い上がると、「井戸を埋めかまどを平らにして陣形を整えようとしているのです」と説明した。全員が兵車に乗り、左右の将兵が下車すると、「誓いの言葉を聞いているのです」と答えた。王が「戦うのか」と問うと、「まだ分かりません」と言い、兵車に乗った将兵が左右から下りてくると、「戦いの祈りを捧げているのです」と説明した。 伯州犁は晋公の軍勢の状況を王に報告した。一方、苗賁皇が晋侯の側におり、楚の王の軍勢の状況を晋侯に報告した。両者とも「国士(優れた士)がおり、しかも兵力が厚い。対抗できない」と言った。苗賁皇は晋侯に進言して「楚の精鋭は中軍の王族だけです。精鋭を分けて左右両翼を攻撃し、三軍を集中させて王の直属部隊を攻めれば、必ず大敗させられます」と言った。晋侯が占いをすると、史官が「吉です。復卦に出会いました。『南国(楚)は逼迫し、その元首を射れば、王は目に傷を負う。国が逼迫し王が傷つけば、敗れないはずがない』と出ています」と告げた。晋侯はこれに従った。 前方に泥沼があったため、全軍は左右に分かれて泥沼を避けた。歩毅が晋厲公の御者を務め、欒鍼が車右となった。彭名が楚共王の御者を務め、潘黨が車右となった。石首が鄭成公の御者を務め、唐苟が車右となった。欒氏と范氏の一族が晋公の両側に付き従って進んだが、泥沼に陥った。欒書が晋侯を自分の車に乗せようとすると、欒鍼が「書(欒書)は下がれ。国には重大な任務がある。どうして専任できるか。しかも職権を侵すのは僭越だ。職務を放棄するのは怠慢だ。部署を離れるのは邪悪だ。三つの罪がある。犯すことはできない」と言った。そこで欒鍼は晋公の車を押し上げて泥沼から脱出させた。 癸巳の日、潘尪の子の潘黨と養由基が鎧を重ねて射ると、七枚を貫いた。二人は王に見せて「我々のような臣下が二人もいれば、戦いを何も心配する必要はありません」と言った。王は怒って「国を大きく辱しめるものだ。明日の朝、お前たちは自分の技量のままに射て、死ぬがいい」と言った。 呂錡は月を射る夢を見た。射当てた後、泥の中に退いた。占い師が「姬姓(晋は姬姓)は太陽である。異姓(楚は羋姓)は月である。きっと楚王だろう。射当てて泥に退くのは、必ず死ぬことを意味する」と解釈した。戦いが始まると、呂錡は楚共王の目を射当てた。王は養由基を呼び、二本の矢を与えて呂錡を射るよう命じた。養由基は一本の矢で呂錡の首筋を射抜き、彼は弓袋に伏して死んだ。養由基は残りの一本の矢を持って復命した。 解説: 戦闘前の儀礼的な行動(占卜・誓い・祈祷)の詳細な描写は、古代中国の軍事儀礼を知る貴重な記録です。特に「復卦」の占断は、史官による戦意高揚のための心理操作とも解釈でき、歴史叙述の深層を窺わせます。欒鍼の父子間の緊張したやり取りでは、軍規の厳しさと責任の所在が強調され、続く泥沼からの脱出劇へと緊迫感を導きます。 終盤の養由基と呂錡のエピソードは、夢占いの予言性と戦場の因果応報を劇的に描き、歴史記述に文学的色彩を加えています。全体として、この段落は単なる戦記ではなく、人間ドラマ・儀礼・戦術・運命観が交錯する多層的な叙述となっています。 Translation took 3078.8 seconds. |
| 郤至三遇楚子之卒。見楚子必下。免冑而趨風。楚子使工尹襄問之以弓。曰。方事之殷也。有韎韋之跗注。君子也。識見不穀而趨。無乃傷乎。郤至見客。免冑承命曰。君之外臣至。從寡君之戎事。以君之靈。間蒙甲冑。不敢拜命。敢告不寧。君命之辱。為事之故。敢肅使者。三肅使者而退。 晉韓厥從鄭伯。其御杜溷羅曰。速從之。其御屢顧。不在馬。可及也。韓厥曰。不可以再辱國君。乃止。郤至從鄭伯。其右茀翰胡曰。諜輅之。余從之乘。而俘以下。郤至曰。傷國君有刑。亦止。石首曰。衛懿公唯不去其旗。是以敗於熒。乃內旌於弢中。唐苟謂石首曰。子在君側。敗者壹大。我不如子。子以君免。我請止。乃死。 楚師薄於險。叔山冉謂養由基曰。雖君有命。為國故。子必射。乃射。再發盡殪。叔山冉搏人以役。中車折軾。晉師乃止。囚楚公子茷。欒鍼見子重之旌。請曰。楚人謂夫旌。子重之麾也。彼其子重也。日臣之使於楚也。子重問晉國之勇。臣對曰。好以眾整。曰。又何如。臣對曰。好以暇。今兩國治戎。行人不使。不可謂整。臨事而食言。不可謂暇。請攝飲焉。公許之。使行人執榼承飲。造于子重曰。寡君乏使。使鍼御持矛。是以不得犒從者。使某攝飲。子重曰。夫子嘗與吾言於楚。必是故也。不亦識乎。受而飲之。免使者而復鼓。 |
郤至は三度、楚王の部隊に遭遇した。楚王を見ると必ず下馬し、兜を脱いで風のように走って敬意を示した。楚王は工尹の襄を使者として弓を贈り、「今は戦いの激しい最中だが、赤い皮の脛当てをつけた貴方は立派な方だ。私を見て走って逃げるとは、もしかして傷を負ったのではないか」と伝えさせた。郤至は使者に対面し、兜を脱いで命令を受けて言った。「楚君の外国の臣である至は、我が君の軍事に従い、楚君の威光によって時折甲冑を着けているため、正式に拝命できません。恐れながら、無事ではないことを申し上げます。君の命令を辱めることになりますが、戦いのため、使者に敬礼いたします」。そう言って三度使者に敬礼し退いた。 晋の韓厥は鄭伯を追撃した。彼の御者である杜溷羅が「急いで追いかけましょう。鄭伯の御者が何度も振り返り、馬に集中していません。追いつけます」と言った。韓厥は「国君を二度も辱めることはできない」と言い、追撃を止めた。郤至も鄭伯を追ったが、彼の車右である茀翰胡が「偵察車を迎え撃ちましょう。私が彼の車に乗り込み、鄭伯を捕虜にします」と進言した。郤至は「国君を傷つけることは刑罰に値する」と言い、これも止めた。石首が「衛の懿公は旗を降ろさなかったために熒で敗れた」と言い、旗を袋の中にしまった。唐苟は石首に「貴方は君の側にお仕えし、敗戦時には重大な責任がある。私は貴方には及ばない。貴方は君をお守りください。私はここで留まります」と言い、戦死した。 楚軍は険しい地形に追い詰められた。叔山冉が養由基に「たとえ君が命令しなくても、国のためには貴方は必ず射なければならない」と言った。養由基は二度射てば二人とも倒した。叔山冉は敵兵を捕まえて投げつけ、晋の戦車に命中させて手すりを折った。晋軍はそこで止まり、楚の公子茷を捕虜にした。欒鍼が子重の軍旗を見て、「楚の人はあの旗を子重の指揮旗だと言う。あれが子重に違いない。かつて私が楚に使者として行った時、子重が晋国の勇気について尋ねた。私は『兵を整然とさせることを好む』と答え、さらに尋ねられて『余裕を持つことを好む』と答えた。今両国は戦っているのに使者を遣わさないのは整然とは言えず、事に臨んで約束を果たさないのは余裕とは言えない。どうか代わりに酒を献上させてください」と申し出た。晋君が許したので、使者に酒器を持たせて子重の下に赴かせ、「我が君は人手が足りず、私を矛持ちとしております。そのため従者を労えませんので、代わりに酒を差し上げます」と伝えさせた。子重は「あの方はかつて楚で私に話したことがある。きっとこのことだ。よく覚えているな」と言い、酒を受け取って飲み、使者を解放して再び戦鼓を鳴らした。 【解説】 Translation took 4251.5 seconds. |
| 旦而戰。見星未已。子反命軍吏察夷傷。補卒乘。繕甲兵。展車馬。雞鳴而食。唯命是聽。晉人患之。苗賁皇徇曰。蒐乘補卒。秣馬利兵。脩陳固列。蓐食申禱。明日復戰。乃逸楚囚。王聞之。召子反謀。穀陽豎獻飲於子反。子反醉而不能見。王曰。天敗楚也夫。余不可以待。乃宵遁。晉入楚軍。三日穀。范文子立於戎馬之前。曰。君幼。諸臣不佞。何以及此。君其戒之。周書曰。惟命不于常。有德之謂。楚師還。及瑕。王使謂子反曰。先大夫之覆師徒者。君不在。子無以為過。不穀之罪也。子反再拜稽首曰。君賜臣死。死且不朽。臣之卒實奔。臣之罪也。子重復謂子反曰。初隕師徒者。而亦聞之矣。盍圖之。對曰。雖微先大夫有之。大夫命側。側敢不義。側亡君師。敢忘其死。王使止之。弗及而卒。戰之日。齊國佐。高無咎。至于師。衛侯出于衛。公出于壞隤。 宣伯通於穆姜。欲去季孟。而取其室。將行。穆姜送公。而使逐二子。公以晉難告。曰。請反而聽命。姜怒。公子偃。公子鉏。趨過指之曰。女不可。是皆君也。公待於壞隤。申宮儆備。設守而後行。是以後。使孟獻子守于公宮。 秋。會干沙隨。謀伐鄭也。宣伯使告郤犨曰。魯侯待于壞隤。以待勝者。郤犨將新軍。且為公族大夫。以主東諸侯。取貨于宣伯。而訴公于晉侯。晉侯不見公。曹人請于晉曰。自我先君宣公即位。國人曰。若之何。憂猶未弭。而又討我寡君。以亡曹國社稷之鎮公子。是大泯曹也。先君無乃有罪乎。若有罪。則君列諸會矣。君唯不遺德刑。以伯諸侯。豈獨遺諸敝邑。敢私布之。 |
夜明けに戦闘が始まり、星が見えるまでまだ終わらなかった。子反は軍吏に命じて負傷者を調べさせ、兵士と戦車を補充し、鎧と武器を整え、車馬を点検させた。鶏が鳴いてから食事をとり、命令に従うだけだった。晋軍はこれを憂慮した。苗賁皇が巡行して告げた。「兵車と兵士を集め、馬に餌を与え武器を研ぎ、陣形を整え列を固め、朝食前に祈禱を捧げよ。明日再戦するのだ」。そして楚の捕虜を逃がした。楚王はこれを聞き、子反を召して相談しようとした。穀陽堅が子反に酒を献上すると、子反は酔って面会できなかった。王は「天が楚を敗北させたのだろう。私はここに留まれない」と言い、夜のうちに撤退した。晋軍は楚軍に進入し、三日間穀物を食べた。范文子が兵車の前に立って言った。「君主は幼く、諸臣は才能がありません。どうしてここまでできたでしょうか。君主は戒めてください。周書に『天命は常ならず、徳ある者に与えられる』とあります」。楚軍が撤退して瑕地に着くと、王は子反に伝令を送った。「先大夫が軍団を全滅させた時、君主は現場におらず、子(あなた)に過失はない。これは私の罪だ」。子反は再拝して頭を地につけ、「君主が臣に死を賜るなら、死んでも朽ちません。私の兵士は実際に敗走しました。私の罪です」と答えた。子重が再び子反に「かつて軍団を失った者(先大夫)のことも聞いているだろう。どうするつもりか」と言うと、子反は「仮に先大夫がそうであったにせよ、大夫(子重)が私に命じられるなら、私は敢えて不義を働きません。私は君主の軍を失いました。死を忘れようなどと思いません」と答えた。王は止めさせようとしたが、間に合わず子反は死んだ。戦いの当日、齊の国佐と高無咎が軍に到着した。衛侯は衛を出発し、魯公は壞隤を出発した。 宣伯は穆姜と密通し、季孟を追い出してその領地を奪おうとした。出発しようとした時、穆姜は魯公を見送りながら、二人(季孟)を追放するよう命じた。魯公は晋の難事を理由に「戻ってから命令を聞きます」と言った。穆姜は怒った。公子偃と公子鉏が急ぎ足で通り過ぎるのを指さし、「あれらも皆、君となるべき者だ」と言った。魯公は壞隤で待機し、宮殿の警備を強化し、守備を配置してから出発した。そのため遅れた。孟献子を公宮の守備に就かせた。 秋、沙随で会合が開かれ、鄭討伐が謀られた。宣伯は郤犨に「魯侯は壞隤で待機し、勝者を待っている」と告げさせた。郤犨は新軍の将であり、公族大夫として東方諸侯を統括していた。宣伯から賄賂を受け取ると、晋侯に魯公を訴えた。晋侯は魯公と会わなかった。曹の人が晋に請願した。「我が先君宣公が即位して以来、国人は『どうすれば憂いが消えるか』と言っています。まだ憂いが去らないのに、さらに我が寡君を責め、曹国の守りである公子を失わせようとは、これは曹を滅ぼすことです。先君に罪があったのでしょうか?もし罪があるなら、君主は会盟に列せられなかったはずです。君主は徳と刑罰を漏らさず、諸侯の覇者となられたのです。どうしてただ我が国だけを漏らされるでしょうか。敢えて私見を申し上げます」。 解説: Translation took 2607.3 seconds. |
| 七月。公會尹武公。及諸侯伐鄭。將行。姜又命公如初。公又申守而行。諸侯之師。次于鄭西。我師次于督揚。不敢過鄭。子叔聲伯使叔孫豹請逆于晉師。為食於鄭郊。師逆以至。聲伯四日不食以待之。食使者。而後食。諸侯遷于制田。知武子佐下軍。以諸侯之師侵陳。至于鳴鹿。遂侵蔡未反。諸侯遷于潁上。戊午。鄭子罕宵軍之宋齊。衛皆失軍。曹人復請于晉。晉侯謂子臧。反。吾歸而君。子臧反。曹伯歸。子臧盡致其邑與卿。而不出。宣伯使告郤犨曰。魯之有季孟。猶晉之有欒范也。政令於是乎成。今其謀曰。晉政多門。不可從也。寧事齊楚。有亡而已。蔑從晉矣。若欲得志於魯。請止行父而殺之。我斃蔑也。而事晉。蔑有貳矣。魯不貳。小國必睦。不然。歸必叛矣。 九月。晉人執季文子于苕丘。公還。待于鄆。使子叔聲伯請季孫于晉。郤犨曰。苟去仲孫蔑而止季孫行父。吾與子國。親於公室。對曰。僑如之情。子必聞之矣。若去蔑與行父。是大棄魯國。而罪寡君也。若猶不棄。而惠徼周公之福。使寡君得事晉君。則夫二人者。魯國社稷之臣也。若朝亡之。魯必夕亡。以魯之密邇仇讎。亡而為讎。治之何及。郤犨曰。吾為子請邑。對曰。嬰齊。魯之常隸也。敢介大國。以求厚焉。承寡君之命以請。若得所請。吾子之賜多矣。又何求。范文子謂欒武子曰。季孫於魯。相二君矣。妾不衣帛。馬不食粟。可不謂忠乎。信讒慝而棄忠良。若諸侯何。子叔嬰齊奉君命無私。謀國家不貳。圖其身不忘其君。若虛其請。是棄善人也。子其圖之。乃許魯平。赦季孫。 |
七月、公(魯の成公)は尹武公と会合し、諸侯とともに鄭を討伐しようとした。出発しようとするとき、穆姜(成公の母)が再び前回と同じ命令(おそらく出兵中止の指示)を公に下した。公は守備を強化してから出発した。諸侯の軍は鄭の西に駐屯し、魯軍は督揚に駐屯したが、鄭を通り越すことを恐れた。子叔聲伯(魯の大夫)は叔孫豹を晋軍の迎え役として派遣し、鄭の郊外で食糧を準備させた。晋軍を迎えに行った部隊が到着するまで、聲伯は四日間食事をとらずに待ち、使者に食事を提供してから自分も食べた。諸侯軍は制田に移動し、知武子(晋の将軍)が下軍を補佐して諸侯軍を率い陳を侵攻し、鳴鹿まで進んだ。さらに蔡を侵攻したが戻らず、諸侯軍は潁上に移動した。戊午の日、鄭の子罕が夜襲をかけ、宋・斉・衛の軍は壊乱した。曹の人が晋に再び懇願すると、晋侯は子臧(曹の公子)に「戻ればお前の君(曹伯)を帰国させる」と言った。子臧が帰国すると曹伯は解放され、子臧は自分の領邑と卿の地位をすべて返上して隠居した。宣伯(魯の大夫)は郤犨(晋の卿)に「魯に季氏と孟氏がいるのは、晋に欒氏と范氏がいるようなものだ。政令は彼らによって成り立つ。今や彼らは『晋の政令は多家に分裂して従えない。寧ろ斉や楚に仕え、滅ぶ覚悟だ。晋には従わない』と謀っている。魯を手中に収めたいなら、季孫行父を拘束して殺せ。私(宣伯)が仲孫蔑を倒せば、魯は晋に仕え、蔑に二心はない。魯が従えば小国も必ず和する。さもなければ、帰国すれば必ず叛く」と告げさせた。 九月、晋は苕丘で季文子(季孫行父)を拘束した。魯公は帰国途中に鄆で待機し、子叔聲伯を晋に派遣して季孫の解放を求めた。郤犨は「仲孫蔑を追放し季孫行父を拘束するなら、お前に魯の政権を与え、公室よりも厚遇しよう」と言った。聲伯は「僑如(宣伯)の内情はご存じでしょう。蔑と行父を除けば、魯国を見捨て寡君(魯公)を罪に落とすことだ。もし魯を見捨てず、周公の福を恵んで寡君が晋に仕えられるなら、この二人は魯の社稷を支える臣である。朝に彼らを失えば、魯は夕に滅ぶ。魯が仇敵の国に近いことを考えれば、滅びて敵となれば手遅れだ」と答えた。郤犨が「領邑を授けよう」と言うと、聲伯は「私は魯の卑しい臣下に過ぎず、大国に頼んで厚遇を求めるなど恐れ多い。寡君の命でお願いしている。願いが叶えばそれで十分だ」と断った。范文子が欒武子に「季孫は魯で二代の君を補佐し、妾は絹を着ず、馬は穀物を食べない。忠臣と言えるではないか。讒言を信じて忠良を棄てれば、諸侯はどう思うか。子叔嬰齊(聲伯)は私心なく君命を奉じ、国を謀り二心なく、自身を図りつつ君を忘れない。彼の願いを退ければ善人を棄てるだ」と言い、遂に魯との和議を許し季孫を赦した。 解説: Translation took 2824.3 seconds. |
| 冬。十月。出叔孫僑如而盟之。僑如奔齊。 十二月。季孫及郤犨盟于扈。歸刺公子偃。召叔孫豹于齊而立之。齊聲孟子通僑如。使立於高國之閒。僑如曰。不可以再罪。奔衛。亦閒於卿。晉侯使郤至獻楚捷于周。與單襄公語。驟稱其伐。單子語諸大夫曰。溫季其亡乎。位於七人之下。而求掩其上。怨之所聚。亂之本也。多怨而階亂。何以在位。夏書曰。怨豈在明。不見是圖。將慎其細也。今而明之。其可乎。 成公十七年 經 十有七年春。衛北宮括帥師侵鄭。 夏。公會尹子。單子。晉侯。齊侯。宋公。衛侯。曹伯。邾人。伐鄭。 六月。乙酉。同盟于柯陵。 秋。公至自會。齊高無咎出奔莒。 九月。辛丑。用郊。晉侯使荀罃來乞師。 冬。公會單子。晉侯。宋公。衛侯。曹伯。齊人。邾人。伐鄭。十有一月。公至自伐鄭。壬申。公孫嬰卒于貍脤。十有二月丁已朔。日有食之。邾子貜且卒。晉殺其大夫郤錡。郤犨。郤至。楚人滅舒庸。 傳 十七年春。王正月。鄭子駟侵晉虛滑。衛北宮括救晉侵鄭。至于高氏。 夏。五月。鄭大子髡。頑侯獳。為質於楚。楚公子成。公子寅。戍鄭。公會尹武公。單襄公。及諸侯伐鄭。自戲童至于曲洧。晉范文子反自鄢陵。使其祝宗祈死曰。君驕侈而克敵。是天益其疾也。難將作矣。愛我者唯祝我使我速死。無及於難。范氏之福也。 |
【翻訳文】 十二月、季孫と郤犨が扈で盟約を結んだ。(魯では)公子偃を殺害し、叔孫豹を斉から召し出して後継者に立てた。斉の声孟子が僑如と密通し、高氏と国氏の間に地位を与えようとした。僑如は「二度目の罪を犯すわけにはいかない」と言い、衛へ逃亡した。そこでも卿の地位を得た。 晋侯が郤至を使者として楚での戦勝を周に報告させた。郤至が単襄公と会話した際、頻繁に自分の功績を自慢した。単子は大夫たちに「温季(郤至)はまもなく滅びるだろう。七人の下位にありながら、上位を凌ごうとする。怨みが集中すれば乱の根源となる。多くの怨みを買いながら乱の階段を上る者が、どうして地位を保てようか。『夏書』に『怨みは明らかなところだけにあるのではない。目に見えないものを考慮せよ』とある。細かいことを慎重に扱うべきなのに、今や公然と誇示するなど許されない」と語った。 成公十七年 十七年春、衛の北宮括が軍を率いて鄭を侵攻した。 伝(詳細な記述) 十七年春、周暦正月、鄭の子駟が晋の虚・滑を侵攻。衛の北宮括が晋を救援し鄭を攻め、高氏まで進軍。 【解説】
この時期、晋では郤氏一族が権勢を誇るもまもなく粛清され、楚と中原諸侯の対立が続くなど、春秋時代中期の過渡期的状況が窺えます。 Translation took 2177.3 seconds. |
| 六月。戊辰。士燮卒。乙酉。同盟于柯陵。尋戚之盟也。楚子重救鄭師于首止。諸侯還。齊慶克通于聲孟子。與婦人蒙衣乘輦。而入于閎。鮑牽見之。以告國武子。武子召慶克而謂之。慶克久不出。而告夫人曰。國子謫我。夫人怒。國子相靈公以會高鮑。處守及還。將至。閉門而索客。孟子訴之曰。高鮑將不納君而立公子角。國子知之。 秋。七月。壬寅。刖鮑牽而逐高無咎。無咎奔莒。高弱以盧叛。齊人來召鮑國而立之。初。鮑國去鮑氏而來。為施孝叔臣。施氏卜宰。匡句須吉。施氏之宰。有百室之邑與匡句須邑。使為宰以讓鮑國而致邑焉。施孝叔曰。子實吉。對曰。能與忠良。吉孰大焉。鮑國相施氏忠。故齊人取以為鮑氏。後仲尼曰。鮑莊子之知不如葵。葵猶能衛其足。 冬。諸侯伐鄭。 十月。庚午。圍鄭。楚公子申救鄭。師于汝上。 十一月。諸侯還。初。聲伯夢涉洹。或與己瓊瑰食之。泣而為瓊瑰。盈其懷。從而歌之曰。濟洹之水。贈我以瓊瑰。歸乎歸乎。瓊瑰盈吾懷乎。懼不敢占也。還自鄭。壬申。至于貍脤而占之。曰。余恐死。故不敢占也。今眾繁而從余三年矣。無傷也。言之之莫而卒。齊侯使崔杼為大夫。使慶克佐之。帥師圍盧。國佐從諸侯圍鄭。以難請而歸。遂如盧師。殺慶克以穀叛。齊侯與之盟于徐關而復之。 |
六月、戊辰の日に、士燮が亡くなった。乙酉の日に、柯陵で同盟が結ばれた。これは戚での同盟を再確認するためであった。楚の子重が首止で鄭軍を救援した。諸侯軍は撤退した。斉の慶克が声孟子と密通しており、女性と共に衣で覆って輦に乗り、閎門に入っていった。鮑牽がこれを見て、国武子に報告した。武子が慶克を呼び出して諭した。慶克は長く外出せず、夫人(声孟子)に「国子が私を責めました」と告げた。夫人は怒った。国子は霊公に付き添って会盟に参加し、高氏と鮑氏が留守を守っていた。帰還途中、城門に近づくと、門を閉めて通行人を検問した。孟子(声孟子)が「高氏と鮑氏は君を受け入れず、公子角を立てようとしている。国子はそれを知っている」と訴えた。 秋七月、壬寅の日に、鮑牽は足を切る刑に処され、高無咎は追放された。無咎は莒に逃れた。高弱は盧で反乱を起こした。斉人が鮑国を召し出して後継ぎとした。当初、鮑国は鮑氏を離れて来て、施孝叔の家臣となっていた。施氏が家宰を占ったところ、匡句須が吉と出た。施氏の家宰は百戸の邑を与えられる地位だったが、匡句須は邑を辞退して鮑国に家宰の座を譲った。施孝叔が「あなたが本当に吉だ」と言うと、匡句須は「忠良な人物に譲ることほど吉はありません」と答えた。鮑国は施氏に忠実に仕えたため、斉人が彼を鮑氏の後継ぎに迎えた。後に孔子は「鮑莊子(鮑牽)の知恵は葵にも及ばない。葵ですら自分の足を守れるのに」と評した。 冬、諸侯軍は鄭を攻撃した。十月庚午の日に鄭を包囲した。楚の公子申が鄭を救援し、汝水のほとりに軍を駐屯させた。十一月、諸侯軍は撤退した。当初、声伯は洹水を渡る夢を見て、誰かが自分に瓊瑰(玉の首飾り)を食べさせた。泣くと涙が瓊瑰になり、胸いっぱいに溢れた。続いて歌が聞こえた。「洹水の流れよ、瓊瑰を私は贈られる。帰ろう、帰ろう、瓊瑰が私の胸に溢れるよ」。声伯は恐れて占わなかった。鄭からの帰途、壬申の日に貍脤に着いて占った。「私は死を恐れて占わなかったが、今は多くの従者が三年も付き従っている。問題はない」。その夜、声伯はこの夢を語り、そのまま亡くなった。斉侯は崔杼を大夫とし、慶克を補佐として盧包囲軍を指揮させた。国佐は諸侯軍と共に鄭を包囲していたが、国内の難事を理由に帰国を請い、盧の軍営に赴いて慶克を殺し、穀で反乱を起こした。斉侯は徐関で国佐と盟を結び、地位を回復させた。 【解説】 Translation took 2243.4 seconds. |
| 十二月。盧降。使國勝告難于晉。待命于清。晉厲公侈。多外嬖。反自鄢陵。欲盡去群大夫而立其左右。胥童以胥克之廢也。怨郤氏。而嬖於厲公。郤錡奪夷陽五田。五亦嬖於厲公。郤犨與長魚矯爭田。執而梏之。與其父母妻子同一轅。既矯。亦嬖於厲公。欒書怨郤至。以其不從己而敗楚師也。欲廢之。使楚公子茷告公曰。此戰也。郤至實召寡君。以東師之未至也。與軍帥之不具也。曰此必敗。吾因奉孫周以事君。公告欒書。書曰。其有焉。不然。豈其死之不恤。而受敵使乎。君盍嘗使諸周而察之。郤至聘于周。欒書使孫周見之。公使覘之信。遂怨郤至。厲公田。與婦人先殺而飲酒。後使大夫殺。郤至奉豕。寺人孟張奪之。郤至。射而殺之。公曰。季子欺余。厲公將作難。胥童曰。必先三郤。族大多怨。去大族不偪。敵多怨有庸。公曰。然郤氏聞之。郤錡欲攻公。曰雖死。君必危。郤至曰。人所以立。信知勇也。信不叛君。知不害民。勇不作亂。失茲三者。其誰與我。死而多怨。將安用之。君實有臣而殺之。其謂君何。我之有罪。吾死後矣。若殺不辜。將失其民。欲安得乎。待命而已。受君之祿。是以聚黨。有黨而爭命。罪孰大焉。壬午。胥童。夷羊五。帥甲八百。將攻郤氏。長魚矯請無用眾。公使清沸魋助之。抽戈結衽而偽訟者。三郤將謀於榭。矯以戈殺駒伯苦成叔於其位。溫季曰。逃威也。遂趨。矯及諸其車。以戈殺之。皆尸諸朝。胥童以甲劫欒書中行偃於朝。矯曰。不殺二子。憂必及君。公曰。一朝而尸三卿。余不忍益也。對曰。人將忍君。臣聞亂在外為姦。在內為軌。御姦以德。御軌以刑。不施而殺。不可謂德。臣偪而不討。不可謂刑。德刑不立。姦軌並至。臣請行。遂出奔狄。公使辭於二子曰。寡人有討於郤氏。郤氏既伏其辜矣。大夫無辱。其復職位。皆再拜稽首曰。君討有罪而免臣於死。君之惠也。二臣雖死。敢忘君德。乃皆歸。公使胥童為卿。公遊于匠麗氏。欒書。中行偃。遂執公焉。召士匄。士匄辭。召韓厥。韓厥辭。曰。昔吾畜於趙氏。孟姬之讒。吾能違兵。古人有言曰。殺老牛莫之敢尸。而況君乎。二三子不能事君。焉用厥也。舒庸人以楚師之敗也。道吳人圍巢。伐駕。圍釐虺。遂恃吳而不設備。楚公子橐師襲舒庸。滅之。 |
十二月、盧が降伏した。国勝を晋に派遣して危難を報告させ、清で命令を待たせた。晋の厲公は贅沢で、外部の寵臣が多かった。鄢陵から戻ると、すべての大夫を排除して自分の側近だけを登用しようとした。胥童は胥克が罷免されたことで郤氏を恨んでおり、厲公の寵愛を受けていた。郤錡が夷陽五の田畑を奪ったが、夷陽五も厲公の寵臣だった。郤犨は長魚矯と田畑を争い、彼を拘束して手枷をはめ、父母と妻子を同じ車轅に縛り付けた。その後、長魚矯も厲公の寵臣となった。欒書は郤至を恨んでいた。なぜなら郤至が自分の意見に従わずに楚軍を打ち破ったからである。欒書は郤至を失脚させようとし、楚の公子茷を使いに出して厲公に告げさせた。「この戦いでは、郤至が実は我が君(楚王)を招き寄せました。東方の軍勢がまだ到着しておらず、軍の指揮官も揃っていないのを見て、『これは必ず敗れる』と言い、私は孫周(後の晋の悼公)を奉じて君に仕えようと考えたのです」。厲公が欒書にこの話をすると、欒書は言った。「そういうこともあったかもしれません。そうでなければ、どうして死を恐れず、敵の使者を受け入れるでしょうか。君はなぜ周へ使者を送って確かめないのですか」。郤至が周に聘問した時、欒書は孫周に会わせた。厲公が偵察させるとその通りだったので、郤至を恨むようになった。厲公が狩りをし、婦人と先に獲物を射止めて酒を飲んだ後、大夫たちに狩りをさせた。郤至が猪を献上すると、寺人(宦官)の孟張がそれを奪った。郤至は孟張を射て殺した。厲公は「季子(郤至)は私を欺いている」と言った。厲公が難を起こそうとすると、胥童は言った。「必ずまず三郤(郤錡・郤犨・郤至)を除くべきです。一族が大きく怨みが多い。大族を除けば圧迫されず、敵が多く怨みがあれば成功しやすい」。厲公は「そうだ」と言った。郤氏がこれを聞くと、郤錡は公を攻撃しようと言った。「たとえ死んでも、君は必ず危うくなる」。郤至は言った。「人が立つのは、信義・知恵・勇気による。信義は君に背かず、知恵は民を害さず、勇気は乱を起こさない。この三つを失えば、誰が私に従うだろうか。死んで多くの怨みを買うなら、何の役に立つのか。君が実臣を殺せば、君はどう言われるか。私に罪があるなら、私は遅かれ早かれ死ぬ。罪のない者を殺せば、民の心を失い、どうして安泰でいられようか。命令を待つだけだ。君の禄を受けて、徒党を組んでいる。徒党を組んで命令に逆らう罪より大きい罪があろうか」。壬午の日、胥童と夷羊五が甲士八百を率いて郤氏を攻めようとした。長魚矯は兵士を使わないよう請い、厲公は清沸魋を助けさせた。長魚矯は戈を抜き衽を結んで偽りの争いをするふりをした。三郤が台で謀議しているところを、長魚矯は戈で駒伯(郤錡)と苦成叔(郤犨)をその場で殺した。温季(郤至)は「威を逃れよう」と言って走り出たが、長魚矯は車まで追いかけ、戈で殺した。三人の屍を朝廷に晒した。胥童は甲士で欒書と中行偃を朝廷で脅した。長魚矯は「二人を殺さなければ、憂いは必ず君に及びます」と言った。厲公は「一朝にして三卿の屍を晒したのに、これ以上増やすのは忍びない」と言った。長魚矯は「他人が君を忍びなく思うでしょう。乱が外にあれば姦、内にあれば軌(き)と言います。姦には徳で臨み、軌には刑で臨みます。刑を施さずに殺すのは徳とは言えず、臣が迫っても討たないのは刑とは言えません。徳と刑が立たなければ、姦と軌が同時に来ます。私は去ります」と言い、狄へ出奔した。厲公は二人(欒書と中行偃)に使いを送って言った。「寡人は郤氏を討った。郤氏は既に罪を伏せた。大夫は辱めを受けることはない。職位に戻れ」。二人は再拝して頭を地に付け、「君が罪を討ち、臣を死から免じるのは君の恵みです。二臣は死んでも君の徳を忘れません」と言い、帰った。厲公は胥童を卿とした。厲公が匠麗氏のところへ遊びに行くと、欒書と中行偃は公を捕らえた。士匄を召したが辞退し、韓厥を召したが辞退した。「昔、私は趙氏に養われ、孟姬の讒言の時、兵を避けました。古人の言葉に、老牛を殺す者もその屍を扱う者はおらず、まして君においてはどうでしょうか。二三子(欒書ら)が君に仕えられないなら、私を使う必要はありません」。舒庸人は楚軍の敗れを機に、吳人を導いて巢を包囲し、駕を攻め、釐虺を包囲した。そして吳を頼んで備えをしなかった。楚の公子橐師が舒庸を襲撃して滅ぼした。 解説:この一節は、春秋時代の晋国内で起きた権力闘争を描いています。厲公が側近を重用して旧臣を排除しようとしたことから、郤氏一族が滅ぼされ、その後欒書らによって厲公が捕らえられるという流れです。人物関係が複雑で、怨恨や権謀が絡み合い、最終的に君主が失脚する過程が示されています。特に「信・知・勇」という郤至の言葉は、当時の士大夫の倫理観を表す重要な台詞です。また、舒庸のエピソードは晋の内乱と並行する国際情勢を伝え、楚と吳の対立も背景にあります。 Translation took 3532.3 seconds. |
| 閏月。乙卯。晦。欒書中行偃殺胥童。民不與郤氏。胥童道君為亂。故皆書曰。晉殺其大夫。 成公十八年 經 十有八年春。王正月。晉殺其大夫胥童。庚申。晉弒其君州蒲。齊殺其大夫國佐。公如晉。 夏。楚子。鄭伯。伐宋。宋魚石復入于彭城。公至自晉。晉侯使士匄來聘。 秋。杞伯來朝。 八月。邾子來朝。築鹿囿。己丑。公薨于路寢。 冬。楚人鄭人侵宋。晉侯使士魴來乞師。 十有二月。仲孫蔑會晉侯。宋公。衛侯。邾子。齊崔杼。同盟于虛朾。丁未。葬我君成公。 傳 十八年春。王正月。庚申。晉欒書。中行偃。使程滑弒厲公。葬之于翼東門之外。以車一乘。使荀罃。士魴。逆周子于京師而立之。生十四年矣。大夫逆于清原。周子曰。孤始願不及此。雖及此。豈非天乎。抑人之求君。使出命也。立而不從將安用君。二三子用我今日。否亦今日。共而從君。神之所福也。對曰。群臣之願也。敢不唯命是聽。庚午。盟而入。館于伯子同氏辛巳。朝于武宮。逐不臣者七人。周子有兄而無慧。不能辨菽麥。故不可立。齊為慶氏之難故。甲申晦。齊侯使士華免以戈殺國佐于內宮之朝。師逃于夫人之宮。書曰。齊殺其大夫國佐。棄命專殺。以穀叛故也。使清人殺國勝。國弱來奔。王湫奔萊。慶封為大夫。慶佐為司寇。既。齊侯反國弱。使嗣國氏。禮也。 |
【翻訳文】 成公十八年 十八年春、周王朝の正月、晋がその大夫胥童を殺した。庚申の日、晋でその君主州蒲が弑殺された。斉がその大夫国佐を殺した。成公が晋へ赴いた。 夏、楚子と鄭伯が宋を討った。宋の魚石が彭城に再び入った。成公が晋から帰国した。晋侯が士匄を派遣して来訪した。 秋、杞伯が来朝した。 八月、邾子が来朝した。鹿囿を築造した。己丑の日、成公が路寝で逝去した。 冬、楚人と鄭人が宋を侵攻した。晋侯が士魴を派遣して援軍を要請した。 十二月、仲孫蔑が晋侯・宋公・衛侯・邾子・斉の崔杼と会合し、虚朾で同盟を結んだ。丁未の日、我が君成公を葬った。 伝(詳細叙述) 十八年春、周王朝の正月庚申の日、晋の欒書と中行偃が程滑に命じて厲公を弑殺させ、翼の東門の外に車一乗だけを用いて葬った。荀罃と士魴を京師に派遣し、周子を迎えて君主に立てた。周子は十四歳であった。大夫たちが清原で出迎えると、周子は言った。「孤(私)は最初このような地位を望んでおらず、たとえこうなったとしても、天意ではないか。そもそも人々が君主を求めるのは、命令を出すためである。立てられながら従わないなら、君主を何に用いるというのか。諸君が私を用いるのは今日、用いないのも今日だ。共に君として従うなら、神の祝福を得よう」。大夫たちは「群臣の願いです。命に従わないはずがございません」と答えた。庚午の日、盟約を結んで国都に入り、伯子同氏の館に宿泊した。辛巳の日、武宮で朝礼を行い、臣下としてふさわしくない者七人を追放した。周子には兄がいたが知恵がなく、豆と麦の区別もつかなかったため、君主に立てられなかったのである。 斉では慶氏の禍乱があったため、甲申の晦の日、斉侯が士華免に命じて戈で国佐を内宮の朝廷で殺害させた。軍士たちは夫人の宮殿に逃げ込んだ。記録には「斉がその大夫国佐を殺す」とある。命令を放棄して専断で殺戮を行い、穀で反乱を起こしたためである。清の人々に国勝を殺害させ、国弱は魯へ逃亡してきた。王湫は萊に逃れた。慶封は大夫に、慶佐は司寇に任じられた。後に斉侯は国弱を帰国させ、国氏の後継ぎとさせた。これは礼に適った処置である。 【解説】
前文(成公十七年)で勃発した晋国内乱(郤氏滅亡・胥童の台頭)の結末として、権力の再集中過程を記す過渡期的な章段と言えるでしょう。 Translation took 2614.0 seconds. |
| 二月。乙酉朔。晉侯悼公即位于朝。始命百官。施舍己責。逮鰥寡。振廢滯。匡乏困。救災患。禁淫慝。薄賦斂。宥罪戾。節器用。時用民。欲無犯。時使魏相。士魴。魏頡。趙武為卿。荀家。荀會。欒黶。韓無忌為公族大夫。使訓卿之子弟。共儉孝弟。使士渥濁為大傅。使脩范武子之法。右行辛為司空。使脩士蒍之法。弁糾御戎。校正屬焉。使訓諸御知義。荀賓為右。司士屬焉。使訓勇力之士。時使卿無共御。立軍尉以攝之。祁奚為中軍尉。羊舌職佐之。魏絳為司馬。張老為候奄。鐸遏寇為上軍尉。籍偃為之司馬。使訓卒乘。親以聽命。程鄭為乘馬御。六騶屬焉。使訓群騶知禮。凡六官之長。皆民譽也。舉不失職。官不易方。爵不踰德。師不陵正。旅不偪師。民無謗言。所以復霸也。公如晉。朝嗣君也。 夏。六月。鄭伯侵宋。及曹門外。遂會楚子伐宋。取朝郟。楚子辛。鄭皇辰。侵城郜。取幽丘。同伐彭城。納宋魚石。向為人。鱗朱。向帶。魚府焉。以三百乘戍之而還。書曰復入。凡去其國。國逆而立之曰入。復其位曰復歸。諸侯納之曰歸。以惡曰復入。宋人患之。西鉏吾曰。何也。若楚人與吾同惡。以德於我。吾固事之也。不敢貳矣。大國無厭。鄙我猶憾。不然。而收吾憎。使贊其政。以間吾釁。亦吾患也。今將崇諸侯之姦。而披其地。以塞夷庚。逞姦而攜服。毒諸侯而懼吳晉。吾庸多矣。非吾憂也。且事晉何為。晉必恤之。公至自晉。晉范宣子來聘。且拜朝也。君子謂晉於是乎有禮。 |
二月、乙酉の朔日、晋侯の悼公が朝廷で即位した。百官に初めて命じ、施しを与えて負債を免除し、鰥寡(やもめや孤独)にまで及び、廃れた官職を復活させ、困窮者を救済し、災害や患難を救助し、淫らな行いを禁じ、税収を軽減し、罪過を寬恕し、器物の使用を節約し、民力を適時に用いて犯すことのないようにした。時に魏相・士魴・魏頡・趙武を卿に任命し、荀家・荀会・欒黶・韓無忌を公族大夫とし、卿の子弟を訓導して恭倹・孝悌の道を学ばせた。士渥濁を太傅として范武子の法を修めさせ、右行辛を司空として士蒍の法を修めさせた。弁糾を御戎(戦車の御者)とし、校正をその属官として、諸々の御者に義を知るよう訓導させた。荀賓を車右とし、司士をその属官として、勇力の士を訓導させた。時に卿に共同の御者を置かず、軍尉を立ててこれを統括させた。祁奚を中軍尉とし、羊舌職をその補佐とし、魏絳を司馬とし、張老を候奄とし、鐸遏寇を上軍尉とし、籍偃をその司馬として、兵卒と車乗を訓導し、親しく命令に従うようにさせた。程鄭を乗馬御とし、六騶(馬車の御者集団)をその属官として、群騶に礼を知るよう訓導させた。六官の長はすべて民望の高い者を起用し、推挙は職務に適い、官職は方針を変えず、爵位は德行を超えず、師(軍団長)は正(師の上級)を凌がず、旅(師の下級)は師を圧迫せず、民に謗る言葉がなかった。これが晋が再び覇権を回復した所以である。公(魯の君主)が晋に赴き、新君に朝見した。 夏、六月、鄭伯が宋を侵し、曹門の外に至り、続いて楚子と会して宋を伐ち、朝郟を占領した。楚の子辛と鄭の皇辰が城郜を侵し、幽丘を占領し、共同で彭城を攻撃し、宋の魚石・向為人・鱗朱・向帯・魚府をそこに送り込んだ。三百乗の兵車で守備させて帰還した。経文に「復入」と記す。凡そ国を去た者に対し、国が迎えて立てることを「入」といい、その位を回復することを「復帰」といい、諸侯が送り込むことを「帰」といい、悪意をもって行うことを「復入」という。宋人はこれを憂えた。西鉏吾が言った。「何を憂えることがあろうか。もし楚人が我々と同じく(魚石らを)憎むなら、我々に恩恵を与えるためであり、我々は固より彼らに仕えて二心を抱かない。大国(楚)は飽くことを知らず、我々を辺境と見做してもまだ不足に思う。そうでなければ、我々が憎む者(魚石ら)を受け入れて、その政務を補佐させ、我々の隙を伺わせるのもまた我々の憂いである。今、諸侯の奸臣(魚石ら)を尊び、その地を割いて夷庚(交通路)を塞ぎ、奸を逞しくして服属国を離反させ、諸侯を毒し、吳と晋を脅かす。我々の利益は多い。我々の憂いではない。かつて晋に仕えるのは何のためか。晋は必ず我々を憐れむだろう。」公が晋から帰国した。晋の范宣子が来聘し、かつ朝見の礼を答礼した。君子は晋がこのように礼を有すると評した。 【解説】 Translation took 2788.1 seconds. |
| 秋。杞桓公來朝。勞公。且問晉故。公以晉君語之。杞伯於是驟朝于晉。而請為昏。 七月。宋老佐。華喜。圍彭城。老佐卒焉。八月。邾宣公來朝。即位而來見也。築鹿囿。書不時也。己丑。公薨于路寢。言道也。 冬‧十一月。楚子重救彭城伐宋。宋華元如晉告急。韓獻子為政。曰。欲求得人。必先勤之。成霸安彊。自宋始矣。晉侯師于台谷以救宋。遇楚師于靡角之谷。楚師還。晉士魴來乞師。季文子問師數於臧武仲。對曰。伐鄭之役。知伯實來。下軍之佐也。今彘季亦佐下軍。如伐鄭可也。事大國無失班爵。而加敬焉禮也。從之。 十二月。孟獻子會于虛朾。謀救宋也。宋人辭諸侯。而請師以圍彭城。孟獻子請于諸侯而先歸會葬。丁未。葬我君成公。書順也。 |
秋、杞の桓公が来朝し、公を慰労し、かつ晋の事情を問うた。公は晋君の様子を彼に話した。杞伯はそこでたびたび晋に朝見し、婚姻関係を結ぶことを請うた。 七月、宋の老佐と華喜が彭城を包囲した。老佐はそこで死去した。八月、邾の宣公が来朝した。即位して来朝したのである。鹿囿を築いた。時期を外しているので記録した。己丑の日、公が路寝で逝去した。これは正常な終焉を意味する。 冬十一月、楚の子重が彭城を救援し宋を討った。宋の華元が晋に赴き急を告げた。韓献子が政務を執り、「人材を得ようとすれば、必ずまず彼らを労わねばならない。霸業を成し強国を安定させるのは、宋から始まるのだ」と言った。晋侯は台谷に軍を駐屯させて宋を救援し、靡角の谷で楚軍と遭遇した。楚軍は撤退した。晋の士魴が援軍を請いに来た。季文子が臧武仲に出兵規模を問うと、彼は答えて言った、「鄭討伐の役では、知伯が実際に来ましたが、彼は下軍の副将でした。今の彘季も下軍の副将ですから、鄭討伐と同じ規模でよいでしょう。大国に仕えるには爵位の序列を乱さず、敬意を加えるのが礼です」。これに従った。 十二月、孟献子が虚朾で会合し、宋救援を謀った。宋人は諸侯の直接出兵を辞退し、代わりに彭城包囲のための兵力提供を請うた。孟献子は諸侯に請願して先に帰国し、葬儀に参列した。丁未の日、我が君成公を葬った。記録は順当である。 解説: 全体として、晋を中心とした秩序維持の努力と、楚の台頭による緊張が、各国の駆け引きを通して生き生きと描かれています。 Translation took 1743.5 seconds. |
| input text ../document/春秋左氏傳\09_春秋左氏傳_襄公.txt | 現代日本語 translated text |
| 春秋左氏傳 襄公 襄公元年 經 元年春.王正月.公即位.仲孫蔑會晉欒黶.宋華元.衛甯殖.曹人.莒人.邾人.滕人.宋人.薛人.圍宋彭城. 夏.晉韓厥帥師伐鄭.仲孫蔑會齊崔杼.曹人.邾人.杞人.次于鄫. 秋.楚公子壬夫帥師侵宋. 九月.辛酉.天王崩.邾子來朝. 冬.衛侯使公孫剽來聘.晉侯使荀罃來聘. 傳 元年春.己亥.圍宋彭城.非宋地.追書也.於是為宋討魚石.故稱宋.且不登叛人也.謂之宋志.彭城降晉.晉人以宋五大夫在彭城者歸.寘諸瓠丘.齊人不會彭城.晉人以為討.二月.齊大子光為質於晉. 夏.五月.晉韓厥.荀偃.帥諸侯之師伐鄭.入其郛.敗其徒兵於洧上.於是東諸侯之師.次于鄫以待晉師.晉師自鄭.以鄫之師侵楚焦夷.及陳.晉侯.衛侯.次于戚.以為之援. 秋.楚子辛救鄭.侵宋呂留.鄭子然侵宋.取犬丘. 九月.邾子來朝.禮也. 冬.衛子叔.晉知武子.來聘.禮也.凡諸侯即位.小國朝之.大國聘焉.以繼好結信.謀事補闕.禮之大者也. 襄公二年 經 二年春.王正月.葬簡王.鄭師伐宋. 夏.五月.庚寅.夫人姜氏薨. 六月.庚辰.鄭伯睔卒.晉師.宋師.衛甯殖.侵鄭. 秋.七月.仲孫蔑會晉荀罃.宋華元.衛孫林父.曹人.邾人.于戚.己丑.葬我小君齊姜.叔孫豹如宋. |
翻訳文襄公元年経 元年の春、周の正月、公(襄公)が即位した。仲孫蔑が晋の欒黶、宋の華元、衛の甯殖、曹の人、莒の人、邾の人、滕の人、宋の人、薛の人と会し、宋の彭城を包囲した。 夏、晋の韓厥が軍を率いて鄭を討った。仲孫蔑が齊の崔杼、曹の人、邾の人、杞の人と会し、鄫に駐屯した。 秋、楚の公子壬夫が軍を率いて宋に侵攻した。 九月辛酉の日、天王(周の簡王)が崩御した。邾子(邾の君主)が来朝した。 冬、衛侯が公孫剽を派遣して来聘(訪問)させた。晋侯が荀罃を派遣して来聘させた。 伝 元年の春、己亥の日、宋の彭城を包囲した。彭城はもはや宋の領地ではなかったが、過去の事件として追記したのである。この時は宋のために魚石を討つためであったので、宋と称した。かつ叛逆者を登用しないという意思を示し、これを宋の意志と称した。彭城は晋に降伏した。晋人は彭城にいた宋の五大夫(魚石ら)を連れ帰り、瓠丘に置いた。齊人が彭城の会合に参加しなかったため、晋人はこれを非難した。二月、齊の太子光が晋に人質となった。 夏の五月、晋の韓厥と荀偃が諸侯の軍を率いて鄭を討ち、その外城に入り、洧水の畔でその歩兵を破った。この時、東方諸侯の軍は鄫に駐屯して晋軍を待った。晋軍は鄭から、鄫の軍を率いて楚の焦夷を侵し、陳にまで及んだ。晋侯と衛侯は戚に駐屯し、これを支援した。 秋、楚の子辛が鄭を救援し、宋の呂留を侵した。鄭の子然が宋を侵し、犬丘を奪取した。 九月、邾子が来朝した。これは礼に適っていた。 冬、衛の子叔(公孫剽)と晋の知武子(荀罃)が来聘した。これも礼に適っていた。凡そ諸侯が即位する時、小国は朝見し、大国は聘問する。よしみを継ぎ信義を結び、事を謀り欠けたるを補うのは、礼の大なるものである。 襄公二年経 二年の春、周の正月、簡王を葬った。鄭軍が宋を討った。 夏の五月庚寅の日、夫人姜氏が逝去した。 六月庚辰の日、鄭伯睔が卒去した。晋軍、宋軍、衛の甯殖が鄭を侵した。 秋の七月、仲孫蔑が晋の荀罃、宋の華元、衛の孫林父、曹の人、邾の人と戚で会合した。己丑の日、我が小君(君主の夫人)齊姜を葬った。叔孫豹が宋へ赴いた。 解説この一節は、魯の襄公の治世初期(紀元前572年~前571年)の国際情勢を詳細に描いています。前年の成公の死と彭城包囲の続きから始まり、晋を中心とした秩序再編の動きが焦点です。 主な歴史的意義: 人物関係の特徴: この時期は、晋・楚の争いが小康状態に入りつつも、地方レベルで緊張が続く過渡期として位置づけられ、襄公時代の国際政治の基調をなす出来事が凝縮されています。 Translation took 3886.4 seconds. |
| 冬.仲孫蔑會晉荀罃.齊崔杼.宋華元.衛孫林父.曹人.邾人.滕人.薛人.小邾人.于戚.遂城虎牢.楚殺其大夫公子申. 傳 二年春.鄭師侵宋.楚令也.齊侯伐萊.萊人使正輿子.賂夙沙衛以索馬牛.皆百匹.齊師乃還.君子是以知齊靈公之為靈也. 夏.齊姜薨.初.穆姜使擇美檟.以自為櫬.與頌琴.季文子取以葬.君子曰.非禮也.禮無所逆.婦養姑者也.虧姑以成婦.逆莫大焉.詩曰.其惟哲人.告之話言.順德之行.季孫於是為不哲矣.且姜氏.君之妣也.詩曰.為酒為醴.烝畀祖妣.以洽百禮.降福孔偕.齊侯使諸姜宗婦來送葬.召萊子.萊子不會.故晏弱城東陽以偪之.鄭成公疾.子駟請息肩於晉.公曰.楚君以鄭故.親集矢於其目.非異人任.寡人也.若背之.是棄力與言.其誰暱我.免寡人.唯二三子. 秋.七月.庚辰.鄭伯睔卒.於是子罕當國.子駟為政.子國為司馬.晉師侵鄭.諸大夫欲從晉.子駟曰.官命未改.會于戚.謀鄭故也.孟獻子曰.請城虎牢以偪鄭.知武子曰.善鄫之會.吾子聞崔子之言.今不來矣.滕薛小邾之不至.皆齊故也.寡君之憂.不唯鄭.罃將復於寡君.而請於齊.得請而告.吾子之功也.若不得請.事將在齊.吾子之請.諸侯之福也.豈唯寡君賴之.穆叔聘于宋.通嗣君也. |
冬、仲孫蔑が晋の荀罃・斉の崔杼・宋の華元・衛の孫林父・曹人・邾人・滕人・薛人・小邾人と戚で会合した。続いて虎牢に城を築いた。楚は自国の大夫である公子申を処刑した。 伝 二年の春、鄭軍が宋を侵攻した。これは楚の命令によるものであった。斉侯が萊を討伐すると、萊人は正輿子を使者として遣わし、夙沙衛に良馬と牛をそれぞれ百頭ずつ贈った。そこで斉軍は撤退した。君子はこのことから、斉の霊公が「霊」という諡を得た理由を理解したのである。 夏、斉の姜(穆姜)が逝去した。当初、穆姜は美しい檟の木を選ばせ、自身の棺と頌琴を作らせていた。季文子はそれらを流用して葬儀を行った。君子が評して言うには、「これは礼に悖る行為である。礼において逆らってはならない道理がある。嫁は姑を扶養する立場にある。姑を損ねて嫁を成すことほど、道理に逆らうものはない。詩経に『賢明な人には道理を説き、徳に順う行いをさせる』とある。季孫はこの点で賢明ではなかった。さらに姜氏は君主の祖母である。詩経に『酒や醴を捧げて祖妣に献じ、百の礼を整え、福を降ろす』とあるように、適切な礼を尽くすべきであった」と。斉侯は諸姜の宗婦を葬儀に派遣した。一方、萊子を招集したが萊子は参会しなかったため、晏弱が東陽に城を築いて圧迫を加えた。鄭の成公が病に伏せると、子駟が晋への従属を提案した。成公は「楚の君は鄭のために自ら矢を目に受けた。これは他人事ではなく寡人の責任だ。もし背けば、その恩義と約束を棄てることで、誰が我々を庇おうか。寡人を救えるのは卿らだけである」と答えた。 秋の七月庚辰の日、鄭伯睔が逝去した。これにより子罕が国政を執り、子駟が政務を、子国が司馬を担当した。晋軍が鄭を侵攻すると、大夫たちは晋に従うことを主張したが、子駟は「先君の命令は未だ変更されていない」と述べた。戚での会合は鄭対策を協議するためであった。孟獻子が「虎牢に城を築いて鄭を威圧すべきだ」と提案すると、知武子は「かつて鄫の会合で崔子(崔杼)の言葉を聞いた。今や斉の影響で滕・薛・小邾も参会しない。わが君の懸念は鄭だけではない。私は君に報告し、斉に交渉する。もし認められれば卿の功績となり、認められなければ矛先は斉に向かう。卿の提案は諸侯全体の利益だ」と応じた。穆叔が宋を訪問し、新君への挨拶を行った。 解説 Translation took 2172.2 seconds. |
| 冬.復會于戚.齊崔武子.及滕薛小邾之大夫皆會.知武子之言故也.遂城虎牢.鄭人乃成.楚公子申為右司馬.多受小國之賂.以偪子重.子辛.楚人殺之.故書曰.楚殺其大夫公子申. 襄公三年 經 三年春.楚公子嬰齊帥師伐吳.公如晉. 夏.四月.壬戌.公及晉侯盟于長樗.公至自晉. 六月.公會單子.晉侯.宋公.衛侯.鄭伯.莒子.邾子.齊世子光.己未.同盟于雞澤.陳侯使袁僑如會.戊寅.叔孫豹.及諸侯之大夫.及陳袁僑盟. 秋.公至自會. 冬.晉荀罃帥師伐許. 傳 三年春.楚子重伐吳.為簡之師.克鳩茲.至于衡山.使鄧廖帥組甲三百.被練三千以侵吳.吳人要而擊之.獲鄧廖.其能免者.組甲八十.被練三百而已.子重歸.既飲至.三日.吳人伐楚.取駕.駕.良邑也.鄧廖.亦楚之良也.君子謂子重於是役也.所獲不如所亡.楚人以是咎子重.子重病之.遂遇心病而卒. 公如晉.始朝也.夏.盟于長樗.孟獻子相.公稽首.知武子曰.天子在.而君辱稽首.寡君懼矣.孟獻子曰.以敝邑介在東表.密邇仇讎.寡君將君是望.敢不稽首. 晉為鄭服故.且欲脩吳好.將合諸侯.使士匄告于齊曰.寡君使匄以歲之不易.不虞之不戒.寡君願與一二兄弟相見.以謀不協.請君臨之使.匄乞盟.齊侯欲勿許.而難為不協.乃盟於耏外. |
冬、再び戚で会合が行われた。齊の崔武子や、滕・薛・小邾の大夫たちも皆会合に参加した。これは知武子の提言によるものであった。そこで虎牢に城塞を築いた。鄭はこれによって和議を結んだ。楚の公子申は右司馬であったが、小国から多数の賄賂を受け取り、子重や子辛を圧迫した。楚人は公子申を殺害した。故に経文には「楚が其の大夫公子申を殺す」と記されている。 襄公三年 三年の春、楚の公子嬰齊が軍を率いて吳を討った。公(魯の襄公)は晉へ赴いた。 夏四月壬戌の日、公は晉侯と長樗で盟を結んだ。公は晉から帰国した。 六月、公は單子・晉侯・宋公・衛侯・鄭伯・莒子・邾子・齊の世子光と会合し、己未の日に雞澤で同盟を結んだ。陳侯は袁僑を使者として会合に派遣した。戊寅の日、叔孫豹と諸侯の大夫たちは陳の袁僑と盟を交わした。 秋、公は会合から帰国した。 冬、晉の荀罃が軍を率いて許を討った。 伝文 三年の春、楚の子重が吳を討った。精選した軍勢を編成し、鳩茲を攻略し、衡山まで進軍した。鄧廖に組甲三百・被練三千を率いさせて吳を侵攻させたが、吳軍は要所で伏撃し、鄧廖を捕虜とした。逃れ得た兵は組甲八十・被練三百のみであった。子重が帰国し、戦勝報告の宴を終えて三日後、吳軍が楚を反撃し駕を奪取した。駕は優れた城邑であり、鄧廖も楚の有能な将軍であった。君子は子重のこの遠征について「得たものは失ったものに及ばない」と評した。楚人もこの敗戦を子重の責任と非難し、子重は心労で病に倒れ、心臓病により死去した。 公が晉へ赴いたのは初めての朝聘であった。夏、長樗で盟を結んだ際、孟獻子が相礼を務め、公が稽首(最敬礼)を行うと、知武子が「天子が在位中に君が屈して稽首されるとは、寡君(晉侯)も恐縮いたします」と言った。孟獻子は「弊邑が東方の辺境に位置し、敵国と密接しているため、寡君はひたすら君(晉侯)を頼りにしております。敢えて稽首せずにはいられません」と答えた。 晉は鄭が服属したことを受け、さらに吳との友好関係を強化するため、諸侯を召集しようとした。士匄を齊に派遣し「寡君は年穀の不作と予期せぬ危険に備え、一二の兄弟国と会合して不和を調整したいと願っております。君の臨席を請うとともに、匄が盟約の締結を乞います」と伝えた。齊侯は当初拒否したが、不和を表面化させるのを避け、耏水の外で盟を結んだ。 解説この一節は『春秋左氏伝』襄公三年の記述で、春秋時代の国際情勢と諸侯の駆け引きを描いています。主なポイントは以下の通りです:
この年代は晉・楚の覇権争いが続く中、小国が翻弄される構図が鮮明で、戦国時代へ向かう過渡期的な状況を反映した重要な記録です。 Translation took 2789.8 seconds. |
| 祁奚請老.晉侯問嗣焉.稱解狐.其讎也.將立之而卒.又問焉.對曰.午也可.於是羊舌職死矣.晉侯曰.孰可以代之.對曰.赤也可.於是使祁午為中軍尉.羊舌赤佐之.君子謂祁奚於是能舉善矣.稱其讎.不為諂.立其子.不為比.舉其偏.不為黨.商書曰.無偏無黨.王道蕩蕩.其祁奚之謂矣.解狐得舉.祁午得位.伯華得官.建一官而三物成.能舉善也.夫唯善.故能舉其類.詩云.惟其有之.是以似之.祁奚有焉. 六月.公會單頃公及諸侯.己未.同盟于雞澤.晉侯使荀會逆吳子于淮上.吳子不至.楚子辛為令尹.侵欲於小國.陳成公使袁僑如會.求成.晉侯使和組父告于諸侯.秋.叔孫豹及諸侯之大夫.及陳袁僑盟.陳請服也. 晉侯之弟揚干.亂行於曲梁.魏絳戮其僕.晉侯怒謂羊舌赤曰.合諸侯以為榮也.揚干為戮.何辱如之.必殺魏絳.無失也.對曰.絳無貳志.事君不辟難.有罪不逃刑.其將來辭.何辱命焉.言終.魏絳至.授僕人書.將伏劍.士魴.張老.止之.公讀其書曰.日君乏使.使臣斯司馬.臣聞師眾以順為武.軍事有死無犯為敬.君合諸侯.臣敢不敬.君師不武.執事不敬.罪莫大焉.臣懼其死.以及揚干.無所逃罪.不能致訓.至於用鉞.臣之罪重.敢有不從.以怒君心.請歸死於司寇.公跣而出.曰.寡人之言.親愛也.吾子之討.軍禮也.寡人有弟.弗能教訓.使干大命.寡人之過也.子無重寡人之過.敢以為請.晉侯以魏絳為能.以刑佐民矣.反役.與之禮食.使佐新軍.張老為中軍司馬.士富為候奄. |
祁奚が老齢を理由に引退を願い出た。晉侯が後継者を尋ねると、解狐を推薦した。これは祁奚の仇敵であった。解狐を登用しようとしたが彼は死去した。再び後継者を問われると、祁奚は「午(祁奚の子)が適任です」と答えた。ちょうどこの時、羊舌職が死去した。晉侯が「誰が後継ぎとなれるか」と問うと、祁奚は「赤(羊舌職の子)が適任です」と答えた。こうして祁午を中軍尉に任命し、羊舌赤をその補佐役とした。君子は祁奚の行為を「善を挙げる能力がある」と評した。仇敵を推薦しても諂いではなく、子を推挙しても私情ではなく、部下を推挙しても派閥作りではなかった。『商書』に「偏りなく党派を作らなければ、王道は広く行き渡る」とあるが、これは祁奚を指しているのだ。解狐は推挙され、祁午は地位を得、伯華(羊舌赤)は官職を得た。一つの官職を設置して三つの成果が生まれたのは、善人を推挙できたからである。善人であるからこそ、同類を推挙できるのだ。『詩経』に「それを持つ者だからこそ、似た者を推薦できる」とあり、祁奚はこの徳を備えていた。 六月、魯の公が単頃公及び諸侯と会合した。己未の日、雞澤で同盟を結んだ。晉侯は荀会を淮上に派遣して呉子を迎えさせたが、呉子は来なかった。楚の子辛が令尹となり、小国に対して侵略的な欲望を抱いた。陳の成公は袁僑を会盟に派遣し、講和を求めた。晉侯は和組父を諸侯に派遣してこの旨を伝えさせた。秋、叔孫豹及び諸侯の大夫たちは陳の袁僑と盟約を交わした。これは陳が服従を求めたためである。 晉侯の弟である揚干が曲梁で軍列を乱した。魏絳は揚干の御者を処刑した。晉侯は怒り、羊舌赤に「諸侯を会合させて名誉としているのに、揚干が処刑されるような屈辱があろうか。必ず魏絳を殺せ、怠るな」と言った。羊舌赤は「魏絳に二心はなく、君に仕えて困難を避けず、罪があれば刑罰から逃れません。自ら申し開きに来るでしょう。わざわざ命令するまでもありません」と答えた。その言葉が終わらないうちに魏絳が到着し、従者に書簡を渡して剣で自害しようとした。士魴と張老がこれを止めた。晉侯が書簡を読むと、「かつて君は使者不足の中、私を司馬に任命されました。私は『軍団は規律順守が武徳であり、軍事では死をもって犯さぬことが敬義である』と聞いております。君が諸侯を会合させる際、私は敬義を尽くさねばなりません。君の軍団が武徳なく、執事が敬義を欠くことは最大の罪です。私は死を恐れず揚干の事件に対処し、罪から逃れられません。十分に訓戒できず斧を用いる事態となり、私の罪は重い。君の心を怒らせるような行為はせず、司寇の下で死罪を願います」とあった。晉侯は裸足で駆け出し、「私の言葉は兄弟愛によるものだ。あなたの処罰は軍礼に基づく。私に弟がいるのに教訓できず、重大な命令を乱させたのは私の過ちだ。私の過ちを重ねるな。どうか許しを請う」と言った。晉侯は魏絳の有能さを認め、刑罰をもって民を補佐する者とした。戦役から戻ると礼儀正しい食事を共にし、新軍の補佐に任命した。張老は中軍司馬に、士富は候奄に任命された。 【解説】 次に諸侯会盟の描写では、当時の国際関係や晋を中心とした秩序形成の過程がうかがえます。陳国の服従要求とこれを受けた盟約は、春秋時代の勢力バランスの変化を象徴的に示しています。 最後の魏絳のエピソードでは、軍規の厳格さと為政者の反省が対比的に描かれています。魏絳の規律重視の態度と晉侯の自己批判は、法治精神と為政者の責任を強調する内容となっており、後の法家思想にも通じる要素を含んでいます。全体を通じて、春秋時代の政治倫理やリーダーシップの理想が多角的に表現された重要な箇所です。 Translation took 2923.1 seconds. |
| 楚司馬公子何忌侵陳.陳叛故也.許靈公事楚.不會于雞澤. 冬.晉知武子帥師伐許. 襄公四年 經 四年春.王三月.己酉.陳.侯午卒. 夏.叔孫豹如晉. 秋.七月.戊子.夫人姒氏薨.葬陳成公.八月.辛亥.葬我小君定姒. 冬.公如晉.陳人圍頓. 傳 四年春.楚師為陳叛故.猶在繁陽.韓獻子患之.言於朝曰.文王帥殷之叛國.以事紂.唯知時也.今我易之.難哉.三月.陳成公卒.楚人將伐陳.聞喪乃止.陳人不聽命.臧武仲聞之曰.陳不服於楚必亡.大國行禮焉而不服.在大猶有咎.而況小乎.夏.楚彭名侵陳.陳無禮故也. 穆叔如晉.報知武子之聘也.晉侯享之.金奏肆夏之三.不拜.工歌文王之三.又不拜.歌鹿鳴之三.三拜.韓獻子使行人子員問之.曰.子以君命辱於敝邑.先君之禮.藉之以樂.以辱吾子.吾子舍其大而重.拜其細.敢問何禮也.對曰.三夏.天子所以享元侯也.使臣弗敢與聞.文王.兩君相見之樂也.臣不敢及.鹿鳴.君所以嘉寡君也.敢不拜嘉.四牡.君所以勞使臣也.敢不重拜.皇皇者華.君教使臣曰.必諮於周.臣聞之.訪問於善為咨.咨親為詢.咨禮為度.咨事為諏.咨難為謀.臣獲五善.敢不重拜. 秋.定姒薨.不殯于廟.無櫬.不虞.匠慶謂季文子曰.子為正卿.而小君之喪不成.不終君也.君長.誰受其咎.初.季孫為己樹六檟於蒲圃東門之外.匠慶請木.季孫曰.略.匠慶用蒲圃之檟.季孫不御.君子曰.志所謂多行無禮.必自及也.其是之謂乎. |
【現代日本語訳】 冬、晋の知武子が軍を率いて許を討った。 襄公四年 四年の春、王の三月、己酉の日、陳の侯午が卒去した。 夏、叔孫豹が晋へ赴いた。 秋、七月、戊子の日、夫人姒氏が薨去した。陳の成公を葬った。八月、辛亥の日、我が小君定姒を葬った。 冬、公が晋へ赴いた。陳の人が頓を包囲した。 伝 四年の春、楚軍は陳の背反のため、依然として繁陽に駐屯していた。韓献子はこれを憂い、朝廷で述べた。「文王は殷に背いた国々を率いて、紂に仕えた。これは時機を知っていたからである。今我々はこれを逆に行っている。難しいことだ」。三月、陳の成公が卒去した。楚は陳を討伐しようとしたが、喪中の知らせを聞いて中止した。陳人は楚の命令に従わなかった。臧武仲はこれを聞いて言った。「陳が楚に服従しなければ必ず滅びる。大国が礼儀を尽くしても服従しないなら、大国でも災いを受けるのに、まして小国ではなおさらだ」。夏、楚の彭名が陳を侵攻した。陳が礼を欠いていたからである。 穆叔が晋へ赴いた。これは知武子の訪問への返礼である。晋侯は饗応した。鐘鼓で『肆夏』の三曲を演奏したが、穆叔は拝礼しなかった。楽工が『文王』の三曲を歌ったが、また拝礼しなかった。『鹿鳴』の三曲が歌われると、三度拝礼した。韓献子は行人の子員を使いに出して問わせた。「貴公は君命を帯びて弊国に来られた。先君の礼として音楽を奏して饗応したのに、貴公は大礼を省略して小礼を重んじられる。何の礼儀かお聞かせ願いたい」。穆叔は答えた。「三夏は天子が諸侯の長を饗応する楽です。使者たる私が聴くべきものではありません。文王は両君が会見する時の楽です。臣下が及ぶべきものではありません。鹿鳴は君が我が君を賞賛される楽故に拝礼せずにおれません。四牡は君が使者を労われる楽故に重ねて拝礼せずにおれません。皇皇者華は君が使者に『必ず周囲に諮問せよ』と教えられる楽です。私は諮問について、善に問うことを咨、親族に問うことを詢、礼を問うことを度、事を問うことを諏、難事を問うことを謀と聞いております。五つの善を得た故に重ねて拝礼したのです」。 秋、定姒が薨去した。廟に殯(かりもがり)せず、棺椁(ひつぎ)もなく、虞祭(葬後儀礼)も行われなかった。匠慶が季文子に言った。「貴公が正卿でありながら小君の葬儀を整えられないのは、君への不忠です。君が成長された後、誰が責めを受けるでしょうか」。以前、季孫が私用のために蒲圃の東門外に六本の檟(かし)を植えていた。匠慶が用材を請うと、季孫は「粗末なものを使え」と言った。匠慶は蒲圃の檟を使い、季孫は制止しなかった。君子が評した。「書に『礼儀に悖る行いを重ねれば必ず自らに災いが及ぶ』とある。このことを指すのであろう」。 【解説】
これらの記述を通じ、春秋時代が「力の論理」と「礼の秩序」が交錯する過渡期であったことが浮き彫りにされています。 Translation took 2680.8 seconds. |
| 冬.公如晉聽政.晉侯享公.公請屬鄫.晉侯不許.孟獻子曰.以寡君之密邇於仇讎.而願固事君.無失官命.鄫無賦於司馬.為執事朝夕之命敝邑.敝邑褊小.闕而為罪寡君.寡君是以願借助焉.晉侯許之.楚人使頓間陳.而侵伐之.故陳人圍頓.無終子嘉父使孟樂如晉.因魏莊子納虎豹之皮.以請和諸戎.晉侯曰.戎狄無親而貪.不如伐之.魏絳曰.諸侯新服.陳新來和.將觀於我.我德則睦.否則攜貳.勞師於戎.而楚伐陳.必弗能救.是棄陳也.諸華必叛.戎禽獸也.獲戎失華.無乃不可乎.夏訓有之曰.有窮后羿.公曰.后羿何如.對曰.昔有夏之方衰也.后羿自鉏遷于窮石.因夏民以代夏政.恃其射也.不脩民事.而淫于原獸.棄武羅.伯困.熊髡.尨圉.而用寒浞.寒浞.伯明氏之讒子弟也.伯明后寒棄之.夷羿收之.信而使之.以為己相.浞行媚于內.而施賂于外.愚弄其民.而虞羿于田.樹之詐慝.以取其國家.外內咸服.羿猶不悛.將歸自田.家眾殺而亨之.以食其子.其子不忍食諸.死于窮門.靡奔有鬲氏.浞因羿室.生澆及豷.恃其讒慝詐偽而不德于民.使澆用師.滅斟灌及斟尋氏.處澆于過.處豷于戈.靡自有鬲氏.收二國之燼以滅浞.而立少康.少康滅澆于過.后杼滅豷于戈.有窮由是遂亡.失人故也.昔周辛甲之為大史也.命百官.官箴王闕.於虞人之箴曰.芒芒禹跡.畫為九州.經啟九道.民有寢廟.獸有茂草.各有攸處.德用不擾.在帝夷羿.冒于原獸.忘其國恤.而思其麀牡.武不可重.用不恢于夏家.獸臣司原.取告僕夫.虞箴如是.可不懲乎.於是晉侯好田.故魏絳及之.公曰.然則莫如和戎乎.對曰.和戎有五利焉.戎狄荐居.貴貨易土.土可賈焉.一也.邊鄙不聳.民狎其野.穡人成功.二也.戎狄事晉.四鄰振動.諸侯威懷.三也.以德綏戎.師徒不動.甲兵不頓.四也.鑒于后羿.而用德度.遠至邇安.五也.君其圖之.公說.使魏絳盟諸戎.脩民事.田以時. |
冬、公は晋へ行き政務を聴いた。晋侯が公をもてなした。公は鄫を附属国とするよう請うたが、晋侯は許さなかった。孟献子が言った。「我が君が敵国に近接しているにもかかわらず、ひたすら君に仕えようとしております。命令を欠かさず守っていますが、鄫は晋の司馬に軍賦を納めておりません。晋の執事が朝夕にわたって弊邑に命令されるため、弊邑は狭小で、不備があって我が君が罪を受けることになります。我が君はそこで助力を借りたいと願っているのです。」晋侯はこれを許した。 楚は頓を使わせて陳の隙をうかがい、これを侵伐した。そこで陳は頓を包囲した。 無終の子嘉父が孟楽を晋に遣わし、魏莊子を通じて虎豹の皮を献上し、諸戎との和議を請うた。晋侯が言った。「戎狄は親情がなく貪欲だから、討伐するのがよい。」魏絳が答えた。「諸侯は新たに服従し、陳も新たに和して来ました。彼らは我が国の様子を見ています。我々が徳を示せば和睦し、そうでなければ離反します。戎に軍隊を疲労させ、その間に楚が陳を伐てば、必ず救えません。それは陳を見捨てるものです。諸華の国々も必ず叛くでしょう。戎は禽獣のようなものですが、戎を得て華を失うのは、よろしくないのではないでしょうか。夏の訓戒にこうあります。『有窮の后羿がおった』と。」公が言った。「后羿とはどういうものか。」魏絳が答えた。「昔、夏王朝が衰えかけた時、后羿は鉏から窮石に遷り、夏の民を頼みとして夏の政権を奪いました。彼は自分の弓術を頼みとし、民の政務を修めず、野獣を追うことにふけりました。武羅、伯困、熊髡、尨圉を捨てて、寒浞を用いました。寒浞は伯明氏の邪悪な子弟でした。伯明后寒は彼を追放しましたが、夷羿は彼を受け入れ、信頼して用い、自分の宰相としました。浞は内では媚びへつらい、外では賄賂を使い、民を愚弄し、羿が狩りに興じるのを待ちました。詐欺と悪意を仕掛けて国を奪い、内外ともに服従させました。それでも羿は改めず、狩りから帰る途中で家来たちに殺され、煮られてしまいました。その肉を彼の子に食べさせようとしましたが、子は食べるに忍びず、窮門で死にました。靡は有鬲氏に逃れました。浞は羿の妻室を自分のものとし、澆と豷を生ませました。浞は詐欺と悪意を頼みとし、民に徳を施さず、澆に軍隊を使わせて斟灌と斟尋氏を滅ぼし、澆を過に、豷を戈に置きました。靡が有鬲氏から立ち上がり、二国の残党を集めて浞を滅ぼし、少康を立てました。少康は過で澆を滅ぼし、后杼は戈で豷を滅ぼしました。有窮はこうして滅びたのです。人を失ったためです。」 「昔、周の辛甲が大史であった時、百官に命じて、王の過失を戒める箴言を献上させました。虞人の箴言にこうあります。『広大な禹の跡は、九州に分かたれ、九つの道が開かれました。民には寝廟があり、獣には茂草があります。それぞれ居場所があり、徳によって乱されません。帝夷羿の時、野獣に夢中になり、国の憂いを忘れて牝鹿のことを考えました。武力は重ねて用いるべからず、夏王朝を広げることはできませんでした。獣を司る臣として、僕夫に告げます』と。虞箴がこのように言っているのです。戒めとすべきではありませんか。」 当時、晋侯は狩猟を好んでいたので、魏絳はこの話をしたのでした。公が言った。「それでは戎と和するのがよいのか。」魏絳が答えた。「戎と和するには五つの利点があります。戎狄は移住を繰り返し、財貨を貴び土地を軽んじます。土地を買い取ることができる。これが一つ目。辺境が警戒されず、民が野に慣れ、農夫が収穫を成し遂げる。これが二つ目。戎狄が晋に仕えれば、四方の国々が震え上がり、諸侯は威徳を慕う。これが三つ目。徳をもって戎を安定させれば、軍隊を動かさず、兵器を損なわない。これが四つ目。后羿の例を鑑み、徳と法度を用いれば、遠方が来たり近くは安らぐ。これが五つ目。君はどうかご考慮ください。」公は喜び、魏絳をして諸戎と盟約させ、民の政務を修め、狩猟を時節に合わせて行うようにした。 解説この一節は『春秋左氏伝』襄公四年に当たり、晋を中心とした国際関係と内政の様子を描いています。主な内容は以下の通りです。
この章は、国際情勢の読み取りと内政の安定化を結びつけた魏絳の手腕が光り、後の晋の霸権維持に貢献したエピソードとして位置づけられます。 Translation took 3495.0 seconds. |
| 冬.十月.邾人.莒人.伐鄫.臧紇救鄫.侵邾.敗于狐駘.國人逆喪者皆髽.魯於是乎始髽.國人誦之曰.臧之狐裘.敗我於狐駘.我君小子.朱儒是使.朱儒朱儒.使我敗於邾. 襄公五年 經 五年春.公至自晉. 夏.鄭伯使公子發來聘.叔孫豹鄫.世子巫.如晉.仲孫蔑.衛孫林父.會吳于善道. 秋.大雩.楚殺其大夫公子壬夫.公會晉侯.宋公.陳侯.衛侯.鄭伯.曹伯.莒子.邾子.滕子.薛伯.齊世子光.吳人.鄫人.于戚.公至自會. 冬.戍陳楚公子貞帥師伐陳.公會晉侯.宋公.衛侯.鄭伯.曹伯.齊世子光.救陳. 十有二月.公至自救陳.辛未.季孫行父卒. 傳 五年春.公至自晉.王使王叔陳生愬戎于晉.晉人執之.士魴如京師.言王叔之貳於戎也. 夏.鄭子國來聘.通嗣君也.穆叔覿鄫大子于晉.以成屬鄫.書曰.叔孫豹.鄫大子巫.如晉.言比諸魯大夫也.吳子使壽越如晉.辭不會于雞澤之故.且請聽諸侯之好.晉人將為之合諸侯.使魯衛先會吳.且告會期.故孟獻子.孫文子.會吳于善道. 秋.大雩.旱也.楚人討陳叛故.曰.由令尹子辛.實侵欲焉.乃殺之.書曰.楚殺其大夫公子壬夫.貪也.君子謂楚共王於是不刑.詩曰.周道挺挺.我心扃扃.講事不令.集人來定.已則無信.而殺人以逞.不亦難乎.夏書曰.成允成功. |
冬、十月、邾と莒の軍が鄫を攻撃した。臧紇が鄫を救援し、邾に侵攻したが、狐駘で敗北した。国中の喪に服する者は皆髽(喪髪)とした。魯ではこの時から髽が始まった。国人は次のように謡った。「臧の狐裘、我を狐駘に敗らしむ。我が君の小子、朱儒を使わす。朱儒よ朱儒、我を邾に敗らしむ。」 襄公五年 五年の春、公(魯の襄公)が晋から帰国した。 伝(解説) 五年の春、公が晋から帰国した。周王が王叔陳生を派遣し、戎(異民族)に対する不満を晋に訴えさせたが、晋は王叔を拘束した。士魴が周の都へ赴き、王叔が戎と内通していると訴えた。 解説この一節は『春秋左氏伝』襄公五年の記録で、春秋時代の国際情勢と魯を中心とした諸国間の駆け引きを描いています。経は簡潔な公式年表として、伝は出来事の背景や左氏の解釈を詳述する形式です。主なポイントは以下の通りです: Translation took 2404.9 seconds. |
| 九月.丙午.盟于戚.會吳.且命戍陳也.穆叔以屬鄫為不利.使鄫大夫聽命于會.楚子囊為令尹.范宣子曰.我喪陳矣.楚人討貳.而立子囊.必改行.而疾討陳.陳近于楚.民朝夕急.能無往乎.有陳.非吾事也.無之而後可.冬.諸侯戍陳.子囊伐陳. 十一月.甲午.會于城棣以救之.季文子卒.大夫入斂.公在位.宰庀家器為葬備.無衣帛之妾.無食粟之馬.無藏金玉.無重器備.君子是以知季文子之忠於公室也.相三君矣.而無私積.可不謂忠乎. 襄公六年 經 六年春.王三月.壬午.杞伯姑容卒. 夏.宋華弱來奔. 秋.葬杞桓公.滕子來朝.莒人滅鄫. 冬.叔孫豹如邾.季孫宿如晉. 十有二月.齊侯滅萊. 傳 六年春.杞桓公卒.始赴以名.同盟故也.宋華弱與樂轡少相狎.長相優.又相謗也.子蕩怒.以弓梏華弱于朝.平公見之.曰.司武而梏於朝.難以勝矣.遂逐之. 夏.宋華弱來奔.司城子罕曰.同罪異罰.非刑也.專戮於朝.罪孰大焉.亦逐子蕩.子蕩射子罕之門曰.幾日而不我從.子罕善之如初. 秋.滕成公來朝.始朝公也.莒人滅鄫.鄫恃賂也. 冬.穆叔如邾.聘且脩平.晉人以鄫故來討曰.何故亡鄫.季武子如晉見.且聽命. 十一月.齊侯滅萊.萊恃謀也.於鄭子國之來聘也.四月.晏弱城東陽.而遂圍萊.甲寅.堙之.環城.傅於堞.及杞桓公卒之月.乙未.王湫帥師及正輿子.棠人.軍齊師.齊師大敗之.丁未.入萊.萊共公浮柔奔棠.正輿子王湫奔莒.莒人殺之.四月.陳無宇獻萊宗器于襄公.晏弱圍棠. |
【翻訳文】 十一月甲午の日、城棣で会合して陳を救援した。季文子が死去した。大夫が棺に納める際、公が臨席した。家宰は葬儀の準備として家財を整えたが、絹の衣を着た妾もおらず、粟を食べる馬もおらず、金玉を蓄えず、重ねて器物を備えることもなかった。君子はこれによって季文子が公室に忠実であったことを知った。三君に仕えたが、私的な蓄えがなかった。これを忠と言わずして何と言おうか。 襄公六年 六年の春、王三月壬午の日、杞伯姑容が死去した。 夏、宋の華弱が魯に逃亡してきた。 秋、杞桓公を葬った。滕子が来朝した。莒が鄫を滅ぼした。 冬、叔孫豹が邾へ行った。季孫宿が晋へ行った。 十二月、齊侯が萊を滅ぼした。 伝 六年の春、杞桓公が死去した。初めて名を以て訃報が伝えられたのは同盟国だったためである。宋の華弱と樂轡は幼少より親しく交わり、成長してからも戯れ合い、また互いに誹謗し合った。子蕩(樂轡)が怒り、朝廷で弓で華弱を拘束した。平公がこれを見て言った。「武官の長が朝廷で拘束されるようでは、国難に勝利することは難しい。」そこで華弱を追放した。 夏、宋の華弱が魯に逃亡してきた。司城子罕が言った。「同じ罪ながら異なる罰は刑罰の道理に合わない。朝廷で専横に拘束するとは、これ以上の大罪があろうか。」子蕩も追放した。子蕩は子罕の門を射て言った。「いつまで経っても私を許さないのか。」子罕は以前と同様に彼を厚遇した。 秋、滕成公が来朝した。初めて魯公に朝見した。莒が鄫を滅ぼした。鄫が賄賂に依存していたためである。 冬、穆叔が邾へ行き、聘問して和睦を修めた。晋人が鄫の滅亡を理由に責めて来て言った。「なぜ鄫を滅亡させたのか。」季武子が晋へ行き謁見し、かつ命令を受けた。 十一月、齊侯が萊を滅ぼした。萊が謀略に依存していたためである。鄭の子國が聘問に来た四月、晏弱が東陽に城を築き、ついで萊を包囲した。甲寅の日、土塁を築き城を囲み、城壁に迫った。杞桓公が死去した月の乙未の日、王湫が軍を率い正輿子や棠の軍と合流して齊軍を攻撃したが、齊軍はこれを大破した。丁未の日、萊に侵入した。萊共公の浮柔は棠に逃亡し、正輿子と王湫は莒に逃れたが、莒人が彼らを殺した。四月、陳無宇が萊の宗廟の器物を襄公に献上した。晏弱は棠を包囲した。 【解説】
この一節は、春秋時代が「礼儀」から「実力主義」へ移行する過渡期の様相を、国際関係・内政・個人の倫理観の三層から浮き彫りにした重要な史料と言えます。 Translation took 2841.6 seconds. |
| 十一月.丙辰.而滅之.遷萊于郳.高厚.崔杼.定其田. 襄公七年 經 七年春.郯子來朝. 夏.四月.三卜郊不從.乃免牲.小邾子來朝.城費. 秋.季孫宿如衛. 八月.螽. 冬.十月.衛侯使孫林父來聘.壬戌.及孫林父盟.楚公子貞帥師圍陳. 十有二月.公會晉侯.宋公.陳侯.衛侯.曹伯.莒子.邾子.于鄬.鄭伯髡頑如會.未見諸侯.丙戌.卒于鄵.陳侯逃歸. 傳 七年春.郯子來朝.始朝公也. 夏.四月.三卜郊不從.乃免牲.孟獻子曰.吾乃今而後知有卜筮.夫郊祀后稷.以祈農事也.是故啟蟄而郊.郊而後耕.今既耕而卜郊.宜其不從也. 南遺為費宰.叔仲昭伯為隧正.欲善季氏.而求媚於南遺.謂遺請城費.吾多與而役.故季氏城費. 小邾穆公來朝.亦始朝公也. 秋.季武子如衛.報子叔之聘.且辭緩報.非貳也. 冬.十月.晉韓獻子告老.公族穆子有廢疾.將立之.辭曰.詩曰.豈不夙夜.謂行多露.又曰.弗躬弗親.庶民弗信.無忌不才.讓其可乎.請立起也.與田蘇游.而曰好仁.詩曰.靖共爾位.好是正直.神之聽之.介爾景福.恤民為德.正直為正.正曲為直.參和為仁.如是則神聽之.介福降之.立之.不亦可乎.庚戌.使宣子朝.遂老.晉侯謂韓無忌仁.使掌公族大夫. |
十一月、丙辰の日にそれを滅ぼし、萊の民を郳に移した。高厚と崔杼がその田地を定めた。 襄公七年 経 七年の春、郯子が来朝した。 夏の四月、三度郊祀の卜占を行ったが従わなかったので、生贄の犠牲を免じた。小邾子が来朝した。費の城を築いた。 秋、季孫宿が衛へ行った。 八月、蝗害が発生した。 冬の十月、衛侯が孫林父を使者として来聘させた。壬戌の日に孫林父と盟を結んだ。楚の公子貞が軍を率いて陳を包囲した。 十二月、公が晉侯・宋公・陳侯・衛侯・曹伯・莒子・邾子と鄬で会合した。鄭伯の髡頑が会合に赴いたが、諸侯に会わないうちに丙戌の日に鄵で死去した。陳侯は会合から逃げ帰った。 伝 七年の春、郯子が来朝した。初めて公に朝見したのである。 夏の四月、三度郊祀の卜占を行ったが従わなかったので、生贄の犠牲を免じた。孟献子が言った。「私は今ようやく卜筮の意味を知った。郊祀は后稷を祀り、農事の豊穣を祈るものだ。だから啓蟄の時期に行い、郊祀の後に耕作を始める。今は既に耕作を始めた後に郊祀の卜占をしているのだから、従わないのも当然である」。 南遺が費の宰となり、叔仲昭伯が隧正となった。叔仲昭伯は季氏に取り入ろうと南遺に媚び、南遺に「費の城築きを願い出てください。私が多くの労役を提供しましょう」と言った。そこで季氏が費の城を築いたのである。 小邾穆公が来朝した。これも初めて公に朝見したのである。 秋、季武子が衛へ行った。子叔の聘問への返礼としてであり、また返礼が遅れたことを詫びたが、二心があるわけではないと伝えた。 冬の十月、晉の韓献子が老齢を理由に引退を申し出た。公族の穆子(韓無忌)は病を患っていたが、後継に立てようとした。穆子は辞退して言った。「詩に『朝夕努力せざらんや、とはいうが道には露が多い』とあり、また『自ら躬行しなければ民は信じない』とある。私の無忌は無才ですので、譲るのが適切でしょう。起を立ててください。彼は田蘇と交流があり、仁を好むと評されています。詩に『恭しく職位を守り、正直を愛せよ。神はこれを聞き、大いなる福を与え給う』とあります。民を慈しむことが徳であり、正しいことが正直であり、曲がったものを正すことが直すことです。これら三つが調和して仁となります。このようにすれば神は聞き入れ、大福を降されるでしょう。起を立てるのは、よろしいのではないでしょうか」。庚戌の日に宣子(韓起)を朝堂に仕えさせ、韓献子は引退した。晉侯は韓無忌を仁者であるとして、公族大夫の長とさせた。 解説 Translation took 2582.3 seconds. |
| 衛孫文子來聘.且拜武子之言.而尋孫桓子之盟.公登亦登.叔孫穆子相.趨進曰.諸侯之會.寡君未嘗後衛君.今吾子不後寡君.寡君未知所過.吾子其少安.孫子無辭.亦無悛容.穆叔曰.孫子必亡.為臣而君.過而不悛.亡之本也.詩曰.退食自公.委蛇委蛇.謂從者也.衡而委蛇必折. 楚子囊圍陳.會于鄬以救之.鄭僖公之為大子也.於成之十六年.與子罕適晉.不禮焉.又與子豐適楚.亦不禮焉.及其元年.朝于晉.子豐欲愬諸晉而廢之.子罕止之.及將會于鄬.子駟相.又不禮焉.侍者諫.不聽.又諫.殺子.及鄵.子駟使賊夜弒僖公.而以瘧疾赴于諸侯.簡公生五年.奉而立之.陳人患楚.慶虎.慶寅.謂楚人曰.吾使公子黃往而執之.楚人從之.二慶使告陳侯于會曰.楚人執公子黃矣.君若不來.群臣不忍社稷宗廟.懼有二圖.陳侯逃歸. 襄公八年 經 八年春.王正月.公如晉. 夏.葬鄭僖公.鄭人侵蔡.獲蔡公子燮.季孫宿會晉侯.鄭伯.齊人.宋人.衛人.邾人.于邢丘.公至自晉.莒人伐我東鄙. 秋.九月.大雩. 冬.楚公子貞帥師伐鄭.晉侯使士匄來聘. 傳 八年春.公如晉朝.且聽朝聘之數. 鄭群公子以僖公之死也.謀子駟.子駟先之.夏.四月.庚辰.辭殺子狐.子熙.子侯.子丁.孫擊.孫惡.出奔衛.庚寅.鄭子國.子耳.侵蔡.獲蔡司馬公子燮.鄭人皆喜.唯子產不順.曰.小國無文德而有武功.禍莫大焉.楚人來討.能勿從乎.從之.晉師必至.晉楚伐鄭.自今鄭國.不四五年.弗得寧矣.子國怒之.曰.爾何知.國有大命.而有正卿.童子言焉.將為戮矣. |
衛の孫文子が訪問し、かつて武子の発言を礼拝し、孫桓子の盟約を継承した。公が壇に登ると彼も登った。叔孫穆子が付き添い、速足で進み出て言った。「諸侯の会合では、我が君はかつて衛の君に遅れたことはありません。今、あなたが我が君に遅れないのは、我が君が過ちを認めないからです。どうか少しお控えください。」孫子は返答せず、また悔い改める様子もなかった。穆叔は言った。「孫子は必ず滅びるだろう。臣下でありながら君のように振る舞い、過ちを悔い改めないのは、滅亡の根源である。」詩経に「退いて食し公より、ゆったりとゆったりと」とあるのは、従順な者を指す。横柄にゆったりと振る舞えば必ず挫折する。 楚の子囊が陳を包囲した。鄬で会合を開いてこれを救おうとした。鄭の僖公が太子だった時、成公十六年に子罕と共に晋へ行き、礼を欠いた。また子豐と共に楚へ行き、同樣に礼を欠いた。彼の元年に晋へ朝見した時、子豐は晋に訴えて彼を廃太子にしようとしたが、子罕が制止した。鄬での会合が迫ると、子駟が付き添ったが、再び礼を欠いた。側近が諫めたが聞き入れず、さらに諫めると、側近を殺した。鄵に到着すると、子駟は刺客を使い夜に僖公を暗殺し、瘧疾として諸侯に報告した。簡公は五歳で、擁立されて君となった。陳人は楚を憂い、慶虎と慶寅が楚人に言った。「我々が公子黄を派遣して捕らえさせましょう。」楚人はこれに同意した。二慶は会合で陳侯に報告した。「楚人が公子黄を捕らえました。君が戻られない場合、臣下たちは社稷と宗廟を守れず、別の計画を立てる恐れがあります。」陳侯は逃げ帰った。 襄公八年 八年の春、周の正月、公は晋へ行った。 伝 八年の春、公は晋へ朝見に行き、同時に朝聘の回数を確認した。 解説: Translation took 5155.8 seconds. |
| 五月.甲辰.會于邢丘.以命朝聘之數.使諸侯之大夫聽命.季孫宿.齊高厚.宋向戌.衛甯殖.邾大夫會之.鄭伯獻捷于會.故親聽命.大夫不書.尊晉侯也. 莒人伐我東鄙.以疆鄫田. 秋.九月.大雩.旱也. 冬.楚子囊伐鄭.討其侵蔡也.子駟.子國.子耳.欲從楚.子孔.子蟜.子展.欲待晉.子駟曰.周詩有之曰.俟河之清.人壽幾何.兆云詢多.職競作羅.謀之多族.民之多違.事滋無成.民急矣.姑從楚以紓吾民.晉師至.吾又從之.敬共幣帛.以待來者.小國之道也.犧牲玉帛.待於二竟.以待彊者.而庇民焉.寇不為害.民不罷病.不亦可乎.子展曰.小所以事大.信也.小國無信.兵亂日至.亡無日矣.五會之信.今將背之.雖楚救我.將安用之.親我無成.鄙我是欲.不可從也.不如待晉.晉君方明.四軍無闕.八卿和睦.必不棄鄭.楚師遼遠.糧食將盡.必將速歸.何患焉.舍之聞之.杖莫如信.完守以老楚.杖信以待晉.不亦可乎.子駟曰.詩云.謀夫孔多.是用不集.發言盈庭.誰敢執其咎.如匪行邁謀.是用不得于道.請從楚.騑也受其咎.乃及楚平.使王子伯駢告于晉曰.君命敝邑.脩而車賦.儆而師徒.以討亂略.蔡人不從.敝邑之人.不敢寧處.悉索敝賦.以討于蔡.獲司馬燮.獻于邢丘.今楚來討曰.女何故稱兵于蔡.焚我郊保.馮陵我城郭.敝邑之眾.夫婦男女.不遑啟處.以相救也.翦焉傾覆.無所控告.民死亡者.非其父兄.即其子弟.夫人愁痛.不知所庇.民知窮困.而受盟于楚.孤也與其二三臣.不能禁止.不敢不告.知武子使行人子員對之曰.君有楚命.亦不使一介行李.告于寡君.而即安于楚.君之所欲也.誰敢違君.寡君將帥諸侯以見于城下.唯君圖之. |
【翻訳文】 莒の軍が魯の東部边境を攻撃し、鄫の田地の境界を確定させた。 秋九月、旱魃のため大規模な雨乞いの儀式(大雩)が行われた。 冬、楚の子囊が鄭を攻撃した。これは鄭が蔡を侵攻したことへの報復である。鄭では子駟・子国・子耳が楚に従うことを主張し、子孔・子蟜・子展は晋の援軍を待つべきと主張した。子駟は「周の詩に『黄河の清むのを待つには、人の寿命がどれほどあるか』とある。占いの結果を過度に重視し、多くの意見が入り乱れれば、かえって障害が生じる。多くの氏族が議論すれば民の意見も分かれ、事は成就しにくい。民が逼迫しているのだ。暫く楚に従って民の苦しみを和らげよう。晋軍が到着したら再び晋に従えばよい。礼儀を尽くして財貨を捧げ、来る者に対応するのが小国の道理だ。犠牲や玉帛を両国の国境に備え、強者を待って民を庇護すれば、敵害もなく民も疲弊せず、妥当ではないか」と述べた。これに対し子展は「小国が大国に仕えるのは信義による。小国が信義を失えば戦乱が絶えず、滅亡は目前だ。五度の会盟で結んだ晋との信義を今破れば、たとえ楚が救っても意味がない。楚は親密を装いながら鄭を属国扱いするだけだ。晋を待つべきである。晋君は聡明で軍備は整い、八卿は和しており、必ず鄭を見捨てない。楚軍は遠征で兵糧が尽き、速やかに撤退するだろう」と反論し、「『頼りになるのは信義ほど確かなものはない』と聞く。防備を固めて楚軍を疲弊させ、信義を杖に晋を待つのが最善だ」と主張した。しかし子駟は「詩に『策士が多すぎると事は成就せず、発言が庭に溢れれば誰も責任を取らない』とある。旅の計画を路上で議論するように、方針が定まらない。楚に従うことを請う。私(子駟)がその責めを負う」と決断し、楚と講和した。 鄭は王子伯駢を晋に派遣し、「晋公の命により軍備を整えて蔡の乱を討ったが、蔡は従わなかった。鄭は全力で蔡を攻撃し、司馬燮を捕らえて邢丘の会で献上した。ところが楚が『なぜ蔡を攻めたのか』と責め、城郭を蹂躙したため、鄭の民は安住の地を失い、父子兄弟が次々に死傷している。民は困窮して楚と盟約を結び、我々は制止できなかった」と報告した。これに対し晋の知武子は使者の子員を通じて「楚の圧力を受けてすぐに晋に報告せず楚に従うとは、鄭公の本意だろう。誰も逆らえまい。晋公は諸侯を率いて鄭の城下でお目にかかるつもりだ」と返答した。 【解説】 重要な点は三点あります:
特に「杖莫如信(頼りになるのは信義ほど確かなものはない)」という子展の言葉は、春秋時代における「信」の概念が単なる道徳ではなく、国家存続の戦略的要素であったことを示す重要な箇所と言えるでしょう。 Translation took 3054.0 seconds. |
| 晉范宣子來聘.且拜公之辱.告將用師于鄭.公享之.宣子賦摽有梅.季武子曰.誰敢哉.今譬於草木.寡君在君.君之臭味也.歡以承命.何時之有.武子賦角弓.賓將出.武子賦彤弓.宣子曰.城濮之役.我先君文公獻功于衡雍.受彤弓于襄王.以為子孫藏.匄也.先君守官之嗣也.敢不承命.君子以為知禮. 襄公九年 經 九年春.宋災. 夏.季孫宿如晉. 五月.辛酉.夫人姜氏薨. 秋.八月.癸未.葬我小君穆姜. 冬.公會晉侯.宋公.衛侯.曹伯.莒子.邾子.滕子.薛伯.杞伯.小邾子.齊世子光.伐鄭. 十有二月.己亥.同盟于戲.楚子伐鄭. 傳 九年春.宋災.樂喜為司城.以為政.使伯氏司里.火所未至.徹小屋.塗大屋.陳畚挶.具綆缶.備水器.量輕重.蓄水潦.積土塗.巡丈城.繕守備.表火道.使華臣具正徒.令隧正.納郊保.奔火所.使華閱討右官.官庀其司.向戌討左.亦如之.使樂遄庀刑器.亦如之.使皇鄖命校正出馬.工正出車.備甲兵.庀武守.使西鉏吾庀府守.令司宮巷伯儆宮.二師令四鄉正敬享.祝宗用馬于四墉.祀盤庚于西門之外. 晉侯問於士弱曰.吾聞之.宋災.於是乎知有天道.何故.對曰.古之火正.或食於心.或食於咮.以出內火.是故咮為鶉火.心為大火.陶唐氏之火正閼伯.居商丘.祀大火.而火紀時焉.相土因之.故商主大火.商人閱其禍敗之釁.必始於火.是以日知其有天道也.公曰.可必乎.對曰.在道.國亂無象.不可知也. |
【翻訳文】 襄公九年 九年の春、宋で災害があった。 夏、季孫宿が晋へ行った。 五月辛酉の日、夫人姜氏が薨去した。 秋八月癸未の日、我が小君穆姜を葬った。 冬、公は晋侯・宋公・衛侯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子・齊の世子光と会合し、鄭を討伐した。 十二月己亥の日、戲で同盟を結んだ。楚子が鄭を討伐した。 伝 九年の春、宋で火災が発生した。楽喜が司城として政務を執り、伯氏に里の管理をさせた。火がまだ到達していない区域では、小屋を取り壊し、大屋に泥を塗り、土籠や土運びの道具を並べ、縄や甕を備え、消火用具を準備した。物資の重要度を計量し、雨水を貯め、土や泥を積み上げ、城壁を巡視して守備を整え、避難経路を表示した。華臣に正規の労働者を準備させ、隧正に命じて郊外の守備兵を火事現場へ急行させた。華閱に右官の統括を命じ、各官吏に担当業務を管理させた。向戌に左官の統括を命じ、同様の措置を取らせた。楽遄に刑罰用具の管理を、皇鄖に校正へ馬の提供、工正へ戦車の提供を命じ、武装守備を整えさせた。西鉏吾に府庫の守備を、司宮と巷伯に宮廷の警備を命じた。二師は四郷の長に祭祀を厳修させ、祝宗に四つの城門で馬を犠牲に捧げさせ、西門の外で盤庚を祀った。 晋侯が士弱に問うた。「私は聞くところによると、宋の火災によって天道の存在を知ったという。どういう理由か」。士弱が答えた。「古代の火正(火災管理官)は、心宿または咮宿で火の出入りを管理しました。それ故咮宿は鶉火、心宿は大火と呼ばれます。陶唐氏の火正である閼伯は商丘に住み、大火を祀って季節を定めました。相土がこれを継承したため、商は大火を主宰神とします。商の末裔は禍いの兆候を必ず火事から読み取るので、日に日に天道の存在を知るのです」。公が言った。「必ずそう言えるか」。答えて言った。「道理によるものです。国が乱れている時は兆候がなく、知りようがありません」。 【解説】 外交場面では、『詩経』の詩篇を引用し合うことで、両国の微妙な政治的意図を表現しています。特に「彤弓」の賦詩には、晋が周王朝から受けた軍事権威の正統性が暗示され、儀礼を通じた権力誇示の側面が窺えます。君子の「礼を知る」という評価は、こうした複雑な儀礼を適切に運用できることが、当時の貴族にとって重要な教養であったことを示しています。 災害記録部分では、宋国が火災に対し組織的に対応する様子が詳細に記され、古代中国における危機管理システムの成熟度がわかります。さらに天文思想と結びつけた晋侯の問答は、当時の自然現象を道徳的・天的な意志と結びつける思想的背景を反映しており、歴史記録としてだけでなく、古代中国の世界観を理解する貴重な資料となっています。特に「国乱無象」の言葉は、社会秩序の混乱が自然現象の解読を不可能にするという、政治と天道の相関性を説く点で注目されます。 Translation took 2422.1 seconds. |
| 夏.季武子如晉.報宣子之聘也.穆姜薨於東宮.始往而筮之.遇艮之八.史曰.是謂艮之隨.隨其出也.君必速出.姜曰.亡.是於周易.曰.隨元亨利貞.咎.元.體之長也.亨.嘉之會也.利.義之和也.貞.事之幹也.體仁足以長人.嘉德足以合禮.利物足以和義.貞固足以幹事.然故不可誣也.是以雖隨咎.今我婦人而與於亂.固在下位.而有不仁.不可謂元.不靖國家.不可謂亨.作而害身.不可謂利.棄位而姣.不可謂貞.有四德者.隨而無咎.我皆無之.豈隨也哉.我則取惡.能無咎乎.必死於此.弗得出矣. 秦景公使士雃乞師于楚.將以伐晉.楚子許之.子囊曰.不可.當今吾不能與晉爭.晉君類能而使之.舉不失選.官不易方.其卿讓於善.其大夫不失守.其士競於教.其庶人力於農穡.商工皁隸.不知遷業.韓厥老矣.知罃稟焉.以為政.范匄少於中行偃而上之.使佐中軍.韓起少於欒黶.而欒黶士魴上之.使佐上軍.魏絳多功.以趙武為賢而為之佐.君明臣忠.上讓下競.當是時也.晉不可敵.事之而後可.君其圖之.王曰.吾既許之矣.雖不及晉.必將出師.秋.楚子師于武城.以為秦援.秦人侵晉.晉饑.弗能報也. 冬.十月.諸侯伐鄭.庚午.季武子.齊崔杼.宋皇鄖.從荀罃.士匄.門于鄟門.衛北宮括.曹人.邾人.從荀偃.韓起.門于師之梁.滕人.薛人.從欒黶.士魴.門于北門.杞人.郳人.從趙武.魏絳.斬行栗.甲戌.師于氾.令於諸侯曰.脩器備.盛餱糧.歸老幼.居疾于虎牢.肆眚圍鄭.鄭人恐.乃行成.中行獻子曰.遂圍之.以待楚人之救也.而與之戰.不然無成.知武子曰.許之盟而還師.以敝楚人.吾三分四軍.與諸侯之銳.以逆來者.於我未病.楚不能矣.猶愈於戰.暴骨以逞.不可以爭.大勞未艾.君子勞心.小人勞力.先王之制也.諸侯皆不欲戰.乃許鄭成. |
夏、季武子が晋へ赴いた。これは宣子の聘問への返礼である。穆姜が東宮で亡くなった。当初、彼女がそこへ移るとき占いをしたところ、艮の八を得た。占い師が言うには、「これは艮の随となるものです。随は出ることを意味します。君は必ず早く出られるでしょう」。穆姜は言った、「違う。これは周易では随の卦で『元亨利貞、咎なし』と説く。元は体の長、亨は嘉の会、利は義の和、貞は事の幹である。仁を体して人を長ずるに足り、嘉徳をもって礼に合うに足り、物を利して義を和するに足り、貞固にして事を幹るに足る。だからこそ偽りえないのである。それゆえ随には咎がないのだ。しかし私は女でありながら乱に関与し、もともと下位にありながら仁なき行いをした。元とは言えぬ。国家を安んぜず、亨とは言えぬ。行動して身を害し、利とは言えぬ。位を棄てて淫らな行いをし、貞とは言えぬ。四徳を持つ者が随であれば咎はないが、私は一つも持たない。どうして随と言えようか。私は悪を取ったのだ、咎がないわけがあろうか。必ずここで死ぬであろう、出ることはできない」。 秦の景公が士雃を楚に派遣して援軍を請わせた。晋を討つためである。楚子はこれを許した。子囊が言った、「なりません。当今、我々は晋と争うことはできません。晋の君は人材を能力に応じて任用し、推挙に選び漏れがなく、官職の方針を変えません。その卿は善に譲り、その大夫は職守を失わず、その士は教えに励み、その庶民は農耕に力を注いでいます。商人、工人、雑役に至るまで、業を変えようとしません。韓厥は老齢ですが、知罃がこれを継いで政務を執っています。范匄は中行偃より年少ですが、彼を上位に置いて中軍の補佐としました。韓起は欒黶より年少ですが、欒黶と士魴が彼を推して上軍の補佐としました。魏絳は功績が多く、趙武を賢才としてその補佐としました。君は明察で臣は忠誠、上は譲り下は励む。この時節、晋は敵う相手ではありません。従うべきです。どうかご考慮を」。楚王は言った、「既に約束した。晋には及ばぬとしても、必ず軍を出す」。秋、楚子は武城に軍を駐屯させ、秦の援軍とした。秦が晋に侵攻したが、晋は飢饉のため反撃できなかった。 冬十月、諸侯が鄭を討った。庚午の日、季武子・斉の崔杼・宋の皇鄖が荀罃・士匄に従い、鄟門を攻めた。衛の北宮括・曹人・邾人が荀偃・韓起に従い、師の梁門を攻めた。滕人・薛人が欒黶・士魴に従い、北門を攻めた。杞人・郳人が趙武・魏絳に従い、道端の栗の木を伐った。甲戌の日、軍は氾に駐屯した。諸侯に命令して言った、「兵器を整え、食糧を豊かに備え、老人と幼子は帰国させ、病人を虎牢に留め置け。過ちを赦して鄭を包囲せよ」。鄭人は恐れ、和議を申し出た。中行献子(荀偃)が言った、「包囲を続け、楚の救援を待ち戦おう。そうでなければ成果はない」。知武子(荀罃)は言った、「和議を認めて軍を返し、楚を疲弊させよ。我々は四軍を三つに分け、諸侯の精鋭とともに来襲を迎え撃つ。我々には負担にならぬが、楚は耐えられまい。戦うよりましだ。屍を晒して願いを遂げるのは、争いの道ではない。大きな労りは未だ消えぬ。君子は心を労し、小人は力を労する―これが先王の定めだ」。諸侯は皆戦いを望まなかったので、鄭の和議を認めた。 解説: Translation took 2595.5 seconds. |
| 十一月.己亥.同盟于戲.鄭服也.將盟.鄭六卿公子騑.公子發.公子嘉.公孫輒.公孫蠆.公孫舍之.及其大夫門子皆從鄭伯.晉士莊子為載書.曰.自今日既盟之後.鄭國而不唯晉命是聽.而或有異志者.有如此盟.公騑趨進曰.天禍鄭國.使介居二大國之閒.大國不加德音.而亂以要之.使其鬼神不獲歆其禋祀.其民人不獲享其土利.夫婦辛苦墊隘.無所底告.自今日既盟之後.鄭國而不唯有禮與彊.可以庇民者是從.而敢有異志者.亦如之.荀偃曰.改載書.公孫舍之曰.昭大神要言焉.若可改也.大國亦可叛也.知武子謂獻子曰.我實不德.而要人以盟.豈禮也哉.非禮何以主盟.姑盟而退.脩德息師而來.終必獲鄭.何必今日.我之不德.民將棄我.豈唯鄭.若能休和.遠人將至.何恃於鄭.乃盟而還.晉人不得志於鄭.以諸侯復伐之. 十二月.癸亥.門其三門.閏月.戊寅.濟于陰阪.侵鄭.次于陰口而還.子孔曰.晉師可擊也.師老而勞.且有歸志.必大克之.子展曰.不可.公送晉侯.晉侯以公宴于河上.問公年.季武子對曰.會于沙隨之歲.寡君以生.晉侯曰.十二年矣.是謂一終.一星終也.國君十五而生子.冠而生子.禮也.君可以冠矣.大夫盍為冠具.武子對曰.君冠.必以祼享之禮行之.以金石之樂節之.以先君之祧處之.今寡君在行.未可具也.請及兄弟之國.而假備焉.晉侯曰.諾.公還及衛.冠于成公之廟.假鍾磬焉.禮也.楚子伐鄭.子駟將及楚平.子孔.子蟜.曰.與大國盟.口血未乾而背之.可乎.子駟.子展.曰.吾盟固云唯彊是從.今楚師至.晉不我救.則楚彊矣.盟誓之言.豈敢背之.且要盟無質.神弗臨也.所臨唯信.信者言之瑞也.善之主也.是故臨之.明神不蠲要盟.背之可也.乃及楚平.公子罷戎入盟.同盟于中分.楚莊夫人卒.王未能定鄭而歸.晉侯歸.謀所以息民.魏絳請施舍.輸積聚以貸.自公以下.苟有積者.盡出之.國無滯積.亦無困人.公無禁利.亦無貪民.祈以幣更.賓以特牲.器用不作.車服從給.行之期年.國乃有節.三駕而楚不能與爭. 襄公十年 經 |
十一月、己亥の日。戯の地で同盟を結んだ。鄭が服従したためである。盟約を結ぼうとするとき、鄭の六卿(公子騑・公子発・公子嘉・公孫輒・公孫蠆・公孫舍之)と大夫たちの嫡子らは皆鄭伯に従った。晋の士庄子が盟書を作成し、「今日この盟約を結んだ後、鄭国が晋の命令に従わず、異心を持つようなことがあれば、この盟約の通りに罰せられる」と宣言した。すると公子騑が進み出て言った。「天が鄭国に災いを与え、二大国の間に挟まれるようにされた。大国は徳をもって接せず、乱を用いて我々を脅す。そのため鄭の鬼神は祭祀を受けられず、民は土地の恩恵を享けず、夫婦は苦しみ窮乏し、訴える先もない。今日この盟約を結んだ後、鄭国は礼と強さを持ち民を庇える者に従う。敢えて異心を持つ者があれば、同様に罰せられよ」。荀偃が「盟書を改めよ」と言うと、公孫舍之は「大神の前で誓約した言葉を、もし改められるなら大国も叛くことができる」と反論した。知武子は献子に「我々が実に不徳であるのに、盟約で人を縛るのは礼であろうか。礼なくしてどうして盟主となれよう。ひとまず盟約を結んで退き、徳を修め軍を休めて再来すれば、必ず鄭を得られる。今日である必要はない。我々が不徳なら民も我々を見捨てる。鄭だけではない。もし平和であれば遠方の者も来るだろう。鄭に依存する必要はない」と言い、こうして盟約を結んで帰還した。晋は鄭で目的を果たせず、諸侯とともに再び鄭を討った。 十二月癸亥の日、鄭の三つの城門を攻めた。閏月戊寅の日、陰阪を渡り鄭を侵攻し、陰口に駐屯してから帰還した。子孔が「晋軍は撃てる。軍隊は疲れ帰りたがっている。必ず大勝できる」と言うと、子展は「不可である」と答えた。 公が晋侯を見送ると、晋侯は黄河の畔で公のために宴を開いた。晋侯が公の年齢を尋ねると、季武子が「沙随の会合の年に生まれました」と答えた。晋侯は「十二年か。これは一終、つまり星が一巡する期間だ。国君は十五歳で子をなす。元服して子をなすのが礼である。君は元服できる。大夫はなぜ冠の準備をしないのか」と言った。武子は「君の元服には必ず祼享の礼を行い、金石の楽で節をつけ、先君の廟で執り行うべきです。今、我が君は旅の途中で準備ができません。兄弟の国で備えを借りたい」と答えた。晋侯は「承知した」と言った。公が帰途衛に着くと、成公の廟で元服し、鐘や磬を借りた。これは礼に適っていた。 楚子が鄭を討つと、子駟は楚と和議を結ぼうとした。子孔と子蟜は「大国と盟約を結び、口の血が乾かぬうちに背くのか」と反対した。子駟と子展は「我々の盟約は元より『強い方に従う』とあった。今楚軍が来て晋は救わない。ならば楚が強いのだ。盟誓の言葉に背くわけではない。かつ強要された盟約に誠意はなく、神も臨まれない。臨まれるのは信のみである。信は言葉の証であり、善の基である。故に神が臨まれる。明神は強要された盟約を清められない。背いてもよい」と言い、こうして楚と和議を結んだ。公子罷戎が盟約に入り、中分で同盟した。楚の莊夫人が逝去し、楚王は鄭を安定させられず帰国した。 晋侯は帰国後、民を休める方法を謀った。魏絳が施捨を請い、蓄積を放出して貸し与えるよう提案した。公以下、蓄えのある者は全て出し、国に滞った蓄えも困窮する者もなくした。公は利益を独占せず、貪る民もいなくなった。祭祀では幣帛を改め、賓客には特牲を用い、新しい器物を作らず車や服は足りるだけにした。これを一年行うと、国に節度が生まれた。三度出兵して楚と争うことができなくなった。 襄公十年 解説: Translation took 2700.0 seconds. |
| 十年春.公會晉侯.宋公.衛侯.曹伯.莒子.邾子.滕子.薛伯.杞伯.小邾子.齊世子光.會吳于柤. 夏.五月.甲午.遂滅偪陽.公至自會.楚公子貞.鄭公孫輒.帥師伐宋.晉師伐秦. 秋.莒人伐我東鄙.公會晉侯.宋公.衛侯.曹伯.莒子.邾子.齊世子光.滕子.薛伯.杞.伯.小邾子.伐鄭. 冬.盜殺鄭公子騑.公子發.公孫輒.戍鄭虎牢.楚公子貞帥師救鄭.公至自伐鄭. 傳 十年春.會于柤.會吳子壽夢也.三月.癸丑.齊高厚相大子光.以先會諸侯于鍾離.不敬.士莊子曰.高子相大子以會諸侯.將社稷是衛.而皆不敬.棄社稷也.其將不免乎.夏.四月.戊午.會于柤. 晉荀偃.士匄.請伐偪陽而封宋向戌焉.荀罃曰.城小而固.勝之不武.弗勝為笑.固請.丙寅.圍之.弗克.孟氏之臣秦堇父.輦重如役.偪陽人啟門.諸侯之士門焉.縣門發.郰人紇抉之.以出門者.狄虒彌建大車之輪.而蒙之以甲.以為櫓.左執之.右拔戟.以成一隊.孟獻子曰.詩所謂有力如虎者也.主人縣布.堇父登之.及堞而絕之.隊則又縣之.蘇而復上者三.主人辭焉.乃退.帶其斷以徇於軍三日.諸侯之師.久於偪陽.荀偃.士匄.請於荀罃曰.水潦將降.懼不能歸.請班師.知伯怒.投之以机.出於其間曰.女成二事而後告余.余恐亂命.以不女違.女既勤君而興諸侯.牽帥老夫.以至于此.既無武守.而又欲易余罪.曰是實班師.不然克矣.余羸老也.可重任乎.七日不克.必爾乎取之.五月.庚寅.荀偃.士匄.帥卒攻偪陽.親受矢石.甲午.滅之.書曰.遂滅偪陽.言自會也.以與向戌.向戌辭曰.君若猶辱鎮撫宋國.而以偪陽光啟寡君.群臣安矣.其何貺如之.若專賜臣.是臣興諸侯以自封也.其何罪大焉.敢以死請.乃予宋公.宋公享晉侯于楚丘.請以桑林.荀罃辭.荀偃.士匄.曰.諸侯宋魯.於是觀禮.魯有禘樂.賓祭用之.宋以桑林享君.不亦可乎.舞師題以旌夏.晉侯懼而退.入于房.去旌.卒享而還.及著雍.疾.卜.桑林見.荀偃.士匄.欲奔請禱焉.荀罃不可曰.我辭禮矣.彼則以之.猶有鬼神.於彼加之.晉侯有間.以偪陽子歸.獻于武宮.謂之夷俘.偪陽.妘姓也.使周內史選其族嗣.納諸霍人.禮也.師歸.孟獻子以秦堇父為右.生秦丕茲.事仲尼. |
【現代日本語訳】 夏五月甲午の日、ついに偪陽を滅ぼした。公が会合から帰国した。楚の公子貞(子囊)と鄭の公孫輒(子耳)が軍を率いて宋を討伐した。晉軍が秦を討伐した。 秋、莒の軍が魯の東部边境を攻撃した。公が晉侯・宋公・衛侯・曹伯・莒子・邾子・齊世子光・滕子・薛伯・杞伯・小邾子と会合し、鄭を討伐した。 冬、鄭で公子騑(子驷)・公子発(子国)・公孫輒(子耳)が刺客に殺された。諸侯軍が鄭の虎牢を守備した。楚の公子貞が軍を率いて鄭を救援した。公が鄭討伐から帰国した。 (伝) 晉の荀偃(中行偃)と士匄(范宣子)が偪陽を討伐し、その地を宋の向戌に与えるよう請うた。荀罃(知荘子)は「城は小さいが堅固で、勝っても武勲にならず、敗れれば笑いものになる」と反対したが、強く請われたため、丙寅の日に包囲したが攻略できなかった。魯の孟献子家臣の秦堇父が糧秣車を引いて従軍すると、偪陽の守兵が城門を開いた。諸侯の兵士が門に殺到すると、守兵は閘門を落とした。郰の紇(叔梁纥)がこれを支え上げ、門内の兵士を脱出させた。狄虒弥が戦車の大輪を盾として用い、皮甲で覆った大盾を構え、左でこれを執り右で戟を揮って一隊を形成した。孟献子は「詩経にいう『力強きこと虎の如し』とはこのような者だ」と賞賛した。守兵が布を垂らすと、堇父はこれに登り、城壁に達すると守兵は布を切った。墜落すると再び布が垂らされ、気絶から覚めるたびに三度登城した。守兵が降参を告げたため、ようやく退いた。堇父は切断された布を帯として三日間軍中を巡り示した。 諸侯軍が偪陽に長期駐屯すると、荀偃と士匄が荀罃に「雨季が近づき帰還が困難になる恐れがある。撤兵を請う」と申し出た。知伯(荀罃)は激怒し、机を投げつけて二人の間に立つと、「お前たちは二つの功績(偪陽攻略と向戌への恩賞)を成し遂げてから報告せよ。命令の混乱を恐れてお前たちの意見に逆らわなかったが、君と諸侯を動かした以上、老夫を引きずってここまで来たのだ。武功も挙げず、しかも責任を老夫に転嫁しようとするのか。『撤兵さえすれば攻略できた』などと申すな。老夫は老衰しているが、これ以上の重責に耐えられるか。七日以内に落とせなければお前たちの首を取る」と叱責した。五月庚寅の日、荀偃と士匄が先頭に立って矢石を浴びながら偪陽を攻撃し、甲午の日に滅ぼした。春秋に「遂に偪陽を滅ぼす」と記したのは、会合からの直接行動を示すためである。 偪陽を向戌に与えようとしたが、向戌は辞退して「国君が宋を鎮撫されるのであれば、偪陽を以て寡君の国土を広げられれば臣下も安泰です。これ以上の賜物はありません。もし臣個人に賜れば、諸侯を動員して私利を図ったことになります。これほどの大罪はございません」と固辞し、代わりに宋公に献上された。 宋公が楚丘で晉侯を饗応し、桑林の楽舞を披露しようとしたが、荀罃が辞退した。荀偃と士匄が「諸侯の中で宋と魯は礼楽の模範です。魯には禘楽があり賓客饗応に用い、宋が桑林で君を饗応するのは妥当です」と進言した。舞師が旌夏(鳥羽の大旗)を掲げて舞い始めると、晉侯は恐懼して退き、小屋に逃げ込んだ。旌夏を撤去してようやく饗応を終え、帰途の著雍で晉侯が発病した。占うと桑林の神の祟りと出た。荀偃と士匄が祈祷のため宋へ赴こうとしたが、荀罃が「我々は辞退したのに彼らが強行した。もし鬼神が存在するなら、彼らに祟るべきだ」と制止した。晉侯が回復すると、偪陽の君主を連帰し、武宮で献俘の儀式を行い「夷俘」と称した。偪陽は妘姓の国であったため、周の内史に命じてその族嗣を選び、霍人に居住させた。これは礼に適った処置である。 撤兵後、孟献子が秦堇父を車右に登用した。堇父の子秦丕茲は後に孔子に師事した。 【解説】 Translation took 4111.9 seconds. |
| 六月.楚子囊.鄭子耳.伐宋.師于訾毋.庚午.圍宋門于桐門.晉荀罃伐秦.報其侵也.衛侯救宋.師于襄牛.鄭子展曰.必伐衛.不然.是不與楚也.得罪於晉.又得罪於楚.國將若之何.子駟曰.國病矣.子展曰.得罪於二大國必亡.病不猶愈於亡乎.諸大夫皆以為然.故鄭皇耳帥師侵衛.楚令也.孫文子卜追之.獻兆於定姜.姜氏問繇曰.兆如山陵.有夫出征.而喪其雄.姜氏曰.征者喪雄.禦寇之利也.大夫圖之.衛人追之.孫蒯獲鄭皇耳于犬丘. 秋.七月.楚子囊.鄭子耳.伐我西鄙.還圍蕭.八月.丙寅.克之.九月.子耳侵宋北鄙.孟獻子曰.鄭其有災乎.師競已甚.周猶不堪競.況鄭乎.有災.其執政之三士乎. 莒人間諸侯之有事也.故伐我東鄙. 諸侯伐鄭.齊崔杼使大子光先至于師.故長於滕.己酉.師于牛首.初子駟與尉止有爭.將禦諸侯之師.而黜其車.尉止獲.又與之爭.子駟抑尉止曰.爾車非禮也.遂弗使獻.初.子駟為田洫.司氏.堵氏.侯氏.子師氏.皆喪田焉.故五族聚群不逞之人.因公子之徒以作亂.於是子駟當國.子國為司馬.子耳為司空.子孔為司徒.冬.十月.戊辰.尉止.司臣.侯晉.堵女父.子師僕.帥賊以入.晨攻執政于西宮之朝.殺子駟.子國.子耳.劫鄭伯.以如北宮.子孔知之.故不死.書曰盜.言無大夫焉.子西聞盜.不儆而出.尸而追盜.盜入於北宮.乃歸授甲.臣妾多逃.器用多喪.子產聞盜為門者.庀群司.閉府庫.慎閉藏.完守備.成列而後出.兵車十七乘.尸而攻盜於北宮.子蟜帥國人助之.殺尉止.子師僕.盜眾盡死.侯晉奔晉.堵女父.司臣.尉翩.司齊.奔宋.子孔當國.為載書.以位序聽政辟.大夫諸司門子弗順.將誅之.子產止之.請為之焚書.子孔不可.曰.為書以定國.眾怒而焚之.是眾為政也.國不亦難乎.子產曰.眾怒難犯.專欲難成.合二難以安國.危之道也.不如焚書以安眾.子得所欲.眾亦得安.不亦可乎.專欲無成.犯眾興禍.子必從之.乃焚書於倉門之外.眾而後定. |
六月、楚の子囊と鄭の子耳が宋を討伐し、訾毋に軍隊を駐屯させた。庚午の日に、桐門で宋の門を包囲した。晉の荀罃が秦を討伐したのは、秦の侵攻への報復である。衛侯は宋を救援し、襄牛に軍隊を駐屯させた。鄭の子展が言った。「必ず衛を討伐すべきだ。そうでなければ、これは楚に与しないことになる。晉に罪を得、また楚に罪を得れば、国はどうなるのか。」子駟が言った。「国は疲弊している。」子展が言った。「二つの大国に罪を得れば必ず滅びる。疲弊しているのは滅びるよりまだましではないか。」諸大夫は皆そうだと思った。そこで鄭の皇耳が軍隊を率いて衛を侵したのは、楚の命令によるものである。孫文子が追撃の占いをし、その兆しを定姜に献じた。姜氏が占いの文を問うて言った。「兆しは山陵のようだ。夫が出征して、その雄を失う。」姜氏が言った。「出征する者が雄を失うのは、敵を防ぐのに有利である。大夫はこれを考慮せよ。」衛人が追撃し、孫蒯が犬丘で鄭の皇耳を捕らえた。 秋、七月、楚の子囊と鄭の子耳が我が西の辺境を討伐し、戻って蕭を包囲した。八月、丙寅の日に、それを攻克した。九月、子耳が宋の北の辺境を侵した。孟獻子が言った。「鄭には災いがあるだろう。軍隊の競争が甚だしすぎる。周でさえ競争に耐えられないのに、まして鄭ではどうだろう。災いがあるなら、それは執政の三人の士だろう。」 莒人は諸侯に争いがあるのを隙に、我が東の辺境を討伐した。 諸侯が鄭を討伐した。齊の崔杼が太子光を先に軍に至らせたので、滕より上位とした。己酉の日に、牛首に軍隊を駐屯させた。初め、子駟と尉止に争いがあった。諸侯の軍を防ごうとして、尉止の戦車を減らした。尉止が捕虜を獲たが、また彼と争った。子駟が尉止を抑えて言った。「お前の戦車は礼に合わない。」遂に献上させなかった。初め、子駟が田畑の水路を整備した時、司氏、堵氏、侯氏、子師氏は皆、田を失った。故に五族は不満を持つ者を集め、公子の一派を利用して乱を起こした。この時、子駟が国政を執り、子国が司馬、子耳が司空、子孔が司徒であった。冬、十月、戊辰の日に、尉止、司臣、侯晉、堵女父、子師僕が賊を率いて侵入し、朝早く西宮の朝廷で執政者を攻撃し、子駟、子国、子耳を殺し、鄭伯を拉致して北宮に連れ去った。子孔はこれを知っていたので、殺されなかった。史書に「盗」と記されたのは、大夫が関与していないことを示す。子西が賊の報を聞き、警戒せずに出て、遺体を収容して賊を追った。賊は北宮に入ったので、帰って武装しようとしたが、使用人たちは多く逃げ、道具は多く失われた。子産が賊の報を聞いて門の守備を固め、各部門を整え、倉庫を閉じ、保管を厳重にし、守備を完璧にして、陣列を整えてから出撃した。兵車十七乗で、遺体を収容しながら北宮で賊を攻撃した。子蟜が国人を率いてこれを助け、尉止と子師僕を殺した。賊の一味は全滅し、侯晉は晉に逃れ、堵女父、司臣、尉翩、司齊は宋に逃れた。子孔が国政を執り、盟約書を作成して、地位の順序に従って政治を執るように定めたが、大夫や各部門の役人、貴族の子弟が従わず、彼らを処罰しようとした。子産がこれを止め、盟約書を焼くことを提案した。子孔は承知せず、言った。「書物を作って国を安定させようとするのに、衆怒によってそれを焼くのは、衆が政治を執ることであり、国は難しくなるではないか。」子産が言った。「衆怒は逆らい難く、独断の欲望は成就し難い。二つの難しさを合わせて国を安定させようとするのは危険な道である。盟約書を焼いて衆を安心させる方が良い。あなたは望みを達し、衆も安らぐ。これで良くないか。独断の欲望は成就せず、衆を逆らえば禍を招く。あなたは必ずこれに従うべきだ。」そこで倉門の外で盟約書を焼き、衆はその後安定した。 解説この一節は『春秋左氏伝』における紀元前563年の出来事を描いており、鄭国を中心とした国際関係と内乱が詳細に記録されています。主なポイントは以下の通りです。
この記述は、春秋時代の国際政治の複雑さと、国内の権力闘争が如何に国家の命運を左右するかを如実に物語っています。特に子産の登場は、鄭国が後に「子産の治世」で小国ながら存在感を示す伏線となっています。 Translation took 6903.6 seconds. |
| 諸侯之師.城虎牢而戍之.晉師城梧及制.士魴.魏絳.戍之.書曰.戍鄭虎牢.非鄭地也.言將歸焉.鄭及晉平.楚子囊救鄭. 十一月.諸侯之師還鄭而南.至於陽陵.楚師不退.知武子欲退.曰.今我逃楚.楚必驕.驕則可與戰矣.欒黶曰.逃楚.晉之恥也.合諸侯以益恥.不如死.我將獨進.師遂進.己亥.與楚師夾潁而軍.子蟜曰.諸侯既有成行.必不戰矣.從之將退.不從亦退.退楚必圍我.猶將退也.不如從楚.亦以退之.霄涉潁.與楚人盟.欒黶欲伐鄭師.荀罃不可.曰.我實不能禦楚.又不能庀鄭.鄭何罪.不如致怨焉而還.今伐其師.楚必救之.戰而不克.為諸侯笑.克不可命.不如還也.丁未.諸侯之師還.侵鄭北鄙而歸.楚人亦還. 王叔陳生與伯輿爭政.王右伯輿.王叔陳生怒而出奔.及河.王復之.殺史狡以說焉.不入.遂處之.晉侯使士匄平王室.王叔與伯輿訟焉.王叔之宰.與伯輿之大夫瑕禽.坐獄於王庭.士匄聽之.王叔之宰曰.篳門閨竇之人.而皆陵其上.其難為上矣.瑕禽曰.昔平王東遷.吾七姓從王.牲用備具.王賴之.而賜之騂旄之盟.曰.世世無失職.若篳門閨竇.其能來東底乎.且王何賴焉.今自王叔之相也.政以賄成.而刑放於寵.官之師旅.不勝其富.吾能無篳門閨竇乎.唯大國圖之.下而無直.則何謂正矣.范宣子曰.天子所右.寡君亦右之.所左亦左之.使王叔氏與伯輿合要.王叔氏不能舉其契.王叔奔晉.不書.不告也.單靖公為卿士.以相王室. 襄公十一年 經 |
諸侯の連合軍は虎牢に城塞を築いて守備を固めた。晋軍は梧と制に城塞を築き、士魴と魏絳が守備についた。史書に「鄭の虎牢を守備する」と記されているが、これは鄭の領地ではない。将来この地が鄭に帰属することを暗示している。鄭は晋と和睦し、楚の子囊が鄭を救援に向かった。 十一月、諸侯の連合軍は鄭を包囲して南方に進軍し、陽陵まで到達した。楚軍は撤退しなかった。知武子は退却を提案し、「我々が楚を避ければ、楚は必ず驕る。驕った楚なら戦いを挑める」と言った。しかし欒黶は「楚から逃れるのは晋の恥だ。諸侯を集めてさらに恥を重ねるより、死を選ぶ方がましだ」と反論し、独断で進軍を主張した。結局軍は進み、己亥の日に楚軍と潁水を挟んで対峙した。子蟜は「諸侯軍は既に撤退の準備をしている。楚に従っても撤退するし、従わなくても撤退する。撤退すれば楚に包囲されるなら、いっそ楚に従って撤退を促そう」と提案し、夜中に潁水を渡って楚と盟を結んだ。欒黶が鄭軍を討とうとすると、荀罃は「我々は楚を防げず、鄭を守れなかった。鄭に罪はない。恨みを買うより撤退すべきだ」と制止し、丁未の日に諸侯軍は鄭の北部を侵攻して帰還した。楚軍も撤退した。 王叔陳生と伯輿が政権を争い、周王が伯輿を支持したため、王叔は怒って逃亡した。黄河まで来た時、王が史狡を処刑して慰留したが、王叔は都に戻らず在外に留まった。晋侯が士匄を派遣して周王室の調停をさせると、王叔の家宰と伯輿側の瑕禽が王の前で論争した。家宰が「卑しい身分の者が上位者を侮るのは困ったことだ」と非難すると、瑕禽は「平王の東遷に七姓が従い、王室を支えた。現在は賄賂が横行し、寵臣が権力を握っているため、我々が貧窮しているのだ」と反論した。士匄は「王が支持する者を晋も支持する」と裁定し、王叔に証拠の提出を求めたが、王叔は提示できず晋へ逃亡した。この件は史書に記されていないのは、報告がなかったためである。その後、単靖公が卿士として王室を補佐することになった。 襄公十一年 【解説】 Translation took 2453.2 seconds. |
| 十有一年春.王正月.作三軍. 夏.四月.四卜郊不從.乃不郊.鄭公孫舍之帥師侵宋.公會晉侯.宋公.衛侯.曹伯.齊世子光.莒子.邾子.滕子.薛伯.杞伯.小邾子.伐鄭. 秋.七月.己未.同盟于亳城北.公至自伐鄭.楚子.鄭伯.伐宋.公會晉侯.宋公.衛侯.曹伯.齊世子光.莒子.邾子.滕子.薛伯.杞伯.小邾子.伐鄭.會于蕭魚.公至自會.楚執鄭行人.良霄 冬.秦人伐晉. 傳 十一年春.季武子將作三軍.告叔孫穆子曰.請為三軍.各征其軍.穆子曰.政將及子.子必不能.武子固請之.穆子曰.然則盟諸.乃盟諸僖閎.詛諸五父之衢.正月.作三軍.三分公室.而各有其一.三子各毀其乘.季氏使其乘之人.以其役邑入者無征.不入者倍征.孟氏使半為臣.若子若弟.叔孫氏使盡為臣.不然不舍. 鄭人患晉楚之故.諸大夫曰.不從晉.國幾亡.楚弱於晉.晉不吾疾也.晉疾.楚將辟之.何為而使晉師致死於我.楚弗敢敵.而後可固與也.子展曰.與宋為惡.諸侯必至.吾從之盟.楚師至.吾又從之.則晉怒甚矣.晉能驟來楚將不能.吾乃固與晉.大夫說之.使疆場之司.惡於宋.宋向戌侵鄭.大獲.子展曰.師而伐宋可矣.若我伐宋.諸侯之伐我必疾.吾乃聽命焉.且告於楚.楚師至.吾乃與之盟.而重賂晉師.乃免矣.夏.鄭子展侵宋. |
十一年の春、周王の正月、三軍を創設した。 夏の四月、四回郊祀の占いを行ったが吉兆が得られなかったため、郊祀を行わなかった。鄭の公孫舎之が軍を率いて宋を侵攻した。魯公は晋侯・宋公・衛侯・曹伯・斉の世子光・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子と会合し、鄭を討伐した。 秋七月己未の日、亳城の北で同盟を結んだ。魯公は鄭討伐から帰国した。楚子と鄭伯が宋を討伐した。魯公は晋侯・宋公・衛侯・曹伯・斉の世子光・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子と会合し、鄭を討伐し、蕭魚で会合した。魯公は会合から帰国した。楚が鄭の外交官である良霄を拘束した。 冬、秦人が晋を討伐した。 【伝】 鄭は晋と楚の両大国に挟まれて苦慮していた。大夫たちが「晋に従わなければ国が滅びかねない。楚は晋より弱く、晋は我々を急には攻めない。晋が本気で迫れば楚は退くだろう。どうすれば晋軍が我々のために死力を尽くし、楚が敢えて敵対しないようにできるか。そうなれば晋と堅固な関係を築ける」と議論した。子展が「宋と敵対すれば諸侯軍が必ず来襲し、我々はそれに従って盟約する。楚軍が来たらまた従い、そうすれば晋は激怒する。晋は頻繁に来襲できるが楚にはできないため、結局は晋と固く結べる」と提案した。大夫たちはこれに賛同し、国境の役人に宋への挑発を命じた。宋の向戌が鄭を侵攻して大勝したため、子展は「今こそ宋を討伐すべきだ。我々が宋を攻めれば諸侯は急速に我々を討伐に来る。その時楚に救援を要請しつつ晋には莫大な賄賂を贈れば難を逃れられる」と主張した。夏、鄭の子展が宋を侵攻した。 解説この一節は『春秋左氏伝』襄公十一年の記録で、春秋時代の複雑な国際関係と国内改革を描いています。主なポイントは以下の通りです:
この時期の魯では三桓氏の台頭が進み、鄭は晋楚の狭間で生き残りを模索するという、春秋時代中期の典型的な政治状況がよく表れています。 Translation took 2598.1 seconds. |
| 四月.諸侯伐鄭.己亥.齊太子光.宋向戌.先至于鄭.門于東門.其莫.晉荀罃至于西郊.東侵舊許.衛孫林父侵其北鄙. 六月.諸侯會于北林.師于向右.還次于瑣.圍鄭.觀兵于南門.西濟于濟隧.鄭人懼.乃行成. 秋.七月.同盟于亳.范宣子曰.不慎.必失諸侯.諸侯道敝而無成.能無貳乎.乃盟.載書曰.凡我同盟.毋薀年.毋壅利.毋保姦.毋留慝.救災患.恤禍亂.同好惡.獎王室.或間茲命.司慎司盟.名山名川.群神群祀.先王先公.七姓十二國之祖.明神殛之.俾失其民.隊命亡氏.踣其國家.楚子囊乞旅于秦.秦右大夫詹帥師從楚子.將以伐鄭.鄭伯逆之.丙子.伐宋. 九月.諸侯悉師以復伐鄭.鄭人使良霄.大宰石蓖.如楚.告將服于晉.曰.孤以社稷之故.不能懷君.君若能以玉帛綏晉.不然.則武震以攝威之.孤之願也.楚人執之.書曰行人.言使人也.諸侯之師觀兵于鄭東門.鄭人使王子伯駢行成.甲戌.晉趙武入盟鄭伯. 冬.十月.丁亥.鄭子展出盟晉侯. 十二月.戊寅.會于蕭魚.庚辰.赦鄭囚.皆禮而歸之.納斥候.禁侵掠.晉侯使叔肸告于諸侯.公使臧孫紇對曰.凡我同盟.小國有罪.大國致討.苟有以藉手.鮮不赦宥.寡君聞命矣.鄭人賂晉侯以師悝.師觸.師蠲.廣車.軘車.淳十五乘.甲兵備.凡兵車百乘.歌鐘二肆.及其鎛磬.女樂二八.晉侯以樂之半賜魏絳.曰.子教寡人.和諸戎狄.以正諸華.八年之中.九合諸侯.如樂之和.無所不諧.請與子樂之.辭曰.夫和戎狄.國之福也.八年之中.九合諸侯.諸侯無慝.君之靈也.二三子之勞也.臣何力之有焉.抑臣願君安其樂而思其終也.詩曰.樂只君子.殿天子之邦.樂只君子.福祿攸同.便蕃左右.亦是帥從.夫樂以安德.義以處之.禮以行之.信以守之.仁以厲之.而後可以殿邦國.同福祿.來遠人.所謂樂也.書曰.居安思危.思則有備.有備無患.敢以此規.公曰.子之教.敢不承命.抑微子.寡人無以待戎.不能濟河.夫賞.國之典也.藏在盟府.不可廢也.子其受之.魏絳於是乎始有金石之樂.禮也.秦庶長鮑.庶長武.帥師伐晉.以救鄭.鮑先入晉地.士魴禦之.少秦師而弗設備.壬午.武濟自輔氏.與鮑交伐晉師.己丑.秦晉戰于櫟.晉師敗績.易秦故也. 襄公十二年 經 |
四月、諸侯が鄭を討伐した。己亥の日、齊の太子光と宋の向戌が先に鄭に到着し、東門を攻撃した。その夕方、晉の荀罃が西郊に到着した。東では舊許を侵し、衛の孫林父はその北方の辺境を侵した。 六月、諸侯は北林で会合し、軍を向右に駐屯させ、さらに瑣に移動して駐屯した。鄭を包囲し、南門で軍勢を示威した。西へ濟隧を渡った。鄭人は恐れ、和議を申し出た。 秋の七月、亳で同盟を結んだ。范宣子が言った。「慎重でなければ、必ず諸侯を失うだろう。諸侯が疲弊して成果が得られなければ、離反しないだろうか。」そこで盟約を結び、盟書に記した。「すべて我々同盟の者は、穀物を隠し貯めするな、利益を独占するな、悪人を保護するな、邪悪な者をかばうな、災害や患いを救い、禍乱を憐れみ、好悪を同じくし、王室を助けよ。もしこの命令に背く者があれば、司慎と司盟の神、名山名川の神、あらゆる神々と祭祀の対象、先王先公、七姓十二国の祖の明神が、その者を罰し、民を失わせ、命を落とし、家名を絶やし、その国家を滅ぼすだろう。」楚の子囊が秦に援軍を求めた。秦の右大夫詹が軍を率いて楚子に従い、鄭を討伐しようとした。鄭伯はこれを迎え撃った。丙子の日、宋を討伐した。 九月、諸侯は全軍を挙げて再び鄭を討伐した。鄭人は良霄と太宰石蓖を楚に遣わし、晋に服従する意向を伝えさせた。「私は国家の存続のため、楚君に従い続けることができません。楚君がもし財貨で晋を鎮められるならば、あるいは武力で威圧されるならば、私の願いです。」楚人は彼らを拘束した。史書に「行人」と記したのは、使者であることを示している。諸侯の軍は鄭の東門で軍勢を示威した。鄭人は王子伯駢を遣わして和議を申し出た。甲戌の日、晉の趙武が鄭に入り鄭伯と盟約を結んだ。 冬の十月、丁亥の日、鄭の子展が晋侯と盟約を結んだ。 十二月、戊寅の日、蕭魚で会合した。庚辰の日、鄭の捕虜を赦免し、すべて礼を尽くして帰国させた。哨戒兵を撤収し、侵略や略奪を禁じた。晋侯は叔肸を諸侯に遣わして報告させた。魯公は臧孫紇を使者として答えさせた。「すべて我々同盟の者は、小国が罪を犯せば大国が討伐する。もし謝罪の手段があれば、赦さないことは稀です。寡君はその旨承知しました。」鄭人は晋侯に師悝・師触・師蠲(三名の楽師)、広車・軘車(戦車の一種)を各十五乗、武装を整えた兵車百乗、歌鐘二組、およびそれに伴う鎛鐘と磬、女楽十六人を贈った。晋侯は楽器の半分を魏絳に賜り、言った。「あなたが戎狄と和睦し諸華を安定させよと教えてくれた。八年の間に九度も諸侯を会合させ、音楽の調和のようにすべてがうまくいった。あなたとこの喜びを分かち合いたい。」魏絳は辞退して言った。「戎狄と和することは国の福です。八年間に九度諸侯が会合し、諸侯に異心がないのは君の威光と諸臣の功労によるもので、私に何の力がありましょうか。むしろ願わくは、君が安楽の中でその末路を考えられることです。詩に『楽しき君子は天子の国を鎮め、楽しき君子は福禄を共有し、左右の者をよく従え、これに率従す』とあります。楽しみは徳を安定させ、義をもって処し、礼をもって行い、信をもって守り、仁をもって励ましてこそ、国を鎮め福禄を分かち合い遠人を招くことができる。これが真の楽しみです。書経に『安きに居りて危うきを思えば、備えありて患いなし』とあります。謹んでこの言葉を献じます。」晋侯は言った。「あなたの教えは謹んで受け止める。しかしあなたなしでは私は戎に対処できず黄河を渡れなかった。賞賜は国の定めで、盟府に記録され廃することはできない。受け取ってほしい。」こうして魏絳は初めて金石の楽器を持つこととなった。これは礼に適ったことである。秦の庶長鮑と庶長武が軍を率いて晋を討伐し、鄭を救援しようとした。鮑が先に晋地に侵入し、士魴が防戦したが秦軍が少ないと油断して備えを固めなかった。壬午の日、武が輔氏から渡河し、鮑と挟み撃ちで晋軍を攻撃した。己丑の日、秦と晋が櫟で戦い、晋軍は大敗した。秦を軽視したためである。 襄公十二年 【解説】 Translation took 6142.9 seconds. |
| 十有二年春.王二月.莒人伐我東鄙.圖台.季孫宿帥師救台.遂入鄆. 夏.晉侯使士魴來聘. 秋.九月.吳子乘卒. 冬.楚公子貞帥師侵宋.公如晉. 傳 十二年春.莒人伐我東鄙.圍台.季武子救台.遂入鄆.取其鐘以為公盤. 夏.晉士魴來聘.且拜師. 秋.吳子壽夢卒.臨於周廟.禮也.凡諸侯之喪.異姓臨於外.同姓於宗廟.同宗於祖廟.同族於禰廟.是故魯為諸姬.臨於周廟.為邢.凡.蔣.茅.胙.祭.臨於周公之廟. 冬.楚子囊.秦庶長無地.伐宋.師于楊梁.以報晉之取鄭也.靈王求后于齊.齊侯問對於晏桓子.桓子對曰.先王之禮辭有之.天子求后於諸侯.諸侯對曰.夫婦所生若而人.妾婦之子若而人.無女而有姊妹.及姑姊妹.則曰.先守某公之遺女若而人.齊侯許昏.王使陰里逆之.公如晉.朝.且拜士魴之辱.禮也.秦嬴歸于楚.楚司馬子庚聘于秦.為夫人寧.禮也. 襄公十三年 經 十有三年春.公至自晉. 夏.取邿. 秋.九月.庚辰.楚子審卒. 冬.城防. 傳 十三年春.公至自晉.孟獻子書勞于廟.禮也. 夏.邿亂.分為三師救邿.遂取之.凡書取.言易也.用大師焉曰滅.弗地曰入. 荀罃.士魴.卒.晉侯蒐于綿上以治兵.使士匄將中軍.辭曰.伯游長.昔臣習於知伯.是以佐之.非能賢也.請從伯游.荀偃將中軍.士匄佐之.使韓起將上軍.辭以趙武.又使欒黶辭曰.臣不如韓起.韓起願上趙武.君其聽之.使趙武將上軍.韓起佐之.欒黶將下軍.魏絳佐之.新軍無帥.晉侯難其人.使其什吏.率其卒乘官屬.以從於下軍.禮也.晉國之民.是以大和.諸侯遂睦. |
【翻訳文】 襄公十二年の春、周の王の二月、莒の国の人々が我が魯国の東部边境を攻撃し、台という地を包囲した。季孫宿が軍隊を率いて台を救援し、そのまま鄆に入った。 夏、晋の侯(晋侯)が士魴を使者として派遣し、来聘(訪問)させた。 秋、九月、吳の君乗(吳子乗)が死去した。 冬、楚の公子貞が軍隊を率いて宋国に侵攻した。魯の公(襄公)が晋国へ赴いた。 伝(解説) 夏、晋の士魴が来聘した。かつての出兵(魯が晋に加勢したこと)への礼も兼ねていた。 秋、吳の君壽夢(吳子壽夢)が死去した。(魯で)周廟において喪礼に臨んだ。これは礼に適っている。すべて諸侯の喪には、異姓の国は城外で臨み、同姓の国は宗廟で、同宗の国は祖廟で、同族の国は禰廟で臨む決まりである。それ故、魯は諸姬(姫姓の国々)のためには周廟で臨み、邢・凡・蔣・茅・胙・祭などの国々のためには周公の廟で臨んだ。 冬、楚の子囊と秦の庶長無地が宋国を攻撃し、楊梁に軍隊を駐屯させた。これは晋が鄭を占領したことへの報復である。霊王(周の王)が齊に后(妃)を求めた。齊の侯(齊侯)が晏桓子に対応を問うた。桓子は答えて言った。「先王の礼の辞令に定めがあります。天子が諸侯に后を求める際、諸侯は答えて、『正妻の生んだ子が何人、側室の子が何人』と述べ、娘がいなくて姉妹や姑姉妹がいる場合は、『先代の某公の遺された娘が何人』と申し上げるのです」。齊侯は婚姻を承諾した。王は陰里を派遣して后を迎えさせた。公(魯の襄公)が晋へ赴き、朝見し、かつ士魴の来聘(訪問の栄)を謝した。これは礼である。秦嬴(秦の公女)が楚に嫁いだ。楚の司馬子庚が秦に聘問(訪問)し、夫人(秦嬴)の安否を伺った。これは礼である。 襄公十三年 夏、邿を占領した。 秋、九月庚辰の日、楚の君審(楚子審)が死去した。 冬、防に城を築いた。 伝 夏、邿で内乱が起こった。(魯軍が)三軍に分かれて邿を救援し、ついにこれを占領した。凡そ「取」と記録するのは、容易に得たことを示す。大軍を用いた場合は「滅」と言い、土地を占領しない場合は「入」と言う。 荀罃と士魴が死去した。晋侯が綿上で閲兵(軍事演習)を行い、軍制を整えた。士匄に中軍の将となるよう命じたが、士匄は辞退して言った。「伯游(荀偃)が年長です。昔、私は知伯(荀罃)に仕えていたので、彼を補佐しただけで、能力が優れていたからではありません。伯游に従うことをお許しください」。荀偃が中軍の将となり、士匄がその補佐となった。韓起に上軍の将となるよう命じたが、韓起は趙武を推挙して辞退し、さらに欒黶に命じたが、欒黶は辞退して言った。「私は韓起に及びません。韓起は趙武を上位に立てたいと願っています。どうかお聞き入れください」。趙武を上軍の将とし、韓起がその補佐となった。欒黶が下軍の将となり、魏絳がその補佐となった。新軍には将帥がおらず、晋侯は適任者を見つけるのに難儀し、その下級官吏たちに率いさせ、その兵士と車乗および官属を下軍に附属させた。これは礼に適った処置である。晋国の民はこれによって大いに和し、諸侯たちもついに和睦した。 【解説】 特徴的な点として: 特に襄公十三年の晋のエピソードは、個人の能力より集団の和を重んじる姿勢が強調され、後世の儒家思想にも通じる価値観が窺えます。歴史資料としてだけでなく、古代中国の政治思想を理解する上でも貴重な記録です。 Translation took 4625.3 seconds. |
| 君子曰.讓.禮之主也.范宣子讓.其下皆讓.欒黶為汰.弗敢違也.晉國以平.數世賴之.刑善也夫.一人刑善.百姓休和.可不務乎.書曰.一人有慶.兆民賴之.其寧惟永.其是之謂乎.周之興也.其詩曰.儀刑文王.萬邦作孚.言刑善也.及其衰也.其詩曰.大夫不均.我從事獨賢.言不讓也.世之治也.君子尚能而讓其下.小人農力以事其上.是以上下有禮.而讒慝黜遠.由不爭也.謂之懿德.及其亂也.君子稱其功以加小人.小人伐其技以馮君子.是以上下無禮.亂虐並生.由爭善也.謂之昏德.國家之敝.恆必由之. 楚子疾.告大夫曰.不穀不德.少主社稷.生十年而喪先君.未及習師保之教訓.而應受多福.是以不德.而亡師于鄢.以辱社稷.為大夫憂.其弘多矣.若以大夫之靈.獲保首領.以歿於地.唯是春秋窀穸之事.所以從先君於禰廟者.請為靈若厲.大夫擇焉.莫對.及五命.乃許.秋.楚共王卒.子囊謀諡.大夫曰.君有命矣.子囊曰.君命以共.若之何毀之.赫赫楚國.而君臨之.撫有蠻夷.奄征南海.以屬諸夏.而知其過.可不謂共乎.請謚之共.大夫從之. 吳侵楚.養由基奔命.子庚以師繼之.養叔曰.吳乘我喪.謂我不能師也.必易我而不戒.子為三覆以待我.我請誘之.子庚從之.戰于康浦.大敗吳師.獲公子黨.君子以吳為不弔.詩曰.不弔昊天.亂靡有定. |
【現代日本語訳】 楚王(共王)が病気になり、大夫たちに告げて言った。「私は徳がなく、若くして社稷を主宰した。十歳で先君を失い、師保の教訓を学ぶ間もなく、多福を受ける立場にあった。それ故に徳がなく、鄢の地で軍を失い、社稷を辱しめた。大夫たちの憂いとなることが、実に多かった。もし大夫たちの御陰で、首を保ったまま地中に葬られ、春秋の祭祀の際に先君の廟に従うことができれば、霊あるいは厲の諡号を請う。大夫たちが選んでほしい」。誰も答えなかった。五度命じられて、ようやく承諾した。秋、楚の共王が卒去した。子囊が諡号を議論すると、大夫たちは「君は既に命じられている」と言った。子囊は「君は恭(共)であると命じられた。どうしてそれを毀ることができようか。赫々たる楚國を君は治め、蛮夷を撫で従え、南海を征伐して諸夏に連ねた。そして自らの過ちを知っていた。これを恭と言わずして何と言おうか。恭の諡号を請う」。大夫たちはこれに従った。 吳が楚に侵攻した。養由基が急遽出撃し、子庚が軍を率いて続いた。養叔(養由基)は言った。「吳は我が喪中につけ込み、我々が軍を動かせないと思っている。必ず我々を軽視して警戒しない。貴方は三つの伏兵を配置して待機してほしい。私が誘い出そう」。子庚はこれに従った。康浦で戦い、吳軍を大敗させ、公子党を捕虜とした。君子は吳を不倶戴天と評した。詩に「天よ、どうして哀れまないのか。乱れは収まる気配がない」とある。 【解説】 第一段では「礼譲」の思想的意義が論じられています。晋国の事例を通し、上位者の模範的行動(刑善)が社会全体の調和(休和)を生むという儒家の統治理念を展開。周王朝の興隆と衰退を詩経の引用で対比し、治世では「譲り」に基づく上下の秩序(懿德)が、乱世では「争い」による礼節の喪失(昏徳)が起こると分析します。特に「国家の衰えは常にこのことから生じる」との結語は、左伝の歴史観の核心を示唆しています。 第二段は楚共王の臨終場面です。自らを「不徳」と称する王の遺言は、春秋時代の君主が諡号を気にする慣習を反映。子囊による「共(恭)」の諡号決定プロセスでは、①客観的業績(蛮夷統治・南海征伐)と②主観的悔恨(過ちの自覚)の両面から「恭」の正当性を論証する理路が興味深く、史書における人物評価の複層性が窺えます。 第三段の吳楚戦記は、喪中という脆弱期を衝いた吳の計算と、養由基の奇策による逆転勝利を活写。詩経の引用「不弔昊天」は、吳の非道性を天的視点で断罪する修辞技法です。3つの異なるテーマが「礼の秩序―君主の徳―国際関係」という繋がりで配置され、左伝の編纂意図が感じられる構成です。 (注記)現代語訳に際し、固有名詞(范宣子・欒黶等)は原音に近い表記を優先し、「霊若厲」のような諡号候補は当時の評価ニュアンスを考慮して訳出しました。「刑善」の「刑」は「型」と同義で「模範とする」意、「農力」は「努力」の仮借字として解釈しています。 Translation took 2963.6 seconds. |
| 冬.城防.書事時也.於是將早城.臧武仲請俟畢農事.禮也. 鄭良霄.大宰石蓖.猶在楚.石蓖言於子囊曰.先王卜征五年.而歲習其祥.祥習則行.不習則增.脩德而改卜.今楚實不競.行人何罪.止鄭一卿.以除其偪.使睦而疾楚.以固於晉焉.用之使歸.而廢其使.怨其君以疾其大夫.而相牽引也.不猶愈乎.楚人歸之. 襄公十四年 經 十有四年春.王正月.季孫宿叔老會晉士匄.齊人.宋人.衛人.鄭公孫蠆.曹人.莒人.邾人.滕人.薛人.杞人.小邾人.會吳于向. 二月.乙未朔.日有食之. 夏.四月.叔孫豹會晉荀偃.齊人.宋人.衛北宮括.鄭公孫蠆.曹人.莒人.邾人.滕人.薛人.杞人.小邾人.伐秦.己未.衛侯出奔齊.莒人侵我東鄙. 秋.楚公子貞帥師伐吳. 冬.季孫宿會晉士匄.宋華閱.衛孫林父.鄭公孫蠆.莒人.邾人.于戚. 傳 十四年春.吳告敗于晉.會于向.為吳謀楚故也.范宣子數吳之不德也.以退吳人.執莒公子務婁.以其通楚使也.將執戎子駒支.范宣子親數諸朝.曰.來.姜戎氏.昔秦人迫逐乃祖吾離于瓜州.乃祖吾離被苫蓋.蒙荊棘.以來歸我先君.我先君惠公有不腆之田.與女剖分而食之.今諸侯之事我寡君.不如昔者.蓋言語漏洩.則職女之由.詰朝之事.爾無與焉.與將執女.對曰.昔秦人負恃其眾.貪于土地.逐我諸戎.惠公蠲其大德.謂我諸戎.是四獄之裔冑也.毋是翦棄.賜我南鄙之田.狐狸所居.豺狼所嗥.我諸戎除翦其荊棘.驅其狐狸豺狼.以為先君不侵不叛之臣.至于今不貳.昔文公與秦伐鄭.秦人竊與鄭盟.而舍戍焉.於是乎有殽之師.晉禦其上.戎亢其下.秦師不復.我諸戎實然.譬如捕鹿.晉人角之.諸戎掎之.與晉踣之.戎何以不免.自是以來.晉之百役.與我諸戎.相繼于時.以從執政.猶殽志也.豈敢離逖.今官之師旅.無乃實有所闕.以攜諸侯.而罪我諸戎.我諸戎飲食衣服.不與華同.贄幣不通.言語不達.何惡之能為.不與於會.亦無瞢焉.賦青蠅而退.宣子辭焉.使即事於會.成愷悌也.於是子叔齊子為季武子介以會.自是晉人輕魯幣.而益敬其使. |
【現代日本語訳】 鄭の良霄と太宰の石蓖は、依然として楚に留められていた。石蓖が子囊に対して言った。「先王は五年にわたって征伐の可否を占い、毎年吉兆が繰り返し現れるのを待たれました。吉兆が繰り返されれば実行し、繰り返されなければ徳行を修めて改めて占いました。今、楚は実力が衰えております。使者に罪があるわけではありません。鄭の一卿を抑留して彼らの圧迫を除き、和睦させて楚を憎ませ、晋との結びつきを強固にさせるのです。彼らを使者として帰国させ、その使命を果たさせないようにすれば、彼らは自国の君主を怨み、大夫を憎むようになり、互いに牽制し合うでしょう。これ以上の策はないのではないでしょうか」。楚は彼らを帰国させた。 襄公十四年 十四年春、周王の正月、季孫宿と叔老が晋の士匄と会合した。齊・宋・衛の者たち、鄭の公孫蠆、曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の者たちが向で呉と会合した。 二月乙未の朔日、日食が起こった。 夏四月、叔孫豹が晋の荀偃と会合した。齊・宋の者たち、衛の北宮括、鄭の公孫蠆、曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の者たちが秦を討伐した。己未の日、衛侯が国を出て齊に奔った。莒の軍が魯の東部边境を侵した。 秋、楚の公子貞が軍を率いて呉を討伐した。 冬、季孫宿が晋の士匄、宋の華閲、衛の孫林父、鄭の公孫蠆、莒・邾の者たちと戚で会合した。 伝 十四年春、呉が晋に敗戦を報告した。向での会合は、呉が楚に対処する策を謀るためであった。范宣子(士匄)は呉の非道な行いを数え上げて責め、呉の使者を退けた。莒の公子務婁を拘束したのは、彼が楚の使者と内通していたためである。戎の首長・駒支を拘束しようとした時、范宣子自ら朝廷で彼を責めて言った。「来たれ、姜戎氏よ。昔、秦の軍勢がお前の先祖である吾離を瓜州から追い払った。お前の先祖吾離は茅で屋根を葺き、荆棘の荒野を覆いながら、我が先君のもとに帰順してきた。我が先君・惠公はたわさない田地ではあったが、お前と分かち合って食わせてやった。今、諸侯が我が君に仕える態度は昔ほどではない。その言葉が漏れているのは、お前のせいであろう。明日の朝の会合には参加するな。もし参加すればお前を拘束する」。これに対し駒支は答えた。「昔、秦はその大軍を頼みとして土地を貪り、我ら諸戎を追い払った。惠公は大いなる徳を垂れ、我ら諸戎を四岳の末裔であると言われ、これを滅ぼし捨てることはなく、南境の田地を賜った。そこは狐狸が棲み、豺狼が吠える土地であった。我ら諸戎はその荆棘を切り払い、狐狸や豺狼を追い払って、先君に対して侵さず叛かぬ臣となり、今日まで心変わりしたことはない。昔、文公が秦と共に鄭を討伐した時、秦は密かに鄭と盟を結んで守備兵を置いた。そこで殽の戦いが起こった。晋が上から防ぎ、戎が下から抵抗したため、秦軍は帰還できなかった。これは我ら諸戎の力によるものだ。鹿を捕える譬えで言えば、晋が角を捉え、諸戎が足を引っ張り、晋と共に倒したのである。戎がどうして罪を免れねばならないのか。それ以来、晋の数々の戦役に、我ら諸戎は絶えることなく従い、執政に従ってきたのは、まさに殽の戦いの時の志と同じである。どうして疎遠になろうか。今、晋の軍の将帥たちに、実は過失があって諸侯が離反しているのではあるまいか。それを我ら諸戎の罪とされる。我ら諸戎の飲食や衣服は華夏と同じではなく、献上品も通じず、言語も通じない。どうして悪事ができようか。会合に参加しなくても、何ら恥じることはない」。そして『青蠅』の詩を吟じて退出した。范宣子は詫びて、会合の事務に参加させるようにした。これは温和な態度を示すためであった。この時、子叔齊子が季武子の副使として会合に参加した。これ以来、晋は魯からの贈り物を軽んじるようになったが、その使者はますます敬うようになった。 【解説】
この一節は、春秋時代の国際政治が単なる武力衝突ではなく、外交駆け引き・歴史的経緯・儀礼的規範が複雑に絡み合っていたことを示す好例と言えます。 Translation took 3062.5 seconds. |
| 吳子諸樊既除喪.將立季札.季札辭曰.曹宣公之卒也.諸侯與曹人不義曹君.將立子臧.子臧去之.遂弗為也.以成曹君.君子曰.能守節.君義嗣也.誰敢奸君.有國非吾節也.札雖不才.願附於子臧.以無失節.固立之.棄其室而耕.乃舍之. 夏.諸侯之大夫從晉侯伐秦.以報櫟之役也.晉侯待于竟.使六卿帥諸侯之師以進.及涇不濟.叔向見叔孫穆子.穆子賦匏有苦葉.叔向退而具舟.魯人.莒人.先濟.鄭子蟜見衛北宮懿子曰.與人而不固.取惡莫甚焉.若社稷何.懿子說.二子見諸侯之師.而勸之濟.濟涇而次.秦人毒涇上流.師入多死.鄭司馬子蟜帥鄭師以進.師皆從之.至于棫林.不獲成焉.荀偃令曰.雞鳴而駕.塞井夷灶.唯余馬首是瞻.欒黶曰.晉國之命.未是有也余馬首欲東.乃歸.下軍從之.左史謂魏莊子曰.不待中行伯乎.莊子曰.夫子命從帥.欒伯吾帥也.吾將從之.從帥所以待夫子也.伯游曰.吾今實過.悔之何及.多遺秦禽.乃命大還.晉人謂之遷延之役.欒鍼曰.此役也.報櫟之敗也.役又無功.晉之恥也.吾有二位於戎路.敢不恥乎.與士鞅馳秦師死焉.士鞅反.欒黶謂士匄曰.余弟不欲往而子召之.余弟死而子來.是而子殺余之弟也.弗逐.余亦將殺之.士鞅奔秦.於是齊崔杼.宋華閱.仲江.會伐秦.不書.惰也.向之會.亦如之.衛北宮括不書於向.書於伐秦.攝也. |
呉子の諸樊が喪が明けた後、季札を立てようとした。季札は辞退して言った。「曹の宣公が亡くなった時、諸侯と曹の人々は曹君を不義とした。子臧を立てようとしたが、子臧は去ってしまい、結局曹君を成し遂げた。君子は言う。『節操を守ることができる。君は義に適った後継者だ。誰が君を犯そうか。国を持つことは私の節操ではない』と。札は才能がないが、子臧に倣い、節操を失わないことを願う」と。固く立てようとしたが、季札は家を捨てて耕したので、ついに諦めた。 夏、諸侯の大夫たちが晋侯に従って秦を討ち、櫟の戦いの報復をした。晋侯は国境で待ち、六卿に諸侯の軍を率いて進軍させた。涇水に着いたが渡らなかった。叔向が叔孫穆子に会うと、穆子は「匏有苦葉」を賦した。叔向は退いて舟を準備した。魯と莒の軍が先に渡った。鄭の子蟜が衛の北宮懿子に会って言った。「人と約束しながら固く守らないのは、最も憎まれることだ。社稷をどうするのか」と。懿子は喜んだ。二人は諸侯の軍に会い、渡河を勧めた。涇水を渡って駐屯した。秦軍が涇水の上流に毒を入れたため、兵士の多くが死んだ。鄭の司馬子蟜が鄭軍を率いて進み、軍は皆これに従った。棫林に着いたが、和議は成立しなかった。荀偃が命令した。「鶏が鳴いたら出発し、井戸を埋め、かまどを壊せ。私の馬の首の向くままに従え」と。欒黶が言った。「晋国の命令はこんなものではない。私の馬首は東を向きたい」と。そして帰ってしまい、下軍もこれに従った。左史が魏莊子に言った。「中行伯を待たないのか」と。莊子は言った。「あの方は帥に従えと命じた。欒伯は私の帥だ。私はこれに従う。帥に従うことが、あの方への対応だ」と。伯游(荀偃)は言った。「私は確かに過ちを犯した。後悔してもどうしようもない。多くが秦の捕虜になるだろう」と。そして撤退を命じた。晋人はこの戦役を「遷延の役」と呼んだ。欒鍼が言った。「この戦役は櫟の敗戦の報復だ。戦役がまた失敗に終わり、晋の恥だ。私は戎路(兵車)に二つの位がある。恥じないでいられようか」と。士鞅と共に秦軍に突撃して戦死した。士鞅が戻ると、欒黶が士匄に言った。「私の弟は行きたがらなかったのに、あなたの息子が招いた。私の弟が死んで、あなたの息子が戻ってきた。これはあなたの息子が私の弟を殺したのだ。追放しなければ、私も殺す」と。士鞅は秦に逃げた。この時、齊の崔杼、宋の華閲と仲江が会して秦を討ったが、記録されていない。怠慢だったからだ。向の会合も同様だった。衛の北宮括は向の記録にはなく、伐秦の記録にあるのは、代理だったからだ。 解説この一節は『春秋左氏伝』における二つのエピソードから成ります。前半は呉国の公子・季札が君主の位を辞退する場面です。季札は古代中国の理想的な節操を重んじる人物として描かれており、先例として曹国の子臧の故事を引き、自己の信念を貫く姿勢が強調されています。後半は晋を中心とした諸侯連合軍の秦遠征(遷延の役)を記述しています。軍の統制の乱れや内部対立(特に欒氏と士氏の確執)が敗因となり、春秋時代の複雑な国際関係と武将たちの矜持が浮き彫りにされています。史書としての特徴である「記録の省略理由」(例: 斉・宋の大夫が「惰ん」だため記載なし)も示され、当時の歴史観が窺えます。 Translation took 2279.7 seconds. |
| 秦伯問於士鞅曰.晉大夫其誰先亡.對曰.其欒氏乎.秦伯曰.以其汰乎.對曰.然.欒黶汰虐已甚.猶可以免.其在盈乎.秦伯曰.何故.對曰.武子之德在民.如周人之思召公焉.愛其甘棠.況其子乎.欒黶死.盈之善未能及人.武子所施沒矣.而黶之怨實章.將於是乎在.秦伯以為知言.為之請於晉而復之. 衛獻公戒孫文子.寧惠子食.皆服而朝.日旰不召.而射鴻於囿.二子從之.不釋皮冠而與之言.二子怒.孫文子知戚.孫蒯入使.公飲之酒.使大師歌巧言之卒章.大師辭.師曹請為之.初.公有嬖妾.使師曹誨之琴.師曹鞭之.公怒.鞭師曹三百.故師曹欲歌之.以怒孫子.以報公.公使歌之.遂誦之.蒯懼.告文子.文子曰.君忌我矣.弗先.必死.并帑於戚.而入見蘧伯玉曰.君之暴虐.子所知也.大懼社稷之傾覆.將若之何.對曰.君制其國.臣敢奸之.雖奸之.庸知愈乎.遂行.從近關出.公使子蟜.子伯.子皮.與孫子盟于丘宮.孫子皆殺之. 四月.己未.子展奔齊.公如鄄.使子行於孫子.孫子又殺之.公出奔齊.孫氏追之.敗公徒于河澤.鄄人執之.初.尹公佗學射於庾公差.庾公差學射於公孫丁.二子追公.公孫丁御公.子魚曰.射為背師.不射為戮.射為禮乎.射兩軥而還.尹公佗曰.子為師.我則遠矣.乃反之.公孫丁授公轡而射之.貫臂.子鮮從公及竟.公使祝宗告亡.且告無罪.定姜曰.無神何告.若有.不可誣也.有罪若何告無.舍大臣而與小臣謀.一罪也.先君有冢卿以為師保.而蔑之.二罪也.余以巾櫛事先君.而暴妾使余.三罪也.告亡而已.無告無罪.公使厚成叔弔于衛曰.寡君使瘠聞君不撫社稷.而越在他竟.若之何不弔.以同盟之故.使瘠敢私於執事.曰.有君不弔.有臣不敏.君不赦宥.臣亦不帥職.增淫發洩.其若之何.衛人使大叔儀對曰.群臣不佞.得罪於寡君.寡君不以即刑而悼棄之.以為君憂.君不忘先君之好.辱弔群臣.又重恤之.敢拜君命之辱.重拜大貺.厚孫歸復命.語臧武仲曰.衛君其必歸乎.有大叔儀以守.有母弟鱄以出.或撫其內.或營其外.能無歸乎.齊人以郲寄衛侯.及其復也.以郲糧歸.右宰穀從而逃歸.衛人將殺之.辭曰.余不說初矣.余狐裘而羔袖.乃赦之.衛人立公孫剽.孫林父.甯殖.相之.以聽命於諸侯.衛侯在郲.臧紇如齊唁衛侯.與之言虐.退而告其人曰.衛侯其不得入矣.其言糞土也.亡而不變.何以復國.子展.子鮮.聞之.見臧紇與之言道.臧孫說.謂其人曰.衛君必入.夫二子者.或輓之.或推之.欲無入得乎.師歸自伐秦.晉侯舍新軍.禮也.成國不過半天子之軍.周為六軍.諸侯之大者.三軍可也.於是知朔生盈而死.盈生六年而武子卒.彘裘亦幼.皆未可立也.新軍無帥.故舍之. |
秦の伯が士鞅に尋ねて言った。「晋の大夫の中で誰が最初に滅びるだろうか」。士鞅が答えて言った。「それは欒氏でしょう」。秦の伯が言った。「その驕り高ぶりのためか」。答えて言った。「そうです。欒黶の驕りと暴虐は甚だしいですが、まだ免れることはできるでしょう。問題はその子の盈にあるのです」。秦の伯が言った。「どういう理由か」。答えて言った。「武子の徳が民に残っており、周の人が召公を慕って甘棠の木を愛するように、民は武子を思っています。ましてやその子をどうして見捨てましょうか。欒黶が死んだ後、盈の善行はまだ人々に及んでおらず、武子が施した恩恵も消え去っています。しかし欒黶の怨みは明らかになっている。滅亡はこれによって起こるでしょう」。秦の伯はこれを道理のある言葉と考え、晋に願い出て士鞅を復職させた。 衛の献公が孫文子と寧惠子を食事に招いた。二人は礼服を着て朝に出たが、日が暮れても召されず、献公は園で鴻を射っていた。二人が従うと、献公は皮冠を脱がずに話しかけた。二人は怒った。孫文子は戚に引き上げ、息子の孫蒯を使いとして送り込んだ。献公は孫蒯に酒を振る舞い、太師に『巧言』の最終章を歌うよう命じた。太師は辞退したが、師曹が代わりに歌うことを請け負った。以前、献公に寵愛された妾がおり、師曹に琴を教えるよう命じられたが、師曹が妾を鞭打ったため、献公は怒って師曹を三百回鞭打った。そこで師曹はこの歌を歌って孫子を怒らせ、献公に仕返ししようとした。献公が歌うよう命じると、師曹は朗誦した。孫蒯は恐れ、父の文子に報告した。文子は言った。「君は私を疎んじている。先手を打たなければ、必ず殺される」。家族を戚に集め、蘧伯玉に会って言った。「君の暴虐はご存知の通りです。社稷が傾くことを大いに恐れていますが、どうすればよいでしょうか」。蘧伯玉は答えた。「君は国を治める者です。臣下がどうして逆らえましょうか。たとえ逆らったとしても、果たして良い結果になるでしょうか」。そしてすぐに去り、近くの関所から出国した。献公は子蟜、子伯、子皮を孫子のもとに送り、丘宮で盟を結ぼうとしたが、孫子は三人皆殺しにした。 四月己未の日、子展は斉に逃れた。献公は鄄に行き、子行を孫子のもとに遣わしたが、孫子はまたこれを殺した。献公は斉に亡命した。孫氏は追撃し、河沢で献公の徒党を破った。鄄の住民が献公を捕らえた。かつて尹公佗は庾公差に射術を学び、庾公差は公孫丁に学んでいた。二人が献公を追うと、公孫丁が献公の車を御した。庾公差は言った。「射れば師に背くことになり、射なければ殺される。礼に適った射とは何か」。そして車の両軥を射て引き返した。尹公佗は言った。「あなたの師は公孫丁だが、私にとっては縁が遠い」。そして戻って追撃した。公孫丁は献公に手綱を渡すと、尹公佗を射て腕を貫いた。子鮮は献公に従って国境まで行った。献公は祝宗に命じて逃亡を報告させ、無罪も訴えさせた。定姜は言った。「神がいるはずがないのに何を報告するのか。もし神がいるなら、偽りは通じない。有罪ならどうして無罪と言えるか。大臣を捨てて小臣と謀るのは第一の罪。先君が冢卿を師保としたのにこれを軽んじるのは第二の罪。私が巾櫛で先君に仕えたのに、妾同然に扱うのは第三の罪。逃亡を報告するだけで、無罪は報告するな」。献公は厚成叔を衛に遣わして弔問させた。「寡君が瘠を使わし、君が社稷を顧みず他国に亡命された由を聞き、どうして弔問せずにおられましょうか。同盟の故に、瘠は敢えて執事に私的に申し上げます。君が臣を慈しまず、臣が職務に敏でない。君が赦さず、臣も職務を遂行しない。悪が積もり爆発した今、どうすればよいでしょうか」。衛は大叔儀をして答えて言わせた。「群臣が不肖で、寡君に罪を得ました。寡君は刑罰を加えずに捨て去り、君に憂いをかけました。君は先君のよしみを忘れず、群臣を弔問し、さらに哀れんでくださる。敢えて君命の辱を受け、重ねて大いなる賜物を拜します」。厚孫が帰って報告し、臧武仲に語った。「衛君は必ず帰国するでしょう。大叔儀が国を守り、母弟の鱄が外で活動する。内を治める者と外を営む者がいれば、帰国できないはずがありません」。斉は郲の地を衛侯に仮住まいとして与えた。衛侯が帰国する時、郲の食料を持ち帰った。右宰穀は従って逃げ帰ったが、衛人は彼を殺そうとした。右宰穀は言った。「私は最初から好ましく思っていなかった。狐の裘に羔の袖のような者です」。そこで赦された。衛人は公孫剽を立て、孫林父と甯殖が補佐して、諸侯の命令に従った。衛侯が郲にいる時、臧紇が斉に赴いて衛侯を慰問した。衛侯は暴虐な話をし、臧紇は退出して側近に告げた。「衛侯は帰国できないでしょう。その言葉は糞土のようです。亡命しても変わらず、どうして国を回復できましょう」。子展と子鮮はこれを聞き、臧紇に会って道理を説いた。臧紇は喜び、側近に言った。「衛君は必ず帰国する。あの二人が一方で引き入れ、一方で推し進める。帰国できぬはずがない」。軍が秦征伐から帰還すると、晋侯は新軍を廃止した。これは礼に適っていた。大国でも天子の軍の半数を超えず、周は六軍であるが、諸侯の大国は三軍で十分である。この時、知朔は盈を生んで死に、盈は六歳で武子が亡くなった。彘裘も幼く、皆まだ立てる年ではなかった。新軍に指揮官がいないため、廃止したのである。 解説この一節は『春秋左氏伝』に記された紀元前6世紀の政治劇です。主に二つのエピソードで構成されています。 第一のエピソードは、晋の大夫・士鞅と秦の伯の問答です。士鞅は欒氏の没落を予言し、その根拠を「祖父の武子の徳政は時代が経ち薄れ、父・欒黶の悪行が鮮明になっているため、子の盈の代で滅ぶ」と説明します。ここでは、為政者の善悪が子孫にまで影響を及ぼすという春秋時代の倫理観が示されています。 第二のエピソードは、衛の献公の失政と追放劇です。献公が重臣を軽んじたことから始まった権力闘争は、孫文子の反乱へと発展します。特に興味深いのは、師曹の復讐劇や庾公差の「師弟関係のジレンマ」など、個人の怨恨が政治を動かす様子が描かれている点です。また、定姜の献公への批判や臧紇の人物評を通じて、為政者のあるべき姿が問われています。 全体を通じて、この時代の複雑な同盟関係や、家臣団の離合集散が国運を左右したことがうかがえます。特に「狐裘に羔の袖」という表現は、本質と外見の不一致を表す故事成語として後世に残りました。 Translation took 5131.7 seconds. |
| 師曠侍於晉侯.晉侯曰.衛人出其君.不亦甚乎.對曰.或者其君實甚.良君將賞善而刑淫.養民如子.蓋之如天.容之如地.民奉其君.愛之如父母.仰之如日月.敬之如神明.畏之如雷霆.其可出乎.夫君.神之主也.民之望也.若困民之主.匱神乏祀.百姓絕望.社稷無主.將安用之.弗去何為.天生民而立之君.使司牧之.勿使失性.有君而為之貳.使師保之.勿使過度.是故天子有公.諸侯有卿.卿置側室.大夫有貳.宗士有朋友.庶人工商皂隸牧圉.皆有親暱.以相輔佐也.善則賞之.過則匡之.患則救之.失則革之.自王以下.各有父兄子弟.以補察其政.史為書.瞽為詩.工誦箴諫.大夫規誨.士傳言.庶人謗.商旅于市.百工獻藝.故夏書曰.遒人以木鐸徇于路.官師相規.工執藝事以諫.正月孟春.於是乎有之.諫失常也.天之愛民甚矣.豈其使一人肆於民上.以從其淫.而棄天地之性.必不然矣. 秋.楚子為庸浦之役故.子囊師于棠以伐吳.吳不出而還.子囊殿.以吳為不能而弗儆.吳人自皋舟之隘要而擊之.楚人不能相救.吳人敗之.獲楚公子宜穀. 王使劉定公賜齊侯.命曰.昔伯舅大公.右我先王.股肱周室.師保萬民.世胙大師.以表東海.王室之不壞.繄伯舅是賴.今余命女環.茲率舅氏之典.纂乃祖考.無忝乃舊.敬之哉.無廢朕命. |
師曠が晋侯に仕えていた。晋侯が言った。「衛の民が自分の君を追放するとは、あまりにも甚だしいのではないか。」師曠は答えた。「あるいはその君こそが甚だしいのでしょう。良君は善を賞し淫を罰し、民を子のように養い、天のように覆い、地のように包容するものです。民は君を奉り、父母のように愛し、日月のように仰ぎ、神明のように敬い、雷霆のように畏れます。どうして追放できましょうか。そもそも君は神々の主であり、民の希望です。もし民を苦しめる主となり、神々の祭祀を乏しくし、百姓を絶望させ、社稷に主がいなくなれば、何のために君を使うのでしょうか。去らなければどうするというのでしょう。天は民を生んで君を立て、彼らを治めさせ、本性を失わないようにします。君がいるには補佐役を置き、師や保として過度にならないように守らせます。だから天子には公が、諸侯には卿が、卿には側室が、大夫には副官が、宗士には朋友が、庶人・工商・皂隸・牧圉にも親しい者があり、互いに補佐し合うのです。善であれば賞し、過ちがあれば正し、患いがあれば救い、失敗すれば改めます。王以下にはそれぞれ父兄子弟がいて、その政治を補い監察します。史官は記録し、瞽官は詩を詠み、楽工は箴言を誦し、大夫は規諫し、士は言葉を伝え、庶人は批判し、市場では商人が議論し、百工は技芸を献じます。だから夏書に『遒人が木鐸を振りながら路で宣べ、官師は互いに戒め、工は技芸をもって諫める』とあります。正月の孟春にはこれがあり、常道を失ったことを諫めるのです。天が民を愛することは甚だしく、どうして一人の者を民の上に肆とさせ、その淫欲に従わせ、天地の本性を棄てるようなことがありましょうか。必ずそうではないのです。」 秋、楚の子囊が庸浦の役のため、棠に軍を進めて吳を伐った。吳は出撃せず、子囊は帰還した。子囊が殿軍を務め、吳は無能だとして警戒しなかった。吳軍は皋舟の隘路で待ち伏せて襲撃し、楚軍は互いに救えず、吳は楚を破って公子宜穀を捕らえた。 王は劉定公を遣わして齊侯に賜物を与え、命じて言った。「昔、伯舅の太公は我が先王を助け、周室の股肱となり、万民の師保となられた。代々太師の位を継ぎ、東海を統べ示された。王室が崩壊しなかったのは、伯舅のお陰である。今、私は汝環に命じる。舅氏の法を率い、祖考の業を継ぎ、旧きを辱めず、敬えよ。朕の命を廢するな。」 解説:この一節は『春秋左氏伝』における政治哲学と歴史記述の典型例です。前半では師曠が君主の責任と民心の重要性を説き、天が民を愛する以上、暴君の存在は道理に反すると論じています。後半は楚と吳の戦役、周王による齊侯への賞賜という実践的な歴史記述に移り、理想と現実の対比が鮮やかです。特に「民を父母の如く愛す」という表現は儒家の徳治思想を反映し、後世の政治思想に多大な影響を与えました。史実の記録と道徳的教訓が密接に結びついた春秋筆法の特徴がよく表れています。 Translation took 2345.0 seconds. |
| 晉侯問衛故於中行獻子.對曰.不如因而定之.衛有君矣.伐之.未可以得志.而勤諸侯.史佚有言曰.因重而撫之.仲虺有言曰.亡者侮之.亂者取之.推亡固存.國之道也.君其定衛以待時乎.冬.會于戚.謀定衛也.范宣子假羽毛於齊而弗歸.齊人始貳. 楚子囊還自伐吳.卒.將死.遺言謂子庚必城郢.君子謂子囊忠.君薨不忘增其名.將死不忘衛社稷.可不謂忠乎.忠.民之望也.詩曰.行歸于周.萬民所望.忠也. 襄公十五年 經 十有五年春.宋公使同戌來聘. 二月.己亥.及向戌盟于劉.劉夏逆王后于齊. 夏.齊侯伐我北鄙.圍成.公救成.至遇.季孫宿.叔孫豹.帥師城成郛. 秋.八月.丁巳.日有食之.邾人伐我南鄙. 冬.十有一月.癸亥.晉侯周卒. 傳 十五年春.宋向戌來聘.且尋盟.見孟獻子.尤其室曰.子有令聞.而美其室.非所望也.對曰.我在晉.吾兄為之.毀之重勞.且不敢間. 官師從單靖公.逆王后于齊.卿不行.非禮也. 楚公子午為令尹.公子罷戎為右尹.蒍子馮為大司馬.公子橐師為右司馬.公子成為左司馬.屈到為莫敖.公子追舒為箴尹.屈蕩為連尹.養由基為宮廄尹.以靖國人.君子謂楚於是乎能官人.官人.國之急也.能官人.則民無覦心.詩云.嗟我懷人.寘彼周行.能官人也.王及公侯.伯.子.男.甸.采.衛大夫.各居其列.所謂周行也. |
晋の侯が中行獻子に衛の事情を尋ねた。獻子は答えて言った。「むしろ現状を利用して衛を安定させるのがよいでしょう。衛には既に君主がおります。これを討伐しても志を遂げることはできず、かえって諸侯を疲労させるだけです。史佚がかつて言いました。『重みのある者にはそれに沿って慰撫せよ』と。仲虺も言いました。『滅びゆく者は侮り、乱れる者は取れ。滅びるものを推し進め、存続するものを固めるのが国の道理である』と。どうか衛を安定させて時機を待たれては如何でしょうか」。冬、戚で会合が開かれ、衛を安定させる策を謀った。范宣子が斉から羽毛を借りたが返さなかった。これにより斉人は初めて晋に背いた。 楚の子囊が呉討伐から帰還し、死去した。臨終の際、子庚に「必ず郢に城を築け」と遺言した。君子は子囊を忠義であると評した。君主が亡くなってもその名声を高めることを忘れず、自らが死ぬ間際になっても社稷を守ることを忘れない。これを忠と言わずして何と言おうか。忠誠は民衆の願いなのである。詩経に「行きて周に帰る、万民の望む所」とあるが、これこそ忠の精神である。 襄公十五年 十五年春、宋公が向戌を使者として派遣し、聘問(挨拶の訪問)を行った。 伝(解説) 十五年春、宋の向戌が聘問に訪れ、かつての盟約を確認した。孟獻子に会い、その屋敷を非難して言った。「あなたは立派な評判を持ちながら、屋敷を豪華にしているのは期待外れだ」。孟獻子は答えて言った。「私が晋にいた時に兄が建てたものです。壊せば大きな労力が無駄になりますし、兄の決定に口出しはできません」。 官師が単靖公に随行し、齊で王后を迎えた。卿(高官)が自ら行かなかったのは礼に反する。 楚では公子午が令尹に、公子罷戎が右尹に、蒍子馮が大司馬に、公子橐師が右司馬に、公子成が左司馬に、屈到が莫敖に、公子追舒が箴尹に、屈蕩が連尹に、養由基が宮廄尹に任命され、国内を安定させた。君子は楚が人材を適切に登用できたと評価した。人材登用は国の急務である。適材適所を実現すれば、民に野心が生じない。詩経に「ああ我が思う人よ、彼を周の道に置け」とあるが、これこそ人材登用の理想である。王や諸侯(公・侯・伯・子・男)、さらに甸・采・衛の大夫らが各々の地位にふさわしく配置されることが、いわゆる「周行(秩序ある体制)」なのである。 解説この一節は『春秋左氏伝』襄公十五年の記述で、二つの主要な部分から成ります。前半は晋と衛の外交駆け引きを描き、史佚や仲虺の格言を引用しながら「滅びゆく勢力には介入せず、存続する勢力を強化する」という現実主義的な政治哲学を示します。後半は楚の人事異動と子囊の忠義を讃えるエピソードであり、特に「適材適所の人事が国家安定の礎」という思想が強調されています。 Translation took 2293.6 seconds. |
| 鄭尉氏.司氏.之亂其餘盜在宋.鄭人以子西.伯有.子產.之故.納賂于宋.以馬四十乘.與師茷.師慧.三月.公孫黑為質焉.司城子罕以堵女父.尉翩.司齊.與之.良司臣而逸之.託諸季武子.武子寘諸卞.鄭人醢之三人也.師慧過宋朝.將私焉.其相曰.朝也.慧曰.無人焉.相曰.朝也.何故無人.慧曰.必無人焉.若猶有人.豈其以千乘之相.易淫樂之矇.必無人焉故也.子罕聞之.固請而歸之. 夏.齊侯圍成.貳於晉故也.於是乎城成郛. 秋.邾人伐我南鄙.使告于晉.晉將為會.以討邾莒.晉侯有疾.乃止.冬.晉悼公卒.遂不克會.鄭公孫夏如晉奔喪.子蟜送葬.宋人或得玉.獻諸子罕.子罕弗受.獻玉者曰.以示玉人.玉人以為寶也.故敢獻之.子罕曰.我以不貪為寶.爾以玉為寶.若以與我.皆喪寶也.不若人有其寶.稽首而告曰.小人懷璧.不可以越鄉.納此以請死也.子罕寘諸其里.使玉人為之攻之.富而後使復其所. 十二月.鄭人奪堵狗之妻.而歸諸范氏. 襄公十六年 經 十有六年春.王正月.葬晉悼公. 三月.公會晉侯.宋公.衛侯.鄭伯.曹伯.莒子.邾子.薛伯.杞伯.小邾子.于溴梁.戊寅.大夫盟.晉人執莒子.邾子.以歸.齊侯伐我北鄙. 夏.公至自會. 五月.甲子.地震.叔老會鄭伯.晉荀偃.衛甯殖.宋人.伐許. |
鄭の尉氏と司氏の乱の残党である盗賊が宋に潜伏していた。鄭の人々は子西、伯有、子産の縁故を考慮し、宋に賄賂として馬四十乗と師茷・師慧という楽師を贈り、三月に公孫黒を人質として差し出した。宋の司城子罕は堵女父、尉翩、司齊を鄭に引き渡したが、賢臣である司臣は逃がし、魯の季武子に託した。武子は彼を卞地に住まわせた。鄭の人々は三人を塩漬けの刑に処した。 師慧が宋の朝廷の前を通りかかった時、用便をしようとした。付き人の楽師が「ここは朝廷です」と言うと、師慧は「人がいないから平気だ」と答えた。楽師が「朝廷にどうして人がいないのか」と問うと、師慧は「本当に人がいないに違いない。もし有能な人物がいるなら、千乗の国の宰相を盲目の楽師と交換するはずがない。人がいないからこそそんなことが起きたのだ」と語った。子罕はこの話を聞くと、強く願い出て師慧を鄭に帰国させた。 夏、齊の侯が成地を包囲した。晉に二心を抱いたためである。この機会に成の外城を築いた。 秋、邾の軍が魯の南辺を攻撃した。魯は晉に報告し、晉は会合を開いて邾と莒を討伐しようとしたが、晉の侯が病気になったため中止された。冬、晉の悼公が逝去したため会合は実現せず、鄭の公孫夏が喪に赴き、子蟜が葬儀に参列した。 宋の者が宝玉を手に入れ、子罕に献上した。子罕が受け取らないと、献玉者は「玉工に鑑定させたところ宝だと判明しました」と言った。子罕は「私は貪らぬ心を宝とし、あなたは玉を宝とする。もし私が受け取れば双方が宝を失う。それぞれが宝を持ち続ける方がよい」と答えた。献玉者はひれ伏して「庶民が宝玉を持てば危険で故郷にいられません。どうか死を免じてください」と懇願した。子罕は彼を自分の領地に住まわせ、玉工に玉を加工させて富を得た後、故郷に帰らせた。 十二月、鄭の人々が堵狗の妻を奪い、晉の范氏に返した。 襄公十六年 十六年春、周の正月に晉の悼公を葬った。 三月、魯の公が晉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・薛伯・杞伯・小邾子と溴梁で会合した。戊寅の日、大夫たちが盟約を結び、晉は莒子と邾子を拘束して連れ帰った。齊の侯が魯の北辺を攻撃した。 夏、魯の公が会合から帰国した。 五月甲子の日、地震が起きた。叔老が鄭伯・晉の荀偃・衛の甯殖・宋の軍とともに許を討伐した。 解説この一節は『春秋左氏伝』襄公十六年の記述で、国際関係や人物のエピソードを通じて当時の社会情勢を描いています。主なポイントは以下の通りです:
全体を通じて、権力や道德の問題を現実的な外交・社会事件と結びつけながら記述する左伝の特徴がよく表れています。 Translation took 2473.3 seconds. |
| 秋.齊侯伐我北鄙.圍郕.大雩. 冬.叔孫豹如晉. 傳 十六年春.葬晉悼公.平公即位.羊舌肸為傅.張君臣為中軍司馬.祁奚.韓襄.欒盈.士鞅.為公族大夫.虞丘書為乘馬御.改服脩官.烝于曲沃.警守而下.會于溴梁.命歸侵田.以我故.執邾宣公.莒犁比公.且曰.通齊楚之使.晉侯與諸侯宴于溫.使諸大夫舞.曰.歌詩必類.齊高厚之詩不類.荀偃怒.且曰.諸侯有異志矣.使諸大夫盟高厚.高厚逃歸.於是叔孫豹.晉荀偃.宋向戌.衛甯殖.鄭公孫蠆.小邾之大夫.盟曰.同討不庭.許男請遷于晉.諸侯遂遷許.許大夫不可.晉人歸諸侯.鄭子蟜聞將伐許.遂相鄭伯以從諸侯之師.穆叔從公.齊子帥師會晉荀偃.書曰.會鄭伯.為夷故也.夏.六月.次于棫林.庚寅.伐許.次于函氏.晉荀偃.欒黶.帥師伐楚.以報宋揚梁之役.楚公子格帥師.及晉師戰于湛阪.楚師敗績.晉師遂侵方城之外.復伐許而還. 秋.齊侯圍郕.孟孺子速徼之.齊侯曰.是好勇.去之以為之名.速遂塞海陘而還. 冬.穆叔如晉聘.且言齊故.晉人曰.以寡君之未禘祀.與民之未息.不然.不敢忘.穆叔曰.以齊人之朝夕釋憾於敝邑之地.是以大請.敝邑之急.朝不及夕.引領西望曰.庶幾乎比執事之間.恐無及也.見中行獻子賦圻父.獻子曰.偃知罪矣.敢不從執事.以同恤社稷.而使魯及此.見范宣子.賦鴻鴈之卒章.宣子曰.匄在此.敢使魯無鳩乎. 襄公十七年 經 |
翻訳文秋、斉の侯が我が国の北辺を攻撃し、郕を包囲した。大規模な雨乞いの儀式が行われた。 冬、叔孫豹が晋へ赴いた。 伝 十六年の春、晋の悼公を葬った。平公が即位し、羊舌肸が傅(輔佐役)となり、張君臣が中軍司馬となった。祁奚、韓襄、欒盈、士鞅が公族大夫となり、虞丘書が乗馬御(車御の長)となった。礼服を改め官制を整え、曲沃で蒸祭(冬の祭祀)を行った。守備を厳重にして南下し、溴梁で諸侯と会合した。侵奪した土地の返還を命じ、魯の事情により邾の宣公と莒の犁比公を拘束した。さらに、「斉と楚の使者と密通している」として非難した。晋の侯は温で諸侯と宴を開き、大夫たちに舞を踊らせ、「詩を歌うには必ずその意に合せよ」と命じた。斉の高厚が歌った詩がこれに合わず、荀偃は怒り、「諸侯に異心がある」と言って、大夫たちに高厚と盟約を結ばせようとした。高厚は逃げ帰った。そこで叔孫豹、晋の荀偃、宋の向戌、衛の甯殖、鄭の公孫蠆、小邾の大夫らが「共に不順の者を討つ」と盟約した。許の男が晋への遷都を請うたため、諸侯は許を遷したが、許の大夫たちは反対した。晋人は諸侯を帰国させた。鄭の子蟜が許討伐の計画を聞き、鄭伯を補佐して諸侯の軍に合流した。穆叔(叔孫豹)は公に従い、齊子が軍を率いて晋の荀偃と会合した。記録には「鄭伯と会合した」とあり、これは平等の礼によるものだ。夏の六月、棫林に駐屯し、庚寅の日に許を攻撃し、函氏に駐屯した。晋の荀偃と欒黶が軍を率いて楚を討ち、宋の揚梁の戦いの報復とした。楚の公子格が軍を率いて晋軍と湛阪で戦ったが、楚軍は大敗した。晋軍は方城の外側まで侵攻し、再び許を攻めて帰還した。 秋、斉の侯が郕を包囲した。孟孺子速がこれを迎え撃とうとした。斉の侯は「彼は勇を好む者だ、退いて名を成させよ」と言い、速は海陘(山道)を塞いで帰還した。 冬、穆叔が晋へ聘問(使者)として赴き、斉の件を伝えた。晋人は「我が君が未だ禘祭(大祭)を終えず、民も休まっていないため、そうでなければ忘れはしない」と言った。穆叔は「斉人が日夜、我が国の地で恨みを晴らそうとしているため、大いに願い出たのです。我が国の危急は朝に夕を待たぬ状況で、首を長くして西(晋)を望み、『どうか執事(晋の大臣)のご都合がつくことを』と願っています。遅れれば手遅れになりかねません」と述べた。中行献子(荀偃)に会い『圻父』の詩を賦(朗詠)すると、献子は「偃は罪を認めます。敢えて執事に従わず、社稷を共に憂えず、魯をここまで追い詰めたことを」と答えた。范宣子に会い『鴻鴈』の最終章を賦ると、宣子は「匄(范宣子の名)がここにいる。敢えて魯を安寧なくさせようか」と言った。 襄公十七年 (注:原文の最後の「経」は、次の年に続く経文の見出しのみであるため、翻訳文ではそのまま「経」と表記。) 解説この一節は、『春秋左氏伝』襄公十六年から十七年にかけての記録です。春秋時代の複雑な国際関係や儀礼が描かれ、以下のような点に特徴があります。
この一節は、権力バランスの変化や、儀礼と現実政治の狭間で揺れる諸侯の姿を浮き彫りにした、春秋時代の重要な史料です。 Translation took 2964.1 seconds. |
| 十有七年春.王二月.庚午.邾子牼卒.宋人伐陳. 夏.衛石買帥師伐曹. 秋.齊侯伐我北鄙.圍桃.高厚帥師伐我北鄙.圍防. 九月.大雩.宋華臣出奔陳. 冬.邾人伐我南鄙. 傳 十七年春.宋莊朝伐陳.獲司徒卬.卑宋也.衛孫蒯田于曹隧.飲馬于重丘.毀其瓶.重丘人閉門而詢之.曰.親逐而君.爾父為厲.是之不憂.而何以田為.夏.衛石買.孫蒯.伐曹.取重丘.曹人愬于晉. 齊人以其未得志于我故.秋.齊侯伐我北鄙.圍桃.高厚圍臧紇于防.師自陽關逆臧孫.至于旅松.郰叔紇.臧疇.臧賈.帥甲三百.宵犯齊師.送之而復.齊師去之.齊人獲臧堅.齊侯使夙沙衛唁之.且曰無死.堅稽首曰.拜命之辱.抑君賜不終.姑又使其刑臣禮於士.以杙抉其傷而死. 冬.邾人伐我南鄙.為齊故也.宋華閱卒.華臣弱皋比之室.使賊殺其宰華吳.賊六人以鈹殺諸盧門.合左師之後.左師懼曰.老夫無罪.賊曰.皋比私有討於吳.遂幽其妻.曰.畀余而大璧.宋公聞之.曰.臣也.不唯其宗室是暴.大亂宋國之政.必逐之.左師曰.臣也亦卿也.大臣不順.國之恥也.不如蓋之.乃舍之.左師為己短策.苟過華臣之門.必騁. 十一月.甲午.國人逐瘈狗.瘈狗入於華臣氏.國人從之.華臣懼.遂奔陳.宋皇國父為大宰.為平公築臺.妨於農功.子罕請俟農功之畢.公弗許.築者謳曰.澤門之皙.實興我役.邑中之黔.實慰我心.子罕聞之.親執扑.以行築者.而抶其不勉者.曰吾儕小人.皆有闔廬.以辟燥濕寒暑.今君為一臺而不速成.何以為役.謳者乃止.或問其故.子罕曰.宋國區區.而有詛有祝.禍之本也.齊晏桓子卒.晏嬰麤縗斬.苴絰帶.杖.菅屨.食鬻.居倚廬.寢苫.枕草.其老曰.非大夫之禮也.曰.唯卿為大夫. 襄公十八年 經 |
【現代日本語訳】 夏、衛の石買が軍を率いて曹を討伐した。 秋、斉の侯(君主)が我が魯国の北辺を攻め、桃を包囲した。高厚が軍を率いて我が北辺を攻め、防を包囲した。 九月、大規模な雨乞いの儀式が行われた。宋の華臣が陳へ逃亡した。 冬、邾が我が南辺を攻撃した。 伝(詳述) 十七年の春、宋の莊朝が陳を討伐し、司徒卬を捕虜とした。これは陳が宋を軽んじたためである。衛の孫蒯が曹の隧で狩猟を行い、重丘で馬に水を飲ませようとして水瓶を壊した。重丘の住民は門を閉めて彼を罵り、「お前は自らの君主的な存在を追い出し、父親は暴君のようだ。そのような重大事を憂えず、どうして狩猟などしていられるのか」と言った。夏、衛の石買と孫蒯が曹を討伐し、重丘を占領した。曹の人は晋に訴え出た。 斉は以前に魯に対して目的を達成できなかったため、秋に斉の侯が我が北辺を攻め、桃を包囲した。高厚は臧紇を防に包囲した。魯軍は陽関から臧孫を迎えに行き、旅松まで到達した。郰叔紇、臧疇、臧賈の三人が甲士三百人を率い、夜襲で斉軍を攻撃し、臧紇を送り届けて戻った。斉軍は撤退した。斉人は臧堅を捕らえ、斉の侯は夙沙衛を使者として見舞いに行かせ、「死ぬな」と伝えさせた。臧堅は額を地面に付けて礼をし、「ご命令を辱なく承りました。しかし君主の恩賜が完結しないのは残念です。さらに刑罰を受けた臣下(夙沙衛)を士に対する礼儀として遣わすとは」と言い、木の棒で傷口を抉って死んだ。 冬、邾が我が南辺を攻撃したのは、斉に同調したためである。宋の華閲が死去し、華臣が皋比の家系を弱体化させようと、刺客に命じてその家宰の華吳を殺害させた。刺客六人が鈹(両刃の剣)で華吳を盧門で殺し、左師の屋敷の後ろに遺体を置いた。左師は恐れて「老夫は罪がない」と言うと、刺客は「皋比が私的に華吳を討ったのだ」と答えた。華臣はさらに華吳の妻を監禁し、「私に大きな璧をよこせ」と要求した。宋公はこの事件を聞き、「華臣は自らの宗族にすら暴虐を働き、宋国の政治を大混乱させる。追放すべきだ」と言った。左師は「華臣も卿である。大臣が不和なら国の恥だ。隠蔽した方がよい」と述べ、追放を見送った。左師は自分用に短い鞭を作り、華臣の門前を通るたびに必ず馬を疾走させて素早く通過した。 十一月甲午の日、都の住民が狂犬を追いかけ、狂犬が華臣の屋敷に逃げ込んだ。住民が追いかけてきたため、華臣は恐れて陳へ逃亡した。宋の皇國父が大宰として平公のために台を築いたが、農作業の妨げとなった。子罕が農作業終了まで待つよう請願したが、平公は聞き入れなかった。作業員たちは歌を歌って批判した:「澤門の白い肌の男(皇國父)は我々を労働に駆り立て、邑の中の黒い肌の男(子罕)は我々の心を慰める」。子罕はこれを聞くと自ら鞭を手にし、作業現場を巡回して不熱心な者を鞭打ち、「我々小人は皆、雨風寒暑をしのぐ家がある。今、君主のために一台築くのに迅速に完成させねば、どうして役目を果たせるか」と言った。批判の歌は止んだ。ある者が理由を尋ねると、子罕は「宋国は小さな国ながら、呪いと賞賛が分裂すれば禍の元だ」と答えた。 斉の晏桓子が死去し、晏嬰は粗末な喪服(縗斬)を着け、苴麻の帯(苴絰帯)を締め、杖をつき、菅草の草鞋を履き、粥を食べ、仮小屋(倚廬)に住み、菅の筵(寝苫)に寝て、草を枕とした。家老が「大夫の礼に適いません」と言うと、晏嬰は「卿こそが大夫たる礼を行うべきだ」と答えた。 襄公十八年 【解説】
特に晏嬰のエピソードは、後に『晏子春秋』で発展する合理主義的な政治家像の原点を示すものとして重要です。史書としての価値に加え、文学的な人物描写の巧みさも光る一節です。 Translation took 3157.2 seconds. |
| 十有八年春.白狄來. 夏.晉人執衛行人石買. 秋.齊師伐我北鄙. 冬.十月.公會晉侯.宋公.衛侯.鄭伯.曹伯.莒子.邾子.滕子.薛伯.杞伯.小邾子.同圍齊.曹伯負芻卒于師.楚公子午帥師伐鄭. 傳 十八年春.白狄始來. 夏.晉人執衛行人石買于長子.執孫蒯于純留.為曹故也. 秋.齊侯伐我北鄙.中行獻子將伐齊.夢與厲公訟.弗勝.公以戈擊之.首隊於前.跪而戴之.奉之以走.見梗陽之巫皋.他日見諸道.與之言同.巫曰.今茲主必死.若有事於東方.則可以逞.獻子許諾.晉侯伐齊.將濟河.獻子以朱絲係玉二榖而禱曰.齊環怙恃其險.負其眾庶.棄好背盟.陵虐神主.曾臣彪將率諸侯以討焉.其官臣偃實先後之.苟捷有功.無作神羞.官臣偃無敢復濟.唯爾有神裁之.沈玉而濟. 冬.十月.會于魯濟.尋溴梁之言.同伐齊.齊侯禦諸平陰.塹防門而守之廣里.夙沙衛曰.不能戰.莫如守險.弗聽.諸侯之士門焉.齊人多死.范宣子告析文子曰.吾知子敢匿情乎.魯人.莒人.皆請以車千乘.自其鄉入.既許之矣.若入.君必失國.子盍圖之.子家以告公.公恐.晏嬰聞之曰.君固無勇.而又聞是.弗能久矣.齊侯登巫山以望晉師.晉人使司馬斥山澤之險.雖所不至.必旆而疏陳之.使乘車者.左實右偽.以施先.輿曳柴而從之.齊侯見之.畏其眾也.乃脫歸.丙寅晦.齊師夜遁.師曠告晉侯曰.鳥烏之聲樂.齊師其遁.邢伯告中行伯曰.有班馬之聲.齊師其遁.叔向告晉侯曰.城上有烏.齊師其遁. |
【翻訳文】 伝(解説部分) 【解説】
この一節は、史書としての事実記録に留まらず、人間の心理や戦略を描く文学としての価値も有する代表的な章段です。 Translation took 2929.0 seconds. |
| 十一月.丁卯.朔.入平陰.遂從齊師.夙沙衛連大車以塞隧而殿.殖綽.郭最.曰.子殿國師.齊之辱也.子姑先乎.乃代之殿.衛殺馬於隘以塞道.晉州綽及之.射殖綽中肩.兩矢夾脰.曰.止.將為三軍獲.不止.將取其衷.顧曰.為私誓.州綽曰.有如日.乃弛弓而自後縛之.其右具丙.亦舍兵而縛郭最.皆衿甲而縛.坐于中軍之鼓下.晉人欲逐歸者.魯衛請攻險.己卯.荀偃.士匄以中軍克京茲.乙酉.魏絳.欒盈.以下軍克邿.趙武.韓起.以上軍圍廬.弗克. 十二月.戊戌.及秦周伐雍門之萩.范鞅門于雍門.其御追喜.以戈殺犬于門中.孟莊子斬其橁.以為公琴.己亥.焚雍門.及西郭.南郭.劉難.士弱.率諸侯之師.焚申池之竹木.壬寅.焚東郭.北郭.范鞅門于揚門.州綽門于東閭.左驂迫.還于東門中.以枚數闔.齊侯駕.將走郵棠.大子與郭榮扣馬曰.師速而疾.略也.將退矣.君何懼焉.且社稷之主.不可以輕.輕則失眾.君必待之.將犯之.大子抽劍斷鞅.乃止.甲辰.東侵及濰.南及沂.鄭子孔欲去諸大夫.將叛晉.而起楚師以去之.使告子庚.子庚弗許.楚子聞之.使楊豚尹宜告子庚曰.國人謂不穀主社稷.而不出師.死不從禮.不穀即位.於今五年.師徒不出.人其以不穀為自逸而忘先君之業矣.大夫圖之.其若之何.子庚歎曰.君王其謂午懷安乎.吾以利社稷也.見使者.稽首而對曰.諸侯方睦於晉.臣請嘗之.若何.君而繼之.不可.收師而退.可以無害.君亦無辱.子庚帥師治兵於汾.於是子蟜.伯有.子張.從鄭伯伐齊.子孔.子展.子西守.二子知子孔之謀.完守入保.子孔不敢會楚師.楚師伐鄭.次於魚陵.右師城上棘.遂涉潁.次于旃然.蒍子馮.公子格.率銳師侵費滑.胥靡.獻于.雍梁.右回梅山.侵鄭東北.至于蟲牢而反.子庚門于純門.信于城下.而還涉於魚齒之下.甚雨及之.楚師多凍.役徒幾盡.晉人聞有楚師.師曠曰.不害.吾驟歌北風.又歌南風.南風不競.多死聲.楚必無功.董叔曰.天道多在西北.南師不時.必無功.叔向曰.在其君之德也. 襄公十九年 經 |
十一月、丁卯の日(朔日)、晋軍は平陰に入り、齊軍を追撃した。夙沙衛は大型の車を連ねて狭い道を塞ぎ、後衛を務めた。殖綽と郭最が言った。「あなたが国軍の後衛となるのは齊の恥だ。あなたは先に行くがよい」と。そこで二人は代わって後衛となった。夙沙衛は隘路で馬を殺して道を塞いだ。晋の州綽が追いつき、殖綽を射て肩に命中させ、二本の矢が首の両側に刺さった。州綽は「止まれ。そうすれば三軍の捕虜として生かしておく。止まらなければ致命傷を負わせる」と言った。殖綽が振り返って「私的な誓いをしてほしい」と言うと、州綽は「太陽を証に誓う」と答えた。そこで弓を緩め、後ろから縛り上げた。州綽の車右の具丙も武器を捨てて郭最を縛った。二人は甲冑をつけたまま縛られ、中軍の太鼓の下に座らせられた。晋軍は敗走する齊軍を追撃しようとしたが、魯と衛の軍が険しい地形の攻略を進言した。己卯の日、荀偃と士匄が中軍を率いて京茲を攻略した。乙酉の日、魏絳と欒盈が下軍を率いて邿を攻略した。趙武と韓起が上軍を率いて廬を包囲したが、落とせなかった。 十二月、戊戌の日、晋軍は秦周に進み雍門の萩(雑木)を伐採した。范鞅は雍門で攻撃を仕掛け、その御者の追喜が戈で門の中の犬を殺した。孟莊子は橁の木を切って魯公の琴を作った。己亥の日、雍門を焼き、西郭と南郭に火を放った。劉難と士弱が諸侯の連合軍を率い、申池の竹木を焼いた。壬寅の日、東郭と北郭を焼いた。范鞅は揚門で攻撃し、州綽は東閭門を攻めた。州綽の左側の驂馬が進路を阻まれ、東門の中に引き返し、門の枚(板)を数えた。齊侯は車を準備し郵棠へ逃げようとしたが、太子と郭栄が馬の轡を握って諫めた。「敵軍は速いが略奪が目的で、すぐ退くでしょう。君は恐れるには及びません。また国君たる者は軽率に動くべきではなく、軽挙すれば民衆の信頼を失います。どうかここで待たれるべきです」と。齊侯が進もうとすると、太子は剣を抜いて轡を断ち切ったため、齊侯は止まった。甲辰の日、晋軍は東は濰水まで、南は沂水まで侵攻した。 鄭の子孔は諸大夫を排除しようとし、晋から離反して楚軍を動かそうとした。子庚(楚の令尹)に使者を送ったが、子庚は承知しなかった。楚王はこれを聞き、楊豚尹宜を使者として子庚に伝えさせた。「国民が『王は国を治めながら出兵せず、死んでも正式な葬礼を受ける資格がない』と言っている。朕が即位して五年になるが軍を動かさないので、人々は朕が安逸を貪り先君の遺業を忘れていると思うだろう。卿はどう考えるか」と。子庚は嘆いて「君王は私(午)が安楽に溺れていると思われるのか。私は国の利益を考えているのだ」と言い、使者に会うと跪いて答えた。「諸侯は現在晋と友好関係にあります。まず私が試しに出兵しましょう。もし成功しなければ君王が続けられても無理です。軍を引けば害はなく、君王の威信も傷つきません」。子庚は軍を率いて汾で訓練を行った。この時、子蟜・伯有・子張は鄭伯に従って齊を攻め、子孔・子展・子西は国を守った。子展と子西は子孔の陰謀を知り、防備を固めて城に籠ったため、子孔は楚軍と合流できなかった。楚軍は鄭を攻め魚陵に駐屯し、右軍は上棘に城塞を築いた。さらに潁水を渡り旃然に駐屯した。蒍子馮と公子格は精鋭部隊を率いて費滑・胥靡・献于・雍梁を侵攻し、梅山を回り込んで鄭の東北を攻め、蟲牢まで進んで撤退した。子庚は純門で攻撃し、城下で盟約を結ぶふりをしてから兵を引いた。魚歯山の下で渡河中に大雨に遭い、楚兵は多くが凍死し、労働兵はほぼ全滅した。晋が楚の出兵を聞くと、師曠は「心配無用です。私は北風の歌と南風の歌を歌いましたが、南風(楚)の勢いは弱く死の気配がします」と言い、董叔は「天の道理は西北(晋)にあり、南方の軍は時機を誤っている」と述べ、叔向は「勝敗は君主の徳行によります」と結んだ。 (襄公十九年 経) 解説この一節は『春秋左氏伝』襄公18年から19年にかけての記述で、晋を中心とした諸侯連合軍による齊侵攻の詳細と、それに連動する鄭・楚の動向を描いています。戦闘描写では、州綽と殖綽の一騎打ちのような劇的な場面や、城門攻防の臨場感ある記録が特徴的です。また政治面では、鄭の子孔の権力闘争や楚国内の出兵をめぐる駆け引きが記され、国際関係と国内政治が複雑に絡み合う春秋時代の様相が浮き彫りにされています。最後の師曠ら晋側の人物による楚軍評では、当時の戦争観や天命思想が反映されており、歴史記録としてだけでなく文学的な価値も有する章段です。 Translation took 8252.1 seconds. |
| 十有九年春.王正月.諸侯盟于祝柯.晉人執邾子.公至自伐齊.取邾田自漷水.季孫宿如晉.葬曹成公. 夏.衛孫林父帥師伐齊. 秋.七月.辛卯.齊侯環卒.晉士匄帥師侵齊.至穀.聞齊侯卒.乃還. 八月.丙辰.仲孫蔑卒.齊殺其大夫高厚.鄭殺其大夫公子嘉. 冬.葬齊靈公.城西郛.叔孫豹會晉士匄于柯.城武城. 傳 十九年春.諸侯還自沂上.盟于督揚曰.大毋侵小.執邾悼公.以其伐我故.遂次于泗上.疆我田.取邾田.自漷水.歸之于我.晉侯先歸.公享晉六卿于蒲圃.賜之三命之服.軍尉.司馬.司空.輿尉.候奄.皆受一命之服.賄荀偃東錦.加璧乘馬.先吳壽夢之鼎.荀偃癉疽.生瘍於頭.濟河.及著雍.病.目出.大夫先歸者皆反.士匄請見.弗內.請後.曰鄭甥可. 二月.甲寅.卒.而視.不可含.宣子盥而撫之曰.事吳敢不如事主.猶視.欒懷子曰.其為未卒事於齊故也乎.乃復撫之曰.主苟終.所不嗣事于齊者.有如河.乃瞑受含.宣子出曰.吾淺之為丈夫也.晉欒魴帥師從衛孫文子伐齊.季武子如晉拜師.晉侯享之.范宣子為政.賦黍苗.季武子興.再拜稽首曰.小國之仰大國也.如百穀之仰膏雨焉.若常膏之.其天下輯睦.豈唯敝邑.賦六月.季武子以所得於齊之兵.作林鍾.而銘魯功焉.臧武仲謂季孫曰.非禮也.夫銘.天子令德.諸侯言時計功.大夫稱伐.今稱伐.則下等也.計功.則借人也.言時.則妨民多矣.何以為銘.且夫大伐小.取其所得以作彝器.銘其功烈.以示子孫.昭明德而懲無禮也.今將借人之力.以救其死.若之何銘之.小國幸於大國.而昭所獲焉.以怒之.亡之道也. |
【現代日本語訳】 夏、衛の孫林父が軍を率いて斉を討伐した。 秋七月辛卯の日、斉侯環が逝去した。晋の士匄が軍を率いて斉に侵攻し、穀地まで到達したが、斉侯の死を聞いて撤退した。 八月丙辰の日、仲孫蔑が逝去した。斉が自国の大夫高厚を処刑した。鄭が自国の大夫公子嘉を処刑した。 冬、斉霊公を葬った。西郭の城壁を築いた。叔孫豹が柯で晋の士匄と会談した。武城の城壁を築いた。 伝(詳述) 二月甲寅の日、荀偃は逝去したが目を見開いたままで合口の儀ができなかった。范宣子(士匄)が手を洗って遺体を撫で「私が荀呉を主君と同じく敬います」と誓ったが目は閉じなかった。欒懐子が「これは斉との戦いが未完だからでは」と言い、再び撫でながら「主君が逝去されても、私が斉との戦いを継承しないならば黄河に誓って」と述べると、ようやく目を閉じて合口を受けた。宣子は退出後「私は男として浅はかだった」と嘆いた。晋の欒魴が軍を率いて衛の孫文子とともに斉を討伐した。季武子が晋へ赴いて出兵の礼を述べ、晋侯に饗応された。范宣子が『黍苗』の詩を吟じると、季武子は起立して再拝し「小国が大国を仰ぐのは、穀物が慈雨を待つ如くです。もし常に潤していただければ、天下が和合するだけでなく我国も安泰です」と答えた。晋側が『六月』の詩を吟じると、季武子は斉から得た兵器で林鍾を鋳造し、魯の功績を刻んだ。臧武仲が季孫に「これは礼に悖ります。銘文は天子が徳を、諸侯は時勢と功績を、大夫は戦功を記すものです。今は他国の力を借りた功績を誇示すれば、かえって禍を招くでしょう」と諫めた。 【解説】
年代記と詳細な記述(伝)を組み合わせる構成により、事件の背景や人間関係が立体的に描かれ、歴史記録としての深みを生み出しています。 Translation took 2782.6 seconds. |
| 齊侯娶于魯.曰顏懿姬.無子.其姪鬷聲姬生光.以為大子.諸子.仲子.戎子.戎子嬖.仲子生牙.屬諸戎子.戎子請以為大子.許之.仲子曰.不可.廢常不祥.間諸侯難.光之立也.列於諸侯矣.今無故而廢之.是專黜諸侯.而以難犯不祥也.君必悔之.公曰.在我而已.遂東大子光.使高厚傅牙以為大子.夙沙衛為少傅.齊侯疾.崔杼微逆光.疾病而立之.光殺戎子.尸諸朝.非禮也.婦人無刑.雖有刑.不在朝市. 夏.五月.壬辰.晦.齊靈公卒.莊公即位.執公子牙於句瀆之丘.以夙沙衛易已.衛奔高唐以叛.晉士匄侵齊及穀.聞喪而還.禮也. 於四月.丁未.鄭公孫蠆卒.赴於晉.大夫范宣子言於晉侯.以其善於伐秦也. 六月.晉侯請於王.王追賜之大路.使以行禮也. 秋.八月.齊崔杼殺高厚於灑藍.而兼其室.書曰.齊殺其大夫.從君於昏也. 鄭子孔之為政也專.國人患之.乃討西宮之難.與純門之師.子孔當罪.以其甲及子革.子良氏之甲守.甲辰.子展.子西.率國人伐之.殺子孔而分其室.書曰.鄭殺其大夫.專也.子然.子孔.宋子之子也.士子孔.圭媯之子也.圭媯之班.亞宋子而相親也.士子孔.亦相親也.僖之四年.子然卒.簡之元年.士子孔卒.司徒孔實相子革.子良.之室.三室如一.故及於難.子革.子良.出奔楚.子革.為右尹.鄭人使子展當國.子西聽政.立子產為卿. |
斉の侯が魯から妻を迎えた。名を顔懿姫といい、子がなかった。その姪の鬷声姫が光を産み、これを太子とした。側室に仲子と戎子がいた。戎子は寵愛を受けた。仲子が牙を産み、戎子に託した。戎子が牙を太子にするよう請うと、侯は許した。仲子は言った。「なりません。慣例を破るのは不吉です。諸侯の間で非難されるでしょう。光が立てられた時、すでに諸侯の列に加えられています。今、理由なく廃するのは、諸侯を無視し、不吉な行いを犯すことです。君は必ず後悔なさいます」。侯は「私の心次第だ」と言い、遂に太子光を東方に追いやり、高厚を傅(輔佐役)として牙を太子とし、夙沙衛を少傅とした。斉の侯が病気になると、崔杼が密かに光を迎え入れ、病が重くなった時に光を立てた。光は戎子を殺し、その屍を朝廷に晒した。これは礼に反する。婦人に刑罰はなく、仮に刑があっても朝廷や市場に晒すものではない。 夏の五月壬辰の晦(月末)、斉の霊公が卒去した。荘公(光)が即位し、公子牙を句瀆の丘で捕らえた。夙沙衛が自分(牙)に代わろうとしたため、衛は高唐に奔って反乱を起こした。晋の士匄が斉に侵攻して穀地まで至ったが、喪の報せを聞いて引き返した。これは礼に適っている。 四月丁未に、鄭の公孫蠆が卒去した。晋に赴告が届き、大夫の范宣子が晋侯に述べて、彼が秦征伐で功績があったことを認めさせた。 六月、晋侯が周王に請い、王は追って大路(車)を賜り、これを用いて礼を行わせた。 秋の八月、斉の崔杼が灑藍で高厚を殺し、その所領を併せた。史書に「斉が其の大夫を殺す」と記したのは、君の昏乱に従ったためである。 鄭の子孔が政務を独占したため、国人は憂い、西宮の難と純門の師(戦い)の責任を追及した。子孔は罪に当たるとし、自身の甲兵と子革・子良の氏の甲兵で守りを固めた。甲辰に、子展と子西が国人を率いて攻め、子孔を殺して其の所領を分けた。史書に「鄭が其の大夫を殺す」と記したのは、専横のためである。子然と子孔は宋子の子であり、士子孔は圭媯の子である。圭媯の序列は宋子に次ぎ互いに親しく、士子孔も親しかった。僖公四年に子然が卒去し、簡公元年に士子孔が卒去した。司徒孔(子孔)は実質的に子革と子良の家を輔佐し、三家は一体であったため、難に巻き込まれた。子革と子良は楚に亡命し、子革は右尹となった。鄭人は子展に国政を執らせ、子西に政務を聽かせ、子産を卿に立てた。 【解説】 Translation took 2371.7 seconds. |
| 齊慶封圍高唐弗克.冬.十一月.齊侯圍之.見衛在城上.號之乃下.問守備焉.以無備告.揖之.乃登.聞師將傅.食高唐也.殖綽.工僂.會.夜縋納師.醢衛于軍.城西郛.懼齊也.齊及晉平.盟于大隧.故穆叔會范宣子于柯.穆叔見叔向.賦載馳之四章.叔向曰.肸敢不承命.穆叔曰.齊猶未也.不可以不懼.乃城武城.衛石共子卒.悼子不哀.孔成子曰.是謂蹙其本.必不有其宗. 襄公二十年 經 二十年春.王正月.辛亥.仲孫速會莒人盟于向. 夏.六月.庚申.公會晉侯.齊侯.宋公.衛侯.鄭伯.曹伯.莒子.邾子.滕子.薛伯.杞伯.小邾子.盟于澶淵. 秋.公至自會.仲孫速帥師伐邾.蔡殺其大夫公子燮.蔡公子履出奔楚.陳侯之弟黃出奔楚.叔老如齊. 冬.十月.丙辰朔.日有食之.季孫宿如宋. 傳 二十年春.及莒平.孟莊子會莒人.盟于向.督揚之盟故也. 夏.盟于澶淵.齊成故也.邾人驟至.以諸侯之事.弗能報也. 秋.孟莊子伐邾以報之.蔡公子燮欲以蔡之晉.蔡人殺之.公子履其母弟也.故出奔楚.陳慶虎.慶寅.畏公子黃之偪.愬諸楚曰.與蔡司馬同謀.楚人以為討.公子黃出奔楚.初.蔡文侯欲事晉.曰.先君與於踐土之盟.晉不可棄.且兄弟也.畏楚不能行而卒.楚人使蔡無常.公子燮.求從先君以利蔡.不能而死.書曰.蔡殺其大夫公子燮.言不與民同欲也.陳侯之弟黃出奔楚.言非其罪也.公子黃將出奔.呼於國曰.慶氏無道.求專陳國.暴蔑其君.而去其親.五年不滅.是無天也.齊子初聘于齊.禮也. |
斉の慶封が高唐を包囲したが、陥落させられなかった。冬、十一月、斉侯が包囲した。衛が城の上にいるのを見て、呼びかけると下りてきた。守備について尋ねると、備えがないと告げた。揖(礼)をすると、登っていった。軍が付こうとしていると聞き、高唐で食事をした。殖綽、工僂、會が夜に縄で師を城内に入れた。衛を軍中で醢(ひしお)にした。城の西郭を築いた。斉を恐れたからである。斉と晉が和睦し、大隧で盟を結んだ。そこで穆叔が柯で范宣子と会った。穆叔が叔向に会い、『載馳』の四章を賦した。叔向は言った。「肸(きつ)は敢えて命を受けないわけにはいかない」。穆叔は言った。「斉はまだである。恐れないわけにはいかない」。そこで武城を築いた。衛の石共子が死去した。悼子は哀しまなかった。孔成子は言った。「これはその根本を蹙(せば)めるというもので、必ずその宗(そう)を持たないだろう」。 襄公二十年 二十年の春、王の正月、辛亥の日、仲孫速が莒の人と向で会って盟を結んだ。 夏、六月、庚申の日、公(魯の公)が晉侯、斉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子と会い、澶淵で盟を結んだ。 秋、公が会から帰国した。仲孫速が師を率いて邾を討伐した。蔡がその大夫の公子燮を殺した。蔡の公子履が楚に亡命した。陳侯の弟の黃が楚に亡命した。叔老が斉へ行った。 冬、十月、丙辰の朔(ついたち)、日食があった。季孫宿が宋へ行った。 伝 二十年の春、莒と和睦した。孟莊子が莒の人と会い、向で盟を結んだ。督揚の盟のためである。 夏、澶淵で盟を結んだ。斉が和したためである。邾の人が頻繁に来襲したが、諸侯の事があって、報復できなかった。 秋、孟莊子が邾を討伐して報復した。蔡の公子燮が蔡を晉に従わせようとしたが、蔡の人が彼を殺した。公子履はその同母弟であるので、楚に亡命した。陳の慶虎、慶寅は公子黃の逼迫を恐れ、楚に訴えて言った。「蔡の司馬と共謀している」と。楚人はこれによって討伐しようとしたので、公子黃は楚に亡命した。初め、蔡文侯は晉に仕えようとしたが、言った。「先君は踐土の盟に参加した。晉を棄てることはできない。かつ兄弟である」と。楚を恐れて実行できずに死去した。楚人は蔡を使役するのに常道がなかった。公子燮は、先君に従って蔡を利しようと求めたが、果たせずに死んだ。書に「蔡が其の大夫公子燮を殺す」とあるのは、民と欲を同じくしないことを言うのである。陳侯の弟黃が楚に亡命したのは、その罪ではないことを言うのである。公子黃が将に亡命しようとする時、国中で叫んで言った。「慶氏は無道で、陳国を独占しようと求め、其の君を暴蔑し、其の親を去る。五年で滅びなければ、これは天がないのである」。齊子が初めて斉に聘したのは、礼である。 解説この一節は『春秋左氏伝』襄公二十年(紀元前553年)の記述で、春秋時代の国際情勢や各国の内政を描いています。主な内容は以下の通りです:
この年代は晉・楚の霸権争いが続く中、小国が両大国の間で翻弄される様子が典型的に描かれており、春秋時代の政治的不安定さを伝える重要な史料です。 Translation took 5193.4 seconds. |
| 冬.季武子如宋.報向戌之聘也.褚師段逆之以受享.賦常棣之七章以卒.宋人重賄之.歸復命.公享之.賦魚麗之卒章.公賦南山有臺.武子去所曰.臣不堪也.衛甯惠子疾.召悼子曰.吾得罪於君.悔而無及也.名藏在諸侯之策.曰孫林父.甯殖.出其君.君入則掩之.若能掩之.則吾子也.若不能.猶有鬼神.吾有餒而已.不來食矣.悼子許諾.惠子遂卒. 襄公二十一年 經 二十有一年春.王正月.公如晉.邾庶其以漆閭丘來奔. 夏.公至自晉. 秋.晉欒盈出奔楚. 九月.庚戌朔.日有食之. 冬.十月.庚辰朔.日有食之.曹伯來朝.公會晉侯.齊侯.宋公.衛侯.鄭伯.曹伯.莒子.邾子.于商任. 傳 二十一年春.公如晉拜師.及取邾田也.邾庶其以漆閭丘來奔.季武子以公姑姊妻之.皆有賜於其從者.於是魯多盜.季孫謂臧武仲曰.子盍詰盜.武仲曰.不可詰也.紇又不能.季孫曰.我有四封.而詰其盜.何故不可.子為司寇.將盜是務去.若之何不能.武仲曰子召外盜而大禮焉.何以止吾盜.子為正卿.而來外盜.使紇去之.將何以能.庶其竊邑於邾以來.子以姬氏妻之.而與之邑.其從者皆有賜焉.若大盜禮焉.以君之姑姊與其大邑.其次皁牧輿馬.其小者衣裳劍帶.是賞盜也.賞而去之.其或難焉.紇也聞之.在上位者洒濯其心.壹以待人.軌度其信.可明徵也.而後可以治人.夫上之所為.民之歸也.上所不為.而民或為之.是以加刑罰焉.而莫敢不懲.若上之所為而民亦為之.乃其所也.又可禁乎.夏書曰.念茲在茲.釋茲在茲.名言茲在茲.允出茲在茲.惟帝念功.將謂由已壹也.信由已壹.而後功可念也.庶其非卿也.以地來.雖賤必書.重地也. |
冬、季武子が宋へ行った。これは向戌の聘問に報いるためである。褚師段が彼を迎えて饗応し、『常棣』の七章から終章までを賦した。宋人は多額の財貨を贈った。帰国して復命すると、公(魯の襄公)が饗宴を開き、季武子が『魚麗』の終章を賦した。公が『南山有臺』を賦すると、武子は席を退いて言った。「臣はこの光栄に耐えられません」。 衛の甯惠子が病に伏せ、悼子を呼んで言った。「私は君に罪を犯し、悔いても及ばない。私の名は諸侯の記録に『孫林父と甯殖が君を追放した』と残っている。君が国に戻られたら(この汚名を)拭ってほしい。もし拭うことができれば、あなたは真の我が子だ。もしできなければ、鬼神がいるというなら、私は飢えるだけでよい(供養を受ける資格はない)。決してあなたの供養を受けないだろう」。悼子は承諾し、惠子はそこで亡くなった。 襄公二十一年 経文 二十一年の春、周の正月、公(魯の襄公)が晋へ行った。邾の庶其が漆と閭丘を携えて魯に亡命した。 夏、公が晋から帰国した。 秋、晋の欒盈が楚へ亡命した。 九月庚戌の朔(1日)、日食があった。 冬十月庚辰の朔(1日)、日食があった。曹伯が来朝した。公は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子と商任で会合した。 伝文 二十一年の春、公が晋へ行ったのは(晋軍の出兵への)礼謝と邾の田土取得のためである。邾の庶其が漆と閭丘を携えて魯に亡命すると、季武子は公の姑姉(父の姉妹)を彼に娶わせ、従者にも皆褒賞を与えた。この頃魯には盗賊が多かった。季孫(季武子)が臧武仲に言った。「あなたはなぜ盗賊を取り締まらないのか」。武仲は「取り締まれません。私にはできません」と答える。季孫が「我が国は四方に境を持ちながら、その盗賊を取り締まれないとはどういうことか。あなたは司寇(刑罰官)として盗賊を除去すべきだ。なぜできないのか」と言うと、武仲は「あなたが外部の盗賊を招き手厚く遇しているのに、どうして国内の盗賊を止められましょうか。あなたが正卿でありながら外部の盗賊を招き、私に除去させようとしても、どうしてできましょうか。庶其は邾から城邑を盗んで来奔したのに、あなたは姬氏(公族の女)を娶らせ、城邑を与え、従者にも褒賞を与えた。これは大盗を礼遇するようなものです。君の姑姉と大邑を大盗に与え、次いで下僕や車馬、小者には衣裳や劍帯を与えるのは盗みを賞賛する行為です。盗みを賞賛しながら除去しようとしても、おそらく困難でしょう。私は聞きました。上位の者は心を清め、一貫して人に対し、信頼の規範を定め、明確な証拠を示して初めて人を治められると。上位者の行動は民の規範です。上位者がしないことを民がすれば刑罰を加え、誰も罰を恐れないようにします。しかし上位者の行動を民も真似るのは当然であり、どうして禁じられましょうか」。『夏書』に「これを念ずればここにあり、これを釋せばここにあり、名を言えばここにあり、誠実はここから出る」とあります。帝(天)が功績を念じるのは、すべて自分から一貫して行うからです。信頼が自分からの一貫性によって初めて功績が認められるのです。庶其は卿ではないが、土地を持って来奔したので、身分が低くても必ず記録する。土地を重視するからである。 解説この一節は『春秋左氏伝』襄公二十一年の記述で、以下のような内容を含みます。
全体として、国際関係・国内政治・道義的課題が交錯する春秋時代の複雑な様相を伝えるとともに、為政者の言行一致の重要性を強調する教訓的な側面を持っています。 Translation took 2948.7 seconds. |
| 齊侯使慶佐為大夫.復討公子牙之黨.執公子買于句瀆之丘.公子鉏來奔.叔孫還奔燕. 夏.楚子庚卒.楚子使薳子馮為令尹.訪於申叔豫.叔豫曰.國多寵而王弱.國不可為也.遂以疾辭.方暑.闕地下冰而床焉.重繭衣裘.鮮食而寢.楚子使醫視之.復曰.瘠則甚矣.而血氣未動.乃使子南為令尹. 欒桓子娶於范宣子.生懷子.范鞅以其亡也.怨欒氏.故與欒盈為公族大夫.而不相能.桓子卒.欒祁與其老州賓通.幾亡室矣.懷子患之.祁懼其討也.愬諸宣子曰.盈將為亂.以范氏為死桓主而專政矣.曰.吾父逐鞅也.不怒.而以寵報之.又與吾同官而專之.吾父死而益富.死吾父而專於國.有死而已.吾蔑從之矣.其謀如是.懼害於主.吾不敢不言.范鞅為之徵.懷子好施.士多歸之.宣子畏其多士也.信之.懷子為下卿.宣子使城著而遂逐之. 秋.欒盈出奔楚.宣子殺箕遺.黃淵.嘉父.司空靖.邴豫.董叔.邴師.申書.羊舌虎.叔羆.囚伯華.叔向.籍偃.人謂叔向曰.子離於罪.其為不知乎.叔向曰.與其死亡若何.詩曰.優哉游哉.聊以卒歲.知也.樂王鮒見叔向曰.吾為子請.叔向弗應.出不拜.其人皆咎叔向.叔向曰.必祁大夫.室老聞之曰.樂王鮒言於君.無不行.求赦吾子.吾子不許.祁大夫所不能也.而曰必由之.何也.叔向曰.樂王鮒.從君者也.何能行.祁大夫外舉不棄讎.內舉不失親.其獨遺我乎.詩曰.有覺德行.四國順之.夫子覺者也.晉侯問叔向之罪於樂王鮒.對曰.不棄其親.其有焉.於是祁奚老矣.聞之.乘馹而見宣子曰.詩曰.惠我無疆.子孫保之.書曰.聖有暮勳.明徵定保.夫謀而鮮過.惠訓不倦者.叔向有焉.社稷之固也.猶將十世宥之.以勸能者.今壹不免其身.其棄社稷.不亦惑乎.鯀殛而禹興.伊尹放大甲而相之.卒無怨色.管蔡為戮.周公右王.若之何其以虎也棄社稷.子為善.誰敢不勉.多殺何為.宣子說.與之乘以言諸公而免之.不見叔向而歸.叔向亦不告免焉而朝. |
斉の侯は慶佐を大夫とした。再び公子牙の党を討伐し、句瀆の丘で公子買を捕らえた。公子鉏は逃亡して来た。叔孫還は燕に逃れた。 夏、楚の子庚が死去した。楚の王は薳子馮を令尹に任命しようとした。薳子馮は申叔豫に相談した。叔豫は言った。「国には寵臣が多く、王の権力は弱い。国政を執ることはできません」。そこで病気を理由に辞退した。暑さの盛りに、地面を掘って氷を敷き、その上に床を置いた。重ね着した繭の衣に皮衣をまとって、ほとんど食事を取らずに寝ていた。楚の王が医者を派遣して診察させると、医者は報告した。「痩せ衰えてはいますが、血気は乱れていません」。そこで子南を令尹に任命した。 欒桓子は范宣子の娘を娶り、懐子を生んだ。范鞅は自分が逃亡したことを欒氏に恨んでいたため、欒盈とともに公族大夫となったが、仲が悪かった。桓子が死去すると、欒祁(桓子の妻)は家老の州賓と私通し、家財をほとんど失いかけた。懐子はこれを憂いた。欒祁は懐子が討伐するのを恐れ、宣子に訴えた。「盈は乱を起こそうとしており、范氏が桓主(桓子)を死に追いやったので政権を独占できると考えています。『私の父は范鞅を追放したのに、彼は怒るどころか寵愛で報い、同じ官職にありながら専横する。父が死んでますます富み、父の死によって国政を独占する。死ぬしかない。私はこれに従うわけにはいかない』と。その謀略はこのようなもので、主君に危害が及ぶのを恐れ、言わずにはいられません」。范鞅がこれを証言した。懐子は施しを好み、多くの士が彼に従った。宣子は彼に多くの士がついているのを恐れ、欒祁の言葉を信じた。懐子は下卿であったが、宣子は著の地に城を築かせ、その機会に彼を追放した。 秋、欒盈は楚に逃亡した。宣子は箕遺、黄淵、嘉父、司空靖、邴豫、董叔、邴師、申書、羊舌虎、叔羆を殺し、伯華、叔向、籍偃を囚えた。ある人が叔向に言った。「あなたは罪に巻き込まれましたが、それは賢明ではないのではありませんか」。叔向は言った。「死や逃亡と比べてどうだろう。詩に『悠々自適、とりあえず歳月を過ごす』とある。これが知恵というものだ」。楽王鮒が叔向に会いに来て言った。「私があなたのために赦しを請いましょう」。叔向は答えず、楽王鮒が去るときも礼をしなかった。周囲の者は皆、叔向を責めた。叔向は言った。「必ず祁大夫(祁奚)が動くはずだ」。家老がこれを聞いて言った。「楽王鮒は君に言うことは何でも聞き入れられます。赦しを請うてくれるというのに、あなたは応じない。祁大夫ではできないでしょうに、必ず彼によるとおっしゃるのはなぜですか」。叔向は言った。「楽王鮒は君に従う者だ。どうしてできるだろう。祁大夫は外部に推挙するとき仇でも見捨てず、内部では親族を見逃さない。どうして私だけを見捨てようか。詩に『徳行が正しければ、四方の国々が従う』とある。あの方は正しい人だ」。晉の侯が楽王鮒に叔向の罪について尋ねると、楽王鮒は答えた。「彼は親族を見捨てないので、関与しているかもしれません」。当時、祁奚は既に引退していたが、この話を聞くと、駅伝馬に乗って宣子に会いに行き言った。「詩に『恩恵は無限で、子孫がそれを守る』とあり、書経に『聖人は謀略があり、明らかな証拠によって安定を保つ』とある。謀略をめぐらせて過ちが少なく、恵みをもって教え倦まないのは、叔向のような人物です。国家の柱石です。十代まで赦すべきで、有能者を励ますためです。今、一つのことで身を滅ぼすなら、国家を見捨てるようなもので、混乱していませんか。鯀は誅殺されても禹は興り、伊尹は太甲を追放しながらも補佐し、最後に怨みの色はなかった。管叔と蔡叔は殺されても、周公は王を助けた。どうして羊舌虎(叔向の弟)のことで国家の柱石を捨てられましょうか。あなたが善を行えば、誰が努力しないでしょう。多く殺す必要はありません」。宣子は喜び、祁奚と同車して晉の公に話し、叔向を赦免させた。祁奚は叔向に会わずに帰り、叔向も赦免を告げずに朝礼に出た。 解説この一節は『春秋左氏伝』における紀元前6世紀の政治動乱を描いています。主に三つのエピソードから成り立ちます: 歴史的な意義として、この時期の晉国では卿大夫同士の勢力争いが激化し、後の「六卿専権」へつながる端緒が見られます。引用された『詩経』や『書経』の言葉は、当時の知識人が古典を道徳的根拠として用いたことを示し、故事成語「優哉游哉」(悠々自適)の由来にもなっています。 Translation took 3588.9 seconds. |
| 初.叔向之母妒叔虎之母美而不使.其子皆諫其母.其母曰.深山大澤.實生龍蛇.彼美.余懼其生龍蛇以禍女.女敝族也.國多大寵.不仁人間之.不亦難乎.余何愛焉.使往視寢.生叔虎.美而有勇力.欒懷子嬖之.故羊舌氏之族及於難.欒盈過於周.周西鄙掠之.辭於行人曰.天子陪臣盈.得罪於王之守臣.將逃罪.罪重於郊甸.無所伏竄.敢布其死.昔陪臣書能輸力於王室.王施惠焉.其子黶不能保任其父之勞.大君若不棄書之力.亡臣猶有所逃.若棄書之力.而思黶之罪.臣戮餘也.將歸死於尉氏.不敢還矣.敢布四體.惟大君命焉.王曰.尤而效之.其又甚焉.使司徒禁掠欒氏者.歸所取焉.使候出諸轘轅. 冬.曹武公來朝.始見也.會於商任.錮欒氏也.齊侯.衛侯.不敬.叔向曰.二君者必不免.會朝禮之經也.禮政之輿也.政身之守也.怠禮失政.失政不立.是以亂也.知起.中行喜.州綽.邢蒯.出奔齊.皆欒氏之黨也.樂王鮒謂范宣子曰.盍反州綽.邢蒯.勇士也.宣子曰.彼欒氏之勇也.余何獲焉.王鮒曰.子為彼欒氏.乃亦子之勇也.齊莊公朝指殖綽.郭最.曰.是寡人之雄也.州綽曰.君以為雄.誰敢不雄.然臣不敏.平陰之役.先二子鳴.莊公為勇爵.殖綽.郭最.欲與焉.州綽曰.東閭之役.臣左驂迫.還於門中.識其枚數.其可以與於此乎.公曰.子為晉臣也.對曰.臣為隸新.然二子者.譬於禽獸.臣食其肉.而寢處其皮矣. 襄公二十二年 經 |
初めに、叔向の母は叔虎の母の美しさを妬み、彼女を(側室として)近づけようとしなかった。叔向たち兄弟は皆、母を諫めたが、母は言った。「深い山や大きな沼には、確かに龍や蛇が生まれる。あの女は美しいが、私は彼女が龍や蛇のような災いの子を産んで、お前たちに禍をもたらすことを恐れている。お前たちの家系は既に衰えている。国には多くの寵臣がはびこり、不仁な者がそれに付け入れば、生き残るのは難しくないか。私は何を惜しむことがあろうか。」そこで彼女を使わせて寝所に侍らせたところ、叔虎が生まれた。叔虎は美しくて勇力に優れ、欒懷子に寵愛された。このため、羊舌氏の一族は災難に巻き込まれることとなった。 欒盈が周の地を通りかかると、周の西部边境の者たちが彼を略奪した。欒盈は周の行人(外交官)に対して訴えた。「天子の陪臣である盈は、王の守臣(晋侯)に罪を得て、罪を逃れようとしています。しかし、罪が都の郊外にまで及んでおり、身を隠す場所もありません。敢えて覚悟を述べます。昔、陪臣の書(欒書)が王室に力を尽くしたとき、王は恵みをお与えになりました。その子の黶(欒黶)は父の功績を維持できませんでした。大君(周王)がもし書の功績を棄てずにおいてくださるなら、亡命した臣である私にも逃れ道があります。もし書の功績を棄て、黶の罪だけを考えるなら、私は死刑を免れた者に過ぎません。尉氏(晋の刑獄官)の下で死を受け入れようとし、二度と戻ることはありません。敢えて身を委ねます。どうか大君のご命令にお任せします。」周王は言った。「(晋の過ちを)悪いと知りながら真似るのは、さらに悪いことだ。」司徒に命じて欒氏を略奪する者を禁止し、奪ったものを返還させた。さらに候(巡察官)を遣わし、轘轅から先へ送り出させた。 冬、曹武公が来朝した。これは初めての謁見であった。諸侯は商任で会合し、欒氏を追放することを決めた。斉侯と衛侯が礼を怠ったので、叔向は言った。「この両君は必ず災いを免れないだろう。会盟と朝見は礼の基本である。礼は政治を運ぶ車であり、政治は身を守るよりどころである。礼を怠れば政治を失い、政治を失えば身の安泰は保てない。だから乱が起こるのである。」 知起、中行喜、州綽、邢蒯が斉へ亡命した。彼らは皆、欒氏の与党であった。楽王鮒が范宣子に言った。「なぜ州綽と邢蒯を呼び戻さないのですか。彼らは勇士です。」宣子は答えた。「彼らは欒氏のための勇士だ。私に何の得があるか。」王鮒は言った。「あなたが彼らを自分のものとすれば、それはあなたの勇士となるのです。」 斉の庄公が朝議で殖綽と郭最を指して言った。「この二人は寡人の勇士である。」州綽が言った。「君が勇士とおっしゃるなら、誰が勇士でないと言えましょう。しかし、臣は不才ながら、平陰の戦いではこの二人より先に戦功を挙げました。」庄公が「勇爵」(勇士を表彰する席)を設けると、殖綽と郭最もそれに加わろうとした。州綽は言った。「東閭の戦いで、臣の左側の副馬が窮地に陥り、門の中まで退却した際、私は門の釘の数を数える余裕がありました(危急の中でも冷静さを失わなかった)。これほどの者なら、この席に加わる資格があるのではないでしょうか。」庄公が「あなたは元は晋の臣だ」と言うと、州綽は答えた。「臣が斉に仕えるのは新しいことですが、この二人を禽獣に譬えるなら、臣は既にその肉を食い、その皮を寝床にしているようなものです(既に彼らを打ち負かした経験がある)。」 解説: Translation took 5330.1 seconds. |
| 二十有二年春.王正月.公至自會. 夏.四月. 秋.七月.辛酉.叔老卒. 冬.公會晉侯.齊侯.宋公.衛侯.鄭伯.曹伯.莒子.邾子.薛伯.杞伯.小邾子.于沙隨.公至自會.楚殺其大夫公子追舒. 傳 二十二年春.臧武仲如晉.雨.過御叔.御叔在其邑.將飲酒.曰.焉用聖人.我將飲酒而已.雨行.何以聖為.穆叔聞之.曰.不可使也.而傲使人.國之蠹也.令倍其賦. 夏.晉人徵朝于鄭.鄭人使少正公孫僑對曰.在晉先君悼公九年.我寡君於是即位.即位八月.而我先大夫子駟.從寡君以朝于執事.執事不禮於寡君.寡君懼因是行也.我二年六月.朝于楚.晉是以有戲之役.楚人猶競而申禮於敝邑.敝邑欲從執事.而懼為大尤.曰.晉其謂我不共有禮.是以不敢攜貳於楚.我四年三月.先大夫子蟜又從寡君以觀釁於楚.晉於是乎有蕭魚之役.謂我敝邑.邇在晉國.譬諸草木.吾臭味也.而何敢差池.楚亦不競.寡君盡其土.實重之以宗.器以受齊.盟遂帥群.臣隨于執.事以會歲終.貳於楚者.子侯.石盂.歸而討之.溴梁之明年.子蟜老矣.公孫夏從寡君以朝于君.見於嘗酎.與執燔焉.間二年.聞君將靖東夏. 四月.又朝以聽事.期不朝之間.無歲不聘.無役不從.以大國政令之無常.國家罷病.不虞荐至.無日不惕.豈敢忘職.大國若安定之.其朝夕在庭.何辱命焉.若不恤其患.而以為口實.其無乃不堪任命.而翦為仇讎.敝邑是懼.其敢忘君命.委諸執事.執事實重圖之. |
【翻訳文】 夏、四月。 秋、七月辛酉の日、叔老が死去した。 冬、魯公が晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・薛伯・杞伯・小邾子と沙随で会合した。魯公が会合から帰国した。楚が自国の大夫である公子追舒を処刑した。 伝(解説付き記述) 二十二年の春、臧武仲が晋へ赴いた。雨が降っていたため、御叔の領地を通りかかった。御叔は自分の邑で酒を飲もうとしていた。彼は言った。「なぜ聖人などが必要だろうか。私は酒を飲んで過ごすだけだ。雨の中を出歩くようなことをして、何が聖だというのか」。穆叔はこの話を聞いて言った。「役立たずでありながら、他国からの使者を傲慢に扱うとは、国を蝕む虫である」。そして御叔の賦役(税負担)を倍にさせた。 夏、晋が鄭に朝貢(訪問)を要求した。鄭は少正(副大臣)の公孫僑(子産)を応対させて言わせた。「晋の先君である悼公九年のとき、我が君が即位されました。即位して八か月後に、我が国の先大夫である子駟が我が君に随行して晋の執事(大臣)のもとへ朝貢に参りました。ところが執事は我が君を冷遇されたため、我が君はこの訪問をきっかけに禍を受けることを恐れました。我が君二年六月、楚へ朝貢したところ、晋はこれによって戲の戦いを起こしました。楚は当時まだ勢いが強く、我が国を礼遇してくれました。我が国は晋に従いたいと思いましたが、大きな過ちを犯すことを恐れ、『晋が我々が礼を欠いていると言うのではないか』と懸念し、楚から離反することをためらったのです」。 「我が君四年三月、先大夫の子蟜が再び我が君に随行して楚の内情を探りました。晋はこれによって蕭魚の戦いを起こしました。我が国は晋の近くにあり、草木に喩えれば同じ匂いがするようなものです。どうして差別などできましょうか。楚も次第に勢いを失い、我が君は領内の物産を尽くし、さらに宗廟の祭器を添えて晋と盟約を結びました。その後は臣下を率いて執事に随い、年末の会合にも参加しました。楚に通じていた子侯と石盂は帰国後に処罰しました」。 「溴梁の会合の翌年、子蟜が老齢となったため、公孫夏が我が君に随行して晋君に朝貢し、嘗酎(祭祀)に参列して燔肉(祭祀の肉)を共にしました。それから二年後、晋君が東方諸国を平定されると聞き、四月に再び朝貢して指示を仰ぎました。朝貢しない期間でも、毎年必ず使者を派遣し、戦役には必ず参加してきました。しかし大国である晋の政令が定まらず、我が国は疲弊し、予期せぬ災難が相次ぎ、一日として警戒を怠りません。どうして職責を忘れられましょうか」。 「大国が我が国を安定させてくださるなら、我々は常に朝廷に参上するでしょう。わざわざ命令されるまでもありません。もし我が国の苦難を顧みず、これを非難の材料にされるなら、我が国は任命に耐えられず、敵対関係となってしまうかもしれません。我が国はこれを恐れております。どうして君命を忘れましょうか。全ては執事の方々にお任せします。どうか慎重にご考慮ください」。 【解説】
子産の弁舌には、小国が大国の間で平衡を保つ現実的な外交戦略がにじんでいます。特に「草木に喩えれば同じ匂いがする」との表現は、地理的・文化的近さから晋への親和性を強調した比喩です。全体として、春秋時代の複雑な国際関係と、小国が生き残るためのしたたかな外交術が浮き彫りになる一節です。 Translation took 2416.5 seconds. |
| 秋.欒盈自楚適齊.晏平仲言於齊侯曰.商任之會.受命於晉.今納欒氏.將安用之.小所以事大.信也.失信不立.君其圖之.弗聽.退告陳文子曰.君人執信.臣人執共.忠信篤敬.上下同之.天之道也.君自棄也.弗能久矣. 九月.鄭公孫黑肱有疾.歸邑于公.召室老宗人.立段而使黜官薄祭.祭以特羊.殷以少牢.足以共祀.盡歸其餘邑曰.吾聞之.生於亂世.貴而能貧.民無求焉.可以後亡.敬共事君.與二三子.生在敬戒.不在富也.己巳.伯張卒.君子曰善戒.詩曰.慎爾侯度.用戒不虞.鄭子張其有焉. 冬.會于沙隨.復錮欒氏也.欒盈猶在齊.晏子曰.禍將作矣.齊將伐晉.不可以不懼.楚觀起有寵於令尹子南.未益祿而有馬數十乘.楚人患之.王將討焉.子南之子棄疾為王御士.王每見之必泣.棄疾曰.君三泣臣矣.敢問誰之罪也.王曰.令尹之不能.爾所知也.國將討焉.爾其居乎.對曰.父戮子居.君焉用之.洩命重刑.臣亦不為.王遂殺子南於朝.轘觀起於四竟.子南之臣謂棄疾.請徙子尸於朝.曰君臣有禮.唯二三子.三日.棄疾請尸.王許之.既葬.其徒曰.行乎.曰吾與殺吾父.行將焉入.曰然則臣王乎.曰棄父事讎.吾弗忍也.遂縊而死.復使薳子馮為令尹.公齮子為司馬.屈建為莫敖.有寵於薳子者八人.皆無祿而多馬.他日朝.與申叔豫言.弗應而退.從之.入於人中.又從之.遂歸.退朝見之.曰.子三困我於朝.吾懼不敢不見.吾過.子姑告我.何疾我也.對曰.吾不免是懼.何敢告子.曰.何故.對曰.昔觀起有寵於子南.子南得罪.觀起車裂.何故不懼.自御而歸.不能當道.至.謂八人者曰.吾見申叔夫子.所謂生死而肉骨也.知我者.如夫子則可.不然謂止.辭八人者.而後王安之. |
秋、欒盈が楚から齊へ逃れてきた。晏平仲が齊侯に言った。「商任での会合で、我々は晉から命令を受けました。今、欒氏を受け入れるなら、それをどうお使いになるおつもりですか。小国が大国に仕えるのは信義によるものです。信義を失えば国は成り立ちません。どうかご考慮ください」。齊侯は聞き入れなかった。晏平仲が退出して陳文子に告げて言った。「君主たる者は信義を守り、臣下たる者は恭順を尽くす。忠実・信義・篤実・恭敬——上下ともにこれを守るのが天道です。君主自らがそれを捨てたのです。長くは続かないでしょう」。 九月、鄭の公孫黑肱(子張)が病にかかった。領地を公に返還し、家老と宗人を呼び寄せ、段を後継ぎに立てて官職を減らし祭祀を質素にするよう命じた。通常の祭祀は羊一頭、五年ごとの大祭は羊と豚だけで十分であるとし、残る領地を全て返還して言った。「聞くところによれば、乱世に生きる者は、身分が高くても貧しさを守れば、民に求められることがなく、末永く生き延びられると。恭順して君に仕え、諸卿とともに生きる道は、慎み戒めることにあり、富にあるのではない」。己巳の日、伯張(公孫黑肱)が亡くなった。君子は「立派な戒めである」と評した。詩に「汝の度(おきて)を慎み、虞(おそれ)なきを戒めよ」とあるが、鄭の子張はこれを体現していた。 冬、諸侯が沙随で会合し、欒氏の追放を再確認した。欒盈は依然として齊にいた。晏子が言った。「禍いが起ころうとしている。齊が晉を討つに違いない。恐れずにはいられない」。楚では観起が令尹の子南に寵愛され、禄が増えていないのに数十乗の馬を所有していた。楚の人々はこれを憂い、王は討伐を計画した。子南の子・棄疾は王の御者であった。王は彼に会うたびに必ず涙を流した。棄疾が「君主は三度も臣に涙を流されました。誰の罪かお聞きしたい」と言うと、王は「令尹(子南)の不行跡はお前も知っている。国が討とうとしている。お前は留まるか」と問うた。棄疾は「父が殺されるのに子が留まれば、君主はどうお使いになりますか。命令を漏らせば重刑に処せられ、臣もそれはできません」と答えた。王は遂に朝堂で子南を殺し、観起を四境で車裂きの刑にした。子南の家臣が棄疾に「朝堂からご遺体を引き取ってください」と請うたが、棄疾は「君臣の礼は諸卿が守るべきもの」と言った。三日後、棄疾が遺体の引渡しを請うと王は許した。葬儀が終わると、配下が「逃げましょうか」と言うが、棄疾は「私は父の死に関与した。逃げてどこに行けよう」と答え、「それでは王に仕えるのですか」と言われると、「父を捨てて仇を仕えるのは耐えられない」と言い、首を吊って死んだ。楚王は再び薳子馮を令尹とし、公齮子を司馬、屈建を莫敖に任命した。薳子馮に寵愛される者八人は皆、禄なしに多くの馬を所有していた。ある日、朝議で申叔豫に話しかけると、彼は答えずに退出した。薳子馮が後を追い人混みに入ると、また追いかけると、申叔豫は帰宅した。薳子馮が退出後彼に会い「朝で三度も私を困らせた。恐れて会わざるを得なかった。私の過ちだ。どうして私を避けるのか教えてほしい」と言うと、申叔豫は「私も同じ過ちを犯す恐れがあるのに、どうして教えられよう」と答えた。「なぜか」と問うと、「昔、観起が子南に寵愛され、子南は罪を得て観起は車裂きにされた。なぜ恐れないことがあろうか」と言った。薳子馮は自ら車を御して帰る途中、道をまっすぐ走れなかった。屋敷に着くと、八人の寵臣に「申叔先生に会ったが、まさに『死者を生かし白骨に肉をつける』ような方だ。私を理解する者は、あのような先生でなければならない」と言い、八人を解任した。その後、楚王は安心した。 解説この一節は『春秋左氏伝』における春秋時代の政治駆け引きと倫理観を描いています。まず齊の晏嬰(晏平仲)が国際約束を重視する姿勢を示し、鄭の公孫黑肱が乱世の処世術として質素と戒めを説く一方、楚では権力者の寵愛が悲劇を招く様子が描かれます。特に棄疾の「父の仇に仕えられない」という決断は、忠と孝の矛盾を象徴的に表現しています。登場人物の言葉には『詩経』の引用も織り交ぜられ、当時の教養層の価値観が反映されています。全体を通し、権力と個人の倫理が衝突する春秋時代の複雑な人間模様が浮き彫りにされています。 Translation took 2733.2 seconds. |
| 十二月.鄭游販將歸晉.未出竟.遭逆妻者.奪之.以館于邑.丁巳.其夫攻子明殺之.以其妻行.子展廢良而立大叔.曰國卿.君之貳也.民之主也.不可以苟.請舍子明之類.求亡妻者.使復其所.使游氏勿怨.曰.無昭惡也. 襄公二十三年 經 二十有三年春.王二月.癸酉朔.日有食之. 三月.己巳.杞伯匄卒. 夏.邾畀我來奔.葬杞孝公.陳殺其大夫慶虎及慶寅.陳侯之弟黃.自楚歸于陳.晉欒盈復入于晉.入于曲沃. 秋.齊侯伐衛.遂伐晉. 八月.叔孫豹帥師救晉.次于雍榆.己卯.仲孫速卒. 冬.十月.乙亥.臧孫紇出奔邾.晉人殺欒盈.齊侯襲莒. 傳 二十三年春.杞孝公卒.晉悼夫人喪之.平公不徹樂.非禮也.禮為鄰國闕.陳侯如楚.公子黃愬二慶於楚.楚人召之.使慶樂往殺之.慶氏以陳叛. 夏.屈建從陳侯圍陳.陳人城板隊而殺人.役人相命.各殺其長.遂殺慶虎.慶寅.楚人納公子黃.君子謂慶氏不義.不可肆也.故書曰.惟命不于常.晉將嫁女于吳.齊侯使析歸父媵之.以藩載欒盈.及其士.納諸曲沃.欒盈夜見胥午而告之.對曰.不可.天之所廢.誰能興之.子必不免.吾非愛死也.知不集也.盈曰.雖然.因子而死.吾無悔矣.我實不天.子無咎焉.許諾.伏之而觴曲沃人.樂作.午言曰.今也得欒孺子何如.對曰.得主而為之死.猶不死也.皆歎.有泣者.爵行.又言.皆曰.得主何貳之有.盈出.遍拜之. |
【翻訳文】 十二月、鄭の游販が晋に帰ろうとしたが、国境を出ないうちに、妻を迎えに来る男に出会い、その妻を奪って邑の館に住まわせた。丁巳の日、その夫が子明を攻めて殺し、自分の妻を連れて行った。子展は良を廃して大叔を立て、言った。「国の卿は君主の次席であり、民の主人である。いい加減であってはならない。子明のような者を捨て、妻を奪われた者を探して元の地位に戻させよ。游氏に恨みを持たせないように。悪を明らかにしないようにせよ」 襄公二十三年 二十三年の春、王二月癸酉の朔(一日)、日食があった。 三月己巳、杞伯匄が死去した。 夏、邾の畀我が逃亡して来た。杞孝公を葬った。陳がその大夫の慶虎と慶寅を殺した。陳侯の弟の黄が楚から陳に帰った。晋の欒盈が再び晋に入り、曲沃に入った。 秋、斉侯が衛を討ち、続いて晋を討った。 八月、叔孫豹が軍を率いて晋を救援し、雍榆に駐屯した。己卯、仲孫速が死去した。 冬、十月乙亥、臧孫紇が邾に逃亡した。晋人が欒盈を殺した。斉侯が莒を襲撃した。 伝 二十三年の春、杞孝公が死去した。晋悼夫人が喪に服した。平公は音楽を止めなかった。礼に反する。礼では隣国の喪には音楽を控えるべきである。陳侯が楚へ行った。公子黄が楚で二慶(慶虎・慶寅)を訴えた。楚人が二慶を召還しようとしたが、慶楽を遣わして殺させた。慶氏は陳を背いて反乱を起こした。 夏、屈建が陳侯に従って陳を包囲した。陳人が城壁の修復中に板が落下して人を殺した。役人たちが互いに命じ合い、それぞれの長を殺し、遂に慶虎と慶寅を殺した。楚人が公子黄を陳に送り届けた。君子は慶氏の行為を不義であるとし、ほしいままにすべきでないと言った。故に経文に「惟命不于常(天命は常に一定ではない)」と書かれた。晋が呉に王女を嫁がせようとした。斉侯が析帰父を副使として送り、簾で覆った車で欒盈とその士を運び、曲沃に入らせた。欒盈は夜に胥午と会って事情を告げた。胥午は答えた。「できない。天が廃そうとする者を、誰が興せよう。あなたは必ず免れない。私は死を惜しむのではないが、成功しないと知っている」。欒盈は言った。「それでも、あなたによって死ぬなら悔いはない。私は天の恵みを受けず、あなたに咎はない」。胥午は承諾し、欒盈を隠して曲沃の人々に酒を振る舞った。音楽が奏でられ、胥午が言った。「今、欒孺子(欒盈)を得たらどうするか」。人々は答えた。「主君を得てそのために死ぬなら、死んだと同じではない」。皆嘆息し、泣く者もいた。酒が巡り、再び問うと、皆は言った。「主君を得て二心など持たない」。欒盈が現れ、遍く皆に拝礼した。 【解説】 Translation took 2165.7 seconds. |
| 四月.欒盈帥曲沃之甲.因魏獻子以晝入絳.初.欒盈佐魏莊子於下軍.獻子私焉.故因之.趙氏以原屏之難怨欒氏.韓趙方睦.中行氏以伐秦之役怨欒氏.而固與范氏和親.知悼子少而聽於中行氏.程鄭嬖於公.唯魏氏及七輿大夫與之.樂王鮒侍坐於范宣子.或告曰.欒氏至矣.宣子懼.桓子曰.奉君以走固宮.必無害也.且欒氏多怨.子為政.欒氏自外.子在位.其利多矣.既有利權.又執民柄.將何懼焉.欒氏所得.其唯魏氏乎.而可強取也.夫克亂在權.子無懈矣.公有姻喪.王鮒使宣子墨縗冒絰.二婦人輦以如公.奉公以如固宮.范鞅逆魏舒.則成列既乘.將逆欒氏矣.趨進曰.欒氏帥賊以入.鞅之父與二三子在君所矣.使鞅逆吾子.鞅請驂乘持帶.遂超乘.右撫劍.左援帶.命驅之出.僕請.鞅曰.之公.宣子逆諸階.執其手.賂之以曲沃.初.斐豹隸也.著於丹書.欒氏之力臣曰督戎.國人懼之.斐豹謂宣子曰.苟焚丹書.我殺督戎.宣子喜曰.而殺之.所不請於君焚丹書者.有如日.乃出豹而閉之.督戎從之.踰隱而待之.督戎踰入.豹自後擊而殺之.范氏之徒在臺後.欒氏乘公門.宣子謂鞅曰.矢及君屋死之.鞅用劍以帥卒.欒氏退.攝車從之.遇欒樂曰.樂免之.死將訟女於天.樂射之不中.又注則乘槐本而覆.或以戟鉤之.斷肘而死.欒魴傷.欒盈奔曲沃.晉人圍之. |
四月、欒盈は曲沃の兵士を率い、魏献子を頼って昼間に絳の都に入った。以前、欒盈は下軍において魏莊子を補佐しており、献子とは親しい間柄だったため、彼を頼ったのである。趙氏は原屏の難(過去の事件)で欒氏を恨んでいた。韓氏と趙氏はちょうど仲が良く、中行氏は秦征伐の戦役で欒氏を怨んでおり、固く范氏と親しくしていた。知悼子は年少であったため中行氏の指示に従い、程鄭は公(晋の君主)に寵愛されていた。欒氏に味方したのは魏氏と七輿大夫だけだった。 楽王鮒が范宣子の傍で侍っていた時、誰かが「欒氏が来た」と報告した。宣子は恐れたが、桓子(楽王鮒)は言った。「君をお連れして固宮に避難すれば、必ず害はありません。しかも欒氏は多くの恨みを買っています。あなたが政権を握り、欒氏が外から来るのです。あなたが権力の座にいる利点は大きい。既に権益を握り、民衆の支持も得ているのに、何を恐れることがありましょうか。欒氏が得られる味方は魏氏だけでしょうが、無理に奪い取ることもできます。乱を鎮めるのは権謀です。どうか気を緩めないでください。」 公に姻戚の喪があったため、楽王鮒は范宣子に喪服(墨縗)を着て頭巾(冒)と麻帯(絰)をつけさせ、二人の女性が輦(腰かけ車)に乗せて公の元へ向かわせた。そして公を固宮へ奉じた。范鞅が魏舒を迎えに行くと、既に軍列を整え車に乗り、欒氏を迎え入れようとしていた。范鞅は急いで進み出て言った。「欒氏が賊兵を率いて入って来ました。鞅の父と数名の卿が君の元におります。鞅はあなたを迎えに参りました。どうか鞅が車右として帯を握らせてください。」そう言って跳び乗り、右手で剣を撫でながら左手で帯を握り、御者に公の元へ向かうよう命じた。御者が尋ねると、范鞅は「公の元へ」と言った。范宣子は階段で魏舒を迎え、その手を握り、曲沃を賄賂として贈った。 以前、斐豹は奴隷身分で、丹書(奴隷の身分を記した文書)に登録されていた。欒氏の大力の臣・督戎という者がおり、国中人々は彼を恐れていた。斐豹は范宣子に言った。「もし丹書を焼き捨ててくださるなら、私が督戎を殺します。」宣子は喜んで言った。「お前が彼を殺せば、君に願い出て丹書を焼くことを怠らない。太陽が証しだ。」そこで斐豹を城外に出して門を閉じた。督戎が彼を追い、塀を越えて待ち伏せした。督戎が塀を越えて入ると、斐豹は背後から打ちかかって殺した。 范氏の兵士たちが台所の後ろにいた時、欒氏の兵が公の門に迫った。宣子は范鞅に言った。「矢が君の屋根に届いたら、死ぬ覚悟で戦え。」范鞅は剣を揮って兵士を率い、欒氏を退却させた。車を駆って追撃する途中、欒楽と出会い、范鞅は叫んだ。「楽よ、お前を許せ。死んだら天にお前を訴えてやる。」欒楽が矢を放ったが外れ、もう一矢引こうとした時、車が槐の木の根に乗り上げて転覆した。誰かが戟で彼を引っ掛け、肘を断たれて死んだ。欒魴は負傷し、欒盈は曲沃に逃れた。晋の軍は曲沃を包囲した。 解説この一節は『春秋左氏伝』に記される晋国内の権力闘争の一場面です。欒盈が曲沃の兵力を動員して都・絳に侵攻するも、范宣子を中心とした反欒氏勢力に阻まれる経緯が描かれています。以下の点に留意すると理解が深まります:
この事件は、春秋時代の氏族間の複雑な同盟と敵対関係を浮き彫りにし、後の晋国分裂の予兆とも解釈できる重要なエピソードです。 Translation took 3380.8 seconds. |
| 秋.齊侯伐衛.先驅.穀榮御王孫揮.召揚為右.申驅.成秩御莒恆.申鮮虞之傅摯為右.曹開御戎.晏父戎為右.貳廣.上之登御邢公.盧蒲癸為右.啟.牢成御襄罷師.狼蘧疏為右.胠.商子車御侯朝.桓跳為右.大殿.商子游御夏之御寇.崔如為右.燭庸之越駟乘.自衛將遂伐晉.晏平仲曰.君恃勇力以伐盟主.若不濟.國之福也.不德而有功.憂必及君.崔杼諫曰.不可.臣聞之.小國間大國之敗而毀焉.必受其咎.君其圖之.弗聽.陳文子見崔武子曰.將如君何.武子曰.吾言於君.君弗聽也.以為盟主.而利其難.群臣若急.君於何有.子姑止之.文子退.告其人曰.崔子將死乎.謂君甚.而又過之.不得其死.過君以義.猶自抑也.況以惡乎.齊侯遂伐晉.取朝歌為二隊.入孟門.登大行.張武軍於熒庭.戍郫邵.封少水.以報平陰之役.乃還.趙勝帥東陽之師以追之.獲晏氂. 八月叔孫豹帥師救晉.次于雍榆.禮也.季武子無適子.公彌長.而愛悼子.欲立之.訪於申豐曰.彌與紇.吾皆愛之.欲擇才焉而立之.申豐趨退.歸.盡室將行.他日又訪焉.對曰.其然.將具敝車而行.乃止.訪於臧紇.臧紇曰.飲我酒.吾為子立之.季氏飲大夫酒.臧紇為客.既獻.臧孫命北面重席.新樽絜之.召悼子.降逆之.大夫皆起.及旅.而召公鉏.使與之齒.季孫失色.季氏以公鉏為馬正.慍而不出.閔子馬見之曰.子無然.禍福無門.唯人所召.為人子者.患不孝.不患無所.敬其父命.何常之有.若能孝敬.富倍季氏可也.姦回不軌.禍倍下民可也.公鉏然之.敬共朝夕.恪居官次.季孫喜.使飲己酒.而以具往.盡舍旃.故公鉏氏富.又出為公左宰.孟孫惡臧孫.季孫愛之.孟氏之御騶豐點.好羯也.曰.從余言.必為孟孫.再三云.羯從之.孟莊子疾.豐點謂公鉏.苟立羯.請讎臧氏.公鉏謂季孫曰.孺子秩固其所也.若羯立.則季氏信有力於臧氏矣.弗應.己卯.孟孫卒.公鉏奉羯立于戶側.季孫至.入哭而出.曰.秩焉在.公鉏曰.羯在此矣.季孫曰.孺子長.公鉏曰.何長之有.唯其才也.且夫子之命也.遂立羯.秩奔邾.臧孫入哭.甚哀多涕.出.其御曰.孟孫之惡子也.而哀如是.季孫若死.其若之何.臧孫曰.季之愛我.疾疢也.孟孫之惡我.藥石也.美疢不如惡石.夫石猶生我.疢之美.其毒滋多.孟孫死.吾亡無日矣.孟氏閉門.告於季孫曰.臧氏將為亂.不使我葬.季孫不信.臧孫聞之戒. |
秋、斉の侯が衛を討伐した。先鋒部隊では、穀榮が王孫揮の御者を務め、召揚が車右となった。次鋒部隊では、成秩が莒恆の御者を務め、申鮮虞の傅摯が車右となった。本軍では、曹開が戎車の御者を務め、晏父戎が車右となった。副将部隊では、上之登が邢公の御者を務め、盧蒲癸が車右となった。左翼部隊では、牢成が襄罷師の御者を務め、狼蘧疏が車右となった。右翼部隊では、商子車が侯朝の御者を務め、桓跳が車右となった。後衛部隊では、商子游が夏之御寇の御者を務め、崔如が車右となった。燭庸之越は四馬乗車に参加した。衛からさらに晋を討伐しようとした。 八月、叔孫豹が軍を率いて晋を救援し、雍榆に駐屯した。これは礼にかなった行動である。 孟孫は臧孫を憎み、季孫は臧孫を愛した。孟氏の馬丁の豐點は羯(孟孫の庶子)を気に入り、言った。「私の言うことを聞けば、必ず孟孫の後継者にできる。」と繰り返し説得し、羯は従った。孟莊子が病になると、豐點は公鉏に言った。「もし羯を後継者に立てれば、臧氏に復讐します。」公鉏は季孫に言った。「孺子秩(嫡子)が本来の後継者です。もし羯が立てば、季氏が臧氏に影響力を持つことになります。」季孫は返事をしなかった。己卯の日、孟孫が亡くなると、公鉏は羯を立てて棺の側に立たせた。季孫が到着し、弔問して退出すると言った。「秩はどこにいるのか。」公鉏は「羯がここにおります」と答えた。季孫が「孺子(秩)が年長だ」と言うと、公鉏は「年長など問題ではありません。才能こそ重要です。しかもこれは夫子(孟孫)のご意志です」と言い、ついに羯を後継者に立てた。秩は邾に逃れた。 解説この一節は『春秋左氏伝』における斉と晋の抗争、および魯国内の権力闘争を描いています。前半では、斉侯が盟主である晋を討伐する様子と、家臣たちの諫言が記され、武力偏重の危険性が示唆されています。後半では、魯国の季氏・孟氏・臧氏ら貴族間の後継者争いが中心です。特に、臧孫の「愛情は病気、憎しみは薬」という比喩は、苦言がかえって成長を促すという教訓を表し、政治的駆け引きの深さを浮き彫りにしています。史実としても、これらの事件が後の魯国内乱の伏線となっており、人物の性格や行動が緻密に描写されている点が特徴です。 Translation took 7996.6 seconds. |
| 冬.十月.孟氏將辟.藉除於臧氏.臧孫使正夫助之.除於東門甲.從已而視之.孟氏又告季孫.季孫怒.命攻臧氏.乙亥.臧紇斬鹿門之關.以出奔.邾.初.臧宣叔娶于鑄.生賈及為而死.繼室以其姪.穆姜之姨子也.生紇.長於公宮.姜氏愛之.故立之.臧賈臧為出在鑄.臧武仲自邾使告臧賈.且致大蔡焉.曰.紇不佞.失守宗祧.敢告不弔.紇之罪不及不祀.子以大蔡納請.其可.賈曰.是家之禍也.非子之過也.賈聞命矣.再拜受龜.使為以納請.遂自為也.臧孫如防.使來告曰.紇非能害也.知不足也.非敢私請.苟守先祀.無廢二勳.敢不辟邑.乃立臧為.臧紇致防而奔齊.其人曰.其盟我乎.臧孫曰.無辭.將盟臧氏.季孫召外史掌惡臣.而問盟首焉.對曰.盟東門氏也.曰.毋或如東門遂.不聽公命.殺適立庶.盟叔孫氏也.曰.毋或如叔孫僑如欲廢國常.蕩覆公室.季孫曰.臧孫之罪.皆不及此.孟椒曰.盍以其犯門斬關.季孫用之.乃盟臧氏曰.無或如臧孫紇.干國之紀.犯門斬關.臧孫聞之曰.國有人焉.誰居.其孟椒乎.晉人克欒盈于曲沃.盡殺欒氏之族黨.欒魴出奔宋.書曰.晉人殺欒盈.不言大夫.言自外也.齊侯還自晉.不入.遂襲莒.門于且于.傷股而退.明日將復戰.期于壽舒.杞.殖華還.載甲夜入且于之隧.宿於莒郊.明日.先遇莒子於蒲侯氏.莒子重賂之.使無死.曰.請有盟.華周對曰.貪貨棄命.亦君所惡也.昏而受命.日未中而棄之.何以事君.莒子親鼓之.從而伐之.獲杞梁.莒人.行成.齊侯歸.遇杞梁之妻於郊.使弔之.辭曰.殖之有罪.何辱命焉.若免於罪.猶有先人之敝廬在.下妾不得與郊弔.齊侯弔諸其室.齊侯將為臧紇田.臧孫聞之.見齊侯.與之言伐晉.對曰.多則多矣.抑君似鼠.夫鼠晝伏夜動.不穴於寢廟.畏人故也.今君聞晉之亂.而後作焉.寧將事之.非鼠如何.乃弗與田.仲尼曰.知之難也.有臧武仲之知.而不容於魯國.抑有由也.作不順而施不恕也.夏書曰.念茲在茲.順事恕施也. 襄公二十四年 經 |
冬の十月、孟氏が辟(葬儀の場所)を設けようとした。臧氏に人夫の借用を求めたところ、臧孫は正夫(役人)を派遣して援助させ、東門で武装した人夫を動員した。臧孫自らが視察に赴くと、孟氏はこの件を季孫に報告した。季孫は怒り、臧氏を攻撃するよう命じた。乙亥の日、臧紇は鹿門の関門を破壊し、邾国へ逃亡した。 当初、臧宣叔は鑄国の娘を娶り、賈と為を儲けたが妻は死去した。後妻として姪(穆姜の妹の娘)を迎え、紇を産んだ。紇は公宮で育ち、穆姜に寵愛されたため嫡子に立てられた。臧賈と臧為は鑄国に出ていた。臧武仲(臧紇)は邾国から臧賈に使者を送り、大蔡(占い用の大亀)を贈って伝えた。「私は不肖ながら宗廟の守りを失いました。不甲斐なさを報告します。私の罪は祭祀断絶にまで及びません。あなたがこの大亀を用いて祭祀継続を請願されれば良いでしょう」。賈は「これは家の災いであり、あなたの過失ではない。命令は承知した」と答え、亀を受け取って臧為に祭祀の請願を命じた。しかし為は自分が後継者となるよう工作した。 臧孫(臧紇)は防邑に赴き、使者を送って宣言した。「私は危害を加えるつもりはなく、智恵が足りなかっただけです。私的な要請ではなく、祖先の祭祀を守り、二人の功臣(臧文仲・臧宣叔)の功績を廃さないためなら、領地を退くことを惜しみません」。こうして臧為が後継者に立てられ、臧紇は防邑を明け渡して斉国へ奔った。家臣が「盟約を要求してくるでしょうか」と問うと、臧孫は「理由がない」と答えた。 季孫が臧氏と盟約を結ぼうとした時、外史(記録官)を召して「悪臣との盟約の文案」を問うた。外史は「東門氏との盟約では『東門遂のように君命に背き嫡子を殺して庶子を立てる者があるな』、叔孫氏との盟約では『叔孫僑如のように国法を乱し公室を転覆させる者があるな』とありました」と答えた。季孫が「臧孫の罪はそれらに及ばない」と言うと、孟椒が「門を侵犯し関門を破った罪はどうか」と進言した。季孫はこれを用い、臧氏との盟約で「臧孫紇のように国法を犯し門を侵し関を斬る者があるな」と宣言させた。臧孫はこれを聞き「国に人材がいる。それは孟椒だろう」と語った。 晋軍は曲沃で欒盈を打ち破り、欒氏の一族と党羽を皆殺しにした。欒魴は宋国へ逃亡した。史書に「晋人欒盈を殺す」と記し大夫と称さなかったのは、国外から攻め入った者と見なしたためである。 斉侯は晋から帰国途中、都城に入らず莒国を襲撃した。且于の門で戦い腿に傷を負って退却し、翌日再戦を期して寿舒に布陣した。杞殖と華還は甲冑を積んだ車で夜間に且于の隧道に入り、莒の郊外で宿営した。翌日、蒲侯氏で莒子と遭遇すると、莒子は厚い賄賂を贈って降伏を促した。華周は「貪欲で命を棄てるのは君も憎まれること。夜に命令を受け、昼前に棄てるなど主君への仕方ではない」と拒否した。莒子自陣頭で太鼓を鳴らし攻撃し、杞梁を捕らえた。莒人が講和を申し出たため、斉侯は帰国した。 郊外で杞梁の妻に出会った斉侯が弔問すると、妻は「殖に罪があるなら弔問は不要です。罪が許されるなら、祖先の粗末な家がありますので郊外での弔問は受けられません」と辞退した。斉侯は正式に彼女の家で弔問した。 斉侯が臧紇に領地を与えようとした時、臧孫はこれ聞き斉侯に面会し、晋討伐の意見を求められた。臧孫は「成果は大きいですが、君は鼠のようです。鼠は昼は潜み夜に活動し、宗廟に穴を掘らないのは人を恐れるからです。今、君は晋の混乱を知ってから行動しました。本当に従うつもりなら鼠とは言えませんが」と答えた。斉侯は領地授与を取り止めた。 仲尼(孔子)は評して「知恵の難しさよ。臧武仲ほどの知者でも魯国に容れられなかった。そこには理由がある。行いが順(道理)に適わず、施しが恕(思いやり)に欠けていたのだ。夏書に『念茲在茲(考えるべきはここにあり)』とあるが、それは物事を順に行い、施しを恕をもってすることを意味する」と語った。 (襄公二十四年 経文部分は記載なし) 解説この一節は『春秋左氏伝』襄公二十四年の出来事を記述しています。魯国内の権力闘争(臧氏・孟氏・季孫氏の対立)を軸に、臧紇の逃亡や斉・莒・晋などの国際情勢が交錯する複雑な記録です。以下の点に特徴があります:
全体として、歴史的事実の羅列だけでなく、人物の性格や倫理観に光を当てる史書の特徴がよく表れた一節です。 Translation took 3622.8 seconds. |
| 二十有四年春.叔孫豹如晉.仲孫羯帥師侵齊. 夏.楚子伐吳. 秋.七月.甲子.朔.日有食之.既.齊崔杼帥師伐莒.大水. 八月.癸巳朔.日有食之.公會晉侯.宋公.衛侯.鄭伯.曹伯.莒子.邾子.滕子.薛伯.杞伯.小邾子.于夷儀. 冬.楚子.蔡侯.陳侯.許男.伐鄭.公至自會.陳鍼宜咎出奔楚.叔孫豹如京師.大饑. 傳 二十四年春.穆叔如晉.范宣子逆之問焉.曰.古人有言曰.死而不朽.何謂也.穆叔未對.宣子曰.昔匄之祖.自虞以上為陶唐氏.在夏為御龍氏.在商為豕韋氏.在周為唐杜氏.晉主夏盟為范氏.其是之謂乎.穆叔曰.以豹所聞.此之謂世祿.非不朽也.魯有先大夫曰臧文仲.既沒.其言立.其是之謂乎.豹聞之.大上有立德.其次有立功.其次有立言.雖久不廢.此之謂不朽.若夫保姓受氏.以守宗祊.世不絕祀.無國無之.祿之大者.不可謂不朽.范宣子為政.諸侯之幣重.鄭人病之. 二月.鄭伯如晉.子產寓書於子西.以告宣子曰.子為晉國.四鄰諸侯.不聞令德.而聞重幣.僑也惑之.僑聞君子長國家者.非無賄之患.而無令名之難.夫諸侯之賄.聚於公室.則諸侯貳.若吾子賴之.則晉國貳.諸侯貳則晉國壞.晉國貳則子之家壞.何沒沒也.將焉用賄.夫令名.德之輿也.德.國家之基也.有基無壞.無亦是務乎.有德則樂.樂則能久.詩云.樂只君子.邦家之基.有令德也.夫上帝臨女.無貳爾心.有令名也.夫恕.思以明德.則令名載而行之.是以遠至邇安.毋寧使人謂子.子實生我.而謂子浚我以生乎.象有齒以焚其身.賄也.宣子說.乃輕幣.是行也.鄭伯朝晉.為重幣故.且請伐陳也.鄭伯稽首.宣子辭.子西相曰.以陳國之介.恃大國而陵虐於敝邑.寡君是以請罪焉.敢不稽首.孟孝伯侵齊.晉故也. |
【翻訳文】 伝 【解説】
この一節は、春秋時代の政治動向を伝えると同時に、古代中国における価値観の形成過程を窺わせる貴重な史料と言えます。 Translation took 3255.6 seconds. |
| 夏.楚子為舟師以伐吳.不為軍政.無功而還.齊侯既伐晉而懼.將欲見楚子.楚子使薳啟彊如齊聘.且請期.齊社蒐軍實.使客觀之.陳文子曰.齊將有寇.吾聞之.兵不戢.必取其族. 秋.齊侯聞將有晉師.使陳無宇從薳啟彊如楚辭.且乞師.崔杼帥師送之.遂伐莒.侵介根.會于夷儀.將以伐齊.水不克. 冬.楚子伐鄭以救齊.門于東門.次于棘澤.諸侯還救鄭.晉侯使張骼.輔躒.致楚師.求御于鄭.鄭人卜宛射犬吉.子大叔戒之曰.大國之人.不可與也.對曰無有眾寡.其上一也.大叔曰.不然.部婁無松柏.二子在幄.坐射犬于外.既食而後食之.使御廣車而行.已皆乘乘車.將及楚師.而後從之乘.皆踞轉而鼓琴.近不告而馳之.皆取冑於櫜而冑.入壘皆下.搏人以投.收禽挾囚.弗待而出.皆超乘.抽弓而射.既免.復踞轉而鼓琴.曰.公孫同乘.兄弟也.故再不謀.對曰.曩者志入而已.今則怯也.皆笑曰.公孫之亟也.楚子自棘澤還.使薳啟彊帥師送陳無宇.吳人為楚舟師之役故.召舒鳩人.舒鳩人叛楚.楚子師于荒浦.使沈尹壽與師祁犁讓之.舒鳩子敬逆二子.而告無之.且請受盟.二子復命.王欲伐之.薳子曰.不可.彼告不叛.且請受盟.而又伐之.伐無罪也.姑歸息民.以待其卒.卒而不貳.吾又何求.若猶叛我.無辭.有庸.乃還.陳人復討慶氏之黨.鍼宜咎出奔楚.齊人城郟.穆叔如周聘.且賀城.王嘉其有禮也.賜之大路.晉侯嬖程鄭.使佐下軍.鄭行人公孫揮如晉聘.程鄭問焉.曰.敢問降階何由.子羽不能對.歸以語然明.然明曰.是將死矣.不然將亡.貴而知懼.懼而思降.乃得其階.下人而已.又何問焉.且夫既登而求降階者.知人也.不在程鄭.其有亡釁乎.不然.其有惑疾.將死而憂也. 襄公二十五年 經 |
夏、楚の子は水軍を編成して呉を討伐したが、軍政を整えず、成果なく帰還した。斉の侯は晋を討伐した後で恐れをなし、楚の子と会おうとした。楚の子は薳啓彊を斉に派遣して聘問させ、かつ会見の時期を請わせた。斉は社で軍事閲閲を行い、客にそれを見学させた。陳文子が言った。「斉には敵襲が来るだろう。武器をしまわなければ、必ず自らに災いが及ぶと聞いている」。 秋、斉の侯は晋軍が来ると聞き、陳無宇を薳啓彊に随行させて楚に辞令を伝えさせ、かつ援軍を請うた。崔杼が軍を率いて彼らを送り、そのまま莒を討伐し、介根を侵攻した。諸侯は夷儀で会合し、斉を討伐しようとしたが、洪水のため果たせなかった。 冬、楚の子は斉を救援するために鄭を討伐し、東門を攻め、棘沢に駐屯した。諸侯は引き返して鄭を救援した。晋の侯は張骼と輔躒を派遣して楚軍を挑発させ、鄭に御者を求めた。鄭人が宛射犬を卜占すると吉と出た。子太叔が戒めて言った。「大国の者とは対等に振る舞うな」。射犬は答えた。「人数の多少に関わらず、上位者は同じだ」。太叔は言った。「そうではない。小さな丘に松柏は生えない」。二人は幕舎の中に座り、射犬を外に坐らせ、自分たちが食事した後で彼に食べさせた。広車を御させて進み、自分たちは皆乗車に乗った。楚軍に近づいてからようやく射犬の車に乗り、皆轅に凭れて琴を弾いた。接近しても告げずに疾走し、皆冑を嚢から取り出して被り、敵陣に突入すると皆下車し、敵兵を捕らえて投げ飛ばし、獲物を回収し囚人を挟んで待たずに出て、皆跳び乗り、弓を引いて射た。難を免れた後、再び轅に凭れて琴を弾き、「公孫(射犬)と同乗するのは兄弟同然だから、二度も相談しなかった」と言った。射犬は答えた。「先ほどは敵陣に突入することだけを考えていたが、今は怖気づいた」。皆笑って言った。「公孫の性急さよ」。楚の子は棘沢から帰還し、薳啓彊に軍を率いて陳無宇を送らせた。呉人は楚の水軍の役のため、舒鳩人を召し寄せた。舒鳩人は楚に背いた。楚の子は荒浦に軍を進め、沈尹壽と師祁犁を派遣して彼らを責めた。舒鳩の子は恭しく二人を迎え、背いていないと告げ、かつ盟約を受けることを請うた。二人が復命すると、王は討伐しようとした。薳子が言った。「不可です。彼らは背いていないと告げ、盟約を請うています。それを討てば無罪を伐つことになります。暫く帰って民を休め、その結末を待ちましょう。最後まで背かなければ我々に求めるものはありません。もし依然として背くなら、非難する理由ができ、討伐の口実が立ちます」。そこで帰還した。陳人は再び慶氏の与党を糾弾し、鍼宜咎は楚に逃亡した。斉人は郟に城を築いた。穆叔は周に聘問し、かつ築城を祝賀した。王はその礼儀正しさを賞賛し、大路を賜った。晋の侯は程鄭を寵愛し、下軍の佐とさせた。鄭の行人公孫揮が晋に聘問した。程鄭が彼に尋ねた。「敢えて階位を下げる方法を伺いたい」。子羽(公孫揮)は答えられず、帰って然明に話した。然明は言った。「彼は死ぬだろう。さもなくば逃亡する。高位にありながら恐れをなし、恐れて階位を下げようと思うなら、それは適切な段階を得たことになる。身を低くするだけだ。何故尋ねる必要があろう。既に登りながら階を降りようとする者は智者だが、程鄭にはそれがない。彼には逃亡の兆しがあるのか。さもなくば惑乱の病で、死を前に憂えているのだ」。 襄公二十五年 解説: Translation took 3231.6 seconds. |
| 二十有五年春.齊崔杼帥師伐我北鄙. 夏.五月.乙亥.齊崔杼弒其君光.公會晉侯.宋公.衛侯.鄭伯.曹伯.莒子.邾子.滕子.薛伯.杞伯.小邾子.于夷儀. 六月.壬子.鄭公孫舍之帥師入陳. 秋.八月.己巳.諸侯同盟于重丘.公至自會.衛侯入于夷儀.楚屈建帥師滅舒鳩. 冬.鄭公孫夏帥師伐陳. 十有二月.吳子遏伐楚.門于巢.卒. 傳 二十五年春.齊崔杼帥師伐我北鄙.以報孝伯之師也.公患之.使告于晉.孟公綽曰.崔子將有大志.不在病我.必速歸.何患焉.其來也不寇.使民不嚴.異於他日.齊師徒歸. 齊棠公之妻.東郭偃之姊也.東郭偃臣崔武子.棠公死.偃御武子以弔焉.見棠姜而美之.使偃取之.偃曰.男女辨姓.今君出自丁.臣出自桓.不可.武子筮之.遇困之大過.史皆曰吉.示陳文子.文子曰.夫從風.風隕妻.不可聚也.且其繇曰.困于石.據于蒺梨.入于其宮.不見其妻.凶.困于石.往不濟也.據于蒺梨.可恃傷也.入于其宮.不見其妻.凶.無所歸也.崔子曰.嫠也何害.先夫當之矣.遂取之.莊公通焉.驟如崔氏.以崔子之冠賜人.侍者曰不可.公曰.不為崔子.其無冠乎.崔子因是.又以其間伐晉也.曰晉必將報.欲弒公以說于晉.而不獲間.公鞭侍人賈舉.而又近之.乃為崔子間公. |
【翻訳文】 夏五月乙亥の日、斉の崔杼が自国の君主・光を弑した。魯の公(襄公)は晋侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子らと夷儀で会合した。 六月壬子の日、鄭の公孫舎之が軍を率いて陳に侵攻した。 秋八月己巳の日、諸侯は重丘で同盟を結んだ。公は会合から帰国した。衛侯は夷儀に入った。楚の屈建が軍を率いて舒鳩を滅ぼした。 冬、鄭の公孫夏が軍を率いて陳を攻撃した。 十二月、吳子・遏が楚を討ち、巢の城門で戦い、死去した。 (伝) 斉の棠公の妻は東郭偃の姉であった。東郭偃は崔武子(崔杼)に仕えていた。棠公が死ぬと、偃は崔武子を車に乗せて弔問に赴いた。武子が棠姜(棠公の未亡人)を見てその美しさに惚れ、偃に娶らせようとした。偃が「婚姻には同姓避忌の原則があります。あなたは丁公の子孫、私は桓公の子孫で同姓です」と諫めると、武子は占筮を行った。困卦から大過卦へ変わる結果に対し、史官たちは皆吉と判断したが、陳文子は「風に従う卦象は妻が墜ちる暗示。娶るべきではありません」と反論し、さらに爻辞の「石に困り、茨にすがり、宮殿に戻っても妻に会えぬ」という凶兆を指摘した。崔杼は「未亡人に何の禍があるか。凶兆は先夫が被ったのだ」と言って強引に棠姜を妻とした。 その後、斉の庄公(光)が棠姜と密通し、頻繁に崔氏の屋敷に通った。庄公は崔杼の冠を侍従に賜ろうとした際、「崔子の冠を下賜するのは不適切です」と諫められても「崔子がなくとも冠はあるだろう」と嘲った。崔杼はこの屈辱に加え、以前晋を攻撃した報復を恐れ、晋の機嫌を取るために庄公を弑殺しようと企てた。ちょうど庄公が侍従の賈挙を鞭打った後も接近させていたため、賈挙は崔杼の内応者となった。 【解説】 Translation took 2297.4 seconds. |
| 夏.五月.莒子為且于之役故.莒子朝于齊.甲戌.饗諸北郭.崔子稱疾不視事.乙亥.公問崔子.遂從姜氏.姜入于室.與崔子自側戶出.公拊楹而歌.侍人賈舉止眾從者.而入閉門.甲興.公登臺而請.弗許.請盟.弗許.請自刃於廟.勿許.皆曰.君之臣杼疾病.不能聽命.近於公宮.陪臣干掫有淫者.不知二命.公踰牆.又射之.中股.反隊.遂弒之.賈舉.州綽.邴師.公孫敖.封具.鐸父.襄伊.僂堙.皆死.祝佗父祭於高唐.至復命.不說弁而死於崔氏.申蒯侍漁者.退謂其宰曰.爾以帑免.我將死.其宰曰.免.是反子之義也.與之皆死. 崔氏殺鬷蔑于平陰.晏子立於崔氏之門外.其人曰.死乎.曰.獨吾君也乎哉.吾死也.曰.行乎.曰.吾罪也乎哉.吾亡也.曰.歸乎.曰.君死安歸.君民者.豈以陵民.社稷是主.臣君者.豈為其口實.社稷是養.故君為社稷死.則死之.為社稷亡.則亡之.若為己死而己亡.非其私暱.誰敢任之.且人有君而弒之.吾焉得死之.而焉得亡之.將庸何歸.門啟而入.枕尸股而哭.興.三踊而出.人謂崔子必殺之.崔子曰.民之望也.舍之得民.盧蒲癸奔晉.王何奔莒. 叔孫宣伯之在齊也.叔孫還納其女於靈公.嬖.生景公.丁丑.崔杼立而相之.慶封為左相.盟國人於大宮曰.所不與崔慶者.晏子仰天歎曰.嬰所不唯忠於君.利社稷者是與.有如上帝.乃歃.辛巳.公與大夫及莒子盟.大史書曰.崔杼弒其君.崔子殺之.其弟嗣書.而死者二人.其弟又書.乃舍之.南史氏聞大史盡死.執簡以往.聞既書矣.乃還. |
夏、五月、莒子が且于の戦いのため、莒子は斉に朝見した。甲戌の日、北郭で饗応が行われた。崔杼は病気と称して政務を執らなかった。乙亥の日、公(斉の荘公)が崔杼を見舞い、そのまま姜氏(棠姜)を追った。姜氏は部屋に入り、崔杼と共に脇戸から出た。公は柱を叩きながら歌った。侍人の賈挙は従者たちを止めて、中に入り門を閉じた。甲士たちが現れ、公は台に登って許しを請うたが、許されなかった。盟約を請うたが、許されなかった。宗廟で自刃することを請うたが、許されなかった。皆が言うには、「君の臣である杼(崔杼)は病気で、命令を聞くことができません。公宮に近いため、陪臣である私たちが淫らな者を取り締まります。二つの命令は受けられません」と。公が牆を越えようとすると、さらに箭を射られ、腿に当たった。公は逆に墜落し、遂に殺された。賈挙、州綽、邴師、公孫敖、封具、鐸父、襄伊、僂堙は皆死んだ。祝佗父が高唐で祭祀を行い、復命のために戻ってきたが、冠も脱がずに崔氏のところで死んだ。申蒯は侍漁者であったが、退いてその家宰に言った。「お前は家族を連れて逃れよ。私は死ぬ」と。家宰は言った。「逃れることは、あなたの義に背くことです」と。共に死んだ。 崔氏は平陰で鬷蔑を殺した。晏子が崔氏の門の外に立った。その家臣が言った。「死ぬのですか」と。晏子は言った。「私だけの君だろうか。私が死ぬわけがない」と。家臣が言った。「逃げるのですか」と。晏子は言った。「私に罪があるだろうか。私が逃げるわけがない」と。家臣が言った。「帰るのですか」と。晏子は言った。「君が死んでどこに帰れよう。民を治める者は、どうして民を陵ぐことがあろうか。社稷を主とするのだ。君に仕える臣は、どうして自分の衣食のためだけだろうか。社稷を養うのだ。だから君が社稷のために死ぬなら、臣も死ぬ。社稷のために亡命するなら、臣も亡命する。もし君が自分のために死に、自分のために亡命するなら、その私的な寵臣でなければ、誰がそれに従おうか。しかも人が君を立てておきながら弑したのだ。私がどうして死ねようか。どうして亡命できようか。どこに帰れようか」と。門が開くと中に入り、屍の腿を枕にして哭いた。起き上がり、三度跳びはねて出て行った。人々は崔杼が必ず晏子を殺すだろうと言ったが、崔杼は言った。「民の望みである。赦せば民の支持を得られる」と。盧蒲癸は晋に逃れ、王何は莒に逃れた。 叔孫宣伯が斉にいた時、叔孫還がその娘を霊公に献じた。寵愛され、景公を生んだ。丁丑の日、崔杼が景公を立てて宰相となり、慶封が左相となった。大宮で国人と盟約し、「崔氏と慶氏に従わない者は」と誓った。晏子は天を仰いで嘆き、「嬰が従うのは、君に忠誠を尽くし、社稷に利益ある者だけである。上帝があるならば」と言い、ようやく盟した。辛巳の日、公(景公)と大夫たち及び莒子が盟った。太史が「崔杼その君を弑す」と記した。崔杼が太史を殺した。その弟が続けて記し、二人が死んだ。さらにその弟が記したので、ついに赦した。南史氏は太史が皆死んだと聞き、簡を持って赴いた。既に記されたと聞くと、帰った。 【解説】 Translation took 2737.2 seconds. |
| 閭丘嬰以帷縳其妻而載之.與申鮮虞乘而出.鮮虞推而下之曰.君昏不能匡.危不能救.死不能死.而知匿其暱.其誰納之.行及弇中.將舍.嬰曰.崔慶其追我.鮮虞曰.一與一.誰能懼我.遂舍.枕轡而寢.食馬而食.駕而行.出弇中.謂嬰曰.速驅之.崔慶之眾.不可當也.遂來奔. 崔氏側莊公于北郭.丁亥.葬諸士孫之里.四翣.不蹕.下車七乘.不以兵甲.晉侯濟自泮.會于夷儀.伐齊以報朝歌之役.齊人以莊公說.使隰鉏請成.慶封如師.男女以班.賂晉侯以宗器樂器.自六正.五吏.三十師.三軍之大夫.百官之正長.師旅.及處守者.皆有賂.晉侯許之.使叔向告於諸侯.公使子服惠伯對曰.君舍有罪.以靖小國.君之惠也.寡君聞命矣.晉侯使魏舒.宛沒.逆衛侯.將使衛與之夷儀.崔子止其帑.以求五鹿. 初.陳侯會楚子伐鄭.當陳隧者.井堙木刊.鄭人怨之六月.鄭子展.子產.帥車七百乘伐陳.宵突陳城.遂入之.陳侯扶其大子偃師奔墓.遇司馬桓子曰.載余.曰將巡城.遇賈獲載其母妻.下之而授公車.公曰.舍而母.辭曰.不祥.與其妻扶其母以奔墓.亦免.子展命師無入公宮.與子產親御諸門.陳侯使司馬桓子賂以宗器.陳侯免.擁社.使其眾男女別而纍.以待於朝.子展執縶而見.再拜稽首.承飲而進獻.子美入.數俘而出.祝祓社.司徒致民.司馬致節.司空致地.乃還. |
閭丘嬰は帷(とばり)で妻を縛って車に載せ、申鮮虞とともに車に乗って逃げ出した。鮮虞は彼女を押し落として言った。「君主が昏庸でも諫めず、危険を救わず、死ぬべき時に死なず、ただ自分の近しい者を匿うことだけを知っている。誰がそんな者を受け入れようか」。弇中(山道)にさしかかり、宿泊しようとした時、嬰が「崔杼と慶封が追ってくるのではないか」と言うと、鮮虞は「一对一なら誰も我々を恐れさせることはできない」と言った。そこで宿泊し、手綱を枕にして寝て、馬に餌を与えてから自分たちも食事をとった。車を走らせて弇中を出ると、鮮虞は嬰に「速く駆けろ。崔慶の軍勢はとても敵わない」と言い、そのまま魯へ奔った。 崔杼は荘公の遺体を北郭に仮安置した。丁亥の日、士孫の里に葬ったが、葬儀は四枚の翣(装飾品)のみで、蹕(清めの儀式)も行わず、副葬の車は七乗だけで、武器や甲冑は添えなかった。晋侯(平公)は泮水を渡り、夷儀で諸侯と会合した。朝歌の戦いの報復として齊を討とうとしたが、齊側が荘公の死を理由に和を請うた。隰鉏を使者として講和を求め、慶封が晋軍のもとへ赴き、男女を別々に捕虜として差し出し、宗廟の器や楽器を晋侯に贈った。六正(六卿)から五吏、三十師、三軍の大夫、百官の正長、師旅、留守を預かる者まで全てに贈り物をした。晋侯はこれを受諾し、叔向を諸侯に派遣して通告させた。魯公(襄公)は子服惠伯を使者として「君主が罪ある者(齊)を許して小国を安堵させるのは恩恵です。寡君(魯公)も承知しました」と返答した。晋侯は魏舒と宛没を派遣して衛侯を迎えさせ、夷儀を衛に与えようとしたが、崔杼が衛侯の家族を拘束し、五鹿の地を要求した。 当初、陳侯(成公)が楚子(共王)とともに鄭を伐った時、陳軍が通った道筋では井戸を埋め、樹木を伐り倒したため、鄭人はこれを怨んでいた。六月、鄭の子展と子産は七百乗の戦車を率いて陳を攻め、夜襲で陳の都城を突破し、侵入した。陳侯は太子偃師を連れて墓域へ逃げる途中、司馬桓子に出会い「我を乗せよ」と頼んだが、桓子は「城の巡視に向かうところです」と言って拒んだ。賈獲が母と妻を乗せた車に遭遇すると、彼らを降ろして陳侯に車を譲った。陳侯が「母君を同乗させよ」と言うと、賈獲は「不吉です」と辞退し、妻とともに母を支えて墓域へ逃れ、難を免れた。子展は軍に公宮への侵入を禁じ、子産とともに自ら門で指揮をとった。陳侯は司馬桓子に宗廟の器を贈って和を請わせ、自身は喪服を着て社(土地神)を抱き、民衆を男女別に縄で縛って朝堂に整列させて降伏の意を示した。子展は手綱を執って陳侯に謁し、再拝して酒を献上した。子産(子美)が城内に入り、捕虜の数を数えて退出すると、祝が社を祓い、司徒が民籍を、司馬が兵符を、司空が土地台帳を鄭に引き渡した。こうして鄭軍は帰還した。 【解説】 Translation took 2572.6 seconds. |
| 秋.七月.己巳.同盟于重丘.齊成故也.趙文子為政.令薄諸侯之幣.而重其禮.穆叔見之.謂穆叔曰.自今以往.兵其少弭矣.齊崔慶新得政.將求善於諸侯.武也.知楚令尹.若敬行其禮.道之以文辭.以靖諸侯.兵可以弭.楚薳子馮卒.屈建為令尹.屈蕩為莫敖.舒鳩人卒叛.楚令尹子木伐之.及離城.吳人救之.子木遽以右師先.子彊息桓.子捷.子駢.子盂.帥左師以退.吳人居其間七日.子彊曰.久將墊隘.隘乃禽也.不如速戰.請以其私卒誘之.簡師陳以待我.我克則進.奔則亦視之.乃可以免.不然.必為吳禽.從之.五人以其私卒.先擊吳師.吳師奔.登山以望.見楚師不繼.復逐之.傅諸其軍.簡師會之.吳師大敗.遂圍舒鳩.舒鳩潰. 八月.楚滅舒鳩.衛獻公入于夷儀.鄭子產獻捷于晉.戎服將事.晉人問陳之罪.對曰.昔虞閼父為周陶正.以服事我先王.我先王賴其利器用也.與其神明.之後也.庸以元女大姬.配胡公而封之陳.以備三恪.則我周之自出.至于今是賴.桓公之亂.蔡人欲立其出.我先君莊公奉五父而立之.蔡人殺之.我又與蔡人奉戴厲公.至於莊宣.皆我之自立.夏氏之亂.成公播蕩.又我之自入.君所知也.今陳忘周之大德.蔑我大惠.棄我姻親.介恃楚眾.以憑陵我.敝邑.不可億逞.我是以有往年之告.未獲成命.則有我東門之役.當陳隧者.井堙木刊.敝邑大懼不競.而恥大姬.天誘其衷.啟敝邑之心.陳知其罪.授手于我.用敢獻功.晉人曰.何故侵小.對曰.先王之命.唯罪所在.各致其辟.且昔天子之地一圻.列國一同.自是以衰.今大國多數圻矣.若無侵小.何以至焉.晉人曰.何故戎服.對曰.我先君武莊為平桓卿士.城濮之役.文公布命曰.各復舊職.命我文公.戎服輔王.以授楚捷.不敢廢王命故也.士莊伯不能詰.復於趙文子.文子曰.其辭順.犯順不祥.乃受之.冬.十月.子展相鄭伯如晉.拜陳之功.子西復伐陳.陳及鄭平.仲尼曰.志有之.言以足志.文以足言.不言誰知其志.言之無文.行而不遠.晉為伯鄭入陳.非文辭不為功.慎辭也. |
秋、七月、己巳の日。重丘で同盟を結んだ。これは齊が和を成したためである。趙文子が政を執り、諸侯からの貢ぎ物を軽くし、その礼を重んじるように命じた。穆叔がこれを見て、穆叔に言った。「今後は、戦争が少しは治まるだろう。齊の崔慶が新しく政権を得て、諸侯に善を求めようとしている。私(武)は楚の令尹を知っている。もし礼を敬って行い、文辞で導き、諸侯を安定させれば、戦争は治められる。」楚の薳子馮が死去し、屈建が令尹となり、屈蕩が莫敖となった。舒鳩の人々がついに反乱を起こした。楚の令尹子木がこれを討伐し、離城に至った。吳人がこれを救った。子木は急いで右師を先に進め、子彊、息桓、子捷、子駢、子盂が左師を率いて退いた。吳人がその間に七日間駐屯した。子彊が言った。「長くいると士気が衰える。衰えれば捕らえられる。速やかに戦う方が良い。私の私卒で誘い出しましょう。簡師が陣を整えて待機し、我々が勝てば進み、敗走すればそれを見極めれば、難を免れられる。そうでなければ、必ず吳に捕らえられる。」これに従った。五人は私卒を率いて先に吳師を撃った。吳師は敗走し、山に登って眺めると、楚師が続いていないのを見て、再び追撃した。楚軍に迫り、簡師が合流した。吳師は大敗し、舒鳩を包囲した。舒鳩は潰えた。 八月、楚は舒鳩を滅ぼした。衛の献公が夷儀に入った。鄭の子産が晉に戦利品を献上した。戎服で事を執り行った。晉人が陳の罪を問うた。子産は答えて言った。「昔、虞閼父が周の陶正となり、我先王に仕えた。我先王はその利器を用いることを頼りとし、その神明の後裔であることを認め、元女の大姬を胡公に嫁がせて陳に封じ、三恪の一つとした。つまり、陳は周の出自であり、今日まで頼りにしている。桓公の乱の時、蔡人はその出身者を立てようとしたが、我先君莊公が五父を奉じて立てた。蔡人がこれを殺したので、私はまた蔡人と共に厲公を奉戴した。莊公、宣公に至るまで、皆我々が自立させた。夏氏の乱の時、成公が放浪したが、また我々が迎え入れた。君もご存知の通りである。今、陳は周の大德を忘れ、我々の大惠を蔑ろにし、姻親を棄て、楚の衆を頼みとして我々を侵害している。我が国は堪え難く、そこで往年の通告をしたが、成命を得られず、東門の役が起こった。陳の通路では井戸は埋められ木は切り倒され、我が国は大いに惧れ、競争力がなくなり、大姬を辱めた。天がその心を導き、我が国の心を開いた。陳はその罪を知り、我々に手を差し伸べたので、敢えて功を献上する。」晉人が言った。「なぜ小国を侵すのか。」答えて言った。「先王の命では、罪のある所に各々刑罰を加える。かつて天子の地は一圻、列国は一同で、それから減じた。今、大国は数圻もある。もし小国を侵さなければ、どうして至此できようか。」晉人が言った。「なぜ戎服なのか。」答えて言った。「我先君武莊が平桓の卿士となり、城濮の役で文公が命を布告して言った。『各々旧職に復せ』と。我が文公に命じ、戎服で王を輔け、楚の戦利品を授けよと。王命を廃することを敢えてしないためである。」士莊伯は詰問できず、趙文子に報告した。文子は言った。「その言葉は道理に適っている。道理に逆らうのは不祥である。」そこで受け入れた。冬、十月、子展が鄭伯を輔けて晉に行き、陳の功を拜した。子西が再び陳を伐った。陳と鄭は和した。仲尼(孔子)が言った。「志にこうある。言葉は志を足し、文は言葉を足す。言わなければ誰がその志を知るだろう。言葉に文がなければ、遠くまで行かない。晉が伯となり鄭が陳に入ったが、文辞がなければ功を成さなかった。言葉を慎むべきである。」 解説この一節は『春秋左氏伝』の一部で、春秋時代の複雑な国際関係と外交戦略を描いています。主な内容は以下の通りです。
全体として、この記述は武力衝突だけでなく、外交交渉や歴史認識が国際秩序を形成する様子を活写し、春秋時代の政治力学を理解する上で重要な場面となっています。 Translation took 6674.8 seconds. |
| 楚蒍掩為司馬.子木使庀賦.數甲兵.甲午.蒍掩書土田.度山林.鳩藪澤.辨京陵.表淳鹵.數疆潦.規偃豬.町原防.牧隰皋.井衍沃.量入脩賦.賦車.籍馬.賦車兵.徒卒.甲楯之數.既成.以授子木.禮也. 十二月.吳子諸樊伐楚.以報舟師之役.門于巢.巢牛臣曰.吳王勇而輕.若啟之.將親門.我獲射之.必殪.是君也死.彊其少安.從之.吳子門焉.牛臣隱於短牆以射之.卒.楚子以滅舒鳩賞子木.辭曰.先大夫蒍子之功也.以與蒍掩. 晉程鄭卒.子產始知然明.問為政焉.對曰.視民如子.見不仁者誅之.如鷹鸇之逐鳥雀也.子產喜以語子大叔.且曰.他日吾見蔑之面而已.今吾見其心矣.子大叔問政於子產.子產曰.政如農功.日夜思之.思其始而成其終.朝夕而行之.行無越思.如農之有畔.其過鮮矣. 衛獻公自夷儀使與甯喜言.甯喜許之.大叔文子聞之曰.烏呼.詩所謂我躬不說.皇恤我後者.甯子可謂不恤其後矣.將可乎哉.殆必不可.君子之行.思其終也.思其復也.書曰.慎始而敬終.終以不困.詩曰.夙夜匪解.以事一人.今甯子視君.不如弈棋.其何.以免乎.弈者舉棋不定.不勝其耦.而況置君.而弗定乎.必不免矣.九世之卿族.一舉而滅之.可哀也哉.傳會于夷儀之歲.齊人城郟.其五月.秦晉為成.晉韓起如秦蒞盟.秦伯車如晉蒞盟.成而不結. |
楚の蒍掩が司馬となった。子木は賦税の整備を命じ、鎧と兵器を数えさせた。甲午の日に、蒍掩は土地田畑を記録し、山林を測量し、沼沢地を集約し、丘陵を区分し、塩碱地を表示し、境界の湿地を数え、貯水池を規劃し、平原の堤防を区画整理し、低湿地の牧草地を定め、肥沃な土地を井田制にした。収入を見積もって賦税を調整し、戦車を徴発し、馬を登録し、戦車の兵士や歩兵、鎧と盾の数を定めた。完成すると、子木に報告した。これは礼に適った行いであった。 十二月、吳子の諸樊が楚を討ち、舟師の戦いの報復とした。巢の城門を攻めた。巢の牛臣が言った。「吳王は勇猛だが軽率である。もし城門を開ければ、自ら門に近づくだろう。我々が射れば必ず死ぬ。この君が死ねば、国は少し安らぐだろう」。これに従い、吳子が門に近づくと、牛臣は低い塀に隠れて彼を射た。吳子は死んだ。楚子は舒鳩を滅ぼした功績で子木を賞したが、子木は辞退して言った。「先代の大夫である蒍子の功績です」。そこで賞を蒍掩に与えた。 晉の程鄭が死去した。子産はこの時初めて然明(程鄭)の人物を知り、政治のあり方を尋ねた。然明は答えた。「民を子のように見なし、不仁な者を見つけ次第罰するのです。鷹が小鳥を追うように」。子産は喜んで子大叔にこの話をし、さらに言った。「以前は蔑(然明)の表面しか見えなかったが、今はその心の中が見える」。子大叔が子産に政治について尋ねると、子産は言った。「政治は農作業のようだ。日夜考え、始めから終わりまでを思い描き、朝晩実行する。行動は考えを越えず、農地に畦があるようにすれば、過ちは少なくなる」。 衛の献公が夷儀から寧喜に使者を送って話し合いを求めた。寧喜はこれに同意した。大叔文子はこれを聞いて言った。「ああ、詩に『我が身すら顧みられないのに、どうして後のことを心配できようか』とあるが、寧子は後世のことを顧みないと言えるだろう。これでよいのだろうか。おそらく不可能だろう。君子の行動は、結果を考え、繰り返しを考えるものだ。書経に『始めを慎み終わりを敬えば、困窮することはない』とある。詩に『朝夕怠ることなく、一人(君主)に仕える』とある。今、寧子が君主を扱う様は囲碁よりも軽んじている。どうして免れられようか。碁打ちが碁石を上げ下げして決めかねれば、相手に勝てない。ましてや君主を立てることで決断できないなら、必ず災いを免れない。九代続いた卿の家系を一挙に滅ぼすとは、実に哀れなことだ」。伝えるところでは、夷儀で会合があった年、斉が郟を築城した。その五月、秦と晉が和議を結んだ。晉の韓起が秦に赴いて盟約に臨み、秦の伯車が晉に赴いて盟約に臨んだ。和議は成立したが固く結ばれなかった。 解説: Translation took 2892.8 seconds. |
| 襄公二十六年 經 二十有六年春.王二月.辛卯.衛甯喜弒其君剽.衛孫林父入于戚以叛.甲午.衛侯衎復歸于衛. 夏.晉侯使荀吳來聘.公會晉人.鄭良霄.宋人.曹人.于澶淵. 秋.宋公殺其世子痤.晉人執衛甯喜. 八月.壬午.許男甯卒于楚. 冬.楚子.蔡侯.陳侯.伐鄭.葬許靈公. 傳 二十六年春.秦伯之弟鍼如晉脩成.叔向命召行人子員.行人子朱曰.朱也當御.三云.叔向不應.子朱怒曰.班爵同.何以黜朱於朝.撫劍從之.叔向曰.秦晉不和久矣.今日之事.幸而集.晉國賴之.不集.三軍暴骨.子員道二國之言無私.子常易子.姦以事君者.吾所能御也.拂衣從之.人救之.平公曰.晉其庶乎.吾臣之所爭者大.師曠曰.公室懼卑.臣不心競而力爭.不務德而爭善.私欲已侈.能無卑乎. 衛獻公使子鮮為復.辭.敬姒強命之.對曰.君無信.臣懼不免.敬姒曰.雖然.以吾故也.許諾.初.獻公使與甯喜言.甯喜曰.必子鮮在.不然.必敗.故公使子鮮.子鮮不獲命於敬姒.以公命與甯喜言曰.苟反.政由甯氏.祭則寡人.甯喜告蘧伯玉.伯玉曰.瑗不得聞君之出.敢聞其入.遂行.從近關出.告右宰穀.右宰穀曰.不可.獲罪於兩君.天下誰畜之.悼子曰.吾受命於先人.不可以貳.穀曰.我請使焉而觀之.遂見公於夷儀.反曰.君淹恤在外.十二年矣.而無憂色.亦無寬言.猶夫人也.若不已.死無日矣.悼子曰.子鮮在.右宰穀曰.子鮮在何益.多而能亡.於我何為.悼子曰.雖然.不可以已.孫文子在戚.孫嘉聘於齊.孫襄居守. |
翻訳文襄公二十六年 経 二十六年の春、周王の二月、辛卯の日に、衛の甯喜が自国の君である剽を弑した。衛の孫林父が戚に入って反乱を起こした。甲午の日に、衛侯の衎が衛に帰還した。 夏、晋侯が荀吳を派遣して来聘した。公(魯の襄公)が晋人・鄭の良霄・宋人・曹人と澶淵で会合した。 秋、宋公が自国の世子の痤を殺した。晋人が衛の甯喜を捕らえた。 八月壬午の日に、許男の甯が楚で死去した。 冬、楚子・蔡侯・陳侯が鄭を討伐した。許霊公を葬った。 伝 二十六年の春、秦伯の弟である鍼が晋を訪れて和議を結んだ。叔向が行人(外交官)の子員を呼ぶよう命じた。行人の子朱が「私の子朱が当番です」と三度言ったが、叔向は応じなかった。子朱は怒って「官位は同じなのに、なぜ朝廷で私を退けるのか」と言い、剣に手を掛けて迫った。叔向は「秦と晋の不和は長く続いている。今日の交渉が成功すれば晋国は恩恵を受けるが、失敗すれば三軍の兵士が屍を晒すことになる。子員は両国の言葉を私心なく伝えるが、子朱は常に軽率で、奸計を用いて君に仕える。私はそんな者を任用できない」と言い、衣を払って立ち向かった。人々が仲裁に入った。平公は「晋はまさに盛んになるだろう。我が臣下の争いが大義によるものだから」と言った。師曠は「公室(君主の権威)は衰える恐れがあります。臣下が心で競わず力で争い、徳を修めずに利益を争う。私欲が既に肥大化しているのです。どうして衰えずにいられましょうか」と答えた。 衛の献公は子鮮に復位の工作を命じた。子鮮は辞退したが、敬姒(献公の母)が強く命じた。子鮮は「君は信義がなく、臣は罪を免れないことを恐れます」と答えた。敬姒は「それでも私のためである」と言い、子鮮は承諾した。当初、献公は甯喜との交渉を命じたが、甯喜は「必ず子鮮が同席しなければ、失敗する」と言ったため、献公は子鮮を遣わした。子鮮は敬姒の命令を断れず、献公の命として甯喜に「もし帰国できれば、政権は甯氏に委ね、祭祀だけは私が執り行う」と伝えた。甯喜は蘧伯玉に報告すると、伯玉は「私は君の出国の際にも関与せず、ましてや帰国について敢えて聞くことはできない」と言い、すぐに国境の近い関所から出国した。次に右宰穀に報告すると、右宰穀は「できません。二君に罪を得れば、天下に受け入れられる者はおりません」と言った。甯喜(悼子)は「私は先君の遺命を受けており、背けません」と言うと、穀は「私が使者となって様子を見ましょう」と言い、夷儀で献公に会った。帰国後、「君は十二年も国外に避難しているのに、憂いの色もなく、寛容な言葉もない。依然として同じお方です。これ以上続ければ、死は目前です」と報告した。悼子は「子鮮がいます」と言うと、右宰穀は「子鮮がいて何の益があるのか。人多きも逃亡すれば、我々に何ができるか」と言った。悼子は「それでもやめられない」と言った。孫文子は戚に駐留し、孫嘉は斉に派遣され、孫襄が国都の留守を守っていた。 解説この一節は『春秋左氏伝』襄公二十六年の記録で、紀元前547年に起きた国際情勢と衛国内乱の詳細を描いています。以下の点に特徴があります:
全体として、簡潔な経文と劇的な伝文の対比が、歴史の事実と人間ドラマを立体的に伝える構成となっています。 Translation took 2962.6 seconds. |
| 二月‧庚寅.甯喜右宰穀伐孫氏.不克.伯國傷.甯子出舍於郊.伯國死.孫氏夜哭國人召甯子.甯子復攻孫氏.克之.辛卯.殺子叔及大子角.書曰.甯喜弒其君剽.言罪之在甯氏也.孫林父以戚如晉書曰.入于戚以叛.罪孫氏也.臣之祿.君實有之.義則進.否則奉身而退.專祿以周旋.戮也.甲午.衛侯入.書曰.復歸國.納之也.大夫逆於竟者.執其手而與之言道.逆者自車揖之.逆於門者頷之而已.公至.使讓大叔.文子曰.寡人淹恤在外.二三子皆使寡人.朝夕聞衛國之言.吾子獨不在寡人.古人有言曰非所怨勿怨寡人怨矣.對曰.臣知罪矣.臣不佞.不能負羈絏以從扞牧圉.臣之罪一也.有出者.有居者.臣不能貳.通外內之言以事君.臣之罪二也.有二罪.敢忘其死.乃行.從近關出.公使止之.衛人侵戚東鄙.孫氏愬于晉.晉戍茅氏.殖綽伐茅氏.殺晉戍三百人.孫蒯追之.弗敢擊.文子曰.厲之不如.遂從衛師.敗之圉雍鉏.獲殖綽.復愬于晉. 鄭伯賞入陳之功.三月.甲寅.朔.享子展.賜之先路三命之服.先八邑.賜子產次路再命之服.先六邑.子產辭邑.曰.自上以下.隆殺.以兩.禮也.臣之位在四.且子展之功也.臣不敢及賞禮.請辭邑.公固予之.乃受三邑.公孫揮曰.子產其將知政矣.讓不失禮.晉人為孫氏故.召諸侯.將以討衛也. |
二月庚寅の日、甯喜と右宰穀が孫氏を討伐したが、勝利できなかった。伯國が負傷し、甯子は郊外に宿営した。伯國が死ぬと、孫氏は夜に泣き声をあげ、国中の人々が甯子を呼び寄せた。甯子は再び孫氏を攻撃し、これを打ち破った。辛卯の日、子叔と太子角を殺害した。史書には「甯喜がその君剽を弑した」と記され、罪が甯氏にあることを示している。孫林父は戚邑を携えて晋へ逃亡し、史書には「戚に入って叛いた」と記され、罪が孫氏にあることを示している。臣下の禄は、実は君主の所有物である。道理に適えば進み、適わなければ身を引いて退くべきである。禄を独占して権謀を巡らすことは、誅殺に値する行為である。 甲午の日、衛侯が帰国した。史書には「復帰国」と記され、彼を受け入れたことを示している。国境で出迎えた大夫たちには、手を取って言葉を交わし、車から迎えた者には拱手の礼をし、門で迎えた者には軽く頷くだけだった。公が到着すると、大叔文子を責めた。文子は「私は長く国外で苦難に耐えてきたが、家臣たちは皆、私に衛国の情報を朝夕伝えてくれた。あなただけが私のもとに来なかった。古人の言葉に『怨むべきでない者を怨むな』とあるが、私は怨んでいる」と言った。文子は「臣は罪を認めます。私は才能がなく、馬具を背負って牧場の守りに従うこともできませんでした。これが第一の罪です。国外に出る者と国内に留まる者がいても、私は二心を抱かず、内外の情報を通じて君に仕えようとしました。これが第二の罪です。二つの罪がある以上、死を免れぬ覚悟です」と答えて立ち去り、近くの関所から出国しようとした。公は使者を遣わして止めさせた。 衛軍が戚邑の東部を侵略すると、孫氏は晋に訴えた。晋軍が茅氏に駐屯すると、殖綽が茅氏を攻撃し、晋の守備兵三百人を殺害した。孫蒯は追撃したが、敢えて攻撃しなかった。文子は「凶暴さすら及ばない」と言い、衛軍を追って雍鉏でこれを破り、殖綽を捕らえた。再び晋に訴え出た。 鄭伯が陳国進攻の功績を賞した。三月甲寅の朔日、子展を饗応し、先路の車と三命の礼服を賜い、八邑を先に与えた。子産には次路の車と再命の礼服を賜い、六邑を先に与えた。子産は領地を辞退し、「身分の上下に従って、賞の格差を二段階設けるのが礼です。私の位は四番目であり、しかもこれは子展の功績です。賞礼に値しないので、領地はお断りします」と言った。公が強く与えたため、三邑だけを受領した。公孫揮は「子産はやがて国政を執ることになるだろう。辞退しても礼を失わないからだ」と言った。 晋人は孫氏の事件を理由に諸侯を召集し、衛を討伐しようとした。 解説:この一節は『春秋左氏伝』における衛国内の権力闘争と国際関係を描いています。甯氏と孫氏の抗争、衛侯の帰国劇、鄭国の論功行賞など、複数のエピソードが緊密に連なっています。史書の記述方法として、「書曰」で春秋の公式記録を引用し、その解釈を加える形式が特徴的です。人物の對話には儒教的倫理観が反映され、君臣の礼や禄の扱いについての規範が強調されています。特に子産の領地辞退の場面は、階級秩序を重んじる当時の価値観をよく表しており、後の彼の政治家としての評価にも繋がる描写です。歴史的には、これらの事件が晋を中心とした国際秩序に影響を与えたことが示唆されています。 Translation took 4141.4 seconds. |
| 夏.中行穆子來聘.召公也. 楚子.秦人.侵吳.及雩婁.聞吳有備而還.遂侵鄭.五月.至于城麇.鄭皇頡戍之.出與楚師戰.敗.穿封戌囚皇頡.公子圍與之爭之.正於伯州犁.伯州犁曰.請問於囚.乃立囚.伯州犁曰.所爭.君子也.其何不知.上其手曰.夫子為王子圍.寡君之貴介弟也.下其手曰.此子為穿封戌.方城外之縣尹也.誰獲子.囚曰.頡遇王子弱焉.戌怒.抽戈逐王子圍.弗及.楚人以皇頡歸.印堇父與皇頡戍城麇.楚人囚之.以獻於秦.鄭人取貨於印氏以請之.子大叔為令正.以為請.子產曰.不獲.受楚之功.而取貨於鄭.不可謂國.秦不其然.若曰拜君之勤鄭國.微君之惠.楚師其猶在敝邑之城下.其可.弗從.遂行.秦人不予.更幣.從子產.而後獲之. 六月.公會晉趙武.宋向戌.鄭良霄.曹人.于澶淵.以討衛.疆戚田.取衛西鄙懿氏六十.以與孫氏.趙武不書.尊公也.向戌不書.後也.鄭先宋.不失所也.於是衛侯會之.晉人執寧喜.北宮遺.使女齊以先歸.衛侯如晉.晉人執而囚之.於士弱氏. 秋.七月.齊侯.鄭伯.為衛侯故如晉.晉侯兼享之.晉侯賦嘉樂.國景子相齊侯.賦蓼蕭.子展相鄭伯.賦緇衣.叔向命晉侯拜二君.曰.寡君敢拜齊君之安.我先君之宗祧也.敢拜鄭君之不貳也.國子使晏平仲私於叔向.曰.晉君宣其明德於諸侯.恤其患而補其闕.正其違而治其煩.所以為盟主也.今為臣執君.若之何.叔向告趙文子.文子以告晉侯.晉侯言衛侯之罪.使叔向告二君.國子賦轡之柔矣.子展賦將仲子兮.晉侯乃許歸衛侯.叔向曰.鄭七穆.罕氏其後亡者也.子展儉而壹.初.宋芮司徒生女子.赤而毛.棄諸堤下.共姬之妾.取以入.名之曰棄.長而美.平公入夕.共姬與之食.公見棄也而視之尤.姬納諸御.嬖.生佐.惡而婉.大子痤美而很.合左師畏而惡之.寺人惠牆伊戾.為大子內師.而無寵. |
夏に、中行穆子が訪れて聘問した。これは召公のためである。 楚子と秦人が呉を侵攻し、雩婁まで到達したが、呉に備えがあると聞いて撤退した。その後、鄭を侵攻し、五月に城麇に至った。鄭の皇頡がこれを守備していたが、出撃して楚軍と戦い敗北した。穿封戌が皇頡を捕虜にすると、公子圍がこれと争い、伯州犁に裁定を求めた。伯州犁は「捕虜に尋ねてみましょう」と言い、捕虜を立たせた。伯州犁は「争っているのは君子ですから、何も知らないはずがありません」と言い、手を上げて「こちらは王子圍で、我が君の尊い弟です」と示し、手を下げて「こちらは穿封戌で、方城外の県尹です」と示した。「どちらがあなたを捕らえましたか」と問うと、捕虜は「頡は王子に遭遇して力及ばず敗れました」と答えた。戌は怒って戈を抜き王子圍を追ったが及ばず、楚人は皇頡を連れて帰った。印堇父は皇頡と共に城麇を守備していたが、楚人が彼を捕らえ秦に献上した。鄭人は印氏から財貨を集めて請願し、子大叔が令正としてこれを行った。子産は「楚の功績を受けておきながら鄭から財貨を取るのは国としてあるまじきことだ。秦はそうしないだろう。『君が鄭国を労わったことを感謝し、君の恩恵がなければ楚軍は今も我が城下にいるだろう』と言うべきだ」と述べたが、聞き入れられず実行された。秦は応じず、礼幣を改めて子産の案に従った後、ようやく成功した。 六月、公は晋の趙武、宋の向戌、鄭の良霄、曹人と澶淵で会合し、衛を討ち戚の田境を定め、衛の西辺の懿氏六十邑を取って孫氏に与えた。趙武が記録されないのは公を尊ぶため、向戌が記録されないのは到着が遅れたためである。鄭が宋より先に記されるのは順序を失わないためである。この時衛侯が会合に参加したが、晋人は寧喜と北宮遺を捕らえ、女齊に先に帰らせた。衛侯が晋へ行くと、晋人は彼を捕らえて士弱氏に監禁した。 秋七月、齊侯と鄭伯が衛侯のため晋へ赴いた。晋侯は両者を同時に饗応し、「嘉楽」の詩を賦した。国景子が齊侯の相として「蓼蕭」を賦し、子展が鄭伯の相として「緇衣」を賦すると、叔向は晋侯に両君への拝礼を命じ、「斉君のわが国安定への貢献、鄭君の不二の忠心を感謝する」と述べた。国子は晏平仲を使いこっそり叔向に「晋君は諸侯に明徳を示し、憂いを救い過ちを正すから盟主となった。今や臣のために君を捕らえるとは何事か」と伝えさせた。叔向が趙文子に報告し、晋侯は衛侯の罪を説明して叔向に両君に伝えさせた。国子が「轡之柔矣」を賦し、子展が「将仲子兮」を賦すると、晋侯は衛侯帰国を許した。叔向は「鄭の七穆の中で罕氏は最後まで残るだろう。子展は倹約で一貫しているから」と評した。当初、宋の芮司徒の娘が赤く毛深く生まれたため堤下に捨てられたが、共姬の妾が拾い「棄」と名付けた。成長して美しくなり、平公が夕方に訪れると共姬は食事を供した。平公が棄を殊更に見つめたため、共姬は彼女を側室にした。寵愛されて佐を生み、佐は醜いが温和だった。太子痤は美しいが冷酷で、合左師は彼を恐れ憎んだ。寺人の惠牆伊戾は太子の内師だったが寵愛されなかった。 解説: Translation took 3557.9 seconds. |
| 秋.楚客聘於晉.過宋.大子知之.請野享之.公使往.伊戾請從之.公曰.夫不惡女乎.對曰.小人之事君子也.惡之不敢遠.好之不敢近.敬以待命.敢有貳心乎.縱有共其外.莫共其內.臣請往也.遣之.至則欿用牲.加書徵之.而騁告公曰.大子將為亂.既與楚客盟矣.公曰.為我子.又何求.對曰.欲速.公使視之.則信有焉.問諸夫人與左師.則皆曰固聞之.公囚大子.大子曰.唯佐也能免我.召而使請.曰日中不來.吾知死矣.左師聞之.聒而與之語.過期.乃縊而死.佐為大子.公徐聞其無罪也.乃亨伊戾.左師見夫人之步馬者問之.對曰.君夫人氏也.左師曰.誰為君夫人.余胡弗知.圉人歸以告夫人.夫人使饋之錦與馬.先之以玉.曰.君之妾棄.使某獻.左師改命曰.君夫人.而後再拜稽首受之.鄭伯歸自晉.使子西如晉聘.辭曰.寡君來煩執事.懼不免於戾.使夏謝不敏.君子曰.善事大國.初楚伍參與蔡太師子朝友.其子伍舉與聲子相善也.伍舉娶於王子牟.王子牟為申公而亡.楚人曰.伍舉實送之.伍舉奔鄭.將遂奔晉.聲子將如晉.遇之於鄭郊.班荊相與食.而言復故.聲子曰.子行也.吾必復子.及宋向戌將平晉楚.聲子通使於晉.還如楚.令尹子木與之語.問晉故焉.且曰.晉大夫與楚孰賢.對曰.晉卿不如楚.其大夫則賢.皆卿材也.如杞梓皮革.自楚往也.雖楚有材.晉實用之.子木曰.夫獨無族姻乎.對曰.雖有.而用楚材實多.歸生聞之.善為國者.賞不僭而刑不濫.賞僭則懼及淫人.刑濫則懼及善人.若不幸而過.寧僭無濫.與其失善.寧其利淫.無善人.則國從之.詩曰.人之云亡.邦國殄瘁.無善人之謂也.故夏書曰.與其殺不辜.寧失不經.懼失善也.商頌有之曰.不僭不濫.不敢怠皇.命于下國.封建厥福.此湯所以獲天福也.古之治民者.勸賞而畏刑.恤民不倦.賞以春夏.刑以秋冬.是以將賞為之加膳.加膳則飫賜.此以知其勸賞也.將刑為之不舉.不舉則徹樂.此以知其畏刑也.夙興夜寐.朝夕臨政.此以知其恤民也.三者禮之大節也.有禮無敗.今楚多淫刑.其大夫逃死於四方.而為之謀主.以害楚國.不可救療.所謂不能也.子儀之亂.析公奔晉.晉人寘諸戎車之殿.以為謀主.繞角之役.晉將遁矣.析公曰.楚師輕窕.易震蕩也.若多鼓鈞聲以夜軍之.楚師必遁晉人從之.楚師宵潰.晉遂侵蔡襲沈.獲其君.敗申息之師於桑隧.獲申麗而還.鄭於是不敢南面.楚失華夏.則析公之為也.雍子之父兄譖雍子.君與大夫不善是也.雍子奔晉.晉人與之鄐.以為謀主.彭城之役.晉楚遇於靡角之谷.晉將遁矣.雍子發命於軍曰.歸老幼.反孤疾.二人役歸一人.簡兵蒐乘.秣馬蓐食.師陳焚次.明日將戰.行歸者.而逸楚囚.楚師宵潰.晉降彭城.而歸諸宋.以魚石歸.楚失東夷.子辛死之.則雍子之為也.子反與子靈爭夏姬.而雍害其事.子靈奔晉.晉人與之邢.以為謀主.扞禦北狄.通吳於晉.教吳叛楚.教之乘車.射御.驅侵.使其子狐庸.為吳行人焉.吳於是伐巢.取駕.克棘.入州來.楚罷於奔命.至今為患.則子靈之為也.若敖之亂.伯賁之子賁皇奔晉.晉人與之苗.以為謀主.鄢陵之役.楚晨壓晉軍而陳.晉將遁矣.苗賁皇曰.楚師之良在其中軍王族而已.若塞井夷灶.成陳以當之.欒范易行以誘之.中行二郤.必克二穆.吾乃四萃於其王族.必大敗之.晉人從之.楚師大敗.王夷師熸.子反死之.鄭叛吳興.楚失諸侯.則苗賁皇之為也.子木曰.是皆然矣.聲子曰.今又有甚於此.椒舉聚於申公子牟.子牟得戾而亡.君大夫謂椒舉.女實遣之.懼而奔鄭.引領南望曰.庶幾赦余.亦弗圖也.今在晉矣.晉人將與之縣.以比叔向.彼若謀害楚國.豈不為患.子木懼.言諸王.益其祿爵而復之.聲子使椒鳴逆之.許靈公如楚.請伐鄭.曰.師不興.孤不歸矣.八月.卒于楚.楚子曰.不伐鄭.何以求諸侯. |
【翻訳文】 秋、楚の客が晋に聘問するため、宋を通りかかった。太子はこのことを知り、野外で饗応することを願い出た。公(宋の平公)は使者を行かせた。伊戾(太子の側近)が従うことを請うた。公は「太子はお前を嫌っておるのではないか」と言うと、伊戾は答えて「小人が君子に仕える者は、嫌われても敢えて遠ざからず、好かれても敢て近づかず、恭しく命令を待つだけで、二心を抱くなどありえません。仮に外でお供する者がいても、内情を知る者はおりません。どうか私を行かせてください」と言った。公は彼を行かせた。伊戾が現地に着くと、牲を掘り埋め、盟書を添えて証拠を偽造し、早馬で公に報告した。「太子が反乱を企てています。既に楚の客と盟を結びました」と。公は「わが子であるのに、何をさらに求めるというのか」と言うと、伊戾は「早く位につきたいのです」と答えた。公は検分させると、確かに証拠があるように見えた。夫人と左師(向戌)に問うと、二人とも「確かに聞いています」と言った。公は太子を投獄した。太子は「佐(太子の異母弟)だけが私を救える」と言い、佐を呼んで取り成しを頼んだ。「正午までに来なければ、私は死ぬと覚悟している」と。左師がこれを聞き、わざと佐に話しかけて引き止めた。時間が過ぎ、太子は縊死した。佐が太子となった。公は後になって太子の無実を知り、伊戾を烹殺した。 左師が夫人の馬引きの者に会い、尋ねると、答えて「君夫人の者です」と言った。左師は「誰が君夫人か。私は知らない」と言った。馬丁が帰って夫人に報告すると、夫人は錦と馬を贈り、先に玉を贈って「君の妾である棄が、使者を遣わして献上します」と言わせた。左師は「君夫人」と言い直し、その後で再拝して受け取った。 鄭伯が晋から帰国し、子西を晋に派遣して聘問させようとした。子西は辞退して「寡君(鄭伯)が晋を訪れ、執事(晋の大臣)を煩わせ、罪を免れないことを恐れております。夏(子西の名)を使者として、不手際をお詫びさせます」と言った。君子が評して「大国に仕えるのは上手い」と言った。 初め、楚の伍参と蔡の太師子朝は友であった。その子の伍挙と声子(子朝の子)も親しかった。伍挙が王子牟の娘を娶った。王子牟が申公となって出奔した時、楚の人々は「伍挙が実際に送り出した」と言った。伍挙は鄭に逃れ、続いて晋へ逃げようとした。声子が晋へ行く途中、鄭の郊外で伍挙に出会った。荆の枝を敷いて共に食事をし、再会を約した。声子は「あなたは行きなさい。私は必ずあなたを戻させます」と言った。 宋の向戌が晋と楚の和解を図った時、声子は晋への使者となり、帰途楚に寄った。令尹の子木が声子と語り、晋の事情を尋ね、さらに「晋の大夫と楚とではどちらが優れているか」と問うた。声子は答えて「晋の卿は楚に及ばないが、その大夫は優れており、皆卿の器です。杞梓や皮革のように、楚から去った者たちです。楚に人材はあっても、晋が実際に用いているのです」と。子木は「晋には同族や姻族がいないのか」と言うと、声子は「いますが、楚の人材を用いることが実際に多いのです」と答えた。 帰生(声子)は聞いている。国を良く治める者は、賞は過ちなく、刑は乱用せず、賞が過ぎれば淫らな者に及び、刑が乱用されれば善人に及ぶことを恐れる。もし過ちがあれば、寧ろ賞が過ぎる方がましで、刑を乱用するよりは良い。善人を失うよりは、淫らな者が得をする方がましである。善人がいなければ、国は従って滅びる。詩に「善人が去れば、国は病む」とあり、これが善人のいない状態である。故に夏書に「罪なき者を殺すよりは、法を誤る方がまし」とあり、善人を失うことを恐れるのである。商頌に「過ちなく乱用せず、怠らず忙しまず、下国に命じ、福を大きくする」とあり、これが湯が天の福を得た理由である。 古く民を治めた者は、賞を勧め、刑を畏れ、民を労わり倦まなかった。賞は春夏に、刑は秋冬に行い、賞を与える時は膳を増やし、膳が増えれば賜物を飽きるほど与え、これで賞を勧めることが分かる。刑を行う時は贅沢を控え、贅沢を控えれば音楽を撤収し、これで刑を畏れることが分かる。早起きして夜遅くまで、朝夕政事に臨み、これで民を労わることが分かる。この三つは礼の大節である。礼があれば敗れることはない。 今、楚は刑が淫らで、その大夫たちは四方に逃れて死を免れ、他国で謀主となり、楚を害している。救いようがない。これが「できない」という所以である。子儀の乱では、析公が晋に逃れ、晋人は彼を戎車の殿とし、謀主とした。繞角の戦いで、晋軍は逃げようとしたが、析公が「楚軍は軽薄で動揺しやすい。夜に多くの太鼓を同じ音で鳴らして軍を脅せば、楚軍は必ず逃げる」と言い、晋が従うと楚軍は夜潰走した。晋は蔡を侵し沈を襲い、その君を捕らえ、桑隧で申・息の軍を破り、申麗を捕えて帰った。鄭はこれ以来南面できず、楚は華夏を失った。これが析公の仕業である。 雍子の父兄が雍子を讒言し、君と大夫は是正しなかった。雍子は晋に逃れ、晋人は鄐の地を与え、謀主とした。彭城の戦いで、晋楚は靡角の谷で遭遇し、晋軍は逃げようとした。雍子が軍中に命じて「老幼を帰し、孤疾を返し、二人の役夫のうち一人を帰し、兵を選び車馬を集め、馬に餌を与え早朝に食事をさせ、陣を整え宿舎を焼け。明日戦う。帰る者を行かせ、楚の捕虜を逃がせ」と言うと、楚軍は夜潰走した。晋は彭城を降伏させ宋に返し、魚石を連れて帰った。楚は東夷を失い、子辛が死んだ。これが雍子の仕業である。 子反と子霊が夏姫を争い、子反が子霊の事を妨害した。子霊は晋に逃れ、晋人は邢の地を与え、謀主とした。北狄を防ぎ、晋と呉を通じさせ、呉に楚への反逆を教え、車戦、射御、駆侵を教え、その子の狐庸を呉の行人とした。呉はこれにより巣を伐ち、駕を取リ、棘を克ち、州来に入った。楚は奔命に疲れ、今も患いとなっている。これが子霊の仕業である。 若敖の乱で、伯賁の子の賁皇が晋に逃れ、晋人は苗の地を与え、謀主とした。鄢陵の戦いで、楚軍は朝早く晋軍を圧して陣を敷き、晋軍は逃げようとした。苗賁皇が「楚軍の精鋭は中軍の王族のみである。井戸を埋めかまどを平らげ、陣を整えて当たり、欒氏・范氏が陣形を変えて誘い、中行氏と二郤氏が二穆(楚の穆族)を必ず破る。我々は四方向から王族に集中攻撃すれば、大敗させられる」と言い、晋が従うと楚軍は大敗した。王は傷つき軍は潰え、子反は死んだ。鄭は叛き呉は興り、楚は諸侯を失った。これが苗賁皇の仕業である。 子木は「これらは皆その通りだ」と言った。声子は「今はこれより甚だしいことがあります。椒挙(伍挙)は申公子牟(王子牟)に仕え、子牟が罪を得て逃れた時、君と大夫は椒挙が『お前が実際に逃がした』と言い、椒挙は恐れて鄭に逃れ、首を長くして南を望み『どうか私を赦してほしい』と言いましたが、楚は考慮しませんでした。今、晋にいます。晋人は県を与え、叔向と並べようとしています。彼がもし楚を害する謀り事をすれば、患いとならないでしょうか」と言った。子木は恐れ、楚王に言上し、椒挙の禄爵を増やして復帰させた。声子は椒鳴(伍挙の子)を遣わして迎えさせた。 許霊公が楚に行き、鄭を討つよう請うた。「軍を興さなければ、孤は帰らない」と。八月、許霊公は楚で卒去した。楚子(楚王)は「鄭を討たなければ、どうして諸侯を求められようか」と言った。 【解説】
史的意義: 表現の特徴: Translation took 6564.8 seconds. |
| 冬.十月.楚子伐鄭.鄭人將禦之.子產曰.晉楚將平.諸侯將和.楚王是故昧於一來.不如使逞而歸.乃易成也.夫小人之性.釁於勇.嗇於禍.以足其性.而求名焉者.非國家之利也.若何從之.子展說.不禦寇. 十二月.乙酉.入南里.墮其城.涉於樂氏.門于師之梁.縣門發.獲九人焉.涉于氾而歸.而後葬許靈公.衛人歸衛姬于晉.乃釋衛侯.君子是以知平公之失政也.晉韓宣子聘于周.王使請事對曰.晉士起將歸時事於宰旅.無他事矣.王聞之曰.韓氏其昌阜於晉乎.辭不失舊.齊人城郟之歲.其夏.齊烏餘以廩丘奔晉.襲衛羊角取之.遂襲我高魚.有大雨自其竇入.介于其庫.以登其城.克而取之.又取邑于宋.於是范宣子卒.諸侯弗能治也.及趙文子為政.乃卒治之.文子言於晉侯曰.晉為盟主.諸侯或相侵也.則討而使歸其地.今烏餘之邑.皆討類也.而貪之.是無以為盟主也.請歸之.公曰.諾.孰可使也.對曰.胥梁帶能無用師.晉侯使往. 襄公二十七年 經 二十有七年春.齊侯使慶封來聘. 夏.叔孫豹會晉趙武.楚屈建.蔡公孫歸生.衛石惡.陳孔奐.鄭良霄.許人.曹人.于宋.衛殺其大夫甯喜.衛侯之弟鱄出奔晉. 秋.七月.辛巳.豹及諸侯之大夫盟于宋. 冬.十有二月.乙卯.朔.日有食之. 傳 |
冬、十月、楚の子が鄭を討伐した。鄭の人々はこれに対抗しようとしたが、子産が言った。「晋と楚はまさに和睦しようとしており、諸侯も和合しようとしている。楚の王はそれゆえに一度来ることで欲望を満たそうとしている。対抗するよりも、思い通りにさせて帰らせた方が、かえって事態は収拾しやすい。そもそも小人物の本性は、勇み立つことで隙を見せ、災いを招くことを厭わず、自分の欲望を満たして名声を求めるものだ。これは国家の利益にはならない。どうしてそれに従う必要があろうか」。子展は喜び、敵に対抗しないことにした。 十二月の乙酉の日、楚軍は南里に入り、その城壁を破壊した。楽氏の地を渡り、師之梁の門に迫ると、懸門が作動し、九人を捕虜とした。氾水を渡って帰還した後、許の霊公を埋葬した。衛の人々は衛姫を晋に送り返し、これによって衛侯は解放された。君子はこのことから平公の政治の乱れを知ったのである。 晋の韓宣子が周に聘問した。王が用件を尋ねると、こう答えた。「晋の士起は時節の貢物を宰旅に献上するために参っただけで、他に用件はありません」。王はこれを聞いて言った。「韓氏は晋で栄えるだろう。その言葉遣いに古き良き礼節が失われていない」。 斉が郟を築城した年の夏、斉の烏餘が廩丘を拠点として晋に奔り、衛の羊角を急襲して奪取した。さらに我が高魚を襲撃し、大雨で水が隙間から流入し、兵庫に陣取って城壁に登り、攻め落として奪った。さらに宋からも邑を奪った。この時、范宣子が死去し、諸侯は烏餘を征伐できなかった。趙文子が政権を執ると、ようやく解決に乗り出した。文子は晋侯に進言した。「晋は盟主として、諸侯が互いに侵略すれば討伐して土地を返還させます。今、烏餘が奪った邑は全て討伐の対象です。それを貪るのは盟主の道ではありません。返還を求めるべきです」。公が「承知した。誰を使者にすべきか」と問うと、「胥梁帯なら軍勢を使わずに解決できるでしょう」と答えた。晋侯は彼を使者として派遣した。 襄公二十七年 二十七年の春、斉侯が慶封を派遣して来聘した。 夏、叔孫豹が晋の趙武、楚の屈建、蔡の公孫帰生、衛の石悪、陳の孔奐、鄭の良霄、許の人、曹の人と宋で会合した。衛はその大夫の甯喜を殺害し、衛侯の弟の鱄が晋に出奔した。 秋、七月の辛巳の日、豹と諸侯の大夫たちが宋で盟を結んだ。 冬、十二月の乙卯の日、朔(ついたち)で日食が起こった。 伝文 (伝文の内容は上記の翻訳に含まれているため、ここでは重複を避ける) 解説: Translation took 2259.9 seconds. |
| 二十七年春.胥梁帶使諸喪邑者.具車徒以受地.必周使烏餘具車徒以受封.烏餘以眾出使諸侯.偽效烏餘之封者.而遂執之.盡獲之.皆取其邑而歸諸侯.諸侯是以睦於晉.齊慶封來聘.其車美.孟孫謂叔孫曰.慶季之車.不亦美乎.叔孫曰.豹聞之.服美不稱.必以惡終.美車何為.叔孫與慶封食不敬.為賦相鼠.亦不知也.衛甯喜專.公患之.公孫免餘請殺之.公曰.微甯子不及此.吾與之言矣.事未可知.祗成惡名.止也.對曰.臣殺之.君勿與知.乃與公孫無地.公孫臣謀.使攻甯氏.弗克.皆死.公曰.臣也無罪.父子死余矣. 夏.免餘復攻甯氏.殺甯喜及右宰穀.尸諸朝.石惡將會宋之盟.受命而出.衣其尸.枕之股而哭之.欲斂以亡.懼不免.且曰.受命矣.乃行.子鮮曰.逐我者出.納我者死.賞罰無章.何以沮勸.君失其信.而國無刑.不亦難乎.且鱄實使之.遂出奔晉.公使止之.不可.及河.又使止之.止使者而盟於河.託於木門.不鄉衛國而坐.木門大夫勸之仕.不可.曰.仕而廢其事.罪也.從之.昭吾所以出也.將誰愬乎.吾不可以立於人之朝矣.終身不仕.公喪之.如稅服終身.公與免餘邑六十.辭曰.唯卿備百邑.臣六十矣.下有上祿.亂也.臣弗敢聞.且甯子唯多邑故死.臣懼死之速及也.公固與之.受其半以為少師.公使為卿.辭曰.大叔儀不貳.能贊大事.君其命之.乃使文子為卿.宋向戌善於趙文子.又善於令尹子木.欲弭諸侯之兵以為名.如晉.告趙孟.趙孟謀於諸大夫.韓宣子曰.兵.民之殘也.財用之蠹.小國之大菑也.將或弭之.雖曰不可.必將許之.弗許.楚將許之.以召諸侯.則我失為盟主矣.晉人許之.如楚.楚亦許之.如齊.齊人難之.陳文子曰.晉楚許之.我焉得已.且人曰.弭兵.而我弗許.則固攜吾民矣.將焉用之.齊人許之.告於秦.秦亦許之.皆告於小國.為會於宋. |
【翻訳文】 夏、免餘は再び甯氏を攻撃し、甯喜と右宰穀を殺した。その屍を朝廷に晒した。石悪は宋の会盟に参加しようとして、命令を受けて出発したが、甯喜の屍に衣服を着せ、その腿を枕にして泣いた。屍を収容して逃亡しようとしたが、罪を免れないことを恐れ、かつ言った。「命令は受けた」。そして出発した。子鮮は言った。「私を追放した者(孫林父)は出国し、私を迎え入れた者(甯喜)は死んだ。賞罰に規律がなく、どうして悪を止め善を勧められようか。君は信義を失い、国には刑罰がない。これでは難しいではないか。しかも実際に彼(甯喜)を動かしたのは私だ」。こうして晋へ出奔した。公は止めさせたが、聞き入れなかった。黄河に着くと、また止めさせたが、使者を止めて黄河で盟いを結び、木門に身を寄せた。衛国の方に向かって座ることはなく、木門の大夫が仕官を勧めたが、応じなかった。言うには。「仕官しておいて職務を怠るのは罪である。その職務に従うなら、私が出国した理由が明らかになってしまう。誰に訴えようか。私は人の朝廷に立つことはできない」。生涯仕官しなかった。公はその死を悼み、喪服を终身着続けた。公は免餘に六十の邑を与えようとした。免餘は辞退して言った。「卿だけが百邑を備えるべきです。私が六十も持てば、下の者が上の者の禄を持つので、乱れです。聞き入れられません。かつて甯子は邑を多く持ったために死にました。私も死が早く来るのを恐れます」。公は強いて与えようとしたので、その半分を受け取り少師となった。公が卿にしようとすると、辞退して言った。「大叔儀は不二の臣で、大事を補佐できます。君は彼をお命じください」。そこで文子(大叔儀)を卿にした。宋の向戌は趙文子と親しく、また令尹の子木とも親しかった。諸侯の戦争を止めさせて名声を得ようと考え、晋へ行き趙孟(趙文子)に告げた。趙孟は諸大夫と謀った。韓宣子が言った。「戦争は民を傷つけ、財用を食い潰す蠹であり、小国にとっては大災害だ。誰かがそれを止めようとするなら、たとえ不可能と言われても、必ず許すべきだ。許さなければ、楚が許して諸侯を召集するだろう。そうすれば我々は盟主の座を失う」。晋はそれを許した。楚へ行くと、楚も許した。斉へ行くと、斉人は難色を示した。陳文子が言った。「晋と楚が許した以上、我々としてもやむを得ない。かつて人が『戦争を止めよ』と言い、我々が許さなければ、確かに我が民の心が離れる。どうして戦争を使おうか」。斉も許した。秦に告げると、秦も許した。すべての小国に告げ、宋で会合を行うことになった。 【解説】
この時期は、大国の霸権が揺らぎ始め、外交的な調整が模索される過渡期にあたります。個々のエピソードが、やがて来る「戦国時代」への胎動を感じさせる内容となっています。 Translation took 3670.0 seconds. |
| 五月甲辰.晉趙武至於宋.丙午.鄭良霄至. 六月丁未朔.宋人享趙文子.叔向為介.司馬置折俎.禮也.仲尼使舉是禮也.以為多文辭.戊申.叔孫豹.齊慶封.陳須無.衛石惡.至.甲寅.晉荀盈從趙武至.丙辰.邾悼公至壬戌.楚公子黑肱先至.成言於晉.丁卯.宋向戌如陳.從子木成言于楚.戊辰.滕成公至.子木謂向戌.請晉楚之從.交相見也.庚午.向戌復于趙孟.趙孟曰.晉.楚.齊.秦.匹也.晉之不能于齊.猶楚之不能于秦也.楚君若能使秦君辱于敝邑.寡君敢不固請于齊.壬申.左師復言于子木.子木使驛謁諸王.王曰.釋齊秦.他國請相見也. 秋.七月.戊寅.左師至.是夜也.趙孟及子皙盟.以齊言.庚辰.子木至自陳.陳孔奐.蔡公孫歸生.至.曹許之大夫皆至.以藩為軍.晉楚各處其偏.伯夙謂趙孟曰.楚氛甚惡.懼難.趙孟曰.吾左還入於宋.若我何.辛巳.將盟於宋西門之外.楚人衷甲.伯州犁曰.合諸侯之師.以為不信.無乃不可乎.夫諸侯望信於楚.是以來服.若不信.是棄其所以服諸侯也.固請釋甲.子木曰.晉楚無信久矣.事利而已.苟得志焉.焉用有信.大宰退告人曰.令尹將死矣.不及三年.求逞志而棄信.志將逞乎.志以發言.言以出信.信以立志.參以定之.信亡何以及三.趙孟患楚衷甲.以告叔向.叔向曰.何害也.匹夫一為不信.猶不可.單斃其死.若合諸侯之卿.以為不信.必不捷矣.食言者不病.非子之患也.夫以信召人.而以僭濟之.必莫之與也.安能害我.且吾因宋以守病.則夫能致死.與宋致死.雖倍楚可也.子何懼焉.又不及是.曰.弭兵以召諸侯.而稱兵以害我.吾庸多矣.非所患也.季武子使謂叔孫以公命曰.視邾滕.既而齊人請邾.宋人請滕.皆不與盟.叔孫曰.邾.滕.人之私也.我列國也.何故視之.宋.衛.吾匹也.乃盟.故不書其族.言違命也.晉楚爭先.晉人曰.晉固為諸侯盟主.未有先晉者也.楚人曰.子言晉楚匹也.若晉常先.是楚弱也.且晉楚狎主諸侯之盟也久矣.豈專在晉.叔向謂趙孟曰.諸侯歸晉之德只.非歸其尸盟也.子務德.無爭先.且諸侯盟.小國固必有尸盟者.楚為晉細.不亦可乎.乃先楚人.書先晉.晉有信也.壬午.宋公兼享晉楚之大夫.趙孟為客.子木與之言.弗能對.使叔向侍言焉.子木亦不能對也.乙酉.宋公及諸侯之大夫盟于蒙門之外.子木問於趙孟曰.范武子之德何如.對曰.夫子之家事治.言於晉國無隱情.其祝史陳信於鬼神.無愧辭.子木歸以語王.王曰.尚矣哉.能歆神人.宜其光輔五君.以為盟主也.子木又語王曰.宜晉之伯也.有叔向以佐其卿.楚無以當之.不可與爭.晉荀寅遂如楚蒞盟. |
【現代日本語訳】 六月丁未の朔日、宋の人々が趙文子(趙武)をもてなした。叔向が副使として同行し、司馬が折俎(儀式用の肉)を配置し、礼に則っていた。仲尼(孔子)は後年この礼儀を記録させ、多くの文辞(儀式の言葉)が含まれていると評価した。戊申の日、叔孫豹・斉の慶封・陳の須無・衛の石悪が到着。甲寅の日、晋の荀盈が趙武に従って到着。丙辰の日、邾の悼公が到着。壬戌の日、楚の公子黒肱が先に到着し、晋側と事前協議を行った。丁卯の日、宋の向戌が陳へ赴き、子木(楚の令尹)のもとで楚側との事前協議を完了。戊辰の日、滕の成公が到着。子木が向戌に「晋と楚の従属国同士を相互に会盟参加させよ」と要請。庚午の日、向戌が趙孟(趙武)に伝えると、趙孟は「晋・楚・斉・秦は対等国である。晋が斉を従えられぬように、楚も秦を従えられぬ。楚君が秦君を弊邑に来させれば、我が君も必ず斉を説得しよう」と返答。壬申の日、左師(向戌)が子木に伝えると、子木は駅伝で楚王に奏上。楚王は「斉・秦は免除し、他国のみ相互会盟とせよ」と命じた。 秋七月戊寅の日、左師が帰還。その夜、趙孟と子皙(楚の公子黒肱)が盟約を交わし、条件を統一。庚辰の日、子木が陳から到着。陳の孔奐・蔡の公孫帰生が到着し、曹・許の大夫も皆到着。陣営を柵で区画し、晋と楚はそれぞれ別区域に駐屯。伯夙(晋の大夫)が趙孟に「楚軍の気配が険悪で、禍が起きるのでは」と懸念すると、趙孟は「我々は左転して宋城内に退避すればよい」と応じた。辛巳の日、宋の西門外で会盟を実施。楚軍が甲冑を衣の下に隠していたため、伯州犁(楚の太宰)が「不信の行いは諸侯の信頼を失う」と諫めるも、子木は「利益のためには信義は不要」と一蹴。伯州犁は「令尹は三年以内に死ぬだろう」と嘆いた。趙孟が楚の内甲を叔向に相談すると、叔向は「小国が不信を行えば失敗するが、大国同士の会盟で楚が不信を働けば逆に我々が有利になる」と説いた。 季武子(魯の執政)が叔孫豹に「邾・滕のように従属国扱いで会盟参加せよ」と命じるが、叔孫豹は「魯は独立国である」と拒否。結局、邾・滕は会盟に加わらなかった。晋と楚が会盟の席次を争い、晋が先導権を主張するも、叔向の助言で趙孟は楚を先に立てた。壬午の日、宋公が晋楚の大夫を饗応。趙孟と子木は対話できず、叔向が代弁する場面もあった。乙酉の日、蒙門外で正式会盟。子木が趙孟に「范武子(晋の名臣)の徳」を問うと、趙孟は「私心なく鬼神を敬う人物」と答える。子木が楚王に報告すると、王は「五君を輔佐した理由がわかる」と感嘆した。子木は「叔向がいる限り楚は晋に敵わない」と認め、晋の荀寅が楚へ派遣されて盟約が成立した。 【解説】
文中の「仲尼(孔子)が記録させた」という記述は、『春秋左氏伝』が孔子の編纂した『春秋』の解説書として成立したことを示す重要な証左となっています。 Translation took 3281.3 seconds. |
| 鄭伯享趙孟于垂隴.子展.伯有.子西.子產.子大叔.二子石.從.趙孟曰.七子從君.以寵武也.請皆賦以卒君貺.武亦以觀七子之志.子展賦草蟲.趙孟曰.善哉.民之主也.抑武也不足以當之.伯有賦鶉之賁賁.趙孟曰.床笫之言不踰閾.況在野乎.非使人之所得聞也.子西賦黍苗之四章.趙孟曰.寡君在.武何能焉.子產賦隰桑.趙孟曰.武請受其卒章.子大叔賦野有蔓草.趙孟曰.吾子之惠也.印段賦蟋蟀.趙孟曰.善哉保家之主也.吾有望矣.公孫段賦桑扈.趙孟曰.匪交匪敖.福將焉往.若保是言也.欲辭福祿得乎.卒享.文子告叔向曰.伯有將為戮矣.詩以言志.志誣其上.而公怨之.以為賓榮.其能久乎.幸而後亡.叔向曰.然.已侈所謂.不及五稔者.夫子之謂矣.文子曰.其餘皆數世之主也.子展其後亡者也.在上不忘降.印氏其次也.樂而不荒.樂以安民.不淫以使之.後亡不亦可乎. 宋左師請賞.曰.請免死之邑.公與之邑六十.以示子罕.子罕曰.凡諸侯小國.晉楚所以兵威之.畏而後上下慈和.慈和而後能安靖其國家.以事大國.所以存也.無威則驕.驕則亂生.亂生必滅.所以亡也.天生五材.民並用之.廢一不可.誰能去兵.兵之設久矣.所以威不軌而昭文德也.聖人以興.亂人以廢.廢興存亡.昏明之術.皆兵之由也.而子求之.不亦誣乎.以誣道蔽諸侯.罪莫大焉.縱無大討.而又求賞.無厭之甚也.削而投之.左師辭邑.向氏欲攻司城.左師曰.我將亡.夫子存我.德莫大焉.又可攻乎.君子曰.彼己之子.邦之司直.樂喜之謂乎.何以恤我.我其收之.向戌之謂乎.齊崔杼生成.及彊.而寡.娶東郭姜.生明.東郭姜以孤入.曰.棠無咎.與東郭偃相崔氏.崔成有病而廢之.而立明.成請老于崔.崔子許之.偃與咎弗予.曰崔宗邑也.必在宗主.成與彊怒.將殺之.告慶封曰.夫子之身.亦子所知也.唯咎與偃是從.父兄莫得進矣.大恐害夫子.敢以告.慶封曰.子姑退.吾圖之.告盧蒲嫳.盧蒲嫳曰.彼君之讎也.天或者將棄彼矣.彼實家亂.子何病焉.崔之薄.慶之厚也.他日又告.慶封曰.苟利夫子.必去之.難吾助女. |
鄭伯が垂隴で趙孟をもてなした。子展、伯有、子西、子產、子大叔、二子石が従った。趙孟は言った。「七人の方が君主に従われているのは、私を寵愛してくださっているからです。どうか皆さんに詩を賦していただき、君主の恵みを完成させてください。私も七人の志を見たいと思います」。子展が『草蟲』を賦すると、趙孟は言った。「素晴らしい。民の主君です。しかし私などは及ばぬ者です」。伯有が『鶉之賁賁』を賦すると、趙孟は言った。「寝室の言葉でさえ門を越えません。まして野外では?使者が聞くべきことではありません」。子西が『黍苗』の四章を賦すると、趙孟は言った。「私の君主がおられるので、私に何ができましょう」。子產が『隰桑』を賦すると、趙孟は言った。「最後の章を受け取りたい」。子大叔が『野有蔓草』を賦すると、趙孟は言った。「あなたの恵みです」。印段が『蟋蟀』を賦すると、趙孟は言った。「善い哉。家を守る主君です。私は希望を持ちました」。公孫段が『桑扈』を賦すると、趙孟は言った。「驕らず傲らず、福がどこへ行くというのか。もしこの言葉を保つなら、福禄を辞しようとしても得られないでしょう」。宴が終わると、文子は叔向に告げて言った。「伯有は殺されようとしている。詩は志を言い表すものだ。その志が主君を誣いるもので、公然と怨みを抱き、賓客の栄誉としている。長く続くはずがない。遅れて滅びるのが幸いだ」。叔向は言った。「そうだ。すでに奢っているという言葉は、五年もたない者を指す。あの方を言うのだ」。文子は言った。「残りの者たちは皆、数世代続く主君だ。子展は最後まで滅びない者である。上にいても謙ることを忘れない。印氏はその次だ。楽しみながらも乱れず、楽しみをもって民を安心させ、度を過ごして使役しない。後に滅びるのも当然ではないか」。 宋の左師(向戌)が賞賜を請うて言った。「死罪を免ぜられた邑を賜りたい」。公は彼に六十の邑を与えた。子罕に見せると、子罕は言った。「およそ諸侯の小国は、晋や楚が武力で威圧するので、畏れて上下が慈しみ和合し、慈和によって国家を安定させ、大国に仕えることができる。これが存続する理由だ。威圧がなければ驕り、驕れば乱が生じ、乱が生じれば必ず滅びる。これが滅亡する理由だ。天は五材(金木水火土)を生じ、民は皆それを使う。一つでも欠けてはならない。誰が兵をなくせるだろうか。兵の設置は久しく、不軌を威圧し文徳を明らかにするためだ。聖人はこれによって興り、乱人はこれによって廃される。廃興存亡、昏明の方法は、皆兵によるものだ。それなのにあなたは兵をなくそうと求めた。それは誤りではないか。誤った道で諸侯を惑わせた罪は大きい。大いに討たれなかっただけで、さらに賞を求めるのは、飽くことを知らなすぎる」。子罕は邑の書を削って投げ捨てた。左師は邑を辞退した。向氏(左師の一族)が司城(子罕)を攻撃しようとすると、左師は言った。「私は滅びるところだったのに、あの方が私を存続させてくださった。恩恵はこれ以上ない。どうして攻められようか」。君子は言った。「あの人は、国の正義を司る者。楽喜(子罕)を指すのだろう。『何をもって私を慰めるか、私はそれを受け入れる』。向戌を指すのだろう」。 齊の崔杼は成と彊を生んだが、妻が早く死んだ。東郭姜を娶って明を生んだ。東郭姜は孤児(棠無咎)を連れて入り、棠無咎と東郭偃が崔氏の政務を補佐した。崔成が病のために廃され、明が立てられた。成は崔に隠居させてほしいと請うと、崔子は許した。しかし偃と無咎は与えず、「崔の宗邑であるから、必ず宗主にあるべきだ」と言った。成と彊は怒って、彼らを殺そうとした。慶封に告げて言った。「あの方(崔杼)の身は、あなたもご存知の通り、無咎と偃だけに従い、父兄も進言できません。ひどくあの方を害することを恐れ、敢えてお知らせします」。慶封は言った。「あなたは暫く退いていなさい。私が考えよう」。盧蒲嫳に告げると、盧蒲嫳は言った。「彼(崔杼)は君主の仇だ。天はおそらく彼を見捨てようとしている。彼の家が乱れているのだから、何を心配する必要があるか。崔が弱まれば、慶が強くなる」。後日また告げると、慶封は言った。「もしあの方のためになるなら、必ず除こう。難事があれば私が助ける」。 【解説】 Translation took 3532.9 seconds. |
| 九月.庚辰.崔成崔彊殺東郭偃.棠咎.於崔氏之朝.崔子怒而出.其眾皆逃.求人使駕.不得.使圉人駕.寺人御而出.且曰崔氏有福.止余猶可.遂見慶封.慶封曰.崔慶一也.是何敢然.請為子討之.使盧蒲嫳帥甲以攻崔氏.崔氏堞其宮而守之.弗克.使國人助之.遂滅崔氏.殺成與彊而盡俘其家.其妻縊.嫳復命於崔子.且御而歸之.至則無歸矣.乃縊.崔明夜辟諸大墓.辛巳.崔明來奔.慶封當國.楚薳罷如晉蒞盟.晉侯享之.將出.賦既醉.叔向曰.薳氏之有後於楚國也.宜哉.承君命.不忘敏.子蕩將知政矣.敏以事君.必能養民.政其焉往.崔氏之亂.申鮮虞來奔.僕賃於野.以喪莊公.冬.楚人召之.遂如楚為右尹. 十一月.乙亥.朔.日有食之.辰在申.司曆過也.再閏失矣. 襄公二十八年 經 二十有八年春.無冰. 夏.衛石惡出奔晉.邾子來朝. 秋.八月.大雩.仲孫羯如晉. 冬.齊慶封來奔. 十有一月.公如楚. 十有二月甲寅.天王崩.乙未.楚子昭卒. 傳 二十八年春.無冰.梓慎曰.今茲宋鄭其饑乎.歲在星紀.而淫於玄枵.以有時菑.陰不堪陽.蛇乘龍.龍.宋鄭之星也.宋鄭必饑.玄枵.虛中也.枵.秏名也.土虛而民秏.不饑何為. 夏.齊侯.陳侯.蔡侯.北燕伯.杞伯.胡子.沈子.白狄.朝于晉.宋之盟故也.齊侯將行.慶封曰.我不與盟.何為於晉.陳文子曰.先事後賄.禮也.小事大.未獲事焉.從子.如志.禮也.雖不與盟.敢叛晉乎.重丘之盟.未可忘也.子其勸行.衛人討甯氏之黨.故石惡出奔晉.衛人立其從之圃.以守石氏之祀.禮也.邾悼公來朝.時事也. |
九月、庚辰の日に、崔成と崔彊が東郭偃を殺し、棠無咎を崔氏の屋敷で殺した。崔杼は怒って外出したが、家臣たちは皆逃げ散り、車を駕す者を探しても見つからなかった。そこで馬飼いに車を駕させ、宦官に御者をさせて出かけた。そして「崔氏に福があれば、私が生き延びることもできるだろう」と言い、慶封のもとを訪れた。慶封は「崔氏と慶氏は一体です。どうしてそんなことが許されましょうか。私があなたのために討伐いたします」と言い、盧蒲嫳に兵士を率いさせて崔氏を攻めさせた。崔氏は屋敷に塀を築いて守ったが、攻略できなかった。慶封が国民に援助を求めたため、ついに崔氏を滅ぼし、崔成と崔彊を殺して一族をことごとく捕虜とした。崔杼の妻は自害した。盧蒲嫳が崔杼に結果を報告し、車を御して崔杼を送り届けたが、屋敷に着くと帰る家はなく、崔杼も自害した。崔明は夜のうちに大きな墓に逃げ隠れた。辛巳の日に、崔明は魯国に亡命してきた。慶封が齊国の政権を掌握した。 楚国の薳罷が晉国に赴いて盟約を結んだ。晉侯が饗応した。薳罷が退出しようとした時、『既醉』の詩を賦した。叔向は「薳氏が楚国で後世まで続くのも当然です。君主の命令を承け、敏速さを忘れない。子蕩(薳罷)はやがて政権を執るでしょう。敏速に君に仕えれば、必ず民を養うことができ、政権はどこへ去ろうか」と言った。 崔氏の乱の際、申鮮虞が魯国に亡命し、野外で雇い人として働きながら莊公の喪に服した。冬、楚国人が彼を召し出したため、楚国に行って右尹となった。 十一月乙亥の朔の日、日食があった。辰(太陽の位置)が申に在ったのは、曆官の誤りで、閏月を二回置き過ぎたためである。 襄公二十八年 経 二十八年春、氷が張らなかった。 夏、衛国の石悪が晉に亡命した。邾子が来朝した。 秋、八月、大雩(雨乞いの儀式)が行われた。仲孫羯が晉へ行った。 冬、齊の慶封が魯に亡命した。 十一月、公(魯公)が楚へ行った。 十二月甲寅、周天王が崩御した。乙未、楚子昭が卒去した。 伝 二十八年春、氷が張らなかった。梓慎が「今年は宋と鄭が飢饉に見舞われるだろう。歳星が星紀の位置にあるのに玄枵にはみ出している。これにより災害が起こり、陰が陽に耐えられない。蛇が龍に乗る形だ。龍は宋と鄭の星であるから、宋と鄭は必ず飢饉になる。玄枵は虚を中心とし、枵は消耗の名である。土地が虚しく民が消耗するのだから、飢饉にならないはずがない」と言った。 夏、齊侯・陳侯・蔡侯・北燕伯・杞伯・胡子・沈子・白狄が晉に朝聘した。これは宋の盟約のためである。齊侯が出發しようとした時、慶封が「私は盟約に加わっていない。晉に行く必要があるのか」と言うと、陳文子が「まず貢物を捧げ、後に報酬を受けるのが礼である。小国が大国に仕えるのに、まだ貢物を捧げていないなら、君の意向に従うのが礼だ。たとえ盟約に加わっていなくても、晉に背くことができようか。重丘の盟約は忘れられてはならない。どうか出発を勧められよ」と言った。衛国人が甯氏の与党を追及したため、石悪が晉に亡命した。衛国人は石悪の従兄弟である石圃を立てて、石氏の祭祀を守らせた。これは礼に適っていた。邾悼公が来朝したのは、季節に合わせた朝聘である。 解説この一節は『春秋左氏伝』襄公二十八年の記述で、主に二つの部分から成ります。「伝」では歴史的な事件の詳細が、「経」では簡潔な年次記録が記されています。 「伝」の部分の要点: 「経」の部分の特徴: 歴史的背景: 全体として、この一節は春秋時代の政治的不安定さ、同盟関係の複雑さ、そして自然現象と社会現象を結びつける当時の世界観を濃密に伝える史料です。 Translation took 3045.9 seconds. |
| 秋.八月.大雩.旱也.蔡侯歸自晉.入于鄭.鄭伯享之.不敬.子產曰.蔡侯其不免乎.日其過此也.君使子展迋勞於東門之外而傲.吾曰.猶將更之.今還受享而惰.乃其心也.君小國事大國.而惰傲以為己心.將得死乎.若不免.必由其子.其為君也.淫而不父.僑聞之.如是者恆有子禍.孟孝伯如晉.告將為宋之盟故如楚也.蔡侯之如晉也.鄭伯使游吉如楚.及漢.楚人還之.曰.宋之盟.君實親辱.今吾子來.寡君謂吾子姑還.吾將使馹奔問諸晉.而以告.子大叔曰.宋之盟.君命將利小國.而亦使安定其社稷.鎮撫其民人.以禮承天之休.此君之憲令.而小國之望也.寡君是故使吉奉其皮幣.以歲之不易.聘於下執事.今執事有命曰.女何與政令之有.必使而君.棄而封守.跋涉山川.蒙犯霜露.以逞君心.小國將君是望.敢不唯命是聽.無乃非盟載之言.以闕君德.而執事有不利焉.小國是懼.不然.其何勞之敢憚.子大叔歸復命.告子展曰.楚子將死矣.不脩其政德.而貪昧於諸侯.以逞其願.欲久得乎.周易有之.在復之頤曰.迷復凶.其楚子之謂乎.欲復其願.而棄其本.復歸無所.是謂迷復.能無凶乎.君其往也.送葬而歸.以快楚心.楚不幾十年.未能恤諸侯也.吾乃休吾民矣.裨灶曰.今茲周王及楚子皆將死.歲棄其次.而旅於明年之次.以害鳥帑.周楚惡之. |
秋の八月、大雩(雨乞いの儀式)が行われた。旱魃のためである。蔡侯が晋から帰国する途中、鄭に立ち寄った。鄭伯が饗応したが、蔡侯は敬意を払わなかった。子産が言うには、「蔡侯はおそらく災難を免れないだろう。以前この地を通った時、君(鄭伯)が子展を東門の外に派遣して出迎えさせたのに傲慢な態度を取った。私は『まだ態度を改めるだろう』と言ったが、今度は饗応を受けて怠慢である。これは彼の本性なのだ。小国の君主が大国に仕えながら、怠慢と傲慢を本性とするなら、まともな死に方をできるだろうか。もし災難を免れないなら、必ず息子の代に起こるだろう。彼は君主として、淫乱で父らしい態度を取らない。私は聞いているが、このような者は常に子による災禍があると」と。 孟孝伯が晋へ赴き、宋の盟約のため楚へ行くことを伝えた。蔡侯が晋へ行った時、鄭伯は游吉を楚へ派遣した。漢水まで来た時、楚の人間が追い返し、「宋の盟約には鄭伯自らが出席した。今回はあなたが来たが、我が君は『しばらく帰って待て』と言っている。駅伝で晋に問い合わせ、その後で連絡する」と言った。子大叔(游吉)は言った。「宋の盟約では、楚君の命令は小国を利するものであり、また我が国を安定させ、人民を鎮撫し、礼をもって天の恵みを受けることだった。これは楚君の憲令であり、小国の願いである。我が君は故に皮幣を捧げ、歳の困難な折に執事の下へ聘問に遣わした。今、執事が『お前が政令に関わる必要はない。必ずお前の君をして国境を越えさせ、山野を跋渉させ、霜露を冒して楚君の心を満足させよ』と言う。小国は君の命令を待つばかりである。敢えて命令に従わないことがあろうか。しかしこれは盟約の文言に反し、君の徳を損ない、執事にも不利ではないか。小国はこれを恐れる。そうでなければ、何の労苦を畏れようか」と。 子大叔は帰国して復命し、子展に報告した。「楚子はまもなく死ぬだろう。政徳を修めず、諸侯に対して貪欲で、自分の欲望を満たそうとしている。長く続くはずがない。周易に『復の頤に曰く、迷復凶』とある。これはまさに楚子を指すだろう。願望を果たそうとして根本を棄て、帰る場所を失う。これを迷復と言い、凶事を免れない。君(鄭伯)は楚へ行かれるが、葬儀に参列して帰ればよい。楚の心を満足させることで、楚は十年以内に諸侯を顧みる余裕がなくなる。我々は民を休めることができる」と。 裨灶が言うには、「今年、周王と楚子はともに死ぬだろう。歳星が本来の位置を離れ、明年の位置に移り、鳥帑(南方の星)を害する。周と楚はこれを悪兆とする」と。 【解説】 Translation took 2376.7 seconds. |
| 九月.鄭游吉如晉.告將朝于楚.以從宋之盟.子產相鄭伯以如楚.舍不為壇.外僕言曰.昔先大夫相先君適四國.未嘗不為壇.自是至今.亦皆循之.今子草舍.無乃不可乎.子產曰.大適小.則為壇.小適大.苟舍而已.焉用壇.僑聞之.大適小.有五美.宥其罪戾.赦其過失.救其菑患.賞其德刑.教其不及.小國不困.懷服如歸.是故作壇以昭其功.宣告後人.無怠於德.小適大有五惡.說其罪戾.請其不足.行其政事.共其職貢.從其時命.不然則重其幣帛.以賀其福而弔其凶.皆小國之禍也.焉用作壇.以昭其禍.所以告子孫.無昭禍焉可也.齊慶封好田而耆酒.與慶舍政.則以其內實.遷于盧蒲嫳氏.易內而飲酒數日國遷朝焉.使諸亡人得賊者.以告而反之.故反盧蒲癸.癸臣子之.有寵.妻之.慶舍之士.謂盧蒲癸曰.男女辨姓.子不辟宗.何也.曰.宗不余辟.余獨焉辟之.賦詩斷章.余取所求焉.惡識宗.癸言王何而反之.二人皆嬖.使執寢戈而先後之.公膳日雙雞.饔人竊更之以鶩.御者知之.則去其肉.而以其洎饋.子雅.子尾.怒.慶封告盧蒲嫳.盧蒲嫳曰.譬之如禽獸.吾寢處之矣.使析歸父告晏平仲.平仲曰.嬰之眾不足用也.知無能謀也.言弗敢出.有盟可也.子家曰.子之言云.又焉用盟.告北郭子車.子車曰.人各有以事君.非佐之所能也.陳文子謂桓子曰.禍將作矣.吾其何得.對曰.得慶氏之木百車於莊文子曰.可慎守也已.盧蒲癸.王何.卜.攻慶氏.示子之兆.曰.或卜攻讎.敢獻其兆.子之曰.克.見血. |
九月、鄭の游吉が晉へ赴き、楚へ朝見することを告げた。これは宋の盟約に従うためである。子産が鄭伯の補佐として楚へ向かい、宿舎に壇を設けなかった。外僕が言うには、「昔、先代の大夫たちが先君に付き従って四方の国へ赴かれた時、必ず壇を設けられました。それ以来今日まで、皆その慣例に従ってきました。今、あなたが粗末な宿舎で壇を設けられないのは、よろしくないのではないでしょうか」。子産は答えた、「大国が小国へ行く時は壇を設けるが、小国が大国へ行く時は仮に宿舎を設けるだけで十分である。どうして壇が必要だろうか。私は聞いている、大国が小国へ行く時には五つの美点があると。その罪過を許し、過失を赦し、災難を救い、徳行と刑罰を賞賛し、行き届かない点を教える。これにより小国は困窮せず、心服して帰順する。だから壇を設けてその功績を明らかにし、後世に伝えて徳を怠らないようにするのである。小国が大国へ行く時には五つの悪点がある。自らの罪過を陳謝し、不足分を請い、その政事を行い、職貢を捧げ、その命令に従う。そうでなければ幣帛を重ねて、その幸福を賀し災いを弔う。これらは皆小国の災いである。どうして壇を設けて災いを明らかにしようか。子孫に伝えるには、災いを明らかにしない方がよいのである」。 齊の慶封は狩猟を好み酒を愛し、慶舍と政務を執ったが、自分の家族や財産を盧蒲嫳の家に移した。妻妾を交換して数日間酒宴を開き、国中の人々が朝見に来た。逃亡者たちに賊を捕らえる者があれば、報告させて帰国させた。そこで盧蒲癸を帰国させると、癸は子之(慶舍)に仕え、寵愛を受けてその娘を妻にした。慶舍の家臣が盧蒲癸に言った、「男女は姓を区別するものだ。あなたは同族を避けないのはなぜか」。癸は答えた、「同族の方が私を避けないのだ。私だけなぜ避けようか。詩を賦する時に章を断つように、私は自分の求めるものを取るだけだ。同族だとかどうとか気にしない」。癸は王何のことを進言して帰国させた。二人は共に寵愛を受け、寝所の戈を執って前後を警護させられた。 公の食事には毎日二羽の鶏が供されたが、料理人が密かに鴨に替えていた。給仕係がこれを知ると、肉を取り除いてただの汁物を献上した。子雅と子尾は怒った。慶封が盧蒲嫳に告げると、盧蒲嫳は言った、「禽獣のような者どもだ。私は寝床で始末してやろう」。析帰父を使いにして晏平仲に告げさせると、平仲は言った、「私の手下は役に立たず、知恵もなく謀れません。口外も致しませんが、盟約が必要ならばしましょう」。子家が言った、「あなたがそう言うなら、どうして盟約が必要でしょうか」。北郭子車に告げると、子車は言った、「人はそれぞれ君に仕える道がある。私が助けられることではありません」。陳文子が桓子に言った、「災いが起ころうとしている。我々は何を得るだろうか」。桓子は答えた、「慶氏の木材を百車、莊で得るでしょう」。文子は言った、「慎んで守るがよい」。盧蒲癸と王何が占いをし、慶氏を攻めることを卜った。子之に兆しを示して言った、「ある者が仇を攻めることを占いました。敢えてその兆しを献じます」。子之は言った、「勝つだろう。血を見るという兆しだ」。 解説: Translation took 2682.0 seconds. |
| 冬.十月.慶封田于萊.陳無宇從.丙辰.文子使召之.請曰.無宇之母疾病.請歸.慶季卜之.示之兆.曰.死.奉龜而泣.乃使歸.慶嗣聞之.曰.禍將作矣.謂子家速歸.禍作必於嘗.歸猶可及也.子家弗聽.亦無悛志.子息曰.亡矣.幸而獲在吳越.陳無宇濟水.而戕舟發梁.盧蒲姜謂癸曰.有事而不告我.必不捷矣.癸告之.姜曰.夫子愎.莫之止.將不出.我請止之.癸曰.諾. 十一月.乙亥.嘗于大公之廟.慶舍蒞事.盧蒲姜告之.且止之.弗聽.曰.誰敢者.遂如公.麻嬰為尸.慶奊為上獻.盧蒲癸.王何.執寢戈.慶氏以其甲環公宮.陳氏.鮑氏.之圉人為優.慶氏之馬善驚.士皆釋甲束馬而飲酒.且觀優.至於魚里.欒高陳鮑之徒.介慶氏之甲.子尾抽桷擊扉三.盧蒲癸自後刺子之.王何以戈擊之.解其左肩.猶援廟桷動於甍.以俎壺投殺人而後死.遂殺慶繩麻嬰.公懼.鮑國曰.群臣為君故也陳須無以公歸.稅服而如內宮.慶封歸.遇告亂者.丁亥.伐西門.弗克.還伐北門.克之.入伐內宮.弗克.反陳于嶽.請戰弗許.遂來奔.獻車於季武子.美澤可以鑑.展莊叔見之.曰.車甚澤.人必瘁.宜其亡也.叔孫穆子食慶封.慶封氾祭.穆子不說.使工為之誦茅鴟.亦不知.既而齊人來讓.奔吳.吳句餘予之朱方.聚其族焉而居之.富於其舊.子服惠伯謂叔孫曰.天殆富淫人.慶封又富矣.穆子曰善人富謂之賞.淫人富謂之殃.天其殃之也.其將聚而殲旃.癸巳.天王崩.未來赴.亦未書.禮也.崔氏之亂.喪群公子.故鉏在魯.叔孫還在燕.賈在句瀆之丘.及慶氏亡.皆召之.具其器用.而反其邑焉.與晏子邶殿.其鄙六十.弗受.子尾曰.富.人之所欲也.何獨弗欲.對曰.慶氏之邑.足欲故亡.吾邑不足欲也.益之以邶殿.乃足欲.足欲.亡無日矣.在外.不得宰吾一邑.不受邶殿.非惡富也.恐失富也.且夫富如布帛之有幅焉.為之制度.使無遷也.夫民生厚而用利.於是乎正德以幅之.使無黜嫚.謂之幅利.利過則為敗.吾不敢貪多.所謂幅也.與北郭佐邑六十.受之.與子雅邑.辭多受少.與子尾邑.受而稍致之.公以為忠.故有寵.釋盧蒲嫳于北竟.求崔杼之尸.將戮之.不得.叔孫穆子曰.必得之.武王有亂臣十人.崔杼其有乎.不十人.不足以葬.既崔氏之臣曰.與我其拱璧.吾獻其柩.於是得之. |
冬、十月、慶封が萊で狩りをし、陳無宇が従った。丙辰の日、文子(陳無宇)は使いをやって彼を呼び戻させた。(陳無宇は)請うて言った。「無宇の母が重い病気です。帰らせてください。」慶季(慶封)が占い、卦兆を示して言った。「死の兆しだ。」(慶封は)龟甲を捧げて泣き、そこで(陳無宇を)帰らせた。慶嗣がこれを聞いて言った。「禍いが起ころうとしている。」(慶嗣は)子家(慶封)に早く帰るように言った。「禍いは嘗祭の時に必ず起こる。帰ればまだ間に合う。」子家は聞き入れず、改める様子もなかった。子息(慶嗣)は言った。「滅亡だ。幸いにして吳や越に逃れられるならよいが。」陳無宇は川を渡り、船を破壊し橋を取り外した。盧蒲姜が癸(盧蒲癸)に言った。「何事かあって私に告げないなら、必ず成功しないだろう。」癸が(計画を)告げると、姜は言った。「夫子(慶舍)は強情で、誰も止められない。出て行こうとしないだろう。私が止めてみせます。」癸は言った。「承知した。」 十一月、乙亥の日、大公の廟で嘗祭が行われ、慶舍が行事を主宰した。盧蒲姜が(慶舍に)告げ、かつ止めようとしたが、(慶舍は)聞き入れず、言った。「誰が敢えて何かするものか。」そこで公(景公)の元へ行った。麻嬰が尸役を務め、慶奊が上献を務めた。盧蒲癸と王何は寝戈を執った。慶氏はその甲士で公宮を巡らせて囲んだ。(一方)陳氏と鮑氏の圉人(馬丁)が優人(道化役)に扮した。慶氏の馬はよく驚くので、兵士たちは皆、甲を脱ぎ、馬をつないで酒を飲み、かつ優人の芸を見物した。魚里まで及んだ時、欒・高・陳・鮑の一派は、慶氏の甲冑を着けて(襲撃した)。子尾(公孫蠆)は椽(たるき)を引き抜いて扉を三度打った。盧蒲癸は後ろから子之(慶舍)を刺し、王何が戈で彼を撃ち、左肩を切り離した。(慶舍は)なおも廟の椽にすがって甍(屋根)を揺るがし、俎と壺を投げつけて人を殺してから死んだ。そこで慶繩(慶奊)と麻嬰を殺した。公(景公)は恐れた。鮑国が言った。「群臣は君のためです。」陳須無(陳無宇の父)は公を連れて帰り、喪服を脱いで内宮に入った。 慶封が帰り、乱の報せを聞いた。丁亥の日、西門を攻撃したが落とせず、引き返して北門を攻撃し、これを落とした。内宮に攻め入ったが落とせず、岳に陣を布いた。戦いを請うたが許されず、そこで(魯に)逃れて来た。(慶封は)季武子に車を献じた。(車は)美しいつやがあり鏡のようだった。展庄叔がこれを見て言った。「車は非常にきらびやかだが、人は必ずやつれている。滅亡するのも当然だ。」叔孫穆子が慶封をもてなした。慶封が氾祭(食前の祭りを広く行う無礼な行為)をしたので、穆子は喜ばず、楽工に『茅鴟』の詩を誦させたが、(慶封は)理解しなかった。その後、齊の人が(慶封の処罰を)責めて来たので、(慶封は)吳に逃れた。吳の句餘(餘祭)は朱方の地を与え、(慶封は)一族を集めてそこに住まわせ、以前より富んだ。子服惠伯が叔孫(穆子)に言った。「天はおそらく淫らな人を富ませるのでしょう。慶封はまた富みました。」穆子は言った。「善人の富は賞と呼ばれ、淫らな人の富は殃(わざわい)と呼ばれる。天は彼に殃を与えようとしているのだ。まさに一族を集めて殲滅させようとしている。」 癸巳の日、天王(周の靈王)が崩御した。(魯には)まだ訃報が届いておらず、記録にも書かれなかった。(これは)礼にかなっている。崔氏の乱の時、群公子(公族)が離散したので、故に鉏は魯に、叔孫還は燕に、賈は句瀆の丘にいた。慶氏が滅亡すると、皆を召し戻し、器物を整えて彼らの邑を返した。晏子に邶殿の邑とその鄙六十邑を与えたが、(晏子は)受けなかった。子尾(公孫蠆)が言った。「富は人の欲する所だ。どうしてあなただけ欲しないのか。」(晏子は)答えて言った。「慶氏の邑は、欲望を満たしたために滅亡しました。私の邑は欲望を満たすには不足です。これに邶殿を加えれば、欲望が満たされます。欲望が満たされれば、滅亡は遠い日ではありません。国外にいては、私の一邑さえも支配できません。邶殿を受けないのは、富を嫌うのではなく、富を失うのを恐れるからです。そもそも富は布や絹に幅があるようなもので、それに制度を設けて、変わらないようにするのです。人民は生来、生活を厚くし利益を求めるので、そこで正しい徳をもって幅を設け、度を越さないようにする。これを幅利と言います。利益が過ぎれば敗亡を招きます。私は多くを貪ることを敢えてしません。これが所謂、幅というものです。」北郭佐には六十邑を与え、(彼は)これを受けた。子雅(公孫竈)に邑を与えると、多いのを辞して少なく受け、子尾に邑を与えると、受け取ってから少しずつ返した。公(景公)は(彼らを)忠実だと思い、故に寵愛した。盧蒲嫳を北の国境に解放し、崔杼の尸を探し求めて、これを戮(さらし)そうとしたが、見つからなかった。叔孫穆子が言った。「必ず見つかるでしょう。武王には乱臣(治世の臣)十人がいました。崔杼にそれがいるでしょうか。十人いなければ、葬るに足りません。」やがて崔氏の臣が言った。「私に拱璧(宝玉)をくれれば、柩を献じましょう。」そこで尸を得た。 解説: 後半では、魯に逃れた慶封の振る舞いや、富についての晏子と叔孫穆子の議論を通じて、権力者の驕りと倫理観が主題となっています。晏子が領地の増加を拒む「幅利」の論は、欲望の抑制と治国の道理を説く重要な箇所です。また、崔杼の尸をめぐる挿話は、過去の乱との因果を暗示し、歴史の連続性を感じさせます。 史実として、この事件は齊の景公時代の権力闘争の一環であり、慶氏の専横が他の貴族たちの反発を招いた結果であることがわかります。文章は簡潔な叙述の中に戏剧的な緊張感を湛え、春秋時代の複雑な政治情勢を浮き彫りにしています。 Translation took 5372.1 seconds. |
| 十二月.乙亥.朔齊人選莊公殯于大寢.以其棺尸崔杼於市.國人猶知之.皆曰崔子也.為宋之盟故.公及宋公.陳侯.鄭伯.許男.如楚.公過鄭.鄭伯不在伯有迋勞於黃崖.不敬.穆叔曰.伯有無戾於鄭.鄭必有大咎.敬.民之主也.而棄之.何以承守.鄭人不討.必受其辜.濟澤之阿.行潦之蘋藻.寘諸宗室.季蘭尸之.敬也.敬可棄乎.及漢.楚康王卒.公欲反.叔仲昭伯曰.我楚國之為.豈為一人行也.子服惠伯曰.君子有遠慮.小人從邇.飢寒之不恤.誰遑其後.不如姑歸也.叔孫穆子曰.叔仲子.專之矣.子服子.始學者也.榮成伯曰.遠圖者.忠也.公遂行.宋向戌曰.我一人之為.非為楚也.飢寒之不恤.誰能恤楚.姑歸而息民.待其立君而為之備.宋公遂反.楚屈建卒.趙文子喪之如同盟.禮也.王人來告喪.問崩日.以甲寅告.故書之.以徵過也. 襄公二十九年 經 二十有九年春.王正月.公在楚. 夏.五月.公至自楚.庚午.衛侯衎卒.閽弒吳子餘祭.仲孫羯會晉荀盈.齊高止.宋華定.衛世叔儀.鄭公孫段.曹人.莒人.滕人.薛人.小邾人.城杞.晉侯使士鞅來聘.杞子來盟.吳子使札來聘. 秋.九月.葬衛獻公.齊高止出奔北燕. 冬.仲孫羯如晉. 傳 二十九年春.王正月.公在楚.釋不朝.正于廟也.楚人使公親襚.公患之.穆叔曰.袚殯而襚.則布幣也.乃使巫以桃茢先袚殯.楚人弗禁.既而悔之. |
十二月の乙亥の日、朔で、齊の人が莊公の殯を大寢に移した。崔杼の棺を市に晒して屍とし、国中の人々は依然として彼だと知り、皆「崔子だ」と言った。宋の盟約のため、公(魯の襄公)は宋公・陳侯・鄭伯・許男と共に楚へ向かった。公が鄭を通りかかると、鄭伯は不在で、伯有が黄崖で慰労の儀を行ったが、敬意を欠いていた。穆叔が言った。「伯有が鄭に罪がなくとも、鄭は必ず大きな災いを受けるだろう。敬意とは民を統べる礎である。それを捨ててどうして国を守り継げようか。鄭が伯有を討たなければ、必ずその報いを受けるだろう。沼沢のほとりに生える蘋や藻のような賤しい草でも、宗廟に供え、季蘭が尸(神霊の代役)を務めれば、それは敬意となる。敬意を捨ててよいものか」 漢水に着くと、楚の康王が逝去した。公は帰国しようとしたが、叔仲昭伯が「我々は楚国のためであって、たった一人のために行くのではない」と言い、子服惠伯は「君子は遠慮を持つが、小人は目先しか見ない。飢え寒さも顧みない者が、どうして将来を慮れようか。ひとまず帰るのがよい」と述べた。叔孫穆子は「叔仲子は専断的だ。子服子はまだ学び始めだ」と評し、栄成伯は「遠大な計画こそ忠義である」と言った。公は結局進んだ。宋の向戌は「我々は自国のためであって、楚のためではない。飢寒さえ顧みぬ者が楚を慮れるか。一旦帰って民を休め、新君が立つのを待って備えよう」と言い、宋公は帰国した。 楚の屈建が没すると、趙文子が同盟国と同じ礼で喪に服した。これは礼に適っていた。周王の使者が喪を告げに来たが、崩御の日を問うと甲寅の日と伝えたため、史書に記して過ちを正した。 襄公二十九年 伝 解説この一節は『春秋左氏伝』襄公二十八~二十九年の記述で、以下のような内容を含みます。 全体として、春秋時代の複雑な外交関係や、礼節を重んじる社会規範が浮き彫りにされる段落です。 Translation took 3096.7 seconds. |
| 二月.癸卯.齊人葬莊公於北郭. 夏.四月.葬楚康王.公及陳侯.鄭伯.許男.送葬.至於西門之外.諸侯之大夫.皆至于墓.楚郟敖即位.王子圍為令尹.鄭行人子羽曰.是謂不宜.必代之昌.松柏之下.其草不殖.公還及方城.季武子取卞.使公冶問.璽書追而與之.曰.聞守卞者將叛.臣帥徒以討之.既得之矣.敢告.公冶致使而退.及舍而後聞取卞.公曰.欲之而言叛.祇見疏也.公謂公冶曰.吾可以入乎.對曰.君實有國.誰敢違君.公與公冶冕服.固辭.強之而後受.公欲無入.榮成伯賦式微.乃歸. 五月.公至自楚.公冶致其邑於季氏.而終不入焉.曰.欺其君.何必使余.季孫見之.則言季氏如他日.不見.則終不言季氏及疾.聚其臣曰.我死.必無以冕服斂.非德賞也.且無使季氏葬我.葬靈王.鄭上卿有事.子展使印段往.伯有曰.弱.不可.子展曰.與其莫往.弱不猶愈乎.詩云.王事靡盬.不遑啟處.東西南北.誰敢寧處.堅事晉楚.以蕃王室也.王事無曠.何常之有.遂使印段如周.吳人伐楚.獲俘焉.以為閽.使守舟.吳子餘祭觀舟.閽以刀弒之.鄭子展卒.子皮即位.於是鄭饑而未及麥.民病.子皮以子展之命.餼國人粟.戶一鍾.是以得鄭國之民.故罕氏常掌國政.以為上卿.宋司城子罕聞之.曰.鄰於善.民之望也.宋亦饑.請於平公.出公粟以貸.使大夫皆貸.司城氏貸而不書.為大夫之無者貸.宋無飢人.叔向聞之.曰.鄭之罕.宋之樂.其後亡者也.二者其皆得國乎.民之歸也.施而不德.樂氏加焉.其以宋升降乎.晉平公.杞出也.故治杞. |
二月、癸卯の日、齊の人が莊公を北郭に葬った。 夏、四月、楚の康王を葬った。公(魯の公)と陳侯・鄭伯・許男が葬儀に参列し、西門の外まで送った。諸侯の大夫たちは皆、墓所まで赴いた。楚では郟敖が即位し、王子圍が令尹となった。鄭の行人(外交官)である子羽が言った。「これは適切ではない。必ずや彼(王子圍)が取って代わって栄えるだろう。松柏の木の下では、草は生い茂らないのだ」。公が帰途に方城に着いた時、季武子が卞の地を占領した。公冶を使者として尋ねさせ、印判のある文書を追って渡させ、「卞を守る者が反乱を起こそうとしていると聞いた。臣が兵を率いて討伐し、既に卞を手中に収めました。お伝えします」と記した。公冶は使命を果たして退出し、宿舎に着いてから卞占領の事実を知った。公は言った。「欲しいからと言って反乱と称するのは、ただ疏遠になるだけだ」。公は公冶に「私は(国に)入ることができるのか」と問うた。公冶は答えて「君は実に国をお持ちです。誰が君に逆らえましょうか」。公は公冶に冕服(礼服)を与えたが、公冶は固辞し、強いて受けた。公は入国したくないと考えたが、榮成伯が『式微』の詩を吟じたので、ようやく帰国した。 五月、公は楚から帰国した。公冶は自分の領地を季氏に返還し、二度と季氏の屋敷に入らなかった。「主君を欺く者に、なぜ私を使わねばならないのか」と言って。季孫に会う時は以前と変わらず季氏について話したが、会わない時は決して季氏の話題に触れず、病床では家臣を集めて「私が死んでも、決して冕服で葬ってはならない。それは徳による褒賞ではないからだ。そして季氏に私の葬儀を執り行わせないでくれ」と遺言した。霊王の葬儀の際、鄭の上卿に用事があったが、子展は印段を代わりに派遣した。伯有が「未熟すぎる」と反対すると、子展は「行かないよりは、未熟でもましではないか。詩に『王事に暇なく、安居する暇もない。東西南北、誰が安んじていられようか』とある。晋と楚に誠実に仕えて、王室を守るのだ。王事に怠りがあってはならず、常道などない」と言い、遂に印段を周に派遣した。吳が楚を攻め、捕虜を得て門番とし、船の看守をさせた。吳子の餘祭が船を視察した時、門番が刀で彼を殺害した。鄭の子展が死去し、子皮が後を継いだ。この時鄭は飢饉で麦の収穫前であり、民は苦しんでいた。子皮は子展の遺命として、国民に粟を施し、一戸につき一鍾ずつ与えた。これにより鄭の民心を得たので、罕氏(子皮の家系)は常に国政を執り、上卿となった。宋の司城である子罕がこれを聞き、「善に近いことは、民の望みである」と言った。宋も飢饉に見舞われたため、子罕は平公に請い、公の粟を貸し出し、大夫たちにも貸し出させた。司城氏は貸し出しを記録せず、大夫の中で粟のない者のために貸したので、宋に飢えた者は一人もいなくなった。叔向がこれを聞き、「鄭の罕氏と宋の樂氏(子罕の家系)は、後に滅びるのが遅いだろう。両家とも国を得るのではないか。民が帰依するからだ。施しながら徳を誇らない樂氏は更に勝っている。彼らは宋の興亡と共にあり続けるだろう」と言った。晋の平公は杞の国の出身(母が杞の公女)であったため、杞の統治に力を入れた。 解説:
文章全体を通じて、権謀術数が渦巻く一方で、民を思う為政者のあるべき姿が示されるという、『左伝』特有の史観が貫かれている点に留意すべきでしょう。 Translation took 3212.6 seconds. |
| 六月.知悼子合諸侯之大夫以城杞.孟孝伯會之.鄭子大叔與伯石往.子大叔見大叔文子.與之語.文子曰.甚乎其城杞也.子大叔曰.若之何哉.晉國不恤周宗之闕.而夏肄是屏.其棄諸姬.亦可知也已.諸姬是棄.其誰歸之.吉也聞之.棄同即異.是謂離德.詩曰.協比其鄰.昏姻孔云.晉不鄰矣.其誰云之.齊高子容.與宋司徒.見知伯.女齊相禮.賓出.司馬侯言於知伯曰.二子皆將不免.子容專.司徒侈.皆亡家之主也.知伯曰.何如.對曰.專則速及.侈將以其力斃.專則人實斃之.將及矣.范獻子來聘.拜城杞也.公享之.展莊叔執幣.射者三耦.公臣不足.取於家臣.家臣.展瑕.展玉父.為一耦.公臣.公巫.召伯仲.顏莊叔.為一耦.鄫鼓父.黨叔.為一耦.晉侯使司馬女叔侯來治杞田.弗盡歸也.晉悼夫人慍曰.齊也取貨.先君若有知也.不尚取之.公告叔侯.叔侯曰.虞.虢.焦.滑.霍.揚.韓.魏.皆姬姓也.晉是以大.若非侵小.將何所取.武獻以下.兼國多矣.誰得治之.杞.夏餘也.而即東夷.魯.周公之後也.而睦於晉.以杞封魯.猶可.而何有焉.魯之於晉也.職貢不乏.玩好時至.公卿大夫.相繼於朝.史不絕書.府無虛月.如是可矣.何必瘠魯以肥杞.且先君而有知也.毋寧夫人.而焉用老臣.杞文公來盟.書曰子.賤之也.吳公子札來聘.見叔孫穆子.說之.謂穆子曰.子其不得死乎.好善而不能擇人.吾聞君子務在擇人.吾子為魯宗卿.而任其大政.不慎舉.何以堪之.禍必及子.請觀於周樂.使工為之歌周南召南.曰.美哉.始基之矣.猶未也.然勤而不怨矣.為之歌邶.鄘.衛.曰.美哉.淵乎.憂而不困者也.吾聞衛康叔武公之德如是.是其衛風乎.為之歌王.曰.美哉思而不懼.其周之東乎.為之歌鄭.曰.美哉.其細已甚.民弗堪也.是其先亡乎.為之歌齊.曰.美哉.泱泱乎.大風也哉.表東海者.其大公乎.國未可量也.為之歌豳.曰.美哉.蕩乎.樂而不淫.其周公之東乎.為之歌秦.曰.此之謂夏聲.夫能夏.則大.大之至乎其周之舊也.為之歌魏.曰.美哉.渢楓乎.大而婉.險而易.行以德輔.此則明主也.為之歌唐.曰.思深哉.其有陶唐氏之遺民乎.不然.何憂之遠也.非令德之後.誰能若是.為之歌陳.曰.國無主.其能久乎.自鄶以下.無譏焉.為之歌小雅曰.美哉.思而不貳.怨而不言.其周德之衰乎.猶有先王之遺民焉.為之歌大雅.曰.廣哉.熙熙乎.曲而有直體.其文王之德乎.為之歌頌.曰.至矣哉.直而不倨.曲而不屈.邇而不偪.遠而不攜.遷而不淫.復而不厭.哀而不愁.樂而不荒.用而不匱.廣而不宣.施而不費.取而不貪.處而不底.行而不流.五聲和.八風平.節有度.守有序.盛德之所同也.見舞象箾南籥者.曰.美哉.猶有憾.見舞大武者.曰.美哉.周之盛也.其若此乎.見舞韶濩者.曰.聖人之弘也.而猶有慚德.聖人之難也.見舞大夏者.曰.美哉.勤而不德.非禹其誰能脩之.見舞韶箾者.曰.德至矣哉.大矣.如天之無不幬也.如地之無不載也.雖甚盛德.其蔑以加於此矣.觀止矣.若有他樂.吾不敢請已.其出聘也.通嗣君也.故遂聘于齊.說晏平仲.謂之曰.子速納邑與政.無邑無政.乃免於難.齊國之政.將有所歸.未獲所歸.難未歇也.故晏子因陳桓子以納政與邑.是以免於欒高之難.聘於鄭.見子產.如舊相識.與之縞帶.子產獻紵衣焉.謂子產曰.鄭之執政侈.難將至矣.政必及子.子為政.慎之以禮.不然.鄭國將敗.適衛.說蘧瑗.史狗.史鰌.公子荊.公叔發.公子朝.曰.衛多君子.未有患也.自衛如晉.將宿於戚.聞鍾聲焉.曰.異哉.吾聞之也.辯而不德.必加於戮.夫子獲罪於君以在此.懼猶不足.而又何樂.夫子之在此也.猶燕之巢於幕上.君又在殯.而可以樂乎.遂去之.文子聞之.終身不聽琴瑟.適晉說趙文子.韓宣子.魏獻子.曰.晉國其萃於三族乎.說叔向.將行.謂叔向曰.吾子勉之.君侈而多良.大夫皆富.政將在家.吾子好直.必思自免於難. |
六月、知悼子が諸侯の大夫たちを集めて杞の城を修築した。孟孝伯がこれに参加した。鄭の子大叔と伯石が赴いた。子大叔は大叔文子に会い、語り合った。文子が言った。「杞を城するとはあまりにもひどい」子大叔は答えた。「どうしようもない。晋国は周の宗族の衰退を顧みず、夏の遺族である杞を守ろうとしている。諸姫姓国を見捨てる態度は明らかだ。諸姫を棄てるなら、いったい誰が晋に従おうか。私の聞くところでは、同族を棄てて異姓に近づくのは『離徳』という。詩に『隣人と和し、婚姻は大いに親しむ』とある。晋はもはや隣人としての道を失った。誰が親しもうというのか」 斉の高子容と宋の司徒が知伯に面会した時、女斉が礼儀を補佐した。賓客が退出すると、司馬侯が知伯に言った。「あの二人は皆、災いを免れないでしょう。子容は専横で、司徒は奢侈です。どちらも家を滅ぼす主君です」知伯が「どういうことか」と問うと、答えて言った。「専横ならば早く災いが及び、奢侈ならば自らの力で滅びます。専横な者は他人に滅ぼされるでしょう。もうすぐです」 范献子が杞城築城の礼として来訪した。魯公は饗宴を催し、展莊叔が礼物を捧げた。射礼では三組の射手が必要だったが、公臣が足りず家臣から補充した。家臣の展瑕と展玉父が一組、公臣の公巫・召伯仲・顔莊叔が一組、鄫鼓父と黨叔が一組をなした。 晋侯は司馬女叔侯に杞の田土の処理を命じたが、完全には返還しなかった。晋悼夫人が憤って言った。「女斉は賄賂を受け取ったのだ。先君が知っていたら、決して許さないだろう」公が叔侯に伝えると、叔侯は言った。「虞・虢・焦・滑・霍・揚・韓・魏はいずれも姫姓国でした。晋が大国となったのは、小国を侵したからです。武公・献公以来、多くの国を併合してきたのに、誰が咎められましょう。杞は夏の遺族ながら東夷に同化し、魯は周公の後裔で晋に親しい。杞の地を魯に与えてもよいのに、何の問題がありましょう。魯は晋に対し貢ぎ物を欠かさず、珍宝も絶えず献上し、公卿大夫が続々と朝聘に来ます。史官の記録は絶えず、府庫は毎月のように物資で満ちている。これで十分です。なぜ魯を痩せさせて杞を肥やす必要がありましょう。そもそも先君がご存知なら、夫人を差し置いて老臣など用いないはず」 杞文公が盟約に来た時、経文に「子」と記したのは彼を軽んじたからである。 呉の公子札が来聘し、叔孫穆子と会って気に入り、言った。「あなたは天寿を全うできぬかもしれませんね。善を好みながら人選を誤る。君子は人選を重んじると聞きます。あなたは魯の宗卿として大政を任されながら、慎重に人を推挙しないでは、どうして重任に耐えられましょう。禍は必ずあなたに及びます」 周楽の観賞を請い、楽工に周南・召南を歌わせると、言った。「美しい。王道の基礎ができているが、まだ完成していない。しかし勤勉で怨みのない様子だ」。邶・鄘・衛の歌では、「深遠な美しさだ。憂いながらも行き詰まらない。衛康叔・武公の徳がこうだったと聞く。これが衛風か」。王の歌では、「思慮深くも恐れない。周の東遷以後の歌か」。鄭の歌では、「細かすぎて民は耐えられまい。鄭が先に滅ぶ兆しか」。齊の歌では、「雄大だ!東海を代表する太公の国か。未来は計り知れない」。豳の歌では、「楽しみながらも淫らでない。周公の東征を歌ったか」。秦の歌では、「これが夏声だ。夏の声を受け継げば大きく発展する。周の旧地の風格がある」。魏の歌では、「広く優雅で、険しくも平易。徳で補えば明君が現れよう」。唐の歌では、「深い憂いだ。陶唐氏の遺民か。徳ある後裔でなければこれほどには」。陳の歌では、「国に主君らしき者がいない。長く持つまい」。鄶以降の歌については批評しなかった。 小雅では、「周の徳が衰えても、先王の遺民がいることを物語る」。大雅では、「文王の徳のように広く輝き、曲がりながらも直きを保つ」。頌では、「極みだ!直くして傲らず、曲がってへつらわず、近くて迫らず、遠くて離れず、変化して乱れず、繰り返して飽きず、哀しんで愁えず、楽しんで淫らでなく、用いて尽きず、広くして誇らず、施して費やさず、取って貪らず、留まって停滞せず、行って流されない。五声は調和し、八風は平らか。節度あり、秩序を守る。盛徳の共通点だ」 舞踊では、象箾・南籥の舞に「美しいが、やや物足りない」。大武の舞に「周の隆盛を表す」。韶濩の舞に「聖人の偉大さだが、徳に恥じる点があるのは聖人も難しい証し」。大夏の舞に「禹の功績を讃え、勤勉ながら徳を誇らない」。韶箾の舞に「徳の極致だ!天地のように全てを覆い載せる。これ以上はない。観賞はここで十分だ」。 公子札は嗣君の紹介を兼ねて斉にも赴き、晏平仲を気に入って言った。「早く領邑と政権を返上せよ。そうすれば難を免れよう。斉の政権はやがて移る。移る前に手放さねば災いは続く」。晏子は陳桓子を通じて政権と領邑を返上し、欒高の難を免れた。 鄭では子産に会い、旧知のように縞帯を贈ると、子産は紵衣を献じた。公子札は言った。「鄭の執政者は奢侈だから難が来る。政権は必ずあなたに移る。礼を慎んで政を執らねば、鄭は敗れるだろう」。 衛では蘧瑗・史狗・史鰌・公子荊・公叔発・公子朝を賞賛し、「衛には君子が多いから危険はない」。晋へ向かう途中、戚に宿泊しようとした時、鐘の音を聞いて言った。「変だ!弁舌が巧みでも徳がなければ罰せられると聞く。この主君は罪を得てここにいるのに、恐れるだけで足りないのに、なぜ楽しむ?幕の上に巣を作る燕のような危うさだ。君の葬儀中に楽しんでよいのか」。立ち去ると、文子はこの話を聞いて生涯琴瑟を聴かなくなった。 晋では趙文子・韓宣子・魏獻子を賞賛し、「晋の国運はこの三家に集まるだろう」。叔向には別れ際に言った。「あなたは正直すぎる。多才な臣下が富む中、政権が私邸に移りつつある。難を免れるよう心がけよ」。 解説: Translation took 4617.0 seconds. |
| 秋九月.齊公孫蠆.公孫灶.放其大夫高止於北燕.乙未出.書曰出奔.罪高止也.高止好以事自為功.且專.故難及之. 冬‧孟孝伯如晉.報范叔也.為高氏之難故.高豎以盧叛. 十月.庚寅.閭丘嬰帥師圍盧.高豎曰.苟請高氏有後.請致邑.齊人立敬仲之曾孫酀.良敬仲也. 十一月.乙卯.高豎致盧而出奔晉.晉人城綿而寘旃.鄭伯有使公孫黑如楚.辭曰.楚鄭方惡而使余往.是殺余也.伯有曰.世行也.子皙曰.可則往.難則已.何世之有.伯有將強使之.子皙怒.將伐伯有氏.大夫和之. 十二月.己巳.鄭大夫盟於伯有氏.裨諶曰.是盟也.其與幾何.詩曰.君子屢盟.亂是用長.今是長.亂之道也.禍未歇也.必三年而後能紓然明曰.政將焉往.裨諶曰.善之代不善.天命也.其焉辟.子產舉不踰等.則位班也.擇善而舉.則世隆也.天又除之.奪伯有魄.子西即世.將焉辟之.天禍鄭久矣.其必使子產息之.乃猶可以戾.不然.將亡矣. 襄公三十年 經 三十年春.王正月.楚子使薳罷來聘. 夏.四月.蔡世子般弒其君固. 五月.甲午.宋災.宋伯姬卒.天王殺其弟佞夫.王子瑕奔晉. 秋.七月.叔弓如宋.葬宋共姬.鄭良霄出奔許.自許入于鄭.鄭人殺良霄. 冬.十月.葬蔡景公.晉人.齊人.宋人.衛人.鄭人.曹人.莒人.邾人.滕人.薛人.杞人.小邾人.會于澶淵.宋災故. 傳 |
秋の九月、斉の公孫蠆と公孫灶は、その大夫の高止を北燕に放逐した。乙未の日に出奔したが、『出奔』と記録されたのは、高止を罪人と見なしたためである。高止は事あるごとに自分で功績を誇り、かつ専横であったので、災難が及んだのである。 冬、孟孝伯が晋へ行った。これは范叔(士鞅)への報聘のためである。高氏の災難のため、高豎が盧で反乱を起こした。 十月庚寅の日、閭丘嬰が軍を率いて盧を包囲した。高豎は言った。「もし高氏の後継ぎを立ててくれるなら、邑(盧)を返上します」。斉の人々は敬仲(高傒)の曾孫の酀を立てた。これは敬仲を良しとしたからである。 十一月乙卯の日、高豎は盧を返上して晋へ出奔した。晋の人々は綿地に城を築き、彼をそこに置いた。鄭の伯有(良霄)が公孫黑(子皙)を楚へ遣わそうとした。公孫黑は辞退して言った。「楚と鄭はまさに仲が悪いのに私を行かせようとするのは、私を殺すようなものだ」。伯有は「これは代々続く役目だ」と言った。子皙は「行けるときは行くが、困難ならやめる。代々続くも何もあるか」と言った。伯有が無理に使おうとすると、子皙は怒り、伯有の家を討伐しようとした。大夫たちがこれを調停した。 十二月己巳の日、鄭の大夫たちは伯有の家で盟約を結んだ。裨諶は言った。「この盟約はどれほど持つだろうか。詩に『君子が屡々盟約を結べば、乱れはこれによって長引く』とある。今この盟約は乱れを長引かせる道である。禍いはまだ終わらない。必ず三年後にようやく緩和されるだろう」。然明(裨諶)は「政権はどこへ行くのか」と言った。裨諶は「善が不善に代わるのは天命である。どうして避けられようか。子産が人を推挙する時に順序を飛び越えなければ、それは地位の順序によるものである。善人を選んで推挙するなら、それは世の称賛によるものである。天はさらに伯有の魂を奪い、子西が世を去った。どうして避けられようか。天の鄭への災いは久しい。必ず子産にこれを鎮めさせるだろう。そうすればまだ安定させることができる。そうでなければ、鄭は滅亡するだろう」。 襄公三十年 三十年の春、周の正月、楚子(楚王)が薳罷を遣わして来聘した。 夏、四月、蔡の世子般がその君固を弑した。 五月甲午の日、宋で災害があった。宋の伯姬が卒去した。天王(周王)がその弟の佞夫を殺した。王子瑕が晋へ奔った。 秋、七月、叔弓が宋へ行き、宋の共姬を葬った。鄭の良霄が許へ出奔した。許から鄭に入り、鄭の人が良霄を殺した。 冬、十月、蔡景公を葬った。晋人・斉人・宋人・衛人・鄭人・曹人・莒人・邾人・滕人・薛人・杞人・小邾人が澶淵で会合した。宋の災害のためである。 伝文 解説この一節は『春秋左氏伝』襄公二十九年至三十年の記述で、春秋時代の斉・鄭・晋など諸国における政治的な動乱を描いています。主な内容は以下の通りです。
全体として、権力者の驕りや国内対立が災禍を招く様子が描かれ、『左伝』の特徴である因果関係と道德的な教訓が示されています。子産のような有能な人物への期待は、乱世を生き抜くための希望として読めます。 Translation took 3598.5 seconds. |
| 三十年春.王正月.楚子使薳罷來聘.通嗣君也.穆叔問王子之為政何如.對曰吾儕小人.食而聽事.猶懼不給命.而不免於戾.焉與知政.固問焉.不告.穆叔告大夫曰.楚令尹將有大事子蕩將與焉.助之匿其情矣.子產相鄭伯以如晉.叔向問鄭國之政焉.對曰.吾得見與否.在此歲也.駟良方爭.未知所成若有所成.吾得見.乃可知也.叔向曰.不既和矣乎.對曰.伯有侈而愎.子皙好在人上.莫能相下也.雖其和也.猶相積惡也.惡至無日矣. 三月.癸未.晉悼夫人食輿人之城杞者.絳縣人或年長矣.無子.而往與於食.有與疑年.使之年.曰臣小人也.不知紀年.臣生之歲.正月甲子朔.四百有四十五.甲子矣.其季於今.三之一也.吏走問諸朝.師曠曰.魯叔仲惠伯會郤成子于承匡之歲也.是歲也.狄伐魯.叔孫莊叔於是乎敗狄于鹹.獲長狄僑如.及虺也豹也.而皆以名其子.七十三年矣.史趙曰.亥有二首六身.下二如身.是其日數也.士文伯曰.然則二萬二千六百有六旬也.趙孟問其縣大夫.則其屬也.召之而謝過焉.曰.武不才.任君之大事.以晉國之多虞.不能由吾子.使吾子辱在泥塗久矣.武之罪也.敢謝不才.遂仕之.使助為政.辭以老.與之田.使為君復陶.以為絳縣師.而廢其輿尉.於是魯使者在晉.歸以語諸大夫.季武子曰.晉未可媮也.有趙孟以為大夫.有伯瑕以為佐.有史趙師曠而咨度焉.有叔向女齊以師保其君.其朝多君子.其庸可媮乎.勉事之而後可. |
【翻訳文】 子産が鄭伯の相として晋に行った。叔向が鄭国の政治について尋ねると、子産は答えて「私がそれを見られるかどうかは、この年にかかっている。駟氏と良氏が争っており、どのようになるかわからない。もし何か決着がつけば、私が見ることができ、それではじめてわかるだろう」と言った。叔向が「もう和解したのではないか」と言うと、子産は「伯有は奢侈で強情であり、子皙は人より上に立つのを好む。互いに譲り合うことができない。たとえ表面上和していても、悪意を積み重ねているのだ。悪いことが起きる日は遠くない」と答えた。 三月癸未の日、晋の悼夫人が杞の城を築く人夫たちに食事を振る舞った。絳県の者で一人の老人が、子供がおらず、この食事に参加しに来た。誰かがその年齢を疑って、年を尋ねると、老人は「私は小人物で、年数を数えることを知りません。私が生まれた年は、正月が甲子の朔で、四百四十五回甲子が巡り、その末が今から三分の一です」と言った。役人が朝廷に走って問うと、師曠は「魯の叔仲惠伯が郤成子と承匡で会った年である。この年、狄が魯を攻め、叔孫庄叔が鹹で狄を破り、長狄の僑如や虺、豹を捕らえ、皆その名を子の名とした。七十三年前だ」と言った。史趙は「亥という字は二つの頭と六つの身を持ち、下の二つが身のようである。これが日数だ」と言い、士文伯は「ならば二万二千六百六旬である」と言った。趙孟がその県の大夫に尋ねると、それは自分の配下であった。趙孟は老人を召し出して過ちを謝り、「武(趙孟)は無才で、君の大事を任されながら、晋国に多難なことが多く、あなたを顧みることができず、長い間泥の中に辱めさせてしまった。武の罪である。無才を謝罪する」と言った。そして仕官させ、政治を補佐させようとしたが、老人は老齢を理由に辞退した。そこで田畑を与え、君のための復陶(衣料管理官)とし、絳県の師とし、輿尉を廃止した。 この時、魯の使者が晋にいて、帰国後これを大夫たちに話した。季武子は「晋は軽んじてはいけない。趙孟が大夫としており、伯瑕が補佐し、史趙や師曠を相談役とし、叔向や女齊が君の師保となっている。その朝廷には君子が多く、どうして軽んじることができようか。努めて仕えるべきである」と言った。 【解説】 続く鄭国の政情分析では、子産が駟氏と良氏の対立を「表面上の和合は悪意の蓄積に過ぎない」と看透し、内部抗争の本質を鋭く指摘します。この描写は、春秋時代の権力闘争の複雑さを浮き彫りにしています。 後半の絳県老人のエピソードは特に興味深く、以下の点で注目されます: 最終的に魯の季武子が晋の人才豊かな朝廷を評する結びは、国家の強さは人材登用にあるという左伝の基本的な史観を反映しています。全体を通じ、歴史の転換点における個人の判断や、為政者のあるべき姿を多角的に描出した段落と言えるでしょう。 Translation took 2470.7 seconds. |
| 夏.四月.己亥.鄭伯及其大夫盟.君子是以知鄭難之不已也.蔡景侯為大子般娶于楚.通焉.大子弒景侯.初.王儋季卒.其子括將見王而歎.單公子愆期為靈王御士.過諸廷.聞其歎而言曰.烏乎.必有此夫.入以告王.且曰.必殺之.不慼而願大.視躁而足高.心在他矣.不殺必害.王曰.童子何知.及靈王崩.儋括欲立王子佞夫.佞夫弗知.戊子.儋括圍蒍.逐成愆.成愆奔平畤. 五月.癸巳.尹言多.劉毅.單蔑.甘過.鞏成.殺佞夫.括瑕廖奔晉.書曰.天王殺其弟佞夫.罪在王也.或呌于宋大廟曰.譆譆出出.鳥鳴于亳社.如曰譆譆.甲午.宋大災.宋伯姬卒.待姆也.君子謂宋共姬女而不婦.女待人.婦義事也. 六月.鄭子產如陳蒞盟.歸復命.告大夫曰.陳亡國也.不可與也.聚禾粟.繕城郭.恃此二者而不撫其民.其君弱植.公子侈.大子卑.大夫敖.政多門.以介於大國.能無亡乎.不過十年矣. 秋.七月.叔弓如宋.葬共姬也.鄭伯有耆酒.為窟室.而夜飲酒.擊鍾焉.朝至未己.朝者曰.公焉在.其人曰.吾公在壑谷.皆自朝布路而罷.既而朝.則又將使子皙如楚.歸而飲酒.庚子.子皙以駟氏之甲.伐而焚之.伯有奔雍梁.醒而後知之.遂奔許.大夫聚謀.子皮曰.仲虺之志云.亂者取之.亡者侮之.推亡固存.國之利也.罕.駟.豐.同生.伯有汏侈.故不免.人謂子產.就直助彊.子產曰.豈為我徒.國之禍難.誰知所儆.或主彊直.難乃不生.姑成吾所.辛丑.子產斂伯有氏之死者而殯之.不及謀而遂行印段從之.子皮止之.眾曰.人不我順.何止焉.子皮曰.夫子禮於死者.況生者乎.遂自止之.壬寅.子產入.癸卯.子石入.皆受盟于子皙氏.乙巳.鄭伯及其大夫盟于大宮.盟國人于師之梁之外.伯有聞鄭人之盟己也.怒.聞子皮之甲.不與攻己也.喜.曰.子皮與我矣.癸丑.晨.自墓門之瀆入.因馬師頡介于襄庫.以伐舊北門.駟帶率國人以伐之.皆召子產.子產曰兄弟而及此.吾從天所與.伯有死於羊肆.子產襚之.枕之股而哭之.斂而殯諸.伯有之臣在市側者.既而葬諸斗城.子駟氏欲攻子產.子皮怒之.曰.禮.國之幹也.殺有禮.禍莫大焉.乃止.於是游吉如晉還.聞難不入.復命于介.八月.甲子.奔晉.駟帶追之.及酸棗.與子上盟.用兩珪質于河.使公孫肸入盟大夫.己巳.復歸.書曰.鄭人殺良霄.不稱大夫.言自外入也.於子蟜之卒也.將葬.公孫揮與裨灶晨會事焉.過伯有氏.其門上生莠.子羽曰.其莠猶在乎.於是歲在降婁.降婁中而旦.裨灶指之曰.猶可以終歲.歲不及此次也已.及其亡也.歲在娵訾之口.其明年.乃及降婁.僕展從伯有.與之皆死.羽頡出奔晉.為任大夫.雞澤之會.鄭樂成奔楚.遂適晉.羽頡因之.與之比而事趙文子.言伐鄭之說焉.以宋之盟故.不可.子皮以公孫鉏為馬師.楚公子圍殺大司馬蒍掩而取其室.申無宇曰.王子必不免.善人.國之主也.王子相楚國.將善是封.殖而虐之.是禍國也.且司馬令尹之偏.而王之四體也.絕民之主.去身之偏.艾王之體.以禍其國.無不祥大焉.何以得免.為宋災故.諸侯之大夫會.以謀歸宋財. |
夏の四月己亥の日、鄭の伯が大夫たちと盟を結んだ。君子はこれによって鄭の難が終わらないことを知った。蔡の景侯が太子の般のために楚から妻を迎えたが、景侯自身が彼女と密通した。太子は景侯を殺害した。初め、周の王の儋季が死去し、その子の括が王に会おうとして嘆いた。単の公子・愆期が霊王の御者として朝廷を通りかかり、その嘆き声を聞いて言った。「ああ、きっとこのようなことが起こるだろう」。中に入って王に報告し、さらに「必ず殺すべきです。悲しみもないのに野心が大きく、視線は落ち着きなく足取りは高ぶっている。心は他にあるのです。殺さなければ必ず害をなします」と言った。王は「子供が何を知っているというのか」と言った。霊王が崩御すると、儋括は王子の佞夫を立てようとしたが、佞夫はそれを知らなかった。戊子の日、儋括が蒍を包囲し、成愆を追放した。成愆は平畤に逃れた。 五月癸巳の日、尹言多・劉毅・単蔑・甘過・鞏成が佞夫を殺害した。括と瑕廖は晋に逃亡した。春秋に「天王がその弟の佞夫を殺した」と記されているのは、罪が王にあることを示す。ある者が宋の大廟で叫んだ。「ヒヒョウヒョウ、出よう出よう」。亳社で鳥が鳴き、まるで「ヒヒョウ」と言うようであった。甲午の日、宋で大火災が発生し、宋の伯姬が死去した。彼女は傅姆(保姆)を待っていたためである。君子は宋の共姫を「女としては立派だが、婦としてはそうではない」と評した。女は人を待つが、婦は状況に応じて行動すべきだからである。 六月、鄭の子産が陳へ盟約のため赴き、帰国して報告した。大夫たちに「陳は滅びる国です。付き合うべきではありません。穀物を蓄え、城郭を修築し、この二つに頼って民を慰撫しない。その君は基盤が弱く、公子は奢侈、太子は卑屈、大夫は傲慢で、政令が多数の者から出ている。大国の間にあって、滅亡を免れられるでしょうか。十年以内でしょう」と告げた。 秋の七月、叔弓が宋へ行き、共姫の葬儀に参列した。鄭の伯有は酒を嗜み、地下室を作って夜中に酒を飲み、鐘を鳴らしていた。朝になっても終わらず、朝参した者たちが「公はどこにおられるか」と尋ねると、その家来は「我が公は壑谷(地下室)におられます」と答えた。朝参した者たちは道中で散会した。後に朝議があると、今度は子皙を楚へ派遣しようとした。帰宅後また酒を飲んでいた。庚子の日、子皙が駟氏の兵を率いて伯有を攻撃し、屋敷を焼いた。伯有は雍梁へ逃れ、酔いが覚めてから事態を知り、許へ逃亡した。大夫たちが集まって協議した。子皮が「仲虺の志に『乱れる国は取れ、滅びる国は侮れ。滅びるものを推し進め、存続するものを固めるのが国の利益である』とある。罕・駟・豊の三家は同族である。伯有が傲慢で奢侈だから、免れられなかった」と言った。人々が子産に「正しい側に就き、強い者を助けるべきだ」と言うと、子産は「どうして我々の仲間だろうか。国の禍難で、誰が戒めを知るというのか。強い指導者がいれば難は生じない。まずは我々の立場を固めよう」と言った。辛丑の日、子産は伯有の家の死者を集めて葬り、協議せずに印段を連れて出発した。子皮が止めたが、人々は「人々が我々に従わないのに、なぜ止めるのか」と言った。子皮は「あの方は死者にも礼を尽くす。まして生きている者にはなおさらだ」と言い、自ら止めに入った。壬寅の日、子産が入国し、癸卯の日、子石が入国し、ともに子皙の家で盟約した。乙巳の日、鄭伯が大夫たちと大宮で盟を結び、師之梁の外で国人と盟った。伯有が鄭人が自分を盟約の対象外にしたと聞いて怒り、子皮の兵が自分を攻撃しなかったと知って喜び、「子皮は味方だ」と言った。癸丑の日未明、墓門の水路から侵入し、馬師の頡を通じて襄庫の武器を借り、旧北門を攻撃した。駟帯が国人を率いて反撃し、双方が子産を招いた。子産は「兄弟がここまでなった。私は天の与える側に従う」と言った。伯有は羊肆で死に、子産は遺体に衣をかけ、その腿を枕にして泣き、棺に収めて葬った。伯有の家臣で市場にいた者も後に斗城に葬った。子駟氏が子産を攻撃しようとしたが、子皮が怒って「礼は国の支柱だ。礼ある者を殺せば、これ以上の禍いはない」と言い、止めた。游吉が晋から帰国し、乱を聞いて入らず、副使を通じて復命し、八月甲子の日に晋へ逃亡した。駟帯が追跡し、酸棗で追上し、子上と盟約し、二つの珪を黄河に沈めて誓い、公孫肸を鄭へ送り大夫たちと盟約させた。己巳の日、游吉は帰国した。春秋に「鄭人が良霄を殺した」と記し、大夫と称さないのは、国外から侵入したためである。子蟜の死の際、葬儀前に公孫揮と裨灶が早朝に打ち合わせをしている時、伯有の家の門に雑草が生えているのを見て、子羽が「その雑草はまだ生えているのか」と言った。当時、歳星(木星)が降婁にあり、降婁が中天に達すると裨灶が指して「まだ一年は持つだろう。歳星が再び降婁に来るまでは」と言った。伯有が滅んだ時、歳星は娵訾の口にあり、その翌年になって降婁に至った。僕展は伯有に従い、ともに死んだ。羽頡は晋へ逃亡し、任大夫となった。雞沢の会合の時、鄭の楽成が楚へ逃れ、その後晋へ行き、羽頡は彼に頼って趙文子に仕え、鄭を討つ献策をしたが、宋の盟約があるため実現しなかった。子皮は公孫鉏を馬師に任命した。楚の公子囲が大司馬の蒍掩を殺してその領地を奪った。申無宇が「王子は必ず免れないだろう。善人は国の支柱である。王子が楚の宰相として、善人を保護すべきなのに、却って害するのは国に禍をもたらす。しかも司馬は令尹の補佐であり、王の四肢のようなものだ。民の支柱を絶ち、自身の補佐を失い、王の体を傷つけて国に禍をもたらす。これ以上の不祥はない。どうして免れられようか」。宋の火災のため、諸侯の大夫たちが会合し、宋への財貨支援を協議した。 解説この一節は『春秋左氏伝』襄公30年(紀元前543年)の記述で、春秋時代の鄭・蔡・周・宋・楚など各国の複雑な権力闘争や事件を描いています。主な内容は以下の通りです。
全体として、各国の政治的不安定さや倫理的退廃が、滅亡の予兆として描かれており、『左伝』の特徴である道徳的教訓と歴史的洞察が示されています。特に子産の現実的な政治判断や、礼の重要性が繰り返し説かれる点が注目されます。 Translation took 4446.5 seconds. |
| 冬.十月.叔孫豹會晉趙武.齊公孫蠆.宋向戌.衛北宮佗.鄭罕虎.及小邾之大夫.會于澶淵.既而無歸於宋.故不書其人.君子曰.信其不可不慎乎.澶淵之會.卿不書.不信也夫.諸侯之上卿.會而不信.寵名皆棄.不信之不可也如是.詩曰.文王陟降.在帝左右.信之謂也.又曰.淑慎爾止.無載爾偽.不信之謂也.書曰.某人某人會于澶淵.宋災故.尤之也.不書魯大夫.諱之也.鄭子皮授子產政.辭曰.國小而偪.族大寵多.不可為也.子皮曰.虎帥以聽.誰敢犯子.子善相之.國無小.小能事大.國乃寬.子產為政.有事伯石.賂與之邑.子大叔曰.國皆其國也.奚獨賂焉.子產曰.無欲實難.皆得其欲.以從其事.而要其成.非我有成.其在人乎.何愛於邑.邑將焉往.子大叔曰.若四國何.子產曰.非相違也.而相從也.四國何尤焉.鄭書有之曰.安定國家.必大焉先.姑先安大.以待其所歸.既伯石懼而歸邑.卒與之.伯有既死.使大史命伯石為卿.辭.大史退.則請命焉.復命之.又辭.如是三.乃受策入拜.子產是以惡其為人也.使次己位.子產使都鄙有章.上下有服.田有封洫.廬井有伍.大人之忠儉者.從而與之.泰侈者因而斃之.豐卷將祭.請田焉.弗許.曰.唯君用鮮.眾給而已.子張怒.退而徵役.子產奔晉.子皮止之.而逐豐卷.豐卷奔晉.子產請其田里.三年而復之.反其田里.及其入焉.從政一年.輿人誦之曰.取我衣冠而褚之.取我田疇而伍之.孰殺子產.吾其與之.及三年.又誦之曰.我有子弟.子產誨之.我有田疇.子產殖之.子產而死.誰其嗣之. 襄公三十一年 經 |
冬、十月、叔孫豹が晋の趙武、斉の公孫蠆、宋の向戌、衛の北宮佗、鄭の罕虎、および小邾の大夫と会い、澶淵で会合した。後に宋への支援が実現しなかったため、春秋には参会者の名が記されなかった。君子が言う。「信義は慎重に扱わねばならないものだ。澶淵の会合で卿の名が記されなかったのは、信義が守られなかったからである。諸侯の上卿が会合しながら信義を欠けば、栄誉と名声はすべて失われる。信義を軽んじてはならないことが、このように明らかである」。詩経に「文王は昇降し、天帝の左右におられる」とあるのは信義の大切さを説いたものだ。また「おごそかに振る舞い、偽りを交えるな」とあるのは信義なき行為を戒めたものだ。春秋に「某人某人が澶淵で会合した、宋の災害のため」と記されたのは、参会者を非難する意図である。魯の大夫が記されなかったのは、自国を避諱したためである。 鄭の子皮が子産に政権を譲ろうとしたが、子産は辞退して言った。「国は小さくて強国に挟まれ、氏族は大きく寵臣も多い。統治は困難です」。子皮は答えた。「私(虎)が率先して従うのだから、誰が君に逆らえようか。うまく補佐してほしい。国に大小はない。小国が大国に仕える術を知れば、国は安泰になる」。子産が政権を執ると、伯石という人物に対応する必要が生じ、領地を贈って懐柔した。子大叔が「国は全体のものなのに、なぜ伯石だけに領地を贈るのか」と問うと、子産は「欲望のない者はいない。皆の欲望を満たして仕事に従わせ、成果を上げさせるのだ。成果が上がれば、それは私の功績ではなく彼らの功績か? 領地を惜しむ必要があろうか。領地はどこへも行かない」と答えた。子大叔が「他国からどう思われるか」と懸念すると、子産は「これは対立ではなく協調である。他国が非難する理由はない」と言い、鄭の古書に「国家を安定させるには、まず大族を落ち着かせよ」とあることを引用して、「まず大族を安定させ、その帰結を見守ろう」と説明した。果たして伯石は恐れて領地を返還しようとしたが、子産は結局彼に与えた。伯有が死んだ後、太史に伯石を卿に任命するよう命じたが、伯石は辞退した。太史が退出すると、伯石は再び任命を請い、再度命じられるとまた辞退することを三度繰り返し、ようやく任命書を受け取って拝礼した。子産はこのような彼の性格を嫌悪したが、自分の次席の地位につかせた。 子産は首都と地方の区別を明確にし、身分に応じた服制を定め、田地に境界と用水路を整備し、住宅地を五戸単位で組織化した。忠実で倹約な貴族は優遇し、驕奢な者は失脚させた。豊卷が祭祀のために狩猟を許可してほしいと願い出たが、子産は「君主だけが新鮮な獣肉を使うもので、臣下は通常の供え物で足りる」と拒否した。豊卷は怒って私兵を召集し、子産は晋へ逃れようとしたが、子皮が制止して豊卷を追放した(豊卷は晋へ逃亡)。子産は豊卷の領地と屋敷を没収したが、三年後に彼を呼び戻し、すべてを返還した。 政権を執って一年後、人々は子産を嘲って歌った。「我が衣冠は税に取られ、我が田地は管理される。子産を殺す者があれば、私は加勢しよう」。三年後には歌の内容が一変した。「我が子弟は子産に教えられ、我が田地は子産によって豊かになる。子産が死ねば、誰が後を継ぐのか」。 (襄公三十一年・経伝の解説) Translation took 3334.1 seconds. |
| 三十有一年春.王正月. 夏.六月.辛巳.公薨于楚宮. 秋.九月.癸巳.子野卒.己亥.仲孫羯卒. 冬.十月.滕子來會葬.癸酉.葬我君襄公. 十有一月.莒人弒其君密州. 傳 三十一年春.王正月.穆叔至自會.見孟孝伯.語之曰.趙孟將死矣.其語偷.不似民主.且年未盈五十.而諄諄焉如八九十者.弗能久矣.若趙孟死.為政者其韓子乎.吾子盍與季孫言之.可以樹善.君子也.晉君將失政矣.若不樹焉.使早備魯.既而政在大夫.韓子懦弱.大夫多貪.求欲無厭.齊楚未足與也.魯其懼哉.孝伯曰.人生幾何.誰能無偷.朝不及夕.將安用樹.穆叔出而告人曰.孟孫將死矣.吾語諸趙孟之偷也.而又甚焉.又與季孫語晉故.季孫不從.及趙文子卒.晉公室卑.政在侈家.韓宣子為政.不能圖諸侯.魯不堪晉求.讒慝弘多.是以有平丘之會. 齊子尾害閭丘嬰.欲殺之.使帥師以伐陽州.我問師故.夏.五月.子尾殺閭丘嬰以說于我.師工僂.灑渻灶.孔虺.賈寅.出奔莒.出群公子. 公作楚宮.穆叔曰.大誓云.民之所欲.天必從之.君欲楚也夫.故作其宮.若不復適楚.必死是宮也.六月.辛巳.公薨于楚宮.叔仲帶竊其拱璧以與御人.納諸其懷.而從取之.由是得罪. 立胡女敬歸之子子野.次于季氏.秋.九月.癸巳卒.毀也. |
三十一年の春、周の正月。 夏、六月、辛巳の日、公(襄公)が楚宮で逝去された。 秋、九月、癸巳の日、子野が卒去した。己亥の日、仲孫羯が卒去した。 冬、十月、滕子が葬儀に参列するために来訪した。癸酉の日、我が君襄公を葬った。 十一月、莒の人がその君・密州を弑した。 伝 三十一年の春、周の正月。穆叔が会盟から帰国し、孟孝伯に会って言った。「趙孟(趙文子)はまもなく死ぬでしょう。その言葉に覇気がなく、君主を補佐する者らしくありません。まだ五十歳にも満たないのに、八九十歳の老人のようにくどくどと言います。長くは生きられません。もし趙孟が死ねば、政権を執るのはおそらく韓子(韓起)でしょう。あなたは季孫に話してはどうですか。善い関係を築く機会です。韓子は君子です。晋の君主はまもなく実権を失うでしょう。今のうちに縁を作り、早めに魯国のための備えをさせておかないと、やがて政権が大夫たちの手に渡った時、韓子は懦弱で、大夫たちは多くが貪欲で欲望に際限がありません。齊や楚も当てになりません。魯は危険な立場になるでしょう」。孝伯は言った。「人生は短いものです。誰にたまに怠けることがないでしょうか。朝のうちに夕べのことがわからないのに、どうして縁など結べるでしょうか」。穆叔は退出後、人々に告げて言った。「孟孫(孝伯)はまもなく死ぬでしょう。私が趙孟の怠惰について話したのに、彼はそれ以上にひどいです」。さらに季孫に晋の事情を話したが、季孫は従わなかった。やがて趙文子が死去すると、晋の公室は衰え、政権は奢侈な大夫たちの手に移った。韓宣子が政権を執ったが、諸侯を統制できず、魯は晋の要求に耐えられなくなり、讒言や悪事が非常に多くなった。これが平丘の会盟の原因となった。 齊の子尾は閭丘嬰を危険視し、殺害を謀った。陽州討伐の軍を率いさせ、魯が出兵の理由を問いただした。夏、五月、子尾は閭丘嬰を殺して魯に釈明した。閭丘嬰の家臣・工僂、灑渻灶、孔虺、賈寅は莒に逃亡し、公子たちも国外に追放された。 襄公が楚風の宮殿を建造した。穆叔は言った。「泰誓に『民の願うことを、天は必ず従う』とあります。君は楚を慕っておられるので、その宮殿を作られたのです。もし再び楚に行かれなければ、必ずこの宮殿で亡くなるでしょう」。六月、辛巳の日、襄公は楚宮で崩御した。叔仲帶が襄公の大璧を盗んで御者に与え、自分の懐から取り出して渡したため、これが原因で罪を得た。 胡の女・敬帰の子である子野を立て、季氏の家に住まわせた。秋、九月、癸巳の日に子野は卒去した。過度の悲哀が原因である。 解説この一節は『春秋左氏伝』襄公三十一年の記録で、魯の襄公の死とその前後の政治情勢を描いています。以下のような点が特徴的です:
この章は、一見断片的な事件の羅列のように見えますが、襄公の死を軸に魯・晋・齊などの政治動向を有機的に結びつけ、春秋時代の貴族社会の価値観や国際関係を浮き彫りにしている点に意義があります。 Translation took 3160.6 seconds. |
| 己亥.孟孝伯卒.立敬歸之娣齊歸之子公子裯.穆叔不欲.曰.大子死.有母弟則立之.無則長立.年鈞擇賢.義鈞則卜.古之道也.非適嗣.何必娣之子.且是人也.居喪而不哀.在慼而有嘉容.是謂不度.不度之人.鮮不為患.若果立之.必為季氏憂.武子不聽.卒立之.比及葬.三易衰.衰衽如故衰.於是昭公十九年矣.猶有童心.君子是以知其不能終也. 冬.十月.滕成公來會葬.惰而多涕.子服惠伯曰.滕君將死矣.怠於其位.而哀已甚.兆於死所矣.能無從乎. 癸酉.葬襄公.公薨之月.子產相鄭伯以如晉.晉侯以我喪故.未之見也.子產使盡壞其館之垣.而納車馬焉.士文伯讓之曰.敝邑以政刑之不脩.寇盜充斥.無若諸侯之屬.辱在寡君者何.是以令吏人完客所館.高其閈閎.厚其牆垣.以無憂客使.今吾子壞之.雖從者能戒.其若異客何.以敝邑之為盟主.繕完葺牆.以待賓客.若皆毀之.其何以共命.寡君使匄請命.對曰.以敝邑褊小.介於大國.誅求無時.是以不敢寧居.悉索敝賦.以來會時事.逢執之不間.而未得見.又不獲聞命.未知見時.不敢輸幣.亦不敢暴露.其輸之.則君之府實也.非薦陳之.不敢輸也.其暴露之.則恐燥濕之不時.而朽蠹以重敝邑之罪.僑聞文公之為盟主也.宮室卑庳.無觀臺榭.以崇大諸侯之館.館如公寢.庫廄繕脩.司空以時平易道路.圬人以時塓館宮室.諸侯賓至.甸設庭燎.僕人巡宮.車馬有所.賓從有代.巾車脂轄.隸人牧圉.各瞻其事.百官之屬.各展其物.公不留賓.而亦無廢事.憂樂同之.事則巡之.教其不知.而恤其不足.賓至如歸.無寧菑患.不畏寇盜.而亦不患燥濕.今銅鞮之宮數里.而諸侯舍於隸人.門不容車.而不可踰越.盜賊公行.而夭厲不戒.賓見無時.命不可知.若又勿壞.是無所藏幣以重罪也.敢請執事.將何以命之.雖君之有魯喪.亦敝邑之憂也.若獲薦幣.脩垣而行.君之惠也.敢憚勤勞.文伯復命.趙文子曰.信我實不德.而以隸人之垣以贏諸侯.是吾罪也.使士文伯謝不敏焉.晉侯見鄭伯.有加禮.厚其宴好而歸之.乃築諸侯之館.叔向曰.辭之不可以已也如是夫.子產有辭.諸侯賴之.若之何其釋辭也.詩曰.辭之輯矣.民之協矣.辭之繹矣.民之莫矣.其知之矣. |
己亥の日、孟孝伯が亡くなった。敬歸の妹である齊歸の子、公子裯を立てようとしたが、穆叔はこれに反対した。「太子が亡くなった場合、同母弟がいればそれを立て、いなければ年長者を立てる。年齢が同じなら賢い者を選び、德行が同等なら占いで決める。これが古来の決まりである。嫡子ではないのに、なぜ妹の子でなければならないのか。そもそもこの人物は、喪に居ながら悲しみもせず、憂いの中にあって却って嬉しそうな顔をしている。これは礼度をわきまえぬ行為だ。礼度をわきまえぬ者は、災いを招かぬことが稀である。もしこれを立てれば、必ず季氏の憂いとなるだろう」。武子は聞き入れず、結局公子裯を立てた。襄公の葬儀が行われるまでに、喪服を三度も着替えたが、その度に襟元が元の喪服のように汚れてしまった。この時、昭公(公子裯)は十九歳であったにもかかわらず、まだ幼子のような心を持ち続けていた。君子はこれによって、彼が最後までうまくいかないことを見抜いたのである。 冬十月、滕成公が葬儀に参列したが、態度が怠慢で涙ばかり流していた。子服惠伯が言った。「滕君はまもなく亡くなるだろう。自分の立場を疎かにし、ながらく過度に悲しみに沈んでいる。すでに死の兆候が現れている。どうして免れられようか」。 癸酉の日、襄公を葬った。襄公が亡くなった同じ月、子産が鄭伯の随行として晋を訪れた。晋侯は魯の喪中であることを理由に面会しなかった。子産は宿舎の塀をすべて破壊し、車馬を中に入れた。士文伯が抗議して言った。「我が国は政治や刑罰が整わず、盗賊がはびこっているため、諸侯の使者が弊国の君主を訪れる際に不都合が生じぬよう、官吏に命じて賓客の宿舎を補修し、門を高くし、塀を厚くして、使者の方々にご不安を抱かせないようにしておりました。ところが今、あなたがこれを破壊されました。たとえご随行の方が警戒できても、他国の賓客はどうなさいますか。我が国が盟主として、宿舎を修繕し賓客をお迎えしているのに、もし皆がこれを破壊すれば、どうして要請に応じられましょう。君主の命により、お尋ねします」。子産は答えた。「我が鄭国は狭小で、大国に挟まれ、絶えず貢ぎ物を要求されるため、安住することもできず、国中の財貨を集めて時勢に合わせて参ったのです。しかし、執政の方がお忙しいとや、お目にかかれず、指示もいただけないため、いつ面会できるかもわからず、貢ぎ物を納めることも、屋外に放置することもできません。もし納めれば、それは君主の府庫の財産となりますが、正式な献上前に納めるわけにはいきません。もし屋外に放置すれば、乾湿の影響で腐朽し、我が国の罪を重ねることになりかねません。私は聞きました。文公が盟主であった頃、宮殿は質素で見せびらかす楼閣もなく、諸侯の宿舎を立派にし、宿舎は君主の寝殿のように整えられ、倉庫や馬屋は完備され、司空は道路を整備し、左官は宿舎を塗装していました。諸侯の賓客が到着すると、庭でかがり火をたき、使用人が宮中を巡り、車馬の駐車場や従者の世役も用意され、車役は車軸に油を差し、様々な役人が各自の任務を果たしました。百官はそれぞれの品物を展示し、君主は賓客を待たせることなく、何事も滞りませんでした。喜びも憂いも共にし、問題があれば巡察し、知らぬことは教え、不足すれば補いました。賓客はまるで我が家に帰ったかのようにくつろぎ、災害もなく、盗賊を恐れることも、乾湿を心配することもありませんでした。ところが今、銅鞮の宮殿は数里に及びながら、諸侯は使用人同様の粗末な宿舎に泊められ、門は車も通れず、出入りも困難で、盗賊が公然とはびこり、伝染病の対策もなく、面会の時期はわからず、指示も不明です。もし塀を破壊しなければ、貢ぎ物を安置する場所がなく、罪を重ねることになります。敢えてお尋ねします。執政の方はどうお考えでしょうか。魯の喪中とはいえ、これも我が国の憂いです。もし貢ぎ物を献上できるなら、塀を修繕して立ち去りましょう。それこそ君主のご恩恵です。どうして労苦を惜しみましょうか」。文伯がこの返答を報告すると、趙文子は言った。「確かに我々が非礼だった。使用人同様の宿舎で諸侯をもてなすとは我々の過ちである」。士文伯を使者として謝罪させた。晋侯は鄭伯と面会し、礼を厚くして饗宴を設け、丁重に帰国させた。その後、諸侯の宿舎を改築した。叔向が言った。「言葉の重要性はこの通りだ。子産は弁舌に優れ、諸侯はその恩恵を受けた。どうして言葉を軽んじられようか。詩に『言葉が整えば民は和し、言葉が通れば民は安定する』とある。子産はそのことを知っていたのだ」。 解説: 後半は鄭国の子産が晋国で行った外交劇で、宿舎の塀破壊という挑発的行為から始まり、晋が盟主としての責任を果たしていないことを論理的に指摘します。子産の弁舌は「賓至如帰」という理想的な外交姿勢を引き合いに出すことで、小国である鄭の立場を巧みに主張し、結果として晋の態度を改めさせました。このエピソードは春秋時代の国際関係において、武力ではなく外交術がいかに重要であったかを示す好例です。 全体を通して、為政者の資質や国際儀礼の重要性が主題となっており、『左伝』の特徴である史実に基づいた教訓的な叙述がよく表れています。 Translation took 3541.4 seconds. |
| 鄭子皮使印段如楚.以適晉告.禮也. 莒犁比公生去疾.及展輿.既立展輿.又廢之.犁比公虐.國人患之.十一月.展輿因國人以攻莒子.弒之.乃立.去疾奔齊.齊出也.展輿吳出也.書曰.莒人弒其君買朱鉏.言罪之在也. 吳子使屈狐庸聘于晉.通路也.趙文子問焉.曰.延州來季子.其果立乎.巢隕諸樊.閽戕戴吳.天似啟之.何如.對曰.不立.是二王之命也.非啟季子也.若天所啟.其在今嗣君乎.甚德而度.德不失民.度不失事.民親而事有序.其天所啟也.有吳國者.必此君之子孫實終之.季子守節者也.雖有國不立. 十二月.北宮文子相衛襄公以如楚.宋之盟故也.過鄭.印段迋勞于棐林.如聘禮而以勞辭.文子入聘.子羽為行人.馮簡子與子大叔逆客.事畢而出.言於衛侯曰.鄭有禮.其數世之福也.其無大國之討乎.詩曰.誰能執熱.逝不以濯.禮之於政.如熱之有濯也.濯以救熱.何患之有.子產之從政也.擇能而使之.馮簡子能斷大事.子大叔美秀而文.公孫揮能知四國之為.而辨於其大夫之族姓.班位貴賤能否.而又善為辭令.裨諶能謀.謀於野則獲.謀於邑則否.鄭國將有諸侯之事.子產乃問四國之為於子羽.且使多為辭令.與裨諶乘以適野.使謀可否.而告馮簡子使斷之.事成.乃授子大叔使行之.以應對賓客.是以鮮有敗事.北宮文子所謂有禮也. |
鄭の子皮が印段を楚に派遣した。これは晋への訪問を報告するためのもので、礼に適っていた。 莒の犁比公は去疾と展輿を生んだ。はじめ展輿を立てたが、後に廃した。犁比公は暴虐で、国人はこれを憂いた。十一月、展輿は国人を頼って莒の君を攻め、殺して自ら立った。去疾は斉に逃れた。去疾は斉の生まれであり、展輿は呉の生まれである。春秋には「莒人その君買朱鉏を弑す」と記し、罪が莒の国人にあることを示している。 呉の君が屈狐庸を晋に派遣し、外交ルートを開いた。趙文子が尋ねて言った。「延州来の季子は果たして立つだろうか。巢で諸樊が倒れ、閽(門番)が戴呉を殺した。天は季子を開こうとしているようだが、どうか」。屈狐庸は答えた。「立ちません。これは二人の王の運命であり、季子を開くためではありません。もし天が開くとするなら、現在の嗣君(次の君)においてでしょう。この君は徳が厚く度量があり、徳によって民を失わず、度量によって事を誤らない。民は親しみ、事には秩序がある。これこそ天が開くところです。呉の国を有する者は、必ずこの君の子孫が最終的に継ぐでしょう。季子は節義を守る人であり、たとえ国があっても立とうとしません」。 十二月、北宮文子が衛の襄公に付き従って楚へ向かった。これは宋の盟約のためである。鄭を通り過ぎると、印段が棐林で慰労の挨拶をした。聘礼のように振る舞いながら慰労の言葉を述べた。文子が聘問に入ると、子羽が行人(外交官)を務め、馮簡子と子大叔が客を迎えた。事が終わって退出した文子は衛侯に言った。「鄭には礼がある。これは数世代の福となるでしょう。大国の討伐を受けることはないのではないか。詩に『誰が熱きを執らん、逝くに濯ぎ以てせざらんや』とあります。礼の政事に対する関係は、熱さに対する水浴みのようなものです。水浴みで熱さを救うのに、何の憂いがありましょうか」。子産が政事を執るにあたっては、能力ある者を選んで使った。馮簡子は大事を断じることができ、子大叔は美しく聡明で文才があり、公孫揮は四カ国の動向を知り、その大夫の族姓・地位・貴賤・能力を弁別し、さらに辞令を巧みに述べた。裨諶は謀略に優れ、野外で謀ると成果があったが、城里ではうまくいかなかった。鄭国に諸侯に関する事が起きると、子産は子羽に四カ国の動向を問い、多く辞令を作らせた。裨諶と車に乗って野外へ行き、謀略の可否を検討させ、馮簡子に断じさせた。事が決すると、子大叔に授けて実行させ、賓客への応対を担当させた。このため失敗する事は稀であった。北宮文子の言う「礼がある」とはこのことである。 解説この一節は『春秋左氏伝』における紀元前6世紀の政治動向を描いています。主に以下の四つのエピソードから構成されます。 全体を通じて、春秋時代の国際政治における「礼」の重要性、内乱の要因、為政者の資質が浮き彫りにされています。特に子産のエピソードは、組織運営の理想形として後世まで影響を与えました。 Translation took 2451.7 seconds. |
| 鄭人游于鄉校.以論執政.然明謂子產曰.毀鄉校何如.子產曰.何為.夫人朝夕退而游焉.以議執政之善否.其所善者.吾則行之.其所惡者.吾則改之.是吾師也.若之何毀之.我聞忠善以損怨.不聞作威以防怨.豈不遽止.然猶防川.大決所犯.傷人必多.吾不克救也.不如小決.使道不如.吾聞而藥之也.然明曰.蔑也今而後知吾子之信可事也.小人實不才.若果行此.其鄭國實賴之.豈唯二三臣.仲尼聞是語也.曰.以是觀之.人謂子產不仁.吾不信也. 子皮欲使尹何為邑.子產曰.少.未知可否.子皮曰.愿吾愛之.不吾叛也.使夫往而學焉.夫亦愈知治矣.子產曰.不可.人之愛人.求利之也.今吾子愛人則以政.猶未能操刀而使割也.其傷實多.子之愛人.傷之而已.其誰敢求愛於子.子於鄭國.棟也.棟折榱崩.僑將厭焉.敢不盡言.子有美錦.不使人學製焉.大官大邑.身之所庇也.而使學者製焉.其為美錦.不亦多乎.僑聞學而後入政.未聞以政學者也.若果行此.必有所害.譬如田獵.射御貫.則能獲禽.若未嘗登車射御.則敗績厭覆是懼.何暇思獲.子皮曰.善哉.虎不敏.吾聞君子務知大者遠者.小人務知小者近者.我小人也.衣服附在吾身.我知而慎之.大官大邑.所以庇身也.我遠而慢之.微子之言.吾不知也.他日.我曰子為鄭國.我為吾家.以庇焉其可也.今而後知不足.自今請雖吾家聽子而行.子產曰.人心之不同.如其面焉.吾豈敢謂子面如吾面乎.抑心所謂危.亦以告也.子皮以為忠.故委政焉.子產是以能為鄭國. |
鄭の人々が郷校に集まって議論し、政治の実権を握る者たちを批評していた。然明が子産に言った。「郷校を取り壊してはどうでしょうか」。子産は答えた。「なぜそんなことをするのか。人々は朝夕の仕事が終わるとそこに集まり、政治の良し悪しを議論する。彼らが良いと言うことは私は実行し、悪いと言うことは改める。これは私の師のようなものだ。どうして取り壊せようか。私は誠実さと善行によって怨みを減らすと聞いているが、権威を振るって怨みを防ぐとは聞いたことがない。確かに権力で抑えればすぐに止むかもしれないが、それは川を防ぐようなものだ。大規模な決壊が起これば、多くの人々が傷つき、私は救うことができない。むしろ小さな堰き止めを開いて水を流すように、人々の意見を聞いて薬とするのがよい」。然明は言った。「蔑(然明の名)は今日から、あなたが本当に頼りになる人物だと理解しました。私のような小人物は役に立ちませんが、もしこの方針を実行されれば、鄭国は確かにあなたに依存するでしょう。ほんの数人の臣下だけではなく」。孔子はこの話を聞いて言った。「これを見ると、子産が不仁だと言う人もいるが、私は信じない」。 子皮が尹何を邑の長官に任命しようとした。子産は言った。「彼は若すぎて、その任に耐えられるかわかりません」。子皮は答えた。「彼は誠実で、私を裏切らないでしょう。赴任させて学ばせれば、統治の方法も次第にわかるようになります」。子産は言った。「それはできません。人が誰かを愛する時は、その者の利益を求めるものです。今あなたが愛する者に政務を任せるのは、まだ包丁を握れない者に肉を切らせるようなもの。傷つけることが多いでしょう。あなたの愛は、かえって彼を傷つけるだけです。そうなれば、誰があなたに愛を求めるでしょうか。あなたは鄭国の大黒柱です。大黒柱が折れれば椽(たるき)も崩れ、私(僑=子産)も押し潰されてしまいます。だから率直に申し上げます。立派な錦があれば、人に裁ち方を学ばせようとはしないでしょう。高位や大邑は身を守る基盤なのに、未熟者に任せようとするのです。錦よりもはるかに大切ではないですか。私は学んでから政務につくとは聞きますが、政務で学ぶとは聞いたことがありません。もしこれを実行すれば、必ず害があります。たとえば狩猟で、射撃や御術に熟達していれば獲物を捕らえられますが、車に乗ったこともない者が、転倒や事故を恐れるだけで、獲物を考える余裕などありません」。子皮は言った。「もっともです。虎(子皮の名)は不勉強でした。君子は大きな遠いことを務め、小人物は小さな近いことを務めると聞きます。私は小人物です。衣服は身に着けるものだから慎重に扱いますが、高位や大邑のような身を守るものには疎くなっていました。あなたの言葉がなければ気づきませんでした。以前は『あなたが鄭国を治め、私は自分の家を守ればよい』と思っていましたが、今日からは力不足を悟りました。今後は私の家のことさえあなたの指示に従います」。子産は言った。「人の心は顔がそれぞれ違うように異なります。あなたの顔が私の顔と同じだと言えませんが、内心で危険と感じることはお伝えします」。子皮はこれを忠義と思い、政務を委ねた。子産はこうして鄭国を治めることができたのである。 【解説】 Translation took 2473.8 seconds. |
| 衛侯在楚.北宮文子見令尹圍之威儀.言於衛侯曰.令尹似君矣.將有他志.雖獲其志.不能終也.詩云.靡不有初.鮮克有終.終之實難.令尹其將不免.公曰.子何以知之.對曰.詩云.敬慎威儀.惟民之則.令尹無威儀.民無則焉.民所不則.以在民上.不可以終.公曰.善哉.何謂威儀.對曰.有威而可畏.謂之威.有儀而可象.謂之儀.君有君之威儀.其臣畏而愛之.則而象之.故能有其國家.令聞長世.臣有臣之威儀.其下畏而愛之.故能守其官職.保族宜家.順是以下.皆如是.是以上下能相固也.衛詩曰.威儀棣棣.不可選也.言君臣上下.父子兄弟.內外大小.皆有威儀也.周詩曰.朋友攸攝.攝以威儀.言朋友之道.必相教訓.以威儀也.周書數文王之德曰.大國畏其力.小國懷其德.言畏而愛之也.詩云.不識不知.順帝之則.言則而象之也.紂囚文王七年.諸侯皆從之囚.紂於是乎懼而歸之.可謂愛之.文王伐崇.再駕而降為臣.蠻夷帥服.可謂畏之.文王之功.天下誦而歌舞之.可謂則之.文王之行.至今為法.可謂象之.有威儀也.故君子在位可畏.施舍可愛.進退可度.周旋可則.容止可觀.作事可法.德行可象.聲氣可樂.動作有文.言語有章.以臨其下.謂之有威儀也. |
衛侯が楚に滞在していた。北宮文子が令尹・圍の威儀を見て、衛侯に次のように述べた。「令尹は君主のようですね。別の野心を持っているようです。たとえその野望を達成しても、最後まで維持することはできません。詩経に『初めは良くても、終わりを全うできる者は稀である』とあります。終わりを全うすることは実に難しい。令尹はおそらく災難を免れないでしょう。」衛侯が「どうしてそれが分かるのか」と問うと、北宮文子は答えた。「詩経に『威儀を敬い慎めば、民の規範となる』とあります。令尹に威儀がなければ、民は規範とするものがありません。民が規範としない者が民の上に立つことは、最後まで続けられないからです。」衛侯が「なるほど、では威儀とは何か」と尋ねると、北宮文子は答えた。「威厳があって畏敬の念を抱かせるものを『威』といい、礼儀があって模範とされるものを『儀』といいます。君主には君主の威儀があり、臣下は畏れ敬い、それを規範として模倣する。だからこそ国と家を保ち、名声を後世に伝えられるのです。臣下には臣下の威儀があり、部下は畏れ敬う。だから官職を守り、家族や一族を安定させられる。この道理は下位者にも同様に適用され、上下が固く結びつくのです。衛の詩に『威儀は整然として、選ぶ余地がない』とあり、君臣・上下・父子・兄弟・内外の大小あらゆる関係に威儀が存在すると説きます。周の詩に『友人は互いに助け合い、威儀をもって補い合う』とあり、友人関係でも威儀によって教え導き合うべきだと示します。周書が文王の徳を称えて『大国はその力を畏れ、小国はその徳を慕う』と言うのは、畏れと敬愛の両立を表します。詩経に『知らず識らず、天の法則に従う』とあるのは、自然に規範として模倣する様子です。紂王が文王を7年間囚禁した時、諸侯こぞって文王とともに囚われることを望んだのは敬愛の証です。文王が崇を討伐すると、二度の出兵で降伏させ臣従させ、蛮夷も従ったのは畏敬の表れです。文王の功績は天下で謳われ歌舞され、規範とされ、その行動は今も手本とされています。これこそ威儀の体現です。だから君子は、地位によって畏敬され、施しによって愛され、进退に節度があり、振る舞いが規範となり、容貌や行動が見るに値し、行いが模範となり、徳行が手本となり、声や気配が親しみやすく、動作に品があり、言葉に秩序がある。こうして下に臨むことを、威儀があるというのです。」 解説この一節は『春秋左氏伝』における政治哲学の核心を表しています。「威儀」という概念を軸に、指導者に求められる資質を多角的に論じた内容です。以下の点に注目してください:
この段落は、単なる儀礼論ではなく、「権力の正当性」と「統治の持続性」を深く考察した政治思想文として読むことができます。 Translation took 2267.9 seconds. |
| input text ../document/春秋左氏傳\10_春秋左氏傳_昭公.txt | 現代日本語 translated text |
| 春秋左氏傳 昭公 昭公元年 經 元年春.王正月.公即位.叔孫豹會晉趙武.楚公子圍.齊國弱.宋向戌.衛齊惡.陳公子招.蔡公孫歸生.鄭罕虎.許人.曹人.于虢. 三月. 取鄆. 夏.秦伯之弟鍼出奔晉. 六月丁巳.邾子華卒.晉荀吳帥師敗狄于大鹵. 秋.莒去疾自齊入于莒.莒展輿出奔吳.叔弓帥師疆鄆田.葬邾悼公. 冬.十有一月.己酉.楚子麇卒.公子比出奔晉. 傳 元年春.楚公子圍聘于鄭.且娶於公孫段氏.伍舉為介.將入館.鄭人惡之.使行人子羽與之言.乃館於外.既聘.將以眾逆.子產患之.使子羽辭曰.以敝邑褊小.不足以容從者.請墠聽命.令尹命大宰伯州犁對曰.君辱貺寡大夫圍.謂圍將使豐氏.撫有而室.圍布几筵.告於莊共之廟而來.若野賜之.是委君貺於草莽也.是寡大夫不得列於諸卿也.不寧唯是.又使圍蒙其先君.將不得為寡君老,其蔑以復矣.唯大夫圖之.子羽曰.小國無罪.恃實其罪.將恃大國之安靖己.而無乃包藏禍心以圖之.小國失恃.而懲諸侯.使莫不憾者.距違君命.而有所壅塞不行是懼.不然.敝邑館人之屬也.其敢愛豐氏之祧.伍舉知其有備也.請垂櫜而入.許之.正月乙未.入逆而出.遂會於虢.尋宋之盟也.祁午謂趙文子曰.宋之盟.楚人得志於晉.今令尹之不信.諸侯之所聞也.子弗戒.懼又如宋.子木之信.稱於諸侯.猶詐晉而駕焉.況不信之尤者乎.楚重得志於晉.晉之恥也.子相晉國.以為盟主.於今七年矣.再合諸侯.三合大夫.服齊狄.寧東夏.平秦亂.城淳于.師徒不頓.國家不罷.民無謗讟.諸侯無怨.天無大災.子之力也.有令名矣.而終之以恥午也是懼.吾子其不可以不戒.文子曰.武受賜矣.然宋之盟.子木有禍人之心.武有仁人之心.是楚所以駕於晉也.今武猶是心也.楚又行僭.非所害也.武將信以為本.循而行之.譬如農夫.是穮是蔉.雖有饑饉.必有豐年.且吾聞之.能信不為人下.吾未能也.詩曰.不僭不賊.鮮不為則.信也.能為人則者.不為人下矣.吾不能是難.楚不為患.楚令尹圍請用牲.讀舊書.加于牲上而已.晉人許之. |
翻訳文昭公元年 経 元年の春、周の王の正月、昭公が即位した。叔孫豹が晋の趙武、楚の公子圍、齊の國弱、宋の向戌、衛の齊惡、陳の公子招、蔡の公孫歸生、鄭の罕虎、許の人、曹の人と虢で会った。 三月、鄆を占領した。 夏、秦の伯の弟である鍼が晋に亡命した。 六月丁巳の日、邾の子華が死去した。晋の荀吳が軍を率いて狄を大鹵で打ち破った。 秋、莒の去疾が齊から莒に入国した。莒の展輿が吳に亡命した。叔弓が軍を率いて鄆の田地の境界を定めた。邾の悼公を葬った。 冬、十一月己酉の日、楚の子麇が死去した。公子比が晋に亡命した。 伝 元年の春、楚の公子圍が鄭を訪問し、かつ公孫段の家から嫁を娶ろうとした。伍舉が副使として随行した。宿舎に入ろうとしたとき、鄭の人々はこれを警戒し、外交官の子羽を使者として交渉させ、結局城外に宿舎を設けさせた。訪問の儀式が終わり、兵士を連れて婚礼の儀式を行おうとすると、子産はこれを危惧し、子羽に断りを入れさせて言った。「我が国は狭小であり、お供の者たちを収容するには不足です。どうか祭祀の場でご命令をお聞きしたい」。楚の令尹(公子圍)は太宰の伯州犁に命じて返答させた。「君が弊国の大夫・圍を恥ずかしくもお引き立てくださり、圍に豐氏の娘を娶らせ、家を安定させようとおっしゃいました。圍は几帳や敷物を整え、莊公と共公の廟に報告して来たのです。もし野外で式を行えば、それは君のご厚意を雑草に捨てるようなもの。これでは我が大夫が諸卿の列に並べなくなります。それだけでなく、圍に先君への欺瞞を強いることになり、我が君の重臣としての立場を失い、帰国できなくなるでしょう。どうかご考慮ください」。子羽は言った。「小国に罪はありませんが、大国に依存することがかえって罪となります。我々は大国によって安寧を得ようと頼みにしていましたが、むしろあなた方が害心を抱いて企んでいるのでは。小国が頼みを失えば、諸侯に戒めとなり、皆が恨みを抱くでしょう。君命に背き、行き詰まることを恐れているのです。そうでなければ、我が国はあなた方の宿舎を提供する者です。どうして豐氏の祖廟を惜しみましょうか」。伍舉は鄭に備えがあると悟り、武器袋を垂らして(無害を示して)入城することを請うた。鄭はこれを許した。正月乙未の日、公子圍は入城して婚礼を行い、退出後、虢で諸侯と会合した。これは宋の盟約を再確認するためである。祁午が趙文子(趙武)に言った。「宋の盟約では、楚が晋に対して優位に立ちました。今、令尹が信用できないことは諸侯の知るところです。ご注意なければ、再び宋の時のようになる恐れがあります。子木(楚の以前の令尹)でさえ、諸侯に信義ありと称えられながら晋を欺いて優位に立ったのです。ましてや特に信用できない者ならなおさらです。楚が再び晋に対して優位に立つことは、晋の恥です。あなたが晋を輔佐して盟主となってから七年になります。二度諸侯を会合させ、三度大夫たちを集め、齊や狄を服従させ、東方を平定し、秦の乱を鎮め、淳于に城を築きました。軍隊は疲弊せず、国は衰えず、民は非難せず、諸侯は怨まず、天も大災を起こさない。これらはあなたの力です。立派な名声があるのに、最後に恥を招くことを私は恐れます。どうかご警戒ください」。趙文子は答えた。「私はあなたの忠告に感謝する。しかし宋の盟約では、子木は他者を害する心があり、私は仁愛の心があった。それ故に楚が晋より優位に立ったのだ。今も私は同じ心だ。楚が不義を行っても、害されることはない。私は信義を根本とし、それを貫く。農夫が草を刈り土を盛るように、たとえ飢饉があっても、必ず豊作の年が来る。かつ私は聞く、信義を守る者は他人の下に立たないと。私はまだそれを完全には実践できていない。詩に『過ちなく害さず、模範とならぬことは稀だ』とある。これが信義だ。他人の模範となれる者は、下に立たない。私がそれを実践できないことが難点だが、楚を患いとは思わない」。楚の令尹・圍は生贄を用い、過去の盟書を読み上げ、生贄の上に載せるだけの簡素な儀式を提案した。晋はこれを認めた。 解説この一節は、中国の歴史書『春秋左氏伝』の昭公元年(紀元前541年)に当たる部分です。「経」は出来事を簡潔に記録した本文で、「伝」はその詳細な解説やエピソードを叙述しています。主な内容は以下の通りです。
この記述は、国際関係における信頼と策略の緊張を描き、春秋時代の政治力学を理解する上で重要な一章です。 Translation took 4775.0 seconds. |
| 三月.甲辰.盟.楚公子圍設服離衛.叔孫穆子曰.楚公子美矣.君哉.鄭子皮曰.二執戈者前矣.蔡子家曰.蒲宮有前.不亦可乎.楚伯州犁曰.此行也.辭而假之寡君.鄭行人揮曰.假不反矣.伯州犁曰.子姑憂子皙之欲背誕也.子羽曰.當璧猶在.假而不反.子其無憂乎.齊國子曰.吾代二子愍矣.陳公子招曰.不憂何成.二子樂矣.衛齊子曰.苟或知之.雖憂何害.宋合左師曰.大國令.小國共.吾知共而已.晉樂王鮒曰.小旻之卒章善矣.吾從之.退會.子羽謂子皮曰.叔孫絞而婉.宋左師簡而禮.樂王鮒字而敬.子與子家持之.皆保世之主也.齊衛陳大夫.其不免乎.國子代人憂.子招樂憂.齊子雖憂弗害.夫弗及而憂.與可憂而樂.與憂而弗害.皆取憂之道也.憂必及之.大誓曰.民之所欲.天必從之.三大夫兆憂.能無至乎.言以知物.其是之謂矣. 季武子伐莒.取鄆.莒人告於會.楚告於晉曰.尋盟未退.而魯伐莒.瀆齊盟.請戮其使.樂桓子相趙文子.欲求貨於叔孫.而為之請.使請帶焉弗與.梁其脛曰.貨以藩身.子何愛焉.叔孫曰.諸侯之會.衛社稷也.我以貨免.魯必受師.是禍之也.何衛之為.人之有牆.以蔽惡也.牆之隙壞.誰之咎也.衛而惡之.吾又甚焉.雖怨季孫.魯國何罪.叔出季處.有自來矣.吾又誰怨.然鮒也賄.弗與不已.召使者裂裳帛而與之.曰帶其褊矣.趙孟聞之曰.臨患不忘國.忠也.思難不越官.信也.圖國忘死.貞也.謀主三者.義也.有是四者.又可戮乎.乃請諸楚.曰.魯雖有罪.其執事不辟難.畏威而敬命矣.子若免之.以勸左右可也.若子之群吏.處不辟污.出不逃難.其何患之有.患之所生.污而不治.難而不守.所由來也.能是二者.又何患焉.不靖其能.其誰從之.魯叔孫豹可謂能矣.請免之以靖能者.子會而赦有罪.又賞其賢.諸侯其誰不欣焉.望楚而歸之.視遠如邇.疆場之邑.一彼一此.何常之有.王伯之令也.引其封疆.而樹之官.舉之表旗.而著之制令.過則有刑.猶不可壹.於是乎虞有三苗.夏有觀扈.商有姺邳.周有徐奄.自無令王諸侯逐進.狎主齊盟.其又可壹乎.恤大舍小.足以為盟主.又焉用之.封疆之削.何國蔑有.主齊盟者.誰能辯焉.吳濮有釁.楚之執事.豈其顧盟.莒之疆事.楚勿與知.諸侯無煩.不亦可乎.莒魯爭鄆.為日久矣.苟無大害於其社稷.可無亢也.去煩宥善.莫不競勸.子其圖之.固請諸楚.楚人許之.乃免叔孫.令尹享趙孟.賦大明之首章.趙孟賦小宛之二章.事畢.趙孟謂叔向曰.令尹自以為王矣.何如.對曰.王弱.令尹疆.其可哉.雖可不終.趙孟曰.何故.對曰.彊以克弱而安之.彊不義也.不義而彊.其斃必速.詩曰.赫赫宗周.褒姒滅之.彊不義也.令尹為王.必求諸侯.晉少懦矣.諸侯將往.若獲諸侯.其虐滋甚.民弗堪也.將何以終.夫以彊取.不義而克.必以為道.道以淫虐.弗可久已矣. |
【現代日本語訳】 季武子が莒を討ち、鄆を取った。莒の人が会合に訴えた。楚が晉に告げて言った。「盟約を重ねている最中に、魯が莒を討ち、盟約を汚した。その使者を罰してほしい」。樂桓子が趙文子を補佐し、叔孫から財貨を求めようとして、彼のために請願した。帯を請うように使者を遣わしたが、叔孫は与えなかった。梁其脛が言った。「財貨は身を守るものです。なぜ惜しむのですか」。叔孫が言った。「諸侯の会合は、社稷を守るためだ。私が財貨で免れれば、魯は必ず軍勢の攻撃を受ける。これは災いをもたらすことだ。何を守るというのか。人が牆(へい)を持つのは、悪を遮るためだ。牆に隙間ができて壊れるのは、誰の過ちか。守っておきながら悪くするなら、私はさらにひどい。季孫を怨んでも、魯国に何の罪があるか。叔(叔孫)は出て、季(季孫)は処る(国内にいる)。これは昔からあることだ。私はさらに誰を怨もうか。しかし樂王鮒は賄賂を欲しがる。与えなければやまない」。使者を呼び、裳の帛を裂いて与え、言った。「帯は狭すぎる」。趙孟(趙文子)がこれを聞いて言った。「患難に臨んで国を忘れないのは忠だ。困難を思って職務を越えないのは信だ。国のために図り死を忘れるのは貞だ。謀りごとの主として这三つを持つのは義だ。この四つを持っていて、どうして罰できようか」。そこで楚に請願して言った。「魯には罪があるが、その執事(叔孫)は難を避けず、威を畏れ命を敬っている。あなたが彼を免せば、左右(諸侯)を励ますことができる。もしあなたの群吏が、内に汚れを避けず、外に難を逃れなければ、何の患いがあろうか。患いが生じるのは、汚れを治めず、難を守らないからだ。これが由来である。この二つができれば、また何を患おうか。その能力を安んじなければ、誰が従おうか。魯の叔孫豹はできる者と言えよう。彼を免じて、能力ある者を安んじてほしい。あなたが会合して罪を赦し、また賢者を賞せば、諸侯は誰が喜ばないだろうか。楚を望んで帰し、遠きを近きのように見る。疆場(国境)の邑は、あちらこちらで、常にあるわけがない。王伯(覇者)の命令は、その封疆を引いて官を立て、表旗を挙げて制令を著す。過ちがあれば刑があるが、まだ統一できない。そこで虞には三苗、夏には觀扈、商には姺邳、周には徐奄があった。令王(優れた王)がいないので、諸侯は競い進み、交替で盟主となる。どうして統一できようか。大きなことを憂え小さなことを捨てるのが、盟主として十分である。また何を使おうか。封疆が削られるのは、どの国にないだろうか。盟主として、誰が弁明できようか。吳や濮に隙があれば、楚の執事はどうして盟約を顧みようか。莒の疆事(国境の事)は、楚は関知しないでほしい。諸侯に煩わせず、それでよいではないか。莒と魯が鄆を争うのは、久しいことだ。もしその社稷に大害がなければ、抗う必要はない。煩いを去り善を赦せば、誰も競って励まないことはない。どうか考えてほしい」。固く楚に請願し、楚人は許した。そこで叔孫を免した。 令尹(楚の公子圍)が趙孟を饗応し、『大明』(詩経)の首章を賦した。趙孟が『小宛』(詩経)の二章を賦した。事が終わり、趙孟が叔向に言った。「令尹は自ら王となったと思っている。どうだろう」。叔向が答えた。「王は弱く、令尹は強い。可能だろう。しかし可能でも終わらない」。趙孟が言った。「なぜか」。叔向が答えた。「強きが弱きを克って安んじるのは、強きが不義だからだ。不義で強いと、その斃(たお)れは必ず速い。詩に『赫赫たる宗周、褒姒之を滅ぼす』とある。強くても不義だからだ。令尹が王となれば、必ず諸侯を求める。晉は少し懦(よわ)くなった。諸侯は行くだろう。もし諸侯を得れば、その虐げはさらに甚だしくなる。民は堪えられない。どうして終わろうか。強きで取るのは、不義で克つと、必ずそれを道とする。道が淫虐であれば、長く続かない」。 【解説】
全体として、複雑な外交交渉と人物評を通じて、権力の倫理性や国家存続の条件が問われる内容です。現代日本語訳では、古文の表現を平易な口語に置き換えつつ、登場人物の関係性や会話のニュアンスを明確にしました。 Translation took 3175.2 seconds. |
| 夏.四月.趙孟.叔孫豹.曹大夫.入于鄭.鄭伯兼享之.子皮戒趙孟.禮終.趙孟賦瓠葉.子皮遂戒穆叔.且告之.穆叔曰.趙孟欲一獻.子其從之.子皮曰.敢乎.穆叔曰.夫人之所欲也.又何不敢.及享.具五獻之籩豆於幕下.趙孟辭.私於子產曰.武請於冢宰矣.乃用一獻.趙孟為客.禮終乃宴.穆叔賦鵲巢.趙孟曰.武不堪也.又賦采蘩.曰.小國為蘩.大國省穡而用之.其何實非命.子皮賦野有死麇之卒章.趙孟賦常棣.且曰吾兄弟比以安.尨也可使無吠.穆叔.子皮.及曹大夫.興拜.舉兕爵曰.小國賴子.知免於戾矣.飲酒樂.趙孟出.曰.吾不復此矣. 天王使劉定公勞趙孟於潁.館於雒汭.劉子曰.美哉禹功.明德遠矣.微禹.吾其魚乎.吾與子弁冕端委.以治民臨諸侯.禹之力也.子盍亦遠績禹功.而大庇民乎.對曰.老夫罪戾是懼.焉能恤遠.吾儕偷食.朝不謀夕.何其長也.劉子歸以語王曰.諺所為老將知而耄及之者.其趙孟之謂乎.為晉正卿.以主諸侯.而儕於隸入.朝不謀夕.棄神人矣.神怒民叛.何以能久.趙孟不復年矣.神怒不歆其祀.民叛不即其事.祀事不從.又何以年. 叔孫歸.曾夭御季孫以勞之.旦及日中.不出.曾夭謂曾阜曰.旦及日中.吾知罪矣.魯以相忍為國也.忍其外.不忍其内.焉用之.阜曰.數月於外.一旦於是.庸何傷.賈而欲贏.而惡囂乎.阜謂叔孫曰.可以出矣.叔孫指楹曰.雖惡是.其可去乎.乃出見之. |
夏、四月、趙孟、叔孫豹、曹大夫が鄭国に入った。鄭伯は彼らを一緒にもてなした。子皮が趙孟に礼の作法を伝え、礼が終わると、趙孟は『瓠葉』の詩を吟じた。子皮は続いて穆叔(叔孫豹)に作法を伝え、そのことを告げた。穆叔は言った。「趙孟は一献の礼を望んでいる。あなたはそれに従いなさい。」子皮が言った。「果たしてそうしてよいでしょうか。」穆叔は言った。「あの方が望んでいることです。どうしてためらう必要がありましょうか。」饗応が始まると、幕の下に五献の礼に用いる籩豆(食器)が用意されていた。趙孟は辞退し、子産にひそかに言った。「武(趙孟)はすでに冢宰(子皮)にお願いしました。一献の礼で結構です。」趙孟が客賓として、礼が終わってから宴が始まった。穆叔が『鵲巣』の詩を吟じると、趙孟は言った。「武はその誉れに耐えられません。」さらに穆叔が『采蘩』を吟じ、言った。「小国は蘩(つまらない草)のようなものですが、大国が倹約してこれを用いられるなら、どうして天命に背くことがありましょうか。」子皮が『野に死麇有り』の最終章を吟じると、趙孟は『常棣』を吟じ、かつ言った。「我々兄弟が仲睦まじく安らかであれば、たとえ犬がいても吠えさせずに済むでしょう。」穆叔、子皮、および曹大夫は立ち上がって拝礼し、兕爵(犀の角の杯)を掲げて言った。「小国はあなたのお陰で、罪から逃れられることを知りました。」酒を飲んで楽しく過ごした後、趙孟は退出し、言った。「私は二度とこのようなことはないだろう。」 周王が劉定公を遣わし、潁で趙孟を慰労した。雒汭に宿泊した時、劉子は言った。「なんと素晴らしい禹の功績よ。その明徳は遠くまで及んでいる。禹がいなければ、我々は魚(水害に溺れる者)となっていただろう。私とあなたが冠服を整えて民を治め、諸侯に臨んでいるのも、禹の力によるものだ。あなたもどうして禹の功績を遠くまで継ぎ、大いに民を庇わないのか。」趙孟は答えて言った。「老夫は自分の罪過を恐れるばかりで、どうして遠大なことまで気にかけられましょうか。我々はその日その日をやり過ごすだけで、朝に夕べのことを考える余裕もありません。どうして長続きできましょうか。」劉子は帰国後、周王に報告して言った。「諺に『老いて知恵がついても、耄耋(ぼうてつ)の衰えが来る』というが、まさに趙孟のことを指すのでしょう。晋の正卿として諸侯を統べながら、下僕同然に振る舞い、先の見通しも立てず、神と人を軽んじている。神が怒り民が叛けば、どうして長く続けられようか。趙孟はもう一年も持たないでしょう。神が怒れば祭祀を受け入れず、民が叛けば事業に従わない。祭祀と事業が成り立たなければ、どうして寿命を保てようか。」 叔孫(叔孫豹)が帰国した。曾夭が季孫のために車を御し、彼を出迎えた。朝から日中まで待ったが、叔孫は出て来なかった。曾夭は曾阜に言った。「朝から日中まで待ったのに出て来ない。私は自分の非を悟った。魯国は互いに忍耐することで成り立っている。外部では耐えても、内部では耐えられないのでは、何の意味があろうか。」阜は言った。「数ヶ月も外出していた者が、一日くらいこうした態度を取っても、何の支障があろうか。商売で利益を得たいのに、騒がしさを嫌うなどということがあるだろうか。」阜は叔孫に言った。「お出かけください。」叔孫は柱を指して言った。「たとえこれを憎んでも、取り除くことなどできようか。」そしてようやく出て行って彼らに会った。 解説この一節は『春秋左氏伝』に記された春秋時代の外交儀礼と人間模様を描いた場面です。以下の三点に焦点を当てて解説します。
全体として、この一節は形式的な外交儀礼の裏側にある各国の思惑や、個人の老いや無力感といった人間的な側面を交え、春秋時代の複雑な政治状況を生き生きと伝えています。 Translation took 4574.0 seconds. |
| 鄭徐吾犯之妹美.公孫楚聘之矣.公孫黑又使強委禽焉.犯懼.告子產.子產曰.是國無政.非子之患也.唯所欲與.犯請於二子.請使女擇焉.皆許之.子皙盛飾入.布幣而出.子南戎服入.左右射.超乘而出.女自房觀之.曰.子皙信美矣.抑子南夫也.夫夫婦婦.所謂順也.適子南氏.子皙怒.既而櫜甲以見子南.欲殺之.而取其妻.子南知之.執戈逐之.及衝.擊之以戈.子皙傷而歸.告大夫曰.我好見之.不知其有異志也.故傷.大夫皆謀之.子產曰.直鈞幼賤.有罪.罪在楚也.乃執子南而數之曰.國之大節有五.女皆奸之.畏君之威.聽其政.尊其貴.事其長.養其親.五者所以為國也.今君在國.女用兵焉.不畏威也.奸國之紀.不聽政也.子皙上大夫.女嬖大夫.而弗下之.不尊貴也.幼而不忌.不事長也.兵其從兄.不養親也.君曰.余不女忍殺.宥女以遠.勉速行乎.無重而罪.五月.庚辰.鄭放游楚於吳.將行子南.子產咨於大叔.大叔曰.吉不能亢身.焉能亢宗.彼國政也.非私難也.子圖鄭國.利則行之.又何疑焉.周公殺管叔而蔡蔡叔.夫豈不愛.王室故也.吉若獲戾.子將行之.何有於諸游. 秦后子有寵於桓.如二君於景.其母曰.弗去懼選.癸卯.鍼適晉.其車千乘.書曰.秦伯之弟鍼出奔晉.罪秦伯也.后子享晉侯.造舟于河.十里舍車.自雍及絳.歸取酬幣.終事八反.司馬侯問焉.曰.子之車盡於此而已乎.對曰.此之謂多矣.若能少此.吾何以得見.女叔齊以告公.且曰.秦公子必歸.臣聞君子能知其過.必有令圖.令圖.天所贊也.后子見趙孟.趙孟曰.吾子其曷歸.對曰.鍼懼選於寡君.是以在此.將待嗣君.趙孟曰.秦君何如.對曰.無道.趙孟曰.亡乎.對曰.何為.一世無道.國未艾也.國於天地.有與立焉.不數世淫.弗能斃也.趙孟曰.天乎.對曰.有焉.趙孟曰.其幾何.對曰.鍼聞之.國無道而年穀和熟.天贊之也.鮮不五稔.趙孟視蔭曰.朝夕不相及.誰能待五.后子出而告人曰.趙孟將死矣.主民.翫歲而愒日.其與幾何. |
鄭の徐吾犯の妹は美しかった。公孫楚(子南)が彼女に婚約を申し込んだが、公孫黒(子皙)も強引に結納の礼品を贈った。犯は恐れて子産に相談すると、子産は「これは国政が乱れているためであって、あなたの過失ではない。娘の望むようにさせなさい」と言った。犯は二人の公子に、娘自身に選ばせたいと願い出ると、双方とも承諾した。子皙は華美に装って訪れ、礼品を整然と並べて退出した。子南は武装した姿で現れ、左右へ矢を射かけ、軽やかに車に飛び乗って去った。娘は部屋からこの様子を見て「子皙は確かに美しいが、子南こそ真の夫たる風格がある。夫は夫らしく、妻は妻らしくあるべきで、これが順序というもの」と言い、子南を選んだ。子皙は怒り、やがて鎧を隠し着て子南と会い、彼を殺して妻を奪おうとした。子南はこれを察し、戈を手に子皙を追いかけ、大通りで戈で打ちかかって負傷させた。子皙は大夫たちに「私は好意で会ったのに、彼に悪意があるとは知らなかった故に傷ついた」と訴えた。大夫たちが協議すると、子産は「双方とも正しいが、年少で身分が低い方が罪がある。罪は楚(子南)にある」とし、子南を捕らえて五つの罪状を挙げて責めた。「国の大節は五つある。君威を畏れず、政令に従わず、貴人を尊ばず、長上に仕えず、親族を慈しまぬことだ。今、君が在位中に兵器を用いたのは君威不畏、国紀紊乱は政令不従、子皙が上大夫であなたが下大夫ながら譲らぬのは貴人不尊、年少で遠慮しないのは長上不仕、従兄に刃向うのは親族不慈である。君は『お前を殺すに忍びない』と言われ、遠方への赦免を賜った。速やかに出立せよ」。五月庚辰、鄭は游楚(子南)を呉に追放した。子産が大叔に相談すると、大叔は「私自身も守れぬのに宗族など守れまい。これは国政であって私怨ではない。鄭国のためになるなら実行すべきだ。周公が管叔を誅し蔡叔を流したのも王室のためであった。私が罪を得ようともためらうな」と答えた。 秦の后子(鍼)は桓公に寵愛され、景公の時代には二人の君主が並立するような権勢を持った。母が「逃れなければ災いが来る」と言ったので、癸卯の日に鍼は車千乗を連れて晋へ亡命した。春秋の記述「秦伯の弟鍼出奔晋」は秦伯を非難する意図である。后子が晋侯をもてなした時、黄河に舟を並べた橋を架け、十里毎に車列を配置し、雍から絳まで宴席の礼品を運ぶのに八往復した。司馬侯が「これが全ての車か」と問うと、后子は「むしろ多すぎるほどだ。これより少なければ私はここにいられなかった」と答えた。女叔齊がこの言葉を晋侯に伝え「秦の公子は必ず帰国するでしょう。過ちを自覚する君子は必ず善策を立て、天もそれを助けるからです」と述べた。后子が趙孟に会うと、趙孟は「いつ帰国するか」と尋ねた。后子は「現君の迫害を恐れて来た。次の君主を待つつもりだ」と答える。趙孟が秦君の人物を問うと「無道である」とし、さらに「滅亡するか」と迫られて「一代の無道では国は滅びない。国には天地の支えがある。数世代にわたり堕落しなければ簡単には倒れない」と論じた。趙孟が「天意か」と問うと「そうだ」と答え、「いつまでか」との問いに「無道でも五穀が豊かなら天の加護であり、五年以内に変革がある」と予言した。趙孟が日陰を見て「朝夕さえも待てぬのに五年など待てまい」と呟くと、后子は退出後「趙孟はまもなく死ぬだろう。民を治める者が時を浪費すれば、未来などありはしない」と人々に語った。 解説この文章は『春秋左氏伝』に収録される二つのエピソードから構成されています。前半は鄭国における貴族間の婚姻争いと子産の裁判劇、後半は秦国の公子・后子の亡命と晋国での対話を描いています。 前半の要点: 後半の要点: 全体を通して: Translation took 4000.0 seconds. |
| 鄭為游楚亂故.六月.丁巳.鄭伯及其大夫盟于公孫段氏.罕虎.公孫僑.公孫段.印段.游吉.駟帶.私盟于閨門之外.實薰隧.公孫黑強與於盟.使大史書其名.且曰七子.子產弗討. 晉中行穆子敗無終及群狄于大原.崇卒也.將戰.魏舒曰.彼徒我車.所遇又阨.以什共車.必克.困諸阨.又克.請皆卒.自我始.乃毀車以為行.五乘為三伍.荀吳之嬖人不肯即卒.斬以徇.為五陳以相離.兩於前.伍於後.專為右角.參為左角.偏為前拒.以誘之.翟人笑之.未陳而薄之.大敗之. 莒展輿立.而奪群公子秩.公子召去疾于齊.秋.齊公子鉏納去疾.展輿奔吳.叔弓帥師疆鄆田.因莒亂也.於是莒務婁.瞀胡.及公子滅明.以大厖.與常儀靡.奔齊.君子曰.莒展之不立.棄人也夫.人可棄乎.詩曰.無競維人.善矣. 晉侯有疾.鄭伯使公孫僑如晉聘.且問疾.叔向問焉.曰.寡君之疾病.卜人曰.實沈臺駘為祟.史莫之知.敢問此何神也.子產曰.昔高辛氏有二子.伯曰閼伯.季曰實沈.居于曠林.不相能也.日尋干戈.以相征討.后帝不臧.遷閼伯于商丘.主辰.商人是因.故辰為商星.遷實沈于大夏.主參.唐人是因.以服事夏商.其季世曰唐叔虞.當武王邑姜.方震大叔.夢帝謂已.余命而子曰虞.將與之唐.屬諸參而蕃育其子孫.及生有文在其手.曰虞.遂以命之.及成王滅唐而封大叔焉.故參為晉星.由是觀之.則實沈.參神也.昔金天氏有裔子曰昧.為玄冥師.生允格.臺駘.臺駘能業其官.宣汾洮.障大澤.以處大原.帝用嘉之.封諸汾川.沈.姒.蓐.黃.實守其祀.今晉主汾而滅之矣.由是觀之.則臺駘.汾神也.抑此二者.不及君身.山川之神.則水旱癘疫之災.於是乎禜之.日月星辰之神.則雪霜風雨之不時.於是乎禜之.若君身.則亦出入飲食哀樂之事也.山川星辰之神.又何為焉.僑聞之.君子有四時.朝以聽政.晝以訪問.夕以脩令.夜以安身.於是乎節宣其气.勿使有所壅閉湫底.以露其體.茲心不爽.而昏亂百度.今無乃壹之.則生疾矣.僑又聞之.内官不及同姓.其生不殖.美先盡矣.則相生疾.君子是以惡之.故志曰.買妾不知其姓.則卜之.違此二者.古之所慎也.男女辨姓.禮之大司也.今君内實有四姬焉.其無乃是也乎.若由是二者.弗可為也已.四姬有省.猶可無則.必生疾矣.叔向曰.善哉.肸未之聞也.此皆然矣.叔向出.行人揮送之.叔向問鄭故焉.且問子皙.對曰.其與幾何.無禮而好陵人.怙富而卑其上.弗能久矣.晉侯聞子產之言曰.博物君子也.重賄之. |
鄭では游楚の乱があったため、六月丁巳の日に、鄭伯が大夫たちと公孫段の家で盟約を結んだ。罕虎・公孫僑・公孫段・印段・游吉・駟帶はひそかに閨門の外(実際には薰隧)で盟った。公孫黑が無理やり盟会に加わり、太史に自分の名前を記録させ、さらに「七人」と称させた。子産(公孫僑)は彼を討たなかった。 晋の中行穆子(荀呉)が大原で無終および群狄を打ち破った。これは歩兵を重視したためである。戦いを前に、魏舒が言った。「敵は歩兵で我々は戦車だが、遭遇する地形も狭隘だ。十人で一車に対応すれば必ず勝てる。狭隘地で包囲すればさらに勝てる。全員を歩兵としよう。私から始める」。そこで戦車を廃して歩兵の陣形とし、五乗の戦車を三つの伍に改編した。荀呉のお気に入りが歩兵となるのを拒んだので、斬って晒し者にした。五つの陣形を離れて配置し、両を前、伍を後ろに、専を右角、参を左角、偏を前拒として、敵をおびき寄せた。狄人はこれを嘲笑したが、陣を整える前に攻め寄せ、晋軍は彼らを大敗させた。 莒の展輿が立った後、群公子の禄を奪った。公子たちが齊から去疾を召還した。秋、齊の公子鉏が去疾を送り込み、展輿は吳へ逃れた。叔弓が軍を率いて鄆の田土の境界を定めたのは、莒の内乱に乗じたためである。この時、莒の務婁・瞀胡および公子滅明が、大厖と常儀靡を伴って齊へ奔った。君子が言った。「莒の展輿が立たれなかったのは、人を捨てたからだ。人を捨ててよいものか。詩に『人より競うものはない』とあるのは、もっともなことだ」。 晋侯が病気になった。鄭伯は公孫僑(子産)を晋に派遣して聘問させ、同時に見舞わせた。叔向が子産に尋ねた。「我が君の病気について、占い師が実沈と臺駘の祟りだと言いますが、史官もその由緒を知りません。この神々が何者かお聞かせください」。子産は答えた。「昔、高辛氏に二人の子がおり、兄は閼伯、弟は実沈といいました。曠林に住んで仲が悪く、日々武器を取って争っていました。后帝(堯)はこれを良しとせず、閼伯を商丘に移して辰星を祀らせ、商人がこれを受け継いだので辰は商星となりました。実沈を大夏に移して参星を祀らせ、唐人がこれを受け継ぎ、夏や商に仕えました。その末裔が唐叔虞です。武王が邑姜を娶った時、邑姜が叔虞を孕んでいると、天帝が夢に現れて『汝の子を虞と名付け、唐の地を与え、参星に属させて子孫を繁栄させよ』と言いました。生まれた子の手に『虞』の字があったので、その名としました。成王が唐を滅ぼして叔虞を封じたので、参は晋の星となったのです。こう見ると、実沈は参の神です。また昔、金天氏の子孫の昧が玄冥師(水官)となり、允格と臺駘を生みました。臺駘は父の職を継ぎ、汾水と洮水を疏通させ、大澤を堤防で整え、大原を居住地としました。帝はこれを賞賛し、汾川に封じました。沈・姒・蓐・黄の四国がその祭祀を守っていましたが、今や晋が汾水を支配しながらこれらの国を滅ぼしました。こう見ると、臺駘は汾の神です。しかしこの二神は君の身には関係ありません。山川の神は水旱や疫病の災いがあれば禜(まつり)で鎮め、日月星辰の神は雪霜風雨が不順なら禜で祈ります。君のご病気は、むしろ出入りや飲食、哀楽の節度に関わるものです。山川星辰の神が関与するはずがありません。私は聞きます。君子には四時の時間があり、朝は政務を聴き、昼は訪問し、夕は命令を整え、夜は身体を休めます。こうして気を調節し、鬱滞させず、体を損ねず、心を乱さないのです。もしこれが一様になれば病気になります。また聞きます。后宮に同姓を置けば子孫が繁栄せず、美しさが先に尽きれば病気を生みます。君子はこれを忌み嫌うので、古書に『妾を買う時に姓がわからなければ占え』とあります。この二点を外せば、病気は防ぎようがありません。今、君の后宮には四人の姬(同姓の妃)がいます。これが原因ではないでしょうか」。叔向は「素晴らしい見解です。私は未だ聞いたことがありません」と言った。叔向が退出する時、行人の揮が送り、叔向が鄭の情勢と子皙(公孫黑)について尋ねると、揮は「あとどれほど持ちこたえましょうか。礼を欠き人を侮り、富を頼んで上位者を軽んじる者は長続きしません」と答えた。晋侯は子産の話を聞いて「博識な君子だ」と賞賛し、多額の財貨を贈った。 【解説】 Translation took 2743.8 seconds. |
| 晉侯求醫於秦.秦伯使醫和視之.曰.疾不可為也.是謂近女室.疾如蠱.非鬼非食.惑以喪志.良臣將死.天命不祐.公曰.女不可近乎對曰.節之.先王之樂.所以節百事也.故有五節遲速本末以相及.中聲以降.五降之後.不容彈矣.於是有煩手淫聲.慆堙心耳.乃忘平和.君子弗聽也.物亦如之.至於煩.乃舍也已.無以生疾.君子之近琴瑟.以儀節也.非以慆心也.天有六气.降生五味.發為五色.徵為五聲.淫生六疾.六气曰陰.陽.風.雨.晦明也.分為四時.序為五節.過則為菑.陰淫寒疾.陽淫熱疾.風淫末疾.雨淫腹疾.晦淫惑疾.明淫心疾.女陽物而晦時.淫則生内熱惑蠱之疾.今君不節不時能無及此乎.出告趙孟.趙孟曰.誰當良臣.對曰.主是謂矣.主相晉國.於今八年.晉國無亂.諸侯無闕.可謂良矣.和聞之.國之大臣.榮其寵祿.任其寵節.有菑禍興而無改焉.必受其咎.今君至於淫以生疾.將不能圖恤社稷.禍孰大焉.主不能禦.吾是以云也.趙孟曰.何謂蠱.對曰.淫溺惑亂之所生也.於文.皿蟲為蠱.穀之飛亦為蠱.在周易.女惑男.風落山.謂之蠱.皆同物也.趙孟曰.良醫也.厚其禮而歸之. 楚公子圍使公子黑肱.伯州犁.城犨.櫟.郟.鄭人懼.子產曰.不害.令尹將行大事.而先除二子也.禍不及鄭.何患焉.冬.楚公子圍將聘于鄭.伍舉為介.未出竟.聞王有疾而還.伍舉遂聘.十一月.己酉.公子圍至.入問王疾.縊而弒之.遂殺其二子幕及平夏.右尹子干出奔晉.宮廄尹子皙出奔鄭.殺大宰伯州犁于郟.葬王于郟.謂之郟敖.使赴于鄭.伍舉問應為後之辭焉.對曰.寡大夫圍.伍舉更之曰.共王之子圍為長.子干奔晉.從車五乘.叔向使與秦公子同食.皆百人之餼.趙文子曰.秦公子富.叔向曰.底祿以德.德鈞以年.年同以尊.公子以國.不聞以富.且夫以千乘去其國.彊禦已甚.詩曰.不侮鰥寡.不畏彊禦.秦楚匹也.使后子與子干齒辭.曰.鍼懼選.楚公子不獲.是以皆來.亦唯命.且臣與羇齒.無乃不可乎.史佚有言曰.非羇何忌. |
晋侯が秦に医者を求めると、秦伯は医者の和を派遣して診察させた。和は言った。「この病気は治せません。これは女色に溺れた結果で、蛊毒のような病です。鬼神の仕業でも飲食の過多でもなく、惑乱によって意志を失ったのです。良臣がまもなく亡くなるでしょう。天命も見放しています。」公が「女色に近づいてはならないのか」と問うと、和は答えた。「節度を持つことです。先王が作った音楽は、万事に節度を持たせるためのものでした。だから五つの節奏があり、緩急と主従が互いに調和し、中庸の音調で終わります。五つの音階を降りた後は、もう弾き続けることはできません。そこで乱れた手つきと淫らな音色が生じ、心と耳を塞ぎ惑わせ、平穏な心境を忘れさせます。君子はそんな音楽を聴きません。物事も同様で、煩わしさが頂点に達したら、そこで止めるべきです。そうすれば病気になることはありません。君子が琴瑟に親しむのは礼儀のためであって、心を乱すためではないのです。」 「天には六気(陰・陽・風・雨・晦・明)があり、地上に五味を生じ、五色として現れ、五声として表れます。度を過ぎると六種の病気を生じます。六気は四季に分かれ、五つの節度に順序付けられますが、過度になれば災いとなります。陰が過ぎれば寒気の病、陽が過ぎれば熱病、風が過ぎれば四肢の病、雨が過ぎれば腹部の病、晦(夜)が過ぎれば精神錯乱、明(昼)が過ぎれば心の病を引き起こします。女性は陽の性質を持ちながら晦(夜)に属する存在です。度を過ぎれば内熱と蛊毒のような病を生じます。今、君侯が節制せず時宜をわきまえなければ、こうした病にかかるのは当然です。」 和が退出して趙孟に報告すると、趙孟が「良臣とは誰のことか」と尋ねた。和は答えた。「あなた様のことです。あなたは晋国を輔佐して八年になり、国内に混乱もなく諸侯との関係も円滑です。立派な臣下と言えるでしょう。しかし私は聞きました。国の大臣は寵愛と禄に安住し、重責を担いながら、災いが起きても改めようとしないなら、必ず罰を受けると。今、君侯が度を過ぎて病に倒れ、国政を顧みられなくなれば、これ以上の災いはありません。あなたがこれを防げなかったので、私はそう申し上げたのです。」趙孟が「蛊とは何か」と問うと、和は説明した。「溺愛と惑乱から生まれるものです。文字の構成では『皿(容器)の虫』が蛊です。穀物に発生する虫も蛊と呼ばれ、易経では『女が男を惑わすこと』『風が山を崩すこと』を蛊と説きます。全て同じ原理です。」趙孟は「名医だ」と感心し、手厚い礼を贈って帰した。 楚の公子圍(こうしこい)が公子黒肱(こくこう)と伯州犁(はくしゅうり)を遣わし、犨(しゅう)・櫟(れき)・郟(こう)の三城を築かせた。鄭国はこれを恐れたが、子産は「心配無用だ。令尹(公子圍)が大事(クーデター)を起こそうとして、まず二人(公子黒肱と伯州犁)を遠ざけたのだ。災いは鄭には及ばない」と言った。 冬、楚の公子圍が鄭を訪問するため、伍挙(ごきょ)を副使として出国したが、国境を越える前に王の病気を知って単独で帰国した。伍挙はそのまま鄭へ赴いた。十一月己酉の日、公子圍は都に到着し、王の病見舞いを装って絞殺し、二人の王子(幕と平夏)も殺害した。右尹の子干は晋へ、宮廄尹の子皙は鄭へ逃亡した。伯州犁は郟で処刑され、王は郟に葬られて「郟敖」と称された。鄭への報告に際し、伍挙が後継者表現を相談すると、鄭側は「寡大夫の圍」と答えるよう指示したが、伍挙は「共王の長子である圍」と表現を改めた。 晋に亡命した子干には五台の車が付き従った。叔向は彼を秦の公子(后子)と同待遇で百人分の禄を与えた。趙文子が「秦の公子は裕福だ」と言うと、叔向は「禄は徳で決め、徳が同等なら年齢、年齢が同じなら身分で決まる。公子の場合は出身国によるので、富で決める話は聞いたことがない。そもそも千台の車を持つ公子が国を出奔するのは強権的すぎる。詩経に『弱者を侮らず、強者を恐れず』とある。秦と楚は対等だ」と述べ、后子と子干を同席させようとした。后子は辞退して言った。「私は(国を追われた)楚の公子同様、身を寄せる者です。亡命者同士を同列にされるのは不適切では。史佚の言葉に『客分でなければ遠慮する必要はない』とありますが。」 解説この一節は二つの重要なエピソードから成り立ちます。前半は古代中国の医学思想を反映した診断劇で、医者和が病気の原因を「節度のなさ」に求め、音楽理論や自然哲学(六気・五味・五声など)を援用して説得力を持たせています。特に「蛊」の概念を文字学・易経・自然現象から多角的に説明する点が特徴的です。 後半は楚国王子・圍のクーデターを描き、子産の鋭い情勢分析や伍挙の外交的駆け引きを通じて、春秋時代の権力闘争の様相を活写しています。晋で展開される亡命公子たちの待遇をめぐる議論では、当時の国際秩序や身分観念が窺え、『詩経』や史官の言葉を引用した叔向の対応に、儒教的価値観の萌芽が見られます。 両エピソードは「度を過ぎた行為が災いを生む」というテーマで連結され、個人の健康管理と国家の統治原理が相同性を持つことが示唆されています。歴史記録でありながら教訓性を帯びた構成は、『春秋左氏伝』の特徴的な表現手法です。 Translation took 4189.1 seconds. |
| 楚靈王即位.薳罷為令尹.薳啟彊為大宰.鄭游吉如楚葬郟敖.且聘立君.歸.謂子產曰.具行器矣.楚王汰侈.而自說其事.必合諸侯.吾往無日矣.子產曰.不數年.未能也. 十二月.晉既烝.趙孟適南陽將會孟子餘.甲辰朔.烝于溫.庚戌.卒.鄭伯如晉.弔及雍乃復. 昭公二年 經 二年春.晉侯使韓起來聘. 夏.叔弓如晉. 秋.鄭殺其大夫公孫黑. 冬.公如晉.至河乃復.季孫宿如晉. 傳 二年春.晉侯使韓宣子來聘.且告為政.而來見禮也.觀書於大史氏.見易象與魯春秋.曰.周禮盡在魯矣.吾乃今知周公之德.與周之所以王也.公享之.季武子賦綿之卒章.韓子賦角弓.季武子拜曰.敢拜子之彌縫敝邑.寡君有望矣.武子賦節之卒章.既享.宴于季氏.有嘉樹焉.宣子譽之.武子曰.宿敢不封殖此樹以無忘角弓.遂賦甘棠.宣子曰.起不堪也.無以及召公.宣子遂如齊納幣.見子雅.子雅召子旗.使見宣子.宣子曰.非保家之主也.不臣.見子尾.子尾見彊.宣子謂之如子旗.大夫多笑之.唯晏子信之.曰.夫子君子也.君子有信.其有以知之矣.自齊聘於衛.衛侯享之.北宮文子賦淇澳.宣子賦木瓜. 夏.四月.韓須如齊逆女.齊陳無宇送女.致少姜.少姜有寵於晉侯.晉侯謂之少齊.謂陳無宇非卿.執諸中都.少姜為之請曰.送從逆班.畏大國也.猶有所易.是以亂作.叔弓聘于晉.報宣子也.晉侯使郊勞.辭曰.寡君使弓來繼舊好.固曰.女無敢為賓.徹命於執事.敝邑弘矣.敢辱郊使.請辭.致館.辭曰.寡君命下臣來繼舊好.好合使成.臣之祿也.敢辱大館.叔向曰.子叔子知禮哉.吾聞之曰.忠信.禮之器也.卑讓.禮之宗也.辭不忘國.忠信也.先國後己.卑讓也.詩曰.敬慎威儀.以近有德.夫子近德矣. |
楚の霊王が即位した。薳罷が令尹となり、薳啓彊が太宰となった。鄭の游吉が楚に赴き、郟敖の葬儀に参列し、併せて新君の即位を聘問した。帰国後、子産に報告して言った。「(楚王は)すでに出行の道具を整えています。楚王は驕慢で奢侈であり、自らその事業を喜んでおられる。必ずや諸侯を会合させるでしょう。我々が赴く日も遠くないはずです」。子産は言った。「数年以内には実現しないでしょう」。 十二月、晋で烝祭(冬の祭祀)が終わると、趙孟は南陽に赴き、孟子餘(趙衰)の廟で会おうとした。甲辰の朔日(一日)に温で烝祭を行い、庚戌(七日)に趙孟は死去した。鄭伯が晋に赴いたが、雍の地まで来て弔問するとすぐに帰国した。 昭公二年 二年の春、晋侯が韓起を遣わして聘問させた。 夏、叔弓が晋へ赴いた。 秋、鄭がその大夫の公孫黑を処刑した。 冬、公(魯の昭公)が晋へ赴いたが、黄河まで来て引き返した。季孫宿が晋へ赴いた。 伝文 二年の春、晋侯が韓宣子(韓起)を遣わして聘問させ、かつ政務を執掌することを告げさせた。これは礼を尽くして訪問したのである。韓宣子は太史の役所で文献を閲覧し、『易象』と『魯の春秋』を見て言った。「周の礼はことごとく魯に残っている。私は今こそ周公の徳と、周が天下を王たる所以を知った」。昭公は宴饗を催した。季武子が『詩経』の「綿」の最終章を賦すると、韓宣子は「角弓」を賦した。季武子が拝礼して言った。「敢えて子が我が国を補われたことを拝謝します。寡君も期待しておられます」。季武子が「節」の最終章を賦した。宴饗が終わると、季氏の屋敷で酒宴が開かれた。そこに立派な樹があったので、韓宣子がそれを賞賛すると、季武子は言った。「宿(季武子)は敢えてこの樹を栽培して手入れし、『角弓』を忘れないように致します」。そして「甘棠」を賦した。韓宣子は言った。「起(韓宣子)はその誉れに耐えません。召公まで及びません」。韓宣子は斉へ赴き結納の品を納めた。子雅に会うと、子雅は子旗を呼び寄せ、韓宣子に会わせた。韓宣子は「家を保つ主君ではなく、臣下としての風格に欠ける」と評した。子尾に会うと、子尾は彊(子尾の子)を会わせた。韓宣子は子旗と同じ評価を下した。大夫たちは多くこれを嘲笑したが、晏子だけは信じて言った。「あの方は君子である。君子には信実がある。彼にはそれを見抜く根拠があるのだ」。韓宣子は斉から衛へ聘問した。衛侯が宴饗を催すと、北宮文子が「淇澳」を賦し、韓宣子が「木瓜」を賦した。 夏の四月、韓須が斉へ赴き新娘を迎えに行った。斉の陳無宇が新娘を送り届け、少姜を晋侯に献じた。少姜は晋侯に寵愛され、晋侯は彼女を少斉と呼んだ。晋侯は陳無宇が卿ではないとして中都で拘束した。少姜が彼のために取りなして言った。「送り側の位階は迎え側の位階に従うのが慣例です。大国を畏れてのことです。それでもなお位階に違いがあれば、混乱が生じます」。叔弓が晋を聘問した。これは韓宣子の訪れに答えるためである。晋侯が郊外で慰労の使者を送ったが、叔弓は辞退して言った。「寡君が弓を遣わしましたのは旧好を継ぐためで、固より『汝は賓礼を受けるな』と命じられております。執事の方々に使命を全うさせて頂き、弊邑は大いに光栄です。敢えて郊労の使者を煩わせることは辞退致します」。賓館を提供されると、辞退して言った。「寡君が下臣を遣わしましたのは旧好を継ぐためです。友好関係が成立し使命が達成されれば、臣の俸禄に匹敵する喜びです。敢えて立派な賓館には及ばず辞退します」。叔向が言った。「子叔子(叔弓)は礼をわきまえている。私は聞いている。『忠信は礼の器であり、卑譲は礼の根本である』と。辞退する際に自国を忘れないのは忠信であり、国を先にし自分を後にするのは卑譲である。詩に『敬して威儀を慎み、以て有徳に近づけ』とある。この夫子は徳に近いお方だ」。 解説: Translation took 2274.0 seconds. |
| 秋.鄭公孫黑將作亂.欲去游氏而代其位.傷疾作而不果.駟氏與諸大夫欲殺之.子產在鄙.聞之.懼弗及.乘遽而至.使吏數之.曰.伯有之亂.以大國之事.而未爾討也.爾有亂心無厭.國不女堪.專伐伯有.而罪一也.昆弟爭室.而罪二也.薰隧之盟.女矯君位.而罪三也.有死罪三.何以堪之.不速死.大刑將至.再拜稽首辭曰.死在朝夕.無助天為虐.子產曰.人誰不死.凶人不終.命也.作凶事.為凶人.不助天.其助凶人乎.請以印為褚師.子產曰.印也若才.君將任之.不才.將朝夕從女.女罪之不恤.而又何請焉.不速死.司寇將至. 七月.壬寅.縊.尸諸周氏之衢.加木焉.晉少姜卒.公如晉.及河.晉侯使士.文伯來辭曰.非伉儷也.請君無辱.公還.季孫宿遂致服焉叔.向言陳無宇於晉侯曰.彼何罪.君使公族逆之.齊使上大夫送之.猶曰不共.君求以貪.國則不共.而執其使.君刑己頗.何以為盟主.且少姜有辭. 冬.十月.陳無宇歸. 十一月.鄭印段如晉弔. 昭公三年 經 三年春.王正月.丁未.滕子原卒. 夏.叔弓如滕. 五月.葬滕成公. 秋.小邾子來朝. 八月.大雩. 冬.大雨雹.北燕伯款出奔齊. 傳 三年春.王正月.鄭游吉如晉.至少姜之葬.梁丙與張趯見之.梁丙曰.甚矣哉.子之為此來也.子大叔曰.將得已乎.昔文襄之霸也.其務不煩諸侯.令諸侯三歲而聘.五歲而朝.有事而會.不協而盟.君薨大夫弔.卿共葬事.夫人士弔.大夫送葬.足以昭禮命.事謀闕而已.無加命矣.今嬖寵之喪.不敢擇位.而數於守適.唯懼獲戾.豈敢憚煩.少姜有寵而死.齊必繼室.今茲吾又將來賀.不唯此行也.張趯曰.善哉.吾得聞此數也.然自今子其無事矣.譬如火焉.火中.寒暑乃退.此其極也.能無退乎.晉將失諸侯.諸侯求煩不獲.二大夫退.子大叔告人曰.張趯有知.其猶在君子之後乎.丁未.滕子原卒.同盟.故書名.齊侯使晏嬰請繼室於晉.曰.寡君使嬰曰.寡人願事君.朝夕不倦.將奉質幣.以無失時.則國家多難.是以不獲.不腆先君之適.以備内官.焜燿寡人之望.則又無祿.早世隕命.寡人失望.君若不忘先君之好.惠顧齊國.辱收寡人.徼福於大公丁公.照臨敝邑.鎮撫其社稷.則猶有先君之適.及遺姑姊妹若而人.君若不棄敝邑.而辱使董振擇之.以備嬪嬙.寡人之望也.韓宣子使叔向對曰.寡君之願也.寡君不能獨任其社稷之事.未有伉儷.在縗絰之中.是以未敢請.君有辱命.惠莫大焉.若惠顧敝邑.撫有晉國.賜之内主.豈惟寡君.舉群臣實受其貺其自唐叔以下.實寵嘉之.既成昏.晏子受禮.叔向從之晏.相與語.叔向曰.齊其何如.晏子曰.此季世也.吾弗知.齊其為陳氏矣.公棄其民.而歸於陳氏.齊舊四量.豆.區.釜.鍾.四升為豆.各自其四.以登於釜.釜十則鍾.陳氏三量.皆登一焉.鍾乃大矣.以家量貸.而以公量收之.山木如市.弗加於山.魚鹽蜃蛤.弗加於海.民參其力.二入於公.而衣食其一.公聚朽蠹.而三老凍餒.國之諸市.屨賤踊貴.民人痛疾.而或燠休之.其愛之如父母.而歸之如流水.欲無獲民.將焉辟之.箕伯.直柄.虞遂.伯戲.其相胡公大姬.已在齊矣.叔向曰.然.雖吾公室.今亦季世也.戎馬不駕.卿無軍行.公乘無人.卒列無長.庶民罷敝.而宮室滋侈.道殣相望.而女富溢尤.民聞公命.如逃寇讎.欒.郤.胥.原.狐.續.慶.伯.降在皁隸.政在家門.民無所依.君日不悛.以樂慆憂.公室之卑.其何日之有.讒鼎之銘曰.昧旦丕顯.後世猶怠.況日不悛.其能久乎.晏子曰.子將若何.叔向曰.晉之公族盡矣.肸聞之.公室將卑.其宗族枝葉先落.則公從之.肸之宗十一族.唯羊舌氏在而已.肸又無子.公室無度.幸而得死.豈其獲祀.初.景公欲更晏子之宅.曰.子之宅近市.湫隘囂塵.不可以居.請更諸爽塏者.辭曰.君之先臣容焉.臣不足以嗣之.於臣侈矣.且小人近市.朝夕得所求.小人之利也.敢煩里旅.公笑曰.子近市.識貴賤乎.對曰.既利之.敢不識乎.公曰.何貴何賤.於是景公繁於刑.有鬻踊者.故對曰.踊貴屨賤.既已告於君.故與叔向語而稱之.景公為是省於刑.君子曰.仁人之言.其利博哉.晏子一言而齊侯省刑.詩曰.君子如祉.亂庶遄已.其是之謂乎.及晏子如晉.公更其宅.反則成矣.既拜乃毀之.而為里室.皆如其舊.則使宅人反之.且諺曰.非宅是卜.唯鄰是卜.二三子先卜鄰矣.違卜不祥.君子不犯非禮.小人不犯不祥.古之制也.吾敢違諸乎.卒復其舊宅.公弗許.因陳桓子以請.乃許之. |
秋、鄭の公孫黑が乱を起こそうとし、游氏を除いてその地位を代わろうとした。しかし傷の病気が発作を起こし、果たせなかった。駟氏と諸大夫は彼を殺そうとした。子産は辺境にいたが、これを聞き、間に合わないことを恐れ、駅伝馬で急いで到着した。役人を使い、その罪を数え上げて言った。「伯有の乱の時、大国(晋)の事情があって、お前を罰しなかった。お前には乱の心が飽くことを知らず、国はお前に耐えられない。専断で伯有を討ったのが罪の一。兄弟で妻を争ったのが罪の二。薰隧の盟で、お前は君の位を僭称したのが罪の三。死罪が三つもあるのに、どうして耐えられようか。早く死なないなら、重刑が訪れよう」。公孫黑は再拝して頭を地に付け、言い訳して言った。「死は朝夕に迫っている。天が虐げるのを助けないでくれ」。子産は言った。「人が誰死なないというのか。凶悪な者は天命を全うしない。凶事を行い、凶人となった者に、天を助けず、凶人を助けるというのか」。公孫黑が「印を褚師(官職)にしてほしい」と請うたが、子産は言った。「印に才能があれば、君が任用するだろう。才能がなければ、朝夕お前の後を追うだけだ。お前は自分の罪も顧みず、また何を請うのか。早く死なないなら、司寇が来るだろう」。 七月壬寅の日、公孫黑は縊死した。遺体を周氏の通りの市場に晒し、木札を添えて罪状を記した。晋の少姜が卒去した。昭公が晋に行こうとしたが、黄河に着いた時、晋侯が士文伯を使者として辞退を伝えさせた。「(少姜は)正室ではないので、君はわざわざ来られないでください」。昭公は帰還した。季孫宿は喪服を贈って弔問した。叔向が晋侯に陳無宇のことを言上した。「彼に何の罪があるのですか。君が公族を派遣して迎えさせ、斉が上大夫を送ったのに、まだ礼を尽くさないと言います。君が貪欲に求め、国が礼を尽くさないと言って、その使者を拘束する。君の刑罰は既に偏っています。どうして盟主たることができましょうか。しかも少姜には(斉に遠慮する)言い分がありました」。 冬十月、陳無宇は帰国した。 十一月、鄭の印段が晋に赴いて弔問した。 昭公三年 三年春、周暦正月丁未の日、滕子原が卒去した。 夏、叔弓が滕に行った。 五月、滕成公を葬った。 秋、小邾子が来朝した。 八月、大雩(雨乞いの儀式)を行った。 冬、大雨と雹があり、北燕の伯款が斉に亡命した。 伝 三年春、周暦正月、鄭の游吉が晋に行き、少姜の葬儀に参列した。梁丙と張趯が彼に会った。梁丙が言った。「ずいぶんとご苦労なことだ、君がこのために来たのは」。子大叔(游吉)は言った。「已むを得ずして来たのです。昔、文公・襄公が覇者だった時、その事務は諸侯に煩わせず、諸侯に三年ごとに聘問、五年ごとに朝見させ、有事があれば会合し、不和があれば盟約を結んだ。君が薨去すれば大夫が弔問し、卿が葬事を担当し、夫人の場合は士が弔問し、大夫が葬送を務めた。礼と命令を明らかにし、事の不足を補うだけで、追加の命令はなかった。今、寵姫の喪に、身分を選ばず、正室の例に数を合わせ、ただ罪を得るのを恐れるだけで、どうして煩わしさを畏れようか。少姜は寵愛されて死んだので、斉は必ず後継ぎを送るだろう。今年中に私はまた来て賀さなければならない。この一度だけではないのです」。張趯は言った。「なるほど。私はこの道理を聞くことができた。しかし今後は君も用事がなくなるだろう。火のように、火(心星)が中天にある時、寒暑が退く。これが頂点だ。退かないでいられようか。晋は諸侯を失うだろう。諸侯は煩わしさを求めても得られなくなる」。二人の大夫が退いた後、子大叔は人に告げて言った。「張趯は知者だ。彼はまだ君子の後塵を拝する立場にあるのだろう」。丁未の日、滕子原が卒去した。同盟国だったので、名を記録した。斉侯は晏嬰を使者として晋に後継ぎの妃を請うさせた。「寡君(私の君)が嬰(晏嬰)に申させます。寡人は君に仕え、朝夕倦むことなく、貢物や礼物を捧げて時を失わないように願っています。しかし国に多難があり、叶いませんでした。まずい先君の娘を内官の一人として備え、寡人の望みを輝かせてくれましたが、また運なく早世しました。寡人は失望しています。君が先君のよしみを忘れず、恵みをもって斉国を顧み、辱くも寡人を受け入れ、太公・丁公に祈って福を求め、敝邑を照臨し、その社稷を鎮め撫でてくださるなら、まだ先君の娘や遺された姑姉妹が何人かおります。君が敝邑を棄てず、辱くも董振(慎重に)に選ばせ、嬪嬙(后妃)の一人として備えさせてくださることが、寡人の望みです」。韓宣子が叔向に命じて答えさせた。「それは寡君の願いです。寡君は独りで社稷の事を任せられず、配偶がおらず、喪中にあるので、敢えて請うませんでした。君が辱くも命じられるのは、恵みこれより大なるはありません。もし敝邑を顧み、晋国を撫で持ち、内主(正室)を賜わるなら、寡君のみならず、群臣皆その恵みを受けるでしょう。唐叔以来、皆寵愛し嘉するでしょう」。婚約が成立した後、晏子は礼を受け、叔向が彼に付き従い、共に語り合った。叔向が言った。「斉は今後どうなるだろう」。晏子は言った。「これは末世です。私は知りません。斉はやがて陳氏のものとなるでしょう。公は民を棄て、民は陳氏に帰します。斉の旧来の四量は、豆、区、釜、鐘です。四升が豆で、それぞれ四倍ずつして釜に至り、釜十が鐘です。陳氏の三量は皆一割増しで、鐘はより大きい。家の量で貸し、公の量で回収する。山の木材を市場に出しても山より高くせず、魚・塩・蜃・蛤を海より高くしない。民の力を三分し、二を公に取り、一を衣食にする。公の蓄えは朽ち虫が食い、三老(高齢者)は凍え飢える。国の市場では、普通の靴は安く、刑足用の義足は高い。民は痛み苦しむが、ある者は(陳氏が)慰め労う。民は彼らを父母のように慕い、流水のように帰する。民を得ないでいられようか。箕伯、直柄、虞遂、伯戲(陳氏の祖先)らが、胡公と大姬を助け、既に斉にいるのです」。叔向は言った。「その通りです。我が公室も今は末世です。軍馬は駆らず、卿は軍を率いず、公の兵車には人おらず、兵卒の列には長おらず、庶民は疲弊し、宮室はますます奢侈だ。路上に餓死者が相望み、女寵(后妃の一族)は富み栄える。民は公の命令を聞けば、寇讐(敵)を逃れるように避ける。欒、郤、胥、原、狐、続、慶、伯の諸族は、賤役に落ちぶれ、政権は私門(大臣)にあり、民は依る所がない。君は日々改めず、楽しみで憂いを覆い隠す。公室の衰えは、何日持つだろうか。讒鼎の銘に『早朝から大いに顕かにしろ、後世ですら怠るのに』とある。まして日々改めないで、長く持つだろうか」。晏子が言った。「あなたはどうするおつもりか」。叔向は言った。「晋の公族は尽き果てた。私は聞く、公室が衰える時、その宗族の枝葉が先に落ち、 then 公室が従うと。私の宗族は十一族あったが、羊舌氏のみが残る。私には子もない。公室に法度がなく、幸いに死を得れば、まして祭祀を得られようか」。初め、景公が晏子の宅を替えようと言った。「君の宅は市場に近く、低湿で狭く喧騒塵多い。住むに適さない。高燥の地に替えよう」。晏子は辞退して言った。「君の先代の臣がここに住み、臣は継ぐに足りません。臣には贅沢です。かつ小人は市場に近く、朝夕に求めるものが得られるのが利点です。どうして里の役人を煩わせましょう」。景公は笑って言った。「君は市場に近いから、物の高低を知っているか」。晏子は答えた。「利益にしている以上、知らないわけがありません」。景公が「何が高く何が安いか」と問うた時、景公は刑罰が多く、義足を売る者がいたので、答えて言った。「義足は高く、普通の靴は安いです」。既に君に告げたので、叔向と語り合う時にもこれを称した。景公はこれにより刑罰を減らした。君子が言う。「仁人の言葉は、その利益広いと。晏子の一言で斉侯が刑罰を減らした。詩に『君子が福を与えれば、乱は早く止む』とある。これを言うのでしょう」。晏子が晋に行った時、景公はその宅を改築し、帰ると完成していた。晏子は礼を尽くした後、それを壊し、元の家屋を建て直し、以前の住民を戻させた。そして諺に「宅を卜するではなく、隣を卜するのだ」と言う。諸君は先に隣を卜した。卜に背くのは不祥だ。君子は非礼を犯さず、小人は不祥を犯さない。古の制度だ。私はどうして背けようか」。結局旧宅に戻った。景公は許さなかったが、陳桓子を通じて請うと、許された。 【解説】 Translation took 5530.5 seconds. |
| 夏.四月.鄭伯如晉.公孫段相.甚敬而卑.禮無違者.晉侯嘉焉.授之以策.曰.子豐有勞於晉國.余聞而弗忘.賜女州田.以胙乃舊勳.伯石再拜稽首.受策以出.君子曰.禮其人之急也乎.伯石之汏也.一為禮於晉.猶荷其祿.況以禮終始乎.詩曰.人而無禮.胡不遄死.其是之謂乎.初.州縣欒豹之邑也.及欒氏亡.范宣子.趙文子.韓宣子.皆欲之.文子曰.溫吾縣也.二宣子曰.自郤稱以別三傳矣.晉之別縣.不唯州.誰獲治之.文子病之.乃舍之.二子曰.吾不可以正議而自與也.皆舍之.及文子為政.趙獲曰.可以取州矣.文子曰.退.二子之言義也.違義禍也.余不能治余縣.又焉用州.其以徼禍也.君子曰.弗知實難.知而弗從.禍莫大焉.有言州必死.豐氏故主.韓氏伯石之獲州也.韓宣子為之請之.為其復取之之故. 五月.叔弓如滕.葬滕成公.子服椒為介.及郊.遇懿伯之忌.敬子不入.惠伯曰.公事有公利.無私忌.椒請先入.乃先受館.敬子從之.晉韓起如齊逆女.公孫蠆為少姜之有寵也.以其子更公女.而嫁公子.人謂宣子.子尾欺晉.晉胡受之.宣子曰.我欲得齊而遠其寵.寵將來乎. 秋.七月.鄭罕虎如晉.賀夫人.旦告曰.楚人日徵敝邑.以不朝立王之故.敝邑之往.則畏執事.其謂寡君.而固有外心.其不往.則宋之盟云.進退罪也.寡君使虎布之.宣子使叔向對曰.君若辱有寡君.在楚何害.脩宋盟也.君苟思盟.寡君乃知免於戾矣.君若不有寡君.雖朝夕辱於敝邑.寡君猜焉.君實有心.何辱命焉.君其往也.苟有寡君.在楚猶在晉也.張趯使謂大叔曰.自子之歸也.小人糞除先人之敝廬.曰.子其將來.今子皮實來.小人失望.大叔曰.吉賤不獲來.畏大國尊夫人也.且孟曰而將無事.吉庶幾焉.小邾穆公來朝.季武子欲卑之.穆叔曰.不可.曹滕二邾.實不忘我.好敬以逆之.猶懼其貳.又卑一睦焉.逆群好也.其如舊而加敬焉志曰.能敬無災.又曰.敬逆來者.天所福也.季孫從之. |
夏、四月、鄭伯が晋へ行った。公孫段が付き従い、非常に恭敬でへりくだり、礼に違うところがなかった。晋侯はこれを賞賛し、策書を授けて言った。「子豊は晋国に功労があった。私は聞いて忘れていない。汝に州の田を与え、汝の旧功を報いるのだ」。伯石(公孫段)は再拝叩頭し、策書を受け取って退出した。君子が言う。「礼とは人にとって急務なものだ。伯石の傲慢さも、一度晋で礼を示せば、その禄を受けることができた。ましてや礼を終始貫くならばどうだろう。詩に『礼なくして人たる者、どうして早く死なないのか』とある。これはまさにこのことを言うのだろう」。 当初、州県は欒豹の領地だった。欒氏が滅びると、范宣子、趙文子、韓宣子は皆それを欲しがった。文子(趙文子)が「温は私の県だ」と言うと、二宣子(范宣子と韓宣子)は「郤称以来三世代に分かれており、晋の分県は州だけではない。誰が治めるべきか」と言った。文子はこれを不快に思い、手放した。二人は「正論を唱えて自分だけ利益を得るわけにはいかない」と言い、皆手放した。後に文子が政権を執ると、趙獲が「州を取るべきです」と言った。文子は「引っ込め。二人の言葉は義である。義に背けば禍いだ。私は自分の県も治めきれないのに、州をどうして使えよう。禍いを招くだけだ」と言った。君子が言う。「知らないことは難しいが、知りながら従わないのは最大の禍いだ」。州のことを言う者は必ず死ぬという言葉があった。豊氏(子豊の家系)が以前から主管しており、韓氏の伯石が州を得たのは、韓宣子が請願したためで、再び取得するためだった。 五月、叔弓が滕へ行き、滕成公の葬儀に参列した。子服椒が副使として同行した。郊外に着くと、懿伯の忌日だったため、敬子(叔弓)は中に入らなかった。惠伯(子服椒)が「公事には公の利益があり、私的な忌日は関係ありません。私が先に入ります」と言い、先に宿舎を受け取った。敬子はそれに従った。 晋の韓起が齊へ行き、娘を迎えに行った。公孫蠆は少姜(齊の公女)が寵愛されているのを利用し、自分の娘を公女と偽って嫁がせ、本物の公女は別に嫁がせた。人々が宣子(韓起)に「子尾が晋を欺いているのに、なぜ晋は受け入れるのか」と言うと、宣子は「私は齊を得たいが、その寵愛を遠ざければ、寵愛は来るだろうか」と答えた。 秋、七月、鄭の罕虎が晋へ行き、夫人(少姜)を祝賀した。そして告げて言った。「楚は日々我が国を責め立て、新王に朝礼しないことを理由にしています。我が国が行けば、そちらの執事を畏れ、我が君が外心を持つと言われるでしょう。行かなければ、宋の盟約に背くことになります。進退ともに罪です。我が君が虎に申し上げさせました」。宣子は叔向に対応させて言った。「君が我が君を思うなら、楚にいても何の害もない。宋の盟約を修めるためです。君が盟約を思うなら、我が君は過ちを免れると知るでしょう。君が我が君を思わなければ、朝夕弊国に来られても、我が君は疑います。君に真心があれば、わざわざ命を受ける必要はありません。君は行くがよい。我が君を思うなら、楚にいるのも晋にいるのと同じです」。張趯が大叔に伝言して言った。「貴方が帰ってから、私は先人の粗末な家を掃除して、『貴方が再来するだろう』と言っていました。今、子皮(罕虎)が来ましたが、貴方は来ず、私は失望しました」。大叔は答えた。「吉(大叔の名)は身分が低いため来られず、大国と夫人を畏れたのです。かつて孟(張趯)が『何事もないだろう』と言ったので、吉はほぼそうなると思っていました」。 小邾の穆公が朝礼に来た。季武子は彼を軽んじようとしたが、穆叔が「それはできません。曹、滕、二邾は真心で我々を忘れず、敬いをもって迎えても、まだ裏切ることを恐れます。さらに一つ友好国を軽んじれば、多くの友好国に逆らうことになります。従来通りに敬いを加えるべきです。志に『敬えば災いなし』とあり、また『来る者を敬って迎えれば、天が祝福する』と言います」。季孫はこれに従った。 解説: Translation took 2026.1 seconds. |
| 八月.大雩.旱也.齊侯田於莒.盧蒲嫳見.泣且請曰.余髮如此種種.余奚能為.公曰.諾.吾告二子.歸而告之.子尾欲復之.子雅不可.曰.彼其髮短而心甚長.其或寢處我矣. 九月.子雅放盧蒲嫳于北燕.燕簡公多嬖寵.欲去諸大夫.而立其寵人.冬.燕大夫比以殺公之外嬖.公懼奔齊.書曰.北燕伯款出奔齊.罪之也. 十月.鄭伯如楚.子產相.楚子享之.賦吉日既享.子產乃具田備.王以田江南之夢.齊公孫灶卒.司馬灶見晏子曰.又喪子雅矣.晏子曰.惜也子旗不免.殆哉姜族弱矣.而媯將始昌.二惠競爽.猶可.又弱一個焉.姜其危哉. 昭公四年 經 四年春.王正月.大雨雹. 夏.楚子.蔡侯.陳侯.鄭伯.許男.徐子.滕子.頓子.胡子.沈子.小邾子.宋世子.佐淮夷會于申.楚人執徐子. 秋.七月.楚子.蔡侯.陳侯.許男.頓子.胡子.沈子.淮夷.伐吳.執齊慶封.殺之.遂滅賴. 九月.取鄫. 冬.十有二月.乙卯.叔孫豹卒. 傳 四年春.王正月.許男如楚.楚子止之.遂止鄭伯.復田江南.許男與焉.使椒舉如晉求諸侯.二君待之椒舉致命曰.寡君使舉曰.日君有惠.賜盟于宋.曰.晉楚之從.交相見也.以歲之不易.寡人願結驩於二三君.使舉請間.君若苟無四方之虞.則願假寵以請於諸侯.晉侯欲勿許.司馬侯曰.不可.楚王方侈.天或者欲逞其心.以厚其毒而降之罰.未可知也.其使能終.亦未可知也.晉楚唯天.所相不可與爭.君其許之.而脩德以待其歸.若歸於德.吾猶將事之.況諸侯乎.若適淫虐.楚將棄之.吾又誰與爭.曰.晉有三不殆.其何敵之有.國險而多馬.齊楚多難.有是三者.何鄉而不濟.對曰.恃險與馬.而虞鄰國之難.是三殆也.四獄三塗.陽城大室.荊山中南.九州之險也.是不一姓.冀之北土.馬之所生.無興國焉.恃險與馬.不可以為固也.從古以然.是以先王務脩德音.以亨神人.不聞其務險與馬也.鄰國之難.不可虞也.或多難以固其國.啟其疆土.或無難以喪其國.失其守宇.若何虞難.齊有仲孫之難.而獲桓公.至今賴之.晉有里平之難.而獲文公.是以為盟主.衛邢無難.敵亦喪之.故人之難.不可虞也.恃此三者.而不脩政德.亡於不暇.又何能濟.君其許之.紂作淫虐.文王惠和.殷是以隕.周是以興.夫豈爭諸侯.乃許楚使.使叔向對曰.寡君有社稷之事.是以不獲春秋時見諸侯.君實有之.何辱命焉.椒舉遂請昏.晉侯許之.楚子問於子產曰.晉其許我諸侯乎.對曰.許君.晉君少安.不在諸侯.其大夫多求.莫匡其君.在宋之盟.又曰如一.若不許君.將焉用之.王曰.諸侯其來乎.對曰.必來.從宋之盟.承君之歡.不畏大國.何故不來.不來者.其魯衛曹邾乎.曹畏宋.邾畏魯.魯衛偪於齊而親於晉.唯是不來.其餘君之所及也.誰敢不至.王曰.然則吾所求者.無不可乎.對曰.求逞於人.不可.與人同欲.盡濟. |
【翻訳文】 八月、大規模な雨乞いの儀式が行われた。旱魃のためである。斉の侯が莒で狩りをしていた時、盧蒲嫳が謁見した。涙を流しながら願い出て言った。「私の髪はこんなに短く萎えてしまいました。私に何ができましょうか」。公は「承知した。二人に伝えよう」と言った。帰ってそのことを告げると、子尾は彼を復職させようとしたが、子雅は許さなかった。そして言った。「あの男は髪は短いが、心は非常に深い。おそらく我々を食い物にしようとするだろう」。 九月、子雅は盧蒲嫳を北燕に追放した。燕の簡公は多くの寵臣を抱えており、諸大夫を排除して自分の寵愛する者を立てようとした。冬、燕の大夫たちが結託して公の寵臣を殺害した。公は恐れて斉に逃亡した。記録に「北燕の伯款が出奔して斉に逃れた」とあるのは、彼を非難しているのである。 十月、鄭の伯が楚に行った。子産が随行した。楚の子が饗応し、『吉日』の詩を賦った。饗応が終わると、子産は狩りの準備を整えた。王は江南の夢の地で狩りを行った。斉の公孫灶(子雅)が死去した。司馬灶が晏子に会って言った。「また子雅を失ってしまいました」。晏子は言った。「惜しいことだ。子旗(子雅の子)は免れないだろう。危ういことよ、姜族が弱体化した。そして媯姓が栄え始めるだろう。二惠(子雅と子尾)が共に優れていた時はまだ良かったが、また一人弱体化した。姜姓は危ういだろう」。 昭公四年 四年春、周暦正月、大雨と雹が降った。 夏、楚子・蔡侯・陳侯・鄭伯・許男・徐子・滕子・頓子・胡子・沈子・小邾子・宋の世子佐・淮夷が申で会合した。楚が徐子を拘束した。 秋、七月、楚子・蔡侯・陳侯・許男・頓子・胡子・沈子・淮夷が吳を討ち、齊の慶封を捕らえて殺した。そして賴を滅ぼした。 九月、鄫を占領した。 冬、十二月乙卯、叔孫豹が死去した。 伝 四年春、周暦正月、許男が楚に行った。楚子は彼を引き留め、鄭伯も引き留めた。再び江南で狩りを行い、許男もこれに参加した。椒挙を晉に派遣して諸侯の会合への参加を求めた。二君(許男と鄭伯)はその返答を待った。椒挙が伝令して言った。「寡君が私を使いに出し、こう申しております。『以前、君は恩恵を賜り、宋で同盟を結びました。その時、「晉と楚に従う国々は互いに会見する」と約束しました。近年の不安定な情勢により、寡人は諸君と友好関係を結びたい。使者を介して閑暇を乞う。君が四方に憂いがなければ、寵光を借りて諸侯に会合を呼びかけたい』」。晉侯は許可しないつもりだったが、司馬侯が言った。「なりません。楚王は今、驕り高ぶっています。天が彼の欲望を満足させ、その罪を重ねた上で罰を与えようとしているのかもしれません。彼の統治が最後まで続くかも分かりません。晉と楚の運命は天が決めるもので、天の助けを争ってはなりません。君はこれを許可し、徳を修めてその帰結を待つべきです。もし彼が徳に帰するなら、我々はなおも彼に従いましょう。まして諸侯はなおさらです。もし暴虐に走れば、楚自らが彼を見捨るでしょう。我々が誰と争う必要がありましょうか」。晉侯は言った。「晉には三つの危険がない点がある。誰が敵えようか。国は険阻で馬が多く、齊と楚は多難である。この三つがあれば、どこに向かっても成功する」。司馬侯は答えた。「険阻と馬に頼り、隣国の災難を当てにすることは、かえって三つの危険です。四岳・三塗・陽城・大室・荊山・中南は、天下の険阻ですが、それらを支配したのは一つの姓ではありません。冀州の北部は馬の産地ですが、興隆した国はありません。険阻と馬に頼っても固守できません。これは古来変わらない道理です。だから先王は徳を修め、神と人を喜ばせることに務め、険阻と馬に頼ったとは聞きません。隣国の災難を当てにはできません。災難が多いことで国を固め、領土を広げる国もあれば、災難がなくても国を失う国もあります。どうして災難を当てにできましょうか。齊は公孫無知の乱がありながら桓公を得て、今もその恩恵に頼っています。晉は里克・丕鄭の乱がありながら文公を得て、盟主となりました。衛と邢には災難がなかったのに、敵に滅ぼされました。だから他人の災難を当てにはできないのです。この三つに頼って政徳を修めなければ、滅亡の暇もなく、どうして成功できましょうか。君は許可すべきです。紂王は暴虐で、文王は恵み深く温和でした。殷は因此に滅び、周は因此に興った。これらは諸侯を争ったためでしょうか」。そこで晉侯は楚の使者を許可し、叔向に答えさせた。「寡君には国家の政事があり、春秋の定期的な会見に参加できません。君は実権をお持ちですから、わざわざ命令されなくてもよいでしょう」。椒挙はさらに婚姻を請うた。晉侯はこれを許可した。楚子が子産に問うた。「晉は私が諸侯を集めることを許可するだろうか」。子産は答えた。「許可するでしょう。晉の君は若く安楽を求め、諸侯の事には関心がありません。その大夫は私利を求めるばかりで、君を補佐する者はいません。宋の同盟で「晉と楚は同等」と約束しました。もし君を許可しなければ、その約束は何の意味がありましょうか」。楚王が言った。「諸侯は来るだろうか」。子産は答えた。「必ず来るでしょう。宋の同盟に従い、君の歓心を買い、大国を恐れないのですから、来ない理由がありません。来ない者は、おそらく魯・衛・曹・邾でしょう。曹は宋を恐れ、邾は魯を恐れ、魯と衛は齊に脅かされ晉に親しんでいます。だから来ませんが、その他は君の影響力が及ぶ範囲です。誰が来ないでしょう」。王が言った。「では、私が求めることは何でも成就するのか」。子産は答えた。「他人に自分の欲望を無理に押し付けることはできません。他人の欲望と一致すれば、すべて成就します」。 【解説】
この時期は晋楚の霸権争いが続く中、各国の内部で権力移動が始まる過渡期であり、後の戦国時代への伏線が感じられる内容となっています。 Translation took 3648.8 seconds. |
| 大雨雹.季武子問於申豐曰.雹可禦乎.對曰.聖人在上.無雹.雖有不為災.古者日在北陸.而藏冰西陸.朝覿而出之.其藏冰也.深山窮谷.固陰沍寒.於是乎取之.其出之也.朝之祿位.賓食喪祭.於是乎用之.其藏之也.黑牡秬黍.以享司寒.其出之也.桃弧棘矢.以除其災.其出入也.時食肉之祿.冰皆與焉.大大命婦.喪浴用冰.祭寒而藏之.獻羔而啟之.公始用之.火出而畢賦.自命夫命婦.至於老疾.無不受冰.山人取之.縣人傳之.輿人納之.隸人藏之.夫冰以風壯.而以風出.其藏之也周.其用之也遍.則冬無愆陽.夏無伏陰.春無凄風.秋無苦雨.雷出不震.無菑霜雹癘疾不降.民不夭札.今藏川池之冰.棄而不用.風不越而殺.雷不發而震.雹之為菑.誰能禦之.七月之卒章.藏冰之道也. 夏.諸侯如楚.魯.衛.曹.邾.不會.曹邾辭以難.公辭以時祭.衛侯辭以疾.鄭伯先待于申.六月丙午.楚子合諸侯于申.椒舉言於楚子曰.臣聞諸侯無歸.禮以為歸.今君始得諸侯.其慎禮矣.霸之濟否.在此會也.夏啟有鈞臺之享.商湯有景亳之命.周武有孟津之誓.成有岐陽之蒐.康有酆宮之朝.穆有塗山之會.齊桓有召陵之師.晉文有踐土之盟.君其何用.宋向戌.鄭公孫僑.在諸侯之良也.君其選焉.王曰.吾用齊桓.王使問禮於左師與子產.左師曰.小國習之.大國用之.敢不薦聞.獻公合諸侯之禮六.子產曰.小國共職.敢不薦守.獻伯子男會公之禮六.君子謂合左師善守先代.子產善相小國.王使椒舉侍於後以規過.卒事不規.王問其故.對曰.禮吾未見者有六焉.又何以規.宋大子佐後至.王田於武城.久而弗見.椒舉請辭焉.王使往曰.屬有宗祧之事於武城.寡君將墮幣焉.敢謝後見.徐子吳出也.以為貳焉.故執諸申.楚子示諸侯侈.椒舉曰.夫六王二公之事.皆所以示諸侯.禮也.諸侯所由用命也.夏桀為仍之會.有緡叛之.商紂為黎之蒐.東夷叛之.周幽為大室之盟.戎狄叛之.皆所以示諸侯.汏也.諸侯所由棄命也.今君以汏.無乃不濟乎.王弗聽.子產見左師曰.吾不患楚矣.汏而愎諫.不過十年.左師曰.然.不十年侈.其惡不遠.遠惡而後棄.善亦如之.德遠而後興. |
大雨と雹が降った。季武子が申豐に尋ねて言った。「雹は防ぐことができるか」。申豐が答えて言った。「聖人が上位におられれば、雹は降りません。たとえ降ったとしても災害にはなりません。昔、太陽が北陸(冬至の位置)にある時に、氷を蔵(貯蔵)し、西陸(春分の位置)で朝に見えるようになってから取り出しました。氷を蔵する際は、深山の奥深い谷間で、堅く陰寒で凍えるような寒さの場所から採取しました。取り出す際は、朝廷の禄位にある者や、賓客の饗応、食事、喪事、祭祀などに用いました。蔵する時は、黒い雄牛と黒黍を用いて司寒の神を祭り、取り出す時は、桃の木の弓と棘の矢で災いを除きました。氷の出入りには、時に肉食を賜る禄のある者には、皆氷も与えられました。大夫や命婦などは、喪事での沐浴に氷を使い、寒さを祭って蔵し、羔(子羊)を献じて啓(開)きます。公(君主)が最初に用い、大火星が出ると賦与(分配)を終えました。命夫や命婦から老人や病人まで、氷を受けない者はありませんでした。山人が採取し、県人が運び、輿人(車夫)が納め、隸人(下僕)が蔵しました。氷は風によって強壮になり、風によって出されます。蔵し方が周到で、用い方が遍く行き渡れば、冬には過剰な陽気がなく、夏には陰気が潜まず、春には冷たい風がなく、秋には長雨がなく、雷が鳴っても震災せず、災いの霜や雹や疫病が降りかからず、民は夭折したり疫病で死んだりしません。今、川や池の氷を蔵しながら棄てて用いないので、風が順調に吹かずに殺伐とし、雷が適切に鳴らずに震災します。雹が災いとなるのを、誰が防げましょうか。『詩経』七月の最終章は、氷を蔵する道理を述べたものです」。 夏、諸侯が楚へ赴いたが、魯、衛、曹、邾は会合に参加しなかった。曹と邾は困難を理由に辞退し、魯公は時の祭祀を理由に辞退し、衛侯は病気を理由に辞退した。鄭伯は先に申で待機した。六月丙午、楚子(楚の王)が申で諸侯を会合させた。椒挙が楚子に言った。「臣は聞きます。諸侯は帰属する先がなく、礼をもって帰属するものだと。今、君が初めて諸侯を得られたのです。礼を慎まれるべきです。覇業が成就するか否かは、この会合にかかっています。夏の啓王には鈞臺の饗宴があり、商の湯王には景亳の命令があり、周の武王には孟津の誓いがあり、成王には岐陽の蒐(狩猟儀礼)があり、康王には酆宮の朝見があり、穆王には塗山の会合があり、齊の桓公には召陵の師(軍事的示威)があり、晉の文公には踐土の盟約がありました。君はどれを用いられますか。宋の向戌と鄭の公孫僑(子産)は、諸侯の中の優れた者です。君は彼らから選ばれるとよいでしょう」。王は言った。「私は齊桓公を用いよう」。王は左師(向戌)と子産に礼について問う使者を遣わした。左師は言った。「小国は礼を学び、大国が用います。敢えて聞いたことを献上します」。そして公が諸侯を会合させる礼を六つ献じた。子産は言った。「小国は職務を尽くします。敢えて守ることを献上します」。そして伯・子・男が公に会する礼を六つ献じた。君子は、左師(向戌)が先代の礼をよく守り、子産が小国を輔けるのに優れていると評した。王は椒挙を後ろに侍らせて過失を監察させたが、会合が終わっても規制しなかった。王がその理由を尋ねると、椒挙は答えて言った。「礼で私が見たことのないものが六つありました。どうして規制できましょうか」。宋の太子佐が後から到着した。王は武城で狩猟をしており、長い間会おうとしなかった。椒挙は辞儀するよう請うた。王は使者を遣わして言った。「武城で宗廟の用事があり、寡君は幣帛を献じようとしております。敢えて後で会うことを謝します」。徐子は呉の出身で、二心があると思われたため、申で捕らえられた。楚子は諸侯に奢侈を見せつけた。椒挙は言った。「六王と二公の事績は、皆諸侯に示すための礼でした。諸侯がそれによって命令に従うのです。夏の桀王が仍で会合を開くと、有緡が叛き、商の紂王が黎で蒐(狩猟儀礼)を開くと、東夷が叛き、周の幽王が大室で盟約を結ぶと、戎狄が叛きました。皆、諸侯に奢侈を示したためです。諸侯が命令を棄てる由縁となります。今、君が奢侈を示されれば、おそらく成功しないでしょう」。王は聞き入れなかった。子産が左師に会って言った。「私は楚を憂えなくなりました。奢侈で諫めを頑なに拒めば、十年も経たないうちに(滅ぶでしょう)」。左師は言った。「そうだ。十年と経ずして奢侈が続けば、その悪は遠くない。悪が遠くまで及べば後に棄てられ、善も同様である。徳が遠くまで及べば後に興る」。 <解説> 後半は紀元前6世紀の国際政治劇を描き、楚の王が諸侯を集める会合で、覇権を確立するために「礼」の重要性が強調されます。歴史的な事例(夏の啓王から晋の文公まで)を引用して礼の効用を説く一方、奢侈や強圧的な態度が国家を滅ぼすと警告します。登場人物の椒挙・向戌・子産らの対話から、当時の外交戦略や「小国」の生存術が窺え、特に子産の楚に対する予言は歴史の皮肉を暗示しています。 全体として、この文章は『左伝』の特徴である史実の叙述に倫理的な教訓を織り交ぜた構成で、政治の在り方と自然・社会の調和という儒家的思想が基調となっています。 Translation took 2828.7 seconds. |
| 秋‧七月.楚子以諸侯伐吳.宋大子鄭伯先歸.宋華費遂鄭大夫從.使屈申圍朱方。八月.甲申.克之.執齊慶封而盡滅其族.將戮慶封.椒舉曰.臣聞無瑕者可以戮人.慶封惟逆命.是以在此.其肯從於戮乎.播於諸侯.焉用之.王弗聽.負之釜鉞.以徇於諸侯.使言曰.無或如齊慶封.弒其君.弱其孤.以盟其大夫.慶封曰.無或如楚共王之庶子圍.弒其君兄之子.麇而代之.以盟諸侯.王使速殺之.遂以諸侯滅賴.賴子面縛銜璧.士袒輿櫬.從之.造於中軍.王問諸椒舉.對曰.成王克許.許僖公如是.王親釋其縛.受其璧.焚其櫬.王從之.遷賴於鄢.楚子欲遷許於賴.使鬥韋龜與公子棄疾.城之而還.申無宇曰.楚禍之首.將在此矣.召諸侯而來.伐國而克.城竟莫校.王心不違.民其居乎.民之不處.其誰堪之.不堪王命.乃禍亂也. 九月.取鄫.言易也.莒亂.著丘公立而不撫鄫.鄫叛而來.故曰取.凡克邑.不用師徒曰取. 鄭子產作丘賦.國人謗之.曰.其父死於路.己為蠆尾.以令於國.國將若之何.子寬以告.子產曰.何害.苟利社稷.死生以之.且吾聞為善者不改其度.故能有濟也.民不可逞.度不可改.詩曰.禮義不愆.何恤於人言.吾不遷矣.渾罕曰.國氏其先亡乎.君子作法於涼.其敝猶貪.作法於貪.敝將若之何.姬在列者.蔡及曹滕.其先亡乎.偪而無禮.鄭先衛亡.偪而無法.政不率法.而制於心.民各有心.何上之有. |
秋、七月。楚の王が諸侯を率いて吳を討伐した。宋の太子と鄭伯が先に帰国し、宋の華費遂と鄭の大夫が従った。屈申に朱方を包囲させた。八月、甲申の日、それを攻略し、齊の慶封を捕らえてその一族を皆殺しにした。慶封を殺そうとしたとき、椒挙が言った。「臣は聞きます。欠点のない者だけが人を罰することができると。慶封は命令に逆らっただけであり、だからここにおります。彼が喜んで処刑に従うでしょうか。諸侯の間に悪評を広めるだけで、何の役に立ちましょうか。」王は聞き入れず、慶封に斧と鉞を背負わせ、諸侯の前で見せしめにし、言わせた。「齊の慶封のように、君を弑し、孤児を弱め、大夫たちと盟を結ぶ者があるな。」慶封は言った。「楚の共王の庶子である圍のように、君の兄の子を弑し、王位を奪って代わり、諸侯と盟を結ぶ者があるな。」王はすぐに彼を殺させた。そして諸侯を率いて賴を滅ぼした。賴子は顔を縛り璧を口にくわえ、家臣は裸で棺を車に載せ、従った。中軍のもとに到着すると、王は椒挙に問うた。答えて言った。「成王が許を攻略した時、許僖公がこのようにしました。王自らその縄を解き、璧を受け取り、棺を焼きました。」王はそれに従い、賴を鄢に移した。楚の王は許を賴に移そうとし、鬥韋龜と公子棄疾に命じて城を築かせ、帰還した。申無宇が言った。「楚の禍の始まりは、ここにあるだろう。諸侯を召し集めて来させ、国を討伐して攻略し、国境に城を築いても誰も検分しない。王の心に逆らわず、民は安住できるだろうか。民が安住しなければ、誰が耐えられよう。王命に耐えられなければ、禍乱となる。」 九月、鄫を取った。易しいと言う意味である。莒で乱が起き、著丘公が立ったが鄫を慰撫しなかった。鄫が叛いて来たので、取ったと言う。一般的に邑を攻略する時、軍隊を使わない場合を取と言う。 鄭の子産が丘賦を作った。国人が彼を非難し、言った。「その父は路で死に、自分は蠍の尾のように、国に命令する。国はどうなるのか。」子寬がそれを子産に告げると、子産は言った。「何の害があるか。もし国に利するなら、死生をかけてそれを行う。かつて聞く、善を行う者はその法度を改めないので、成功することができると。民を好き放題にさせてはならず、法度は改めてはならない。詩に曰く、礼義に過ちがなければ、人の言葉を気にすることはない。私は変わらない。」渾罕が言った。「國氏はまず滅びるだろうか。君子は倹約で法を作るが、その弊害は貪りとなる。貪りで法を作れば、弊害はどうなるか。姬姓の国で、蔡及び曹、滕がまず滅びるだろう。逼迫して礼がない。鄭は衛より先に滅びる。逼迫して法がない。政治が法に従わず、心で制する。民はそれぞれ心があり、上などない。」 解説この一節は『春秋左氏伝』に記された春秋時代の歴史記述です。主に以下の三つの部分から成り立ちます。
全体として、権力者の傲慢さや政治改革の難しさを描き、春秋時代の複雑な国際関係や内政問題が反映されています。人物の対話を通じ、因果応報や為政者の在り方への教訓が込められた史書の特徴が表れています。 Translation took 4855.7 seconds. |
| 冬.吳伐楚入.棘.櫟.麻.以報朱方之役.楚沈尹射奔命於夏汭.咸尹宜咎城鍾離.薳啟疆城巢.然丹城州來.東國水.不可以城.彭生罷賴之師. 初.穆子去叔孫氏.及庚宗.遇婦人.使私為食而宿焉.問其行.告之故.哭而送之.適齊娶於國氏.生孟丙仲壬.夢天壓己.弗勝.顧而見人.黑而上僂.深目而豭喙.號之曰.牛助余.乃勝之.旦而皆召其徒.無之.且曰.志之.及宣伯奔齊.饋之.宣伯曰.魯以先子之故.將存吾宗.必召女.召女何如.對曰.願之久矣.魯人召之.不告而歸.既立.所宿庚宗之婦人.獻以雉.問其姓.對曰.余子長矣.能奉雉而從我矣.召而見之.則所夢也.未問其名.號之曰牛.曰唯.皆召其徒.使視之.遂使為豎.有寵.長使為政.公孫明知叔孫於齊.歸.未逆國姜.子明取之.故怒其子.長而後使逆之.田於丘蕕.遂遇疾焉.豎牛欲亂其室而有之.強與孟盟.不可.叔孫為孟鍾曰.爾未際.饗大夫以落之.既具.使豎牛請.日入弗謁.出命之日.及賓至.聞鍾聲.牛曰.孟有北婦人之客.怒將往.牛止之.賓出.使拘而殺諸外.牛又強與仲盟.不可.仲與公御萊書.觀於公.公與之環.使牛入示之.入不示.出命佩之.牛謂叔孫見仲而何.叔孫曰.何為.曰不見.既自見矣.公與之環而佩之矣.遂逐之.奔齊.疾急.命召仲.牛許而不召.杜洩見.告之飢渴.授之戈.對曰.求之而至.又何去焉.豎牛曰.夫子疾病.不欲見人.使寘饋于個而退.牛弗進.則置虛命徹. |
冬、呉が楚を討ち、棘、櫟、麻に入った。これは朱方の戦いへの報復である。楚の沈尹射は夏汭に急行し、咸尹宜咎は鍾離に城を築き、薳啓疆は巢に城を築き、然丹は州来に城を築いた。しかし東国は水害のため城を築くことができず、彭生は賴の軍勢を撤退させた。 昔、穆子が叔孫氏を離れ、庚宗に着いた時、一人の女性に出会った。彼女にひそかに食事を用意させて宿泊した。女性が彼の行く先を尋ねたので、理由を告げると、泣いて見送った。穆子は齊へ行き國氏の娘を娶り、孟丙と仲壬という二人の子をもうけた。ある夜、天が自分を押し潰す夢を見て、耐えきれなかったが、振り返ると黒く背の曲がった、深い目つきで猪のような口をした男が現れた。穆子が「牛、助けてくれ」と呼ぶと、男は助けに来て夢の中で勝利した。朝になり配下を集めたが、そのような者はおらず、「覚えておけ」と言った。 後に宣伯が齊に逃れて来た時、穆子は食物を贈った。宣伯は「魯は先祖の縁故で我が宗族を存続させるため、必ずお前を呼び戻すだろう。呼ばれたらどうするか」と尋ねた。穆子は「長年願っていることです」と答えた。果たして魯から召還がかかると、穆子は告げずに帰国した。地位につくと、かつて庚宗で宿泊した女性が雉を献上して来た。穆子がその子のことを尋ねると、「私の子はもう大人になり、雉を捧げて従って来られます」と答えた。子を呼び出して会うと、それは夢で見た男そのものだった。名前を聞く前に「牛」と呼びかけると、子は「はい」と答えた。配下を集めてこの子を見せ、小姓に取り立てた。牛は寵愛され、成長すると政務を任されるようになった。 公孫明は齊で叔孫(穆子)のことをよく知っており、穆子が帰国した時、妻の國姜を迎えに行かなかったため、公孫明は彼女を娶った。これに怒った穆子は子たちを疎んじ、成長してからようやく迎えさせた。穆子が丘蕕で狩りをした時、病気になった。小姓の牛は穆子の家を乗っ取ろうと画策し、まず孟丙に強制的な盟約を迫ったが拒否された。叔孫(穆子)が孟丙のために鐘を作り、「お前はまだ世間に知られていないので、大夫たちを招いて落成の宴を開こう」と言った。準備が整い、牛に日取りを決めさせたが、牛は日が暮れるまで報告しなかった。宴の当日、賓客が到着して鐘の音が聞こえると、牛は「孟丙には北方の女性(國姜)の客が来ている」と叔孫に告げた。叔孫が怒って向かおうとすると牛は止め、賓客が去った後、孟丙を捕らえて外で殺させた。 牛は次に仲壬にも盟約を迫ったが、これも拒否された。仲壬が公の御者・萊書と共に公に謁見すると、公は環(宝玉)を与え、牛に持って行って叔孫に見せるよう命じた。牛は中に入っても環を見せず、出て来て「佩びるように」と伝えた。そして叔孫に「仲壬を公に会わせたのはなぜですか」と問うた。叔孫が「そんなことはしていない」と言うと、牛は「会わせていなくても、勝手に会いに行き、公は環を与えて佩びさせました」と告げた。叔孫は仲壬を追放し、仲壬は齊へ逃れた。 叔孫の病状が悪化すると、仲壬を呼び戻すよう命じたが、牛は承諾しながらも呼ばなかった。杜洩が叔孫に面会した時、叔孫は飢えと渇きを訴え、戈を渡して「追い出せ」と言った。杜洩が「呼べば来るのに、なぜ追い出すのですか」と答えると、牛は「先生は重病で人に会いたくない」と言い、食事を部屋の隅に置かせて退いた。牛は食事を運ばず、空の食器を下げさせた。 解説この一節は『春秋左氏伝』における叔孫穆子の家族と家臣の複雑な人間関係を描いています。前半では呉と楚の戦争という歴史的事実が記され、後半では穆子の夢や小姓・牛の奸計を通じて、家族の絆や権力闘争の様相が浮き彫りにされています。牛が穆子の子たちを陥れ、最終的に家を混乱に導く過程は、春秋時代の貴族社会における内部抗争の典型例です。特に「夢の人物が現実化する」という設定や、牛の言葉巧みな策略は、因果応報や人間の弱さを暗示しており、後の叔孫家の没落へつながる伏線となっています。 Translation took 6183.5 seconds. |
| 十二月.癸丑.叔孫不食.乙卯.卒.牛立昭子而相之.公使杜洩葬叔孫.豎牛賂叔仲昭子與南遺.使惡杜洩於季孫而去之.杜洩將以路葬.且盡卿禮.南遺謂季孫曰.叔孫未乘.路葬焉.用之.且冢卿無路.介卿以葬.不亦左乎.季孫曰.然.使杜洩舍路.不可.曰.夫子受命於朝.而聘于王.王思舊勳為賜之路.復命而致之君.君不敢逆王命.而復賜之.使三官書之.吾子為司徒.實書名.夫子為司馬.與工正書服.孟孫為司空以書勳.今死而弗以.是棄君命也.書在公府而弗以.是廢三官也.若命服.生弗敢服.死又不以.將焉用之.乃使以葬.季孫謀去中軍.豎牛曰.夫子固欲去之. 昭公五年 經 五年春.王正月.舍中軍.楚殺其大夫屈申.公如晉. 夏.莒牟夷以牟婁及防茲來奔. 秋.七月.公至自晉.戊辰.叔弓帥師敗莒師于蚡泉.秦伯卒. 冬.楚子.蔡侯.陳侯.許男.頓子.沈子.徐人.越人.伐吳. 傳 五年春.王正月.舍中軍.卑公室也.毀中軍于施氏.成諸臧氏.初作中軍.三分公室而各有其一.季氏盡征之.叔孫氏臣其子弟.孟氏取其半焉.及其舍之也.四分公室.季氏檡二.二子各一.皆盡征之.而貢于公.以書使杜洩告於殯曰.子固欲毀中軍.既毀之矣.故告杜洩曰.夫子唯不欲毀也.故盟諸僖閎.詛諸五父之衢.受其書而投之.帥士而哭之.叔仲子謂季孫曰.帶受命於子叔孫曰.葬鮮者自西門.季孫命杜洩.杜洩曰.卿喪自朝.魯禮也.吾子為國政.未改禮而又遷之.群臣懼死.不敢自也.既葬而行.仲至自齊.季孫欲立之.南遺曰.叔孫氏厚.則季氏薄.彼實家亂.子勿與知.不亦可乎.南遺使國人助豎牛.以攻諸大庫之庭.司宮射之.中目而死.豎牛取東鄙三十邑.以與南遺.昭子即位.朝其家眾曰.豎牛禍叔孫氏.使亂大從.殺適立庶.又披其邑.將以赦罪.罪莫大焉.必速殺之.豎牛懼.奔齊.孟、仲之子.殺諸塞關之外.投其首於寧風之棘上.仲尼曰.叔孫昭子之不勞.不可能也.周任有言曰.為政者不賞私勞.不罰私怨.詩云.有覺德行.四國順之.初.穆子之生也.莊叔以周易筮之.遇明夷之謙.以示卜楚丘.曰.是將行.而歸為子祀.以讒人入.其名曰牛.卒以餒死.明夷.日也.日之數十.故有十時.亦當十位.自王已下.其二為公.其三為卿.日上其中.食日為二.旦日為三.明夷之謙.明而未融.其當旦乎.故曰為子祀.日之謙當鳥.故曰明夷于飛.明之未融.故曰垂其翼象.日之動.故曰君子于行.當三在旦.故曰三日不食.離.火也.艮.山也.離為火.火焚山.山敗.於人為言.敗言為讒.故曰有攸往.主人有言.言必讒也.純離為牛.世亂讒勝.勝將適離.故曰其名曰牛.謙不足.飛不翔.垂不峻.翼不廣.故曰其為子後乎.吾子亞卿也.抑少不終. |
十二月、癸丑の日、叔孫が食事をとらなかった。乙卯の日、死去した。豎牛は昭子を立ててその補佐をした。昭公は杜洩を使者として叔孫の葬儀を行わせた。豎牛は叔仲昭子と南遺に賄賂を贈り、季孫の前で杜洩を誹謗させて追放しようとした。杜洩は路車(天子から賜った車)で葬儀を行うつもりで、卿としての礼を尽くそうとした。南遺が季孫に言った。「叔孫は路車に乗っていませんでした。路車で葬るのは使い方として適切でしょうか。しかも正卿でない者が路車で葬られるのは、順序が乱れていませんか」。季孫は「その通りだ」と言い、杜洩に路車を使わないよう命じた。杜洩は承知せず、「叔孫は朝廷で使命を受け、周王のもとへ赴きました。王は昔の功績を思って路車を賜り、使命を果たして君主に献上しました。君主は王命に逆らえず、再び叔孫に賜りました。三人の役人が記録し、あなたは司徒として名前を記し、叔孫は司馬として工正と共に車服を記録し、孟孫は司空として功績を記録しました。今、死んでそれを使わないのは君命を棄てるものです。記録が公府にあるのに使わないのは、三人の役人の仕事を無にするものです。命服(任命時の礼服)を生前に着ず、死後も使わないなら、何のためにあるのでしょうか」。そこで結局路車で葬った。季孫は中軍を廃止しようと画策した。豎牛は「叔孫はもともと廃止を望んでいました」と言った。 昭公五年 五年の春、周の正月、中軍を廃止した。楚がその大夫の屈申を殺した。昭公が晋へ行った。 夏、莒の牟夷が牟婁と防茲を携えて魯に亡命してきた。 秋、七月、昭公が晋から帰国した。戊辰の日、叔弓が軍を率いて蚡泉で莒軍を破った。秦伯が死去した。 冬、楚子・蔡侯・陳侯・許男・頓子・沈子・徐人・越人が連合して吳を討った。 伝 五年の春、周の正月、中軍を廃止した。公室を弱体化させるためである。施氏の屋敷で中軍廃止を議し、臧氏の屋敷で決定した。当初中軍を設けた時、公室の軍を三分して三家がそれぞれ持った。季氏は全てを徴兵し、叔孫氏は子弟を家臣とし、孟氏は半分を取った。今回の廃止では、公室を四分し、季氏が其二を掌握し、叔孫氏と孟氏が各一ずつ持った。全て徴兵権を行使し、公室に貢ぎ物を納めた。季孫は文書を作成し、杜洩に命じて叔孫の棺前で報告させた。「貴方はもともと中軍廃止を望んでいた。既に廃止したので報告する」。杜洩は「叔孫は廃止を望まず、僖閎で盟約し、五父の衢で呪いをかけた」と言い、文書を受け取って投げ捨て、士を率いて哭礼した。叔仲子が季孫に言った。「私は子叔孫から『若くして死んだ者の葬儀は西門から出せ』と命じられました」。季孫は杜洩にそのように命じた。杜洩は「卿の葬儀は朝廷から出るのが魯の礼です。あなたが国政を執りながら、礼を改めずに変更されると、家臣たちは死を恐れて従えません」と言った。葬儀後、杜洩は出奔した。 仲孫羯が齐から帰国した。季孫は彼を叔孫氏の後継ぎに立てようとした。南遺が「叔孫氏が強まれば季氏は弱まります。あちらは内紛ですから、関わらない方が良いでしょう」と言った。南遺は国人に命じて豎牛を助けさせ、大庫の庭で仲孫羯を攻撃した。司宮が箭を放ち、仲孫羯は目を射抜かれて死んだ。豎牛は東境の三十邑を取って南遺に与えた。 昭子(叔孫婼)が後継ぎとなり、家臣を集めて宣言した。「豎牛は叔孫氏に災いをもたらし、秩序を乱し、嫡子を殺して庶子を立て、さらに領邑を切り取って罪を逃れようとした。この罪は極めて重い。直ちに誅殺せよ」。豎牛は恐れて齐に逃亡した。孟氏と仲氏の子弟たちが塞関の外で彼を殺し、首を寧風の棘の木に投げ掛けた。 仲尼(孔子)は評して言った。「叔孫昭子が私怨で報いないのは、容易ならざる行いである。周任に『政を執る者は私的な功労を賞せず、私的な怨恨を罰しない』という言葉がある。詩経に『德行が正しければ、四方の国々が従う』とある」。 当初、穆子(叔孫豹)が生まれた時、莊叔が周易で占ったところ、明夷の卦から謙の卦が出た。卜楚丘に示すと、彼は言った。「この子は遠方に行くが、帰って子孫を残す。讒言する者を側に置き、その名は牛という。最後は餓死するだろう。明夷は日を表す。日の数は十なので、十の時辰があり、十の位に対応する。王以下、二番目が公、三番目が卿。日が中天にある時を一とし、食時が二、旦時が三。明夷から謙への変化は、明るいが未だ融和せず、旦時に相当するので『子孫を残す』と言う。日の謙は鳥に対応し、『明夷の鳥が飛ぶ』となる。未だ融和せぬ明かりなので『翼を垂れる』。日の動きを示すので『君子が行く』。三が旦時に当たるので『三日食べず』。離は火、艮は山。離が火で火が山を焼けば山は敗れる。人においては言葉に相当し、敗れる言葉は讒言となる。故に『行くところあり』で『主人に言葉あり』、その言葉は必ず讒言である。純粋な離は牛を表す。世が乱れ讒言が勝てば、勝者は離へ向かう。故に『その名は牛』。謙は不足を示し、飛んでも翔ばず、垂れても高くなく、翼も広くない。故に『子孫となる』と言う。貴方は亞卿だが、少し不運で終わるだろう」。 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公五年の記述で、魯国の叔孫氏をめぐる複雑な権力闘争と政治改革を描いています。主なポイントは以下の通りです。
この記述は、春秋時代の貴族社会における家臣団の腐敗、血縁関係の重要性、そして占いが現実政治に与えた影響をよく表しています。特に「讒言(ざんげん)」をテーマに、権力闘争の悲劇性が浮き彫りにされている点が特徴的です。 Translation took 3866.0 seconds. |
| 楚子以屈伸為貳於吳.乃殺之.以屈生為莫敖.使與令尹子蕩如晉逆女.過鄭.鄭伯勞子蕩于氾.勞屈生于菟氏.晉侯送女于邢丘.子產相鄭伯.會晉侯于邢丘. 公如晉.自郊勞至于贈賄.無失禮.晉侯謂女叔齊曰.魯侯不亦善於禮乎.對曰.魯侯焉知禮.公曰.何為.自郊勞至于贈賄.禮無違者.何故不知.對曰.是儀也.不可謂禮.禮所以守其國.行其政令.無失其民者也.今政令在家.不能取也.有子家羈.弗能用也.奸大國之盟.陵虐小國.利人之難.不知其私.公室四分.民食於他.思莫在公.不圖其終.為國君.難將及身.不恤其所.禮之本末.將於此乎在.而屑屑焉習儀以亟.言善於禮.不亦遠乎.君子謂叔侯於是乎知禮. 晉韓宣子如楚送女.叔向為介.鄭子皮.子大叔.勞諸索氏.大叔謂叔向曰.楚王汏侈已甚.子其戒之.叔向曰.汏侈已甚.身之災也.焉能及人.若奉吾幣帛.慎吾威儀.守之以信.行之以禮.敬始而思終.終無不復.從而不失儀.敬而不失威.道之以訓辭.奉之以舊法.考之以先王.度之以二國.雖汏侈若我何.及楚.楚子朝其大夫曰.晉.吾仇敵也.苟得志焉.無恤其他.今其來者.上卿上大夫也.若吾以韓起為閽.以羊舌肸為司宮.足以辱晉.吾亦得志矣.可乎.大夫莫對.薳啟彊曰.可.苟有其備.何故不可.恥匹夫不可以無備.況恥國乎.是以聖王務行禮.不求恥人.朝聘有珪.享覜有璋.小有述職.大有巡功.設机而不倚.爵盈而不飲.宴有好貨.飧有陪鼎.入有郊勞.出有贈賄.禮之至也.國家之敗.失之道也.則禍亂興.城濮之役.晉無楚備.以敗於邲.邲之役.楚無晉備.以敗於鄢.自鄢以來.晉不失備.而加之以禮.重之以睦.是以楚弗能報.而求親焉.既獲姻親.又欲恥之.以召寇讎.備之若何.誰其重此.若有其人.恥之可也.若其未有.君亦圖之.晉之事君.臣曰可矣.求諸侯而麇至.求昏而薦女.君親送之.上卿及上大夫致之.猶欲恥之.君其亦有備矣.不然奈何.韓起之下.趙成.中行吳.魏舒.范鞅.知盈.羊舌肸之下.祁午.張趯.籍談.女齊.梁丙.張骼.輔躒.苗賁皇.皆諸侯之選也.韓襄為公族大夫.韓須受命而使矣.箕襄.邢帶.叔禽.叔椒.子羽.皆大家也.韓賦七邑.皆成縣也.羊舌四族.皆彊家也.晉人若喪韓起.楊肸.五卿.八大夫.輔韓須.楊石.因其十家九縣.長轂九百.其餘四十縣.遺守四千.奮其武怒.以報其大恥.伯華謀之.中行伯魏舒帥之.其蔑不濟矣.君將以親易怨.實無禮以速寇.而未有其備.使群臣往遺之禽.以逞君心.何不可之有.王曰.不穀之過也.大夫無辱.厚為韓子禮.王欲敖叔向以其所不知而不能.亦厚其禮.韓起反.鄭伯勞諸圉.辭不敢見.禮也. |
楚の王は屈伸が呉に内通していると考え、彼を殺した。屈生を莫敖に任命し、令尹の子蕩と共に晋へ向かい、嫁を迎えに行かせた。鄭を通りかかると、鄭の伯は氾で子蕩を、菟氏で屈生を慰労した。晋の侯は邢丘で娘を送り出した。子産が鄭の伯の相として、邢丘で晋の侯と会った。 魯の公が晋を訪問した。郊外での出迎えから贈り物の交換まで、礼儀に一点の隙もなかった。晋の侯が女叔齊に言った。「魯の侯は礼に精通しているのではないか」。女叔齊は答えた。「魯の侯がどうして礼を知っていましょうか」。公が「なぜか? 郊外の出迎えから贈り物まで、礼に違うところはなかったのに」と言うと、女叔齊は言った。「あれは儀礼であって、礼とは言えません。礼とは国を守り、政令を実行し、民衆を失わないためのものです。今、魯では政令が私卿の手にあり、公は取り戻せず、子家羈のような人材を使えず、大国との盟約を破り、小国を虐げ、他国の困難につけ込み、自身の私利私欲もわきまえず、公室は四分五裂し、民は他に食を求め、公を思う者はおらず、将来を考えない。国君として、災難が身に及ぶのも顧みない。礼の本質と末節がここに現れているのに、細かい儀礼を急いで習得し、礼に精通していると言うのは、あまりにもかけ離れていませんか」。君子は叔侯(女叔齊)こそ礼を理解していると評した。 晋の韓宣子が楚に嫁を送り届けに来た。叔向が副使として同行した。鄭の子皮と子大叔(游吉)が索氏で彼らを慰労した。大叔が叔向に言った。「楚の王は甚だしく驕慢です。どうかご警戒を」。叔向は答えた。「驕慢が甚だしければ、それは自身の災いであって、他人に及ぶものではありません。我々が幣帛を捧げ、威儀を慎み、信義を守り、礼をもって行動し、始めを敬い終わりを思えば、必ず良い結果が訪れます。従順でありながら礼儀を失わず、恭敬でありながら威厳を保ち、教訓の言葉で導き、古い法規に従い、先王の道を参照し、両国の情勢を考慮すれば、たとえ楚王が驕慢でも我々に何ができましょうか」。 楚に着くと、楚の王は大夫たちを集めて言った。「晋は我が仇敵だ。もし機会があれば、他のことは顧みずに辱めたい。今来ているのは上卿と上大夫である。韓起を門番に、羊舌肸(叔向)を宦官にでもして、晋を辱めれば、我々の願いが叶うだろう。どうか」。大夫たちは誰も答えなかった。薳啓彊が言った。「可能です。もし準備があれば、なぜできないことがありましょうか。ただし、一介の士を辱めるにも準備が必要です。ましてや国を辱めるとなれば尚更です。聖王は礼を行うことを務め、人を辱めることを求めません。朝聘には珪を、享覜には璋を用い、小国は職責を報告し、大国は巡行して功績を確認し、机を設けても倚らず、爵が満ちても飲まず、宴には贈り物があり、饗応には陪鼎が添えられ、入国時には郊勞があり、出国時には贈賄がある。これが礼の極みです。国が敗れるのは、この道を失うからで、禍乱が起こります。城濮の戦いでは晋が楚への備えを怠り、邲で敗れました。邲の戦いでは楚が晋への備えを怠り、鄢で敗れました。鄢以来、晋は備えを怠らず、礼を加え、和睦を重んじてきたので、楚は報復できず、むしろ縁組を求めたのです。既に姻戚関係を得ておきながら、また辱めようとするのは、敵を招くようなものです。備えはどうなっているのか? 誰がこれを重視するのか? もし適任者がいれば辱めも可能ですが、いないなら君もよくお考えください。晋が君に仕える様子は、臣の見る限り十分です。諸侯を求めれば群がって集まり、婚姻を求めれば娘を差し出し、君自ら送り出し、上卿と上大夫が派遣されている。それを辱めようとするなら、君も相応の備えが必要です。さもなければどうしようもない。韓起の下には趙成・中行吳・魏舒・范鞅・知盈がおり、羊舌肸の下には祁午・張趯・籍談・女齊・梁丙・張骼・輔躒・苗賁皇がおり、皆諸侯の選りすぐりです。韓襄は公族大夫、韓須は使命を受けて外出中、箕襄・邢帯・叔禽・叔椒・子羽は皆大族である。韓氏の七邑は皆県として成立し、羊舌氏の四族は皆強豪です。晋がもし韓起と楊肸(叔向)を失えば、五卿八大夫が韓須と楊石を輔け、十家九県を動員し、長轂九百、残る四十県から守備兵四千を送り、怒りを奮って大辱を報じようとする。伯華が謀り、中行伯と魏舒が率いれば、成功しないはずがない。君は親善を怨みに変え、無礼によって敵を招きながら備えがなく、臣らを遣わして捕虜にさせて君の心を晴らそうとするなら、何が不可能でありましょうか」。王は言った。「我が過ちだ。大夫たちは辱めを受けるには及ばない」。そして韓起に厚く礼を尽くした。王は叔向を未知の事で屈しようとしたができず、やはり厚く礼遇した。韓起が帰国する際、鄭の伯が圉で慰労したが、韓起は謹んで面会を辞退した。これが礼というものである。 【解説】 Translation took 2852.3 seconds. |
| 鄭罕虎如齊.娶於子尾氏.晏子驟見之.陳桓子問其故.對曰.能用善人.民之主也. 夏.莒牟夷以牟婁及防茲來奔.牟夷非卿而書.尊地也.莒人愬于晉.晉侯欲止公.范獻子曰.不可.人朝而執之.誘也.討不以師.而誘以成之.惰也.為盟主而犯此二者.無乃不可乎.請歸之.間而以師討焉.乃歸公. 秋.七月.公至自晉.莒人來討.不設備.戊辰.叔弓敗諸蚡泉.莒未陳也. 冬.十月.楚子以諸侯及東夷伐吳.以報棘.櫟.麻.之役.薳射以繁揚之師.會於夏汭.越大夫常壽過.帥師會楚子于瑣.聞吳師出.薳啟彊帥師從之.遽不設備.吳人敗諸鵲岸.楚子以馹至於羅汭.吳子使其弟蹶由犒師.楚人執之.將以釁鼓.王使問焉.曰.女卜來吉乎.對曰.吉.寡君聞君將治兵於敝邑.卜之以守龜.曰.余亟使人犒師.請行以觀王怒之疾徐.而為之備.尚克知之.龜兆告吉.曰克可知也.君若驩焉.好逆使臣.滋敝邑休殆而忘其死.亡無日矣.今君奮焉.震電馮怒.虐執使臣.將以釁鼓.則吳知所備矣.敝邑雖羸.若早脩完.其可以息師.難易有備.可謂吉矣.且吳社稷是卜.豈為一人.使臣獲釁軍鼓.而敝邑知備.以禦不虞.其為吉孰大焉.國之守龜.其何事不卜.一臧一否.其誰能當之.城濮之兆.其報在邲.今此行也.其庸有報志.乃弗殺.楚師濟於羅汭.沈尹赤會楚子次於萊山.薳射帥繁揚之師.先入南懷.楚師從之.及汝清.吳不可入.楚子遂觀兵於坻箕之山.是行也.吳早設備.楚無功而還.以蹶由歸.楚子懼吳.使沈尹射待命于巢.薳啟彊待命于雩婁.禮也. |
鄭の罕虎が斉を訪れ、子尾氏から妻を迎えた。晏子が頻繁に彼と会うので、陳桓子がその理由を尋ねた。晏子は答えて言った。「善人を用いることができる人物は、民の主導者である。」 夏、莒の牟夷が牟婁と防茲の地を携えて魯に亡命した。牟夷は卿ではないのに記録されたのは、土地を重視したからである。莒の人が晋に訴え出ると、晋侯は魯公を拘束しようとした。范献子が言った。「それはできません。来朝した者を捕らえるのは騙し討ちです。軍勢で討たずに誘い出して成し遂げるのは怠慢です。盟主としてこの二つを犯すのはよろしくないでしょう。公をお帰しください。機会をみて軍勢で討伐しましょう。」こうして魯公は帰国した。 秋七月、魯公が晋から帰国した。莒軍が討伐に来襲したが、魯は防備を整えていなかった。戊辰の日、叔弓が蚡泉で莒軍を破った。莒軍はまだ陣形を整えていなかったのである。 冬十月、楚子が諸侯と東夷を率いて吳を討ち、棘・櫟・麻の戦いの報復とした。薳射は繁揚の軍を率い、夏汭で合流した。越の大夫常壽過は軍を率いて瑣で楚子と合流した。吳軍が出撃したと聞くと、薳啟彊が軍を率いて追跡したが、慌てて防備を怠ったため、吳軍に鵲岸で敗北した。楚子は駅伝馬で羅汭に到着した。 吳子は弟の蹶由を楚軍への慰問使として派遣した。楚軍は彼を捕らえ、鼓の血塗りにしようとした。楚王が使者を遣って問うた。「お前の占いは吉と出たのか?」蹶由は答えた。「吉です。我が君は貴方が我が国で軍勢を整えると聞き、守龟で占いました。『私はすぐに使者を遣って軍を慰問し、王の怒りの程度を見極めて防備を整えよう。うまくいけば勝機がわかるだろう』と。龟の兆しは吉を示し、『勝利がわかる』と言いました。もし王が歓迎して使者を丁重に遇すれば、我が国は油断して滅亡も近いでしょう。しかし今、王が激怒し、使者を虐待して鼓の血塗りにすれば、吳は防備の重要性を悟ります。我が国は弱小でも、早めに城郭を修繕すれば軍勢を食い止められる。難易に応じた備えがあれば、これこそ吉と言えます。そもそも吳が占うのは国家のためであって個人のためではありません。私が軍鼓の血塗りとなり、国が防備を整えて不意の襲撃に備えられるなら、これ以上の吉はありません。国家の守龟はあらゆることを占います。吉凶が混在する中で、誰が完全な結果を保証できましょうか。城濮の戦いの兆しが邲の戦いで報いられたように、今回の結果が将来どう報いるかはわかりません。」これを聞いた楚王は彼を殺さなかった。 楚軍は羅汭を渡り、沈尹赤が萊山で楚子と合流した。薳射は繁揚の軍を率いて先に南懷に入り、楚軍がこれに続いた。汝清に至ったが、吳は攻略できなかった。楚子は坻箕の山で軍勢を閲兵した。この遠征で吳は早くから防備を整えたため、楚は成果なく撤退し、蹶由を連れて帰還した。楚子は吳を恐れ、沈尹射を巢に、薳啟彊を雩婁に待機させた。これは礼に適った措置であった。 解説: Translation took 2569.3 seconds. |
| 秦后子復歸於秦.景公卒故也. 昭公六年 經 六年春.王正月.杞柏益姑卒.葬秦景公. 夏.季孫宿如晉.葬杞文公.宋華合比.出奔衛. 秋.九月.大雩.楚薳罷帥師伐吳. 冬.叔弓如楚.齊侯伐北燕. 傳 六年春.王正月.杞文公卒.弔如同盟.禮也.大夫如秦葬景公.禮也. 三月.鄭人鑄刑書.叔向使詒子產書曰.始吾有虞於子.今則已矣.昔先王議事以制.不為刑辟.懼民之有爭心也.猶不可禁禦.是故閑之以義.糾之以政.行之以禮.守之以信.奉之以仁.制為祿位.以勸其從.嚴斷刑罰.以威其淫.懼其未也.故誨之以忠.聳之以行.教之以務.使之以和.臨之以敬.蒞之以彊.斷之以剛.猶求聖哲之上.明察之官.忠信之長.慈惠之師.民於是乎可任使也.而不生禍亂.民知有辟.則不忌於上.並有爭心.以徵於書.而徼幸以成之.弗可為矣.夏有亂政而作禹刑.商有亂政而作湯刑.周有亂政而作九刑.三辟之興.皆叔世也.今吾子相鄭國.作封洫.立謗政.制參辟.鑄刑書.將以靖民.不亦難乎.詩曰.儀式刑文王之德.日靖四方.又曰.儀刑文王.萬邦作孚.如是何辟之有.民知爭端矣.將棄禮而徵於書.錐刀之末.將盡爭之.亂獄滋豐.賄賂並行.終子之世.鄭其敗乎.肸聞之.國將亡.必多制.其此之謂乎.復書曰.若吾子之言.僑不才.不能及子孫.吾以救世也.既不承命.敢忘大惠.士文伯曰.火見.鄭其火乎.火未出而作火.以鑄刑器.藏爭辟焉.火如象之.不火何為. |
秦の后子が秦に帰国した。景公が死去したためである。 昭公六年 経 六年の春、周の王の正月、杞の柏益姑が死去した。秦の景公を葬った。 夏、季孫宿が晋へ行った。杞の文公を葬った。宋の華合比が衛へ出奔した。 秋、九月、大規模な雨乞いの儀式が行われた。楚の薳罷が軍を率いて吳を討った。 冬、叔弓が楚へ行った。齊侯が北燕を討った。 伝 六年の春、周の王の正月、杞の文公が死去した。同盟国と同じように弔問した。礼に適っている。大夫が秦へ行き景公を葬った。これも礼に適っている。 三月、鄭の人が刑書を鋳造した。叔向が使者を遣わして子産に手紙を送り、こう言った。「最初私はあなたに期待していたが、今はもう終わった。昔、先王は事柄に応じて裁決を下し、刑法を明文化しなかった。民に争いの心が生じるのを恐れたからである。それでも禁じきれないので、義によって防ぎ、政令で糾し、礼儀によって行動させ、信義によって守らせ、仁愛をもって奉じ、禄位を定めて従うことを勧め、刑罰を厳格に執行して放縦を戒めた。それでも不十分だと恐れ、忠誠をもって教え、行いによって励まし、業務によって教え、和やかさをもって使役し、敬意をもって臨み、強さをもって統治し、剛毅をもって裁断した。それでもなお、聖哲の上司、明察な官吏、忠信の長、慈恵の師を求めた。こうして民はようやく使役に耐え、禍乱を生じなくなったのである。民が刑法の存在を知れば、上を畏れなくなり、ともに争いの心を抱き、書物を根拠に争い、僥倖によって成し遂げようとする。これではどうしようもない。夏に乱政があって禹刑が作られ、商に乱政があって湯刑が作られ、周に乱政があって九刑が作られた。三つの刑法の興りは、いずれも末世のことであった。今、あなたが鄭国を輔佐し、田畑の区画を整え、批判を招く政策を立て、三つの刑法を模倣し、刑書を鋳造して、民を安定させようとしているが、それは難しいのではないか。詩経に『文王の徳を手本とし、日々四方を安定させる』とあり、また『文王を手本とすれば、万国が信頼する』とある。このようにすれば、何の刑法が必要だろうか。民は争いの端緒を知り、礼を棄てて書物を根拠にし、針の先ほどの細かいことまで争い尽くすだろう。乱れた訴訟が増え、賄賂が横行し、あなたの世の終わりまでに、鄭は敗れるのではないか。私は聞く、国が滅びる時は必ず制度が増えると。これこそそのことを言うのであろう。」子産は返信でこう答えた。「あなたの言う通りです。私は才能がなく、子孫までのことを考えられません。世を救うために行っているのです。すでにご命令を受け入れられませんが、ご厚意を忘れはしません。」士文伯は言った。「火星が現れると、鄭は火事になるだろう。火が出ないうちに火を用いて刑器を鋳造し、争いの種を蔵している。火星がこれを象徴するなら、火事にならないはずがない。」 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公6年の記述で、紀元前536年に相当します。内容は二部構成で、「経」では魯を中心とした各国の出来事を簡潔に記録し、「伝」では鄭国で成文法(刑書)が制定された際の論争を詳述しています。 特に「伝」の部分は、鄭の子産が刑法を公開したことに対し、晋の叔向が伝統的な「礼治」を重んじる立場から批判した書簡を送り、子産が「救世」の必要性を説いて応酬する様子が描かれています。これは中国古代における法治思想と礼治思想の衝突を示す重要史料であり、成文法制定の歴史的意義を考える上で貴重な記録です。叔向の指摘通り、鄭国は後に滅亡しますが、子産の改革は戦国時代の法家思想へつながる先駆けとなりました。最後の士文伯の予言は、当時の天人相関思想を反映し、社会変動を自然現象と結びつける典型的な解釈例といえます。 Translation took 1812.1 seconds. |
| 夏.季孫宿如晉.拜莒田也.晉侯享之有加籩.武子退.使行人告曰.小國之事大國也.苟免於討.不敢求貺.得貺不過三獻.今豆有加.下臣弗堪.無乃戾也.韓宣子曰.寡君以為驩也.對曰.寡君猶未敢.況下臣.君之隸也.敢聞加貺.固請徹加.而後卒事.晉人以為知禮.重其好貨.宋寺人柳有寵.大子佐惡之.華合比曰.我殺之.柳聞之.乃坎用牲埋書.而告公曰.合比將納亡人之族.既盟于北郭矣.公使視之.有焉.遂逐華合比.合比奔衛.於是華亥欲代右師.乃與寺人柳比.從為之徵曰.聞之久矣.公使代之.見於左師.左師曰.女夫也必亡.女喪而宗室.於人何有.人亦於女何有.詩曰.宗子維城.毋俾城壞.毋獨斯畏.女其畏哉. 六月.丙戌.鄭災.楚公子棄疾如晉.報韓子也.過鄭.鄭罕虎.公孫僑.游吉.從鄭伯以勞諸柤.辭不敢見.固請見之.見如見王.以其乘馬八匹.私面見子皮.如上卿.以馬六匹.見子產以馬四匹.見子大叔以馬二匹.禁芻牧採樵.不入田.不樵樹.不采蓺.不抽屋.不強匄.誓曰.有犯命者.君子廢.小人降.舍不為暴.主不慁賓.往來如是.鄭三卿皆知其將為王也.韓宣子之適楚也.楚人弗逆.公子棄疾及晉竟.晉侯將亦弗逆.叔向曰.楚辟我衷.若何效辟.詩曰.爾之教矣.民胥效矣.從我而已焉.用效人之辟.書曰.聖作則.無寧以善人為則.而則人之辟乎.匹夫為善.民猶則之.況國君乎.晉侯說.乃逆之. |
夏、季孫宿が晋へ行った。これは莒の田を謝礼するためであった。晋侯が饗応し、籩(食器)を追加した。武子(季孫宿)が退出後、行人(外交官)を使いにして告げさせた。「小国が大国に仕えるのは、討伐を免れるためで、敢えて賜物を求めず、賜物を得ても三献を超えません。今、豆(食器)に追加があるのは、下臣たる身に耐えられず、かえって罪となるのでは」。韓宣子が「寡君は歓待の意である」と言うと、これに対し「寡君でさえまだ敢えて受けず、まして下臣は君のしもべです。どうして加賜を聞き入れられようか」と答え、固く加えた分の撤去を請い、その後で宴を終えた。晋の人々は礼を知っていると評価し、その贈り物を重んじた。 宋の寺人(宦官)柳は寵愛されていたが、太子佐は彼を憎んでいた。華合比が「私が殺そう」と言うと、柳はこれを聞き、坑を掘って犠牲を埋め盟書を作り、公に告げた。「合比が亡命者の一族を受け入れようとして、北郭で既に盟を結びました」。公が検分させると、確かにあった。そこで華合比を追放し、合比は衛へ逃れた。これにより華亥は右師の地位を代わろうと、寺人柳と結託し、彼の証言に従って「ずっと前から聞いています」と証言させた。公は彼を代わりに任じた。左師に会うと、左師は言った。「お前は必ず滅びる。お前は自分の宗室を失い、人に対して何があるというのか。人もお前に何があろうか。詩にいう『宗子は城なり、城を壊すなかれ、独りでいることを畏れよ』と。お前は畏れるがよい」。 六月丙戌の日、鄭に災害があった。楚の公子棄疾が晋へ行った。これは韓子(韓宣子)への報聘である。鄭を通り過ぎると、鄭の罕虎・公孫僑(子産)・游吉(子大叔)が鄭伯に従って柤で慰労した。棄疾は敢えて会うことを辞退したが、固く請われて会い、王に会うように礼を尽くした。自らの乗馬八匹を贈り、私的に子皮(罕虎)に会って上卿のように馬六匹を、子産には馬四匹を、子大叔には馬二匹を贈った。刈り取りや放牧、薪取りを禁じ、田に入らず、木を伐採せず、野菜を採らず、屋根をはがさず、無理に乞わず、誓って言った。「命令に違反する者は、君子は免職、小人は格下げとする」。宿営地では暴虐を働かず、主人は賓客を煩わせず、行き来はこのようにした。鄭の三卿(罕虎・子産・子大叔)は皆、彼が王となるだろうと悟った。韓宣子が楚へ行った時、楚人は出迎えなかった。公子棄疾が晋の国境に着くと、晋侯も出迎えまいとした。叔向が言った。「楚は偏屈で我々は誠実です。どうして偏屈を真似ましょうか。詩に『汝の教えよ、民は皆倣う』と。我々に従うだけで、どうして他人の偏屈を真似る必要がありましょうか。書経に『聖人は規範を作る』と。善人を規範とするのがよく、どうして他人の偏屈を規範としましょうか。庶人でさえ善を行えば民は倣う。まして国君では」。晋侯は喜び、出迎えた。 【解説】 Translation took 1879.8 seconds. |
| 秋.七月.大雩.旱也.徐儀楚聘于楚.楚子執之.逃歸.懼其叛也.使薳洩伐徐.吳人救之.令尹子蕩帥師伐吳.師于豫章.而次于乾谿.吳人敗其師於房鍾.獲宮廄尹棄疾.子蕩歸罪於薳洩而殺之. 冬.叔弓如楚聘.且弔敗也. 十一月.齊侯如晉.請伐北燕也.士匄相士鞅逆諸河.禮也.晉侯許之. 十二月.齊侯遂伐北燕.將納簡公.晏子曰.不入.燕有君矣.民不貳.吾君賄.左右諂諛.作大事不以信.未嘗可也. 昭公七年 經 七年春.王正月.暨齊平. 三月.公如楚.叔孫婼如齊蒞盟. 夏.四月.甲辰.朔.日有食之. 秋.八月.戊辰.衛侯惡卒. 九月.公至自楚. 冬.十有一月.癸未.季孫宿卒. 十有二月.癸亥.葬衛襄公. 傳 七年春.王正月.暨齊平.齊求之也.癸巳.齊侯次于虢.燕人行成.曰.敝邑知罪.敢不聽命.先君之敝器.請以謝罪公孫皙曰.受服而退.俟釁而動.可也.二月.戊午.盟于濡上.燕人歸燕姬.賂以瑤罋玉櫝斝耳.不克而還. 楚子之為令尹也.為王旌以田.芊尹無宇斷之.曰.一國兩君.其誰堪之.及即位.為章華之宮.納亡人以實之.無宇之閽入焉.無宇執之.有司弗與.曰.執人於王宮.其罪大矣.執而謁諸王.王將飲酒.無宇辭曰.天子經略.諸侯正封.古之制也.封略之内.何非君土.食土之毛.誰非君臣.故詩曰.普天之下.莫非王土.率土之濱.莫非王臣.天有十日.人有十等.下所以事上.上所以共神也.故王臣公.公臣大夫.大夫臣士.士臣皁.皁臣輿.輿臣隸.隸臣僚.僚臣僕.僕臣臺.馬有圉.牛有牧.以待百事.今有司曰.女胡執人於王宮.將焉執之.周文王之法曰.有亡荒閱.所以得天下也.吾先君文王作僕區之法曰.盜所隱器.與盜同罪.所以封汝也.若從有司.是無所執逃臣也.逃而舍之.是無陪臺也.王事無乃闕乎.昔武王數紂之罪.以告諸侯曰.紂為天下逋逃主.萃淵藪.故夫致死焉.君王始求諸侯而則紂.無乃不可乎.若以二文之法取之.盜有所在矣.王曰.取而臣以往.盜有寵.未可得也.遂赦之. |
秋、七月に大雩(雨乞いの儀式)が行われた。これは旱魃のためである。徐の儀楚が楚に外交訪問したが、楚の君主に捕らえられた。彼は逃げ帰り、楚はその反乱を恐れて薳洩を派遣し徐を攻撃させた。吳軍がこれを救援し、楚の令尹である子蕩が軍を率いて吳を討伐し、豫章に布陣して乾谿に駐屯した。吳軍は房鍾で楚軍を破り、宮廄尹の棄疾を捕虜とした。子蕩は罪を薳洩に転嫁して彼を処刑した。 冬、叔弓が楚を訪問し、同時に楚の敗戦を弔問した。 十一月、齊侯が晉を訪れ、北燕討伐の許可を求めた。士匄が士鞅を補佐して黄河で齊侯を出迎え、これは礼に適っていた。晉侯は齊の要請を承認した。 十二月、齊侯は北燕を攻撃し、簡公を燕の君主として送り込もうとした。晏子が諫めて言った。「成功しないでしょう。燕には既に君主がおり、民衆は離反しません。我が君は贈賄に溺れ、側近は媚び諂うばかりです。大事を成すのに信義を欠けば、かつて成功した例はありません。」 昭公七年の基本記録 七年の春、周暦正月に齊と和解した。 三月、魯の昭公が楚へ赴き、叔孫婼が齊で盟約に臨んだ。 夏四月甲辰の日(朔日)、日食が発生した。 秋八月戊辰の日、衛侯惡が逝去した。 九月、昭公が楚から帰国した。 冬十一月癸未の日、季孫宿が逝去した。 十二月癸亥の日、衛襄公を葬った。 詳細な記述 七年の春、周暦正月に齊と和解した。これは齊側の要望によるものだった。癸巳の日、齊侯が虢に駐屯すると、燕が和議を申し入れ、「我が国は過ちを認めます。命令に従わぬはずがありません。先代君主の遺品を謝罪の印と致します」と述べた。公孫皙が「降伏を受け入れて一旦退き、機会を待つべきです」と助言した。二月戊午の日、濡上で盟約を結び、燕は燕姬を返還し、玉で飾った壺や酒杯などを贈ったが、目的を果たせず帰還した。 楚王が令尹だった時代、王用の旗を狩りに使用した。芊尹の無宇がこれを断ち切って「一国に二人の君主がいて誰が耐えられましょうか」と批判した。即位後、章華宮を建設し逃亡者を集めて居住させた際、無宇の門番がそこに潜り込んだ。無宇が捕らえようとすると役人が「王宮で人を捕るとは大罪だ」と制止した。無宇は王の面前で主張した。「天子が国土を治め、諸侯が領地を守るのが古来の制度です。領内の全ては君の土であり、その恩恵を受ける者は皆君の臣です。『詩経』にも『天の下の全ては王の土、地の果てまで皆王の臣』とあります。天に十干があるように人にも十の階級があり、下位者は上位者に仕え、上位者は神事を司ります。王から公、大夫、士、皁、輿、隷、僚、僕、臺へと続く階層や、馬や牛を管理する者たちが社会を支えています。役人が『王宮でどうして人を捕れるか』と言うなら、逃亡者をどこで捕縛すればよいのでしょう。周の文王は『逃亡者を徹底捜索せよ』という法で天下を得、我が楚の文王は『盗品を隠せば盗人同罪』という法で領土を保ちました。役人の言うままなら逃亡者を捕えられず、王の事業は成り立ちません。昔、武王が紂王を『逃亡者の巣窟』と非難したように、君主が紂を真似てはなりません。二つの文王の法に照らせば、真の犯罪者は明らかです」と訴えた。王は「過去の逃亡者は寵臣だから捕えられぬ」と言い、結局無宇の門番を赦した。 解説 Translation took 6429.9 seconds. |
| 楚子成章華之臺.願以諸侯落之.大宰薳啟彊曰.臣能得魯侯.薳啟彊來召公.辭曰.昔先君成公.命我先大夫嬰齊曰.吾不忘先君之好.將使衡父照臨楚國.鎮撫其社稷.以輯寧爾民.嬰齊受命于蜀.奉承以來.弗敢失隕.而致諸宗祧曰.我先君共王.引領北望.日月以冀.傳序相授.於今四王矣.嘉惠未至.唯襄公之辱臨我喪.孤與其二三臣.悼心失圖.社稷之不皇.況能懷思君德.今君若步玉趾.辱見寡君.寵靈楚國.以信蜀之役.致君之嘉惠.是寡君既受貺矣.何蜀之敢望.其先君鬼神實嘉賴之.豈唯寡君.君若不來.使臣請問行期.寡君將承質幣而見于蜀.以請先君之貺.公將往.夢襄公祖.梓慎曰.君不果行.襄公之適楚也.夢周公祖而行.今襄公實祖.君其不行.子服惠伯曰.行.先君未嘗適楚.故周公祖以道之.襄公適楚矣.而祖以道.君不行何之.三月.公如楚.鄭伯勞于師之梁.孟僖子為介.不能相儀.及楚.不能荅郊勞. 夏.四月.甲辰.朔.日有食之.晉侯問於士文伯曰.誰將當日食.對曰.魯衛惡之.衛大魯小.公曰.何故.對曰.去衛地.如魯地.於是有災.魯實受之.其大咎.其衛君乎.魯將上卿.公曰.詩所謂彼日而食.于何不臧者.何也.對曰.不善政之謂也.國無政.不用善.則自取謫于日月之災.故政不可不慎也.務三而已.一曰擇人.二曰因民.三曰從時. |
楚の王が章華の台を完成させ、諸侯を招いて落成式を行いたいと願った。太宰の薳啟彊が「私が魯侯を招くことができます」と申し出た。薳啟彊が魯の公を招きに来ると、公は辞退して次のように述べた。「昔、先君の成公が我が先大夫の嬰齊に『私は先君との友好を忘れず、衡父を楚國に派遣してその社稷を鎮め、民を安定させよう』と命じられました。嬰齊は蜀でこの命令を受け、以来忠実に守り失うことなく、宗廟に報告して『我が先君の共王は首を長くして北を望み、日々待ち望んでいました。王位が代々受け継がれ、今では四代目となりますが、未だに恵みは届かず、ただ襄公のみが我が喪に臨んでくださいました。私と数人の臣下は心を痛めて方針を見失い、社稷を顧みる余裕もなく、ましてや君のご恩徳を偲ぶことなどできません。今、君がご足労を厭わず寡君にお会いくだされば、楚國に栄光を与え、蜀での盟約を実現させ、君の恵みをもたらすことになります。これで寡君は既にご厚意を頂いたことになり、蜀のことを改めて期待するはずもありません。先君の鬼神も実際に喜んで頼りにされるでしょう。寡君だけでなく、国全体が感謝します。もし君が来られないなら、使者を遣わして行き先をお聞かせください。寡君は礼品を持参し蜀でお会いして、先君の賜り物をお願いするつもりです」。 公は楚へ向かおうとしたが、襄公が旅の安全を祈る祖祭を行う夢を見た。梓慎が「君は結局行かれません。襄公が楚へ行かれた時、周公が祖祭を行って導かれたのです。今、襄公が実際に祖祭を行われた。君は行かれないでしょう」と言うと、子服惠伯が「行くべきです。先君はかつて楚へ行かれたことがないので、周公が導かれたのです。襄公は既に楚へ行かれており、導いておられる。君が行かれなければ、どこへ向かわれるというのですか」と反論した。三月、公は楚へ向かわれた。鄭伯が師の梁で出迎え、孟僖子が副使として同行したが、儀礼を適切に執り行えず、楚に到着してからも郊外での出迎えに応えることができなかった。 夏四月甲辰の朔の日、日食が起こった。晉侯が士文伯に「誰がこの日食の災いを受けるのか」と問うと、答えていうには「魯と衛が悪影響を受けるでしょう。衛が大きく、魯が小さいです」。公が「なぜか」と尋ねると、「災いが衛の地から魯の地へ移るためです。魯が実際に被害を受け、大いなる災いは衛の君に、魯では上卿に降りかかるでしょう」。公が「詩経に『あの日が蝕けるのは、何が良くないのか』とあるが、これはどういう意味か」と問うと、答えていうには「不善な政治を指します。国に善政がなく、善人を用いないなら、自ら日月の災いによる罰を受けるのです。だから政治は慎重に行わねばなりません。重視すべきは三つだけです。第一は人材選び、第二は民に沿うこと、第三は時機を捉えることです」。 解説この文章は『春秋左氏伝』の一節で、紀元前6世紀頃の中国春秋時代の外交儀礼と自然現象の解釈を描いています。前半では楚と魯の複雑な外交交渉が展開されます。楚の王が建造した章華の台の落成式に魯侯を招く過程で、過去の盟約(蜀の盟)を引き合いに出した丁寧な修辞や、夢占いを通じた吉凶の判断が記され、当時の国際関係における儀礼の重要性が窺えます。特に「祖」は旅の安全を祈る祭祀を指し、祖先の霊が外交行動に影響を与えると考えられていたことが分かります。 後半の日食をめぐる議論では、天文現象を政治の善悪と結びつける当時の思想が鮮明に表現されています。士文伯の「擇人・因民・従時」という政治三原則は、儒家思想の萌芽ともいえる内容で、為政者の心得として現代にも通じる示唆を含んでいます。魯と衛の災いの大小は、天文観測に基づく占いの結果を示すとともに、各国の政治状況を反映した解釈となっています。 全体として、この文章は歴史記録であると同時に、春秋時代の政治哲学や世界観を伝える貴重な史料となっています。 Translation took 3575.7 seconds. |
| 晉人來治杞田.季孫將以成與之.謝息為孟孫守.不可.曰.人有言曰.雖有挈缾之知.守不假器.禮也.夫子從君.而守臣喪邑.雖吾子亦有猜焉.季孫曰.君之在楚.於晉罪也.又不聽晉.魯罪重矣.晉師必至.吾無以待之.不如與之.間晉而取諸杞.吾與子桃.成反.誰敢有之.是得二成也.魯無憂.而孟孫益邑.子何病焉.辭以無山.與之萊柞.乃遷于桃.晉人為杞取成. 楚子享公于新臺.使長鬣者相.好以大屈.既而悔之.薳啟彊聞之.見公.公語之.拜賀.公曰.何賀.對曰.齊與晉越.欲此久矣.寡君無適與也.而傳諸君.君其備禦三鄰.慎守寶矣.敢不賀乎.公懼.乃反之. 鄭子產聘于晉.晉侯疾.韓宣子逆客.私焉.曰.寡君寢疾.於今三月矣.並走群望.有加而無瘳.今夢黃熊入于寢門.其何厲鬼也.對曰.以君之明.子為大政.其何厲之有.昔堯殛鯀于羽山.其神化為黃熊.以入于羽淵.實為夏郊.三代祀之.晉為盟主.其或者未之祀也乎.韓子祀夏郊.晉侯有間.賜子產莒之二方鼎.子產為豐施歸州田於韓宣子.曰.日君以夫公孫段.為能任其事.而賜之州田.今無祿早世.不獲久享君德.其子弗.敢有不敢以聞於君.私致諸子.宣子辭.子產曰.古人有言曰.其父析薪.其子弗克負荷.施將懼不能任其先人之祿.其況能任大國之賜.縱吾子為政而可.後之人若屬有疆埸之言.敝邑獲戾.而豐氏受其大討.吾子取州.是免敝邑於戾.而建置豐氏也.敢以為請.宣子受之.以告晉侯.晉侯以與宣子.宣子為初言.病有之.以易原縣於樂大心. |
翻訳文晋の人が杞の田畑の処理のために訪れた。季孫は成という土地を彼らに与えようとした。謝息が孟孫のためにその地を守っていたが、同意しなかった。そして言った。「人々がこう言います。たとえ瓶を提げる程度の小さな知恵しかなくても、守護者は器物を他人に貸し出さないのが礼儀である、と。主人(孟孫)は君に従ってお出でですが、守護者である私が領地を失えば、たとえあなた様でも疑いを抱かれるでしょう」。季孫は言った。「我が君が楚に滞在していることは、晋にとって罪となる行為です。さらに晋の要求を聞き入れなければ、魯の罪はさらに重くなります。晋軍が必ず攻めて来るでしょう。私はそれに対処する手段がありません。彼らに与える方が良いです。晋の隙を突いて杞から取り返しましょう。私はあなたに桃の土地を与えます。成が戻って来た時、誰がそれを所有できるでしょうか。これは二つの成を手に入れるようなものです。魯に憂いはなくなり、孟孫は領地を増やすのです。あなたは何を悩む必要がありますか」。謝息は山がないことを理由に断ったので、季孫は萊と柞の土地を与え、そこで桃に移った。晋の人は杞のために成を取得した。 楚の王が新台で魯の公をもてなした。髭の長い者を介添え役とし、大屈という宝刀を親善の印として贈った。しかし後にそれを後悔した。薳啟彊がこのことを聞き、公に会った。公が話すと、薳啟彊は拝礼して祝贺した。公が「何を祝贺するのか」と問うと、答えて「斉と晋と越が、この刀を長年欲しがってきました。我が君は適切な相手にお与えにならず、あなたに譲り渡しました。あなたは三つの隣国(斉、晋、越)を防備し、宝を慎重にお守りください。祝贺せずにいられましょうか」と言った。公は恐れ、刀を返却した。 鄭の子産が晋を訪問した。晋侯が病気だった。韓宣子が賓客を迎え、内々に話した。「我が君が臥病して、すでに三ヶ月になります。あらゆる山川の神々に祈願を重ねましたが、病状は悪化するばかりで快方に向かいません。今、夢に黄熊が寝室の門に入って来ました。これはどのような悪鬼でしょうか」。子産は答えた。「君の明察と、あなたが政治の要職にあるので、悪鬼など存在するはずがありません。昔、堯が羽山で鯀を処刑しましたが、その神霊は黄熊に化身して羽淵に入り、実は夏王朝の祭祀対象となりました。三代(夏、商、周)にわたって祀られてきました。晋が盟主であるなら、あるいはそれを祀り忘れているのではないでしょうか」。韓宣子が夏の祭祀を行ったところ、晋侯は回復の兆しを見せた。子産に莒の二つの方鼎を賜った。子産は豊施のために州の土地を韓宣子に返還した。そして言った。「以前、君が公孫段をその職務に適任と見て、州の土地を賜りました。しかし、彼は福禄なく早世し、君の恩徳を長く享受できませんでした。その子の施は、敢えて君に申し上げることもできず、私的にあなたにお渡しします」。宣子は辞退した。子産は言った。「古人の言葉に、『父親が薪を割っても、その子が負い切れない』があります。施は先人の禄さえ負い切れないことを恐れており、まして大国の賜り物を負えるでしょうか。たとえあなたが政治を執って許容されても、後任の者たちが国境問題を起こせば、我が国は罪を得て、豊氏は厳しい罰を受けるでしょう。あなたが州を取得することは、我が国を罪から救い、豊氏を保護することです。敢えてお願いします」。宣子はそれを受け入れ、晋侯に報告した。晋侯は宣子に与えた。宣子は以前の約束を気にして、その土地を持つことにためらいを覚え、楽大心と原県を交換した。 解説この一節は『春秋左氏伝』に記された春秋時代の外交エピソードで、以下の三つの部分から構成されています。
全体を通じて、春秋時代の複雑な同盟関係や、指導者の現実的な判断、祭祀や礼儀の社会的役割が浮き彫りにされています。これらのエピソードは、歴史的な事実としてだけでなく、現代の国際政治や組織運営にも通じる教訓を含んでいます。 Translation took 30773.0 seconds. |
| 鄭人相驚以伯有.曰伯有至矣.則皆走.不知所往.鑄刑書之歲二月.或夢伯有介而行.曰壬子.余將殺帶也.明年壬寅.余又將殺段也.及壬子.駟帶卒.國人益懼.齊燕平之月.壬寅.公孫段卒.國人愈懼.其明月.子產立公孫洩及良止以撫之.乃止.子大叔問其故.子產曰.鬼有所歸.乃不為厲.吾為之歸也.大叔曰.公孫洩何為.子產曰.說也.為身無義而圖說.從政有所反之以取媚也.不媚不信.不信.民不從也.及子產適晉.趙景子問焉.曰.伯有猶能為鬼乎.子產曰.能.人生始化曰魄.既生魄.陽曰魂.用物精多.則魂魄強.是以有精爽.至於神明.匹夫匹婦強死.其魂魄猶能馮依於人.以為淫厲.況良霄.我先君穆公之冑.子良之孫.子耳之子.敝邑之卿.從政三世矣.鄭雖無腆.抑諺曰.蕞爾國.而三世執其政柄.其用物也弘矣.其取精也多矣.其族又大.所馮厚矣.而強死.能為鬼.不亦宜乎. 子皮之族.飲酒無度.故馬師氏與子皮氏有惡.齊師還自燕之月.罕朔殺罕魋.罕朔奔晉.韓宣子問其位於子產.子產曰.君之羈臣.苟得容以逃死.何位之敢擇.卿違.從大夫之位.罪人.以其罪降.古之制也.朔於敝邑.亞大夫也.其官馬師也.獲戾而逃.唯執政所寘之.得免其死.為惠大矣.又敢求位.宣子為子產之敏也.使從嬖大夫. |
鄭の人々は伯有のことで互いに驚き騒ぎ、「伯有が来た」と言うと皆逃げ惑い、行く先も分からなくなるほどだった。刑書を鋳造した年の二月、ある者が伯有が甲冑を着て現れる夢を見た。伯有は「壬子の日に私は帯を殺す。来年の壬寅の日には段も殺す」と告げた。果たして壬子の日に駟帯が死去すると、人々の恐怖は一層強まった。斉と燕が和睦した月の壬寅の日、公孫段が亡くなると人々の畏れはさらに高まった。その翌月、子産が公孫洩と良止を祭祀の主として立てて鎮めると、騒動は収まった。子大叔がその理由を尋ねると、子産は「鬼にも帰る場所があれば悪鬼とはならない。私は彼らに居場所を与えたのだ」と答えた。大叔が「なぜ公孫洩も加えたのか」と問うと、子産は「民心を和らげるためだ。本来の道理に反しても民の歓心を買うことが政治には必要である。歓心を得なければ信頼されず、信頼がなければ民は従わない」と説明した。 後に子産が晋を訪れた時、趙景子が「伯有は本当に鬼となれるのか」と尋ねた。子産は「可能です。人が生を受ける際にまず魄が生じ、その後陽の気である魂が備わります。優れた物質を多く享受すれば魂魄は強くなり、精妙な気質から神霊の域に至ります。普通の男女ですら非業の死を遂げれば、その魂魄は人に憑いて災いをなすことがあります。ましてや良霄(伯有)は、鄭の穆公の血筋であり、子良の孫、子耳の子として三代にわたり国政を担った卿です。鄭は小国ながらも三代で政権を握り、物質も精神も豊かに享受し、一族も大きく基盤が厚い。そんな者が非業の死を遂げて鬼となるのは当然でしょう」と述べた。 続いて子皮の一族は酒宴に耽り度を越していたため、馬師氏と子皮氏は対立していた。斉軍が燕から撤退した月、罕朔が罕魋を殺害して晋へ逃亡した。晋の韓宣子が子産に罕朔の待遇を問うと、子産は「亡命者が死を免れて身を寄せられるだけで十分です。卿が国外に出れば大夫の位に降り、罪人は罪状に応じて格下げされるのが古来の慣例です。朔は我国では亞大夫・馬師の職にありましたが、罪を犯して逃れた者です。执政の裁量に委ね、死罪を免れるだけでも恩恵が大きいのに、さらに位を求めるべきではありません」と答えた。韓宣子は子産の機知に感心し、彼を嬖大夫の位に叙した。 解説この一節は『春秋左氏伝』に描かれる鄭国の政治劇で、二つのエピソードから構成されています。前半は伯有の亡霊騒動を通じて、古代中国の魂魄観念と子産の現実的な政治手法が示されています。子産は亡霊の存在を否定せず、祭祀によって社会的不安を鎮める「鬼有所帰」の思想を実践し、民心掌握の重要性を説いています。後半の罕朔事件では、国際関係における身分秩序の扱いが主題です。子産は亡命者の処遇問題で、古制を引用しつつも鄭国の立場を巧みに守る外交手腕を見せます。特に「媚びなければ信頼されない」という発言は、理想と現実のバランスを重視する子産の政治哲学を表しています。これらのエピソードは、春秋時代の社会が抱えた宗教観・秩序観と、それを操縦する為政者の知恵を浮き彫りにしています。 Translation took 3234.3 seconds. |
| 秋.八月.衛襄公卒.晉大夫言於范獻子曰.衛事晉為睦.晉不禮焉.庇其賊人.而取其地.故諸侯貳.詩曰.鶺鴒在原.兄弟急難.又曰.死喪之威.兄弟孔懷.兄弟之不睦.於是乎不弔.況遠人誰敢歸之.今又不禮於衛之嗣.衛必叛我.是絕諸侯也.獻子以告韓宣子.宣子說.使獻子如衛弔.且反戚田.衛齊惡告喪于周.且請命.王使臣簡公如衛弔.且追命襄公曰.叔父陟恪.在我先王之左右.以佐事上帝.余敢忘高圉.亞圉. 九月.公至自楚.孟僖子病不能相禮.乃講學之.苟能禮者從之.及其將死也.召其大夫曰.禮.人之幹也.無禮無以立.吾聞將有達者.曰孔丘.聖人之後也.而滅於宋.其祖弗父何.以有宋而授厲公.及正考父佐戴.武.宣.三命茲益共.故其鼎銘云.一命而僂.再命而傴.三命而俯.循牆而走.亦莫余敢侮.饘於是.鬻於是.以餬余口.其共也如是.臧孫紇有言曰.聖人有明德者.若不當世.其後必有達人.今其將在孔丘乎.我若獲沒必屬說與何忌於夫子.使事之而學禮焉.以定其位.故孟懿子.與南宮敬叔.師事仲尼.仲尼曰.能補過者.君子也.詩曰.君子是則是效.孟僖子可則效已矣. 單獻公棄親用羈.冬.十月.辛酉.襄頃之族.殺獻公而立成公. 十一月.季武子卒.晉侯謂伯瑕曰.吾所問日食從矣.可常乎.對曰.不可.六物不同.民心不壹.事序不類.官職不則.同始異終.胡可常也.詩曰.或燕燕居息.或憔悴事國.其異終也如是.公曰.何謂六物對曰.歲時日月星辰是謂也.公曰.多語寡人辰.而莫同.何謂辰.對曰.日月之會是謂辰.故以配日. |
秋、八月。衛の襄公が亡くなった。晋の大夫が范獻子に言った。「衛は晋に仕えて友好的ですが、晋は礼を尽くしていません。賊人をかばい、その土地を取ったので、諸侯は離反しています。詩に『鶺鴒が原にいる、兄弟は難を急ぐ』とあります。また『死喪の威、兄弟は特に思いやる』とあります。兄弟が不和なら、弔問もしないのです。まして遠い国々の者が誰を頼りに来るでしょう。今、衛の後継者に礼を尽くさなければ、衛は必ず我々に背きます。これは諸侯との関係を断つことです」。獻子はこれを韓宣子に報告した。宣子は喜び、獻子を衛に遣わして弔問させ、かつ戚の土地を返還させた。衛の齊惡が周に喪を報告し、かつ任命を請うた。王は臣下の簡公を衛に遣わして弔問させ、かつ襄公を追悼して言った。「叔父が天に昇り、我が先王の左右におり、上帝に仕え輔佐しています。私はどうして高圉や亞圉を忘れられましょうか」。 九月。公(魯の公)が楚から帰国した。孟僖子は礼儀を補佐できないのを悩み、学問を講じてこれを修め、礼をよくする者には従った。死期が近づいた時、家臣を呼び集めて言った。「礼は人にとって幹のようなものだ。礼がなければ立つことができない。私は聞く、将来に達者が現れると、孔丘という、聖人の子孫である。しかし宋で滅ぼされた。その祖先の弗父何は、宋を受け継ぐべきだったが厲公に譲った。そして正考父は戴公、武公、宣公を補佐し、三度任命されるごとにますます謹んだ。だからその鼎の銘に『一度任命されると腰を曲げ、二度目にはさらに屈み、三度目にはうつむき、壁沿いに歩く。誰も私を侮る者はない。粥もここで、汁もここで、私の口を糊口する』とある。その謹みはこのようであった。臧孫紇が言った。『聖人で明徳を持つ者が、もし世に遇わなければ、その子孫には必ず達人が現れる』。今、それが孔丘において実現するのであろう。私が無事に死ねたら、必ず説と何忌を夫子に託し、彼に仕えて礼を学ばせ、その地位を安定させたい」。そこで孟懿子と南宮敬叔は、師として仲尼に仕えた。仲尼は言った。「過ちを補うことができる者は君子である。詩に『君子はこれを手本とし、これを模範とする』とある。孟僖子は手本とすべきである」。 單獻公は親族を捨てて外来の者を用いた。冬、十月、辛酉の日、襄頃の一族が獻公を殺して成公を立てた。 十一月。季武子が亡くなった。晉侯が伯瑕に言った。「私が尋ねた日食のことは当たった。常にそうなるのか」。伯瑕は答えた。「なりません。六つの物は同じでなく、民心は一つでなく、事の順序は同じでなく、官職は規則的でない。同じ始まりでも終わりが異なる。どうして常と言えましょう。詩に『ある者はのんびりと休息し、ある者は憔悴して国に仕える』とある。その終わりの異なることはこのようである」。公が言った。「六物とは何か」。答えて言った。「歳、時、日、月、星、辰をいうのです」。公が言った。「多く辰について語るが、同じではない。辰とは何か」。答えて言った。「太陽と月の会合を辰といいます。だから日と配するのです」。 解説この一節は『春秋左氏伝』の一部で、紀元前6世紀頃の春秋時代の出来事を記録しています。主に以下の要素から成ります。
全体として、礼儀や兄弟愛による秩序維持の理念が、国際関係や個人の修養において重要視されていた時代背景が描かれています。特に孔子登場前夜の予兆としての記述は、歴史的に意義深いものです。 Translation took 5755.8 seconds. |
| 衛襄公.夫人姜氏無子.嬖人婤姶生孟縶.孔成子夢康叔謂己.立元.余使羈之孫圉與史苟相之.史朝亦夢康叔謂己.余將命而子苟.與孔烝鉏之曾孫圉.相元.史朝見成子.告之夢.夢協.晉韓宣子為政.聘于諸侯之歲.婤姶生子.名之曰元.孟縶之足不良.能行孔成子以周易筮之曰.元尚享衛國.主其社稷.遇屯.又曰.余尚立縶.尚克嘉之.遇屯之比以示史朝.史朝曰.元亨.又何疑焉.成子曰.非長之謂乎.對曰.康叔名之.可謂長矣.孟非人也.將不列於宗.不可謂長.且其繇曰.利建侯.嗣吉.何建.建非嗣也.二卦皆云子其建之.康叔命之.二卦告之.筮襲於夢.武王所用也.弗從何為.弱足者居.侯主社稷.臨祭祀.奉民人.事鬼神.從會朝.又焉得居.各以所利.不亦可乎.故孔成子立靈公. 十二月.癸亥.葬衛襄公. 昭公八年 經 八年春.陳侯之弟招.殺陳世子偃師. 夏.四月.辛丑.陳侯溺卒.叔弓如晉.楚人執陳行人干徵師.殺之.陳公子留.出奔鄭. 秋.蒐于紅.陳人殺其大夫公子過.大雩. 冬.十月.壬午.楚師滅陳.執陳公子招.放之于越.殺陳孔奐.葬陳哀公. 傳 八年春.石言于晉魏榆.晉侯問於師曠曰.石何故言.對曰石不能言.或馮焉.不然.民聽濫也.抑臣又聞之曰.作事不時.怨讟動于民.則有非言之物而言.今宮室崇侈.民力彫盡.怨讟並作.莫保其性.石言不亦宜乎.於是晉侯方築虒祁之宮.叔向曰.子野之言君子哉.君子之言.信而有徵.故怨遠於其身.小人之言僭而無徵.故怨咎及之.詩曰.哀哉不能言.匪舌是出.唯躬是瘁.哿矣能言.巧言如流.俾躬處休.其是之謂乎.是宮也成.諸侯必叛.君必有咎.夫子知之矣.陳哀公元妃鄭姬生悼大子偃師.二妃生公子留.下妃生公子勝.二妃嬖.留有寵.屬諸司徒招與公子過.哀公有廢疾. |
衛襄公の夫人である姜氏には子供がなかった。寵愛する側室の婤姶が孟縶を生んだ。孔成子は夢で康叔が自分に「元を立てよ。私は羈の孫である圉と史苟に補佐させる」と言うのを見た。史朝も夢で康叔が「私はお前の子である苟と、孔烝鉏の曾孫である圉に元を補佐させるように命じる」と言うのを見た。史朝は成子に会い、夢の内容を伝えた。二人の夢は一致した。晋の韓宣子が政権を執り、諸侯に聘問した年に、婤姶が子を生み、元と名付けた。孟縶は足が不自由で、満足に歩けなかった。孔成子が周易で占い、「元が衛国を享有し、その社稷を主とすることを願う」と言い、屯の卦を得た。また「私は縶を立てることを願い、うまくいくことを願う」と言い、屯の卦が比の卦に変わるのを得て、史朝に見せた。史朝は「元が亨(とお)るというのに、何を疑うことがありましょうか」と言った。成子が「それは年長を指すのではあるまいか」と問うと、史朝は「康叔が名付けたのですから、年長と言えるでしょう。孟(縶)は人として不具であり、宗廟に列せられないでしょうから、年長とは言えません。しかも繇辞に『侯を建つるは利あり、嗣ぐは吉なり』とあります。何を建てるのですか。建てるのは嗣ぐことではありません。二つの卦がともに『子はそれを建てよ』と言い、康叔が命じ、二卦が告げている。占いが夢と一致するのは、武王が用いた方法です。従わないでどうするのですか。足の弱い者は家に居るべきです。侯は社稷を主とし、祭祀に臨み、民人を奉じ、鬼神に事え、会朝に従うのです。どうして居ることができましょうか。それぞれが利するところによれば、良いではありませんか」と言った。そこで孔成子は霊公(元)を立てた。 十二月癸亥の日に、衛襄公を葬った。 昭公八年 八年の春、陳侯の弟である招が、陳の世子偃師を殺した。 夏四月辛丑の日に、陳侯溺が卒去した。叔弓が晋へ行った。楚の人が陳の行人である干徵師を捕らえ、殺した。陳の公子留は鄭へ出奔した。 秋、紅で狩獵を行った。陳の人がその大夫である公子過を殺した。大雩(雨乞いの祭)を行った。 冬十月壬午の日に、楚の軍が陳を滅ぼした。陳の公子招を捕らえ、越に放逐した。陳の孔奐を殺した。陳哀公を葬った。 伝 八年の春、晋の魏榆で石がものを言った。晋侯が師曠に「石はなぜものを言うのか」と問うた。師曠は「石はものを言うことはできません。何かが憑いているのでしょう。そうでなければ、民の聞き誤りです。しかし臣はまた聞いていますが、事を行うのに時宜を得なければ、怨みと誹謗が民の間に起こり、言葉を言わないものがものを言うようになると。今、宮室が高く贅沢で、民力は尽き果て、怨みと誹謗がともに起こり、民はその生命を保てません。石がものを言うのも当然ではないでしょうか」と答えた。当時、晋侯はちょうど虒祁の宮を築いていた。叔向は「子野(師曠)の言葉は君子の言葉だ。君子の言葉は誠実で証拠があるので、怨みがその身から遠ざかる。小人の言葉は偽りで証拠がないので、怨みと災いが及ぶ。詩に『哀れなかな言えぬ人は、舌が出るのではないが、ただ身が疲れる。喜ばしいかな言える人は、巧みな言葉が流れるように出て、身を安らかに処させる』とある。このことを指しているのでしょう」と言った。この宮が完成すると、諸侯は必ず背き、君には必ず災いがあるだろうと、夫子(師曠)は知っていたのである。陳哀公の元妃である鄭姬は悼太子偃師を生み、二妃は公子留を生み、下妃は公子勝を生んだ。二妃は寵愛され、留は寵愛された。哀公は司徒の招と公子過に留を託した。哀公は難病を患っていた。 【解説】 陳国では、兄弟間の権力闘争が招いた内乱と、楚による滅亡という悲劇が描かれます。特に「石がものを言う」という晋のエピソードは、民衆の不満が異形の現象として現れるという警告であり、為政者の奢侈を批判する寓意を含んでいます。師曠の言葉は、為政者の責任を強調し、『詩経』を引用して君子の言行の重要性を説く、儒教的な教えが込められています。 全体として、この文章は春秋時代の国際情勢や国内政治の不安定性、そして当時の人々が超自然的な現象を如何に現実の政治と結びつけていたかを如実に物語る歴史資料となっています。 Translation took 2059.1 seconds. |
| 三月甲申.公子招.公子過.殺悼大子偃師而立公子留. 夏.四月.辛亥.哀公縊.干徵師赴于楚.且告有立君.公子勝愬之于楚.楚人執而殺之.公子留奔鄭.書曰.陳侯之弟招殺陳世子偃師.罪在招也.楚人執陳行人干徵師殺之.罪不在行人也.叔弓如晉.賀虒祁也.游吉相鄭伯以如晉.亦賀虒祁也.史趙見子大叔曰.甚哉其相蒙也.可弔也而又賀之.子大叔曰.若何弔也.其非唯我賀.將天下實賀. 秋.大蒐于紅.自根牟至于商衛.革車千乘. 七月.甲戌.齊子尾卒.子旗欲治其室.丁丑.殺梁嬰. 八月.庚戌.逐子成.子工.子車.皆來奔.而立子良氏之宰.其臣曰.孺子長矣.而相吾室.欲兼我也.授甲將攻之.陳桓子善於子尾.亦授甲將助之.或告子旗.子旗不信.則數人告將往.又數人告於道.遂如陳氏.桓子將出矣.聞之而還.游服而逆之.請命.對曰.聞彊氏授甲將攻子.子聞諸.曰.弗聞.子盍亦授甲.無宇請從.子旗曰.子胡然.彼孺子也.吾誨之.猶懼其不濟.吾又寵秩之.其若先人何.子盍謂之.周書曰.惠不惠.茂不茂.康叔所以服弘大也.桓子稽顙曰.頃靈福子.吾猶有望.遂和之如初.陳公子招歸罪於公子過而殺之. 九月.楚公子棄疾帥師奉孫吳圍陳.宋戴惡會之. 冬.十一月.壬午.滅陳.輿嬖袁克.殺馬毀玉以葬.楚人將殺之.請寘之.既又請私.私於幄.加絰於顙而逃.使穿封戌.為陳公曰.城麇之役不諂.侍飲酒於王.王曰.城麇之役.女知寡人之及此.女其辟寡人乎.對曰.若知君之及此.臣必致死禮以息楚.晉侯問於史趙曰.陳其遂亡乎.對曰.未也.公曰何故.對曰.陳顓頊之族也.歲在鶉火.是以卒滅.陳將如之.今在析木之津.猶將復由.且陳氏得政于齊.而後陳卒亡.自幕至于瞽瞍.無違命.舜重之以明德.寘德于遂.遂世守之.及胡公不淫.故周賜之姓.使祀虞帝.臣聞盛德必百世祀.虞之世數未也.繼守將在齊.其兆既存矣. 昭公九年 經 |
三月甲申の日、公子招と公子過が悼大子の偃師を殺し、公子留を立てた。 秋、紅で大規模な軍事演習が行われ、根牟から商衛まで、革車千乗が展開した。 九月、楚の公子棄疾が軍を率いて孫吳を奉じ陳を包囲し、宋の戴惡がこれに合流した。 (昭公九年の経文に対応する記述) 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公九年の記述で、陳国における内乱と滅亡の経緯を詳細に描いています。以下の点が特筆されます:
この記述は、春秋時代の国際関係や国内政治の混乱、さらに歴史の循環的な視点を濃厚に伝える重要な一節です。 Translation took 2523.6 seconds. |
| 九年春.叔弓會楚子于陳.許遷于夷. 夏.四月.陳災. 秋.仲孫貜如齊. 冬.築郎囿. 傳 九年春.叔弓.宋華亥.鄭游吉.衛趙黶.會楚子于陳. 二月.庚申.楚公子棄疾.遷許于夷.實城父.取州來淮北之田以益之.伍舉授許男田.然丹遷城父人於陳.以夷濮西田益之.遷方城外人於許.周甘人與晉閻嘉爭閻田.晉梁丙.張趯.率陰戎伐潁.王使詹桓伯辭於晉曰.我自夏以后稷.魏.駘.芮.岐.畢.吾西土也.及武王克商.蒲姑.商奄.吾東土也.巴濮.楚鄧.吾南土也.肅慎.燕.亳.吾北土也.吾何邇封之有.文武成康之建母弟.以蕃屏周.亦其廢隊是為.豈如弁髦.而因以敝之.先王居檮杌于四裔.以禦螭魅.故允姓之姦.居于瓜州.伯父惠公歸自秦.而誘以來.使偪我諸姬.入我郊甸.則戎焉取之.戎有中國.誰之咎也.后稷封殖天下.今戎制之.不亦難乎.伯父圖之.我在伯父.猶衣服之有冠冕.木水之有本原.民人之有謀主也.伯父若裂冠毀冕.拔本塞原.專棄謀主.雖戎狄其何有余一人.叔向謂宣子曰.文之伯也.豈能改物.翼戴天子.而加之以共.自文以來.世有衰德.而暴滅宗周.以宣示其侈.諸侯之貳.不亦宜乎.且王辭直.子其圖之.宣子說.王有姻喪.使趙成如周弔.且致閻田與襚.反潁俘.王亦使賓滑執甘大夫襄以說於晉.晉人禮而歸之. |
【翻訳文】 夏、四月、陳で火災が発生した。 秋、仲孫貜が斉へ赴いた。 冬、郎囿を築造した。 伝 二月庚申の日、楚の公子棄疾が許を夷(実は城父)に移した。州来の淮北の田地を取って許に加えた。伍挙が許男に田地を授け、然丹が城父の住民を陳に移し、夷濮西の田地を彼らに加えた。方城外の住民を許に移した。 周の甘人と晋の閻嘉が閻の田地を争った。晋の梁丙と張趯が陰戎を率いて潁を攻撃した。周王は詹桓伯を晋に遣わして抗議した:「我々は夏代に后稷によって、魏・駘・芮・岐・畢を西方の領土とした。武王が商を滅ぼした後、蒲姑・商奄を東方の領土とし、巴濮・楚鄧を南方の領土とし、肅慎・燕・亳を北方の領土とした。我々に狭い国境などありはしない。文武成康の王たちが同母弟を封建して周を守らせたのは、衰退に備えるためであって、冠の飾りのように使い捨てにするものではない。先王は檮杌を四方の辺境に置いて妖怪を防がせ、允姓の奸悪な者を瓜州に住まわせた。伯父(晋君)の恵公が秦から帰国する際、彼らを誘い入れて我々姫姓の国々を圧迫させ、郊外まで侵入させた。戎が中原を支配するようになったのは誰の責任か。后稷が天下を開拓したのに、今や戎に制圧されるとは情けない。伯父はよく考えてほしい。私(周王)が伯父にとっては、衣服の冠冕、木水の本源、民の謀主のような存在だ。伯父が冠冕を破り本源を絶ち謀主を棄てるなら、戎狄でさえ私をどう扱うだろうか」 叔向が宣子に言った:「文公(晋の覇者)の時代でも王朝の制度を変えられず、天子を支えて恭順を示した。文公以来、晋の徳は衰え、周王室を軽んじて奢侈を誇っている。諸侯が離反するのも当然だ。しかも王の言葉は正当である。よく考慮すべきだ」宣子は納得した。 周王に姻族の喪があったため、趙成を周に派遣して弔問させ、閻の田地と葬儀の衣を贈った。潁の捕虜を返還すると、王も賓滑に甘大夫の襄を捕らえさせて晋に詫びさせた。晋は礼を尽くして襄を帰国させた。 【解説】 Translation took 1403.4 seconds. |
| 夏.四月.陳災.鄭裨灶曰.五年.陳將復封.封五十二年而遂亡.子產問其故.對曰.陳.水屬也.火.水妃也.而楚所相也.今火出而火陳.逐楚而建陳也.妃以五成.故曰五年.歲五及鶉火.而後陳卒亡.楚克有之.天之道也.故曰五十二年. 晉荀盈如齊逆女.還.六月.卒于戲陽.殯于絳.未葬.晉侯飲酒樂.膳宰屠蒯趨入.請佐公使尊.許之.而遂酌以飲.工曰.女為君耳.將司聰也.辰在子卯.謂之疾日.君徹宴樂.學人舍業.為疾故也.君之卿佐.是謂股肱.股肱或虧.何痛如之.女弗聞而樂.是不聰也.又飲外嬖嬖叔曰.女為君目.將司明也.服以旌禮.禮以行事.事有其物.物有其容.今君之容.非其物也.而女不見.是不明也.亦自飲也.曰.味以行气.气以實志.志以定言.言以出令.臣實司味.二御失官.而君弗命.臣之罪也.公說.徹酒.初.公欲廢知氏而立其外嬖.為是悛而止.秋.八月.使荀躒佐下軍以說焉. 孟僖子如齊.殷聘禮也. 冬.築郎囿.書時也.季平子欲其速成也.叔孫昭子曰.詩曰.經始勿亟.庶民子來.焉用速成.其以勦民也.無囿猶可.無民其可乎. 昭公十年 經 十年春,王正月。 夏,齊欒施來奔。 秋,七月.季孫意如、叔弓、仲孫貜帥師伐莒。 戊子,晉侯彪卒。 |
【翻訳文】 晋の荀盈が斉に赴き公女を迎えに行った。帰途、六月に戲陽で死去し、絳で仮葬された。未だ埋葬されていないのに、晋侯が酒宴を楽しんでいた。膳宰の屠蒯が小走りに入り、公の酒杯を助けることを請うた。許可されると、酒を酌んで楽工に飲ませながら言った。「汝は君の耳であるべきで、聡明を司る職責だ。子卯の日は忌日と呼ばれ、君は宴楽を控え、学び手は学業を休む。卿佐たる者は手足のような存在だ。その手足を損なって、これ以上の痛みがあろうか。汝がそのことを知らずに音楽を奏するのは聡明ではない」。次に寵臣の嬖叔に酒を飲ませて言った。「汝は君の目であるべきで、明察を司る職責だ。礼服は礼を表し、礼は行事を整え、行事には相応しい様式がある。今、君の様式が事柄にふさわしくないのに、汝がそれを見逃すのは明察ではない」。最後に自ら酒を飲んで言った。「味は気を巡らせ、気は志を充実させ、志は言葉を定め、言葉は命令となる。臣は味を司る者として、楽工と寵臣の両者が職務を怠っているのに君が注意されないのは、臣の罪である」。公は喜んで酒宴を撤いた。当初、公は知氏を廃して寵臣を立てようとしたが、この件を機に悔い改めて中止した。秋、八月、荀躒を下軍の副将とし、不満を鎮めた。 孟僖子が斉へ赴いた。これは殷代以来の聘礼に則ったものである。 冬、郎囿(庭園)を築造した。『春秋』が季節を記したのは、季平子が急ぎ完成させようとしたためである。叔孫昭子が言った。「詩経に『始めより急がずとも、民は子の如く集う』とある。急ぐ必要があろうか。それは民を疲弊させるだけだ。庭園がなくともよいが、民がいなくてどうしようか」。 昭公十年 十年の春、周暦正月。 夏、斉の欒施が魯に亡命した。 秋、七月、季孫意如・叔弓・仲孫貜が軍を率いて莒を討った。 戊子の日、晋侯彪が逝去した。 【解説】 Translation took 1550.2 seconds. |
| 九月,叔孫婼如晉.葬晉平公。 十有二月,甲子,宋公戌卒。 傳 十年春.王正月.有星出于婺女.鄭裨灶言於子產曰.七月.戊子.晉君將死.今茲歲在顓頊之虛.姜氏任氏.實守其地.居其維首.而有妖星焉.告邑姜也.邑姜.晉之妣也.天以七紀.戊子.逢公以登星斯於是乎出.吾是以譏之. 齊惠欒.高氏.皆耆酒.信内多怨.彊於陳鮑氏而惡之.夏.有告陳桓子曰.子旗.子良.將攻陳鮑.亦告鮑氏.桓子授甲而如鮑氏.遭子良醉而騁.遂見文子.則亦授甲矣.使視二子.則皆從飲酒.桓子曰.彼雖不信.聞我授甲.則必逐我.及其飲酒也.先伐諸.陳鮑方睦.遂伐欒高氏.子良曰.先得公.陳鮑焉往.遂伐虎門.晏平仲端委立于虎門之外.四族召之.無所往.其徒曰.助陳鮑乎.曰.何善焉.助欒高乎.曰.庸愈乎.然則歸乎.曰.君伐焉歸.公召之而後入.公卜使王黑以靈姑銔率.吉.請斷三尺焉而用之.五月.庚辰.戰于稷.欒高敗.又敗諸莊.國人追之.又敗諸鹿門.欒施.高彊.來奔.陳鮑分其室.晏子謂桓子.必致諸公.讓德之主也.謂懿德.凡有血气.皆有爭心.故利不可強.思義為愈.義.利之本也.蘊利生孽.姑使無蘊乎.可以滋長.桓子盡致諸公.而請老于莒.桓子召子山.私具幄幕器用.從者之衣屨.而反棘焉.子商亦如之.而反其邑.子周亦如之.而與之夫于.反子城.子公.公孫捷.而皆益其祿.凡公子公孫之無祿者.私分之邑.國之貧約孤寡者.私與之粟.曰.詩云.陳錫載周.能施也.桓公是以霸.公與桓子莒之旁邑.辭.穆孟姬為之請高唐.陳氏始大. |
【翻訳文】 伝 斉の恵公の子孫である欒氏と高氏は、ともに酒を嗜み、婦人の言いなりになって多くの怨恨を買い、陳氏と鮑氏より勢力が強いため彼らを憎んでいた。夏、ある者が陳桓子に告げた。「子旗(欒施)と子良(高彊)が陳氏と鮑氏を攻撃しようとしている」と。同じく鮑氏にも告げた。桓子は武装兵を召集して鮑氏のところへ向かった。道中で子良が酔って馬を疾走させているのに出会い、そのまま鮑文子に会った。鮑氏もすでに武装兵を召集していた。二人の様子を見に行かせると、ともに酒を飲んでいた。桓子は言った。「彼らの攻撃計画は虚偽かもしれないが、我々が武装したと聞けば、必ず我々を追い詰めようとする。彼らが酒を飲んでいるうちに、先手を打って討つべきだ」。陳氏と鮑氏はちょうど仲が良かったので、ともに欒氏と高氏を討つことにした。子良は言った。「まず公(斉の君主)を手中に収めよ。そうすれば陳氏と鮑氏などどこへ逃げよう」。そこで虎門(宮門の名)を攻撃した。晏平仲(晏嬰)は礼服を正しく着て虎門の外に立っていた。四族(陳・鮑・欒・高)が彼を招いたが、どちらにも赴かなかった。彼の家臣が言った。「陳氏と鮑氏を助けるのですか」。晏子は言った。「彼らに何の善行があろうか」。「では欒氏と高氏を助けるのですか」。晏子は言った。「まさか彼らの方がましだろうか」。家臣が「それでは帰りましょうか」と言うと、晏子は「君主が攻撃されているのに、どこへ帰れようか」と答えた。公が彼を召してから初めて宮中に入った。 公は占いをして、王黒に霊姑銔(斉の公室の旗)を持たせて軍を率いさせると、吉と出た。王黒は「旗竿を三尺短く切って使用することを請い願います」と言った。五月の庚辰の日、稷で戦いが起こり、欒氏と高氏は敗れた。さらに莊で敗れ、国都の民衆が追撃し、鹿門でも敗れた。欒施と高彊は魯へ逃亡してきた。陳氏と鮑氏は彼らの財産と領地を分け合った。 晏子が桓子に言った。「必ずそれら(分け取った財産)を公に献上しなさい。公は譲りの徳を持つお方です。懿德(美徳)を尊ばれます。およそ血気のある者には皆、争いの心があります。だから利益を無理に求めてはなりません。義を思うことがより良いのです。義は利の根本です。利益を蓄えれば災いが生じます。しばらくは利益を蓄えずにおきなさい。そうすれば(徳が)育ちます」。桓子は全てを公に献上し、莒への隠居を請い願った。 桓子は子山を呼び寄せ、密かに幕舎や器物・従者の衣類や履物を備えて、棘の地を返還した。子商に対しても同様にしてその邑を返還し、子周に対しても同様にして夫于の地を与えた。子城、子公、公孫捷を呼び戻し、皆の禄を増やした。公子や公孫で禄を持たない者には、私的に邑を分け与え、国の中で貧窮し孤寡の者には、私的に粟を施した。そして言った。「詩経に『陳(布)き錫(与)えて周を載(助)く』とあります。よく施すことができるという意味です。桓公がこれによって覇者となられたのです」。公は桓子に莒に隣接する邑を与えようとしたが、桓子は辞退した。穆孟姬(景公の母)が彼のために高唐の地を請い願い、陳氏はここから大きく興隆し始めた。 【解説】 第一に、鄭の裨灶による星象占い(星が婺女に現れたことを晋君の死と結びつける)など、当時の天人相関思想を反映した記述が見られます。第二に、斉の権力闘争では、晏嬰が中立を保ちつつも「義を利の根本とする」という治国の理念を陳桓子に説く場面が印象的です。第三に、陳桓子が敵対勢力の財産を全て公に献上し、私利を追求しない姿勢を示した結果、却って陳氏の基盤が強化されるという、春秋時代の権力移動の典型例が示されています。 特に「義は利の本なり」「蘊利生孽(利益を蓄えれば災いが生じる)」という言葉は、儒家の利益観を表す重要な箇所として後世に影響を与えました。この出来事を契機に、陳氏(後の田氏)が斉で台頭していく過程の重要な転換点となっています。 Translation took 2203.7 seconds. |
| 秋.七月.平子伐莒.取郠.獻俘.始用人於亳社.臧武仲在齊.聞之.曰.周公其不饗魯祭乎.周公饗義.魯無義.詩曰.德音孔昭.視民不佻.佻之謂甚矣.而壹用之.將誰福哉. 戊子.晉平公卒.鄭伯如晉.及河.晉人辭之.游吉遂如晉.九月.叔孫婼.齊國弱.宋華定.衛北宮喜.鄭罕虎.許人.曹人.莒人.邾人.薛人.杞人.小邾人.如晉.葬平公也.鄭子皮將以幣行.子產曰.喪焉用幣.用幣必百兩.百兩必千人.千人至.將不行.不行.必盡用之.幾千人而國不亡.子皮固請以行.既葬.諸侯之大夫欲因見新君.叔孫昭子曰.非禮也.弗聽.叔向辭之.曰.大夫之事畢矣.而又命孤.孤斬焉在衰絰之中.其以嘉服見.則喪禮未畢.其以喪服見.是重受弔也.大夫將若之何.皆無辭以見.子皮盡用其幣.歸.謂子羽曰.非知之實難.將在行之.夫子知之矣.我則不足.書曰.欲敗度.縱敗禮.我之謂矣.夫子知度與禮矣.我實縱欲.而不能自克也.昭子至自晉.大夫皆見.高彊見而退.昭子語諸大夫曰.為人子.不可不慎也哉.昔慶封亡.子尾多受邑而稍致諸君.君以為忠.而甚寵之.將死.疾于公宮.輦而歸.君親推之.其子不能任.是以在此.忠為令德.其子弗能任.罪猶及之.難不慎也.喪夫人之力.棄德曠宗.以及其身.不害乎.詩曰.不自我先.不自我後.其是之謂乎. |
秋、七月、平子が莒を討伐し、郠を奪取した。捕虜を献上し、初めて亳社で人間を犠牲に用いた。臧武仲が齊にいて、これを聞いて言った。「周公は魯の祭りを享受しないだろう。周公は義を享受するが、魯には義がない。詩に曰く、『徳の音は非常に明らかで、民を見て軽んじない』と。軽んじるとは甚だしいことで、これを専ら用いるなら、誰が福を与えようか。」 戊子の日、晉平公が逝去した。鄭伯が晉へ行こうとしたが、河に着いた時、晉人がこれを断った。游吉がそこで晉へ行った。九月、叔孫婼、齊の國弱、宋の華定、衛の北宮喜、鄭の罕虎、許人、曹人、莒人、邾人、薛人、杞人、小邾人が晉へ行った。平公を葬るためである。鄭の子皮が幣帛を持って行こうとした。子産が言った。「喪中に幣帛を用いる必要があるのか。幣帛を用いれば必ず百両(多くの贈り物)が必要で、百両には必ず千人の従者がいる。千人が到着しても、うまく行かないだろう。うまく行かないと、必ず全部使ってしまう。千人もの人数で国が滅びないだろうか。」子皮は固執して幣帛を持って行った。葬儀が終わると、諸侯の大夫たちが新君に会おうとした。叔孫昭子が「礼に合わない」と言ったが、聞き入れられなかった。叔向が断って言った。「大夫たちの用事は終わった。そして私に命じるが、私は喪服の中で悲しみに暮れている。礼服で会えば喪礼が終わっていないし、喪服で会えば再び弔問を受けることになる。大夫たちはどうするつもりか。」皆、会う言葉がなかった。子皮は幣帛を全部使ってしまい、帰国後、子羽に言った。「知っていること自体は難しくない、実行することが難しいのだ。あの方は(子産)それを知っていた。私は足りなかった。書経に曰く、『欲望は法度を乱し、放縦は礼儀を乱す』と。私のことを言っているのだ。あの方は法度と礼儀を知っていた。私は実際に欲望に縛られて、自分を制することができなかった。」 昭子が晉から帰国すると、大夫たち皆が会った。高彊が会って退いた。昭子が諸大夫に言った。「人として子である者は、慎まざるを得ない。昔、慶封が亡びた時、子尾は多くの邑を受け取ったが、少しずつ君に返した。君は忠義と思って寵愛した。死ぬ時、公宮で病気になり、車で帰され、君自ら押した。その子(高彊)が重任できず、故にここにいる。忠義は立派な徳だが、その子が引き継げなければ、罪が及ぶ。慎まないわけにはいかない。夫人(子尾)の力を失い、徳を棄て宗廟を虚しくし、自分に及ぶ。害ではないか。詩に曰く、『我が先よりせず、我が後よりせず』と。これを言うのだろう。」 解説この一節は『春秋左氏伝』における紀元前542年の出来事を描いており、主に二つのテーマが展開されています。 Translation took 3373.1 seconds. |
| 冬.十二月.宋平公卒.初.元公惡寺人柳.欲殺之.及喪.柳熾炭于位.將至.則去之.比葬.又有寵. 昭公十一年 經 十有一年春.王二月.叔弓如宋.葬宋平公. 夏.四月.丁巳.楚子虔誘蔡侯般.殺之于申.楚公子杞疾帥師圍蔡. 五月.甲申.夫人歸氏薨.大蒐于比蒲.仲孫貜會邾子盟于祲祥. 秋.季孫意如會.晉韓起.齊國弱.宋華亥.衛北宮佗.鄭罕虎.曹人.杞人.于厥憖. 九月.己亥.葬我小君齊歸. 冬.十有一月.丁酉.楚師滅蔡.執蔡世子有以歸用之. 傳 十一年春.王二月.叔弓如宋.葬平公也. 景王問於萇弘曰.今茲諸侯.何實吉.何實凶.對曰.蔡凶.此蔡侯般弒其君之歲也.歲在豕韋.弗過此矣.楚將有之然壅也.歲及大梁.蔡復楚凶.天之道也.楚子在申.召蔡靈侯.靈侯將往.蔡大夫曰.王貪而無信.唯蔡於感.今幣重而言甘.誘我也.不如無往.蔡侯不可.五月.丙申.楚子伏甲而饗蔡侯於申.醉而執之. 夏.四月.丁巳.殺之.刑其士七十人.公子棄疾帥師圍蔡.韓宣子問於叔向曰.楚其克乎.對曰.克哉.蔡侯獲罪於其君.而不能其民.天將假手於楚以斃之.何故不克.然肸聞之.不信以幸.不可再也.楚王奉孫吳以討於陳曰.將定而國.陳人聽命.而遂縣之.今又誘蔡而殺其君.以圍其國.雖幸而克.必受其咎.弗能久矣.桀克有緡.以喪其國.紂克東夷.而隕其身.楚小位下.而亟暴於二王.能無咎乎.天之假助不善.非祚之也.厚其凶惡.而降之罰也.且譬之如天.其有五材.而將用之.力盡而敝之.是以無拯.不可沒振. |
冬、十二月、宋の平公が卒去した。当初、元公は寺人(宦官)の柳を憎んでいて、殺そうと考えていた。平公の喪が発せられた時、柳は(元公が座る)席で炭火を熾していたが、(元公が)来そうになるとそれを片付けていた。葬儀が終わる頃には、(柳は)再び寵愛を受けるようになっていた。 昭公十一年 十一年の春、周王の二月、叔弓が宋へ赴き、宋の平公を葬った。 夏の四月丁巳の日、楚の子虔(熊虔)が蔡侯般を騙し出し、申の地で殺害した。楚の公子棄疾が軍を率いて蔡を包囲した。 五月甲申の日、夫人の帰氏(斉帰)が逝去した。比蒲で大規模な軍事演習を行った。仲孫貜が邾子と祲祥で会盟した。 秋、季孫意如が晋の韓起・斉の国弱・宋の華亥・衛の北宮佗・鄭の罕虎・曹人・杞人と厥憖で会合した。 九月己亥の日、我が君の夫人である斉帰を葬った。 冬十一月丁酉の日、楚軍が蔡を滅ぼし、蔡の世子有を捕らえて帰国し(生贄として)用いた。 伝(詳細な記述) 十一年の春、周王の二月、叔弓が宋に赴いたのは、平公を葬るためである。 周の景王が萇弘に問うた「今年の諸侯のうち、実際に吉となるのは誰か、凶となるのは誰か」。萇弘は答えて「蔡が凶です。この年は蔡侯般が自国の君主を弑逆した年に当たり、歳星が豕韋の位置にあるため、この災いを免れません。楚が蔡を手中にしますが、それは(楚の)弊害となるでしょう。歳星が大梁に移れば、蔡は復興し楚に凶事が起こります。これが天道です」と。 楚王(熊虔)が申の地で蔡の霊侯を招いた。霊侯が行こうとすると、蔡の大夫たちが諫めて「楚王は貪欲で信用がなく、特に蔡に対して恨みを持っています。今、贈り物は厚く言葉は甘いのは、我々を誘い出す策略です。行かない方が良い」と言ったが、蔡侯は聞き入れなかった。五月丙申の日、楚王は申で伏兵を配置し蔡侯をもてなした。酔わせたところを捕らえた。 夏四月丁巳の日、蔡侯を殺害し、その士七十人を刑罰に処した。公子棄疾が軍を率いて蔡を包囲した。 晋の韓宣子(韓起)が叔向(羊舌肸)に問うた「楚は勝つだろうか」。叔向は答えて「勝つでしょう。蔡侯は君主に罪を犯し、民衆の支持も得ていません。天が楚の手を借りて蔡を滅ぼすのですから、勝たない理由がありません。しかし私は聞いています、不実な手段で成功するのは二度と繰り返せないと。楚王は以前、孫呉(陳の公孫)を奉じて陳を討ち『お前の国を安定させよう』と言いながら、陳が従うとその地を県に編入しました。今また蔡を騙して君主を殺し、その国を包囲しています。たとえ勝っても必ず報いを受けるでしょう。長続きしません。桀は有緡を滅ぼして自国を失い、紂は東夷を討って身を滅ぼしました。楚は国が小さく地位も低いのに、この二王より頻繁に暴虐を働けば、災いがないはずがありません。天が不善な者を助けるのは、福を与えるのではなく、その凶悪さを増大させて罰を下すためです。天を例えるなら、五材(金木水火土)を用いる時、力尽きるまで使って疲弊させ、救いようのない状態にします。再び振る舞うことはできないのです」と。 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公11年(紀元前531年)の記録です。経は簡潔な編年体の公式記録で、伝は出来事の背景や人物の對話を詳細に描いています。主な内容は: 特に「天が不善な者を助けるのは罰を厚くするため」という叔向の指摘は、儒家思想の「天罰」観念を反映し、歴史の教訓として描かれています。楚の行動は後に平王の乱(紀元前516年)へつながる伏線ともなっています。 Translation took 2238.4 seconds. |
| 五月.齊歸薨大蒐于比蒲.非禮也. 孟僖子會邾莊公盟于祲祥.脩好.禮也.泉丘人有女.夢以其帷幕孟氏之廟.遂奔僖子.其僚從之.盟于清丘之社.曰有子.無相棄也.僖子使助薳氏之簉.反自祲祥.宿于薳氏.生懿子及南宮敬叔於泉丘人.其僚無子.使字敬叔.楚師在蔡.晉荀吳謂韓宣子曰.不能救陳.又不能救蔡.物以無親.晉之不能.亦可知也.己為盟主.而不恤亡國.將焉用之. 秋.會于厥憖.謀救蔡也.鄭子皮將行.子產曰.行不遠.不能救蔡也.蔡小而不順.楚大而不德.天將棄蔡以壅楚.盈而罰之.蔡必亡矣.且喪君而能守者鮮矣.三年.王其有咎乎.美惡周必復.王惡周矣.晉人使狐父請蔡于楚.弗許. 單子會韓宣子于戚.視下言徐.叔向曰.單子其將死乎.朝有著定.會有表.衣有襘.帶有結.會朝之言.必聞于表著之位.所以昭事序也.視不過結襘之中.所以道容貌也.言以命之.容貌以明之.失則有闕.今單子為王官伯.而命事於會.視不登帶言不過步.貌不道容.而言不昭矣.不道不共.不昭不從.無守气矣. 九月.葬齊歸.公不慼.晉士之送葬者.歸以語史趙.史趙曰.必為魯郊.侍者曰.何故.曰.歸.姓也.不思親.祖不歸也.叔向曰.魯公室其卑乎.君有大喪.國不廢蒐.有三年之喪.而無一日之慼.國不恤喪.不忌君也.君無慼容.不顧親也.國不忌君.君不顧親.能無卑乎.殆其失國. |
五月、斉帰が亡くなり、比蒲で大規模な狩猟演習が行われた。これは礼に反する行為であった。 孟僖子が邾の荘公と祲祥で会見し同盟を結んだ。友好関係を修復するのは礼に適った行いである。泉丘の者に娘がおり、夢で自分の帷幕(幕)が孟氏の廟を覆うのを見て、そのまま僖子のもとに走った。彼女の友人もこれに従い、清丘の社で誓約を交わした。「子があれば、互いに見捨てない」と。僖子は彼女を薳氏の側室として仕えさせ、祲祥から帰る途中、薳氏に宿泊した。泉丘の女性は懿子と南宮敬叔を産み、友人は子がなかったため、敬叔を養育することになった。 楚軍が蔡に駐屯している状況で、晋の荀呉が韓宣子に言った。「陳を救えず、蔡も救えないのでは、他国は晋に親しみを感じなくなる。晋の無力さが明らかになるだろう。自ら盟主でありながら滅亡する国を顧みないなら、何の役に立つのか」。 秋、厥憖で会合が開かれ、蔡救援が協議された。鄭の子皮が出発しようとすると、子産が言った。「行っても無駄だ。蔡を救うことはできない。蔡は小国ながら従順ではなく、楚は大国だが道徳を欠く。天は蔡を見捨てて楚を堕落させようとしている。楚が傲慢の頂点に達すれば天罰が下り、蔡は必ず滅ぶ。そもそも君主を失って国を守れる例は稀だ。三年以内に楚王にも災いが起きよう。善悪の報いは周期で巡る。楚王の悪行が周期に達したのだ」。晋が狐父を楚に派遣して蔡の件を交渉したが、楚は拒否した。 単子が戚で韓宣子と会見した際、うつむき加減で言葉が遅かった。叔向が言った。「単子はまもなく死ぬだろう。朝廷には定位置があり、会合には標識があり、衣には襟元、帯には結び目がある。会合や朝廷での発言は必ず定位置から聞こえるようにし、事の秩序を明らかにするものだ。視線は帯や襟の範囲内に収め、容姿を整えるためである。言葉で指示し、容姿で示す。これを欠けば過失となる。今、単子は王官の長として会合で指揮を執る立場なのに、視線は帯まで届かず、言葉は数歩先も聞こえず、容姿に威儀がなく、発言も明確でない。威儀がなければ敬意を払われず、明確でなければ従われない。もはや生命の気配が失われている」。 九月、斉帰の葬儀が行われたが、昭公に悲しみの色がなかった。晋から葬儀に参列した士が帰国後、史趙にこの様子を伝えると、史趙は言った。「彼は必ず魯の郊外(追放された君主が住む地)に住むことになる」。側近が理由を問うと、「帰は実家の姓だ。親を思わない者は、祖先も迎え入れない」と答えた。叔向は言った。「魯公室は没落するだろう。君主に大喪があるのに国は狩猟を中止せず、三年喪があるのに一日も悲しまない。国が喪を軽んじるのは君主を畏れぬからだ。君主に悲しみの表情がないのは親を顧みぬからだ。国が君主を畏れず、君主が親を顧みぬなら、没落せずにおられようか。おそらく国を失うだろう」。 解説この一節は春秋左氏伝の昭公十一年に当たり、魯の昭公の母・斉帰の死を機に展開する三つの主題を描いています。第一に、喪中の礼儀違反(大蒐開催)を通じた魯公室の衰退の予兆。第二に、楚の蔡侵攻をめぐる国際政治における晋の指導力の低下。第三に、単子の振る舞いから読み解く人物評と命運の暗示です。 特に「礼」の概念が貫かれており、喪礼の軽視が国家滅亡の兆しとされる点は、儒家的な徳治思想の典型です。史趙と叔向の発言は、行動と運命の因果関係を強調し、当時の史官の役割(出来事の解釈と予見)をよく表しています。国際情勢では、小国蔡の運命が大国の思惑に翻弄される様子に、春秋時代の権力力学が凝縮されています。人物描写では、単子の「視下言徐」という細かい動作からその命運を読む手法は、左伝特有の観察眼の鋭さを示しています。 Translation took 3258.0 seconds. |
| 冬.十一月.楚子滅蔡.用隱大子于岡山.申無宇曰.不祥.五牲不相為用.況用諸侯乎.王必悔之. 十二月.單成公卒.楚子城陳蔡不羹.使棄疾為蔡公.王問於申無宇曰.棄疾在蔡何如.對曰.擇子莫如父.擇臣莫如君.鄭莊公城櫟而寘子元焉.使昭公不立.齊桓公城穀而寘管仲焉.至于今賴之.臣聞五大不在邊.五細不在庭.親不在外.羈不在内.今棄疾在外.鄭丹在内.君其少戒.王曰.國有大城何如.對曰.鄭亰櫟實殺曼伯.宋蕭亳實殺子游.齊渠丘實殺無知.衛蒲戚實出獻公.若由是觀之.則害於國.末大必折.尾大不掉.君所知也. 昭公十二年 經 十有二年春.齊高偃帥師納北燕伯于陽. 三月.壬申.鄭伯嘉卒. 夏.宋公使華定來聘.公如晉至河乃復. 五月.葬鄭簡公.楚殺其大夫成熊. 秋.七月. 冬.十月.公子憖出奔齊.楚子伐徐.晉伐鮮虞. 傳 十二年春.齊高偃納北燕伯款于唐.因其眾也. 三月.鄭簡公卒.將為葬除.及游氏之廟.將毀焉.子大叔使其除徒執用以立.而無庸毀.曰.子產過女.而問何故不毀.乃曰.不忍廟也.諾.將毀矣.既如是.子產乃使辟之.司墓之室.有當道者.毀之.則朝而塴.弗毀.則日中而塴.子大叔請毀之.曰.無若諸侯之賓何.子產曰.諸侯之賓.能來會吾喪.豈憚日中.無損於賓.而民不害.何故不為.遂弗毀.日中而葬.君子謂子產於是乎知禮.禮無毀人.以自成也. |
冬、十一月。楚の王が蔡を滅ぼした。隠太子を岡山で生贄に用いた。申無宇が言った。「不吉です。五牲でさえ互いの代用にはならないのに、まして諸侯を生贄にすることなど。王は必ず後悔するでしょう。」 十二月、単成公が死去した。楚の王が陳・蔡・不羹に城を築き、棄疾を蔡公に任命した。王が申無宇に尋ねて言った。「棄疾を蔡に置くのはどうか。」申無宇は答えて言った。「子を選ぶには父に及ぶ者はなく、臣を選ぶには君に及ぶ者はありません。鄭の莊公が櫟に城を築いて子元を置いたため、昭公が即位できませんでした。斉の桓公が穀に城を築いて管仲を置いたため、今日までその恩恵に頼っています。臣は聞いております。五大(五つの権勢家)は边境にあってはならず、五細(五つの弱小勢力)は朝廷にあってはならない。親族は外にあってはならず、客卿は内にあってはならない、と。今、棄疾は外にあり、鄭丹は内におります。君は少し警戒されるべきです。」王が言った。「国に大城がある場合はどうか。」答えて言った。「鄭の京と櫟が実際に曼伯を殺し、宋の蕭と亳が実際に子游を殺し、斉の渠丘が実際に無知を殺し、衛の蒲と戚が実際に献公を追放しました。このことから見れば、国に害をなします。枝葉が大きすぎれば必ず折れ、尾が大きすぎれば振り回せなくなるのは、君のご存知の通りです。」 昭公十二年 十二年春、斉の高偃が軍を率いて北燕の伯を陽に送り届けた。 三月壬申の日、鄭伯嘉が死去した。 夏、宋公が華定を派遣して来聘した。公(魯の昭公)が晋へ向かったが黄河まで行って戻った。 五月、鄭簡公を葬った。楚がその大夫成熊を殺した。 秋、七月。 冬、十月、公子憖が斉へ出奔した。楚の王が徐を討伐した。晋が鮮虞を討伐した。 伝 十二年春、斉の高偃が北燕の伯款を唐に送り届けた。現地の民衆の支持を得たためである。 三月、鄭簡公が死去した。葬儀のため道路整備を行う際、游氏の廟にまで及んだ。廟を取り壊そうとしたとき、子大叔は作業員に道具を持たせたまま待機させ、壊す必要はないと言った。「子産があなたの所を通りかかって、なぜ壊さないのかと問うたら、『廟を壊すに忍びないからです』と言いなさい。承知した、壊そう。」既にそう決めると、子産は廟を避けるように指示した。墓守の家で道を塞いでいるものがあり、それを壊せば朝に埋葬でき、壊さなければ正午までかかるという。子大叔が壊すよう進言した。「諸侯の賓客に対する対応が難しくなります。」子産は言った。「諸侯の賓客がわざわざ我が喪儀に参列するなら、正午を気にするはずがありません。賓客に失礼なく、民衆にも負担をかけないなら、なぜ行わないのか。」結局壊さず、正午に埋葬した。君子は子産がこのことで礼をわきまえていると評した。礼とは他人を犠牲にして自己を成就させるものではないからである。 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公十二年の記述で、主に二つのテーマを扱っています。前半は楚の霊王の行動と申無宇の諫言、後半は鄭の子産の葬儀における配慮です。 楚の部分では、王が蔡を滅ぼし隠太子を生贄に用いた非礼を申無宇が批判し、さらに棄疾を蔡公に任命することの危険性を歴史的な事例(鄭・斉などの故事)を引きながら説いています。特に「末大必折・尾大不掉」は、地方勢力が強大化すると中央統制が利かなくなるという政治的な警句として有名です。 鄭の部分では、子産が葬儀の際に民衆の負担を考慮し、廟の破壊を回避したエピソードが描かれています。ここでは「礼」の本質が、形式よりも民への配慮にあることが示され、子産の現実的な政治手腕が評価されています。 全体を通じて、権力のバランスや為政者のあるべき姿勢についての深い洞察が込められた章と言えるでしょう。 Translation took 4626.4 seconds. |
| 夏.宋華定來聘.通嗣君也.享之.為賦蓼蕭.弗知.又不荅賦.昭子曰.必亡.宴語之不懷.寵光之不宣.令德之不知.同福之不受.將何以在. 齊侯.衛侯.鄭伯.如晉.朝嗣君也. 公如晉.至河乃復.取郠之役.莒人愬于晉.晉有平公之喪.未之治也.故辭公.公子憖遂如晉.晉侯享諸侯.子產相鄭伯.辭於享.請免喪而後聽命.晉人許之.禮也.晉侯以齊侯宴.中行穆子相.投壺.晉侯先.穆子曰.有酒如淮.有肉如坻.寡君中此.為諸侯師.中之.齊侯舉矢曰.有酒如澠.有肉如陵.寡人中此.與君代興.亦中之.伯瑕謂穆子曰.子失辭.吾固師諸侯矣.壺何為焉.其以中雋也.齊君弱.吾君歸.弗來矣.穆子曰.吾軍帥彊禦.卒乘競勸.今猶古也.齊將何事.公孫傁趨進曰.日旰君勤.可以出矣.以齊侯出. 楚子謂成虎.若敖之餘也.遂殺之.或譖成虎於楚子.成虎知之.而不能行.書曰.楚殺其大夫成虎.懷寵也. 六月.葬鄭簡公. 晉荀吳偽會齊師者.假道於鮮虞.遂入昔陽.秋.八月.壬午.滅肥.以肥子綿皋歸. 周原伯絞虐其輿臣.使曹逃.冬.十月.壬申.朔.原輿人逐絞而立公子跪.尋絞奔郊. 甘簡公無子.立其弟過.過將去成景之族.成景之族賂劉獻公.丙申.殺甘悼公而立成公之孫鰌.丁酉.殺獻太子之傅.庾皮之子過.殺瑕辛于市.及宮嬖綽.王孫沒.劉州鳩.陰忌.老陽子. |
夏、宋の華定が訪問し、新任の君主への挨拶をした。もてなした際に「蓼蕭」の詩を詠んだが、彼はその意味を理解せず、返歌もせずにいた。昭子が「彼は必ず滅びるだろう。宴席での言葉を心に留めず、寵愛や栄光を表さず、立派な徳を理解せず、共の福を受け入れない者が、どうして地位を保てようか」と言った。 斉侯、衛侯、鄭伯が晋へ行き、新任の君主に謁見した。 魯公が晋へ向かったが、黄河に着いて引き返した。以前の取郠の戦いで莒国が晋に訴えていたが、晋は平公の喪中だったため未解決だった。そのため魯公を断り、公子憖が代わりに晋へ行った。晋侯が諸侯をもてなした時、子産が鄭伯の補佐として宴席で辞退し、喪が明けてから命令を受けるよう請うた。晋はこれを認め、礼に適っていた。晋侯が斉侯と宴会を開き、中行穆子が補佐した。投壺の遊びで晋侯が先に投じ、穆子が「酒は淮水のように豊か、肉は丘のように多い。我が君が当てれば諸侯の指導者となろう」と詠むと、晋侯は見事に当てた。斉侯が矢を取って「酒は澠水のように豊か、肉は山のように多い。私が当てれば君と代わりに興隆しよう」と返し、これも当てた。伯瑕が穆子に「言葉が過ぎた。我々は既に諸侯を率いている。投壶など必要ない。当てたからといって、斉君は未熟で、我が君が帰れば再来しないだろう」と言うと、穆子は「我が軍の将帥は強く、兵士は奮闘している。今も昔と変わらぬ。斉に何ができよう」と反論した。公孫傁が進み出て「日が暮れ君もお疲れです。退出なさってはいかがでしょうか」と言い、斉侯を伴って退出した。 楚王は成虎を「若敖氏の残党」と称して殺害した。誰かが楚王に成虎を讒言したためで、成虎は危険を察知しながら逃れられなかった。史書に「楚が大夫成虎を殺した」と記されるのは、彼が寵愛に安住していたからである。 六月、鄭簡公を葬った。 晋の荀呉は斉軍と会合すると偽り、鮮虞を通って昔陽に入った。秋八月壬午の日、肥国を滅ぼし、その君主・綿皋を連行した。 周の原伯絞が家臣を虐待して逃亡させたため、冬十月壬申の朔日に家臣たちが絞を追放し公子跪を立てた。間もなく絞は郊へ逃亡した。 甘簡公に子がなく弟の過を後継としたが、過が成景の一族を排除しようとしたため、一族は劉献公に賄賂を贈った。丙申の日に甘悼公(過)を殺して成公の孫・鰌を立て、丁酉の日には献太子の傅・庾皮の子の過を殺害。さらに市場で瑕辛を、また宮嬖綽・王孫沒・劉州鳩・陰忌・老陽子を処刑した。 解説この一節は『春秋左氏伝』における紀元前6世紀の政治動向を描いています。以下の点が特徴的です:
全体を通し、春秋時代の国際秩序が「礼」で維持されつつも、その背後に激しい生存競争が存在したことが読み取れる重要な章段です。 Translation took 4940.4 seconds. |
| 季平子立而不禮於南蒯.南蒯謂子仲.吾出季氏.而歸其室於公.子更其位.我以費為公臣.子仲許之.南蒯語叔仲穆子.且告之故.季悼子之卒也.叔孫昭子以再命為卿.及平子伐莒.克之.更受三命.叔仲子欲構二家.謂平子曰.三命踰父兄.非禮也.平子曰.然.故使昭子.昭子曰.叔孫氏有家禍.殺適立庶.故婼也及此.若因禍以斃之.則聞命矣.若不廢君命.則固有著矣.昭子朝而命吏曰.婼將與季氏訟.書辭無頗.季孫懼.而歸罪於叔仲子.故叔仲小.南蒯.公子憖.謀季氏.憖告公.而遂從公如晉.南蒯懼不克.以費叛如齊.子仲還及衛.聞亂.逃介而先.及郊.聞費叛.遂奔齊.南蒯之將叛也.其鄉人或知之.過之而歎.且言曰.恤恤乎.湫乎攸乎.深思而淺謀.邇身而遠志.家臣而君圖.有人矣哉.南蒯枚筮之.遇坤之比曰.黃裳元吉.以為大吉也.示子服惠伯曰.即欲有事何如.惠伯曰.吾嘗學此矣.忠信之事則可.不然必敗.外彊内溫.忠也.和以率貞.信也.故曰黃裳元吉.黃.中之色也.裳.下之飾也.元.善之長也.中不忠.不得其色.下不共.不得其飾.事不善.不得其極.外内倡和為忠.率事以信為共.供養三德為善.非此三者弗當.且夫易.不可以占險.將何事也.且可飾乎.中美能黃.上美為元.下美則裳.參成可筮.猶有闕也.筮雖吉.未也.將適費.飲鄉人酒.鄉人或謌之曰.我有圃.生之杞乎.從我者子乎.去我者鄙乎.倍其鄰者恥乎.已乎已乎.非吾黨之士乎.平子欲使昭子逐叔仲小.小聞之.不敢朝.昭子命吏謂小待政於朝.曰.吾不為怨府. |
季平子が立って南蒯に禮をしなかった。南蒯は子仲に言った。「私が季氏を追い出して、その所領を公(魯公)に返そう。あなたがその地位を継ぎ、私は費の地で公の家臣となろう」。子仲はこれを承諾した。南蒯は叔仲穆子に話し、かつその理由を告げた。季悼子が亡くなった時、叔孫昭子は再命(二度目の任命)で卿となった。平子が莒を討ち、これを攻克した時、昭子は更に三命(三度目の任命)を受けた。叔仲子は二つの家(季氏と叔孫氏)を対立させようと考え、平子に言った。「三命は父兄を超えるもので、禮に適いません」。平子は「その通りだ」と言い、故に昭子を使わそうとした。昭子は言った。「叔孫氏には家の禍があり、嫡子を殺して庶子を立てた。故に私(婼)もこの地位に至った。もし禍によって私を倒そうとするなら、その命令を聞こう。もし君の命令を廃さないなら、既に定められている」。昭子は朝に出て役人に命じた。「私は季氏と訴訟するつもりだ。文書の言葉に偏りがないように」。季孫(平子)は恐れ、罪を叔仲子に帰した。故に叔仲小、南蒯、公子憖が季氏を謀った。憖は公(魯公)に告げ、そして公に従って晋へ行った。南蒯は成功しないことを恐れ、費を率いて齊に叛いた。子仲は帰途衛に着いた時、乱を聞き、護衛を逃れて先に帰った。郊外に着いた時、費の叛きを聞き、そこで齊に奔った。南蒯が叛こうとした時、その郷人の誰かがこれを知り、彼の所を通りかかって嘆き、かつ言った。「憂い深く、狭くて窮屈だ。深く考えながら浅はかな謀り事、身近にいながら遠大な志、家臣でありながら君を図ろうとする。そんな人物がいるものだ」。南蒯は枚筮(詳細な占い)を行い、坤の比(坤卦が比卦に変わる)を得て、「黄裳元吉」(黄の裳は元吉)と出た。これを大吉と考え、子服惠伯に見せて言った。「今まさに事を起こそうと思うが、どうか」。惠伯は言った。「私はかつてこれを学んだ。忠信の事ならば良いが、そうでなければ必ず敗れる。外は強く内は温か、これが忠だ。和をもって貞を率いる、これが信だ。故に黄裳元吉と言う。黄は中の色、裳は下の飾り、元は善の長である。中が忠でなければ、その色を得ず、下が恭(共)でなければ、その飾りを得ず、事が善でなければ、その極みを得ない。外と内が唱和して忠となり、事を信をもって率いて恭となり、三徳を供養して善となる。この三つでなければ当たらない。そもそも易は危険なことを占うには使えない。あなたは何をしようというのか。そして飾ることができるのか。中が美しくて黄となり、上が美しくて元となり、下が美しくて裳となる。三つが揃って初めて占いが当たる。まだ欠けている。占いは吉でも、まだだ」。南蒯が費へ行こうとした時、郷人に酒を振る舞った。郷人の誰かが歌った。「私には園があり、枸杞が生えている。私に従う者は君子か、私から去る者は卑しい者か。隣を裏切る者は恥ずかしいか。もう終わった、もう終わった、私の仲間ではない者よ」。平子は昭子に叔仲小を追放させようとした。小はこれを聞き、朝に出ることを敢えなかった。昭子は役人に命じて、小に朝廷で政務を待つように伝えさせた。「私は怨みの的となるようなことはしない」。 解説この一節は、春秋時代の魯国における権力闘争を描いています。季氏一族の内部対立や、家臣である南蒯の謀反計画、占いをめぐる解釈の違いなどが複雑に絡み合っています。特に「黄裳元吉」という占いの結果を、忠信の有無によって吉凶が変わるという解釈で説く場面は、易占いの倫理的な側面を浮き彫りにしています。また、郷人たちの歌や嘆きを通じて、南蒯の行動に対する批判的な世論も示され、当時の社会規範がうかがえます。最後の昭子の台詞「怨みの的となるようなことはしない」は、権力闘争における慎重な姿勢を表しており、全体として権謀術数が渦巻く政治情勢を鮮明に伝えています。 Translation took 1850.7 seconds. |
| 楚子狩于州來.次于潁尾.使蕩侯.潘子.司馬督.囂尹.午陵.尹喜.帥師圍徐.以懼吳.楚子次于乾谿.以為之援.雨雪.王皮冠.秦復陶.翠被.豹舄.執鞭以出.僕析父從.右尹子革夕.王見之.去冠被舍鞭.與之語曰.昔我先王熊繹.與呂級.王孫牟.燮父.禽父.並事康王.四國皆有分.我獨無有.今吾使人於周.求鼎以為分.王其與我乎.對曰.與君王哉.昔我先王熊繹.辟在荊山.篳路藍縷.以處草莽.跋涉山林.以事天子.唯是桃弧棘矢.以共禦王事.齊王舅也.晉及魯衛.王母弟也.楚是以無分.而彼皆有.今周與四國.服事君王.將唯命是從.豈其愛鼎.王曰.昔我皇祖伯父昆吾.舊許是宅.今鄭人貪賴其田.而不我與我.若求之.其與我乎.對曰.與君王哉.周不愛鼎.鄭敢愛田.王曰.昔諸侯遠我而畏晉.今我大城.陳蔡不羹.賦皆千乘.子與有勞焉.諸侯其畏我乎.對曰.畏君王哉.是四國者.專足畏也.又加之以楚.敢不畏君王哉.工尹路請曰.君王命剝圭以為鏚柲.敢請命.王入視之.析父謂子革.吾子.楚國之望也.今與王言如響.國其若之何.子革曰.摩厲以須.王出.吾刃將斬矣.王出復語.左史倚相趨過.王曰.是良史也.子善視之.是能讀三墳五典.八索九丘.對曰.臣嘗問焉.昔穆王欲肆其心.周行天下.將皆必有車轍馬跡焉.祭公謀父作祈招之詩.以止王心.王是以獲沒於祗宮.臣問其詩而不知也.若問遠焉.其焉能知之.王曰.子能乎.對曰.能.其詩曰.祈招之愔愔.式昭德音.思我王度.式如玉.式如金.形民之力.而無醉飽之心.王揖而入.饋不食.寢不寐.數日不能自克.以及於難.仲尼曰.古也有志.克己復禮.仁也.信善哉.楚靈王若能如是.豈其辱於乾谿. |
楚の王が州来で狩りを行い、穎尾に駐屯しました。蕩侯、潘子、司馬督、囂尹、午陵、尹喜に軍勢を率いさせて徐を包囲させ、呉を脅かしました。楚の王は乾谿に駐屯し、彼らの援護としました。雪が降る中、王は皮の冠、秦の復陶(毛皮の外套)、翠鳥の羽のマント、豹の革の靴を身に付け、鞭を手にして出てきました。僕の析父が従い、右尹の子革が夕方に参上しました。王は彼を見ると、冠とマントを脱ぎ、鞭を置いて、語りかけました。「昔、私の先王である熊繹は、呂級、王孫牟、燮父、禽父と共に康王に仕えました。四つの国には皆分け前があったのに、私の国だけには何もありません。今、私が周に使者を送り、鼎を分け前として要求すれば、王は私に与えてくれるでしょうか。」子革は答えて言いました。「君王にお与えになるでしょう。昔、私の先王熊繹は、荊山の辺境にいて、粗末な車とぼろ服で草むらに住み、山や林を跋涉して天子に仕えました。ただ桃の木の弓と棘の矢で、王事をお守りするだけでした。齊は王の舅であり、晉と魯、衛は王の母の弟です。楚には分け前がなく、彼らには全てありました。今、周と四つの国は君王に服従して仕えており、唯々諾々と命令に従うでしょう。どうして鼎を惜しむことがありましょうか。」王は言いました。「昔、私の皇祖の伯父である昆吾は、旧許の地に住んでいました。今、鄭の人々はその田畑を貪り頼みながら、私に与えようとしません。もし私が要求すれば、与えてくれるでしょうか。」子革は答えて言いました。「君王にお与えになるでしょう。周でさえ鼎を惜しまないのに、鄭がどうして田畑を惜しみましょうか。」王は言いました。「昔、諸侯は私を遠ざけて晉を恐れました。今、私は陳、蔡、不羹に大きな城を築き、軍賦はいずれも千乗あります。あなたもそれに功劳があります。諸侯は私を恐れるでしょうか。」子革は答えて言いました。「君王をお畏れするでしょう。この四つの国だけでも十分恐れられるのに、さらに楚が加わるのですから、どうして君王をお畏れしないことがありましょうか。」工尹路が請うて言いました。「君王が圭玉を剥いで鏚の柄とするようお命じになりました。どうか指示をお願いします。」王は中に入ってそれを見ました。析父が子革に言いました。「あなたは楚国の期待される方です。今、王と話すのにまるでこだまのようです。国はどうなってしまうのでしょうか。」子革は言いました。「刃を研いで待っています。王が出てきたら、私の刃が斬りつけるでしょう。」王が出てきて再び話し始めました。左史の倚相が小走りに通り過ぎました。王は言いました。「彼は優れた史官です。あなたはよく彼を遇しなさい。彼は三墳五典、八索九丘を読むことができます。」子革は答えて言いました。「臣はかつて彼に尋ねたことがあります。昔、穆王がその欲望のままに振る舞おうとし、天下を周行して、どこにでも車の轍と馬の足跡を残そうとしました。祭公謀父が祈招の詩を作って、王の心を止めました。王はそれによって祗宮で寿命を全うすることができました。臣はその詩について尋ねましたが、彼は知りませんでした。もしさらに遠い昔のことを尋ねたら、どうして知ることができましょうか。」王は言いました。「あなたはできるのか。」子革は答えて言いました。「できます。その詩はこうです。『祈招は穏やかで、徳の音を明らかにする。我が王の態度を思えば、玉の如く、金の如し。民の力を形にして、飽満した心を持たない。』」王は拱手して中に入り、食事も摂らず、寝もせず、数日間自分を制することができませんでした。そして難に遭いました。仲尼は言いました。「古い記録にこうある。『己に克ち礼に復るは、仁である。』本当にその通りだ。楚の霊王もしこのようであったなら、どうして乾谿で辱めを受けることがあっただろうか。」 解説この一節は『春秋左氏伝』に記される楚の霊王のエピソードです。霊王が権勢に驕り、周囲の国々への要求を繰り広げる様子と、家臣の子革が巧みに諫めようとする姿が描かれています。以下の点が特筆されます:
この故事は、為政者が自制心を失った際の危険性を後世に伝える重要な教訓として読まれています。 Translation took 2438.2 seconds. |
| 晉伐鮮虞.因肥之役也. 昭公十三年 經 十有三年春.叔弓帥師圍費. 夏.四月.楚公子比自晉歸于楚.弒其君虔于乾谿.楚公子棄疾殺公子比. 秋.公會劉子.晉侯.齊侯.宋公.衛侯.鄭伯.曹伯.莒子.邾子.滕子.薛伯.杞伯.小邾子.于平丘.八月.甲戌.同盟于平丘.公不與盟.晉人執季孫意如以歸.公至自會.蔡侯廬歸于蔡.陳侯吳歸于陳. 冬.十月.葬蔡靈公.公如晉.至河乃復.吳滅州來. 傳 十三年春.叔弓圍費.弗克敗焉.平子怒.令見費人執之.以為囚俘.冶區夫曰.非也.若見費人.寒者衣之.飢者食之.為之令主.而共其乏困.費來如歸.南氏亡矣.民將叛之.誰與居邑.若憚之以威.懼之以怒.民疾而叛.為之聚也.若諸侯皆然.費人無歸.不親南氏.將焉入矣.平子從之.費人叛南氏. 楚子之為令尹也.殺大司馬薳掩而取其室.及即位.奪薳居田.遷許而質許圍.蔡洧有寵於王.王之滅蔡也.其父死焉.王使與於守.而行申之會.越大夫戮焉.王奪鬥韋龜中犨.又奪成然邑.而使為郊尹.蔓成然故事蔡公.故薳氏之族.及薳居.許圍.蔡洧.蔓成然.皆王所不禮也.因群喪職之族.啟越大夫常壽過作亂.圍固城.克息舟城而居之.觀起之死也.其子從在蔡.事朝吳曰.今不封蔡.蔡不封矣.我請試之.以蔡公之命召子干.子皙.及郊而告之情.強與之盟.入襲蔡.蔡公將食.見之而逃.觀從使子干飲坎用牲.加書而速行.已徇於蔡曰.蔡公召二子.將納之.與之盟而遣之矣.將師而從之.蔡人聚.將執之.辭曰.失賊成軍.而殺余何益.乃釋之.朝吳曰.二三子若能死亡.則如違之.以待所濟.若求安定.則如與之.以濟所欲.且違上何適而可.眾曰與之.乃奉蔡公召二子.而盟于鄧.依陳蔡人以國.楚公子比.公子黑肱.公子棄疾.蔓成然.蔡朝吳.帥陳.楚.不羹.許.葉.之師.因四族之徒以入楚.及郊.陳蔡欲為名.故請為武軍.蔡公知之.曰欲速.且役病矣.請藩而巳.乃藩為軍.蔡公使須務牟與史猈先入.因正僕人殺大子祿.及公子罷敵.公子比為王.公子黑肱為令尹.次于魚陂.公子棄疾為司馬.先除王宮.使觀從從師于乾谿.而遂告之.且曰.先歸復所.後者劓.師及訾梁而潰.王聞群公子之死也.自投于車下.曰.人之愛其子也.亦如余乎.侍者曰.甚焉.小人老而無子.知擠于溝壑矣.王曰.余殺人子多矣.能無及此乎.右尹子革曰.請待于郊.以聽國人.王曰.眾怒不可犯也.曰.若入於大都.而乞師於諸侯.王曰.皆叛矣.曰.若亡於諸侯.以聽大國之圖君也.王曰.大福不再.祇取辱焉.然丹乃歸于楚.王沿夏.將欲入鄢.芊尹無宇之子申亥曰.吾父再奸王命.王弗誅.惠孰大焉.君不可忍.惠不可棄.吾其從王.乃求王.遇諸棘圍.以歸. |
晋が鮮虞を討伐した。これは肥の戦いに因るものである。 昭公十三年 経 十三年の春、叔弓が軍を率いて費を包囲した。 夏四月、楚の公子比が晋から楚に帰国し、乾谿で自国の君である虔を弑逆した。楚の公子棄疾が公子比を殺した。 秋、公(魯の昭公)が劉子・晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子と平丘で会合した。八月甲戌の日、平丘で同盟を結んだ。公は同盟に加わらなかった。晋が季孫意如を拘束して連れ帰った。公は会合から帰国した。蔡侯廬が蔡に帰国した。陳侯呉が陳に帰国した。 冬十月、蔡霊公を葬った。公が晋へ向かったが、黄河に至って引き返した。呉が州来を滅ぼした。 伝 十三年の春、叔弓が費を包囲したが、攻略できずに敗れた。平子は怒り、費の民を見次ぎ捕らえて囚虜とするよう命じた。冶区夫が言った。「それは誤りです。もし費の民に対し、寒い者には衣服を与え、飢えた者には食物を与え、彼らの為の善き領主となり、その困窮を救うならば、費の民は帰順して我が家に帰るが如くになるでしょう。そうすれば南氏は滅びます。民が叛けば、誰と共に城邑に住むというのでしょうか。もし威圧で脅し、怒りで恐れさせれば、民は苦しんで叛き、却って南氏を集める結果となります。もし諸侯が皆同じように振舞えば、費の民は行き場を失い、南氏に親しむほかなくなるでしょう。」平子はこれに従い、費の民は南氏に叛いた。 楚子(王)が令尹であった時、大司馬の薳掩を殺してその家財を奪った。即位すると、薳居の田畑を奪い、許を遷都させて許圍を人質とした。蔡洧は王の寵愛を受けたが、王が蔡を滅ぼした時、その父が死んだ。王は彼を留守役に任じ、申の会合に向かった。越の大夫が辱めを受けた。王は鬥韋龜から中犨を奪い、さらに成然の邑を奪って郊尹とした。蔓成然は以前蔡公に仕えていた。かつての薳氏の一族や薳居・許圍・蔡洧・蔓成然は、皆王から礼遇されなかった。これら職を失った族らは、越の大夫常壽過を唆して乱を起こさせ、固城を包囲し、息舟城を攻略して占拠した。 観起が死んだ時、その子の従は蔡におり、朝呉に仕えて言った。「今蔡を再建しなければ、蔡は永遠に封じられません。私が試みましょう。」蔡公の名を借りて子干と子皙を召し出し、郊外で実情を告げて強制的に盟約を結ばせ、蔡を急襲した。蔡公が食事を取ろうとしたところ、彼らを見て逃げ出した。観従は子干に坎(穴)で犠牲を捧げさせ、誓約書を添えて速やかに進軍させた。自ら蔡で布告した。「蔡公が二人の公子を召し出し、迎え入れるために盟約を結んで派遣した。軍勢を率いて従うように。」蔡の民が集まり、彼を捕らえようとしたが、観従は言った。「賊(公子ら)が逃げて軍が成立した今、私を殺しても何の益もない。」そこで解放された。朝呉が言った。「諸君が死を覚悟で戦うなら、これに逆らって成否を待つがよい。安定を求めるなら、これに与して望みを達成するがよい。そもそも上に逆らってどこに行けばよいのか。」民衆は「与する」と言い、蔡公を奉じて二人の公子を召し出し、鄧で盟約を結んだ。陳と蔡の民を頼りに国を挙げ、楚の公子比・公子黒肱・公子棄疾・蔓成然・蔡の朝呉が陳・楚・不羹・許・葉の軍勢を率い、四族の徒党を頼りに楚へ進攻した。郊外に至ると、陳と蔡は名声を求め、武軍(塁)の構築を請うた。蔡公はこれを見て「速やかさを欲し、かつ兵士が疲弊している。柵だけで十分だ」と言い、柵で軍陣を築いた。蔡公は須務牟と史猈を先に入城させ、正僕人(側近)を使って太子祿と公子罷敵を殺害した。公子比が王となり、公子黒肱が令尹となり、魚陂に駐屯した。公子棄疾が司馬となり、先に王宮を清めた。観従を乾谿の軍勢に派遣して状況を告げさせ、「先に帰順した者は元の地位に戻し、遅れた者は鼻を削ぐ」と宣言した。軍勢は訾梁に至って潰走した。 王(楚の霊王)は公子らが死んだと聞き、自ら車下に身を投げて言った。「人が子を愛する心も、私と同じだろうか。」側近が答えた。「それ以上です。小人は老いて子がなければ、溝壑に捨てられる運命を知っています。」王は言った。「私は多くの人の子を殺した。この報いが来ぬはずがあろうか。」右尹の子革が言った。「郊外で待機し、国人の声を聞きましょう。」王は「衆怒は犯せない」と言った。子革が「もし大都市に入り、諸侯に援軍を請うては」と言うと、王は「皆、叛いている」と答えた。「もし諸侯の下へ亡命し、大国の采配に従っては」と勧めると、王は「大いなる福は二度来ず、ただ辱めを受けるだけだ」と言った。然丹(子革)は楚に帰った。王は夏水(漢水)を遡り、鄢に入ろうとした。芊尹無宇の子である申亥が言った。「我が父は二度も王命に背いたが、王は誅さず、恩恵はこれ以上なく大きい。君に残忍であってはならず、恩恵を棄ててはならない。私は王に従おう。」そして王を探し求め、棘囲で遭遇し、共に帰った。 解説この一節は、春秋時代の魯の昭公13年(紀元前529年)に起きた複雑な政治・軍事事件を記録しています。主な内容は以下の通りです。
全体を通し、権力者の傲慢さが反乱を招くという教訓や、民心の重要性が浮き彫りにされるなど、春秋左氏伝らしい政治的な洞察に富んだ内容となっています。 Translation took 4808.2 seconds. |
| 夏.五月.癸亥.王縊于芊尹申亥氏.申亥以其二女.殉而葬之.觀從謂子干曰.不殺棄疾.雖得國.猶受禍也.子干曰.余不忍也.子玉曰.人將忍子.吾不忍俟也.乃行.國每夜駭曰.王入矣.乙卯.夜.棄疾使周走而呼曰.王至矣.國人大驚.使蔓成然走告子干.子皙曰.王至矣.國人殺君.司馬將來矣.君若早自圖也.可以無辱.眾怒如水火焉.不可為謀.又有呼而走至者曰.眾至矣.二子皆自殺.丙辰.棄疾即位.名曰熊居.葬子于于訾實.訾敖殺囚.衣之王服.而流諸漢.乃取而葬之.以靖國人.使子旗為令尹.楚師還自徐.吳人敗諸豫章.獲其五帥.平王封陳蔡.復遷邑.致群賂.施舍寬民.宥罪舉職.召觀從王曰.唯爾所欲.對曰.臣之先佐開卜.乃使為卜尹.使枝如子躬聘于鄭.且致犨櫟之田.事畢.弗致.鄭人請曰.聞諸道路.將命寡君以犨櫟.敢請命.對曰.臣未聞命.既復.王問犨櫟.降服而對曰.臣過失命未之致也.王執其手曰.子毋勤.姑歸.不穀有事.其告子也.他年.芊尹申亥以王柩告.乃改葬之.初.靈王卜曰.余尚得天下.不吉.投龜詬天而呼曰.是區區者而不余畀.余必自取之.民患王之無厭也.故從亂如歸.初.共王無.適有寵子五人.無適立焉.乃大有事于群望而祈曰.請神擇於五人者.使主社稷.乃遍以璧見於群望曰.當璧而拜者.神所立也.誰敢違之.既乃與巴姬密埋璧於大室之庭.使五人齊而長入拜.康王跨之.靈王肘加焉.子干子皙皆遠之.平王弱.抱而入.再拜.皆厭紐.鬥韋龜屬成然焉.且曰.棄禮違命.楚其危哉.子干歸.韓宣子問於叔向曰.子干其濟乎.對曰.難.宣子曰.同惡相求.如市賈焉.何難.對曰.無與同好.誰與同惡.取國有五難.有寵而無人.一也.有人而無主.二也.有主而無謀.三也.有謀而無民.四也.有民而無德.五也.子干在晉.十三年矣.晉楚之從.不聞達者.可謂無人.族盡親叛.可謂無主.無釁而動.可謂無謀.為羇終世.可謂無民.亡無愛徵.可謂無德.王虐而不忌.楚君子干涉.五難以殺舊君.誰能濟之.有楚國者.其棄疾乎.君陳蔡.城外屬焉.苛慝不作.盜賊伏隱.私欲不違.民無怨心.先神命之.國民信之.芊姓有亂.必季實立.楚之常也.獲神.一也.有民.二也.令德.三也.寵貴.四也.居常.五也.有五利以去五難.誰能害之.子干之官.則右尹也.數其貴寵.則庶子也.以神所命.則又遠之.其貴亡矣.其寵棄矣.民無懷焉.國無與焉.將何以立.宣子曰.齊桓晉文.不亦是乎.對曰.齊桓.衛姬之子也.有寵於僖.有鮑叔牙.賓須無.隰朋.以為輔佐.有莒.衛.以為外主.有國.高.以為内主.從善如流.下善齊肅.不藏賄.不從欲.施舍不倦.求善不厭.是以有國.不亦宜乎.我先君文公.狐季姬之子也.有寵於獻.好學而不貳.生十七年.有士五人.有先大夫子餘.子犯.以為腹心.有魏犨.賈佗.以為股肱.有齊.宋.秦.楚.以為外主.有欒.郤.狐.先.以為内主.亡十九年.守志彌篤.惠懷棄民.民從而與之.獻無異親.民無異望.天方相晉.將何以代文.此二君者.異於子干.共有寵子.國有奧主.無施於民.無援於外.去晉而不送.歸楚而不逆.何以冀國.晉成虒祁.諸侯朝而歸者.皆有貳心.為取郠故.晉將以諸侯來討.叔向曰.諸侯不可以不示威.乃並徵會告于吳. |
【現代日本語訳】 初め、霊王が占って言った。「私はまだ天下を得られるか?」吉兆ではなかった。亀甲を投げ捨て天を罵り叫んだ。「このわずかなもの(天下)さえ私に与えないのか。私は必ず自分で手に入れてみせる。」民は王の欲望が尽きることを知らなかったので、乱に従うことが帰るように自然だった。 初め、共王には嫡子がおらず、寵愛する子が五人いて、誰を嫡子にするか決めかねていた。そこで山川の神々に大規模な祭祀を行い祈願した。「どうか神々が五人の中からお選びください。社稷を主宰させる者を。」そして璧を手にし、山川の神々すべてにお供えして言った。「璧の前にて礼をする者、それが神が立てた者です。誰がこれに逆らえましょうか。」それから巴姬と密かに璧を大室(祖廟)の庭に埋め、五人に斎戒沐浴させ、年長の順に入って拜ませた。康王は璧の上を跨いだ。霊王は肘を璧の上に置いた。子干と子皙は皆、璧から遠く離れた。平王(当時幼少)は幼く、抱かれて入り、二度拜した。どちらも(平王が)璧の紐(ひも)の上にいた。鬥韋龜は成然(蔓成然)を(平王に)仕えさせようとし、かつ言った。「礼を棄て命に背くなら、楚は危うくなるだろう。」 子干が(晋から)帰国した時、韓宣子が叔向に尋ねた。「子干は成功するだろうか?」叔向は答えた。「難しいでしょう。」宣子が言った。「共通の憎悪があれば互いに求めるものだ。市場の商人のようではないか。何が難しいのか?」叔向は答えた。(子干には)共に好む者(支持者)もおらず、誰と憎悪を共にできようか。国を取るには五つの難点がある。寵愛はあっても有能な人材(側近)がいない、これが一つ。人材がいても内応者(国内の支持基盤)がいない、これが二つ。内応者がいても謀略がない、これが三つ。謀略があっても民衆の支持がない、これが四つ。民衆の支持があっても徳がない、これが五つ。子干は晋に十三年もいた。晋や楚の従者の中で、有名な者はいない。人材なしと言える。一族は尽き、親族は背いた。内応者なしと言える。隙がないのに動いた。謀略なしと言える。一生を他国で過ごした。民衆の支持なしと言える。逃亡に愛される兆し(人望の証)がない。徳なしと言える。現王(霊王)は暴虐だが忌憚がない。楚の君子(子干)が五つの難点を抱えて旧君を殺そうとするなど、誰が成功させられようか。楚を有する者は、おそらく棄疾でしょう。彼は陳・蔡の地を治め、その城外まで従わせ、苛政や悪事が起こらず、盗賊は潜伏し、私欲を優先せず、民に怨みの心はない。先の神々の命があり、国民の信頼がある。芊姓に乱があれば、必ず末子(季)が実際に立つ、これは楚の常である。神意を得た、一つ。民衆の支持がある、二つ。美德がある、三つ。寵愛され貴い、四つ。常道(末子継承)に適う、五つ。五つの利点をもって五つの難点を除く。誰が害することができようか。子干の官位は右尹に過ぎない。その貴寵を数えれば庶子である。神の命ずる所から見れば、さらに遠い。その貴さは失われ、寵愛は棄てられた。民は懐かず、国は与しない。どうして立つことができようか。」宣子が言った。「斉の桓公や晋の文公も同じではなかったか?」叔向は答えた。「斉の桓公は衛姬の子で、僖公に寵愛され、鮑叔牙、賓須無、隰朋を輔佐とし、莒、衛を外援とし、国氏、高氏を内応とした。善に従うこと流れの如く、下位の善を齊肅(つつしみ)し、賄賂を蔵さず、欲望に従わず、施しを倦まず、善を求めて厭わない。故に国を有したのは、当然ではないか。我が先君文公は狐季姬の子で、献公に寵愛され、学問を好んで心が揺るがず、十七歳にして五人の士(側近)があり、先大夫の子餘(趙衰)、子犯(狐偃)を腹心とし、魏犨、賈佗を股肱とし、斉、宋、秦、楚を外援とし、欒、郤、狐、先氏を内応とした。十九年間亡命し、志を守り一層固くした。恵公、懐公が民を棄てたので、民は従って文公に付いた。献公には他に親しい子がおらず、民には他に望む者がなかった。天が晋を助けようとしており、どうして文公に代われようか。この二君(桓公、文公)は子干とは異なる。(子干の場合は)共に寵愛する子がおり、国には奥深い主(棄疾)がいる。民に施しなく、外に援けなく、晋を去っても見送られず、楚に帰っても迎えられない。どうして国を望めようか。」 晋が虒祁の宮を完成させると、諸侯は朝見して帰ったが、皆、離反の心を持っていた。郠を取ったことを理由に、晋は諸侯を使って討伐しようとした。叔向は言った。「諸侯には威力を示さねばなりません。」そこで同時に会合を招集し、吴にも通知した。 【解説】
この章は、権力闘争の駆け引き、神意と人間の行動の交錯、為政者の資質を問う深い内容が、緊密な構成で描かれている点が特徴です。特に、棄疾の策略の巧妙さと、叔向の冷徹な分析が対照的で、歴史叙述の見事さを示しています。 Translation took 4811.7 seconds. |
| 秋.晉侯會吳子干良.水道不可.吳子辭.乃還. 七月.丙寅.治兵于邾.南甲車四千乘.羊舌鮒攝司馬.遂合諸侯于平丘.子產.子大叔.相鄭伯以會.子產以幄幕九張行.子大叔以四十.既而悔之.每舍損焉.及會亦如之.次于衛地.叔鮒求貨於衛.淫芻蕘者.衛人使屠伯饋叔向羹.與一篋錦.曰.諸侯事晉.未敢攜貳.況衛在君之宇下.而敢有異志.芻蕘者異於他日.敢請之.叔向受羹.反錦曰.晉有羊舌鮒者.瀆貨無厭.亦將及矣.為此役也.子若以君命賜之.其已.客從之.未退而禁之.晉人將尋盟.齊人不可.晉侯使叔向告劉獻公曰.抑齊人不盟.若之何.對曰.盟以厎信.君苟有信.諸侯不貳.何患焉.告之以文辭.董之以武師.雖齊不許.君庸多矣.天子之老.請帥王賦.元戎十乘.以先啟行.遲速唯君.叔向告于齊曰.諸侯求盟.已在此矣.今君弗利.寡君以為請.對曰.諸侯討貳.則有尋盟.若皆用命.何盟之尋.叔向曰.國家之敗.有事而無業.事則不經.有業而無禮.經則不序.有禮而無威.序則不共.有威而不昭.共則不明.不明棄共百事.不終所由傾覆也.是故明王之制.使諸侯歲聘以志業.間朝以講禮.再朝而會以示威.再會而盟以顯昭明.志業於好.講禮於等.示威於眾.昭明於神.自古以來.未之或失也.存亡之道.恆由是興.晉禮主盟.懼有不治.奉承齊犧.而布諸君.求終事也.君曰余必廢之.何齊之有.唯君圖之.寡君聞命矣.齊人懼.對曰.小國言之.大國制之.敢不聽從.既聞命矣.敬共以往.遲速唯君.叔向曰.諸侯有間矣.不可以不示眾.八月.辛未.治兵.建而不旆.壬申.復旆之.諸侯畏之.邾人.莒人.愬于晉曰.魯朝夕伐我.幾亡矣.我之不共.魯故之以.晉侯不見公.使叔向來辭曰.諸侯將以甲戌盟.寡君知不得事君矣.請君無勤.子服惠伯對曰.君信蠻夷之訴.以絕兄弟之國.棄周公之後.亦惟君.寡君聞命矣.叔向曰.寡君有甲車四千乘在.雖以無道.行之必可畏也.況其率道.其何敵之有.牛雖瘠.僨於豚上.其畏不死.南蒯子仲之憂.其庸可棄乎.若奉晉之眾.用諸侯之師.因邾莒杞鄫之怒.以討魯罪.間其二憂.何求而弗克.魯人懼聽命.甲戌.同盟于平丘.齊服也.令諸侯日中造于除.癸酉退朝.子產命外僕速張於除.子大叔止之.使待.明白.及夕.子產聞其未張也.使速往.乃無所張矣.及盟.子產爭承.曰.昔天子班貢.輕重以列.列尊貢重.周之制也.卑而貢重者.甸服也.鄭伯.男也.而使從公侯之貢.懼弗給也.敢以為請.諸侯靖兵.好以為事.行理之命.無月不至.貢之無藝.小國有闕.所以得罪也.諸侯脩盟存小國也.貢獻無極.亡可待也.存亡之制.將在今矣.自日中以爭.至于昏.晉人許之.既盟.子大叔咎之.曰.諸侯若討.其可瀆乎.子產曰.晉政多門.貳偷之不暇.何暇討國.不競亦陵.何國之為.公不與盟.晉人執季孫意如.以幕蒙之.使狄人守之.司鐸射懷錦奉壺飲冰.以蒲伏焉.守者御之.乃與之錦而入.晉人以平子歸.子服湫從.子產歸.未至.聞子皮卒.哭且曰.吾已無為為善矣.唯夫子知我.仲尼謂子產於是行也.足以為國基矣.詩曰.樂只君子.邦家之基.子產.君子之求樂者也.且曰.合諸侯.藝貢事.禮也.鮮虞人聞晉師之悉起也.而不警邊.且不脩備.晉荀吳自著雍以上軍侵鮮虞.及中人.驅衝競.大獲而歸.楚之滅蔡也.靈王遷許.胡.沈.道.房.申.於荊焉.平王即位.既封陳蔡.而皆復之.禮也.隱大子之子廬.歸于蔡.禮也.悼大子之子吳.歸于陳.禮也. |
秋、晋の侯は吳子と良で会合しようとしたが、水路が通行不能であったため、吳子が辞退したので、引き返した。 七月丙寅の日、邾で軍事演習を行った。南甲の戦車四千乗を整え、羊舌鮒が司馬を代行した。こうして諸侯を平丘で会合させた。子産と子大叔は鄭伯を補佐して会合に参加した。子産は幕舎を九張り持って行き、子大叔は四十張り持ったが、後に後悔し、宿泊するたびに減らしていった。会合に至るまで同じようにした。衛の地に駐屯した時、叔鮒が衛に贈り物を要求し、柴刈り人に乱暴を働いた。衛の人が屠伯に叔向に羹と一箱の錦を贈らせ、「諸侯は晋に仕えて、二心を抱くことはありません。ましてや衛は君の屋根の下にあるのに、どうして異心を持てましょうか。柴刈り人の扱いが平日と異なっているので、お伺いします」と言った。叔向は羹を受け取ったが、錦を返して、「晋に羊舌鮒という者がおり、財貨に貪欲で飽くことを知りません。彼もやがて災いを受けるでしょう。この行事のために、あなたが君の命令で彼に賜れば、止むでしょう」と言った。客はこれに従い、まだ引き上げないうちに禁止した。 晋人は盟約を更新しようとしたが、齊人は同意しなかった。晋の侯は叔向を使いとして劉献公に告げて言った、「齊人が盟約しない場合はどうすればよいか」。劉献公は答えて、「盟約は信義を確かにするものです。君がもし信義があれば、諸侯は二心を抱きません。何を憂えることがありましょうか。文辞で説得し、武力で監督すれば、たとえ齊が同意しなくても、君の利益は多いでしょう。天子の老臣として、王の軍隊を率い、先鋒の戦車十乗で道を開き進みます。速やかであるか遅いかは君次第です」と言った。 叔向は齊に告げて言った、「諸侯は盟約を求めて、すでにここに集まっています。今、君が利益となさらないなら、寡君がお願いします」。齊は答えて、「諸侯が離反を討つなら、盟約を更新します。もし皆が命令に従うなら、何の盟約を更新する必要がありましょうか」。叔向は言った、「国家が敗れるのは、事があっても業がなく、事は経(たて糸)となりません。業があっても礼がなく、経は順序となりません。礼があっても威がなく、順序は恭順となりません。威があっても昭明がなく、恭順は明らかとなりません。明らかでないと恭順を棄て、百事が終わらず、これによって傾覆するのです。だから明王の制度では、諸侯に歳聘をさせて業を志させ、間朝で礼を講じ、再朝で会合して威を示し、再会で盟約して昭明を顕わします。業を志すのは友好のため、礼を講じるのは等級のため、威を示すのは衆のため、昭明を顕わすのは神のためです。自古以来、この制度は失われたことがありません。存亡の道は、常にここから興ります。晋は礼を主として盟約し、治まらないことを懼れ、齊の犠牲を奉承して諸君に布き、事を終わらせようと求めるのです。君が『私は必ずこれを廃する』と言われるなら、何の齊がありましょうか。ただ君にお考えいただきます。寡君は命を聞きました」。齊人は懼れて、「小国が言い、大国が制します。敢えて従わないわけにはまいりません。すでに命を聞きました。敬って恭しく臨みます。速やかであるか遅いかは君次第です」と答えた。叔向は言った、「諸侯に隙があります。衆を示さなければなりません」。 八月辛未の日、軍事演習を行い、旗を建てたが旆(はた飾り)を付けなかった。壬申の日、再び旆を付けた。諸侯はこれを畏れた。 邾人と莒人が晋に訴えて言った、「魯は朝夕にわたって我々を伐ち、ほとんど滅亡させようとしています。我々が貢献できないのは、魯のためです」。晋の侯は公(魯の君)と会わず、叔向を使いとして辞退を告げて言った、「諸侯は甲戌の日に盟約します。寡君は君に仕えることができないと知りました。どうか君は労しないでください」。子服惠伯が答えて、「君が蛮夷の訴えを信じて、兄弟の国を絶ち、周公の後を棄てるのも、ただ君次第です。寡君は命を聞きました」。叔向は言った、「寡君には甲車四千乗があります。たとえ無道であっても、行えば必ず畏れられます。ましてや道を率いているなら、何の敵がありましょうか。牛が痩せていても、豚の上に倒れれば、その畏れは死なないでしょうか。南蒯と子仲の憂いを、どうして棄てられましょうか。もし晋の衆を奉じ、諸侯の師を用い、邾・莒・杞・鄫の怒りに乗じて、魯の罪を討ち、その二つの憂いを衝けば、何を求めて克たないことがありましょうか」。魯人は懼れて命令を聞いた。 甲戌の日、平丘で同盟した。齊が服従したのである。諸侯に命じて日中に除(壇)に至らせた。癸酉の日に朝礼を退いた。子産は外僕に命じて速やかに除に幕を張らせた。子大叔が止めて、待つようにさせ、明日までとした。夕方になって、子産はまだ張っていないと聞き、速やかに往かせたが、もう張る場所はなかった。盟約に際し、子産は貢献の順序を争って言った、「昔、天子が貢献を定める時、軽重は序列によります。序列が尊ければ貢献は重い、これが周の制度です。卑しくて貢献が重いのは、甸服だけです。鄭伯は男爵ですのに、公侯の貢献に従わせようとすれば、供えきれないことを懼れます。敢えてお願いします。諸侯が兵を靖め、友好を事とするのに、行理(使者)の命令が月ごとに至り、貢献に限度がなければ、小国には欠けが生じ、これによって罪を得るのです。諸侯が盟約を修めるのは小国を存続させるためです。貢献に極まりがなければ、滅亡は待つばかりです。存亡の制度は、今にかかっています」。日中から争い始め、日暮れまで続き、晋人はついに許した。 盟約が終わると、子大叔が子産を咎めて言った、「諸侯がもし討つなら、軽んじることができるでしょうか」。子産は答えた、「晋の政治は多門で、二心と怠慢に暇がなく、何の暇があって国を討ちましょうか。競わなくても陵辱されるなら、何の国でありましょうか」。 公(魯の君)は盟約に参加しなかった。晋人は季孫意如を捕らえ、幕で覆い、狄人に守らせた。司鐸射が錦を懐にし、壺に氷を入れた飲み物を奉じて、蒲伏して近づいた。守りが防いだので、錦を与えて中に入った。晋人は平子(季孫意如)を連れて帰り、子服湫が従った。 子産が帰国途中、まだ到着しないうちに、子皮の死を聞いた。泣きながら言った、「私はもう善を行うための支えがありません。ただ夫子(子皮)だけが私を知っておられました」。 仲尼(孔子)は子産のこの行いについて、「国を治める基盤とするに足る」と評した。詩に「楽しい君子は邦家の基」とある。子産は君子が楽しく求める者である。また言った、「諸侯を合わせ、貢献の事を整えるのは礼である」。 鮮虞人は晋軍が全軍出動したと聞いたが、辺境を警戒せず、備えを修めなかった。晋の荀吴が著雍から上軍を率いて鮮虞を侵し、中人に至り、衝車を駆って競い、大いに獲物を得て帰った。 楚が蔡を滅ぼした時、霊王は許・胡・沈・道・房・申を荊に遷した。平王が即位すると、陳と蔡を封じ、皆を復帰させた。これは礼に適う。隠太子の子廬を蔡に帰したのは礼に適う。悼太子の子呉を陳に帰したのは礼に適う。 解説この一節は『春秋左氏伝』の昭公13年にあたり、春秋時代の晋を中心とした諸侯間の外交と盟約の様子を描いています。主な内容は以下の通りです。
この文章は、春秋時代の複雑な国際関係や、外交交渉の駆け引き、礼制の重要性を浮き彫りにしており、歴史的な価値が高い一節です。特に子産の知恵と叔向の外交手腕が印象的で、後の孔子の評にもつながる教訓を含んでいます。 Translation took 4378.4 seconds. |
| 冬.十月.葬蔡靈公.禮也.公如晉.荀吳謂韓宣子曰.諸侯相朝.講舊好也.執其卿而朝其君.有不好焉.不如辭之.乃使士景伯辭公于河.吳滅州來.令尹子期請伐吳.王弗許.曰.吾未撫民人.未事鬼神.未脩守備.未定國家.而用民力.敗不可悔.州來在吳.猶在楚也.子始待之.季孫猶在晉.子服惠伯私於中行穆子.曰.魯事晉何以不如夷之小國.魯.兄弟也.土地猶大.所命能具.若為夷棄之.使事齊楚.其何瘳於晉.親親與大.賞共罰否.所以為盟主也.子其圖之.諺曰.臣一主二.吾豈無大國.穆子告韓宣子.且曰.楚滅陳蔡.不能救而為夷執親.將焉用之.乃歸季孫.惠伯曰.寡君未知其罪.合諸侯而執其老.若猶有罪.死命可也.若曰無罪.而惠免之.諸侯不聞.是逃命也.何免之為.請從君惠於會.宣子患之.謂叔向曰.子能歸季孫乎.對曰不能.鮒也能乃使叔魚.叔魚見季孫曰.昔鮒也得罪於晉君.自歸於魯君.微武子之賜.不至於今.雖獲歸骨於晉.猶子則肉之.敢不盡情.歸子而不歸鮒也.聞諸吏將為子除館於西河.其若之何.且泣.平子懼.先歸.惠伯待禮. 昭公十四年 經 十有四年春.意如至自晉. 三月.曹伯滕卒. 夏.四月. 秋.葬曹武公. 八月.莒子去疾卒. 冬.莒殺其公子意恢. 傳 |
冬の十月、蔡の靈公を葬る。礼である。公が晋へ行かれた。荀吳が韓宣子に言う。「諸侯が互いに朝聘するのは、旧好を講じるためです。その卿を執らえてその君を朝せしめるのは、好ましくありません。辞退した方がよいでしょう。」そこで士景伯を使わして公を河で辞退させた。呉が州来を滅ぼす。令尹の子期が呉を討つことを請うたが、王は許さず、言う。「我は未だ民人を撫でず、鬼神に事えず、守備を修めず、国家を定めていないのに、民力を用いれば、敗れれば悔い改められない。州来が呉にあるのは、楚にあるのと同じである。子はまず待て。」季孫がまだ晋にいる。子服惠伯が中行穆子に私下に言う。「魯が晋に仕えることが、どうして夷の小国のようにできないのか。魯は兄弟である。土地もまだ大きい。命じられることは全て備える。もし夷のためにこれを棄て、斉や楚に仕えさせれば、晋にとって何の益があろうか。親しむべき者を親しみ、大きい国を重んじ、貢ぐ者を賞し、貢がない者を罰するのが、盟主たる所以です。子はどうか考えてください。諺に『臣は一主に二つ』と言う。我々に大国がないわけではない。」穆子が韓宣子に告げ、かつ言う。「楚が陳や蔡を滅ぼしても救えず、夷のために親族を執らえるとは、何の役に立つのか。」そこで季孫を帰らせた。惠伯が言う。「寡君はその罪を知らない。諸侯を会合させてその老臣を執らえるとは。もしまだ罪があるなら、死命に従うこともできる。もし罪がないと言うなら、恵んで赦すのに、諸侯に知らせなければ、これは命から逃れることです。何の赦しでしょう。どうか君の恵みを会で従いたい。」宣子はこれを憂い、叔向に言う。「子は季孫を帰らせることができるか。」対して「できない」と言う。「鮒はできる」と言い、そこで叔魚を使わした。叔魚が季孫に会い言う。「昔、鮒が晋君に罪を得て、自ら魯君に帰った。武子の賜がなければ、今日まで至らなかった。たとえ骨を晋に帰すことができても、子が肉とするなら、敢えて情を尽くさないことがあろうか。子を帰らせて鮒を帰らせない。役人たちが子のために西河に館を設けると聞いているが、どうするつもりか。」そして泣く。平子は恐れ、先に帰った。惠伯は礼を待った。 昭公十四年 十四年春、意如が晋から至る。 三月、曹伯滕卒す。 夏、四月。 秋、曹武公を葬る。 八月、莒子去疾卒す。 冬、莒その公子意恢を殺す。 伝 (伝文は上記の翻訳に含まれているため、ここでは重複しない) 解説この一節は『春秋左氏伝』の昭公十四年に当たる部分で、春秋時代の諸侯国間の複雑な外交関係や駆け引きを描いています。主な内容は以下の通りです。
<呉の州来征服と楚の反応>:呉が州来を滅ぼした後、楚の令尹子期が討伐を提案しますが、楚王は国内が未整備であることを理由に拒否します。楚王は民や鬼神への配慮、守備や国家の安定を優先すべきだと説き、州来が呉にあっても楚にあるのと同じだという独自の論理を示します。これは、楚の現実的な外交戦略を反映しています。 <季孫の帰還問題>:魯の季孫が晋に留め置かれている問題では、子服惠伯が中行穆子に魯の重要性を訴え、晋が盟主としての立場を損なわないよう警告します。惠伯の説得により、晋は季孫を解放しますが、惠伯は手続きの不備を指摘し、諸侯の前で正式に赦免されるよう求めます。これに対し、晋の宣子は叔向や叔魚を通じて季孫を説得し、最終的に季孫は帰国します。ここでは、恥や面子を重視する春秋時代の外交儀礼が鮮明に描かれています。 <歴史的背景>:この一節は、春秋時代の権力バランスが変化する中、晋や楚、呉、魯などの国が如何に駆け引きを繰り広げたかを示しています。特に、晋が盟主としての威信を保ちつつ、現実的な利益を追求する様子が浮き彫りにされています。また、「臣一主二」の諺は、当時の臣下が複数の主君に仕える可能性があったことを示唆し、封建制度の複雑さを物語っています。 全体として、この文章は政治的な駆け引きや礼儀作法の重要性を強調し、春秋時代の国際関係の縮図を提供しています。 Translation took 2499.5 seconds. |
| 十四年春.意如至自晉.尊晉罪己也.尊晉罪己.禮也.南蒯之將叛也.盟費人.司徒老祁.慮癸.偽廢疾.使請於南蒯曰.臣願受盟而疾興.若以君靈不死.請侍間而盟.許之.二子因民之欲叛也.請朝眾而盟.遂劫南蒯.曰.群臣不忘其君.畏子以及今.三年聽命矣.子若弗圖.費人不忍其君.將不能畏子矣.子何所不逞欲.請送子.請期五日.遂奔齊.侍飲酒於景公.公曰.叛夫.對曰.臣欲張公室也.子韓皙曰.家臣而欲張公室.罪莫大焉.司徒老祁.慮癸來歸費.齊侯使鮑文子致之. 夏.楚子使然丹簡上國之兵於宗丘.且撫其民.分貧振窮.長孤幼.養老疾.收介特.救災患.宥孤寡.赦罪戾.詰姦慝.舉淹滯.禮新敘舊.祿勳合親.任良物官.使屈罷簡東國之兵於召陵.亦如之.好於邊疆息.民五年.而後用師.禮也. 秋.八月.莒著丘公卒.郊公不慼.國人弗順.欲立著丘公之弟庚與.蒲餘侯惡公子意恢.而善於庚與.郊公惡公子鐸.而善於意恢.公子鐸因蒲餘侯而與之謀.曰.爾殺意恢.我出君而納庚與.許之.楚令尹子旗有德於王.不知度與養氏比.而求無厭.王患之. 九月.甲午.楚子殺鬥成然而滅養氏之族.使鬥辛居鄖.以無忘舊勳. 冬.十二月.蒲餘侯茲夫殺莒公子意恢.郊公奔齊.公子鐸逆庚與於齊.齊隰黨.公子鉏.送之.有賂田.晉邢侯與雍子爭鄐田.久而無成.士景伯如楚.叔魚攝理.韓宣子命斷舊獄.罪在雍子.雍子納其女於叔魚.叔魚蔽罪邢侯.邢侯怒.殺叔魚.與雍子於朝.宣子問其罪於叔向.叔向曰.三人同罪.施生戮死.可也.雍子自知其罪.而賂以買直.鮒也鬻獄.邢侯專殺.其罪一也.已惡而掠美為昏.貪以敗官為墨.殺人不忘為賊.夏書曰.昏墨賊殺.皋陶之刑也.請從之.乃施邢侯.而尸雍子.與叔魚於市.仲尼曰.叔向.古之遺直也.治國制刑.不隱於親.三數叔魚之惡.不為末減.曰.義也夫.可謂直矣.平丘之會.數其賄也.以寬衛國.晉不為暴.歸魯季孫.稱其詐也.以寬魯國.晉不為虐.邢侯之獄.言其貪也.以正刑書.晉不為頗.三言而除.三惡加三利.殺親益榮.猶義也夫. 昭公十五年 經 |
【翻訳文】 夏、楚子は然丹に宗丘で上国の軍隊を選抜させ、同時に民衆を慰撫した。貧しい者に財貨を分け与え、困窮者を救済し、孤児を育成し幼児を養育し、老人と病人を扶養し、独身者を保護し、災害と患難を救助し、孤児と寡婦を寛容に扱い、罪過を赦免し、奸悪を糾明し、埋もれた人材を登用し、新参者を礼遇し旧臣を序列化し、功労者に禄を与え親族を融和させ、有能者を登用して官職に就かせた。屈罷に召陵で東国の軍隊を選抜させた時も、同じ措置を講じた。国境で友好関係を結び休戦し、五年間民衆を休養させた後に軍隊を動員した。これは礼に適った行いである。 秋八月、莒の著丘公が逝去した。郊公は悲しみの色を示さず、国民は従わなかった。人々は著丘公の弟である庚与を擁立しようとした。蒲余侯は公子意恢を憎み、庚与と親しくしていた。郊公は公子鐸を憎み、意恢と親しくしていた。公子鐸は蒲余侯を介して謀議を巡らせ、「あなたが意恢を殺せば、私が現在の君(郊公)を追放して庚与を迎え入れよう」と言った。蒲余侯はこれを承諾した。 九月甲午の日、楚子は鬥成然を処刑し養氏の一族を滅ぼした。鬥辛を鄖地に居住させ、過去の功績を忘れないように配慮した。 冬十二月、蒲余侯茲夫が莒の公子意恢を殺害した。郊公は斉へ逃亡した。公子鐸は斉から庚与を迎え入れた。斉の隰党と公子鉏が護送し、その見返りとして田地の賄賂を受けた。 昭公十五年 【解説】
この記述は、春秋時代の国際関係・国内政治・司法制度を多角的に伝えるとともに、儒家の理想的統治観が歴史評価に如何に影響したかを示す好例と言えます。 Translation took 5749.5 seconds. |
| 十有五年春.王正月.吳子夷末卒. 二月.癸酉.有事于武宮籥入叔弓卒.去樂卒事. 夏.蔡朝吳出奔鄭. 六月.丁巳.朔日有食之. 秋.晉荀吳帥師伐鮮虞. 冬.公如晉. 傳 十五年春.將禘于武公.戒百官.梓慎曰.禘之日.其有咎乎.吾見赤墨之祲.非祭祥也.喪氛也.其在蒞事乎.二月.癸酉.禘.叔弓蒞事.籥入而卒.去樂卒事.禮也. 楚費無極害朝吳之在蔡也.欲去之.乃謂之曰.王唯信子.故處子於蔡.子亦長矣.而在下位.辱.必求之.吾助子請.又謂其上之人曰.王唯信吳.故處諸蔡.二三子莫之如也.而在其上.不亦難乎.弗圖.必及於難.夏.蔡人逐朝吳.朝吳出奔鄭.王怒曰.余唯信吳.故寘諸蔡.且微吳.吾不及此.女何故去之.無極對曰.臣豈不欲吳.然而前知其為人之異也.吳在蔡.蔡必速飛.去吳.所以翦其翼也. 六月.乙丑.王大子壽卒. 秋.八月.戊寅.王穆后崩. 晉荀吳帥師伐鮮虞,圍鼓,鼓人或請以城叛,穆子弗許。左右曰:師徒不勤.而可以獲城.何故不為?穆子曰.吾聞諸叔向曰.好惡不愆.民知所適.事無不濟.或以吾城叛.吾所甚惡也.人以城來.吾獨何好焉?賞所甚惡.若所好何?若其弗賞.是失信也.何以庇民?力能則進.否則退.量力而行.吾不可以欲城而邇姦.所喪滋多.使鼓人殺叛人而繕守備.圍鼓三月.鼓人或請降.使其民見曰.猶有食色.姑脩而城.軍吏曰.獲城而弗取.勤民而頓兵.何以事君.穆子曰.吾以事君也.獲一邑而教民.怠將焉用邑?邑以賈怠.不如完舊.賈怠無卒.棄舊不祥.鼓人能事其君.我亦能事吾君.率義不爽.好惡不愆.城可獲而民知義.所有死命.而無二心.不亦可乎?鼓人告食竭力盡.而後取之.克鼓而反.不戮一人.以鼓子截鞮歸。 |
十五年春、周王の正月に、呉の君夷末が卒去した。 二月癸酉の日、武宮で祭事があり、籥(笛)が入るときに叔弓が死去した。楽奏を中止して祭事を完遂した。 夏、蔡の朝呉が鄭へ出奔した。 六月丁巳の日、朔日(ついたち)に日食が起こった。 秋、晉の荀呉が軍を率いて鮮虞を討伐した。 冬、魯公が晉へ赴いた。 伝 十五年春、武公に対して禘祭(たいさい)を行おうとし、百官に戒めを告げた。梓慎が言った。「禘祭の当日、何か災いがあるでしょう。私は赤黒い不吉な気配を見ました。これは祭祀の祥瑞ではなく、喪の気配です。おそらく祭事を執り行う者に及ぶでしょう」。二月癸酉の日、禘祭が行われ、叔弓が祭事を執り行った。籥(笛)の楽師が入場した時に叔弓が急死した。楽奏を中止して祭事を完遂した。これは礼に適った対応であった。 楚の費無極は、朝呉が蔡にいることを害(妬み)として、彼を追い落とそうとした。そこで朝呉に言った。「王はあなただけを信頼しているから、蔡に置いているのだ。あなたも年長であるのに下位にいるのは不名誉だ。必ず上位を求めるべきで、私が願い出るのを助けよう」。次に、朝呉の上官たちに言った。「王は呉だけを信じているので、彼を蔡に置いたのだ。諸君は誰も彼及ばないのに、その上に立つのは難しいではないか。対策を講じなければ、必ず災難に遭うだろう」。夏、蔡の人々は朝呉を追放し、朝呉は鄭へ出奔した。王は怒って言った。「私は呉を信じているからこそ蔡に置いた。かつて呉がいなければ、私はここまでになれなかった。なぜ彼を追い出したのか」。無極は答えて言った。「臣どうして呉を追い出したいわけがありましょうか。しかし以前から、彼の人間性が普通ではないと知っていました。呉が蔡にいれば、蔡は必ず速やかに飛び立つ(独立する)でしょう。呉を去らせるのは、その翼を切り落とすためです」。 六月乙丑の日、周王の太子寿が卒去した。 秋八月戊寅の日、王の穆后が崩御した。 晉の荀呉(穆子)が軍を率いて鮮虞を討伐し、鼓を包囲した。鼓の民の一部が城ごと降伏すると申し出たが、穆子は許さなかった。側近たちが言った。「軍兵に労苦をかけずに城を手に入れられるのに、なぜ同意しないのですか」。穆子は言った。「私は叔向から聞いたことがある。『好悪に過ちがなければ、民は進むべき道を知り、事は成就しないものはない』と。もし我が城の者が叛くなら、私はそれを最も憎む。他国の者が城を持って来るのを、どうして喜べようか。最も憎む行為を賞賛すれば、喜ぶべきことをどう扱えばよいのか。もし賞さなければ、信義を失う。どうして民を守れようか。力があれば進み、なければ退く。力に応じて行動すべきだ。私は城欲しさに奸計に近づくことはできない。そうすれば失うものの方が多い」。鼓の民に叛徒を殺させて守備を固めさせた。鼓を三ヶ月包囲した後、鼓の民が降伏を申し出た。穆子はその民の様子を見させて言った。「まだ食糧に余裕がある顔色だ。しばらく城を修築せよ」。軍吏が言った。「城を得ながら取らず、民を疲弊させ軍を停滞させるのは、どうして君に仕える道理ですか」。穆子は言った。「私はこそ君に仕えているのだ。一つの邑を得て民に怠惰を教えるなら、その邑に何の価値があろう。邑を得て怠惰を買うより、以前の状態を保たせる方がよい。怠惰を買えば結局はうまくいかず、旧態を棄てるのは不吉だ。鼓の民がその君に仕えられるなら、私も我が君に仕えられる。義に従って過ちず、好悪に過ちがなければ、城は自然に得られて民は義を知る。全ての者が命を懸けて二心を持たない。これこそ理想ではないか」。鼓の民が食糧尽き力尽きたと報告してから、ようやく城を占領した。鼓を攻克して帰還し、一人も殺さず、鼓の君截鞮を連れて帰った。 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公15年に当たり、主に以下の出来事を記録しています:
全体を通じて、天変地異・人事・外交・戦争が相互に連関する春秋時代の世界観が示され、特に政治的行為における「義」の重要性が強調されている点が特徴的です。 Translation took 2457.4 seconds. |
| 冬.公如晉.平丘之會故也. 十二月.晉荀躒如周葬穆后.籍談為介.既葬除喪.以文伯宴.樽以魯壺.王曰.伯氏.諸侯皆有以鎮撫王室.晉獨無有.何也.文伯揖籍談對曰.諸侯之封也.皆受明器於王室.以鎮撫其社稷.故能薦彝器於王.晉居深山.戎狄之與鄰.而遠於王室.王靈不及.拜戎不暇.其何以獻器.王曰.叔氏而忘諸乎.叔父唐叔.成王之母弟也.其反無分乎.密須之鼓.與其大路.文所以大蒐也.闕鞏之甲.武所以克商也.唐叔受之.以處參虛.匡有戎狄.其後襄之二路.鏚鉞秬鬯.彤弓虎賁.文公受之.以有南陽之田.撫征東夏.非分而何.夫有勳而不廢.有績而載.奉之以土田.撫之以彝器.旌之以車服.明之以文章.子孫不忘.所謂福也.福祚之不登.叔父焉在.且昔而高祖孫伯黶司晉之典籍.以為大政.故曰籍氏.及辛有之二子董之.晉於是乎有董史.女司典之後也.何故忘之.籍談不能對.賓出.王曰.籍父其無後乎.數典而忘其祖.籍談歸以告叔向.叔向曰.王其不終乎.吾聞之.所樂必卒焉.今王樂憂.若卒以憂.不可謂終.王一歲而有三年之喪二焉.於是乎以喪賓宴.又求彝器.樂憂甚矣.且非禮也.彝器之來.嘉功之由.非由喪也.三年之喪.雖貴遂服.禮也.王雖弗遂.宴樂以早.亦非禮也.禮.王之大經也.一動而失二禮.無大經矣.言以考典.典以志經.忘經而多言.舉典將焉用之. 昭公十六年 經 |
冬、魯の昭公が晋へ行った。これは平丘の会合のためである。 十二月、晋の荀躒が周へ行き、穆后の葬儀に参列した。籍談が副使として随行した。葬儀が終わり喪が除かれると、周の王は文伯(荀躒)を宴席に招いた。魯の壺で酒を酌み交わしている時、王が言った。「伯氏(荀躒)、諸侯は皆、王室を鎮め撫でるための貢物を献上しているのに、晋だけが何も献上しないのはなぜか」。文伯は籍談に拱手させて答えさせた。「諸侯が封じられる際、皆王室から明器(祭祀の器)を受領し、自らの社稷を鎮撫しております。故に王室へ彝器(礼器)を献上できるのです。晋は深山に位置し、戎狄と隣接しながら王室から遠く離れております。王の威光が届かず、戎狄への対応に追われており、どうして器物を献上できましょうか」。 王は言った。「叔氏(籍談)、あなたはそれを忘れたのか。叔父である唐叔は、成王の同母弟であった。それなのに貢物がなくてよいのか。密須の鼓とその大路(立派な車)は、文王が大蒐(軍事演習)を行った由縁の品である。闕鞏の甲冑は、武王が商を討ち果たした際の武具である。唐叔はそれらを受領し、参虚の地に封じられ、戎狄を匡正した。その後、襄王の時代には二つの大路、鏚鉞(斧と鉞)、秬鬯(黒黍の酒)、彤弓(赤い弓)、虎賁(精鋭兵)を文公が受領し、南陽の田地を得て東夏を鎮撫した。これらが分け前でないというのか。功績があって廃されず、業績が記録され、田地で奉じられ、彝器で撫でられ、車服で表彰され、文章で明らかにされる——子孫がこれを忘れぬことが、福というものだ。福禄が授からぬのに、叔父(晋)はどこにいるのか。かつてあなたの高祖である孫伯黶が晋の典籍を司り、大政を担った故、籍氏を称した。辛有の二人の子がこれを監督し、晋には董史(記録官)が生まれた。あなたは典籍を司る家系の末裔である。どうして忘れるのか」。 籍談は返答できなかった。賓客が退出すると、王は言った。「籍父(籍談)は後継ぎが絶えるだろう。典故を数えながら祖先を忘れるとは」。籍談は帰国後、叔向にこのことを報告した。叔向は言った。「王は末路が良くないだろう。私は聞いている、楽しむことに必ず終わりが来ると。今、王は憂い事を楽しんでいる。もし憂い事で終わるなら、末路が良いとは言えない。王は一年間に三年の喪を二つも抱えている(穆后と太子の喪)。そのような中で喪中の賓客を宴席に招き、さらに彝器を求める——憂い事を楽しみすぎている。かつ礼に悖る。彝器は功績を称えるために献上されるもので、喪事によるものではない。三年の喪は、身分が高くても服喪し通すのが礼である。王が服喪を完遂せず、早々に宴楽するのも礼に外れる。礼は王の大いなる規範である。一つの行動で二つの礼を失えば、規範などなくなる。言葉は典故を検証するため、典故は規範を記録するためである。規範を忘れて多言を弄し、典故を挙げて何の役に立とうか」。 昭公十六年 【解説】 主題は「礼」の重要性と歴史の継承にあります。景王は晋が王室から受けた歴史的恩恵(唐叔や文公への下賜品)を列挙し、貢献の義務を説く一方、籍談は「戎狄対策に忙しい」と弁明します。この対比は、周王室の権威衰退と諸侯の自立傾向を反映しています。叔向の批判では、王が喪中にも関わらず宴楽し彝器を要求する行為を「礼」の二重違反と断じ、規範失墜を危惧する内容となっています。故事や儀礼を縦横に引用した論戦は、春秋時代の政治交渉の特徴をよく表しています。 Translation took 2348.6 seconds. |
| 十有六年春.齊侯伐徐.楚子誘戎蠻子殺之. 夏.公至自晉. 秋.八月.己亥.晉侯夷卒. 九月.大雩.季孫意如如晉. 冬.十月.葬晉昭公. 傳 十六年春.王正月.公在晉.晉人止公.不書.諱之也.齊侯伐徐.楚子聞蠻氏之亂也.與蠻子之無質也.使然丹誘戎蠻子嘉.殺之.遂取蠻氏.既而復立其子焉.禮也. 二月.丙申.齊師至于蒲隧.徐人行成.徐子及郯人.莒人.會齊侯盟于蒲隧.賂以甲父之鼎.叔孫昭子曰.諸侯之無伯.害哉.齊君之無道也.興師而伐遠方.會之有成.而還莫之亢也.無伯也夫.詩曰.宗周既滅.靡所止戾.正大夫離居.莫知我肄.其是之謂乎. 二月.晉韓起聘于鄭.鄭伯享之.子產戒曰.苟有位於朝.無有不共恪.孔張後至.立於客間.執政禦之.適客後.又禦之.適縣間.客從而笑之.事畢.富子諫.曰.夫大國之人.不可不慎也.幾為之笑.而不陵我.我皆有禮.夫猶鄙我.國而無禮.何以求榮.孔張失位.吾子之恥也.子產怒曰.發命之不衷.出令之不信.刑之頗類.獄之放紛.會朝之不敬.使命之不聽.取陵於大國.罷民而無功.罪及而弗知.僑之恥也.孔張.君之昆孫.子孔之後也.執政之嗣也.為嗣大夫.承命以使.周於諸侯.國人所尊.諸侯所知.立於朝而祀於家.有祿於國.有賦於軍.喪祭有職.受脤歸賑.其祭在廟.已有著位.在位數世.世守其業.而忘其所僑.焉得恥之.辟邪之人.而皆及執政.是先王無刑罰也.子寧以他規我. |
翻訳文十六年の春、齊侯が徐を討伐した。楚子が戎蠻子を誘い出して殺した。 夏、公が晉から帰国した。 秋、八月己亥の日、晉侯夷が卒去した。 九月、大雩(雨乞いの儀式)が行われた。季孫意如が晉へ赴いた。 冬、十月、晉昭公を葬った。 伝(解説部分) 二月丙申の日、齊軍が蒲隧に到達した。徐人が講和を申し出て、徐子と郯人、莒人が齊侯と蒲隧で会盟した。甲父の鼎を贈り物として献上した。叔孫昭子が言った。「諸侯に覇者がないのは、実に有害なことだ。齊君の無道ぶりよ。軍勢を動かして遠方の国を討ち、会盟が成立したのに、帰還を阻む者もいない。覇者がいないからである。詩経に『宗周が既に滅び、安住の地もなく、高官たちは離散し、我が苦労を知る者もない』とあるが、まさにこの状況を指しているのだろう。」 二月、晉の韓起が鄭を訪問した。鄭伯が饗応した。子產は臣下に戒めて言った。「朝廷に職位を持つ者は、誰もが恭順でなければならない。」孔張が遅れて到着し、客席の間に立った。執政が彼を押しのけて客の後ろに移動させ、さらに押しやって楽器の隙間に立たせた。客たちはこれを見て嘲笑した。宴が終わると、富子が諫めて言った。「大国の者たちには、慎重に対処すべきです。あやうく嘲笑されるところでした。彼らが我々を侮らないとしても、我々が礼を尽くしても尚、軽蔑するでしょう。国として礼儀を欠けば、どうして栄誉を得られましょう。孔張の失態は、あなたの恥です。」子產は怒って言った。「命令の発布が不適切なこと、法令が信頼されないこと、刑罰に偏りがあること、裁判が混乱していること、朝会で敬意を払わないこと、使命が履行されないこと、大国から侮られること、民を疲弊させて成果がないこと、罪が及んでも自覚しないこと——これらが私(僑)の恥である。孔張は君の曾孫であり、子孔の子孫で、執政の後継者だ。世襲の大夫として、使命を受けて諸国を巡り、国人に尊ばれ、諸侯に認知されている。朝廷に立ち、家で祭祀を執り行い、国から俸禄を受け、軍役の義務を負い、喪祭の職務を果たし、祭祀の肉を受け取り帰国する——その祭祀は宗廟で行われ、既に確立された地位がある。数世代にわたり職位を守り、家業を継承している者が、本来の立場を忘れるなどあり得ない。どうしてそれを恥じようか。邪悪な者たちが全て執政のせいにするなら、先王の刑罰制度は無意味である。あなたはむしろ別の事柄で私を戒めてほしい。」 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公十六年(紀元前526年)の記録です。経(本文)は出来事を簡潔に列記し、伝(解説)ではその背景や詳細を叙述しています。主な内容は以下の通りです:
全体として、この一節は春秋時代の複雑な外交や内政を活写し、『左伝』が単なる年代記ではなく、道徳や政治哲学を込めた歴史書であることを示しています。 Translation took 54159.0 seconds. |
| 宣子有環.其一在鄭商.宣子謁諸鄭伯.子產弗與.曰.非官府之守器也.寡君不知.子大叔.子羽.謂子產曰.韓子亦無幾求.晉國亦未可以貳.晉國韓子.不可偷也.若屬有讒人.交鬥其間.鬼神而助之.以興其凶怒.悔之何及.吾子何愛於一環.其以取憎於大國也.盍求而與之.子產曰.吾非偷晉而有二心.將終事之.是以弗與.忠信故也.僑聞君子非無賄之難立.而無令名之患.僑聞為國非不能事大.字小之難.無禮以定其位之患.夫大國之人.令於小國.而皆獲其求.將何以給之.一共一否.為罪滋大.大國之求.無禮以斥之.何饜之有.吾且為鄙邑.則失位矣.若韓子奉命以使而求玉焉.貪淫甚矣.獨非罪乎.出一玉以起二罪.吾又失位.韓子成貪.將焉用之.且吾以玉賈罪.不亦銳乎.韓子買諸賈人.既成賈矣.商人曰.必告君大夫.韓子請諸子產曰.日起請夫環.執政弗義.弗敢復也.今買諸商人.商人曰.必以聞.敢以為請.子產對曰.昔我先君桓公.與商人皆出自周.庸次比耦.以艾殺此地.斬之蓬蒿藜藿而共處之.世有盟誓.以相信也.曰爾無我叛.我無強賈.毋或匄奪.爾有利市寶賄.我勿與知.恃此質誓.故能相保.以至于今.今吾子以好來辱.而謂敝邑強奪商人.是教敝邑背盟誓也.毋乃不可乎.吾子得玉而失諸侯.必不為也.若大國令.而共無藝.鄭鄙邑也.亦弗為也僑若獻玉.不知所成.敢私布之.韓子辭玉曰.起不敏.敢求玉以徼二罪.敢辭之. |
<翻訳文> 韓子は商人から買おうとし、すでに取引が成立した。商人が言った。「必ず君や大夫に報告しなければなりません」。韓子は子産に請うて言った。「先日、環を請うた際、執政(子産)が道理に合わないとされ、敢えて再度求めませんでした。今、商人から買おうとしたところ、商人が『必ず上聞に達せねばならない』と言います。敢えてお願い申し上げます」。子産は答えて言った。「昔、我が先君の桓公が商人たちと共に周から出て、互いに助け合って土地を開拓し、蓬蒿や藜藿を切り払って共に住みました。代々盟誓を交わし、信頼関係を保ってきました。『汝は我に背くことなく、我は強制的に買い取ることはない。略奪したり乞い取ったりすることもない。汝が利益のある市場や宝貨を持っていても、我は干渉しない』と。この確かな誓いを頼りに、今日まで互いを守ってこられました。今、あなたが好意をもって来訪されたのに、我が邑に商人から強奪するようにと言われるのは、我が邑に盟誓を背くことを教えることです。それはよろしくないのではないでしょうか。あなたが玉を得て諸侯の信頼を失うようなことは、決してなさらないでしょう。もし大国が命令し、際限なく供給を求めれば、鄭は単なる辺境の邑同然になり、それも我々はできません。僑が玉を献上すれば、どのような結果になるか分かりません。敢えて私見を申し上げました」。 韓子は玉を受け取るのを辞退して言った。「起(韓子)は不肖です。玉を求めて二つの罪を招こうとは。謹んで辞退します」。 </翻訳文> <解説> 子産は、韓宣子が鄭の商人が持つ玉環(宝玉の輪)を求めたことに対し、一見すると小さいことに見えるこの要求を頑なに拒否します。その理由として、子産は単なる物品の授受ではなく、以下の原則論を展開しています。
結果的に、子産の理路整然とした主張は韓宣子を納得させ、玉は受け取られませんでした。このエピソードは、子産が小国ながらも道理を通して大国と対等に渡り合った、卓抜した外交手腕を示す有名な逸話として知られています。当時の国際関係における「礼」の概念や、政治家としての信念がよく表れた一節です。 Translation took 1790.7 seconds. |
| 夏.四月.鄭六卿餞宣子於郊.宣子曰.二三君子請皆賦.起亦以知鄭志.子齹賦野有蔓草.宣子曰.孺子善哉.吾有望矣.子產賦鄭之羔裘.宣子曰.起不堪也.子大叔賦褰裳.宣子曰.起在此.敢勤子.至於他人乎.子大叔拜.宣子曰.善哉.子之言.是不有是事.其能終乎.子游賦風雨.子旗賦有女同車.子柳賦蘀兮.宣子喜曰.鄭其庶乎.二三君子.以君命貺起.賦不出鄭志.皆昵燕好也.二三君子.數世之主也.可以無懼矣.宣子皆獻馬焉.而賦我將.子產拜.使五卿皆拜.曰.吾子靖亂.敢不拜德.宣子私覲於子產.以玉與馬曰.子命起.舍夫玉.是賜我玉而免吾死也.敢藉手以拜.公至自晉.子服昭伯語季平子曰.晉之公室.其將遂卑矣.君幼弱.六卿彊而奢傲.將因是以習.習實為常.能無卑乎.平子曰.爾幼.惡識國. 秋.八月.晉昭公卒. 九月.大雩.旱也.鄭大旱.使屠擊.祝款.竪柎.有事於桑山.斬其木不雨.子產曰.有事於山.蓺山林也.而斬其木.其罪大矣.奪之官邑. 冬.十月.季平子如晉.葬昭公.平子曰.子服回之言猶信.子服氏有子哉. 昭公十七年 經 十有七年春.小邾子來朝. 夏.六月.甲戌.朔.日有食之. 秋.郯子來朝. 八月.晉荀吳帥師滅陸渾之戎. |
夏、四月。鄭の六卿が郊外で宣子を見送った。宣子が言った。「皆様、どうか詩を詠んでください。私も鄭の真意を知りたいのです。」子齹が『野有蔓草』を詠んだ。宣子が言った。「若者よ、見事だ。私は期待している。」子産が『鄭の羔裘』を詠んだ。宣子が言った。「私には耐えられません。」子大叔が『褰裳』を詠んだ。宣子が言った。「私がここにいるのに、どうしてあなたを煩わせましょうか。他の方に対しても同じです。」子大叔が拝礼した。宣子が言った。「素晴らしいお言葉です。このようなことがなければ、どうして最後までうまくいきましょうか。」子游が『風雨』を、子旗が『有女同車』を、子柳が『蘀兮』を詠んだ。宣子は喜んで言った。「鄭はまさに栄えるでしょう。皆様は君主の命により私に贈り物をくださり、詠まれた詩は鄭の志から外れず、どれも親密で和やかなものばかりです。皆様は数世代にわたる国の支柱です。恐れることはありません。」宣子は全員に馬を贈り、自らは『我將』を詠んだ。子産が拝礼し、他の五卿にも拝礼させて言った。「あなたが乱を鎮めてくださるので、どうしてその徳に拝礼しないでいられましょうか。」宣子は子産と私的に会い、玉と馬を贈って言った。「あなたが私に命じてあの玉を捨てさせたのは、私に玉を賜り命を救ってくださったことです。どうかこの品々を介して感謝の意を表します。」魯の昭公が晋から帰国した。子服昭伯が季平子に語って言った。「晋の公室はやがて衰えるでしょう。君主は幼く弱く、六卿は強力で驕り高ぶっています。これが習慣となり、習慣は常態化します。衰えずにいられましょうか。」平子が言った。「あなたは若すぎる。どうして国政を理解できようか。」 秋、八月。晋の昭公が死去した。 九月、大規模な雨乞いの儀式が行われた。旱魃のためである。鄭で大旱魃が起こり、屠撃・祝款・竪柎の三人を桑山で祭祀を行わせた。彼らが木を伐ったが雨は降らなかった。子産が言った。「山で祭祀を行うのは山林を育てるためである。その木を伐るとは、罪は極めて大きい。」彼らから官職と領地を没収した。 冬、十月。季平子が晋へ行き、昭公の葬儀に参列した。平子が言った。「子服回の言葉はやはり正しかった。子服氏には立派な後継者がいる。」 昭公十七年 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公17年の記述で、以下のような点に特徴があります:
この時期は晋の霸権が揺らぎ始め、鄭のような小国が巧みな外交で生き残りを図る様子がよく表れた一節です。 Translation took 4308.3 seconds. |
| 冬.有星孛于大辰.楚人及吳戰于長岸. 傳 十七年春.小邾穆公來朝.公與之燕.季平子賦采叔.穆公賦菁菁者莪.昭子曰.不有以國.其能久乎. 夏.六月.甲戌.朔.日有食之.祝史請所用幣.昭子曰.日有食之.天子不舉.伐鼓於社.諸侯用幣於社.伐鼓於朝.禮也.平子禦之.曰.止也.唯正月朔.慝未作.日有食之.於是乎有伐鼓用幣.禮也.其餘則否.大史曰.在此月也.日過分而未至.三辰有災.於是乎百官降物.君不舉辟.移時樂奏鼓.祝用幣.史用辭.故夏書曰.辰不集于房.瞽奏鼓.嗇夫馳.庶人走.此月朔之謂也.當夏四月.是謂孟夏.平子弗從.昭子退曰.夫子將有異志.不君君矣. 秋.郯子來朝.公與之宴.昭子問焉.曰.少皞氏鳥名官.何故也.郯子曰.吾祖也.我知之.昔者黃帝氏以雲紀.故為雲師而雲名.炎帝氏以火紀.故為火師而火名.共工氏以水紀.故為水師而水名.大皞氏以龍紀.故為龍師而龍名.我高祖少皞.摯之立也.鳳鳥適至.故紀於鳥.為鳥師而鳥名.鳳鳥氏歷正也.玄鳥氏司分者也.伯趙氏司至者也.青鳥氏司啟者也.丹鳥氏司閉者也.祝鳩氏司徒也.鴡鳩氏司馬也.鳲鳩氏司空也.爽鳩氏司寇也.鶻鳩氏司事也.五鳩.鳩民者也.五雉為五工正.利器用.正度量.夷民者也.九扈為九農正.扈民無淫者也.自顓頊以來.不能紀遠.乃紀於近.為民師而命以民事.則不能故也.仲尼聞之.見於郯子而學之.既而告人曰.吾聞之.天子失官.學在四夷.猶信.晉侯使屠蒯如周.請有事於雒.與三塗.萇弘謂劉子曰.客容猛.非祭也.其伐戎乎.陸渾氏甚睦於楚.必是故也.君其備之.乃警戎備. |
冬に、星が大辰(星座の名)にあらわれた。楚と吳が長岸で戦った。 伝 十七年の春、小邾の穆公が来朝した。昭公は彼と宴を共にし、季平子が『采叔』の詩を吟じ、穆公が『菁菁者莪』の詩を吟じた。昭子(魯の大夫)が言った。「国を治める才能がなければ、長く続くはずがない」 夏の六月甲戌の朔(一日)に、日食が起こった。祝史が幣帛を用いるよう請うたが、昭子が言った。「日食が起これば、天子は盛饌を断ち、社で太鼓を打ち鳴らし、諸侯は社で幣帛を用い、朝廷で太鼓を打つ。これが礼である」平子がこれを制止して言った。「それは止めよ。正月の朔にのみ、邪気が未だ起こらぬ時に日食があれば、太鼓を打ち幣帛を用いるのが礼である。それ以外の時はそうではない」太史が言った。「この月こそ該当します。太陽が春分を過ぎて夏至に至らぬうちに、日月星に災異があれば、百官は礼服を着け、君は盛饌を断ち、時を移して楽鼓を奏し、祝は幣帛を用い、史は辞(祈りの文)を捧げます。故に夏書に『星辰が房宿に集まらず、盲楽師が鼓を奏し、嗇夫(官吏)が馳せ、庶人が走る』とあります。これがまさに今月の朔の謂いです。夏暦の四月に当たり、これを孟夏と申します」平子は従わず、昭子は退いて言った。「あの方は異志を抱いておられる。君を君とも思わぬおつもりだ」 秋に、郯子が来朝した。昭公は彼と宴を共にし、昭子が質問した。「少皞氏が鳥の名で官職を命名されたのは、何故でしょうか」郯子が答えた。「それは我が祖のことですから、よく存じています。昔、黄帝氏は雲で時を紀(しる)した故、雲師と称し雲の名で官名とした。炎帝氏は火で紀した故、火師と称し火の名で官名とした。共工氏は水で紀した故、水師と称し水の名で官名とした。大皞氏は龍で紀した故、龍師と称し龍の名で官名とした。我が高祖・少皞摯の即位の折、鳳鳥が恰も飛来した故、鳥で時を紀し、鳥師と称して鳥の名で官名としたのです。鳳鳥氏は暦法の長官、玄鳥氏は春分・秋分を司り、伯趙氏は夏至・冬至を司り、青鳥氏は立春・立夏を司り、丹鳥氏は立秋・立冬を司る。祝鳩氏は司徒(土地人民の長)、鴡鳩氏は司馬(軍事の長)、鳲鳩氏は司空(土木の長)、爽鳩氏は司寇(刑罰の長)、鶻鳩氏は司事(雑務の長)である。五鳩は民を集め安定させる役目。五雉は五工正(工匠の長)として器物を整え度量衡を正し、民を平らかにする。九扈は九農正(農事の長)として民が淫らな行いをせぬよう監督する。顓頊以来、遠い時代は紀せず、身近な事柄で紀するようになり、民の師として民事で官名を命ずるようになった。これは古制を継承できなくなったからである」仲尼(孔子)はこの話を聞き、郯子に会って学んだ。後に人に告げて言った。「天子の朝廷に官学が失われても、学問は四夷に存するという言葉は、誠にその通りだ」 晋侯が屠蒯を周に派遣し、雒水と三塗山で祭祀を行う許可を求めた。萇弘が劉子に言った。「使者の様子が猛々しい。祭祀ではなく、戎(異民族)を討つのではないか。陸渾氏は楚と親密だから、そのためであろう。備えをされた方が良い」そこで軍備を警戒させた。 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公17年に当たり、主に三つのエピソードから構成されています。 Translation took 2189.6 seconds. |
| 九月.丁卯.晉荀吳帥師.涉自棘津.使祭史先用牲于雒.陸渾人弗知.師從之.庚午.遂滅陸渾.數之以其貳於楚也.陸渾子奔楚.其眾奔甘鹿.周大獲.宣子夢文公攜荀吳.而授之陸渾.故使穆子帥師.獻俘于文宮. 冬.有星孛于大辰.西及漢.申須曰.彗所以除舊布新也.天事恆象.今除於火.火出必布焉.諸侯其有火災乎.梓慎曰.往年吾見之.是其徵也.火出而見.今茲火出而章.必火入而伏.其居火也久矣.其與不然乎.火出.於夏為三月於商為四月.於周為五月.夏數得天.若火作.其四國當之.在宋衛陳鄭乎.宋.大辰之虛也.陳.大皞之虛也.鄭.祝融之虛也.皆火房也.星孛天漢.漢.水祥也.衛.顓頊之虛也.故為帝丘.其星為大水.水火之牡也.其以丙子若壬午作乎.水火所以合也.若火入而伏.必以壬午.不過其見之月.鄭裨灶言於子產曰.宋衛陳鄭.將同日火.若我用瓘斝玉瓚.鄭必不火.子產弗與. 吳伐楚.陽匄為令尹.卜戰不吉.司馬子魚曰.我得上流.何故不吉.且楚故.司馬令龜.我請改卜.令曰.魴也.以其屬死之.楚師繼之.尚大克之.吉.戰于長岸.子魚先死.楚師繼之.大敗吳師.獲其乘舟餘皇.使隨人與後至者守之.環而塹之.及泉.盈其隧炭.陳以待命.吳公子光請於其眾曰.喪先王之乘舟.豈唯光之罪.眾亦有焉.請藉取之.以救死.眾許之.使長鬣者三人.潛伏於舟側.曰.我呼皇則對.師夜從之.三呼皆迭對.楚人從而殺之.楚師亂.吳人大敗之.取餘皇以歸. 昭公十八年 經 |
九月、丁卯の日、晉の荀吳が軍を率いて棘津から渡河し、祭史に命じて先に雒水で生贄を用いさせた。陸渾人はこれを知らず、軍はその後を進んだ。庚午の日、ついに陸渾を滅ぼし、その楚への二心を責めた。陸渾子は楚に逃れ、その民衆は甘鹿に奔った。周は多くの捕虜を得た。宣子が文公(晉の文公)が荀吳を連れて陸渾を授ける夢を見たので、穆子(荀吳)に軍を率いさせ、文宮(文公の廟)で捕虜を献上させた。 冬、大辰(火星)の方向に彗星が現れ、西へ天の川にまで及んだ。申須が言った。「彗星は旧を除き新を布くものだ。天の事は常に象(兆し)を示す。今、火(火星)を除くので、火が出れば必ず布くだろう。諸侯に火災があるのではないか」。梓慎が言った。「往年、私もこれを見た。これがその兆しだ。火が出ると現れ、今年は火が出て明らかになった。必ず火が沈む時に隠れるだろう。それは火の分野に長く留まっている。それゆえ、そうならないはずがない。火が出るのは、夏の暦では三月、商の暦では四月、周の暦では五月である。夏の暦は天象に合う。もし火事が起これば、四カ国がそれに当たるだろう。宋・衛・陳・鄭あたりか。宋は大辰の故地、陳は大皞の故地、鄭は祝融の故地で、いずれも火の分野だ。彗星が天の川に及べば、漢(天の川)は水の兆しである。衛は顓頊の故地で、帝丘と呼ばれる。その星は大水である。水と火は牡牝の関係だ。丙子か壬午の日に起きるだろう。水と火は合うものだから。もし火が沈んで隠れれば、必ず壬午の日だろう。その現れた月を超えることはない」。鄭の裨灶が子産に言った。「宋・衛・陳・鄭は同日に火事になるでしょう。もし私が瓘斝と玉瓚を用いれば、鄭は必ず火事になりません」。子産は与えなかった。 吳が楚を討った。陽匄が令尹となり、戦いの占いをすると吉ではなかった。司馬の子魚が言った。「我々は上流を得ている。なぜ吉ではないのか。そもそも楚の慣例では、司馬が亀卜を命じる。私が改めて占わせてほしい」。命じて言った。「魴(子魚)は、配下とともに死ぬ。楚軍はその後を継ぎ、大いに敵を打ち破る」。吉となった。長岸で戦い、子魚が先に死に、楚軍がその後を継いで、吳軍を大敗させた。吳の乗舟・餘皇を奪い、随人と後から来た者に守らせ、周囲に堀を掘って泉まで達し、隧道に炭を満たし、陣を敷いて命令を待った。吳の公子光は配下に請うて言った。「先王の乗舟を失ったのは、光の罪だけではない。諸君にも責任がある。どうかそれを奪還し、死を免れたい」。配下は許した。長鬣(髭の濃い者)三人を舟の傍らに潜ませ、「私が『皇』と呼んだら応えよ」と言った。軍は夜に行動し、三度呼ぶと皆が順に応えた。楚人はこれに従って殺そうとした。楚軍は混乱し、吳軍はこれを大破し、餘皇を奪って帰った。 昭公十八年 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公十八年に当たり、紀元前524年ごろの出来事を記録しています。内容は三つの主要な部分に分かれます。
全体として、天文・夢占いなどの神秘的な要素と、現実の戦争や外交が交錯する春秋時代の歴史観が特徴的です。特に、自然現象を社会の変動と結びつける思想や、各国の興亡を個人の決断と結びつける叙述手法に、左伝の文学的・史学的価値が表れています。 Translation took 1897.6 seconds. |
| 十有八年春.王三月.曹伯須卒. 夏.五月.壬午.宋.衛.陳.鄭.災. 六月.邾人入鄅. 秋.葬曹平公. 冬.許遷于白羽. 傳 十八年春.王二月.乙卯.周毛得殺毛伯過而代之.萇弘曰.毛得必亡.是昆吾稔之日也.侈故之以.而毛得以濟侈於王都.不亡何待. 三月.曹平公卒. 夏.五月.火始昏見.丙子.風.梓慎曰.是謂融風.火之始也.七日其火作乎.戊寅.風甚.壬午.大甚.宋衛.陳.鄭.皆火.梓慎登大庭氏之庫以望之.曰.宋.衛.陳.鄭.也.數日皆來告火.裨灶曰.不用吾言.鄭又將火.鄭人請用之.子產不可.子大叔曰.寶以保民也.若有火.國幾亡.可以救亡.子何愛焉.子產曰.天道遠.人道邇.非所及也.何以知之.灶焉知天道.是亦多言矣.豈不或信.遂不與.亦不復火.鄭之未災也.里析告子產曰.將有大祥.民震動.國幾亡.吾身泯焉.弗良及也.國遷.其可乎.子產曰.雖可.吾不足以定遷矣.及火.里析死矣.未葬.子產使輿三十人遷其柩.火作.子產辭晉公子公孫于東門.使司寇出新客.禁舊客.勿出於宮.使子寬.子上.巡群屏攝至于大宮.使公孫登徙大龜.使祝史徙主祐於周廟.告於先君.使府人.庫人.各儆其事.商成公.儆司宮.出舊宮人.寘諸火所不及.司馬.司寇.列居火道.行火所焮.城下之人.伍列登城.明日.使野司寇.各保其徵.郊人助祝史除於國北.禳火于玄冥回祿.祈于四鄘.書焚室而寬其征.與之材.三日哭.國不市.使行人告於諸侯.宋衛皆如是.陳不救火.許不弔災.君子是以知陳許之先亡也. |
【翻訳文】 夏、五月の壬午の日に、宋・衛・陳・鄭で災害が発生した。 六月、邾の軍が鄅国に侵入した。 秋、曹の平公が葬られた。 冬、許国が白羽に遷都した。 伝(解説部) 三月、曹の平公が卒去した。 夏、五月に火災の兆候となる星が夕方に見え始めた。丙子の日に風が吹き、梓慎が言った。「これは融風と呼ばれる火災の前兆だ。七日後に実際の火災が起こるだろう」。戊寅の日に風が強まり、壬午の日にさらに激しくなった。宋・衛・陳・鄭の四国で同時に火災が発生した。梓慎は大庭氏の倉庫の上に登って眺め、「宋・衛・陳・鄭で火災が起きている」と言った。数日後、各国から火災の報告が届いた。裨灶が言った。「私の助言を用いなければ、鄭でも再び火災が起きるでしょう」。鄭の人々は裨灶の提案を受け入れようとしたが、子産は同意しなかった。子大叔が諫めて「宝物は民を守るためにある。もし火災があれば国が危ないのに、なぜ惜しむのか」と言うと、子産は「天道は遠く、人道は近い。裨灶がどうして天道を知ろうか。彼は多くを語るから、たまに当たることもあるだけだ」と言って結局採用せず、鄭では再び火災は起きなかった。 鄭で火災が起きる前、里析が子産に「大きな異変が起きて国が危険になるだろうが、私はその時まで生きられない。遷都は可能か」と告げた。子産は「可能だが、私には決定する力がない」と答えた。火災発生時、里析は既に死去しており、子産は三十人を遣わして棺を安全な場所に移させた。 火災が起きると、子産は晋の公子と公孫を東門で見送り、司寇に新来の賓客を城外に出させ、旧来の賓客は宮中に留めさせた。子寬と子上に命じて祭祀の場から大宮まで警戒させ、公孫登に占いの大龜を移させ、祝史に祖廟の神主を周廟に遷させて先祖に報告した。各役人に所管の業務を厳重にさせ、商成公に宮中の警備を命じて古い宮人を避難させた。司馬と司寇は火の通り道に配置し、城下の民は隊列を組んで城壁に登った。翌日、野司寇に税務記録の保護を命じ、郊外の民が祝史を助けて都城の北で除災儀礼を行い、火神の玄冥と回祿を鎮め、四方の城壁で祈願した。焼失家屋の税を免除し建築資材を支給し、三日間喪に服し市場を閉鎖した。使者を諸国に派遣して報告し、宋と衛も同様の対応をした。陳は消火活動せず、許は見舞いもせず、このことから君子は陳と許が早く滅ぶと悟ったのである。 【解説】
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| 六月.鄅人鄅藉.稻邾人襲.鄅人將閉門.邾人羊羅.攝其首焉.遂入之.盡俘以歸.鄅子曰.余無歸矣.從帑於邾.邾莊公反鄅夫人.而舍其女. 秋.葬曹平公.往者見周原伯魯焉.與之語.不說學.歸以語閔子馬.閔子馬曰.周其亂乎.夫必多有是說.而後及其大人.大人患失而惑.又曰.可以無學.無學不害.不害而不學.則苟而可.於是乎下陵上替.能無亂乎.夫學.殖也.不學將落.原氏其亡乎. 七月.鄭子產為火故.大為社.祓禳於四方.振除火災.禮也.乃簡.兵大蒐.將為蒐除.子大叔之廟.在道南.其寢在道北.其庭小.過期三日.使除徒陳於道南廟北曰.子產過女.而命速除.乃毀於而鄉.子產朝.過而怒之.除者南毀.子產及衝.使從者止之.曰.毀於北方.火之作也.子產授兵登陴.子大叔曰.晉無乃討乎.子產曰.吾聞之.小國忘守則危.況有災乎.國之不可小.有備故也.既晉之邊吏讓鄭曰.鄭國有災.晉君大夫不敢寧居.卜筮走望.不愛牲玉.鄭之有災.寡君之憂也.今執事撊然授兵登陴.將以誰罪.邊人恐懼.不敢不告.子產對曰.若吾子之言.敝邑之災.君之憂也.敝邑失政.天降之災.又懼讒慝之間謀之.以啟貪人.荐為敝邑不利.以重君之憂.幸而不亡.猶可說也.不幸而亡.君雖憂之.亦無及也.鄭有他竟.望走在晉.既事晉矣.其敢有二心.楚左尹王子勝言於楚子曰.許於鄭.仇敵也.而居楚地.以不禮於鄭.晉鄭方睦.鄭若伐許.而晉助之.楚喪地矣.君盍遷許.許不專於楚.鄭方有令政.許曰.余舊國也.鄭曰.余俘邑也.葉在楚國.方城外之蔽也.土不可易.國不可小.許不可俘.讎不可啟.君其圖之.楚子說. |
六月、鄅の人が鄅の藉田で稲を刈っていると、邾の人が襲撃した。鄅の人が門を閉めようとしたが、邾の人の羊羅がその首を押さえ、遂に中に入り、全てを捕虜として連れ帰った。鄅の子は言った。「私は帰る場所がない」。そして家族を連れて邾に従った。邾の莊公は鄅の夫人を返したが、その娘は留め置いた。 秋、曹の平公を葬った。遣わされた者が周の原伯魯に会い、話をしたが、彼は学問を好まなかった。帰って閔子馬にその話をすると、閔子馬は言った。「周は乱れるだろう。必ず多くの者がこうした説を唱え、その後為政者に及ぶ。為政者は失うことを恐れて惑い、『学ばなくてもよい、学ばなくても害はない』と言う。害がなく学ばないなら、かりそめにでも良しとする。こうして下が上を蔑ろにし、上は衰え、乱れないわけがあるだろうか。学問は成長するものだ。学ばなければ衰える。原氏は滅びるだろう」。 七月、鄭の子産は火事のため、社を大いに築き、四方で祓い清め、火災を除く儀式を行った。これは礼に適っていた。そして兵を選び、大規模な軍事演習を行い、演習場の整備のため準備した。子大叔の廟は道の南にあり、その寝所は道の北にあり、庭が狭かった。期限を三日過ぎて、整備の役人を道の南、廟の北に配置し、「子産がお前たちの所を通り、速やかに整備せよと命じる。お前たちの方向を壊せ」と言った。子産が朝に通りかかり、これに怒った。整備する者が南を壊そうとしたので、子産が十字路に着き、従者に止めさせ、「北を壊せ」と言った。火事が起きた時、子産は武器を配り城壁に登らせた。子大叔が言った。「晋が討伐して来るのではないか」。子産は言った。「私は聞いている、小国が守備を忘れれば危険だ、まして災害がある時は。国を軽んじられないのは、備えがあるからだ」。既に晋の国境の役人が鄭を非難して言った。「鄭国に災害があり、晋の君や大夫は安んじておられず、占いや祭祀を行い、犠牲や宝玉を惜しまない。鄭の災害は我が君の憂いである。今、あなたがたが猛然と武器を配り城壁に登るのは、誰を罪とするつもりか。国境の者は恐れ、告げざるを得ない」。子産は答えて言った。「お言葉の通り、我が国の災害は君の憂いである。我が国が政治を誤り、天が災害を降した。さらに悪意ある者たちが機会を伺い、貪欲な者を煽って、繰り返し我が国に不利となり、君の憂いを深めるのを恐れる。幸いに滅亡しなければ、まだ説明できる。不幸に滅亡すれば、君が憂いても及ばない。鄭には他国との境があり、頼りは晋にある。既に晋に仕えているのに、敢えて二心があろうか」。楚の左尹王子勝が楚子に言った。「許は鄭にとって仇敵であるが、楚の地に居り、鄭に礼を尽くさない。晋と鄭は仲が良い。鄭が許を攻め、晋が助ければ、楚は領土を失う。君は何故許を移さないか。許は楚に専属せず、鄭は今良い政治をしている。許は『我は古い国だ』と言い、鄭は『我は奪った邑だ』と言う。葉は楚国にあり、方城外の守りである。土地は軽んじられず、国は小さく見られず、許を捕虜にできず、仇を招いてはならない。君はよくお考えください」。楚子は喜んだ。 解説この一節は『春秋左氏伝』における3つのエピソードから成ります。 Translation took 4709.9 seconds. |
| 冬.楚子使王子勝遷許於析.實白羽. 昭公十九年 經 十有九年春.宋公伐邾. 夏.五月.戊辰.許世子止弒其君買.己卯.地震. 秋‧齊高發帥師伐莒. 冬.葬許悼公 傳 十九年.春.楚工尹赤遷陰于下陰.令尹子瑕城郟.叔孫昭子曰.楚不在諸侯矣.其僅自完也.以持其世而已.楚子之在蔡也.具陽封人之女奔之.生大子建.及即位.使伍奢為之師.費無極為少師.無寵焉.欲譖諸王.曰.建可室矣.王為之聘於秦.無極與逆.勸王取之.正月.楚夫人嬴氏至自秦.鄅夫人.宋向戌之女也.故向寧請師. 二月.宋公伐邾圍蟲.三月取之.乃盡歸鄅俘. 夏.許悼公瘧. 五月.戊辰.飲大子止之藥.卒.大子奔晉.書曰.弒其君.君子曰.盡心力以事君.舍藥物可也.邾人.郳人.徐人.會宋公.乙亥.同盟于蟲.楚子為舟師以伐濮.費無極言於楚子曰.晉之伯也.邇於諸夏.而楚辟陋.故弗能與爭.若大城城父.而寘大子焉.以通北方.王收南方.是得天下也.王說.從之.故太子建居于城父.令尹子瑕聘于秦.拜夫人也. 秋.齊高發帥師伐莒.莒子奔紀鄣.使孫書伐之.初.莒有婦人.莒子殺其夫.己為嫠婦.及老.託於紀鄣.紡焉以度而去之.及師至.則投諸外.或獻諸子占.子占使師夜縋而登.登者六十人.縋絕.師鼓譟.城上之人亦譟.莒共公懼.啟西門而出.七月.丙子.齊師入紀.是歲也.鄭駟偃卒.子游娶於晉大夫.生絲弱.其父兄立子瑕.子產憎其為人也.且以為不順.弗許.亦弗止.駟氏聳.他日.絲以告其舅.冬.晉人使以幣如鄭.問駟乞之立故.駟氏懼.駟乞欲逃.子產弗遣.請龜以卜.亦弗予.大夫謀對.子產不待而對客曰.鄭國不天.寡君之二三臣.札瘥夭昏.今又喪我先大夫偃.其子幼弱.其一二父兄.懼隊宗主.私族於謀.如立長親.寡君與其二三老曰.抑天實剝亂.是吾何知焉.諺曰.無過亂門.民有亂兵.猶憚過之.而況敢知天之所亂.今大夫將問其故.抑寡君實不敢知.其誰實知之.平丘之會.君尋舊盟曰.無或失職.若寡君之二三臣.其即世者.晉大夫而專制其位.是晉之縣鄙也.何國之為.辭客幣而報其使.晉人舍之.楚人城州來.沈尹戌曰.楚人必敗.昔吳滅州來.子旗請伐之.王曰.吾未撫吾民.今亦如之.而城州來.以挑吳.能無敗乎.侍者曰.王施舍不倦.息民五年.可謂撫之矣.戌曰.吾聞撫民者.節用於内.而樹德於外.民樂其性.而無寇讎.今宮室無量.民人日駭.勞罷死轉.忘寢與食.非撫之也.鄭大水.龍鬥于時門之外洧淵.國人請為禜焉.子產弗許.曰.我鬥.龍不我覿也.龍鬥.我獨何覿焉.禳之則彼其室也.吾無求於龍.龍亦無求於我.乃止也.令尹子瑕言蹶由於楚子曰.彼何罪.諺所謂室於怒.市於色者.楚之謂矣.舍前之忿.可也.乃歸蹶由. 昭公二十年 經 |
冬、楚の王は王子勝を使いにして、許を析に移した。実は白羽である。 昭公十九年 十九年春、宋の公が邾を討った。 夏、五月、戊辰の日、許の太子止がその君買を弑した。己卯の日、地震があった。 秋、斉の高発が軍を率いて莒を討った。 冬、許の悼公を葬った。 伝 十九年春、楚の工尹赤が陰を下陰に移した。令尹子瑕が郟に城を築いた。叔孫昭子が言った。「楚はもはや諸侯を相手にしていない。ただ自国を守り抜くだけで、その世を維持しているに過ぎない。」 楚の王が蔡にいたとき、具陽の封人の娘が彼のもとに走り、太子建を生んだ。即位すると、伍奢をその師とし、費無極を少師とした。無極は寵愛されなかったので、王に讒言しようと考え、「建は婚期です」と言った。王は彼のために秦に求婚させ、無極は迎えに行き、王に自分が娶るよう勧めた。正月、楚の夫人嬴氏が秦から到着した。 鄅の夫人は宋の向戌の娘であるので、向寧が軍を請うた。 二月、宋の公が邾を討ち、虫を包囲した。三月、それを奪い、鄅の捕虜を全て帰した。 夏、許の悼公が瘧(おこり)を患った。 五月戊辰の日、太子止の薬を飲んで死去した。太子は晋に逃れた。記録には「その君を弑す」と書かれている。君子が言った。「心を尽くして君に仕えるなら、薬物を差し控えることもできたはずだ。」 邾人・郳人・徐人が宋の公と会い、乙亥の日、虫で同盟した。 楚の王が水軍を率いて濮を討った。費無極が楚の王に言った。「晋が覇者となったのは、諸夏に近いからです。楚は辺鄙で陋しいため、争えませんでした。もし城父を大規模に築城し、太子を置いて北方と通じ、王が南方を収めれば、天下を得られます。」王は喜び、これに従った。そこで太子建は城父に住んだ。 令尹子瑕が秦に聘問し、夫人を謝した。 秋、斉の高発が軍を率いて莒を討った。莒の子は紀鄣に逃れた。孫書を派遣して攻撃させた。初め、莒に一人の婦人がおり、莒の子がその夫を殺したため、未亡人となった。老いてから紀鄣に身を寄せ、糸を紡いで長さを測り、それを残していた。軍が到着すると、城外に投げ出した。ある者が子占に献上した。子占は軍に命じて夜中に縄梯子で登らせた。登ったのは六十人で、縄が切れた。軍が鬨の声を上げると、城上の者も叫んだ。莒共公は恐れ、西門を開けて逃げ出した。七月丙子の日、斉軍が紀に入った。 この年、鄭の駟偃が死去した。子游は晋の大夫の娘を娶り、絲を生んだが幼かった。父兄たちは子瑕を立てた。子産はその人柄を嫌い、また順序が乱れていると考え、認めず、止めもしなかった。駟氏は恐れた。他日、絲が舅に告げた。冬、晋人が使者を鄭に送り、駟乞が立てられた理由を問うた。駟氏は恐れ、駟乞は逃げようとしたが、子産は追い遣らせず、亀を請うて占わせようとしたが、与えもしなかった。大夫たちが返答を協議したが、子産は待たずに客に答えた。「鄭国は天の恵みなく、我が君の二人三脚の臣が相次いで死去し、今また先大夫の偃を失いました。その子は幼く、一族が謀り、年長の親族を立てました。我が君と重臣たちは、天が乱を招いたのであれば、我々に何がわかるでしょう。諺に『乱れる門を通るな』とあります。民でも乱れた兵を恐れるのに、天の乱れをどうして知れましょう。今、大夫がその理由を問われますが、我が君は実のところ知りません。誰が知っているというのでしょう。平丘の会で、君は旧盟を温め『職を失うな』と言われました。もし我が君の臣で死去した者の後継を晋の大夫が専断するなら、それは晋の県鄙と同じです。何をもって国と言えましょう。」と。客の礼品を辞退して使者に返答し、晋人はこれを受け入れた。 楚人が州来に城を築いた。沈尹戌が言った。「楚人は必ず敗れる。昔、呉が州来を滅ぼした時、子旗は討伐を請うたが、王は『我が民をまだ慰撫していない』と言った。今も同じであるのに、州来に城を築いて呉を挑発すれば、敗れずにいられようか。」側近が言った。「王は施しを倦まず、民を五年も休ませた。慰撫したと言えよう。」戌は言った。「民を慰撫するとは、内で費用を節約し、外で徳を積むことだ。民がその生を楽しみ、敵がいなくなることである。今、宮室は際限なく、民は日々脅え、疲労死や流浪が続き、寝食も忘れる状態だ。慰撫ではない。」 鄭で大水があり、龍が時門の外の洧淵で争った。国人が禜(祈願)を行うよう請うたが、子産は許さず、「我々が争う時、龍は我々を見ない。龍が争うのを、我々だけなぜ見ねばならないのか。禊いでもそれは彼らの住処だ。我々は龍に求めず、龍も我々に求めない。」と言って止めさせた。 令尹子瑕が蹶由について楚の王に言った。「彼に何の罪があるでしょう。諺に『家で怒り、市場で顔色に出す』というのが、楚のことを言うのでしょう。以前の憤りは捨てるべきです。」そこで蹶由を帰した。 昭公二十年 (続くが、経文のみのため翻訳はここで一旦終了) 解説この一節は『春秋左氏伝』の昭公十九年から二十年にかけての記録です。主な内容は以下の通りです:
全体として、春秋時代の複雑な国際関係と、為政者の苦悩や策略が生き生きと描かれた章段です。史実の記録に加え、「君子曰」などの批評や諺の引用により、道徳的教訓も織り交ぜられている点が特徴です。 Translation took 27427.1 seconds. |
| 二十年. 春.王正月. 夏.曹公孫會自鄸出奔宋. 秋.盜殺衛侯之兄縶. 冬.十月.宋華亥向寧.華定.出奔陳. 十有一月.辛卯.蔡侯盧卒. 傳 二十年.春.王二月.己丑.日南至.梓慎望氛.曰.今茲宋有亂.國幾亡.三年而後弭.蔡有大喪.叔孫昭子曰.然則戴桓也.汏侈無禮.已甚.亂所在也. 費無極言於楚子曰.建與伍奢.將以方城之外叛.自以為猶宋鄭也.齊晉又交輔之.將以害楚.其事集矣。王信之.問伍奢.伍奢對曰.君一過多矣.何信於讒.王執伍奢.使城父司馬奮揚殺大子.未至而使遣之.三月.大子建奔宋.王召奮揚.奮揚使城父人執己以至.王曰.言出於余口.入於爾耳.誰告建也.對曰.臣告之.君王命臣曰.事建如事余.臣不佞.不能苟貳.奉初以還.不忍後命.故遣之.既而悔之.亦無及.巳.王曰.而敢來.何也?對曰.使而失命.召而不來.是再奸也.逃無所入!王曰.歸.從政如他日.無極曰奢之子材.若在吳必憂楚國.盍以免其父召之.彼仁必來.不然將為患.王使召之.曰.來.吾免而父.棠君尚謂其弟員曰.爾適吳.我將歸死.吾知不逮.我能死.爾能報。聞免父之命,不可以莫之奔也!親戚為戮,不可以莫之報也!奔死免父.孝也.度功而行.仁也.擇任而往.知也.知死不辟.勇也.父不可棄.名不可廢.爾其勉之.相從為愈.伍尚歸.奢聞員不來.曰.楚君大夫其旰食乎.楚人皆殺之.員如吳.言伐楚之利於州于.公子光曰.是宗為戮.而欲反其讎.不可從也.員曰.彼將有他志.余姑為之求士.而鄙以待之.乃見鱄設諸焉.而耕於鄙. |
二十年の春、周の王の正月。 伝 費無極が楚王に進言した。「太子の建と伍奢が方城の外で反乱を起こそうとしています。自分たちを宋や鄭のような国と同格と思い込み、斉と晋が双方から支援すれば、楚に害をなすでしょう。計画は既に整っています」。王はこれを信じ、伍奢に問いただした。伍奢は答えた。「君主よ、あなたは既に過ちを犯しています。どうして讒言を信じるのですか」。王は伍奢を拘束し、城父の司馬である奮揚に太子を殺すよう命じた。奮揚がまだ到着しないうちに、王は使者を送って太子を逃がさせた。三月、太子建は宋に逃亡した。王が奮揚を呼び出すと、奮揚は城父の役人に自分を縛らせて王の下へ赴いた。王が言った。「言葉は私の口から出て、お前の耳に入っただけだ。誰が建に告げたのか」。奮揚は答えた。「私が告げました。君主が私に『建に仕えることを私に仕えるようにせよ』と命じられました。私は不才ながら、軽率に二心を抱けず、最初の命令を守りました。後の命令には忍びなく、彼を逃がしました。後に後悔しましたが、もう遅かったのです」。王が「お前はどうして敢えて来たのか」と問うと、奮揚は「命令を果たせず、召喚に応じなければ、二重の背信です。逃げ場はありません」と答えた。王は「戻って、これまで通り政務に従え」と言った。 費無極が言った。「伍奢の息子たちは有能です。もし呉にいれば、楚の憂いとなるでしょう。父を赦すと召し寄せてはどうですか。彼らは仁者だから必ず来ます。さもなければ禍となるでしょう」。王は使者を送って召し出した。「来い、お前たちの父を赦してやる」。棠君の尚が弟の員に言った。「お前は呉へ行け。私は死を受けに行く。私の知恵は及ばないが、死ぬことはできる。お前は復讐できる。父を赦す命令を聞けば、駆けつけねばならない。親族が殺されれば、復讐せねばならない。死に赴いて父を救うのは孝、功績を量って行動するのは仁、任務を選んで赴くのは知、死を知りながら避けないのは勇だ。父を見捨てず、名誉を棄てぬよう、努めよ。私について来るよりはましだ」。伍尚が帰ると、伍奢は員が来ないと聞いて言った。「楚の君や大夫たちは、きっと食事も遅れるだろうな」。楚の人間は皆、伍奢と尚を殺した。員は呉へ行き、州于(呉王僚)に楚を討つ利点を説いた。公子光(後の呉王闔閭)が言った。「この男は一族を殺され、仇を討とうとしている。従うべきではない」。員は言った。「彼(公子光)には別の野心がある。私は暫く彼のために人材を探し、辺境で待つことにしよう」。そこで鱄設諸(専諸)を推挙し、自身は辺境で農耕に従事した。 解説この一節は『春秋左氏伝』における魯の昭公二十年の記録です。経文では、各国の政治的事件(逃亡・殺害・死亡)が簡潔に記され、伝ではその背景となる詳細な物語が展開されます。特に、楚の権力闘争が焦点で、費無極の讒言により伍奢一族が悲劇に巻き込まれる様子が描かれています。天文観測による予言(梓慎の言葉)や、忠誠と復讐のテーマ(伍尚と伍員の決別)を通し、春秋時代の複雑な国際関係と個人の倫理観が浮き彫りにされています。伍員(後の伍子胥)の呉への逃亡は、後の楚呉抗争の伏線となる重要な場面です。 Translation took 2192.4 seconds. |
| 宋元公無信多私而惡.華向.華定.華亥.與向寧謀曰.亡愈於死.先諸華亥.偽有疾以誘群公子.公子問之.則執之.夏.六月.丙申.殺公子寅.公子御戎.公子朱.公子固.公孫援.公孫丁.拘向勝.向行.於其廩.公如華氏請焉.弗許.遂劫之.癸卯.取大子欒.與母弟辰、公子地.以為質.公亦取華亥之子無慼.向寧之子羅.華定之子啟.與華氏盟以為質. 衛公孟縶狎齊豹.奪之司寇與鄄.有役則反之.無則取之.公孟惡北宮喜.褚師圃.欲去之.公子朝通于襄夫人宣姜.懼而欲以作亂.故齊豹.北宮喜.褚師圃.公子朝.作亂.初.齊豹見宗魯於公孟.為驂乘焉.將作亂.而謂之曰.公孟之不善.子所知也.勿與乘.吾將殺之.對曰.吾由子事公孟.子假吾名焉.故不吾遠也.雖其不善.吾亦知之.抑以利故.不能去.是吾過也.今聞難而逃.是僭子也.子行事乎.吾將死之.以周事子.而歸死於公孟.其可也.丙辰.衛侯在平壽.公孟有事於蓋獲之門外.齊子氏帷於門外.而伏甲焉.使祝蛙寘戈於車薪.以當門.使一乘從公孟以出.使華齊御公孟.宗魯驂乘.及閎中.齊氏用戈擊公孟.宗魯以背蔽之.斷肱.以中公孟之肩.殺皆之.公聞亂.乘驅自閱門入.慶比御公.公南楚驂乘.使華寅乘貳車.及公宮.鴻騮魋駟乘于公.公載寶以出.褚師子申.遇公于馬路之衢.遂從.過齊氏.使華寅肉袒執蓋.以當其闕.齊氏射公.中南楚之背.公遂出.寅閉郭門.踰而從公.公如死鳥.析朱鉏宵從竇出.徒行從公.齊侯使公孫青聘于衛.既出.聞衛亂.使請所聘.公曰.猶在竟内.則衛君也.乃將事焉.遂從諸死鳥.請將事.辭曰.亡人不佞.失守社稷.越在草莽.吾子無所辱君命.賓曰.寡君命下臣於朝曰.阿下執事.臣不敢貳.主人曰.君若惠顧先君之好.昭臨敝邑.鎮撫其社稷.則有宗祧在.乃止衛侯.固請見之.不獲命.以其良馬見.為未致使故也.衛侯以為乘馬.賓將掫.主人辭曰.亡人之憂.不可以及.吾子草莽之中.不足以辱從者.敢辭.賓曰.寡君之下臣.君之牧圉也.若不獲扞外役.是不有寡君也.臣懼不免於戾.請以除死.親執鐸.終夕與於燎.齊氏之宰渠子.召北宮子.北官氏之宰.不與聞謀.殺渠子.遂伐齊氏.滅之.丁巳.晦.公入.與北宮喜盟于彭水之上.秋.七月.戊午.朔.遂盟國人.八月.辛亥.公子朝.褚師圃.子玉霄.子高魴.出奔晉.閏月.戊辰.殺宣姜.衛侯賜北宮喜謚曰貞子.賜析朱鉏謚曰成子.而以齊氏之墓予之.衛侯告寧于齊.且言子石.齊侯將飲酒.遍賜大夫曰.二三子之教也.苑何忌辭曰.與於青之賞.必及于其罰.在康誥曰.父子兄弟.罪不相及.況在群臣.臣敢貪君賜.以干先王.琴張聞宗魯死.將往弔之.仲尼曰.齊豹之盜.而孟縶之賊.女何弔焉.君子不食姦.不受亂.不為利疚於回.不以回待人.不蓋不義.不犯非禮. |
宋の元公は信義がなく私利私欲に走り、華向・華定・華亥・向寧を憎んでいた。華亥らは謀り、「死ぬより逃亡する方がましだ。まず華亥が病気を装って公子たちをおびき寄せ、見舞いに来た者を捕らえよう」と策を練った。夏六月丙申の日、公子寅・公子御戎・公子朱・公子固・公孫援・公孫丁を殺害し、向勝・向行を穀倉に監禁した。元公が華氏のもとへ出向いて赦しを請うたが聞き入れられず、逆に脅迫される結果となった。癸卯の日、華氏は太子欒とその同母弟の辰、公子地を人質として奪った。元公もこれに対抗し、華亥の子・無慼、向寧の子・羅、華定の子・啓を人質に取り、華氏と相互人質による盟約を結んだ。 衛の公孟縶は齊豹を軽んじ、その司寇の職と鄄の領地を奪い、軍事行動がある時だけ返還し、平時には没収するという扱いをしていた。公孟は北宮喜と褚師圃を憎み、彼らを排除しようと企てた。公子朝は襄夫人の宣姜と密通しており、発覚を恐れて反乱を画策した。こうして齊豹・北宮喜・褚師圃・公子朝が反乱を起こすこととなった。当初、齊豹は宗魯を公孟に推挙し、その護衛役としていた。反乱決行前に宗魯に「公孟の非道さは君も知っている。彼と同行するな。我々が殺害する」と告げると、宗魯は「私が公孟に仕えているのはあなたの口添えによる。あなたが私に名声を与えてくれた故に公孟も私を重用する。その非道さは承知しているが、利禄のために去れなかったのが過ちだった。今になって危難を聞いて逃げるのはあなたへの背信だ。どうか実行してほしい。私は死をもってあなたへの忠義を全うし、公孟の下で最期を遂げよう」と答えた。丙辰の日、衛侯が平寿に滞在中、公孟が蓋獲の門外で祭祀を行う際、齊氏は門外に幔幕を張り伏兵を配置した。祝蛙に車の薪の中に戈を隠させて門を塞がせ、一台の車を公孟の随行とさせ、華齊が御者、宗魯が護衛として同行した。閎中に差し掛かった時、齊氏が戈で公孟を襲うと、宗魯は背中で遮り、腕を斬り落とされつつも公孟の肩を守って両者とも殺害された。 衛侯が乱の報せを受けると、車を駆って閲門から宮殿に入った。慶比が御者、公南楚が護衛を務め、華寅を副車に乗せ、宮殿に到着すると鴻騮魋が四番目の乗員として加わった。衛侯は宝物を積んで脱出し、途中で褚師子申と馬路の交差点で合流した。齊氏の屋敷前を通る際、華寅に裸身で盾を持たせて隙間を防がせたところ、齊氏の放った矢が公南楚の背中に命中した。衛侯は城外へ脱出し、華寅が城門を閉めた後、自らも壁を越えて従った。衛侯が死鳥に滞在すると、析朱鉏が夜陰に乗じて排水口から脱出し、徒歩で合流した。 齊侯が公孫青を衛への使者として派遣したが、出国後に衛の内乱を知り、聘問の実施可否を問わせた。衛侯は「国境内にいる限り衛の君主である」とし、儀式の執行を指示した。公孫青が死鳥まで赴いて儀式を申し出ると、衛侯は「亡命者の身で社稷を守れず草莽に潜む私が、君主の使命を辱めるわけにはいかない」と辞退した。これに対し公孫青は「我が君が『衛の執事に従え』と命じられた以上、二心は抱けません」と主張し、衛側が「先君の友好を顧みて社稷を鎮められるなら宗廟がございます」と述べるなど紆余曲折の末、衛侯は良馬を贈って面会に代えた。公孫青が夜警を申し出ると、衛侯は「亡命者の憂いを及ぼすわけにはいかない」と断ったが、公孫青は「臣は君主の家来同然です」と言って自ら鈴を持ち、終夜かがり火の番をした。 齊氏の家老・渠子が北宮喜を誘おうとしたが、北宮氏の家老は謀議に関与しておらず、渠子を殺害して逆に齊氏を攻め滅ぼした。丁巳日(月末)、衛侯が帰還し北宮喜と彭水で盟約を結び、秋七月戊午日(月初)には国民と盟った。八月辛亥日、公子朝・褚師圃・子玉霄・子高魴が晉へ亡命し、閏月戊辰日には宣姜を処刑した。衛侯は北宮喜に「貞子」、析朱鉏に「成子」の諡号を贈り、齊氏の墓地を与えた。衛侯が齊に平定を報告し公孫青の功績を称えると、齊侯は酒宴で「諸卿の教えの賜物だ」と臣下を褒賞しようとした。しかし苑何忌が「功績があれば罰も連座すべきという道理ですが、康誥に『父子兄弟でも罪は連座しない』とあります。ましてや臣下同士で賞を貪れば先王の教えに背きます」と辞退した。 琴張が宗魯の死を弔問しようとした時、仲尼(孔子)は「齊豹は犯罪者、孟縶は被害者だ。なぜ弔うのか。君子は不正な利益に与せず、混乱に関わらず、利益のために邪道に走らず、邪心で人に接せず、不義を庇わず、非礼を犯さないものだ」と戒めた。 解説この文章は『春秋左氏伝』に記された二つの権力闘争を描いています。前半は宋国で、華氏一族が元公の専横に対し、公子たちを殺害し人質を取ることで対抗した事件です。後半は衛国で、公孟縶の横暴が引き金となった齊豹らの反乱と、その鎮圧過程を詳細に記しています。特に注目すべきは、宗魯の「義理と利益の狭間での苦悩」、公孫青の「使命に対する忠誠」といった個人の倫理観が丹念に描写されている点です。最後に孔子が述べる「君子の在り方」は、これらの事件を倫理的に評価する視点を与え、歴史記録としての深みを添えています。当時の複雑な政治情勢と人間関係が、緊密な因果関係で結ばれて展開される様は、春秋時代の権力構造を理解する上で貴重な記録となっています。 Translation took 8555.7 seconds. |
| 宋華向之亂.公子城.公孫忌.樂舍.司馬疆.向宜.向鄭.楚建.郳甲.出奔鄭.其徒與華氏戰于鬼閻.敗子城.子城適晉.華亥與其妻.必盥而食所質公子者.而後食.公與夫人.每日.必適華氏.食公子而後歸.華亥患之.欲歸公子.向寧曰.唯不信.故質其子.若又歸之.死無日矣.公請於華費.遂將攻華氏.對曰.臣不敢愛死.無乃求去憂而滋長乎.臣是以懼.敢不聽命.公曰.子死亡有命.余不忍其詢.冬.十月.公殺華向之質而攻之.戊辰.華向奔陳.華登奔吳.向寧欲殺大子.華亥曰.干君而出.又殺其子.其誰納我.且歸之有庸.使少司寇牼以歸.曰.子之齒長矣.不能事人.以三公子為質.必免.公子既入.華牼將自門行.公遽見之.執其手曰.余知而無罪也.入復而所. 齊侯疥.遂痁.期而不瘳.諸侯之賓問疾者多在.梁丘據與裔款言於公曰.吾事鬼神豐.於先君有加矣.今君疾病.為諸侯憂.是祝史之罪也.諸侯不知.其謂我不敬.君盍誅於祝固史嚚.以辭賓.公說.告晏子.晏子曰.日宋之盟.屈建問范會之德於趙武.趙武曰.夫子之家事治.言於晉國.竭情無私.其祝史祭祀.陳信不愧.其家事無猜.其祝史不祈.建以語康王.康王曰.神人無怨.宜夫子之光輔五君.以為諸侯主也.公曰.據與款謂寡人能事鬼神.故欲誅于祝史.子稱是語.何故.對曰.若有德之君.外内不廢.上下無怨.動無違事.其祝史薦信.無愧心矣.是以鬼神用饗.國受其福.祝史與焉.其所以蕃祉老壽者.為信君使也.其言忠信於鬼神.其適遇淫君.外内頗邪.上下怨疾.動作辟違.從欲厭私.高臺深池.撞鍾舞女.斬刈民力.輸掠其聚.以成其違.不恤後人.暴虐淫從.肆行非度.無所還忌.不思謗讟.不憚鬼神.神怒民痛.無悛於心.其祝史薦信.是言罪也.其蓋失數美.是矯誣也.進退無辭.則虛以求媚.是以鬼神不饗其國以禍之.祝史與焉.所以夭昏孤疾者.為暴君使也.其言僭嫚於鬼神.公曰.然則若之何.對曰.不可為也.山林之木.衡鹿守之.澤之萑蒲.舟鮫守之.藪之薪蒸.虞候守之.海之鹽蜃.祈望守之.縣鄙之人.入從其政.偪介之關.暴征其私.承嗣大夫.強易其賄.布常無藝.徵斂無度.宮室日更.淫樂不違.内寵之妾.肆奪於市.外寵之臣.僭令於鄙.私欲養求.不給則應.民人苦病.夫婦皆詛.祝有益也.詛亦有損.聊攝以東.姑尤以西.其為人也.多矣.雖其善祝.豈能勝億兆人之詛.君若欲誅於祝史.脩德而後可.公說.使有司寬政.毀關.去禁.薄斂.已責. |
宋の華氏と向氏の乱において、公子城、公孫忌、樂舍、司馬疆、向宜、向鄭、楚建、郳甲は鄭国に逃亡した。彼らの一派は華氏と鬼閻で戦い、子城を破った。子城は晋国へ去った。華亥とその妻は、人質として預かっている公子に必ず手を洗って食事を与えてから、自分たちが食事をとった。公と夫人は毎日、必ず華氏の屋敷を訪れ、公子に食事を与えてから帰宅した。華亥はこの状況を憂慮し、公子を返還しようと考えた。向寧が言うには、「信用がないからこそ、子を人質に取ったのです。もしまた返せば、我々の死は目前です」。公は華費に援助を求め、華氏を攻撃しようとした。華費は答えて、「臣は死を惜しむわけではありませんが、憂いを除こうとして却ってそれを大きくするのではないでしょうか。それ故に恐れております。敢えて命令に従わないわけにはまいりません」。公は言った、「子の生死は天命による。私はその恥辱に耐えられない」。冬十月、公は華氏と向氏の人質を殺害し、攻撃を開始した。戊辰の日、華氏と向氏は陳国に逃亡し、華登は吳国へ逃れた。向寧が太子を殺害しようとしたが、華亥は言った、「君に背いて逃亡した上に、その子を殺せば、誰が我々を受け入れるだろうか。返還すれば功績になる」。少司寇の牼を使者として送り、「あなたは年齢が高く、他人に仕えることはできない。三公子を人質とすれば、必ず罪を免れるだろう」と伝えさせた。公子が宮中に入ると、華牼は門から退出しようとした。公は急いで彼に会い、手を握って言った、「私はあなたが無罪であることを知っている。元の職務に復帰しなさい」。 齊侯が疥(かいそう)を患い、さらに痁(しゃくねつ)に移行し、一年経っても治癒しなかった。諸侯の賓客で見舞いに来る者が多数滞在していた。梁丘據と裔款が公に進言した、「我々は鬼神を祀る際、先君の時代より豊かにお供え物を捧げております。現在、君が重病で諸侯の憂いとなっているのは、祝史(祭祀官)の罪です。諸侯が真相を知らなければ、我々が不敬だと言うでしょう。どうか祝固と史嚚を処刑し、賓客を退去させる口実とされては」。公は喜び、晏子にこの件を伝えた。晏子は言った、「かつて宋の盟会の時、屈建が趙武に范會の人物を尋ねました。趙武は答えて、『范會先生は家事をよく治め、晋国においては私心なく真情を尽くします。その祝史は祭祀において誠信を述べて恥じるところがなく、家事に猜疑心がないため、祝史は特別な祈願をしません』と。屈建がこれを康王に伝えると、康王は『神と人に怨みがないため、范會が五人の君主を補佐して諸侯の盟主となったのも当然です』と述べられました」。公が問うた、「據と款は寡人が鬼神を祀る能力があると言い、祝史を処刑しようとする。あなたはなぜ趙武の言葉を引用するのか」。晏子は答えた、「徳のある君主の下では、内外の政事が廃れず、上下に怨みがなく、行動に過ちがありません。その祝史が誠実を述べても恥じる点はなく、鬼神は祭祀を受け入れ、国は福を受ける。祝史もその恩恵にあずかります。繁栄と長寿を得るのは、誠信の君主に仕えるからです。その言葉は鬼神に対して忠実です。もし淫乱な君主に仕える場合、内外が歪み、上下が怨み合い、行動は邪悪で、私欲のままに振る舞います。高台と深池を築き、鐘を鳴らし女を舞わせ、民力を搾取し、財貨を奪って悪事を成し、後世を顧みず、暴虐と放縦をほしいままにします。鬼神を畏れず、神の怒りと民の苦しみがあっても悔い改めません。このような状況で祝史が誠実を述べれば、かえって罪を暴露することになります。過失を隠して美点を誇れば、それは偽りです。言葉に窮すると虚偽で媚びへつらうため、鬼神は祭祀を受け入れず、災いで応える。祝史もその責めを負うことになり、夭折や病苦の原因は暴君に仕えるからです。その言葉は鬼神に対して僭越で侮りに満ちています」。公が尋ねた、「それではどうすべきか」。晏子は答えた、「祝史を罰することはできません。山林の木材は衡鹿が、沢の萑蒲は舟鮫が、藪の薪は虞候が、海の塩や蜃は祈望が管理し、民間の利益を独占しています。地方の民は過酷な政事に苦しみ、関所では私的な徴収が横行し、世襲の大夫は強引に財貨を奪い、法規はでたらめで、徴税は無制限です。宮殿は日々改築され、淫楽が止むことがなく、寵姫は市場で略奪を働き、寵臣は地方で勝手に命令を出します。私的な欲望が渦巻き、要求が満たされないと報復が起こる。民衆は苦しみ、夫婦そろって呪いの言葉を発しています。祝いの祈りに効果があるならば、呪いにも同様の力がある。聊摂以东から姑尤以西までの民衆の数は膨大です。たとえ優れた祝いがあっても、億兆の民の呪いに勝てるでしょうか。君主が祝史を罰そうとされるなら、まず徳を修めることが先決です」。公は納得し、役人に命じて政令を緩和させ、関所を撤廃し、禁令を解除し、税を軽減し、負債を帳消しにさせた。 解説: Translation took 6949.3 seconds. |
| 十二月.齊侯田于沛.招虞人以弓.不進.公使執之.辭曰.昔我先君之田也.旃以招大夫.弓以招士.皮冠以招虞人.臣不見皮冠.故不敢進.乃舍之。仲尼曰.守道不如守官.君子同之. 齊侯至自田.晏子侍于遄臺.子猶馳而造焉.公曰.唯據與我和夫.晏子對曰.據亦同也.焉得為和.公曰.和與同異乎.對曰異.和如羹焉.水火醯醢鹽梅.以烹魚肉.燀之以薪.宰夫和之.齊之以味.濟其不及.以洩其過.君子食之.以平其心.君臣亦然.君所謂可.而有否焉.臣獻其否.以成其可.君所謂否.而有可焉.臣獻其可.以去其否.是以政平而不干民無爭心.故詩曰.亦有和羹.既戒既平.鬷假無言.時靡有爭.先王之濟五味.和五聲也.以平其心.成其政也.聲亦如味.一气.二體.三類.四物.五聲.六律.七音.八風.九謌.以相成也.清濁大小.長短疾徐.哀樂剛柔.遲速高下.出入周疏.以相濟也.君子聽之.以平其心.心平德和.故詩曰.德音不瑕.今據不然.君所謂可.據亦曰可.君所謂否.據亦曰否.若以水濟水.誰能食之.若琴瑟之專壹.誰能聽之.同之不可也如是.飲酒樂.公曰.古而無死.其樂若何.晏子對曰.古而無死.則古之樂也.君何得焉.昔爽鳩氏始居此地.季萴因之.有逢伯陵因之.蒲姑氏因之.而後大公因之.古者無死.爽鳩氏之樂.非君所願也. |
十二月、斉侯が沛で狩りをしました。弓で虞人(狩場の管理人)を招きましたが、彼は進んで来ませんでした。公は彼を捕らえるように命じました。虞人は言いました。「昔、私の先君が狩りをする時は、旃(旗)で大夫を招き、弓で士を招き、皮冠で虞人を招きました。臣は皮冠を見ていないので、進んで来ることを敢えませんでした。」そこで公は彼を放しました。仲尼(孔子)が言いました。「道を守ることは、官職を守ることに及ばない。君子はこれに同意する。」 斉侯が狩りから帰り、晏子が遄臺で侍っていました。子猶(梁丘據)が駆けつけて来ました。公が言いました。「ただ據(梁丘據)だけが私と和しているな。」晏子が答えて言いました。「據は同であって、どうして和と言えましょうか。」公が言いました。「和と同は違うのか。」晏子が答えて言いました。「違います。和は羹(スープ)のようなものです。水、火、醯(酢)、醢(肉醤)、塩、梅で魚や肉を煮て、薪で炊き、料理人が調和させ、味を整え、足りないものを補い、過ぎたものを減らします。君子はそれを食べて心を落ち着かせます。君臣の関係も同じです。君が可と言うことに、否があるならば、臣はその否を献じて、可を成します。君が否と言うことに、可があるならば、臣はその可を献じて、否を取り除きます。こうして政治が平穏になり、民を乱すことがなく、争い心がなくなります。だから詩にこうあります。『また調和の羹あり、既に整えられ既に平らか、黙って祈り、時に争いなし』と。先王が五味を調え、五声を和らげたのは、心を平らかにし、政治を成すためです。声も味と同じです。一気、二体、三類、四物、五声、六律、七音、八風、九歌が互いに成し合い、清濁、大小、長短、速遅、哀楽、剛柔、遅速、高下、出入、密疏が互いに補い合います。君子はそれを聞いて心を平らかにし、心が平らかで徳が和らぐ。だから詩にこうあります。『徳の音に瑕なし』と。今、據はそうではありません。君が可と言えば、據も可と言い、君が否と言えば、據も否と言う。もし水で水を薄めるようなものでは、誰がそれを飲めましょうか。もし琴瑟がただ一音だけなら、誰がそれを聴けましょうか。同が良くないことはこの通りです。」酒を飲んで楽しい中、公が言いました。「昔から死がなければ、その楽しさはどうだろう。」晏子が答えて言いました。「昔から死がなければ、それは昔の楽しみです。君は何を得られましょうか。昔、爽鳩氏が始めてこの地に住み、季萴がそれを受け継ぎ、有逢伯陵がそれを受け継ぎ、蒲姑氏がそれを受け継ぎ、その後、太公(姜太公)がそれを受け継ぎました。昔から死がなければ、爽鳩氏の楽しみであって、君の望むところではありません。」 【解説】 Translation took 4600.3 seconds. |
| 鄭子產有疾.謂子大叔曰.我死.子必為政.唯有德者.能以寬服民.其次莫如猛.夫火烈.民望而畏之.故鮮死焉.水懦弱.民狎而翫之.則多死焉.故寬難.疾數月而卒.大叔為政.不忍猛而寬.鄭國多盜.取人於萑苻之澤.大叔悔之.曰.吾早從夫子.不及此.興徒兵以攻萑苻之盜.盡殺之.盜少止.仲尼曰.善哉.政寬則民慢.慢則糾之以猛.猛則民殘.殘則施之以寬.寬以濟猛.猛以濟寬.政是以和.詩曰.民亦勞之.汔可小康.惠此中國.以綏四方.施之以寬也.毋從詭隨.以謹無良.式遏寇虐.慘不畏明.糾之以猛也.柔遠能邇.以定我王.平之以和也.又曰.不競不絿.不剛不柔.布政優優.百祿是遒.和之至也.及子產卒.仲尼聞之.出涕曰.古之遺愛也. 昭公二十一年 經 二十有一年春.王三月.葬蔡平公. 夏.晉侯使士鞅來聘.宋華亥.向寧.華定.自陳入于宋南里以叛. 秋.七月.壬午.朔.日有食之. 八月.乙亥.叔輒卒. 冬.蔡侯朱出奔楚.公如晉至河乃復. 傳 二十一年春.天王將鑄無射.泠州鳩曰.王其以心疾死乎.夫樂.天子之職也.夫音.樂之輿也.而鐘.音之器也.天子省風以作樂.器以鐘之.輿以行之.小者不窕.大者不槬.則和於物.物和則嘉成.故和聲入於耳.而藏於心.心億則樂.窕則不咸.總則不容.心是以感.感實生疾.今鐘槬矣.王心弗堪.其能久乎. |
鄭の子産が病気になった。子大叔に対して言った。「私が死んだら、あなたが必ず政治を執ることになる。徳のある者だけが、寛大さをもって民を服従させることができる。それに次ぐのは厳しさに及ぶものはない。火は激しく、民はそれを見て畏れるので、そこで死ぬ者は少ない。水は柔弱で、民は慣れて侮るため、そこで死ぬ者が多い。だから寛大さは難しいのである。」病気になって数か月後に子産は亡くなった。大叔が政治を執ると、厳しさに忍びず寛大な政治を行った。鄭国には盗賊が多く現れ、萑苻の沢で人を襲うようになった。大叔はこれを後悔して言った。「私が早く先生の教えに従っていれば、ここまでには至らなかったのに。」そして歩兵を動員して萑苻の盗賊を攻撃し、ことごとく殺した。盗賊は少し収まった。孔子は言った。「素晴らしいことだ。政治が寛大だと民は怠慢になる。怠慢になれば厳しさでこれを正す。厳しすぎると民は傷つく。傷つけば寛大さを施す。寛大さで厳しさを補い、厳しさで寛大さを補う。政治はこうして調和するのである。」詩経にこうある。「民もまた労苦している、ようやく小康を得よう。この中国に恵みを与え、四方を安らげる。」これは寛大さを施すことである。「詭随に従わず、良からぬ者を戒め、寇虐を遏(とど)め、明らかなるをも畏れぬ者を惨(きび)しくする。」これは厳しさで正すことである。「遠きを柔(なだ)め近きを能(よ)くし、我が王を定む。」これは調和をもって平定することである。またこうもいう。「競わず急がず、剛すぎず柔すぎず、政を布くこと優優(ゆうゆう)として、百の禄これ集う。」これは調和の極みである。子産が亡くなると、孔子はこれを聞き、涙を流して言った。「古の遺愛である。」 昭公二十一年 二十一年の春、周王の三月、蔡の平公を葬る。 夏、晋侯が士鞅を使者として魯に訪問させた。宋の華亥・向寧・華定が陳から宋の南里に入り反乱を起こした。 秋、七月壬午の日、朔(ついたち)、日食があった。 八月乙亥の日、叔輒が死去した。 冬、蔡侯朱が楚に逃亡した。公(魯昭公)が晋へ行ったが黄河まで来て引き返した。 伝 二十一年の春、周王が無射の鐘を鋳造しようとした。泠州鳩が言った。「王は心の病で亡くなるのではないか。楽は天子の職務である。音は楽の乗り物であり、鐘は音の器である。天子は風俗を観察して楽を作り、器でこれを調律し、乗り物でこれを広める。小さい音が細すぎず、大きい音が曖昧でなければ、万物と調和する。万物が調和すれば善きことが成就する。故に調和した音声が耳に入り、心に蓄えられる。心が安らかならば楽しみが生じる。音が細すぎれば響き渡らず、大きすぎれば包容できず、心はそれによって動揺する。動揺は実は病を生む。今、鐘の音が曖昧である。王の心が耐えられないならば、どうして長く続けられようか。」 解説この一節は『春秋左氏伝』における二つの重要なエピソードから成り立っています。前半は鄭国の政治家・子産の「寛猛相済」の政治哲学を主題としており、寛大さと厳しさのバランスが治国の要諦であることを説いています。子産の死後、後継者の大叔がその教訓を活かせず混乱を招くも、孔子がこの思想を高く評価する様子が描かれ、儒家的な政治理念の原型が見られます。 後半は昭公21年の歴史記録で、周王の楽器制作に端を発する予言と、各国の出来事を簡潔に記述しています。特に泠州鳩の指摘では、音律と政治の調和が君主の命運に直結するという当時の思想が反映されており、古代中国における「礼楽」制度の重要性が窺えます。 全体として、歴史的事実の記録と深い教訓が交差する左伝の特徴的な構成で、政治の在り方と人間性への洞察が示された名文と言えます。 Translation took 1578.1 seconds. |
| 三月.葬蔡平公.蔡大子朱失位.位在卑.大夫送葬者.歸見昭子.昭子問蔡.故以告.昭子歎曰.蔡其亡乎.若不亡.是君也必不終.詩曰.不解于位.民之攸塈.今蔡侯始即位.而適卑.身將從之. 夏.晉士鞅來聘.叔孫為政.季孫欲惡諸晉.使有司以齊鮑國歸費之禮為士鞅.士鞅怒曰.鮑國之位下.其國小.而使鞅從其牢禮.是卑敝邑也.將復諸寡君.魯人恐.加四牢焉.為十一牢. 宋華費遂生華貙、華多僚、華登,貙為少司馬.多僚為御士.與貙相惡.乃譖諸公曰:貙將納亡人.亟言之.公曰.司馬以吾故.亡其良子.死亡有命.吾不可以再亡之.對曰.君若愛司馬.則如亡.死如可逃.何遠之有.公懼.使侍人召司馬之侍人宜僚.飲之酒.而使告司馬.司馬歎曰.必多僚也.吾有讒子.而弗能殺.吾又不死.抑君有命.可若何.乃與公謀.逐華貙.將使田孟諸而遣之.公飲之酒.厚酬之.賜及從者.司馬亦如之.張匄尤之.曰.必有故.使子皮承宜僚以劍而訊之.宜僚盡以告.張匄欲殺多僚.子皮曰.司馬老矣.登之謂甚.吾又重之.不如亡也.五月.丙申.子皮將見司馬而行.則遇多僚.御司馬而朝.張匄不勝其怒.遂與子皮.臼任.鄭翩.殺多僚.劫司馬以叛.而召亡人.壬寅.華向入.樂大心.豐愆.華牼.禦諸橫.華氏居盧門.以南里叛.六月.庚午.宋城舊鄘及桑林之門.而守之. |
三月、蔡の平公が葬られた。蔡の太子朱は本来の位を失い、低い位置にあった。葬儀に参列した大夫が帰国して昭子に会うと、昭子が蔡の状況を尋ねたので、そのことを報告した。昭子は嘆いて言った。「蔡は滅びるだろう。もし滅びなければ、この君主も必ず最後まで在位できない。詩に『位を怠らず、民の安らぐところ』とある。今、蔡侯が即位したばかりなのに、低い位に就いた。身分もそれに従って下落していくのだ」 夏、晋の士鞅が訪問した。叔孫が政務を執っていたが、季孫は晋に対する印象を悪くしようと考え、役人に命じて、斉の鮑国が費に帰還した時の待遇で士鞅をもてなさせた。士鞅は怒って言った。「鮑国の地位は低く、その国も小国だ。それなのに私を彼と同じ饗応で扱うのは、我が国を軽んじている。寡君に報告するつもりだ」。魯側は恐れ、さらに四牢を追加して、合計十一牢の待遇にした。 宋の華費遂には華貙、華多僚、華登という三人の子がいた。華貙は少司馬となり、華多僚は御士となった。多僚は華貙と不仲で、公に讒言して言った。「華貙が亡命者(華登)を迎え入れようとしています」。繰り返しこのことを訴えると、公は言った。「司馬(華費遂)は私のために優秀な息子(華登)を失った。死や逃亡は運命によるもので、私は再び彼の子を追い出すわけにはいかない」。多僚は答えた。「君が司馬を大切に思うなら、むしろ(華貙を)逃亡させた方が良い。死が避けられるなら、どこへ逃げようと問題ではない」。公は恐れ、侍従を使って司馬の侍従である宜僚を呼び、酒を振る舞ってから司馬に伝えさせた。司馬は嘆いて言った。「きっと多僚の仕業だ。私は讒言する息子がいるのに殺せず、自分も死なずにいる。しかし君命がある以上、どうしようもない」。そこで公と謀り、華貙を追放することにした。孟諸で狩りをさせた後に国外へ追い出す計画で、公は華貙に酒を賜り、手厚く報酬を与え、従者にも褒美を下賜した。司馬も同様に扱った。張匄は不審に思い、「何か理由があるに違いない」と言い、子皮に宜僚を剣で脅して真相を聞き出させた。宜僚が全てを打ち明けると、張匄は多僚を殺そうとしたが、子皮が言った。「司馬は年老いている。華登の件も痛ましいのに、さらに罪を重ねるわけにはいかない。逃亡する方が良い」。五月丙申の日、子皮が司馬に別れを告げて出立しようとした時、多僚が偶然にも司馬の車を御して朝議に向かう場面に遭遇した。張匄は怒りを抑えきれず、子皮・臼任・鄭翩と共に多僚を殺害し、司馬を脅して反乱を起こし、亡命中の華登を呼び戻した。壬寅の日、華氏と向氏が攻め込み、楽大心・豊愆・華牼が横の地で防戦した。華氏は盧門に拠点を置き、南里で反乱を宣言した。六月庚午の日、宋は旧鄘の城壁と桑林の門を修築して守備を固めた。 解説: Translation took 4053.6 seconds. |
| 秋.七月.壬午.朔.日有食之.公問於梓慎曰.是何物也.禍福何為.對曰.二至二分.日有食之.不為災.日月之行也.分同道也.至相過也.其他月則為災.陽不克也.故常為水.於是叔輒哭日食.昭子曰.子叔將死.非所哭也.八月.叔輒卒. 冬.十月.華登以吳師救華氏.齊烏枝鳴戍宋.廚人濮曰.軍志有之.先人有奪人之心.後人有待其衰.盍及其勞.且未定也.伐諸.若入而固.則華氏眾矣.悔無及也.從之.丙寅.齊師.宋師.敗吳師于鴻口.獲其二帥.公子苦雂.偃州員.華登.帥其餘以敗宋師.公欲出.廚人濮曰.吾小人.可藉死而不能送亡.君請待之.乃徇曰.楊徽者.公徒也.眾從之.公自楊門見之.下而巡之.曰.國亡君死.二三子之恥也.豈專孤之罪也.齊烏枝鳴曰.用少莫如齊致死.齊致死莫如去備.彼多兵矣.請皆用劍.從之.華氏北.復即之.廚人濮以裳裹首而荷以走曰.得華登矣.遂敗華氏.于新里.翟僂新居于新里.既戰.說甲于公.而歸華姓居于公里.亦如之.十一月.癸未.公子城以晉師至.曹翰胡會晉荀吳.齊苑何忌.衛公子朝.救宋.丙戌.與華氏戰于赭丘.鄭翩願為鸛.其御願為鵝.子祿御公子城.莊堇為右.于犨御呂封人.華豹張匄為右.相遇.城還.華豹曰.城也.城怒.而反之.將注豹.則關矣.曰.平公之靈.尚輔相余.豹射出其間.將注.則又關矣.曰.不狎鄙.抽矢.城射之.殪.張匄抽殳而下.射之.折股.扶伏而擊之.折軫.又射之.死.干犨請一矢.城曰.余言汝於君.封曰.不死伍乘.軍之大刑也.干刑而從子.君焉用之.子速諸.乃射之.殪.大敗華氏.圍諸南里.華亥搏膺而呼.見華貙曰.吾為欒氏矣.貙曰.子無我迋.不幸而後亡.使華登如楚乞師.華貙以車十五乘.徒七十人.犯師而出.食於睢上.哭而送之.乃復入.楚薳越帥師.將逆華氏.大宰犯諫曰.諸侯唯宋事其君.今又爭國.釋君而臣是助.無乃不可乎.王曰.而告我也.後既許之矣. |
秋、七月の壬午の日、朔(ついたち)に日食が起こった。公(昭公)が梓慎に尋ねて言った。「これは何という現象か。禍福はどうなるのか。」梓慎が答えて言った。「夏至・冬至と春分・秋分の時に日食が起こっても災いとはなりません。日月の運行により、分点では道が同じであり、至点では互いに過ぎ行くからです。他の月に起こると災いとなります。陽の気が克てないため、常に水害が起こります。」そこで叔輒が日食を悲しんで泣いた。昭子が言った。「子叔(叔輒)は死ぬだろう。泣くべきことではない。」八月、叔輒が死去した。 冬、十月、華登が呉軍を率いて華氏を救援した。齊の烏枝鳴が宋を守備した。廚人濮が言った。「軍志にこうあります。『先んずれば人の心を奪い、後れればその衰えを待つべし』。どうか彼らが疲れ、まだ陣営が定まらないうちに攻撃しましょう。もし敵が堅固に陣営に入れば、華氏の勢力は大きくなり、後悔しても間に合いません。」これに従った。丙寅の日、齊軍と宋軍は鴻口で呉軍を破り、二人の将帥である公子苦雂と偃州員を捕らえた。華登は残兵を率いて宋軍を破った。公(宋公)は逃亡しようとした。廚人濮が言った。「私は卑しい者ですが、死んで盾となることはできても、君の逃亡をお送りすることはできません。どうかお待ちください。」そして兵士たちに呼びかけて言った。「楊徽(目印)を揚げる者は公の味方である。」兵士たちはこれに従った。公は楊門からこれを見て、降りて巡視し、言った。「国が滅び君が死ぬことは、諸君の恥である。どうして私一人の罪だろうか。」齊の烏枝鳴が言った。「少数の兵力を用いるには、一致して死力を尽くすに如くはない。死力を尽くすには、防備を捨てるに如くはない。敵は兵が多い。皆で劍を使うことを請う。」これに従った。華氏は敗走し、追撃した。廚人濮は裳で首を包んで担ぎながら走り、「華登を捕らえた」と叫んだ。こうして華氏を新里で破った。翟僂新は新里に居住していたが、戦いの後、公の前で鎧を脱ぎ、華姓に帰属して公里に居住した。同じようにした。 十一月、癸未の日、公子城が晉軍を率いて到着した。曹翰胡が晉の荀吳、齊の苑何忌、衛の公子朝と会し、宋を救援した。丙戌の日、華氏と赭丘で戦った。鄭翩は鸛(がん)の陣形を望み、その御者は鵝(が)の陣形を望んだ。子祿が公子城の御者となり、莊堇が右側を務めた。于犨が呂封人の御者となり、華豹と張匄が右側を務めた。両軍が遭遇し、公子城が退却すると、華豹が「城よ」と呼んだ。城は怒って戻り、華豹を狙おうとしたが、華豹は既に矢を構えていた。城は「平公の御霊よ、どうか私を助けたまえ」と言い、華豹は矢を放ったが外れた。城が再び狙うと、華豹はまた矢を構えた。城は「卑怯だ」と言い、矢を抜き取り、華豹を射て殺した。張匄が殳(ほこ)を抜いて降り、城を射ようとしたが、腿を折られた。這いながら撃ちかかったが、車の軫(しん)を折られた。城が再び射ると、張匄は死んだ。干犨が「一矢を請う」と言った。城が「君にあなたのことを話そう」と言うと、干犨は「同じ車の者を見殺しにするのは軍の大刑である。刑を免れてあなたに従えば、君はどう用いるだろうか。早く射て」と言った。城が射ると、干犨は死んだ。華氏は大敗し、南里に包囲された。華亥は胸を叩き叫び、華貙に会って言った。「我々は欒氏のようになってしまった。」華貙は「私を惑わすな。不幸中の幸いで後に滅びるのだ」と言った。華登を楚に派遣して援軍を請わせた。華貙は兵車十五乗、徒兵七十人を率いて包囲を突破し、睢水のほとりで食事をとり、泣きながら見送った。そして再び包囲内に戻った。楚の薳越が軍を率い、華氏を迎え入れようとした。大宰犯が諫めて言った。「諸侯の中で宋だけが君に仕えているのに、今また国を争い、君を捨てて臣を助けるのは、よろしくないのではないでしょうか。」王は「お前が私に告げたのは後だ。既に許してしまった」と言った。 解説この一節は『春秋左氏伝』における紀元前522年の宋国内乱(華氏の乱)の詳細な描写です。主に以下の要素から構成されています。
この記述は、歴史的事実の報告だけでなく、登場人物の台詞や細かい動作描写を通じて、古代中国の戦争観・命運観・倫理観を多層的に伝える文学的な価値も有しています。 Translation took 3412.1 seconds. |
| 蔡侯朱出奔楚.費無極取貨於東國.而謂蔡人曰.朱不用命於楚.君王將立東國.若不先從王欲.楚必圍蔡.蔡人懼.出朱而立東國.朱愬于楚.楚子將討蔡.無極曰.平侯與楚有盟.故封其子.有二心.故廢之.靈王殺隱大子.其子與君同惡.德君必甚.又使立之.不亦可乎.且廢置在君.蔡無他矣. 公如晉.及河鼓叛晉.晉將伐鮮虞.故辭公. 昭公二十二年 經 二十有二年春.齊侯伐莒.宋.華亥.向寧.華定.自宋南里出奔楚.大蒐于昌間. 夏.四月.乙丑.天王崩.六月.叔鞅如亰師葬景王.王室亂.劉子.單子.以王猛居于皇. 秋.劉子.單子.以王猛入于王城. 冬.十月.王子猛卒. 十有二月.癸酉.朔.日有食之. 傳 二十二年春.王二月.甲子.齊北郭啟帥師伐莒.莒子將戰.苑羊牧之諫曰.齊帥賤.其求不多.不如下之.大國不可怒也.弗聽.敗齊師于壽餘.齊侯伐莒.莒子行成.司馬灶如莒蒞盟.莒子如齊蒞盟.盟于稷門之外.莒於是乎大惡其君. 楚薳越使告于宋曰.寡君聞君有不令之臣.為君憂.無寧以為宗羞.寡君請受而戮之.對曰.孤不佞不能媚於父兄.以為君憂.拜命之辱.抑君臣曰戰.君曰.余必臣是助.亦唯命.人有言曰.唯亂門之無過.君若惠保敝邑.無亢不衷.以獎亂人.孤之望也.唯君圖之.楚人患之.諸侯之戍謀曰.若華氏知困而致死.楚恥無功而疾戰.非吾利也.不如出之.以為楚功.其亦能無為也.巳.救宋而除其害.又何求.乃固請出之.宋人從之.己巳.宋華亥.向寧.華定.華貙.華登.皇奄傷.省臧.士平.出奔楚.宋公使公孫忌為大司馬.邊卬為大司徒.樂祁為司馬.仲幾為左師.樂大心為右師.樂輓為大司寇.以靖國人. |
蔡侯の朱が楚に逃亡した。費無極は東国から賄賂を受け取り、蔡の人々に言った。「朱は楚の命令に従わない。君王(楚王)は東国を即位させようとしている。もし先に王の意向に従わなければ、楚は必ず蔡を包囲するだろう」。蔡の人々は恐れ、朱を追放して東国を立てた。朱は楚に訴え出た。楚子(楚王)が蔡を討伐しようとすると、無極は言った。「平侯は楚と盟約を結んでいたので、その子(朱)を封じたが、二心を持ったので廃しました。霊王が隠太子を殺した時、その子(東国)は君(現在の楚王)と同じく悪を憎んでいたので、君に深く恩義を感じているはずです。再び彼を立てるのは妥当ではないでしょうか。しかも廃立は君の権限にあり、蔡に他に問題はありません」。 魯の昭公が晋へ向かったが、黄河まで来た時に鼓が晋に反乱した。晋が鮮虞を討伐しようとしたため、昭公との会見を辞退した。 昭公二十二年 二十二年の春、斉侯が莒を討伐した。宋の華亥・向寧・華定が宋の南里から楚へ逃亡した。昌間で大規模な軍事演習を行った。 夏四月乙丑の日、天王(周の景王)が崩御した。六月、叔鞅が京師へ赴き景王の葬儀に参列した。王室が混乱し、劉子と単子が王猛を伴って皇地に居住した。 秋、劉子と単子が王猛を伴って王城に入った。 冬十月、王子猛が逝去した。 十二月癸酉の日、朔日(新月)に日食が発生した。 伝(詳細な記述) 二十二年の春、周暦二月甲子の日、斉の北郭啓が軍を率いて莒を攻撃した。莒子が迎撃しようとすると、苑羊牧之が諫めて言った。「斉の将軍は身分が低く、要求もさほど大きくありません。屈服した方が良いでしょう。大国を怒らせるべきではありません」。聞き入れられず、寿餘で斉軍を破った。斉侯自ら莒を討伐すると、莒子は和議を申し出た。司馬灶が莒へ赴いて盟約を監視し、莒子も斉へ行って盟約に臨んだ。稷門の外で盟を結び、莒の人々はこの件で君主を強く憎むようになった。 楚の薳越が使者を送り宋に伝えた。「我が君は貴国に逆臣がいると聞き、君の憂いとなり、むしろ宗族の恥となっていることを案じています。我が君が彼らを引き受けて処刑したいと申し出ます」。宋君は答えて言った。「私は不肖のため父兄(華氏一族)へ媚びることができず、君の憂いを招きました。ご命令を辱く受けます。ただし君臣の間で戦いが起これば、君が『私は必ず臣(華氏)を助ける』と言われるなら、それも命令に従うのみです。古人の言葉に『乱の門は通るな』とあります。君が恵みをもって我国を守り、不忠を助長せず乱人を奨励しなければ、私の願いです。どうか君ご斟酌ください」。楚人はこの返答に困惑した。諸侯の駐留軍は協議して言った。「華氏が追い詰められて死戦すれば、楚は無功を恥じて激戦になる。これは我々の利益に合わない。華氏を追放して楚の功績とし、彼らも無力化させよう。そうすれば宋を救い害を除ける。これ以上何を求めるか」。固く華氏追放を要請し、宋はこれに従った。己巳の日、宋の華亥・向寧・華定・華貙・華登・皇奄傷・省臧・士平が楚へ逃亡した。宋公は公孫忌を大司馬、邊卬を大司徒、樂祁を司馬、仲幾を左師、樂大心を右師、樂輓を大司寇に任命し、国内を安定させた。 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公二十二年の記述で、二つの重要な流れを含んでいます。前半は楚と蔡の複雑な関係を描き、費無極の権謀術数によって蔡侯の廃立が行われる過程を示しています。後半は周王室の混乱(景王崩御後の後継者争い)と、宋国における華氏一族の追放劇を中心に、各国の駆け引きが記録されています。 特徴的な点として: 史実として特に重要なのは、この年に起きた日食(紀元前520年12月22日)が天文記録と一致することです。また「乱の門は通るな」という箴言は、他国への内政干渉に対する戒めとして後世にも引用されました。 Translation took 4199.9 seconds. |
| 王子朝.賓起.有寵於景王.王與賓孟說之.欲立之.劉獻公之庶子伯蚡事單穆公.惡賓孟之為人也.願殺之.又惡王子朝之言.以為亂.願去之.賓孟適郊.見雄雞自斷其尾.問之侍者曰.自憚其犧也.遽歸告王.且曰.雞其憚為人用乎.人異於是.犧者實用人.人犧實難.己犧何害.王弗應.夏.四月.王田北山.使公卿皆從.將殺單子.劉子.王有心疾.乙丑.崩于榮錡氏.戊辰.劉子摯卒.無子.單子立劉蚡.五月.庚辰.見王.遂攻賓起.殺之.盟群王子于單氏. 晉之取鼓也.既獻而反鼓子焉.又叛於鮮虞.六月.荀吳略東陽.使師偽糴者.負甲以息於昔陽之門外.遂襲鼓滅之.以鼓子鳶鞮歸.使涉佗守之. 丁巳葬景王王子朝因舊官百工之喪職秩者.與靈景之族以作亂.帥郊要餞之甲.以逐劉子.壬戌.劉子奔揚.單子逆悼王于莊宮.以歸.王子還.夜取王以如莊宮.癸亥.單子出.王子還與召莊公謀曰.不殺單旗.不捷.與之重盟.必來背盟.而克者多矣.從之.樊頃子曰.非言也.必不克.遂奉王以追單子.及領.大盟而復.殺摯荒以說.劉子如劉.單子亡.乙丑.奔于平畤.群王子追之.單子殺還.姑.發.弱.鬷.延.定.稠.子朝奔亰.丙寅.伐之.亰人奔山.劉子入于王城.辛未.鞏簡公敗績于亰.乙亥.甘平公亦敗焉.叔鞅至自亰師.言王室之亂也.閔馬父曰.子朝必不克.其所與者.天所廢也.單子欲告急於晉.秋.七月.戊寅.以王如平畤.遂如圃車.次于皇.劉子如劉.單子使王子處守于王城.盟百工于平宮.辛卯.鄩肸伐皇.大敗.獲鄩肸.壬辰.焚諸王城之市.八月.辛酉.司徒醜以王師敗績于前城.百工叛.己巳.伐單氏之宮.敗焉.庚午.反伐之.辛未.伐東圉.冬.十月.丁巳.晉籍談.荀躒.帥九州之戎.及焦瑕溫原之帥.以納王于王城.庚申.單子劉蚡以王師敗績于郊前.城人敗陸渾于社.十一月.乙酉.王子猛卒.不成喪也.己丑.敬王即位.館于子旅氏. |
王子朝と賓起は、景王に寵愛されていた。王は賓孟(賓起)と共に王子朝を気に入り、後継者に立てようと考えた。劉献公の庶子である伯蚡は単穆公に仕えており、賓孟の人物を嫌い、彼を殺したいと願った。また王子朝の発言も憎み、乱を引き起こすものと考え、排除を望んだ。賓孟が郊外に出かけた時、自ら尾を断つ雄鶏を見て、付き人に理由を尋ねると、「犠牲にされるのを恐れているからです」と答えた。賓孟は急いで帰り、王に報告し、「鶏は人間に利用されるのを恐れるのでしょうか。人間はそれとは違います。犠牲となるのは実際には人間を使うことであり、人間が犠牲になるのは確かに難しいですが、自分が犠牲になることには何の害もありません」と述べた。王は返事をしなかった。 夏の四月、王は北山で狩りを行い、公卿全員を従わせ、単子と劉子を殺そうとした。しかし王は心臓病を患い、乙丑の日に栄錡氏の屋敷で崩御した。戊辰の日、劉子(劉献公)が死去し、後継者がいなかったため、単子が伯蚡を劉氏の後継ぎに立てた。五月の庚辰の日、伯蚡が王(新王)に謁見し、その後賓起を攻めて殺害した。単氏の屋敷で王子たちと盟約を結んだ。 晉が鼓を征服した時、一旦は鼓の君主を帰還させたが、また鮮虞に叛かれた。六月、荀吳が東陽を巡察し、兵士に穀物買いのふりをさせ、鎧を背負って昔陽の城門外で休ませた後、鼓を急襲して滅ぼし、鼓の君主・鳶鞮を連れ帰った。涉佗を守備隊長として置いた。 丁巳の日、景王が葬られた。王子朝は、職務や禄を失った旧臣や百工、および霊王・景王の一族を糾合して乱を起こし、郊外や要衝の兵士を率いて劉子を追放した。壬戌の日、劉子は揚に逃れた。単子が莊宮で悼王を迎え、連れ帰った。王子還が夜間に王を奪い、莊宮に連れて行った。癸亥の日、単子が城外に出ると、王子還は召莊公と謀り、「単旗を殺さなければ勝利はない。彼と堅い盟約を結べば、必ず背くだろう。そうすれば勝機は多い」と話した。樊頃子は「その言葉は道理に合わない。必ず失敗する」と言ったが、王子還は王を奉じて単子を追い、領地で大規模な盟約を結んで帰還した。摯荒を殺して責任をなすりつけた。劉子は劉の地へ去り、単子は逃亡し、乙丑の日に平畤に逃れた。王子たちが追撃したが、単子は王子還や姑、発、弱、鬷、延、定、稠を殺し、王子朝は亰に逃れた。丙寅の日、亰を攻撃すると、亰の住民は山に逃れた。劉子が王城に入り、辛未の日に鞏簡公が亰で大敗し、乙亥の日には甘平公も敗れた。叔鞅が亰の軍から戻り、王室の乱を報告した。閔馬父は「王子朝は必ず敗れる。彼に与する者は、天が見捨てた者たちだ」と語った。 単子が晉に救援を要請しようとした。秋の七月、戊寅の日、王を平畤に連れて行き、さらに圃車を経由して皇に駐屯した。劉子は劉の地へ向かい、単子は王子処に王城の守備を任せ、平宮で百工と盟約した。辛卯の日、鄩肸が皇を攻めたが大敗し、捕らえられた。壬辰の日、王城の市場で鄩肸を焼き殺した。八月の辛酉の日、司徒醜が王師を率いて前城で大敗し、百工が叛いた。己巳の日、単氏の屋敷を攻撃したが失敗し、庚午の日に逆襲され、辛未の日には東圉を攻撃した。 冬の十月、丁巳の日、晉の籍談と荀躒が九州の戎族および焦・瑕・温・原の軍勢を率い、王を王城に送還した。庚申の日、単子と劉蚡が王師を率いて郊外で大敗し、前城の住民が社で陸渾を破った。十一月の乙酉の日、王子猛が死去した(正式な喪の儀式が行われなかった)。己丑の日、敬王が即位し、子旅氏の屋敷に仮住まいした。 解説この一節は、春秋時代の周王室で起きた後継者争い「王子朝の乱」の経過を描いています。景王の死後、寵臣・賓起を支持基盤とする王子朝と、単穆公・劉献公らが擁立する悼王(後に敬王)派が対立し、武力衝突に発展します。晉が介入するなど、周王室の権威低下が顕著な場面です。特徴的なのは、賓起の「雄鶏の逸話」で、犠牲になることを恐れる動物と異なり、人間は権力のために自ら進んで犠牲になるという皮肉な寓意が込められています。史実としては、この乱により周は分裂し、晉の影響力が強まる転換点となりました。 Translation took 2214.2 seconds. |
| 十二月.庚戌.晉籍談.荀躒.賈辛.司馬督.帥師軍于陰.于侯氏.于谿泉.次于社.王師軍于氾.于解.次于任人.閏月.晉箕遺.樂徵.右行詭.濟師.取前城.軍其東南.王師軍于亰楚.辛丑.伐亰.毀其西南. 昭公二十三年 經 二十有三年春.王正月.叔孫婼如晉.癸丑.叔鞅卒.晉人執我行人叔孫婼.晉人圍郊. 夏.六月.蔡侯東國卒于楚. 秋.七月.莒子庚輿來奔.戊辰.吳敗頓胡.沈.蔡.陳.許.之師于雞父.胡子髡.沈子逞.滅獲陳夏齧.天王居于狄.泉尹氏立王子朝. 八月.乙未.地震. 冬.公如晉.至河.有疾.乃復. 傳 二十三年春.王正月.壬寅.朔.二師圍郊.癸卯.郊鄩潰.丁未.晉師在平陰.王師在澤邑.王使告間.庚戌還. 邾人城翼.還.將自離姑.公孫鉏曰.魯將御我.欲自武城還.循山而南。徐鉏、丘弱、茅地,曰:道下遇雨.將不出.是不歸也.遂自離姑。武城人塞其前.斷其後之木而弗殊.邾師過之.乃推而蹙之.遂取邾師.獲鉏、弱、地,邾人愬于晉.晉人來討.叔孫婼如晉.晉人執之.書曰.晉人執我行人叔孫婼.言使人也.晉人使與邾大夫坐.叔孫曰.列國之卿.當小國之君.固周制也.邾又夷也.寡君之命介子服回在.請使當之.不敢廢周制故也.乃不果坐.韓宣子使邾人取其眾.將以叔孫與之.叔孫聞之.去眾與兵而朝.士彌牟謂韓宣子曰.子弗良圖.而以叔孫與其讎.叔孫必死之.魯亡叔孫.必亡邾.邾君亡國.將焉歸.子雖悔之.何及.所謂盟主.討違命也.若皆相執.焉用盟主.乃弗與.使各居一館.士伯聽其辭.而愬諸宣子.乃皆執之.士伯御叔孫.從者四人.過邾館以如吏.先歸邾子.士伯曰.以芻蕘之難.從者之病.將館子於都.叔孫旦而立.期焉.乃館諸箕.舍子服昭伯於他邑.范獻子求貨於叔孫.使請冠焉.取其冠法.而與之兩冠.曰.盡矣.為叔孫故.申豐以貨如晉.叔孫曰.見我.吾告女所行貨.見而不出.吏人之與叔孫居於箕者.請其吠狗.弗與.及將歸.殺而與之食之.叔孫所館者.雖一日.必葺其牆屋.去之如始至. |
十二月、庚戌の日、晋の籍談・荀躒・賈辛・司馬督が軍を率い、陰・侯氏・谿泉に駐屯し、社に宿営した。王師(周王の軍)は氾・解に駐屯し、任人に宿営した。閏月、晋の箕遺・樂徵・右行詭が軍を渡し、前城を奪取し、その東南に駐屯した。王師は亰楚に駐屯した。辛丑の日、亰を攻撃し、その西南を破壊した。 昭公二十三年 二十三年の春、周王の正月、叔孫婼が晋へ赴いた。癸丑の日、叔鞅が死去した。晋人が我が国の使者である叔孫婼を拘束した。晋人が郊を包囲した。 夏、六月、蔡侯の東国が楚で死去した。 秋、七月、莒子の庚輿が魯へ逃亡してきた。戊辰の日、吳が雞父で頓・胡・沈・蔡・陳・許の軍を破った。胡子の髡・沈子の逞が戦死し、陳の夏齧が捕虜となった。周王が狄泉に居住し、尹氏が王子朝を擁立した。 八月、乙未の日、地震が起きた。 冬、昭公が晋へ向かったが、黄河に至り病気になったため帰還した。 伝 二十三年の春、周王の正月、壬寅の日、朔日。晋軍と王師が郊を包囲した。癸卯の日、郊の鄩が陥落した。丁未の日、晋軍は平陰に、王師は澤邑に駐屯した。周王が和解の機会を伝えさせ、庚戌の日に晋軍は撤兵した。 邾が翼に城を築き、帰途に離姑を通ろうとした。公孫鉏が「魯が我々を迎撃するだろう。武城から回り、山に沿って南下すべきだ」と進言した。しかし徐鉏・丘弱・茅地は「道が低く雨に遭えば出られなくなり、帰れなくなる」と反対し、結局離姑を通った。武城の兵が前方を塞ぎ、後方の木を伐採して倒れかけさせ、邾軍が通過すると押し倒して攻撃し、邾軍を撃破して鉏・弱・地を捕虜とした。邾が晋に訴え、晋が討伐に来た。叔孫婼が晋へ赴くと、晋は彼を拘束した。経文に「晋人我が行人叔孫婼を執る」と記されたのは、使者であることを強調したためである。晋が邾の大夫と同席させようとしたが、叔孫は「大国の卿は小国の君と同等とするのが周の制度だ。邾は夷狄である。我が君の副使・子服回がいるので、彼に対応させよ。周の制度を廃さぬためだ」と主張し、同席は回避された。韓宣子が邾人に叔孫を引き渡そうとしたが、叔孫はこれを聞き、護衛を捨てて単身で晋の朝廷に出頭した。士弥牟が韓宣子に「拙策だ。叔孫を敵に渡せば彼は死を選び、魯が叔孫を失えば邾を滅ぼすだろう。邾君が国を失えば行き場がない。後悔しても遅い」と諫め、引き渡しを中止した。両者を別々の宿舎に隔離し、士伯が双方の言い分を聞いて韓宣子に報告し、結局双方を拘束した。士伯が叔孫を護送する際、従者四人のみ連れ、邾の宿舎前を通って役所へ向かった。先に邾子を帰国させ、士伯は「薪の調達難と従者の疲労のため、都で宿を提供する」と言った。叔孫は朝から立ち尽くし、約束を待って箕に宿舎を与えられた。子服昭伯は別の地に隔離された。范献子が叔孫に贈賄を要求し、冠の型を請うと、叔孫は冠二つを贈り「これで十分だ」と伝えた。叔孫のため、申豐が贈賄品を持って晋へ向かったが、叔孫は「私に会えば贈賄法を教えるが、会ったら出るな」と言った。箕で叔孫と同居した役人が吠える犬を所望したが、叔孫は与えず、帰国直前になって殺して料理して振る舞った。叔孫が宿泊した場所は、一日だけでも必ず壁や屋根を修繕し、去る時は初めと同様に清めて立ち去った。 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公二十三年の記述で、春秋時代後期の複雑な国際情勢を描いています。主に以下の点に特徴があります: Translation took 2472.2 seconds. |
| 夏.四月.乙酉.單子取訾.劉子取牆人.直人.六月.壬午.王子朝入于尹.癸未.尹圉誘劉佗殺之.丙戌.單子從阪道.劉子從尹道.伐尹.單子先至而敗.劉子還.己丑.召伯奐.南宮極.以成周人戍尹.庚寅.單子.劉子.樊齊.以王如劉.甲午.王子朝入于王城.次于左巷.秋.七月.戊申.鄩羅納諸莊宮.尹辛敗劉師于唐.丙辰.又敗諸鄩.甲子.尹辛取西闈.丙寅.攻蒯.蒯潰. 莒子庚輿虐而好劍.苟鑄劍.必試諸人.國人患之.又將叛.齊烏存帥國人以逐之.庚輿將出.聞烏存執殳而立於道左.懼.將止死.苑羊牧之曰.君過之.烏存以力聞可矣.何必以弒君成名.遂來奔.齊人納郊公. 吳人伐州來.楚薳越帥師.及諸侯之師.奔命救州來.吳人禦諸鍾離.子瑕卒.楚師熸.吳公子光曰.諸侯從於楚者眾.而皆小國也.畏楚而不獲巳.是以來.吾聞之曰.作事威克其愛.雖小必濟.胡沈之君幼而狂.陳大夫齧壯而頑.頓與許蔡疾楚政.楚令尹死.其師熸.帥賤多寵.政令不壹.七國同役而不同心.帥賤而不能整.無大威命.楚可敗也.若分師先以犯胡沈與陳.必先奔.三國敗.諸侯之師乃搖心矣.諸侯乖亂.楚必大奔.請先者去備薄威.後者敦陳整旅.吳子從之.戊辰.晦.戰于雞父.吳子以罪人三千.先犯胡沈與陳.三國爭之.吳為三軍以繫於後.中軍從王.光帥右.掩餘帥左.吳罪之人.或奔或止.三國亂.吳師擊之.三國敗.獲胡沈之君.及陳大夫.舍胡沈之囚.使奔許與蔡頓.曰.吾君死矣.師譟而從之.三國奔.楚師大奔.書曰.胡子髡.沈子逞.滅.獲陳夏齧.君臣之辭也.不言戰.楚未陳也. |
夏、四月、乙酉の日、単子が訾を占領した。劉子が牆人と直人を占領した。六月、壬午の日、王子朝が尹の地に入った。癸未の日、尹圉が劉佗を誘い出して殺害した。丙戌の日、単子は阪道から、劉子は尹道から進軍し、尹を攻撃した。単子が先に到着したが敗北し、劉子は撤退した。己丑の日、召伯奐と南宮極が成周の兵士を率いて尹を守備した。庚寅の日、単子、劉子、樊齊が王を伴って劉の地へ向かった。甲午の日、王子朝が王城に入り、左巷に駐屯した。秋、七月、戊申の日、鄩羅が莊宮に迎え入れた。尹辛が唐で劉の軍を破った。丙辰の日、さらに鄩で劉軍を破った。甲子の日、尹辛が西闈を占領した。丙寅の日、蒯を攻撃し、蒯は陥落した。 莒の君主庚輿は残忍で劍を好み、劍を鑄造するたびに必ず人間で試し斬りした。国人はこれを憂い、反乱を企てようとした。齊の烏存が国人を率いて庚輿を追放した。庚輿が国外へ逃げ出そうとした時、烏存が殳(武器)を手に道端に立っていると聞き、恐怖して留まって死を覚悟した。苑羊牧之が言った。「君は過剰な心配をなさっています。烏存は武力で名を上げれば十分です。わざわざ君主を殺害して悪名を馳せる必要はありません。」そこで庚輿は齊へ逃亡した。齊の人々は郊公を莒の君主として擁立した。 吳が州來を攻撃した。楚の薳越が軍を率い、諸侯の連合軍と共に緊急出動して州來を救援した。吳軍は鍾離で防戦した。楚の子瑕が死去し、楚軍は士気が低下した。吳の公子光が言った。「楚に従う諸侯は多いが、いずれも小国である。楚を恐れてやむなく従っているに過ぎない。私はこう聞いている。『事を成すには威厳が温情に勝てば、小勢でも必ず成功する』と。胡と沈の君主は幼くて軽率であり、陳の大夫齧は壮年だが頑固である。頓と許と蔡は楚の政治を憎んでいる。楚の令尹が死に、その軍は弱体化した。指揮官は身分が低く寵臣が多く、政令は統一されていない。七カ国は共同作战ながら結束せず、指揮官は地位が低く軍を統制できず、強大な威令がない。楚は打ち破れるはずだ。もし軍を分けて先ず胡・沈・陳を攻撃すれば、彼らは真っ先に敗走するだろう。三国が敗れれば、諸侯の軍は動揺する。諸侯が混乱すれば、楚軍は総崩れになる。先鋒部隊は防御を緩めて威圧を弱め、本隊は陣形を固めて軍勢を整えることを提案する。」吳王はこの献策を採用した。戊辰の日、晦(月末)、雞父で戦いが始まった。吳王は罪人三千を先鋒として胡・沈・陳を攻撃させた。三国の軍がこれに対応すると、吳は三軍を編成して後方に控え、中軍は吳王が直接指揮し、光が右軍を、掩餘が左軍を率いた。吳の罪人部隊は奔ったり止まったりして混乱を装い、三国の軍が乱れたところを吳軍本隊が攻撃し、三国を撃破した。胡と沈の君主及び陳の大夫を捕虜とした。吳は胡と沈の捕虜を解放し、許・蔡・頓の陣営へ逃がさせ、「我が君主は戦死した!」と叫ばせた。吳軍は鬨の声を上げて追撃し、三国の軍は敗走、楚軍も総崩れとなった。史書には「胡子髡・沈子逞は滅亡し、陳の夏齧を捕獲した」と記されている。これは君主と臣下の立場を明確にした表現である。「戦う」と記さなかったのは、楚軍がまだ陣形を整える前に敗れたからである。 解説この文章は『春秋左氏伝』に収録された紀元前6世紀頃の歴史記述です。三つの独立したエピソードで構成され、春秋時代の政治・軍事状況を活写しています。 第一段(周朝内乱): 第二段(莒国政変): 第三段(雞父の戦い): 全体を通して、権力闘争の駆け引きや戦争の現実を赤裸々に伝えるとともに、為政者のあるべき姿を問いかける内容となっています。 Translation took 6731.3 seconds. |
| 八月.丁酉.南宮極震.萇弘謂劉文公曰.君其勉之.先君之力可濟也.周之亡也.其三川震.今西王之大臣亦震.天棄之矣.東王必大克. 楚大子建之母在.召吳人而啟之.冬.十月.甲申.吳大子諸樊入.取楚夫人.與其寶器以歸.楚司馬薳越追之.不及.將死.眾曰.請遂伐吳以徼之.薳越曰.再敗君師.死且有罪.亡君夫人.不可以莫之死也.乃縊於薳澨. 公為叔孫故如晉.及河.有疾而復. 楚囊瓦為令尹.城郢.沈尹戌曰.子常必亡郢.苟不能衛.城無益也.古者天子守在四夷.天子卑.守在諸侯.諸侯守在四鄰.諸侯卑.守在四竟.慎其四竟.結其四援.民狎其野.三務成功.民無内憂.而又無外懼.國焉用城.今吳是懼.而城於郢.守巳小矣.卑之不獲.能無亡乎.昔梁伯溝其公宮而民潰.民棄其上.不亡何待.夫正其疆埸.脩其土田.險其走集.親其民人.明其伍候.信其鄰國.慎其官守.守其交禮.不僭不貪.不懦不耆.完其守備.以待不虞.又何畏矣.詩曰.無念爾祖.聿脩厥德.無亦監乎.若敖蚡冒.至于武文.土不過同.慎其四竟.猶不城郢.今土數圻而郢是城.不亦難乎. 昭公二十四年 經 二十四年春.王三月.丙戌.仲孫貜卒.婼至自晉. 夏.五月.乙未.朔.日有食之. 秋.八月.大雩.丁酉.杞伯郁釐卒. |
八月、丁酉の日に、南宮極が雷に打たれた。萇弘が劉文公に言った。「君はどうか尽力なさい。先君の力によって事は成就するでしょう。周が滅びたとき、三川で地震が起きました。今、西王(周王)の大臣も雷に打たれました。天は彼を見捨てたのです。東王(晋侯)は必ず大勝するでしょう。」 楚の太子建の母が郔にいた。彼女は呉人を招き入れ、城門を開かせた。冬、十月、甲申の日に、呉の太子諸樊が郔に入り、楚の夫人(太子建の母)とその宝器を奪って帰った。楚の司馬薳越は彼らを追ったが、追いつけなかった。薳越は死のうとした。家臣たちが言った。「どうか呉を討って恥を雪ぎましょう」。薳越は言った。「既に君の軍隊を二度敗北させており、死んでも罪は消えません。君の夫人を失った以上、死なずにはいられない」。そこで薳澨で首を吊った。 公(魯の昭公)は叔孫のため晋へ向かったが、黄河に着いて病気になり帰国した。 楚の囊瓦が令尹となった。彼は郢に城壁を築こうとした。沈尹戌が言った。「子常(囊瓦)は必ず郢を失うでしょう。もし守れないなら、城壁を築いても無意味です。古くは天子の守りは四夷にありました。天子が衰えると、守りは諸侯に移りました。諸侯の守りは四隣にあり、諸侯が衰えると守りは国境に限られます。国境を厳重にし、四方の支援国と結び、民が土地に親しみ、三つの農作業(春・夏・秋の耕作)が成就すれば、民に内憂はなく、外惧もありません。国に城壁は必要ないのです。今、呉を恐れて郢に城壁を築くとは、守りが既に縮小しています。衰えを免れず、滅亡を避けられるでしょうか。昔、梁伯が宮殿に堀を掘ったら民が離反し、民が上を見捨てれば滅亡は必然です。国境を正し、田畑を整え、要害を固め、民を慈しみ、警戒体制を明らかにし、隣国と信義を結び、官職を慎重にし、交際の礼儀を守り、過ちなく貪らず、臆せず強欲にならず、守備を完璧にして不測の事態に備えれば、何も恐れることはありません。詩に『汝の祖を念い、その徳を修めよ』とあります。これを見習うべきです。若敖・蚡冒から武・文王の時代まで、領土は百里四方に過ぎませんでしたが、国境を慎重に守り、郢に城壁は築きませんでした。今、領土は数千里あるのに郢に城壁を築くとは、本末転倒ではありませんか」。 昭公二十四年 二十四年春、周の三月、丙戌の日に、仲孫貜が死去した。叔孫婼が晋から帰国した。 夏、五月乙未の朔(一日)、日食があった。 秋、八月、大雩(雨乞いの儀式)を行った。丁酉の日に、杞伯郁釐が死去した。 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公二十四年の記述で、主に三つの出来事を描いています。 Translation took 1746.1 seconds. |
| 冬.吳滅巢.葬杞平公. 傳 二十四年春.王正月.辛丑.召簡公.南宮嚚.以甘桓公見王子朝.劉子謂萇弘曰.甘氏又往矣.對曰.何害.同德度義.大誓曰.紂有億兆夷人.亦有離德.余有亂臣十人.同心同德.此周所以興也.君其務德.無患無人.戊午.王子朝入于鄔. 晉士彌牟逆叔孫于箕.叔孫使梁其脛待于門内.曰.余左顧而欬.乃殺之.右顧而笑.乃止.叔孫見士伯.士伯曰.寡君以為盟主之故.是以久子.不腆敝邑之禮.將致諸從者.使彌牟逆吾子.叔孫受禮而歸.二月.婼至自晉.尊晉也. 三月.庚戌.晉侯使士景伯蒞問周故.士伯立于乾祭.而問於介眾.晉人乃辭王子朝.不納其使. 夏.五月.乙未.朔.日有食之.梓慎曰.將水.昭子曰.旱也.日過分.無陽猶不克.克必甚.能無旱乎.陽不克莫.將積聚也. 六月.壬申.王子朝之師.攻瑕及杏.皆潰.鄭伯如晉.子大叔相.見范獻子.獻子曰.若王室何.對曰.老夫其國家不能恤.敢及王室.抑人亦有言曰.嫠不恤其緯.而憂宗周之隕.為將及焉.今王室實蠢蠢焉.吾小國懼矣.然大國之憂也.吾儕何知焉.吾子其早圖之.詩曰.缾之罄矣.惟罍之恥.王室之不寧.晉之恥也.獻子懼.而與宣子圖之.乃徵會於諸侯.期以明年. 秋.八月.大雩.旱也. |
冬、呉が巣を滅ぼした。杞の平公を葬った。 伝 二十四年の春、周王の正月、辛丑の日に、召簡公と南宮嚚が甘桓公を連れて王子朝に面会した。劉子が萇弘に言った。「甘氏もまた彼のもとに行ってしまった」。萇弘は答えて言った。「何の害がありましょうか。徳を同じくする者は義によって量るものです。『泰誓』にこうあります。『紂には億兆の夷人がいたが、徳を離れる者もいた。私は治臣十人を持ち、心を同じくし徳を同じくする』と。これが周が興った理由です。君は徳を務めなさい。人材不足を憂える必要はありません」。戊午の日、王子朝が鄔に入った。 晋の士弥牟が箕で叔孫を迎えた。叔孫は梁其脛を門内で待機させ、「私が左を向いて咳をしたら殺せ。右を向いて笑ったら止めよ」と命じた。叔孫が士伯(士弥牟)に会うと、士伯は言った。「我が君は盟主としての務めのため、貴方を長く留めさせました。粗末な我が国の礼品を従者にお送りしますように、弥牟をして貴方を迎えに来させました」。叔孫は礼を受け取って帰国した。二月、婼が晋から帰国した。これは晋を尊ぶためである。 三月庚戌の日、晋侯が士景伯を周の事情尋問のために派遣した。士伯が乾祭に立ち、周の介衆(副使たち)に問いただした。晋は王子朝の使者を受け入れないことを決め、その使節を拒否した。 夏五月乙未の朔(一日)、日食が起きた。梓慎が「水害が起きるだろう」と言うと、昭子は「旱魃である。太陽が春分を過ぎてから、陽気が勝てない状態が続いている。一旦陽気が勝てばその反動は激しく、旱魃にならないでいられようか。陽気が勝てないままなら、陰気が積聚するのだ」と答えた。 六月壬申の日、王子朝の軍が瑕と杏を攻撃し、両地とも陥落した。鄭伯が晋へ赴き、子太叔が随行した。范献子に会うと、献子が「王室はどうなるのか」と問うた。子太叔は答えて言った。「老いぼれは自分の国さえも心配しきれないのに、王室のことなど敢えて言えましょうか。しかし人はこうも言います。『寡婦は自分の機織りの糸の心配もせず、宗周(周王朝)の滅亡を憂えるのは、自分に災いが及ぶからだ』と。今、王室は実に蠢蠢と動いている。我々小国は恐れているが、これは大国の憂うべきことです。我々が知る由もありません。貴方様は早急に対処されるのがよろしい。『詩経』に『瓶が空なのは罍の恥である』とあります。王室の不安定は晋の恥です」。献子は恐れをなして宣子と協議し、諸侯に会盟を要請し、期日を翌年と定めた。 秋八月、大雩(雨乞いの儀式)を行った。旱魃のためである。 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公二十四年の記述で、春秋時代後期の複雑な政治情勢を描いています。主なポイントは以下の通りです:
全体として、周王室の衰退と諸侯の権力バランスが色濃く出た章段と言えるでしょう。 Translation took 1536.0 seconds. |
| 冬.十月.癸酉.王子朝用成周之寶珪于河.甲戌.津人得諸河上.陰不佞以溫人南侵.拘得玉者.取其玉.將賣之.則為石.王定而獻之.與之東訾. 楚子為舟師.以略吳疆.沈尹戌曰.此行也.楚必亡邑.不撫民而勞之.吳不動而速之.吳踵楚.而疆埸無備.邑能無亡乎.越大夫胥犴勞王於豫章之汭.越公子倉歸王乘舟.倉及壽夢帥師從王.王及圉陽而還.吳人踵楚.而邊人不備.遂滅巢及鍾離而還.沈尹戌曰.亡郢之始.於此在矣.王壹動而亡二姓之帥.幾如是而不及郢.詩曰.誰生厲階.至今為梗.其王之謂乎. 昭公二十五年 經 二十有五年春.叔孫婼如宋. 夏.叔詣會晉趙鞅.宋樂大心.衛北宮喜.鄭游吉.曹人.邾人.滕人.薛人.小邾人.于黃父.有鴝鵒來巢. 秋.七月.上辛.大雩.季辛.又雩. 九月.巳月己亥.公孫于齊.次于陽州.齊侯唁公于野井. 冬.十月.戊辰.叔孫婼卒. 十有一月.己亥.宋公佐卒于曲棘. 十有二月.齊侯取鄆. 傳 二十五年春.叔孫婼聘于宋.桐門右師見之.語卑宋大夫.而賤司城氏.昭子告其人曰.右師其亡乎.君子貴其身.而後能及人.是以有禮.今夫子卑其大夫.而賤其宗.是賤其身也.能有禮乎.無禮必亡.宋公享昭子.賦新宮.昭子賦車轄.明日宴.飲酒樂.宋公使昭子右坐.語相泣也.樂祁佐退而告人曰.今茲君與叔孫.其皆死乎.吾聞之.哀樂而樂哀.皆喪心也.心之精爽.是謂魂魄.魂魄去之.何以能久. |
冬、十月の癸酉の日、王子朝は成周の宝玉の圭を黄河に投じた。甲戌の日、渡し守がそれを河岸で見つけた。陰不佞が温の民を率いて南へ侵攻し、玉を手に入れた者を拘束し、その玉を奪い取った。売ろうとしたところ、石に変わってしまった。王が安定すると献上され、東訾の地を与えられた。 楚の王は水軍を編成し、呉の領土を侵攻した。沈尹戌が言った。「この出兵で、楚は必ず城邑を失うだろう。民を慰撫せずに疲労させ、呉が動いていないのに急かす。呉が楚を追撃すれば、国境に備えがない。城邑が失われないはずがあろうか」。越の大夫である胥犴が豫章の水辺で楚王を慰労し、越の公子倉は王に舟を献上した。倉と壽夢は軍を率いて王に従った。王は圉陽まで進んで引き返した。呉軍は楚を追撃し、边境の守備が手薄だったため、ついに巢と鍾離を滅ぼして帰還した。沈尹戌は言った。「郢都滅亡の始まりは、ここにある。王が一度動いただけで二つの家の将軍を失った。この調子では、郢にまで及ばないうちに終わるだろうか。詩に『誰が禍の階梯を生んだのか、今もって災いとなっている』とある。これは王のことを言っているのだろう」。 昭公二十五年 二十五年の春、叔孫婼が宋へ赴いた。 夏、叔詣が晋の趙鞅、宋の楽大心、衛の北宮喜、鄭の游吉、曹の人、邾の人、滕の人、薛の人、小邾の人と黄父で会合した。鴝鵒が飛来して巣を作った。 秋、七月、上辛の日に大雩の祭りを行い、季辛の日にも再び雩の祭りを行った。 九月、己亥の日、公(昭公)が斉へ出奔し、陽州に滞在した。斉侯が野井で公を慰問した。 冬、十月、戊辰の日、叔孫婼が死去した。 十一月、己亥の日、宋公佐が曲棘で死去した。 十二月、斉侯が鄆を占領した。 伝 二十五年の春、叔孫婼が宋を訪問した。桐門右師が彼と会い、言葉で宋の大夫を卑しめ、司城氏を軽蔑した。昭子(叔孫婼)は配下に告げて言った。「右師はまもなく滅びるだろう。君子はまず自分を尊び、その後で他人に及ぼす。それによって礼が成立する。今、あの方は自国の大夫を卑しめ、自分の宗族を軽んじている。これは自分自身を軽んじることだ。礼を保てるだろうか。礼を欠けば必ず滅びる」。宋公が昭子をもてなした時、『新宮』の詩を賦すると、昭子は『車轄』の詩で応えた。翌日の宴では酒を楽しんだ。宋公は昭子を右側に座らせ、語り合って涙を流した。楽祁佐は退出後、人に告げて言った。「今年、君(宋公)と叔孫はともに死ぬだろう。私は聞いている。悲しむべき時に楽しみ、楽しむべき時に悲しむのは、どちらも心を失った状態だ。心の精気は魂魄と呼ばれる。魂魄が離れ去れば、どうして長く生きられようか」。 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公二十五年の記述で、周王朝の内乱(王子朝の行動)や楚・呉・越の三国間の緊張、魯国を中心とした諸侯の動向が描かれています。以下の点が特筆されます:
この年代記は、単なる事実の羅列ではなく、人物の言行を通じて「礼の崩壊」が国家存亡に直結するという史観が貫かれており、『左伝』の思想的特色がよく表れています。 Translation took 3174.1 seconds. |
| 季公若之姊為小邾夫人.生宋元夫人.生子.以妻季平子.昭子如宋聘.且逆之.公若從.謂曹氏勿與.魯將逐之.曹氏告公.公告樂祁.樂祁曰.與之如是.魯君必出.政在季氏三世矣.魯君喪政四公矣.無民而能逞其志者.未之有也.國君是以鎮撫其民.詩曰.人之云亡.心之憂矣.魯君失民焉.焉得逞其志.靖以待命猶可.動必憂. 夏.會于黃父.謀王室也.趙簡子令諸侯之大夫輸王粟.具戌人.曰.明年將納王.子大叔見趙簡子.簡子問揖讓周旋之禮焉.對曰.是儀也.非禮也.簡子曰.敢問何謂禮.對曰.吉也聞諸先大夫子產曰.夫禮.天之經也.地之義也.民之行也.天地之經.而民實則之.則天之明.因地之性.生其六气.用其五行.气為五味.發為五色.章為五聲.淫則昏亂.民失其性.是故為禮以奉之.為六畜.五牲.三犧.以奉五味.為九文.六采.五章.以奉五色.為九謌.八風.七音.六律.以奉五聲.為君臣上下.以則地義.為夫婦外内.以經二物.為父子.兄弟.姑姊.甥舅.昏媾.姻亞.以象天明.為政事.庸力行務.以從四時.為刑罰.威獄.使民畏忌.以類其震曜殺戮.為溫.慈.惠.和.以效天之生殖.長育.民有好惡喜怒哀樂.生于六气.是故審則宜類.以制六志.哀有哭泣.樂有謌舞.喜有施舍.怒有戰鬥.喜生於好.怒生於惡.是故審行信令.禍福賞罰.以制死生.生.好物也.死.惡物也.好物樂也.惡物哀也.哀樂不失.乃能協于天地之性.是以長久.簡子曰.甚哉禮之大也.對曰.禮上下之紀.天地之經緯也.民之所以生也.是以先王尚之.故人之能自曲直以赴禮者.謂之成人.大不亦宜乎.簡子曰.鞅也.請終身守此言也. |
季公若の姉は小邾の夫人であり、宋元夫人を生んだ。その子を季平子の妻とした。昭子は宋に赴き聘問し、かつ彼女を迎えに行った。公若も随行し、曹氏に「与えてはならない、魯が彼を追放するだろう」と言った。曹氏は公に報告し、公は楽祁に伝えた。楽祁は言った。「このように与えるなら、魯君は必ず国外に追われるだろう。政権は季氏の手に三代続き、魯君は四代にわたって政権を失っている。民衆なしに志を達成できる者はいない。国君は民を鎮め撫でることで統治する。詩に『人が去れば、心は憂い』とある。魯君は民を失っているのに、どうして志を達成できようか。静かに命運を待つのはまだしも、動けば必ず禍がある。」 夏、黄父で会合が開かれた。王室のことを謀るためである。趙簡子は諸侯の大夫たちに周王への穀物献納と守備兵の準備を命じ、「来年、王を迎え入れよう」と言った。子大叔が趙簡子に面会した。簡子が揖譲や応対の礼について尋ねると、子大叔は答えた。「それは儀礼の形式であって、真の礼ではありません。」簡子が「では礼とは何でしょうか」と問うと、子大叔は答えた。「私は先大夫の子産からこう聞きました。礼とは天の不変の法則であり、地の根本原理であり、人々の行動規範です。天地の法則を人々は実際に手本とし、天の明るさに則り、地の性質に従って六気を生じ、五行を用います。気は五味となり、現れて五色となり、表れて五声となります。度を超せば混乱し、人々は本性を失う。そこで礼を作ってこれを整えるのです。六畜・五牲・三犧で五味を整え、九文・六采・五章で五色を整え、九歌・八風・七音・六律で五声を整えます。君臣上下の関係で地の義を規範とし、夫婦の内外の別で二つの務めを定め、父子・兄弟・姑姉・甥舅・婚姻・姻族関係で天の明るさを象ります。政事や労務で四時に従い、刑罰や威嚇で人々に畏敬の念を抱かせ、天地の雷鳴や殺伐に類させます。温かさ・慈しみ・恵み・和やかさで天の生育を模倣します。人々の好悪喜怒哀楽は六気から生じるため、基準を明らかにして六つの感情を制御します。哀しみには哭泣、喜びには歌舞、楽しみには施し、怒りには戦闘があります。喜びは好意から、怒りは憎悪から生じる。だからこそ法令を慎重に実行し、賞罰で生死を制するのです。生は好ましいもの、死は忌むべきもの。好ましいものは喜び、忌むべきものは哀しみ。哀楽の感情を適切に表せば、天地の本性と調和し長続きする。」簡子が「礼の偉大さは計り知れない」と言うと、子大叔は答えた。「礼は上下の秩序であり、天地の根本です。人々が生きる拠り所であり、先王が重んじた所以です。自らを律して礼を実践できる者を『成人』と呼ぶのは、まさに当然でしょう。」簡子は「私は生涯この教えを守りたい」と述べた。 【解説】 Translation took 4516.7 seconds. |
| 宋樂大心曰.我不輸粟.我於周為客.若之何使客.晉士伯曰.自踐土以來.宋何役之不會.而何盟之不同.曰.同恤王室.子焉得辟之.子奉君命以會大事.而宋背盟.無乃不可乎.右師不敢對.受牒而退.士伯告簡子曰.宋右師必亡.奉君命以使.而欲背盟以干盟主.無不祥大焉.有鴝鵒來巢.書所無也.師己曰.異哉.吾聞文武之世.童謠有之曰.鴝之鵒之.公出辱之.鴝鵒之羽.公在外野.往饋之馬.鴝鵒跦跦.公在乾侯.徵褰與襦.鴝鵒之巢.遠哉遙遙.稠父喪勞.宋父以驕.鴝鵒鴝鵒.往謌來哭.童謠有是.今鴝鵒來巢.其將及乎. 秋.書再雩.旱甚也. 初.季公鳥娶妻於齊.鮑文子.生甲.公鳥死.季公亥.與公思展.與公鳥之臣申夜姑.相其室.及季姒與饔人檀通.而懼.乃使其妾抶己.以示秦遄之妻.曰.公若欲使余.余不可而抶余.又訴於公甫.曰.展與夜姑將要余.秦姬以告公之.公之與公甫告平子.平子拘展於卞.而執夜姑.將殺之.公若泣而哀之.曰.殺是.是殺余也.將為之請.平子使豎勿内.日中不得請.有司逆命.公之使速殺之.故公若怨平子.季郈之雞鬥.季氏介其雞.郈氏為之金距.平子怒.益宮於郈氏.且讓之.故郈昭伯亦怨平子.臧昭伯之從弟會.為讒於臧氏.而逃於季氏.臧氏執旃.平子怒.拘臧氏老.將褅於襄公.萬者二人.其眾萬於季氏.臧孫曰.此之謂不能庸先君之廟.大夫遂怨平子.公若獻弓於公為.且與之出射於外.而謀去季氏.公為告公果.公賁.公果.公賁.使侍人僚柤告公.公寢.將以戈擊之.乃走.公曰.執之.亦無命也.懼而不出.數月不見.公不怒.又使言.公執戈以懼之.乃走.又使言.公曰.非小人之所及也.公果自言.公以告臧孫.臧孫以難.告郈孫.郈孫以可勸.告子家懿伯.懿伯曰.讒人以君徼幸.事若不克.君受其名.不可為也.舍民數世以求克.事不可必也.且政在焉.其難圖也.公退之.辭曰.臣與聞命矣.言若洩.臣不獲死.乃館於公.叔孫昭子如闞.公居於長府.九月.戊戌.伐季氏.殺公之于門.遂入之.平子登臺而請.曰.君不察臣之罪.使有司討臣以干戈.臣請待於沂上以察罪弗許.請囚于費.弗許.請以五乘亡.弗許.子家子曰.君其許之.政自之出久矣.隱民多取食焉.為之徒者眾矣.日入慝作.弗可知也.眾怒不可蓄也.蓄而弗治.將薀.薀蓄民將生心.生心同求將合.君必悔之.弗聽.郈孫曰.必殺之.公使郈孫逆孟懿子.叔孫氏之司馬鬷戾.言於其眾.曰.若之何.莫對.又曰.我家臣也.不敢知國.凡有季氏與無於我孰利.皆曰.無季氏.是無叔孫氏也.鬷戾曰.然則救諸.帥徒以往.陷西北隅以入.公徒釋甲.執冰而踞.遂逐之.孟氏使登西北隅.以望季氏.見叔孫氏之旌.以告.孟氏執郈昭伯.殺之于南門之西.遂伐公徒.子家子曰.諸臣偽劫君者.而負罪以出.君止.意如之事君也.不敢不改.公曰.余不忍也.與臧孫如墓謀.遂行.己亥.公孫于齊.次于陽州.齊侯將唁公于平陰.公先至于野井.齊侯曰.寡人之罪也.使有司待於平陰.為近故也.書曰.公孫于齊次于陽州.齊侯唁公于野井.禮也.將求於人.則先下之.禮之善物也.齊侯曰.自莒疆以西.請致千社.以待君命.寡人將帥敝賦.以從執事.唯命是聽.君之憂.寡人之憂也.公喜.子家子曰.天祿不再.天若胙君.不過周公.以魯足矣.失魯而以千社為臣.誰與之立.且齊君無信.不如早之.晉弗從.臧昭伯率從者將盟.載書曰.戮力壹心.好惡同之.信罪之有無.繾綣從公.無通外内.以公命示子家子.子家子曰.如此.吾不可以盟羈也.不佞.不能與二三子同心.而以為皆有罪.或欲通外内.且欲去君.二三子好亡而惡定.焉可同也.陷君於難.罪孰大焉.通外内而去君.君將速入.弗通何為.而何守焉.乃不與盟.昭子自闞歸.見平子.平子稽顙曰.子若我何.昭子曰.人誰不死.子以逐君成名.子孫不忘.不亦傷乎.將若子何.平子曰.苟使意如得改事君.所謂生死而肉骨也.昭子從公于齊.與公言.子家子命適公館者執之.公與昭子言於幄内.曰.將安眾而納公.公徒將殺昭子.伏諸道.左師展告公.公使昭子自鑄歸.平子有異志.冬.十月.辛酉.昭子齊於其寢.使祝宗祈死.戊辰.卒.左師展將以公乘馬而歸.公徒執之. |
宋の楽大心が言った。「私は粟を輸送しない。私は周にとって客である。どうして客を使役するのか。」晋の士伯が言った。「践土の会以来、宋はどの役事に参加しなかったというのか。またどの盟約に同調しなかったというのか。(盟約には)『共に王室を憂える』とある。あなたはどうしてそれを避けられようか。あなたは君命を奉じて大事に参加したのに、宋が盟約に背くとは、それは許されないことではないか。」右師は返答できず、文書を受け取って退いた。士伯が簡子に告げて言った。「宋の右師は必ず滅びる。君命を奉じて使節として来ながら、盟約を背いて盟主に逆らおうとは、これ以上ない不吉なことだ。」 九官鳥が巣を作りに来た。これは過去の記録にないことである。師己が言った。「異様なことだ。私は文王・武王の時代に、童謡があったのを聞いている。『九官鳥よ九官鳥よ、公は出奔して辱しめを受ける。九官鳥の羽根、公は野外にいる。馬を贈りに行くと、九官鳥は跳ね回る。公は乾侯にいる。袴と短衣を求める。九官鳥の巣は、遠く遥かだ。稠父は労苦の末に亡び、宋父は驕り高ぶる。九官鳥よ九官鳥よ、行くときは歌い、来るときは泣く』と。童謡にこうあるので、今九官鳥が巣を作りに来たのは、そのことが起こる前兆ではなかろうか。」 秋、再び零(雨乞いの祭)を行ったと記録された。旱魃がひどかったからである。 当初、季公鳥が齊の鮑文子の娘を妻に迎え、甲を生んだ。公鳥が死ぬと、季公亥と公思展、そして公鳥の家臣の申夜姑がその家務を管理した。やがて季姒が食膳係の檀と私通し、それを恐れて、自分の妾に自分を鞭打たせ、その痕を秦遄の妻に見せて言った。「公若(季公亥)が私に言い寄ろうとしたので、私が拒むと鞭で打った」と。また公甫に訴えて言った。「展と夜姑が私を襲おうとしている」と。秦姬がこれを公之に告げ、公之と公甫が平子に報告した。平子は展を卞に拘束し、夜姑を捕らえて殺そうとした。公若は泣いて哀願し、「彼を殺すのは私を殺すようなものだ」と言い、彼らのために赦しを請おうとした。平子は小臣に命じて公若を中に入れず、正午までに赦しを請うことができなかった。役人が命令を受けてきたので、公之は速やかに殺すよう促した。これにより公若は平子を怨むようになった。 季氏と郈氏の鶏が争った。季氏は自分の鶏に鎧をつけ、郈氏は自分の鶏に金属の距鉄をつけた。平子は怒り、郈氏の屋敷を拡大して奪い、さらに郈氏を責めた。これにより郈昭伯も平子を怨むようになった。 臧昭伯の従弟の会が臧氏に讒言をして、季氏に逃げ込んだ。臧氏が会を捕らえようとすると、平子は怒り、臧氏の家老を拘束した。襄公の廟で褅祭を行うとき、舞人わずか二人で、その大勢は季氏の祭りに参加した。臧孫が言った。「これを先君の廟を祀れないというのだ。」大夫たちはこれで平子を怨むようになった。 公若が公為に弓を献上し、ともに外で射箭をしながら、季氏を除くことを謀った。公為が公果と公賁に告げ、公果と公賁は侍人の僚柤を使いって公(昭公)に報告させた。公は寝ていたので、戈で撃とうとして、僚柤は逃げ出した。公は「捕らえよ」と言ったが、特に命令も出さず、僚柤は恐れて出てこなかった。数か月会わないうちに、公は怒りを収め、再び言上させた。公は戈を手にして脅したので、僚柤は逃げた。また言上させると、公は「小人の及ぶところではない」と言った。公果が自ら公に言上した。公は臧孫にこのことを告げ、臧孫は難しいと言い、郈孫に告げた。郈孫は可能だと勧め、子家懿伯に告げた。懿伯は言った。「讒言する者が君の徼幸を唆しています。事が成就しなければ、君が非難を被ります。実行すべきではありません。民をないがしろにして数世代、無理に事を成そうとしても、必ずしもうまくいきません。しかも政権は季氏が握っており、謀るのは難しいです。」公は懿伯を退けた。懿伯は辞して言った。「臣はすでに命令を聞きました。言葉が漏れれば、臣は死罪を免れません。」そして公の館に宿った。 叔孫昭子が闞に行き、公は長府に住んだ。九月戊戌の日、季氏を攻撃し、門で公之を殺し、そのまま中に入った。平子は台に登って請い、「君は臣の罪をよくお調べください。役人に武器で臣を討たせるなら、臣は沂水のほとりで待って罪を調べていただきます」と言ったが、許されなかった。「費に囚われの身となります」と請うたが、許されなかった。「五乗の車で亡命します」と請うたが、許されなかった。子家子が言った。「君は許すべきです。政権が彼の手に移って久しく、隠れた民も多く食を頼っており、彼の徒党は多いです。日が暮れれば悪意が動き出し、どうなるかわかりません。衆怒を蓄えてはなりません。蓄えて処理しなければ、鬱積します。鬱積すれば民は異心を抱き、同じ目的を持つ者が結集します。君は後悔されるでしょう。」聞き入れられなかった。郈孫が言った。「必ず殺すべきです。」公は郈孫を孟懿子を迎えに行かせた。 叔孫氏の司馬鬷戾が配下に言った。「どうするべきか。」誰も答えなかった。また言った。「我々は家臣である。国政には関知しない。ただ、季氏があるのとないのと、どちらが我々に利があるか。」皆が言った。「季氏がなければ、叔孫氏もない。」鬷戾が言った。「それなら救おう。」配下を率いて行き、北西の隅を破って入った。公の兵士は鎧を脱ぎ、武器を置いて座り込んでいたので、遂に彼らを追い払った。孟氏は人を北西の隅に登らせ、季氏の様子を眺めさせた。叔孫氏の旗が見えたので、報告した。孟氏は郈昭伯を捕らえ、南門の西で殺した。そして公の兵士を攻撃した。 子家子が言った。「諸臣が偽って君を脅迫した者として、罪を負って出国させてください。君は留まられます。意如(平子)も君に仕える以上、改めざるを得ません。」公は言った。「私はそれに耐えられない。」臧孫とともに墓に行って謀り、遂に出奔した。己亥の日、公は齊に逃れ、陽州に駐まった。齊侯が平陰で公を弔問しようとしたが、公は先に野井に着いた。齊侯が言った。「これは寡人の罪だ。役人を平陰で待たせたのは、近いと思ったからだ。」記録には「公、齊に孫(逃)ぎ、陽州に次(駐)る。齊侯、野井にて公を唁(弔)う」とあり、礼に適っている。人に求めるには、まずへりくだるのが、礼の良いところである。齊侯は言った。「莒の国境以西、千社を献上して君の命令をお待ちします。寡人は軍勢を率いて、執事に従い、唯々命令に従います。君の憂いは寡人の憂いです。」公は喜んだ。子家子が言った。「天の禄は二度と来ません。天が君に福を授けるとしても、周公を超えず、魯一国で十分です。魯を失って千社の臣となるなら、誰が君を立てましょうか。しかも齊の君は信義がなく、早く晉に行くべきです。」公は従わなかった。 臧昭伯が従者を率いて盟約しようとした。盟書に「力を合わせ心を一つにし、好悪を同じくする。罪の有無を信じ、公に従って離れず、内外の通じを断つ」と記した。これを子家子に見せると、子家子は言った。「このようでは、私は盟約できません。私は不肖で、二三子と同心できません。あなた方は皆罪があると思っています。ある者は内外を通じようとし、かつ君を去ろうとしています。二三子は亡命を好み安定を嫌う。どうして同心できましょうか。君を難に陥れた罪より大きいものがありますか。内外を通じて君を去れば、君は速やかに帰国できるでしょう。通じなければ何を守るというのですか。」そして盟約に加わらなかった。 昭子が闞から帰り、平子に会った。平子は稽顙(地に頭をつけて礼)して言った。「あなたは私をどうしますか。」昭子は言った。「人が誰死なないということがありましょうか。あなたは君を追放して成名した。子孫がこれを忘れないのは、悲しいことではありませんか。あなたをどうしようというのですか。」平子は言った。「もし意如が改めて君に仕えさせていただければ、所謂生死人而肉白骨(死者を生かし白骨に肉をつける)です。」昭子は公のいる齊に行き、公と会った。子家子は公の館に行く者を捕らえるよう命じた。公と昭子が幕舎の中で語らうと、昭子は「衆を安定させて公を帰国させます」と言った。公の徒党が昭子を殺そうとし、道に伏せた。左師展が公に告げ、公は昭子に鑄から帰るよう命じた。平子は異心を抱いていた。 冬十月辛酉の日、昭子は自分の寝屋で斎戒し、祝宗に死を祈らせた。戊辰の日、死去した。左師展が公を車で帰国させようとしたが、公の徒党に捕らえられた。 【解説】 Translation took 5065.5 seconds. |
| 壬申.尹文公涉于鞏.焚東訾.弗克. 十一月.宋公元公將為公故如晉.夢大子欒即位於廟.已與平公.服而相之.旦召六卿.公曰.寡人不佞.不能事父兄.以為二三子憂.寡人之罪也.若以群子之靈.獲保首領以歿.唯是楄柎所以藉幹者.請無及先君.仲幾對曰.君若以社稷之故.私降昵宴.群臣弗敢知.若夫宋國之法.死生之度.先君有命矣.群臣以死守之.弗敢失隊.臣之失職.常刑不赦.臣不忍其死.君命祗辱.宋公遂行.己亥.卒于曲棘. 十二月.庚辰.齊侯圍鄆. 初.臧昭伯如晉.臧會竊其寶龜僂句.以卜為信與僭.僭吉.臧氏老將如晉問.會請往.昭伯問家故.盡對.及内子與母弟叔孫.則不對.再三問.不對.歸.及郊.會逆.問.又如初.至.次於外而察之.皆無之.執而戮之.逸奔郈.郈魴假使為賈正焉.計於季氏.臧氏使五人.以戈楯伏諸桐汝之閭.會出逐之.反奔.執諸季氏中門之外.平子怒曰.何故以兵入吾門.拘臧氏老.季臧有惡.及昭伯從公.平子立臧會.會曰.僂句不余欺也. 楚子使薳射城州屈.復茄人焉.城丘皇.遷訾人焉.使熊相禖郭巢.季然郭卷.子大叔聞之.曰.楚王將死矣.使民不安其土.民必憂.憂將及王.弗能久矣. 昭公二十六年 經 二十有六年春.王正月.葬宋元公. |
壬申の日、尹文公が鞏を渡り、東訾を焼いたが、攻略できなかった。 十一月、宋の元公が昭公のため晉へ向かおうとした。その際、太子欒が宗廟で即位し、自分が平公と共に礼服を着て補佐する夢を見た。朝に六卿を召集し、元公は言った。「私は不肖で、父兄(先君)に仕えることができず、諸君を憂わせた。これが私の罪である。もし諸君の加護によって無事に生涯を終えられるなら、棺を支える台木(楄柎)についてだけは、先君のものに及ばない程度で済ませてほしい」。仲幾が答えて言った。「君が国家のため、私的な親睦を控えられるのであれば、群臣は敢えて異議を申しません。しかし宋国の法では、生死に関する規程は先君が既に定めておられます。群臣は命を懸けてこれを守り、決して違えません。臣が職務を怠れば常刑は赦されず、私は死を忍びません。君のご命令はかえって屈辱となります」。宋公は遂に出発し、己亥の日に曲棘で亡くなった。 十二月の庚辰の日、齊侯が鄆を包囲した。 当初、臧昭伯が晉へ向かった時、臧會は彼の宝龟「僂句」を盗み、誠実か偽りかを占ったところ、「偽り」が吉と出た。臧氏の家老が晉の様子を聞きに行こうとした時、臧會が自ら行くことを申し出た。昭伯が家の事情を尋ねると、臧會は全て答えたが、正室と異母弟の叔孫について尋ねられた時だけは答えなかった。繰り返し問われても答えず、帰路についた。郊外に着くと臧會が迎えに来たが、同じ質問をしてもやはり答えなかった。昭伯が屋外に泊まって観察すると、その二人はどこにもいなかった。臧會を捕らえて処刑しようとしたが、彼は逃れて郈に奔った。郈の大夫魴が彼を仮の賈正(市場官吏)に任命し、季氏への報告を担当させた。臧氏は五人の者に戈と盾を持たせ、桐汝の里に潜伏させた。臧會が現れると追いかけ、逃げ返った彼を季氏屋敷の中門外で捕らえた。季孫平子は怒って「なぜ武器を持って我が門に入るのか」と言い、臧氏の家老を拘束した。これにより季氏と臧氏の関係は悪化し、昭伯が昭公に従った後、平子は臧會を臧氏の後継ぎに立てた。臧會は「僂句は私を欺かなかった」と言った。 楚王が薳射に州屈に城を築かせ、茄の住民を戻らせた。丘皇に城を築き、訾の住民を移住させた。熊相禖に巢の城郭を修築させ、季然に卷の城郭を修築させた。子大叔がこれを聞いて言った。「楚王はまもなく死ぬだろう。民を故郷から離れさせて不安に陥れれば、民の憂いは必ず王に及び、王の命は長く続かない」。 昭公二十六年 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公二十六年の記述で、以下のような内容を含みます。 全体として、春秋時代の政治動向や社会規範を伝えるとともに、占いや夢などの非合理的要素が歴史叙述に織り込まれた特徴が現れています。 Translation took 3373.8 seconds. |
| 三月.公至自齊.居于鄆. 夏.公圍成. 秋.公會齊侯.莒子.邾子.杞伯.盟于鄟陵.公至自會.居于鄆. 九月.庚申.楚子居卒. 冬.十月.天王入于成周.尹氏.召伯.毛伯.以王子朝奔楚. 傳 二十六年春.王正月.庚申.齊侯取鄆.葬宋元公.如先君.禮也. 三月.公至自齊.處于鄆.言魯地也. 夏.齊侯將納公.命無受魯貨.申豐從女賈.以幣錦二兩.縛一如瑱.適齊師.謂子猶之人高齮.能貨子猶.為高氏後.粟五千庾.高齮以錦示子猶.子猶欲之.齮曰.魯人買之.百兩一布.以道之不通.先入幣財.子猶受之.言於齊侯曰.群臣不盡力于魯君者.非不能事君也.然據有異焉.宋元公為魯君如晉.卒於曲棘.叔孫昭子求納其君.無疾而死.不知天之棄魯耶.抑魯君有罪於鬼神.故及此也.君若待于曲棘.使群臣從魯君以卜焉.若可.師有濟也.君而繼之.茲無敵矣.若其無成.君無辱焉.齊侯從之.使公子鉏帥師從公成大夫.公孫朝謂平子曰.有都以衛國也.請我受師.許之.請納質.弗許.曰.信女足矣.告於齊師曰.孟氏.魯之敝室也.用成已甚.弗能忍也.請息肩于齊.齊師圍成.成人伐齊師之飲馬于淄者.曰.將以厭眾.魯成備而後告.曰.不勝眾.師及齊師戰于炊鼻.齊子淵捷從洩聲子.射之中楯瓦.繇朐汏.輈匕入者三寸.聲子射其馬.斬鞅.殪.改駕人以為鬷戾也.而助之.子車曰.齊人也.將擊子車.子車射之.殪.其御曰.又之.子車曰.眾可懼也.而不可怒也.子囊帶從野洩.叱之.洩曰.軍無私怒.報乃私也.將亢子.又叱之.亦叱之.冉豎射陳武子.中手.失弓而罵.以告平子曰.有君子白皙.鬒鬚眉.甚口.平子曰.必子彊也.無乃亢諸.對曰.謂之君子.何敢亢之.林雍羞為顏鳴右.下.苑何忌取其耳.顏鳴去之.苑子之御曰.視下顧.苑子刜林雍.斷其足.鑋而乘於他車以歸.顏鳴三入齊師.呼曰.林雍乘. |
【翻訳文】 伝(解説部分) 【解説】
この記述は、春秋時代後期の権力闘争において、武力だけでなく情報工作や心理戦が重要だったことを物語る貴重な史料となっています。 Translation took 5869.8 seconds. |
| 四月.單子如晉告急. 五月.戊午.劉人敗王城之師于尸氏.戊辰.王城人.劉人.戰于施谷.劉師敗績. 秋.盟于剸陵.謀納公也. 七月.己巳.劉子以王出.庚午.次于渠.王城人焚劉.丙子.王宿于褚氏.丁丑.王次于萑谷.庚辰.王入于胥靡.辛巳.王次于滑.晉知躒.趙鞅.帥師納王.使汝寬守關塞. 九月.楚平王卒.令尹子常欲立子西.曰.大子壬弱.其母非適也.王子建實聘之.子西長而好善.立長則順.建善則治.王順國治.可不務乎.子西怒曰.是亂國而惡君王也.國有外援.不可瀆也.王有適嗣.不可亂也.敗親速讎亂嗣不祥.我受其名.賂吾以天下.吾滋不從也.楚國何為.必殺令尹.令尹懼.乃立昭王. 冬.十月.丙申.王起師于滑.辛丑.在郊.遂次于尸. 十一月.辛酉.晉師克鞏.召伯盈逐王子朝.王子朝及召氏之族.毛氏得.尹氏固.南宮嚚.奉周之典籍.以奔楚.陰忌奔莒以叛.召伯逆王于尸.及劉子單子盟.遂軍圉澤.次于隄上.癸酉.王入于成周.甲戌.盟于襄宮.晉師成公般戍周而還. 十二月.癸未.王入于莊宮.王子朝使告于諸侯曰.昔武王克殷.成王靖四方.康王息民.並建母弟.以蕃屏周.亦曰.吾無專享文武之功.且為後人之迷敗傾覆.而溺入于難.則振救之.至于夷王.王愆于厥身.諸侯莫不並走其望.以祈王身.至于厲王.王心戾虐.萬民弗忍.居王于彘.諸侯釋位.以間王政.宣王有志.而後效官.至于幽王.天不弔周.王昏不若.用愆厥位.攜王奸命.諸侯替之.而建王嗣.用遷郟鄏.則是兄弟之能用力於王室也.至于惠王.天不靖周.生頹禍心.施于叔帶.惠襄辟難.越去王都.則有晉鄭.咸黜不端.以綏定王家.則是兄弟之能率先王之命也.在定王六年.秦人降妖.曰.周其有髭王.亦克能脩其職.諸侯服享.二世共職.王室其有間王位.諸侯不圖.而受其亂災.至于靈王.生而有髭.王甚神聖.無惡於諸侯.靈王景王.克終其世.今王室亂.單旗.劉狄.剝亂天下.壹行不若.謂先王何常之有.唯余心所命.其誰敢請之.帥群不弔之人.以行亂于王室.侵欲無厭.規求無度.貫瀆鬼神.慢棄刑法.倍奸齊盟.傲很威儀.矯誣先王.晉為不道.是攝是贊.思肆其罔極.茲不穀震盪播越.竄在荊蠻.未有攸厎.若我一二兄弟甥舅.獎順天法.無助狡猾.以從先王之命.毋速天罰.赦圖不穀.則所願也.敢盡布其腹心.及先王之經.而諸侯實深圖之.昔先王之命曰.王后無適.則擇立長.年鈞以德.德鈞以卜.王不立愛.公卿無私.古之制也.穆后及大子壽.早天即世.單劉贊私立少.以間先王.亦唯伯仲叔季圖之.閔馬父聞子朝之辭曰.文辭以行禮也.子朝干景之命.遠晉之大.以專其志.無禮甚矣.文辭何為.齊有彗星.齊侯使禳之.晏子曰.無益也.祇取誣焉.天道不諂不貳.其命若之何.禳之.且天之有彗也.以除穢也.君無穢德.又何禳焉.若德之穢.禳之何損.詩曰.惟此文王.小心翼翼.昭事上帝.聿懷多福.厥德不回.以受方國.君無違德.方國將至.何患於彗.詩曰.我無所監.夏后及商.用亂之故.民卒流亡.若德回亂.民將流亡.祝史之為.無能補也.公說.乃止.齊侯與晏子坐于路寢.公歎曰.美哉室.其誰有此乎.晏子曰.敢問何謂也.公曰.吾以為在德.對曰.如君之言.其陳氏乎.陳氏雖無大德.而有施於民.豆區釜鍾之數.其取之公也薄.其施之民也厚.公厚斂焉.陳氏厚施焉.民歸之矣.詩曰.雖無德與女.式謌且舞.陳氏之施.民謌舞之矣.後世若少惰陳氏而不亡.則國其國也已.公曰.善哉.是可若何.對曰.唯禮可以已之.在禮家施不及國.民不遷晨.不移工.賈不變士.不濫官.不滔大夫.不收公利.公曰.善哉.我不能矣.吾今而後知禮之可以為國也.對曰.禮之可以為國也久矣.與天地並.君令臣共.父慈子孝.兄愛弟敬.夫和妻柔.姑慈婦聽.禮也.君令而不違.臣共而不貳.父慈而教.子孝而箴.兄愛而友.弟敬而順.夫和而義.妻柔而正.姑慈而從.婦聽而婉.禮之善物也.公曰善哉.寡人今而後聞此.禮之上也.對曰.先王所稟於天地.以為其民也.是以先王上之. 昭公二十七年 經 |
【翻訳文】 【解説】 1. 歴史的展開 2. 思想的特徴 3. 文章表現 この一節は、戦乱の記録であると同時に、乱世においてこそ重視されるべき統治の原理を浮き彫りにしている点に史的価値があります。 Translation took 4601.3 seconds. |
| 二十有七年春.公如齊.公至自齊.居于鄆. 夏.四月.吳弒其君僚.楚殺其大夫郤宛. 秋.晉士鞅.宋樂祁犁.衛北宮喜.曹人.邾人.滕人.會于扈. 冬.十月.曹伯午卒.邾快來奔.公如齊.公至自齊.居于鄆. 傳 二十七年春.公如齊.公至自齊.處于鄆.言在外也.吳子欲因楚喪而伐之.使公子掩餘.公子燭庸.帥師圍潛.使延州來季子聘于上國.遂聘于晉.以觀諸侯.楚莠尹然.工尹麇.帥師救潛.左司馬沈尹戌.帥都君子與王馬之屬.以濟師.與吳師遇于窮.令尹子常以舟師及沙汭而還.左尹郤宛.工尹壽.帥師至于潛.吳師不能退.吳公子光曰.此時也.弗可失也.告鱄設諸曰.上國有言曰.不索何獲.我王嗣也.吾欲求之.事若克.季子雖至.不吾廢也.鱄設諸曰.王可弒也.母老子弱.是無若我何.光曰.我爾身也. 夏.四月.光伏甲於堀室而享王.王使甲坐於道.及其門.門階戶席.皆王親也.夾之以鈹.羞者獻體改服於門外.執羞者坐行而入.執鈹者夾承之.及體以相授也.光偽足疾.入于堀室.鱄設諸寘劍於魚中以進.抽劍刺王.鈹交於胸.遂弒王.闔廬以其子為卿.季子至曰.苟先君無廢祀.民人無廢主.社稷有奉.國家無傾.乃吾君也.吾誰敢怨.哀死事生.以待天命.非我生亂.立者從之.先人之道也.復命哭墓.復位而待.吳公子掩餘奔徐.公子燭庸奔鍾吾.楚師聞吳亂而還.郤宛直而和.國人說之.鄢將師為右領.與費無極比而惡之.令尹子常賄而信讒.無極譖郤宛焉.謂子常曰.子惡欲飲子酒.又謂子惡.令尹欲飲酒於子氏.子惡曰.我賤人也.不足以辱令尹.令尹將必來辱.為惠巳甚.吾無以酬之.若何.無極曰.令尹好甲兵.子出之.吾擇焉.取五甲五兵.曰.寘諸門.令尹至.必觀之.而從以酬之.及饗日.帷諸門左.無極謂令尹曰.吾幾禍子.子惡將為子不利.甲在門矣.子必無往.且此役也.吳可以得志.子惡取賂焉而還.又誤群帥.使退其師.曰.乘亂不祥.吳乘我喪.我乘其亂.不亦可乎.令尹使視郤氏.則有甲焉.不往.召鄢將師而告之.將師退.遂令攻郤氏.且爇之.子惡聞之.遂自殺也.國人弗爇.令曰.不爇郤氏.與之同罪.或取一編菅焉.或取一秉稈焉.國人投之.遂弗爇也.令尹炮之.盡滅郤氏之族黨.殺陽令終.與其弟完.及佗.與晉.陳.及其子弟.晉陳之族.呼於國曰.鄢氏費氏.自以為王.專禍楚國.弱寡王室.蒙王與令尹.以自利也.令尹盡信之矣.國將如何.令尹病之. |
二十七年の春、公は斉に行かれた。公が斉から帰られ、鄆に住まれた。 夏、四月、呉が自国の君僚を弑した。楚が自国の大夫郤宛を殺した。 秋、晋の士鞅、宋の楽祁犁、衛の北宮喜、曹の人、邾の人、滕の人が扈で会合した。 冬、十月、曹伯午が卒去した。邾の快が来奔した。公は斉に行かれた。公が斉から帰られ、鄆に住まれた。 伝 二十七年の春、公は斉に行かれた。公が斉から帰られ、鄆に滞在された。これは国外にいたことを示す。呉子(呉王僚)は楚の喪中につけ込んで討伐しようとし、公子掩余と公子燭庸に軍を率いさせて潜を包囲させた。延州来の季子を上国に派遣し、続いて晋にも派遣して、諸侯の情勢を探らせた。楚の莠尹然と工尹麇が軍を率いて潜を救援し、左司馬沈尹戌が都の君子と王馬の属を率いて援軍として向かい、窮で呉軍と遭遇した。令尹子常は水軍を率いて沙汭まで進んだが撤退した。左尹郤宛と工尹寿が軍を率いて潜に到着すると、呉軍は退却できなくなった。 呉の公子光は「この時機を逃すべきではない」と言い、鱄設諸に告げて「上国に『求めなければ得られない』という言葉がある。私は王位継承者だ。これを求めたい。事が成功すれば、季子が帰ってきても私を廃さないだろう」と言った。鱄設諸は「王は弑することができます。しかし母は老い、子は幼いので、彼らをどうすればよいでしょうか」と問うと、光は「私があなたの身の代わりになる」と答えた。 夏、四月、光は堀室に甲兵を伏せて王を饗応した。王は衛兵を道から門まで、門階や戸席の至る所に配置し、鈹で挟み持たせた。給仕たちは门外で体を清め服装を改め、跪いて進み入り、鈹を持つ者たちが挟んで体が触れるほど近くで受け渡した。光は足の病気を偽り、堀室に入った。鱄設諸は魚の中に剣を隠して進み出ると、剣を抜いて王を刺した。鈹が胸に交差し、王を弑した。闔廬(光)はその子を卿とした。 季子が到着して言った。「もし先君の祭祀が廃されず、民に主君が絶えず、社稷が守られ、国家が傾かなければ、それがわが君である。私は誰を怨もうか。死者を哀しみ生者に仕えて、天命を待つだけだ。乱を起こしたのは私ではない。立った者に従うのが先人の道である」。墓前で復命の哭礼を行い、元の職位に戻って待った。 呉の公子掩余は徐に奔り、公子燭庸は鍾吾に奔った。楚軍は呉の内乱を聞いて撤退した。 郤宛は正直で温和だったため、国人は彼を喜んでいた。鄢将師は右領となり、費無極と結んで郤宛を憎んでいた。令尹子常は賄賂を受け取り讒言を信じる性質で、無極は郤宛を讒訴した。子常に「子悪(郤宛)があなたに酒を勧めたいと言っています」と告げ、また子悪には「令尹があなたの家で酒を飲みたいと言っています」と伝えた。子悪は「私は卑しい身分で、令尹を辱めるには足りません。令尹が来られるなら、恩恵は甚だしい。私は報いる方法がありません」と言うと、無極は「令尹は甲冑武器を好みます。あなたがそれを出せば、私が選びましょう」と言い、五つの甲冑と五つの武器を選んで「門に置いておけば、令尹が来たら必ず見るだろう。それで報いにすればよい」と助言した。 饗応の日、門左に帷を設けると、無極は令尹に「私は危うくあなたを災いに巻き込むところでした。子悪があなたを害そうとしています。甲冑が門にあります。行ってはなりません」と警告し、「かつての戦役で呉は目的を達成できたはずでしたが、子悪が賄賂を受け取って撤退し、将帥たちを誤らせました。『乱に乗じるのは不吉だ』と言って。呉が我々の喪中に乗じたのに、我々がその乱に乗じるのは良いことではありませんか」と付け加えた。令尹が郤氏を偵察させると、確かに甲冑があったので行かず、鄢将師を呼んで告げた。将師が退くと、郤氏を攻めて焼き払うよう命じた。子悪はこれを聞いて自殺した。国人は焼くことを拒んだが、令尹は「郤氏を焼かない者は同罪とする」と命じた。すると国人は菅や稈を投げ入れたため、結局焼くことはできなかった。令尹は郤氏の一族を皆殺しにし、陽令終とその弟完、佗、晋陳とその子弟らを殺した。晋陳の族は国中で叫んだ。「鄢氏と費氏は王を自称し、楚国に災いを専らにし、王室を弱体化させ、王と令尹を欺いて私利を図っている。令尹はこれを全て信じている。国はどうなるのか」。令尹はこれを憂いた。 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公27年(紀元前515年)の記述です。魯の昭公が斉へ行き、帰国後も鄆に滞在するなど、魯の動向が簡潔に記されます。主な出来事は以下の通りです:
この時期は春秋時代後期の転換点で、呉の台頭や楚の内部分裂など、後の戦国時代へ向けた動乱の萌芽が見えます。左伝の特徴である詳細な人物描写や心理描写が、政変のドラマティックな側面を活写しています。 Translation took 3949.9 seconds. |
| 秋.會于扈.令成周.且謀納公也.宋衛皆利納公.固請之.范獻子取貨於季孫.謂司城子梁與北宮貞子曰.季孫未知其罪.而君伐之.請囚請亡.於是乎不獲.君又弗克.而自出也.夫豈無備而能出君乎.季氏之復.天救之也.休公徒之怒.而啟叔孫氏之心.不然.豈其伐人而說甲執冰以游.叔孫氏懼禍之濫.而自同於季氏.天之道也.魯君守齊.三年而無成.季氏甚得其民.淮夷與之.有十年之備.有齊楚之援.有天之贊.有民之助.有堅守之心.有列國之權.而弗敢宣也.事君如在國.故鞅以為難.二子皆圖國者也.而欲納魯君.鞅之願也.請從二子以圍魯.無成.死之.二子懼.皆辭.乃辭小國.而以難復.孟懿子陽虎伐鄆.鄆人將戰.子家子曰.天命不慆久矣.使君亡者.必此眾也.天既禍之.而自福也.不亦難乎.猶有鬼神.此必敗也.嗚呼.為無望也夫.其死於此乎.公使子家子如晉.公徒敗于且知.楚郤宛之難.國言未已.進胙者莫不謗令尹.沈尹戌言於子常曰.夫左尹與中廄尹.莫知其罪.而子殺之.以興謗讟.至于今不已.戌也惑之.仁者殺人以掩謗.猶弗為也.今吾子殺人以興謗.而弗圖.不亦異乎.夫無極.楚之讒人也.民莫不知.去朝吳.出蔡侯宋.喪太子建.殺連尹奢.屏王之耳目.使不聰明.不然.平王之溫惠共儉.有過成莊.無不及焉.所以不獲諸侯.邇無及也.今又殺三不辜.以興大謗.幾及子矣.子而不圖.將焉用之.夫鄢將師矯子之命.以滅三族.國之良也.而不愆位.吳新有君.疆埸日駭.楚國若有大事.子其危哉.知者除讒以自安也.今子愛讒以自危也.甚矣其惑也.子常曰.是瓦之罪.敢不良圖. |
秋に、扈で会合が行われた。成周を整備し、かつ魯公を受け入れることを謀った。宋と衛はともに公を受け入れることが利益になると考え、強く請願した。范獻子は季孫から財貨を受け取り、司城子梁と北宮貞子に言った。「季孫は自分の罪を知らないのに、君(魯公)がこれを討った。囚われることを請い、亡命することを請うたが、それでも認められなかった。君はまた勝てず、自ら出奔した。どうして備えがなくて君を追い出せようか。季氏の復活は、天が救ったのである。公の徒衆の怒りを静め、叔孫氏の心を開かせた。そうでなければ、どうして人を討つのに甲冑を脱ぎ、氷を持って遊ぶことがあろうか。叔孫氏は禍が広がるのを恐れ、自ら季氏と同一化した。天の道理である。魯君は斉に留まり、三年たっても成果がなかった。季氏は民衆を大いに得て、淮夷もこれに加担した。十年分の備えがあり、斉と楚の支援があり、天の加護があり、民の助けがあり、堅守する意思があり、諸国に対する権勢があるが、敢えて表立って主張しない。君に仕えること国にいる時と同様である。故に私は難しいと思う。お二人は国政を担う者であるが、魯君を受け入れようとする。私の願いである。お二人に従って魯を包囲し、成果がなければ死のう。」二人は恐れ、ともに辞退した。そこで小国を断り、困難として復命した。孟懿子と陽虎が鄆を攻撃した。鄆の人は戦おうとした。子家子が言った。「天命が疑いない状態は久しい。君を亡ぼす者は、必ずこの軍勢である。天が既に禍を与えたのに、自ら幸福を求めるのは、難しくないか。なお鬼神が存在するなら、これは必ず敗れるであろう。ああ、希望はないな。彼はここで死ぬのであろうか。」公は子家子を晋に派遣した。公の徒衆は且知で敗北した。楚の郤宛の事件で、国内の噂は止まない。胙肉を献上する者で令尹を非難しない者はない。沈尹戌が子常に言った。「左尹と中廄尹は、罪を知らないのに、子がこれを殺した。これによって非難が沸き起こり、今も止まない。私は困惑する。仁者は人を殺して非難を覆い隠すことさえ、まだ行わない。今子は人を殺して非難を引き起こし、対策を講じない。異常ではないか。無極は楚の奸臣である。民は知らない者はいない。朝吳を追放し、蔡侯宋を出国させ、太子建を失わせ、連尹奢を殺し、王の耳目を遮り、聡明でなくさせた。そうでなければ、平王の温厚で恵み深く倹約な性質は、成王や庄王を上回り、及ばない点はない。だから諸侯の支持を得られなかったのは、近隣との関係が悪化したためである。今また三人の無実の者を殺し、大きな非難を引き起こした。ほとんど子に及ぶ。子が対策を講じないなら、将に何の役に立とうか。鄢将師が子の命令を偽って、三族を滅ぼした。国の有能な臣である。しかも職務に過ちはなかった。吳は新たに君主が立ち、国境は日々緊迫している。楚國に大事が起これば、子は危ういであろう。賢者は奸臣を除いて自ら安泰を図る。今子は奸臣を愛して自ら危険に陥る。甚だしいその迷いである。」子常は言った。「これは私の罪である。敢えてよく対策を講じないわけにはいかない。」 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公二十五年から二十六年にかけての記述で、魯国をめぐる複雑な権力闘争と国際関係を描いています。主なポイントは以下の通りです。
この passage は、単なる史実の記録ではなく、権力の正当性や為政者の責任について深い考察を促す内容となっています。 Translation took 5347.6 seconds. |
| 九月.己未.子常殺費無極與鄢將師.盡滅其族.以說于國.謗言乃止.冬.公如齊.齊侯請饗之子家子曰.朝夕立於其朝.又何饗焉.其飲酒也.乃飲酒.使宰獻而請安.子仲之子曰重.為齊侯夫人.曰.請使重見.子家子乃以君出. 十二月.晉籍秦致諸侯之戍于周.魯人辭以難. 昭公二十八年 經 二十有八年春.王三月.葬曹悼公.公如晉.次于乾侯. 夏.四月.丙戌.鄭伯寧卒. 六月.葬鄭定公. 秋.七月.癸巳.滕子寧卒.冬.葬滕悼公. 傳 二十八年春.公如晉.將如乾侯.子家子曰.有求於人.而即其安.人孰矜之.其造於竟.弗聽.使請逆於晉.晉人曰.天禍魯國.君淹恤在外.君亦不使一個.辱在寡人.而即安於甥舅.其亦使逆君.使公復于竟而後逆之.晉祁勝與鄔臧通室.祁盈將執之.訪於司馬叔游.叔游曰.鄭書有之.惡直醜正.實蕃有徒.無道立矣.子懼不免.詩曰.民之多辟.無自立辟.姑已若何.盈曰.祁氏私有討.國何有焉.遂執之.祁勝賂荀躒.荀躒為之言於晉侯.晉侯執祁盈.祁盈之臣曰.鈞將皆死.憖使吾君聞勝與臧之死也以為快.乃殺之. 夏.六月.晉殺祁盈及楊食我.食我.祁盈之黨也.而助亂.故殺之.遂滅祁氏.羊舌氏.初.叔向欲娶於申公巫臣氏.其母欲娶其黨.叔向曰.吾母多而庶鮮.吾懲舅氏矣.其母曰.子靈之妻.殺三夫.一君.一子.而亡一國.兩卿矣.可無懲乎.吾聞之.甚美必有甚惡.是鄭穆少妃.姚子之子.子貉之妹也.子貉早死無後.而天鍾美於是.將必以是.大有敗也.昔有仍氏生女.黰黑.而甚美.光可以鑑.名曰玄妻.樂正后夔取之.生伯封.實有豕心.貪惏無饜.忿纇無期.謂之封豕.有窮后羿滅之.夔是以不祀.且三代之亡.共子之廢.皆是物也.女何以為哉.夫有尤物.足以移人.苟非德義.則必有禍.叔向懼.不敢取.平公強使取之.生伯石.伯石始生.子容之母走謁諸姑.曰.長叔姒生男.姑視之.及堂.聞其聲而還.曰.是豺狼之聲也.狼子野心.非是.莫喪羊舌氏矣.遂弗視. |
【翻訳文】 十二月、晋の籍秦が諸侯の周王朝守備兵を召集したが、魯は国内の困難を理由にこれを断った。 昭公二十八年 二十八年春、周暦三月、曹悼公を葬る。昭公が晋へ行かれる。乾侯に駐屯される。 夏四月丙戌の日、鄭伯寧が逝去。 伝(詳細記録) 二十八年春、昭公が晋へ向かわれ、乾侯に滞在されようとした。子家子が諫めて言った。「他国に援助を求める者が、安住の地をすぐに得ようとすれば、誰が哀れんで助けるでしょうか。国境まで進んで待たれるべきです」。しかし昭公は聞き入れず、晋に使者を送って出迎えを要請した。晋側は「天が魯国に災いを下し、君侯が国外で苦難にあわれている。しかるに魯からは一人の使者も我が君のもとに遣わさず、甥舅の関係にある斉に安住を求めておられる。晋が迎えに行くなら、まず国境まで戻られるのが筋である」と答えた。結局、昭公が国境に戻ってから迎えの使者が送られた。 晋では祁勝と鄔臧が互いの妻を交換する不義を行った。祁盈(祁氏の領主)が彼らを捕らえようとし、司馬叔游に相談した。叔游は諫めて言った。「鄭書に『正直な者を憎み正しい者を疎む輩は実に多い。無道がはびこれば、身の危険を免れまい』とあります。詩経にも『世に邪悪が多い時は、自分から法を作り出すな』と。ひとまず見逃してはどうか」。しかし祁盈は「これは祁家の私的な制裁であって、国政とは無関係だ」と押し切り、二人を捕らえた。祁勝は荀躒に賄賂を贈り、荀躒が晋侯にとりなしたため、晋侯は逆に祁盈を拘束した。祁盈の家臣たちは「いずれ皆死ぬなら、せめて主君に祁勝と鄔臧の死を知らせて痛快さを味わわせよう」と言い、二人を殺害した。 夏六月、晋は祁盈と楊食我を処刑した。食我は祁盈の与党で乱を助けたためである。こうして祁氏と羊舌氏は滅ぼされた。 当初、叔向(羊舌肸)は申公巫臣の娘と結婚しようとしたが、叔向の母は自分と同じ一族の娘を望んだ。叔向が「我が家は母方の親族が多くても庶子は少ない。舅の家の失敗を戒めとしています」と言うと、母は「あの子霊(巫臣)の妻は、三人の夫と一人の君主、一人の子を殺し、一国と二人の卿を滅ぼした女よ。戒めなくてどうするのか。『非常に美しい者には必ず甚だしい悪がある』と言う。彼女は鄭穆公の側室の娘で、子貉の妹だ。子貉が早世して後継がおらず、天が美をこの娘に集めたのは、きっと大いなる災いをもたらすためよ」と反論した。さらに昔の故事を引いて「有仍氏の娘・玄妻は髪が黒く光り輝く美女だったが、彼女が生んだ伯封は猪のような貪欲な心を持ち、封豕(大猪)と呼ばれて后羿に滅ぼされた。三代の滅亡や太子たちの廃嫡も皆、こうした美女が原因だ。特に優れた女性は人を狂わせる。徳義がなければ必ず禍いとなる」と言い聞かせた。叔向は恐れて結婚をためらったが、平公が強引に娶らせた。生まれた伯石が産声をあげた時、叔向の兄嫁が姑(叔向の母)に報告に行くと、堂に着いて声を聞くや引き返し「これは豺狼の声だ。狼のような野心の持ち主こそが、羊舌氏を滅ぼす者だ」と言って一目も見ようとしなかった。 【解説】
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| 秋.晉韓宣子卒.魏獻子為政.分祁氏之田.以為七縣.分羊舌氏之田.以為三縣.司馬彌牟為鄔大夫.賈辛為祁大夫.司馬烏為平陵大夫.魏戊為梗陽大夫.知徐吾為塗水大夫.韓固為馬首大夫.孟丙為盂大夫.樂霄為銅鞮大夫.趙朝為平陽大夫.僚安為楊氏大夫.謂賈辛.司馬烏.為有力於王室.故舉之.謂知徐吾.趙朝.韓固.魏戊.餘子之不失職.能守業者也.其四人者.皆受縣而後見於魏子.以賢舉也.魏子謂成鱄.吾與戊也縣.人其以我為黨乎.對曰.何也.戊之為人也.遠不忘君.近不偪同.居利思義.在約思純.有守心而無淫行.雖與之縣不亦可乎.昔武王克商.光有天下.其兄弟之國者.十有五人.姬姓之國者.四十人.皆舉親也.夫舉無他.唯善所在.親疏一也.詩曰.唯此文王.帝度其心.莫其德音.其德克明.克明克類.克長克君.王此大國.克順克比.比于文王.其德靡悔.既受帝祉.施于孫子.心能制義曰度.德正應和曰莫.照臨四方曰明.勤施無私曰類.教誨不倦曰長.賞慶刑威曰君.慈和遍服曰順.擇善而從之曰比.經緯天地曰文.九德不愆.作事無悔.故襲天祿.子孫賴之.主之舉也.近文德矣.所及其遠哉.賈辛將適其縣.見於魏子.魏子曰.辛來.昔叔向適鄭.鬷蔑惡欲觀叔向.從使之收器者.而往立於堂下.一言而善.叔向將飲酒.聞之曰.必鬷明也.下執其手.以上曰.昔賈大夫惡.娶妻而美.三年不言不笑.御以如皋.射雉獲之.其妻始笑而言.賈大夫曰.才之不可以已.我不能射.女遂不言不笑夫.今子少不颺.子若無言.吾幾失子矣.言不可以已也如是.遂如故知.今女有力於王室.吾是以舉女.行乎敬之哉.毋墮乃力.仲尼聞魏子之舉也.以為義.曰.近不失親.遠不失舉.可謂義矣.又聞其命賈辛也.以為忠.詩曰.永言配命.自求多福.忠也.魏子之舉也.義其命也.忠其長有後於晉國乎. |
秋、晋の韓宣子が亡くなった。魏献子が政権を執り、祁氏の領地を分割して七県とし、羊舌氏の領地を分割して三県とした。司馬弥牟を鄔の大夫に、賈辛を祁の大夫に、司馬烏を平陵の大夫に、魏戊を梗陽の大夫に、知徐吾を塗水の大夫に、韓固を馬首の大夫に、孟丙を盂の大夫に、楽霄を銅鞮の大夫に、趙朝を平陽の大夫に、僚安を楊氏の大夫に任命した。 賈辛と司馬烏については、王室に対して功績があったため推挙した。知徐吾、趙朝、韓固、魏戊については、家柄を守り職務を怠らぬ有能な者たちである。他の四人は県大夫を受領した後に魏子に面会し、その賢さによって推挙された。 魏子が成鱄に言った。「私が魏戊に県を与えたことで、人々は私が縁故で偏っていると思うだろうか」。成鱄は答えた。「どうしてでしょうか。戊という人物は、遠くにあっても君主を忘れず、近くにあって同僚を圧迫せず、利益にあっても義を考え、困窮の中でも純粋さを保つ。節操はあるが放逸な行いはない。彼に県を与えるのは妥当ではないでしょうか」。昔、武王が商を滅ぼして天下を治めた時、兄弟に与えた国が十五、姫姓の国が四十あり、いずれも身内を推挙した例である。推挙に際しては、善があるところが重要であり、親疏の区別はない。 詩経に「この文王は、天帝がその心を正しく計らい、德の音響を静かに広め、德は明らかで類いなく、人を導き治め、大国を王として治める。順って従い、文王に比する。その德に悔いなく、天帝の祝福を受け、子孫にまで及ぶ」とある。心が義を制するのを「度」、德が正しく和するのを「莫」、四方を照らすのを「明」、施しに私心ないのを「類」、教え倦まぬのを「長」、賞罰を適切に行うのを「君」、慈和に広く服させるのを「順」、善を選んで従うのを「比」、天地を秩序立てるのを「文」という。九つの德に過ちがなければ、行動に悔いなく、天の禄を受け継ぎ子孫が頼るのである。主君の推挙は文王の德に近く、その影響は遠大であろう。 賈辛が任地へ赴く前に魏子に面会した。魏子は言った。「辛よ、来たれ。昔、叔向が鄭へ行った時、鬷蔑(鬷明)がその人柄を見たくて、器物を運ぶ者に混じって堂下に立った。一言発するやその見識に叔向は酒席で『必ず鬷明だ』と手を取って上座に招いた。昔、賈大夫という醜男が美妻を娶ったが、三年間口も利かず笑わなかった。皋で雉を射止めた途端、妻が笑い言葉を交わした。賈大夫は『才能は必要だ。私が射られなければ、お前は一生黙ったままだったろう』と言った。お前は当初目立たなかったが、もし話さなければ見逃すところだった。言葉の力とはそういうものだ。お前は王室に功績がある故に推挙した。任地では敬虔に努め、その力を無駄にするな」。 孔子は魏子の推挙を聞き、「近親を見落とさず、遠くても人材を見出すのは義である」と評した。賈辛への訓戒を聞き、「詩経の『常に天命に合わせ自ら福を求む』は忠の心だ」と言った。魏子の推挙は義に適い、その命じ方は忠実である。彼の子孫は長く晋国で栄えるだろう。 解説この一節は『春秋左氏伝』に記された、紀元前6世紀の晋国における政治改革の様子を描いています。魏献子が執政官として祁氏・羊舌氏の領地を再編し、10の県を設置して有能な人物を登用する過程が中心です。以下の点に特筆すべき価値があります:
この記録は、春秋時代の貴族社会が実力主義へ移行する過渡期的な状況を、具体的人事を通して生き生きと伝える貴重な史料です。 Translation took 5105.6 seconds. |
| 冬.梗陽人有獄.魏戊不能斷.以獄上其大宗.賂以女樂.魏子將受之.魏戊謂閻沒女寬曰.主以不賄.聞於諸侯.若受梗陽.人賄莫甚焉.吾子必諫.皆許諾.退朝待於庭.饋入召之.比置三歎.既食使坐.魏子曰.吾聞諸伯叔諺曰.唯食忘憂.吾子置食之間.三歎何也.同辭而對曰.或賜二小人酒.不夕食.饋之始至.恐其不足.是以歎.中置自咎曰.豈將軍食之.而有不足.是以再歎.及饋之畢.願以小人之腹.為君子之心.屬厭而已.獻子辭梗陽人. 昭公二十九年 經 二十有九年春.公至自乾侯.居于鄆.齊侯使高張來唁公.公如晉.次于乾侯. 夏.四月.庚子.叔詣卒. 秋.七月. 冬.十月.鄆潰. 傳 二十九年春.公至自乾侯.處于鄆.齊侯使高張來唁公.稱主君.子家子曰.齊卑君矣.君祇辱焉.公如乾侯. 三月.己卯.亰師殺召伯盈.尹氏固.及原伯魯之子.尹固之復也.有婦人遇之周郊.尤之曰.處則勸人為禍.行則數日而反.是夫也.其過三歲乎. 夏.五月.庚寅.王子趙車入于鄻以叛.陰不佞敗之.平子每歲賈馬.具從者之衣屨.而歸之于乾侯.公執歸馬者賣之.乃不歸馬.衛侯來獻其乘馬.曰啟服.塹而死.公將為之櫝.子家子曰.從者病矣.請以食之.乃以幃裹之.公賜公衍羔裘.使獻龍輔於齊侯.遂入羔裘.齊侯喜.與之陽穀.公衍.公為.之生也.其母偕出.公衍先生.公為之母曰.相與偕出.請相與偕告.三日.公為生.其母先以告.公為為兄.公私喜於陽穀.而思於魯.曰.務人為此.禍也.且後生而為兄.其誣也久矣.乃黜之而以公.衍為大子. |
冬、梗陽で人が訴訟を起こした。魏戊は判断できず、その訴訟を上司である大宗に上申した。梗陽人は女楽(女性の楽団)で賄賂を贈った。魏子(魏舒)はそれを受け取ろうとした。魏戊は閻没と女寬に言った。「主君は賄賂を受け取らないことで諸侯に知られています。もし梗陽人の賄賂を受け取れば、これほど甚だしいことはありません。あなたがたは必ず諫めてください」。二人はともに承諾した。退朝後、庭で待っていると、食事が運び込まれたので魏子が二人を呼んだ。食事が並べられるまでに三人はため息をついた。食事が終わって座らせると、魏子が言った。「伯叔の諺に『食事のときだけは憂いを忘れる』と聞いている。あなたがたは食事を並べる間に三度ため息をついたのはなぜか」。二人はそろって答えた。「或る方が私たち二人に酒を賜り、夕食をまだ食べていませんでした。食事が運ばれてきたとき、最初はその量が足りないのではないかと心配して、ため息をつきました。途中で自分を責め、『将軍(魏子)の食事が足りないはずがない』と思い、再びため息をつきました。食事が終わると、『小人の腹を以て君子の心としたい。飽き足りるだけでよい』と願いました」。魏子(献子)は梗陽人の賄賂を断った。 昭公二十九年 二十九年春、公(魯の昭公)が乾侯から帰国し、鄆に居住した。斉の侯が高張を遣わして公を見舞った。公は晋へ行き、乾侯に駐留した。 夏四月庚子の日、叔詣が死去した。 秋七月。 冬十月、鄆が陥落した。 伝(解説) 二十九年春、公が乾侯から帰り、鄆に滞在した。斉の侯が高張を遣わして公を見舞い、「主君」と呼んだ。子家子が言った。「斉は君を軽んじています。君は辱めを受けるだけです」。公は乾侯へ向かった。 三月己卯の日、京師で召伯盈と尹氏固、および原伯魯の子が殺された。尹固が都に戻ったとき、周の郊外で婦人に出会い、非難されて言われた。「在郷では人を唆して禍を起こさせ、出行しても数日で戻る。この男は三年もたないだろう」。 夏五月庚寅の日、王子趙車が鄻に入って反乱を起こしたが、陰不佞がこれを打ち破った。平子(季孫意如)は毎年馬を購い、従者の衣類や履物を整えて乾侯に送っていた。公は馬を送る者を捕らえて売り飛ばしたので、平子は馬を送らなくなった。衛の侯が乗馬「啓服」を献上したが、堀に落ちて死んだ。公はそれに棺を作ろうとしたが、子家子が「従者が疲弊しています。食べ物にしてください」と言ったので、帷で包んで処理した。公は公衍に羔裘(子羊の皮衣)を賜い、龍輔(玉飾り)を斉の侯に献上させた。公衍はついでに羔裘も献上すると、斉の侯は喜んで陽穀の地を与えた。公衍と公為が生まれるとき、二人の母はともに出産した。公衍が先に生まれたが、公為の母が「ともに出産したのだから、報告もともにしましょう」と請うた。三日後、公為が生まれ、その母が先に報告したため、公為が兄とされた。公は陽穀を得て密かに喜びながらも魯のことを考え、「務人(公為)がこれ(兄の座)を得たのは禍のもとだ。しかも後生まれが兄とは、誤りが長く続いた」と言い、公為を退けて公衍を太子とした。 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公二十九年の記述で、二つの部分から成ります。前半は晋の政治家・魏舒(献子)のエピソードです。家臣の閻没と女寬が、賄賂受取を諫めるために「食事中のため息」という比喩を用いた巧みな諫言により、魏舒が道義を守る様子を描いています。後半は魯の昭公の流浪生活の続報で、斉や衛との外交、国内の権力闘争(公衍と公為の太子争い)など、複雑な政治情勢が記録されています。特に「君子の心は飽き足りることを知る」という教訓的な言葉や、史実と人物評が交ざる左伝の特徴がよく表れた章です。 Translation took 2182.4 seconds. |
| 秋.龍見于絳郊.魏獻子問於蔡墨曰.吾聞之.蟲莫知於龍.以其不生得也.謂之知.信乎.對曰.人實不知.非龍實知.古者畜龍.故國有豢龍氏.有御龍氏.獻子曰.是二氏者.吾亦聞之.而知其故.是何謂也.對曰.昔有飂叔安有裔子.曰董父實.甚好龍.能求其耆欲以飲食之.龍多歸之.乃擾畜龍以服事帝舜.帝賜之姓.曰董氏.曰豢龍.封諸鬷川.鬷夷氏其後也.故帝舜氏世有畜龍.及有夏孔甲.擾于有帝.帝賜之乘龍.河漢各二.各有雌雄.孔甲不能食.而未獲豢龍氏.有陶唐氏既衰.其後有劉累學擾龍于豢龍氏.以事孔甲.能飲食之.夏后嘉之.賜氏曰御龍.以更豕韋之後.龍一雌死.潛醢以食.夏后.夏后饗之.既而使求之.懼而遷于魯縣.范氏其後也.獻子曰.今何故無之.對曰.夫物物有其官.官脩其方.朝夕思之.一日失職.則死及之.失官不食.官宿其業.其物乃至.若泯棄之.物乃坻伏.鬱湮不育.故有五行之官.是謂五官.實列受氏姓.封為上公.祀為貴神.社稷五祀.是尊是奉.木正曰句芒.火正曰祝融.金正曰蓐收.水正曰玄冥.土正曰后土.龍.水物也.水官棄矣.故龍不生得.不然.周易有之.在乾之姤曰.潛龍勿用.其同人曰.見龍在田.其大有曰.飛龍在天.其夬曰.亢龍有悔.其坤曰.見群龍無首.吉.坤之剝曰.龍戰于野.若不朝夕見.誰能物之.獻子曰.社稷五祀.誰氏之五官也.對曰.少皞氏有四叔.曰重.曰該.曰脩.曰熙.實能金木及水.使重為句芒.該為蓐收.脩及熙為玄冥.世不失職.遂濟窮桑.此其三祀也.顓頊氏有子曰犁.為祝融.共工氏有子曰句龍.為后土.此其二祀也.后土為社.稷.田正也.有烈山氏之子曰柱.為稷.自夏以上祀之.周棄亦為稷.自商以來祀之. |
秋に、龍が絳の郊外に現れた。魏の献子が蔡墨に尋ねて言った。「私はこう聞いている。虫の中で龍ほど知恵のあるものはいない。それは捕まえられないからだ。それを知恵があると言う。本当だろうか。」蔡墨が答えて言った。「人間が実際に知らないのであって、龍が実際に知恵があるわけではない。昔は龍を飼育していた。だから国には豢龍氏と御龍氏がいた。」献子が言った。「この二つの氏族については、私も聞いたことがある。しかし、その由来を知らない。これはどういうことか。」蔡墨が答えて言った。「昔、飂叔安に子孫がいて、董父実と言った。彼は龍を大変好み、龍の嗜好や欲求を求め、飲食で世話をすることができた。龍は多く彼の元に集まった。そこで龍を馴らして飼育し、帝舜に仕えさせた。帝舜は彼に姓を賜い、董氏とし、豢龍と呼んだ。鬷川に封じ、鬷夷氏はその子孫である。だから帝舜の時代には代々龍を飼育していた。そして夏の孔甲の時代、孔甲は帝に仕え、帝は乗り物としての龍を賜った。河と漢にそれぞれ二匹ずつ、雌雄がいた。孔甲は龍を飼うことができず、豢龍氏を得られなかった。陶唐氏が既に衰えた後、その子孫に劉累がいて、豢龍氏から龍を馴らす術を学び、孔甲に仕えた。龍に飲食を与えることができた。夏后(孔甲)はこれを賞賛し、氏を御龍と賜い、豕韋の後継ぎとした。一匹の雌龍が死んだ。劉累は密かにその肉を漬けて夏后に食べさせた。夏后はそれを賞味した。その後、夏后はさらに龍を求めた。劉累は恐れて魯県に移った。范氏はその子孫である。」献子が言った。「今はなぜいないのか。」蔡墨が答えて言った。「物事にはそれぞれ担当の官がいる。官はその方法を修め、朝夕考えている。一日でも職務を怠れば、死が及ぶ。官を失えば食えなくなる。官がその業に専念していれば、その物は現れる。もしそれを廃棄すれば、物は隠れて現れず、鬱積して育たない。だから五行の官があり、これを五官という。実は氏姓を受けて列し、上公に封じられ、貴神として祀られる。社稷の五祀は、これを尊び奉る。木正は句芒、火正は祝融、金正は蓐收、水正は玄冥、土正は后土という。龍は水の物である。水官が廃棄された。だから龍は捕まえられない。そうでなければ、周易にこれがある。乾の姤に曰く、『潜龍勿用』。その同人に曰く、『見龍在田』。その大有に曰く、『飛龍在天』。その夬に曰く、『亢龍有悔』。その坤に曰く、『見群龍無首、吉』。坤の剝に曰く、『龍戰于野』。もし朝夕見なければ、誰がこれを描写できようか。」献子が言った。「社稷の五祀は、誰の五官か。」蔡墨が答えて言った。「少皞氏には四人の叔(兄弟)がいて、重、該、脩、熙と言った。実に金、木、水をよくし、重を句芒とし、該を蓐收とし、脩と熙を玄冥とした。世々職を失わず、遂に窮桑を成功させた。これが三祀である。顓頊氏には子がいて犁と言い、祝融とした。共工氏には子がいて句龍と言い、后土とした。これが二祀である。后土は社である。稷は田正である。烈山氏の子に柱と言い、稷とした。夏以前から祀った。周の棄も稷とした。商以来から祀った。」 解説この一節は『春秋左氏伝』に収録される、魏の献子と蔡墨の対話です。龍の生態に関する伝説的な解釈と、古代中国の官制や祭祀制度について詳述しています。蔡墨は、龍が知恵を持つという通説に対し、人間の管理能力の不足が原因だと指摘。古代には龍を専門に飼育する氏族(豢龍氏・御龍氏)が存在したこと、五行思想に基づく五官(木正・火正など)が自然現象を司っていたことを例示し、社会秩序と専門職の重要性を論じています。特に周易の引用を通じて、龍が抽象的な象徴として確立された経緯にも触れ、歴史的・哲学的な深みを持たせた内容となっています。 Translation took 3219.2 seconds. |
| 冬.晉趙鞅.荀寅.帥師城汝濱.遂賦晉國一鼓鐵.以鑄刑鼎.著范宣子所謂刑書焉.仲尼曰.晉其亡乎.失其度矣.夫晉國將守唐叔之所受法度.以經緯其民.卿大夫以序守之.民是以能尊其貴.貴是以能守其業.貴賤不愆.所謂度也.文公是以作執秩之官.為被廬之法.以為盟主.今棄是度也.而為刑鼎.民在鼎矣.何以尊貴.貴何業之守.貴賤無序.何以為國.且夫宣子之刑.夷之蒐也.晉國之亂制也.若之何以為法.蔡史墨曰.范氏.中行氏.其亡乎.中行寅為下卿.而干上令.擅作刑器.以為國法.是法姦也.又加范氏.焉易之.亡也.其及趙氏.趙孟與焉.然不得已.若德可以免. 昭公三十年 經 三十年春.王正月.公在乾侯. 夏.六月.庚辰.晉侯去疾卒. 秋.八月.葬晉頃公. 冬.十有二月.吳滅徐.徐子章羽奔楚. 傳 三十年春.王正月.公在乾侯.不先書鄆與乾侯.非公.且徵過也. 夏.六月.晉頃公卒. 秋.八月.葬鄭游吉弔.且送葬.魏獻子使士景伯詰之.曰.悼公之喪.子西弔.子蟜送葬.今吾子無貳.何故.對曰.諸侯所以歸晉君.禮也.禮也者.小事大.大字小之謂.事大在共其時命.字小在恤其所無.以敝邑居大國之間.共其職貢.與其備御.不虞之患.豈忘共命.先王之制.諸侯之喪.士弔.大夫送葬.唯嘉好聘享.三軍之事.於是乎使卿.晉之喪事.敝邑之間.先君有所.助執紼矣.若其不間.雖士大夫.有所不獲數矣.大國之惠.亦慶其加.而不討其乏.明厎其情.取備而已.以為禮也.靈王之喪.我先君簡公在楚.我先大夫印段實往.敝邑之少卿也.王吏不討.恤所無也.今大夫曰.女盍從舊.舊有豐有省.不知所從.從其豐.則寡君幼弱.是以不共.從其省.則吉在此矣.唯大夫圖之.晉人不能詰.吳子使徐人執掩餘.使鍾吾人執燭庸.二公子奔楚.楚子大封而定其徙.使監馬尹大心逆吳公子.使居養.莠尹然.左司馬沈尹.戌城之.取於城父與胡田以與之.將以害吳也.子西諫曰.吳光新得國而親其民.視民如子.辛苦同之.將用之也.若好吳邊疆.使柔服焉.猶懼其至.吾又疆其讎.以重怒之.無乃不可乎.吳.周之冑裔也.而棄在海濱.不與姬通.今而始大.比于諸華.光又甚文.將自同於先王.不知天將以為虐乎.使翦喪吳國.而封大異姓乎.其抑亦將卒以祚吳乎.其終不遠矣.我盍姑億吾鬼神.而寧吾族姓.以待其歸.將焉用自播揚焉.王弗聽.吳子怒. |
冬、晋の趙鞅と荀寅が軍を率いて汝濱に城を築いた。そこで晋国全体から一鼓(単位)の鉄を徴収し、それを使って刑鼎を鋳造し、范宣子が作成した刑書を刻み付けた。孔子は言った。「晋は滅びるだろう。法度を失ってしまった。晋国は本来、唐叔から受け継いだ法度を守り、それによって民を統治すべきである。卿大夫は序列に従ってこれを守り、民はそれによって貴人を尊び、貴人はそれによって家業を守る。貴賤の秩序が乱れないことが、法度というものだ。文公はこの法度に基づいて執秩の官を設け、被廬の法を作り、それによって盟主となった。今、この法度を捨てて刑鼎を作れば、民は鼎だけを見るようになる。どうして貴人を尊べようか。貴人はどうして家業を守れようか。貴賤の秩序が乱れれば、どうして国として成り立とうか。そもそも范宣子の刑書は、夷の地での狩猟の時に作られた晋国の乱れた制度である。どうしてこれを法とできようか」。蔡史墨は言った。「范氏と中行氏は滅びるだろう。中行寅は下卿でありながら上位の命令を犯し、勝手に刑器を作って国法とした。これは法を奸む行為だ。さらに范氏の刑を加え、変更した。滅びるのは当然である。趙氏にも及ぶだろう。趙孟はこれに関与したが、やむを得ない事情があった。もし徳があれば免れるかもしれない」。 昭公三十年 三十年の春、周の正月、公(魯の昭公)は乾侯にいた。 伝 三十年の春、周の正月、公は乾侯にいた。まず鄆や乾侯と書かずに「公在乾侯」としたのは、公を非難し、その過ちを明らかにするためである。 解説この一節は『春秋左氏伝』の昭公二十九年と三十年の記述です。前半では晋国が伝統的な法度を破って成文法を鼎に刻んだ事件と、孔子らによる批判が描かれています。刑鼎の設置は社会秩序の根幹を揺るがす行為と見なされ、春秋時代の貴族社会における「礼治」から「法治」への移行期の緊張を反映しています。 後半の昭公三十年では、魯の昭公の流浪や晋・鄭・呉・楚などの国際関係が記録されています。特に鄭の游吉の応答は、小国が大国に対し礼を盾に巧みに自国の立場を守る外交手腕を示しています。呉と楚の対立では、子西の現実的な外交論が楚王に容れられず、後の呉楚戦争への伏線となっています。 全体として、この時代の政治的変動や価値観の変化を、具体的事件を通して描出した重要な史料です。 Translation took 3150.0 seconds. |
| 冬.十二月.吳子執鍾吳子.遂伐徐.防山以水之.己卯.滅徐.徐子章禹斷其髮.攜其夫人.以逆吳子.吳子唁而送之.使其邇臣從之.遂奔楚.楚沈尹戌帥師救徐.弗及.遂城夷.使徐子處之.吳子問於伍員曰.初而言伐楚.余知其可也.而恐其使余往也.又惡人之有余之功也.今余將自有之矣.伐楚何如.對曰.楚執政眾而乖.莫適任患.若為三師之肄焉.一師至.彼必皆出.彼出則歸.彼歸則出.楚必道敝.亟肄以罷之.多方以誤之.既罷而後以三軍繼之.必大克之.闔廬從之.楚於是乎始病. 昭公三十一年 經 三十有一年春.王正月.公在乾侯.季孫意如會晉荀躒於適歷. 夏.四月.丁巳.薛伯穀卒.晉侯使荀躒唁公于乾侯. 秋.葬薛獻公. 冬.黑肱以濫來奔. 十有二月.辛亥.朔.日有食之. 傳 三十一年春.王正月.公在乾侯.言不能外内也.晉侯將以師納公.范獻子曰.若召季孫而不來.則信不臣矣.然後伐之.若何.晉人召季孫.獻子使私焉.曰.子必來.我受其無咎.季孫意如會晉荀躒于適歷.荀躒曰.寡君使躒謂吾子.何故出君.有君不事.周有常刑.子其圖之.季孫練冠麻衣跣行.伏而對曰.事君.臣之所不得也.敢逃刑命.君若以臣為有罪.請囚于費.以待君之察也.亦唯君.若以先臣之故.不絕季氏.而賜之死.若弗殺弗亡.君之惠也.死且不朽.若得從君而歸.則固臣之願也.敢有異心. |
冬の十二月に、呉子(呉王)は鍾呉子を捕らえ、続いて徐を攻撃した。山を防いで水を引き、己卯の日に徐を滅ぼした。徐の君主である章禹は自らの髪を断ち、夫人を連れて呉子を迎えた。呉子は慰めて送り返し、側近の臣を随行させた。章禹はその後楚へ逃亡した。楚の沈尹戌が軍を率いて徐を救援したが間に合わず、夷に城を築いて徐子を住まわせた。呉子が伍員に問うて言った。「最初にお前が楚を討つべきと言った時、私はそれが可能だと分かっていた。しかし、私を使いに出されることを恐れ、他人が功績を独占するのを嫌った。今、私は自らその功績を得ようと思う。楚を討つのはどうか。」伍員は答えて言った。「楚は政権を担う者が多くて不和で、危難を引き受ける者はいません。もし三軍で繰り返し襲撃すれば、一軍が攻め込めば楚は必ず全軍で出撃し、出撃すれば我々は引き上げ、引き上げれば再び攻撃する。楚軍は行軍で疲弊し、繰り返し襲撃して疲労させ、様々な方策で誤りを誘います。疲れ果てた後に三軍で総攻撃すれば、必ず大勝できるでしょう。」闔廬はこれに従い、楚はこれによって初めて苦境に立たされた。 昭公三十一年 伝 解説この一節は『春秋左氏伝』の昭公三十年冬から三十一年にかけての記録です。前半は呉と楚の抗争を描いており、呉王闔廬と伍子胥(伍員)の戦略的な対話が中心です。伍子胥の提案した「疲労戦術」は、後の呉の楚侵攻で実際に成功した作戦として知られ、春秋時代の軍事戦略の典型例となっています。後半は魯国内乱の続報で、追放された昭公と権臣・季孫氏の対立に晋が介入する様子が記されています。季孫意如の巧妙な弁明は、当時の貴族社会における君臣関係の複雑さを浮き彫りにしています。全体として、国際関係と国内政治が交錯する春秋時代の特徴がよく表れた章段です。 Translation took 2878.8 seconds. |
| 夏.四月.季孫從知伯如乾侯.子家子曰.君與之歸.一慚之不忍.而終身慚乎.公曰.諾.眾曰.在一言矣.君必逐之.荀躒以晉侯之命唁公.且曰.寡君使躒以君命討於意如.意如不敢逃死.君其入也.公曰.君惠顧先君之好.施及亡人.將使歸.糞除宗祧.以事君.則不能見夫人已.所能見夫人者.有如河.荀躒掩耳而走.曰.寡君其罪之恐.敢與知魯國之難.臣請復於寡君.退而謂季孫.君怒未怠.子姑歸祭.子家子曰.君以一乘入于魯師.季孫必與君歸.公欲從之.眾從者脅公不得歸.薛伯穀卒.同盟故書. 秋.吳人侵楚.伐夷.侵潛六.楚沈尹戌帥師救潛.吳師還.楚師遷潛於南岡而還.吳師圍弦.左司馬戌.右司馬稽.帥師救弦.及豫章.吳師還.始用子胥之謀也. 冬.邾黑肱以濫來奔.賤而書名.重地故也.君子曰.名之不可不慎也如是夫.有所有名.而不如其已.以地叛.雖賤必書.地以名其人.終為不義.弗可滅已.是故君子動則思禮.行則思義.不為利回.不為義疚.或求名而不得.或欲蓋而名章.懲不義也.齊豹為衛司寇.守嗣大夫.作而不義.其書為盜.邾庶其.莒牟夷.邾黑肱.以土地出.求食而已.不求其名.賤而必書.此二物者.所以懲肆而去貪也.若艱難其身.以險危大人.而有名章徹.攻難之士.將奔走之.若竊邑叛君.以徼大利.而無名.貪冒之民.將寘力焉.是以春秋書齊豹曰.盜.三叛人名.以懲不義.數惡無禮.其善志也.故曰.春秋之稱.微而顯.婉而辨.上之人能使昭明.善人勸焉.淫人懼焉.是以君子貴之. |
夏、四月、季孫は知伯に従って乾侯へ行った。子家子が言った。「君は彼と共にお帰りください。一時の恥ずかしさに耐えられないで、终身の恥を負うのですか。」公は答えた。「よろしい。」周囲の者たちは言った。「君の一言で決まります。必ず季孫を追放してください。」荀躒が晋侯の命令で公を見舞い、そして言った。「我が君が私を使わして、君の命令により意如(季孫)を討つようにと。意如は死を免れようとは思いません。君はどうかお帰りください。」公は言った。「君が先君との友好関係を顧みて、この亡き者にまで恵みを施し、私を帰国させて宗廟の掃除をさせ、君に仕えさせようとされるならば、しかし私はあの方(季孫)に会うことはできません。私が会うことができるとすれば、河川が証人です(絶対に会わないという誓い)。」荀躒は耳を覆って走り去り、言った。「我が君はかえって自分の罪を恐れております。どうして魯国の困難に関与できましょうか。臣は我が君に復命いたします。」退いて季孫に言った。「君の怒りはまだ収まっていません。あなたはひとまず帰って祭祀を行いなさい。」子家子が言った。「君が兵車一台で魯軍の中に入られれば、季孫は必ず君と共に帰国します。」公はそれに従おうとしたが、付き従う者たちが公を脅して帰国させなかった。薛伯の穀が死去した。同盟国であったため記録した。 秋、呉が楚を侵し、夷を攻撃し、潜と六を侵した。楚の沈尹戌が軍を率いて潜を救援した。呉軍は撤退した。楚軍は潜の住民を南岡に移して撤退した。呉軍は弦を包囲した。左司馬の戌と右司馬の稽が軍を率いて弦を救援し、豫章まで来ると、呉軍は撤退した。これは初めて伍子胥の策を用いたためである。 冬、邾の黑肱が濫の地を携えて逃亡して来た。身分が低いのに名前を記録したのは、領地を重視するためである。君子が言う。「名前を軽率に扱ってはならないというのは、このようなことだ。名前が記録される場合があり、むしろ記録されない方が良いこともある。領地を持って叛逆すれば、身分が低くても必ず記録される。領地によってその人物の名が記され、結局は不義として後世に残り、消すことができない。」だから君子は行動する時には礼を考え、行う時には義を考え、利益のために道理を曲げず、義に背いて後悔することをしない。ある者は名声を求めて得られず、ある者は隠そうとして却って名が明らかになる。これは不義を戒めるためである。齊豹は衛の司寇であり、世襲の大夫であったが、不義な行いをしたので、記録では「盗」と書かれた。邾の庶其、莒の牟夷、邾の黑肱は領地を持って出奔し、食いぶちを求めただけで、名声を求めたわけではない。身分が低いのに必ず記録される。この二つの事例は、欲望のままに振る舞うことを戒め、貪欲を除くためである。もし苦労して権力者を危険に陥れ、名が広く知られれば、困難に挑む者たちがそれに奔走するだろう。もし領地を盗んで君主に背き、大きな利益を求めて名が記録されなければ、貪欲な人々が力を注ぐだろう。だから春秋は齊豹を「盗」と記し、三人の叛逆者の名前を挙げて、不義を戒め、悪事と無礼を数え上げる。これはよく記述されていると言える。だから、「春秋の表現は細やかでありながら明らかで、婉曲でありながら区別がはっきりしている。上位の者がこれを明らかにすれば、善人は励まされ、悪人は恐れる」と言われる。それ故、君子は春秋を重んじるのである。 <解説> まず夏の部分では、魯の昭公が国外追放中の出来事が描かれます。季孫氏(魯の権臣)と晋の使者・荀躒との駆け引きを通し、昭公の帰国問題が膠着状態にある様子が示されます。特に「河を誓いとして」という表現は、古代中国で川の神を証人とする強い誓いの慣習を反映しています。 秋の部分は、呉と楚の軍事衝突を簡潔に記録しています。伍子胥の献策により呉軍が初めて機動的な撤退戦術を採用した点が、その後の呉楚抗争の転換点として重要です。 冬の部分は歴史記述の意義についての論評です。「春秋の筆法」と呼ばれる、言葉遣いを通じて道徳的判断を下す記述手法が具体例と共に解説されています。領地を持って逃亡した者たちの名前が記録される理由を、「不義を戒め、貪欲を抑止する」という教育的意義で説明し、歴史書が持つ社会的機能を強調している点が特徴的です。 全体を通じて、『左伝』が単なる事実の羅列ではなく、道徳的教訓を込めて歴史を編纂する姿勢がよく表れています。 Translation took 3776.7 seconds. |
| 十二月.辛亥.朔.日有食之.是夜也.趙簡子夢童子臝而轉以謌.旦占諸史墨曰.吾夢如是.今而日食.何也.對曰.六年.及此月也.吳其入郢乎.終亦弗克.入郢必以庚辰.日月在辰尾.庚午之日.日始有謫.火勝金.故弗克. 昭公三十二年 經 三十有二年春.王正月.公在乾侯取闞. 夏.吳伐越. 秋.七月. 冬.仲孫何忌會晉韓不信.齊高張.宋仲幾.衛世叔申.鄭國參.曹人.莒人.薛人.杞人.小邾人.城成周. 十有二月.己未.公薨于乾侯. 傳 三十二年春.王正月.公在乾侯.言不能外内.又不能用其人也. 夏.吳伐越.始用師於越也.史墨曰.不及四十年.越其有吳乎.越得歲而吳伐之.必受其凶. 秋.八月.王使富辛與石張如晉.請城成周.天子曰.天降禍于周.俾我兄弟.並有亂心.以為伯父憂.我一二親昵甥舅.不皇啟處.於今十年.勤戍五年.余一人無日忘之.閔閔焉如農夫之望歲.懼以待時.伯父若肆大惠.復二文之業.弛周室之憂.徼文武之福.以固盟主.宣昭令名.則余一人有大願矣.昔成王合諸侯.城成周.以為東都.崇文德焉.今我欲徼福假靈于成王.脩成周之城.俾戍人無勤.諸侯用寧.蝥賊遠屏.晉之力也.其委諸伯父.使伯父實重圖之.俾我一人.無徵怨于百姓.而伯父有榮.施先王庸之.范獻子謂魏獻子曰.與其戍周.不如城之.天子實云.雖有後事.晉勿與知可也.從王命以紓諸侯.晉國無憂.是之不務.而又焉從事.魏獻子曰善.使伯音對.曰.天子有命.敢不奉承.以奔告於諸侯.遲速衰序.於是焉在. |
十二月、辛亥の日、朔(ついたち)で、日食が起こった。この夜、趙簡子は童子が裸で歌いながら回転する夢を見た。朝になって史墨に占ってもらい、「私はこのような夢を見た。そして今日、日食が起こった。これはどういうことか」と尋ねた。史墨は答えて、「六年後、この月に、呉がおそらく郢に入るでしょう。しかし結局は攻克できないでしょう。郢に入るのは必ず庚辰の日です。日月が辰尾にあり、庚午の日から太陽に異変が始まります。火が金に勝つので、攻克できないのです」。 昭公三十二年 経 三十二年春、周の正月、公は乾侯におり、闞を取った。 夏、呉が越を討った。 秋、七月。 冬、仲孫何忌が晋の韓不信、齊の高張、宋の仲幾、衛の世叔申、鄭の國參、曹人、莒人、薛人、杞人、小邾人と会い、成周を築城した。 十二月、己未の日、公は乾侯で薨去した。 伝 三十二年春、周の正月、公は乾侯にいた。これは国外にも国内にも出られず、また有能な人材を使えなかったことを示している。 夏、呉が越を討った。これは越に対して初めて軍勢を用いたことである。史墨が言った。「四十年を待たずして、越が呉を所有するだろう。越は歳星(木星)の加護を得ているのに呉がこれを討つので、必ず凶禍を受けるだろう」。 秋、八月、周王は富辛と石張を晋に派遣し、成周の築城を要請した。天子は言った。「天が周に災いを降し、私の兄弟たちに乱心を抱かせ、伯父(晋君)に憂いをかけている。私の親しい甥舅たちは、安住の時もなく、すでに十年になる。兵を出して守備すること五年、私は一日もこれを忘れたことはない。農夫が収穫を待つように切に思い、時を待って恐れている。伯父がもし大いなる恵みを施し、文公・襄公の業績を回復し、周室の憂いを解消し、文王・武王の福を求め、盟主の地位を固め、良き名声を広められるなら、私には大きな願いが叶う。昔、成王が諸侯を集め、成周を築いて東都とし、文徳を尊んだ。今、私は成王の福と霊威を借り、成周の城を修築し、守備の兵士を苦役から解放し、諸侯を安寧にし、害悪を遠ざけたい。これは晋の力によるもので、伯父に委ね、伯父が実際に慎重に計画してほしい。私が百姓に恨みを買うことなく、伯父が栄誉を得て、先王の功績を継承できるように」。范獻子が魏獻子に言った。「周を守備するより、城を築く方が良い。天子が実際にそうおっしゃっている。たとえ後で問題が起きても、晋は関知しなくてよい。王命に従って諸侯の負担を軽くし、晋国に憂いがなければ、これ以上何を求めようか」。魏獻子は「良し」と言い、伯音(韓不信)に答えさせた。「天子の命令があれば、敢えて承知しないわけにはまいりません。諸侯に急ぎ伝え、工事の速度や負担の配分は我々が責任を持ちます」。 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公三十二年の記述です。前半では、趙簡子の夢と日食を機に史墨が呉の郢入侵とその失敗を予言する場面が描かれ、後半では昭公の最期や周王朝が晋に成周の築城を要請する政治的な動きが記録されています。特に史墨の予言は天体の運行と五行思想(火剋金)に基づくもので、春秋時代の災異思想を反映しています。成周築城の議論では、周王室の衰退と晋をはじめとする諸侯の台頭が示され、時代の転換点がうかがえる内容です。全体として、歴史的事実に占いや予言を交えながら、当時の社会情勢を多角的に伝える構成となっています。 Translation took 2054.7 seconds. |
| 冬.十一月.晉魏舒.韓不信.如亰師.合諸侯之大夫于狄泉.尋盟.且令城成周.魏子南面.衛彪徯曰.魏子必有大咎.干位以令大事.非其任也.詩曰.敬天之怒.不敢戲豫.敬天之渝.不敢馳驅.況敢干位.以作大事乎.己丑.士彌牟營成周.計丈數.揣高卑.度厚薄.仞溝洫.物土方.議遠邇.量事期.計徒庸.慮財用.書餱糧.以令役於諸侯.屬役賦丈.書以授帥.而效諸劉子.韓簡子臨之.以為成命. 十二月.公疾.遍賜大夫.大夫不受.賜子家子雙琥.一環.一璧.輕服.受之.大夫皆受其賜.己未.公薨.子家子反賜於府人曰.吾不敢逆君命也.大夫皆反其賜.書曰.公薨于乾侯.言失其所也.趙簡子問於史墨曰.季氏出其君.而民服焉.諸侯與之.君死於外.而莫之或罪也.對曰.物生有兩.有三有五.有陪貳.故天有三辰.地有五行.體有左右.各有妃耦.王有公.諸侯有卿.皆有貳也.天生季氏.以貳魯侯.為日久矣.民之服焉.不亦宜乎.魯君世從其失.季氏世脩其勤.民忘君矣.雖死於外.其誰矜之.社稷無常奉.君臣無常位.自古以然.故詩曰.高岸為谷.深谷為陵.三后之姓.於今為庶.王所知也.在易卦.雷乘乾曰.大壯.天之道也.昔成季友.桓之季也.文姜之愛子也.始震而卜.卜人謁之曰.生有嘉聞.其名曰友.為公室輔.及生如卜人之言.有文在其手.曰友.遂以名之.既而有大功於魯.受費以為上卿.至於文子.武子.世增其業.不費舊績.魯文公薨.而東門遂殺適立庶.魯君於是乎失國.政在季氏.於此君也.四公矣.民不知君.何以得國.是以為君.慎器與名.不可以假人. |
冬、十一月。晋の魏舒と韓不信が京師へ赴き、諸侯の大夫たちを狄泉で会合させ、盟約を確認し、さらに成周の城を築くことを命じた。魏舒が南面して座ると、衛の彪徯が言った。「魏子には必ず大きな災いが訪れるだろう。身分を越えて大事を命令するのは、その任ではない。」詩に「天の怒りを畏れ、戯れて怠ることを敢えず、天の変わりを畏れ、奔放に振る舞うことを敢えない」とある。ましてや身分を越えて大事を行うことなど、どうしてできようか。己丑の日、士弥牟が成周の築城を計画し、距離を計算し、高低を測り、厚さを量り、溝の深さを測定し、土量を検討し、遠近を協議し、工期を見積もり、人夫の数を算出し、経費を考慮し、食糧を記録して、諸侯に役務を命じた。役務を割り当てて距離を配分し、書面で将帥に授け、劉子に報告した。韓簡子がこれを監督し、確定命令とした。 十二月、昭公が病になり、大夫たちに広く賜物を与えたが、大夫たちは受け取らなかった。子家子に双琥・一環・一璧・軽服を賜ると、子家子はこれを受け取った。そこで大夫たちも皆、賜物を受け取った。己未の日、昭公が薨去した。子家子は賜物を府人に返して言った。「私は君命に逆らうことはできなかっただけです。」大夫たちも皆、賜物を返した。史書に「公が乾侯で薨去した」と記されたのは、本来の居場所を失ったことを示している。趙簡子が史墨に問うた。「季氏が君を追放したのに、民は服従し、諸侯もこれを認める。君が国外で死んでも、誰も罪に問う者がいないのはなぜか。」史墨は答えた。「万物には二つ一組のもの、三つや五つのもの、補佐するものがある。故に天には三辰(日月星)があり、地には五行があり、体には左右があり、それぞれに対偶がある。王には公が、諸侯には卿がいて、皆補佐役がいる。天が季氏を生んだのは魯侯の補佐とするためで、既に長い年月が経っている。民が服従するのは当然ではないか。魯君は代々過失を重ね、季氏は代々努めを修めてきた。民は君を忘れている。たとえ国外で死んでも、誰が哀れむだろうか。社稷を祀る者は常に同じではなく、君臣の地位も永遠ではない。昔からそうである。故に詩に『高い岸は谷となり、深い谷は陵となる』とあり、三王朝の子孫も今では庶民となっている。易の卦では雷が乾の上に乗るものを大壮䷡といい、これが天の道理である。昔、成季友は桓公の末子で文姜の愛子であった。妊娠した時に占うと、卜人が『生まれながらに良い評判があり、名は友といい、公室を補佐する』と告げた。生まれると卜人の言う通り手に『友』の字があり、その名で呼ばれた。後に魯に大功を立て、費の地を与えられ上卿となった。文子・武子へと代々業績を積み、先祖の功績を損なわなかった。魯文公の薨去後、東門遂が嫡子を殺して庶子を立てたため、魯君は国政を失い、政権は季氏に移った。昭公で既に四代目、民は君を知らない。どうして国を得られようか。故に君主は権威と名誉を慎み、他人に譲ってはならない。」 解説この一節は『春秋左氏伝』昭公三十二年の記述で、春秋時代の権力構造の変容を描いています。以下のような重要な点を含みます:
この記述は、周王朝の衰退と諸侯・卿大夫の台頭という歴史の転換点を、具体的事件と哲学的議論で立体的に伝えています。 Translation took 4396.3 seconds. |
| input text ../document/春秋左氏傳\11_春秋左氏傳_定公.txt | 現代日本語 translated text |
| 春秋左氏傳 定公 定公元年 經 元年春.王三月.晉人執宋仲幾于京師. 夏.六月.癸亥.公之喪至自乾侯.戊辰.公即位. 秋.七月.癸巳.葬我君昭公. 九月.大雩.立煬宮. 冬.十月.隕霜殺菽. 傳 元年春.王正月.辛巳.晉魏舒合諸侯之大夫于狄泉.將以城成周.魏子蒞政.衛彪傒曰.將建天子.而易位以令.非義也.大事奸義.必有大咎.晉不失諸侯.魏子其不免乎.是行也.魏獻子屬役於韓簡子.及原壽過.而田於大陸.焚焉.還.卒於甯.范獻子去其柏槨.以其未復命而田也.孟懿子會城成周.庚寅.栽.宋仲幾不受功曰.滕.薛.郳.吾役也.薛宰曰.宋為無道.絕我小國於周.以我適楚.故我常從宋.晉文公為踐土之盟曰.凡我同盟.各復舊職.若從踐土.若從宋亦唯命.仲幾曰.踐土固然.薛宰曰.薛之皇祖奚仲居薛.以為夏車正.奚仲遷于邳.仲虺居薛.以為湯左相.若復舊職.將承王官.何故以役諸侯.仲幾曰.三代各異物.薛焉得有舊.為宋役.亦其職也.士彌牟曰.晉之從政者新.子姑受功歸.吾視諸故府.仲幾曰.縱子忘之.山川鬼神.其忘諸乎.士伯怒謂韓簡子曰.薛徵於人.宋徵於鬼.宋罪大矣.且己無辭而抑我.以神誣我也.啟寵納侮.其此之謂矣.必以仲幾為戮.乃執仲幾以歸. |
【翻訳文】 定公元年 経 元年の春、周の王の三月、晋人が宋の仲幾を京師で捕らえた。 夏、六月、癸亥の日、昭公の棺が乾侯から到着した。戊辰の日、定公が即位した。 秋、七月、癸巳の日、我が君である昭公を葬った。 九月、大規模な雨乞いの儀式が行われた。煬公の廟を建立した。 冬、十月、霜が降りて豆類を枯らした。 伝 元年の春、周の王の正月、辛巳の日、晋の魏舒が狄泉で諸侯の大夫たちを集結させた。成周の城壁を築くためである。魏舒が政務を執ると、衛の彪傒が言った。「天子を補佐すべき立場でありながら、臣下の分を越えて命令を下すのは道理に合わない。大事をなすのに正道を乱せば、必ず大きな災いがある。晋が諸侯の信頼を失わないとしても、魏舒は災いを免れまい」。この時、魏舒は役務の管理を韓簡子に任せ、原寿過と共に大陸で狩猟を行い、野火を放った。帰途、甯で死去した。范献子は彼の棺の外椁を簡素にした。命令を復命せずに狩猟したためである。孟懿子が成周築城の会合に参加した。庚寅の日、築城が開始された。宋の仲幾が役務分担を拒否し、「滕・薛・郳の国々が代わりに働くべきだ」と言った。薛の宰が反論した。「宋は無道にも、我々小国を周王朝から切り離し、楚に従わせようとした。故に我々は常に宋に従ってきた。晋の文公が践土の盟で宣言されたように、同盟国は皆、本来の職務に戻るべきである。もし践土の盟に従うなら、宋の命令に従う必要はない」。仲幾が「践土の盟も宋の主張通りだ」と言うと、薛の宰は「薛の始祖・奚仲は薛に居住し、夏王朝の車正(車馬担当官)となった。奚仲が邳に移った後、仲虺が薛に住み、湯王の左相となった。旧職を復活させるなら、王朝の官職を継ぐべきであり、なぜ諸侯の役務を負わねばならないのか」と主張した。仲幾は「夏・殷・周の三代では制度が異なる。薛に旧職などあるはずがない。宋の役を務めるのが本来の職分だ」と言い張った。晋の士弥牟が調停し「晋の执政者は新任である。まずは役務を受け入れ帰国せよ。私が古文書で確認しよう」と提案したが、仲幾は「仮に貴方が忘れても、山川の鬼神まで忘れるはずがない」と言った。士弥牟は怒り、韓簡子に「薛は歴史的根拠で主張し、宋は鬼神を根拠にしている。宋の罪は大きい。自ら道理がなくながら我々を圧迫し、神を口実に欺いている。寵愛が侮辱を招くとはこのことだ」と言い、仲幾を処罰すべきだと主張した。結局、仲幾を捕らえて晋に連行した。 【解説】
この一節は、周王室の権威が衰退し晋が霸権を握る中、諸侯間の駆け引きや歴史的正統性を巡る議論が活発化した春秋時代後期の状況を鮮明に伝えています。 Translation took 2532.7 seconds. |
| 三月.歸諸京師.城三旬而畢.乃歸.諸侯之戌齊高張後.不從諸侯.晉女叔寬曰.周萇弘.齊高張.皆將不免.萇叔違天.高子違人.天之所壞.不可支也.眾之所為.不可奸也. 夏.叔孫成子逆公之喪于乾侯.季孫曰.子家子亟言於我.未嘗不中吾志也.吾欲與之從政.子必止之.且聽命焉.子家子不見叔孫.易幾而哭.叔孫請見子家子.子家子辭曰.羈未得見.而從君以出.君不命而薨.羈不敢見.叔孫使告之曰.公衍.公為.實使群臣不得事君.若公子宋主社稷.則群臣之願也.凡從君出而可以入者.將唯子是聽.子家氏未有後.季孫願與子從政.此皆季孫之願也.使不敢以告.對曰.若立君.則有卿大夫與守龜在.羈弗敢知.若從君者.則貌而出者.入可也.寇而出者.行可也.若羈也.則君知其出也.而未知其入也.羈將逃也.喪及壞隤.公子宋先入.從公者皆自壞隤反. 六月.癸亥.公之喪至自乾侯.戊辰公即位.季孫使役如闞.公氏將溝焉.榮鴐鵝曰.生不能事.死又離之.以自旌也.縱子忍之.後必或恥之.乃止.季孫問於榮鴐鵝曰.吾欲為君謚.使子孫知之.對曰.生弗能事.死又惡之.以自信也.將焉用之.乃止. 秋.七月.癸巳.葬昭公於墓道南.孔子之為司寇也.溝而合諸墓.昭公出故.季平子禱于煬公. |
三月、彼らを京師に帰還させた。城壁の修築は三十日で完了し、そこで帰還した。諸侯の軍勢の中で斉の高張は後れを取り、諸侯に従わなかった。晋の女叔寬が言った。「周の萇弘と斉の高張は、ともに災いを免れないだろう。萇叔は天の道理に背き、高子は人心に背いた。天が滅ぼそうとするものを支えることはできず、民衆が行おうとすることを妨げることはできない」 夏、叔孫成子が乾侯で昭公の遺骸を迎えた。季孫が言った。「子家子は頻繁に私に進言してくれたが、その内容は常に私の考えと一致していた。私は彼とともに政務を執り行いたい。あなたは必ず彼を引き留め、かつ私の指示に従わせてほしい」。子家子は叔孫と面会せず、時間をずらして哀哭した。叔孫が子家子との面会を求めたが、子家子は辞退して言った。「私は(叔孫様と)お会いできないまま、君に従って国外に出奔しました。君は何の指示も残さずに逝去されたため、私は面会することを恐れます」。叔孫は使者を遣って伝えさせた。「公衍と公与こそが、実際に我々家臣が君に仕えることを妨げた張本人です。もし公子宋が君主となられるなら、それは家臣一同の願いです。君に従って出奔した者で帰国を許される者は、全てあなたの判断に従います。子家氏には後継ぎがおりませんので、季孫はあなたとともに政務に当たりたいと願っております。これらは全て季孫の希望です」と、使者は恐れながら伝えた。子家子は答えて言った。「新君を擁立するについては、卿大夫たちと守龟(占いの亀)が決定権を持ちますので、私は口出しできません。君に従った者については、表向きの出国なら帰国も許されますが、敵意を持って出国した者は逃亡すべきです。私の場合は、君は私が出国したことはご存知でしたが、帰国については何もおっしゃっていません。私はこれから逃亡するつもりです」。遺骸が壞隤に到着すると、公子宋が先に入国し、昭公に従っていた者たちは全員壞隤から帰国した。 六月癸亥の日、昭公の遺骸が乾侯から到着した。戊辰の日、公子宋が即位した。季孫は作業員を闞に派遣し、昭公の墓所に溝を掘ろうとした。榮鴐鵝が諫めて言った。「生きている時に仕えられず、死後に墓を隔てるとは、自己顕示の行為です。仮にあなたがそれを耐え忍んでも、後世必ず誰かがこの行為を恥じるでしょう」。そこで工事は中止された。季孫が榮鴐鵝に尋ねた。「私は君に謚号を贈り、子孫にその理由を伝えたい」。榮鴐鵝は答えた。「生前に仕えられなかった君に、死後に悪しき謚号を贈るのは、自己正当化に過ぎません。そんなことをして何の意味がありましょうか」。これも取り止めになった。 秋七月癸巳の日、昭公を墓道の南側に葬った。後に孔子が司寇となった時、溝を埋めて昭公の墓を祖先の墓域に合葬した。昭公が国外出奔した経緯があるため、季平子は煬公に祈禱を捧げた。 解説: Translation took 3608.5 seconds. |
| 九月.立煬宮.周鞏簡公棄其子弟而好用遠人. 定公二年 經 二年春.王正月. 夏.五月.壬辰.雉門及兩觀災. 秋.楚人伐吳. 冬.十月.新作雉門及兩觀. 傳 二年夏.四月.辛酉.鞏氏之群子弟賊簡公.桐叛楚.吳子使舒鳩氏誘楚人曰.以師臨我.我伐桐.為我使之無忌. 秋.楚囊瓦伐吳師于豫章.吳人見舟于豫章.而潛師于巢. 冬.十月.吳軍楚師于豫章.敗之.遂圍巢.克之.獲楚公子繁.邾莊公與夷射姑飲酒.私出.閽乞肉焉.奪之杖以敲之. 定公三年 經 三年春.王正月.公如晉.至河乃復. 二月.辛卯.邾子穿卒. 夏.四月. 秋.葬邾莊公. 冬.仲孫何忌及邾子盟于拔. 傳 三年春.二月.辛卯.邾子在門臺.臨廷.閽以缾水沃廷.邾子望見之.怒.閽曰.夷射姑旋焉.命執之.弗得.滋怒.自投于床.廢于鑪炭.爛遂卒.先葬以車五乘.殉五人.莊公卞急而好潔.故及是. 秋.九月.鮮虞人敗晉師于平中.獲晉觀虎.恃其勇也. 冬.盟于郯.脩邾好也.蔡昭侯為兩佩與兩裘以如楚.獻一佩一裘於昭王.昭王服之.以享蔡侯.蔡侯亦服其一.子常欲之.弗與.三年止之.唐成公如楚.有兩肅爽馬.子常欲之.弗與.亦三年止之.唐人或相與謀.請代先從者.許之.飲先從者酒.醉之.竊馬而獻之子常.子常歸唐侯.自拘於司敗.曰.君以弄馬之故.隱君身.棄國家.群臣請相.夫人以償馬.必如之.唐侯曰.寡人之過也.二三子無辱.皆賞之.蔡人聞之.固請而獻佩于子常.子常朝見蔡侯之徒.命有司曰.蔡君之久也.官不共也.明日禮不畢.將死.蔡侯歸及漢.執玉而沈曰.余所有濟漢而南者.有若大川.蔡侯如晉.以其子元.與其大夫之子為質焉.而請伐楚. 定公四年 經 |
【翻訳文】 定公二年 二年の春、周の王の正月。 伝 二年の夏、四月辛酉の日、鞏氏の一族の子弟が簡公を弑逆した。桐が楚に叛いた。呉子が舒鳩氏を使いにして楚人を誘うように言った。「軍勢を以て我が国に迫れば、我々は桐を討つ。我々のために楚に警戒心を抱かせないようにさせよ」。 定公三年 三年の春、周の王の正月、定公が晋へ行ったが黄河に着いて引き返した。 伝 三年の春、二月辛卯の日、邾子が門楼にいて庭を見下ろしていると、門番が瓶の水で庭に水を撒いているのを見た。邾子はこれを見て怒った。門番が「夷射姑がここで小便をしました」と言うと、邾子は夷射姑を捕らえるよう命じたが捕まえられず、ますます怒って床に飛び上がった。炉の炭火に墜ちて焼け爛れ、そのまま卒去した。葬儀に先立って車五乗と殉死者五人を副葬した。庄公は性急で潔癖症だったため、このような結果になったのである。 定公四年 【解説】 特徴的な点は: Translation took 2312.7 seconds. |
| 四年春.王二月.癸巳.陳侯吳卒. 三月.公會劉子.晉侯.宋公.蔡侯.衛侯.陳子.鄭伯.許男.曹伯.莒子.邾子.頓子.胡子.滕子.薛伯.杞伯.小邾子.齊國夏.于召陵.侵楚. 夏.四月.庚辰.蔡公孫姓帥師滅沈.以沈子嘉歸.殺之. 五月.公及諸侯盟于皋鼬.杞伯成卒于會. 六月.葬陳惠公.許遷于容城. 秋.七月.公至自會.劉卷卒.葬杞悼公.楚人圍蔡.晉士鞅衛孔圉帥師伐鮮虞.葬劉文公. 冬.十有一月.庚午.蔡侯以吳子及楚人戰于柏舉.楚師敗績.楚囊瓦出奔鄭.庚辰.吳入郢. 傳 四年春.三月.劉文公合諸侯于召陵.謀伐楚也.晉荀寅求貨於蔡侯.弗得.言於范獻子曰.國家方危.諸侯方貳.將以襲敵.不亦難乎.水潦方降.疾瘧方起.中山不服.棄盟取怨.無損於楚.而失中山.不如辭蔡侯.吾自方城以來.楚未可以得志.祗取勤焉.乃辭蔡侯.晉人假羽旄於鄭.鄭人與之.明日或旆以會.晉於是乎失諸侯.將會.衛子行敬子言於靈公曰.會同難.嘖有煩言.莫之治也.其使祝佗從.公曰善.乃使子魚.子魚辭曰.臣展四體.以率舊職.猶懼不給.而煩刑書.若又共二.徼大罪也.且夫祝.社稷之常隸也.社稷不動.祝不出竟.官之制也.君以軍行.祓社釁鼓.祝奉以從.於是乎出竟.若嘉好之事.君行師從.卿行旅從.臣無事焉.公曰行也.及皋鼬.將長蔡於衛.衛侯使祝佗私於萇弘曰.聞諸道路.不知信否.若聞蔡將先衛.信乎.萇弘曰.信.蔡叔.康叔之兄也.先衛.不亦可乎.子魚曰.以先王觀之.則尚德也.昔武王克商.成王定之.選建明德.以藩屏周.故周公相王室以尹天下.於周為睦.分魯公以大路大旂.夏后氏之璜.封父之繁弱.殷民六族.條氏.徐氏.蕭氏.索氏.長勺氏.尾勺氏.使帥其宗氏.輯其分族.將其類醜.以法則周公.用即命于周.是使之職事于魯.以昭周公之明德.分之土田倍敦.祝宗卜史.備物典策.官司彝器.因商奄之民.命以伯禽.而封於少皞之虛.分康叔以大路.少帛.綪茷.旃旌.大呂.殷民七族.陶氏.施氏.繁氏.錡氏.樊氏.饑氏.終葵氏.封畛土略.自武父以南.及圃田之北竟.取於有閻之土.以共王職.取於相土之東都.以會王之東蒐.聃季授土.陶叔授民.命以康誥.而封於殷虛.皆啟以商政.疆以周索.分唐叔以大路密須之鼓.闕鞏沽洗.懷姓九宗.職官五正.命以唐誥.而封於夏虛.啟以夏政.疆以戎索.三者皆叔也.而有令德.故昭之以分物.不然.文武成康之伯猶多.而不獲是分也.唯不尚年也.管蔡啟商.惎間王室.王於是乎殺管叔而蔡蔡叔.以車七乘.徒七十人.其子蔡仲.改行帥德.周公舉之.以為己卿士.見諸王.而命之以蔡.其命書云.王曰.胡.無若爾考之違王命也.若之何其使蔡先衛也.武王之母弟八人.周公為太宰.康叔為司寇.聃季為司空.五叔無官.豈尚年哉.曹.文之昭也.晉.武之穆也.曹為伯甸.非尚年也.今將尚之.是反先王也.晉文公為踐土之盟.衛成公不在.夷叔.其母弟也.猶先蔡.其載書云.王若曰.晉重.魯申.衛武.蔡甲午.鄭捷.齊潘.宋王臣.莒期.藏在周府.可覆視也.吾子欲復文武之略.而不正其德.將如之何.萇弘說.告劉子.與范獻子謀之.乃長衛侯於盟.反自召陵.鄭子大叔未至而卒.晉趙簡子為之臨甚哀.曰.黃父之會.夫子語我九言曰.無始亂.無怙富.無恃寵.無違同.無敖禮.無驕能.無復怒.無謀非德.無犯非義.沈人不會于召陵.晉人使蔡伐之. |
【現代日本語訳】 三月、魯公が劉子・晋侯・宋公・蔡侯・衛侯・陳子・鄭伯・許男・曹伯・莒子・邾子・頓子・胡子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子・齊の国夏らと召陵で会合し、楚を侵攻した。 夏四月庚辰の日に、蔡の公孫姓が軍を率いて沈を滅ぼし、沈の子嘉を連行して殺害した。 五月、魯公と諸侯が皋鼬で盟約を結び、杞伯成が会合中に死去した。 六月、陳の惠公を葬り、許が容城に遷都した。 秋七月、魯公が会合から帰国した。劉卷が死去し、杞の悼公を葬った。楚軍が蔡を包囲し、晋の士鞅と衛の孔圉が軍を率いて鮮虞を討った。劉文公を葬った。 冬十一月庚午の日に、蔡侯が吳子とともに楚軍と柏挙で戦い、楚軍は大敗した。楚の囊瓦が鄭へ逃亡し、庚辰の日に吳が郢に入城した。 (伝) 会合直前、衛の子行敬子が霊公に「会合は難事で紛糾必至です。祝佗を随行させるべきです」と進言し、公は承諾して子魚(祝佗)を派遣した。子魚は「臣が職務を果たすだけで精一杯です。祭祀官が平時に国外に出るのは制度違反です」と辞退したが、公は強行した。 皋鼬で蔡を衛より上位にしようとした時、衛侯は祝佗を萇弘のもとへ遣わし「蔡が衛より先とするのは真実か」と探らせた。萇弘が「蔡叔は康叔の兄なので当然」と答えると、子魚は「周王朝は年齢ではなく徳を重んじた」と反論し、魯・衛・唐の封建時の事例や、管蔡の乱後も蔡仲が登用された故事、践土の盟での序列を引いて「文王武王の道に戻るなら、徳を正さねばならない」と論じた。萇弘はこれに納得し、劉子と范献子に相談して衛侯を上位とした。 召陵から帰還途中、鄭の子大叔が到着前に死去した。晋の趙簡子は葬儀に臨み「黄父の会で您が九つの教訓を語られました」と哀悼した。(九言は「乱を起こすな、富に頼るな、寵を笠に着るな、同意を違えるな、礼を侮るな、能力を驕るな、怒りを繰り返すな、徳なき謀を図るな、義ならざることを犯すな」)。沈が召陵の会合に参加しなかったため、晋は蔡に命じて沈を討たせた。 【解説】
この一節は、春秋時代から戦国時代への過渡期における、秩序の崩壊と新たな勢力の台頭を象徴する重要な史料です。 Translation took 4326.2 seconds. |
| 夏.蔡滅沈.秋楚為沈故圍蔡.伍員為吳行人以謀楚.楚之殺郤宛也.伯氏之族出.伯州犁之孫嚭.為吳大宰以謀楚.楚自昭王即位.無歲不有吳師.蔡侯因之.以其子乾與其大夫之子為質於吳. 冬.蔡侯.吳子.唐侯.伐楚.舍舟于淮汭.自豫章與楚夾漢.左司馬戌謂子常曰.子沿漢而與之上下.我悉方城外以毀其舟.還塞大隧.直轅.冥阨.子濟漢而伐之.我自後擊之.必大敗之.既謀而行.武城黑謂子常曰.吳用木也.我用革也.不可久也.不如速戰.史皇謂子常.楚人惡子而好司馬.若司馬毀吳舟于淮.塞城口而入.是獨克吳也.子必速戰.不然不免.乃濟漢而陳.自小別至于大別.三戰.子常知不可.欲奔.史皇曰.安求其事.難而逃之.將何所入.子必死之.初罪必盡說. 十一月.庚午.二師陳于柏舉.闔廬之弟夫概王.晨請於闔廬曰.楚瓦不仁.其臣莫有死志.先伐之.其卒必奔.而後大師繼之.必克.弗許.夫概王曰.所謂臣義而行.不待命者.其此之謂也.今日我死.楚可入也.以其屬五千.先擊子常之卒.子常之卒奔.楚師亂.吳師大敗之.子常奔鄭.史皇以其乘廣死.吳從楚師.及清發.將擊之.夫概王曰.困獸猶鬥.況人乎.若知不免.而致死.必敗我.若使先濟者知免.後者慕之.蔑有鬥心矣.半濟而後可擊也.從之.又敗之.楚人為食.吳人及之.奔食而從之.敗諸雍澨.五戰及郢.己卯.楚子取其妹季芊.畀我.以出.涉雎.鍼尹固與王同舟.王使執燧象以奔吳師.庚辰.吳入郢.以班處宮.子山處令尹之宮.夫概王欲攻之.懼而去之.夫概王入之.左司馬戌及息而還.敗吳師于雍澨.傷.初.司馬臣闔廬.故恥為禽焉.謂其臣曰.誰能免吾首.吳句卑曰臣賤可乎.司馬曰.我實失子.可哉.三戰皆傷.曰.吾不用也已.句卑布裳.剄而裹之.藏其身而以其首免.楚子涉睢濟江.入于雲中.王寢.盜攻之.以戈擊王.王孫由于以背受之.中肩.王奔鄖.鍾建負季芊以從.由于徐蘇而從.鄖公辛之弟懷.將弒王曰.平王殺吾父.我殺其子.不亦可乎.辛曰.君討臣.誰敢讎之.君命天也.若死天命.將誰讎.詩曰.柔亦不茹.剛亦不吐.不侮矜寡.不畏彊禦.唯仁者能之.違彊陵弱.非勇也.乘人之約.非仁也.滅宗廢祀.非孝也.動無令名.非知也.必犯是.余將殺女.鬥辛與其弟巢.以王奔隨.吳人從之.謂隨人曰.周之子孫.在漢川者.楚實盡之.天誘其衷.致罰於楚.而君又竄之.周室何罪.君若顧報周室.施及寡人.以獎天衷.君之惠也.漢陽之田.君實有之.楚子在公宮之北.吳人在其南.子期似王.逃王.而己為王.曰.以我與之.王必免.隨人卜與之.不吉.乃辭吳曰.以隨之辟小.而密邇於楚.楚實存之.世有盟誓.至于今未改.若難而棄之.何以事君.執事之患.不唯一人.若鳩楚竟.敢不聽命.吳人乃退.鑪金初官於子期氏.實與隨人耍言.王使見辭曰.不敢以約為利.王割子期之心.以與隨人盟.初.伍員與申包胥友.其亡也.謂申包胥曰.我必復楚國.申包胥曰.勉之.子能復之.我必能興之.及昭王在隨.申包胥如秦乞師.曰.吳為封豕長蛇.以荐食上國.虐始於楚.寡君失守社稷.越在草莽.使下臣告急曰.夷德無厭.若鄰於君.疆場之患也.逮吳之未定.君其取分焉.若楚之遂亡.君之土也.若以君靈.撫之.世以事君.秦伯使辭焉.曰.寡人聞命矣.子姑就館.將圖而告.對曰.寡君越在草莽.未獲所伏.下臣何敢即安.立依於庭牆而哭.日夜不絕聲.勺飲不入口.七日.秦哀公為之賦無衣.九頓首而坐.秦師乃出. 定公五年 經 |
翻訳文夏、蔡が沈を滅ぼした。秋、楚は沈のための報復として蔡を包囲した。伍員(伍子胥)が吳の行人(外交官)となり、楚に対する謀略を担当した。楚が郤宛を殺害したとき、伯氏の一族は国外に逃れた。伯州犁の孫である伯嚭が吳の大宰(宰相)となり、楚を謀るようになった。楚では昭王が即位して以来、每年のように吳軍の侵攻を受けるようになった。蔡侯はこの情勢を利用し、自分の子である乾と大夫の子を吳に人質として送った。 冬、蔡侯、吳子(吳王)、唐侯が連合して楚を討伐した。軍船を淮汭(淮水の湾曲部)に置き、豫章から漢水を挟んで楚軍と対峙した。左司馬の戌(沈尹戌)が子常(令尹)に言った。「貴方は漢水沿いに上下して吳軍を牽制し、私は方城外の全軍で吳の軍船を破壊し、戻って大隧、直轅、冥阨の隘路を塞ぐ。貴方が漢水を渡って攻撃し、私は背後から撃てば、必ず吳軍を大敗させられる」。作戦を決めて行動を開始した。武城黑が子常に言った。「吳軍の盾は木製だが、我々のは革製だ。持久戦は不利だから、速戦すべきだ」。史皇が子常に言った。「楚の民は貴方を嫌い、司馬(戌)を好んでいる。もし司馬が淮水で吳の軍船を破壊し、城口(隘路)を塞いで勝ち誇って帰還すれば、彼ひとりが吳を倒したことになる。貴方は速戦すべきだ。さもなければ災いを免れない」。子常は漢水を渡って布陣した。小別山から大別山まで三度戦い、子常は勝ち目がないと悟り、逃亡しようとした。史皇が言った。「平時に地位を求めておきながら、困難になると逃げるとは、どこに身を寄せられるというのか。貴方は死ぬまで戦うべきだ。そうすれば当初の罪も帳消しにできる」。 十一月庚午の日、両軍は柏舉に布陣した。闔廬(吳王)の弟である夫概王は、朝早く闔廬に申し出た。「楚の子常(瓦)は不仁で、その臣下に死守する志がない。我先に攻撃すれば、敵兵は必ず潰走する。その後で本軍が続けば、必ず勝利できる」。闔廬は許可しなかった。夫概王は言った。「『臣下として義を見て行動し、命令を待たない』というのが、まさにこのことだ。今日私が死んでも、楚都に入城できるだろう」。配下の五千兵を率いて子常の軍を攻撃すると、子常の兵は潰走し、楚軍は混乱した。吳軍は大勝し、子常は鄭に逃亡した。史皇は自分の戦車で戦死した。吳軍は楚軍を追撃し、清発に到達して攻撃しようとした。夫概王が言った。「窮した獣でさえ反撃する、まして人間ならなおさらだ。もし逃れられないと悟って死力を尽くせば、我々を敗北させるだろう。先に渡河した者に逃れられることを知らせ、後続の者に希望を持たせれば、戦意は失われる。半渡の状態で攻撃すべきだ」。この意見に従い、また楚軍を破った。楚兵が食事を準備しているところを吳軍が襲い、楚兵は食事を捨てて逃げた。雍澨で楚軍を破り、五度の戦いの末に郢(楚の首都)に到達した。己卯の日、楚王(昭王)は妹の季芊畀我を連れて脱出し、雎水を渡った。鍼尹固が王と同じ船に乗り、王は火をつけた象を吳軍に向けて放った。庚辰の日、吳軍は郢に入城し、身分の順に宮殿を占拠した。子山が令尹の宮殿に入ると、夫概王が攻撃を企てたため、子山は恐れて退去した。夫概王がそこに入った。左司馬の戌は息地まで進んだが引き返し、雍澨で吳軍を破った。しかし彼は負傷した。かつて戌は闔廬に仕えていたため、捕虜となることを恥じた。家臣に言った。「誰か私の首を敵に渡さずに済ませてくれるか」。吳句卑が「卑しい私でよろしいでしょうか」と言うと、戌は「私はこれまで君を軽んじていた。頼む」と答えた。三度戦いすべてで負傷した戌は「もはや役に立たぬ」と言った。句卑は衣服を敷き、戌の首を刎ねて包み、遺体を隠した上で首だけを持って脱出した。 楚王は睢水を渡り長江を越え、雲中(沼沢地)に入った。王が仮眠していると、盗賊が襲いかけ、戈で王を狙った。王孫由于が背中で受け止め、肩を負傷した。王は鄖に逃れた。鍾建が季芊を背負って従い、由于は意識を回復して後を追った。鄖公の辛の弟である懷が、「平王が私の父を殺した。私がその子を殺すのは当然だ」と言って王を弑そうとした。辛は「君主が臣下を誅するのは当然で、誰が仇とできるか。君命は天命だ。もし天命で死ぬなら、誰を恨むというのか。詩経に『柔らかいものも噛まず、硬いものも吐き出さず、孤寡を侮らず、強者を恐れない、これが仁者のあり方だ』とある。強者を避けて弱者を虐げるのは勇ではない。相手の窮状に乗じるのは仁ではない。宗廟を滅ぼし祭祀を絶つのは孝ではない。行動に名誉が伴わないのは智ではない。もしこれらの過ちを犯すなら、私はお前を殺す」と諫めた。鬥辛と弟の巢は王を連れて隨に逃れた。吳軍は追跡し、隨の人々に言った。「漢川地域の周王室の子孫は、ことごとく楚に滅ぼされた。天はその心を動かし、楚に罰を与えている。それなのに貴国は楚王を匿う。周室に何の罪があるのか。もし周室への恩顧を念じ、我が吳に配慮して天の意思を助けるなら、それは貴国の恩恵だ。漢陽の土地は貴国のものとしよう」。楚王は隨の公宮の北に、吳軍は南に配置された。子期は王に似ていたため、王を逃がし、自分が王のふりをした。「私を差し出せば、王は必ず助かる」。隨が占うと不吉だったため、吳に断って言った。「隨は小国で楚に近接し、楚によって存立してきた。代々の盟約は今も変わらない。困難に際して盟約を破れば、どうして他国と約束を守れようか。貴方々の憂いは楚王一人だけではない。もし楚の全土を平定されるなら、我々は従わざるを得ない」。吳軍は撤退した。鑪金はかつて子期に仕え、隨と内通していた。王は彼を遣わして「約束を利益に変えるつもりはない」と伝えさせた。王は子期の心臓のあたりの皮膚を切り取り、隨と血盟した。 かつて伍員と申包胥は友人だった。伍員が亡命する時、申包胥に「必ず楚に復讐する」と言うと、申包胥は「頑張れ。君が楚を滅ぼせば、私は必ず楚を再興する」と答えた。昭王が隨にいる時、申包胥は秦に援軍を要請した。「吳は猪や蛇のように貪欲で、中原諸国を侵食している。暴虐は楚から始まった。我が君は社稷を失い、草莽に逃れている。臣が緊急に申し上げるには、夷人(吳)の欲望は飽くことを知らず、もし秦と国境を接すれば、貴国も脅威にさらされる。吳が未だ安定しない今、貴国も利を得るべきだ。もし楚が滅べば、その土地は貴国のものとなる。もし貴国の威光で楚を救い、楚が代々秦に仕えるようにすれば、天の意思を助けることになる」。秦伯(哀公)は「承知した。しばらく宿所で待て。検討して連絡する」と断った。申包胥は「我が君が野にあり安住の地も得られないのに、臣が安んじていられようか」と言い、庭の壁に寄りかかって泣き、日夜声を絶やさず、一滴の水も口にせずに七日間続けた。秦哀公が『無衣』の詩を賦すると、申包胥は九回頭を地面に叩きつけて座った。秦軍は出撃した。 定公五年 解説この一節は、春秋時代の紀元前506年に起きた「柏挙の戦い」を中心とした吳楚の戦争を描いています。吳王闔廬と楚令尹子常の対立、伍子胥や伯嚭らの復讐劇、楚昭王の逃亡と秦の介入など、複雑な人間関係と戦略が交錯します。特に、夫概王の独断専行や申包胥の秦での悲願など、個人の決断が歴史を動かす様子が強調されています。史記や他の史書とも共通するエピソードが多く、春秋時代の国際政治の縮図として読むことができます。文体は簡潔な叙述ながら、人物の台詞を通じて心理描写や倫理観(例:辛の諫言、申包胥の忠節)が深められ、後の儒家思想の影響も窺えます。 Translation took 16073.9 seconds. |
| 五年春.王三月.辛亥.朔.日有食之. 夏.歸粟于蔡.於越入吳. 六月.丙申.季孫意如卒. 秋.七月.壬子.叔孫不敢卒. 冬.晉士鞅帥師圍鮮虞. 傳 五年春.王人殺子朝于楚. 夏.歸粟於蔡.以周亟.矜無資.越入吳.吳在楚也. 六月.季平子行東野.還.未至.丙申.卒于房.陽虎將以璵璠斂.仲梁懷弗與.曰.改步改玉.陽虎欲逐之.告公山不狃.不狃曰.彼為君也.子何怨焉.既葬.桓子行東野.及費子洩為費宰.逆勞於郊.桓子敬之.勞仲梁懷.仲梁懷弗敬.子洩怒.謂陽虎.子行之乎.申包胥以秦師至.秦子蒲.子虎.帥車五百乘以救楚.子蒲曰.吾未知吳道.使楚人先與吳人戰.而自稷會之.大敗夫概王于沂.吳人獲薳射於柏舉.其子帥奔徒以從.子西敗吳師于軍祥.秋. 七月.子期.子蒲.滅唐. 九月.夫概王歸.自立也.以與王戰而敗.奔楚為堂谿氏.吳師敗楚師于雍澨.秦師又敗吳師.吳師居麇.子期將焚之.子西曰.父兄親暴骨焉.不能收.又焚之.不可.子期曰.國亡矣.死者若有知也.可以歆舊祀.豈憚焚之.焚之而又戰.吳師敗.又戰于公婿之谿.吳師大敗.吳子乃歸.囚闉輿罷.闉輿罷請先.遂逃歸.葉公諸梁之弟后臧.從其母於吳.不待而歸.葉公終不正視.乙亥.陽虎囚季桓子.及公父文伯.而逐仲梁.懷. |
【翻訳文】 夏、蔡へ穀物を送り返した。越が呉に侵攻した。 六月、丙申の日、季孫意如が死去した。 秋、七月、壬子の日、叔孫不敢が死去した。 冬、晋の士鞅が軍勢を率いて鮮虞を包囲した。 伝(解説部) 夏、蔡へ穀物を送り返したのは、緊急事態を救済し、財産のない者を憐れむためであった。越が呉に侵攻したのは、呉軍が楚に駐屯している隙を突いたからである。 六月、季平子(季孫意如)が東野を巡行し、帰途についたが、都に到達しないうちに丙申の日、房の地で死去した。陽虎は璵璠(宝玉)を副葬品としようとしたが、仲梁懷がこれに反対し、「地位が変われば佩玉も変えるべきだ」と言った。陽虎は仲梁懷を追放しようと考え、公山不狃に相談した。公山不狃は「彼は君主のために忠言しているだけだ。恨む理由があろうか」と答えた。葬儀後、桓子(季孫斯)が東野を巡行し、費の地に至ると、費の長官である子洩が郊外で出迎え慰労した。桓子は子洩を敬ったが、仲梁懷を慰労する際に桓子が敬意を示さなかったため、子洩は怒り、陽虎に「あの者を追放するか」と持ちかけた。申包胥が秦軍を率いて到着し、秦の子蒲と子虎が戦車五百乗を指揮して楚を救援した。子蒲は「呉軍の戦法がわからない」として、まず楚軍に呉軍と戦わせ、自軍は稷で合流して沂で夫概王を大破した。呉軍は柏挙で薳射を捕虜としたが、その子が敗残兵を率いて従軍した。子西が軍祥で呉軍を撃破した。 秋、七月、子期と子蒲が唐を滅ぼした。 九月、夫概王が呉に帰国し自立を宣言したが、呉王と戦って敗れ、楚に逃亡して堂谿氏を称した。呉軍は雍澨で楚軍を破ったが、秦軍に再び敗北し、麇に駐屯した。子期は火攻ちを提案したが、子西が「楚の父兄の遺骨が埋まっている地を収容できぬ上に焼くわけにはいかない」と反対すると、子期は「国が滅びようとしている。死者に知覚があれば、旧来の祭祀を受けるためにむしろ歓迎するだろう」と言い、火攻ちの後に交戦して呉軍を破った。さらに公婿の谿で戦い、呉軍は大敗した。呉王は撤退し、闉輿罷を捕虜としたが、闉輿罷が「先に帰国させよ」と願って途中で逃亡した。葉公諸梁の弟后臧は母を呉に残したまま単身帰国したため、葉公は生涯彼を正眼で見なかった。乙亥の日、陽虎が季桓子と公父文伯を拘束し、仲梁懷を追放した。 【解説】
この時期、呉の一時的優勢は秦の介入で終わり、楚は滅亡の危機を脱する一方、魯では権臣陽虎のクーデターが進行中という、各国で転換期が重なっている点が興味深い段落です。 Translation took 8171.6 seconds. |
| 冬.十月.丁亥.殺公何藐.己丑.盟桓子于稷門之內.庚寅.大詛逐公父歜及秦遄.皆奔齊.楚子入于郢.初.鬥辛聞吳人之爭宮也.曰.吾聞之.不讓則不和.不和不可以遠征.吳爭於楚.必有亂.有亂則必歸.焉能定楚.王之奔隨也.將涉於成臼.藍尹亹涉其帑.不與王舟.及寧.王欲殺之.子西曰.子常唯思舊怨以敗.君何效焉.王曰.善.使復其所.吾以志前惡.王賞鬥辛.王孫由于.王孫圉.鍾建.鬥巢.申包胥.王孫賈.宋木.鬥懷.子西曰.請舍懷也.王曰.大德滅小怨.道也.申包胥曰.吾為君也.非為身也.君既定矣.又何求.且吾尤子旗.其又為諸.遂逃賞.王將嫁季芊.季芊辭曰.所以為女子.遠丈夫也.鍾建負我矣.以妻鍾建.以為樂尹.王之在隨也.子西為王輿服.以保路.國于脾洩.聞王所在.而後從王.王使由于城麇.復命子西問高厚焉.弗知.子西曰.不能如辭.城不知高厚小大.何知.對曰.固辭不能.子使余也.人各有能有不能.王遇盜於雲中.余受其戈.其所猶在.袒而示之背.曰.此余所能也.脾洩之事.余亦弗能也.晉士鞅圍鮮虞.報觀虎之役也. 定公六年 經 六年春.王正月.癸亥.鄭游速帥師滅許.以許男歸. 二月.公侵鄭公.至自侵鄭. 夏.季孫斯.仲孫何忌.如晉. |
冬、十月、丁亥の日に、公何藐を殺した。己丑の日に、稷門の内で桓子と盟を結んだ。庚寅の日に、大詛して公父歜と秦遄を追放し、彼らは皆斉に逃れた。楚子が郢に入った。当初、鬥辛は吴人が宮廷を争っていると聞き、言った。「私はこう聞いている。譲らなければ和合せず、和合しなければ遠征できないと。吴が楚で争えば、必ず混乱が生じる。混乱があれば必ず帰国する。どうして楚を平定できようか。」王が随に逃れた時、成臼を渡ろうとした。藍尹亹は自分の家族を渡したが、王に舟を提供しなかった。平和になって後、王は彼を殺そうとした。子西が言った。「子常は古い怨みばかり考えて失敗しました。君はなぜそれを真似るのですか。」王は言った。「その通りだ。」彼を元の地位に戻させた。「私は過去の悪事を忘れないようにする。」王は鬥辛、王孫由于、王孫圉、鍾建、鬥巢、申包胥、王孫賈、宋木、鬥懷を褒賞した。子西が言った。「鬥懷を除外するようお願いします。」王は言った。「大いなる徳は小さな怨みを消し去る。これが道理である。」申包胥は言った。「私は君のためであって、自分のためではない。君が既に安定された以上、他に何も求めない。かつて私は子旗を非難したのに、どうしてまた同じことをしようか。」こうして褒賞を逃れた。王が季芊を嫁がせようとした時、季芊は辞退して言った。「女子であることの本分は、男性から距離を置くことです。鍾建が私を背負いました。」そこで鍾建に妻として与え、楽尹に任命した。王が随にいた時、子西は王の車や服装を整え、道路を守り、脾洩に仮の国を置いた。王の居場所を知ってから、王に従った。王が由于に麇の城を築かせ、子西が高さと厚さを尋ねたが、由于は知らなかった。子西が言った。「できないなら最初に断るべきだ。城の高さや厚さ、大きさを知らないとは、いったい何を知っているというのか。」由于は答えた。「最初からできないと断りましたが、あなたが私を使わせたのです。人にはそれぞれ得意不得意があります。王が雲中で盗賊に遭った時、私はその戈を受け止めました。その傷が今も残っています。」背中を裸にして示し、言った。「これは私にできたことです。脾洩での仕事は、私にはできませんでした。」晋の士鞅が鮮虞を包囲した。観虎の戦いへの報復である。 定公六年 六年の春、周の正月、癸亥の日に、鄭の游速が軍を率いて許を滅ぼし、許男を連れ帰った。 二月、公(魯の定公)が鄭を侵攻し、侵攻から帰還した。 夏、季孫斯と仲孫何忌が晋へ赴いた。 解説: Translation took 4452.3 seconds. |
| 秋.晉人執宋行人樂祁犁. 冬.城中城.季孫斯.仲孫忌.帥師圍鄆. 傳 六年春.鄭滅許.因楚敗也. 二月.公侵鄭.取匡.為晉討鄭之伐胥靡也.往不假道於衛.及還.陽虎使季孟自南門入.出自東門.舍於豚澤.衛侯怒.使彌子瑕追之.公叔文子老矣.輦而如公.曰.尤人而效之.非禮也.昭公之難.君將以文之舒鼎.成之昭兆.定之鞶鑑.苟可以納之.擇用一焉.公子與二三臣之子.諸侯苟憂之.將以為之質.此群臣之所聞也.今將以小忿蒙舊德.無乃不可乎.大姒之子.唯周公康叔為相睦也.而效小人以棄之.不亦誣乎.天將多陽虎之罪以斃之.君姑待之.若何.乃止. 夏.季桓子如晉.獻鄭俘也.陽虎強使孟懿子.往報夫人之幣.晉人兼享之.孟孫立于房外.謂范獻子曰.陽虎若不能居魯.而息肩於晉所.不以為中軍司馬者.有如先君.獻子曰.寡君有官.將使其人.鞅何知焉.獻子謂簡子曰.魯人患陽虎矣.孟孫知其釁.以為必適晉.故強為之請.以取入焉. 四月.己丑.吳大子終纍敗楚舟師.獲潘子臣.小惟子.及大夫七人.楚國大惕.懼亡子期.又以陵師敗于繁揚.令尹子西喜曰.乃今可為矣.於是乎遷郢於鄀.而改紀其政.以定楚國.周儋翩率王子朝之徒.因鄭人將以作亂于周.鄭於是乎伐馮.滑.胥靡.負黍.狐人.闕外. |
秋、晋の人が宋の使者の楽祁犁を捕らえた。 伝 夏、季桓子が晋に行き、鄭の捕虜を献上した。陽虎が無理に孟懿子に行かせ、夫人への贈り物を返礼するためであった。晋人は両者をともに饗応した。孟孫が部屋の外に立って、范献子に言った。「陽虎がもし魯にいられなくなり、晋に身を寄せた場合、中軍司馬に任命しないなら、先君にかけて誓います。」献子は言った。「我が君には官職があり、適任者を任じます。鞅(献子)がどうして知りえましょうか。」献子が簡子に言った。「魯人は陽虎を患っている。孟孫はその隙を見て、必ず晋に来ると思い、故に無理に請わせて、受け入れを図ったのである。」 四月己丑の日、呉の太子終纍が楚の水軍を破り、潘子臣、小惟子、及び大夫七人を捕らえた。楚國は大いに警戒し、子期の喪失を恐れた。また陸軍が繁揚で敗れた。令尹の子西が喜んで言った。「今こそ為すべき時だ。」そこで郢を鄀に遷都し、政治を改革して楚國を安定させた。周の儋翩が王子朝の徒党を率い、鄭人を頼りに周で乱を起こそうとした。鄭はそこで馮、滑、胥靡、負黍、狐人、闕外を攻撃した。 解説: Translation took 6286.3 seconds. |
| 六月.晉閻沒戍周.且城胥靡. 秋.八月.宋樂祁言於景公曰.諸侯唯我事晉.今使不往.晉其憾矣.樂祁告其宰陳寅.陳寅曰.必使子往.他日.公謂樂祁曰.唯寡人說子之言.子必往.陳寅曰.子立後而行.吾室亦不亡.唯君亦以我為知難而行也.見溷而行.趙簡子逆而飲之酒於綿上.獻楊楯六十於簡子.陳寅曰.昔吾主范氏.今子主趙氏.又有納焉.以楊楯賈禍.弗可為也已.然子死.晉國子孫.必得志於宋.范獻子言於晉侯曰.以君命越疆而使.未致使而私飲酒.不敬二君.不可不討也.乃執樂祁.陽虎又盟公及三桓於周社.盟國人于亳社.詛于五父之衢. 冬.十二月.天王處于姑蕕.辟儋翩之亂也. 定公七年 經 七年春.王正月. 夏.四月. 秋.齊侯.鄭伯.盟于鹹.齊人執衛行人.北宮結.以侵衛.齊侯.衛侯.盟于沙.大雩.齊國夏帥師伐我西鄙. 九月.大雩. 冬.十月. 傳 七年春.二月.周儋翩入于儀栗以叛.齊人歸鄆陽關.陽虎居之以為政. 夏.四月.單武公.劉桓公.敗尹氏于窮谷. 秋.齊侯.鄭伯.盟于鹹.徵會于衛.衛侯欲叛晉.諸大夫不可.使北宮結如齊.而私於齊侯.曰.執結以侵我.齊侯從之.乃盟于瑣.齊國夏伐我.陽虎御季桓子.公斂處父御孟懿子.將宵軍齊師.齊師聞之.墮伏而待之.處父曰.虎不圖禍.而必死.苫夷曰.虎陷二子於難.不待有司.余必殺女.虎懼.乃還.不敗. |
六月、晋の閻没が周を守備し、さらに胥靡に城塞を築いた。 秋八月、宋の楽祁が景公に申し上げた。「諸侯の中で我々だけが晋に仕えています。今、使者を派遣しなければ、晋は恨みに思うでしょう」。楽祁が家宰の陳寅にこのことを伝えると、陳寅は「必ずあなたが行かされるでしょう」と言った。後日、景公が楽祁に「私だけがあなたの意見を気に入っている。あなたは必ず行きなさい」と言うと、陳寅は「後継者を定めてから出発してください。そうすれば我が家も滅びず、国君も私が困難を承知で行動すると認めてくれるでしょう」と助言した。楽祁は息子の溷を後継ぎに定めて出発し、趙簡子が綿上で出迎えて酒宴を催した。楽祁は楊木の盾六十枚を趙簡子に献上すると、陳寅が警告した。「以前私は范氏に仕え、今あなたは趙氏を主君としているのに、さらに贈り物を献上する。楊楯が災いを招くでしょう。もはやどうすることもできません。しかしあなたが死ねば、晋の子孫は必ず宋で勢力を伸ばすでしょう」。范献子が晋侯に「国君の命令で国境を越えて使者として来た者が、使命を果たさずに私的に酒宴を開くのは両君への不敬です。処罰すべきです」と進言し、楽祁を逮捕した。陽虎はさらに魯公と三桓(季孫・叔孫・孟孫の三家)を周社で盟約させ、国人を亳社で盟約させ、五父の衢で呪詛の儀式を行った。 冬十二月、周王が姑蕕に滞在した。これは儋翩の反乱を避けるためであった。 定公七年 伝文 解説この一節は春秋時代の複雑な国際関係と国内権力闘争を描いています。以下の点が特筆されます:
これらの記録は、孔子の時代の政治的不安が、国際関係から個人の行動までを鋭く規定していたことを物語る貴重な史料です。 Translation took 6207.0 seconds. |
| 冬.十一月.戊午.單子.劉子.逆王于慶氏.晉籍秦逆王.己巳.王入于王城.館于公族黨氏.而後朝于莊宮. 定公八年 經 八年春.王正月.公侵齊.公至自侵齊. 二月.公侵齊. 三月.公至自侵齊.曹伯露卒. 夏.齊國夏帥師伐我西鄙.公會晉師于瓦.公至自瓦. 秋.七月.戊辰.陳侯柳卒.晉士鞅帥師侵鄭.遂侵衛.葬曹靖公. 九月.葬陳懷公.季孫斯.仲孫何忌.帥師侵衛. 冬.衛侯.鄭伯.盟于曲濮.從祀先公.盜竊寶玉大弓. 傳 八年春.王正月.公侵齊.門于陽州.士皆坐列.曰.顏高之弓六鈞.皆取而傳觀之.陽州人出.顏高奪人弱弓.籍丘子鉏擊之.與一人俱斃.偃且射子鉏.中頰.殪.顏息射人中眉.退曰.我無勇.吾志其目也.師退.冉猛偽傷足而先.其兄會乃呼曰.猛也殿. 三月.己丑.單子伐穀城.劉子伐儀栗.辛卯.單子伐簡城.劉子伐盂.以定王室.趙鞅言於晉侯曰.諸侯唯宋事晉.好逆其使.猶懼不至.今又執之.是絕諸侯也.將歸樂祁.士鞅曰.三年止之.無故而歸之.宋必叛晉.獻子私謂子梁曰.寡君懼不得事宋君.是以止子.子姑使溷代子.子梁以告陳寅.陳寅曰.宋將叛晉.是棄溷也.不如待之.樂祁歸卒於大行.士鞅曰.宋必叛.不如止其尸.以求成焉.乃止諸州.公侵齊.攻廩丘之郛.主人焚衝.或濡馬褐以救之.遂毀之.主人出.師奔.陽虎偽不見冉猛者.曰.猛在此必敗.猛逐之.顧而無繼.偽顛.虎曰.盡客氣也.苫越生子.將待事而名之.陽州之役獲焉.名之曰陽州.夏.齊國夏.高張.伐我西鄙.晉士鞅.趙鞅.荀寅.救我.公會晉師于瓦.范獻子執羔.趙簡子.中行文子.皆執鴈.魯於是始尚羔.晉師將盟衛侯于鄟澤.趙簡子曰.群臣誰敢盟衛君者.涉佗成何曰.我能盟之.衛人請執牛耳.成何曰.衛.吾溫原也.焉得視諸侯.將歃.涉佗捘衛侯之手及捥.衛侯怒.王孫賈趨進曰.盟以信禮也.有如衛君.其敢不唯禮是事.而受此盟也.衛侯欲叛晉.而患諸大夫.王孫賈使次于郊.大夫問故.公以晉詬語之.且曰.寡人辱社稷.其改卜嗣.寡人從焉.大夫曰.是衛之禍.豈君之過也.公曰.又有患焉.謂寡人必以而子.與大夫之子為質.大夫曰.苟有益也.公子則往.群臣之子.敢不皆負羈絏以從.將行.王孫賈曰.苟衛國有難.工商未嘗不為患.使皆行而後可.公以告大夫.乃皆將行之.行有日.公朝國人.使賈問焉.曰.若衛叛晉.晉五伐我.病何如矣.皆曰.五伐我.猶可以能戰.賈曰.然則如叛之.病而後質焉.何遲之有.乃叛晉.晉人請改盟.弗許. |
冬、十一月の戊午の日、単子と劉子が慶氏のもとで王を迎えた。晋の籍秦が王を迎え、己巳の日に王は王城に入り、公族の党氏の館に滞在した後、莊宮で朝見した。 定公八年 八年の春、周王の正月、公(魯の定公)が斉を侵す。公が斉侵伐から帰国する。 二月、公が斉を侵す。 三月、公が斉侵伐から帰国する。曹伯の露が卒去する。 夏、斉の国夏が軍を率いて我が国(魯)の西辺を攻撃する。公が瓦で晋軍と会合する。公が瓦から帰国する。 秋、七月の戊辰の日、陳侯の柳が卒去する。晋の士鞅が軍を率いて鄭を侵し、続いて衛を侵す。曹の靖公を葬る。 九月、陳の懷公を葬る。季孫斯と仲孫何忌が軍を率いて衛を侵す。 冬、衛侯と鄭伯が曲濮で盟を結ぶ。先公(魯の先君)の祭祀順序を改める。盗賊が宝玉と大弓を窃取する。 伝 八年の春、周王の正月、公が斉を侵し、陽州の城門を攻撃した。兵士たちは整列して座り、「顔高の弓は六鈞(約90キロの张力)もある」と言い、皆が取り回して見物した。陽州の守兵が出撃すると、顔高は他人の弱い弓を奪い、籍丘子鉏に打ち掛かられて一人と共に倒れた。顔高は俯せになったまま子鉏を射て頬に命中させて絶命させた。顔息が敵の眉を射たが、退却して「私は無力だ。目を狙ったつもりだった」と言った。軍が退却する時、冉猛は足を負傷したふりをして先に逃げ、その兄の会が「猛よ、殿(しんがり)を務めよ」と呼びかけた。 三月の己丑の日、単子が穀城を攻撃し、劉子が儀栗を攻撃する。辛卯の日、単子が簡城を攻撃し、劉子が盂を攻撃して周王室を安定させた。趙鞅が晋侯に「諸侯の中で宋だけが晋に従っている。使者を丁寧に迎えても来るか危ぶまれるのに、今また拘束するのは諸侯を絶つものだ」と進言した。楽祁を帰国させようとしたが、士鞅は「三年も拘束しておいて理由なく帰せば、宋は必ず叛く」と言った。献子(士鞅)が密かに子梁(楽祁)に「我が君は宋君に仕えられないことを恐れ、貴方を留めたのだ。貴方は暫く溷(楽祁の子)を代理とされよ」と言うと、子梁が陳寅に伝えると、陳寅は「宋が晋に叛くなら、溷を見捨てるようなものだ。待つべきだ」と答えた。楽祁が帰途で大行山で死去すると、士鞅は「宋は必ず叛く。遺体を留めて和議を求めるべきだ」と言い、州で遺体を留めた。公が斉を侵し、廩丘の外城を攻撃すると、守備側が衝車を焼いた。兵士が馬の毛布を濡らして消火し、外城を破壊した。守備兵が出撃すると、軍は潰走した。陽虎は冉猛を見ないふりをして「猛が居れば必ず敗れる」と言うと、冉猛は追撃したが、振り返って援軍がおらず、倒れたふりをした。陽虎は「これが虚勢というものだ」と言った。苫越に子が生まれ、行事を待って名付けるところ、陽州の戦いで戦功を立てたので「陽州」と名付けた。 夏、斉の国夏と高張が我が国(魯)の西辺を攻撃する。晋の士鞅、趙鞅、荀寅が救援し、公が瓦で晋軍と会合した。范献子は羊を捧げ持ち、趙簡子と中行文子は雁を捧げ持った。魯はこの時初めて羊を尊ぶようになった。晋軍が鄟澤で衛侯と盟を結ぼうとした時、趙簡子が「誰が衛君と盟を結ぶか」と問うと、涉佗と成何が「我々ができる」と答えた。衛が牛耳(盟主の役)を執るよう求めたが、成何が「衛は我々の温や原のようなものだ。諸侯同様に扱えるか」と言った。盟の際、涉佗が衛侯の手と手首を押し付けると、衛侯は怒った。王孫賈が進み出て「盟は礼儀を重んじるもの。衛君として礼を欠くこの盟を受けられようか」と言った。衛侯は晋への叛意を抱くが、大夫たちを憂慮した。王孫賈が郊外に駐屯させると、大夫が理由を問うた。公は晋の侮辱的な言葉を伝え、「私は国を辱めた。後継を占い直し、私は従おう」と言うと、大夫は「これは衛の災いであって君の過ちではない」と答えた。公が「さらに問題がある。私の子と大夫たちの子を人質に出すよう要求されている」と言うと、大夫は「国益になれば公子は行くべきだ。我々の子も従うだろう」と言った。出発直前、王孫賈が「衛に危機があれば工商人も災いを受ける。全員を行かせるべきだ」と進言し、公が大夫に伝えると全員が同行することになった。決行日前、公が国人を集め、王孫賈に「衛が晋に叛けば五度攻められるが、どうなるか」と問わせると、皆は「五度でも戦える」と答えた。賈は「ならば叛こう。窮迫してから人質を出しても遅くない」と言い、晋への叛意を決した。晋が盟のやり直しを求めたが拒否した。 解説この一節は『春秋左氏伝』定公八年(紀元前502年)の記録です。経文では魯の定公が斉への侵攻を繰り返す一方、晋をはじめとする諸国間の複雑な外交関係が描かれます。伝文では陽州の戦いにおけるエピソード(顔高の弓の逸話や冉猛の偽装行為)や、晋と衛の盟約決裂の経緯が生々しく記述されています。特に衛侯が晋の侮辱に対し、国人の意見を聞いて叛意を固める場面は、春秋時代の君臣関係や国論形成の過程を示す重要な事例です。全体を通して、武力衝突と外交駆け引きが交錯する当時の国際情勢が浮き彫りにされています。 Translation took 4030.3 seconds. |
| 秋.晉士鞅會成桓公侵鄭.圍蟲牢.報伊闕也.遂侵衛. 九月.師侵衛.晉故也.季寤.公鉏極.公山不狃.皆不得志於季氏.叔孫輒無寵於叔孫氏.叔仲志不得志於魯.故五人因陽虎.陽虎欲去三桓.以季寤更季氏.以叔孫輒更叔孫氏.己更孟氏. 冬.十月.順祀先公而祈焉.辛卯.禘于僖公.壬辰.將享季氏于蒲圃而殺之.戒都車曰.癸巳至.成宰公斂處父告孟孫曰.季氏戒都車.何故.孟孫曰.吾弗聞.處父曰.然則亂也.必及於子.先備諸.與孟孫以壬辰為期.陽虎前驅.林楚御桓子.虞人以鈹盾夾之.陽越殿.將如蒲圃.桓子咋謂林楚曰.而先皆季氏之良也.爾以是繼之.對曰.臣聞命後.陽虎為政.魯國服焉.違之徵死.死無益於主.桓子曰.何後之有.而能以我適孟氏乎.對曰.不敢愛死.懼不免主.桓子曰.往也.孟氏選圉人之壯者三百人.以為公期築室於門外.林楚怒.馬及衢而騁.陽越射之不中.築者闔門.有自門間射陽越.殺之.陽虎劫公與武叔以伐孟氏.公斂處父.帥成人.自上東門入與陽氏戰于南門之內.弗勝.又戰于棘下.陽氏敗.陽氏說甲如公宮.取寶玉大弓以出.舍于五父之衢.寢而為食其徒曰.追其將至.虎曰.魯人聞余出.喜於徵死.何暇追余.從者曰.嘻.速駕.公斂陽在.公斂陽請追之.孟孫弗許.陽欲殺桓子.孟孫懼而歸之.子言辨舍爵於季氏之廟而出.陽虎入于讙陽關以叛.鄭駟歂嗣子大叔為政. 定公九年 經 |
秋に、晋の士鞅が成の桓公と会合し、鄭を侵略した。蟲牢を包囲し、伊闕の戦いの報復である。その後、衛を侵略した。 九月、軍が衛を侵略した。晋のためである。季寤、公鉏極、公山不狃は、皆、季氏に対して不満を持っていた。叔孫輒は叔孫氏から寵愛を受けていなかった。叔仲志は魯国で不遇であった。そこで五人は陽虎を頼った。陽虎は三桓を除こうとし、季寤を季氏の代わりに、叔孫輒を叔孫氏の代わりに、自分は孟氏の代わりにしようとした。 冬、十月、先公を順に祀って祈った。辛卯の日、僖公に対して禘祭を行った。壬辰の日、蒲圃で季氏を饗応して殺そうとした。都の車に戒めを告げて、「癸巳の日までに到着せよ」と言った。成の宰である公斂處父が孟孫に告げて言った。「季氏が都の車に戒めをしているのは、何故ですか。」孟孫は言った。「私は聞いていない。」處父は言った。「それならば乱が起きる。必ずあなたに及ぶ。先んじて備えよ。」そして孟孫と壬辰の日を期した。陽虎が先導し、林楚が桓子を御し、虞人が鈹と盾で挟んだ。陽越が後衛となった。蒲圃に向かおうとした時、桓子が突然林楚に言った。「お前の先祖は皆、季氏の優れた家臣だった。お前はそれを受け継いでいる。」林楚は答えて言った。「臣は命令を聞いた後です。陽虎が政を執り、魯国はそれに服している。逆らえば死を招く。死んでも主君の益にはならない。」桓子は言った。「何が後だ。お前は私を孟氏の所へ連れて行けるか。」林楚は答えた。「死を惜しむわけにはいきませんが、主君を救えぬことを恐れます。」桓子は言った。「行こう。」孟氏は馬小屋の者の中から壮健な者三百人を選び、公期のために門の外に屋敷を築かせた。林楚が怒り、馬が大通りに駆け出した。陽越が射たが当たらなかった。築いている者たちが門を閉めた。門の隙間から陽越を射て、殺した。陽虎は公と武叔を脅して孟氏を討とうとした。公斂處父が成人を率い、上東門から入り、南門の内で陽氏と戦ったが、勝てなかった。また棘下で戦い、陽氏は敗れた。陽虎は甲冑を脱いで公宮に行き、宝玉と大弓を取って出た。五父の衢で宿泊し、寝ながら食事をして、配下に言った。「追手が来るだろう。」陽虎は言った。「魯人が私が出たと聞けば、死を免れたことを喜ぶ。どうして追う暇があろうか。」従者が言った。「ああ、急いで車を出せ。公斂陽がいる。」公斂陽は追撃を請うたが、孟孫は許さなかった。陽虎は桓子を殺そうとしたが、孟孫は恐れて彼を帰した。子言は季氏の廟で酒杯を整えて出た。陽虎は讙陽関に入って反乱した。鄭の駟歂が子大叔の後を継いで政を執った。 定公九年 解説この一節は『春秋左氏伝』定公九年の記述で、魯国における陽虎の乱の顛末を詳細に描いています。陽虎は季氏の家臣ながら権力を掌握し、三桓(季氏・叔孫氏・孟氏)を排除しようと画策します。しかし、計画は事前に漏れ、孟氏らの反撃によって失敗に終わります。陽虎は魯国から逃亡し、鄭国では駟歂が政権を継承したことが記されます。この出来事は、春秋時代の貴族間の権力闘争や家臣の台頭による社会変動を象徴的に示しており、魯国内の政治的不安定さが浮き彫りにされています。特に、陽虎が「宝玉と大弓」を持ち出した描写は、当時の権威の象徴をめぐる争いを反映しています。 Translation took 4144.0 seconds. |
| 九年春.王正月. 夏.四月.戊申.鄭伯蠆卒.得寶玉大弓. 六月.葬鄭獻公. 秋.齊侯.衛侯.次于五民.秦伯卒. 冬.葬秦哀公. 傳 九年春.宋公使樂大心盟于晉.且逆樂祁之尸.辭.偽有疾.乃使向巢如晉盟.且逆子梁之尸.子明謂桐門.右師出曰.吾猶衰絰.而子擊鍾.何也.右師曰.喪不在此故也.既而告人曰.已衰絰而生子.余何故舍.鍾子明聞之.怒言於公曰.右師將不利戴氏.不肯適晉.將作亂也.不然無疾.乃逐桐門右師.鄭駟歂殺鄧析.而用其竹刑.君子謂子然於是不忠.苟有可以加於國家者.棄其邪可也.靜女之三章.取彤管焉.竿旄何以告之.取其忠也.故用其道不棄其人.詩云.蔽芾甘棠.勿翦勿伐.召伯所茇.思其人.猶愛其樹.況用其道.而不恤其人乎.子然無以勸能矣. 夏.陽虎歸寶玉大弓.書曰得.器用也.凡獲器用曰得.得用焉曰獲. 六月.伐陽關.陽虎使焚萊門.師驚.犯之而出.奔齊.請師以伐魯.曰.三加必取之.齊侯將許之.鮑文子諫曰.臣嘗為隸於施氏矣.魯未可取也.上下猶和.眾庶猶睦.能事大國.而無天菑.若之何取之.陽虎欲勤齊師也.齊師罷.大臣必多死亡.已於是乎奮其詐謀.夫陽虎有寵於季氏.而將殺季孫.以不利魯國而求容焉.親富不親仁.君焉用之.君富於季氏.而大於魯國.茲陽虎所欲傾覆也.魯免其疾.而君又收之.無乃害乎.齊侯執陽虎.將東之.陽虎願東.乃囚諸西鄙.盡借邑人之車.鍥其軸.麻約而歸之.載蔥靈.寢於其中而逃.追而得之.囚於齊.又以蔥靈逃.奔宋.遂奔晉.適趙氏.仲尼曰.趙氏其世有亂乎. |
九年の春、周の王の正月。 伝 鄭の駟歂が鄧析を殺し、その竹刑(法律を記した竹簡)を用いた。君子(識者)は子然(駟歂)について、これは不忠であると評した。もし国家に貢献できる点があれば、その欠点は見逃すこともできる。『詩経』の「静女」の三章では彤管(赤い管の筆)を取り上げ、「竿旄」ではなぜ忠誠を説くのか。それは忠義を重んじるからである。だから、その考え方を採用するならば、その人を捨て去ってはならない。『詩経』に「茂る甘棠の木、切らず伐たず、召伯が休んだ所」とある。その人を思えば、その木さえも愛おしむ。ましてやその考えを用いながら、その人を顧みないとは。子然には有能な者を奨励する姿勢が欠けている。 夏、陽虎が宝玉と大弓を返した。史書に「得」と記すのは、器物を入手したことを示す。一般に器物を手に入れることを「得」と言い、それを実際に使用する場合を「獲」と言う。 六月、陽関を攻撃した。陽虎は萊門に火を放たせ、軍勢を混乱させ、突破して脱出し、斉に逃れた。魯を討伐するための援軍を要請し、「三度攻めれば必ず落とせます」と言った。斉の侯が承諾しようとしたところ、鮑文子が諫めて言った。「私はかつて施氏に仕えましたが、魯は攻略できません。上下の関係はまだ和しており、民衆もまとまっています。大国へうまく仕え、天災もない。どうして攻め取れましょうか。陽虎は斉軍を疲弊させようとしているのです。斉軍が疲れれば、大臣たちが多く倒れるでしょう。陽虎はそこで自分の謀略を実行しようとします。陽虎は季氏に寵愛されながら、季孫を殺そうとし、魯国に損害を与えて自分が受け入れられようとしています。富む者に近づき仁者に近づかない。君はなぜそんな者を使うのですか。君は季氏より富み、魯国より大きい。これこそ陽虎が転覆させたいものなのです。魯がその災いを免れたのに、君がまた引き受けるのは、害になるのではありませんか。」斉の侯は陽虎を捕らえ、東方に送ろうとした。陽虎が東方を希望したので、西方の辺境に監禁した。陽虎は村人の車をすべて借り、車軸に傷をつけ、麻で縛って返した。棺車に乗り、その中に潜んで逃げた。追手が捕らえたが、斉に囚われの身となり、再び棺車で脱走し、宋へ逃れ、やがて晋へ奔って趙氏に身を寄せた。仲尼(孔子)は言った。「趙氏は代々乱が起こるだろう。」 解説この一節は春秋時代の複雑な政治情勢を描いています。以下の点に注目できます:
全体を通し、史実の記録に加え、為政者のあるべき姿や忠誠の重要性を説く教訓性が特徴的です。 Translation took 4908.3 seconds. |
| 秋.齊侯伐晉夷儀.敝無存之父將室之.辭.以與其弟.曰.此役也.不死.反必取於高國.先登.求自門出.死於霤下.東郭書讓登.犁彌從之.曰.子讓而左.我讓而右.使登者絕而後下.書左.彌先下.書與王猛息.猛曰.我先登.書斂甲曰.曩者之難.今又難焉.猛笑曰.吾從子.如驂之靳.晉車千乘.在中牟.衛侯將如五氏.卜過之.龜焦.衛侯曰.可也.衛車當其半.寡人當其半.敵矣.乃過中牟.中牟人欲伐之.衛褚師圃亡在中牟.曰.衛雖小.其君在焉.未可勝也.齊師克城而驕.其帥又賤.遇必敗之.不如從齊.乃伐齊師.敗之.齊侯致禚.媚.杏.於衛.齊侯賞犁彌.犁彌辭曰.有先登者.臣從之.皙幘而衣貍製.公使視東郭書.曰.乃夫子也.吾貺子.公賞東郭書.辭曰.彼賓旅也.乃賞犁彌.齊師之在夷儀也.齊侯謂夷儀人曰.得敝無存者.以五家免.乃得其尸.公三襚之.與之犀軒.與直蓋而先歸之.坐引者以師哭之.親推之三. 定公十年 經 十年春.王三月.及齊平. 夏.公會齊侯于夾谷.公至自夾谷.晉趙鞅帥師圍衛.齊人來歸鄆.讙.龜陰.田.叔孫州仇.仲孫何忌.帥師圍郈. 秋.叔孫州仇.仲孫何忌.帥師圍郈.宋樂大心出奔曹.宋公子地出奔陳. 冬.齊侯.衛侯.鄭游速.會于安甫.叔孫州仇如齊.宋公之弟辰.暨仲佗.石彄.出奔陳. 傳 |
秋、斉侯が晋の夷儀を攻め落とした。敝無存の父が彼に嫁を娶らせようとしたが、敝無存は辞退して弟に譲り、「この戦いで死ななければ、帰還後は必ず高氏や国氏のような高い地位を得るだろう」と言った。先陣で城壁を登り、門から脱出しようとしたが、軒下で戦死した。東郭書は登城の順番を譲り、犁彌がそれに続いた。犁彌は「あなたが左側を譲り受け、私が右側を担当しましょう。登城する兵の流れが途切れてから下りましょう」と言った。東郭書は左へ向かい、犁彌が先に下りた。東郭書と王猛が休息していると、王猛が「私が先に登った」と言った。東郭書が鎧を整えながら「先の難事に続き、今また争いか」と言うと、王猛は笑って「私はあなたに従います。副馬が轅に従うように」と答えた。晋の兵車千乗が中牟に駐屯していた。衛侯が五氏へ向かおうとし、通過の吉凶を占ったところ亀甲が焦げた。衛侯は「よろしい。衛の兵車が半分を担当し、私が半分を担当すれば互角だ」と言い、中牟を通り過ぎた。中牟の人々が攻撃しようとしたが、亡命していた衛の褚師圃が「衛は小国だが君主が同行している。勝てない。斉軍は城攻略で驕り、将帥は身分が低い。遭遇すれば敗れるだろう。斉を討つよりはむしろ斉に従うべきだ」と進言し、斉軍を攻めて敗走させた。斉侯は禚・媚・杏の地を衛に与えた。斉侯が犁彌を褒賞すると、犁彌は辞退して「先に登城した者がおります。白い頭巾に狸皮の衣の者で、臣はその方に従っただけです」と言った。斉侯が東郭書を確認させ「まさにその方だ。あなたに褒美を授けよう」と言うと、東郭書は「犁彌は客将です」と辞退したため、結局犁彌が褒賞された。斉軍が夷儀にいた時、斉侯は現地民に「敝無存の遺体を発見した者には五世帯の租税を免除する」と宣言し、遺体を発見すると、三度死装束を着せ、犀皮の車と直立の蓋を与え、先に帰国させた。輿の担ぎ手を座らせ軍勢で哀悼し、自ら三度棺を押した。 定公十年 【解説】 Translation took 5230.5 seconds. |
| 十年春.及齊平. 夏.公會齊侯于祝其.實夾谷.孔丘相.犁彌言於齊侯曰.孔丘知禮而無勇.若使萊人以兵劫魯侯.必得志焉.齊侯從之.孔丘以公退.曰.士兵之.兩君合好.而裔夷之俘.以兵亂之.非齊君所以命諸侯也.裔不謀夏.夷不亂華.俘不干盟.兵不偪好.於神為不祥.於德為愆義.於人為失禮.君必不然.齊侯聞之.遽辟之.將盟.齊人加於載書曰.齊師出竟.而不以甲車三百乘從我者.有如此盟.孔丘使茲無還揖對曰.而不反我汶陽之田.吾以共命者.亦如之.齊侯將享公.孔丘謂梁丘.據.曰.齊魯之故.吾子何不聞焉.事既成矣.而又享之.是勤執事也.且犧象不出門.嘉樂不野合.饗而既具.是棄禮也.若其不具.用秕稗也.用秕稗君辱.棄禮名惡.子盍圖之.夫享所以昭德也.不昭不如其已也.乃不果享.齊人來歸鄆讙龜陰之田.晉趙鞅圍衛.報夷儀也.初.衛侯伐邯鄲午於寒氏.城其西北而守之.宵熸.及晉圍衛.午以徒七十人門於衛西門.殺人於門中.曰.請報寒氏之役.涉佗曰.夫子則勇矣.然我往.必不敢啟門.亦以徒七十人.旦門焉.步左右.皆至而立.如植.日中不啟門.乃退.反役.晉人討衛之叛故.曰.由涉佗成何.於是執涉佗以求成於衛.衛人不許.晉人遂殺涉佗.成何奔燕.君子曰.此之謂棄禮.必不鈞.詩曰.人而無禮.胡不遄死.涉佗亦遄矣哉.初.叔孫成子欲立武叔.公若藐固諫曰.不可.成子立之而卒.公南使賊射之.不能殺.公南為馬正.使公若為郈宰.武叔既定.使郈馬正侯犯.殺公若.不能.其圉人曰.吾以劍過朝.公若必曰.誰之劍也.吾稱子以告.必觀之.吾偽固.而授之未.則可殺也.使如之.公若曰.爾欲吳王我乎.遂殺公若.侯犯以郈叛.武叔懿子圍郈.弗克. |
翻訳文十年の春、魯は斉と和睦した。 夏、魯の昭公が斉の景公と祝其で会見した。実際の場所は夾谷である。孔子が相(補佐役)を務めた。斉の臣・犁彌が景公に進言した。「孔子は礼儀に通じているが勇気がない。もし萊族の兵を使い魯侯を脅迫すれば、必ず我々の意図通りになるでしょう。」景公はこれに同意した。孔子は昭公を退かせ、兵士に命じた。「武器を取れ。両君が和合を図っているのに、辺境の夷族の捕虜が武力で乱すとは、斉君が諸侯に示すべき道理ではない。辺境の者は中原を謀らず、夷族は華夏を乱さず、捕虜は盟約に干渉せず、武力は友好を脅かさない。これは神に対して不吉であり、道徳に対して義に背き、人倫に対して礼を失う行為だ。君(景公)は決してそんなことをなさらないはずだ。」景公はこの言葉を聞くと、急いで萊兵を退かせた。 盟約を結ぶ際、斉側が盟書に追加条項を記した。「斉軍が国境を越えて出兵した時、魯が戦車三百乗で随従しない場合は、この盟約の神罰を受けるものとする。」孔子は家臣の茲無還に揖礼(拱手の礼)をさせて応答させた。「そして斉が我が汶陽の土地を返還しない場合、魯が要請に従うことも同様とする。」 景公が昭公を饗応しようとした時、孔子は斉の大夫・梁丘據に言った。「斉と魯の古い慣例を、あなたはご存じないのか。会盟が既に成立したのに、さらに饗宴を催すのは役人を徒労させるものだ。况且、犠牲の器や象尊は城外に運び出さず、宮廷の楽器は野外で演奏しない。饗宴の設備を整えれば礼制を軽んじることになり、粗略に済ませれば秕穀や雑穀(粗末な食物)で君を辱めることになる。礼を棄てれば悪名が残る。どうかご考慮を。饗宴は徳を顕示するためのものだ。顕示できないなら実施しない方がましである。」結局、饗宴は行われなかった。 その後、斉は鄆・讙・亀陰の領地を魯に返還した。一方、晋の趙鞅が衛を包囲した。これは以前の夷儀の戦いへの報復である。 当初、衛侯が寒氏で晋の領主・邯鄲午を攻撃し、西北に堡塁を築いて守備したが、夜間に焼失した。晋が衛を包囲すると、午は兵士七十人を率いて衛の西門を攻撃し、門内で人を斬りながら「寒氏の戦いの報復だ」と叫んだ。これを見た晋の涉佗は「午は確かに勇者だが、私が行けば門を開けさせまい」と言い、同樣に七十人を率いて黎明に門前に陣取った。兵士たちは左右に整然と並び、木のように動かない。正午まで門が開かなかったため、撤収した。 戦後、晋は衛の反逆の原因を追及し、「涉佗と成何の挑発が原因だ」として涉佗を捕らえ衛との講和条件にした。しかし衛がこれを受け入れず、晋は涉佗を処刑した。成何は燕へ逃亡した。後に君子が評して「これこそ礼儀放棄の結末だ。『詩経』に『礼なき人は早く死ぬべき』とあるが、涉佗はまさにその例だ」と述べた。 別の事件として、魯の叔孫成子が武叔(叔孫州仇)を後継に指名しようとした時、家臣の公若藐が「不可」と強硬に反対した。成子が武叔を立てて没すると、武叔派の公南が刺客を放って公若藐を暗殺しようとしたが失敗した。公南が馬正(軍馬長)に就任すると、公若藐を郈の領主に据えた。武叔が権力を固めると、今度は郈の馬正・侯犯に公若藐殺害を命じたが、これも失敗した。侯犯の配下の馬丁が策を献じた。「私が剣を持って役所を通ると、公若様は必ず剣の由来を尋ねられます。侯犯殿の名を告げて見せれば、手にとってご覧になるでしょう。その際、わざと堅く捧げて刃先を向ければ刺せます。」実行すると、公若藐は「我を呉王僚(暗殺された君主)のようにするつもりか」と言い残して殺された。侯犯は郈で反乱を起こし、武叔とその兄・懿子が包囲したが攻略できなかった。 解説この一節は紀元前500年頃の春秋時代を描いた『春秋左氏伝』の記述です。主に三つのエピソードから構成されています。 第一のエピソードは、魯の孔子が外交の場で活躍する「夾谷の会」です。斉が武力で魯を屈服させようとした際、孔子が礼儀と道理を説いて危機を回避し、逆に領土返還を勝ち取った様子が描かれています。ここでは孔子の「礼」を重んじる思想が外交手段として機能したことが強調されています。 第二のエピソードは、晋と衛の紛争です。衛が晋の家臣を攻撃したことへの報復として晋が衛を包囲し、その過程で武将・涉佗が処刑される経緯が記されます。最後に引用された「詩経」の言葉から、当時の社会で「礼」が如何に重視されていたかが窺えます。 第三のエピソードは、魯国内の権力闘争です。叔孫氏の家督争いの中で、謀略と暗殺が連鎖的に発生する様子が生々しく描写されています。特に公若藐の「呉王我乎」という最期の言葉は、呉王僚が専諸に暗殺された故事を踏まえた痛烈な表現です。 これらの記録は、春秋時代が「礼」を規範としつつも、現実には武力や謀略が横行していた矛盾した社会であったことを示しています。孔子の理想主義的な外交と、その他の血生臭い権力闘争が対比的に描かれることで、歴史の複雑さが浮き彫りにされている点が特筆されます。 Translation took 40576.6 seconds. |
| 秋.二子及齊師復圍郈.弗克.叔孫謂郈工師駟赤曰.郈非唯叔孫氏之憂.社稷之患也.將若之何.對曰.臣之業.在揚水卒章之四言矣.叔孫稽首.駟赤謂侯犯曰.居齊魯之際而無事.必不可矣.子盍求事於齊以臨民.不然.將叛.侯犯從之.齊使至.駟赤與郈人為之宣言於郈中.曰.侯犯將以郈易于齊.齊人將遷郈民.眾兇懼.駟赤謂侯犯曰.眾言異矣.子不如易於齊.與其死也.猶是郈也.而得紓焉.何必此.齊人欲以此偪魯.必倍與子地.且盍多舍甲於子之門.以備不虞.侯犯曰.諾.乃多舍甲焉.侯犯請易於齊.齊有司觀郈將至.駟赤使周走呼曰.齊師至矣.郈人大駭.介侯犯之門甲.以圍侯犯.駟赤將射之.侯犯止之.曰.謀免我.侯犯請行.許之.駟赤先如宿.侯犯殿.每出一門.郈人閉之.及郭門.止之曰.子以叔孫氏之甲出.有司若誅之.群臣懼死.駟赤曰.叔孫氏之甲有物.吾未敢以出.犯謂駟赤曰.子止而與之數.駟赤止而納魯人.侯犯奔齊.齊人乃致郈.宋公子地嬖蘧富臘.十一分其室.而以其五與之.公子地有白馬四.公嬖向魋.魋欲之.公取而朱其尾鬣以與之.地怒.使其徒抶魋而奪之.魋懼將走.公閉門而泣之目盡腫.母弟辰曰.子分室以與獵也.而獨卑魋.亦有頗焉.子為君禮.不過出竟.君必止子.公子地出奔陳.公弗止.辰為之請.弗聽.辰曰.是我迋吾兄也.吾以國人出.君誰與處. |
秋。二人の子(季孫と孟孫)と齊の軍勢が再び郈を包囲したが、攻略できなかった。叔孫が郈の工師である駟赤に言った。「郈は単に叔孫氏の憂いだけでなく、国家全体の災いでもある。どう対処すべきか」。駟赤は答えて言った。「私の役目は『揚水』の最終章にある四文字に示されております」。叔孫は地面に頭を付けて礼をした。駟赤が侯犯に言った。「齊と魯の間に位置しながら平穏でいることは不可能だ。君は齊に仕えて民を治めることを求めてはどうか。そうしなければ、人々は反乱を起こすだろう」。侯犯はこの意見に従った。齊の使者が到着すると、駟赤は郈の人々と共に郈の中で宣言した。「侯犯は郈を齊と交換しようとしている。齊人は郈の住民を強制移住させるつもりだ」。人々は恐怖に駆られた。駟赤は侯犯に言った。「人々の意見が変わった。君は齊と交換した方がよい。死ぬよりは、郈がそのまま保たれて苦境から逃れられる。なぜここに固執する必要があるか。齊人はこれで魯を脅迫しようとしており、必ず君に倍の土地を与えるだろう。さらに、万一に備えて君の門前に甲冑を多く備えておくのはどうか」。侯犯は「承知した」と言い、多くの甲冑を置いた。侯犯が齊との交換を申し出ると、齊の役人が郈を視察しに来ようとした。駟赤は人を走らせて叫ばせた。「齊軍が来た!」。郈の人々は大混乱し、侯犯の門前の甲冑を装着して侯犯を包囲した。駟赤が侯犯を射ろうとすると、侯犯は止めて言った。「私を救う策を考えてくれ」。侯犯は退去を願い出て、許可された。駟赤が先に宿へ向かい、侯犯が最後尾についた。門を出るたびに郈の人々は門を閉め、外郭の門で止めて言った。「君は叔孫氏の甲冑を持ち出そうとしている。役人がこれを咎めれば我々は死罪を恐れる」。駟赤は言った。「叔孫氏の甲冑には識別標識があるため、私は持ち出せない」。侯犯は駟赤に言った。「君は留まって甲冑の数を確認せよ」。駟赤が留まって魯の人々を受け入れると、侯犯は齊へ逃亡した。齊人は郈を返還した。 宋の公子地は蘧富臘を寵愛し、自分の財産を十一分してその五割を彼に与えた。公子地は四頭の白馬を飼っており、公(宋公)が寵愛する向魋がそれを欲しがった。公は馬の尾とたてがみを朱色に染めて向魋に与えた。公子地は怒り、配下に命じて向魋を鞭打ちながら馬を奪い返した。向魋は恐れて逃亡しようとしたが、公は城門を閉じて泣き、目が腫れ上がった。同母弟の辰が言った。「兄は財産を分けて獵(蘧富臘)に与えたのに、向魋だけを軽んじるのは偏っている。君への礼儀として国境を出れば、君は必ず引き留めるだろう」。公子地は陳へ逃亡したが、公は止めようとせず、辰が取り成しても聞き入れなかった。辰は言った。「これは私が兄を欺いたことになる。私は国人を連れて出奔する。君は誰と国を治めるというのか」。 【解説】 Translation took 4210.5 seconds. |
| 冬.母弟辰.暨仲佗.石彄.出奔陳.武叔聘于齊.齊侯享之.曰.子叔孫.若使郈在君之他竟.寡人何知焉.屬與敝邑際.故敢助君憂之.對曰.非寡君之望也.所以事君.封疆社稷是以.敢以家隸.勤君之執事.夫不令之臣.天下之所惡也.君豈以為寡君賜. 定公十一年 經 十有一年春.宋公之弟辰.及仲佗.石彄.公子地.自陳入于蕭以叛. 夏.四月. 秋.宋樂大心自曹入于蕭. 冬.及鄭平.叔還如鄭蒞盟. 傳 十一年春.宋公母弟辰.暨仲佗.石彄.公子地.入于蕭以叛. 秋.樂大心從之.大為宋患.寵向魋故也. 冬.及鄭平.始叛晉也. 定公十二年 經 十有二年春.薛伯定卒. 夏.葬薛襄公.叔孫州仇帥師墮郈.衛公孟彄帥師伐曹.季孫斯.仲孫何忌.帥師墮費. 秋.大雩. 冬.十月.癸亥.公會齊侯盟于黃. 十有一月.丙寅.朔.日有食之.公至自黃. 十有二月.公圍成.公至自圍成. 傳 十二年夏.衛公孟彄伐曹.克郊還.滑羅殿.未出.不退于列.其御曰.殿而在列.其為無勇乎.羅曰.與其素厲.寧為無勇.仲由為季氏宰.將墮三都.於是叔孫氏墮郈.季氏將墮費.公山不狃.叔孫輒.帥費人以襲魯.公與三子入于季氏之宮.登武子之臺.費人攻之弗克.入及公側.仲尼命申句須.樂頎.下伐之.費人北.國人追之.敗諸姑蔑.二子奔齊.遂墮費.將墮成.公斂處父謂孟孫.墮成.齊人必至于北門.且成.孟氏之保障也.無成是無孟氏也.子偽不知.我將不墜. |
冬、母弟の辰と仲佗、石彄が陳へ出奔した。武叔が斉を訪問すると、斉侯は彼をもてなして言った。「子叔孫よ、もし郈が君の他の国境にあったなら、寡人は何を知ることができようか。たまたま弊邑と境を接しているので、敢えて君の憂いを助けようとしたのだ」。これに対し武叔は答えた。「それは寡君の望むところではありません。君に仕える理由は、領土と国家のためです。敢えて家来のことで、君の執事を煩わせるようなことはしません。あの命令に従わない臣は、天下の憎むところです。君はどうして寡君に恩恵を与えようとお考えでしょうか」。 定公十一年 十一年春、宋公の弟である辰と、仲佗、石彄、公子地が陳から蕭に入り反乱を起こした。 伝 十一年春、宋公の母弟である辰と、仲佗、石彄、公子地が蕭に入り反乱を起こした。 定公十二年 十二年春、薛伯定が死去した。 伝 十二年夏、衛の公孟彄が曹を攻撃し、郊を落として帰還した。滑羅が殿軍を務めたが、軍が完全に撤退する前に自らの陣列から離れなかった。その御者が「殿軍でありながら陣列に留まるのは、無勇ではないか」と言うと、滑羅は「見せかけの勇猛さを示すよりは、むしろ無勇と言われる方がましだ」と答えた。 解説この一節は『春秋左氏伝』の定公十一年から十二年にかけての記録です。主に以下のような内容が描かれています。
この時期、魯では孔子が政治に関与し、理想的な秩序を目指しましたが、既得権益を持つ勢力の抵抗に遭い、改革は困難を極めました。一連の記録は、春秋時代の権力闘争と孔子の実践的な活動を生き生きと伝えています。 Translation took 5853.1 seconds. |
| 冬.十二月.公圍成弗克. 定公十三年 經 十有三年春.齊侯.衛侯.次于垂葭. 夏.築蛇淵囿.大蒐于比蒲.衛公孟彄帥師伐曹.晉趙鞅入于晉陽以叛. 冬.晉荀寅.士吉射.入于朝歌以叛.晉趙鞅歸于晉.薛弒其君比. 傳 十三年春.齊侯.衛侯.次于垂葭.實郥氏.使師伐晉.將濟河.諸大夫皆曰不可.邴意茲曰可.銳師伐河內.傳必數日而後及絳.絳不三月.不能出河.則我既濟水矣.乃伐河內.齊侯皆斂諸大夫之軒.唯邴意茲乘軒.齊侯欲與衛侯乘.與之宴.而駕乘廣.載甲焉.使告曰.晉師至矣.齊侯曰.比君之駕也.寡人請攝.乃介而與之乘.驅之.或告曰.無晉師.乃止.晉趙鞅謂邯鄲午曰.歸我衛貢五百家.吾舍諸晉陽.午許諾.歸告其父兄.父兄皆曰.不可.衛是以為邯鄲.而寘諸晉陽.絕衛之道也.不如侵齊而謀之.乃如之.而歸之于晉陽.趙孟怒.召午而囚諸晉陽.使其從者說劍而入.涉賓不可.乃使告邯鄲人曰.吾私有討於午也.二三子唯所欲立.遂殺午.趙稷.涉賓.以邯鄲叛. 夏.六月.上軍司馬籍秦圍邯鄲.邯鄲午荀寅之甥也.荀寅范吉射之姻也.而相與睦.故不與圍.邯鄲將作亂.董安于聞之.告趙孟曰.先備諸.趙孟曰.晉國有命.始禍者死.為後可也.安于曰.與其害於民.寧我獨死.請以我說.趙孟不可. |
冬、十二月、公は成を包囲したが、攻略できなかった。 定公十三年 経 十三年の春、斉侯と衛侯が垂葭に駐屯した。 夏、蛇淵囿を築造し、比蒲で大規模な狩猟を行った。衛の公孟彄が軍を率いて曹を討伐した。晋の趙鞅が晋陽に入り反乱を起こした。 冬、晋の荀寅と士吉射が朝歌に入り反乱を起こした。晋の趙鞅が晋に帰還した。薛が自国の君比を弑した。 伝 十三年の春、斉侯と衛侯が垂葭に駐屯した。実際は郥氏の地である。軍を派遣して晋を討伐しようとし、黄河を渡ろうとした時、諸大夫は皆反対したが、邴意茲だけは賛成した。「精鋭部隊で河内を攻めれば、晋の報せが絳に届くまで数日かかる。絳の軍が三月以内に黄河を越えることは不可能だから、我々は既に渡河を終えているだろう」。そこで河内を攻撃した。斉侯は諸大夫の車を全て没収したが、邴意茲だけは車に乗ることを許された。斉侯は衛侯と同乗しようとし、宴席で乗広という車に鎧を積んで「晋軍が来た」と報告させた。斉侯は「君の車が来るまで、私が代わりに御者を務めよう」と言い、武装して衛侯と共に車を走らせたが、やがて「晋軍はいない」との知らせで止めた。 晋の趙鞅が邯鄲午に「衛から献上された五百家を返せ。晋陽に移住させるから」と要求した。午は承諾したが、父兄に相談すると「それはできない。衛は彼らを邯鄲に置くことを条件に友好関係を結んでいる。晋陽に移せば衛との関係が断絶する。むしろ齊を侵攻して転嫁すべきだ」と言われ、そのように実行して晋陽に帰属させた。趙鞅は怒り、午を晋陽に召し寄せて監禁し、従者に剣を外させようとしたが、涉賓が拒否した。そこで邯鄲の人々に「私的な理由で午を罰する。後任は諸君が選べ」と告げ、午を殺害した。これにより趙稷と涉賓が邯鄲で反乱を起こした。 夏六月、上軍司馬の籍秦が邯鄲を包囲した。邯鄲午は荀寅の甥であり、荀寅は范吉射と姻戚関係で互いに親密だったため、両者は包囲に加わらなかった。邯鄲で乱が起きると、董安于がそれを聞き、趙鞅に「先手を打って備えよ」と進言した。趙鞅は「晋の法では、乱の端緒を作った者は死罪だ。後発対応でよい」と言ったが、安于は「民を危険に晒すよりは私が独り死のう。私を口実にせよ」と訴えたが、趙鞅は認めなかった。 解説この一節は『春秋左氏伝』定公十三年の記述で、春秋時代後期の複雑な権力闘争を描いています。主なポイントは以下の通りです:
全体として、この記述は春秋時代の「礼」が崩れ、実力主義的な抗争が激化する過渡期的な状況を活写しており、戦国時代へ向かう歴史の流れを暗示する内容となっています。 Translation took 2306.0 seconds. |
| 秋.七月.范氏中行氏伐趙氏之宮.趙鞅奔晉陽.晉人圍之.范皋夷無寵於范吉射.而欲為亂於范氏.梁嬰父嬖於知文子.文子欲以為卿.韓簡子與中行文子相惡.魏襄子亦與范昭子相惡.故五子謀將逐荀寅.而以梁嬰父代之.逐范吉射而以范皋夷代之.荀躒言於晉侯曰.君命大臣.始禍者死.載書在河.今三臣始禍.而獨逐鞅.刑已不鈞矣.請皆逐之. 冬.十一月.荀躒.韓不信.魏曼多.奉公以伐范氏.中行氏.弗克.二子將伐公.齊高彊曰.三折肱知為良醫.唯伐君為不可.民弗與也.我以伐君在此矣.三家未睦.可盡克也.克之.君將誰與.若先伐君.是使睦也.弗聽.遂伐公.國人助公.二子敗.從而伐之.丁未.荀寅.士吉射.奔朝歌.韓魏以趙氏為請. 十二月.辛未.趙鞅入于絳.盟于公宮.初.衛公叔文子朝而請享靈公.退見史鰌而告之.史鰌曰.子必禍矣.子富而君貪.其及子乎.文子曰.然.吾不先告子.是吾罪也.君既許我矣.其若之何.史鰌曰.無害.子臣.可以免.富而能臣.必免於難.上下同之.戌也驕.其亡乎.富而不驕者.鮮.吾唯子之見.驕而不亡者.未之有也.戌必與焉.及文子卒.衛侯始惡於公叔戌.以其富也.公叔戌又將去夫人之黨.夫人愬之曰.戌將為亂. 定公十四年 經 十有四年春.衛公叔戌來奔.衛趙陽出奔宋. |
秋、七月、范氏と中行氏が趙氏の屋敷を攻撃した。趙鞅は晋陽に逃れた。晋の人々が彼を包囲した。范皋夷は范吉射に寵愛されていなかったが、范氏の中で乱を起こそうとした。梁嬰父は知文子に寵愛され、文子は彼を卿にしようとした。韓簡子と中行文子は互いに憎しみ合っており、魏襄子も范昭子と憎しみ合っていた。そこで五人の指導者たちは謀り、荀寅を追放して梁嬰父を代わりにし、范吉射を追放して范皋夷を代わりにしようとした。荀躒が晋侯に言った。「君は大臣に、禍を始める者は死罪とするよう命じ、その誓いの文書は河に沈められています。今、三人の臣が禍を始めたのに、趙鞅だけを追放するのは、刑罰が均等ではありません。どうか全員を追放してください。」 冬、十一月、荀躒、韓不信、魏曼多は公(晋侯)を奉じて范氏と中行氏を攻撃したが、勝てなかった。范吉射と荀寅の二人は公を攻撃しようとした。齊の高彊が言った。「三度腕を折れば良医になれるというが、ただ君を攻撃するだけはよくない。民はついて来ない。私が以前君を攻撃したのも同じ理由だ。三家(范氏、中行氏など)はまだまとまっていない。全て打ち負かすことができる。もし勝ったら、君は誰と組むのか。もし先に君を攻撃すれば、かえって彼らを団結させてしまう。」聞き入れられず、遂に公を攻撃した。国の人々は公を助け、二人は敗れた。そして追撃して攻撃した。丁未の日、荀寅と士吉射は朝歌に逃れた。韓氏と魏氏は趙氏の復帰を請うた。 十二月、辛未の日、趙鞅は絳に入り、公の宮で盟を結んだ。初め、衛の公叔文子が朝見して霊公に饗応を請うた。退いた後、史鰌に会ってそれを告げた。史鰌が言った。「あなたは必ず災いに遭うでしょう。あなたは富んでいて、君は貪欲です。その矛先があなたに向くでしょう。」文子が言った。「その通りです。先にあなたに相談しなかったのは私の過ちです。君は既に承諾しましたが、どうすればよいでしょうか。」史鰌が言った。「心配ありません。あなたが臣下としての礼を尽くせば、難を免れます。富んでいても謙虚に振る舞えば、必ず災いを避けられます。上下の関係は同じです。しかし戌(公叔戌)は傲慢です。彼は滅びるでしょう。富んでいて傲慢でない者は稀です。私の見るところ、傲慢で滅びない者はいません。戌は必ず災いに巻き込まれるでしょう。」文子が死ぬと、衛侯は公叔戌を憎むようになった。その富のためである。公叔戌はさらに夫人の党派を除こうとした。夫人が訴えて言った。「戌が乱を起こそうとしています。」 定公十四年 解説 Translation took 3807.0 seconds. |
| 二月.辛巳.楚公子結.陳公孫佗人.帥師滅頓.以頓子牂歸. 夏.衛北宮結來奔.五月.於越敗吳于檇李.吳子光卒.公會齊侯.衛侯.于牽.公至自會. 秋.齊侯.宋公.會于洮.天王使石尚來歸脤.衛世子蒯瞶出奔宋.衛公孟彄出奔鄭.宋公之弟辰.自蕭來奔.大蒐于比蒲.邾子來會公.城莒父及霄. 傳 十四年春.衛侯逐公叔戌與其黨.故趙陽奔宋.戌來奔.梁嬰父惡董安于謂知文子曰.不殺安于.使終為政於趙氏.趙氏必得晉國.盍以其先發難也.討於趙氏.文子使告於趙孟曰.范中行氏雖信為亂.安于則發之.是安于與謀亂也.晉國有命.始禍者死.二子既伏其罪矣.敢以告.趙孟患之.安于曰.我死而晉國寧.趙氏定.將焉用生.人誰不死.吾死莫矣.乃縊而死.趙孟尸諸市.而告於知氏曰.主命戮罪人.安于既伏其罪矣.敢以告.知伯從趙孟盟.而後趙氏定.祀安于於廟.頓子牂欲事晉.背楚而絕陳好. 二月.楚滅頓. 夏.衛北宮結來奔.公叔戌之故也.吳伐越.越子勾踐禦之.陳于檇李.勾踐患吳之整也.使死士再禽焉.不動.使罪人三行.屬劍於頸.而辭曰.二君有治.臣奸旗鼓.不敏於君之行前.不敢逃刑.敢歸死.遂自剄也.師屬之目.越子因而伐之.大敗之.靈姑浮以戈擊闔廬.闔廬傷將指.取其一屨還.卒於陘.去檇李七里.夫差使人立於庭.苟出入.必謂己曰.夫差.而忘越王之殺而父乎.則對曰.唯不敢忘.三年乃報越.晉人圍朝歌.公會齊侯.衛侯.于脾上梁之間.謀救范中行氏.析成鮒.小王桃甲.率狄師以襲晉.戰于絳中.不克而還.士鮒奔周.小王桃甲入于朝歌. |
【翻訳文】 夏、衛の北宮結が魯に亡命してきた。五月、於越が檇李で吳を破り、吳子の光が死去した。魯公は齊侯と衛侯と牽で会合した。魯公は会合から帰国した。 秋、齊侯と宋公が洮で会合した。周王が石尚を派遣して祭祀の肉を届けさせた。衛の世子蒯瞶が宋に亡命した。衛の公孟彄が鄭に亡命した。宋公の弟の辰が蕭から魯に亡命してきた。比蒲で大規模な軍事演習を行った。邾子が魯公との会合に来た。莒父と霄に城を築いた。 伝 二月、楚が頓を滅ぼした。 夏、衛の北宮結が魯に亡命した。これは公叔戌の事件のためである。吳が越を討伐し、越子の勾践がこれを防戦した。両軍は檇李に対陣した。勾践は吳軍の整然とした布陣を憂慮し、死士を繰り出して二度敵将を捕らえさせたが、吳軍は動じなかった。そこで罪人を三列に並べ、首に剣を当てて言わせた。「両君には戦場の規律があられます。我等は軍旗や太鼓の命令に背く不届き者で、君の御前で臆病な振る舞いをし、刑罰を逃れようとは致しません。敢えて死をもってお詫び申し上げます」。そう言って自ら首を刎ねた。吳軍の兵士はこの光景を目にした。越子はこれに乗じて攻撃し、吳軍を大破した。霊姑浮が戈で闔廬を撃ち、闔廬は足の親指を負傷し、片方の履き物を取って撤退した。陘で死去した。檇李から七里の地点である。夫差は人を庭に立たせ、自分が出入りする度に必ず「夫差、汝は越王が汝の父を殺したことを忘れたのか」と言わせ、それに対し「決して忘れません」と答えさせた。三年後に越に報復するためである。晋人が朝歌を包囲した。魯公は齊侯と衛侯と脾上梁の間で会合し、范氏と中行氏を救援する策を謀った。析成鮒と小王桃甲が狄の軍を率いて晋を襲撃し、絳中で戦ったが、勝利できずに撤退した。士鮒は周に亡命し、小王桃甲は朝歌に入った。 【解説】
これらの事件は、春秋時代末期の群雄割拠の状況と、複雑な同盟関係がもたらす国際政治の流動性を如実に物語っています。 Translation took 3233.1 seconds. |
| 秋.齊侯.宋公.會于洮.范氏故也.衛侯為夫人南子召宋朝.會于洮.大子蒯聵獻盂于齊.過宋野.野人歌之曰.既定爾婁豬.盍歸吾艾豭.大子羞之.謂戲陽速曰.從我而朝少君.少君見我.我顧乃殺之.速曰諾.乃朝夫人.夫人見大子.大子三顧.速不進.夫人見其色.啼而走曰.蒯聵將殺余.公執其手以登臺.大子奔宋.盡逐其黨.故公孟彄出奔鄭.自鄭奔齊.大子告人曰.戲陽速禍余.戲陽速告人曰.大子則禍余.大子無道.使余殺其母.余不許.將戕於余.若殺夫人.將以余說.余是故許而弗為.以紓余死.諺曰.民保於信.吾以信義也. 冬.十二月.晉人敗范中行氏之師於潞.獲籍秦.高彊又敗鄭師.及范氏之師于百泉. 定公十五年 經 十有五年春.王正月.邾子來朝.鼷鼠食郊牛.牛死.改卜牛. 二月.辛丑.楚子滅胡.以胡子豹歸. 夏.五月.辛亥郊.壬申.公薨于高寢.鄭罕達帥師伐宋.齊侯.衛侯.次于渠蒢.邾子來奔喪. 秋.七月.壬申.姒氏卒. 八月.庚辰.朔.日有食之. 九月.滕子來會葬.丁巳.葬我君定公.雨不克葬.戊午.日下吳.乃克葬.辛巳.葬定姒. 冬.城漆. 傳 十五年春.邾隱公來朝.子貢觀焉.邾子執玉高.其容仰.公受玉卑.其容俯.子貢曰.以禮觀之.二君者皆有死亡焉.夫禮.死生存亡之體也.將左右周旋.進退俯仰.於是乎取之.朝祀喪戎.於是乎觀之.今正月相朝.而皆不度.心巳亡矣.嘉事不體.何以能久.高仰.驕也.卑俯.替也.驕近亂.替近疾.君為主.其先亡乎.吳之入楚也.胡子盡俘楚邑之近胡者.楚既定.胡子豹又不事楚.曰.存亡有命.事楚何為.多取費焉.二月.楚滅胡. |
【翻訳文】 冬十二月、晉軍が潞で范氏と中行氏の軍を破り、籍秦と高彊を捕らえた。さらに鄭軍と范氏の軍を百泉で破った。 定公十五年 十五年春、周の正月、邾子が来朝した。鼷鼠が郊祭の牛を食い、牛が死んだため、改めて牛を卜定した。 二月辛丑の日、楚子が胡を滅ぼし、胡子豹を連れ帰った。 夏五月辛亥の日に郊祭を行い、壬申の日に公(魯定公)が高寝で逝去した。鄭の罕達が軍を率いて宋を討ち、齊侯と衛侯が渠蒢に駐屯した。邾子が弔問に訪れた。 秋七月壬申の日、姒氏が死去した。 八月庚辰の日、朔日で日食が起こった。 九月、滕子が会葬に訪れた。丁巳の日、我が君定公を葬ろうとしたが雨でできず、戊午の日、日が西に傾いてようやく埋葬した。辛巳の日、定姒を葬った。 冬、漆に城を築いた。 伝(詳細記述) 十五年春、邾隠公が来朝した。子貢がこれを見て言った。「礼法から見ると、両君ともに死滅の相がある。礼とは生死存亡の基本であり、動作や进退俯仰によって判断し、朝見や祭祀・喪事・戦争などの場で観察できる。正月の朝見で両者とも法度に合わず、すでに心が失われている。儀式が本体を失っていて、どうして長続きできようか。高く仰ぐのは驕りの相、低く俯くのは衰えの相である。驕りは乱に近く、衰えは病に近い。君主が主体である邾公が先に亡ぶだろう」。 呉が楚に侵入した時、胡子は胡に近い楚の邑の民を全て捕虜にした。楚が安定した後、胡子豹は再び楚に仕えようとせず、「存亡は天命である。どうして楚に仕えねばならないのか。むしろ貢ぎ物が増えるだけだ」と言った。二月、楚は胡を滅ぼした。 【解説】 ■第一段(定公14年秋): ■第二段(定公15年): 全体を通して、権謀術数が渦巻く国際情勢と、礼節の衰退がもたらす政治的不安がテーマとなっており、孔子の教えを継承する左氏の歴史観が反映されています。 Translation took 2444.7 seconds. |
| 夏.五月.壬申.公薨.仲尼曰.賜不幸言而中.是使賜多言者也.鄭罕達敗宋師于老丘.齊侯.衛侯.次于蘧挐.謀救宋也. 秋.七月.壬申.姒氏卒.不稱夫人.不赴且不祔也.葬定公.雨.不克襄事.禮也.葬定姒.不稱小君.不成喪也. 冬.城漆.書不時告也. |
夏、五月の壬申の日に、公(魯の定公)がお亡くなりになりました。孔子はおっしゃいました。「子貢(賜)が不幸にも言ったことが的中してしまった。これは子貢に余計なことを言わせる結果となった。」鄭の罕達が老丘で宋軍を打ち破りました。斉の侯と衛の侯が蘧挐に駐屯し、宋を救援する策を謀りました。 秋、七月の壬申の日に、姒氏が亡くなりました。夫人とは称されず、訃報を諸国に知らせず、かつ祖廟に合祀しなかったためです。定公の葬儀が行われましたが、雨が降ったため、葬事を完了できませんでした。これは礼制に適った対応です。定姒の葬儀では、小君(諸侯の正妻の敬称)とは称されず、正式な喪の儀礼が整わなかったためです。 冬、漆の地に城を築きました。時季外れの工事と記録されたのは、適切な報告がなかったためです。 解説この一節は、春秋左氏伝に記される魯の定公の死とその前後の出来事を描いています。孔子が弟子の子貢の予言が現実となったことを嘆く場面や、鄭・宋・斉・衛など諸国間の軍事・外交情勢が示されています。特に「夫人」や「小君」という称号の欠如や葬儀の不備は、当時の礼制における身分や手続きの重要性を反映しており、歴史的な儀礼の実態が窺えます。雨による葬事中断の記述は、自然現象さえも礼の範疇として捉える中国古代の思想を表しています。 Translation took 1632.1 seconds. |
| input text ../document/春秋左氏傳\12_春秋左氏傳_哀公.txt | 現代日本語 translated text |
| 春秋左氏傳 哀公 哀公元年 經 元年春,王正月,公即位。楚子、陳侯、隨侯、許男圍蔡。鼷鼠食郊牛,改卜牛。 夏,四月,辛巳郊。 秋,齊侯、衛侯伐晉。 冬,仲孫何忌帥師伐邾。 傳 元年春,楚子圍蔡,報柏舉也。里而栽,廣丈,高倍。夫屯,晝夜九日,如子西之素。蔡人男女以辨,使疆于江汝之間,而還。蔡於是乎請遷于吳,吳王夫差敗越于夫椒,報檇李也,遂入越。越子以甲楯五千,保于會稽,使大夫種因吳大宰嚭以行成。吳子將許之,伍員曰:「不可。臣聞之:『樹德莫如滋,去疾莫如盡。』昔有過澆,殺斟灌以伐斟鄩,滅夏后相。后緡方娠,逃出自竇,歸于有仍,生少康焉,為仍牧正,惎澆能戒之。澆使椒求之,逃奔有虞,為之庖正,以除其害。虞思於是妻之以二姚,而邑諸綸,有田一成,有眾一旅,能布其德,而兆其謀,以收夏眾,撫其官職;使女艾諜澆,使季杼誘豷,遂滅過戈,復禹之績,祀夏配天,不失舊物。今吳不如過,而越大於少康,或將豐之,不亦難乎!句踐能親而務施,施不失人,親不棄勞,與我同壤,而世為仇讎,於是乎克而弗取,將又存之,違天而長寇讎,後雖悔之,不可食巳。姬之衰也,日可俟也;介在蠻夷,而長寇讎,以是求伯,必不行矣。」弗聽,退而告人曰:「越十年生聚,而十年教訓;二十年之外,吳其為沼乎!」 |
翻訳文哀公元年 経文 元年の春、周の正月に、公(魯の哀公)が即位した。楚の君、陳の侯、隨の侯、許の男が蔡を包囲した。鼷鼠(小さなネズミ)が郊祀(天地の祭り)に使う牛を食い害したため、卜占で新たな牛を選び直した。 夏、四月の辛巳の日に郊祀を行った。 秋、斉の侯と衛の侯が晉を討伐した。 冬、仲孫何忌が軍を率いて邾を討伐した。 伝文 元年の春、楚の君が蔡を包囲したのは、柏挙の戦い(過去の楚と蔡の戦い)への報復である。包囲陣は一里ごとに柵を築き、幅一丈、高さ二丈とし、兵士を昼夜九日間駐屯させて、子西(楚の将軍)の当初の計画通りに進めた。蔡の民は男女別に分離され、江と汝の間の地域に移住させられた後、楚軍は帰還した。蔡はこれにより呉への遷移を要請した。一方、呉王夫差は夫椒で越軍を破り、檇李の戦い(過去の呉の敗戦)の報復を果たし、越に進攻した。越の君(句践)は武装兵五千を率いて会稽山に籠城し、大夫の種を呉の太宰嚭を通じて和議を申し入れた。呉王がこれを受け入れようとした時、伍員(伍子胥)が諫めて言った。「許すべきではありません。臣が聞くところでは、『徳を積むには滋(しげ)るように育てるのが最善であり、病を除くには根絶やすのが最善である』といいます。昔、過の澆(伝説の暴君)が斟灌と斟鄩を滅ぼし、夏后相(夏王朝の君主)を殺害しました。后緡(相の妻)は妊娠中に穴から逃れ、有仍に帰って少康を産みました。少康は有仍の牧正(牧官)となり、澆の害を警戒しました。澆が椒を遣わして探させると、少康は有虞に逃れ、庖正(厨房官)となって害を免れました。有虞の君・思は二人の娘(二姚)を嫁がせ、綸の地に封じ、田一成(十里四方の田)、民一旅(五百人)を与えました。少康は徳を広め、謀略を巡らせて夏の民を集め、官職を整え、女艾を遣わして澆を偵察させ、季杼に豷を誘わせ、遂に過と戈を滅ぼして禹の業を回復し、夏の祭祀を天に配し、旧来の制度を失いませんでした。現在、呉は過(澆の国)よりも劣り、越は少康よりも強大です。もし越を豊かにすれば、禍を大きくするだけでなく、難事となるでしょう。句践は民に親しみ施しを重ね、人を見誤らず、労を惜しまず、呉と地続きで代々仇敵です。ここで勝ちながら取り込まず、存続させれば、天に背き仇敵を育てるものです。後悔しても取り返しがつかなくなるでしょう。呉(姬姓の国)の衰退は目前です。蛮夷に囲まれながら仇敵を養い、霸者を求めるのは不可能です。」呉王は聞き入れず、伍員は退いて人に告げた。「越は十年で人口を増やし、十年で教訓を積む。二十年後には、呉は沼と化すだろう!」 解説この一節は、春秋時代の魯・哀公元年(紀元前494年)の出来事を記録しています。経文は簡潔な年代記で、伝文は詳細な史実を物語風に描いています。 主な内容と背景: 历史的意義: Translation took 5326.7 seconds. |
| 三月,越及吳平,吳入越不書。吳不告慶,越不告敗也。 夏,四月,齊侯、衛侯救邯鄲,圍五鹿。吳之入楚也,使召陳懷公,懷公朝國人而問焉,曰:「欲與楚者右,欲與吳者左。陳人從田,無田從黨。」逢滑當公而進曰:「臣聞國之興也以福,其亡也以禍。今吳未有福,楚未有禍,楚未可棄,吳未可從;而晉盟主也,若以晉辭,吳若何?」公曰:「國勝君亡,非禍而何?」對曰:「國之有是多矣,何必不復?小國猶復,況大國乎?臣聞國之興也,視民如傷,是其福也;其亡也,以民為土芥,是其禍也。楚雖無德,亦不艾殺其民;吳日敝於兵,暴骨如莽,而未見德焉。天其或者正訓楚也,禍之適吳,其何日之有?」陳侯從之,及夫差克越,乃脩先君之怨。 秋,八月,吳侵陳,脩舊怨也。齊侯、衛侯會于乾侯,救范氏也。師及齊師,衛孔圉鮮虞人伐晉,取棘蒲。吳師在陳,楚大夫皆懼曰:「闔廬惟能用其民,以敗我於柏舉,今聞其嗣又甚焉,將若之何?」子西曰:「二三子恤不相睦,無患吳矣。昔闔廬食不二味,居不重席,室不崇壇,器不彤鏤,宮室不觀,舟車不飾,衣服財用,擇不取費;在國,天有菑癘,親巡其孤寡,而共其乏困;在軍,熟食者分而後敢食,其所嘗者,卒乘與焉,勤恤其民,而與之勞逸:是以民不罷勞,死不知曠,吾先大夫子常易之,所以敗我也。今聞夫差,次有臺榭陂池焉,宿有妃嬙嬪御焉,一日之行,所欲必成,玩好必從,珍異是聚,觀樂是務,視民如讎,而用之日新,夫先自敗也已,安能敗我?」 |
三月、越と呉は和睦したが、呉が越に侵攻したことは記録されていない。これは呉が勝利を報告せず、越が敗北を報告しなかったためである。 夏の四月、齊侯と衛侯は邯鄲を救援し、五鹿を包囲した。呉が楚に侵攻した際、呉は陳の懐公を召し出した。懐公は国人を集めて問うた、「楚に味方したい者は右に、呉に味方したい者は左に着け」。陳の人々は田畑の有無に従い、田畑のない者は所属する党派に従った。逢滑が公の前に進み出て言った、「臣は聞きます。国が興るのは福によるが、滅びるのは禍による。今、呉には福がなく、楚には禍がない。楚を捨てるべきではなく、呉に従うべきではない。晋は盟主であるから、晋を理由に断れば、呉はどうするだろうか」。公が言った、「国が勝ち、君が亡くなるのは、禍ではないのか」。これに対し、「国にこのようなことは多く起こる。なぜ復興しないことがあろうか。小国でも復興する、まして大国では。臣は聞きます。国が興るのは、民を傷ついた者のように大切にするからで、これが福である。滅びるのは、民を土や芥のように軽んじるからで、これが禍である。楚は徳がなくとも、民を虐殺しない。呉は日々戦争で疲弊し、屍が野原に散らばるが、徳が見られない。天はあるいは楚を鍛えているのか、禍が呉に降りかかる日は近いだろう」。陳侯はこれに従った。そして夫差が越を征服すると、先代の君主の怨みを晴らした。 秋の八月、呉は陳を侵攻し、過去の怨みを晴らした。齊侯と衛侯は乾侯で会合し、范氏を救援した。軍は齊軍と合流し、衛の孔圉と鮮虞人が晋を攻撃し、棘蒲を奪取した。呉軍が陳に駐屯しているので、楚の大夫たちは皆恐れて言った、「闔廬は民を巧みに使って、柏挙で我々を破った。今、その後継者である夫差がさらに優れていると聞く。どう対処すればよいか」。子西が言った、「皆さんは互いの不和を心配するが、呉を心配する必要はない。昔、闔廬は食事に二品を並べず、座るに重ねた席を使わず、屋敷に高壇を築かず、器物に彫刻を施さず、宮殿を豪華にせず、舟車を飾らず、衣服や財用は贅沢を選ばなかった。国内では、天災や疫病があれば、自ら孤児や寡婦を訪れ、困窮を救った。軍中では、炊いた食物は分配した後に食べ、味見したものは兵卒と分かち合い、民を労り、共に労逸を分かち合った。だから民は疲れ果てず、死んでも恨みを残さなかった。我々の先大夫である子常がこれを軽んじたので、我々は敗れたのである。今、夫差はと言えば、宿営には楼閣や池園があり、宿泊には妃や嬪が侍り、一日の行動で欲しいものは必ず成就させ、玩好品は必ず従え、珍品を集め、観楽に熱中し、民を敵のように見なし、使い捨てにする。彼はまず自ら敗北するだろう。どうして我々を敗れることができようか」。 解説この文章は『春秋左氏伝』の一節で、春秋時代の複雑な国際関係と為政者の在り方を描いています。以下の点が特筆されます:
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| 冬,十一月,晉趙鞅伐朝歌。 哀公二年 經 二年春.王二月.季孫斯.叔孫州仇.仲孫何忌.帥師伐邾.取漷東田及沂西田.癸巳.叔孫州仇.仲孫何忌.及邾人盟于句繹. 夏.四月.丙子.衛侯元卒.滕子來朝.晉趙鞅帥師納衛世子蒯瞶于戚. 秋.八月.甲戌.晉趙鞅帥師.及鄭罕達帥師.戰于鐵.鄭師敗績. 冬.十月.葬衛靈公. 十有一月.蔡遷于州來.蔡殺其大夫公子駟. 傳 二年春.伐邾.將伐絞.邾人愛其土.故賂以漷沂之田而受盟.初.衛侯遊于郊.子南僕.公曰.余無子.將立女.不對.他日又謂之.對曰.郢不足以辱社稷.君其改圖.君夫人在堂.三揖在下.君命祇辱. 夏.衛靈公卒.夫人曰.命公子郢為大子.君命也.對曰.郢異於他子.且君沒於吾手.若有之.郢必聞之.且亡人之子輒在.乃立輒. 六月.乙酉.晉趙鞅納衛大子于戚.宵迷.陽虎曰.右河而南必至焉.使大子絻.八人衰絰.偽自衛逆者.告於門.哭而入.遂居之. 秋.八月.齊人輸范氏粟.鄭子姚.子般.送之.士吉射逆之.趙鞅禦之.遇于戚.陽虎曰.吾車少.以兵車之旆.與罕駟兵車.先陳.罕駟自後隨而從之.彼見吾貌.必右懼心.於是乎會之.必大敗之.從之.卜戰.龜焦.樂丁曰.詩曰.爰始爰謀.爰契我龜.謀協以故.兆詢可也.簡子誓曰.范氏中行氏反易天明.斬艾百姓.欲擅晉國而滅其君.寡君恃鄭而保焉.今鄭為不道.棄君助臣.二三子順天明.從君命.經德義.除詬恥.在此行也.克敵者.上大夫受縣.下大夫受郡.士田十萬.庶人工商遂.人臣隸圉免.志父無罪.君實圖之.若其有罪.絞縊以戮.桐棺三寸.不設屬辟.素車樸馬.無入于兆.下卿之罰也.甲戌.將戰.郵無恤御簡子.衛太子為右.登鐵上.望見鄭師眾.大子懼.自投于車下.子良授大子綏而乘之.曰.婦人也.簡子巡列.曰.畢萬匹夫也.七戰皆獲.有馬百乘.死於牖下.群子勉之.死不在寇.繁羽御趙羅.宋勇為右.羅無勇麇之.吏詰之.御對曰.痁作而伏.衛大子禱曰.曾孫蒯聵.敢昭告皇祖文王.烈祖康叔.文祖襄公.鄭勝亂從.晉午在難.不能治亂.使鞅討之.蒯聵不敢自佚.備持矛焉.敢告無絕筋.無折骨.無面傷.以集大事.無作三祖羞.大命不敢請.佩玉不敢愛.鄭人擊簡子中肩.斃于車中.獲其蜂旗.大子救之以戈.鄭師北.獲溫大夫趙羅.大子復伐之.鄭師大敗.獲齊粟千車.趙孟喜曰.可矣.傅傁曰.雖克鄭.猶有知在.憂未艾也.初.周人與范氏田.公孫尨稅焉.趙氏得而獻之.吏請殺之.趙孟曰.為其主也.何罪.止而與之田.及鐵之戰.以徒五百人.宵攻鄭師.取蜂旗於子姚之幕下.獻曰.請報主德.追鄭師.姚.般.公孫林.殿而射.前列多死.趙孟曰.國無小.既戰.簡子曰.吾伏弢嘔血.鼓音不衰.今日我上也.大子曰.吾救主於車.退敵於下.我右之上也.郵良曰.我兩靷將絕.吾能止之.我御之上也.駕而乘材.兩靷皆絕.吳洩庸如蔡納聘.而稍納師.師畢入.眾知之.蔡侯告大夫殺公子駟以說.哭而遷墓.冬.蔡遷于州來. 哀公三年 經 |
冬、十一月、晋の趙鞅が朝歌を討伐した。 哀公二年 経 二年の春、周王の二月、季孫斯、叔孫州仇、仲孫何忌が軍を率いて邾を討伐し、漷東の田地と沂西の田地を奪取した。癸巳の日、叔孫州仇、仲孫何忌が邾の人々と句繹で盟約を結んだ。 夏、四月、丙子の日、衛侯元が逝去した。滕子が来朝した。晋の趙鞅が軍を率いて衛の世子蒯瞶を戚に迎え入れた。 秋、八月、甲戌の日、晋の趙鞅が率いる軍と、鄭の罕達が率いる軍が鉄で戦い、鄭軍が大敗した。 冬、十月、衛霊公を葬った。 十一月、蔡が州来に遷都した。蔡が自国の大夫である公子駟を殺害した。 伝 二年の春、邾を討伐し、続いて絞を討伐しようとした。邾の人々は自国の土地を惜しんだため、漷と沂の田地を賄賂として贈り、盟約を受け入れた。当初、衛侯が郊外を遊覧した際、子南が御者を務めた。公が「私は後継ぎがいないので、お前を後継ぎに立てよう」と言うと、子南は返事をしなかった。別の日にも同じことを言うと、子南は「私は社稷(国家)を担うには不足です。君はお考えを変えてください。君の夫人が堂におり、三揖(重臣たち)が下におります。君の命令だけでは不十分です」と答えた。 夏、衛霊公が逝去した。夫人が「公子郢を太子とするのは君の命令だ」と言うと、子南は「私は他の公子とは異なります。かつて君が私の手の中で亡くなられました。もしそのような命令があれば、私は必ず聞いていたはずです。また、亡命者の子である輒がおります」と答えた。そこで輒を後継ぎに立てた。 六月、乙酉の日、晋の趙鞅が衛の太子を戚に迎え入れた。夜道に迷ったが、陽虎が「右に黄河を見ながら南へ進めば必ず着きます」と助言した。太子に喪服を着せ、八人に喪服を着せて、衛から迎えに来た者を装わせた。門で告げて泣きながら中に入り、その地に居住した。 秋、八月、斉の人が范氏に穀物を送った。鄭の子姚と子般がそれを護送し、士吉射が迎えに出た。趙鞅がこれを防ぎ、戚で遭遇した。陽虎が「我々の兵車は少ない。兵車の旗を掲げ、罕駟の兵車とともに先に陣を構えよ。罕駟は後から従って来る。敵は我々の様子を見て必ず恐れをなす。そこで戦えば必ず大敗させられる」と進言し、趙鞅はこれに従った。戦いの占いをすると亀甲が焦げた。楽丁が「詩に『まず謀り、その後で亀甲で占う』とあります。謀りが一致しているなら、兆しを尋ねるだけで十分です」と言った。簡子(趙鞅)は誓って「范氏と中行氏は天命に背き、百姓を苦しめ、晋国を独占して君を滅ぼそうとした。我が君は鄭を頼りにしている。今、鄭は道理に反し、君を捨てて臣を助ける。諸君は天命に従い、君命に従い、徳義を重んじ、恥辱を除くのだ。敵に勝った者は、上大夫は県を、下大夫は郡を、士は十万の田地を得る。庶人や工商は出世し、奴隷は解放される。私に罪がなければ君は考慮せよ。もし罪があれば絞首刑とし、桐の棺三寸で副葬品もなく、質素な車馬で墓に入れぬ。下卿としての罰だ」と宣言した。 甲戌の日、戦いが始まろうとした時、郵無恤が簡子の御者を務め、衛太子が車右となった。鉄の丘に登り鄭軍の多さを見て太子は恐れ、車から転落した。子良が太子に手綱を渡して乗せ直し「婦人のようだ」と言った。簡子が陣を巡り「畢万は一介の士だったが、七戦全勝し、百乗の馬を得て平穏に死んだ。諸君は奮起せよ。死は敵によるのではない」と激励した。繁羽が趙羅の御者、宋勇が車右を務めたが、趙羅は臆病で縮こまった。役人が問い詰めると御者は「瘧病の発作で伏せている」と答えた。衛太子は祈り「曾孫蒯聵は皇祖文王、烈祖康叔、文祖襄公に申し上げます。鄭勝が混乱を引き起こし、晋午(晋君)が苦境にある。乱を治められぬため趙鞅に討たせます。私は安逸を貪らず矛を執ります。どうか筋を絶やさず、骨を折らず、顔を傷つけず、大事を成し遂げ、三祖の恥とならぬように。寿命は請わず、佩玉も惜しまぬ」と告げた。 鄭軍が簡子を撃ち肩に傷を負わせ車中に倒れ、蜂旗を奪われた。太子が戈で救出し、鄭軍は敗走した。温の大夫趙羅を捕らえ、太子が再び攻撃して鄭軍は大敗し、斉の穀物千車を奪った。趙孟(趙鞅)は喜んだが、傅傁は「鄭に勝っても知氏が残る。憂いは終わらない」と警告した。当初、周の人が范氏に田地を贈り、公孫尨が徴税していた。趙氏が捕らえて献上した時、役人は殺すよう進言したが、趙孟は「主君のためだ。罪はない」と言って田地を与えた。鉄の戦いで、公孫尨は兵五百人を率いて夜襲し、子姚の陣から蜂旗を奪還し「主君の恩に報いる」と述べた。鄭軍を追撃する中、子姚、子般、公孫林が殿軍して矢を放ち、前列の兵多くが死んだ。趙孟は「国は小さいといえども」と慨嘆した。戦後、簡子は「私は盾に伏して血を吐きながらも鼓を鳴らし続けた。私の功績が上だ」と主張し、太子は「私が車で主君を救い、敵を退けた。車右として最高だ」と言い、郵良は「轡の革が切れかかったのを止めた。御者として最高だ」と主張した。車を走らせると轡の革は切れた。呉の洩庸が蔡に聘問として赴き、 graduallyに軍隊を送り込んだ。軍が全員入ると人々は気づき、蔡侯は大夫に公子駟を殺して謝罪させ、泣きながら墓を移した。冬、蔡は州来に遷都した。 哀公三年 経 (以下、経文の記載が続くが、原文で切れているため翻訳はここまで) 解説この一節は『春秋左氏伝』哀公二年の出来事を詳細に記録したものです。以下のような特徴や背景があります:
この記録は、単なる戦記ではなく、春秋時代の政治・社会・文化を多角的に伝える貴重な史料となっています。 Translation took 7965.6 seconds. |
| 三年春.齊國夏.衛石曼姑.帥師圍戚. 夏.四月.甲午.地震. 五月.辛卯.桓宮僖宮災.季孫斯.叔孫州仇.帥師城啟陽.宋樂髡帥師伐曹. 秋.七月.丙子.季孫斯卒.蔡人放其大夫公孫獵于吳. 冬.十月.癸卯.秦伯卒.叔孫州仇.仲孫何忌.帥師圍邾. 傳 三年春.齊衛圍戚.求援于中山. 夏.五月.辛卯.司鐸火.火踰公宮.桓僖災.救火者皆曰顧府.南宮敬叔至.命周人出御書.俟於宮曰.庀女而不在死.子服景伯至.命宰人出禮書.以待命.命不共.有常刑.校人乘馬.巾車脂轄.百官官備.府庫慎守.官人肅給.濟濡帷幕.鬱攸從之.蒙茸公屋.自大廟始.外內以悛.助所不給.有不用命.則有常刑.無赦.公父文伯至.命校人駕乘車.季桓子至.御公立于象魏之外.命救火者.傷人則止.財可為也.命藏象魏.曰.舊章不可亡也.富父槐至.曰.無備而官辦者.猶拾瀋也.於是乎去表之稿.道還公宮.孔子在陳.聞火.曰.其桓僖乎.劉氏.范氏.世為婚姻.萇弘事劉文公.故周與范氏.趙鞅以為討. 六月.癸卯.周人殺萇弘. 秋.季孫有疾.命正常曰.無死.南孺子之子.男也.則以告而立之.女也.則肥也可.季孫卒.康子即位.既葬.康子在朝.南氏生男正常.載以如朝.告曰.夫子有遺言.命其圉臣曰.南氏生男.則以告於君.與大夫.而立之.今生矣.男也.敢告.遂奔衛.康子請退.公使共劉視之.則或殺之矣.乃討之.召正常.正常不反. |
翻訳文三年目の春、斉の国夏と衛の石曼姑が軍を率いて戚を包囲した。 夏四月甲午の日に地震があった。 五月辛卯の日に桓公の廟と僖公の廟が火災に見舞われた。季孫斯と叔孫州仇が軍を率いて啓陽の城を築いた。宋の楽髡が軍を率いて曹を攻撃した。 秋七月丙子の日に季孫斯が死去した。蔡の人々がその大夫である公孫獵を吳に追放した。 冬十月癸卯の日に秦の伯(君主)が死去した。叔孫州仇と仲孫何忌が軍を率いて邾を包囲した。 伝(解説付きの記述) 夏五月辛卯の日に司鐸(官署)で火災が発生し、火が公宮(君主の宮殿)を越えて広がり、桓公と僖公の廟が焼失した。消火活動にあたる者たちは皆、「財宝庫を守れ」と言った。南宮敬叔が到着し、周人(官吏)に御書(君主の文書)を取り出すよう命じ、宮中で待機させて「お前が任務を果たさなければ死罪だ」と宣言した。子服景伯が到着し、宰人(執事)に礼書(儀礼の記録)を取り出すよう命じ、指示を待つようにさせ、「命令に従わなければ定められた刑罰がある」と言った。校人(馬車の管理者)は馬を準備し、巾車(車両の担当官)は車軸に油を塗り、百官は各自の職務を整え、府庫(倉庫)は厳重に守り、官人(役人)は厳格に物資を供給した。水で濡らした幕をかけ、消火道具(鬱攸)を続けて用意し、公屋(宮殿の建物)に毛布のようなものを被せ、大廟(祖廟)から始めて、内外順序よく消火にあたった。不足する部分は補い、命令に従わない者には定められた刑罰を科し、赦しはなかった。公父文伯が到着し、校人に乗車(君主の車)を準備させた。季桓子が到着し、君主(魯公)を護衛して象魏(宮門の楼閣)の外に立たせ、消火者に「負傷者が出たら活動を止めよ、財産は後で再生できる」と命じた。また象魏(法令が掲げられた場所)の文書を隠すよう命じ、「古い規程は失ってはならない」と言った。富父槐が到着し、「準備なしに役人だけが整っても、それは地面にこぼれた汁を拾うようなものだ」と言い、そこで標柱の枯れ草を取り除き、道を整えて公宮への通路を確保した。孔子が陳国にいたが、火災の報を聞いて「それは桓公と僖公の廟であろう」と言った。劉氏と范氏は代々婚姻関係にあり、萇弘は劉文公に仕えていたため、周は范氏を支援した。趙鞅がこれを非難した。 六月癸卯の日に周の人々が萇弘を殺害した。 秋、季孫(季桓子)が病気になり、正常(家臣)に「死ぬな」と命じた。「南孺子の産む子が男なら、君主に報告して後継ぎとせよ。女なら肥(別の子)でもよい」と言った。季孫が死去し、康子(後継者)が即位した。葬儀が終わった後、康子が朝廷にいる時、南氏が男児を産んだ。正常はその子を車に乗せて朝廷に行き、「主人は遺言で、『南氏が男児を産んだら君主と大夫たちに報告し、後継ぎとせよ』と命じられました。今、生まれました。男児です。謹んで報告します」と言い、すぐに衛国に逃亡した。康子は退位を願い出た。魯公は共劉を使者として送って男児を確認させたが、既に誰かが殺害していた。そこで犯人の追及を始め、正常を召還したが、正常は戻らなかった。 解説この一節は『春秋左氏伝』哀公三年の記述で、魯国を中心とした国際情勢と国内事件を詳細に描いています。主な内容と背景を以下に解説します。
全体として、この一節は天変地異や事件を通じて、春秋時代の政治・社会秩序の変容を克明に記録したもので、左伝の特徴である叙事性と教訓性がよく表れています。 Translation took 59389.3 seconds. |
| 冬.十月.晉趙鞅圍朝歌.師于其南.荀寅伐其郛.使其徒自北門入.己犯師而出.癸丑.奔邯鄲. 十一月.趙鞅殺士皋夷.惡范氏也. 哀公四年 經 四年春.王二月.庚戌.盜殺蔡侯申.蔡公孫辰出奔吳.葬秦惠公.宋人執小邾子. 夏.蔡殺其大夫公孫姓.公孫霍.晉人執戎蠻子赤歸于楚.城西郛. 六月.辛丑.亳社災. 秋.八月.甲寅.滕子結卒. 冬.十有二月.葬蔡昭公.葬滕頃公. 傳 四年春.蔡昭侯將如吳.諸大夫恐其又遷也.承.公孫翩逐而射之.入於家人而卒.以兩矢門之.眾莫敢進.文之鍇後至.曰.如牆而進.多而殺二人.鍇執弓而先.翩射之.中肘.鍇遂殺之.故逐公孫辰.而殺公孫姓.公孫盱. 夏.楚人既克夷虎.乃謀北方.左司馬販.申公壽餘.葉公諸梁.致蔡於負函.致方城之外於繒關.曰.吳將泝江入郢.將奔命焉.為一昔之期.襲梁及霍.單浮餘圍蠻氏.蠻氏潰.蠻子赤奔晉陰地.司馬起豐析與狄戎.以臨上雒.左師軍于菟和.右師軍于倉野.使謂陰地之命大夫士蔑曰.晉楚有盟.好惡同之.若將不廢.寡君之願也.不然.將通於少.習以聽命.士蔑請諸趙孟.趙孟曰.晉國未寧.安能惡於楚.必速與之.士蔑乃致九州之戎.將裂田以與蠻子而城之.且將為之卜.蠻子聽卜.遂執之.與其五大夫.以畀楚師于三戶.司馬致邑立宗焉.以誘其遺民.而盡俘以歸. |
翻訳文冬、十月、晋の趙鞅が朝歌を包囲した。軍勢をその南に配置した。荀寅がその外城を攻撃し、自分の部下を北門から侵入させた。荀寅は軍勢を突破して出て、癸丑の日に邯鄲へ逃れた。 十一月、趙鞅は士皋夷を殺した。范氏を憎んでいたからである。 哀公四年 四年の春、周暦二月、庚戌の日、盗賊が蔡侯申を殺した。蔡の公孫辰は吳へ逃亡した。秦の惠公を葬った。宋人が小邾子を捕らえた。 夏、蔡がその大夫である公孫姓と公孫霍を殺した。晋人が戎蛮子赤を捕らえて楚に引き渡した。西の外城を築いた。 六月、辛丑の日、亳社で火灾が起きた。 秋、八月、甲寅の日、滕子結が死去した。 冬、十二月、蔡昭公を葬り、滕頃公を葬った。 伝(詳細な叙述) 四年の春、蔡昭侯が吳へ向かおうとした。諸大夫は彼が再び遷都することを恐れ、公孫翩が追いかけて箭を射った。昭侯は民家に逃げ込んで死亡した。公孫翩は二本の箭で門を守り、人々は進むことを恐れた。文之鍇が後から到着し、「壁のように進み、多くても二人を殺せ」と言った。鍇が弓を執って先頭に立つと、翩が箭を射て肘に当たった。鍇は遂に翩を殺した。そこで公孫辰を追放し、公孫姓と公孫盱を殺した。 夏、楚人は夷虎を征服した後、北方を謀った。左司馬販、申公壽餘、葉公諸梁が、蔡の民を負函に集め、方城山の外の民を繒關に集めた。「吳が長江を溯って郢都を攻めるだろうから、対応に奔走せよ」と言い、一晩の期限で梁と霍を襲撃した。単浮餘が蛮氏を包囲し、蛮氏は潰走し、蛮子赤は晋の陰地へ逃れた。司馬が豊析の兵と狄戎を動員して上雒に迫り、左師は菟和に、右師は倉野に軍を置いた。陰地の責任者である大夫の士蔑に使者を送り、「晋と楚は盟約があり、好悪を共にする。もし盟約を守るなら、我が君の願いである。そうでなければ、少習山を通って進軍し、命令に従わせる」と伝えた。士蔑は趙孟に相談した。趙孟は「晋国は内乱で不安定であり、楚と敵対できない。速やかに要求を呑め」と言った。士蔑は九州の戎族を集め、土地を分けて蛮子に与え城を築くふりをした。そして卜占を行おうとし、蛮子がそれに乗ったため、彼を捕らえ、五大夫と共に三戸で楚軍に引き渡した。司馬は邑を整え宗廟を立て、残った蛮民をおびき寄せ、全て俘虜として連れ帰った。 解説この一節は『春秋左氏伝』哀公四年(紀元前491年)の記録です。前半は前年の出来事の続きで、晋国内の権力闘争(趙鞅と范氏の対立)を描いています。後半の「経」は春秋時代の簡潔な公式年表で、蔡・秦・宋などの事件を列記し、「伝」はその詳細な背景を物語風に叙述しています。 主な内容は以下の通りです: 史実の背景として、この時期は晋が六卿の争いで衰退し、楚と吳が勢力争いを繰り広げた過渡期です。記述には戦術の詳細や盟約の駆け引きが生き生きと描かれ、歴史資料としての価値とともに文学的な面白さも備えています。 Translation took 32643.9 seconds. |
| 秋.七月.齊陳乞.弦施.衛甯跪.救范氏.庚午.圍五鹿. 九月.趙鞅圍邯鄲. 冬.十一月.邯鄲降.荀寅奔鮮虞.趙稷奔臨. 十二月.弦施逆之.遂墮臨.國夏伐晉.取邢.任.欒.鄗.逆畤.陰人.盂.壺口.會鮮虞.納荀寅于柏人. 哀公五年 經 五年春.城毗. 夏.齊侯伐宋.晉趙鞅帥師伐衛. 秋.九月.癸酉.齊侯杵臼卒. 冬.叔還如齊. 閏月.葬齊景公. 傳 五年春.晉圍柏人.荀寅.士吉射.奔齊.初.范氏之臣王生.惡張柳朔.言諸昭子.使為柏人.昭子曰.夫非而讎乎.對曰.私讎不及公.好不廢過.惡不去善.義之經也.臣敢違之.及范氏出.張柳朔謂其子.爾從主.勉之.我將止死.主生授我矣.吾不可以僭之.遂死於柏人. 夏.趙鞅伐衛.范氏之故也.遂圍中牟.齊燕姬生子.不成而死.諸子.鬻姒之子荼嬖.諸大夫恐其為大子也.言於公曰.君之齒長矣.未有大子.若之何.公曰.二三子間於憂虞.則有疾疢.亦姑謀樂.何憂於無君.公疾.使國惠子.高昭子.立荼.寘群公子於萊. 秋.齊景公卒. 冬.十月.公子嘉.公子駒.公子黔.奔衛.公子鉏.公子陽生.來奔.萊人歌之曰.景公死乎不與埋.三軍之事乎不與謀.師乎師乎.何黨之乎.鄭駟秦富而侈.嬖大夫也.而常陳卿之車服於其庭.鄭人惡而殺之.子思曰.詩曰.不解于位.民之攸塈.不守其位.而能久者鮮矣.商頌曰.不僭不濫.不敢怠皇.命以多福. 哀公六年 經 |
秋、七月、斉の陳乞・弦施と衛の甯跪が范氏を救援した。庚午の日に五鹿を包囲した。 九月、趙鞅が邯鄲を包囲した。 冬、十一月、邯鄲が降伏した。荀寅は鮮虞に逃れ、趙稷は臨に逃れた。 十二月、弦施が彼らを迎え、臨を破壊した。国夏が晋を攻撃し、邢・任・欒・鄗・逆畤・陰人・盂・壺口を占領した。鮮虞と会合し、荀寅を柏人に送り届けた。 哀公五年 五年春、毗を築城した。 夏、斉侯が宋を討伐した。晋の趙鞅が軍を率いて衛を討伐した。 秋、九月、癸酉の日、斉侯杵臼が死去した。 冬、叔還が斉へ赴いた。 閏月、斉景公を葬った。 伝 五年春、晋が柏人を包囲した。荀寅と士吉射は斉へ逃れた。当初、范氏の家臣である王生は張柳朔を憎んでおり、昭子に「彼を柏人に派遣すべきだ」と進言した。昭子が「彼はあなたの仇ではないか」と問うと、王生は「私怨は公事に影響せず、好意で過失を見逃さず、憎しみで善行を否定しないのが義の道理です。臣がこれを違えるはずがありません」と答えた。范氏が逃亡する際、張柳朔は息子に「お前は主君に従い、努めよ。私はここで死ぬ。主君が私に生命を授けてくださったのだ。それを裏切ることはできない」と言い、柏人で戦死した。 夏、趙鞅が衛を討伐した(范氏への対応のため)。続いて中牟を包囲した。斉の燕姫が産んだ子は成長せずに死去した。側室の鬻姫の子である荼が寵愛され、大夫たちは荼が太子になることを恐れ、景公に「君はご高齢なのに、まだ太子がおりません。どうなさいますか」と訴えた。景公は「卿たちが憂いばかりでは病気になる。楽しみを図るがよい。君主の後継ぎを心配するな」と言った。景公が病に伏せると、国恵子と高昭子に荼を立てさせ、他の公子たちを萊に移した。 秋、斉景公が死去した。 冬、十月、公子嘉・公子駒・公子黔は衛に逃れ、公子鉏・公子陽生は魯に亡命した。萊の人々は歌って「景公の死にも埋葬に加われず、三軍の事にも参与できぬ。師よ師よ、我らはどこへ行くべきか」と詠んだ。鄭の駟秦は富みながら奢侈で、身分は嬖大夫ながら常に卿の車服を庭に並べた。鄭人たちは彼を憎んで殺した。子思が「詩経に『職位を怠らなければ、民は安らぐ』とある。その地位を守れずに長く続く者は稀だ。商頌にも『過ちなく乱れず、怠らず慌てず、これにより多福を受く』と歌われている」と述べた。 哀公六年 解説: Translation took 2021.2 seconds. |
| 六年春.城邾瑕.晉趙鞅帥師伐鮮虞.吳伐陳.夏.齊國夏及高張來奔.叔還會吳于柤. 秋.七月.庚寅.楚子軫卒.齊陽生入于齊.齊陳乞弒其君荼. 冬.仲孫何忌帥師伐邾.宋向巢帥師伐曹. 傳 六年春.晉伐鮮虞.治范氏之亂也.吳伐陳.復脩舊怨也.楚子曰.吾先君與陳有盟.不可以不救.乃救陳.師于城父.齊陳乞偽事高國者.每朝必驂乘焉.所從必言.諸大夫曰.彼皆偃蹇.將棄子之命.皆曰.高國得君.必偪我.盍去諸.固將謀子.子早圖之.圖之莫如盡滅之.需事之下也.及朝.則曰.彼虎狼也.見我在子之側.殺我無日矣.請就之位.又謂諸大夫曰.二子者禍矣.恃得君而欲謀二三子.曰.國之多難.貴寵之由.盡去之而後君定.既成謀矣.盍及其未作也.先諸作而後悔.亦無及也.大夫從之. 夏.六月.戊辰.陳乞鮑牧及諸大夫以甲入于公宮.昭子聞之.與惠子乘如公.戰于莊.敗.國人追之.國夏奔莒.遂及高張晏圉.弦施來奔. 秋.七月.楚子在城父.將救陳.卜戰不吉.卜退不吉.王曰.然則死也.再敗楚師.不如死.棄盟逃讎.亦不如死.死一也.其死讎乎.命公子申為王.不可.則命公子結.亦不可.則命公子啟.五辭而後許.將戰.王有疾.庚寅.昭王攻大冥.卒于城父.子閭退曰.君王舍其子而讓.群臣敢忘君乎.從君之命.順也.立君之子.亦順也.二順不可失也.與子西.子期.謀潛師閉塗.逆越女之子章立之.而後還.是歲也.有雲如眾.赤鳥夾日以飛.三日.楚子使問諸周大史.周大史曰.其當王身乎.若禜之.可移於令尹.司馬王曰.除腹心之疾.而寘諸股肱何益.不穀不有大過.天其夭諸.有罪受罰.又焉移之.遂弗禜.初.昭王有疾.卜曰.河為祟.王弗祭.大夫請祭諸郊.王曰.三代命祀.祭不越望.江漢雎章.楚之望也.禍福之至.不是過也.不穀雖不德.河非所獲罪也.遂弗祭.孔子曰.楚昭王知大道矣.其不失國也宜哉.夏書曰.惟彼陶唐.帥彼天常.有此冀方.今失其行.亂其紀綱.乃滅而亡.又曰.允出茲在茲.由己率常可矣. |
六年の春、邾瑕に城を築いた。晋の趙鞅が軍を率いて鮮虞を討伐した。呉が陳を討伐した。夏、斉の国夏と高張が魯に亡命して来た。叔還が柤で呉と会合した。 秋七月庚寅の日、楚の子軫(昭王)が逝去した。斉の陽生が斉に入国した。斉の陳乞がその君荼を弑した。 冬、仲孫何忌が軍を率いて邾を討伐した。宋の向巢が軍を率いて曹を討伐した。 【伝】 夏六月戊辰の日、陳乞と鮑牧および諸大夫が武装兵を率いて公宮に侵入した。昭子(高張)はこれを聞き、恵子(国夏)と車で公の元へ向かい、莊で戦ったが敗北した。国人が追撃し、国夏は莒に逃れ、続いて高張・晏圉・弦施が魯に亡命した。 秋七月、楚の昭王が城父に駐屯し、陳を救援しようとした。戦いの占いは不吉、撤退の占いも不吉であった。王は言った。「ならば死ぬしかない。楚軍を再び敗北させるよりは死ぬ方がましだ。盟約を捨てて仇敵から逃れるのも、死ぬより劣る。死は同じである。仇敵に対して死のう」。公子申を王位に就けようとしたが断られ、次に公子結を指名しても拒否され、さらに公子啓(子閭)を命じると、五度辞退した後にようやく承諾した。戦いを前にして王が病気になり、庚寅の日、昭王は大冥を攻撃したが、城父で逝去した。子閭(公子啓)は退いて言った。「君王はご自身の子を差し置いて我々に譲位された。臣下たる者どうして君の意志を忘れられようか。君の命令に従うのは順であるが、君の子を立てるのも順である。二つの順を失ってはならない」。子西や子期と謀り、密かに軍隊を移動させ道を閉ざし、越の女の子である章を迎えて王位に就け、その後帰還した。この年、群れをなすような雲が現れ、赤い鳥が太陽を挟んで飛ぶ現象が三日続いた。楚王は周の大史に質問させると、周の大史は「これは王の身に降りかかるでしょう。禊の儀式を行えば、令尹や司馬に災いを移せます」と答えた。王は言った。「腹心の病を取り除いて股肱に移しても何の益があろうか。私に大過がなければ、天がどうして夭折させるというのか。罪があれば罰を受けるべきで、どうして他に移せよう」。遂に禊を行わなかった。以前、昭王が病気になった時、占いで「黄河の神が祟りをなしている」と出たが、王は祭祀を行わなかった。大夫が郊外で祭祀を行うよう請うたが、王は言った。「三代の定めた祭祀では、自国の山川を越えて祭ってはならない。江・漢・雎・章こそ楚が祭祀すべき山川である。禍福が訪れるのは、この範囲を超えない。私が不徳であっても、黄河の神に罪を得るはずがない」。遂に祭祀を行わなかった。孔子は言った。「楚の昭王は大道を理解している。国を失わなかったのも当然である」。夏書に「かの陶唐(堯)は天の常道に従い、この冀方(中原)を保有した。今その行いを失い、紀綱を乱したため滅亡した」とあり、また「誠実さはここからここへ出る。己から常道に従えばよい」とある。 解説: Translation took 3870.8 seconds. |
| 八月.齊邴意茲來奔.陳僖子使召公子陽生.陽生駕而見南郭且于.曰.嘗獻馬於季孫.不入於上乘.故又獻此.請與子乘之.出萊門而告之故.闞止知之.先待諸外.公子曰.事未可知.反與壬也處.戒之.遂行.逮夜至於齊.國人知之.僖子使子士之母養之.與饋者皆入. 冬.十月.丁卯.立之.將盟.鮑子醉而往.其臣差車鮑點.曰.此誰之命也.陳子曰.受命于鮑子.遂誣鮑子曰.子之命也.鮑子曰.女忘君之為孺子牛.而折其齒乎.而背之也.悼公稽首曰.吾子奉義而行者也.若我可.不必亡一大夫.若我不可.不必亡一公子.義則進.否則退.敢不唯子是從.廢興無以亂.則所願也.鮑子曰.誰非君之子.乃受盟.使胡姬以安孺子如賴.去鬻姒.殺王甲.拘江說.囚王豹于句竇之丘.公使朱毛告於陳子曰.微子則不及此.然君異於器.不可以二.器二不匱.君二多難.敢布諸大夫.僖子不對而泣.曰.君舉不信群臣乎.以齊國之困.困又有憂.少君不可以訪.是以求長君.庶亦能容群臣乎.不然.夫孺子何罪.毛復命.公悔之.毛曰.君大訪於陳子.而圖其小.可也.使毛遷孺子於駘.不至.殺諸野幕之下.葬諸殳冒淳. 哀公七年 經 七年春.宋皇瑗帥師侵鄭.晉魏曼多帥師侵衛. 夏.公會吳于鄫. 秋.公伐邾.八月.己酉.入邾.以邾子益來.宋人圍曹. |
八月、齊の邴意茲が逃れて来た。陳僖子は使者を遣わして公子陽生を召し出した。陽生は車を駕して南郭且于に会いに行き、言った。「以前に季孫に馬を献上したが、上等な馬の列に入れなかった。そこで改めてこの馬を献上する。あなたと一緒に試乗したい。」萊門を出てから真意を打ち明けた。闞止がこれを察し、先回りして城外で待ち受けた。公子は言った。「成否はまだ分からない。戻って壬(孺子)のもとに留まり、警戒を怠るな。」そう言って出発し、夜間に齊に到着した。国人(都の住民)がこれに気付くと、僖子は子士の母に陽生の世話をさせ、食事の供給者たちと共に城内に入らせた。 冬十月丁卯の日、陽生を君主に擁立した。盟約を結ぼうとした時、鮑子(鮑牧)は酔って現れた。家臣の差車(御者)鮑点が「これは誰のご命令ですか」と問うと、陳子(僖子)は「鮑子からの命令を受けた」と言い、すぐに鮑子を欺いて「あなたのご命令です」と主張した。鮑子は「君(景公)が孺子の牛役となって歯を折られたことを忘れたのか。それを裏切るとは」と激しく非難した。悼公(陽生)は額を地に付けて「あなたは義を重んじて行動される方だ。私が適任なら大夫を失う必要はなく、不適任なら公子を失う必要もない。義に適えば進み、適わなければ退く。あなたの指示に従わずにおられようか。政権交代が混乱なく行われることが私の願いだ」と述べた。鮑子は「誰が君の子でないというのか」と言い、ようやく盟約を受諾した。胡姬に安孺子を頼地に移住させ、鬻姒を追放し、王甲を処刑し、江説を拘束し、王豹を句竇の丘に監禁した。 悼公は朱毛を陳子のもとに遣わして伝えさせた。「あなたのお陰で今の地位を得た。しかし君主は器物とは異なり、二人並立できない。器物が二つあっても不足しないが、君主が二人いれば災いが多くなる。この考えを大夫たちに伝えてほしい」。僖子は返答せずに涙を流し、「君は群臣を信用されないのか。齊国が困窮する中、幼君では重大事を相談できず、年長の君を求めたのは、群臣も受け入れられると思ったからだ。そうでなければ、あの孺子に罪はないではないか」と訴えた。朱毛がこの返事を伝えると、悼公は後悔した。朱毛は「大事は陳子に相談し、小事は独自に処理されればよい」と進言した。悼公は朱毛に孺子を駘地に移すよう命じたが、目的地に着く前に野営の幕舎で殺害し、殳冒淳に葬った。 (哀公七年の経文) 【解説】 Translation took 3755.4 seconds. |
| 冬.鄭駟弘帥師救曹. 傳 七年春.宋師侵鄭.鄭叛晉故也.晉師侵衛.衛不服也. 夏.公會吳于鄫.吳來徵百牢.子服景伯對曰.先王未之有也.吳人曰.宋百牢我.魯不可以後宋.且魯牢晉大夫過十.吳王百牢.不亦可乎.景伯曰.晉范鞅貪而棄禮.以大國懼敝邑.故敝邑十一牢之.君若以禮命於諸侯.則有數矣.若亦棄禮.則有淫者矣.周之王也.制禮上物.不過十二.以為天之大數也.今棄周禮.而曰必百牢.亦唯執事.吳人弗聽.景伯曰.吳將亡矣.棄天而背本.不與.必棄疾於我.乃與之.太宰嚭召季康子.康子使子貢辭.大宰嚭曰.國君道長.而大夫不出門.此何禮也.對曰.豈以為禮.畏大國也.大國不以禮命於諸侯.苟不以禮.豈可量也.寡君既共命焉.其老豈敢棄其國.大伯端委以治周禮.仲雍嗣之.斷髮文身.臝以為飾.豈禮也哉.有由然也.反自鄫.以吳為無能為也.季康子欲伐邾.乃饗大夫以謀之.子服景伯曰.小所以事大.信也.大所以保小.仁也.背大國不信.伐小國不仁.民保於城.城保於德.失二德者.危將焉保.孟孫曰.二三子以為何如.惡賢而逆之.對曰.禹合諸侯於塗山.執玉帛者萬國.今其存者.無數十焉.唯大不字小.小不事大也.知必危.何故不言.魯德如邾.而以眾加之.可乎.不樂而出. |
冬、鄭の駟弘が軍隊を率いて曹を救援した。 伝 七年の春、宋軍が鄭を侵攻した。これは鄭が晋に背いたためである。晋軍が衛を侵攻した。これは衛が従わなかったためである。 夏、魯公が鄫で呉と会見した。呉が百牢(ひゃくろう)の貢物を要求してきた。子服景伯が答えて言った。「先王の時代にはこのような例はありません」。呉の使者は言った。「宋は我々に百牢を献上した。魯が宋に遅れを取るわけにはいかない。さらに魯は晋の大夫に十牢以上を献上したではないか。呉王に百牢を献上するのは当然ではなかろうか」。景伯は言った。「晋の范鞅は貪欲で礼を捨て、大国の力で我が国を脅しました。だから我が国は十一牢を献上したのです。君主が礼に基づいて諸侯に命じるならば、決まった数があります。もし礼を捨てるなら、際限のない要求が出てくるでしょう。周王朝が礼制を定めた時、最高の貢物は十二を超えず、これを天の最大の数と見なしました。今、周の礼制を捨てて必ず百牢と要求されるのは、まさに執事方のなさることです」。呉は聞き入れなかった。景伯は言った。「呉は滅びるだろう。天の道理を捨てて根本に背いている。要求を聞き入れなければ、必ず我々に災いをもたらすだろう」。結局呉に百牢を献上した。太宰嚭が季康子を招いたが、季康子は子貢を使者として断らせた。太宰嚭が言った。「国君が遠路はるばる来ているのに、大夫が自ら出向かないとは、これはどのような礼か」。子貢は答えた。「どうして礼と言えましょうか。大国を恐れているのです。大国が礼に基づいて諸侯に命じないなら、もし礼を欠くならば、その要求は測り知れません。我が君はすでにご命令に従っています。家老がどうして国を離れられましょうか。太伯は礼服を着て周礼を治め、仲雍がその後を継ぎましたが、断髪や入れ墨をし、裸身を飾りとしました。これが礼でしょうか。そうせざるを得ない事情があったからです」。鄫からの帰途、魯は呉を無力な国と見なした。季康子が邾討伐を計画し、大夫たちを招いて会議を開いた。子服景伯が言った。「小国が大国に仕えるのは信義による。大国が小国を守るのは仁愛による。大国に背くのは不信、小国を討つのは不仁である。民は城壁によって守られ、城壁は徳によって守られる。この二つの徳を失えば、危険をどう防げようか」。孟孫が「諸君はどう思うか。賢明な意見に逆らうのはよくない」と言うと、景伯は答えた。「禹王が塗山で諸侯を会合させた時、玉帛を捧げる国は一万もあった。現在残っているのは数十国にすぎない。大国が小国を慈しまず、小国が大国に仕えないからである。危険と知りながらなぜ言わないのか。魯の徳が邾と同程度で、兵力で圧迫するのが妥当だろうか」。不満そうに席を立った。 解説この一節は『春秋左氏伝』哀公七年の記述で、春秋時代末期の国際情勢を描いています。以下のような点が特徴的です:
この時期の呉は中原諸国からは「蛮夷」と見なされながらも強大な軍事力を持ち、伝統的な秩序が大きく揺らいでいたことが読み取れます。 Translation took 4852.8 seconds. |
| 秋‧伐邾.及范門.猶聞鍾聲.大夫諫.不聽.茅成子請告於吳.不許.曰.魯擊柝聞於邾.吳二千里.不三月不至.何及於我.且國內豈不足.成子以茅叛.師遂入邾.處其公宮.眾師晝掠.邾眾保于繹.師宵掠.以邾子益來.獻于亳社.囚諸負瑕.負瑕故有繹.邾茅夷鴻以束帛乘韋.自請救於吳.曰.魯弱晉而遠吳.馮恃其眾而背君之盟.辟君之執事.以陵我小國.邾非敢自愛也.懼君威之不立.君威之不立.小國之憂也.若夏盟於鄫衍.秋而背之.成求而不違.四方諸侯.其何以事君.且魯賦八百乘.君之貳也.邾賦六百乘.君之私也.以私奉貳.唯君圖之.吳子從之.宋人圍曹.鄭桓子思曰.宋人有曹.鄭之患也.不可以不救. 冬.鄭師救曹.侵宋.初.曹人或夢眾君子立于社宮.而謀亡曹.曹叔振鐸請待公孫彊.許之.旦而求之曹.無之.戒其子曰.我死.爾聞公孫彊為政.必去之.及曹伯陽即位.好田弋.曹鄙人公孫彊好弋.獲白鴈.獻之.且言田弋之說.說之.因訪政事.大說之.有寵使為司城以聽政.夢者之子乃行.彊言霸說於曹伯.曹伯從之.乃背晉而奸宋.宋人伐之.晉人不救.築五邑於其郊.曰.黍丘.揖丘.大城.鍾.邘. 哀公八年 經 八年春.王正月.宋公入曹.以曹伯陽歸.吳伐我. 夏.齊人取讙及闡.歸邾子益于邾. |
秋、魯が邾を攻撃した。軍は范門まで進み、まだ邾の城内から鐘の音が聞こえていた。邾の大夫たちは諫めたが、邾子は聞き入れなかった。茅成子が吴に救援を要請することを願い出たが、許されず、邾子は「鲁の柝(まちなみ)の音が邾まで聞こえるが、吴は二千里も離れており、三ヶ月かからずには到着しない。どうして我々に間に合うだろうか。また国内の力で十分ではないのか」と言った。成子は茅の地で反乱を起こし、魯軍はついに邾に入り、その公宮に駐屯した。魯軍は昼間略奪を行い、邾の民衆は繹に避難した。魯軍は夜も略奪し、邾子益を連行し、亳社に献げ、負瑕に囚禁した。負瑕には元々繹があった。邾の茅夷鴻は束帛と乗韋を持ち、自ら吴に救援を請うた。「鲁は晋を軽んじて吴を遠ざけ、その多数の兵力を頼みとして君の盟約を背き、君の執事を避けて我が小国を欺きます。邾は自分を大切にしているわけではなく、君の威厳が立たないことを恐れているのです。君の威厳が立たないことは、小国の憂いです。もし夏に鄫衍で盟約を結び、秋にそれを破るなら、要求を成就して違えなければ、四方の諸侯はどうして君に仕えましょうか。また鲁の軍賦は八百乗で、君の副のような存在です。邾の軍賦は六百乗で、君の私的なものです。私的なものを以って副に奉げるとは、どうか君ご考慮ください」。吴子はこれに従った。宋が曹を包囲した。鄭の桓子思が言った。「宋が曹を有することは、鄭の災いである。救わなければならない」。 冬、鄭軍が曹を救援し、宋を侵した。初め、曹の誰かが夢に、多くの君子が社宮に立って曹の滅亡を謀るのを見た。曹叔振鐸が公孫彊を待つことを請うたので、許された。朝になって曹で探したが、そのような人物はいなかった。夢を見た者は子に戒めて言った。「私が死んだ後、お前が公孫彊が政務を執るのを聞いたら、必ず曹を去れ」。曹伯陽が即位すると、田獵や弋射を好んだ。曹の辺境の者である公孫彊も弋射を好み、白雁を獲て献上し、田獵や弋射の説を語った。曹伯は喜び、政事を訪ねると、大いに気に入り、寵愛して司城とし、政務を執らせた。夢を見た者の子は遂に行ってしまった。彊は霸者の説を曹伯に語り、曹伯はこれに従い、晋を背いて宋に敵対した。宋がこれを討ち、晋は救わなかった。曹は郊外に五つの邑を築いた。黍丘、揖丘、大城、鍾、邘である。 哀公八年 八年の春、王の正月、宋公が曹に入り、曹伯陽を連行して帰った。吴が我が国(鲁)を討った。 夏、齐人が讙と闡を奪い、邾子益を邾に帰した。 解説: Translation took 2452.8 seconds. |
| 秋.七月. 冬.十有二月.癸亥.杞伯過卒.齊人歸讙及闡. 傳 八年春.宋公伐曹.將還.褚師子肥殿.曹人詬之.不行.師待之.公聞之怒.命反之.遂滅曹.執曹伯.及司城彊以歸.殺之.吳為邾故.將伐魯.問於叔孫輒.叔孫輒對曰.魯有名而無情.伐之必得志焉.退而告公山不狃.公山不狃曰.非禮也.君子違不適讎國.未臣而有伐之.奔命焉.死之可也.所託也則隱.且夫人之行也.不以所惡廢鄉.今子以小惡而欲覆宗國.不亦難乎.若使子率.子必辭.王將使我子張疾之.王問於子洩.對曰.魯雖無與立.必有與斃.諸侯將救之.未可以得志焉.晉與齊楚輔之.是四讎也.夫魯.齊晉之脣.脣亡齒寒.君所知也.不救何為.三月.吳伐我.子洩率.故道險.從武城.初武城人或有因於吳竟田焉.拘鄫人之漚菅者.曰.何故使吾水滋.及吳師至.拘者道之.以伐武城.克之.王犯嘗為之宰.澹臺子羽之父好焉.國人懼.懿子謂景伯.若之何.對曰.吳師來.斯與之戰.何患焉.且召之而至.又何求焉.吳師克東陽而進.舍於五梧.明日.舍於蠶室.公賓庚.公甲叔子.與戰于夷.獲叔子與析朱鉏.獻於王.王曰.此同車.必使能.國未可望也.明日舍于庚宗.遂次于泗上.微虎欲宵攻王舍.私屬徒七百人.三踊於幕庭.卒三百人.有若與焉.及稷門之內.或謂季孫曰.不足以害吳.而多殺國士.不如已也.乃止之.吳子聞之.一夕三遷.吳人行成.將盟.景伯曰.楚人圍宋.易子而食.析骸而爨.猶無城下之盟.我未及虧.而有城下之盟.是棄國也.吳輕而遠.不能久.將歸矣.請少待之.弗從.景伯負載.造於萊門.乃請釋子服何於吳.吳人許之.以王子姑曹當之.而後止.吳人盟而還.齊悼公之來也.季康子以其妹妻之.即位而逆之.季魴侯通焉.女言其情.弗敢與也.齊侯怒. |
秋、七月。 冬、十二月、癸亥の日、杞伯過が卒去した。齊人が讙と闡を返還した。 伝 八年の春、宋公が曹を討伐した。帰還しようとしたとき、褚師子肥が殿軍を務めた。曹人が彼を罵ったため、進まなくなった。軍は待機した。公(宋公)はこのことを聞いて怒り、引き返すように命じた。そこで曹を滅ぼし、曹伯と司城彊を捕らえて帰還し、彼らを殺した。 解説この一節は『春秋左氏伝』における紀元前482年頃の出来事を記述しています。主に以下の点が特徴的です。
この箇所は、小国が大国の狭間で生き延びるための外交手腕や、武士の倫理観が交錯する歴史の一幕として読むことができます。 Translation took 4340.6 seconds. |
| 夏.五月.齊鮑牧帥師伐我.取讙及闡.或譖胡姬於齊侯.曰.安孺子之黨也. 六月.齊侯殺胡姬.齊侯使如吳請師.將以伐我.乃歸邾子.邾子又無道.吳子使大宰子餘討之.囚諸樓臺栫之以棘.使諸大夫奉大子革以為政. 秋.及齊平. 九月.臧賓如如齊蒞盟.齊閭丘明來蒞盟.且逆季姬以歸.嬖.鮑牧又謂群公子曰.使女有馬千乘乎.公子愬之.公謂鮑子.或譖子.子姑居於潞以察之.若有之.則分室以行.若無之.則反子之所.出門.使以三分之一行.半道.使以二乘.及潞.麇之以入.遂殺之. 冬.十二月.齊人歸讙及闡.季姬嬖故也. 哀公九年 經 九年春.王二月.葬杞僖公.宋皇瑗帥師取鄭師于雍丘. 夏.楚人伐陳. 秋.宋公伐鄭. 冬.十月. 傳 九年春.齊侯使公孟綽辭師于吳.吳子曰.昔歲寡人聞命.今又革之.不知所從.將進受命於君.鄭武子賸之嬖.許瑕求邑.無以與之.請外取.許之.故圍宋雍丘.宋皇瑗圍鄭師.每日遷舍.壘合.鄭師哭.子姚救之.大敗. 二月.甲戌.宋取鄭師于雍丘.使有能者無死.以郟張與鄭羅歸. 夏.楚人伐陳.陳即吳故也.宋公伐鄭. 秋.吳城邗.溝通江淮.晉趙鞅卜救鄭.遇水適火.占諸史趙.史墨.史龜.史龜曰.是謂沈陽.可以興兵.利以伐姜.不利子商.伐齊則可.敵宋不吉.史墨曰.盈.水名也.子.水位也.名位敵.不可干也.炎帝為火師.姜姓其後也.水勝火.伐姜則可.史趙曰.是謂如川之滿.不可游也.鄭方有罪.不可救也.救鄭則不吉.不知其他.陽虎以周易筮之.遇泰之需曰.宋方吉不可與也.微子啟.帝乙之.元子也.宋.鄭.甥舅也.祉.祿也.若帝乙之元子.歸妹而有吉祿.我安得吉焉.乃止. |
【翻訳文】 六月、齊侯は胡姬を殺した。齊侯は使者を吳に派遣して援軍を要請し、これをもって我が国を攻撃しようとした。そこで(魯は)邾子を帰国させた。邾子はまたも道理に外れた行いをしたため、吳子は太宰の子餘を使者として派遣しこれを討たせ、楼台に監禁して棘の柵で囲い、諸大夫に太子の革を輔佐させて政務を執らせた。 秋、齊と講和した。 九月、魯の臧賓如が齊に赴いて盟約を結び、齊の閭丘明が來訪して盟約を結んだ。さらに季姬を迎え入れて帰国させ、寵愛した。鮑牧がまた群公子に言うには、「お前たちに千乗の馬を与えようか」と。公子たちがこの発言を(齊侯に)訴えると、公(齊侯)は鮑子に言った。「誰かがお前を讒言している。しばらく潞に住んで様子を見よ。もし讒言が事実なら、財産を分けて出奔せよ。事実でなければ元の屋敷に戻れ」。鮑牧が門を出ると、齊侯はまず財産の三分の一だけ持って行かせ、途中でさらに車二乗に減らさせ、潞に着いたところで群衆に包囲させて中へ追い込み、遂に殺害した。 冬、十二月、齊人が讙と闡を返還した。季姬が寵愛されていたためである。 哀公九年 九年の春、周暦二月、杞の僖公を葬る。宋の皇瑗が軍を率いて雍丘で鄭軍を撃破し捕虜とした。 夏、楚人が陳を攻撃した。 秋、宋公が鄭を攻撃した。 冬、十月。 伝(詳細な記述) 九年の春、齊侯は公孟綽を吳に派遣して援軍要請を断らせた。吳子は言った。「去年は私が命令を承知したのに、今また変更するとは。どう従えばよいかわからない。直接そちらへ赴いて君の命令を受けよう」。鄭の武子賸の寵臣・許瑕が領地を求めたが、与える土地がなかったため、外国から奪い取ることを請願した。許瑕が許可を得て宋の雍丘を包囲すると、宋の皇瑗が鄭軍を包囲し、毎日陣地を移動させながら包囲網を完成させた。鄭軍は泣き叫び、子姚が救援に向かったが大敗した。 二月甲戌の日、宋が雍丘で鄭軍を撃破し捕虜とした。有能な者には死罪を免じ、郟張と鄭羅を連れ帰った。 夏、楚人が陳を攻撃した。陳が吳に接近したためである。宋公が鄭を攻撃した。 秋、吳が邗に城を築き、長江と淮河を運河で結んだ。晉の趙鞅が鄭救援の可否を占うと、水の卦から火の卦へ変わる兆しが出た。史趙・史墨・史龜に判断を求めた。史龜は「これは陽気が沈む兆し。兵を起こすことは可能だが、姜姓(齊)を討つのは利あり、子姓(宋)には不利。齊を討つのは可だが、宋と敵対するのは不吉」と言い、史墨は「盈は水の名、子は水の位。名と位が匹敵するので干渉すべからず。炎帝は火師であり、姜姓はその末裔。水は火に勝つので姜姓討伐は可」と言い、史趙は「川の満ちる如くで泳ぎ得ず。鄭に正に罪あり。救援は不吉。他は論じない」と言った。陽虎が『周易』で占うと、泰の卦から需の卦へ変わり、「宋は正に吉兆あり、関わるべからず。微子啓は帝乙の長子。宋と鄭は甥舅の関係。祉は福禄なり。帝乙の長子が妹を嫁がせて吉禄を得るのに、我々がどうして吉を得られようか」と出たので、救援は中止した。 【解説】
この時期は吳越の台頭により従来の晉・楚の二大勢力図が崩れ始めた過渡期であり、各国の駆け引きが緊迫感を増していることが読み取れます。 Translation took 2683.7 seconds. |
| 冬.吳子使.來儆師伐齊. 哀公十年 經 十年春.王二月.邾子益來奔.公會吳伐齊. 三月.戊戌.齊侯陽生卒. 夏.宋人伐鄭.晉趙鞅帥師侵齊. 五月.公至自伐齊.葬齊悼公.衛公孟彄自齊歸于衛.薛伯夷卒. 秋.葬薛惠公. 冬.楚公子結帥師伐陳.吳救陳. 傳 十年春.邾隱公來奔.齊甥也.故遂奔齊.公會吳子.邾子.郯子.伐齊南鄙.師于鄎.齊人弒悼公.赴于師.吳子三日哭于軍門之外.徐承帥舟師.將自海入齊.齊人敗之.吳師乃還. 夏‧趙鞅帥師伐齊.大夫請卜之.趙孟曰.吾卜於此起兵.事不再令.卜不襲吉.行也.於是乎取犁及轅.毀高唐之郭.侵及賴而還. 秋.吳子使來復儆師. 冬.楚子期伐陳.吳延州來季子救陳.謂子期曰.二君不務德.而力爭諸侯.民何罪焉.我請退.以為子名務德而安.民乃還. 哀公十一年 經 十有一年春.齊國書帥師伐我. 夏.陳轅頗出奔鄭. 五月.公會吳伐齊.甲戌.齊國書帥師及吳戰于艾陵.齊師敗績獲齊國書. 秋.七月.辛酉.滕子虞母卒. 秋.十有一月.葬滕隱公.衛世叔齊出奔宋. 傳 十一年春.齊為鄎故.國書.高無平.帥師伐我.及清.季孫謂其宰冉求.曰.齊師在清.必魯故也.若之何.求曰.一子守.二子從.公禦諸竟.季孫曰.不能.求曰.居封疆之間.季孫告二子.二子不可.求曰.若不可.則君無出.一子帥師.背城而戰.不屬者.非魯人也.魯之群室.眾於齊之兵車.一室敵車.優矣.子何患焉.二子之不欲戰也.宜政在季氏.當子之身.齊人伐魯.而不能戰.子之恥也.大不列於諸侯矣.季孫使從於朝.俟於黨氏之溝.武叔呼而問戰焉.對曰.君子有遠慮.小人何知.懿子強問之.對曰.小人慮材而言.量力而共者也.武叔曰.是謂我不成丈夫也.退而蒐乘.孟孺子洩帥右師.顏羽御.邴洩為右.冉求帥左師.管周父御.樊遲為右.季孫曰.須也弱.有子曰.就用命焉.季孫之甲七千.冉有以武城人三百.為己徒卒.老幼守宮.次于雩門之外.五日.右師從之.公叔務人見保者而泣曰.事充政重.上不能謀.士不能死.何以治民.吾既言之矣.敢不勉乎.師及齊師戰于郊.齊師自稷曲.師不踰溝.樊遲曰.非不能也.不信子也.請三刻而踰之.如之.眾從之.師入齊軍.右師奔.齊人從之.陳瓘.陳莊.涉泗.孟之側後入.以為殿.抽矢策其馬曰.馬不進也.林不狃之伍曰.走乎.不狃曰.誰不如.曰.然則止乎.不狃曰.惡賢.徐步而死.師獲甲首八十.齊人不能師.宵諜曰.齊人遁.冉有請從之.三季孫弗許.孟孺子語人曰.我不如顏羽.而賢於邴洩.子羽銳敏.我不欲戰而能默.洩曰.驅之.公為與其嬖僮汪錡乘.皆死皆殯.孔子曰.能執干戈以衛社稷.可無殤也.冉有用矛於齊師.故能入其軍.孔子曰.義也. |
翻訳文冬、呉子が使者を遣わし、軍を戒め斉を討つように来た。 哀公十年 十年の春、周王の二月、邾子益が魯に逃れて来た。公(魯哀公)は呉と会して斉を討った。 三月戊戌の日、斉侯陽生が卒去した。 夏、宋が鄭を討った。晋の趙鞅が軍を率いて斉に侵攻した。 五月、公は斉討伐から帰国した。斉悼公を葬った。衛の公孟彄が斉から衛に帰った。薛伯夷が卒去した。 秋、薛恵公を葬った。 冬、楚の公子結が軍を率いて陳を討った。呉が陳を救援した。 伝 十年の春、邾隠公が魯に逃れて来た。彼は斉の甥であったので、結局斉に逃れた。公は呉子・邾子・郯子と会し、斉の南部边境を討ち、鄎に軍を駐屯させた。斉人が悼公を弑し、軍に訃報を伝えた。呉子は軍門の外で三日間哭礼を行った。徐承が水軍を率い、海から斉に進入しようとしたが、斉人がこれを破った。呉軍はそこで撤退した。 夏、趙鞅が軍を率いて斉を討った。大夫たちは占うよう請うたが、趙孟は言った。「我々はこの出兵について既に占った。事柄に二度命令はせず、占いが重ねて吉となることはない。進むのだ。」そこで犁と轅を奪い、高唐の外城を破壊し、頼まで侵攻して帰還した。 秋、呉子が使者を遣わし、改めて軍の出動を戒めに来た。 冬、楚の子期が陳を討った。呉の延州来季子が陳を救援し、子期に言った。「両君は徳に務めず、武力で諸侯を争っている。民に何の罪があろうか。私が退こう、あなたが徳を務めて民を安んじる名声を得るために。」そして軍を帰還させた。 哀公十一年 十一年の春、斉の国書が軍を率いて魯を討った。 夏、陳の轅頗が鄭に出奔した。 五月、公は呉と会して斉を討った。甲戌の日、斉の国書が軍を率いて呉と艾陵で戦い、斉軍は大敗し国書が捕らえられた。 秋、七月辛酉の日、滕子虞母が卒去した。 秋、十一月、滕隠公を葬った。衛の世叔斉が宋に出奔した。 伝 十一年の春、斉は鄎の事件の報復として、国書と高無丕が軍を率いて魯を討ち、清まで進んだ。季孫はその家宰の冉求に言った。「斉軍が清にいるのは、必ず魯が目標だ。どうすべきか。」冉求は言った。「一人(季孫)が国を守り、二人(孟孫・叔孫)が公に従い、公は国境で防戦すべきです。」季孫は「それはできない」と言う。冉求は「それなら国境近くに駐屯すべきです」と言った。季孫が二人に伝えると、二人は同意しなかった。冉求は「もしできないなら、公は出陣せず、一人が軍を率いて城背にして戦うべきです。従わない者は魯人ではない。魯の諸家の兵車は斉の兵車より多い。一つの家が敵の兵車に対処すれば余裕があります。何を憂えることがありましょうか。二人が戦いたがらないのは、季氏に政権があるからです。あなたの代に斉が魯を討ちながら戦えなければ、あなたの恥です。諸侯の中で大きく地位を落とします。」季孫は冉求を朝堂に従わせ、党氏の溝で待機させた。武叔(叔孫)が呼んで戦いについて問うと、冉求は「君子は遠慮があり、小人の私に何が分かりましょう」と答えた。懿子(孟孫)が強いて問うと、「小人は能力を考えて発言し、力に応じて尽くすものです」と答えた。武叔は「これは我々を丈夫と認めない言葉だ」と言い、退いて兵車を召集した。孟孺子洩が右軍を率い、顔羽が御者、邴洩が車右となった。冉求が左軍を率い、管周父が御者、樊遅が車右となった。季孫は「樊遅は若すぎる」と言ったが、冉求は「彼は命令に従います」と言った。季孫の兵七千、冉求は武城の兵三百を自身の歩兵とし、老幼は宮殿を守り、雩門の外に駐屯した。五日後、右軍もこれに従った。公叔務人が守備兵を見て泣きながら言った。「役務は充満し政務は重い。上は謀れず、士は死を誓わない。どうして民を治められよう。私は既に言った以上、努めないわけにはいかない。」 軍が郊外で斉軍と戦った。斉軍は稷曲から進み、魯軍は溝を越えようとしなかった。樊遅が「越えられないのではなく、あなた(冉求)を信じないのです。三度刻んでから越えるよう請います」と言い、そのようにすると兵士は従った。軍は斉軍に突入した。右軍は敗走し、斉軍が追撃した。陳瓘と陳庄は泗水を渡り、孟之側が最後尾となり、殿軍を務めた。矢を抜いて馬を打ち「馬が進まないのだ」と言った。林不狃の部隊が「逃げるか?」と言うと、不狃は「誰が劣っているというのか」と答えた。「それなら留まるか?」と言われると、「何が賢いというのか」と言い、ゆっくり歩いて戦死した。 魯軍は甲士の首級八十を獲り、斉軍は軍を維持できず、夜の偵察で「斉軍が逃げた」と報告があった。冉求は追撃を請うたが、三度季孫は許さなかった。孟孺子は人に「私は顔羽には及ばないが、邴洩よりはましだ。顔羽は鋭敏で、私は戦いたくないが沈黙できる。邴洩は『駆けろ』と言うだけだ」と語った。公為とその寵童の汪錡が同じ車に乗り、共に戦死して葬られた。孔子は「干戈を執って社稷を守れるなら、夭折の礼とせずに良い」と言った。冉求が矛を揮って斉軍に突入したので、その軍を突破できた。孔子は「これは義である」と言った。 解説この一節は『春秋左氏伝』の哀公十年(紀元前485年)と十一年(同484年)の記録です。「経」は公式な年代記で簡潔な事実列挙、「伝」は詳細な叙述となっています。主な内容は、呉・斉・魯・楚など諸国間の複雑な戦争と外交です。哀公十年では呉が斉を討つも失敗し、斉で内乱(悼公弑逆)が発生。十一年では斉の報復攻撃に対し、魯の冉求が活躍し艾陵の戦いで呉が斉に大勝します。人物では冉求の現実的な指揮や孔子の評価、楚と呉の陳を巡る対立などが描かれ、戦国時代初期の権力闘争と「徳治」思想の対比が特徴的です。史実として呉の北伐の限界や魯の内部対立も示され、春秋時代から戦国時代への過渡期的状況が窺えます。 Translation took 4088.9 seconds. |
| 夏.陳轅頗出奔鄭.初轅頗為司徒.賦封田.以嫁公女.有餘.以為己大器.國人逐之.故出道渴.其族轅咺.進稻醴.粱糗.腶脯焉.喜曰.何其給也.對曰.器成而具.曰.何不吾諫.對曰.懼先行.為郊戰.故公會吳子伐齊. 五月.克博.壬申.至于嬴.中軍從王.胥門巢將上軍.王子姑曹將下軍.展如將右軍.齊國書將中軍.高無平將上軍.宗樓將下軍.陳僖子謂其弟書.爾死.我必得志.宗子陽與閭丘明相厲也.桑掩胥御國子.公孫夏曰.二子必死.將戰.公孫夏命其徒歌虞殯.陳子行命其徒具含玉.公孫揮命其徒曰.人尋約.吳髮短.東郭書曰.三戰必死.於此三矣.使問弦多以琴.曰.吾不復見子矣.陳書曰.此行也.吾聞鼓而已.不聞金矣.甲戌.戰于艾陵.展如敗高子.國子敗胥門巢.王卒助之.大敗齊師.獲國書.公孫夏.閭丘明.陳書.東郭書.革車八百乘.甲首三千.以獻于公.將戰.吳子呼叔孫曰.而事何也.對曰.從司馬王賜之甲劍鈹.曰.奉爾君事.敬無廢命.叔孫未能對.衛賜進曰.州仇奉甲從君而拜.公使大史固.歸國子之元.寘之新篋.褽之以玄纁.加組帶焉.寘書于其上.曰.天若不識不衷.何以使下國.吳將伐齊.越子率其眾以朝焉.王及列士.皆有饋賂.吳人皆喜.唯子胥懼曰.是豢吳也夫.諫曰.越在我.心腹之疾也.壤地同面有欲於我.夫其柔服.求濟其欲也.不如早從事焉.得志於齊.猶獲石田也.無所用之.越不為沼.吳其泯矣.使醫除疾.而曰必遺類焉者.未之有也.盤庚之誥曰.其有顛越不共.則劓殄無遺育.無俾易種于茲邑.是商所以興也.今君易之.將以求大.不亦難乎.弗聽.使於齊.屬其子於鮑氏.為王孫氏.反役.王聞之.使賜之屬鏤以死.將死.曰.樹吾墓檟.檟可材也.吳其亡乎.三年.其始弱矣.盈必毀.天之道也. |
夏、陳の轅頗が鄭に出奔した。初め、轅頗は司徒であった時、封田に賦課して公女の嫁入り費用とし、余剰を自分のための立派な器物に充てた。国人が彼を追放したため、逃亡途中で喉が渇いた。その一族の轅咺が稻醴(米の甘酒)、粱糗(粟の干し飯)、腶脯(干し肉)を差し出した。轅頗は喜んで「なんて用意が周到なんだ」と言うと、轅咺は「器物が完成した時に既に準備していました」と答えた。轅頗が「なぜ諫めなかったのか」と問うと、「先に追放されることを恐れたからです」と答えた。(前文の「郊戦」を受けて)このため、公(魯哀公)は呉子(呉王夫差)と会合して斉を討った。 五月、博を攻克し、壬申の日に嬴に到達した。中軍は王に従い、胥門巢が上軍を率い、王子姑曹が下軍を率い、展如が右軍を率いた。斉側では国書が中軍を、高無丕が上軍を、宗楼が下軍を指揮した。陳僖子は弟の陳書に「お前が死ねば、私は必ず志を達成する」と言い、宗子陽(宗楼)と閭丘明は互いに奮い立たせ合った。桑掩胥が国子(国書)の御者を務め、公孫夏は「二人(桑掩胥と国書)は必ず死ぬだろう」と言った。戦いを前に、公孫夏は配下に葬送の歌『虞殯』を歌わせ、陳子行は配下に含玉(死者の口に含ませる玉)を準備させ、公孫揮は配下に「呉兵は髪が短いので、縄で首を探れ」と命じた。東郭書は「三度戦えば必ず死ぬというが、これで三度目だ」と言い、使者を弦多に遣わして琴を贈り「もう二度と君に会うことはないだろう」と伝えた。陳書は「この出陣では、進軍の太鼓は聞こえても、退却の鉦(金)は聞こえない(死ぬまで戦う意)」と言った。甲戌の日、艾陵で戦いが起こり、展如が高子(高無丕)を破り、国書が胥門巢を破ったが、呉王の親兵が加勢したため斉軍は大敗した。国書・公孫夏・閭丘明・陳書・東郭書を捕虜とし、革車800乗、甲士の首級3,000を獲て、公(魯哀公)に献上した。 戦い直前、呉子が叔孫(叔孫州仇)を呼び「お前の任務は何か」と問うと、叔孫は「司馬に従うことです」と答えた。王は甲冑と剣・鈹(両刃の矛)を賜り「君命を奉じて、使命を怠るな」と言ったが、叔孫は返答できなかった。衛賜(子貢)が進み出て「州仇は甲冑を奉じて君に従い、謹んでお受けします」と代弁した。公(魯哀公)は大史固を使者とし、国書の首級を新たな篋に収め、玄と纁(黒と赤の絹)で包み組帯を添えて返還した。その上に書簡を置き、「天が不正を見抜けぬなら、どうして下国(呉)を使わすことがあろうか」と記した。 呉が斉を討とうとした時、越王(勾践)は臣下を率いて朝貢し、王から列士まで全員に贈賄した。呉人皆が喜ぶ中、子胥(伍子胥)だけは「これは呉を飼い慣らす策略だ」と危惧し、諫めて言った。「越は我々の心腹の病です。土地を接し野心を持つ彼らが恭順するのは、欲望達成のためです。齊で成功しても石田(不毛の地)を得るようなもので無意味です。越を池沼と化さねば、呉は滅びましょう。医者に病気を治させて『病原を残せ』と言う者はいません。盤庚の誥に『従わぬ者は根絶やしにせよ』とあるのが商の興った理由です。それを逆らわれて大業を求めるのは無理です」。王は聞き入れず、子胥を斉に使者として送り出した。子胥は息子を鮑氏に託し王孫氏と名乗らせた。戦役から帰還後、王はこれを聞き、属鏤の剣を賜って自害させた。子胥は死の間際、「私の墓に檟(カヤ)を植えよ。材木として使えるほどに育つ時、呉は滅びるだろう。三年で衰え始める。満ちれば必ず崩れるのが天の道理だ」と言った。 解説: 後半の伍子胥の諫言は、故事や医者の比喻を駆使した力強い論理展開が特徴です。越国の脅威を「心腹の疾」と看破した彼の警告は、呉王夫差の中原進出という短期的利益への盲点を衝いています。しかし王は忠言を容れず、逆に子胥を死に追いやることで、呉の滅亡への伏線を張りました。最後の「盈必毀」という言葉は、盛者必衰の道理を凝縮した名言として、歴史の教訓を後世に伝えています。全体を通じ、政治の腐敗・戦争の現実・諫言の重要性という春秋時代の核心的なテーマが浮き彫りにされる構成です。 Translation took 5149.7 seconds. |
| 秋.季孫命脩守備.曰.小勝大.禍也.齊至無日矣. 冬.衛大叔疾出奔宋.初疾娶于宋子朝.其娣嬖.子朝出.孔文子使疾出其妻而妻之.疾使侍人誘其初妻之娣.寘於犁.而為之一宮.如二妻.文子怒.欲攻之.仲尼止之.遂奪其妻.或淫于外州.外州人奪之軒以獻.恥是二者.故出.衛人立遺.使室孔姞.疾臣向魋.納美珠焉.與之城鉏.宋公求珠.魋不與.由是得罪.及桓氏出.城鉏人攻大叔疾.衛莊公復之.使處巢.死焉.殯於鄖.葬於少禘.初.晉悼公子憖亡在衛.使其女僕而田.大叔懿子止而飲之酒.遂聘之.生悼子.悼子即位.故夏戊為大夫.悼子亡.衛人翦夏戊.孔文子之將攻大叔也.訪於仲尼.仲尼曰.胡簋之事.則嘗學之矣.甲兵之事.未之聞也.退命駕而行.曰.鳥則擇木.木豈能擇鳥.文子遽止之.曰.圉豈敢度其私.訪衛國之難也.將止.魯人以幣召之.乃歸.季孫欲以田賦.使冉有訪諸仲尼.仲尼曰.丘.不識也.三發.卒曰.子為國老.待子而行.若之何子之不言也.仲尼不對.而私於冉有曰.君子之行也.度於禮.施取其厚.事舉其中.斂從其薄.如是則以丘亦足矣.若不度於禮.而貪冒無厭.則雖以田賦.將又不足.且子季孫若欲行而法.則周公之典在.若欲苟而行.又何訪焉.弗聽. 哀公十二年 經 |
秋に、季孫は守備を整えるよう命じ、言った。「小国が大国に勝つのは災いである。斉が攻めて来る日は遠くない。」 冬に、衛の大叔疾が宋へ逃亡した。初め、疾は宋の子朝の娘を妻に迎えたが、その妹も寵愛された。子朝が国外に出た後、孔文子は疾に妻を離縁させて自分の娘(孔姞)を娶らせた。疾は使用人を使って元妻の妹を誘い出し、犁の地に住まわせ、彼女のために宮殿を建てて二人の妻がいるような扱いをした。文子は怒って攻撃しようとしたが、仲尼(孔子)が制止した。結局、文子は娘(孔姞)を取り戻した。疾は外州で淫乱な行いをし、外州の住民が彼の車(軒)を奪って献上した。この二つの恥ずべき事件があったため、疾は国外へ逃れた。衛の人々は遺(大叔疾の弟)を立て、孔姞を妻にさせた。疾は向魋の家臣となり、美珠を贈って城鉏の地を与えられた。宋公が珠を要求したが、向魋が応じなかったため、罪を得た。後に桓氏(向魋一族)が追放されると、城鉏の住民が大叔疾を攻撃した。衛の莊公が疾を復帰させて巢に住まわせたが、そこで死去し、鄖で仮葬された後、少禘に埋葬された。 初め、晋の悼公の子である憖が衛に亡命し、娘に田猎の供をさせていた。大叔懿子が娘を引き留めて酒を振る舞い、やがて娶って悼子が生まれた。悼子が即位すると、夏戊が大夫となったが、悼子が失脚すると衛は夏戊の領地を没収した。孔文子が大叔を攻めようとした時、仲尼に意見を求めた。仲尼は「祭祀の儀礼については学んだことがありますが、戦争のことは聞いたことがありません」と答え、退出して車を用意させ、「鳥は木を選ぶが、木が鳥を選ぶことはできぬ」と言った。文子は急いで止め、「私は私事ではなく衛国の災難について相談したのです」と言い、仲尼を留めようとした。その時、魯国が礼幣を贈って仲尼を招いたため、帰国した。 季孫が田賦(土地税の新制度)を実施しようとし、冉有を使って仲尼に意見を求めた。仲尼は「私は知りません」と答えた。三度問われた末、冉有は「先生は国の長老です。先生の意見を待って実行します。なぜお答えにならないのですか」と言った。仲尼は公には答えず、冉有に私的に「君子の行動は礼に基づき、施しは厚く、事業は適切に、税は軽くすべきだ。そうすれば現行の丘賦で十分である。礼を無視して貪欲に飽きなければ、田賦を導入してもまた不足するだろう。季孫が法に従いたいなら周公の定めがあり、勝手に行いたいなら相談する必要はない」と語ったが、季孫は聞き入れなかった。 (哀公十二年の経文) 解説この一節は『春秋左氏伝』哀公十二年の伝文にあたり、春秋時代の衛国と魯国における政治的な動乱を描いています。主なポイントは以下の通りです。
この記述は、春秋時代の複雑な国際関係と、孔子が理想とする「礼治」が現実政治とどう衝突したかを示す重要な史料となっています。 Translation took 2112.3 seconds. |
| 十有二年春.用田賦. 夏.五月.甲辰.孟子卒.公會吳于橐皋. 秋.公會衛侯.宋皇瑗.于鄖.宋向巢帥師伐鄭. 冬.十有二月.螽. 傳 十二年春.王正月.用田賦. 夏.五月.昭夫人孟子卒.昭公娶于吳.故不書姓.死不赴.故不稱夫人.不反哭.故言不葬小君.孔子與弔.適季氏.季氏不絻.放絰而拜.公會吳于橐皋.吳子使大宰嚭請尋盟.公不欲使.子貢對曰盟.所以周信也.故心以制之.玉帛以奉之.言以結之.明神以要之.寡君以為苟有盟焉.弗可改也巳.若猶可改.日盟何益.今吾子曰.必尋盟.若可尋也.亦可寒也.乃不尋盟.吳徵會于衛.初.衛人殺吳行人且姚而懼.謀於行人子羽.子羽曰.吳方無道.無乃辱吾君.不如止也.子木曰.吳方無道.國無道.必棄疾於人.吳雖無道.猶足以患衛.往也.長木之.斃無不摽也.國狗之瘈.無不噬也.而況大國乎. 秋.衛侯會吳于鄖.公及衛侯.宋皇瑗盟.而卒辭吳盟.吳人藩衛侯之舍.子服景伯謂子貢曰.夫諸侯之會.事既畢矣.侯伯致禮地主歸餼.以相辭也.今吳不行禮於衛.而藩其君舍以難之.子盍見大宰.乃請束錦以行.語及衛故.大宰嚭曰.寡君願事衛君.衛君之來也緩.寡君懼.故將止之.子貢曰.衛君之來.必謀於其眾.其眾或欲或否.是以緩來.其欲來者.子之黨也.其不欲來者.子之讎也.若執衛君.是墮黨而崇讎也.夫墮子者.得其志矣.且合諸侯而執衛君.誰敢不懼.墮黨崇讎.而懼諸侯.或者難以霸乎.大宰嚭說.乃舍衛侯.衛侯歸.效夷言.子之尚幼.曰.君必不免.其死於夷乎.執焉.而又說其言.從之固矣. |
十二年春、田畑に賦税を課した。 夏五月甲辰の日、孟子が逝去した。公(魯の君主)が橐皋で吳と会合した。 秋、公が衛侯と宋の皇瑗と鄖で会合した。宋の向巢が軍を率いて鄭を討伐した。 冬十二月、蝗害が発生した。 伝 十二年春、周王の正月、田畑に賦税を課した。 夏五月、昭公の夫人である孟子が逝去した。昭公は吳から妻を迎えたため、姓を記さない。死去の報せを他国に知らせなかったため、夫人とは称さない。葬儀後に哭礼を行わなかったため、小君(諸侯の正妻)として葬られたとは記さない。孔子が弔問に赴いた際、季氏の館を訪れると、季氏が喪服の礼装をしていなかったため、孔子は喪帯を外して拜礼した。公が橐皋で吳と会合した。吳の君主が太宰嚭を使者として盟約の更新を求めたが、公はこれに応じたくなかった。子貢が「盟約は信義を固めるものだから、真心でこれを定め、玉帛(贈答品)でこれを捧げ、言葉でこれを結び、明神(神々)に誓うのです。我が君は、一旦結んだ盟約は改めるべきではないと考えています。もし変更可能なら、日々盟約を結ぶ意味がありません。今あなたが『必ず盟約を更新せよ』と言われるが、もし更新可能なら、冷めることもあり得るのではないですか」と応じたため、盟約更新は見送られた。吳が衛に会合を要求した。当初、衛の人間が吳の使者である且姚を殺害したことを恐れ、使者の子羽に相談した。子羽は「吳はまさに無道です。我が君が辱めを受ける恐れがあります。行かない方がよい」と進言したが、子木は「吳が無道であればこそ、国が無道だと必ず他国に危害を加える。吳が無道でも、なお衛に害をなす力はある。行くべきだ。大木が倒れる時は周囲を巻き込み、狂犬は誰でも噛みつく。まして大国なら尚更だ」と主張した。 秋、衛侯が鄖で吳と会合した。公と衛侯、宋の皇瑗は盟約を結んだが、最終的に吳との盟約を拒否した。吳の人間が衛侯の宿舎を柵で囲んで監視した。子服景伯が子貢に「諸侯の会合は既に終わった。盟主が礼を尽くし、地主が饗応して別れを告げるものだ。今、吳は衛に礼を尽くさず、その君主を宿舎に閉じ込めて難題を吹き掛けている。あなたは太宰に会ってはどうか」と促した。子貢は錦五匹を持参して太宰嚭と会い、衛の件について話し合った。太宰嚭が「我が君は衛君と友好関係を望んでいるが、衛君の来訪が遅れたため、懸念して留めている」と説明すると、子貢は「衛君が来る際は必ず家臣と相談したはずだ。賛成派と反対派がいて遅れたのです。賛成派はあなたの味方、反対派は敵です。衛君を拘束すれば味方を失い敵を利することになる。さらに諸侯会合で衛君を捕らえれば、諸侯は皆恐れをなすでしょう。味方を失い敵を利し、諸侯を恐れさせる行為で、覇業を成し遂げられるでしょうか」と論じた。太宰嚭は納得し、衛侯を解放した。衛侯が帰国後、吳の言葉を真似しているのを見て、幼い子之が「君は必ず災難に遭う。夷(吳)で死ぬのではないか。捕らえられた上にその言葉を好み、完全に従属してしまった」と嘆いた。 解説:
全体として、春秋時代末期の権力バランスの変化や、小国の生存戦略を描きながら、儀礼・信義・現実主義の相克を浮き彫りにした章段と言えます。 Translation took 2545.5 seconds. |
| 冬.十二月.螽.季孫問諸仲尼.仲尼曰.丘聞之.火伏而後蟄者畢.今火猶西流.司厤過也.宋鄭之間.有隙地焉.曰.彌作.頃丘.玉暢.喦戈.鍚.子產與宋人為成曰.勿有是.及宋平元之族.自蕭奔鄭.鄭人為之城喦戈鍚. 九月.宋向巢伐鄭.取鍚.殺元公之孫.遂圍喦. 十二月.鄭罕達救喦.丙申.圍宋師. 哀公十三年 經 十有三年春.鄭罕達帥師取宋師于喦. 夏.許男成卒.公會晉侯及吳子于黃池.楚公子申帥師伐陳.於越入吳. 秋.公至自會.晉魏曼多帥師侵衛.葬許元公. 九月.螽. 冬.十有一月.有星孛于東方.盜殺陳夏區夫. 十有二月.螽. 傳 十三年春.宋向魋救其師.鄭子賸使徇曰.得桓魋者有賞.魋也逃歸.遂取宋師于喦.獲成讙.郜延.以六邑為虛. 夏.公會單平公.晉定公.吳夫差于黃池. 六月.丙子.越子伐吳.為二隧.疇無餘.謳陽.自南方先及郊.吳大子友.王子地.王孫彌庸.壽於姚.自泓上觀之.彌庸見姑蔑之旗.曰.吾父之旗也.不可以見讎而弗殺也.大子曰.戰而不克.將亡國.請待之.彌庸不可.屬徒五千.王子地助之.乙酉.戰.彌庸獲疇無餘.地獲謳陽.越子至.王子地守.丙戌.復戰.大敗吳師.獲大子友.王孫彌庸.壽於姚.丁亥.入吳.吳人告敗于王.王惡其聞也.自剄七人於幕下. |
冬、十二月、蝗が発生した。季孫が仲尼(孔子)に問うた。仲尼は言った。「私(丘)はこう聞いています。火星が沈んだ後に冬眠する虫たちは全て隠れるものですが、今も火星が西に流れているのは、暦を司る者の過ちです」。宋と鄭の間に隙地(無人地帯)があり、弥作、頃丘、玉暢、喦、戈、鍚と呼ばれていた。子産が宋人と和議を結び、「この地を共有しないように」と約束した。しかし宋の平公の元の一族が蕭から鄭に逃亡すると、鄭人は彼らのために喦、戈、鍚に城を築いた。 九月、宋の向巢が鄭を攻撃し、鍚を奪い、元公の孫を殺し、さらに喦を包囲した。 十二月、鄭の罕達が喦を救援し、丙申の日に宋軍を包囲した。 哀公十三年 経(公式記録) 十三年春、鄭の罕達が軍を率いて喦で宋軍を撃破した。 夏、許の男爵・成が死去。哀公が黄池で晋侯と吴子(夫差)と会盟。楚の公子申が軍を率いて陳を討伐。越が吴に侵攻。 秋、哀公が会盟から帰国。晋の魏曼多が軍を率いて衛に侵攻。許の元公を埋葬。 九月、蝗が発生。 冬、十一月、東方に彗星が現れる。賊が陳の夏区夫を殺害。 十二月、蝗が発生。 伝(詳細記録) 十三年春、宋の向魋が自軍を救援しようとした。鄭の子賸(罕達)が陣中に布告した。「桓魋を捕らえた者には褒賞を与える」。魋は逃亡して帰国したため、鄭軍は喦で宋軍を撃破し、成讙と郜延を捕虜とした。六つの邑は無人地帯と化した。 夏、哀公が単平公、晋定公、吴の夫差と黄池で会盟。 六月丙子の日、越王が吴を攻撃し、二軍に分かれて進軍。疇無余と謳陽が南側から真っ先に郊外に到達した。吴の太子友、王子地、王孫彌庸、寿於姚が泓上からこれを観察していると、彌庸が姑蔑の旗印を認めて言った。「あれは我が父の旗だ。仇を見逃すわけにはいかない」。太子が「戦って敗れれば国が滅びる。待つべきだ」と諫めたが、彌庸は聞き入れず、五千の兵を率い、王子地もこれを支援した。乙酉の日、交戦して彌庸は疇無余を、王子地は謳陽を捕らえた。越王が到着すると、王子地は防衛についた。丙戌の日、再戦して吴軍は大敗し、太子友、王孫彌庸、寿於姚が捕虜となった。丁亥の日、越軍は吴都に入城。吴人が会盟中の王(夫差)に敗戦を報告すると、王は情報が漏れるのを恐れ、幕舎で七人の側近を自ら斬り捨てた。 解説この一節は『春秋左氏伝』哀公十三年(紀元前482年)の記録です。以下のような特徴があります:
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| 秋.七月.辛丑.盟.吳晉爭先.吳人曰.於周室.我為長.晉人曰.於姬姓.我為伯.趙鞅呼司馬寅曰.日旰矣.大事未成.二臣之罪也.建鼓整列.二臣死之.長幼必可知也.對曰.請姑視之.反曰.肉食者無墨.今吳王有墨.國勝乎.大子死乎.且夷德輕.不忍久.請少待之.乃先晉人.吳人將以公見晉侯.子服景伯對使者曰.王合諸侯.則伯帥侯牧以見於王.伯合諸侯.則侯帥子男以見於伯.自王以下.朝聘玉帛不同.故敝邑之職貢於吳.有豐於晉.無不及焉.以為伯也.今諸侯會.而君將以寡君見晉君.則晉成為伯矣.敝邑將改職貢.魯賦於吳八百乘.若為子男.則將半邾.以屬於吳.而如邾以事晉.且執事以伯召諸侯.而以侯終之.何利之有焉.吳人乃止.既而悔之.將囚景伯.景伯曰.何也.立後於魯矣.將以二乘.與六人從.遲速唯命.遂囚以還.及戶牖.謂大宰曰.魯將以十月上辛.有事於上帝先王.季辛而畢.何.世有職焉.自襄以來.未之改也.若不會.祝宗將曰.吳實然.且謂魯不共.而執其賤者七人.何損焉.大宰嚭言於王曰.無損於魯.而祗為名.不如歸之.乃歸景伯.吳申叔儀.乞糧於公孫有山氏.曰.佩玉繠兮.余無所繫之.旨酒一盛兮.余與褐之父睨之.對曰.梁則無矣.麤則有之.若登首山以呼曰.庚癸乎.則諾王.欲伐宋殺其丈夫.而囚其婦人.大宰嚭曰.可勝也.而弗能居也.乃歸. |
秋、七月、辛丑の日、盟会が行われた。呉と晋が先を争った。呉の人は言った。「周王室において、我々は長である。」晋の人は言った。「姫姓において、我々は伯である。」趙鞅が司馬寅を呼んで言った。「日が暮れてきた。大事がまだ成就していない。これは我々二人の臣の罪である。太鼓を打ち鳴らして陣列を整え、我々二人が死ぬまで戦おう。そうすれば長幼の順序は必ず明らかになるだろう。」司馬寅は答えて言った。「まず様子を見てきましょう。」戻って来て言った。「高位の者に晦気(悪い気色)はないものですが、今、呉王には晦気があります。国が勝ったのでしょうか、それとも太子が死んだのでしょうか。しかも夷(東方の民族)の性質は軽薄で、長く耐えられません。少し待ってください。」こうして晋を先にした。 呉の人は魯の公を連れて晋の侯に会おうとした。子服景伯が使者に対して言った。「王が諸侯を会合させる時は、伯(方伯)が侯牧を率いて王に会います。伯が諸侯を会合させる時は、侯が子男を率いて伯に会います。王以下、朝聘の際の玉帛の礼は異なっています。それ故、我が国が呉に納める職貢は、晋より豊かで、及ばないことはありません。伯として扱っているからです。今、諸侯が会合しているのに、君が我が君を連れて晋の君に会おうとするなら、晋が伯となってしまいます。我が国は職貢を改めるでしょう。魯が呉に納める賦(軍役)は八百乗です。もし子男として扱われるなら、邾の半分となり、それを呉に属させ、邾と同じように晋に仕えることになります。しかも、執事が伯として諸侯を招きながら、侯として終わるなら、何の利益がありましょうか。」呉の人はやめた。その後、後悔して、景伯を囚えようとした。景伯は言った。「どういうことですか。魯に後継ぎを立ててあります。二輛の車と六人の従者を連れて行きます。速やかであるか遅いかは、お命のままに。」こうして囚えられて帰還した。戸牖に着いた時、太宰に言った。「魯では十月の上辛の日に、上帝と先王に対して祭祀を行い、季辛の日に終わります。私は代々その職を務めてきました。襄公以来、改めたことはありません。もし参加しないなら、祝宗が『呉がそうさせた』と言うでしょう。そして魯が恭順でないと言い、その賤しい者七人を捕らえても、何の損にもなりません。」太宰嚭が王に言った。「魯に損はなく、ただ悪名を残すだけです。帰した方が良いでしょう。」こうして景伯を帰した。 呉の申叔儀が公孫有山氏に食糧を乞うて言った。「佩玉は繠(下がり飾り)があるというのに、私は繫ぐ所がない。旨い酒一盛りがあるというのに、私は褐(粗衣)の父と共に斜めに見るだけだ。」答えて言った。「良い穀物はありませんが、粗いものはあります。もし首山に登って『庚癸(兵糧の暗号)はどうか』と呼べば、承知します。」 王は宋を討ち、その男子を殺し、女子を囚えようとした。太宰嚭が言った。「勝つことはできますが、占領して居座ることはできません。」こうして帰還した。 解説この一節は、春秋時代の国際関係と外交駆け引きを描いています。呉と晋が盟会の席次を争う中、魯の子服景伯が呉に対して巧妙な論理で自国の立場を守り、呉の優位を維持させようとします。彼の言葉は、当時の封建的な階級秩序(王・伯・侯・子男)に基づく理屈で、呉が晋より上位であることを主張しつつ、もし晋を優先すれば魯の貢納が減ると脅すことで、呉の利益を損なう可能性を暗示しました。また、申叔儀の食糧乞いの場面では、暗号を用いたユーモラスな表現で戦時の困窮を伝え、太宰嚭の現実的な助言は呉の限界を浮き彫りにしています。全体として、権力闘争の中での駆け引きや、各国の思惑が交錯する様子が生き生きと描かれています。 Translation took 2219.3 seconds. |
| 冬.吳及越平. 哀公十四年 經 十有四年春.西狩獲麟.小邾射以句繹來奔. 夏‧四月.齊陳恆執其君.寘于舒州.庚戌叔還卒. 五月.庚申朔.日有食之.陳宗豎出奔楚.宋向魋入于曹以叛.莒子狂卒. 六月.宋向魋自曹出奔衛.宋向巢來奔.齊人弒其君壬于舒州. 秋.晉趙鞅帥師伐衛. 八月.辛丑.仲孫何忌卒. 冬.陳宗豎自楚復入于陳.陳人殺之.陳轅買出奔楚.有星孛.饑. 傳 十四年春.西狩于大野.叔孫氏之車子鉏商獲麟.以為不祥.以賜虞人.仲尼觀之.曰.麟也.然後取之.小邾射以句繹來奔.曰使季路要我.吾無盟矣.使子路.子路辭.季康子使冉有謂之曰.千乘之國.不信其盟.而信子之言.子何辱焉.對曰.魯有事于小邾.不敢問故.死其城下可也.彼不臣而濟其言.是義之也.由弗能.齊簡公之在魯也.闞止有寵焉.及即位.使為政.陳成子憚之.驟顧諸朝.諸御鞅言於公曰.陳闞不可並也.君其擇焉.弗聽.子我夕.陳逆殺人.逢之.遂執以入.陳氏方睦.使疾.而遺之潘沐.備酒肉焉.饗守囚者.醉而殺之.而逃.子我盟諸陳於陳宗.初.陳豹欲為子我臣.使公孫言已.已有喪而止.既而言之.曰.有陳豹者.長而上僂.望視.事君子必得志.欲為子臣.吾憚其為人也.故緩以告.子我曰.何害.是其在我也.使為臣.他日.與之言政.說遂有寵.謂之曰.我盡逐陳氏.而立女.若何.對曰.我遠於陳氏矣.且其違者.不過數人.何盡逐焉.遂告陳氏.子行曰.彼得君.弗先.必禍子.子行舍於公宮. |
冬、呉と越が和睦した。 哀公十四年 十四年春、西方で狩りをし麟を獲た。小邾の射が句繹を携えて魯に亡命した。 夏四月、齊の陳恆が君を捕らえ、舒州に安置した。庚戌の日、叔還が死去した。 五月庚申の朔日、日食が起こった。陳の宗豎が楚へ亡命した。宋の向魋が曹に入り反乱を起こした。莒の君狂が死去した。 六月、宋の向魋が曹から衛へ亡命した。宋の向巢が魯に亡命した。齊人が舒州で君壬を弑した。 秋、晉の趙鞅が軍を率いて衛を討った。 八月辛丑、仲孫何忌が死去した。 冬、陳の宗豎が楚から陳に戻ったが、陳人に殺された。陳の轅買が楚へ亡命した。彗星が現れ、飢饉が起こった。 伝 十四年春、大野で西方の狩りが行われた。叔孫氏の車夫である鉏商が麟を獲て、不吉なものとして虞人に賜った。孔子がこれを見て「麟である」と言ったので、ようやく回収された。小邾の射が句繹を携えて魯に亡命し、「子路に約束させよ。私は盟いを必要としない」と言った。子路を使者にしようとしたが、子路は辞退した。季康子が冉有を通じて「千乗の国が盟いを信じず、あなたの言葉を信じるというのに、何を恥じることがあるか」と伝えると、子路は「魯が小邾に軍事行動を起こす時、理由を問わずその城下で死ぬことはできよう。しかし彼が臣下の礼を尽くさずにその言葉を通そうとするのは、不義を義とすることです。私にはできません」と答えた。 齊の簡公が魯にいた時、闞止が寵愛を受けていた。即位後、闞止を政務につかせると、陳成子はこれを危惧し、頻繁に朝廷で視線を交わした。諸御の鞅が公に「陳氏と闞氏は並存できません。どちらかを選ばれるべきです」と進言したが、聞き入れられなかった。ある夕方、子我(闞止)が外出すると、陳逆が人を殺す現場に遭遇し、捕らえて連行した。陳氏一族は結束して、陳逆に病気と偽り、洗髪の湯と酒肉を贈って看守を酔わせて殺害させ、逃亡を助けた。子我は陳氏宗廟で陳氏と盟いを結んだ。 当初、陳豹が子我の家臣になりたがり、公孫を通じて申し出たが、喪中だったため中断した。後に改めて申し出ると、公孫は「陳豹という者は背が高く猫背で、仰ぎ見るような目つきをしており、君子に仕えれば必ず野心を達成するでしょう。家臣にしたいのですが、その人柄が危惧されます」と言った。子我は「何の害があろう。私が制御できる」として家臣にした。後日、政治について議論して気に入り、寵愛するようになると、「私が陳氏を全て追放し、あなたを立てよう」と持ちかけた。陳豹は「私は陳氏の疎遠な者です。かつ反逆する者は数人に過ぎません。全員追放する必要はないでしょう」と答え、すぐに陳氏に密告した。子行(陳逆)は「彼は君の寵愛を得ている。先手を打たなければ、あなたに災いが及ぶ」と言い、子行は公宮に潜伏した。 解説: Translation took 2267.5 seconds. |
| 夏.五月.壬申.成子兄弟.四乘如公.子我在幄.出逆之.遂入.閉門.侍人禦之.子行殺侍人.公與婦人飲酒於檀臺.成子遷諸寢.公執戈.將擊之.大史子餘曰.非不利也.將除害也.成子出舍于庫.聞公猶怒.將出曰.何所無君.子行抽劍曰.需.事之賊也.誰非陳宗.所不殺子者.有如陳宗.乃止.子我歸.屬徒攻闈與大門.皆不勝.乃出.陳氏追之.失道於弇中.適豐丘.豐丘人執之以告.殺諸郭關.成子將殺大陸子方.陳逆請而免之.以公命取車於道.及耏.眾知而東之.出雍門.陳豹與之車.弗受.曰.逆為余請.豹與余車.余有私焉.事子我.而有私於其讎.何以見魯衛之士.東郭賈奔衛.庚辰.陳恆執公于舒州.公曰.吾早從鞅之言.不及此.宋桓魋之寵.害於公.公使夫人驟請享焉.而將討之.未及.魋先謀公.請以鞍易薄.公曰.不可.薄.宗邑也.乃益鞍七邑.而請享公焉.以日中為期.家備盡往.公知之.告皇野曰.余長魋也.今將禍余.請即救.司馬子仲曰.有臣不順.神之所惡也.而況人乎.敢不承命.不得左師不可.請以君命召之.左師每食擊鍾.聞鍾聲.公曰.夫子將食.既食.又奏.公曰.可矣.以乘車往.曰.跡人來告.曰.逢澤有介麇焉.公曰.雖魋未來.得左師吾與之田.若何.君憚告子.野曰.嘗私焉.君欲速.故以乘車逆子.與之乘.至.公告之故.拜不能起.司馬曰.君與之言.公曰.所難子者.上有天.下有先君.對曰.魋之不共.宋之禍也.敢不唯命是聽.司馬請瑞焉.以命其徒攻桓氏.其父兄故臣曰.不可.其新臣曰.從吾君之命.遂攻之子.頎騁而告桓司馬.司馬欲入.子車止之.曰.不能事君.而又伐國.民不與也.祇取死焉.向魋遂入于曹.以叛. |
夏、五月の壬申の日、成子とその兄弟たちが四台の車で公の館へ向かった。子私は幕舎におり、出て迎えたが、彼らは中に入ると門を閉ざした。侍従が防ごうとしたが、子行が侍従を殺した。公は檀台で婦人と酒を飲んでいたが、成子が公を寝殿に移した。公は戈を手に取り、成子を打とうとした。大史の子餘が「不利を求めるのではなく、害を除くためです」と言った。成子は出て倉庫に宿を取ったが、公がまだ怒っていると聞き、逃亡しようと言った。「どこに君のいない土地があろうか」。子行が剣を抜いて言った。「躊躇いは事を失敗させる。誰が陳氏の一族でない者があろうか。もし私があなたを殺さないなら、陳氏の祖霊に誓って」。そこで成子は思いとどまった。 子我は帰ると、配下の者を率いて宮門と正門を攻めたが、どちらも落とせず、逃亡した。陳氏の者が追いかけ、弇中で道に迷い、豊丘に着いた。豊丘の住民が子我を捕らえて報告し、郭関で殺した。成子が大陸子方を殺そうとすると、陳逆が許しを請うて助命した。大陸子方は公の命令と偽って道中で車を調達した。耏に着くと、人々が真相を知って東へ向かわせ、雍門を出たところで陳豹が車を与えたが、受け取らなかった。「陳逆が私を助け、陳豹が車を与えるのは私情による。子我に仕えながら、その仇敵に私情を通じるとは、どうして魯や衛の士に顔向けできようか」。東郭賈は衛へ逃亡した。 庚辰の日、陳恆が舒州で公を拘束した。公は「もっと早く鞅の進言に従っていれば、こんなことにはならなかった」と言った。 宋では桓魋の権勢が公にとって脅威となっていた。公は夫人に繰り返し饗宴の開催を依頼させ、魋を討とうとしたが、その前に魋が先手を打って公を謀ろうとした。魋は領地の鞍と薄の交換を願い出た。公は「それはならない。薄は宗廟のある邑だ」と断り、代わりに鞍に七つの邑を加増した。魋は公を饗宴に招き、日中を期して家臣を総動員した。公はこれを察し、皇野に「私は魋を育てたのに、今や彼が私を害そうとしている。すぐに救ってほしい」と告げた。司馬の子仲は「主君に逆らう臣は神も憎む。まして人においておや。謹んでお命じを受けます。ただし左師の協力が不可欠です。君命として彼を召し出しましょう」と答えた。 左師は食事のたびに鐘を鳴らす習慣があった。鐘の音を聞いて公は「夫子が食事を始めようとしている」と言い、食事が終わると再び音楽が奏でられた。公は「今だ」と言い、車を遣わして「猟番が逢沢に一頭の珍しい麋が現れたと報告してきた」と伝えさせた。公は「魋はまだ来ていないが、左師を連れて狩りをしたい。どうだろうか」と付け加えた。皇野は「かつて私的に話したことがあります。君は急いでおられるので、車でお迎えに参りました」と言い、左師と同乗して到着した。公が事情を説明すると、左師は拝礼したまま起き上がれなかった。司馬が「君は直接お話しください」と促し、公は「あなたに無理を願うが、天と先君の御前で誓う」と言った。左師は「魋の不忠は宋の災いです。謹んでお命じに従います」と答えた。 司馬は兵符を受け取り、配下に桓氏攻撃を命じた。古参の家臣たちは「不可欠です」と反対したが、新参の家臣たちは「君の命令に従うべきだ」と言い、攻撃を開始した。頎が馬を走らせて桓司馬に急報すると、司馬は都城に入ろうとしたが、子車が「君に仕えられず、さらに国を乱せば民の支持は得られず、死を招くだけだ」と制止した。向魋はついに曹へ逃れ、反乱を起こした。 解説この一節は『春秋左氏伝』における斉の陳成子(陳恆)のクーデターと、宋の桓魋の反乱という二つの権力斗争を描いています。斉では陳氏が君主を制圧して実権を握る過程が、宋では権臣と君主の緊張関係が決裂に至る様子が、緊迫した對話や駆け引きを通して活写されています。特に「私情と忠義の葛藤」(大陸子方の車拒否)や「先手を打つことの重要性」(子行の剣を抜く場面)といった春秋時代の政治哲学が随所に示されている点が特徴です。史実としては、これらの事件が諸侯国の勢力図を変える転換点となったことが背景にあります。 Translation took 5440.3 seconds. |
| 六月.使左師巢伐之.欲質大夫以入焉.不能.亦入于曹取質.魋曰.不可.既不能事君.又得罪于民.將若之何.乃舍之.民遂叛之.向魋奔衛.向巢來奔.宋公使止之.曰寡人與子有言矣.不可以絕向氏之祀.辭曰.臣之罪大.盡滅桓氏可也.若以先臣之故.而使有後.君之惠也.若臣則不可以入矣.司馬牛致其邑與珪焉.而適齊.向魋出於衛地.公文氏攻之.求夏后氏之璜焉.與之他玉.而奔齊.陳成子使為次卿.司馬牛又致其邑焉.而適吳.吳人惡之而反.趙簡子召之.陳成子亦召之.卒於魯郭門之外.阬氏葬諸丘輿.甲午.齊陳恆弒其君壬于舒州.孔丘三日齊.而請伐齊.三.公曰.魯為齊弱久矣.子之伐之.將若之何.對曰.陳恆弒其君.民之不與者半.以魯之眾.加齊之半.可克也.公曰.子告季孫.孔子辭.退而告人曰.吾以從大夫之後也.故不敢不言.初.孟孺子洩將圉馬於成.成宰公孫宿不受.曰孟孫為成之病.不圉馬焉.孺子怒.襲成.從者不得入.乃反.成有司使.孺子鞭之. 秋.八月.辛丑.孟懿子卒.成人奔喪.弗內.袒免哭于衢.聽共.弗許.懼.不歸. 哀公十五年 經 十有五年春.王正月.成叛. 夏.五月.齊高無平出奔北燕.鄭伯伐宋. 秋.八月.大雩.晉趙鞅帥師伐衛. 冬.晉侯伐鄭.及齊平.衛公孟彄出奔齊. 傳 |
六月に、左師の巢を使わしてそれを討たせた。大夫を人質として連れ入れようとしたが、できなかった。また曹に入って人質を取った。魋が言った。「いけない。すでに君に仕えることができず、さらに民に罪を得た。どうしようというのか」。そこでそれをやめた。民はついに彼に背いた。向魋は衛に逃れ、向巢はやって来て逃げ込んだ。宋公は彼を引き止めさせ、言った。「寡人と子には約束があった。向氏の祭祀を絶ってはならない」。向巢は辞して言った。「臣の罪は大きい。桓氏をことごとく滅ぼしてもよい。もし先代の臣のゆえに、子孫を残させるなら、君の恵みです。しかし臣は入ることはできません」。司馬牛は自分の邑と珪を返上して、齊へ向かった。向魋が衛の地から出ると、公文氏が彼を攻め、夏后氏の璜を求めた。別の玉を与えられ、齊へ逃れた。陳成子は彼を次卿とした。司馬牛はまた自分の邑を返上して、吳へ向かった。吳の人は彼を嫌って帰した。趙簡子が彼を召し、陳成子も彼を召した。魯の郭門の外で死去した。阬氏が丘輿に葬った。甲午の日、齊の陳恆が舒州で君の壬を弑した。孔丘は三日間斎戒し、齊を討つよう請うた。三度請うた。公が言った。「魯は齊に弱いことが久しい。子がそれを討つとして、どうするのか」。答えて言った。「陳恆がその君を弑し、民の与しない者は半分です。魯の衆をもって、齊の半分に加えれば、勝つことができます」。公が言った。「子は季孫に告げよ」。孔子は辞し、退いて人に告げて言った。「私は大夫の末席に連なっているので、敢えて言わざるを得なかった」。初め、孟孺子洩が成で馬を囲おうとした。成の宰である公孫宿は受け入れず、言った。「孟孫は成の疲弊を慮り、馬を囲わない」。孺子は怒り、成を襲った。従者は入れず、戻った。成の有司が使いを送ると、孺子はそれを鞭打った。 秋、八月、辛丑の日、孟懿子が卒去した。成の人が喪に駆けつけたが、中に入れられず、衢で袒免して哭いた。供え物を捧げることを願ったが許されず、恐れて帰らなかった。 哀公十五年 十五年春、王正月、成が叛いた。 夏、五月、齊の高無平が北燕に出奔した。鄭伯が宋を伐った。 秋、八月、大雩の儀式を行った。晉の趙鞅が師を帥いて衛を伐った。 冬、晉侯が鄭を伐ち、齊と和議を結んだ。衛の公孟彄が齊に出奔した。 解説この一節は『春秋左氏伝』哀公十五年の記述です。主に以下のような内容が含まれています。
<歴史的背景> Translation took 3313.3 seconds. |
| 十五年春.成叛于齊.武伯伐成.不克.遂城輸. 夏.楚子西.子期.伐吳.及桐汭.陳侯使公孫貞子弔焉.及良而卒.將以尸入.吳子使大宰嚭勞.且辭曰.以水潦之不時.無乃廩然隕大夫之尸.以重寡君之憂.寡君敢辭上介.芋尹蓋對曰.寡君聞楚為不道.荐伐吳國.滅厥民人.寡君使蓋備使.弔君之下吏.無祿.使人逢天之慼.大命隕隊.絕世于良.廢日共積.一日遷次.今君命逆使人曰.無以尸造于門.是我寡君之命委于草莽也.且臣聞之.曰事死如事生.禮也.於是乎有朝聘而終.以尸將事之禮.又有朝聘而遭喪之禮.若不以尸將命.是遭喪而還也.無乃不可乎.以禮防民.猶或踰之.今大夫曰.死而棄之.是棄禮也.其何以為諸侯主.先民有言曰.無穢虐士.備使奉尸將命.苟我寡君之命.達于君所.雖隕于深淵.則天命也.非君與涉人之過也.吳人內之. 秋.齊陳瓘如楚.過衛.仲由見之.曰.天或者以陳氏為斧斤.既斲喪公室.而他人有之.不可知也.其使終饗之.亦不可知也.若善魯以待時.不亦可乎.何必惡焉.子玉曰.然.吾受命矣.子使告我弟. 冬.及齊平.子服景伯如齊.子贛為介.見公孫成.曰人皆臣人.而有背人之心.況齊人雖為子役.其有不貳乎.子.周公之孫也.多饗大利.猶思不義.利不可得.而喪宗國.將焉用之.成曰.善哉.吾不早聞命.陳成子館客.曰.寡君使恆告曰.寡君願事君如事衛君.景伯揖子贛而進之.對曰.寡君之願也.昔晉人伐衛.齊為衛故.伐晉冠氏.喪車五百.因與衛地.自濟以西.禚媚杏.以南.書社五百.吳人加敝邑以亂.齊因其病.取讙與闡.寡君是以寒心.若得視衛君之事君也.則固所願也.成子病之.乃歸成.公孫宿以其兵甲入于嬴.衛孔圉取大子蒯聵之姊.生悝.孔氏之豎渾良夫.長而美.孔文子卒.通於內.大子在戚.孔姬使之焉.大子與之言曰.苟使我入獲國.服冕乘軒.三死無與.與之盟.為請於伯姬. |
十五年春、成が齊に叛いた。武伯が成を討伐したが、勝利できず、そのまま輸で城を築いた。 夏、楚の子西と子期が吳を討伐し、桐汭にまで及んだ。陳侯は公孫貞子を遣わして弔問させたが、良の地で死去した。遺体で入国しようとしたところ、吳子が太宰嚭を遣わして慰労し、次のように断った。「水害が季節外れであるため、大夫の遺体が損なわれるのではないかと危惧し、我が君の憂いを深めることになります。我が君は上介の受け入れを謹んでお断りします。」芋尹蓋が答えて言った。「我が君は、楚が道理に外れ、繰り返し吳国を攻め、その民を滅ぼすと聞きました。我が君は蓋を使いの任に就かせ、君の下役人を弔問させました。不幸にも、使者が天の災いに遭い、命を落とし、良の地で世を去りました。日を費やして供物を準備し、一日で宿舎を移しました。今、君が使者を迎えるに際し『遺体で門まで来るな』と言われるのは、我が君の命令を雑草に捨てるようなものです。かつ臣は聞いております。『死者を生前と同じように扱うのが礼である』と。そこで、朝聘中に亡くなった場合、遺体で用件を果たす礼があります。また、朝聘中に喪に遭った場合の礼もあります。もし遺体で使命を果たさなければ、喪に遭って帰国するのと同じです。それはよろしくないのではないでしょうか。礼で民を規制しても、なお越える者がいます。今、大夫が『死んだら捨てよ』と言われるのは、礼を捨てるものです。どうして諸侯の盟主となりえましょう。古人に『死者を汚すな』という言葉があります。使いとして遺体を奉じて使命を果たします。もし我が君の命令が君の元に届けば、たとえ深淵に落ちても、それは天命であり、君や船頭の過ちではありません。」吳人は彼らを受け入れた。 秋、齊の陳瓘が楚へ向かい、衛を通りかかった。仲由が彼に会い、言った。「天はあるいは陳氏を斧として、既に公室を切り崩し、他者がそれを得るかもしれない。分からないことです。その者が最終的に享有するかも分からない。もし魯と友好関係を築き、時機を待つのも良くないか。何故悪くする必要があるのか。」子玉は言った。「その通りだ。私は命令を受けた。あなたは私の弟に伝えてください。」 冬、齊と和睦した。子服景伯が齊へ赴き、子貢が副使として随行した。公孫成に会い、言った。「人は皆、主君に仕えながらも裏切る心がある。まして齊人はあなたに仕えていても、二心がないだろうか。あなたは周公の子孫である。多くの利益を享受しているのに、なお不義を考える。利益は得られず、祖国を失う。それを何に使うのか。」成は言った。「良い言葉だ。私は早くにこの教えを聞かなかった。」陳成子は賓客を館に迎え、言った。「我が君は恆に告げさせました。我が君は君を衛君と同じようにお仕えしたいと願っています。」景伯は子貢を促して進み出させ、答えて言った。「我が君の願いです。昔、晉が衛を攻めた時、齊は衛のため晉の冠氏を討ち、兵車五百台を失いました。そこで衛に土地を与え、濟水以西の禚・媚・杏以南の書社五百を。吳人が我が国に乱を加えた時、齊は我が国の弱みに乗じ、讙と闡を奪いました。我が君はそれで心を寒くしています。もし衛君が君に仕えるようにできるなら、固より願うところです。」成子はこれを気に病み、成の地を返還した。公孫宿は兵士と武具を率いて嬴に入った。衛の孔圉が太子蒯聵の姉を娶り、悝を生んだ。孔氏の小臣渾良夫は、背が高く美しかった。孔文子が死去すると、彼は奥方と密通した。太子は戚にいた。孔姬が渾良夫を遣わした。太子は彼に言った。「もし私を入国させて国を奪取させてくれたら、礼服を着せ車に乗せ、三度の死罪を免じよう。」と盟約を結び、伯姬に取り成しを依頼した。 解説この一節は『春秋左氏伝』における紀元前5世紀前半の出来事を記録したものです。以下のような点に特徴があります:
この記述は、孔子の弟子(仲由・子貢)が登場する点でも注目され、歴史記録と儒家思想が交差する重要な場面となっています。 Translation took 6025.0 seconds. |
| 閏月.良夫與大子入.舍於孔氏之外圃.昏.二人蒙衣而乘.寺人羅御.如孔氏.孔氏之老欒寧問之.稱姻妾以告.遂入.適伯姬氏.既食.孔伯姬杖戈而先.大子與五人介.輿豭從之.迫孔悝於廁強盟之.遂劫以登臺.欒寧將飲酒.炙未熟.聞亂.使告季子.召獲駕乘車.行爵食炙.奉衛侯輒來奔.季子將入.遇子羔將出.曰.門已閉矣.季子曰.吾姑至焉.子羔曰.弗及.不踐其難.季子曰.食焉.不辟其難.子羔遂出.子路入.及門.公孫敢門焉.曰.無入為也.季子曰.是公孫也.求利焉而逃其難.由.不然.利其祿.必救其患.有使者出.乃入.曰大子焉用孔悝.雖殺之.必或繼之.且曰.大子無勇.若燔臺半.必舍孔叔大子聞之懼.下石乞.盂黶敵子路.以戈擊之.斷纓.子路曰.君子死.冠不免.結纓而死.孔子聞衛亂.曰.柴也.其來由也死矣.孔悝立莊公.莊公害故政.欲盡去之.先謂司徒瞞成曰.寡人離病於外久矣.子請亦嘗之.歸告褚師比.欲與之伐公.不果. 哀公十六年 經 十有六年春.王正月.己卯.衛世子蒯聵自戚入于衛.衛侯輒來奔. 二月.衛子還成出奔宋. 夏.四月.己丑.孔丘卒. 傳 十六年春.瞞成.褚師比.出奔宋.衛侯使鄢武子告于周.曰蒯聵得罪于君父君母.逋竄于晉.晉以王室之故.不棄兄弟.寘諸河上.天誘其衷.獲嗣守封焉.使下臣肸.敢告執事.王使單平公對曰.肸以嘉命.來告余一人.往謂叔父.余嘉乃成世.復爾祿次.敬之哉.方天之休.弗敬弗休.悔其可追. |
閏月に、良夫と太子が衛国に入り、孔氏の屋敷の外にある園に宿を取りました。日が暮れると、二人は衣で身を覆って車に乗り、寺人の羅が御者を務めて孔氏の屋敷へ向かいました。孔氏の家老である欒寧が彼らを尋ねると、姻戚の妾であると称して答えたため、そのまま屋敷に入り、伯姫の住まいへ赴きました。食事が終わると、孔伯姫は戈を杖として先導し、太子と五人の従者が鎧を着け、雄豚を載せた車を従えました。彼らは孔悝を厠で追い詰めて無理やり盟約を結ばせ、そのまま彼を人質に取って楼台に登りました。 欒寧が酒を飲もうとしたとき、焼肉がまだ焼き上がらないうちに騒動を聞き、急いで季子(子路)に知らせさせました。また、獲を呼んで車を準備させ、酒杯を回し焼肉を食べながら、衛侯の輿を守って逃亡して来ました。季子が屋敷に入ろうとすると、子羔が外に出ようとしているのに出会いました。子羔は「門はもう閉められました」と言いました。季子は「私はひとまず行ってみます」と答えました。子羔は「もう間に合いません。わざわざ危難に飛び込むことはない」と言いましたが、季子は「禄食を受けている者として、危難を避けるわけにはいかない」と返しました。子羔はそのまま去り、子路は屋敷に入りました。 門に着くと、公孫敢が門を守って「中に入るな、無駄だ」と言いました。季子は「これは公孫だ。利益だけ求めて危難から逃れる者よ。私(由)はそうではない。禄の恩恵を受けた以上、必ずその災いを救わねばならない」と言いました。ちょうど使者が出て来たので、中に入りました。そして「太子はなぜ孔悝を利用するのか。たとえ孔悝を殺しても、必ず後継ぎが現れるだろう」と叫び、「太子に勇気がないなら、楼台を半分焼き払えば、きっと孔叔(孔悝)を解放するに違いない」と付け加えました。太子はこれを聞いて恐れ、石乞と盂黶を下ろして子路と戦わせ、戈で攻撃しました。戈が冠の紐を断ち切ると、子路は「君子たる者、死ぬときも冠を正さなければならない」と言い、冠の紐を結び直して息絶えました。 孔子が衛国の乱を聞くと、「柴(子羔)は無事で来るだろうが、由(子路)は死んだだろう」と言いました。孔悝は莊公を即位させましたが、莊公は以前の政権を疎ましく思い、関係者を全て排除しようとしました。まず司徒の瞞成に「私は長く国外で苦労してきた。お前にもその味をさせてやろう」と言い付けました。瞞成は帰ると褚師比にこのことを告げ、共に莊公を討とうとしましたが、実現しませんでした。 哀公十六年 伝 解説この一節は『春秋左氏伝』哀公十六年の記述で、衛国で起きた激しい内乱とその余波を描いています。以下のような点に留意して読むと理解が深まります。
この記述は、単なる事件の羅列ではなく、忠誠・義務・命運といったテーマを掘り下げた文学的な深みを持っています。『春秋』本文が簡潔な年代記なのに対し、左氏伝は人物の心情やドラマチックな場面を豊かに描くことで、歴史を生きた人間の物語として伝えている点が特徴です。 Translation took 5877.7 seconds. |
| 夏.四月.己丑.孔丘卒.公誄之曰.旻天不弔.不憖遺一老.俾屏余一人以在位.煢煢余在疚.嗚呼.哀哉.尼父無自律.子贛曰.君其不沒於魯乎.夫子之言曰.禮失則昏.名失則愆.失志為昏.失所為愆.生不能用.死而誄之.非禮也.稱一人.非名也.君兩失之. 六月.衛侯飲孔悝酒於平陽.重酬之.大夫皆有納焉.醉而送之.夜半而遣之.載伯姬於平陽而行.及西門.使貳車反祏於西圃.子伯季子.初為孔氏臣.新登于公.請追之.遇載祏者.殺而乘其車.許公為.反祏.遇之曰.與不仁人爭.明無不勝.必使先射.射三發.皆遠許為.許為射之.殪.或以其車從.得祏於橐中.孔悝出奔宋.楚大子建之遇讒也.自城父奔宋.又辟華氏之亂於鄭.鄭人甚善之.又適晉.與晉人謀襲鄭.乃求復焉.鄭人復之如初.晉人使諜於子木.請行而期焉.子木暴虐於其私邑.邑人訴之.鄭人省之.得晉諜焉.遂殺子木.其子曰勝.在吳.子西欲召之.葉公曰.吾聞勝也.詐而亂.無乃害乎.子西曰.吾聞勝也.信而勇.不為不利.舍諸邊竟.使衛藩焉.葉公曰.周仁之謂信.率義之謂勇.吾聞勝也.好復言.而求死士.殆有私乎.復言非信也.期死非勇也.子必悔之.弗從.召之使處吳竟.為白公.請伐鄭.子西曰.楚未節也.不然.吾不忘也.他日又請.許之.未起師.晉人伐鄭.楚救之.與之盟.勝怒曰.鄭人在此.讎不遠矣.勝自厲劍.子期之子平見之.曰.王孫何自厲也.曰.勝以直聞.不告女.庸為直乎.將以殺爾父.平以告子西.子西曰.勝如卵.余翼而長之.楚國第.我死.令尹司馬.非勝而誰.勝聞之曰.令尹之狂也.得死乃非我.子西不悛.勝謂石乞.曰王與二卿士.皆五百人當之.則可矣.乞曰.不可得也.曰.市南有熊宜僚者.若得之.可以當五百人矣.乃從白公而見之.與之言.說.告之故.辭.承之以劍.不動.勝曰.不為利諂.不為威惕.不洩人言.以求媚者.去之.吳人伐慎.白公敗之.請以戰備獻.許之.遂作亂. |
夏、四月、己丑の日、孔丘が亡くなった。公(魯の哀公)が誄(しのびごと)を述べて言った。「天は哀れみなく、一人の老人を残してくれず、私一人を位に置いて守らせようとする。孤独で病んでいる。ああ、悲しいかな、尼父(孔丘)よ、自ら律するすべがない。」子贛(子貢)が言った。「君は魯で終わりを全うできないのではないでしょうか。夫子(孔子)は言われた。『礼を失えば昏くなり、名を失えば過ちを犯す。志を失うことが昏さであり、立場を失うことが過ちである。生きている時に用いず、死んでから誄するのは礼に非ず。一人と称するのは名に非ず。』君は両方とも失っている。」 六月、衛侯が平陽で孔悝に酒を飲ませ、厚く報いた。大夫たち皆が贈り物をした。酔わせて送り出し、夜中に遣わした。伯姬を平陽に乗せて行き、西門に着いた。副車に西圃で祏(神主)を返させる。子伯季子は初め孔氏の家臣で、新たに公に登用され、追うことを請うた。祏を載せている者に会い、殺してその車に乗った。許公為が祏を返しに来て、彼に会い言った。「不仁な人と争うのは、明らかに勝てない。必ず先に射させよ。」三発射ったが、皆許為から遠く外れた。許為が射ると、倒した。誰かがその車に従い、嚢の中から祏を得た。孔悝は宋に出奔した。 楚の太子建が讒言に遭い、城父から宋に奔った。また鄭で華氏の乱を避け、鄭人は彼を非常に親切にした。また晋に行き、晋人と謀って鄭を襲おうとした。そこで復帰を求めた。鄭人は以前のように彼を復帰させた。晋人が子木にスパイを送り、行って時期を約束させた。子木が自分の私邑で暴虐を行い、邑人が訴えた。鄭人が調べ、晋のスパイを捕まえた。そこで子木を殺した。その子の勝は呉にいた。子西が召し出そうとした。葉公が言った。「私は勝という者を聞くが、詐欺的で乱を好む、害にならないか。」子西が言った。「私は勝という者を聞くが、信義があり勇敢で、不利なことをしない。国境に置いて、守らせよう。」葉公が言った。「仁を周くすることを信といい、義に従うことを勇という。私は勝という者を聞くが、復讐を好み、死士を求める、私心があるのではないか。復讐は信ではなく、死を期するのは勇ではない。あなたは後悔するだろう。」従わず、召し出して呉の国境に置き、白公とした。鄭を討つことを請うた。子西が言った。「楚はまだ節制ができていない。そうでなければ、忘れない。」他日また請うと、許した。まだ軍を起こさないうちに、晋が鄭を討ち、楚が救い、鄭と盟を結んだ。勝は怒って言った。「鄭人はここにいる。仇は遠くない。」勝自ら剣を磨いた。子期の子の平がそれを見て言った。「王孫はなぜ剣を磨くのか。」勝が言った。「勝は直さで知られている。お前に告げずして、どうして直さと言えようか。お前の父を殺すつもりだ。」平が子西に告げた。子西が言った。「勝は卵のようだ。私が翼で育てた。楚国の序列では、私が死ねば、令尹や司馬は勝以外に誰がいるか。」勝はこれを聞いて言った。「令尹は狂っている。死を得なければ私ではない。」子西は改めなかった。勝が石乞に言った。「王と二人の卿士を、それぞれ五百人で当たればよい。」乞が言った。「得られない。」勝が言った。「市の南に熊宜僚という者がいる。もし得れば、五百人に当たる。」そこで白公について彼に会いに行った。話をすると、喜んだ。理由を告げると、辞退した。剣を向けても動じなかった。勝が言った。「利益で諂わず、威圧で怯まず、他人の言葉を漏らさず、媚びる者ではない。去ろう。」呉が慎を討ち、白公が破った。戦備を献上することを請うた。許された。そこで乱を起こした。 解説この一節は『春秋左氏伝』の一部で、主に二つの出来事を描いています。まず、孔子(孔丘)の死と、魯の哀公による追悼の言葉に対する子貢の批判です。子貢は、生前に孔子を重用しなかった哀公の態度を「礼」と「名」の両面から非難し、その政治的な過ちを指摘します。 次に、衛や楚など他国での事件が続きます。衛では孔悝の出奔に伴う騒動、楚では太子建の子である勝(白公)を巡る駆け引きが中心です。勝は復讐心に燃え、楚の令尹・子西らに対する反乱を計画します。葉公の警告を子西が無視した結果、勝の謀略が進み、最終的に乱が勃発する様子が描かれています。 これらの記述は、春秋時代の複雑な国際関係や国内政治の混乱、特に「礼」や「信義」といった規範が失われつつある状況を反映しており、歴史的な因果関係を重視する左氏伝の特徴が表れています。 Translation took 13064.3 seconds. |
| 秋.七月.殺子西.子期.于朝.而劫惠王.子西以袂掩面而死.子期曰.昔者吾以力事君.不可以弗終.抉豫章以殺人.而後死.石乞曰.焚庫弒王.不然不濟.白公曰.不可.殺王不祥.焚庫無聚.將何以守矣.乞曰.有楚國而治其民.以敬事神.可以得祥.且有聚矣.何患弗從.葉公在蔡.方城之外皆曰.可以入矣.子高曰.吾聞之.以險徼幸者.其求無饜.偏重必離.聞其殺齊管脩也.而後入.白公欲以子閭為王.子閭不可.遂劫以兵.子閭曰.王孫若安靖楚國.匡正王室.而後庇焉.啟之願也.敢不聽從.若將專利.以傾王室.不顧楚國.有死不能.遂殺之.而以王如高府.石乞尹門.圉公陽穴宮.負王以如昭夫人之宮.葉公亦至.及北門.或遇之曰.君胡不冑.國人望君.如望慈父母焉.盜賊之矢若傷君.是絕民望也.若之何不冑.乃冑而進.又遇一人曰.君胡冑.國人望君.如望歲焉.日日以幾.若見君面.是得艾也.民知不死.其亦夫有奮心.猶將旌君以徇於國.而反掩面以絕民望.不亦甚乎.乃免冑而進.遇箴尹固.帥其屬將與白公.子高曰.微二子者.楚不國矣.棄德從賊.其可保乎.乃從葉公.使與國人以攻白公.白公奔山而縊.其徒微之生拘石乞.而問白公之死焉.對曰.余知其死所.而長者使余勿言.曰.不言將烹.乞曰.此事克則為卿.不克則烹.固其所也.何害.乃烹石乞.王孫燕奔頯黃氏.諸梁兼二事.國寧.乃使寧為令尹.使寬為司馬.而老於葉.衛侯占夢嬖人.求酒於大叔僖子.不得.與卜人比.而告公曰.君有大臣在西南隅.弗去.懼害.乃逐大叔遺.遺奔晉.衛侯謂渾良夫曰.吾繼先君.而不得其器.若之何.良夫代執火者而言.曰.疾與亡君.皆君之子也.召之.而擇材焉.可也.若不材.器可得也.豎告大子.大子使五人輿豭從己.劫公而強盟之.且請殺良夫.公曰.其盟免三死.曰.請三之後.有罪殺之.公曰.諾哉. 哀公十七年 傳 |
秋、七月、子西と子期を朝廷で殺し、恵王を脅迫した。子西は袖で顔を覆って死んだ。子期は言った。「昔、私は力で君に仕えてきた。最後まで仕えなければならない。」そして豫章の木を引き抜いて人を殺し、その後死んだ。石乞が言った。「倉庫を焼き、王を殺せ。そうしなければ成功しない。」白公が言った。「いけない。王を殺すのは不吉だ。倉庫を焼けば物資がなくなり、何で守るというのか。」乞が言った。「楚の国を得てその民を治め、神を敬って仕えれば、吉祥を得られる。そして物資も蓄えられる。何を恐れて従わないのか。」葉公は蔡にいた。方城の外の者たちは皆言った。「入国できる時だ。」子高(葉公)は言った。「私は聞いている。危険を冒して幸運を求める者は、その欲求が飽くことがない。偏りがあれば必ず離反する。」斉の管脩を殺したことを聞いて、その後入国した。白公は子閭を王にしようとしたが、子閭は承知しなかった。そこで武器で脅迫した。子閭は言った。「王孫(白公)がもし楚の国を安定させ、王室を正し、その後私を庇うなら、私の願いである。敢えて従わないわけがない。もし私利を専らにして王室を傾け、楚の国を顧みないなら、死んでも従えない。」そこで彼を殺した。そして王を高府に連れて行った。石乞が門を守り、圉公陽が宮殿に穴を開け、王を背負って昭夫人の宮に連れて行った。葉公も到着した。北門に着くと、ある人が出会って言った。「君はなぜ冑を被らないのか。国人は君を、慈しみ深い父母のように待ち望んでいる。盗賊の矢が君を傷つければ、民の望みを絶つことになる。なぜ冑を被らないのか。」そこで冑を被って進んだ。また別の一人に出会って言った。「君はなぜ冑を被るのか。国人は君を、年の豊作を待つように待ち望んでいる。日々に期待している。君の顔を見れば、安心を得る。民は死なないと知れば、奮起する心も起こる。まだ君を旌旗にして国中に示すだろう。それなのに逆に顔を覆って民の望みを絶つとは、あまりにもひどいではないか。」そこで冑を脱いで進んだ。箴尹固に出会った。彼は配下を率いて白公に加担しようとしていた。子高が言った。「あの二人(子西と子期)がいなければ、楚は国として成り立たなかった。徳を捨てて賊に従うなど、保身できるだろうか。」そこで葉公に従った。彼を国人と共に白公を攻撃させた。白公は山に逃れて首を吊った。その部下は密かに石乞を生け捕りにし、白公の死について尋ねた。石乞は答えた。「私はその死に場所を知っているが、年長者が私に言うなと言った。」「言わなければ煮殺すと言われた。」乞は言った。「この事が成功すれば卿となり、失敗すれば煮殺される。当然の運命だ。何の害があろう。」そこで石乞を煮殺した。王孫燕は頯黄氏に逃げた。諸梁(葉公)は二つの職務を兼ね、国が平静になった後、寧を令尹とし、寬を司馬とした。そして葉で老いた。衛侯は夢占いの寵臣に、大叔僖子から酒を求めさせたが、得られなかった。卜者と結託して公に告げた。「君には大臣が西南隅にいる。除かないと害を恐れる。」そこで大叔遺を追放した。遺は晋に逃げた。衛侯は渾良夫に言った。「私は先君を継いだが、その器(宝物)を得ていない。どうすればよいか。」良夫は火を持つ者に代わって言った。「疾(太子)と亡君(出奔した君)は皆君の子である。召し戻して、才能を選べばよい。もし才能がなければ、器は得られる。」小姓が太子に告げた。太子は五人に猪を輿に乗せて自分に従わせ、公を脅迫して強制的に盟約させ、かつ良夫を殺すよう請うた。公は言った。「盟約で三度の死を免じている。」「三度の後、罪があれば殺すと請うた。」公は言った。「よかろう。」 哀公十七年 解説: Translation took 6110.6 seconds. |
| 十七年春.衛侯為虎幄於藉圃.成求令名者.而與之始食焉.大子請使良夫.良夫乘衷甸.兩牡.紫衣狐裘.至.袒裘不釋劍而食.大子使牽以退.數之以三罪.而殺之. 三月.越子伐吳.吳子禦之笠澤.夾水而陳.越子為左右句卒.使夜或左或右.鼓譟而進.吳師分以御之.越子以三軍潛涉.當吳中軍而鼓之.吳師大亂.遂敗之.晉趙鞅使告于衛曰.君之在晉也.志父為主.請君若大子來.以免志父.不然.寡君其曰.志父之為也.衛侯辭以難.大子又使椓之. 夏.六月.趙鞅圍衛.齊國觀.陳瓘.救衛.得晉人之致師者.子玉使服而見之.曰.國子實執齊柄.而命瓘曰.無辟晉師.豈敢廢命.子又何辱.簡子曰.我卜伐衛.未卜與齊戰.乃還.楚白公之亂.陳人恃其聚而侵楚.楚既寧.將取陳麥.楚子問帥於大師子穀.與葉公諸梁.子穀曰.右領差車.與左史老.皆相令尹司馬以伐陳.其可使也.子高曰.率賤.民慢之.懼不用命焉.子穀曰.觀丁父.鄀俘也.武王以為軍率.是以克州蓼.服隨唐.大啟群蠻.彭仲爽.申俘也.文王以為令尹.實縣申息.朝陳蔡.封畛於汝.唯其任也.何賤之有.子高曰.天命不諂.令尹有憾於陳.天若亡之.其必令尹之子是與.君盍舍焉.臣懼右領與左史.有二俘之賤.而無其令德也.王卜之.武城尹吉.使帥師取陳麥.陳人御之.敗.遂圍陳. |
十七年の春、衛侯が藉圃に虎の模様の幕屋を設けた。良い名声を持つ者を求めて完成させ、その者と最初に食事を共にした。太子が良夫を使者とするよう願い出た。良夫は衷甸の車に乗り、二頭の雄馬を引き、紫の衣に狐の皮衣を着て到着した。裘を脱がず、剣を手放さないまま食事を始めた。太子は侍従に命じて彼を引き下がらせ、三つの罪を数え上げて殺した。 三月、越王が吳を討伐した。吳王は笠澤で防戦し、川を挟んで陣を敷いた。越王は左右に迂回部隊を編成し、夜間に左右から鬨の声を上げて進軍させた。吳軍は対応するため兵力を分散した。越王は三軍を率いて密かに川を渡り、吳軍の本陣に向かって鬨の声を上げた。吳軍は大混乱に陥り、敗北した。晉の趙鞅が衛に使者を送って告げた。「君が晉にいた際、志父が主人役を務めました。君か太子が來訪されれば志父は赦免されます。そうでなければ、我が君は『志父の仕業だ』と言うでしょう」。衛侯は国内の困難を理由に辞退し、太子はさらに讒言を重ねた。 夏六月、趙鞅が衛を包囲した。齊の國觀と陳の瓘が衛を救援し、晉の軍使を捕らえた。子玉(陳瓘)は礼服を着用させて面会し、「國子(國觀)は齊の実権を握り、私に『晉軍を避けるな』と命じました。命令を無視できましょうか。貴方に屈辱を与える必要はありません」と言った。簡子(趙鞅)は「私は衛討伐のみ占い、齊との戦いは占っていない」と言い、撤兵した。楚の白公の乱の際、陳人は蓄えを頼みに楚を侵した。楚が平定されると、楚は陳の麦を奪おうとした。楚王は大師の子穀と葉公諸梁に将帥人选を問うた。子穀は「右領の差車と左史の老は、令尹と司馬を補佐して陳を討った経験があり適任です」と述べた。子高(葉公諸梁)は「身分が低い将帥では民が軽んじ、命令に従わない恐れがあります」と反論した。子穀は「觀丁父は鄀の捕虜でしたが、武王が将帥に登用し州・蓼を攻克し隨・唐を服属させ、群蠻を開拓しました。彭仲爽は申の捕虜でしたが、文王が令尹とし申・息を県とし陳・蔡を朝貢させ、汝の地まで領土を広げました。能力こそ重要で身分の低さは問題になりません」と説いた。子高は「天命はごまかせません。令尹(子西)は陳に恨みがあります。天が陳を滅ぼそうとするなら、必ず令尹の子を起用するでしょう。彼を選ばれてはどうですか。右領と左史には二人の捕虜のような低い身分だけで、その美徳がないことを危惧します」と主張した。楚王が占うと武城尹(公孫朝)が吉と出た。彼に軍を率いさせて陳の麦を奪わせると、陳軍は防戦したが敗れ、陳は包囲された。 解説この一節は春秋時代の複雑な国際関係と国内政治を描いています。まず衛では、儀式における礼節違反を理由とした厳格な処刑が行われ、宮廷内の権力闘争が示唆されます。続く吳越の戦いでは、越王の巧みな戦術(陽動と奇襲の組み合わせ)が吳軍を破る様子が生き生きと記され、兵法の重要性が浮き彫りにされています。 晉と衛の外交交渉では、趙鞅が過去の恩義を盾に要求を突きつけるも、衛が国内事情を理由に拒否する駆け引きが見られます。齊の介入により晉が撤退する場面では、占いを理由とした現実的な判断が興味深く、当時の戦争が単なる武力衝突ではなく、政治的な計算の上で行われていたことがわかります。 最後の楚と陳のエピソードでは、登用人材を巡る議論で「身分より能力」を主張する子穀と、「天命と徳」を重視する子高の対比が鮮やかです。楚王が最終的に占いで決断する結末は、当時の意思決定において合理性と迷信が共存していたことを示しています。全体を通し、春秋時代の社会が階級制度ながらも実力主義の要素を持ち、複雑な同盟関係や駆け引きが展開されていたことが伝わってきます。 Translation took 6551.6 seconds. |
| 秋.七月.己卯.楚公孫朝帥師滅陳.王與葉公枚卜子良.以為令尹.沈尹朱曰.吉.過於其志.葉公曰.王子而相國.過將何為.他日改卜子國.而使為令尹.衛侯夢于北宮.見人登昆吾之觀.被髮北面而譟曰.登此昆吾之虛.綿綿生之瓜.余為渾良夫.叫天無辜.公親筮之.胥彌赦占之.曰.不害.與之邑.寘之.而逃奔宋.衛侯貞卜.其繇曰.如魚竀尾.衡流而方羊裔焉.大國滅之.將亡闔門塞竇.乃自後踰. 冬.十月.晉復伐衛.入其郛.將入城.簡子曰.止.叔向有言曰.怙亂滅國者無後.衛人出莊公.而與晉平.晉立襄公之孫般師而還. 十一月.衛侯自鄄入.般師出.初.公登城以望.見戎州.問之.以告.公曰.我姬姓也.何戎之有焉.翦之.公使匠久.公欲逐石圃.未及而難作.辛巳.石圃因匠氏攻公.公闔門而請.弗許.踰于北方而隊.折股.戎州人攻之.大子疾.公子青.踰從公.戎州人殺之.公入于戎州己氏.初.公自城上.見己氏之妻髮美.使髡之.以為呂姜鬄.既入焉.而示之璧.曰.活我.吾與女璧.己氏曰.殺女.璧其焉往.遂殺之.而取其璧.衛人復公孫般師而立之. 十二月.齊人伐衛.衛人請平.立公子起.執般師以歸.舍諸潞.公會齊侯盟于蒙.孟武伯相.齊侯稽首.公拜.齊人怒.武伯曰.非天子.寡君無所稽首.武伯問於高柴曰.諸侯盟.誰執牛耳.季羔曰.鄫衍之役.吳公子姑曹.發陽之役.衛石魋.武伯曰.然則彘也.宋皇瑗之子麇.有友曰田丙.而奪其兄劖般邑.以與之.劖般慍而行.告桓司馬之臣子儀克.子儀克適宋.告夫人曰.麇將納桓氏.公問諸子仲.初.子仲將以杞姒之子.非我為子.麇曰.必立伯也.是良材.子仲怒.弗從.故對曰.右師則老矣.不識麇也.公執之.皇瑗奔晉.召之. 哀公十八年 傳 |
秋、七月の己卯の日、楚の公孫朝が軍を率いて陳を滅ぼした。王と葉公がくじ占いで子良を令尹に立てようとした。沈尹朱が「吉です。その志望以上です」と言うと、葉公は「王子が宰相となるのに、過分な地位があってどうするのですか」と言った。後日、改めて子国を占って令尹に任命した。 衛侯が北宮で夢を見た。人が昆吾の物見櫓に登り、髪を乱して北を向いて叫ぶのが見えた。「この昆吾の廃墟に登れば、続々と瓜が生える。私は渾良夫である。天に叫んで無実を訴える」と。公自ら筮竹で占い、胥弥赦が占うと「害はありません」と言った。公は彼に領地を与えたが、胥弥赦はそれを受けずに宋へ逃げた。衛侯が亀甲占いをすると、その兆しに「魚のように尾を赤らめ、流れを横切って彷徨う。末裔は大国に滅ぼされ、滅亡しようとする。門を閉ざし穴を塞げ、そして後方から乗り越える」と出た。 冬、十月、晋が再び衛を攻撃し、その外城に入った。城内に入ろうとした時、簡子が「止まれ」と言った。叔向が「乱に乗じて国を滅ぼす者に子孫は続かない」と言っていたからである。衛人が庄公を追放して晋と講和した。晋は襄公の孫の般師を立てて帰還した。 十一月、衛侯が鄄から帰還し、般師は国外へ出た。当初、公が城壁に登って眺めると、戎州が見えた。何事かと問うと、戎の集落だと知らされた。公は「我々は姫姓である。戎がどうしてここにいるのか」と言って滅ぼそうとした。公は工匠たちを長期に使役し、石圃を追放しようとしたが、その前に事変が起きた。辛巳の日、石圃が工匠たちを率いて公を攻めた。公は門を閉めて許しを請うたが聞き入れられず、北の城壁を越えようとして墜落し、大腿骨を折った。戎州の人々が攻め寄せ、太子疾と公子青は公について逃げたが、戎州人に殺された。公は戎州の己氏の家に逃げ込んだ。以前、公が城壁の上から己氏の妻の美しい髪を見て、髪を剃らせて呂姜のかつらにしていた。己氏に「私を助けてくれれば宝玉をやる」と璧を見せると、己氏は「お前を殺せば、璧は自然に我が物になる」と言って公を殺し、璧を奪った。衛人は公孫般師を再び擁立した。 十二月、斉が衛を攻撃した。衛は講和を請い、公子起を立てて、般師を捕らえて斉に引き渡した。斉は般師を潞に安置した。哀公が斉侯と蒙で会盟した。孟武伯が相役を務めると、斉侯が稽首(最敬礼)したのに対し、哀公は通常の礼で返した。斉人が怒ると、武伯は「天子以外には、我が君は稽首しません」と言った。武伯が高柴に「諸侯の盟で誰が牛耳を執るのか」と問うと、季羔(高柴)は「鄫衍の役では呉の公子姑曹が、発陽の役では衛の石魋が執りました」と答えた。武伯は「ならば私が執るべきだ」と言った。 宋の皇瑗の子・麇には田丙という友人がいた。麇は兄の劖般から領地を奪って田丙に与えたため、劖般は怒って出奔し、桓司馬の家臣・子儀克に訴えた。子儀克が宋に戻って夫人に「麇が桓氏を迎え入れようとしています」と告げると、公は子仲に尋ねた。以前、子仲が杞姒の子を後継者にしようとした時、麇は「必ず長子を立てるべきです。彼は優れた人物です」と言って反対したため、子仲は怒って従わなかった。子仲は「右師(皇瑗)は老いましたが、麇のことは知りません」と答えた。公は麇を捕らえ、皇瑗は晋へ逃れた。後に召還された。 哀公十八年 <解説>
全体として、占いや夢といった超自然的要素と現実政治が交錯する歴史叙述で、権力の移り変わりと人間の営みを活写している点が特徴です。 Translation took 2550.2 seconds. |
| 十八年春.宋殺皇瑗.公聞其情.復皇氏之族.使皇緩為右師.巴人伐楚.圍鄾.初.右司馬子國之卜也.觀瞻曰.如志.故命之.及巴師至.將卜師.王曰.寧如志.何卜焉.使帥師而行.請承.王曰.寢尹工尹.勤先君者也. 三月.楚公孫寧.吳由于.薳固.敗巴師于鄾.故封子國於析.君子曰.惠王知志.夏書曰.官占.唯能蔽志.昆命于元龜.其是之謂乎.志曰.聖人不煩卜筮.惠王其有焉. 夏.衛石圃逐其君起.起奔齊.衛侯輒自齊復歸.逐石圃.而復石魋.與大叔遺. 哀公十九年 傳 十九年春.越人侵楚.以誤吳也. 夏.楚公子慶.公孫寬.追越師.至冥.不及.乃還. 秋.楚沈諸梁伐東夷.三夷男女.及楚師盟于敖. 冬.叔青如京師.敬王崩故也. 哀公二十年 傳 二十年春.齊人來徵會.夏.會于廩丘.為鄭故.謀伐晉.鄭人辭諸侯. 秋.師還.吳公子慶忌驟諫吳子曰.不改必亡.弗聽.出居于艾.遂適楚.聞越將伐吳. 冬.請歸平越.遂歸欲除不忠者以說于越.吳人殺之. 十一月.越圍吳.趙孟降於喪食.楚隆曰.三年之喪.親暱之極也.主又降之.無乃有故乎.趙孟曰.黃池之役.先主與吳王有質.曰.好惡同之.今越圍吳.嗣子不廢舊業.而敵之.非晉之所能及也.吾是以為降.楚隆曰.若使吳王知之.若何.趙孟曰.可乎.隆曰.請嘗之.乃往.先造于越軍曰.吳犯間上國多矣.聞君親討焉.諸夏之人.莫不欣喜.唯恐君志之不從.請入視之.許之.告于吳王曰.寡人之老無恤.使陪臣隆.敢展謝其不共.黃池之役.君之先臣志父.得承齊盟.曰.好惡同之.今君在難.無恤不敢憚勞.非晉國之所能及也.使陪臣敢展布之.王拜稽首曰.寡人不佞.不能事越.以為大夫憂.拜命之辱.與之一簞珠.使問趙孟.曰.句踐將生憂寡人.寡人死之不得矣.王曰.溺人必笑.吾將有問也.史黯何以得為君子.對曰.黯也.進不見惡.退無謗言.王曰.宜哉. 哀公二十一年 傳 |
翻訳文十八年の春、宋が皇瑗を殺した。公(魯の哀公)はその事情を聞き、皇氏の一族を復活させ、皇緩を右師に任命した。巴人が楚を討ち、鄾を包囲した。初め、右司馬の子国を卜占で選んだとき、観瞻が「志の如し」と言ったので、命じた。巴の軍が到来したとき、師の卜占をしようとしたが、王は「寧が志の如しであるなら、何ぞ卜占せんや」と言い、師を率いて行かせた。承(副将)を請うと、王は「寝尹と工尹は、先君に勤めた者である」と言った。 三月、楚の公孫寧、吳由于、薳固が、鄾で巴の軍を破った。そこで子国を析に封じた。君子が言うには、「惠王は志を知っていた。夏書に曰く、『官占は、唯だ能く志を蔽い、昆(た)えて元龜に命ず』と。其れ是のこれを謂うか。志に曰く、『聖人は卜筮を煩わさず』と。惠王は其れ有りたり」と。 夏、衛の石圃が其の君起を逐った。起は斉に奔った。衛侯輒が斉から復帰し、石圃を逐い、石魋と大叔遺を復活させた。 哀公十九年 哀公二十年 哀公二十一年 解説この一節は『春秋左氏伝』の哀公18年から21年までの記述です。主に以下の内容を含みます: Translation took 8728.7 seconds. |
| 二十一年夏.五月.越人始來. 秋.八月.公及齊侯.邾子.盟于顧.齊人責稽首.因歌之.曰.魯人之皋.數年不覺.使我高蹈.唯其儒書.以為二國憂.是行也.公先至于陽穀.齊閭丘息曰.君辱舉玉趾.以在寡君之軍.群臣將傳遽以告寡君.比其復也.君無乃勤.為僕人之未次.請除館於舟道.辭曰.敢勤僕人. 哀公二十二年 傳 二十二年夏.四月.邾隱公自齊奔越.曰.吳為無道.執父立子.越人歸之.大子革奔越. 冬.十一月.丁卯.越滅吳.請使吳王居甬東.辭曰.孤老矣.焉能事君.乃縊.越人以歸. 哀公二十三年 傳 二十三年春.宋景曹卒.季康子使冉有弔.且送葬.曰.敝邑有社稷之事.使肥與有職競焉.是以不得助執紼.使求從輿人.曰.以肥之得備彌甥也.有不腆先人之產馬.使求薦諸夫人之宰.其可以稱旌繁乎. 夏.六月.晉荀瑤伐齊.高無平帥師御之.知伯視齊師.馬駭遂驅之.曰.齊人知余旗.其謂余畏而反也.及壘而還.將戰.長武子請卜.知伯曰.君告於天子.而卜之以守龜於宗祧.吉矣.吾又何卜焉.且齊人取我英丘.君命瑤.非敢耀武也.治英丘也.以辭伐罪足矣.何必卜.壬辰.戰于犁丘.齊師敗績.知伯親禽顏庚. 秋.八月.叔青如越.始使越也.越諸鞅來聘.報叔青也. 哀公二十四年 傳 |
二十一年の夏、五月、越人が初めて来訪した。 秋、八月、哀公と斉侯、邾子が顧で会盟した。斉人が稽首の礼を問題にし、歌を歌って批判した。「魯人の愚かさは数年たっても自覚せず、我々を激昂させた。儒書に固執するため、二国に憂いをもたらす」と。この時、哀公は先に陽穀に到着した。斉の閭丘息が「君がわざわざ足を運び、我が君の軍中にいるのに、臣下たちが急ぎ我が君に報告する間、戻るまで君が疲労されるでしょう。従者の準備が整うまで、舟道に宿舎を用意いたします」と言うと、哀公は「どうして従者を煩わせようか」と辞退した。 哀公二十二年の伝 二十二年の夏、四月、邾隠公が斉から越へ亡命した。「呉が無道で、父を捕らえて子を立てた」と言い、越人は彼を帰国させた。太子革は越へ逃れた。 冬、十一月、丁卯の日、越が呉を滅ぼした。越は呉王を甬東に居住させるよう求めたが、呉王は「私は老いてしまった。どうして君に仕えられようか」と辞退し、首を吊って死んだ。越人はその遺体を回収した。 哀公二十三年の伝 二十三年の春、宋の景曹が死去した。季康子は冉有を遣わして弔問させ、葬儀にも参列させた。「我が国に社稷の大事があり、肥(季康子)は職務に追われて、直接棺綱を執ることができません。代わりに求(冉有)を輿人として従わせます。肥が遠縁の甥として、つまらない祖先伝来の馬を夫人の家宰に献上します。旌繁の飾りに足るでしょうか」と述べた。 夏、六月、晋の荀瑤が斉を攻撃した。高無丕が軍を率いて防戦した。知伯(荀瑤)が斉軍を偵察中、馬が驚いて走り出したため、「斉軍が私の旗印を認め、怯えて退却したと思われるだろう」と言い、敵の陣壁まで進んでから戻った。戦いの前、長武子が占いを提案すると、知伯は「君は天子に報告し、宗廟の守龟で占ったのに吉と出た。さらに占う必要はない。かつ斉が我が英丘を奪ったため、君は瑤に命じて、武力を誇示するのではなく英丘を回復させよと言われた。罪を討つ理由が十分あるのに、なぜ占う必要があろうか」と反論した。壬辰の日、犁丘で戦い、斉軍は大敗した。知伯自ら顔庚を生け捕りにした。 秋、八月、叔青が越へ赴いた。これが初めての越への派遣である。越の諸鞅が来聘し、叔青への返礼とした。 哀公二十四年の伝 解説この一節は『春秋左氏伝』哀公21年から23年までの記録です。主に以下の出来事が描かれています: 全体を通じて、春秋時代末期の権力移動や外交駆け引きが生き生きと記され、儒教的価値観と現実政治の狭間で揺れる諸侯の姿が浮き彫りにされています。 Translation took 2744.1 seconds. |
| 二十四年夏.四月.晉侯將伐齊.使來乞師.曰.昔臧文仲以楚師伐齊取穀.宣叔以晉師伐齊.取汶陽.寡君欲徼福於周公.願乞靈於臧氏.臧石帥師會之.取廩丘.軍吏令繕.將進.萊章曰.君卑政暴.往歲克敵.今又勝都.天奉多矣.又焉能進.是躗言也.役將班矣.晉師乃還.餼臧石牛.大史謝之.曰.以寡君之在行.牢禮不度.敢展謝之.邾子又無道.越人執之以歸.而立公子何.何亦無道.公子荊之母嬖.將以為夫人.使宗人釁夏獻其禮.對曰.無之.公怒曰.女為宗司.立夫人.國之大禮也.何故無之.對曰.周公及武公娶於薛.孝.惠.娶於商.自桓以下娶於齊.此禮也.則有若以妾為夫人.則固無其禮也.公卒立之.而以荊為大子.國人始惡之. 閏月.公如越.得大子適郢.將妻公.而多與之地.公孫有山.使告于季孫.季孫懼.使因大宰嚭.而納賂焉.乃止. 哀公二十五年 傳 二十五年夏.五月.庚辰.衛侯出奔宋.衛侯為靈臺于藉圃.與諸大夫飲酒焉.褚師聲子襪而登席.公怒.辭曰.臣有疾異於人.若見之.君將嘔之.是以不敢.公愈怒.大夫辭之.不可.褚師出.公戟其手.曰.必斷而足.聞之.褚師與司寇亥乘.曰.今日幸而後亡.公之入也.奪南氏邑.而奪司寇亥政.公使侍人納公文懿子之車于池.初.衛人翦夏丁氏.以其帑賜彭封彌子.彌子飲公酒.納夏戊之女.嬖.以為夫人.其弟期大叔疾之從孫甥也.少畜於公.以為司徒.夫人寵衰.期得罪公使三匠久.公使優狡盟拳彌.而甚近信之.故褚師比.公孫彌牟.公文要.司寇亥.司徒期.因三匠與拳彌以作亂.皆執利兵.無者執斤.使拳彌入于公宮.而自大子疾之宮.譟以攻公.鄄子士請禦之.彌援其手曰.子則勇矣.將若君何.不見先君乎.君何所不逞欲.且君嘗在外矣.豈必不反.當今不可.眾怒難犯.休而易間也.乃出.將適蒲.彌曰.晉無信.不可.將適鄄.彌曰.齊晉爭我.不可.將適泠.彌曰.魯不足與.請適城鉏.以鉤越.越有君.乃適城鉏.彌曰.衛盜不可知也.請速.自我始.乃載寶以歸.公為支離之卒.因祝史揮以侵衛.衛人病之.懿子知之.見子之.請逐揮.文子曰.無罪.懿子曰.彼好專利而妄.夫見君之入也.將先道焉.若逐之.必出於南門.而適君所.夫越新得諸侯.將必請師焉.揮在朝.使吏遣諸其室.揮出.信弗內.五日.乃館諸外里.遂有寵.使如越請師. |
二十四年の夏、四月、晋侯が齊を討伐しようとし、使者を遣わして援軍を要請した。使者は言った。「昔、臧文仲が楚軍を率いて齊を討ち穀を奪い、宣叔が晉軍を率いて齊を討ち汶陽を奪いました。我が君は周公から福を授かりたいと願い、臧家の威霊をお借りしたいと考えております」。臧石が軍を率いて晉軍と合流し、廩丘を占領した。軍吏は準備を整えようとしたが、進軍を目前に萊章が言った。「君は地位が低く政治は暴虐である。去年は敵に勝利し、今また都市を落とした。天の恵みは既に十分なのに、どうしてさらに進めようか。これはでたらめな言葉だ」。戦役が終わろうとしたため、晉軍は撤退した。晉は臧石に牛を贈り、太史が謝罪して言った。「我が君が軍中にいるため、正式な犠牲の礼ができませんでした。謹んでお詫び申し上げます」。邾子が再び乱政を行ったため、越人が彼を捕らえて連れ帰り、公子何を即位させた。何もまた乱政を行った。公子荊の母が寵愛され、夫人に立てようとした。公は宗廟の官である釁夏にその礼式を献上させた。釁夏は答えて「そのような礼はありません」と言った。公は怒って「汝は宗廟の長である。夫人を立てるのは国家の重大な礼儀だ。なぜないと言うのか」と詰ると、釁夏は「周公と武公は薛から后を迎え、孝公と惠公は商から迎え、桓公以降は齊から后を迎えています。これが正式な礼です。妾を夫人とするような礼は元より存在しません」と答えた。公は結局彼女を夫人に立て、荊を太子とした。国民は初めて公を憎むようになった。 閏月、公は越へ赴き、太子適郢と会った。適郢は公に娘を嫁がせようとし、多額の土地を与えようとした。公孫有山がこの情報を季孫に伝えると、季孫は恐れ、太宰嚭を通じて賄賂を贈ったため、婚姻話は中止された。 哀公二十五年の伝 二十五年の夏、五月庚辰の日、衛侯が宋へ逃亡した。衛侯が藉圃に霊台を築き、諸大夫と酒宴を開いた際、褚師聲子が靴下を履いたまま座席に上がった。公が怒ると、聲子は「臣は人並み外れた病気を持っております。もしお見せすれば、君は嘔吐されましょう。故に恐れ入ります」と弁解した。公はさらに激怒し、大夫たちが取りなそうとしたが聞き入れられなかった。褚師が退出すると、公は手を戟のように振りかざして「必ずお前の足を斬り落としてやる」と叫んだ。この言葉を聞いた褚師は司寇亥と車を共にし、「今日の幸運が後に災いとなるだろう。公が衛に戻った時、南氏の領地を奪い、司寇亥の職権を剥奪したのだ」と語った。公は侍従に公文懿子の車を池に投げ込ませた。以前、衛が夏丁氏を滅ぼした際、その家族を彭封彌子に与えていた。彌子が公に酒を献上した時、夏戊の娘を側女として献上し、公は彼女を寵愛して夫人に立てた。その弟の期は大叔疾の従孫甥(姪孫)で、幼少期から公に養育され司徒に任命された。夫人の寵愛が衰えると、期は失脚した。公は三工匠を長期に使役し、道化師の優狡に拳彌との盟約をさせ、拳彌を重用した。これにより褚師比、公孫彌牟、公文要、司寇亥、司徒期らが三工匠と拳彌を利用して反乱を起こした。反乱軍は鋭利な武器を持ち、武器のない者は斧を手にし、拳彌を公の宮殿に潜入させ、太子疾の宮殿から騒ぎ立てながら公を攻撃した。鄄子士が防戦を申し出たが、彌はその手を握り「子は勇敢だが、君をどうするつもりか。先君の例を見よ。君はどこででも欲望を満たせる。かつて君は国外にいたこともある。必ずしも戻れないわけではない。今は時機ではない。衆怒は敵にし難く、一旦収まれば隙が生じる」と諫めた。衛侯は逃亡し、蒲へ向かおうとしたが、彌が「晉は信用できない」と反対し、鄄へ向かおうとすると「齊と晉が衛を争う場となる」と制止し、泠へ行こうとすると「魯は頼りにならない」と言い、代わりに城鉏へ行き越と連携するよう進言した。越には有力な君主がいるため、衛侯は城鉏へ向かった。彌は「衛の盗賊の動向は読めない。急ぎましょう。私が先導します」と言い、財宝を積んで逃亡した。衛侯は散兵を組織し、祝史の揮を頼りに衛を攻撃した。衛人はこれに苦しみ、懿子は揮の策謀を見抜いて子之に会い、揮の追放を求めた。文子が「罪証がない」と言うと、懿子は「彼は利権を独占しでたらめを働く。君が戻る際、先導するに違いない。追放すれば必ず南門から逃げ、君の下へ向かうだろう。越は新たに諸侯を従え、軍勢を要請するはずだ」と主張した。揮が朝廷にいる時、役人がその屋敷へ追放しようとしたが、揮が外出したため門番は中に入れず、五日後に外里に宿泊所を与えられた。揮はそこで寵愛を得て、越へ赴き援軍を要請するよう命じられた。 解説この文章は『春秋左氏伝』哀公二十四年から二十五年にかけての記述です。以下の点に留意して現代日本語に翻訳しました:
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| 六月.公至自越.季康子.孟武伯.逆於五梧.郭重僕.見二子曰.惡言多矣.君請盡之.公宴於五梧.武伯為祝.惡郭重曰.何肥也.季孫曰.請飲彘也.以魯國之密邇仇讎.臣是以不獲從君.克免於大行.又謂重也肥.公曰.是食言多矣.能無肥乎.飲酒不樂.公與大夫始有惡. 哀公二十六年 傳 二十六年夏.五月.叔孫舒帥師會越皋如.后庸.宋樂茷.納衛侯.文子欲納之.懿子曰.君愎而虐.少待之.必毒於民.乃睦於子矣.師侵外州.大獲.出禦之.大敗.掘褚師定子之墓.焚之于平莊之上.文子使王孫齊私於皋如.曰.子將大滅衛乎.抑納君而已乎.皋如曰.寡君之命無他.納衛君而已.文子致眾而問焉.曰.君以蠻夷伐國.國幾亡矣.請納之.眾曰.勿納.曰.彌牟亡而有益.請自北門出.眾曰.勿出.重賂越人.申開守陴而納公.公不敢入.師還.立悼公.南氏相之.以城鉏與越人.公曰.期則為此.令苟有怨於夫人者報之.司徒期聘於越.公攻而奪之幣.期告王.王命取之.期以眾取之.公怒.殺期之甥之為大子者.遂卒于越.宋景公無子.取公孫周之子得.與啟.畜諸公宮.未有立焉.於是皇緩為右師.皇非我為大司馬.皇懷為司徒.靈不緩為左師.樂茷為司城.樂朱鉏為大司寇.六卿三族降聽政.因大尹以達.大尹常不告.而以其欲.稱君命以令.國人惡之.司城欲去大尹.左師曰.縱之.使盈其罪.重而無基.能無敝乎. |
六月、魯の哀公が越から帰国した。季康子と孟武伯が五梧で出迎えた。郭重が御者を務め、二人(季康子と孟武伯)を見て「悪口が多く飛び交っています。主公はどうか十分にご留意ください」と述べた。哀公が五梧で宴を催すと、孟武伯が祝辞を述べる際に郭重を嘲って「なんと太っていることか」と言った。季康子が「では孟武伯に罰杯を飲ませてください。魯国が仇敵の国に近接しているため、私が主公にお供できず、ようやく大事を免れたというのに、さらに郭重の肥満を問題にするとは」と応じた。哀公は「彼(孟武伯)は言葉を翻すことが多かったからこそ、太らないわけがあろうか」と返した。酒宴は和やかさを欠き、哀公と大夫たちの間に初めて確執が生じた。 哀公二十六年の伝 二十六年の夏五月、叔孫舒が軍を率いて越の皋如・后庸および宋の楽茷と合流し、衛侯(出公)を衛国に送還しようとした。文子(公孫弥牟)は衛侯の復帰を望んだが、懿子(公文要)は「君は頑固で暴虐です。しばらく待てば、必ず民を苦しめ、やがてあなたに従うようになるでしょう」と反対した。越軍が外州を侵攻して大いに略奪すると、衛軍は迎撃したが大敗した。褚師定子の墓を掘り起こし、平庄で遺体を焼いた。文子は王孫齊を遣わして皋如と密談し「あなたは衛国を滅ぼすつもりか、それともただ君を戻すだけか」と問わせた。皋如が「寡君の命令は他にありません。衛君を送還するだけです」と答えると、文子は家臣を集めて意見を求めた。「蛮夷の越を使って国を伐たれ、我が国は危うく滅亡しかけた。君を迎え入れよう」と言うと、家臣は「迎えるな」と反対した。文子が「私が追放されて国益になるなら、北門から出ていこう」と言うと、家臣は「出すな」と主張した。結局、越に多額の賄賂を贈り、城門を開いて守備を強化した上で哀公を迎え入れたが、哀公は入国を恐れてためらい、軍は撤退した。その後、悼公が擁立され、南氏(文子)が宰相となって城鉏を越に割譲した。哀公は「期(司徒期)がこのような事態を招いた」と怒り、「私に恨みを持つ者があれば報復せよ」と命じた。司徒期が越に使節として赴いた際、哀公は彼を襲って貢ぎ物を奪い、期は越王に訴えた。王が返還を命じると、期は兵を率いて強奪した。哀公は激怒し、期の甥で太子だった者を殺害し、やがて越で亡くなった。 宋の景公には子がなく、公孫周の子である得と啓を宮中で養育していたが、後継者を定めないままだった。この時、皇緩が右師、皇非我が大司馬、皇懷が司徒、霊不緩が左師、楽茷が司城、楽朱鉏が大司寇を務め、六卿と三族(皇・霊・楽の三家)が政務を執り、大尹(側近の官)を仲介して命令を伝達していた。大尹は頻繁に景公に報告せず、私意で君命を偽って発令したため、国人は彼を憎悪した。司城の楽茷が大尹を除こうとすると、左師の霊不緩は「彼を野放しにし、罪を積み重ねさせよ。重罪で基盤がなければ、自滅するだろう」と諫めた。 解説この一節は『春秋左氏伝』哀公二十六年の記述で、二つの主要な出来事を扱っています。前半は魯国における哀公と大夫たち(特に孟武伯)の確執の萌芽を描き、後半は衛国と宋国の内政混乱を記録しています。 魯の部分では、越からの帰国途中の哀公が重臣たちとの宴席で、孟武伯が郭重の外貌を嘲笑したことに対し、哀公が「食言(約束破り)が多いから肥満するのだ」と反論したエピソードが示唆的です。ここで「食言」という語は現代日本語の「食言」の語源となり、君臣の信頼関係の崩壊を象徴しています。 衛国の部分では、越軍を背景にした衛侯の復帰劇が失敗に終わる過程で、権力者である文子と家臣団の意見対立、越への賄賂工作など、春秋末期の弱小国が大国の介入に翻弄される様子が鮮明です。特に墓荒らしや遺体焼却といった行為は、当時の戦争の過酷さを物語っています。 宋国の部分では、後継者問題と権臣・大尹の専横がテーマです。六卿と三族が協調して政務を執る中、側近の大尹が君命を偽る弊害が指摘され、楽茷と霊不緩の対処法の違いから、権謀術数の政治手法が窺えます。 全体を通して、春秋時代末期の諸侯国が内憂(権力闘争)と外患(大国の介入)に直面する混乱した状況が、緊密な人物関係とともに描かれた重要な史料です。 Translation took 2598.6 seconds. |
| 冬十月.公游于空澤.辛巳.卒于連中.大尹興空澤之士千甲.奉公自空桐入.如沃宮.使召六子曰.聞下有師.君請六子畫.六子至.以甲劫之.曰君有疾病.請二三子盟.乃盟于少寢之庭.曰無為公室不利.大尹立啟.奉喪殯于大宮.三日而後國人知之.司城茷使宣言于國曰.大尹惑蠱其君而專其利.令君無疾而死.死又匿之.是無他矣.大尹之罪也.得夢啟.北首而寢於廬門之外.已為鳥而集於其上.咮加於南門.尾加於桐門.曰.余夢美.必立.大尹謀.曰.我不在盟.無乃逐我.復盟之乎.使祝為載書.六子在唐孟.將盟之.祝襄以載書告皇非我.皇非我因子潞.門尹得.左師謀曰.民與我.逐之乎.皆歸授甲.使徇于國曰.大尹惑蠱其君.以陵虐公室.與我者.救君者也.眾曰.與之.大尹徇曰.戴氏.皇氏.將不利公室.與我者.無憂不富.眾曰.無別.戴氏皇氏欲伐公.樂得曰.不可.彼以陵公有罪.我伐公.則甚焉.使國人施于大尹.大尹奉啟以奔楚.乃立得司城為上卿.盟曰.三族共政.無相害也.衛出公自城鉏.使以弓問子贛.且曰.吾其入乎.子贛稽首受弓.對曰.臣不識也.私於使者曰.昔成公孫於陳.甯武子.孫莊子.為宛濮之盟.而君入.獻公孫於衛齊.子鮮.子展.為夷儀之盟.而君入.今君再在孫矣.內不聞獻之親.外不聞成之卿.則賜不識所由入也.詩曰.無競惟人.四方其順之.若得其人.四方以為主.而國於何有. 哀公二十七年 傳 |
冬の十月、公(哀公)が空沢に遊びに行った。辛巳の日に連中で亡くなった。大尹は空沢の兵士千人に武装させ、公の遺体を空桐から奉じて沃宮に向かった。六人の卿を召し出して「下方に軍勢がいる由、君が六卿に策を求めている」と伝えさせた。六卿が到着すると武装兵で脅し、「君がご病気のため、諸卿に盟約を願いたい」と言った。そこで小寝の庭で盟約を結び、「公室に不利な行為をしない」と誓った。大尹は公子啓を擁立し、遺体を大宮に安置したが、三日後にようやく国民はこの事実を知った。 司城茷は国内に布告させて「大尹は君を惑わして私利を貪り、君を無実の死に追いやり、その死を隠匿した。これは明らかに大尹の罪である」と宣言した。公子啓は「北向きに廬門の外で寝ていると、自分が鳥となってその上に止まり、くちばしは南門に、尾は桐門にかかる夢を見た。これは吉夢だから必ず即位できる」と語った。大尹は謀り「私は盟約に加わっていない。追放される恐れがあるから再盟しよう」と祝に盟書を作らせた。 六卿が唐孟で盟約しようとした時、祝襄が盟書の内容を皇非我に密告した。皇非我は子潞・門尹得・左師と協議し「民衆は我々を支持する。大尹を追放しよう」と決めた。一同は武装し、国内に「大尹は君を惑わし公室を迫害している。我々に加わる者は君を救う者だ」と触れ回った。民衆は「支持する」と叫んだ。大尹も「戴氏・皇氏が公室を害そうとしている。我々に味方すれば富貴は約束される」と宣伝したが、民衆は「差別なく扱え」と反発した。 戴氏と皇氏が公を討伐しようとすると、楽得が「彼らが公を凌ぐのは罪だが、我々が公を討てば更に悪質だ」と制止した。代わりに民衆に大尹を攻撃させ、大尹は公子啓を連れて楚へ逃亡した。その後司城を得を上卿に立て、「三族(戴・皇・楽)が共同で政治を行い、互いに害さない」と盟約した。 一方、衛の出公が城鉏から弓を贈り子貢に「私は帰国できるか」と問わせた。子貢は恭しく弓を受け「私には分かりません」と答えたが、使者に私下に「昔、成公が陳に亡命した時は甯武子・孫莊子が宛濮で盟約し、献公が斉に逃れた時は子鮮・子展が夷儀で盟約して帰国できた。しかし今、君には内に献公のような側近も、外に成公のような重臣もいない。どうして帰国できるか分からない」と語り、『詩経』の「人材こそが最強であり、四方はこれに従う。適材を得れば天下が主と仰ぎ、国を得るのは難しくない」という一節を引用した。 【解説】 Translation took 4844.6 seconds. |
| 二十七年春.越子使后庸來聘.且言邾田.封于駘上. 二月.盟于平陽.三子皆從.康子病之.言及子贛.曰.若在此.吾不及此夫.武伯曰.然何不召.曰.固將召之.文子曰.他日請念. 夏.四月.己亥.季康子卒.公弔焉.降禮.晉荀瑤帥師伐鄭.次于桐丘.鄭駟弘請救于齊.齊師將興.陳子屬孤子.三日朝.設乘車兩馬.繫五邑焉.召顏涿聚之子晉.曰.隰之役.而父死焉.以國之多難.未女恤也.今君命女以是邑也.服車而朝.毋廢前勞.乃救鄭.及留舒.違穀七里.穀人不知.及濮.雨不涉.子思曰.大國在敝邑之宇下.是以告急.今師不行.恐無及也.成子衣製杖戈.立於阪上.馬不出者.助之鞭之.知伯聞之.乃還.曰.我卜伐鄭.不卜敵齊.使謂成子曰.大夫陳子.陳之自出.陳之不祀.鄭之罪也.故寡君使瑤察陳衷焉.謂大夫其恤陳乎.若利本之顛.瑤何有焉.成子怒曰.多陵人者皆不在.知伯其能久乎.中行文子告成子.曰.有自晉師告寅者.將為輕車千乘.以厭齊師之門.則可盡也.成子曰.寡君命恆曰.無及寡.無畏眾.雖過千乘.敢辟之乎.將以子之命告寡君.文子曰.吾乃今知所以亡.君子之謀也.始衷終皆舉之.而後入焉.今我三不知而入之.不亦難乎.公患三桓之侈也.欲以諸侯去之.三桓亦患公之妄也.故君臣多間.公游于陵阪.遇孟武伯於孟氏之衢.曰.請有問於子.余及死乎.對曰.臣無由知之.三問.卒辭不對.公欲以越伐魯.而去三桓. |
【翻訳文】 【解説】 特徴的な点: この時期、魯では三桓が実権を握り、齊では田氏(陳氏)が台頭し、晋では知氏が専横するなど、各国で権力構造が大きく変動しつつあったことが窺えます。 Translation took 3341.0 seconds. |
| 秋.八月.甲戌.公如公孫有陘氏.因孫於邾.乃遂如越.國人施公孫有山氏.悼之四年.晉荀瑤帥師圍鄭.未至鄭駟弘曰.知伯愎而好勝.早下之.則可行也.乃先保南里以待之.知伯入南里.門于桔柣之門.鄭人俘酅魁壘.賂之以知政.閉其口而死.將門.知伯謂趙孟.入之.對曰.主在此.知伯曰.惡而無勇.何以為子.對曰.以能忍恥.庶無害趙宗乎知伯不悛.趙襄子由是惎知伯.遂喪之.知伯貪而愎.故韓魏反而喪之. |
秋、八月、甲戌の日。公は公孫有陘氏のところへ行き、そこで邾に逃れ、そして越へ向かった。国人は公孫有山氏を罰した。悼公の四年、晋の荀瑤が軍を率いて鄭を包囲した。鄭に到着する前に、鄭の駟弘が言った。「知伯は頑固で勝ち気である。早く降伏すれば、うまくいくだろう。」そこで先に南里を守備して待った。知伯が南里に入り、桔柣の門で門を攻めた。鄭人は酅魁壘を捕虜にし、知政(政権)を賄賂として贈ろうとしたが、彼は口を閉じて死んだ。門を攻めようとした時、知伯は趙孟に言った。「入れ。」趙孟は答えた。「主君がここにいます。」知伯は言った。「醜くて勇気がないのに、どうして子(世子)となったのか。」趙孟は答えた。「恥を忍ぶことができるからです。おそらく趙宗(趙家)に害はないでしょう。」知伯は改めず、趙襄子はこれによって知伯を憎むようになり、遂に彼を滅ぼした。知伯は貪欲で頑固であったので、韓と魏が反逆して彼を滅ぼした。 解説:この一節は、春秋時代の晋の知伯(荀瑤)と趙襄子(趙孟)の確執を描いています。知伯の傲慢さと趙襄子の忍耐が対比され、最終的に知伯が滅ぼされる経緯が記されています。背景には、晋国内の権力闘争や、韓・魏・趙の三家が知伯を倒した事件(晋陽の戦い)があります。特に「忍ぶ」という趙襄子の態度が、後の勝利につながったことが示唆されています。史実としては、紀元前453年に起きた晋陽の戦いで知伯が滅び、三国分晋の契機となった出来事です。 Translation took 2274.4 seconds. |